ラインの娘 (ほいれんで・くー)
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01. キヨのメタモルフォシス

「ようこそ、はるばる遠いところからおいで下さいました」

 

 私に挨拶する老人の声は思ったよりもはるかに若々しく、明瞭だった。数日前から体調を崩しているとのことで、今は床に臥せっている。

 

 挨拶を返し、私はここに来た目的を話した。

 

 私は作家で、帝国時代の魔法生物兵器の開発と運用について取材している。

 

 ある日、私は防衛庁戦史編纂室の室長から「阿波県T市にある老人がいて、彼は黎明期の魔法生物兵器開発に民間人として協力したらしい」と教えてもらった。私は、紙の記録だけでは分からない貴重でユニークな情報を必ずや得られるであろうと、東京府より六百五十キロメートル彼方のこの地へやってきた。

 

 説明を聞いて、老人は微かに頷いた。

 

「なるほど、確かに私は若い頃に軍に協力したことがあります。お望み通りの内容ではないかもしれませんが、とにかくあの当時のことをお話ししましょう。それに……」

 

 そこまで言ってから老人は、床の間に置いてある黒い壺に目をやった。柔らかそうな絹の座布団の上に乗せられたそれは、一見何の変哲もないただの丸い小さな壺だったが、しかしどことなく異様な雰囲気を醸し出している。

 

「こうしてあなたがここに来たということは、ついに話すべき時が来たということなのでしょう。私の生涯を決定づけた、あの過ちについて話すべき時が……」

 

 老人は静かに、淡々と、それでいて声に僅かに躊躇いの色を滲ませつつ、私に語り始めた。

 

 

☆☆☆

 

 

「私の出身は紀伊県の山奥で、一族は大阪幕府時代からほぼ二百五十年間、代々妖怪や化生を退治、捕獲する仕事をしておりました。ああ、今では妖怪や化生のことを西洋式に魔法生物と総称するのでしたね。維新後も同じように家業を続けておりました」

 

「状況が変わったのは我が国が初の対外戦争を行った時です。大陸の帝国との戦争の際、敵軍の後方攪乱を行うために、バケモノたちを敵地に送り込むことを陸軍は考えたのです。私たち退治屋は時代の流れにうまく乗って、大いに成功を収めました。私の一族も家運を高めたものです。ちょうど私の祖父の代のことでした」

 

「父は祖父の事業を引継ぎ、堅実ながらも大胆な経営方針をとって、その後のエウロパ大戦では国産のバケモノを輸出して大いに資産を増やしました。私も幼い頃から父について仕事を学び、十二歳の頃には初めて単独で妖怪を捕まえることができました。筑後県を悩ましていた河童を一度に五匹も捕まえたので、父はずいぶんと喜んでくれました」

 

「その父が急死したのです。私が十五歳の時でした。いえ、妖怪に返り討ちにされたとかそういうわけではなく、スペイン風邪のせいでした」

 

「瀕死の父は私を枕元に呼んで、こう言いました。『お前に教えておかなければならないことはまだたくさんあるのに、こうしてこの世を離れなければならないのは無念だ。息子よ、ただ一つだけ重要なことを教えておく。軍は私たちの上得意だが、しかし決して深入りするな。特に、奴らが立てた計画には関わるな。必ず距離を置くのだ……』 その晩に父は息を引き取りました」

 

「尊敬する父の死に私は深く悲しみましたが、しかしこれからは一家の長として事業を盛り立てていかねばなりません。ですが、この時一つの不幸に見舞われました。エウロパ大戦後の世界的な軍縮の波を受けて、我が国でも軍事予算が削減されたのです。それはつまり、私たちのバケモノをもう以前ほどには軍が買ってくれないということでした」

 

「なす術なく二年が経過し、事業は大幅に縮小しました。このまま仕事が来なければ先祖伝来の家業を畳まなければならない。そんな覚悟をしておりました」

 

「そんなある日、私のもとへ一人の陸軍軍人がやってきたのです。彼は斎藤と名乗りました。陸軍兵器局第六課に所属していて、魔法生物兵器開発を担当していると言います」

 

「彼は開口一番こう言いました。『これからはバケモノは捕獲するのではなく、作り出す時代である』と。詳しく話を聞きますと、どうやら陸軍の方針としては、今後はエウロパの列強に見習って人工的な魔法生物兵器の開発と生産を行うのだそうです。大戦時、列強はドラゴンを改造して飛行兵器として運用し、また武装を搭載した人工モンスターの数々を突破兵器として戦線に投入していました。我が国もその新技術に追従しなければならないと、彼は言うのです」

 

「彼は話を続けました。『ついては、あなたに本邦初の人工的なバケモノ製造に関する、基礎的研究の協力をしていただきたい。謝礼は成功報酬で二十五万円』と。唐突に提示された破格の報酬に私はとても驚きました」

 

「父からは軍とは深く関わるなと遺言されていましたが、家運は傾いており、この仕事を断ればもう次はないかもしれません。報酬が高すぎることに一抹の疑問を感じはしましたが、やがてそれも消えました。詳細な計画を聞くまでもなく、私は承諾してしまいました」

 

「最後に、斎藤は口調を一変させて、私に奇妙な質問をしました。『ところで、君は童貞かね?』と。当然、私はまだ女性を知りませんでしたから、ただ軽く頷くと、彼は『それは良かった。やはり打ってつけだ』と満足げに言いました。彼は帰って行きました」

 

「後日明かされた計画の概要は次のようなものでした。薩摩県の南方の海には神霊が住まう無数の島々があり、その中の一つ、本土から五十キロメートル離れたところに位置する無人の道昭島には、竜美姫神という女神がいる。この女神と交渉して神々の権能を調査し、バケモノ兵器製造に関する基礎的データを収集して欲しい、とのことでした」

 

「あなたならば既にご存じでしょうが、もともと我が国における妖怪や化生といったバケモノは、神々が信仰や霊格を失い、零落した姿であると言われています。それゆえ、神々そのものを研究しその霊力を解析することは、新型のバケモノ開発で大いに有益であるのです。そのように計画書も主意を述べていました。ですから、私もそれにはなんら疑いなく同意したのです」

 

「しかし一般的に女神というものは疑り深くて、人を遠ざける性質があります。スムースな交渉を行うために私は策を練りました。ともすれば卑劣とも言えるような策です」

 

「私は凶暴なイノシシの化生を予め三頭用意し、船で沖合まで行って秘密裏に島に向かって解き放ったのです。それから二ヶ月間、私は待ちました」

 

 

☆☆☆

 

 

「頃合いを見て、私は島へと上陸しました。ここでも念を入れて、私は遭難者を装いました。船が難破し、身一つで島に打ち上げられたように装ったのです。事前に体重を落とし、ボロボロの服を着て。ですが、化生を退治するのに必要な小刀だけは腰に差していました」

 

「ちょうど夏の頃、島は一面の緑に覆われ、南国特有の色鮮やかな花々が咲き乱れており、非常に美しかったのをよく記憶しております。砂浜は真っ白で、海は太平洋とも瀬戸内とも違う、澄んで輝く緑色をしていました」

 

「しばらく砂浜に横たわっていると、何かが近づく気配を感じました。放っておいた化生だろうか、と最初は思いましたが、しかし感じられる雰囲気は醜悪なものではなく、ヒンヤリとしつつも温かなものでした」

 

「顔を上げると、そこには少女がいました。しゃがんで私の顔を覗き込んでいます。能面のように無表情です。白い可憐な着物を纏っていて、顔は幼いながらも凛として美しく、しかしどこか超然としていました。手足は西洋人形のように繊細です。驚いたことに目は金色で髪は青みがかった黒。肌の白さと相まってどこかこの世ならざる存在のようでした」

 

「私は確信しました。この少女こそ、目的の竜美姫神であると。ですが、私はあえて自分から口を開かず、彼女が話すのを待ちました」

 

「しばらく私の顔を見ていた彼女は、ややあって私に問いかけました。『人間よ、あなたの名前は?』 私は安太郎と、自分の名を答えました」

 

「彼女は頷くと、私についてこいと仕草で示しました。とりあえず、第一関門は突破です。邪悪な女神は自分の領域に人間が入ることを許さず、そのまま殺してしまうということもありますから、この時は内心とても緊張していました」

 

「彼女の寝所は、島一面を覆う森の中にある石造りの祠でした。小さな納屋くらいの大きさです。荒れ果てていて、遥か昔に作られたのであろう木製の祭壇は原型を留めていません。私は導かれるままに祠に入り、そこで横になって休むように言われました」

 

「彼女は透き通るような、それでいてとても可愛らしい声で言いました。『ここで英気を養いなさい。治るまでここにいて良いですよ』と。私は頷くと、言われた通りそのまま夜まで寝ることにしました」

 

「夜、どこかから聞こえてくるとてつもなく大きな咆哮で目が覚めました。ハッとして起き上がって周りを見渡すと、少女が隅でガタガタと震えているのが見えました」

 

「あの鳴き声は何ですか? 答えを既に知っているのに、私は問いました。あの咆哮の主は私が前にここに送り込んだ化生に間違いありません」

 

「少女はか細い声で答えました。『数か月前、いきなりバケモノが私の島に現れました。三匹いて、毎晩毎晩あのような叫び声を上げては島を荒らしまわっているのです』」

 

「私は、自分がこれから討伐しに行くと言いました。しかし彼女は私を引き止めます。『きっと殺されてしまいます。私も前にこの島から出ていくように彼らに言いましたが、まったく聞き入れられませんでした。彼らは凶暴で、大きくて、素早いです。戦ったらどうなることか。この祠に入れば安全ですから、どうかここにいてください』」

 

「私は急がないことにしました。彼女の言葉を聞き、それから三日三晩待ち続けることにしました。深夜になると祠の周りを化生たちが鼻息も荒くドカドカと音を立てて歩き回り、強烈な獣臭を撒き散らします。少女がそのたびに震えるので、私はそっと彼女に寄り添い、大丈夫です、私が回復したらすぐさまあんな奴らは残らず討伐してみせますと、慰め続けました」

 

「その間の食事ですか? 食事は、彼女がどこからともなく卵と鳥肉を持ってきてくれました。どうやって得たのか訊くと、彼女が言うには『神様だから』とのことです。おそらく権能の一つだったのでしょう。食事のみならず、私は彼女の一挙手一投足をひそかに観察して、データの収集に勤しみました」

 

「そして、ついにその晩がやってきました。私は小刀を引っ掴んで出撃しようとしましたが、その時彼女が私の腰にひしとしがみ付きました。そして、『ご武運を』と言い、驚いたことに私の唇にそっと接吻しました。初めての経験、しかも相手が女神であるということに少し茫然としましたが、私は気を取り直すと外に出ました」

 

「元より私が自分で捕まえ、選んで、ここに送り込んだ化生です。対処法を知らなければ一般人のみならず訓練された兵士ですら殺されてしまうような相手ですが、私は難なく三体とも討伐しました。倒した時には水平線に朝日が顔を覗かせていました」

 

「砂浜で夜明けの陽射しを浴びつつ刀の血糊を拭いていると、彼女が駆け寄ってきました。彼女は私に抱きついて、泣きながら言いました。『ご無事で良かった。あなたが死んでしまったらどうなることかと……』と。私も彼女を抱き寄せました」

 

「もうお分かりでしょうが、これはすべて私の計画通りだったのです。女神の信頼を手っ取り早く得るために、彼女の安全を脅かすバケモノを送り込んで、それを倒す。マッチポンプという奴ですよ」

 

「その時の私は、不思議な気持ちに駆られておりました。一つは『これで仕事がやりやすくなったぞ』という満足感。しかしそれ以上に感じたのが、この少女をこれほどまでに怯えさせ、心配させてしまったという罪悪感でした」

 

「思えば彼女は献身的でした。祠で臥せっている私に毎日沢山食物を持ってきてくれて、綺麗な水で体を拭くこともしてくれました。そして今は私を抱きしめて、私の無事を心の底から喜んでいます」

 

「それまでの人生で感じたことのない、奇妙な胸の高まりを私は覚えていました。人生経験に乏しい私でも、しばらくして気付きました。私はこの少女に恋をしてしまったのだと」

 

「二人で朝日に照らされ波の音を聞きながら、私はふとこんなことを口にしていました。君を、僕だけの名前で呼んで良いかい、と。彼女は不思議そうな顔をしましたが、何も答えずじっと私を見つめています。『君を、キヨと呼びたい。どこまでも清らかな君を、僕はキヨと呼びたいんだ』と私は言いました」

 

「彼女は顔を赤らめました。そして、頷いてくれました」

 

「それからは楽しい日々が始まりました。来た当初は無表情だったキヨですが、次第に花の咲いたような、明るく可愛らしい笑みをよく浮かべるようになり、私の本土での生活の話や他愛のない冗談にも笑うようになりました」

 

「彼女と生活しているうちに、様々なことが分かりました。昔は島へ訪れる人が多く、キヨも人々と交流をして楽しく暮らしていたのだそうですが、維新後は科学主義の風潮が急速に広まったために徐々に参詣者が減り、遂にはこの島を訪れる者はまったくいなくなったのだそうです。本土から距離が遠かったことも災いしたのでしょう」

 

「そんなわけで、キヨは何十年もまったく孤独な生活を送っていたのです。そんな中で、ある日突然島に凶暴なバケモノが三体も現れて、キヨは大変な恐怖を覚えました。二ヶ月間も孤立無援で、このままの状況が永遠に続くことに気付いて絶望していた時に、私が現れました」

 

「共同生活を続けて三ヵ月が経った頃、キヨはニッコリと笑って私に言いました。『ヤスタローは私の命の恩人です。ヤスタローは私に希望をくれました。私、ヤスタローとずっと一緒にいたいです』と」

 

「ついにキヨから愛の告白を受けてしまいました。ですがいずれ、私は本土に帰らなければなりません。報告書を纏めて兵器局にデータを送らなければ、傾いた家運を立て直すことができないのです。私は心を鬼にして、君とはいずれ別れなければならない、私は船を作って本土に戻るつもりだ、と答えました」

 

「キヨの目から涙がポロポロと零れました。彼女は走り去りました。一人残された私の目からもとめどなく涙が落ちました。このままここにいて、一生キヨと過ごすことができたなら! 人間世界のあらゆるしがらみから解放されて、この楽園でキヨと思うままに幸せに暮らすことができたなら! 本当に、その時そう思いました」

 

「その晩のことでした。私が石の寝床に横になっていると、キヨがそっと私の隣に横たわって、手足を私の体に絡みつかせました。そして一言、『私と契りを結んでください』と囁きました」

 

「ここに至って私の考えは変わりました。キヨが私を愛してしまったのは、間違いなく私のせいだ。私はその責任を取らなければならない。私は意を決して、ここに来た本当の目的を彼女に告白しました。今まで君を利用していたのだと……」

 

「それでもキヨは言うのです。『そんなことは関係ないです。あなたの優しさと慈しみは、決して偽物なんかではありません。私はあなたと一生添い遂げると決めたのです……』」

 

「私は彼女を抱き寄せ、そして夫婦の誓いをしました。これからずっと、死ぬ時も一緒だと……」

 

「ですが仕事にはけじめをつけなければなりません。私はメモ帳に報告をまとめました。実は私が島に上陸してから三ヶ月経っても本土に帰還しなかった場合、陸軍が迎えに来ることになっていました。私はその迎えの人に報告書を渡して、島に残留することにしたのです。彼らはもう三日後にも来る予定でした……」

 

 

☆☆☆

 

 

「……もう、本当はこれ以上話したくないのです。これから先は私の罪の告白です。私の生涯をかけても償いきれないほどの、最悪な行為についてお話しなければなりません」

 

「キヨと夫婦になったその次の朝、私はキヨよりも先に目が覚めました。隣で幸せに寝入っているキヨを起こさないようにして私は寝床から抜け出ると、海岸へ向かいました」

 

「結婚したからにはその記念となるものをキヨに贈らなければなりません。私は、この島の砂浜に美しい貝殻がたくさん散らばっていることを思い出して、綺麗な貝殻を使ってキヨに髪飾りを贈ることにしたのです。ふとした思い付きでした」

 

「海岸に行くと、愕然としました。そこには陸軍の上陸用舟艇が3隻も着岸しているのです。小銃と軽機関銃を手にした兵隊たちが屯していました」

 

「おい、と声がかかりました。そこには、私にこの仕事の話を持ち掛けてきたあの斎藤という軍人がいました。私はこれまでの経緯を報告し、このまま島に残留する意図を伝えました」

 

「報告書をパラパラと流し読みした後、斎藤はニヤリと笑って言いました。『そうなるだろうと思ったよ。まあ、しっかりとデータは揃っている。残留を認めようじゃないか。それに報酬も払う』と」

 

「そして、こう言いました。『島を離れる前に、君の花嫁を見せてくれないか。お手数だが呼んで来てくれ』」

 

「戻るとキヨは起きていました。突然島に多くの人間の気配がしたことに彼女は怯えていましたが、私が説明すると落ち着きを取り戻しました。そして、二人で手を取り合って海岸へ向かいました」

 

「海岸に出ると、兵隊たちが横一列に並んで、捧げ銃の姿勢をしていました。私たちを祝福してくれているんだよ、とキヨに言うと、彼女は顔を赤らめました」

 

「二人で斎藤の前に立ち、挨拶をしました。彼は『ほぉ、流石は女神様。大層お美しいですな』と言いました」

 

「次の瞬間、パンッと乾いた銃声がして、私の腹部にバシッと衝撃が走りました」

 

「見ると、斎藤の手には拳銃がありました。私を撃ったのです」

 

「私は砂浜に倒れました。キヨが叫び声をあげています。意識は朦朧としていて、自分で立ち上がることができません。その間に兵隊たちはキヨを縄で縛り上げていきます」

 

「斎藤が言いました。『良し! この男を舟艇に放り込め! 女神はそのままだ! 全員乗船!』」

 

「舟艇は島から離れていきます。私はキヨが身を捩り、泣き叫んでいるのをただ見ていました。キヨは『ヤスタロー! ヤスタロー!』と泣いています」

 

「そうこうしているうちに、彼女の動きがぴたりと止まりました。斎藤が『さあ、いよいよだぞ……』と緊張した面持ちで言います」

 

「『おのれ……』 そう聞こえました。『おのれ……おのれ……』」

 

「その声はキヨから出ていました。しかし、あの可愛らしい声ではありません。地の底を這いずり回る魑魅魍魎が絞り出すような、深い恨みと怒りが凝縮されたような声です」

 

「次の瞬間、キヨを縛っていたすべての荒縄がはじけ飛びました。そして体をブルブルと大きく震わせると、彼女の姿形がみるみるうちに変貌していきました」

 

「頭からは白い角が二本生え、口からは牙が生えています。体は着物を引き裂いて肥大化し、太く、長くなり、無数の黒いウロコを纏いました。長さは十五メートルはあったでしょうか。金色だった目は、業火のように赤くなっています」

 

「キヨだったものは叫びました。『おのれ人間! よくもヤスタローを!』 そして口から真っ赤な炎を吐きました」

 

「一人の兵隊が茫然と言いました。『バケモノだ……』と……」

 

「突如、斎藤がハハハと高笑いしました。『見ろ! 実験は大成功だ! 我々は人為的にバケモノを生み出すことに成功したぞ! それも巨大な神格を基にした、強大無比なバケモノを!』」

 

「それを聞いて私はすべてを卒然と悟りました。私は騙されていたのです。彼らの目的はデータの収集などではなく、最初からキヨを生物兵器化するつもりだったのだと。古来神々は愛する者を奪われた場合、呪いを発して神格を著しく落とし、バケモノになると言われています。まさにキヨはその通りになってしまったのです」

 

「斎藤はなおも続けます。『攻撃衝動は学習理論と制御装置でコントロールできる。攻撃対象の選別もエウロパ製の管制装置でなんとかなるだろう。ハハハ、素晴らしい! 最高だ! おい! 沖合に待機している母船に連絡だ! 捕獲部隊を発進させろとな!』」

 

「それを聞いて、私は怒り狂いました。最後の力を振り絞って起き上がると斎藤に体当たりをし、首を絞めました」

 

「もはや動けぬと思っていた男が首を絞めてきたからでしょう、斎藤は明らかに恐怖の表情を浮かべました。ですが、次の瞬間兵隊が私の後頭部を銃床で殴りつけ、意識を飛ばしました」

 

「薄れゆく意識の中で、私はキヨの声を聞いた気がしました。『ヤスタロー、必ず会いに行くわ。きっと、どんなに時間がかかっても、またあなたに会いに行くわ……』と……」

 

「目が覚めた時には軍病院にいました。私は二年間もそこに幽閉されました。解放された後は故郷に帰りましたが、拳銃で撃たれた腹部と殴られた頭部の怪我の後遺症のこともあり、またキヨのこともあり、家業は廃止しました。報酬は律儀に支払われたので、私は阿波県に移住し、以後は畑を耕して過ごしました……」

 

 

☆☆☆ 

 

 

 そこまで話すと老人は、ふっと大きく溜息をついて私に微笑みかけた。

 

「その壺の中をご覧ください」

 

 私は床の間の黒い壺に近寄り、中を覗いた。

 

 その中には、黒い蛇がいた。生きているのか、死んでいるのか、ぐったりとして動かない。

 

 不思議なことに、蛇には小さな二本の白い角が生えていた。

 

 老人はニッコリと笑って言った。

 

「数日前に、私の家の軒下に横たわっていたんです。今まで自分から探しに行くこともしなかった私ですが、せめてこれからはずっと一緒にいるつもりですよ」

 

 東京府に戻った私は、資料を当たり、蛇型の魔法生物兵器の運用記録を調べた。キヨと思しき兵器について断片的な記述を見つけることができた。どうやらキヨは火炎放射兵器として大陸戦線に投入され、その後戦況の悪化に伴って比島決戦に送られたらしい。サラクサク峠で連合軍戦車に幾ばくかの損害を与えた後、猛砲撃を受けて行方不明となった、とのことだった。

 

 一週間後、手紙が届いた。私が去った三日後に安太郎氏が息を引き取ったことを述べていた。蛇については書かれていなかったが、私はきっと、最期も一緒だったのだろうと思っている。




※以下、作品メモとなりますので、興味のない方はここで読むのを終えられるか、もしくはお手数ですが後書きを非表示に設定してください。

らいん・とほたー「キヨのメタモルフォシス」作品メモ

2020年2月12日公開。

通算十七本目となるオリジナル短編。エブリスタ主催の妄想コンテスト「バケモノ」に応募した作品です。

面白いと思えるような話の筋をなかなか考えつくことができず、三日三晩悩んでようやく書き上げることができました。

最初は「南の島の孤島、ジャングルに隠された敵軍の秘密研究所に、島の妖精を改造したバケモノがいた。敵の機密文書からバケモノの情報を得た軍は、可能ならば本体そのものを捕獲しようと特殊部隊を派遣するが、バケモノは島全体を支配していて……」なんて筋を考えてましたが、どう考えても8000字の短編に収まる内容ではなく、また「バケモノ」というテーマを真正面から捉えていないこともあって、取り止めにしました。しかし孤島と軍隊というイメージは残ったわけです。

女の子が愛ゆえにバケモノに変身してしまう、というのは日本人の精神風土に根付いている性癖なので、最終的にそれを追求した話を書き上げることができて満足しています。

次回もお楽しみに。


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02. ソーニャはふっと微笑んだ

 ようやく巡り合えたその人物、マリア・ニコラエヴナは盲目だった。

 

 私よりも十歳年下であるはずなのに、髪には白いものが混じっていた。それでも声は若々しく、来訪した私を歓迎する意思に溢れていた。

 

「そう、あなたがソーニャのお兄さんなんですね。ああ、確かにソーニャとよく似ているわ。いいえ、私には分かります。光を失った代わりに、音にはとても敏感になりましたから。あなたの声の中にソーニャを感じるわ……」

 

 早速、私は彼女から話を聞こうとした。だが、彼女はこう言った。

 

「ごめんなさいね。主人があなたの手紙を読んで聞かせてくれた時から、あの時のこと、ソーニャのことを思い出そうと努力したのですけど、今になってもまだ整理がついていないの。だから、先にあなたのお話を聞かせてください」

 

 意外な申し出に困惑しつつ、私は語り始めた。

 

 

☆☆☆

 

 

 凶報の予兆など、何もなかった。

 

 その頃、私は名もなき一下士官として戦場にいた。二週間前から始まったファシストの大攻勢をなんとか凌ぎ切り、時を移さず逆襲に転じて、多大な犠牲を出しながらも我が軍は戦線を安定させることに成功した。

 

 ファシストの軍勢は手強く、冷酷で、装備に恵まれていた。特に魔術兵は狂信的で、追い詰められて降伏するしかない状況にあっても死ぬまで戦い続けた。一人を殺すのに私たちは三人が殺されるのが常だった。

 

 それでも私たちは戦い続けた。三年前、相互不可侵条約を破って騙し討ちに祖国を侵略し、村々と都市を蹂躙し、人民を虐殺した連中を、私たちは決して許しはしなかった。党のプロパガンダをいちいち信じるまでもなく、私たちはファシストを憎み、殺意を滾らせ、銃を撃ち続けた。

 

 破壊と殺戮に彩られた無慈悲な前線から戻り、後方の基地で一息ついていたその日、私は戦友たちが新聞を囲み、なにやら熱心に話をしているのを目にした。

 

「可哀想に、こんな綺麗な娘がなぁ。まだ十七だってよ」

「こういう娘たちを守るために俺達は戦ってるんじゃないのか」

「でもこの娘、志願兵だって記事にはあるぜ。自分で望んで戦いに出たんだろ」

「バカ、なんてことを言うんだ。赤軍には志願兵しかいないだろうが……」

 

 一体何の話をしているのか。私が近づくと、戦友の一人が新聞の一隅を示して言った。

 

「おっ、アレクセイ・ヴァシリーエヴィチ。この娘を見てみろよ、すげえ可愛いぜ。しかもお前と同じ父称と姓だ……」

 

 電流のような予感が走り、私は戦友の手から新聞をもぎ取った。そして、食い入るようにその記事に添えられた写真を見つめた。

 

 そこには一人の女性が写っていた。塹壕の中で、略帽と軍服を身に纏い、傍らに身に余るほどの長大な銃を置き、手にはなにやら紙切れを持っている。

 

 それは間違いなく、私のたった一人の妹であるソーニャだった。

 

 記憶にある姿とは異なり、ソーニャは成長していた。背がかなり伸びていて、顔は大人びている。長く美しかった金髪は兵隊らしく刈り込まれていて、鼻筋がスッと通り、大きく黒目勝ちだった目は細く鋭くなっているが、どこか若い頃の母の面影があるその姿は、私に否応もなく写真の女性がソーニャであると確信させた。

 

 写真の中のソーニャは穏やかに微笑んでいた。私の心の中に温かな記憶が蘇る。故郷で、あの狭い家の居間で、ソーニャは私の前に座って同じように微笑んでいた。私が学校での出来事を面白おかしく語るのを、ソーニャは話の内容自体よりも、話を語る私自身が何よりも面白いものであるかのように、静かに、だが目を輝かせて、興味深そうに聞いていた。

 

 不思議なことだ。ソーニャは看護婦をしているのではないのか? それに、ソーニャがこんな顔をして写真に写るだなんて。だってあの子は、私の妹は、写真をとても、そう、とても怖がっていたのに……

 

 そう思っている間にも、私の視線は自然と写真の下に書かれた記事へ移っていった。そこには、党特有の文飾が施された文言が並んでいた。

 

 温かなもので満たされていた私の精神は、一瞬にして凍り付いた。

 

『より大いなる勝利のために! 大衆的英雄精神の体現者、ソフィア・ヴァシリーエヴナ・クルコフスカヤに女性初の赤旗勲章授与。

 

 黒きファシストの軍勢を打ち破れ! 固き信念と祖国への熱烈なる忠誠心をもって、若き赤軍の華ソフィア・ヴァシリーエヴナは十五歳の春から志願兵として入営、以来五つの戦場と四十の作戦で狙撃兵として銃を執り続けた。「ファシストは一人として生かして帰さない」 しばしば戦友にそう語っていたソフィアは言葉に違わず活躍し、これまでにファシスト兵百八十七名を射殺。十七歳の誕生日を迎えた五日後の六月二十日、ソフィアは最前線にて侵略軍の猛烈なる大攻勢を迎え撃ち、三人の敵指揮官と十八人の敵魔術兵、二つの機関銃座を沈黙させた後、壮烈なる戦死を遂げた。赤軍司令部はソフィアの類まれなる戦果と最高度に発揮された大衆的英雄精神を讃え、女性初の赤旗勲章を授与することを決定した……』

 

 茫然として立ちすくむ私を、戦友たちは不思議そうに眺めていた。ややあって、火のついたタバコを咥えた一人が私へ探るように語りかけた。

 

「どうした、そんなに新聞を見つめて。そんなにその娘が気に入ったのか?」

 

 私は首を左右に振った。これは俺の妹だ、と。

 

 絶句する戦友たちを後目に、私は宿舎へと戻った。写真を切り抜くと、妹は思ったよりも小さくなってしまった。

 

 ソーニャの戦死公報が届けられたのは、それから一週間後のことだった。大学出の、兵士としては優しすぎる中隊長は私を気遣って言った。

 

「どうだ、ここらで一度休暇をとって、故郷に帰らないか。普通なら肉親の死ぐらいで家に帰してやることはできないが、あのソフィア・ヴァシリーエヴナの兄ということなら、司令部もきっと許してくれると思うが……」

 

 私は短く答えた。休暇はいりません、家族はみんな死にました、故郷はファシストの戦線の向こう側です……

 

 戦争はその後も二年間続いた。我が軍はファシストを祖国の大地から追い出し、さらに追撃して、遂に奴らの首都を攻略した。だが、私は戦友たちと共に勝利を祝うことができなかった。

 

 敵が全面降伏したその日、私は民家を改造した留置場に閉じ込められていた。三日前、連絡のために司令部に赴いた私は突然内務人民委員部に逮捕された。容疑は「魔術主義的思想傾向」と「ファシストへの内通」だった。持ち物はすべて没収された。ソーニャの写真の切り抜きも。

 

 身に覚えがない、というわけでもなかった。一週間前、私は捕虜を助けていた。その捕虜はまだ子供と言っても良いくらいの年齢で、魔術兵独特の軍装と杖を手にしていたが、顔はやつれ、青ざめて、恐怖に歪んでいた。面白半分に彼を殴りつける兵隊たちを制止し、私はパンとタバコを分けてやった。

 

 それだけではない。それまでにも私は敵にたびたび情けをかけていた。入営した時こそファシストは皆殺しにしてやると誓っていた私だったが、戦いを経験するにつれ、彼らもまた人間であると知った。それに私は、戦いの残酷さを目の当たりにするたびにソーニャの優しさを思い出していた。無慈悲な人間に変わり果ててソーニャの墓の前に立ちたくはなかった。

 

 どうやらそのことを誰かに密告されたらしい。侵略者であるファシストに対する慈悲など存在せず、もし慈悲をかける者があるとすれば、それはファシストのスパイである。私の行為は明らかに党の見解に反していた。常に逮捕者ノルマに追われる内務人民委員部にとって、私は格好の標的だった。

 

 私は裁判で政治犯と断じられ、十五年の懲役刑を言い渡された。常に最前線で戦い十もの戦功章を授けられたという事実は、何の助けにもならなかった。収容所での強制労働は過酷そのもので、食事の量は少なかった。私は次第に健康を害し、刑期八年目にして重い腫瘍を患った。幸運なことに労働を免除され、遠いカザーフの軍病院に入院させられた。

 

 入院は、私にとって一つの転機となった。収容所にいた頃には、絶望を抱くことすらできないほどの無気力と疲労感が私を満たしていたが、病院で曲がりなりにも食事らしい食事を摂り、汗臭い汚れた寝台ではあるが充分な睡眠をとれるようになると、私の精神は行動力を取り戻し、よろめきながらも活動を再開した。

 

 思うのはただ一つ、ソーニャのことだった。

 

 戦争の最中おぼろげながら感じていた違和感は、不当とも言える逮捕と人権無視の収容所生活によって生じた党への不信感によって、よりはっきりとした形を取りつつあった。

 

 あの記事に書かれたソーニャは、果たして本当にソーニャだったのだろうか。あの写真で微笑んでいたソーニャは、本当に記事のとおりの最期を迎えたのだろうか。

 

 ソーニャは優しい子だった。文字通り虫一匹殺せない子だった。畑の害虫を踏み潰すことを嫌がり、居間に出る羽虫を怖がってすぐに私を呼ぶような子だった。そんなソーニャが狙撃兵としてファシスト兵を何十人も撃ち殺すとは、私にはとても信じられなかった。

 

 ある晩のことを今でもよく覚えている。ラジオから流れてくる、外務人民委員がゲルマーニー人を糾弾する演説を私たち二人は聞いていた。私が「もし戦争になったら俺は真っ先に軍隊に入って、奴らを皆殺しにしてやるんだ」と言うと、妹は大きな目を潤ませてこう言った。

 

「でも、ゲルマーニー人にだって家族がいるでしょう? 可哀想だわ」

 

 ソーニャはまた、写真をとても怖がる子だった。私が学校で聞いた話として、「魂を吸い取る写真機」の話をしたら、ソーニャはそれを真に受けてしまった。私が故郷を離れて首都に行くことになった時、記念として家族写真を撮ることになったのだが、その時もソーニャは直前まで逃げ回っていた。

 

 戦争が勃発した時、私は首都の工科学校にいた。ファシストの大軍が奇襲攻撃を行い、国境の村と町は次々と占領されたと聞いて、私は愕然とした。私の故郷はまさに国境近くにあり、ソーニャは今も両親と共にそこにいるはずだった。

 

 守備隊は粉砕され、住民は皆殺しにされている。そう聞いた私は即座に軍隊に入った。厳しい訓練生活を送りながらなんらかの便りが来るのを待ち続けたが、二ヶ月が経っても何も分からないままで、その時には私は家族のことを諦めていた。

 

 だから、一年後にソーニャから郵便が届いた時には非常に驚いた。ソーニャは何とかファシストの魔の手から逃れ、避難先で看護婦として従軍することになったという。両親の行方は分からないとのことだった。おそらく絶望的だろう。ソーニャははっきりとそう書いてはいなかったが、文面からは妹の思いが伝わってきた。

 

 看護婦か、優しいソーニャらしい。私は安心した。両親が死に、故郷を失っても、妹はまだ生きている。忙しいかもしれないが、後方の病院で安全な日々を過ごしている。その事実が私に気力を与え続けてくれた。妹に手紙を書かなければならない、そう思うだけで死地から脱することもできた。たまに妹から送られてくる手紙を読むだけで、この世のすべての残酷さを一時でも忘れることができた。

 

 それなのに、実はソーニャは狙撃兵として戦っていて、最期はファシストに殺された。そう新聞では書かれていた。

 

 写真のソーニャは微笑んでいた。あれだけ写真を怖がっていたのに、どうしてあんなに自然な笑みを妹は浮かべることができたのだろうか。あんなに自然な笑みを浮かべる妹が、どうして何十人ものファシスト兵を撃ち殺すことができたのだろうか。

 

 もしや、あの記事の内容はすべてプロパガンダとして捏造されたものなのではないか? 写真すらも、合成されたものなのではないか? ソーニャは、党に利用されたのではないか?

 

 知りたい。強烈な渇望が病身の私を支配した。どうしても、妹の最期について知りたい。党のプロパガンダではなく、私自身の肉体と精神とで直接調べ上げたい。

 

 ただ真実を!

 

 そう思った瞬間、私はある確信を得た。ソーニャの最期を解き明かした時に初めて、私の本当の人生が始まるだろうと。

 

 病勢は一進一退だったが、やがて小康状態となった。それと期を同じくして、党最高指導者が死去し、私たち政治犯には恩赦が与えられた。

 

 戦争終結から十一年が経過していた。釈放された私は早速妹について調べ始めた。

 

 だが、調査は難航した。

 

 戦時中、女性兵士の活躍を大々的に称揚していた我が国は、今ではそれをなかったことにしていた。西側諸国との対抗上、我が国は軍隊と国力が強大であることをことさら誇示する必要があり、「女性兵士を登用しなければならないほどにファシストに追い詰められた」という過去は不都合そのものだった。党の指導は現在も完全であり、ゆえに過去も完全であったのだから、女性を兵士として用いたなどという過去はあり得ないのだった。

 

 それゆえ、私の党宣伝部への問い合わせはすべて無視された。女性兵士に関する文書に当たることもできず、ソーニャの写真が載った新聞のバックナンバーすら手に入れることができなかった。私は人伝てにソーニャのことを聞いて回ることしかできなかった。

 

 我が国では写真一枚についてすら調べることはできないのだ。妹の写真でさえも。

 

 政治警察によるたびたびの妨害に悩まされながら調査を続けた結果、ソーニャの所属していた部隊は、ソーニャが戦死した一年後にファシスト軍に包囲されて壊滅していたことが判明した。生き残りはいないと思われたが、私は諦めることなく調査を続け、遂にソーニャの戦友が一人だけ存命してることを突き止めた。

 

 そして、私はここにやってきた。私の知らない妹を知っていて、私の人生を新たに始めるための鍵を持っている、マリア・ニコラエヴナから話を聞くために……

 

 

☆☆☆

 

 

 私が語り終えると、マリアは溜息をついた。そして、その光を失った目で私を見つめ、ゆっくりと語り始めた。

 

「お話はよく分かりました。今まで大変な苦労があったのですね。こんなに妹を思ってくれるお兄さんを持っているなんて、ソーニャは幸せ者です。それにしても、ソーニャはあなたに何も教えていなかったのですね。ソーニャが看護婦だなんて! 私が知る限りソーニャは赤軍で一番の狙撃兵でしたよ」

 

「ソーニャと初めて出会ったのは入営した時です。辛いことがたくさんあったのか、ソーニャは無口で、無表情で、まったく笑わない子でした。ソーニャにはいつもターニャという子がぴったりと付き添っていました。私たち三人はすぐに仲良くなって、そのまま同じ部隊に配属されました。三人とも狙撃兵です。三人の中で、ソーニャが一番良い成績でした」

 

「初めの頃は過去について何も話さなかったソーニャですが、次第にそれまでのことについて語ってくれるようになりました。戦争が起こった時、ソーニャは両親からお使いを頼まれて、隣の大きな町にいたそうです。敵軍が迫っているということで村に帰ることはできず、流されるままに列車に乗せられて、行方も分からないまま遠く東へ一千リーグも運ばれてしまったと言っていました。ターニャとはその途中で出会って、二人で食べ物を分け合いながら何とか生きていたそうです。たくさんの人の死を見たとも……」

 

「軍隊が女性兵士を募集しているのを知ったソーニャは、ターニャと一緒に志願しました。最初は看護婦になろうとしたらしいのですが、もう足りていると言われ、ターニャに『もう放浪するのは嫌だ』と泣かれた彼女は、仕方なく軍隊に行くことにしたそうです」

 

「ソーニャは優しい子でした。あなたは虫一匹殺せない性格だったと言いましたけど、本当にそのとおりでしたよ。最初に入った陣地には羽虫が多くて、私たちは敵よりもまず先に虫を殺すことに躍起になりましたが、ソーニャはその時も何もしませんでした。『だって、可哀想じゃない』って」

 

「そんなソーニャが変わったのは、ターニャが死んでからでした。敵の狙撃兵がターニャを撃ったんです。致命傷を負って陣地に運び込まれたターニャに、ソーニャは最後まで付き添っていました。ターニャは『お家に帰りたい、お母さんにもう一度会いたい』と言って泣いて……ほどなくしてターニャは死にました」

 

「次の日、ソーニャは初めて敵を殺しました。もともと無表情で笑わない子でしたが、それからはもっと表情が硬くなりました。そして、仲間が死んでも決して泣かなくなりました。率先して最前線に出て行って、何日間もじっと潜伏して標的を撃つ。そんな過酷な任務を彼女は何回もやり遂げました。一日で五人を射殺した時もありましたし、一リーグ先の敵を撃ち殺したこともあります。男の兵隊にだって、そんなことはできません」

 

「ソーニャの得意とする戦法は、敵をおびき寄せることでした。わざと敵の急所を外して撃って動けないようにして、助けに来る敵兵をまた撃つという戦法で……とても効果がある戦法でしたが、でもソーニャ以外の誰もそれをしませんでした。あまりにも残酷だから……でもソーニャは言うんです。『ファシストのほうがもっと残酷よ』って……」

 

「ところで、私の趣味は写真でした。機会があるたびに、私は部隊のみんなの何気ない日常風景を撮っていました」

 

「でもソーニャは、私に写真を撮らせようとしませんでした。『写真を撮られると魂が抜かれる』なんて言ってね。魂なんてものを信じるのは党の教えに反するぞなんて冷やかしても、彼女は絶対に聞きませんでした。『軍隊に入って一番嫌だったのは、軍隊手帳用の顔写真を撮られた時よ』とも言ってました」

 

「そんな彼女でしたけど、ある日突然私のところにやってきて『写真を撮ってちょうだい』と言いました。『兄さんが私の写真を送ってくれって言うから』って。お兄さんから手紙が来て、そろそろソーニャは十七歳のお誕生日だね、もう何年も会ってません、せめて写真だけでもお前の姿が見たい、と書いてあったと」

 

「前線ですから化粧品はありません。お風呂にも、もう何日も入ってませんでした。でもソーニャはできる限り身綺麗にして、私の構える写真機の前に立ちました」

 

「私は『ほら、笑って』と言いました。でもソーニャの表情は硬いままです。『せっかくの写真なのよ、なんで笑わないの?』と言うと、ソーニャは僅かに困った顔をしました。『笑い方を忘れちゃったのよ』と。一流の写真家は、被写体の笑顔を引き出してこそ一流と言います。無表情なソーニャをただ撮るのは、私のプライドが許しませんでした」

 

「ふと、私はあることを思いつきました。『ソーニャ、お兄さんからの手紙を持ってる? それを読んでみて』と私は言いました。私に言われるままにソーニャは軍服のポケットから手紙を取り出すと、読み始めました」

 

「その時、私はソーニャがこんなに穏やかな表情もできるのだと初めて知りました。手紙を読み始めたソーニャはふっと微笑んで、目は優しさに満ちていて、口元が綻んでいます」

 

「私はその瞬間を待っていました。『ソーニャ、こっちを見て』 そう言うとソーニャは、微笑んだままこちらに顔を向けてくれました。その瞬間にシャッターボタンを押しました」

 

「ソーニャは誕生日の五日後に死んでしまいました。彼女が撃たれた時、私は彼女の観測員として隣にいました。心臓を撃ち抜かれたんです。苦しそうに呻くソーニャの手を私が握ると、ソーニャは微笑んで『あの写真、送ってね』と言いました。それが彼女の最期の言葉でした……」

 

 

☆☆☆

 

 

 マリアの閉じられた目から涙が流れた。しばし沈黙を挟んだ後で、彼女はまた口を開いた。

 

「ソーニャとあなたに謝らなければなりません。結局私は写真を送れませんでした。敵の攻勢が激しくて陣地から離れられなかった私に現像をする余裕はなくて、たまたま陣地を訪れていた報道班員にフィルムを託したんです。その次の日、目の前で迫撃砲弾が炸裂して、私は視力を失いました。きっとその新聞の写真は、報道班員が勝手に私の写真を使ったのでしょう」

 

「それで……写真は、良く撮れていましたか?」

 

 非常に良く撮れていたと、私は告げた。

 

 私の目からも涙が溢れ出ていた。




※以下、作品メモとなりますので、興味のない方はここで読むのを終えられるか、もしくはお手数ですが後書きを非表示に設定してください。

らいん・とほたー「ソーニャはふっと微笑んだ」作品メモ

2020年3月1日公開。

通算十八本目となるオリジナル短編。エブリスタ主催の妄想コンテスト「写真」に応募した作品です。

文章で写真を表現しなければならないとは、エブリスタのコンテスト主催者側はなんとまた難題を出したものだと恨みました。こういう時はやはり「写真にまつわる過去」と「写真に関する謎」を追う内容にするに限ります(たぶん)。

写真で妹の死を知ったが、しかし写真の妹に違和感を覚えて……後は自分好みの世界観で謎を追っていくだけです。それにしても非常にエネルギーを費やしました。書き終えた時には肉体も精神もフラフラに……シリアスなものを書くと心身ともに消耗しますね。

一応世界観は他の私の作品と共通していたりします。だんだんと世界観を「流用」して短編が書けるようになってきたので、その点では「今まで積み上げてきたこと」のありがたみを実感しますね。

次回もお楽しみに。


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03. ヘルメスが彼を醸すのは

「どうだねオルリック君、ご満足していただけたかな?」

 

 受話器に向かってオルリックは、概ね快適だが、ただシャワーの出が悪い、と静かに答えた。

 

「そうかね。それは良くないな。ポルスカ国でも一番と評判のブリストル・パデレフスキ・ホテルも実態はそんなものなのかね。しかし料理と酒は最高だろう? あ、君は酒を飲まないのだったか……うんうん、そうだろうとも。野戦病院帰りの身からすれば美味さも格別なはずだ……」

 

 なおも一方的に話し続ける電話の向こうの声は、いつもと同じく奇妙に弾んでいた。

 

 この「女」はいつもそうだ。オルリックはぼんやりと思った。どこか尊大で、芝居がかった口調でいつも話す。何が面白いのか、それとも単に酒でも飲んでいるのか、いつ聞いてもその声には喜色が滲み出ている。

 

「それにしても前線では大活躍だったじゃないか。なんだっけ、共産主義者の秘密兵器を……そうそう、魔力戦車だったな。魔力戦車を三両も立て続けに破壊したじゃないか。小さい頃はチビで泣き虫だったオルリック君が、今や立派な祖国の英雄だ。私としても誇らしい限りだ。素晴らしい酒壺だよ、まったく君は」

 

 オルリックは溜息を吐きつつ答えた。アンタが指し示したとおりに動いただけだ、俺の実力ではない。それにアンタはあの時「絶対に大丈夫だ」と確約したのに、結局俺は負傷して半月も野戦病院にいなければならなくなった。

 

 やることにどこか隙があるな、「神」と自称する割には。

 

 彼なりに精一杯の嫌味を込めて言ったつもりだったが、電話の向こうの存在にはまったく堪えてないようだった。

 

「それでも君は戦果を挙げて、表彰状と勲章をもらったじゃないか。新聞記者共も群がり寄ったじゃないか。ラジオで放送もされたし、看護婦からチヤホヤされたじゃないか。『オルリック将軍は兵卒の苦労を知っている人だ』と称賛されたじゃないか。何より君はちゃんと生きていて、今は一流ホテルで美味い食事と快適な睡眠を楽しみ、そして私と元気に通話している。いったい、神でなければ誰が君にここまでしてやれると思う? 『自称』ではなく、正真正銘の『神』でなければ?」

 

 受話器を首と肩で挟みつつ、タバコに火をつけたオルリックは、軽く一服した後に言った。

 

 なあアンタ。仮に、もし本当にアンタが神であるならば、どうしてただの男である俺に対してそこまでしてくれるんだ。アンタのおかげで、俺は今やポルスカの英雄だ。あの時から始まって今に至るまで、学問もなければ魔力もなく、おまけに信仰心もない、一切の取柄がないこの俺に対してなぜ……

 

 電話の主は答えた。

 

「君が願い、私が叶える。それが私の使命だからだよ。暇つぶし半分の使命さ。あとはそう、私と同じ名前を持っているからかな。メルクルィとは、やはり良い名前じゃないか。まあこれからもよろしく頼むよ、私の大切な酒壺よ。たっぷりと酒を醸しておくれ。ところで……」

 

 その後も長電話は三十分も続いた。終わった時、時刻は十八時半を回っていた。おそらく外は真っ暗になっているに違いない。灯火管制のために厚い木の板で塞がれた窓を一瞥した後、オルリックは食堂へ行くために椅子から立ち上がり、部屋を出ることにした。

 

 ドアを開けた時、包帯で巻かれた脇腹が痛んだ。どうせなら、さっきの電話でこの痛みを除いてくれるように頼むべきだったかもしれない。本当にあの女が神ならば、それも容易いことだろう。

 

 こんな時、そっと寄り添ってくれる人がいれば。少しばかりよろめきつつ、彼は廊下を歩いて行った。

 

 

☆☆☆

 

 

 メルクルィ・オルリックは二十二年ほど前、ちょうど世紀が改まった頃にこの世に生まれたらしい。「らしい」というのは、彼が生まれた正確な年月日が分からないからだ。

 

 彼は捨て子だった。雪がちらつく寒空の下、ヴィエルコポルスカ県の田舎にある孤児院の前に、小さなパン籠に入れられて彼は放置されていた。院長に拾われたのが十一月二十五日で、水星の日だったことからそれにちなんでメルクルィと名付けられた。姓のオルリックは孤児院の創始者からとられた。

 

 凍死せずに拾われたということにすべての幸運を使い果たしてしまったのか、孤児院でのオルリックの生活は悲惨そのものだった。肌が青白く、線が細くて、紫色の唇をした彼は、その外見に違わず生命力が乏しくて、しょっちゅう病気になった。おまけに気が弱くて要領も悪く、他の孤児たちにいつも虐められていて、食事では毎度のようにパンをふんだくられていた。

 

 孤児院の院長は邪悪な人間ではなかったが、あまり善良な人間でもなかった。国からの補助金目当てというだけで孤児院を経営していたわけではないが、しかし孤児たちに充分な教育や躾を与えようとすることもなかった。そんなわけで、オルリックは何も物事を知らないまま大きくなった。

 

 十五歳の時に孤児院を半ば追い出される形で後にした彼は、日雇い労働者として糊口を凌ぎつつその日その日を過ごした。愛することも愛されることもない毎日。孤独そのものだったが、彼はその孤独感すらも言葉に表すことができないのだった。

 

 転機となったのは、戦争だった。オルリックが十六歳の時にエウロパ世界は未曽有の大戦争に突入した。軍隊に入れば空腹や寒さに悩まされることはない。功績を挙げれば昇進だってするし、除隊後は年金も支給される。そんな売り文句にころっと騙された彼はすぐさま入営し、ポルスカ人の一兵士として、ポルスカ人の支配者であるルーシ人たちの指揮下で戦うことになった。

 

 何も知らないオルリックにとって戦争は刺激的だったが、それ以上に生命の危険に満ちていた。貧弱だった体格は初年兵教育の段階で幾分か改善され、それなりに要領というものも学んでいたから、彼は孤児院の時のように仲間たちから虐められるということはなかったが、より大きな問題だったのは敵の存在だった。

 

 敵のニェミェツ人たちは強かった。機関銃と砲兵、魔術兵と火力魔法で武装した敵軍は、ジャガイモでも潰すかのようにルーシ軍とポルスカ人の部隊を手酷く痛めつけた。オルリックの初陣は、彼の所属する中隊のほぼ半数が戦死するという無惨なものとなった。

 

 オルリックは今でもあの時のことを覚えている。中隊長が号笛を吹き、拳銃を振りかざし、「神のために!」と叫ぶ。直後に一斉に塹壕を飛び出し、銃剣をきらめかせて突撃を始める兵士たち。数分も経たずして敵陣から降り注ぐ猛射。バリウム塩が燃焼する緑色の光のシャワー、火力魔法の蒼い火球の大群。彼の隣を走っていた仲間は銃弾を受けて物も言わずばったりと倒れ、前方を走っている下士官は火球の直撃を受けて瞬時に灰になった。

 

 何も感じず、何も考えず、オルリックは遮二無二前進を続けた。やっと巡ってきた幸運か、彼は傷一つ負わなかった。しかし部隊の突撃は完全に破砕されていた。はじめに誰かが退却だと叫んだ。彼もまた退却した。戦場には仲間の半数が死体として残された。

 

 これとまったく同じような戦いが、その後も延々と続いた。オルリックは何度も敵陣に向かって突撃し、退却し、敵軍の突撃を阻止し、白兵戦をくぐり抜け、連日連夜行われる敵の激しい砲撃をやり過ごした。

 

 戦いを経験するにつれて、オルリックは無数の「神」という言葉を聞いた。信心深いポルスカ人たちは戦場においても、「神のために!」とか「おお神よ、お助け下さい」とか「神よ、俺を家に連れて帰ってくれ」などと口々に叫び、喚いていたが、オルリックは神が兵士たちの願いを聞き届けたところを一度も見たことがなかった。

 

 彼が特に仲良くしていた仲間の一人に、「何事も神様の御心のままに、だ」という言葉が口癖の男がいた。男は年配で、故郷に妻と五人の子どもがいた。「神様にお任せすれば、きっと生きて故郷に帰れるさ。それでまた家族を抱いてやれるさ」 男はいつも朗らかな笑顔を浮かべてそう言っていた。

 

 男はある時の突撃の後、行方不明になった。砲弾か魔法の直撃を浴びて飛び散ったのだろうと言われていたが、数日後、敵の陣地を奪取してから男の死の真相が明らかになった。

 

 男は縛り上げられて、全身を切り刻まれていた。死に顔は苦痛と恐怖と絶望で醜く歪んでいた。将校でもない、ただの一兵卒である男がこのように惨たらしく殺されたのは、なんでもない、単に敵が退屈しのぎとうっぷん晴らしをしたかったからだ。

 

「これが神様の御心のままに、の結果なのか」 一人の戦友が泣きながら呟いた。「そんな神なら、出会ったらすぐにぶっ殺してやる」 オルリックは隣で、その呟きを茫然と聞いていた。

 

 そんなこともあって、オルリックは次第に神を信じなくなった。塹壕内での礼拝の時も居眠りをするようになったし、それまで読めもしないのに後生大事に持っていた聖書も捨ててしまった。それどころか、神に祈る仲間を嘲笑うようになったし、新兵が震えながら聖句を口にしているのを見るや、思いっきり殴りつけるまでになった。

 

 神などこの世に存在しない。信じられるものは何もない。ただ運があるだけ。

 

 別段、その考えはオルリックに特有のものというわけではなかった。戦場を支配していたのは塹壕と鉄条網と機関銃と砲兵だけではなく、無神論的価値観もそうだった。オルリックはやや熱心だったというだけだ。

 

 

☆☆☆

 

 

 そんなオルリックが、ひたすら神に祈る瞬間がやってきた。

 

 従軍からおよそ二年後、彼は初めて負傷した。

 

 酷い傷だった。もう何度目になるのか分からない突撃、その準備の最中、彼から少し離れたところで野砲弾が炸裂した。呆れたことにそれは味方が撃った砲弾だった。暴発だったらしいが、そのようなことはよくあることだ。

 

 オルリックは全身に破片を浴びてその場に崩れ落ちた。彼の周りにいた兵士たちはもれなく腕が千切れたり首がもげたりしたのだから、五体満足な分だけ彼は幸運だった。

 

 かすかに息をしていた彼は後方に送られて、野戦病院で手術を受けることになった。

 

 しかし、生き残ったことが幸運とは必ずしも言えない。あの時即死していればまだ良かったかもしれない。オルリックは野戦病院に着いてしばらく経った後、自力で意識を取り戻してしまった。ふと隣を見ると、彼が加わるはずだった突撃をおこなって重傷を負った兵士たちがずらりと並べられている。その一番端には軍医がいて、血染めの白衣を着て脂で汚れた刃物を振るっている。

 

 途切れ途切れの意識の中、オルリックの耳に突然凄まじい、それでいてくぐもった悲鳴が聞こえた。彼が見ると、一人の兵士が汚い木の棒を噛まされ、数人の看護婦に全身を押さえつけられている。軍医によってノコギリで脚を切断されている最中だった。

 

 麻酔などない。医薬品は常に不足していたし、魔術師や回復術師などはさらに少なかった。

 

「祈りなさい!」 年配の看護婦が叫んでいる。「祈りなさい! 祈るのよ! 神に祈りなさい!」

 

 ゴリゴリという骨を削る音と兵士の絶叫。やがて、ボトリという鈍い音が聞こえた。軍医が脚を切断し終えたのだった。「さあ、次だ」 処置を終えた軍医がそう言うと、脚を切断された兵士は荒々しく手術台から除かれ、次の兵士が載せられた。

 

「ダメだな」 兵士を一瞥した軍医は、汗を拭いつつ言った。「これも切る」

 

 そしてまた「手術」が始まる。兵士の絶叫。ゴリゴリという骨を削る音。「祈りなさい!」 看護婦の叫び。「祈りなさい! 祈るのよ! 神に祈りなさい!」 脚が落ちる鈍い音。「さあ、次だ」 軍医の低い声。

 

 だんだんとオルリックの番が近づいてきた。思わず彼は自分の体に目をやった。軍服のところどころから血が流れ、砲弾の小さな破片が無数に食い込んでいる。特に大きな破片が右腕の肘のあたりに突き刺さり、皮膚と肉が裂けて骨が見えていた。力を入れてみても、ピクリとも動かない。

 

 間違いない。軍医がこれを見たら、確実に腕を切り落とされるだろう。

 

 オルリックは恐怖した。前線でどんなに砲弾や火力魔法を浴びせられても怖気づかなかった彼だが、今は全身の激痛を忘れるほどに恐怖に震えていた。

 

 このままでは右腕を切られる!

 

 生きたまま、意識のあるまま右腕を切られる。それはこの世のどんなことよりも恐ろしいことのようにオルリックには思われた。銃で撃たれることも、銃剣で突かれることも、魔法で焼かれることも、この恐怖の前には比べるべくもない。

 

 その時、彼の耳を看護婦の叫びが貫いた。

 

「祈りなさい! 祈りなさい! 祈るのよ! 神に祈りなさい!」

 

 それを聞くやいなや彼は反射的に、自覚するよりも早く祈りを始めていた。神様、助けてくれ! これまでアンタを信じなかったのは謝る! アンタを信じている奴を殴ったり罵ったりしたことも謝る! 助けてくれ! 腕を生きたまま切り落とされるのだけは嫌だ! 助けてくれ、助けてくれ! 俺はオルリック、メルクルィ・オルリックだ! 神様、早く助けてくれ……!

 

 その時、彼はなにやら声を聞いた気がした。女の声のような気がした。

 

「お、なかなか真に迫った祈りをする奴がいるじゃないか。どれどれ……おお、これはなかなか良い酒壺になりそうだな。あの方のせいで、いったいどうしたものかと思案していたところだが、これだけ良いものがすぐに見つかるとは。ふむ、さて……」

 

 声は随分長く聞こえていた気がするし、数秒しか聞こえなかったような気もする。オルリックは、いつの間にか手術台の上に横たえられていた。

 

 軍医が暗く濁った目で彼をさっと眺める。そして、おもむろに口を開いた。

 

「ダメだな」 軍医はノコギリを手に取った。「これも切る」

 

 絶望感がオルリックの精神を満たしたその瞬間、それまで動かなかった右腕が不思議なことにゆらりと動いた。まるで、何者かの見えざる手によって持ち上げられたように、不自然でぎこちない動きではあったが、軍医はそれを見ると僅かに首を傾げ、そして言った。

 

「うむ……動くには動くのか。しかたない。後でくっつけてみよう。おい、次の奴を載せろ。大丈夫だ、コイツはすぐには死なん。ちょっとどかしておけ……」

 

 こうして、オルリックは麻酔なしで右腕を切断されることから逃れたのだった。

 

 

☆☆☆

 

 

 それからもオルリックには幸運が続いた。

 

 まず彼の右腕は後遺症もなく、奇跡的に元通りになった。全身に食い込んだ断片を摘出する手術も成功して、破傷風になることもなかった。

 

 彼はより後方のもっと快適で大きな病院に送られることになった。その病院がある土地は保養地として名高く、気候は温暖、吹く風も穏やかで、柔らかな日光に恵まれていた。このような場所に送られるのはルーシ人の高級将校か魔術兵か、あるいはよほどの戦功を挙げた兵士くらいだったが、なぜかオルリックは単なるポルスカ人の一兵卒でありながらそこへ行けることになった。

 

 病院は明るく、清潔だった。一兵卒にも個室が与えられ、世話をしてくれる看護婦たちはみんな若く元気に溢れており、中にはポルスカ語を話すことができる者もいた。良い食事も相まって、オルリックはみるみるうちに傷を癒し体力を回復していった。

 

 彼は一年近くもそこにいた。

 

 軍医から、早ければ一週間後には退院できると告げられたその日の午後、彼は一階にあるサロンに来ていた。普段は将校たちで満たされているその場所は、その時に限って何故か誰もいなかった。彼は革張りのソファにゆったりと腰掛け、タバコに火をつけた。

 

 深々と一服した後、ふとある物が彼の目に留まった。ソファの前には小奇麗な白い布がかけられた小机があり、その上に電話機が乗っている。高級ホテルにあるような、瀟洒な意匠のその電話機は真鍮部分が磨き抜かれており、午後の日差しを浴びて得も言われぬ存在感を放っていた。

 

 紫煙をくゆらせつつ、オルリックはそれをぼんやりと見つめていた。見つめながらも、考えていることは電話機のことではなかった。彼はさきほど軍医が放った一言を思い出していた。

 

「しかしカルテによれば君は高い確率で死んでいたはずなんだがなぁ。死にはしないまでも、右腕を失ってもおかしくはなかった。これも神の配剤というものかもな。医療に携わっていると、時々神の存在を感じることがあるが、君の場合もそうだ……」

 

 オルリックはタバコを乱雑に揉み消した。バカなことを言う! 彼は苛立っていた。バカなことを! 神などいるわけがない! もし神がいるならば、そもそも俺があんな負傷をするはずがない。いや、この大戦争だって起きるはずがない。仮にいたとしても、この世に人間は数えきれないくらいいる。その中の一人である俺を、どうして神が選ぶんだ? 俺が神によって生かされたなんてことはあり得ない。俺が生き延びたのは、ただの運だ。あの時祈ってしまったのは、決して俺の本心からではない……

 

 突然けたたましい音を立てて、目の前の電話機のベルが鳴った。学問のない頭で懸命に考えに耽っていたオルリックは驚いてひっくり返りそうになったが、気を取り直すと、今度はそれを見つめ始めた。

 

 なおもベルは鳴り続けている。いったいなぜ? 誰を呼び出している?

 

 おずおずと、彼は電話機に手を伸ばした。なぜか取らなければならない気がした。

 

 そっと受話器を耳に当てる。

 

 聞こえてきたのは女の声だった。

 

「もしもし、もしもし。繋がっているかな? やあ、はじめましてメルクルィ・オルリック君。私の大切な酒壺よ」

 

 プツプツというノイズ混じりの音声はなぜか奇妙に陽気な色を帯びていて、オルリックの心臓の鼓動をわけもなく早くさせた。数十秒間の沈黙を挟み、彼はようやく一言だけ口から発することができた。

 

 なぜ? なぜ俺の名を知っている?

 

 ハハハと電話の主は笑った。

 

「そりゃ知ってるさ。あの時、君は私に祈っただろう? あの精肉店の倉庫のような野戦病院で、君は随分と真摯に私に祈ったじゃないか。『助けてくれ、助けてくれ! 俺はオルリック、メルクルィ・オルリックだ! 神様、早く助けてくれ……!』ってな」

 

 理解が追いつかず、彼は沈黙を続けた。表情は強張り、受話器を持つ手は震えている。

 

「うむ? 私の声はちゃんと聞こえているかな? まあ聞こえていることにして話を続けよう。オルリック君、まずは無事のご回復おめでとう。あの時私は君を助けつつも『まあ五分五分かな』などと思っていたよ。いや、君の生命力を見くびっていた、謝る。さすがはメルクルィという名前を持つだけはあるな」

 

 オルリックの反応を求めもせず、なおも電話の向こうの女は話し続ける。

 

「いや、それにしてもあの時は心を打たれたよ。熱心な無神論者が懸命に助けを求めるものだから、つい手を貸してしまった。そう、文字通り私が手を貸したんだよ。君の千切れかけていた右腕だが、あの時ふっと動いたのは私が持ち上げてやったからなんだ。それに、それを軍医が見たとしても果たして『切らない』判断を下すのか定かではなかったからね。だから、ちょっと私が軍医の耳に霊感を吹き込んでやったんだ。『これを切るのは医学の敗北なんじゃないか』ってね」

 

 そこまで話してから、電話の主はふぅと溜息をついた。

 

「で、ちょっと目を離していたら君の手術が成功していた。私はその時直感したね。『コイツはなかなか仕込みがいのある、良い酒壺だぞ』ってね。だから大切に君を扱うことにした。君のような一兵卒では絶対に来れないような保養地に来れるようにしたのは私なんだよ。回復が早まるようにってね。驚いたかね?」

 

 声を聞いているうちに、オルリックの精神はだんだんと平静を取り戻しつつあった。それでも彼は何も答えない。

 

「むぅ、少しは何か話してくれても良いじゃないか。私はいわば君の守護神なのだよ? 感謝しろとは言わないが、少しくらいはお喋りに付き合ってくれても良いじゃないか。これでは独り言を言っているのと大して変わらん」

 

 オルリックは、ようやく口を開いた。ただ一言だけ、お前は誰だ、と言った。

 

「ああ、申し遅れたね。私の名前はヘルメス。君たち人間がとっくの昔に忘れ去ってしまった神様さ」

 

 狂人か。彼が最初に感じたことはそれだった。前に仲間から聞いたことがある。戦争が始まってから頭のおかしくなった奴がたくさん出てくるようになって、特に銃後の女たちにそういうのが多いと。病院に押しかけてきて勝手に兵士の妻を名乗ったり、兵士を家に連れ込んで腐った料理を食べさせたり、半裸で前線を歩き回ったり……

 

 この女もそうだろうか? オルリックが考えを巡らせていると、電話の主が先に言葉を発した。

 

「おっと、オルリック君。どうやら私のことを狂人か何かだと思っているようだね。だが安心したまえ、私は狂ってはいないよ。いや、狂人ほど『自分は狂っていない』と言うそうだが、しかし正常な精神の持ち主だって同じように言うだろう? それによく考えてみたまえ」

 

 女の声は、少しテンポを落とした。まるで小さな子どもによく言って聞かせるかのように。

 

「私が神ではなく狂人だとしたら、なぜ君が負傷した時のことを克明に知っている? なぜ君の祈りの文句を知っている? どうしてあの時君の右腕を動かすことができた? どのようにして君をこの高級保養地に送ってやったんだい? すべて人智を絶しているとは思わないかね? まさに神にしかなし得ないこととは思わないかね?」

 

 説得力がある。そう感じつつも、オルリックはまだ半信半疑だった。

 

「まあ、信じられないのならばそれで良いさ。たぶん、そのうち信じるようになるだろうし、それに私がこうして電話をかけた目的は他にある」

 

 それはなんだ、とオルリックは言った。女はフフフと笑った。

 

「いや、君のことがいたく気に入ったからね。さっきも言ったが、これからも引き続き私は君を助けてあげることにしたんだ。改めてよろしくな、私の大切な酒壺よ。とまあ、それを伝えたかった。ああ、気にしなくて良い。なにも無償の善意というわけではない。君を助けることは私にとって大いに利益のあることなんだ。さて……」

 

 ごほんという咳払いが聞こえた。

 

「電話を切る前に、一つ君に良いことを教えておこう。まあ神様からの予言だと思って聞きたまえ。君はこれから順調にそこを退院して、また戦線に戻ることになる。戦線に戻ったら、君の軍隊はイチかバチかの大攻勢をニェミェツ軍に対して行うことになる。これは結局失敗して、君も死ぬことになっているんだ。モイライの話を盗み聞きしたから間違いないよ。いや、人間の命とは儚いね。でもそれでは私が困るんだ。だからね……」

 

 女は一旦言葉を切って、それから締めくくるように言った。

 

「私がこれから言う忠告に従いたまえ。君は攻勢初日に地雷原に迷い込んで爆死するんだが、しかしそこを突破しさえすれば敵の司令部を直撃することができるんだ。そうすれば君は大手柄、一挙に昇進することだって夢じゃない。私はその時、君の視界に『安全地帯』を示してやろう。それに従って歩けば、君はなんの危険もなく地雷原を踏破できる。良いかね? その時が来たら躊躇することなく私の指し示すところに従うんだよ」

 

 己の死の運命を明かされたせいか、いつの間にかオルリックの喉は渇き切っていた。掠れた声で彼は、そんなことが信じられると思うのか、と答えた。

 

「いやー、信じると思うよ。今は信じられなくとも、その時がきたらきっと信じるね。だって、私の指示を信じる以外に助かる道はないんだからさ。じゃあ、これで私の用件はおしまいだ。残り少ない休養を存分に楽しんでくれたまえ。君には期待しているよ、私の可愛い酒壺よ」

 

 その酒壺っていうのは一体なんなんだ、とオルリックは相手が電話を切る前に問いかけた。

 

「ああ、すまないね。私にとって、君はいわば酒壺なんだよ。ディオニュソスは葡萄酒を醸すが、私はこれから人間を醸そうと思っているんだ。ではまた」

 

 電話はプツリと音を立てて切れた。オルリックは受話器を手にしたまま、ぼんやりとこれまでの会話の内容を反芻していた。

 

 本当に、さっきの電話は現実のことだったのだろうか? 

 

 ふと彼が目をあげると、そこに看護婦が立っていた。彼女は丁寧なポルスカ語で話しかけてきた。

 

「まあ、オルリックさん。どうしたんですか、電話なんて手にして。どこかにかけようとしてもダメですよ。それ、電話線が繋がってませんからね。造りが良いので、飾り物としてそこに置いてあるんです……」

 

 一週間後オルリックは無事に退院し、また最前線へと向かった。結局のところ、軍隊以外に彼の拠り所はどこにもないのだった。

 

 

☆☆☆

 

 

 謎の女の予言は、現実のものとなった。

 

 オルリックが戦線に戻ると、そこらじゅうで大攻勢の噂が囁かれていた。後方の基地に集積される大量の物資を見ても、その確度はかなり高いものであると思われた。

 

 帰って来るや下士官に任じられたオルリックは、新たに持つことになった部下の兵士たちの面倒を見つつ、その日がやってくるのをじりじりと待っていた。

 

 本当にあの予言の通りになるのだろうか? だとしたら、ヘルメスとかいうアイツは本当に神なのだろうか? いや、まだ分からない。俺が地雷原に迷い込んだ時に、それが初めて分かるはずだ……

 

 戦争は四年目に差し掛かろうとしていた。大量の人命を失い、経済が停滞し、食料と生活物資が欠乏する中で、支配者ルーシ人たちの間で革命の機運が高まっていた。皇帝は悪化を続ける状況を一挙に打開するために、ついに大攻勢を発起した。

 

 そして、二週間に及んだ作戦が終了した。ルーシの軍勢は最初こそニェミェツ軍の前線を食い破り、そのまま後方へと浸透する勢いを見せたが、予備兵力の枯渇から作戦目的を達成することができず、最終的には敵の逆襲を受けて総崩れとなった。

 

 オルリックは生きていた。相変わらず五体満足で、今は連隊司令部の外でタバコを吸っていた。

 

 一服を終えた彼は、司令部の周りを散歩することにした。相次ぐ激戦で完全に廃村となった村に兵士以外の人影はなく、家々は例外なく崩れ落ちていた。

 

 彼は何の気もなくある民家に立ち入った。この家にはまだ屋根が残っており、大きな居間もあった。

 

 何か面白いものでもあるかもしれない。オルリックが居間に入ったその時突然、大きな音が彼の耳朶を打った。連続的に鳴り響くその音は、間違いなく電話機のベルだった。見ると、居間の中央に朽ちかけたテーブルがあり、その上に埃を被った、古ぼけた電話機が載っている。

 

 ある予感に衝き動かされて、オルリックは受話器を手に取った。案の定、聞こえてきたのはあの女の声だった。

 

「やあメルクルィ・オルリック君。私の大切な酒壺よ。壮健かな? 壮健だろうね。君は私の予言に従ってくれたんだからね」

 

 アンタか。オルリックは言った。今度は何の用だ。

 

「おおっと。お礼の一つでも言ってくれるものと思っていたが、少し冷たい反応だね。まあ別に良いか。どうだね、あの時の私の指示は的確だったかね?」

 

 数瞬の沈黙を挟んだ後、実に役に立った、とオルリックは短く答えた。

 

 女の予言のとおり、攻勢初日に彼は地雷原に踏み込んでしまった。彼の前を進む兵士の足元が突然爆発して土埃を上げ、次の瞬間には兵士は両脚を失って泣き叫んでいた。それを見た兵士たちは口々に「地雷原だ!」と叫び、ある者は退却しようとしたが、その者もまた地雷を踏んで脚を失った。彼らはいつの間にか地雷原の中央部へ入り込んでいたのだった。

 

 このままでは全滅だ。敵も気付いて砲撃してくるかもしれない。すぐにでも動かなければならないが、動けば十中八九地雷を踏むことになる。

 

 オルリックが絶望と焦燥に駆られたその時、彼の視界に突如として白く光り輝く帯が映し出された。帯はくねくねと曲がりくねっているが、どこまでも先へ途切れることなく続いており、なぜか安心感すらも与えてくれた。

 

 これがあの女の言う「指示」なのか? しかし疑っている時間はない。彼は意を決して、白い帯の中を走り始めた。俺に続け! 俺の後ろにぴったりついてこい!と叫んで……

 

 それからはやられる者もなく、オルリックと彼の仲間は半時間後には地雷原を突破していた。しばらく進むと敵の師団司令部があった。彼らは短時間の戦闘の後、敵の司令部要員を全員捕虜にした。その中には師団参謀長もいた。捕らえられた敵の高級将校たちは皆、茫然としていた。野蛮なポルスカ人如きに捕虜になるとは、とても信じられないようだった。

 

 それはまごうことなき大戦果だった。オルリックが今日司令部に呼ばれたのも、その時の功績を認められて叙勲されることになったからだった。

 

 彼がピカピカと輝く勲章を撫でながらあの時の事を思い出していると、受話器の向こうから満足げな声が聞こえてきた。

 

「うんうん、そうだろうとも。これでも人間を導くのには実績があるのだよ。君たちのご先祖を私は幾度となく助けて来たし、数々の有益な教えと導きを与えてきた。失敗するわけがない。どうだい、勲章の重みは? いや、おめでとう、おめでとう! これまでの苦労が少しは報われただろう? いや、それだけじゃない。これまで空っぽだった君という酒壺の中に、ちょびっとかもしれないが、貴重で飲みごたえのある酒が今初めて溜められたわけだ。どうだい、嬉しいだろう?」

 

 まあな、とオルリックは答えた。少しはアンタのことを信じても良いかと思う、ただ、神とは思えないが。そう彼が続けると、電話の主はハハハと笑った。

 

「まだ私が神であることを信じ切れていないのか。まあ無理もないか。両親も知らず、愛も知らず、孤児院で泣いて暮らして、ようやくこれから人生を自分で切り拓いていくという時に戦争勃発でつらい軍隊生活。そんな生い立ちでは神を、いや人ですら信じることはできないか。だが、これからはもっと私を信じるようになるよ。話を聞きたいかね?」

 

 知らず知らず、オルリックはごくりと唾を飲んでいた。この女は、また何かの予言を俺に伝えようとしているのか。

 

 彼が肯定の声を発すると、受話器からは喜色に溢れた声が響いた。

 

「よろしい、よろしい。なかなか素直になってきたな。ではこれからのことを教えてあげよう。そう、良いニュースと悪いニュースがあるんだ。悪いニュースというのは、君は今日、でっかい勲章をもらって晴れ晴れとした気分なのだろうが、しかしその勲章は三十八日後には無価値となる。というのは、君たちを支配しているルーシ人たちだが、彼らの国家が崩壊するからだ。革命によってね。で、良いニュースは、君たちポルスカ人がついに独立する。共和国としてね。めでたいことだよ! 百三十年の長きに渡る隷従と屈辱から解放されるんだ」

 

 オルリックはあまり驚かなかった。彼としてもそれを予想していたからだった。彼は静かに続きを聞いた。

 

「政府首班はクレメンス・ピウスツキ。今はヘルヴェチアで硬くて臭いパンを食べている。彼が軍隊を指揮して、ルーシ人とニェミェツ人をポルスカの大地から追い出すための独立戦争を始めるんだ。実に感動的だね。で、ここからが重要だ。よく聞きたまえ」

 

 女は声のトーンを幾分か落とした。

 

「いいかね? 君にはこれから進むべき道が二つある。一つは安直な道で、もう一つは険しい道だ。だが安直な道の先には何もなく、険しい道の先には輝かしい成果と未来が待っている。そう、あたかも『岐路に立つヘラクレス』だ。凡人として死ぬか、英雄として死ぬか。安直な道には綺麗な女の子たちが立っていて君を誘っているが、険しい道には厳めしい顔をした老人が黙って立っている。どっちにするかね?」

 

 オルリックは苛だたしそうに頭を振り、もっと分かりやすく、具体的なことを言ってくれと言った。

 

「ああ、すまない。多弁になるのは私の悪い癖なんだ。なにしろ『雄弁』も司っているからね。ふむ、そうだな。言い換えれば、君は戦争が終わったらどうするのかということなのさ。除隊するのか、それとも戦い続けるのか。またあの実りない日雇い労働に戻るのか、それとも新生ポルスカ共和国軍に参加して栄達を望むのか。どうするかね?」

 

 オルリックは、少しばかり逡巡した。だがすぐに、俺の居場所は軍隊にしかない、と答えた。

 

 電話の主はあからさまに喜んだ。

 

「よしよし! それでこそ私の大切な酒壺だ! 実を言うとね、ここで君が除隊すると言おうものなら即座に電話を切って、永久に君とは関わらないようにしようと思っていたのさ。これでは見込みなし!ってね。ピウスツキの新しい軍隊に参加するなら君は戦果を挙げ続けてぐんぐん昇進するし、まだまだ空っぽの君という酒壺の中には酒がたっぷり注がれることにもなる。それは私にとって非常によろしいし、あの方もきっと喜ぶ……おっと喋りすぎた」

 

 わざとらしい咳払いが二回聞こえた。女は何事もなかったように話を続けた。

 

「さて、これから君がどうすべきかを教えよう。いいかね、まず君はピウスツキに真っ先に会う必要がある。彼に早々に助力を申し出ることで、手っ取り早く信頼を得るという寸法さ……」

 

 電話はそれからも一時間ほど続いた。

 

 不思議なことにその間、誰もオルリックを見咎めるものはなかった。

 

 

☆☆☆

 

 

 それからのオルリックは、急速に英雄としての道を駆け上り始めた。

 

 ルーシの国家が崩壊し、大混乱の中で誰もが右往左往する中、彼はまるで「何かに導かれたように」ピウスツキのもとに駆け付け、創生間もないポルスカ人の新しい軍隊に幹部として加わった。

 

 跋扈する敵軍を追い払うための戦いは常に激しく、時には敗走し、時には滅亡寸前にまで追い込まれたが、それでも最後は勝利を得た。

 

 そのうち、ルーシだけではなくニェミェツ人の国でも革命が勃発し、人類始まって以来の大惨事となったエウロパの大戦争はなし崩し的に終結した。

 

 独立戦争終結時、オルリックは共和国軍の中将となっていた。元は孤児院出身で、文字も読めず、単なる一兵卒でしかなかった男としては驚異的なことだった。のみならず、彼は国家元首となったピウスツキとも個人的なつながりを有していた。それも、とても深いつながりを。

 

 独立戦争の最中、オルリックはピウスツキの帷幕にあって、天才的な発想をもって数々の戦略を打ち出した。まるで未来を見通しているかのような洞察力だった。はじめ懐疑的だった周囲の人間は、彼の提唱した作戦で大勝利を収めるや次第にほだされ、さらには深く信頼するようになっていった。

 

 独立後も戦いは終わらなかった。国家主権は打ち立てたものの、多くの領土はいまだにルーシ人の支配下にあった。革命後に共産主義者たちによるソビエト政権が樹立されたルーシは、再三に渡るポルスカ側の「領土回復要求」を黙殺した。ほどなくして、ピウスツキは開戦を決意した。

 

 二十二歳になっていたオルリックは、このポルスカ・ソビエト戦争でも活躍を続けた。その予言者のごとき先見性は些かも衰えていなかった。常に最前線に立ち、ある時は手ずから機関銃を撃ちまくり、ある時には騎馬にまたがって敵陣に無謀とも言える突撃を敢行した。

 

 ソビエト軍が新兵器である魔力戦車を初めて投入してきた時も、オルリックは一歩も退かなかった。まるで「なにをどうすれば敵の戦車を破壊できるのか」を予め知っていたかのように、彼は部下たちが制止するのも聞かずに自ら爆弾を抱えて走り、重傷を負いながらも短時間で三両の敵戦車を破壊した。

 

 戦いの後、オルリックは高級将校用の病院ではなく、簡素な野戦病院に収容された。「兵たちと同じ苦労を分かち合いたい」 そう主張するオルリックは、かねてから広くポルスカ人たちに称揚されていたその英雄性をさらに高めた。その後、ピウスツキの鶴の一声でヴァルシヴァにある最高級ホテル、ブリストル・パデレフスキ・ホテルで療養することになったが、それをとやかく言う者はもはやどこにもいなかった。

 

 一方で、戦局は重大な局面を迎えていた。オルリックが療養のため軍隊から一時的に離れている間に、参謀本部は拙劣な作戦指導を重ねて相次ぐ敗北を喫し、逆にソビエト軍に首都近郊にまで攻め込まれていた。敵軍はヴィスワ川を挟んで続々と戦力を集結させ、決定的な大攻勢の準備を着々と整えているようだった。

 

 決戦は、間近に迫っていた。

 

 

☆☆☆

 

 

 前線に戻る一週間前、オルリックは結婚した。

 

 相手は旧ポルスカ貴族の血を受け継ぐ、クリスティナ・コニェツポルスキ。二十歳で、美しく、教養と気品に溢れ、なにより激しい情熱を持つ女性だった。

 

 オルリックがホテルで療養をしている最中、クリスティナは見舞いと称して押し掛けてきて、彼女の方から熱烈に求婚した。エウロパ世界の伝統的な価値観とは真逆の行為だった。対するオルリックは、ちょっと待ってほしいと一言告げて居室に戻ると、半時間ほどしてから出てきて、今度は彼の方から交際を要求した。

 

 交際期間は僅か一ヶ月だった。それでも二人にとっては充分だった。戦時中であることを考慮して結婚式はごく簡素なものとなったが、国民的英雄と国内随一の美人との結婚に共和国は沸き立った。国民にとって二人の結婚は、これからのポルスカの明るい未来を象徴しているかのように感じられた。

 

 結婚式が終わった後、オルリックは新しい妻も連れず、「少しだけ一人にして欲しい」と部屋に閉じこもった。彼のこうした習癖は独立戦争時代から有名で、クリスティナは一言も文句は言わなかった。

 

 オルリックが部屋に入ると、中央のテーブルに置かれた電話機のベルが激しく鳴り響いた。

 

 彼は慣れた手つきで受話器を取った。その途端に彼の鼓膜は、受話器から響く大きな声に刺激された。

 

「やあ、メルクルィ・オルリック君。私の大切な酒壺よ。素晴らしい結婚式だったね。おめでとう! 私の助力があってのこととは言え、素晴らしい伴侶を得ることができたのは間違いなく君独自の力によるものだよ」

 

 ありがとう、本当に世話になった、とオルリックは感謝の念を伝えた。それを聞いて、電話の主は少なからず驚いたようだった。

 

「おや、珍しい! 君が素直に私にお礼を言うだなんて。いったいどういう風の吹きまわしかな?」

 

 オルリックは言った。

 

 クリスティナが押し掛けて来た時、こんな俺が結婚などしても良いのかと迷っていたのを、アンタは電話で後押ししてくれた。そのおかげで、俺は本当の幸福を知ることができた。クリスティナはとても良い女性だ。俺の生い立ちを一切気にしないで、俺のありのままの姿を見つめてくれる……

 

 彼は言葉を続けた。

 

 こんな人は初めてなんだ。これまで俺はアンタの指示に従って戦場を駆けずり回り、数え切れないくらいの功績を立ててきた。周りの連中も、いやポルスカの国民たちも、そんな俺を英雄として崇めた。それは確かに心地良かったが、一方で俺は言いようのない寂しさを覚えていた。実際のところ、誰も本当の俺を知らないんだと。誰もが俺を英雄扱いするが、本当の俺の姿を知ろうとはしないのだと……

 

 タバコに火をつけようとして、オルリックはそれを止めた。そしてなおも受話器に向かって語り続けた。

 

 クリスティナは、俺の弱さを知っている。彼女は付き合い始めてすぐに、直感的に俺の本当の姿を知ったんだ。本当は英雄と呼ばれるに値しない俺の姿を。それでも彼女は俺を愛し続けてくれた。何の見返りもなく、俺を愛してくれたんだ。俺は初めて人を愛することと、人から愛されることを知った……俺は今、生まれて初めて幸福だと感じている。

 

 いつもは頼まれもしないのに喋り続けるのに、今回に限って静かにオルリックの語るところを聞いていた受話器の向こう側の存在は、ここでようやく口を挟んだ。

 

「ほうほう……ついにオルリック君も立派な大人になったわけだな。うん、素晴らしい! 愛というものについて知った君という酒壺には、今や溢れんばかりに美酒が溜め込まれている! 人間を醸造する者として、これほど嬉しいことはないね。ディオニュソスにも胸を張って自慢できるだろう。だが……」

 

 どうした? とオルリックは問うた。何か問題があるのか? 何でも言ってくれ。これまではアンタに世話になってばかりだった。俺ができることなら何でもする。

 

 電話の主はやや早口で答えた。

 

「君は知ってるかね? いや、酒を飲まない君は知らないか。酒が美味いかどうかを決めるのは、味や酒精の強さというよりも、むしろ香りなんだ。口に含んだ時、あるいは喉を通り抜ける時、鼻腔をふっとくすぐる香りこそが、最終的に美酒であるか否かを決定する。それで、だ。人生の幸福を知った君はまさに酒が満々と注がれた酒壺になったわけだが、哀しいかな、肝心かなめの香りがまだついていないのだよ。これでは未完成品も良いところだ。さっき胸を張ってディオニュソスに自慢できると言ったが、とてもとても……」

 

 彼は言った。では、どうすればその香りがつく?

 

 その問いに女は溜息をついた。

 

「いやぁ、君は絶対に聞いてくれないと思うよ。これまでのことを鑑みても」

 

 もったいぶらないで早く言ってくれ。オルリックは急かした。俺はこれまで何でもお前の言うことを聞いてきた。いまさら聞かないことなんてあるものか。

 

「じゃあ言うがね。人間の持つ様々な美徳の中で最も高貴なものは、何を隠そう『敬神の念』なのさ。それがなければ、どんなに幸福を感じていても魂は薄汚れたまま。神を敬う心があって、初めて魂という名の美酒はバラの花の如きかぐわしさを得ることができる……」

 

 言葉が一旦途切れ、しばらく沈黙がその場を支配した。ややあって、女は言った。

 

「つまりだね、君が私のことを神だと認めてくれれば良いのだが……まあ、無理かな。これまで何度も私は自分が神であることを君に言ってきたが、君は頑なに信じようとしなかったし……」

 

 なんだ、そんなことか。オルリックは笑って言った。ヘルメスよ、アンタは俺の神様だよ。何度だって言ってやる。ヘルメスは、俺の大切な神様だってな。

 

 それを聞いて、電話の主、ヘルメスも笑った。

 

「なんだ、随分あっさりと認めてくれたな! ハハハ、これは良いぞ! ああ、やっと酒が完成した……感慨無量とはこのことかな、ハハハ! ハハハ!」

 

 ひとしきり笑った後、ヘルメスは言った。

 

「ああ、そうだ。これから最後の指示を君に与えよう。ヴィスワ川の向こうのソビエト軍だが、二週間後に大攻勢を仕掛けてくる。だが安心したまえ。これまで通り私の言うことに従えば大勝利は間違いなしだ。良いかね……」

 

 なんでも言うとおりにしますよ。オルリックは言った。すべては御心のままに、私の神様よ……

 

 

☆☆☆

 

 

 どこまでも清潔だが限りなく生活感のない白い部屋に、デスクが一つと椅子が一脚ある。デスクの上には古ぼけた電話機、椅子の上には誰かの影。

 

 ヘルメスがそこにいた。

 

 彼女は二つの新聞を手にしていた。一つはポルスカ語で書かれており、大見出しには次のような文言が踊っていた。

 

『共和国軍、ヴィスワ川にて歴史的大勝! ソビエト軍、脆くも潰走す!』

 

 その下には、大見出しに劣らぬくらい大きな文字で次のように記載されていた。

 

『国民的英雄、メルクルィ・オルリック中将戦死す』

 

 ヘルメスはその新聞を一瞥してからデスクの上へ放り投げ、次にもう一つの新聞のほうへ目をやった。それはルーシ人の言葉で書かれていて、一面の上部にはソビエト政権の象徴である鎌とハンマーのシンボルが印刷されている。

 

 見出しにはこうあった。

 

『赤軍の輝かしき英雄、全ソビエト女性の模範、スヴェトラーナ・セルゲーヴナ・アリルーエヴァ、ブルジョワ軍指揮官オルリックを射殺せり!』

 

 ヘルメスが記事に目を走らせていると、デスクの上の電話が鳴り響いた。彼女は受話器を無造作に取り上げ、耳にあてた。

 

「もしもし? あ、これはこれはゼウスの姫神様。えっ? なんでまだ女の声をしているのかですって? 嫌だなぁ、私に『良いと言われるまで女として生活する』という罰ゲームを課したのは他ならぬ貴女で、しかも貴女がまだ『良い』と言ってないからでしょうが……ところで、新聞をご覧になられましたか?」

 

 しばらく受話器の向こうの存在が話すのを、ヘルメスはふんふんと頷きつつ聞いていた。そして、笑いながら言った。

 

「いや、けっこう冷や冷やしましたよ。最後の最後になってオルリック君が私を呪うんじゃないかって心配で。そしたら香りが台無しになりますからね。幸い、彼は最期まで私を信じたままでした。さぞかし素晴らしい味と香りがしたでしょう、彼の酒は。えっ、なんですって? 『詐欺師の神』の面目躍如? ハハハ、そうかもしれませんね……いやはや、貴女の秘蔵っ子のスヴェトラーナも、オルリックを殺して……いや、オルリックという至高の美酒を飲んだことで素晴らしい英雄となりましたね。そう、英雄というのは勝利の美酒を飲んでこそ、です。これからが楽しみですね」

 

 受話器と本体を結ぶコードを指先で弄びつつ、ヘルメスは話し続ける。

 

「最初に貴女が『女の子の英雄をプロデュースする』なんて言い始めた時は、まったくなんてバカな暇つぶしを考えたものだなんて思いましたけど、やってみるとけっこう楽しかったですね。私などは、貴女のスヴェトラーナが英雄として完成するための『酒』を醸すだけの端役でしたが、初めての試みにしてはけっこう上手くいきましたし。人間を育てるというのが新しい趣味になりそうです……」

 

 ヘルメスはフフフと低く笑った。

 

「なんで笑ったのかですって? いえ、ゼウスの姫神たる貴女が結果的に共産主義者という無神論者共に手を貸したのがおかしくてですね。それも含めて今回の暇つぶしは楽しかったですよ。それに、貴女に是非教えてあげたいんですよ。神を信じぬ者が神を信じるようになるという、あの劇的な変化の面白さをね。ちゃんとノートに記録してあるのですが……何? 見たい? それじゃ今からそちらへ行きましょうか……」

 

 通話が終わり、受話器を戻すと、ヘルメスはデスクの引き出しを開けて一冊の大判のノートを取り出した。

 

 表紙に書かれた「メルクルィ・オルリック」という文字をそっと撫でて、ヘルメスはポツリと呟いた。

 

「……あるいは、彼は最初から神を信じていたのかもしれないな」

 

 灯りを消すと、足早にヘルメスは部屋を去っていった。




※以下、作品メモとなりますので、興味のない方はここで読むのを終えられるか、もしくはお手数ですが後書きを非表示に設定してください。

らいん・とほたー「ヘルメスが彼を醸すのは」作品メモ

2020年3月8日公開。

通算十九本目となるオリジナル短編。エブリスタ主催の「次に読みたいファンタジーコンテスト『神様』」に応募した作品です。

大まかなストーリーラインは考えていたのですが、締切二日前になっても書き始めることができず「今回は見送ろうかな」とまで考えていましたが、「字数は5000字以上」というのを見て、「それならとりあえず5000字程度書いてみて、それから取りやめるか否かを考えても良いだろう」と思い直しました。

PCの前に座って書き始めるとだんだんと熱中することができ、夜中の23時から始めて翌朝の10時前には書き終えることができました。やはり何事も「とりあえず」の気持ちで始めるのが重要ですね。

お題が「神様」ということだったので神側を主人公としても良かったのですが、しかし私の個人的な観念としては「神は超越的で、不気味で、気まぐれなもの」というものがあり、そういう観念を表現するには主人公としてよりも、人間の主人公が対する存在として書く方がやりやすいのではないかと思いました。

ギリシア神話モチーフで書きましたが、勉強不足を実感しています。もっと書きつつ、そして学んでいきたいですね。

次回もお楽しみに。


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04. さよならは翼ある言葉

 ある日、唐突に世界が滅んだ。天が裂けて、赤い体液が迸った。地は溶け、海は涸れ果てた。鳥も獣も魚も、花も草も木々も消えた。

 人間もまた、数え切れないほどのさよならをお互いに告げて、従容(しょうよう)として滅びの道を歩いて行った。


 ふらふらと一つの影が道を行く。よくよく見れば、どうやらその影は二つが重なって一つになったもののようだ。一つは背負われ、一つは背負っている。その足取りは覚束ないが、意志の弱さは感じられない。

 

 背負っている影の方である(ゆう)は、額に流れる汗を軽く拭った。端整な顔立ちに透き通った瞳、短い黒髪。少年のあどけなさと青年の溌溂さが奇跡的に並存する、そんな年頃の誘。

 

 目の前には丁寧に刈り込まれた芝生が広がっている。かつて誰かが毎日丹念に手入れをしていたのであろう、青々とした努力と習慣の結晶だった。

 

 誘は背負っている少女に、優しく労るような、穏やかな声で話しかけた。

 

「ほら、着いたよ那美(なみ)

 

 返事はない。眠っているのだ。可哀想に、とても疲れているのだろう、と誘は思った。彼自身の肉体も遥かに疲労の限界を超えていた。那美を背負っていなければ、とうの昔に旅は終焉を迎えていただろう。背負っていたからこそ、ここまでやって来ることができた。

 

 ここまで、とても長く険しい道のりだった。はやく那美を横にして休ませてあげたいと、誘は草地に膝をついた。そして背中の少女をゆっくりと、あたかも繊細なガラス細工を丁寧に扱うような慎重さで、そっと芝生に下ろした。

 

「那美……」

 

 仰向けになった那美を、誘はその琥珀色の瞳で見つめた。那美は目を閉じ、辛そうに荒い呼吸をしている。その寝顔には深刻な疲労感が滲んでいるが、しかしただ口元だけはどこか幸せそうに緩んでいた。

 

 那美は美しかった。これまでこの世に存在したどんな女性よりも美しかった。少なくとも純真な誘は、そう確信していた。

 

 白磁のような肌、翡翠の瞳、腰の下まで届く金髪。華奢な手足と細い首、薄い胸。頭に光の輪と、背中に一対の翼。まるで天使のような、黄金と白銀にきらきらと輝く輪と翼。

 

 いや、「まるで」ではない。事実、那美は天使なのだ。

 

 傍らに腰を下ろして、誘は右手を伸ばし彼女の汗ばんだ額をゆっくり撫でた。疲労のためかそれとも他の理由によるのか、手は不随意に震えた。

 

「天使か……確かに、那美は生まれた時から天使だったのかもね」

 

 蜜柑色の光が天から垂直に降り注いでくる。時折、凍てつくほど寒い風がどこからともなく吹いてくる。

 

 突然、背後で音がした。乱雑に建物が崩れるような、それでいて音曲のような秩序正しさを感じさせる、相矛盾する響きを持った破壊音。驚いて振り返った誘だったが、すぐに安心した。

 

「なんだ、道がなくなったのか……」

 

 いつものことだ。そして、これで最後だろう。

 

 誘は周囲を見渡した。彼ら二人が今いるこの場所は、あたかも浮島のように暗黒の空間に頼りなげに漂っていた。周囲十五メートル四方のとても小さな浮島。遠くに赤と黄色に明滅する妖星の群が見える。紫の電光を放つクロームシルバーの積乱雲も、此方彼方にスクリーンのように垂れ込めている。

 

 まったく本当にこの浮島だけが、この世に残された最後の場所になってしまった。そう、ここは、文字通り世界の果てになってしまった。

 

 ぼんやりと周囲に視線を泳がせていた誘は、ふと右手に冷たく柔らかい感触を覚えた。視線を戻すと、那美が両手で彼の手を優しく包み込んでいた。

 

 彼女の潤んだ翡翠の瞳が見つめてくる。口を開いたのは、ほぼ二人同時だった。

 

「おはよう、那美」

「おはよう、誘くん」

 

 にっこりと、二人は微笑みあった。そしてにっこりとしたまま、沈黙を保った。

 

 その沈黙は幸福に満ちていた。朝のまどろみ、生クリームたっぷりのケーキの甘さ、ピアノが静かに奏でる夜想曲の心地良さ。今では滅び去ってしまったそれらを、魔法のパテで塗り込めて一緒くたにしたような、欲張りな多幸感。

 

 ややあって、誘がその言葉を用いない幸せな会話を打ち切った。

 

「那美。ついさっき、ここまでの道が崩れ落ちたよ。この浮島が最後の地になっちゃった」

 

 那美が、衰弱して蒼白になった顔に微笑を浮かべた。一語を発するのですら大儀そうだ。

 

「そう……それなら私達にも、さよならの時がやってきたのね……」

 

 誘は、わざと怒ったような顔をした。

 

「今更、那美とお別れする気なんてないよ」

 

 那美は、嬉しそうな表情を浮かべている。

 

「ふふ、ありがと、誘くん。ねぇ……」

 

 彼女は起き上がった。そして、内気な幼な子が遠慮がちに親に甘えるように彼女は言った。

 

「ねぇ、誘くん。私を抱っこして。とっても寒いの……」

 

 誘は言われるままに那美の細い体を抱き寄せた。両腕を彼女の背中に回して、あたかも精緻な氷の彫刻を溶かしてしまうのを恐れるかのように、那美を優しく抱き締めた。

 

 那美も誘を抱き締め返した。その腕にはもはや幼児ほどの力もなかった。誘はそれが無性に悲しかった。

 

「そうだ。誘くん、こうしてあげるね」

 

 ふわりと背中の白い翼を広げる那美。翼は器用に折り畳まれて、優しく誘を包み込んだ。

 

「あったかいね、那美。君の体も、君の翼も」

「誘くん、誘くんは熱いね。誘くんの心臓の鼓動も、血の奔流も、今なら全部分かるわ」

 

 無言で抱き合う二人。いずれこの浮島もきっと崩壊する。その時は遠くない。

 

 かまうものか。誘はそう思った。このまま二人一緒にいられるのならば、滅んでしまっても構わない。このまま浮島が砕け散って、赫灼(かくしゃく)としたエネルギーが渦巻く暗黒の空間へと放り出されても、もう那美のことは絶対に手離さない。

 

 さよならなんて、誰が言うものか。

 

 

☆☆☆

 

 

 誘が初めて那美を意識したのは、幼稚園の年中組の時だ。たった一人、お部屋の片隅で黙々と積み木を積み上げて遊んでいた誘のところへ、突然那美は元気一杯駆けてきて、タックルのようにして彼に飛びついた。

 

「ゆうくん、ゆうくん! あたし、ゆうくんのおよめさんになる! いまきめた!」

「うん、うん。ありがとう。でも、きみはだあれ?」

 

 いつかの日、自分の母と那美の母とがお喋りをしていたのを彼はよく覚えている。

 

「那美ったら、毎日帰って来たら誘くんのお話ばかりするんです。とっても誘くんのことが好きみたいで……惚れっぽいのは父親似だと思うんですけど……」

「うちの子は恥ずかしがり屋で、ちょっと大人しすぎるかなと思ってたくらいですから、那美ちゃんのような可愛い子がお友達になって下さって本当に良かったですわ……」

 

 砂場で遊ぶのも、ボールで遊ぶのも、お絵かきをするのも、お弁当を食べるのも、お昼寝をするのも、二人は一緒だった。

 

 誘と那美が初めて喧嘩をしたのは、小学校に入学した年だっただろうか。その日、日直だった二人は一緒に黒板を消していた。初めは仲良く仕事をしていたが、那美の消し方が気に入らなかった誘が、もう一回丁寧に黒板を拭き直した時に事件は起こった。

 

 那美は顔を真っ赤にし、ポロポロと涙を溢して泣きながら怒った。かつて誘が見たことのないほどの怒りだった。

 

「ゆうくんのバカ! ゆうくんのいじわる!」

「那美の消し方が良くないだけだよ。別にいじわるしたわけじゃないよ」

 

 ポカポカと一方的に那美から叩かれる誘。彼は表面に加えられる痛みを、体の内側でより強く感じた。言い合いの末、得体の知れない痛みに負けた誘が折れて謝った。それから何度も喧嘩をしたが、これが先例となったのか、最後に謝ることになるのはいつも誘のほうだった。

 

 お互いにお互いの新しい側面を見出しあったのは、二人が中学校の時だっただろうか。その中学校では必ず何らかの部活動に所属しないといけなくて、二人は入部届を同時に見せ合おうと言った。

 

「せーのっ! あれっ!? 誘くん、茶道部!? なんで!?」

「……あれ? 那美、那美は水泳部? 泳ぎができないのに?」

「だ、だって、誘くん泳ぐの上手だから、私も一緒に泳げたらって思って……それに誘くんだってきっと水泳部だと思ったから……」

「僕は那美がおばさんみたいにお茶道をするのかと思ったんだよ」

「誘くん、お茶道なんて退屈だよ! 私と一緒に水泳部に入ろうよ!」

「うーん、でもお茶には興味あるしなぁ……」

 

 結局、二人は部活を掛け持ちすることにした。学校ではそれが許されていた。

 

 二人が初めてデートをしたのは、那美が十七歳の誕生日を迎えた、あの夏だった。夜なお蝉しぐれ激しい、あのじっとりと暑い季節に、二人は神社の夏祭りに行ったのだ。

 

 いつも男勝りで、服装も態度も言葉遣いも些かおしとやかさに欠ける那美が、その晩ばかりは違って見えた。

 

 彼女は上等な萌黄色の浴衣を着て、薄化粧をしていた。誘はその姿を見て、今までにない胸の高まりを感じた。僕も浴衣を着て来れば良かったかな? 胸のざわめきを誤魔化すためにそんなとりとめのないことを思う。

 

 恥じらうように那美が、伏し目がちにそっと誘に尋ねる。

 

「どう……? 似合ってるかな、誘くん?」

 

 彼は、一言だけしか返せなかった。

 

「うん、とっても」

 

 那美は安堵の表情を浮かべた。胸に手を押さえている。

 

「良かったぁ……じゃあ、行きましょ?」

 

 手を繋いで、足取りも軽く、二人は夏祭りを思うままに楽しんだ。屋台の食べ物を頬張ったり、金魚掬いをしたり、クジを引いたり……

 

 しかし誘はどうしても、今日ばかりはと心に決めておいたあの行動に、踏み切る勇気が持てなかった。

 

 祭りの最後を彩って夜空へ打ち上がる花火を背景に、二人は何を話すでもなく、ただ木立の中で見つめ合っていた。

 

 パーンッと遠くから響いてくる破裂音。夜の蝉の声。ひそやかな虫の声。蔓草のように絡み合う二人の視線。今までにないほどの真剣な面持ちで、誘は那美を見つめていた。花火の音を置き去りにして、ドクドクという心臓の鼓動だけが聞こえた。

 

 耐えきれなくなって、先に言葉を切り出したのは、那美のほうだった。

 

「ふふ、うふふ……あはは! もう、仕方ないなぁ、誘くんは。ほら、おいで」

 

 そう言って、那美は無造作に誘を抱き寄せると、その桜色のつややかな唇を彼のおでこに重ねた。

 

「……今日はこれでおしまい。さあ、帰りましょ!」

 

 帰り道、握る手に指を絡めてきた那美の心情を、誘は真に理解できたのだろうか。

 

 

☆☆☆

 

 

 那美が死んだのは、その二ヶ月後だった。

 

 ありふれた、「単なる」交通事故だった。大型トレーラーが交差点に突っ込み、登校中の那美が巻き込まれたという、ただそれだけのこと。日本中で、毎年何件かは発生している、何の変哲もない事故。統計的に処理されて、数年後にはただの記録となる事故。

 

 前日、学校の帰り道で「さよなら、また明日ね!」と言って別れた那美の顔を、誘は鮮明に覚えている。

 

 その日、那美はクラスの女子に頼まれて、文化祭の準備のために、いつもより朝早く登校したのだ。いつもならば、一緒に誘も登校していたはずなのに。

 

 誘には、絶望も、悲しみも、怒りもなかった。強すぎるショックによって、あるべきものがすっぽりと抜け落ち、人体の機能の一部が完全に麻痺したようだった。受け止めきれない生の現実、愛する者との別れ、突然の死。

 

 他ならぬ、那美の死。

 

 それがあたかも大型のハンマーとなって、彼の繊細で優しい心を粉々に叩き壊してしまったのだ。

 

 那美のお葬式のことは、いっさい覚えていない。たぶん、誘は泣いていたのだろう。

 

 それからの誘の生活は、灰色一色に塗り替えられた。色も味も音も、すべてがモノトーンに沈んでいる。彼の心身は冷え切って、ついに病気になってしまった。

 

 ちょっとお喋りな、その医師は言った。

 

「生老病死は人生に付き物です。敢えて暗い人生を歩んでいきたいというなら、そうなさっても良いですが、精神科医として私は、あなたは辛い事件にさよならを告げるべきだと勧告します。君はまだまだ、これからも生きるのだから。あなたの好きだった人も、それを望んでいるでしょう」

 

 誘は素直だった。医師の勧めに従って、彼は勉強にも部活にも精出した。詩も歌も覚えた。アルバイトもしてみたりした。

 

 それでも、彼にはできなくなったことが色々あった。水泳ができなくなった。お茶を点てられなくなった。那美の幻影がちらついてしまう一切の活動ができなくなった。

 

 そして、「生きる」ということができなくなった。愛する人とそっと寄り添って生きるという、その生き方が。

 

 

☆☆☆

 

 

 そんな誘の暗い単調な日々は、ある時唐突に終わりを告げた。

 

 彼が十八歳の誕生日を迎えた、その日の午後のことだった。

 

 天が突然破れた。

 

 唐突に、空に無数の赤い亀裂が走った。その亀裂から、腐肉の臭いを放つ真っ赤な天の体液が迸り出た。

 

 天の体液は、あらゆるものを溶かす力を持っていた。地上に撒き散らされたそれは、ありとあらゆる存在を――国家も文明も、芸術も文化も、民族も宗教も、瞬く間に消し去った。果てには、大陸そのものに穴を穿ち、海を干上がらせ、地殻そのものにひびを入れた。

 

 大地に開いた穴から覗くのは、宇宙空間ではなかった。それとは全く異なる、龍の如き赤電が縦横無尽に走りまわる暗黒空間だった。地表を溶かした天の体液は穴を目指して、高き所から低き所へ続々流れ下った。

 

 なぜこんな事態が起きた? 前兆はなかったのか? 国は、政府は、助けてくれるのか? この世界は、どうなってしまったのか? これから世界は、どうなってしまうのか? 急転する世界と噴出する疑問に、なすすべなく狼狽する人類のもとへ、またも天の亀裂から新たな存在が姿を見せた。

 

 それは、天使たちだった。

 

 白い服と白い翼を身に纏った天使たちは、人間たちを救うために、腐り落ちる世界を飛び回った。

 

 人間は叫んだ。

 

「おお、おお! 災いよ! 大いなる災いよ! 我らの元より消え去れ! 神よ! 主よ! 天使よ! 我らを救い出し給え!」

 

 天使は叫んだ。

 

「おお、おお! 人の子よ! すでに主は滅び去りぬ! 天は破れ、地は崩れ、種は滅ばむとす! 人の子よ、翼を得よ! 翼以て天へ駆け上がれ! 而して、この大地に別れを告げよ!」

 

 そう、救われるには、翼を手に入れなければならない。

 

 だが、人間がどれほど望んでも、天使たちがどんなに努力しても、人間が翼を得ることはなかった。人間はなすすべなく、次々と赤き液体に溶かされて、暗黒の空間へと飲み込まれていった。

 

 世界の崩壊は、もう止められなかった。

 

 

☆☆☆

 

 

 誘のもとへ彼女が来たのは、彼が両親の墓を作り終えた時だった。空から降ってきた赤い液体で、両親は跡形もなく溶けてしまった。棺桶に横たえられる遺体も、壺に収める遺骨も、それらはもう何処にもなかったが、誘は石を高く積み上げてそれをお墓にした。

 

 墓に手を合わせる誘の背後に、何者かがふわりと舞い降りた。ゆっくりと振り向く誘。

 

 彼の眼に入ったのは、ある少女。白磁のような肌、翡翠の瞳、腰の下まで届く金髪。繊細で華奢な手足、細い首、薄い胸……

 

 この少女を彼は知っている、だが、そんなはずはない、そんなはずは……

 

 震える声で、誘は名前を呼んだ。

 

「……那美?」

 

 少女は、花のようににっこりと笑って答えた。

 

「誘くん!」

 

 誘は改めて少女を見る。目の前には、白銀の翼が眩いばかりに美しい天の御使。薄紅色のシルクのドレスで身を包み、黄金の金具が輝く革のサンダルを履いたその天使は、頭の上に浄福なる光を放つ輪を戴いていた。

 

 誘の良く知っている顔。どうしても忘れられなかった、あの愛しい人の顔。

 

 那美は、天使となって復活した。

 

 呆然と、信じられないものを見る誘に、那美は昔と変わらぬ溌剌とした笑顔を見せた。

 

「誘くん。久しぶり! さあ、私と一緒に来て。誘くんの翼を探す旅に出ましょう!」

 

 

☆☆☆

 

 

 それから二人は、この腐臭漂う溶けた世界を巡り始めた。翼を得て、この世界から逃げ出すために。

 

 旅の初め、那美は言った。

 

「今まで翼を手に入れた人間はいないみたい。でも、誘くんならきっと見つけられる」

 

 誘は、至極当然な疑問を発した。

 

「どうして? どうして那美はそう思うの?」

「えーと、それは、それはね……もう! 理由なんていいじゃない!」

 

 那美は顔を赤らめて、誘の質問をはぐらかした。

 

 那美はまた、こう言った。

 

「死んじゃった神様が仰っていたけど、誘くんが翼を得るには、『(ピュレーン)』が必要なんだって。それを探しましょう」

 

 ある時は、チーズのように大穴が空いた大山脈を登った。またある時は、空っぽになったかつての大洋も歩いた。千切れてところどころに穴が開き、粉々になった大陸をも横断した。

 

 平原を、山谷を、滅び去った市街地を、川を、海を、山脈と海溝を、二人は核を求めて歩き続けた。笑いあい、はしゃぎあい、手を繋ぎながら、二人は旅を続けた。

 

 食べ物の心配はなかった。那美が手を合わせて跪き、祈りを捧げると、彼女から淡い光の粒子が発散されて、それが食べ物になった。「マナ」というんだよ、と那美から誘は教えてもらった。それは、乳と蜜の味がした。

 

 二人は仲良く食事をとった。食べるのは誘だけだったが、誘が食べているのを見ると、那美も幸せな気持ちになると言った。誘は、食事の度に自分の中で何かが熱を高めるのを感じた。それが何なのか、彼には分からなかったが、不思議と嫌な気持ちではなかった。

 

 過酷な環境も、誘は気にする必要がなかった。炎熱の地でも酷寒の地でも、誘は那美の作り出す光の膜に守られていた。二人は手を繋いで、あたかも春の日差し降り注ぐ野原を散歩するかのように、旅することができた。

 

 空も飛んだ。那美が翼を開くと、誘を抱きかかえ、真っすぐに空へと向かって飛び上がった。

 

 日光を受けて、キラキラと輝く白銀の双翼。その光景が、誘の脳裏に強い印象として焼き付けられる。

 

 天使は、誘と至極楽しそうに空を巡った。

 

「毎日がデートみたいだね、誘くん」

 

 那美の心底嬉しそうなその言葉を聞いて、誘はまたもや、激しい鼓動と共に体内の熱が強く沸き起こるのを感じた。

 

 

☆☆☆

 

 

 相変わらず核は見つからなかった。誘は、日増しに自分の体が熱くなっていくのを感じていた。那美と再び出会う前の、冷え切っていた自分では決して感じることはなかった、この熱の高まり。胸の中に潜む膨大な熱量の奔流。

 

 那美のおかげだと、彼は思った。

 

 旅を続けて一年が経ったある日のこと。かつてはエベレストと呼ばれ、世界最高峰と謳われていた地球の棘は、いまや九の字に変形し、醜くひび割れ、赤く染まっていた。その頂上で、誘は那美に、いつもの静かな調子で語りかけた。

 

「世界は滅んでしまったけれど、僕は那美と一緒にいられるから幸せだよ。もう二度と会えないと思っていたから……」

 

 那美は、はっと胸を衝かれたようだった。翡翠の瞳からポロポロと涙をこぼす。

 

「ゆうくん……」

 

 優しく誘が笑いかける。

 

「泣かないで、那美。僕は本当に嬉しいんだ」

 

 那美は、嗚咽混じりに答えた。

 

「ゆうくん……ありがとう、ありがとう…… 私、あの時死んじゃって、とっても悲しかった。さよならも言えずに誘くんとお別れしたの、辛かった。誘くんが毎日私のお墓参りに来てくれるの、辛かった……」

 

 誘は、左手で那美の手を取った。そして右手の人差し指で、那美の涙を掬うと、そっと口に運んだ。

 

「な、何をしてるの、誘くん……?」

「天使の涙は甘いんだね。人間は違う。人間の涙は、苦くて辛い」

 

 ふっと、誘は那美に微笑みかける。

 

「那美は本当に天使になったんだね」

 

 那美は、涙をゴシゴシと拭った。そして、人間だった頃と少しも変わらない不敵な笑みを浮かべると、胸を張った。

 

「そうよ! 私は天使。神様の意志を伝え、人間を導くものなんだから! だから、誘くんには絶対に翼を手に入れてもらわなきゃ!」

 

 元気になった那美を見て、誘は心から笑った。しかしその時ふと、彼の琥珀色の瞳に那美の光の輪が映り込んだ。それは出会った時と同じく、黄金の、霊妙な輝きを放っていたが、彼にはなぜかそれが以前よりも弱々しく感じられた。

 

 誘の視線に気づいた那美が、心配そうな表情を浮かべる。

 

「どうしたの?」

 

 ふっと湧いた不吉な予感を打ち切るように、誘は首を振った。

 

「何でもないよ。さあ、行こうか」

 

 

☆☆☆

 

 

 だがそれ以降、那美は目に見えて調子が悪くなっていった。原因は分からなかった。いや、那美だけは分かっているようだった。それでも、那美は誘にそれを教えなかった。誘も敢えて詮索はしなかった。なんとなく推測できてしまったからだ。

 

 那美は、天使としての力を使い過ぎてしまったのだ、と。

 

 彼女は歩くのが遅くなり、重いものが持てなくなった。頻繁に息切れし、目眩もするようだった。

 

 ある日、いつもどおり食事を出そうとした那美は、遂に倒れてしまった。

 

「那美!? 那美!? しっかりするんだ!!」

「……ゆうくん?……誘くん? ああ、私、倒れて……」

 

 那美はもう飛べなくなった。那美はもう誘を守って歩くこともできなくなった。咲き誇っていた花が一晩で萎んで枯れてしまうように、那美の力は急速に喪われていくようだった。

 

 誘は、那美をおんぶすることが多くなった。那美はよく泣くようになった。誘の背中に、那美の無念の涙が幾度も染み込んだ。

 

「ごめんなさい……ごめんなさい……私、誘くんを守るはずなのに……」

「何も謝らなくて良い。那美、今度は僕が君を支えるから。今度は僕が、君を守るから」

 

 希望は、核だった。しかし、それは手がかりすらなかった。当てどもなく二人は彷徨い続けた。

 

 その内にも、世界は加速度的に崩壊を早めた。他の天使たちも、いつしか姿を消していた。人間たちも、もうどこにも見えなかった。天から降り注ぐ赤い体液はますます量を増やし、大地は音を立てて崩壊を続け、日に日に小さくなっていった。

 

 結局、核は見つからなかった。

 

 

☆☆☆

 

 

 今、二人は抱き合っている。世界の果ての、最後に残ったこの浮島で、互いに溶け合って一つになろうとするかのように、二人は抱き合っている。

 

 見つめ合う二人の瞳は、切なく潤んでいる。どちらともなく、囁くように告白した。

 

「愛してる、那美」

「愛してる、誘くん」

 

 ずっと分かっていたことだった。ずっと言えなかったことだった。世界が消滅するこの瞬間まで、ついに伝えられなかった思いだった。

 

 那美が、儚げに微笑む。

 

「えへへ……嬉しい……これからもずっと一緒だよ……」

 

 その時、ミシリと嫌な音を立てて、浮島の縦横に漆黒の亀裂が走った。

 

「ねぇ、キスして」

 

 那美がポツリと言った。言い終わるや否や、二人は既に唇を重ね合っていた。那美の唇は、濃厚な死の味がした。誘の唇も、きっと似たような味がするだろう。

 

 その時、誘の体内はかつてないほど燃え滾っていた。那美のぬくもりに触れたからか? 那美と口づけを交わし合ったからか? だがそんなことは、彼にとってはもはやどうでも良かった。

 

 息を止めて互いの感触を交換しあう二人。白い顔をぽぅと薄く紅色に染めて満足げな表情を浮かべた那美が、唇を離した。

 

 そして誘の顔を見つめると、その背後に何か信じられないものを見出したようだった。

 

「誘くん! 誘くんの背中に……!」

 

 誘も驚いていた。那美と唇を重ねている間、旅を始めてから今までの間、熱く胸の中を焦がし続けていた熱の塊が、急に放散していくのを感じた。熱は背面へ走り、何らかの複雑な紋様を刻んだあと、嘘のように消えていった。

 

 誘に小さな翼が生えていた。驚愕の表情を浮かべ、身体を捻って背中を見る誘。

 

「那美、これは……?」

 

 歓喜の声を上げる那美。嬉し涙が瞳に溢れている。

 

「誘くん、やったよ! 翼を得たんだよ!」

「そうか、なら核は……」

 

 誘は、ここに至って核が何だったのかを理解した。核は、あの熱の塊だったのだ。旅の間与えられ続け、そして今また与えられた那美のぬくもりによって膨らみ続けた、あの膨大な熱量だったのだ。

 

 那美がほっと息をついて言う。

 

「最初から、誘くんは核を持っていたんだね。ただ小さすぎただけで。それが育ったんだ。だから、翼が生えた」

 

 だが、喜びに浸っている時間はないようだった。浮島の亀裂はますます広がり、しかもその四隅も暗黒空間のエネルギーの奔流に削り取られていた。

 

 それでも那美は少しも慌てた様子もなく、誘に優しい口調で促した。

 

「誘くん、イメージして。翼を得た自分の姿を。美しく自由に空を飛ぶ鳥たちの姿を。大丈夫、誘くんならできるよ」

 

 言われるがまま、誘は背中の新しい感覚に意識を集中させた。だが思い浮かべるのは、自分のイメージでも鳥たちのイメージでもない。

 

 これまでの旅の間に見てきた那美の美しい羽ばたき。自分の、最愛の人の羽ばたく姿。

 

 カッチリと、誘の頭の中でイメージが合致した。その時、背中から音がした。ハープの妙なる調べのような、聴く者を魅了する音色。

 

 その音と共に、誘の背中から巨大な黄金の翼が左右に力強く展開した。

 

「やった!」

 

 喜びに声を弾ませる誘と那美。だが次の瞬間、誘の体は芯から力を失って地面に倒れ伏した。

 

 那美が叫ぶ。

 

「誘くん! 大丈夫!?」

「那美、力が入らないんだ。指一本動かせない」

「そんな!?」

 

 翼が顕現したことで、誘に残されていた最後の力が消えてしまったのだった。もう羽ばたくことも飛び立つこともできないだろう。

 

 次第に誘の視界は闇に閉ざされていく。声も出せない。それでも彼は絶望しなかった。那美と一緒にここまで来た旅。その目的をやっと果たしたから。

 

 それに、那美がいてくれるから。

 

「誘くん」

 

 いつの間にか、那美が目の前にいた。目は見えないはずなのに、なぜか誘には分かった。その顔は、今まで見たことのないほどの慈愛に満ちた、優しい表情をしている。

 

「誘くん。さよならなんて言わないわ。私達、これからもずっと一緒よ」

 

 彼女は手を合わせると目を瞑って、祈るように言った。

 

「誘くんに、私のすべてを捧げます」

 

 那美の体が、淡い光を放った。白い粒子がサラサラと彼女から流れ出て、誘の体へと注ぎ込まれていく。彼女の体は見る間に透き通って消えていくようだったが、彼女はずっと笑みを浮かべていた。

 

 横たわる誘にそっと寄り添って、那美は口づけをした。

 

「さよならじゃないわ。ずっと一緒よ……」

 

 直後、浮島は完全に崩壊した。

 

 

☆☆☆

 

 

 気づいた時には、誘はただ一人、暗黒の空間に浮かんでいた。

 

 身に横溢するのは、清らかで力強い、那美のぬくもりを感じさせるエネルギー。

 

 これなら、どこへでも行けそうだ。

 

 誘は、黄金の翼を羽ばたかせた。撒き散らされる光の粒子がきらきらと輝きながら彼を追う。グンと速度を増して、彼は暗黒の世界を飛んでいく。

 

 ふと、那美の声が聞こえた。

 

「……大好き、ゆうくん……ずっと一緒だよ……」

 

 ああ、そうだ。さよならなんて言うものか。那美、もう絶対に那美を手放しはしない。だって今、那美と一緒にいることがこんなにもはっきりと分かるんだから。

 

 誘は、笑顔を浮かべて飛んで行った。暗黒の世界のその果てへ、永久に、果てしなく……




※以下、作品メモとなりますので、ご興味をお持ちでない方は、お手数ですが非表示設定にするか、ここで読み終えて下されば幸いです。

・らいん・とほたー「さよならは翼ある言葉」

 小説投稿サイト「エブリスタ」で定期的に開催されている妄想コンテスト、その第84回「さよならの理由」に応募した作品です。2018年9月18日公開。

 ほいれんで・くーが人生で初めて執筆したオリジナル作品、しかも恋愛ものです。いかがだったでしょうか?

 お題が「さよならの理由」ということだったので、「よし、最後はどんでん返し的に「さよならを拒絶する」というところへ持っていこう!」と目論んだわけですが、結果としては、
1.オリジナルを書くのが初めてということに由来するミスの数々
2.文量の配分が分からない
3.恋愛描写がうまく行かない
など、最終的には「習作」のような形になってしまいました。当然入賞はなし。

 今回ハーメルンにアップするにあたり、大幅に(7600字→10600字)へと加筆しました。書き直していて、「ああここはダメだな」とか、「ここは付け足すべきだったな」とか、いろいろと反省になりました。完成度はぐんと上がったように思います。

 次回もどうぞお楽しみに。


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05. シビラとソフィー

 コリントス市は、ハカーマニシュの黒き軍勢に包囲された。



 都市は飢えていた。市民たちはありとあらゆるものに糧を求め、もはや雀一羽、鼠一匹すら街路に認めることはできなかった。

 

 暗く沈痛な雰囲気に包まれて、少女シビラはとぼとぼと歩いていた。身に纏っている長外套は汚水と埃に塗れている。群青の瞳は疲労で濁り、自慢だった亜麻色の髪もすっかりくすんでしまった。

 

 空は厚い雲に覆われ、時折、敵の噴進弾が流星のような輝きを放って飛び去る。弾は都市上空で炸裂し、充填された毒素を紫の雨にして、街区の至る所に撒き散らした。

 

 城壁の外から、包囲軍の不気味な軍鼓の響きが聞こえてくる。パールサの荒野からやって来た褐色の夷狄たちの音楽はあたかも、市民に、抵抗は無意味だ、降伏せよ、と居丈高に勧告しているようだった。

 

 そして時たま、いまだ頑強に抵抗を続けるアクロポリス要塞から砲声が聞こえてきた。それは敢闘精神の発露というよりも、むしろ瀕死の都市への弔砲のようだった。

 

 懐に手を伸ばして、首から下げているお守りをシビラはぎゅっと握りしめた。いつから持っているのか知れない、半分に切った銀のメダルのお守り。分断された花の意匠。家族すら失った彼女の、唯一の財産。

 

 ふと、シビラは路傍に目をやった。そこには汚れた下着だけを身に着けた男が、半身を縁石に預けて座り込んでいた。ぶつぶつと意味の成さぬ何ごとかを呟いている。散布された毒素に神経をやられたのだ。紫の雨に打たれるままの彼は、いずれ皮膚が爛れて剥がれ、肉と骨が腐り落ちるだろう。

 

 彼女は、身震いした。自分もいつあのような状態になるのか分からない……

 

 

☆☆☆

 

 

 突如、街頭の拡声器から長距離砲撃を警告する独特のメロディが鳴り響いた。通行人たちが蜘蛛の子を散らすように駆け出す。シビラもまた、近くの公共避難壕へ走ろうとした。

 

 その時、噴進弾の飛翔音とは異なる音が響いた。咄嗟に伏せるシビラ。数秒後、それは轟音と共に飛来し、街路の真ん中に着弾した。石畳の破片が唸り声を上げて飛び散る。

 

 濛々と吹き上がる土煙が晴れる。キュプリス神殿の大円柱のように巨大な、全金属製の物体が地面に突き刺さっていた。物体は側面の扉を開くと、中から異形の怪物を次々と吐き出し始めた。

 

 蜘蛛の脚、カマキリの胴体、牡山羊の頭。ハカーマニシュの生物兵器、キメラだ。

 

 器用に折り畳んでいた体躯を展開すると乗合馬車ほどの大きさになるキメラ。十数匹以上のそれは着弾地点から飛び出すと、茫然とその光景を眺めていた市民たちに一斉に襲い掛かった。

 

 角で突き鎌で刎ね、キメラたちは殺戮の限りを尽くす。街路は一瞬にして死体で溢れた。

 

 凄惨な光景を見てシビラは、栄養失調で力の入らぬ足を懸命に動かし、その場から逃れようとした。

 

 しかし、一体のキメラがそんな彼女を鋭く見つけ出していた。舗装を砕き轟音を立てながら怪物が走り寄って来る。

 

 荒い呼吸、軋む筋肉。肺は酸素を得ようと必死に活動し、心臓は破裂しそうなほど脈打っている。シビラはただ生存本能に突き動かされて、路地裏を目指して駆けた。狭い道に入れば、あの巨体は入ってこれないはず。そう考えた。

 

 だが、シビラは人間であり、キメラは兵器である。兵器が人間を殺すように設計されている以上、最初から勝負は見えていた。

 

「ああっ……!」

 

 あと数メトロンという距離で、シビラは焼かれるような感触を右足に覚えた。黒い剛毛を生やしたキメラの脚が彼女の右足を貫いたのだ。傷口からは真っ赤な血潮と暗緑色の毒液が滴り落ちている。

 

 そして、振り上げられる鎌。このまま数秒も経てば、彼女の頭部は永久に胴体と泣き別れすることになる。

 

 

☆☆☆

 

 

 その刹那だった。

 

「伏せて!」

 

 力強い、冴え渡るような声が聞こえた。シビラは声が終わらぬうちから、頭を腕で防御し地面にぴったりと伏せた。

 

 直後、頭上で鋭い爆発音が響き、真っ白な光が炸裂した。キメラが断末魔の叫び声を上げる。醜怪な生物兵器は胴体から臓物を撒き散らし、次の瞬間には、既に絶命していた。

 

 爽やかな声がシビラの耳朶に響く。

 

「危ないところだったわね」

 

 そこには、黒い外套を身に纏った少女がいた。年齢は、シビラと同じくらいだろうか。フードからのぞく髪の毛は燃えるような赤、瞳は吸い込まれるようなアメジスト。整った顔立ちはどこか大人びていて、静かな水面の如き冷静さを湛えていた。

 

「あ、あの……あっ……!」

 

 シビラの言葉は、無理やり中断させられた。今更になって刺された右足が激痛を訴え始めていた。

 

 赤髪の少女はつかつかとシビラの傍らに近寄ると、先ほどの凛々しい声とは一転して、穏やかな優しい声で言った。

 

「待って、動かないで。応急処置をしてあげる」

 

 聞いたことのない不思議な呪文を唱えて、少女は霊妙な緑の光を発する護符を傷口に貼った。見る間に出血が止まり、痛みが緩和されていく。

 

 その経過をじっと観察していた少女は満足気に頷くと、半ば放心しているシビラにそっと語りかけた。

 

「これで立つことはできるはずよ。さあ、ここから離れましょう。またいつキメラが来るか分からないわ。この先に私の隠れ家があるの。そこで治療の続きをしましょう」

 

 

☆☆☆

 

 

 少女に肩を貸してもらい、シビラは足を引き摺りながら歩き始めた。二人は路地裏に入り、そのまま奥の行き止まりまで進むと、金属製の蓋が付いた暗渠点検口に辿り着いた。

 

「ここを降りるのよ」

「で、でも、私、足が……」

「大丈夫、任せて」

 

 梯子があるとは言え、右足が使えない状態で垂直の縦穴を降りるのは、本来ならば不可能なはずだった。だが少女が呪文を唱えると、シビラの体はふわりと綿のように宙に浮かび、そのままゆっくりと穴を降りて行った。

 

 中は湿気に満ち、悪臭が芬々としていた。しばらく進むと、こじんまりとした天幕があった。その内部は蓄光石を用いた照明で夜明けの空のように薄明るく、しかもどのような装置が用いられているのか、清浄な空気が保たれていた。

 

 二人は藁を固めた粗末なマットレスに身を休めた。しかし、どちらも口を開かない。内気なシビラは目を伏せ、一方赤髪の少女はじっと彼女を見つめている。

 

 沈黙を破ったのは、少女のほうだった。

 

「ここまで来ればもう大丈夫。それにしても災難だったわね。傷が癒えるまでしばらくここで休んでいくといいわ。食べ物も水も蓄えがあるし」

「あ、あの……本当にありがとうございました。そ、それであなたは……うっ、うう……」

 

 礼を言おうとしたその時、シビラの体が突然震え始めた。体の芯から揺さぶられるような、不随意な震え。顔面は蒼白で、口からは泡を吹いている。全身から力と熱が抜け、視界が急激に闇に染まっていく。

 

 少女が叫んだ。

 

「しまった! ハカーマニシュの奴ら、新型のキメラを投入したのね! なんて卑劣な!」

 

 その言葉は、もはやシビラには聞こえなかった。痙攣しながらも彼女は無意識に懐のお守りに手を伸ばし、固く握りしめた。

 

 少女の声が遠く聞こえる。霞みのかかった谷の向こうから聞こえてくるような、幽かな声。

 

「私が治してあげる……安心して……あなたは私が絶対に救ってみせるから……」

 

 

☆☆☆

 

 

 夢を見ている。これが夢でないならば、あるいは記憶の糸の縺れと言うのかもしれない。

 

 光に包まれた、花咲き乱れる野原。丸い頭巾を被った小さな女の子が目の前にいる。

 

「……はい、完成! これ、アカンサスの花輪だよ。命の力の『しょうちょう』なんだって! お母さんが言ってたの」

 

 花輪を被せる。頭巾の女の子から笑顔が零れる。

 

「……ありがとう、シビラ。じゃあ私からはこれをあげるね」

 

 女の子がポーチから何かを取り出す。溢れる光が邪魔をして、それが何なのかは分からない。

 

「……これは何?」

「……これは、私の最初の魔法。それと、あなたとの友情の証。大切にしてね。どんな時でも手放さないように……」

 

 

☆☆☆

 

 

 突然、断崖絶壁から転落するような浮遊感を覚えて、シビラは急激に意識を覚醒させた。視界はぐるぐると回転し、心臓は早鐘を打っている。寝汗をびっしょりとかいていた。

 

 暗闇の中で身じろぎもせず、彼女は精神が均衡を取り戻すのを待った。そうして、数分とも数時間とも知れない時が経った。

 

 最初に彼女が気づいたのは、自分の体に何か柔らかくてあたたかいものが抱きついているということだった。しっとりとした、絹のような肌の感触を覚える。

 

 それは赤髪の少女だった。シビラと同じく一糸も纏わぬ姿で、そのしなやかな手足を彼女の体に絡みつけていた。

 

 思わぬ事態に当惑しつつ、シビラは少女の顔を見つめた。美しいが、コリントスの民とはどこか違う顔立ち。長く艶やかな睫毛が印象的だった。

 

 ぱちっと音を立てたように、少女の目が開いた。驚くシビラに、少女はにっこりと笑った。

 

「おはよう。その様子だと、解呪は成功したみたいね」

 

 

☆☆☆

 

 

 少女は黒い下着に足を通しながら、これまでの経緯を話し始めた。

 

「裸だったから驚いたでしょう、ごめんなさいね。あのキメラの毒は応急術式と護符では解呪できない新型だったのよ。遅効性の神経毒特有の症状から見て、アジ・ダハーカの改良型ね。祖母から対処法を聞いていなかったら、あなたを助けることはできなかったと思う。危ないところだったわ。でもね……」

「あ、あの!」

 

 シビラは思い切って話を中断させた。どうしても言わなければならないことがある。

 

「何かしら、シビラ?」

「助けてくれて、本当にありがとうございました! そ、それで、あなたの名前は……?」

 

 少女は服を着終えていた。

 

「私? 私はソフィー。魔法使いの一族の娘よ」

 

 ソフィーと名乗った少女は、それからもあまり口を開かないシビラを相手によく喋った。この天幕は彼女の簡易工房であること、簡便な機材しかないが術の行使には問題ないこと、シビラの解呪には二日間かかったこと、毒素を抜くには裸で抱き合って経脈を通じる必要があったこと……

 

 シビラは赤面した。

 

「は、裸で……」

「恥ずかしかった? でも緊急事態だったのだからやむを得ないわ。それに……」

 

 ソフィーはウインクをした。

 

「私もちょっと、恥ずかしかったわ」

 

 しばしの沈黙。シビラはこの機会に、話を聞き始めてから気になっていたことを意を決して尋ねることにした。

 

「あ、あの、ソフィーは魔法使いなんでしょ……それじゃ……」

 

 ソフィーは、何でもないというように答えた。

 

「ああ、包囲戦開始前の一斉検挙でしょ? 不覚をとって捕まってしまったけれど、逃げ出してやったわ」

 

 開戦に先立ちコリントス市当局は、以前より異教の神々の手先として迫害の対象とされていた魔法使いたちを一斉に拘束し、市外へ追放していた。

 

 ふぅ、と溜息をつくソフィー。

 

「本当に、愚策の極みよね。隔離政策に、即決裁判に、追放に……私たちが何をしたって言うのかしらね」

 

 魔術兵器を駆使するハカーマニシュ軍に対抗するには同じく魔法に長けた一族を戦力化することが不可欠だった。それにも関わらず、市当局は十数年前から隔離地域に押し込めていた彼らを、今度は放逐してしまった。幻覚弾が降り、キメラが送り込まれるようになってから、当局は対策に大わらわになったが、時すでに遅しであった。

 

 一通り話を終え、種無しパンと水の食事をとりながら、ソフィーはシビラに言った。

 

「一度地上に出て、様子を確認しましょう。あなただって、お家が気になっているんじゃない?」

 

 シビラは硬いパンを一口一口噛み締めながら、ふと疑問に思った。

 

「ねぇ、ソフィー。ソフィーはなんで私の名前を知ってたの? 私、自己紹介してないのに」

 

 赤髪の魔法使いは、ふふっと微笑んだ。

 

「魔法使いだから。なんでも私はお見通し、なのよ」

 

 そうして、そっと視線を落とした。シビラには、その横顔がどこか寂しそうに見えた。

 

 

☆☆☆

 

 

 それから半月あまりの間、二人は共に暗渠で生活した。地上で展開されている地獄絵図とは地盤一枚のみを隔てた空間。シビラにとって、そこは天国に等しかった。

 

 家は、既に燃え尽きていた。亡くした両親との思い出の詰まった家。廃墟の前で、シビラはしばし涙を流した。

 

 近所の住人の話によると、敵軍の擾乱射撃が直撃しパッと炎上したのだそうだ。アエーシュマ製の新型焼夷弾のせいだろうとソフィーは言った。

 

 暗渠での生活は、ソフィーが数々の工夫を凝らしていたおかげで快適そのものだった。食事は粗末だったが健康を保つには充分な量があり、何より魔法で清潔な水が手に入るのがシビラにとってありがたかった。彼女は久しぶりに体を清めることすらできた。

 

 日が経つにつれて、シビラの心身は健康を取り戻した。ソフィーは、知的でどこか超然としているが、いつもシビラのことを気遣っているようだった。そのことに気づいた時、彼女は自分の乾ききった心が、慈雨を受けて急に潤ったように感じた。

 

 

☆☆☆

 

 

 ある日、ソフィーは面白いものを見せてあげるとシビラに言った。

 

「これから披露するのは変身魔法。私の一番得意な術よ」

 

 ソフィーは口早に呪文を唱え次々と姿を変えた。大きなハウンド犬になったり、黒猫になったり、有名な二枚目役者のアキリオスになったりした。

 

 最初、シビラは夢中になってその光景に見入っていたが、ふと思うことがあった。ソフィーが黄金の鷲に変身した後、遠慮がちに彼女は尋ねた。

 

「ねぇ、ソフィー。変身してもらいたい人がいるんだけど……」

「なあにシビラ……うん、分かった」

 

 次にソフィーが変身したのは、若い女性だった。群青の瞳、亜麻色の栗毛。シビラをそのまま大きくしたような、包容力のある瑞々しい容姿。

 

 今は亡き、ソフィーの母がそこにいた。

 

 万感の思いが溢れるままに、シビラはソフィーに駆け寄った。

 

「お、お母さん! お母さん……!」

 

 泣きじゃくり、ひしと抱きつくシビラの頭を、ソフィーは優しく撫でてやった。

 

「良い子ね、シビラ……これまで良く頑張ったわ……」

 

 後になって、なぜソフィーが母のことを知っていたのか訊いたシビラだったが、答えははぐらかされてしまった。

 

 

☆☆☆

 

 

 ハカーマニシュの軍勢はあまりにも強大で、どれほど城壁を高く堅く築き上げても、いずれは破られるものである。コリントスもその例外ではなく、遂に最後の瞬間が訪れた。

 

 ある朝シビラが目を覚ますと、天幕の外からただならぬざわめきが聞こえてきた。幕の間から覗き見ると、大勢の人で溢れていた。疲労と不安に押し潰され、土気色をした顔の数々。どうやら地上の市民たちが大挙して暗渠に降りてきたようだった。

 

 ソフィーが指導者らしき初老の男性と話をしているのを、シビラは後ろからそっと窺った。

 

「異教徒共が城壁を遂に突破したのじゃ。キュプリス正門も破られたらしい。市内各所で略奪と虐殺が始まっとる。この暗渠なら安全だろうと思って逃げて来たんじゃ」

「アクロポリス要塞は? 陥落したのかしら?」

「分からぬ。とにかくほとぼりが冷めるまでここに避難したい。それに、わしらもう何日も飲まず食わずでな、もうこれ以上は動けんわい……」

 

 話し合いはまだ続くようだった。シビラは、来るべきものが来たと思った。ぎゅっと、お守りを握りしめる。これまでの楽しい生活の裏で、暗黒と絶望の未来を予想しようとするのを必死に堪えていた。いつかソフィーとの穏やかな暮らしが終焉を迎え、凶暴なキメラを従えた褐色の軍勢が押し寄せる光景を、一度ならず彼女は恐怖と共に思い描いていたのだ。

 

 これからどうなるのだろうか。そう思い悩む割に、シビラの身体と精神はまったく動かなかった。彼女は茫然として、ただマットレスに座り込むだけだった。

 

 突如、外から聞こえてくる喧騒が大きくなった。ほどなくして、音もなくソフィーが天幕に入ってきた。彼女はシビラを見つめると、にやりと笑った。

 

「シビラ。この暗渠から出ましょう。いえ、暗渠だけではないわ。この都市から脱出するのよ」

 

 思いがけない発言に、シビラはしばし唖然とした。

 

「で、でも外はハカーマニシュの軍勢でいっぱいだって……それに城門も……」

 

 ソフィーはシビラの隣に寄り添うように座ると、肩に手を置いて懇々と諭した。ここに居続けても状況は改善しない。敵はいずれここを見つける。そうなると逃げ場はない。それなら、イチかバチか脱出するほうに望みをかけたほうが良い。

 

「それにね、私が魔法使いだってバレちゃったのよ。ほら、私の髪の毛って赤いでしょ? それを見咎められちゃってね。市民の皆さんが追い出せってうるさくて……」

 

 

☆☆☆

 

 

 それからの二人の行動は迅速だった。

 

 ソフィーは小さなポーチを一つだけ腰に帯びると、シビラを伴って天幕を出た。二人は指導者の男性に一声挨拶をし、ひしめく群衆を掻き分けて、脇目も振らず地上への梯子を上がった。

 

 地上の空は、赤く染まっていた。各所で破壊と放火が盛んに行われている証拠だ。戦闘騒音に加え、キメラのあの魂すら引き裂く醜悪な鳴き声も聞こえる。

 

 ソフィーは、聞き慣れた呪文を唱えた。次の瞬間、そこにはハカーマニシュの一般兵が立っていた。色黒で、逞しい筋骨を持ち、ぼうぼうと髭を伸ばした中年の兵士。

 

 次に、腰のポーチから小さな小瓶を取り出した。犬が低く唸るような声で、ソフィーが口調すら変えて言う。

 

「これを飲め、シビラ。こんなこともあろうかと作っておいたものだ。大丈夫、副作用は一切ない。それにお前の好きなザクロ味だ」

 

 一瞬ためらうシビラ。だが、ソフィーの作ってくれたものだ。この期に及んで否やはなかった。彼女は小瓶を受け取ると、一息に紅色の中身を飲み干した。

 

 ソフィーが会心の笑みをこぼす。

 

「さすがは私、大成功。おい、自分の手を見ろ」

 

 そう言われて、手を目の前にかざすシビラ。そこには何も見えなかった。

 

「それはプラヴァシの透明薬。姿が誰にも見えなくなる薬だ。体臭すら秘匿する。だが気を付けろ。精神が平静状態でないと、正体が露見する」

 

 

☆☆☆

 

 

 二人は、混沌と暴力の坩堝と化した市内を歩いて、南門へと向かった。話によると、そこだけは未だ敵の手に落ちていないということだった。

 

 キメラが蠢き、兵隊たちが笑いながら白刃を振るっている。目の前に生首が転がってきた時、シビラは思わず叫び声を上げそうになった。

 

 ソフィーが小声で注意する。

 

「……落ち着けシビラ。深呼吸しろ。頭の先が少し見えている」

 

 たったの一メトロンを進むだけで、シビラには永遠の時間が経ったように思われた。悠然と歩を進めるソフィーの後ろで、彼女は息を殺し、精神を殺して歩き続けた。

 

 しかし、真なる試練が最後に待ち受けていた。

 

「止まれ!」

 

 南門は既に敵の手に落ちていた。長槍と短銃を持ったハカーマニシュの野戦憲兵が立ちはだかっている。

 

「司令官が許可するまで、略奪品を市外へ持ち出すのは禁止されている。一応改めさせてもらうぞ」

 

 揉み手をして、ソフィーが愛想笑いを浮かべる。

 

「へっへ旦那、わっしはあぶれちまって何も持ってねぇんでさ。ちょいと要塞攻囲軍のほうへ友人を訪ねに行きたいんで」

「その通りのようだな。ふん、薄汚い兵卒が。通って良し」

 

 ソフィーは、難なく突破した。次はシビラの番だ。

 

 見えてはいない。絶対に見えてはいないはず。シビラは自分に強く言い聞かせた。深呼吸をし、前だけを見て、ソフィーの後ろについて行くだけ。

 

 突然、シビラの目の前に黒い影が現れた。それは、憲兵の連れている軍用犬だった。

 

 あっと叫びそうになるのを必死に堪える。しかし、動揺は隠せなかったらしい。憲兵が訝しげな声を上げる。

 

「むっ、なんだ? なにか見えたような……」

 

 すかさずソフィーが誤魔化しの声を上げる。

 

「へえ? わっしには何も見えませんがね」

 

 憲兵が歩を進める。シビラとは至近距離だ。

 

「兵卒、うるさい! うむ、確かに何かが見えた気がするが……」

 

 息が上がり、膨れ上がる緊張感が心の枠を破壊しようとする。

 

 その時、シビラはお守りを握りしめていた。完全に無意識だった。

 

 すると、メダルが急に熱を帯び、あたたかな力の奔流を彼女の深奥に送り込み始めた。心が穏やかになって、視界が広くなった。シビラはそんな気がした。

 

「むぅ、気のせいか……もしかしたら、殺された市民共の亡霊かもしれんな……」

 

 憲兵が頭を掻いている。犬も座って頭を掻いている。その横を、シビラは今までにないほど自信に溢れて、優雅に通り過ぎて行った。

 

 

☆☆☆

 

 

 数時間後、都市から離れた花咲き乱れる野原で、二人は抱き合っていた。

 

 シビラは、懐からお守りを取り出す。

 

「これのおかげだったの。これを握ったら心が落ち着いて、もうどんなことでも大丈夫って思えて……」

 

 ソフィーは、しげしげとお守りを眺めると、ふぅ、とため息をついた。

 

「もう、シビラったら」

 

 そして、懐に手をやり、何かを取り出した。

 

 それは、半分に切った銀のメダルだった。二つを合わせると、分断されたアカンサスの意匠がぴったりと一致した。

 

 シビラの脳裏に、幼い日のあの光景が鮮やかに蘇る。花咲く野原、丸い頭巾の女の子、アカンサスの花輪、笑顔……

 

「ソフィー……そうだった、あなた、ソフィーだったのね……!」

「私の初めての、唯一の友達。どんなに離れていても、たった一人でも、シビラの危機には絶対に駆けつけて守るって、あの時誓ったの」

 

 柔らかな日の光に照らされた二人の影が、一つに重なる。かつて理不尽に引き裂かれた友情が、再び形を取り戻した瞬間だった。




※以下、作品メモとなりますので、ご興味をお持ちでない方は、お手数ですが非表示設定にするか、ここで読み終えてくだされば幸いです。

・らいん・とほたー「シビラとソフィー」作品メモ

 エブリスタで定期的に開催されている妄想コンテスト、その第87回「女同士・男同士」に応募した作品です。2018年11月1日公開。

 キャッチコピーは「瀕死の都市が上げる絶叫のなかを、二人の少女は懸命に生き抜く」
 
 テーマは「女同士の友情」でした。字数制限が最大8000字なので、エブリスタ版では削った要素が多かったのですが、今回ハーメルンにアップするにあたり、多少の書き足しと修正を加えました。

 この作品、ほいれんで・くー(らいん・とほたー)のオリジナル短編四作目で、そろそろ短編用のプロットの立て方が分かってきた頃に書かれたものです。

 ハカーマニシュは、アケメネス朝ペルシアをイメージしております。コリントス市はギリシアをイメージ。

 シビラとソフィーは、長編用に考えていた別のプロットから、名前だけを借りました。そのプロットでは、シビラが女聖騎士、ソフィーが聖女となっていました。剣と槍でバリバリ戦うシビラ……いつか書いてみたいものです。

 次回もお楽しみに。


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06. 涙雨のスコール

……行かないで。あなたが行ってしまったら、きっと私はもう、涙を止められない。


 後部デッキで本を読んでいると、小雨が降ってきた。

 

 雨が降ると、僕は濡れることも厭わずいつも空を見上げる。そのたびに、あの南の島で体験したスコールのことを思い出す。

 

 そして、ダクリのことも。

 

 肩を震わせ、大粒の涙を流す、儚く美しい彼女の姿。濡れた蒼い髪に白い肩。僕の脳髄は、今でもあの光景を鮮明に記憶している。

 

 僕は黒い横笛を袋から取り出し、低く奏で始めた。やはり、彼女のようには上手くいかない。

 

 これから、会いに行くのだ。

 

 

☆☆☆

 

 

 12歳頃の話だ。僕は父と共に、帝国の南方委任統治領レウコネシア諸島の中心である、ススペ島に移住することになった。

 

 母は胸を病んで、随分前から郷里に帰っていた。父は、元々は大陸の戦争に従軍した歴戦の勇士だったが、負傷して退役してからは恩給で生活していた。

 

 世界的な経済危機の煽りを喰らって帝国の恩給制度が事実上崩壊すると、父は困窮のままに死ぬよりはむしろ一勝負、という気になったらしい。妻を置き、一人息子である僕を連れて、父は南溟瘴癘の果てに新天地を求めた。

 

 帝国首都から、南へ2400キロ。大洋の只中にその巨躯をゆったりと浮かべるススペ島は、訪れた文人たちによってこの世の楽園とも評されていた。

 

 だが僕は、まったくこの島が好きになれなかった。狭く暗い船室で過ごした長い航海は不快だったが、この島での生活から受ける苦痛の度合いは、それを遥かに超越していた。強烈な南国の太陽と空と海、極彩色の魚介と果実、どれも僕の幼い感覚器官には刺激が強すぎた。

 

 おまけに来島して間もなく、僕は熱病に罹患して生死の境を彷徨った。奇跡的に一命はとりとめたが、この事件のせいで僕はすっかり臆病になってしまった。

 

 官舎の一室に引きこもり、ひたすら本ばかり読む毎日。外に出ればまた病気になるかもしれない。それに、遊んでくれる友達は一人もいないし……夜、母恋しさに一人涙ぐむことも多かった。

 

 時折窓越しに見上げる空は、馬鹿馬鹿しいほどに晴れ渡っていた。

 

 

☆☆☆

 

 

 母から引き離し、こんな南の島に連れてきて、おまけに死の寸前へ追いやったという負い目があるせいか、退嬰的な生活をしている僕に対して、父は当初何も言わなかった。あるいは仕事が忙しくて僕に構う余裕がなかったのかもしれない。

 

 しかしある日のこと、遂に父は行動を起こした。まだ太陽も昇らない紺碧の明け方、父は眠っている僕を寝台から無理矢理引き摺り下ろすと、抱えるようにして浜辺に運び、小さなボートに乗せてしまった。

 

 水平線上に薔薇色の朝日が姿を現す。その光を浴びてキラキラと輝くエメラルドグリーンの海の上を、僕と父を乗せたボートがオールの軋む音と共にしずしずと行く。

 

 リズムよく漕ぎながら、父は命令するように僕に言った。

 

「レンよ、このままではお前は人生の落伍者になる。父は大変憂慮している。母さんはもっと悲しむだろう。少し手荒いが、これから男の修行をしてもらう。覚悟は良いな?」

 

 拒否権などない。消え入るような声で「はい」と僕は答え、「あの、行き先は……?」と勇気を振り絞って尋ねた。

 

 父はにべもなく答えた。

 

「アグルブ島だ」

 

 その島のことは、本を読んで知っていた。南洋庁が編纂した地理書には、「ススペ島の付属島。無人。猛獣、毒蛇の類はなし。洞窟多数。ススペ島現地住民は霊地としている」と書かれていた。

 

 この無人島について現地住民は、あそこには神様か精霊が住んでいる、枝一本、貝一粒損ねてはならない、きっと雨と風を起こして天罰を下すだろうと言い伝えていた。

 

 そんな曰くつきの孤島に、父は僕を置き去りにした。

 

「その背嚢には三日分の食糧が入っている。水はスコールを飲め。一人で生き抜いてみせろ。三日後に迎えに来る」

 

 本当にとんでもない父親だったと今では思うが、あるいは元軍人らしい不器用な愛の表現だったのかもしれない。当時の僕は、ただ父が恐ろしかった。

 

 我に返ると、僕はたった一人で浜辺に立っていた。浜辺には椰子の木がまばらに生えていて、白い砂の上をカニが数匹、横歩きしている。足元には背嚢と水筒が一個。僕はぐったりと座り込み、指先で砂をいじった。

 

 不思議と、恐怖や絶望感はなかった。あるいは、思いもよらない事態に未発達の頭脳が追いついていなかったからかもしれない。

 

 

☆☆☆

 

 

 何分、何時間経っただろうか。そろそろ歩き出そうかと思い始めたその時、急にあたりが陰った。ゴロゴロという雷鳴も聞こえた。

 

 空を見上げると、真っ黒な雨雲が海上を素早く這うように移動して、このアグルブ島に差し掛かっているところだった。

 

 スコールの到来だ。

 

 僕は背嚢を背負い、水筒を鷲掴みにすると、一目散に駆け出した。

 

 雨に当たると熱病になる。僕はそう信じ込んでいた。というのは、熱病を発症した前日、僕は父から言われてスコールをシャワー代わりに入浴していたからだ。

 

 ポツポツと、背中に大粒の雨が当たった。数分も経つと、これが弾丸のような威力を持った大雨になる。僕は一目散に森を目指して走った。

 

 森に入った段階で、スコールは本降りになった。猛烈に降り注ぐ雨粒によって、視界は白く閉ざされようとしている。僕は必死になって雨風を防げる場所を探した。すると暗い森の奥に、どうやら洞窟の入り口らしいものを見つけることができた。僕は夢中で駆け、その中へ飛び込んだ。

 

 洞窟は、当然のことながら真っ暗だった。僕はおずおずと壁を手探りして、洞窟の奥へ進んだ。入り口近くにいては、吹き込んでくるスコールから逃れることができないからだ。

 

 その時、突然、僕の鼓膜をある音が刺激した。それは笛の音だった。

 

 音は、洞窟の奥から聞こえてくる。反響に反響を重ね、奇妙に彎曲した旋律になっているが、確かに笛の音だと僕は思った。

 

 次に覚えたのは、純粋な安堵感だった。母の笛と似ている。そう感じたからだった。

 

 僕は音に踊らされるように、そのまま洞窟の奥へとさらに進んだ。

 

 そして、見えない縦穴に落ちた。

 

 穴は深かった。魂も剥離するような浮遊感を数瞬の間に味わったあと、僕はどこかに頭をぶつけて、呆気なく意識を失った。

 

 

☆☆☆

 

 

 岩に頭をぶつけたのだ。下手をすれば死んでいただろう。

 

 しかし、僕は生きていた。生きていて、無傷で、しかも誰かに抱かれていた。

 

 少女に、僕は抱かれていた。気づいた時には、僕の頭は彼女の膝枕の上に寝かされていた。

 

 彼女の瞳は大きかった。その色はまさしく南海の色、透き通るようなエメラルドグリーンだった。肩まで届く髪は艶のある群青色で、肌は血管が透き通るほど白かった。彼女は空色のワンピースドレスを着ていた。僕の頭を腿に乗せて、ほっそりとした指先で優しく撫でていた。

 

 明らかに、彼女は現地住民の一般的な容姿からはかけ離れていた。それに、言うまでもなく、彼女は美しかった。当時の僕はそれをあまり意識しなかったけれども。

 

 周囲は、淡い緑色の不思議な燐光に満ちていた。その空間は光を放つ鉱石で彩られた、いわば石室だった。

 

 僕と少女は、どちらも言葉を発さなかった。僕は、なんと彼女に話しかけたものかと思案していた。彼女の膝枕の柔らかさが遠い故郷の母を連想させた。そのせいで、僕の精神をぼんやりとさせられた。

 

 そんな状況を打ち破るように、突然、空腹を告げる腹の音が石室に響いた。僕は顔を赤くした。一方、少女はただ不思議そうな表情を浮かべた。

 

 恥ずかしさを誤魔化そうと、僕はいつもより半音上がった声を出した。

 

「ご、ご飯にしようか。君も一緒に食べる?」

 

 父が僕に渡した背嚢は、傍らに置いてあった。僕はその中から乾麺麭の缶詰を一つ取り出し、手早く開けて二枚取り出した。

 

「これはね、乾麺麭。かんめんぽう、だよ。ビスケットみたいなものさ。君も一枚どうぞ」

 

 だが、少女の口には合わなかったらしい。彼女は小さな口で遠慮がちに齧ると、細い眉をちょっと寄せて、あとは僕に返してきた。

 

「うーん……じゃあ、これならどう? ほら」

 

 僕が取り出したのは、乾麺麭の缶詰に必ず付属している氷砂糖だった。その一粒を彼女に手渡す。

 

 彼女は、氷砂糖を細い指で摘んでしばらく見つめていたが、そのうちそっと口に運んだ。そして、幽かに声を発した。

 

「おいしい」

 

 水晶のように透き通った、美しい声だった。

 

 僕は、ここぞとばかりに尋ねた。

 

「僕はレン。君は?」

 

 返答は、彼女が氷砂糖を舐め終えてからだった。

 

「……ダクリ」

 

 

☆☆☆

 

 

 静かで、涼しくて、薄暗いこの石室は僕好みではあったが、いつまでもここにいるわけにはいかない。僕はダクリと名乗った少女に、ここから出たいと申し出た。

 

「ここ、洞窟の地下だよね? 地上に出る道はないの?」

 

 ダクリは軽く頷いた。そして、僕の手を取ると、石室の正面の壁へ向かって歩き始めた。

 

 壁面には階段のような段差が彫られていた。子ども一人がやっと上がれるような、小さな階段。段差は不揃いながらも、確かに上へと続いている。僕たちは段差を登り始めた。

 

 前を行くダクリのワンピースドレスの裾がフワフワと揺れる。彼女の細くて白い足が、魔法のような軽やかさで段差を登っていく。

 

 一方の僕は、覚束ない足取りだった。なんとか段差を登り終えると、今度は小さな横穴が空いていた。覗き込むと、光が見える。どうやら外に通じているようだった。

 

 腹ばいになってやっと通れる穴を、攀じ登るようにして僕たちは進んだ。はあはあと、僕の息は切れた。引きこもっていて運動不足の僕には、その穴を進むのはなかなか困難なことだった。

 

 やっとのことで、僕とダクリは地上に出た。

 

 出たところは、なだらかな丘の裾だった。丘の上には、樹齢何年なのか見当もつかないほどに大きな、ガジュマルの樹が生えていた。周りには赤色も鮮やかなハイビスカスが咲いていて、虫たちが楽しげに飛び回っている。

 

 ダクリは、洞窟を出るとパッと駆け出して、ガジュマルの樹の下に身を投げだした。彼女はゴロゴロと地面を転がって、全身で伸びをしている。僕も息を弾ませて彼女を追い、同じように地面を転がって、伸びをした。

 

 僕たちは隣り合って横たわった。晴れ渡る空、降り注ぐ日光、すぐ隣には不思議な少女。石室も心地良かったが、ここも同じほどに気持ち良い。何より、久しぶりに心が落ち着くのを、僕は感じた。

 

 僕はここで、これまでダクリに感謝の言葉を述べていなかったことに気づいた。

 

「ダクリ、どうもありがとう」

 

 彼女は目を瞬かせた。やはり言葉は発さない。どうやら極端に無口なようだった。

 

 やがて、彼女は得心がいったように軽く頷くと、おもむろに体を起こした。そして、どこからか黒い横笛を取り出し、悲しげな調べを奏で始めた。それは、ススペ島で嫌になるほど聞いた太鼓を連打する南国の底抜けに陽気な音楽とはまったく違う、どこか涼しげで、単調で、うら寂しい曲調だった。

 

 僕はそれを聞いて、故郷の母を思い出していた。雪深い北国の郷里で、今も胸の病に苦しめられているであろう母。その姿が、ダクリの旋律と共に鮮やかに脳裏に思い起こされる。

 

 そうだ。穴に落ちる前に聞いた笛もきっとこの子が……

 

 いつしか、演奏は終わっていた。

 

「ありがとうダクリ。とっても良かったよ……あれ? おかしいな、涙が……」

 

 僕は気づかないうちに涙を流していた。音楽で感動して泣くなど、生まれて初めてだった。

 

 ダクリはそんな僕に手を差し出してきた。おそらく対価が欲しいのだろうと思い、氷砂糖を差し出した。

 

「お礼の氷砂糖だよ……って、あっ、むぐ……」

「ん……」

 

 彼女は、唐突に僕にキスをした。柔らかで、ほのかな甘ささえ感じられるダクリの唇がぴったりと、僕の子どもっぽい桜色の唇に重ねられていた。

 

 ガジュマルの樹が僕達に影を落とした。ダクリはなかなか僕を離してくれなかった。

 

 

☆☆☆

 

 

「キスされるなんて……」

 

 長い長い口付けが終わった後、僕は呆然としていた。一方、ダクリは無表情のまま、氷砂糖を口の中でコロコロと転がしつつ、じっと僕を見つめている。

 

「……おーい……おーい……レン、どこにいる……おーい……」

 

 丘の右手の浜辺の方から僕を呼ぶ声が聞こえた。聞き覚えのある声だった。

 

「父さん?」

 

 ガジュマルの樹から離れ、声のする方向に耳を傾ける。

 

「……おーい、おーい……レン、どこだ……出てきてくれ……」

 

 やはり、父の声に間違いない。

 

「父さん! 父さんがきた!」

 

 僕は喜んだ。厳格で、ともすれば虐待まがいの躾をするけれども、僕にとってやはり父は父だった。

 

 振り返って、僕はダクリを呼んだ。

 

「ダクリも行こうよ! 父さんに君を紹介するから!」

 

 だが、ダクリは忽然と姿を消していた。

 

 

☆☆☆

 

 

 ギシギシと、オールの音を立ててボートがゆく。ススペ島に帰るのだ。

 

 僕は空を見上げた。カモメが五、六羽、円を描いて飛んでいる。空はどこまでも高く、青い。

 

 父が言うには、僕は五日間もあの島にいたそうだ。父は約束通り三日目に迎えに行ったが浜辺に僕の姿はなく、必死になって島中を探し続けたが、どうしても見つけられなかったという。

 

 僕は、経緯を説明した。

 

「スコールから逃れるために洞窟に入ったら、穴に落ちて頭を打ったの。数日間、ずっと気絶してたのかも」

 

 ダクリのことは言い出せなかった。父と話しているうちに、彼女のことは自分だけの秘密にしておきたい気持ちになっていた。

 

「レン。お前には本当に悪いことをした。愚かな父をどうか許してくれ」

 

 父は深々と頭を下げた。目尻に涙が浮かんでいる。こんな父を見るのは初めてだった。

 

 この事件の後、僕は部屋から外に出られるようになった。どこか遠く感じていた父とも仲が深まったように感じたし、だんだん島にも愛着が湧いてきた。

 

 その一方で、ダクリのことはいつも気になった。どうしても彼女の面影が忘れられない。

 

 どうしても、彼女にもう一回会いたい。あの笛の音、あの瞳、あの唇。すべてが僕の幼い精神を悶々と掻き立てた。

 

 僕はもう一度、一人だけで、アグルブ島へ行くことを計画し始めた。その機会は案外早く訪れた。父は定期的に他の島へ出張に行く。その隙をついたのだ。漁師をしている地元の若者に頼み、父のタバコを報酬として船を出してもらった。

 

「父さんには内緒だよ」

「ワカッテますヨー。ソレニシテモ、ぼっちゃんアナタ勇気アリます。あの島は雨ト涙のセイレーイが住む島デス」

「セイレーイ? ああ、精霊ね」

「雨を降らせるそのセイレーイは、コワーイ怪獣の姿ラシイです。毛むくジャラで骨バってて……」

 

 僕はふんと鼻を鳴らし、それを聞き流した。ダクリが怪獣なものか。あんなに可愛い子が……

 

 あれ? 僕は今、なんでダクリを精霊と思ったのだろう? ふと疑問に思ったが、次第にそれは自然と霧散した。

 

 

☆☆☆

 

 

 僕を島に送り届けると、漁師はまたボートを漕いでススペ島へ帰っていった。僕は彼の姿が遠くに消えたのを見届けるや、すぐにあの場所へ向かって駆け出した。

 

「ダクリ!」

 

 彼女は、あのガジュマルの樹の下に寝そべっていた。

 

「ダクリ! また来たよ! こないだは……って、うわっ!」

 

 彼女は僕の姿を見ると駆け寄ってきて、またキスをした。そして僕の手を引いて樹の下に導くと、また笛を吹いてくれた。

 

 演奏が終わると、僕は色々とお菓子を並べた。ススペ島の商店で買ったものだ。

 

「ありがとうダクリ。これはお礼だよ。なんでも好きなものを選んでね」

 

 しかし、ダクリはそういったものにまったく興味を示さなかった。

 

 もしやと思い、僕は氷砂糖を差し出した。彼女は頷くと、またコロコロと氷砂糖を舐め始めた。

 

 僕達はそれから、海で泳ぎ、砂浜ではしゃぎまわった。尤も、楽しんでいるのは僕だけで、ダクリは黙って隣にいるだけだったけれど。

 

 日が傾き、空と海が橙を触媒にして溶け合う時間が来た。遠くから、漁師の若者が僕を呼ぶ声が聞こえる。

 

 僕は、ダクリの瞳を見つめながら言った。

 

「また来るからね」

 

 ダクリは、キスで応えた。

 

 

☆☆☆

 

 

 それからも僕は父がススペ島を離れる度に、ダクリに会いに行った。キスをされ、笛の音を楽しみ、一緒にお菓子を食べ、島内を遊び回る。

 

 ボートの漕ぎ方、泳ぎ方、魚の捕り方も覚えた。すべてダクリと一緒に練習して、習得したものだ。

 

 母譲りの僕の白い肌は真っ黒になり、体つきも頑健になった。父はそんな僕を見て喜んでいた。どんどん逞しくなっていく息子に明るい未来を見たのだろう。

 

 ある日、僕はダクリに尋ねた。

 

「ねぇ、一緒にススペ島に行かない? 向こうに行けばもっと楽しいよ?」

 

 しかしダクリは、いつもの無表情にどこか悲しげな色を乗せて、沈黙を保っていた。

 

 

☆☆☆

 

 

 一大事が出来したのは、僕が13歳になった誕生日の三日後だった。部屋で本を読んでいた僕を、父が呼んだ。

 

 父が手にしていたのは一通の電報だった。それを僕に寄越しながら、父は静かに言った。

 

「母さんの病気が思わしくない。レン、お前は国に帰れ」

 

 まさしく青天の霹靂だった。父は顔色一つ変えず、続けて言った。

 

「母さんが良くなっても、ここには帰ってくるな。内地の学校に進学しろ」

 

 何も言うことができない僕をおいて、父は煙草に火を点けると、深々と一服した。

 

「三日後に港から出る飛行艇で内地に帰れ。父は急遽入った用事で、午後からテイニアン島に行かねばならない。だから、三日後のお前の出発には間に合わない。悪いが一人で帰ってくれ……」

 

 父の話が終わった後、僕はふらふらとした足取りで家の外へ出た。僕は完全に打ちのめされていた。

 

 思わず、僕は空を見上げた。南国の空は相変わらず憎々しいまでに晴れていた。

 

 

☆☆☆

 

 

 それから数時間後、僕はボートを漕いでいた。

 

 ダクリとお別れをしなければならない。心臓が早鐘をつく。こんなことは予想だにしていなかった。彼女と離れ離れになったあとの寂しさを想像して、僕は既に涙ぐんでいた。

 

 彼女は浜辺に立っていて、僕の到着を待ちわびていたようだった。青い髪が風に靡いている。彼女はとても綺麗だった。そんな彼女を、もう二度と見ることができないのだと思うと、僕の胸はなおさら痛んだ。

 

 浜辺にボートを寄せ、浅瀬に足を浸しながら、僕はどういうふうに話を切り出したものかと思案を巡らせていた。

 

「レン」

 

 驚いて、僕はダクリを見つめた。彼女が僕の名を呼ぶのは、これが初めてだった。彼女は僕に駆け寄るといつものようにキスをして、さらに僕の名を呼んだ。

 

「レン、レン」

 

 遂に、彼女が名前を呼んでくれるようになった! これでこのまま遊べたらどんなに良かっただろう! いつまでも一緒にいられたら、どんなに良かっただろう!

 

 しかし、伝えなければならない。僕は、ダクリの両肩を掴んだ。緊張で手が震える。そして、声も。彼女の目を見据え、低く押し殺したような声で僕は言った。

 

「ダクリ。今日は、お別れを言いに来た。もうここには、来れない。僕は内地に帰る」

 

「えっ……」

 

 僕の言葉を聞いた彼女の反応は、劇的だった。瞬く間にエメラルドグリーンの瞳に大粒の涙が溢れ、ポロポロと頬を流れ下った。

 

「ごめん!」

 

 いたたまれなくなって、僕は走って逃げ出した。素早くボートに乗り、全力で島を離れる。

 

「レン! レン!」

 

 ダクリが叫んでいる。涙で顔を濡らし、青髪を乱しながら、彼女は叫び続けている。

 

「レン! レン!」

 

 ごめんダクリ! もうお別れなんだ! もう会えないんだ! そう叫ぼうとする声は、すべて嗚咽に変わってしまった。

 

 その日の夕食は、まったく喉を通らなかった。日が沈み、月が昇る夜になっても、僕は眠れなかった。

 

 夢で、ダクリを見た。月明かりに照らされた彼女は、ただ泣いていた。僕の名を呼びながら、肩を震わせて、彼女は大粒の涙を流していた。

 

 泣き続けるダクリの姿が突如陰った。見ると、彼女の上の夜空に黒い雲が渦を巻き始めている。雲の流れは激しさを増し、次第に雷鳴と稲光を呼び始め、ついには地上へ向けて雨を降らし始めた。

 

 激しい雨音で、僕の目は覚めた。まだ夜は明けていない。家の外は、猛烈なスコールが降り注いでいた。

 

 

☆☆☆

 

 

 そして、僕は空を見上げた。黒雲が天を覆い尽くし、スコールが止むことなく島に降り注いでいる。

 

 ダクリに別れを告げたその日の夜から、天の底が破れたような大雨になった。船は出港できず、飛行艇の発着もできず、道路は川のようになり、サトウキビ畑は水浸しになった。他の島にいる父は帰ってこれない。

 

 地元住民にとっても、このような異常気象は前代未聞だった。南洋庁の役人たちも対策に必死だった。みんな一様に空を見上げ、罵った。なんて酷い雨だと。

 

 しかしただ一人、僕だけは、この大雨の正体が分かっていた。

 

 この雨は、ダクリの涙だ。

 

 確たる証拠などない。ただ、そう直感した。僕を帰らせまいと、船を出させまいと、ダクリが涙雨のスコールを呼び起こしているのだ。

 

 もう一度、会いに行かなければいけない。

 

 さもなければ、内地に帰還するどころか、島そのものが水没しかねない。

 

 なにより僕は、ダクリの泣き顔が忘れられなかった。強引に別れを告げられ、その衝撃に突き飛ばされて、浜辺にくずおれた彼女の姿。

 

 彼女を悲しませてしまった。僕は自分で自分が許せなかった。もう一度行って、どうしても直接謝りたい。

 

 こんな悪天候の中、単身海に出るのは自殺行為だ。だが、僕はボートに飛び乗った。激浪に翻弄され、ボートは木の葉のように揺れた。

 

 この一年で学んだ技術をすべて発揮して、僕は全力を出して懸命に漕いだが、ボートは途中で転覆してしまった。それでも、波に襲われ半ば溺れかけながら、僕は必死に手足を動かして泳ぎ続けた。

 

 絶対にダクリに会うんだ!

 

 死の恐怖はなかった。彼女にもう一度会えるという望みが、僕に無限大の力をくれた。

 

 どんな人にでも奇跡というものが人生で一度だけ起こるのだとしたら、僕の奇跡はあの時だったのだろう。常識的に考えれば、13歳の少年があの海を泳げるわけがない。でも、僕は泳ぎきることができた。

 

 僕は無事にアグルブ島に辿り着いた。海水を飲み、筋肉は疲労していたが、歩けないほどではなかった。

 

 暗い空を見上げる。スコールはますます激しくなっていた。

 

 ダクリは、きっとあそこだ。確信に突き動かされて、もつれかける足を動かして僕は駆けた。二人がいつも一緒にいた所。いつもキスを重ねた所、あそこにきっと、彼女はいる。

 

 思ったとおり、ガジュマルの樹の下に、ダクリはいた。肩を震わせ、大粒の涙を流す儚く美しい彼女の姿。雨に濡れた蒼い髪に白い肩。

 

 そんな彼女を見て、僕は魂の奥底から叫んだ。

 

「ダクリ!」

 

 彼女は、ビクリと肩を震わせた。そして、僕のほうへ振り返った。

 

「レン……?」

 

 僕は、萎え果てた両足を懸命に動かしてダクリへ向かった。ダクリも、ふらふらと今にも倒れそうな足取りで僕に向かってくる。

 

「ダクリ!」

「レン!」

 

 いつもはダクリからだが、今度はこちらからだ。僕は両腕を回して、ぎゅっと彼女の細い体を抱きしめた。

 

 そして僕は、ダクリにキスをした。冷たい、でも柔らかな彼女の唇。僕はその時、初めてキスの意味を知った。僕はキスをすることで、僕のすべてを彼女に明け渡していた。

 

 ダクリとの思い出が僕の心の中を駆け巡った。彼女は僕に、何もかも教えてくれた。恋することも愛することも、そして、人はいつか別れを経験しなければならないことも……

 

 いつしか、スコールは止んでいた。僕はそっと唇を離した。ダクリは「あっ……」と小さく声を上げ、指で唇を抑えた。

 

 彼女を抱きしめたまま、僕は彼女の耳に言葉を流し込むように言った。

 

「ダクリ、聞いてくれ。僕たちはお別れをしないといけない」

 

 僕を抱く腕に力が入ったのが分かった。それでも、彼女は静かに聞いてくれている。

 

「でも、永遠のお別れじゃない。何年、何十年経っても、僕はまたここに来るよ。必ずダクリに会いに来るよ」

 

 ダクリが叫んだ。

 

「レン!」

 

 そして、今度は彼女のほうからキスをした。長いキスだった。それが終わると、彼女は名残惜しそうに僕から離れて、黒い横笛を差し出した。

 

「レン」

「ありがとう。大切にするよ」

 

 僕が笛を受け取ると、ダクリは涙ぐみながらニッコリと笑ってくれた。その笑顔は、嵐の後のハイビスカスのような華やかさだった。

 

 僕たち二人は空を見上げた。黒雲は晴れて、そよそよと風が吹き、太陽は常にない優しい笑みを浮かべていた。




※以下、作品メモとなりますので、ご興味をお持ちでない方は、お手数ですが非表示設定にするか、ここで読み終えてくだされば幸いです。

・らいん・とほたー「涙雨のスコール」作品メモ

エブリスタで定期的に開催されている妄想コンテスト、その第88回「そして空を見上げた」に応募した作品です。2018年11月16日公開。

キャッチコピーは、「吼える海を少年は泳ぐ。涙の精霊にまた会うために」

ほいれんで・くーのオリジナル短編5作目になります。書いた時は会心の出来だと思ったのですが、今回ハーメルンに上げるためにもう一回見直してみると、なかなか反省点が多く見つかります。長編を書くよりも短編を書く方が力量が必要だと言っている人がいましたが、なるほどその通りだと最近痛感しております。

劇中の人名や地名について

・帝都ツキウ 東京のアラビア語読みから。
・レウコネシア諸島 元ネタ的にはミクロネシア諸島ですが、メラネシアをもじってレウコネシア(白い島々)としました。
・ススペ島 元ネタはサイパン島。
・ダクリ ギリシア語で涙

構想を立てた時、ダクリのポジションにはもっと別の神様・精霊を考えていました。日本神話に登場するナキサワメ様です。しかし南方奇譚と日本神話がどうしてもマッチせず、「そんならオリジナルの女の子の精霊でいいじゃない」となりました。

次回もお楽しみに。

※2020/12/25
読み返してみると手直ししたい気持ちに駆られたので、かなり加筆修正を加えました。


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07. そしてタハティが産まれた

「学校で古典語の活用形を暗記したり、テニスやバレーボールをしたり、休日に男の子と川辺を散策したりするのは、確かに青春そのものでしょう。でも、私たちの青春は、少なくとも一般的なものではありませんでした。今となっては懐かしい、苦い思い出ですが……」


マーリア・オウティネン

 

 降誕暦1933年生まれ。シュスマ出身。元陸軍少尉、魔導飛行士、戦闘襲撃騎搭乗員。女学校卒業後、首都の薬剤店で見習いとして勤務していたが、女性飛行士募集の案内を見て空の世界を志す。1950年に勃発した祖国防衛戦争では100回余りの出撃を重ね、単独撃墜41、共同撃墜28の戦果を挙げる。戦功抜群により、共和国で初めてスオメン白薔薇勲章を女性として受勲。除隊後、小学校教師となる。現在はパイエンネ湖の観光ガイドを務めている。

 

——あの戦争から20年余りが経ちました。マーリア・オウティネン、貴女の伝説的な戦いぶりは当時から広く知られています。ですが、今回私がお聞きしたいことは、貴女の参加された戦闘についてではありません。伝説と謳われる貴女が、どのような少女時代を送り、そしてどのようにして飛行士になったか、そのことについてお聞きしたいのです。どんな些細なことでも構いません、何か印象的だった出来事、思い出深い事件、そのようなものがございましたら、どうかお教えください。

 

「手紙を受け取った時は驚きました。私が敵をどれだけ撃ち落としたか、空中戦はどうだったかということを聞きたがる人ばかりなのに、あなたは私がどんな女の子だったのかを知りたいと言うのですから。ちょっと話し辛いこともありますし、記憶違いや思い込みもありますから、上手く話せるか分かりませんが、どうか辛抱強く聞いてください。私たちが特別でもなんでもないただの女の子であったことを、そして、『あの子』たちがどのようにして産まれたのかということを世間の人々に知ってもらうのに、私の拙い語りが少しでも役立つだろうと信じるからです」

 

 

☆☆☆

 

 

——入隊までについてお聞きします。

 

「1947年、私が14歳になった夏でした。母が病気で亡くなったのです。父は既に故人で、兄は外国に行って船乗りになっていましたから、家に居るのは私と母の二人でした。医者が言うには破傷風だと。数日前には元気いっぱいだった母が見る見る衰弱していくのです」

 

「母は病床で私の手を握って、『マーリア、貴女は温かいわ。ぬくもりがいっぱいで、お日様みたいね』と言いました。今でもその時の母の手の感触を覚えています。その日の晩に母は息を引き取りました」

 

「お葬式の後、村長は私を引き取ろうかと言ってくれたんですけど、私は首都に行くことにしました。母のお墓を置いて故郷を出ることに抵抗はありましたけど、それ以上に母が普段言っていた、『これからは女性の時代よ。貴女も女学校を出たら首都に出て、自分の可能性を試しなさい』という言葉に従いたい気持ちがありました」

 

「村長がヘルシングフォシュの魔法薬剤店の店長へ紹介状を書いてくれました。ひとまずはそこで働いて、身を落ち着けなさいと。初めての一人旅で、初めての首都行きでしたから、ちょっと前まで母恋しさに泣いていた私は、今度は汽車の座席でわくわくそわそわしていました」

 

「薬剤店の店長は無口でぶっきらぼうでしたがとても良い人でした。私は見習い調合士として働き始めて、よし、首都で一番の薬剤師になるんだと意気込んだのですが、ほどなくして一つ問題があることが判りました。繊細な魔法薬を扱うには私の手は温か過ぎたのです。貴重なマンドラゴラの粉末がすぐに駄目になって……店長は『生まれ持った体質は変えられない。お前の手はぬくもりがありすぎる』って言って……本当に、ガッカリしました。それからは掃除にお茶くみに帳簿の管理などをしていました」

 

「転機になったのは店長が持ってきたある案内でした。『共和国初の女性飛行士募集!』と書いてあるんです! 店長は、『飛行兵なら手が温かくても問題なかろう。それに、お前こういうの好きだろう?』と。確かに、自分の可能性に賭けるという点で、共和国で初めての女性飛行士になるのは非常に魅力的でした。さっそくその日のうちに願書を提出しました」

 

 

☆☆☆

 

 

——試験について教えてください。

 

「試験会場は聖カタリーナ高等女学校でした。軍がそこを借りたんです。大教室に集まったのは200人ぐらい。物凄い数の女の子たちで、係員たちは声を枯らしていました。私は『こんなに多かったら合格するのは難しいかも』と尻込みしていましたが、試験官たちの雑談をちらっと聞いてさらに落ち込みました。というのは、どうやら受験者の総数は2000人を超えているらしくて、これを10組に分けて試験するんだそうです。それで、合格は20人そこそこしかしないと。もうそれだけで気落ちしました」

 

「それでも気を取り直して、私は試験に臨みました。一日目と二日目は学力検査。一般教養と作文でした。作文の題は『先の大戦における女性の社会貢献について』だったと思います。14歳かそこらの女の子に対して、ちょっと難しすぎる出題ですね。三日目は身体測定。肺病がないか随分調べられました。印象的だったのは、指がちゃんと曲がるか調べられたこと。鉄砲の引き金が引けるかに関わるからです。その時、ああ、私は軍隊に入ろうとしてるんだなって思いました」

 

「四日目は面接でした。面接官は三人。後に私の教官になる人が真ん中に座っていて、とても鋭い眼光を放ってました。私は、誰に似たのか負けず嫌いなところがあって、その眼光で睨まれた時に、一生懸命見つめ返したんです。そしたらニヤッと笑い返されて。面接の内容ですか? あまり覚えてません。志望動機とか、家族構成とか、趣味とか……あと魔法生物は好きかと訊かれました」

 

「自信はなかったんですけど、まあどうとでもなれという気分で、合格発表までの一か月を過ごしました。店長は『神様の御心のままに、だ』なんて慰めともつかないことを言ってましたが、合格通知が来た時は一緒に喜んでくれました。せっかく引き取ったのに小間使いみたいなことしかさせてないのを気に病んでいたんでしょうね……本当に温かな人でした」

 

 

☆☆☆

 

 

——入隊後の生活についてお聞きします。女の子が軍隊生活を送るのですから、さぞや苦労が多かったのではないでしょうか?

 

「驚くこと、悲しいこと、滑稽なことばかりでしたよ! 入隊早々、私たちは髪の毛を切れと宣告されて悲鳴を上げました。私は父譲りの長い金髪が自慢で、三つ編みにしていたんですけど、それを隣の女の子、そう、あれはヘルガだわ、ヘルガに切ってもらって……私もヘルガの髪を切りました。もうみんなしくしく泣いて……体に合わないごわごわしたカーキ色の軍服も、大きすぎる兵隊靴も気に入りませんでした。サイズが合わないから替えたいと言っても、『それしかないから体の方を服に合わせろ』と言われて」

 

「司令官からの訓示を良く覚えています。航空兵団長のカタヤイネンが女の子たちを前にして、『諸君らはこれより淑女ではなく、兵士となる。兵士として共和国の空の守りの一翼を担うことになる。これから長い軍隊生活を送るにあたり、まず女であることを捨てよ! さもなければ東方の共産主義者たちに笑われよう、「スオメンの男どもは女を戦場に送るのか」と!』 戦争なんて始まっていないのに、戦時下のようなことを言うんです。それだけの危機感があったのでしょうけど……」

 

「最初の三か月間は、歩兵と同じような初年兵教育を受けました。朝5時に起床して、点呼があって、それから走らされるんです。25人が一丸になって営庭を何周もして、へとへとになったところで朝食です。それからはまた走って、走って、教練があって……座学も射撃訓練もありました。寝るのは夜の21時です。あまりの辛さにみんな泣いていました。気の強いライラは『自分で好んで志願したんだから泣かないの!』と言って私たちを励ますんですが、そのライラ自身も泣いてて。でも慣れてくると泣かなくなりましたね。三か月の終わり頃にはみんな一人前の兵士の顔になりました。腕も足も太くなって、肩幅も広くなって」

 

「辛い訓練で、泣いてばかりいましたけど、でもみんなには希望がありました。何しろ飛行士になるのですから! 夜の温習の時間にはみんなで大空への憧れを語り合いました。どんな飛行機に乗るんだろう、どんな魔竜に騎乗することになるんだろうって。一番早く単独飛行を成し遂げた子には、みんなでペンダントをプレゼントしようってことになりました」

 

 

☆☆☆

 

 

——1924年から1928年の大戦で、人類は航空戦力を史上初めて導入しました。その際各国で、飛行機械を用いるか、それとも魔法生物を用いるか、どちらがより有効であるかについて議論があり、大戦終結までにその結論は出ませんでしたが、結局貴女が1950年の戦場で証明したように、魔竜が大空の覇者たる能力を示しました。現在は超大型魔竜が戦略兵器を抱いて大空を遊弋しているわけですが……あなたと魔竜との出会いについて、どうか教えてください。

 

「三か月の基礎訓練期間の終わりごろでした。その頃の私たちの関心事は、もっぱら『飛行機に乗るのか、それとも魔竜に乗るのか』ということでした。先の大戦ではサクサ軍が高性能な飛行機と一流の腕前の飛行士たちで有名でしたし、ランスカとブリタンニアの両軍は魔竜と航空騎兵を駆使して戦争に勝ちました。独立間もない我が国では、当然航空隊も誕生したばかりで運用について知識も経験も少なく、ある部隊では飛行機を使ったり、他では魔竜を使ったりと、試行錯誤を繰り返していました」

 

「公にされている記録では、私たちの部隊は最初からランスカ=ブリタンニア原生種のハイブリッド魔竜を使ったと書いてありますね。実は、これには秘話があるんです」

 

「いいですか、これからお話しすることは、本当に奇妙で、あり得ないことと思われるかもしれませんが、事実です。よく聞いてください」

 

「今日から飛行訓練が開始される、飛行服とウサギの皮の飛行帽と純白のマフラーを身に着けて、私たちは遂に大空への一歩を踏み出すんだ! そう意気込んで飛行場のエプロンに集合した私たちでしたが、壇上に立つ部隊長からの言葉は意外なものでした」

 

「部隊長は、『今日から飛行訓練の開始と言っていたな。あれは嘘だ……というわけではない。軍人に二言はないからな。ただ予定が変わった。諸君らにはこれから特別な任務についてもらう』なんて言うんです。兵営に戻り、飛行服を脱いで平服になり、荷物をまとめて集合しろ、と命令されました」

 

「ライラが抗議の声を上げました。『私たちは飛行士になるために志願しました! 飛行機も魔竜も与えられずに、戻って荷物をまとめろとは、私たちはお役御免なのですか!』と叫んだんです。そんな反抗的な態度を取ったら、普段だったら徹底的にしごかれたものですが、この時ばかりは教官たちも同情的だったのか、お咎めなしでした」

 

「部隊長も怒りませんでした。なんとなく申し訳なさそうな顔をして、『お役御免ではない。非常に重要な任務だ。諸君らが飛行士になるのと同じくらい、共和国に貢献することだと思え』と諭すように言うんです。私たちは駆け足で戻りました」

 

 

☆☆☆

 

 

——それはまた奇妙な命令ですね。それからどうしたのですか?

 

「私たちは平服になって、兵隊カバンを持って、営門の前に集合しました。すると白いバスがやって来ました。教官はそれに乗れと。一体何がどうなっているのか、見当もつかないままにバスに乗り、二時間ほど揺られて、ある建物に着きました。どうやら以前は病院だったようで、私たちはロビーに整列しました」

 

「そしたら、白衣を着た人たちが何人もやってきました。顔つきからして、軍人ではなさそうです。年配の女性が私たちに、『昼食の後、貴女たちには簡単な試験を受けてもらいます』と言いました。久しぶりに『諸君』ではなく『貴女たち』なんて呼ばれたので、ちょっとドキッとしたのを覚えています」

 

「この試験というものが、ねえ……本当は話したくないんですけど……」

 

——気が進まないのでしたら、お話しして下さらなくても良いのですが……

 

「いえ、やっぱり話しましょう。紛れもない事実ですし、私が話さなければ絶対に明らかにならないことですから」

 

「昼食の後、私たちは別々に個室へ呼ばれました。個室には女性の医者がいました。簡単な問診を受けて、既往歴について質問されました。それで、ああ、単なる健康診断かしら?なんて思っていると……」

 

「女医が言うんです。『マーリア、貴女は15歳ね? こんなことを訊くのは本当に失礼なことだと思うし、私も嫌なんだけど……あなたは男の子と付き合ったことがある?』 私は、『いいえ、ないです』と答えました。そしたら続けて、『じゃあ、性行為、つまりセックスね、したことある? 恋人同士じゃなくても、セックスはしたことがあるっていう子もいるから』と言うんです。顔が真っ赤になるのが自分でも分かりました。私は、『断じてありません!』って大声で叫びましたよ。当時の世間は今ほど自由な風潮ではなかったので、未婚でかつ若い女性が性行為をするなんてとても恥ずかしいことだとされていました」

 

「女医は気の毒そうな顔をしました。『ごめんなさいね。でもどうしても確かめないといけないことだったの。貴女の言うことは本当だと思うけど、一応調べさせてもらうわね』と言って、彼女は私の右腕にパッチを貼りました。五分ほどしてパッチは青く変色しましたが、女医は『これで確認できました、ありがとう』って」

 

「夕食の席で、みんな口々に『とんでもない質問だった』と憤慨しました。でも、こんな質問は序の口だったんです」

 

 

☆☆☆

 

 

「次の日、私たちはまた別々の個室に案内されました。かなり広いその個室は、不思議なことに窓がすべて鉄板で覆われていて、外からの光が一切入らないようになっていました。ドアも二重扉になっていて、調度品はベッドと、内線用の電話が乗った机と、椅子だけでした」

 

「一緒に部屋に入った三人の女性の係員たちは、私に言いました。『服を全部脱いで、裸になってベッドに横になってください。これは命令です』と。命令! たぶん軍隊史上最も変な命令だったのではないでしょうか。兵士ですから命令には絶対服従です。私は下着まで脱いで全裸になると、ベッドに横になってシーツを被りました」

 

「次に私は、ある物を渡されました。金属製の箱に厳重にしまわれていたそれは、アルミ合金のような材質で表面を覆われていて、ちょうどラグビーボールを一回り大きくしたような形をしていて、ずっしりと重いものでした。それに、氷のように冷たいんです。渡された時、私はその冷たさに悲鳴を上げました」

 

「そして、こう言われました。『貴女にはその「ボール」を、これから毎日、食事と用便の時間以外、ずっと素肌で温めてもらいます。いいですか、絶対に離してはなりませんよ! 素肌で、貴女の「ぬくもり」で温めてもらいます。一日に三回、私たちは様子を見に来ますが、もし「ボール」を温めていないことが判ったら、貴女たちは命令不服従と任務放棄で軍法会議ですからね!』 そんなことを言われたその時の私の気持ちが分かりますか?」

 

「どれくらいの期間かと聞きましたが、だいたい一カ月との答えでした。一カ月、この冷たいものを抱いていないといけない! 気が遠くなりましたよ」

 

「そんなわけで、私の奇妙な任務が始まったのです」

 

 

☆☆☆

 

 

「彼女たちが出て行って、外から鍵が掛けられました。一人になると、私は部屋を見渡しました。ベッドは上等のマットレスと真っ白な絹のシーツで、一流ホテル『レヴォントゥレット』でもこんなに立派ではないだろうと思いました。でも、二重扉に蓋をされた窓と、部屋の作りはまるで監獄で、そのちぐはぐさに私は戸惑いました」

 

「抱いている『ボール』は両腕を使って抱え込まないといけないほどで、しかも冷たい。だんだんお腹の皮膚の感覚がなくなってきます。母が『女の子は体を冷やしたらいけないよ』と言っていたのを思い出しました。訓練のおかげで体力と筋肉がついていたから良いものの、そうでなければ何か病気になっていたでしょう」

 

「何時間経ったのか、意識がぼんやりとして半ば眠っているような状態になっていた時、ドアが開きました。食事の時間だと言うのです。私は服を着て食堂に行きました。入ってきた人たちは検査器具のようなものを持っていました。きっと私が食事をしている間、『ボール』をチェックするのでしょう」

 

「食堂には仲間が集まっていました。みんな蒼い顔しています。みんな『ボール』を抱いていたのです。私語を禁じられていませんでしたから、この奇妙な命令について話し合いました。色んな見解が出ましたよ。ある子は、命令に従順かどうか私たちをテストしているのだと言いました。魔法学校出身のエリサベトは、魔法学の知識があったので、あのボールからは特殊な周波数の魔力波が出ていて、それを浴び続けることで人工的に魔力を増強させようとしているのだと言いました。魔法兵ではなく飛行士になろうとしている私たちに、そんな必要はまったくないはずですが」

 

 

☆☆☆

 

 

「食事をし、部屋に戻って裸になり、『ボール』を抱く。慣れというのは恐ろしいもので、最初の三日間は地獄のような苦しみでしたが、一週間もするとどうということもなくなってきました。退屈だから本が読みたいと言うと、『ボール』を抱き続けるのならばと、何冊も差し入れてもらいました」

 

「それに、なんだかだんだん『ボール』に愛着が湧き始めたんです。単なる金属の塊だと思っていましたが、素肌で抱いているうちに、これは自分にとってとても愛おしいもので、欠くことのできない存在だと思い込むようになっていました。私だけに特有の心情ではありません。みんな次第に『ボール』のことを『うちの子』と言い始めました。変だと思うでしょう? でも、あなたも私たちと同じ状況に置かれたら、絶対に同じ気持ちになると思いますよ」

 

「私は読んでいる本を音読し始めました。『うちの子』に読み聞かせをしてあげるんだと……そのことを仲間たちに話したら、みんな真似をし始めました。ただの鉄の塊に読み聞かせをするんです。異常な環境に長い間置かれたせいで、少し気が変になっていたのかもしれません」

 

「三週間目のある日のことでした。食事から帰ってきて、『うちの子』に触れた時、私は初めて『ぬくもり』を感じたんです。氷のように冷たかったボールが、いつの間にか熱を持つようになっていたんです。何か異変があった時は内線を使って係員を呼び出せと言われていたので、私はボールを抱いたまま受話器を取りました。返答は、『問題なし。任務を継続せよ』でした」

 

「それから数日後、深夜のことでした。私は聞いたことのない音に眠りから覚まされました。コンコンとか、カリカリとかいう、叩くような引っかくような金属音がするんです。それは『うちの子』の中からしていました」

 

「その時、私の脳裏にある考えが閃きました。これは、金属の塊ではなく、何かの卵なのではないかと。仲間たちも、『うちの子』が音を立て始めたと言うんです。ただ、さっき言ったあのエリサベトは、『金属の殻をした卵を産む魔法生物はいない』と言います。でも、私にはどうしても、この『ボール』が何らかの生命を宿しているような気がしてなりませんでした。それからは読み聞かせだけではなく、話しかけるようにもなりました。『早く生まれて来てね』って。何が生まれてくるのか見当もつきませんでしたが、これだけ苦労したんですから、生まれてくるものが邪悪な存在なわけはないという、一種の願望を抱いていました」

 

 

☆☆☆

 

 

——それで、どうなったのですか?

 

「運命の瞬間は、『うちの子』を抱き始めてちょうど一カ月と二週間経った深夜でした。夢の中で、私は真っ赤に熱された大岩を抱いているんです。熱くて熱くて、火傷の痕が残ったらどうしようと思っていると、目が覚めました」

 

「すると、なんと抱きかかえている『うちの子』が、夢で見た大岩のように熱くなっているんです。あまりの熱さに、私はその時初めて『うちの子』を手放しました。しゅうしゅうと音を立てて、『うちの子』は膨大な熱を発散しています。明らかに異常事態ですが、内線を掛けることも忘れて、私は魅入られたようにそれを見ていました」

 

「何分経ったのか、それとも数秒だったのか、『うちの子』の表面にひびが入りました。割れ目から白く鋭い爪が見えています。中から何かが生まれ出ようとしてるんです」

 

「私は思わず、『頑張れ!』と叫びました。声に応えたのか、ひびはどんどん大きくなります」

 

「そして、遂に、『うちの子』が完全に割れました。中から出て来たのは、粘液にまみれた、魔竜の雛でした。図鑑で見たのとそっくり同じです。黒くて、柔らかそうな鱗を纏っていて、緑色の大きな瞳をクリクリと動かしているんです」

 

「雛は、私をじっと見つめています。私は、手を伸ばしました。すると雛は、シーツの上をズルズルと一生懸命這いずって、私に向かってきました。私は、ごく自然に、そうするのが当たり前のように、そっとその子を抱き上げました」

 

「私に抱かれた雛は、満足気に鳴き声を上げました。産声です。ちょっと金属質で耳障りで、部屋の外にも聞こえるくらいの音量でしたけど」

 

「ここで私は、その子を抱っこしたまま内線を掛けました。ただ一言、『無事に産まれました』と……」

 

 

☆☆☆

 

 

——それはなんとも、壮絶な体験でしたね。つまり、貴女たちは魔竜の卵をずっと抱卵していたということなんですね?

 

「その通りです。私たちが命じられたのは、自分たちが将来乗りこなすことになる魔竜を、自分自身で孵化させることだったのです」

 

「数日後、雛を抱いて私たちは集合しました。部隊長は笑って『おめでとう、お母さんたち!』と。それで、詳しい事情を説明してくれました。本来、私たちがこのような任務につく予定はなかったのです。雛たちはランスカで開発された人造魔竜で、金属製のカプセルに受精卵と魔法薬を注入することで『生産』される品種でした。専用の孵卵器も我が国は輸入していたのですが、なんと海路での輸送中に事故があって、卵は既に届いているのに孵卵器は届かないという事態になっていたんです」

 

「調達計画に遅れを生じさせるわけにはいきません。なにせ巨費を投じているのですから。でも代わりの孵卵器が届くのには一年かかる。それでは間に合わない。そこで考案されたのが、昔ながらの方法の応用でした」

 

「ランスカやブリタンニアでは古くから、魔竜の卵は火山の熱か、清らかな処女の素肌の『ぬくもり』によって孵ると言われていました。そのことは先の大戦中、学術的にも立証されていたそうで、『それならうちの「女の子」たちを使おう!』という話になったようです」

 

「軍事機密だったとはいえ、私たちになんらの説明もなくあのような大変な任務を命じたのは、今でもあんまりと言えばあんまりだったと思っています。私たちの将来のパートナーになり、また我が子のように可愛がる存在を、私たち自身のぬくもりで孵すのだと事前に告げられていたなら、私たちだってどんなにか任務に精励したことでしょう」

 

「雛はよく懐きました。どんどん大きくなって、抱っこできたのは産まれてから二週間まででしたけど……私はその子にタハティと名付けました」

 

「本当に、良い子でした。私の自慢の息子です。最期の時も一緒でした。停戦の前日に赤軍の高射砲が直撃して……最後の最後まで私のぬくもりを欲していました。本当に甘えん坊だったんです……」




※以下、作品メモとなりますので、興味のない方はここで読むのを終えられるか、もしくはお手数ですが後書きを非表示に設定してください。

らいん・とほたー「そしてタハティが産まれた」作品メモ

2019年1月12日公開。

前から試してみようと思っていたインタビュー形式に挑戦。いかがだったでしょうか?
9500字を、募集要項の上限8000字に縮約するのは大変でした。

賢明な読者諸氏にはもうお分かりでしょうが、この作品の舞台のモデルはフィンランドです。最初はポーランドを想定していましたが、「なんか前にも書いたな……」という理由で変更しました。

タハティとはフィンランド語で「星」を意味するそうです。フィンランド語の教科書買おうかなぁ……

次回もお楽しみに。


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08. 魔女はティーシポネーに誓った

 彼女は本が大好きな女の子でした。彼女は黒ずくめでした。彼女はいつも大きな帽子を被っていました。大きなお屋敷にたった一人で、お父さんもお母さんもいません。
 
 でも、寂しくなんかありません。本を読めば夢と物語の世界に行けますし、村の人たちはとても親切でしたから。毎日がとても楽しくて、みんな笑顔いっぱいでした。

 大好きな本と大好きな人たちに囲まれて、彼女はあの時まで、確かに幸せだったのです。



 敵の砲撃は払暁から始まった。鉄の暴風はたっぷり三時間は吹き荒れて、ありとあらゆるものに破壊と死を振り撒いた。

 

 兵士カレルは、魂魄すらも粉々に打ち砕くような猛砲撃にただ耐えていた。塹壕の壁面にぴったり体を押し付け、銃を抱え、嵐の過ぎ去るのをひたすら待つ。

 

 やがて、砲撃が止んだ。死体と残骸の傍らで、やれやれと体を伸ばす兵士たち。カレルは重い鉄帽を脱ぎ、茶色の髪をかき上げ、泥だらけの顔を拭いた。

 

 隣にいたジークムントが煙草に火をつけて言う。

 

「こう砲撃が酷くちゃ、クソもションベンもできやしねぇ」

 

 しかし、彼らが休息を楽しむことはできなかった。誰かが悲鳴のような声で叫ぶ。

 

「着弾孔から紅い霧が出ている! ガスだ、毒ガス弾だ!」

「防毒面を着けろ!」

 

 ほどなくして、塹壕を紅い霧が満たした。フランク王国軍の魔法技術の産物、フランボワーズ・ガスである。可愛らしい名前とは裏腹に、このガスは甘い果実の香りを放って、全身のあらゆる細胞組織を急速に腐敗させる。

 

 突然、ジークムントが咳き込み始めた。兵士たちの視線が一斉に彼を向く。咳は次第に激しくなり、遂に彼は激しい痙攣を始めた。

 

 群がり寄る仲間たち。

 

「ジークムント! しっかりしろ!」

「馬鹿が! ガスを吸い込んだな! 手足を抑えろ! 防毒面を外させるな!」

 

 だが遅かった。抑えつける暇もなく、ジークムントは苦しさのあまり防毒面を自分で引き剥がしてしまった。

 

 数回の瞬きを挟んで、ジークムントは大量に吐血した。次に、眼球がどろりと溶けて眼窩から零れ落ちた。歯がボロボロと崩れ、最後に溶けた内臓を二つ三つ吐き出した。

 

 兵士たちが悲鳴を上げた。

 

「ひでぇ……! ジークムントが……!」

「ジークムントが、溶けちまった」

 

 カレルもまた、今や溶解してピンクのムース状になった戦友を呆然と見つめていた。だが、彼の心中を満たしていたのは、他の兵士たちとは違った種類の恐怖だった。

 

 彼は背中の背嚢を探った。固い手触りを布越しに感じる。

 

 また、この本の「予言」が当たった。やはりこの黒い本は、死を予言している。

 

 

☆☆☆

 

 

『カトリーヌはご機嫌ナナメでした。にっくき隊長とその部下の大半、それにトマーシュは死にましたが、自分を辱めたあのジークムントはまだ生きています』

 

『空を飛び、戦場のあちこちを見て回って、カトリーヌはとても面白そうなものに出会いました。フランク軍の魔法兵器、フランボワーズ・ガスです。これを使って、あの卑劣漢のジークムントをできるだけ惨たらしく殺しましょう!』

 

『カトリーヌはちょいと杖を振るって、ジークムントの防毒面に細工をしました。見かけには何も問題はないですが、これを被ったら最後、美味しそうなクリームの出来上がり! カトリーヌは舌なめずりをします。復讐の女神ティーシポネー様への最高のお供え物です……』

 

 

☆☆☆

 

 

 カレルがその本を手に入れたのは、半年ほど前のことだった。

 

 貨車に家畜のように詰め込まれ、遠く祖国を離れて戦線に送り込まれたカレルの部隊は、すぐに前線には行かず、まず「害虫駆除」を命じられた。

 

「ミニーの森の中に、フランクの魔法使い共の隠れ里がある」 連隊本部の作戦参謀が言った。「劣等種を一匹残らず駆除しろ。帝国の国是は分かってるな?」

 

 小隊長がぼそっと言った。

 

「まあ、新兵共を殺しに慣れさせておかんとな……」

 

 情報通り、森にその隠れ里はあった。大きな屋敷が一つと、畑と厩舎を備えた農家が十ばかりの、ごく小さな村だった。

 

 小隊長は命令した。

 

「住民を見つけ出して、広場に集合させろ!」

 

 兵隊たちは、粛々と命令に従った。怯える住民の髪を掴んで家から引きずり出し、銃床で殴りつけ、軍靴で蹴り上げて狩り集めた。逃げ出す者は、容赦なく射殺された。

 

 カレルが担当したのは、村の中央にある屋敷だった。やや年配の兵隊、トマーシュとジークムントも行動を共にした。

 

 気負いこんで突入したカレル達だったが、屋敷には誰もいなかった。

 

 人はいなくとも、金目のモノはあるかもしれないとトマーシュが言った。ジークムントも煙草を吸いながらそれに頷く。カレルは、略奪は軍法で禁じられていると反対したが、二人は鼻で笑った。

 

「カレル、まだ学生気分なのか? これは戦争なんだ。楽しんだもの勝ちさ」

 

 家捜しをする二人と分かれて、カレルは書斎に行き着いた。大きな扉を開くと、壁一面の本棚と大量の書物が視界を圧した。

 

 一人の少女がいた。

 

 少女は、全身黒ずくめだった。魔女帽子を被り、ローブを身に着けている。黒い瞳に髪も黒。乱入してきたカレルに対し何を思っているのか、美しい顔はまったくの無表情だった。じっと視線を向けてくる。

 

 たぶん、いやきっと、これが魔女なのだろう。カレルはぼんやりと思った。赤子の血を啜り、少年の心臓を邪神に捧げ、毒薬を調合するという、忌まわしい劣等種なのだろう。

 

「魔女じゃねぇか! 捕まえろ!」

 

 いつの間にか、カレルの背後にトマーシュとジークムントがいた。

 

「来いっ!」

 

 二人は即座に少女に駆け寄ると、乱暴に腕を掴んで捻り上げた。不快げに顔を歪める少女。しかし声は一言も発さない。

 

 ジークムントは少女の体をまさぐるように撫で回している。

 

「コイツ結構肉付きが良いぜ。なあ、ここでいっちょ楽しむってのはどうだ?」

「それはやめとけ。コイツら、変な菌だか毒だか持ってるって話だ。さっさと広場に連れて行くぞ」

 

 カレルはそれを見て不愉快に思ったが、何もできず、ただ付いて行くだけだった。

 

 村の広場には住人が集められ、穴を掘らされていた。兵隊たちがそれを囲んでおしゃべりをしている。黒ずくめの少女が連れてこられると、どよめきが起こった。

 

 カレルたちを一瞥して、小隊長が言った。

 

「お、いかにも魔女って奴を連れてきたな。でかしたぞ。一匹も魔法使いがいないんじゃあつまらんと思っていたが、これで上にちょっとは良い報告ができるってもんだ……さて」

 

 小隊長は住民たちを立たせると、穴の前に一列に並ばせた。兵隊たちが銃を構える。

 

「カレル、お前はこの魔女だ。ちっとは殺しの味を覚えて、娑婆っ気を抜かないとな」

 

 カレルは、動揺した。こんな女の子を撃たなければならないのか? こんな、妹みたいに幼い子どもを? 心臓が早鐘を打つ。照準がどうしても定まらない。

 

 彼が躊躇っている数秒の間に、小隊長は腕を振り下ろしていた。銃声が連続し、住人はバタバタと倒れ、穴に落ちていった。

 

 しかし、カレルには撃てなかった。少女は未だに無傷で立っていて、ぼんやりと彼を見つめている。奇妙なほどに澄んだ、雲ひとつない冬の夜空のような黒い瞳。

 

 僕には、撃てない。彼は銃を下ろしかけた。

 

「仕方ねえ奴だなぁ」 

 

 パンッと、軽い銃声が響いた。少女は地面にくずおれた。はっとしてカレルが隣を見ると、そこにはトマーシュが立っていた。手には拳銃を持っている。銃口から白い煙が上がっている。

 

「劣等種の一匹も殺せねえんじゃ、これから先が思いやられるぜ」

 

 それを見届けると、小隊長が声を張り上げた。

 

「家に火をかけろ! カレル、お前はその魔女を埋めろ! それくらいはできるだろ」

 

 兵隊たちは散っていった。カレルは、ふらふらと少女の死体に近寄った。

 

 これ以上命令に背くわけにはいかない。それに、せめて弔いくらいはしてやらないと……

 

 死体に手をかける。カレルは少女の死に顔を直視できなかった。顔を背けつつ死体の上半身を起こすと、ローブの下から何かが落ちた。

 

 それは、一冊の本だった。光沢のある黒革で装丁された、厚みのある本。カレルは何とはなしにその本を背嚢に入れた。

 

 半時間後、隠れ里は炎に包まれた。整然とした軍靴の響き。弔歌を歌うように、雲雀が鳴いていた。

 

 

☆☆☆ 

 

 

 それから数週間後。いよいよカレルの部隊も陣地に入った。古参兵の話によると、どうやら突撃が近いらしい。手榴弾と小銃の弾薬と、特別な高栄養食のエダメルチーズも配布された。兵隊たちは死の予感におののき、口数が少なくなった。煙草の煙が塹壕に充満した。

 

 どろどろという遠雷のような砲声が響く空の下、カレルは一人、円匙の縁をやすりで研いでいた。

 

 その時、彼はふと背嚢に重みを感じた。中身を探ると、手に吸い付くようにしてあるものが出てきた。

 

 それは、あの黒い本だった。風もないのに、パラパラとひとりでに頁が捲られていく。

 

 何も書かれていない白い頁に、文字が浮かび上がってきた。フランク語で書かれていたが、もともと学生だったカレルはそれを読むことができた。

 

『カトリーヌは怒っていました。みんなを虐殺し、村を焼き、自分を撃ったあの兵隊たちに、なんとか復讐してやろうと思いました』

 

『肉体を失い魂だけになっても、魔女の力が失われたわけではありません。戦場の上空を彷徨っていると、ついにあの兵隊たちを見つけました。あの口髭を伸ばした隊長も、自分の清らかな体をいやらしい手つきで撫で回したジークムントも、自分を撃ち殺したトマーシュとかいう兵隊も、見つけ出すことができました』

 

『よーし、まずはあの隊長を殺してやろう! 復讐の女神ティーシポネー様、力をお貸しください! カトリーヌは杖を振るいます。まずはフランク王国の兵士の頭に、予感を吹き込みました。兵士たちは帝国の奴らの突撃があることを知りました。兵士たちは杖を磨き、機関銃を整備して、待ち構えました』

 

『次にカトリーヌは、地雷を埋めました。ちょうど両足を吹き飛ばすような、でも即死はしないような威力の、特別な地雷です。踏んだ奴は、きっと痛みに泣き叫ぶことでしょう』

 

『ああティーシポネー様! きっと私はあの連中を皆殺しにしてみせます!』

 

 そこまで読むと、バタンと音を立てて本が閉じた。カレルの意識は現実に引き戻された。もう一度読もうとしたが、頁は閉じた貝のようにぴったりとくっついて、どうしても開くことはできなかった。

 

 その次の日、いよいよ突撃命令が下された。耳障りな金属音を発する笛が吹き鳴らされると、兵隊たちはぞろぞろと塹壕を出て、敵陣へ目掛けて駆け足を始めた。

 

 敵は一発も撃ってこない。もしかしたら成功するかも。だが、カレルはその甘い考えを打ち消した。あの黒い本の文章が頭に蘇る。

 

 あれを読んだ後、彼は仲間に一応相談した。本のことには触れず、ただ「敵が突撃を予期しているかも」とだけ言った。

 

 返ってきたのは嘲笑だった。

 

「おい、二等兵カレル殿が参謀総長に昇進したぞ! 俺たちに戦術論を教えてくださるってよ!」

「臆病風に吹かれたか? 今からおうちに帰ってママに泣きつくがいいさ」

 

 カレルは押し黙るしかなかった。魔女を撃てなかったせいで、ただでさえカレルは臆病者と蔑まれている。これ以上何かを言おうものなら部隊に居場所がなくなるのは明白だった。

 

 本の内容は現実となった。

 

 敵陣まで50メートルの地点で、カレルたちに敵の猛射が降り注いだ。火点の機関銃が一斉に咆え、兵士たちを薙ぎ倒した。地面に伏せてやり過ごそうとすると射撃魔法で狙撃され、砲撃痕に逃げ込むと手榴弾が投げ込まれる。

 

 間をおかず、この殺戮劇に砲兵と火力魔法が加わった。誰かが退却だと叫んだ。一人として敵陣に到達したものはいなかった。

 

 カレルはなんとか生き残ったが、部隊の大半は帰ってこなかった。そして、小隊長も戻ってこなかった。だが兵士たちはそんなことは気にしなかった。敵の逆襲に備えなければならなかった。

 

 敵の反攻突撃を阻止したその夜、誰かが苛立たしげに言った。

 

「なんだ、あの呻き声は。うるさいったらありゃしねぇ」

「取り残された負傷者だろう」

「なんだよ馬鹿が、死ぬこともできねぇのか」

 

 一晩中、誰かの断末魔は続いた。明け方になると声は止んだが、その頃になるともはや誰もそれを気にしていなかった。

 

 数日後、呻き声の主が判明した。それは、小隊長だった。斥候兵が回収してきた死体には、両足がなかった。

 

「どうやら小隊長は地雷にやられたな。かなり苦しんだようだ」

 

 死体は凄まじい形相を浮かべていた。右手には何かを握り締めていた。家族の写真だった。

 

 

☆☆☆

 

 

 部隊が半壊したことも、小隊長が戦死したことも、新兵のカレルにとっては衝撃的な事件だったが、戦争全般から見ると大したことではなかった。機械の部品を交換し、油を差し、燃料を補給するように、部隊には新しい隊長が着任し、兵隊が補充され、兵器が配布された。

 

 前線は完全に膠着していた。果てしない砲撃の応酬、突撃と逆撃、後退と再進出。空しく擦り減らされ消耗していく人命と、帝国の奥地から続々送り込まれる新しい血と肉と鉄。

 

 カレルはいつの間にか新兵ではなくなっていた。見知った兵隊はもう幾人もいない。あれから何回も突撃に参加した。殺した数よりも、殺された数の方が多いように彼には感じられた。泥水に浸り、ドブネズミを退治し、蛆と蝿を追い払い、砲撃に耐え、新兵に塹壕戦の作法を教えながら、彼は毎日をやり過ごした。三ヶ月も経っていないのに、彼には数世紀が経過したように思われた。

 

 あの村での出来事も、黒い本のことも、カレルは忘れつつあった。

 

 トマーシュとジークムントは数少ない生き残りだった。三人はいつしか戦友という絆で結ばれていた。ある日、トマーシュが言った。

 

「休暇が取れることになったんだよ。それから、配置換えだ。申請が通って、俺はこれから飛行機に乗ることになったよ」

 

 カレルとジークムントは我がことのように喜び、そしてやっかみの言葉を浴びせた。三人は隠し持っていた火酒と食料庫から盗み出した缶詰で、ささやかな祝宴を張った。

 

 その晩のことである。半地下式の掩蔽壕の中で、カレルが蚤とシラミだらけの毛布を被って寝ようとすると、背嚢の中で何かが動く気配がした。どうせネズミが入り込んだのだろうと彼が手を伸ばすと、何かが転がり出てきた。

 

 それはあの黒い本だった。あの時と同じように、ひとりでに頁が捲られ、文章が綴られていく。

 

『カトリーヌは満足していました。村を襲ったあのにっくきチェスカ人の部隊は今やごく僅かになり、生き残りは十人に満たないほどです。毎日戦場の空で杖を振るい、呪いの言葉を撒き散らした甲斐があったのでしょう』

 

『ですが、カトリーヌは先ほど聞き捨てならないことを耳にしました。なんと、あの自分を撃ったトマーシュが戦線を離れ、故郷に帰るというではありませんか!』

 

『ああ、ティーシポネー様! カトリーヌは涙を流してお祈りをします。あの卑劣なる殺人者トマーシュを、生かしてこの戦場から逃して良いものでしょうか? そんなことが許されるわけはありません!』

 

『カトリーヌは杖を振るい呪文を呟くと、フランク軍の砲兵にインスピレーションを与えました。彼らが発射する砲弾は奇跡的な角度で撃ち出され、奇跡的なタイミングで起爆し、奇跡的な確率を引き寄せてトマーシュを殺すでしょう』

 

『後に残るのはバラバラになったトマーシュの残骸です。きっとティーシポネー様もお喜びになるでしょう。それに、カトリーヌは誓ったのです。きっと私はあの連中を皆殺しにしてみせますと……』

 

 そこまで読むと、バタンと音を立てて本が閉じた。それと同時に、耳を聾する大爆発の音と凄まじい衝撃がカレルを襲った。

 

 気が付いた時には、カレルは担架に横になっていた。口の中がじゃりじゃりとしている。目線を上げると、衛生兵が心配そうな顔をしていた。

 

「敵の重砲が塹壕に直撃したのさ。生き埋めのあんたを助け出すのに苦労したぞ」

 

 カレルはその言葉を聞いて、棍棒で頭を殴られたような心地がした。次に口から出てきたのは、トマーシュがどうなったのかという問いかけだった。

 

「トマーシュか? 可哀相にやっこさん、明日にはここを離れるってのに、でかい破片にやられて上半身と下半身が泣き分かれさ。それでも即死できなかったみたいで、俺が駆けつけた時にはまだ息があったな。目をきょときょとさせてたよ……」

 

 

☆☆☆

 

 

 トマーシュが死んだ一週間後に、ジークムントがフランボワーズ・ガスで溶けた。それから部隊はまた戦闘を何回か繰り返し、ついに着陣以来の生存者はカレルだけになってしまった。

 

 四人目の小隊長は、気の毒そうな顔をしてカレルに言った。

 

「どうだ、カレル。ここらでひとつ休暇をとって故郷に帰るってのは? だいぶ苦労を重ねたことだし、大隊長もカレルのような古参兵は後方に返して、新兵の教育に当たらせるほうが良いと言ってる。お前だって母ちゃんに会いたいだろう……」

 

 カレルはそれを拒絶した。虚勢を張り、ここで一人部隊を離れるのは帝国の軍人精神に悖ると、ことさら胸を張って述べ立てた。しかしその実、彼の心中は恐怖におののいていた。

 

 ここで逃げてみろ。トマーシュのように、俺は絶対にカトリーヌに殺される!

 

 彼は戦場に留まり続けた。不思議なことにジークムントが死んで以降、黒い本は背嚢の中で沈黙を続けていた。その静けさがなにより雄弁な魔女の殺害予告のように思われて、カレルの心はいつも恐慌一歩手前にまで追い込まれていた。

 

 彼は何回も本を捨てようとした。焚き火に放り込んだこともあったし、手榴弾を括り付けて爆破したこともあったし、銃で撃ったり銃剣で切り裂こうとしたこともあった。

 

 本はまったく傷つかなかった。どこかに放置してきても、いつの間にか本はカレルの背嚢に戻って来ていた。そのうち彼は、本を捨てることを諦めた。

 

 黒い本の無言の圧力を受け続けて、彼の精神は明確に変化した。少女を殺すのを躊躇っていた素朴で純真な性格は押し潰され、凶暴で残忍な、あたかも飛行機や戦車や毒ガスといった近代兵器のような、完全なる戦闘機械として生まれ変わった。

 

 カレルは先頭に立って数多くの突撃に参加し、かつ生き残った。泥と蛆と死肉に塗れながら、無数の敵を殺し幾つもの火点を潰した。下士官に昇進し、受勲を重ね、いつしか彼は生ける伝説として語られるようになった。彼は帝国の英雄になった。

 

 

☆☆☆

 

 

 従軍してから一年が経った。カレルは一人、手に余るほど大きな勲章をそっと撫でていた。帝国の最高の勲章、ブラウアー・マックス。数時間前、前線視察に赴いた皇帝から手ずから授けられたものだった。

 

「朕は汝を帝国の誇りと思うぞ」

 

 彼は、久しぶりに気分が安らいだ。一年前、祖国のためと思って学校を飛び出して黒い軍服に身を包み、重い銃を手に取ったのは間違いではなかった。戦友は一人も残っていないが、その亡き戦友たちが自分をここまで生かしてくれたのではないかと思える。黒い本はもう何も語らない。きっと、あの魔女も諦めたのだろう……

 

 バタンと音がした。カレルが目を上げると、そこには黒い本があった。ひとりでに頁が捲られ、文章が綴られていく。

 

『カトリーヌはこの半年間、とても辛抱していました。最初はもっと早く、最後の生き残りのカレルを殺そうと思ったのです。しかし、呪いをかけようと杖を振ろうとするたびに、ティーシポネー様がそれを止めるのです。女神様は理由までは教えてくれませんでした』

 

『でも今日になって、ようやくカトリーヌは分かったのです。女神様は、カレルが素晴らしい捧げ物になるのを待っていたのだと。カレルが単なる一兵卒ではなくなって、殺すのに価値ある存在になるのを待っていたのだと』

 

『カトリーヌはさきほど、カレルが帝国で最高の名誉に輝いたのを目撃しました。カレルはもう疑いようのないほどの、光輝と血飛沫に彩られた英雄です』

 

『そんなカレルを殺せば、ティーシポネー様はどれほどお喜びになるでしょう! それに、自分と村のみんなが死んでからちょうど今日で一年になります。カレルの断末魔の悲鳴を、私たちの追悼ミサで奏でる聖歌にしよう! それは素晴らしい思いつきだと、カトリーヌは喜びました』

 

『カトリーヌは杖を振るいます。フランク王国の一兵士にインスピレーションを与え、彼を大陸一の狙撃兵に仕立てあげました。兵士は今、呼吸を整えてカレルに照準しています。そら、今です! 絶好のタイミング……』




※以下、作品メモとなりますので、ご興味をお持ちでない方は、お手数ですが非表示設定にするか、ここで読み終えてくだされば幸いです。

・らいん・とほたー「魔女はティーシポネーに誓った」作品メモ

エブリスタで定期的に開催されている妄想コンテスト、その第89回「一冊の本」に応募した作品です。2018年11月30日公開。

キャッチコピーは「黒い本は、女神へ高らかに復讐の詩を謳いあげる」

オリジナル6作品目。オリジナル短編のキモは、どれだけ緻密にプロットを組み立てられているかということにあると、この頃になってようやく気付きました。個人的にはやりたい放題やった作品です。「一冊の本」というテーマをもう少し掘り下げておくべきだったという反省点があります。

次回もお楽しみに。


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09. ヒュプノスに抱かれて

 1944年末、祖国の退勢は覆うべくもなかった。戦線は各所で破られ、軍と師団は各地で敗北を重ねていた。空には敵の爆撃機の群れ、海には敵の艦隊。国民生活は圧迫され、日々のパンと肉にも、燃料にも、医薬品にも事欠くようになっていた。

 何事にも暗い見通ししか立たない現実。当時の私はまだ幼かったから、祖国の現状も行く末も、まるで分からなかった。それでも、父母の暗い顔から状況の深刻さは分かった。毎日が辛かった。

 それでも、夢の世界だけは違った。そこには、乳色の眠りのベールに覆われた、黄金の夢が煌びやかな光を放っている。

 そう、ただ眠りだけが、私の唯一の楽しみだった……


 目が覚めるとそこには、綺麗なお姉さんがいた。

 

「あっ、起きた」

 

 僕を見て、お姉さんはにっこりと笑い、美しく澄んだ声に喜びの色を重ねて挨拶をした。

 

「おはよう。よく眠れたかしら?」

 

 なんだか、何もかもがぼんやりしていて、意識がはっきりしない。でも、挨拶されたのだ。返事をしないと。僕はしどろもどろに答えた。

 

「……おはよう……ございます。でも、えっと、ごめんなさい。お姉さんはだれですか?」

 

 お姉さんは腰掛けていた椅子からすっくと立ち上がった。ドレスの深いスリットから細くて白い綺麗な足が見えて、僕は思わず目を逸らした。

 

 それをどう解釈したのか、お姉さんは少しムッとした表情を浮かべる。僕が横になっているベッドの傍らにそっと歩み寄った。

 

 不満げな表情を隠さず、お姉さんは人差し指で僕の胸元をぐりぐりと抑えながら言う。

 

「もう……私達何回も会ってるのに、あなたはちっとも私の名前を覚えてくれないのね」

 

 何回も会っている? 僕が? この人と? そんな気がするような、しないような……でも、お姉さんが嘘をついているようには思えなかった。

 

「あ、あの、ごめんなさい……」

 

 お姉さんは、そこでふっと笑った。その笑顔は春の陽射しのように明るい。ああ、そうだ。確かに、この笑顔は前に見た気もする。

 

「まあ、いいわ。あなたが覚えてくれるまで、何度でも教えてあげる。私の名前はヒュプノス。あなたのお友達の、ヒュプノスよ」

 

 ……ヒュプノス。ヒュプノス。そう、そうだった! 僕はもう一度よく見てみた。豊かな長い金髪、ルビーのように真っ赤な瞳、ふっくらとした大きな胸。純白の絹のドレスを着て、金色の後光を背負った彼女は、間違いなくヒュプノスだ。

 

 僕は頭を掻いた。どうしてすぐに名前が思い浮かばなかったんだろう。

 

「ヒュプノス……そうだ、そうだった。ごめんね、覚えてなくて」

 

 僕のすぐそばに腰掛けたヒュプノスは、穏やかな笑みを浮かべて、僕の頭を優しく撫でた。

 

「ううん、謝らないで。私のほうが悪かったのよ。名前を覚えるなんて、そんな無理なことを言っちゃって……ここで過ごした記憶は一度『リセット』されるから……」

 

 リセット? 何を言っているのだろう? その時、彼女からうっすらと香水の良い香りが漂ってきた。ああそうだ、僕はこの香りも大好きだった。

 

 それにしても、ここは何処だったっけ? 空は雲一つない快晴で、僕たち二人は開けた草地にいる。ベッドの周りには良く手入れされた生垣と、背の低い木が数本立っている。

 

 ヒュプノスが撫でるのをやめて、微笑みながら僕に尋ねる。

 

「今日は何をする? なんでもあなたの好きなことをしていいのよ。お茶を飲んだり、お喋りをしたり、本を読んだり……もちろん、前の続きでも良いのよ」

 

 何をしようか……そういえば、ヒュプノスとは前に何をしていたっけ? 頭はまだぼんやりとしていて、まるで乳白色の靄がかかっているみたいだった。

 

 ポリポリと頭を掻きながら、返事にならない声を僕は漏らした。

 

「えっと、えっと」

 

 そんなはっきりしない僕を、ヒュプノスは微笑みながら辛抱強く待っていてくれた。

 

「そう……そうだ。空中散歩、空中散歩だよ。ヒュプノスに、えっと、その、抱っこ、してもらって……空を自由に飛びたい」

 

 バサッと、羽ばたく音がした。見ると、ヒュプノスの背中に白鳥みたいな大きな翼が広がっていた。

 

「ふふ、やっぱりそう言うと思ったわ。あなた、空を飛ぶのが大好きだものね。さあ、おいで……」

 

 僕はヒュプノスに正面から抱きついた。彼女の大きな胸が僕の顔に当たって、とても恥ずかしい気持ちになった。

 

 ヒュプノスが悪戯っ子のようにニヤリと口の端を歪めて、僕をからかう。

 

「なあに? 今更照れてるの? もう何回もしてきたことじゃない」

 

 ドキドキと心臓が力強い響きを立てている。僕の顔は、きっとリンゴのように真っ赤になってるだろう。何回もしてきたとヒュプノスは言うけど、女の子を抱きしめるのに慣れるなんてことがあるのかな、と僕は思った。

 

「今日は前よりももっと高いところへ飛びましょう。さあ、行くわよ!」

 

 二、三回地上で羽ばたくと、その後は一気に加速して、上空までヒュプノスは飛び上がった。轟々と風を切る音が僕の耳を貫く。下界はどんどん遠ざかって、僕が寝ていたベッドも見る見るうちに小さくなっていった。

 

「あっ……」

 

 僕は寒さを覚えた。当然だ。空の上は常に気流が渦巻いていて気圧も低い、と前に本で読んだ気がする。僕は薄手の寝巻きしか着ていない。

 

 ヒュプノスは、僕が寒がっていることにすぐ気づいてくれた。

 

「あら? 可哀想に、寒いのね。震えているわ……ちょっと待ってて」

 

 彼女は胸元から金属の光沢を放つ小さなプレートを取り出すと、その表面を指先でなぞり、次にそれに向かって話しかけ始めた。いったい何をしているんだろう?

 

「もしもしオネイロス? 大至急、この子に服をあげて。そう、とってもあったかいやつよ」

「了解でーす、数秒待っててー」

 

 プレートから、ヒュプノスではない、誰か別の女の人の声が聞こえてきた。緊張感のない、のんびりとした口調だ。

 

「はい、そんじゃ、防寒着いっちょう入りまーす。ポチッとなー」

 

 突然、体があったかくなった。僕の服はいつの間にか、ふわふわのファーがついた革の防寒着になっていた。真っ白なウサギの毛皮で出来た防寒頭巾も被っている。

 

 ヒュプノスが満足げに言った。

 

「寒い思いをさせちゃって、ごめんね。今度からは防寒着を用意してからにしましょうね」

「ありがとう、ヒュプノス」

 

 それから僕とヒュプノスは二人っきりで、空中散歩を目一杯楽しんだ。下界に広がる光景について、彼女はとても丁寧に教えてくれる。

 

「あの海に浮かぶ緑の島々が『浄福なる島々』よ。賢くて正しい人たちが住んでる所。それから、あの山が『高く白い山』 あの麓に剽悍で勇敢なカウカソスの民が住んでるわ。それから……」

 

 空を飛ぶのはとっても気持ちが良い。顔に当たる大気の冷たさも、ひゅうひゅうという風の音も、足がブラブラとして何となく心もとないのも、全部好きだ。

 

 何より、ヒュプノスと一緒なのが好きだ。彼女が羽ばたく音も、彼女の温もりも、彼女の良い香りも、彼女の柔らかな胸と腕も、それらすべてが僕を優しく包み込んで、僕を幸せな気持ちにしてくれる。

 

 僕は思わず呟いた。

 

「まるで夢みたい……」

 

 独り言が聞こえたのだろうか。ヒュプノスの腕の力が強くなるのを感じた。

 

「夢……そうね、本当に夢みたいね」

 

 彼女のどこか寂しげな声を聞いて、僕の胸がチクリと痛んだ。それを誤魔化すように、僕は彼方を指さしてヒュプノスに尋ねた。

 

「ねぇ、なんであの方角は真っ暗なの?」

 

 そこは、濃い闇に閉ざされていた。僕たちが飛んでいるこのあたりはいつも晴れていて、太陽は黄金色の輝きを振りまいているのに、あそこだけは暗幕が張り巡らされているようだった。

 

 ヒュプノスがハッと息を呑む音が聞こえた。

 

「あそこはダメ! 見てもダメだし私に質問してもダメよ! さあ、別の場所へ行きましょう」

「えっ、で、でも……」

 

 なぜか、僕はどうしてもあそこがどういう場所か知りたかった。というより、なんだかあの場所に呼ばれているような気がした。そう呼びかける声もないし、手招きしている人影もないけど、僕の心はなんだかあの場所に惹きつけられて離れられないのだった。

 

「ごめんねヒュプノス。僕、どうしてもあの場所が気になるんだ。ねぇ、ちょっとだけで良いから、あそこに行ってくれない?」

 

 ヒュプノスは明らかに狼狽した。僕がそこまで執着するのに驚いたのだろうか?

 

「そんな!? ダメよ! 絶対にダメ!」

「で、でも、なんでも好きなことをして良いって……」

「そっ、それは……」

 

 嫌がるヒュプノスに、僕は何度もお願いをして、あの場所に連れて行ってもらうことにした。それでも、境界線ぎりぎりのところまで、という条件だったけれども。

 

 ごうごうと、風を切る音だけが聞こえる。真っ暗な世界が迫ってきた。そろそろ到着だ。ヒュプノスは黙って飛んでいる。僕は急に、ワガママを言ったことを謝りたくなった。

 

「ごめんなさい、ヒュプノス。本当はダメなのに、僕、自分の気持ちを押し付けちゃって……」

 

 ヒュプノスは笑って答えてくれた。

 

「ううん、良いのよ。あなたが望んだことなんだから。それに、もう仕方のないことなのかもしれないわ。あなたがあそこに興味があるということは、それはつまり、あなたに残された時間がもう……」

 

 そこまで言ってから彼女は突然黙り込み、言葉が途切れてしまった。

 

「どうしたの? 大丈夫? ヒュプノス?」

 

 僕の声に、ヒュプノスは気を取り直したように答えた。

 

「なんでもないわ。さあ、ここが『夜の国』よ」

 

 そこは、やっぱり一面の闇に覆われていた。うっすらと透けて見えるのは、背の高い、先の尖った針葉樹の森。それ以外は何もなかった。

 

 本当に、樹木以外は何もない。せっかくワガママを言って連れてきてもらったのに、僕はちょっとがっかりしてしまった。でも、なぜか見るのをやめることができない。まるで何かに引き寄せられているような、そんな気がする。

 

 しばらく眺めていると、森の中に何か二つの光るものが見えた。紅い宝石みたいな、そう、ヒュプノスの瞳のように光るもの。

 

 それと、僕の目が合った。そんな気がした。背筋に冷たい悪寒が走った。

 

「ねぇ、ヒュプノス。あの紅い光は何?」

 

 僕の言葉が終わる前に、突然、ヒュプノスは宙返りを打った。そして、正反対に方角を変えると「夜の国」に背を向けて、今までにないくらいの猛スピードで飛び始めた。

 

 目まぐるしく回転する景色。

 

「ヒュプノス!? どうし……ムグッ!?」

 

 でも、手のひらで口を塞がれてしまった。

 

「しっ! 静かに! 黙って! 今は口を開いてはダメ!」

 

 ヒュプノスの声は、緊迫感に満ちていた。まるで何かを怖れているような、敵に追われているような、そんな彼女の思いが伝わってきた。

 

 僕たちは、全速力でベッドのところまで戻った。ヒュプノスは僕をベッドに寝かせると、優しく額を撫でながら言った。

 

「ごめんなさい、さっきはびっくりしたでしょう。でも、あなたのためだったのよ。さあ、もう寝なさい」

 

 その口調にまだ緊張感が残っていて、僕はなんだか不安になった。

 

「う、うん……ヒュプノスがそう言うなら、僕、寝るね」

 

 僕の心臓はまだドキドキしている。あんなに激しい飛行は初めてだったからというのもあるけど、それより、いつも落ち着いている彼女がこんなに取り乱しているのを初めて見たからかもしれない。

 

 目を瞑って、僕は寝ようと意識する。でも、なかなか眠れない。そんな僕の様子を見て、ヒュプノスは緊張を解いて、微笑みながら言った。

 

「子守歌、歌ってあげるわ」

 

 綺麗な歌声が聞こえてくる。異国の、聞いたこともない言葉なのに、どこか懐かしい。

 

 なかなか眠れない時、ヒュプノスはいつも子守唄を歌ってくれる。いつも? 僕は前にこの歌を聞いたっけ? でも、確かにそうだ。歌詞は分からないけど、どこか悲し気で、どこか温かい、そんな歌。僕はそれを聞くと、いつもすぐに寝てしまう。

 

 とろとろと眠りに落ちる寸前、僕はなんとか言葉を振り絞った。

 

「……ヒュプノス……また、遊ぼうね……」

 

 額に、何か柔らかい感触がした。

 

「もちろんよ、また遊びましょうね」

 

 次第に僕は、暗く静かな眠りの世界へと落ちて行った。

 

 

☆☆☆

 

 

 遠くから、でも近くから、声が聞こえてくる。激しく言い争う、泣き出しそうな声。男の人と女の人の声。とても聞き覚えのある声だ。

 

「……そんな! じゃあこの子はもう助からないって言うの!? あなたはそれで諦めるって言うの!?……」

「……しかし、医師が言うにはもってあと二日だと言うじゃないか。最近は党員でなければ病院にも入れない、薬だって貰えない。私達だって、やるべきことはやった。それに君だって、薄々覚悟はしていたんじゃないのか……」

「……いいえ、いいえ! 私は諦めないわ! この子を諦めるなんて、そんなことは絶対にできない! 親がそう信じなければ、どうしてこの子が助かると言うのよ! あなたこそ諦めないで、どうか一緒に祈って……」

「祈り……祈りか。今は本当に、祈るしかないのか……」

 

 僕の意識は、また暗黒の世界へと沈潜して行った。

 

 

☆☆☆

 

 

 目が覚めるとそこには、綺麗なお姉さんがいた。僕を見て、お姉さんはにっこりと笑い、美しく澄んだ声に喜びの色を重ねて挨拶をした。

 

「おはよう。よく眠れたかしら?」

 

 それからは、また名前の確認。そう、やっぱり彼女の名前はヒュプノスだ。僕といつも一緒にいてくれるヒュプノス、楽しい遊びをいっぱい教えてくれるヒュプノス、僕の大好きな空へと連れて行ってくれるヒュプノス。

 

 でも、しばらく空には連れて行けないのだと、彼女は申し訳なさそうな顔をして言った。

 

「ごめんね。少し翼の調子が悪いの」

 

 だから、ベッドの周りでできる遊びをした。僕がチェスをやりたいと言ったら、ヒュプノスは胸元から金属製のプレートを取り出して、その表面を指先でちょんちょんとつついて、それから耳に当てて話し始めた。

 

「もしもし、オネイロス? 今すぐチェスがやりたいんだけど。そう、18世紀頃の上等なやつ。象牙製のものがいいわ。手配して頂戴」

「はいよー。最高級象牙製チェスセットいっちょう入りまーす。ポチッとなー」

 

 それから二人で、僕の気の済むまでチェスを楽しんで、その後お茶を飲むことにした。ちなみに僕はヒュプノスに一回も勝てなかった。学校では誰にも負けたことがないんだけどなぁ……あれ? 学校ってなんだっけ?

 

 そんな僕の疑問をよそに、ヒュプノスはまた例の金属のプレートを取り出していた。

 

「オネイロス? たびたび悪いけど、今度はティーセットを……ってあら? そういえばあなたはコーヒーが好きだったわね。オネイロス、コーヒーを飲みたいから用意して頂戴」

「はいよー。最高級コーヒーセットいっちょう入りまーす。ポチッとなー。それにしてもアツアツですなー。あ、コーヒーじゃなくて、あんたらのことですよ」

 

 僕はヒュプノスに頼んで、コーヒーミルで豆を挽くのをやらせてもらった。ハンドルの取っ手は、僕の顔が映り込むほどに磨き抜かれた純銀製だった。ミルはちょっと大きくて僕の手には余ったけど、ハンドルは軽くてやりやすかったし、それに回すとヒュプノスの子守歌が流れてくるのがすごく面白くて、心が躍った。

 

 機嫌よくハンドルを回す僕を見て、ヒュプノスが茶化すように言う。

 

「慣れた手つきね。私よりもよっぽど上手いわ。チェスよりも才能があるわね」

「母さんが僕の挽いた豆のコーヒーは美味しいって。でも最近は代用コーヒーしかないから……」

 

「そう、お母さんね……」

 

 ヒュプノスの声が、少し翳った気がした。そういえば、母さんって誰だっけ?

 

 

☆☆☆

 

 

 もう何日経ったのだろう? ここでは昼もないし夜もない。時計もないし、教会の鐘楼もない。だから時間の経過が分からない。

 

 ヒュプノスの翼はまだ調子が悪いみたいで空は飛べなかったけど、そのかわり二人で色んなところを歩いて巡った。広い平原や遠い丘を越えて、羊たちがどこか遠い目をして草を食んでいるのを眺めたり、小魚が群をなして泳ぐ澄んだ小川で二人してはしゃぎあったりした。

 

 ヒュプノスは綺麗なドレスが濡れるのも気にせず、僕にバシャバシャと水を掛けてきた。

 

「それっ、それっ! ほら、反撃しないともっと濡れるわよ!」

 

 僕も負けずに反撃した。僕の頭からズボンの裾まで、彼女の頭からドレスの裾まで、水気を吸ってびしょびしょになるまで、僕たちは夢中になって川遊びをした。

 

「ふぅ、楽しかったわね。さあ、そろそろ岸に上がって、火に当たりましょう」

 

 そう言うヒュプノスは、ドレスがしとどに濡れていて、その下の素肌が透けて見えていた。それを見た僕は恥ずかしくなって、目を背けてしまった。きっと顔が真っ赤になっていたと思う。ヒュプノスは何も言わなかったけれど。

 

 火を囲みながら、僕たちはお喋りをした。ヒュプノスは例のプレートの表面をなぞって、一心に見入っている。何をしているんだろう?

 

「次はどこに行こうか、ヒュプノス?」

「……そうねぇ。検索によると山登りがオススメらしいわ。よし、決めた! ねえ、次は山登りにしましょう?」

 

 そんなわけで、僕たちは険しい岩山を制覇することになった。僕は登山なんてしたことがなかったから、登っている最中はヒュプノスの手を借りてばかりいたけど。

 

 登り始める前、ヒュプノスはまたオネイロスとかいう人に頼んで、素晴らしく高品質な登山用具を用意してくれた。

 

「オネイロス、登山用具を一式頂戴。大人用と子供用の二セットよ。杖はアルミ合金製の軽いものをお願いね」

「はいよー、登山用具にちょう入りまーす。ポチッとなー。それにしてもあんた、最近爆買いしてますなー。カードの利用限度額大丈夫かえ?」

 

 数時間かけて、僕たちは岩山を登り切った。山頂からの眺めは、空からとはまた違った面白さがあった。空を飛ばなくても、こんなに美しい風景を見ることができるなんて思ってもみなかった。

 

 僕の口から感嘆の言葉が零れ出た。

 

「綺麗……」

 

 ヒュプノスが茶化すように答える。

 

「あら、私のこと? お上手ね……って、ちょっと待って、電話だわ。発信者は……オネイロス? おかしいわね、向こうから電話してくるなんて」

 

 彼女は胸元から取り出したプレートに向かって話し始めた。

 

「もしもし、オネイロス? どうしたの?」

「あー、ヒュプノス? あんたの寝所に来客よー。そう、あなたのよぉく知ってるあの人だよ」

 

 叫ぶような声をヒュプノスは上げた。

 

「なんですって、あいつが!? 分かった、ありがとう!」

 

 そう言うや否や、ヒュプノスは背中から大きな白い翼をバサッと音を立てて広げると、僕を抱きしめて、突然空へ飛び上がった。

 

 僕はびっくりした。翼の調子が悪いと最近ヒュプノスは言っていた。無理をして大変なことになったらどうしよう!?

 

「ヒュプノス!? 翼は大丈夫なの!?」

 

 ヒュプノスは、力強く答えた。

 

「ええ、もう大丈夫! 実は最初から翼は絶好調だったんだけど、事情があって嘘をついていたの、ごめんね。ちょっと急ぐから、少し口を閉じててね。舌を噛むといけないから」

 

 

☆☆☆

 

 

 あっという間に今まで時間をかけて歩いてきた道を遡って、僕たちはベッドのところまで戻ってきた。

 

 そこには、綺麗なお姉さんがいた。コーヒーカップを手に持っている。

 

「あら、ヒュプノス、早かったじゃない。最高級のコーヒー、美味しいわね」

「あ、あれ!?」

 

 僕は驚いた。そのお姉さんは、ヒュプノスと双子のようにそっくりだったからだ。金髪も、ルビーの瞳も、ふっくらとした胸も、まるで同じ鋳型から生み出された銅像みたいに、なにもかもが同じだった。

 

 ただ一つ、背中の翼を除いて。そのお姉さんの翼は、烏のように真っ黒だった。

 

 僕は、凍えるような視線の力を感じた。お姉さんに見られている。

 

「ふうん、その子があなたのお気に入りの坊やね。ふむ……確かに『私好み』でもあるわ。あの時、森から遠目に見た時から感じていたけど。まあ、好む好まざるとに関わらず、私は私の役目を果たすわ」

 

 このお姉さんは、何か怖い。体の芯から冷えていくような、心臓を鷲掴みにされるような、言いようのない恐怖感がある。

 

 僕はヒュプノスを見た。その顔は、見たことがないほどの敵意に満ちていた。

 

「タナトス! 『夜の国』からわざわざ出てきて、いったい何の用かしら! ただのコーヒーブレイクなら自分の家でやって頂戴!」

 

 タナトスと呼ばれたお姉さんは、カップを静かに卓に置いた。そして、ヒュプノスと全く同じ色の瞳で、僕をじっと見つめた

 

「何の用って……それは決まってるじゃない。その子を迎えに来たのよ」

 

 僕を迎えに? どうして?

 

「ヒュプノス、あなたがその子に情を持ち始めたことは知ってるわ。この『眠りの国』に留め置いて、できるだけ寿命を延ばそうとしたわね? それにオネイロスに頼んで、いっぱい品物を注文してたわね? 全部その子のためでしょう? それに、空を飛ばなかったのも、わざわざ遠くへ散歩に出かけたのも、私の目を晦ますためでしょう? でも、私は『タナトス』 その子がどこに行こうと絶対に見つけ出すし、絶対に冥界へ連れて行くわ」

 

 ヒュプノスが悲鳴のように叫んだ。

 

「待ってタナトス! 確かに、死すべき存在たる人間には、あらかじめ与えられた命数というものがあるのは、私も知ってる! でもこの子はまだこんなにも小さいじゃない! 同じ仕事をするなら、誰か別の人間を……」

 

 悲痛な表情で必死に訴えているのに、タナトスは全然動じていなかった。

 

「ふう……これでもあなたの気持ちを推し量って、一日猶予してあげたのよ。私は鉄の心臓と青銅の心を持つ存在。取ってつけたような理屈も泣き落としも効かないわ。さあ、その子をこちらに渡しなさい」

 

 そういうとタナトスは椅子から立ち上がって、僕の左腕を掴んだ。彼女の手は、ぞっとするほど冷たかった。

 

「さあ、おいで坊や。これからあなたは新しい世界へ行くのよ。悩みも苦しみもない、静かで穏やかな世界へ……」

 

 僕は、なぜか抵抗できなかった。タナトスの言葉はすんなりと心に染みわたって、もうあの「夜の国」に、いや、冥界に行くことは避けられないのかなと、僕は納得しかけていた。

 

 その時だった。

 

「待ちなさい!」

 

 ヒュプノスが何か掲げている。それは、あの金属のプレートだった。その表面には、映画が映っていた。不思議なことに、全部色がついているけれど。

 

 映画は、跪いて祈る女の人と男の人、それから、横たわって苦しそうな息をしている男の子の姿を映していた。僕は、その三人に見覚えがあった。でも、誰だか分からない。

 

 三人がいる部屋は薄暗く、時々振動している。天井からバラバラと土塊が落ちている。遠くから爆発音や、サイレンや、鋭い金属音も聞こえてくる。

 

 ヒュプノスが大きな声で言った。

 

「見なさいタナトス! この両親の姿を! 生きようとしているこの子の姿を! あの世界で、この子は、フリードリヒは、懸命に戦っているわ! まだ死んでいない!」

 

 タナトスの僕を掴む力が、少し緩んだ。ヒュプノスの持つプレートに顔を近づけて、まじまじと映画を見つめている。

 

「……ふむ、確かにまだ死んではいないわね。でも同じことよ。この子はもう死を受け入れつつある。掴んだ時にそう感じたもの。私が無理に連れて行かなくても、この子は自分から冥界へ行く気になっている」

 

 ヒュプノスは涙目だった。手が震えて、プレートも震えている。

 

「でも、最後にもう一回この子に選択させるのよ! あなたと一緒に行って、永遠に現世に別れを告げるのか、それとも私の歌に送られて、この眠りの世界から永遠に目が覚めるのか!」

 

 はぁ、とタナトスはため息をついた。

 

「自由意志による選択ね……まったく、それを持ち出されると私でもどうしようもないじゃない。いいわ。それなら、この子に選んでもらいましょう」

 

 ヒュプノスの顔が輝いた。僕に向かって、あの綺麗な澄んだ声で語りかける。

 

「フリードリヒ、選ぶのよ!」

 

 タナトスも僕に向かって、ヒュプノスより少し低い声で語りかける。

 

「選びなさい。決して後戻りできない選択を。それこそがあなたたち人間の特権なのだから」

 

 二人に挟まれた僕。さっきまでは、もうタナトスと一緒に行く気になっていた。でも今は、心が揺らいでいる。

 

 ヒュプノスの泣き出しそうな笑顔を見る。タナトスの無表情の顔を見る。

 

 金属のプレートから声が聞こえてきた。

 

 これは……母さんの声だ。

 

「フリードリヒ、帰っておいで……」

 

 そうして、僕は……

 

 

☆☆☆

 

 

 小さい頃、私は体が弱かった。折しもあの忌まわしい戦争の時代で、薬もなく栄養もなく、私は原因不明の高熱で一週間も生死の境を彷徨っていた。母と父は医師が諦めたにも関わらず、連合軍の爆撃の最中、狭い防空壕の中で懸命に看病し、そして祈り続けたという。

 

 その甲斐あって、私は奇跡的に魂を繋ぎとめることができた。

 

 病床にあった時の記憶はないが、不思議なことに、あるイメージだけは私の脳裏に、いやおそらくもっと深層の、霊魂にこびり付いている。

 

 誰かに優しく抱かれて、広く青い大空を飛んでいくイメージ。金髪と、宝石のように赤い目と、白いドレスの美しい女性。

 

 夢の世界で目が覚めたらそこには、私を抱いていたその人がいるかもしれない。そう思いながら、私は今夜も眠りにつくのだった。




※以下、作品メモとなりますので、ご興味をお持ちでない方は、お手数ですが非表示設定にするか、ここで読み終えてくだされば幸いです。

・らいん・とほたー「ヒュプノスに抱かれて」作品メモ

 エブリスタで定期的に開催されている妄想コンテスト、その第86回「目が覚めるとそこには……」に応募した作品です。2018年10月16日公開。今回ハーメルンに投稿するにあたり、1800字ほどの加筆、および修正を行いました。

 キャッチコピーは「少年は眠りに抱かれて、覚めない夢の空をゆく」

 オリジナル3作品目。今まで『ハイラル・ドキュメンツ』で回顧録形式には挑戦していましたが、今作では一人称小説に初挑戦しました。なかなか話が組みあがらず、苦労した覚えがあります。

 みんなも大好き(?)なおねショタやぞ! なおほいれんで・くーはおねショタを分かっていない模様。

 言うまでもないことでしょうが、フリードリヒは1944年当時はまだ少年。重い病気になり、医者も匙を投げています。そこで彼はヒュプノスの夢の世界に迷い込みました。ヒュプノスは幼いながらも優しくて気立てが良いフリードリヒに「惚れこみます」。一度夢の世界から覚めてしまうと、記憶はいったん「リセット」されてしまうのですが、ヒュプノスは力を使って何とか記憶の残滓を存続させていたようですね。

元ネタ ヒュプノス 眠りの神
    オネイロス 夢の神
    タナトス  死の神

 次回もお楽しみに。


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10. ナアマの亡骸

 それほどまでに私は、妹よ、お前を愛していたのか。



 突如、魔術師トバルは、得体の知れない恐怖感に襲われた。彼は電撃を受けたようにビクリと体を痙攣させると、つかの間のまどろみから意識を覚醒させた。

 

 あたりは暗闇に包まれている。目前の指先すら見えないほどの、無が肉を持って実体化したかのような闇。闇はあたかも生き物のように、湿気と悪臭と瘴気をふんだんに含んだ生臭い呼吸を繰り返している。

 

 トバルは、ボロボロの外套から杖を取り出すと、ぼそぼそとした掠れた声で光源魔法を唱えた。弱々しい白い光がぼんやりと辺りを照らす。

 

 そこは、地下水道だった。分厚く苔むした石造りの壁。時折脇を走り抜ける、猫のように大きなドブネズミ。壁の一角を埋め尽くす蟲の群れ。

 

 前日、地上では雨が降ったのだろう。無数の汚物と死骸が上からやってきて、トバルの目の前を浮かびつ沈みつ流されていく。汚水に洗われて生白くなった死体が、水面を静かに運ばれていく。

 

 光源魔法の白い光が、突然点滅した。

 

「……ちゃーん……おにいちゃーん……」

 

 声が聞こえてきた。幽鬼のような、夜の墓場の風のざわめきのような、女の子の声。

 

「おにいちゃーん……おにいちゃーん……」

 

 それを聞いた瞬間、トバルは嘔吐した。空の胃袋からは黄色い胃液しか出てこなかった。

 

 トバルの心臓が早鐘をつく。やはり、ここまで追ってきたのだ。あれは幻覚ではなかった。妹は、「ああなっても」私を探している。

 

「おにいちゃーん……おにいちゃーん……」

 

 耳を澄ます。数分すると声は遠ざかり、やがて聞こえなくなった。

 

 疲労と飢えでキリキリと痛む肉体を強いて動かして、トバルは地下水道を歩き始めた。当てどもなく、ただ足の赴くままに。

 

 これが、あの日捨てたものの報いだというのか?

 

 トバルがここに来てもう一週間になるだろうか? それとも一年か? 彼は時間の観念を失っていた。そう、あの大会戦の時から。仲間を失い、そして、自分の最愛の妹を失ったあの一大決戦の終末から。

 

 

☆☆☆

 

 

 五年前、地の底より突然現世へと侵攻を開始した魔の軍勢。人間側の被害は甚大だった。国土を失い、人口を失い、富を失い、なにより、尊厳を失った。

 

 だが、立ち上がる者たちがいた。彼らは倦まず弛まず、密かに仲間を集め、武器を蓄え、兵を鍛えた。

 

 そして、あの運命の大会戦へと人間たちは挑んだ。

 

 その結末は、悲惨なものだった。

 

 勇者が消えた。かの勇猛にして高潔、不撓不屈の人類の希望、アンジェイ・ボナベントゥラは、魔王軍本営に突入後行方不明となった。

 

 魔術師ルジャも消えた。勇者にいつも影の如くぴたりと寄り添っていた美貌の女。その行方は杳として知れない。

 

 戦士アイアスと治癒師エウヘニアの夫妻は、乱戦の最中討ち死にした。

 

 そしてトバルは、妹ナアマを失った。誰より愛していたナアマ、彼の半身にして魂の伴侶であるナアマ。ぬばたまの長い黒髪に、新緑の瞳、ほっそりとした華奢な体、そのすべてが美しかった妹ナアマ。

 

 乱戦だった。チームで戦うなど思いもよらなかった。敵は大軍で、そして一斉に突撃してきた。仲間とは早々にはぐれてしまった。

 

 トバルの隣で戦っていたナアマは、腹部に致命傷を受けてしまった。蜘蛛型妖魔の、毒液を分泌する前脚による一撃。

 

 ナアマの白い腹からピンク色の内臓が溢れ落ち、どす黒い血が止めどなく流れ出る。その光景がどうにも信じられず、トバルはただ呆然と見つめていた。

 

 ナアマは最期の力を振り絞って、兄にこう告げた。

 

「私の死体をここに捨てて行かないで……故郷に連れて帰って……」

 

 そう言って、彼女は息絶えた。その死に顔は、いつもの寝顔のように穏やかで美しかった。長い黒髪も、まだ艷やかな美を保っていた。ほっそりとした手足だって、今にも動き出しそうだった。

 

 ひょっとして、まだ妹は生きているのではないか? ただ動かなくなっただけで。

 

 だが、ナアマの腹には大穴が空いていた。彼女の清らかな魂を外界へと吸いだした、妖魔の穿った忌々しい穴。彼女の死の絶対的な証拠である穴。ようやくそれをはっきりと認識して、トバルは泣き崩れた。

 

 乱戦の中、アイアスとエウヘニアの夫妻がトバルを探し出して駆けつけてくれた。二人は悲嘆にくれるトバルを抱き起こして、とにかくここを離れるべきだと主張した。

 

 既に戦線は崩壊し、戦場のあらゆる場所で魔王軍による人間への一方的な破壊と殺戮が繰り広げられていた。

 

 三人は、ウィズドゥラ川を超えた先にある、工業都市ヴァルシヴァへ向かった。万一敗北した場合はこの街へ後退し、再起を図ることになっていた。

 

 出発する前、トバルは妹の死体に防腐魔法を掛けた。戦場ではすぐに魔蝿がやってきて、数千個もの卵を死体に産み付ける。蛆に覆われた妹の死体など、彼は想像すらしたくなかった。

 

 小さかった頃いつもしていたように、トバルはナアマを背負った。死体は思った以上に軽く、そして氷のように冷たかった。

 

 

☆☆☆

 

 

 後退を始めた三人。しかし、人間軍の戦力の中核を成す勇者の一味を、魔王軍は見逃さなかった。一個連隊をも押しつぶすほどの物量が、たった三人と一人の死体に対して、怒涛の如く攻め寄せた。

 

 激戦の末、アイアスは全身を八つ裂きにされて戦死した。エウヘニアはそれを見て発狂し、敵陣へと駆けて行ったきり戻らなかった。残ったのはトバルと死体だけだった。

 

 アイアスたちが死んで二日後。珍しく攻撃が止んだその夕方、トバルは疲労しきった体で死体を運びつつ、街道を都市ヴァルシヴァへ進んでいた。

 

 ふと目の前に、建物が見えた。なんということはない、この地方の一般的な民家。彼は誘蛾灯に引き寄せられる羽虫のように、ふらふらとそこへ向かった。

 

 民家の中は、死体で溢れていた。ここは野戦病院だったらしい。腕を欠き、足を失い、苦悶と絶望の死に顔を晒した、無数の死体。死臭と、肉片と、血痕と、蛆と、魔蝿の糞。

 

 トバルは外へ出ると、あまり残されていない魔力をどうにか捻り出して、熱放射術式を組み立てた。魔王軍の死霊術師に利用されないために、死体は焼却しなければならない。

 

 民家は、簡単に燃え上がった。はじめはやる気なく黒煙がゆるゆると、そのうち、魔竜の舌のごとき紅蓮の炎が轟々と、血潮と悪臭に染められたその家を消し炭へと変えていった。

 

 その時だった。突如、農家の中から絶叫が響き渡った。この世のすべての苦痛のうち、最も大なるもの、すなわち生きながらにして焼かれる者の絶叫が、トバルの魂を凍りつかせた。

 

 生存者がいたのだ!

 

 助けようか!? トバルは民家を見た。しかし火勢はますます強い。水魔法で消火するにも、土魔法で鎮火するのも、今彼に残っている魔力量では不可能だった。

 

 悩んでいる最中にも、絶叫は続いた。そして次第に小さくなり、やがて聞こえなくなった。

 

 トバルはいたたまれず、妹の死体を背負って逃げ出した。もはや、涙さえ出なかった。

 

 

☆☆☆

 

 

 それからは、また苦闘の日々の繰り返しだった。空から迫る魔竜と有翼魔獣、地から這い出てくる蜘蛛型妖魔。いずれも何とか退けたが、もはや気力体力共に限界だった。

 

 ある廃村の広場で、トバルは荒い呼吸をしながら、全身を地面に投げ出していた。一週間近く、水も食も口にしていない。手は萎え、足も一歩も動かせない。魔法を放つことも、死体を運ぶこともできない。

 

 耳をつけた地面が、魔物が放つ独特の振動音を伝えてくる。どうやら、魔王軍がここに来るのも時間の問題らしい。

 

 死体を見るトバル。ナアマはただ寝ているだけのようだった。可愛い寝顔。これまでの長い旅の中で、妹に対する愛情は増すばかりだった。彼はなんとかして、妹を故郷に連れ帰りたかった。

 

 しかし、もう妹を運ぶことはできない。ならば、骨だけでも持って帰るべきでは? 火葬に付して、妹の遺品である黄金の小壺に香油を満たし、それに遺骨を納めたならば?

 

 トバルは杖を構えた。そして、ブツブツと魔法を詠唱し始めて、それを突然やめた。

 

 彼の心はその時、ある疑念に満たされていた。あの民家、あの絶叫が、彼の脳内で蘇る。

 

 もしも妹が生きていたら? 呪文を掛けたら妹が絶叫して起き上がり、生きたまま炎に焼かれて灰になっていく……

 

 起こるはずもないことを予想して逡巡し、杖を下げたその時だった。村の入り口から雄叫びを上げて、魔王軍の剽騎兵三騎が突入してきた。トバルは咄嗟に射撃魔法を連発し、何とか三騎を仕留めた。

 

 だが、この襲撃と突如沸き起こった恐怖感が、彼を最後の決断へと促した。

 

 時間がない。妹の死体をどこかに隠そう。

 

 お誂えむきの場所があった。それは、村の共同井戸だった。半壊し、水も枯れているが、死体を隠すにはちょうど良い。トバルは、恐怖に震える手で妹の死体に縄をかけると、それを操って妹の死体を井戸の底へ下ろし始めた。

 

 不思議とこの間、魔王軍の追撃はなかった。だがその分、トバルを襲った恐怖感は尋常なものではなかった。もしこの間隙を襲われたら……? 彼は何度も後ろを振り向き、妖魔がいないか確認した。

 

 死体は無事に井戸の底に下ろせた。トバルは土魔法で井戸の内壁を崩壊させ、死体を完全に埋没させた。

 

 廃村をあとにし、都市ヴァルシヴァに向かう間、トバルは心中、誰に対してでもなく、言い訳をしていた。約束を違えたわけではない。妹の死は私が故郷に伝える。遺体はしっかりと隠してきた。生き残るために、ああするより他はなかった……

 

 しかし、彼の脳内で、彼以外の誰かが、残響音を伴ってこう叫ぶのだった。

 

 お前は妹を捨てた。お前は妹の死体を捨てた。お前は妹の最期の約束を捨てた。お前は妹への愛を捨てた。お前は人間の尊厳を捨てた……

 

 ヴァルシヴァに辿り着いても幻聴は消えなかった。むしろ、日増しにそれは大きくなるようだった。彼の精神は徐々に平衡を欠いていった。

 

 

☆☆☆

 

 

 魔王軍は間をおかずウィズドゥラ川を渡河して、都市ヴァルシヴァへ猛攻を仕掛けた。人間軍は城壁で、砦で、街路で、アパルトマンで、工場で、橋で、教会で、ありとあらゆる場所で、ありとあらゆる武器を持って熾烈な防衛戦を展開した。都市は傷つき、急速に死の色を帯びて、崩壊していった。

 

 トバルもまた、戦列に加わった。戦力の払底した人間軍にとって、魔術師は金塊よりも貴重な存在となっていた。

 

 ある日、トバルは、異様な敵に遭遇した。

 

 それは、人間だった。いや、正確に言うならば、それは元人間の、動く死体の軍勢だった。死霊術師に操られていた。

 

 その先頭を歩く死体に、トバルの目は釘付けとなった。あの黒髪の死体、あの一糸纏わぬ生白い死体、あの腹に大穴を空けた、芸術品の如き美しさを誇る死体。あれは、我が妹、ナアマではないか……?

 

 食い入るように見つめるトバル。死体が突然、彼の方を向いた。黒い眼窩には眼球がない。動くはずのない顔面の筋肉をぎこちなく動かして、死体は不似合いなほどに美しい声で言った。

 

「おにいちゃん」

 

 それを聞いた瞬間、トバルは逃げ出した。呼び止める仲間も、立ちふさがる兵士も押しのけて、彼はひたすら走って逃げた。

 

 その間にも、彼の脳内では妹の声が響いていた。

 

 おにいちゃん……おにいちゃん……

 

 味方の陣地には戻らなかった。数日間、当てどもなく地上の廃墟を彷徨ったあと、トバルはいつの間にか地下水道へと入り込んでいた。

 

 

☆☆☆

 

 

 わずか地盤一枚に隔てられているだけなのに、地下水道では地上の苛烈な戦闘と遠く離れていた。兵士たちの断末魔も、魔獣の咆哮も、火力魔法の砲声も聞こえない。蟲の群れが這う潮のようなざわめきと、ドブネズミの鳴き声と、水滴の垂れる音しかしない。

 

 それから、トバル自身の足音。それはどんなに気をつけていても何倍にも増幅されて、地下水道全体に響いてしまう。

 

 力なく、途切れがちの光源魔法を灯しながら、トバルは地下水道を逃げるように歩き回る。

 

 彼は、妹について思い返していた。ナアマは、大人しくて優しい子だった。青い石と燃える空気で有名な村エノクで、双子の兄妹として生まれたトバルとナアマ。勇者一行が来た時、怖がる妹を説得し外へ連れ出したのは、他ならぬトバルだった。

 

 旅は楽しかった。村の外の世界は刺激的で驚きに満ちていた。ただ、トバルにとって、妹が思いを寄せる勇者はまったく気に食わなかったが。

 

 そう、旅が進むに連れて、ナアマは勇者に着実に惹かれていった。しかし、勇者のそばにはいつも寄り添うように美貌の魔術師ルジャがいた。

 

 あの決戦前夜、トバルのもとへ、ナアマは泣きながら戻ってきた。詳しくは話さなかったが、どうやら失恋したようだった。

 

 そんな妹を、トバルは冷たく突き放した。決戦を前にして恋だの愛だの、そういう話をしたくはなかった。妹のめそめそとした軟弱さがいつにも増して癇に障った。

 

 そして何より、自分の「最愛の妹」が勇者に惚れているということ自体に、言いようのない不快感を覚えた。

 

 そう、彼はナアマを愛していた。いつの頃からは知らないが、彼はナアマに家族愛ではなく、一人の女性に対する愛を抱いていた。叶わぬとは知りつつも、禁忌とは知りつつも、ナアマと結ばれ、ナアマと子を成したいと願っていた。

 

 妹を捨てたのは、実はあの時だったのではないか? トバルはそう思った。勇者に思いを寄せ、結果傷ついた妹に寄り添わず、突き放し、さらなる悲嘆へと追いやったあの夜。あの時既に、自分は妹を捨てていたのでは……? 愛する者を傷つける残酷な愉悦を得る代償として……

 

 

☆☆☆

 

 

 突如、トバルの光源魔法に揺らぎが生じた。一斉に、何千もの大きなドブネズミがそこここから大急ぎで逃げ出し、蟲の大群が潮のようなざわめきを立てて走り去った。

 

 トバルは光を消し、息を潜め、壁に張り付いた。何かがぴちゃぴちゃと水音を立てて、こちらへ歩いてくる。どうやら、向こうの角までそれは来たらしい。

 

「おにいちゃーん……おにいちゃーん……」

 

 声が響いてくる。間違えようのない、愛する妹の声。それはだんだんとこちらに近づいてくる。今度こそはという確信を持って、声の主は確実にトバルの元へ近づいてきた。

 

 トバルは意を決して壁から離れると、前方に向けて最大出力で光源魔法を放った。

 

 揺らめく光に照らされて、蝋のように真っ白な全裸の死体がそこに立っていた。

 

 掠れた声で呼びかけるトバル。

 

「ナアマ……」

 

 死体は、確かに笑った。空っぽになった真っ黒な眼窩をこちらに向けてくる。ぽっかりと開いた口から丸々と太ったドブネズミが飛び出した。

 

「おにいちゃん」

 

 ひたひたと、死体は両手を差し伸べてトバルに迫った。腐肉の臭いが強くなる。

 

 その左胸に、思わず彼の視線が引き寄せられた。

 

 幾何学模様の、魔王軍の死霊術師団の焼印。

 

「ウォおオッ!!」

 

 反射的に、トバルは切断魔法を放っていた。半狂乱になって、妹も見ず、彼は魔法を盲打ちして逃げ出した。

 

 しかし、何かが足を捕えた。それは、妹の切断された左腕だった。逃さじと、万力のような力でトバルの足首を掴んでいる。

 

 姿勢を崩したトバルは、水飛沫を上げて水路に落ちた。前日の雨で増水した勢いそのままに、水流は彼を死体やガラクタや汚物と共に地下の奥へ奥へと運んでいった。

 

 

☆☆☆

 

 

 ここは、何処だ。ここは、地獄か?

 

 気がつくと、トバルはうつ伏せで倒れていた。酷く痛む体を酷使して何とか上体を起こす。

 

 そこは大きな広場だった。半永久蓄光石がふんだんにあしらわれたシャンデリアが、高い天井からいくつも下がっている。どうやら昔、王族の一時避難場所として設計された所らしい。

 

 トバルは立ち上がろうとした。しかし、それは不可能だった。全身を打撲した上、左足首と右足の大腿骨は完全に折れていた。

 

 ここが終の住処か。トバルはひとりごちた。逃げて逃げて、逃げ続けて、最後にはひとりぼっちになって、ここで朽ち果てるのか。

 

 それは甘美な誘惑だった。現世におけるあらゆる苦痛からの解放。妹に肉欲を抱いたという罪の意識からの解放。妹の死体を捨てたという癒やされ難い罪悪感からの解放。

 

 ドン、と地下空間全体が揺れた。

 

 その振動は回を増すごとに大きく、頻繁になる。まるで小さな子どもが、貰ったばかりの兵隊太鼓を力任せに打つように。

 

 トバルには、それが何なのか予想がついた。いや、予想ではなく、直感していた。全身の感覚器官が告げる、脳内で総合されるまでもない生の神経伝達情報。それが彼に、この振動の正体を教えていた。

 

 広場の天井からパラパラと石片が落下してくる。その破片は次第に大きくなり、遂に一筋の亀裂が生まれた。

 

「おにいちゃん」

 

 そこから覗いたのは、妹とまったく同じ色と形と輝きを放つ巨大な瞳だった。故郷の村祭りで、旅芸人の踊りを見て楽しげにくるくると動かしていた、あの失われたはずの綺麗な緑色の目。

 

 目はギョロギョロと動き、何かを探しているようだった。そして数秒後、動きが止まった。

 

「おにいちゃん」

 

 ナアマは割れ目に手を掛けた。頭を中へ入れようとしている。先程よりも、妹は大きくなっていた。むしろ、大きくなりすぎていた。頭は目算で直径三メートルは超えており、広げた手のひらは連隊旗のように大きかった。

 

「おにいちゃん、おにいちゃん」

 

 トバルは這いずって逃げようとした。そんなことをしても無駄なことは分かっていたが、意識せずに体は動いていた。それでも、一メートルすら動くことはできなかった。

 

「おにいちゃん」

 

 ついに、肉袋を力一杯叩いたような音を立てて、割れ目から妹が降ってきた。

 

 その姿は、さながら芋虫だった。

 

 それは、多種多様な死肉の集合体だった。地上の激戦で殺され、捨てられ、地下世界へ流されてきた無数の人間の死体や魔物の残骸が、ナアマを核として集合体になったのだった。

 

 無数の紫色の血管が全身に走る芋虫の太く短い胴体に、ナアマの頭と両腕が生えている。ブヨブヨとしたその体は、濁って腐った緑色の体液を撒き散らしていた。

 

「おにいちゃん」

 

 肉片をこぼし、体液を壁面に擦り付けながら、妹はトバルへずるずると迫った。そして、その両手を伸ばして兄を掴まえると、自分の視線に合うように持ち上げた。

 

「おにいちゃん」

 

 ここに至って、トバルの心は、穏やかそのものだった。村にいた頃、暖炉のそばで二人で寛いでいたように、穏やかな声で話しかける。

 

「ナアマ。お前を捨てて行って悪かった。許してくれ」

 

 妹は、静かに兄を見つめていた。その目は春の湖の水面のように澄んでいる。

 

「おにいちゃん」

 

 トバルは、息を大きく吸って、また大きく吐くと、決心したように言った。

 

「ナアマ。私はお前を愛している。この世の誰よりもだ。もうお前を捨てたりしない。お前といつまでも一緒にいたい。お前は、私を許してくれるか?」

 

「おにいちゃん」

 

 ナアマは、両手でトバルを掴んだ。そして、愛おしげな表情を浮かべて、まず兄の頭部をビスケットを食べるように齧ると、次に胸と両腕、その次に腹部、最後に腰と両足を、バリバリと音を立てて噛み砕き、そして満足そうに飲み込んだ。

 

「おにいちゃん……」

 

 ずりずりと、巨体が擦れる。ナアマは切なそうに兄を呼んだあと、その芋虫の体を大儀そうに引き摺って、地下水道の暗黒の彼方へと姿を消した。

 

 

☆☆☆

 

 

 半年後、人間軍は復帰した勇者アンジェイ・ボナベントゥラの指揮のもと、ヴァルシヴァ攻防戦で奇跡的な勝利をおさめた。

 

 その際、勇者は地下水道で、ある怪物を討伐したという。その怪物は、瓜二つの顔をした男と女の頭を持つ巨大な芋虫で、地上から流れ落ちてくる死体を貪り食っていたという。

 

 五年後、勇者は魔王を討ち果たした。巨大な芋虫の話は、次第に人々から忘れ去られていった。




※以下、作品メモとなりますので、ご興味をお持ちでない方は、お手数ですが非表示設定にするか、ここで読み終えてくだされば幸いです。

・らいん・とほたー「ナアマの亡骸」作品メモ

 エブリスタで定期的に開催されている妄想コンテスト、その第85回「あの日捨てたもの」に応募した作品です。2018年10月04日公開。

 キャッチコピーは「妹の死体を捨てた兄は、地下世界で暗い再会を果たす」

 コンテストでは佳作に入選し、選評まで貰いました。褒めてもらうのはやはり何より嬉しいこと。ほいれんで・くーの作品執筆に対する自信が増しましたね。

 今回はあまり加筆をしていません。力を抜いてさらっと書いてしまった作品ですが、かえってそういう作品ほど余計なものを含んでいなくて良いのかもしれませんね。

 あ、テーマを見たときは、「あの日捨てたものか……捨てたものでインパクトがあるものと言えば……やはり死体だろ!!」という感じでした。

 ちなみに、トバルカインとナアマが近親相姦をして生まれたのが、悪魔アスモデウスと言われています。

 次回もお楽しみに!


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11. 真っ白なマナ

アレクサンデル・クルチャトフ「祖国は自力で成し遂げた(Родина делала сама.)


 司祭は気の毒そうな顔をして私に言った。

 

「典型的なビエールィ魔法原虫性の胃腸炎ですな、リディア・ウロジーミロヴナ。ここの風土病です。いえ、心配は要りません。毎日薄い粥だけを食べて、神様にお祈りをすれば、一ヶ月で回復します。ただし、絶対安静ですよ」

 

 十字の傷跡のあるやや禿げ上がった額を撫でながら、司祭は私に療養生活中の注意点をこまごまと説明した。決して粥以外は口にしないこと、飲酒は控えること、外出も控えること、等々……

 

 話が終わると司祭は椅子から立った。

 

「あとでアンナを寄越します。貴女に神様のお恵みがありますように」

 

 寝台に横になったまま型通りに礼を言って、彼が部屋から出て行ったのを見送ると、私は大きく溜息をついた。

 

 まったく、つくづく私には運がない。

 

 従軍時代の後遺症を癒やすために転地療養を勧められ、連邦首都から東南に4500リーグ離れた辺境の、このネシャースチエ村にやって来たのはつい半月ほど前のことだ。

 

 電気も、エーテル自動車も、魔石ラジオもない。黄土と、埃と、日干し煉瓦の鄙びた村。

 

 村西方のシンの荒野から吹いてくる爽やかな風と、雪深い本国では拝めない暖かな日光に到着当初こそ感動した。

 

 しかし感動は次第に幻滅へと変化した。

 

 教師として私は赴任してきたが、仕事はないことが早々に分かった。勉強に限らず、医療相談や裁定、告解など、すべての精神的事柄に関する権威は、この村においてはただあの司祭のみが担っていた。ぽっと出の余所者、しかも女たる私の言うことなど、誰も聞いてくれなかった。

 

 当の司祭からも、釘をさされた。

 

「ここでは科学と魔術と政治の話はしないようにお願いします。村人に必要なのは神の言葉だけです」

 

 おまけにこの年は記録的な凶作だった。村人たちは冬が越せるかと非常に気を揉んでいた。例年ならばふっくらとした柔らかな白パンを食べられるこの時期、村人たちは薄いカラス麦の粥を啜っていた。

 

 仕事もしていないのに、貴重な食料を食い潰す存在。私は明らかに村にとってお荷物だった。

 

 そして、この病気。痛む腹を抱えて毛布を被る。兵隊時代に運を使い果たしたのだろうか? そういえば辛くも命を拾ったことなど数知れない……

 

 

☆☆☆

 

 

「先生! 入りますよ!」

 

 素早いノックの後にドアが開かれて、白いエプロンドレスを身に纏った一人の少女が部屋に入ってきた。その手には粥の皿が載った盆。

 

 アンナが来てくれた。

 

 この地方の人間特有の、浅黒い肌と黒い髪をした彼女は、綺麗な蒼い目をきらきらと輝かせて、元気な声で私に告げた。

 

「先生! お粥を持ってきました! これから毎日、私がお世話しますからね!」

 

 その可憐な顔立ちでにっこりと笑うアンナ。私も笑みを返した。

 

 この村に来て唯一良かったと思えること。それが、このアンナとの出会いだった。彼女はまだ15歳、早くに両親を失い教会で育てられたという。

 

 他の村人が私に無関心か敵意のいずれかを向けてくる中、アンナだけが私に優しく接してくれた。彼女はその瞳の色と同じくらい、美しく澄み渡った心を持っているようだった。

 

 アンナは賢かった。知識はないが、人の話をよく聞き、素直で、なにより明るかった。

 

 枕元に盆を置いたアンナが、私の顔を覗き込んでくる。

 

「先生、やっぱり顔色が悪いですね……授業はもういいですからね」

 

 私は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。彼女のたっての希望で、今日から授業をするつもりでいたからだ。

 

 アンナはせかせかと動き回って、湯を沸かす準備をしている。ドレスのフリルがふわふわと踊っている。

 

「あっ、そうだ! 先生が元気になったら、村外れのお花畑に遊びに行きましょう! この時期なら、お花はそんなに咲いてないけど、あそこには綺麗な蝶がいっぱいいるんです。真っ白で、大きくて……えっ、標本にするって? ひどいわ先生!……」

 

 

☆☆☆

 

 

 その日の夜のことだ。読書を終え、そろそろ寝ようとしていた私は、突然鳴り響いた大爆発音に仰天した。

 

 ガタガタと振動する家屋。ビリビリと鳴る窓と家具と食器。

 

 戦場でも聞かなかったような音だ。野戦重砲の一斉射撃でも、大型の航空爆弾でも、大火力魔法でも、これほどまでの音では決してない。

 

 空から星でも落ちてきたのだろうか?

 

 私は窓から顔を出し、周囲を見渡した。すると、西方のシンの荒野の上空に、眩いばかりに輝く光の柱が三本立ち昇っていた。

 

 不気味なほど白く、凄まじいまでの存在感を放つ三本の光の柱。それは、十字架のようにも見えた。

 

 村人たちも外に出て、この怪異を目の当たりにして騒ぎ始めた。口々に「おお、神よ!」とか、「不吉だ!」などと喚いている。

 

 しかし、数分もすると光の柱は忽然と姿を消してしまった。どこを見渡しても、その痕跡すら認められない。不思議なこともあるものだと、村人たちはブツブツ呟きながら家へ戻って行った。

 

 私も、辺境特有の気象現象だろうかと訝しみながら、寝台に横になった。まったくとんだところに療養に来てしまった、と嘆く気持ちは、次第に夢の中に溶けていった。

 

 

☆☆☆

 

 

 日の出前に起きるのは、私の兵隊時代からの習癖だ。その日もいつも通りの時間に起きた。

 

 ほどなくして私は、寝台の上で横になったまま、家の外から漂ってくるある異様な雰囲気を感じ取った。

 

 静かすぎるのだ。

 

 この雰囲気を私は良く知っていた。これは、雪が降り積もった明け方の故郷の空気とよく似ている。

 

 私は窓を開けた。

 

 目に飛び込んできたのは、一面の白だった。

 

 屋根も道も、空き地も塀も、教会の尖塔も、見渡せる限り一面が白い何かに覆われていた。

 

 雪ではない。季節ではないし、そもそもこの辺境に雪が降ることは決してない。

 

 一体これはどういうことかと思案している間に、村人たちも目覚めたらしい。あちこちで大騒ぎする様子が伝わってきた。

 

 私は横になった。早朝恒例の鋭い腹痛に襲われたからだ。詳しいことはアンナに訊くとしよう……

 

 

☆☆☆

 

 

 粥を持ってきてくれたアンナは、顔を紅潮させてこの白い事件について詳しく話してくれた。

 

「水を汲もうと外に出たら一面の白で、本当にびっくりしました。近所のみんなも口々に『これは何だろう』ってずっと言ってて。地面に3センチくらい降り積もってるんです。触ってみたんですけど、粉っぽくて、綿みたいに軽くて、蜜のような良い香りがするんです」

 

 アンナはサモワールでお茶を沸かしている。

 

「そしたら、あの村一番の大食らいのピョートル・アレクサンドロヴィチが、白いのを口に入れたんです。みんな『あっ!』と叫びました。でも、ピョートルはケロッとしてて、『こりゃ物凄く美味ぇぞ! こんな美味ぇものは今までに食ったことがない!』って喜ぶんです。それからはみんなも食べ始めて……」

 

 わたしはお茶を一口飲むと、静かにアンナに尋ねた。貴女もそれを食べたのか、と。

 

 アンナは首を振った。

 

「いいえ、その時は食べませんでした。司祭様に食べて良いものか訊いてみないとって思ったから……みんなも私の意見に賛成で、それで、連れ立って教会に行きました。行くと、司祭様はもうすべてご存知で、村のみんなを集めなさいと言いました。全員集まると、司祭様は聖書を手にして、『昨晩の光の柱は、主が我々にお恵みを垂れられる徴だったのです。そして、村に降り積もった白い物体、これこそ窮乏の村に神が食物として与えられたパン、「マナ」なのです。これからはこのマナを日々の糧として、この飢饉を乗り越えようではありませんか』と仰せになりました」

 

 そこまで話すとアンナは、黒い壺を私に示した。中には、白いものがいっぱい詰まっている。マナだ。

 

「それから私達、家に戻って壺を持ち出して、マナを集めたんです。村の中だけじゃなくて、外の野原とか畑にも厚く降り積もってて、とても集め切れないくらいたくさんありました」

 

 そう言うと、アンナは大きな木製の匙を壺に突っ込んで、マナを口へと運んだ。

 

「うん! やっぱりすごく美味しい! 舌が溶けちゃいそう! 司祭様が誕生日にくれる砂糖菓子も美味しいけど、これはそれ以上だわ! やっぱり神様の贈り物だからかしら、先生?」

 

 それからしばらくお喋りをして、アンナは帰って行った。

 

「これからもっと集めに行くんです! もっと、郊外のほうへ!」

 

 

☆☆☆

 

 

 アンナが去ってから、私の心中はある疑念に満たされていた。

 

 この白いものは、本当にマナなのか? 遠い昔、王国を脱出し、約束の地を目指し、荒野を彷徨う民へ神が恵まれた、あの霊妙なる食べ物なのか?

 

 いったい、聖書に出てくるマナが、この現代において降ってくるなど、あり得るのだろうか?

 

 村人たちは司祭に盲従している。司祭の言う事ならば間違いはないと。だが、このような異常事態をすべて「聖書のとおりだ」と片付けて良いのだろうか。科学的魔法技術全盛のこの時代にあって? 神の死んだこの唯物論的現代世界にあって?

 

 もし司祭が間違っていたら、どうなる?

 

 背筋に寒いものが走った。不吉な予感がした。

 

 

☆☆☆

 

 

 だが、私の予感など単なる杞憂に過ぎなかったようだった。あの日から一週間が経って、村は活気を取り戻し、むしろ以前よりも陽気な雰囲気に包まれている。

 

 今日もアンナが粥を運んできてくれた。彼女の肌は健康的で美しいツヤを帯びている。前から可愛らしい娘だったが、今はもっと綺麗になった。

 

「マナのおかげなんです。マナを食べると元気になって、頭がスッキリとして、お肌のツヤが増すんです。中にはマナを水に溶いて、それを体に塗りたくる人もいて……寝たきりだったソーニャお婆ちゃんもマナを食べてから起き上がれるようになって、今ではみんなと一緒にマナを集めてます」

 

 寝台の脇に腰掛けたアンナは、蒼い目を輝かせている。

 

「司祭様の仰った通り、やっぱり神様からの贈り物なんだって、今ではみんな信じてます。もちろん、私もです!」

 

 私は、病気で食べられないから残念だと言った。

 

「本当に! 早くご病気が治ると良いですね。でも、あのソーニャお婆ちゃんが治ったくらいだから、先生も食べたら……?」

 

 私は、内心を秘しつつ言った。だんだんこのお粥にも愛着が湧いてきた、貴女が作ってくれているからだろう、それに、司祭は粥以外を食べるなと言った……

 

 アンナは笑った。

 

「嬉しい! これからもお粥ならいくらでも作ってあげますからね! あっ、そういえばもう一つ話を忘れてました。あの大食らいのピョートルなんですけど、最近家から出てきてないんです。元気だけが俺の取り柄、なんて普段言ってるから、多分病気ではないと思うんですけど……」

 

 その時、私はアンナの黒髪の中に白い毛を何本か見た。若く健康な彼女に、なぜ白髪が? しかし、うら若い乙女にそんなことを告げるのは躊躇われたので、私は黙っておいた。

 

 

☆☆☆

 

 

 変化は、その次の日から徐々に現れ始めた。

 

 朝、部屋に入ってきたアンナを見て私は愕然とした。

 

 髪も、肌も、白くなっている。

 

 驚く私に、アンナは暗い顔をして話しかける。

 

「一晩で先生みたいに白い肌になっちゃいました。村のみんなも一緒なんです、髪も肌も白くなって……ちょっと不安になって、司祭様にお話を伺いに行きました。司祭様も白くなっていました。司祭様は額の傷跡を撫でながら、『これはマナを食べたことにより私達が浄化されている証拠です』と仰られました」

 

 でも、とアンナは俯いて話を続けた。

 

「私にとって、黒い髪と浅黒い肌は死んだ父と母を思い出させてくれる何よりのものでした。私、マナを食べることで白くなるなら、お腹が減っても良いからもう食べないって、決めたんです。でも……」

 

 顔を上げたアンナの目尻には涙が浮かんでいた。

 

「マナを食べないとすごく体の調子が悪くなるんです! フラフラして、目もぼんやりして、心臓がドキドキするし、手が震えるんです。普通のお粥を食べても、なんだか泥を食べてるように不味く感じられて……マナを食べたら元通りになるんですけど……だから、もうマナはやめられません」

 

 

☆☆☆

 

 

 明くる日の朝、凄まじい勢いで扉が開き、アンナが飛び込んできた。私に抱きつき、蒼い瞳からボロボロと涙を零して、嗚咽を漏らしている。

 

 優しく彼女の背中を撫でて落ち着かせてから、何があったのかを訊いた。

 

「昨日、一週間以上もピョートルが家から出てこないのはやっぱりおかしいってことになって、みんなで彼の家に行ったんです。鍵が掛かっていたから、仕方ないから抉じ開けて……そしたら、中には、中には……」

 

 ぶるりとアンナは身震いした。

 

「中には、すごく大きな芋虫がいました。真っ白でぶよぶよで、太くて長くて、人間みたいに大きかったんです。ピョートルはどこにもいなくて、空の壺がいっぱい転がっていました。みんな怖くなって、芋虫を家に閉じ込めました。扉には釘を打って……」

 

 アンナは私を強く抱き締めた。

 

「あの芋虫はピョートルなんじゃないかって、そう思うんです。みんなも同じ考えだと思います。それに、私、気になったから家に帰って自分の体をよく見てみたんです。そしたら……」

 

 そこでアンナは言葉に詰まった。

 

 私は、話したくなければ話さなくて良いと言った。

 

 しかし、アンナは決意を固めたようだった。おもむろに立ち上がると自分の服を脱ぎ、上半身を晒した。

 

 彼女の両脇腹に、何か異様なものが生えていた。芋虫の脚のような突起物が、一定の間隔を置いてそれぞれ五つずつ並んでいる。

 

 アンナは、消え入りそうな声で言った。

 

「先生、私どうしたら……」

 

 私には、彼女を慰め、もうこれ以上マナを食べないよう勧告するしかなかった。それはたぶんできないだろうと、心の奥で諦めを抱きながら。

 

 

☆☆☆

 

 

 三日後、遂に決定的な事態が勃発した。

 

 覆い難い疲労感を顔に浮かべて、アンナはその大事件について語った。

 

「ピョートルの家が突然崩れたんです。半壊した家の中から大きな白い蝶が出てきて……小型の飛行機くらいはありました。その蝶はふわりと飛び上がると、近くにいたサーシャを捕まえて、捕まえて……」

 

「あのストローみたいな口をサーシャのお腹に突き刺したんです!」

 

「それで、中身を吸い尽くしてしまいました。みんなは銃を撃って、なんとかやっつけたんですけど、蝶の肉と体液がマナと同じ味だと気づくと、群がりよって死体を食べてしまいました……あんなに優しかったみんなが、まるで野犬みたいに吠えあって口を真っ白にして暴れて……」

 

 

☆☆☆

 

 

 その事件の次の日から、村の至るところで繭が張られ、そして白い蝶が生まれ続けた。

 

 アンナから聞いたところによると、蝶は例外なく村人を襲って体液を吸い、村人は逆に蝶を狩って屍肉を貪り食うという地獄絵図が村中で繰り広げられているという。

 

 窓越しに眺めるだけでも、その様子はよく見て取れた。断続的な銃声と、叫び声と、絹を裂くような悲鳴が、朝から夜まで、ひっきりなしに聞こえてきた。

 

 村の指導者である司祭は、数日前から姿を見せなくなっていた。アンナによると、司祭は一室に閉じこもり、ずっと聖句を唱えているという。収拾不能な事態を前に、神頼みをしているのだろうか。

 

 私の胃腸炎は回復しつつあった。まだ足取りは覚束ないが、この際そんなことは問題ではない。

 

 一刻も早くこの村から脱出しなければならない!

 

 私はアンナも連れ出すことにした。

 

 以前より更に白さを増し、腹部にきつく包帯を巻いたアンナは、案外すんなりと私の提案に乗った。

 

「はい、先生。もうこの村にはいられません。周りの人たちはほとんど、蝶になるか、それとも体液を吸われて死んでしまいましたし……」

 

 夜明けに落ち合うことにした。アンナは銃を手にして帰って行った。

 

 

☆☆☆

 

 

 だが、計画はあっさりと破綻した。その日の午後、久々に寝台から降りて荷物を纏めていた私は、予想だにしない悲劇に見舞われた。

 

 蝶の死体が突然空から降ってきて、私の部屋を圧し潰したのだ。

 

 病み上がりの肉体をなんとか動かし、二日後脱出することに成功したが、アンナとの約束の時間はとっくの昔に過ぎ去っていた。

 

 私は空を飛び回る蝶から隠れながら、村の崩壊した家々を巡り、食料や水や銃を探した。どの家にも空になった壺が転がっており、部屋の中には巨大な繭がいくつも鎮座していた。

 

 往来は、死体とむせ返るような甘い匂いで溢れていた。全身の体液を抜かれて骨と皮だけになった人間の死体。いずれも脇腹に芋虫の不気味な脚が生えている。撃ち落とされた蝶の死骸は、柔らかく食べられる部分はすべて食い千切られており、強烈な甘い香りを放っていた。

 

 生き残りの人間もいた。こちらが声をかけてもまったく反応せず、壺と銃を持って、ふらふらといずこへともなく立ち去った。

 

 必要なものを集め終えた私は、一縷の希望にかけて教会へ向かった。アンナはまだそこにいるかもしれない。

 

 だが、教会は半壊していた。崩れずに残っている高い尖塔には、巨大な繭がかかっている。

 

 呆然と、私はその壮絶な光景に見入っていた。すると、繭が目の前で破れ始めた。中で何かが蠢いている。

 

 羽化が始まったのだ。

 

 中から出てきたのは、ひときわ巨大な蝶だった。大型の爆撃機のように、その威容を尖塔の上から示していた。

 

 白い巨大な複眼が私を睨みつけている。捕食者の眼差しだ。私はその額に十字の傷が付いていることに気がついた。あれは、あの司祭の特徴だ。もしやと思い、私は呼びかけた。

 

 だが、蝶は私を認めると、大きな羽を羽ばたかせてまっしぐらに襲いかかってきた。

 

 突き出される口吻を、地面を転がることで避け、私は弾倉内の六発の銃弾を立て続けに蝶の頭部目掛けて撃ち込んだ。

 

 飛び散る破片。だが、まったく効果がない!

 

 蝶は、その巨大な体躯に見合わぬ俊敏さで体の向きを変えると、私に再度口吻を鋭く突き出した。

 

 今度は避けることができなかった。腹部に激痛が走る。真っ白な管が私の体液を吸い出そうと、圧力を高めているのを感じる。

 

 

☆☆☆

 

 

 絶体絶命のその瞬間だった。蝶に、上空から突如別の蝶が襲いかかった。新手の蝶は元司祭の蝶に馬乗りになり、口吻を頭部に勢いよく突き刺した。

 

 私は、はっきりと見た。その新手は、アンナと同じく、宝石のように綺麗な真っ青の複眼を持っていた。

 

 痛みに悶える元司祭の蝶は、アンナの目をした蝶を背中に乗せたまま、上空に飛び上がった。私は解放されたが、傷は重く、立ち上がることすらできなかった。

 

 上空では激しい空中戦が繰り広げられていた。数分か、それとも数時間か、二匹の蝶は追いつ追われつの激闘を繰り広げ、やがて両者ともに力尽きた。

 

 二匹は地響きを立てて落下した。もはや、どちらも動かなかった。私の意識もまた、腹部からの大量出血により、闇の中へと消えていった。

 

 

☆☆☆

 

 

 あの後、村には連邦の陸軍部隊がやって来た。防護服とマスクで完全装備した彼らは、死骸や、生き残りの白い人間や、羽化しかけの繭を、残さず火炎放射器で焼き尽くすか、エーテルが満ちたアルミ合金性カプセルへと収容した。

 

 尤も、気絶していた私はその光景を見ていない。収容先の病院のベッドで、内務人民委員部の男から聞かされたのだ。

 

 仏頂面をしたその男は、私がかつて所属した部隊について話すと、急に態度を軟化させた。

 

「話すなと命令されていますが、唯一の生き残りであり、また私の故郷から侵略者を追い出した部隊の一員だった貴女だけは特別です。先月、我が連邦は世界初の戦略魔力兵器の実験に成功しました。シンの荒野で、深夜極秘理に行われたその実験の結果、想定以上の魔力性降下物が発生しました。貴女のいた村に降り注いだ白い物体の正体は、それです」

 

「はぁ、マナ? それはとんでもない。あの真っ白な死の灰は人体を異界の生物へと作り変える作用を持った、紛れもない毒物です。それを大量に摂取したら……失礼、それはもうご存知でしたね。それにしても狂信者とは恐ろしい。やはり十年前に宗教を復興させたのは間違いでしたな」

 

 私は、蒼い複眼の蝶について尋ねた。彼は資料を捲った。

 

「……いえ、そのような個体を回収したとの記録はないですね。単なる見間違えでは? ところで……」

 

 彼はいずまいを正して言った。

 

「偶然ながら貴女はあの場に居合わせ、国家の最高機密を知ってしまいました。まったく潔白である貴女には申し訳ありませんが、これからは少し自由が制限されます。何、大したことではありません。これも国家への奉仕の一つだと思って、せいぜい励んで下さい……」




※以下、作品メモとなりますので、ご興味をお持ちでない方は、お手数ですが非表示設定にするか、ここで読み終えてくだされば幸いです。

・らいん・とほたー「真っ白なマナ」作品メモ

 エブリスタで定期的に開催されている妄想コンテスト、その第91回「白」に応募した作品です。2018年12月30日公開。

 キャッチコピーは「突如村に降り積もった白い物質。それは神の恵みの「マナ」か、それとも……」
 
 この「白」というテーマ、具体的なようでかなり幅が広く、正直なところを言ってしまえば「なんでもあり」なお題です。それだけに魅力的な設定とプロットをどう作るのか、どうすれば「白」を印象的な形で表現できるのか、かなり考えました。

 書いていたのはちょうど昨年の年末。なかなかテーマが決まらず悶々としていたところ、ふと小学生の頃に見たある恐ろしい事件を扱ったテレビ番組を思い出しました。

 それは、廃病院から盗み出された放射性同位体(確か放射線治療用のものだったと思います)が民間人に出回り、大勢の人間が被曝したというものでした(検索をかけたら、ゴイアニア被曝事故としてウィキペディアの記事がヒットしました)。おお、これをヒントにしようと思いつきました。

 あとは私の好きなモチーフ、「マナ」を組み合わせて、村が変貌する過程を書けば完成です。

 ちなみに当初の予定では、語り手の主人公はラーゲリ帰りの男性ということにしていましたが、アンナが服を脱ぐシーンでの整合性が取れないので、戦地帰りの女性になりました。そのほうが書いていて楽しかったですね。

 次回もお楽しみに。


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12. イレーネの世界

 夢現の境界を超越するのは、愛だけなのか。



 奇妙な夢を見ている。

 

 だいたい、僕は夢見が良い方ではない。むしろ悪夢ばかり見ると言っても良い。

 

 果樹園でリンゴ狩りをしていたら、もいだ果実に手と足が生えて、軍歌を歌いながら隊列を組んで行進を始める夢を見たり、あるいは、柔らかいケーキを口いっぱいに頬張ったら、ガリッと硬いものを噛む感触がして、吐き出してみると歯が全部抜け落ちていたという夢だったり……とにかく碌なものではないのだ。

 

 古代人たちは、夢見というものを殊更重要視したという。例えば、メディアの王アステュアゲスは、娘マンダネの子宮から葡萄の樹が生えて全世界を覆う夢を見て仰天したという。祭司の夢診断によると、これは王国の支配権がマンダネの息子に奪われることの暗示だというので、王はマンダネの子供を殺すように命じたのだとか。

 

 そういった古代人たちの夢診断に倣えば、僕は毎晩とんでもない運命を予告されているようなものだ。もいだ果実が分列行進をしたり、歯が抜け落ちたりという夢は、どう考えても吉兆を暗示しているとは思えない。

 

 話を戻そう。今見ている夢の内容なのだが、これは悪夢ではない。確かに奇妙ではあったが、実は僕はこれを既に知っている。

 

 不定期にだが、何度も同じ夢を見ているのだ。物心ついた頃から、もう何百回となく。

 

 僕は高いところにいる。ピンク色の大空と、紫色の大地が見渡せる、天高く雲を腰掛とするような、そんな高いところにいる。

 

 眼下には、沢山の人たちがいる。豆粒、いやゴマ粒のように小さい。古代ローマ人の白いトガのような衣服を纏っていて、整然とした正八角形の隊列を組み、全員が跪いている。手を固く組み、頭を深く下げ、なにやら真摯に祈りを捧げているようだ。そう、仏教でいうところの、五体投地というものに似ている。

 

 やがて、一人の妙齢の女性が人々の前に立った。色鮮やかな緋色のトガを身に纏っていて、その髪の色は美しい銀色だ。彼女は石造りの大きな祭壇の前に立ち、天に向かって恭しく一礼した後、なにやら祝詞のようなものを読み上げ始めた。

 

「……我らが光、我らが生命の源、主よ、永遠なる真実よ。汝の他に我らの望みなし…」

 

 だいたいこんな言葉が続く。どうやら彼女は巫女か、祭司長か、そういう立場の人間のようだ。

 

 長い祝詞が終わると、集団礼拝はクライマックスへと突入する。僕はこれが嫌いだ。回を追うごとにだんだんと過激になってきているからだ。

 

 今回は、赤い毛をした可愛らしい仔牛が連れてこられた。それも何頭も。仔牛はそれぞれ金のモールと黄色い織物で飾り付けられている。祭司長は、鈍色も鮮やかな銀のナイフを取り出し、それを仔牛の喉へ向かって……

 

 仔牛の哀れな断末魔の叫び。金の皿が滴る血を受ける。儀式は粛々と進行する。

 

 息絶えた仔牛から心臓が取り出され、それが祭壇に捧げられる。心臓には香油と香料植物の粒が振りかけられる。祈りの言葉、焼かれる仔牛の肉、立ち上る灰色の煙、漂ってくる燃える脂の臭い……

 

 何度見てもここだけは嫌な場面だ。

 

 

☆☆☆

 

 

「おはようございます、泉美(いずみ)様」 

 

 初雪のように清らかな女性の声が僕を覚醒へと導いた。目を開けると、そこには見目麗しい若い女性がいた。

 

 綺麗なプラチナブロンドにホワイトブリム、端整な紺のメイド服をスレンダーなその身に纏い、瞳は蒼く怜悧な輝きを放っている。

 

 イレーネだ。

 

 彼女を見て安心する。今日も、無事にあの夢から脱出できたのだと。僕は強いて平静さを装って返事をした。

 

「おはよう、イレーネ」

 

 だが、イレーネには僕の内心などお見通しのようだ。いつものクールな無表情に、少しこちらを気遣うような色が見える。

 

「泉美様、お顔の色がよろしくないようですが……?」

 

 イレーネは僕の手を取って脈をとり始めた。彼女のつけている香水の上品な香りがほのかに漂ってくる。

 

 具合が悪い時は、いつもこうやって僕の状態を確認するのが、小さい頃からの彼女の習慣だった。

 

 ひんやりとした彼女の指。優美で精緻な氷彫刻のようだ。僕の体温で溶かしてしまわないかいつも心配になる。

 

「……いつもより脈拍が乱れています」

「ははは……君に隠し事はできないな。そう、また例の夢を見たからかもね」

 

 僕はイレーネに夢の内容を説明した。いつものように、大勢の人間が礼拝をしていて、祭司長が祝詞を読み上げて、仔牛が生贄に捧げられて……

 

「前に見たのよりも、仔牛の数が増えていたよ。それに、表情は遠くて見えなかったけど、祭司長の祝詞を上げる調子が、なんだか激しかったように感じたな。そう、なんか、いつもより鬼気迫るような……」

 

 あらゆる話題の中で何が一番つまらないかと言えば、それは他人の夢の内容を聞かされることだろう。それでも、イレーネは真剣に僕の話を聞いてくれた。まるで、あたかもそれが大事件であるかのように。

 

 僕が一通り話し終えた後、イレーネは瞳にうっすらと慈愛の色を滲ませて、静かに言った。

 

「お可哀そうに、さぞかしご気分を害されたことでしょう……今日は良いお天気です。少し外へおいでになるなどして、今日一日はどうか心安らかに、楽しくお過ごしください」

 

 

☆☆☆

 

 

 僕は体が弱い。はっきり言って、虚弱体質だ。それに年々酷くなっている。

 

 数年前まではまだ自分の足で歩けた。もっとさかのぼれば、一応駆けっこだってできた。それが今では車椅子なしでは移動すらできない。

 

 原因は不明。生まれ持っての体質なのか、それとも後天的なものなのか、それすらも不明。

 

 僕が生まれた、神門(ごうと)家は代々身体頑健な人が多く、祖父は健康なまま百歳まで生きたし、伯父は世界的な登山家だ。父も実業家としても激務を毎日こなしながら、健康上の問題は何一つ抱えていない。母の家系も似たようなものだ。

 

 それなのに僕ときたら、小さい頃からすぐ発熱はするし、黄疸は出るし、不整脈になるし、ありとあらゆる病気になるのだ。正直、立っている時間よりもベッドで横になっている時間の方が長いだろう。

 

 家がこれほど裕福で、行き届いた医療を受けられなかったなら、とっくの昔にこの世界にお別れをしているところだ。

 

 そんな僕にも、幸せだと思えることがある。それは、イレーネの存在だ。彼女が付きっ切りで僕のお世話をしてくれているから、僕は安心して毎日を過ごすことができている。

 

 イレーネは、まさに僕の守護天使だった。一般的に見て恵まれているとは決して言えない僕の健康状態を神が憐れんで、彼女が遣わされたのかと思われるほどだ。

 

 彼女は、僕が生まれて間もない頃、僕の両親によって拾われた。屋敷の門前にゆりかごに寝かされて置き去りにされていたらしい。産着にはカードが一枚挟まっていて、それには「Irene」とだけ書いてあったという。父と母は、この捨て子を我が子として育てることにした。

 

 僕と兄妹のように育てられたイレーネ。彼女はとびきり優秀だった。物静かで感情をあまり表に出すことはないけれど、勉強も運動も抜群にできるし、行儀作法も、音楽も、その他の教養も、彼女はありとあらゆる分野に天才的な能力を発揮した。

 

 父も母も、イレーネを自慢の娘と誇っていた。

 

 そんなイレーネだったが、彼女自身は、不思議にも自分のことを僕の姉妹だと言ったことは一度もない。顔色一つ変えず、いつもこう言うのだ。

 

「私は泉美様にお仕えする者です」

 

 彼女は四歳になる頃、「人に仕える時はどんな服装をするのですか?」と母に訊いたという。冗談交じりに「メイド服よ!」と言われると、どこから調達したのだろうか、次の日からそれに身を包んで僕の傍にいたのだ。

 

 どうして「お仕えする者」と言うのだろうか? 拾われた身であることを自覚しての一歩引いた態度ゆえなのか、それとも、どうしようもないわだかまりを内心抱えているからなのか? ある時どうしても気になって、僕は質問してみたことがある。

 

「イレーネ、僕は君のことを家族だと思っているよ。僕にも、僕の父さんと母さんにも遠慮することはないんだよ。イレーネ、君も僕たち家族の一員なんだから、どうか『お仕えする者』なんてよそよそしいことを言わないで」

 

 それに対して、彼女は涼やかにこう答えたのだった。

 

「もったいないお言葉です。私にとって、泉美様は光であり、生命の源です。一方的に恩恵を被る者が、恩恵をもたらして下さる方にいやしくも同じ家族であると名乗るのは、不敬千万でございます」

 

 事実、彼女は僕に本当に献身的に尽くしてくれている。でも僕は、そこまでしてもらうだけの価値と意味が自分にあるとは思えず、いつも少しばかりの心苦しさを感じている。なんとも贅沢な心苦しさだけれど。

 

 仕事が多忙を極めて両親とも一年の大半を海外で過ごす中、僕の生活のすべてを支えてくれているのはイレーネだ。僕が朝起きるのは彼女の優しい目覚ましによってだし、食事は三食すべて彼女の手作り、外に出歩く時、彼女は僕の車椅子を押して、夏は日傘をさし、冬は温かなコートを羽織らせてくれる。

 

 まるで、僕を神だと崇めているかのように、彼女は恭しく仕事をする。

 

 なんて奇妙な関係だろう。僕は何一つできない完全なる無能力者なのに、完全無欠な存在であるイレーネが、まさに滅私の精神で仕えてくれているなんて。

 

 僕は彼女を愛している。言うまでもなく、一人の女性としてだ。イレーネが家族の一員として一緒に育ったなら、決して抱くことはなかったであろう、この情動。彼女が仕える者として「在る」から抱いてしまった、この密かな思い。

 

 僕の人生における最大の謎は、イレーネという存在そのものだ。

 

 

☆☆☆

 

 

 奇妙な夢を見た夜から数か月経った。今日は僕の十九歳の誕生日だ。

 

 両親とイレーネと僕の四人で、ささやかな誕生日のお祝いが執り行われた。イレーネの心尽くしの料理の数々は、最高の料理人たちが技術の粋を集めても到底及ばないほどのものだった。

 

 帰国間もない父と母は、酷く疲れているはずなのに、明るい笑顔を浮かべて僕を祝福してくれた。

 

「泉美、体の弱いお前を置いて父さんも母さんも仕事ばかりにかまけていて本当に済まない。こうしてお前が無事に十九歳の誕生日を迎えることができてとても嬉しいぞ」

 

 僕は言葉を挟んだ。

 

「いいえ、僕が生きていられるのは、父さんと母さんが仕事をしてくれているからです。それになにより、イレーネがいてくれるから。彼女のおかげで僕は何不自由なく過ごすことができています」

 

 テーブルについているのは三人。イレーネはメイド服のまま、直立不動で僕の傍らに控えている。

 

 彼女へ僕は顔を向けた。美しい、透き通るような蒼い瞳と目が合う。

 

「イレーネ、いつも本当にありがとう」

 

 彼女は恭しく頭を下げた。

 

「もったいないお言葉でございます。私のほうこそ感謝の言葉を申し上げねばなりません。泉美様にお仕えできる幸福こそ、私にとって何よりありがたいことでございます」

 

 そんな僕たち二人を見て父さんと母さんは笑っていた。

 

「イレーネ、またそんな他人行儀なことを言っちゃって! 私としてはちょっと複雑な気持ちだわ!」

「そうだぞイレーネ! 少しは泉美を放っておいて、自分のためだけに時間を使っても良いんだぞ……」

 

 楽しい時間はすぐ過ぎ去ってしまう。このお祝いが終わったら、父さんと母さんはすぐに出発しないといけない。

 

 でも僕は、イレーネばかり見ていた。彼女はいつもながらの無表情だったが、かすかに顔がほころんでいるようにも思えた。

 

 

☆☆☆

 

 

 奇妙なことは夢の中だけで、現実は穏やかで平和なものだと思っていた。そんな認識を覆す出来事が起きたのは、その晩のことだ。

 

 就寝する前、僕はベッドで誕生日のカードを見ていた。父と母のものから、神門家一族のみんなのものまで、重ね合わせると分厚い辞書のようになるほどの量。それを一枚一枚、丹念に読んでいく。

 

 面白かったのは登山家の伯父からのものだ。

 

「おじさんは今、世界で最も人命を奪っていると評判のK2の登頂を目指している。まあ登頂よりも、ゴミ問題の解決に関心があるのだが。泉美よ、よく登山家が人生を山登りに例えたりするが、おじさんとしてはあまり上手い例えだとは思わない。なるほど、人生は山あり谷あり、起伏に断崖絶壁、登り切れば後は下山だけ、というのはその通りだが、それにはゴミが付きまとうのだ。人は何かを成し遂げようと思えば必ず何かを汚さずにはいられない。泉美よ、お前はよく手紙で自分の体の弱さを嘆き、自分は何事もなしえないと悲痛な呻きを漏らしているが、おじさんからすると、何事もなさないというのは理想的な『善き』生き方なのだ。だから、お前のために何事かをなしている人のために祈り、感謝の念を捧げなさい……(後略)PS イレーネとはどこまでいったかな?」

 

 最後の一枚、父の得意先の社長が送ってきた四角四面なカードを読み終えた時のことだ。

 

 ポロリと一枚のカードが束から零れ落ちた。金箔で縁取られた、絹のように手触りの良い上質なカード。

 

 おかしい、カードはすべて読んだはずだが。そう思いつつ、僕はそれを開いた。

 

 差出人の名前は書いていない。中には、青い文字で不思議な文言が綴られていた。

 

「主よ、我らの光よ。二千年の長きに渡り、我らに尽きることなき生命の源として在り続ける方よ。我々は全身全霊を込めて、主の御生誕を賛美いたします。願わくば主よ、我らの贈り物をどうかお納め下さい。それはあなたのすぐそばにあります」

 

 意味不明の、狂人が書いたとしか思えない内容。しかし、それはなぜか僕の精神を酷く昂らせた。

 

「それはあなたのすぐそばにあります」

 

 何か見てはいけないものを見てしまったように、僕はカードをすぐに閉じた。丈夫ではない心臓が、ドクドクと異様に高鳴っていた。

 

 

☆☆☆

 

 

 幸せな気分のまま寝付き、幸せな夢を見ることができたらどんなに満ち足りた思いになれるだろう。でも僕は、あんな変なカードを見た後だったからか、例によってまた奇妙な夢を見てしまった。

 

 今度の夢は、いつもの「あれ」とは違っていた。

 

 蝋燭の火に照らされた薄暗い石造りの室内で、一人の女性が水晶玉に向かっている。例の、祭司長だ。

 

 彼女は一方的に水晶玉へ言葉を紡いでいる。

 

「……およそ二千年前、父祖の下した決断は間違ってはいませんでした。しかし、もはや限界です。陽は翳り、生命の源は枯れつつあります。あなたは今までとても良くやってきたと思います。しかし、もはや事態は一刻を争うのです。私たちは既に最後の一手を打ち、あれをそちらへ送り込みました。あとはあなたにしかできないこと、それしか世界を救う方法はありません……」

 

 沈黙があたりを包む。じりじりと蝋燭の燈心の焦げる音だけが聞こえる。しばらくして、別の声が響いた。

 

「全ては、あの方の望むままに。私はすべてを捧げます。そして拒絶されたなら……」

 

 この声には聞き覚えがある。いつも聞いている、自分の声よりも慣れ親しんだこの声は……

 

 祭司長が目を吊り上げ、甲高い声で言う。

 

「拒絶されたら?」

 

 水晶玉は、静かに言葉を放った。

 

「私は滅び、そして世界も滅びるでしょう……」

 

 

☆☆☆

 

 

 夢は夢に過ぎませんと、ある医者はそう言った。しかし、そう簡単に割り切れない思いが目覚めた後も付きまとった。

 

 いつも見る夢、集団礼拝、祭司長、そして、あの夢の、イレーネの声を発する水晶玉。

 

 あれは本当に夢の世界の話なのだろうか。

 

 イレーネを思う僕の気持ちが、夢という形をとって具現化しただけの、脳内神経の単なる短絡と混線に過ぎないのだろうか。だがあれは、そうと言うにはあまりにも現実感がありすぎた。

 

 それからもしばしば、祭司長と水晶玉の夢を見た。内容は似通っていた。回を重ね、声を聞けば聞くだけ、それがイレーネのように思えてならない。

 

 そして、あの誕生日カード。根拠はないが、今では僕は夢とカードになにか関係があると感じている。

 

「あなたのすぐそばに」いる贈り物。それはイレーネに他ならないのではないか?

 

 イレーネにカードを見せようか? おそらく、彼女は何の反応も示さないだろう。どこまでいっても、単なる夢でしかないのだから。

 

 でも、僕は躊躇した。万が一ということがある。それが、どうしようもなく怖い。

 

 イレーネは、僕にとって現実感を肯定してくれる唯一の存在だ。彼女がいるから僕は無為のままに生きながら絶望感を味わわずに済んでいるし、彼女がいるから生きながらに死んでいるようなこの乾いた生を強要してくる運命を受け入れることができる。

 

 それを、カード一枚を見せたことによって失ってしまったら? 彼女が夢という非現実そのものと密接に関係があることを思い知らされたら、僕は果たして正気を保っていられるのだろうか?

 

 そんな怖れが増大する以上に、僕の知りたいという気持ちは高まっていく。夢と彼女との関係を、愛するイレーネに秘められているかもしれない真実を、知りたい。

 

 僕は慄いていた。こんな苦しみは今まで受けたことがない。

 

 

☆☆☆

 

 

 密かに煩悶する僕の一方で、イレーネにも少しばかり変化があった。

 

 表面的には何も変わらない。朝起きてから一緒に食事をし、一緒に本を読み、一緒に散歩をする。そのすべてにおいてイレーネは何も変わっていないように見える。

 

 しかし、僕は彼女の微妙な変化にすぐ気が付いた。

 

 まず、なかなか目を合わせてくれなくなった。これまでイレーネは僕と会話する時は真っ直ぐに視線を合わせてくれていたのに、あの気がかりな夢の次の日から、何となくそれが上滑りな印象を受けるのだ。

 

 それに、彼女から発せられる雰囲気に、なんとなく緊張感がある。

 

「イレーネ、こっちを見て」

「はい、泉美様」

 

 僕が声をかけると、彼女はこちらに顔を向けた。僕たちはしばらく見つめ合った。やはり、視線がどこか合わない気がする。

 

 あえて、僕は普段言わないことを口にしてみた。

 

「うん、今日も可愛いね、イレーネ。すごく可愛い」

 

 そう言われた瞬間、イレーネの顔がみるみるうちに赤くなり、そしてすぐにその色は引いていった。その一連の流れはあまりにも早かったので、見間違えかと一瞬思ったくらいだった。

 

 イレーネの精神状態は、確かに変化しているようだ。

 

 僕の気のせいだとは思えない。ずっと一緒に過ごしてきたのだ。彼女の感情の機微を察知すること、これだけは僕が唯一持つ力だと言っても過言ではない。

 

 祭司長のあの言葉が蘇る。「あなたができること、それはもう一つしかあり得ません」

 

 もしかして、イレーネも僕と同じように悩んでいるのだろうか? あの美しい無感情の相貌の下で、彼女も「一つしかあり得ない、自分にできること」を為すべきか、それとも為さざるべきかの選択を、苦悩のうちに考えあぐねているのだろうか?

 

 ……なんとも、こんなことを考えるなんて。僕は次第に夢と現実を混同しつつあるようだ。心の最深部で、どうやら僕は夢とイレーネに関係があると信じつつあるらしい。

 

 

☆☆☆

 

 

 そうこうしているうちに、僕は抜き差しならない状況に立ち至った。

 

 その日、昼食を食べ終えて、これから少し外に出ようかと言っていたその時、僕は胸に強い痛みを覚えた。頭の中が真っ白になるような、言語に絶する激痛だった。胸を抑え、うめき声すら上げず、僕は車椅子から崩れ落ちた。

 

「泉美様、泉美様!」

 

 イレーネが叫んでいる。彼女がこんなにも必死な声を出すのを初めて聞いたなと、僕は薄れゆく意識の中で埒もないことを考えていた。

 

 彼女の迅速にして的確な応急処置と、病院での最先端の医療により、僕は何とか一命をとりとめた。

 

 行動に移すか、移さないか。それを悩むことができるのは一種の特権なのだと、なかんづく肉体的な健康に恵まれた人の特権なのだと、僕はゴテゴテと色んな管を繋げられた状態で思い知った。

 

 医師からは多臓器不全だと言われた。心臓だけではない、どこもかしこも弱っていて、もって三週間の命だと。

 

 原因は未だに不明だ。どうやら僕の肉体は、植物が枯れ果てるように、生命力を急速に失いつつあるようだった。

 

 死が目前に迫って、ようやく決心がついた。死ぬのなら、イレーネのことを知り尽くしてから死にたい。こんな状況にならなければ行動に移せない自分の心の弱さに嫌気がさしたが、それはどうにもならないことだ。

 

 無理を承知で、僕は医師に家に帰してくれと頼んだ。渋い表情を浮かべて医師はしばらく考えて、それから承諾してくれた。

 

 

☆☆☆

 

 

 僕は今、家のベッドに横になっている。傍らにはイレーネがいる。僕の手を取って、その小さな額を俯くように押し付けている。

 

 まるで、祈っているかのようだ。

 

 連絡を受けて、父さんと母さんは急遽帰国の途上にあるが、帰ってくるのは明日だ。切り出すなら、二人きりの今しかない。

 

 僕は、イレーネに語り掛けた。

 

「イレーネ、もう何回も話しているよね、小さい頃から見ている、あの不思議な夢。たくさんの人が僕を拝んでいて、たくさんの生贄が捧げられて。もう祭司長の祝詞もいい加減に覚えちゃったくらいだ」

 

 はっと息を呑む音が聞こえた。彼女が顔を上げると、蒼い瞳が潤んでいるのが見えた。

 

「でも最近見るのは違う夢。そこには祭司長がいて、彼女は水晶玉と喋ってるんだ。その水晶玉からは、不思議なんだけど、君の声がするんだよ」

 

 何か言おうとしたのか、彼女の口元がわななく。

 

 そんな様子を見て、もう僕は言葉を費やすことができなかった。震える手でカードをイレーネに差し出す。

 

「これを、読んで。きっと僕の夢と関係があると思う」

 

 彼女の手もまた、かすかに震えていた。

 

「僕のすぐそばに。それは君だね、イレーネ?」

 

 カードを一瞥して、彼女はため息をついた。深夜に雪が降り積もるように、言葉がひそやかに紡がれる。

 

「はい、泉美様。このカードに書いてある贈り物とは、私のことです」

 

 視線がはっきりと絡み合うのを感じた。イレーネは身を乗り出すと、僕と唇を重ね合わせた。

 

 

☆☆☆

 

 

 生まれて初めて味わう疲労感と、例えようのない満足感がある。知るべきことをやっと知ることができたような、そんな達成感も。

 

 一緒に横になり、僕を抱きながら、イレーネは全てを話してくれた。

 

「泉美様に隠していたことは二つあります。一つは、私が本来この世界の人間ではないこと、もう一つは、私の元の世界が、泉美様の生命力によって成立していたことです」

 

 およそ二千年前、僕の世界だと約二十年前だが、イレーネの世界は滅びる寸前だったという。神の恩寵が消え果て、地は乾き、水は涸れ、生命は生まれながらにして死にゆく、そんな終末の世界だったらしい。

 

「座して世界の終わりをただ待っていたその時、天空に新しい存在が降臨したのです。それは穏やかな緑の光を放ち、温かで、慈愛に満ちていました。尽きることなき生命力を授けて下さるその方を、私たちは新たなる神と崇めました。その神こそ、泉美様だったのです」

 

 イレーネは僕を強く抱きしめた。柔らかな彼女の真っ白な素肌は、滑らかでしっとりとしている。

 

「泉美様がいてくださったから、私たちの世界は存続し得たのです」

 

 しかし、神はいずれ消え去るもの。以前の神も終末の世界に突然現れ、そして唐突に消えてしまったという。

 

「その代の祭司長は決断しました。今度こそ神を失うわけにはいかないと。神を崇めるだけでは足りない、神をお守りしなければならないと。世界中のあらゆる叡智を結集して、新たなる神について徹底的な調査が行われました。その結果、顕現しているのは神のお力だけであること、神ご本体は違う次元におわしますこと、ご本体の命が失われれば、この世界の神のお力もまた消えることが分かりました」

 

「そこで、神がお生まれになった次元へと、付き人を送り込むことにしました。それが、私です。行けば元の世界へ戻ることはできず、わずかな交信が可能なだけの、孤独な旅です」

 

 使命とは言え、たった一人で異次元へと転生したイレーネ。どれだけ心細かっただろう。どれだけの重圧に耐えてきたのだろう。そう呟く僕に、彼女は微笑んだ。

 

「初めは、ただ神様にお仕えする一心でした。私が泉美様をお守りしなければ世界が滅びる。その使命感だけで生きていました。でも、あなたの優しさに触れて、あなたの笑顔を見て……私の心に二つの思いが生まれました。愛と、恐怖です。もし、この世界の仕組みが発覚したら、そして私の存在の意味が発覚したら、私は泉美様を永遠に失ってしまうのではないかと……」

 

 そんなことはない。僕は、やっと自分の生の意味を見出すことができた。

 

「イレーネ、僕は嬉しいんだ。僕は今まで自分の人生を無意味なものだと思ってきた。無意味な生に付き合わされる君に、いつも申し訳ない気持ちを抱いていた。でも、違ったんだね」

 

 考えるまでもなく、言葉が口を衝いて出る。

 

「僕がその世界に生命を分け与えたのは、きっと君をこちらに呼び寄せるためだったんだ。君を愛するために、僕は君の世界に現れたんだ」

 

 イレーネの瞳から涙が溢れ出た。僕は彼女を抱き寄せて、異世界の色をした髪の毛を優しく撫でた。

 

 僕は、最後に尋ねるべきことが一つ残っていることを思い出した。贈り物としてイレーネを受け入れることが、どうして彼女の世界の存続を意味するのだろうか?

 

 彼女はそっと答えた。

 

「泉美様は私の世界に無限大の恩恵を授けてくださいました。ですが、ご本体は私たちの世界を現実のものとして認識されていないのだと、二千年にわたる祈祷の末に判明したのです。お話を伺うと、どうやら私たちの世界をご覧になっているようなのですが、あれは単なる奇妙な夢だと仰られるばかり……」

 

「世界を認識しなければ、お力を適切に用いることができません。泉美様はお力を制御できないままに生命力を発散してしまいました。幼少期からの原因不明の衰弱は、それが原因だったのです」

 

 僕はようやく得心がいった。あれだけの血生臭い仔牛たちの生贄は、なんとかして僕に「この世界も現実だ」と気づいてもらおうとするための、必死な願いの現れだったのだと。

 

 イレーネは言葉を続けた。顔をほのかに赤らめている。

 

「祭司長は最後の手段に出ました。二千年に渡る集団祈祷によって得られたエネルギーで、誕生日のカードをこちらの世界へ送ったのです。それが泉美様の認識を変える、たった一つのトリガーになると信じたから……私ができる唯一のこと、それは泉美様の問い掛けに『はい』と答えることでした。そのせいで泉美様が現実を拒絶するのならば、世界は滅びると……」

 

「ですが、私は信じておりました。怖れもありましたけど、それ以上に、私は泉美様を愛していましたから」

 

「そして泉美様は見事に認識を超越なさいました。私という、この世界ではあり得ない存在を、真なる意味で受け入れてくださいました。私たちの世界を認識されたので、これからは、もう生命力が枯渇することはないでしょう。上手く力を振るうための技術は、私がこれからお教え致しますから、あの……」

 

 その時イレーネが浮かべた、すべてから解放されたような笑顔を、僕は一生忘れない。

 

「これからも末永くお仕えしますね、あなた」




※以下、作品メモとなりますので、ご興味をお持ちでない方は、お手数ですが非表示設定にするか、ここで読み終えてくだされば幸いです。

・らいん・とほたー「イレーネの世界」作品メモ

 エブリスタで定期的に開催されている妄想コンテスト、その第94回「発覚」に応募した作品です。2019年2月9日公開。

 キャッチコピーは「それが発覚した時、彼の愛は何処へ行くのか?」

 発覚とはまた難しいテーマで書くことを要求されたものです。それにこのコンテストは短編。8,000字以内で書かないといけないわけですから、あまり大掛かりなサスペンス劇は組めません。

 困った私は、当初ギャグテイストの作品にするつもりでした。「自分がダイエットする時に発散したエネルギーが勝手に異世界で使われてた件」みたいな感じで。ですが、これだとあまり深みのある話になりません。何より女の子が出そうにない。

 その頃、私は女の子を書くことに飢えていました。メイド服の綺麗な女の子を書きたい! そうなるとギャグテイストでは駄目です。シリアス路線にプロットを切り替えました。そうして出来上がったのが、この作品です。

 これにてストックが尽きました。次回からはエブリスタと同時投稿になります。今後ともぜひご贔屓を賜ればまことにありがたいことと存じます。

 次回もお楽しみに!


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13. 冷獄のラウラ

 泥濘のような睡眠からエリクは目を覚ました。 

 

 目覚める前、エリクは夢か、それとも亢奮した精神と錯綜した神経系がいびつに組み立てた幻影を見ていたのか、ある女の姿を眠りの中で見つめていた。

 

 女は美しかった。雪よりも白銀に輝く長い髪と、氷よりも冷たい、白く怜悧で端整な顔立ち。その美しさは人間とは思えぬほどの、崇高な雰囲気を伴っていた。

 

 女は目を閉じ、祈るように手を組み、跪いている。身じろぎ一つしない。だがしばらくして、彼女は何か啓示を受けたようにびくりと体を震わせた。そして、エリクの方へ澄んだエメラルドの瞳を向けると、わずかに笑みを浮かべて、そっと口を開いた。

 

「エリク様……」

 

 その余韻は、目覚めた直後のエリクにぬるく纏わりついている。

 

 彼は視線を窓へ向けた。外はまったき暁闇だった。だが、あの死と氷の山である、偉大なるトロス山脈の威容は、闇を突き破ってエリクの網膜に映り込んでいる。

 

 宿の建て付けの悪い窓枠から、山岳地帯特有の冷涼な空気が密やかに入り込んできた。それが、彼の未だ余韻に囚われている曖昧な意識を多少はっきりとさせた。

 

 そうだ。今日は、あの山に登らなければならない。あの山から青い血液のように流れ出ている、あの氷河へ、そしてあの氷河に傷口のように開いているクレバスへ、何としてでも行かねばならない。

 

 それが、新たな運命の出発点なのだから。

 

 痩せ衰えた身体をようやくの思いで寝台から起こすと、白髪で真っ白になっている頭部を気だるげに打ち振りながら、エリクは部屋から出て行った。

 

 

☆☆☆

 

 

 魔術士であるエリクが生を受けたのは、わずか十八年前のことだった。だが、この十八年間こそは、人類がそれまでの歴史で体験したいかなる時代と比較にならないほど、濃密で、陰惨で、そして栄光に満ちていた。

 

 彼が生まれる二年前、お伽話ではよくある筋立てだが、世界の片隅に魔王が降臨した。

 

 魔王は眷属を増やし、領土を侵し、人類の血と涙と肉片を大地にばら撒きながら、獰猛に勢力圏を拡大した。人間の軍は勇猛果敢に戦い、そして各地で惨敗を重ねた。

 

 そんな暗い時代において、エリクは国内で有数の実力と伝統を持つ魔術の名門に生まれた。

 

 宮廷魔術最高顧問官である彼の父親は、我が子がその身に秘めている魔力の強さに目を見張った。エリクが立って歩くことができるようになるや否や、父親は息子が将来の決戦における要となるべく、厳しい教育を授けた。

 

 鍛錬の合間に、父親は決まって訓戒を垂れたものだった。

 

「エリク、お前は人類の希望だ。お前が身に宿す魔法力こそ、魔王討伐に欠くべからざるもの。固く身を持せよ。女人と交わってはならぬ。女人の肌の温もりを覚えてはならぬ。女人を知ればお前は、その身に宿す力をすべて失い、而して、世界は破滅するであろう。これを己が絶対の戒律とせよ」

 

 外の世界を知らず、女性を知らず、城の中でただひたすらに修練に励むエリクに転機が訪れたのは、彼が十四歳の時だった。

 

 魔王を封印するための大魔法を遂に習得したその日の晩、城に、ある少年が忍び込んできた。警備兵の目をかいくぐって少年はエリクの寝室に忍び込むと、可愛らしくあどけない顔に溌溂とした笑顔を浮かべて、こう言った。

 

「僕はロドルフォ。魔王を倒すための仲間を探しているんだ。もし、君さえ良かったらなんだけど、僕と一緒に来て、魔王討伐のために力を貸してくれないかな?」

 

 このロドルフォこそ、後年魔王を討ち果たし、全世界にその名を轟かせることになる勇者その人であった。

 

 エリクは、しばし考えた後、ニッコリと笑って少年の手を握った。そして、暗闇を衝いて城を抜け出し、果てしない世界救済の旅路へとその足を踏み出したのだった。

 

 

☆☆☆

 

 

 初めは、気楽な二人旅だった。

 

 ロドルフォはエリクより二歳年下だったが、身に余るほどの大剣を自由自在に操っては魔物を切り払い、勇者たる資質を事あるごとに示した。

 

 一方、エリクは鍛え抜かれた魔法を駆使して、ロドルフォに強力な援護を提供した。

 

 背中を預け合って、窮地を乗り越え、二人は友情を確固たるものとしていった。

 

 エリクは、彼の戒律についてもロドルフォに話した。

 

 ある時、村を悩ませる邪龍を討伐した後のこと。祝賀会の席で村の娘たちにつきまとわれて悲鳴を上げたエリクは、その場から逃げ出し部屋に閉じ籠ってしまった。

 

 理由を訊きに来たロドルフォに、彼は、自分は魔王を封印する大魔法を習得していること、しかし戒律を守らなければその力が失われることを説明した。戒律厳守を骨の髄まで叩き込まれたせいで一種の女性恐怖症になっていることを、やんわりとぼかしつつ彼は話した。

 

 ロドルフォは金髪をかき上げながら言った。

 

「その戒律って……? ……そう、女の人と付き合っちゃダメなんだね。分かった。じゃあこれからは、僕が君に代わって女の子と話をするよ。でも、酷い話だなぁ。人間のうち、半分が男で、半分が女だから、君は『半分だけ話ができない』も同然なんだね……」

 

 二人の名声は日に日に高まり、仲間は順調に増えて行った。重厚な鎧に身を固めた戦士ディオメデス、鷹の目を持つ弓兵フランチェスカ、二刀流の剣士アドリアーノ、治療師モニカ……

 

 様々な苦難があり、様々な楽しみがあった。相変わらずエリクは、女性であるフランチェスカやモニカとあまり交流を持たなかったが、誰もそれを怨みに思わなかった。死を恐れず前面に出て勇者を守り、言葉には出さないながらも仲間を深く思いやる彼の心映えは、しっかりと勇者一行には伝わっていた。

 

 

☆☆☆

 

 

 そんな勇者一行に「彼女」が加わったのは、旅を始めて二年が経った時だった。

 

 エリク達は、魔王軍が繰り出してきた新型の機械化合成魔獣を、死力を振り絞って何とか撃破した。カデシュの街の近郊でのことだった。

 

 小山のように大きなその魔獣は大型の魔力砲を背負い、都市一つを灰燼に帰するほどの火力を有していたが、冷却系の弱点を見抜いた勇者の的確な戦術指揮により、荒野にその残骸を晒すことになった。

 

 その残骸の動力炉を調べたエリクは、意外なものを発見した。

 

 動力炉の中に、一人の少女がいた。年齢は、十四、五歳だろう。彼女は意識を失っていた。

 

 ローズクォーツの魔力カプセルに「格納」されている少女は、この世のものとは思えぬ美しさを有していた。雪よりも白銀に輝く長い髪。氷よりも冷たい、白く怜悧で端整な顔立ち。

 

 少女を見た時、エリクは生まれて初めて、ある種の胸のときめきを感じた。

 

 カプセルを大剣でこじ開け、少女を抱き起したロドルフォが、怒りを滲ませて言った。

 

「魔王軍め……きっと、この子を動力炉の冷却装置に使っていたんだ! 体の自由と意識を奪って、冷却用の魔力を供給する源として、この子を利用していたんだよ……」

 

 少女は修道会病院に運び込まれ、治療と看護が加えられた。意外なことに、看病に当たったのはエリクだった。戒律のことは常に忘れたことはない。それに、女性は少し怖い。

 

 だが、彼は少女の境遇に深く同情していた。

 

 寝台に横たわり、浅い呼吸を繰り返す少女の額を優しく撫でながら、エリクは思いを馳せた。父からは教えと庇護を受けた。だが、そこに愛はなかった。父は、自分の才能を愛していたが、自分を愛してくれたことはなかった。

 

 敵のために自由を奪われ、戦いの道具として利用されていた彼女。自分と少し似ている……彼には、そんな気がした。

 

 一週間後、少女は目を覚ました。あまり喋らず、表情も動かない。記憶も曖昧なようで、名前すら思い出せないようだった。

 

 エリクは、エメラルドの瞳でじっと見つめてくる少女に、こう告げた。

 

「君の名前はラウラ。僕が初めて名付けた、大切な名前。僕と君の、絆の証」

 

 その名前は、ふと彼の心の中に浮上してきたものだった。彼は、その名で彼女を呼ぶことが、必然であるように感じた。ラウラと名付けられた少女の瞳が、少しだけ輝いた。彼女は呟くように新しい名前を繰り返した。

 

「ラウラ……」

 

 エリクは、微笑みかけた。

 

「そう、ラウラ。本当の名前があるかもしれないけど、これから僕は君のことをラウラと呼ぶよ」

 

 ラウラと名付けられても少女は、相変わらず口数が少なく、表情を変えることがなかった。臆病で、わずかな物音にも怯える様子を見せる。勇者やその仲間が話しかけると、困惑したように顔を曇らせて俯いてしまうのが常だった。

 

 ただ、エリクだけは例外だった。ラウラは彼に良く懐いた。彼は時間があればラウラに話しかけ、魔術の手ほどきをし、一緒にお茶を飲んで微笑みかけたり、晴れ渡る野原で花を摘んだりした。

 

 仲間たちはそんな様子を見て、「まるで本当の兄妹のようだね」とからかうように言ったりした。エリク自身も、次第にそのような気持ちになりつつあった。

 

 数週間が経った。次の目的地の情報を集め、装備を更新し、カデシュの街から出発する準備がいよいよ整ったその日、エリクはラウラに問いかけた。

 

「過酷な旅になると思う。それでも僕は、君と一緒に旅をしたい」

 

 少女は、こくりと頷いた。

 

「はい、エリク様。私はあなたの望むままにします」

 

 その日から、勇者一行に新たな仲間が加わった。

 

 

☆☆☆

 

 

 ほどなくしてラウラは、優れた魔術士としての才能を発揮し始めた。初陣で、強力な魔力耐性を持つ魔物を正面から氷結魔法で圧倒したのを皮切りに、日々エリクから伝授される魔法の奥義の数々を次々と我がものにして、難敵強敵を撃破していった。

 

 旅を始めてから半年も経たずに、ラウラはエリクに匹敵するほどの、勇者一行の後衛戦力の中核となっていた。彼女はエリクにぴったりと寄り添い、彼と呼吸を合わせ、最上級凍結呪文を吹雪のように連発して戦場を凍りつかせた。ラウラは、次第に敵味方の双方から名声と称賛と畏怖の念を込めて、「冷獄」と渾名されるようになった。

 

 それが、良くなかったのかもしれない。

 

 ある時、勇者一行はハラブの平原で魔王の野戦軍主力と戦闘した。この敵を打ち破れば、あとは峨々たる永久氷山のトロス山脈を越えて、魔王の居城へとたどり着くことができる。

 

 雑兵を斬り伏せ追い散らして、彼らは目指す敵本営に突入すると、敵将と対峙した。

 

 シュムミリという名の敵将は、精神攻撃を事とする強敵だった。その女悪魔は勇者たちを人智を超えた力で翻弄したが、最終的にはそれを上回る勇者の精神力を前にして膝を屈した。

 

 勇者が首を討とうとしたその時だった。シュムミリは、突然その黒く長い爪を持つ手をエリクに差し向けると、禍々しい桃色の魔力光を放った。

 

「エリク様、危ない!」

 

 光線はそのまま彼に直撃するかと思われた。それをラウラが遮った。彼女は地面に崩れ落ちた。それと同時に、勇者の大剣の一閃が敵将の首を刎ねていた。

 

 ゴロリと音を立てて地面に転がった首は、不吉なことを呟いた。

 

「我が君に逆らう愚か者共よ、お前たちには死すら生温い。その呪いは決してとけぬ。哀れな人間共よ、お前たちは互いに互いを呪いながら破滅するのだ」

 

 気を失ってぐったりと脱力したラウラを抱き起こすエリクが見たのは、勇者が、転がった首に大剣を振り下ろすところだった。

 

 エリクはすぐさま、習得しているすべての診断魔法をラウラにかけた。しかし、呪いとして一般的な、毒や恐慌、精神錯乱、知能減退などの症状は見られなかった。

 

 ほどなくして、ラウラが目を覚ました。琥珀色の瞳と、エメラルドの瞳が合う。エリクは安堵のため息を漏らした。

 

「ラウラ、無事で良かった……」

「エリク様……」

 

 ラウラは、ニッコリと笑った。いつもは無表情な彼女に似つかわしくない、不自然なほどに晴れやかな笑みだった。

 

 次の瞬間、ラウラはエリクに抱きついた。

 

 これまでにも軽く抱擁を交わすことはあった。苦闘の末に強敵を倒し感極まった時、あるいは難所を突破し、美しい朝日を拝んで仲間みんなで喜びを分かち合う時、エリクとラウラはごく控えめに、肩を抱き合うことはあった。

 

 しかし、今回の抱きつき方は少し様子が違った。ラウラはしっかりとエリクの腰に手を回すと、愛おしげに顔を摺り寄せ、甘えるように彼の胸の中に頭を埋めていた。

 

「エリク様……エリク様……」

 

 彼は、困った顔をして勇者を見た。勇者は、ただ苦笑いをするだけだった。

 

 戦勝を祝う宴の席でも、ラウラはいつも以上にエリクにくっついて、散会しても決して離れようとしなかった。

 

 

☆☆☆

 

 

 最後の難関、雪と氷に覆われた峻険なトロス山脈を越える。それには綿密な調査を重ね、万全の準備を整えねばならない。勇者一行は解放されたイスパルタの街に入り、英気を養うことにした。

 

 ここでの滞在中エリクは、ますます様子がおかしくなっていくラウラを見て、不安感を募らせていた。

 

 それまでも彼女はエリクといつも一緒にいた。だが、今の彼女はただ「一緒」というにはあまりにも距離が近すぎた。彼の服の洗濯も頼まれもしないのに自分から買って出るようになったし、食事の時などはぴったりと彼の傍らにいて、匙を持ち上げては彼に食べさせようとするくらいだった。

 

 街周辺の魔王軍残党の討伐任務の際も、ラウラはエリクと決して離れず、勇者が他の仲間と彼を組ませようとすると、断固として抗議するのだった。

 

「私はエリク様と離れたくありません。勇者様のご命令でも、これだけは譲れません」

 

 

☆☆☆

 

 

 エリクが彼女にかけられた呪いの真相について把握したのは、数週間後のことだった。

 

 魔王軍は、機能を停止した機械化合成魔獣を、近郊の村に遺棄していた。それが息を吹き返し、害を及ぼすようになったとの通報があった。

 

 勇者は、エリクとラウラにその討伐を頼んだ。折悪しく他の仲間は別の任務に出かけていた。

 

 出発する前、エリクは勇者から銀のタリスマンを渡された。

 

「旅に出る時、僕のおばあさんから託されたものだよ。何かあった時はこれを使って。祈りを込めれば効力を発揮するよ」

 

 勇者が想定するその「何か」については分からなかったが、彼はそれを素直に受け取り首から下げた。

 

 度重なる死闘と激戦を繰り広げた彼らにとって、半壊した機械化合成魔獣など物の数ではなかった。

 

 ラウラは、エリクに対して攻撃を仕掛けようとする敵に向けて激しい憎悪の色を浮かべると、最大出力で魔法を放ち、敵を氷結して粉砕してしまった。そのような彼女を見るのは、やはりエリクにとって初めてのことだった。

 

 その晩、エリクはあてがわれた宿舎の寝室で、一人横になっていた。

 

 いや、いつの間にか横になっていたと言った方が良い。

 

 彼の記憶は曖昧だった。もはや慣れつつある、ラウラとの距離が近すぎる食事を終え、一緒に茶を飲んだところまでは覚えている。しかし、その後からの記憶がない。

 

 首が、手足が、体が動かない。そのことに気付いたエリクは、当初敵の罠を疑った。食事に毒を盛られたのだろうか?

 

 彼は足元に黒い人影があることに気が付いた。掠れた声で、彼は誰何した。

 

「お前は、誰だ……?」

 

 それは、ラウラだった。何も身につけていない、生まれたままの姿のラウラだった。

 

「エリク様……」

 

 透き通るほどに白い肌、窓の外から差し込む月光に照らされて輝く銀髪、服の上からでは分からなかった、意外なほどに豊満な肉体。

 

 目を惹いたのは、彼女の頭だった。そこには二本の、くるりと曲がったヤギの角が生えていた。さらに腰に目をやると、そこには一本の尻尾が生えていた。邪龍のような、銀の鱗に覆われた尻尾。

 

 ラウラは、拘束されたエリクの体に跨ると、ゆっくりとシャツのボタンを外して、肌に指を這わせ始めた。冷たい、しなやかな指先。それが感覚を昂らせるように、彼の全身をゆっくりとなぞっていく。

 

「うふふ……あぁ……エリク様……」

「ラウラ、何を……!? やめ、やめてくれ!!」

 

 エリクは叫んだ。ラウラはじっと耳を傾けるようだったが、怪しげな輝きを放つ目で彼を見つめると、焦らすような妖艶さを秘めた声で答えた。

 

「あはぁ……エリクさまぁ……やめてほしいですかぁ……? でも、だぁめ、ですぅ……」

 

 彼女は明らかに、自分と肉体的な交渉を持とうとしている。そういうことを耳でしか聞いたことないエリクでも、さすがにこれから起こるであろう事態を予測できた。

 

 なんとしてでもそれは避けねばならない。彼は焦った。魔王に対する切り札となる封印魔法は、自分が女人との交わりを断つことによって練られた聖なる力がなければ行使できない。

 

 そして彼は、唐突に理解した。あの女悪魔がかけた呪いとは、対象に抑えきれないほどの恋慕と情欲の念を抱かせ、交合させようとするものだったのだと。女悪魔は自分を狙ったらしいが、ラウラでもその目的を果たすのに適役だった。どこから情報が漏れたのかは分からないが、自分の持つ秘密はとうの昔に敵側に露見していたのだろう。

 

「はぁ……はぁ……あぅ……エリクさまぁ」

 

 ラウラのエメラルドの瞳は、色欲で妖しく濁っていた。呪いによって理性と判断力を失っているのは明らかだった。彼女はエリクの肌を撫でるのを止め、遂にその手を彼の下着へと伸ばし始めた。

 

「お召し物、脱がして差し上げますね……」

 

 その時、エリクが首から下げているタリスマンが、突如白く清らかな光を発した。

 

「きゃあっ!?」

 

 光を浴びたラウラは脱力してエリクの体の上に倒れ込み、気を失った。角も尾も消え失せている。

 

 勇者はこのことを見通していたのだろうか。いや、きっと勘だろう。これまで幾度も自分たちを救ってきた、あの未来予知のような勘。それに救われた。そう思いつつ、彼はラウラの意外な重さと湿り気を伴った温もりを感じながら、今後になすべきことをぼんやりと考えていた。

 

 あくる朝、それとなくエリクは探りを入れた。ラウラは、前夜のことをまったく覚えていないようだった。

 

 何気ない風を装いながらエリクは、彼女にいくつかの解呪魔法を試みたが、効果はないようだった。

 

 帰ってから、彼は勇者に相談した。勇者は顔を曇らせて、呻くように言った。

 

「可哀想なラウラ! あの悪魔は、呪いで僕たちに仲間割れをさせて、自滅を誘うつもりだったんだろう。ラウラが君の力を奪ったとなれば、僕たちが激怒するだろうと。そのほうが単純に死を与えるより、奴らの嗜好に合うからだ……仕方がない、彼女には僕から説明するよ。これからは彼女をフランチェスカとモニカに見てもらって、夜は君に近づけないようにさせる。君は解呪の方法がないか調べて欲しい。山越えまで時間がないが、できるだけのことはしよう……」

 

 そう言って勇者は溜息をつくと、呟くように言葉を足した。

 

「僕はね、人間が人間らしく生きていけるような、そんな世界を目指している。だから、それを脅かす魔王が許せない。でもね、怒りはそれだけではないんだ。僕は僕自身に、怒りを覚えている。魔王を倒すために、僕は君とラウラの自由が奪われていることを黙認しているんだからね……」

 

 自由? 自由とはなんだ? ロドルフォは何を言いたいのだ? そんな疑問がエリクの心中で湧き上がったが、表出することはなかった。

 

 

☆☆☆

 

 

 山越えの時が来た。季節はちょうど冬に入っていた。通常ならば、この時期に永久氷山であるトロス山脈を越えることは不可能であるばかりか、自殺行為ですらある。山には猛烈な吹雪が吹き荒れ、雪崩も頻発する。

 

 しかし、敢えて行かなければならない。春になれば魔王軍は山々に展開して、勇者一行を阻むだろう。そうなればもう前進の見込みはない。それに、危険を冒す分だけ、奇襲効果がある。勇者の決意は固かった。

 

 結局、ラウラは置いていくことになった。あれから数週間、一行はなんとか彼女の呪いを解こうと努力した。エリクは寝る間も惜しんで考え得る限りの解呪魔法を組み合わせ、精神力を振り絞った。だが、そのどれもが失敗に終わった。

 

 なお悪いことに、ラウラに掛けられた呪いは夜を追うごとに効力を増していくようだった。全身に奇妙な桃色の紋様が浮かぶようになり、角はますます大きく太く、尻尾も長さを増していった。夜ごと制止を振り切ってエリクのもとへ行こうとするラウラを抑え込むのは、もはや限界に達しつつあった。

 

 出発の三日前、勇者はラウラと一対一で話し合い、そして彼女は居残ることに同意した。

 

 みんなを驚かせたのは、彼女が自発的に街の牢に入ったことだった。

 

 滅多にないことに、ラウラは多くの言葉を紡いで、はっきりと意志を示した。

 

「きっと私は、夜になると呪いに意識を奪われて、エリク様を襲ってしまうでしょう。だから、あなたたちが出発して、到底追いつけないくらい距離が離れるまで、いえ、あなたたちが魔王を討ち果たすその時まで、私はこの牢で待ちます。私にできるのはもう、こうすることくらいしかありませんから……」

 

 

☆☆☆

 

 

 猛烈な吹雪、視界はない。目の前は真っ白に塗りこめられていて、目前の指先すら見えなかった。

 

 エリクは、仲間とはぐれてしまった。用心に用心を重ねてルートを選択し、装備も万全だったが、予期しないことに魔王軍の雪上部隊の奇襲を受けたのだった。

 

 いつもならば傍らにラウラがいて、背後を気にせず思う存分魔法戦が展開できるのだが。エリクは思うようにならない戦いを、ただ夢中で継続していた。

 

 そのうち、彼は自分が孤立していることに気が付いた。なんとしてでも仲間と合流しなければならない。いつ新手が現れるか分からないし、そもそも一人ではこの吹雪の中を生き延びることはできない。

 

 しかし、当てどもなく歩き続けるわけにはいかない。それは自滅を意味する。それに、目の前に突然現れた障害に、彼は歩みを止めざるを得なかった。

 

 それは白い地面にぱっくりと黒い口を開いた、地獄の底にまで通じていそうなほど深いクレバスだった。

 

 彼はその場から離れると、氷結魔法を駆使していびつな雪洞を作り上げ、その中に避難した。戦闘の疲労とようやく得られた温もりによって、彼の意識はまどろみの世界へとどうしようもなく落ちて行った。

 

 轟々と、嵐の海の怒濤のような音を立てる吹雪。入り込む寒風。静かな寝息。

 

 何時間経ったのだろうか。エリクは、何かが肌をそっと這う感覚と、奇妙な息苦しさを覚えて意識を覚醒させた。

 

「エリク様ぁ……」

 

 体の上には、ラウラがいた。

 

 いやそれはラウラとは到底言えないほどの、変わり果てた異形の女体だった。彼があの夜に見た二本の角は更に禍々しく、全身にはびっしりと刺青のように桃色の紋様が走り、手足は銀色の鱗が隙間なく表面を覆っていた。

 

 その背には、蝙蝠のような一対の黒い翼が生えている。それを使って、ここまで飛んできたのだろう。牢の鉄格子など、彼女の魔力の前では飴細工同然だったに違いない。

 

 エリクの精神は凍り付いていた。そうしている間にも、「ラウラだったもの」は彼の衣服を脱がそうとしている。

 

 だが次の瞬間には、彼の頭脳は思考力を取り戻していた。彼は勇者からもらったタリスマンを翳すと、それから発せられる聖なる光を彼女に浴びせた。

 

「あぁ、まぶしい……」

 

 半ば予想していたことではあったが、タリスマンの光はまったく効果がなかった。彼は杖を取ろうと手を伸ばしたが、一瞬早くラウラに取られてしまった。

 

 彼女は尻尾を伸ばしてエリクの体に巻き付けた。骨が軋む音がする。

 

 情欲に濁る瞳で彼を見つめると、ほうっと溜息をつくように彼女は言った。

 

「エリク様ぁ……ひとつになりましょう……」

 

 ここに至って、エリクはもはや逃れられないことを悟った。このまま自分は為す術もなく、あの女悪魔の呪いのままに力を失って、そしてかけがえないラウラを失うことになるのだろうか……

 

 エリクは、彼女の顔を見つめた。その顔からは、もはやあの怜悧な美しさは消え失せ、憎むべき魔物と同じ、人類への憎悪と嗜虐心に満ち満ちた表情をしている。

 

 自然と、胸の内からこみあげてくる言葉があった。

 

「君の名前はラウラ。僕が初めて名付けた、大切な名前。僕と君の、絆の証」

 

 ラウラの瞳が瞬時に、かつての清純な輝きを取り戻した。その機会を逃さず、彼はそっとラウラを抱き寄せた。

 

「呪いを解く方法なんて、もうこれ以外には考えられないよ」

 

 彼は彼女と唇を合わせた。砂糖よりも甘美で、氷よりも冷ややかな味がした。

 

 その時、彼は初めて、自分が彼女のことを深く愛していたことを知った。

 

 体を締め付けていた尻尾の圧力が弱まっていく。その代わりに、ラウラは両腕で彼をそっと抱き締めて、いつもの静かな声で言った。

 

「エリク様……ありがとうございます。私は、またあなたに救われました」

 

 ラウラは自分の姿を顧みると、表情に幾分か羞恥の色を見せた。

 

「こんな格好でエリク様に……ああ、もう……」

 

 だが、その次の瞬間には強い意志を漲らせて、彼女はエリクに告げた。

 

「エリク様。呪いは解けましたが、しかしそれは一時的なものに過ぎません。完全に解呪されていないと、私の感覚が告げています。このままでは、またあなたを襲ってしまうでしょう。さらに強くなった呪いの力で……そうなったらもう、あなたの優しい口づけも意味をなさないかもしれません」

 

 ラウラは、潤んだ瞳でエリクを見つめた。

 

「エリク様に、お願いがございます」

 

 杖を彼の手に握らせたラウラは、そっと自分の手をも重ねた。

 

「私を、封印してください。外にあるクレバス、あの冷獄に私を封じ込めてください」

 

 エリクは動揺した。そんな彼を見て、ラウラは微笑んだ。それは呪いに強制されたものではない、彼女の清純な魂が生み出した笑みだった

 

「魔王を討ち果たしたら、私を迎えに来てください。大丈夫です。私はエリク様を愛していますから……」

 

 

☆☆☆

 

 

 エリクは、装備を身に纏って宿屋を出た。暁闇は柔らかな朝の陽ざしに追いやられ、トロス山脈は薄墨の衣を脱いで、白銀の威容を示し始めている。

 

 あれから、随分時が経ってしまった。

 

 あの後、勇者一行は吹雪の雪山を突破して魔都に突入し、魔王を見事に討ち果たした。エリクの放つ封印魔法によって魔王はその全能の力を拘束され、勇者によってとどめを刺された。

 

 だが、エリクにとっての本当の戦いは、その後に始まった。

 

 最終決戦の際、力を限界以上に行使したことにより彼の肉体は急速に衰え、魔法力も赤子同然にまで落ちてしまった。

 

 それでも彼の気力が萎えることはなかった。

 

 魔都にとどまり、魔王軍の秘密文書を収集し、呪いについて情報を集め、分析し、なんとか光明を見出したのがつい先月のことだった。

 

 これで、ラウラにかけられた呪いはきっととけるだろう。

 

「おーい!」

 

 声を聞いて、ふと彼は視線を上げた。そこには、手を振る仲間たちがいた。

 

 エリクは手を振り返した。さあ、行こう。ラウラを迎えて、みんなでまた新しい旅を始めるために。彼の表情は、雪解けのように緩んだ。




※以下、作品メモとなりますので、ご興味をお持ちでない方は、お手数ですが非表示設定にするか、ここで読み終えて下されば幸いです。

・らいん・とほたー「ラウラの冷獄」

 小説投稿サイト「エブリスタ」で定期的に開催されている妄想コンテスト、その第96回「とける」に応募した作品です。2019年3月10日公開。

 当初はシリアスギャグ(?)のようなものを想定していました。南極の大地の氷の下に閉じ込めておいたヤンデレの元カノ。ある日、突然の地殻変動により封印がとける。主人公はそれをいち早く察知し、各地を転々とし逃げ続けるが、次第にヤンデレの元カノの影は日増しに濃くなって行くように……という筋。

 ですがやはり私にはまだヤンデレを書けるだけの筆力と度胸がありませんでした。二転三転した結果、今回のようなお話に落ち着きました。

 作中、主人公サイドはイタリアを、魔王サイドは小アジアをイメージソースにしています。

 次回もお楽しみに!


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14. 一粒だけのチョコ・アソート

 運命が僕らを娶わせた。
 まだ歩みを止めることは許されない。



 地獄に堕ちた。

 

 (あおい)は地獄に堕ちてしまった。

 

 碧はいつの間にか地獄に立っていた。

 

 閻魔様の裁きや、オシリスの天秤や、ペテロの門などといったものはなかった。また、決して上には戻れないという絶望感を抱かせるような落下と浮遊感を味わうこともなかった。

 

 しばしの休憩がもう終わる。ぼんやりと周囲を見回した後、碧はカバンを持って立ち上がり、とぼとぼと行くあてもなく歩き始めた。

 

 碧は、彼自身が記憶している限りでは、高校生だった。17歳だったはずだ。身に着けている詰め襟の黒の学生服と黒革のローファー、それに白いシャツを見ても、その記憶はおそらく確かなものだろう。

 

 彼は、やつれ、疲労し、青褪めていた。女の子のように可憐で、母親の自慢だったあの美しい容貌は、すっかり「地獄的」なものへと変貌していた。

 

 行く手に目をやる。大地は見渡す限り平坦で、真っ白だった。その白は、無数の骸骨と、漂白したような砂礫と、干乾びた蟲の死骸によって構成されている。

 

 ピンク色の無数の亀裂が地面を走っている。亀裂からは腐臭を放つ黄緑色の瘴気が噴き出ている。その瘴気に、真っ黒になるほど羽虫が集っている。

 

 耳障りな、ブンブンという羽音。

 

 バキッという、枯れ木を踏み折ったような、鋭い音がした。碧は思わず足元を見た。骨を踏んでいる。形と大きさと強度から見て、女性か、子供の大腿骨。

 

 よくあることだ。

 

 気を取り直して、彼は更に多くの骨を踏みしめ、蟲の死骸を踏み潰し、亀裂と瘴気を避けながら、漫然と前に進み続けた。

 

 空を見上げる。大気は紫色で、赤と橙色の無数の妖星が煌めいている。時折紅い稲妻が走り、ドロドロという不気味な遠雷が響いてくる。

 

 何時間か、それとも何日間か、碧は歩き続けた。

 

 ひときわ大きな骸骨の山を登った後、碧は一息ついていた。眼下には白い大地。頭上には紫色の大気。いつもと何も変わりがない。

 

 少し前に、何人か他の人と出会った。みんな碧と同じように無言で、目は虚ろで、ボロボロの服を着て、今にも倒れそうなほどに覚束ない足取りで、ひたすらに歩みを続けていた。

 

 そして、いつの間にかいなくなっていた。

 

 彼らは、何者だろうか? やはり、彼らも地獄に堕ちた人間なのだろうか? その罪は何だったのだろうか? 彼らは何を考え、どこへ向かっているのだろうか……

 

 埒もないことを思案しつつ、ぼんやりと座り込んでいた碧は、突然、ある強烈な衝動に突き動かされた。

 

 猛烈な飢餓感。

 

 腹を抑え、呻吟する。この堪えきれないほどの飢餓は定期的にやってくる。何もかも考えられなくなり、身体の自由は奪われ、五感すら喪ってしまう。それは回を追うごとにますます酷くなっている。

 

 碧はカバンを開けると、何か食べられるものはないかと、乱雑に中身を取り出し始めた。ノートに教科書、財布、文房具、スマホ……

 

 最後に出てきたのは、大きな平たい箱だった。まだ未開封の箱。上質の茶色の包み紙には、凝った意匠のエンブレムが印刷されている。

 

 それは、中身がチョコのアソートであることを示していた。

 

 血走った目で碧は箱を見つめ、熱に魘されたような手つきで包み紙を破ろうとした。

 

 だが、次の瞬間には動きを止め、深呼吸をし、箱をそっとカバンへと戻した。

 

 このチョコは、決して食べてはいけない。

 

 彼は代わりに、ノートのページを一枚破り取って丸めて口にねじ込むと、ゆっくりと咀嚼し始めた。これで、飢餓が去るまで耐えるしかない。

 

 半時間も経っただろうか。碧は、また歩き始めた。

 

 

☆☆☆

 

 

 歩きながら碧は思う。なぜ、このような地獄へと来てしまったのか? この、地獄にしては至極平凡な地獄へと。

 

 罪を犯した記憶はない。罰を受けなければならないほど、呪われた存在だとも思わない。

 

 地獄といえば、彼が覚えている限り、死ぬ直前の世界のほうがよほど地獄だった。

 

 その日の朝、空が突然閃光に満ち溢れ、地表に無数の光の粒が降り注いだ。粒はあらゆるものを穿ち、発火させ、灰へと変えていった。

 

 空に呼応して、大地も唸り声を上げて人間に襲いかかった。無数の地震、無数の地割れ、火山噴火、地殻変動、噴出する炎とマグマ……

 

 あの状況は、おそらく日本だけではなかっただろう。碧はそう思う。きっと、全世界で同時に起こったことだろう。

 

 ある宗教を信ずる人からすれば、あれはさしずめ「最後の審判」というところだろう。

 

 原因など分からないが、人類が滅び去ってしまったなら、その究明などもはやどうでも良いことだ。

 

 しかし、彼には一つだけ、気がかりなことがあった。

 

 自分がどうして死んだか、それだけが思い出せない。

 

 最期に何を思い、何を欲して死んだのか……何を為したのか、何を叫んだのか。

 

 そして、小春(こはる)には会えたのだろうか? 

 

 大好きな小春、笑顔の眩しい、元気一杯な小春。彼女と一緒に最期を迎えられたのだろうか?

 

 もう何度目になるか分からない疑問を飽きることなく反芻しながら、碧は地獄の大地を行く。足を引きずり、飢餓に悩まされながら。

 

 

☆☆☆

 

 

 ここには時間の観念がない。昼もなければ夜もない。

 

 だから、ここ数日の間に、としか言いようがない。碧が他の人々と一緒に歩くようになったのは。

 

 年齢も性別も、人種も職業も別々の様々な人たち。背広を着たサラリーマン、ビジネススーツのOL、普段着の年配の女性、作業着を着た男性、黄色い帽子の子ども、病院着の老人……

 

 皆が皆、暗い顔をし、疲労感に満ち満ちているが、一言も声を漏らさない。

 

 碧は、集団の中頃にいた。ここに来てからずっとそうしてきたように、無心になって、ただ歩を進めている。

 

 突如、大地が振動し、轟音が響いた。そして、醜悪な甲高い鳴き声が聞こえた。

 

 無意識に沈潜していた碧は、ハッとして目を先頭の集団にやった。前方は砂埃に覆われている。

 

 数秒後、そこから姿を現したのは、一つの異様なシルエットだった。

 

 地から躍り出たのは、巨大なミミズのような怪物だった。怪物は毒々しいショッキングピンクの体色で、口の周りには鋭く輝く無数の牙を生やし、全身が茶色の粘液に覆われている。

 

 怪物は、近くで呆然として立ち尽くしていた人間にその醜悪な頭部を近づけると、環状の筋肉と口部とを機敏に駆使して、一気に丸呑みにしてしまった。

 

 それを見た人たちは、声もなく逃げ出した。

 

 走る碧の周囲に、次から次へと怪物が地面から出現し、咆哮を上げて、獲物を捕らえていく。響くのは、巨大なミミズの鳴き声と、骨が砕ける音と、粘液の滴り落ちる音。

 

 人間の叫びは聞こえない。

 

 背広のサラリーマンが怪物に追われている。彼は、近くにいた病院着の老人を殴り倒した。

 

 身代わりにしたのだ。

 

 怪物は、地面に横たわる老人を標的に定めると、その巨体を踊らせた。

 

 サラリーマンだけではない、碧以外のすべての人間が、身代わりにしたり、されたりをしていた。

 

 碧は、幸いにも捕まらなかった。周りには誰もいなくなってしまった。

 

 彼は気落ちすることなく、さらに歩を進めていく。チョコの箱が入った、カバンを握りしめて。

 

 

☆☆☆

 

 

 どういう偶然の力が働いたのか、積み重なった骨でちょうど穴が隠されていたらしい。碧は骨でできた蓋を踏み抜き、ふちに掴まる間もなく、十メートルはある穴の底に落ちてしまった。

 

 落下の衝撃で彼は意識を失った。

 

 気がつくと、隣で誰かが寝ていた。

 

 碧と添い寝をしていたのは、紺の冬服のセーラー服を着た骸骨だった。長い髪はすべて真っ白になっている。あちこちに、黄色い皮膚の欠片と軟骨の残骸が付着している。

 

 この「元」女の子も、穴に落ちてそのまま白骨になったのか?

 

 その死体が身につけている濃緑色の襟に、碧の目は吸い寄せられた。そこには校章が刻まれている。

 

 かつて通っていた中学校と同じ校章だった。

 

 それが刺激となって、彼の記憶中枢はバチバチという放電音を放ちながら、過去の情景を精神のスクリーンに映写し始めた。

 

 

☆☆☆

 

 

 そう、小春だ。

 

 碧の中学校の思い出には、常に小春がいた。

 

 彼女とは、入学式の日に会った。校門で母と一緒に写真を撮っていた時、声をかけてきたのが小春とその両親だった。

 

 成り行きで、なぜか初対面の小春と二人一緒に写真に収まったのを彼はよく覚えている。

 

 小春は、とにかく明るい子だった。クラスの誰とも仲良くおしゃべりをし、分け隔てなく友情を振りまいた。打ち解けず、物静かで、ともすると陰気な印象すら与えがちな碧とは、まさに正反対だった。

 

 数ヶ月経って、碧と小春は一緒に登下校をするようになっていた。道すがら、彼女はよく話した。飼っている犬のこと、亡くなったおじいさんのこと、昨日食べたお菓子のこと、好きなアイドルのこと……

 

 彼女は、よく忘れ物をした。そのたびに、隣の席だった碧は、教科書や資料集を見せてあげた。

 

 書道の時、小春が道具一式を家に忘れてきたことがあった。碧は自分のものをすべて彼女に貸した。最初、彼女は遠慮していたが、碧がじっと見つめると、諦めたように道具を受け取った。

 

「ありがとう、あおちゃん。あおちゃんは、すごいね。大切なものを躊躇しないで人にあげることができて……」

 

 書道の教師は年配の女性で、多少ヒステリックな性格だった。道具を忘れたと申告する碧を、教師は教室はおろか校内中に響きわたるほどの甲高い声で怒鳴り上げた。これが分かっていたから、碧は小春に道具を貸したのだ。

 

 高校生になっても、碧と小春は一緒だった。もともと成績の良くなかった小春だが、一生懸命勉強をして碧と同じ高校に入学した。

 

 中学生の頃とは違って、小春は少し大人しくなった。何か劇的なきっかけがあったわけではない。おそらく、肉体が成長するにつれて、精神がそれに釣り合う形で成熟したのだろう。

 

 それでも、彼女は碧と離れることはなかった。

 

 それに対して碧は、あまり変化らしい変化はなかった。中学生の頃と変わらぬまま、一人物静かに教室の片隅で本を読んでいた。

  

 ただ、以前ならば月影のような陰気さを醸し出していた彼の表情は、高校生になってからは幾分か明るくなっていた。

 

 小春がいたからだろう。

 

 高校二年の二月十四日、帰り道、薄い夕陽の中で、小春は碧に小さな箱を渡してきた。中身は手作りの、ハートの形をしたミルクチョコだった。

 

「……ねぇ、この場で食べて! 他の子たちは、家でゆっくりと味わって食べてほしいって言うかもしれないけど、私はこの場ですぐに感想が聞きたいの。あおちゃん、お願い。ここで食べて!」

 

 少しは大人になったのかなと思っていたが、子供らしいせっかちさはまだまだ残っていると内心呆れつつ、碧はチョコを口に運んだ。

 

 上品で、甘さは控えめだった。碧は、初めて味わう滋養を舌に感じた。

 

「それって、たぶん愛の味だよ!」

 

 小春がにっこりと笑って言った。

 

 

☆☆☆

 

 

 生前のこと、過去のことは思い出せるのに、直前のことは奇妙に曖昧で、はっきりとした形で思い出すことができない。

 

 小春の笑顔も、声も、手のぬくもりも思い出せるのに、どうやって這い上がって穴から抜け出したのか、碧は思い出せなかった。

 

 彼はまた地表を歩いていた。今度は、道に沿って歩いていた。いつから道に出たのか、それも思い出せない。

 

 すべては空腹のせいだ、と碧は思った。痛みも、恐怖も、眠気も、寒さも感じないが、空腹だけは生きていた頃の何倍もの威力を伴って、彼の魂を幾度となく苛む。

 

 何度も彼は、カバンの中のチョコの箱を開けようと手を伸ばした。そのたびに、彼は急ブレーキをかけたように踏みとどまった。

 

 これは、小春にあげるものだ。

 

 道は細かく砕かれた骨で舗装されていた。歩きやすいが、ところどころに尖った骨片が突き出ている。転べば、たちまち血塗れになるだろう。

 

「……おーい」

 

 幻聴かと、最初碧は思った。しかし、間をおいてもう一回、さらにもう一回と声が聞こえてくる。

 

 向こうに一人の男性が地面に横たわっているのが見えた。

 

「やあ、君」

 

 男の両足は膝から下がなかった。何かに食い千切られたような、生々しい傷口。

 

「でっかくて真っ赤なアリに襲われてね、足を持っていかれたよ。ところで……」

 

 蒼白な顔をして、男は碧に笑いかけた。

 

「初対面の君に頼むのはなんとも厚かましいと自分でも思うんだが、なにか食べ物をくれないか? もうずいぶん長いこと何も食べてないんだ……僕はもうすぐ死ぬと思う。最後に何か口に入れてから死にたい」

 

 それは懇願のように思えたし、もしくは単なる独り言のようにも思えた。視線を合わさないように、碧は男を見る。男は、どこか遠くを見ていた。目から光は失われている。

 

 あげることができるものは、カバンのチョコしかない。そしてそれは、渡すわけにはいかない。あれは、小春のものなのだから。碧は無視して通り過ぎようとした。

 

 しかし、その時ふと、頭の中で声が再生された。小春の声だ。あの薄い夕陽と、チョコの甘みに包まれて、彼女がはにかむように自分に告げた言葉。

 

「私、あおちゃんが好き。あおちゃんは無口で冷たいように見えるけど、本当はとっても温かくて、優しい人だって私は知ってる。一番大切なものを惜しみなく与えることができる、そんな温かい人だから、私はあおちゃんが大好きになっちゃった……」

 

 数歩行き去り、また戻って、碧は男の前に立った。震える手でカバンから箱を取り出すと、愛惜するように包装を撫でてから、思い切るように破った。

 

 蓋を開ける。中には整然と区分けされたさまざまな種類のチョコのアソートが三十粒。同封されていた説明書きがはらりと落ちる。

 

 碧は一粒をつまみ上げて、男の口元にそっと差し出した。

 

「……ありがとう、うん、これは、コーヒー味だね。僕の一番好きなチョコだ……本当にありがとう、ここに来て、初めて人の優しさに触れられた……」

 

 男の眼窩から涙が零れ落ちる。ごくりと喉が動いて、男は掠れた声で言葉を続ける。

 

「優しい君に、お返しといってはなんだが、一つ良いことを教えるよ。あそこの空に、白い綺麗な星があるだろう? そう、あれだよ。あの下には救いの女神様がいて、何でも一つ、願い事を叶えてくれるそうだ。行ってみたらどうだい……」

 

 確かに、遥か遠くの空に、他の妖星とは明確に異なった、聖浄な輝きを放つ白い星があった。

 

「大事なことが一つある。そこに行き着くまでに、自分がなんでここに来たのか、それを思い出さないといけないよ……」

 

 碧はしばらく白い星を見つめてから、おもむろに視線を戻した。

 

 男は真っ白な一山の砂になっていた。

 

 

☆☆☆

 

 

 道はちょうど、あの星の下へと続いているようだった。碧は以前と変わらぬペースで歩みを続けた。

 

 男にあげたチョコは、ホワイトデーのお返しとして碧が用意したものだった。

 

 父がいない碧には、ホワイトデーに何を返すべきか尋ねることができなかった。母に訊くのも、なんとなく躊躇われた。これは、自分自身で考えないといけないことだと思った。

 

 スマホで検索をすると、愚にもつかない記事ばかりがヒットした。参考になりそうな情報だけを拾い、彼なりに筋道を立てて考えて、やはりお返しにはチョコしかないと結論した。

 

 こつこつ貯めた小遣いが八千円ほどある。これで高いお店の上等なチョコを買おう。

 

 手作りのチョコに対して、店の高いチョコ。不器用な自分にはこうするくらいしか彼女の真心に応えることができない。

 

 小春は怒るだろうか? いや、彼女ならきっと怒らないだろう。二人で並んで、説明書きを一緒に読んで、笑いながら選んで、食べさせあって……

 

 その夢は今、ちょうどコーヒー味一個分だけ欠けてしまった。しかし、碧はそれを残念とも思わなかった。

 

 小春は怒るだろうか? いや、少しは怒るかもしれないが、きっとそこまで怒らないだろう……

 

「おーい、おーい……」

 

 その時、また声が前方から聞こえた。顔を上げると、向こうに小さなシルエットがいくつか見えた。

 

 これ以上はないとばかりに痩せこけた、子供たちだ。

 

 碧は歩み寄っていった。飢餓で引き攣る胃袋を上から抑えつつ、カバンの中のチョコ、その中のどれをあげるべきかを思案しながら……

 

 

☆☆☆

 

 

 数年か、それとも数十年か? あるいは百年は経ったのかもしれない。

 

 長い、とても長い時間が過ぎ去ったのは確かだった。幾度も飢餓に苦しめられ、幾度も地獄の怪物に追いまくられた。

 

 碧は、ついに白い星の下に辿り着いた。

 

 そこには、小さな丘があった。丘は緑だった。丘の上には小さな白い家があった。

 

 ふらふらと、碧は家へと進んだ。丁寧に刈り込まれた垣根の中には、よく手入れされた花畑と、澄んだ泉があった。空気は甘く清浄で、柔らかな光に満ちている。

 

 鼻をくすぐる香りがする。これは、パンが焼ける匂いだ。魂が完全に摩滅してしまうほどの時の流れの中でも、幸せな匂いの記憶は未だに残存していた。

 

 時間をかけて丘を登る。ノックもせずに、碧はドアを開けた。中は塵一つなく掃除されていて、白いテーブルと、二脚の椅子と、かまどがあった。かまどではやかんが火にかけられていて、しゅうしゅうと湯気を飛ばしている。

 

「こんにちは、碧くん」

 

 水晶のように透き通った、それでいてたおやかな女性の声がした。

 

 なぜ気づかなかったのだろうか? 椅子には、一人の女性が座っていた。

 

 シルクのドレスを身に纏い、七色に輝く後光を背負ったその女性は、しかし顔が光に包まれていてよく見えない。

 

 これが、救いの女神様だろう。

 

 女神は青い陶器のティーカップを手にして、お茶を飲んでいる。

 

「よく来てくれたわね、碧くん。ずっと待っていました。さあ、ここにかけて、一緒にお茶を飲みましょう」

 

 碧は、それを断った。そして、カバンからチョコの箱を取り出すと、静かに、しかし決然として言った。

 

「女神様、お願いがあります。これを、小春に届けて欲しいんです。きっと天国に彼女はいます。僕の代わりにこれを渡してください」

 

 数秒の間をおいて、女神は答えた。

 

「……中身を、見せてもらっても良いかしら」

 

 碧は箱を差し出した。女神が蓋を開ける。

 

 中身は、もう一つしか残っていなかった。ハートの形をした、ミルクチョコが一粒。驚いたように女神が言う。

 

「あら、一個だけなのね」

 

 碧は、弁明するように言った。

 

「ここに来るまでに、いろんな人と出会いました。みんな、お腹を空かせていました。足を失った男の人、やせ細った子供たち、目が見えなくなった女の人、赤ちゃんを抱いたお父さん……僕は、その人たちにチョコを一粒ずつあげました」

 

 女神はじっと聞き入っている。碧には、その顔から発せられる光が僅かに薄くなったように感じられた。

 

「一個だけでも残って良かったと思っています。あと一人でもいたら、僕はきっと最後の一個でもあげてしまったでしょうから……お願いです、小春に、たった一粒ですけど、これを届けてください」

 

「なぜ?」と女神は尋ねた。「あなたが天国に行くようにお願いをすれば、あなた自身でその子にチョコを渡せるでしょう。私はこの地獄から、あなたを連れ出すことができます」

 

 碧は首を振った。

 

「それはできません。僕は、小春のためにここに居続けないといけないから……」

 

 彼は道中で、遂に思い出していた。あの最期の時を、そして、地獄に堕ちた理由を。

 

 炎の海、降り注ぐ破壊の光の粒子。碧と小春は抱き合っていた。もう数分もせずに、二人は焼き尽くされて、一握の灰になるだろう。

 

 結局、彼はお返しを渡しそびれてしまった。

 

「あの時僕は、ふと願ったんです。せっかく用意したチョコは小春に渡せなかったけど、違うお返しならできるんじゃないかって……このまま二人とも死んでしまって、もし二人とも地獄に堕ちることになるなら、僕が小春の分まで地獄を彷徨うから、代わりに彼女は天国に行って欲しいって……」

 

 光はますます薄くなり、女神の顔の輪郭がはっきりとしてくる。

 

「もうずいぶん長いこと、この地獄を歩き続けました。どこにも小春はいませんでした。きっと、僕の願いが通じたんだと思います。彼女はきっと天国に行きました。それなら、僕は願いが叶った分だけここにいなければなりません。でも、たぶん彼女は寂しがっていると思います。それに、やっぱりせっかく買ったものだから彼女に渡したい……」

 

 そこまで話してから碧は少し俯き、息をのんで、搾り出すような声で頼んだ。

 

「お願いです。天国の小春に、僕のお返しを、どうか届けてください」

 

 

☆☆☆

 

 

 しばし、沈黙があたりを包んだ。地獄を放浪したすべての時間よりも長い時が経ったように碧には思われた。 

 

 くすくすと、笑う声がした。

 

「……ふふ、あはは……やっぱり、あおちゃんは優しいなぁ。だから私、あおちゃんが大好きになったんだけど。でも、私の分まで地獄を背負い込むなんて、ちょっとやりすぎだよ」

 

 はっとして、碧は顔を上げる。

 

「ね、あおちゃん」

 

 先ほどまで女神が座っていた場所には、小春がいた。

 

 ドレスと後光を纏っているが、それは確かに小春だった。長い黒髪に、翡翠の髪留め。かわいらしくも溌剌とした表情。にっこりと、あの春の穏やかな日差しを思わせる笑顔を浮かべている。

 

「いただきます」

 

 小春は、最後のチョコをつまみ、そして桜色の唇を開いて、それを口へと運んだ。

 

「ふふ、美味しい……ありがとう、あおちゃん。願い事は、叶えたからね」

 

 碧は、いつの間にか立ち上がっていた。小春も椅子から立っている。よろよろとおぼつかない足取りで彼は小春に近づくと、倒れこむようにして抱きついた。

 

 頭を優しく撫でながら、小春は言った。

 

「あおちゃん、ごめんね。ここに来るまでにずいぶん時間がかかっちゃった。私も、天国を彷徨っていたから……でも、これからはずっと一緒だよ……今度は私があおちゃんに、お返しをしてあげるね」

 

 二人は、そっと唇を重ねた。それは、チョコに似た味だった。

 

 次第に、抱き合う二人は白い光となっていった。

 

 最後に無数の光の粒子となって、二人は、天に輝くあの白い星へと旅立っていった。




※以下、作品メモとなりますので、ご興味をお持ちでない方は、お手数ですが非表示設定にするか、ここで読み終えて下されば幸いです。

・らいん・とほたー「一粒だけのチョコ・アソート」

 小説投稿サイト「エブリスタ」で定期的に開催されている妄想コンテスト、その第97回「お返し」に応募した作品です。2019年3月24日公開。

 締切前日の夜23時に構想が浮かび、一気に書くつもりが2,700字を書いたところで体力が尽きて寝てしまい、起きたときには日曜は午前が終わりかけていて、「こりゃもう諦めるか」と半ば投げやりな気分になりましたが、奮起して持ち直し、なんとか書き上げました。
 
 テーマが「お返し」ということで、当初は恩返し、復讐、報復核攻撃などを考えていましたが、まあどう考えてもこの「お返し」はホワイトデーのお返しを選考委員は念頭に置いているのだろうと考え直し、今回のような話になったわけです。

 私なりに考えたホワイトデーのお返しの形、いかがだったでしょうか?

 次回もどうぞお楽しみに!


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15. となりのヴァレンティーヌ

 ありふれた悲劇、なんと嫌な響きだろう!
 高みにあって下界を眺める幸福な者たちには分かるまい!
 呵責と悔恨の泥沼の中でのたうつこの私の気持ちだけは!


 こんな境遇でも、それを「家」と呼んでしまうのが不思議だった。

 

 不安げな音を立てる梯子を登り、腰を屈めて小さなドアを開ける。目に入るのは、家具一つない、黴と埃と湿気に満ちた灰色の空間。

 

 珍しく、兄が起きていた。おが屑の詰まった薄いマットレスに横になったまま顔をこちらに向けて、表情も変えずに言う。

 

「エリザ、おかえり。仕事で虐められなかったかい?」

 

 私はだらしなく自分の床に横になった。行儀悪く手枕をして兄に返事をする。

 

「別に。いつもどおりだよ」

 

 いつもならばここで会話が途切れるのだが、今日は違った。兄は少し咳き込むと、あまり関心もなさそうに私に言った。

 

「ところで、下でヴァレンティーヌに会ったんじゃないか? 声がしたが」

 

 私も気乗りしない風に答える。

 

「会ったよ。夜の仕事で疲れてるだろうに、なぜかモップで階段掃除してた」

 

 返事から二呼吸ほど置いて、兄は意外なことを言い出した。

 

「彼女、どうしたんだろうなぁ。昨晩は早めに帰ってきて、何か物を運び入れてたみたいだった。隣から一晩中ゴソゴソと音がしててな……まあ夢だったのかもしれないが」

 

 その言葉をすべて聞く前に、私は既に眠りの世界へ落ちていた。兄の話に興味がないわけでもなかったが、べっとりと体と精神に貼り付いた疲労感に抗うことはできなかった。

 

 

☆☆☆

 

 

 私たちは逼塞していた。

 

 共和国のありとあらゆる汚物と悲哀と貧困を掃き寄せたような、首府東地区のスラム街の集合住宅(インスラ)、その屋根裏部屋。その狭いたった一間だけの「家」で、14歳の私は、日中は病気で寝たきりの兄の世話をし、夜は酒場で給仕の仕事をして糊口を凌いでいた。

 

 両親はいない。従軍商人だった父は魔族との戦争で「ごくありふれた死」を遂げ、母は流行り病でこの世を去っていた。いずれも私がまだ物心つく前の話だ。

 

 10歳年上の兄は、幼い私を養うために懸命に働いた。レンガ積みや荷運びといった日雇いの仕事から、ゲットー内における非合法の取引、魔法薬の治験など、ありとあらゆる方法で日々の糧を稼いだ。

 

 私が8歳になった頃、兄は軍隊に入った。折から魔族たちが「最終戦争」を唱えて、国境線へ大挙押しかけていた。軍は兵士を欲していた。

 

 兵営へ面会に行った時、兄はニッコリと笑って言った。

 

「一兵卒でもちゃんとした給料が出るのが我が共和国の良いところだ。貧乏生活とはもうオサラバだよ。お前を学校に行かせてやるからな」

 

 兄は純粋だったし、私も幼かった。このまま順調に人生の行方が定まって、二人の前途は善きもので溢れているだろうと信じていた。

 

 次に会った時の兄に、かつての溌剌さは見る影もなかった。全身に包帯が巻かれ、虚ろな目をして寝台に横たわる兄を見て、茫然と立ち尽くしたのを覚えている。

 

 傍にいた看護卒は「四肢が満足なだけまだマシだ」と、慰めにもならないことを私に言った。 

 

 兄は、戦場で何があったか決して話さなかった。私もそれを尋ねなかった。陽気さは消えて無表情となり、いつも黙っていて、私はそれが怖かった。そんなわけだから、当然得られるはずの傷痍軍人恩給が支給されない理由も知ることができなかった。第一、そんな制度がこの世に存在することすら知らなかった。

 

 流れに流れて、私たちはこのインスラの最上部に漂着した。陰気と悲哀と無気力を建材にした、監獄のようなこの一室に。

 

 

☆☆☆

 

 

 完全なる幸福というものが存在しないように、完全なる不幸というものも存在しないらしい。私たち兄妹にとって生活は不幸そのものだったが、やはり何らかの幸福はあった。

 

 私たちは、隣人に恵まれていた。名前はヴァレンティーヌ。若いが、歳はちょっと分からない。透き通るような白い肌、長く艶やかな黒髪、熾火のような赤い瞳。

 

 だが、彼女が美しかったのは、その外見のためではなかった。

 

 インスラの屋根裏部屋は並ぶように二つに分かれていて、左側に私たち兄妹が、右側にヴァレンティーヌが住んでいた。

 

 私たちが入居すると、彼女はすぐに挨拶に来てくれた。そして状況を理解すると、初対面なのにも関わらず私の手をとって、いかにも真心のこもった声音で言った。

 

「エリザ、困ったことがあったら何でも私に言ってちょうだい。私があなたのお姉ちゃんになってあげるからね」

 

 その言葉に偽りはなかった。ヴァレンティーヌは本当に親切だった。食べ物や衣類、ロウソク、時にはお金まで、彼女は私たち兄妹に分けてくれた。私も時には彼女にお返しをしたが、受けた恩恵とは比べるべくもない。

 

 彼女は日中部屋にいて、陽が落ちる頃に外へ出ていくのが常だった。薄化粧をし、簡素だが体のラインを際立たせる魅力的なドレスを着て、雪の結晶をあしらった銀の髪飾りをつけて、音もなく階下へ降りていく。

 

 何を職業にしているか、当時の私でも察しがついた。

 

 

☆☆☆

 

 

 その日の晩、私はいつも通り酒場で立ち働いていた。ただでさえ手に余るジョッキを両手で何個も抱えるように持って、卓から卓へと怒鳴りつけられながら運ぶ仕事。

 

 酔って肌を赤黒くした客が、仲間たちに向かって得意げに話しているのが耳についた。

 

「おい、聞いたか。一週間前のゲットー蜂起の件だが」

「知ってるよ。魔族共の最後の悪あがきだろ? 一匹残らず踏み潰したって話じゃないか」

「ふん、『一匹残らず』ね、なんともめでたいこった」

「なんだその言い方は。事情通みたいなツラぁしやがって」

「ところが俺は本当に事情通なのさ。ここだけの話だが、当局の追及を逃れた奴が一匹いるらしい」

「ほう。で?」

「それが、例の『金髪』らしい。蜂起の首謀者だ。一番重要な奴を逃したってんで当局は血眼で探していたらしいが、遂に明日事実を公表するらしい。通報者には賞金1000ドゥッカーテンだとよ……」

 

 賞金という言葉に、酒場は静まり返った。

 

 その事件については私も知っていた。首府には魔族専用の居住区、通称ゲットーが設定されていて、そこでのみ彼らは生存を許されていた。

 

 彼らは戦線での魔軍の動きに呼応して、遂に暴動を起こした。

 

 いや、暴動などという言葉では生ぬるい。それは紛れもなく反乱であり、蜂起であり、戦闘だった。魔族たちの死に物狂いの反抗に治安当局は手を焼き、最終的には軍隊まで投入された。

 

 激戦の末、かの種族は一人残らず殲滅された。三日前に捕虜が公開処刑されたばかりだった。

 

 その日私は、兄の薬を得るために共和国広場方面へ向かわねばならなかったのだが、そこには「不埒なる魔族の反逆者共」が処刑される様を見物するために、大勢の人間が集まっていた。

 

 私は、汚れた下着だけを身につけた魔族たちが、粗末な馬車に乗せられて市内を引き回され、広場に連れて来られるのを目撃した。

 

 藍色の肌をした彼らは昂然と胸を張っていたが、いずれもやつれていて、傷つき、真っ蒼な血を額から流していた。

 

 あまりにも美しすぎるほどに鮮やかな、その蒼。それが妙に目に焼き付いた。

 

「おいエリザ! さっさと運べ!」

 

 突然の店長の怒声。私は仕事を再開する。

 

 私は皿とジョッキを運び、卓を巡りながら、疲労でぼんやりとした頭で、1000ドゥッカーテンという金額について考えていた。それだけあれば、あのインスラに別れを告げることができるのだが……

 

 

☆☆☆

 

 

 私が仕事を終えて帰ってくるのは、いつも日が昇ってから数時間経ってからだ。疲れ切った体に1000ドゥッカーテンという夢を吹き込んで無理やり動かし、引き摺るように階を登って、屋根裏に通じる梯子の下に辿り着いた。

 

 奇妙な光景がそこにはあった。

 

 ヴァレンティーヌが、モップを持って床を掃除している。常にないことだ。

 

 私は思わず彼女に問いかけた。

 

「おはよう、姉さん。どうしたの、床掃除なんてして? 誰の得にもならないのに」

 

 彼女は、私を見ると、なぜか一瞬息を呑んだようだったが、その次にはもういつもの笑顔を浮かべていた。

 

「おはようエリザ。なんだか今日は気分が良いのよ。お掃除したい気持ちになっちゃって。ここだけじゃないわ。インスラの階段を全部綺麗にしたの。気付かなかった?」

 

 そういえば、ここまでの階段はすべてチリ一つなく磨かれていた。

 

 私は感心したような、呆れたような声を出した。

 

「姉さん、ほどほどにしておきなよ。余計な体力を使うと悪い病気になるよ」

 

 私は返事も聞かず、溜息をついて、梯子を上った。ヴァレンティーヌは、黙々とモップを動かしていた。

 

 

☆☆☆

 

 

 ゆっくりと腐っていくような、それでいて何も変わり映えしない生活において、ヴァレンティーヌの階段掃除はちょっとした事件だった。

 

 だが、私たちの愛する隣人は、次の日からもっと変わった事件を起こしていった。

 

 その日の午後、私はいつものように洗濯物を抱えて、薄暗い曇り空の下、公衆洗濯場へ向かった。共和国から受けている恩恵らしい恩恵といえば、この無料の公共施設くらいなものだった。

 

 何事もなくインスラから2ブロック離れたそこに着き、かごを下ろして、退屈な洗濯仕事を始める。

 

「こんにちは、エリザ」

 

 澄んだ優しい言葉で挨拶をして、誰かが私の隣に腰を下ろした。それは、ヴァレンティーヌだった。

 

 珍しいこともあるものだと私は思った。彼女は、いつもはもっと人入りの少ない時間帯に洗濯をする。

 

 理由は、彼女の職業のせいだった。彼女は蔑まれていた。現に、周りの女たちは私たち二人を、いやヴァレンティーヌを遠巻きにして、ひそひそと何かを囁き合っている。

 

 貧者は富者を怨まない。貧者は貧者を、とりわけ「比較的富んでいる」貧者を怨むものだ。それが財であれ、美貌であれ。ヴァレンティーヌは境遇と比して、明らかに美しすぎた。そんな彼女がそういう仕事をしているのだから、蔑まれるのは当然と言えば当然だった。

 

 私は視線を洗濯桶に向けたまま言った。

 

「姉さん、洗濯しに来たのか、それとも陰口を叩かれに来たのか、どっちかに絞ったほうが良いよ。一度に多くのことをしようとすると、横着してると思われるよ」

 

 彼女は私の言葉に、薄く笑って答えた。

 

「ふふ、忠告をありがとう。でも、どうしても外せない用事ができちゃって、今しか洗濯する時間がないの……」

 

 さりげなく、ちらりと隣を一瞥する。ヴァレンティーヌは、男物の肌着を洗濯していた。

 

 鮮やかな蒼い染みがついている。

 

 訝しむ私の内心を見通したように、彼女は呟くように言った。

 

「お客さんがね、ワインを溢しちゃったの。私に洗濯して欲しいって……」

 

 蒼いワイン? そんなものが存在するのだろうか? 少なくとも酒場では見たことがない。

 

 それから毎日、彼女は私と同じ時間に洗濯をした。そしていつも、蒼い染みがついた男物の肌着を洗っていた。

 

 

☆☆☆

 

 

 些細な違和感はその後も継続した。その次の日には、こんなこともあった。

 

 私の午後は洗濯から始まり、それが終わるとインスラの一階にある汚い食堂へ行く。薄い粥を、穴の開きそうなほどに古い鍋に半分だけ買い、それを兄に食べさせる。薬を飲ませ、着替えさせ、場合によっては体を拭いてやる。

 

 そんな仕事が終われば、働きに出る時間がもう迫っている。

 

 酒場の喧騒と店長の嫌みを既に頭の片隅で再生しながら、梯子に足を掛けようとした時だった。私の目は、ある一点へと吸い寄せられた。

 

 光の当たらない壁際に、蒼い染みがある。銅貨一枚より小さな、それでいて存在感のある染み。

 

 なぜか、ヴァレンティーヌの洗濯物を連想した。あの色とまったく同じように私には思われた。

 

「エリザ? どうしたの?」

 

 気遣うような声を下から受けて、私の意識は急速に現実へと引き戻された。

 

 梯子の下にはヴァレンティーヌがいた。何が入っているのか、大きな袋を抱えている。

 

「……ああ、姉さん。ごめんなさい、邪魔だったわね。今降りるから」

 

 降りてから気が付いたのは、ある匂いだった。それは彼女の袋から漂ってくる。鼻の奥を焦がし、胃の腑を締め付け、舌下腺を刺激する匂い。美味なものの匂い。脂の匂い。

 

 焼肉の匂い。非日常の匂い。

 

「あらエリザ、どうしたのそんな顔をして……ああ、これの匂いね」

 

 随分とだらしない顔をしていたらしい。表情を引き締めた時には、ヴァレンティーヌは袋から肉の串焼きを一本取り出して、私に差し出していた。

 

「はい、これあげる。大丈夫、私の分はまだあるから」

 

 彼女の気前の良さ、親切さは今に始まったことではない。だが……

 

「姉さん、どうして急に焼肉なんて買ったの? 前に肉は嫌いだって言ってたじゃない」

 

 一瞬、考えるような色が彼女の表情に浮かんだ。しかしそれは瞬く間に消えた。

 

「ちょっとね、今の贔屓のお客さんが大変で、私も体力をつけないといけないから……あら、ごめんなさい、こんなことエリザに話す内容じゃなかったわね……あ、そうだ」

 

 袋に手を入れて、彼女はゴソゴソと中身をまさぐり、私に果物を差し出した。

 

「これ、あげるわ。お兄さんの大好物だったでしょう? これで病気が良くなるといいわね」

 

 それは、大きくて新鮮な桃だった。甘い香りがツンと鼻をついた。

 

 唖然とする私を後目に、彼女は梯子を登って行った。その足取りは、どことなく忍びやかに、それでいてふんわりと軽やかであるように感じられた。

 

 

☆☆☆

 

 

 私の疑いが決定的になったのは、その一週間後だった。

 

 仕事を終え、明け方に帰ってきた私は、インスラの一階で偶然ヴァレンティーヌと鉢合わせた。

 

 彼女は、今仕事から帰ってきたところだと言って微笑んでいたが、私は一つの異変に気が付いた。

 

 ヴァレンティーヌが仕事の時に必ず着けている、あの銀の髪飾り。あれがない。

 

「姉さん、髪飾りがないけど、どうしたの? 落としたの?」

 

 あれは、彼女が言うには母親の形見とのことだった。失くしたとすれば、さぞや悲しむだろう。

 

 だが、返ってきた言葉は意外なものだった。

 

「ああ、あの髪飾りね……とっても好きだったし、母さんの思い出が詰まっていたけど、昨日質に入れたわ」

 

 私は驚愕に目を見開いた。彼女の優しい性格からして、形見をあっさりと手放すとは思えなかったからだ。

 

「エリザ、そんなに驚かないでいいのよ。どうしてもお金が必要になっただけだから……えっ、理由? それは、お仕事の話だから、あまりお話ししたくないわ……」

 

 

☆☆☆

 

 

 私は尽きることのない思案を頭に巡らせながら、階段を上った。

 

 となりのヴァレンティーヌ。彼女は最近、以前よりも綺麗になった気がする。もともと美しかったが、今ではそれに加えてどことなく生命力を感じさせる、明るい雰囲気を纏っている気がする。

 

 はじまりはあのモップ掃除、次は謎の蒼い染みがついた洗濯物。

 

 それから贅沢な食事、焼肉と桃。いずれも私たちのような生活をしている者にとっては、それは黄金のように貴重なものだった。

 

 ヴァレンティーヌがいくらか私たちよりも経済状況がマシだとは言え、そんな贅沢をしようなどと、突然思いつくだろうか? しかも彼女はその後も毎日焼肉と果物を買ってくるのだ。

 

 そして、髪飾り。お金が必要になったと彼女は言う。あれだけ食事に金を掛けていたら、やはり財布は平たくなるだろう。しかしそれなら、贅沢を止めれば済む話である。なぜ無駄に金を使い続けるのだろうか? あの控えめで慎ましいヴァレンティーヌが?

 

 明らかに、彼女は変わった。急激に、理由もなく。いや、「理由もなく」? そんなことがあり得るのだろうか? やはり理由はあるのだろう。彼女はそれを隠蔽しているように私には思われた。

 

 屋根裏部屋に帰ると、そこには横になった兄と、もう一人、白衣を着た人間がいた。

 

 彼は平たくて大きな顔に人懐こそうな表情を浮かべて、私に挨拶をした。 

 

「おお、エリザさんですか。今お兄さんを診ようとしていたところです」

「先生、いつもありがとうございます」

 

 この人は、カリーニ医師。定期的に兄を診てもらっている。善意と愛に溢れた医師で、スラム街を巡っては病人を金も取らずに治療している。本人はそれを「自分の宗教的熱誠のため」だと言っているが、そうでなければただのお人好しだろう。私たちがヴァレンティーヌと同じくらい、尊敬と親愛の情を抱いている人だ。

 

 兄と医師は会話をしている。

 

「どうですか、ジュゼッペさん。変わったことはありませんか」

「妹と隣人が良くしてくれるもので、最近は特に心安らかです。ただ、夜中に時々幻聴がするんですよ」

「幻聴? 詳しく聞かせてください」

「いや、夜中寝入っている時に、どこかから低く男の声が聞こえてくるんです。内容はよく分かりませんが……」

「隣の人の話し声では……いえ、ヴァレンティーヌさんは部屋にお客を連れ込むような人ではありませんでしたね……」

 

 その兄の話は、私にとっても初耳だった。目の前の二人は、とりあえず様子を見るということで話を終えてしまったが、私にとってその情報は違う意味を持っていた。

 

 

☆☆☆

 

 

 下まで見送りに出た時、カリーニ医師は気がかりなことを告げた。

 

「お兄さんの脈拍と呼吸ですが、以前よりも弱っています。体力が明らかに落ちているのです。ここ最近、戦地帰りの兵隊たちの間で謎の病気が流行っています。そうならないためにも、ここを離れて、もっと空気の良い、光の当たる、広い部屋に引っ越すべきでしょう……」

 

 そんなことは不可能だ。そしてそれは医師も承知している。彼は職業的使命からそれを私に勧告したのだ。

 

 ぼんやりと去っていく医師の後ろ姿を目で追うと、道の向こう側にあるインスラの影で、ニ人の男が鋭い目つきであたりを見回しているのが見えた。

 

 この界隈では見たことがない男二人。

 

 その男たちは、インスラの一階の各店舗を巡り、売り子や店主に何らかの聞き込みをしているようだったが、しばらくすると連れだって去って行った。

 

 一体なんだったのだろうか? そう思いつつ、ふと視線を横に逸らすと、そこには真新しい貼り紙がしてあった。

 

 多色刷り、似顔絵付き、大きく書かれた名前と1000ドゥッカーテンの文字。例の、ゲットー蜂起首謀者に関する貼り紙だ。

 

「重犯罪者、魔族、内乱罪、『金髪』の逮捕につながる情報を提供した者には、賞金を与える。なお、『金髪』は重傷を負っている……」

 

 こんなスラムにまで貼り紙をするという治安当局の無用な勤勉さに私は呆れたが、次の瞬間、ある考えが脳裏に閃き、全身に戦慄が走った。

 

 逃亡魔族が重傷を負っている。この文言を見て、今まで頭の中で脈絡なく駆け巡っていた情報が、一つの体系だった思考として急速に結実し始めた。

 

 あの洗濯物の蒼い染み。あれは魔族の血液ではないか? 私は確かに魔族の血が蒼いことを、この目で見て知っている。

 

 あの焼肉と果物。あれは、傷を癒すための栄養源なのではないか? 魔族は肉を食べねば力が出ないと聞く。

 

 兄の幻聴。それは魔族が夜、傷の痛みに呻いているのではないか?

 

 そして、ヴァレンティーヌのあのモップ掃除。あれは、床に落ちた蒼い血液を拭きとって、隠滅するためだったのでは?

 

 彼女は、あの「金髪」の魔族を匿っているのではないか?

 

 

☆☆☆

 

 

 その考えに辿り着いてからの私の生活は、煩悶と苦悩に満たされたものとなった。

 

 となりの住人が、魔族を匿っている。それを当局に密告すれば、私たちは1000ドゥッカーテンを手に入れられる。1000ドゥッカーテン、目も眩むような金貨の山。

 

 それだけの大金があれば、まさしく人生が一変する。兄とこのインスラから抜け出し、もっと広くて快適な部屋を借りて、余った金を投資に回し、私は学校へ通ってもっと良い職を得ることができる。

 

 それに、密告するのは人間ではない。魔族だ。同じ人間を密告するのは抵抗感があるが、魔族ならば何も問題はないはずだ。むしろ、市長や大司教からお褒めの言葉だって頂けるくらい「立派な」行為だろう。

 

 証拠ならいくらでもある。ここに至って、私の頭の中では既に、隣のヴァレンティーヌの部屋に魔族が匿われていることは確定事項となっていた。

 

 だが、私の心は堪えきれないほどに苦しみ、そして歪む。

 

 あのヴァレンティーヌ、彼女の優しい笑顔、素敵な澄んだ声、数々の思いやり。それを思い出す度に、私の心は密告から遠ざかる。

 

 密告すれば、当然彼女も罰せられるだろう。それは死刑を意味する。

 

 ヴァレンティーヌを死に追いやって、私たちは人生を変えるのか? それとも彼女の意志を尊重して(彼女がどんな気持ちで魔族を匿っているのかは分からないが)、そのまま黙っておくべきなのか?

 

 出口が見つからない精神の迷宮を、私は絶叫しながら狂ったように走り回っていた。

 

 

☆☆☆

 

 

 だが私たちのような貧者にとって、猶予というものですら手の届かぬほど高価なものであることを、思い知らされる時が来た。

 

 その日、酔客に殴られて腫れあがった頬を抑えながら帰った私は、いちはやく兄の異変に気が付いた。

 

 いつもならすぐにお帰りと言ってくれる兄。その兄が、何も言わない。

 

「兄さん!」

 

 兄の顔は真っ赤だった。大粒の汗を浮かべ、歯を食いしばっている。額に手を触れると、尋常ではない高熱であることがすぐに分かった。

 

 すぐにカリーニ医師を呼び診てもらうと、彼は真剣な顔をして私に告げた。

 

「怖れていた事態が起こってしまいました。これは前にお話しした、例の兵隊病です。高熱が出て呼吸器不全となり、数々の合併症を併発して、一ヶ月以内に死に至ります」

 

 私は、お定まりの質問しか発せなかった。

 

「治療法はないんですか!?」

 

 医師は静かに首を振って否定した。

 

「今までどんな魔法薬を用いても、この病気は治りませんでした。一説には魔軍が戦場でばら撒いた毒ガス兵器が原因とも……とにかく出来ることは、熱を下げて、瀉血をし、自然の力と神の御心に任せるだけです」

 

 私は打ちのめされた。既に兄の死は避けようのないものなのだろうか? 私は叫ぶように言った。

 

「本当に、手だてはないんですか!? 何か、特効薬はないんですか!?」

 

 医師は、じっと私の瞳を見据えた。

 

「一つだけ、可能性はあります。それは最近共和国の薬学研究所が開発した、新型の魔法薬です。ただ、非常に高価で……」

 

 医師は言葉を一旦切ると、諦めを促すように私に言った。

 

「800ドゥッカーテン。私の友人の研究者はそう言っていました」

 

 

☆☆☆

 

 

 カリーニ医師は帰った。私は言われた通りの方法で兄を看護して、いつしか日が暮れた。酒場には、無断で欠勤した。店長に叱責されるだろうが、もはやどうでも良いことだった。

 

 夜、私は兄の枕元で泣いていた。

 

 兄は、助けることができる。ヴァレンティーヌを当局に密告すれば、おそらく、ほぼ間違いなく、1000ドゥッカーテンが手に入る。その金で新型魔法薬を買えばよい。

 

 だがそれをすれば、ヴァレンティーヌは死ぬことになる。魔族協力者として、彼女は共和国広場で火刑に処されるだろう。生きたまま肉を焼かれ、魂まで灰にされる、あの残酷無惨な極刑。

 

 兄を取るか、それとも愛する隣人を取るか。私にはどうしても決心がつかなかった。

 

 ポロポロと涙が零れ落ちるのと共に、ヴァレンティーヌの思い出が蘇る。

 

 私が襤褸を着ているのを見かねて、服を買ってくれた彼女。自分も飢えているだろうに、私たちに食べ物を分けてくれた彼女。優しい笑顔と言葉で、疲労しきった自分を慰めてくれた彼女。

 

 いつか約束したことがある。

 

「ねえエリザ。お兄さんが元気になったら、三人で郊外へピクニックに行きましょう。美味しいパンと、サラミと、葡萄酒を用意して、あなたと私は花輪を作って、それをお兄さんに被せてあげて……」

 

 その記憶を再生している裏で、私の理性が囁いている。

 

 何も問題はないではないか。ヴァレンティーヌは、恩人とは言え、祖国を裏切った犯罪者だ。一方、兄はお前の唯一の肉親だ。どちらを取るべきか、もはや言うまでもないだろう……

 

 本当は気づかないだけで、隣人を売るともう心を決めているのではないか……?

 

 

☆☆☆

 

 

「エリザ」

 

 兄の声が部屋に響いた。それはここ数年では聞いたこともない、意志の強さを感じさせる声だった。

 

「エリザ、ありがとう。今まで本当に迷惑をかけた」

 

 私は言葉もなく、兄の手を取った。高熱が嘘であるかのように、冷たい手だった。

 

「エリザ。僕が戦争でどんな目に遭ったのか、今まで言ってなかったね。最後になるから、話しておくよ」

 

 兄は、天井を見つめたまま、訥々と語り始めた。兄は前線で活躍し、下士官にも昇進し、上官の覚えもめでたかった。このまま戦争が終われば、共和国から勲章が授与されることは確実だったという。

 

 しかし、その望みは唐突に潰えた。ある日の明け方、兄は突然憲兵隊に逮捕された。連行され、牢に繋がれ、激しい拷問を連日受けた。

 

 容疑は、敵軍への軍需物資の横流しと機密情報の漏洩。密告があったというのだ。

 

 結局、真犯人が見つかって無実は証明されたが、その頃には兄は再起不能になっていた。

 

 軍は、事件をなかったことにした。兄の軍歴は抹消された。

 

「密告によって、僕の人生は終わってしまった。僕はあの時死んだんだ」

 

 いいかい、と言って兄は体を傾けて私を見つめた。弱弱しい光の奥に、確固たる意志が見て取れた。

 

「密告は、魂まで汚れる行為だ。それは決して誰も助けやしない、自分自身でさえも。エリザ、この国では密告が横行している。密告によって良い生活を送っている奴らがいる。奴らと一緒になってはならないよ」

 

 そう言ってから、兄は力を使い果たしたのか、首をがっくりと傾けて意識を失ってしまった。かすかながら呼吸はしている。

 

 私は、兄の死を受け入れつつあった。

 

 

☆☆☆

 

 

 どのくらい泣いていたのだろうか。私はいつの間にか、兄の傍で座ったまま眠ってしまっていた。

 

 ある音が、私を覚醒へと導いた。誰かがドアをノックしている。声が聞こえてきた。それは、どことなく涙ぐんでいるような調子を帯びていた。

 

「エリザ、私よ、ヴァレンティーヌよ。大事な話があるの。お願いだから、出てきて聞いてくれないかしら……」

 

 ドアを開ける。彼女の顔が見える。ちょっと前まで泣いていたんだな、と思った。

 

「エリザ、私の部屋に来て頂戴」

 

 遂に、私の抱いていた疑念が真か偽かが判明する時が訪れた。しかも、あまりにも唐突かつ、性急に。精神は対処しきれず、まったく思考力を欠いていた。

 

 ぼんやりと、言われるがままに、彼女に手を取られて隣の部屋の前に行く。彼女がドアを開ける。腰を屈めて中に入る。

 

 奥に、誰かが横たわっていた。暗闇の中でも分かる、燃えるような金髪。

 

「やあ、君がエリザだね。待っていたよ」

 

 それは、若くて低い、うっとりするような男性の声だった。

 

 魔族の姿が次第にはっきりと見えてくる。藍色の肌、宝石のような紫の両目。全身に巻かれた真っ白な包帯。背中から生えている、一対の黒い翼。

 

 絞り出したような掠れ声が私の喉から発せられた。

 

「あなたは……金髪の……」

 

 彼は、ニッコリと笑って言った。

 

「そう、私が反乱首謀者、魔族の『金髪』さ。真の名はグレモリー」

 

 息を呑んで魔族を見つめる。彼は、あまりにも一般的な魔族のイメージからかけ離れていた。顔貌は端整で、表情は温和。私の不躾な視線を受けてもニコニコと笑っている。

 

「もっと近くに寄って。これから大事なことを君に言うからね」

 

 恐るべき反逆者、神と人倫と教会の敵たる魔族。それなのに、私は彼に恐怖心を抱かなかった。疑念が本当だったという衝撃と感動も、なんら覚えなかった。

 

 私はおずおずと彼の傍らに近寄り、そして腰を下ろした。

 

 

☆☆☆

 

 

 彼はしばらく私を見つめて、それから口を開いた。

 

「ヴァレンティーヌの言っていた通り、可愛い子だね。本当に、君たちは血の繋がった姉妹のように見えるよ……さて」

 

 美しい魔族は、私の背後に立つヴァレンティーヌに視線を投げかけてから、おもむろに口を開いた。

 

「エリザ、私がここにいるということを、当局に密告しなさい。それで得たお金で、君のお兄さんの病気を治しなさい」

 

 あまりにも思いがけない言葉に、私の思考は凍り付いた。それに構うことなく、彼は言葉を続けた。

 

 事の始まりは、蜂起に失敗し重傷を負って、このスラム地区へ逃げ込んだ夜だったという。血を流し過ぎ、意識が朦朧とした彼は、路地裏で倒れてしまった。

 

 それを助けたのがヴァレンティーヌだった。

 

「傷ついた身で梯子を登るのは大変でね。彼女が親切に手を貸してくれたから良かったが、一人では難しかっただろう」

 

 ヴァレンティーヌは、親身になって彼を看護した。傷を洗い包帯を巻き、肉と果物の食事を与え、時には銀の髪飾りを質に入れて高価な魔法薬まで購入し、懸命に治療に専念してきた。

 

「初めは信じられなかったよ。親切そうにしているが、所詮は人間。こうして安心させておいて、後で売られるんじゃないかと心配になった。でも、彼女と毎日一緒に生活したら、そんな考えは消えてしまった。こうしてこのまま二人で生活していけたら、なんて思ったよ」

 

 私は叫んだ。とめどなく流れる涙は未だに尽きない。

 

「じゃあ、このまま傷を癒して、ヴァレンティーヌと一緒に街を出れば良いじゃないですか!」

 

 彼はかぶりを振った。

 

「それはできない。実を言うとね、私はもう死ぬんだ」

 

 

☆☆☆

 

 

 ヴァレンティーヌが崩れ落ちた。顔を手で覆い、嗚咽を漏らしている。

 

「私の……私のせいなんです……私がグレモリーを殺したんです……」

「君のせいじゃないさ。君はそれを知らなかったんだし、僕はそれを何よりも心地よいものとして享受していたのだから」

 

 何を言っているのだろう? そう思案する私に、彼はたった一言で説明してくれた。

 

「魔族にとって、人間の愛は猛毒なんだ。人間を愛した魔族は体の内部から腐って、最終的には命を失う。これは私たちしか知らないことだけどね」

 

 ヴァレンティーヌの無償の愛は、グレモリーの頑なだった心をほぐし、溶かし、柔らかで温かみに満ちたものに変えた。二人は共同生活を送るうちに、互いに深く愛し合うようになっていた。

 

 それが、致命的だった。

 

「背中にめり込んだ何十発もの弾丸、それに槍傷。この程度の傷なら、人間への怒りと憎悪を燃やしている限り、数週間もすれば自然に治癒する。でもね、僕はヴァレンティーヌを愛してしまった。分かっていたはずだったのだが……」

 

 私は、思わず尋ねていた。

 

「他に治す方法はないんですか?」

 

 燃えるように鮮やかな金髪をした魔族は、ゆっくりと頷いた。

 

「あるよ。愛してしまった人間を殺すことさ。そしてそんなことはできない」

 

 溜息をついて、彼は言葉を続ける。

 

「死を意識した時から、私はヴァレンティーヌがどうやったら救われるか、それだけを考えて来た。彼女は精一杯知恵を使って僕を匿ってくれたけど、どうやら当局はもうこの辺りに私が逃げ込んだことに勘づいているらしい」

 

 私は、いつかの謎の男二人を思い出していた。あれはきっと、この魔族を探し回っていた治安当局の人間だろう。

 

 魔族は、なおも話を続ける。

 

「このままでは私は死に、そしてヴァレンティーヌも処刑されるだろう。それだけはなんとしても避けたい。私が最初で最後に愛した人だからね。そんな時に、ヴァレンティーヌから君のお兄さんの話を聞いたんだ」

 

「彼女は今日、偶然カリーニ医師と会って、君のお兄さんの命が危ないことを知った。それを聞いた時に、私は決心したよ。どうせなら、できるだけ多くの人間を助けてから死のうと。奇妙だと思うかい? まあ、私もヴァレンティーヌのように生きてみたくなったのさ」

 

「私はこれから魅了の魔術を掛ける。そうすれば彼女は、魔族に操られていただけだから罪に問われない。むしろ被害者として扱われるはずさ。これは君たちの共和国の刑法39条第2項に規定されている。きっと大丈夫だ……さて、エリザ」

 

 彼は私の手を取った。その手は兄と同じく、死の冷たさを持っていた。

 

「私のささやかな復讐のために、君のお兄さんを助けるために、そして何より、私の愛するヴァレンティーヌを助けるために、私の願いを聞いてくれないかい? もう一度言うよ」

 

「私を、密告しておくれ」

 

 私は、頷くしかなかった。心のどこかで、なぜか助かってしまったという罪悪感に似た何かを感じながら……

 

 

☆☆☆

 

 

 私が了承したのを見ると、彼は満足げに微笑んだ。

 

「よし。これで後は、魅了の魔術を掛けるだけだ。ヴァレンティーヌ、こっちに来てくれ」

 

 ヴァレンティーヌは、もう泣いていなかった。彼女はグレモリーの前に坐った。

 

「どんな呪文を紡ぐの? グレモリー、私はもっとあなたの言葉を聞いていたかった……」

 

 金髪の魔族は、優しい笑みを浮かべた。

 

「言葉よりももっと素敵な贈り物さ。それが魅了の魔術なのだから」

 

 そう言うなり彼は、ヴァレンティーヌと唇を重ねた。

 

 二人は抱き合っている。強く、激しく、そして悲しげに。

 

 私はその光景を、一生忘れないだろう。




※以下、作品メモとなりますので、興味をお持ちでない方は、お手数ですが非表示設定にするか、ここで読み終えて下されば幸いです。

・らいん・とほたー「となりのヴァレンティーヌ」

 小説投稿サイト「エブリスタ」で定期的に開催されている妄想コンテスト、その第98回「となり」に応募した作品です。2019年4月7日公開。

 コンセプトは隣人愛です。

 最初に「となり」というテーマを見た時は「なんだ楽勝じゃん」と思っていました。テキトーに転校生を出して、それを主人公のとなりに座らせて、でもそのとなりは特別なもので……とかなんとかかんとか書けば良いだろうと……

 その認識は甘かったと言わざるを得ません。

 だいたい妄想コンテストで陥りがちなミスの一つとして、「テーマに沿った情景」は考えられていても、「テーマに沿ったお話」は構築できていない、というものがあります。

 短編とは言え「小説」なので、キャラがいて、背景があって、状況があって、事件が起こり、そしてその結果キャラになんらかの変化がある、という筋を描かなければならない。と、まあ私は考えておりますがいかがでしょう。

 次回もお楽しみに!


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16. センチュリオン号の100日

「報告を受け検疫官が当該船に急行したところ、既に罹患者の姿はなく、船長以下全員が『天使が降臨し……』という不可解な証言を……」(オスティア検疫機関の報告より)


 10年前のことだ。

 

 当時の私は、前年に発表した長編小説が大いに世間で評判を博し、輝かしい名声と財産を一挙に得るという幸運と栄光に包まれていた。

 

 並の作家ならばこの成功に味を占めて、腰をどっかりと落ち着けてしまうだろう。それまで不遇をかこっていた分、彼らは今まで味わえなかった暖衣飽食を貪り、証券と不動産を手に入れて、昼は悠々自適の社交生活を楽しみ、夜はワインの苦みと煙草の渋みで神経を昂らせつつ、月と星とを友にして作品執筆に勤しむものだ。

 

 苦労はもはや時の彼方へ、安逸で快適な作家生活は黄金のように輝いていて、乳と蜜のように甘く味わい深い。誰が好んでこれ以上の苦労を背負いこもうとするだろうか……

 

 だが、私は違った。もともと共和国の女兵士で、それゆえ自尊心だけが強く、「安楽」というものに強烈な嫌悪感を抱くような精神構造をしていた私は、都市の一角に安穏と永住する気には到底なれなかった。

 

 得た資金と名声は更に良い作品を生み出すための糧にしなければならない! 成功は、次なる成功の元手なのだから! 私は手に入れた金を使い、この西エウロパ世界から東方へ2000キロ離れたオリアン地方への取材旅行に赴くことにしたのだった。

 

 2000年前、かの地で伝道布教に従事し、そして昇天した聖女マルタ。私と同じ名を持つ彼女の伝記をいつか書こうと、従軍時代から私は企画を立てていた。オリアン地方は異教徒の地であり、魔法という名の邪術と奇病と迷信が蔓延る地であるが、近年では政治的に安定しており、外国人の受け入れも活発化しているという。取材へ行くには絶好の機会だった。

 

 そんなわけで私は、供も連れず、軍隊時代に使っていた短剣と連発式の短銃と大きな背嚢だけを持って、ラティニウム共和国のオスティア港から船に乗り、遥か彼方のオリアン地方へと旅立った。

 

 取材旅行は順調そのもので、資料の収集は大変捗った。聖女被昇天の地を訪れた時は感動が胸に募り一人涙を流した。盗賊に遭遇することもなく、病気になることもなく、実に幸運に恵まれたまま、私は半年に渡ってオリアン地方のほぼ全域を巡り、そして幾ばくかの寂しさとそれ以上の満足感を持って帰りの船に乗った。

 

 その船の名は「センチュリオン号」だった。外国風の勇ましい名前(百人隊長という意味)を持っているが、小型の蒸気機関を搭載したその機帆船は、名前に反して少女のように小さく可憐な船だった。乗員は船長以下10名、乗客は私を含めて12名。積み荷は郵便物と小麦とのことだった。

 

 海は穏やかで、風は優しかった。航海中、私は船長と航海長の二人と仲良くなった。船長は私が作家だと聞くと、「先生」と呼んでくれるようになった。ただ、時折ゴホゴホと、気がかりな響きを持つ空咳を繰り返すのが気になった。どうやら船長は病気がちのようだった。

 

 若く精悍な顔つきをした航海長は無口で、私が話しかけてもあまり返事をしなかったが、それでも私に好意のある眼差しをしばしば向けてくれた。

 

 船長と航海長の二人は知的で、職務熱心で、まさに「海の男」としての矜持が全身に漲っていた。

 

 しかし、一般の船員たちはまったく酷いものだった。オリアン地方で新規徴募した8人の水夫たちは、全員例外なく肌が浅黒く、身体にはびっしりと刺青を入れていて、狡そうな目つきを常に辺りに配っていた。職務に関しても熱心とは言い難く、ノロノロとした動きで至極大儀そうに甲板勤務をし、隙を見つけては酒を飲み、その上なんとも呆れることに、夜には船底で博打を打っていた。

 

 見かねた私は船長に言った。「どうしてあんなヤクザ連中を雇ったのですか」と。

 

 船長はやや眉を下げて、空咳をニ、三回してから答えた。

 

「実はオリアンで停泊中、もともとの船員の大半が風土病に罹患してしまってね。それでも運航を遅らせるわけにはいかないから、現地の口入屋に依頼して臨時の船員を雇ったんだよ。彼らは、船に来た当初は従順で大人しかったのだが……次第に本性を現してきたというところかな。まあ、オスティアに帰ったら彼らにはすぐにこの船から降りてもらうつもりだ。あんなヤクザ者たちをまともな船員として扱うのも、もはやうんざりしてるのでね……」

 

 

☆☆☆

 

 

 航海は嵐もなく順風に恵まれ、2週間後には目的地である共和国のオスティア港に辿り着いた。ゆらゆら揺れる波の上での生活に別れを告げ、さっさと故郷に帰って取材した資料を整理し、新作の執筆に取り掛かりたい……そう思って荷物を纏めて船を降りようとした私と、また別々の思惑を抱いていた他の乗客たちには、最後の難関が待ち構えていた。

 

 それは魔法検疫だった。オリアン地方からやってきた船に対して、共和国は例外なく検疫を実施していた。

 

 理由は、魔法伝染性突発変異病(morbus mutationis magicae、通称変異病)である。ここ数世紀、西エウロパ世界に大いなる災厄として君臨しているこの魔法性の伝染病は、オリアン地方を由来としており、当局はその水際対策に血道を上げていた。

 

 変異病とは、端的に言えば、人間を異形化させる病である。罹患した者は、感覚器官の鋭敏化、魔力・魔法の行使といった初期症状から始まって、次第に異次元の生き物へと変化する。

 

 かつて、変異した人間が巨大なドラゴンになって文化と学問と金融の街フィオレンツァ市を焼き尽くす大事件があった。また、兵員輸送船の丸ごと一つが変異病に侵され乗っていた一個連隊が丸ごと異形化し、その怪物兵団がオスティアに上陸し進軍を始め、首都があわや占領されかけるという事件もあった。無論、身体が異形化しただけで性格も理性も元のままの事例のほうが遥かに多いのだが、人々の恐怖は並大抵のものではなかった。

 

 それでも医学と魔法学が発達した現代では、その検疫も洗練されたものとなっていた。昔は魔法科医師が体温計や聴診器や杖などを持って船内を駆けまわり、一人一人を診て回ったものだったが、現在では特殊な機械がその代替役を果たしている。プリズム式魔力波測定装置がそれだ。

 

 七色の特殊偏光ガラスのレンズがはめ込まれたその機械の前に立ち、身体から発せられている魔力波(魔法の使えない人間でも一定量の魔力素を身体に有しているとのことで、それが波長となって体外に放出されているそうだ)を測定する。暖色系ならば(それが極端でない限り)問題なしで、暗色系ならば魔力波に異常があるということになる。魔力波が異常ならば、それは変異病の疑いが濃厚、というわけだ。

 

 私たちは、桟橋の上で順番に機械の前に並んだ。測定結果が出るのは二日後とのことなので、検査を受けた後は船に戻らなければならない。

 

 あの、オリアン人の水夫たちが聞こえよがしに文句を垂れているのが聞こえてきた。

 

「せっかく上陸して女と酒を楽しもうと思ってたのによ。また二日も船の上かよ」

 

 その時、どよめきが聞こえてきた。目を向けると、機械の前には少女がいて、検疫官たちが口々に何かを言い合っているようだった。

 

 その少女を、私はそこで初めて見た。二週間の航海の間、彼女を見たことはなかった。歳の頃は16くらいだろうか。長い金髪は金糸のように美しく滑らかで、顔立ちは可憐そのものだったが、気の毒なほどに困惑の表情を浮かべている。

 

「美しい女が常に波乱を起こす」というのは神話の世界から言い伝えられている、私の大嫌いな格言だが、それが何故か頭に浮かんだ。

 

 ヒリヒリと高熱で炙られるような、嫌な予感を覚える。このまま何事もなく検疫を突破できれば良いのだが……そう思いながら私は船のタラップを登って、船室へ戻っていった。

 

 

☆☆☆

 

 

 二日後の昼前、乗客・乗員の全員が上甲板に集められた。

 

 船長は表情を引き締め、しかし淡々と、強いて事務的な口調で告げた。

 

「諸君、私は船長として、辛い事実を報告しなければならない。先日行われた検疫において、私たちの中に『魔法伝染性突発変異病』に罹患している疑いのある者が発見された。当局は定められた共和国検疫法に則り、本船を100日間の魔法検疫隔離処分に付する旨を、私に通告した。これから本船は桟橋を離れ、港外において100日間隔離されることになる。乗客の皆様には大変申し訳ないが、どうか公益と安全のために耐えていただきたい。可能な限り便宜を図るつもりだ。そして船員諸君。諸君らは船乗りとしての矜持にかけて、職責を全うしてもらいたい。なお、給料については特別手当を加算した上で、100日後の上陸時に支給する……」

 

 呻き声がそこここから漏れた。泣きながら抱き合う若い夫婦、茫然として船長を見つめる中年の男性、声もなく甲板に崩れ落ちる三人の修道女たち……

 

 突如、怒号が飛んだ。それはあのオリアン人の水夫からだった。

 

「とんでもねぇ! こんなひでぇ話があってたまるか! せっかくこれから上陸だってのに、目の前の御馳走に糞を混ぜるようなもんだぜ!」

 

 船長はそれに答えなかったが、代わりに航海長が鋭い声で叱責した。

 

「クロッコ! 貴様、口を慎め!」

 

 それでもクロッコというその船員はなおも罵声を上げ続けた。

 

「だいたい、その何とか病とかいう疑いが掛けられている奴はどこのどいつだ! そいつのせいで俺達が100日間も『監獄生活』を送ることになるだぞ! いったい誰だ!」

 

 その声を聞いて、後ろの方に立っていたあの少女が、びくりと体を震わせた。その様子を、クロッコの仲間の水夫が目ざとく見出していた。

 

「おい、この小娘がそうなんじゃないのか! なんか顔色が悪いぞ!」

 

 水夫たちも便乗して騒ぎ始めた。

 

「そうだ! コイツがあの機械の前に立った時に、役人どもが騒いでいたぞ! コイツだ、まちがいねぇ!」

 

 少女へ全員の視線が向けられる。特に水夫たちのそれは、憎悪で赤黒く濁っていた。

 

「コイツのせいだ! コイツのせいで俺達は巻き添えを……!」

「畜生! ふざけやがって!」

「おい、なんとか言えよ!」

 

 水夫たちが続々と少女に詰め寄り、取り囲もうとする。このままでは暴力沙汰になるかもしれない。

 

 見かねた船長が怒気を露わにして叫んだ。

 

「やめろ、お前たち! その人は大切な乗客だ! 指一本でも触れてみろ、お前たちを全員海に叩き落すからな! それに、誰に疑いが掛かっているかまでは知らされていない。憶測で判断するのはやめろ! おい、航海長、あの子を船長室へ連れて行け」

 

 少女は航海長と共にその場から去って行った。水夫たちは口々に愚痴や恨みつらみを溢していたが、船長から勤務へ戻るように言われると、いかにも不承不承というふうにその場から去って部署へ戻っていった。乗客たちも船室へ下がるか、甲板に残るか、船長の元へ走るか、それぞれの行動をとった。

 

 私としては、これといった感慨もなかった。特に急ぎの用事はない。100日間は流石に長いが、しかし船室に籠って資料を纏め、草稿を書くのならば、大して地上での生活と変わりはない。

 

 ただ一つ気になったのは、水夫たちの異様なまでの激昂だった。あの怒りが後日、妙な形で暴発しなければ良いが……

 

 それに、あの少女。彼女はどうなるのだろうか……? このまま穏便にことが済めば良いが。そう思いつつ、同時に私は、そうはならないだろうという淡い予感を抱いていた。

 

 

☆☆☆

 

 

 政治犯にとっての無上の喜びとは「牢獄に入れられること」であるという。それによって自分の思想信条の正しさが却って証明されると信じているからだ。

 

 だが、私たちは単なる人間だ。身に覚えのないことによって100日間もの間、ゆらゆらと安定しない船の上で、粗食と乏しい娯楽に堪え、ひたすら無為に虚無の日々を過ごさねばならない。それは紛れもなく、人間性と尊厳を著しく傷つけられることであった。

 

 センチュリオン号はその日から、オスティア港沖に錨を下ろす、100日間限定の「監獄船」となった。といっても、犯罪者を収容しているわけではないから、当局からの支援は、最上とは言えないまでも、なかなか行き届いたものだった。

 

 港から定期的に何艘かの小舟がやってきて、舷側に横付けする。そうして、新鮮な野菜、果物、食肉、医薬品などを補給してくれるのだ。これらの費用は共和国が全額負担しているのだと船長は教えてくれた。

 

 しかし、娯楽や嗜好品は、私たち乗客の自己負担だった。本が欲しいとか、強い酒が欲しいとか、コーヒーやゲーム用のカードが欲しいなどといった要望を船長に届ければ、それは数日後に小舟に載せられてもたらされたが、その分だけ費用を払わねばならなかった。私は紙とインクがほとんど尽きていたので、他の客が酒と肴と新聞を頼む中、それらを最初に注文した。

 

 初めの一週間は、まだ船内は平穏だった。乗客たちは日が出ているうちは甲板を歩き回ったり、日光浴をするなどし、夜になると船室で思い思いに時間を過ごしていた。あの日、凄まじい形相で不満を露わにしていた水夫たちも、少なくとも表面上は船長に従っていて、甲板掃除へ各部の手入れを(実にノロノロとしたペースで)行っていた。

 

 私にとって、船長は格好の話し相手だった。午前中に仕事をし、午後は船長室に赴いて、小説の構想を話したり、互いの従軍話に花を咲かせたりして楽しく時間を過ごした。

 

 そんなふうに過ごして2週間が経った頃、私はふと気になったことを彼に尋ねた。

 

「船長、あの女の子ですが、あの日以来甲板にも食堂にも姿を見せませんね」

 

 船長の表情に一瞬、固いものが見えた。しかしそれをすぐに消して、鷹揚に頷いた。

 

「ああ、彼女のことですか。元気にしていますよ」

 

 私はその言葉に違和感を感じた。答えは明瞭だが、どうにも歯切れが悪い。

 

「何か、彼女は大変なことになっているのですか? その、人前に出られないような……」

 

 しばらくの沈黙が船長室を包んだ。船長はおもむろにパイプを取り出し、もったいぶった手つきで葉を詰めると、手慣れたふうに火を点けた。

 

 ゆらめく紫煙が天井へ昇ってゆく。長い一服が終わった後、船長は口を開いた。

 

「……マルタさん。貴女は私の友人だし、それにとても信頼できる方ですからお教えしましょう。付いてきてください」

 

 そう言うと船長は立ち上がって、私を促して歩き始めた。途中で何回か配管に頭をぶつけながら私は船長に付いて歩き、数分後には船底のその場所の前に立っていた。

 

 石炭庫の鋼鉄製の扉がそこにあった。大きな錠前が掛かっている。

 

「アンジェラさん、船長です。入っても良いですか?」

「どうぞ、お入りください」

 

 中から、幽かに声が聞こえた。森閑な庭園に潜む小さな妖精が発するような、可憐で澄んだ声だった。

 

 船長が錠前を外し、重い扉を開ける。

 

 そこには、あの少女がいた。

 

 半永久魔石灯の青白い光に照らされた彼女は、折り畳み式の簡易ベッドに腰を掛け、蒼い瞳で私たちをじっと見つめている。

 

 船長が恭しく礼をした。

 

「アンジェラさん、この人は乗客のマルタさんです。貴女の安否を気遣っておられたので、今日ここに来てもらいました」

 

 少女は僅かに頷き、そして私の方へ視線を移した。私は、努めて明るい声で挨拶をした。

 

 船長はそれから、アンジェラがなぜこんなところにいるのかの説明を始めた。

 

 検疫担当官から罹患の疑いのある者について船長は知らされていた。それはやはりアンジェラだった。彼女の魔力波は七色のスペクトル厶のうちの何色でもない、きらびやかな「黄金」で、これほどまでに極端な反応は前代未聞だったという。

 

 船長は対策に悩んだ。水夫たちは明らかに彼女に敵意を抱いている。このままでは彼女の身に危害が及ぶかもしれない。それに、変異病は伝染性という。もし本当に彼女がそれに罹患しているならば、この船が隔離されているように、彼女をも隔離しなければならない。しかし、若い女の子を密室に閉じ込めるというのはどうしても心理的に抵抗感がある……

 

 思い悩む船長を気遣ったのか、アンジェラは自分から申し出た。「私は大丈夫ですから、どこか人目のつかない場所に私を閉じ込めてください」

 

 彼女はそれ以来、船の中で一番頑丈でかつ人目に付かない石炭庫の中にいる。元々鍵が設置されていなかった扉には、彼女自身が望んで、真鍮製の大きな錠前が掛けられた。

 

「もし私が突然変異をして暴れ出したら、大変なことになると思うので……」

 

 私は彼女の精神性に瞠目した。戦場でもなかなか見られないような自己犠牲の発露だと思われた。

 

 船長はそれ以来彼女を匿っているのだと言った。食事は航海長と、たまに船長自らが運んできて、本を差し入れたりもするらしい。なるほど、そう言われてみるとベッドの脇に本が積まれている。その中には私が書いたものもあった。私は内心ほくそ笑んだ。

 

 最後に船長は私に対して、ある提案をした。

 

「マルタさん。もし貴女がよろしければ、これから彼女に食事を運ぶ役をやっていただきたいのです。航海長はあの水夫たちの統制で忙しく、また私は……その、恥ずかしい話ですが、最近咳が止まりませんので……」

 

 船長は恥じ入るように顔をやや背けた。以前から肺の健康のために煙草を控えるよう私から言われていたのを思い出したらしい。

 

 それをごまかすように、船長は言った。

 

「……それから、アンジェラさんの話し相手にもなっていただけませんか? マルタさんは作家で、見聞が広く、お話も面白いですから、アンジェラさんにはピッタリだと思います。それに、お互い女性ですし……」

 

 私は快諾した。これからよろしく、とアンジェラに握手を求めると、彼女は怖々と私の手を握り返してくれた。冷たい手だったが、絹のように滑らかな感触がした。

 

 

☆☆☆

 

 

 アンジェラは確かに変異病の罹患者かもしれない。だから彼女と接触することは、私自身も感染のリスクを負うことになる。それでも私は、彼女と毎日会うことにした。

 

 この特異な状況下にある人間(大都市の隅々を探してもこんな人間は見つからないだろう)を観察することは、創作活動において多大な利益を産むだろうという打算もあった。しかし、それはどちらかといえば口実に過ぎなかった。自分がそこまで情に厚い人間とは思っていなかったが、どうやら私は、年若くして罪もなく「牢獄」に押し込められた少女を純粋に気の毒に感じているようだった。

 

 アンジェラは、話し上手というより聞き上手だった。澄んだ眼差しに知的な光を宿して、私の話に聞き入ってくれる。

 

 毎日色々なことを話した。故郷のこと、家族の事、書いた本の裏話、オリアンでの旅で出会った風変わりな連中……戦争で経験したことは、あえて話さなかった。

 

 役目を引き受けてから2週間ほど、つまり船が隔離されてから40日ほどが過ぎた頃になると、彼女はだんだん自分のことを話すようになってきた。

 

「父は商人でした。母については知らないんです。私が生まれてすぐに亡くなったと……父は母のことを、『天使だったよ』と言っていました。父は幼い私を連れてオリアン地方に渡り、そこで貿易業を始めたんです。ですが、伝染病で……私は、このままオリアンにいてもどうにもならない、エウロパに渡って新しい人生を始めようと……でもまさか検疫に引っかかるとは思ってもみませんでした。皆さんに迷惑をかけて本当に申し訳ないと思っています……」

 

 私は彼女の言葉を打ち消した。

 

「病気になるのは迷惑でもないし、罪でもないわ。もしそうなら、この世は罪人で溢れかえることになる。検事も裁判官もまったく足りないくらいにね。貴女は何も悪くない。それに、『罪なくして牢に入るは至上の徳行』とも諺で言うし……」

 

 彼女は私の言葉に聞き入っているようだった。私は、これを機に以前から気になっていたことを尋ねることにした。

 

「アンジェラは船を下りた後、どこか行くあてがあるの?」

 

 彼女は無言のまま、首を横に振った。その表情にどこか悲愴な色を感じた私は、思わず口を出していた。

 

「アンジェラ、もしよければ、しばらく私の家に身を寄せなさい。そこでゆっくりと今後のことについて考えるのよ。それに、辛い目にたくさん遭ったんだから、たっぷり休養しないと……」

 

 彼女は目を見開いた。そして大粒の涙をポロポロと溢すと、幽かな声で言った。

 

「……嬉しいです。マルタさん、ありがとうございます……」

 

 ふと、この状況は非常に小説的ではないかと思った。だが彼女の涙を見ると、その考えがどことなく不純なものに思われて、私は内心自分自身を恥じた。

 

 

☆☆☆

 

 

 私とアンジェラが船底で友情を育んでいた頃、甲板の上の状況はどうなっていたか。

 

 船長と航海長は、変わり映えのしない日々が過ぎるにつれて緩みがちになる士気を向上させようと努力していた。しかし悪いことに、船長の肺の病は徐々に悪化の一途を辿った。

 

 船にやってきた定期診断医は船長の病を「肺炎」と診断した。過労で重症化しているのだろうと。陸上の病院に移り、清浄な空気を吸って、新鮮な肉と果物を食べれば治るだろうと医師は言った。だが船長はその提案を言下に否定した。彼は次第に船長室の床から起き上がることが少なくなってきた。それでも、航海長と協力してなんとかして船の規律を保とうとしていた。

 

 その熱意とは裏腹に、水夫たちは時が経つにつれて手のつけようがないほど堕落の一途を辿りつつあった。

 

 ある夜、酒を酌み交わしながら航海長と話していた時、彼は水夫たちの頽廃について教えてくれた。

 

「監視して、言い聞かせている間はまあ動くのだがね。だが、私と船長がいなくなるともうダメだよ。乗客の一人が教えてくれたのだが、奴らはしょっちゅう仕事をさぼっては酒を飲み、カードとサイコロ博打に興じているらしい。しかも狡猾なことに見張りを立てているようで、私がその場を抑えようとしてもすぐに逃げ去ってしまう。組織を腐敗させるのは、君もよくご存じだろうが、酒と博打だよ……」

 

 悪いことに、最近は乗客たちもこの悪い遊びに参加しつつあるようだった。普段は立派で真っ当な生活を送っている人間も、このように閉塞感が満ち満ちた状況では、酒と博打に流れるのは仕方のないことだった。

 

 そろそろ60日目を迎えんとするセンチュリオン号は、次第に海上の「悪徳の市」となりつつあった。

 

 

☆☆☆

 

 

 事態が動いたのは80日目に差し掛かろうとしたその日の夜だった。私はアンジェラとの楽しい会話を終えた後、ふと、久々に船長と話をしようと思った。

 

 船長室に赴くと、そこには寝台に横になった船長と、その他に意外な人物がいた。乗客の一人、中年男性のニコロだった。

 

 ニコロの右頬は、無惨にも赤く腫れあがっていた。船長は私の姿を認めると、口を開いた。

 

「おお、マルタさん。良いところに来てくれましたね。貴女もニコロさんの話を一緒に聞いてください」

 

 ニコロは相当痛むのか、しきりに頬を抑えながら涙声でポツリポツリと話し始めた。

 

 彼はもともと堅実な性格で、酒も煙草もましてや博打などもしない人間だった。しかし状況が状況であるし、また人間関係が壊れるのも恐れていたので、他の乗客に誘われるままに酒や博打に参加するようになったという。

 

 博打の席には乗客のほとんどが並んでいて、また例のオリアン人の水夫たちも揃っていた。胴元は乗客の一人だったが、どうにもその後ろに立っている水夫のクロッコが真の胴元なのではないかと思われた。

 

 その最初の晩、ニコロは大勝した。まったく博打をしたことがなかったのに、彼は不思議なほどに勝ち続け、最初の一週間が終わる頃には原資の5倍にまで増えていたという。このようにして博打の究極の愉悦を強烈に精神に叩き込まれたわけだから、彼がのめり込むのは当然だった。

 

 しかし、その後は何度やっても勝てなくなっていったという。たまに大勝して気炎を上げることもあったが、全体的に見るとやはり金は減っていく。

 

 遂に軍資金がなくなった時、クロッコは嫌らしい表情を浮かべてニコロに近寄り、持ち物を抵当に入れて借金をしないかと持ち掛けた。

 

 流石にためらわれたが、博打に参加しないと船内の人間関係から弾き出されることになってしまう。それに、日々の無聊を慰めてくれるのは博打だけだった。彼は、はじめは懐中時計、次に上着と、だんだん持ち物を手放していき、しまいには有価証券まで出すようになっていったらしい。

 

 ニコロは葛藤した。このままでは船にありながら財産のすべてを失うことになりかねない。それに、やはり賭け事は良くないことだ。彼は意を決して博打をきっぱりとやめることにし、それだけでなく周りの乗客にも博打をもうしないよう呼びかけた。他の人々も同じようにやめ時を探っていた時であったから、皆ニコロに賛同した。

 

 そして今日の夜、ニコロは乗客を代表して、クロッコに「もうあなたたちとは付き合わない」と宣言したのだという。

 

 するとクロッコは、何の前触れもなく右手を振り上げると二コロの頬を拳骨で思い切り殴りつけ、ドスの利いた声で脅し文句を並べ立てた。

 

「ふざけるんじゃねぇ! やめるもやめないもテメェらの勝手になってたまるか! 誰が今までテメェらの世話をしてやったと思ってるんだ! 良いか? 財布がモノを言わねえように、テメェらもモノを言っちゃならねぇんだ。まあ、どうしてもやめたいってなったらやめても良いさ。だが船から降りたらどうなるかな……?」

 

 そんなわけでニコロは一度はすごすごと引き下がったのだが、もはや事態は容易ではないところまで来てしまったと思い直し、すべてを船長に話そうとここに来たのだという。

 

 船長は深くため息をつき、そしてゴホゴホと咳き込むと、まず自分の意見を述べた。

 

「船長としては、彼らを処罰するしかありません。私の力不足のために船内の風紀紊乱を止められなかった。クロッコを呼び出して尋問し、場合によっては港湾当局に引き渡します。当然、私も責任を取ることになるでしょう。マルタさん、貴女の意見は?」

 

 私は率直に答えた。

 

「断固たる措置を取るべきでしょう。彼らがやったことは賭場の違法開帳と賃貸業法違反です。共和国の刑法で言えば重禁錮刑ですよ。隔離期間はあと20日間ほどで終わりですが、だからといって事なかれ主義的に放置しておけば、さらに良くないことがきっと起こると、私はそう思いますわ」

 

 船長は頷いた。

 

「その通りです。明日の朝、クロッコを船長室に呼び出して航海長とニコロさん同席のもとで話をします」

 

 私は船長室を出た。月は幽霊のようにぼんやりとした光を放っていて、ベタ凪の海面は鏡面のように青白く輝いている。

 

 いつもよりもなお、ネズミが走り去る足音一つもなく静まりかえったセンチュリオン号に、私は言い知れぬ不安感を覚えた。だがそれをあくび一つで強いて呑み殺すと、私は寝室へ向かうために昇降口を降りた。

 

 

☆☆☆

 

 

 私の部屋は一般客室とは離れた場所にある。船長の好意で、もともとは船医用に作られた部屋へ最近移ったのだった。

 

 激しい物音で、私の眠りは乱暴に打ち破られた。部屋の外からは怒号と、悲鳴と、破壊音が響いてくる。時計を見ると、夜明け前の4時だった。

 

 私はすぐに荷物の中から護身用の短銃を取り出すとベルトにぶち込み、バラバラと何発かの弾丸を上着のポケットに入れると、深呼吸を二、三回して精神を落ち着かせた。

 

 間違いない。クロッコたちが反乱を起こしたのだ。

 

 おそらく奴は、ニコロが船長室に行ったのを目撃したのだろう。そして、陸上の当局に引き渡されるのを察知したのに違いない。奴は先手を打ったのだ。

 

 となると、奴が最初にやろうとすることは間違いなく、船長室の制圧だ。船長と航海長を拘束もしくは殺害して船の支配権を奪い、乗客を人質にして船を動かし、オリアン地方へ逆戻りする腹積もりではないだろうか。

 

 船長室へ加勢しに行くべきだと考えて、突如私はゾッとした。そうだ、アンジェラは!? 奴らは100日間の拘留状態の元凶になったアンジェラを強く憎んでいた。これを機に彼女を殺害するかもしれない。

 

 しかし、私は思い直した。そうだ、彼女はぶ厚い鉄の扉と頑丈な錠前で守られている。すぐに破れないとなれば、奴らは船長室の制圧を優先するはずだ。

 

 私は船長室へ向かった。途中、他の客室を覗いてみたが、いずれも中は滅茶苦茶に荒らされ、乗客は一人もいなかった。おそらく、人質として甲板上へ連れ去られたのだろう。

 

 甲板に出る途中、私を拘束しようとやってきた水夫の一人と鉢合わせした。水夫は手に斧を持っていて、私を見るや即座に振り下ろそうとした。辛くもそれを避けて、私は短銃を一発ぶっ放した。水夫は次の瞬間、物言わぬ存在となって通路に横たわった。

 

 

☆☆☆

 

 

 一時間後、私は船長と航海長と並んで、縛り上げられていた。

 

 多くは語るまい。あの後、私は船長室で二人に合流し、必死になって防戦に努めた。船長は寝台に横になりながらも短銃で一人を倒し、航海長は素手で二人を殴り倒し、私も一人を撃ち倒したが、クロッコが乗客を人質にして私たちの前に現れ、それ以上抵抗するならば……と持ち掛けてきたところで勝敗は決してしまった。

 

 クロッコは勝ち誇った表情を浮かべ、私たちに言い放つ。

 

「手間をかけさせやがって……どうもありがとうよ、船長」

 

 クロッコは短銃を船長の額に向けた。カチリと音を立てて撃鉄が上がる。下卑た表情に殺意と憎悪を漲らせている。

 

「景気づけにテメェの脳みそを甲板にぶちまけてやるぜ!」

 

 その時、鋭い声が響いた。

 

「やめなさい!」

 

 いつの間に来たのか、そこにはアンジェラがいた。

 

 彼女は昇降口に立っていた。顔は青ざめ、細い足は震えているが、目つきは鋭く悪人たちを睨めつけている。どうやって扉を中から破ったのだろうか? いやそれよりも……私は声の限り叫んだ。

 

「アンジェラ、逃げなさい! 貴女だけでも逃げるのよ!」

 

 クロッコは凶悪な笑みを浮かべ、アンジェラに銃口を向けた。

 

「ほお……船長の次にぶっ殺してやりたかった奴が、自分から殺されに出てきてくれたぞ。手間が省けたな!」

 

 躊躇なく、クロッコはアンジェラに向けて発砲した。乾いた銃声が三回連続した。

 

「アンジェラ!」

 

 私は叫んだ。次の瞬間、アンジェラが力なくその場にくずおれて、甲板を血で染めるのを想像した。

 

 しかし、そうはならなかった。アンジェラは平然とその場に立っていた。彼女は我が身を守るように手を前方にかざし、その蒼い瞳を爛々と輝かせてクロッコを睨んでいる。

 

 よく見ると、彼女の目の前の空間に、何かが浮かんでいる。それは銃弾だった。放たれた三発の銃弾が目に見えない壁に阻まれて、空中で動きを止められていた。

 

 クロッコが目に見えて動揺した。

 

「な、なんだ! お前、いったい何を……」

 

 その言葉が終わる前に、突然アンジェラの全身から眩い光が放たれた。長い金髪は逆立ち、頭上には光の環を戴いて、背中からは大きく力強い真っ白な双翼が生えてくる。

 

 私は茫然として、誰にともなく呟いた。

 

「変異病……アンジェラが変異した……でも、なんて綺麗なのかしら……」

 

 アンジェラが軽く手を振り払うと、空中の銃弾は力を失ってパラパラと甲板に落ちた。さらに、彼女はクロッコたちに手を向けて、柔らかな黄金の色をした波動を放った。

 

「眠りなさい」

 

 クロッコたちは声も上げず、バタバタと倒れた。

 

 こうして、水夫たちの反乱は実に意外な形で幕を閉じた。

 

 

☆☆☆

 

 

 クロッコたちを縛り上げ、かつてアンジェラがいた石炭庫に放り込んだ後、彼女は事の顛末を話してくれた。

 

「今朝目が覚めると、急に世界がとてもはっきりしたように感じました。耳も目も感覚も、すべて鋭くて、それでいて拡がりがあるんです。ですから、船で何が起こっているのかは、船底の石炭庫にいても全部分かりました。マルタさんと船長の会話も、クロッコの声も、乗客の皆さんの悲鳴も、はっきりと聞こえてくるんです」

 

 彼女の言葉に、私は相槌を打った。

 

「感覚器官の鋭敏化。変異病の初期症状の一つね」

 

 アンジェラは軽く頷くと、話を続けた。

 

「どうにかしないといけないと思いましたが、でも扉には外から鍵が掛かっています。自分から望んだことでしたが、本当にあの時はどうしようもない気持ちでいっぱいでした。早くここを出たいと願っていると、不思議なことに扉がひとりでに開いたんです。きっと知らないうちに自分で魔法を使ったんだと思います。それからは無我夢中で甲板に上がって……」

 

 私は改めてアンジェラを見た。その姿は、大聖堂の天井画に描かれている天使そのものだった。光の環は浄福な輝きを放ち、白い翼はどんな鳥類のそれよりも美しい。乗客たちも、口々に感嘆の声を漏らしている。

 

 だが、アンジェラの表情は暗かった。

 

「私、これからどうなるんでしょう……変異体は一生当局の管理下に置かれて、自由な生活を送ることができなくなると聞いたことがあります……」

「アンジェラ……」

 

 私も彼女の今後について、どうしたものかと思った。異形化、それも天使のような異形化。当局は格好の研究材料として彼女を扱うだろう。さらには、教会まで出てくるかもしれない。いずれにせよ、彼女が望んでいる生活は決してやってこないだろう。

 

 すると船長が唐突に、ポツリと呟いた。

 

「……天使はどこかへ飛んで行ってしまった」

「えっ……?」

 

 アンジェラと私の声が重なる。船長はそれを気にせず、さらに呟く。

 

「絶体絶命の時に、突然天使が降臨して助けてくれた。天使は船底にいたアンジェラを連れて行って、遠い空高く飛んで行ってしまった。そうだね?」

 

 船長の意図を察した乗客たちは、口々にそうだそうだと言い始めた。アンジェラは涙ぐみながら一同を見渡した後、嗚咽を混じえつつ言った。

 

「みんな……ありがとう……元はと言えば私のせいなのに……」

 

 私は彼女の手を取った。

 

「アンジェラ、後のことは気にしないで。その翼で、この船から飛んで行きなさい。もう誰も貴女を閉じ込めたりはしないわ。それから……」

 

 一枚の紙片を差し出した。

 

「寂しくなったら、ここに書かれた住所に遊びに来てね。お茶とお菓子でおもてなしをするから……」

 

 アンジェラは、初めて笑ってくれた。

 

 

☆☆☆

 

 

 あの後、私達は陸上に信号を送った。反逆者たちは連行されて行った。当然、経緯について説明を求められたが、全員が「天使が降臨した」と答え続けたため、当初はそんなことはあり得ないと首を左右に振り続けていた担当者たちも、最終的には折れて私たちの「説明」を受け容れてくれた。おそらく、乗客たちは変異体の魔法によって集団幻覚をかけられたとか、そういう報告がなされるのだろう。真相を知るものは私達だけで良い。

 

 変異体、つまりアンジェラが去ったあと、私達は再度検査を受けた。結果は全員異常なし。ただし、法による規定は守られねばならないということで、やはり100日目まで船の上で過ごさねばならなかった。船長は健康状態悪化のため、先に下船した。彼はそれをずいぶん悔やんでいたが、その後陸上で適切な治療と看護を受けた結果、元通りに回復したのは幸いだった。

 

 100日後、港に入ってセンチュリオン号の船倉を改めたところ、驚くべき事実が判明した。なんと、小麦の梱の中に巧妙に阿片が何袋も隠されていたのだ。

 

 それらの麻薬は、あのクロッコたちが積み込んだものに相違なかった。奴らは船員として船に乗り込み、堂々とセンチュリオン号を麻薬運搬船として利用しようとしたのだ。奴らが100日間の勾留を聞いて激怒したのは、身体的束縛を受けるのを嫌がったからではなく、麻薬取引が遅延するのを恐れたためだったのだろう。

 

 奴らはほどなくして全員が死刑になったと聞く。

 

 あれから、10年が経った。

 

 今、私はお湯を沸かしている。春の午後の柔らかな日差しが窓から居間に差し込んで、精緻なレース模様のような鮮やかな光の彩りをテーブルに添えている。

 

 予感がする。今日は何か良いことが、それも、この10年来で一番良いことが起こるような気がしている。

 

 お茶は用意した。真っ白でフワフワとした生クリームと、よく熟れた桃と、砂糖をたっぷりまぶした焼き菓子も用意した。

 

 窓は開け放ってある。そよ風が部屋の中へ入り込んでくる。

 

 執筆の疲れもあって、準備を終えた私はしばし微睡んだ。

 

 そんな私のもとへ、密やかな羽音と、軽い足音と、天使のようなクスクスという笑い声が近づいてきて……




※以下、作品メモとなりますので、ご興味をお持ちでない方は、お手数ですが非表示設定にするか、ここで読み終えて下されば幸いです。

・らいん・とほたー「センチュリオン号の100日」

 小説投稿サイト「エブリスタ」で定期的に開催されている妄想コンテスト、その第100回「100」に応募した作品です。2019年5月12日公開。

 構想→プロット→執筆→投稿まで12時間で仕上げました。時間がなかったのです。というわけで、エブリスタに上げたバージョンは自分としては少し完成度に不満が残る結果となりました。

 今回ハーメルンに上げたバージョンは1万4千字。エブリスタから大幅に増補改訂されております。主にエピローグ部分がそれに当たります。

「100」というテーマ、大雑把でなんでもありな印象があります。そのため構想を出すのは大変でしたが、まあ100日間、というものに落ち着きました。船の検疫隔離という重いテーマは、いずれ別の話でさらにシリアスな感じで掘り下げてみたいところです。

次回もどうぞお楽しみに!

※2020/12/25
読み直してみたらかなり未熟な文章だったので、最初から最後まで手直しを加えました。


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17. 勇者ユリウスの弁明

 歴史を顧みると、権力者たちがいとも容易く、残酷でにわかには信じられないような命令を発する場面にしばしば遭遇する。

 

 食うに困って一斉蜂起した農奴たちを皆殺しにしたり、宗教改革者を火刑に処したり、魔術を用い魔族と通じたという嫌疑で、市のすべての女を生き埋めにしたり……

 

 私たちはそんな彼らを、血も涙もない、内的葛藤や苦悩もない、魔族以上に魔族的な人間であるとみなしがちである。高貴な生まれが却って彼らの魂を損なわせ、富裕な境遇は彼らの性情を腐らせ、豊かな学識は性格を傲慢にすると。だから彼らは数千、数万の人間の命を、あたかも食卓から食べカスを落とすかのように、眉一つ動かすことなくこの世から抹殺するのだと。

 

 しかし私は知っている。彼らもまた私たちと同じ人間であり、悩み苦しみつつ、命令を発したのだと。言いたくなかったことを言い、言いたかったことを言わないで、彼らは懊悩のうちに命令を発したのだと、私は知っている。

 

 いや、彼らの全てがそうであったわけではないかもしれない。中には喜んで民を死へと追いやり、笑って酒杯を傾けつつその様を眺めた者もいたかもしれない。それは否定しない。

 

 それでも、私が側近くお仕えしたオタカル王子は、決してそうではなかったと断言できる。

 

 歴代のリヴシェ王国の統治者の中でも飛び抜けて冷酷無情で、厳格な法治主義者で、肉親すら利用するほどの策略家で、かくほどまでに味方からも敵からも怖れられ恨まれたことはないと言われているあのオタカル王子。あの方こそ、私の全身全霊を以てお仕えするにふさわしい方だった。

 

 その日の早朝、私はあることを急報するべく、王子の寝室へ向かった。

 

 一週間前、かねてより戦争状態にあった東方の魔族たちが大攻勢を発起し、私たち王国首脳部は不眠不休でその手当てに追われていた。各種情報を吟味・統合し、それに基づいて部隊を派遣し、軍需物資を輸送し、予備役に動員令をかけ……仕事は無限にあったが、それを捌けるだけの人間は少なく、なにより時間がなかった。

 

 オタカル王子はこの難局に際して、迅速で的確な命令を出し続けた。母君譲りの美しい金髪と緑の目を持ちながら、生来病弱で背丈と筋肉に乏しく、肌は常に蒼ざめている王子だったが、断固たるその態度には目を見張るものがあった。ある連隊を捨て石にして戦線を整理することを命令した時は、涙ひとつ浮かべず、他のいかなる命令と同じ口調でそれを私に書き取らせたものだった。

 

 ようやく一息つけるこの朝である。私はひりつくような喉の渇きを覚えながら、王子に言った。

 

「殿下、ユリウスが王城に出頭して参りました」

 

 ちょうどその時、王子はカップを傾けて朝の茶を楽しんでいる最中だった。王子は一瞬手を止めたが、いつもの通りの冷静さを保ったまま答えた。

 

「ユリウスが? 亡霊ではないだろうな」

「著しく消耗しているとのことですが、確かに生きております」

「一人か?」

「ただ一人でございます。伴も連れず、ただ一人で城門に現れました」

「何と言っているのか?」

「殿下にお会いして話がしたいと。ただそれだけを訴えております」

 

 ここまで話してから、王子は少し考えるような素振りを見せて、やや低い声で私に尋ねた。

 

「……聖女は、アネシュカはどうした」

 

 私は、当然その問いがなされるであろうことを予想していたが、それでも声が掠れるのを抑えることができなかった。

 

「……姫殿下は、おられません。ユリウスも、そのことに関しては口を噤んでいて……」

 

 王子はカップをそっと置いた。その微かな音が妙に私の耳に残った。

 

「とにかく、会おう。ユリウスは今どこにいる」

「ひとまず地下牢に収容しております。これよりお目見えの支度を整えさせるので、一時間後には連れて参ることができます……」

「いや、今から私が直接会いに行く。コンラート、お前もついて来い」

 

 そう言って王子は立ち上がると、部屋着に上着を羽織っただけという簡素な服装のまま部屋を出た。王子の足取りは常と変わらぬはやさだったが、私にはどこか急いているようにも感じられた。

 

 地下牢に向かう途中、王子はいつものように戦線について私に質問をした。

 

「シュマバ要塞はどうなった」

「依然、持ち堪えております。援軍の行軍も計画通りで、三日後には要塞外縁に到達するものと思われます」

「オロモウツの状況は」

「報告によりますと、魔族の火力魔法が特に熾烈を極めているようです。耐えかねて我が軍に脱走兵が出たとの報告が……」

「オロモウツにはさらに火砲を送ってやらねばなるまい。それから、脱走兵は全員処刑せよ」

 

 なにも変わらない。王子は、表面的には、いつものままだ。峻厳なる統治者。それは別段不思議でない。

 

 たとえ、今から会いに行くのがあのユリウスであっても、王子はなにも変わらない。

 

 私などは、ユリウスという人物を考えるだけで、強い怒りと憎しみと、それと同じくらいの敬慕の念を覚えるというのに。

 

 地下牢は暗く、湿っていた。突然の王子の来訪に衛兵たちは慌てたように威儀を正して敬礼したが、王子は軽く答礼して、奥へ奥へと進んで行った。

 

 ユリウスは、地下牢の最奥、重犯罪者が収容される独居房の一遇でうなだれていた。

 

「ユリウス、久しいな」

 

 王子は何ら気負うことなく、まるで旧知の親友に対するような、穏やかな口調で話しかけた。

 

 問いかけにユリウスは、ビクリと体を震わせた。

 

「お、王子……で、殿下」

 

 私はあまりにも変わり果てたユリウスの姿を、心のどこかで呆れながら見ていた。

 

 見る者すべてを魅了する、あの男らしく英雄的な風貌はどこへ行ったのか、今は浮浪者のように窶れ、かつ垢に塗れて汚れている。気高い意志を有していたあの鷹のごとき目は白濁し、戦場においてどれほど魔族の矢弾と魔法に晒されても決して曲げることのなかった背は、ドブネズミのように卑屈な線を描いている。

 

 だが王子は、見るも無残に落魄したユリウスの姿に気を取られることはないようだった。

 

「待て、かつては俺とお前で呼び合った仲ではないか。いまさら私の心証を良くしようと改まった言葉遣いをするのならば、私はお前に失望する」

 

 思いがけぬ問いにユリウスは目を見開いた。深く息を吸い込むと、その吐息と共に言葉を漏らした。

 

「……殿下。いや、オタカル。ありがとう……」

 

 王子は顔色ひとつ変えない。

 

「あれから何があったのか、話してくれないか。お前が出奔したあの時から、いったい何があったのかを」

 

 ユリウスは、一つ大きな深呼吸をした。そして、存外スラスラと話し始めた。話し続けるうちに濁っていた目は輝き、背筋はしゃんと伸びていった。

 

「……俺は、あの日アネシュカと一緒に王城を密かに抜け出て、それから国境へ向かった。世間では俺が戦いに嫌気が差して、いつの間にか関係を持っていたアネシュカと共にどこかへ逃げ出したなどという噂があるが、そんなことは決してない。俺は魔族共と魔王を倒すための仲間を集めて、遠いルーシの魔王城へ向かったんだ」

 

「仲間は続々と集まった。剣技に長けたヤーヒム、元チュートン騎士団兵士長のクラーマー、治癒術に秀でた修道女マリアンヌ、槍の使い手ドラホミール……みんな素晴らしい仲間だった。立ち向かってくる魔族を倒し、いくつもの山と川と谷を越えて、時には三つの首と七本の尾を持つ黄金のドラゴンを倒し、地獄の番犬の群れを退けて、俺たちはルーシの魔王城、あの血で塗り込められた真紅の不夜城に乗り込んだ」

 

「俺たちは戦った。ヤーヒムとドラミホールを失いながら魔王の親衛隊を退け、魔族の新兵器の合成獣をクラーマーとマリアンヌを犠牲にしながらなんとか倒し、ついに魔王の玉座の間にまで到達した」

 

 ユリウスの話は、にわかには信じがたいものだった。百年前、漆黒の瘴気を纏って忽然と現世に出現した魔王、その本拠地たる王城に、いくらアネシュカ姫が一緒だったとは言え、このユリウスは僅かな友と共に侵入し、魔王の喉首まで迫ったというのだ。

 

「俺とアネシュカは、力の限り戦った。魔王は一度刺されても死なず、二度首を跳ねられても死なず、三度胴を斬っても死ななかった。アネシュカの魔法も、四度奴を灰に変えたが、それでも奴は復活した。それでも俺は、最後まで戦うつもりだった。次第に魔王も力を失い、剣筋も衰え、勝機が見えた。だが……」

 

 ユリウスは口ごもった。口に出すだけで死にそうになるほど辛いことを言い出すための決心、それがつくまで待っているようだった。

 

 王子も私も、口を挟まなかった。彼の次の言葉を辛抱強く待った。

 

 ややあって、ユリウスは口を開いた。

 

「魔王は禁術を用いて、別の形態へと変身した。理性のない、純粋な邪悪を体現した巨大な魔獣へと、魔王は姿を変えた。俺は奴の暴威に翻弄されて、体力も気力も消え果て、血を大量に失い、もはや奴の攻撃を受けることも避けることもできなくなった。その瞬間、アネシュカが俺の前に立って守ってくれた」

 

「アネシュカは魔力障壁を張りながら俺に言った。『ユリウス、あなたは逃げて、再起を図ってください。私がそのための時間を稼ぎます』と。俺が反問する間もなく、アネシュカは移動魔法を発動して俺を魔王城の外に逃した。俺はもう一度魔王城に乗り込もうとしたが、傷は重く、それに警戒もそれまでとは比べものにならないぐらい厳重になっていたから、断念せざるを得なかった。俺は飲まず食わずでルーシの大地を西へと戻り、ようやくこの王城に戻ってきたんだ……」

 

 しばらくの間、沈黙が独居房を支配した。

 

 私は、ユリウスの話をどう判じたものか、考えあぐねていた。

 

 このユリウスという男、元は卑しい平民の出でありながら、類稀なる戦闘の才能と、なにより人々を惹きつける天与の資質を持ち、義勇軍を率いて颯爽と戦線に参加したことで一躍世に名を知られた者だ。五年前、王国軍主力が魔族の包囲を受けて壊滅の危機に瀕した時、ユリウスの義勇軍は敵の本営を奇襲し、逆転勝利の立役者となった。

 

 次第にユリウスは「王国の勇者」と呼ばれるようになった。勇者ユリウスと、私もかつてはそう呼んだものだった。

 

 オタカル王子とユリウスは、大の親友同士と言っても良かった。

 

 王子は、緒戦で戦傷を負って人事不省となった国王の摂政として、混乱した王国をなんとか導いていこうと苦闘の日々を送っていた。強権的で、すべてにおいて国法を優先させる王子に対して、貴族たちは非協力的で、民衆も相次ぐ戦時増税と徴兵に反発を強めていた。

 

 唯一の妹であるアネシュカ姫との不仲も、王子の孤立を深めた。私は二人が睦まじく会話をしているのを見たことがなかった。王子は聖女である妹君を戦意高揚の道具として利用し、妹君はそれに表立っては反抗しないものの、王子を訪問もしなければ手紙の一つも出さなかった。

 

 そんな中で王子が出会ったのがユリウスだった。ユリウスはその英雄的な働きで民衆から圧倒的な人気があり、貴族たちもその軍才を目当てにユリウスに接近していたから、王子がユリウスとの関係を深めることは政治的に大いに利があったが、それ以上に、二人は人格的に互いを認め合っていた。

 

 私は王子がユリウスを「生涯にただ一人だけ持つと言われている、運命的な親友」と評したのを知っているし、ユリウスが王子を「身分を超えた真の友情で繋がった仲」と語っていたのも知っている。私が直接聞いたからだ。

 

 二人の仲は二年前のモラヴァ大会戦で最高潮に達し、それから急速に冷めた。

 

 理由は、対魔王軍への方針を巡ってだった。人間世界の総力を結集してもなお魔王軍を撃滅することが叶わなかった以上、これからは内政により力を入れて戦力を蓄え、戦略を練り、兵器と戦術を改良してから戦いに臨むべきだと王子は考えた。

 

 その王子にユリウスは反発した。ユリウスは、独裁的に法を制定し国政を運営する王子に何度も苦言を呈した。反対派を投獄し、時には追放までした王子に対して、ある日ユリウスは「お前こそが真の魔王だ!」と宴の最中、公衆の面前で叫んだ。明らかに二人の仲は冷え込んでいた。

 

 その後で、ユリウスは出奔したのである。アネシュカ姫を連れて。

 

 王族の略取は死罪である。聖女を我がものとすること、これも死罪である。ユリウスは勇者から一転、重罪犯となった。

 

 ユリウスとアネシュカ姫の出奔事件を、貴族たちは大いに利用した。王子の権威を貶め、絶対支配に楔を打ち込むために。「臆病風に吹かれた勇者ユリウスと、王国の至宝たる聖女アネシュカは、人倫と正義を踏みにじり、人間世界を捨て、聖なる戦いから逃亡した」と。

 

 王子も明らかに変わった。世間一般の見方とは異なり、実際はどんなに対立する相手であっても、まず言い分を聞き、話し合って、どうしようもなくなってから法的措置を採っていた王子であったが、ユリウスとアネシュカ姫が消えてからは、暗殺や処刑といった暗い手段を躊躇わなくなった。

 

 常になく深酒をした王子が、ある晩ふと私に漏らしたことがある。

 

「……私はユリウスが憎い。アネシュカを連れ去ったあの男が憎い。もとより私とアネシュカとは仲が悪かった。私がどれほど優しい言葉をかけて、心を込めて贈り物をしても、アネシュカは笑顔一つ見せなかった。おそらくは貴族共が何か吹き込んでいたのだろう。私が国政を預かるようになってからは、会おうとさえしなくなった。私も私で、妹を聖女として利用した。道具として可能な限り利用した。恨まれて当然だろう。それでも私は妹を愛していた。どれほど嫌われていようとも、私は妹の幸せを祈っていた。聖女ではなく、肉親として彼女のことを大切にしていた……」

 

「だが、妹を奪ったことよりも、私に一言も言わずに去って行ったのがなにより憎い! 親友だと思っていたのに! 魂と魂で結ばれた友だと思っていたのに! 私ははじめ、例の噂などは信じていなかった。あの男に限ってそのようなことは決してないと。だが、最近では噂を信じるようになっている。その方が私の気が休まるからだ。そしてそのような弱さへと流れる私自身すら、私は憎い!」

 

「もしユリウスがもう一度私の前に現れることがあったら、私はこう言ってやるのだ、『お前を決して許しはしない』とな」

 

 私もそれ以来、ユリウスを深く憎むようになった。誰よりも忠誠を誓い、身命を捧げてお仕えするこの方を、またこの方の純心でひたむきな心を、蹂躙した男であるユリウス。やつには煮えたぎった鉛を飲ませ、車裂きにしてやっても、なお足りない。

 

 そう思っていたはずなのに、実際にユリウスを目の前にし、その語るところを聞くと、私は、怒りも憎しみも抱いていない私自身に気がついた。

 

 ユリウスの話の真実性を保証するものは何もない。本当は魔王城になど行かず、ユリウスはアネシュカ姫とどこかに隠遁していて、なんらかの事情で生活に困窮し、今回こうして恥知らずにも王城へ助けを求めに来たのかもしれない。

 

 だが、鉄棒の向こうで俯いているユリウスを見ると、そのような考えも自然と消えてしまうのだった。ユリウスという男は、憎んでも憎み足りない男ではあるが、しかし男の中の男だ。決して虚偽の供述をする男ではない。

 

 それでも私は王子の側近である。王子の判断の材料を提供するのが私の役目である。

 

 私はあえて冷淡な口調で、ユリウスに尋ねた。

 

「お前の話を信じるだけの証拠はどこにもない。ただお前だけがお前の話を信じている。何か証となるものがあれば、少しは信じられようが……」

 

 ユリウスは私に微笑んだ。

 

「証拠ならある。この傷だ」

 

 彼が薄汚れたシャツを捲ると、そこには腹部を横に走る醜い傷があった。黒く、無数の細い虫が蠢くように律動する、魔力の波動が感じられる傷跡。

 

「変身した魔王から受けた傷が、今も治ることなく疼いている。宮廷魔術師に鑑定させると良い。紛れもなく魔王による一撃の跡だと分かるだろう」

 

 私は、王子の様子を伺った。この傷を見せられてなお怒りに燃えているのか、それとも侮蔑か、あるいは憐憫か?

 

 数時間もすぎた気がしたが、実際には数分にも満たなかったのだろう。次に王子が発した言葉は、重々しく響いた。

 

「お前が敵の本拠地に乗り込み、魔王と剣を交えたことは信じよう。その傷が何よりの証拠だ。しかし、一つだけ聞く。聖女は、アネシュカはまだ魔王城にいるのだな? 人類の至宝にして切り札たる聖女は、まだ魔王城にいるのだな?」

 

 ユリウスは力なく頷いた。

 

「そうだ。彼女は魔王城にいる。おそらく囚われの身となって。アネシュカは決して自害はしないし、そもそも聖女の加護のせいで彼女に自害はできない。魔王も、彼女は殺さないだろう。戦いの最中でも、魔王はしきりとアネシュカに降るよう呼び掛けていた……」

 

「ではなぜお前は生きてここにいる、ユリウス! なぜお前だけが生き残った!」

 

 王子の突然の怒声。今まで経験したことのない王子の激情の発露に直面して、私はその場にへたり込みそうになった。

 

 ユリウスも、じっと口を噤んでいた。やがて彼は、意を決したように昂然と顔を上げた。

 

「オタカル、俺がここに来たのは、ただ単に言い訳と命乞いをするためじゃない。俺は、アネシュカからの言葉を伝えに来たんだ」

 

 ユリウスの思いがけぬ言葉に、王子は呆気に取られたようだった。

 

「妹が?」

 

 私も意外に思った。あのアネシュカ姫に限って、王子へ特別に言い残すことがあろうとは、私には考えられなかった。

 

 ユリウスは言った。

 

「俺を転移させる直前、アネシュカは言った。『兄様に、どうかお体を大切にしてくださいと伝えてください。今まで言えなかったけれど、私は兄様を深く愛しておりました』と」

 

 それを聞いた瞬間、王子はグラリとよろめいた。私はすぐに王子の体を支えた。

 

 王子は手を頭にやり、必死に目眩を抑え込んでいるようだった。肩で息をしている。やがて王子は、か細い声で言った。

 

「本当に、あのアネシュカが、そのようなことを言ったのか? この私に対して?」

 

 ユリウスは力強く頷いた。

 

「そうだ。だからこそ、俺はここまで帰ってきた。アネシュカとの約束を果たすために」

 

 続けて、ユリウスは言葉を紡いだ。

 

「弁明はした。アネシュカとの約束は果たした。オタカル、後はお前にすべて委ねる。俺はお前にすべて従おう」

 

 私に支えられながら王子は、じっとユリウスを見つめた。

 

 ユリウスは聖女を連れて王国を出奔した。これは紛れもない国家反逆罪であり、死罪である。しかしながらユリウスは、人類の怨敵である魔王を、失敗したとは言えあと一歩のところまで追い詰めた。これは紛れもない偉業である。

 

 これを王子はどのように判断するのだろうか。許すのか、それとも許さないのか。かつてのように仲間としてユリウスを迎え入れ、今日からまた共に歩むのか、それとも統治者として彼を処刑場に引き摺り出し、錆びた斧で首を刎ねるのか。

 

 私はその時、王子が握り拳をギュッと作ってはそれを解き、また作っているのに気付いた。

 

 今この方の中では、相反する二つの言葉が鬩ぎ合っているに違いない。

 

 一つの言いたい言葉と、もう一つの言いたい言葉。それを同時に言うことはできない。どちらかを言えば、残されたどちらかは永遠に「言えなかった言葉」として、精神の迷宮を彷徨うことになる。

 

 息を呑んで、私はその瞬間を待った。

 

 しばらくしてから、王子は呻くように言った。

 

「……ユリウスよ、王国の勇者よ。私はお前を許すわけにはいかない。王子として、この国を導く者として、国法を犯し聖女を連れ去ったお前を放免するわけにはいかない。私はこう言わなければならない、『お前を決して許しはしない』と」

 

 王子は静かに独房に背を向けた。

 

「さらばだ、我が友」

 

 去っていく私たちの足音が、地下牢全体にうつろに響いた。ふと顧みると、ユリウスは立ち上がって私たちに向かって静かに首を垂れていた。

 

 

☆☆☆

 

 

 一週間後、ユリウスは地下牢から脱獄した。

 

「手筈通り、ユリウスは脱獄いたしました」

 

 私がそう報告すると、王子はここ数年で初めて見せるような、解放感に満ちた表情を浮かべた。

 

「良かろう。言えなかった言葉は、精神の迷宮から連れ出して、具体的な姿形を持たせてやらねばな」

 

「よろしいのですか? ユリウスはきっと、殿下を恨んでいることでしょう」

 

 私の懸念に、王子は少しだけ恥ずかしそうな顔をして答えた。

 

「それはない。私の真意を、きっとあいつも分かっているだろう。なにせ、私の友なのだから」

 

 ユリウスが魔王を討ち果たし、聖女を連れて王国に帰還したのは、その二年後のことだった。




※以下、作品メモとなりますので、興味のない方はここで読むのを終えられるか、もしくはお手数ですが後書きを非表示に設定してください。

らいん・とほたー「勇者ユリウスの弁明」作品メモ

2020年1月05日公開。

去年の5月以来書いていなかったオリジナル短編、その復帰作です。2020年の書き初めともなりました。

妄想コンテスト「言えなかった言葉」応募作として書いたので、最後どのように話の決着をつけるか、という点で話を考えました。こういうのは恋愛か友情に絡めると話に深みが生まれると相場は決まっているので、今回は友情というテーマで書いてみました。普遍的な価値観について書くことができたので私としても勉強になりました。

舞台のモチーフはチェコ、ボヘミアです。何本か書いてきて分かったのですが、私は中欧や東欧が好きなようです。

今回はハーメルン投稿にあたりあまり書き足しを行いませんでした。やはり字数制限8,000字なのに12,000字を書いてそれを縮約するというのは、話が駆け足になってしまって良くないですね。今回は最初から8,000字として設計したのですっきりと収まりました。

次回もお楽しみに。


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18. 真紅のマフラーは凍空に舞う

 ヤンネ・トゥオミネンが死んだ。彼の魔竜も死んだ。

 

 私たち四人が着いた時には、ヤンネの死体は既に近くの民家に運び込まれ、暗く狭い居間に横たえられていた。

 

 死体が纏っている飛行服は血と混合濃縮エーテル液で赤黒く染まっている。両脚は滅茶苦茶に砕かれており、右腕は失われていた。

 

「それにしちゃ綺麗な死顔だ」

 

 私の隣にいるヘンリクが驚いたように言った。

 

 確かに、ヤンネの顔は安らかだ。血色こそ皮膚からは失われているが、両目は静かに閉じられており、口元はわずかに綻んでいて微笑んでいるようにすら見える。今すぐ起き上がってもなんら不思議ではない。

 

 セッポがタバコを咥え、火をつけながら言った。

 

「本人もきっと安心してるだろう。部隊一の伊達男にふさわしい死顔だからな……」

 

 ここは最前線に程近い。ドロドロという、遠雷のような赤軍の砲声が聞こえてくる。

 

 きっと、前線には多くの死体が転がっているだろう。敵と味方の死体。人間と魔法生物の死体。ねじくれ、焼かれ、砕かれ、引き裂かれた死体。

 

 それに比べれば、ヤンネの死体は上等な部類と言えた。

 

「それに、大戦果を挙げたしな」

 

 深々と一服し、煙を吐き出したセッポがしみじみと言った。

 

 私はセッポに問いかけた。

 

「ヤンネの最期を見たのか」

「ああ、しっかりと見たよ。一直線に突っ込んで、投弾寸前の敵の編隊長機を撃ち落とした。おかげで敵の爆弾は全部外れた。その後もヤンネの奴、よせば良いのに旋回を繰り返して暴れ回って、しまいにゃ魔竜の脳味噌を撃ち抜かれた。後は地上に真っ逆さまでな……」

 

 私はその話を聞いて不思議に思った。およそ、ヤンネらしからぬ戦いぶりだ。慎重で、ともすれば臆病で、しょっちゅう「俺は死なん、絶対に死なん」と言っていたヤンネにしては、あまりにも勇敢すぎる最期のように思われた。

 

 まるで、戦いの最中突然人格が変わったかのようだ。

 

「ん? これは……?」

 

 近くに寄って死体を見ていたエルモが、怪訝な顔をした。

 

「どうしたエルモ?」

「いや、ヤンネのマフラーを見ろよ。こいつ、いつの間にこんなマフラーをしてたんだ?」

 

 エルモが死体の首元を指し示した。見るも鮮やかな赤色のマフラーが巻かれている。

 

 血よりも暗く、薔薇よりも明るい、真紅のマフラー。

 

 奇妙なことに、マフラーはまったく汚れていなかった。ヤンネの死体はボロボロだというのに。

 

 材質は絹。新品そのもののように、美しい光沢を誇っている。

 

「おかしいな、ヤンネはいつも緑のマフラーをしていたはずなんだが。ほら、あの酢漬けキュウリのような色をしたマフラーだよ。似合ってないのに、本人は験担ぎだとか言っていつも巻いてた」

 

 一緒に見ていたヘンリクが頭をかきながら言った。私も、そういえばヤンネはいつも緑のマフラーを巻いて出撃していたことを思い出した。

 

 腕を組んで、何やら考え込んでいたセッポが、あっ、と声を上げた。

 

「このマフラー、どっかで見たと思ったら、死んだマウノのマフラーじゃないか?」

 

 エルモが頷く。

 

「そうだ、この赤色には見覚えがある。これはマウノのマフラーだ。マウノ・レヘトヴァーラのお気に入りだったマフラーだ」

「いや、それはおかしいだろ」

 

 ヘンリクが疑問を呈した。

 

「マウノのやつは二週間前、イタメリ海で敵の輸送艦に爆弾を抱えたまま突っ込んで死んだ。奴も、奴の魔竜も木っ端微塵に吹っ飛んで、何も残らなかったじゃないか。なら、なんで奴のマフラーがまだここにあって、ヤンネが巻いてるんだ?」

 

 セッポがやれやれとばかりに首を横に振った。

 

「別におかしくはないだろ。きっと、マウノは最後の出撃の時にこの赤いマフラーをしていかなかったのさ。で、たぶんヤンネがこれを受け継いだんだ。なんせ、マウノの遺品整理をしたのはヤンネだからな」

 

 ヘンリクはなおも表情に疑問の色を浮かべている。

 

「……俺はマウノの奴が前に『赤いマフラーがない!』と言って大騒ぎをしたのを覚えてるぞ。そんな奴が赤いマフラーをしないで出撃するなんてことがあるのか?」

 

 二本目のタバコに火をつけたセッポが、ヘンリクの疑問を打ち消すように言う。

 

「そりゃ、したんだろう。じゃなきゃこうしてここにマフラーが残ってるわけがない。それともなんだヘンリク、お前は海に沈んだか爆発で燃えてなくなったかした赤いマフラーがひとりでに戻ってきて、ヤンネの首回りに収まったとでも言うのか」

「いや、そうは言っていない。そんなことはあり得ない。ただ、俺は……」

 

 私はそろそろ話を締め括ることにした。

 

「いい加減おしゃべりは終わりだ。ヤンネを車に運ぶぞ。基地に帰って、棺桶に入れてやらねば」

 

 私たちはあらかじめ用意しておいた戸板に死体を載せると、四人がかりで車へ運んだ。

 

 暗い空からは真っ白な粉雪が途切れることなく降っている。踏み締められた雪がギシギシと音を立てる。

 

 戦友の死体は思ったよりも軽かった。なおも砲声は鳴り響いていた。

 

 

☆☆☆

 

 

 セッポが死んだのはその一週間後だった。

 

 私たちはその日、戦隊の全力である十騎で出撃し、カルヤラ地峡の赤軍地上部隊へ攻撃をかけた。各々が十発の小型爆弾を抱え、戦車や補給車両からなる縦列を超低空で襲撃した。

 

 敵の対空射撃は熾烈で、トラックを改造した対空車両は私たちに向かってシャワーのように弾丸を吐き出した。緑色の尾を引く曳光弾の、地上から天空へと降り注ぐ驟雨。バリウム塩で出来た盛大な空中花火のショー。

 

 それでも、最初に攻撃を仕掛けた戦隊長は無傷で、その次に続いた私も一発も被弾せず、それから続々と攻撃した仲間たちもさしたる損害を受けなかった。

 

 セッポは一番最後に攻撃した。弾丸を撃ち尽くしたのか対空射撃は弱まっている。セッポも難なく攻撃を終えるだろうと思われた。

 

 私は上空警戒をしつつ、彼の襲撃ぶりを見物していた。彼と彼の魔竜は、大胆にも縦列のすぐ真上で何回も旋回を繰り返し、爆弾で敵の小型戦車を5両も破壊した。

 

 なんとも危なっかしいことをする、少し欲張りすぎだ。そう思っている間にセッポはさらに高度を落とし、今度は小山のように大きな敵の重戦車に攻撃を加えようとしている。

 

「やめろ、セッポ! もう良い! 切り上げろ!」

 

 私は思わず無線機に向かって怒鳴った。彼はほとんど運動エネルギーとスピードを失い、空中にほぼ静止したようになっている。そんな状態で攻撃を続行するのはあまりにも無謀だ。

 

 無線機は正常に機能していたはずだ。私の声も聞こえていたはずだ。だがセッポは攻撃をやめなかった。両翼に取り付けられた速射魔力砲からオレンジ色の弾丸が発射される。吸い込まれるように弾丸は重戦車に命中し、装甲の薄い天板部分を貫通した。

 

 重戦車は爆発した。数秒経ってから、セッポの魔竜が爆発した。敵の対空射撃が遂に彼を捉えたのだった。ランスカ=ブリタンニア原生種ハイブリッドに特有の非生物的な金属音混じりの咆哮が、離れた場所を飛んでいる私の耳にもはっきりと聞こえた。

 

 断末魔の叫びだった。セッポの魔竜は小爆発を繰り返しながら、低く低く彼方へと飛んで行き、やがて見えなくなった。

 

 セッポと魔竜は、友軍の勢力圏内で見つかった。捜索に当たった歩兵部隊の曹長がわざわざ基地にやってきて、詳しいことを話してくれた。

 

「セッポ・ハータイネ少尉の攻撃は我々も見ておりました。重戦車を撃破してくださって本当にありがたかった。あれは我々の砲撃をすべて弾き返しますから。少尉殿は我々の恩人です……少尉殿と乗騎の魔竜は、残念ながらほぼ原型を留めないまでに焼け焦げておりました。わずかに残ったご遺体は棺桶に納めて、既に後方へ送っておきました。それから……」

 

 曹長は、私の隣で話を聞いていたヘンリクに、ヒラヒラとした何かを差し出した。

 

 それは真紅のマフラーだった。見間違えるはずはない。ヤンネが死んだ時に首に巻いていたあのマフラーと同じものだ。

 

「少尉殿が墜落した場所の近くに、このマフラーがありました。樹に引っかかっていて……実を言うと、ご遺体を早く発見できたのもこのマフラーのおかげなんです。遠くからなにやら真っ赤なものが風に靡いているのが見えて、それを目印に進んだら辿り着いたわけでして……」

 

 私たちは顔を見合わせるばかりだった。

 

 

☆☆☆

 

 

 私たちは搭乗員待機室にいた。半地下式の部屋は薄暗く、骨の髄まで凍るように寒く、会話はない。

 

 だが、私たちが黙っていたのは寒さのせいではなく、ある想念が各々の頭の中を駆け巡っていたからだった。

 

 たまりかねたように、エルモが口を開いた。

 

「なあ、ヘンリク。そのマフラー、捨てちまったらどうだ」

 

 真紅のマフラーを指先で弄んでいたヘンリクは、思考の海に溺れていたのか一瞬返答が遅れた。

 

「……ん、ああ? なんだエルモ、なんだって?」

 

 エルモが再度、同じ調子で問いかけた。

 

「捨てたらどうだって言ってるんだよ、その真紅のマフラーを」

 

 ヘンリクは眉をしかめた。目つきが険しい。

 

「なんで捨てる必要がある。こいつは良い品だぜ。こいつを首に巻いて空に上がったらさぞかし快適だろうよ」

「お前はなんとも思わないのかよ」

「なんだよ」

「不吉だとは思わないのかって訊いてるんだよ」

 

 エルモの難詰するような口調に、ヘンリクは肩をすくめた。

 

「まぁ、確かに。これの今までの持ち主は全員死んでるな。最初はマウノ、次がヤンネ、その次がたぶんセッポ。で、どういう理由かは分からんが、持ち主は死んでるのにこのマフラーだけは生き残ってる。だから、このマフラーは持ち主を死に追いやる呪われた品なんじゃないかとエルモ・ペクリ飛行士殿はお考えになったわけだ。違うか?」

 

 そう言われたエルモは、ヘンリクを睨むような目つきをしたが、しかしじっと口を閉じている。

 

 ヘンリクは話を続けた。

 

「ま、そう考えるのも別におかしくない。俺たちは飛行士で、飛行士ってのは迷信だとか験担ぎってのを大事にするもんだ。ただ、俺はそういうのを信じない」

 

 私はここで口を挟んだ。

 

「ほほう、どうして」

 

 長い金色の髪の毛をかき上げてから、ヘンリクは答えた。

 

「俺は運命論者でもないし、予定説を信じているわけでもない。俺は、生きるのも死ぬのも人間の努力と心掛け次第だと思ってる。今までそう信じて戦ってきたし、それで生き残ってきた。これからもそうだ。この赤いマフラーが不吉なものだとお前らが信じるのは勝手だ。だが、俺として『こんな赤いマフラーごときに俺が殺されるわけがない』と思っている」

 

 突然、部屋に設置された内線電話のベルがけたたましく鳴り響いた。近くにいたエルモが飛びつくようにして受話器を取ると、数秒も経たずして叫んだ。

 

「緊急出動! ヘルシングフォシュに敵爆撃機の大編隊が接近中!」

 

 ヘンリクは私にニヤリと笑みを浮かべた。

 

「良い機会だ。俺はこの赤いマフラーを巻いていく。俺の考えの正しさをお前らに証明してやるよ」

 

 

☆☆☆

 

 

 ヘンリクは帰ってこなかった。赤いマフラーを巻いたまま、凍りついた大空に散った。

 

 緊急出動した私たちは、なんとか敵の編隊を捕捉することができた。

 

 敵から見て二時の方向に私たちはいた。しかし既に敵は爆撃針路に入っていて、これから射線を確保したり攻撃態勢を整えたりしたら、投弾を阻止することができないのは明らかだった。

 

 焦る私たちを尻目に、グンと増速して私たちの編隊から離れる一騎がいた。

 

 それはヘンリクだった。赤いマフラーが妙にくっきりと私の目に映った。

 

 戦隊長が叫ぶノイズ混じりの声がヘッドフォンから聞こえる。

 

「おいヘンリク! 勝手に離れるな! 戻ってこい!」

 

 返答はない。他の仲間たちも口々に戻ってくるよう怒鳴った。だが、その間にもヘンリクは無言でぐんぐん敵編隊へと突き進んでいく。

 

 そして十秒ほど後にそれは起きた。

 

「あっ!」

 

 ヘンリクとその魔竜は、敵の編隊長機に体当たりをした。右翼の付け根部分に頭から突っ込まれた敵機は、安物のライターのようにパッと火を吹くと、次の瞬間には満載していた爆弾が爆発し、巨大な火の玉となった。

 

 大小無数の破片となって敵機は空から一瞬で姿を消した。ヘンリクも魔竜も、塵ひとつ残さずこの世から消滅した。

 

 さらに驚くべきことが起きた。吹き飛ばされた敵機のエンジンが敵の二番機に当たり、その二番機も爆弾が誘爆して消し飛んでしまった。

 

 敵は自殺攻撃を目の当たりにしてパニックを起こした。首都ヘルシングフォシュの市街地手前の何もない雪原に爆弾を捨てると、それまで緊密に組んでいた隊形をバラバラにし、算を乱して逃走を始めた。

 

 呆然としていた私たちは一瞬行動が遅れたが、気を取り直して追撃を開始し、最終的にヘンリクに墜とされた二機を合わせて六機を撃墜した。首都に被害はなかった。

 

 紛れもない勝利。だが、基地に帰った私たちの心は重かった。全員が着陸すると戦隊長は即座に皆を呼び集め、こう言った。

 

「ヘンリク・レフティネンは立派だった。立派に敵を阻止した。大戦果を挙げた。だが無謀だった。あんな攻撃をする必要はなかったのに」

 

 これまで一度も泣いているところを見たことがない戦隊長が涙ぐんでいるのに、私は気づいた。

 

「生きている限り俺たちは飛び続けることができる。戦い続けることができる。今後、一切の体当たり攻撃と自殺的攻撃を禁ずる。どんなにそれが必要だと思われたとしても、絶対にそれをしてはならん! 分かったな……」

 

 私とエルモは足を引きずるようにして、搭乗員宿舎に戻った。六人部屋には今や、二人しかいない。

 

 寝台に腰掛けたエルモがうなだれながら言った。

 

「マウノも、ヤンネも、セッポも、ヘンリクも死んじまった……四人とも手柄を立てたが、でも死んじまったら何にもならない」

 

 私もやりきれない思いだった。

 

「どうせ今回のヘンリクの件も、新聞は『英雄的犠牲精神』として書き立てるだろうな……」

 

 その後の一週間、相変わらず戦いは続いたが、戦死者は出なかった。

 

 凍結したラートカ湖を続々と渡ってくる敵の大部隊を攻撃するという、うんざりするほど血生臭い任務を終えて帰ってきたその日、私は自分の寝台に信じられないものが置いてあるのを見た。

 

 それは真紅のマフラーだった。ヘンリクと共に爆発して大空に消えたはずのマフラーが、鮮やかな赤い光沢を放って私の寝台の一隅に幻想的な存在感を示していた。

 

 

☆☆☆

 

 

 エルモはマフラーが戻ってきたことに当初は恐怖していたが、数日経ってからそれを熱烈に欲しがるようになった。

 

 理由は、彼の母と妹が赤軍に殺されたからだった。敵機の面白半分の機銃掃射に殺されたとのことだった。

 

「そのマフラーを俺に寄越せ! 俺はどうしても奴らに復讐しなければならない! 妹はまだ14だったんだぞ!」

 

 マフラーがあったところで敵は殺せないだろう。そう説く私に、エルモは激しくかぶりを振った。

 

「俺はこれまでそのマフラーが持つ意味を誤解していた。それを巻いて出撃したら死ぬものだと思っていた。確かにそれはそうかもしれない。だけどな、マウノにもヤンネにもセッポにもヘンリクにも、別の共通点があった。それは、あいつらは大戦果を挙げてから死んだということだ! それを巻けば必ず赤軍を殺せる! 俺一人の命と引き換えに、共産主義者共を大勢殺せるんだ! さあ、俺に寄越せ!」

 

 エルモは自暴自棄になっている。天涯孤独の身となり、戦争が終わっても一人ぼっちで生きていかねばならないという絶望。これまで何度も出撃を重ねているのに、さしたる戦果も挙げていないという焦燥。それが彼をして、真紅のマフラーに異常に固執させているようだった。

 

 今にも私に掴みかからんばかりに興奮しているエルモを何とか宥めて、私はこう言った。

 

「まあ待て、俺に良い考えがある」

 

 私は、努めて冷静に言った。

 

「赤軍を殺すマフラーならば敵にくれてやれば良い。その方がこちらにとっても都合が良い。実は明日、単騎で敵の野戦飛行場を偵察するように命令されてる。俺がマフラーを持って行って、偵察がてら奴らの頭の上に投げ込んでやるよ。真紅のマフラーだ、赤軍の奴ら『自分たちの軍旗と同じ色だ』と、喜んで身につけるだろうよ……」

 

 エルモは強硬に反対し、なおも私にマフラーを寄越すよう要求したが、最終的には私の考えを聞き入れてくれた。

 

 

☆☆☆

 

 

 翌日早朝、私は空にいた。敵飛行場まで一時間。愛騎の魔竜の調子は良く、濃縮エーテルの混ざった赤紫色の呼気を盛んに鼻腔から噴出している。

 

 膝の上には真紅のマフラー。私はそっとそれを手に取った。首に巻けば「呪われる」かもしれない。だから決して巻きはしないが、しかし敵にくれてやる前にもう一度よく見ておきたい。

 

 思えばこのマフラー、この短い間に随分と多くの命を奪ったものだ。死んだ四人の戦友は気の良い奴らで、全員が将来に夢を抱いていた。マウノには婚約者がいたし、ヤンネは大学に行きたがっていた。セッポは画家志望だったし、ヘンリクは海外旅行をしたいと言っていた。

 

 いや、マフラーのせいではない。私は思い直した。彼らを殺したのは、決してこのマフラーではない。彼らを殺したのは紛れもなく赤軍だ。あの侵略者共だ。村々を焼き、首都に爆弾を落とし、多くの人々を虫ケラのように殺した、あの悪魔共だ。奴らさえ来なければ、四人の戦友も死ぬことはなかった。未来を奪われることもなかった……

 

 私の内側は、突如として憎悪と殺意に塗り込められた。そうだ、私は奴らを殺さねばならない! 今までどこか赤軍の連中に、同じ戦う者同士として仲間意識にも似た何かを感じていたが、そんなものはまやかしだった。奴らはこの世から消え去るべき存在だ。

 

 殺さねば!

 

 それまで巻いていた白いマフラーを外し、私は真紅のマフラーを巻いた。すると、それまでの人生で一度も抱いたことのないような、猛烈な闘志と敵愾心が湧き上がった。

 

 敵飛行場は静まり返っていた。上空に敵機の影はない。無警戒にも、敵の戦闘機は隠蔽されることもなくズラリと列線に並んでいる。私の存在には気付いているはずなのに、対空砲は一発も撃ってこない。絶好の機会だ。

 

 思わず、私は叫んでいた。

 

「殺してやるぞ! 皆殺しだ!」

 

 魔竜を素早く降下させ、私は銃撃の態勢に入った。両翼の速射魔力砲が唸り声を上げて弾丸を吐き出す。突っ込んで、撃ちまくり、何度も旋回して、私は地上の敵機を次々と燃え上がらせた。列線にあった二十機近くの敵機はほとんどが破壊された。

 

「殺してやる! 殺してやる!」

 

 心臓が爆発しそうなほどに音を立てている。

 

 襲撃に気付いた敵は、慌てふためいて飛行場内を逃げ惑っている。倒けつ転びつ、ある者は防空壕へ、ある者は機体へ、ある者は対空砲へと走っている。

 

「死ね! 死ね!」

 

 私は、その中の一人に目をつけた。立派な飛行服を纏った、赤ら顔のいかにも歴戦のパイロットといった男だった。その男は私に向かって腰の拳銃を抜き、敵うはずもないのに盛んに撃ちかけてくる。

 

「死ね!」

 

 私は光学照準器のど真ん中に男を捉えると、発射ボタンを押し続けた。弾丸は男を粉微塵にした。

 

 その瞬間、私の魔竜のエーテルタンクが火を噴いた。敵の対空砲が私に直撃弾を送り込んだのだった。

 

 魔竜が悲痛な叫びを上げるのを聞きながら、私はなおも攻撃を続行した。次々に被弾し、傷を負い、血塗れになりながら、私は気が狂ったように叫び続けていた。

 

「殺してやる! 殺してやる! 殺してやる……!」

 

 いや、その時の私は、本当に気が狂っていたのだろう。

 

 

☆☆☆

 

 

 気がつくと、私は全身が包帯に巻かれた姿で、病室の寝台に横たわっていた。

 

 右足の膝から下が無くなっていた。左目も見えない。

 

 軍医が言うには、私は一ヶ月間昏睡状態だったらしい。

 

 ボロボロの状態で基地に帰ってきた魔竜は、着陸直後に絶命した。座席の私も死んでいるものと思われたが、真っ先に駆け寄ったエルモが微かに息をしていることに気付き、基地の仲間たちは大急ぎで野戦病院へ私を運び込んだとのことだった。

 

 目覚めた次の日の正午、停戦協定が発効した。

 

 エルモが真紅のマフラーを巻いて停戦後に無断で出撃したのを私が知ったのは、戦後一年が経ってからだった。

 

 エルモは帰ってこなかった。真紅のマフラーも、今度こそ帰ってこなかった。




※以下、作品メモとなりますので、興味のない方はここで読むのを終えられるか、もしくはお手数ですが後書きを非表示に設定してください。

らいん・とほたー「真紅のマフラーは凍空に舞う」作品メモ

2020年1月9日公開。

2020年に入ってから二本目となるオリジナル短編。エブリスタ主催の妄想コンテスト「マフラー」に応募した作品です。

呪いのアイテムという使い古されたネタ。しかし世界観と叙述の仕方に工夫を加えればなかなか読めるものになるのではないか……? という、自分なりの疑問を解明するために書いてみました。私としてはなかなか楽しんで書くことができましたが、かなりエネルギーも消耗しました。やはりホラーはエネルギーを消耗します。

モチーフはフィンランド、1939年の冬戦争です。私のこれまでの作品をお読みになった方にはお分かりでしょうが、「そしてタハティが産まれた」と同一世界の話として書いております。つまり姉妹作です。

次回もお楽しみに。


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19. レーテーより来たりしもの

 教会新暦1745年の初夏のことである。

 

「目が覚めたら白だったんです」

 

 少年ハンスは顔面を蒼白にして、開口一番私にそう打ち明けた。

 

 より詳しく話してほしい。私の問いに、彼はしばし沈黙した。全身を小刻みに震わせ、視線を診察室全体に泳がせている。エーテル生成器、マンドラゴラやトリカブトの根の粉末の詰まった瓶、一角獣の角の模型、人体解剖図……そのどれにも目をやりながら、彼には何も見えていないようだった。

 

 どうやら強い緊張状態にあるようだ。

 

 急かさず、私は彼が再び口を開くのを待った。ややあって、彼は意を決したように言った。

 

「目が覚めたら真っ白だったんです。覚えていたことを、忘れてしまったんです。本当に真っ白なんです。何も思い出せないんです。入学は一ヶ月後に迫っているのに、今まで勉強してきたことが何も思い浮かばないんです……」

 

 それは一昨日の朝に起こったという。

 

 一ヶ月後に控えたギムナジウム入学のためにこのバーベンベルク市にやって来た彼は、その朝、いつもと何も変わりなく目を覚ました。

 

 彼は、目が覚めた直後寝台の上で古典語の活用を口にするのを習慣にしていた。その習慣のおかげで、地元の学校での古典語の成績は常にトップだったという。その朝も彼はいつも通り、昨晩覚えた単語の活用形を口に出そうとした。

 

「でも、思い出せなかったんです。不定法すら思い出せなくて……そんなことは今まで一度もなかったのに……」

 

 驚き、恐怖に駆られた彼は他の単語を試してみた。しかし、それも思い出せなかった。ごく単純な単語も思い出せなくなっていた。

 

「本当に、頭が真っ白になってしまったようで……今まで頭の中のノートにびっしりと書き付けてあったことが、何もかも消えてしまったようで……」

 

 もしかしたら思い出すかもしれないと一日を過ごしたが状況は変わらず、悩んだ末に私のところへ来たという。

 

 私はなるべく穏やかな口調で彼に尋ねた。今も古典語の活用が一切思い出せないのか? 動詞「amo」の活用形を言ってごらん、と。

 

「amoの直説法能動相過去完了ですか? えっと、あも、あも……あまー……ダメです、思い出せません……えっ? 現在形でも良いのですか? えっと……あもー、あまーす、あまっと……あまー……あまー……」

 

 少年の言葉は次第に弱々しくなり、遂に彼はすすり泣きを始めた。

 

 そんな彼を慰めつつ、私は医師として考えを巡らせていた。

 

 彼が落ち着いてから、私は問診を続けた。何か前日に変わったことはなかったか、いつもと違うことをしなかったか?

 

「いえ、いつも通りです。いつも通り朝6時に起きて、午前も午後も勉強をして、夕食を食べてから消灯まで復習をして、それから寝ました」

 

 次に私は、何か変わったものを食べたり飲んだりしなかったかと尋ねた。

 

 この街にはモグリの薬剤師がいて、奴らは学生や生徒相手に「記憶力が向上する」という触れ込みで偽魔法薬を売りつけることがある。田舎から出てきた真面目な若者がよく騙されてそれを買ってしまうのだが、無論効果はなく、それどころか一時的な記憶障害に悩まされたりする。

 

 一種のズルに手を染めたという罪悪感から、偽魔法薬を飲んだ若者はなかなかそれを打ち明けない。私はこのハンス少年もそれなのではないかと睨んでいた。

 

 彼は、力なく首を左右に振った。

 

「いいえ、何も。おそらく先生は僕がインチキ魔法薬を飲んだとお考えなのでしょうが、僕はそんなものを決して飲みません。第一、お金がもったいないですし……」

 

 内心をピタリと言い当てられて、私は少なからず動揺した。そして、これほどまでに聡明な若者が突然理由なく「目が覚めたら頭が真っ白」になるという事態の異常性を、初めて認識したような気持ちになった。

 

 次に私は、家族や友人に不幸がなかったかと尋ねた。

 

「いえ、そういうこともありません。私の周りの人たちはみんな壮健です……」

 

 心因性のショックによるものでもないらしい。その後も違った角度から二、三の質問をしたが、それらしい原因は特定できなかった。

 

 ただ、彼が忘れてしまったのは古典語の活用だけであり、他の学問的な知識はしっかりと覚えていた。それが分かった時、彼の顔に僅かながら血色が戻った。

 

 出かかった溜息を何とか押し殺して、私はとりあえずの診断を下す他なかった。記憶喪失を我が国では、神話に登場する「忘却の川レーテー」にちなんでレーテー病と呼称している。これもその一種ではないか。安静にしてしばらく勉強から離れること、活力が湧く魔法薬を処方する、必要ならば診断書も作成する……

 

 彼は俯いたまま答えた。

 

「ありがとうございます。あっ、そう言えば……関係ないとは思いますが、その夜は何か悪夢を見たような覚えがあります」

 

 私は先を促した。

 

「悪夢というか、気味が悪いというか……ズルズルと、何かが這いずるような音がするだけの夢でした。でも、関係ないですよね……」

 

 確たる診断が下せないことほど医師として悔しいことはない。トボトボとした足取りで去っていく彼を見送りながら、私はレーテー病について念入りに調査しなければ、という思いを強くした。

 

 

☆☆☆

 

 

 だが、「目が覚めたら真っ白」という事態に見舞われたのはハンス一人ではなかった。

 

 その翌日には別の学生が来た。オットー=フリードリヒ大学で応用魔法技術を研究しているその学生は、ハンスと同じように血の気の失せた顔をして私に訴えた。

 

「目が覚めたら頭の中が真っ白で……自分が昨日描いた新型の実験器具の図面を前にしても、何も思い出せないんです。何か変わったことですか? いえ、しがない貧乏学生の日常生活にそうそう変わったことなど起きませんよ……」

 

 彼も問診の結果、忘れてしまったのはごく一部の知識だけだったことが判明したが、しかし原因は特定できなかった。

 

 私の元へ訪れたのは学生だけではなかった。今度は街の工場に勤務する若い男性が同様の症状について相談しに来た。

 

「俺は古代詩の暗唱を趣味にしてて、これまでにコンクールで三回も入賞したことがあるんだ。発表が三日後に迫っているから、今朝も起きたらすぐに特訓しようとしたんだが、まったく思い出せなくなっちまって……あ? 酒なんて飲んでないよ! 酒は記憶の大敵だって言うからな……」

 

 男だけではない。一週間も経たずして、女性の中にも「目が覚めたら真っ白」になった者が出始めた。

 

 靴屋の二階で子どもたちに簡単な読み書き算術を教えている二十代の女性は、目が覚めたら、その日友人の結婚式で歌うことになっている祝い歌を歌詞からメロディーに至るまですっかり忘れていたと言う。

 

「三ヶ月前から練習を積んできたんです! それなのに一晩寝ただけで忘れてしまうなんてことがあり得るのでしょうか? 本当に、忘れてるって気づいた時は頭が真っ白になったみたいで……」

 

 半月ほどの間に突発性レーテー病を訴える人間は二十人を超した。いずれも十代から二十代の若い男女で、全員が健康で、その前日まで何の問題もなく暮らしていた。

 

 共通点は、全員年齢が若いこと、夜寝て朝目が覚めたら「頭の中が真っ白」になったこと、忘れたものは学問的知識や教養であることの三点。しかし、このことから原因を導き出す仮説を組み立てることはできなかった。

 

 いや、他にも共通点らしきものならばあった。全員がそう言ったわけではないが、前夜に悪夢を見たという者が何名かいた。いずれも「気味の悪い、何かが這いずるような夢」だったと言うが、しかし夢が忘却と関連しているとは医学的見地からは考えられない。

 

 その後も患者の数は増え続け、そして患者自体も変わりつつあった。三十代から四十代にまで年齢層が拡大し、時には五十代以上の人間も症状を訴えるようになった。

 

 鍛冶場の親方を務める五十代の男性は、目が覚めたらその日会合で話すつもりでいたスピーチの内容をすべて忘れてしまっていた。

 

「ガキの頃から今になるまでずっと鉄と炉を相手に仕事してきて、司教様みたいに人前で偉そうに何かを喋るなんて初めてのことだったんだ。だから、スピーチをしてくれと頼まれた時から、毎日毎晩たくさん練習したんだよ。好きだった酒もやめて、ひたすらスピーチの練習をした。メモを見ながらスピーチするのは三流のやることだって聞いたから、一言一句間違えないように完璧に覚えたんだ。そしたら、目が覚めたら何も思い出せないんだよ! 先生、頼むからなんとかしてくれ……」

 

 私は頭を抱えた。共通点から外れた患者が出てきてしまったのだ。そして未だに原因は特定できない。一ヶ月が過ぎ、患者の数は既に四十人を超えている。

 

 その月のバーベンベルク市医師会の定例会で、私は突発性レーテー病について報告した。すると、私の第五区だけではなく、隣接する第一区と第四区、及び中央区からも同じ報告がなされた。いずれも患者数は少なく、また第五区と隣接する地域に住んでいる人間にのみ症状が見出された。

 

 これは謎を解く上での一つのヒントとなり得る。ふとあることを思いついた私は、他の医師が見つめる中、卓上に市の地図を広げ、患者たちの所在地を赤いバツ印で示してみた。印は円形に分布し、その中心はちょうど、第五区の南東にある工業排水浄化施設にあった。

 

 激しい議論になった。ある医師は浄化施設から漏れ出る毒素が原因だと論じ、さっそく調査すべきだと声を上げた。ある医師はそれに反対して、これは新種の伝染病であり、工業地帯である第五区から排出される瘴気が原因だと断じた。

 

 他にもさまざまな仮説が唱えられたが、大方は毒素か瘴気かの二つに区分された。

 

 だが、私はそのいずれにも与することはできなかった。毒素にしても瘴気にしても、第五区のほとんどの人間は毎日それを吸い込んでいるはずで、その割には患者の数が少な過ぎるように思われた。患者は一日に一人か、多くて三人しか増えていないのだ。他の毒素や瘴気を原因とする疾患では、より爆発的に患者数が増加するのが常である。

 

 何か別の、もっと合理的な仮説を立てねばならない。しかしそれが分からない。私は考えに整理をつけられないまま医師会館を辞した。診療所に帰ると、また新たな患者がやって来ていた。

 

 原因は特定できていないが、とにかく症状は軽減させなければならない。この一ヶ月、私は患者の失われた記憶を取り戻すべく様々な療法を試した。しかし、伝統的な瀉血から催吐剤の投与、浣腸、エーテル吸入、温水療法などは、まったく効果がなかった。医学の限界を感じざるを得なかった。

 

 記憶喪失に対して効果のある魔法製想起薬は既に国内で開発されていたが、バーベンベルク市にその備蓄はなく、他市から取り寄せるしかなかった。私は実りのない治療を繰り返しながら、それが届くのをじりじりと待った。苛立ちに比例して夜酒の量が増えた。

 

 そうこうしている間に、第五区で大事件が起きた。市評議会議長が記憶を失ってしまったのだ。

 

 前日夜、議長は第五区にある友人宅を訪れ、夜遅くまで政治的議論に熱中した。帰るには遅い時間であったから、議長は急遽友人宅で一泊することにした。翌日は戦勝記念日であり、議長は中央区の議事堂で演説をすることになっていたから、彼は寝台に横になるなりすぐに寝てしまった。

 

「目が覚めてみると、演説の内容をすべて忘れていたのだよ。前夜友人の前で演説の予行までしたのだから、覚えていないはずがないのだが……何? 今レーテー病が第五区で流行っている? そんな報告は受け取っていないぞ!」

 

 私は市の衛生委員会に突発性レーテー病に関する報告をこまめに送っていたが、衛生委員会は議長へ報告するのを怠っていたらしい。

 

 今回の一件で、第五区を襲っている異常事態は急速に全市に認識されることになった。第五区は「忘却の街」と呼ばれるようになり、市民は記憶を失うことを怖れて第五区から遠ざかるようになった。

 

 私は、第五区の健康と医療を司る者として忸怩たる思いに駆られたが、しかし未だに原因を特定することもできず、対症療法を確立することもできなかった。ますます夜酒の量が増えた。

 

 それから二週間後、待望の想起薬がバーリン市から届けられた。まず被験者を選定して、投与の効果を見極める必要がある。患者たちのほとんど全員が名乗りを上げたが、私は結局一人の少年を選んだ。

 

 それはハンスだった。もう二ヶ月近くの時間が経っているが、彼の古典語の記憶は未だに戻っていない。彼は想起薬が届けられたその日に私のもとにやってきて、自分を実験台にするよう熱烈に訴えた。

 

「どうなっても良いです! 僕を選んでください!」

 

 私が彼を選んだのはその言葉も理由の一つだったが、より大きな理由は政治的な力学だった。というのは、ハンスは市の有力者の甥だったのだ。この間の事情について私はあえて多くを書くつもりはない。

 

 結果から言うと、想起薬は効果がなかった。想起薬は精神上に存在する障壁を魔術的に取り除くことで、塞がれていた記憶の回路を開通させるという薬理作用を持つと説明されていたが、ハンスの古典語の記憶はまったく戻らなかった。

 

 その他、三人の被験者に想起薬を投与したが、効果は認められなかった。部分的に記憶が戻るということすらなかった。

 

 私の報告を受けて、医師会は「想起すべき記憶そのものが『白に塗り替えられたように』抹消されている故に、想起薬は効力を発揮しない」という公式見解を表明した。だが、そんなことは事態の解決に何も寄与しなかった。

 

 なおも突発性レーテー病患者は増え続け、第五区からは住民の脱出が相次いだ。生きる上で必要不可欠の知識が失われるわけではない。だが、どんなものにせよ記憶が突然理由もなく失われるのは恐ろしい。

 

 それは静かな恐慌だった。通りからは人気が失せ、商店や居酒屋への客足は遠のいた。経済的損害は甚大なものだったが、それ以上に人心の荒廃が問題となった。

 

 毒素説や瘴気説を裏付ける証拠も見つからなかった。調査の結果、第五区の浄化施設は汚染されているとは言えず、また未知の毒素も検出されなかった。瘴気に関しても同様だった。

 

 ここに至って、原因究明は完全に暗礁に乗り上げた。私は無力感に打ちひしがれ、酒量を過ごすことが多くなった。いっそのこと、私自身が記憶を失ってしまえば良い。それなら少しは申し訳が立つ。そんな絶望的な気持ちだった。

 

 ハンスの来訪から三ヶ月が経過し、季節は秋になりかけていた。ようやく事態が大きく動いた。

 

 その日の午前、ある患者が記憶障害を訴えて私の診療所を訪れた。彼は非常に興味深い事実を報告した。

 

「前日の夜に、自宅の外壁のペンキを塗り替えたんです。ここ最近の騒ぎで塗装屋が全員いなくなってしまったので、自分でペンキを調達して、自分で壁を塗ることにしたのですが、仕事の関係で作業を始めることができたのは夜になってからでした。適当なところで切り上げてその夜はもう寝ることにしたんですが、朝目が覚めてみると枕元に見たことのない本があるんです。妻に聞くと、それは前日まで熱心に読んでいた本だとのことで……」

 

 ここまでは他の患者たちと同じである。次に彼が言ったことが重要だった。

 

「妻が『あなた、その髪の毛はどうしたの?』と言うんです。鏡で見ると、私の髪や耳が青くなっていました。特に、両方の耳の穴の周りが真っ青になっていて……どこかで見た色です。しばらく考えて、これは昨日のペンキだと気づきました。他に調べてみると、床や寝台にもペンキが残ってましたし、塗り替えた外壁にも何かが這いずったような跡がついてました。先生、これはどういうことなんでしょうかね……」

 

 私は話を聞いて、即座にその患者の家へと向かった。排水浄化施設から3ブロックの距離にある彼の家は集合住宅の二階にあり、証言通り塗り立ての青のペンキの上に何かが這ったような跡が二本あるのが確認できた。

 

 ペンキの跡を追うと、街路の排水溝へと消えていた。

 

 患者はその夜、窓を開けていたそうだ。今年は異常気象で、気温が例年よりも高い。私も夜はいつも窓を開けている。

 

 突如脳裏に閃くものがあった。これまで原因が掴めないでいた突発性レーテー病は、実は病気ではなく、未知の魔法生物による災害なのではないだろうか?

 

 魔法生物!

 

 思えば、患者たちの中には「何かが這いずるような音」がする悪夢を見たと訴える者がいた。それは単なる夢ではなく、魔法生物の活動の証拠だったのではないか?

 

 魔法生物は排水溝から現れ、建物の外壁を登り、開いた窓から侵入して患者に接近し、なんらかの方法で記憶を奪うのではないか?

 

 私は診療所に帰り、これまでの記録を一からすべて見直した。そして一週間をかけて、正体不明の敵を捕獲する方法を考え出した。

 

 協力者を募り、私は準備を整えた。まず、排水浄化施設にほど近い場所に一室を借り、寝台を一つ設置した。

 

 窓を開け、床一面にコールタールをぶ厚く塗布した。コールタールは粘度が高い。体につけば行動が制限されるだろう。

 

 後は夜を待つだけである。私は寝台に横になった。協力者たちには別室に待機してもらい、交代で私の部屋を監視してもらう。

 

 酒は飲まなかった。というのはこの三ヶ月、私は焦りと苛立ちから毎晩酒を飲み続けていたが、それが魔法生物を遠ざけていたのではないかと考えられたからである。

 

 患者たちは全員酒を飲まないか、あるいは記憶を失った夜に限って酒を飲んでいなかった。酒を飲まないことが魔法生物出現の前提条件の一つであると考えられた。

 

 寝台に横になって二時間が経過した。日は暮れて、外は暗い。窓からは涼しい初秋の風が入ってくる。

 

 必ず魔法生物は来る。私には確信があった。というのは、私ほど現在「新鮮な知識と記憶」を蓄えている者は第五区にはいないからである。

 

 これまでの考えで、私は一つのミスを犯していることに気づいた。それは患者たちの失われた記憶を、学問的知識や教養と一括りにしていたことだ。しかし、よくよく考えれば歌はまだしも、スピーチや演説などは明らかに別の範疇に属するものである。

 

 問題なのは内容ではなく、鮮度なのではないか。精神力を傾けて覚えたもの、まさに覚えたてのもの、そういったものが失われているのではないか? それが魔法生物が好むものなのではないか?

 

 その点、私は特に当てはまる。この一週間、私は全精神力を費やして魔法生物捕獲について考えを巡らせてきたのだから。今の私の頭脳からは、新鮮な記憶の気配が濃厚に漂っているはずである。アルコールの障壁もなしに。

 

 そんなことを考えているうちに、私は眠りに落ちていた。

 

 

☆☆☆

 

 

 目が覚めたら白だった。

 

 寝起き直後のはっきりとしない視覚に、その部屋の照明は少し眩し過ぎた。

 

 協力者たちの歓声が耳を打つ。

 

「やった、捕まえた! 捕まえたぞ!」

「先生、やりました! 捕まえましたよ!」

 

 コールタールで真っ黒になった何かの塊が、協力者の手の中でのたうちまわっていた。

 

 第五区を騒がせた一連の事件の犯人が、ようやく明らかになった。

 

 調査の結果、以下のことが明らかになった。

 

 魔法生物は巨大なカタツムリのような姿をしており、大きさはドブネズミほどもあった。しかしながら動作は俊敏で、這う速度は人間の歩みとさほど変わらない。

 

 眼以外に細長い触角を二本備えており、これを人間の耳の穴に挿入することで記憶を奪う。このことは囚人を用いた実験で確認された。仮説の通り、奪われる記憶は「覚えようと特に努力したもの」に関連したものだった。また、アルコールを嫌うことも確認された。

 

 魔法生物には姿を消す能力があった。ペンキやコールタールが付着して初めて存在を認識できるほどに、その能力は効果的だった。

 

 夜行性で、昼間は水の中で息を潜めているかあるいは繁殖行動を行う。単体で子を産むことができた。更なる調査の結果、営巣地が浄化施設内にあることが判明した。その中には八つの成体と、十の幼体が確認された。

 

 一週間後、真犯人が捕らえられた。それは、第五区にある魔法生物販売店の店主だった。彼は小アジアの某国からこの魔法生物を輸入し、商目的ではなく個人的な趣味で飼育していた。ある日気がついたら飼育箱から居なくなっており、探しようがないので、彼はそのまま諦めてしまったという。

 

 魔法生物は一体を除いてすべて解剖され、標本資料とされた。

 

 残った一体はオットー=フリードリヒ大学自然科学研究所で飼育されていたが、失火により二年後死亡した。




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らいん・とほたー「レーテーより来たりしもの」作品メモ

2020年1月22日公開。

十六本目となるオリジナル短編。エブリスタ主催の妄想コンテスト「目が覚めたら白」に応募した作品です。

以前コンテストのお題として「白」があり、その時は「真っ白なマナ」を書いたのですが、まさかのもう一度の「白」関連で、公表された時は大変驚くと共に「もうネタないよ!」と思いました。

なかなか考え付くことができず、締切一週間前までほったらかしにしてましたが、これではイカンと知恵を絞ってアイデアを出しました。一つはギャグのような感じで、死と退廃をつかさどる黒の女神が目が覚めたら白になっていた、というもの。もう一つはメモを取っていなかったので失念しましたが、確か目が覚めたら真っ白な部屋に閉じ込められていて徐々に発狂していく、というような内容だったと思います。

二つともピンとこず、というより書く気が起こらず、さてどうしたものかとなった時に「目が覚めたら『記憶が抜けている』=頭が真っ白」というのはどうだろうと考え付きました。なお当初は女神レーテーが登場する予定でした。

次回もお楽しみに。


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20. 絶叫する騎士アラン

 魔王は至極穏やかな口調で私に言った。

 

「どうだね、騎士アランよ。どうか余の提案を聞き入れてはくれないかね。ただ余の言ったとおりにすれば良い。そうすれば余は君を友人と認めるし、なにより君の父上の無念も晴れるではないか。何も難しい話ではない、単純な計算だ。合理的に考えてくれたまえ……」

 

 簡素な灰色のローブを纏い、長大な杖を手にした魔王は、ただ薄く微笑んでいる。怒りも憎悪も、侮蔑すらも感じられない。

 

 これまでの記憶と様々な想念が、その時、私の中を駆け巡っていた。

 

 

☆☆☆

 

 

 降誕暦1575年、リヴシェ王国に魔王の漆黒の軍勢が攻め込んだ。6月29日の払暁のことである。その日はちょうど私の18歳の誕生日だった。

 

 これまで十年に渡り、王国と魔王軍は陸に海に激闘を繰り広げてきたが、この一年間は互いに兵馬を休め軍備を増強することに努めていた。そのため、国境線での小競り合いを除けば目立った戦闘はなく、王国の民たちはつかの間の、しかしまやかしの平和を楽しんでいた。

 

 しかし騎士である私たちは決して安穏とした日々を過ごしてなどいなかった。騎士は王国軍の精華にして真髄である。その誇りを胸に私たちは日夜鍛錬に励み、武具を磨いてきた。

 

 私たちはまことに意気軒昂だった。「いつでも来るが良い! 次こそお前たち魔王軍の終焉の時だ!」 騎士たち全員が固い必勝の信念を抱いていた。

 

 決して油断などしていなかった私たちだったが、それでも魔王軍は狡猾だった。自らが優れた魔術師でもある魔王は、大魔法を発動して天候を操作し、国境一帯に数歩先も見えないほどの濃霧を張り巡らせた。それに隠れて敵軍は一斉に国境線のオードラ川を渡河し、侵攻を開始した。

 

 魔王軍は間を置かず、東部国境防衛の要であるシュマバ要塞を完全に包囲した。

 

 朝、意識は眠りの中にありつつもただならぬ気配を感じ取った私は、目を覚ますや防具も身につけず、寝台から下りるやただ長剣一振りだけを掴んで、急いで居室を出て大広間へ向かった。

 

 号令をかけずとも自然に集まった私たちを満足げに眺めて、司令官は厳かに言った。

 

「諸君! 敵が来た。物見の報告によれば、我々を囲む敵軍はおよそ二万。中央には三つ首の魔竜の旗印が見える。魔王本軍だ」

 

 些かも表情を変えることなく、司令官は言葉を続けた。

 

「言うまでもないことであるが、このシュマバ要塞は王国防衛の最重要拠点である。ここが陥落すれば、王都まで敵軍を遮るものは何もない! 王国軍主力が到着するまで、我々は最後の一人となっても、いや、死しても尚ここを守り抜かねばならない!」

 

 訓示の後、ミサが執り行われた。司祭からの祝福を受けて死後の幸福を約束された私たちは、解散して戦いの準備にとりかかった。

 

 大広間を出ようとしたその時、私は司令官に呼び止められた。司令官は下級騎士からの叩き上げで、実戦経験豊富であり、なにより私の父と朋友の関係だった。私は彼を深く尊敬していた。

 

「騎士アラン、今日は貴君の誕生日だったな。いくつになるのだね?」

 

 私は胸を張って答えた。

 

「神の御加護がありますように、司令官! 私は本日をもって18歳になりました!」

 

 立派な顎髭をしごきつつ、彼は私の肩に手を置いて言った。

 

「18歳か。もはや戦場に神意を実現するに足る、立派な騎士であるな。だが、先にも言ったが、決して死に急ぐことはない。貴君の兄上の仇を討とうなどとは考えてはならぬ。慎重に、よくよく自重して、この防衛戦を戦い抜いてくれたまえ……」

 

 私は二年前の大会戦で兄ヨゼフを失っていた。友軍本隊が包囲される危機に瀕した時、兄は仲間と共に敵陣へ正面から突撃し、陽動としての大任を完遂したが、そのまま行方不明となってしまった。

 

 兄が騎士として理想的な死を遂げたことを喜びつつも、私はそれ以上に悲しみ、かつ悔しさを感じていた。

 

 私の家は王国の騎士階級の中でも最下層に属し、暮らしは常に貧しかった。父は私が幼い頃に戦死し、代わって兄が一家をなんとか養っていた。「戦争で功績を挙げれば、必ず王国は俺たちを取り立ててくれるさ」と兄は常々言っていたが、その兄が戦場でこれ以上はないほどの献身を示したにもかかわらず、王国はなんら私たち一家に報いることがなかった。

 

 理由は、ただ「騎士ヨゼフの死体が見つかっていないから」だった。死んだことが確認できないのならば、兄は捕虜となってまだ生きているかもしれず、そして魔王軍の捕虜になるという人間世界への裏切りの可能性がある以上、功績を認めることはできないというのである。

 

 これが単なる口実であるのに疑いようはなかった。私たちのような末端の騎士は明らかに王国首脳部から軽く見られていた。同会戦で拙劣な指揮をし、結果として友軍壊滅の危機を招いたと噂されている老将軍が、戦いの後に勲章を授けられ、しかも所領まで増やされたこととは比べるべくもなかった。

 

 兄を失い、王国からの冷遇に憤懣やる方ない私を更なる悲劇が襲った。流行り病で母と妹を失ったのである。天涯孤独の身となった私だったが、幸いなことにシュマバ要塞の司令官に見出され、当面の糧と生きる目標を与えられた。

 

 司令官はなにかと私に目をかけてくれた。時折彼が見せる、何かを悔やむような、それとも蔑むような表情が気になったが、とにかく私は彼を信じていた。王国への忠誠心こそ薄れてしまったが、私はこの要塞を死地として魔王軍と戦い、僅かながらでも兄の無念を晴らそうと決意したのだった。

 

 その日の正午から敵の攻撃が始まった。

 

 このシュマバ要塞の敷地は僅かに600メートル四方、籠る兵力は500名足らず。しかし天然の要害に位置し、また最新の築城技術によって建設された要塞であるから、私たちはなんら不安を覚えていなかった。たとえ10倍の敵軍が包囲することがあっても何も問題はなく、むしろ逆に皆殺しにすらできると確信していた。

 

 しかし敵は、私たちの40倍の兵力をもって押し寄せてきた。魔王が乾坤一擲の大作戦に打って出たことは容易に推察できた。

 

 城壁から見える光景はことごとく敵軍に埋め尽くされていて、一種の荘厳さすら感じられた。魔王軍は整然と陣形を組み、四隊に分かれて要塞を完全に包囲している。

 

 私たちには他に有利なものがあった。銃や大砲などの火器である。ここ四半世紀の間に世の中に登場した新兵器で、このシュマバ要塞には200丁の銃と一門の大砲があり、大量の弾薬が集積されていた。人間世界においてもまだ珍しいこの兵器を、敵はまったく装備していなかった。敵は刀と槍と弓矢しか有しておらず、従って私たちは安全な城壁に拠りつつ、遠距離から一方的に敵を撃つことができた。

 

 その日、日没までに敵は夥しい死者を出し、戦場を魔族特有の青い血で染めたが、しかし要塞本体には傷一つつけることができなかった。私たちは正面の堀を少し埋められたが、死者を一人として出すことなく、ただ銃の暴発で兵士二人が負傷した。初日は私たちの快勝と言えた。

 

 ささやかな祝勝会が開かれた。その席で、以下のような言葉が口々に叫ばれた。

 

「さりながら、城壁の背後からただ銃を撃ち続けるのは騎士たる者の戦いにあらず! 我ら騎士の本願は、馬を駆って敵陣を食い破ることにこそある! 司令官、今すぐ御下知を! 我ら夜闇の中を一丸となって敵本軍へ突撃し、憎き魔王の首級を挙げてご覧にいれる!」

 

 だが、司令官は夜襲を望む声を言下に否定した。我々の使命は王国の主力が到着するまで要塞を守り切ることであり、そのためには兵力を温存せねばならない。また、我々が今夜夜襲をかけることを敵も予想しているだろう……

 

 不満の声がないでもなかったが、私たちはその言葉に従った。

 

 次の日から敵の攻撃は本格化した。それは、誰も乗馬突撃など口にしなくなるほどの激烈さで、私たちは昼も夜もなく防御と対応に駆けずり回ることになった。

 

 敵は何本もの攻城塔を組み上げ、要塞の城壁よりも高いところから矢の雨を降らせてきた。大砲は火を噴いてそれらを打ち倒したが、敵は怯むことなく新たな塔を建設した。そのうち大砲は砲身に亀裂が入り射撃不能となったが、幸いなことにその頃には敵も戦法の無益なことを悟り、攻城塔を建てなくなっていた。

 

 また敵は、地下に坑道を掘削して城壁を崩落させようとした。司令官はこのことを予期していたから大事になる前に対処することができたが、それでも敵は数を生かしてあらゆる方向から地下戦法を試みてきた。

 

 熾烈な戦闘に私たちは疲労していたが、それでも未だに士気は高かった。この調子で戦っていれば、援軍が到着するまで要塞を守り抜くことができるだろうと……

 

 だが戦いが始まって一週間、思いがけず要塞陥落の危機が出来した。

 

 その日の朝、突如として要塞に無数のネズミが出現した。子猫ほどの大きさがあるネズミ共は不気味な紫色をしていて、目を赤く光らせ、糸を引く涎を口から垂らしながら、城壁内のありとあらゆる場所を走り回った。

 

 ネズミ共は人間を襲わなかった。私たちが剣を振るい、盾で圧し潰すのを意にも介さず、奴らは食料庫に殺到した。そこには長期の籠城戦に備えて、500人の守備隊を優に半年は養い得るだけの穀物と干し肉と塩が蓄えられていたのだが、ネズミ共はそれらを半時間足らずで喰い尽くしてしまった。

 

 やがて食欲を満足させたネズミ共は、一声鳴くや煙となって消えてしまった。明らかに、魔王の魔術によって生み出されたものだった。正攻法では上手く行かないのを悟って、兵糧攻めへと戦略の転換を図ったものと思われた。

 

 食われずに済んだ食料もあったが、それらをかき集めても微々たるものだった。未だ兵員は健在、武器庫にはいくつもの新品の兵器があり、弾薬庫には火薬樽が山のように積まれているが、食料がなければどうにもならない。

 

 この事態を受けて、司令官は一人、半日も居室に籠った。飢え死にするまで籠城を貫くか、要塞を捨てて敵陣に突撃するか。

 

 やがて、司令官は大広間に私たちを集めて言った。

 

「諸君。知ってのとおり、魔王の卑劣なる魔術により我々の兵糧が失われた。どんなに工夫して食いつないでも、あと四日で食料は完全に底を尽く。だが、このシュマバ要塞は王国と王都を防衛する最重要拠点である。我々がここを捨てて脱出することはあり得ぬ。たとえ愛馬を屠り、同輩の死肉を齧ってでも、我々は援軍の到着まで戦い抜かねばならない。しかしこのまま手をこまねいているわけにもいかない。そこで……」

 

 いったん言葉を切って、私たちをじっと見つめてから、司令官は言った。

 

「王子殿下に我々の窮状を訴え、援軍を催促する書状を用意した。誰か勇敢なる者にこれを託し、王都へ走ってもらいたい。城外を十重二十重に囲む敵軍を突破し、昼夜兼行で王都までの80リーグを駆け抜ける自信がある者は、どうか名乗り出て欲しい」

 

 騎士たちは誰も名乗り出なかった。彼らは異口同音に「要塞に残るも、要塞を出るも待ち受けるのは死。ならば要塞に残り、最後まで戦い抜きたい。たとえ死を免れて王都に書状を届けることができたとして、万一ここが落ちることがあれば、余人の思惑はどうあれ、一生自らのうちに裏切者という恥辱を抱えたまま生きねばならなくなる。そのようなことは耐えられない!」と言った。

 

 常に泰然としている司令官も、この時ばかりはありありと焦慮の色を浮かべていた。それを見て、私は自然と大きな声で叫んでいた。

 

「私に、是非わたくしアランにその任をお授けください! 必ずや書状を届け、速やかに我らが要塞へ援軍をもたらしましょう!」

 

 私の申し出に、司令官は難色を示した。どうやら私を死なせたくないようだった。それでも、なお懇願する私の熱意に押されて、結局彼は私を使者にすることを決めた。

 

 司令官は私を居室に呼び、書状を与え、申し上げるべき口上を教えた。最後に、常に明朗な彼にしては珍しく、奇妙に言葉を濁しながら言った。

 

「私は……私は詫びねばならぬ。かかる事態を招いたこと、そしてなにより、貴君に対して……」

 

 私は答えた。

 

「王国の騎士たる者、常に覚悟しております。なにより、私が敬愛する司令官閣下のためであります。一命を投げ打ってでも、必ずやこの任務を完遂する所存です」

 

 司令官は何か言おうと口を開いたが、結局何も言わなかった。彼が飲み込んだ言葉がなんだったのか、私には分からなかった。

 

 まだ月明りが残る早朝、私は農民に身をやつし、地下水路から要塞を出ることになった。私の脱出を悟られないよう、仲間たちはそれに合わせて出撃し、敵陣に陽動の突撃をかけた。

 

 遠くから聞こえる叫喚を耳にしながら、私は汚物が浮かんだ水面をひそかに進み、一時間後には城外に達した。

 

 敵兵はどこにもいなかった。私は走り始めた。

 

 丸一日間、私はただひたすらに走り続け、疲労困憊しながらもついに王都郊外に達した。そこには既に友軍の主力と各国の派遣軍の先遣隊の宿営地が築かれていた。本営の営門に近づいた私は、当初衛兵に敵の密偵かと疑われたが、やがて嫌疑が晴れると、王国軍総司令官たるオタカル王子に直接拝謁できることとなった。

 

 王子は無表情のままに私に言葉をかけた。

 

「若き身でありながら十死零生の任をよくぞ成し遂げた。ちょうど我が軍は出陣の準備を完了したところである。要塞に到着するのは遅くとも三日後になろう。我が軍の総勢は四万。これだけの兵力があれば必ず魔王軍を決戦にて殲滅できる。大儀であった。シュマバ要塞に帰るには及ばぬ。ここに残り、心身の回復に努めるが良い」

 

 言葉には何ら感情の色が見えなかった。ともすると、冷淡そのもののように思えた。王子は冷酷非情であるとは聞いたことがあったが、私は、これまでの決死行に対する報いがこの程度なのかと思わざるを得なかった。

 

 そんな内心を秘しつつ、私は言った。

 

「まことにありがたき思し召しと存じますが、これよりただちにここを発ち、要塞に帰りとうございます。司令官と仲間たちは援軍来着を心待ちにしておりますれば、私がいち早く戻り吉報を届ければ必ずや奮起し、最後まで要塞を守り抜くことができましょう」

 

 またあの重囲を抜けるなど、冷静に考えれば不可能である。戻ることは死を意味する。だが、私はそう言わずにはいられなかった。

 

 王子は形ばかりに私を引き止めたが、私の決意が固いのを見るや「では馬をやろう」と一言だけ言った。私は騎士の礼でそれに答えた。

 

 私はまた暗い道を走り始めた。要塞まで10リーグに到達したところで馬から下りた。ここからはただの農民を装わねばならない。

 

 敵の斥候に何度となくぶつかり、そのたびに私は草むらに隠れた。見ると、遠くの道を敵の輸送部隊が行くのが見えた。私はそれに何食わぬ顔をして加わり、敵の陣営の中にまで入り込んだ。こうする他に要塞に近づく方法はなかった。

 

 要塞は未だ健在だった。断続的な射撃音が聞こえてくる。

 

 荷駄の傍らで、私がほっと溜息をついたその時だった。

 

「アラン? お前はアランではないか?」

 

 ふと目を上げると、そこには兄がいた。頭には魔王軍特有の醜悪な意匠の兜を被り、顔はやつれて目は落ち窪んでいるが、それは間違いなく数年前に行方不明となった兄だった。

 

 私は、魔王の本営に連れて行かれた。

 

 

☆☆☆

 

 

 これまでの経緯について尋問された私は、それらのいちいちに素直に答えた。魔王は言った。

 

「うむ、仲間のために生命を顧みずここへ戻って来るとは、なんとも素晴らしい魂の持ち主だ。どうだ、余に仕えないか? 単なる騎士としてではなく、一隊を率いる将としてお前を取り立ててやろう。領地も与え、妻も選んでやる。無論、人間の妻をだ。そうだヨゼフ、兄である君からも言ってやってくれ」

 

 傍に控えていた兄が、よく言って聞かせるように言葉を発した。

 

「アラン、これ以上王国に忠義を尽くす必要はない。これまで王国が私たちの懸命な働きに何を返してくれたか思い返すが良い。私たちは王国にもう充分なほど尽くした」

 

 なお黙り続けている私に、兄は言葉を続けた。

 

「瀕死の重傷を負った私を、魔王様は手ずから癒してくださった。のみならず、一軍の将として抜擢した。王国の騎士であった頃には考えられなかったほどの厚遇だ。先ほどの魔王様のお言葉に偽りがないのはこれで明らかだろう。それとももしや、要塞の仲間たちのことを思っているのか? それならば言うが……」

 

 兄は私をじっと見据えて言った。

 

「あの男、あの要塞司令官は、私たちの父の仇なのだ。私たちの父が戦場で死んだのは、あの男が父の隊を見殺しにして、自分だけ戦功を貪ったからなのだ。これは私自身が調べ、確証を得たことだ。不思議に思わなかったか? あれほどの地位にある男が、どうしてただの下級騎士であるお前に目をかけていたのか。それはあの男の罪悪感が為していたのだ」

 

 魔王が口を開いた。

 

「どうだね。これでもまだ要塞に帰ると言うのかね? 王国は忠義を尽くすに値せず、要塞には父の仇がいる。一方、余に加われば栄達し、唯一の肉親である兄と共に安逸に暮らしていくことができる。どちらが良いか、考えるまでもないと思うが」

 

 しばらく沈黙がその場を支配した。その間に、私は決意を固めた。

 

「兄上、魔王陛下、私は決心いたしました。王国は私の生きるべき場所ではありませぬ。また、父の無念は是非とも晴らさねばなりません。私はこれより、陛下の陣営に加わりたく思います」

 

 魔王は喜色を満面に浮かべた。

 

「そうかそうか! よくぞ決心した! 余は君のような者を得ることができてまことに嬉しく思うぞ。数々の魔術を操ることができる余ではあるが、人間の心を操ることは未だにできぬからな。もし君が断れば、君を殺してしまわねばならなかった……さて、さっそくだが一つ君に頼みがある」

 

 跪く私にそっと近寄ると、魔王は優しく私の手を取って言った。

 

「余は明日の朝、君を十字架に磔にして要塞正面の堀まで運ばせる。安心したまえ、これは計略だ。君にはこう叫んでもらう。『友軍主力は魔王軍別動隊に撃破された、援軍は来ない、これ以上の抗戦は無用である、速やかに開門して魔王の慈悲を乞いたまえ』と、そのように要塞の者に告げるのだ」

 

 快諾する私を、兄はどこか涼やかな目で眺めていた。

 

 

☆☆☆

 

 

 翌日は雲一つない快晴だった。私はあらゆる衣服を剥ぎ取られ、十字架に縛り付けられて要塞に向けて高く掲げられた。

 

 傍には兄と魔族の兵たちが立っている。強い日差しが私を焼く。戦場は静けさに包まれている。

 

 やがて、城壁の上に人影が見え始めた。磔になっているのが私と分かったのか次第にその数は増え始め、半時間後には城壁の上は埋め尽くされていた。

 

 兄が私を励ますように言った。

 

「さあ、魔王様の仰せのとおりに叫べ。案ずるな、これは裏切りではない。お前と俺の、新しい人生の門出なのだ。何も臆することはない。さあ……」

 

 私はそっと目を閉じた。どこかで雲雀が高く鳴くのが聞こえた。どこまでも世界が広く感じられた。

 

 そして私は叫んだ。

 

「要塞の方々に申し上げる! 私は騎士アラン! 王都への使いの顛末をここに申し上げよう!」

 

 勇気を振り絞って、私は続けて絶叫した。

 

「王都にあって王子殿下は大軍を召集され、四万余りの援軍は今もなお当地へ向けて進軍中である! 三日後には魔王の軍勢を打ち破り、我らの要塞の包囲を解かれることは必定! 我らの勝利は目前にあり! いましばらく御辛抱されますように!」

 

 あっ! と左右で叫ぶ声がした。

 

「おのれ! この薄汚い人間が!」

 

 途端に幾筋もの槍が私の体を貫き、鮮血が十字架の上から迸った。激昂した兵たちは私を十字架から引きずり降ろし、何度も踏みつけにし、剣と槍で肉と骨を斬り刻んだ。

 

 さっさと止めを刺してくれ。そんな私の無言の願いを聞き届けたのか、兄が長剣をすらりと抜いた。

 

「……よくやった、弟よ。兄はお前を誇りに思うぞ」

 

 次の瞬間、ありがたいことに私の意識はぷっつりと途切れた。




※以下、作品メモとなりますので、興味のない方はここで読むのを終えられるか、もしくはお手数ですが後書きを非表示に設定してください。

らいん・とほたー「絶叫する騎士アラン」作品メモ

2020年3月15日公開。

通算二十本目となるオリジナル短編。エブリスタ主催の妄想コンテスト「そして私は叫んだ」に応募した作品です。

なんだかんだと書き続けて、オリジナル短編もついに二十本目に到達しました。これまでで一番苦しかったのは「センチュリオン号の百日」の頃でしたが、最近はコツを掴んだのかはたまた手抜きを覚えたのか、けっこうすんなりと書けることが多くなってきました。

この「絶叫する騎士アラン」も(時間が押していたということもあり)半日で書き上げることができました。その理由の一つには、アランにしっかりとしたモデルが存在していたことがあるかもしれません。お分かりの方もいるでしょうが、長篠の戦いの鳥居強右衛門がモデルです。

次回もお楽しみに。


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21. アンドロメダの涙

 アイティオペアの砂漠に、やまない雨が降りしきる。

 

 降り始めてからすでに一週間。無慈悲な陽光は陰鬱な雨雲に遮られ、熱砂は泥濘に、ワジは濁流と化した。

 

 無数の雨粒を受けてボツボツと音を立てる天幕の下、三本脚の椅子に悠然と腰掛けるグラツィアーニ司令官は、私のグラスにピエモンテの赤ワインを手づから注いだ後、おもむろに口を開いた。

 

「砂漠に雨を降らせる。君から話を聞いた時は、そのようなことが可能とは到底思えなかったが、なるほど素晴らしい成果だ。戦車でも航空機でも毒ガスでもなく、まさかとうの昔に歴史的使命を終えたはずの魔術が切り札となるとはね」

 

 蓄音機が低く歌を奏でている。ノイズ混じりの歌声は篠つく雨音と唱和するようだった。

 

「……若人よ、若人よ! 美しき青春よ! 人生の艱難においてなお、汝の歌は響き渡る!……」

 

 司令官は軽くグラスを掲げた。

 

「これで、バドリオの鼻を明かすことができるだろう。ありがとう、マルコ・ロッシ君」

 

 私もグラスを合わせ、赤い豊潤な液体をぐっと喉に流し込んだ。上質なアルコールに助けられて、私は自ずから口を開いていた。

 

「司令官、魔術は未だにその力を失ってはいません。この『アンドロメダの涙』をご覧になればお分かりいただけるように、魔術も科学的な分析と体系化を施すことによって、敵国に打撃を与えるのに充分に強力な手段となるのです……」

 

 グラスをゆすりながら、司令官は静かに私の語るところに耳を傾けていたが、話が一段落するやポツリと呟いた。

 

「……前の戦争の死者たちも、この雨を受けて喜んでいるだろう。この40年間、遺骨はずっと異国の太陽に焼かれていたのだから」

 

 それから司令官は綺麗に剃られた顎をつるりと撫でて、じっと私を見つめて言った。

 

「君のお父上もさぞやお喜びだろうな」

 

 私は頷くと、視線を遠くへやった。地平線は止めどもなく降り注ぐ天の涙にけぶって、何も見えない。

 

 それにしてもアイティオペア人たちは、いつになったら降伏するのだろうか。加護を失った彼らに、もはや勝ち目はないのに。

 

 

☆☆☆

 

 

 父の世代にとって、第一次アイティオペア戦争は屈辱の代名詞だった。

 

 19世紀中頃から、エウロパの列強国はアフリカ大陸の植民地化を積極的に推し進めた。圧倒的なまでの工業力と軍事力を背景に、あるいは実力に訴え、あるいは利益をちらつかせ、あるいは部族間の争いに便乗して、各国は広大無辺なる熱帯の大陸を蚕食した。

 

 サヴォイア王国は、この世界的ムーブメントに完全に出遅れた。必死になって同民族間での争いを収め、王家を中心にして統一国家を樹立したその頃には、アフリカの殆どが他国の有するところとなっていた。

 

 残った地域は、アイティオペア人の帝国だけだった。必然、王国の野望に満ちた視線はそこに釘付けとなる。権謀術数を巡らせ、膨大な資金を投入し、軍隊を送り込んで、我が国は彼らの国土から、辺境たるエリュトゥラー地方とソマリ地方を毟り取った。

 

 次に目指すのは、アイティオペア帝国の本土。その砂漠の地下には豊富な天然資源が眠っている。いや、それだけではない。地上には、サヴォイア王国の民が人間らしい生活をするのに欠かせない、あのコーヒーの木が林立している。それを栽培し収穫するための人的資源も無尽蔵だ。

 

 すべては順調に見えた。だが、それは誤りだった。あたかも意地の悪い女神が、一人の人間に限りないほどの幸運と成功を与え、幸福の絶頂を享受しているその瞬間に、すべてを奪い取って絶望のどん底に叩き込むような、そのような運命の急変を我が国は味わうことになった。

 

 アドワにおける決戦で、サヴォイア王国軍は無惨にも完敗した。皇帝親衛軍を中核とした帝国軍が、我が軍を散々に打ち破ったのだった。

 

 無慮10,000人にも及ぶ兵士が熱砂に屍を埋め、それとほぼ同数の兵士が虜囚の辱めを受けた。王国はアイティオペア侵略を断念せざるを得なくなった。我が国は国際社会の笑い者となり、対してアイティオペア帝国はアフリカの雄として著しく声望を高めた。

 

 我が国、我が民族の二千年の長きに渡る歴史からすれば、かの戦争における敗北は、これまで無数に経験してきた敗北の一つに過ぎない。勝ちもすれば負けもするのが戦争であり、英雄も卑怯者もいつかは死に絶え、栄光も汚辱もうつろうものである。

 

 それでも、我がサヴォイア王国の国民はそのように割り切ることがどうしてもできないのだった。それは、国民性の一つである高すぎる自尊心のせいであり、さらには、そこから由来する強烈なまでの差別感情のせいでもあった。

 

 まさか、誇り高きローマの末裔たる我らが、アイティオペア人ごときに敗北するとは! あの褐色の肌をしたアフリカの未開人どもに、列強国たるサヴォイア王国が大敗を喫することになるとは!

 

 実のところを言えば、彼らアイティオペア人を未開人などと見做すのは、甚だしいまでの思い違いだった。確かに、彼らは近代的な工場も学校も持たず、泥と藁で出来た粗末な家に住む人々だった。だが、彼らには歴史と伝統があり、そして誇りがあった。自分たちが生まれ育った愛する祖国の地を、北方の侵略者どもには決して渡すまいという、気高い意志を確固として有していたのだ。

 

 私の父は、残念なことに、その事実をどうしても認めようとはしなかった。父は私を叱りつける時、いつも義肢となった右腕を撫でながら語り始めたものだった。

 

「良いかマルコ。俺は20歳の時、アイティオペア人と戦った。奴らは野蛮で、残虐で、しかも卑怯な連中だった。我が軍がアドワで負けたのは、決して奴らの実力がこちらより優っていたからではない。カエルとカタツムリを食うフランチャ人どもが、裏で軍事援助をしていたからだ。そうでなければ、精強なる我が軍が負けるはずがない! 俺も腕を失うことはなかったのだ……」

 

 父の言う通り、アイティオペア人を支援したのはフランチャ人だった。我が国のアフリカ大陸における勢力拡大を食い止める為に、彼らは大量の武器・弾薬を惜しみなく送り込み、軍事顧問団を派遣した。

 

 高い士気と揺るがぬ誇り、それを支える最新の装備。だが、「たかがその程度で我が軍が敗北するわけはない」と父は言った。

 

「奴らには、魔術があったんだ。いや、俺たちの使う魔術とは違う。俺たちのものよりも、遥かに大規模で、忌まわしい魔術だ。奴らは、悪魔と契約したのだ! いや、実際にそうしたのかは知らないが、そうとしか言いようがない! 悪魔の加護を受けた奴らには、銃弾も榴弾も、それに俺たち魔術士の魔法も、一切通用しなかったのだからな!」

 

 細い筋張った左手で、父は杖を振り回しながら、喚くように言葉を続ける。

 

「アドワの戦いの時、俺は戦線右翼の魔術士大隊にいた。敵は散開して、砂漠の上を滑るようにして俺たちの部隊へ一直線に向かってきた。俺たちは三列の横列を敷いて、奴らを迎え撃った。距離500メートルになった時、指揮官が号令を下して、俺たちは一斉に火球を発射した。だが、奴らには何も効果がなかった!」

 

 小さい頃から何度も同じことを話されていた私はその光景を、あたかも自分自身が見たかのように思い浮かべることができた。

 

「続いて歩兵が銃弾を浴びせる。それも効かない! 奴らの黒い肌は凶悪な太陽光を浴びて濡れたように輝いていて、弾丸をすべて弾き飛ばした! 奴らはなおも進んでくる。こちらの攻撃は依然として、まったく通用しない。砲兵隊が最後の手段として榴散弾を至近距離からぶっ放した。ようやく、何人かが倒れた。それでも、奴らは止められなかった……」

 

 ここまで話すと、父は義手を外して、今は肉と皮膚で覆われた切断面を私の眼前に突きつける。

 

「見ろ、この腕を! 奴らは俺たちの陣地を蹂躙し、暴れ回った! 多くの戦友が死に、かろうじて生き残った者も、余さず捕虜になった。捕虜になった魔術士は、全員右腕を切断された! もう二度と魔法が使えないようにとな!」

 

 そして、左手の杖で、父は私の頭をしたたかに殴りつける。頭蓋に響く鈍い音、弾ける電流、鼻腔の奥のきな臭さ。父はなおも怒鳴る。

 

「痛いか! だが、あの時俺が味わった痛みは、そんなものとは比べものにならなかった! いや、俺の痛みや、無くなった右腕などどうでも良い! 失われた祖国の誇り、傷つけられた民族の栄光を考えてみろ! ようやく国家を統一し、全世界にサヴォイア王国の武威を知らしめる機会を得たのに、それを野蛮人ごときのせいで台無しにされた祖国の無念を、マルコ、お前は分かっているのか!」

 

 父は何度も私を殴る。私はそれを、じっと無言で耐える。しばらくして、父は息を切らし、殴るのを止める。今度は私の頭を撫でながら、怒りと愛情がない混ぜになった奇妙に歪んだ面持ちで、静かに語り始める。

 

「良いか、マルコ。俺はお前を一流の魔術士にしてやりたい。いや、お前は必ず一流の魔術士になるだろう。お前は俺の自慢の息子だからな。俺は、お前がいつか、あのアイティオペア人たちに復讐してくれるだろうと信じている。そのための魔術も、今は研究中だが、いつかお前に授けてやれる。だから……」

 

 父は、叱られる直前まで私が読んでいた本を、暖炉の火の中へ投げ込んだ。隣に住む婦人が与えてくれたヴェルレーヌの詩集は、見る間に炎に包まれた。

 

「こんな下らないフランチャ人の本を読むのはやめて、魔術の修練にもっと励め。祖国のため、それに何より、お前を愛する父のために、お前はもっと強くならねばならない。分かったな……」

 

 私自身の自我以上に、父は私という存在を規定していた。小さい頃の私は、それをおかしいとは思わなかった。私は殴られ、怒鳴られ、持ち物を捨てられ、友人すらも持てなかったが、それでも父から愛されていると信じていたからだ。

 

 おそらく父も、祖国に対して同じような気持ちを抱いていたのだろう。祖国は、父ら敗残者に対し、わずかな額の傷痍軍人恩給以外、何ら慈悲を施すことはなかった。むしろ、野蛮人に敗北しておきながら死に損なった卑怯者として、存在そのものを忘れ去ろうとしているかのようだった。それでも、父は祖国を愛さずにはいられなかった。それは、自分は祖国から愛されているという根拠なき信念を、つまり信仰を抱いていたからだろう。

 

 そうでなければ、父は私を育てられなかったに違いない。祖国への捧げ物として男手ひとつで一人息子を育て上げることなど、信仰なしには不可能なことだ。

 

 父は私に魔術士としての教育を授けつつ、アイティオペア人を打倒するための魔術研究に没頭していた。私が20歳になった頃、研究が予想以上に進展したためか、父は興奮を隠さず私に言った。

 

「マルコ! いつもお前にはアイティオペア人どもが『悪魔と契約したみたいだ』と言っていたな。あの、すべての攻撃を無効化する魔術について分かったことがある。アイティオペア人たちの伝説を調べていたら、こんな文言が出てきた。『やまない雨が破滅をもたらす』とな。これがヒントになった」

 

 今ひとつ話が飲み込めない私をよそに、父はなおも話し続ける。

 

「アイティオペア人たちは、元来太陽とつながりの深い民族だ。神話の時代、太陽神ヘリオスの息子パエトンが、愚かにも父の愛を試そうと太陽の戦車を乗り回したことがあった。しかし、ただの子どもが扱い切れる代物ではない。戦車は暴走して、太陽は世界を焼いた。その時、アイティオペア人どもの祖先は肌が真っ黒になったそうだ。ヘリオスはそれを哀れみ、奴らと一つ契約をした。私を崇めるならば、お前たちに無限の力を与えようと……」

 

 顔を真っ赤にして、父は杖を振り回しつつ、部屋を歩き回る。

 

「時が経って、アイティオペア人どもは太陽神への信仰を捨てた。俺たちと同じ神を信じるようになったのだ。だが、俺たちに攻め込まれて追い詰められた奴らは、フランチャ人どもの口車に乗せられて、また太陽神を崇めるようになったのだ!」

 

 父は、机の上に拡げられていた小冊子を乱雑に掴むと、私に放り投げてよこした。表題を見ると、フランチャ語で『戦略魔法の新たなる地平 アイティオペアにおける事例研究』と記されていた。

 

「その本によれば、フランチャ人はあの戦争の時、武器弾薬と顧問団だけではなく、魔術士も送り込んでいたらしい。そして、アイティオペア人たちが『無敵の戦士』になるように、戦略魔法を構築したのだ。太陽光を浴びている限り、身体能力と防御力を数倍に増強するという魔法をな!」

 

 私も、記事に目を走らせた。そこには、フランチャ人魔術士の指導のもとにアイティオペア人が「ヘリオスの加護」という名の魔法を発動させたこと、魔力の消耗が激しかったため539人の死者が出たこと、術式はアドワの戦い直前に完成したこと、などが書かれていた。

 

「俺たちの目指すことは決まった! アイティオペア人を屈服させるには、奴らから太陽の光を奪えば良い! 『ヘリオスの加護』を剥ぎ取るのだ! そのためにはまず……」

 

 熱っぽく語る父を見て、私は一種の憐みのような気持ちを抱いた。

 

 アイティオペア人を屈服させる? そんなことはもう、起こり得ない。

 

 サヴォイア王国は数年前、エウロパ大戦において戦勝国となったものの、国内は荒廃していた。経済は停滞し、失業者は街に溢れ、極右勢力と極左団体がテロ行為を繰り返し、国内の分断は目を覆わんばかりだった。とてもではないが、外征を行う余裕はない。父の野望は、いや、それはもはや妄執と言っても良かったが、果たされないまま終わるだろう。

 

 それでも父は研究を続けた。私は、無駄とは知りつつも父を支え、彼の望むような息子となるべく努力を続けた。

 

 己の健康を犠牲にして、父は研究を完成寸前にまで漕ぎ着けた。のみならず各方面に運動をして、私を国立魔術研究所の一員にまでした。父こそが悪魔と契約したのではないかと思われるほどの、異常なまでの熱意と働きぶりだった。

 

 そして、私が30歳になってから数ヶ月後、ついに寿命を迎えた。父は臨終のその間際まで、私に向かって話し続けた。

 

「良いか、マルコ。必ずアイティオペア人どもに復讐するのだ。父の無念を晴らし、祖国の屈辱を雪ぐのだ。お前にはすでに、俺のすべてを授けた。俺の開発した『アンドロメダの涙』ならば、必ずアイティオペア人たちの魔術を打ち破れる。それに、今や祖国は偉大なる統領を戴いている。あの方ならば、必ずアイティオペア人を叩きのめしてくださるに違いない……」

 

 喘鳴混じりの最期の言葉は、未だに私の耳に残っている。

 

「良いか……アイティオペア人にやまない雨を……奴らに破滅を……父の宿願を果たせ……」

 

 父が死んでから5年後、祖国は統領の指導のもと、アイティオペア帝国侵攻の師を起こした。私は、グラツィアーニ司令官の魔術顧問の一人として、アフリカ大陸へ渡った。

 

 

☆☆☆

 

 

 父の世代とは比較にならないほど、我が軍は見事に近代化を果たしていた。総兵力50万、航空機600機、戦車800輌。対するアイティオペア帝国は、歩兵だけが約30万。

 

 それでも、彼らは実によく戦った。彼らには、未だにあの「ヘリオスの加護」があったからだ。第一次アイティオペア戦争当時にはなかった機関銃による射撃や、長距離砲の砲撃や、航空爆撃を受けても、彼らはなかなか倒れず、塹壕や小要塞にこもって頑強な抵抗を続けた。

 

 それだけではない。彼らは果敢にも陣地を出て、幾度も突撃を敢行した。侵攻三日目、私は司令官の隣で、アイティオペア兵たちが我が軍の軽戦車部隊に立ち向かう光景を目撃した。一個中隊ほどの彼らは見事な横隊を組み、太陽の光を浴びて煌く銃剣を突き出して、戦車に向かって真っ直ぐに疾走した。

 

 こちらの10輌ほどの軽戦車は、射程距離に入るや一斉に射撃を開始した。合計20挺の機関銃は曳光弾のシャワーを浴びせかけたが、アイティオペア兵たちはまったく怯まず、突撃を続行する。ついには接近戦となった。戦車は彼らを轢き、踏みにじり、押し潰した。だが、何輌かは手榴弾を投げ込まれ、黒煙を噴いた。

 

 戦闘は半時間ほどだった。生き残ったアイティオペア兵たちは来た時と同様、一列の横列を組んで戦場から去って行った。後に残されたのは、無数の死体と擱座した数輌の戦車。砲隊鏡を覗き込んでいた司令官は眉をしかめつつ、呆れたように周囲の幕僚に言った。

 

「信じられん。生身で戦車と互角に戦うとは、奴らには悪魔でも憑いているのか?」

 

 私はグラツィアーニ司令官に「ヘリオスの加護」について説明し、「アンドロメダの涙」の発動の許可を求めた。この魔法を用いることで、アイティオペアの砂漠地帯の天候を操作し、やまない雨を降らせることで敵軍の抗戦能力を奪い去ることができる。すでに術式は完成しており、後は司令官の許可を得るだけだ、と。

 

 それでも司令官は首を縦に振らなかった。彼は諭すように、私に言った。

 

「『やまない雨が破滅をもたらす』という、その理屈は分かる。だが、私は是が非でも戦車と航空機という新装備でアイティオペア人を倒さねばならんのだ。それが我らが統領の望みでもあり、私の使命だ。これからの戦争は魔術ではなく、鉄とガソリンによって遂行されるということを、全世界に知らしめねばならぬ」

 

 状況が変わったのは、他戦線での動きを司令官が知ってからだった。私たちがオガデンの要塞線に手こずっている間に、バドリオ司令官が率いる別働隊は順調に敵地を攻略していた。

 

 グラツィアーニ司令官はある日の深夜、私を呼び出して、今までの非礼を詫びた上で言った。

 

「バドリオはきっと奴らに勝つだろう。彼は勝つためにはどんな手段でも用いる。国際世論も気にせずに毒ガス戦に訴えるだろう。さしものアイティオペア人の加護も、毒ガスには通用しまい。私も手段を選んではいられなくなった」

 

 私の肩に親しげに手を置き、司令官は薄く笑みを見せた。

 

「君のお父上の無念を、君の手で晴らしてもらいたい」

 

 許可を得た私はすぐさま準備に取り掛かった。あらかじめ用意を整えていた甲斐があって、早くも三日後の正午から、大粒の「アンドロメダの涙」が、アイティオペアの砂漠地帯に降り注ぎ始めた。

 

 雨はやむことなく一ヶ月間続いた。父の考えた通り、アイティオペア人たちから加護の力は失われ、あらゆる銃弾や砲撃を弾き返す鋼の肉体は、単なる血肉の詰まった皮袋と化した。私たちはほどなくして、敵の要塞線を突破した。敵の死体の山に、冷たい雨が降り注いだ。

 

 一方、バドリオ司令官の別働隊は、メイチュウにて皇帝親衛軍主力を捕捉し、これを撃滅した。敗報を耳にしたアイティオペア皇帝は国外に逃亡し、帝国軍の組織的抵抗はここに最後を迎えた。

 

 二週間後、グラツィアーニ司令官は未だに雨が降り続ける敵首都アディスアベバへの入城を果たした。それを迎えたのは、バドリオ司令官だった。彼は三日前に、私たちを出し抜く形で入城していたのだった。

 

 その夜、空襲を受けて半壊したホテルの一室にて、グラツィアーニ司令官は私に言った。

 

「結局、君の魔法では『破滅をもたらす』とまではいかなかったな。私がもう少し早く決断していれば結果は変わったかもしれないが、まあ今更考えたところで詮ないことだ……」

 

 雨はそれからなお半月降り続けた。ようやく雨が止んだその次の日から、空はまた凶暴なアフリカの太陽が支配するところとなった。

 

 一ヶ月ほど首都に滞在した後、私は本国へ帰還することにした。飛行場へ車で向かっていたその時、私は予想外の光景に思わず目を奪われた。

 

 驚くべきことに、郊外は見渡す限り鮮やかな緑色に覆われていた。地中深くに眠っていた草木の種が長雨によって目覚めたようだった。

 

 運転手と眼前に広がる状況について会話をしていたその時、何かが大きな音を立てて、フロントガラスに張り付いた。

 

 それは、大きなサバクトビバッタだった。体長6センチほどのその昆虫は、潰れた胴体から緑色の体液をガラス表面に垂らしながら、脚と羽を痙攣させている。

 

 私は愚かにも、一匹のバッタの死がどのような未来を暗示しているのか、その時理解することができなかった。

 

 

☆☆☆

 

 

 私は息子を杖で殴りつけると、大声で怒鳴った。

 

「痛いか!? だが、その痛みなどアイティオペア人の舐めた辛酸に比べればどうということはない! さあ立て! お前は一流の魔術士になって、彼らを救わねばならないのだから!」

 

 息子は両目から大粒の涙を流した。やまない雨のように、それは途切れることがない。

 

 あの戦いの後、アイティオペアは真の破滅を迎えた。突如大量発生したバッタの群れがありとあらゆる農作物や草木を食い荒らし、アイティオペアは深刻な食糧危機に陥ったのだった。

 

 聖なる書にも記述がある、蝗害。正確な数は分からないが、およそ1000億匹のバッタが東アフリカを制圧し、200万以上のアイティオペア人たちが餓死したとされている。豊かな大地から一方的に富を収奪するという、祖国と統領の壮大な夢想は、空を覆い尽くさんばかりの虫どもの乱舞によって水泡に帰した。

 

 あれから20年が経過した今でも、アイティオペアでは定期的に蝗害が発生している。そのきっかけとなったのは、間違いなく私だった。私の『アンドロメダの涙』によって芽をふいた大量の草木、あれがバッタの異常発生の原因であるとは、今や各国の学者によって認定されている。

 

 贖罪の念に私は駆られた。バッタを駆除する術式を構築して、哀れなアイティオペア人たちを救わねばならない。だが、10年前に起きた二度目の大戦から健康を害していた私には、それを為すことができない。

 

 希望は、息子だった。妻が残してくれたたった一人の息子は、まだ幼いが素晴らしい素質を持っている。きっと、私が作り上げた魔法を使いこなしてくれるに違いない。

 

「良いか、ルカ。お前が覚えるのは、『アンドロメダの涙』を改良した駆除魔法だ。特殊な魔力を込めた、やまない雨を降らせて、大量のバッタを一斉に死滅させる。これを覚えない限り、アイティオペア人を救うことはできない。だから、こんなものを読むのはやめろ!」

 

 私は暖炉に、息子がそれまで読んでいた漫画本を投げ込んだ。見る見るうちに、漫画本は真っ赤な炎に包まれた。息子の目が大きく見開かれる。それを見て私の心も少しばかり痛んだが、しかしすべては可哀想なアイティオペア人のためである。

 

 息子よ、アイティオペアの大地に、新たなるやまない雨を降らせて、父の宿願を果たしてくれ。胸の奥で、私は呟いた。




※以下、作品メモとなりますので、興味のない方はここで読むのを終えられるか、もしくはお手数ですが後書きを非表示に設定してください。

らいん・とほたー「アンドロメダの涙」作品メモ

2020年6月28日公開。

通算二十一本目となるオリジナル短編。エブリスタ主催の妄想コンテスト「やまない雨」に応募した作品です。

三ヶ月ほどオリジナル短編の執筆から離れていたので、アイデアを出すのに苦労しました。やまない雨、恋愛物にしても良さそうですし、ファンタジーチックなホラーにしても良さそうです。

迷いながら散歩をしていた時、ふと「やまない雨によって何か大きな災害が起きた」というオチならばどうかと思いつきました。そこで頭に浮かんだのが、現在東アフリカ、中東、インドで猛威を奮っている蝗害です。たしか、あれは季節外れの長雨が原因だったはず……

蝗害とエチオピア、魔法、親子にわたる因縁、短編にしては少し詰め込みすぎた気もしないではありませんが、その分厚みのある内容になったかと思います。

次回もお楽しみに。


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22. ボクのマルタ、私のマルタ

 アングリアの空から降る雨は、長くしつこい。この時期の雨は、特にそうだ。霧のように細かな雨粒が風に煽られながらふわふわと落ちてきて、ようやく伸び始めた新緑の草花をびっしょりと濡らす。そんな雨だけれども、それほど陰鬱ではないし、むしろ爽やかな感じさえする。

 

 でも、ボクはなんとなく憂鬱だった。いや、どちらかと言えば不安な心地がしていた。理由のない、上手く言い表すことのできない不安感が、今朝からずっとボクの心の中を満たしていた。

 

 初夏の雨を浴びようと、幼い仲間たちは狭い格納庫から外に出て、きゃあきゃあと歓声を上げている。芝の上を転げ回ったり、翼をバサバサと羽ばたかせたり、仲間同士でじゃれあったり。

 

 ボクたちはまだ若い。体はとても大きくて、いつもエネルギーを持て余している。許されるならば毎日でも出撃をして、果てしない大空を急上昇したり急加速したり、敵を追いかけ回してエネルギーを発散させたいのだ。

 

 少し離れたところに、何人か男の人が立っている。彼らは黒い傘をさしていて、嫌な臭いのするタバコを吸いながら、ボクの仲間たちが遊んでいるのを飽きることなく眺めている。

 

 ボクの耳は、彼らが会話する低い声をしっかりとキャッチすることができた。

 

「こんな雨の日なのに、ドラゴンというのはまったく元気で無邪気なもんだ。うちの子犬と変わらないよ」

「子犬にしちゃあ少し大きすぎるがな。うっかりじゃれつかれでもしたら死んじまう」

「聞いたところによると、サーカス団員の中で一番死にやすいのは調教師らしいな。懐かれて、じゃれつかれて、潰されちまうらしい」

「割に合わねぇ仕事だな。ドラゴンを扱うってのに。危険手当も出ねぇんだろ……」

 

 あまり面白い話でもないので、ボクは気を取り直して読書に戻ることにした。目の前には大判の聖書が書見台に拡げられている。二ヶ月ほど前から読み始めたものだ。

 

 ふっと軽く息を吹きかけてページをめくると、そこにはちょうど、こう書かれていた。

 

「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思い煩っている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである」

 

 その言葉に、ボクはハッと胸を突かれる思いがした。マルタ、それはボクの名前。まるで、聖書の中で、ボク自身がそう言われたかのような気持ちがした。

 

 多くのことに心を配って思い煩っている。確かに、その通りかもしれない。ボクは他の仲間たちと比べて頭が良い。だから、人間たちのように考えて、人間たちのように思い悩んでいる。今日だって何も考えずに外に出て、気持ちの良い雨を思う存分浴びれば良いのに、なんだか不安な気持ちが消えなくて、たった一人格納庫に残って聖書を読んでいる。

 

 その時、コツコツとコンクリートを踏む足音がして、誰かがこちらへとやって来た。長い首を巡らせてそちらを見ると、そこにいたのはもう一人のボクだった。

 

 小さくて翼を持たない、スラリと細い体をした、人間のボク。もう一人のマルタだ。長くて綺麗な金髪、雪のように真っ白な肌。氷のようにキリリとした顔立ちなのに、目つきはどこまでも温かい。優しくて甘い、人間の女の子の匂いがする。彼女はかっこいい黒い軍服の上に、茶色の飛行ジャケットを羽織っている。

 

 マルタはボクの顔のそばに立つと、そのほっそりとした手と指で、ゆっくりと体を撫でてくれた。低い、それでいてよく通る声で、彼女はボクに話しかけた。

 

「聖書を読んでいたのか、マルタ。偉いぞ。でも、仲間たちと一緒に外で遊ばないのかい?」

 

 今日はあまり気分が良くないの。そういう気持ちが、フンとボクの鼻から漏れ出た。息は聖書にぶつかって、パラパラとページを送らせた。

 

 そんな様子を見て、マルタは苦笑いをした。ボクを撫でつつ、彼女は言葉を続ける。

 

「そうかそうか。まあ、気分が乗らないのなら仕方ない。それに、君は頭が良いからな。他の娘たちとは気が合わないんだろう。ところで……」

 

 一旦言葉を切ると、彼女は歩を進めてボクの正面に回った。そして、その紫色の瞳でボクの目を覗き込むと、一段と真剣な面持ちで言った。

 

「明日の作戦はちょっと厄介そうだ。これまでのどんな戦いよりも辛いものになるかもしれない。私も、全力を尽くすつもりだ。マルタ、君も頑張ってくれるね? この戦争に生き残って、生まれ故郷のポルスカに帰るために、君も私に力を貸してくれるね?」

 

 もちろん! ボクはゆっくりと、右目だけで瞬きをした。マルタはふっと笑ってくれた。

 

「良い子だね、マルタ。とっても素直で、頑張り屋さんのマルタ、もう一人の私。心配しないで。私と君なら、絶対にニェムツィ人たちの空から生きて帰ることができる……」

 

 マルタの声は、ボクの心にすうっと染み渡っていった。あたかも、外の雨が大地を濡らして潤いを与えるのと同じように。朝からなんとなく気もそぞろで落ち着かなかったボクの精神は、いつの間にか朝焼けに照らされた静かな海辺のように、平穏を取り戻していた。

 

 子守歌を歌うように、マルタがボクに囁いている。

 

「私たちは、ずっと一緒だ。これからも、そして死ぬ時も……」

 

 

☆☆☆

 

 

 ボクがこの世に生まれたのは六年前。人間たちの暦では1937年のことらしい。東エウロパ大陸のポルスカ国、その中央を流れる大河ヴィスワ川のほとりにあるマルボルクという街の外れで、ボクは生まれた。

 

 生まれて初めてボクが見たのは、人間の女の子だった。女の子は何も服を着ていなくて、裸だった。なぜか目を拭っている。ボクの鼻は湿っぽい匂いを嗅ぎ取っていた。涙という言葉は、その時はまだ知らなかった。

 

 彼女は手を伸ばして、生まれたばかりの粘液にまみれたボクを抱き上げると、そっと抱き締めて頬をすり寄せてくれた。

 

「よく生まれてきてくれたね、待っていたよ。私はマルタ。マルタ・コニェツポルスキ。これからはずっと、君と一緒だよ」

 

 柔らかい唇で、マルタはボクにそっとキスをする。その意味が分からなくてただ目を瞬かせているだけのボクを、彼女はさらに持ち上げて自身の眼前に掲げた。

 

「……ふむ、確かにないな。ハイブリッド種はやはりすべてメスか……ああ、ごめんね。君は女の子なんだね。なら、名前はどうしようかな……」

 

 突然不安定な体勢になった上に、心地よい温もりも消えてしまって、ボクはとても不安な気持ちになった。それを紛らわせるために短い両脚をバタつかせると、同時に喉からキィキィ、ピィピィという声が漏れた。

 

「ああ、すまない。よしよし、良い子だ……」

 

 マルタはまたボクを抱いてくれた。ふっくらとした胸がボクを優しく包んでいる。しばらくマルタは無言で何かを考えていたが、やがてボクを抱き直して目と目を合わせると、ゆっくりと言い聞かせるように言葉を発した。

 

「決めた。君の名前はマルタ。私と同じ名前だ。飛行士にとって、自分とドラゴンとは一心同体。何があっても決して離れない、血筋よりも濃く親子よりも強い絆で結ばれた仲。だから、君のことは私と同じ名前で呼ぶよ」

 

 そして、それから何度も見ることになる、彼女特有の優しいながらも気高い笑みを浮かべた。

 

「これからよろしくね、マルタ」

 

 ここまでのボクの語り口を聞いて、生まれた直後なのにずいぶんとはっきりと物事を見ることができて、言葉もしっかり操ることができるものだと思う人もいるかもしれない。だけど、それは間違いだ。ボクは普通のドラゴンと同じく、いや、それどころか、普通の人間の赤ん坊と同じく、生まれたその時はボンヤリとしていた。

 

 このように語ることができるのは、ボクが人間の言葉を知っていて、それによって記憶を再構成することができるからだ。

 

 ボクは、普通のドラゴンとは明らかに違っていた。例えば、他の子たちの頭には角が二本しか生えていないのにボクの頭には三本生えていたし、何より、人間の言葉を自然と理解することができた。

 

 マルタがボクに言葉を教えてくれた。彼女はいついかなる時でも、ボクを抱いて、ボクに話しかけてくれた。散歩をしながら、花の名前、動物の名前、天気と風の名前を教えてくれて、夜は絵本を読み聞かせてくれた。ボクがそのうち大きく重たくなって腕に収まらないようになっても、彼女は言葉を教えるのをやめなかった。

 

 ある日、枯れ草色をした立派な軍服を着た男の人がやってきて、マルタに話しかけた時のことをよく覚えている。

 

「コニェツポルスキ少尉、もう一人のマルタの具合はどうだね? 順調に成長しているかね?」

「戦隊長殿、もう一人の私はすくすくと成長しております。今でははっきりと、人間の言葉を理解しております。空を飛べるようになるまでに、十歳児相当の語彙力を獲得できるでしょう」

「なるほど、素晴らしいな。流石は特別に取り寄せたアングリア・フランツィアのハイブリッド種だ。自律的思考能力を獲得すれば、空中戦において既存のあらゆる兵器を凌駕する戦闘力を発揮できるだろう。何しろ、高性能な火器管制装置を積んでいるようなものなのだから……」

「ええ、私の自慢の娘です」

「ハハハ! 『娘』と君は呼ぶのか。自分の素肌の温もりで卵を孵したのだから、それも当然か。やはり君に任せて正解だった。これからもしっかりと頼むぞ。最近は国境の空が怪しい。いつニェムツィ人とZSRRが攻めてくるか分からん。噂によれば、奴ら秘密協定を結んだらしいからな……」

 

 マルタはボクのことを自慢の娘と呼んでくれたけれども、ボクはあまり自分のことを誇れなかった。というのは、臆病で怖がりな性格をしていたからだ。

 

 まだ飛ぶことができず、しかしもう自分の両脚で歩けるようになったある日のこと。ボクはマルタと一緒に草原を散歩していた。ちょうど花々が綺麗に咲き乱れている頃で、ボクはその香りを楽しみ、周りを飛ぶ虫たちの乱舞を眺めながら歩いていたのだが、突然目の前に出てきたあるものを見て、体が凍りついた。

 

 それは猫だった。大きな黒猫で、耳の片方が裂けている。口には既に息絶えている野ウサギを咥えていて、赤い血がぽたぽたと滴っていた。どうやら狩りを終えて寝ぐらに帰るところのようだ。

 

 思わず、ボクの口からピィッという鳴き声が漏れた。野ウサギから流れ出る血の臭いがあまりにも強烈で生臭く、それに猫の極端に細い瞳がとても恐ろしかった。ボクは大急ぎでマルタの足元に駆け寄ると、頭を彼女の靴の間に潜り込ませた。

 

 そんなボクにマルタは呆れることもなく、しゃがみこむと、頭をそっと撫でてくれた。

 

「よしよし、怖がることはない。あれはただの猫だ。君よりも体が小さくて、爪も牙も短い。何も怖くないぞ。ほら、もうあっちへ行ってしまった……」

 

 体がもっと大きくなって翼が伸び、爪も牙も鋭くなって、空を自由自在に飛べるようになってからは、ちっぽけな猫にまで怯えるような臆病さは消えたけれども、怖がりなのはあまり変わらなかった。

 

 初めて空中射撃訓練に出たその日、ボクは吹き流しの標的を曳航する飛行機の爆音が何とも恐ろしくて、顔を真っ直ぐにしていられなかった。飛行は乱れがちになり、照準がどうしても定まらない。けれども、ボクの背中の操縦席に座っているマルタは苛立つこともなく、叱咤激励してくれた。

 

「もう一人の私よ、怖がるな! あんなのはただの機械だ! 変な音を立てるだけの、ただの機械! 君は大空の支配者であるドラゴン、機械なんて敵ではない! さあ、顔を真っ直ぐにしろ! 弾を当てるんだ!」

 

 不思議なことに、マルタの声を聞くとボクの心はいつも安らかになる。その時も、そう言われた直後から飛行機がまったく怖くなくなった。ボクはぴったりと吹き流しの後方30メートルにつけることができて、マルタは50発の訓練弾のほとんどを標的に命中させることができた。

 

 ボクはその後もマルタと一緒に飛び続けた。ある時は単騎で、ある時は他のドラゴンと飛行士たちと一緒に編隊を組んで、ボクは色んな飛び方を学んでいった。急上昇、急旋回、急降下。息も凍るような高高度と、地虫も見えるほどの低空。日差しの強い昼間と、星々の煌く夜空。機関砲の撃ち方、写真の撮り方、爆弾の落とし方……

 

「すべては敵を倒すために、マルタ、君は飛ぶんだ」

 

 マルタはしばしば、ボクにそう言った。敵というのはよく分からなかったけれども、ボクは彼女のことを信じていたし、彼女と一緒なら何も怖くはなかった。敵を倒すのも、たぶん吹き流しを撃つのとそんなに変わらないのだろうと思った。

 

 そんな生活が二年続いた。そして、遂に敵がやってきた。

 

 前夜から人間たちは苛立っていて、ピリピリとした雰囲気が飛行場に漂っていた。明け方、耳障りなサイレンの音が響き渡ると、ほどなくして人間たちがバラバラとどこかから駆け寄り、また散って、どこかへ去っていった。

 

 少し経ってから、薄く油の臭いのする青い服を着た整備兵たちがやってきて、ボクたちの背中や翼に次々と装備を取り付けていく。混合濃縮エーテルタンクの中身が満たされて、機関砲には弾帯が挿し込まれる。重たくて分厚い装甲板が操縦席の周りに立てられて、ボクの頭にも鋼鉄製のヘッドギアが装着された。

 

 周りの子たちはガチャガチャと体を捩り、ギャアギャアと鳴き声を上げて騒いでいる。しかし、時間が経つにつれて次第に大人しくなっていった。代わりに漂ってくるのは、不安な気持ちの混ざった匂い。みんな、自分のパートナーが来てくれるのを待っている。

 

 半時間ほどして、飛行士たちがやってきた。全員暖かそうな飛行服を着ていて、純白の長いマフラーを首に巻いている。マルタの出で立ちもまったく同じだった。彼女はボクの頭をいつものように優しく撫でると、目を覗き込みながら、なんということはないというふうに言った。

 

「いよいよ敵が来たよ、マルタ。大丈夫、訓練通りにやれば何も問題はない。帰ってきたら、美味しいお肉を食べさせてあげるからね」

 

 返事の代わりに、ボクはフンと一つ鼻息を吐いた。マルタは満足そうに頷いた。

 

「さあ、行こう。侵略者たちに、『ポルスカ共和国空軍ここにあり!』と思い知らせてやる」

 

 その日、ボクとマルタは初陣でありながら、敵であるニェムツィ人の大きな爆撃機を一機、小さな戦闘機を二機撃墜した。

 

 初めに見えたのは、爆撃機の大編隊だった。訓練通りに体を動かして射撃位置につくと、マルタは狙い澄まして機関砲を発射した。大量の爆弾を抱えた爆撃機はボクたちの射撃を受けると、鉄の翼の付け根からメラメラと火炎を吐き出して、数秒後には大爆発を起こした。

 

 自分たち自身でそんなことをしでかしておきながら、ボクは呆然とそれを眺めていた。敵というのは、こんなにも脆いのか。そう思った。周りを見ると、仲間たちも次々と敵を爆発させている。地上には撃ち落とされた敵機の残骸が突き刺さっていて、真っ黒な煙を上げていた。

 

 急に、上空に何かの気配を感じた。それと同時に、背中のマルタが鋭く叫んだ。

 

「マルタ、上だ!」

 

 操縦桿の指示が翼に伝わるのを待つまでもなく、ボクは体を急旋回させた。その次の瞬間、無数の緑色のシャワーがそれまでボクの翼があったところを通り抜けて行った。敵の戦闘機が上から撃ってきたのだった。

 

 それからは、無我夢中だった。ボクたちと敵とは狭い空に入り乱れて、追いつ追われつ、撃ったり撃たれたりを繰り返した。ようやく空が静かになった後、ボクたちはバラバラになって飛行場に帰った。

 

 地上に降り立つと、操縦席から下りたマルタが、労うようにボクの頭にポンポンと手を当てた。

 

「よくやったね、マルタ。明日もこの調子で頼むよ」

 

 ボクたちはそれから一ヶ月あまりの間、毎日飛び続け、毎日敵と戦った。マルタのおかげでボクは傷一つ負わなかったし、かなりの数の敵を撃ち落としたけれども、仲間たちは次第に減っていった。

 

 珍しく出撃のなかった日、格納庫で上等な肉を食べているボクのところへマルタがやってきて、にやりと笑みを浮かべつつ新聞を見せてくれた。

 

「これを読んでごらん、マルタ。私たちのことが書かれているよ」

 

 ボクはマルタから文字を教えてもらっていたし、毎日暇があれば本を読んでいたから、難なくそれを理解することができた。

 

「空の有翼騎兵、歴史的大勝利!!

 

卑怯卑劣にして残虐なるニェムツィ軍に対し、我が軍は陸に空に必死の抵抗を繰り広げているが、その中でも輝かしき戦功を打ち立てているのが、『空の有翼騎兵』として名高い、飛行第111中隊である。同中隊は既に大小合計200もの敵機を撃墜している。特に目覚ましい活躍をしているのは女性飛行士であるマルタ・コニェツポルスキ中尉で、彼女は自身と同じ名であるドラゴン、マルタに騎乗して、これまでに爆撃機五機、戦闘機九機を撃墜している。二人のマルタは、まさにポルスカの空の守護者であろう……」

 

 誇らしい気持ちがボクの中で膨らんだ。ふんと鼻息を漏らすと、新聞紙は遠くへ飛んで行ってしまった。それを見たマルタは、とても久しぶりなことに、声を上げて笑っていた。

 

 ずっとこうして飛び続け、戦い続けることができれば良かったのに、状況はそれを許さなかった。ポルスカ軍の決死の抗戦も虚しく、ニェムツィ軍は進撃を続けていた。ブズラ川でボクたちの軍隊は破滅的大敗北を喫し、その上東の国境からはZSRRの軍隊が押し寄せていた。

 

 ボクたちドラゴンと飛行士は、外国に脱出することになった。最後の日、マルタはボクに首都ヴァルシヴァの上空へ飛ぶように言った。眼下の市街地は連日爆撃を受けていて、ところどころに火災が起きて煙を上げていた。

 

 死にかけている街を、しばらく二人で眺めた。その後にマルタが呟くように言った言葉が、妙にボクの耳に残った。

 

「父さん、母さん、妹たち。みんな、さようなら。どうかお元気で。私はいつか、きっと帰ってきます。きっと生きて帰って、またみんなに会いに行きます。それまで、どうか生き延びてください……」

 

 それからボクたちは山を越え、海を越え、いくつもの外国を転々として、一年後にはエウロパ大陸の西の海に浮かぶ島国、アングリアに身を落ち着けることになった。

 

 ちょっとだけ休むことができたけれども、ここにも敵はやって来た。空を覆い尽くすほどの爆撃機の群れと、それを守る無数の戦闘機。敵は爆弾を落としてアングリアの街を焼き、多くの人を殺した。ボクたちは外国人航空隊の一員として敵を迎え撃った。

 

 今は、1943年。ボクとマルタは、未だに元気だった。ポルスカから一緒に飛んできた仲間たちの多くは大空に散って、ほとんど残っていない。ドラゴンたちは新しく生まれた子たちに交代している。

 

 敵は飛んでこなくなった。代わりに、ボクたちが敵の国の空へ攻め込むようになった。遠い遠い敵の都市に爆弾を落としに飛んでいく、アングリアの大型爆撃機を護衛するのがボクたちの任務。

 

 味方を守って飛ぶ夜空は、明るい月と満天を彩る星々が美しかったけれども、危険も多かった。地上からはサーチライトと高射砲の射撃、空には敵の夜間戦闘機。それに、燃え盛る地上からは焼けて焦げた肉の臭いが絶えることなく漂ってくる。

 

 マルタは「こんなのは私たちの本来の任務ではない」とよく言っていた。彼女が言うには、ボクたちが実力を発揮するのは対戦闘機の戦いであって、護衛任務ではないらしい。でも、普通の戦闘機の三倍以上の距離を飛べるドラゴンにしか、護衛はできないとのことだった。

 

 ボクは次第に消耗して、元気が無くなってきた。前は空を飛ぶのが好きだったし、敵を追いかけるのも怖くなかったのに、最近はどうしても気が進まない。肉もさほど食べたいとは思わなくなった。マルタが飛んでくれと言うから、ボクはなんとか飛んでいるような状態だった。

 

 そんなボクを見かねて、ある日マルタは「散歩に行こう」と言ってくれた。任務でも訓練でもない、思うまま自由に大空を飛び回る散歩。ボクは嬉しくなって、ゴロゴロと喉を鳴らした。

 

 人間が生きたまま焼かれる臭いもせず、撃たれることもない飛行は、とても楽しかった。海の波が午後の日差しを受けて、きらきらと光を反射して輝いている。平穏なアングリアの空をマルタと一緒に駆け抜けるのは、夢のような気持ちがした。

 

 操縦席のマルタからも、楽しげな様子が伝わってくる。

 

「気持ちが良いね、マルタ。ここ最近は過酷な戦いばかりで、君には苦労をかけた。いつか世界が平和になって、ポルスカに帰れる日が来たら、今度は機関砲や爆弾ではなくて、子どもたちを乗せて一緒に飛ぼう」

 

 ボクはぎゅるぎゅると喉から唸り声を出した。約束だよ、と言いたかったのだ。マルタはそれを分かってくれた。

 

「ああ、約束だ。必ず君と一緒にポルスカに帰るよ……む? なんだ、あれは?」

 

 それはボクたちから見て一時の方向、距離7,000メートルほどの低い空を忍びやかに飛んでいた。大陸側の海からアングリアの海岸の上空に侵入している。

 

 グンと速度を上げて近づき、並走するようにして飛ぶと、よりはっきりとその姿を見ることができた。葉巻のような太い胴体から四角い不格好な翼が突き出していて、背中には火を噴く大きな物体を背負っている。不思議なことに、コクピットもなければ飛行士も乗っていない。

 

 これは、何だろう? そう思っていると、突然マルタが叫んだ。

 

「これは、ニェムツィの飛行爆弾だ!」

 

 敵の新兵器、飛行爆弾。ボクもそれを知っていた。前にマルタから話してもらったからだ。パルスジェットエンジンというものを積んでいて、飛行士もいないのに飛び、目標地点上空に達すると墜落して爆発する。これまでにも何発かが首都に落ちていて、死者が出ているらしい。

 

 ボクは急に恐怖に襲われた。飛行爆弾のエンジン音は、それまでに聞いたことのない、ぞっとするような響きを持っていた。得体の知れない怪物がボクの隣を飛んでいる。その中身は大きな爆弾で、いつ爆発するか分からない……

 

 怖気づくボクを立て直したのは、やっぱりマルタだった。彼女は至極冷静な口調で、ボクに指示を出した。

 

「マルタ、怖がるな。こんなのはただの機械だ。変な音を立てるだけの、ただの機械。君は大空の支配者であるドラゴン、機械なんて敵ではないだろう? さあ、こいつの翼に、君の翼の端をちょんと当ててやれ。そうしたらこいつはバランスを崩して落ちるだろう。下には民家もない。遠慮なくやってやれ」

 

 安心して、ボクは言われた通りに翼を当てた。飛行爆弾は途端に姿勢がおかしくなって、胴体を軸にしてくるくると回転し始めると、真っ逆さまに下へ落ちて行った。何もない平原に墜落すると同時に、飛行爆弾は大爆発を起こした。

 

 ほっと一息ついてから、マルタが低い声で言った。

 

「これからはもっと飛んでくるかもしれないな……ニェムツィ人め、よくぞ人殺しの方法ばかり新しく考え出すものだ……」

 

 

☆☆☆

 

 

 ボクの目の前にたくさんの人間たちが集まっている。張り詰めた雰囲気。大きな黒板には地図が貼られていて、それを棒で指しながら、アングリア空軍の軍服を着た男の人が説明をしている。

 

「レジスタンスからもたらされた情報により、中立国ヘルヴェティア近くの街フライブルク近郊15km地点に、飛行爆弾の秘密工場が存在することが判明した。月産400発が可能であると推測される。知っての通り、アングリアに対する飛行爆弾攻撃は日を追うごとに激しさを増している。我々は万難を排してでも、この工場を破壊しなければならない」

 

 男の人は淀みなく話を続ける。

 

「攻撃は爆撃機八機を中心として行われる。敵のレーダー網を避けつつ超低空で奥地へ侵入するため、これ以上機数を増やすことはできない。諸君らポルスカ人竜騎兵部隊の任務は、爆撃機の護衛である……」

 

 こまごまとした話が、それから半時間ほど続いた。最後に、男の人は締めくくるように言った。

 

「この情報を得るために、十人のレジスタンスが殺されている。必ず作戦を成功させろ。また、万が一不時着しなければならなくなった場合は、ヘルヴェティアへ降りろ。敵は諸君らポルスカ人を捕虜にすることはないが、ヘルヴェティア人ならば歓迎はせずとも殺すことはないはずだ……」

 

 男の人は去って行った。彼が格納庫から出るのを見計らって、ボクの隣に立っているマルタが、周りの飛行士たちに声をかける。

 

「さあ、出撃の準備だ! 危険な任務だが、それは爆撃機のアングリア人たちも同じだ! 私たちが完璧に護衛をしてやって、ポルスカ人飛行士の優秀さを教えてやろう!」

 

 おう、と力強い返事が湧き起こる。ボクも喉を鳴らした。マルタは、いつものように頭を撫でてくれた。

 

「心配ない。君と私ならきっと生きて帰れるよ……」

 

 日が沈む頃、ボクたちはもう空の上にいた。ドラゴンの仲間たちは全部で九人。しばらく飛んでから八機の爆撃機と合流し、海峡を越えてからは徐々に高度を下げた。

 

 木々のこずえを掠めるほどの低空を行く。もう五時間は飛んでいる。そろそろ目的地のはずだ。青と赤の翼端灯の数を数える。仲間たちは一騎たりとも欠けていない。敵の迎撃もなく、夜空には雲一つない。この分なら、攻撃はきっと大成功だろう。

 

 突然、視界がぱっと開けて、目の前に細長い大きな建物が現れた。これが、飛行爆弾の秘密工場だ。爆撃機たちがぐんと機首を上げる。爆弾投下に必要な高度を得ようとしているのだ。ボクたちも高度を上げた。

 

 爆撃機は爆弾槽の扉を開けると、バラバラと大きな爆弾を八つずつ投下した。八機から落とされた合計六十四発の爆弾は、一発も外れることなく工場に直撃した。紅蓮の炎と黒煙、大爆発、火災、撒き散らされる無数の破片、崩壊する高い煙突……任務は無事に達成された。

 

 突然、地上からサーチライトの光芒が幾筋も、まるで生き物のようにするすると伸びてきた。触手のように蠢くそれは空にいるボクたちを捉えようとのたうち回る。

 

 次の瞬間、一機の爆撃機が照らし出された。即座に大小様々な口径の対空砲が砲弾を放ってくる。チカチカと光る地上、空中で炸裂する爆炎と煙。花火のような、赤と黄と緑の曳光弾。爆撃機は必死になってサーチライトから逃れようとするが、敵は喰らい付いたら離さないとでも言うように、攻撃の手を緩めない。

 

 このままでは、あの爆撃機は落とされてしまう。そう思っていると、今度はボクの周りが強烈な光に包まれた。目が眩み、飛行姿勢を崩しそうになる。

 

「マルタ! しっかりしろ!」

 

 背中のマルタが叫んだのと、ほぼ同時だった。ボクの腹部にバシッと音を立てて何かが直撃した。それから数秒も経たずに、ボクの両翼は炸裂する高射砲弾の破片で穴だらけにされ、胴体と尻尾も傷だらけになってしまった。

 

 痛みと怒りで、ボクは声を限りに叫んだ。本によると、古代世界においてドラゴンの叫び声は戦争を終結させるほどの威力があったらしい。でも、高射砲の射撃は一向に止まない。鼻につくのは、むせ返るような硝煙の臭いと、破れたタンクから漏れ出るエーテル液の甘い香り、そして、赤錆のようなボクの血の匂い。

 

「急降下するぞ、マルタ! 意識をしっかり保つんだ!」

 

 言われたとおりボクは頭を下げて、地面に突っ込むように高度を下げる。おかげでサーチライトの捕捉から逃れることができた。

 

 飛んでいる。まだ飛んでいる。

 

 もう何時間飛んだのだろう? 月の位置を見ればおおまかな時間を知ることはできるが、もうボクにそんな余計なことをする力はない。撃たれてからかなりの時間が経ったのは確かだ。

 

 恐怖はなかった。痛みもなかった。でも、とにかく眠たかった。目を閉じたら、意識を失ってしまいそう。

 

 眠気に負けそうになるボクを支えていたのは、もう一人のマルタだった。彼女のことを思うと、もう少しだけ飛んでいられる気がする。

 

 そうだ、「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである」 ボクはここで落ちるわけにはいかない。マルタを守ってあげなければ! ただ一つだけ、マルタだけが、ボクの無くてはならないものなのだから!

 

 いつしか、操縦席からの声も聞こえなくなっていた。どうやら血を失いすぎて、耳がおかしくなってしまったらしい。それでも、ボクには何故か、行くべき先が分かっていた。目は霞み、翼には力が入らなかったけれども、ボクは真っ直ぐにそこへ向けて飛ぶことができた。

 

 ヘルヴェティアの高い山々を深く傷ついた体でどうやって飛び越えたのか、自分自身でもよく分からなかった。気がついた時には、ボクは山間の飛行場の真ん中に着陸していた。

 

 空の端が白く、明るくなっている。周りには銃を持った兵士たちがいる。聞こえなくなったはずの耳に、マルタの声が聞こえた気がした。

 

「ありがとう、マルタ。本当にありがとう。私のために飛んでくれて……」

 

 久しぶりに嗅ぐ匂いがした。湿っぽくて悲しい、それでいて懐かしい気持ちにさせられる匂い。

 

 そうか、マルタは泣いているんだね。初めてマルタと出会った時にも、マルタは泣いていたっけ……

 

 

☆☆☆

 

 

 戦争が終わって十五年が経った。ボクは今、ひとりぼっちでヘルヴェティアの首都の動物園にいる。「本を読むことができる、高い知能を持つドラゴン」と書かれたプレートのついた、檻の中に展示されて。

 

 あの後、奇跡としか言いようがないことに、ボクは死ななかった。ヘルヴェティア人たちは大勢の医者を集めてボクを治療し、この世に命を繋ぎ留めてくれた。以前のように高く早く飛ぶことはできなくなったけれども、そんなことはボクにとって大したことではない。

 

 ボクをなによりも悲しませたのは、マルタのことだった。ボクたちは離れ離れになってしまった。

 

 ボクが目を覚ました時には、マルタはもう居なくなっていた。不安と心細さに襲われている最中、太った兵士が近づいてきて、ボクに何かを見せてくれた。

 

「本当にドラゴンが文字を読むのかなぁ? ほら、お前のご主人様から手紙だぞ」

 

 紛れもなくマルタの字だった。走り書きのようなごく短い手紙には、「命を救ってくれてありがとう」という感謝の言葉と、ヘルヴェティアに抑留されることになった、これからはしばらく離れて暮らすことになるが、必ず迎えに来るからそれまで元気にしていて欲しいと書かれていた。

 

 手紙を読んでいるボクを見て、兵士は感心したように言った。

 

「おお、本当に手紙を読んでいるなぁ。賢いドラゴンだ。そうだ、お医者の先生たちにこのことを教えてあげよう……」

 

 ヘルヴェティア人たちが労力を払ってボクを治療したのは、やはり軍事研究のためだった。傷が治るやすぐに、ボクは様々なテストを無理やり受けさせられた。後遺症のせいで毎晩体が痛んだし、それにマルタがいないので、ボクは次第に体力と気力を消耗して痩せ細っていった。

 

 期待したほどの性能を示さなかったのにヘルヴェティア人たちは落胆したのか、もう用済みとばかりにボクは動物園に払い下げられた。ここでの生活は食べ物もあるし本も読めるしで、とても安らかだったけれども、ボクはいつも寂しさを覚えていた。

 

 今日もボクは食事をして、寝て、時々寝返りを打って、また食事をして、寝ることになるだろう。日々を終えるごとに、寿命が残り少なくなっているのを感じる。そろそろボクは、死ぬのかもしれない。

 

 寝ても覚めても思うのは、マルタのことばかり。かっこよくて、優しくて、大好きなマルタ。またボクに本を読み聞かせて欲しい。細い指で頭を撫でて欲しい。一緒に自由な空へ舞い上がって、日の沈む地平線へと飛んで行きたい。

 

 昨晩見た夢は、小さい頃にポルスカの野原をマルタと一緒に散歩した時のものだった。懐かしさと切なさに涙が出るかと思ったけれど、結局ボクは泣けなかった。

 

 そういえば、黒猫が野ウサギを仕留めていたっけ。なんで、ボクはあんなに怖がってしまったのだろう。今は、何も怖くない。ただ、寂しいだけ。いつになったら、マルタにまた会えるのかな……

 

 ふと、声がした。

 

「マルタ。こっちを向いて」

 

 聞き慣れた、でも長いこと聞いていない声。はっとして、ボクは長い首を上げて檻の向こうを見た。

 

「マルタ、マルタ。私だよ」

 

 そこにはもう一人のボクがいた。小さくて翼を持たない、スラリと細い体をした、人間のボク。右足は膝から下が金属製の義肢になっていて、杖をついている。顔つきも少し歳をとっているけれども、それは間違いなくマルタだった。

 

 ボクのマルタ!

 

 瞬く間に、ボクの視界は涙で滲んでいった。喉から声にならない声が漏れている。

 

 泣いているボクを、マルタはじっと見ていた。そして、隣に立っているスーツ姿の男に向かっておもむろに口を開いた。

 

「では契約通り、マルタを引き取らせていただきます。すぐに檻から出してください」

 

 男はどこか不満そうな顔をして答える。

 

「もちろん、その通りにします。しかし分かりませんな。もう飛ぶこともできない、寿命も近づいているドラゴンを、いくらかつての乗騎だからとはいえ、五万フランも出して引き取ろうなどとは……」

 

 マルタは、きっぱりとした口調で言った。

 

「ドラゴンを檻に閉じ込めるヘルヴェティアの人々には理解できないでしょうが、ポルスカの空の有翼騎兵は、決して自分のドラゴンを見捨てないのです。それに、私は約束しました。必ず迎えに来て、一緒にポルスカに帰るとね」

「約束? ドラゴンと約束をしたのですか?」

 

 呆れたような口調で問いを投げかける男に、マルタは薄い笑みを浮かべて答えた。

 

「ええ、もちろん。なにしろ、もう一人の自分ですから」

 

 そして、マルタはボクに向かってあの優しくも気高い笑顔を見せてくれた。

 

「私のマルタ! さあ、ポルスカに帰ろう!」

 

 ボクのマルタ、私のマルタ。やっと二人は一緒になれた。これからはきっと、死ぬまで一緒。




※以下、作品メモとなりますので、興味のない方はここで読むのを終えられるか、もしくはお手数ですが後書きを非表示に設定してください。

らいん・とほたー「ボクのマルタ、私のマルタ」作品メモ

2020年7月6日公開。

通算二十二本目となるオリジナル短編。エブリスタ主催の「あなたの小説が5P分マンガになる!ファンタジーコンテスト」に応募した作品です。

主催者側から与えられたテーマは「イケメンヒロイン」でした。イケメンヒロインが出てくるファンタジーならば何でも良いとのことで、当初は楽に一本が書けるものと思っておりましたが、なかなかアイデアが出ず……キャラクターがいて、世界観があって、ストーリーのラインがある。これら三者が相互に密接に関係してこそ面白い短編が書けるので(私見です)、「イケメンヒロインがそのイケメン具合を十二分に発揮できる世界観とストーリーはなんだ?」と悩んだわけです。

私にとってのイケメンは、真面目で優しい、何より「約束を必ず果たす」人です。二人のマルタはこのことを念頭において書きました。時間がなかったので(締切まで七時間しかなかった……)世界観などは過去作と共通のものになりました。

次回もお楽しみに。


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23. 父が遺したマドンナ

「あそこです。あの洞窟に、マドンナはいます」

 

 現地の案内人が指差す先を、私は止めどもなく流れる汗を拭いつつ見つめた。濃緑色の密林の中を行くこと一時間、突如として目の前に立ちはだかった岩山の赤茶けた山肌に、洞窟が黒々とした口を開けている。

 

 首から提げているカメラを構え、一枚だけ撮影してから、私は念を押すように案内人に尋ねた。

 

「本当にここなのか? 本当にこの中にマドンナがいるのか?」

「います、います。さあ。はやく、はやく」

 

 案内人はガサガサと音を立てて、草むらの中を進んでいく。期待と恐れが相半ばする気持ちを抱きつつ、私も案内人の後を追った。

 

 

☆☆☆

 

 

 敗戦から二十五年が経った年の盛夏、大宮県の自宅で原稿執筆に精を出していた私は突然、ある一人の男性の訪問を受けた。

 

「私は、あなたのお父さんの戦友です」

 

 開口一番そう言った後、彼はそっと目を伏せた。汗染みたシャツにくたびれたズボン、頭には茶色のソフト帽。歳の頃は五十代の半ばだろうか。我知らず高鳴る心臓の鼓動をよそに、彼は静かにTと名乗った。敦賀県で小さな工場を経営しているという。

 

「あなたを探し出すのに苦労しました。しかし、どうしてもお伝えしなければならないことがありましたので、なんとかここにやってきた次第です……」

 

 そこまで言うと、彼は私の出した茶を飲み干し、そして黙ってしまった。室内だというのに帽子も脱がない。どうやら、何から話し出したものか心の中で整理しているらしい。

 

 私にとってその沈黙はありがたかった。直前に受けた内心の衝撃から立ち直り、冷静にT氏の語るところを聞くためには、幾分か時間が必要だった。

 

 父は敗戦の年に、この日本から4,500キロ南方のメンデン戦線で戦死した。正確な日時は分かっていない。連合軍の総反攻を受けて総崩れになった方面軍に、たかだか一兵卒の死んだ状況を把握する余裕などあるはずがなかった。敗戦後数ヶ月してから乳飲み子の私を抱える母の元に届けられたのは、粗末な紙に印刷された戦死公報一通と、石ころ一つが入った小さな木箱だけだった。

 

 私は父を知らない。私が生まれたのはちょうど父が戦死したと思われる頃だ。三十歳にして召集された父は、母と最初にして最後の名残を交わし、そして外地へと旅立っていった。その後急速に戦況が悪化したこともあって、母は無駄とは知りつつ幾度か父へ手紙を出したけれども、父から手紙を受け取ることはついになかった。

 

 父は母が私を身篭ったことも、私がこの世に生まれたことも知らずに死んだのだろう。私の世代において、このようなことはさして珍しいことではない。父が私を知らないまま死んだことについて、私は特に悲しく思ったりはしない。

 

 しかしそれとは別に、私は父のことをもっと知りたかった。日常、その願望は心の奥深くに隠されていたけれども、ふとした拍子に、例えば夜中激しい雨風の音を耳にしたり、あるいは美しすぎる夕陽を眺めたりした時に、それは突然に顔を出し私を責め苛んだ。

 

 また、決して知ることができないと自覚している分だけ、その苦しみは大きかった。父のことを最もよく知っている身内といえば、それは私の母だったが、母は私が十歳の時に、多くを語らぬうちに胸の病で死んでしまった。

 

 いや、その母にしても父のことをよく知らないようだった。駅で荷物を運ぶのに難渋していた母を父が助けたのをきっかけに二人は交際を始め、一ヶ月後には東京府で結婚式を挙げた。母が言うには、「ここでどうしても結婚しておかなければならないと思った」そうだ。父が南方へ出征したのはその二週間後である。互いに互いの細かな生い立ちを知るだけの時間はなかった。

 

 父は彫刻家だった。それも、売れない彫刻家だった。幼い頃に両親を亡くし、親戚の間を転々としながら育ったという父は、何回か職を変えた後に彫刻家として生計を立てようとしたらしい。どうにか食っていけるだけの腕前はあったようだが、個展を開けるだけの才能はなかったようだ。いや、もしかすると才能はあったのかもしれないが、時局がそれを許さなかった。折しも戦争の真っ只中で、芸術などという「非生産的な」行為は蔑まれていた。

 

 遺された作品は多くない。父は東京府の下町に、アトリエというにはあまりにもささやかな作業場を持っていたが、例の大空襲で燃えてしまった。母は「生活に困ったらすべて売り払ってくれ」と父から言われていたらしいが、それすら出来ずに作品はすべて爆弾と焼夷弾によって灰燼に帰してしまったのだった。

 

 困難な調査の末に私が見ることができた父の作品はわずかに一点、韮山県のとある神社に建っている石像だけで、それは豪州のシドニー軍港を特殊潜航艇で奇襲した海軍軍人を讃えるものだった。戦争から十余年、石像は顧みられることなく、既に苔むしていた。制帽と軍服と短剣を身に纏ったその石像は丁寧な造りではあったが、さして特徴のない、ごく平凡な出来で、あえて平凡に作ったのか、それとも平凡にしか作れなかったのか、それを判断することもできない。

 

 東京府が燃え尽きた後、母は生まれたばかりの私を連れて、常陸にある実家へ戻った。家業を手伝いながら懸命に私を育てた母だったが、生来体が弱く、また得体の知れない男といつの間にか結婚して子どもまで儲けていた女に対する地元の目は冷ややかで、母はほどなくして体を壊した。

 

 床に臥せっている母は、幼い私に向かってよく言った。

 

「仙太郎、あなたには芸術家の血が流れています。自分だけの世界を、自分だけの作品で表現する能力を持つ、芸術家の血が。あなたは自分のお父さんを知らないけれど、私はあなたのお父さんを知っています。一緒に暮らしたのは一ヶ月に満たなかったけれど、お父さんは確かに芸術家でした」

 

 そして、決まって最後にこう言って締めくくるのだった。

 

「あなたは芸術家になりなさい。絵でも、小説でも、詩でも、それこそ彫刻でも、何でも良いです。自分の腕だけで世間と勝負して、自分のあり方を示して行きなさい。あなたには才能があります。人々の偏見に打ち勝っていけるだけの確かな芸術性が、あなたにはあります。お父さんから受け継いだ資質を信じなさい。お母さんはお父さんと一緒に、いつまでもあなたを見守っています……」

 

 母の言った通り、私は芸術家になることにした。芸術家の中でも最も俗物と揶揄される、小説家ではあったが。元より文章を書くことが好きではあったし、それに自分の書いたものが他人の心を喜ばせたりかき乱したりするのに、言いようのない達成感を覚える厄介な性格でもあった。

 

 常陸県の公立校を卒業した後、私は東京府に出てA新聞社の記者見習いになった。忙しい合間にも私は執筆に励み、三年後にようやく小説家としてデビューすることができた。デビュー作は亡き母をモデルにした。駅で交わした二言三言の会話だけで売れない彫刻家と結婚することを決意し、夫の戦死後、孤立無援の中、遺された子どもを育ててひっそりと死んでいく女の話。

 

 母の話を書いている間にも、私の中で例の願望はますます大きくなっていった。私は、父のことを知らなさすぎる。気高く、頭が良くて先を見通す鋭い目を持っていた母が、即座に結婚することを決めたほどの相手。確かに母の一部となっていた父について、私は本当に何も知らないのだ。近所のタバコ屋の娘のことの方が、まだ知っていると言っても良い。

 

 その父を知っている人物が、私の目の前に今、座っている。

 

 大きな黒蠅が窓から入ってきて、部屋の中を一周した後、また窓から外へ出ていった。扇風機がぬるい風を送ってくる。蝉の声がどこか遠く感じられる。

 

 どれくらいの時間が経っただろうか。私は何も言わず、T氏が口を開くのを根気強く待った。私の余計な一言が却って彼の決意を挫き、生まれかけた言葉を殺してしまうのではないか。恐れと、それ以上の好奇心が、私の精神の中を足音も荒々しく駆け巡っていた。

 

 やがてT氏は決心がついたのか、今度ははっきりと視線を私に向けて、低い声で話し始めた。

 

「あなたのお父さんである良太郎さんと出会ったのは、メンデンへ向かう輸送船の中でした。ご存知の通り、その頃すでに我が軍は敗色濃厚で、私たち補充兵はロクな訓練も受けず、一定の数が集まったら送れる分だけまとめて戦地に送られていたんです。制空権も制海権も失っていましたから、輸送船は片っ端から沈められていました。仲間もおらず、たった一人で、いつ沈められるか分からない恐怖に怯えていた私は、食事のたびに吐いていました。軍医も船医もいなかったので、どうすることもできなかったのです」

 

「ある夜、いつものように甲板に出て吐いていた私に、大丈夫かと声をかけてきた人がいます。それが良太郎さんでした。歳は私と同じくらいで、痩せていました。顔は……そう、あなたにそっくりでした。柔和で、優しげで……今日ここでお会いした時、私は声を上げそうになりましたよ。あまりにもあなたが良太郎さんに似ているので……」

 

「消耗しきっている私を見かねたのでしょう、彼は『ちょっと待ってろ』と言って、それからほどなくして一杯の水を持って来てくれました。『元気が出るぞ、飲め』と言うので口をつけてみたら、それは砂糖水でした。『食事が喉を通らないのなら、俺が毎食砂糖水を用意してやる』と、彼は言ってくれました」

 

「すぐに彼とは打ち解けて、友達になりました。それにどういう巡り合わせなのか、彼と私は同じ連隊、同じ中隊でした。友人を得たことで私の精神状態はすぐに改善して、普通の食事も食べられるようになりました。私たちの輸送船も、途中で僚船が三隻沈められ、また二回も雷撃を受けましたが、幸運にも無傷でラングーンに入港できました」

 

「私と良太郎さんは一緒に、エーヤワディー川中流にある大都市マンダレー、その北西80キロの地点にある陣地へ向かいました。しかし車もなく、船便もなかったので、徒歩で向かわざるを得ませんでした。他にも何人か仲間がいましたが、みんな私と同じくらいか、それよりもっと歳を取っていて、歩き始めたその日の夕方にはもう疲れ果てていました」

 

「そんな中、良太郎さんだけは元気でした。私たちが疲労困憊して夕食の準備もできないでいるのを見ると、『ちょっと待ってろ』と行って、暗闇の中何処かへ消えました。二時間ほど経ってから、彼は両手で大きな袋を抱えて帰ってきました。中身は干し肉と、果物と、焼き飯でした。私たちが貪るようにそれを食べているのを眺めながら、彼がポツリと呟きました。『俺たちみたいな老人を前線に送るようじゃ、この戦争はもうダメだな……』と」

 

「道中、私たち一行は良太郎さんに助けられてばかりでした。彼には不思議な才覚があって、必要なものがあると何処かへふらりと消えて、必ずそれを手に入れて帰ってくるのです。食べ物も、医薬品も、時には金や軍票も、彼は持って帰ってきてくれました。それらを独り占めすることもなく、いつも平等に仲間たちに分け与えます。私たちが感謝すると、彼はニヤリと笑って言うのです。『メンデンの住民からの特配さ』と」

 

「何回か空襲を受けましたが、その時にも良太郎さんが助けてくれました。彼は耳が良くて、敵機が接近してくるのをいち早く察知できました。隠れてやり過ごし、また歩くのを繰り返して、ようやくのことで陣地に辿り着きました」

 

「申告すると、中隊長は驚いた顔をしました。『補充兵が一人も欠けることなくここに来るなど、奇跡だ』と言うんです。私は知りませんでしたが、補充兵の中には部隊に辿り着くことすらできず、現地民に殺されたり、自殺したりする者が大勢いたそうです。良太郎さんのおかげで、私たちはみんな元気でした」

 

「しかしながら、戦況は悪化していました。私たちが来る数ヶ月前に、方面軍は無謀な大攻勢を仕掛けて、却って連合軍に手酷く痛めつけられていました。我が軍はエーヤワディー川を防衛線として、それ以上の連合軍の進撃を阻むことになっていましたが、敵機の活動は激しく、陣地構築はなかなか進みませんでした」

 

「敵機は我が物顔で戦場の空を乱舞しました。目についたものはトラックからボートから兵士に至るまで、なんでも撃ったり爆撃したりします。そのため補給は滞りがちで、米の飯を五日に一回食べられれば良い方でした。また、私たちは敵機の目を逃れるために密林の中に陣地と宿舎を作らなければなりませんでしたが、やはり環境としては最悪で、栄養失調と重労働も相まって次々と病人が出ました」

 

「良太郎さんは、しかしここでも例の才覚を発揮しました。流石に毎日ではありませんでしたが、彼は『ちょっと待ってろ』の一言を残して何処かへ行き、そして何かを持ち帰ってくるのです。缶詰だったり、南京米の詰まった袋だったり、大きな豚肉の塊だったり……いったいどこにそんなものがあるのか、私には想像すらできないのに、彼はあたかも近所の商店街へ買い物に行ったように、それらを手に入れてくるのです」

 

「でも、彼が『戦利品』を分けるのは私だけでした。二人でこっそりと食べるのです。なぜ?と訊くと、彼は頬を掻きながら答えました。『なぜって、お前が俺の友達だからだよ。他に理由がいるか?』と。私はそれを聞いて恥ずかしくなりました。出会った時からずっと、私は良太郎さんに世話になりっぱなしで、何もお返しが出来ていません。それなのに、彼は私のことを友達と言ってくれている。いつか恩返しをしたい、いや、しなければならないと思いましたが、その機会がないどころか、方法すら分かりません」

 

「そのうち、私はもっと厄介なことに陥りました。マラリアに罹患してしまったのです。今では法定伝染病となっていて、一度罹れば病院で手厚い治療と看護を受けられる病気ですが、当時の状況ではごくありふれていました。軍医からマラリアと診断された私は、野戦病院に送られることもなく、ただ陣地で安静にしていろと言われただけでした。薬も何も渡されません。『たかがマラリアだ』と……」

 

「診察から帰ってきた私を、分隊長は殴りつけました。私が野戦病院に行けば口減らしになったのに、この役立たずの穀潰しが、というわけです。他の兵士たちも病気の私に構う余裕などありません。私は陣地の外れのタコツボに入れられて、たった一人で、マラリアの高熱と戦うことになりました」

 

「ここでも私を救ってくれたのは、良太郎さんでした。彼は時間を見つけては私のもとにやってきて、焼き飯だの茹で卵だの、果物だのを食べさせてくれました。そればかりではなく、ある時などはキニーネまで持ってきてくれました。そう、マラリアの特効薬の、あのキニーネです。『こんなもの、どうやって手に入れたんだ』と訊くと、彼はニヤッと笑うだけでした」

 

「そのうち私のマラリアも寛解して、立って歩けるようになりました。軍医から勤務に戻って良いと言われたので陣地に戻ると、良太郎さんの姿が見えません。どこに行ったのか、仲間たちに訊くと『今は岩山の洞窟の重営倉に入ってる』と言うのです」

 

「私はそれを聞いて、『ああ、やっぱり!』と思いました。あなたもすでにお気づきでしょうが、良太郎さんは盗みを働いていたのです。彼の不思議な才覚というのは他でもない、盗みのことだったのです。食糧庫や医薬品倉庫から、監視の目を掻い潜って品物を盗み出してくる。素人には到底不可能なことです。私は、良太郎さんが盗みに熟達していると感じました。もしかすると、応召される前から盗みを稼業にしていたのかもしれません」

 

「ですが、私は彼を非難する気にはなれませんでした。むしろ、彼には感謝の気持ちでいっぱいでした。恩を返すには今しかない。そう思った私は、乏しい持ち物をすべてタバコと食べ物に交換すると、時間を見つけて彼に会いに行きました」

 

「密林を更に奥に進み、岩山の洞窟に入ります。その奥に重営倉はありました。監視にタバコを渡して、ろうそくが照らす薄暗がりの中を進むと、行き止まりに彼はいました」

 

「良太郎さんは鋭い石片を持って、一心不乱に壁に何かを彫っていました。どうやら女性のようです。彫刻には詳しくない私でしたが、大した腕前であるのは分かりました。彫刻に見入っていると、彼の方から声をかけてきました。『よう、マラリアはもう良いのかい』と」

 

「私が食べ物を差し出すと、彼は苦笑いしつつも食べてくれました。その顔は、赤黒く腫れ上がっていました。『お前にでっかい肉を食わせてやりたくて張り切ったのが運の尽きだった。番兵に見つかってボコボコにされたよ。こいつは妙に手慣れているっていうので、ここに叩き込まれちまった』と、悪びれもせずに彼は言います」

 

「ポツポツと、彼はそれまでの人生についても話してくれました。小さい頃に両親を亡くした後は、たった一人で生きてきたこと。盗みが主な生活の手段だったこと。ある時ふと改心し、一念発起して彫刻家になるべく頑張ったが、戦争のせいであまり面白い仕事ができなかったこと……」

 

「彼は壁面を指して言いました。『これが俺の最新作になる予定だ。モデルは俺の嫁だよ』 時間はたっぷりあるので、完成させるのに問題はない、ただ薄暗くて手元が見辛いのが難点だと、彼は笑いました」

 

「その後も何回か、私は彼に会いに行きました。彫刻は日に日に完成度を高めていきます。しかし、彼はなんだか思い悩んでいるようでした。『何かが足りない気がする』と彼は言うんです。『もうそれを知ってるはずなんだが、今ひとつ分からない。ミッシングピースってやつだ。それが分かるまで、これ以上手を進めることはできない』と」

 

「もうそろそろ重営倉から出られるというある日、食べ物を届けに行くと、彼はいつもと違った面持ちで言いました。『もし、お前が祖国に帰ることができたら、俺の嫁に会いに行ってくれ。俺がここで自分の最高傑作を残したことを、伝えてほしいんだ』と。住所まで教えてくれます。まるで遺言のようなその言葉に内心息を呑む思いでしたが、私は強いて笑って答えました。『あんたの方が戦場での才覚があるんだから、きっと生きて帰れるよ』と。すると、彼は言うんです。『いや、それを言うならお前の方だ。お前は必ず祖国に生還する。俺の直感がそう告げているんだ』……」

 

「岩山から帰って一息ついていた時でした。私たちの陣地を敵機が空襲したのです。隠蔽は完璧だったはずですが、どういう手段によるものか、とにかく敵は私たちの居場所を正確に把握していて、爆弾の雨を降らせてきました。私が覚えているのは、敵機だという仲間の叫び声と、全身を何か大きな物で叩かれるようなバシッという衝撃、それと口いっぱいの砂の感触だけです」

 

「生き埋めになっていた私は奇跡的なことに助け出されましたが、重傷を負っていました。これを見てください、頭に傷跡があるでしょう? 破片を受けて、頭蓋骨が割れていたんです。私は、今度こそ野戦病院に送られました。その後、何度も幸運が重なって、私は戦争を生き抜くことができました」

 

「良太郎さんには、その後会えずじまいでした。私が野戦病院に送られてから一ヶ月後、連合軍は総反攻を開始して、私の部隊は一兵も残らず全滅しました。文字通り、一人も残らずです。私は、良太郎さんならばあるいは人知れず生きているかもしれないと思い、復員船が出る直前まで探し続けましたが、無駄でした。今では、良太郎さんはあそこで戦死したのだと、私もそう思っています。彼は盗みこそしましたが、仲間を見捨てて逃げるような卑怯者ではありませんでしたから……」

 

 しばらく、沈黙があたりを包んだ。ややあって、私はT氏に、今でも、その洞窟は残っているのかと尋ねた。いつの間にか日は傾いていて、ひぐらしが物悲しげに鳴いている。

 

「確証はありませんが、何事もなければまだ洞窟は残っているはずです。彫刻も、壁に刻まれたままでしょう。私は、そのことを伝えにここに来たのです……」

 

 ようやく肩の荷が下りたと、寂しそうに笑う彼を見送りながら、私は密かに決意を固めていた。メンデンに赴き、必ず父の遺作を見つけ出そうと。

 

 

☆☆☆

 

 

 メンデン行きは、しかしながら難航した。ちょうど大陸では、ある大国が政治的大変動を迎えている時期で、メンデンもその影響を受けて国内でテロが頻発していた。外国人の渡航も制限されており、一介の作家である私が入国することなど不可能だった。

 

 私は焦らず、時期を待った。待つ間、いっそう熱を入れて仕事に励んだ。財産と名声を獲得すると共に、私は家族をも得ることができた。

 

 妻と共に三人の子どもを成人まで育て上げた頃、ようやくメンデン渡航の目処が立った。ちょうど妻は体調を崩しており、私もメンデン行きを中止しようと思ったが、妻は笑いながら言った。

 

「こんなのただの風邪よ。それより、この機会を逃したら次はいつになるか分からないでしょう? 一人で行って来なさい。きっと、お父さんの作品は見つかるわ。写真よろしくね」

 

 父とT氏が輸送船で何日もかけて運ばれた距離も、今日の旅客機ならば一日ほどだった。途中いくつかの空港を経由し、私はついにメンデンの地に降り立った。

 

 車を飛ばしてエーヤワディ川を遡り、マンダレーの街に着くと、私はさっそく聞き込みを開始した。一週間もせずに情報は集まった。この街から北西80キロのところにある洞窟に「マドンナ」がいるという。教会の信徒たちが、そう名付けたとのことだった。私は苦笑せざるを得なかった。父はただ単に、脳裏に浮かぶ自分の妻の姿を彫っただけだろうに……

 

 現地の案内人を連れて洞窟に向かったのが昨日のこと。そして今は、もう洞窟の中にいる。

 

 案内人は松明を掲げながら、無言で奥へ奥へと進んでいく。私も何も言わず、ただ無心で彼の後に付いて行った。

 

 そして突然、それは私の目の前に姿を現した。

 

 松明の赤い炎に照らし出された彫刻は、確かに私の亡き母そのものだった。優美な顔立ちに意志の強い目つき。ゆったりとした服装で、かすかに笑みを浮かべている。彫刻でありながらどこか肉感的で、それでいて崇高さも感じられた。

 

 紛れもない父の遺作、マドンナ。彫刻の前には小さな祭壇が築かれている。

 

 いや、それよりもなによりも、私の目を著しく惹くものがあった。

 

 呆然と、私はそれを眺めた。彫刻の母は、幼児を抱えている。その幼児の顔は、私の子どもたちとそっくりだった。

 

 案内人が口を開いた。彫刻の右下を指し示している。

 

「ここ、ここにね、日本語が彫ってあります。私は読めないけど、あなたなら読めるでしょ」

 

 私は顔を近づけて、それを掠れた声で読み上げた。

 

「愛する妻と、まだ見ぬ我が子に……」

 

 卒然と、私は理解した。父は、私の誕生を直感したに違いない。そして、芸術家としての感性と才能をすべて働かせて、最後に私を彫り上げたのだろう。

 

 父は私というミッシングピースを埋めて、確かに作品を完成させていたのだ。

 

 すべてを悟って泣き崩れる私に、マドンナは幼児を抱きながら、優しく微笑みかけていた。




※以下、作品メモとなりますので、興味のない方はここで読むのを終えられるか、もしくはお手数ですが後書きを非表示に設定してください。

らいん・とほたー「父が遺したマドンナ」作品メモ

2020年7月12日公開。

通算23本目となるオリジナル短編。エブリスタ主催の妄想コンテスト「お父さん」に応募した作品です。

この少し前に書いた「アンドロメダの涙」で「父と子とそれにまつわる因縁」を書いてしまっていたので、アイデアを出すのにかなり苦労しました。何か書けそうな気がするのに、それが具体的な形を伴わないという非常に苦しい状態のまま数日間を過ごす羽目に。

お題が「お父さん」と言うからには子どもからの視点で書かなければなりません。私の小説的な信条として「謎を提示して読者の興味を牽引する」というのがありますので、「父にまつわる謎を子が最終的に知る、解き明かす」という流れはすぐにできたのですが、さてその謎をどうするか?

最初は「敵国である魔族から、父の遺骨で作られたナイフとフォークが送られてきた。死体損壊行為に激怒した息子は復讐を誓い、最終的に魔族の国を攻め滅ぼすが、魔族たちの本当の意図は……」などと考えていましたが、どうにもこれでは暗すぎる上に短編に収まりそうにありません。なにより、書いていて面白くなさそうなのが致命的でした。

困っていたときにふと本棚を見ると、仏師という単語が目に入りました。瞬間、「これだ!」と閃き、後は微調整をして構想がまとまりました。ありがたかったです。

次回もどうぞお楽しみに。


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24. 凄絶なるアストライアー

「君が今日、私を訪ねてきた理由はぼんやりとだが分かっているつもりだ。単に中等学校以来の久闊を叙するというわけではあるまい。君は作家だ。しかも、大衆作家だ。芸術性よりも、読者が求める娯楽を提供しようという、生産性を重視する稼業だ。だから、おそらく君は、私から何か読者を喜ばせるような面白い話のネタを得られないかと、そう思ってきたのだろう? あの戦争で、あの広大無辺な非情の空で、私が体験したなにがしかの興味深い出来事、それを聞きたいと思ってここに来たはずだ。違うかな?」

 

「いや、私は怒っているわけではない。確かに軍人というものは無意味なまでに誇り高くて、自分の経験した命がけの戦いを飯のタネにされるのを嫌うものだ。だが私は違う。たとえ二束三文の原稿料のためでも良い、私は、私の戦いを作家の手によって記述してもらいたいと思っている。そもそも私が中途で学校を抜け出して飛行士を志したのも、作家たちが書いた大空の勇士たちの物語に憧れたからだ。だから今日、私がこれから君に話すことは、すべて作品に生かしてもらって構わない」

 

「それにしても、いったい何から話したものかな? 君は、私が南方の空で夜間戦闘機の操縦者として飛んでいたことは知っているかね? 煌めく星々の大海をただ単機、黙然と孤独に飛び、僅かな月明りを浴びつつ獲物を求めて徘徊する、夜の狩猟者。それが夜間戦闘機だ。夜に生きる者の宿命だが、あまり華々しい話はない。昼の空の王者であるワシやタカを国鳥にする国家は多いが、フクロウやミミズクを象徴にする国家はないだろう? それと同じだ」

 

「まあそれでも、作品になるかどうかは別として、君の興味を惹くような話はできると思う。私自身、もはや戦後二十年が経過しているというのに、あの一連の出来事の意味を図りかねているのだ。少なくとも、科学では説明のつかない、不思議な話なのは間違いない……」

 

 

☆☆☆

 

 

「君とは中等学校の入学式で知り合ったな。私は運動が得意で、君は勉強が得意だった。互いに互いの足りない部分を補いあうという、理想的な友情を育むことができた。そろそろ第四学年に差し掛かろうかという冬に、私が飛行士になるべきか迷っていた時、真っ先に私の背中を後押ししてくれたのも君だった。思えば受験に必要な学力も、君がいたからこそ私は涵養することができた。特に古典や外国語など、君が教えてくれなければ……いや、あまりこまごまとしたことを掘り起こすのはやめよう。君が聞きたいのはこういう話ではないだろうからな」

 

「私は飛行士にはなりたかったが、しかし軍人にはなりたくなかった。私が憧れていたのは冒険飛行家だ。大陸から大陸へ、海洋を横断し、荒涼たる原野と峨々たる山脈を飛び越え、人々の夢と希望を叶えるために飛ぶような、そういう存在に私はなりたかった。だが、時代が時代だった。十代の若者が飛行士になるには、必然的に軍の少年飛行兵にならざるを得ない。迷った末、私は海軍の航空隊に入ることにした。泥臭い陸よりも海のほうがまだロマンがあると考えたわけだ。至極純粋で、稚拙な考えだが」

 

「訓練のことについて、あまり話すことはない。厳しく、辛く、戦後の民主主義社会的価値観からすれば人権蹂躙と言っても良いようなこともあったが、その分だけ私と私の同期生たちは強く、実り豊かに育っていった。折しも大戦争勃発の気配が濃厚に漂っていた時期だ。誰もがみな戦いを予感し、そして戦いを望んでいた。私を除いてね」

 

「決して表に出すことはなかったが、私はその時でもまだ冒険飛行家の夢を捨てていなかった。戦闘機に乗って敵機を追いまわしたり、爆撃機や攻撃機に乗って敵の艦船を沈めたりといったことには、まったく興味が持てなかった。そういうことは、戦闘のために空を利用しているに過ぎないと感じたからだ。私はもっと純粋に、ただ飛ぶためだけに空を飛びたかった。だから乗るなら輸送機か、偵察機か、観測機か、そういった戦闘を本務としない機種が良いと思っていた。これがいかに浅慮だったかは、戦場に出てから思い知ることになるが……」

 

「希望機種調査の際、同期生の全員が戦闘機を第一志望とした。そう書かなければならない風潮があった。もし偵察機や輸送機などを第一志望としたら、きっと『貴様には敢闘精神が足らん!』などと言われ、足腰が立たなくなるまで殴られただろう。だから、私も戦闘機を第一志望とした。ご丁寧に志望の字を二重線で消して、『熱望』と書き直しまでしてね。心の中では『どうか落ちますように』と願いながら……当時の世の中には戦闘機操縦者になりたいという夢を抱いている子どもたちが大勢いたのに、私はそんな不純なことを願っていたわけだ」

 

「不運な偶然というか、それとも当然の帰結というか、私の願いは叶わなかった。たしかフランク人の戯曲に『いやいやながら医者にされ』というのがあったな。私もちょうどそんなことになった。『いやいやながら戦闘機操縦者にされ』てしまったのだ。私は同期生三十五名中成績がトップだった。私がさきほど『熱望』と書いた理由が分かっただろう? 組織において、トップの者にはそれなりの考え方と振る舞いが求められるものだ。実力があれば自由になれるというわけではない、いやむしろ、実力があればあるほど不自由になるのが軍隊だ」

 

「まあ、戦闘機に実際に乗り始めてからは、私の考えも次第に変わっていった。戦闘機はとにかく、小回りが利く。敵機を撃ち落とすための合目的的な飛行とはいえ、『俺は空を支配している』という満足感が得られる。支配! 若者にとってこれほど魅力的なものはあるまい? 私も次第にそれに感化されていった。私自身に射撃と機動の類まれなる才能があったのも強く影響した。不幸なことに、私は戦闘機操縦者として逸材だったのだ」

 

「ほどなくして、あの戦争が勃発した。私は艦隊ではなく、陸上航空隊に配属された。初陣は大陸の空だったが、戦線が南方へ急拡大するにつれて、私の戦場も南へと移った。大火山の噴煙たなびくニュー・アルビオン島、そのシンプソンハーフェン基地に着任したその時までに、私は既に大小合わせて十機の敵機を撃墜していた。確か新聞の記事にもなったはずだ、『若き空の勇士たち』などという見出しで……」

 

「その頃の私たち勇士の悩みといえば、もっぱら敵の夜間爆撃機だった。敵は夜ごと単機で、複数回に分かれて飛んでくる。私たちが昼間の酷暑と戦闘で疲れ切った体を、宿舎のハンモックの上でようやく休ませることができるその時を見計らったように、敵機は忍ぶようにエンジン音を絞りつつ飛んでくるのだ。奴らは優秀な観測装置を積んでいて、悪魔も眠る暗闇の中、正確に照準をつけて爆弾を投下していく。毎晩、なにがしかの被害が出た。格納庫だったり、弾薬庫や燃料集積所だったり……死者が出ることも少なくなかった。ある夜などは、狙いを逸れた大型爆弾が防空壕に直撃して、十人以上が一度に生き埋めになったことがあった。バラバラになった手足と引き裂かれた胴体が土から出てきた時は、思わず身震いして顔を背けたよ」

 

「夜、私はしばしば空を見上げ、しばらく眺めたものだった。南方の空は内地とはまったく異なっていた。優しい星明りを浴びつつ、月光に憩い、恋人たちが愛を語り合うような内地の夜空とは違い、南方の夜空は凄絶な迫力を持っていた。星降る夜という言葉があるが、その本当の意味を知りたければ君も南方に行けば良い。その夜空には天空の神々の原初の息遣いがある。地を這い、大地に醜い傷跡を残しながら僅かな糧を得る矮小な私たちを、虫カゴの中の虫どもを眺めるような無機質で冷ややかな視線で以て眺める、超越的存在の気配を感じられるはずだ」

 

「そのような神々が住まう夜空を切り裂いて飛来する敵機に、私は敬意と、それ以上の怒りを抱いていた。いや、怒りというよりも嫉妬の念というべきか。彼らは危険に立ち向かっていて、成果を上げている。彼らは夜ごとに大冒険を繰り広げ、夜空を支配しているのだ。君は知るまいが、夜間飛行というものは大変困難なものだ。星の大海を飛ぶと、次第に自己と外界との区別が失われていく。いつの間にか飛行姿勢を崩していて、気づけば背面飛行をしているなんていうこともある。最悪の場合は、空間識失調で墜落だ。そんな危険をものともせず飛ぶ彼らに、若い私が『俺も夜空を支配したい』という青臭い対抗心を燃やしたとしても、特段不思議ではあるまい?」

 

「司令部も対策を練っていた。彼らはレーダーを積んだ新型の夜間戦闘機の配備を本国に求めていたが、それが到着するにはなお時間がかかる見通しだった。不充分であることは分かっていても、手持ちのカードで戦争するしかない。昼間用の単座戦闘機を黒く塗装し、それを飛ばして、敵に対抗することになった。私はその役目に真っ先に志願した。神々の領域に挑戦したかったのだ。訓練生時代に、夜間飛行の手ほどきは受けている。私はすぐに夜戦要員として選抜された」

 

「さて、ここからが問題だ。あの星降る夜に体験したことを、私はこれから包み隠さず君に話すつもりだが、おそらくそれは君にとってにわかに信じられない内容だろう。しかし、作家というのは信じられない話をもっともらしく書くのが仕事だろうから、私の話はきっと良いネタになるに違いない」

 

「私はあの夜空で、一人の女に出会ったのだ」

 

 

☆☆☆

 

 

「最初の一週間、私は何も戦果を上げられなかった。飛ぶことに支障はなかったのだが、敵機を捕まえることができなかったのだ。敵機の来襲方向はその時々で異なっており、ある時は真っ直ぐ海上から基地上空に突っ込んでくることもあれば、次は裏をかいて大きく迂回し、火山のほうから飛んでくることもあった。地上からの誘導もない。その頃の我が軍にはレーダーがなく、敵機の探知はもっぱら聴音機とサーチライト、それから目視に頼っていた。こんなことで敵を見つけられるわけがなかった。そのことを司令も飛行長も分かっていたのか、私に辛く当たることはなかったが、それが却って私を焦らせた」 

 

「八日目になって初めて、私は敵機を捕捉した。思い切って方針を変えて、基地上空から離れずに敵を待つことにしたのだ。この方法だと敵の爆撃を阻止できないが、しかし敵を見つけられる可能性は多少上がる。事実、その通りになった。夕暮れの飛行場を離陸し、待つこと三時間。暗い地上に突如として紅蓮の花がパッと咲いたその瞬間、弾薬庫が爆発したのか、巨大な火の玉が出現した。その炎に照らし出された敵の五人乗り双発爆撃機が、海上へ滑るように飛んでいくのを私は目撃した」

 

「私はすぐさま敵を追いかけた。しかし、爆弾という重荷を捨てた敵機の足は速く、なかなか追いつくことができない。敵は私の存在に気付いているのか、それとも気付いていないのか、いずれにせよ機首を下げ猛スピードで戦場から離脱していく。私は舌打ちをした。こちらは戦闘機だというのに、鈍重な爆撃機に追いつけないとは……」

 

「心の中で、ムラムラと敵愾心が湧き起こった。燃料ならば充分にある。このまま追いかけて、奴を絶対に撃墜してやる! スロットル全開、機首を下げて位置エネルギーを運動エネルギーに変換、私は猛然と奴を追いかけ始めた。その甲斐あってか、はじめはなかなか縮まらなかった距離も、だんだんと詰まってきた」

 

「だが、私は目を酷使しすぎた。敵機の姿は次第にぼやけて幽霊のようなシルエットになり、ついには見えなくなってしまった。私は臍を噛んだ。既に基地から百リーグ離れた海上だ。新手の敵機が基地に来ているかもしれない。引き返そうか? いや、必ず敵機はまだ近くにいる。きっと捕捉できる。挫けそうになる自分を励まして、私はもう一度索敵するために周囲を見回した。その時だ」

 

「私の機体から見て三時の方向、つまり右手の方向だが、そこに何かが飛んでいた。淡く光り輝く、白い粒子を無数に撒き散らして飛ぶ何か。私と並行するようにして飛んでいる。光に包まれているせいで、その大きさはよく分からない。私は思わず息を呑んだ。一瞬、敵の新型の夜間戦闘機かと思ったが、それならばこれほどまでに光を放つわけはないと、すぐにその考えを振り払った」

 

「正体不明の飛行物体は、私の機と同じ時速四百二十リーグでなおも飛び続けている。新種の鳥類か? しかしいくら未開の南方とはいえ、これほどの高速で直線飛行できる鳥類がいるわけがない。それならば、幻覚だろうか? 酸素供給装置が故障していたり発動機の排気が操縦席に流れ込んだりしていると、飛行中に酸欠になって幻覚を見ることがある。私は光る物体に意識を向けつつ機体を素早くチェックした。どこにも異常はない」

 

「こうなるともう、私にはそれ以上考えることは不可能だった。光る物体と編隊を組むように一緒に飛んでいる、そんな状態が数分続いた」

 

「突然、光る物体は鋭く旋回して、私に近寄ってきた。私はその時、ようやくその正体に気づいた。それは女だった。若い女だった。私たちの民族とは違う、目鼻立ちの整った美しい顔をしている。長い髪は金色で、肌は白い。歳の頃は私とさほど変わらない。ほっそりとした体に、古代ヘラス人が着ていたような緩やかな純白の衣服を身に纏っている」

 

「何より私の目を惹いたのは、彼女の背中だった。そこからは巨大な一対の白い翼が生えていた。力強く左右に展開しているその翼からは、まばゆいばかりの光の粒子が惜しげもなく大気へと振り散らされている。まるで星々の守護者であるかのように、彼女と彼女の翼は夜空に存在感を主張していた」

 

「呆然として眺める私と彼女の目があった。私はぞっとした。彼女は氷のような無表情だった。そのうえ、光り輝く彼女の体とは対照的に、彼女の灰色の瞳は何も映していないかのような、完全なる空虚を宿していた。やがて、彼女は口だけで薄い笑みを浮かべると、そっと右手で何かを指し示した。その先に、私が追い求めていた敵機が忽然と姿を現した。距離はもう二百メートルもない。やはり近くにいたのだ。私はその時、これだけ光っているものを連れていたら敵に存在が暴露してしまうと、一瞬焦った。しかし敵は、何事もなかったかのように飛び続けている」

 

「彼女は翼を力強く羽ばたかせると、ぐんと増速して私から離れていき、今度は敵機のそばにぴったりとくっついた。離れているのに、私には彼女の一挙手一投足が良く見えた。見る間に、彼女は白銀に輝く光の粒子を吐息に乗せて、ふぅっと敵機に吹き付けた。敵機は瞬く間に燐光に覆われていくが、敵の搭乗員は何も気づいていないのか、動きに変化はない」

 

「彼我の距離は既に五十メートル。私は後上方に占位した。攻撃するには絶好のポジションだ。敵の防御銃座からの反撃はない。有翼の彼女は未だに敵機と並行して飛んでいる。だが、私は迷っていた。なぜかは分からないが、今だけは撃ってはならないような気がしてならなかった。その時、彼女がこちらに顔を向けた。距離があるのに、私は彼女に顔を覗き込まれている気がした。無表情のまま彼女が口を開いた。聞こえるわけがないのに、確かに私の耳には聞こえた。『撃て』と……」

 

「気づいた時には、私は機関砲の発射ボタンを押していた。四門の機関砲から耳障りな発砲音が連続し、赤色の曳光弾のシャワーが敵機の左エンジンから胴体にかけて降り注いだ。見る見るうちに、光り輝く敵機は真っ赤な炎に包まれた。がっくりと項垂れるように機首を下げると、敵機はそのまま降下し、十数秒後には海面に激突して波しぶきを立てた」

 

「撃墜の喜びを味わうことなどできるはずもなかった。私は、有翼の彼女がどうなったのか、それだけが気がかりだった。見ると、彼女は波間に没した敵機の真上に羽ばたきもせずに滞空していて、どういうわけか両手を広げていた。すると、海の中から五つの光の玉が浮かび上がってくるのが見えた。光の玉は彼女のほうへ吸い込まれていく。それぞれが逃げようとするかのように藻掻いたが、ほどなくしてすべて彼女の胸の中に消えていった」

 

「気づいた時には、彼女は消えていた。私は正気に戻ったような心地がした。フルスロットルで追いかけたために、燃料は残り少ない。私は基地に帰ることにした。帰りながらも、私は自分が見たものの意味について考えていた。あの五つの玉は何だったのか? 玉を回収する彼女はいったい何なのか……?」

 

「初の夜間撃墜に上官も仲間たちも喜んでくれたが、私は釈然としない思いだった。あの撃墜は、私自身の実力によるものではない。彼女が示してくれなければ、今回もまた夜空に負けて、むなしく敵機を逃していただろう。それでいて、私は誰にも彼女の件について相談することができないのだ。そんなことを口に出せば、私は航空神経症と判断されて、夜間飛行を禁じられるに決まっている」

 

「私は、せめて正体不明の彼女に名前をつけることで、割り切れない気持ちに整理をつけることにした。星降る夜の空に燐光を纏って降臨した有翼の女。はっと思い当たることがあった。ヘラスの神話に『星の乙女』と呼ばれる、アストライアーという女神がいたはずだ。有翼の星の女神。そうだ、彼女をそう呼ぶことにしよう……」

 

 

☆☆☆

 

 

「私はその後もアストライアーと遭遇した。彼女は決まって星降る夜に出現し、私が敵機を見失うと、最初の時と同じように光の吐息を吹きかけて、私に目標を指し示した。私は撃墜戦果を重ね、一カ月も経つ頃には八機の爆撃機を仕留めていた。この間の経緯については、自由に脚色してくれて構わない。作家としての力量を存分に発揮して、私がアストライアーとともに夜空で戦果を上げる様を描くのは、きっと仕事全体の中でも特にやりがいのある部分だろう。尤も私にとっては、今やどうでもよいことだが……ともあれ、レーダーもない時期にあって、これは驚異的なことだった。私は南遣艦隊司令官から個人感状を授与された」

 

「その頃になると、私はすっかり安心しきっていた。いや、油断していたというべきかもしれない。初めはアストライアーに恐怖にも似た感情を抱いていたが、今では救いの女神とでも言うような崇拝の念を覚えている。彼女がいれば戦果は約束されたも同然だ。危険な夜空も、今や勝手知ったる狩猟場に過ぎない。自分はもはや地を這う人間ではなく、夜空の覇者である猛禽類だ。哀れな犠牲者に音もなく忍び寄り、鋭い爪を突き立て、易々と肉を貪ることができる……」

 

「その夜の出撃前、私はつい仲間の一人に、問われるままに自分の戦果の秘密を話してしまった。その仲間は私と同年代で、特に親しくしていた者だった。私がアストライアーについて語ると、彼はなぜか深刻そうな顔をして言った。『なあ、大丈夫なのか、俺にそんなことを話して。いや、お前の精神がおかしくなっていると言いたいわけじゃない。ただ昔話でもよくあるように、怪異が力を貸してくれているのを誰かに話すと、話した者には不幸が降りかかるというじゃないか……』 私は笑って答えた。『あれは怪異じゃない。俺の女神だよ』と」

 

「その夜も、満天の星空だった。私は周囲に警戒しつつ、アストライアーがやってくるのを待った。だがその日に限って、なぜか彼女はやって来なかった。もうしばらく待ってみたが、それでも来ない。おかしいとは思ったが、やがて気を取り直した。そうだ、俺は夜空の支配者だ。全知全能であるがごとく飛び回り、意のままに敵を殺すことができる。アストライアーがいなくとも、もう何も問題はない……」

 

「ほどなくして、私の目は敵の爆撃機が超低空で海上から侵入してくるのを捉えた。私は機体を降下させ、一連射を浴びせた。敵機は脆くも空中で爆発した。私はほくそ笑んだ。『やっぱり、アストライアーなしでも俺はやれるぞ』と」

 

「その日はなぜか敵機が多かった。通常、多くとも一晩に三機しか来ない奴らが、五機以上いる。私はわき目も振らずそれらを追いかけた。私に襲われた敵機は例外なく火の玉と煙の輪になって消えた。星降る夜に、私は残虐な殺戮劇の舞台をただ一人、夢中になって跳ね回っていた」

 

「五機目を海上で撃ち落とした後、戦場は小康状態となった。私はキャノピーを開けて座席ベルトを緩め、一つ深呼吸をしてから夜空を見上げた。つい先ほど大量殺人を見せつけられていたはずなのに、星々は相変わらず輝いていて、媚びるように私に光を投げかけていた。私は思わず独り言ちていた。『今ならお前たち星々だって撃ち落とせるぞ!』と」

 

「突然、私の機体が機首から尾部に至るまで強く光り輝いた。何かに照らし出されているのではなく、私の機体そのものが発光源であるかのように、数えきれないほどの光の粒子を纏っている。私はこの光に見覚えがあった。これは、アストライアーの吐息だ! 狼狽して視線を左右に巡らせると、九時方向にそれはいた」

 

「そこにはアストライアーがいた。無表情のままに、私に吐息を吹きかけている。その空虚な目は私をしっかりと見つめていた。『やめろ!』 叫ぶ私に対して、彼女は息を吹きかけ続ける。『やめろ!』 再度私が叫んだ時、彼女は南方の夜空そのものの凄絶な笑みを浮かべた。そして、何かを言おうとするのか息を吹くのを止め、口を開きかけた」

 

「次の瞬間、私の機体は真紅の炎に包まれていた。敵の夜間戦闘機に撃たれたのだ。どうやら敵はその夜、私を排除するための作戦を立てていたらしい。爆撃機を囮にして、怨敵である私を釣り出したのだ。そのことを理解する間もなく、機体は大爆発を起こした。運の良いことに私はキャノピーを開けていたため、爆発の衝撃で機外に放り出された。数秒の浮遊感を味わった後のことは覚えていない」

 

「気づいた時には、私は病院船のベッドに横たわっていた。全身に重い火傷を負っており、無数の破片が食い込んでいた。担当の軍医が言うには、私が撃墜される様子は地上でも見えていたとのことで、海に落ちた私を救助するために即座に救難艇が出たらしい」

 

「軍医は言った。『君をすぐに救助することができたのは、一つ理由があってな。救難艇の乗員たちが、波間の上に白く光り輝く女を見たというのだ。その女は背中に翼があって、なぜか両手を広げていたらしい。そこへ向かうと、女は消えて見えなくなってしまったが、代わりに君を見つけることができたという。いやはや、その女は君にとっての守護天使か何かだったのかもしれないな』と……」

 

「私はその後内地に送られ、首都の海軍病院に入院した。日常生活に支障がないほどには回復したが、結局元のように飛ぶことはできなかった。各地の練習航空隊で学生たちを教えている間に戦争が終わった。私の同期生三十五名のうち、生き残ったのは三名だけだ。学生たちもほとんどが戦死した」

 

「今でも私は考えざるを得ない。果たして、あれは本当に『星の乙女』アストライアーだったのかと。アストライアーは荒廃の一途を辿る地上に最後まで残り、人類に正義を訴え続けた慈悲深い女神だ。そんな女神がなぜ戦争に力を貸したのか? 星々の大海を行く者に力を与え、驕り高ぶる者には正義の鉄槌を下す。私が彼女に息を吹きかけられたのも、仲間に秘密を喋ったからではなく、私が『星も撃ち落とせる』と傲慢に言い放ったからではないか。そのように考えられないこともないが、しかしそれにしては、あの時あの瞬間の彼女の笑みは、あまりにも凄絶なものだった」

 

「この内地にいる君には、やはり理解できまい。星降る夜というのは、本当に恐ろしいものなのだよ」




※以下、作品メモとなりますので、興味のない方はここで読むのを終えられるか、もしくはお手数ですが後書きを非表示に設定してください。

らいん・とほたー「凄絶なるアストライアー」作品メモ

2020年7月26日公開。

通算二十四本目となるオリジナル短編。エブリスタ主催の妄想コンテスト「星降る夜に」に応募した作品です。

おそらく主催側としてはロマンチックな恋愛話やヒューマンドラマといった作品を欲しがっていたのでしょうが、私にはどうしてもその方向で話を考えることができませんでした。というよりも、「ほら星空だよ、綺麗だよね? ロマンチックだよね?」と言われているようでなんとなく気分が乗りませんでした。曲解と被害妄想も良いところなのですが……

星降る夜、愛を囁く恋人たちがいる一方で、また別のところでは恐ろしい出来事に見舞われている人々もいるはずです。殺人だったり、戦争だったり……今回はそういうことを念頭に置いて話を組み立ててみました。モチーフはギリシア神話のアストライアーにしました。名前がものすごくカッコいいですよね、アストライアー。

最近はあまりホラーが書けていなかったので、個人的には満足しています。次回もどうぞお楽しみに!


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25. 憧憬のエンゲルイェーガー

 弾丸は命中した。

 

 二百五十メートルほどの距離があったが、何か大いなる力に導かれたように飛んで行ったものだと私には思われた。標的は眉間に弾丸を受け、その場に崩れ落ちた。

 

 隣で息を殺していた娘が、標的が倒れたのを見るや即座に駆け出そうとした。それを私は片手で制止した。

 

「いや、まだ安心してはならない。最近の奴らは頑丈になってきている。銃に弾丸を込めろ」

 

 装填を終えた私たちは、油断なく銃を構えたままそれに近づいた。今回の獲物もかなり大きい。地面に飛沫のように飛び散っている白銀の液体は、獲物の血液だ。真っ白な胴体の腰のあたりには三つの首が並んでおり、背中には純白の翼が生えている。クモのような八本の脚は縮こまっていた。

 

 確かに死んでいるようだ。娘も同じことを考えたのだろう。そっと溜息を吐くのが聞こえた。

 

 私はナイフを取り出しつつ、獲物を再度観察した。

 

「この顔は、ラインハルト爺とゲルトルード、それと村に派遣されてきた兵隊のエックハルトだな……卵管はついていない。まだ成熟前だったのだろう。アガーテ、何度も教えているように、こいつの死体は高く売れる。皮は大砲の弾も通さないし、血は魔術の触媒に使える。肉は食えないが、骨は削れば良い刃物になる。もしこれらを売らないとなると、銀の弾丸が買えない。つまり、もう狩猟ができなくなる。解体は非常に重要な仕事だ。さあ、この間教えたようにやってみろ。まずは血抜きからだ」

 

 娘は臆した様子もなく、涼やかな声で答えた。

 

「はい、父さん」

 

 私からナイフを手渡された後、娘は無言で、順序良く獲物を解体していく。その光景を見て、私はほくそ笑んだ。良し、良し。アガーテは立派な狩人になった。黒髪の美しい、怜悧な顔立ちをした娘。こんな状況でなければ、誰かと恋をしているのかもしれない。

 

 これならば、独力で獲物を仕留めることができる日もそう遠くはない。

 

 娘は私の教えることを乾いた砂が水を吸い込むように学んでくれたが、それでもここまでくるのに時間がかかった。それだけ、この狩猟は危険なのだ。

 

 なにしろ、天使(エンゲル)を狩るのだから。

 

 

☆☆☆

 

 

 銃を初めて手にしたのは八歳の時だった。その銃は軍から払い下げられたマスケット銃で、父から譲り渡されたものだった。幼い私の背丈に匹敵するほど長く、それまで手にしたどの道具よりも重いその武器は、どう考えても小さな私の手に余る得物だった。

 

 だが、八歳の私は高揚していた。いや、高揚というよりもそれは全能感に近かったかもしれない。今こうして手にしているのは玩具ではなく、本物の銃であり、紛れもなく生き物の命を奪う力を持っている! この銃によって世界に干渉し、支配する力を与えられた! それになにより、なりたい存在になることができる!

 

 そう、父さんのように!

 

 そのような感慨は、幼さゆえはっきりと言葉によって表現することはできなかったが、あの高揚感こそが私の原点であるのは間違いない。

 

 だが、そのように浮ついた気持ちでいる私に対し、青い鳥の羽根飾りのついた帽子を被った父は、厳かな面持ちをしつつ言った。

 

「マックス、俺たちが暮らす森に獲物はいない。いるのは敵だ。一方的に狩られる存在などおらず、一方的に狩る存在もいないのが森という場所なのだ。これから毎日銃の修行に励め。そして、心を鍛えろ。敵に殺されないように、なにより、森に呑まれないように」

 

 窘めるような父の言葉に、我に返った私は素直に頷いた。猟師が狩猟に夢中になって森の奥深くへ入り込み、結局戻ってこなかったという話は、それまで何度となく聞かされていた。それに森の獣たちも、時には猟師たちに襲い掛かり、逆に命を奪うこともある。

 

 それでも、私がはじめに考えたのは、銃の修行でも心を鍛えることでもなく、父のことだった。私が六歳の頃、森に巨大で獰猛なイノシシが出没し、幾人もの猟師を傷つけ、殺したことがあった。ついには村にまで侵入してきたそのイノシシを仕留めたのは、父だった。父は村の人々から英雄として讃えられ、その功績が認められて領主から森林官補の役職まで与えられた。

 

 私も父のように立派な猟師になりたい。この仕事を始めた理由は、このように何ら変わったところのない、平凡なものだった。とはいえ、その平凡さこそが私を猟師にしてくれたのだと思っている。たった一人で闇すら飲み込む深き森に立ち向かい、神と自然によって与えられ育まれた温かな命を銃弾一発で無惨に奪うことの、その重大さについて考えてしまったら、私はきっと猟師にならなかっただろう。

 

 銃を手にしたその日から修行に励むことになった。私はさっそく銃が撃てるものと期待したが、父は私に弾薬を渡さなかった。代わりに私が命じられたのは、体力作りと銃の分解整備だった。毎朝銃を担いで父と共に森に入り、日が暮れるまで歩き続けて、父の狩猟を隣で見て学んだ。罠の仕掛け方、風の読み方、気配を消して隠れ、待ち伏せする方法。それと、殺した獲物を手早く解体する技術に、火薬の調合と弾丸の作り方。日が沈む頃には父と共に村に帰るか、あるいは森の中で野営をした。

 

 夕食後は一日を振り返るための時間に充てられた。以前教えられたことを覚えていなかった場合、父は怒鳴ることこそなかったが、静かな面持ちの中に失望感をうっすらと滲ませていた。私はただ申し訳なくて、一生懸命に励んだ。やがて眠る時間が来ると、父は私を抱き寄せて、二人で安らかな寝息を立てた。

 

 私は、父と共に森で過ごす夜が好きだった。森は、父が言うように、敵が充満する戦場だったが、それと同時に、私の童心を刺激する格好の遊び場でもあった。父の温もりを感じつつ、フクロウの鳴き声をまどろみの中で楽しみ、夜の闇の中で自分の呼吸を暗い森の息吹に溶け込ませていく。それは同世代の子どもたちがするありとあらゆる遊びの中で、最も面白いものであると、私は幼心に感じていた。

 

 下積みは四年続いた。初めて獲物を仕留めたのは十二歳の時だった。その日私たちは親一頭と仔三頭のイノシシたちを見つけた。父が親の方を撃ち、私が仔を撃った。父は正確に頭部に弾を送り込んでいたが、私の弾は右前脚に当たった。残った仔は逃げ去った。痛みと苦悶に泣き叫ぶ仔を前にしばし呆然としている私に、父は無言でナイフを手渡した。私はそれまで父がやってきた通りに、仔の喉を掻き切った。溢れ出る血の生々しいまでの鮮やかさと温かさに、ようやく私は命を奪うことの意味について理解した。

 

 その後、私は順調に猟師として成長していった。十七歳の頃には、もう父と一緒ではなくとも、一人で森に入り一人で獲物を仕留めることができるようになっていた。村人たちは「流石はハンスの息子マックス、次の世代もこれで安泰だ」と口々に言った。父のように村に害為す大物を撃つ機会こそなかったけれども、私は一歩一歩着実に、幼い頃に憧れた父の姿に近づいている自分自身に満足していた。

 

 

☆☆☆

 

 

 転機となったのは、私が二十歳になった時だった。その日、村に従卒を連れた一人の将校がやってきた。黒い軍服に銀のサーベルを佩いた、いかにも威風堂々とした彼は、その容姿に見合わぬ甲高い声で言った。

 

「我が王国は東方の魔族たちの侵攻を受け、未曾有の危機にある。軍は射撃技量に秀でた健康優良なる男子を欲している。猟兵として志願する者はいないか。志願した者は王国軍最精鋭たる猟兵連隊に配属され、除隊後は森林官補として禄を得るであろう」

 

 村には私たち親子の他に猟師が何人かいたが、いずれも軍務に身を置くにはいささか年老いていた。必然的に、私が志願することになった。出発する前夜、父は滅多にないことに酒を飲み、そして就寝時には私を呼び寄せて、幼い頃と同じように抱き合って寝た。

 

 私には、父の気持ちが痛いほど分かった。母は既になく、子は私だけ。魔族は剽悍にして精強であり、戦場にいけば十中八九命はない。いくら私に天性の射撃の才能があっても、生きて帰れるかは分からなかった。

 

 私は翌朝、日が昇る前にそっと寝台を抜け出し、前夜に纏めておいた荷物を持って村を出た。道を進み丘に登って、ふと村の方を振り返ると、薄靄の中に人影が見えた。私はそれを、父だと確信した。

 

 戦場は、予想に違わず過酷だった。私は猟兵として主に敵の指揮官の狙撃に従事した。軍から支給された銃は、私がこれまで使っていたマスケット銃を遥かに上回る性能を持つライフル銃だった。どんなに整備し、使い慣れたマスケット銃でも、有効射程は二十メートル前後であるのに対し、ライフル銃はその十倍以上の距離にいる標的に対し、正確に弾丸を送り込むことができた。

 

 王国軍は私たち猟兵連隊の活躍もあり善戦したが、魔族たちは遥かに強大だった。赤紫色の肌をし、人間よりも二回りも大きい体格を持つ彼らは、弾丸を一、二発受けただけでは死なない。頭部、特に眉間に、鉛ではなく銀で出来た弾丸を正確に命中させなければ、彼らは即死しなかった。

 

 兵士でありながら、私たちは魔族を恐れた。単なる敵ならば、そこまで恐れる必要はなかったが、しかし魔族はあらゆる生き物を、特に人間を好んで喰らうのだ。彼らはなるべく人間を生かして捕らえ、生きたまま切り刻むか、大釜に投げ込むかして、人間の新鮮な肉を味わうのが常だった。

 

 また、魔族は繫殖力が高かった。人間よりも遥かに早い間隔で、彼らは子どもを産み、育て、そして戦線に投入した。将軍たちが戦術の冴えを見せて魔族の一個軍団を壊滅させても、さしたる損害とならないのが常だった。

 

 私は戦争の最後の年に、それまで敵の歩兵隊長を十五人、魔術師を十人、砲兵指揮官を四人狙撃した功績で勲章を授けられたが、その頃には戦線は崩壊し、王国の滅亡は時間の問題となっていた。

 

 ここで、奇跡が起こった。突如として魔族に白い軍勢が襲い掛かったのだ。その白い軍勢は「天使(エンゲル)」と呼ばれた。無論、本当の天使ではない。それは王国の魔術研究団が開発した、人工的な生物だった。天使たちは王都防衛戦にて初めて投入され、瞬く間に魔族の軍勢を四散させた。

 

 絶体絶命だった私たちを救った天使たちだったが、その姿は天使らしからぬものだった。天使たちは魔族をそっくりそのまま白く塗り替えたような容姿をしていた。魔族のコウモリのような黒い翼は白鳥のような純白の羽となっていて、赤紫の肌は病的なまでの青白さに変わり、目には瞳がなく、ただ夜の獣のように爛々と光り輝いていた。

 

 戦いの後、たまたま魔術師から話を聞く機会があった。彼は得意げにこう語った。

 

「我々が開発した天使には二つ特徴がある。それは成長をし、増殖をするということだ。つまり、我々がいちいちフラスコを揺らしたり培養槽に薬液を注いで製造をしなくても、彼らを野に放つだけで自動的に増えていくのだ。そう、魔族共のようにね。とりあえず王国内に蔓延る魔族を一掃するために、すべての町と村に天使を送る予定だ。王国から魔族を追い出したら、次は奴らの本拠地に送る。数年もすれば、魔族の国は天使の国になっているだろうよ……」

 

 私はその言葉を聞いて、一抹の不安を覚えた。確かに、あの天使たちは魔族たちを一方的に殺戮する力を持っている。その点だけを見れば、神の軍勢といっても良い。

 

 しかし一方で私は、天使たちに恐れにも似た何かを感じていた。私は戦いの中で、一体の天使が魔族を殺す光景を目撃していた。天使は剣や槍や銃を使わない。天使は目から黄金色の光を発するとそれで魔族を動けなくし、そして普段は皮膚の下に隠されている大きな口で、敵を一呑みにする。口には上下二列に生え揃った鋭い牙があり、ぬめぬめとしたよだれが垂れていた。魔族が上げる断末魔の悲鳴。その後に続くボリボリという骨を砕く咀嚼音。それがしばらく続いた後、天使の姿はまた変わっていく。数分後には、さきほど食らい尽くした魔族そっくりになっていた。

 

 まるで、肉食獣だ。本当の天使が持っているであろう愛や慈しみはまったく感じられない。ただ食欲に従って敵を食らい尽くすだけ。いや、オオカミのような肉食獣ですら満足したらそれ以上獲物を追わないのに、天使は違う。私は、その魔族を捕食した天使がすぐに次の魔族を襲い、そして食らい尽くすところも見ていた。

 

 私は魔術師に言った。

 

「あの天使たちだが、本当に魔族しか襲わないんだろうな? 人間を襲ったりはしないだろうな?」

 

 私の問いに対して魔術師は、学問のある者が無学な者を嘲笑う典型的な態度で以て答えた。

 

「そんなことはあり得ないな! 我々はその点しっかりと考慮に入れて設計しておいた。魔族を襲い、魔族を食らい、魔族の姿と能力を引き継いで、かつ増殖するというのが、設計の基本理念だ。どうだい、今私が述べた中に『人間を襲い、喰らう』などという要素が含まれていたかね……」

 

 戦争はその後数か月もしないうちに終結した。魔族たちは王国から駆逐され、本国に逃げ帰って行った。私たち猟兵の招集もほどなくして解除となった。王国の戦費は枯渇しており、大規模な軍勢を維持することが不可能になったからだ。それに、王国は天使に全幅の信頼を寄せているようだった。

 

 王国全土にばら撒かれた天使たちは、どうやって回収されるのだろうか。そのような疑問を抱きつつ、私はライフル銃と勲章と、森林官補の任命状を手にして村に帰った。

 

 

☆☆☆

 

 

 村は荒廃していた。聞けば、魔族の部隊が襲来し、破壊と略奪の限りを尽くしたとのことだった。しかし、死んだ者は少なかった。父が村人たちを連れて森に避難し、魔族たちからの追及から逃れたとのことだった。

 

 やはり父は父だ。年老いてしまったが、あの魔族を翻弄するなど、いまだ村の英雄に違いない。幼い頃に憧れた父の姿そのままだ。私は一刻も早く父に会いたかったが、しかしその姿はどこにもなかった。

 

 私の帰還を聞いた村人たちが周りに集まってきたが、彼らは一様に浮かない顔をしていた。やがて鍛冶職人のオットーが、おずおずと口を開いた。

 

「例の天使が来て、村から魔族は消え去ったんだ。俺たちは村に帰って、しばらくは再建に精を出していた。そしたらな、二週間前、村長のところの孫娘のエルザがいなくなったんだ。『森の天使に会いに行く』と言って、そのまま姿が見えなくなった。誰かが一緒について行けば良かったんだが……ハンスは、『俺が探しに行く』と言って、森に入った。それっきりハンスも帰ってこなくて……」

 

 私は即座に森に行くことに決めた。その時、私は戦場でも感じたことのない胸騒ぎを覚えていた。魔術師は確かに言った、「人間を襲い、喰らうなどということはあり得ない」と。だが、あの天使らしからぬ天使には、何か隠された秘密があるような気がしてならなかった。

 

 引き止める村人たちを説得し、私はライフル銃を持って森に入った。父が向かいそうな所は熟知している。父とは八歳の頃から一緒に狩猟していたのだ。父はおそらく、村から十キロの地点にある仮小屋へ向かうはずだ。まずはそこへ行くことにした。

 

 トウヒとブナが密生する森はいつも通りの深閑さであったが、どこか言いようのない緊張感を孕んでいるように感じられた。

 

 ほどなくして、私はその理由に気が付いた。まず、鳥の鳴き声がしない。それに、小動物の姿が見当たらない。そして、シカやイノシシなどの大型の動物がどこにもいない。森に棲む生きとし生けるものすべてが、忽然と姿を消してしまったようだった。

 

 二時間ほど森の奥へ進むと、私は奇妙なものを見つけた。それは倒木の陰に隠れるように、整然と列をなして立ち並んでいた。

 

 一抱えほどもある、青白い球体。それがびっしりと地面に植え付けられている。蝶や蛾の卵のような形をしているが、とてつもなく大きい。そっと手で触れると、驚くべきことにそれは熱を持っており、静かに脈打っていて、薄く粘液まで纏っていた。今まで何度も森に入ったが、このようなものは見たことがない。明らかに異常な物体だった。

 

 その時、私の脳裏にはっと閃くものがあった。「天使は増殖をする」とあの魔術師は言った。もしや、その増殖とはこれなのでは? これは、天使の卵なのではないか? 思えば、この卵と思われる物体の色は、天使たちの肌の色とまったく同じだ。これは、天使がここに産み落とした卵の群れなのでは……

 

 考えに耽る私の耳に、突然、声が聞こえた。

 

「おーい」

 

 それは、父の声だった。苦しい戦陣生活でも忘れることのなかった父の声。懐かしい、温もりのある声。それが聞こえる。

 

 私は周囲を見渡し、叫んだ。

 

「父さん! 父さんですか!」

 

 しかし、父の姿はどこにも見当たらない。それでも父の声はなおも聞こえてくる。

 

「おーい、おーい。息子よ、こっちだ、こっちに来てくれー」

 

 鬱蒼とした樹木によって奇妙に反響した声は聞き取り辛かったが、どうやら森の更に奥からこちらへと発せられているようだった。私は銃を手に取ると、すぐにそこへ向かった。

 

 私を呼ぶ声はなおも続いている。歩きつつ、私はふと違和感を覚えた。父は「おーい」などと私を呼ぶような人だったか? 父は寡黙で、滅多なことがない限り自分から口を開かない人だった。それに、私のことを「息子よ」などと呼ぶとは? 父は私のことを必ず「マックス」と呼ぶのに……

 

 すぐに父は見つかった。父は頭だけを出して地面に埋まっていた。その顔は奇妙に歪んでいた。媚びるような、へつらうような、にやけた笑みを浮かべている。父がこのような顔をしたことなど、今までに一度もない。

 

 それよりも驚いたのは、父の顔が真っ白だったことだ。父の顔は天使と同じ、青白いものとなっていた。

 

 訝しむ私を余所に、父は相変わらずにやけた笑みを浮かべつつ、異様なほどに陽気な声を上げた。

 

「息子よ、こっちだ、早く来て助けてくれ。落とし穴に嵌ってしまったんだ、助けてくれ」

 

 落とし穴に嵌る? そんなことがあり得るのか? いや、父ほど狩猟を熟知しているものはいない。落とし穴に嵌ることなどあり得ない。私は父に意識を向けつつ、素早くライフル銃に弾丸を装填した。そして、おもむろに父の頭部に向けて照準し、声が震えそうになるのを抑えて、言った。

 

「お前は、いったいなんだ」

 

 父はにやけながら答えた。

 

「息子を愛する、ハンスだよ」

 

 聞き終わるのを待つまでもなく、私は引き金を引いた。父は口に出して「私を愛する」などとは絶対に言わない。父は行動と態度で私に愛を伝える人だからだ。

 

 だから、これは偽物だ。轟音と共に発射された鉛の弾丸は、数瞬も待たずして父らしきものの眉間に吸い込まれた。

 

 絶叫。その声はもはや父のものではなかった。そして次の瞬間地面が激しく振動し、濛々たる砂塵を巻き上げて、地下から父らしきものの体が姿を現した。

 

 それは怪物だった。巨大な怪物だった。イノシシの胴体に人間の上半身がそそり立っていて、下半身には無数のシカの脚が生えている。背中からは純白の翼が伸びており、尻尾のある場所には粘液に覆われた円筒形の物体が突き出ている。

 

 私は、上半身のある部分に目を奪われた。そこには少女の顔があった。かすかに見覚えのあるその顔は、おそらく村長の孫娘エルザのものだろう。少女の顔も、奇妙な笑みを浮かべていた。

 

 眉間を手で押さえ悶絶する怪物はしばらくのたうち回っていたが、ややあってズルっという場違いなほど生々しい音を立てた。見ると、臀部の円筒形の物体から何かを地面に産み落としたようだった。

 

 それは、さきほど見たあの卵だった。円筒形の物体は卵管だったのだ。愕然とする私に、怪物は言った。

 

「腹が減ってよう、卵を産むと腹が減ってよう。だから息子よ、お前が欲しいんだよう」

 

 見る間に上半身の腹部に切れ込みが走り、そこから大きな口が姿を現した。見覚えのある口。天使が魔族を丸呑みにした時に見せた、あの口と同じだ。怪物はその大口を開けたまま、私に向かって突進した。

 

 だが怪物はその巨体を持て余し気味なようで、私が間一髪のところで突進を避けると、勢いあまって転倒した。私は距離を取り、銃に弾丸を装填しようとして、一瞬動きを止めた。

 

 さっき撃った鉛の弾丸は効かなかった。ならば、銀の弾丸ならば……?

 

 考えている間に、私の手は勝手に動いていた。上着のポケットに入れていた銀の弾丸を装填し、怪物が再び起き上がるのを待った。

 

 怪物は起き上がると、叫んだ。

 

「卵をよう、産みたいんだよう。卵を、卵を!」

 

 これは、断じて父ではない。ただの怪物だ。そう自分に言い聞かせながら、私は引き金を引いた。銀の弾丸は、今度こそ怪物の眉間を撃ち抜いた。怪物はあっけなく動きを止めた。

 

 私は油断せず、銃を構えていた。すると、死んだはずの怪物の巨体がげぼっという嘔吐の音を立てた。上半身の口から、何かが吐き出された。それは折れた銃と、青い鳥の羽根飾りがついた帽子だった。いずれも父の物だ。

 

「父さん……」

 

 父はきっと、怪物と最後まで戦ったのだろう。だが、鉛の弾しか持っていなかった父は勝てなかったのだ。私は帽子を拾い上げると、頭にかぶった。生臭い粘液も気にならなかった。

 

 最期の瞬間まで、きっと、父は憧れの父だったのだ。

 

 

☆☆☆

 

 

 魔術師たちは誤っていた。天使は魔族を喰らうことで、容姿と能力を引き継ぐ。だが、魔族が持つ「生きとし生けるものを喰らう」という本能すらも引き継ぐことに気付いていなかった。結果、魔族を喰らった天使は行動と思考に変化が生じ、周囲のあらゆる生命を喰らい尽くす存在となった。そして、捕食活動によって得た栄養を用いて大量の卵を産むようになった。魔族の強烈な繫殖力が自己増殖という天使の機能を増幅したのだ。充分な研究期間があればそれに気付いたかもしれないが、あの当時の王国は追い詰められていた。

 

 父と少女エルザの死を悲しむ間もなく、村はその日から異形の天使の襲撃に脅かされることになった。どうやら私が倒したあの天使は、森中に卵をばら撒いていたらしい。卵は数日の成熟期間を経てから孵化し、中から白くて大きな芋虫のような幼体が生まれる。芋虫は積極的に小動物を捕食し、脱皮を繰り返して次第に成長し、ついには大型動物まで捕食するようになる。その段階で増殖が可能となるのだ。

 

 私は毎日森に入っては卵を探して壊し、芋虫を潰し、時には村人を捕食した天使を射殺した。銀の弾丸は天使の死体を売って得た金か、村人たちのなけなしの財産を鋳つぶして作ることで入手できたが、森に入って天使を狩ることができるのは私だけで、絶望的なまでに人手が足りなかった。若者たちは危険な村を離れて都市へ逃げてしまい、残ったのが老人たちだけだったことも影響した。

 

 王国全土で、天使たちは猛威を振るっていた。魔族の国も壊滅したらしいが、私にとってはもはやどうでも良いことだった。

 

 後継者を作る必要を私は感じていた。私は老いた。あの日、父を喰った天使を殺してから、もう三十年近くになる。毎日休むことなく森の中で実りなき戦いを繰り広げていた私は心身共に消耗し、水面に顔を映すと、実年齢よりも二十歳は老けて見える。髪は白くなり、歯もほとんど抜けてしまった。

 

 唯一の望みは、娘のアガーテだった。私が三十歳の頃に生まれた娘は、物静かで控えめな性格をしているが、射撃の腕前と狩猟のセンスは私を凌駕するほどだ。まるで、私の父の生まれ変わりのようだった。妻を天使に喰われ、その天使を仕留め損ねた後、しばらく意気消沈してしまった私に代わり、アガーテは進んで森に入り、見事にその天使を撃ってくれた。

 

 五百体目の天使を撃ったら、私は引退をしようと決意した。既に森を歩くだけで疲労感が募るようになっていた。

 

 私はその日、ついに五百体目を仕留めた。そのせいで気が抜けてしまったのか、私は背後から近づく天使に気付かなかった。私は右腕を食い千切られた。直後、アガーテが駆けつけてその天使を撃ったが、天使は眉間を撃たれたにもかかわらず死ぬことはなく、森の奥へ逃げ去って行った。

 

 奴らは、また変化している。アガーテに応急処置をしてもらいながら、私はそう感じた。これまでも、奴らを殺し切るのに銀の弾丸一発では足りなくなっていた。いずれ奴らは、もっと変化をするのではないだろうか。より人間的になった天使たちは、人間のように考え、人間のように組織を作り、人間のように軍隊を起こすのでは……? 朦朧としながらも、私は暗い予感に怯えた。

 

 娘の力を借りて荒廃しきった村になんとか帰りつくことができたが、私はその後一週間昏睡状態に陥った。ようやく目覚めた私は、アガーテに私のライフル銃と、青い鳥の羽根飾りのついた帽子を無言で与えた。

 

 私の意志を理解してくれた娘は、帽子を受け取るとすぐに頭に被り、そして銃を手にして外へ出ようとした。

 

「もう今日は日が暮れる。やめておいたほうが良い」

 

 夜は天使たちの行動が活発になる。しかし、私の心配を余所に、アガーテは静かに首を左右に振った。

 

「でも父さん、あの天使は父さんの右腕を食べたでしょう? それなら、たぶん今頃あの天使は父さんの顔になっているはずよ。父さんの顔をした天使が生き物を食べ散らかす光景なんて、想像したくもない」

 

 確かに、それはその通りだ。だが……

 

「お前は以前、母さんの顔をした天使を撃った。その上父親の顔をした天使を撃たせたくない。俺も昔、お前のおじいさんを喰った天使を撃った。あの時の悲しさは……」

 

 結局、私は父のようにはなれなかった。父は村を守ったが、私は村を守れなかったのだから。これほどまでに荒廃してしまった村など、滅んだも同然ではないか。

 

 あの時、父の顔をした天使を撃ったのは、私の憧れが永久に憧れのままに終わるということを暗示していたのかもしれない……

 

 まとまりのない私の言葉に、アガーテは滅多にないことに、不敵な表情を浮かべた。

 

「大丈夫、母さんは死んじゃったけど、父さんはまだ生きているわ。これからも父さんが一緒だと分かっているから、なんの躊躇いもなくあの天使を撃てると思う。それにね」

 

 アガーテは帽子を被り直し、冷静な表情のどこかに照れを隠しながら、呟くように言った。

 

「憧れの父さんに、一歩でも近づきたいから」

 

 言うなり、娘はライフル銃を担いで、宵闇の迫る森へ向けて脇目も振らず走り去った。




※以下、作品メモとなりますので、興味のない方はここで読むのを終えられるか、もしくはお手数ですが後書きを非表示に設定してください。

らいん・とほたー「憧憬のエンゲルイェーガー」作品メモ

2020年12月08日公開。

通算二十五本目となるオリジナル短編。エブリスタ主催の妄想コンテスト「この仕事を始めた理由」に応募するために書いた作品です。

長い間オリジナル短編を書いていなかったので、今回はリハビリも兼ねてさらっと書いてみました。さらっと? いえ、やはり苦戦しました。特に、オチをどうつけるのかが悩みどころでした。

今回は三つのプロット案を作り、その中から一番「書きたい」と思うものを選びました。そう、今書きたいものがホラーだったんですね。

これを8000字に縮約するという大仕事が控えているのに目を背けつつ、今は「なんとか書き上げた!」という満足感に浸っておきます。

次回もお楽しみに。


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26. ウォルフの掃除は終わった

 その日の朝もウォルフは、まだ誰も来ていない教室にカバンを置くと、すぐに飼育小屋へ向かった。飼育小屋は中庭にあって、ガラス張りの温室の隣にひっそりと佇んでいる。

 

 彼は小屋の前に立つと鍵を回し、建付けの悪いドアをなるべく音を立てないように開けた。

 

 中には、ウサギたちがいた。大きいのが十二羽。いずれも異なった毛の色をしていて、血肉の通ったただの生き物にしてはあまりにもか弱く、愛らしい姿をしている。よく肥えていて毛並みも良く、元気に溢れているウォルフの自慢の動物たち。ウサギたちは彼の姿を見ると、鼻をひくひくとさせながら、彼の足元に摺り寄って来た。

 

 ウォルフは満足げにウサギたちを眺めた後、持ってきた袋の中身を床にぶちまけた。それは大量のキャベツの切れ端だった。ウサギたちは即座にキャベツに群がると、一心不乱に齧り始めた。彼の母がザワークラウトを作る時に切り捨てた、食べるには硬すぎる部分。それをウサギたちは何の苦もなく口にし、飲み込んでいく。

 

 彼は二羽の純白のウサギを撫でながら、優しい声を投げかけた。

 

「アデーレにカール、今日もお前たちは一緒なんだね。本当にお前たちは仲が良いね」

 

 小川のせせらぎのようなウサギたちの咀嚼音を耳にしながら、ウォルフは満足感に浸っていた。彼がこのウサギたちをここまで大きくしたのだ。並々ならぬ熱意と努力の賜物だった。

 

 食事が終わった後、彼はウサギたちを小屋の隅に追いやりつつ、箒を手に取って掃除を始めた。ふと、彼は入口に誰かが立っている気配を感じた。振り向くと、そこには生物の教師がいた。中年の、頭が禿げかけた教師はウォルフに薄く笑みを投げかけると、おもむろに口を開いた。

 

「やあウォルフ、おはよう。ウサギたちは元気かな?」

 

 穏やかすぎるほどのその声音に、ウォルフは内心予感するものがあった。すぐに、彼の舌下にほろ苦いものが走った。

 

「はい先生。元気です」

 

 ややぶっきらぼうなウォルフの短い返答に教師は気分を害した色もなく、満足げに頷いた。そして、なんということはないというふうに言った。

 

「そうか、それは良かった。じゃあ、この中から二羽、見繕ってくれ。今日の生物の授業で、ウサギの生体解剖をしたい。一羽は通常のジエチルエーテルで、もう一羽は例のニガヨモギとアスフォルデルの魔法薬で麻酔をかける。なるべく肥えていて、健康なやつを頼むよ。そうだ、そこの二羽、そのぴったりと寄り添ってる白い二羽だ。それが良い。それを頼む」

 

 教師が指さした先には、アデーレとカールがいた。ウォルフは即答しなかった。彼の顔に強い拒否の気配を感じとった教師は、やれやれといったように吐息を漏らした。

 

「ウォルフ(狼)という名前なのに、どうしてそんなにウサギ(ハーゼ)に執着するのかね。こんなのはただの家畜だよ。それに、こいつらは君の所有物じゃない。君に預けているだけだ。授業で使うとなったら、すぐにでも差し出してもらわないと困る。君ももう十四歳だろう。それくらいは分かるはずだ。それにな……」

 

 教師はシガレットケースから一本の煙草を取り出すと火を点け、軽く一服した後に言った。

 

「二週間後には、このウサギたちも全部軍に供出されることになっている。前線では飛行帽と防寒具が不足してる。あまり生き物などに愛着を抱かないことだ。我が帝国の分別ある大人は、生き物ごときに入れ込んだりしないものだよ……」

 

 その日、生物の授業が終わった後、ウォルフは二羽のウサギの亡骸を抱えて、中庭の外れに墓を作った。アデーレとカールの墓。ウサギのように、こじんまりとした可愛らしい墓だった。

 

 ウォルフは墓穴を掘った時に土で汚れた手を水道で洗うと、そのまま家路に就いた。

 

 その晩、彼はアデーレとカールを抱いている夢を見た。夢の中のウサギたちは元気で、ふわふわとしていた。目覚めた時、彼は自分の目から涙が零れていることに気付いた。

 

 

☆☆☆

 

 

 ウォルフが十歳の時、戦争が始まった。

 

 彼の祖国である大ゲルマニア帝国は壮麗にして無惨な戦争を始めた。大陸随一の魔法科学と魔力工学技術を誇り、人口においても経済規模においても他国に抜きん出ていた帝国は、二度目となる世界大戦の引き金を引いた。優れた兵士と魔術師、高性能な兵器に新型の魔法術式、帝国は周辺諸国を次々に侵略し、征服して、占領地の国民たちを圧伏し、富を収奪した。

 

 当時、まだ幼かったウォルフには、同年代の子どもたちと同じく、戦争というものの実態を理解できていなかった。彼はただ戦争を、胸躍るもの、カッコいいもの、楽しいものとして受け取っていた。

 

 ウォルフが十二歳の時、故郷の街で郷土連隊が凱旋パレードを行った。彼は黒い純粋な瞳で、整然と隊伍を組んで行進する兵士たちを見た。青紫色のエーテル排気煙を噴き上げ、荘重な響きを立てて走る魔力戦車に興奮した。黒いマントをはためかせ、装具の銀色も鮮やかな魔術兵たちが、太く長い軍用魔術杖を掲げて歩調を合わせているのを見て、彼は自分もそうなりたいと思った。

 

 そんなウォルフの隣で、父が彼の手を握りながら、ごくごく小さな声で言った。

 

「緒戦は上々。ポルスカ人も、デーン人も、フランク人もやっつけた。アングリア人も自分たちの島に逃げて行った。問題はこれからだ。これからが勝つか、負けるかの分かれ道だ。あの兵士たちも、これからはきっと……」

 

 父の言葉に、ウォルフは軽い反撥を覚えた。父さんは、何を言っているのだろう。ぼくたちの国は勝ったじゃないか。これでもう戦争は終わるのに、どうしてそんなに気弱なことを言うんだろう……

 

 そんなウォルフの幼稚な考えとは裏腹に、戦いはますます激化した。彼が見た凱旋パレードから一年後、帝国は東方のルーシ人たちの国に四百万の大軍をもって攻め込んだ。当初、帝国はルーシ人たちの国を一気呵成に呑み込む勢いを見せたが、次第に進撃の速度は鈍り、ようやく敵首都広場の尖塔を望見できる地点に辿り着いた時には、猛烈な寒気が押し寄せていた。

 

 その後、帝国は負け続けた。無数の敵を殺し、捕らえ、住民を連行し、食料と財産を奪い尽くしたが、帝国はそれ以上に敗北を重ねた。精鋭は次第に少なくなり、年老いた兵士が本国から戦線へと送られるようになった。

 

 ウォルフが十六歳になった時、彼の父も召集された。行く先はルーシ人たちと熾烈な戦闘を繰り広げている、東部戦線だった。父は出征前日、母と、ウォルフと、まだ六歳にしかならない弟を居間に集めて、厳粛な面持ちをしつつ言った。

 

「お前たちがつまらない希望にいつまでもしがみつくのに俺は堪えられない。だから言っておく。俺は死ぬ。生きて帰らない。ルーシ人に殺されるだろう。明日からは俺がもうこの世にいないものとして考えてくれ。ウォルフ、お前はもう十六歳だ。母さんとエルンストを守ってやることができる。後は頼んだぞ」

 

 父はそれから半年後に死んだ。薄く青い紙に印刷されたたった一通の戦死公報には、死の詳しい状況などは書かれておらず、ただ「壮烈なる戦死を遂げた」とのみ書かれていた。とうの昔に覚悟していたはずなのに、ウォルフたちはその夜、ただひたすらに泣いた。

 

 生活は貧しかった。ほんの少しの遺族年金など、日々のパンを買うにも足りないものだった。戦況が悪化するにつれて物資は不足し、食料と日用品の価格は暴騰していた。母は朝早くから夜遅くまで兵器工場で働いた。ウォルフも学校に行くことをやめて、昼は製革工場で働き、夜は消防団の一員として訓練に励んだ。

 

 ある夜、ウォルフの街を敵の爆撃機の大編隊が襲った。それはアングリア人たちの爆撃機だった。彼らは高射砲の弾幕と夜間戦闘機の奮闘を意に介さず、夜空から爆弾と焼夷弾の雨を降らせた。市街地と軍事施設、工業地帯の別なく、アングリア人たちは街を徹底的に焼き尽くした。それは地獄の業火というにも生温いものだった。

 

 ウォルフは無意味な消火活動に奔走した。消防団の貧弱なポンプと放水車では、街を包む炎にはまるで無力だった。戦線に送られず街に残っていた年老いた魔術師たちも命を削って盛んに水魔法を行使したが、結果は変わらなかった。

 

 炎は生き物のように揺らめき、建物を舐め、人を呑み込み、水すらも燃やした。三日後、街は燃え尽きた。彼が通った学校も、黄昏時に渡った橋も、甘いものを買い食いした市場も、すべて燃えた。さながら、街は巨大な骸骨だった。煤と埃で全身を真っ黒にした彼が、かつて家があったところに行くと、そこには瓦礫の山があるだけだった。

 

 ウォルフは母と弟を探した。あの時父から「守ってやれ」と言われていた。だが結局、その言葉が守れなかったことを彼は知った。母と弟は共同防空壕で生き埋めになっていた。大型爆弾が直撃したとのことだった。彼が対面したのは、千切れた母の左腕だけだった。巻かれていた腕時計がなければ、おそらく判別できなかっただろう。彼は、白い靄がかかったような頭で、果たして二人は苦しんだのか、それとも即死できたのか、そんなことを考えていた。

 

 既に祖父母もない。他に親戚もいない。天涯孤独の身となったウォルフを引き取ったのは、軍隊だった。他に行くところはなかった。入営した時彼が思ったのは、これでとにかく飢えと渇きを癒せるだろう、ということだった。彼の精神はあまりにも擦り切れていた。家族の死と、自分だけが生き残ったことの意味を考えることができないほどに、彼は摩耗していた。

 

 食べて、寝れば、きっとまたぼくは悲しむことができるだろう。ウォルフはそんなことを思っていた。だが、軍隊は悲しみを必要としていなかった。命令されなければ悲しむことすらできないのが軍隊であることを、ウォルフはようやく知った。いつしか涙も出なくなっていた。

 

 虐待同然のような訓練期間を経て、ウォルフはついに前線に送られた。そこは帝国の辺境に位置する、元はフランク人たちの住んでいた土地だった。敵は既にすぐそこまで迫っていた。

 

 彼は右も左も分からぬまま、手に余るほどの重くて長い旧式な銃を持って戦場を這いずり回った。彼は一度も銃を撃たなかった。いや、撃てなかった。ウサギのように隠れたり逃げたりするのに必死で、敵の姿さえまともに見たかどうかも怪しかった。仲間たちは次々と死んでいき、残ったのは彼だけだった。

 

 気づけば彼は捕虜になっていた。その経緯に関する記憶が、彼の頭からはすっぽりと抜け落ちていた。だがウォルフは、そんなことはどうでも良いと思っていた。どうせ、大したことは起こっていないだろう。たぶん、なんとなく銃を捨てて、両手を上にあげて、隠れていた汚い家畜小屋かそれとも森の藪から出て行って、敵に向かって歩いていっただけだろう。

 

 ウォルフが収容所で捕虜生活を始めて四か月後、帝国は無条件降伏をした。しかし、ウォルフは国に帰ることができなかった。彼はある任務のため、フランク人の軍隊に属することになった。

 

 もっとも、国に帰ったところで、彼には何もなかったのだが。

 

 

☆☆☆

 

 

 そのフランク人の男は、見るからに剛健だった。大柄の骨格に分厚い筋肉を纏っていて、カーキ色のシャツは力強く隆起している。日差しを受けた軍曹の階級を示す襟章が、嫌にウォルフの目についた。

 

 軍曹は、二列に並んだ三十人の少年兵たちを前にして、大きなだみ声で言った。

 

「俺はお前たちが子どもだからといって容赦はせん。お前たちはブタだ。帝国の魔術主義の狂信者だ。俺たちフランク人の大地を侵略した帝国の大人共と何ら変わらん。だが、俺たちの国は野蛮な帝国と違い、文化国家だ。教育には力を入れている。これからお前たちがブタではなく、人間として生きて行くための、更生の機会を用意した」

 

 そこで一旦言葉を切ると、彼はウォルフを見つめ、前に出るよう顎で示した。ウォルフは逆らうことなく、前に出た。

 

「おい、ブタ。これからお前たちが何をやるか分かるか?」

 

 ウォルフはなるべく大きな声でそれに答えた。

 

「いいえ、軍曹殿!」

 

 虚勢を張っていることを感じ取ったのか、軍曹は蔑むような表情を浮かべた。

 

「分からんのか。やはりお前たちはブタだな。いいか、お前たちが今日からやるのは、『お掃除』だ! 分かるか、お掃除だ! ブチ吐いた反吐の後片付けは、反吐を吐いた奴がやるべきだよな。お前らブタは帝国が撒き散らした反吐の後片付けをする! どうだ、汚物漁りの得意なブタが人間になるには、お似合いの任務だろうが。掃除ほど人間的な仕事はないからな!」

 

 それから軍曹は、具体的なことを話し始めた。彼が語るには、これからウォルフ達少年兵が行うのは、帝国が森林地帯に敷設した地雷の撤去作業とのことだった。帝国は侵入してくる敵を防ぐため、その森を地雷の巣に変えてしまったらしい。

 

「帝国がこの森にばら撒いた地雷は九千発! しかもこの地雷は、ただの地雷じゃない! お前たちの邪術が生み出した、魔力式自律自走地雷だ! 意味は分かるか? 地面に埋まって敵が来るのを待つだけの機械式地雷ではなく、自分で思考し、敵を見つけ、近づいてきて爆発する地雷なんだ! まったく、とんだ帝国の置き土産だ。これまでに森に入った地元住民が何人も死んでいる。とっくに戦争が終わったのにもかかわらずだ! お前たちはこれを命にかえても掃除しろ!」

 

 軍曹の言葉の後、メガネをかけた瘦身の伍長がやってきて、ボソボソとした声で模型と図を用いて説明を始めた。

 

「魔力式自律自走地雷は、未だ謎が多い。動力源も管制方法も、何も分かっていない。だが、見た目と基本的な仕組みは分かっている。見た目はこの模型の通り、野ウサギとそっくりだ。素早く走り、穴に身を隠し、敵が来たら足元から飛びついて爆発する。だが、見分ける方法はある。両耳が青白い円筒形の物体に置き換わっていて、緑色に発光しているからだ。それが信管になっている。奴らを見つけたら、まず深呼吸をしろ。精神を落ち着けるんだ。地雷は、標的の負の情動反応を探知して接近してくる。殺意や敵意、敵愾心、恐怖、いずれも奴らを引き寄せ、爆発させる」

 

 伍長は淡々と説明を続けた。

 

「標的を見つけたら、心を平常に保って、近づけ。奴らを抱き上げたら、首の後ろを探れ。そこにボタンがついている。それを押した後、信管となっている耳を左から引き抜け。ただし、ゆっくりとだ。焦って強引に引き抜くと爆発する……良いか、くれぐれも平常心を保つことだ。恐れたり、敵意を向けたりしてはならない。さあ、この模型でこれから実践演習だ。まずそこのお前、前に出てやってみせろ……」

 

 ほどなくして、少年兵たちは森に送られることになった。訓練期間は一週間に満たなかった。当然、武器はなかった。地雷を、しかも正体不明の魔術兵器を無力化しなければならないのに、少年兵たちは銃剣一本すら持つことが許されなかった。

 

 初日、まだ樹々が闇を纏い梢が僅かに朝日に照らされているだけの早朝、軍曹は言った。

 

「言っているように、お前たちはそれぞれの区域で単独で行動する。複数人で組むと、除去の効率が落ちる。それに爆発した時に被害が大きくなるからな。おっと、逃げようだなんて思うなよ。森は深い。何も持たないお前たちが森を抜けるなど絶対にできん。もし仮に逃げたとしたら、その分だけ残った連中の食事を減らし、標準作業量を増やす。分かったな」

 

 そこまで言ってから、軍曹は笑みを浮かべた。それは獰猛で凶悪だったが、どこか親しみを込めた笑みだった。

 

「一人三百発を除去したら、家に帰してやる。三百発を掃除しない限り、家には帰さん。腕が千切れても足が無くなってもだ」

 

 少年兵たちは森に入った。途中で集団は次第に小さくなり、気付けばウォルフは一人になって、担当区域を歩いていた。

 

 彼は何も感じていなかった。ブタと罵られようが、狂信者と言われようが、何も反論する気は起きなかった。家族をすべて失い、生きて行くために少年兵になったのだとあの軍曹に反駁したところで、何になるだろう。

 

 それに、今ではもう、家族のこともあまり思い出さなくなっている。父の声も、母の顔も、弟の泣きべそも、すべてがおぼろげになり、幻影と化していた。

 

 学校の、ウサギ小屋の記憶。あれも薄れている。ウサギとは、どんな生き物だったか? あれだけ手塩にかけて育て、大きくしたウサギたち。忘れるはずがないのに。

 

 アデーレとカール。あの子たちは、どんな子たちだったっけ。

 

 どうやらぼくは、人間的な感情を失っているらしい。ウォルフは冷静に自己を分析した。こんな精神状態なら、地雷を見つけても心が動くことはきっとないだろう。

 

 彼は地図に示されたルートを辿り、コンパスを確認しつつ、森を進んだ。粗末な地図で、縮尺も小さく、高低差も記載されていないが、なんとかルート通りに進めていると彼は思った。

 

 深閑な森を行くこと一時間、突然、ウォルフの目の前を、何かが右から左へと横切った。見ると、ちょうど一匹のウサギが倒木の上に駆け上がるところだった。焦げ茶色のウサギはしばらくその場でもじもじするように身じろぎし、そして座った。距離は十メートルほど。毛の色に反してその両耳は白く、直線的で、先端から緑色の光を発している。

 

 一瞬、ウォルフの鼓動が高まった。これは、間違いなく地雷ウサギだ。

 

 すると、ウサギは即座に倒木から降りて、彼に向かって歩みを進めた。彼は言われた通り、深呼吸をした。心という容器の中身を吐息と共にすべて捨てるように、ウォルフは深く、静かに、呼吸器を駆動させた。

 

 ウサギは歩みを止めた。いまだにこちらをじっと見つめてくるが、逃げるでもなくその場に留まっている。自分の心が完全に平静さを保っていることを自覚したウォルフは、そっとウサギに近づいた。地雷というにはあまりにも愛らしい姿をしたそれは、少しだけ後ずさりをしたが、やはり走り去ることはなく、一分後にはウォルフの腕の中で静かに抱かれていた。

 

 地雷は、普通のウサギと何も異なるところがなかった。温かく、ふわふわとしていて、足は泥にまみれており、小刻みで早い鼓動をしていた。ウォルフはしばらくウサギを撫でていた。過去を懐かしむように、それでいて、本当に懐かしむことがないように。負の情動反応で地雷は爆発する。もしかしたら、懐かしいという感情でも爆発するかもしれない。

 

 彼はそっと手を伸ばすと、ウサギの首の後ろを探った。すぐに指先が、何か金属質の硬い物に触れた。これがボタンだ。あたかも絞め殺すように、ぐっと力を入れると、ウサギは突然脱力し、ピクリとも動かなくなった。

 

 次に左耳を掴み、それを回しながら外した。耳と頭部の間には二本の、それぞれ赤色と青色に被覆された太い導線があった。ウォルフは腰のポーチからペンチを取り出すと、練習した通りまず赤色の線を断ち切り、次に青色を切断した。

 

 ペンチ越しに、バツンという嫌な手ごたえがあった。まるで血管を切ったようだった。彼は冷静に、右耳も同じように処置をした。

 

 終わった時、彼は深く溜息を吐いた。気付けば、全身の筋肉が硬直していた。深呼吸を繰り返しても、強張った体はなかなか元に戻らなかった。地雷としての生を終え、もはや永久に動かなくなったウサギを撫でてから、ウォルフは持ってきた大きな麻袋にウサギと、取り外した両耳を入れた。

 

 突然、どこか遠くの方から爆発音が聞こえてきた。彼はびくりと体を震わせた。

 

 どうやら、隣の区域の誰かが地雷を爆発させてしまったらしい。ウォルフは、一体誰が死んだのだろうと思った。ふと、ある少年兵の顔が浮かんだ。背の低い、オドオドとした、常に怯えているような顔をした少年。確か、名前はエーミールと言ったか……

 

 これからは、爆発音に気を付けなければならない。爆発音に驚いて、その上もし近くに地雷ウサギがいたら、今度はこっちまで爆死してしまう。彼は袋を担ぐと、更にルートを先へと進んだ。

 

 ウォルフはその日の夕暮れまでに、さらに四発の地雷を「掃除」した。その間、何回か爆発音を耳にした。帰還地点に戻ってきたのは三十人中二十五人だった。帰ってこなかった者の中には、あのエーミールもいた。

 

 生き残った者のうち、ウォルフが一番成果を上げていた。一方で、一発も除去できなかった者が八人もいた。

 

 積み上げられたウサギと信管の山を見て、軍曹はあからさまに不満そうな顔をした。

 

「これっぽっちじゃあ仕事をしたとは言えんな。五人はくたばったようだし……残りは八千九百発以上もあるんだぞ。この分だとお前らが大人になっても掃除は終わらなさそうだな……!」

 

 罰として、その晩の少年兵たちの食事は減らされた。疲れ切り、空腹を抱えたまま、ウォルフは宿舎としてあてがわれた家畜小屋の床に横になった。耐え難いほどの臭気を放つ、半ば擦り切れた軍用毛布に体を包むと、ほどなくして彼は眠りに落ちた。

 

 夢の中で、ウォルフはウサギを抱いていた。地雷ではない、普通の白いウサギ。彼はそれを抱いて弟に笑いかけていた。ウサギを渡そうとすると、弟は怖がって逃げようとする。彼はそれを見て更に笑ったが、ふと気付くと腕の中のウサギの耳が緑色の光を放っていた。発光の間隔がどんどん短くなり、ウサギの鼓動もそれに比例するように早まる。起爆寸前の兆候だ。そして……

 

 目が覚めた時には、まだ深夜だった。狭い窓から差し込む月明りを浴びながら、ウォルフは自分がびっしょりと寝汗をかいていることに気付いた。

 

 

☆☆☆

 

 

 来る日も来る日も、ウォルフら少年兵たちは森に入った。毎日何人かが爆死した。爆発で即死せずとも、救助が来ることはまずない。激痛に泣き叫びながら、孤独に死を待つほかないのだ。翌日になって別の者が死んだ者の担当区域を引継ぎ、死体を確認したら、フランク人は名簿から名前を抹消する。死体は回収されず、そのまま放置された。地雷がまだ存在する可能性があったからだ。

 

 食事はジャガイモ数個に、たまに大麦の薄い粥があるだけで、少年兵たちは常に空腹だった。栄養不足のために思考が鈍り、手順を誤って、爆死する例も多かった。

 

 それでも、少年兵たちの数は減らなかった。毎日どこかから新入りが連れて来られた。新入りは研修期間が短く、たったの三時間程度の座学を受けただけで、地雷の除去に従事させられた。

 

 ウォルフの成績は、他を圧倒していた。彼は徐々に除去実績を上げていき、一ヶ月が経った時点で百二十発近くの地雷を掃除していた。その頃には最初の三十人のうち、生き残っていたのは彼一人だった。

 

 その日、また六発の地雷の残骸を抱えて帰ってきたウォルフに、フランク人の軍曹は滅多にないことに親しげに声をかけてきた。

 

「お前、ウォルフとかいう名前だったな。ふん、狼らしくない、野蛮な響きだ。フランク人は狼のことを誇り高く『ループ』と呼ぶ。だが、成果は充分だ。狼だからこそ、ウサギ狩りが得意なのか? どうだ?」

 

 ウォルフは表情を変えず、大きな声で答えた。

 

「はい軍曹殿! 自分はウサギを扱うのが得意です! 学校ではウサギを飼育していました!」

 

 すると、見る間に軍曹は顔色を変えた。怒っているような、それとも憐れむような、赤黒い顔だった。

 

「……ふん、お前は狼じゃない、ただのブタだ! だが、ブタは食欲旺盛だ。今晩からお前たちの食事の量を増やしてやる。分かったな、ブタ……!」

 

 久々に多少なりとも腹を満たすことができる食事を終えた後、ウォルフはまた横になった。周りの少年兵たちは、既に安らかな寝息を立てている。

 

 彼は、この一ヵ月である考えを抱くようになっていた。

 

 ぼくたちは、地雷を掃除している。でも、掃除されているのはぼくたちも同じだ。フランク人は自分たちの祖国の大地から、さっさとゲルマニア人を掃除したいのだ。彼らがこんなにも危険な任務にぼくたちを充てるのは、なるべく自分たちに被害を出さずに、かつぼくたちを早々に処分できるからだ。帝国の魔術主義者の卵であるぼくたちなら、いくらでも使い潰しても構わない。軍曹はどうやら良い人みたいだが、彼が食事を増やしてくれたのは、ぼくたちに愛着を感じたからではなくて、ただ作業効率が落ちるのを危惧したからかもしれない……

 

 軍曹は言った。掃除ほど人間的な仕事はないと。じゃあ、掃除されるぼくたちはいったいなんなんだろう。

 

 迷いや煩悶を抱いてはならない。それは心の乱れに繋がる。しかし、ウォルフは考えざるを得なかった。

 

 

☆☆☆

 

 

 ウォルフが二百五十発目を除去した、その次の日のことだった。

 

 彼はいつも通り、森の中にいた。午前中に三発を無力化し、午後に入って一時間も経たないうちに一発を除去した。

 

 そして、そのウサギたちに出会った。ウサギは二羽いた。いずれも純白で、この上なくふわふわとしていた。

 

 思わずウォルフは声をあげそうになった。

 

 アデーレとカール!

 

 二発の地雷ウサギはアデーレとカールにそっくりだった。忘却の彼方に消え去っていたはずの思い出が、奔流のように彼の精神に流れ込んできそうになる。

 

 それでもウォルフは、強いてそれを押しとどめた。深呼吸をした後、彼はまずアデーレにそっくりな地雷を抱き上げ、慎重に信管を抜いた。その間にも、あるイメージが脳裏をよぎる。あの日の生物の時間、ジエチルエーテルで眠らされて、生きたまま内臓を露出させられたアデーレ。彼はそのことを思い出さないように努めた。

 

 カールにそっくりな地雷は、アデーレが無力化されるのを黙って見ていた。あの時と同じだ、とウォルフは思った。アデーレとカールは仲の良いつがいだった。いつも隣り合っていて、いつも寄り添って、一緒にキャベツを齧っていた。アデーレが麻酔を掛けられている時も、腹を切り裂かれている時も、カールは檻の中からじっとその様子を見ていた。

 

 ウォルフは、カールを抱き上げた。早く終わらせてしまおう。早くしないと、ぼくの心に悲しみが蘇ってしまう。それは、負の情動だ。彼はカールのボタンを押し脱力させて、耳を引き抜くと導線を切断した。

 

 あの時、ぼくはアデーレとカールを殺した。ぼくは今日また、アデーレとカールを殺してしまった。

 

 一連の作業が終了した後、彼はしばらく放心していた。地面には二羽の残骸が転がっている。

 

 ふと、ウォルフの中にある考えが芽生えた。そうだ。アデーレとカールはここに埋めておこう。ここにお墓を作ろう。残骸を持ち帰らないと標準作業量として加算されないが、構うものか。

 

 半時間ほどかけて二羽を埋めることができるだけの穴を手で掘った後、彼はアデーレの残骸を持ち上げた。

 

 突然、音が鳴り始めた。

 

 カチカチという、時計の針が刻むような音。それを耳にした途端、ウォルフは瞬間的にその意味を悟った。

 

 これは、きっと、時限信管だ。

 

 彼は知らなかったが、帝国は二種類の地雷ウサギを開発していた。一つは耳を引き抜くと機能が停止するタイプで、もう一つは耳を引き抜いてから数十分経過した後に自動的に爆発するもの。アデーレは後者だった。帝国は二千発に一発の割合で、時限信管型を混ぜていたのだった。

 

 咄嗟に、ウォルフはアデーレを投げ捨てようとした。その刹那、彼の脳裏にアデーレとカールの思い出がよぎった。楽しかったあの頃の、ふわふわとしたウサギたちに囲まれていた、温もりのある記憶。それが一瞬だけ彼に躊躇いを生んでしまった。

 

 投げられた直後、アデーレの残骸は彼から二メートルの至近距離で眩い紫色の魔力光を放ち、大音響と共に爆発した。

 

 

☆☆☆

 

 

 ウォルフは死ななかった。爆発で重度の火傷を負い、全身に破片を浴びて、両手の指が無くなってしまったが、彼は奇跡的に生きていた。翌日、別の少年兵がそこにやってきて、まだ生きている彼を発見し、任務を放棄して軍曹のところへ報告に戻った。

 

 軍曹は即座に動いた。少年兵と共に担架を運び、瀕死のウォルフの元に辿り着くと、彼を乗せた。

 

 ウォルフは揺れによって意識を取り戻した。彼の呻き声を聞いた軍曹が声を掛けた。その声は普段と変わらぬだみ声だったが、どこか労るような気配が滲み出ていた。

 

「おい、まだ生きてるか、ループ(狼)! もうすぐ森を出る。そしたら治療を受けさせてやる。フランク人はゲルマニア人とは違って、負傷者を絶対に見捨てない。お前はよく掃除をした。三百発には少し足りないが、国に帰してやるぞ。お前の掃除は終わったんだ。だから……」

 

 ウォルフは呻き声を上げるのを止めた。そして何かを呟き始めた。その声は、奇妙なまでに透明感を帯びていた。

 

「ぼく、ぼくは……ウサギが大好きだったんです。学校ではウサギを飼っていて……毎朝キャベツをあげて、小屋の掃除もしてあげて……でも、アデーレとカールを殺してしまった……ぼくが二人のお墓を掘ったんです……アデーレとカールのお墓、まだあそこに残ってるかな……」

 

 ウォルフの目から、透き通った涙が零れ落ちた。

 

「ぼく、本当にウサギが大好きだったんです」

 

 すすり泣く声が深い静寂を湛えた森の中へ溶け込んでいく。

 

 軍曹と少年兵は足早に、無言で担架を運んで行った。




※以下、作品メモとなりますので、興味のない方はここで読むのを終えられるか、もしくはお手数ですが後書きを非表示に設定してください。

らいん・とほたー「ウォルフの掃除は終わった」作品メモ

2020年12月15日公開。

通算二十六本目となるオリジナル短編。エブリスタ主催の妄想コンテスト「お掃除」に応募するために書いた作品です。

最初は機雷掃海に関する話にしようと思いましたが、どうにもファンタジー要素を入れられなかったので、今回のような話に落ち着きました。

これからまたこれを8000字にしないといけないのですよ……どうしたものか……

ちなみに私はウサギを飼ったことがありません。Twitterでウサギの画像や動画を見るのは大好きですが。

次回もどうぞお楽しみに。


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27. 処刑場に舞うシュメッターリング

 その年の降誕祭の夜を、ハインリヒは一人で過ごした。

 

 彼は高い塔の最上階に位置する、狭い一室にいた。「いた」というよりも、いなければならなかった。彼はそこに閉じ込められていた。通常の牢獄のように、じめじめとした剥き出しの石壁と堅固な鉄柵によって仕切られた部屋ではなかったが、彼自身は紛れもなく囚人だった。

 

 部屋には寝台と書き物をするための小さな机と椅子、それに簡易便器があった。それらに加えて簡素な魔石ランプがいくつかと、大量の書物を収めた本棚が壁を覆っていた。

 

 今頃、ここから四百キロ離れた王都の王城では、華やかな降誕祭の祝宴が開かれているだろう。寝台の上でハインリヒは溜息をついた。戦時下ではあるが、冬季ということもあって戦線は安定している。おそらく国内中の貴族や大領主が集まっているはずだ。父王フリードリヒは華美を嫌うが、政治的交渉と工作の格好の機会である祝宴を疎かにはしまい。

 

 なにしろ、第一王子を廃嫡したのだ。王子ハインリヒをただのハインリヒにし、塔に閉じ込めてしまった。すぐにでも次の後継者を指名する必要がある。そのためには、形ばかりでも有力者たちの意見を聞いておかねばならない。春が来れば父王はまた南へ外征に赴くことになる。その前にこの問題を解決しておく必要があるのは自明のことだ。

 

 去年の降誕祭は、ハインリヒが主役だった。父王は南の戦線に出征中で、冬の真っただ中に反乱を起こした独立諸都市を制圧するため、直接軍勢の指揮を執っていた。

 

 ハインリヒは、祝宴のために王城に参集した貴族たちが一様に浮かべていたへつらいの笑みを、未だによく覚えている。彼らは口々に、ハインリヒに対して言った。

 

「王子殿下、来年こそは殿下の飛躍の年でございますぞ。どうぞ我々をお使いになって、この王国を良き方向へとお導きになって下され……」

 

 何を馬鹿なことを言う、とハインリヒは思う。彼ら貴族は王子に使われる気などまったくなかった。彼らの慇懃すぎるほどの態度の裏には、ある種の感情が隠されていた。若く世間知らずの王子を利用し、支配してやろうという、黒い欲望と侮り。

 

 ふぅ、とハインリヒは再度深く溜息をついた。すると次の瞬間、右脚の脛に痛みが走った。思わず手を伸ばすと、脛があるはずの部分には何も存在しなかった。

 

 幽霊痛というやつだ。彼はうんざりした。右脚が無くなってから、既に半年は経過している。それなのに、この不可解な痛みに慣れることはない……

 

 寒気は一段と厳しい。傷跡はずきずきと痛む。寝台の上で粗末な毛布に包まっていなければ、体力を消耗してしまう。だが、そのようなことはハインリヒにとってもはやどうでも良いことだった。彼は、未練がましく体力を温存していたところで意味がないことを理解していた。

 

 どうせ、春には処刑される身だ。

 

 するとその時、たった一つの出入口である鋼鉄のドアが、外から何者かによって四回叩かれた。鈍い金属音が室内に重く鳴り響く。

 

 寝台から起き上がりつつ、ハインリヒは訝しんだ。こんなことはこれまでなかった。食事の時間はもう四時間も前に終わっている。それに、その時でもドアがノックされることなどない。ドアの下部に設けられた隙間から、音もなく食事が差し出されるのが普通なのだ。

 

 考えている間にも、ドアが再び音を立てた。同じように、連続する四回の重々しい音。寝台から降りることもなく、ハインリヒは声を上げてそれに答えた。

 

「入るが良い。わざわざ許可を求めるには及ばない。私は単なる囚人なのだから。そのドアを開けることも閉めることも私にはできない」

 

 彼の声を受けて、ドアの向こうの存在は叩くのを止めた。一分ほど、静寂があたりを包んだ。やがて、鍵がギシギシと軋む音を立て、ドアがまるで恥じらうかのように開いた。

 

 そこに立っていたのは、黒いフードとローブに身を包んだ人物だった。背丈からすると、どうやら男のようだった。両手で小さな白い箱を持っている。ローブの男は無言でハインリヒが腰かける寝台に近づくと、軽く頭を下げ、それから何冊か本が置かれている机の上にその白い箱を置いた。

 

 無言のまま立ち去ろうとする男に対して、ハインリヒは声をかけた。

 

「降誕祭の夜に、いったい何の用か。その箱はなんだ」

 

 だが、男は声を無視した。そのまま音もなく歩みを進め、音を立てずにドアを閉めて、去って行った。

 

 ハインリヒは寝台を降りると杖を手に取り、失われた右脚の代わりにしつつ、机へと向かった。

 

 彼は椅子に座ると、しばらくの間、身じろぎもせずに男が置いていった箱を見つめた。箱は上質の厚紙で出来ていた。蓋には王家の蝶の紋章が刻印されている。おそらく、送り主は王家の者。つまり父王だろう。

 

 いったい、この中身は何だろうか。すぐに彼の頭に浮かんだのは、毒薬だった。きっと、父王が私を殺すために寄越したものだろう。粉薬か、それとも水薬か、王国の魔術師に調合させた、服用した者をあたかも自然死であるように殺す毒薬。処刑台で首切り人に王家の血を受け継ぐ者の首を落とさせるのは、たとえそれが反逆者であっても、王の権威に傷がつくものだ。

 

 ハインリヒは一つ深呼吸をした後、箱を開けた。だが、中に入っていたのは、彼の予想とは異なるものだった。

 

 箱には一枚の紙が入っていた。紙にはただ一言だけ記されていた。

 

「私からあなたへ」

 

 その雄渾な筆跡に、ハインリヒは見覚えがあった。これは、父王の字だ。それにしても、これはどういう意味なのだろうか。父王が「余」ではなく「私」と書くのも、息子のことを「あなた」と呼ぶのも、これまでに一度もなかったことだ。いったい、父王は何を言わんとしているか、何を伝えようとしているのか……

 

 しばらく彼はその謎の記述について考えていた。やがて、彼はもう一つ、あることに気が付いた。

 

 紙の右上に、小さな真珠のようなものが貼り付いていた。紙をひっくり返しても、それは落ちなかった。純白で、真球に近いその何かは、指先で軽く触れると、ほのかな温かみを持っていることが分かった。

 

 これが毒薬なのだろうか。それとも、何か別種の魔道具だろうか? ハインリヒには判断が付きかねた。

 

 一時間ほど、彼は迷った。これが毒薬ならば、私はすぐにでも死ぬことができる。だが、もし違ったら? もしこの真珠のような玉に別の意味が込められているとしたら……?

 

 ハインリヒは結局、それを飲まないことにした。何も降誕祭の日に死ぬことはあるまい。それに、父王の思い通りに死ぬのも、気が進まないことだ。彼は寝台に戻ると毛布を被り、ほどなくして寝息を立て始めた。

 

 その夜、ハインリヒは夢を見た。幼い頃、王城の花畑で女の子とかくれんぼをして遊んだ時の記憶が、夢の世界で蘇った。ハインリヒが彫像の陰で息を潜ませていた彼女を見つけると、女の子は楽しそうに笑って、彼に抱きついてきた。

 

「ハインリヒ様、これからもアネシュカがどこかに消えてしまったら、今のように見つけ出してくださいね……」

 

 ああ、アネシュカ、きっとそうするよ。そう答えようとしたところで、ハインリヒの目が覚めた。

 

 

☆☆☆

 

 

 鉄格子が嵌った小さな窓から、黎明の薄光が差し込んでいる。まだ夜明けからさほど時間が経っていないようだ。ハインリヒはしばらくまどろみを楽しむことにした。目覚めているのか、それとも眠っているのか、その曖昧な感覚が彼に安らぎを与えてくれる。死も、このようなまどろみの中だったら素直に受け入れられるだろうのか……

 

「お目覚めかね」

 

 突然聞こえてきた声に、ハインリヒは耳を疑った。素早く身を起こすと、辺りを見渡す。しかし、室内に何も変化はない。

 

 幻聴だったのだろうか。そう思うのと同時にまた声がした。知的で、冷静さを湛えた声。

 

「お目覚めかね、ハインリヒ。寝起きに悪いが、こちらに来てくれないか。そう、机の方に」

 

 ハインリヒは机に目をやった。相変わらず、その声の主の姿は見当たらない。彼は自身の心臓が高鳴るのを感じつつ、苦労して移動すると、机の前に座った。

 

 そこでようやく、彼は声の主を見つけた。それは、箱の中にいた。

 

「はじめまして、ハインリヒ……ふむ、驚いたような顔をしているな。まあそれも当然か」

 

 それは、大きな芋虫だった。長さは六センチほど。手の親指のような太さをしていて、体色は鮮やかな紫色をしている。

 

 だが、何よりもハインリヒにとって意外だったのは、その芋虫に人間の顔がついていたことだった。頭頂部にはまばらに金髪が生えており、太い眉も同じく金色だった。鼻はない。口はあったが、唇はついていなかった。目は人間そっくりで、赤い瞳が輝いている。

 

 絶句しているハインリヒに、芋虫は言った。

 

「せっかくお目にかかったのだ。こちらも名乗りたいところではあるのだが、私には名がなくてね。芋虫、とでも呼べば良い。よろしく、ハインリヒ」

 

 芋虫は軽く頭を下げた。礼のつもりだろうか。そんな埒もないことを考えつつ、ハインリヒの口は自然と開いていた。

 

「お前は、どこから来た。いったいいつ、この部屋に入ってきたのだ」

 

 問いに対して、芋虫は眉をしかめた。

 

「聡明なあなたらしからぬ、愚かな問いだな。私はここで生まれたのだ。夜が明ける前、私はここで生まれた。一般的な芋虫と同じく、卵から生まれたのだよ」

 

 ふと、ハインリヒの中で思い当たることがあった。あの紙に貼り付いていた玉、あれが卵だったのだろうか。それにしては、その紙がどこにも見当たらない。

 

 彼の考えを読んだように、芋虫はゆったりとした口調で言葉を発した。

 

「そう、一枚の紙に私の卵は産み付けられていた。私は卵の殻を破ってこの世に姿を現した後、まず猛烈な空腹感を覚えた。だから、最初に卵の殻を食べた。それでも飢えは収まらなかった。だから、紙を食べた。やや腹は落ち着いたが、それでも食欲は満たされなかった。だから、そこにある本を食べた。一冊を丸ごと食べてしまったが、良かったかね? 大事な本だったら申し訳ないが……」

 

 ハインリヒは呆然と芋虫の言葉を聞いていた。確かに本が一冊、革の装丁を残して中身のページがすべて失われている。

 

 芋虫は淡々と言葉を続けた。

 

「本を一冊食べたことで私の空腹は収まった。すると、今度は自分の体が窮屈に感じ始めた。私は脱皮をすることにした。無事にその難事業を終えると体が大きくなり、自分に知性と言語が与えられたことに気が付いた。ちょうどその時、あなたが目覚める気配がしたから、声をかけたというわけだよ……」

 

 ようやく、ハインリヒは声を出すことができた。

 

「お前は、いったい何者だ」

 

 もぞもぞと芋虫は体を動かした。どうやら困惑しているようだった。

 

「何者か、とは、随分と難しい質問をしてくれるな。それに答えることはできるが、さて……」

 

 しばらくの間、沈黙が部屋を満たした。すると、ドアの方から音がした。そこにはトレーに載せられた食事があった。

 

 芋虫は箱の中から外へ身をもたげると、ドアの方を見やった。

 

「ふむ、ちょうど食事の時間のようだな。どうだね、一緒に食事をしながら、私のことについて話そうではないか」

「一緒に食事?」

「そうだ。あなたはあのトレーに載っている粗末な黒パンと、薄いスープを食べる。一方、私は紙を食べる。いや、紙というより、文章だな。文章が書かれている紙が食べたい。本を一冊見繕ってくれないかね。私がさきほど食べたのは、つまらない年代記だった。今度は頭を使わない、騎士物語のようなものが良いのだが……」

 

 ハインリヒは本棚から適当な本を一冊取り出すと、芋虫の前に広げてやった。芋虫は短い足を動かして這いずると、ページの上に登った。ハインリヒは今度はドアの方へよろよろと歩いて行き、食事のトレーを運んだ。

 

 二人は向かい合って食事を始めた。

 

 王子は黒パンを千切りながら、芋虫に再度問いを投げかけた。

 

「それで、芋虫よ。お前はいったい何者なのだ。なんの目的があってこの牢獄へやって来た」

 

 芋虫はささやかな咀嚼音を立てながらページを食べていたが、それを止めると、王子に顔を向けた。

 

「私は、贈り物だよ。あなたの父からあなたに向けて贈られた、愛玩動物。いや、虫は愛玩動物とは言わないかな……それに、私に課せられた使命はとても重大なものだ……とにかく、私は降誕祭の贈り物だ。紛れもなくあなたの所有物であると言って良い」

 

 ハインリヒは、芋虫の言葉に反駁した。

 

「そのようなことはあり得ない。王が私に贈り物をするなど、あるはずがない」

「どうして? 父親というものは息子を愛するものではないのかね」

 

 芋虫の反論に、ハインリヒは苛立たし気にパンを噛み締め、スープを一口含んで飲み込んだ後、また口を開いた。

 

「小さな虫よ。私は反逆者なのだ。王の絶対的権威に反抗し、軍を率い、脆くも一撃で敗北し、王位継承権を剥奪され、この尖塔に幽閉されている。いずれ王は私に死を賜るだろう。王が私を愛しているはずがないのだ」

 

 王子の言葉を聞きながら、芋虫はしばらくページを食べ進めていた。すでに本の三分の一ほどが食べられている。それなのに、芋虫の大きさは変わっていない。糞さえ出していなかった。ハインリヒはそのことに気付いて、この芋虫の異常性を改めて認識した。

 

 芋虫は時間をかけて大きな紙片を食べ終えると、穏やかな口調で言った。

 

「ふうむ……そういうものなのかね。しかし、私が王によってこうしてここに送り込まれ、あなたと話しているということは、少なくともあなたの単調で退屈な幽閉生活をほんのちょっとでも紛らわせていることにならないかね? であるなら、それはあなたの父が、あなたの孤独を癒すために私を贈ったと考えられるのではないかね? それは愛情のなせるところではないかね」

 

 賢しげなことを言う芋虫に、ハインリヒは突如として怒りを覚えた。ただの芋虫の分際で、私と父の関係について論ずるとは許せん。彼は木のスプーンを振り上げた。

 

 そんな彼の様子を見ても、芋虫はまったく顔色を変えなかった。

 

「短気を起こすのはやめたまえ。先ほどの私の言葉があなたを怒らせたのなら、私は素直に謝ることにしよう。殺したいのなら、殺しても構わない。だが、本当に私を殺して良いのかね? 父の愛については虫である身ゆえよく分からないが、とにかく私があなたの慰めとなるのは間違いない。幽閉生活において誰も話し相手がいないというのは精神を患わせるという。先ほど食べた年代記にはそうして発狂した者について書いたあったが……」

 

 言葉を聞いているうちに、ハインリヒの感情は平静を取り戻していた。彼はスプーンを下ろした。

 

「……確かに、私は会話に飢えている。たとえ小さな芋虫一匹であっても、今の私にとっては貴重な存在だ」

「よろしい。賢明な判断だ。では、まず食事を終えてしまおうではないか。会話をするにも栄養が必要だ」

 

 ハインリヒと芋虫は無言で食事を進めた。芋虫は結局、本を一冊食べ切ってしまった。

 

 それにしても、芋虫が話し相手か。ハインリヒは内心で自嘲した。

 

 

☆☆☆

 

 

 一週間が経った。その間、彼らはよく話をした。ハインリヒは芋虫が深い知性を持ち、かつ落ち着いた性格をしていることを知り、次第に自分の身の上について話すようになった。

 

「私がこのような境遇に身を落とすことになったのは、すべて父王の暴政が原因だ。王は国内政治を顧みず、外征に次ぐ外征を繰り返した。大陸南部の半島の支配権を握るためだ。だが独立諸都市の勢力は強く、王の軍勢を以てしても完全に制圧できない。民は重税に苦しみ、貴族たちは度重なる軍役に耐えられなくなった。そこで私が立つことにした……」

 

 日が経って少しばかり長く太く成長した芋虫は、そこで口を挟んだ。

 

「本当にあなたは『立った』のかね?」

「どういう意味だ、その言葉は」

 

 王子の反問に対し、芋虫は大儀そうに体を動かし、本の上から箱の中へ移動してから答えた。 

 

「話を聞くと、あなたはどうやら利用されたようだな。『立った』のではなく、『立たされた』のだ。貴族たちは王の居ぬ間に国内政治の実権を握ろうとし、その旗印としてあなたを担ぎ上げた。あなたはまんまとそれに乗せられて、その結果大失敗をした。右脚を失ったのも、戦闘による結果なのではないかね。随分と高い代償を払わされたようだ」

 

 ハインリヒは眉をひそめた。だが、芋虫の言葉に反論はしなかった。

 

「……その通りだ。王の軍事的才能は、私の予想を遥かに上回っていた。それに、王は決して国内政治を軽んじていたわけでもなかった。むしろ、外地に長く身を置いている分だけ、情報収集には熱心だったようだ。私が叛旗を翻したのを知るや、父は既に雪深くなっている大山脈を越えて、神速とも言える速さで軍をこちらにかえして来た。こちらが兵力を結集する前に、父は私が率いる連隊を補足すると、たった一回の会戦で粉砕した。私の右脚は砲弾で打ち砕かれた……」

 

 一旦言葉を切ると、ハインリヒはやや顔を曇らせて、再度口を開いた。

 

「無論、私は貴族たちの思惑に気付いていた。彼らが王権に楔を打ち込むために私を利用しようとしていることを、私は察知していた。だが、私は敢えて立つことにした。それは私が民の窮状を救わんと願ったからで……」

 

 突然、芋虫が遮るように口を挟んだ。

 

「そうかね? 本当に? 民を救いたいというただそのためだけに立ったのかね?」

 

 無粋とも言える芋虫の問いに王子は鼻白んだ。

 

「どういう意味だ、それは」

 

 芋虫は、その赤い瞳でじっとハインリヒを見つめた。

 

「この一週間、あなたと話をしていて気付いたことがある。あなたはどうやら、父を憎んでいるようだ。暴政とあなたは言うが、あなたの父の対外政策には一定の意義が認められるように、私には思われる。半島の大教会に対して王権による政治の優位性を確立することは、王国の繫栄には不可欠ではないのかね。そして、そのことをあなたはしっかりと理解しているようだ。あなたがこれまで語ってきたことは一種の建前で、本当は何か別の意図が隠されているように思われるのだが……」

 

 核心を突かれて、ハインリヒは言うべき言葉を失った。少しの間、魔石ランプの燈心が焦げる音だけが聞こえた。しばらくして、彼はゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。

 

「……その通りだ。私は、王を憎んでいる。それはごく個人的な、つまらない理由によるものだ。王位継承者としてあるべき者が抱いてはならぬ感情を、私は捨て去ることができなかった」

 

 芋虫は表情を変えず、言った。

 

「アネシュカのことかね」

 

 思わぬ人名が出て来たことに、ハインリヒは驚愕の面持ちを隠せなかった。

 

「そう驚かなくても良い。なぜ私がその名を知っているのかといえば、答えは簡単だ。あなたは毎晩魘されている。そして、決まってある名をうわ言のように叫ぶのだ。『アネシュカ』と。そのアネシュカとあなたとの間に、何があったのかね」

 

 この芋虫にはなんでもお見通しらしい。ハインリヒは全てを包み隠さず話すことにした。

 

「……アネシュカと私はもともと、結ばれる運命だった。アネシュカはベーメン大公の娘で、私とは幼馴染だった。互いに好意を抱いていて、将来を誓い合っていたし、それに王も当初は結婚には賛成だった。だが、一年前、王はそれを突然破談にした。代わりに私の結婚相手として、バーベンベルク大公の娘を選んだ。防衛政策上の必要、というのが王の挙げた理由だった。事実、その通りだった。王国の安全保障は、バーベンベルク家との繋がりを強化することなしには確保できなかったのだ。それを分かってはいたのだが……」

 

 芋虫は相変わらずの無表情のまま、ハインリヒの言葉を静かに聞いている。

 

「アネシュカは絶望し、病を得て、死んでしまった。私はその時初めて、王に対して明確な憎悪を抱いた。国と民のことを思うのならば、私はアネシュカへの愛と彼女との思い出を捨てて、新しい婚約者と結ばれるべきだったのだろう。だが、私はもう王の傀儡として生きるのに堪えられなかった。何も考えずに父に従って生きてきた結果が、アネシュカの死だった。貴族共の思惑に敢えて乗ったのは、そうする以外に、悲しみを癒すことができそうになかったからだ……」

 

 ハインリヒの目に、涙が浮かんだ。涙はしばらく瞳を潤して、やがて静かに流れ落ちた。

 

 部屋に沈黙が満ちた。ややあって、芋虫が口を開いた。

 

「あなたは、なぜ王家の紋章が蝶なのか知っているかね?」

 

 唐突な問い掛けに、王子は怪訝な顔をした。それでも、彼は答えることにした。

 

「初代国王が西方の異教徒の大軍と決戦した際、一匹の蝶が剣の先に止まり、敵陣のほころびを示したことで、大勝利を得た。それが由来だと聞いている」

 

 王子の言葉に、芋虫は頭を軽く左右に振った。

 

「それだけではないのだ。実は、蝶の紋章には他に意味が隠されている。それは、『魂を運ぶ者』というものだ。私のような芋虫はいつかサナギとなり、そして繭を破って新たに蝶として生まれ変わる。蝶は空を自由に飛び回り、花の蜜を吸うが、それと同時にこの世に漂う魂を導き、新たなる生へと誘うのだよ。まあ、教会の教えはこのことを異端と断ずるだろうがね」

「何が言いたい」

 

 睨むような目つきの王子に、芋虫ははっきりと視線を合わせた。

 

「悲しみを抱いたまま死んだアネシュカの魂は、今もなおこの世に留まっているかもしれない。だがいつか蝶に導かれて、生まれ変わって新たな生を送ることになるのではないかな。そう考えれば、あなたも少しは楽になるのではないかね……」

 

 ハインリヒは、それにすぐに言葉を返すことができなかった。

 

 

☆☆☆

 

 

 春が近づいてきた。それは草木が芽吹き、獣たちが長き眠りから目覚め、そして人間たちが戦を始める季節である。

 

 ハインリヒの処刑は、王が軍勢を進発させるその前日に行われることになった。その夜、黒いローブの男があの時と同じように無言で入ってきて、一枚の紙を置いていった。それはハインリヒの元養育係が書いて寄越したもので、それに処刑の日取りがはっきりと記されていた。

 

 彼はその紙を芋虫にやった。すでに卵から孵って数か月、芋虫は脱皮を繰り返し、見違えるほどに大きくなっていた。

 

「最近、奇妙なまでに食欲が増していてね。もうすぐサナギになるようだ。私が蝶になるか、それとも蛾になるかは分からないが、とにかくとても美しい存在として生まれ変わるのは間違いない」

 

 芋虫の言葉に、ハインリヒは薄く微笑んだ。

 

「そして私は、羽の生えた君を見ることはない。君が今食べてしまった紙に書いてあったように、私は二週間後には処刑される。そろそろ君ともお別れというわけだな」

 

 自分の死がいつ訪れるのかを知っても、ハインリヒの心は至極穏やかだった。芋虫、君のおかげ