キミに溺れる。 (祈祷師)
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プロローグ

一年前の作品を加筆修正し、再投稿。


 中学の卒業式。

 私が通う花咲川女子学園は中高一貫の学校なので、周りはほとんどがそのまま高等部に進級という形で高校に上がる。

 よその高校に行く子は少ない。

 私の友達の間ではよその高校に行くという話はなかったので、特に大した感慨もなく式を終えた。

 

 また、学校でね。

 

 卒業式の日の友達との別れの言葉がこれだ。

 漫画やドラマでみるような、涙ぐましい卒業式なんてありはしない。ただのイベントごとの日としか捉えていなかった。修学旅行や文化祭なんかと同じだ。

 

 ちょっと特別だけど、過ぎ去ってしまう一日。

 惜しむこともあるけれど、埋没していく一日。

 

 でも、両親はなんだか眩しいものでもみるかのように私を見ていた。

 なぜだろう。

 別に、いつもと変わっていることなんて、左胸に付けた在校生から贈られた小さな一輪の花だけなのに。

 親としては感慨深かったりするのだろうか。

 私を見る両親の目がどうにもこそばゆかった。

 

「沙綾。母さん達、先に帰ってるわね。まだ友達と居たいでしょう?」

 

 そう声をかけてくる両親はわかっているからとでも言いたげだけど、残念ながらそれは違う。

 友達はみんな、そのまま同じ高校に通うことになる。

 四月から変わるのは校舎だけで、人間関係は変わったりしない。

 別れを惜しむ儀礼など必要ないのだ。

 それに、もういつもの言葉で別れはすませている。

 

「ううん。私も、もう帰るから」

「あら、いいの?」

「うん。どうせまた学校で会うし」

 

 別に、人間関係にドライなわけではない。自分でいうのもなんだけど、むしろ私は友達を大切にする方だ。

 けれど、中高一貫の中学の卒業式は、そんなに特別なことではなかった。

 

 ただ、それだけのことだった。

 

「あー……でも、涼太のとこ行ってくる」

「そういえば涼太くんも卒業式だものね。そのまま一さんのお店を手伝うの?」

「あれ、言ってなかった? 今日は涼太の家もお休みだよ。だから適当にぶらつくだけ」

「そう。晩御飯はどうするの?」

「んー、たぶん食べて帰ると思うけど。まぁ、また連絡するね」

「わかったわ。行ってらっしゃい」

 

 校門を出てから両親と別れる。

 友達と同じみたいに手を振って。

 またね、って。

 

 

 卒業式の日も日課のように涼太の中学へ向かう。

 もうあっちも式は終わっているんだろうか。

 一応メッセージは送ってみたけれど、返事はまだない。

 今どき幼馴染と仲がいいのって私たちくらいのものなのかな。

 商店街にある家は隣同士で、お互いの母親の体が弱いこともあって助け合ってきた。私の家はパン屋で、彼の家はケーキ屋。

 小さい頃からずっと一緒に過ごしてきた。

 学校の違う今でも、朝と夕方はほとんど一緒に居る。朝は私が涼太を起こしに行って、そのまま二人で登校。夕方はどちらかの家の手伝い。

 私は彼のことをよく知っているし、彼も私のことをよく知っている。

 

 三月中旬の空。雲の輪郭はおぼつかない。

 吹き抜ける風はまだ冷たくて、自然と身が震える。

 スカート、寒いなぁ。

 思わず口元にかきあげたマフラー。

 寒いのは大体下半身なのに、どうして真っ先にマフラーをかきあげたんだろう。

 

 きっと、手の届くところにマフラーがあったから。

 きっと、せめて首周りでも温めようと思ったから。

 きっと、きっとそうだ。

 

 マフラーを掴んだ手には、三月にはもう似つかわしくないモコモコの手袋。

 

 やめよ。子どもじゃあるまいし、自分に言い訳なんて。

 

 クリスマスに貰ったマフラーと手袋。一日も欠かさず身につけている。

 寒さが続く限り、私はこれらに縋るのだ。

 

 だから、まぁ、つまり、そういうこと。

 

 涼太の通う……いや、通っていたになるのか。涼太の通っていた中学が見えてきた。

 心臓が弾むのがわかる。

 気が付くと早歩きになっている。

 ふっ、と吐いた白い息。

 冬でもなく、春でもない、どっちつかずな季節。

 

 淡い空気溶け込んだ吐息の残滓。

 共学の制服に紛れ込む、花女の制服の女子中学生。

 ひとりだけ違う制服っていうのはさすがに目立つ。

 でも私にはもう見慣れた情景。

 それはきっと、高校生になっても変わらないはずの日常。

 

 立ち慣れた校門。

 感じ慣れた視線。

 待ち慣れた時間。

 

「おっす、沙綾」

「……おす」

 

 見慣れた顔。

 交わし慣れた挨拶。

 なんてことのない態度。

 そして、そこに潜んだなんてことのない秘密。

 

 無色で無傷な風が通り抜ける。

 三月の風はまだ冷たい。

 

 

 

 

 

 

 涼太と連れ立っていつものカフェへ。

 店内に入ると暖房のおかげで寒さによる体の震えはおさまった。

 店員さんは私たちを見て勝手知ったようにいつもの席へ案内してくれる。

 入り口から向かって右側の奥から二番目。

 窓から眼下の川を眺められる特等席。

 

 ここが、私たちの世界。

 

 コーヒーの香りがする。

 ほろ苦くて、少し寂し気な、嗅ぎ慣れた匂い。

 

「ふーん、そっちはそんな感じだったんだ」

「別に普通だよ。学校バラバラになるのがほとんどだからか、みんな名残惜しそうにして中々教室から出ねーの。教室出ても廊下も人ですごいことになってたし。俺は早く帰りたかったのに」

「わ、薄情者だ」

「ちげーよ。今どきいつでも連絡取れるし、会えるだろ。だからそんなに悲しむ理由がわからん」

 

 わかるよ。

 伝わってるよ。

 キミの気持ちはとてもよく理解している。

 だって私は、キミの幼馴染だもの。

 口にしなくたって、細部の意図まで読み取ってみせる。

 

「まあまあ。でも、早く帰りたいってのは意外だねぇ。そんなに早く私と会いたかったの?」

「何言ってんだ。口うるさい姉貴にわざわざ早く会いたいと思うか?」

「お、言うねぇ。ところでこのあいだ書店で足りないお金を貸したのは誰だったかなー」

「すみませんでした」

「ふふふ。よろしい」

 

 口うるさい姉貴。

 涼太は私のことをそう思っている。

 だから私もそう在るように振る舞う。

 これが十五年の積み重ね。

 

「まあ、予想はつくけどね」

「やめろ。何も言うな、何も聞くな」

「卒業式だもんねー。キミ、何人に告られた?」

「俺の話を聞けよ!」

 

 大方、何人かの女の子から呼び出されていたんだろう。

 涼太はモテる。

 かっこいいし、優しいし、明るい。

 頭はバカだけど紳士だし、ガサツだけど頼り甲斐がある。

 小学生の頃、私は多くの女の子から何度も橋渡し役にされた記憶があった。

 

「でもどうせ、みんな振ったんでしょ」

「……うるせー」

 

 涼太のしおらしい態度が目に焼き付く。

 その様子を見る度に、私は誰よりも彼の隣を望んでしまう。

 

「前の子にまだ未練があるの?」

「それはもう大丈夫」

「ありゃ、いつの間に。こないだまであんなに落ち込んでたのに」

「いや、今は別のことで悩んでてさ。実はな……」

 

 店内のBGMが変わる。

 少しだけ憂いを含んだような、心の水たまりをパシャリと踏んでいくかのような、静かなメロディ。

 クライスラー、「愛の悲しみ」

 

「――俺、好きな子ができたんだ」

 

 キミに、三人目の好きな人ができた。

 



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一話

 ――キミに、三人目の好きな人ができた。

 

 

 涼太の初恋は、たしか小学五年生の頃。

 その子は音楽が得意で、ピアノを弾く綺麗な子だった。

 真似するように私が音楽を始めたのも小学五年生の頃。ピアノとドラムを並行して習った。

 でも結局、涼太はその子に告白することなく小学校を卒業した。

 キミの淡い初恋は、空中分解するみたいに溶けていった。

 

 

 二回目の恋は中学に入ってから。

 相手はポニーテールが特徴的な優しい子だった。

 一年生の時に同じクラスで仲良くなったのがきっかけらしい。

 ふたりは二年生の春から交際を始めた。

 私は涼太からよく彼女の話を聞いたものだった。

 その頃から私が髪型をポニーテールにしていたのなんて彼は気付きもしない。

 でもその子とは受験の時期に別れてしまった。志望校の話で喧嘩してしまったらしい。

 

 よくある話。

 

 いじらしくて、憎らしくて、切ない。

 

 ねえ、ちょっとは私のことを見てよ。

 私はこんなに近くでキミのことを見てきたのに。

 一番一緒に居たのだって、私なのに。

 

 嗅ぎ慣れたコーヒーの香り。

 優しく耳を撫でる、クライスラー「愛の悲しみ」。

 どっちつかずな季節。

 冬は過ぎたけど、春はまだ来ない。

 

 もしかしたら春なんて来ないのかも。

 

「おーい沙綾。話聞いてるか?」

 

 涼太の呼びかけにハッとする。

 体がこわばっていたのが分かった。

 三回目なのに、こればかりはまだ慣れない。

 これ、慣れなきゃいけないのかな……。

 

「……うん。聞いてるよ」

「ほんとか?」

「本当だよ。だから、もっかい最初から話して」

「聞いてねぇじゃん!」

「あはは。まあまあ」

「まあまあってお前……はぁ」

 

 他愛もない会話。

 いつものような冗談。

 それらがどうしようもなく、私の胸を締め付ける。

 

「まあいいか。俺な――新しく、好きな子ができたんだ」

 

 その言葉が、どうしようもなく、私の胸を締め付ける。

 

「……………………そう」

「いや、そんなに間を空けて出た言葉が『そう』ってなんだよ」

「だって別に興味ないし」

「ひでーこと言うな」

 

 涼太の好きな子になんて興味ない。

 私が興味あるのは、キミのことだけ。

 

「まあ聞くだけタダだろ? 聞いてくれよ」

「なにそれ。わけわかんない」

「いいからいいから。で、その子はな……」

 

 もはや私のことなんか無視して語り出す涼太。

 聞いて欲しいんじゃなくて、言いたいだけなんだろう。

 こっちはそんな話なんて聞きたくもないのに。

 まったく、私のことなんかちっとも分かってくれないんだから。

 ほんと、嫌になる。

 

 どうやら相手の女の子は三年で初めて同じクラスになった子らしい。

 明るくて、元気で、可愛い。

 ちょっと可笑しなところもあるけれど、そこも彼女の魅力なんだとか。

 それになにより、前の子と別れて落ち込んでた涼太を、根気強く励ましてくれたのがよかったみたい。

 

 でも、私だって励ましてあげてたのに。

 たくさん気を遣ってあげてたのに。

 今まで一番キミのそばに居たのは私だった。

 だけど私は、いつまでもキミの心の中には住めないでいる。

 

「その子の写真はあるの?」

 

 どんな子なんだろう。また髪型真似しようかな。

 

「あるけど、沙綾には見せられない」

「む。なにそれ、どうして?」

 

 突き放すような彼の言葉。

 こんなことを言われたのは初めてだった。

 お腹の底から湧き上がる理不尽な怒りと、涼太が私のそばから離れて行ってしまうことの危機感が綯交ぜになり、それが焦燥感に乗って私の全身を駆け巡る。

 

「だってその子、花咲川に入学するらしいから」

 

 どくん。

 心臓が飛び跳ねた。

 涼太の好きな子が、私と同じ高校にやって来る。

 

「沙綾にちょっかいでもかけられたらかわいそうだ」

「私、そんなことしないよ」

「分かってるよ。冗談だ」

「もう。……見せるくらいダメなの?」

 

 みっともない懇願。

 幼馴染という立場に甘えた縋り。

 

「……その子が沙綾と同じ高校に行くって考えると、さすがに恥ずかしいからな。悪い」

「そっか、残念」

 

 けれどそれは、呆気ないほど届かない。

 

「春休み中に告って彼女にしてみせるぜ!」

「そ、がんばれー」

「うわ、すっげえ棒読み」

「ふん。振られちゃえ」

「さっきからちょっと辛辣だな。なんか怒ってんの?」

「別に怒ってない」

 

 もう中学を卒業したのに、四月から高校生なのに、こんなことでなにふてくされてるんだろ。

 子どもだな、私は。

 

「そういや、沙綾はどうなんだよ」

 

 また、心臓が飛び跳ねた。もしかしたらさっき以上かもしれない。

 

「……なにが?」

 

 口の中が乾いて仕方がない。

 

「沙綾は彼氏いないの?」

 

 唇も乾いてきた。

 

「いないよ。いたこともない」

 

 手汗がやばい。この店今日は暖房効きすぎなんじゃないの?

 

「へー、意外だな。沙綾ならめっちゃモテるだろうに」

 

 そんなの知らない。知りたくもない。

 

「女子校だからね。男の子とは縁がないよ」

 

 私が欲しいのはキミだけなのに。近いようで遠い距離がもどかしい。

 

「え、マジで? じゃあ好きな奴とかは……?」

 

 でも、今は。

 まだ、今は。

 

「――いるよ。ずっと前から好きな人」

 

 この愛おしい距離感に、私は溺れている。

 



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二話

 春休みも終盤に差し掛かった。

 それでも私の朝は変わらない。

 六時半に起床。アラームは必要ない。

 着替えを持って下に降りる。

 階段を降りると明るいリビングが目に焼き付く。

 ウィンナーの焼ける匂い。新鮮なサラダの水気。こんがりとできあがったチーズトースト。

 既に食卓には朝ごはんが並んでいた。

 

「沙綾、おはよう」

「おはよう母さん」

 

 父さんはお店の方。そして、弟と妹はまだ夢の中。

 母さんと朝の挨拶を交わした後、洗面所に行って顔を洗い、私服に着替える。それから髪を梳いて、後ろ髪をシュシュで縛った。

 真似た髪型も今となってはもうすっかり私の一部になっている。

 流れるように歯ブラシを手に取る。プラスチックの薄透明な黄色の歯ブラシ。

 そして、その横には色違いの歯ブラシ。色はブルー。涼太の歯ブラシだ。

 

 私の家に置いてある歯ブラシは、家族五人分のと(にのまえ)家三人分の計八本。涼太の家も然り。

 それに、歯ブラシだけじゃない。

 箸やマグカップ、枕など。色んなものがそんなふうに置いてある。

 

 私が一番涼太の近くにいる。

 

 呆と鏡を見ながら歯を磨く。

 しゃこしゃこと歯磨き粉が泡立つ音。ザラザラと歯を磨く繊維の感触。鼻に抜けるミントの匂い。口に残るフッ素のコーティング。

 お揃いの歯ブラシ。好きな歯磨き粉。歯の磨き方。

 日常の何気ない仕草に涼太を感じられずにはいられない。

 

 水で口をゆすいで、私は弟達を起こしに行く。

 弟の純と妹の紗南を起こすと、ふたりを洗面所まで連れて行って、それからお店にいる父さんにも声をかけた。

 リビングに戻って食卓の自分の席に座る。

 ご飯はみんなで食べるのが基本。家族が揃うまでの間にテレビを眺める。

 朝のニュース番組。画面の左端に表示されている時刻はちょうど七時。

 食卓に家族が揃い、合掌していただきますと唱える。

 夜は賑やかな食卓も朝は静かだ。

 いつもほとんど口を開くのは純と紗南なので、寝起きのふたりが静かな朝は自然とこうなる。

 けれどとても和やかだ。私はどちらかというとこういう時間の方が落ち着く。

 

 朝ごはんを食べた後は食器洗い。

 学校がないと家にいることが多いので、家事はなるべく私がやるようにしている。

 母さん、体が弱いのになんでも自分でやろうとしちゃうんだから。

 

「沙綾、今日はどうするの?」

「お店手伝う。もう父さんにも言ってあるよ」

「そう。よろしくね。家事は母さんがするから」

「母さん、あんまり無理しないでね。キツかったらいつでも私が代わるから」

「はいはい。ありがとうね」

 

 微笑みのような苦笑。

 何回も倒れているのに、いつまでも母さんはこんな感じだ。

 私がしっかりしないと。

 食器洗いを終えて時間を確認すると、もう八時。

 私は急いで自分の部屋に戻る。

 ベッドに置いてあるスマホを手に取り、通知を確かめる。

 涼太からの連絡がない。

 はぁ、とめんどくさそうなため息を吐きながらも、姿見に映る私の頬は緩んでいた。

 

 しょうがないなぁとか、世話が焼けるなぁとか。

 言い訳を並べてばかりな自分が少しだけ情けない。

 でも、本当の感情は押し殺さなくちゃいけないんだ。

 キミの一番近くに居られる今の関係を壊したくないから。

 

 いつものマフラーと手袋を身につけて玄関に向かう。

 靴を履いていると後ろから母さんに声をかけられた。

 

「涼太くん?」

「うん、そう」

 

 それだけの会話。でもそれだけで伝わるのが家族だ。

 玄関を出る。

 四月を目前としてまだ寒い。

 近年、気候がおかしくなっていると聞く。

 極端に暑くなったり、寒くなったり。

 もしかしたら季節は夏と冬だけになっていくのかもしれない。

 春や秋なんて、最初から無かったみたいに。

 

 隣だからすぐに到着。

 お店の方はまだ開いていないので、家の玄関チャイムを鳴ら

す。

 

『はい』

「おばさん、おはようございます。私です。沙綾です」

『あら沙綾ちゃん、おはよう。今開けるからね』

 

 鍵を開ける音がして、扉が開く。

 

「いつもごめんね~。さ、上がって上がって」

「はい、おじゃまします」

 

 勝手知ったように、というかもう全部知ってるんだけど、靴を脱いで、マフラーと手袋を外しながら涼太の家に上がる。涼太の部屋は二階だ。

 廊下途中にある自分の家とは構造が違う階段を上る。なんて言うんだっけ。螺旋階段? いつも思うけど、上りにくい。でもオシャレ。ちょっとだけ羨ましい。

 涼太の家は二階の廊下の方が一階の廊下よりも広い。

 一番奥が彼の部屋。

 ネームプレートとかは掛けられていない。

 いつものように一応ノックする。

 どうせ起きてないけど。

 案の定、反応はない。

 

「涼太ー? 入るよー」

 

 やっぱり返事はない。

 ガチャっと扉を開ける。

 全体的に青が基調となった部屋。

 静かな色合いで、落ち着きのある部屋に見える。

 でも、そこにある物はぐちゃぐちゃ。

 たたまれてはいるけど積み重ねられて放置された衣類。散乱した教科書やノート。乱雑に置かれたリュック。

 春休みだからあんまりこうして部屋には来ていなかったけれど、ずいぶん散らかっている。

 そんな部屋で、のんきにぐーすか寝ている涼太。

 

 こんな部屋、好きな子に見られたら幻滅されちゃうよ。

 甲斐甲斐しく世話をしてくれる人なんて、私以外にそうそういないと思うんだけどな。

 

 どうせ起きないから今のうちに部屋を片付ける。

 よくあることだから慣れている。

 ものの十五分で綺麗にした。

 涼太は未だに寝ている。

 うわあ、気持ちよさそうな寝顔。

 ……涼太の好きな人も、涼太を好きな人も、誰も見られない顔。

 私しか見られない顔。

 

「涼太、もう八時半だよ。起きないと遅れちゃうかも」

 

 まったく起こす気のない小さな声で、寝ている涼太に話しかける。

 昨夜、朝の八時になっても電話しなかったら起こしに来てくれと言われた。

 

 私は涼太の目覚まし時計じゃないんだけどな。

 面倒見のいいお姉ちゃんでもないんだけどな。

 でも、キミのこんな顔を見られるのは、そんな私だけ。

 

 クリスマスに貰ってからいつも身につけているマフラーと手袋をぎゅっと抱きしめる。

 

 もし仮に。

 今、キミにキスをしてもきっとバレないよね。

 ベッドに手をついて、無防備な寝顔を覗き込む。

 軋むスプリング。浅い呼吸。乾いた唇。

 

 そして私は――キミの唇に冷たい指先で触れた。

 その指先で自分の唇をそっとなぞる。

 

 これで間接キス……なんてね。

 

 ――今日、キミは好きな人とデートをする。

 



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三話

 春休みの間、涼太は意中の子と何回かデートを重ねていた。

 そして、今日。

 涼太はついに、好きな子に告白するつもりでいる。

 

 

 

 

 

 

 結局、涼太を起こしたのは九時前になってから。

 約束は一〇時半からだったみたいで、涼太はかなり焦っていた。

 その様子を見て笑っていたらちょっと拗ねちゃった。

 もっと早く起こしてくれって顔をしていたけど、自業自得だって分かっていたからか何も言えないでいた涼太、可愛かったな。

 

「よし、準備完了」

「いってらっしゃい」

 

 玄関に立つ涼太。そしてそれを見送る私。

 行かないで、なんて言葉は言えずに胸にしまい込んだ。

 

「帰ってきたら報告するから、楽しみにしとけよ」

 

 期待と不安の入り混じった笑顔が愛おしい。

 けれどその感情は、私には向けられていない。

 

「うん。慰めてあげるね」

「なんで振られること前提!?」

「え、違うの?」

「違ぇよ……多分。脈アリだと思うんだけどなぁ」

 

 思案に逸らされる瞳。

 その視線の先には、私の知らない誰かがいる。

 

「はいはい。いいから早く行ったら? 女の子待たせちゃダメだよ」

「げ、時間やばい。あーもう。とにかく、うまくいくこと祈っとけよ!」

「わかりました。ちゃんと祈っとくよ」

 

 涼太は私の返答に満足げに頷くと、意気揚々と駆けていった。

 願わくば、帰ってきた時に私に泣きついてきますように。

 

 私ってひどい女?

 どうなんだろう。

 自分に向けられない好きな人の愛情に嫉妬すること。好きな人の恋を応援したくないこと。それって、普通じゃないのかな。

 普通なんてわかんないけど。

 

 でも、心の中でくらい、好き勝手言ってもいいよね。

 いつもたくさん我慢してるんだもん。

 そのくらいは許して。

 

 

 涼太のデート中、私は実家のパン屋の手伝い。

 なかなか仕事に集中できない。

 それはそうか。涼太にとっても、私にとっても、どちらに転んでも大きな意味を持つことになる一日だ。

 

 失敗したな。友だちと遊びにでも行けばよかった。

 あ、でも、もしそれでばったり涼太と遭ったりしたら、それはそれで心臓に悪い。

 それなら、まあ、こうして家の手伝いをしている方がマシかもしれない。

 ほどほどに忙しくて、まあまあいつも通りの一日。

 それでいいんだ。

 

 なんて、ぼんやりと作業をしていたら、来客を知らせる鐘が鳴った。

 

「いらっしゃいませー」

 

 見ると、常連のお客さんだった。

 彼女は小さく頭を下げて、トレーとトングを手に取り店内を回る。

 といっても、いつも彼女はチョココロネしか買わないんだけど。

 

「お願いします」

「牛込さん、毎度ありがとうね」

「ううん。ここのチョココロネが一番好きだから」

「そう言ってもらえて嬉しい」

 

 同じ学校の牛込りみさん。

 チョココロネばかり買いに来る可愛い常連さん。

 聞くところによると、チョコが大好物らしい。

 あ、でもチョコミントは嫌いなんだっけ。

 

 涼太はチョコミント好きなんだよね。夏になるとよくチョコミント味のアイス食べてる。

 って、今は涼太のことは考えたくないのに。

 ふとした瞬間には勝手に彼のことを考えている。

 私はいつも、キミに振り回されてばかり。

 

 会計を済ませた牛込さんにチョココロネの入った紙袋を渡す。

 やまぶきベーカリーのロゴが私を見ている。

 

「えと、山吹さん」

「ん? なに?」

「なんていうか、その、今日はいつもより元気ないね」

 

 その言葉に思いきり動揺してしまい、レジのお金を整えていた手が止まる。

 女の子は生まれながらにして女優、というけれど、どうやら私にその気質はなかったらしい。

 

「……んーん。そんなことないよ」

 

 精一杯の笑顔でそう返すと、牛込さんは心配そうに眉をひそめるだけで、それ以上は口を開かなかった。

 牛込さんが店から出ると店内にお客さんはもういない。

 私は目を閉じて、ふっと小さく息をはき出した。

 

 こんな演技力でも、涼太には通用するのだから、笑えない。

 

 

 

 

 

 

 夕方。ちょうどお店を閉めた頃に、涼太から連絡があった。

 俺の部屋に来て、だって。

 むしろキミが来なさい。こっちが話を聞いてあげるんだから。

 

 こういうのは顔を見たらどうだったかすぐに分かる。

 まあ、当たり前だけど。

 それ以上に涼太はわかりやすい。

 嘘がつけない、ってのは美徳だよね。ばーか、皮肉だよ。

 

 螺旋階段を上る。

 私の頭の中みたい。

 ぐるぐる、ぐるぐる、回っている。

 二階の廊下。明かりを付けていないので暗い。

 あと、なんだかいつもより狭く見える。涼太の部屋までの距離がやけに遠く感じる。

 けれど、涼太の部屋に近づくにつれて心臓の音は加速していく。

 

 ようやくたどり着いた扉の前。

 私は震えるこぶしで扉をノックした。

 向こう側で扉に近寄る気配がする。

 

 かのベートーヴェンは、弟子のアントン・シントラーのとある質問に対してこう答えた。

 ――運命はこのように扉をたたく。

 

『タ・タ・タ・ター』

 

 あまりにも有名なメロディーが、頭の中で流れはじめる。

 交響曲第5番 ハ短調 作品67。日本では通称、「運命」

 運命が扉を開く。

 部屋の明かりを背景に、涼太の笑顔は輝いていた。

 眩しいキミの笑みを見ながら、そんなことを思い出していた。

 

 

 

 

 

 

 涼太の話はまったく頭に入ってこなかった。

 私はただそれっぽい笑顔を浮かべて相槌を打っていただけだった。

 興奮していた涼太はそんな私のことなど露ほども知らず、ニコニコと嬉しそうに話をしていた。

 

 

 帰り道。

 いや、家が隣だからそんな大層なものじゃないけれど。

 

 淡い月に見とれていた。それは薄い雲に遮られて、まるで夏に砂浜に寝そべってナイロンのビーチパラソル越しに見る太陽みたいに、輪郭がぼやけて歪んで見えた。

 

 あれ? おかしいな。本当に視界が歪んでいる。

 ああ、そうか、私は泣いているんだ。

 そんなことに気づくのが遅れるなんて、なんだか可笑しいな。

 小さく笑い声がもれる。

 止まらない。

 次第に嗚咽が混じってきて、私は声を押し殺した。

 

 群青と静寂の夜空。

 とめどなく溢れる涙。

 遠い夜の星々が滲む。

 

 ――キミに、二人目の恋人ができた。

 



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四話

 

 今日も今日とて、一日の始まりは家の手伝いから。

 登校する時間までパン屋の仕事に専念する。

 

 でも、今日はいつもより早く出なくちゃ。

 なぜなら今日は、入学式だから。

 入学式。普通なら、ドキドキと胸が弾んで、キラキラと期待に目を輝かせる。

 まあ、内部生の私は何も変わった感じはしないんだけど。

 あ、校舎は変わるんだった。

 それでも人間関係はそんなに変わらないし、割と気楽。

 幼馴染とも、何も変わらない。

 私は私で、彼は彼。

 

 キリのいい時間まで働いて、家を出た。

 浮き立つ街並み。

 景気のいい青空。

 どこか落ち着かない様子だけれど、なにかに期待が満ち溢れたような顔をした人々。

 舞い散る桜の花びら。

 桜の花びらが落ちる速度って、たしか秒速五センチメートルなんだっけ。そういえば映画のタイトルにもなっていた。

 ゆっくり、ひらひらと、踊り落ちる、桃色のカケラ。

 桜並木に黒猫がいる。

 ちらっと私を睥睨して、去っていった。

 残っていたのは一枚の烏の羽根。

 それはなんだか黒い手紙のようにも見えた。

 

 四月がやってきた。

 淡い情景の季節、春。

 桜の花びらにも私の心は追いつけない。

 

 ――今日、キミの恋人が私の高校にやって来る。

 

 

 

 

 

 

 いつもの登校時間より早く家を出たのはクラス分けを見るため。

 さて、私は何組かな。

 校門に立てかけられた花咲川女子学園入学式の看板。

 見知らぬ誰かが、「今日からお世話になります!」なんて言っている気がする。

 

 玄関前に来た。

 が、玄関横に掲示された紙を見ようにも、大勢の生徒が群がっていてなかなか見ることができない。

 うー、背伸びしてもキツいなこれは。

 仕方なく前に居る人たちが捌けるのを待つ。

 数分かかって、やっとクラス分け表の文字が見えるくらいまで近づいた。

 騒いでいるのは内部生だろうな。クラス分けも割と大きなイベントだ。

 

 フラフラと左端から眺めていると、今来たばかりらしい子とぶつかった。

 日射しと相性のいい綺麗な茶色の髪。しっとりと濡れたアメシストの瞳。一目で分かる端正な目鼻立ち。

 見たことない子だな。外部生か。

 

「あ、ごめん」

 

 すぐに謝る。相手の子からの返しは特にない。

 気を取り直して顔を上げると、すぐに自分の名前を発見した。

 ふーん。A組か。

 

「……いい匂い」

「へ?」

 

 ぶつかってから呆としていたらしいその子は、私に向かってそんなことを言った。

 それに対して、私は思わず素っ頓狂な声をもらしてしまった。

 

「すっごい良い匂いした! パンの!」

 

 感動したようにそう言われた。

 ……新手のナンパかしら。

 そして、その子はぐーと腹の虫を鳴かせた。お腹すいてるのかな。

 あっ、と恥ずかしげにお腹を抑える仕草。吐息のような笑い声。

 なんだか力が抜けてしまう。目の前の少女にはそんな気安さがあった。

 

「うち、パン屋だから」

 

 とりあえずパンの匂いはそういうこと。

 それから私はリュックのサイドポケットを探って飴を取り出し、彼女に差し出した。

 

「いる? パンじゃないけど」

「いいの? ありがとー!」

 

 ギュッと私の手を握ってくる。いや、そうじゃなくて飴を取ってね。

 あと、顔が近い……。

 持ち前の気安さでパーソナルスペースにぐいぐいくる子かぁ。すごいな外部生。これは養殖じゃないね。あ、女子の話です。

 

「何組?」

「A組」

「ほんと? どこどこ!?」

 

 いつの間にか繋がれた手。あはは、恋人繋ぎだ。

 誰ともしたことがない手の繋ぎ方。

 隣の子にハジメテを取られちゃった。

 体温が高いのか、彼女の手はとてもあたたかい。手袋してるみたいだ。

 なんだろ。初対面だけど、この子になら少しだけ気を許せるかも。不思議とそう思えてしまう。

 

「……山吹沙綾」

「あったー! 私はね、戸山香澄」

 

 戸山さん。

 キラキラ眩しい新入生。

 いや私も新入生ではあるんだけど。

 ……明らかに私は、こんなにキラキラしてないと思う。

 

 

 リノリウムの廊下。

 高等部の校舎は、中等部の方とそんなに構造は変わらない。

 文化祭とかでこっちには来ることがあるから、見慣れていないわけでもない。

 戸山さんは妹が花女の中等部生らしい。それで楽しそうだと思って入学したんだとか。

 あと制服が好きだって。うん、それはとても大事だ。

 彼女と会話していると退屈しない。

 ひっきりなしに話題が出てくるし、楽しそうに喋ってくれて愛想がいい。

 戸山さんの瞳はキラキラ輝いている。

 まるで私とは大違い。

 

「楽しみだねー」

「なにが?」

「教室!」

「あぁ。私、内部生だから、なんも変わらないっていうか」

「でも高校生だよ。何かはじまる気しない?」

「え?」

「もうはじまってる!」

 

 子どもみたいに無邪気に駆ける戸山さん。

 靴と床がハイタッチして鳴る軽やかなタップ音が耳に心地よい。

 私の少し先まで行って戸山さんは華麗に振り向いた。

 

「新しい友だち!」

 

 なんか、この子には敵う気がしないなぁ。

 

「友だち認定早いね」

 

 苦笑とともにそう返すと、戸山さんは「えっ!?」と焦ったような姿を見せた。

 ちょっと意地悪だったかな。ごめんね。

 私は可笑しくなって、くすりと小さく笑った。

 

「よろしくね、戸山さん」

「香澄でいいよ!」

 

 にっこりと、お日様みたいに優しい笑顔。

 明るくて、元気で、可愛い。

 涼太の彼女は、きっとこんな子なんだろう。

 いつかその子と出会う日がきたら、その時私はどんな顔をしているんだろうか。

 それまで私は、このぬるま湯に溺れている。

 突然、きゅう、とかわいらしく香澄のお腹が鳴った。

 

「あう。朝ごはん食べてこなかったから……。さあや~」

「いきなりたかっちゃったねぇ」

「うう、ごめんなさい」

「いいよ別に、飴くらい。あ、あとで購買に案内しよっか」

「わーい、ありがとう!」

 

 とりあえず、明日からはおやつにうちのパンでも持ってこようかな。

 別名、餌付けともいう。

 ポケットのスマホが振動した。

 確認すると、涼太からのメッセージ。

 

『今日、うちの手伝い代わってください』

 

 どうしたんだろう。

 しかも敬語なんて。涼太の殊勝な態度は珍しい。

 

『なんで?』

 

 問いかけの返信を送ると、すぐに既読が付いて返信がくる。

 私は涼太の返信を見て、胸の奥がチクリと痛むのを感じた。

 

『彼女とお花見デートするから』

 

 どうやら、そういうことらしい。

 



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五話

 

 おばさんに、『今日は私がお店の手伝いをすることになりました』と連絡すると、『大丈夫よ。帰ってきたら涼太しめとくから』と返信がきた。

 ただの世間話の流れで涼太の悲惨な未来が決まる。

 どうやら、涼太は彼女ができたことをまだおばさん達に言っていないらしい。

 お気の毒に、なんて密かに思った私は悪くないはず。

 しかし、今日実家の方は手伝いにいけないとすでに言ってしまったし、いまさらそういう気分にもなれない。

 ひとりでどっか行こうかな。

 スマホを制服のポケットに入れて、リュックを背負う。

 

「さーや! 一緒に帰ろ」

「香澄。うん、いいよ」

 

 今日できたばかりの新しい友達。

 あ、なんだ。なんも変わんないって思ってたけど、新入生っぽいことちゃんとしてたね。

 香澄と連れ立って校舎を出る。

 高校初日はお昼頃には下校となった。

 オリエンテーションなどは明日から。

 だらだらと話しながら、校門を抜けた。

 

「変なこと言ったかな……」

「ん?」

「自己紹介」

「あぁ……」

 

 話題はクラスのことへ。

 その中でも、最初の自己紹介で香澄はとても印象的なことを言っていた。

 本人はそんな気はなかったようだけど、周りの反応が思っていたのと違ってたからか、今まで気にしていたみたい。

 

「私、やっぱり変だった?」

 

 子犬みたいに目を潤ませて縋るように肩を掴まれる。

 うぅ、卑怯だなぁ。素でこれなんだからタチが悪い。

 

「私は、いいと思ったよ」

 

 私は、ね。

 精一杯のフォロー。

 まあ、周りの子たちも、不思議に思っただけで馬鹿にしていたわけではなかったと思うけど。

 

『キラキラドキドキしたいです!』

 

 臆面もなく香澄はそう宣言した。

 とても素直な気持ちを述べていた。

 私はただただ、この少女に圧倒されたのだ。

 勝手にだけど。

 

 私の目は、彼女みたいにキラキラしているだろうか。

 私の心は、彼女みたいにドキドキしているだろうか。

 

 いつもの問いかけ。自分への問いかけ。

 でも悲しいことに、答えはいつも決まっている。

 

「ほんと!?」

 

 私の見解を聞いて、香澄は安心したように頬をほころばせる。

 可愛い子だなぁ。

 同性としてでも、そう思わずにはいられない。

 

「じゃあ、明日から部活見学一緒に行ってくれる?」

 

 香澄はキラキラドキドキできるものを探している。

 だからまずは部活見学で色んなところを回ってみたいんだろう。

 でも、私は。

 

「あー、ごめん。部活は……」

「……そっか」

「うん」

「じゃあしょうがないね」

 

 今、容易く触れ合える距離にいる香澄。

 けれど、目に見えなず踏み越えることを許さない線引きをした私。

 私ってやっぱりずるい女?

 

「さーやの家はどっち?」

「あっち」

「そうなんだ、残念。私と反対だ」

「あはは。じゃ、また明日ね」

「うん、バイバーイ!」

 

 手を振り合って別れた。

 またね、って。

 

 

 

 

 

 

 いつものカフェにひとりで向かう。

 ここに来る時はたいてい隣に涼太がいた。

 もちろん今日はいない。

 

 カランコロン。

 下駄で歩く時のような、郷愁を感じる音が鳴る。

 この店の入店ベルが個人的には好きだ。

 

 いらっしゃいませ、といつもの店員さん。

 ちらっと私の隣に視線を向けたのが分かった。

 平日なのもあってか店内にお客さんはあまりいない。

 幸い、いつもの席が空いていたので私はそこに座った。

 

 お昼ご飯にパスタ、それから食後のコーヒーを注文した。

 頼んだパスタはもちろんペペロンチーノ。

 私の好物。

 

 店内のBGMに耳を傾けながら料理を待つ。

 華やかで、踊りまわるようなフレーズが特徴的な曲。

 クライスラー、「愛の喜び」

 先日店内にかかっていた「愛の悲しみ」と対になる曲。

 うっとりと艶やかなメロディに思わず聴き入ってしまう。

 たっぷり曲を堪能した後に料理が運ばれてくる。

 

 どうしよう、写真撮ろうかな。

 うーん。でも冷めたらもったいないし、さっそく食べちゃおう。

 というわけでいただきます。

 

 美味しいペペロンチーノをいただいた後は優雅にコーヒーを。

 ふわりと湯気が立ちのぼり、ブルーマウンテンの芳醇な香りも一緒に溶け込んでいる。

 ぽとん、と角砂糖を一個投入。

 ティースプーンでぐるぐるかき混ぜる。

 息を吹きかけて湯を冷まし、一口。

 鼻に抜ける酸味と香り。

 シュガーの甘い主張。

 胃に温かい液体が流れていくのを感じながら、ほうと熱い息をはいた。

 

 外に目を向けると、桜並木と穏やかな小川。

 涼太は今頃何をしてるんだろう。

 もう彼女と一緒にいるのかな。

 どこで花見をするのかな。

 もうそこに着いた?

 それともまだ向かってる途中?

 

 目を閉じる。

 まぶたの裏側に映る、涼太と、私の知らない誰か。

 肩ぐらいに彼女の頭があって、少し見下ろしてキミは笑う。

 僅かな拍子で触れ合う肌。

 意識する指先。

 高鳴る心音。

 そうしてついに手を繋ぐ。

 少しごつごつした大きなキミの手と、柔らかくて線の細い小さな彼女の手。

 初々しい仕草。

 交わす照れ笑い。

 やがて、満開の桜がふたりを迎える。

 

 ――どうしたって私は涼太の隣にいない。

 

 ゆっくりとまぶたを持ち上げた。

 視線は窓の外。

 春風に囁かれて、桜の木が揺れている。

 一瞬、黒猫が見えたような気がした。

 また、コーヒーを飲む。

 砂糖の甘さが過ぎ去った後に残ったのは、コーヒー本来の苦味だった。

 



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六話

 

 終礼を終え、放課後。

 体操服姿で教室から飛び出ていく香澄を尻目に、リュックを背負った。

 香澄はどうやら全ての部活動を見学するつもりらしい。

 そうまでして、キラキラドキドキしたいんだね。

 

 いや、もしかしたら。

 そうまでしないと、キラキラドキドキできないのかもしれない。

 しかも報われる保証はどこにもない。

 なんだかそれは残酷なことのように思えた。

 

 ポケットのスマホが震えてメッセージの着信を知らせてくる。

 確認すると涼太からだ。

 

『一緒に帰ろーぜ』

 

 どうしたんだろ、珍しい。

 

『いいけど。今どこ?』

『もうちょいで花女の校門』

 

 マジか。

 私は居てもたってもいられず、教室を急ぎ出て早歩きで廊下を歩いた。

 リノリウムを蹴る靴の音がいつもより鮮明に聴こえる。

 放課後のざわめきはなんだかあまり気にならなかった。

 下駄箱で靴を履き替えながら、同じクラスの子と別れの挨拶。

 

「お、沙綾。今日はなんだか急いでるね。どうしたの?」

「え、急いでるように見える?」

「うん。いつもより動きが素早いよ」

「気のせいでしょ」

 

 冗談を交え笑いながら靴を履き替える。

 我ながら白々しい返答。

 そりゃ急ぐよ。誰かさんがわざわざ来てくれるんだもん。

 私と一緒に帰るために。

 

「あと、なんか嬉しそう」

 

 うん、それは図星です。

 

「さては……男だな!」

「そんなんじゃないよ」

 

 確かに男の子ではあるけどそういう関係じゃない。

 

「じゃあなによ」

「ただの幼馴染」

 

 本当に、たったそれだけの関係だ。

 話はこれで終わり、とばかりに私は微笑んだ。

 

「あー、なるほどね。ま、がんばりな」

「じゃ、ばいばい」

「あ、またね」

 

 逃げるようにさよならをした。

 どうして女の子はこうも察しがいいのだろうか。

 それとも、もしかして私って笑顔が下手なのかな。

 うわ、だとしたら接客業としては致命的だ。

 なんて、誤魔化してばかりいる。

 

 校門に近づくと、ひとりだけ目立つ制服があった。

 目立つのは偏に他校の制服だから。

 へー、そっか。私も中学の時はあんな感じだったのか。

 女の子の視線を独り占めしている涼太は、落ち着かない様子でキョロキョロと花女の敷地内を見渡していた。

 うわぁ、めっちゃ怪しい人だよ。さすがに私はあんなんじゃなかったや。

 でも、もしかしたら私を探してくれているのかもしれない。

 そう思うと頬はほころんだ。

 

 鼻歌でも歌い出しそうな気分で涼太に近寄る。

 あれ。隣に来たというのに気付いていない。相変わらずキョロキョロとしている。

 私を探していたんじゃないの?

 

「涼太?」

「あ、沙綾か。おっす」

「おす。……で、なにしてんの?」

「人探し」

「私じゃなくて?」

「うん」

 

 どうやら私じゃなかったらしい。

 なんだそれ。一緒に帰る約束までしておいて、探していたのが私じゃないなんて、そんな酷い話はない。

 思わずムッとした。

 

「さっきからめっちゃ怪しいよ。不審者なの?」

「ちげぇよ! 彼女を探してんだよ」

 

 あー、なるほどね。

 それを聞いて合点がいった。

 そして、急速に気分が落ち込んでいくのが分かった。

 一緒に帰ろうという誘いは、いわばカモフラージュ。最初から涼太は自分の彼女のことしか頭になかったようだ。

 

 私、馬鹿みたいだな。

 勝手に期待して、勝手に裏切られた気になって。

 とんだ道化者だ。

 

「なら直接彼女に連絡すればいいじゃん」

「いやなんか最近めっちゃ部活動見学してるみたいでさ、放課後はまったく通じないんだよ。しかもそれで疲れて夜はすぐ寝ちゃうし、ここんとこあんまり連絡取れてないんだよな」

 

 ――心臓が止まるかと思った。

 

 いや、違う。いくら心当たりがあるからとはいっても、さすがにそれは早とちりだ。彼女以外にだって部活動見学を積極的に数多く回っている子だっているはずだ。だから決めつけるのはよくない。でも可能性が十分にあることも事実だ。そう、彼女は外部生。むしろ可能性は高い。いや、でも――――

 

 ぐるぐる、ぐるぐると、思考が回遊している。

 涼太の家の螺旋階段みたいに。牛込さんがいつも買ってくれるチョココロネみたいに。ぐるぐる、ぐるぐると。

 

 ……落ち着け、私。一旦落ち着こう。

 そもそもこれは考えても無駄なことだ。

 だって私は、涼太の彼女のことを何も知らないんだから。

 涼太がそういう風にさせているんだから。

 だから私は、何も知らない。

 ただそれだけのことだ。

 

「……ほら。ならどうせ見つかんないでしょ。帰るよ」

「くそ、しょうがねぇか。じゃ、帰るか」

 

 いつもの帰り道。

 でもいつもと少し違うのは、隣に居る人の存在。

 桜はもうほとんど散っていた。

 私もお花見したかったなぁ。

 もしやるなら、お弁当作って、それからパンも。

 水筒には麦茶? でもキミはコーヒー派だよね。

 デザートにはもちろんケーキ。ケーキ屋の息子ならそりゃモテるよ。ケーキを提供できるのは女の子的にポイント高い。

 

 私は、それだけでいいのに。

 たったそれだけのことが、ひどく遠い。

 隣に居るキミとの距離は一○センチ足らず。でも涼太は霧のように霞んで見える。たった一○センチの空間は、マリアナ海溝のように深く、どうしようもなく隔たれていた。

 ちょっと手を動かすだけで、涼太の手を握ることができるはずなのに。そんなことは夢物語のように思えた。

 

 あ、でも、そういえば小さい頃はよく手を繋いでいたっけ。

 ねぇ、涼太。

 あの頃みたいでいいからさ。

 

 ――またキミと、手を繋いでもいいですか?

 

 心の声は、当たり前だけれど、どこにも届かない。

 



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七話

 トレーのパンを見て金額をレジに打ち込み加算していく。

 パン屋は種類ごとに値段を覚えなきゃいけないから大変だ。

 あ、でも最新の機械だと、パンをモニターに映すだけで合計金額を割り出してしまうらしい。いーなー、うちも欲しい。そんなお金ないだろうけど。

 

 ないものねだり。

 手のうちにないものばかり欲しがってしまう。

 人間の業だよね。

 

 なんて、適当なことを考えながらお客さんの会計を行う。

 そしてパンを入れたやまぶきベーカリーの紙袋を渡した。

 

「ありがとうございました」

 

 言いながら深々とお辞儀をする。

 感じのいい接客を心がけているんです。

 ふぅ、とひとつ小さな吐息。

 

 店内のガラスから見える空はいつの間にか橙色に染まっていた。

 時間を見れば、そろそろ外は暗くなり始める頃。

 さて、今日はもうお客さん来ないかな。

 長年の経験からの、なんとなくの勘。

 しかし、ちらりと入店口を見ると、入店のベルを鳴らして見覚えのある少女が入店してきていた。

 

「むふふふふ」

 

 あら、見つかっちゃった。

 

「メロンパン焼きたてです」

 

 変な笑い方をする香澄に、私は観念したようにそう言った。

 

 

「焦んなくていいんじゃない」

「んー」

 

 店内のパンを補充しながら私は独り言のようにそうこぼす。

 メロンパンの入った紙袋を手に持つ香澄は未だ思案していた。

 結局、香澄はすべての部活動を見学して回ったのに、コレと思うものが無かったようだ。

 

「バイトするとか」

「え! 雇ってくれる!?」

「うちは厳しいよー。朝は早いし夜は遅いし、睡眠時間は毎日二時間」

「ハード!」

「う・そ」

 

 むー! と抗議の声を挙げながらべちぺち叩いてくる香澄に笑いながら、私は内心でほっとしていた。

 だって、そんな簡単に輝いてもらったら困るもの。

 香澄が輝けば輝くほど、自分が惨めに見えてしまうから。

 

「見つかるといいね」

 

 でも心のどこかでは期待している自分もいた。

 私に希望を見せて。

 手を伸ばせば届くって思わせてよ。

 だからこれは、純粋な本心だ。

 

「あ……うん!」

 

 けれど私の目には、諦めない香澄はもうすでに十分輝いて見えていた。

 

 

 

 

 

 

「ごちそうさまでした」

「はい。お粗末さま」

「ん、じゃあ洗っとくね」

「あら、沙綾ありがとう」

 

 晩ごはんを食べて食器を洗う。

 いつも通りのルーティン。

 食器洗いが終わったら濡れた手を拭いて、弟と妹に呼びかけた。

 

「ほら、ふたりともお風呂入るよ」

「はーい」

 

 紗南は応じてくれたけど、純は来る気配もない。

 

「あれ。純? お風呂ー」

「まだ入んない! 父ちゃんと入る!」

「あ、そう……」

 

 あー、そっか。そういう時期かぁ。

 なんか地味にショック。

 お姉ちゃん悲しいよ。

 

「沙綾、分かってると思うけど」

「うん。分かってる。大丈夫だから」

 

 母さんからのフォローが痛み入る。

 

 ――というわけでお風呂タイム。

 

 

 カポーン。

 

 

 紗南を背後から抱きしめるような形で湯に浸かる。

 お風呂ってどうしてこんなにもリラックスできるんだろう。

 

 一方で、紗南は玩具で遊んでいた。

 ゴム製のアヒルさん。

 水中に沈めては浮かんでくる様子を見て楽しんでいる。

 ……幼いとそういうことでも楽しめるのだから不思議だ。

 

「おねーちゃん、ひよこさんはどうして浮くの?」

 

 うーん、浮力とかアルキメデスの原理とかって言っても分かんないよねえ。

 あとそれアヒルさんだよ。

 ていうか、何気に残酷なことしてる。

 アヒルさんを沈めて続ける。また浮かんではその度に沈める。

 でもその様子を見ていたら閃いた。

 あぁ、だから、それはつまり。

 

「このお湯がね、助けてくれてるんだよ」

「へー! そうなんだ!」

 

 温かいお湯に私たちは包まれている。

 それは文字通り身に染みる優しいあたたかさ。

 

「じゃあわたしは? 助けられてる?」

 

 紗南が振り向いて私の目を見つめてくる。

 私とよく似た澄んだ青空の瞳。けれど違うのは、紗南のは限りなく透明に近い。

 幼いって残酷だ。同時に、成長だって残酷と言える。

 

「うん、そうだね」

「おぉー! お湯ってすごいんだね。お湯さんありがとう!」

 

 無邪気な妹が愛おしい。

 でも忘れてほしくないのは、この場には私も居るってこと。

 

「お姉ちゃんも紗南を助けてるんだよ」

 

 ぎゅっと小さな背中を抱きしめた。

 お風呂場に私達の笑い声が反響する。

 

「えへへ。おねーちゃんもありがとう」

「どういたしまして」

「あ、じゃあ、おねーちゃんは?」

「え?」

「誰に助けられてるの?」

 

 どこか核心を触れられたような疑問に体が強張る。

 

 どうだろう。

 どうなのかな。

 私は誰かに助けられてるだろうか。

 

 いつも荒波に呑まれては沈んでいくばかりの私の手を取って、引っ張ってくれる人はいるだろうか。

 私はひとりぼっちで、届かない手を必死に伸ばしてバタバタと無様にもがいているだけなんじゃないだろうか。

 

 一年前。私はドラムで参加していたバンドを辞めた。

 大事なライブの日に母さんが倒れて、私は会場から逃げ出した。

 誰かを助けるどころか、みんなの努力を踏みにじった。

 私には誰かに助けてもらう資格なんてない。

 

 そして、いつまでも叶わない恋に振り回されている。

 猫みたいな恋。

 構おうとして近づくと傷付けてきて、ふとしたひとりの瞬間に寄り添ってくれる。

 身勝手な感情に翻弄されて、時には慰められて。

 嗚呼、それはただのエゴだ。肥大化した自己愛に首を絞め付けられている、愚かで滑稽な私。

 

 目を閉じれば、まぶたの裏には桜の景色が広がる。

 現実ではもう散ってしまった。

 入学式の日の黒猫を思い出した。

 烏の黒い羽根を見つめている。

 

 目を開けて紗南と見つめ合う。

 透明なお湯を片手で掬った。

 水は透明だ。でも海は青い。

 お湯はするりと手から零れ落ちて、手のひらには淡い水滴だけが残った。

 私は何も言わずに微笑んだ。

 

 どうか、ちゃんと笑えていますように。

 



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八話

 

 初恋の話をしよう。

 

 

 私が涼太を男の子として意識するようになったのは、小学五年生の夏のことだった。

 

 場所はどこかの公園。

 景色は夕日に染められた茜色。

 蝉の鳴き声がよく聞こえた日だった。

 

 みんみん鳴くのがミンミンゼミで、じーじー鳴くのはアブラゼミだっけ。

 私、ヒグラシの鳴き声が好きだったな。かなかなと日暮れを知らせるジングルが心地よかった。今日も一日生きたんだな、と妙に達観するような大らかな気持ちになるのが何処か大人っぽい感じがして嬉しかった。

 でもツクツクボウシはちょっと苦手。あれが鳴くのは夏の終わりだ。夏休み特有の全能感を霧散させる。途端に無力な子どもに成り下がるような気がしてくる。

 

 あの時、もっとも鮮明に聞こえたのは、たしかツクツクボウシの鳴き声だったはずだ。

 

「――俺、好きな子ができたんだ」

 

 その一言で、私は思い出した。

 

 いつも瞳は涼太の姿を追っていたこと。

 目が合うだけで胸は弾んで平常心ではいられなくなっていたこと。

 少し会話をしただけで抑えきれない喜びと笑顔がこみ上げていたこと。

 涼太に会いたくて家や学校の前で待ち伏せしていたこと。

 

 他の女の子と話している時に抱いた嫉妬心。

 涼太の隣は私の居場所だと思っていた独占欲。

 数えきれないほどの傲慢な願い。

 

 それらを、私は気付いたのではなく思い出した。

 

 世界五分前仮説というものがある。

 世界は実は五分前にはじまったのかもしれない、という仮説。

 この仮説は確実に否定することができない。なぜなら、偽の記憶を植えつけられた状態で、五分前に世界が始まったのかもしれないからだ。よって、五分以上前の記憶がある事は何の反証にもならない。

 などという、ちょっと屁理屈っぽい仮説。

 

 この話を初めて聞いた時、理解はできたけど納得することはできなかった。

 でも涼太の告白を聞いた瞬間だけは、その話をすんなりと受け入れることができそうな気がした。

 

 きっと全部、五分前に誰かに植え付けられたんだ。

 きっとここは、五分で誰かに作られたちんけな世界なんだ。

 誰かって、誰だかわからないけど。たぶんカミサマみたいな高次元の存在。

 その方が自分の気持ちに頷ける。

 だからこの苦い感情も、きっとカミサマに植え付けられたんだ。

 

 夏草と土のにおい。

 夏の終わりに鳴くツクツクボウシ。

 抜け落ちる全能感。

 

 私の初恋は、知らぬ間にはじまっていて、いつの間にか手遅れになっていた。

 

 

 

 

 

 

「バンドやるんだ!」

 

 満天の星空みたいに輝く瞳。

 恋する乙女のように上気した顔。

 抑えきれない感動を言葉として溢れさせる香澄は、高らかに宣言した。

 

「ライブハウス行ったらすっごくキラキラで、ドキドキして」

 

 まさに恍惚といった様子。

 先程まで市ヶ谷さんのギターが可愛いと騒いでいたから、ギターをやるのかな。

 まさに花形で、香澄にはよく似合うと思う。

 

「沙綾もやる!? 放課後ダメだったら休み時間に!」

 

 ごめんね、バンドこそ私は絶対にできない。

 私にとってはかなり地雷の話題なのに、どうしてか恐ろしいまでに冷静な自分がいることが、どこか他人事の様に思えた。

 

「私は遠慮しとくよ」

「うぅ……そっかぁ」

 

 一緒にできないことが心の底から残念だ、という風に香澄は肩を落とした。

 私だって音楽がしたい。けれど、前のバンドメンバーへの罪悪感が、私の心をきつく締め付ける。

 

 香澄は、ほんと、すごいなぁ。

 

「見つけたんだ……キラキラドキドキするもの」

 

 星に願いを、天に祈りを。

 純粋無垢な少女の思いは、きっとこの世で何よりも美しい。

 そしてそれは、私が決定的に失ったものだった。

 

「……本当だ!」

 

 言われて今気づいたらしい香澄は、感極まった様子で「きらきらー!」と言いながら抱きついてきた。

 私はそんな香澄をそっと抱き返す。

 

 ねぇ、香澄はどうしてそんなに眩しいの?

 どうして、欲しいものに手が届くの?

 

 皮肉なことに、それは私が掴めなかったものだ。

 それに、香澄は、もしかしたら……。

 聞こうかな。聞いてみようかな。

 

 

 ――あなたには、付き合っている男性がいますか?

 

 

 開きかけた唇が戦慄く。

 もしそれで仮にイエスと言われたら、私はどうするんだろう。あるいは、どうなるんだろう。

 

 わあ、すごい偶然だね。そいつ私の幼馴染なんだ。生まれた時からずっと一緒で、家族みたいに近しい存在なの。彼の写真はいっぱい持ってるよ。私のアルバムによく紛れ込んでいるし、彼のアルバムにも私が紛れ込んでいるの。笑っちゃうでしょ。でもそれくらい色んな彼を知ってるよ。笑った顔、ふざけた顔、真面目な顔、悔しがる顔、泣いている顔。全部全部知ってるよ。好きなものも嫌いなものも、趣味も特技も好きなタイプも、今までの恋愛経験も。なんでも知ってる。だって、幼馴染なんだから。一番の親友なんだから。

 

 なーんて、言うのだろうか。

 いつもみたいに、バレバレの精一杯の笑顔で。

 

 言えるかな。

 言えないだろうな。

 

 世界五分前仮説というものがある。

 世界は実は五分前にはじまったのかもしれない、という仮説。

 

 ねぇ、カミサマ。お願いします。

 どうか、私に優しい世界を作っていてください。

 五分前にできたかもしれない世界。

 きっと香澄が、私を傷つけない世界。

 溶けるように、沁みるように、私は言った。

 

「……応援する」

 

 

 

 

 もしも美しいまつげの下に、涙がふくらみたまるならば、それがあふれ出ないように、強い勇気をもってこらえよ。――ベートーヴェン――

 



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九話

 ここのところ雨の日が続いていた。

 空は鈍色の雲に閉ざされ、銀の針のような雨粒がいたる所で降っている。アスファルトの表面を水が駆ける。雨粒が弾ける音に混じって、ちろちろと水が流れる音が聞こえる。

 こういうのをたしかホワイトノイズというんだっけ。

 詳しくは知らない。でもなんか聴いてると集中力が高まるらしい。

 

 雨の音。

 たしかに考え事とかしやすい気がする。

 そう思うと、なんだか雨を好きになっていくようだった。

 

 

 四月も終わりが近づき、それなりに暖かくなっていたけれど、連日の雨によって急激に冷え込んでしまった。急な寒暖差にやられて体調を崩す人が多い。ここ数日はマスクしている人をよく見かける。

 うちも、例によって母さんの調子が悪そうだ。

 私もすこし頭が痛い。偏頭痛かな。まあ女の子ならよくあることだ。ちょっとした気候の変化で体調を崩しやすい。

 

 雨は好きでも嫌いでもない。

 あ、でも湿気が多いと髪がぼわってなるからやっぱり嫌い。

 でもでも、雨の音は集中できるからちょっと好き。

 結局どっちなんだろ。

 そういう気分的な問題で左右される。

 まあ、だいたいのことなんて気分で決まるものだから、とりあえず気にしないことにした。

 

 今日の朝は雨が降っていなかったが、昼から降ると天気予報で言われていた。にも関わらず、途中まで一緒に登校した涼太は傘を持っていなかった。

 キミ、天気予報どころかニュースすらろくに観ないもんねぇ。

 で、案の定昼から降り始めた。

 

 今は放課後。涼太に傘を渡すために、私は涼太の通う高校へ向かっている。

 私は折りたたみ傘を常備しているのだ。物持ちがいいんです。

 ちなみに、メッセージを送ったんだけど、返信はない。既読すらついていない。

 

 左手に傘を、右手にスマホを持って歩く。

 様々な雨の音が聴こえる。

 雨粒がアスファルトにぶつかる音。

 傘に当たってパラパラと散り落ちる音。

 葉に落ちて雨粒が砕ける音。

 

 雨の日には無性にクラシック音楽が聴きたくなる。

 ドビュッシーの「月の光」だとか、バッハの「ゴルトベルグ変奏曲」のアリアとか。

 けれど大雨の日には聴きたいとは思わない。だって、大雨は音楽の塊だ。他の音は必要ない。

 

 鈍色の視界の中、徐々に校舎が見えてくる。

 そういえば、初めて来たな。涼太が通う高校。

 その時、手に持っているスマホが震えた。

 通知に灯る液晶。

 

『かさだいじょぶ』

 

 ……なにこれ。

 返信雑すぎない?

 なんか全部ひらがなだし、日本語おかしいし。

 まるで急いで入力したかのよう。

 

 ふと、顔をあげると、私はすでに校門近くまで来ていた。

 距離にしておよそ一〇メートル。

 校門の向こうから一組の男女。一つの傘にふたりで収まっている。いわゆる相合傘。

 透明なビニール傘一本の中で、窮屈そうに雨を避けるふたりは、気恥ずかしい初々しさもあるようだが、顔を向かい合わせて楽しそうに談笑している。

 

 

 ――そのふたりの姿を目に映した途端、私の頭の中は真っ白になって、胸の奥は引き裂かれるように激しく痛んだ。

 

 

 ……あー、やっぱ、そっかぁ。

 

 気づいていた。

 本当はそうなんだって、心のどこかで分かっていた。

 キミの言っていた条件を満たす子なんて、彼女しかいなかった。

 最初の自己紹介で聞き逃した気になっていた出身中学。クラスメイトとの話題でたまたま聞いてしまった学校名は、ひどく聞き覚えのあるものだった。

 

 日々のキミの恋人自慢。

 日々の彼女との何気ない会話。

 どんどん整合性が取れていく。

 涼太の近くにいればいるほど、彼女と仲良くなればなるほど、何もかもがむしろ鮮明になっていく。

 

 

 そして私は、泥の中に沈んでいくようで――

 

 

 ふたりがこちらに向かってくる。

 私は逃げるように脇道に隠れた。

 あれ、私どうして隠れてるんだろ。

 毎日のように聞いている二つの声が近づき、通り過ぎ、遠ざかっていく。

 

 心臓は早鐘を打っていた。

 背中にはドッと流れる冷や汗。

 けれど、どれもすぐに治まって、後には胸が締め付けられるように苦しくなった。

 やがて私は放心したようにズルズルと壁に崩れた。

 体や制服が濡れるのなんて気にもならない。

 傘をぽいと地面に投げ棄てた。

 

 乾いた笑い声がもれる。

 しかしそれは雨音に埋もれてどこにも響かない。

 胸にぽっかりと大きな穴が開いてしまったような気分だ。

 ひゅーひゅーと風が通り過ぎているみたい。

 

 亡者のように脇道から出て、二人の進行方向を見つめた。

 遠い背中。

 あぁ、とても遠いな。

 本当に遠い。

 遠ざかる姿に唇を噛みしめた。

 

 やがて視認できなくなって、私は空を仰いだ。

 雨雲の上は晴れているらしい。

 雲の上に雲はない。

 雨が降るのは雲の下だけで、雲の上は当たり前のように晴れている。

 けれど、雨に打たれる私にはそんなことは絵空事のように思えた。

 

 雨、冷たいなぁ。

 帰ったらお風呂に入らなきゃ。

 温かいお湯に浸かって、体を温めなきゃ。風邪引いちゃう。

 いつかの紗南の言葉を思い出した。

 

『誰に助けられてるの?』

 

 あえて言うのなら、自分だった。

 私はいつも自分に助けられていた。

 自分を騙して、自分を慰めて、そうやってどうにかやってきた。

 お風呂は体を温めるけど、心まではあたためてはくれない。

 

 体を支配する虚脱感。

 いつの間にか抱えている無力感。

 頭がズキンと痛む。

 胸の奥がズキンと傷む。

 鼻頭がツンとした。

 

 雨に溺れることはない。なのに今、こんなにも息苦しいのはどうしてだろう。

 目尻が熱い。

 砕けた心が濾過出来ないまま、熱いナニカが頬を流れた。

 それが雨粒なのか、別のモノなのかもわからない。

 

 

 ――キミの恋人は、星のように眩しい私の友達だった。

 

 



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十話

 雨と風。

 灰色が世界を染め上げている。

 暴風が轟々と雄叫びを上げ、大雨は悲鳴のように地面に打ち付ける。

 激しい暴虐の乱舞。

 

 私は今、とある橋の下で雨宿りをしていた。

 あれから雨と風が急激に強くなり、傘をへし折られてしまった。予備の折りたたみ傘をさしても結局同じことになりそうだったので、ひっそりと雨風が弱まるのを待つことにした。

 髪も服も靴も下着もぐっしょりと濡れていた。

 もはや寒いを通り越して感覚が薄くなっている。

 

 目の前の細い川は大雨で氾濫し、すっかり普段と姿を変えてしまっていた。呑み込まれればひとたまりもないだろう。

 それを、壁にもたれて呆と見ていた。

 

 雨の音がひときわ強くなって、私は視線を外へ向けた。

 灰色の世界。

 激しい雨が日常から色彩を奪っている。

 けれど大雨と暴風は、まるで音楽を奏でているようでもあった。

 意志を持ったように不規則なそれらは、むしろ手を取り合ってセッションをしているよう。

 近くにある廃棄されたトタンの上で、雨が独特のリズムを刻んでいる。どことなくギャロップのリズムに近い。

 ギャロップといえば、オッフェンバックの「天国と地獄」を思い出す。運動会のBGMでよく使われる曲。けれど今、そんな陽気な風景は欠片も脳裏に浮かばない。

 

 脳裏に浮かぶ情景は、よく見慣れた一組の男女の背中。

 けれど、遠い。

 果てしないほどに遠い背中。

 やがて世界が潤み、景色が滲んでいく――

 

 

 みゃあ、と鳴き声が聞こえた。

 見ると黒猫がいた。

 黒猫は私に近寄ってきて、ぽすっと隣に腰を下ろした。寄り添うように私にもたれかかる。おそるおそる撫でてやると、その毛並みはわずかに湿っていた。

 雨に濡れたんだろう。もしかしたら、この子も雨宿りをしにきたのかもしれない。

 

 黒猫を見るたびにいつも思い出す。

 小学生の頃、近所の公園に一匹の黒猫が住み着いていた。誰もがその子を可愛がり、かくいう私もその一人だった。

 ある時、涼太とふたりで公園に行ったところ、私たち以外にはその黒猫しかいなかった。

 チャンスだと思った。

 いつもは人が多くて猫と戯れる時間は限られていた。暗黙の了解というやつだ。それがこの日は免除された。だから、私と涼太はめいっぱい黒猫を可愛がった。

 けれど、猫はかまわれすぎるのを嫌がる。

 元々猫は自由奔放な生き物だ。いつも人が多い時だって、そのうち人間と遊ぶのに飽きてどこかへ行ってしまう。

 でもこの日、私はついつい黒猫をかまいすぎてしまった。調子に乗ってベタベタと。

 黒猫に反感を買われた私は、右腕をその鋭利な爪でひっかかれた。ひっかかれたところはぱっくりと肉が裂けて、ダラダラと血が流れた。今でもその傷痕は残っている。

 ひっかいた後、黒猫は怒ってどこかへ行ってしまった。

 それ以来、黒猫は公園から居なくなってしまった。

 

 猫は自由奔放な生き物だ。

 かまいすぎると傷つけてくるくせに、ふとした時に寄り添ってくれる。

 結局、彼らは掴みどころがない。

 

 

 

 

 

 

 どれだけそうしていただろう。スマホで時間を確認しようとも、電池切れか、はたまた水没のようなものか、電源がつかない。

 気がつけば雨と風は弱くなっていた。

 

 これならもう帰れるかな。

 そう思い立ち上がると、ずっと寄り添ってくれていた黒猫が足にすり寄ってきた。ほんと、調子いいんだから。

 しゃがんでひと撫ですると、ビクッと体を揺らして逃げていった。

 もう、なんなの。でも私はその影を苦笑で見送った。

 

 

 …………。

 

 

 ん? 今、外でなにか聞こえた。

 折りたたみ傘を広げる。あー、でもどのみち全身濡れてるからなぁ。どうしよっか。

 とりあえず橋の下から出る。

 小雨に混じって、誰かの声が聞こえる。それは必死に呼びかけるものだった。

 

 石の階段を上がるとその声はより鮮明に聞こえた。

 ていうかこれ、聞き間違いじゃなかったら、()()って。

 

 

「…………!」

 

 

 ――嗚呼。

 

 わかった。

 わかってしまった。

 

 

「……や!」

 

 

 ばか。

 バカ、馬鹿!

 ほんと、ばか。

 

 

「……あや!」

 

 

 枯れたと思っていた涙が溢れ出す。

 小さな火種が燃え広がるように心臓は歓喜に震える。

 止まらない嗚咽は世界を彩る情動的な音楽のよう。

 

 

「沙綾!」

 

 

 汗と雨に濡れた体。

 泥に塗れた靴は雨の中を駆け回った証拠。

 そして、何よりもその必死なまでの形相が、彼の気持ちを雄弁に語っていた。

 

「この、バカ沙綾! 親父さん達いつまでも帰ってこないって心配してたぞ! 携帯も繋がらないし、どこ行ってたんだよ!」

 

 涼太は本気で怒っていた。

 他でもない、私のために。

 だから、怒鳴られているのに嬉しくて。

 苦しいはずの嗚咽が心地よくて。

 喜びが心の中で激しく渦巻いていた。

 

「ご、ごめ……ごめんなさい」

「…………いや、悪い。俺も言いすぎた。ほら、帰ろう。な?」

「うん……うんっ……!」

 

 差し出される涼太の左手。

 

 いいんだ。

 私が握っても、いいんだ。

 手を繋いでも、いいんだ。

 

 私は感動すら覚えた。

 いつまでも涙が止まらない。

 あーあ、こんなぐちゃぐちゃな顔を見られるなんて最悪。

 

 私の右手を包む涼太の左手は、男の子の手だった。大きくて、ごつごつとしていて、少し硬くて、あたたかくて、とても安心する手。子供の頃のそれとは明らかに違う。

 涼太は何も聞かなかった。

 ただ手を引いてくれていた。

 その優しさがありがたくて、けれどとても残酷的だった。

 

 ほんと、猫みたいだ。

 近づくと傷つけてくるくせに、ふとした時に寄り添ってくれる。

 

 私ってばチョロい女だな。

 あんな決定的な瞬間を見せつけられて、それでもなお今この瞬間がたまらなく愛しい。

 

 涼太はずるいな。

 簡単には諦めさせてくれない。いっそのこと、突き放してくれた方がどれほど楽なことか。

 

 きっとキミという広い海に溺れているんだ。

 大海原でひとり、キミへの愛を叫ぶ。

 涼太、好きです。

 キミが好きです。

 好き、です。

 言葉にできない想いを心で叫んだ。

 

 ――私はどうしようもなく、キミに溺れている。

 




感想返せてないですが全て目を通してます。ありがとう。


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十一話

 

「ふー、楽しみだね! ね、りょうた?」

「そうだな! でも忘れんなよ? なにせ、十年後だからな」

「わたしは忘れたりしないよ。わたしより、りょうたの方が忘れそうで心配だよ」

「おいおい、おれが忘れるわけねーだろ」

「ほんとかなー?」

「ほんとだって! だって…………」

「ん、なに? 声が小さくて聞こえない」

「な、なんでもない!」

「ふーん。まあ、もしりょうたが忘れても、わたしが思い出させてあげるから大丈夫!」

「だから忘れないってば!」

「はいはい。じゃあまた十年後に、ここへ来ようね」

「はぁ……まあいいか。うん、また十年後に、ここへ来よう」

 

 

 

 

 

 

 五月に入ってから香澄は毎日忙しそうにしていた。

 具体的には市ヶ谷さんを攻略しようとしているらしい。恋愛ゲームか。

 最近は蔵の掃除の手伝いをしているんだとか。

 それがバンドにどう繋がるのかよくわかんないけど。

 でもそれで涼太は最近かまってもらえなくて面白くないようだ。

 今日も香澄は放課後になると誰よりも早く教室から出ていった。

 

「バンドやるんだ!」

 

 あの日、一等星よりも眩しい笑顔でそう宣言した香澄を、私は忘れない。

 応援してるよ、頑張れ。

 

 歩き慣れたアスファルトの上を行く。

 ゆっくり流れる雲と歩調を合わせるように、一歩一歩を踏みしめる。

 こうやって歩いていると、確かに見えてくるものがある。

 

 多分、いつだって自分の歩き方を探していたように思う。

 涼太にただの幼馴染としてじゃなく、一人の女の子として好かれたくて。

 でも、どうすればいいのかなんてなに一つわからなくて、私は涼太が好きになった子を片っ端から真似した。

 表情、仕草、髪型、趣味、習い事、服装、その他もろもろ。

 それなりに悩んだけど、不器用だったから、そのうち何もかもうまくいかなくなっちゃって。

 終いにはうまく笑えなくなったし。

 胸の痛みだって深まるばかり。

 

 

 でも、でもね。

 

 

 キミと過ごした日々はやっぱり特別で。

 どんな日々も宝石みたいな思い出で。

 全部がかけがえのない宝物で。

 私の心が帰る大事な場所は、やっぱりキミの隣なんだと思う。

 けれど、キミの隣に女の子としての私の居場所はないんだって、いつも思い知らされる。そこにいるためには幼馴染でいるしかないんだ、って。

 きっとそれは、これから先も変わらないんだろう。

 そして、いつか幼馴染としても隣に居られなくなる日が来るのだろう。

 いい加減そんなことはわかっている。

 

 だから、最後に少しだけ、私に夢を見せてください。

 アルバムに残る何気ない一枚でいいから、いつかこんなこともあったねって笑えるくらいの、ささやかな思い出をください。

 

「おっす、沙綾」

「おす」

 

 いつものカフェに、いつものように二人で入る。

 

 今日から一週間後の日付は五月十九日。

 

 私と涼太の誕生日。

 

 

 

 

 

 

 いつもの席。

 入口向かって右側の奥から二番目。

 窓から川を眺められる特等席。

 ここが、私たちの世界。

 

 コーヒーの香りがする。

 ほろ苦くて、少し寂しげな、嗅ぎ慣れた匂い。

 店内のBGMはいつの日か聴いた、クライスラーの「愛の悲しみ」

 

「そういえばあの川、懐かしいな」

 

 窓から川を眺めながら涼太はひとりごちた。

 ふっと緩んだ柔らかい表情をして、キミが見ているものは果たして。

 

「昔よく遊んだよね」

「近所の公園か、ここの川が定番だったな」

「……この間、私が雨宿りしていたのも、そこの橋の下だよ」

「おかげで見つけられてよかった。案外行くところはガキの頃と変わんないもんだな」

「そうだね。うん、そうかもしれない」

 

 目を閉じればいつかの空が見える。

 子どもの頃の方が空はずっと青く、高く、広く見えた。

 目を開けて窓の外の空を見上げた。

 今はもう、あの頃のような感動は得られない。

 このガラス窓みたいに、余計なフィルタがかかっているんだろう。

 でもまあ、そんなものなんだと思う。

 私たちは知らぬ間にどこかで何かを捨てていて、いつかそれに気づいた時にはもう開き直っている。みんなそうやって生きている。

 

 私はこの想いをなかなか捨てられないんだけどね。そりゃあもう何年も持ち続けているんだもの。心の中にはまだ手放せない自分がいる。

 だけど、きっとそれでもいいんだ。

 

 

 ――涼太が好き。

 

 

 本心では、この気持ちがこれから先もずっと続いて、いつか報われる日がくればいいなと思っている。

 ただの願望。

 ともすればそれは、なんだか虚しいモノのように思える。

 でもそこにだって何の意味もないわけではない。

 結局は捉え方次第だ。

 

「ねぇ、来週は誕生日じゃない?」

「あぁ、そうだな」

「十六歳だよ」

「十六歳だな」

「……ちゃんと、来てね?」

「毎年やってんだから行くに決まってんだろ」

「そう、だけどさ。それもだけど……ね」

 

 でも、まあ、ひとまずは。

 約束。覚えててくれてたら、それだけでいいや。

 



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十二話

 今日は五月十九日。

 

 いつも通りの朝。

 六時半に起床。アラームは必要ない。

 着替えを持って下に降りる。

 階段を降りると明るいリビングが目に焼き付く。

 ウィンナーの焼ける匂い。新鮮なサラダの水気。こんがりとできあがったチーズトースト。

 既に食卓には朝ごはんが並んでいた。

 

「沙綾、おはよう」

「おはよう母さん」

 

 父さんはお店の方。そして、弟と妹はまだ夢の中。

 母さんと朝の挨拶を交わした後、いつものように洗面所に行って顔を洗い、制服に着替える。それから髪を梳いて、後ろ髪をシュシュで縛った。

 それからこれまたいつものように歯を磨いた。

 歯を磨いた後、純と紗南を起こすと、ふたりを洗面所まで連れて行って、それからお店にいる父さんにも声をかけた。

 ややあって食卓に家族が出揃う。

 そのまま朝食と思いきや、みんなが私の方を向き口を揃えて「お誕生日おめでとう!」と言ってくれた。

 

「うん、ありがとう」

 

 毎年のことだけどやっぱりどこか照れくさい。

 でも嬉しいのも確かで、自然と笑みがこぼれた。

 

「今年はうちで誕生日会だから、沙綾と涼太くんが学校に行っている間に(にのまえ)さんと一緒に料理用意して待ってるわね」

「ん、わかった」

「今日はお店も午前中しか開けないから、心配しないで」

「はーい。でも、学校行くまでは手伝わせてね」

「もう、今日はせっかくの誕生日なのに」

「私がやりたいの。いいでしょ?」

「はぁ……しょうがない子ねぇ」

「あはは。ありがと」

 

 今日は五月十九日。

 私と涼太の誕生日。

 そして、約束の日。

 

 

 

 

 

 

「五時半くらいに来てって」

 

 スマホをかざしながら涼太に声をかける。

 

「げっ、沙綾」

「なにその反応。傷つくなぁ」

 

 放課後、おそらく香澄を待っていると思われる涼太を見つけて声をかけた。どうせ見つけたんなら、直接言った方がメッセージを送るよりもはやい。

 香澄は今頃せっせと帰る準備をしているだろうから、涼太と話す時間はまだある。

 

「悪い悪い、冗談だよ。なら、俺はそれまで彼女と居るわ」

 

 恋人の話題を振られて、少しだけ胸が痛む。けれどそれは無視できる範疇の痛み。

 仮面のような笑顔を貼り付けて、私は涼太と会話を続ける。

 

「一時間くらいかー。短くて残念だね」

「ま、後日改めて祝ってもらうわ。やっぱ毎年恒例の(にのまえ)・山吹家合同誕生日会は外せねーよ」

 

 その言葉からわかる。涼太にとって私は、家族のような存在でしかない。

 

「そっか……。あ、誕生日おめでと」

「そういえば今日初めて会ったな。沙綾もおたおめ」

 

 ずいぶんとあっさりしたお祝いの言葉を交わす。

 私はリュックから綺麗に包装された紙袋を取り出した。

 

「はい。誕生日プレゼント」

「え、ここで?」

「別にいいでしょ。ほら、受け取って」

「俺、家で渡す予定だったから持ってきてないんだけど」

「だろうね」

 

 私のことなんてその程度にしか思ってないよね。

 どうせ家で会うんだからいいや、って。

 どこまでいっても、結局私はただの幼馴染。

 あぁ、もうそろそろ香澄来ちゃうかな。

 

「じゃ、私行くね」

 

 踵を返す。

 向けた背中に涼太が声をかけてきた。

 

「まだ時間あるけど、沙綾はどこ行くんだよ。普通に家帰んの?」

 

 今日、私と涼太は十六歳になった。

 それの意味することを私は知っている。

 そして、もうなんの意味もないことも理解している。

 

「待ってるの。……ずっとね」

 

 答えになっていない。

 顔だけ振り返って、私は微笑んだ。

 意味がわからないといった風に首を傾げる涼太。

 もうそれですべて分かってしまった。

 だけど、私は信じたいんだ。

 

 今から私は、あの頃の私たちに会いに行く。

 

 

 

 

 

 

 とある橋の下。

 雨宿りをした日のようにポツンと座っている。

 いつものカフェの、入口向かって右側の奥から二番目、窓から川を眺められる特等席。そこから見える橋の下に私は居る。

 

 幼い頃、私と涼太はここを拠点にそばの川でよく遊んだ。

 その目の前の細い川は、あの頃と変わらない姿で流れている。

 はしゃいで浴びた水の色。夢中で集めた綺麗な小石。くたびれながら歩いた茜色の帰り道。私は今でも覚えている。

 あの頃、私はどんなふうに笑っていたのかな。キミはどんなふうに笑っていたのかな。

 会いたいな。無邪気だったあの頃が恋しい。

 今はもう、アルバムの中にしか残っていないけれど、私の心の中にも大切な思い出として刻まれている。

 ただ独り、呆として、過ぎ去った日々を懐かしんでいた。

 

 

 

 ポケットのスマホが震える。

 涼太からだ。

 気がつけばもう所定の時間になっていた。

 見上げれば、朱色のキャンバスに乱雑にちぎった綿を並べたみたいな空が広がっている。

 涼太はもう家に帰っていることだろう。

 

 

 でも、私はまだここにいる。

 

 

 結局、涼太は来なかった。

 分かっていたことだけどね。

 じゃあひとりか。

 あーあ。

 まあ、仕方ないのかな。

 十年前だもん。

 普通は覚えてないよね。

 

 私は静かに立ち上がり、廃棄されたトタン板に近づいた。

 雨の日に素敵な音楽を奏でてくれたそれを丁寧にどかすと、その下から出てきたのは片手用スコップ。

 右手で持って、置いてあった場所を掘る。

 すぐにお目当ての物にたどり着き、懐かしさと愛おしさに頬を緩ませて、二つの瓶を引っ張り出した。

 

 ボトルレター。

 いわゆる、タイムカプセルだ。

 十年前、私と涼太はここにタイムカプセルを埋めた。

 たぶん一般的には未来の自分に向けた手紙を書くんだろうけど、私たちは未来のお互いに向けて書いた。

 そして、十年後に一緒に読もうね、と約束をした。

 まあ涼太は忘れてしまっていたみたいだけど。

 

 さすがにもうどっちが誰のか分からなかったので、とりあえず適当に右の瓶の蓋を開けて手紙を取り出した。

 手紙は若干湿っていて、開けてみるとおぼつかない字で『りょうたへ』と書かれていた。

 内容は今の私からすればとても平和なものばかり。お元気ですかとか、どんな高校生になっていますかとか、とても他愛のない質問が並んでいる。この頃の私は、恋なんて感情は知らなかったのだ。

 それでも最後に、『いつまでもりょうたはりょうたのままでいてください』と書かれていた。一体『わたし』はこれをどんな気持ちで書いたんだろう。

 その手紙を元のように折りたたんでポケットにしまった。

 

 震える手でもう一つの瓶を手に取る。

 そして、瓶の蓋を開けようとして――辞めた。

 だって、フェアじゃないもの。

 私だけ覗いてしまうのズルい。

 

 土を払ってなお汚れているボトルを夕日にかざした。橙色の光に照らされて、手紙の中の字が透けて見える。

 『さあやへ』という拙い文字を見た瞬間、胸の奥から寂寥感が込み上げてきた。

 不意に、囁くような懐かしい笑い声が聞こえた。けれどそれは、よく聴けば川の水面が揺れる音だった。

 

 隠しきれない寂しさが世界を潤ませた。滲んだ視界で天を仰ぐ。

 日暮れ前の月が見えた。緋色の夕陽とは別に、朧気な月が浮かんでいる。

 まっすぐに見つめた空の向こうに、叶えられなかった沢山の夢を描いた。そのすべての夢の中に涼太がいた。どうしたって涼太がいた。

 

 滲む空と霞む色。

 

 だけど私は、もうしばらくは。

 

 

 ――在りし日のキミに、溺れている。

 

 




エピローグが二話ほどあります。


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エピローグ 上

 

 三月がずっと続けばいいと思った。

 マフラーをかき上げ、手袋に守られた手に白い息を吹きかける。

 

 なんてことのない仕草。

 なんてことのない日常。

 全てが思い出に移りゆく。

 

 けれど。

 

 それでも私は、振り向けなかった夢をまだ覚えている。

 

 

 

 

 

 

 中学の卒業式と違って、高校の卒業式は号泣してしまった。

 多分、高校生活が人生の中で一番充実していたんだと思う。手放してから気付く大切さを、私はここに至るまでの道のりで噛み締めていただろうか。今となってはもうわからない。

 

 思い出がしゃぼん玉のように溢れ出す。

 入学式。香澄と出会った日。高校で初めてできた新しい友達。香澄を初めとして、様々な人と交流するようになった。

 文化祭。皆がキラキラ輝いていた日。ステージの上で演奏する香澄達がひたすら眩しかった。私はそれを一人、遠くから眺めていた。

 夏休みも、冬休みも、春休みも。それ以外のなんてことのない日だって、どれもがキラキラ輝く愛しの瞬間だった。二年生になっても、三年生になっても、同じ日なんて一日たりともなかった。

 

 ふと振り返れば、それらはまだ近くで消えないように息づいている。

 

 

 友達と別れの挨拶を交わした。

 誰もと涙ながらに交わしたそれは、思えばなかなか口にしない言葉だ。

 永遠に続くと思っていた。当たり前のように明日があると思っていた。

 けれど、違うんだ。

 私達はもう「またね」とは言えない。

 

 それぞれが違う道を行く。大学だったり、就職だったり、はたまた別の道だったり。

 多くの人と再び道を交えることは、残念ながら難しいだろう。だから、今日でほとんどの人とお別れになる。

 それが良いことなのか悪いことなのか、私達にはわからない。

 わからないけれど、悲しいと思う。

 そして同時に、悲しいと思うけれど、どこかで折り合いをつけて進まなければいけないことなのだと思う。

 目に見えるのは過去だけど、私達の行くすえは未来だから。

 

 でも今日は卒業式。

 過去を振り返る日。

 そして、未来へ踏み出す日。

 

 楽しかったな、高校生活。

 ありがとう、花咲川女学園。

 

 私達は、惜しむように手を振った。

 

 

 

 

 

 

 生憎の雨の中、傘をさして私は涼太との待ち合わせ場所へ向かう。

 久しぶりに一緒に帰る約束をした。涼太が香澄と付き合うようになってからはそういう機会もなかったので新鮮だ。

 

 あれからも二人の交際は順調で、多少の喧嘩やすれ違いはあるけれど、とても円満なカップルだと言える。

 まぁ、傍から見ても相性が良い二人だなと思うし。ホント、お似合いだよ。

 いつだって初めから私が入り込む余地なんてなかった。私が勝手に傷ついていただけ。人を好きになるって難しい。

 

 いつものカフェの前で待ち合わせ。

 着くと、すでに涼太は待っていた。

 これもなんだか新鮮だ。いつも私が涼太を待つ側だったから、何とも言えない不思議な感覚に陥る。

 

「……おす」

「おす」

 

 何十年と交わし慣れた挨拶が雨に濡れていく。しっとりとした余韻は、優しい雨音の中に溶けていった。

 今日は涙腺が緩んでいるから涙が出そうになったけど、意地でどうにかグッとこらえた。

 

 どちらともなく店内へ。

 新人の店員さんに席へ通される。

 いつも見かける店員さんはもういない。多分辞めたのだ。きっと行き先を見つけ、そこへ向かって一歩踏み出したのだと思う。というか、そうだといいな、と妄想している。客と店員の間柄でしかなかったけど長い付き合いだった。なんであれ、私は陰ながらエールを送った。

 

 入口から向かって右側の奥から二番目。その私達がいつも座る席は、知らない誰かが座っていた。

 だから今日は一番奥の席に座る。いつもの席を通り過ぎる瞬間、少しだけ背筋がしゃんと伸びた。

 

 雑談も無く席について注文をする。二人ともブレンドコーヒーだけを頼んだ。

 コーヒーを待つ間、ぼんやりと窓の外を眺めようとした。しかし、窓の結露による水滴に阻まれる。仕方なく目を閉じて耳をすませば、歌声のような雨音が聞こえた。とても優しい音だ。

 店内に意識を戻すと、微かなクラシック音楽が聞こえる。けれど今日の主役は雨音のようで、どんな曲かハッキリとはわからなかった。

 

「そういえばさ」

 

 届いたコーヒーに角砂糖を落としながら、涼太は口を開いた。

 

「沙綾の進路聞いてなかったな」

 

 その問いを耳にして、私は意外だと言わんばかりの表情を顔に貼り付ける。

 

「興味無いのかと思ってた」

 

 うわ、「お前はバカなのか」って顔された。

 なによ、失礼な。

 

「幼馴染の進路に興味無いわけないだろ」

「……そっか」

 

 最後まで私は、涼太にとってただの幼馴染でしかなかった。それに対して今更あれこれ思うことはない。ただ、清々しいまでに突きつけられるその事実が、やけに虚しかった。

 

「普通に進学だよ。大学行く」

「へぇ、どこの」

「○○大」

「……まじか。県外じゃん」

「うん、そう」

 

 ちなみに涼太は地元の大学。学部は違うけど、香澄と同じなんだって。

 

「てっきり沙綾は家から出ないのかと思ってた」

「まぁ、最初はそのつもりだったんだけどね」

 

 体の弱い母さんがまた無理をするんじゃないかって心配だった。まだ幼い弟妹が寂しがるのが心配だった。その全てを支えることになる父さんが心配だった。

 

 ――そして、キミがいるから。

 

 これまでも、そしてこれからも。

 当たり前のように近くに居るのだと、そう思っていた。

 

「背中を押してくれたんだ。父さんと母さん、それに純と紗南もね」

 

 でも私は、外の世界を見てみたくなった。キミのいない世界を見てみたくなった。

 

 だってここに、キミがいるから。

 

 いつまでも子どものままではいられない。少しずつ、一歩ずつ、進んでいくしかない。

 そして、私にとっての大きな一歩が、キミのいない世界。

 

「……そうか」

「何も聞かないの?」

「だってもう決めたんだろ。それに沙綾は頑固だし、口硬いし、どうせ多くは言わないしな」

 

 さすが幼馴染だ。よく分かっている。

 

 コーヒーを飲んだ。口に残る香りも味もほろ苦い。けれど、確かな温かさがある。私はその温かさに満足感を覚えた。

 

「帰ろっか」

「だな」

 

 時間にして一〇分程度。

 おそらく過去最短の滞在時間だ。

 けれどもう、思い残すことはない。

 

「あ」

「ん?」

 

 会計を終え店から出た瞬間、涼太は何かを思い出した風な声を発した。

 

「沙綾、卒業おめでとう」

 

 今日は卒業式。

 過去を振り返る日。

 

「うん。涼太も」

 

 そして、未来へ踏み出す日。

 

 

 

 

 

 

 シャワーのような雨が傘を撫でる。

 小気味いい音を立てて水が滑り落ちてくる。

 

 雨の中。何百、何千日と歩いた帰路を行く。

 隣には幼馴染の彼がいる。

 私達の傘がぶつかることはない。

 

 ふと、香澄と付き合ってることが決定的になった日を思い出した。

 あの日も雨が降っていた。

 二人は一つの傘におさまり、身を寄せ合っていた。

 

 疑問。これまで私は、彼と相合傘をしたことがあっただろうか。

 いや、無かったと思う。

 その違いは、なんだかとても大きなことのような気がした。

 

 私達の家が見えてくる。

 隣同士。

 私の家がパン屋で、彼の家はケーキ屋。

 店の正面からは入らない。裏手に回った所が玄関だ。

 そして、塀で隔てて私達の家の玄関は隣合っている。

 

「じゃあな」

「うん」

 

 ずっと隣にいた。誰よりも近くにいた。けれど、いつだって届かなかった。

 

 予感がある。今日を逃したらもう、彼と当分会うことはないだろう。

 隣から鍵を開ける音が聞こえる。雨が降っている。私も玄関の鍵を開けた。

 

「涼太!」

 

 名前を呼んだ。塀の上から覗くキミの目が私を捉える。表情は窺えない。

 

「あのね」

 

 雨が強くなってきた。まるで世界を溺れさせようとするように。あるいは、心の氷を無理やり溶かそうとするように。

 

 

 もし、キミに恋したことが。キミと過ごした日々が、これからの私を作っていくのだとしたら。

 

 あの日泣いてしまったことも無駄じゃなかったと、思える日が来るのだろうか。

 

 そんなこと、考えたってわからないけれど。

 

 それでも、私は。

 

 

「私、キミのことが――――」

 

 

 溺没の果てで、そんな日を待っている。

 




この沙綾はPoppin’Partyに加入していません。理由は色々とありますが、話を書くとしても長くなるので割愛します。


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エピローグ 下

 大学の卒業を前にして、私は久しぶりに帰省した。

 進学で県外に出てからはなんだかんだ理由をつけて全く帰っていなかったから、故郷の姿がまるで遠い国の景色のように感じられた。

 

 キャリーケースを引いて駅を出る。

 ビルの隙から見える夕焼けは半分以上沈み、辺りは暗くなり始めていた。

 

 駅前は人混みで溢れている。スーツを着た会社員、制服姿の中高生、私服で着飾る大人達。もう誰もが帰路に着く時間だった。

 ふと顔を上げれば、たくさんの人の顔が並んでいる。当たり前だけど、彼ら彼女ら一人一人にそれぞれの人生がある。私の知る由もない、その人にとってはかけがえのない、話せばとても長い物語。

 

 私だってその中の一人。

 

 人混みに紛れてそんなことを考えていると、数え切れないほどの人達と共存しているのを強く実感した。それなのに、今、こんなにもひとりぼっちだと感じるのは何故だろう。

 

 先日、三年付き合った彼氏に振られた。

 とにかく優しい人で、喧嘩なんて一度もしたことがなかったし、私自身あの人に不満を抱いたことなんて全くなかった。大学の卒業を控えて、なんとなく「あぁ、この人と結婚するんだろうな」と思い始めていた。そのくらい私はあの人のことが好きだった。

 

 けれど――

 

 

「キミはたまに遠い目で、僕じゃない誰かを見ている」

 

 

 あの人はそう言って、私から離れていった。

 最後の表情は、困ったような、悲しいような、けれど確かに決意をした凛々しいものだった。

 

 私はその時、何も言えなかった。

 もちろん浮気なんてしたこともない。あの人と付き合うようになって、他の男性に心が揺らぐなんてこともなかった。

 それなのに私は、別れの言葉を告げられて何も言えなかった。

 

 図星だったのだろうか。

 核心だったのだろうか。

 わからない。

 わからないけれど、一つだけ言えることがある。

 

 

 確かに、私の中にずっと残ってるヒトはいる。

 

 

 

 

 

 

 ネオンの光が街を彩り始める。夜に沈んでなお街は明るかった。けれど、今の私にはぼやけて見える。

 たくさんの人とすれ違う。

 知らない誰か。初めて見る誰か。

 そしてその人達は、私の中にたった一欠片も残らない。

 

 見慣れた街の、見慣れた帰り道。

 涙がこぼれないように、夜を歩いた。

 

 ふと、ギターの音色が聞こえた。

 そのか細い音を頼りに音源まで近づくと、小さな公園で一人の男性がアコースティックギターをかき鳴らしていた。聴衆はいない。私だけだ。

 中学でバンドを辞めた私にとって、それはとても懐かしい音色だった。風のように、夢のように、吹き抜けていく。

 そのセンチメンタルな演奏は、お世辞にも上手いとは言えなかったけれど、ひどく耳に優しかった。

 

 演奏が終わる。夜の公園は明かりも少なく、暗い。

 演奏者の男性は、演奏を終えて満足するでもなく、枝垂れるように俯いていた。

 

 そんな彼に、私は拍手を送った。

 それは励ましでも応援でもない。

 ただの自己満足。

 私の心を少しでも満たしてくれたことへの対価。

 

 私の拍手を聞いてか、その男性は顔を上げる。暗くて顔はよく見えなかった。

 踵を返して歩き始める。キャリーケースが少し軽くなったような気がした。

 

 

「もしかして、沙綾か?」

 

 

 その声を聞いて体に電流が走った。脳天から全身へ行き渡るような衝撃だった。

 勢いよく振り返る。

 

 なんで、とか、どうして、とか。様々な感情が胸の中に渦巻く。一つ確かなことは、心臓は早鐘を打つように高鳴っていた。

 

「……涼太」

 

 初恋のキミは、最後に会った日より大人びて見えた。

 

 

 

 

 

 

 悩んでいる、という顔だった。

 元気はないが悲しんでいるわけではない。何かもどかしい物事に直面しているといったところか。涼太の表情からそういったことが読み取れた。

 

 公園で話すのもなんなので、どこかに入ろうという話になった。

 来たのは全国チェーンの居酒屋。涼太にそこでいいかと聞かれて、素直に了承した。私はその時、私達は大人になったんだなと思った。

 席についてさっさと注文を終わらせる。

 当たり障りのないことを駄弁っている間に、お通しと飲み物が運ばれてきた。

 お互い定型句のように「お疲れ」と言ってグラスを合わせた。居酒屋で当たり前のようにやる仕草を涼太とやるのはなんだか気恥ずかしかった。

 

 話を切り出したのは涼太からだった。とはいえ、いきなり本題に入るわけではなく、まずはお互いの近況報告をする運びとなった。

 お酒を飲みながらおつまみをつつく。それだけで自然と会話は弾む。

 特筆する話はなかったけれど、それぞれの大学生活の話や、就職先の話などができた。ちなみにギターは大学に入ってから覚えたらしい。なんとなくその話からは香澄の気配がした。

 

「そういえば、涼太ってまだ香澄と付き合ってるの?」

 

 私はなんでもない風を装って聞く。でも本当はとても気になっていたことだった。

 

「……あぁ、付き合ってるよ」

 

 そう答えた涼太の表情は複雑だった。言葉で表すのも難しい。

 けれど、その中からハッキリともどかしさが読み取れた。それで私は察しをつけた。

 

「何かあったの?」

「は?」

「いや、公園で会った時もそんな顔してたからさ」

 

 その一言で、涼太は観念したように深く息を吐き出した。

 

「やっぱ幼馴染には敵わないな……」

「当たり前でしょ。何年キミの幼馴染みやってると思ってるの」

「はは……だな」

 

 乾いた笑いが居酒屋のがやついた空気の中に消えていく。

 涼太は前置きもなしに語り始めた。

 

 

〜〜〜

 

 

 話をまとめるとこうだ。

 

 まず香澄の一言が発端で、「社会人になったら一緒に住もう」という話になったらしい。二人は社会人になったら家を出ると親とも相談して決めていたみたいで、ならいっそ同棲しようという運びだ。

 それに対して涼太は曖昧な返答をした。涼太自身、心の整理がついていなかったし、当時は卒業論文で多忙を極めていたからだという。

 現実問題として同棲をすることは可能だろう。そりゃそうだ。部屋を借りて、二人でそこに住み着けばそれはもう立派な同棲だ。けれど、誰かと一緒に住むのであれば(相手が異性であるのなら尚更)、それぞれの両親に話を通すのが筋だ。

 で、涼太がハッキリとした返事をする前に、香澄は親にその話を漏らしてしまった。せっかちな香澄らしい。しかし、香澄の親はまだ早いとこれに反対。社会人一年目からそれは苦労が多すぎるとのこと。

 さらには涼太の了承もない話だったため、事後報告を受けた涼太は勢いに任せて行動した香澄と喧嘩のようなことになってしまったらしい。

 それで香澄と邪険な空気になったままギターを持って家を飛び出したところ、たまたま私と出くわしたということだ。

 

「なるほどねぇ……」

 

 正直、羨ましいなと思った。だってこれ、恋人らしい問題じゃん。

 私はそういうこともできなかった。いや、本当は違う。できなかったんじゃない、やらなかったんだ。私は恋に夢を見すぎていたのかもしれない。長年の片想いが、私の恋愛観を拗らせてしまったのだ。だから、上辺をなぞるように、理想に寄り添うように振舞った。でもそんなことをしていればいずれ破綻してしまうのは自明の理だ。だから私は見放された。まあもしかしたら、優しいあの人のことだから、見放したのではなく考える時間をくれたのかもしれないけれど。

 

 あぁ、思考が脱線してしまった。でも涼太の問題は悩むほどのことでもない。話の流れに一貫して足りないピースが一つあるからだ。

 

「で、キミはどう思ってるの?」

「…………」

 

 涼太は難しい顔で、というか自分の心に折り合いをつけるように思案していた。多分、そうだと思う。

 

「正直なところ、もうその話に関しては俺の中で整理できてるんだ」

「あ、そうなんだ」

「あぁ。親に言っちゃったのはしょうがないし、これからの対応を考えるしかない」

「まあそうだね」

「ただ……」

「ただ?」

 

 涼太は妙に神妙な顔で、重々しく口を開いた。

 

「香澄になんて言って謝ろうか悩んでる」

「謝るって?」

「だから、その……喧嘩みたいなことになったことだよ。俺もちょっと言いすぎたなって思うし……」

 

 えっ、何それ。

 

「ぷっ、あはははは」

「おい! なんで笑うんだよ!」

「だって涼太面白いんだもん」

「はぁ!?」

 

 普通喧嘩したらネチネチと余計なことが続いてしまう。喧嘩した、じゃあ謝ろうとは中々ならない。けれど、涼太と香澄の場合は違った。

 香澄は真っ直ぐだ。例えるなら一本の直線。そして、涼太も限りなくそれに近い直線。

 二人は真っ直ぐだ。ブレなく、駆け引きもなく、心で寄り添う。二人はただ交わって終わるだけの関係ではなく、同じところに向かって進むパートナーなんだ。

 はは、そりゃあ、私なんかじゃ敵わないわけだ。私じゃ引き出せない側面で、二人は決定的に噛み合っている。

 それはとても眩しくて、羨ましくて、悔しくて、同時にひどく綺麗だと思った。

 

「ねぇ涼太。キミ、一つ大事なことを忘れてるよ」

 

 だから、そう。

 最後に少しだけ助けてあげる。

 あの頃のように、姉のような何かを演じて、嘘の仮面を被って、その背中を押してあげよう。

 

「香澄にね、自分の気持ちを伝えなさい」

「俺の、気持ち?」

「そう。涼太の意思。キミのさっきの話だと、ただ香澄に振り回されてるだけに聞こえるよ。涼太も立派な当事者なのに」

「……」

「謝罪の言葉なんてごめんで済むんだよ。大事なのは、涼太がどうしたいか。香澄は意志を伝えたんでしょう。それに行動も伴ってる。でも涼太は何にもしてないよ」

 

 香澄は涼太と共に暮らしたいと言った。そしてそれを親に告げたら反対された。でもそこに涼太はいない。涼太の話でもあるのに。

 

「嫌なら最初から断ってる」

「知ってる。でもそれは私だから分かること。香澄には伝わってない」

 

 恋人だからとその関係に甘えてはいけない。幼馴染の私たちでさえ、結局のところは他人だ。言わなくても伝わることもあれば、言わないと伝わらないことだってある。

 

「聞くよ。涼太は、香澄との同棲について、今どう思ってるの?」

「棲みたいよ。一緒に」

 

 語調の強い私の問いに、亮太は淀みなく答えた。

 

「だったらそれを香澄に言わなきゃね」

「……そっか」

 

 一番大事なことを見失ってはいけない。ただ、それだけのことだった。

 

「あのね、言わなくても伝わるなんて思っちゃダメだよ。それが大切なことなら尚更」

 

 心からの言葉を贈る。

 その一言一句が自分の胸に返ってきて、内側に深く突き刺さった。

 

「大切なことは言わなきゃね」

 

 でないと、後悔しちゃうから。

 

 ――いつかの私のように。

 

 なんてね。

 

「ほら、何してんの。香澄のとこ行ってきなよ」

「い、今からか?」

「当たり前でしょ」

 

 真面目な顔をして考え込んでいる涼太に発破をかける。

 どうせ考えたって上手い言葉なんて浮かばないんだから、その場の正直な気持ちをぶつければいい。

 

「ほら、早く早く」

「分かったって。でも会計……」

「今ならお姉さんの奢りですよ」

「……悪い」

「謝んないでよ。水臭いなぁ」

「さんきゅ。今度は俺が奢るよ」

 

 今度っていつ?

 その言葉を、私は無理やり飲み込んだ。

 

「そりゃ楽しみだ」

 

 微笑みでそう返すと、涼太はニッと白い歯を見せて笑った。もう大丈夫かな。

 

 ギターを背負った涼太の背中を見送りながら、ふと思う。

 もしかしたら私は余計なことをしたのかもしれない。二人を邪険なままにさせておいて、別れさせて、傷心のところにつけ込めば案外涼太と付き合えるかもしれない。

 

 ……いや、私にはやっぱり無理だろうな。

 高校の卒業式の日だって、結局想いを伝えられなかった。激しい雨にうたれて私の初恋は終わった。終わった、はずなのに……

 

 終わったはずの感情が、心の底から顔を覗かせる。

 自覚し、心臓が加速し始める。

 涼太が扉に手をかけた。

 気づいた時には私は名前を呼んでいた。

 

「涼太ー!」

 

 居酒屋の雑音の中でも届いたらしい。

 涼太は肩を跳ねらせて振り向いた。

 

「ずっと好きだったよ!」

 

 朧気な表情で涼太が何かを言った。

 それはがやつきの中に吸い込まれて何ひとつ聞こえなかった。

 

 

 届いたかな。

 届かなかったかな。

 わからない。

 わからないけれど、やっと言えた。

 大切なことは言わなきゃね。

 でないと、後悔しちゃうから。

 

 

 涼太が扉を開ける。

 夜の街へ涼太は踏み出した。

 大きく開いた扉は、力を失ったようにゆっくりと閉じていく。

 もう、涼太の背中は見えない。

 扉は静かに閉まった。

 

「さよなら」

 

 その瞬間、不完全に続いていた何かがようやく終わったような気がした。

 

 

 

 

 

 

 一人でお酒を飲むのもそんなに長くは続かなかった。涼太が出てから三十分もせず店を出た。

 

 キャリーケースを引いて、人のいない夜道を一人で歩く。

 

『好きだったよ』

 

 ようやく言えた言葉。スラリと口から出ていった言葉。それは意図せず過去形だった。

 どうやら私の中でも終わっていた恋だったらしい。ただ、明確な区切りをつけていなかっただけで、確かに終わっていたものだったのだ。

 やけにスッキリした気持ちだ。何年も抱えていたモノを手放したからか、とても晴れやかな心地がした。

 

 星空を見上げながら、脳裏で涼太との思い出をひとつずつなぞっていく。

 どれもが二度とは戻らない、けれどとても大切だった日々。

 この恋を生涯忘れることはないだろう、なんて今は思っているけれど、いずれ薄れて無くしてしまう記憶なのだと思う。

 

 でも、それでいいんだ。

 

 今は自然とそう思えた。

 

「さてと」

 

 人に言ったからには、私もちゃんとしなきゃね。

 

 スマホを取り出す。こんな夜中で悪いとは思ったけど、電話をかけた。

 

 

 ――大切なことは言わなきゃね。

 

 

「あ、もしもし。うん、私。あのね伝えたいことがあるの――――」

 

 

 




いつか遠い街の空に。


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