五等分の〇〇 (なるせいぶき)
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こんすいれいぷ

「どういうことだ、これ」

 

 五つ子の家庭教師を始めてから、もうずいぶんと日が経った。途中、学年の切り替わりを挟む程度には。

 着任当初には非協力的だった面々が素直に教えを乞うてくれるようになったのは、純粋に嬉しく思う。そこにやり甲斐じみたなにかを感じ取れるようにもなった。

 二年の期末テストで無事全員が赤点回避を成し遂げ、俺のバイト先で祝賀会を開いたのが三月のこと。

 そして四月も暮れる今時分、俺は五つ子全員の卒業を請け負うという大役を、それなりの責任感でもって演じ切ってみせようと息巻いていたところなのだが。

 

「ここに来てストライキか?」

 

 元々暮らしていた高級マンションを放り捨て、彼女たちが新生活の拠点としたアパート。今日はここで、付きっ切りで中間試験の対策をする予定を組んでいたのにも関わらず、部屋にいつもの活気はない。

 まあ、それも当然。

 

「みんなから遅れるって連絡をもらったわ。そのうち来ると思うから、しばらく待っててちょうだい」

 

 次女の二乃以外、そこには誰もいなかった。

 常に五人勢揃いが基本なので、部屋が広く感じられる。普段が狭過ぎるとも言えるが。

 

「そういうのは俺に直接連絡するもんだろ」

「結果的に伝わったんだから同じじゃない。大丈夫よ。みんな、やる気を無くしたわけじゃないから」

「それにしたって意識が低い。先が思いやられるぞ」

 

 なにせ、全力で詰め込んでようやく赤点ラインを超えられるかどうかを争う連中なのだ、こいつらは。気を抜いていると、瞬く間に知能が元どおりになってしまいそうで恐ろしい。常に余裕がない状態だということを、今一度理解してもらう必要がある。

 

「取り敢えず、座って休んでなさいよ」

 

 二乃に示された場所に腰を下ろす。ちゃんと刻限に間に合っているこいつを叱ったところで、得られるものはない。

 ……それにしても。

 

「…………」

 

 諸事情から、こいつと二人きりになるのは、非常に気まずい。

 可能な限りこのシチュエーションは避けて立ち回ってきたというのに、どうしてこう噛み合わせが悪いんだ。

 かたや告白した方、かたや告白された方。返事は不要と言われていても、向こうの気持ちがわかっている分、如何ともしがたい居心地の悪さはずっと抱えたままでいる。向こうがずっとケロっとしているというのも、俺がどう振る舞えばいいか分からなくさせる一因だ。

 それに、もしかしたら俺への興味なんかとうに失せていて、そのことを口にしていないだけという可能性もある。変に意識し過ぎるのは、それはそれでまずいことな気がする。

 

「そうだ、せっかくあんたがいるんだから、私だけでも苦手なところを教わっておこうかしら」

「構わんが」

 

 意欲的に勉強してくれるのは助かる。モチベーション管理に関しては、正直俺じゃ完全に掌握できない。机の前に座らせる前段階をショートカット出来るなら、それはありがたいことだ。

 一番反抗的だった二乃をどうにか手懐けられたのが、この数ヶ月一番の功績だろうか。次いで全員の赤点回避。流石に逆か、これは。

 ともかく、勉強に集中していれば、雑念に囚われることはないはずだ。

 そう思って、二乃が広げたノートに目を落とす。

 

「数学か」

「そ。点数的にも一番苦手だし」

 

 バツの付いた図形と方程式の問題。以前の授業で解いたものを二乃なりに復習しようと試みた形跡はあったが、それでも結局、答えにはたどり着けていない。

 

「略図描くからちょっと待ってろ」

 

 ペンを走らせて、直線と円の交差図を記す。比率が肝要だから、慣れていてもなかなか面倒な作業だ。

 

「じゃあ今のうちに紅茶淹れるわね。砂糖は欲しい?」

「頼む」

「そう、助かるわ」

 

 助かる……? と一瞬クエスチョンが浮かんだが、言い間違いかなにかだろう。もしかしたら、糖分が脳の活動補助に役立つとか、そういう話かもしれない。

 なんにせよ、わざわざ聞くほどのことでもないので作図に戻る。それなりの具合に図が完成したのと、ティーカップが俺の目の前に置かれたのがほぼ同時。

「サンキュ」と短く礼を言って大きく一口煽ると、砂糖の甘い味と、苦い茶葉の味が、ゆっくり口内を満たした。

 

「俺の分だけで良いのか?」

「……ああ、私はもう少し冷ましてから飲むわ」

「そうか?」

 

 二乃の分のカップが出されていなかったので不審に思う。まあ、ブルジョワな暮らしを送っていた奴だから、こだわりでもあるのだろうと考えることにした。

 

「じゃあ行くぞ。この類いの問題はだな、前に教えた、距離を求める、こうしき、を……」

 

 解説を始めたいのに、まるで呂律が回ってくれない。体に力が入ってくれない。ノートには意味をなさないぐにゃぐにゃの線が引かれて、上半身はとうとうテーブルに突っ伏す形になった。

 

「あんたさ、私の淹れた飲み物に警戒心なさ過ぎ」

「二乃、お前……」

「三回も同じ手に引っかかってどうするのよ」

「また、薬……」

 

 目だけをどうにか動かして、彼女に抗議の意思を示す。

 でもなんで、今更。

 それなりに打ち解けて、ある程度の信頼を勝ち取ったつもりでいたのに。

 

「よいしょっと」

「…………」

 

 二乃の腕に支えられるようにして、その場で横にさせられる。抵抗しようにも、体に変な痺れが走って、指先一本まともに動かせなかった。

 

「おやすみ、フータロー」

 

 二乃が見せる、どこか妖艶にすら思える微笑。

 それを脳裏に強く焼き付けて、俺の意識は途絶した。

 

 

 

 

「…………ん」

 

 目を開く。あれからどれだけ時間が経ったかは判然としないが、まだ体には強い倦怠感が残っている。前と同じ薬なのだとしたらこんな症状は初めてだから、もしかするとそこまで長く眠っていたわけではないのかもしれない。

 

「あ、起きた? やっぱり三回目にもなるとちょっと抗体出来るのね」

「二乃……」

 

 少し離れたところから聞こえる、二乃の声。

 無理して首を動かし、そちらに視線を向けてみると。

 

「なっ! なんでそんな格好してんだお前!」

「なんでって、汗は流したかったし」

「論点ずらしてんじゃねえよ二乃!」

「あら」

 

 言って、笑って、一歩ずつゆっくりこちらに近寄ってくる彼女は。

 どういうわけか、全身を上気させながら、そのしなやかな肢体をバスタオル一枚だけで覆っていて。

 

「今回は分かってくれるのね。嬉しいわ」

「お前、まだ根に持ってたのかよ」

「当然。まだ許してないわよ」

 

 春休み、混浴温泉でバッティングした彼女を見分けられなかったことについて咎められる。無理を言うな。顔が同じ奴が五人もいるのに、髪型やアクセサリーを取っ払った状態でそれが誰か当てろなんて。

 

「ていうか待て。それ以上こっちに寄るな」

「どうして?」

「どうしてもだ!」

「良いじゃない。私の裸見るのなんて慣れたものでしょ?」

 

 俺で遊んでいるのか、言葉からは楽しげな雰囲気を感じる。どうにか抗いたいけれど、体がどうしようもなくポンコツなので、俺はもう流されるしかなくなっている。

 

「それとも、照れてる?」

「なんで俺が照れなきゃならないんだよ」

「そう、なら良かった」

「……おい!」

 

 すぐそばで膝を折り、床に手をつき、顔をギリギリまで俺に近づける二乃。

 この距離になると、今使ってきたばかりだろうシャンプーの匂いがかなり強烈に鼻腔をくすぐってきて、もどかしい気持ちにさせられる。

 

「照れないんでしょ?」

 

 身じろぎしたらお互いの唇が触れてしまいそうな距離で、二乃が挑発的な視線を送ってくる。

 平均よりかなり大きい方であろう胸部は重力とバスタオルによる締め付けとで派手に強調され、俺の眼前に深い谷間を作っていた。

 

「それとこれとは話が違う。いいから早くどいてくれ」

「私のお願いを聞いてくれたら、従ってあげなくもないけど」

「なんだよ、お願いって」

「ほら、ここ」

「…………」

 

 二乃は、自分の唇を指差して、

 

「キスしてくれたら、解放したげる」

 

 と、いたずらっぽく微笑んだ。

 

「冗談は成績だけにしろ」

「あら、本気よ」

「笑えねえよ」

「笑わせるつもりなんかないもの」

 

 更に二乃の顔が近づく。垂れてきた髪の毛が俺の耳を撫ぜて、温かくて甘い吐息が口許をくすぐってくる。

 

「しましょ、キス」

「どうしてそうなる……」

「私がしたいからよ。あんたと、二人で」

「…………」

「好きな男の子と、ちょっぴり冒険してみたいじゃない」

「……………………」

「あ、顔赤くなった」

「うるせえ」

「逆に、ここまでやらないと赤面もさせられないってのがすごいけど」

「……おいっ」

「気持ちよかった?」

 

 二乃の人差し指が、俺のへそあたりから顎までを、触れるか触れないかギリギリの力加減でなぞってくる。未知の快感に情けない声をあげそうになるのを堪え、抗議した。

 

「そうじゃねえよ。今すぐやめろ、こんなこと」

「どうして?」

「どうしてもだ」

「なら、手っ取り早く終わらせてよ」

 

 目をつぶって、唇をすぼめる二乃。

 そこから彼女は、ウインクの要領で器用に片目だけ開けて言う。

 

「ちょっと動けば、解放してあげるわよ」

「取引になってない」

「あら、なんで?」

「俺に利がないだろ」

「私と合法的にキスできるのは?」

「利になるもんか、そんなの」

「……今のはちょっと傷ついたわね」

「知るか。薬盛ってくる奴をどうして気遣わなきゃならん」

「む」

 

 俺の必死な抵抗に、眉をひそめる二乃。

 

「あんた、キスしなかったら自分がどうなるかは考えないの?」

「どうせこのまま外に放り出すとかだろ」

「……あら、呆れた」

「何に」

「その程度の危機管理で今ここにいることに」

「……ちょっと待て。本格的に何するつもりなんだよ」

「逆レイプ」

「…………」

「逆レイプするって言ったのよ」

 

 開き直ったかのように飄々と答える二乃の姿は、いっそかっこよく見える程だった。

 が、飛び出した単語のインパクトが余りにも強過ぎて、こちらはもう閉口する他なく。

 

「あんた、ずっと私のこと避けてるから。ここらで一度、絶対に忘れられない思い出ってやつ、作っておきたくて」

「馬鹿も休み休み……」

「もうおそーい」

「……んっ!」

 

 危険を察知してどうにか躱そうとしたものの、あえなくそれが不発に終わった俺は、二乃に唇を塞がれていた。

 

「んっ……んむ……」

 

 一ミリの隙間もなく繋がった状態で、俺の口内は二乃に徹底的に陵辱されている。

 歯の付け根を端から端まで無遠慮に検分してくる舌をどうにか押し返すべく、俺も舌を伸ばしてみるが、それが結果としてお互いの舌を絡み合わせる形を作ってしまった。

 感じたことのない快感に背が震えるが、それを気取られては思う壺だ。

 

「あ、あら、乗り気じゃない」

「ちげぇよ!」

 

 一旦口を離した二乃に文句を言うが、言い終わるや否や、再び口の中に彼女の唾液が混じってくる。歯磨きでもしたのか、ほのかにミントが香ってきてむせそうだ。

 時折聞こえてくる唇の交わり合いから生じる淫靡な水音や、彼女の荒い呼吸音は出来るだけ聞かないようにして、今はただ、ひたすら時間が過ぎ去るのを待つ。無と一体化する。

 

 そして、ようやく満足したのか、二乃がゆっくりと俺から顔を離した。

 

「ご馳走さま」

「…………」

「私、初めてだったんだけど。あんたもそう?」

「…………」

「そ。なら嬉しいわ」

「なんも言ってねえぞ」

「否定しないってことはそうなんでしょう?」

「……まあとにかく、これで解放してくれるんだろ。全部忘れてやるからさっさと服着ろ」

「は?」

「え?」

 

 心底不思議そうに首を傾げる二乃に、俺も追従して眉を下げる。おかしい。約束が違う。

 

「キスしたら解放してくれるんじゃないのかよ」

「キス『してくれたら』ね」

「はぁ?」

「あんた、私のされるがままだったじゃない。あんなのカウントするわけないでしょ」

「……おい待て、ちょっと待て」

「ん?」

「じゃあ、これから俺はどうなるんだ?」

「言ったじゃない」

 

 二乃が、バスタオルの結束部分に手をやって、解く。

 出るところは出過ぎて、引っ込むところは引っ込み過ぎた、あまりに刺激の強過ぎる裸体が露わになる。

 

「逆レイプ、確定ね」

 

 俺の否やを待つでもなく、二乃の手が下半身に伸びた。無論、俺の、だ。

 

「ま、待て!」

「あら、口ではごちゃごちゃ言ってても体は正直ってやつかしら、これ」

 

 制服のスラックス越しに、体の中で一番デリケートな部分を優しく撫でられる。そんな経験はもちろん初めてなので、思わず身をよじってしまった。

 

「邪魔ね、これ」

「おい、待て待て待て待て!」

「あんたも、制服が汚れたら困るでしょ? クリーニングに出す替えはあるの?」

「そういう問題じゃねえよ!」

 

 俺の声なんかにはまるで耳を傾けず、二乃はベルト部分をかちゃかちゃいじって、ファスナーを下ろし、そのまま引き下げた。あまりに情けない光景すぎて目を覆いたくなるが、抵抗を止めるわけにもいかない。

 

「わ、おっき……」

「さっさと元に戻せ! ってかお前がまず隠せ!」

「何よ、二人とも恥ずかしい場所見せ合ってるんだからおあいこじゃない」

「どういう理屈だそれは!」

「それとも何よ、触りたいの?」

「小学生から国語やり直せ!」

「仕方ないわね……」

 

 本当に、これは会話になっているのかと不安になる。二乃は一度こちらの下半身を放棄して、俺に覆い被さるような四つん這いの姿勢をとった。

 そうすると、嫌でも目が向かってしまう。

 大きいながらに形の良い双丘が自重に耐えかねて垂れ下がり、俺の胸部に触れる、その場所に。

 

「どう、私、体には結構自信あるんだけど」

「聞いてねえよ!」

「柔らかいでしょ」

「…………」

 

 歯を食いしばって、得体の知れない何かに耐える。そうでもしないと、自身の底に渦巻く黒々とした欲望に負けてしまいそうだったから。

 

「……ほんと堅物よね、あんた」

「マジで勘弁してくれ……」

「嫌よ。ここまで来たら、もう何が何でも犯すから」

「お前……ふぐっ」

 

 言い切る前に二乃の胸が顔に覆いかぶさってきた。その質量とボリューム感に窒息しかけ、なんとか息を吸おうともがくと、自然、その柔らかさを大いに堪能することになってしまう。

 唇に押し付けられた突起部分に誤って舌を這わせると、二乃の口から甘い喘ぎが漏れた。それが演技と分かっていても、男の性として、反応してしまう部分はある。自分の流されやすさに辟易しながら、それでもどうにか首を捻って、彼女の攻勢から逃れた。

 荒れた呼吸を少しでも整えようと息を吸うが、変に気を張ってしまって上手く行かない。なんて厄日なのだろうと顔を歪める。

 

「おっきいでしょ、私の」

「知るか」

「私以外の女の子を知らないから?」

「深読みやめろ」

「もう、強情なのはいいけどさ」

 

 そこで再度、二乃の手が俺の下半身へと這う。

 そこには、もう誤魔化せないくらいに怒張したブツが控えていて。

 二乃はそれに優しく触れると、静かに一度、上下に擦ってきた。

 

「……ッ!」

「出したいんでしょ」

「……違う」

「いいわよ、強がらなくて。ちゃんと最後まで全部してあげるから」

「……離してくれ」

「手がいい?」

 

 今度は、指の先が亀頭をつまんだ。とてつもない快感に、腰が反る。

 

「それとも胸?」

 

 今度は、乳頭と鈴口とでキスをさせる。あまりに暴力的な絵面に屈して、硬さを増したのが分かる。

 

「それとも……」

「あっ……」

 

 耐えてきたのに、とうとうみっともなく喘いでしまった。視線の先では、二乃が小さな口で、俺の先端を咥えこんでいる。

 

「これが良いんだ」

「そこでしゃべんな。くすぐったい」

「ふぅーっ」

 

 吐息を浴びせられて、また腰が跳ねた。なぜ自分で弱点を教えてしまったのか。

 

「じゃ、舐めてあげるから。遠慮なく出して良いわよ」

「やめ……っ!」

 

 言葉だけでの制止に今さらなんの力も無く、彼女の舌が余すことなく陰茎をぺろぺろと舐めあげ、時には鈴口を掘り返し、唇は圧を加えるように全体を吸い上げてくる。

 手は根元に添えられていて、それもまた、撫でるように絶えず動いていた。

 そこまでされてこういう行為に耐性のない俺が堪え切れるはずもなく、たぶん、精通してから今までで数えても一番の量の精液を、二乃の口の中にぶちまけた。

 彼女はそれを全て飲み下して軽く咳き込みながら、勝ち誇った顔で俺を見下ろしてくる。

 

「気持ちよかった?」

「…………」

「よかったんだ」

 

 無言は肯定とみなすというルールがまかり通ってしまっている。だが、実際これに関してはどうやったって否定できない。射精してしまったという事実が、それから、未だ屹立が収まらないという事実が、全てを裏付けしてしまっている。

 実際に、気絶するほどの快感が全身を走っていた。だが、それを認めるのは癪なので、努めて口を噤み続ける。

 

「ね、フータロー」

「…………」

「お願い、ここ、触って」

「おい……」

 

 だらりと垂れ下げていた手が、二乃の導きによって、彼女の秘部へと導かれる。

 目線を逸らしていても分かってしまう薄い茂みと、濡れそぼる花弁。そこから滴る温かな雫が、俺の指先を濡らしていく。

「んぅ……」

「…………」

 

 二乃は悩ましげに吐息を漏らしながら、俺の手を介して自慰行為に近いことを始めた。

 つぼみの部分を刺激したり、唇の部分を撫でてみたり、それから、穴に潜らせてみたり。

 その間、絶えず漏れ出る粘性の液体が、俺の掌を余すことなく濡らしていった。

 

「フータローの舐めてたら、興奮しちゃって」

 

 洪水のように次から次へと愛液がこぼれて、床に小さな水たまりを作る。

 特有の匂いが頭をくらつかせて、ただでさえ鈍る思考に靄をかけてくる。

 

「最近ずっとフータローのこと考えながら一人でしてて、いつのまにか妄想じゃ我慢出来なくなっちゃったのよ」

 

 他人のネタなんて知ったこっちゃない。妄想に俺を巻き込むな。言いたいことはいくらでもあって、なんならそろそろ自由を取り戻しつつある体で、逃げ出してしまうという方法もあるにはあったが。

 ここまで来たらもう、性欲に抗えなかった。

 目の前には、あまりに魅力的な女体。そして自分は、いかに興味なさげに繕っても性欲旺盛なティーンエイジャー。

 こうなってしまえば、選択肢らしい選択肢など存在すらしなかった。

 とにかく、あらゆる欲求不満を二乃の体にぶつける以外、ない。

 

「……あっ、嬉し……」

「好き放題やってくれやがって……」

 

 体を起こして彼女を抱き寄せ、乱暴に指でかき回す。空いた手で乳房を嬲り、唇は強引に彼女に重ねた。

 さっき自分がやられたみたいに二乃の歯茎をなぞろうとすると、明確な意思を持った舌に絡め取られて、そのまま互いの唾液を交換し合う。薬が抜けてきたからか感覚はさらに鋭敏になり、無限の快楽が全身に押し寄せてくる。

 

「フータロー、ぎゅってして」

「…………」

「背中、ぎゅーって」

 

 言われるがままに抱きしめて、そのまま唇と指先とに集中を二分すると、突然彼女の呼吸が荒くなった。俺の下唇を甘噛みしながら、両腕は力無く俺の腰あたりに添えられている。

 

「イっちゃいそ……」

「……どこがいいんだ」

「……下の、浅いとこ」

 

 オーダー通りの場所を攻めると、程なくして二乃の全身が軽い痙攣を起こした。次いで、俺の指に収縮と拡張が繰り返される感覚が伝わってくる。

 

「すっごいよかった……」

 

 体重を俺に預けながら、二乃がほーっと息を吐き出す。柔らかな胸の感触が、俺の心拍数を加速させた。

 

「ね、挿れて」

「それは流石に……」

「手でいじり合うの、効率悪いわよ。死んじゃうくらい気持ちよくしてあげるから、フータローも私を死んじゃうくらい気持ちよくして?」

「どこで覚えてくるんだそういうの」

「独学」

 

 首にキスをされるが、今までが今までなので、もう大して驚きもしない。この短時間で、価値観が大きく塗り替えられてしまったのを感じる。

 

「生でいいから、早く。もう、切なくて」

「まずいだろ」

「うちのパパは医者よ?」

「最低か?」

「……まあ、今日は大丈夫な日だから」

「神話だぞそれ」

「うるさいわね。とにかく、大丈夫なものは大丈夫なの」

 

 また、指先で裏筋を撫でられる。これをされてしまうともう、止める方向に舵は切れそうになくて。

 

「今は、後のこと考えてる場合じゃないでしょ?」

「そうでもないと思うが」

「うるさい。さっさと挿れなさいよ童貞」

「処女にだけは言われたくない台詞だ」

 

 そのまま勢いで押し倒す。下は剥き身の床だから、痛くさせないように留意しつつ。

 

「布団敷かなくていいのか?」

「私、これから毎日その布団で寝るのよ? 思い出すたび濡れちゃうでしょ」

「それを言ったらこの家でやってること自体アウトだろ」

 

 今後は図書館なんかの公共施設をメインに家庭教師をしていく必要がありそうだった。そうでなければ、こいつらにマンションに戻ってもらうか。

 

「じゃ、せめてタオル。私が巻いてたバスタオル、そこにあるでしょ」

「これか」

 

 掴んで引き寄せ、背中を浮かせた二乃の後ろに滑り込ませる。これで多少はマシになるか。痛みにしても、汚れにしても。

 

「フータロー、手」

「手がどうした」

「こっち。繋いで」

「……お前、妙なとこロマンチストだよな」

「いいじゃない。一生に一度よ、こんな機会」

 

 渋々と彼女の指一本一本に絡み合わせて、ぎっちりと繋ぐ。普段の勝気な印象と違ってずいぶんと細く繊細だ。それこそ、ちょっと力を込めたら折れてしまいそうなほど。

 だが、別に、俺が遠慮する必要もないだろう。なんたって強制性行仕掛けられてんのはこっちなんだ。法改正で男の方も声を上げられるようになったのだし、ここは好き勝手やらせてもらう。

 

「……ぁ、すご」

「急にしおらしくなんの止めろ」

「だって、こんなの、なんて言えばいいのよ」

「知るかよ。黙っとけ」

「そんなこと言って、あんたも必死なんでしょ。なに、もう限界?」

「抜かせ」

「あっ、まっ、ごめ、もうちょいゆっくり」

「止めろって言って止めなかったの……どこの……っ、どいつだ……」

「謝る……から。あれっきりだから、こんなの、私、保たない……」

 

 その後はもう会話する余力なんてなくなって、必死に快楽と戦いながら、不器用な抽送を繰り返すだけだった。時折漏れ出す二乃の甘ったるい喘ぎに射精感を加速させられながら、それでもどうにか土壇場で堪えて、極限まで性を貪る。俯瞰すれば、獣のように見えただろうか。

 とにかくそれくらいの忘我だった。ここまで欲に忠実になったのは、いつぶりだろうか。

 結局、我慢なんていつまでもは続かない。どこかで妥協するたびに二乃の中に精を残して、その度に体位を変えてもう一度。そのもう一度を腰が砕けるまで続けて、疲れ果てて床に平べったく伏せる。

 

 そして、そのまま数分。

 

「……シャワー貸してくれ」

「うん……」

 

 冷えた頭で回顧する記憶は、もはやただの地獄で。

 その場のノリに任せるとロクなことにならないという教訓を得て、熱いシャワーで反省を……。

 

「なんでお前も入るんだよ」

「だって、私もべちゃべちゃだし」

「…………」

 

 べちゃべちゃにした張本人として、文句を言う筋合いはなかった。シャワーを二乃の頭上から浴びせて、目に見えてやばそうなところは綺麗にする。

 

「ほんと、あんたとは風呂場で縁があるわね」

「今回に関してはお前から入って来てるしノーカンだろ」

「せっかくだから体でも洗ってあげよっか?」

「もう勘弁」

 

 どこを洗われるか知らんが、ここでまたムラっと来たら終わりな気がする。

 

「結局他の連中は来なかったけど、お前どんな仕込みしたんだ」

「フータローは遅れるから図書館に集まって自習しててって」

「全方位に嘘ついたのか……」

「これから行けば嘘にならないでしょ」

「それにしたって、お前が俺に薬盛って犯そうとしてきた罪は消えないぞ」

「ノリノリだったのに?」

「気のせいだ」

「またおっきくなってるのに?」

「…………」

 

 これはもう、いよいよ本格的に『分からせ』てやらなければならないと、二乃の腰を引っ掴んだその時のこと。

 

 

『これ、二人の靴。なんでここにいるんだろ』

『二乃ー!上杉さーん!』

『事情があるんじゃないですか? それが何かは分かりませんけど』

『今頃二人でよそ様にはお見せできないことやってたりして』

 

「……おい」

「どうしよどうしよどうしよ……」

「取り敢えず服着て、あとはアドリブで誤魔化すしかねえ……」

「……あ」

「なんだよ」

「……血のついたタオル、リビングに置きっ放し」

「…………」

「…………」

 

 明確な詰みを食らって、俺は仕方なく、シャワーを浴び直すことにした。

 

 さあ、俺の家庭教師業務の明日はどっちだ。

 

「……って、なに現実逃避してんのよ!」

「いや、こうなったらもうどうしようもないだろ。なんとかする方法が思いつかん」

「諦めないで! 賢いんだから!」

「いや、言って逆レされたんだし、俺は被害者なんだよ。お前がその旨を自供してくれれば万事解決だ」

「誰がそんな話信じると思う?」

「しかし事実だ。信じてもらうしかない」

「ここまできたら共犯じゃない。また川に落ちたことにでもして、どうにかするしかないわ」

「靴、乾いてた。その言い訳は無理があると思う」

「そうだぞ二乃。誤魔化すにしてももうちょいマシな……」

 

 ここで硬直。明らかに二人の会話ではなくなった。

 温水で血の巡りは良くなっているはずなのに、顔色をどんどん悪くする二乃。彼女が眺める先には、首に巻いたヘッドフォンが印象的な女の子が一人。

 

「み、三玖……」

「……フータロー、それ、隠して」

 

 目を逸らされる。とりあえず近くにあったタオルを腰に巻いて、オーダーは満たした。

 

「えっちしてたの?」

「……いや、これは事故で」

「してたんだ」

 

 目が怖い。淡々と告げられるせいで否定できる空気でもなかった。

 

「私たちが勉強してる中、二人で気持ちいいことしてたんだ」

「待って三玖、事情があるのよ」

「聞きたくない」

 

 そりゃあ聞いても仕方ない。そんな折り入った事情なんてものは存在しないのだから。

 

「……聞きたくない、けど。この後で言うこと聞いてくれるなら、助けてあげる」

「本当か?」

 

 なんでかんで、三玖は話が分かる奴だ。持つべきものは賢明な判断を下せる友人。

 

「フータロー、次は私ね。二乃よりいっぱいしてくれるって約束するなら、ここで手伝ったげる」

「……は?」

「えっち。私ともして。二乃だけずるい」

「ちょ、三玖、なによそれ!」

「嫌ならいいよ。その時はここにみんな呼ぶだけ」

「……うぅ」

「どうする、フータロー?」

「……………………」

 

 目線で牽制してくる三玖。全裸でぷるぷる震えている二乃。そして、ヒューズの飛んだ頭で必死に黙考する俺。

 ……しかし、こんなのはもう事実上の一択で。

 

「……よろしく頼む」

「ん、任せて」

 

 踵を返し、リビングの方へ行く三玖。答えた俺を見る二乃の目は、心なしか険しく。

 

「……浮気者」

「レイプ魔が言っていい台詞じゃないってことだけは確かだな」

 

 ともあれ、この場はなんとかなりそうだ。これからのことに目を瞑れば、だけど。

 

 ……いや、ほんとに。俺の家庭教師業務の明日はどっちだ?



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だっかんじぇらしー①

「あ、上杉さん。ここでしたか」

「お、おお。四葉か」

 

 珍しくバイトも家庭教師の予定も入っていない一日だったので、一人学校の図書室にこもって勉強していた。ここ最近、自分のためだけに使える時間がぐっと減っていたので、こういう機会は無駄に出来ない。また、勉学に精を出している間は、思考を一点のみに集中できるのでありがたかった。私事だが、近頃は色々なことに巻き込まれ過ぎて、頭がパンク寸前なのだ。

 そんな最中の来客は、はっきり言ってしまえば望ましいものではなかった。しかし、ここに来るからにはその目的は読書か勉学なので、文句を言うわけにもいかない。

 

「隣、良いですか?」

「なんだ、今日は家庭教師の日じゃないけど」

「個人的に教えてもらいたいことがあって。先生に聞いても良く分からなかったので、困ったときの上杉さん頼みです」

「……なら、仕方ない」

「この数学の問題なんですが」

「ぶほっ!」

「上杉さん?!」

「……気にするな。続けてくれ」

 

 ノートを広げた先に待っていたのは、ちょっと前にとある生徒からも質問を受けた問い。説明用の作図のあとで意識を失ったのは、まだ記憶に新しい。それと同時に、非常に生々しい情事の記憶も呼び覚まされてしまって、ばれないように前かがみになった。

 

「点Hの扱いが全然分からなくて。ここの曲線と点Hの関係が大事なのはぼやーっと理解できるんですけど、でもそうすると、H以外のことが考えられなくなって困るんです」

「分かった。一回黙ってくれ」

「へ?」

「いや、教えるモードに入るから。それまで静かに」

 

 おちょくっているのかこいつは。えっちえっち連呼しやがって。まさか二乃や三玖が喋ったなんてことはないと思うけれど、それでも気になるものは気になるのだ。こちらの反応を見て遊んでいるのではあるまいな。

 ただでさえ同じ顔だからやりづらいのに、絶妙に行為を連想させるワードを叩き込まないで欲しいものだ。こんな時間から悶々とさせられてもどうしようもない。

 

「……よし、ペン出せ。どこから分からなくなっているのかを確認するためにも、解答の過程を一から追いかけるぞ」

 

 無心だ無心。直接関係のない四葉相手にムキになっても意味がない。とにかく落ち着いて教えて、もう一度自分だけの穏やかな時間を確保しよう。スムーズにこなすことが、ゆくゆくは俺のためになる。

 …………けれど。

 

「上杉さん、この式はどうして出てくるんでしたっけ?」

「あー、えっと、それはだな……。やべ、途中式抜けてる……」

「お疲れでした?」

「いや、待ってくれ。まだギアが上がってないだけだから。ここから本調子に戻す」

 

 なかなかどうして上手く行かない。いや、原因は間違いなく分かっているのだけれど、それを認めてしまうことがどうにも恥ずかしく思えて、踏ん切りがつけられないのだ。

 俺は同世代の男子とは違って、性欲なんかに支配されるような意志薄弱な人間じゃない。それを誇りのように思ってこの数年勉学に励んできたというのに、一度童貞を捨てただけでこのザマだなどと、どうしてもプライドが許さないのだ。

 これまでは、あらゆる欲を理性で制御してきたつもりだった。だから今さら、一時の快楽に流されるなんてことがあってはならない。ならないのだから――

 

「上杉さん、なんだか顔が赤いみたいですよ?」

「……知恵熱」

 

 ――四葉の体に二乃の裸体を重ねてしまったなんて言い出せるわけもなく、ぷいっとそっぽを向いた。五つ子はこういうところで作用してくるのかと、心の中で悪態を吐く。性格的には全然違う癖に、まったく同じ体つきだなんて、たちが悪いにもほどがあるだろう。

 

 俺の渋るような返答を聞いた四葉は何かしらの思案を経てから、ぽんっと手を打った。いかにも、『妙案を思いつきました!』みたいな顔で。

 

「おい」

「じっとしててくださいねー」

 

 ずずいっと顔を寄せてくる四葉。端整な顔立ちだなあなんて思っている余裕はなく、脳裏をよぎるのは、この前強引に二乃に唇を奪われた時のこと。……え? そんな素振りなんて一切見せてなかったってのに、まさか四葉もなのか……?

 

「そこまで変わらないので問題はなさそうです」

「…………お前の体温が高いだけだ」

 

 おでこ同士をぴったりくっつけて、熱の計り合いをしているつもりらしい。正月の時と言い、こいつは他人との距離感の取り方がバグっているとしか思えなかった。やり方なんて、他にいくらでも選べそうなものなのに。

 

「じゃあ、体調に異常がないのが判明したところで、続きをしましょうか。あんまりお時間を取らせてもいけないですし」

「……ああ、さっさと理解してくれ」

 

 どっと気疲れが押し寄せてきて、そのまま肩を落とす。勘弁してくれよ、ほんと。 

 しかし、朗らかに笑っている四葉の顔を見るとどうにも毒気を抜かれてしまってダメだった。ご姉妹の中で一番単純なようでいて、実のところ最も良く分からないのがこいつかもしれない。

 

 その後二十分くらいの悪戦苦闘の末、なんとか四葉から「納得しました」との言葉を引き出すことに成功した。お辞儀をした後で元気よく走り去っていく彼女の後姿を脱力しながら眺めた後で、俺もようやく自分自身のテキストを開き直す。気を抜いていると、また思い出してしまいそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 そこから二時間程度鉛筆をノートに走らせて、外が暗くなったのを理由に帰宅を決めた。重たくなった肩をぐるぐる回すと、関節がばきぼきと嫌な音を奏でた。

 ここでふと、俺にしてはかなり珍しいことに、ケータイを見てみることにした。もしかしたららいはにお使いの催促をされている可能性がある。

 

「……おっと」

 

 即座に『見なかったことにする』という選択肢が浮かんできたが、それは否定。今の俺が置かれている立場上、下手な手は打てなかった。

 『六時に校門で』とのメール。送り主は三玖。現在時刻は六時半なので、間違いなく遅刻していることになる。

 

「…………」

 

 冷や汗がつーっと背中を流れた。この前の一件は三玖に協力を仰ぐことによって、一応のところは穏便に片付いた。……いや、三玖からは一ミリも穏やかじゃないお願いをされたけど。

 別に、脅しをかけられたわけではない。……が、無視していいわけもないだろう。あれをバラされてしまうと、俺が半年と少しの期間をかけて積み上げた信用がパァだ。たとえ実情が『薬を使った二乃に襲われた』ってことでも、姉妹間にかなり大きな亀裂が入りかねないのは事実。

 

 とにかく、行くだけ行ってみよう。待っていればそこで謝れるし、いなかったら電話をかければいい。俺がケータイに触らない人間だというのは三玖も知っているので、きちんと説明すれば温情をかけてもらうことも可能だろう。

 

 そんなわけで、ガラにもなく駆け足で図書室を出る。たらたら歩いて近寄って来られても説得力に欠けるだろうから、こういうポーズをとることも大切だ。元から体力はスカスカだから、階段の上り下りで息はきちんと上がってくれるだろう。

 あれこれと策略を巡らせながら、薄暗い昇降口で上靴を履き替える。照明くらいつけてくれよと思ったが、節約を掲げられては言い返す口がない。

 自分の靴箱をなかなか探し当てられずに慌てる。こういう時はかえってゆっくり動いた方が上手く行くものだが、猶予も余裕も持っていない身なので、そんな楽な構えではいられなかった。この間にも言い訳を複数パターン考えて万一に備える必要があったし、そもそも三玖がまだ待っている確証もない。下手をしたら、あいつらの家を訪ねる必要性も生まれ得る。

 今、どうしてもそれだけは避けたかった。流石に現場に戻って平静を装い続けられる自信はなく、光速で馬脚を露すのが目に見えている。二乃とはあれっきりまともな会話もなく、ただジトジトした視線を向けられるだけになってしまっているし、とにもかくにもあの家はまずいのだ。

 

 急げ急げと指差しで下駄箱をなぞって、可能な限り早くオーダーを達成しようとするも、やっぱり靴は見つからなかった。列を間違えているのではとも考えたが、どうやらその線は薄そうだし。

 

「うおっ!」

 

 肩を落としていると、横合いから網膜を焼かんばかりの光が襲ってきた。ぴかぴかと俺を照らす光源は良く見ればスマートフォンのようで、誰がこんな悪戯を……とそいつの腕を引っ掴む。

 下手人は男だろうと想像していたのに、手首は思いのほか細かった。突然の明暗変化に視力が付いてこれていないので顔は分からないが、もしかして女子か、こいつ。

 

「なにすん……おい?」

 

 思考に意識を削がれて気を抜いていると、今度は逆に俺の体が引っ張られた。突然のことなので踏ん張りがきかず、そのまま引きずられるように昇降口の端の方まで連れて行かれる。そこでどうにか足を止めると、ようやく犯人様の顔が拝めた。

 

「逃げないようにって靴を隠しておいたんだけど、普通に遅刻しただけなんだね」

「…………」

「静かにしてね、フータロー。ここ、先生も来るから」

「……三玖」

 

 俺の鎖骨あたりから感じる妙に硬い感触は、きっと三玖のトレードマークであるヘッドフォンなのだろう。それよりもまず問題なのが、なぜヘッドフォンがぶつかるくらいまでこいつが密着してきているのかということだ。

 もちろん、そんな具合なので、胸やら足やらもくっついている。感触は数日前のものと酷似していて、やっぱりこいつらは五つ子なんだなと思い知らされた……のは良いものの。

 

「おい」

「……すん」

「三玖」

「……すんすん」

「なぜ嗅ぐ」

 

 当の三玖本人は俺の首あたりに顔をうずめて、ただ深呼吸を繰り返すだけ。それも、どう考えたって匂いを嗅いでいるとしか思えない仕草で。

 こんな調子なので、会話もままならない。まともな返事をしてくれない三玖に根気強く問いかけ続け五分程度経ってから、ようやく彼女は俺に取り合ってくれた。

 

「この前約束したでしょ?」

「……この前とは?」

「フータローが二乃とイチャイチャしてた時」

「別にイチャイチャは……」

「じゃあ、二乃と何度もえっちしてた時」

「…………」

 

 それに関しては否定できる手札を持っていないので黙るしかない。ぶっちゃけなんの間違いも存在しないただの事実だし。

 

「私がなんて言ったか覚えてるよね?」

「……私ともしてって」

「そう。伝えたからにはフータローから言い出してくれるんだろうなーと思ってたのに、いつまで経っても知らんぷりなんだもん」

「ジョークの可能性もあるだろ……ちょっとは」

「ジョークに初めてを賭ける女の子なんていない」

「…………」

 

 いきなりの処女宣言に怯む。……ま、まあ、この歳ならなんら不思議なことではないし、俺だってちょっと前まで童貞だったわけだけど。

 しかし、どんな論法を使えば『私とセックスしろ』に繋がるのか毛頭分からない。そこは姉妹に先を越されたくなかった……みたいな、俺には理解しようもない感情でも絡んでいるのだろうか。

 

「二人っきりになれる時間も場所も全然見つからなくて、だからこそ、フータローは私のために今日一日をフリーにしてくれたのかと思ったのに」

「……だからメールを?」

「そう。こうなったらこっちから行こうって」

 

 外から生徒の声がして、咄嗟に二人で近くの自販機の影に体を隠す。柱と筐体とが上手く密集していて、この暗がりならじっとしている限り見つかることはなさそうだ。……いや、そもそもなんで俺が隠れなきゃならんのだとは思うけど、三玖の三玖らしからぬ俊敏な動きに釣られてしまった。

 尻もちをついた俺の上に覆いかぶさるような姿勢をとった三玖は、どうにも先ほどから呼吸の調子がおかしい。浅く早く、矢継ぎ早に酸素の入れ替えを行っている。

 

「なんだお前、体調でも悪いんじゃないのか?」

「ううん、違うよ」

「にしたっておかしいだろ。どこか体壊して……」

 

 と、ここで俺は一つの大きな違和感に気付く。こちらに三玖が体重を預けてきているのでそのたわわに実った二つの果実の感触がダイレクトに伝わってくるのは当たり前と言われれば当たり前なのだが、それにしたってどうにも様子がおかしいように思えるのだ。

 こんなのは一切自慢できることじゃないが、五つ子全員羞恥心の概念がガバガバなので、そのやたらとデカい胸を押し付けられたことはこれまでにも多々あった。なんならちょっと前には布一枚噛ませることなくダイレクトに触る羽目になったりもした。……で、その経験から鑑みて、今の状況はどうにも……。

 

「気づいた? フータローにしては察しが良い」

「正気かお前。母親が草葉の陰で号泣してるぞ絶対」

「……これくらいで驚いてると、後から腰を抜かすことになるかも」

 

 ものすごく悪い予感に体中が警報を鳴らし始める。いや、というのも、こいつ下着つけてないんだ。どう考えてもブラなしで生活できるような生半可なサイズじゃないのに。これまで何度も感じていたワイヤーの硬さがまるでない。

 

「待て待て待て! お前まさかここでするつもりじゃないだろうな?!」

「……? じゃあ他にどこでするの? フータローのおうち?」

「それは流石に勘弁だが……。いや、そうじゃなくてももっと……」

「でも、フータロー、ちゃんとえっちな気分になってるじゃん」

「……それは生理現象で」

「嬉しいな。私でもちゃんと興奮してくれるんだ」

 

 ここで三玖は、徐に自分のスカートをたくしあげた。そんなことがあってくれるなよと神に祈ったのも束の間、俺の嫌な予感は最悪な形でもって的中してしまう。

 

「バカ、お前なぁ……!」

「へへ、もうびたびた……。太ももの方まで伝っちゃった」

「…………っ!」

 

 特有の匂いが鼻をついた。少し前までならこれが何かは分からなくて、しかし今となってはどうしようもなく理解できてしまうこの香りは即ち、女性器からの分泌液で。

 そしてそれが太ももまで垂れているということは、本来それを押しとどめる役割を持った衣類が何らかの理由で機能していないことを意味する。……というか、確実にノーパンだこいつ。暗くてはっきり見えないが、布の類が存在していない。

 

「おい痴女」

「先に見せてきたのはフータローだもん」

「あれは……」

 

 二乃との行為の合間を覗かれたのは事実。その時俺が一糸まとわぬ全裸だったのもまた否定しようのないことで、言いようによっては俺が見せつけたと解釈できなくもない。……が。

 

「だからって、なんで上も下も着てないんだよ……」

「自分で脱がせたかった?」

「そんな意図は一切ない。お前も小学校から国語やり直してこい」

「でもフータロー、これくらいしないと私のこと意識してくれなさそうだったし」

「意識ってなんだよ意識って」

「二乃と何があったかは知らないけどね、一番最初は私なんだよ?」

「もったいぶらずに結論を言え」

「フータローのこと一番最初に好きになったのは、私なんだよ?」

「…………」

 

 閉口。沈黙。二乃の告白を受けた時もそうだったが、これに対してどんな返事をするのが正解なのかがさっぱり分からない。

 それにしたって、順序ってものがあるだろう。あの二乃でさえ、一応は告白した後で肉体関係を迫ってきたのだ。それをこいつは蔑ろにしているせいで、もう全てがしっちゃかめっちゃかだ。脳の処理が追いついてくれなくてくらくらする。

 

「フータローはさ、二乃と付き合ってるの?」

「断じて違う……」

「じゃあ、なんでえっちしてたの?」

「襲われたんだよ。前みたいに薬盛られて」

「でも、お風呂では自分からしようとしてたように見えた。見間違いかな?」

「……おう」

「嘘が下手」

 

 瞬時に欺瞞を見抜かれて、床に押し倒された。閉所にいるせいで反撃しようにも力が入らない上に、もしかしたら怪我をさせる可能性を思ってしまって、動くに動けない。

 

「フータロー、二乃とキスは済ませた?」

「…………」

「何回?」

「…………二回くらい」

「そっか。分かった」

「何がだ――」

 

 回数になんの意味があるかはさっぱり分からなくて、だからそれを問おうとしたところに、三玖の唇が覆いかぶさってくる。

 口内を撫でる舌の感触は二乃のそれにそっくりだったが、どうにも癖みたいなものが違った。二乃からは口の中全てを調べてやるくらいの意気込みと威勢を感じたが、三玖はひたすら舌と舌を絡めることに終始している。

 そのおかげで呼吸がままならない。鼻から酸素を取り入れられるという日頃当たり前に行っていることが今この瞬間だけは上手く行かなくて、頭にまるで血が回ってくれない。

 

「あ……ぷぁ……」

 

 三玖が一心不乱に全てをねぶり取ろうとしてきて、それに耐えるのが精いっぱいだった。彼女の漏らす喘ぎは恥ずかしがっているのか、それとも場所に配慮しているのか控えめで、色々と豪快だった二乃とは毛色の違いを感じる。五つ子とは言え、細部に関しては違いが生まれるらしい。

 さすがに苦しさがどうにもならなくて、腕力だけでどうにか三玖を引きはがすと、二人の唇の間に唾液の橋がつーっと渡った。いけないものを見ているみたいで、急いで視線を逸らす。

 

「フータロー、二乃と私、どっちが上手かった?」

 

 息を整えるための間のあとで、三玖がこれまたどう答えればいいのか困ることを尋ねてくる。正直、キスの上手い下手を判定できるほどの心の余裕なんてない。覚えていられるのなんて、せいぜいが苦しさと唾液の甘さくらいのものだ。

 

「……分かんねえよそんなの」

「じゃあ、もう一回……」

「……むぐっ」

 

 今度は、先ほどと比べたらまだ穏やかなキス。唇の間に空気の層が入り込む余裕があるくらいの、静かな。……と、そう思ったのも束の間、突然上唇を咥えこまれて、吸われる。言い表せないもどかしさに襲われて、咄嗟に三玖の背中を抱き寄せた。もう少し強く吸ってもらえないと、痒いところに手が届かないのと似た感覚になってしまう。

 

「……あ、これ、いいんだ」

「…………やるならもうちょい強く頼む」

「うん、いいよ」

 

 懇願は聞き入れられたようで、強めの衝撃が伝わってくる。唇と唇の隙間からはたまにぴちゃぴちゃ音がして、それが正常な判断力に靄をかけていくのが分かった。

 結局、二乃の時と同じだ。どう強がっても性欲の前に膝を折ることになる。こいつらが揃いも揃って巨乳の美少女じゃなかったら、俺ももう少し踏ん張れたかもしれないのに。

 

 

「……どう、かな? 二乃よりも気持ちいい?」

「……まあ、今のに関しては、多少」

「そっか。やった」

 

 何がどうやったなのかは定かじゃないが、納得してくれたらしいことは分かった。だから、出来れば胸をぐりぐり押し付けてくるのはやめて欲しい。下着を通さないせいで、感触が生々しいったらありやしないのだ。

 

「じゃあ、今度はフータローの番ね」

 

 こちらが一息つく間もなく、三玖に再三唇を奪われる。要領を理解してきたのか、ちょっと手慣れた感じすらあった。

 勉強もこれくらいの速度で飲み込めよと悪態の一つもついてやりたいところだが、血液が頭ではない場所に集まってしまっているせいで上手い台詞が思いつかない。けだし性欲は悪だ。学生の本分である勉学を多いに脅かし得る。

 しばらく人任せに唇を預けていると、何やら三玖の動きに変化があった。催促するように舌で上唇を何度も何度も舐め上げてくるし、腕は俺を急かすように背中をポンポン叩いている。どうやら、何か意味するところがあるらしい。

 

「フータロー、私にも、やって」

「……何を?」

「唇吸うやつ。ちゅーってするの」

 

 そういえば、二乃にもおねだりをされたっけ。背中をぎゅっとしてだのなんだの。擬音の使い方と言いなんといい、やっぱりこいつらは姉妹らしい。

 そして、そんなことを涙目で言われてしまっては、流石の俺も、こう、クるものがあるわけで。

 心臓の下あたりがきゅっと締め付けられる優しい苦しみに責任を放り投げて、三玖の上唇を吸った。下手を打てば痕が残ってしまうくらいの強さで、長く。

 そしてその後、ようやっと唇を離すと。

 

「これで三回、だね」

「回数にこだわる意味が分かんねえよ」

「全部二乃より多くもらうの。そうすれば、私の方が上だから」

「どんな理屈だそれ」

「知らない。けど、する」

 

 また、一瞬だけ唇が重なった。これで通算四回。そもそも俺がさっき口に出した『二回』もハッタリのようなものなので、正直正確な数字とは言い切れそうにもない。だが、これからは発言に気をつけなくちゃ。なにせ、言った分より多くやらされる羽目になるのだから。……問題は、それがそこまで嫌なことにも辛いことにも思えないという点だ。本当に頭がどうにかしてしまっている。

 

「フータロー、二乃としたえっちなこと全部言って。それ、これから私もするから」

「だからなんでだ」

「私の方が上手だって、フータローの体に教え込むの」

「そうするとどうなるんだよ」

 

 そこで三玖は下着に支えられていない大きな胸を自信満々に張って、

 

「私のこと、ちょっとは好きになるでしょ?」

 

 と大言壮語。

 

「……俺、襲われてるんだけど」

「でも逃げてないじゃん。私は薬も盛ってないし、縛ってもいないよ?」

「…………」

「フータローに性欲があるのかどうかずっと不安だったけど、意外と正直だったね。気持ちいいことからは逃げられてないもん」

「…………」

「さっきからずっと、太ももに硬いのがあたってるしさ。……出したいんでしょ、すぐにでも?」

「…………」

「いいよ。私に出来る気持ちいこと、全部やってあげるから」

「……やっぱ痴女だお前」

「……む。それ以上言うとみんなにこの前のことバラすからね」

「今までの台詞、何回練習したんだ?」

「…………」

「顔真っ赤にしながら淫語言うとか何がしたいんだよお前は」

 

 夜目が効くようになってきたからはっきりわかる。今、三玖の顔は羞恥で真っ赤に染まっているのだ。元々口数の多い奴じゃないし、予め色々練ってきたとしか思えない。

 

「作戦ならもっとちゃんとしたの考えて来い。俺の性欲に頼ってる面がデカすぎる」

「なんで私はこの状況でお説教されてるの?」

「詰めが甘いからだバカ。俺に好きって言わせたいなら、それこそこの前の秘密を餌にすりゃいいだろ」

「……それじゃ意味ないもん」

「はあ?」

「……いや、だって、そういうのは心からじゃないとダメだし……」

「お前ら姉妹の恋愛観が分かんねえよ俺は。心より体のハードルが低いってどういうことだ」

「二乃と同じ体だから、私の体に目新しさなんてないもん」

「えぇ……」

「フータローが二乃の裸を見た時点で、他の四人が裸を見られたも同然なの。だから、他のところで勝負しなきゃいけないの」

 

 五つ子理論は俺に理解できそうもない。そこは普通に恥じらうものじゃないのか?

 

「私の方がフータローのこと好きだって、尽くせるって、教えてあげるんだから……」

 

 言いながら、三玖は俺のベルトをカチャカチャといじっている。しかし残念なことに、不器用さが災いしてなかなか外れてくれないようだ。……しかし、彼女が失敗するたびに絶妙に先っぽの方が擦れる。明らかに意図したものではないのに、こちらの射精感だけが一方的に募っていった。

 だいぶ、限界だ。布越しの刺激なんかでは満足できない。



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だっかんじぇらしー②

「貸せ」

「あぅ」

 

 自分でベルトを外し、ファスナーを下におろした。その瞬間に、狭い空間に閉じ込められていたものが勢いよく飛び出ていく。

 

「……二乃は、口でしてくれたっけな」

「…………わ、私もできるもん」

 

 震える手で俺の下着をずりおろした三玖は、そのあとあぅあぅ言いながら数秒硬直して、それから意を決したように先端に口をつけた。温かさと柔らかさが直に伝わってきて、それだけで射精しそうになる。

 俺のいっぱいいっぱいな様子を見て気を良くしたのか、彼女の攻め手が激しくなった。竿全体を咥えこみ、強く吸い、上下運動を繰り返し、こちらが迎える臨界点を低くしようとしてくる。

 拳を強く握って、限界まで我慢をする。ここであっけなく果ててしまうのは、なんだか嫌だった。俺の女性遍歴が負けっぱなしになっていくような予感がして、それを本能が拒んだのだ。

 三玖の肩を掴んで俺から引き剥がす。その勢いで彼女の体を仰向けに押し倒し、上に覆いかぶさった。

 

「フータロー?」

「やられっぱなしは性に合わん」

「へ? ……きゃ!」

 

 片手で三玖の口を塞いだ。大声でも出されようものなら、あっという間に誰かに見つかってしまう。この状況を誤魔化す術など持っていないので、それは避けなくてはならない。冗談抜きに退学の危機に瀕してしまう。

 よりにもよって俺が卒業できなくなるのは笑うことも出来ないから、三玖には静かにしていてもらおう。

 

「ダメだよ……汚いよそんなところ……」

「さっきまで俺のしゃぶってた奴がなに言ってんだ」

「で、でも、びしょびしょだよ?」

「……二乃にはしなかったな、これ」

「…………優しくね?」

「現金だなお前」

 

 秘部に顔を寄せると、そこにこもる熱気が良く分かった。やたらとエロい匂いがするし、正気を保ち続ける自信がどんどん薄れていく。

 スカートに潜り込む形になっているせいもあってか、諸々がなかなか逃れてはくれなかった。熱も、匂いも、ある分だけそこに蓄積され続けるのだ。

 

「……ぁ、あうぅ……」

 

 独特の味だった。俺の人生で口にしたものの中で、これに類するものはない。美味しくはなくて、なんなら不味くすらあるのに、なぜだか病みつきになるような、おかしな風味。

 奥から奥からあふれてくる液体を逐次舐めとりながら、舌先で敏感な部分を探し始める。大小の陰唇と核を中心に、その周辺をひたすら吸ったり、舐めたり、時には甘噛みしたり。

 三玖が特に大きな反応を示した部分に集中攻撃しながら、おそらくは五分以上にわたって、彼女の女性器を俺の唾液で濡らし続けた。

 そして、俺が要領を掴み始めた頃合いになって、三玖は、

 

「あ、あ、あ、壊れちゃう、おかしくなっちゃうよぉ……」

 

 なんて言葉とともに、思い切り肉体をびくんびくんと震わせ、脱力した。とろんと蕩けた目は、焦点が合っていないように思える。

 酸欠のように浅い呼吸を繰り返す三玖は、これだけでもう体力が尽きてしまったようだった。袖で隠した顔は、ずいぶんと火照っている。

 

「フータローのえっち……」

「そういうことはパンツ履いてから言え」

「フータローも履いてないじゃん……」

「俺のはお前が脱がせたんだろ。お前は最初から履いてなかった」

「でも、でもさぁ……」

 

 いやいやをするように首を振りながら、俺の言い分を否定したがる三玖。だが悲しいかな、自分が変態さんであるという俺の指摘は、誹りではなく事実なのだ。普通の女子高生は学校でパンツを脱がないし、男子を物陰で犯さない。

 

「……フータローはえっちな女の子、嫌い?」

 

 目元を指で隠し、だけどその隙間からこちらを窺いつつ、三玖は言う。

 

「……仮に嫌いって言ったらどうすんだよお前は」

「清楚路線を目指す」

「無理だよ。俺の中でお前のキャラはもう定まったんだから」

「……だからもう、えっちな子としてやっていくしかないじゃん」

「……なら、そのえっちな子は、次に何をするんだ?」

「…………舐め合いっこ、もうした?」

「…………してない」

「………………………………じゃあ、する」

 

 ぺたぺたと地を這って体勢を変えた三玖は、俺の顔にそのお尻を向けてきた。それと同時に、俺の局部が彼女の手中に収まる。

 実を言うと、先ほど出していないせいで、舐めている間もずっと暴発寸前だった。下手をすれば、自分の手で慰めてしまっていたくらいに。

 

「あ、さっきよりがちがちだ……」

「お前もぐちゃぐちゃだろ」

「そ、それはフータローがあんまり必死に舐めるから」

「うるせえ発情娘」

「……むう!」

 

 握る手に力がこもった。それと同時に上半身が跳ねて、勢い余って彼女の陰部に顔を埋めてしまう。

 それが号砲になったようで、再び彼女の舌が俺の陰茎にぐるりと巻きついた。負けじと俺も、さっき一番三玖が感じていた豆粒の部分を舐め倒す。それだけで、彼女の秘部は何度もひくひく蠢いた。まるで、喜びに打ち震えているみたいに。

 だが、そうしている間に、俺も攻めを受けている。

 じゅぼじゅぼと淫らな音を立てつつ、三玖は容赦なく俺を搾り取る態勢に入った。下腹部に力を込めることでどうにかあと一歩耐えているが、正直今にも全てをぶちまけてしまいそうだし、出来ることならそうしたい。ここまで耐え抜いたのだから、きっと最高の快感が俺を出迎えてくれるはずだ。

 まだ見ぬ未知の領域を夢想しているうち、とうとう限界が訪れてしまった。こみ上げる強烈な射精感に屈した俺は三玖の口の中に大量の子種を流し込みながら、せめて反撃をと彼女の核を思い切り吸い上げる。どうやらこれが奏功したようで、二人がほぼ同一のタイミングで絶頂を迎えることと相成った。

 

 

「きもちーね、これ」

 

 何か言い返そうと思ったが、息が乱れていて言葉が出ない。未だに三玖が俺のを掴んで離さないせいで、変な喘ぎが漏れそうだ。

 さっさと離せという意図をこめて服の上から胸を揉むと、「ひゃんっ」なんて嬌声とともに彼女の体が浮き上がる。それに乗じて、どうにか再び三玖を組み伏せることに成功した。

 

「えっち」

「お互い様だ」

「……あっ、んうぅ……!」

「二乃は最初指一本でもきつきつだったのに、お前はこの段階で二本入るぞ。これがどういうことか俺に分かりやすく説明してくれ」

「それはっ、フータローがいっぱい濡らしたからっ……!」

「最初から太ももまで垂らしてたろ」

「…………」

「膨れっ面で誤魔化すな」

 

 指を前後運動させると、分かりやすいくらいに彼女の全身が打ち震えた。相当気持ちいいのか、袖を噛んで声を潜めている。

 ……こういうのを見ると、嗜虐心にちょっとした火がつく。自分にそんな嗜好はないはずなのに。

 

「あいつはもっと気持ちよさそうにしてたのに、お前は意外と反応薄いのな」

「……なっ!」

「エロい女としてやっていくのなら、もっとなんかあるんじゃないか」

「で、でも。声出したらバレちゃう……」

「そんな心配する奴が学校でおっぱじめるわけないだろ。心のどこかで期待してたんじゃないか? 見られたり、聞かれたりするの」

「いじわる言わないで……」

「じゃあ、言い方変える」

「うぅ……」

「声、聞きたい」

「…………変な子って思わない?」

「それはもう思ってるから心配すんな。ここから評価が変わることなんてそうそうねえよ」

「いっ、いじわるぅ……。フータローのばかぁ……!」

 

 とかなんとか言いながらも、言葉の端々が乱れ始めていた。俺の愛撫に合わせて普段からは想像もつかない高くて甘い声が、控えめながらに俺の耳朶を打つ。

 

「んっ、んぅ……!」

「三本入った」

「ゆっくり、ゆっくりしてぇ。またイっちゃうからぁ……! あっ、ダメ! そこ、敏感で……!」

 

 言葉では俺を止めている癖に、三玖の腰は先ほどから快楽を求めるように、何度も何度も前へ後ろへ小刻みに振動していた。腕は思い切り俺を抱きしめていて、背中あたりからみしみしと関節の軋む音がする。

 それにしても、ものの見事に性感帯が二乃と一緒だった。五つ子やっぱりやべえなあなんて思いながら、拙いテクニックで彼女の膣内をかき乱し……そして、三玖が高まってきたタイミングで、動きをぴたりと静止させた。

 

 

「へ……? なんで……?」

「ダメだって言うから」

「そ、そこはさ! なんとなく分かってくれなきゃ困る……」

「何を?」

 

 努めて分かっていない風を装い、彼女から決定的な言葉を引き出そうとする。三玖には、他人のSっ気を引き出す才があるのかもしれない。

 

「……ここ、切ないの。早く、気持ちよくして?」

「…………」

 

 「ここって?」と聞く案もあったが、流石にそれは気持ちが悪いのでやめておいた。自尊心が邪魔をするラインを割ってしまいそうだ。

 彼女の要求に逆行するのはここらへんでやめておこうと思い、指を引き抜く。再び「なんで?」と問われたが、答えは行動で示すことにした。

 腕の力だけでどうにか彼女を持ち上げて、俺の太ももの上に座らせる。ちょうど、陰部どうしが向かい合う姿勢になるように。

 

「こっちのがいいだろ」

「……うん」

 

 亀頭を裂け目にあてがう。高い体温がそこを通して伝わってきて、背中がぶるりと震えた。長い前戯のせいかそこはとろとろにとろけてしまっているから、今にも吸い込まれて行きそうな錯覚に襲われる。

 早く挿れたいという思いと、また避妊しないのはまずいだろという思いが混在するせいで停止していた状況を動かしたのは、目の前の女の子だった。

 

「……するする入るね。私、処女なんだけど」

「処女の痴女とか性質が悪すぎる……」

 

 三玖が俺を強引に抱き寄せて、根元まで連結した。体の一部だけが湯船に浸かっているように熱くて、思わずここが学校であることを忘れる。

 

「お腹……奥がきゅんきゅんする……」

「おま……っ、あんま締めつけんな!」

「でっ、でも、どこに力入れればいいか分かんなくって……!」

「一回脱力しろ。死にはしないから。……ほら、深呼吸」

 

 規則的に背中を叩いてリズムを作ってやると、三玖の胸のあたりがそれに合わせて上下した。同時に、下半身にかかっていた圧が優しいものに変わる。動く前に果てるみっともない事態だけは避けられそうだ。

 

「フータロー、慣れてるね」

 

 じとじとした目で見つめられる。補助してやったのになんでそう恨めしげなんだよ。

 

「あ、そうだった。フータローは二乃といっぱいえっちした後なんだった」

「……なに、嫉妬してんのかお前?」

「私は初めてなのにフータローは初めてじゃないんだもん。不平等」

「嫉妬でこんなことするとか、お前やっぱりエロい奴だな……」

「これで公平になると思ったんだもん。公平にいこうぜって、フータローが言ったんだよ?」

「……もっと読解力磨いて行こうな」

「む~……」

 

 俺を責めるように、彼女の腰が何度か弾んだ。そこで生まれる快感をどうにか顔に出さないよう心掛けながら、三玖の細い腰に手を回す。

 

「座位は二乃としてないから、どうすればいいかちょっと謎だが」

「……なら、こう、でいいんじゃない……?」

 

 確かめるように、あるいは俺に分からせるように、彼女は一度、大きな、そしてゆっくりとしたストロークで腰を振った。

 

「フータロー……キス、お願い」

「…………」

 

 片手を首に回して、唇と唇をくっつけ合う。唾液は先ほどよりも粘度を増していて、三玖の興奮が明確に伝わってきた。

 上下から、同時に水音がする。唾液と愛液が奏でる淫らなメロディに合わせ、満を持して俺も腰を動かした。

 

「…………んっ、すご……」

 

 奥を突くたびに、彼女のキスは激しさを増す。こちらの呼吸を阻害しかねない勢いで、舌が絡み、口の中がめちゃくちゃに犯される。

 二点から同時に襲ってくる快楽は俺の脳を溶かすにはあまりに十分で、それからしばらくは、何を考えるでもなくただ猿のように腰を打ち付け、舌を絡め合わせた。

 そして、いよいよ俺の耐久が限界に差し掛かった頃のことだった。

 廊下の奥から、ぺたり、ぺたりと足音が響いてきたのは。

 

「三玖、止まれ、人だ」

「……や、やだ……」

「ああ、見られたらガチで人生終わっちまう……」

「……ここでお預けはやだ……」

「おま……ぐっ」

 

 嫌なのはそっちの方かよ?!とは言えなかった。というより、もう音を発するのが危険な距離になっていた。角度の都合で姿が見えているわけではないけれど、足音の反響具合を考えるとかなり接近していると考えていい。そして、近づいているのが生徒であれ教師であれ、見つかったら一発で大問題だ。ここはなんとしてでも姿を隠し通さなきゃいけない。

 ……それだというのに、三玖の体はすぐそこに迫った最大級の快楽を享受するのに躍起になっていて、腰も舌も、まるで大人しくなる気配がなかった。腕で抱いて限界まで密着し音を小さくしようとしても、彼女は膣を自力で伸縮させることにより、俺の精をどうにか搾り取ろうとしてくる。

 こうなったらと、俺はもう声が漏れる隙間もないくらいに、三玖に深いキスをした。息を止めて、何の音も響かないように。こいつが求めているのは目先の気持ちよさなんだから、それさえ満たしてやればある程度は従順になってくれる。

 脚まで使って三玖と一体化するレベルで密着し、二人の占める面積を極限まで小さく抑える。動いているところを見られないように、音を聞かれないようにと極限まで集中を研ぎ澄ましながら。

 最中、足音が真横にやって来た。

 心臓が大きく跳ね、体が強張る。それでも必死に息を殺して、この辛い時間が早く過ぎ去ってくれるように祈った。

 足音は、一度俺たちのすぐ近くで止まった。いよいよここまでかと俺も死を悟ったが、どうにも俺は悪運が強いらしく、そのまま音源は遠くに離れていった。

 

「……………………っぷはぁ!」

「………………くるしーよ、フータロー」

「……お前が、動くの、止めないから……」

「あっ、あっ、フータロー、私、キちゃう……!」

 

 三玖の体が大きく跳ねたタイミングで、俺の亀頭からも大量の精子が飛び出した。きっと、今の三玖の膣内は、俺ので真っ白に汚れている。

 だらりと体を俺に預けて、三玖は言う。

 

「ね、もう一回……」

「…………」

 

 俺の聞かん棒も、二回程度ではまるで収まってくれなかった。彼女の言質をいいことに、再び腰を振りだそうとすると。

 

『完全下校時刻です。まだ校内にいる生徒の皆さんは、ただちに下校の準備をしてください』

 

 なんて、予めセットされたアナウンスが流れた。施錠のために職員の巡回が始まったら、もうさっきのようには隠れられない。

 

「帰るぞ」

「……いけず」

「…………近くに、人の来ない路地がある」

「……………………腰抜けちゃったから、腕組んで」

 

 パンツとズボンを上にあげてから、三玖を抱え起こす。彼女は下着を装備していないので、なにも支度する必要がないらしい。

 体重を容赦なくこちらに預けてくるせいで、胸の感触がリアルに伝わる。勃起の硬度は異常な次元に達しているので、この刺激は体に毒だ。

 三玖の歩き方はおかしな内股で、控えめに見ても不審。誰にも見つかりませんようにと祈りながら、どうにか無傷で学校の敷地内から出た。

 

 そして、家の方向とはまるで関係ない住宅街に足を向ける。自然に呼吸は早くなって、鼓動は跳ね回った。一刻も早くもう一度三玖を堪能したくてたまらない。

 

「フータロー」

 

 耳元で、三玖が囁く。焦りに感づかれないように「なんだ」と簡潔に聞くと、三玖はその場で、再びスカートをたくしあげた。

 

「垂れてきちゃった」

「~~~~~~~~ッ!!!!!」

 

 今回三玖の太ももに垂れてきていたのは、さっき注ぎ込んだばかりの俺の精子。

 流石に、そんなものを見せられては我慢なんて出来なかった。

 彼女の手首を強引に引っ張って、近くに都合よくあった公園に誘い込む。端の茂みにちょうど良く一本の木が生えていたので、三玖にそこへ手をつくよう促して、強引に後ろから犯した。

 尻を突き出す三玖はさっきは抑えざるを得なかった喘ぎ声を大胆に漏らしながら、「もっと、もっと」と何度も何度もおねだりをしてくる。俺もその要求を飲んで、何回も、何回も、彼女の膣に射精した。息が果てて、彼女の腰が砕けるまで、ずっと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「じゃ、ここまででいいよ」

「……おう」

「学校ではいつも通りに接してね」

「パンツ履いてくれるならそうする」

「……脱いで来たら、またしてくれる?」

「…………その時に考える」

 

 五つ子の家にほど近い道路で、彼女と別れた。絶頂しすぎて意識が半分飛んでしまった三玖を正気に戻すのに割と時間を食ったから、時刻はもう九時を回っている。逆に言えば、それだけの間俺たちは繋がっていたということだ。なんとも末恐ろしい。

 

 夜風に頭を冷やしながら、俺も帰路に着いた。こんなことがあったというのに謎の余裕が生まれていて、そのせいで、本日二回目となるケータイのチェックなんて行為に及ぶことになった。

 ……が、それは大いなる落とし穴で。

 

『フータロー君、三玖と何してたの?』

 

 一花からの簡素なメール。それだけで、俺は全てを察してしまった。

 あの時通りかかったのは一花で、こちらに気付かなかったのではなく、意図的に見逃したのだと。

 

「…………勘弁してくれ」

 

 この後の展開に怯えつつ、頭を抱えた。相変わらず、俺の家庭教師業務の明日は見えてこない。

 



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うらはらちぇいす①

「上杉君、今日は学食じゃないんですね」

 

 昼休み。いつもなら学食で伝家の宝刀『焼き肉定食焼き肉抜き』を振るっているはずの俺は、とある事情から教室でもそもそ菓子パンをかじる憂き目に会っていた。というのも、全校生徒が入り乱れて食事をするあの場所に行くのは、今の俺の状況から鑑みた時、得策とは言えなかったから。

 そうやって警戒心を持ち、アンテナを高めに張っていたからこそ、俺に話しかけてきた人物の顔はかなり意外だった。本来であれば、彼女はここではない場所にいるべき人間だ。

 

「……そういうお前はなんでここに?」

 

 中野五月。五つ子の末っ子。姉妹の中で最も食に関する興味関心が高いであろう彼女は、昼食の時間を誰より楽しみにしていそうなものなのに。それがどうして、昼休みも半分ほどが過ぎ去ったこの時間、まだこんなところにいるのか。

 

「いえ、家計が家計なので、あんまり贅沢は」

「ああ、そうか。なんか悪い」

「謝ってもらうようなことじゃありません」

 

 食いしん坊に食を我慢させるというのはなかなかのことだ。しかも、そうなった原因を辿っていくと最終的には俺に到達するのだから、自然に謝罪の言葉も出てくる。それが遠因と呼べるくらいに薄い関連性ならまだしも、限りなく直接の要因だ。出会って一年と経たない連中相手に一蓮托生してしまうのだから、人生というものは本当に良く分からない。

 

「最近は二乃がお弁当を作ってくれるので、それで十分満足ですし」

「…………」

 

 少々厄介な名前を出されて一瞬眉がひくついたが、特になんでもないような表情をどうにか顔に貼り付けて、適当な相槌を打つ。些細な失態から全てが瓦解していく可能性があるので、こんな日常のワンシーンにも注意しなくてはならない。全然昼休めていないが、文句を垂れている暇があるのなら今までと同じペースで顎を動かし続けるべきだろう。

 

「集まって食わないのか?」

「一花はお仕事が入っていて、二乃と三玖は日直で遅れるそうなので。そこで四葉と話した結果、たまにはクラスの友達と食べるのも良いだろうって」

「なるほど」

 

 仲違いを疑ったが、特にそういうことでもないらしい……とも言い切れなかった。四十人のクラスから日直が二人選ばれるとして、仲良し五人組の中の別々のクラスに属している二人が同時に日直業務を負う確率……は、まあ、有り得なくもない程度に収まるかもしれない。……が、その確率計算に、『俺と肉体関係を持ったことのある』というドギツい冠をつけた場合、果たしてそれはいかほどか。俺は自信を持って「ああ、今日は二人とも日直なんだ」と信じることが出来そうにない。どうしても裏を疑いたくなってしまう。

 俺の見ていないところで二人がこっそり戦争を始めている可能性だって頭のどこかでは考えていて、とうとうそれが顕在化したのではないかと冷や汗が一筋背を伝った。今現在、この学校には爆弾が多すぎる。

 

「で、お前、弁当は?」

「……食べ終わりました」

「……ああ、そう?」

 

 体重やら美容やらに人一倍気を遣っていそうな二乃が作る弁当は、そこらの男子が持ってくるような大雑把で量に特化したものとは一線を画すのだろう。そしてそれはきっと、五月的にはちょっと物足りないくらいの容量で。

 

「…………やらんぞ」

「要りませんよ!」

「そこまでムキにならなくても……」

「……すいません」

 

 しゅんと萎んだ彼女をぼんやり眺めながら、味のしないパンを咀嚼し続ける。俺も俺で食べ盛りの体にそれなりの無理を聞かせているので、あまり他人のことばかり考えてもいられないのだった。衣食住の中で、疎かにすると短期的に手痛いしっぺ返しを受けるのが食だ。これに関しては割と死活問題なので、自分を優先させてもらう。気遣いで自分がひもじくなっていては目も当てられない。

 なおも無心で規則的に顎を動かし続ける。せっかく生徒が目の前にいるのだから問題の一つでも出してやれれば良いのだが、最近この姉妹を前にすると上手いこと頭が働いてくれない。何度でも重ねて言うことになるが、顔も体つきもまるで同じなのが厄介極まりないのだ。五月と俺の間にはやましいことなど何一つ存在しないのに、顔を合わせると罪悪感のようなものに苛まれてしまう。良くないと分かっていても脳が自然と服の下にあるものを想像してしまうこともあって、どうしようもない。

 

「今日の勉強会はどこで開くんですか?」

「あー、また図書館あたりで考えてる」

「上杉君、最近私たちの家を使いたがらないですよね。あそこなら時間も人目も声の大きさも気にしなくて済むのに」

「いや、それはあれだ。明確な縛りがあった方が意識的に手を動かすようになるだろ。惰性でやるのが一番良くない」

「考えあってのことなら構いませんが」

 

 実を言うとそんな考えなんてなかった。意識の問題なんてのは今なんとなくひねり出したこじつけに過ぎない。とにかく、俺はもうあの家で勉強など出来るわけがないのだ。どうやったって二乃との行為を思い出して悶々としてしまうし、あいつ自身、最近俺を焚きつけてあわよくばもう一度コトに及ぼうとしている節がある。見え透いた地雷を踏み抜くほど愚かではないつもりだ。

 

「それより五月、さっき一花は仕事だって言ったか?」

「ええ。今日は撮影があるみたいで学校はお休みです。放課後までにはなんとか終わりそうだと言っていたので、勉強会には間に合うかと」

「……そうか」

「なにか?」

「なんでもない。気にしないでくれ」

 

 残り僅かとなったパンを一気に口の中に放り込み噛み砕く。先日の意味深なメールの後、俺は未だに一花と一対一で話す機会を持てていない……というか、極力二人きりにならないように立ち回っていた。どんな話をしたところでロクな結末を迎えそうにないと分かっているからだ。それでもいつかは何とかしないといけないというのは理解できていても、先を思うと頭が痛い。幸い五月の反応からも分かる通り目撃情報の拡散は為されていないようだから現状一安心だが、近くアクションがあっても何の不思議もなかった。

 それで言えば、三玖も三玖でだいぶ問題があった。

 元から羞恥心や距離の取り方がどこかズレていたあいつだったが、あれっきり妙に近い。気づけば隣にいるし、酷い時は呼吸音がはっきり聞こえるくらいまでこちらに詰め寄ってくる。それに触発された二乃までチキンレースを始めようとするからなおのこと手に負えなくて、勉強会のたびに俺の胃痛がマッハなのだった。二人とも告白関連のことはなあなあの有耶無耶にしたままだから、絶妙に居心地が悪い。スキンシップの過剰な奴なんだという理解は、明確に示された好意の前にはあまりに無力だ。こんな状況の対処法などどこを調べても載っていないので自力で何とかする外なく、目下最大の悩みの種として俺の前に立ちはだかっている。

 

「上杉君、最近ちゃんと眠れていますか?」

「どうした急に」

「ここのところずっと元気がないので。自分たちが負担になっているんじゃないかなと」

 

 実際は、お前の知らないところで複雑化した人間関係を思って精神が摩耗しているだけなのだが。しかしわざわざこんな特大の爆弾情報を教えてやるわけにもいかず。

 

「心配すんな。それは関係ねーよ。ただちょっと怠いだけだ」

「無理は禁物ですよ?」

「分かってる」

 

 その思いやりに心の中でこっそり感謝を表明しながら、教室の前に固定されている時計を見た。昼休みも残すところわずかだ。

 

「お前はどうかそのままでいてくれよ」

「はい?」

 

 疑問の声には答えず、次の授業のテキストを取り出した。五月の呆けたような表情が、妙に印象的だった。

 

 

 

 

 

 

 

「来ないね、一花」

 

 四葉の一声。

 時計の針は図書館が閉じる三十分前を指しているのに、一花は未だ現れる気配がなかった。それどころか遅刻の連絡すらなく、今彼女がどこにいるのかも定かではない。

 これまでも定刻にやってこれないという事態がなかったわけではないが、そういう時には必ず連絡が来ていたので、無断欠席は初めてのことになる。二乃なんかは、先ほどからシャーペンの芯を出したり引っ込めたりしてまるで落ち着きがない。おおかた事故か何かに遭遇したのではないかと憂慮しているのだろう。

 

「あ、連絡。一花から」

「なんて?」

「撮影が長引いちゃって、しかもその間スマホを触れる空気じゃないからメッセージを送るに送れなかったって。今日はもっとかかりそうだから、私のことは待たないで良いよってさ」

「なーんだ。あんまり遅いから嫌なこと考えちゃってたわ。それなら一安心ね」

 

 緊張から解放されたように二乃が肩の力を抜き、その他の一同の雰囲気も心なしか弛緩した。この空気感の中で勉強が捗るとも思えなかったので今日は解散する旨を告げると、全員が用具を鞄にしまい始める。

 その中で。

 

「フータロー、この後時間ある……?」

 

 と、ぎりぎり俺にだけ聞こえる声量で三玖が呟く。これだけでこいつが目論んでいることが分かってしまって、俺の血流がおかしなことになった。

 

「……約束通り、履いてないんだけど」

「バカ。履け。今日はこの後用事だ」

「……むぅ」

 

 お前そんなリスキーな装備で姉妹の前に出てきたのかと叱責したくなるが、これに関しては熱に眩んだこの前の俺が明確に否定なり拒絶なりを示さなかったのが悪い。パンツを履いていない女の子に発情する性癖があるなんて思われては双方に何の得もないので、いずれ矯正しなくては。

 

「フータロー、今日はウチでご飯食べていけば?」

「なんだ突然」

「この調子だと一花は向こうで食べてきそうだし、そうしたら一人前余るじゃない」

「一人分少なく作ればいいだろ」

「気づくと五人前になるのよ、癖でね」

「……悪いが遠慮しとく。妹が夕飯作って待ってるからな」

 

 夕飯の誘いは魅力的ではあったが、俺は今後二乃から提供される飲食物に対し、常に細心の注意を払わねばならない。四度目は流石に食らえないだろ……。

 不満げに唇をつーんと突き出す二乃から目を逸らし、五月に軽く目配せをした。「昼の鬱憤は夜晴らせ」的な意味合いを込めて。当然分かってもらえるはずもないが、そこらへんは五つ子でやりくりしてもらおう。

 

「ほら、さっさと帰った帰った。ちゃんと自習もしとけよ」

 

 告げて、一足先にその場を後にする。これ以上一緒の場にいると更に余計なことに巻き込まれる気がするから。……それに、他の事情も抱えている。

 

 室内にいると窓の外の変遷に疎くなってしまうようで、見ればとっぷり日が暮れていた。イマイチしっくり来ない位置に収まった鞄を身をよじってちょうどいいポジションに寄せ、重たい脚をとぼとぼと前に進めだす。一応後ろを確認してみるが当たり前にそこは無人で、後ろを尾けられているという事態はなさそうだった。

 念のために周囲を更に複数回検分するが、やっぱり人の気配はしない。肺にこもった重たい感情を呼気として吐き出してから、取り出したケータイでリダイヤルした。

 

「なぜここまで手の込んだことを……」

『なんとなくかな?』

 

 電子音に変換された肉声はどうにも無感情に聞こえて、何かに怯えたように腕に鳥肌が浮かび上がった。女優見習いの面目躍如、だろうか。

 

「一花」

『なに?』

「二人で話したいことってなんだよ」

『分かってないの?」

「……心当たりはあるが」

 

 むしろ心当たりしかないまである。今この状況で話題に上るのが好きなおにぎりの具は何かとかだったら拍子抜けもいいところだ。

 

「だけど、いくら何でも姉妹騙くらかしてまで時間作ることはないだろ」

 

 実のところ、一花の欠席には予め断りがあった。今日の勉強会には参加できないと、放課後になってすぐ俺に連絡が届いていたのだ。

 ……だがまあ、問題はその後で。

 

「仕事が長引く設定にしたって、それを最初に言っておけばもう少し……」

『いやいや、今まで夜になっても帰れないなんてことはなかったからいきなりだと疑われちゃうよ。焦らして焦らして最後に伝えるからリアリティが生まれるんじゃない』

「その頭をもっと別の場所で使って欲しいよ俺は……」

『あ、良いんだ。そんなこと言ってるとこの前三玖とフータロー君がいちゃいちゃしてた時の写真、他のみんなに送っちゃうよ?』

「正直すまんかった」

『まあ、そんなの撮ってないんだけどね』

 

 冗談は笑えるものだけにして欲しい。おかげで今この瞬間、あふれ出した手汗でケータイを取りこぼしそうになっている。あとちょっとだけ膝も震えてる。

 

「……で、結局お前は俺をどうしたいんだよ」

『どうもしないって。でもまああの子たちのお姉ちゃんとして思うところがないわけでもないから、一回会って話したいな』

「いつ?」

『これから』

「どこで?」

『駅前にカラオケあるでしょ? 私、今そこの近くにいるんだけど』

「……了解」

 

 簡素に答えると、そこで通話が切れた。明らかな面倒がやってくるのを覚悟しながら、目的地に足先を向けた。

 

 

 

 

 

 おそらく一花が指し示したのであろう店舗に近づくと、店と店の中間地点にあたる壁に背を預けてスマホをいじっている彼女の姿が目に入った。どう話しかけたものかと少し悩む間に向こうも俺の姿を視界に捉えたようで、によによ笑いながらこちらに手を振ってくる。

 

「早かったね」

「普通だろ」

「写真は本当に撮ってないから安心してね。わざわざ身内の爆弾を作る趣味なんてないし」

「……そりゃどうも」

 

 心の中では万に一つくらいの可能性を捨てきれていなかったから、彼女が示した明確な否定にそっと胸を撫でおろす。そんなえげつないものを脅しの材料に使われたら、今後の人生俺はこいつの言うことに絶対服従だ。ただでさえ一花には、いつかの膝枕画像を握られたままだし。

 

「でも、すごいびっくりしちゃったなあ。まさかあんな……ねえ?」

「……何だよ」

「いや、合意の上ならこっちからは何も言えないけどさ。……でも、場所くらいは選んだ方が良いよってお話」

「…………」

 

 お宅の妹さんが主導ですよと伝えてやっても良かったが、今は何を言おうが言い訳がましくなるのでやめた。結果的にその流れに乗ってしまった俺がいた以上、話は繕いようがない。

 

「歩こっか」

 

 他の歩行者の邪魔になるからと言って、その場を離れる。集合出来た以上、ここはもう用済みというわけか。

 

「どこを目指すんだ」

「何も考えてないよ。ただ適当にぶらぶらしながらお話したいなって」

 

 どんな話になろうとも、最終的に俺の肩身が狭くなるのは確定なのだ。先が思いやられるというか、考えただけで胃が痛むというか。そもそも罪は俺と三玖が同じだけ背負っているわけなのだから、俺だけが一方的に追いつめられるという構図はどうなんだろうか。釈然としない感はあって、そのあたりのすり合わせが自分の中でまるで上手く行かない。

 

「今日の勉強はちゃんと進んだ?」

「良くも悪くもいつも通りだ」

「そっか。なら置いていかれないようにしなくちゃね」

「他の誰かからノート見せてもらってくれ。ついでに再現授業でもしてもらえば完璧だろ」

「じゃあそうしようかな」

「…………」

「どうかしたの?」

「別に……」

 

 とにかく、神経が磨り減る。今はどういう心境か会話が脇道に逸れているが、この際だからさっさと本題に移ってくれないだろうか。警戒しっぱなしのままでは、ただの雑談でさえ裏に意味がこもっているのではないかという猜疑心が尽きてくれない。この調子では心労でダウンしてしまいそうだ。

 

「もっと肩の力抜いていいのに」

「無茶言うな」

「そんなに後ろめたいならしなければ良かったんじゃないの?」

「そういうこと言われそうだから警戒してたんだ俺は」

「三玖とはいつから?」

「いつからってなんだよ?」

「もう、察し悪いなあ」

 

 言って、一花は眉根を寄せた。それはそれは大変に不満そうな表情を浮かべながら。

 

「私、人の感情の機微にはだいぶ敏感な方だと思ってたんだけど、あまりにも突然だったから」

「……?」

「最近付き合い始めたんだったら、すぐ分かるものだとばかり」

「…………」

「だから、いつそういう間柄になったのか、純粋に気になっちゃって」

「……あー」

「二人とも、意外と隠すの上手だなあって。こっちが参考にしたいくらい」

「…………あー」

「発声練習?」

「………………あー」

 

 言うたびに少しずつ空を仰ぎ、目の焦点をぼやかす。もう、なにもかもが面倒だ。俺はここから何をどう訂正すればいい。

 

「えーっとだな。まずは……」

「まずは?」

「……ちょっと待て」

 

 まず俺と三玖がやらかした背景には、どうしようもなく二乃の存在が絡んでくる。……が、ここで一花にみすみすそのことまで話してしまっていいのかという疑問が湧いた。それは知られないに越したことはないし、なんなら知られたくないことだから。これ以上弱点を増やしてしまっては全身が急所になる。願わくば、それは避けたい。

 かと言って、その出来事を抜きにした説明で彼女を納得させられるかといえばそれもまた首を傾げざるを得なかった。そもそも俺の偽証能力が試される課題でもあるし、深く突っ込まれたら粗が出るのは必至。であればふわふわした曖昧な説明で納得してもらうしかないが、果たしてそれで上手く行くかどうか。

 

 一旦落ち着こう。まずは各々の立ち位置と知っている情報を確認するべきだ。

 関わっている人間は俺、一花、二乃、三玖の四名で、それぞれ蓄積している情報量には差異がある。俺の関与しない場所で駆け引きが生じている可能性もあるが、そこまで考慮すると厄介なので、ここでは俺の視点から見たことを中心にまとめておこう。

 まず二乃。一言でまとめれば元凶。あいつの存在なくして今の俺の思考はない。この構文は感謝をメインに扱われるものだと思って生きてきたが、どうやらそんなこともないらしい。三玖の発言を聞いている以上その後何が起きたかも察しているだろうし、ポジション的にはかなり深いところにいる気がする。

 次に三玖。助けられたようで、その実色々と複雑になっただけだった。今になって思えば、いっそあそこで全部放り投げていた方が精神的に楽だったのではなかろうか。信頼関係云々とか言っていたが、正直もう胃が痛い。再構築のワンチャンスに賭けてみた方がマシだった説すら俺の脳内に浮上している。

 そして一花。おそらく二乃とのことは知らないから、そのあたりの事実関係をどう誤魔化すかに全てがかかっている。だが、ぶっちゃけ自信がない。どこかでミスをする気がしてならないのだ。

 ついでに言うなら、二乃も三玖も一花のことは知らないから、ここで情報の互換性を断てるならそれが一番だった。もういい。お腹いっぱいだ。これ以上厄介ごとが増えるのはごめん被る。

 以上を踏まえて、俺が一花に対しどんな弁明をすべきか。その結論は。

 

「付き合ってはいない」

「え」

「その場の流れだった」

「え」

「どうしようもなかった」

 

 鳩が豆鉄砲食らったような顔……と言われてもぱっと理解出来るものなのだろうかと人生のうちで再三考えてきたが、今の一花の顔がそれに該当することは想像に難くない。予想だにしない答えだったのだろう。

 

「え?」

「聞き直されても、同じことしか言えないが」

「ええ?」

「いや、だからその、若気の至りというか……」

「…………」

 

 絶句、である。ここまで気持ちよく黙られると、なんだか一周まわって心に余裕が出来てきた。下手な嘘で自身を窮地に追い込むくらいなら、いっそこれくらいあけっぴろげにしてしまえばよかったのだ。なお、この捨身戦法は後のことを考えていないからこそ出来るものであって、建設的かそうでないかと問われれば笑顔で「そんなわけねえだろ」と吐き捨てなければならない程にすてばちだ。

 

「せ、性に奔放なんだね」

「はっきり言ってくれ」

「ちょっと最低……」

 

 だろうなーと頷く。当の俺とて同一の見解を示しているのだ。状況は地獄めいて複雑で、もはや何もかも収拾がつかない。勘弁してくれよと匙を放り投げたくなる気持ちでいっぱいなんだ。

 けれどそうすると当初の注文である『姉妹そろって全員卒業』までたどり着ける可能性が格段に低くなるため、この土壇場でどうにか踏み留まるのは必須。諦めるには、まだ少し早いように思う。

 

「……で、ものは相談なんだが」

「なに?」

「その、今後も家庭教師を続けるにあたって、今回のあれこれはどうか見なかったことに……」

「……ふーん」

 

 手を顎から唇のラインに添えて、半目でこちらを見てくる一花。その様は何かを検討しているようであって、悪い予感から思わず右脚を一歩分後ずさりさせた。

 我ながら情けないことを言っているのは重々承知だが、いかんせんこれくらいしか打てる手立てがない。どうにか情報漏出に歯止めをかけないと、対応事象が増えすぎて比喩抜きで死んでしまう。それはまずい。

 だから、五つ子の中ではかなり話が通じる方の一花の良識に全てをぶん投げざるを得ない。これが最適解だということに眩暈がするが、もはやこれ以外に頼める手段がないので腹をくくろう。後生だ。

 

「ねえ、フータロー君」

「なんだ」

 

 にこやかな顔で、一花は。

 

「……タダで、とは言わないよね?」

 

 なんて一言を告げた。

 まあ、予想できたことだ。対人関係において培ったアドバンテージを口約束で投げ捨てる人間というのは、きっとそう多くはない。

 だからおそらく、俺がここで何かしらの代償を支払うことにより、利益の釣り合いをとるのだろう。それで済むのなら可愛いもので、今後のリスクを考えるならこれは限りなく必要な犠牲だと断言できる。

 問題は要求内容がどんなものになるかだったりもするのだが、こと一花において必要以上に無茶なことは起こらないだろう。そのあたりは信用が出来た。

 とにかく、時間なり金銭なりで解決できるのならそれに越したことはない。襲い来る脅威をマネジメントするという観点から見れば、ここが一大ターニングポイントであることは疑いようもないのだった。

 

「……出来ることなら」

「じゃあ――」

 

 さて、どう転ぶか。なんにせよ、俺に選択肢なんてないのだが。



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うらはらちぇいす②

「…………」

「歌わないの?」

「いい……」

「そう?」

 

 元来た道を戻るようにして、俺と一花は集合場所にしていたカラオケ屋に入店していた。イマイチ状況が飲み込めていないが、ひとまずはじっとしていれば良さそうだ。

 曲目を選択する機械……確かデンモクと言うのだったか。一花はそれを器用に操って、いくつかの曲を予約していく。流行にはさっぱりな人間なのでそれらがどの程度の人気を誇るものなのか知る由もないが、そんな俺の疑問をよそに一花は続けざまに何曲か熱唱してみせて、その間に俺はなんとなく近くに置いてあったマラカスを振っていた。我ながら何をしているのか謎である。

 ドリンクバーから持ってきたグラスに珠のような水滴が浮かび上がっている。少なくとも三十分以上は彼女のオンリーショウに付き合っているが、時間をかければかけるほど、今やっていることの意味不明さが際立った。特に説明もないまま店に来て、特に説明もないまま歌いだしたのだから無理もないことだ。

 マラカスを持った腕を規則的に振りながら、彼女の意図を考える。なんだろう、ここの支払いを俺に任せる……とかだろうか。この頃は姉妹の生活費を稼ぐために必死でストレスが溜まっているだろうし、その解消のために。

 有り得なくはないように思う。節制を求められる環境下にあって、娯楽に興じる余裕も少ないだろうし。ただでさえ長姉としての振る舞いを自身に義務付けているような奴だから、妹に泣きつくのはためらいそうだ。そこの溝を俺で埋めるというのは考え方としては多いにアリだし、理に適う。丁度いい部外者としての役割だ。

 ……が。

 秘密の代価として支払うものがこれだけというのは流石に安すぎる気がする。人生一発終了レベルの爆弾なのだから、もっと上手い活用法なんていくらでもあるはずなのだ。確かに一花は馬鹿かもしれないが、そこまで頭が回らない奴だとは思わない。これではいくらなんでも手札の切り方が下手くそ過ぎやしないだろうか。

 これが俺の深読みであるのが一番なのだが、まだ何か裏がある気がしてならない。女の強かさをここ最近身に染みて感じているせいで、世の事象を素直に納得できなくなってしまった。

 

「ふー、歌った歌った」

 

 手で作った団扇で自らをぱたぱたあおぎながら備え付けのソファにぼすっと腰を下ろした一花は、そのままの勢いで氷がずいぶんと溶けだしてしまったジュースをあおる。額にはうっすらと汗が浮かんでいるようでもあった。

 

「どうだった?」

「どうだったとはなんだ」

「私の歌がどうだったかってこと」

「……大変お上手でしたね?」

「他人行儀ー」

 

 歌の上手い下手などよく分からないが、これといって不快ではなかったから、たぶん上手い方に属するのだろう。一応褒めたつもりなんだこっちは。

 

「あー、損ねちゃうなー。機嫌損ねちゃうなー」

「すげー上手かった」

「冗談だって」

 

 くすくす笑う彼女の片手にはスマートフォンが握られていて、俺としてはもう気が気でない。お願いだから脅さないで。

 

「……ちなみにフータロー君、私の機嫌を本当に損ねたらどうなると思ってる?」

「今すぐ姉妹に今回の話をあることないこと交えて暴露」

「…………私、そんなに悪い子に見えるかな?」

「見える見えないの問題じゃない。俺は可能性の話をしている」

 

 万が一にも有り得る以上、細心の注意を払わないといけない。下手をすれば家庭教師どうこう言っていられなくなるんだから。

 

「これからずっと私の態度に警戒して接していくの?」

「仕方ないだろ。それ以外に出来ることなんてないし」

「えー、それは息苦しいよ。私も面倒」

「と言われてもなあ……」

「どうするの、そこで鬱憤がたまりにたまって、結果的に機嫌を損ねることになっちゃったら?」

「…………」

 

 酷いデッドロックだ。まるで上手い解決法が見当たらない。どうすりゃいいんだ……と頭を抱えてみたところで、具体的な対応策が生まれてこない。

 

「そんなフータロー君に朗報です」

「なんだ」

「今ならもの凄く簡単にこの状況をやり過ごす方法があります」

「マジか」

「マジです」

「……ちなみにどんな?」

 

 藁にも縋る思いで聞くと、指先でちょいちょいと手招きされる。近寄れということかと勝手に理解して彼女の隣に居場所を移すと、再度の手招き。そこで一瞬考えてから、耳を一花に差し出した。分かりやすい内緒話だ。

 彼女は「んっんー」と歌で酷使した喉を整え直してから、俺の耳元にその唇を近づけて、

 

「…………ふぅ」

 

 と生温かい吐息を一かけ。これにはさしもの俺も反射的に跳び上がる。「うぁ?!」みたいな情けない声をあげながら。

 

「え? え? どういうことだこれ?」

「いたずら」

「おま……シチュエーションを考えろシチュエーションを」

「ごめんって。ほらもう一回」

「頼むぞまったく……」

 

 こんなところで茶目っ気を出されても対処出来ない。神経をかなり尖らせていたので、背中がめちゃくちゃぞくぞくする。

 というか、本当にそんな方法があるんだろうか。解決ではなくやり過ごすという言い方がミソなのだろうが、どう頑張っても俺の頭では思いつかない。女子特有の観点とか、そういった角度から切り込むのか?

 疑問符を浮かべながらももう一度耳を貸す。なんにせよ、聞かないことには始まらない。

 

「……あのね」

「おう」

「……フータロー君も私の秘密を握っちゃえばいいんだよ」

「……?」

 

 耳元でぽしょぽしょ呟かれた内容を理解するまでには、思いのほか長くの時間を要した。だって、どう考えてもそのやり方を選ぶ益が一花にはない。総合的に考えれば、俺の一人勝ちになってしまうんじゃないのか。

 

「意味が分からん」

 

 向かい合って問う。どういうこっちゃと。

 

「お互いが弱みを握り合えば、一周して何しても平気になるでしょ?」

「いや、その理屈は分かる。問題なのはお前にメリットがなさすぎることだ」

「…………意外にあるんだよねそれが」

「……どういう意味だ?」

「こっちの話こっちの話」

 

 そう言われれば首を傾げる以外に俺が取れる行動はなくなる。とにかく、自身に分の悪い取引を望んでしてくれるというのなら、俺にとっては願ったり叶ったりだが……。

 

「あの、一花……?」

「どうかした?」

「いや、ハンガーあるんだからドアに上着かけなくてもよくないか……?」

「ううん、これでいいの。むしろこれじゃなきゃダメ」

「……ほう」

 

 おあつらえ向きの密室。唯一ののぞき窓は衣類でシャット。内緒話のスケールがどんどん大きくなっていくことからも分かる通り、教えてくれる秘密の内容がとんでもないのだろう。俺はそれを胸に秘めて、今後は前のように健全な付き合いを心掛けるだけ。憂慮の全ては今ここで断ち切られるって寸法だ。一花には感謝してもしきれない。……だけどなぜだろう。先ほどから、悪い予感が溢れて止まらないのは。

 

「あの、一花……?」

「どうかした?」

「いや、暑いんだったら冷房入れれば良くないか……?」

「ううん、これでいいの。むしろこれじゃなきゃダメ」

「……ほう」

 

 妙に脱衣している気がした。いくら暑いからって、靴下まで脱ぐことはなかろうに。節約生活の影響か、こんなところでまで電気代を気にしてしまっているようで微笑ましい。……微笑ましいか? 本当かそれ?

 頬は妙に上気しているし、呼吸は荒いし、俺はこんな感じの女の子に非常に見覚えがあるんだが……。

 

「あの、一花さん……?」

「どうかした?」

「なんで下着姿に……?」

「え?」

「え?」

「だって、着たままじゃ面倒でしょ?」

「え?」

「三玖とは着たまましたみたいだけど」

「え?」

「お姉ちゃんとして、妹に先を越されっぱなしなのもどうかと思うし」

 

 ソファの上をじりじり後退する俺を追い詰めるように、ほぼ裸の一花が一歩ずつこちらににじり寄ってくる。

 やがて俺が後ろに退がれるだけのスペースは消え、後は一花との距離が詰まるだけ。

 

「待て一花。一体何をするつもりだ」

「セッ――」

「――やっぱ言うな。早まるな。話せばきっともっといい妥協点があるはずだから」

「……もう、しょうがないなぁ」

「ふぅ、見立て通りやっぱりお前は話が分かる奴――」

「フータロー君が耐えられたら、考えようね」

 

 オレンジジュースだろうか、この味は。目線で机の上を追うと、ちょうどそんな感じの色をした液体が置かれていたので、俺の味覚もまだまだ捨てたものではないらしい。

 で、問題なのは、その味をどこから感じているかなのだが。

 

「…………」

 

 しかし自身の口許を確認しようにも、目の前に人間大の障害物があるためどうにもならない。というか実際に人間が立ちふさがっている。覆いかぶさっている。俺の胸部にはこれまた覚えのある柔らかな感触が押し付けられていて、機能不全に陥った口の代わりに鼻で息を吸うと、風呂場で感じるような甘い香りがした。

 とっくに理解できてしまっている現状を知らんぷりで誤魔化すべく必死になっていると、上の前歯あたりからこつっという衝撃が響いた。これは知らない感覚で、思考が一気に現実に引き戻される。

 

「……下手くそだね、私」

 

 眼前の一花が気まずそうに笑い、俺からちょっとだけ離れる。彼女の右手は口許を覆っていて、今の一瞬に何が起きたかを薄ぼんやりと把握した。

 

「…………醒めたか?」

 

 たぶん、歯が当たったんだと思う。流石は大理石を超えたモース硬度。暴走した人間に自我を取り戻させることくらいなんてことない。

 

「なんか、ごめん……」

「いや、謝られても……」

 

 なんだか超絶気まずい空気が流れている。情動を支えるには最低限のテクニックが要るんだなあとどうでもいい発見を得て、肌面積が大きすぎる一花から目を離した。長時間眺めているのは体に毒だ。

 俺の反応を見て、一花は腕で自分の上半身を掻き抱いて、ちょっと恥じらってみせた。女性とは恥じらいの生き物だったなあと肝心なことを思い出す。どうにも俺の周りの女子はスタンダードではないらしいので、徐々に俺の感性がメインストリームから逸れていっている気がしないでもなかった。

 

「…………これで十分だろ、共有する秘密。キス下手くそって。黙っておくから、そっちも頼む」

「うん……」

 

 重っ苦しい空気感から脱しようと努めて、手持無沙汰な右手で未だくすぐったさが抜けない耳を掻く。次いで立ち上がってかけっぱなしになっている一花の上着を取り、乱雑な手つきで彼女に羽織らせた。

 

「ごめん……」

「だから謝られてもどうしようもないんだっての……」

「いつも余裕ある風に気取ってるのにこれはちょっとね……」

「弁解は後から聞いてやるからとにかく今は服を着ろ。目のやり場に困る」

 

 しかし一花は三角座りのままどんどん小さくなっていくばかりで、一向に行動に移らなかった。なんというかもう、見ていて痛々しいばかり。

 俺の感性ではよく分からないが、世間一般的にキスの技能は必須だったりするのだろうか。ここまで凹むってことは、実際そうでもないと説明がつかないし。二乃も三玖も、まあ取り立てて下手だったわけでもないし。

 でも……なあ?

 

「そんなに落ち込むことか?」

「もうちょっと上手く出来ると思ってたの」

 

 そう言われようにも、歯が当たってしまった事実は消えてくれないし、ここはどうにか切り替えてやっていくしか選択肢がないと思うのだが、気持ち的にそう簡単には割り切れなかったりするのだろうか。理想と現実との乖離が思った以上に大きくて、そのギャップに打ちひしがれているとか。

 でも、それは彼女個人の問題だから、外野の俺がどうこうしてやれることじゃないし……。そもそもまた女の子から強襲されて、いよいよ誰を信じればいいんだよ状態に陥ってるし……。

 

「ねえ、フータロー君」

「なんだ」

「……三玖はどんな感じだった?」

「…………」

 

 あいつはもう、キスがどうとかいったレベルではなかった。異常な暴走っぷりだったし。……かなり気持ちよかったのは認めるけど。

 だからといって、それを馬鹿正直に教えて誰が得をするのか。俺は言い損だし、一花は傷心が加速するだけでは……?

 なら、ここは優しい嘘で誤魔化すのが一番正しい選択なのではないかとさえ思う。拗らせるのは勘弁願いたい。

 

「似たようなもんだったよ」

「嘘だ」

「…………」

「あ、本当に嘘ついてたんだ」

「なぜここでひっかけを……」

「そっか。三玖は上手だったんだ」

 

 更に一花が小さくなった。自信とか尊厳とか、人が生き抜いていくうえで大切なものが根こそぎ破綻していっている感じだ。さっきまでとは別の意味で見ていられない。

 

「恥ずかし……」

「キスの巧拙とか人生においてそこまで重要じゃないだろ」

「でも、今後フータロー君はさ、私がみんなに対してお姉さんっぽい言動をするたび、『でもこいつはキス下手なんだな』って思うじゃない」

「それがなんなんだよ……」

「フータロー君が行き詰ったときに『困ったらお姉さんに相談するんだぞ』って言っても、『そんなこと言ってるけどこいつはキス下手なんだよな』って思うんでしょ」

「被害妄想すげーなお前」

「でも、心のどこかでちょっとは考えるじゃない。キス下手なのに強がってるんだなあって」

「それは悪いことなのか……?」

「悪いよ……居心地が」

 

 俺の評価なんかで何が変わるとも思えないが、一花的に俺に舐められっぱなしなのは癇に障るらしい。まったくもって謎な価値観だが、この落ち込みようを見ると、彼女にとってはものすごく大事なことなのだろう。

 

「三玖と私が話してるところを見たフータロー君は、これから絶対考えるようになるんだよ?『あ、上手い奴と下手な奴だ』って」

「お前の中で俺がどんな認識を受けてるのか分からなくなってきた」

 

 どんだけ根が深いんだこれ。正直ちょっと怖くなってきた。一花のキスに対する執着は異常だ。

 

「……フータロー君はさ、きっと上手なんだよね」

「え、そこに飛び火すんの?」

「三玖と上手なキスしたんでしょ? なら、私よりは絶対に上じゃない」

「……確かに歯は当たらないかもしれんが」

「ほら、そうやっていじめる。キスマウント取ってくる」

「なんだよそれ……」

 

 どんどん小さくなる一花がややむくれた。情けなさが憤りに変換されてきたようだ。おかげか八つ当たり期に入ってしまっている。

 

「……ねえ、フータロー君」

「なんだよ」

「一つお願い聞いて」

「それで解決するならこの際聞いてやるよ……」

「…………やり直し」

「は?」

「もう一回、やり直し、させて」

「いや、いやいやいや。それとこれとは話が違うだろ」

「本当にそれだけだから。私を助けると思って、どうかもう一回だけ」

「……それが上手くいけばさっきの面倒くさいいじけは終わるのか?」

「終わる。約束する」

「…………本当に一回だけか?」

「もちろん」

「………………金輪際こういうのはなしだからな」

 

 なんだか上手く流されてしまった気がするが、あんな面倒な状態の一花をこの先慰める手間を思えば、ちょっとちゅっとやって納得してもらった方が早いと自己完結してしまった。生憎というか幸運というか、同じ体のつくりをした連中で事前練習はばっちりなので、俺が上手いことリードしてやればすぐ終わる。俺もこんなことを考える人間になってしまったんだなぁと変わり果てた自分の姿に悲しくなるが、背に腹は代えられまい。

 一花と目線を合わせるべくソファに両膝をついて、はーっと大きく息を吐く、大義のために短期的な犠牲は止むを得ないのだと必死に自分を説得しながら。

 

「……とりあえず目を瞑れ」

「……ん」

「……高さの都合的に、ちょっと上向いて」

「……ん」

「……あとはもうちょい力抜け。またぶつかるぞ」

「……ん」

 

 いざ行程を口に出していくと、自分たちが今めちゃくちゃ恥ずかしいことをしているというのが分かってしまった。これまでは行為の中の流れで口づけるか、そうでなければ一方的に奪われるかの二択だったせいで、割と心に余裕がある状態、つまりは理性的な状態でこの状況を俯瞰してしまうと、これがなかなかにキツイ。過去俺はとんでもないことをしていたのだというのが分かってしまうのが、その思いに拍車をかける。

 

「……じゃあぼちぼち行くから覚悟決めとけよ」

「…………ん」

 

 さっき一度唇どうしがくっついているので、それに対しては抵抗感が少ない。守るものが少ないと、人は無敵になれるらしい。とにかくちゃちゃっとやって後は何事もなく帰ろう。それが俺のためだし、ゆくゆくはこいつらのためにもなると信じている。

 

 背に手を当てて、彼女の体をゆっくり引き寄せ、口づけた。その瞬間、一花が怯えるようにびくりと体を震わせたがそれは無視。いちいちそういうのに構っていては日が暮れてしまうというか、もう夜だから朝が来てしまう。

 先ほど感じた仄かに香るオレンジは時間経過のせいか消え去っていて、そこにあるのは素で少し甘い唾液の味だけ。このなんとも言えない風味をまた感じることになってしまったのは遺憾としか言えないが、今後のことを考えるなら仕方ない。

 一花は借りてきた猫のように大人しく、俺の舌の動きを緩慢になぞるだけだった。これではまるで俺が二乃に犯されたときの構図を逆転したようで、奇妙過ぎる因果に頭が痛くなってくる。

 というかこれ、一花は下手くそなままじゃないのかという疑問は、そっと胸にしまい込んだ。そんなことを言っていたらもう一回、あと一回と無限にだらだらループしていくのが丸わかりだし、俺が保たない。正直今もかなり恥ずかしいのにこれ以上なんて勘弁被る。

 自分が冷静であるからこそ、この行為の異常性は承知している。ここ最近色々あったせいで俺の中にある心理障壁がずいぶんしょぼくれたものになってしまった。人並みの貞操観念は持ち合わせていたはずだったのに。

 

 それなりの時間唇を触れさせ合って、それなりの量唾液の交換を終えたと判断したので、ゆっくりと彼女から離れる。伝う唾液の橋は見て見ぬふりをすることにした。

 

「お、終わり……?」

「終わり」

 

 なぜか目を瞑ったままで聞いてくる一花。どうも思考と行動がちぐはぐになっている感じがする。

 震える手で何度も口許をぺたぺた触っている様子は、なんだか小動物のようにも思えた。

 

「こ、こんな感じなんだね」

「分かったら今度こそ服着てくれ」

 

 未だに下着のままなので、やっぱり目線を迷わせざるを得ない。もし着衣状態だったとしても、顔をじろじろ見ることが出来たかどうかは謎だけど。

 

「なるほど……」

「なんだよ」

 

 俺の顔と自分の手許とを交互に見比べる一花の一言。一体何に納得したかは不明だし、これと言って聞き立てようとも思わなかった。

 というのも、こういう状態のままで拘泥していると碌な結末を迎えないのが火をみるより明らかだからだ。閉鎖環境は人を充分に狂わせ得る。早急に立ち去らないことには、まーた面倒なことが起きるに違いないのだ。

 



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うらはらちぇいす③

「あの、フータロー君……」

「やめろ。それ以上言うな」

 

 もじもじと内腿を擦り合わせる涙目の一花。全身からはフェロモン的なものが漂っているし、次に口から放たれる言葉がどんな類のものかはやすやすと推測できた。

 こうなってしまうと、もう聞かないか言わせないか以外の対抗手段がない。耳を塞いでも骨振動で聞こえてしまうだろうから、ええいままよと片手で直接彼女の口を押さえにかかる。

 

「私すっごいむらむら……」

「あーーーーー」

 

 カラオケボックスという防音環境を最大限に生かし、彼女の言葉を封殺。がっつり聞こえてしまった気もするが、封殺。

 ここには何もなかったし、俺は何も聞かなかった。それがなにより一番だ。そもそも……なんだ。俺自身、さっきので不覚にも盛り上がりかけているので、ここで下手に一押しされるとまずい。二の舞三の舞まで秒読みだ。

 

「みんなと寝室同じだから最近はなかなか処理出来なくて」

「やめろ。お前の性事情を聞かせるな」

「ごめん、もう無理かも」

「……待て。お願いだから落ち着いてくれ」

「ひ、一人で何とかするから」

 

 明らかに自身の下部に伸びようとしている一花の手を、こちら側で強引に押さえる。何をおっぱじめる気かは知らないが、放置しておいて状況が好転するわけないだろうという自分の直感に従った形だ。

 さっきからずっと熟れた果実のような香りがするし、選択を一つ誤れば頓死する未来が見える。というか当の俺の頭がくらくらしてきている。

 

「なんで止めるの?!」

「知るか。本当ならお前が自制するとこだぞ」

「ほ、ほんとにやめて。おかしくなっちゃう……」

「もうなってんだよ。気付いてくれよ……」

「お腹の中がむずむずするの……」

 

 きっとそれは胃とか腸とか、俺の体内にも備わっている内臓でないのだろうなとは思った。彼女の中で疼いているのはたぶん、生存ではなく繁殖の方に重きを置いた臓器。こっぱずかしいので名前は伏せる。

 

「おい、おいおいおい」

 

 じりじりと俺が後退させられている。どこにそんな力を隠していたのか謎だが、火事場の馬鹿力と言われればそれまでだ。

 このままでは振りほどかれて即大惨事なので、腕力が分散しないようにやや密着して両腕を封じる。俺のしょぼくれた力ではこうでもしないと抑えきれない程になっている。

 近づくことではっきり分かる甘ったるい体臭を嗅がないように呼吸は出来るだけ口で、変な気分にならないように目は逸らしてを徹底し、なんとか絞り出した力で彼女の腕を止める。痣になっても困るので握力に気をつける手間を含めて、かなり神経を削る作業だ。

 で、詰めの甘さに定評のある俺は、ここでもまた寄せ方を間違っていたらしく。

 膝頭にやたらと熱い何かが触れていることに気付くまで、そこそこの時間を要してしまった。

 

「待て。その腰の動きを止めろ」

「ご、ごめ……もう、どうにもならなくて……」

「机の角じゃないんだぞ……」

 

 なおも一花の動きは止まってくれない。変に密着したせいで下半身がまるで動かないし、手でなんとかしようにもそれはもう文字通りの手一杯。俺が対策を練る間にも彼女の前後運動は激しさを増して、口許からは熱い吐息が漏れ出し、位置の都合で俺の頬を容赦なく撫でてくる。

 どこに意識を向けるべきか迷っている間に、一花の頭が俺の肩に収まった。声を堪えるようにシャツの襟を噛んで、時折呻きとも喘ぎとも取れる呼吸音だけが部屋に響いた。

 もうこうなってしまうと、一花の動きがどうこう言っていられる状態にはなかった。自分が何かしでかしそうになるのを堪えるのに精神力の大半を消費してしまい、一花の両の腕が俺の首から背にかけてを絡めとろうとするのに妨害も叶わない。と言うか、気づけば俺が彼女の上半身を引き寄せている。なんだこれ。いつの間にか一花は俺の首を吸っているし、俺は柔らかい感触に思考が飽和しているし、相変わらず小刻みな振動は続いているしで、もう何が何だか分からない。何なんだこれは。

 

「ん……ぅ!」

「おい」

「…………ぁっ」

「…………」

 

 ようやく、振動は収まってくれたけれど。

 強烈な雌臭が、依然空間に漂ったままで。

 痕が残るレベルで強烈な吸引をしてきた一花の唇は、知らぬ間に俺の唇の真ん前にやって来ていて。

 そしてもう、俺の理性のタガもほとんど吹き飛んでいるせいで、抵抗らしい抵抗も出来ず。

 それで後は、まあ流されるままに口づけを受け入れる羽目になるわけだ。

 

「…………んっ」

「…………む、ぅ……っ」

 

 息の吸い方を少しの間だけ忘れて、酸素の回っていない頭で彼女の攻勢に為されるがまま晒され続ける。薄い唇が俺の唇をなぞるたびに背中がぞくぞく震えて、もうまともな思考など帰ってきてはくれなかった。

 少なくとも、今度は歯が当たっていない。それだけは確かだった。

 

 なんとか離れて、一度肺に新鮮な空気を送り込んだ。徐々に酸素が全身に循環して明瞭な思考が戻り始めるが、それを妨害する魔手が二つ。

 俺のへそあたりに伸びた二本の腕が、瞬く間にベルトを外し去った。三玖はもたついていた記憶があるからこれに関しては一花に軍配が上がるのだろうか。

 彼女は浅く荒い呼吸を繰り返しながら俺のズボン以下を引っ張って、既に限界まで怒張していた陰茎を引っ張り出す。その間俺はただその光景を見ているだけで、これといった抵抗をする気にはならなかった。

 なんというかもう、いいかなって。

 一度出さないと、二度と勃起が収まらないんじゃないかとさえ思うし。

 一花は後ろ手で器用にブラのホックを外して、そのたわわに実った果実を重力に任せた。そしてそのまま無造作に俺に近寄って、深い谷間に俺のブツを収める。

 

「あっ、おい、それヤバ……」

「……こういうの、好きかなって」

 

 分厚い胸の肉越しに、両手でじんわりとした刺激が与えられる。正直なところもう少し強くないと理想の快楽には辿りつけそうにないが、それ以上に視覚的な破壊力が大きかった。

 上目遣いに俺を挟み込む一花の様子は、どこに眠っていたかも知らない俺の征服欲を瞬く間に満たしていく。性感以外の攻め手でダメージを負ってしまっている。

 先ほどまでずっとお預け状態だった下半身が、耐えかねてびくんと震える。

 次の瞬間には、大量の白濁液が、勢いよくあたりを汚し散らかしていた。

 備え付けのソファから自分の腹、一花の胸や顔にまで精子が飛び散って、もう収拾がつかなくなっている。

 現実を見て、頭が冷えかけるのも束の間。

 付着した精子を拭うように丁寧に舐めとっていく一花の姿なんて見せられたら、正気になど戻れるはずもなくて。

 

 尿道に残った搾りかすを直接搾り取ろうとしてくる一花に対抗して、こちらの手を彼女の秘所まで伸ばす。ショーツ越しにも洪水が起きているのがはっきり分かって、たまらず指先で邪魔な布をずらし、直に花弁に触れた。

 「ひぅっ!」と反応する一花に構わずすっかり出来上がってしまったそこに中指を差し込んでかき回すと、面白いくらいに彼女の体が跳ね回る。特に役割のない親指で性器上端をなぞると、これまた分かりやすいほど大きな反応が拝めた。

 俺自身、射精したてで余裕がないので、手つきがかなり焦りを孕んだものになっているのが分かった。火傷しそうなくらいに熱くなっている内側を関節の運動でいじくりまわして、彼女の攻めを緩和しようと必死になっている。

 誰かさんが教えてくれた弱点はやっぱり一花にも有効で、そこに触れるたび、溢れる蜜の量と漏れる声の高さが変わる。もはやそこにいつもの落ち着きはなくて、彼女は今現在、快楽の奴隷になってしまっている。

 だけどそれは、一花に限った話ではなかった。

 俺が攻勢を強めるたび、まるで意趣返しのように彼女も巧みに舌を動かして、俺から一滴でも多く絞ろうとする。

 そのせいで、さっき出したばかりなのに、早くも俺は二射目の用意が着々と進んでいた。

 

「も、もうちょいゆっくり……」

 

 俺の嘆願は、鈴口を強く吸うことで否定を示される。こうなればもう、みっともない我慢比べを始めるしかない。絶頂を迎えればこちらに干渉する余力も消え去るだろうから、手早く彼女にイってもらう。

 卑怯臭いがやむなしだと乳房の方も弄んで、膣にはさっきよりもずっと強い刺激を加える。指の本数を増やし、いじくるスピードを増し、その他にも出来るだけの小細工でもって、一気に攻め立てる。

 俺が策を弄するたびに、一花もやれるだけやり返してきた。今の体勢から届き得る性感帯は完全網羅される勢いで何かしらの被害を受けたし、吸い上げる圧はこのままじゃ鬱血するのではというところにまで達している。

 だがしかし、軍配が上がったのは、俺の方。

 

「……えっち」

「お前もだろ……」

 

 くてっと俺に倒れ掛かってきた一花は息も絶え絶えに恨めしそうな視線を向けてくる。さすがに非童貞の俺と処女の一花とでは、一日の長がある分俺の方が有利だったらしい。

 彼女の体は今現在も小刻みに振動していて、一連の流れが相当に響いているのが分かった。

 

 ここで、俺の眠れる嗜虐心が、ゆっくりと心の奥から顔を覗かせてきた。

 この一花を更にいじったらどうなるのだろうか、と。

 

「ちょっ、フータロー君?!」

「後学のために」

「なにそれぇ……!」

 

 片手で脇の下から背中にかけてをがっちりホールドし、既に液が滴りそうなほどびしょ濡れになっている園を、遠慮なく指先でかき回していく。

 最初こそ抗議の声をあげていた一花だったが、途中からそんな余力すらなくなったのか、俺の上半身に縋りつくようにして襲い来る快楽の波を耐えるだけになってしまった。

 何度も何度も身を震わせて、何度も何度も蜜を溢れさせる彼女の肉体は、手を加えるごとに感度が上がっていくようだった。肉ヒダは本人の意思に逆らうように俺の指を絡めとって離さず、その行為を奨励するかのように、潤滑油は止まることを知らない。

 やっていることは酷く動物的で野蛮なのに、そこからは生物本来の美しさのようなものを感じてしまって、俺もやめる踏ん切りがつかなくなっていた。元から知的好奇心が高い方だったというのもあって、この先の景色をどうにか拝みたくなってしまっている。

 だがそれも、流石に命の危険を感じてしまうと止まらざるを得ない。

 

「…………フータロー君?」

「悪ノリが過ぎた」

 

 頸動脈のあたりを犬歯でなぞられ、ようやく忘我から帰ってくる。まさか本気なわけはないだろうが、俺としてもやり過ぎてしまった感は否めない。

 

「……えいっ」

「…………」

 

 首を甘噛みされる。そこはさっき吸われたところと被るから、本格的に変な痕が残っているかもしれない。鏡で確認しないことには分からないが。

 

「本気で噛んじゃおっかな」

「ええ……」

 

 同一個所を今度は舌で舐められて、いつぶりかの脅しにあう。そんなこと有り得ないと分かっていても、さっきの自分の行為を省みれば完全にナシだとは言い切れず、体を強張らせることしか出来ない。

 

「ねえ、フータロー君」

「なんだよ……」

「この状況をやり過ごすいい方法があるんだけど、知りたい?」

「…………悪い一花。俺今確かに思ったわ。こんなに余裕綽々な感じだけどそういやこの女キスすげー下手くそだったなーって」

「それはもう忘れて!」

「はいはい。……で、方法とやらは?」

「……いや、もうここまで来たら誠意を見せて最後までしてもらえたらなって」

 

 逆にここで解散する方が無理筋だろうという反論は喉の奥で押しとどめて、オーケーサインの代わりに彼女をソファに押し倒す。体液がそこら中に飛び散っているから、帰る前にちゃんと片していかなきゃいけないなこれ……。

 

「腰浮かせてくれ」

 

 なんでかずっと履かせっぱなしだったショーツをするりと脱がせる。どう考えてもさっきまでしていたことの方がえげつないのに、妙にエロいことをしている気分になって、陰茎が一度大きく脈打った。

 

「行くぞ」

「ちょ、ちょっと待って。心の準備がまだ……」

「……じゃあほら、ちょっと体起こせ」

 

 手を貸して対面する姿勢を作り、勢いでキスを交わす。どこかで口づけにはストレスの緩和作用がある的なことが言われていたから、これでいいだろう。

 彼女の体が弛緩しきった頃合いを見計らって、するすると挿入する。自分の避妊に対する意識が日に日に薄れていって恐ろしいが、いつか元の清く正しい俺が帰ってくると信じるしかない。明日の俺に任せよう、そういうのは。

 結局、何人たりとも性愛の前には無力。抗うだけ無駄なのだ。……体よく正当化しているだけだというのは俺も良く分かっているけれど、そう思うしかない。この後の関係がこじれると分かっていても、今ここで一花を抱かないのは、それはそれで男としての怠慢というか、なんというか。…………いや、マジで最低な言い訳に過ぎないとは分かっているんだけど。

 

 でも、でもなぁ……。

 

「……っ、ん……!」

 

 こうやって、痛みなり快感なりと戦っている一花の姿を見て、しかもその感情を与えている大本が俺だと知っていて、どうにも悪い気はしないというか、満たされている気持ちになるというか。

 拙く絡む舌も、吸いつくような膣壁の感触も、全てが俺に向けられているものな以上、受け取らないわけにはいかないというか。

 

「これ、すご……」

「俺が保たないからもっと力抜いてくれ……」

「そ、そうはいっても、ちょっと、良すぎて……」

「言葉攻めもやめてくれ。こっちの余裕が消える」

「いや、でも、好きな男の子と生えっちしてるんだし」

「やめろやめろやめろ。そういうのは後で言え。こういうとこで女優発揮すんな」

「フータロー君の、いいとこ全部あたってて、おかしくなっちゃう……」

「…………」

 

 ――今の沈黙の間に何が起こったかは秘すとして、今度は一花を寝そべらせ、俺が一方的に突く体位をとった。さすがにここまでくると一発では収まりそうもないので、枯れるまで付き合ってもらう。十代の性欲全ツッパだ。

 

「うわ、繋がってるとこ、泡立って……」

「だから言わないでくれ。耐久力が落ちるんだよ」

「でも、全部初めてで……」

「ほんと黙っててくれ。もう何もしゃべんな」

「…………好き」

「…………」

「…………好き」

「…………」

「…………大好き」

「…………………………………………」

 

 ――――今のバカ長い沈黙の間に俺がどれだけ気持ちいい目にあったかは一生秘すとして、もうこうなったら俺が主導権を握ろうなんて浅はかだったのだと悟り、彼女に跨ってもらう体勢をとった。ここまで来てしまうとこれが一番いいんじゃないかと思う。

 

「これ、フータロー君のこと犯してるみたい……」

「お前さっきから楽しんでるよな? そうだよな?」

「だって、何か言うたびびくって動くから、おかしくって」

「俺をなんだと……」

「でも、好きなのは本当だからね」

「…………」

「ほら、またびくってした」

「おちょくりやがって……」

「でも、本当に好きだもん」

「俺の反応楽しんでるだけだろ」

「そういう単純なところも好き」

「言わせておけば……」

「追いつめられると赤くなるのも好き」

「…………」

「黙っちゃうのももちろん好きだよ」

「…………ごめん、これ以上は死ぬ。マジで勘弁してくれ」

「……なら、自分で黙らせればいいよ」

 

 近づいてきた顔を引っ張り寄せて、素直に要求に従う。やっぱり彼女の舌技は妙に拙くて、だけど今はそれすら俺をおちょくるためのきっかけに思えてしまった。下半身からは規則的に快感が襲ってきて、今日何度目になるかも分からない射精まで秒読みだ。

 俺が達するちょっとだけ前に一花が限界を迎えたようで、その収縮運動に絞られる形で、俺の精が放たれる。脈打つ俺に合わせるみたいに彼女の膣も振動していて、比喩抜きに一滴残らず全て奪われた。

 そのままなのはちょっとだけ悔しくて、一花の余裕を崩さんと腰を振ると、甘ったるい喘ぎが場に満ちた。マイクでも近づけてやればもっと効き目があるかなと思ったが、それはさすがに尊厳に関わりそうなのでやめる。俺が常識派であることに感謝して、これから生活して欲しい。本当の常識派は未交際の女性と性交渉しないという真っ当な指摘は受け付けないように今後脳を改造しておこう。

 

 それからはまあ、特に言うこともなかった。カラオケボックスの時間制限いっぱいまで持て余した若い肉体をぶつけ合って、日ごろのフラストレーションを解消していくだけ。

 一花の聞くに堪えないおちょくりをどうにか我慢しながら、快楽に身を任せ続けるだけ。

 割り切ってしまえば楽なもので、天上の快楽を享受する時間は意外に早く過ぎ去った。時間を告げる電話で一花が延長を要求しようとしたときは全力で受話器をひったくったが、それ以外は語ることもない。ただただ気持ちよかったし、ただただ満たされていた。後顧の憂いなどひとかけらもなかった。

 

 …………だからこそ、夜風によって冷やされた頭が、とんでもない勢いで俺を叱責し始めるのだが。

 

「フータロー君、えっちするときキャラ変わるね」

「言わないでくれ……」

 

 横に並び歩く一花が、さっきまでの俺の絶倫っぷりをからかってくる。俺自身、あんな人格を普段はどこに眠らせているかが不思議でしょうがない。

 しかし、いよいよやっちまった感がやばい。五つ子のうち三人と肉体関係を結ぶとか、我ながらどういう了見だこれ。率にして60%。ぱっと見で分かる過半数、上から順に一、二、三と来て、もうどうするんだこれって感じ。

 この絶望感を毎度のこと味わっているが、行為のただなかにいる俺は快楽の追求者になってしまっているので、後悔しようにもしきれない。せめて一回で止まっておけよ頼むから。……まあ、一回も十回も、セックスしているという観点で見れば五十歩百歩だろうが。

 

「でも、うん……うん。すごかったね」

「やめろ。蒸し返すな。あれは今日限りの夢だ」

「絶対今晩夢にみると思うな」

「申告するな」

「まだお腹の奥があったかいし」

「気のせいだ」

 

 確かに俺もまだ全身が熱いし、二乃とした時も、三玖とした時も、がっつり夢に出てきたけど。

 

「……改めて言うけどさ、あれはほんとだからね」

「…………勘弁してくれ」

「む、女の子の告白をそんな風に扱うんだ。良いよ。君がそれなら、自爆覚悟で三玖に今日のこと教えるから。すっごく情熱的に求められたって」

「何一つ嘘がないから余計厄介だ。やめてくれ。……別に嫌なわけじゃないけど、とにかく今は勉強に集中する時期だろ、お前らは特に」

「恋愛してる場合じゃないと」

「そうだ」

「えっちはするのに?」

「揚げ足を取るな」

「……じゃあ、卒業した後はどうなるの?」

「……………………知るか、そんな先のこと」

「ふーん……………………」

 

 それっきりにやにや笑いながら黙ってしまった一花を家の途中まで送り届けて、帰宅した。デジャブを恐れてケータイは見なかったが、寝て起きても、特に大きな問題はなかった。…………また、夢に見てしまったことを除けば、だが。

 

 

 

 

「上杉君、今日もお疲れのようですけど大丈夫ですか?」

「……体力不足だ」

 

 昼休み、再び五月に話しかけられた。俺は疲れ切った体をぐでっと机に投げ出して、出来る限りの消耗を抑えている。

 そりゃああれだけ動けば体にガタも来る。当たり前のことだ。

 

「一花も今日はいつも以上にお寝坊さんでしたし、やはりちゃんと休息をとるべきだと思いますよ?」

 

 そいつが疲れている原因はきっとお前が思っているものとは違うぞ……とは言えない。歯車が狂って、率が80%になってしまうかもしれないからだ。色気より食い気な五月に限って、そんなことはないと信じているけれど。

 

「今度の休みは勉強ほどほどにして寝るよ。とにかく、そこまで気遣わなくて大丈夫だ」

「そうでしょうか。……あの、上杉君?」

「なんだよ」

「首のところに赤い痕が見えますが、まさか……」

「いや、違うぞ五月。一旦落ち着いてくれ」

 

 見える。80%が。八割が。五分の四が。それだけはさせまいと、俺は全力で頭を回転させて――

 

「虫刺されですか? 最近多くなってきて嫌ですよね」

「五月」

「はい?」

「お前はどうかそのままでいてくれ」

「上杉君、昨日からちょっと変です」

 

 その声には答えず、俺は次の授業のテキストを取り出す。

 付き合いの中で初めて、こいつが馬鹿で良かったと心の底から思った瞬間だった。

 …………ようやく、俺の家庭教師生活の明日が見えてきたかもしれない。

 



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そうだつさばいぶ①

 唐突だが二択だ。一つの選択肢は『遠回り』、もう一つは『見て見ぬふり』。登校時間を考慮したときに前者は遅刻覚悟になるためちと厳しく、されど後者は著しく成功率が低そうだと考えるだけで分かる。

 俺が何から逃れようとしているのかという問いに関しては、『面倒ごと』の一言で全て片付く。最近しょっちゅう襲ってくる悪い予感というやつが、今日も朝からエンジン全開だ。たまには俺を休ませてくれないものかと毒づいてみても、現実問題として設置型の爆弾が視界に収まっている以上対処しないわけにはいかない。肺を空にする勢いで長く息を吐いて神経を尖らせ、ポケットから取り出した単語帳に意識を預ける。幸いにも向こうはスマホをいじるのに必死なようだから、気づかれないうちに強引に突破するしかないだろう。

 少しでも不自然な動きを見せればこちらを注視されてしまうだろうから、ここは駆け出したい心を必死に殺して普段と変わらぬペースで優雅に歩く。あくまで視線は前に向け、横にあるものにはまるで意識が向いていないとでもいうような涼しい表情を浮かべながら。

 対象との距離が縮まるごとに表情筋が引き攣りだすのが分かったが、それでも限度いっぱいまで平静を貫く。せめて朝くらいは平穏無事な生活を送らせて欲しいのだ。

 そんな俺の願いが神様にでも通じてか、彼女の様子に変化はない。俺が血相を変えて声でもあげるだろうと高を括っていたのではないか。その油断が命取りだぜと心の中でほくそ笑み、目の前を悠々と通り過ぎる。これで俺の勝ちは揺らがないものに変わった。

 だから今急に鳴り出した俺のケータイの着信音は、きっとらいはからのものに違いない。それ以外、誰が該当するというのだ。馬鹿馬鹿しい。

 その場で立ち止まって、ディスプレイに表示された名前を確認する。まあ、なんだ。念のためというか、一応というか。いたずら電話の可能性だってあるのだし、迂闊に行動して良いこともないからな。

 そんな俺の懸念はやっぱり杞憂だったようで、コール音の主はきちんと電話帳に登録された人物だった。これでいたずらの線は消えたなとうっすら笑いながら、通話ボタンに手をかける。

 

「…………もしもし」

「なんで逃げ切れると思ったの?」

 

 自分の声があまりに苦しげ過ぎて驚いた。どうやら想像以上に肉体が絶望しているらしい。いや、確かに、最初から成功率の低い賭けだとは承知していたけれども。

 俺は律義にケータイを通して声を発したが、相手に関してはしょっぱなからそんなのお構いなしで肉声を用いてきた。漢気に溢れすぎていて、俺は今にも泣いてしまいそうだ。

 

「よ、よぉ。今気づいた」

「ふざけてるのかしら」

 

 左手を胸の下に回し、そこを土台のようにして右ひじを乗せる二乃。指先のスマホはもうお役御免なのか、つままれてぶんぶんと左右に揺らされるだけ。

 

「しゅ、集中しててな」

 

 手に持った単語帳を強調する。俺はすっかり勉強に没入してしまっていたから、周りのことになんかなんら意識が移らなかったのだと。

 

「あんたさ」

「なんだ……?」

「困った時に前髪触る癖があるわよね、そんな感じで」

「…………」

 

 言われて気づいたが、俺の右手は無意識のうちに親指と人差し指で前髪をいじくっていたらしい。意識下で制御できるものではないから癖と呼ばれるのだろうが、それにしたってそんな事細かなことを二乃に把握されているとは思っていなかった。故に狼狽し、単語帳を手から取りこぼす。客観的に見て、今の俺は相当に挙動不審だ。

 俺と二乃とのちょうど中間点に落ちたそれを、彼女が先んじて手にした。構図としては、奪い取られるように見えなくもなかったけれど。

 

「はい」

「お、おう。サンキュ」

 

 なんてことなく目の前に差し出され、特に思うこともないまま受け取ろうと手を伸ばす。ありきたりな善意に感謝こそすれ、この場において警戒を払うに足る要素が存在するとは思えなかった。……が、まあ、それが結局のところは俺の大いなる過失で。

 完全に気を抜いていた折にぎゅっと力強く袖を引かれ、つんのめるようにして彼女との距離が意図せずして詰まる。最近よく嗅ぐ匂いがして、状況的な類似点から、これは中野家で使用しているシャンプーの香りなのだなと理解した。身長差がそこそこあるせいで、基本的に俺の鼻の位置はこいつらの頭に寄る。

 そのままの勢いで体が触れあってしまいそうなのを脚力と指先の力とでどうにか踏みとどまり、結果的に二乃が最至近で俺の首元を眺めるような体勢になる。そしてそこには、隠しようもない淫行の痕が消えず残ったままでいて。

 

「昨日すれ違った時にもちらっと見えてたんだけど、これ」

「虫刺されだ」

「そう、最近多いもんね」

「ああ、ほんと多すぎて困ってる」

「で、どんな虫だったの?」

「……蚊とか」

「数字で言うと?」

「…………」

 

 まあそりゃそうだわなと嘆息を挟んだ。こんな分かりやすい弁明にうんうん頷いてくれる奴なんているわけがない。……いや、昨日約一名と遭遇したけども。

 

「教えてよ。あんたと私の仲じゃない」

「なんだその仲……すまん俺が悪かったからやめてくれ無言で腹をさすらないでくれ」

「で、誰?」

「…………言えない」

「三玖?」

「…………」

「一」

「…………」

 

 唐突に口に出された核心を突く数字に全身が硬直する。だがここでボロを出すわけにはいかないとどうにか関係ないように装った。

 

「三」

「…………」

「四」

「…………」

「五」

「…………」

「もっと露骨に反応するかと思ったけど全然ね。で、誰?」

「頼むから勘弁してくれ。これ以上拗らせると高校卒業どころじゃなくなるだろ……」

 

 ローラー戦法で助かった。これといった決まり手はなかったらしい。

 本音で泣き落としにかかるとそれがちょっとだけ響いたようで、二乃の眉が数度ぴくぴくと動いた。俺の本分と彼女の本願とを秤にかけたうえで検討してもらおうという寸法だ。朝から全力で脳みそを回転させているせいで、既にちょっとだけお腹が空いてきた。

 

「……はぁ、仕方ないから今回だけは見なかったことにしてあげる」

「すま……助かる」

 

 謝るのは何かが違う気がして、感謝の方に舵を切った。まだそこまで暑い季節ではないはずなのに、俺の冷汗はまるで引く気配を見せない。

 

「でもあんた、それはどうするのよ? 私以外にも気づく子がいると思うけど」

「……む」

 

 首筋を指さされる。確かにこれが残りっぱなしな以上、誰かに見咎められる可能性は必ずどこかに残り続ける。

 

「それは……困るが」

 

 だからといって、首の肉をこそぎ落としでもしない限り消えることはない痕だ。そしてそんなことをした暁には出血過多で即ゲームオーバーである。頸動脈のパワーを侮ってはいけない。

 

「消し方、教えたげよっか?」

「あるのか、そんなの?」

「女子高生はそういうの詳しいわよ。雑誌とかに特集組まれてるし」

 

 ティーン誌の掲載内容が年を追うごとに過激になっているという話は確かに聞き覚えがある。そんなものを世間の女子高生が知っていると考えると世も末感が目まぐるしく加速していくが、こと今に関しては渡りに船だった。見つかるとやばそうな相手に思い当たる節があり過ぎるためだ。

 

「かなりの力技になるからいったん人目のつかない場所に行きましょ。準備もあるし」

「ああ、頼む」

 

 彼女に連れられ、入り組んだ路地の方に進む。いやあそれにしても、持つべきものは物知りな友人だな!

 

 

 

 

 

 

「……あの、二乃?」

「何よ?」

「リップクリーム塗り直すのはいいから、さっさとその方法ってのを教えてくれよ」

「これもそれに必要な作業なのよ。だからちょっと待ってて」

「あ、そう……?」

 

 鏡と睨めっこしながら入念にメイクを整え直している二乃にやきもきして催促するも、それすら手順の一部だと言われてしまえばそれ以上強く言うことは出来なかった。悪魔的な儀式が始まるわけでもないのだろうが、正直現段階では何が起きるか想像も出来ない。

 

「よし、じゃあ始めるわね」

「お、頼むぞ」

「やりやすいようちょっと上向いてちょうだい」

「こうか?」

「そうそう」

 

 従うと、直後に首をこそばゆい感覚が襲った。ちらと覗き見ればメイク用のパフを使ってファンデーションを塗りこんでいるらしい。なるほど、こうすれば色味をぼやかせるわけだ。男には到底思いつかないし、思いついたところで道具も力量も足りないやり方なので、素直に感服する。

 だが、今俺に対して行われている施術と彼女のメイク直しに何の因果関係があるのかが分からなかった。俺をいじるだけなら、彼女の顔に手を加える必要はないのだから。

 

「はい、鏡」

「おお……大分目立たなくなってる」

「まあざっとこんなところね」

 

 化粧が俺の人生の役に立つ時がくるとは思わなかった。ここは素直に礼を言って学校に――

 

「はい」

「…………なに?」

「だから、はい」

 

 目を瞑って背伸びをしてついでに唇まですぼめて、二乃は俺に何かを乞うてくる。ここは狭い路地で、だから滅多に人が来ることはない。そんなところで、こいつは俺に何を要求しているのか。

 

「感謝は口で伝えるって習わなかった?」

「……マジで助かった。ありがとう」

「感謝は行動で示せとも言うわよね」

「……それに関しては追い追い」

「その二つを組み合わせたときに何をするか、頭いいあんたなら分かるでしょ?」

 

 些か短絡的な結論だと思うんだ、それ。別個の事象として成立すべき事柄だから、強引に一つにまとめたら本来あるべき役割を失ってしまう気がするし。第一、そんな屁理屈をこねて強引に突っ込んだりしたら、場合によっては犯罪沙汰に……。

 

「別にいいじゃない。二度目なんて大したことないでしょ?」

「そういう話はしてないんだよ……」

「……私とあんたがそろって遅刻したりしたら、他の子はどう思うかしらね」

「うっ……」

「ここはさっさと片付けちゃうのがスマートな対応だと思うなぁ」

「…………分かった。分かったからちょっと黙れ」

「あ……」

 

 地獄が連鎖しないように、ここできちんと堰を設けるのだ。そう自分に言い聞かせ、彼女の顎を持ち上げた。すると、みるみるうちに紅潮する二乃の頬。……この状況になっていきなり赤面するとか本当に……その、どうかと思うぞ。うん。今更うぶっぽさを出されたところで、俺はこいつの本性を知っているわけなのだから。……だからわざとらしく震えてみたりちょっと俺の袖に縋ったりする演技程度で、騙されるなんて思わないことだ。マジで。本当に。

 

「んっ……」

「…………ん、む」

 

 二乃の舌が強引に俺の口内に分け入ろうとしたところを強引にシャットアウトする。感謝のキスなんだから、そこに性的な意味合いを帯びさせる必要はないのだ。言うなれば外国式のちょっと派手な挨拶。そのくらいの行為。そう思えば、特に問題はない。

 俺に密着しようとする二乃をどうにかこうにか払いのけて、十秒足らずでお互いの距離を離した。鼻で息を吸うと、さっきまで俺の胸の中に納まっていた彼女の香水がふんわり香る。それでちょっとだけ頭に血が上りかけたが、頬を張って正気を取り戻した。今の間に、何もやましいことなんてなかった。

 

 だけどどうやら、二乃は俺の対応に少なからずの不満があるようで。

 

「…………足りなくない?」

「何がだよ?」

「感謝の気持ち、みたいなの」

「足りてるよ。今も俺の胸の中はお前への感謝でいっぱいだよ」

「でも、それが私には伝わってないわけじゃない。それってどうなの?」

「お前の感受性の問題に俺を巻き込まないでくれ」

「いや、だからね。あんたの感謝で私の中をいっぱいにするとか、そういう方法もあるじゃない」

「ないよ。どういう意味だよ」

「セッ――」

「あーーーーーー」

 

 昨日も似たような方法を用いた気がする。忘れたけど。それにしたって、そんな限界ギリギリの下ネタを言うようなキャラでもないだろうに。この数日の間に、何が彼女を変えてしまったんだ。

 

「いいじゃない。ちょっとくらい」

「良くねえよ。ちょっとってなんだちょっとって」

 

 その行為はちょっととか少しとかで片付けられるものではない。付いてくる副詞はおそらく、がっつりだとか思いっきりだとか、そんなのばかりだ。

 

「高校生なんてみんなお猿さんなんでしょ?」

「全国の高校生に謝れ」

「少なくとも私とあんたはお猿さんだったじゃない」

「蒸し返すな。早く忘れろ」

「あんなにすごいの覚えさせて後は放置するの?」

「お前から襲ってきたんだろうが」

 

 なんともいたちごっこで堂々巡りな感が拭えない。今も着々と始業のベルまでの時間は近づいてきていて、このままで行くと結局そろって遅刻することになってしまいそうだ。

 それは正直困る。疑われる。もっと拗れる。

 そうなってしまえばさらに関係性の修復が困難になるのは明白で、だから俺はこの場で出せる最善策を考えなきゃいけないのだが……。

 

「ねえ」

「なんだよ」

「最近、あんたと話してるだけで濡れるようになっちゃったんだけど」

「そんな自己申告は要らねえよ」

「つまり今も――」

「もう勘弁してくれ……」

 

 こいつのスカートの下で今どんな大災害が起こっているかは知る由もないし、知りたくもない。だって、知ったところで俺にできることなんてないのだから。……いや、本当は一つ知っているけど、それはさすがに……って感じだし。

 二乃は短丈のスカートをぱたぱた振って、十代半ばの瑞々しい太ももを惜しげもなくこちらに晒してくる。まあ、今更太もも程度でなんだよって話だけど。しかしながら、それでもなお視線が引き付けられてしまうのは一体なんなんだろうな……。

 

「この下、気になる?」

「たくし上げるな。さっさと下ろせ」

 

 視線がバレたようで、俺を煽るように二乃がスカートの裾を大きく持ち上げた。咄嗟に目を逸らすも何か白系の布のようなものが見えてしまった気がする。しかしまあ、気のせいだということにしよう。

 彼女は俺の要求に思いのほか従順で、そのままスカートを元に戻した。

 ……そこまでなら、良かったのだが。

 

「待て。下ろすな」

「? あんたが言ったんじゃない」

「スカートは下ろせと言った。だがその下の布に関しては何も触れてない」

「布の下にはこの前触ったじゃない」

「そういう話はしていない」

 

 揚げてもいない足を取られた。ここまでくると完全に屁理屈のレベルで、だから俺はもうどうやって対応して良いのかも分からない。

 それよりも目下一番の問題となっているのは、彼女が意気揚々と自身のショーツをずりおろしにかかっていることだった。お願いだから誰かこの暴走機関車を止めてくれ。

 

「私、自分で思ってたより性欲強かったみたいでね」

「だからそんな自己申告は要らないんだよ……」

「あんたとした時のことを思い出そうとして色々試してみたんだけど」

「聞きたくねえよ……」

「でも、ほら……ね?」

「『……ね?』じゃないんだよ『……ね?』じゃ」

「……指だと、届かないじゃない」

「顔を赤らめるな。その羞恥はもっと早い段階で発動させろ」

 

 もじもじと体をくねらせる二乃に、割とガチなトーンで説教をしそうになる。これが今どきスタンダードな女子高生なのだとしたら、きっとこの国に未来といったものは用意されていないのだろう。というか、用意されていない方がいい。ここらへんで滅んでおく方が長い視点で見たときに有益だとすら言える。

 

「……でも、私にもプライドがあるから、道具には頼りたくなくて」

「捨てちまえそんな誇り」

 

 男子と猥談する口で何を言ってるんだこいつは。守りたいものが全般的におかしいって自覚はないのか。

 

「で、そうなったらもう、あんたに頼るしかないじゃない」

「……馬鹿か?」

「知らなかったの?」

 

 知ってたわ、そういえば。

 

「性欲の処理なんて自分でなんとかしてくれ。他人に頼むようなことじゃないだろ」

「……いいの?」

「何が?」

「私、性欲強いのよ?」

「だから何だよ?」

「大したことない刺激でちまちまやってたら、勉強なんか手につかなくなるわ」

「マジでお前人として……」

「それを、あんたがちょこっと力添えしてくれるだけで満足するって言ってるの。こんなのもうメリットしかないでしょ」

「ガバガバ理論……」

 

 俺のメリットはどこだそれ。……ああ、一応卒業までの障害をはらえるから完全無意味ってわけでもないのか。だけど、論調が無茶苦茶過ぎてどこから突っ込めばいいか分からないというのが正直な感想。それこそ、その行為自体にハマってしまったら全てがご破算ではないか。

 

「分かったら早くズボンを下ろしなさい」

「止めろ。俺はまだ何も理解してない!」

 

 正面突破で俺のベルトに手をかけてくる二乃。生まれながらに強姦の業でも負っているのかこいつは。しかし待って欲しい。今そこに触るのはちょっと……。

 

「……なぁんだ」

「…………」

 

 二乃が意地の悪い笑みを見せる。それはまるで、鬼の首でも取ったようで……。

 

「やっぱり、体の方は正直じゃない」

「仕方ないだろ……」

 

 いつの間にか血液を集めていた海綿体を憎らしく思う。俺の体なんだから、もっと主の意図にそって動いて欲しいものだ。

 二乃は少し盛り上がったそこを、鮮やかに彩った付け爪でカリカリいじりながら、

 

「……いいでしょ、一回だけなら」

 

 なんて、耳元で一言。

 しかし、俺は知っているのだ。『ちょっと』とか、『一回』とか、『これだけ』とか、そういう何かを制限する言葉が最近まともに機能しなくなってしまっていることを。情動に任せて全てをかなぐり捨てるのが当たり前になってしまって、その場において後先を考えられなくなる。そして全部終わって悔いる。馴染みの流れだ。

 だから、俺はもうその類の言葉をすんなり受け入れない。信じない。自分の流されやすさを過小評価しない。二乃の言う通り俺はお猿さんで、だからすぐ誘いに乗ってしまう馬鹿だ。それをきちんと理解した上で、頭をしっかり回してから、胸をちょっぴり張って、俺はこう言い放ってやった。

 

「…………一限には遅れないようにだぞ」

 

 妖しく微笑む二乃の体を建物の外壁に押し当てて、腰だけを俺の方に突き出させる。手をスカートの下に忍ばせると、彼女の申告通り既に出来上がってしまっているのがよくわかった。

 そのままの勢いで辛抱たまらずベルトを外してズボンを下ろし、屹立したブツを彼女の卑裂にあてがって、情趣も風情もないままに強引に挿し入れる。すると彼女の中が俺の訪れを喜ぶみたいに大きくうねって、快楽の波に飲まれないように一度はーっと息を吐いた。

 

「やっぱすっごい……」

「…………」

 

 ペースを乱されるのは御免なので、自分の唇を用いて彼女の発声を完全に封じる。これはただの性欲発散であって、それ以上の意味を持たない淡白な行為なのだと必死に自分に言い聞かせながら。

 絡み合う舌の感触も、下半身を包む圧も、唾液の甘さも、なんてことはない生体の反応。無駄に自分の中で捉え方を増やす必要なんかなく、ただ見たまま感じたままを受け入れるのが一番だ。間違っても、今彼女が乱れているのは俺の前だからだとか、心を許しているが故の行動だとか、そんなことを考える必要性は皆無。拍動が早まっているのは体を動かしているからだし、脳が赤熱しているのは処理する情報が多いからであって、そこに俺と彼女の関与を紐づけるものはない。

 自分を納得させるために色々な論拠を並べ立てていると、ただでさえきつかった締め付けが許容値をはるかに上回った。そうなってしまえばもう、肉体の求めるがままに流されるしかなくて。

 どくどくと彼女の奥に種を注ぎこみながら、徐々に正常化する思考が俺を咎める。またやってしまったのかと。どうしていつも止まれないのかと。

 しかし、そんな俺の反省を許してくれない存在が目の前に一人。

 

「…………まだ、いけるでしょ?」

「~~~~~~ッ」

 

 低G環境で視界がレッドアウトするみたいに、見ている世界が赤く染まっていく感覚があった。そんな殺し文句を言われてしまっては、時計を確認する余裕すら世界のどこかに消え失せてしまって。

 

 

 次に自我を取り戻した時に見たのは、全身を小刻みに震わせながら息を弾ませる二乃の姿だった。どうやら俺はもう、理性のタガを完全に失ってしまったらしいのだ。

 



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そうだつさばいぶ②

 昼休み、俺は屋上で一人膝を抱えて、購買で買ってきたパンをかじっていた。思い返すのは今朝のやらかし。ぼろぼろになってしまった自制と、もう止まらない理性。

 案の定遅刻ギリギリになるまで二乃の体を堪能した俺は体力不足の体をどうにかこうにか学校まで走らせて、気だるい午前の授業を乗り越えたのだった。授業が気だるく感じられたのは、内容がどうこうの話ではないのだが。

 もう、二乃の言葉を一切否定できない。潔く認めよう、俺はお猿さんだって。自分の意思で自分の欲を制御できなくなっているのが空恐ろしい。どうしてしまったのだ俺は。

 確かに思ったのに。家庭教師業務の明日が見えてきたかもしれないって、ほんの少しだけ。それなのに昨日の今日でこの有様では、もう目も当てられない。お願いだから誰か俺を止めてくれ。このままじゃ貞操帯の購入まで視野に入ってきてしまう。

 

「やっちまったなぁ……」

 

 両手で顔を覆って呟く。ここは無人だから悔いたい放題だ。後悔バイキング。後悔と航海がかかっているから語感もいい。……本格的に脳みそがダメになってきた。よりにもよってダジャレに逃げるなんて。

 だけど、そうやって逃避しないことにはどうしようもない。どうしようもなく二乃の体温や息遣いを思い出してしまう。思考リソースを別の場所に割かないと、いよいよもって自分が自分でなくなってしまう。

 

「何をやっちゃったの?」

 

 喉の奥が引き攣った。独り言を聞かれてしまったというのもそうだが、それ以上にその声に聞き覚えがあったから。

 

「隣、座るね?」

 

 ぽすっと真隣に腰を下ろす女生徒。首に吊るしたヘッドフォンのおかげで、そこまで注視しなくてもこいつの名前は言い当てられる。

 

「なんだよ三玖」

「フータローが屋上行くのが見えたから、なんとなくついて行こうかなって」

「そうかい」

 

 横で三玖が弁当の包みを開けて、端の卵焼きをつついた。今日もまた、二乃の手作りだろうか。

 

「……欲しいの?」

「いや、いい。ちょっと気になっただけだ」

「ふーん」

 

 ぱくぱくと弁当を食い進める三玖。特にこれといった会話はないが、この前のことがあるのでやっぱりどうしても気まずさは残る。何を話してもどこかで何かに引っかかってしまいそうだ。

 高所だからか、風がある。今は俺の座っている方が風下になっていて、そのせいで弁当のおかずの匂いが香ってきた。それはまだ食欲をそそられるだけだから良かったんだけど、問題は彼女の甘い髪の匂いまで風が運んでくることで……。

 今朝嗅いだばかりのシャンプーの匂いに、一瞬目の前がくらついた。感覚は結び付くもののようで、どうしてもその匂いを嗅いだ時に見ていたものや聞いていたことを容赦なく呼び覚ましてくるらしい。だから俺の脳内には、今朝の二乃との秘め事が再展開されてしまって。

 顔が赤くなるのが分かる。それを三玖に気取られないように下を向くと、どうやらそれが逆に作用して心配されてしまった。

 

「どうしたの?」

「なんでもない……」

「本当に?」

「ああ、なんにもない……」

 

 俺と同じ角度に顔を傾け、こちらを覗き見てくる三玖。良い匂いがするから、もう少し遠ざかって欲しい。

 

「ねえ、フータロー」

「ん?」

「フータローって女装趣味とかある?」

「ないけど。どうしたいきなり?」

「いや、それなら大丈夫」

「…………?」

 

 突飛な質問に、頭上にクエスチョンマークを大量展開しながら対応する。どの角度から切り込めば、そんな話題を突っ込むことになるのだろうか。第一、俺の懐事情的に、そんなことをしていられるほどの余裕はないのに。

 

「私、全然メイクとかしないから、コスメにはあんまり詳しくないんだけどね」

「こすめ……?」

「化粧品のこと。でもほら、フータローも知っての通り五姉妹だから、たまに実験台になったりもするの」

「お、おお」

「でね」

 

 つつーっと伸びてきた三玖の右手人差し指が俺の上唇を撫でる。何事かとお尻一個分体を後ろに退かせると、慄く俺に対して、三玖が優しい声音で諭すように話しかけてきた。

 

「二乃が使ってるリップには、ラメが入ってるの」

「ラメって、あのキラキラ光る……?」

「そう、こういうのね」

「…………」

 

 こんなところに分かりやすい例がありましたとでも言わんばかりに、三玖は俺の唇を拭った指の腹を見せてきた。……あら不思議、そこには太陽光を受けて綺麗に光る物質が。

 

「フータロー、二乃にリップ貸してもらったんだね」

「あ、ああ。今にも唇が裂けそうで」

「うん」

 

 三玖はにこやかな微笑みを崩さないままで、俺のほっぺたをつねってきた。

 

「そんなことあるわけないよね?」

「…………」

「二乃、今日は一人だけ朝早く出ていったの。やることがあるからって」

「…………」

「……ナニをしてたんだろうね?」

「…………」

「ね?」

「……………………」

 

 目敏すぎる。誰がこんなのに気付くんだ。当の俺ですらまるで分からなかったってのに。

 それにしたって絶体絶命。この場をどう誤魔化すかで今後の命運が別れてしまいそうだ。

 

「……これはその、事故で」

「どんな事故?」

「あ、あいつが倒れ掛かってきて」

「それでたまたま?」

「ああ」

「……ふーん」

 

 俺の苦しい弁明を訝しむように、疑わし気な視線をこちらに向けて来る三玖。騙せるなんて思っていないが、もし上手いこと勘違いしてくれるなら御の字だ。

 

「ふーん……」

「おい、三玖……?」

 

 いつの間にか、三玖の見ている場所は唇よりも低い位置に。そしてそこには……。

 

「たまたまで首を吸っちゃうんだ。すごいね」

「…………」

 

 巧妙に隠してもらったものの、未だに接近されるときつい。三玖はそこにある違和感も看破したようで、また人差し指ですくって、手についた粉末をぼんやりと見ていた。

 

「隠蔽工作」

「……いや、その、それは違くて」

「酷いなぁ、こんなこと。私の告白聞いた答えがこれなの?」

「そ、そういうわけでもなくてだな……」

 

 ややこしいことに、この痕をつけた相手も二乃だと勘違いされている。……いや、一花のことを話すくらいだったらそっちの方がまだ好都合だけど、今現在の立ち回りには大いに影響するというか……。

 

「お詫び、ないの?」

「お、お詫びとは……?」

「悪いと思ってるのなら、なんとかして償うものだよね」

「お、おう」

「そういうのさ、ないの?」

 

 こうやって詰め寄るのは、中野家五姉妹に共通する特徴なのだろうか。なにも、そんなところまで似なくていいのに。それにしたって詫びを入れる方法なんぞまるで思い当たる節がなく、だから俺は彼女に指示を仰がざるを得ないのだけど……。

 

「どうすればいいんだよ……」

「ここ」

 

 三玖が指で示すのは己の首筋。普段はヘッドフォンで隠れているその部分。……そこをどうしろと?

 

「ほら、早く」

「……なにをしろと?」

「言わなきゃ分からないの?」

「エスパーじゃないんだ」

「同じ痕、私にもつけてよ」

「…………えぇ」

 

 まーた滅茶苦茶なことを仰る。それがどういった意味で謝罪の形を成すかがまったくもって意味不明だし、なぜか既に俺がそれを確実に遂行する流れになっているのもなかなか不服だ。違った解決策の一つくらい用意しておいて欲しい。

 

「昼休みもそんなに長くないんだし、早くしてよ」

「……それ以外にないのか?」

「うん」

「やらなかったら……?」

「不満で勉強手につかなくなるかも」

「…………」

 

 本当にそんなのばかりだ。俺のウィークポイントを確かに押さえていらっしゃる。その機転を他で生かしてくれればどれだけいいかと思いながらも、成績を下げられたら困ってしまうのは誰あらぬ俺自身で。

 

「……逆に、してくれたら午後の授業も頑張って受けられると思うな」

「…………」

 

 そういう方面でも脅しをかけられるのか、こいつら。確かに、こっちの方が幾分かポジティブな意味合いを含んでいるから、悪くなく聞こえるけれど。それにしたって報酬が俺の行動一つというのがなんとも……。

 

「……これっきりで忘れろよ?」

 

 過去の教訓はどこへやらで、目の前にぶら下がった人参にかぶりつく。今はこの方法以外の上手い切り抜け方を見つけられない。というか、見つけたところでそれは三玖のさじ加減でどうにでもなってしまうのだから、これが実質の唯一解なのだ。だとしたら、腹を括らざるを得ないだろう。

 

 どうしたもんかとたどたどしく近づいて、まあここなら、という位置に唇をつける。この痕がまた他の姉妹に見つかりでもしたら二度手間三度手間なので、極力目につかない場所が望ましい。こいつの場合はヘッドフォンが覆い隠してくれるからそこまで心配する必要がないようにも思うが、念には念をだ。だって、せっかく隠してもらった俺のマークはバレているのだし。

 どれくらいの強さで吸えばいいか分からなかったのでストローでジュースを吸う時をイメージしてみたが、それでは不満らしく、彼女に後頭部を抱き寄せられる。もっと強くないとダメらしい。ならばと肉の一部を唇でつねるイメージで特攻したら今度はお気に召してもらえたようで、そのまま数秒、力をキープし続けた。

 そして、離す。するとそこには、楕円形の赤い痕がうっすらと現れていて。……で、ちょっとだけ背中がぞくっとした。というのも所有欲を象徴しているようで、どうにも気恥ずかしさが拭えなかったからだ。

 三玖はスマホのインカメを鏡代わりにその場所を確かめると、納得するように二度三度と頷く。……ついでに写真を撮った理由を聞くとドツボなので、それに関しては無視することに。

 

 

「よし」

「そりゃどうも……」

「あとさ、フータロー。その痕をもうちょっとだけ目立たなくさせる方法、教えたげる」

「今以上に?」

「今以上に」

 

 こういうのはやっぱり女子の領分なので、まだどうにかできる余地があるのかもしれない。上手いこと消せるなら、それは願ってもないことだ。

 

「どうやるんだ?」

「一番上のボタン外してもう少し首見せて」

「こうか?」

 

 素直に従う。もうこれ以上誰かに見つかりたくないので、俺も必死だ。二乃と三玖とでは専門領域が異なるので、違った見地から別の答えを出してくれるのだろう。そう信じている。

 

「そのままもうちょっとこっちに寄って」

「おう」

「動いちゃダメね」

「……おう?」

 

 垂れ下がった髪を耳の後ろにかき上げてこちらに迫ってくる三玖。……なぜだろう、すごく嫌な予感がしてならない。またしても感が溢れに溢れて止まるところを知らない。

 

「……あの」

「らに?」

「……何をしているのでしょう?」

「らから、いっられひょ?」

 

 日本語でお願いしたい。一部の子音を使えない縛りでもしているのか。……確かに、唇が何かと接した状態での発音なら仕方ないかもしれないけれど。

 一花につけられた痕の、ちょっとだけ下。襟に隠れるかどうかのラインに、なぜか三玖の唇の感覚があった。なんでそんな感覚を知っているのだという話だが、記憶に残っているのだからどうしようもない。とにかく、妙に柔らかな感触が、今俺の首にはあるのだ。

 

「えっ、ちょっ」

 

 で、そこを吸われた。一切の情け容赦なく思いっきり。さっきの俺のやり方がどれだけ甘ったるいものだったかを思わせるくらいの苛烈な勢いで。

 振りほどこうと瞬間的に頭を振ったが、彼女の押さえつける力が存外に強かった。首という急所を取られていて竦んだというのもあるが、これでは逃れられそうにない。噛まれでもしたら一巻の終わりなのだ。

 

「…………ふぅ、これでよし」

「なにが良いんだか俺にはさっぱり分かんねえよ……」

「言ったじゃん、『その痕を目立たなくさせる』って」

「だからって新しい痕に視線寄せてたら意味がないんだって」

「でも、言った通りだよ?」

「明らかに騙す気満々じゃねえか……」

 

 むふーっと笑ってご満悦の三玖。確かにこれで間違いなく前の痕は目立たなくなったけれど、もちろん俺が求めていたのはそういうミスディレクション的な裏技ではなく、正道の隠蔽であって。だからこんなことをされると次なる隠し方を模索する必要性に駆られる。

 

「どうすんだこれ……」

「しばらくすれば消えるよ」

「今日じゃないだろどう考えても。そもそもなんだってこんな……」

「独り占めだよ、独り占め」

「…………」

 

 独占欲なら、もっと目に見えないところで発揮して欲しい。いや、実際はそれも困るんだけど。だって俺こいつの所有物じゃないし。

 しかし本当にどうしたものか。絆創膏なんて貼ろうものなら露骨が過ぎるし、かといってまた二乃に頼むわけにもいかない。礼だの詫びだの難癖をつけられて、あらゆるものを搾り取られてしまう。

 参った。完全にどん詰まりだ。上手いこと角度をつけながら人と接していくだとか、そういった形で苦し紛れに解決しないと。

 

「じゃあ、そろそろいい?」

「……?」

「昼休みもそんなに長くないし、ぱぱっと終わらせちゃわないと」

「自己完結しながら服を脱ぐな。何するつもりだお前」

「…………私に言わせる気?」

「恥じらうな。お前はもうそれが許される次元にいないんだから」

「じゃあセッ――」

「あーーーーーー」

 

 数日の間に何度同じやり取りをすればいいのか。いい加減に俺も精神疲労が溜まってきた。当たり前のことを当たり前だと気づいてもらうまでに、これからどれだけの労力を費やせばいいのだろうか。

 

「いいか三玖、ここは学校だ」

「うん」

「学校は勉学のために設置されているってのは理解できるか?」

「うん」

「理解している奴は答えながらブラウスを脱がない……ッ!」

 

 これ以上の狼藉を許すまいと、彼女の肩に手を置いた。いささか勢いがつき過ぎたようで、三玖が「きゃっ」と小さな悲鳴を漏らす。

 

「あーわり……じゃない! どさくさに紛れてタイツを脱ぐな!」

「……脱がしたい?」

「ちげえよ!」

 

 酷い冤罪には断固として立ち向かわないといけない。だって、俺にそんなフェチはないのだから。たとえあったとしてもここではきちんと抗っていたはず。きっと。おそらく。

 

「……やっぱり着たままが好きなんだ」

「それも違う! 勘違いだ!」

 

 前情報の性質がいかんせん厄介すぎた。特殊性癖のオンパレードみたいなプレイをしたせいで、俺に対する三玖の認識は大いにねじ曲がってしまっている。これはゆゆしき事態だ。

 

「いいよ。私はフータローがどんなにすごい性癖を持ってても、ちゃんと全部受け止めてあげるから」

「もう訂正する気も起きねえよ」

 

 慈愛の笑みを浮かべながら言うセリフではない。当たり前のように俺を変態扱いしているところから既に屈辱だし、名誉棄損もここまでくると一周まわって爽やかだ。俺に関わりのない属性を外野が勝手に付け足さないでくれ。

 

「……フータローのためだったら、なんでもやってあげるよ?」

「…………不要」

 

 流石にちょっとだけぐらついたが、要らないものは要らない。そんなものを手にしたらとうとうおかしくなってしまう。いくら俺がお猿さんで性欲の獣で節操なしだからといって、超えてはいけないラインの選別が出来ないほど愚かではないのだ。だから今、三玖の女の子な部分にばかり視線が向いている気がするのは完全なる思い違い。長い睫毛だとかすっと通った鼻梁だとかたわわな胸部だとか肉付きのいい太ももだとか、そういった場所を見定めているわけでは断じてない。……断じて。

 

「フータロー、目がえっち」

「……え、冤罪」

「ほんとかなぁ?」

「冤罪ったら冤罪なんだよ」

 

 見ている場所を悟られないよう、手で廂を作るようにして彼女からの追撃を逃れる。なおも不躾に検分を続けたがる俺の本能を抑えつけるのにも一役買ったなんてことはない。これも断じて。

 取りあえず、この場から離れた方が良い。衆人環視下ならバカなことは起こらないんだ。だから、確実に人がいる教室なり学食なりに行って、昼の時間はやり過ごそう。二乃や一花に出会ってしまう可能性も大いにあるが、この際それは捨て置く。俺はもう自分を信用していないのだ。

 ……なのに。

 

「おい……」

「脱ぐなとしか言われてないもん」

 

 肩に程よい重みが加わる。見るまでもなく三玖の頭がそこにあるのが分かって、立ち上がろうとしていた気勢を盛大に削がれた。本当はさっさと立ち去りたいはずなのに、俺の中の何者かがそれを阻んでいる。最近この感覚に襲われることばかりで、ついに自分の意思決定権が失われてしまったのかと茫然とする。

 

「フータロー、意外にがっしりしてるよね」

「……肩だけで分かるもんでもないだろ」

「肩以外にも色々知ってるし」

「…………」

 

 盛大に墓穴を掘った。雄弁は銀だと諦めて、もう一生黙っていた方が良いんじゃなかろうか。俺の場合、災いの元になっているのは口ではないけど。

 

「まあ、暗かったから、そこまではっきり見えたわけじゃないけど」

「…………」

「形はしっかり覚えてるんだけどね」

「…………」

 

 絶対に反応しない。ツッコミは禁ずる。今口を開けば絶対におかしなことを言ってしまうという確信がある。

 

「おっきくて、奥にこつんこつんって当たるの」

「…………」

「それが、すごい、良くてね」

「…………」

 

 これ以上は限界の匂いがしたので、片手で強引に次の言葉を塞いだ。自分の血のめぐりに多大なる変調を感じて、次の言葉を聞いてしまったらこのまま彼女を犯し尽くしてしまうという確信がある。

 ……なのに、彼女の行動は俺の予想の更に一段階上をぶち抜いていって。

 

「……ぉい」

「~~♪」

 

 手のひらにぞくりとした異様な感覚が走る。これはそう、野良猫にちょっかいをかけた時のような……。

 

「舐めるな」

 

 ぱっと手を離して、彼女の額を軽くチョップした。口を塞がれたときの反撃としてそれはどうなんだと言いたくなるが、舌戦になると分が悪いので、ここは最小限の言葉で留めておく。沈黙は金。

 

「……こっちは舐めて欲しそうだけど」

「…………」

 

 三玖の視線は俺の下半身へ伸びている。ちょっと待ってくれ。これは弁解させて欲しい。確かに今ので勃ったけど、不意打ちに関しては仕方ないだろ。それに、こうなったからといって漏れなく宿主の性欲が暴走しているかと問われればそんなことはなく、手なんか出さなくても放っておけばいずれ収まるのが常だ。だから別に、三玖の温かで柔らかな舌をここに触れさせて欲しいなんて微塵も思っていない。舌の修飾が過剰になったのは事故だ。

 つーっと服の上から触れるか触れないかの境界でなぞられて、一瞬腰が浮く。これ以上の刺激を欲したとかではなく、ただ単純な肉体の反射で。

 

「触んな」

「……フータローも私に触る?」

「触らん。そういう問題じゃない」

「苦しくないの、それ?」

「性別が違うんだからどんな具合かなんて分かりっこないだろ」

「……私は、フータローになら、どこでも触って欲しいけど」

 

 やけに呼吸を置きながら強調に強調を重ねながら言うので、話半分に聞き逃そうにも上手く行かない。テンポの乱高下でこちらの意識に干渉するのはやめてもらいたい。語調も全体的にしっとり湿って煽情的で、耳の中とか、喉の奥とか、自分の手の届かないところが途端にむず痒くなり始める。

 

「……ダメ、かな?」

「…………」

 

 腕をゆっくり、されど強かに引き寄せられると、確かな存在感を放つ何かしらが形を変えるのが分かった。この前は着衣状態だったためこの布の下に隠されたものの全貌は把握していないが、そのせいで余計に妄想を駆り立てられる。チラリズムとはよく言ったものだ。俺の場合、似たような体つきの他の姉妹を何度かひん剥いているから余計にたちが悪い。どうしたって限りなく実態に近い形で、彼女の胸の形やら何やらを想像できてしまう。

 俺が答えないまま俯いていると、いっそう強く体同士が密着した。厚い胸の脂肪を貫通して彼女の鼓動音が届き、たじろぐ。一説によると生物の拍動回数には生まれた時点で限度があるらしい。種や属、あるいは個体によっても異なるという話だったか。……ではなぜ俺がそんなよしなしごとに思考を持っていかれているかといえば、このペースで三玖が心臓に負荷をかけ続けたら、五分もしないで死んでしまうのではないかと思ったからで。

 

「恥ずかしいから聞かないで……」

「羞恥のポイントがずれてんだよ……」

 

 もっと恥じるべきタイミングがあった。俺視点から見ればいくらでも。なのに、なぜ早まる鼓動を聞かれたくらいで顔を紅潮させるのか。そして、それならなぜ俺の腕を掴んだまま離さないのか。思考と行動が相反している。盛大な矛盾を抱えている。どこかで確実にずれてしまっている。

 これが、さっき言ったとおりに男女差によって生まれるものなのか、俺か彼女のどちらか、あるいは両方の感性が常軌を逸しているからこそ起こり得ることなのかはこの場で得られるサンプルからでは答えを抽出しようがない。被験体の少なさが際立つ上に、例の一つが俺ではバイアスがかかり過ぎるというのもある。……そしてそれ以上に、俺の脳みそがとっくにオーバーヒートしてしまっているということを考慮しなければいけなかった。

 

「……だって」

「だって?」

「恥ずかしいけど、フータローには私のこと、ちゃんと全部知って欲しいから……」

「……血液を送るペースなんて知らされても困るだけだ」

 

 もう、そうとしか答えようがない。情報の取扱いに難があり過ぎて、とっくに処理落ちしているのだ。もし仮に、『隣にいるのが俺だから』ここまで胸が高鳴っているのだとして、どう返すのが正解なんだ。慕情や恋情にはひたすらに疎い人生を送ってきて、唯一それに近いものを感じていたように思う相手からは直々にもう会えない旨を伝えられた。その出来事すら完全に消化できていないくせに、どうして先のことに目が向けられようか。

 

「……あと、困ってるフータロー見るの、ちょっとだけ好き」

「人様の思考で遊ぶな」

 

 再び小突いてやろうとして、無意識に絡めとられている肘を張ってしまった。柔らかい感触がより生々しく、肉々しく伝わってきて、そのまま咳き込みかける。

 

「別に、遠慮なんてしなくていいのに」

「そういうことじゃねえよ」

「私の体がお好みなら、フータローの好きにしていいんだよ?」

「……お前、そういうの本当にやめといた方が良いと思うぞ」

 

 捨身が過ぎる。女性がみな貞淑であるべきだというのは前時代的な押し付けで好きではないが、それにしたってこいつはまずい。献身と言えば聞こえは良いが、このレベルまで来ると次に目指すは人身御供あたりになる。一人の異性に大ハマりして身を捧げるとか、人生設計としてはおおよそ最悪の部類だ。

 たとえば、その相手が中東の石油王あたりなら悪いかじ取りではないように思えるかもしれない。権力や名誉になびくのも一つの生き方ではある。だけど、それならそれで、相手方の選定には極限まで慎重を期す必要があるわけだ。自分の人生を賭けるに足るだけの見返りを、どこかに求めるのが普通なのだ。

 それを考えた時に、俺の市場価値は限りなく低い。自分で言っていて悲しいが、財やら名声やらとは程遠い場所にいるし、人間的な魅力もない。学力に将来性を見込んだところで、バックグラウンドが俺より優れた人間の方が基本的には多いのだ。

 だからこそ、こいつが俺に求めるものは自然と限られてきてしまう。物質的な充足をもたらせる人間でないと分かり切っている以上、精神を満たす以外の道が消え去ってしまう。

 それはつまり、その。

 ただ、愛情を受け取りたいだけだということに……。

 

「……私、そこまで魅力ないかな?」

「そうじゃなくて」

 

 頬のあたりを持ち上げたり、二の腕で胸部を強調したりしながら三玖は問う。女性的な魅力がないならあんな滅茶苦茶なことはしねえだろうがと突っ込みたいが、この状況で持ち出すのは憚られたのでどうにかオブラートに包むことにした。

 

「その……あれだ。あんまりがつがつし過ぎてると不安になる」

 

 放っておいたらいずれ共依存のモデルにでもなっているのではないか。とりわけこいつは自分の能力に自信を持てない奴だから、客観的に見ても大きく平均値を上回っている容姿で勝負に出たがるのかもしれない。……だが、短くない間それなりに近くで見てきた間柄として、そういう自己否定的なやり方を見せられるのはどうも、どうにも。表立って言うほどのことではないにしろ、こいつにだって長所なりいいところなりはたくさんあって。鈍い俺ですら発見できたそれが、彼女の強みに変わらないことはあり得ないと思うのだが。

 簡明な言い方を選ぶのだとしたら……たとえば。

 

「……別に、そんなやり方じゃなくてもなんとかなるんじゃないか、お前なら。俺にだってそう思わせられるんだから自分でも気づくだろ」

 

 これは、意外にもしっくりきた。言葉にするとすとんと落ちた。自分の限界を規定するのはいずれもたらされる結果の方であって、自分自身であってはいけない。それを、伝わりやすい形でまとめられた気がする。

 けれど、慣れないことは言うもんじゃない。さっきとは別の意味から体が熱いし、彼女の顔を見られない。

 だけど、それっきり黙ってしまった三玖のことが気にならないわけでもなくて、沈黙に耐えかね、視線を横に向けると……。

 

「…………」

「いや、だから、羞恥のポイントがだな……」

 

 元々の肌の色を思い出せないくらいにゆでだこ状態な三玖が、唇をもにゅもにゅ動かしていて。

 それが限りなく小さな音での発声だと気づき、耳を傾けると。

 

「フータローも、そういうの、ほんとにやめて……」

 

 なんて、うわ言みたいに何度も何度も繰り返していた。

 やがて三玖は首をぶんぶんと振って、どうにか今さっきの衝撃から回帰すると、真正面から俺を見据えて。

 

「こうなったら、本格的に止まれなくなっちゃう……」

「…………ぇ?」

 

 俺の見立てでは、良い感じに和解する展開だった。もうこんなやり方はしないからねって、そう言わせる流れだった。なのにどうして、彼女の息はより荒く、瞳の色には熱っぽさが増しているのでしょうか……?

 

「体がきゅんってして、もうダメだよ……」

「おい……おい?」

 

 強引に組み伏せられて、彼女の秘部が布越しに俺のテント設営地を強襲した。強がっていても確かにさっさと出してしまいたいというのは事実で、本能的に膨張度がワンランク上に到達する。

 

「ご、ごめんね? いい話の後に、こんな。でも、もう無理。一回抱いてもらわないと、無理」

「何がどう無理なんだよ……ッ」

「頭の中フータローでいっぱいになって、夜も眠れなくなっちゃう」

 

 赤裸々な告白の最中、既にグラインドは始まっていた。一定のペースで襲い掛かる快感を前にして、俺は必死に自我を保とうと歯を食いしばる。

 大丈夫だ。今は割と自我が残っている方。彼女の動きにワンテンポ遅れてついてくる胸の挙動から視線を逸らせなくなっているが、これくらいならなんてことない。思春期にありがちな現象だと言って説明がつく。

 

「じゃま……これ」

「邪魔じゃない。必要なものだ」

「今は要らないもん」

 

 三玖が自分のスカートに手を突っ込んで何かをずらす素振りを見せた。そこまで行ったら何かなんてぼかしを入れる必要性を問いたくなるが、俺は頑として認めないスタンスで行くからな。

 

「これも要らない」

「要る」

「要らない。うるさい」

 

 説得は道理の通じる相手にしか効果がない。それを体現するように、異常に熱くなった舌を俺の口の中に差し入れることで、三玖はこちらの言葉を完全に封殺してみせた。脳髄が痺れる感覚に酔いしれてしまった俺は、彼女の手がズボンから何かを引っ張りだしたことに気付くのが一瞬遅れる。

 そしてその一瞬は、三玖が俺を飲み込んでしまうにはあまりにも十分な時間で。

 

「……ぁ」

「ちょ、待て……」

「この前よりおっきぃ……」

 

 その言い草ではまるで、俺がこのシチュエーションに興奮する変態みたいだ。俺は明らかに受け手なんだから、そんな名誉棄損は承服できない。事実として痛いくらいに怒張していたとしても、言い分をまるっと認めるのには強力な抵抗が付きまとった。

 

「きもち……」

 

 三玖の腰が上下するタイミングで、凄絶な快感が押し寄せる。狭苦しい肉の壁を押し広げる感触に、体中の血液が沸騰を始めている。

 こういう行為を前提に作られている器官だということを知識で理解はしていても、実践段階でその妙を見せつけられてしまうと言葉の一つも出なくなる。彼女の膣は俺に絡みついて離れず、例えようもない柔らかな感触を与えてきた。

 

「……あ、っ!」

 

 こみあげてくるものを躍起になって押さえつけている俺を尻目に、三玖の体が大きく跳ねて、痙攣を始めた。彼女の眼球の焦点はぼんやりとしてはっきりせず、ただとろんと蕩けきった顔で、ぼんやり俺の顔の輪郭をなぞってくるだけ。

 

「私ばっかり、ずるいよね……」

「…………」

 

 なのに、彼女は再び上下運動を始めようとしていた。震える体と覚束ない動きでもって、どうにか俺の絶頂を促そうとするように。

 言うなれば、危険水域のその向こう側。決壊した堤防の淵でどうにか踏ん張っていた足が、急流に流されるがごとく。

 完全に崩壊してしまった俺の理性が先導して、問答無用で三玖を押し倒していた。

 

 

「ふーたろ、それ、すご……っ」

 

 ペース配分など微塵も考えていない強引な挙動で腰を荒々しく打ち付ける。そのたびに液体の弾ける音がして、それが更なる感情の起爆剤の役割を果たした。

 呼吸が出来ない。というか、今息を吐いたら意識を失ってしまいそうだ。

 だが、今の俺の肉体に必要なのは酸素ではなかった。そんなどこの空間にでも漂っているありふれた物質より、もっと希求しているものが存在した。

 とうとう、三玖の口から放たれる音に、言葉としての意味が消えた。ただ、有り余る激情を音声に変換しただけになった。俺も俺で、目に入った汗を拭うこともせず、ただがむしゃらに腰を振っている。刹那的に生命に危機的な変化が起こっているせいか、本能が種の存続の方に比重を置いたようで、いつも以上に体が動く。自分のスペックを超えた運動能力が発揮できている。

 そして、当たり前のように、限界がやって来た。

 

 脈打つ。

 蓄えていたものを惜しげもなく全て吐き出す。

 彼女の内側を白く白く汚していく。

 三玖は逃れることもなく、そのすべてを一身に受け止めた。引き抜いた瞬間に溢れる液体さえ惜しむような眼をしていた。

 しかし俺は、もうまともな思考を働かせることも不可能で、そのまま三玖の上に覆いかぶさる。

 

「ま、待って。流石に今動かれたら死んじゃう……!」

「…………」

「……フータロー?」

「…………しばらく、このまま」

「……………………あぅ」

 

 彼女の柔らかい体をクッションにして、ゆっくり目を瞑った。こうでもして休息を取らないと、いよいよどこかで死んでしまいそうな気がしたから……。



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そうだつさばいぶ③

 放課後、俺は図書室の隅で参考書を展開しながら、馴染みの流れで後悔していた。結局午後の授業は悶々としてまるで実にならなかったし、ふいに思い出して下半身が覚醒してしまうから、起立時に前かがみにならざるを得なかった。不幸中の幸いか首筋の痕について触れてくる相手はいなかったけれど、それ以上に俺の動きが不審だったので意味がないことだ。そんなことを思っている間にまた体が元気になり始めているのだから、本当に大沼だ。

 学生の本分を三玖に説いたはずなのに、当の俺自身がそれを遵守できていないのだから笑い種だろう。誘惑してきたあちらの責任と言えばそれまでだが、結局それに乗っかったのは俺の意思である以上、言い訳をしようにもどこかに引っかかりが残ってしまう。

 いい加減に、この状態を何とか改善せねばなるまい。ずるずる続いて行くのが目に見えて明らかであるのだから、手を打つなら早いに越したことはない。

 となると、何から始めるべきか。俺の性欲を根っこから消滅させられるのならそれが一番なのだが、残念ながらそんな手法は確立されていない。同様に、彼女たちを止めることも不可能だ。だからあくまで倫理と論理に則って、かつ実現可能な手法を模索しなければならない。

 そう言うのは簡単でも、実際のところ、どうすればいいかなど分からなかった。放置すればまた明日にでも連中は俺を襲ってくるだろうし、それに対して俺が流されてしまうのは明白。いっそこれをちょん切ってしまおうかと目線を下げるが、そんな自殺行為をする気にもなれない。血の気が下がるし、身の毛はよだつ。

 だとすれば、後はどんな方法があるか。さっさと片付けて、健全な勉学ライフを取り戻したいってのに。

 いっそ他所で彼女でも作ってしまおうかとでも思ったが、その後に何が起こるかを予期できない。下手にやる気を削いでしまったら落第待ったなしなので、それこそ本末転倒。どうやったってどん詰まりだ。

 

「あ、いたいた」

「いない」

「そっか。じゃあ隣失礼するね」

 

 タイミングの悪さに関して、ここ最近の俺を凌駕する人類はいないのではないか。比喩でもなんでもなく、明らかに俺の周囲の時空が歪んでいる。おかしくなっている。どこに助けを求めればいいんだこれは。

 よりにもよってこの状況での一花との邂逅は想定外。今日はこそこそと逃げ隠れるつもりでいたのに、勘弁してくれ頼むから。

 

「勉強しろよお前も」

「してるしてる。それに関しては全然問題なし」

「じゃあ今は何してんだよ」

「ん、フータロー君探し。おしゃべりしようと思って」

「俺は特に話すことなんてないぞ」

「まあまあ。あんなことした仲じゃ――」

 

 ノールックで口を塞ぐ。この動作にちょっと手慣れてきてしまっている自分に辟易するが、かと言って野放しにしていたら酷い単語が出てくるのは見え見えだし。

 でも、昼の件があったのでそこには警戒をはらった。こいつも猫みたいに手のひらをなぶってきたらいよいよ何もかもおしまいだ。全てが瓦解してしまう。なのですぐさま手を離して、人差し指を口の前でピンと立てた。

 

「ここは図書室だ。私語厳禁」

「はーい」

 

 言ったきり黙りこくる一花。彼女はどうやら俺の解いている問題を覗き見ているらしい。横にいられると気が散るのは確かだが、ちょっかいさえかけてこなければなんとかなる。俺も自分の時間をどこかで確保しないとまずいのだ。

 だけれど、現実はそう単純ではなく。

 

「ねえ」

「集中できないから顔見てくんな」

「フータロー君ってリップ使ってたっけ?」

「…………」

 

 とんでもなく不穏な単語を耳にし、硬直。昼休みの後で唇をしっかり拭っておくつもりだったのが、あまりの疲労のせいかそのことを完全に忘却していた。慌てて口許を隠すも、それがかえって容疑を確定的なものに変えてしまう。

 

「……それが何だよ?」

 

 虚勢を張る。開き直る。お願いだから見逃してくれと、心の底から祈りを込めて。

 

「ううん、なんでもない」

 

 奇跡的に祈りは通じたようで、一花からそれ以上の追及はなかった。言い訳の弾がなかったので、今詰め寄られたら明らかに死んでいた。危ないなんてもんじゃない。

 ここまでくるともはや、ラメを俺に塗りたくるところまで含めて二乃の策略だったかのように思えてくる。よしんばそうでなかったとして現実に俺の肝は冷えまくっているわけだから、とんでもない策士だ。

 

「なんでもないならもういいだろ。頼むから集中させてくれ」

「うん、そのつもり」

 

 そう言っているのに、体のあちこちに視線を感じる。見定められている。

 もしかすると、朝昼のドタバタの痕跡が残っていたりするのだろうか。染みとか、縒れとか。急いでばかりで身を繕うタイミングを設けられなかったから、下手をすれば背中あたりにでも決定的な証拠があるのかもしれない。

 だからといって、気にする素振りを見せるわけにはいかなかった。だってそうすれば、当然彼女の注意もそちらに向いてしまうのだから。なので、たとえ何があろうとなかろうと、俺の意識は机上のテキストとノートだけに向けられていなければならない。そうしないことには、追及の手から逃れられない。

 鉛筆を動かすスピードや眼球の運動にまで最大限の集中力を使う。自然さを装うというのは存外に難しいもので、常に同じ調子でいればいいというものでもない。演技で飯を食おうとしている人間の前でこんなことをするのには不安しかないが、死力を尽くせば何とかなる部分だってあるかもしれない。諦めるには、いささか早計。

 

「さっき二乃に聞いたんだけどさ」

「……集中させてくれ」

「これだけこれだけ。ほんのちょっとだから許してよ。……でね、何を聞いたと思う?」

「知らん」

 

 心臓が狂ったようにビートを刻む。よりによって、なんで今そいつの名前が出てくるんだ。

 

「正解はねー」

「…………」

 

 昼のあの時と同様に、一花の細い指が俺の唇を端から撫でていった。何を目的とした行為かは、今更語るまでもない。

 

「『三玖にリップ貸した?』でした~」

「……答えは?」

「もちろん貸してないって。まあ、なかなかそんなことないしね」

「だから……なんだよ」

 

 出てくる解答なんて分かっている。けれど、少しでも一花が的を外してくれていますように。

 そう願って、見えないところで拳を強く握ったが。

 

「二乃からフータロー君、で、フータロー君から三玖っていうのが私の予想」

「…………」

「一人だけ早くに出ていったから二乃は朝で、全然見かけなかったから三玖は昼かな?」

「…………」

「まあ、時間なんてどうでもいいけどね」

「…………」

 

 沈黙は金である。なれど、ことこの状況に際してその金言を信奉し続けるには無理があった。そこまでいけば流石に妄信だ。

 だから、何かしら言い返さないといけない。打破するに足る何かを見つけねばならない。

 

「……落ち着け」

 

 だというのに、口から出てくるのは場繋ぎの言葉。唾液が枯れて喉が引き攣り、体がおかしくなっている。頭が回らない。他人を騙せるだけの素材が用意できない。

 

「フータロー君がまず落ち着いてよ」

 

 よほど狼狽しているのか、向こうに気を遣われる始末だ。しかしどうしろと。一花は、まだ二乃と俺との間に何があったかを知らないままなのに。知らないままでいてもらう予定だったのに。

 ここで話すというのも手の一つではある。もうどうしようもないのは明白だから、大人しく全部ゲロってしまえばいい。一花は理性的な方だから、理解はしてくれるかもしれない。

 だが、その後はどうなるのか。どんな道に進んでも誰かしらのやる気は削がれて、全員そろっての卒業が夢物語になってしまう。当初の目的が果たされないというのは、個人的に大問題だった。金銭が発生しているというのも勿論だが、ここまできて責務を放り投げられない。どうしても信条に悖ってしまう。

 

「別に責める気なんてないよ。付き合ってるわけでもないし」

「…………」

「だけど、あんまり見せつけられると妬けちゃうなって」

 

 一花の手が、俺のシャツの襟をぺらっと捲った。そこにあるのは当然……。

 

「上の、頑張って隠してあるのが私がつけたやつだよね。なら、その下が……三玖かな?」

「…………」

「お、当たった」

 

 顔に出やすい性質らしい。簡単な誘導尋問にいとも容易く引っかかっている。まあ、二択のうちのどちらを答えに認定されようと、俺の立場は揺らぎはしないが。なんせもう崖下にいるから、崖っぷちに追い込まれる心配がないのだ。後ろ盾が消滅した人間は無敵。この前知ったことだ。

 

「派手にやったね」

 

 意識的にか、もしくは無意識か、三玖がつけた痕は一花につけられたものよりも一回り大きい。内出血量をコントロールすることなんて出来ないだろうが、これが狙った結果なのだとしたら、独占欲とかいうやつの恐ろしさがいよいよ浮き彫りになってくる。

 

「偶然だろ……」

 

 そんな言葉しか出てこない。認めてしまうのに抵抗がある。姉妹の間での張り合いなんて俺には分からないことだし、もし分かっていたとしても見て見ぬふりをする。厄介ごとに率先して突っ込むタイプではないのだ。

 

「偶然でこんなになるかなぁ」

 

 指先でその部分をつままれた。自然と距離が詰まって、覚えてしまったシャンプーの匂いに視界が眩む。見た目という点での視覚、匂いという点での嗅覚。その二方向から攻め立てられるのは本当にもう、なんと言うか。

 首に触れていた一花の指は、次第に顔の方へとスライドしてきた。ゆっくり蛇が這いずるような動きで、最終的には手のひらで頬を包むような形を取る。

 

「さて」

「…………」

「なんでガードしちゃうの?」

 

 予備動作なしでいきなり近づいてきた唇を、とっさに手で防いだ。我ながらなかなかの反射神経。……そう感嘆していられる状況でないのが何より残念だ。

 一花は唇の先を尖らせ、いじけたような表情を作る。俺の今の行動がさぞかし不満なのだろう。二乃とも三玖ともしたくせに、と。それなのになぜ自分は弾かれるのか、と。

 

「いきなり来たら誰でもこうするだろ」

「じゃあ、試してみる?」

「何をだ」

「フータロー君がいきなり私にキスしようとして、それが防がれるかどうか」

「やらん。やる理由が見つからない」

「誰でもって言ったんだから、私もそうじゃないとフータロー君が嘘つきになっちゃうよ?」

「それなら嘘つきで構わん」

「いけずだなぁ……」

 

 比喩というものについて一から解説するのもやぶさかではなかったが、それをするのは少なくとも今じゃない気がした。まず真っ先に、俺は常識を説くべきではないかと思うのだ。

 

「下手くそだから嫌なの?」

「なぜ自ら蒸しかえす……」

「分かんないじゃん。そろそろ程よく上手になってる頃かもよ?」

「二日で劇的に変わる能力なんてねえよ」

 

 それが叶うならこいつらは一週間もあれば落第候補を脱せるし、俺だってもっと稼ぎに繋がる技能を習得しているはず。それが不可能だから難儀しているのに、そう上手くいくわけなんてない。

 練習に相手が不可欠な行為である以上、コソ練するのも無理なことだ。

 

「フータロー君、日頃口が酸っぱくなるくらいインプットとアウトプットの重要性について語ってるじゃない」

「俺で試すな」

「フータロー君と上手にキスするのが目的なのに、他の人としたら意味ないでしょ?」

「俺は一度だって自分の唇の権利を移譲した覚えはないぞ」

 

 人権が蔑ろにされている気がした。さながら俺は綱引きの綱。問題は、同時に三方向から引っ張られていることだろうか。そろそろどこかに亀裂が入る頃合いだと思うんだが。

 

「減るものじゃないのに」

「見えないところで色々減ってることに気付け」

「たとえば?」

「人間性」

 

 基本的にこういう行為は許可制だ。一方の感情で押し付けにかかるのはタブー。下手をするとわいせつ罪だの強制性交罪だのに問われる。お宅の妹が未だに笑って日常生活を送れるのは、俺が告発していないからってだけなのだ。

 

「じゃあ、キスしていい?」

「ダメだ」

「キス、しよっか?」

「間に合ってる」

「キス、したいな」

「結構だ」

「……泣くよ?」

 

 新聞屋の勧誘を断る時と同じ流れだった。言った俺自身、『間に合ってる』はちょっとまずいんじゃねえかなと思う。

 泣かれるのは嫌なのでケアに走るべきか。

 

「泣くのは勘弁してくれ」

「演技じゃないよ。ガチな方だよ」

「余計にタチが悪い……」

「もう来てるもん、涙がここらへんまで」

 

 一花は己の目頭をつねった。そんなところにまで到達していたら、もう引っ込ませるのは至難の業なのでは……?

 

「どうすりゃ止まるんだよそれ」

「キス」

「打算まみれじゃねえか」

 

 彼女の目頭を、今度は俺がつねった。こうしていたら出てこなくなるというわけでもないだろうが、かと言って口車に乗ってやる義理はない。俺は清廉に生きるのだ。

 

「……フータロー君的にはさ」

「なんだよ」

「私の顔って好みから外れてる感じ?」

「なんだいきなり……」

 

 女の好き嫌いなんてこれまでの人生でまるで考えたことがない。もちろん、好みの顔立ちなんてものもない。整っていて悪いことはないと思うが、俺がそれを指定できるほどの人間かと問われれば、そこは首を傾げざるを得ないポイントだ。

 

「女優なんてやってんだから容姿には自信あるんじゃねえの、お前?」

 

 美少女を自称していたこともあったし、そこに関して異論をはさむ気もない。見てくれについて言うのであれば姉妹そろって高水準だ。で、俺のこの評価は誰もの共通認識と思って間違いない気がする。

 

「まあ、うん。ないわけではないんだけど」

「ならなぜ聞く」

「ないわけじゃないからこそ、なかなか靡いてくれないのを見てると不安になっちゃうの」

「はぁ」

 

 複雑な乙女心というやつらしい。まったくもって理解は不能だが、だからといって一笑に付すべきでないというのも、俺はこれまでに学習してきた。しかし、かけてやる言葉が思い浮かぶというわけでもなく。

 

「そもそも色恋沙汰に興味のない俺に、そういうの期待すんのが間違ってるんだよ」

「色ごとにはお熱だったのに?」

「揚げ足とる専門家かお前は」

 

 比重の問題だ。性欲が云々の前に勉強を大切にしたいし、一度請け負ったことだからこいつらの卒業も叶えてやりたい。人間、特定の期間に出来ることは限定されていて、だから今そちらに労力を割くくらいならば、もっと学を深めたいというのが正直な思い。

 

「別にお前らのことが嫌いとかそういう話じゃない。ただ、今やるべきことはもっと他にあると思う。お前で言うなら仕事がそうかもしれないし、他の奴にしたって卒業だの進学だので山積みだ。その大事な時に、あっちこっちにエネルギー分散させるのは違うだろ」

「まあ、それは……うん」

「正論だろ?」

「正論……だけどね」

 

 だけど、なんだ。やっていることがやっていることだけに説得力がないと言われたら黙るしかないが。しかし、我が身を省みてばかりでは発言の一つも出来やしない。確かに正論は潔白な人間が述べるのが何よりだが、そんな人間が存在するかどうかがそもそも疑問。誰しも心のどこかに後ろめたさの一つや二つは持っているものだろう。

 そして、正論への対抗手段なんて、別視点の正論か屁理屈かくらいのものだ。それが今の彼女に用意できるかどうか。

 

「……でも、その、ね?」

「同意を促すな」

「いや、うん、分かってる。お仕事でもっと成功したいし、ここまで来たらちゃんと最後まで高校生もしたい。……けど」

「けど?」

「そっちに集中してる間にフータロー君が取られちゃったら、それこそ本末転倒というか……」

「…………」

 

 俺の立ち位置がどこに収まるかがそこまで重要な問題なのだろうか。たかが学生恋愛なのに。……まあ確かに、対抗相手が存在しているせいでレースそのものが加速している感は否めないが。

 でも、それは一種の集団幻想なのではないかと思いもする。行列の出来るラーメン屋に並んだり、過去一等を出した宝くじの販売所に訪れたりといった類の。そういう行為のどこに主体性が存在するかは、正直俺には分からなかった。

 競争率の高さがそのものの価値を決定づけるという考え方を理解することは出来ても、すんなり納得することは出来ない。それを認めてしまうと、自分の根幹を否定したような気分になる。

 

「お前の優先順位はどうなってるんだか、ひとまず教えてくれ」

「…………」

 

 二の腕を人差し指でちょんちょんと触られた。……えぇ?

 

「……マジで言ってんの?」

「マジで言ってるの……」

「おま、お前なぁ……」

 

 ここは正確には「お前らなぁ」だったかもしれない。彼女視点ではどちらでも構わないかもしれないが。

 

「自分で言うのもあれだけど、絶対男の趣味悪いぞ」

「それは薄々勘づいてたよぉ……」

 

 勉強より仕事、仕事より俺ってか。なんだそれ。無茶苦茶だ。俺は最低限の好感度を担保しようとしたことはあっても、惚れられる程のことを為した覚えはないのに。

 振り返ってみても、好かれる要素がどこにあるかが分からない。これは二乃や三玖にも通じることだが、こいつらは男に対する免疫が低すぎるんじゃないのか。

 一花は机に突っ伏して、ぶつぶつ何かを語り始めた。……聞きたくねえなあ。

 

「あんなにしつこく世話を焼こうとする人、初めてだったんだもん……」

「いや、それは言ったろ。借金があるからだって」

「どんなに言っても諦めようとしないし……」

「それも金のためだって」

「……そのくせ、自分は勝手にいなくなるしさ」

「いや、あれは、その。俺以外に適任者がたくさん」

「だと思うなら言ってくれればみんなちゃんと否定したのに。って言うか、この時点でもうお金のことどうでも良くなってるじゃん」

「…………」

「今だってほとんどボランティア状態だしさ……」

「後からもらうって言ったろ」

「今のフータロー君を見てると、それすら反故にしそうなんだもん……」

「うっ……」

 

 確かになあなあで終わらせてしまいそうな気がする。俺らしくもなくかっこつけて。

 でも、言ってしまえばそれだけだ。俺は職務を全うしようと奔走し、紆余曲折の末に彼女たちがそれに応えようとしただけ。確かにただのビジネスパートナーというには密接に関わり過ぎてしまったが、俺は別に彼女たちにいいところを見せようと意図していない。それが、どうしてこうなった。

 

「顔あっつい……」

「どうせなら耳も隠しとけ」

 

 ショートヘアのせいで真っ赤な耳が丸見えだ。彼女はそれについて失念していたようで、即座に両手で頭を覆い隠す。

 口に出す気はないが、俺、たぶんそれの万倍は恥ずかしいもの見てんだけど。本当に恥ずかしがるポイントがずれている。もしかして遺伝だったりするのだろうか。

 

「フータロー君に迷惑かけてるのは分かっても、さすがにこの気持ちを抑えつけとくのは無理だよ……」

「そこをなんとか出来るから人間がここまで繁栄してこれたんだろ」

「でも、好きなんだもん……」

 

 彼女の体がこちらにすり寄ってきて、腕と腕がぴたりと密着する。一花は基本薄着なので、体温の伝わりが早い。

 

「ドキドキする……」

「なぜ口に出す……」

 

 黙ってればいいのに、そんなの。実際、俺は言ってないし。心臓が忙しなく動いていたからなんだと言うんだ。

 なおも一花は密着具合を高めてきて、男の硬くてごつごつした体ではどうやっても実現できない柔らかさを俺に与えてくる。もうちょっと骨ばってくれているくらいの方が、かえって俺には優しかったかもしれない。

 

「フータロー君さ」

「なんだよ」

「二乃とも、そういうこと、したの……?」

 

 ここで聞くのかと頭が痛くなった。聞かれるのは覚悟していたけれど、上手い返しはまだ思いついていない。本当に、どうしたものか。

 正直、隠しようが無いとは思っている。どこかでばれるのは必定で、なら正直に話してしまう方が負う傷は少なくて済むのではないかと。なんなら、俺が三玖とあんなことをしていた原因がそもそも二乃にあるのだと。

 だけど、どうだろう。打ち明けたからと言って何かが変わる未来は見えない。ずっと行き止まりの前で立ち往生させられている気分になる。

 

「たとえばだぞ」

 

 だから、どうしても確かめたくなる。逃げ道を用意するために、彼女が何を地雷にしているかを確認したくなる。

 

「たとえば、そうだって言ったらどうなるよ?」

「……どうにも」

「どうにもって?」

「だって私、二乃がフータロー君のこと好きなの知ってるし」

 

 それが日頃の態度で察したものか、それとも二乃自身が申告したかは判然としない。あいつの性格的に牽制目的で言いふらすのはありそうだとも思ったが、再三に渡って羞恥心のバグを見せられているので、変なところで恥ずかしがって言っていない可能性も大いに考えられる。

 だからここは「ああそう」と流した。そこまで大々的に話を広げるポイントではないように思ったし、こんな箇所で拘泥していたら、一向に会話が進まない気がしたから。

 

「あの子、やるとなったら周り見えなくなっちゃうから。だから、そういうことをしていたとしても不思議ではないなって思っちゃう」

「まあ、そういう奴ではあるな……」

「って言うか、そんなことを聞くって時点で半分自白だよね」

「…………まあ、うん」

 

 黙っていても肯定に取られるのだから、いっそ自分の口で事実だと認めることに決めた。遅いか早いかの違いになるだけなのだから、さっさと諦めた方が良い。

 

「今日が初めて……ではないんでしょ?」

「……おう」

「三玖とどっちが先?」

「……二乃だな」

「良いなぁ」

「何が」

「フータロー君の初めては二乃に捧げたわけでしょ。その特別感が羨ましいなあって」

 

 童貞をありがたがられる日が来ることを予期してはいなかった。別に大事に取ってきたわけでもないが、価値あるものだとは思っていなかったし。

 使いどころを考えるべき代物だったのかもしれないなあと考えつつ、視線を横の一花に送る。彼女は顔を俺の腕に埋めてしまって、だから表情を窺い知ることは叶わない。

 

「私は処女を献上したのに、フータロー君はそうじゃないんだもん」

「…………」

「気まずそうにするってことは、三玖にも似たようなこと言われた?」

「見抜くな」

「やっぱ姉妹なんだね」

 

 あいつはもっと嫉妬の鬼みたいになっていたが、それは捨て置く。黙っていても支障がないことをわざわざ詳らかにする必要性が見えないからだ。

 

「姉妹そろって変な男の子に引っかかっちゃった」

「おい」

 

 否定できないのが苦しい。俺がまともな人間ならこんな泥沼人間関係を構築することはなかったんだし。だが、その類の誹りをなんでもなく受け流すスキルは俺になく、自然、食って掛かる形になる。

 

「……まあ、それがフータロー君でよかったなあとは思うけどね」

「変な男の中でもマシな方だと?」

「うん。楽しい人だったから」

 

 真摯とか、誠実とか、そういう美辞麗句からは遠い存在となってしまった俺をそれでもどうにか褒めるにあたって、彼女は『楽しい』なんて単語を引っ張り出してきた。もうちょっと他に言いようがあるだろとも思ったが、彼女の持つボキャブラリの中で最適に思えたのがそれなら否定は出来まい。どうやら俺は、楽しい人間らしいから。

 

「まあ、好きになっちゃったら全部が良く見えちゃうからどうしようもないね」

「ダメ男に引っかかる未来が見えまくるぞお前」

 

 俺自身、そのダメ男という分類にくくられるかもしれないけれど。でも一花からは『妻が内職で稼いだ金で博打を打つ男』に吸い寄せられそうな空気を感じる。少なくとも俺はそこまで堕ちるつもりはないから、ぎりぎり水際でセーフって感じか。

 俺がかなり失礼な所感を述べたせいか、一花が腕を引っ張る力が強まった。どんな言葉で非難されるか、今のうちからヒヤヒヤものだ。

 

「…………フータロー君が今のうちに確保しておいてくれれば、そんな心配ないのにね」

「…………」

 

 「正気か?」と口にしそうになって、寸前でどうにか引っ込めた。なぜこんな情緒も風情もない場所でプロポーズ紛いのことを言われているんだ俺は。お願いだからもっと先を見据えてものを言ってくれ。お前、馬鹿は馬鹿でも成績を除けばそこそこクレバーに立ち回れる奴だったはずだろ。

 

「……ちょっと考えたでしょ」

「何を」

「私をお嫁さんにした未来」

「考えてねえよ。なんでそうなる」

「……………………私は考えたことあるからじゃない?」

「自爆するくらいだったら最初から言うなよ……」

「ちゃんとお部屋は掃除するよ?」

「当たり前だそんなの」

 

 汚部屋の自覚があるならぜひとも自分でなんとかしてくれという話。それは人としての最低ラインだ。

 しかしまあ、とんでもない爆弾を落としてくれやがる。結婚を意識するのが交際すらしていない段階と言うのは、世間的にどう評価されるのだろうか。

 

「ってかお前マジで顔熱いぞ。熱でもあるんじゃないか?」

「演技だもん」

「無茶を言うな」

 

 熱に浮かされた演技で本当に熱が出るなら、そりゃあ未来の大女優様になれるだろうが。でも、そんな強がりはあまりにも明け透けで。

 手も、腕も、さっきから微細に震え続けているのに、それを覆い隠す論拠にはなり得ない。

 

「演技ってことにしないと、いくらなんでも重すぎるでしょ……」

「自覚があるなら自重しろ。俺はちょっとお前が怖いよ」

「……私を選ぶって約束してくれるなら、喜んでそうするけど」

「ほんとお前そういうところだぞ」

 

 紛うことなきヤンデレの素質。こいつの将来が心配で仕方ないぞ俺は。……そんなことを言うと、「なら――」と提案されるのが明白だから黙るけれども。

 

「でも、好きなんだよ」

「聞いた」

「ここ最近、好きで好きでおかしくなりそうなの」

「抑えろ」

「それが無理だから、一昨日みたいになっちゃったの」

「えぇ……」

 

 強姦を最終手段にするのは、いかに顔の良い女と言えどレッドゾーンだ。手順を踏んでくれお願いだから。

 マジで体を許す敷居が低すぎる。自己肯定感でも高めてやればどうにかなったりしないだろうか。ではそれをどうやって向上させるかとなった時に、俺が彼女を選択するという身も蓋もない解答がやってくるわけなんだが。もちろんこれは邪道も邪道なので、選べるはずもない。

 

「正直、今も……」

「お前もそのパターンかよ」

 

 うっかり口を滑らせてしまったのに気付いたのは、一花の唇が脇目も振らずに俺の唇を捉えた直後。妹二人の行動に思うところのありそうな姉貴は、半分暴走でもするみたいに、俺の体に食らいついてきた。

 一瞬、火傷を疑った。

 と言うのも、一花の口の中があまりにも熱すぎたから。舌も歯茎も燃えているのかと勘違いするレベルの熱を保有していて、触れる俺を全力で焼き焦がしてくる。

 ……というか、それよりも。

 

「……んっ、んぅ」

 

 明らかに上手になっていらっしゃるのですが……。

 

 ここで思い当たる。さっき俺は相手がいないと練習できない行為だと断言したが、恥を忍べば疑似的にそれに近い体験は可能だと。古来から言われている、サクランボのへたを口の中で結ぶとか。……そういや、弁当にそんなフルーツが入っていたような。

 しかし、この行為の魔力はいったいなんなのだろうか。さっさと引き剥がしたいのに、体がそれを許してくれなくなる。脳が神経を麻痺させて、肉体の抵抗を禁じてくる。

 システム、なのだろうか。人間が保有する動物的な側面としての。種を継がないことには始まらないというのが、二重螺旋に深く刻まれているのだろうか。

 だって、もうそれ以外では説明がつかない。俺は自分の置かれている立場を理解していて、取るべきではない行動を把握している。そして現状、一花の舌さばきに応えているのは、明確な最悪手だ。

 唾液を取り換えたところで状況は打破できない。舌の根をねぶったところで状況は好転しない。それを全て知ったうえで、俺は一花の誘いに乗っかっている。

 性欲の斯くも恐ろしき……とふざけたスタンスに立てば、なんとかなるだろうか。分からないけれど、もっと悪いことになりそうで、大人しく思考のペースダウンを決めた。

 こうなったら、どうせ最後までしないと収まりがつかない。そんな事実は、とっくに知っているんだから。

 

 片手で一花を胸に抱き寄せ、もう片手はスカートにくぐらせた。そこいら一帯が蒸されたように水気を持っていて、こんなにしながら俺と話していたのかと半分呆れ、半分感じ入る。

 俺とて男だから、自分をそういう対象に見てくれる相手に何も感じないなんてことはない。ありがたくも思うし、ほんのちょっとだけ愛おしくも思う。相手が俺のそういう思いを望んでくれているのならなおさら。

 

 慣れた手つきでベルトを外して、閉所に苦しんでいたものを放り出す。今日だけで相当酷使しているのに、まだまだ折れることは知らないらしい。性豪もここまでくると称賛モノだ。

 

「…………っ」

 

 一花が逆手でそこを掴んだ。思えばこれまでは一も二もなく挿入することばかりで、前戯は蔑ろにしていたっけ。

 上下に擦られて、腰が浮きかける。自分でしようと思ったらそりゃあ順手だから、これは未知の感覚だ。しかも力加減が絶妙なせいで、射精までの最短経路を辿りかけている。

 情けなく達してしまうのも癪だから一花の秘部をかき回すと、彼女もそれに応じて握力に意識を振った。これはもう無理だなと思いながら絶頂を迎える寸前、今まさに精子がせり上がってくる亀頭を彼女の口がぱっくりと咥えた。そのあまりに想定外な刺激に驚愕して、若干の嬌声を伴いながら射精。それらすべては一花の口に吸いこまれ、そしてそのまま彼女の喉が大きく動いた。

 

「おいし……」

 

 そんなわけはないと思う。生活習慣は終わっているし。だけど、くだらないことに拘っていられる余裕はなかった。

 一度吐精したというのにまだ硬さも大きさも衰えることなく、俺は彼女を欲していた。あの圧で、包みこんでもらわずにはいられなかった。

 

「……掴まれ」

 

 他に人がいないのをいいことに、一花を長机に乗せた。高さの都合上、彼女がそこで開脚すれば、びっくりするくらいにぴったりと俺の体と接合されることになる。

 我ながら弩級の変態だと思うが、ここまで来たら止まれない。指二本で彼女の具合を整え終えて、息もつかせぬまま、いきり立ったソレを彼女に飲み込ませる。

 うねり、絡めとられる。

 スキーン腺液だかバルトリン腺液だかが潤滑油として欲される以上の量分泌されて、彼女の体外に漏れ出し、机に染みを作る。

 内臓としての精巧さが男のものとは段違いだから丁寧な扱いを心掛けなければとは思うけれど、思考で行動を制御できる段階は脱した。それゆえ、俺の体はもう快感を求めて荒々しく本能的に動くだけだ。

 

「っ、フータローくん……」

「…………」

「どう、きもちいい……?」

「……………………」

 

 この状況におけるその類の確認は、殺し文句になると知ってくれ。そう窘めてやりたいところだったが、思いが声になることはなかった。彼女からそんなことを言える余力すら奪い取ってしまおうと、体が加速するだけだった。

 

「あっ、あっ……」

 

 漏れ出す喘ぎは艶っぽく反響する。この姿を俺が独占できるという事実に脳みそのヒューズがトびかけるが、そこは溢れる情欲が俺をどうにかつなぎ留めてくれた。乱れる彼女の表情を、動きを、見逃してしまうのは人生における大いなる損失だと本能が訴えている。

 

「……………………ぁ!」

 

 彼女の両足が、何かに耐えかねるように大きく開いた。直後、強烈な締め付けでもって、俺が貯蔵する限りの精子が根こそぎ搾り取られる。一滴も残さないくらいの勢いならまだマシで、これは一匹も残さないレベルの勢い。腰が抜ける一歩手前の快感に全身をがんじがらめにされて、みっともなく身悶えする。

 

 そんな俺を見て、一花は。

 

「…………おわり?」

 

 揺れる瞳は次なる快感を心待ちにしているようで、それを察してしまった俺のボルテージが、最大から更に加速した。

 

「んなわけ……」

 

 覆いかぶさって、出鱈目な調子で体を打ち付け合う。ここで壊してしまうくらいの勢いで、ここで不能になっても構わないくらいの動きで、彼女を俺の色で染め上げていく。

 直後、また絶頂。が、それを無視して体を動かす。

 もう、ここまで来たら、限界の先くらい拝んでおかないと、損得の収支が合わなくなると思うのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「あのさ」

「なに、フータロー君?」

「今は誰も選ばないって約束したら、こういうの、終わりに出来るか?」

 

 汗やら何やらでべちゃべちゃになったお互いの体をティッシュで吹きつつ、切り出す。相変わらず、タイミングを間違っている気はするけれども。

 

「お前を選ぶわけじゃないけど、他の誰かに決めることもない。そう誓ったら、元通りの関係性に戻れるか?」

 

 彼女の不安要素はそこだった。俺の帰属先がいったいどこになるのだと。だから、前もって自分はどこにも属さない旨を伝えておけば、なんとかなるかもしれないと思った。

 

「いつまで保留する気?」

「…………卒業までには、どうにか」

「どういう基準で決めるの?」

「成績順じゃねえかな」

 

 半分冗談で告げると、一花の顔が青ざめる。今以上に勉強する未来を想像したからかもしれない。

 もちろんそんな風な選出基準は設けないけれど、ひとまずそれで沈静化が図れるならありがたい。他の連中にもそう言って多少の安堵を与えれば、今より酷くなることはないだろう。……いや、選ぶ選ばないなんて言える立場なのかな俺……。

 

「抜け駆けがないなら、お前は安心だろ」

「まあ、うん。そうかも」

「だったらそれで頼む。いつかちゃんとけじめはつけるから」

 

 ここまでして責任の所在を有耶無耶にするのは人間として終わっている。だから、どんな形であれ結末ははっきりさせるつもりだ。……刺されそうだな、いつか。

 

「……あの、フータロー君」

「なんだ」

「…………っ」

 

 そこでまた、唐突に唇を塞がれる。交渉が一瞬で決裂したかと肩を落とす俺に、一花は一言。

 

「これは抜け駆けに入る……かな?」

「…………好きにしろ」

 

 やっぱりどこまで行っても詰めが甘い。だけどこれで、どうにか活路が見いだせた気がする。初期の目標を達成できるだけの道筋をなんとか作れた。

 

「…………あぅ」

「ただし、一日一回までな」

 

 またまた迫ってきた一花を片手で制する。俺に欲されていたのは、この鋼の精神だった。

 家庭教師業務の明日は、俺が自分で作るのだ。

 



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まにまにりぽーと①

「うげっ」

「その反応は人としてどうなのよ」

 

 チラシに挟まっていた特売情報に釣られてやって来た、日頃利用しないスーパーで知った顔に遭遇した。時に、この知った顔という表現は俺にとってかなり厄介なものであるように思える。なにせ、別人のくせに顔が同じという面倒な連中と付き合いを持ってしまっているものだから。

 

「ちょうどいいから手を貸しなさいよ。この卵、おひとり様一パックまでらしいから」

「……ったく」

 

 差し出された10個入り1セットの生卵を渋々受け取る。我が家ほどではないが、彼女たちの家計も贅沢が許されないレベルのものなのは知っているので、ここで無碍に断るのは良心が痛む。本当は、もっと他に痛めるべきポイントがあるのかもしれないが。

 元から自分が持っていた買い物カゴにそのパックを詰め込み、ゆっくりフェードアウトしようとしたところで彼女に腕を掴まれる。二乃は、こういう時に簡単には逃がしてはくれない奴だ。

 

「あんたにどっか行かれたら意味ないじゃない」

「そこはほら、また後日的な」

「待ってる間に消費期限が来ちゃうわよ」

 

 たいてい二週間くらいの猶予はあるのだし、それに間に合わないことはないだろうと思った。しかし、その言葉は胸の奥底にしまいこむ。揚げ足を取るのはいいが、そうすると自分の揚げ足が取られる確率まで上がってしまうからだ。失言や失態と無縁ではない生き方をしている自覚があるのも相まって、ここで余計なことをするのは悪手だという直感が走った。

 諦めて、二乃の横につく。が、無抵抗の意思表示をしているにも関わらず、彼女は俺の腕を返してくれなかった。

 

「逃げないっての」

「分かってるわよ」

「それが分かるなら俺の言いたいことも察しろ」

 

 言葉を濁して自分の意思を他人に推し量ってもらうというのは酷い甘えだし、傲慢であるとも思う。だが、その理由を口に出すのも出すので憚られるという極大のジレンマが、俺の動きを鈍らせた。公衆の面前で女子と引っ付くのが恥ずかしいだなんて、堂々と言えることではない。

 

「これ?」

 

 二乃は、解放するどころか自分の腕を俺に絡めてくる。いたずらっぽい笑みは、『意図を理解した上でやっている』というおちょくりか。

 

「もちろんわざとやってるんだけど、なんでだと思う?」

「なぜクイズ」

「正解は、見せつけたいから、でした」

「答えさせてもくれないのか……」

 

 思ったことをそのまま伝えてくれるのは、裏を疑わなくていいという点ではものすごく楽だ。楽だ……が。それにしたって、時と状況を選んでもらわないことには、こちらが対応策を用意できなくなってしまう。端的に言えば、すごく困る。

 

「しょうがないでしょ。こうでもしないとあんた、私のこと意識もしないんだろうし」

「俺はそこまで鈍い奴だと思われてんのか」

「思ってるからやってるのよ」

 

 ごもっとも。だからといって受け流せるかといえば、それもまた別問題だが。

 

「誰かさんが直々に、『卒業までは考えさせろ~』なんて言うもんだから、私はそれまでの得点稼ぎに必死なの」

「その発言が俺の心象を悪くするとは思わなかったのか?」

「薬まで使って色々やった人間に対する感情が、たかだか一つや二つの言葉で変わるわけもないでしょ」

 

 それもまたごもっとも。酷い正当化だとは思うけれど。

 しかし、彼女の言う点数稼ぎとやらは、かなり体を張る行為らしい。その証拠として、毅然と振舞おうとしているのはなんとなく分かるけれど、二乃の瞳は妙に揺れている。

 

「恥ずかしいならやらなきゃいいものを」

「うるさいわね。慣れてないだけよ」

「お前、これに慣れるつもりなのか……?」

「ゆくゆくはね」

 

 ゆくゆく、というのがどれくらい先を指しているかは不明だった。卒業までか、あるいはもっと未来までか。万一後者だったとして、こいつはいつまで俺に執着する気なのだろう。

 

「式ではどうせこのスタイルなんだし」

「俺はお前が怖いよ」

 

 式と言うのはたぶん、冠婚葬祭の頭から二つ目のアレだ。確かにバージンロードを歩く新郎新婦は腕組みをしているイメージがあるが、そこまで見据えているというのは流石に恐ろしい。なぜこの段階から俺と添い遂げる覚悟を固めているんだこの女子高生は。

 

「もう否定するのも疲れたから聞くんだけどさ、お前の人生設計ってどうなってんの?」

「子供は二人以上欲しいわね」

「家族計画はまた今度聞くから今は控えろ。俺が聞きたいのは、何歳で何をして~みたいなのだ」

 

 とんでもない爆弾発言が飛び出たが、そこまで驚きもしなかった。既にそれを目的とした行為を重ねてしまったからというのが主要因だと思う。俺は二乃が怖いが、それ以上に自分も怖い。

 

「取りあえずはまあ、高校卒業よね」

「そっちの見通しはだいぶ立って来たな」

 

 今は屋根の下にいるから感じないが、外に出れば既に秋の匂いが漂う時期だ。途中途中のテストなんかも順当に突破してきていて、よっぽどのことでもない限り彼女たちは当初の目標通りに高校修了の有資格者となる。

 

「そうしたら、料理の専門学校にでも行こうかしら」

「得意分野だもんな」

 

 自分の店を持つみたいな話もあった。なら、そこに至るまでに必要とされるものをかき集める必要があるだろう。俺が思いつく範囲では、調理師免許とかだろうか。

 

「で、そこも卒業したら就職よね」

「おう」

 

 当たり前の流れだ。ここまでは俺でも予想できる。

 

「その場所で二年働いて」

「なるほど」

 

 起業のための準備金を貯めると。プランとしては悪くない。ただ、二年でどこまで貯金できるかがネックか。そこは彼女の頑張りにも依るだろうが、それにしたって昨今の労働状況では、二十代前半からがっぽり稼ぐのは厳しい。だから銀行にでも頼るのかと思って、次の言葉を待つと。

 

「そして、ちょうど大学卒業のあんたと入籍ね」

「おい」

「しばらくは家事育児に追われるだろうから専業主婦で」

「おい」

「子供から手が離せるようになったら、そこでようやく夢の実現に向けて頑張ろうかしら」

「おい」

「何よ?」

「それは俺の台詞なんだけど」

「どこかおかしかった?」

「全体的にな」

 

 具体的にどこが、と指定するなら、大学卒業~のくだりからだろうか。何と言うか、自分の人生設計に他人を絡めすぎていやしないか、これ?

 

「あんたとくっつくのは確定事項だもの」

「おかしいな認めた記憶がない」

「認めさせるわ、近いうちにね」

 

 背中に鳥肌がぶわぁっと広がった。嫌な予感は、今日も休まず俺の後方数センチの至近距離に詰めてきている。

 この強引さが二乃らしさなのだろうとは思うが、やっぱりしばらくの間はこいつから供与される飲食物に対して一定以上の警戒心を持っていた方が良さそうな気がした。それから、ハンコの類は絶対に隠していようとも。

 

「あれだけ色々したんだもん、責任取ってもらわなくちゃ」

「ピンポイントで俺の弱点刺すんじゃねえよ……」

 

 そこを指摘されたら何も言い返せないのだ。だから、そればっかりは勘弁してもらわないといけない。それからその理論で行くと、俺にはあと二人ほど責任を回収しなきゃならない相手がいる。

 先のことを考えてため息を吐くと、二乃との距離がいっそう縮まった。いつだかにたっぷり堪能した柔らかさが一瞬だけ呼吸を乱すが、しっかり落ち着いて「あんまりくっつくな」と冷静な返答を選択する。

 

「卵が割れるだろ」

「必要経費よ」

「まだ未購入だってのに……」

 

 それでも離れてはくれないらしくて、なおも腕をホールドされたまま、生鮮売り場やら野菜売り場やらを巡る。忘れかけていたがこれはそもそも我が家のための買い物なので、自分の目的物も手に取っていかなければならない。

 夕時のスーパーは仕事帰りのサラリーマンやら材料を買い込みに来た主婦やらでごった返していて、そんな中で女子とべたべたくっつきながら歩くのはなかなかにキツかった。主に浴びせられる視線が。

 

「そういえばさ」

「なんだよ?」

「私さっき、あんたが大学行く前提で話しちゃったけど、そういうのって考えてるの?」

「問題のある仮定はそっちの方じゃないだろ」

「いや、これは割と真面目な話」

「……どうだろうな」

 

 学びを深めるという点では、間違いなく大学進学は価値のある行為だ。ただ問題があるとしたら、俺は別に好きで勉強をやっているわけではないということ。いつか獲得した知識や知恵が役立つようにと思って励んではいるが、そこに重きを置き過ぎたせいで将来像はまるで固まっていないように思う。過程と結果が存在する世界で、過程に力を注ぎ過ぎてしまったのかもしれない。

 だから、迷いがある。

 

「知ってるとは思うが、ウチに俺を道楽で進学させられるほどの余裕はない」

「まあ、なんとなくはね」

 

 借金は伏せてあるが、それにしたって切迫した懐事情については既にバレバレだ。そんな中、なんとなくで四年間も家の負担にはなれない。進学するなら、明確な理由が要る。

 それが今の俺にあるかと問われれば、答えに窮する。『いつか役に立つように』は明確な理由足りえない。

 

「だから、ギリギリまで考える。何をしたいかとか、何が出来るかとか」

「人の進路ばっかり気にして自分の将来設計がすっからかんなところとか、すごいあんたらしいわね」

「うっせ」

 

 奨学金に頼ればどうにかならないこともない。だけど、それだって一応は借金の部類だし。

 

「ま、最悪路頭に迷った時は私が養ってあげるから安心して」

「迷わねえからお前も安心しろ」

 

 こういう場面での軽口は、素直にありがたかった。今までに色々あったが、そこで培われた信頼の一端を見ることが出来たように思えるから。邂逅から一年、忙しない毎日を駆け抜けてきたが、走った後にはちゃんと道が出来ている。この事実が救いになるかどうかは、今はまだそこまで分からないけれど。

 

「あんた向きの仕事、私は一つ思いつくけどね」

「なんだ?」

「秘密。こういうのって、自分で気づくのが大切なんじゃない?」

「そういうもんか?」

「あんただって、最初から答えは教えないでしょ」

「そういうもんか……」

 

 動機づけの根っこはあくまで自分であるべき、か。他人の言葉を原動力に走るのは美しいが、それ以上に脆い。理由が自分の中にないわけだから、迷った時に立ち返る場所が消え去るのだ。やっぱり、最終的な責任は自分自身で負えるように立ち回る方が理性的。誰かのせいにして、己の惨めさに潰されないようにするためにも。

 

「前途多難だ……」

「頑張りなさいよ。頼りにしてるんだから」

 

 そうだった。俺の双肩には、五姉妹の未来ものしかかっている。ここでダウンするのはあまりに早すぎるだろう。

 もうひと踏ん張り、だ。

 

 

 

 

 

「手間賃」

 

 引き止められてイートインスペースに座らされると、二乃にホットココアを手渡された。特売の卵で得た利益が消し飛んでいる気がしたが、もらえるものはもらっておくことにする。……だけど、その前に。

 

「ほれ、毒見」

 

 プルトップを持ち上げて、最初の一口目を彼女に譲った。気が付いたらベッドの上……なんて事態はもう御免だ。やり過ぎな感もあるが、これくらい警戒しているのだというスタンスを示すことで大きな牽制になる。俺としては、むしろそれがメインの狙いだった。

 

「ん」

 

 何事もなく二乃が数口飲み干して、ちょっとだけ容積が減った缶をこちらに返してくる。当たり前だが、何かが盛られてはいなかったようだ。

 

「もちろん薬は入ってないわ」

「……似たようなことしたなあ」

「……?」

「こっちの話だ」

 

 見たところ、鼻水が入っていることもないだろう。だからそのままごくごくと、貴重な甘味を摂取していく。

 そういえばこれは、世間で言うところの間接なんちゃらにあたるのだろうか。直接どころか舌の感触まで知っている身なので、特に気にすることもなかったが。

 それは彼女も同じようなものだろうなと思って、顔をちらと覗くと。

 

「……そういえば間接キスは初めてよね」

「新たに倒錯した性癖に目覚めるな」

「喉渇いたからもう一口ちょうだい」

 

 これはやべーぞと、一気に残りを飲み干した。炭酸ジュースでなくて良かったと一安心だ。

 

「けち」

「倹約家と呼べ」

 

 近くにあったゴミ箱に、空き缶を投げ捨てる。もし回収されたら何に使われるか分からないので、出来るだけ奥の方を狙って。

 

「……まあいいわ。付き合わせて悪かったわね」

「気にすんな」

 

 足元に置いたレジ袋を持って、自動ドアの方に足を向ける。当然彼女もそうするものだとばかり思っていたが。

 

「…………っ」

 

 気の抜けた一瞬の隙に、もう奪うだけの価値が残っているのかどうかすら分からないものを、目にも止まらぬ速さで奪取された。あまりに手際が良すぎたせいで、反応らしい反応も、抵抗らしい抵抗も出来なかった。

 

「一日一回、今日はまだしてなかったでしょ……?」

 

 「じゃ」と短く言って、二乃はすたこらと店外に出ていった。残された俺はと言えば、にわかに色めき立った周囲の視線に晒されながら、ただ一人で項垂れるだけ。

 

「…………くそ」

 

 変なルール作るんじゃなかった。

 呟きは喧噪に溶けてしまって、きっと誰の耳にも届いていない。

 



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まにまにりぽーと②

 季節は巡る。時間は過ぎる。途中でどれだけぐだぐだとやっていても、それだけは間違いのないことに思える。悩みも葛藤も、苛まれている期間にはそれが永遠に続くような気がしてならないが、後から振り返ってみれば、それがなんてことない出来事だったなんて事態はザラだ。

 なら、俺が今胸中に抱えているはっきりとはしない靄のかかった感情も、数年後、数十年後から見れば取るに足らない些末事に映るのだろうか。

 

「上杉さん?」

「…………悪い。考えごとしてた」

 

 一応は仕事中なのに、意識を散らしてしまっていた。目先に色々な障害があるせいで、ここ最近は何事においてもイマイチ集中できていない気がする。

 

「体調悪いんですか?」

「そうじゃない」

 

 手を振って否定。寝不足など今に始まったことではないし、その他体に異常が出ているわけでもない。ただ、進路のことだとか、保留しまくっている告白のことだとか、簡単には片付いてくれそうにもない問題たちに追い込まれているだけだ。

 

「でも、最近元気がないように見えます」

「お前と比べればな」

「前の上杉さんと比べてもです」

 

 左右の手を上下させて、比較を表そうとする四葉。表出するほど参っているつもりではなかったが、知らず苦しんでいる部分もあったようだ。それを指摘されたら、否定できないかもしれない。

 

「私、そんなに危ないですか?」

「それも違う。むしろ良くやってる方だ」

 

 採点し終えたばかりの答案を彼女に返す。〇と×の比率は目算で半々程度。進学意思があるなら相当マズいが、目標を卒業だけに据えるなら余裕の合格点だ。当初のスカスカな解答用紙を思い出せば、これだけ大きな成長も他にはないだろう。

 だから、俺が妙に気の抜けた仕事をしてしまっているのは、環境が寄与するところもあるのかもしれない。

 

「ノルマは全員クリアしていて、しかもバイトのブッキングで今日居るのはお前だけ。そのせいで変に落ち着いてんのかもな」

 

 姉三人組の前では色々な意味で気が抜けないので、その分の揺り戻しを四葉と五月にぶつけている気がする。こちらの勝手な事情に巻き込んで申し訳ないが、緩急をつけないと俺が早々に死んでしまうから。

 姉妹間で扱いに差をつけているつもりはないが、どうしても意識の外で、妹二人に甘えている感じはあった。あからさまな恋愛感情から逃げるためにはそうする外になかったし。……いつか必ず向き合う問題とは分かっていても、相応の準備期間は要るのだ。向こうもそれはなんとなく承知してくれているみたいで、一時期の烈火のごときアプローチは鳴りを潜めてくれたけれど。

 

「まあ、俺の問題だからお前は気にすんな。このペースを維持できれば、卒業はほぼ確実だ」

 

 俺の懸念を他所に、勉学には全員が真摯に取り組んでくれている。だからもう、俺の役割は教師ではなくモチベーターと言った方が近い。誰かが息切れしないように、少し後ろで見守ってやるだけでいい。

 正直、この時点で任の大部分は完遂したと言っても良かった。後は彼女たちが、自分の力で勝手に欲しいものをつかみ取ってくれる。

 

「あの、上杉さん……」

「ん?」

「それなら一つ、おねだりしてもいいですか……?」

「……ん」

 

 特に何を考えることもなく首肯。他人のことばかり考えて行動する四葉が、明確に自分の願望を遂げようとするその光景に、少し興味が湧いたというのもあった。

 

「その、ですね――」

 

 告げられる言葉を、そのままに受け入れる。

 それはやっぱり、彼女にしてはかなり意外なお願いで――

 

 

 

 

 

「秋晴れの気持ちいい空です!」

 

 両腕を目いっぱい広げて、四葉が息を大きく吸い込んだ。言葉の通り空の色は澄んでいて、程よい陽気に包まれている。

 休日の昼間にこうして出歩いた経験が少ないもので、感じる光や匂いがどうにも新鮮に思えた。別に、大気の組成が他の日から変わっているわけもないというのに。

 

「なあ四葉」

「なんです上杉さん?」

「どうして急に散歩?」

「まあまあ、たまにはこういうのもいいじゃないですか」

 

 四葉が数歩前を先行し、俺がそれに続く。本来ならば勉強に充てている時間をこんな風に使う罪悪感は消しきれなかったが、あのまま続けたところで、という思いもあった。なら、今日は四葉に付き従ってみるのもアリかもしれない。

 

「ずっと家の中にいてばかりじゃ、体にカビが生えちゃいますし」

「ちなみにカビ菌は誰の体にでも常在してるぞ」

「えっ」

 

 凍り付いた四葉を追い越す。秋色に染まった世界は全てがゆっくり動いているようで、自然と自分の中にも余裕が生まれてくるような気がした。思えば最近、小休止すら挟むことなく駆け抜け続けていたかもしれない。そんな溺れかけの頭で何を考えようと、画期的なアイデアは生まれないだろう。

 だから、今日はこうやって一息つく機会を与えてくれた四葉に感謝すべきなのかもしれない。サボりの正当化と言われればそれまでだけれども。

 

「水虫とかがそれだな。まあ、若いうちにはそこまで気にすることでもない」

「不吉なこと言わないでくださいよぅ」

 

 白癬菌がどーたらとか、カビと言えばペニシリンだとか、そこから話を広げる手段はいくつか自分の中に用意されていたが、要らない蘊蓄を垂れ流す場面でもないだろうと思って控えた。インテリジェンスな事柄からは、少しの間だけ距離を置こう。それが、今の俺に必要なことな気がする。

 正しく気を抜こう。自分の体の中にあるガスだまりを少しでも小さくすれば、もう少しだけ、頑張れる気がするから。

 

「で、ここから何すんの?」

「色々考えてありますよ。行きたい場所、たくさんあるので」

「……まあ、ほどほどに付き合おう」

 

 なんなら、このまましばらく歩き続けるだけでも良かった。だが四葉に案があるというのなら、それに乗っかるのもやぶさかではない。積極的休養というやつだ。

 

 さっき追い越した四葉がまた俺の横に並ぶ。別に競争をしているわけじゃないのに俺の中の負けず嫌いが顔を出して、更に一歩前に踏み出そうとする。

 しかし、それは四葉の手によって阻まれてしまった。

 

「もう」

「なんだよ」

「歩幅、気を付けないとダメですよ」

「……?」

「女の子と歩く時はちゃんと足並みそろえないと」

「そろえないとどうなる?」

「愛想をつかされます」

「じゃあ俺は今、お前からの愛想とかいうものを全部失ったってわけか?」

「はい。……ですが」

「ですが、なんだ?」

「これまでの貯金分があるので、ギリギリ一回コンティニューですね」

 

 微笑む四葉。困惑する俺。どこにそんな蓄えがあったかは謎だが、継続してくれるのならまあ、悪くはないか。

 こんなところで信頼関係を砕く意味は感じられない。自分からアクティブに失っていこうと思えるものでもない。

 彼女がゆっくり歩けと言うのなら、それに合わせるくらいは、良いとしよう。

 

「それと、上杉さん?」

「ん?」

「女の子と二人っきりの時に『落ち着く』は禁句ですよ」

「どうした急に」

「さっき家で言ってたじゃないですか。居るのはお前だけだから落ち着くって」

「まあ、確かにそんなこと言ったような、言ってないような……」

「それは良くないです」

「なぜ?」

「なんでもです。少なくとも私はちょっぴり傷つきました」

「落ち着いてないほうが良いのか?」

「それもちょっとだけ違いますけど……。でも、さっきのはアウトです。だから今日はもうツーアウトなんです」

「もう一回アウトになると?」

「本当に愛想をつかせます」

「うえぇ」

 

 かねてから一番協力的だった四葉に背を向けられては、さしもの俺も心が折れてしまうかもしれない。それは好ましくないことだと、素直に思った。

 

「綱渡りみたいだ」

 

 バランスを取りながら狭所を歩いている感じ。あまり俺の得意とするところではない。

 

「もちろん、得点を稼げばその限りではありませんよ」

「なんだ、ご機嫌取りでもすればいいのか」

「もう、上杉さんはすぐそういうこと言う」

「そういうこと言わなきゃいいの?」

「それもちょっと違いますね」

 

 言って、四葉は俺の手を取って。

 

「ほら、こういうの、なんて言うんでしたっけ?」

「は?」

「休日、男女でお出かけするの、なんて言うんでしたっけ?」

「…………」

「去年も一回したじゃないですか」

「…………デートだな。デート」

「正解です!」

 

 そのまま、腕を絡めとられる。ちょっと前にも二乃から同じことをされたが、彼女と四葉とでは筋肉のつき具合に違いがあるせいか、今はより強固に、腕を引っ張り込まれている感覚があった。

 

「これで1ポイントですね」

「ちなみにそのポイント、貯めるとどうなるんだ?」

「428ポイントまで貯めるとギョウザ無料券と引き換えできます」

「ラーメン屋かよ」

 

 道のりの長さに対して景品が異様にしょぼい。途中でカウントが忘れ去られそうだという懸念もつきまとう。なんにせよ、カウンターがストップすることはなさそうだ。少なくとも、俺の手によっては。

 しかし、デートと来たか。こいつはそのあたりのフットワークは軽そうだから、大した意味があるわけでもないのだろうが。それこそ去年の例もあるし。

 だからきっと、腕を持って行ったのも雰囲気作りの一環だ。去年の段階でやられたら多少は狼狽していたかもしれないが、今の俺には、その程度ならなんでもない。この前衆人環視の下で接吻を喰らった人間を甘く見ないで欲しい。

 

「じゃ、ぼちぼち行きましょうか?」

「おう、どこでもいいぞ」

 

 俺の反応に対し、四葉が「ちっちっち」とややオーバーに顔の前で人差し指を振る。何やらもの申したげな様子だ。

 

「そこは、『お前と一緒ならどこでも楽しいぞ』ですよ」

「オマエトイッショナラドコデモタノシイゾ」

「これで2ポイントですね♪」

 

 どこまで形から入るつもりなんだとため息を吐いた。あと426ポイントは、やっぱり絶対貯まりそうにない。

 



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まにまにりぽーと③

 彼女の言うように、去年の勤労感謝の日にも似たような調子で街を練り歩いた。その時は金持ち特有の壊れた金銭感覚に散々振り回されたが、現況を鑑みれば、流石にあの時と同じようにはいかないだろう。彼女たちはバイトで生計を立てる身になったし、棲み処だって大幅にランクが下がった。それでもなおウチよりはよっぽどマシな場所に住んでいるが、節約することは覚えたはずだ。そもそも元はかなり貧乏な生活を送っていたらしいから、ひもじさやら惨めさやらには耐性があるのかもしれない。

 生活レベルを下げるというのはなかなかに苦痛の伴うことだと聞いているが、残念ながら最底辺を脱したことがないので俺にその感覚は理解できなかった。同時に、それを彼女たちに聞こうとも思わない。ドンケツ同士の比べあいなど、虚しいだけで何も生み出さないという自覚があるからだ。

 

「四葉」

「はい?」

「それ、楽しいか?」

「ええ、すっごく」

 

 導入らしい導入はなかったのに、自身を責める貧乏に気分を暗くしていた。先が見えないというのはどうにも厄介で、じくじくと心の深くを蝕んでいく。それなりに受け入れていることではあるのだけれど。

 だからこそ、最近はそれなりに苦しい生活を送っているはずなのに明るさを絶やすことのない四葉を不思議に思った。今も、商品棚にならんだガラス細工に目を光らせて、とっかえひっかえ手に掴んでは興味深そうに眺めている。

 個人の性格決定に環境の寄与が大きいとするのなら、それこそ彼女の行動は奇行の類に該当するのではないか。困った生活状況の中で笑い続けられるというのは、ほとほと理解しがたいものがある。まあ、同じ環境で育った人間が五人いて、その全員がまるっきり違う人間性を手にしている以上、そんな仮定は無意味かもしれないが。性格は遺伝子によって定められているとかなんとかいった情報を、いつだか目にした記憶もあるし。

 だが、目に見えないサイズ感で進行している塩基配列の話などはこの際どうでもよかった。俺が疑問視している主題は、そんなところに置かれていない。

 

「綺麗なものを見ていると、なんだかとても幸せな気持ちになれますから」

「そんなもんか」

 

 さっきまで四葉の手のひらの中にあった小物を、今度は俺が手に取る。

 なんてことはない、ただの雑貨。そもそもからして雑貨という単語が担う構造物の範囲が曖昧すぎて俺はもやもやするのだが、そんな愚痴を彼女に言っても意味がない。生産性がない。だから、俺も彼女がそうしていたように、ガラス細工を照明に透かして見る。

 

「どうです、何か感じました?」

「この前解いたレンズの問題を思い出した」

「……む」

「ってのは嘘で」

 

 嘘じゃないが、嘘にした方が良さそうだ。わざわざ喧嘩を売っても仕方ない。

 しかし、これといって思うこともなかった。実用性に重きを置く人生なので、動物の形を模したただの飾りに飾り以上の意味を見いだせない。発想力の貧困を指摘されても、おそらく俺はそれを否定できないだろう。

 

「嘘なんだが……」

「なんでしょう?」

「……すまん、こういう時って何を思うのが正解なんだ?」

 

 堪らず教えを乞うた。俺の人生経験からでは、彼女が望む回答を導き出せない。それこそ逆立ちしたって無理なものは無理。加減乗除を知らない人間に複雑な方程式が解き明かせようはずもないのだ。

 だから、普段は教える立場の俺が、その立ち位置の逆転を是とした。四葉相手につまらない意地を張るだけ無駄だ。

 

「上杉さんは、難しく考えすぎなのかもですね」

「そうか?」

「はい。綺麗なものを見たら綺麗。美味しいものを食べたら美味しい。面白い話を聞いたら面白い。それで全然良いんです」

「発展性が……」

「応用問題ばかりじゃないんですよ、世界は」

 

 一を見て一を知るだけでは、知的生物として著しく停滞しているように思うが。しかし彼女的には、そうでもないらしい。

 手に持ったイルカっぽい雑貨を前に硬直した俺の周りを、四葉がぐるっと一周した。何かを伝えたいが故の行動なのか、それとも無意味なのか、俺にはさっぱり分からない。

 

「たとえばほら、こんなのはどうです?」

 

 近くにあったしゃれた髪飾りを手に取って、頭に重ねて見せる四葉。それに対して、どうですかと言われれば。

 

「しっかり着用しないあたりに売り物への配慮が見える」

「やっぱり考えすぎです。もっと単純に、さあ」

「リボンと合わせてお前の頭部の無秩序感が留まることを知らなくなった」

「はっきり言い過ぎです。他には?」

「他にはって……」

 

 感じたことをそのまま言ってみたけれど、それでもまだ答えがひねたものになっているらしい。こうなると、もはや彼女の裁量に俺の価値観を合わせているだけにも思えてくるが。

 

「女の子がかわいいものを身に着けているんですよ?」

「似合ってる?」

「惜しい! ニアピン賞です。でも、もっともっと単純なの、ありません?」

「単純、ねえ」

 

 四葉が出した例えをもとにして、導き出される答えとは何か。正直なんとなく気づいてはいて、実のところは口に出すのが恥ずかしいだけだってことは、胸の内にそっと秘しておくことにして。

 

「…………かわいいな、それ」

「はい!」

 

 ようやく俺から引き出せた言葉にご満悦なのか、花のように笑う四葉。誘導尋問だろと文句の一つも言ってやろうかと思っていたが、こうも幸せそうな顔をされると、毒気を抜かれてしまってダメだ。

 

「でも、『それ』が余計だったので、ちょっとだけ減点です」

「手厳しいこった」

 

 そこが譲歩できる最低のラインだった。あくまでものに対して褒めるスタンスなら、俺でもギリギリ対応できる。本人含めてとなると、流石にこっぱずかしいんだ。分かれ。

 

「で、今のは結局何点だったんだ?」

「合計して今日の終わりに発表する手筈ですので」

「繰り上がりには注意な」

 

 酷い忠告だが、四葉なら冗談抜きでやりかねないミスだ。それに対して彼女は「オブラートに包むのとはまた別です!」とぷっくりむくれていた。相変わらず、他人の心情を推し量るのは難しい。

 

「じゃあ、お会計してくるのでちょっとだけ待っててください」

「買うのかそれ?」

「はい。褒めてもらったので」

 

 ほとんど褒めさせられたのだけれど、そこは関係ないらしい。

 俺がスマートな男だったら代わりに金を払ってやるシーンなのかもしれないが、残念なことにそんな甲斐性はどこにもなかった。

 だから、まあ、ちょうどいい妥協点として。

 

「……今度があるなら、もうちょいストレートに感想言うわ」

「おおっ、ポイント稼ぎに来てますね?」

「うっせ」

 

 リボンの片耳を、型崩れしない程度の力で引っ張る。彼女はまるでそこにまで触覚が通っているような様子で「あうー」と目を瞬かせるが、当然リボンは肉体から独立した機構なので無視した。いつものように少しだけ手直しは加えたけれど。

 

「今度、今日中に来ると良いなあ」

「いくらなんでもペースが早えよ」

 

 そうなったらそうなったで、どうせ俺は二の脚を踏んでしまうのだろう。ためらっている自分の姿だけははっきりと思い描けて、情けなさに苦笑した。



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まにまにりぽーと④

 落ち着いた店の中に、これまた落ち着いた音楽が流れている。世代が違うからさっぱり分からないが、こういう場所に流れているのは数世代前に流行ったジャズだと相場が決まっているので、そんなもんなんだろうと思うことにする。残念なことに、世代直撃の音楽ですら俺には良く分かっていないけれど。

 しかし、そんな適当な認識なりに、今響いている曲がいわゆる名曲の類であることは分かった。音量の割に思考の邪魔をしないし耳障りでもないので、BGMとしてはこれ以上ない代物だろう。

 

「で、ここでは何をするんだ?」

「喫茶店なんですから、喫茶するんじゃないでしょうか?」

「だろうな」

 

 場所を移して、くつろいでいる。照明は全体的に暗めで、西側から差す木漏れ日が目立った。もしかすると、それを意図して設計された店内なのかもしれない。

 やたらと木目が強調されたテーブルはマホガニー材で出来ているとこれまた相場が決まっているので、そんなもんなんだろうと思うことにする。厨房の方からはシロップ系の甘い香りが漂って来ていて、思いがけずに空腹を刺激された。

 

「ここのパンケーキがとっても美味しいんですよ」

 

 メニュー表を指さしながら教えてくる四葉。三段重ねの生地の上にはアイスクリームとさくらんぼがのっかっていて、確かに美味そうだった。

 こんな状況で唐突に脱線するが、俺は未だにパンケーキとホットケーキの違いが理解できていない。

 

「上杉さん、今パンケーキとホットケーキの違いがさっぱり分からないって顔してますね」

「心を読まないでくれ」

「私も気になってちょっと前に二乃に尋ねてみたんですが、基本的には同じものらしいですよ」

「同じなのかよ……」

 

 そんなことを聞かされたら、今後パンケーキとホットケーキの両方を販売している飲食店に訪れた時、この店メニューの嵩増ししてんな……という悲しい視点で食いものを選ぶことになる。たまにこうして世界の闇をつっついた気分になるのが、知識を獲得していくうえでの難点か。

 だから、悲しくならないように自分の中では上手いこと噛み砕いておこう。エデンもパラダイスもシャングリラもヘブンも天国も大体全部楽園と言う意味でくくれるが、宗教体系やらなんやらで解釈に幅がある。つまりはこの度のパンケーキとホットケーキ問題も、それの類題みたいなものに違いない。適当ぶっこいてるだけだけど。

 

 注文を取りに来た店員に、コーヒー二杯と例のパンケーキを要求する。俺は食わないが、きっと四葉は美味そうに食すのだろうから、それを見て満足することにしよう。

 

「そういやお前コーヒー飲めんの?」

「お砂糖とミルクがあれば」

「そこまで行ったらカフェオレで良いだろ」

「ブラックを注文するの、大人っぽくてかっこいいので」

「分からんでもないが」

「ちなみにいつもはカフェオレを頼んでます。でも今日は上杉さんの前なので見栄を張りました」

「緩やかな見栄だな」

 

 張る前から見栄だとバレてしまっているが、それはいいのだろうか。問題は、そんなところで見栄だの意地だのを張ったところで、俺の人物評になんら変化はないということだが。

 

「何事も挑戦、か」

 

 運ばれてきたコーヒーを前にして小さく呟く。四葉がコーヒーを飲んでみたいというのなら、俺にそれを止める権利も権限もない。彼女の持つ小遣いの範囲で何をしようにも、それは個人の自由だからだ。全メニュー制覇みたいな到底クリアしようもない上に店側にも迷惑がかかるような試みなら制することもあるかもだが、たかがコーヒーの一杯くらいでぐだぐだ言うのも馬鹿らしい。

 

「…………」

「ほら、砂糖」

「やっぱり強敵です、これ」

 

 ちょっとだけカップを傾けてから固まってしまった四葉に助け舟を出した。ブラックなんて飲めずとも生きていくうえでの障害にはなり得ないのだから、無理ならさっさと諦めるが吉だ。

 

「無理して苦いものに手をつけるくらいなら、好きな甘いものを食ってた方がよっぽど良いと思うが」

「それもそうでした」

 

 四葉は苦笑を挟んでから、シロップと生クリームで覆われたスイーツにフォークを伸ばした。案の定、分かりやすいくらい美味そうに食ってくれる。見ているだけでこちらも上機嫌になれそうだ。

 

「はい、上杉さん」

「…………なんだこれは」

「あーんですよ、あーん」

「要らねえよ。子供じゃねえんだし……」

「私が上杉さんに食べてもらいたいんですよー」

 

 口許に伸ばされた切れ端をどうにか押し返そうとするが、思った以上に本気らしい四葉の圧に観念して、そのまま押し負けることにした。途端に糖蜜の味が口の中をいっぱいに満たして、いかにも四葉が好みそうな味だなあと理解する。

 

「どうです、美味しい?」

「…………甘いな。甘い」

 

 今度は率直な感想を述べることが出来た。甘すぎるくらいに甘ったるくて、たった一口なのに胸焼けしてしまいそうだ。その原因が、果たして砂糖の甘さだけによるものなのかは定かではなかったけれど。

 だから、未だ口の中に残る甘味を追い出すために傍らのコーヒーを煽った。思惑通りに苦味が緩衝材の役割を担ってくれて、どうにか一息吐くことに成功する。

 

「それ食った後ならブラックもなんとかなるんじゃね?」

「……おお、確かに」

 

 革命にでも立ち会ったような顔で、カップを持った四葉が言う。それくらい、もっと前に自分で気づいていたっていいのに。

 

「やっぱり上杉さんは天才ですね」

「安っぽ過ぎだろ、お前の天才観」

 

 まあ、四葉が楽しそうなので、これで良いということにしようか。

 



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まにまにりぽーと⑤

 スクリーンに映し出される映像を、じーっと眺めていた。

 ストーリーラインというか、物語のジャンルを大雑把に分類するのなら、所謂ラブコメってやつに該当するのだろう。

 余命幾ばくもない女の子がいて、その子を好いている男の子がいて、そこにある葛藤なりなんなりを描いた作品。原作の小説がずいぶん売れているらしく、タイトル自体は俺でも耳にしたことがあった。

 似たような題材を扱った作品はごまんとあるので一山いくらの出来だと勝手に思っていたが、なかなかどうして良く作られている。そのせいか、俺らしくもなく画面に見入っていた。

 ……が。

 物語がクライマックスを迎えるあたりから、横の客のすすり泣きがどうしても邪魔をして気もそぞろになってしまった。

 残念なことに、その横の客というのが俺のツレだという事実もあって、ついつい視線をそちらに向けざるを得なくなる。

 そこにはハンカチで顔を押さえる少女がいて、暗い館内でも分かるくらいに泣き腫らした目で、食い入るように物語の続きを追いかけていた。

 なんだか見てはいけないものを見た気分になって、悟られないようにそっと視線を逸らす。どうせ後から感想を聞かれるのだろうし、俺もちゃんと結末を目に焼き付けないと。

 

 

 

「バイト先の店員さんに感謝です」

「悪いな、俺まで厄介になっちまって」

「いえいえ、元から二枚あったので、ちょうど良いタイミングでした」

 

 少し前に譲ってもらったのだという映画のチケットが役に立った。こいつは人好きのする奴だから、バイト先でも気に入られているのだろう。

 しかし、ペアチケットを渡すってのはつまりそういうことだから、その店員とやらにはいくらか同情してやらねばならないかもしれない。真意を汲んでもらえずかわいそうに。

 

「面白かったですね」

「期待してたよりはな」

 

 見入ってしまったことをそのままに伝えるのはどうにも気恥ずかしく、だから迂遠な表現方法に頼ることになる。まるで成長が見られないが、もともと俺なんてこんなもんだ。

 

「でも上杉さん、泣いてる女の子のことをじろじろ見るのはマナー違反ですよ」

「気になるもんは仕方ないだろ。あんだけぴーぴー泣いてんだから」

「なっ」

 

 ぴーぴーは余計だったらしい。四葉は何かを訴えたそうに唇をこっちに突き出しているのでおそらく今の間に減点がなされているのだろう。そういや聞いていなかったが、ポイントがゼロを下回った場合は何が起きるのだろうか。

 

「別に減るもんでもないしいいだろ。お前らの泣き顔はもう飽きるほど見た」

「それ、なかなかの問題発言ですね」

「しゃーないだろ。お前ら気づいた時には泣いてんだし」

 

 そもそも俺が泣かせているわけでもないし。たまたま居合わせる状況が多いってだけで、そこに俺が関与してはいない。……ちょっと関わっているかもしれないけれど、関与していないということにする。

 

「そこでさっとハンカチを手渡す心配りがあれば、上杉さんも一人前なんですけど」

「なんだ。その俺がまだ半人前みたいな言い方は」

「……人混みに巻き込まれたときにさりげなく手を貸してくれる優しさなんかがあれば、上杉さんも一人前なんですけど」

「それはもうさりげなくねえだろ」

 

 映画館の近くは今出てきた人間とこれから入っていく人間とで混雑していて、気を抜いたらはぐれてしまう可能性もあった。通信機器があるとはいえど、離れてしまうのが面倒だというのに違いはないから、出来ることなら傍にいた方が望ましいが。

 

「……はぁ」

「幸せが逃げちゃいますよ」

「やって来たこともないからセーフだ。……ほら、袖でも握ってろ」

「……変化球」

「なんだその感想」

 

 そう言いながらも、ちゃっかり袖は掴まれてるし。

 

「これで一人前になれたか?」

「まだ四分の三ってところですかね」

 

 袖はお役御免で、何事もなく手を取られる。どうせ最後はこう収まるのだから最初からそうしておけよってことか。

 

「五分の一人前の奴に言われてもって感じだ」

 

 向こうの三倍以上俺の完成度の方が高い。どんぐりの背比べ感もあるが、勝敗と優劣ははっきりさせておくに越したことはないだろう。

 

「私も、上杉さんが思ってるよりは成長してますよ?」

 

 で、今度は腕を持っていかれた。大分耐性をつけたつもりではいたものの、周囲の視線は相変わらず痛い。

 

「どうだかな」

「どうでしょうね」

 

 意味もなく笑って、その場を後にする。

 彼女たちの成長なんてハナから知っていることではあったから、否定する気も起きやしなかった。

 



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まにまにりぽーと⑥

 薄々感じていたことではあったが、日暮れまでの時間が短くなっている。途中密室に二時間幽閉されていたのだから当然それなりの時間経過はあって、茜色に馴染んできた東の空が、昼の終わりを告げていた。

 家庭教師をサボって四葉の付き添いをしてきたわけだが、なかなかどうして悪くない時間の使い方だったように思う。四葉には人を楽しませる才能があるのだろう。前まではそれが他人本位での行動だったから危うくも感じられたが、今は。

 

「四葉」

「なんでしょう?」

「もしかしてこれ、去年の反省会だったりするか?」

「へへ、バレちゃいましたね」

 

 いたずらっぽい笑みを浮かべて、四葉が顔を傾けた。夕陽を背にしているせいで、まるで後光が指しているようだ。

 

「相変わらず、なんでもお見通しです」

「俺でも分かるようにやってたろ」

「そこまで見透かしますか」

 

 四葉が、一本ずつ指を追って数を数えていく。それが片手で収まらなくなったところで、言葉が紡がれ始めた。

 

「あの雑貨屋は、たまたま見つけたお気に入りです」

「おう」

「あの喫茶店へは、自分へのご褒美でアルバイトの後に何度か通ってました」

「おう」

「あの映画は、前から気になってました」

「おう」

「全部、私の興味と好みが詰め込まれたものです」

「分かってる」

 

 主体性の一切が喪われたような行き場所の選定に、去年は大いに困惑したものだった。それを踏まえて、彼女なりに模索するものがあったらしい。

 

「他にも色々あったんですが、全部回るには一日ってすごく短くて」

「いいよ別に。お前が言いたいことはなんとなく察した」

「どうです、言った通り成長したでしょう?」

 

 胸を張る四葉。その仕草があんまり年不相応なもので、ついつい吹き出してしまった。

 

「あー、馬鹿にした!」

 

 「してないしてない」と手を振って否定した。微笑ましかっただけだ。

 この一年弱の間に、彼女は必死で自分らしさを探していたのだろう。姉妹の影を追うのではない、あくまで自分の内側だけで完結するものを。

 愚直だなぁと思う。まっすぐ過ぎて眩しくも思う。ただ、その前向きな姿勢が他ならぬ四葉らしさであるということを、本人だけが気づいていなさそうだというのがこの話のミソだ。

 

「俺の言ったこと気にしすぎだろ」

「私なりに思うところがあったんですよ」

「お前、そういうとこ変に真面目だよな」

 

 融通が利かないとでも言うか。実直さの弊害なのかもしれない。

 

「でも、おかげで色々見つかりましたよ」

「たとえば?」

「少ないお小遣いでどう工夫して楽しむかとか、短い時間でどれだけ多くのことが出来るかとか。……とにかく、色々です」

「すげえな、お前」

「へ?」

「いや、なんでもない」

 

 今日の頭に考えたことを思い出していた。なぜこいつが笑顔を絶やさずに生活できていられるかが謎だったが、そんなのはなんてことない、ただの発想の転換に過ぎなかったのだと理解する。

 与えられた環境に文句を言うのは簡単で、だけど打開するのは誰にでも出来ることじゃない。それをこいつは、その中でどれだけ自分が楽しめるかに主眼を据えて生きている。

 住めば都ではないが、住んだ場所を都に変える能力とでも言えばいいか。お気楽に見えて、こいつが一番真理に近いところに立っているような気がする。

 

「その前向きさは、俺も見習った方がいいなと思っただけだ」

「私みたいな上杉さんは、ちょっと気持ち悪いかもです」

「完全にトレースするわけねえだろ。コラ、俺にリボンつけようとすんな」

「今日はあの髪飾りがあるので」

「そうか。いやそうじゃねえ。なぜそのレベルで形から入ると思った」

「まあまあ」

「まあで済ますなよ……」

 

 要領を得ないやり取りをしばらく繰り返し、無駄に目立つリボンを互いに押し付けってから、それでも最後はなんとか四葉の頭部にそれを戻す。

 無駄にパワフルな彼女の気にあてられて、休憩のために街路樹に背中を預けた。こんな用途で設置されたものではないと分かっているが、今だけはどうか許してほしい。

 

「もしかしたら上杉さんに似合うかもしれないのに」

「似合ったとしても付けねえよ」

「そんなこと言わずに一度だけチャレンジしてみません?」

「お前がブラック飲むのとはわけが違うんだよ」

 

 沽券に関わる問題なので、そうやすやすと挑戦する気は起きない。写真でも撮られようものなら一生涯残る汚点になる。

 

「ぶー」

「拗ねるな。ダメなもんはダメだ」

「ぶーぶー」

「その異様な執着は一体どこから出てくるんだよ……」

「ただの好奇心ですが」

「えぇ……」

 

 どうせなら、もっとマシな理由の一つも考え出して欲しいところだ。それを聞いたおかげで、より一層つけてやらねえぞという気持ちは強固なものになったが。

 なおも多角的に攻めてくる四葉を適当にいなして、暮れなずむ夕日を眺める。結局丸一日遊んでしまったが、これは業務的にアリなんだろうか。

 

「上杉さん」

「なんだよ」

「楽しめました?」

「幸運にもな」

 

 彼女の足跡を辿るような一日だったが、いつかと違って名状しがたい違和のような何かは消え去っていた。自然に楽しめてしまった。……しまったというのも、なかなか言葉の綾感が染み出しているけれど。

 

「なら良かったです。上杉さん、最近ずっと忙しそうだったから」

「忙しいのは今に始まったことじゃねえんだけどな」

 

 四葉の額を軽く小突く。

 

「主に五人ほど、問題児の面倒を任されているおかげで」

「…………」

「後ろを探すな。間違いなくお前らのことを言ってる」

「やっぱりそうでした?」

「それ以外誰がいるんだっての」

 

 本当にもう、毎日がてんやわんやだ。自分の世話もしないといけないし、家族だっている。そんでもって、こいつらから目を離すわけにもいかない。

 いつの間にか五つ子の扱いが自分や家族と同列になってしまっていることにぎょっとするが、そこらへんに関してはいい加減に認めなくてはならないのかもしれなかった。気付けば、こいつらの存在なしに上杉風太郎は語れなくなっている。

 

「早えな、時間が過ぎるの」

「楽しい時間はあっという間ですから」

「……別に、今日だけに限った話じゃないんだけどな」

 

 聞かれないように極小の声で呟く。四葉理論で行くなら、俺はこの一年を楽しんで走ってきたことになるのだろうか。……途中途中に絶対人様には教えられないイベントが挟まっていて、それを楽しんでいたかと言われると正直返答に困ってしまうのだけれど。

 

「で、お前のプランに残弾はあるのか? ここまで来たらもうとことん付き合うけど」

「うーん……」

 

 眉間にしわを寄せて四葉が唸り始める。そこまでして考えなくてもいいのに……。

 

「……そういえば言われてません」

「何をだ」

「去年みたいに、『彼氏さんですか?』って」

「どこまで再現性高める気してんだお前」

「上杉さんが彼氏っぽく振舞ってくれないからー」

「言いがかりも甚だしいなおい……」

 

 謎の執念に尻込みする。そんな都合の良いことを言ってくれるエキストラが早々現れるはずもないのに、四葉は手を廂にして周囲をきょろきょろと観察しだした。

 

「狙い目はブティックですかね」

「狙うなそんなもん」

「とっておきの返しを考えてあるんですよ」

「備えるな。そんな憂いに」

 

 俺を何に巻き込むつもりなんだこの妖怪どデカリボンは。楽しかった一日の記憶にヒビでも入ったら最悪だろうに。

 確かに前は表情を変えるだけの微妙な間があったが、今回はその間をどうやって埋める気なのか。気にならないというわけでもないが、積極的に知りたいというほどでもない。俺が渦中に放り出されないのなら、知ってもよかったかもしれないが。

 

「近くにカップルへ無差別にインタビューを繰り返しているテレビカメラでもあれば……」

「やけに具体的で怖いからやめてくれ」

 

 俺も彼女に倣って周囲を見渡すも、それらしき影はない。どうやら杞憂。びっくりさせないでくれ頼むから。

 

「かくなる上は、近くの人にどうにかお願いして……」

「そこまでして披露したいのかよ」

「とっておきなんですもん」

「一生とっておけばいいのに……」

 

 お披露目の機会を得ないまま、納屋で埃をかぶって欲しい。使えるシーンがあまりに限定的すぎる対処法に、意味らしい意味なんてないのだから。

 

「取りあえず限界までカップルっぽくして可能性を高めましょう。まずはそれからです」

「どこらへんが『まず』なのかが理解できない」

「大丈夫! 天才の上杉さんならきっとすぐに分かってくれます!」

「悪い、言い方変えるわ。俺はきっと理解したくないんだ……」

 

 脳が絶妙に理解を拒むのが分かる。酷い茶番に付き合わされていると、体が拒絶の意を示している。

 

「私を助けると思って、どうか」

「何が助かるんだこれで……」

「うら若き乙女の純情です!」

「うら若き乙女は自分でその肩書を名乗らないからな」

「さあ、張り切っていきましょうね!」

 

 ここまで振り切れるといっそ清々しくも思った。四葉の腕に引っ張られるようにして、ずんずんと前に進んでいく。



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まにまにりぽーと⑦

「そろそろ諦めたか?」

「いいえまだです。まだ可能性は残っています」

 

 人通りの多そうなところを選択して歩きながら、自分たちに話しかけてくれそうな人を探す四葉。何が原動力になっているのか、その頑なっぷりは尋常でないように思う。

 

「お披露目のタイミングは今じゃないってお告げだろ」

「それは、その、そうかもですけど……」

 

 四葉は何か言いたげに唇をもごもごさせる。ただ、無理なものは無理だ。現実はそう上手く出来たものではないから、欲しい時に欲しいものが手に入ったりはしない。

 

「退き時も重要だぞ。引っ込みがつかなくなってからだと遅いからな」

「うぅ……」

 

 肩を落として残念がっている。それほどまでに、俺に見せたいものだったのだろうか。

 

「仕方ねえな……」

 

 どうせこのままでは収拾がつかないのだ。なら、俺が一肌脱いだほうが早い。両損になるよりは、いくらかマシ。

 

「……あー」

 

 声色を調整する。形から入り過ぎだなーとも思うが、素面でやるのはちょっと厳しいのだ。

 

「…………そちらは彼氏さんですか?」

「……へ?」

「…………」

 

 当然の反応だ。我ながら意味の分からないことをしてしまった。もうちょっとまともな導入の一つや二つ、探せばあったに違いないのに。

 相変わらず、そのあたりで器用になれない。俺が俺たる所以が透けて見えるようだ。

 

「…………そちらは彼氏さんですか?」

「…………」

 

 今さっき言ったばかりの台詞を思い出している。人間にとって大切なものの一つは撤退のタイミングだと思っていて、だからこんな風に、一度踏み出してしまった足を戻せない。

 コストの回収に失敗した超音速旅客機の逸話を思い出す。せめて原価分でも回収したいという感情はきっと万人に共通のもので、しかもそれは、貧乏性の俺なんかには特に顕著なものとして現れる。

 だから早く、俺の意図を汲んでくれ……。

 

「………………そちらは――」

 

 投げやり気味に三度目を呟きかけて、そこでようやく四葉からの明確なリアクションがあった。どうやら、傷が浅いうちに救ってもらえるらしかった。

 ただでさえ腕が引っ付いているのを、今度は体の側面が一体化するレベルで密着する。無論、俺から動くはずもないので、これは全て四葉が主導の出来事だ。

 で、そこでどうやら、彼女が秘蔵していたとっておきがご開帳されるようで。

 

「…………彼氏さんにしたい人、かもしれません」

 

 伏し目がちに、俺にだけ聞こえるくらいの声量で、四葉は告げた。

 

「をゑ」

「ちょっと!」

 

 変な声が出てしまって、それを聞き咎めた四葉が俺の肩をがっくんがっくん前後左右、ひいては上下やら斜めやらの軌道を加えて揺らしまくる。もとから俺より力強い奴なので、抵抗することも出来ず乱気流に飲み込まれたみたいになっていた。

 

「私の純情になんてことを!」

「あばば」

「なんてことをー!」

 

 泡を吹いて気絶する寸前で、なんとか肉体が乱気流を抜けた。なおも視界のピントが定まらないのが恐ろしいが。

 四葉らしき輪郭の物体が、ずかずかこちらに詰め寄ってきているのは分かった。乙女の純情ってのは、俺が思うよりもなかなか重大なものらしい。

 

「もっと甘い反応をしてください!」

「甘いってなに」

「恥じらって!」

「……俺が頬染めながらそっぽ向くのはなんか違くないか?」

「ちょっとくらい動揺してくれてもいいじゃないですか……」

「動揺してるだろ」

 

 動いているし揺れている。しかも現在進行形で。三半規管の乱れからか未だに平衡感覚は定まらず、四葉の顔すら朧げにしか映っていない。

 

「物理的なお話ではなくて……」

「……いや、動揺してるだろ」

 

 予想していなかった言葉に、多少なりともダメージは負っていた。既に耐性をつけていたから多少胸がざわつく程度で済んでいるが、聞かされている時期が違えば、俺のリアクションが違うものになったのは疑いのない事実だ。

 

「……出来れば、その、前みたいに否定してくれると、会話はしやすいんだけど」

 

 三玖のコロッケと戦ったあの日を思い出す。これがまた単なるからかいならリボンを引っ張って終わりだから、扱いやすくて良い。

 四葉から時折感じていたつかみどころのなさが、ここでも発揮されることを祈っている。まるで女っ気のない俺をおちょくっているだけなのが一番望ましい。

 

「会話しやすいって?」

「ぎくしゃくするだろ、どうしても」

「私のこと、嫌いだったりしますか?」

「そういうわけじゃないけど、せっかくの人間関係がぎこちなくなるって言うか」

「嫌いではないんですね?」

「二度聞くことでもねえだろ……」

「かなり重要なので。……嫌いではないんですね?」

「まあ、そりゃな」

 

 嫌いな相手と一緒に休日は潰さないだろう。姉三人組とのとんでもない因縁ともあいまって、四葉と話す機会は増えていたし。

 そもそも初期から俺に協力的だったのはこいつだけなので、先生としての視点で、四葉が一番楽に扱える相手だった。……その分、誰より成績管理が厄介だという不要なおまけがついてきてはいたけれど。

 

「なら良かった。ねえ、上杉さん」

「おう?」

「さっきのあれ、もちろん嘘――」

「おう」

「…………わざと遮りましたね?」

「バレるか、やっぱり」

「はい。そのくらい、私だってお見通しなんです。――残念ながら、嘘……じゃないんです」

 

 これまた返答に困る。好意を持たれるのが嫌なことかと言えば決してそうではないが、なんせそれが原因で大変なことになっているわけだから。

 なので、ここで選択をミスすることは許されなかった。上手く立ち回って、諸問題を悪化させないようにする必要がある。

 

「そうか」

 

 なのに、やっぱり気の利いた言葉は口から出てくれなくて、逃げの姿勢が染み出したハリボテみたな笑みを顔に貼り付けることしか出来ない。真っ直ぐな思いをぶつけられると思考停止してしまうのは、前からずっと同じだった。

 

「今日一日一緒にいて、再確認出来ました。何より大事なのはどこにいるかじゃなくて、誰といるかだって。上杉さんの傍にいると毎日が賑やかで、あったかい気持ちになります」

「俺、そんな大層な人間じゃないぞ」

「知ってるので大丈夫です」

 

 それは果たして笑顔で言い切ることなのだろうか。自分が大人物でないのは言われずとも分かっているが、がっつり肯定されると、それはそれでなんとも言えない気分になる。

 

「姉三人と男の人の趣味が似通ってしまうのは流石に想定外でしたけど」

「ぶっ」

「人目を盗んで毎日のようにとっかえひっかえちゅっちゅしてる人を好きになるなんて、我ながらとんでもないことだなと思いますけど」

「…………え?」

 

 とんでもないワードが飛び出したのを聞いて茫然とする。……え?

 

「バレてないと思いました?」

「い、いつから……」

「少なくとも、最近ではないですね」

「……マジか」

「何やら事情がある様子だったので、聞いたりはしませんでしたが」

「……マジかー」

「申し開きがあるのなら、今ここで」

「いや、その、だな……」

 

 三件分の告白を保留している旨を四葉に伝える。もちろん、肉体関係については伏せた上でだ。結構な爆弾情報だが、彼女も大分知っているような口ぶりなので問題は小さいだろう。それよりも、一体いつ気付かれてしまったのだろうか……。

 

「ずいぶんと派手にたらしこみましたね」

「不可抗力だったんだよ……」

 

 少なくともきっかけはそうだった。その後は自分も結構ノリノリだったから、あまり人のせいにし過ぎることはできないけれど。

 

「で、優柔不断な上杉さんは誰にするか決めかねていると」

「うっ」

「誰が一番か品定め中だと」

「ううっ」

「今になってそこに私が混ざって来たから余計に困っていると」

「あんまりグサグサ刺さないでくれ……」

「……まあ、みんなの気持ちをなんとなく察した上で特攻しちゃった私も私かもですが」

 

 しかしやはり不服さがどこかに残るようで、四葉はじとっとした目で俺の視線を絡めとってくる。俺が今やっていることは最低の誹りを免れないだろうなというのは覚悟の上で、しかも四葉からすればその火の粉が彼女とその身内に降りかかっていると来たものだから、納得できないのも当たり前。

 

「上杉さんの取り合いで姉妹の仲が壊れるのは嫌ですし」

「それなんだよ……」

「でも、上杉さんを誰かに譲った場合、私はその様子を誰より近くで見せつけられ続けるわけで」

「そんなに性格悪い奴、お前らの中にいないだろ……」

「意識していなかったとしても、当然格差は出るじゃないですか。知らないアクセサリーをつけてたり、電話で長話をしてたり、最後には朝まで家に帰ってこなかったり。そこに悪意がないからこそ、私はきっとすごく後悔しちゃうと思います。『あの時もっと強引に詰めておけばよかったなあ』って」

「想像がエグいって。なんでそこまでリアルに思い描いてんだお前」

「私、意外と負けず嫌いみたいで」

 

 スポーツをやっている人間だから負けん気があるに越したことはないのだろうが、それにしたってもっと別のところで発揮してほしかった。よりにもよって、こんな場所でなくてもいいだろうに。

 前々から強まっている姉妹で仲良く過ごしてもらえれば、という俺の密かな祈りが、俺自身の存在によって脅かされかねないという強烈な皮肉。本当に、どうしてこうなってしまったのか。

 

「好きな人を誰かに奪われちゃうのは、耐えられないかもですね」

「……男を見る目が無さすぎるだろ、姉妹に共通して言えることだが」

「そこはほら、五つ子なので」

「似せんなそんなもん……」

 

 しゃがみこむ。情報過多で処理落ちしそうだ。この数か月、姉たちと積極的に近づき過ぎないように意識したせいで、今度は四葉を引っかけてしまった。そこに確かな思惑があったならいいが、こちらは完全に無意識。意図しないところで望外の結果が生まれても、俺はただ口をあんぐり開けて立ち尽くすことしかできない。

 

「……取りあえず、歩きながらお話しましょうか」

 

 忘れていたが、ここは一応往来だ。あまり長く留まり過ぎては道行く人の邪魔になる。

 そう考えて、四葉の提案に乗っかることにした。……今の発言を受けた後にこうやって腕を引かれるのは、明らかにさっきまでと違う意味が込められている気がする。

 



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まにまにりぽーと⑧

 太陽がすっかりその姿を隠し、街の店々が照明を燦燦と輝かせる時間になって、その中をただ黙々と二人で歩いた。

 歩きながら話すと言った割にこの場に相応しい話題は提供されなくて、上を向いたり下を向いたり、とにかくそわそわしながらあっちこっちへ足を動かすだけ。体力の差があるせいか俺の体はもうずいぶんとくたびれてしまっていて、出来ることならどこかで休憩を挟みたい気分だった。

 

「上杉さん的には」

 

 ようやく四葉の口が開かれて、破られた沈黙の欠片を集めるように、そちらにすっと耳を澄ます。暗がりの中では視力がまともな働きをせず、残った五感が鋭敏になっている感覚があった。

 

「今のところ、誰がリードしてる感じですか?」

「これまた答え辛いこと訊いてくんなお前」

「この際根掘り葉掘り言った方がいいかなと思って」

「……そういうのを考えなくていいように、最近忙しくしてたんだよ」

 

 バイトのシフトを多めに入れて、今まで以上に勉強に打ち込んで。そうやって何か一つに集中している間だけは、彼女たちの顔を思い浮かべずにいることが出来たから。

 我ながら腐った根性をしているなと思うが、正直それ以外に方法がない。刻限までの時間をどうにかやり過ごさないことには、俺はまともに生活することも叶わないのだ。

 

「その場凌ぎでいずれ誰かを選ぶから保留なんて約束を取り付けたのはいいものの。……それはつまり、その」

「余りますね、たくさん」

「容赦ない表現使うな……」

「で、上杉さんの中の優しさが邪魔して、それを嫌がっていると」

「これを優しさって呼ぶかよ」

 

 かなりクズな部分だと思う。要は、自分の決定で産まれる不幸を嫌っているだけなのだ。なんならこんな男から離れた方が最終的に幸せになれそうな気もする。……それにしたって彼女たちの男運を思えば、後が危ぶまれもするのだけれど。

 

「せっかくの機会だから忠告しとく。俺だけはやめといたほうがいいぞ」

「ここで素直に聞き入れたら絶対に後悔すると思うんですよ」

「全員に諦めてもらえるならそれが一番だろ」

 

 間違いなく一生続く姉妹の関係を、俺みたいな部外者の存在で破滅させて良いわけがない。こんなのは、計算すればすぐ分かることだ。

 

「…………無理じゃないかなぁ」

「なんでだよ」

「たとえばですね」

 

 四葉の指が、俺の指一本一本をゆっくり絡めとっていく。一回り小さい手はしっとりとして柔らかくて、かさついている上にごつごつと硬い俺の手とは根本的に作りが違うのだろうなと思った。

 

「こういうのを知っちゃうと、もう戻れないわけです」

「どうして今知ろうとした……」

「戻れなくしておこうと思いまして」

「確信犯かよ」

 

 覚悟の示し方があまりに男前すぎて憧れそうだ。やめてくれって全身が叫んでいるけど。

 

「感想とか、ないですか?」

「JKビジネスが成立する理由がなんとなく分かった」

「…………もっと、単純なので」

「……体温高いな、お前」

 

 疑うまでもなく恥ずかしいことを言った。基礎代謝の違いだというのは分かっているのに、その温もりに何かしらの理由を見つけようとしている自分がいて本当に嫌だ。

 

「これが好きのパワーです」

「言ってて恥ずかしくないのかそれ?」

「正直失敗したのでこっち見ないでください」

 

 そう言われても、今見たものを忘れるのは難しい。まだ夕陽が残っていてくれたら、頬に差した朱も、照り返しだって勝手に納得することが出来たのに。

 

「……と、そんな感じで、私はもはや引き返せないところにまでやってきてしまったわけです」

「袋小路だって分かってるのに入って来るなよ」

「顔が同じなので、運よく選ばれることがあるかもなーって」

「よしんばそうだったとして、お前はそれに納得できんのか……」

「しちゃいますね多分。思い出は後からでも積み上げられるので、上杉さんの確保の方が急務です」

「しちゃわないでくれ……。もっと悩めよ……」

「競争相手がいなければもっとゆっくりでも良かったんですが、恋愛は基本的にスピード勝負なので」

 

 先手有利の原則はゲームだけにして欲しいものだ。人と人との駆け引きにまでそれが持ち込まれたら、一体いつ気を抜けるタイミングが来るか分かったもんじゃない。

 

「だから、私としてはもうなりふり構っている場合じゃなくて」

「構え。人として最低限の尊厳を見失うな」

「使えるものは、全部使うべきだと思うんです」

「なんだそれ……」

「最初にポイントの話をしましたよね」

「あったなそんなのも」

「内訳は省きますが、428ポイント達成です」

「どうなってんだ」

「でも、間の悪いことにギョウザ無料券は切らしていて」

「切れるもんじゃないだろそれは」

「…………だから、その、中野四葉一晩自由権で手を打ってもらえないかなと」

 

 知らぬ間に、ネオンがけばけばしく光る謎のエリアにやって来ていた。近くの電飾看板にはここが休憩所である旨が記されていて、かねてから体を休めたかった俺としてはうってつけの場所に思える…………わけねえだろ。バカか。脳みそ溶けてんのか。

 

「落ち着け」

「作法は予習済みです」

「こんなところで俺の教えを活かすな。お願いだから正気を取り戻してくれ」

 

 一日ほんわかとしたノリでいたのに、最後の最後でラのつくホテルに入ったら全部が全部瓦解する。それはいけない。

 四葉は話を聞ける奴だ。だから、なんとか説得して離脱しないと。

 

「初めては、どうしても上杉さんが良くて」

「聞いてもない情報を開示するな」

「今ならまだ、浮気扱いにはならないでしょう?」

 

 ただでさえ近かった距離が更に詰まる。傍から見れば、これは痴話喧嘩扱いを受けるのだろうか。

 

「なら、今のうちに、それだけでも」

「勇み足で捨てるもんでもないだろ。大事にしまっとけばいいんだよ」

「…………あ、あの」

 

 四葉の目がキラキラと光っている。というのも、浮かぶ液体が周囲の光を弾いているからだった。

 

「女の子がこういうお願いをするのがどういう意味なのか考えてもらえたら、嬉しいなって」

「じょ、情に訴えかけられても……」

 

 固まっていると、四葉の頭がぽすんと俺の胸あたりに収まった。服を貫通するくらいに顔が熱を持っているのが分かって、言いようのない悶々とした感情が心の奥底に渦巻く。

 

「好きな人に拒絶されるの、すごく、辛いです」

「目を、目を覚ませ。恋に恋してるだけだきっと」

「それならそれで構いません。だって今、こうしてるだけでとっても幸せなんです」

 

 四葉の腕が背中に回る。髪の毛からはお馴染みの甘い香りがして、必死に自制しないと今にも腰が砕けてしまいそうだった。

 

「口で答えるのが恥ずかしいなら、どうか、抱きしめ返して……」

「…………ッ」

 

 反射的に動きかけた腕をどうにか意志の力で押さえる。ここの最適解は心を鬼にしてこのまま立ち尽くすことだ。四葉ならいずれ人間の出来た優しい男を引っかけられるだろうし、その頃にはきっと俺のことなんて忘れている。人間、道半ばで冷静な判断なんて下せないんだ。だから今の捨身の行動だって、一時的な感情の昂ぶりが引き起こした思いの揺らめきにすぎない。

 そう思えば、俺は心を鬼に出来る。今四葉を泣かせる役割を背負うことで、結果的に彼女をいい方向に導いてやれる。

 自分の中できっちり結論をつけて、大きく深呼吸をした。大丈夫。俺は冷静。

 

「嬉しい、です……」

「……………………」

 

 冷静に、間違った。相変わらずに先のことを考えず、今この場で四葉の泣き顔を見たくないなんて思ってしまった。

 その結果、両の腕はぎこちなく、しかし確かに、彼女の背中を抱え込んでいて。

 

「上杉さん、大好き……」

 

 絶対にこんなのはおかしいのに、安心しきったような彼女の声音に、心の大切な部分を溶かされてしまった。

 本格的に本能に負け初めてるぞ、俺。



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まにまにりぽーと⑨

「あ、あわわ……」

 

 四葉がこれでもかというほどにたじろいでいた。でも、俺も今激しく動揺しているから気持ちは分かる。今にも「なんだこれ」と言い出したい気分になっている。

 

「透け透けです……」

「悪趣味すぎる……」

 

 内装に個性が溢れていた。照明はなんだか気持ち悪い暖色だし、シャワールームは全面ガラス張りだし、とにかくわけが分からなさすぎて、動物園にでも放り込まれたようだ。

 

「え、えっと」

 

 四葉はきょろきょろと視線を泳がせて、最後には部屋の中央に鎮座するやたらと大きいサイズのベッドを見た。

 

「ど、どうしましょ?」

「作法は予習済みなんじゃねえのかよ」

「いざ入ってみると頭の中が桃色でまるでダメです」

 

 限度いっぱいまで頬を染め切った四葉は、機能停止したように俺にもたれかかって。

 

「り、リードをお願いしても?」

「じゃあ、日中汗かいたろうしひとまず風呂から……」

 

 覚束ない足取りで風呂場に向かい、電子パネルをいじくって湯を溜める。外から丸見えなので溜まりきったタイミングが分かりやすいのは一つの利点なのかもしれない。問題はそれ以外のデメリットを一挙に背負っているところなんだけど。

 

「あ、あの」

「なんだよ……」

「お風呂が準備できるまでどうしましょうか?」

「俺はシャワーだけでいいから先に入るけど」

「えっ」

「え?」

「ここまで来たら、一緒じゃダメですか……?」

「…………ダメでは、ないけど」

 

 しかしそうなると、時間の潰し方が見つからない。やることをやるにしたって、体を綺麗にしてからの方がいいだろうし。

 このままのテンションでそわそわしたまま待つのは、流石に苦しいことに思えた。心臓にかかる負荷が馬鹿にならなそうだ。

 

「お、おー。スプリングがしっかりしてんな」

 

 間のつなぎ方が分からなくて、ベッドに腰かけて何度か体を弾ませてみた。そもそも数えられる程度しかベッドで寝た経験がないので、スプリングがしっかりしているかどうかの判断基準を持ち合わせていないのだが。

 

「あー、なんだ。お前も座れば?」

「……し、失礼します」

 

 がっちがちに固まった四葉の体重分、マットレスが沈む。何も、肩が触れる距離まで近づかなくてもいいと思うのだが……。

 

「……痛いって本当なんですかね」

「そういう話を今すんのか……」

「怖いんですよ。分かってください」

「まあ、うん……」

 

 異物を体内に突っ込むのだから、防衛反応として痛みがあるというのは理屈として通ると思う。だが、予めそういった目的で形成された器官であることもまた事実なので、実際のところはどうなのだろう。男なので、想像しか出来ないのが悔やまれる。

 俺をガンガンに犯していった連中はそういった素振りを見せなかったので、そこも姉妹共通していればなんとかって感じか。

 取りあえず、今のうちに唇でもくっつけておいて、彼女の緊張を少しでもほぐせれば。そう思い、ゆっくりと顔を彼女に寄せて――

 

「えと、キスとかってどのタイミングが良いんですかね……」

「聞かれると一気に恥ずかしくなるからやめてくれ」

「も、もしかして今しようと……?!」

「確認されると死にたくなるから勘弁してくれ」

「さ、さすが手練れ……」

 

 これ以上しゃべらせても無益なので、さっと唇に栓をする。すると、瞬間的に四葉の体が強張って、感情のやりくりを間違えたようにぷるぷると震えだした。爆発でもする気か。

 

「…………い」

「い?」

「息って、どうするんでしたっけ?」

「鼻呼吸しろ鼻呼吸」

 

 そのレベルまで教えてやらないといけないのか。いや、テンパっているのは重々承知の上なんだけど。

 

「で、でもあれですね。一応成功ですよね」

「成功失敗が存在するのか知らねえよ……」

 

 でも確かに、勢い勇んで歯を当ててくる奴とかがいるかもしれない。それを思えば、流されるままぷるぷるしていた方がまだマシなのかも。

 

「オーケーです。バッチコイです。このペースで、その、大人なやつも……」

「言いながら照れんのやめろ」

「上杉さんがしょちゅう一花たちとやっているアレを」

「急に冷めるな」

 

 とかなんとかやり取りをして、もう面倒なので四葉をベッドに寝ころばせる。背中を何かに預けていた方が少しは安心感があるだろうし。

 四葉はそれに戸惑ったようだったが、何を勘違いしたのか大人しく目を閉じてくれたので、それに乗じて唇を重ね、無防備な口内にそのまま舌を挿入する。

 まるで誇れることではないがこの数か月これをひたすら続けさせられてきたので、妙に習熟している感があった。未経験の女の子一人くらいなら、そこそこ満足させてあげられるかもしれない。

 奥歯や歯茎に順繰り触れて、最後に舌同士を絡ませ合う。四葉は完全にされるがままのスタイルになっているが、こうも従順だと心に余裕が持てて良い。終始俺優位で進められるなら、マズいことは起こらないはずだから。

 

「…………ん、っ!」

 

 失念していたが、こいつは基本的に俺よりも力が強かったのだった。不安に駆られたのか両腕でぐっと引き寄せられた俺の体は彼女にぴったりと張り付いて、胸部にある存在感の塊を強引に意識させられる。こんなものを抱えた上でよく運動なんて出来るもんだなと、唐突に感心した。

 

「き、きもちいいですね、これ」

「なら、良かったけど」

「みんなが夢中になる理由がなんとなく分かりました」

「分からなくていいから」

 

 わいきゃい言っていると、電子音が響き渡った。どうやら風呂が沸いたらしい。

 その音で我に返ったらしい四葉は、この後俺の前で素肌を晒すことを思い出してか、急速に赤面して何も話さなくなった。既に中野姉妹の体つきは把握しているので、俺はだいぶ気が楽だったりするのだけれど。

 

「ほれ、立て」

「……お姫様抱っこでどうでしょう?」

「落としても文句なしな」

 

 冗談抜きで俺の力だと取り落しかねない。それを恐れてか、彼女の腕が首に回る。重心を上手く合わせてくれれば人間は意外に運びやすいから、ありがたいことだ。

 そのまま脱衣所に彼女を下ろし、だらだらしていても仕方ないので上に着ていたシャツを脱いで上半身裸になる。その様子をじろじろ見ていた四葉はやっぱり赤面していて、固まったまま動かない。

 

「そのまま風呂入んのかよ」

「心の準備がありまして……」

「……あっち向いてるから、その間に手早くな」

 

 個人的には、裸を見るよりも脱衣のシーンを眺める方が背徳感があった。四葉はどうか知らないが見られていない方が気楽なのは誰でも同じだと思うから、気をきかせてそっぽを向く。

 自分だけ先に全裸になってもあれだからとたらたらズボンを脱いでいたら、後ろから「あっ」という何かマズいことにでも気づいたような声が聞こえてきた。虫でも出たのかと思って、すっとそちらを向くと。

 

「…………あ、あの、違うんです。これはそういうのじゃなくて」

 

 上下下着姿の四葉が、主にショーツの方を隠そうと手を交差させていた。けれど慌てているためか完全に隠しきれてはおらず、シンプルな綿地にリボンがあしらわれた布がちらちらと覗いている。いつだか聞いたお子様パンツってやつだ。

 

「いつもはもっと大人な感じのを履いてるんですけど、今日はたまたま……」

「バランスを考えてくれ……」

「バランス、ですか?」

 

 ダイナマイトみたいな体に合わせていいアイテムじゃない。もっと貧相な体躯だったら目立たなかったのかもしれないが、出るところが出まくっていて引っ込むところは引っ込みまくっているこいつみたいなのが履くにはさすがにアンバランス。こんなのはもう半分凶器だ。

 でも、なんだろうか。自分に特殊な嗜好はないはずなのに、なんだか妙に興奮している気がする。禁忌に触れた気分になってしまっている。

 

「え、あ、上杉さん?!」

「どうせこのまま脱ぐまでに時間かかんだろ」

「そ、それはそうかもですけど……!」

 

 寄って、さっさとブラのホックを外す。布が落ちないようにと下の守りが手薄になったところで、ショーツの方もずりおろす。四葉は盛大に狼狽していたが、どうせいずれ全部見るのだから遅いか早いかの違いだけだ。

 

「じゃ、じゃあ、私も失礼して……」

 

 観念して両方の布から手を離した四葉が、俺のパンツに手をかけた。が、突起が引っかかっていてなかなか上手くいかない。もどかしい刺激を与えられて悶々とするが、あくまでこれは体を洗う前段階なのだから、今から盛るわけにはいかなかった。

 

「お、おっき……」

「感想は良いから……」

「……私は欲しいですけど」

 

 そう言われた後からでは直視できない。どう思われてもいいが、こんなときに限ってクールを気取りたくなる。

 

「……どこもかしこもデカい」

「お尻は見ないでくださいよぉ」

「見てねえよ……」

 

 残念ながらこれは嘘だった。安産型でとてもいいですねと心の中で批評して、そっと目を閉じる。……と、視界を自ら潰したのが災いしてか、突然顔にお湯を浴びせられた。どうにも、四葉がシャワーを使ったらしい。

 

「えっちな上杉さんへの罰です」

「前見えねえからやめてくれ」

「まじまじみられたら恥ずかしいのでなおさらです」

 

 ばしゃーっと湯を頭から浴び続けて、見る見るうちに髪の毛が潰れた。そこまでやって満足したのか、四葉は次に自分の頭にもお湯をかける。

 

「せっかくなので頭の洗いっこしますか?」

「幼稚なプレイみたいだから勘弁してくれ」

 

 近くのシャンプーをワンプッシュして、適当に髪を洗う。短髪なので、時間も手間もかからない。

 

「……む」

「なんだよ」

「私は洗ってもらいますからね」

「いいのかそれで。女の命だろ」

「上杉さんに命を預けます」

「……ったく」

 

 加減はさっぱり分からないが、なんとなく5回分ほどプッシュしたシャンプーを手に取った。こいつはそこまで髪が長い方ではないから、要領が違い過ぎるということはないはずだ。

 

「優しくお願いしますね」

「まるで分からん。こんな感じか?」

「そんな感じですねー」

 

 適当な強さで髪を梳いて、泡が回るように頑張ってみる。しかし、後ろから手を回しているせいで、ちょくちょく俺のが四葉の尻あたりを掠めるのがどうにも。やっぱり変態っぽいなこれ。

 

「じゃあ、そろそろ流してもらって」

「おう」

 

 さっきの仕返しとばかりに、流水で彼女の頭をぐちゃぐちゃにする。わーきゃー騒いでいるから、ここに来た主旨を忘れている説すらあるなこいつ。

 

「じゃあ次は体の方を……」

「それは完全にアウトなやつだろ……」

「そ、そういうところから慣れていければなと思いまして」

「言いながら石鹸泡立てんな。そういうのは本職の人に任せとけ」

「ほんしょく……?」

「忘れろ」

 

 失言だった。だが相変わらず四葉はせっせと泡を立てていて、それをどうするかに悩んでいるようだ。

 

「……そうだ」

「絶対ろくでもない思い付きしたろ」

「あわあわの私が上杉さんに抱き着けば……」

「やめろ。そういうのは玄人のお姉さんたちに任せとけ」

「くろうと……?」

「忘れろ」

 

 失言が止まらない。しかし、彼女の発想は非常に危険だ。少なくとも知り合いとの間でやることじゃない。

 

「おい」

「や、やるだけやってみましょうよ」

「待て。待って」

「素肌が触れあうと、気持ちいいですし」

 

 ちょっと目を離した間に泡まみれになった彼女が、俺の体を抱きしめてくる。完全に絵面が終わってるだろこれ。

 確かに人間の体は良く出来ていて、素肌と素肌が触れあうとなんとも言えない多幸感に満たされる。しかもそれを潤滑に進める泡が仲介するのだから、気持ち良くないわけはないのだが。

 

「あっ、これはヤバいやつですね」

「急に我に返るなよ。どうすんだこれ……」

「か、体動いちゃいます。勝手に」

「完全に体を綺麗にする目的から外れてるだろ……」

「そういう上杉さんも、さっきから私のお尻……」

「…………」

 

 手に馴染むもち肌は姉妹共通らしい。しかし、意図していたわけでもないのにこの動き。数か月間返上していたお猿さんの称号を取り返すときなのかもしれない。

 

「なんだかいけないことをしてるみたいで……」

「してるだろ実際」

 

 口ではそう言いながらも、ちゃっかり体は動いていた。四葉の背や腕に泡を塗り込みながら、こっそりと彼女の柔肌を堪能している。こうなればもう、変態の誹りは免れまい。やっぱりお猿さんは健在だったようで、自分の進歩のなさに愕然となる。

 

「あの、大丈夫ですか?」

「何も大丈夫じゃないけど」

「いえ、さっきからその、おへそのあたりに熱いものが……」

「だから大丈夫じゃないんだよ……」

「…………さ、触っても?」

「こんなとこ来てる時点で腹は決まってんだから一々確認しないでくれ……」

 

 「私の体で興奮してますね?」と詰め寄られているみたいで、なんとも気恥ずかしい。実際にそうなのがまたなんとも。

 四葉はちょっとだけ名残惜しそうな顔で俺から離れて、もう手がつけられないくらいに膨れ上がった俺の下半身をまじまじと眺める。そしてそれから、右手でつーっと裏筋を撫でた。泡で滑りが良くなっているせいで、まったく知らない感覚が俺に襲い掛かってくる。

 その快感に、堪え性もなく顔を歪めてしまった。彼女はそれに気を良くしてか、今度はその小さな手のひら全体で包むようにして、俺を擦りあげてきた。その力加減がまた絶妙で、口から情けない声が漏れてしまう。

 

「気持ちいいですか?」

「必死に耐えてんだから気ぃ散らさせんな」

「で、出そうですか?」

「恥ずかしいなら言葉責めはやめとけっての……」

「はぅ」

 

 ぎこちなさに耐えかねて、デコピンを叩き込んだ。似合わないことをされると、背中が痒くなってくる。

 こちらはどう避けようとしても常に目に入ってくる四葉の健康的な肢体を前に思考が過熱しているから、正直それだけで十分なのだ。変化をつける必要性が感じられない。

 

「う、上杉さん」

「なに」

「せっかくぬるぬるなんで、胸でしてみます……?」

「…………お願いするけども」

 

 大質量に圧迫されるのはさぞや気持ちのいいことだろうと思う。ぜひとも試してみたいし知ってみたい。なれど、どうしても見た目がマニアっぽくなってしまうのが難点だった。俺は四葉にお金を払ったっけ。

 

「どくどくしてて別の生き物みたい」

 

 自分の意思で制御できないことが多すぎるからその感想になんの間違いもなかった。四葉は不慣れな様子で自分の胸を持ち上げてから、その谷間に俺を誘導する。

 

「……これだと顔にかかっちゃいますね」

「想像しちまうから言うな」

「…………かけたかったりしますか?」

「しねえよ。俺を何だと思ってんだ」

「わ、私はちょっとだけかけられたいって思ったり」

「するなよ。しても言うな」

 

 会話中に、もう動きは起こっていた。上半身を全て使うようにして俺を扱きながら、四葉は時折熱い吐息を吐いている。

 

「……ちょっ、もっとゆっくり」

「これ、私も気持ちよくって……」

 

 俺は直立状態なので、押し寄せる快感に何度か膝を折りそうになる。転ばないようにと彼女の肩を掴んでいるせいで、密着度が余計に上がっている気がした。

 慣れてきた彼女が緩急なんかつけるせいで、いよいよ軽口を叩く余裕すら消え失せる。どうしようもない射精感がせり上がってきて、思考全てが白に染まった。

 

「…………ぁ」

 

 何度も何度も激しく脈を打ちながら、ためこんでいたものを盛大に吐き出した。ここ最近ご無沙汰だったというのも相まって、冗談みたいな量が出る。それらは彼女の胸と、そしてお望みどおりに口の周りへ飛び散っていた。

 

「…………にがいれふ」

 

 なぜ舐めたと問いただす前に笑ってしまった。とにかく、さっさと体を洗い流さないと。

 

 

 

 

「湯船、広いですね」

「それが分かってるならなぜこのスタイルなんだ……」

「正面からだと恥ずかしいので」

 

 せっかく湯を張ったので、二人そろって湯船に浸かった。彼女の言の通り足を悠々と伸ばせるくらいにバスタブは広いのに、なんでか四葉は俺の胸板に背を預ける格好で座っている。角度のせいで、妙に色っぽいうなじが目についた。

 

「そんなもんか?」

「ひゃっ、なんでお腹つまむんですか?!」

「つい」

「つい?!」

 

 手持無沙汰なので、なんとなくの行動だった。日頃から運動している成果なのか、腹回りはかなり引き締まった印象を受ける。俺も見習いたいくらいだ。

 

「じゃあ、私も失礼して」

「内腿撫でんな。ぞくぞくする」

「……上杉さんもいかがですか?」

「……いや、それは」

 

 絶対にそのままエスカレートしてしまう自負があった。体勢的にも、とある部位を非常にいじりやすくなっている。

 

「い、いかがですか……?」

「誘導すんなよ……」

 

 手で手を招かれて、彼女の左の太ももに触れる。やはりこちらも引き締まっているが、それ以上に柔らかさが目立った。男女で人体の組成がここまで変わるものなのかと驚嘆するのはいつもの流れだからもうやらないが、それにしたって興奮するものは興奮するのだ。

 さわさわとその周辺をいじくりまわしながら、こっそりと手を上へ上へと持ってくる。なんとなくサケの遡上を彷彿とさせる動きに、我ながら何をしているんだろうなあと呆れた。で、両者の間にあった暗黙の了解を守りながら、偶然触ってしまった風を装いつつ、彼女の秘部を一撫でする。

 

「ひゃぃぅ」

「どうやって発音した今の」

「あ、あの、恥ずかしいので口押さえててもいいですか……?」

「お前の好きにすればいいと思うが……」

 

 正直、普段は聞くことの出来ない声を脳に刻んでおきたいという思いはある。かつてはそれが暴走して、某次女さんにずいぶんと恥ずかしいお願いをしたこともあった。

 だが、俺も脱童貞して久しい。そういうがつがつした価値観からは抜け出すタイミングなのかもしれない。

 

 いきなり奥までつっこむわけにもいかないだろうから、入り口のまわりを揉みこむようにして丁寧に撫でるところから始めた。水の中なのに彼女が濡れているのが感じられて、四葉みたいな元気っ子もこうなるのかと悟りを開く。なお、俺の下半身状況はとてもじゃないが悟りを開いた人間のそれではない。

 

「……んんぅ……ぁぅっ……」

「余計エロいからやっぱダメ」

 

 想像以上に早いギブアップ。くぐもった声は密室内で良く反響して、下手な言葉責めよりもよっぽど俺に突き刺さった。こうなるくらいなら普通に喘いでいてもらったほうがなんぼかマシだ。

 

「じゃ、じゃあ、キスしてもらっても?」

「どこからその接続詞を召喚した」

「今のままだと下ばっかりに意識が向かって大変なんですよぅ」

「良いだろそれで。ほぐすためにやってんだから」

「……あと、あんまりえっちな姿をお見せするのがどうにも」

「気にしねえよそんなの……」

 

 むしろ、男性心理からすれば積極的にお見せしてもらいたいくらいだ。その方がこちらも割り切りやすくていい。

 

「……ほれ、こっち向け」

 

 だけど、キスしながらの行為も乙なものに思えたので、彼女の動きを促す。腰を捻ったせいかは知らないが指先に伝わる感触が変わって、こういうやり方もあるのかという新たな知見を得た。

 

「……んっ」

 

 唇を触れ合わせたタイミングで、彼女の狭い膣口を分け広げる。瞬間的にびくりと体が震えたようだったが、痛みはなかったのか、その後は体の力を抜いて、一切の結末を俺に委ねてきた。

 

「……ん、む……」

 

 手を余らせておくのはどうかと思い、彼女の乳房を揉みしだくことにした。手に収まらないサイズの果実はずっしりと重くて、見た目に反さず異様な柔らかさを誇っている。ついさっきこれに搾り取られたばかりだからどこかに畏怖の感情が残っていて、敬意を示すみたいに、全体を余すことなく揉みほぐす。性感帯を同時に何か所からも刺激されている四葉はもうわけが分からないようで、頼りない力で俺の舌技に応え、あとは時折甘い声を漏らすのみ。

 その仕草に愛おしさのようなものを感じてしまった俺は本当に末期なのだが、今はその感情を捨て置く。しばらくそれを繰り返しているうちに、彼女の全身が大きく脈を打って、その後脱力した。指先からは、ひくつく感覚が伝わってきている。

 

「…………お上手ですね」

「特別なことは何も」

「お上手ですね」

「うっ」

 

 どうやら未経験でないことは察されてしまったようで、刺すような視線から逃れるために、下半身のもっとも敏感であろう部分を刺激した。手法が最低すぎる。

 

「そ、そこはダメです」

「言ったらもっと攻められるのに」

「あ、だ、ダメですってばぁ……」

 

 集中的にいじくりまわしていると、再びの痙攣。どうやら本当にここが弱いらしい。強い人間がいるかどうかは謎だが。そもそも強いってなんだ。

 

「お湯が汚れちゃいます……」

「気にすることじゃないと思うが」

 

 それからしばらく、お互いの弱点をいじりあいながら湯船に浸かり続けた。ふやけたりのぼせたりしそうだったが、果たしてそれがお湯だけのせいだったのかは定かではない。

 

 

 

 

 

 

 空気を揺らす低温が室内に響いている。音源はおれの手の中にある家電で、その効果を享受しているのは目の前に座った四葉だった。

 

「上杉さん、ドライヤー慣れてますね」

「妹がいるからな」

 

 濡れたままには出来ないので、据え付けられたドライヤーで乾かしていた。四葉たっての希望で、俺がわしゃわしゃと未だ水気を含んだ髪を梳いている。

 これまた備え付けのガウンを着ているので裸ではないが、もうこの服の下がどうなっているかを知っているので、今更感が酷い。

 

「まあ、こんなもんだろ」

 

 どの状態が完成形かはよく分からないが、びしょ濡れは脱したので終わりということにする。四葉も文句がないようなので、きっとこれで大丈夫に違いない。

 

「…………と、言うわけでだ」

 

 四葉のガウンの結び紐をしゅるしゅると外す。彼女も髪を乾かし終わればどうなるかは理解できていたようで、されるがままになっていた。

 再び裸に剥き終えて、俺も羽織っていたものを脱ぐ。これからやることを想像してしまって、風呂上がりに一度落ち着いたはずの陰茎がもう一度暴走を始めていた。

 

「濡れすぎだろ……」

「実は、乾かしてる間もずっとさっきのこと思い出してて……」

 

 指を差し入れて、具合を確認する。このくらいになっていると、もう前戯の必要性は薄いかもしれない。

 

「ここに、入るんだなあって」

「言葉にしなくていいから……」

 

 そのままゆっくり押し倒す。これはもう流れで行ってしまう展開だと、ベッドサイドにあった小さな包みを破り、中からゴム製品を取り出す。これを使うのが初めてって、よく考えたらとんでもないことかもしれない。

 で、それを着用するために下半身に手を伸ばしたところ。

 

「え、なになに?」

「…………です」

「なんだって?」

「要らないです……」

 

 四葉にぐいっと押しのけられてしまった。どう考えても要らなくはないので、彼女の真意が計れない。

 

「要るだろ」

「もしもの時はもしもの時で」

「だから要るんだって」

「……私としては、どうにかしてそのもしもを引き当てたいのですが」

 

 四葉の狂気にあてられていると、隙を盗んで手に持っていたゴムが投げ捨てられてしまった。万一傷ついていると困るので、あれはもう使えない。

 それならばと予備の方に手を伸ばしたら。

 

「…………」

「隠すな」

「…………」

「あー……」

 

 ゴム風船みたいに引っ張られて、使い物にならなくされた。やることが大胆過ぎて呆れを通り越した尊敬がやって来る。

 

「ふふ、これでどうです?」

「フロントに補充してもらうけど」

「…………だめ」

 

 思い切り抱きしめられて、全ての行動を封殺された。こうなると俺には何も出来ない。女子相手に力で負けるとか、割と悲しい話だと思うのだが。

 

「このまましないと、だめです」

「…………その執念はどこから来るんだよ」

「せっかくの初めてなので、どうか」

「…………力抜け」

 

 涙目の懇願にあっさり折れてしまう自分の弱さを盛大に呪う。今度藁人形でも仕入れてくることにしよう。

 

「あ、う、嬉しい、です」

「そうやって乱すのやめてくれ本当に……」

 

 手で補助して狙いを定め、先端をゆっくり挿し入れた。彼女の膣内は俺を受け入れてか大きくうねって、肉ひだの一つ一つが執念深く俺の亀頭に絡みついてくる。

 

「……っ!」

「こら、爪立てんな」

 

 恐怖感があるのか、彼女の爪が俺の背中に食い込む。これは痣になるなと覚悟しながら、出来る限り優しく口づけて、彼女の警戒を解こうと努めた。

 

「あ……奥、すご……」

「頭空っぽにしとけバカ」

 

 ゆっくり、ゆっくり、時間をかけて、彼女の中に自分自身を埋め込んでいく。焦らされているようで歯がゆいが、ここで派手に動いたら四葉のトラウマになる可能性もあるし。

 それで言えば、俺の存在そのものが彼女たちに対する害悪なのは間違いがなかった。かつて二乃が言った、『俺の存在が彼女を腐らせる』主旨の発言は、大正解だったわけだ。

 彼女の先見の明にひれ伏しながらも、そもそもこんなことになった原因はお前にもあるのだと責任転嫁する。そうでもしないと、この場で正気を失ってしまいそうだった。

 現在進行形で理性と情欲との綱引きが行われていて、今はまだ理性が保てているから彼女への思いやりが残っているが、いざここで押し負けでもすれば、すぐにでも前後運動を開始してしまいそうだ。このもどかしさは疑うこともない毒で、早く自由に快楽を貪りたい。その思いは確かにあって、だからそれを殺すのに苦労した。

 

「…………はぁ、んっ……」

 

 一度のピストンに十秒くらいかけながら、彼女の体を慣らしていく。意志と肉体が方向性の違いで乖離しかけていて、もうどうにもなりそうにない。

 

「……悪い、四葉。もう加減出来ないかも」

「ど、どうぞ。上杉さんが気持ちよくなってくれるなら、私はそれで……」

 

 ここに来てそれは卑怯としか言えなかった。おかげで、せっかくセーブしていた感情があふれ出して、もう思いやりも何もかも捨て去り、ただただ己の快楽だけを追求するかのように、腰がひとりでに動き出す。

 四葉の声色が、大きく変わるのが分かった。先ほどまでは控えめに喘いでいたのに、勢いづいてからは、声帯が暴れているみたいに、甘い叫び声をあげている。

 そんなものを聞かされて我慢できるほど、人間が出来てはいなかった。

 その結果、二人の肉体が一体化してしまうのではないかと危惧される勢いで、何度も何度も激しく体を打ち付ける。彼女からあふれた愛液がシーツを濡らすようになるレベルで、止まらずに体を合わせ続ける。

 背中に食い込む爪の感触はいっそうリアルになって、それが唯一俺を現実につなぎ留める楔の役目を果たした。そうでもないと夢世界を飛び回っているみたいで、まるで現世を生きている実感がなかった。

 

 そんな俺の虚をつくタイミングで、彼女の膣が思い切り締まった。限界間近だったことも相まって、堪らず彼女の中に幾億の精子を放流することになる。何度も腰はガタついて、一滴残さず解き放ってしまおうと必死だった。

 

 一通りの反応が終わってから、いそいそと陰茎を抜き去る。そうすることによって堰が破られるみたいに俺が出したばかりの精液が漏れ出して、両者の体液が混じり合った淫靡な香りが充満した。

 

「……も、もう一回、いかがですか?」

「…………っ」

 

 空気感にあてられてしまった彼女のラブコールに、一度は萎れた体がにわかに沸き立った。これ以上精子がこぼれないようにと再度その穴を塞いで、テクニックの欠片も感じさせないような荒々しい動きで、彼女の全てを犯し尽くしていく。

 

 射精して、射精して、また射精して。それからはもう抜くこともなく、体位を変えながら何度も何度も混じり合った。性欲モンスターの俺と体力のある四葉の組み合わせだから、なかなか終わりは訪れず、どちらかが疲れて眠ってしまうまで、ずっとずっと、お互いの肉体を食みあっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 朝日が眩しい。結局一泊してしまって、朝帰りになっている。日中も動いたのに夜まで暴れたので疲労が思っていた以上に濃かったらしく、二人そろって熟睡してしまった。

 

「なあ四葉」

「なんでしょう上杉さん」

「お前、姉妹が朝帰りした時のこと危惧してたろ」

「はい」

「それを率先して実行するって、なかなかすごい皮肉じゃないかと思うんだが……」

 

 疑われるのは間違いなしで、というかほぼ完全に見抜かれる。調子に乗ったせいで四葉の胸元に内出血痕を残しまくってしまったので、問い詰められたら確実におしまい。そもそも嘘が下手な四葉のことだから、隠し通すのは不可能な話だった。

 

「……やっちゃいましたね」

「今気づいたのかよ……」

「後先を考えてなくて……」

 

 俺も便乗したので好き勝手は言えない。だが結局、自分で自分の首を絞める結果になってしまったわけだ。ことごとく成長がない。本当にこれが知的生命体としての在り方なのだろうか。

 

「でも、全然後悔してはいないから不思議です」

「お前なあ……」

 

 朝のラブホ街で腕組みはいくらなんでもあからさま過ぎる。昨晩何があったか自白しているのと変わらない。

 

「……で、上杉さん?」

「なに」

「結局のところ、誰を選ぶ予定ですか?」

「…………この状況で聞くかよ」

「私ですか?」

「圧」

 

 すげえぐいぐい来る。あんなことをした後だから、これくらいはなんてことないってか。

 

「……というのは冗談です。気長にお返事お待ちしてますから」

「助かる」

「それが良いお返事なら嬉しいです」

「圧」

 

 やっぱりプレッシャーをかけられている。これから四葉も牽制合戦に加わると思うと、そろそろ本格的に胃に穴が空いてしまうかもしれない。

 

「……一日一回まででしたっけ?」

「圧」

「帰るまでに絶対どこかで使うので、気を抜いちゃダメですからね?」

「手厳しいなおい……」

 

 四葉の頭が、俺の肩にことんと乗った。この甘ったるいだけの日々がいつまでも続かないことは分かっているが、せめて今だけは、心の中を空っぽにしても許してもらえるだろうか。

 

 そんなこんなで、今回も俺は意志薄弱。せっかく数か月に渡って積み上げたものを自分の手でぶっ壊して、また一からのやり直し。

 

 やっぱりどうにも、家庭教師業務の明日は見えてこなかった。

 



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あいまいでぃすたんす

何度試そうにもこれ以上カレンダーを捲ることが出来なくなって、そこでようやく今が何月かを理解した。玄関から一歩外に出ればそこにはもう冬が広がっており、間もなく今年が終わってしまうという事実をぼんやりと悟る。

 すっかり歩きなれてしまった通学路に、ずいぶんとくたびれた制服。そういったものともあと数か月でお別れだ。小学生の時も中学生の時も似たタイミングはあったはずで、しかし当時は何を思うでもなかった。だが、今回限りは少し特別。

 嫌でも思い入れなきゃならない出来事と交錯し続けた高校生活。特に二年後半からの攻勢は凄まじく、忘れようにも忘れられない記憶がちらほら。その中には可能なら忘れ去ってしまいたいことも含まれているのだが、この際それは考えないことにしておく。

 過去を振り返るたびに胸中にじんわり広がるこの感傷が、世に言う名残惜しさってやつなのだろうか。結局のところは自問自答でこの問いに答えてくれる相手はおらず、だから永遠と自分の内側で反響するだけになってしまうのがうざったいけれど。

 

 

 

 暖房の良く効いた職員室と比べて、廊下はお世辞にも快適とは言い難かった。スラックスの裾から入り込む冷気に脚が震えて、連動するかのように歯の根がカチカチと鳴る。白む吐息を見れば分かる通りに、節電はばっちり行われているようだ。環境保護に意欲的な施設のようで大いに結構。

 それにしても、この時期の学校から漂う焦燥感はどうにも好きになれそうにない。受験間近の三年生とそれを受け持つ教師たちは絶えず余裕のない顔をしているし、下級生もその勢いに飲み込まれているせいで非常に窮屈だ。マンツーマンの面談やら面接練習やらがそこかしこで実施されていて、とにかく校内全体が息苦しさに満ち満ちている。

 それらを受けて、嫌だなあと大きくため息をついた。こちらの事情を一切顧みることなく変遷していく周辺世界に関してもそうだし、今までとは打って変わってその環境から影響を被ってしまいそうになっている俺に対してもそうなのだが、とにかくもう少しでもいいから穏便に回ってくれやしないものだろうか。

 

「上杉君」

「……ん」

 

 教室への帰りしなに声をかけられる。誰かと思って顔を見れば、今日も今日とて頭部に星型のアクセサリーをくっつけた末っ子さんがそこには一人。彼女も寒さには強くないようで、冷気にあてられた頬はほんのりと紅潮していた。

 

「職員室に用でも?」

「ああ、まあな」

 

 会う場所が会う場所で、歩く方向が歩く方向だったため、繕いようがなかった。今の俺は誰から見ても、職員室から出てきた生徒だ。

 

「ちょっと担任から呼び出されて」

「……悪事を働いたりは」

「してねえよ」

 

 法律なり学則なりに触れた記憶はない。というかちょっとくらいやんちゃをしたところでこれといった問題はないように思う。学校なんて好成績さえキープしておけば教師の評価は自ずと高くなるのだから、これまで向こうも俺にガミガミ言ってくることはなかったし。

 ……だがまあ、今回は事情が事情だったため、仕方なかった。

 

「ではどんな理由でしょう?」

「追い追い話すから待ってろ。ってかお前、人のこと心配してる余裕あるのか?」

「……うっ」

 

 露骨に目を逸らされる。誤魔化そうにも俺は彼女のテスト結果を網羅しているので、口先で何を言おうと無駄だった。直近の模試では、なかなか苦しいアルファベットが成績欄に印字されていた記憶がある。

 

「俺はいいから、今は自分のことだけに集中しとけよ」

「そうは言っても……」

「ここに来てるってことはお前も職員室目当てなんだろ? ならさっさと行ってやれ。後がつかえる」

 

 五月は妙に食い下がる気配を見せたが、意図してそれに取り合わず、そそくさとその場を脱する。積極的に話したいことではなかったし、話すにしても場所を選ぶ必要があると思った。少なくとも誰が盗み聞きしているかも分からない廊下で持ち出すような話題ではない。

 

「後でちゃんと教えてくださいね!」

 

 五月の声を背中で受けながら、室温を気にしなくても構わない教室へと向かう。体が冷えていると、その延長で心まで凍えてしまいそうな気がしたから。

 

 

 

 

 

 

 

 時期が時期だから、もう通常授業という名目で時間割が運営されていない。何もかもが受験対策に染まっていて、ここが高校なのか予備校なのかの判定が自分の中で曖昧になってきているのが分かる。

 午後イチのコマは発展演習ということで、有名大の過去問を解かされた。幸か不幸か以前に手をつけた問題だったので制限時間の三分の一程度で解答欄を埋め終えて、残り時間を思考に費すことにする。

 思い返すのは、先ほど職員室で問われた話題。自分の中で未だに結論が出ていない、一つの大きな悩みについて。この数か月で何度も考えさせられて、されどまるで答えがまとまってくれなかったこと。

 

「…………」

 

 プリントの端のスペースに、同じ長さの直線を角度を変えて数本書いて階段を作る。その段に対応させるように小学校、中学校、高校と書いて、そして次に。

 

「…………」

 

 次に、何も書けなかった。俺の思考力は現在を描くのに精いっぱいで、その先の未来を書き記してくれない。数か月後の身分さえ、確定させることが叶わない。

 どう想像しようにも上手く行ってはくれなかった。先へ先へと進んでいくと必ず思考が断絶するポイントがあって、何度試してみてもその関を越えられないのだ。そしてそれは、決まって進学や就職といった場所で発生する。

 要するに、お先が真っ暗だった。その場所に至る能力の持ち合わせはあるのに、それを活用している自分の姿が思い描けない。目的なく手段を鍛え上げたツケをこんな時になって払わせられることに歯噛みし、今しがた書いたばかりの階段をHBの鉛筆で塗りつぶす。その像はまるで今の自分の脳内を図解したかのようで、直視するのが躊躇われた。

 教室に響くのはペンが文字を記す音と、クラスメイトの呼吸音。それから、時計が秒針を刻む音。

 そのどれもが優柔不断な俺を急かしているように思えて、逃げるように目を閉じた。

 そんなことをしたって、白紙の進路調査票は埋まってくれやしないのに。



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あいまいでぃすたんす②

 どんな問題も、永遠に保留しておけるならそれより楽なことはないのになと思う。期限をどこまでも先延ばして、追及をのらりくらりとかわして、そうやっていつまでも面倒なことを考えずにいるのが許されるなら、俺もそっち側に流れるかもしれない。

 けれど、現実としてそんなことを許容してくれるほど世界は甘く作られてはいなくて。だから遅かれ早かれ、満足の行く行かないにかかわらず、答えを迫られるときは必ずやって来る。

 

「へんなかお」

「そう思うなら見なきゃいいだろ」

 

 図書室。机の上に必要なテキスト類をざっと並べて、黙々と励んでいたところ。

 別に招集をかけたわけでもないというのに、三玖は俺の対面の椅子をそっと引いて、そこに腰をおろした。

 

「眉間にしわが寄ってる」

「目が疲れてんだよ」

「ほんとに?」

「ほんとに。ついでに言えば脳とか体とか、他にも色々疲れはたまってる」

 

 変な顔、というのは表情が苦しげだという意味だろうか。考え事をするのならそれに関わる如何は己の内側に留めるべきで、外に漏出させるのは好ましくない。芸とか品位とか、その他もろもろを問われる。

 昔までならどれだけ険しい顔をしようが問題はなかったが、ここ最近は勝手に心配してくれる連中がいるので、下手な迷惑をかけたいとは思っていなかった。

 それがこうやって三玖からの指摘を受けるほど目に見える変化を起こしてしまっているのなら、いよいよ深刻。

 

「えい」

「えい、じゃねえよ」

「ほぐせば少しは良くなるかなって」

 

 大きく身を乗り出した三玖が、指先で俺の眉間をつまんでくる。それに飽き足らず前後左右にぐりぐりと動かしてくるので、前を見るのもままならない。

 

「そこをいじったところで疲れは取れなくないか?」

「気分的に」

「気分で解決はしないんだな、残念なことに」

 

 原因は明らかに睡眠不足なので、保健室のベッドにでも潜り込むのが一番だ。ただ、最近は寝つきも良好とはいえないからなんとも。

 それ以前に解決すべきことが山積しているとの見方もあるが、俺の能力で片付けるのが不可能だからここまでだらだらと間延びしてしまったわけで。

 眉間から下降して頬っぺたをつつき始めた三玖の手を退けて、目をノートに落とす。正直これ以上手を尽くしたところで意味があるかは微妙なのだが、気分的に妥協はしたくなかった。

 

「無理はほどほどにね」

「心得てる」

「心得てるなら、ゆっくり休むべきだと思うんだけど」

「……自分のことだけ考えりゃ良いのならそうしてたかもな」

「……意外にお人好しだよね、フータロー」

「意外は余計だ」

 

 俺が現在扱っているのがセンター対策系の問題集だったのを見て、三玖は色々と察したようだ。

 

「どうせなら皿まで食ってやろうと思ってな」

「…………?」

「こっちの話」

 

 嫌味を言うようだが、俺自身はもうどうにでもなる。国内の最高学府なら、基本的にどこだって射程だ。なんなら明日に試験を持ってこられようが構わない。

 だから、こちらの心配は、自分以外に預けられている。

 

「ここまでやってきたんだ。どうせなら成功してもらった方が得だろ」

「損得で考えるのがフータローらしいっていうか」

「俺の一年の価値が問われてるからな」

「そんなの、気にしなくてもいいのに」

 

 気にするんだこれが。自分のやって来たことが間違いだったかもしれないという憂いは、人生に大きな影を落としてしまうから。

 というか、それ以上に。

 

「本人の頑張りを知っちまってるから、応援してやりたくもなる」

「お人好しと言うよりは、お節介焼きなのかもね」

「否定はしない」

 

 これから受験に臨む誰かさんのために躍起になって要点整理ノートなんて作っているのだから、そう言われても仕方ない。ここまでくると介護に近い趣さえ感じる。

 昼間はあんなことを言ったけれど、あいつの努力に関しては疑っていない。要領が絶妙に悪いせいでこれまでは結実しなかったが、人生の大一番でくらい成功体験を味わってもらっても罰は当たらないだろう。

 

「サポート頼むぞ」

「うん、分かってる」

 

 精神面のケアは俺の領分じゃない。それはこれまでで嫌と言うほど理解させられているので、大人しく姉妹に丸投げしておく。同じ家で過ごす家族である以上、俺なんかよりもよほど上手く立ち回ってくれるに違いないから。

 得手不得手はどうしてもあって、そしてそれは彼女たちに限った話ではない。克服しようと努めるのも大切だけれど、効率の方を優先させた方が丸く収まる場合だってある。おそらく、今は後者だ。

 一年前よりは彼女たちのことを深く知って、一年前よりはその心の内を推し量ることに大きなウェイトを割くようにもなった。けれどそこにはどうしても俺の性向上の限度が存在するので、踏み込み過ぎるのも考え物だ。

 

「……で、お前はどんな用向きでここに来たんだ?」

「好きな男の子の顔を近くで眺めておこうと思って」

 

 一切の予備動作なく投下されたバンカーバスターの余波がどこまで広がっているか確認するために周囲を一通り見回すが、幸運にも聞き咎めた者はいないようだった。聞いていないフリをしているのかもしれないが、別にそれでも構わない。今この場において重要なのは、いかになんてことない感じで受け流せるかどうかだから。

 

「……反応してもらえないと恥ずかしいんだけど」

「悪いが今ちょうど切らしてる」

「スーパーじゃあるまいし」

 

 真っ向から受け止めて甘酸っぱい感じの雰囲気になってしまうと、間違いなく勉強どころではなくなる。

 酷いことをしているという自覚はあるけれど、俺の考えられる最適解がこれである以上、頼らないわけにはいかない。

 

「入荷予定はあるの?」

「……数か月後じゃねえかな」

「そっか。なら、気長に待つ」

「わ――」

 

 悪い。そう言いかけて、けれど途中で口を噤んだ。どこかで致命的な間違いが発生している気がするというのが第一の理由で、第二には、それを弁解するだけの資格が自分に備わっているようには思えなかったというのが挙げられる。

 やったことがやったことだ。最低とか最悪とか、そのあたりの誹りは黙って全部受け止めておかないと。一人で勝手に謝って、救われた気分になるのは何かが違う。この話題に関してのみは、どうあっても彼女たちの優しさに甘えることは許されないと思うから。

 

「わ?」

「……忘れてたら言ってくれ」

「じゃあ、今日から毎日催促を」

「やっぱやめてくれ」

 

 急ごしらえの方針転換なんてしても、何もいいことはなかった。最低具合がさらに跳ね上がっただけだ。マイナス百が二百になろうが三百になろうが零点を割り込んでいるというところでは同じなので、今更気にしたところでと感じたりもするけれど。

 

「気付いたら四葉も手籠めにされてたし、もっとアピールしなきゃなって」

「お願いだからそれ以上いじめないでくれ……」

「朝帰りした後、冷や汗だらだらで苦笑いしてる四葉に何が起きたかを考えるのはすごく簡単だったよ」

「その節は大変申し訳なく……」

「申し訳なく思うなら、せめて最後くらいはきっぱりね」

「……おう」

 

 温情、あるいは憐憫。結局甘えに走ってしまっている俺は、思ったよりもずっと弱っちい人間らしい。

 なればこそ、せめて彼女の言う通りに有終までは持っていきたかったが、『誰が』とか、『どういう理由で』とか、果たしてそんなことを言う権利が俺にあるのかどうか。

 分からないなりにどうにかしようともがいていて、そのたびにずぶずぶと底なし沼へと沈んでいく。厄介なことにじっとしていても体は泥に動きを奪われていくから、両者の違いは侵食速度の差だけ。それならばせめて自分の力で溺れてしまおうと思うのは、俺の傲慢か。

 

「あ、そうだ」

「なんだ」

「三玖が一番って言う練習、ここでしておく?」

「圧」

 

 えげつないプレッシャーだ。誰もかれも最近こんなのばっかり。

 もっとなりふりを構って欲しいところだが俺の素行が素行なので強くは言えず、だから必然的に、彼女との視線の交わり合いをやんわり避けるところに帰着する。

 

「……とにかく、俺は作業に戻るから」

「ん、分かった。……見ててもいい?」

「好きにしてくれ」

 

 それから数時間、何をするでもなくただただ椅子に座りながら俺を見つめてくる三玖になんとも言えないものを感じながら、それでもどうにか予定していたものを作り上げた。

 よくもまあ飽きないものだというのが、正直な感想だった。

 

 

 

 

 

 

「これ、五月に渡しといてくれ」

「自分で渡せばいいんじゃないの?」

「こういうのは早い方がいいだろ。時間がそんなに残ってるわけでもないんだし」

 

 ノートに題でもふっておこうかと思ったが、気の利いた文言が思いつかなかったのでそのままにした。『サルでもわかる』なんて喧伝した上で理解されなかったらあまりにも悲惨過ぎるので、変に凝らない方がいいとも思う。外見より中身で勝負していけ。

 

「……まあ、この時期にやたらめったら新しいものに手をつけるのは危険だとは分かってるんだけど、心情的に拠り所になるものがあると楽だからな」

「了解。しっかり届ける」

 

 三玖がノートを鞄にしまい終えるのを確認してから、その場を離れる。思いの外手間取ってしまったというのもあって、図書室内の人影は既にまばらになっていた。おおかた、暗くなる前に帰路に就こうという魂胆の連中が多かったんだろう。

 昇降口で緩慢に靴を履き替えて、外を眺める。

 照明に慣れてしまった目に、夕闇はいくらか暗すぎた。疲れ目では瞳孔の収縮も上手くいかず、また眉間にしわを寄せることになる。

 

「ほら、さっさと帰るぞ」

 

 振り返って言う。ローファの踵がどうにも合わないらしくもたついている三玖を急かすために。

 

「え……?」

「なんだその困惑顔」

「いや、いつものフータローなら一人ですぐに帰っちゃうところだから」

「そうしたってどうせ付いてくるだろ、お前は」

 

 もしかすると、俺は割と恥ずかしい類の勘違いをしてしまったのかもしれない。すっかり一緒に帰るものだとばかり思って、それを前提に行動していた。

 これを思い上がりと呼ばずになんと呼ぶといった感じだが、当の三玖はまんざらでもないらしかった。それどころか、ご満悦らしかった。

 

「うん、付いてく」

 

 言って、ようやくのこと立ち上がる。……けれど。

 

「それはサービス対象外なんだが」

「しーらない」

 

 しっかり組まれた左腕を、半ば諦観の意を込めながら見下ろす。独占欲の高さは姉妹に共通するようで、以前の二乃なり四葉なりを彷彿とさせるような、抜け出す方法が見つけ出せない完全な両腕によるホールドだった。

 こんなことをしなくても走って逃げ出したりはしないというのに、一体何が彼女たちを突き動かすのか。……と、そこまで考えて、四葉の言が頭の中に甦る。誰より近くで自分の欲しかった幸せを見せられる恐怖。そもそもこいつらの定義する幸せになぜ俺が関与しているのかという根本的な疑問は飲み込めていないが、こいつらはこいつらなりに必死なのだろう。

 だからこんな風に、捕らえた腕に頬ずりを――

 

「いくらなんでもそれはねえだろ」

「せっかくだし」

「お前も損得勘定で動いてるじゃねえか」

 

 この指摘で多少は離れてくれるかと思ったが、どうやら彼女の決意は俺の思う以上に硬いようで。

 なおも頑なに体をすり寄せてくるのを強引に引き剥がして、なんとか会話を続ける。

 

「しゃーないから聞くわ。ずっと気になっていたことではあったんだけど、なぜここまで俺にご執心なんだお前?」

「なぜって?」

「いや、上手くは言えないけど……」

 

 「俺のどこが好きなんだ?」と正面切って言う胆力はなかった。自分の口で言うと認知を確定させてしまったようで悔しさが滲むというのもある。

 しかし、これはずっと気になっていたことではあったのだ。男の趣味が悪いなーと漠然と感じはしていたが、そこに明確な理由付けがなされているのなら、聞いておきたい。敵と己を知って百戦百勝の構えだ。

 

「なぜってどういうこと? もっとはっきり聞いて欲しい」

「さてはお前分かってやってるな?」

「分からない。何も。だからはっきり聞いて欲しい」

「三十六計」

「逃げるに如か……あ、ちょっと。待ってよフータロー」

 

 形勢不利と見たら取りあえず逃げる。兵法の基本だ。

 俺がいつから戦争に参加していたのかは謎だが、ここは歩幅を大きく広げて、三玖の意識を歩行に割かせることに注力する。俺の脚の方が長いので、加減をやめれば歩行距離に差がつくのだ。

 しかし、俺の権謀は虚しく散る。というのも、しばらく黙ってもらおうと思っていたのに、突然三玖が口を開いたからで。

 

「…………まさに、こんなところとか」

「意味が分からん」

「いつもはこっそり歩幅合わせてくれてるってことでしょ」

「…………」

 

 完全に無意識なので、いきなり言われても困惑するしかない。確かに横並びで歩くことには慣れてきたけれど、そこに隠れた意図なんて一つも……。

 

「そういうところがあったかいなあって」

「……誰でもしてるだろそんなの」

「そういう素直じゃないところも」

「無理やり好きな要素増やそうとしてないか……?」

 

 単純な疑問。天邪鬼な部分まで気に入られても困る。卑屈だったりひねくれていたり、少なくとも俺の性格は褒めそやされるようなもんじゃない。

 ここまでくるとどうにも恋に恋している感が強くなっている気がして、そこから漂う違和感が拭えなかった。盲目的すぎるのは、流石に違うように思う。

 

「人を好きになるって、要はそれでしょ?」

「それってどれだ」

「一つ『ここがいいなー』って思ったら、だんだん他のところにも目が向くようになるの。それで気が付いたら、その人の全部が好きになってる」

「……じゃあさ」

 

 大本。根っこ。今に至る原因。それがあると彼女は言うのだから、この際教えてもらうことにしよう。

 

「最初の一つってなんだったんだよ?」

「さあ?」

「さあって」

 

 いきなりの矛盾。自身の言葉を彼女本人が否定しにかかっている。

 今の言葉から鑑みるに、何かしらの理由が必要不可欠なはずだった。それがないなら、今こうなってはいないって。

 なのに当人がこの調子では、何をもってその発言が裏付けられるかが不明瞭になってしまう。

 

「押しに弱かったのかもね、私」

「口説いた覚えなんてないぞ」

「違くて。ほら、フータローはさ、最初から距離を気にしないでぐいぐい詰めてきたから」

「仕事だったし……」

「それにしたって強引だったよ」

 

 俺なりに必死だったので仕方のないことだ。生活がかかっている以上、適当に投げるわけにはいかなかった。

 結果として、大きく踏み込み過ぎたというのはあると思う。だがしかし、それで陥落するのはいくらなんでも耐性がなさすぎる。

 

「きっかけはたぶん、そんな感じ。こんなに近くに男の人がいるの、初めてだったから」

「引き運が悪くて残念だったな」

「ん、どうだろ」

 

 言って、三玖はそのまますり寄ってくる。人懐こい猫を思わせる動きに、人としての尊厳を問いたくなった。

 

「フータローじゃなかったら、きっとこうはならなかったと思うなぁ」

「…………それは嫌味か?」

「半分はね」

「もう半分は?」

「……感謝、かな?」

 

 確かに私生活をはちゃめちゃに荒らしはしたが、その中でも仕事に関してはきっちりこなしてきた。その部分に恩義を感じるというのなら、受け入れられなくもなかったり。今考えれば、プロに任せていた方がもっと丸く収まったのではないかと思いもするけれど。

 ……が、そんな俺の内心を知ってか知らずか、三玖は否定を示す次の言葉を紡いでいく。

 

「フータローに会えたおかげで、昔よりずっと自信がついたから」

「別に、いずれどうにかなってたろ」

「じゃあ、その『いずれ』を手っ取り早く引き連れてきてくれたフータローには、俄然感謝をしなくちゃね」

「そういうもんかね」

「前と違って、好きなものを素直に好きって言えるようになったよ」

「……なんだその目は」

「好きな人を見る目」

「…………」

 

 これ以上のやり取りは不毛と言うか、俺の精神力が一方的に摩耗していくだけというか。

 とにかく、今は何を言っても墓穴を掘ってしまいそうな気がしたので、一度口を紡ぐ選択をした。

 

「フータローが恥ずかしがり屋さんなのは知ってるから」

「……ただの予防策だっての」

「何を予防するの?」

「主に失言。それと、そこから来る揚げ足取り」

 

 一度口に出した言葉は引っ込みがつかないので、吟味を挟んでいくしかない。思考と発言を直結させるのは安易すぎる。少なくとも、俺の性格とは相性が良くない。

 

「黙ったら黙ったで、私の言葉が刺さってるのが分かって嬉しいけど」

「そう言われたらとうとう打つ手がねーよ」

「打たなきゃいいんだよ。私はいつでも準備万端だから」

「一応聞いとく。何の準備だ?」

「嫁入り」

「こえーよ。怖い」

 

 みんな怖い。どこまで先を見てるんだか分からなさすぎる。三玖を見るに『冗談だよ』と否定する様子もなさそうなのがまた、俺の不安を煽り立ててくるのだ。

 こういう奴らを四人ほど相手にしていくのか、俺は。業があまりにも深すぎて今にもこの場で泣き出しそうだ。

 

「私をこんな風にした責任は、フータローにあるんだからね?」

「安直に病むな」

「……それは冗談としても、良いよね、お嫁さん」

「男だからその感情は分からん」

「お嫁さんって、女の子にとってはウェディングドレスのイメージだから」

 

 基本的に一生に一度だけ世話になる華美な服装。大きな晴れ舞台として、深層意識では誰もが憧れるものなのだろうか。

 

「一応仏教国なんだけどな、日本」

「フータローは白無垢の方が好み……?」

「そういう意図はない。ってかそれは神道だろ」

「神前式も趣があって良いよね」

「ここで歴女の顔を出すな」

「紋付の袴、似合いそうだし」

「バージンロードって和製英語らしいぞ」

 

 向こうが会話を放棄して妄想に耽り始めたので、こちらも大暴投することにした。キャッチボールなんて知らない。

 しかしその球は三玖の体を掠めたようで、「へー」と頷いているようだ。

 

「バージン」

「なぜそこで区切った」

「バージン……」

「なぜ俺を見る」

「いや、もうあげちゃったなと思って」

「胃が千切れるから勘弁してくれ」

 

 やっぱり、口は災禍を招いてしまう。この際だから大人しく声帯でも潰しておこうか。

 それ以上に災いを呼んでくる器官があることには薄々勘づいているが、ここを切除する想像をすると全身が震えあがるのでやめておく。命は惜しい。

 

「まあいいや。誰かさんが私の憧れを叶えてくれるように、今からお祈りしておくね」

「それは脅迫って言うんだぜ」

「それでもいいよ。なりふり構う余裕がないもん」

 

 外気は冷たいはずなのに、三玖はそれを感じる余地すら残してくれない。肌のふれあいと、それから心のふれあいでもって、さっきからずっと体が火照っている。

 いっそ雪でも降ってくれれば話題を逸らすことも出来るんだけどなと思いつつも、そういえば彼女と会ってから、進路に関しての懊悩を一時的に忘れられていたことに気付く。代償に、同等の爆弾を落とされはしたけれど。

 

「なあ、三玖」

「なあに」

「お前、将来の夢ってあるか?」

「フータローのお嫁さん」

「ノータイムで答えんな。……でも、そうか」

 

 ぱっと出てくる選択肢があるだけ羨ましい。俺には、それすらないから。

 これさえあればというものが自分の中央に座っていないのは、今思えば歪な精神構造なのかもしれない。たかだか十八のガキに、未来を決める決断を迫るだけ無謀だという見方も出来なくはないけれど。

 

「フータローには何かあるの?」

「……さあ、どうだかな」

「ないなら、見つけるのを手伝うよ。恩返しにね」

「恩なんか売ってねえよ」

「勝手に買ったもん」

 

 正規の購入手続きを経てくれと毒づく。だが、協力者がいる方が、頼もしいか。

 

「大丈夫。私たちに勉強を教えるより難しいことなんて、世の中に存在しないんだから」

「それだけ説得力やべーな」

「だから元気出してよ。最近、ずっと疲れた顔してる」

 

 むにむにと頬を引っ張られる。その程度で、凝り固まった表情筋がほぐれることはないけれど。……でも、心の方には、ちょっとだけゆとりができた。

 

「……これじゃあ、どっちが先生なのか分かんねえな」

 

 聞かれないように呟く。教え導く側がこんなんでいいのか全くの謎だ。

 未だに、舵の取り方は分からなかった。その場しのぎを繰り返してきたせいで、具体的な方法論は確立されていない。

 

「ラストスパートだ」

 

 何においても。終わった後に倒れこめそうにないから、余力を残しておかなければいけないけれど。それでもあと数か月で、今の俺に襲い掛かっている問題の大半は一応の解決を見る……ことになっている。今の段階では神のみぞ知ることだから、せめて上手く行けと願っておこうか。

 ここからの自分の判断一つ一つが、未来の自分を作る大きな分岐点になる。まるで実感が湧かないが、悔いだけは残さないようにしないと。

 

「出来る限り、私も協力するから」

「なら、この腕をほどくところから始めてくれ」

「これは別問題」

「さいで」

 

 空に浮かぶ星を見上げながら、肺にたまった空気を吐き出す。こういう甘えたやり取りをしていられるのも、おそらく今が最後だ。

 何を選ぶにしろ、選ばないにしろ、きっと円満な解決法なんて存在しない。大団円はどこにもない。

 それならそれで、俺にお似合いの結末のように思う。自分の分を超えた行いだったと考えれば、意外にすんなり受け入れられる。

 どんなことになろうとも、その顛末は全てこの身で受け止めよう。自分で引いてしまった引き金なのだから、面倒を最後まで見切らないことには話にならない。

 当然の帰結。当たり前の責任。それを超えた先に、待っていてくれるものはあるのだろうか。

 

「ほら、お前んちあっちだろ」

「ん、もうちょっと」

「お前のもうちょっとは異常に長いんだよ。知ってるかんな」

「なら、あと五分」

「五分はちょっとなのか……?」

 

 体力自慢なら一五〇〇メートルを軽々駆け抜けられるくらいの時間。大抵のカップ麺が出来上がる時間。それがちょっとかどうかは、俺の尺度では断言できなかった。

 

「もしくは十分……」

「指定しても伸びるんじゃ意味ねえだろ」

 

 ぽすっと胸あたりに収まる三玖の頭をどう扱うべきか悩んで、最終的に握りこぶしをぐりぐり押し付けることに決めた。これなら、触れることに特別な意味を見出されなくて済む。

 

「ね、フータロー」

「なんだよ」

「キス、しとく?」

「しとかねえよ」

「いや、断られてもするんだけど」

「えぇ……」

 

 極力限界まで背を反って、目を瞑りながらこちらに唇を寄せてくる三玖から逃れた。残念なことに、一日一回は朝一番で消化済みだったりする。

 

「……むぅ」

「むぅじゃないが」

「じゃあ、こっちで我慢しておく」

 

 ちゅっと、唇が首に触れた。これは協定的にセーフでいいのか……? この抜け穴を許すと、どんどん綻びを突かれる気がするんだけど。

 

「このほうが記憶に残っていいかもね」

「良くねえよ。なんにも良くない」

 

 そのたびに寿命を縮めてしまう。長生きしようとは思わないが、別に早逝したいってわけでもないのだ。

 

「あったかい……」

 

 そりゃあそんなにべたべた引っ付いたら、寒さを感じるどころではないだろう。決して俺は湯たんぽなどではないので、勘違いはしないでもらいたいのだが。

 

「頑張ってね、フータロー」

「言われなくても頑張るっての」

 

 こんなやり取りの間にも、時間は刻々と流れていく。

 結局、経過したのは五分や十分どころではなかった。何もない道端で立ち尽くして、中身の伴わないどうでもいい会話をして、そうやって、だらだらと貴重な時間を消費していく。

 なんてことはなく、ぬくもりを誰よりも求めていたのは、ここにいる俺自身だったらしかった。

 やっぱり、彼女たちへの甘えは消えてくれない。



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あいまいでぃすたんす③

 抱えているものが多すぎて、それらを消化する時間が追いついてこない。だから必然として睡眠の方にしわ寄せが回ることになって、なんだか体が怠かった。

 昨日がそうであったように、今日も渡された問題はさっさと解き終わったので、残り時間は瞑目して過ごすことにする。あくまでも授業の延長なので気分的に居眠りはできないが、視覚を切るだけで多少体は休まるだろう。ペース配分を誤ってこんなところで体を壊そうものなら、五つ子のサポートなどとは言っていられなくなる。

 …………そのつもり、だったんだけど。

 

「珍しいですね、上杉君が授業中に居眠りなんて」

 

 背中を揺さぶられて覚醒。時計を見れば、今は授業間の休み時間。ちょっと休むつもりが、そのまま眠りの世界に誘われてしまっていたらしい。

 意識下どころか無意識下でも大分参ってしまっているのだなぁと肩を落としながら、俺を起こした張本人である五月と向かい合った。

 

「気ぃ抜いたら意識飛んでた。悪いな」

「謝られることでもないですが」

 

 確かにそうだ。俺は五月に不利益を押し付けたわけじゃない。それなのに「悪いな」では、言語的に不調和か。

 かと言って、起こしてくれたことに感謝するのはそれはそれで違うような。俺が日本語を自在に使いこなせないだけかもしれないが、こういうときに重宝する表現の一つくらい用意しておいてくれればいいものを。

 

「そうだ五月。ノート、ちゃんと届いたか?」

「そのお礼を言いに来たのですが」

「別に、後で構わないのに」

 

 今日は全員で集まって勉強する予定が入っている。礼はその時で良いのに、律義な奴だ。このあたりがこいつの美徳でもあるのだろうけど。

 

「目は通したか?」

「一通りは」

「ならいい。そこまで急いでやる必要はないから、暇を見て進めとけ」

「ありがとうございます、本当に」

「仕事だからな」

 

 仕事が占める領域を逸脱している感は否めないが、乗りかかった舟だ。……いや、それどころか、しっかり腰を据えてしまった舟だ。ここまでくれば、もう最後まで付き合うしかないだろう。当初は呉越同舟っぽい趣があったのをここまで歩み寄るのに相当な苦労をした。それと比べて考えれば、ここからの一押しくらいはなんてことない。

 

「報酬、弾まないとですね」

「忘れんなよ」

「しっかり記録してありますから」

 

 耳を揃えて~とでも言おうかと思ったが、こいつにはその手の冗談が通じないことを思い出す。下手をすると角をぴっしり合わせた現ナマを用意してくるかもしれないから、この表現は胸の内に秘しておこう。

 

「で、今のテストの手ごたえは」

「今日は午後から雪が降るそうですよ」

「なるほど分かった。死ぬ気で頑張れ」

「…………うぅ」

 

 大きく項垂れる五月。天気の話題で誤魔化すなんて盛大なテンプレートは俺には通じないのだった。

 しかし、そうか。感触薄か。焦ってどうにかなるものでもないけれど、今の段階でそれはなかなかに厳しいものがある。

 

「中途半端が一番良くないからな」

 

 最近の言葉の中では何より一番感情が乗っている気がする。大いなる自戒を込めた助言に、しかし五月は肩を落としたままだ。

 

「全然自信がつかなくて」

「そりゃな。自信ってのは成功体験か努力に基づくもんだし」

 

 俺の場合なら学年一位と言う看板。二乃なら料理、四葉ならスポーツ。明確に実績を残せる何かがあるのなら、それは自分の中で強固な屋台骨になってくれる。

 だが、そこには大前提として大いなる落とし穴が存在していて。

 今しがた俺は自信に関することを言ったが、それは二次的な相関なのだ。最初にあるのは興味か偶発的な成功のどちらか。それを基盤にして努力へと発展し、それを呼び水にして更なる成功を己の手中に収める。このループの過程で、自信と呼ばれるものが勝手に自分の中に居つくのだ。

 その点において、やるだけのことをやっているのに失敗続きの五月は弱い。努力と成功が実感として結びついていない以上、何をしようが不安は残る。

 それを取り除くのが果たして俺の仕事かどうかは判然としないが、最低限のアドバイスくらいはしてやれるといいんだけど。

 

「……とは言え、一朝一夕でどうにかなる問題じゃねえんだよなぁ」

 

 自分に甘い奴なら、一生懸命頑張った自分自身を肯定することができるだろう。だが、中野五月は堅物だ。そんな妥協を良しとするタイプの人間性を持ち合わせてはいない。

 融通が利かないと言えばそれまでだが、俺は心のどこかで、その頑固さを評価している節があった。出来ることなら彼女にはその愚直さを後生大事に抱えてもらったまま、理想のゴールにたどりついて欲しいとさえ思っている。

 しかしそれを成し遂げるには高いハードルがあまりにも多すぎて、どうやって打倒すればいいか困りものだ。

 

「まあ、そのあたりはなんとか知恵出しとくわ。精神論以前の問題として知識量が足りてないってのはあるし、今はひたすら勉強するしかないわな」

「……毎度お手数おかけします」

「仕事だって言ってるだろ。もっと楽に構えとけ」

 

 肩肘張るなと言ったところで、真面目な奴は余計に気負ってしまう。だからといって無言で突き放すわけにもいかず、そのあたりのパラドックスが俺をちくちくと突き刺してきた。

 『教える』という行為の難しさはこの一年で嫌というほどに理解させられてきていて、それでも未だに分からないことまみれだ。相手の力量を推し量りながらラインを引いて、性格を考慮しながら物言いを考えて。たかだか五人を相手にこれだけの労力を払わせられるのに、一クラス四十人なんてとてもじゃないが面倒を見切れる気がしない。……全員が全員こいつらレベルの問題児と仮定した場合だけれど。

 

「とにかく頑張れ。俺も頑張る。今んとこはこれだけ」

 

 五月の背中をグイっと押して彼女の席に押し返す。俺とばかり顔を合わせていては気が滅入ってしまうだろうから、不可欠の措置だ。

 

「あ、あのっ」

「話があるならまた後で。そろそろ次の授業始まるぞ」

 

 会話を断ち切る。次の授業ってやつまでの間にはまだ五分程度の猶予が残っているけれど、彼女の姉に言わせればその時間は『ちょっと』に過ぎない。なら、『そろそろ』と表したところで問題らしい問題は見受けられないだろう。

 頑張ると本人に宣言してしまった以上、半端なことは出来ない。俺のことは二の次においてでも、対策を練らないと。

 

 

 

 

 

 

 

 

「フータロー君から見て、五月ちゃんはどんな調子?」

「正直に言って良いか?」

「嘘つかれた方が困るな」

「ならぶっちゃける。かなりヤバい」

 

 学校での勉強会を終え、五つ子と俺とで夜道を歩いていた。その中の流れで、俺は前方のグループから少しだけ距離を取り、一花と一対一で話す態勢になっている。

 

「なんて言うか、目に見える数字以上に五月の心が置いていかれてる。たぶんだけど、あいつにはイメージがないんだ」

「イメージって?」

「自分の目標をつかみ取るイメージ。過去の失敗の多さが災いしてるんだかなんだか知らないが、五月にはそれが薄い」

「なるほど」

「で、だ。一応は夢に向かって前進してるお前から見て、この状況はどうするべきだと思う?」

 

 使えるものはすべて使うことにする。この際、それが猫の手だろうが姉妹の手だろうが構わない。

 

「私と五月ちゃんじゃ、そもそも性格が全然違うからなぁ」

「分かったうえで聞いてる。今はとにかく意見が要るんだ」

「うーん、たとえば……」

 

 一花は何かを指折り数えて、そしてその後、折った指を元に戻す。何のためのアクションかは良く分からないが、彼女なりに意味があってのことなのだろう。

 

「たとえば?」

「たとえば……なんだろね?」

「おい……」

「分かんないものは分かんないよ。こればっかりは五月ちゃんの気分次第だし」

「まあ、それはそうなんだが……」

 

 だからこそ、家族として長年付き合ってきた連中の意見が欲しかった。俺では理解しかねることだって、彼女たちならなんとかしてくれるのではないかと思ったから。

 けれど、血縁があろうがなかろうが、結局のところ人が二人いればそいつらは他人なのだ。俺だって、らいはのことをなんでも知っているわけじゃない。兄妹仲は決して悪くないのにだ。

 解決策がどこかに隠されているのだとすれば、その在り処は五月の心中以外にあり得ない。それが理解できただけで収穫だとすべきか、それとも足踏みしていると見るべきか。

 

「どうしたもんか」

「大変だね、先生も」

「まったくだ」

 

 予報通りに降り出した雪にはしゃぐ四葉を遠巻きに眺める。これだと、先生と言うよりは保護者って感じが強い。

 

「ただ、ここまで来たらもう引き返せねえ。死なば諸共だ」

「死なないでよ」

「今のままだと結構な確率で死ぬからな。そろそろ墓の準備をしておく頃かもしれない」

「ならいっそ、ウチのお墓に一緒に入る?」

「いや、俺んちにも……待て。唐突に爆弾投げてくんな」

「そのためには籍を入れとかないと」

「ブレーキオイル切れてんじゃねえのか」

 

 慣れとは恐ろしいもので、近頃誰も停止位置を守ってくれなくなってしまった。せっかく真面目な話をしていたというのに、これじゃあもうどっちらけだ。一気にそういう気分じゃなくなってしまう。

 

「フータロー君ちのお墓に入るのでも良いよ」

「さっきのは『止まれ』って意味だ。分かったか?」

「上杉一花……いい響きだね」

「…………」

 

 どう考えてもわざと話をこじらせているので、耳をつねって地獄の妄想吐き出しタイムを中断させた。タチが悪いにしたって、限度があるだろうに。

 

「日本の離婚率は三五パーセントだ」

「六割以上も一生を添い遂げるだなんて素敵だよね」

「強い強い強い」

「私たちなら絶対その六割に入れると思うな」

「怖い怖い怖い」

 

 他人に詰め寄るのに数字を用いるのは暫く控えよう。どんな開き直りをされるか分かったもんじゃない。

 俺としては一花の発言内容にひやひやするというのはもちろんあったけれど、そこに加えて前の連中が聞き耳を立てている可能性まで思い浮かんで、本当に気が気ではなかった。これが新しいトリガーになったらマジでどうしてくれるんだ。

 

「なーんてね。演技演技」

「それ言えば何でも許されると思ってないか?」

「思ってるわけないじゃん。本当だよ。嘘じゃないよ」

「…………」

 

 なんだろう、一瞬背中がヒヤッとした気がする。何に反応したかは定かじゃないけれど。

 しかし、他の姉妹がいる中でガンガンこういう話をされていいことなんて何もない。ついでに言えば二人っきりの時にされてもいいことがない。つまり、いつだっていいことはないのだ。

 来るところまで来た実感はあるので、ここはもういっそ盛大なクズ路線で走ろうか。俗にいうガン無視。興味を向けなければ、彼女だって大人しくなるだろう。

 そう思って、即座に行動に移す。一花から目を逸らして、努めて彼女の言葉を聞かないようにする。

 

 …………が。

 

「フータロー君の手あったかー」

「…………」

「フータロー君の腕ながー」

「…………」

「フータロー君の唇――」

「構うから許してくれ」

「フータロー君の唇――」

「マジでブレーキ故障してるだろお前」

 

 バックステップで一花から距離を取り、一度大きく息を吐く。まともに取り合っていたら命がいくつあっても足らない。

 これで一旦仕切り直したつもりなのに一花はこちらにじりじりとにじり寄って来ていて、第二ラウンド開始のゴングが俺の頭に響こうとしていた。

 と、その時。

 

「上杉さーん! 見てくださいこれ! 雪の結晶!」

「お、おう」

「写真、写真撮ってください!」

「お、おう」

「素早くお願いしますね! 溶けちゃうので!」

「お、おう」

 

 たったか走ってきた四葉が、自分の手袋にくっついた雪の粒を俺に見せてくる。で、そのままスマホを手渡され、慣れない手つきでパシャパシャ二、三枚だけ撮影して、彼女に返した。

 四葉は礼を言って、すぐさま前列に帰っていき、再びはしゃぎ始める。まるで台風みたいな奴だ。しかしこの状況においては願ってもない最強の助け舟。そこに関しては素直に感謝。

 

「四葉は相変わらずだな……」

「そうだね。そんな子まで手にかけちゃうフータロー君も相変わらずだね」

「俺に怨みでもあんの……?」

 

 ウィークポイントばかりをぐさぐさ突き刺してきて困る。しかしそれが事実である以上は否定しようがなく、そのあたりがまた一段と厄介。

 過去の過ちを論ったところで、何かが覆るわけじゃない。そのうえでなお会話のテーブルに載せるということは、どこかに意図なり思いなりが隠れているはず。一花においては、俺に残った良心をいたぶることが目的だろうか。

 

「怨みっていうよりは、妬みっていった方が近いかも」

「妬みの対象はなんだよ」

「フータロー君の感情が私以外に向くこと?」

「なぜ疑問形……」

「自分でもはっきり分かってないからね。ただ、君が他の女の子と話してるのを見るともやもやする」

「…………」

「しかも面倒なことに、それが妹でも例外じゃないみたいで」

「…………」

「どうせ同じ顔なんだから私でいいじゃんって思っちゃうんだよね」

「極論だろ、それは」

「フータロー君的には、容姿って二の次?」

「どう答えても角が立つ質問はすんな」

 

 あって困るものではないが、第一優先ときっぱり言い切ってしまえば反感を買うと分かる。他人を好きになるとき、ファクターをルックスに求めるのは不純と言う向きが通念としてあって、だから人はそのあたりを上手く繕って当たり障りない理由を探そうとする。内面を愛することが何より美しいことなのだと、そんな考えが世には蔓延している。

 正直なところ、俺は何も分からない。少し前までは他人に好意を向けられたこともなければ、他人に好意を向けたこともなかった。俺の人生に存在するのは親愛のみで、恋愛という概念とは人生を通して関わり合いがないものだろうとも考えていた。

 ただ、近頃の狂騒の中、嫌でも考えざるを得なくなった。人が人を好きになるメカニズムや、どうしてそれを伝えるのか。もちろんのことまるで答えは出てくれなくて、時間ばかりが失われていくだけなのだが。

 

「他人に興味を持たない人生を送っていた俺に、いきなりそういうのは難しいんだっての」

「そもそも私たちって可愛く見えてる?」

「難しいって言ってるだろ」

 

 女優なんてやってるんだから、自身の見てくれについてはある程度理解しているのだろう。ただ、それは一定の分母を用意したときの支持率の話であって、個人レベルにまで通用する理念ではない。だからこそ、こうやって直接確認せざるを得ない状況というのも存在する。

 ただ、俺が馬鹿正直に答えるはずもなく。

 

「それはお前の中で結論付けといてくれ。口ならいくらでも出まかせが言える」

「気付いたら手を出しちゃうんだから、超かわいいってこと?」

「俺を理性が欠如したバケモノみたいに言うな」

「…………」

「……事実であろうがもう少し言いようがだな」

 

 慌てて訂正するも虚しく、明らかにもの言いたげな視線が突き刺さってくる。行為中の自分とそうでないときの自分とを切り離せるならどんなに楽だろうか。

 

「まあ、良い方に捉えておくね」

「勝手にどうぞ」

 

 気に召すようにしてもらえればいい。下手に否定を挟んでも、肯定を挟んでも、どっちみち話は拗れそうだ。それくらいなら、彼女の想像に任せてしまおう。

 

「っと、今は勉強のことでいっぱいいっぱいなフータロー君をいじめるのはここまでにしておいて」

「いじめている意識があるのならもっと加減しろよ……」

「罪悪感を募らせておこうと」

「発想が怖いんだって」

「そうしておけば逃げられることはなくなるかなーと思ってね。……でも、今は本当に余裕なさそうだし、これくらいが限度かな」

 

 一花の手が、すっと俺のスラックスのポケットに差し込まれる。ひんやり冷たい感覚が急に襲ってきたせいで、俺は思わず変な声を漏らしてしまった。

 

「あったかーい」

「手袋しろよ。なんで剥き身なんだ」

「手をつなぐ理由にするつもりだったんだけど、どうやら無理っぽいし。だから、これで妥協するの」

「妥協のラインが絶対におかしい……」

 

 わきわきと蠢く一花の手に何度も身震いする。スラックスのポケットと言うことは、必然的に急所が近接している。こいつが何をしでかすかなんて分かったもんじゃないので、布越しに彼女の手を押さえつけた。

 

「……あ」

「なんだよ……」

「フータロー君、意外とツンデレだよね」

「男に貼るレッテルじゃないことだけは確かだ」

 

 こんな会話の間にも、雪は静かに降り積もっている。

 雪解けが、遠くないといいんだけど。



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あいまいでぃすたんす④

 二十四節季でいう大雪を通り過ぎた十二月の半ば。日に日に強くなっていく冷え込みに度重なる厚着を強要されながら、今日も今日とて家庭教師だと中野姉妹が住まうアパートへ足を運ぶ。

 開けっ放しになっている玄関ドアの鍵は、俺に対する信用の表れか、あるいはただの不用心か。

 

「五月は?」

 

 こたつに座して待っている面々は、勢ぞろいというわけではなかった。いつも五月が座っているところだけがぽつんと歯抜けになっていて、妙な違和感がある。

 さては無理がたたって熱でも出したか。そう思って寝室の方に視線を向けると、俺の考えを否定するように、三玖が壁掛けのカレンダーを指さした。

 

「……そういうことね」

「朝一番に訪ねてすぐ帰るって言ってたけど、長引いちゃってるみたい」

「了解。お前らは自習しててくれ」

 

 入って来たばかりの玄関に逆戻りして、靴を履き直す。つくづく俺の領分じゃねえなあと思うが、やらないことには始まらない。

 

「入れ違いになったら連絡頼む」

 

 それだけ告げて家を出た。一度温かな空間に立ち寄ってしまったせいで、寒さはいっそう際立ったように思う。

 

 

 

 

「風邪ひくぞ」

「…………!」

 

 墓石の前で手を合わせている五月を捕捉し、横に並んだ。

 本日は十二月十四日。そして、毎月十四日は彼女たちの母親の月命日にあたる。五月が毎月欠かさず墓参りをすることは知っていたが、ナイーブな時期にいることもあってか、予想以上に長居をしてしまっているらしい。

 

「あ、ご、ごめんなさい! すぐ帰るつもりだったのに!」

「線香余ってるか?」

「……? ええ、一応」

「分けてくれ。供え物する余裕はないが、それくらいはな」

 

 百円ライターで線香数本に火を灯し、供える。面識もない相手の喪に服するのは、なんだか変な感じがした。

 

「お前の母親、学校の先生だったって言ったか」

「はい」

「ならご利益もあるか」

 

 碑に刻まれている横並びの没年月日と戒名を順に辿って行って、明らかに名づけの法則が異なる一つを見つける。病死した人物にありがちな、疫を雪ぐ名前。それが彼女たちの母親の名であることは想像に難くない。

 きちんと傍記されている本名に意識を吸われかけたが、今はそれを気にしている場合でもないだろう。こいつをさっさと家に連れ帰って、少しでも多くの知識を叩き込んでやらないと。

 

「なんだか意外です」

「何がだよ?」

「遅刻したことを怒られるものだとばかり」

「俺を何だと思ってんだ……」

 

 風に吹かれて、線香の燃焼速度が増した。実家の香炉にも手を合わせてこようかなんて考えながら、五月の方に視線を向ける。

 

「サボりだったら怒るだろうが、そうじゃないことくらい俺にだって分かるっての」

「そもそも上杉君の場合、こういう信心深さとは無縁のような気がして」

 

 宗教的な価値観の話。確かに、俺はそこまで信仰心が篤い人間ではないけれど。

 

「神サマは信じてないが、仏に関してはそうでもない」

「……その心は?」

「神がいるなら俺の母親もお前の母親も死んでない。逆に、俺の母親やお前の母親が死んでる以上仏はいる」

「暴論……」

「自分で納得できればそれでいいんだよこんなのは。現にこの解釈が一番しっくりきてるし疑ってない。俺は信仰を自分の軸に据えていないし、適当なくらいがちょうどだ」

 

 少なくとも墓前でするような話じゃないがな、と付け足す。時と場所と場合は見極めないといけない。

 まあ、そういうのは置いても、五月の気持ちが分からないわけではないのだ。人事を尽くさずして神頼みに走るのは論外だが、出来る限りの努力を積み切ったうえでそこに不安が残るのであれば、後はスピリチュアルなものに縋るしかない。そして一般的な環境下で育ってきた日本人の場合、それが先祖の類である可能性が高いのも分かっている。

 空から見守ってくれているという考え方。正しい努力には正しい顛末が付いて回るはずだという理想論を、もうこの世界にはいない誰かに肯定してもらいたい。

 それを一概に弱さだと断じて括ることは、俺にはできなかった。

 

「なんというか、上杉君らしいです」

「どこらへんが?」

「迷いのなさが。私は、道に迷ってばかりで」

「……そうでもないんだな」

「はい?」

「なんでもない。で、その迷いってなんだよ?」

「信念、でしょうか」

 

 五月は自分の心臓のあたりに手を当てる。疑似的に、心に触れているのか。

 

「上杉君と違って、自分の信じたことをそのままに受け入れる力が私にはありませんから」

「初耳だぞ、そんな力の存在」

「当たり前に思っている人ほど気づかないものですよ」

 

 笑いかけられる。その笑顔が絶妙に脆くて、表情とは裏腹な思いがないまぜになっているのが分かった。

 

「ついついよそ見をしてしまいますから。普通は」

「俺が普通じゃないみたいな言い方はよせ」

「なら、なおさら撤回しかねます」

 

 変人認定など要らないのに、彼女はそれを取り消してくれない。こちらには否定材料がないせいで、言われるがままだ。

 墓所で軽口をたたき合うのは、マナー的にどうなのだろうか。

 

「……よしんば俺が普通じゃなかったとして、別によそ見をしてないわけじゃねえよ」

「そうでしょうか?」

「よそ見ってのは、選択肢を複数持つ人間の特権だ」

 

 それだけ言って、今いる場所から離れる。彼女の返しを待ちはしない。

 

「ほら、そろそろ行こうぜ。お前の姉連中が待ってる」

「あっ、ちょっと」

 

 慌ててついてくる五月を尻目に、石段を降りる。感傷に浸れども今抱えている問題が解決するわけではないので、きちんと実になることを積み上げないといけない。

 それ以前に、負い目があった。……その、なんというか、彼女たちの母親に申し訳ないことをしているというか……。

 

「どういう意味ですか、今の」

「どうもこうもない。そのまんまだ」

 

 連日の降雪で薄ら白む歩道に足跡を残しながら、来た道を逆戻り。春の遠さに目が眩むが、いざ春が来たら来たで、また新たな課題が俺の目の前に姿を現すのだろう。悩みも課題も天壌無窮。生きている限りその輪から逃れる術はない。

 意識的に、俺が数分前につけたばかりの足跡を上書いて歩く。真っ直ぐやって来たつもりがところどころで歪んでいて、自分の認識のずれを見せられているようだ。

 

「それ以前に、この前のお話もまだ聞いていませんし」

「この前?」

「職員室の近くで会ったときです。追い追い話すって言っていたじゃないですか」

「ああ、あれ」

 

 機会が機会だ。二人で話す時間があるうちに、言っておくのが吉か。

 だが、タイミングが微妙な気もした。俺に対して余計な心遣いをされても困るし、現在余裕がないのは彼女の方に違いないのに。

 だから、極力なんでもないように装うことに決めた。深刻な雰囲気を醸し出さないように、気をつけて。

 

「大したことじゃないから聞き流せよ」

「それは私の判断次第ですね」

「進学か就職か聞かれた。以上」

「大問題じゃないですか」

「だよなー」

 

 我ながらそう思う。人生設計が甘すぎだ。

 だからこいつには言いたくなかった。少なくとも、成績が安定するようになるまでは話題に出さないつもりでいたのに。

 

「ま、まさかまだ決まってないなんてことは……?」

「取りあえずセンターは受ける」

「それだけですか……」

「願書の締め切りで考えればまだ一月くらいは時間あるし、そこまで大した問題でもないだろ」

「大した問題ですって。私の面倒を見ている場合じゃないでしょう」

「まあ、なんだ。人生なるようになる」

「それはなにもかもが円満に片付いた後で言うセリフです」

 

 ごもっともだ。楽天家の自己肯定に使っていい言葉ではないことだけは確か。

 しかし、どう考えたところで結論は出てくれないのだから仕方ない。勉学を極めれば何者かになれるものだとばかり思っていたけれど、現実はそんなに甘くなかった。課題の類は次から次に提示され、息つく暇もなく自分に襲い掛かってくる。

 そんな中にあって、冷静な判断を下す自信がない。後悔を残す予感しかしない。

 俺は一体、どこに向かって歩いているのだろう。

 

「これも一つの教訓だと思って見ておけよ。お前が欲してやまない学力という武器を持っている人間だって、その使い道を知らなければこうなる」

「笑えませんよ」

「結局、テストの出来なんてのは手段の一つでしかないんだよ。気付くのが遅すぎた気もするが、俺も一つの学びを得た。そこを突き詰めれば学者という選択肢が生まれるのかもしれないが、残念ながら俺は学問自体に魅力を感じているわけじゃない」

「それは真理かもですが……」

 

 勉強だけが全てではないことを、彼女たちとの関わりを通して学んだ。そのせいで、今まで絶対だと信じて疑ってこなかった自身の価値観が揺らいでしまうことにも繋がったわけだが、それが学生の間に訪れたことはむしろ僥倖であろうとも思う。

 人間、何かを始めるのに遅すぎるなんてことはない……などとは言うけれど、それは恵まれた側にいる人間の戯言だ。資本主義の底辺層で燻っている俺に、そう何度もリカバリのチャンスは訪れない。

 少ないチャンスをものにするために、より多くの観点が必要だった。俺は、それを与えてもらった。

 

「お前、夢あるんだろ?」

「……一応」

「ならその時点で俺より上だ。胸張って生きろ」

 

 夢や目標を原動力にするやり方がなにより健全だったのだ。その点で、俺は彼女を尊敬できる。

 

「……正直、お前が学校教師になっている姿はまるで想像出来ないが」

「えっ」

「なんだよ。これはただの個人的な感想だ」

「いえ、私、直接伝えましたっけ……?」

「模試の志望欄が全部教育学部のやつが先生目指さねえってことはないだろ……」

 

 それが分からない程鈍い奴だとでも思われていたのか俺は。それはさすがに心外だと訴えるために薄眼で彼女を見ると、五月はぽかんとした表情で視線を虚空に彷徨わせるばかりになっていた。

 

「確かに……」

「むしろあれで隠してるつもりだったってのが怖い」

「い、いつか自分の口で宣言しようと思って」

「いつかが遠すぎる。ほら、今言え今」

「今ですか?!」

「お前の口からは聞いてないしな」

 

 なんの儀式だって感じだが、こういうのが意外と大事だったりする。逃げ道が消えることによって力を増すタイプの人間がいることは知っているから、五月もそうである可能性を願おう。

 

「いえ、でも、今のままだと……」

「できるかどうかはこの際どうでもいいだろ。この場合、重要なのはなりたいかどうかだ」

 

 それっぽいことを言って励ます。退路の一切を絶たせてしまう恐ろしいやり方だが、彼女にはこれくらいでちょうどいいと思う。保険も予防線も、挑戦という概念の前では邪魔なものでしかないから。

 

「それに、聞く相手が俺だしな。気負うことなんか何もない」

「……だから言えなかったんですよ」

「…………?」

 

 会話のどの部分を受けて「だから」という言葉が湧いて出てきたのかは推察できなかった。しかし、そんなことはどうでもいい。さっさと宣誓させて、迷いから抜け出させてやらないと。

 

「…………先生に、なりたいです」

「少し違う」

「違うと言われても」

 

 小声でぼそぼそ言ったって、大した効果が望めるようには思えなかった。もっと、何もかもかなぐり捨てて突っ走る感じがいい。

 

「それはただの願望だろ。宣言ってのはもっとこう、我がままで、無根拠な自信に満ちたものじゃないと」

「つまりは、どういうことでしょう?」

「なりたいんじゃねえ。なるんだよ、お前は」

「…………」

 

 失敗した自分の姿を勝手に想像して、それを恐れるようではいけない。確かに無駄に知恵をつけて、社会を知って、そういう過程で保身に走る能力を身に着けてしまうことは分からないでもない。でも、いつもそうやって自分の殻に閉じこもっていては、前に進む気力が枯れ果ててしまうと思うから。

 

「それともなんだ? 口だけで終わるのが怖いか?」

「なっ!」

「そんな奴が夢を実現させられるとは思えねえなあ」

「ななっ!」

 

 俺の低レベルな煽りにきちんと乗っかってくれるのはありがたい。その煽り耐性の低さは、後々修正していかないとまずそうだが。

 とにかく、堰を一つ破ろう。がむしゃらにやるしかないんだ、今の五月は。

 

「……そこまで言うなら、やってみせようじゃないですか」

「ほう?」

「なりますよ。なってみせますからね、絶対に」

「……ま、ここらへんが落としどころか」

 

 息を吐いて、彼女に背を向ける。こちらの思惑通りに動かされてしまった五月を見ていたら、堪らず噴き出してしまいそうだから。

 

「聞いていますか?!」

「聞いてる聞いてる。ちゃんと記憶したかんな」

「絶対にさっきの言葉を撤回してもらいますからね!」

「出来たら喜んで靴でも足でも舐めてやるよ。出来たら、だけどな」

「このっ、この人は……! 後悔しても遅いですよ!」

「はいはい」

 

 適当にのらりくらりとかわしながら、少しずつ歩を進める。一気にジャンプアップする方法があれば楽でいいが、バカ不器用な五月に限ってそれは無理。なら、せめて俺が階段くらい作ってやろう。

 本当に、問題児の先生と言うのは楽じゃない。

 

「なんで笑ってるんですか!?」

「笑ってねーよ」

 

 せめて「ほくそ笑んでいる」とかにしてくれ。「可笑しがっている」でもいい。

 楽しいことがなくても、どうやら人は笑えるらしい。不思議なことだ。

 

「見返すために全力で頑張れ。まずは今日の課題から」

「言われなくても」

 

 後ろにいた五月が俺を追い越して、そのまま家の方へと早歩きしていく。俺も、それに付いて行くように、少しだけ歩調を速めた。

 家庭教師が走るから師走か。なるほど、なんにも上手くねーや。

 



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あいまいでぃすたんす⑤

 どれだけ止まれと希っても、時間の流れは変わらない。起きて動いて眠ったら一日は終わってしまい、それを繰り返しているうちに自己決定の期限は着々と俺の元に迫ってくる。

 たぶん、生まれてから今までで一番密度の高い冬になる。この先の未来の舵取りを一手に担う時期、季節。二度と戻らない、たった一度の大一番。

 抱えてしまったタスクはとうにキャパシティを超え、度重なる処理落ちを繰り返しながら同じところを行ったり来たり。

 せめて悔いだけは残さないように、大きな禍根を置いてこないようにともがき足掻けど、大して歩みは進むことなく。それでも必死に生きた今が、いつかの自分を支えると信じて。

 とにかく、自分に嘘だけはつかないようにしよう。過程に欺瞞を含んだ結末が、俺を納得させてくれるとは思えなかったから。

 

 

 

 学校は冬休みに突入しているが、補講だか入試対策だかの名目で平時とこれといった違いなく通学を余儀なくされている。希望者を募った発展講座などもあって、下手を打てば朝から晩まで学校浸りの可能性もあった。

 というか実際に、そうなっている奴がいた。

 

「精の出るこった」

「出来るだけ、自分を追い込みたいんです」

 

 図書室で自習している俺の元を訪れた五月は、その表情に重たい疲労を滲ませていた。絶え間ない頭脳労働は、確実に心と体に負荷をかけてくる。経験者である俺にはよくわかることだった。

 

「どっちかっていうと追い詰められてないか、お前?」

「最悪それでも構いません。今を走り抜けないことには明日も明後日もありませんから」

「ここで倒れたら倒れたで一巻の終わりだけどな」

 

 だからといって、俺が止められることでもない。後々への保険……というわけではないが、もしこいつが夢に破れる未来があった場合、振り返った道のりで俺が障害になっていたりしたらどう悔やめばいいか分からなくなる。 

 そういう重要な事柄に口を挟み過ぎるのはお互いのためにならない。ここまで来たら、思う存分やれることをやるべきだ。

 

「復習できる体力は?」

「なんとか」

「ならやっちまうか。講義で分からなかったことや怪しいところがあったら教えてくれ。苦手な箇所から潰していくぞ」

 

 家庭教師としてのお勤めも、もうそう長く残っているわけではない。もちろんこちらに尽力しすぎて自分のことを疎かにするのは論外だが、もはや彼女たちを見放せるような距離感ではなくなってしまった。

 卒業まではこぎ着けた。本来の役目はここで終わりだが、どうせなら『笑顔で』卒業するオプションまで請け負おう。夢への第一歩を踏み出すのに、背中くらい押してやってもいいだろう。……別案件で泣き顔を増やしてしまいそうだという懸念は絶えず俺の思考の片隅にあって、そのことへの罪滅ぼし的な側面が存在することは、否定しないが。

 けれど、純粋な思いとして、この仕事を通して得た経験を彼女たちに還元したいと考える自分はいるのだ。そこに偽りはなく、言うなればこれは、感謝のような――

 

「じゃあ、始めるぞ」

「よろしくお願いします」

 

 何より、最初期にはあり得なかったこの関係性を心地よいと思ってしまっている。俺が試行錯誤を繰り返しながら、その果てにようやくつかみ取った成果物。せめてこれだけは、最後まで輝かしい思い出として、自分の中で布にくるんで蓄えておきたい。

 そんな都合の良いことを思うのだから、代価として、相応の努力が必要だろう。

 

 窓の外を見れば、降り出した雪が世界を白色に染め上げていた。幻想的で結構なことだが、帰る時間までには降りやんでいてくれるとありがたい。

 

 

 

 

「つくづく運がねえな……」

 

 不満げに呟いても、雪交じりの雨は俺の意図を汲む気配すら見せず、勢いを増して降り注ぐ。

 冬にしてはマシに思えた日中の気温が災いした。軒先から手を伸ばして天よりの落下物に触れると、明らかに水気が多いのが分かる。それは、粒の降下速度を見ても明らかなことだった。

 雪はやめてくれと願ったが、それは別に雨なら許容するという意味ではない。むしろ、傘が必携になるぶん雨の方が数段厄介だ。折り畳み傘などという気の利いたアイテムの持ち合わせはなく、帰宅までにずぶ濡れになるのはほぼ見えた結末。この時期に水浸しになる辛さは昨年のごたごたで知っているから、今から既に憂鬱になりかけている。風邪を引く可能性まで考えると、さらに億劫だ。

 

「ああ、やっべ」

「どうしました?」

「先生に呼び出されてるのすっかり忘れてた。長引くだろうから先帰っててくれ」

 

 もちろんそんな用事はない。が、五月には妙な世話焼き癖があるので、ここでシンプルに傘を忘れた旨を伝えることが憚られた。幸か不幸か彼女の手には折り畳み傘らしきものが握られているし、お節介を受ける前にさっさと帰らせるのが吉。

 五月は俺が進路関係で教員と話し合いの場を持っていることを知っているし、でっちあげの理由としてはこれが一番ツッコミが入りにくいだろう。導入の不自然さだって、今は自身のことでいっぱいいっぱいな五月には気づきえない。元より鈍いというのもあるにはあるが。

 

「じゃあな。睡眠時間はある程度確保しとけよ」

「あなたがそれを言いますか」

「言ったろ。教訓だ」

 

 それが良くないことだと知っていて、未だに性懲りもなく繰り返しているけれど。

 とにかく、今は五月を撒くのが先決。十分に時間をおいてから、俺もなんとか帰宅しよう。

 

「では、お先に」

 

 軽く礼をした後、五月がこちらに背を向ける。彼女の姿が夕闇に馴染んでいくのをしばし見送った後で、時間を潰すために一度教室に行くことにした。忘れ物があるわけでもないが、理由なく入れる場所が意外と限られている学校において、自分が所属しているクラスというのはある種の気安さが感じられる。

 こつこつと反響する自分の足音にそこまでの不気味さを覚えないのは、照明がしっかり灯っているからだろうか。暖房はケチる癖になぁ……とも思うが、暗いよりはマシ。この時期の負の想念の連鎖みたいになっている校舎内で、暗闇を一人歩く図太さはない。

 誰もいない教室は、流石に消灯されていた。まあ、これはこれでいいかと思いながら自分に割り当てられた席に座り、なんとなく黒板を眺める。

 乱雑に黒板消しを当てられているせいか、直前に実施された授業の内容がなんとなく読み取れた。一部文字が残っていたり、あるいはチョークの跡が消しきれていなかったりで、英語教師がここに立っていた過去が窺える。

 残されたアルファベットから推測される単語や文章を頭の中で補足しながら、そこにあったのであろう授業風景を勝手に思い描く。面白味の欠片もない空想だが、時間を浪費するという点においては割と役立ちそうだった。今くらいは、脳みそを休めても許されるのだろうけれど。

 

 ある程度時間が経ったのを時計で確認してから、のそのそと席を立つ。このままだとここで眠ってしまいそうだ。  

 寝るならせめて家が良い。体を横に出来る環境と言うのは貴重。若いからといって無茶をし過ぎると困るのは未来の自分自身だ。

 凝り固まった関節をゴキゴキ鳴らしながら階下に下り、先ほど脱いだばかりの下足をもう一度履く。順当にいけば、五月はもう家に着いている頃合いだろうか。

 あいつのことだから、もう勉強を始めているかもしれない。そうでなければお待ちかねの夕飯にありついているかのどっちかだ。

 どちらにせよ、やりたいようにやってくれればそれでいい。俺はただ、彼女のやることをサポートするだけ。

 こんなときにまで仕事のことを考えるとか、俺もいよいよ社畜めいた思想に脳みそを染め上げられているのかもしれない。

 

「まあ、そう上手くはいかないか」

 

 一縷の希望としてあった、時間経過でみぞれが弱まるという可能性はバツ印。せめてもの救いとして悪化はしていなかったが、元の勢いが元の勢いなのでそこに感謝の心を抱くことはなかった。

 リュックを盾にして走り去る案もあるにはあったが、背中が冷えるので諦めた。どのみちどこもかしこも濡れるのだろうから、多少抗っても意味はない。時間当たりのダメージ率から考えると、走って帰った方がいいのには違いないが。

 そんなこんなで、意を決して踏み出す。足元がびちゃびちゃと跳ねて気持ち悪いが、贅沢を言っていられる場合でもない。長い間こんな環境に体を晒し続けようとは思えないので、出来るだけ早く帰宅しよう。体力勝負に自信はないから、きっとどこかで休憩することになるけれど。

 連日の疲労と体力不足のダブルパンチで悲鳴を上げる呼吸器を強引に黙らせて、規則的なリズムで駆けていく。本来なら、こういった場面で少ない体力を使い込んでしまうのは好ましくない。だが、後々にやってくるだろう身体的な不調とそれとを天秤にかけたとき、ここで使い惜しむという選択肢は取れなかった。なにせ、自分の面倒だけ見ていればそれで終わるというわけではないのだから。

 それらの面で、本当に厄介だと思う。受験は団体戦って絶対こういうことではないだろとも。

 だけれども、そのことについて思うたび、不思議と俺の中の負けん気が顔を出すのだ。もう少しだけやってやろうと、何度も何度も背中を押してくるのだ。

 あの五つ子たちと関わる過程で、自身の中枢が歪められてしまった。客観的に見て由々しき事態で、いずれ対処しなくてはならない案件なのは明白。……なのに、それを悪いことだときっぱり断言してしまう気にはなれない。

 根腐れ、とでも呼べばいいのだろうか。

 あいつらは、俺に水をやり過ぎた。

 重症度を見るからに、水は水でも砂糖水だった可能性もある。

 

「やっぱり。こんなことだろうと思いました」

 

 だから、こうなる。

 あっさり、見透かされる。

 

「風邪を引いたらどうするんですか、もう」

 

 校門の脇に佇んでいた少女から視線の猛抗議を受け、その場で立ち尽くす。

 思うことは色々あった。なんで帰ってねえんだよとか、俺が嘘ついてなかったらどうするつもりだったんだよとか、他にも多々。

 だけれど、真っ先に口をついて出た言葉が「すまん」だったあたり、いよいよ調教も大詰め感が否めない。

 

「お前ひとり騙せないとか、俺もヤキが回ったか」

「なら、これを機にバレる嘘をつくのはやめにしてください」

「悪いが、嘘も方便だとお前の姉に教えた都合上、そう簡単にやめるわけにもいかない」

 

 肩に積もったみぞれを払いのける。その方便が上手く機能してくれないことには、何の意味もない。

 結果的に彼女の精神的な負担を減らすという目論見は散り、現在進行形でこうやって迷惑をかけている。やることなすこと全てが裏目に出て嫌になるが、自分の内側にある感情は、きっと嫌悪などではなく――

 

「でしたら、バレない嘘をついてください」

「肝に銘じておく」

 

 会話の最中にも天からの落下物は延々と降り注いできて、前髪やら睫毛やらに付着するそれらのせいで、一定の視界を保てない。

 何度も何度もうざったそうに額を撫でている俺を見かねてか、五月がこちらに手招きのジェスチャーをしてきた。

 

「立地的に、ここなら多少は安全です」

「悪いがこれ以上お前に近づくと持病の発作が起こることになってる」

「さっきの今でその嘘は無謀が過ぎるでしょう」

「だってなぁ……お前、それ……」

「良いんですか。このまま長々とここに留まっていると、二人そろって病院行きですよ」

「それは……そうかもしれないが」

 

 取り立てて丈夫というわけではない。ある程度の条件さえ満たしてしまえば、俺の体はあっさりと発熱する仕様になっている。五月に関してもおそらく同様のことが言えて、だから、屋根のある温かい場所に移動するのが急務だ。

 で、この場において、そのうちの片方だけならやんわりと満たしてしまえる方法があった。

 しかし、しかしだ。そのやり方を肯定してしまうのは、なんとも言えない敗北感が……。

 

「私だって恥を忍んでいるんですから、さっさと思い切ってください」

 

 そう言う五月の顔は真っ赤で、寒さ以上に羞恥が機能しているようだった。そこまで嫌ならやらなきゃいいのに……。

 善意を踏みにじるようで悪いが、ここで走り去ってしまおうか。そうすれば、ひとまずの落着を見そうな気はする。丸く収まりはしないだろうけれど、案の一つとして保留しておくくらいはありだろうか。

 

「ちなみにですが、ここで上杉君が無視をすると、私は明日の朝までこの場所に立ち尽くす予定になっています」

「そんな予定はスケジュール帳から消せ」

「ボールペンで書いてしまったので」

「二重線で消せ。消しゴムに頼るな」

「……くしゅっ」

「…………」

「…………」

 

 それはまあ、当たり前の話で。このクソ寒い屋外に長い間放り出されていたら、その分だけ体は冷える。恒温動物の悲しいサガで一定に保たれる体温。そのエネルギーは当然肉体の貯蔵分から持ってくるので、時間に比例して体力はどんどん削られる。

 そして、こいつがいつからここにいたかを考えると、そろそろ疲労が無視できないレベルに達している可能性があって。

 

「……なんです?」

「なんでもないけど」

「別に、あなたのためというわけではありません。自分のこれからを考えたとき、今ここで上杉君に倒れられると、ものすごく大きな不利益を被りますから」

「…………めんどくせぇ」

「め、面倒?!」

 

 どいつもこいつも本当に面倒くさい。本当に厄介。本当にどうしようもない。

 誰もが誰も扱いにくすぎて、今になっても正しい距離感なんて分かりゃしない。

 ……その距離感を掴み損ねているうちに関係を拗らせたせいで、修復不可能になったものが多すぎる。数えきれないほどに多すぎる。

 おそらく、始め方を誤ってしまったのだ。今更悔いても過去が覆りはしないけれど、もう少しだけマシなやり口なんてのはいくらでもあって、そして、俺はそれらをことごとく取りこぼしてきた。

 でも、本当は、きっと。

 

「邪魔だろそれ。ほれ、こっち寄越せ」

「えっ、ちょっと……!」

「たまたま手隙なんでな、俺は」

「……あなたの方が五倍は面倒くさいです」

「なんか言ったか?」

「いいえ、何も」

 

 半ば強引に、五月の手にあったものをひったくる。

 雨の中にあっても外を出歩けるようにという意趣を持って作られた、自身の上に無理やり天蓋を形成するアイテム。

 しかもそれを持ち運びが可能なサイズにまで小型化してしまった、人間の飽くなき探求心による成果物。

 つまるところの、折り畳み傘。

 そんな叡智の結晶は、突き詰め過ぎたミニマライズの反動で、高校生二人を風雨から守るにはいささか頼りなく。そして、それ以上に厄介なこともあって。

 

「詰めすぎだろどう考えても」

「どう考えてもあなたが傾けすぎなんです」

 

 なおのこと、肩やら腕やらに直撃するみぞれには容赦や手心といったものがなかった。落ちて、溶け、服に染みる。その繰り返し。ワンサイクルごとに着実に体温が奪われていくのが分かり、かじかんだ指先は感覚が薄れている。

 そのくせ、体は熱に浮かされたようで、ぼやぼやとした輪郭を伴わない感情が波のように押しては返してを連続させていた。

 

「私が濡れても、あなたが濡れても、どちらもダメなんですから」

 

 そう言いながら、また一歩分距離が詰まった。進むたびに腕がバシバシ当たって邪魔くさいので、黙って傘を持つ手を交換し、自由になった五月に近い側の右手をポケットにねじこむ。ずっと外気に晒していて冷え切ってしまったというのも理由の一つに数えられる。

 

「転んだらどうするんですか」

「気合で耐えるだろ、たぶん」

「手を怪我しても終わりなんですから、もう少し気を遣ってください」

 

 五月は自分のコートをまさぐって何かを取り出すと、それを無遠慮に俺のポケットに突っ込んできた。すると、そこを中心にじんわりと熱が広がって、彼女が握っているのがカイロなんだなと理解する。

 

「一日使っているので、そこまで温かくはないですが」

「いや、ありがたいけど……」

 

 気遣い自体は丁重に受け取っておくとして、それと同タイミングで投げ入れられた爆弾にはどのように対処するのが正解なのだろうか。これが分からない。

 

「ありがたいけど……これじゃ共倒れだろうよ」

「問題です」

「突然どうしたお前」

「カイロはどんな理屈で発熱しているでしょうか」

「鉄の酸化過程で熱エネルギーが生まれてるんだろ。中学レベルだ」

「では、日常身の回りにある鉄製品がそうやって熱くならないのはなぜ?」

「鉄粉と鉄パイプじゃ反応する表面積が違う」

「同じことです」

「…………何が?」

「今、こうしているのと同じことです」

「絶対ちが」

「同じことなんです」

 

 否定の言葉は言い終わる前に遮られた。どんな角度から考察しようにもあり得ないことだが、真っ向から斬り伏せられた。

 五月的にはきっと、アレゴリーのつもりなのだろう。俺は認めないけど。……だが、認める認めないを差し置いて、現状がややこしくなっていることは客観的な事実であって。

 …………なんで手を突っ込みっぱなしなんだよ、こいつ。

 

「表面積を減らせば、反応速度は抑えられますから」

「お前の服にもポケットついてるじゃん……」

「カイロは一個だけです。譲れません」

「じゃあお前が独占していいよ。なくてもあったまるにはあったまるし」

「それはダメです」

「なぜ」

「ダメなものはダメと世間の相場が決まっているからです」

「とうとう理屈抜きの力技で来やがったな」

 

 言い訳のレパートリーが貧弱だった。せめてもう少しくらい用意しておいても良かったのに。

 そこまでして俺にカイロを押し付けたいか……とも思うが、善意であるのが分かっているから強く断りにくい。こいつの根っからの不器用さを加味しても、強引が過ぎる気がしてならないけれど。

 それとも、これは一周まわった利己なのだろうか。彼女の言を額面通りに受け取って、そのまま飲み下してしまうのが正しいのだろうか。

 

「ってかお前、これはどういう心境の変化だ」

「これ、とは?」

「手、無理なんじゃなかったのかよ」

「いつの話ですか」

「一年前」

「それはほら……物を介しているので」

 

 確かに、繋いでいるというよりは、たまたま触れあっているといった方が今の状況を説明するのにはしっくりくる。ちょうど、カイロが間仕切りの役割を果たしていて、どこからどこまでが五月の手なのかが分かりにくかった。

 この場合、俺はどうすればいいのだろう。一年かけての成長を喜ぶべきか、あるいはこれが進歩のないことだと嘆くべきか。

 

「……訂正します。少し、嘘です」



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あいまいでぃすたんす⑥

 ん、ん、と数回咳ばらいをした五月がそんなことを言う。しかし、少し嘘とはなんだろうか。日本語は成立しているのか、それ。

 

「何がどう嘘なんだ?」

「どう、と言われましても」

「いや、聞き返されても俺が困るだけなんだが」

 

 答えが五月の中にしかないのだから、それを彼女が開示しないことには始まらない。こればかりは俺の取り扱いではないのだ。

 五月が言い出した以上、その発言の回収は五月がする。なんてことはない、当たり前の摂理。 

 だからきっと、ここから詳細の説明が始まるのだろうと思って待機していた俺を襲ったのは、盛大にその予想を裏切っていく展開で。

 

「…………それを聞くのは野暮でしょう」

「なんでだよ」

「だからその……あるじゃないですか、色々」

「具体的に言ってくれ」

「察してください」

 

 ぷいっとそっぽを向かれてしまった。これはつまり、会話はここで終了という意思表示と見ていいのだろうか。どうせならそれくらい分かりやすくその嘘とやらについて解説を願いたいのだが、今の五月は打てど響かずといった具合で、コミュニケーションが成立しそうにない。そもそもお互いがかなりの譲歩をしたうえで相互干渉を可能とした間柄なので、こうやってどシャットを喰らったらもうおしまいだ。

 類似の状況に立たされた機会は数えしれないが、あれはそもそも心の開き具合が今とは比べ物にならない頃合いだったので、そこそこ理解を深めた気になっている相手からガン無視を決め込まれるとなかなかにクるものがある。言葉の脆さというやつを、こういうときほど思い知らされる。

 

「俺に言外にこぼした意図を拾う能力はない」

「……自慢げに言うことじゃないでしょうに」

 

 素直に告白したら反応をもらえた。分からないことは分からないと言う。変に意地を張っても意味がない。学ぶことの根本に共通する姿勢だ。じゃあこの会話から何を学べるのかと聞かれたら、それもまた正直に「分かりません」なのだが。

 

「悪いが成長過程で捨ててきた」

「それはそれは大変ご立派なことで」

「ちなみに今のが皮肉だってのは分かる」

「……程度による、と」

「何事もな」

 

 分かり過ぎるということもなければ、分からな過ぎるということもない。俺の能力は、他人の想像の範疇の中にすっぽり収まりきるぐらいのもの。

 だから、こいつの言うことの一欠片くらいは理解できている気でいた。それが実態に即したものかどうかは重要ではなく、過去の五月の言動を考えたときに、一番有り得そうな心境を。

 しかし、わざわざ口に出すのはそれこそ野暮というもの。ついでに、間違っていたら赤っ恥だし。

 そしてさらに言うのなら、俺が俺っぽい行動パターンで動くとしたら、まあ間違いなくここで本人に直接聞くのがセオリーだ。間違った予想が自分の中だけでの真実、事実として定着してしまうくらいなら、顰蹙を買うことを承知してダイレクトに問う。その結果として白い目で見られようが何をされようが、そこに誤解がないのならそれでよかった。

 思えばこれは、一種の偏執であるのかもしれない。正解に固執し過ぎて、それ以外の全てがどうでも良くなってしまったような。本当は過程にだって意味があるはずなのに、正解という一つの結果を大々的に掲げ、その他を不要だと淘汰していくような。

 少なくとも、去年以前の俺ならば、ここからでも容赦なく踏み込んでいった。解答が見えないままでいることにイラついて、行動を起こしていた。

 だけれど今は、わずかながらに違って。

 

「俺に野暮だの野暮じゃないだのは分からん。人との付き合いが浅すぎるからな」

「それも自慢することではないですね」

「ただまあ、なんとなく見えてきたものはある」

「たとえば」

「ここでこれ以上ずけずけ行くと、しばらくお前の機嫌を損ねることになる。それは好ましくない。だから、このあたりで分かったふりでもして黙るよ。空気読んでな」

「それは成長ですか?」

「そういう基準で考えてねえよ。ただの処世術だ」

「大人にはなっているかもしれませんね」

「嫌な言い方するなぁと思ったが黙っておく。これも処世術だ」

「黙れていませんけどね」

 

 ここで、ようやく五月がこちらに向きなおった。ひと段落、か。

 正直なところ、俺も分かりかねている。なぜこいつらのご機嫌を取る方法なんかを知らぬ間に覚えて、しかもそれを当たり前に実行するようになってしまったのか。別に懐柔されたわけでもなければ、前までのように借金への焦りがあるわけでもないのに。

 単純に、教師業を円滑に進めるため、というのは理由ひとつになり得ると思う。へそを曲げられたままでは会話すらままならないし、そういう奴が一人いるだけで場の空気は最悪だし、それに辟易してはいた。

 だが、そういうものを最たる理由として揚げるのはどうかと思った。これは上手く言語化できる感覚ではないのだが、なんだかこう、しっくりこないのだ。

 五月の言葉を借りるのなら、少し嘘がある。どこかに異物が混じっている。確かに正解という大きなくくりの中の部分集合に属してはいるが、それはただの構成要素であって全てではない。しかも、根幹をなしてもいない。

 では、どう表すのが正解なのだろうか。疑念が生まれ、思考している以上、どこかに必ず答えはあるはず。思考と存在が等価なものであるとどこかの誰かが大昔に提唱していたことを思い出す。それに倣えば、間違いなく答えはある。ただ、見つけられていないだけで。

 

「個人的には、語らない美しさというのがあっても許されると思います」

「それを理由を話さないことへの免罪符にしちまうのはアリなのかよ」

「ずるいとは感じますよ」

「でもやっぱり、アリだとは思ってんだろ?」

「女の子は、ずるいくらいがちょうどいいものでしょう?」

 

 これまた予想できない類のセリフが飛んできて瞠目する。道理に従うタイプのキャラクターだと思っていたので、そんな凡百のロマンチストみたいな発言をするとはこの目で直に見ても信じられなかった。

 俺のぎょっとした様子を不審に思ったのか、五月のカイロを握る手に、先ほどよりも少しばかり力がこもる。

 

「似合わないですか?」

「合う合わない以前に、お前がその手のことを言うと思ってなかったんだよ」

「でも言いましたよ」

「聞いちまったよ」

「じゃあ、私はそういうことを言うかもしれない子だったという話です」

「なんてことない一言で印象がガラッと変わるから、人付き合いは苦手なんだ……」

 

 何千何万と繰り返すやり取りの中のたった一節。それだけのせいで、「こんなものだろう」とこちらが勝手に規定していた幅をあっさりと跳び越え、乗り越していく。想定の範囲をどれだけ広く持っていてもこうやって越えられてしまうのだから、まともにやっているのが馬鹿らしく思えてしまう。

 俺が難しく考えすぎているのは分かっている。分かっているが、誰もがこんな指針も方策もない超高難易度の試験をクリアしているのかと思うと、俺なんかよりもそいつらの方がよほど出来の良い人間に見えてくる。実際、そういう価値観で世界を運営している人々の視点に立ってみれば、落第の烙印を押されるのはきっと俺の方なのだろう。

 本当に、こいつらからは余計な気付きを得てばかりだ。気付き過ぎて、そのたびそのたび頭がこんがらがっている。

 

「しかもお前、さらっと本題から逸れた方向に俺を誘導しようとしてるしよ」

「…………」

「まあ、これ以上は聞かないことにしとくけど」

 

 何がどう嘘なのかは、やっぱりまったく分からなかった。知らないうちに脳みそが人物評やら俺の思考パターンの変遷やらについてリソースを割き始めていたせいで、そっちについての解析がまるで進んでいない。というよりは、先んじて門外漢であることを知ってしまっているせいで、入り口前で足踏みしているとでも言えばいいだろうか。

 

「総括する。あったかいから後はどうでもいい。以上」

「ずいぶん適当なまとめですね……」

「考え疲れたんだよ。あとねみぃ」

 

 帰宅途中くらい気楽にいたいものだ。家に帰ったらまた勉強勉強勉強なのだし。

 

「……本当に体調は大丈夫なのでしょうか?」

「限度は弁えてるよ。経験則でな」

「その、生徒としてのお願いではないので、聞いてもらえるかどうかは分からないのですが……」

「ん?」

「上杉君に体を壊されるのは嫌です。すごく嫌です。……なので、もう少しだけ自分に甘くなってもらえませんか?」

「……考えとく」

 

 俺も、積極的に病院の世話になりたくはない。乞われたからには、多少見直してみる必要があるか。

 たとえば、せめて今日くらいは体が許すまで眠るとか。

 

「ちなみに、生徒としてではないのならなんなんだ?」

「それはその……友人、は少し違いますかね。なら、中野五月個人の、ええと、なんというか……」

「なんというか?」

「……………………それを聞くのは野暮でしょう」

「了解。貴重な助言をもらったってことだけ覚えておく」

 

 ここで聞き返そうものなら、またあれやこれやと思考の応酬が始まるのは目に見えていた。今しがた体に気を遣えという旨のことを言われたばかりなので、ここは何も考えずに彼女の言葉に従おう。

 そうやって楽をすることも、たまには必要なんだ。きっと。

 

 そのままてくてくと歩を進めて、俺の家へと近づいて行く。口に出してはいないけれど、このペースだと五月は遠回りしてでも俺の家に寄るルートを選んでくれるらしい。そのことについて言及しようかとも思ったが、きっと野暮になってしまうだろうから、胸の内に留めておいた。大丈夫。この会話の中にも、俺はきちんと学んでいる。

 沈黙が続いているが、居心地の悪さは感じなかった。なんというか、ほどほどにちょうどいい空気感だ。こうやって二人並んで歩いていても息苦しくない。

 でも、そういう心理的な問題とは別に、物理的な問題は生じていた。

 というのも。

 

「痛いんだけど……」

「か、加減が分からなくって」

「もう冷えは引いたから心配いらねーよ」

 

 凍えてしまった俺の指先を溶かすように、五月の手が重なっていた。しかしなんだ。そこにかけられている力があんまり強いものだから、少し痺れが回ってきている。最初のうちはかじかんだとき特有の感覚の鈍さかとも思っていたが、いざ暖まってくるとどうやらそうではないことが判明してしまった。

 

「だからもう放していいぞ。カイロも返す」

「…………」

「謎の意地張らなくていいって。マジでもう大丈夫になったから」

「…………このままでいると、不都合がありますか?」

「手が痛い」

「っ、そ、それ以外に」

「特には思いつかないが」

「…………なら」

「ん?」

「なら、別に、いいじゃないですか。上杉君のお宅まで、そう遠くもないんですから」

「まだ結構」

「…………ダメですか?」

「そういうわけじゃ……」

 

 全身から捨て犬のような雰囲気を漂わせるのはやめて欲しい。俺が悪いことを言っている気分になるだろ。

 五月がどんな事情を抱えてこんなことを言っているかは知らないが、このスタイルでいることに強いこだわりでもあるのだろうか。さっぱり推察することはできず、また余計に思考をめぐらせることになってしまう。

 

「ならせめて、もっと緩く握ってくれ。それが妥協点だ」

「に、握ってません!」

「はぁ?」

「掴んでるんです!」

「同じだろどっちも」

「違いますから! 全っ然違いますから!」

「痛い痛い痛い」

「とにかく、握ってないんです。これは重要なことなんです!」

「痛いって」

「分かってください。絶対に!」

「分かった。分かったから緩めてくれ」

「…………あっ、熱くなりすぎました……」

「まぁ、これくらいなら許そう」

 

 ちょうどいい塩梅の力加減になったので、認めてやることにする。もう掛け合いをするのに疲れたから、言われたままに流されてしまうのが一番楽でいい。

 俺には彼女自身の言葉という免罪符がある。だから、思考はそろそろ放棄だ。

 

「このやり取りがお前の息抜きになってれば嬉しいよ俺は……」

「……私は、まるで休まりません」

 

 あれだけ言ったのに、また五月の手が強張り始めた。仕方ないので、指先だけでも痛まないよう、両者のそれが重なり合わない形に手と手を無理やり組み替える。

 

「…………ちょっとぉ」

「勘弁してくれ。俺は疲れた」

 

 途端に全身脱力してしまった五月を引きずるようにして、帰路を急ぐ。

 俺たちに交際関係はないので、差し詰めこれは変人繋ぎとでもいったところか。  …………やっぱりなんにも上手くねーや。

 



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あいまいでぃすたんす⑦

 カレンダーの日付を見れば、今年も残すところ一週間となっていた。センターまでもう一ヵ月を切ったと思えば、時間が流れる早さに驚きもする。

 結局のところ、重要なことはなに一つだって決まっていなかった。自分の行く末も、卒業までにはなんとかしておくと約束したことも。

 忙しさと慌ただしさを言い訳にしてただただ時間を浪費せど、期日が伸びることはない。いつかは必ずそのときが来て、否応なしに選択を迫られることになる。そのことが常に頭の中にあるのは事実だが、現実問題、考えていられるだけの精神的余裕も肉体的余裕もなかった。今はただ、五月をサポートすることのみに尽くさないと、悔いが残ってしまいそうな気がしていたから。

 ……だが、それすらも、きっと言い訳なのだと思う。先延ばしにしておく都合の良い理由として、家庭教師という己の立場と、夢に向かって励んでいる五月を利用しているだけだ。悪用と言い換えてもいいかもしれない。目の前の問題に集中しているふりをして、やがてやってくることが分かり切っている課題から目を逸らしている。逸らし続けている。

 無駄なことだと我ながら呆れる。こんなやり方をして、得られるものなどなにもないというのに。……それでも、どうにかして避けよう、逃げようという意思が働いてしまって、場は全てどっちらけだ。

 俺はなぜ目を背けようとしているのか。どうして手をつけたがらないのか。そこにある思いにどんな名前がつくのかを理解できないまま、刻限だけがこちらに迫ってきていた。まるで俺を追い立てるように、着実に。

 人間関係を楽に紐解く公式も構文も、この世界にはない。その事実に数えきれないほど肩を落としながら、それでも、俺は……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「よう」

「……お、おはようございます」

 

 寝不足の目を擦りながら、俺より早く図書室にやってきていた五月の隣に腰を下ろす。ここの椅子の硬さも、今ではすっかり体に馴染んでしまった。もっといいものを揃えてくれよという気もするが、それも努力の証左だと思えば、まあ悪くはないか。

 

「……なぜ避ける?」

「な、なんとなく……」

 

 俺から距離を取るように、五月の体が大きく傾く。元は姿勢の整っている奴だから、かなりおかしな印象をこちらに与えてきた。さて、俺はなんとなくなんてはっきりしない理由で避けられるような悪事を犯しただろうか。……思い当たる節があまりに多すぎて逆に特定困難だが、彼女の知り得る範囲の情報に限定すれば、たとえば。

 

「結局風邪ひいたんじゃないだろうな」

「いえ、健康体です。そういうのでは、ないです」

「なら構わないけど。……で、それじゃあなんなんだ?」

「だから、なんとなくなんですよぉ……」

 

 彼女の体がくてっと脱力した。己の現況を説明するに相応な語彙を保持していないとか、そういう理由だろうか。そうならそうで、擬音でもなんでも使って表現する努力をして欲しい。俺のお察し能力に期待するなとは再三に渡って言っているのに。

 

「そういや昨日の話だけど」

「…………っ」

「だからなんなんだよ……」

 

 昨日、のあたりで目に見えて動揺し始めた。俺でも分かるくらい、と言えば、分かりやすさの指標としてこれ以上はないだろう。

 俺はただ、あの後無事に帰宅できたかという何でもない無駄話をしようとしただけなのに、その慌てようはいったいなんなのだ。なぜ頬を赤らめる必要がある。

 

「やめです。その話はやめです」

「はぁ?」

「話すなら別のことに。そうですね、美味しいものについてなんてどうでしょう」

「そういや昨日の夕飯はカレー……」

「昨日と言う単語はNGで」

「たかが雑談に枷をつけるなよ……」

 

 ゲームでもやっているのならまだしも、今はただのフリータイムだ。こんなところで浪費する体力の持ち合わせは俺の中にない。いっそ黙るのが一番賢い選択に思えたので、しばらく口を噤むことにする。彼女は既にノートやら参考書やらを展開しているので、分からないところがあれば向こうから聞いてくるだろうし。

 で、早速向こうが口を開いたかと思えば。

 

「……その、昨日のこと、ですけど」

「割とめちゃくちゃだなお前」

「NGはあなただけなので」

「暴君でももうちょい理屈を添えるぞきっと」

 

 昨日のことを蒸し返されたくなさげなのに、なぜか自ら火種を投下していく怒涛の矛盾スタイル。何がしたいかさっぱり分からない。

 

「ちょっと、手、見せてもらってもいいですか……?」

「どっち?」

 

 こっち、と指を差された。回りくどい言い方をするならば、昨日傘を持っていなかった方の手を。

 

「ん」

「痣とかは……大丈夫ですね。良かった」

「握力だけで痣作るのはバケモンだろ」

「もしそうなっていたら大変じゃないですか」

 

 確かにちょっとだけ鬱血してはいたっけ。どんだけ強く握れば気が済むんだって感じだったが、彼女視点で言えばあれは掴んでいただけらしい。俺から見れば、握るも繋ぐも掴むも意味に差異は見つけられないのだが。微妙なニュアンスを追いかけて言葉遊びをするのは作家にでも任せておけばいい話であって、俺に関わりのあることじゃない。まあ、ここは彼女の意思を尊重して『掴んでいた』ということでまとめておいてやろう。

 

「そんなことより勉強だ勉強。俺を気遣う時間で英単語の一つでも覚えた方がよっぽど建設的だぞ」

「気兼ねなく勉強できるように下準備をしただけですよ」

 

 言いながらも、きちんと手は動いている。頭が付いてきているかは知らないが、手癖で問題が解けるくらいの次元に到達しているのなら問題はないか。本番を見越したときにそれくらいの余力があった方が精神的に楽だろう。

 

「……上杉君、今日の日付はご存知ですか」

「二十四日」

「ですか。ですよね」

「いきなりどうしたよ。はっきりしないならスマホで確認すりゃいいだろ」

「いえ、一応です。一応」

「一応ねえ」

 

 今年の残り日数ばかりに気を取られていたけれど、そうか。今日はクリスマスイブか。ということは、去年にこいつらがあのアパートに引っ越して一周年。全員そろって冬の冷たい水の中に飛び込んでからも一周年って寸法だ。

 感慨深く思う。再雇用から一年の節目を迎えても、俺はやっぱりこいつらに手を焼かされているのだ。道中新たな面倒ごとを数多抱え、それでもやっとこさここまでたどり着いた。自己評価では赤点を免れない道程だったけれど。

 しかしまあ、なるようになるものだ。絶対に途中で崩壊する気しかしなかったのに、なんでかんでのらりくらりと切り抜けている。俺の存在が姉妹の仲に亀裂を入れるかもしれないという心配はずっと消えずに俺の後ろを付きまとい続けているが、薄氷の上を歩くような奇跡的なバランスでもって、強引に関係性を成立させている。

 歪だと言う奴もいるだろうが、俺にはこれが精いっぱいだった。笑いたければ笑ってくれ。

 

 

「お前らはプレゼント交換とかすんの?」

「…………っ」

「なんかおかしいぞお前。今日は一々俺の言ったことに反応しすぎだろ」

「す、すると思いますよ」

「何にも言われなかったような顔で強引に話を続けようとすんなよ……」

 

 どうにもぎこちない。いや、手練れた会話というものがどんな形かは知らないけれど、絶対にこういう形態を取らないとだけは断言できる。そもそも俺は普段、五月とどんな風に話していたっけ。

 何にしたって、五月の態度は不自然そのもの。隠し事でもしているのだろうか。

 

「まあ、クリスマスとか、俺にはよく分からんけどな」

「どういう意味です?」

「そのまんま。その類の行事に馴染みが薄いんだよ」

 

 世間がきゃっきゃきゃっきゃと騒ぐお祭りごとも、俺には関わりのない話。割のいい日雇いバイトの求人が出る程度の認識しかない。実際、去年はケーキ屋で働いていたわけだし。

 

「ガキのときにサンタ服を着た親父を見て真相を察して以来、なにごともそんなもんかって目で見るようになっちまったし」

「それはご愁傷さまで……」

「そんなわけで、俺とクリスマスは縁がないんだ。以上」

 

 この歳になってプレゼントをもらいたいなんて思いはしないけれど、胸の奥底のほんのちょっとしたところに、一抹の名残惜しさみたいなものは確かにあった。だが、思うだけだ。それを望めるほどの身の上ではないと弁えている。

 だけど、まあ、そういう文化に取り巻かれて育ってきた五月たちを見て、少しばかりの羨ましさを感じることはあった。妬み……とまではいかないけれど、もし自分がその立場にあったらどうだったろうかという、少しばかりの興味関心だ。

 

「でも、その、今年は少し期待してもいいかもしれませんよ?」

「ウチに煙突はねーよ」

「ある家の方が少ないと思いますが……」

 

 欧米文化を強引に日本に取り込んだせいでそこらへんの擦り合わせが上手くいっていないことも、子供のころは気にならなかった。メインはプレゼントだから、窓から入ってこようが玄関から入ってこようが、最悪ポストに投函されていようがどうでも良かったのだろうと思う。滅茶苦茶な話だが、微笑ましいといえば微笑ましい。滑稽だと言って斬り捨てるのはどうにも違う気がする。

 

「期待するとなにもなかったときの反動がデカいからな。話半分くらいで覚えとく」

「そうですね。それくらいがいいのかもしれません」

「無駄話が過ぎた」

 

 何を目的にこんな日にまで登校しているかを忘れてはならない。休みを一日潰すのならば、せめて有益な使い方をしなければならないだろうに。

 

「分からない箇所はあるか?」

「今のところは特に」

「ならいい。しばらく席を立つから、戻ってくるまでに質問すること整理しといてくれ」

 

 首の骨をこきこき鳴らしながら椅子を引く。まだやってきたばかりなのに……という五月の視線が痛いが、言葉に出して聞かれない限りはこちらから委細を話す責任は生まれない。さっさと立ち去ってしまえば俺の勝ち逃げだ。

 昨日の教訓から持ってきていたカイロを片手で弄びつつ、その場から離れる。椅子の軋る音が、やけに印象深く耳に響いた。

 

 

 

 

 

 

 学校が気を利かせたのか、もしくは教員側の要望なのかは明らかでないが、今日に限って特別授業に類するものの予定は組まれていなかった。三年生を担当する教師は気が休まらないだろうから、たまの休息を与える意味もあるのだろうか。どちらにせよ、俺に参加の意思はない以上はどうでもいいことだが。

 

「失礼します」

 

 ……というよりも、講座がなかったところでこうやって招集がかかるのだから、結局どうしたって無駄なのだ。

 

 

 

 

 

 

 進路についての要領を得ない会話を担任と繰り返しているうちに、三十分以上が経っていた。未だ自分の進む道を決めかねている俺と、基本的に進学の方向で話をまとめたがる教師とではどうにも相性が悪く、表面的な話し合いだけで中身が一切進行しない。まるで形骸化した儀礼みたいに、毎度似たようなことを言い合うだけだ。

 そりゃまあ、俺にだって気持ちは分かる。どこにだって受かる学生に就職なんてされてはこの学校の進学実績に穴が空くし、教師間のヒエラルキーにも影響するかもしれない。ただ、決まらないものは決まらないのだから早くしろと急かされたって答えが浮かんできようもないことくらい、うっすらでいいから承知してくれないものだろうか。

 教師としての視点は俺も手にしているから、向こうの苦悩も分かる。俺は本来必要のない迷惑をかける問題児に区分されているに違いない。ただ脳死で受験、進学を選んでくれるのなら、どこにでもいる優等生で終わったのだろうに。

 だけど、俺の精神性がそれを良しとはしてくれなかった。明確な目標を欲する気持ちが強すぎて、向こうが提示する特待生の条件や給付型の奨学金の話もほとんど頭に入ってきてくれないのだ。こんな状態で人生の重要な決定を下すには無理があるというのが正直な自己評価で、だから冷静になれる限界までゆっくり時間を使いたいのだが、それを許してくれるような世界ではない。まさか先方も、学力以外で躓く学生の存在を考慮に入れてはいないだろうから、話に折り合いをつけようがなかった。

 

「ウィーン会議じゃないんだから……」

 

 なんなら踊ってすらいないから、そのたとえの正確性には疑問が残る。俺の手許には使い道の分からない各種説明書だけが残って、今から処分方法を考えていた。

 

「まさかこれがクリスマスプレゼントじゃねえよな……」

 

 プリントを睨みつける。五月の言ったことがこんな形で具現化したのだとしたら地獄が過ぎる。真っ先に捨てることを考え出さなきゃならないプレゼントとはなんだ。

 もらったものを乱雑にリュックに詰め込んで、足早に図書室への通路を歩もうとした、そのとき。

 

「みっけ」

「びっくりするから普通に話しかけてくれよ」

 

 手の甲をぺしっとはたかれたので振り向けば、そこには覚えのある顔が。ついでに言えば覚えのあるヘッドホンが。

 

「びっくりさせようと思ったんだもん」

「ああ、さいで」

「む、感触薄」

「めんどくさい話の後で疲れてんだよ」

「話って?」

「進路。担任と」

 

 しまい込んだばかりの書類を再び引っ張り出して見せると、三玖は「あーっ」という表情で、ちょっとだけ眉を下げた。事情のなんたるかは察してもらえたらしい。

 

「大変だね」

「向こうは仕事で俺は人生の一大事だ。まあ仕方ないだろ。……で、お前はなんで登校してんの?」

「ん」

 

 袖をくいくい引かれる。ここでの説明はお預けか。

 

「どこ行くつもり?」

「屋上」

「カツアゲかよ……」

 

 ジャンプしても小銭の音はしねーぞと思いながら、進路を変更して階段を昇っていく。この時期、積極的に屋外に赴く性質ではないので、ちょっとだけ脚が重かった。

 

 

 

 

 

 連日の天候不順が災いしてか、屋上の各所が凍り付いていた。そこまで雪の多い地方ではないはずなのに、今年はやけに降り積もる。現在進行形で空は曇って、均衡がわずかに崩れようものなら容赦なく世界を脱色してしまいそうに見えた。

 

「お前も教員の呼び出し受けたのか?」

「ハズレ」

「違うのか」

 

 当たり前に勉強してくれるようになったとはいえ、根っこの勉強嫌いが失われたわけではないから、喜んで学校に来る奴ではない。講座がないのは既に明らかな以上、そういった類の招集を受けたものだとばかり思ったのだが。

 

「五月に用事?」

「それも違う。あったら家で済ませばいいし」

「それはそうか」

 

 わざわざ不要な労力を支払う必要性は薄い。じゃあ、どこに理由があるのだろうか。

 

「フータローに会おうと思ったら、取りあえず学校かなって」

「俺に用事?」

「うん。ほら、今日が何の日かくらい知ってるでしょ」

「アポロ八号が世界で初めて月の周回飛行をした日だよな」

「ふざけてる……?」

「こんなことを大真面目に言う奴がいたら縁切ったほうが身のためだぞ」

 

 俺なら切る。間違いなく。

 

「クリスマスだろ。そのくらい知ってる」

「ん。プレゼント、出来るだけ早く渡したくて」

「俺は何にも用意してないんだが」

「……お返しくれるの?」

「一旦忘れろ。怖え。目が怖え」

「くれるの?」

「血走らせるな。落ち着け」

「じゃあ、後からもらうってことで」

「ええ……」

 

 こちらからは何も発信していないのに決定事項のように処理されてしまった。まあいいけどさ……。いや、良くねえな。ねだられる前にちょうどいいものを見繕ってこないと無茶な要求を通される未来が見えすぎる。それはさすがに勘弁だ。

 

「そのうちな、そのうち」

「今忙しいのは分かってるから大丈夫。余裕出来たらでいいよ」

「じゃあ、年度内には……」

「には?」

「……なんでもない」

 

 年度内。つまりは高校卒業までだ。俺はそのタイミングを期日に設けたデカすぎる約束を彼女らと結んでいるので、あまり積極的に話題に上がる可能性のある単語を発したくはなかったが、常に気を張っていられるわけもなく、こういう形で墓穴を掘ることになる。三玖の顔を見るに俺の失言には既に気づいている様子だ。

 

「楽しみにしてるからね」

「……俺の甲斐性に期待すんな」

 

 明言されなかったから、楽しみにしているのがお返しなのか、それともまた別のものなのかははっきりしない。……でも、そんなに単純に終わるわけはないんだよな。

 というか、プレゼントとやらを送られる前からお返しの話をしてどうする。あくまで釣り合いが取れるような範囲で授受を行うべきだというくらいは俺の理解の内だから、向こうの贈り物の格を計ったうえで、こちらも弄策すべきに違いない。

 なのでまずは受け取ってみてから。

 

「気に入るか分からないけど」

 

 そう前置かれてから、三玖はごそごそと自分の鞄を漁り始めた。その場所に収まりきるサイズだという前情報をゲットだ。……いや、それくらいは言わずとも知れたことだけども。

 

「フータロー、いつも寒そうにしてるから、ちょうどいいかなと思って」

 

 言いながら、一歩ずつ俺の方へと距離を詰める三玖。手元には、毛糸を組んだ細長い一品が。

 三玖はそれをそのまま俺の首元にするすると巻いて、満足げに鼻を鳴らした。

 

「本当は手編みにしたかったんだけど、そんな時間があるなら勉強に回した方が良いだろうから」

「ああうん、サンキュ……」

「無難過ぎたかな?」

「いや、あまりにもちゃんとしたものでびっくりしてるだけ……」

 

 一晩自由権やらなんやら、とにかくやばいものをもらってばかりいた気がするので、ここまでストレートにありがたいものを渡されると反応に困る。なんてプレゼントっぽいプレゼントなんだ……。格とかいうふざけた単語を持ち出した自分の浅ましさが滅茶苦茶恥ずかしくなる。

 これは真面目に考えないとなーと思いつつ、左右で微妙に長さにズレがあるマフラーを上手いこと調節した。当たり前だが、暖かい。

 

「風邪、引かないようにね。もっと早く渡した方が良かったのかもしれないけど、クリスマスの誘惑が強かった」

「ありがたく使わせてもらう。うん」

「他の子と被っちゃうかもしれないけどね」

「それならそれでローテ組めば……」

「えー」

「いや、気持ち多めに使うから……」

「ならよし」

 

 いいのかそれで。本人が言うなら問題ないってことだろうけど。

 

「じゃあ、俺は五月のサポートにもど……」

「一日一回」

「最近控えめだったろ……」

「今日くらいいいでしょ……?」

「日に依るのか?」

「依るよ。すごく依る」

 

 依るらしい。初耳。

 今のことがあるので俺もあまり強く出られず、そのうちに彼女の接近を許してしまう。相変わらずの甘い匂いが体に毒でしょうがない。

 今巻いたばかりのマフラーをきゅっと引っ張られ、必然的に俯く。そこには既に、朱に染まった三玖の顔が用意されていて。

 

「……っ」

「…………ん」

 

 なんでかいつもよりも長めにくっついた唇をやっとこさ離して、気恥ずかしさに任せて彼女の肩をぐっと押す。明るいうちから近づくのには慣れていないから、自衛だ自衛。

 

「ほら戻るぞ。防寒具があっても寒いもんは寒い」

「フータロー、顔真っ赤」

「どの口で言ってんだお前」

 

 やいのやいの言いながら屋上を後にする。暖房をケチる学校とはいえ、流石に風がないぶん体感温度も多少はマシになった。

 階段をとぼとぼ降りながら、ふと思い立って振り返る。なんだか、いつもと様子が違うような――

 

「何やってるのフータロー。早く行こ」

「ああ、うん」

 

 三玖に急かされて、前を向く。誰かが物の配置を変えたのか何なのか絶妙な違和感が消えなかったが、それを明かしてどうにかなるということもあるまい。

 

「このまま帰るのか?」

「そのつもりだけど」

「じゃあ下駄箱まではお供するか……」

 

 ここでハイさよならではさすがに淡白すぎる気がした。先ほどの恩義込みで見送りくらいはしてやらないと。

 

「フータロー、そういう気遣い出来るようになったよね」

「おかげさまでな」

 

 ご機嫌取り、とも言うんだけど。

 

 

 

 

 

 

「遅くなった」

 

 結局一時間ぶりくらいに図書室に舞い戻る。案の定、五月は姿勢よく勉強を続けていた。

 

「ん……?」

「どうしました?」

「背中、妙に埃っぽくなってないか?」

 

 瞬間、過去目の当たりにしたことがないレベルの俊敏さで五月が己の背を払った。こいつ、このレベルの潔癖症だったっけ……?

 

「なんでもありませんが」

「なんか息荒いぞ。大丈夫かお前?」

「なんでもありませんが!」

 

 やっぱり今日の五月はどこかおかしい。そのどこか、というのがパッと分からないのがもどかしいが、何かが狂っていることに違いはなさそうだった。

 まあ、今は態度がどうであれ勉強さえ進めばいい。俺が注力すべきはその一点だ。

 とにかく、ここがスタート。今日も出来るだけのことをしよう。

 



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あいまいでぃすたんす⑧

 ほんの少しの出来心が、己の存在に大穴を穿った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あの人の帰りがあんまり遅いのが気になって、心当たりを探りに行ったのが発端。この前と同様に肩を大きく落としながら職員室から出てきた彼を見つけたときには、もうその後ろに三玖が迫ってきていた。

 自分でもどうしてか分からなかったけれど、見てはいけないものを見るような気分になって、とっさに体を物陰に潜めた。会話が聞き取れるぎりぎりの距離から息を殺して盗み見る姉の横顔は、普段自分に見せるものとは趣が全く違っていて。

 警戒心の欠片もなく弛緩し、ほんのり上気した頬は、それはもう誰が見ても一発で看破できるくらい、恋する乙女のそれで。

 

『みっけ』

 

 ついでに言えば、声音までもが平時よりも半音上がっていて。

 その大きな感情を一身に受けている彼は、いつものぶっきらぼうな調子で、なんでもないように取り合う。

 けれど、二人の距離感は、私と彼の距離感よりもはるかに近いことが、なんとなく読み取れてしまった。

 息遣い。視線。声のトーン。そういったコミュニケーションの素地一つ一つが、明確に私に向けられるものと違うのが、本能的に、直感的に、理解できてしまう。

 それに気付いたとき、なぜだか無性に心臓の下のあたりが痛んだ。心がこんな場所に格納されていることを、生まれて初めて知ったように思う。

 

 良くないことだと理解していて、階段を昇る彼らの後を追いかけた。屋上にたどり着いた二人にバレないよう自販機の陰に身を隠して、扉越しに聞こえてくる会話を拾う。

 小慣れたテンポで繰り返される言葉のキャッチボール。その一投一投が、着実に自分の内側を抉ってくる。三玖が今現在立っている舞台に、自分が未だ昇れていないのを時間をかけてじっくりと理解させられる。

 そのうちに足に力が入らなくなって、壁に背中を預けてどうにか体重を支えた。心臓が脈を刻む音が生々しく反響し、目も耳も全部塞いでしまいたくなる。

 でも、直視したくない現実に限って積極的に提示してくるのがこの世界らしく。

 

 一日一回。その単語の後に扉の向こうで展開された事象を思い描くのは容易かった。

 先ほどまで途切れることなく続いていた会話がそのときに限って絶えたのが、全ての証明だったと思う。

 

 その後は、記憶が千々に散ってよく覚えていない。どうにか二人に気付かれないよう体を丸めてやり過ごして、不在がバレないように急いで図書室に戻って。とにかく、必死だったことだけは確かだ。

 

 なんで、あそこに立っているのが私じゃなかったんだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『あの、三玖』

『どうしたの?』

『お昼のことなんですが――』

 

 

 

 

 

 

 

 

 日頃はただの置物になっている携帯電話が久々に仕事をした。滅多に聴かないコール音をちょっとだけ長く耳に染みこませてから、利き手で通話ボタンを押す。

 発信者表示は、『中野三玖』となっていた。

 

「もしもし。どうした急に?」

『た、大変!』

「何が?」

『だから、大変なの!』

「落ち着け」

 

 いつもは感情の起伏に乏しいのに、今は声だけで分かるくらいあからさまに動揺していた。つまりはそれ相応の一大事が起きているということで、聞いている俺にも緊張が走る。

 

「まずは何が起きたかから話してくれ。詳しいことはそれからだ」

『五月が――』

 

 五月が家出した、と。彼女は震える声でそう言った。



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あいまいでぃすたんす⑨

 そぞろ歩く。冬の寒空の下を、上着の一枚も羽織らないで。

 頭の中に響いて消えないのは、先ほどした三玖との会話。自分はただ二人が知らず交際関係にあったのかを確かめたかっただけなのに、彼女の口から飛び出てきたのはそんな予想をはるかに上回ってくる、出来ることならば知らないままでいたかった特大の秘め事で。

 本当は祝福するつもりでいた。その用意を万全にしたうえで、話しかけたはずだった。三玖が彼に対して好意を持っていることは本人直々に聞かされていたのだから、それが正しい行いだと思っていた。

 自分の中にある嫉妬や後悔自体は否定しない。なぜ私では、という思いが常に脳裏をチラつくことも事実で、その感情に嘘はつけない。でも、姉妹が思い人と結ばれたのならそれが喜ばしいことでないわけがないのだ。だから、渦巻く様々な感情の処理は後回しにしたって、今だけは素直に祝う側に回ろうとしたのに。

 なのに、なのに、なのに。

 そんなのは、あんまりだ。

 私には見えていないところで、私には分からないうちに、私以外の全員が、密かに彼と繋がりを持っていたなんて。

 いつからとか、誰からとか、そういうのはどうでも良かった。『そういう事実があった』というだけで、既に乱れ切っていた私の心を壊すには十分だった。

 

 出会いは、決して良好なものではなかったと思う。第一印象はどう繕っても最悪で、あんな人に自分たちの未来を任せるだなんて考えられなかった。自己中心的でデリカシーに欠け、こちらの考えも知らずにずけずけと心の深くまで歩み寄ってくる。そんな彼のやり方には不満を持つことばかりで、何度も何度も衝突した。勉強ができる人に、努力しても努力しても成績に改善の見られない自分の気持ちが理解できるわけがないのだと思いもした。頭の出来が初めから違うのに、分かったような顔で語らないでくれと。

 でも、そんな絶望的な関係の中でも、ゆっくり時間をかけて育めたものだってあって。

 

 彼のしつこさや諦めの悪さは私たちの可能性を信じて疑わなかったがゆえのもの。ぶっきらぼうな言葉の数々は人付き合いに慣れていないあの人なりの励まし。その他にも、考えが変わったことはたくさん、たくさんあった。斜に構えた受け取り方を排することで見える本質が、たくさん身近に転がっていたのだ。彼はただ不器用なだけで、実際は感情表現が下手くそな普通の人だって。そんなことに気付くまでに一年もの時間を要しながら、それでも私たちは、お互いのことを少しずつ理解し合いながら、笹船が進むくらいのスピードで、じっくり、じっくり、歩み寄れた。

 そして、その過程で、私は。私は……。

 

 なのに、なのに、なのに。

 どうして、こんなことになってしまうんだろう。

 どうして、こうなってしまったんだろう。

 

 

 ――ねえ、上杉君。分かり合えたと思っていたのは、私だけですか?



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あいまいでぃすたんす⑩

 三玖からの一報を受けて、あてもなく夜の外に飛び出した。なんでも完全にノープランで出ていってしまったらしいから、財布とかコートとか、そういったこの時期生きていくのに最低限必要なものすら五月の手許にはないという話だ。

 五月、家出、と、この二つの単語を並べたとき、当然思い当たるものがある。あれは一年と少し前、姉妹間でのちょっとした諍いがトリガーだった。

 だが、今回の家出は前回と異なって、二乃と連れ立っての行動ではない。あくまで家からいなくなったのは五月だけで、そしてその理由も、前とはガラッと変わっている。

 まあ、有り得る話ではあった。いつまでも隠し通し続ける無理も、いつまでも騙し続ける無謀も、そう上手いこと続いてくれるわけはない。そのうちにバレてしまうことは明らかで、それが今になったというだけ。喋ってしまった三玖を責められはしない。

 けれど、どうしてこんなタイミングで……という思いが心のどこかにあるのも事実。いいや、伝わっていいタイミングなどありはしないけれど、それにしたってもう少し後になって欲しかった。よりにもよって受験前で余裕がないこの時期に、そんな意味の分からない情報を叩き込まれてしまえば大半の人間は思考がパンクする。不器用で人間関係に潔癖を持ち込む五月であればなおさら、受け入れることなんて出来ずに困惑して当たり前。というか、戸惑いどうこうの前に普通に激怒していると思う。積み上げた信頼なんて、あっさりと消え去ってしまったはずだ。

 分かっていたつもりだった。自分が進んでいる道がどれほど危ういものだったかくらい。なんでここまで綱渡りが成功したのかも謎なんだ。個々人の利益追求がたまたま他者の尊厳を侵さないギリギリのラインを攻めていたからだとは思うのだが、その利益関係に関わらない人間が輪に加わった場合にどうなるかは考えるまでもなかった。この歪な関わりを見れば理解不能で気味の悪いものとして認識されるに決まっている。登場人物の大半が自分の身内であればなおさら。

 その場しのぎを続けに続けて、最後に最悪な形でボロが出た。分岐点はおそらく、二乃に襲われたあの日。あのときに下手な対応をしなければ、現状ここまでこじれることはなかったように思う。確かに一度完全に信用を失うことにはなるが、一度の過ちならまだどうにかリカバリすることが出来た可能性もある。俺はその可能性とやらから目を逸らして、更なる修羅へと歩みを進めてしまった。

 ――いや、どうだろう。

 信用とか、信頼とか、分かるようでよく分からない単語を引っ張って、自らの思考に誤魔化しをかけている気がする。俺は瞬間的にそんな見込みが出来るほど鋭い人間じゃない。

 俺はきっと、自分でもよく分からないうちに、自分自身を欺いている。簡単な結論に面倒なカモフラージュをして、率先的に分かりにくくしてしまっている。認めてしまうのがものすごく癪で、負けてしまったような気分になるのが嫌で、隠している感情がある。

 五つ子に、仲のいいままでいて欲しい。……いいや、これは違う。だって、これに関して言えば隠してなんかいない。俺は日常、ぼんやりとでもはっきりとでもこの思いを抱えながら姉妹に接し続けてきて、ここまで入り組んだ人間模様を中心となって演出してしまった今になっても、その思い自体は変わらず心のどこかに持っている。俺が本当に願っているのは、これ以外の何かだ。

 

 では、なにか。

 

 俺の思いは、願いは、なんなのか。

 

「それが分かんねえから苦労してるんだっての……!」

 

 冬で、夜だ。当然寒い。この前二人並んで帰った時よりもずっとずっと寒い。

 気温でいえばみぞれが降るほどだったこの前の方が低いはずなのに、なぜか俺の体からは寒気が消えない。三玖からもらったばかりのマフラーをきつく締めても、上着のファスナーを限界まで上げても、震えが止まってくれやしない。

 熱があるわけでも、体調が悪いわけでもないのに、寒さがいっそう辛いものに感じられるのは、いったいなぜか。どうしてか。

 分からない。俺には、なにひとつ。

 

 でも。でも……。

 

「……………………ッ!」

 

 頭の中に溢れかえるありとあらゆる思いを振り切るように、思い切り地面を蹴り飛ばした。靴とアスファルトとが擦れ合う音が何度も何度も反響して、その音がいつまでも自分の中から消えないように、がむしゃらに駆ける。体力なんてもう尽きているというのに、それでもまだ気力を捻出して脚を動かす。五月が居そうな場所を片端から訪ねて、また訪ねてを繰り返す。今頃、他の姉妹もそうやって彼女を探していると思う。

 こんな情けない俺でも、分かることはあった。五月がどんな奴で、今ごろどんな行動をとっているかくらいは想像がついた。あいつはきっと、今もこの冬空の下をさまよっている。俺に対する嫌悪とか、姉妹に対する不信とかを心の中でごちゃまぜにしながら、体を寒風に吹き晒している。そういう奴だって知っている。

 こうやって探し回っているくせに、もし見つけたら何を言うかも考えていない。みっともない釈明をするのか、謝って赦しを乞うのか、その方向性すら己の中で定まりがついていない。それでも見つけなきゃいけないという思いだけが先行して、空転して、ひたすらに脚を前に動かした。どうしたって彼女がいないことには始まらないから

というのはもちろん、今立ち止まったら自己嫌悪で死んでしまいそうだからというのもある。あのときああしておけばの連続で、頭が破裂してしまう。それは、ダメだ。

 だって、後悔は俺に許された行為じゃない。

 流されるままにこんなところまでやって来た責任は俺にあって、だからその末路を受け取るのも俺である必要がある。目を逸らすのは簡単で、現にこれまでずっとそうしてきて――でも、もうその手段はとれない。自分が立っている場所はとっくの昔に袋小路のさらに奥。複雑に絡み合った蜘蛛の巣の上。今更どうにか逃げようともがき足掻いたところで状況を悪くするだけだ。無論、現状維持ですらこの場面においては悪手。だからそろそろ、きちんと正面から向かい合わなきゃいけない。最低だろうが最悪だろうが、きちんと一つの出来事として片をつけないといけない。自分の不始末をなんとかするのは、やっぱり自分自身の仕事だと思うから。

 散々酷い道のりをたどってきて、途中途中で甘い蜜だけをすすった俺への罰と思えばまあ、納得が行く。

 俺はもうどうでもいい。だからせめて、彼女たちの関係をもう一度つなぎ合わせられるように。俺という異物が崩壊させてしまったものをどうにか再建できるように。

 

 ――いいや、それは、己の真意との間にいくらかの齟齬がある。

 

 違和感があった。今思ったことがどうにも受け入れられないような、不思議な違和感が。この期に及んで何を……という話だが、突如聴こえた不協和音は放置しておくにはあまりにも不気味で、だからもう一度、自分の持っている感情を精査したくなる。

 俺の行動の源泉となっているのは、何とか彼女たちを笑顔で卒業させてやりたいという思いだ。そのためには全員の信頼を損ねるわけにいかなくて、何度も何度も苦しい言い訳を積み重ねた。そうしないことには五姉妹の成績を維持、向上させられなかったから。

 では、もはや全員の卒業が確定的になった今、それを引きずる必要が果たしてあるのかどうか。

 当時打ち出した苦肉の策はあくまで苦肉の策であって、いつか綻ぶことは重々承知していた。だからこそ俺はその綻びが先延ばしされるように尽力したし、その過程であれこれ追加で秘密を抱えてきた。

 正直な話、もうここまできたら全部投げ捨てても良いのだ。俺は不完全ながらも当初請け負っていた仕事は遂げたし、彼女たちは次へと進む権利を得た。大筋で見ればそれなりの結末。あとは報酬だけ受け取って縁を切ってしまえば、また昔のような日常に戻ることが出来る。静かで、波が立たない、気楽な日常へ。――静かで、何も起こらない、面白味の欠片もない毎日へ。

 あいつらと知り合ってからの日々は面倒ごとの連続で、ちっとも休まる暇がなかった。直に教えていない時間にも次の授業についてのことを考えなくてはならなかったり、家族の問題に俺が顔を突っ込むことになったり。割の良いバイトだとウキウキしていられたのはほんの少しの間だけで、蓋を開けてみればとんでもない地雷がそこら中に埋まっている、事前に内容を確認していたら願い下げ確定の超ブラック業務。借金のことさえなければやめられるのにと思った回数は両手の指どころか両足の指まで含めても足らず、何度も何度ももっとよく考えた上で始めるべきだったと後悔した。

 

 それなのに、なんで俺は今、こうやって家庭教師の座にしがみつこうとしているのだろうか。

 

 やめられるのならやめたかったはずの仕事で、一度は自分から暇をもらったこともあった。それなのにいつの間にか復職して、あまつさえ、関係が切れることを寂しいなどと思ってしまいもして。

 変わっていく己の心に追いつけないまま、気付けばこんな場所にまでやってきていた。

 気持ちの整理をつけるタイミングをいつまで経っても見つけられなかった俺は、自分がどんな思いで彼女たちに接しているのかを理解できないまま、時間だけを溶かしてしまった。

 今になって認められることはある。俺は確かに、あいつらと過ごす空間を、時間を、どこか居心地のいいものとして認識するようになっていた。自分がこれまで目的なく身に着けてきた知恵を活用して誰かの役に立てられるあの場は、もしかしたら俺が長い間心のどこかで欲していた舞台なのかもしれなかった。いつかの日のためにと蓄えた知識や経験を活かせる場所はなかなかに得難くて、だから、偶然からそれを手に出来て、幸運だったのかもしれないと思うようにもなっていた。

 その感情に、偽りはあるだろうか。――ないと思う。これまでの日々は確かな記憶として、今も俺の中に蓄積されている。

 嬉しかったのだ。俺の積み上げてきたものが無駄じゃないと証明されたみたいで。あの子に恥じない自分になれたような気がして。だから、その機会を与えてくれたあいつらには、漠然とした感謝の情を抱えていて。

 徐々に俺に心を許してくれるようになったあの感覚も、俺の教えで次の目的地へと導いていくあの感動も、彼女たちなしには掴みようがなかったもので。

 

 だからきっと、その過程で生まれたのだ。当初は微塵も持っていなかった、新しい感情が。

 

 それはたぶん、自分が考えるよりもずっとずっと単純なこと。

 

 あまりに当たり前になり過ぎて、わざわざ言葉にする必要もないと己の中で処理してしまったもの。

 

 自身の感情を何度も何度も再編して残ったその上澄みは、実はそこら中に転がっているくらいシンプルな――

 

「俺は」

 

 もやもやとして判然としない思いを、きちんと言葉の形にする。この工程を経て、初めて飲み込める気がする。

 

「俺は――――」

 

 続けた言葉は、驚くほどにしっくりと馴染んだ。口から発した文章が耳から再度自分の中に入り込んで、ゆっくり時間をかけて体内を循環する感覚が心地よかった。なんてこともない、くだらない、どこにでもある言葉なのに、今の俺にはこれしか必要が無いようにすら思える。それくらいに、長いこと探し求めていた解答だった。

 つくづく、学校の成績などなんのあてにもならないことを痛感する。こんな答えを導き出すのに時間をかけ過ぎだ。どう考えても。

 そう思いながらため息まじりに蹴飛ばした小石が、小さく跳ね回りながら、とある障害物にぶつかってその勢いを完全に失った。夜中の墓地は酷く不気味で、幽霊なんか信じていなくても背筋に震えが走りそうになる。

 いや、違うか。震えそうになっているのが事実だとして、その原因は決して幽霊なんかではない。適当な理由付けに利用される心霊現象サイドからしたらたまったものじゃないだろう。

 俺はきっと、怖いんだ。今しがた答えに気付いてしまったがゆえに、これからそれにヒビを入れるかもしれないのが怖い。端的に言えば、臆病になってしまっている。

 

 でも、言わないことには始まらないから。

 

 だから一度大きく息を吸って、吐いて。

 

 いつかと同じように、またこの言葉から幕を開こう。



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あいまいでぃすたんす⑪

「見つけた」

 

 足にぶつかった小石を怪訝に思ってそちらの方を向いたところ、見慣れた誰かさんが顔面蒼白になって息も切れ切れのまま佇んでいた。聞こえた言葉は掠れていて、ずいぶん自分のことを探し回ったのだろうなというのが見て取れる。今会ったところで、特に話せることもないというのに。

 

「探したぞ」

「お願いしていません」

「怖がりのくせにこんな時間の墓場にいるのは盲点だった」

 

 彼は目の前の墓石を見ながら言う。私の言葉に取り合うつもりがあるかどうかも分からない。石碑のとある場所を懐かしむように指でなぞって、そのまま二の句を継ごうとする。

 

「お前の姉貴たちも、まだ必死になって探してる」

「知りませんよ、そんなの」

「家に帰る気は?」

「まさか、あんな話を聞いたうえで、今まで通りの生活に戻れるとでも?」

 

 できる限りの力で睨みつける。ちょっとした仲違いや喧嘩ならまだよかった。どちらかの譲歩によって改善の見込みがある程度の出来事なら、人生において何度か起こり得る喧噪の一部として仕方ないながらも受け入れられた。

 でも、こと今回に至ってはそうじゃない。見せられているのは大いなる価値観のズレで、それはとてもじゃないけれど自分に馴染むようなものではない。

 体表を爬虫類が這い廻るような気味の悪さがずっと消えてくれなくて、許されるのなら今にも叫びだしてしまいそうだった。様々な感情が自分の中で複雑怪奇に混ざり合っていく感覚が、酷く恐ろしい。

 

「あなたのことを信頼していました」

「そりゃどうも」

「……でも、それはあくまで、昨日までの話です」

 

 知らないままでいられたら、どれだけ幸福だったかと思う。そうしたらきっと今だって、彼は頼りがいのある私たちの家庭教師でいてくれたはずなのに。

 しかし、裏でどんなことが起こっていたかを知った今になれば、もう。

 呑気な視点で考えることは、出来なくなってしまって。

 

「私には、あなたのことが分かりません」

 

 これが、何よりも正直な感想。彼がどんな人間で、どんなことを考えて動いているかをなんとなく掴んできたつもりだったのに、一日の間でそのすべてが否定されてしまった。同時に自身の審美眼すらも信じられなくなって、何を拠り所にして歩けばいいかが分からなくなる。

 私が思い描いていた彼の人物像は、実像と符合しない。ずっとこの目で見てきたものは虚像であって、本物ではない。そう思うと、世界全てを疑ってしまいそうだ。

  全幅の信頼を寄せていたはずの相手が実は酷い隠し事をしていて、しかもその裏には姉妹の結託があった。仲間外れは自分だけ。どうしたって、その事実に納得できない。

 

「一人にしてください。これ以上お話しすることはありませんから」

 

 決意をもって突き放す。今は誰が近くにいてもダメだ。私に寄り添ってくれそうな人間に限って、ことごとく私の心を裏切っている。そんな中で当たり前のように呼吸することは、とてもじゃないが不可能。頼るアテはどこにもないが、なんとかしてみんなと距離をおかないことには気持ちの整理すらつけられない。お願いだから放っておいて欲しい。

 でも、心の底からそう願っているのに、彼はなぜかその場から去ろうとしない。

 

「早くいなくなってくださいよ……」

「残念ながらそういうわけにもいかない」

「ここにきて教師面ですか?」

 

 言葉の端々に棘が生えている。己の中で息を潜めていた攻撃性が、生まれて初めて牙を剥いている。

 自分のそういう部分に向き合うのは苦しい。剥き身の心で人と接してはすぐさま何かが摩耗してしまう。だから、今すぐにでもここから去ってもらいたかった。周りのみんなを嫌いになりかけている今、自分さえも嫌いになってしまったらどこにも寄る辺がなくなってしまう。そうなれば落ちるだけになってしまう。それはきっと何よりも恐ろしいことだから、私のことを案じる気持ちが少しでもあるなら、ここは放置の選択をしてもらいたい。

 デリカシーのない彼にだって、この程度の感情の揺らぎなら推し量ってもらえるはず。

 そう思っているのに、やっぱり立ち去ってはくれなくて。

 

「今更できる教師面なんか持ってねえよ。やったことに関しても、全面的に認める。言い訳するつもりもない」

「開き直り?」

「好きなように受け取ってくれ。訂正可能な立ち位置じゃなくなってるしな」

 

 意図して目を合わせず、声の抑揚を殺す。感情的になっているということさえ、今の彼に知られたくはなかった。全てを鎖して心理的な距離を設けるのが、一番有効な精神防衛策だと思った。

 熱くなったところで、怒ったところで、これまでにあったことが改まる道理はない。事実は事実として厳然と世界に存在し、どうあっても失われたりはしない。なら、そんなことに労力を割くだけ無駄だと割り切るのが尤もらしい。

 皮肉なことに、彼がこれまで私に教えてきた効率化の方策が役に立っている。あらゆる出来事に対し、真っ当な姿勢で臨む必要はない。人生には、取捨選択が要る。

 願わくば、この関係が簡単に切り捨てられるようなものなら良かったのに。

 

「本当に弁解しないんですか。私が間違った解釈をしているかもしれませんよ」

 

 だが残念なことに、自分の不器用さがいつまで経っても道行きの邪魔をする。彼を信じたい気持ちがどうしても消えてくれなくて、こちらに勘違いがあった可能性に期待してしまう。

 そんなこと、望むだけ無駄だと分かっているのに。自分の弱さが、そうさせてしまう。

 

「間違ってねえよ。たぶんだけどな。ずっと、バレたらロクなことにならないだろうなと思ってきて、実際に今そうなってる。なら、合ってる」

「そう、ですか」

 

 関係修復への一縷の望みも絶たれた今、いよいよもって自分がどうすればいいか分からなくなる。いっそ思い切り彼の頬でも張ってやれれば良いのだろうけれど、そんなことをしても何かが解決する風には思えなかった。たまった鬱憤をそんな形で晴らした虚しさが心を余計に冷たくするだけだ。

 彼は私に不義理を働いていて、私はそのことに気付きすらしなかった。結局、残るのはそれっきり。

 所詮、私たちはその程度の間柄に過ぎなかったということなのかもしれない。

 いい加減に低下してきた体温と底冷えしていく思考とのダブルパンチで、無意識に上半身を掻き抱いた。防寒着すら着ないで外に飛び出すなんて、なんて意識の低い受験生だろう。

 すると、そこに。

 

「ほら、とりあえずこれ羽織れ」

「今のあなたから施しなんて……」

「損得勘定くらいしとけ。ここで体調崩して困るのはお前だろ」

 

 こんな中においてもいつもと同じ傍若無人っぷりを発揮しながら自分の上着を強引に押し付けてくる人がいた。ここで自棄になって全てを放り出せるなら楽でいいのだろうが、現実はそう単純な構造をしていない。立ち尽くしていても明日は来るし、それを繰り返すうちに受験に襲われる。今はそんなことを考えたくないのに、学生の性としてどうしても乗り越えられない壁がある。それを思うたびに、自分のちっぽけさに嫌気がさす。全部投げ捨てて台無しにしてしまえるような性格だったら、こんなことにはならなかっただろうか。

 

 そして、何より。

 彼の気遣いを嬉しいと感じてしまう自分がいるのが、辛かった。 

 彼の匂いと体温が残るコートに触れて高鳴ってしまう心音に気付くのが、苦しかった。

 浅ましいと思う。醜いとも思う。この期に及んで何を考えているのかとも。しかし、思考と感情は別々に切り離せるようなものではないから、どこかから湧き出してくる喜色を否定することは叶わなかった。嫌いになったつもりでも、それを自分に信じ込ませても、心中深くに眠る真意までもは欺けない。

 きっと、未だ惹かれている。

 現実を理解しても、なお。

 

「せっかくここまで自分の意思で頑張って来たのに、それを俺みたいなどうでもいい奴の茶々でひっくり返してたら世話ねえよ」

 

 聞いて、やはり彼は根本的にずれているのだと思った。だって、本当にどうでもいい人だったら、何一つとして歯牙にかけずにいられたはずだから。彼が私たちにとって欠かせない存在になってしまったからこそ、こんなにも心が乱れているのに。彼が私の一部になってしまったせいで、こんなにも苦しい思いをしているのに。

 

「……話すだけ無駄なのかもしれません。私とあなたは分かり合えない。もうそれでいいでしょう?」

「初めから会話が成立するなんて期待はしてないから気にすんな。こうなるのは予定調和だ」

 

 思わず、「はぁ?」と聞き返してしまった。あまりに傲岸な言い分に、少し苛立つ。どう考えても状況は私優位なのに、なぜそんなことを言われなくてはいけないのか。さっき感じたはずの思いやりは偽りだったのか、と。

 

「お前に会ったところで何も言えることなんかないって知ってる。言い訳も弁解も釈明も申し開きも、どれだけ重ねたって意味がない。だから、俺はようやく終わった自己分析を開示しに来たんだ」

「それは、どういう……」

「どうもこうもない。ただ、ずっとよく分からなかった自分の内面を考察してみて、その結果としてなにが分かったのかを伝えようと思った」

「それは、今関係あることなんですか……?」

「受け取り方次第だ」

 

 この時点で、だいぶ意味が分からなくなっている。なぜ私はそんなことに付き合わされそうになっているのだろうか。まともに取り合う気力すらどう捻出すればいいか分からなくなっている、今この状況で。

 しかし、彼が意味のないことを好んでする人間でないことは経験則で知っていた。なら、これからの話にもそれだけの意味が包含されると考えるべきか。……それは期待が過ぎるように思えてならないけれど。

 

「不思議だったんだ。これだけの泥沼に両足どっぷり浸ってまで、自分の立場を守ろうとするのが。そうする理由はたとえば借金苦から逃れるためだったり、お前らの卒業まではなんとか面倒を見てやりたいという思いからだったり、色々挙がりはした。でも、そういうのは全部しっくりこなかった。間違ってはいないけれど正しいとも言い切れないような微妙な感触が付きまとって、長いこと悩んでいた」

 

 相槌を打つ間もなく、彼の言葉は続々と繋がっていく。

 

「お前らと出会ってからの毎日は災難続きで、どうやって逃げるか画策したこともあった。というか、いつも考えていた。俺は家庭教師をしにきただけのはずなのに休みはつぶれるわ姉妹喧嘩に巻き込まれるわで、どう考えても通常業務の領域を逸していると思うことばかりだった」

 

 続く。

 

「だけど、その環境の中で、少しずつやりがいのようなものを見出していったのかもしれない。いつしかお前らに教えることは苦ではなくなっていたし、それが自分の糧になっているような感覚も得るようになった。ただ知識だけを積み上げてきた俺の人生において、お前らは初めてアウトプットに付き合ってくれた。全員の成績が少しずつ向上していくのが自分のことのように嬉しくて、見える世界が大きく広がった気分になった。そして、それは今も変わっていない」

 

 続く。

 

「俺はたぶん、自分が教える以上に、お前たちから教わっていたんだ。下手くそな人生の改め方とか、人との接し方とか。教科書をどれだけ読み込もうが身に付かなかった知恵が、お前たちには備わっていた。知識を与える見返りとして、知恵を享受していた。それはきっと、あのまま人生を歩んでいたら身に着かないでいたことだ」

 

 続く。

 

「だから、素直に感謝している。出会えたことで、俺は変わった。変えてもらった。……まあ、俺が良くない方向でお前らを変えてしまったのはここでは別問題として」

 

 続く。

 

「じゃあ、ここで最初の疑問に立ち返ろうと思う。なぜ俺が、今の立場に縋りついているのか。俺なりの分析でようやく求めだした答えを、聞いてもらおうと思う」

 

 続く。

 

「俺は、きっとさ――」

 

 ここでようやく、途切れることなく続いていた彼の言葉に隙が生じた。水が流れるようにすらすらと繋がっていた台詞に切れ目が出来て、風の音以外が世界から消え去った。

 何を目的としたタメかは分からなかった。これから先の言葉をより一層際立たせるための助走のようなものだったのかもしれないし、単純に、言葉が出てこなくなったからかもしれない。もしかすると、彼にとっては珍しく、言葉にするのをためらっているなんてこともあるのかも。

 本当は聞いてあげる義理なんてない。耳を塞いでいても、ここからいなくなってしまってもいい。彼がしたことを考えれば私がこれからどんな暴虐を働こうがそれを咎められるいわれはないし、無視して良い。

 でも、今この瞬間だけは、なんでか黙って聞き届けようという気分になっていた。そうすることが一つの義務だと言わんばかりの強制力が世界から働いているようで、不思議とフラットな気持ちでいられた。

 単純に、興味がある。頭の良い彼が時間をかけて導き出した自己分析とやらがどんなものなのか。この場から立ち去るのは、それを聞いた後でも遅くない気がする。

 

「――お前たちに、嫌われたくなかったんだ」

 

 ぽかん、と。

 思考が一瞬で漂白されて、思ったことも考えたことも、全てがどこかへ遠ざかってしまった。

 

「呆れる気持ちも、下らないと言いたくなる気持ちも分かる。でも、これが長いこと時間をかけてようやくたどり着いた結論だ。笑いたきゃ笑ってくれ」

「そ、そんな、意味が……」

「そのまんまだよ。お前らに頼られる感覚が心地よくて、出来るだけ長くその環境に身を置いておきたいと願った。慕われる自分を守るために、ここまで色々間違ってきた。それもこれも全て、嫌われたくないというその一心からの行動だったんだって気づいた」

 

 彼は首を傾げながら困ったように笑って、

 

「我ながら酷い話だと思う。そうならそうで、もっと選べるやり方はあったはずなのにな。でも、俺はそういうことにはとにかく疎くて、だから誤魔化しに誤魔化しを重ねることでしか対応できなかった。泥沼に足をとられていくのが分かってもなお、信頼ってやつを手放したくなかった」

 

 まあ、それも今となっては台無しだけどな、と続いた。

 

「とにかく、これで全部だ。最後まで付き合ってくれてありがとな」

 

 そして、ようやく、彼の姿が視界から遠のいていく。結局、やって来たことに対する謝罪も弁解もすることなく、あらゆることを自己完結させて、全部終わらせた気になって、この場から去って行く。

 

 ねえ。

 

 あなたは、それでいいのかもしれないけれど。

 

 私の気持ちはどうなるんですか?

 

「ちょっと!」

「……呼び止めを誘ったわけじゃないから、もう無視で良いぞ」

「そうじゃないでしょう! 自分は気持ちよく言いたいことを言い切って、その後のことは丸投げですか!」

「だって、お前は赦さないだろ。なら、どれだけ時間をかけても無駄なことだ」

「あーーーーー、もうっ!」

 

 やはり、ズレている。こういうときに効率性を度外視できないところとか、決めたら曲げないところとか、前から何一つとして変わっていない。私たちから学んだようなことを言ったくせに、結局根っこは彼のままだ。それが果たして悪しきことなのかは私の視点だけで断じることはできなかったけれど、確かに一つ、言えることがある。

 

「上杉君は大馬鹿です!」

 

 感情を見せるのが嫌だったはずなのに、そんなことはすっかり忘れたような大声を出す。ここには二人しかいなくて、距離も離れていなくて、こんな声量は要らないのに。それでも、彼に対する苛立ちや憤りが渦を巻いて、こうしなくてはやっていられない。

 

「もっと出来ることがあったでしょう! 正直に相談するとか、早い段階で謝るとか、色々!」

「だから、嫌われたくなかったんだっての」

「一度や二度で嫌いませんよ。私が怒ってるのは、ずっと隠し事をされていたことなんです!」

「普通言えねえだろ。お前の姉妹とやることやったなんて」

「どうしようもない事情があったなら、初めに言ってくれればよかったんです。困っているって教えてくれれば、私だって、私だって……!」

「私だって?」

「……私だって、あなたの力になれたかもしれないじゃないですか」

 

 いつも頼ってばかりだから、いずれどんな形になるかは分からないけれど恩返しがしたいという思いがあった。向こうから頼ってもらえるタイミングを待っていた。それなのに、知らないうちにこんなことが起こっているなんて。

 

「信頼してくださいよ。私のことも」

「いや、だから……」

「言い訳はしないんじゃなかったのですか?」

「これはそういうのじゃなくて、えっと……」

 

 口ごもる彼を無視して、今度はこちらから言葉を紡ぐ。どうせなら、全部吐き出してしまった方がいい。上杉君の不遜ぶりを真似るように、少しだけ気を大きくして。

 

「だいたい、いつも横暴なんですよ。独善的というか、独りよがりというか。一度決めたら変えられない頑固なところ、本当にどうかと思います」

「それは」

「口ごたえは受け付けていません」

 

 一方的に愚痴をぶつける時間なのだから邪魔しないで欲しい。ボールを打ち返してくる壁があってたまるものか。

 

「私にバレていないのをいいことにひそひそひそひそと。まともな対処法の一つも考えてみてくださいよ」

 

 気持ちが完全に理解できないわけではない。出来の悪いテストは二度と見返したくなくなるし、隠したくなる。だけど、今はそういう自分の事情は全部全部棚に上げて、たまった鬱憤をひたすら吐き出すことにした。私優位の状況なのだから文句は言わせない。こうなればもうやりたい放題だ。

 

「なんて言うか、思いやりが足りないんです。自分のことを考えているのか私たちのことを思っているのかは知りませんけど、やり方がいつも雑! 基本的にずっと空回ってるじゃないですか! それが嫌なんですよ。思っていることがあるのなら全部はっきり伝えてください!」

 

 常々感じていた伝達不足も、ここではっきり言っておく。察しが良くないのはこちらも同じなのだから、思っていることはきちんと言葉にしてもらわないと分からない。

 思えば、すれ違ってばかりだ。出会ってから今日に至るまで、上手く行ったことの方が少ない。その成功体験の方が確かな思い出として積み上がっているから記憶が美化されているけれど、そもそも私たちは最初から相性が良くなかったのだ。強引にこじつけて綺麗な過去だったように印象操作しても、その事実は変わらない。

 

「変なことはしないで、ずっと自慢の先生でいてくださいよ」

 

 だからきっと、今のが一番の本音。素直に感謝できるような人のままでいてほしかった。私たちを教え導いてくれた恩人として。たまたま出会えた無二の友人として。それを余計な何かで穢されてしまったことが、何よりも悔しい。

 こんなことさえなければ、いつまでだって恩義を抱えたままいられたのに。

 

「あなたは、私たちの家庭教師でしょう……?」

 

 言いたいことは他にもいくらだって残っていた。けれど、力を出し尽くしてしまったかのように体は重いし、声帯は震えない。どういう感情なのか自分でもさっぱり分からない涙が後から後から零れ出てくるし、膝はがくがくと安定しないしで、体中が不安定になっている。

 相手がこの人でなければここまで心乱されることはなかっただろうというのが直感的に理解できるのが、まず何よりも腹立たしかった。こんな酷い人に深く依存してしまっている自分をどうしても嫌いになれなくて、そのもどかしさも相まって、溢れる涙はとめどなく敷石を濡らしていく。

 

「…………悪い」

 

 ふいに彼の手が、頭におかれた。

 ようやく引き出せた謝罪のような言葉だが、それを得たところで何が満たされるわけでもない。だから涙で崩れた顔で必死に睨んで、赦す気なんて欠片もないことを訴えかける。

 それについては彼も承知しているのか、諦めたような顔で二度三度と私の頭を軽く撫でつけて、ゆっくりその手を下におろした。

 

「きらいです。上杉君なんて、だいっきらい……」

「だろうな」

「世界で一番、きらい……」

「知ってる」

「きらい。きらいきらいきらいきらいだいっきらい!」

「分かってるってば」

 

 その言葉の裏に隠れたもう一つの感情が表に出てこないようにと必死に押し殺しながら、何度も何度も、子供のような悪口を繰り返していく。こうでもしていないと、自分の中でせめぎ合う思いに負けてしまいそうだったから。ふとした拍子に、こんな中で言ってもどうしようもないことを口走ってしまいそうだったから。

 まさか、好きだなんて。

 とてもじゃないけれど、言えるわけがないのだから。

 

「もう、それでいい。そう思われて仕方ないだけのことをした。取り返しがつくなんて考えてもいない。……けど、せめて、姉妹のことだけは赦してやってくれよ。俺と違って、死ぬまでの長い付き合いなんだから」

「そういう、ところが……」

 

 その先は言葉にならなかった。いや、言葉に出来なかった。そういう不器用な優しさに惹かれてしまったなんて、言えなかった。

 

「ほら、帰るぞ。冷えたし疲れたろ。暖まって、休んで、元気になったら、またいくらでもなじってくれていいから。だから今は、最初に自分のことを考えてくれ」

 

 やっぱり、自己完結だ。彼の中ではもうこの話は終わったことになってしまっている。失った信用は取り戻せないし、私からはずっと憎まれたままだということで全てを片付けてしまっている。

 

 それが、なんでかものすごく癪に障った。

 

「帰りません」

 

 数歩先に進んでいた彼の手を、握りつぶすような勢いで引っ張り寄せる。もう、目の届かないところで後ろめたいことをさせないように、強く引っ張る。

 

「まだ、言い足りません」

「後からいくらでも……」

「口ごたえする権利があるとでも?」

「…………」

 

 その一言で反論を封殺し、逃れる理由づくりを始めた彼の目を、じっと見つめる。

 真っ向から、向かい合う。

 

 

「これは、あなたが負うべき責任です」

 

 残るであろう禍根とか、軋轢とか、そういうことについての考えを巡らせるのはやめにした。

 

 私は、ここで全てを終わらせる。

 



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あいまいでぃすたんす⑫

「ドライヤーは向こう。タオルはそこらへんにあるのを適当に。まあ、前に来たことあるから分かると思うけど」

 

 状況が目まぐるしく変わるせいで、どんな経緯でこうなったのかが良く分からなかった。それだけ言い残して居間から離れて風呂場に向かい、思考を整理するために最初から考え直すこととする。

 五月家出の一報を聞いて探しに出たところまでは良い。彼女を見つけて言いたいことを言ったのも良い。その後、五月が家に帰るのを拒むことだって、それなりに予想できた行動ではある。だから、ここまではたいした問題じゃない。

 面倒なのは、その後。

 頑なな五月をどうにか説得してでも雨風を凌げて暖房も効いた場所に連行するべきだという俺の考えに、おそらく間違いはなかったはず。風邪を引いたらおしまいだという姿勢は終始一貫させているつもりだったから。なので、引きずってでも彼女を姉妹の元に連れ帰そうとしたのだが、それがなかなか上手く行かなかった。

 だからって、どうして俺の家に連れ帰ることになるんだよって話だけども。 

 毎回のことだが、もっとまともな折衷案はどこかに転がっていたに違いない。妥協点が絶対におかしい。それだというのに結局こうなっているあたり、俺はそういう星の元に産まれ落ちたのだと解釈するほかないのだろうか。そうであって堪るかという反骨心も湧かなくなっているあたり、いよいよもって本格的に世界に白旗を上げるタイミングなのかもしれない。

 

「つーか、親父……」

 

 泣き腫らして目元を真っ赤にした五月を見て、ウチの父親が不要な気遣いを巡らせてしまったらしい。もう夜も良い時間だって言うのに、らいはを連れて実家に引っ込みやがった。どう考えても酷い勘違いをしているし、今は二人で間がもつわけもないから、出来ることならばここにいて欲しかったのに。二人きりで明日の朝までなんて、地獄以外のなにものでもない。これからのことを考えただけで、俺の胃は幾重にも捻じれていきそうだ。

 そりゃあ、何を言われてもいいだけの覚悟はした。しかし、それがまさか自分の家で行われるなんて思うわけがないだろう。こんな状況の中でも唯一安全な場所だと信じていた自宅さえ戦地になってしまうのだとしたら、今後俺はどうやって心情のやりくりをしていけばいいのだ。

 湯船に深く体を沈めて冷えを追い出しながら、まずどんな顔で出ていったものだか考える。今現在会話らしい会話が出来るとは思えないし、無言で布団を並べて眠ってしまうのがいいだろうか。しかしそれはさすがに……どうだろう。誠意のようなものが大いに欠けている気がしないでもない。ここは大仰にでも悪びれている風を装うべきなのか。

 そもそも悪びれるも何も、俺は普通に申し訳ないことをしたと思っているわけで、それをわざわざ分かりやすいように態度で示すのは厭味ったらしくも思えた。こうなれば思考は堂々巡りに突入して、何が正解かを導き出せなくなってしまう。もう一度謝ってみるのも選択肢の一つではあるが、どうせ赦してはもらえないというのが両者の共通認識であるのだから、無駄なことだと一蹴されるのが関の山か。

 イメージしたすべてに失敗の未来が付きまとってくる感覚があって気が滅入る。これもまた、俺に与えられた罰なのだろう。文句を言う権利なんて端からないのだから、また素直にサンドバックになるしかない。それだけで済むと思うのも甘えで、俺は今後五月から向けられるどんな感情も余さず受け止める責務がある。これはある意味当然の帰結。やって来たことが全て祟った結果がこうだ。

 いつまでも体をふやかしているわけにはいかないから、どうにかこうにか重い腰を持ち上げた。明日には五月を家に返す算段をつける必要もあるし、やることは基本目白押しなのだ。

 適当に体を拭いて、浴室から出る。この段階でせめて第一声くらいは決めておけば良かったと思ってしまう自分の無計画さが憎い。

 

「……どうも」

「…………どうも」

 

 身支度をそれなりに整えたらしい五月は俺が着古したよれよれのジャージを身にまといながら、大分色あせてしまったちゃぶ台に教科書を広げていた。あいつは完全な手ぶらだったから、たぶんあれは俺の持ち物だろう。そのあたりに転がっていたものを拝借したんだと思う。勉強熱心なのを咎める必要もないので、距離をとって腰を下ろした。それにしてもどうもってなんだどうもって。

 じろじろ見るのもどうだろうと思って、なんとなく視線をあちこちに彷徨わせる。だけどここは慣れ親しんだ自分の家で、目新しいものなんかどこにもない。だから必然的に目が向かうのは、いつもと異なる様相を呈している五月まわりになってしまって。

 

「ちょっと」

「悪い分かってる席外す」

 

 居たたまれないことこの上なく、いっそしばらく出ていこうと決断。そっちのほうが双方の精神衛生にも優しいはず。風呂上がりに出歩くには少し厳しい季節だが、この空間と比べればチベットの高地だろうがロシアのはるか北だろうが大波荒れ狂うベーリング海だろうが天国だ。なんならいっそこのままカニ漁師にでもなってこようか。

 

「私、お風呂上がりの人を冬の外に追い出すような人間だって思われてるんですか……?」

「じゃあ他に何をしろと」

 

 五月は呆れかえったような目をして、次に、呆れを一周させたような顔で苦い笑みをこぼしながら、

 

「勉強、教えてくださいよ」

 

 なんて、一言だけ告げるのだった。

 それはどうにも懐かしい響きで、だから俺はその感覚に一瞬だけ面食らいながら、どう答えたものかと、少しだけ頭を悩ませて。

 

「…………」

 

 ああ、なんだ。

 こうやって始めれば良かったんだ、きっと。

 どこから間違ったかとか、何がいけなかったのかとか、そういうことを延々考え続けていたけれど、結局はここだ。一番最初から、俺は悪手を打っていた。そこからバタフライ効果のように波及していった影響が、今の俺たちを形成したんだ。

 本当なら、あそこからやり直せるのが一番だったんだろうけど。

 もちろん、そんな願いが叶うほどこの世界は優しく出来ていないから。

 だから俺は、目の前にいる女の子の憐みに甘えて、安っぽい焼き直しをするみたいに。

 

「おう、任せろ」

 

 それだけ告げて、五月の傍につける。この場にはもう、自分のアイデンティティだった満点の答案用紙もなければ、立ち位置を保証してくれるテストの順位表もない。俺をどんな人間だか確定させる証明書は、どこにもない。

 でも、それでいいと思った。身分が関わらない実力勝負ということはつまり、これまで俺がどれだけ真面目に教師をやってきたかの真価を問われるということ。信用を掴むに必要なのは、自信と地力。

 彼女と同じ視点で、ずらずらと並んだ問題文を読んでいく。もちろんのこと教科書は端から端まで理解しているので、困るようなことはない。

 

「どこからでもいいぞ」

 

 こうして、多分最初で最後になる我が家を会場にした特別授業が開講した。一人の生徒に対し、一人の教師が必死になって指導する。

 ……まあ、これは、なんていうか。

 世間一般に周知される、家庭教師のようだと思った。

 

 

 

 

 

 

 瞼が少々重たくなってきたので時計を確認すると、もう日付が変わっていくらか経っていた。昨日は色々あって普段と比べても疲労度合いが段違いだから、このあたりでお開きにしてはどうかと進言する。

 

「じゃあ、そうしましょうか」

 

 意外に素直に受け入れてもらえたのでほっと胸を撫でおろした。自分を犠牲に俺ごと徹夜で、なんて言い出したら大変だったから。五月の性格を考慮すると、そうなる確率が完全にゼロとも言い切れなかったし。

 そうなればあとは眠るだけだと、押し入れにあるらいはの布団を引っ張り出した。なんとなく、客に使わせるなら親父よりこっちのほうがいいような気がしたから。そうしてから、俺の布団を極力離してセッティングし、二つの布団の間をちゃぶ台で仕切った。貧弱なバリケードだが、ないよりはマシだ。俺の行いを知っている以上、五月も落ち着いて眠れないだろうし。

 それにしても、なんだろう。言い足りないことがあるからと言ってここまで来た割には、俺への愚痴や文句の類はまったく耳にしなかったような。もはやそんなことに拘泥する必要性が皆無だ、というところまで見下げられたということか。

 今さら関係の修復だとかなんだとか生っちょろいことを言うつもりはなかったけれど、さすがにそれは堪えそうだ。まともに取り合うに値しない人間判定は厳しい。

 でも、今は取りあえず眠ろう。五月を確保した旨は他の奴らに伝えたし、後はどうにかして連中に引き渡すだけだ。どうやって説得するかをこの眠たい頭で考えるのはまったく建設的じゃない。

 消すぞ、と前置いてから消灯し、くたびれた布団の中に体を埋めた。おかしな動悸がずっとしているけれど、なんだかんだで疲れているせいか、この環境でもしばらくすれば眠れそうだ。

 とにかく、明朝。困ったことは、起きた後の俺に丸投げしよう。

 そう思いながらゆっくり瞼を閉じて…………行く最中に、謎の足音が聞こえた。

 その足音の主は俺の頭付近で動きをぴたりと止めると、あろうことかそのまま俺の布団に潜り込んでくる。

 普段なら寝ぼけたらいはの仕業だろうと片付けられるこの現象は、しかし彼女のいない今この状況においては決して成り立つはずもなく。

 だからつまり、今俺の背中にぴったり付けている奴の正体は、考えるまでもなく自ずと明らかに――

 

「何してんのお前……」

「口ごたえする権利があるとでも?」

「さすがに今はあるんじゃねえかな」

「言ったでしょう、言い足りないって」

「だったら電気つけて普通に」

「顔の見える場所では言えないこともあります」

 

 だからって、こんな場所で言えることもまあまあ限られてるんじゃないかと思うのは俺だけか。

 

「そのレベルの罵倒?」

「それとはまた、少し違って」

「だったらなんだ。どうせ反論は出来ないんだし、聞くだけ聞くけど」

 

 諦め半分になっている気もするが、彼女の言うとおり、俺に拒否権などない。聞けと言われれば聞く以外の選択肢はない。 

 彼女が自分の腹の中にどれだけのものを溜めているかは知らないが、その原因を作ったのが俺である以上、聞き遂げないわけにはいかない。

 

「その投げやりな感じ、すごくイラっときます」

「眠気には勝てねえよ……」

 

 ここ最近の不眠傾向と相まって、俺の体は自分が思う以上に参っている。布団に入れば眠るようにプリセットされている。だから、こんなおかしな状況になっても、睡魔はきちんと襲ってくるのだ。

 

「あのときのものすごく申し訳なさそうな態度は嘘だったのですか?」

「そうはならんだろ……」

「それなら、もっと相応しい態度があると思いません?」

「たとえば?」

「それを探すのはあなたの仕事です」

「前も言ったろ。俺は察しが悪いって」

「みんなと邪な関係を結んだら私がどんなことを思うかは察せませんでした?」

「…………」

「ほら、分かっているのに分かっていないフリをしていた人が、察しの悪さなんかに逃げないでくださいよ」

 

 痛すぎるところを突かれる。俺にとってのそれは弁慶でいう向う脛なので、狙われたらただただ悶絶するしかない。

 もちろんのこと、五月がどんな反応をするかの察しはついていたし、だからこそあれこれ策を講じて隠した。そんな俺が、下手な言い訳に自身の鈍感さを使うのは筋が通らない。

 

「……信頼を裏切る形になったのは悪かったと思ってるよ」

「じゃあ、どうして続けたんです?」

「それは、その、一つ隠したらもう一つ隠さなくちゃいけなくなって、その後は雪だるま式に」

「……そうでもして続けたいくらい、あなたにとって良いこともあったのでは?」

「その質問、素直に答えるとどうなる?」

「怒ります」

「じゃあ、嘘をつくと?」

「もちろん怒ります」

「なら、正直に言った方が身のためだと」

「ええ」

「…………そりゃあ、俺だって男だし」

「最ッ低」

「こうなるよな。知ってたよ」

 

 だけど言わなかったら言わなかったで、それはここにいない彼女たちの信頼を裏切るようでどうしようもない。義理立てしなくてはならない方面が多すぎるがゆえにこうなったというのが簡潔なまとめになるのだろうか。

 

「よくもまあそんな口で嫌われたくなかったなんて言えましたね」

「ギリこんな口になる前の出来事だったろ」

「同じことですよ。私にとっては」

「違うと思う……いてて、分かったよそうだよ認めるよ」

 

 口ごたえしたのでつねられた。力関係が分かりやすくていい。俺はイエスマンにならざるをえないってわけだ。

 

「……そんなに」

「ん?」

「そんなに、良かったんですか?」

「…………」

「私の信用を裏切るなんて酷い選択をしても良いかなって思えるくらい、良かったんですか?」

「いや、考えがそこに直通してたわけじゃ……」

 

 再びつねられる。弁解の意図がなかろうと、今は五月に逆らえないらしい。

 

「でも、結果的にはそういうことじゃないですか」

「……そうだな。そうだよ」

「…………あなたは、本当に酷い人です」

 

 自覚はあるので問題ない。杜撰な管理を重ね続けた結果、こうして五月を盛大に傷つけてしまっている。そこに関してはもう疑いようもなく、否定のしようもない。

 

「この一日で、あなたのことがものすごく嫌いになりました」

「それくらい嫌われるだけの残りしろがあったことの方が驚きなんだけど」

「殺意が湧きました」

「……あの、さすがに命だけは」

 

 みっともない命乞いだ。下手を打てば殺されかねない状況に置かれているのだと今更気づく。痴情のもつれでの刃傷沙汰は良く聞く話だ。まさか、俺がその当事者になりかけているなんて思いたくはないが。

 

「……ですが、あなたの教師としての手腕は否定できません。それは先ほど再確認してしまいました」

「残念ながら、そっちの手は抜けなかったもんで」

「不愉快です。すごく。この上なく」

「…………」

「もし、私にあなたなしでも自分の未来をどうこうできるだけの見通しがあれば、今すぐにでも三下り半を叩きつけられたのに」

「……お前の受験が終わったらさっさと消えるから」

 

 他の四人をどうにかコントロールしていた約束を大きく破る形になるが、彼女たちも共犯だ。五月の意に沿う形を作るためには、それを破棄するくらいでないと。

 幸か不幸か、俺がどんな道を選ぼうと、それが彼女たちの将来とバッティングすることはない。なら、ここからゆっくりフェードアウトして、今後の人生で中野姉妹に関わらないようにしたほうがいい。それが、ちょうどいい。

 そんな形で、期せずして俺の将来設計が完成しかけた瞬間に。

 

「それは違うでしょう」

「いや、こればっかりは譲れないだろ」

「私たち姉妹を滅茶苦茶にしたうえで、責任の一つも取らずに逃げると?」

「ここで出てくる責任って単語は意味が重たすぎるんだよ……」

 

 そして、その形での責任の取り方は、酷くアンバランスな結果を生んでしまうわけで。非常に不平等で、どうしようもなく不条理な結末がやって来てしまうわけで。

 

「お前も嫌だろ。こんな奴が親戚になるの」

「……それは置いておくとして」

「ほら、嫌なんだろ」

「…………親戚は嫌です」

「ほらな。……痛いって」

「死んじゃえばいいのに……」

 

 怨嗟の声が耳元で反響する。声のトーンが真剣すぎて、身をよじることも出来なくなってしまった。

 

「……でも、私の感情は別として、あなたはきちんと後片付けをするべきです。いなくなるのだとしても、それが全て終わってからでないと筋が通りません」

「お前相手の話し合いが難航しすぎてるっていうか、正直一生折り合いつかないと思うんだけど」

「当然でしょう。どんなことをされても赦しませんもん」

「そしたら一生俺みたいな変な男が姉妹につきまとうことになるんだぞ……」

「…………だから、そういうことですよ」

「変わり者過ぎるだろ……だから痛いんだよ。さっきから攻撃力上げてきてるよな……?」

「ほんと嫌い……」

 

 もう、これに関しては俺が鈍いどうこうの問題じゃない気がする。さっきから感じていたことだが、五月がなんだかおかしくなっているようだ。疲労がピークを超えてハイにでもなってしまったのだろうか。

 

「赦してくれないこともこれからずっと嫌われることも確定してんのに、俺はそこをどうやって攻略するんだよ」

「できませんよ。私は心変わりしないので」

「ほら、認めてんじゃん。初めから無理なんだって」

 

 ここで、ふと気づいた。当初の重苦しい雰囲気は消え去って、いつの間にか普段のように会話が出来るようになっていたことに。

 サンドバックにされるつもりが、当たり前に反撃してしまっていることに。

 

「それでも、誠意を見せることはできますよ」

「誠意ってなんだよ」

「聞いてばかりじゃないですか」

「だから、俺にそういうのは分かんないんだよ」

 

 俺の知識領域に、こういうときの対処に使えそうなものは一つとしてない。そもそもそんな便利なものがあれば今こんなことにはなっていない。

 

「謝り続けることくらいしか思いつかないのに、それはもうお前に否定されてるんだぞ。だったらどうしろってんだ」

「だから、それを考えるのがあなたの役割なんですって」

「全然話が進まねえ……」

 

 同じところを行ったり来たりだ。これで問題が解決しようはずもない。されど、どれだけ頭を捻ったって出てくる案は凡庸でとても役に立ちそうはなく、その事実がいっそう俺を追い立てる。

 

「嫌われたくないっていう当初の動機がもう既に遂げられなくなってるのに、俺は今後どうすればいいんだよ……」

「泣いて赦しを乞ってみたらどうです? まあ、赦しはしませんけど」

「自己完結が早過ぎるんだっての」

 

 はぁーっとため息を吐きながら丸まる。どうして俺たちは、こんな場所でこんな生産性のない会話をしているのだろうか。もう何もかもが終わったはずの話を、なぜ彼女の方から率先して持ち出してくるのだろうか。その理由がさっぱり分からなくて、さらに体をぎゅっと縮めた。いっそこのまま圧縮され続けて消えてしまえたらいいのに。

 

「まあ、お前ら姉妹の仲がどうにか上向くように取り繕わなきゃいけないとは思ってるんだけどさ。それにしたって元凶の俺が介入することでよりややこしいことになる気しかしないし」

「ややこしいとは」

「いや、だから……そもそも喧嘩じゃない以上、仲直りって概念が存在するのかも分からないだろ。仲違いしてるのは間違いないけど、こと今回に関してはお前が譲歩する形でしか元鞘に戻れないわけだし」

 

 悪いのは完全にこっちサイド。五月に落ち度がない以上、彼女の寛容さに頼るしかない。でも、ここまで不信感を募らせた姉妹に対して温情をかけられるかと言ったら、それはかなり酷な要求であると思うのだ。

 

「どんな道を辿っても、お前は絶対損をする。妥協しなかったら家族仲は最悪のままで、妥協したら今回の怒りのやり場がない。好き勝手やったのは俺たちの方なのに、被害を被るのは全部お前だ」

 

 どこにも救いがないように思えて頭を抱える。人間関係を損得で考え始めたら終わりだというのは薄々勘づいているけれど、さすがにこれでは五月が不遇なんて次元ではない。

 

「ほんと、どうしたもんだかな」

「もう元通りにはなりませんよ。諦めてください」

「……それすら譲っちまったら、いよいよ終わりだろ」

 

 せめて、俺が彼女たちに関わる前の段階くらいまでには関係を修復してやりたいのに。絶対に無理だとは分かっていても、俺が手を出せば出すほど拗れていくって知っていても、それだけはなんとかしたいのに。

 

「俺の命で手打ちにできないか……?」

「さっきは嫌がっていたのに?」

「それで済むなら安いような気がしてきた……」

 

 卑劣な逃げだが、俺が差し出せるものなんてそれくらいしか残っていない。我ながら何言ってんだよと思うけど。

 

「今のあなたの命にそこまでの値打ちはありませんよ」

「さらっと手厳しいこと言うな」

「捧げるならせめて、もう少し価値を高めてからでしょう」

「偉人にでもなれば釣り合うか……」

「さすがにそこまでは要求しませんが」

 

 一般高校生の命の重さなどたかが知れている。もちろん命を賭ける云々に限っては冗談だけど、今の俺では、議論するところにすら達せていない。

 

「なすべきことをなしてください。そこまでいってようやく話が始められます」」

「なすべきこと、ねえ。お前がそれでいいって言うなら、仕事は最後までやり遂げるけど」

「当たり前です。私が言っているのは、それ以後のことなのですから」

「以後?」

「はい。その後のこと」

「……いや、だから言ったろ。進学するかどうかすら定まってないって」

 

 五月が何を期待しているかはさっぱりだが、俺の未来には一切の展望がない。他人の人生をここまで滅茶苦茶にしておいて今さら自分のことなんて……という気後れもある。いずれは考えなくてはならないことだけど、それについて現在頭を悩ませられるだけの余裕があるかと問われれば、首を横に振らざるを得ないのだ。

 そもそも、こんな小規模の人間関係すら上手く運営出来なかった俺が、大きな希望を掲げること自体馬鹿らしく思える。俺という人間の程度は既に知れてしまっていて、前を向くだけの意志力は残されていない。

 

「俺みたいなのが成功したらお前ももやもやするだろ?」

「確かに」

「な? だから、こそこそ生きていくのが関の山だと思うんだよ」

「……ですが、そこを簡単に割り切ってしまえないのが人間です」

 

 はぁ、と五月が一つため息をついた。生温かい吐息が首筋にかかってこそばゆい。

 

「あなたの人間性に関しては完全に見損ないましたが、悔しいことに能力に対する評価は健在なんですよ」

「それは概ね高評価ってことでいいのか?」

「概しなくとも高評価です。残念ながら、あなたの力なしでは卒業すら危うかった人間がここにいるので」

 

 またため息。その言葉で、俺も散々だった頃のこいつらの成績を思い出す。当時から考えれば、ずいぶんと遠くまで来たものだ。勉強に関してだけ言えば、俺もこいつらもひたむきに頑張れたと思う。その点のみにおいては、自分を認めてやれる気がした。

 

「バカなりにお前らは良くやってくれたよ。手探りで正しいかどうかも謎な俺の指導に付いてきたしな」

「頼れそうなものがそれ以外に残っていなかったもので」

「そうか。それは――」

 

 悲惨だったなと言おうとして、直前で言葉を押しとどめた。努力しても努力しても実を結ばない感覚は俺と縁が薄いもので、それをあっさり流すのはためらわれたからだった。

 

「それは、大変だったな」

「……ええ。ですから、あなたには恩があったんです。…………恩があったのに」

 

 また肉をつねられる。言葉以外で意思表示するにしても、暴力に頼るのは勘弁してほしい。

 

「こんなことのせいで、恩返しの気持ちも薄れてしまいました」

「そのまま希釈してなかったことにしとけ。それが一番だ」

「……それを簡単に割り切れないから困ってるんじゃないですか」

「…………五月?」

 

 さっきまでずっと俺の脇腹をつねっていた手がへその当たりに回って、そこを緩く圧迫してきた。それと連動するように彼女の柔らかな体が背面に押し付けられて、一瞬たじろぐ。

 

「何か?」

「いや、それ俺のセリフ……」

「このくらい慣れたものでしょう? 私たち、五つ子なので」

「それとこれとは話が違うと思うんだよ……」

 

 確かに慣れたものは慣れたものなのだが、この感触は嫌でも過去あった出来事を想起させるので精神によろしくない。しかし、どうして彼女がこんな行為に走るのかはさっぱり分からなかった。今の俺はきっと、姉をことごとく食い散らかした汚らわしさの権化に見られているのだろうし。

 

「話を戻します」

「体勢も戻してくれ」

「……上杉君自身は気づいていないのかもしれませんが」

 

 俺の発言は無視らしい。そういえば、口ごたえする権利はなかったのだった。焼かれようが煮られようが、今の俺にそれを否定できるだけの権限は与えられていない。だから精々、彼女の邪魔にならないことを心掛けるべきか。

 

「きっとあなたには、他人を教え導く能力がありますよ」

「あれは能力っていうよりは、泥くささとかじゃねえかな」

「それでも、上杉君には他人を変える力がありました。……そしてそれを悪用して私の姉妹を手籠めにしました」

「…………あの、どういう方向に話を運ぶつもりかだけ聞いて良い?」

「黙ってください」

「いや」

「黙ってください」

 

 度重なる封殺。同時に五月の顔が俺のうなじあたりに埋まって、声がわずかにくぐもった。くすぐったさに変な声が出そうになるが、そうしたらいよいよ最上級の不興を買ってしまいそうなので、下唇を噛んでどうにか耐える。

 

「だから今後は、その才能を正しく扱ってくださいよ」

「正しく……?」

「ええ、正しく」

 

 元よりそんな才能を持っているつもりも、悪用した覚えもなかったけれど、彼女視点から言えばそれはどうにも違うらしい。

 けれども、正しさと言うのがどういうことを指すのかが俺にはてんで分からず、だからまた彼女の言葉を待つことになる。

 

「あるじゃないですか。その能力が生きる場所」

「…………いや、待て待て待て。それじゃあお前」

 

 どうにか察して、彼女の言葉を遮ろうとする。けれど、五月はそんな俺の思いなんかまるで知らないみたいに、一言で。

 

「先生、目指せばいいじゃないですか」

 

 ごく当たり前のように、己の希望する職種を俺に提示してきた。

 

「それはダメだろ……」

「なぜ?」

「向き不向きの前に、お前は耐えられるのか? こんな奴が自分と同じ道を進もうとして」

「業腹ですよ」

「なら、どうして……」

「あなたがいつまで経っても自分の適性に気づかないから、仕方なくです。私以上に向いている人が挑戦すらしないでふらふらしている方が、ずっとイライラします」

 

 ぎゅっと。

 彼女の腕が、俺の腹部に強く食い込む。

 

「私たち生徒に申し訳ないことをした自覚があるなら、これから他の生徒を正しく教導することで詫びてください。これまでのことは赦せませんし水に流すつもりも毛頭ありませんが、そういった形で罪滅ぼしをすることはできるはずです」

「それじゃあ、お前自身が救われないだろ」

「……そこに居てくれれば、あなたを監視して溜飲を下げられます」

 

 さり気なく恐ろしいことを言われた気がする。つまり、これからずっと俺は五月の掌の上だと。

 

「靴や足を舐めさせられることと比べれば、よほどマシな提案でしょう?」

「それはお前の夢が実現してからの話であってだな」

「なら、決定事項です」

 

 強く言い切られる。その姿が頼もしく思えるが、そう発破をかけたのはそもそも俺だったか。

 本当に、自分の行いに足元を掬われてばかりだ。

 

「……まあ、あなたの人生なので無理強いは出来ませんが」

「ちなみに逃げたら?」

「らいはちゃんと養子縁組します」

「家族が人質かよ……」

 

 むしろそうなった方がらいはの幸せが約束されそうな気もするけれど、籍を持っていかれるのは堪える。なんでかんで、俺にとっての数少ない血縁なのだし。

 

「……………………考えとく」

 

 だからといって、即断即決できるような問題でもない。俺一人ではどうにもならないことだってある。考える時間を用意しないことには、これが正しい判断なのか自分にも見当がつかない。教師になろうなんて思ったことはこれまでに一度だってなくて、当然のように迷いもついてくる。

 けれど、そうか。

 人から見て、俺にはそんな適性があったのか。

 

「考えとくから、その、そろそろ……」

「なんですか」

「手、離してくれよ……」

 

 五月の手は未だ俺の腹部をぎっちり押さえつけたままで、背中には何か大きな存在感がくっつき続けている。この感触が毒であることは身に染みて理解しているので、血迷わないためにも彼女には早くここから離れてもらわないといけない。ある程度穏便に話がまとまりかけた今この状況にあって、俺はもうこれ以上過ちを重ねたくはないのだ。

 

「どうしてです……?」

「お前、俺がこれまでやってきたことに対してそんなに無警戒でいるんならヤバいぞ」

「これまでとは?」

「だから、お前の姉連中がどんな目に遭ってきたかは理解してるだろ」

「……つまり上杉君は、私に対して劣情を催している、と」

「いや、そういうのじゃなくて。……でも、俺がどんな人間かくらいはきちんと認識しておいた方が」

「…………一花も、二乃も、三玖も、四葉でも良くて、私に限ってダメだと」

「なんだその被害妄想」

「…………女のプライドです」

「俺に傷つけられるようなもんじゃないだろ、それ」

 

 否定の直後、また腹をつねられた。こいつの機嫌をどうやってとればいいかは未だによくわからない。

 

「殺人が重罪でなければ、私は今あなたを殺めていたかもしれません」

「そこまで」

「ほんと、嫌いです……」

「なら、なんで……」

 

 なんでこいつは、こうやって俺に張り付いたままなのだろうか。互いの息を吐く音が聞こえる距離で、鼓動の音が聞こえる範囲で、体温が共有できてしまう密度で。どうしてそこから動いてくれないのだろうか。

 

「ねえ、上杉君」

「なんだよ……」

「世間は今、どんな季節か知っていますか?」

「受験シーズン」

「……他には」

「他には……クリスマスとか」

「そうですね。クリスマスです。では、ここで質問なのですが」

 

 五月は、ただでさえ近かった距離をさらに詰めて、口を俺の耳元に寄せながら。

 

「せっかくの大きなイベントだからと勇気を出して好きな男の子に贈り物をしようとした女の子がいて、しかし偶然その子と自分の姉がキスしている場所に立ち会ってしまったら、どうなると思いますか?」

「…………何のたとえだ」

「どうなると思いますか?」

 

 示唆に富んだ、そしてどこかで聞いたような話。けれど、その中には俺の知らない情報が織り込まれていて。

 

「…………家出とか、するかもな」

 

 もうほとんど出てしまっている答えから目を逸らすことも出来ず、思いのほかに呆気なく、一番に思い浮かんだ、ありきたりな解答を口に出した。 

 そのなぞなぞの正解が何かは、次の五月の発言が示した通りに。

 

 

 

「……しちゃいましたね、家出」

「午前のうちには帰ってやれよ」

「それは……みんなの態度次第です」

「きっとしばらく、家庭内の王様はお前になるから」

「王様というと?」

「一番風呂に入れたり、おかずが一品増えたりする」

「ずいぶん質素な国ですね」

「十分豪勢だろ。それ以上に何が欲しいんだよ」

「……ねえ、上杉君」

「なに」

「無反応は切ないです」

「……どこに反応しろと」

「分かっているくせに」

「だってお前、あんだけ嫌いだって言ってたろ」

「嫌いですよ」

「じゃあ、なんで」

「知りませんよ。私だって」

「その感情の機微をよりにもよって俺に理解しろと」

「乙女心は複雑なんです」

「どこにもそんな兆候なかっただろ」

「だってここ数ヵ月は、私ばっかり贔屓してたじゃないですか」

「その程度で落ちないでくれよ……昔は犬猿の仲やってたのに……」

「女の子は意外と単純なんですよぉ……」

「矛盾が早えよ……。いくらなんでもチョロすぎだって」

「だって、それ以外にも、色々……」

「色々、なんだよ」

「色々、私を思い上がらせるような態度を取ってきたあなたが悪いんじゃないですか」

「いや、そんなつもりは」

「そうですか。そうですね。えっちした子と話すのが気まずくて私の方に逃げてきただけですもんね。ホント最低。最悪。不潔」

「…………」

「否定してくださいよ」

「……事実だし」

「~~~~~~ッ!!」

「暴れんなよ」

「そこは嘘でも否定するところじゃないですか」

「嘘ついたら怒るだろ、お前」

「当たり前です」

「詰んでるじゃん」

「そこをなんとかしてくださいよ」

「無茶言うな。隠蔽工作に失敗した人間がどうなるかを進行形で体験してるのが俺だぞ」

「もう今より状況が悪くなることもないでしょう」

「って言うかなんだよ。さっき俺に復活のチャンスを与えたのは結局惚れた弱みからかよ」

「そうでもなければとっくに縁を切ってますよ」

「そこはもっと公正な判断をだな」

「あなただって、一人に決めないで好き放題やってるじゃないですか」

「ぐ……」

「そんな人が、公正なんて言葉を使わないでください」

「でも、それだと弱みに付け込んだみたいで気分が良くないだろ」

「弱みを作ったあなたの勝ちですね。おめでとうございます」

「投げやりじゃねーか……」

 

 途切れることもなく、暗がりの中でマシンガンのように歯に衣着せぬ言い合いを続ける。最初はあったはずの眠気も既にどこかへ行ってしまって、変に昂ったテンションだけが残った。

 五月の手は未だ俺に巻き付いたままで、そこに込められた意味を理解した今となっては、積極的に払いのけることはできなくなってしまっている。五月も五月で俺の弱みに付け入っているので、イーブンということにならないだろうか。……ならないだろうな。俺が抱えた余罪の量からして、そう簡単に清算することは叶わない。

 

「お前だけは最後まで俺を嫌っておかないと、整合性が取れなくなっちゃうだろ」

「嫌いなのは変わっていません」

「なんだそれ」

「……ただ、嫌いなところと好きなところが別々に存在しているだけです」

「なんでそういうとこだけ器用なんだよ」

「不器用だから一つに定まらないんじゃないですか。私だって、本当は一極に振り切りたいのに」

「俺が更に最低な行動を繰り返せばいいのか」

「なんでそうなるんですか。更生する流れじゃないですか」

「……そうしたら、ダメな方に振り切れるだろ」

「嫌われたくないって言ったのは上杉君ですよ?」

「でも、そこだけはけじめとして……」

「だから、頑固すぎるんです。ここまで言ったのだから、もう私の弱みに付け込み続ければいいじゃないですか。問題らしい問題を全部なあなあにしてしまえばおしまいですよ」

「お前、言ってること滅茶苦茶だ……。更生しろって言ったかと思えば、弱みがどうこうとか。眠気で頭回ってないんじゃねえの」

「…………だって」

「だって、なんだよ」

「今すぐ更生されたら、私の初めてはいつまでお預けされるんですか……?」

「……は?」

 

 不穏当な言葉の後で、じーっとファスナーを下ろす音が響いた。確か、貸したジャージがそういう形状だったから、今彼女が何をしようとしているかは嫌でも分かる。

 

「みんなみんな愛してもらって、私だけが仲間外れですか?」

「お前、不潔だって言ってたじゃん……」

「顔も体も同じなのに、私だけが不合格ですか? そんなに面倒くさい女の子は嫌ですか?」

「良いから早く寝ろ。キャラおかしくなってるぞ」

「色々な問題は捨て置いて、同じ布団に潜り込んできた女の子に手を出さないのは男の子としてどうなんですか?」

「そこで手を出してきちゃったのを後悔してるからこうやって耐えてるんだろうが。俺なりの反省なんだよこれは」

「……いくじなし」

「何とでも。酷い男だと思って一生恨んどけ」

 

 悶々とはするが、ここが自宅であるという心理的な安寧効果も相まって、比較的平常心でいられた。これまではずっとアウェーでの戦いだったから、ここにきて俺の本領を発揮できた気がする。元より、己を律するのは得意な方だったのだ。

 完勝の確信を得て、いよいよ眠ろうと目を瞑る。まさかこいつに、二乃のように俺を襲ってくる気概はあるまい。人間、どうやっても越えられないラインがある。俺は五月の限界を見極めている自信があるので、もう大丈夫。話が長引きはしたものの、これからも会話くらいは出来る間柄に落ち着くだろうし、贖罪は長いスパンでじっくりと重ねていこう。本人が自分の弱みを否定しない以上、いつかは当初の意見を翻して和解する道も生まれるかもしれない。

 けれど、胸の中でざわつくこの感情はなんだろう。まだ、見落としていることでもあるのだろうか。

 

「……んっ」

「…………」

 

 後ろからやけに湿っぽい音と五月の上ずった声が同時に聞こえてきて、全身の汗腺が開いた。背後で展開されている行為は予想こそつくものの、決して認めたくはない類のもので。

 

「うえすぎ、くん……」

「…………」

 

 甘ったるい呼びかけを無視するように手で耳を塞いだ。だが時すでに遅く、その声音がくわんくわんと、何度も頭の中を駆けずり回る。

 確かいつだかに、一人でするだけだからとかいう謎の理屈で俺を巻き込んだ女子がいた。あのときの再来を思わせるこの状況に、俺はただただ震えることしか出来ない。頭が徐々に熱っぽくなっていくのが分かって、それを押し殺すために理性を総動員するほかにない。

 そうやって必死に心の防衛ラインを構築している俺をあざ笑うかのように、伸びてきた五月の手が俺の唇に触れた。どういう意図かは分からないがそのまま隙間をこじ開けようとするのを直感で防ぎつつ、体側で這って距離を取ろうとする。だが、体勢が体勢なので思うようには前進できず、同じ場所で体を暴れさせているだけになる。

 これは、良くない。非常にまずい。男子高校生として極めて健全な性欲を持った俺にとっては毒にしかなり得ない。今の五月を傍に置いておいてもろくなことにならないのは目に見えているので、ここはいっそ、この布団を抜け出してらいはの布団に潜り込むべきか。……いや、そんなことをしてもついてこられたら無意味か。ならいっそ、今晩だけでも公園で寝泊まりを……。

 

「………………あの、私、これだけ襲ってもいいお膳立て、しましたよ」

 

 またも耳元に響く囁き。妙に色を帯びたその声は、聞き逃すに聞き逃せなくて。

 

「上杉君はここにいるのに、上杉君に愛してもらう妄想で、慰めましたよ」

 

 少し前まで真剣な言い争いをしていたはずの口から飛び出した言葉の内容はとても信じられず、けれどこれだけ近くで感じていた以上、否定することはもはや叶いそうにもなく。

 

「触れる前から、期待のせいで、すごく濡れていましたよ」

 

 そういう行為を毛嫌いしている印象があった五月の発言は、否応なしに俺の心臓を抉ってくる。鼓動のリズムは加速して、全身の血管が跳ね回っている。

 戸惑いは俺の思考力を徐々に奪いながら、脳内を不純な色に染め上げていく。五月が指で俺の口内をいじくり回すことへの抵抗も出来なくなって、そして。 

 糸で引かれるように、体が彼女の方へと向いた。

 

「性欲魔人」

「絶対お前の方がむっつりだと思う……」

「そん、な、こと……」

 

 不躾に俺の口の中を荒らしまわって唾液でべとべとになった五月の右手を、俺の左手で絡めとる。そして、今なお秘部に添えられている左手首を掴まえて動けなくさせる。

 彼女の行動権利をあまねく強奪した後で、犯すように、強引に。

 五月のみずみずしい唇を、俺のそれでぴっちり塞いだ。

 一ミリの隙間も生まれないように、唾液の一滴だって、そこから漏れ出ていかないように。

 初めから、二つの唇が一つだけであったかに思わせるように、強く強く、口づける。

 強張った五月の体を抱き寄せて、より多くの面積を触れ合わせながら、ゆっくり、じっくり、互いの唾液を交わし合う。

 目に大粒の涙を浮かべながら拙い舌技で俺に応えようとしてくる五月にはクるものがあって、その勢いのまま、半脱ぎになっていた彼女のショーツをずりおろした。悲しいことにかなり手練れた動きになっていて、こんな技術を知らぬ間に磨いていた自分の残念さが際立つ。五月は硬直したままされたい放題で、組み敷くのにそこまでの苦労はなかった。

 鼻呼吸だけではさすがに苦しくなってきたのでようやくのこと唇を離すと、唾液がつーっと走って途切れた。五月は呆けた顔で口を開け放しながら迎え舌をしているので、もう終わったぞと頬をつねってみる。

 

「……四人も相手にしたら、こうなりますよね」

「上手くて悪かったな」

「…………否定できないのが苛立ちます」

 

 なぜか左手は握りっぱなしで離してもらえないので、どうにか右手だけでブラのホックを外す。ここでも大してもたつかないあたり、俺の練度はどうなってしまっているのだろうか。

 

「そういや、下着」

「……替えがないので着回しですよ。汚いのであんまり見ないでください」

「いや、この状況でただの布に注目はしないけど……」

 

 お椀型に整った双丘と、その中心にある薄い桜色の突起。それは、大抵の男の理性を狂わせるには十分すぎる凶器で。

 無論、俺も例に漏れることなく、赤ん坊のようにそこに吸い付くことになる。

 

「ほ、ほんとにこういうこと、するんですね」

「吸うだろ。せっかくなんだから」

「そんな、ついでみたいな……んっ」

 

 そりゃあ前戯なんて、本番と比べれもののついでだろうと思う。だから、言葉に出さない形で意思表示をしてみた。秘所を指先で軽くなぞって、彼女の反応を見る。

 

「ふ、触れるなら言ってくれないと、心の準備が……」

「準備なんてあってもなくても変わんないと思うけど」

「それ、ぞくぞくしてダメなんです。どうせなら、中に……」

「弱みには付け込んで欲しいんじゃなかったか」

「ひ、ひど。さい、てい……!」

 

 性交時に精神的な優位性を保とうとしてしまうのはおそらく、二乃に薬を盛られたあのときのトラウマからだろうか。最初に向こうの余裕を消し飛ばしてしまえば後はなるようになるという経験則が生きているからと言うのもあるかもしれない。

 五月が口を滑らせてくれたので、継続して入り口の近くを撫でつけ続ける。強力な性感帯には触れないようにして焦らしながら、それでも確かに快感は残るように、じっくり、じっとり。心を快楽で侵食していくような心もちで、時間をかけてゆっくりと。

 五月はそんな俺の愛撫に時折呼吸を弾ませながら、抵抗の意思を示す言葉を投げかけてくる。けれど自由になっているはずの手で妨害をすることはないので、今感じている気持ちよさを失いたくないのだという深層心理も透けて見えた。

 触れている場所の水っぽさは時間を追うごとに増して、そうなればなるほどに五月の声が甘いものに変わっていく。言葉で示した反意も肉体の反射の前では無に帰してしまうようで、元の白い肌はそこらじゅうが紅潮して、引き結んだ唇は悔しそうにぷるぷる震えていた。

 

「……いじわる」

「よく言われる」

 

 涙目の五月になじられる。自覚はあるのでこれといった問題はないが、酸素を求めて短く荒い呼吸を繰り返す彼女を見るからに、やり過ぎてしまった感は否めない。息を止めてまで耐えようとする五月も五月だし。

 

「ほら、今度はちゃんとするから準備しとけ」

「もうちょっと休憩させてくださいよぉ……」

 

 そう言っているくせに、五月は軽く開脚した姿勢を崩しはしなかった。意志あってか、それとも本能的な行動かは知らないけれど、人間、一度覚えてしまった快楽からは逃れられないのだと思う。それは俺自身が身に染みて理解しているし、ここまで体現し続けたことでもある。

 五月の秘部はこの先に俺から受ける行為を期待するかのように蠢いて、窓から差し込む月光を受け、甘い蜜がてらてらと妖しく光っていた。俺は卑裂にそっと中指をあてがって、彼女の肉体に誘導されるがまま、つぷん、と差し込む。しばらくは微動だにせず出来る限りの焦らしを挟んだ後で、第一関節をわずかに折り曲げた。

 

「…………ッ!」

「……マジ?」

「~~~~ッ!」

 

 やっぱり五月は涙目のまま、俺の問いかけを否定するように首をぶんぶんと横に振る。当人としても、まさかこれだけで達してしまったなどという事実が受け入れられないのだろう。けれど実情、彼女の体は明確な反応を示してきたし、今も俺の指には不規則な快楽のうねりが感触として付きまとってきている。

 入念に弄りまわしたとは言えど、思いのほかに早い陥落だった。これだけで、五月がこういった行為に不慣れであることが看破できる。このまま攻め続けてもいいが失神でもされたらコトなので、一旦指を引き抜いて様子見に回った。

 

「大丈夫かお前?」

「……姉たちから得た経験値で私をいじめるのは楽しいですか?」

「まあ、無反応よりは良いと思うけど」

「わ、私も怖いんですよ。だからもっと、優しく……」

「優しくやってるつもりなんだが……」

「それよりもっと優しくってことです。これでも、体の作りは繊細なんですから」

「お前が感じやすいだけ……痛い痛い」

 

 掴まれたままの左手に、ぎゅーっと力を込められる。これはつまり、俺に両手を使わせないという戦略だったのだろうか。

 唾液とか手汗とかでべたついてしまって恥ずかしいから、できることなら一度拭っておきたいところなのだけど。

 

「あなたは私に負い目があるのですから、もっと思いやりを持ってください」

「でも、ぞくぞくするから中の方が良いってお前が……」

「あんなに焦らしてからじゃ遅いですよ!」

「じゃあ、どうして欲しいか言ってくれよ。注文通りに動くから」

「そ、それは、違います」

「はぁ?」

「……私の望みどおりに動いて欲しいのと同じくらい、あなたの思い通りにリードされたい気持ちもあるんです……」

「分からん。まるで分からん」

 

 複雑な乙女心の読解は早々に諦めることにした。それ用のロジックを構築できる未来が見えないし、よしんば構築できても穴まみれで例外ばかりが目につきそうだ。理屈で対処するのが不可能だと分かった以上、後は勘とフィーリング頼りで行くほかにない。

 

「じゃあなに、好き勝手して良いの?」

「言い方……」

「それ以外になんて言えと」

「もっと風情のある言葉とか……。今の状況を考えてくださいよ」

「男女が組み合ってるだけなのに風情も情緒もないだろ」

「……そういう無神経なところが嫌いなんです」

「でも本当は?」

「……………………」

 

 俺の問いかけに、五月は視線をあちこちへ散々迷わせて、既に赤くなっていた顔をより朱に染めながら、

 

「…………すき」

 

 なんて、おおよそ彼女らしくない言葉を告げるのだった。

 誘導した俺も俺だが、まさか本当に言うとは思わなかった。そのせいで、照れたり気持ちが煽られたりするよりも驚きの方が勝ってしまって、二の句が継げなくなる。

 

「……絶対、男の趣味悪いですよね」

「それはお前の姉ちゃんたちにもまとめて刺さるからやめとけ」

「全部ひっくるめて言ってます。中野の血はダメ男好きの系譜です」

「言い切り過ぎだ」

「だって上杉君、ダメ男ですもん」

「そうだけども」

「本当に、どうしてこんな人を好きになるような人間がいるのでしょうね」

「自己否定だぞそれ」

「……でも、好きなんですよ」

「……おう」

「こそこそ隠れて姉妹みんなに手を出して、それで何事もないように振舞っていた最低な人だと知ってもなお、好きって気持ちが消えないんですよ」

「悪かったって」

「私、いつの間にかあなたにおかしくされていたみたいです」

「……あの」

「あなたのせいで私の感情はぐちゃぐちゃなんですよ」

「……お前、言ってて恥ずかしくないの?」

「体が裸なので。いっそ心も裸で行こうかなと」

「ストロングスタイルすぎる……」

「……とは言え、恥ずかしさがなくなるわけではなくて」

 

 その言葉通りに、五月は先ほどからまるで俺と目を合わせようとしないし、顔の赤みも一向に引く気配がない。

 

「でも、ここで黙ってしまうときっともっと恥ずかしくなるから、必死に言葉をつないでいるんです」

「綺麗な体してるよな」

「なんでこういうときに反応に困ること言うんですかあなたは!」

「肌白いし、柔らかいし」

「……お腹は、みんなよりもちょっとだけぷにぷにしてますよ」

「俺にそんな違いが分かるとでも?」

「上杉君の鈍感さを頼もしく思ったのは初めてです」

「言われてみれば確かに」

「つままないでください!」

 

 最後に触れたのが運動で締まった四葉の体だったというのもある。名前を出して比較したら更なる不興を買うことは俺にも理解できるので、思うだけに留めておくけれど。

 

「あとは、えと、なんでしょう」

「そんなに沈黙が嫌かよ」

「……変な声出しちゃったら目立つじゃないですか」

「じゃあ、なんだ。喋れない状況に陥れば万事解決するのか」

「……へ? あ……」

 

 俺にしては、とでも言うか。散々察しの悪さを指摘されてきて、ここでようやく気遣いの利いた手を打てた気がする。物理的に言葉を発することができなくなれば、彼女だって余計なことを考える作業から解放されるのだから。

 

「ん……むっ、あぅ……」

 

 会話から逃れるためにキスで封殺する手法はもはや十八番になってしまった。便利な手だからと乱用しすぎるのは良くないなと思ったが、そもそも本当に良くないのはそんなウルトラCを頻繁的に使用しなくてはならなくしている俺の生き方の方だった。どう考えてもそちらを根治させるのがスタートラインだ。

 でもまあ、それは追い追い。いつも後回しにしているからこんなことになっているのだけれど、来るとこまできてしまった自覚はきちんと自分の中にあるので、今から慌てようが騒ごうが変わらない。五月に変な不満を残しっぱなしにする方が面倒そうだし……というのは言い訳か。俺はきっと、いつものように性欲に負けているだけなのだ。据え膳がそこにあったとして、食う食わないは結局自分の判断。だからこうして美味しくいただいてしまっている時点で、その責任を分担しようという思いは浅はかだ。

 いっそ、全部背負ってしまった方が気が楽になるかもしれない。クズ路線を突き詰めるにしろ、中途半端なものを残したままだと気分が悪い。全員と関わりを持ったうえで、そこから一つ一つ清算していく。そういうやり方で、頑張るしかない。

 なるようにはならないし、放っておいてもコトが片付いたりはしない。それは昨日からのいざこざで良く分かった。どんな道を進むにしろどの道そこは地獄だ。

 その地獄を楽しむ……のは良くないにしろ、扱いこなす程度の度量が求められている気がする。自分の器を再度量られているように思う。

 どうしたって、苦しむしかないのだ。なら、足掻き方やもがき方を精査しよう。研究や分析は、そんなに苦手なことじゃないから。

 なんて、こんなこと、五月の口内を一方的に蹂躙する片手間に考えるようなことではないのだろうけれど。

 

「あっ、だめ、です……!」

 

 この状況で良いも悪いもあったものか。そう開き直りながら、再び彼女の膣口をまさぐり始める。時間をおいたはずなのにむしろ湿り気は増していて、俺の中で高まりつつあった五月むっつり説がどんどん現実のものになろうとしている。触れた場所全てが焼けるような熱を持っていて、それがそのまま彼女が抱えていた期待値の証明だった。

 興奮は脳の働きにも影響を及ぼすのか、五月から分泌される唾液の質が変わった確信を得た。甘く、粘り気のあるそれは、消化分解の用途以外の役割を果たそうとしている風にしか考えられない。

 

「あっ、あぁ……!」

 

 ぱっくり開いた隙間にすかさず指をもう一本指し入れると、五月の反応が目に見えて変わった。全身にこもっていた力が抜けて、俺の手技に身を任せるように腕を抱き寄せようとしてくる。未知の感覚への悦びが、とうとう恐怖を上回ったらしい。

 浮ついた腰を、俺の上半身で圧迫して押さえつける。余剰スペースがあると、快感が漏れなく伝わらなくなってしまう気がしたから。俺の予感はまあまあ当たりのようで、五月はその場で悶えながら、俺の二本の指を柔らかいヒダで掴んで離そうとしなくなった。ここまでくるとむっつりとかそういう次元ではないような気がする。

 

「や、やめて。おかしくなっちゃいますから……」

「ん」

「……な、なんでほんとうにやめちゃうの……?」

 

 言うとおりにしたら、いよいよ口調が壊れ始めた。ぶっ壊れた五月をしばらく眺めてみるのも一興だが、この状況でお預けを食う辛さはなんとなく理解できるので、素直に良さそうな場所を攻め直す。途端、もう限界間近だったのだろう五月の体が大きく震えた。右手はあふれ出す淫靡な蜜でずぶ濡れになって、最後の抵抗だとばかりに甘噛みされた下唇からは、微細な揺れが伝わるだけになっている。

 五月は絶頂を迎えたばかりでまだ覚束ない手つきのまま、どうしてか俺の腰に触れた。そうして、その手を自分の方に引き寄せながら。

 

「上杉君のも、触らせてくださいよ……」

 

 なんて言う。俺としてもそろそろはじけ飛びそうな頃合いだったので、その打診は渡りに船だった。

 片手で器用に下のジャージとボクサーブリーフを脱ぎ捨て、狭苦しい場所に閉じ込めていたものを外に解き放ってから、彼女の手をその場所に誘導してやる。五月の確かめるような手つきがくすぐったかったがそれは努めて顔に出さないようにして、余裕の表情で彼女を迎え入れた。

 

「わ、私で、こんなにしたんですか……?」

「たぶんだけど、お前言葉責め超下手くそだからやめといた方が良いぞ」

「…………」

「それは強く握るものじゃない」

「…………」

「爪を立てるのはもっといけない」

 

 比喩でもなんでもなく命を掴まれているので、下手なことを言って機嫌を損ねてはならないようだ。彼女の好きなようにさせる以外に、この場の活路は存在しない。

 

「……こんな、感じです?」

「ん、そう」

「出したい、ですか?」

「正直、かなり」

 

 竿を上から下へ大きく扱かれて、嫌でも射精感が高まる。ここ最近処理する時間すら惜しんでいたので、堪え性もなくなっている。五月は小生意気にも裏筋や鈴口のあたりをいじくることを覚え始めたようで、そうなればいよいよ我慢も効かなくなってくる。

 

「ちょ、五月、ストップストップ。出るからティッシュ取って……」

「そんな布より、私の手の方が良いでしょう?」

「…………ッ」

 

 謎の対抗意識によって、俺の精子は余さず五月の手のひらの中に放り出されていった。射精中にも一定間隔で刺激を加えられるせいで、何度も何度も脈を打ちながら、尿道から一滴残らず精液が搾り取られる。

 五月は、それを拭き取るでもなく、己の口許に運んで……

 

「……へんなあじです」

「飲むなよそんなもん……」

「……上杉君、次は、こっちに」

 

 射精したてで敏感になった亀頭が、彼女の導きによって秘部に触れる。その感触だけで、萎えかけていたはずの陰茎がもう一度大きく膨らみ直した。

 

「初めて、もらってください」

「……ん」

 

 準備自体は完全に出来上がってしまっているので、腰を少し落とすだけで俺はすんなりと飲み込まれた。熱さとか、うねりとか、そういうご無沙汰な感覚が俺を刺激してきて、挿入して間もないのに、既に余裕の大半が失せる。

 

「わ、わたし、気持ちいいですか……?」

「雑念やめてくれ。耐えらんなくなるから」

「わたしは、ふわふわして、良く分からなくて……」

 

 そう言う割に、彼女の両脚は俺の腰をがっちりと押さえ込んでいて、抽挿動作を今か今かと待ち望んでいるように見えた。俺自身、気持ちが高まり過ぎて、既に腰が震えている。

 いきなりアクセルをベタ踏みしては五月の体に毒だろうと、できるだけストロークを大きくする意識で一番奥まで挿しこんで、また引いて。

 彼女から漏れ出す嬌声で五月がどんな感覚を抱いているかは把握できているので、焦らず、急かさず、じっくりと性感を与えていく。

 

「あっ、きもちー、です……」

「……ちょっと、速くするからな」

「んっ、あっ、すごっ……!」

 

 ぱちゅんぱちゅんと、動くたびに淫らな水音が付いてくるようになった。それだけお互いに高まっていると分かる優秀なバロメーターではあるが、いかんせん恥じらいを無くせるわけではない。故に、五月は顔を逸らしながら必死に快楽に耐え、俺も出来るだけ頭を空っぽにしながら、ペースを保って腰を振ることに努めた。

 けれど、そんな音が鳴るような時点で、お互いに余力らしい余力が残っているわけはなく。

 五月の痙攣から一瞬遅れて俺の射精が訪れる形で、彼女の初体験は幕を下ろした。

 

「…………みんな、これの虜になったんですね」

「言い方」

「…………今なら、ちょっとだけ、分かるかもしれません」

「エロ娘じゃん……」

「だ、だって! こんなの知りませんでしたし……!」

 

 イった後の怠さのせいで、引き抜く労力さえ惜しまれた。結合部位の隙間からは俺の精液と彼女の愛液が混じり合ったものがあふれ出てきていて、それが敷き布団にぽつぽつと染みを作り始めている。

 賢者モードというのか、妙に頭が冷えて今から洗濯物の心配を始めている俺をよそに、五月は再び脚で俺をがっちりホールドしながら。

 

「…………おかわり、くださいね?」

 

 なんて、ようやく彼女らしい言葉を発しつつ、強引に寝返りを打って俺に跨った。体勢を変えたことによる別種の快感が、再び俺の性欲を湧かせるのが分かる。

 

「これは、浮気性のあなたに対する罰なので。んっ、このまま、あっ、私に、犯されてください……!」

 

 たどたどしく腰を前後に揺らしながら、馬乗りの五月が一方的に快楽を貪り始めた。俺は俺で、こうなって初めてわかる強力な肉感にたじたじになりながら、それでも彼女の動きに合わせる形で、緩やかに腰を持ち上げたり引いたりを続けた。

 彼女が動くたびに、追随する形で豊満な胸も揺れ動く。眼福だが、それは男にとってあまりにも劇物過ぎる。五月が俺に与えてくる快感に決定打がないのと相まって、鬱憤が少しずつ溜まっていくのが分かる。

 

「なっ、じっとしててくださいよぉ……!」

「いや、悪い、無理……」

 

 尻を押さえつけて、自分の好きなように腰を打ち付けた。彼女からすればたまったものではないようで、ペースを乱された影響か、言葉になっていない声を上げながら俺を非難していた。

 それでも、肉体が感じる快感には誰しも抗えないものであって。

 達してしまった五月が、そのまま俺の胸にしなだれかかってくる。俺も俺でまだ体が脈打ったままなので、彼女の体を支えることすらままならない。

 

「へんたい……」

「知ってる」

「…………ねえ、上杉君」

「なに」

「おかわりの回数に、制限、ありませんよね?」

「どっちが変態なんだか」

 

 五月を抱きかかえるようにして長座した。この姿勢だと、必然的に座位になる。

 

「今晩は、とことんまで付き合ってもらいますからね」

「……お手柔らかにお願いします」

 

 その言葉通りに、どこから湧いてくるのか知らない五月の性欲は枯れる気配すら見せずに、何度も何度も何度も何度も、獣のようにお互いの体を交じらせ合った。どちらかが疲労で突っ伏してしまうまで、絶え間なく、弛むことなく、何度も、何度も。

 

 

 

 どちらともなく眠ってしまって、どちらともなく起きだした後で。

 未だ離してもらえない手について、訊く。

 

「そういやこれ、なんでずっと握りっぱなしなんだ?」

「握ってませんよ」

「……掴みっぱなしなんだ?」

「掴んでもいません」

「じゃあ、なに?」

 

 彼女は、当たり前に笑って。

 

「離すとふらふらしてどこかに行ってしまうので、繋ぎとめているんです」

 

 ぐーぱーぐーぱーと力んだり緩めたりしながら、なんでか愛おしそうに、それを自分の胸元に抱き寄せた五月は。

 

「そうすれば、あなたはもう、後ろめたいことをしないでいられるでしょう?」

 

 飽くまで彼女視点では、だが。

 そういう考え方も、出来なくはないのか。

 

「…………卒業まで、あと三か月ないのか」

「受験までは二か月ないですよ」

「じゃあ、それまでに、色々整理しないとなあ……」

 

 やるべきことは変わらず山積みのままで、それどころか当初思っていたよりも片付けなければならないものが増えてしまっている。

 果たして俺は、その期間で、誰もが納得できる結論を提示することができるのだろうか。

 

「いつかお前に赦してもらえるように。あいつらの誰とも、遺恨を残さずいられるように」

「嫌われたくないのでしょう?」

「ああ。でも、今となってみれば……」

 

 天井の染みを見上げながら噛み締めるように一言だけ言って、俺はまた眠りにつくことにした。

 特に捻ったわけでも、これといって考えたわけでもない。でも、だからこそ、ありのままの本音が染み出した言葉を。

 

「……お前らの誰からも、好かれたままでいたいよな」

「じゃあ、――」

 

 眠りに誘われてしまったせいで、続いた五月の言葉を記憶することは叶わなかった。

 けれど、なんだか。

 とても暖かい気持ちに包まれたことだけを、覚えている。



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あいまいでぃすたんす⑬

 ――夢を見ていた。

 

 それはとてもはちゃめちゃで、滅茶苦茶な、若かりし日々の記憶で。

 

 若気の至りなんて言葉で片付けるには少々おイタを重ね過ぎた、苦くて甘い、物語。

 

 自分の周りに突然現れた五人の女の子と俺とで綴ったストーリーは、倫理も論理も破綻させながら、どんどんと間違った方に流れていって。

 

 それでも、その過程で何かを拾い集めながら、未完成だった俺という人間を、少しずつ今の俺へと昇華していった。

 

 愛とか、憎とか、おおよそ存在し得るありとあらゆる感情をないまぜにしながら突き進んだ物語は、最後の最後に至るまで予想の付かない展開の連続で。

 

 泣いたり、笑ったり、でもやっぱり泣いたりを繰り返しながら、めいっぱいの時間を使い込んで、どうにか全員が妥協できるような、一つの結末を見出した。

 

 ――なんて、そう上手くはいかなかった。

 

 当たり前のような延長戦。続き続ける小さな戦い。高校だけで終わるかに見えた俺たちの関係は、なぜだかその後もずっとずっと絶えることなく継続していって。

 

 だけど、最後は。

 

 火種になった俺自身が我を押し通すことで、ようやくの終戦を迎えることになった。

 

 多くの涙と多くの笑顔をこの目で見てきて、その末に出した結論だった。

 

 正直、未だに誰もが支持してくれているかどうかは分からない。当然のように最初は一悶着二悶着あって、鎮火までに要した時間は計り知れない。

 

 でも、結局、全てはエゴで回っているのだ。

 

 どうしたいとか、誰といたいとか、どういう気持ちでありたいとか。それを決めるのは、全て自分の役割なのだ。

 

 だから俺は、己に素直に、正直に。

 

 ありのままの自分が望むままに、一つの答えを提示した。

 

 

 

 

「――風太郎」

 

 聞き慣れた声が耳元からして、微睡みから現実へと回帰する。声の主の方を見れば、そこには華美なドレスで着飾った誰かさんがいて。ついでに言えば、俺も俺でここ一番という感じの一張羅で。

 

「どうしてちょっと泣いてるの?」

「さあ、なんでかな。眠っていたから、そのせいかもしれない」

 

 まさか、夢の内容までは言えない。もし後悔しているなんて思われたら癪だから。

 俺は、満足している。今の結果に、これ以上なく。

 

 彼女はいかにも歩き辛そうな格好で、それでも器用に俺の一歩前に飛び出して。俺の左手をしっかり握りしめてから。

 

「じゃあ、お先ね。後は、舞台の上で」

 

 そう言い残して、一足先に待機部屋から去って行く。

 俺はその後ろ姿を最後の最後まで見送って、とうとうこの部屋から誰もいなくなってようやく、さっきの言葉に返事をした。

 一言で、過去から抜け出していくように。

 昨日の俺を、置き去りにしていくように。

 

「ああ、今行く」



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つれづれあらかると①

「フータロー君って、テレビは観るほう?」

「観る手段がないほう、だな」

 

 それは派閥と呼ぶにはいかんせん貧弱なものに思えた。インターネットの勃興から昨今の無料動画サイトの隆盛にあたってテレビ不要論のようなものが語られる現代ではあるが、それでもまだ中心的に娯楽を発信しているのは、テレビ局だと思う。なんだかんだと言いつつ、一家に一台あって当然の機器だ。

 それだというのに我が家にテレビが設置されていないのは、厄介なポリシーやら制約やらが絡んでいるわけでなく、ただ単に金銭的な辛さがあるからだった。純粋に、値が張っていて手が届きにくい。一般的に、娯楽は高くつく。

 

「じゃあ、安心だね」

「何がだよ。古くなると爆発でもするのか?」

「そうじゃなくて。私の心構え的な問題」

 

 一花は、そう言ってから楽しそうに、それでいてどこかいたずらっぽく笑ってみせた。一瞬、からかわれているのかとも思ったが、だとしても今さらである。俺は貧乏を隠していないし、彼女がそれを気にかけたそぶりもない。であれば、その笑みに込められた意味は別のところにある。そう考えたほうが、ものごとが上手く回る気がする。

 

「それが俺を待ち伏せてまで聞きたかったことだとは思えないが」

「そう言うと悪いことしてるみたいじゃん。お出迎えだよ、お出迎え」

「大学の正門に部外者が張り付くのは、どう繕っても待ち伏せだっつーの」

 

 帰りしな、見慣れない人だかりが出来ているなと思ってそちらに意識を向けてみたら、その輪の中央になぜかこいつが陣取っていた。高校の頃からやたらと目立つ奴だと思ってはいたが、ここ最近はそれがより顕著になった気がする。

 本人曰く、仕事で順調に成果を残している副産物らしい。有名税とも言うか。だからと言って、その副産物とやらを引き連れて俺の元に駆け寄って来られても困るのだけれど。

 

「良くは知らんが、スキャンダルってのは低俗なゴシップ誌の大好物なんじゃねーの?」

「それは大丈夫じゃないかな。あ、大丈夫になったんじゃないかな」

「…………?」

 

 言い直す必要性があったか、と疑問に思う。残念なことに根も葉もある噂なので、追及されたらどうしようもないのではないか。それこそ、仕事が減りそうなものだけれど。

 

「そもそも私、アイドルじゃないからさ。恋愛禁止ってわけでもないし」

「方便だろ、それは」

 

 テレビが無くとも、熱愛がスクープされて人気を落とす芸能人の存在自体は聞き及んでいる。一花に演技の実力がないとは言わないが、今のこいつの人気の獲得経緯はアイドルのそれに類似しているので、彼氏の一人も見つかろうものなら、その日のうちにスケジュール帳がまっさらになってしまいそうだ。

 

「少なくとも、事務所の推奨は受けてなさそうだ」

「どこも奨めてないと思うよ」

「だろうな」

 

 人間どうこうの前に、一つの商品としての扱いを受ける。そういう生き方もありと言えばありなのだろうが、俺には少し息苦しく映る。少なくとも、自分には歩みようもない人生だ。

 

「まあ、いざとなれば『妹と見間違えたんじゃないですか?』が使えるからね」

「卑怯」

 

 指摘する。自分と同じ顔をした奴が他に四人いるというのは、思わぬところで効力を発揮するらしい。一花はこちらの物言いに対して「臨機応変」とだけ答えて、俺より一歩先を進む。

 

「でも、上手くやるから大丈夫だって」

「既にだいぶ上手くないけどな」

「なんとかなるものだよ、意外と」

 

 まだ日のある内に、男と二人きりというのはいかがなものなのか。芸能事情に疎い俺には判断が出来かねたけれど、褒められた行為でないことだけは察しがついた。だからといって、適当な忠告で止まるような連中でないことは重々承知。そういうわけなので、俺は今日もなるがままに振り回されるのだった。

 

「しかしまた、なんで待ち伏せなんてしてたんだよ。俺が別の出入り口から帰ってたらどうするつもりだったんだお前」

「その時はその時かなって。でも、フータロー君はちゃんと正門から出てきてくれたよね」

「たまたまな」

「運命感じちゃうなー」

「ずいぶんしょぼくれた確率の運命だ」

 

 どうせならもっと劇的なものであって欲しいと願うばかり。これではじゃんけんに勝つかどうかと大差ない。

 

「いやさ、直接顔見たいなーと思って。でも、こっちから連絡したら負けた気がするじゃない?」

「勝敗があるのかよ」

「あるある。そこで考えたの。私が居る場所にフータロー君の方から来てくれれば、それはもう私の勝ちだろうって」

「なんで俺は知らぬ間に負かされてんの?」

「私の勝負強さが生きたね」

「めちゃくちゃだ」

 

 それは一花も理解しているのか、べーっと軽く舌を出してくるのみ。反論する気力もないので「あーうん負け負け」と流して、ジーンズのポケットからとあるものを取り出した。

 

「せっかく買ったんだからもう少し有効活用してもらいたいところだ」

「有効活用ってされるものだっけ?」

「少なくとも、今回においては」

 

 いい加減に必要かなと考えて購入したスマートフォンだが、どうにも蔑ろにされている感じがする。一報入れてくれれば、それで済む話なのに。

 

「ほんと、意外だったよね。フータロー君がそういうの持つなんて」

「お前らがねちねち持て持て言ってきたんだろうが……」

「それでも、根負けするのに驚いたっていうか」

「まあ、気分の問題だな」

 

 俺も多少は考えを改めた。初対面の相手と一々スマホ持ってないトークでごたつくくらいなら、初めから手にしていた方がマシだ。一応、生活が便利になった実感もあるし、そこまで悪い買い物ではなかった。

 

「でも、そうだね。今なら動画が観れちゃうか」

「ん?」

「いや、おいしいなと思って」

「ガムでも食ってんのか?」

「こっちの話だよ、こっちの話」

 

 自己完結されてもこちらにはもやもやが残るだけなので、きちんと最後まで言い切って欲しいというのが本音。だが、根掘り葉掘り聞いたところで解決を見ることもなさそうな気がした。君子なんとかに近寄らず、だ。

 人生最強クラスのドタバタがあった高校三年時に、それは嫌というほど学んだ。ヤバそうな事柄からはそこはかとなく距離を置くのが一番いい。まあ、俺に関してはとっくに虎穴の中なので、今更逃げる気力も起きないが。

 

「お前、やけに大荷物を抱えてるけど、これから旅行でも行くのか?」

 

 話題を切り替えようと、彼女がずっと転がしていたキャリーケースに視線を落とす。近場に出かけるくらいでは使わないものだから、必然的に遠出を疑うわけだ。ちょうど週末だし、軽い国内旅行でもするつもりなのか。でも、それだったら他の姉妹の誰かを連れていきそうな気もするが。

 

「んーん、帰ってきたところ。そもそも旅行じゃないし」

「じゃあ仕事関係か」

「そう。撮影が遠くであって」

「景気が良くて結構」

「何を撮ったか聞かないの?」

「どうせテレビ番組かなんかだろ。さっきまでの流れで嫌でも分かる」

 

 おーっと驚嘆の声をあげる一花。もしかしなくとも、俺は今おちょくられていないか?

 

「絶賛売り出し中の若手女優さんは、とうとうテレビにもお呼ばれするようになったか」

「すごいでしょ」

「さあ、良く分からん」

 

 ほとんど関わりがないものなので、どこがどうすごいのか判断できない。芸能界というのは、俺にしてみればまったくのブラックボックスだ。

 

「まあ、お前が売れれば俺もデカい顔ができるか」

「彼氏として?」

「元家庭教師として。いつからお前は俺の彼女になったんだ」

「膜を」

「すまん勘弁してくれ」

 

 忌避感情というかトラウマというか、とにかく当時のことを振り返るととんでもない頭痛に苛まれる。あの頃の俺は絶対にどうかしていた。それだけは確かだ。

 地獄みたいな話し合いを何度も続けて今はどうにか昔に似た距離感に収まっているけれど、もしかしたらまたどこかで歯車の狂いが起きるかもしれないと、常日頃気が気でない。過去の話は、俺にとって明確なウィークポイントとして健在だ。

 

「抜け駆けの機は常に狙ってるから、フータロー君は気を抜いちゃダメだぞ」

「宣言するな。心労が増える」

「新郎?」

「やめろ。増やすな」

 

 額に浮かんできた汗を拭う。やりたい放題もここまでくると清々しさを伴うらしい。そんなこと、知りたくはなかった。

 

「この後はバイト?」

「直帰。さっさと帰ってさっさと寝る」

「なら良かった。ご飯食べて行こうよ。私が奢るからさ」

「ならは順接なんだよなぁ……」

 

 俺の教えが甘かったかと落胆しつつ、ふらふらと彼女の後ろを歩いた。こういうときは、流されるままにしたほうがいい。それが経験則だ。

 

「何にしようか。お肉?」

「高いものになればなるほどヒモ感が増すから手ごろなのにしてくれ」

「ヒモかぁ。それもいいね」

「良くない。なんにも良くない」

 

 どこらへんがどういいのかの説明を求めつつ、日暮れの街並みを縫っていく。あちこちから向けられる目線は、いつの間にか気にならなくなっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 漫然と眺めていた動画サイトの急上昇欄に、なんだかやけに覚えのある顔と名前を見かけてしまった。見なかったふりができれば何よりだったのだが、俺の好奇心がそれを許してはくれなかった。しばらくの逡巡の後にサムネイル部分をクリックすると、五分に満たないような短い動画が流れ始める。動画タイトルからして既に不穏だったのだが、一縷の望みに縋りたい俺がどこかに居た。

 ひな壇というのだったか。高さ違いに組まれた三列五行くらいの人の塊があった。その中の最前列左端に座っている若い女性タレントと壮年の司会者が何やら会話をしている。ご丁寧に、テロップ付きで。

 完全な推測だが、これはテレビ番組の切り抜きだろう。そしておそらく、動画として切り抜かれていない部分から、好きな異性のタイプに関するトークが始まっていた。

 そのタレントの掘り下げが一段落する。そして、会話対象が真隣に移る。

『中野さんは?』そう司会者が発言した。見間違いを望んでいたが、やっぱり間違いはなかった。小綺麗な衣装をまとって座っているのは、どう考えても中野一花だった。先日話題に上がった撮影とやらの話を、このタイミングで思い出す。背中にぞくりとした予感が走る。

 

『私は、頭の良い人が好きですね。自分は勉強が丸っきり振るわなかったので、憧れるというか』

『顔のタイプとかは?』

『こだわりはないと思います。――でも、上中下で分けるなら、上がいいですね』

 

 ふと、画面の中の一花がこちらに笑いかけてきたような錯覚を覚える。もちろんそんなわけはないのだが、彼女のもの言いたげな瞳から察するところがいくつかあった。

 単に面食いである旨を述べているのではないだろうと、アタリをつける。おそらく、投げ込まれる爆弾の総数は一つじゃない。

 

『上中下とは、またずいぶんと直球だ。松竹梅なら迷わず松を選ぶと?』

 

 その言い換えが上手いのかどうかは賛否両論だろうが、少なくとも一花にとっては好都合だったに違いない。彼女は笑みを満面に滲ませつつ、問いかけにこう答える。

 

『――いえ、樹木だったら杉が良いです』

 

 動画を閉じて、代わりに電話帳を呼び出す。登録者は十を下回っているので、目的の番号はすぐに見つかった。タップして、電話をかける。数回のコール音の後、通じる。

 

「なんだアレ」

『見ちゃった?』

「地上波になんてもの乗せてんだ……」

『大半の人は不思議ちゃん扱い止まりだからセーフだよセーフ』

「上で杉って……」

『わあ、合わせると上杉だね。ぐうぜーん』

「白々しい……」

 

 これ以上の言及は自分の傷口を抉るだけになりそうなので避けつつ、端的に、目的を問うことにした。全国放送でやっていいようなおふざけではない。

 

「で、何が目当てだったんだ?」

『ん』

 

 その相槌だけで、彼女が微笑んでいるのがなんとなく分かった。いいように弄ばれている。肩が重い。胃が痛い。

 

『宣戦布告』

 

 それだけ言って、通話が切れた。なんとまあ人騒がせなことか。そんなの、連中の前で直接言えば済む話なのに、なんでまた永劫残る方法を使ってしまうのか。

 

「どこが大丈夫になっただ、あのバカ」

 

 俺は別に、お前の心構えについて聞いたわけではないというのに。

 深いため息が、部屋の中に溶けていく。あいつらとの付き合いが出来てから、これで何度目になるだろうか。

 

「結局、何も変わんねーな」

 

 それが喜ばしいことかどうかは量りかねたが、なんでか俺の口許には笑みが浮かんでいる。暗転したディスプレイに、諦め交じりの微笑が映る。

 家庭教師が終わっても、やっぱり奴らは問題児。であるのなら、まだ俺が面倒を見てやらねばならないのだろう。やっぱり先行きは不透明で、どうにも明日は見えないけれど。

 

 

 

 

 

 



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つれづれあらかると②

 『数学や物理というのは神様のやっているチェスを横から眺めて、そこにどんなルールや法則があるのかを探していくことだ』こう言ったのは、ファインマンだったか。未知を既知に落とし込む作業を例えるのにチェスを持ち出す小洒落た感性に、初見のときは唸ったものだ。

 空調が良く効いている。視界の範囲内には十に満たない程度の人。目の前にはまな板やフライパンといった調理道具が多数。一人に対し一尾となるように、トレーに入った魚が置かれている。誰もがエプロンや三角巾を身に着けていて、そしてそれは俺についても同様だった。

 数学も物理も関係しなさそうなこの場において、なぜ俺が有名物理学者の金言を想起しているかと言えば、眼前に繰り広げられる光景が、俺にとってまさしく神様のチェスであるからにほかならない。

 

「アジはさ、まさか自分の死体が三枚におろされるなんて思ってもみなかったんだろうな」

「そもそも自分の死因が人間に捕まることだってところから、丸っきり予想外だったんじゃない?」

 

 指導員の華麗な腕さばきが光っていた。簡単な説明をしながらぜいごを外し、頭を落とし、内臓を取り除いていく。先ほどまでの流れに乗じて付け加えるのなら、腸をいじくり回されることだって想定外だったはずだ。人間が美味しく食するための試行錯誤の過程で、アジの尊厳が大きく踏みにじられていくのを感じる。でもしょうがない。残念なことに、連中は大変美味なのだ。

 海遊するアジの群れを頭の中に思い浮かべる。それから、その場を突如取り囲む網のことも。群れにとってそれはまさしく晴天の霹靂で、未知なる外敵の襲来になすすべなくお縄になっていく。アジは、人間が用いたまき網漁法のルールを理解して、生涯を終える。彼らにとってのチェスは、網に置き換えられると思う。もしかしたら、真に規則を看破した一部の個体は、小さな抜け穴から逃げ出しているのかもしれないが。

 しかし、目の前にいるのは呆気なく掴まってしまった個体だ。中骨を基点に右身と左身に分断され、小骨の一つに至るまで抜き去られてしまったそれは、もはや海を自由に泳ぎ回っていた頃の面影を一片だって残していない。人間は、特にこれは日本人に関して顕著なことだが、美食に対する探究のために一切の躊躇を捨てる。アジもまた、その犠牲だ。

 

「上手いもんだ」

 

 素直に感嘆する。手順自体はなんとなく知っていたが、俺が同一の工程をこなそうと思ったら当たり前に十倍程度の時間を要するだろう。料理教室を主催するに相応しい熟達ぶりだ。理解が及ばない力加減やらコツやらが多くあるに違いない。

 

「しかしまた、なんで料理教室なんだ?」

「チラシが回ってきたのよ。それで、たまにはこういうのもいいかなと思って」

 

 真隣に立つ二乃が答えた。彼女もまた、料理をするのに相応しい格好をしている。

 

「お前、魚は捌けんの?」

「ある程度はね。まあ、レパートリーが増えるに越したことはないじゃない」

 

 それもそうかと軽く頷いて、周囲を一度見回した。右から順に女性、女性、女性。そしてそのまま左端まで女性だ。指導員も女性であるので、この場における男は俺だけということになる。当然他の人たちもそれについて多少気になるところがあるらしく、度々ちらちらとこちらに視線を向けてきていた。針の筵とは、こういうことを言うのか。滲み出る場違い感が凄まじい。

 そもそも、こんな場所に連れてこられること自体が予想外だった。きっかけは、遡ること数日前。二乃から電話で、土曜の午後を空けておけと言われたところから。幸か不幸かバイトの都合がなかったことを伝えてしまったのは、今思えば俺の明確な落ち度だった。それにしたって、まさか料理教室に連れてこられるとは寝耳に水もいいところだが。

 実演が終わったところで、今度は参加者が作業をする番に移ったらしい。周りがにわかに忙しなくなって、蛇口から水が流れる音が響く。俺も慌てて、手をすすいだ。

 

「お手並み拝見ね」

「期待してもらってるところ悪いが、マジでさっぱりだぞ。手順は分かるが実際にやったことはない」

「なんだ、残念」

「ってわけで、先にお前の腕前から見せてくれ。長年家事当番で磨いた技術を」

「ん、仕方ないわね」

 

 けが防止のためにかかっていたと思われる布巾を包丁から取り外して、二乃が作業に移行した。先ほど見た動きをなぞるようにして、特に困ることもなく、アジが分解されていく。これだけできるのならわざわざ料理教室にくることもないのに。さてはこいつ、俺に勝つことで優越感を得ようとでも……?

 

「とまあ、こんな感じ」

 

 手で皮を剥ぎ取りながら二乃は言う。心なしか、自慢げな表情だ。どんな感じなのかは正直さっぱり分からない。

 見よう見まねで、俺もなんとなくウロコを削ぐ。どれだけ削ればいいのか具体的な数字で教えてもらえれば最高なのだが、残念ながら『適当に』としか言われていない。その適当の壁が、初心者の多くを挫折させているのは言わずもがな。取りあえずの見切りをつけて頭を落とすが、正直どこからどこまでが頭なのかも良く分からなかった。人間みたいに首があれば簡単で良かったのに。とんでもない言いがかりだなこれは。悪戦苦闘しながらなんとか内臓も除けて、続いていよいよ三枚おろしのタイミング……なのだが。

 

「……これは、どこのラインに包丁通せばいいんだ?」

「なんとなくでいいのよ」

「経験者のなんとなくと未経験者のなんとなくの間には、たぶんお前が思う以上の隔たりがあるぞ」

「なら、手伝ったげる」

 

 二乃が俺の背面に回り込んで、包丁に手を添えてくる。それは本来指導員の仕事じゃないかとも思うが、そっちはそっちであちこちからお呼びがかかっててんてこ舞いの様相を呈している。そうなってくると、彼女に頼ることもやむなしか。

 

「骨の上を滑らせるイメージかしら」

「おっかないたとえだな」

「それ以外に言いようがないもの。そう。別に焦らなくてもいいから、ゆっくり」

 

 たどたどしい手つきで、右の身を剥いだ。切断面はぐちゃぐちゃで、二乃が手をつけたものと比べると差異が一目瞭然だ。素人っぽさが一目で分かるようになっている。アジも、どうせならもっと上手く扱ってもらいたかったのではなかろうか。

 

「もう片面は自分一人で頑張って」

「やるだけやってみるけど」

 

 それでも、すぐに上達したりはしない。引っかかったり軌道を逸らしたりしながら、非常に不格好な三枚おろしが完成する。身の寄り加減がパッと見て分かるほどに不均等だ。無言でアジに謝罪しながら、横でニヤニヤしている二乃と目を合わせる。

 

「初めてにしては上出来なんじゃない?」

「台詞と表情をリンクさせてくれ」

「あんたに勝てるのなんて料理くらいなんだから、ここでは調子に乗らせてよ」

 

 上機嫌のまま、予め取り置きされていた野菜を刻み始める二乃。確か、アジのムニエルを作るのが教室の主目的だったか。アジとムニエルの組み合わせに馴染みがないが、まあ、出来ないこともないか。小麦粉をまぶして焼くだけだし。というわけで、野菜の方は付け合わせという認識で間違いないのだろう。最初の方に軽い手順表が配られていて、そこに『野菜は適当な大きさに切って』とある。出た、適当。とち狂った俺がみじん切りにしても許してくれればいいのだが。

 パプリカのヘタを取って、よたよたと長方形に切っていく。手際は良くないが、これくらいなら教わらずともできる。とっくに作業を終えた二乃の凝視が気になるが、自分のペースでやればいいのだ。問題はない。

 徐々に要領を理解しながら二個目に手をかける。俺よりもたついている人もいるので、時間的に問題はなさそうだ。今度はもう少しスムーズにやってやろうかと包丁を持つ手に力を込めたとき、横から迫ってきた指導員が立ち止まった。アドバイスでもあるのかと作業を止め、そちらを向く。

 

「奥さんはずいぶん手慣れてるみたいだけど、旦那さんは初挑戦?」

 

 聞き慣れない単語に一瞬思考が停滞した。旦那さんとはアレか、夫婦でいう夫の方か。で、誰が旦那だと? ……そういえば、この場にいる男って、何人いたのだっけ。

 

「いや」

「そうなんですよ。いつか一緒に台所に並べたらなと思って、今日は勉強に」

「…………」

 

 ニコニコ笑顔の二乃。口の端が引き攣る俺。しかし、二乃の目は俺に対して「否定しちゃダメよ」と圧をかけてきている。

 彼女の前向きな対応に気を良くしてか、指導員は「若いのにしっかりしてるのね」的なことを言って去って行く。邪魔するべきでないとの判断かもしれないが、あなたの理解には大きな間違いが含まれている。それから、空調はばっちりなので、どこもお熱くなんてない。

 

「もしかして」

「なあに?」

「このシチュエーションを引っ張ってくるのが、今日の目的か?」

 

 半分呆れて、そしてもう半分は諦めて聞くと、二乃はそっと唇を俺の耳元に寄せて。

 

「ぴんぽーん」

 

 と、やけに甘ったるい声で言うのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お前らさ、やっぱり五つ子なんだな」

「なんの話よ」

「発想があんまり似通ってるから、どうしてもな」

 

 その昔、第三者に彼氏彼女であることを認めてもらいたがった誰かさんの存在を思い出す。結論の出し方が大いに異なっているものの、基本構造やら導き方は、概ね一緒だと分類できるだろう。大枠では同じこと。血は争えない、か。

 

「まあ、料理自体は役立つ経験だから悪くなかったが」

「役に立たないわよ?」

「いや、そんなことないだろ。自炊する機会は遠くなく来るだろうし」

 

 俺の発言に対し、二乃は心底呆れたような顔をした。お前、何を意味の分からない話をしているんだと、そんな感じの顔。確かに下手くそではあったけれど、不器用なりにどうにかすることは可能になったわけで、完全に無意味な経験という話にはならないと思うのだが。

 

「私が家事を片付けるんだから、フー君は安心してていいのよ」

「お前は本当にぶれないな……」

 

 頑なに結婚前提で話を進める姿勢には慣れたつもりが、たまにこうやって無警戒のところから背中を撃たれるから堪らない。常時暴走していては、暴走の定義が崩壊してしまわないだろうか。

 

「いいでしょ、夢に向かって真っすぐなの」

「御しやすいと言えば御しやすいが、やっぱり厄介なのは変わらん」

 

 前々から、真っ向勝負は得意じゃない。だから、二乃のやり方はとにかく対処に難儀するのだ。俺が手を焼くのを知っているからこそ、彼女もそのやり口で一貫させているのだろうが。

 

「そろそろ慣れてよ。一生このままなんだから」

「一生だとか人生だとか、そのあたりの単語を迷いなく使えるのがお前の何より怖いところだよ」

 

 でもまあ、規則性は見えている。彼女のこれまでの発言、行動を通して、中野二乃という人物の恋愛観を推し量ることは可能だ。それもまた、神様のチェスに似た何かなのかもしれないなと、ふとここで思った。……いや、違うか。こんなところで軽々しく神様のたとえを使ってばかりいると、近いうちに神罰が下りそうだ。

 そう一人ごちて歩いていると、二乃が何かを見つけたようで「あれあれ」と近くを指さした。

 

「寄り道、いいでしょ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 エンジン音と世界の喧騒が心地よく混ざり合っていく感覚があった。全身で風を浴びながら、颯爽と道路を駆けていく。

 二乃の懇願でバイクをレンタルし、そのままの流れで海沿いにまでやってきてしまった。だいぶ久しぶりに運転するのに、これだけ長距離を移動することになろうとは。少なくとも今日の朝の段階では、バイクに乗る心づもりなど一切俺の中になかった。

 

「きーもちー!」

 

 後ろに座っている奴は、知らぬ間にアトラクション気分になってしまっているらしい。そのテンションのまま振り落とされたりしたら罪悪感が酷いなと、脇に回された腕をきつく締め直した。なんとも安全性に難があるシートベルトだ。

 それでもこちらの意図はなんとなく伝わったようで、二乃の体重が俺の背にぐっとかかる。それにしても、今回はこいつの分までヘルメットがあって本当に良かった。もしノーヘルだったら、俺の首にどんな悪戯をされたか分かったもんじゃない。

 

「じっとしとけよ。落ちたら大根おろしみたいになるぞ」

「どっちかと言ったらもみじおろしじゃない?」

「同じだどっちも。ほら、とにかくもっとちゃんと掴んどけ」

 

 言うと、ぎゅーっと腹のあたりを抱きしめる感触があった。力加減が微妙になっていなくて苦しいが、落ちられるよりはこっちがマシなので妥協する。

 しかしまあ、ここまで密着されるのは俺でも多少恥ずかしいので、その気分を紛らわせようと気持ち強めにアクセルを回した。どちらにせよ落ちれば死ぬので、スピードはあまり関係しない。合理的判断だ。

 

「今えっちなこと考えてるでしょ」

「冤罪」

「さあ、どうだかー」

 

 楽しげな声音で俺の図星を突っついてくる二乃。神罰が下るにしても、ここまで早くなくていいのに。

 

「あはは、走れ走れー!」

「俺は馬か」

 

 エンジンをふかす。また、ちょっとだけ加速する。周囲を流れる景色はより曖昧に、暮れなずむ夕空はより茜色に、それなのに、彼女のやたらと早い心音だけはますます鮮明に。

 とりあえず、気持ちの整理をするために、水平線の向こう側まで駆けて行ってしまおうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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つれづれあらかると③

 分類は得意な方だとばかり思っていた。勉学というのはつまり必要と不必要を区分けしていく行為に他ならないのだから、それに適性のあった俺ならばこそ、ある程度の選別、分解はお手の物だとばかりに。

 だが、こればっかりはお手上げせざるを得ない状況に追い込まれていた。

 

「これはなぞなぞなんだが」

「うん」

「同じフロアで特に大きな区切りを設けることもなく、本やらCDやらゲームソフトやらを売っている店のことをなんて呼ぶ?」

「つた――」

「店名じゃない。もっとこう、大きなくくりで。八百屋とか、魚屋とか、雑貨屋とかをまとめたのがスーパーだろ? なら、今言ったのはなんて呼ぶべきだ」

「それ、なぞなぞじゃないよね?」

 

 まあ、確かに。純粋な質問として問いかけるのが馬鹿らしいから、エンターテインメント性を求めてしまった節はある。気になりこそすれど、そこまで深刻な問題としてとらえてはいない。心の傾き具合からいえば、そんな塩梅。しかし人間不思議なもので、いざ一度口に出してみるとこれがなかなか引っかかる。ちょうどいい固有名詞がどこかに用意されてはいないものか。

 

「複合ほにゃららとか、総合なんとかとか、エンターテインメント云々みたいな名称になるのかこれは」

「そんなに気にすること?」

「悔しくないか? 似た形態の店に行って、〇〇の親戚だとしか言えないの」

「いや全然」

 

 あっけなく一蹴される。すっぱり斬られ過ぎて、こんな細かいことを気にするのは世界で俺だけなのではないかという気分になる。おそらくそんなことはないのだろうけれど、今この場においての孤独感を形容しようとしたら、ある程度大仰な喩えを持ってくる必要があった。

 全然……全然か。わずかに肩を落としつつ、陳列された新書を手にとる。最近の講義で出てきた話題だ。ページの真ん中あたりを開いてぱらぱらと流し読みし、元あった場所に戻す。特にこれといった目的意識はないから、当然購入意欲も薄い。それでも時間を潰せるので、本屋というのは有用だ。……と、ここは正しく本屋ではないのかもしれないけれど。

 

「フータロー、ここ、一番上の本、届く?」

 

 呼ばれ、振り向く。三玖は必死に背伸びをしているようだったけれど、それでもあと一歩目的の品に手が届いていない様子だった。近くに踏み台の存在を確認してはいたけれど、わざわざ使うのも億劫だろう。それよりも手っ取り早く役立つ俺が傍に居るのならなおさら。

 彼女の横から手を伸ばし、単行本を引っこ抜く。このサイズ感は漫画にありがちなものと思っていたが、どうにも違うようだ。タイトルからして、歴史書だろうか。

 

「需要が薄いと手が届かない場所に行っちゃうから大変」

「まさかお前、踏み台代わりに俺を連れてきたわけじゃないよな……」

「感覚的にはマジックハンドかな?」

「勘弁」

 

 手渡す。そんな意図は微塵もないと分かっているが、泣き寝入りも癪なので関節の動きをわざとらしく機械的にした。「拗ねてる?」「可能性はある」

 

 勉強に付き合ってくれとの名目で呼び出されてみれば、連れてこられたのはこの場所だった。本を読むのはぎりぎり学習の内として、本を買うシーンまでもが学びに含まれるかは議論を呼びそうだ。とはいえ遊んでいる感じでもないし、これもまた分類しにくい状況。

 

「買うのか?」

「うん。フータローは何か欲しいものある?」

「特には。流行りものには興味がない」

「何でも買ってあげるよ?」

「お前らはそうやって、すぐ俺をダメ人間にしようとする」

「ら?」

「一花は俺のヒモ化を狙って、二乃は家事全般を受け持とうとしてる」

「姉妹だね」

「似るのは顔だけにしてくれ」

 

 なんでちょっと誇らしげなのか、これが分からない。あまり無茶なことは言わないから、せめて一度でも俺の立場がどういうものか考えてみてはくれないものか。

 

「常に板挟みなんだよ俺は。あちらを立てればこちらが立たずだ」

「分かる分かる。私もちょうど姉妹の真ん中だし。どれくらいお姉ちゃんをやってどれくらい妹をやればいいかのさじ加減、意外と難しい」

「それなら天秤の釣り合いを取るだけで済むかもしれないけど、残念なことに俺は五角形の重心を探さなきゃいけない」

「いつでも手を貸すのに」

「そうしたら間違いなくお前の方に傾くだろうが」

「…………?」

「『何か問題でも?』の顔はやめろ」

「何か問題でも?」

「とうとう口に出しやがった」

 

 理屈でどうこうできそうにもないことを悟ったので、三玖の背中を強引に押してレジの方へ向かう。これはただの勘だが、これ以上この場で押し問答を繰り広げても、俺の形勢が悪くなっていくだけだ。元より、俺には突かれるとどうしようもない傷口が多すぎる。

 

「最近はあんまり赤面しなくなっちゃったからつまんないね」

「慣れだ。ってか俺で遊ぶな」

 

 日に日に俺の立ち位置が下降していく確かな実感を得ながら、脚を前に進めた。レジまでの距離は、目算よりずっと遠い。

 

 

 

 

 

 

 チェーンの喫茶店の中には、なんとも言えない音楽が流れていた。いつだったか、こういう場所で聴くような音楽はだいたいジャズだと言ったような気もするが、今耳にしているこれは果たしてジャズなのだろうか。そもそも俺にはジャズもクラシックもポップも、全て似たように聴こえるのだから、知ったところでどうするのだと言われればそれまで。調も和音も、基礎すら知らない俺からすればその重要性が分からない。

 それにしても、日本人は面倒くさがりなのか、それとも効率主義者なのか。本屋のすぐ隣にコーヒーショップを設置するのは、怠惰の極致が生み出した業にすら思える。現に客の大半は、同じブックカバーをつけた本をテーブルに載せていた。ここまでシームレス化が進んだのだから、あと百年もすればゆりかごから墓場までの直通便でも出来ているのかもしれない。

 

「酷いこと言っていいか?」

「ダメだけど」

「いや、お前、そうして黙って本読んでればめっちゃ知的に見えるな」

 

 いつもの眠たそうな目はミステリアスに見えなくもないし、まともに使っているところを見たことがない首掛けのヘッドフォンも、環境要因による錯覚で洒落た洋楽でも流れ出しそうに思える。読んでいる本の題材もミーハー感が薄く、これに関しては特に偽りないのだけれど、一種の知識人っぽさを醸し出していた。

 

「私の言葉聞いてた?」

「さっきちょっと傷ついたしこれくらいはいいかなと」

 

 バランスを取らなくてはいけない。貸し借りゼロ。心残りなし。そういう状態をキープすることが清々しく生きるための秘訣だと信じている。

 

「あとは眼鏡でもあれば完璧なんだけど」

「じゃあ今度付き合ってね」

「うげ」

「今かなり傷ついたし、これくらいはしてもらわないと」

 

 言質を取られるまでがあまりにも早過ぎた。こうやってすぐ調子に乗るから俺は俺なんだなと自省内省を重ね、三玖に任せたせいでトッピングが過剰になった、おそらくバケモノみたいなカロリーの飲料を口にする。コーヒーにこだわりはないが、これをコーヒーだと呼んでしまうのには著しい抵抗を感じる、酷く冒涜的な甘みが口に広がった。決してまずいわけではないが、アルコールとノンアルコールの間にあるような絶対的な壁の存在を知覚する。「シャッターチャンス」唐突にカメラのフラッシュが瞬いた。見れば、三玖が片手に構えたスマホで、俺を撮影している。

 

「俺の間抜け面撮ってどうすんだ」

「オークション?」

「聞くだけ無駄だけど、その競売の参加メンバーは?」

「姉二人妹二人」

「了解。やっぱり聞くだけ無駄だった」

「エプロンのフータローは新鮮で良かった」

「お前も二乃から競り落としてんじゃねーか」

 

 いつの間に撮られていたのだろうか。というか俺は、いつの間にこいつらの盗撮対象になっていたのだろうか。

 

「次は頬杖ついて、物憂げな表情で窓の外に視線を」

「やらねーよ。カメラマンか」

「私の写真と交換」

「スマホ差し出すな。俺はどんなデータが飛び出してくるか不安で仕方ない」

「フータローが思ってるようなのはあんまりないから」

「不穏な副詞を出すな。ちょっとはあるんじゃねえか」

「うん、あるよ。四葉に撮られた寝顔とか、二乃の私服を着せられたときのとか」

「…………」

「あれ、違った?」

 

 こいつもなかなか、人を煽るのが上手くなった。核心に触れることは一度も口にしていないけれど、この段階で既に目が勝ち誇っている。口許はニヤつくのを必死にこらえている。俺も、ひっかけを危惧していなかった。焦燥だった。完全にしてやられた。

 

「はぁ……次第によっては、ガキの頃の写真でも見せてやろうと思ってたのに」だが、ただで転ぶ俺ではない。「帳消しだな、今ので」向こうの需要は、こちらもばっちり把握している。

 

「……私には、最悪の場合泣いて縋って形勢逆転するって手段がある」

「最悪も最悪すぎる……」

「フータローも結局は男の子だし、女の涙に弱いのは実証済み……」

「そういうのはこっそり思っとけ。口に出されたら今後泣いてるお前ら見たときに色々邪推しちまうだろ」

「だ、だから、その手段を使われる前に解決するのが一番賢いって思わない?」

「だいぶ苦しいな……」

「泣くよ?」

「脅しが前衛的だなおい。そんなにガキの頃の写真が欲しいか」

「命に代えても……」

「お前の命が安いのか、それとも写真の価値がべらぼうに高いのか……」

 

 さすがに命を差し出されては後々困るので、根負けして、俺のスマホをすっと取り出した。

 

「二歳くらいか。写真直撮りだからぶれぶれだけど」

「あ、かわ…………ん?」

「どうした?」

「……なんで女物のお洋服着てるの?」

「仕方ないだろ。それしかなかったんだから」

「え、いや、え……?」

「らいはのガキの頃の写真」

「…………」

「ああ、主語省いてたっけ」

「……………………………………」

 

 瞬間、顔を真っ赤にした三玖がその場に突っ伏した。……これは、まさかのガチ泣きか?

 

 

 

 

 

 

 

「いい加減機嫌なおせよ」

「意地悪なフータローの言うことなんてしらない」

「お前からふっかけてきた事実はどこに行った……」

 

 喫茶店を出てからもむくれっぱなしの三玖をどうにか慰めようと色々試みたが、どれもまるで上手く行かない。ちょっとしたいたずらのつもりが、ダメージが想定の百倍くらいあった。俺としても、さすがにそこまでだとは思っておらず、どうしたもんかと頭を抱える。

 

「ほら、お前が欲しがってた昔の俺の写真だぞー」

「…………」

 

 三玖の目が、ほんのちょっとだけこちらを向いた。拗ねていても欲しいものは欲しいらしい。

 

「そ、それで機嫌がなおるほど簡単な女じゃないもん」

「そうか……」

「でも一応見てみたい気持ちはあるから、あとでスマホに送って」

「そ、そうか…………」

 

 欲望に忠実過ぎる。その姿勢は見習いたいと思ったが、いかんせん今を何とかしないことにはどうにもならない。

 

「逆に聞く。お前はどうして欲しいんだ。俺に出来ること自体、そう多くないけど」

「デート、バイク、キス、同棲、婚姻届け、ハンコ……」

「…………」

 

 なんとなく察してはいたけれど、こいつはこの機会に、俺の良心に限界まで付け込むことで自分の希望を叶えようとしているらしい。それにしても最後の爆弾はなんだ、もはや隠す気なしか。

 

「華やかな結婚式、幸せな妊娠出産、暖かい家庭……」

「徐々にディテールはっきりさせんのやめろ」

「子供は二人欲しい……」

「短冊にでも書いといてくれ……」

 

 それだけ生々しい内容なら織姫やら彦星やらの目に留まる可能性もあるだろう。叶えてもらえるかは別問題だけど。そもそも七夕の短冊ってどういう文化なんだアレ。

 

「もっと短期的で分かりやすいのを頼む。一度の問題解決のために戸籍を引っ張り出したくない」

「じゃあ手、繋いで」

 

 やむなしと、彼女の小さい手を取った。休日の昼間だからまわりにはちらほらカップルが見えるし、別に目立つこともない。「んー」三玖の体がこちらにすり寄る。肩がぶつかる。喜色を隠そうともせず、顔には満面の笑みが浮かんでいる。

 

「えぇ……」

「なあに?」

「簡単な女じゃない宣言はどこいったんだ」

「ゴミ箱」

「自覚があるなら、まだいいか」

 

 この変わり身の早さを見せつけながらなおも言い続けるのなら何かしらの矯正が要されたが、分かっているなら仕方ない。山の天気みたいなものだと諦めよう。

 

「ねえ、フータロー」

「なんだよ」

「今度、フータローの家に呼んでよ」

「何もないけど」

「フータローがいれば十分」

「簡単な割に重いんだよなぁ……」

「お父さんにちゃんと挨拶もしたいし」

「……一応聞く。なんて?」

「長いお付き合いになるからどうぞよろしくって」

「簡単で重い割に、強いなお前……」

「強い女の子は好き?」

「特に好みも注文もねえよ」

「そっか。なら、今からでも染められるね」

「お手上げだ」

 

 わざとらしく肘から上を曲げ、降参の意を示す。相変わらず、俺は中野姉妹に対して、あまりにも弱すぎるようだった。「お前らの立ち位置を、どう分類したもんだか」「なに?」「なんでも」適当にはぐらかして、空を眺める。気分のいい快晴だから、小難しく色々考えるのは、今日のところはやめておこうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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つれづれあらかると④

 過去に忘れてきました。何を? 体力を。

 膝を地面につけてぜーぜーと荒い呼吸を繰り返しながら、そんなことを考えていた。自分のポテンシャルを満遍なく散らしてしまうくらいだったらと、一極集中で勉学の徒になったはいいものの、捨てた体力がここにきて尾を引いている。衰えた筋力のせいで足は震え、特に鍛えられてこなかった心肺機能は早々に体に危険信号を出し、さらに悪いことには、『運動なんて別に……』という俺の中の舐め腐った根性までもが顔を出し始める始末だ。いよいよもって救いがなくなってきたなと内心毒づきながら、さっきからずっと目の前に差し出されたままの手を取って立ち上がる。

 

「上杉さん、運動神経自体は悪くないんですよね」

「他に……悪いところがあるみたいな言い方だな」

 

 息切れのせいで、言葉と言葉の間が滑らかに繋がっていかない。可能であるのなら酸素マスクでもつけたい気分だ。心臓は大忙しで脈を打って、劣化した血管が今にも張り裂けんとしている。

 

「この年齢の健康な男の人なら、バドミントンをちょっとやったくらいですぐにへばったりはしないと思うんですよ」

「もう三十分くらいは経ってるだろ……」

「三十分はちょっとですって」

「いや、感覚のズレ……」

 

 関節に無理を言わせて肩をぐるんと回すと、あちこちから悲鳴が聞こえてきた。俺の外見年齢と肉体年齢とが不一致なのは火を見るより明らかだ。そのくせ、俺以上にあっちこっちへ走り回っている四葉は未だにしゃんしゃんしているのだから、なんとも言えない。若々しさで彼女に勝つ術はどこにも存在しないようにすら思える。

 

「頑張りましょうよ。体力は、あった方がうれしいですよ」

「身に着ける段階が苦しい……」

「ファイトですファイト! 競技のテクニックとは違って、持久力はやればやるだけ伸びますから」

 

 彼女に激励されるまま、どうにかシャトルを上に打ち出した。出来るだけ高く飛ばせばラリーが穏やかになるのではないかという小ずるい思惑が混じったが、あの程度の質量物体だと空気抵抗があんまり大きいせいでロクに時間稼ぎも出来ない。それどころか、勢い込んで打った右手に余計な負担をかけてしまうだけだ。四葉は限りなく直線に近い軌道で返してくるので穏やかに構える時間はないし、下手に逸らしでもしたら拾うために屈まないといけない。それは、今の俺の脚にとって非常に酷な作業に違いなかった。

 搾りかすの力をどうにかひねり出して、打ち返す。汗が一筋、額から流れ落ちてきた。

 

 

 

 

 まさかこの歳になって、公園でのバドミントンに誘われるとは思っていなかった。別に昔誘われたことがあるわけでもないが、それにしても、意外だった。想定できていたのは、俺の体力が目も当てられないレベルで落ち込んでいたことだけだ。

 

「だんだん夏めいてきましたねー」四葉が言う。彼女の顔に疲労の色はなく、むしろ楽しげですらあった。「この国の四季はどこに行ったんだよ……」「まあまあ。春夏秋冬がぴったり四等分ってわけにもいきませんからね」

 

 古典のざっくりした四季観は、一、ニ、三月が春、それから三ヵ月区切りで夏、秋、冬だったと記憶している。もちろん、当時を生きた人々と俺の感覚は違うから一概に言い切ることは不可能だが、なんだかここのところ、やけに地球が優しくない気がする。

 

「俺はもう、最高気温が五十度くらいになっても驚かん」

「流石にそこまでいくと溶けちゃいそうですね」

 

「あつー」と四葉がシャツの裾をぱたぱたはためかせて、上半身に風を送っていた。それに乗って、制汗剤だか香水だかの甘い匂いが運ばれてくる。ちらとそちらに視線をやると肌色の面積がやけに多くて目に毒だった。「はしたないからそこらへんにしとけ」「……ちらっ」「ヘソ見せんな。わざとやってたろお前」

 

 そもそも暑いんだったらまずそのリボンを外せばいいのでは? そう思って頭に手を伸ばしたら、唐突に彼女の動きが止まった。面倒だから外してくれってことだろうか。

 

「……あれ?」

「なんだよ」

「遂に上杉さんが頭ナデナデを習得したと思ったのに……」

「脈絡なく頭触ってくる他人とか怖すぎだろ」

「私は上杉さんなら一向に構いませんので」

「多少は構え」

「あっ、汗でしっとりしてるから今はちょっと……」

「適用がはえーよ」

 

 実践のタイミングをもう少し見てもらいたかったなと思いながら、外しかけたリボンを元に戻す。この謎リボンは彼女のポリシーなのか、未だに外さず身に着け続けている。

 

「それにしても上杉さん、最近は他のみんなから引っ張りだこって話じゃないですか」

「今はお前から引っ張りだこだ。ついでに茹でだこになりそう」

 

 手でうちわをつくってぱたぱた自分をあおぐ。なかなか息は整わないし汗は止まらないしで散々な様相だった。確かに、この現状を見つめさせられては常日頃から運動する必要性を考えることにもなり得る。

 

「っていうか、昔からずっと引っ張りだこだよ。引っ張られなかった試しがない」

「綱引きなら得意です」

「なんと驚いたことに、お前の姉三人と妹一人も同じことを思って疑わないんだな」

「より強く引っ張る自信があります」

 

 自信の表れかどうかは知らないが、四葉が俺の袖を己の方に引き寄せようとしている。「伸びるだろ」「それを恐れた上杉さんの体は次第に私の方へ傾くんです」「策士」

 

 汗だくの体を押し付けられても不快感しかないだろうに……というのは俺の感性であって、四葉にもそれが適用されるかは分からない。ただ、俺は汗まみれの状態で他人にくっつきたくはない。

 

「今が冬で、汗かいてなかったら可能性はあったな」

 

 四葉の手を丁重に引き剥がして、膝の上へ返す。手から既にびしょ濡れなので、できるだけ素早く済ませた。

 

「じゃあ、冬に再チャレンジしてみます」

「頑張れ」

 

 結果は約束できないけれど。……でも、こいつなら俺が根負けするまで粘ってくるだろう。面倒になって諦める自分の姿は、情けないことに簡単に思い浮かべられた。我慢比べをしたら、基本、勝てない。こいつらは、そういう場所にカテゴライズされている。

 

「でも、今から冬のことを考えるのも気が早いですね。秋もありますし、夏本番だってまだですし」

「インドア派には関係ない話だ」

「上杉さんアウトドア化計画は着々と進行していますよ」

「らしいな」

 

 うっすら汗ばんだ二の腕は、日の光に負けて赤くなっていた。今年は例年と比べて、だいぶ日焼けすることになりそうだ。

 

「海と山だったらどっちがいいですか?」

「海」

「……私の水着姿に興味が?」

「山は絶対に歩かなきゃいけないが、海ならパラソルの下でじっとしてればなんとかなる」

「なるほど。……えっちですね」

「どんな幻聴聞いてんだ」

 

 四葉の耳たぶを引っ張る。今のは明らかに、受け答えが成り立っていなかった。「分かってます。上杉さんがシャイなことくらい」「ありもしない行間を読むな」「大丈夫です。ちゃんと攻めたやつを着ていくので」「ちゃんとってなんだちゃんとって……」

 

 さりげなくむっつり認定されていることに納得がいかない。そもそも……

 

「……そういえば、水着の下まで把握済みでしたっけ」

「自爆するなら言わなきゃいいものを」

 

 一人で言って一人で真っ赤になった四葉の頭をラケットで小突いた。最近こいつらにはしてやられてばかりだったので、精神的優位に立てたのは久々だ。

 

「本当はここから水着選びにまで付き合ってもらう予定だったんですけど、なかなか上手くは行きませんね」たはは、と四葉が笑う。「駆け引き、苦手です」「綱引きは得意なのにな」

 

 ほんのり紅潮した頬はそのままに、四葉がゆっくり立ち上がる。

 

「やっぱり、得意な方法で頑張ろうと思います」

「綱引きで?」

「ええ」

 

 まだ座ったままの俺の腕を抱えるように、四葉が引っ張ってくる。「上杉さん、押しには弱いですから」「なんだそれ」

 

 お前は今、俺の腕を引いているくせに。その言葉は、優しさで飲み込むことにした。

 

 

 

 

 

 現代に拷問の概念が残っているのだとすれば、おそらくあれのことだ。店を後にしてほくほく顔の四葉とは対照的に、俺の顔はたぶん、実年齢プラス五歳くらいになっている。

 

「お前の横に立ってる間はギリギリなんとかなったけど、試着室に行かれてからは生きた心地がしなかった」

 

 いっそ、男子禁制だったら良かったのに。女連れだったらOKみたいな暗黙のルールが横行しているせいで、かえって犠牲になる人間の数を増やしてはいないか。堂々としようがこそこそしようがどうしたって不審者然としてしまって、あちこちから刺さる視線に耐えるしかなかった。

 

「また一緒に入るんでした?」

「ぶっちゃけそっちの方がずっと楽だったかもしれない」

「それはそれで、私が落ち着かなくなっちゃいますけどね」

 

 四葉は仰々しく胸のあたりを覆い隠す素振りを見せながら、

 

「上杉さん、とてもえっちなので」

「今更否定もしねーよ」

「…………」

「認めたら認めたできょろきょろすんな」

「今物陰に連れ込んだらいいことあるかなと思って」

「んなわけ」

 

 男の俺が連れ込まれる側なのは釈然としなかったが、力関係を考えればどうしても自然にそうなってしまう。それがなんとも不甲斐ないやら、情けないやら。

 

「しかしなぁ。買ったからにはマジで行くことになりそうだ」

「観念してください。逃げ場はどこにもないですよ」

 

 その通りだった。それどころか、海やら山やらに誘ってくる可能性があるのは、四葉に限った話でもない。

 

「どうせなら、全員そろって行っちまうか」

 

 その方が、俺の肉体的負担が小さく収まる気がする。ただ、精神的負担がそれに反比例するのも分かり切ったことだった。けどまあ、たまには全員集合も悪くないか……というのは、どうやら俺に限った意見らしく。

 

「…………」

「なんだよ……」

「デートの時に他の女の子のことを考えるのはマナー違反です」

「五つ子ハラスメント?」

「中野四葉ハラスメント」

「別名は嫉妬か?」

「大当たり」

 

 にっこり笑う四葉。ずいぶんと清々しい嫉妬もあったものだ。

 

「なので、私はなんとしても、ビーチで上杉さんの視線を独り占めしたいわけなんです」

「欲望に正直なことで」

「うかうかしていると、売約札が張られちゃいそうなので」

「俺は売り物じゃねえっての」

 

 そもそも取り合いになるほど上等な品ではない。それでも現状大変なことになっているんだから、好事家というのはどこにでもいるのだなあと謎の感心を抱く。

 

「っていうか、ビーチで独り占めにするのは男どもの視線であって、特定の誰かの視線ではなくないか?」

「……俺以外に肌を見せびらかすなと?」

「なんか一段と飛躍してんな今日は」

「上杉さんもだいぶ嫉妬深くなってきましたね!」調子づいた四葉が背中をぺちぺち叩いてくる。「上杉さんの独占欲ならいつでもウェルカムなので!」

 

 何かを自分の手中に収めてやろうという意欲は基本的に薄いので、「ねーよ」と手を振った。「好き嫌いはともかく、独占欲はない」

 

「それはつまり、私のことが好きって解釈で大丈夫ですか?」

「ええ……」

「なら、嫌い……?」

「まーた答えにくいことを聞く」

「ほら、ここでちゃんと否定しないともやもやが残っちゃいますよ?」

「……嫌いな相手の誘いに乗って休日潰すほど、酔狂な人間じゃないつもりでいるんだが」

「…………」

「急に照れだすのやめろ」

「か、緩急だと思ってもらえれば……」

 

 両手で俺の視線を遮りながら、四葉は言う。なんとなくは気づいていたことだが、こいつはかなりの赤面症らしい。思っていることがことごとく顔に出る。だから今は、赤くなりながらにやけるという、非常に複雑な表情をしていた。

 

「見ないでくださいよぉ……」

「撮らないだけマシだと思え」

「上杉さん、意地悪って言われません?」

「さてな。でも今日は、久しぶりに上手を取れて気分がいい」

 

 さっきから妙に周囲の視線を感じるが、それは特に気にもならなかった。水着屋での針の筵状態を思えば、なんてことはない。

 

「夏までにもっと体力つけておきましょうね」

「程々で頼む」

「ジョギングとかどうですか? 早朝にちょこっとだけ」

「要検討。朝はあまり強くない」

「じゃあ夜にできる運動ですか…………ぁ」

「だから自爆やめろっての」

 

 再び真っ赤になった四葉の頬をつねって、引っ張った。今日の綱引きは、俺の勝ちということで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ、お帰りお兄ちゃん」

「おう」

「……あれ、お兄ちゃん、いつから売り物になったの?」

「は?」

「ほら背中、『売約済み』って張り紙が」

「…………」

 

 前言撤回。綱引きの敗者は、いつも通りに俺だった。今頃ほくそ笑んでいるであろう四葉の姿を想像し、ため息をつく。

 

 結局、彼女の言ったままだ。俺は、押し込まれるのに弱すぎる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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つれづれあらかると⑤

 それなりの人生を生きていれば、ほぼ確実といって良いほどに、勇気を試される瞬間が訪れる。それは未知への挑戦であったり、あるいは恐怖への抵抗だったり、押しなべて語ることはできないまでも、個人における一大決心を言う。

 それが、俺の場合は羞恥を耐え忍ぶことだった。

 

「これはなかなか……」

「なかなか美味しいでしょう?」

 

 頬を膨らませてご満悦の五月に、意図しない補完をされる。二人掛けのテーブルには所狭しと甘味が並べられていて、あちこちから蜂蜜やチョコレートの匂いが漂ってくる。その香りの発生源はこの場所だけということもなく、右から左から、方向を問わずに甘ったるい風が運ばれてきていた。

 

「ああ」

 

 思考停止で、目の前のショートケーキを口に運んだ。見て分かる通りに甘い。スポンジの加減も悪くない。俺の味覚が鈍感だということを差し引いても、美味ではあるのだろう。

 しかし、ことこの状況下では、味がどうのこうのと講釈を垂れる余裕はなかった。なぜか。味覚よりも働いている五感があるからだった。

 

「一応聞くんだけど、ここ、男が入っていい場所なのか?」

「ダメな理由がありますか?」

「いや、不文律というか、暗黙の了解というか」

「あなた以外の男性だっているじゃないですか」

「全員女連れだけどな」

 

 何度か見回したので、これ以上確認する必要は薄い。けれど、もう一度首をぐるっと回して、周囲の様子を確かめた。結果、何も変わらず。男性グループが存在している様子はない。ふと、特権階級という言葉が脳裏をよぎる。考えようによっては、ここは社交界のように一定のステータスを得て初めて上がれる舞台なのかもしれない。スイーツ食べ放題なんてキラキラした場所に、冴えない男だけで突っ込むのは半ば自殺だ。

 

「あなたも彼女連れです」

「一文字多い」

「良いじゃないですか少しくらい。小論文の添削指導でもあるまいし」

 

 言いながら、五月はまたもケーキをパクり。申し訳程度の時間制限があるので、多少ペースには気を遣っているようだ。もっとも、男女を問わず、三十分も食べ続けたら満腹になってしまうと思うのだが。……それが彼女にも適用されるかは、どうだろう。

 

「色々な事情があるから男子禁制にするのは難しいんだろうが、それならせめて上杉風太郎立ち入り厳禁にしてもらえねえかな」

「いったい何をすればそんなことに」

「一人で厨房を壊滅させれば経営上の理由でなんとか」

「そんな細身でどうやって成し遂げるんですか」

「お前が食べたぶんも俺の消費量だったと偽装する」

「……馬鹿にしてます?」

「尊敬してるよ」

 

 少なくとも、食べっぷりにおいては。俺がもし食材だったとしたら、気持ちよく食されたい。意味不明な仮定だが、いやいや消化されるよりはいくらか救いがある。その点で、いつでも幸せそうに食べ物を口に運ぶ五月は、理想なのではないかとさえ思う。

 

「ただ、俺を誘うにしたって、もうちょっと男女比が釣り合ってる場所はなかったもんか」

「実益を考えると、どうしてもここ一択に」

「誰か暇してる姉妹は?」

「いましたけど、今週末は私の番なので」

「不穏なワードを出すな。なに、もしかしてとは思ってたけど、ローテーション組んでんの?」

「乙女協定です」

「そこまで強かな女を乙女とは呼ばない」

「呼ぶんです」

 

 呼ぶらしい。初耳なので勉強になった。できることなら、学習せずにいたかった。

 

「いや、前々から怪しんではいたんだ。毎週のように約束を取り付けられる割に、誰もブッキングしないなと」

「もし被ったとき、あなたがどちらを選んだかで揉める未来が見えるので」問題の先送り感は否めませんが、と五月。

 

 ここで彼女が口に出した『問題』という単語に背筋が震えるが、意図的に無視する。これに取り合うと、長い。

 

「五人の中の二人で、組み合わせでは十通りですか。最初は、全通り試せば上杉君の好みの傾向が見れるとも考えたのですが、さすがにそれではギスギスするので」

「人が知らない場所で総当たり戦を組もうとするな」

「仕方ないでしょう。五人ではトーナメント式にできません」

「対戦形式に文句を言ったわけじゃない」

「今すぐ私に決めてしまえば、今後そんなことは起こり得ませんが」

「……人の弱みに付け込むなって教えるの忘れてたな」

 

 教師としての俺の落ち度か。これは。教えたことを満足に扱えるようになるまでにも時間がかかる連中に、俺の教育外のことを覚えておけというのは、果たして無茶な話なのだろうか。……そんなわけないな。さすがに常識だ。

 

「着々と弱らせて、弱り切ったところをガブっと」

「ガブっとどうするんだよ」訊くと、五月はケーキの残りを頬張って、両手を合わせた。「ごちそうさまでした」なぜか、上目遣いで俺を見ながら、言った。ケーキに関しての言葉だと思いたかった。

 

「とまあ、それは冗談として」

「笑えねーよまったく」

「そうですね。ご馳走と呼ぶには、まだまだ肉付きが悪いので」

 

 対面から身を乗り出して、俺の頬肉をつまむ五月。食生活が壊滅的な自覚はあるので、否定はできない。

 

「ですから、もっと食べてくださいよ。さっきから手が止まってるじゃないですか」

「今のを聞いた後に食べるのは、色々試されてる感じがするぞ」

「試されるって、何を?」そうだな、と一拍置いて、答える。

 

「勇気、とか」

 

 それを受けた五月が、反芻する。

 

「勇気、ですか?」

 

 これは俺の個人的な考えなので五月に開示することはしないが、行動そのものが答えになってしまうようなことは、極力慎みたいと思っている。前段階として、言葉がなければならないと思っている。行動と態度と言葉、全てが原因でこじれた関係だから、いずれはきちんとしたプロセスで、片をつけたいのだ。

 清算とはいかないまでも、整理整頓くらいはできる。全て良しとはならないが、まあまあな出来には持っていける。繕える体裁は、繕っておくべきだ。

 

「優柔不断な上杉君が、勇気を語りますか」

「だからこそじゃねえの」

「そんなに大変ですか、一人に絞るの?」

「生々しい言い方すんな。……どっちかといえば、むしろ」

「四人、選外にするのが心苦しい?」

「分かってるなら勘弁してくれ」

 

 二者択一ならなんのその、しかし俺に課されたのは驚異の五者択一だ。悩みもするし、迷いもする。この葛藤を保留だのキープだのと呼ぶようだから、俺はとっくにクズ男の仲間入りを果たしていたらしい。まあ、分かり切っていたことだけれど。

 

「思い出しますね。私が発作的に家出して、そのあと色々あって、全員で集まったんでしたか」

「いきなり傷口を抉りだすな」

「なんでしたっけ。『いつか必ず答えを出すから』でしたっけ?」

「あー……」

「私、ずっと健気に待ってますよ。『いつか』を」

「弱らせるというより、追い詰めようとしてないか?」

「私が上杉君にとっての安らぎだった時期もありました」

「…………」

「一向に構いませんよ。また私で安らいでもらって」

 

 卓上に載せていた俺の手に、五月の手が重なった……までは良かったのだが、そこから普通に握ってきた。代謝がいいせいか、体温が高い。俺と違って、かさついてもいない。

 

「大きい手……」

「男だし」

「そうですね。男の人の手です」

 

 たくさん食べて眠気にでも襲われているのか、妙に目元がとろんとしていた。一歩間違えば、このまま上半身を投げ出してしまいそうな、そんな予感さえあった。場面場面で切り抜くと確かに、こいつが末っ子なのだろう。そう思わせる脇の甘さが感じられた。

 

「お前、意外と妹気質だよな」

「どういう意味です?」

「さあ?」

「さあと言われましても」

 

 明確に言語化するのが難しそうだったのではぐらかした。他四人と比べて油断幅が大きいと言っても、伝わらないだろうし。

 

「雰囲気の話だろうな」

「そんなこと分かるんですか?」

「イメージだから、現実に則しているかどうかは謎が深い」

「…………?」

 

 いつまでも手を握り合っていてバカップルだと思われたら厄介なので、立ち上がることにした。ついでに、なにか新しいケーキを見繕ってくることにでもしよう。

 

「おい」

「なんでしょう?」

「なぜ離さない」

「…………?」

「なんだよ」

「前にもお伝えしてますよ」

「え…………あっ」

 

 そういえば、あのときも、左手だったか。具体的な情景はこの真昼間からイメージするような代物ではないが、掴まれていたのは左手だったはずだ。いいや、それも、彼女に言わせてみれば。

 

「こうやって、繋ぎとめているんです」

 

 指先の一本一本をいたずらっぽく絡めて、笑って。なんなら俺の腕まで引き寄せたりしながら、五月は言う。

 

「あなたは、浮気性だから」

「存じてますよ。俺が一番」

 

 彼女が珍しく丁寧口調を解いたので、俺が代わりに敬語を使った。先ほど尊敬の旨を伝えたばかりなので、ちょうどいいタイミングだ。ただ、違和感が酷くて、言い終わって口許が歪んだ。慣れないことはするものじゃない。

 それは五月も同じだろうと、彼女の表情を覗き見る。ただ、俺の予想は外れていたようで。

 

「なぜ笑う」

「たまにはいいかもしれませんね。敬語を外してしまっても」

「家族にも敬語友達にも敬語のお前が、今更アイデンティティを投げ捨てるのか」

「私にも、いわゆるタメ口を使っていた時期がありましたよ」

「母親の模倣、やめていいのかよ」

「失った誰かの幻影を追いかけてばかりじゃ、前に進めないから」

「…………」

「それに――」

 

 最後の言葉に限って、わざわざ俺に向き合って言うのは、なんだろう。なんと言えばいいのだろう。

 

「――今目指すのは、あなたの隣にいる私だから」

 

 卑怯、という言葉が浮かんで、慌ててひっこめた。彼女の成長と決別を阻害してはならないという、俺にしては珍しい配慮からの行動だった。

 その言葉にたじろいだのは、俺以上に五月本人だったらしく、すぐさま「ですから」と言って語尾を和らげた。「段階を追って変えないと、さすがに恥ずかしいですね」「なら無理するなよ」「でも、効果アリと見たので」

 

 見られてしまったので、今後は不意打ちで飛んでくるタメ口の対処にも気を遣わなくてはならない。バカ丁寧な口調になれてしまっていたから、新鮮というよりは驚きが前面に出てくる。これを受けた四葉までもが真似してくるなんてことがあれば、いよいよお手上げかもしれない。

 

「さ、まだまだ時間はあるので、もっと食べますよ!」

「やっぱり離してはくれないのな……」

 

 諦め交じりに呟くと、「うん」と返事がくる。……これは、ちょっと効く。

 

「やっぱり効果絶大です」

「俺で遊ぶな」

「面白いので……」

 

 悪びれているようで実は全然そんなことのない彼女の手に引かれて、人が密集している場所に連れていかれる。これに適応するまでにはどれくらいかかるもんだかと頭の中でそろばんをはじきながら、猫背で進む。

 天井を見上げると、照明が目に入って眩しかった。電灯くらいは、俺に優しくしてくれよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夏めいてきたとはいえど、夜はまだまだ涼しかった。毎週のように休日が潰れるが、それをなんとも思わなくなってしまっているから慣れは怖い。

 

「そういえば、らいはちゃんは元気ですか? 連絡は取ってますけど、会う機会が作れなくて」

「元気も元気だ、心配するな。ってか、らいはを完全に懐柔されたらどこにも逃げ場がなくなるから勘弁してくれ」

「三玖が前にそんなことを言っていましたね。なんでしたか。馬をどうとか」

「将を射んと欲すれば先ず馬を射よ?」

「それです」

「意味は調べんなよ?」

「相手を打ち負かそうと思ったら外堀から埋めていけという解釈であっていますか?」

「勉強教えて後悔したのは今が初めてだ」

「確かに、それもいいかもしれません」

「良くない。なんにも良くない」

 

 安住の地が奪われて行くのには断固抗議する。俺の妹を人質に取るのはルール違反ということにしておいて欲しい。

 

「乙女協定とやらに条文追加しとけ。『上杉らいはにはノータッチ』」

「それじゃあ遊びにいけません」

「それなら、節度を持って接してくれ」

「ええ、もちろん」

「変なこと吹きこむなよ」

「…………」

「なんとか言え」

 

 冗談なのか本気なのか分からないから怖いのだ、こいつは。まあ、らいはの自由意思を尊重する必要もあるけれど。

 

「私がお姉さんになったら嬉しいか聞くのはぎりぎりセーフですか?」

「完全にアウトだよ」

「誰が上杉君のお嫁さんに相応しいと思うか聞くのは?」

「むしろなぜそれがセーフになると思った」

「塩梅が難しいです……」

「質問はもう俺を通してくれ……」

 

 どっと疲れが押し寄せてきて、近くにあった電柱に体重を預けた。それを見た五月が、なにやら思いついたような顔で近寄ってくる。

 

 

「なに?」

「いえ、面白いことを考え付いたので、ちょっと耳を貸していただければなと」

「…………? いいけど」

 

 身長差を考慮して、体を傾ける。彼女が近づく。で、唇を奪われる。…………は?

 

「は?」

「面白いこと、です」

「えぇ……乙女協定的にはどうなんだよそれ……」

「…………」

「絶対にアウトの顔じゃん……」

「久しぶりだと恥ずかしいですね」

「話題を逸らすな。俺はとことん追及するからな」

 

 彼女は慌てて俺から距離を取って、逃げるような構えを見せた。俺も、それに付いて行こうとしたのだけれど。

 その場で放たれた一言のせいで、そんな気概は、一切奪われてしまった。

 

 

 

「またね、風太郎君!」

 

 

 自分の名前で硬直する機会なんてきっと二度と訪れないだろうなと、おぼろげながら、思った。

 そんな初夏の日。晴れた夜。見上げた空に浮かぶ星々を、俺は一生忘れない。……気がする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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