魔法殺しの物語、その断片 (いくらう)
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酒の神

 剣士が一人、夜闇を歩く。既に月は昇り切り、そこらで騒がしかった多くの店も灯が消され始めた頃。ますます冷え込んできた夜風に濃緑のフォロゼ式外套と波打つ漆黒の頭髪を揺らし、隻腕剣士グリンザールは道行く人に紛れ、街の片隅にある小さな酒場へと向かっていた。

 

「おおい、竜の仔」酒場近くまで来たグリンザールの耳に、聞きなれた男の声が入ってくる。グリンザールは酒場の壁によりかかって蹲る灰毛長髪の隻眼詩人を見出して、その傍まで歩み寄った。

 

「ゼウドよ。その顔を見る限り、随分と飲んだようだな」グリンザールはゼウドを見下ろして云った。「いやなあ、あの酒場、腕のいい鍵盤引きがいてよお。俺も、ついつい……張り合っちまった」寒気を感じるのか、自身のロードトック式外套に包まりながら云って、ゼウドは首を巡らし白い歯を見せる。だが顔は赤く、視線もどこか定まらない。

 

 その様子に溜息一つついて、グリンザールはゼウドに手を貸して立ちあがらせた。そして左肩を貸してその体を担ぐと、宿への帰路を歩み始める。既にこのような、ゼウドを抱え這う這うの体で道程を行く事はグリンザールにとって慣れたことであり、楽ではないが、特別苦心する程の事でも無かった。しかし此度ゼウドは口だけではなく、その全身から普段以上に酒の臭気を漂わせており、グリンザールもそれに僅かに顔を顰めた。

 

「……なあ、グリンジよお」「何だ」不意にゼウドが口を開く。その言葉と共に発せられたアルコール臭に、グリンザールは眉を顰めながら返した。

 

「お前曰く、世の中にゃいろいろ神が居るって云うがよお。酒にもよお。お前の言う神様はいるのかあ?」普段より、神秘など有りえぬといって憚らぬゼウドは、しかしこの一時の慰めをグリンザールの神秘の知識に求めた。彼にとっては何の話であってもよかったのだが、自身から話かけねばグリンザールは口を開くことなく帰路を行くのだろうと考えた。ゼウドは、酒によって引き起こされた頭痛を紛らわせたかったが故に、珍しく、グリンザールのもっとも食いつくであろう話を振ったのだ。「……ああ。善くも無ければ、邪神と言われるほどのものでもない、ありきたりな神がいる」グリンザールはそんなゼウドの様子を気にすることなく、淡々と自身の知識を語り始めた。

 

「北方の神話においてラザドと云う名で書に記された神だ。月の軌跡をなぞる、竜たてがみの星座に象徴されている。銀月を司るレリス神と赤い月のルディア神、彼女らの兄であり夫でもあり、古くより酒の……正確には酩酊の神として伝えられてきた」「うえ、男神かよ」「それは重要か? まあ、探せばどこかに酒の女神もいるやも知れんぞ」「探さねえよ」男と聞いて催していた吐気を少しばかり強くしたゼウドを横目に見るも、すぐに興味を失ったように、グリンザールはラザドなる神について話し始めた。

 

「ラザド神は妻である二人の女神……一人の女神の別側面ともされているが……彼女らのように、穏やかさと荒々しさを併せ持つ、律儀だがどこか気まぐれな神とされている」「へえ」「イスギールに近しい地域では、酒は熱を齎す故、命を齎す神としての側面も持つと言われていると記されていた」「そんで? 何か逸話はあんのかい?」グリンザールの披露する知識に、面白半分、そしていつもの呆れ半分といった様子で、ゼウドはその神の逸話についてを求めた。

 

 それは、物語を謳う吟遊詩人ゆえか。ゼウドは神の来歴よりも、何らかの『面白い話』を聞きたがった。それを聞いてグリンザールは、少し考えるように自身の影に目を落とす。それからまた少しして、グリンザールはラザド神の逸話について語り始めた。

 

「一つある。神話に記された争いより以前、宴に供する酒を大神ボフォロに請われたラザドは、妻たちの涙といくつかの果実より神酒を作り、十五日の道程を以って大神の元へと運んでいた。だが、道中、よからぬ者に出くわした」「誰だよ?」ゼウドは、らしく無くグリンザールの話に真面目に聞き入っていた。

 

「<燃ゆる髪のオルチャ>。北方神話において右に出る者無き邪剣士。まごう事無き邪神だ。……戦帰りのオルチャは二つの酒樽を担ぐラザドを見て、自身にその酒を差し出すように求めた。それに対してラザドはボフォロに供する酒だとして何とか見逃して貰えるように頼みこんだ。しかし」「まあ、ダメだよな」

 

「うむ。それ所かオルチャは敵対するボフォロへの酒と知って、更にその酒を奪いたがった。ラザドにとっては堪ったものでは無い。何せ大神たるボフォロは比類なき炎の神。万一その機嫌を損ねれば自身を灰へと帰されてしまうのでは、と恐れを覚えたのだ」「おいおい、それじゃあどうすんだよ。おるちゃ、ってのは剣の邪神だろうに」深刻ぶって言うグリンザールに、ゼウドはどこか心配そうに尋ねる。

 

「ああ。オルチャの剣は山さえ砕くと言われた。ラザド神など、容易く斬り殺せただろう」グリンザールはゼウドの疑問に、『オルチャは剣の邪神というより邪神の剣士だ』と暗に云いながらも肯定した。「そんでどうなったんだ?」そうとは知らず、ゼウドはその先を聞いた。

 

「ラザドは賭けに出た。自身の持つ酒樽の一つを天に掲げ、オルチャに向かって思い切り『くれてやった』。オルチャは咄嗟にかかえたる邪剣オゴ=ロドラムにて樽を真っ二つに断ち切ったが、中の神酒を頭から浴び、その天上の味と強さに一気に酩酊し膝を着いた。その隙にラザドは全力で逃げ出したのだ」「意外とやるじゃあねえか!」グリンザールの語るどこかやけっぱちめいたラザド神の行動に、今やゼウドは酩酊に沈みかけていた眼を少年めいて輝かせていた。

 

 それに対してグリンザールは、嘗て読んだ古書の記述を思い出しながら、どこか懐かしむように目を伏せて云った。「しかしオルチャもさる者。これほどの酒を逃してなる物か、と己を強いて立ち上がった。だが彼は次の瞬間、ラザドを追う所では無くなってしまう」「何だ何だ、もったいぶんなよ竜の仔!」

 

「オルチャは遠ざかるラザドを追わんとその健脚に力を込める。しかしそこで、常より自身が垂れ流す黒煙とは違った臭気を感じて足を止めた。そう……奴は<燃ゆる髪のオルチャ>だ。その自慢の髪によって、浴びたラザドの酒に火がついてしまったのさ」そこまで云って、グリンザールはその話を区切った。

 

「……おい。おいおいおい待てよグリンジ。<燃ゆる髪>ってのは、比喩とかじゃあねえのかよ? マジで燃えてんのか、そいつ? その、オルチャって奴の頭は!」まるで酔いが覚めたように、ゼウドはグリンザールを問い正す。それに対して、グリンザールは普段の涼しい顔で答えた。「当然、諸説ある。しかしこの話においては、本当に燃えていたらしいな」ゼウドはそれを聞いて、何やらげんなりした顔で眼を細め、それから一つ、大きく溜息をついた。

 

「……なあグリンジ、やっぱお前、子守とか、詩人に向いてるぜ。そういう話を謳わせたら右に出る奴ァ居ねえよ。俺もその話を聞いてたら、いい感じに眠くなっちまいそうだ」どのような顛末を想像していたのか、また眠たげな顔に戻ったゼウドは皮肉めいて云った。「ラザド神は酩酊の神であると同時に、夢と眠りの神でもある。眠ってしまっても構わんぞ」

 

「やなこった。肩ならともかく、お前に背中まで貸されでもしたら、寝覚めが悪いなんてもんじゃあねえ」グリンザールの提案を聞いたゼウドは下を向いたままに、幾らか調子を取り戻した様子で云った。顔にはまだ赤みは残っているが、少しは酔いが覚めてきたようで、その視線も定まってきている。グリンザールは、そんなゼウドの言に僅かに諧謔的な笑みを浮かべて云った。「如何せん、その赤ら顔で言われてもな。俺の話以上に説得力が無かろうよ」

 

「うるせえ」グリンザールの皮肉にゼウドは笑って云うと、その身を彼からもぎ離し、フラフラとした足取りで、しかし真っ直ぐに帰路を歩み始めた。その背中を見てグリンジは、呆れたように鼻を鳴らして詩人の背を追うように歩み出す。

 

 

 そして剣士と詩人は、夜闇に紛れて消えて行った。

 



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別れ去る。

 静かに衣を纏ったゼウドは、最後に未だに眠る彼女に歩み寄り、肌蹴た毛布を掛け直してから部屋を後にした。物音を立てず、立ち止まることもなくゼウドは宿の戸を開いて、表通りに向かって歩き出す。通りへ出てすぐ、道端に浮浪者めいて蹲る隻腕剣士の姿を認めた。「……よぉ、グリンジ。来てたのかよ」彼が歩み寄ると隻腕剣士は立ち上がり、脇に置いていたゼウドの麻袋を放って背を向け、 振り返ることもなく歩み出した。

 

「すぐに街を出るぞ、ゼウド。今からならば、僅かなりとも余裕を持ってアラクェドの石畳を踏めるだろう」

 

「おいおい。何焦ってんだよグリンジ。別に待たせてやりゃあいいじゃあねェか、あんな奴。こちとら荒事続きだし、奴さんだって期待はしちゃあいねェだろうさ。それに今から出た所で着くのは明後日の朝だろうよ。もう少し気を長く持ってもいいと思うぜ、なあ?」ゼウドは小走りにグリンザールを追い、そして眠たげな顔で、肩を竦めて云った。「つか、こんな糞寒いのに<黄昏>を渡るつもりかよ。気が滅入るったらないぜ」

 

「馬車と御者のアテはついた。少なくとも、明日の陽が沈むまでには間に合う」そこでグリンザールは一度立ち止まり、振り返って云った。「彼女に別れは告げんでいいのか? すぐとは云ったが、その程度ならば許されるだろう」思いのほか真剣なグリンザールの顔を見て、ゼウドは一瞬きょとんとして、掌で顔を覆って、そして笑いだした。

 

「ハ! ハハハハ! なんだよ! らしくねえこと云うなよ、グリンジ! いつものことさ。お互い承知の話なんだ。だから、お前が気にする必要なんか無いんだよ。まったく、らしくねえ事言いやがって。ハハハハ!」ひとしきり笑って掌を下ろすと、ゼウドは平時のどこか眠たげな顔に戻って、グリンザールを尻目に早々に歩みを進めていく。「さっさと行こうぜグリンジ! 余裕があった方がいいんだろ? 嘗て賢人ウルムングは云った。『然るべき時努め果たせば、一時の怠惰も罪になりえぬ』と! 今はその教訓に従うとしようぜ!」

 

「ウルムング? <赤い鬣の>ウルムングか?」ゼウドに置き去りにされかけたグリンザールだが、小走りに彼に並び立つと疑わしげに云った。「ゼウドよ、ならば止めておけ。奴は嘗て賢人としてヴィンクラムに在ったが、晩年はムジャンの秘儀に傾倒し、惨めな最期を迎えたと聞く。そのような男の教えに従うのであれば、碌な事にはならん」

 

 そこまで聞いたゼウドは酷く複雑な顔をして、一層歩みを早める。「ああ、ああ。止めろよグリンジ。そういうお前の方がよっぽどお前らしいんだが、俺はどうにも、そういう詩に興味は持てそうにねえ」

 

「そうか。ならばいい」グリンザールは平然とゼウドを追い抜かして云った。「だがその教えに従うのは癪だ。そうだな、ここは一つ、そこで酒でも買っていくか」

 

「寄り道か。そいつは名案だな」ゼウドは愉快そうに云う。「冷えた体にハルン酒は効く。冬にはアレが一番だ」

 

 ゼウドが軽快な歩みで店の中に姿を消すのを見送ってから、グリンザールはふと自身の荷を検める。その中に食糧の類は僅かな干し肉の類しかなく、少しばかり行程を急きすぎたかと内省する。

 

 思ったより多くの寄り道が要るか。

 

 グリンザールは道すがらに在った料理屋の所在を記憶から掘り返しながら後に続くように酒屋の戸を開き、そこに身を滑り込ませて、後ろ手に戸を閉めた。

 



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逃走

「ハッハー! ざまあみやがれ!」ゼウドの放った矢は馬上という悪条件にもかかわらず、<黒襤褸>の馬の額を過たず射抜いていた。咄嗟に<黒襤褸>は砂へと飛び降り、派手に転げる馬に巻き込まれる事を逃れる。その脇を<灰襤褸>と<茶襤褸>の馬が駆け抜けるが、<黒襤褸>の姿は見る見る内に小さくなって消えていった。

 

 並び駆ける灰襤褸と茶襤褸の二者は馬に鞭打ち、徐々にであるが確実に距離を詰めつつある。既に彼ら共通の歪み曲剣は月明かりを映し、それは冷えた刀身を暖かい血で濡らすのを今か今かと待ちわびている様であった。

 

「そんなに撃たれるのが好きかよ! 相当だぜ!」ゼウドは毒づきながらも二丁のゼイローム・ボウガンの弾倉を交換する。「もう二度やれ、ゼウド! 追いつかれるぞ!」手綱を握りながらグリンザールはあらん限りに叫んだ。「この馬では逃げきれん!」

 

 既に長い旅路を酷使されてきた栗毛は疲れを見せ始め、速力を落とし始めていた。未だ彼らに追いつかれぬのもゼウドによる牽制が効いている故であるが、それもいつまで持つかは不明瞭だ。隻眼であるゼウドの射撃は、元より百発百中のそれでは無い。矢とてその数は限られている。更には全力疾走の馬上での事だ。ゼウド自身もそれを理解しているのだろう。普段より慎重に、決して取り落とさぬよう弾倉を石弓へと装着してゆく。

 

 その時、右の砂丘より影が一つ跳躍した。半ば夜空に溶け込んだ黒襤褸にゼウドが反応し、グリンザールが無慈悲なる曲線を以ってその声に応えられたのは正しく奇跡と言える、それ程の奇襲であった。ラーグニタッド刀と歪み曲刀が噛み合う一瞬のせめぎ合いの後、空に居た黒襤褸は大きく弾き飛ばされ、驚くほど綺麗に着地するがすぐさま飛び退いた。そこを灰襤褸と茶襤褸の馬が駆け抜ける。

 

 砂に再び飛び込んだ黒襤褸も直ちに起き上がると、四つん這いになったかと錯覚するほどに低く身を屈めて駆け出す。その速度はあっという間に馬を駆る灰襤褸と茶襤褸を追い抜き、さらには二人の乗る馬に追いつかんばかりに加速した。

 

「グリンザール! グリンザール! あいつは一体何だ! いつ先回りした!? 少なくともまともじゃあねえみてえだが!」「ワロギス、否、かの迅速さとあの得物、アル=ニヤトの徒であろうな!」「そう云う事を聞いてんじゃねえっての!」背でやけくそ気味に喚くゼウドに、グリンザールは負けじと声を張って馬に今一度鞭を入れた。しかし黒襤褸は恐るべき速力を以って見る見る内に彼らに肉薄してくる。

 

「……止むを得んか!」一瞬の思案の後グリンザールは鐙から片足を抜き、ゼウドに手綱を託して馬から降りようとする素振りを見せた。「おいグリンザール!? 狂ったかよ!?」狼狽したゼウドの問いに、黒襤褸を睨みながらグリンザールが答える。「もはや殺すしかあるまい。ゼウドよ、俺が黒襤褸の男を仕留める。馬の二人は」「それしかねえかよ!」

 

 ゼウドは後ろにあてずっぽうに三発ずつ石弓を放つと、鐙に足を掛けてグリンザールと位置を器用に交代する。

 

「ゼウド、俺を撃ってくれるなよ」「それこそ祈っとけ、竜の仔」それだけ聞くと、グリンザールは意を決し飛び降りて着地、大きく砂塵を撒き散らす。既に彼らに迫っていた黒襤褸は砂の中に臆せず突進し斬りかかるも、瞬く間に二度振るわれたラーグニタッド刀に退けられ、堪らず身を引く。その機を逃すグリンザールではない。黒襤褸よりもさらに昏き影となってその懐に潜り込んだグリンザールは、渾身の力を以って胸を裂かんと剣を振り上げた。しかし敵もさる者、仰け反るようにその致命の一撃を凌ぐと、後転する勢いそのままに爪先でグリンザールの顎を狙う。それをグリンザールが飛び退いて躱すと黒襤褸は追わず、見定めるように腰を落としてグリンザールの動きを伺っていた。

 

 相手が剣士と呼ぶに十分な手練であることを、彼らはこの激突で確信していた。

 

 故に動かず、互いに眼前の剣士だけでなくそれぞれの仲間に気を配る。その様を見ていたゼウドは手綱を引いて馬の首を巡らせることで速度を落とさせ、グリンザールが射線に入らぬよう栗毛を歩ませた。黒襤褸もそんなゼウドに対しても警戒の念を向けているようであったが、追い抜いていた灰襤褸と茶襤褸が追い付くと、その殺意を専ら目の前の死に神めいた剣士に向け始める。

 

「やあやあ陰気な襤褸切れ共! ここは一つ、この憐れな詩人の詩に免じて見逃してはくれんか! 好きな歌があれば聞かせてくれたまえ! 俺の楽器はそれに応えたくてうずうずしてる様だぜ!」ゼウドが声を上げた。しかしてその腕には愛用の東方弦楽器ナーバルドは抱えられておらず、代わりに二つのゼイローム・ボウガンがそれぞれ灰襤褸と茶襤褸に見せつけるように向けられている。それを見た灰襤褸と茶襤褸は左右に分かれて馬を歩ませ、ゼウドと栗毛を挟みこまんと動きだした。

 

 グリンザールの前には一対の歪み曲剣を手にした黒襤褸が蠍めいて構え、均衡が崩れるその瞬間を待ちわびるように白い息を吐く。

 

 それを見てグリンザールは僅かに顔をしかめた後、ラーグニタッド刀の切っ先を砂に突き立て、それを左から右に振るい砂地に無慈悲な曲線を描いた。それから一歩分、後ろに飛び退き切っ先を向けて言い放つ。「この線を越えたならば殺す」

 

 その時砂丘の向こうから、びゅう、という音を立て風が砂を運んで来た。その砂によってグリンザールの描いた半円は一息に吹き消されてしまい、それを見たグリンザールは少しばかり、気まずそうな顔をした。

 

「…………前に出たならば殺す」グリンザールは律儀にも言い直し、それを聞いたゼウドは吹き出す。その瞬間黒襤褸は叫びを上げて疾駆し、期せずしてそれが戦いの火蓋を切る事になった。

 



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隻腕剣士とステーキ

「……お前どうやって食うんだ、それ?」云って、ゼウドはグリンザールの眼前に置かれた一枚のステーキを顎で指し示す。そして苛立った顔でステーキを睨みつけるグリンザールの顔を一通り観察したのちに、ゼウドはフォークとナイフを鮮やかに操って、切り口から豊潤な肉汁がこぼれだす最高級のそれを丁寧に口に運んだ。

 

「うめえ」ゼウドの感想は単純で端的だった。表面を素早く焼かれた柔らかいその肉を噛みしめる度に口の中いっぱいに広がる旨味、なめらかな脂の舌触り、玉葱をベースにしたと思わしきソースの深い香り。それらを彼は大いに愉しみながら、フォークで肉を押さえつけ、ナイフで一口大に解体し、時折ワインを口に含んで平らげてゆく。

 

 しかしその一方、グリンザールのステーキには未だ一度も刃が立てられることは無く、運ばれた姿のまま彼の眼前にあった。

 

「なあ竜の仔。そのステーキ、俺が切ってやろうか? いや嗤ったりって訳じゃあねえ。割と真面目に云ってるんだぜ?」その様を見て、珍しく気まずそうに云ったゼウドにもグリンザールは反応を返さない。唯々、憎悪の籠った視線を憐れなステーキ肉に対して向け続けている。

 

 暫しの間、ステーキとグリンザールのそれほど剣呑でない睨み合いは続いた。それに居心地の悪い気まずさと僅かな呆れを抱いたゼウドは、不動の隻腕剣士が何かやらかしはしないかと云う疑念に襲われ、その一挙手一投足を見逃すまいと隻眼を煌めかせる。その時、机の脇に置いてあったグラスの中の氷が、からん、と音を立ててひび割れた。

 

 瞬間、グリンザールはフォークを逆手に持ったかと思えば決断的にステーキに向けてその先端を振り下ろす。そして勢いそのままフォークに串刺しにされた憐れなステーキを釣り上げ、まるで獣めいて喰らいつきに行った。

 

「グリンザール!」その様を見て、ゼウドは今まさにステーキにかぶり付かんとするグリンザールの右腕を咄嗟に押さえつける。そうして無理矢理に一口で食らうには些か無理の有りすぎる肉の塊の主導権を彼は奪い取り、見事皿の上に着地させることに成功した。

 

「何をする」「何をするじゃあねえよ! 本気か今の? いや正気かよ!? ああもうナイフ貸せよお前!」癇癪を起こしたかのように喚きつつ、自身の顔に飛び散ったソースを拭ってゼウドはグリンザールの皿を奪い取る。更にグリンザールのフォークとナイフも半ば引っ手繰るように手に取って、素晴らしい手際でステーキを一口大に切り分け始めた。

 

 不満そうなグリンザールの顔を一瞥してゼウドが溜息をつきながら云う。「ったくグリンジ、公衆の面前でよくもまああんな真似ができるもんだよ。少しは羞恥心てもんがねえのかよお前はなあ」

 

「他に方法があったか?」グリンザールは指摘される理由が心底分からぬといった風に返した。「強いて言うならば、この店の配慮という奴が足りなかったように思えるがな」

 

 ゼウドはグリンザールのその言葉を苦々しい顔で聞き流しながら、手早くステーキを切り終えた。余熱の残った皿に乗せて供されていたステーキは、グリンザールが四苦八苦している内に、既にほぼ芯まで火が通っている。ゼウドはその切り口を見て、此度の食事がエニアリスと対峙しての事でなかった事に心底安堵した。

 

「ほれ食えよ、あんな食い方されちまったんじゃあ俺だって迷惑だ。見てるこっちのメシが不味くなる」云ってゼウドはグリンザールへと向けてステーキとナイフとフォークの乗った皿を滑らせる。グリンザールは今だ憮然としながらもそれを受け取ると、礼の一つも言わずにフォークを使ってその肉を口へと運んだ。

 

「……どうだ? どうだよグリンザール? お前だって、偶には旨いモン食わねェとって思うよなあ?」「うむ…………」普段の粗雑な食生活を揶揄しつつ、一口目の感想をゼウドは求めた。その言葉を受け静かに肉を咀嚼するグリンザールを、ゼウドは爛々と輝く詩人の瞳で見定めながら、彼の言葉を待つ。

 

 それは長いようでいて、実際には数十秒にも満たなかったであろう。既に当初抱いていた気まずさが好奇心に取って代わられたゼウドの視線など素知らぬ顔をしたグリンザールは、思案するように、傍から見ればそのステーキの味を堪能するようにしながら、陰気な入れ墨の見え隠れする喉を鳴らしてその肉を飲みこんだ。

 

「……どうだ?」ゼウドは隻腕剣士の口から、この素晴らしい肉を賛美する如何なる突飛な表現や、狂気じみた幻想に基づいた言いまわしが飛びだすのかと、実に期待した面持ちで尋ねた。しかし当のグリンザールは、普段通りの仏頂面を崩さず、少し歯切れが悪そうに云った。

 

「……良く分からんな」「かあーっ!」それを聞いて、ゼウドは参った、と言わんばかりに天を仰ぐ。そして、自身のグラスのワインを一息に飲み干すと、半ば自棄になったように給仕へと次のワインを要求するのだった。

 



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彷徨い、帰着の朝食

「なぁグリンジぃ、お前どう思う?」「何がだ?」「今の給仕。いい尻してたよなあ」冷水で喉を潤したかと思えば、キッチンへと帰ってゆく若い給仕の後姿を指差して宣うゼウドに、疲労困憊のグリンザールはどんよりとした顔で溜息をついた。

 

 此度の依頼も、また碌な物では無かった。グリンザールは天井を見上げた顔を掌で覆い、如何に己が呪わしき定めに縛られているかを思案した。紆余曲折の奔走、遺跡での狂人たちとの小競り合い、そして、禍々しき魔法の残滓……。更にはこれでもかと言わんばかりの信仰の徒による襲撃だ。昏き<神秘>と幾度となく相対し、それら全てを殺害せんと邁進してきた己でさえも、こうも立て続けとなれば如何せん気が滅入ってしまう。

 

 ……いや、それは正確ではなかろう。狂人共の体を分かつ瞬間、剣を振るう歓喜が確かにあった。神秘の徒の首を断った瞬間、魔法を殺す歓喜が、確かにあった。ただそれと同時に、肉体の疲労が重くのしかかるのを感じるのは、贅沢な悩みと果たして云えるのだろうか。それを語れるものは、黄昏の荒野にも幾人とおるまい。

 

 ザールニールよりロヅメイグへの道中、体が些か以上に空腹を訴えている事を二人は早々に自覚していた。しかし恐るべき<三襤褸>からの逃走劇の中で、その欲求を癒してくれるはずの食糧は馬に括った荷から零れ落ちてしまい、二人は戦傷と疲労と空腹を抱えたまま、朝方のロヅメイグへと這う這うの体で辿り付いたのだ。何時だか生死の境を彷徨った剣士を詩人が背負ってきた時よりはマシだと言える状態であったが、それは十分に満身創痍と云える有り様で、二人はエニアリスの待つ灰都第七図書館へ向かうのを一旦諦め、ひとまず、眼についた食事処に滑り込んだのだった。

 

 上層の、地上に近い一部を除き、灰都の夜じみた闇が照らされることは無い。陽の恵みを直に受ける事が出来るのは、一握りの持つ者だけと相場が決まっている。持たざる者は? 灰都から去るものがまた一握り、それを甘受するものが大半だ。朝だと云うのに、否、朝だからこそ、街路には寒々とした夜霧が今だにちらつく。

 

 見よ。分厚い白闇の帳より現れ出た馬車を駆る御者など、如何なる大男かと慄かれんほどに、幾重にも外套を着込んでいるではないか。

 

 その中でこのような、温もりに満ちた場所でただ食事が運ばれて来るのを座して待つことが出来るのは、彼らにとって久方ぶりの、修羅場の外の平穏と共に手にした幸運であった。暖炉からほど近い窓際の席に腰を落ち着けた二人は、それぞれの料理を注文した後、酷使した肉体を労わるように、穏やかな時間の流れに身を任せている。呪われし運命を歩む者らには些か相応しくないひと時であった。

 

 朝方のこの時間、この店に彼ら以外の客は無い。ロヅメイグに長らく住む者の多くは昼夜の概念を忘れて久しいが、それでも住人の多くが朝起きて夜眠る生活を続けている。この商国イトでは物資の流通はとても重要な要素であり、それが故にこの積層都市にも多くの他所者が日々出入りしているからだ。彼ら外からの来訪者達は多くの場合ロヅメイグの商い人によっての上客であり、故に多くの商いが彼らの生活に店の開業時間などを合わせていた。

 

 故にロヅメイグに住まう者達は、彼ら商い人の店を利用するためにも上っ面だけは外の者と同様朝の刻に目覚め、丑三つの刻にはとうに夢に沈んでいる、そう言った生活を送っている。当然、真に昼夜の概念を忘れ去り、永い夜を生きる者も居るには居るのだろうが、そう云った者は押しなべてロヅメイグにおける『下の下』、地の底、真なる坩堝たる極低階層に集っており、今二人が居るような地上近くでそういった者を見るのはまったく稀な事であった。

 

「なぁグリンジよぉ」「……何だ?」しばらく、どこからか取りだした知恵の輪を眼前で弄り回していたゼウドは、思い出したようにグリンザールに声を掛けた。それに対してグリンザールは渋々と云った様子で、窓の外にやっていた視線を戻す。「何でこの店、朝だからって酒を置いてなかったんだろうなあ。彷徨いに優しくねえとは思わんかね?」ゼウドは分かたれた知恵の輪を机の上に放り出して、さぞ不思議そうに云った。

 

「イトでは酒は多くの場合、夜の食事と共に供されるものだ。それに、これから仕事だと云うのに、道中で酔ってから向かおうとする者はそう多くあるまい……まあ、一口二口、セード酒あたりを嗜む者くらいは居るだろうが」グリンザールは興味なさげに椅子の背もたれに大きく寄りかかり、その隻腕たる右腕で顎をさすった。「詰まる所、朝には酒が売れんからだろうな。恐らくどこへ行っても似たようなものだろう」

 

「朝も昼もありゃしねえと思うがなあ、このロヅメイグに限っちゃ」ゼウドはそうつまらなそうに云って、知恵の輪をまた繋げ直したが、耳聡く後方からの足音を捉えたか、早々にそれを懐にしまい込んだ。と同時に、先ほどの給仕が湯気の立った二皿のスープと、何切れかのバゲットが乗せられた皿を机の上へ並べてゆく。

 

「ハッハー! 待ってました!」昨晩眠ることが出来なかった故か、あるいは単純に空腹に耐えかねていた為か、ゼウドは意味もなく大げさに手を叩いてその到着を喜んだ。朝方ゆえ客は彼らしか居なかったが、その声にグリンザールは大きく眉を顰め、驚いたように目を丸くしていた給仕は困ったように笑うのだった。

 

 

 

 

 

 

 ゼウドは遠慮する給仕に些か多めの銅貨を握らせて帰らせると、その後姿をじっくり堪能して、ようやくバゲットに手を伸ばす。一方グリンザールは淡々とスープを啜り、バゲットを齧り、そのバゲットをスープに浸しと早足気味にそれを食していた。

 

「滲みる。腹の底に」そんなグリンザールとは対照的に、ゼウドは玉葱をベースにしたと思わしきスープの香りと、荒いバゲットの麦を口の中で丹念に味わう。今し方まで温められていたスープは暖炉の熱とは対照的に、内から詩人の躰に熱を与えた。あっさりとした琥珀色の玉葱のうまみの中に、僅かに沈んだコショウの辛味のアクセント。それは寒さに震えた体に対しては何にも勝る特効薬であり、事実ゼウドはほう、と満足げな溜息を吐いた。

 

「なあ竜の仔。このスープ、何処のもんか知っているかね?」「いや」ゼウドの問いに、グリンザールは顔を上げる事も無く答えた。「久しく食っていなかった味ではある」「へえ」「ずいぶん昔だがな。ラーグニタッドで似たようなスープを食った覚えがあったな」

 

「ラーグニタッドねぇ、俺も行った事ねえな。どんな所なんだ?」「呪われた地だ」グリンザールはその物言いとは裏腹に、らしくなく懐かしそうに眼を細めた。「<黒き地>程ではないがな」

 

「ミゴルドと比べちゃあいかんだろ」ゼウドはコップに並々注がれていた水を一度口にした。「あそこがどんなトコかってのはガキだって知ってる。例え行った事が無かろうとな」

 

 グリンザールは無関心にスープに沈んでいた鶏肉をバゲットに乗せて、それを頬張り、時間をかけて咀嚼して飲む込む。「その食い方いいな。うまいかよ?」「食い応えはある」「そいつは大事だな!」ゼウドはけらけらと笑って、グリンザールがやったように鶏肉を一切れ乗せて、美味そうにバゲットを頬張った。

 

「いや、いや、美味い。んだが、餓えた俺には、ちと塩気が足りんらしい。グリンジ、塩取ってくれ」云ってゼウドは塩の瓶を指差す。その塩の瓶はグリンザールの左手側に置かれていた。スープを啜っていたグリンザールは、面倒そうにスプーンを置いて右手を伸ばす。

 

 だがそれに先んじてゼウドは席を立ち、グリンザールに先んじて塩の瓶を掠め取っていた。「ああ、悪ぃ、自分で取れたわ」ゼウドがバツの悪そうな顔をして云い、グリンザールは不機嫌にゼウドを睨みつける。「自分で取れるのならば最初からそうしろ。手間をかけさせるな」グリンザールは不躾に言う。ゼウドはそれを見て一瞬『文字通りにか?』とその胸中で思いはしたが、それを口に出すような無粋な真似をする事は終ぞなかった。

 

 

 

 

 

 

 それから二人は、無言で只管に食事を貪った。と、言ってもその実出された食事の殆どを平らげたのはゼウドであり、それに比すればグリンザールの食事量など微々たる物であったと云えるだろう。単純に腹が減っていた、という問題ではなく、個人の資質の問題だ。

 

 畢竟、ゼウドは所謂<痩せの大食い>であった。それだけだ。

 

「うっし、そろそろ行くか。エニアリスの首も、竜めいて伸びちまってるに違いねえ」「賛成だ」腹をさするゼウドを待ちかねていたようにグリンザールは云った。「奴を余り待たせると碌な事にはならん。時間が経てばなおさらだ」彼らが店の戸を潜ってから既に一時間以上が立っており、小休止と言うには少しばかりじっくりと腰を落ち着けてしまっていた。

 

 ゼウドは少し疲れたような顔で笑って、背負い籠を手にしたグリンザールを見る。「アイツ、少しがめつすぎやしねえかって俺は思ってるんだが、お前どうだ?」「否定は出来んな」グリンザールは溜息を一つつく。「此度の仕事に見合った金貨が支払われるかも、俺は怪しい所だと思っている」「云うなよグリンジ。行く気が失せちまうだろ」「行かねばタダ働きだ。それは困る」「そうなんだよなあ」云ってゼウドも大きなため息をついた。

 

 彼らは最後にそれぞれの水を一息に飲み干して、グリンザールが自身の懐から銀貨を一枚放りゼウドがそれを掴み取る。ゼウドがその銀貨を検めている間にグリンザールが机に備えてあった鈴を鳴らすと、調理場から給仕が顔を出して、ぱたぱたと彼らの机に駆け寄ってきた。

 

「どうされましたか?」「会計を」短く言ったグリンザールに応じて、給仕は一度奥へと引っ込んで行った。ゼウドは懐から銀貨と銅貨を幾枚か取り出して、持っていたグリンザールの銀貨をそこに加える。二人の食事量から見れば適正な配分であった。

 

「お待たせしました」「これで足りるかい?」戻ってきた給仕に、ゼウドは手に持った幾枚もの硬貨を手渡す。難しそうな顔で給仕が銀貨と銅貨を仕分けていくのを、ゼウドは楽しそうに眺めていた。

 

 しばらくして、給仕は困ったように笑いながら、数枚の銅貨をゼウドに差し出して来る。「この分は余計ですのでお返しします。片方が五十二年の銀貨なら、ふたつで十分ですよ」「いや、そっちは君に」「はい?」ゼウドは余りの銅貨を差し出す給仕の手にそっと自身の手を重ねた。

 

「アー、我らが出会いはルトゥナの楽譜、人の愛ははカンテラの様に。暖炉のひとよ、そなたは陽の様に暖かく。朽ちた焼炉の俺は、君の温もりをもう少し感じて――痛っ! おいグリンジ何すんだよ!」ゼウドは後ろに立つグリンザールを非難がましく睨みつけた。

 

「そんな事をしている場合か? 無駄に時間を使えば奴に難癖をつけられるのは明らかだろう」自身の肩を手刀で軽く叩いたグリンザールに云われてなお、ゼウドは口をへの字に曲げて不服であると主張する。「なあ竜の仔ぉ。お前には分からないかもしれんが、美人ってのは旧詩にも劣らぬ、貴重な財産なんだぜ? 声を掛けずに居れるかよ」

 

「そんな事俺が知るか」グリンザールはゼウドの横をすり抜けながら苛立って云った。「女を口説きたいのであればまた後でやれ。仕事を終えてから独りでな」「くそっ、分からん奴め」ゼウドは毒づいて一度思案し、悲しそうに肩を落とした。だがその実諦めきれてはいなかったようで、戸を潜るグリンザールを尻目に給仕の耳元へと顔を寄せて囁いた。「君さえ良ければ今宵獅子の刻、第七図書館の正門前で」

 

 云って彼女から離れたゼウドは微笑んで、短くナーバルドをかき鳴らした。給仕は顔を赤らめながらそれを見て、困ったように笑っている。ゼウドはその眼の奥の感情を覗き込もうとして、自身の他者の心底を見抜く詩人の眼が女のそれに限って見通せぬことを、心中残念に思った。

 

 だが、そこで足を止めている時間は無く。一度給仕に向けて小さく手を振ると、既に外に出たグリンザールを追うように、ゼウドは急ぎ足で店を後にするのだった。



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雪降る路傍

 雪は、ロヅメイグではまず見れぬ類の物だ。

 

 それは最上層付近の者達のみへの天啓である――――からではない。かの積層都市における冬の象徴とは即ち夜霧であり、同時にまとまった雪が降った事など、この数十年無いからだ。故に、灰都で生まれ、長らくそこで過ごしてきたものは、そのちらつく雪を見て自身が故郷より遠く離れてきたことを強く強く実感するのだと云う。

 

 路銀を稼ぐべく、路傍でナーバルドをかき鳴らしていた隻眼詩人がちらついた氷の結晶を前にしばし演奏の手を止め、興味深そうに鼠色の空を見上げたのも、それと全く似たような理由からであった。

 

「降ってきたな」ゼウドは宙を見上げたままに呟いた。その鼻先に舞い踊った雪がひらりと乗って、じわりと水へ変じたそれを咄嗟にゼウドは指で拭った。「こいつは、早くどうにかしないと凍えちまうぜ」

 

「イスギールには、雪夜の中謡い続けた詩人が翌朝氷像となってなお謡い続けた<ヴォロの雪謡い>と云う民話がある」観客達を恐れさせぬよう、距離を取って座り込んでいたグリンザールが呟いた。「お前も今宵御伽噺となるか? ゼウドよ」

 

「冗談じゃあねえぜ」ゼウドは心底呆れたように云った。「まぁ、このままじゃあ俺ら揃って、骨の芯まで凍てついてしまうだろうけどな!」その表情を捨て鉢な笑顔へと転じて、ゼウドは通行人を呼び込むべく抱えたナーバルドをかき鳴らした。

 

 だがしかし、彼らの前に立ち止まる者は居ない。雪の冷たさをよく知るこの街の住人は、これより本格的な降雪が始まると理解しており、急ぎ足で帰路へとついていたからだ。それを知らぬ宿無き二人の彷徨いは、飄々としていながらも、僅かながら現状に焦りを感じている。

 

「しかし、こいつは困ったぞ」暫く無軌道に演奏を続けて、一呼吸置いたゼウドが尋ねた。「グリンザールお前、金はどのくらいあるんだっけか?」

 

「銀貨一枚」グリンザールは立ち上がりながらに云った。「お前も、俺と同様であったろう」「ああ、ああ、こりゃダメだ」ゼウドは危機感無く笑う。「俺の虎の子も、此度は巣穴に居らぬしなあ」そう言って眼帯を撫ぜる隻眼詩人をよそに、グリンザールはその場を離れようとした。

 

「おい、どこ行くんだよグリンジ。まさか逃げ出そうってんじゃあないだろうな」「否」疑念たっぷりの詩人に、剣士はすげなく返す。「万一の為、忍び込めそうな厩でも無いか探してくる。路傍で雪に埋もれるよりは、幾分マシだろう」「違いねえ」

 

 そう言い残して去ってゆくグリンザールを、ゼウドは薄く笑いながらに見送り、それから自身の頭と肩に乗った雪を払った。

 

 

 

 

 

 

 そうして、どれほどナーバルドをかき鳴らしていただろうか。既に指もかじかみ始め、震えを感じてきたゼウドは未だに増えぬ路銀と帰らぬグリンザール、双方に対して苛立ちを感じ始めていた。

 

 雪も少しずつ勢いを強め、それとは対照的に人通りも疎らになり始めていた。これでは、最早今宵の演奏で手に入る金などどうして期待できようか。ゼウドは飽き飽きするほどに繰り返した通りに頭上の雪を払い、これが最後の一曲と聞くものも無い<漁師フェルバルの涙>をかき鳴らし始める。

 

 すると、自身の頭上に影が落ち、降り注ぐ雪が一度途切れる。不思議そうにゼウドが頭上を見上げれば、そこには黒く、そして骨が幾つか飛び出した傘を手にした隻腕剣士が佇んでいた。

 

「おいおい竜の仔、その傘どうした? 随分おんぼろだが、まさかなけなしの金で買ってきたって訳じゃあねえだろうな?」薄く笑いながらゼウドがグリンザールに皮肉を向けると、剣士は詩人の頭上に差し出していた傘をさっと引っ込める。「オイ、傘はそのままにしとけよ。体が冷えて仕方ねえ」

 

「九つ先の辻の裏に、少々過密気味の良い厩が在った。運が悪ければ馬に潰されて死ぬだろうが、凍え死ぬよりはマシだろう。行くぞ」グリンザールは笑うゼウドに取り合わず、淡々と自身の捜索の成果を伝えるだけだ。しかしゼウドはその場を立たず。再びナーバルドをかき鳴らし始める。

 

「まぁ待てよグリンジ。ここで終わらせちゃ歯切れが悪い。せめて、切りの良いとこまで付き合えよ」それだけ言って、ゼウドは曲の続きを謡い始めた。もはや聞くものも無く、静かに雪だけが降り積もってゆく中で、グリンザールだけが唯一の観客であった。「何の歌だ、これは?」

 

「『嘗て小さな港町、ラッシェンワルドにて運命に引き裂かれた男女あり。男は漁師。ある嵐の夜、酒場で愚弄され、意地になりて海に向かいし男の網に、それはそれは美しい女がかかったそうな』」「ありがちな話だ」夢中になって歌うゼウドに、探求の中でその類の話を数多知るグリンザールはつまらなそうに云った。しかしゼウドが語り止める事は無い。

 

 普段の陰鬱で取り止めの無いそれとは違う、どこか温もりを感じる音色にグリンザールは空を見上げた。その間にもゼウドは一人詩を紡ぎ続けてゆく。

 

「『女は美しく、しかしその美しさと衣服以外の全てを失いし彷徨い人。何処から来たかも忘却せし女を男は匿い、甲斐甲斐しく世話を続けた。当然、二人が恋に堕ちるのにそう時間はかからなかった。踊り子としての才を見せ、男の助けとならんとする女に、男もこれまでに無き漁の腕を見せ応え続ける』」踊り子、と云った所に僅かばかりの感慨を込めながら、ゼウドは謡い続ける。

 

「『そうして穏やかな日々がしばらく続いたあくる日、またしても嵐がラッシェンワルドに訪れた。ギイギイと揺れる小屋の中で、身を寄せ合い朝を待つ二人。そこに、望まれざる来訪者が現れる』」「それってどんなお人?」「そりゃあ、所謂ありうべからざる――――ん?」ゼウドが顔を上げれば、そこには幾重にも厚手の服を纏った少女がしゃがみこんで詩の続きを催促していた。

 

「ああ……いや、そうだな……『そこに現れたのは女の家族でありました。女は実はどこかの国のお姫様で、その仲の良さを認められた二人は、あー、仲睦まじく暮らしましたとさ。めでたしめでたし』」「わぁ、よかったねぇ」「ああ、いい話だ」その無垢な視線に負けたか、明らかに話の内容を差し替えたゼウドとそれに気づかず小さく拍手する少女に、グリンザールは何とも言えぬ視線を向けるのだった。

 

「よし、グリンジ終わったぜ。さっさと行こうや。凍えちまったよ」「ああ」ナーバルドを左肩に背負い込み立ち上がったゼウドに首肯して、グリンザールも外套を改めて深々と羽織る。「おじちゃんとお兄ちゃん、遠くの人? もっとお歌、聞きたいなぁ」

 

 それを一瞥して、しかし足を止めぬグリンザールに対してゼウドは足を止めてしゃがみこみ、にこやかに笑ってその頭を撫でた。「悪いなあ、お兄ちゃんたち、今日はもう行っちまうんだ。またそのうち機会もあるだろうから、その時は銅貨握って見に来てくれよ」「うん、わかった! じゃあ今日はこれ、銅貨の代わり!」

 

 そう言って、少女が手提げ袋から差し出した何かの揚げ物をゼウドは受け取り、また笑ってその頭を撫ぜる。それに少女は猫めいてくすぐったそうに眼を細めた。「じゃあお嬢ちゃん、あんたもさっさと帰りな。お母さんがあったかいスープ作って待ってるぜ」「うん!」

 

 にこやかに頷く少女の頭をポンポンと軽く叩いてゼウドは帰らせると、彼は立ち上がり少し先でこちらを待ち続けるグリンザールの元へと走り寄った。「グリンジよぉ、もうちょい待ってくれても良かったんじゃあないかね」「知るか。早く切り上げればよかっただろうに」「ハッ! お前、詩人にそれを云うか?」

 

 肩を竦めてゼウドが咎めると、グリンザールはそれがどうでもいいと云わんばかりに踵を返した。「これ以上積もる前に行くぞ。これ以上は、本当に凍えかねん」「分かった分かった。さぁて、藁と馬で出来た暖かい寝床が雪中行く二人を待っているのでありました、っと」そう云って、グリンザールと共に歩き出したゼウドは、少女から貰った揚げ物を一口齧り、まだ熱の残るそれに舌鼓を打つのだった。



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寂しい何か:1

「ねぇ、ゼウド君? 私、貴方に聞きたいことがあるのだけれど」

「あン?」

「貴方、ナーバルド以外の楽器は嗜んではいないのかしら?」

 

 崩れた廃墟から差し込む陽光に眼を細めていたエニアリスは、椅子にもたれてピアノに足を掛けた詩人に問いかけた。「何だよ突然? 暇なのは分かるが、実に突然だな」ゼウドは普段の彼とはかけ離れた、少し呆れたような口調で返した。「ええ、暇だから。少し気になったのよ」

 

「かー」ゼウドは悪態をつき天井を仰いだ。「このピアノでも演奏しろってか? 如何な達人と言えど、壊れた楽器に歌わせるのは骨が折れるだろうぜ」「そういう話じゃないわ。あまり邪推するのはやめて」エニアリスは形の良い眉を僅かに潜めて、少し機嫌を損ねたようだった。

 

「……確かに、俺は他の楽器の心得も一応ある」ゼウドはぶっきらぼうに応じた。「やっぱり?」エニアリスは少し微笑んで応じた。「『若いころ』に学んだのかしら?」

 

「お前はなあ、もう少し言葉を選んだ方がいいんじゃねぇのか? せめて<棘>の無い言い回しを考えろって」くるり、とピアノに掛けた足を降ろし、ゼウドはエニアリスに向き直る。「ガーナルーシャンの血が泣いてるぜ?」

 

 その<棘>のある物言いに、しかしエニアリスはさほど機嫌を悪くしなかったようだと、ゼウドには思えた。

 

「気に障ったなら謝るわ。ただちょっと、気になっただけなのよ」そう言いながら、エニアリスはちっとも申し訳なさそうでは無かった。「で。それが何だってんだよ」その様こそが僅かばかりに気に障り、ゼウドはますます投げやりに応じた。「俺に、ナーバルド以外の演奏でもさせようって話かい?」

 

「そうなのよねぇ」エニアリスは頬に手をやり、僅かに首を傾げて云った。「実は月の終わりに、舞踏会があってね。腕のいい楽師を探しているのよ」意図は明白だったが、ゼウドは即座に答えを返そうとはしなかった。貴族のしがらみからは久しく離れた自身が、楽師としてとはいえ、そういった場に戻ることを無意識に忌避したのか。あるいは単に、また彼女に使われることを苦く感じたからだろうか。

 

「当然、礼はするわ。夜を共にする以外でね」エニアリスは、彼女としては珍しくどこかおどけたかのように云った。「悪く無い話だと思うけれど、どうかしら?」

 

「ふーむ、そいつは難儀なことで」ゼウドは右手で顎を擦って唸った。「とりあえず、あれだ。ぶっちゃけいくら出す?」そうゼウドは切り出した。そも彼はエニアリスに大きな借りがあるのだが、そちらに『礼』を回そうなどとは露程も考えなかった。

 

「そうね、貴方の評判次第にはなるのだけれど……最低でも三八一年のゴール金貨。あれを十五枚出すわ」エニアリスはまるで思案したかのように云った。「ウフハハハハ! そりゃあいい! そんな旨い話、是非もないじゃねえか!」ゼウドもまた、まるで気を良くしたかのように笑って云った。「まったく持って、持つべきものは『良きご加護と良い雇い主』! 此度の俺は、随分とそれに恵まれてるようだ! ハハハハハ!」立ち上がったゼウドは祈るかのように一度手を組み、それから大仰に腕を広げてその場で回った。

 

「ゼウド君」エニアリスはそれを見て、つまらなそうに云った。「貴方のお芝居の腕には期待してないわ。程々にしてちょうだい」ゼウドは身振りをやめ、エニアリスを見返した。「俺もアンタのお芝居には期待してねえよ。ってわけで、なんだ? それ、本当に真っ当な演奏会か? まずはそこから聞かせろよ、エニアリス」そうゼウドが問いかけるとエニアリスは一度小さくふふ、と笑い、ますますその笑みを深くした。



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寂しい何か:2

 

 文明と商業と合理主義の国、西方国イト。多くの者が希望、あるいは絶望のもとに訪れ、酩酊と退廃の果てに掠れ行く国。その南東に一つの坩堝が在る。

 

 地に沈む、六十と八の階層より成る積層都市。そこには全ての神秘と欲望の香りがあり、また新たな全てが生みだされ、打ち捨てられ、忘れ去られてゆく。誰もが一つの宵を越えられる事に感謝し、しかして明日の光明を見出せぬまま眠りにつく。地の底では今だ絶えることなく採掘が続けられ、街路では他層への架橋が行われ、多層にてその版図を広げ続けている。上層にていくつかの貴族たちが夜な夜な秘密信仰に耽る中、下層の貧民は上からの落伍者から身包みを剥いで各々の命を繋げつつ、何時かその境遇から抜け出すことを夢見ていた。此処は<灰都>ロヅメイグ。あらゆるものが在りながら、その尽くがどこかぼやけ、霧の如く流れ去る地。

 

 この日の灰都は、一際冷え込んでいた。

 

 最下層より霧を伴って上り来るその冷気は、中層の灰都第七図書館にまで忍び込んでいた。平時から静謐な空気を湛えるこの大図書館であるが、この日のそれは半ば肌を刺すような冷たさであり、多くの使用者は重ねた外套そのままに自らの求める書を探し求め、幽鬼の如く彷徨い歩いている。またある者は、方々に用意された机でランタンの僅かな温もりに照らされ、書を開いていた。普段であれば書架の群れと書物の背表紙、そして迷える探索者達を柔らかく照らす灯り達も、この寒さには音を上げたのか、所々暗く沈んでしまっている。歩き回る司書達の幾人かが、それを見咎めては火を入れ直していた。

 

 そんな大図書館の一角に、寒さに震える周囲など素知らぬとばかりの温もりに満ちた一室があった。この図書館のあるじ、ガーナールサの賢女、赤衣の女史。エニアリス・リーゼルフォーの居室である。

 

 紅茶の香りが漂い、暖炉のぬくもりに包まれた図書館長室には四人の男女の姿があった。美と書庫の国、ガーナールサの血に相応しい知性を宿した深緑の瞳を持つ、琥珀の髪のエニアリス。給仕として呼ばれた女性司書グアリア。そして黒髪の隻腕剣士グリンザールと、彼と共に道行きを行く灰毛灰眼の隻眼詩人ゼウド。彼らの内エリアニス、グリンザール、ゼウドの三人は、グアリアが暖炉の管理に四苦八苦するのを尻目に机を囲み、此度のエニアリスよりの依頼について話し合っていた。

 

「それでつまりだ。エニアリスには欲しいもんがある。その持ち主が大事なものを盗まれて困ってる。そこであんたは大事なもんを取り返して、交渉の材料にしようってわけだ」眼帯を撫でながらゼウドは話をまとめた。ぱさりとした灰の長髪が、傍に建てられたランプに照らされて輝いている。「ええ。説明ありがとう、ゼウド君。グリンザール君も、事情はわかってくれたかしら?」灰都、第七図書館の長たるエニアリスは眼鏡を直して、ゼウドの要約に頷いた。

 

「だから俺も舞踏会に来いと? 意味がわからん。正気なのか?」グリンザールは普段よりもずっと不躾に云った。この陰気な隻腕剣士は他人と関わる事自体を嫌うし、それ以上に目立つことを嫌う。個人の気質も、喪われた左腕も、そのどちらもがそうさせるのだと、詩人も図書館長も考えていた。「俺は行かんぞ」グリンザールはソファから立ちあがり、館長室を後にしようとする。

 

「待てよ竜の仔。別に、お前に舞踏会で踊ってもらいたい訳じゃあねえんだ」ゼウドはグリンザールの背に向けて云った。「最初っからそんな事は頼んじゃいねえだろ? 座れって。ま、詳しいとこは俺もこれから聞くんだがよ」

 

 その言葉にグリンザールは渋々ながら椅子に戻り、再び射貫くような瞳でエニアリスを睨んだ。「ある程度、事情は分かった。しかしなぜ俺達のような彷徨い人にそんな仕事を頼む理由がある? ゼウドの腕は確かだが、もっと真っ当な楽士など灰都には吐いて捨てるほど居るはずだ」グリンザールは捲し立てるように云った。吐いて捨てるほど、と言う部分にゼウドが一瞬眉をしかめたが、気を取り直すように紅茶に口をつけ、熱かったのかすぐさま椀を置く。それを見てからエニアリスが答えた。「当然、荒事よ」「だろうな」グリンザールは云って、一息に紅茶を飲み干した。

 

「此度の舞踏会は、五十六階層の北東に居を構える、ネルヴァン家。彼らの邸宅で行われるわ。ネルヴァンは十年前に当主が変わってから、随分と指輪の蒐集に熱を上げていてね。いろいろと汚いやり方もしていたらしいわ」「そいつァ、同じ貴族からもか?」「ええ、それはもう。指輪一つのために潰された家もあるなんて噂よ。嫌よねぇ」エニアリスはそこで一度云い終えると、自身の紅茶を品のある所作で口に運んだ。

 

「ハハア、読めたぜ。つまりだ。どっかの貴族様の大事な指輪をそいつらが持ってっちまった。その持ち主は、対価に糸目をつけずにそれを取り戻したがってる。あんたは舞踏会に乗じて俺達にそれを取り返させて、何かしらの対価を頂く腹積もりだな? 金貨十五枚じゃ、ちーと荷が重いんじゃあねえの?」ゼウドは目だけは笑わずに云った。「せめて倍は貰わねえとなァ」

 

 その要求にエニアリスはあからさまに嫌そうな顔をした後、手布で眼鏡のレンズを拭き、掛け直して答えた。「別に、今回はそこまで大事になる、そういう話じゃないわ。舞踏会をしている間に館に忍び込んで指輪を取り返してきて欲しい。それだけよ」「俺は盗人じゃない」グリンザールはますます不機嫌そうな顔をして云う。「それこそ、本職の者に頼むべき仕事だろう」

 

「そうね」エニアリスは、そう云われるのを知っていたかのように頷いた。「でも、これは貴方にも利がある話よ。とりあえず最後まで聞いていきなさいな」

 

 そう言われたグリンザールは半ば諦めて俯いた。グリンザールもエニアリスには若き日より多大な貸しがあり、今までもその貸しが響いて無理難題を言いつけられて来た身だ。自身の言い分を理解した上でまだ話を続けるのであれば、彼女の中では既に己たちが此度の『頼み』を受けることに決まっているのだろう。

 

 もはや如何に転がした所で、例の如く彼女に従わざるを得まい。あの恐るべき<棘>を向けられるよりはマシだ、と彼は考えた。グリンザールは今までの『頼み』のいくつかとその顛末を想起し、少しうんざりした。

 

「……続けてくれ。俺の利について、詳しくな」グリンザールは、僅かな抵抗めいて眼を細めてエニアリスに云った。

 

「それじゃグリンザール君の要望にお応えして、その辺りから教えるわ」諦めたようなグリンザールに気を良くしたのか、エニアリスは笑顔で話し始めた。「私が求めているのは、本よ」「本だあ?」菓子を齧っていたゼウドが心底わからぬ、という風に聞き返した。「当然、真っ当なそれでは無いのだろうな」グリンザールは真剣な面持ちで云った。

 

「ええ。旧くよりイスギールにあり、今もその地を支配する二十三氏族。嘗て彼らとともに二十七氏族とされながら、今は絶えし四氏族に関する文献……とされているわ」そこでまた紅茶を口に含むと、エニアリスはグリンザールを試すように見る。「<北の果つるところ>、<とこしえに白き大地>。イスギール・ナ・ムルデンか」グリンザールは眉一つ動かさず、それに答えた。「その通りよ」エニアリスは満足そうに云った。

 

「その本には失われた四氏族の内の名も残らぬ氏族。その信仰と、彼らの用いた秘儀についてが記されているらしいの」「なんだよ、はっきりしねえなあ」「それを確かめるには実際に読んでみる必要がある。いちいち解り切ったことを言わせないで」カチャカチャと、どこからか取りだした知恵の輪を弄っていたゼウドの小言にエニアリスは口を尖らせる。ゼウドはおお怖え、と呟いた後、再び知恵の輪を弄り始めた。

 

 しばし、ゼウドに呆れたような視線を向けていたエニアリスだが、一度小さくため息をつくと、気を取り直したように云った。「当然、それを手に入れた後はグリンザール君にも読ませてあげるわ。それが私の提示する此度の『利』よ。少しはその気になってくれた?」「ふむ……」グリンザールは口元に手をやりしばし思案する。

 

「……エニアリス。むしろお前は、俺にこそ其れを読み明かして貰いたいんじゃあないのか? そもそも、その書が『読める文字』で書いてある保証など何処にも無い。その場合、お前がどれ程人を用いて解読に挑もうが、結局俺が目を通した方が早いのは間違いないのだからな」グリンザールは努めて尊大に云った。「あら、これは痛い所を突かれたわね」口ではそう言いながら、エニアリスは涼しい顔でグリンザールを見つめている。

 

 灰都に名高い第七図書館長であり、その職務に少なからず矜持を持つエニアリスに対して、並の者がこのような物言いをしようものなら、良くて図書館から放り出され、悪ければ彼女の得物たる世に唯一残された連射拳銃、<棘>によってその二の句を断ち切られる事となるだろう。しかしてグリンザールがそれを許されるのは、彼の持つ、文書であればどのような文字で書かれていても意味を忽ちに理解し、ありうべからざる禁忌の文書とそうでないものを正しく見分ける生来の文書解読の才。それをエニアリスが知り、彼女がそれに心底敬意を払っているからであった。

 

「先に言っておくけれど、文書の解読にはまた別に報酬を払うわ。それが無くとも、グリンザール君にとっては魅力的な報酬だと思うのだけれど。どうかしら? ね、グリンザール君」エニアリスはグリンザールの顔を覗き込むようにして云った。グリンザールは少し顔をしかめた。エニアリスがそう言う仕草を見せる時は、結局、話が自身の思うように進むことを確信し、実際そのようになる時なのだと、グリンザールは十年近く彼女と接した経験から熟知していた。「……俺の利に関しての話はもう十分だ。ゼウドも退屈しているようだしな」

 

「よおグリンジ。話は決まったみてえだなあ」とうに知恵の輪を外し終え、グアリアの給する菓子を機械的に食らうばかりであったゼウドが待ちくたびれたかのように云った。「ゼウドよ、お前こそもう少し美味そうに食ったらどうだ?」その様を横目に見たグリンザールは僅かに口角を釣り上げ、皮肉めかして云う。

 

「美味いぜ? 美味えんだけどよお、ワケの分からん話を聞きながらじゃ、とてもじゃねえが気分が乗らん」ゼウドは毒づいて云った。それは彼が、常日頃よりグリンザールがこの世に蔓延ると宣う<魔法>を始めとする、神秘の一切を信用してはいないからだ。

 

 彼は金貨と、自身の過ごした歳月と、その身に修めた技術こそ、真に信頼に足るものであると考えている。故に、神秘の存在を前提に動くグリンザールを、時に忌々しく思っているのだった。

 

「お前にもいつか、分かる時が来るだろう」グリンザールが、どこか遠い目をして云った。ゼウドはそれを聞いて呆れた顔をし、また一口、菓子を齧って云った。「ハ! 太陽と月が並んで昇りでもしたら考えてみるさ」

 

「はいはい、云い合いはその辺になさいな」エニアリスが二人を窘めると、二人は気を悪くしたかのように黙り込んだ。実際のところ彼らにとって、この程度の口論は日常茶飯事であるはずだが、互いに頭の上がらぬ彼女に指摘されたのは、如何せんバツが悪かったようだった。「そんで? どこのお偉いさんだ、その、指輪を取られたってのは?」ゼウドが天を仰ぎながら聞いた。

 

「ゼウド君は知ってるかしら。六十階層のベルンハルト家、そこの現当主よ」エリアニスが云うと、ゼウドはああ、と納得したかのように答える。「あのオッサン……いや、もう爺さんか。確かにあの爺なら、本は腐るほど溜めこんでやがるだろうな」「一体何者だ?」グリンザールはゼウドを凝視して云った。その視線を意に介した様子もなくゼウドは答える。

 

「フォルカー・アロイジウス・ベルンハルト。貴族様さ。元はアラクェドでそれなりの地位を持ってたらしいが、父親の代にロヅメイグに移ってきたって話だ。奴さん自身は石材の流通がどうとかで財を成したが、早々に事業を他のもんに任せて、古書物の蒐集に興じてたらしい。そんでその趣味が高じて、何年か前まで第五図書館の図書館長をやってたんだとよ」そこでゼウドは一旦話を切り、エニアリスを見る。「とっくに隠居したと聞いてたんだが、まだ本の蒐集はやめてなかったらしいな」

 

「老人にはちょうどいい手慰みだったのでしょうね」エニアリスは菓子を手に取り云った。「丁度、私が読みたがっているかの書を手に入れてすぐに、亡き奥様に送った指輪を、何者かに盗まれたらしいわ」「あの爺さん寡夫だったのかよ」ゼウドが驚いたかのように云った。「通りで仕事熱心なわけだぜ」

 

「彼が職から退いたのは奥様がお亡くなりになったからよ?」どこか納得したかのようなゼウドの足元を掬うかのようにエニアリスが口を挟んだ。「おっと、そいつは失礼」ゼウドはわざとらしく額を打つ。グリンザールはその様に一瞥もくれず、エニアリスに云った。「成程な。それで、お前は指輪を取り戻すことを条件に、その古書を譲渡するように彼に持ちかけた。そう云う訳だな?」「あら、彼から頼んできた、という線は考えないの?」「ねえな」「然り」エニアリスの反論に二人の彷徨い人はまるで打ち合わせていたかのように即答し、エニアリスはその様を見て不機嫌そうに眼を細めるのだった。

 

「まあ話は分かったぜ。報酬を倍にするなら、俺は受けてもいい」ゼウドが身を乗り出して云った。「お前はどうすんだ、グリンジ?」「俺は受けよう」グリンザールは眉一つ動かさず云った。「イスギールの書物はこの第七図書館には乏しかったからな。新たな啓蒙を得ることができるやも知れぬ」「そんなもん調べてどうすんだかなあ、こいつは」呆れたようなゼウドの問いに、しかしグリンザールが答える事は無かった。

 

「それじゃあ、必要なものはこちらで用意してあげるわ。まず、グリンザール君はともかく、ゼウド君にはもう少し綺麗な格好をしてもらう必要があるわね」そうエニアリスは楽しげに云い、それを聞いたゼウドは一度自身の姿を確認した後、思いっきり嫌そうな顔をした。「巻革鎧がダメなのは分かるが、アンタが用意する服を着なきゃいけないのかよ」「当然じゃない。仕事を受けてもらう以上、責任もって支援はしなきゃ。グアリア!」

 

 エニアリスはグアリアを呼びつけると、幾つかの服の在処を教え、ここへそれらを持ってくるように命じた。グアリアはすっかり慌てた様子で駆け出し、引くべき扉を押して大きな音を立てた後、気まずそうに退出していった。

 

「……本当にダメね、あの子は」その様を見て、エニアリスは大きく溜息をついた。「なぁおい、エニアリス。報酬、マジで上げてくれよ」それを気にも留めず、ゼウドは恨みがましく云った。「どんな服を着せられるかわかったもんじゃあねえし、貴族連中の前で演奏させられるんだろ? 十五枚じゃあ誰もやらんぜ、この仕事」「最低十五枚、と云ったはずよ」エニアリスはいい加減うっとおしそうに云った。

 

「貴方の演奏の出来によっては倍どころか四十、いえ五十の金貨をあげたっていいわ」「グリンザール、聞いたか?」聞かれたグリンザールは興味なさげにああ、とだけ答えた。「そう云われちゃあ腕が鳴る。エリアニス、楽しみにしとけよ。不肖ながらこのゼウド、全霊を持ってその場に臨ませて頂く故」そう云うと、ゼウドは大仰な仕草で立ち上がり、自身の持つナーバルドを短くかき鳴らした。

 

「期待させてもらうわ、ゼウド君」その澄んだ音を耳にして、エニアリスは笑って云った。「グリンザール君もよろしく頼むわよ。実際の仕事を、殆ど貴方一人に任せるのは心苦しいけれど……」「心にも無い事を云うな」グリンザールはぴしゃりと無感情に云った。

 

「それより、俺にも準備が必要だ。館の地図、指輪の資料、当日の警備。調べるべき事は幾らでもある。それらについても、お前に任せて構わんのだろうな?」そう云うとグリンザールは殺気の籠った視線をエニアリスに向ける。しかしエニアリスはそれを涼しい顔で受け流し、あまつさえ微笑んで見せた。「やる気になってくれたのなら有難いわ。それじゃ、私は資料を持ってくるから、しばらくこの部屋で待っていなさいね」

 

 そう言い残し、エニアリスは部屋を一度後にした。残された二人の内、ゼウドは既に如何なる詩を披露するかを熱心に思案しており、半ば自身の世界にのめり込んでいる。逆にグリンザールは静かに眼を閉じ、この『頼み』の顛末が、窮地と苦難に満ちたそれにならぬ事を半ば諦めながらに願っているのだった。

 



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紫煙、苦し

「グリンザール、グリンザール、グリンザールよ」ガズ=カーは、ふと思い出したが如く、呪わしき隻腕剣士の名を口にした。彼は平時、両目蓋とその口を斑糸で封ぜられ、その生首をグリンザールの失われし左腕に縫い付けられた自由なき存在である。たとい口を開くことが叶っても、それは彼の呪詛の力無くしては陥りし窮地を脱することが能わぬ、とグリンザールが判断した場合のみであり、その窮地を脱した後も、この老呪詛使いがこの様に朗々と自らの口を開く猶予を与えられる事は、極めて稀な事であった。

 

 おおよそ普段のグリンザールであれば、事が済めば早急に赤黒の斑糸を用いて再びガズ=カーを封じてしまう。しかれども此度のガズ=カーはその必要が無くなった後、既に半刻が過ぎた今でも、未だに封じられることなく皮肉なる自由を享受している。それは彼を封じるべきグリンザールが、それすら叶わぬ程の状態に追い込まれたことを意味していた。

 

 グリンザールは古ぼけた石の床にその四体を大きく放り出し、満身創痍のまま天上の星を見つめていた。先程までは息も荒く、傍から見れば死に行かんとする剣士そのものであったが、今はある程度調子を取り戻したようで、緩やかに胸を上下させている。

 

 油断ならぬ、余りにも強大なる相手であった。此度相対した<ゾズマの黒獅子>は、今までに屠ったどの<魔法>よりも強大で底知れぬ、文字通りのありうべからざる怪物であった。その姿を認めたガズ=カーがグリンザールのあまりの無謀さに考え付く限りの呪わしい罵倒の言葉を放ち、すぐさま全霊を以ってその体と魂を奪わんと画策したほどに。

 

 道すがらに出会った陽気な行商、彼女から手に入れたアスガルズルの死印。そして契約履行の長虫どもによる乱入がなければ、グリンザールは疾く獅子の腹に収まるか、千々細々とした肉塊となって、この古神殿に無数ある滲みの一つと成り果てていただろう。

 

「グリンザールよ、流石のお主でも、此度は随分と堪えたであろう」ガズ=カーはグリンザールの左腕で嘲るように云った。「あの黒獅子は嘗てヴォローニッカが自ら焼いたものの灰芥から手ずから生みだしたとされた獣。本来であれば、人の身で比することなど敵わぬ存在だ」「だが殺した」グリンザールは苦々しく、吐き捨てるように云った。

 

「少なくともお主だけでは到底不可能であった事よな」ガズ=カーはグリンザールを嘲るその態度を隠すこともない。事実、ガズ=カーの老獪なる知識と昏き呪詛の数々が無ければ、獅子を殺める所か、あの忌まわしき長虫どもを切り抜ける事すら危うかったやも知れぬ。

 

 それを思うと、グリンザールは無性に腹の底から苛立ちが沸き出すのを感じた。今の己では、得意気に言を並べ立てるこの生首を黙らせる事さえ出来ない。その事が、勝利したにも拘らず未だに立ち上がることすら満足に行かぬ自身に対して、やり場のない怒りを抱かせるのだ。

 

「さて、グリンザールよ。ひいては相談があるのだが」無意識に顔を歪ませていたグリンザールに、ガズ=カーはいつになく穏やかな声で呼びかけた。「確か、貴様があの行商から手に入れたものの中には、ジェレミアの黄露草が二株あったな?」

 

「それがどうした」ようやく上体を起こしたグリンザールは、苛立ちを隠さぬ表情で答えた。「いや、いや。お主と儂は運命共同体ではあるが、嗜好まで同じと云う訳では無い。久方ぶりに、黄露草の煙草が恋しくなっての。あれだけの働きをしたのだ、お主も少しは儂に報いるのが礼儀というものでは無いかね?」云い切ると、ガズ=カーは早くしろと言わんばかりに顎で放り出された雑嚢の一つを指し示す。その姿に、グリンザールは今すぐこの生首の額にラーグニタッド刀を突き立てたい衝動に襲われた。

 

 

 

 

 

 

「…………これでいいか?」グリンザールは今にも暴れ出さんかと思えんばかりの形相で、巻かれた紙筒をガズ=カーに指し示した。「ほほう、こいつは重畳! お主にその様な細細とした作業が熟せるかと戦々恐々としておったが、僅かばかり侮りすぎておったようだ」云うが早いかグリンザールはガズ=カーに手製の巻き煙草を咥えさせた。すると魔法めいてその先端に独りでに緑色の火が点り、紫煙を燻らせる。

 

 否、それは正しく魔法であり、この首だけの老いさらばえた呪詛使いが、世界の昏き側に在る尋常ならざるものである事の証明でもあった。しかしグリンザールは今更その様な事は意に介さぬ。余った黄露草を用いてもう一巻き、煙草を作り出して行く。「ほう、グリンザールよ。もう一本儂に献じようとは、今日は厭に殊勝ではないか。呵々、此度の戦での儂の助力の大きさは筆舌に尽くせぬものだった故、其れも当然か。どれ、あり難く頂戴してやらん事もない」「これは俺の煙草だ」

 

「何?」グリンザールの物言いに、眼を細めて紫煙を愉しんでいたガズ=カーは訝しむ。「これは俺のだと云ったんだ。何度も言わせるなよ、ガズ=カー」グリンザールは巻き終えた煙草の先端をガズ=カーのそれに押しつけて火を継がせると、ぎこちなく煙草を咥え、月明かりに薄く紫煙を燻らせる。

 

「何だ、お主が煙草を嗜むとは。儂をこうしてから一度も口にしておらんかったろうに」「しようと思わなかっただけだ」そう云って煙を吸い込んだグリンザールは、すぐさま眉を顰め、むせるように煙を吐き出した。

 

「呵々! 慣れん事はするものでは無いの。それはお主でも変わらんか」それを見て、ガズ=カーは嘲るように歯を剥きだした。一方グリンザールはガズ=カーの嘲笑もどこ吹く風と云った様子で、瞼を閉じて、懐かしむように紫煙の香りを味わう。事実、彼は嘗ての思い出を懐かしんでいた。こうして、煙草を口にするのは何時以来だったか……。

 

 

 

 

 

 

「グリンジぃ、こんなとこで何やってんだ?」手持ち無沙汰に馬車屋前の花壇に座したグリンザールを、戸から顔を覗かせたゼウドが見咎めた。「ったく、こんな糞寒い夜中に外で暇つぶしとは、お前が何考えてるかってのはやっぱ良く分からねえな」云いながらそのまま歩み出てきたゼウドは、グリンザールの左に腰を下ろして、懐から何かを取り出した。

 

「何だ?」「煙草だよ。吸ってみるかね、竜の仔。ほれ」ゼウドは艶やかな箱から煙草を一本グリンザールに差し出した。しかしグリンザールはそれを怪しむように眉を顰める。「唐辛子でも仕込んでおるまいな」「しねえよ」笑ってゼウドはグリンザールに無理やりに煙草を咥えさせると、マッチを花壇の石に擦り付けて火を付けた。

 

「ハロウ、フォーロウ。照覧あれ」ゼウドはマッチの火で素早く自身の煙草に火を灯すと、その先をグリンザールの咥える煙草に押しつけて火を移す。そうしてグリンザールの煙草にも着火させた後、自身の煙草を咥えて、ほぅと紫煙を吐き出した。

 

 グリンザールもその様を見て、渋々と云った様子で煙草の煙を吸い込んだ。しかしどうにも口に合わなかったらしく、吹き出すようにその煙を吐き出すと、眉を顰めて途方に暮れたように、右手に持った煙草を見つめている。ゼウドは煙草を楽しみながら夜空の星々を数えていたが、グリンザールの顔にふと目をやり、面白いものを見たように白い歯を見せた。

 

「ひでぇ顔だな、そんなに不味いかよ?」「ああ」「マズイなら捨てちまったっていいぜ? 無理して吸う必要ねえし」「いや、いい」そう云ってグリンザールは、煙草を咥えて一拍おいた後再び紫煙を吸い込んで、今度は少し噎せ返した。その様を見たゼウドはこの上なく愉快そうに笑って、自らもまた紫煙の香りを楽しんでいた。

 

 

 

 

 

 

 瞼を開くと、いつの間にか、グリンザールは自身の体の調子が僅かではあるが回復に向かっているように感じられた。夜明けまでは身動き取れぬと考えていたが、この分ならば、もう半刻もすればここを発って、街へと降りて行く事も叶うだろう。「ガズ=カー。貴様、黄露草の効能を知って居たか?」

 

「うむ、あれには鎮痛作用がある」ガズ=カーは神妙な顔をして、残念そうに云った。「お主は苦しんでいてもよかったのだが、儂まで其れに巻き込まれては敵わんからな」「何れもう一度その首を落とす時が待ち遠しいぜ」グリンザールは眉を顰めて云い捨てた。

 

 

 暫くそうして紫煙を燻らせて居たか。二つの煙草を吸い終えた隻腕剣士は月明かりの元で呪詛使いに封を施すと、自らの煙草の火を踏み消した後荷を纏めて立ち上がり、星を頼りに再び街路へと戻って行く。静寂を取り戻した古神殿に残されたのは僅かな紫煙の香りと、踏み消された煙草の残骸だけだった。

 

 



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雨音、憂鬱

「今ぁ思うと、ロヅメイグは良かった」「突然どうした、ゼウドよ」ざあざあと言う雨音と淀んだ空の元、ニナゼアの大樹の元で雨宿りする中あまりに唐突に云い出した隻眼詩人の言に、訝しむような視線を彼の横に座り込んだ隻腕剣士は向けた。

 

「雨が降らないんだぜ、あそこは。流れ流れて行くだけで、俺達にはとんと無縁だった」グリンザールへとその隻眼を向ける事も無く、空を見上げるように呟くゼウド。「雨は嫌いか?」グリンザールがそんなゼウドに問うと、詩人は歯を見せて笑った。

 

「大嫌いさ! 湿気るし、濡れるし、何より、誰も俺の詩を聞きに来なくなる! ああ雨雲よ、その意固地なる面の皮を恥じて、すぐに貴き陽に頭を下げたまえ!」云って、ゼウドは東方弦楽器ナーバルドを一度かき鳴らす。グリンザールはその音色を無視して、神妙な面持ちで呟いた。

 

「確かに、濡れるのは俺も歓迎し難い。書や式の材が痛む」「捨てちまえよ、あんなガラクタ」「エニアリスが喜ぶ品だが」「本気にすんなよ」辛辣な隻腕剣士の視線に肩を竦めると、ゼウドは再びナーバルドをかき鳴らした。しかし、ざばざばと言う水の音に阻まれ、平時程の音色が響く事は無い。

 

 その音色を聞いたゼウドは一度ナーバルドの表面を拳で小突くと、溜息を吐いてそれを背の大袋へと仕舞い入れる。そして、胡坐をかいた膝に肘を突き、うんざりとした口調で呟いた。「早く止まないもんかねえ。連日こう雨だと、俺のナーバルドが湿気って音が変わっちまう」

 

「雨の女神にでも祈ってみるかね?」「女神だって?」グリンザールの言葉に、珍しくゼウドは食いついた。その反応に、グリンザールは雨への憂鬱がそうさせたか、あるいは女神と言う点に惹かれたか判断はつかなかったものの、それを意図的に意識の脇に置きその知啓を詳らかにし始める。

 

「ベネトナシュ。泣き叫ぶもの、涙の女神。転じて、豪雨をつかさどるもの。歓迎されぬ雨は、全て彼女の落涙であると云う。そして、雨が止むときは彼女が泣き止んだ時と言われているそうだ」「へえ」グリンザールの言にどこか驚いたような顔でゼウドが笑う。「何だよ、期待してたモンの千倍はロマンチックじゃねえか」「ぬかせ」

 

「……ともかく、彼女の悲しみを晴らす事が出来ればたちどころに雨は止むとラバイアの伝承にはある。試してみるか、ゼウドよ」「……ハ! 悪くねえ。その喧嘩買ってやるよ。ここのまま胡坐かいてるよりは、余程健康的だぜ」

 

 にべも無く云ったグリンザールの姿を、自身への挑戦と受け取ったか。隻眼詩人ゼウドはナーバルドを再び袋から出して構え、本格的な演奏の準備に入る。少し緩んだ弦を調整し口に水を含んでのどを潤した後、彼は降り注ぐ雨音にも負けぬよう、良く通る声で口上を述べた。

 

「ああ、いとおしの涙の女神! 我が名はゼウド! 遥かなる地の底、灰都ロヅメイグより来たった詩人! 汝の涙に一曲捧げたいが故、どうかしばしの間ご清聴願いたい!」彼はナーバルドの弦の上で踊るように指を滑らせ、腹に力を籠め陽気な、しかし退廃的な彼好みの詩を謡おうとした。

 

 瞬間、雨がざっと強くなった。

 

「………………」一節目を諳んじ様とした姿勢のまま、固まったゼウド。それを見たグリンザールは溜息交じりにつぶやく。「……ベネトナシュへの祈祷は、常に女性によって行われる。彼女は多くの場合、男神とのいざこざによって涙を流すからだ。だがまさか、ここまで拒絶されるというのは興味深いな。先ほど『頭を下げろ』と云ったのが良くなかったか」

 

「………………白けちまった」そう云って、不貞腐れたゼウドは肩を落とし、次いで腰を落として再び大樹へと寄りかかった。そして気分を紛らわせようと煙草に火をつけようとしたが、湿気った煙草はそれに応えず、火を灯す事は終ぞなかった。

 

 



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暗き地平、焚火

 

「グリンザール、グリンザール、飯はまだかよ」夜を迎えた不毛の荒野、<永延の黄昏>の片隅にて、隻眼詩人は気だるげに謡い東方弦楽器ナーバルドをかき鳴らした。「俺はこのままだと背骨が腹に浮き出ちまうぜ」

 

「そうなる前にリェントゥ鷲がお前の皮を捌き、失われしオゼ・ブギドル渦巻図の如くにその腸を引きずり出すだろうな、ゼウドよ」煮立つ鍋の前に座り込み、揺らめく焚火の熱にも動じず隻腕剣士は唸った。「俺はお前の内臓に舌鼓を打つリェントゥ鷲を引き裂いて、焼いて口にするのもいいかもしれん」「珍味か、それ?」パチパチと拍手を送る焚火の音に満足したのか、ゼウドは演奏を終えて興味深そうなふりをする。

 

「世に出回る物では無いな」焚火を枝でつついて形を整えながらグリンザールが云う。「リェントゥ鷲はそもそも不吉な鳥だ。それを喰らえば<翼広げしヴェトグ>の視界に収まる。一週間の懺悔の時を経て、かの神の鉤爪に引き裂かれる定めを受けるのだ」「ヒヒヒ、お前自殺でもすんのかよ」興味ありそうに笑いながら、ゼウドは空の星座をなぞる。

 

「そこで、これだ」グリンザールは不吉なる背負い籠から頭部に蛇の抜け殻の頭を縫い付けられ、足を削がれた蜥蜴の死骸を取り出した。「隠匿と略奪を司る、<ワロギス>神の力を借りる。これを夕暮れ時に煎じて飲む事で、<ヴェトグ>の眼を逃れるのだ」「ふむ、なるほど。そいつはやはり星座と関係があるのかい?」「そうだ」

 

 グリンザールは一度顔を上げ、空の星座を線を描くが如く指差す。「あれを見ろ。竜たてがみの星座がうねっているだろう。<ワロギス>神は元来竜の爪弾き者とされていた。故に、このような星辰の元では用いる事はできん」「ほうほう、それで?」「リェントゥ鷲を食らうべき時は、常に配慮する必要があるという事だ。<ヴェトグ>の訪れが朝となれば、さしもの<ワロギス>神も――――」「おいグリンジ! ありゃあなんだ!?」

 

 ゼウドが指差す先にグリンザールは反射的に振り向いた。地平線の向こう、空との境すら定かでない暗闇に、ぽつぽつと浮かび上がる灯が見える。「兵士の隊列か何かか? 物騒なもんだな」「<炎の瞳>やも知れん」「<炎の瞳>ィ?」ゼウドはグリンザールの妄言に眉を顰めながらに首を傾げる。

 

「おいおいグリンジ、瞳が燃えてでもいるのかよそいつらは! 日も見上げちゃいないのに?」「然りだ。<炎の瞳>は嘗て神の餌として生み出されし部族。夜の闇にはその両目に火を宿し、神を呼ぶ徴となると云う」バカにした様に宣うゼウドに、グリンザールは至極真顔で答えた。「すでに多くが餌とされ、地上からその姿は消えたというがな」

 

「知らねぇ」ゼウドは気だるげに言って、敷かれたロードトック式外套を背に寝ころんだ。「俺からすりゃあ、昔喰ったフトート鮭の魚卵を思い出すがね」「魚卵だと?」「ああ」

 

 ゼウドは忙しなく跳ね起きて、グリンザールに挑発的な笑みを見せた。「鮭の腹を絞ってひねり出した卵を豆を発酵させて作ったソースに付けて食うんだ。卵自体が赤くて、まるで宝石みてえでよ……ガキの頃初めて見たときは、本当に食っていいのか不安になったもんだぜ」彼は指にはめた赤い火石の指輪を撫でながら懐かしそうに呟く。一方で、グリンザールは得心が行ったように頷いた。

 

「それは極北東の<ルメリア>や『北の果つるところ』<イスギール>に伝わる<ロソ・ウォヴァ>だな」「あン?」「古来より魚卵は簡易な儀式の材としてこれらの域で用いられてきた。その赤さを火、あるいは心臓になぞらえてな」グリンザールは語り始めた。

 

「そもそもとして、赤い卵を産む鮭は体内に火を持っているのだと信じられた。熊が好んで繁殖期の鮭を食らうのも、冬を乗り切るために火を己が内に溜め込むためなのだとな」「そうかよ」ゼウドは煩わし気に、地平線を横切る灯の列に視線を向けながらに云った。グリンザールはそれにも気付かず、語る事を止めようとはしない。

 

「故に、北部では火の代用としてそれを用いる。ある意味では、子となるべく生み出されたものであるが故に呪詛の式には組み込みやすかったのだろう。<ボフォロ>と同一視される火の神、<ヴォローニッカ>も、数珠繋ぎにした魚卵を首に掛けていたと伝承にはあるしな」「それよりお前、鍋はいいのかよ」ぼそりと呟いたゼウドの言に、グリンザールは語り止めそっと鍋の蓋を開き、中身を確認した。

 

「もう煮詰め過ぎてんじゃあねえか? どうすんだよ」責めるように詩人が睨んだ。対して、剣士はその不健康そうな顔を残念そうに歪めて、小さく溜息を吐いた。「まだまだだな」「はあ?」

 

「まだ火が通っていない。今喰えば<細けきヴァルス>の呪詛を受け、三日三晩腹を下す羽目になる」「ただの食中毒だろ、そいつは……」鋭く指摘したゼウドに、グリンザールは首を横に振る。「儀式には手順と言うものがある。料理も同じだ。待つべき時は、待たねばならん」「分かった分かった。俺はノートでも読んでるから、さっさと出来上がりにしてくれ」「仕方ないな」

 

 ゼウドがかがり火に背を向けて野帳を照らそうとする傍らで、グリンザールは<ヴィゼンガー牛の油肝>の絞り粕を焚火に向けて放り入れる。すると、焚火は突如として大火の様に燃え上がり、二人の纏っていた外套の端を嫌な音を立てて焼くのだった。

 



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天使狩り

 

 太陽照り付けるロゼンウェル庄の広大なる農耕地帯に清らかな風が吹く。その一角、幾何学模様の描かれた麦畑の上、不自然に捻じ曲げられた麦を踏みつぶしながらグリンザールは駆けた。その姿は正しく死に神の如し。ぬばたまの髪を流し、濃緑のフォロゼ外套をなびかせた彼は焦げついた異臭を切り裂き無慈悲なる曲線たるラーグニタッド刀を眼前の敵へと振り下ろす。

 

「……チイッ!!」だがその刃は肉を切り裂く事無く。膝程の高さを浮遊する<ウスフォス=オスの天使>は直立不動のまま滑る様に無慈悲なる曲線の外側に立ち、その白い手に握った奇怪な機械の先端をグリンザールへと向けた。

 

 次瞬、機械の先端から円環状の低速光線が三つ放たれる。グリンザールは麦を踏みにじりながら剣戟の速度を利用し一回転。かろうじて回避に成功するが……偶然後方で草を食んでいたロゼンウェル牛にそのような機敏な動きは出来ず、無防備に光線を浴びる。その後数秒間牛は何の痛みも感じずに草を咀嚼していたが…………突如として全身の体液が沸騰し、悲鳴を上げる間もなく破裂爆発四散した。

 

「…………」だがグリンザールはその様に視線を向ける事無く、眼前の<ウスフォス=オスの天使>を睨みつける。彼の半分も無い背丈、大きすぎる頭部に黒一色の瞳。身に纏う衣服はウデン鋼の如き鈍色であり、その体表に性差を示すような凹凸はない。それはこの地域一帯に古くより伝わる民話そのままの姿であり、あまりにもありうべからざる、異形の存在である。

 

 しかしそのような伝説を前にしても、グリンザールの内にあるのは自身と言う剣を赤く染める怒り、そして地に墜ちた鳥を無慈悲に打つ冷たい雨の如き殺意だ。浮世離れしているかのように宙を滑る<天使>の様が、彼の全てを殺害へと注力させた。眉間に皺をよせ乱雑な黒髪の間から覗かせた蒼い瞳から殺意を迸らせる彼は体勢を低くし右半身を曝け出して、決壊寸前の堰めいてその足に力を溜め込んでゆく。

 

 グリンザールの脳裏には、その恐るべき殺意と並行して冷徹なまでの殺害者の思考が走っていた。先程のラーグニタッド刀による一撃。それを回避したという事は、転じて<天使>には斬撃が通じるという事だ。そして<天使>は矮躯である。

 

 ならばやるべきは一つ。近づいて、斬る。それだけだ。

 

 殺し二番型。トゥヴェイク師が特に好んだ捨て身の突進斬撃。グリンザールの知る隻腕剣術においてこの場に最も適した技。自身に、ゼウドのゼイローム・ボウガンのような飛び道具があればこのような苦労も無かっただろうが…………。

 

 グリンザールはそこで<天使>に意識を向けたままその思考を殺した。今それは考えるべき事では無い。自らの内の思索を、要素を削減し精神を研ぎ澄ませて行く。頭の中に渦巻く魂からの殺意と憤怒を受け止める為に。

 

「┏┓┏┫━┛」天使は何事かを呟いた。グリンザールは聞く耳持たぬ。ただ力を溜め込み、時を待つ。その時間は、彼には似合わぬ静謐さであった。だがそれは、師の如き幽玄の域に無く、故に死に物狂いで神秘に相対し、ヒトに対するための技で神に類するものを殺戮し続けて来た、彼にこそ体現出来得た静寂であった。

 

 その時。ぶちまけられたロゼンウェル牛の遺体へと死臭を嗅ぎ付けた一羽の鴉が飛び来たった。彼は向かい合う銀の天使と呪われた隻腕剣士を一瞥するが、すぐに興味を失って目の前の死肉を啄む。肥沃な農耕地帯を食い荒らす害獣であるロゼンウェル牛は同時に最高級の穀物を喰らい肥え太った肉牛でもある。その肉と臓腑の味は彼にとって溜まらないご馳走だったのだろう。鴉は啄んだ肉を飲み込むと、カアと満足げに声を上げた。

 

 瞬間、グリンザールが飛び出す。天使が手にした物を掲げる。放たれた死の光輪、それを腰を折った麦に同化するが如き姿勢で潜り抜けたグリンザールが二番型の曲線を振るい、宙に座した天使の胴は煌めく銀色の血液を噴き出しながら断ち割られた。

 

 

 



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嘲る五芒

 

 

(これまでのあらすじ)海辺でのバカンスを目論む強欲なる灰都第七図書館長、<赤衣>のエニアリスに下見を命じられた隻腕剣士と隻眼詩人はヴォダク海沿岸の雄大なる砂浜地帯へと向かう。しかしそこには昏き海の底より這いずり出でた五芒星暗黒軟体生物の眷属、<ゴボセ=スタの魔>が潜んでいて……

 

 

 

 

「……冷えてきたな」吊るしかけられた濃緑のフォロゼ外套の色彩をより深く染め抜くほどに染み込んだ魔の体液が滴るのを睨みながら、普段は脱ぐことのない巻皮鎧を放り出し、半身に刻まれた呪わしき入れ墨も露わなグリンザールは云った。「日の射す間は灼熱となるこの地は、しかし夜の間は反するように冷気に覆われるという。神話において、それはプギジュを海の底へと追いやった<ロエム・アゥスの双子>の力の残滓と云うが……」

 

「聞いてねえ、知らねえ、興味もねえ」ゼウドは吐き捨てるように云って薪を焚火に放り込み、立ち上がって海水まみれのロードトック式外套を広げる。砂浜を覆う夜闇の中で焚火に照らされたその髪と肌はけざやかに輝いていたが、一方で彼の眼はうんざりと昏い海のように淀んでいた。「それより、エニアリスにはどう説明すんだよ」

 

「うむ……」ゼウドの苛立ちを隠さぬ問いに、グリンザールはらしくなく唸って、少し悩むような仕草をする。「もはや、急を要する事態だ。正直に伝えるしかあるまい」「はぁ?」ゼウドは唖然としたような声を上げた。「正気かよ、云った所で日差しにやられたと思われるかサボッたかと疑われるだけだぜ、あんなデカいヒトデ……」「<ゴボセ=スタの魔>だ。【ハルコ=プギジュ】と暗き海の底で渡り合いし【ゴボセ=スタ】の……」「だからデカいヒトデだろうが」

 

 グリンザールの訂正を遮って呆れ果てたと言わんばかりに溜息を吐き、ゼウドは海へと視線を向けた。その先にあったかの呪わしき<ゴボセ=スタの魔>の遺骸はとうに流され、その影も形も消え失せている。「……いっそ黙ってンのはどうだ? あんなバケモノヒトデ、早々出てこねえだろ」「そうもいかん」ゼウドの提案を退けてグリンザールは首を横に振る。

 

「<ゴボセ=スタの魔>は元より群成す者。おそらくこの周囲にも十や二十では効かん数が居るだろう。俺達が今こうして無事で在るのも、奴らが夕暮れ前の僅かな間しか活動しない故。万一遭遇がもう少し早ければ、俺たちは疾うに奴らの一部となり果てていただろうよ」火に照らされ、幽鬼の如き重々しさを纏いグリンザールは云った。だがゼウドはますます機嫌を損ね、星の瞬く天を仰ぐ。

 

「あぁ、この()()()は……クソッ、じゃあどうすんだよ」もはや話に付き合うのを止めたゼウドは、苛立ちを増してグリンザールに問うた。「しっかり調べて証拠集めて、それでエニアリスに頭下げるか? 『あそこにはデカいヒトデが棲んでいます、別の場所を探してくだされ』ってな」「いや、夜が明け次第ここを発ちロヅメイグへ戻る」「ハン? で、エニアリスには何て云うんだ?」「…………道中考える」「ハ!」

 

「イヤーハハハ! こいつは傑作だ! もはや与太にしか聞こえぬ現実を、よりにもよってお前が釈明しようてか? これ以上ない笑い話になりそうだぜ! まぁ確かに、お前の一種の詩的感覚は時に詩人たるこの俺をも上回るが――――」ゼウドは歯切れの悪い隻腕剣士の言を鼻で笑い、そしてその悪辣なる弁舌で以って彼の愚かさを嘲ったが、その最中で浜に浮いた冷風を浴び体を震わせると、無事だった僅かな布をかき集めグリンザールに背を向けて横になった。「…………道中なんて言わず、今のうちから考えとくのをお勧めするぜ、竜の仔」

 

 それきりゼウドは黙して語ることなく、その場には薪の弾ける音と繰り返される潮の満ち引き、そして眉間に皺を寄せたグリンザールが残された。揺れる炎に照らされた隻腕剣士もまた、しばらくの間黙りこくり難しい顔でゼウドの背を見つめていたが…………その内額に手をやって、かの強欲にして悪辣なる図書館長に向ける詭弁の内容を誂え始める。

 

 彼の姿を天より見下ろし笑う暗黒の星々が地平線へと去るまでは、どうやら、まだ当分かかりそうであった。

 

 

 

 

【嘲る五芒】 了

 

 

 



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ただひとり

 

 

「……ったく。こんな面倒事になるんだったらよぉ。せめて馬に乗ってくるべきだったよなグリンザール。なぁ?」隻眼詩人たるゼウドは血の海と化した礼拝堂の中心を仰々しく手を広げて横切りながら、祭壇に腰かけ古ぼけた本を検める隻腕剣士、グリンザールへと向け溜息を吐いた。

 

 彼らが辿り着きたるこの場所は、ロヅメイグの東方、ンザ山脈のふもとに位置する小さな盆地だ。陽も届きにくく交通の便も悪い。世捨て人が身を隠すには正しく絶好の土地と言えるだろう。当然、二人がここに至るまでの苦労は筆舌に尽くしがたい。ゆえに、ゼウドは仕事を終えたにも関わらず不満げで、不機嫌で、饒舌であった。

 

「俺とて、こんな掘り出し物は想定外だ」膝を立てて座り、その上に本を乗せて開いたグリンザールはゼウドに視線を向ける事すらなく云った。「このような僻地にどのような信仰が根付いているのかには興味があったが、よもやこれほどの異端が潜んでいるとは」「異端なぁ」ゼウドは黒ずんだ血だまりの上で洒脱なステップを踏み、喉を貫かれ血に沈んだ死体を跨いで避けた。「まぁ、こんな人も居ねえところで盗賊やってんのは、確かにイカれてると思うぜ」

 

 云って、ゼウドは礼拝堂の壁に飾られた巨大なステンドグラスだったものへと目をやる。「戸締りどころか、風穴開いた家をありがたがるような連中だ。きっと、質素倹約にイカれてたってとこだろ。ロヅメイグの貴族連中にも見習わせたいところだ!」彼の視線の先にあるステンドグラスには巨大な穴が開き、黎明の少し明るい空がこちらを覗き込んでいる。そこから吹き込んだ冷たい風に、ゼウドはロードトック式外套を掴んで自身の体を隙間なく包んだ。

 

「そうでもない」そんな詩人の様子を気にすることも無く、書に目を落としたまま剣士は応えた。「こいつらは……<金環>の者達はその名が示す通り、一種の黄金を信仰している」そこで一旦言葉を切って、グリンザールは器用に本の頁をめくる。「おそらくこの礼拝堂のどこかに、金貨を隠しているはずだ」「マジか、それ?」「おそらくな」「ウォーホー! マジか! やっぱ馬が必要だったな!」

 

 はしゃぐゼウドに、グリンザールはうっとおしそうに目を細めた。しかしすぐに手元の書に視線を戻し、難しい顔で記された一節をなぞりながらに云った。「ゼウドよ」「んだよ?」「金貨を持ち出そうとするのは構わんが、だがしかし、持ち出すべきは一枚だけだ」「はぁ?」ゼウドはグリンザールの言を聞いて、呆れ果てたように眉間に皺を寄せた。そして、憤慨したように両手を広げた。

 

「おいおいおいおいグリンザール! 俺はお前のいかれっぷりについては重々承知しているつもりだったが、一周まわって清貧でも志し始めたか? そいつぁ驚きのあまり、金貨に描かれた麗人の横顔も振り向くだろうぜ!」「<ニル・ザヌの夫人>の逸話か? まさかお前からそういう話が出るとは……」「そういう話をしてるんじゃあねえンだよ」不敵な笑みを浮かべて大仰に言い放ったゼウドはしかし、グリンザールの言に即座に機嫌を損ねて極めて冷淡に言い捨てた。

 

「あのなグリンジ。お前、ここまで来るのに何日かかって、何枚銀貨を使ったと思ってやがる? せめて明確なあがりが無けりゃあ、俺は納得できねえぞ」「金になりそうな儀式の材なら、探せばそれなりにあるはずだ。それに」グリンザールは右手の人差し指で、開かれた本をとんとんとつついた。「これだけでもエニアリスが喜んで金貨を十枚出すだろう」「あの業突く張りが?」云って、ゼウドは即座にエニアリスとの商談を頭の中で十度ほど繰り返し、その全てで自らが損をする未来を見出した。

 

「そんないくらの金貨になるかわからねえガラクタ背負って帰れって? それこそ、いくらかの金貨を懐に納めた方が都合いいだろ」肩を竦めて、ゼウドは周囲に向けてその隻眼を光らせた。だが視界に写るのは血と臓物、そして斬られ、あるいは射抜かれた遺体ばかり。「ちと勢いに任せ過ぎたか」夜更けを狙ったグリンザールとゼウドの奇襲は、ここが人気のない僻地であるが故にか、ここまでの道程の苦しさ故か苛烈という他ないものだった。

 

「なぁおいグリンジ! お前も手伝えよ、金貨探し! お前の言うガラクタがどんだけのモンだかわからねえが、せめて帰るのに使う金くらいどうにかしねえとだろうが!」「……一枚だけだぞ」グリンザールは面倒そうにしながらも本を閉じ、それを懐にしまい込んだ。「わかったわかった」ゼウドは自身が何枚の金貨を持ち帰る事が出来るか、それを思案しながらに答えた。

 

 その時、白み始めていた空が明確に明るくなり始めた。盆地であるが故に、ある程度陽が登るまで朝を実感することが出来なかったのだろう。ステンドグラスに空いた大穴から射し込んだ陽が、惨劇の現場と化した礼拝堂と、血にまみれた剣士と詩人を照らし出した。「やはりか」グリンザールは祭壇から飛び降りて、着地と共に血だまりを跳ねさせる。そして顎でゆっくりと位置を変えて輝く日溜りを指し示して見せた。

 

「『天に神は数あれど、昼に座するはただ独り』」云ってグリンザールは振り向き、差し込む太陽の輝きに目を細めた。「ゼウド。陽が照らす場所のどこかに金貨が隠されているはずだ」「へえ、分かりやすいな」「こいつらが信仰する<金環>とはすなわち太陽のことだ。故にそれに似た金貨を、神の偶像として崇拝している」「へえ、そうなのかよ」ゼウドは興味なく相槌を打ったが、グリンザールはそれに気づきながらも、話を続けた。

 

「<金環>の神は<白き環>の光臨の神、<ゴーバルズ>とは違う。恐るべき神であり、真に強き神だ。夜の空には数多の神が相食み合うが、昼の空にはあれ以外の存在を許さない。ただ独り天にあるもの、君臨の神と言える」「へえ、そいつは強そうだ」「ああ」グリンザールはゼウドの相槌に深々と頷いた。「間違いなく、俺の知る神の中でも三指には入る」

 

「そんな強いもんを信じる奴らがこんな辺鄙なところになあ」ゼウドは陽の照らした壁を細かに検めながら、うわの空で会話に応える。「<白き環>の連中はロヅメイグでも幅を利かせてやがったろうに」「神の力の強さはそれを信じる者の強さを意味しない」グリンザールは冷淡に云った。「もし神の強さだけ、その信徒に力があるのなら……世は疾うに終わっている」

 

「ハ、そいつァ恐ろしい」ゼウドは吹き込んだ風にぶるりと身を震わせた。「猶更こんなところからはさっさとおさらばしたくなったぜ」「それは俺も同感だ」グリンザールは祭壇に飾られた品からいくつかを見繕って外套にしまい込む。「<金環>の神は『照らすもの』だ。陽が高くなる前にはここを発つべきだろう」「その辺は一致だな……っと」ゼウドは朝日が照らす壁の継ぎ目に、僅かに指のかかるへこみを見出し笑みを浮かべた。

 

「ホーホーホー! ようやくお出ましか、金色の君!」歓喜と共にゼウドは力を込めて、壁を強く引っぺがした。「ああ、尊き輝くものよ! 我が前にその美貌表し、俺の宿か或いは食事、そしてスタウトとなり給え!」表面に張り付いていた薄い煉瓦が崩れ砕けると、ゼウドの顔の付近まで埃が舞い上がった。詩人は外套によってそれを防ぐと、埃の向こうにきらきらと輝くものを見出してその隻眼を輝かせる。

 

「さてさて、どんな奴がお出ましだ? 五八七年ゴール金貨か? まさか三三三年エッソ古金貨? もしや四九四年旧マーケル金貨か!? ああ、歓喜を齎す福音よ! さあさ、今こそ白日の下に…………ん?」意気揚々と獰猛な笑みを浮かべていたゼウドは何かに気づき、次いで手を伸ばして、埃に紛れそうになった一つの輝きを手に取った。「…………これだけかよ?」そして困惑し、落胆した。

 

「やはり、一枚だけか」その様子を見て、儀式材の選別を終えたグリンザールが独り言ちた。「彼らにとっての金貨は、陽の沈む夜に拝する為の偶像でしかない。当然、それはひとつところにただ一つのみが配されるのが道理。何せ彼らの奉ずるのは、天にただ一つ輝くものなのだからな」「しけた奴らだな、クソッ!」ゼウドは床に転がった壁材の欠片を踏み砕いた。「出るぞゼウド。陽に雲がかかる。今の内だ」「はいはい。俺ももうここに用はねえよ」

 

 云って、ゼウドは手にした金貨をその眼帯の隙間へと差し入れた。そして不満げに、血だまりを蹴り飛ばしながらに肩を揺らして去ってゆく。その背中に何とも言えぬ視線を送ってグリンザールもまた歩き出し――――差し込む日差しの中を横切ろうとした瞬間、彼は己が得物、ラーグニタッド刀の無慈悲なる曲線を日差しの中に振るい、閃かせた。

 

「……………………」朝の射すような空気と、それを払うような日の温もりの中にあって、抜刀したグリンザールはその静寂と同化したかのように、不動の残心を数秒続けた。しばらくして、空に流れた雲が陽を遮り、射し込む光が影となるまでは。

 

「おいグリンザール、とっとと行こうぜ! 『我らの足が速くとも、夜の訪れはなお早く! ゆえに』――――」「……『旅は感謝である。遍く一つに綻び在らば、我らの旅は容易く止まる』……<渡りのシド・エド>の言葉だったか」「ああ、わかったならさっさとしやがれよ! 置いてっちまうぜ!」「ああ、今行く」ゼウドの叱咤に返答を返すとグリンザールは剣を佩き、再び、陽に背を向けて歩き出す。

 

 その時、祭壇にて何か、倒れるような物音が疑う余地なくハッキリと発せられたが、グリンザールが振り向くことは、終ぞ無かった。

 

 

 

 

【ただひとり】 了

 

 

 

 



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