グラップラー刃牙 BLOOD & BODY (MUMU)
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第1話

 

 

 

 

BLOOD & BODY

 

 

 

 

砂漠の果てに太陽が昇り、

世界は蜃気楼の中に溶けていく。

 

米国、ネバダ州。

 

どこまでも平坦極まる大地が続くブラックロック砂漠。

夏の日中は摂氏50度を超え、冬の夜間にはマイナス40度を下回ることも珍しくはない。虚無にして厳格なる土地。

アマチュアロケットの打ち上げと、ジェットエンジンカーの世界記録が競われることで名のある場所ではあるが、生命の存在を拒むかのようにその気候は厳しく、植生は荒地としか形容のしようがない。

そのような人の版図の域外をゆるゆると進み、その奥まった場所。

 

そこに、唐突に出現する球体がある。

多角形のパネルを組み合わせた、サッカーボールのような多面体ドーム。

レイドームと呼ばれるレーダーアンテナ保護用のドームである。

 

これこそは米国NSA《国家安全保障局》により運営される通信傍受システム。

世界を飛び交う電波の全て、情報の全てを網羅的に収集し、

それらを分析、分類する高度盗聴システム。通称エシュロンシステムである。

米国も、その存在を公的には認めていない極秘機関。

情報を掌握し、軍事を支配し、経済を蹂躙する。

先鋭諸国のエゴの体現であり、人の猜疑心の具現化とも言えようか。それは千耳万目の怪物か、八面六臂の神か――。

 

その中には300テラ・フロップスのスパコンが組まれ、電子機器を冷やすために過剰にエアコンが動いている。

無数のモニターが設置された管制室では、インカムを装着した職員が休むことなく情報を取捨選別していた。

 

その管制室、駐在員のためのソファに座し、前のテーブルに両足を乗せている男がいる。

他の局員はその人物の方から目をそむけ、寒々しい館内で額に汗を浮かべ、その人物を刺激せぬように黙々と仕事を続けている。

男は足に黒いカンフーシューズを履き、同じく黒いカンフー着という軽装。

蓬髪は波打つようにざわめき、

わずかに笑うように引き歪めた口元は、犬歯をむき出す肉食獣の獰猛さを感じさせる。

 

そこに、通路の奥から現れる人物がある。

短く切り詰めた白髪、口元を装飾する白鬚、そして両頬に斜めに走る古傷の痕。

彼の名は米国海軍大佐、ゲリー・ストライダム。

ベトナム、アフガンと歴任した武勇の将であり、現在は米軍のマーシャルアーツ・インストラクターなどを務める人物である。

その右手には銀色のアタッシュケースを握っている。

 

「――君ぐらいのものだよ」

 

彼はカンフー着の男の対面に座り、口元で手を組み合わせて静かに語りだす。

 

「軍人でもなく。

ましてや米国人ですらない……」

「それでありながら、このステーツが誇る最高機密の内部に、易易と」「おい…」

 

目の前の人物が、ゆっくりと上体を起こす、その僅かな所作にすら、闇色の気配を引き連れるような迫力がある。

 

「それは褒めてるのか、それとも恨み事かい……」

「……も、もちろん褒めているのだよ。ユージロー」

 

このカンフー着の男こそは、範馬勇次郎。

 

地上最強の生物、オーガなどの二つ名で呼ばれ、その戦闘力は大国の軍事力に匹敵するとも言われる。あらゆる格闘家の頂点であり、宗教の創始者や歴史の偉人にすら例えられるカリスマ。

最強であり最凶、暴虐の限りであり暴威の極み。

 

そんな彼と友人関係を成立させている人物、それがゲリー・ストライダムである。

 

「今日は何故、こんなところへ……?」

 

範馬勇次郎が米国・ネバダ州、リグ・テストラム通信基地に現れたとの報を受けたのが74分前。

勇次郎の監視役であり補佐役でもあるストライダムが、ハリアーによりこの基地に駆けつけたのが3分前である。

 

「……おう」

 

勇次郎は、彼には珍しく、なにか言い澱む風だった。

言葉を探しているのか、どこから話したものかと思案しているのか。

 

「ふむ……酒でもどうかな」

 

ストライダムが銀色のアタッシュケースをテーブルに置き、指紋認証に静脈血管認証をパスする。そんな複雑なロック機構を解除し、開ける。中から白い冷気が流れ出る。

そこにはまるでハンドベルか、俗な例えならば骨付き肉のようなラインのリシャール・ヘネシーのボトル。

そして二人分のブランデーグラス、保冷剤に包まれた氷は南極の棚氷から切り出したものだ。

他にベルギー産の葉巻、スイス産のチーズ。長崎産のカラスミ。

なぜか、小さなトランプや花札まで入っている。

ストライダムはボトルの口を切ろうと、そこを片手で握り――。

 

「……倒しとかにゃならねえ、奴がいる」

「――!」

 

その歴戦の勇士が、範馬勇次郎の言葉に動揺を見せる。

ぴしり、と、全身の筋肉の震えが指先に集約され、ヘネシーのガラス蓋がひび割れる。

ストライダムは顔を伏せ、ヒビの走ったガラス蓋を慎重に取り除く。

タンブラーを並べ、ブランデーを注ぐ。

下に向けた顔に冷や汗が流れる。

同時に頬が紅潮する。

 

(な――)

 

(なんという羨ましい男だッッ!!)

 

勇次郎に見られぬように隠した顔には、興奮と高揚と、

そしてわずかな嫉妬の色が見える。

 

(ユージローに挑まれるなどと! 世界中のどんな美女に求愛されるより光栄なことだ……ッ!)

 

範馬勇次郎。

極めて好戦的な人物ではある。

しかし、その実力が宇宙のごとく肥大を続け、もはやこの世に彼の相手ができる人間、いや、生物などほとんど存在しなくなって久しい。

その彼が、このように誰か特定の人物を追い求めるなど、驚嘆に値する。

何としても、その男の名を聞き出さねばならない。

ストライダムはただ、そのことだけを考えていた。

 

(ユージローのことだ、私ががっついて質問すれば、面白がって教えようとはしないだろう)

(この基地に現れたということはッ)

(その人物を探すために米軍の力が必要なのか!)

(ならばッッ! 利用されるだけに終わることだけは避けねばッ!)

(慎重に、ゆっくりと情報を引き出さねばッ!)

 

「あれは……」

「そいつの名前はッッ!?」

 

口を開いた瞬間、引いた弓を放つように言葉が出た。

 

「あっ」

 

慌てて口を抑え、赤面して小さくなる。

ユージローはというと、一瞬だけ面食らったように目を大きくした後、くっくっと息を引きながら笑う。

 

「くく……がっつくんじゃねえよストライダム」

「も、申し訳ない……」

「話してやるさ、あれは……」

 

 

 

 

 

 

200☓年、フランス

パリ・サンジェルマン大通り

 

高級ブランドと古風なカフェが同居するこの通りを歩いているのは、範馬勇次郎。

品格を備えた老紳士や、ファッションの先端を極めし若者たち、そして老獪さと洗練を併せ持つような、隙一つない店構えの服飾店が並ぶ大通りである。

彼がどのような用件でこの道を歩いていたのか、

それは大した問題ではないし、おそらく彼自身も覚えていないだろう。

 

その彼から斜め後方に、大通りを静かに進む黒のシトロエンDS。

そのカナブンのように平たく黒いボディーラインは、街路樹の陰に埋もれてしまいそうなほど静かだった。

 

「いたぞ、ターゲットだ」

「日系人にしては大きいな……」

 

その中で、数人の男たちが言葉を交わす。

 

「格闘技の達人だってよ」

「人の皮を被ったゴリラじゃなかったか」

「どちらでもいい」

「こないだのハリウッド映画みたいなやつか」

「ああ、なんだっけ、あの……」

「ベスト・キッドだろ」

 

言いながらも、その手の中で大口径のショットシェルが銃把に装填され、あるいは大型拳銃のグリップがスライドされる。

 

「ジャッキー・チェンの出てたやつか?」

「それじゃねえよ」

「どちらでもいい」

「動きが素早いらしい、大口径のショットガンで足を止めてから、大型拳銃の十字砲火で仕留める」

「人間相手に大げさだな」

「相手を人間だと思うな、ルノーR35戦車と思え、だとよ」

「依頼主はよほど気がちいせえのかな」

「日本のアニメの見過ぎなんだろ」

「……どちらでもいい」

 

石畳の歩道を歩く勇次郎。

街路には古いパリの町並み、美しく飾られたショーウインドウ、人の流れは緩やかで、観光客が時折立ち止まって写真を撮っている他に、その流れを止めるものもない。日はまだ高く、わずかに暑い。

 

そっと、寄り添うにように黒のシトロエンDSが勇次郎に追いつき、

そのドアが勢い良く開かれ、中からショットガンを構えた黒服の男たちが飛び出――。

 

瞬間。

 

開け放とうとしたドアに凄まじい衝撃がぶつかる。鉄製のドアが強烈な勢いで締まり、ハンバーガーからはみ出したレタスのように複数の男たちを縫い止める。

 

「GYAAAAAAAAA!!!」

「AAAAAAAAA!!!」

 

声を超越した絶叫、ショットガンが腕ごとちぎれて吹き飛ぶ。

そのドアに機関銃の如き乱打が飛ぶ、一撃が岩をも砕く威力と重さ。

鉄板が月面のようにクレーターに埋め尽くされ、車体の骨組みが歪む。

硝子が破片となって吹き飛ぶ。

 

「何だ!? ターゲットの反げ」

 

奥側の席にいた男が反撃、と言いかけた瞬間、

勇次郎の腕がその顔面を掴む。

数人の男の体を縫い、金属のような腕が伸び、男の顔面を掴んでいる。

 

「~~~~~~ッッッ!!!」

 

極限の恐怖を感じた一瞬後、ぎしりと頭蓋が鳴る、コーラを開けるような音がして体液が指の間にはじける。

腕を抜く。

勇次郎は腕を振って血を払い落とす、ようやく通行人から悲鳴が上がる。

そしてドアに爆発するような衝撃、黒い影が車体に突き刺さる。

重機の力を一点に集約させたような威力の蹴りが、鉄製のドアをすぼめたカサのように錐状に変形させ車体にねじ込む。車の正面から見たならば、勇次郎の足が腿のあたりまで埋まっている。

襲撃を仕掛けようとした男たちが綯い交ぜになってミキシングされる。

襲撃者が何人いたのか、それももはや分からないほど車内は血と肉に塗れている。

 

「MEEEEEEEEERD!!」

 

スラングを叫びつつ運転席の男がアクセルを踏み込む。

だがその瞬間、すでに4つのタイヤは地を離れて車体の傾きは70度を超えていた。金属のように硬化した勇次郎の腕がすでに振り切られ、空転するタイヤが直上を向く。

車体を大きく持ち上げてひっくり返す力技、だがそれを周囲で見た人間は、後に語っていた。

あの男は、数人を載せたシトロエンDSを放り投げたのだ、と。

さすがにそれほどの膂力が人間にあるわけはない。そのはずである、が――。

だが、見ていた人間にそうと思わせるほど勇次郎の力は凄まじかった。

そして裏返しになった高級車に勇次郎の足がかかり、中の人間にどのような暴虐が加えられるのか、という時。

 

「――ッ!」

 

勇次郎の顔が上げられる。

血と狂騒の時間によって面相が凶悪さを帯びている。瞳孔は広がって闇色の光にぎらつく。

目元から口の端にかけて筋肉が引き歪み、紙を歪めるような深いシワが寄る。

だがその口は何かを疑問に思うかのように丸くすぼめられ、目はあらぬ方に向けられている。

 

その先には古風なカフェが店を構えている。

腰を抜かしてへたり込む男。

携帯で警察を呼ぼうとしている男は、勇次郎が振り向いたために硬直している。

椅子もテーブルもなぎ倒しながら後退する男もいる。

 

その中に、どこかの食料品店の紙袋を抱え、背を向けて歩み去ろうとする男がいた。

 

「――おい」

 

その背中に、勇次郎の声が飛ぶ。

周囲の騒音がぴしりと止まる、泣きわめいたり悲鳴を上げることを許さない、場を支配する勇次郎の低い声。

その男が止まり、ゆっくりと振り向く。

 

その人物に対し、多くの者が抱く第一印象は「不気味な大男」であろう。

 

身長は197~198センチ

体重は125キロ前後

頭は禿げ上がっており、髭はおろか眉毛すら皆無。

その皮膚は妙にぶよぶよと白くだぶついている。

まるで肉のマスクをかぶっているかのような、という形容が誰かの脳裏に浮かぶ。

手足は長く、丸太のように太い。

だが、その露出している手も含め、妙に肉が余っている印象があり、さりとて肥満体という腹ではない。

灰色のワイシャツと茶色のズボンというスタイルだったが、服の下に毛布でも巻いているのでは、とすら思う不自然な手足の太さだった。

顔つきは物静かそうな、というよりは表情というものが希薄である。

体毛がなく皮が余りがちなその顔は幼児のような、あるいは老人のようにも見える。

 

「キサマ……」

 

そう言葉を発した勇次郎は、しかし、二の句を放つのに数瞬の間逡巡する。

経験が無かった。

このような男に出会ったことはない。

それ以前に、存在するとも思っていなかった。

 

あの喧騒、どこぞの殺し屋の襲撃と、それを撃退したことをこいつは無視した。

いや、無関心だった。

それは別に構わぬ。

 

だが、

 

この男は。

 

 

 

 

 

 

「くっくっく……初めてだったのさ、そんなやつに出会うのはな」

 

勇次郎は、まるで楽しい記憶を語るかのようにそう語っていた。

 

ヘネシーの注がれたブランデーグラスが口元に運ばれる。

その手の動きが円を描いている。

口元でスナップを利かせる一瞬。

その中身が、一塊の水滴のような形状となって宙を舞う。

橙色の水球が口元に滑りこみ、食道壁いっぱいに広がりつつ重力によって落ちていき、そして胃の中にどしんと落ちる。

胃の中でブランデーの香気が爆発的に吹き上がり、揮発したアルコールが胃から遡上し、鼻筋を通ってふうと噴き出される。

 

「な……何が、かね?」

「俺にだよ」

 

勇次郎は、今ではその驚愕すら楽しむかのように、ゆっくりと言う。

 

「その男は、俺に興味がなかった」

 

 

 

 

 

 



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第2話

 

 

この男は、俺に興味が無い。

 

範馬勇次郎。

その人格の中心にあるのは、地上最強の生物を自負する圧倒的なまでのエゴイズム。

世界に自分より強いものの存在を認めず、自分が世界の中心であると信じて疑わず。

あらゆる思想を、経済を、政治すらをも凌駕する腕力。

 

そして、それは現時点までにおいて真実であった。

生まれ落ちた時から、

幼少期も、少年期も、

戦場に在った時も、

そして現在までも、

範馬勇次郎の姿を認識した時、人は瞬時に畏れ、服従する。

仮にそのように意識せずとも、心の奥底では屈服せずにはいられない。

全ての人間が、獣が、あるいは無生物すらも、

だから、範馬勇次郎は最初の数瞬、それが理解できなかった。

 

屈服ではない。

ごく稀にいる敵対者でもない。

そして、気づいていなかったわけでもない。

この男は、俺に対して何の感情も持っていない。

そんなことが。

『ありえるわけがない』

それが勇次郎の世界の常識。物理法則そのもの。

 

「……なるほど」

 

隠然とした殺気をその内面にたぎらせ、それは抜き身の刃物のような剣呑な空気となって周囲の景色を歪める。

 

「はじめて見たぜ……」

 

その大男をじっくりと眺め、勇次郎は吐き捨てるように言った。

 

 

 

 

 

 

「――キサマ、宇宙人だな」

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………」

 

米国海軍大佐、ゲリー・ストライダムはその回想での一言を聞き。

顔にじっとりと汗を浮かべていた。

サウナで熱されるかのような大粒の汗。

内臓の病に耐えるかのような押し黙った表情。

ぽたり、ぽたりとガラステーブルに汗が滴る。

その右手は低いテーブルの下に伸び、迷彩柄のズボンの上から腿をつかんでいる。

全身の力を指先だけに込め、その腿の肉を捩りあげる。

 

抓(つね)り。

 

大血管が数多く走行する腿。

その肉の中には多数の神経も内包されている。

殴ることも、蹴ることも有効ではない分厚い肉が集まる場所。

しかし、抓りには紛れもない弱点。

関節を極めたプロレスラーが。

絞め技で相手を捉えた柔道家が、

この反則技じみた腿の抓りにより、勝利を投げ出してまで技を解いてしまうことは周知の事実――。

 

ぎりりり、と、腿の肉を千切らんばかりの全力でそこを締め上げる。

肉は赤紫に変色し、一部は黒に近くなっている。

 

(た……ッ)

(耐えるのだッ)

(ユージローは冗談を言うような人間では)

(……無いとはいえないが)

(少なくとも、荒唐無稽な話で人をからかう男ではないッ)

(これは真実なのだッッ!)

(ユージローは、本気でその不気味な大男を宇宙人と思ったのだッッ)

 

「な…なぜ……そのように」

 

 

 

 

 

 

「なぜ……そのように思うのかな?」

 

その大男が声を発する。いや、勇次郎とさほど身長差があるわけでもないが、この男は最後まで名前を名乗らず、また勇次郎も問わなかったため、便宜上そのように呼ぶべきだろう。

 

「キサマの肉は鍛錬の末ではない」

 

勇次郎が言う。

 

「しかし肥満体でもない。その腕の肉、腹の肉、詰まっているのは脂肪なのか、筋繊維なのか、判然とせぬ。

地球人の皮をかぶった別の生物、そう考えることが至極妥当ッ」

「ふむ……だが私はれっきとした地球人だよ」

「ならば、なぜ俺に無関心でいられる」

 

ざり、と足を肩幅に開き、その大男に相対する。熊手のように構えた右手を軽く体のそばに広げ、前方への攻撃の気配をにじませる。

勇次郎の問いには、言葉には、それがいつ攻撃に転じるとも知れない剣ヶ峰の気配がある。

 

「野生の獣が炎に無関心でいられぬように、生物が落雷の音に反応せずにいられぬようにッ!!

俺をその目で見たなら、肌で感じたなら。怯え、警戒、敵意……いずれかの反応を抱くはずだッッ」

 

おそろしく傲慢な問いではある、

しかし、範馬勇次郎のエゴに満ちた言葉には一寸のブレもない。

 

「……その問いの答えはシンプルだな」

 

大男が軽く手を広げる。

 

「君を恐れる必要がないからだ。私が、世界で最も強いのだから」

 

瞬間。

 

世界の温度が、数度下がる。

 

「――ほう……」

 

牙を剥く。

勇次郎の眼球から光が失せる。

その表情を形容するなら、それは笑い。

両の唇を耳のあたりまで引き裂き、犬歯を歯肉まで覗かせる。

笑いとは、肉食獣が獲物を食らわんとする表情に似ており、時として怒りよりも攻撃的なものを表出する表情である。

 

「生命力、という意味でね」

「あん……?」

「そもそも、強いとは何かね? 人類は、他者との比較や、物体への影響度でしかその答えを出せなかった」

「……」

「本当に強い人間というのはね……、生物として死から遠い者のことだよ」

 

語る大男の言葉は、長大なる洞窟の果てから響くかのように低く沈んでいる。人間の発声器官とはどこか異なるかのような、声帯が生ゴムに包まれているかのような重低音の響きである。

周囲では裏返しにされた高級車が黒煙を上げているが、

不思議と、悲鳴を上げる者はいなくなっていた。

街を行く誰もが、何か歴史的な場面に立ち会っているかのように、棒立ちになって成り行きを見つめている。

その二人の奇妙な雰囲気に、周囲の誰もが飲み込まれるかのような――。

 

「……例えば、寒さへの耐性ならば、毛皮を持つ生物のほうが強い。

免疫機構ならばワニやゴキブリの方がはるかに優れている。

放射能への耐性ならば人間は微生物にすら劣る。

寿命ならゾウガメ……いや、樫や杉のような植物の方が遥かに上だろう……。

彼らは人間よりも、遥かに死から遠い……」

「つまり、キサマはそれらの上を行くというのかッ!

ワニよりも病に強く、巨齢樹よりも長命であるとッッ!」

「あと4年かかる……」

 

ふいに、大男が4本の指を立てて言う。

 

「今から4年後……。正確には1527日と4時間後……、私は、私の理想とする肉体に到達する。

その場所では老いも病もなく、精神を脅かす苦悩もない。

過度な幸福すら無い。安定だけが永遠に続く世界だよ……。

その肉体が完成するまで、私は誰と戦う気もないし、

また、その必要もない。

誰と比べる必要もないし、誰かを排除する必要もない。

君に興味を持たなかったのは、そういう理由だ――」

「――」

 

刹那、

腰の高さにあった勇次郎の拳が、すべての筋肉の剛直と、加速を終えていた勇次郎の右拳が天を目がけて疾る。

時間にして0.4秒の打拳。

それは、人間の反応速度の限界を凌駕する。

0.5秒の壁を突破する時、人間がその攻撃を見極め、考慮し、反応を返す時間を上回る。

それは回避不可能、防御不可能の攻撃。

その一瞬、勇次郎の理性や寛容さというものを、瞬発的な苛立ちと怒りが塗り潰していた。

大男の言葉の真偽など考慮していなかった。

一瞬で、一撃でその顎を打ち砕き、そのまま拳を脳天まで突き上げることに迷いはなく――。

 

ばちいっ、と、大気の弾けるような音がする。

稲妻が駆け抜けるような衝撃。

シャンゼリゼ大通りを戦慄の気が駆け抜ける。

離れた場所で街路樹から小鳥が落ちる。

まるで羽ばたくことを忘れたかのように、泡を吹いて鳥が地面をのたうつ。

 

勇次郎が瞠目する。

 

顎を直撃するはずだった一撃が、わずかに逸れ、頬をかすめて耳の下に抜けている。

そして、拳には皮膚に触れた感触しか残っていない。

あのタイミングで完全に回避するならば、反応速度はおよそ0.34から0.37秒。

拳を繰り出す前に「意」を見せてはいなかった。

では、なぜこいつは回避できた――。

 

「――いいだろう」

 

拳をおさめ、勇次郎は目の前の大男に、

初めて相手を認めるかの如く、静かに言う。

 

「キサマの言葉を信じてもいい。

――しかし、最強の肉体を手にした後、キサマはどうする」

「私の肉体が完成した瞬間、私は私の考える手段をもって、全世界に私の最強を宣言する。

そして、その後、永遠にすべての挑戦者に勝ち続ける。

永遠に、だ」

「……」

 

ざり、と男に背を向け、勇次郎は集まっていた野次馬や、駆けつけてはいたものの二人の会話に全く入り込めなかった警官隊を無視し、

そのまま、歩み去っていく。

 

「フン……楽しみにしとくぜ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ううむ」

 

ストライダム大佐は深く考えこむ姿になり、

 

「なんとも不思議な話だな、オーガよ……」

「……」

「しかし、君らしくもない……」

 

ストライダムの視線が、テーブルの上辺から範馬勇次郎の口元へと睨めあげるように動く。

 

「相手の肉体が完成するのを待つなどと……」

「……」

「その男の言葉が、あるいは君との戦闘を避けるための舌先三寸だった、という可能性が……」

 

その鼻先に陰が落ちる。

瞬刻の後、ストライダムの眼前にゴムの匂いがよぎる。

 

轟。

 

耳を聾する音。

直上より振り下ろされたカンフーシューズの踵がガラステーブルを直撃する。

テーブルの天板を支えるのは、コの字型にカーブした2本のスチール脚。

それが歪み、ひずみ、ストローの袋のようにくしゃくしゃになっている。

天板は水平を保ったままにその高さを半減させている。

そして天板のガラスは、

割れていない。

特殊な強化ガラスではない、ごく一般的な強度のガラスであるはずの天板は砕けず、

そこを通して力を四脚に伝え、そのことごとくを歪曲せしめたのか。

 

「疑りが過ぎるぜストライダム……」

 

勇次郎の眼に、それだけで生物を殺傷せしめるほどの怒気が宿る。

 

「俺がそんな可能性を論じに、ここに来たとでも……」

「い、いや、もちろんそんなわけはないな。うむ」

 

慌てて立ち上がり、管制官たちの座るコンソールの方へと移動する。

 

「さ、察するにこういうことだろう?

今日がその、大男の言う「1527日と4時間後」に当たるのだな?

その男が何らかのデモンストレーションを行うとすれば、それはどこかの情報ネットワークに乗る可能性がある、と。

それをキャッチするために、ステーツのエシュロン・システムを……」

「分かってんならさっさとやらねえか」

 

静かに、しかし生物に反駁を許さぬ声で勇次郎が命じる。

 

「――き、君、今この時間、何か格闘技がらみのイベントが行われていないか調べてくれ」

「イ、イエス、サー。検索いたします」

 

管制官たちは背後を振り返ることすらできない。

緊張のあまり腋が汗だくになり、背筋は鉄筋でも通されたかのように反り返って硬直している。

皮膚に感じる恐怖、それに屈服することには重々しい畏怖と、そして暗澹とした幸福があった。己がロボットにされたかのような、無条件かつ絶対の服従。

 

「大佐ッ、現在フランスのリヨンにおいて、IDKWという団体主催の異種格闘技トーナメントの決勝が行われております!」

「――それだッ!」

 

それは欧州全土で興行を行う巨大格闘技団体である。

フランスにて発達した格闘技サバットを始め、柔道、プロレス、ムエタイなど様々な選手を招き、大規模なトーナメントを行なっているようだ。

 

「テレビ中継はされているか!?」

「仏国内のケーブル放送で……大丈夫です、モニターに出します」

 

眼前に広がるモニター群のうち、中央付近の3×3が連動し、ひとつの映像を映し出す。

大西洋を越えて傍受しているためにややノイズが走っているが、中央に団体のロゴが描かれた四角いリング。セコンドに指示を受ける二人の選手が映し出される。

視界の端では、他のモニターにも同じ会場の映像が映し出されている。一体全体アメリカはどのような技術を生み出したのか、現在電波には乗っていない別のカメラのアングル、それらまでも全て傍受し、同時に映し出す。

 

「この男はッ!」

 

選手の一人に目を留め、ストライダムが叫ぶ。

 

「ミゲル・エンコントス! 北氷洋の巨艦かッ! 従軍経験者でコマンドサンボの達人だな! K-1を始め世界中の選手権を荒らしまわった猛者だ! こいつに壊された選手は20人ではきかない、なるほど、この男なら……」

「ハハハハハハハ!!!

    ハハハハハハハ!!」

 

突如として、勇次郎がけたたましく哄笑する。

 

「詳しいんだなストライダム……、そんなゴミみたいな男まで覚えてるとはよお……」

「……ち、違うのか」

 

では……と、もう一人の選手について観察する。

別のモニターには、すでに管制官によって選手のデータが弾き出されている。

 

「ふうむ、ヴィクトル・サンドニオ。

52歳、アルゼンチンのスラム街出身で、選手として30年近く活動しているベテラン……。

驚くほどのタフネスを誇り、故障などは一度もなし、だが成績は振るわず、大きな大会での優勝歴は一つもなし……」

 

なるほど、とストライダムは思う。

勇次郎の話にあった大男が、肉体の完成まで格闘技界に潜み、じっと爪を研ぎつつ実力を隠していたとすれば、この選手のような経歴になっても不思議はない。

 

今日、この時に肉体が完成するとすれば、それまでうだつの上がらないロートルだった男が、歴戦のチャンプをKOして世界に挑戦状を叩きつける。

実に華々しい演出だ。

 

「なるほど……この」

「もう片方のデブだとか言わねえよなあ、ハハハハハハハハハ!」

 

相好を崩すというレベルではなく、表情筋をねじ切るほどの勢いで哂う勇次郎。

 

「こ、これも違うのか……。で、ではこの大会ではなかったのだな」

「くく……。よく見ろよ、もう一人いるじゃねえか」

「もう一人……?」

 

改めてモニターを見る。

音声に注目すると、今は試合開始前のセレモニーの最中だった。互いの国歌がバックに流れる中、選手たちはコーナーポストを向いてシャドーを行ったり、セコンドと打ち合わせたりで集中力を高めている。

 

そしてリング中央に集まり。団体のロゴ入りシャツを着たジャッジが、反則やリングカウントを指示する。

その審判は、異様に体が大きく。

そして服の内側が筋肉なのか脂肪なのか判然としない、妙にぶよぶよとした質感が感じられた。

ジャッジの名前が字幕に表示される。

 

「ドルルマン=フォグ」

 

その名を呟いた勇次郎は、どこか満足気に、片頬を歪めて笑った。

 

「この男だ」

「え~~~~~ッッ!!?」

 

 

 

 

 



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第3話

 

 

――

 

足元に、気をつけたまえ

 

滑りやすいからな――。

 

すごいビデオの数だって……?

そうだな、ざっと7万本か……。

 

うむ、日本製の記録媒体は実に具合がいい。

わしはVHSテープの信奉者でな。

デッキも、磁気ヘッドもダース単位で保有している。

 

ここは10年ほど前に廃坑になった岩塩の坑道で……。

核廃棄物処理場にするはずのところを、わしが買ったのだ。

湿度3パーセント、気温は常に一定。

カビに弱い磁気テープの保管には、最適だ。

 

今まで撮りためたテープに……一部はディスクや、紙媒体にオープンリールも……。

ふむ、この地下室も手狭になってきたな。

なに、また増設すればいいことさ……。

 

格闘技の観戦こそは、わたしの生き甲斐でね……。

ほら、これなどは1976年、モハメド・アライ対猪狩完至戦のテープだよ。

他にもアイアン・マイケルが29連勝目にして世界タイトルをもぎとった試合のテープ……。

アレキサンダー・ガーレンのテープもある……。

ハハ……国際大会で、金メダルを取った試合だけで24……。

もちろん全て、私が現地で撮影したものだよ。

 

そうそう、あの試合の話だったか……。

わしの長い格闘技ファンの道のりでも、あのタイトルマッチほど奇妙なものはなかったよ……。

 

そう、このテープだ。

 

 

 

 

 

 

ある欧州の巨大格闘技団体の、

その一大トーナメントの決勝を飾る二人。

 

二人は、当惑していた。

 

審判からルールの説明と簡易的なボディチェックが終わり、

あとはファイト、の一言が発せられれば、その瞬間から審判は石ころ同然となる。

 

だが、この妙に体の大きな審判は。

ルールの確認を終えてから、動こうとしない。

 

そして。

 

1分間。

 

 

 

 

 

 

1分間だよ。

到底、許されることではない……。

 

試合開始を告げずに、動こうともせず……。

その審判は、ただじっと、立ち尽くしたのだ。

 

もちろん、観客も、アナウンサーも、

そしてセコンドも、選手も、

おそらくはテレビ局の連中も、騒然となったことだろう。

 

しかし、何だか不思議だったな。

 

目が、離せないんだよ。

その立っているだけの審判が、

何かとても、重要なものに見えたんだ。

 

解説者は何か慌ただしく喋っていて、

リング脇ではスタッフが必死に指示を飛ばしていたけれど、

わしには、そんなことは目に入らなかった。

その審判の存在感がどんどん膨れ上がっていった。

そう、

リング上の二人の選手を、一呑みにするほどに。

 

 

 

 

 

 

「おいレフェリー! どうして試合を始めない!!」

 

その奇妙な雰囲気を断ち切ろうとするかのように、最初に動いたのは歴戦のチャンプ。

挑戦者であるロートルの選手が、はっと気づいたようにそれに続く。

 

「そ、そうだ! どういうつもりだ、もう中継も始まって……」

 

濤。

 

深く響く音がした。

その凝縮された音が足からリングに伝い、客席を駆け抜け、会場の外へまで拡散する。

 

それを受けたのは歴戦のチャンピオン。

彼の胸は第四から第六胸骨の中央部がコップをはめこんだように陥没する。

折れた肋骨が周囲の皮膚に浮き上がる。

その顔は一瞬、胸部に何が起こったのかを見ようと下を向こうとして、

目玉がぎゅるりと上を向き、

その動きのままに全ての関節が張りを失い、

紙人形のようにするりとリングに沈む。

 

 

 

 

 

 

パンチをね、相手の胸の中央に叩き込んだ。

それしかない。

それしか、考えられないはずだが。

 

誰も、見ていなかったんだ。

 

目を逸らしていたわけではない。

誰も、その一撃を知覚できなかったんだよ。

 

銃弾のように速い一撃だったのか、

そして、動き出すのを悟らせない静かな一撃だった、のだろう。

 

会場全体に悲鳴が轟いたのが、その一瞬後だ…。

 

 

 

 

 

 

硝子をナイフで削るような悲鳴。

多くの困惑を、その倍の恐怖が塗りつぶすような、濁った喧騒がこだまする。

 

「な、なにを……」

 

ロートルの太った選手が身構える。

顔は蒼白になって顔中に汗を浮かべ、しかし格闘家の矜持ゆえか、逃げることだけはできなかった。

ジャッジはズボンの尻ポケットからマイクを取り出す。

スイッチを入れ、カメラに向かって静かに声を放つ。

 

「私は」

 

その異変は、凄まじい速さでヨーロッパ全土に伝播しつつあった。

元から視聴していた格闘技ファンの間に、

そして格闘家の間に、

電子メールやSNSなどを通して、文字通り電子の速度で広まりつつあったのだ。

 

「世界で、最も強い」

 

 

 

 

 

 

そう、彼はそのように言ったんだよ。

 

男なら、誰でもそう宣言したいものだ。

だが、たとえ5歳の子供でも、ヤク中のチンピラでも。

心の底から、確信を持って言えるものは、そう多くなかろう。

 

だが、そのジャッジは言った。

 

名は、ドルルマン……。

 

その日から、世界中から狙われると分かっていながら、

彼は、そう宣言したのだよ。

 

 

 

 

 

 

「技術でも、肉体でも……」

 

ドルルマンの言葉は不思議な存在感に満ちており、

今なお絶叫と喧騒の響く会場内においても、

全ての人間が、その一言一句を受け止めていた。

 

「災害でも、病毒でも……」

 

数人のスタッフが後ろから跳びかかり、その体を羽交い絞めにしようとする、

あるいは足にタックルして倒そうとする。

だが、微動だにしない。

まるで岩に根を張る大樹か、あるいは鋼鉄の彫像か。

 

「あるいは徒党でも、軍事力でも……」

 

両手両足でしっかりと体にしがみついたスタッフの一人、

その背中を、ドルルマンの大きな手ががしりとつかみ、

まるでハンカチをつまみ上げるよに、その体を引き剥がす。

 

「私を殺すことは、できない」

 

そのスタッフを、ロートルの太った選手に向かって投げつける。

大上段から、まるでボールを放るように無造作な一投。

 

その一瞬、スタッフは空中で意識を失う。

もし、その一瞬の流れを時間を緩やかにして見たなら、

焦点を失って痙攣するスタッフの眼球が見えたに違いない。

あまりにも凄まじい加速度ゆえに、

脳の血液が一方に寄って、脳貧血となったのだ。

 

「挑戦者は、いつでも歓迎する」

 

 

 

 

 

 

ああ、投げつけただけだよ。

そのスタッフだって80キロほどあったというが、

それを片手でね……。

 

そしてどうなったか? だって?

 

……

 

「混ざった」

 

そうとしか言えないな……。

そう、肉も骨も……ひどい状態だったよ。

 

手術を繰り返して、なんとか回復したそうだが……。

 

だがね、その二人には気の毒だが。

誰も、そっちを見てはいなかった。

 

目が離せないんだよ、ドルルマンからね。

少しでも注意を逸らせば、殺されそうだった。

はっきりとそれが確信できた。

 

私は思ったよ。

ああ、この男は、格闘家ではない。

あるいは、人間ですらない。

 

人間などアリのようにしか見ていない。

何か、恐ろしい怪物なのだ、とね……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「私は、永遠に勝ち続ける」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その映像を見たストライダム大佐は、色を失っていた。

頬に汗が伝う。

ごくりと息を呑む音を、高鳴りつつある心音が塗りつぶす。

 

よもや、これほどの怪物だとは。

 

今やってみせた程度のこと、

その程度のことができるファイターを、他に知らぬわけでもない。

それなのに、なぜ寒気がするのか。

恐怖を感じるのか。

 

ストライダムの肩が、細やかに震えている。

 

それは、あの男の強さが、己の経験とは異質だからだ。

たとえ、どれほどの怪力を見せつけようと。

その経過が分かれば、そこには納得がある。

 

鍛錬

 

素質

 

薬物

 

そんな過程を知ることが出来れば、怪物じみた強さでも恐れることはない。

 

しかし。

あの男は、何かが違う。

ストライダムにも分からなかった。

あの服の内側にあるものが、筋肉なのか、脂肪なのか。

彼はどんな格闘技の経験があるのか、

あるいはアスリートか、ボディビルダーか。

はたまた、野生の獣のように天性の肉体を持つのか…。

何も、分からない。

正体不明。

それが最も恐ろしい。

あれはまるで、影が集まって生まれた魔物だ。

象を撫でる群盲のごとく、その本当の姿すら知れない。

あれはもはや、人間では。

 

「ゼフッ……」

 

咳き込むような、横隔膜が震えるような音がする。

 

ストライダム大佐がそちらを見れば、範馬勇次郎が頬を空気で膨れさせ、細かく息を吐き出している。

眼球が飛び出しそうなほど大きく見開かれて、髪の毛がざわりと逆立っている。

 

「ゼフッ、エフッ、ゼフウッ……」

 

次の一瞬、

象一頭分もの空気を吐き出す勢いで、彼は笑った。

 

「ハハハハハハハハハハ!!!!!

ハハハハハハハハハ

ハハハハハハハハハハハハハ!!!」

 

断。

その熊のように大きな手が、ガラステーブルを一撃する。

そして二撃、三撃、

哄笑の声は部屋全体を揺らすほどの大音響となり、ガラステーブルの天板はコナゴナに砕けてそのスチール製の足も歪みひしゃげ。

文字通り破顔の勢いでその顔面が異様に曲がり、表情筋が弛緩と硬直を繰り返して人外の面相となる。

 

ひとしきり、

まるで竜巻が通り過ぎたかのような笑いが止んだ後、

そこにあったテーブルはもはや原型を失い、破片だけになったガラスの天板と、コンクリートの床に半ば埋没したスチールの脚があるだけだった。

 

ふうと息をつき、勇次郎が口を開く。

 

「悪いなストライダム……、こいつがあんまり突飛なこと言い出すからよ……」

 

不敵な笑みを浮かべ、画面の中のドルルマンをじっと見つめる。

 

 

 

 

「ちょっと、機嫌が悪くなっちまったぜ」

「え~~~っ……」

 

 

 

 

 

 

フランス南東部、リヨン

 

仏国としてはパリに続く第二の都市圏であり、長い歴史を持つ工業の街である。その石畳と石造りの旧市街地は世界遺産としても知られている。

 

そこに、かつて紡績業で財を成した豪商がいた。

彼は郊外に邸宅を築き、大勢の使用人と、愛すべき家族を抱えて暮らしていた。その資産は子孫へと受け継がれ、何代にも渡って順調に財産を育ててきた名門の家系であった。

 

その屋敷は鳥が翼を広げるごとく東西に伸び、彫り物や彫金で飾られた華美にして壮麗な作り。

邸内の調度も当然のごとく一級品。王室から下賜された至宝や、庶民の生涯収入に数倍するような美術品が何気なく飾られている。

 

その中を、一人の男が歩いている。

銀で縁取られた鏡の前で顔を洗い、手縫いのシャツに着替えてソファーでくつろぐ。

厨房から持ちだしたリンゴをひとかじりし、数度の咀嚼のあとで飲み込む。

そんな、春の日の朝のような優雅な時間にも見える。

 

その男はドルルマン=フォグ。

 

あの宣言から数十時間。

彼はこの場所にいた。

 

脂肪とも筋肉ともつかない、膨れ上がった肉体を持つ巨漢は、何も言わず特にそれから動くこともせず、邸宅の応接室でただじっと座っていた。

それは何かを待つようでもあり、あるいは大木のようにただそこに在るだけのようにも見えた。

 

次の瞬間、

金細工に飾られた窓から、一発のグレネード弾が乱入する。

それは壁や天井にぶち当たると同時に弾頭が分離し、ネズミ花火のように回転しながら紫色のガスを噴射する。あっという間に室内の視界はゼロとなる。

 

そしてドアを蹴り破って乱入する数名の男。ガスマスクを装備し、手にはアサルトライフルを携行している。

 

あらかじめサーモグラフにてサーチしておいた位置に、ためらうことなく5.56ミリ弾を掃射する。数百もの弾丸が革張りのソファーを打ち抜き、骨組みを砕き、ワタを引き裂いて一瞬で塵芥に変える。

 

だが、その場所にドルルマンはいない。

 

「逃げられたか! 奥の部屋を掃討しろ!」

 

コマンド部隊の隊長が、背後の部下に向かって叫ぶ。

だが、応答がない。

 

「どうした! 応答しろ!」

 

だが、そこには既に生きた人間はいなかった。

 

潰されていた。

そうとした形容しようのない人体が、無造作に転がっている。拳銃弾をも弾き返すほどの強化FRP製のヘルメットを粉砕し、血と脳漿をまき散らしながら死んでいる。

 

「ひッ……!」

 

その頭を、がしりと掴む手があった。

あえて言うまでもない、ドルルマン=フォグである。

 

「ふむ、君で最後か……」

「な、なぜ、マスクもつけずに……」

 

高濃度の嘔吐ガスと神経ガス、常人であれば、いや、生物であればまともに活動することはおろか、悶絶の果てに死亡しかねないほどのガスを噴霧している。

だが、ドルルマンはまったく意に介していない。そしてどのようなルートで移動したのか、機銃掃射の音に紛れて背後の部下を殺害し、また自分の背後にも回るとは――。

 

「大したことではない。硫酸の中でも生きるある種のバクテリアや、致死毒を体内に抱えて生きるフグなどに比べればね……」

 

そしてコマンド部隊の隊長が何かを言う前に、その第三脛骨と第四脛骨の間が、ものの見事に一回転した。

 

そしてドルルマンは軽く手を払い、血を落とすと、

ソファに戻って再びリンゴをかじる。

 

この屋敷に住んでいた貴族の末裔と、その家族、そして何十人もの使用人。

屋敷の外、手入れの行き届いた庭園には防弾スーツに身を包んだ特殊部隊。

銃火器を携行し、それぞれ空手、キックボクシング、コマンドサンボなどに精通した隊員たち。

そして無数の警官隊。

 

屋敷の内外に、その数およそ150。

 

その死骸に囲まれて、

彼はただ静かだった。

 

 

 

 

 

 



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第4話

 

 

 

 

 

舞台は、数十時間ほど遡る。

 

パリ市内のとあるホテルにて、最上階に位置するレストランの一画。

大ぶりなステーキをフォークで突き、無造作に口に運びながらがぶりと噛み切る。勇次郎はさして感情の見えぬ表情のまま、もにゅもにゅと口腔内の肉を咀嚼している。

 

シャルル・ド・ゴール空港からホテルに直行し、すぐさまステーキを4ポンド。勇次郎にとっては軽い食事であろう。

対面に座すストライダムは、顔にわずかな焦燥の色を浮かべている。

 

「……ユージロー、本当に行くのか」

 

問うたストライダムではあるが、しかし、その額に玉の汗を浮かべつつの発言であった。

今の一言、目の前の猛獣に対してどれほど危険な言葉か、もちろんストライダム自身が一番よく身に染みている。

 

「……あ?」

「き…………危険だぞ。

ドルルマン=フォグ。あの男は、ど、どこか……通常の生物の常識からかけ離れている。し、正体が分かるまでは……」

「ふん……」

 

つまらなそうにグラスワインを飲み干し、

勇次郎が口を開く。

 

「キサマがそれを『本気で』言っていなかったら、首をねじ切っていたところだ。本気で心配していなければな……」

「う……」

「落ちぶれたもんだぜ……お前みたいなジジイに心配されるとはよお……」

「……こちらでもドルルマンのことは調べたが、IDKWのジャッジとして就職した時の身分証や履歴書は全て偽造されたものだった。それ以外の経歴はまったく不明……。またドルルマン=フォグという名前ではどの機関にも存在が確認できなかった」

「偽名だろう、くだらねエ」

 

もう良いとばかりにグラスを置き、おもむろに立ち上がる勇次郎。

 

「ま、待て、車を手配してある、地階に大使館の公用車を呼んであるから、それで向かおう」

「ハッ……ご苦労なこったな、だが……キサマはもう帰れ」

「い、いや私も……」

 

なにか言いかけるストライダムを、勇次郎の沈黙が止める。

その背中だけで、100万の言葉よりも明瞭に示される拒絶の気配。

 

「アメリカからここまで、キサマの顔も見飽きた」

「わ、わかった……」

 

そうして歩み去る。

ストライダムを残し、エレベーターで地階へ。

 

コンクリートに囲まれた通路を歩く。

天井までは二メートルほどの、やや窮屈な印象を与える駐車場である。

居並ぶのは、自動車名鑑から取り出して並べたような高級車ばかり。

足音が空間に反響し、どこからか換気扇の低い鳴動の音がする。

平坦な眺めの中を歩く勇次郎。

 

そこへ、

一人の男が現れる。

 

全身をだぶついた白の拳法着で包み、短く刈り込んだ頭の男である。

足元は勇次郎と同じく黒のカンフーシューズ。

肉のこけた頬をしており、斜め下に視線をそらし、両腕をポケットに収めたままという独特の構えをしていた。

 

「ほお……」

 

軽く顔をそらし、口を開けて感嘆を漏らす。

その人物を見て、勇次郎はわずかに、

しかし、彼にしてはやや分かりやすい形で、驚きを表現する。

 

「手を引け」

 

その男は、ぼそりとそう言った。

 

「これは、これは……」

 

ぎりり、と奥歯を噛みしめつつ口角を上げる。

 

「面白い……キサマが出てくるとはな……」

 

その人物こそは台湾黒社会、その裏の世界の武術会にて20年間無敗を誇る男。

実力では中国拳法の最高峰、『海王』の称号にすら匹敵する達人。

 

その眼差しは玲瓏なる太刀のごとく。

その立ち姿は触れるを許さぬ劇薬のごとく。

彼を中心に世界が氷に包まれるかのような、そんな剣ヶ峰の気配を放つ存在。

 

「龍 書文……。願ってもないご馳走だな……」

 

一歩、踏み出す。

勇次郎の野獣の気配と、書文の氷の気配が触れ合い、背後の空間が歪むかのような殺意が行き交う。

 

「あの大擂台祭……。

キサマはあの筋肉デブに敗れはしたものの……」

 

二歩、三歩、

勇次郎が近づくごとに空気は重みを増し、爆発性の気体のような危険な匂いを放つ。

 

「……悪くはなかった。いずれ、食らってやろうと――」

 

書文の右手が、ポケットから引き抜かれる。

 

顔の横に掲げられた手、その指の股に、3つの卵。

 

「あん……?」

「これは擂台などではない」

 

相変わらず、かろうじて相手に届く程度の声で書文が言う。

 

「手段は選ばぬ」

 

かしゅっ

そんな湿り気の混ざった音を立て、3つの卵が手の中で潰れる。

 

中からは、しかしもちろん生卵などではない、

それは金色の粉

暗緑色の粉

紫色の粉

 

ごく細かな粉末状の粉。それが地面にバウンドするように立ち上り、地階駐車場内、その換気の流れに乗ってゆっくりと勇次郎の側へと流れんとする。

 

「――ッ!!!!」

 

瞬間。

勇次郎の足が、天井を撃ち抜く。

 

それは雷速の蹴り、限界まで矯められた板バネの如き速度で右足が天を突き、やや低い位置にあった天井を直撃する。

 

「ちいッッ!!!!」

 

そして背後に飛び退く。

勇次郎の体が防御の姿勢のままで滞空する。

 

一足で走り幅跳びの世界記録に匹敵するほどの距離を、背後に飛ぶ。そして衝撃、背後の直線上にあった高級車の横腹に、重力を横倒しにしたように着地する。

天井部分、一撃された火災用のスプリンクラーが完全に破壊され、一気に水が噴射される。

龍 書文の姿は霧に閉ざされ、非常用のサイレンの音と、降り注ぐ水音だけが響く。

 

「キサマ……!!」

 

獰猛に牙を剥き、その口元に殺意と怒りをみなぎらせて勇次郎が叫ぶ。

 

「この国を滅ぼすつもりかアアアアッッッ!!!!」

「よく気づいたものだ」

 

書文の声は相変わらず呟くようだったが、不思議な存在感があり、サイレンの音や水音と重なり合っても、まるで鋼の糸のようにその隙間を抜けて届いている。

書文は小首を傾げ、その薄い目を開いて言う。

 

「エボラ出血熱」

 

足元に落ちた卵の殻、実際にはそれは卵に偽装された気密カプセルではあるが、それを踏み砕きつつ言う。

 

「マールブルグウィルス、ラッサ熱、すべてグループ4の伝染病だ。

複合感染により全ての人間を99.9999%で死滅させる。

いくら貴様でも例外となるかどうか」

 

だが、と書文は手をポケットに戻し、わずかに肩をすくめる。

 

「感染性は除去している。人から人へ伝染りはしない。

それに嫌気性の因子を移植しているから、外気に触れれば一分ほどで死滅する。

君のいる、その場所までは多分届くまい。

もちろん私は、個別にワクチンを注射している」

「黒社会か――」

 

地面に立ち、勇次郎が呟く。

先ほど水平方向に着地した車は、ものの見事にドアが内側に窪んでいる。

 

台湾黒社会とは、平易に言うならばマフィアの総称である。

「幣 (ban)」と呼ばれるその組織の勢力は世界全体に及び、その構成員は台湾だけで10万人、中国全土、香港などを含めれば総数は150万人とも言われる。台湾におけるそれらの多くは官と癒着し、表社会でも巨大な経済的基盤を持ち、世界中のチャイナ・ネットワークにおいて暗躍している。

表社会においては真っ当な経済活動をしつつ、水面下に隠れる氷山の本体のように、巨大な経済力、政治力、そして武力の複合体として確固たる力を持つ黒社会。それらは武器、薬物、賭博、金融取引、そして多くの国で暴力組織がそうであるように、格闘技などの興業と深く結びついている。

台湾における影の格闘界、裏の擂台。

その筆頭とされる存在は言うまでもなく、龍書文であろう。

 

「黒社会がキサマを動かして――何の目的だッッ!」

「答える義務はない。

だが1つだけ警告する。あのドルルマン=フォグには手を出すな」

 

背を向け、もはや用はないと言うかのごとく歩み去る書文。

 

「普通の試合なら受けてもよい、仕事の後にな」

「――ッ!」

 

歩み去ろうとする。

その影を。

勇次郎の目が追う。

 

勇次郎は、

勇次郎の顔面が、黒に染まってゆく。

 

深く静かな、海の底のごとく不気味な、その感情は怒り。

 

この俺を、

 

この俺に対して、

 

警告、

威嚇、

逃亡、

嘲り、

軽侮、

無視、

 

許せぬ。

 

どれ一つとして、許せるものではない。

 

それは明確に言語化されていたわけではない。

あるいは怒りよりももっと直情的で、原始的で、純粋な。

それは攻撃性とか、捕食の本能にも似た直線的なエネルギー。

勇次郎の内面において、その激情がくろぐろと渦を巻き、炎よりも熱く、闇よりも昏く凝集されていく。

 

もし彼の服を透かして見たならば、その腿の部分の異変に気づいたことだろう。

腿の筋肉に、異変が起きている。

血管が、まるで蛇の群れのように震えながら体表を張う。

心臓が大きく拍動し、横隔膜が下がって大量に酸素が取り込まれている。

全身の臓器が、まるで各個に意思を持つかのごとく、勇次郎の意思に従って連携している。

内臓から、上半身から、血液が引く。

それは腿の筋肉へと集中する。

腿が、まるで破裂する寸前のゴムタイヤのように膨れている。

運動ではなく、精神のみで行われる筋肉への血液の流入、パンプアップ。

勇次郎の全身をめぐる血液が腿に集中し、カンフーシューズが地面を踏みしめ、

 

そして、龍書文がただならぬ気配に振り返ると同時に。

 

跳ぶ。

コンクリートに泥を踏んだかの如き足跡を刻み、

地を割り礫を飛散させ、

 

空気の尾を引いて跳ぶ。

 

瞬間、龍書文は見た。

隕石のように体を丸め、四肢から白い筋状の風を曳き、大気の壁を突き破るかのように跳ぶ勇次郎を。

一瞬の後に衝撃波のような風が来た。

白のカンフー着をばたつかせ、小石を薙ぎ散らして暴風がフロアーに四散していく。

 

そして勇次郎は。

屹立している。

 

地面にはブレーキ痕のような黒い焦げ跡が残っている。

足元から白煙を上げつつ、書文の行く先に立ちふさがっている。

全身の筋肉が水蒸気を上げ、噛み締めた口元から熱い息が吐かれる。

今の一瞬で、どれほどの熱量を燃やしたのかが窺い知れる。

 

「まさか、あのようなことで感染を防いだ、とでも?」

「――俺が黴菌なぞに……」

 

赤く燃える目で、勇次郎が言う。

 

「脅かされるかよ……」

「……なるほど」

 

空気の壁を突き抜けるかのように、一気に汚染圏を抜けてしまえば、細菌は体に付着しない。

そのような理屈で、空間に溶けるように漂う数億のウィルスを回避できるものだろうか。

 

――いや、

 

それは理屈などという生ぬるい言葉では表せない。

 

理論というには強引すぎて、

直感というには無謀すぎる。

 

それはあるいは、無理を通す力。

一種の幼稚さ、純粋さを押し通すような力。

 

誰しもが想像はするものの、実践することはできない横車を押す力。

 

例えば、池に落ちた玩具を拾うとする。

誰もが袖をまくり、冷たさを我慢してそれを拾う。

そして、ふと思う。

もし、思い切り速く腕を出し入れしたならば、

袖は、腕は、濡れないのではないか。

 

淡い幻想、幼稚な我が儘。

もしそれを実践に移したならば、

大いなる自然の摂理が、物理法則という名の神が、水を使役して容赦無い懲罰を与えることだろう。

 

しかし、もしそれを超越するような力があるなら――。

本当に水に濡れないほど速く、力強く、動くことができたなら――。

 

神へ反逆するほどの力が、存在するならば――。

 

「認めざるをえないな」

 

その様子を見て、龍が言う。

 

「貴様が感染の恐怖すら乗り越えて、私の前に立ちふさがったことを」

 

龍書文は、しかしそのことに何らの感慨も、動揺も見いだせない無味乾燥な表情のままで、ポケットから小型の無線機を取り出し、どこかへ連絡しただけだった。

 

「駐車場への出入口を封鎖しろ、誰も入れるな」

 

そして顔を上げ、初めて勇次郎を正面から見据える。

 

「相手をしよう」

 

 

 

 

 

 



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第5話

 

 

 

 

 

 

静かな、ぬるい水のような夜の気配が満ちていた。

 

周囲は360度、円形の壁。

擂台祭舞台。

その中で、龍書文は一人佇んでいた。

 

中国全土を震わせた100年ぶりの大擂台祭。

その喧騒も熱狂も、終わってしまえば静けさだけが残り、ただ破壊された壁の一部や、地面に走る亀裂、そして点々と散る血の飛沫だけがその戦いの凄まじさを物語る。

 

龍書文、彼はこの日の戦いで鼻骨骨折、いや顔面陥没と言っても良い重傷を負っていた。

雷鳴のような激痛があるはずだが、そのような気配は微塵も見せていない。

骨接ぎを済ませた後は鼻の頭にガーゼを貼り、憮然とした眼差しを壁に向けている。

 

「書文」

 

そう声がする。

振り向けば、そこにはまるで古木の精のような老人がいた。

その体は小さく、細く。年齢は実に140歳。

しかしその小さな体には膨大な「武」が蓄積され、今なお中国拳法の最高峰として君臨し続けている伝説的な人物。その名声は海を隔てて台湾にも鳴り響いている。

 

郭 海皇

 

彼はこの日、あの範馬勇次郎と戦い、壮絶な死闘――まさに死線を潜るような戦い――を繰り広げていた。

しかしすべてが終われば、そこには格闘家同士の奇妙な、しかし純粋な繋がりが、あるいは友情とも呼べるものだけが残り。今はただ戦いの余韻に浴すのみ。

友人関係にあるとは言っても、龍書文にとっても天上人には変わりない。右拳を左手掌で包む拳礼を行う。

 

「手を見せなさい」

 

ゆっくりと歩み寄りながら、郭海皇がそう言う。

普段、身につけているサングラスを外しているため、その小さな瞳がじっと龍の体に注がれているのが分かる。

 

「――はい」

 

甲を上に向け、その手を見せる。

 

この日の戦いで、右手の指は何本かが骨折していた。優秀な骨接ぎ師によってとりあえずは元の形に戻したものの、まだ強く腫れが残っている。

 

その手はまさに武人の手というべきか。

岩に対しての打拳、

砂に対しての手刀、

藁束への抜き手、

そんな修練を何千日。

そして負傷と治癒を、骨折と脱臼を数え切れぬほど繰り返し、

少しづつ少しづつ、武という薄皮を巻き付けていくかのような手、

例えるならば数千年の風雨に耐えてきた大岩か、数万年を経て竜に変わらんとする仙亀か。

その手を一瞥し、郭海皇はその乾ききった口を開く。

 

「ふむ――体も」

「はい」

 

言われるままに、拳法着の上を脱ぎ、その腹筋を、胸筋を顕にする。

言うまでもなく全身の筋肉は見事に発達しているが、刀剣の如きその鋭い流儀に象徴されるように、膨れるというよりは絞り込む、という印象の体をしている。

肩や腕周りの筋肉は平たく薄く、しかし硬質に張り詰めてまるで鋼の板のようである。

その腰部は細く固く締まり、腹筋は意外なほど薄く、腹式呼吸にて大きく横隔膜を上げた時のように、密度の高い筋肉ながらむしろ腹部は凹んでいるように見えた。内臓はすべて臍より上に格納され、余分な膨らみは微塵もない。

その手足は直線的なラインを描いており、関節部の造形は極めてスマートだった。

ウェイトトレーニングではなく、数えきれないほど繰り返された組手、そして20年にも及ぶ裏の擂台で磨きぬかれてきた体なのだろう。

 

その体を上から下まで眺め、郭海皇は一言、言った。

 

「――道のりは遠く、といったところかの」

「……恐れいります」

 

深く礼をして、龍書文は言葉少なく返答する。

 

「ひょっひょっ……随分と高い理想を掲げたものじゃの」

「……」

「お主の理想とする体を手に入れるには、あと20年、いや25年はかかるじゃろう」

「……やむを得ぬことです」

「じゃが……」

 

そこで初めて、郭海皇はわずかに躊躇うような、言葉を選ぶような数瞬の空白をはさみ、こう言った。

 

「おそらくは、無理じゃな……」

 

 

 

 

 

 

空気が歪む

熱が満ちていく

 

コンクリートの天井や壁が震えるような感覚。

地階駐車場にてやや開けた場所に移り、勇次郎と書文、この二頭の獣が対峙する。

 

両腕を開き、上半身のガードを拒否する勇次郎独特の構え。

かたや両手をポケットに収め、やや足を開いただけの構えを見せるのは龍書文。

 

「はっ……またそれか」

 

ことさらに見下した視線となり、目口を歪めて嘲る勇次郎。

 

抜拳術。

 

腕の動きではなく、腰を「きる」ことによって打拳を完成させる書文の拳、

居合にも例えられるその構えはまさに異様。

しかし、かつて規格外のタフネスの前に敗れ去ったことはあるものの、20年間の無敗を誇る打拳には一分の隙もない。速度、鋭さともに比類なき完成度を誇る。

そのポケットハンドとは思えぬ雷速で撃ち抜かれる拳で、相手の先制に後の先を打つ、それが龍書文の夢幻の如き武術ではあるが、

果たして、地上最強の生物と謳われる範馬勇次郎に、それが通用するものか。

この場に観客が居たなら、そのように思ったことだろう。

 

書文の足が地を滑る、体がするりと移動し体幹が真横に回転し、

体が勇次郎の間合いに滑り込む。

 

後の先などという悠長な狙いが、勇次郎に通じるはずもなし。

右ポケットから音もなく弾ける拳が、しかし事も無げに勇次郎の右手掌で上から覆われ。

 

蛮ッ

 

空気が弾ける

千人の拍手を一つに束ねたような音。勇次郎の手掌の中で空気がはじけてわずかに腕が上がる。

一歩、左足で踏み込むと同時に撃ち抜かれる貫き手。

その槍の如き五指が勇次郎の頬をかすめる。勇次郎の凶眼が光る。

 

「ッッシィィッッ!!!」

 

牙を噛み締め勇次郎が手刀を打ち下ろす。

空気を引き裂いて打たれる手刀が軸足を踏み変え半身に移る書文をかすめる。

書文が回転するままに抜き放たれる左の掌底。ポケットに炸薬でも詰まっていたのかと思われる程に速く鋭い掌底を勇次郎が肩を上げてガードする。

 

洞ッ

 

互いに鋼鉄の杭を打ち込んだように重心が安定した二人である、掌底と肩肉の狭間で生まれた力が体をまっすぐに降りて四つの踵で爆散する。

コンクリートの床面に花のような亀裂が生まれ、そして書文は不意にふわりと浮き、大きく跳んで後方に下がる。

 

「……ッッ!」

 

勇次郎の眼光が細められる。

 

重い。

あの大擂台祭、ビスケット・オリバとの戦いで見せた拳の鋭さよりも数段上。

 

「……キサマッッ!」

 

あの時は本気ではなかった?

――否、そんなはずはない

 

鍛錬を積んだ?

――否、技量や心構えなら「革命」があり得ても、基本的な打撃力までは

 

薬物――?

――否、俺がそれを嗅ぎ取れぬはずがない。

 

一秒にも満たぬ推察、そのことごとくが即座に否定される。

そもそも、勇次郎の眼力により見出される拳の破壊力。

体重、筋量、構えから生み出されるはずの予測値を大幅に上回っている。

その違和感が苛立ちのうめきとなって牙の間から漏れる。

 

「不思議そうだな」

 

龍書文は事も無げに言う。

 

「だが無理もない、私がどのようにして強くなったのか、余人に想像できるはずが」

「不思議ではない」

 

だが、その勝ち誇るような言葉を、勇次郎の低い声が止める。

 

「およそ真っ当な手段で成長したわけでないことは明白ッッ!

――ならば、残るは常軌を逸した手段しかあり得ぬ。それだけのこと!」

 

口角を獰猛に歪めて牙をむき出し、勇次郎は怒気をあらわに続ける。

 

「だがッッ! キサマほどの武術家がッ!

 なぜ今更そんな手段まで使って強くなろうとする!!」

「……」

 

書文は一瞬、その問いに答えたものか、わずかな逡巡を見せる。

その問いは本来なら無視すべきものであったろう、

答えずとも、構えを見せればこの凶獣は向かってくる。

 

だが、数十年を武に生きた龍書文の人生が、

その中で幾度もその名を聞き、ある時は倒すべき敵として、

ある時は尊敬の対象としてその存在を思い浮かべてきた男が。

この人類最強、範馬勇次郎の問いが。

怒りを滲ませながら、どこか破滅的な匂いを嗅ぎ取った悲愴さを歯噛みするようなその問いが。

龍書文という鉄面皮の心を、わずかに乱したのか――。

 

「――すべてを、捨てねばならぬ」

 

その言葉は、意識の底から沸き上がってくるかのように、するりと流れ出た。

 

「私が背負ったものは、それほどに大きい――」

「……ッッ!」

 

勇次郎にも察しはついている。

おそらくは、腹筋――。

 

尋常な発想ではなく、

また代償も小さくはない筈。

 

だが、手に入れたものは確かに油断ならぬ。

あの肉体――。

だが、そんな勇次郎の思考は。

 

「来い――」

 

龍書文の一招きで、煙のように消え失せた。

 

 

 

 

 

 

「……無理、とは?」

「ひょっひょっ――、わしとの戦いの前、あの強き人は何と言うておったかの」

 

郭海皇は、楽しいひと時を思い出すかのように、ゆっくりと語りだす。

 

「そう……ある者は怪我に泣き、ある者は病に倒れ、あるものは修行の辛さに挫折する……」

「……そして寿命」

「そうじゃったな……。

それらの障害に屈せず、倒れず、武の道を歩みきったのがこのわしじゃと……」

 

その言葉自体に間違いはないように思える。

まさに目の前の郭海皇こそは、武の道の果てにいるような存在だからだ。

 

「なんとも……あの者らしい間違いじゃな」

「……?」

 

郭海皇はふいに天を見上げ、何かを述懐するかのように目を細める。

 

「人が大きく成長すれば、それは、社会という中で色々なものと触れ合わざるをえぬ……」

「……」

「わしとても同じ……。

後進の指導や、煩わしい武術省絡みの雑事……。

そして挑んでくる無数の者達との試合……しかしそれはまだマシ。自身の成長にも繋がるからのう」

「……」

「それだけではない場合もある……。

すなわち、政治や軍事、あるいは世界の動き、といったものじゃ……」

 

それは。

海皇は、何を言わんとしているのか。

その何かを危ぶむような口ぶりは何なのか。

こんな夜半の、人目につかぬ場所を選んで何を伝えようとしているのか。

それは、裏世界に生き、ここ20年を台湾という土地で生きてきた龍書文には、察せざるを得ないこと――。

 

「わしとても、そのようなものと無縁ではいられんかった。

先の二度の戦争、朝鮮やベトナムでの動乱。

そしてあの指導者たち――。

わしがその中でどのように生きてきたか、あえては語らぬが――」

「海皇――」

「おぬしとて、世の動きと無縁ではいられまい」

 

台湾という土地が、国家が。

これからの数十年を、平穏のうちに過ごす。

それはやはり、楽観と言うしかない。

 

そして黒社会に深く根ざす裏の擂台。

その中で自分はどのような運命に巻き込まれるのか。

 

それは一個人が見通すには、あまりに複雑で深遠な想像。

 

羨ましい。

あの強き人は、範馬勇次郎は。

それらと別離し、無縁でいられるのか。

ただ独立独歩、己の強さのみを追い求めて生きていられるのか――。

 

 

 

 

 

 

 

 

「――君に、頼みたい」

 

「我々が、大陸の脅威から独立を守るために」

 

「我々が、民族の誇りを保つために」

 

「肉が」

 

「あのドルルマンの肉が、肉体が、必要なのだ」

 

「私は既に、台湾の表舞台では力を失った人間」

 

「君のような裏社会の住人に、頼むことを、どうか許してほしい」

 

 

 

 

 

 

 

「――分かりました。李、総統」

 

「必ずや、ドルルマンを」

 

 

 

 

 

 



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第6話

 

 

 

 

勇次郎の手掌が空気を引き裂く。

大気の壁を、空間の密度を突き破る掌打。

 

書文の足が高速で踏み変えられ、瞬時に体を水平移動させる。

脇腹をかすめる一撃が黒のカンフー着を引き裂く。

体の近くで何かが爆発したような圧が生まれる。

 

「ッッッシイィッ!!!」

 

続けざま高速の手刀が三日月を描いて天地を裂く。

破局の勢いを宿す手刀が足元のコンクリートをえぐり取る。

書文の足が影を曳いてその斬線を逃れる。

 

漂ッ

五指が金釘と変じた貫手、勇次郎の首元を狙い疾る。

 

彭ッ!!

勇次郎の足が破城槌となって前方を射抜く。

それは書文の腹部を直撃、

その瞬間。両腋を締めた構えとなって書文から重量が消える。

霧影を残し、粉塵をわずかにその場に、書文は遥か後方へと飛ぶ。

 

消力(シャオリー)。

インパクトの瞬間に腹筋を剛直させているため、完全なそれではないが。

しかし、直線的な打撃を自身の跳躍によって相殺していた。

 

「キサマ――」

 

今、はっきりと分かった。

あの腹筋の感覚。この男は――。

 

本来の勇次郎であれば、相手がどのような手段によって強くなろうと、そんなことは雑事。

構いはせぬ。ただ打ち砕くのみ。

 

しかし、解せない。

勇次郎の純然たる闘争心が、その疑念によって濁される。

それが何より、苛立たしい。

 

「――何故、そんなことをしたッッ!!」

 

ぎり、と、金属片をも噛み千切りそうな咬合力で歯噛みしつつ、勇次郎が問う。

 

「――武術家が、強くなろうとすること、

それに何の不思議が」

「巫山戯るなアアアアアアッッッッ!!!!」

 

常人なら魂を砕かれるほどの憤怒を込めて、勇次郎の怒号が放たれる。

 

「キサマはそんな刹那的な人間だったのかッ!!

愚かなッ!

まるで餓鬼のようなッッッ!!」

 

勇次郎は、その怒りの感情の由来に困惑していたのやも知れぬ。

何故こんなに腹立たしいのか、

かつて自分の息子が、ステロイドにより身を滅ぼしそうになった時でさえ、こんな感情は抱かなかった。

この感覚は、そう。

 

「美麗なる彫刻を宝石で飾り立てるが如き愚行ッ!

キサマの歩んできた武はッ! 人生はッ!

そのような姿を完成とするつもりかアアッ!!!!!」

 

いずれ完成するはずだった、至高の芸術。

それが歪な形に「成ろうと」している。

それが何よりも、腹立たしいのだ――。

 

そのカンフー着の、腹部の布が裂けている。

そこに見えているのは、頑健なる腹筋。

そして、

腹部を埋め尽くす、無数の縫い痕。

 

「その通りだ――強き人よ」

 

ぬらり、と水面の魚影のごとく、書文が接近している。

遠く離れていたかに見えたその姿が、今は勇次郎に鼻も触れんばかり――。

勇次郎は怒りを全身に漲らせたまま、その手掌を。

腰を、胴体を「きる」ことによって生まれる掌打を、仁王立ちのまま受けんとする。

 

書文の掌が勇次郎を射抜き、

その肉が打ち鳴らされる衝撃が、

光となって一面にはじけた。

 

 

 

 

 

 

「これは……?」

 

郭海皇が何やら指示を出し、用意させたものは、それは端的に言えば蚕(かいこ)である。

知識として知るものよりもずっと黒ずんでおり、木箱の中をもそもそと動きまわっている。

 

「封尸蚕(フースーシン)と言われる蚕じゃな……。

もはや育てておる養蚕家もほとんどおらぬが……」

 

郭海皇は、暗い未来を予知するかのように慎重に話していた。

何か恐ろしい物の入った箱を開けようとするかのような、

刃の森を歩むかのような。

 

「絹……蚕の生産は、最も古い説では紀元前6000年頃にまで遡るという。

言うまでもなく、シルクの原産は古代中国じゃ。

そのほとんどは服飾に使われたが――。

この封尸蚕は、おもに死体の縫合に使われておった」

「死体に……」

 

その突飛な言葉に、さしもの龍書文も眉をひそめる。

 

「そう、深手を負って死んだ兵士を葬る時、

その傷を繕い、あるいは千切れた四肢を縫い合わせるために使われた。

それより転じ……生者への簡単な外科手術にも使われたという」

 

どこか、遠回しな物言いである。

この胡乱げな昔話の果てに、郭海皇は何を伝えようとしているのか。

 

「時に書文、お主の理想とする肉体」

「はい」

「……その最大の障害は何か、分かっておるな」

「勿論です――」

 

書文は己の腹部に手を当て、

その部位の熱を確かめ、

静かに言う。

 

「……内臓。

生命を保つための、この腸(はらわた)こそが――」

 

 

 

 

 

 

「ぐウッ!!」

 

踏みしめた足が、コンクリートの地面をえぐっている。

不動の構えにて受けた勇次郎を、わずか数センチではあるが、無理矢理に押している。

その掌打はまさに魔の領域。

勇次郎の完全とすら呼べる肉体に、その奥に確かに打撃の手応えを――。

 

瞬時に引き、さらにもう一打を打たんとする。

 

「ちいいィッッ!」

 

勇次郎が動く。

右回し蹴り、空間が上下に引き裂かれるかのように暴風をまとった蹴り。

 

書文という名の煙が後方に逃げる。

高速の足捌きと体重が消えるかのような歩法。

 

するりと逃れた書文がワゴン車に背中を付けて止まる。

 

「ッッガアアアアアッ!!」

 

八つ脚の獣が襲い来るかのような、

巨大な影の怪物と化した勇次郎が襲い掛かる。

その影は龍と交差する。

一瞬で勇次郎の奥側に踏み足を入れた書文が、するりと影の奥へと抜けて位置を入れ替え。

そして高速で体を反転。

腹筋が固められる、息が吐かれる。

体の回る勢いのままに、肘から先が完全に消滅。

各関節部で加速を加えた掌打がポケットから抜かれ、勇次郎という名の影を撃ちぬく。

 

それは眼には見えぬ流れ。

勇次郎の背中を撃ちぬく掌打がその奥の車体へと連なり。

巨大な力が波となって車体を伝播し、

硝子を伝い、鋼鉄を流れ、

そして反対側の扉へと収束し、

その蝶番や閂を爆散させ、

反対側のドアが、まるで車内で爆圧が生まれたかの如く弾け、

空気の壁を押し破りながら、翔ぶ。

 

そしてコンクリートに激突し、けたたましく啼く――。

 

 

 

 

 

 

人間が物を投擲したり、拳による打撃を放つ時、

最も強い力を生み出す筋肉は上腕筋でもなく、肩の筋肉でもない。

 

腹直筋。

 

そして周囲に連続する腹部の筋肉。

つまりは腰。

 

腰を「きる」動作こそ、人間の投擲力、打撃力の基本。

野球で語るならば優れたピッチャーとは、すなわち腰の生み出す力を、

いかにスムーズに手の先へと連絡できるかにかかっている。

 

「しかし、この腹筋というのが曲者……」

 

郭海皇は、ゆっくりと語る。

 

「腹部には言うまでもなく、多数の臓器が格納されておる。

胃の腑に、膵臓、肝臓、そして腸。

これらは、鍛えるなどという行為と無縁――。

非常に柔らかく、複雑な形状。

臓器だけではない、それが機能するために……、

数リットルにも及ぶ体液を、常に蓄えておる。

そう、まるで水袋のようにじゃ――」

 

人間は、その腹部に水を抱えて生きている。

それは常日頃、誰も意識することのないほど自然なこと。

 

「――しかし、こと打撃という点においては、これは明らかな邪魔者」

 

容器の中に水を注いだものをご想像いただきたい。

容器を動かそうとすれば、その中の水は、ワンテンポ遅れて動く。

外殻に対して、中身の水の粘性が高いためである。

 

そしてコップを急に止めれば、中の水の揺らぎが、コップの内部で不安定に暴れまわる。

慣性の法則。

子供でも知る原理が、人体においても当然のごとく当てはまる。

 

「これこそが、武術と生命活動との乖離」

 

「内臓の複雑な挙動こそが、拳を鈍らせる」

 

「それを克服するために、我々格闘家は、まず腹筋の鍛錬を基本とする」

 

腹筋を鋼のように分厚く、硬くすること。

腹筋を絞り、臓器を肋骨の中へと格納してしまうこと。

そうして長い時間を掛け、格闘家は理想の体へと近づく。

 

「……しかし、おぬしのように、腰を「きる」ことを基本とする武術家には、その理想ははるかに遠い」

「……その通りです」

 

「硬く、しなやかに、内臓の余分な動きで力を乱されず、

しかし内臓の働きを妨げず。

そのような肉体は、まさに至難の業じゃろう……」

「……」

 

「一つだけ、方法はある。

25年を待たずとも、その肉体を顕現させる業が。

しかし、この業は、寿命を縮めるどころではない――

本来ならば、誰にも教えることのなかった禁忌……」

 

龍書文は、すでに気づいていた。

あの封尸蚕という蚕、死体の縫合に使われたという絹糸。

それが意味することを、郭海皇が、己に授けようとしている技を、あるいは業を。

 

必要な時が来れば、自分はそれを使うべきなのだろう。

いや、いずれ必ず必要な時が来るのだろう。

だからこそ、海皇が今、目の前にいて。

 

あのような、悲しげな眼をしているのだから。

 

「縫い合わせることじゃ」

 

 

 

 

 

 

「網の目のように臓腑を縫い合わせ、

一塊の肉としてしまうことじゃ――」

 

 

 

 

 



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第7話

 

 

 

「――ッ」

 

通っていない。

あの打撃を背中に受けたなら、勇次郎とて腎臓が水風船のごとく破裂していたはず。

だが、瞬時に身を沈め、腋を締め、

肩甲骨と、そこに隆起する打撃筋肉(ヒット・マッスル)の壁によって止めている。

 

人外の域に達しつつある掌打によって、その打点を中心に布がはじけている。

そこにわずかに覗く肉の壁。

幾層もの筋肉が絡みあい、折り重なるその姿。

常人のヒットマッスルとは明らかに異なる、異端の血肉。

破れた服、その裂け目に覗くのは

 

――鬼の眼。

 

「ガアアアアアッッッ!!!!」

 

瞬間

その体が数十倍に膨れ上がったような。

肉に触れていた己の手掌が、後方に弾き飛ばされるような感覚。

 

「――おっ!」

 

書文がたたらを踏んで後退する。

 

――変わった。

 

明らかに、肉の弾性が。

 

「――いいゼ」

 

振り向くその姿は。全身が膨れ上がっているように見える。

 

「ただの異端の術かと思っていたが、誤りだった」

 

その口の端からは赤い筋が流れている。

範馬勇次郎の流血。

それがどれほど尋常ならざる意味を持つか。

あえて語るまでもない。

 

「キサマの足捌き、体捌き。

集中力、判断力、どれも極限まで高まっている。

果て無き武の高みへ登れるはずだったキサマが、

その道を投げうってまで手にした『覚悟』

実に、食いでがある」

 

「……」

 

「一つだけ聞こう。

この件、キサマほどの武術家が、そこまでする価値があるのか」

 

勇次郎の問い、

それは、ごく数秒の沈黙の後に破られる。

 

「……お前だけだ」

 

龍書文は、氷のような無表情のままに言う。

 

「お前だけが、そんな無意味なことを問う」

「……あぁ?」

「武術を極めんとする者なら、強い人間なら、寿命を犠牲にするほどの「役目」と無縁でいられると、本気でそう思っているのか」

 

それは龍書文という人間が、

長い人生の中でほんの数回だけ見せた、述懐のようなものであった。

 

「武を中途にて断念する理由――修行の辛さや、怪我や、病だと?」

 

その声は、暗い熱を帯びている。

 

「それだけではなかろう。もっとずっと大きな社会のうねり、ずっと卑小な個人的な事情、つまらぬ他者とのしがらみ、個人には背負いきれぬほどの政治的な役割、そんなことのために武を諦める者のほうが、そもそも武と関われぬ者のほうが、もっとずっと、はるかに多いのだッ!」

「……」

「中国から台湾へ渡り、20余年。

私にも、愛郷の心や、尊敬を抱く人物や、

社会を憂う心ぐらい存在している。

つまりはそのような理由だ。

そんなもののために命をかけることが、そんなに不思議かァッッ!」

「……」

「――あえて言うならば、ドルルマン=フォグ」

 

その名を、龍書文は複雑な感情とともに呟く。

 

「黒社会が握っている情報によれば、

あの男にはそれほどの価値があるのだ。

我々を、我々が立脚する国を、守れるほどの価値が――」

 

「――」

 

勇次郎は奥歯を噛み、彼には滅多に無いことであるが、何かを悔やむような表情をする。

 

「ちィッ――俺としたことが、無粋なことを――」

 

そして、静かに語る。

 

「そこまで言わせるつもりはなかった。許せ」

 

もし彼をよく知るものであれば、きっと眼を丸くしたに違いない。

それは確かに、真摯なる謝罪の言葉。

勇次郎の足が地面を擦る。

伸びをするように高く構え、両腕を左右に挙げる、絶対のタフネスによって実現する独特の構え。

龍書文もまた半身に構え、ハンドポケットのままに腰を沈める。

 

――もはや言葉は無用

 

その言葉が、言語化されないままに二人の間に流れる。

 

捩れ。

一枚の鋼板と化した書文の腹筋が、板バネの如き弾性を見せて捻られる。

そこから生まれる強大な弾性が腰から胸、胸から肩、そして肘、手首、拳へと加速を連ねる。

全てはハンドポケットのままに行われる、形のない加速。

 

放つ。

全ての加速を終えた抜拳が銃撃のごとく開放される。

勇次郎は拳の軌道が定まる直前に見極める、体を傾げつつの右正拳が光を曳いて飛ぶ。

拳打が交差する。

神速の抜拳が勇次郎の耳をかすめる。

勇次郎の野獣の加速を、書文の芸術的なまでの足捌きがいなす。

 

勇次郎の足が翔ぶ。

中速直蹴り、それは書文の肘が止めつつ消力により斜め後方にいなす。

書文の足が跳ねる。

直上への伸び上がるような脚、

勇次郎の右胸部をかすめてその身を引かせる。

拳撃、豪脚、掌打、送り足、貫手、空を凪ぐ指、地を割る踏み足、

腕の触れ合う音が唐竹を打ち合う如く。

位取りにめまぐるしく動く足は詰碁のごとく。

 

彭ッ

勇次郎の体が大きく反り返り、反動を載せた拳が流れる。

大気をかき乱す音が四方に散る。

龍書文の頬の肉がわずかに裂ける。

 

(――疾いッ)

 

一瞬前よりも疾い、

しかも、二撃、三撃、そのすでに常人の感知しえないほどの拳が、さらに速度を増している。

 

(この、動きは)

 

ニトログリセリンにすら例えられる勇次郎である。その拳は静から動へ、力みから解放への速さを持ち味とする。

だが、この揺れるような勇次郎の動きはどこかおかしい。

 

(――これは、まるで演舞)

 

高速での打ち合いのさなかである。

勇次郎も書文と同じく、足捌きにより高速で足取りを組み替え、構えを動かしている。

だが、その勇次郎の動きが水の如き動性を帯びている。

きわめて完成された演舞は天女の舞う如く流麗に――。

そのような形容が、勇次郎に似合うはずもないが。

 

(この動きは何だ)

 

それはボクシングで言うスウェーバックと前傾の往復運動に似ている。

だが、それより遥かに疾く、動作に連続性がある。

一言で言うならば円運動。

 

大きく反り返るように身を引き、反動をつけた数撃を前方に叩きこむ、

そして踏み足の真横に書文の足が置かれ、ポケットハンドからの手掌が顎を狙う、勇次郎は身を引いてかわす。

その流れが大きな円を描いている。ゆるやかな軌跡で、しかし疾い。

必ずしも最短距離ではない大回りの円運動が、異様なほどの疾さを生んでいる。

 

撃。

知覚の瞬間すでに拳が往復を終えている。

書文は五感を極限に絞って回避する。

 

(これは)

(なぜこんな――疾さ――拳)

 

撞。

空間を削り取られるかのような拳の重奏。

回避したのは反射神経か、修練の果てに至る神業の読みか。

 

(腰をきる速度が――なぜ――私より)

(やつの内臓が――まさか、円運動により――加速)

 

そして再度大きく振られ。

書文はその一瞬を突き、踏み足を進めて間合いを詰めようとし、

 

閃。

勇次郎の腕が世界から消失する。

もはやこの世の誰にも知覚できぬほどの速さ。

伸縮、打撃、屈腱。その三動作が一つに折りたたまれるかのように疾く。

 

(そんな事が――)

 

書文の拳がポケットを出ようとする。

その瞬間。

龍書文の意識が、世界から消失した。

 

 

 

 

 

 

無限の井戸に落ちていく感覚。

それは一瞬のことか、あるいはずっと長い時間か。

 

その井戸を、自己の無意識へと沈む中で、

龍書文は深く理解していた。

 

勇次郎は自分の体を円運動させることで、

体の動きに遅れてついてくる、内臓の動きすら操っていた。

 

ゆっくりと円運動させるコップの中で、

水が次第に高速回転を始めるかのように。

 

あれこそは、まさに完成形――

 

「―――ッ!!」

 

跋ッ!

意識が覚醒する瞬間。

すでに龍書文は立ち上がり、構えている。

額に汗を流しながら周囲を見る。

 

あたりには破壊された高級車が黒煙を上げ、

金属片と石片が散乱する。

 

コンクリートの支柱は大きくえぐられ、

地面には重機を用いたような深い溝が刻まれている。

 

そして目の前には最強の生物、範馬勇次郎。

憮然とした表情で、やや眼を伏せている。

 

「――完敗、か」

「フン……」

 

勇次郎は何も言わない。

敗者に掛ける言葉など、この世に存在するはずもないのだ。

 

そして自分の完全なる敗北を、

理想とも究極とも言える、勇次郎の打拳を認めた瞬間。

 

龍書文は、何か大きな荷を下ろしたような。

大きな罪を許されたような、そんな安堵が降りるのを感じた。

 

そこに、

多くの足音が集まってくる。

 

「ユージローッッ!!」

 

それは濃い緑のジャケットを着た髭面の男。

名前は把握している。米国海軍大佐、ゲリー・ストライダムだ。

 

さらに地階駐車場の様々な方向から、濃い色のスーツを着た男たちが集まってくる。

彼らは手に照明弾のような、不自然なほど口径の大きいハンドガンを構えている。

 

あれは確か、米国特殊部隊が開発しているという非殺傷兵器。

空中でXの字に展開する特殊ゴム弾を打ち出すことで、相手の動きをストップさせる暴徒鎮圧拳銃だ。

ゴム弾とはいえ生木をへし折るほどの威力がある。この距離で何発と喰らえば書文といえど悶絶しかねない。

 

もはやここまで、と覚悟を決める。

 

書文は膝を突き、両手を頭の後ろで組む構えをする。

スーツ姿の男は数人が書分に張り付き、残りは遠巻きに勇次郎たちを囲む。

思ったよりも多い、20人近くもいる。

人の輪から、ストライダムが歩み出る。

 

「ユージロー! 無事だったか! 

台湾マフィアがこのホテルに潜入しているとの情報が入ったんだ!

だが、すでに我々の工作員たちが撤退させたぞ!」

「フン……余計なことを」

「彼らの残していった特殊車両も発見した!!

培養した病原体を積んだ工作車両だ! 感染はしていないかッ、ユージロー!」

「うるせェよ、俺が病気なぞに……」

 

勇次郎は、そこでかるく頭を振ってストライダムを見遣り。

ごく数瞬、動きを止める。

 

その勇次郎の放つ違和感に、書文も周囲の気配を探る。

 

(……なんだ)

 

そういえば、何かがおかしい。

 

この男たちは米国の工作員、それは分かる。

だが、非殺傷武器とはいえ武装して急襲とは。大胆過ぎはしないか。

それに、自分がどの程度気絶していたのか分からないが、1時間以上ということはあるまい。

あまりに対応が早すぎないか。

アメリカ国内ならまだしも、フランスでこんな大人数を展開させるとは。

 

それは小さな違和感の積み重ね。

その違和感を嗅ぎとったのは書文だけではない。

勇次郎の周囲に、霧が立ち込めるように不穏な空気が形成される。

 

その獣のような顔つきは影が濃くなり、

蓬髪がざわりと波打つかに見える。

 

だが、最も顕著なのはストライダム自身だった。

書文が視線を送れば、その顔にはじっとりと汗が浮かんでいる。

目は瞳が揺れ動いている、

膝がごく微細に震えている。

 

そういうことか、と書文は思う。

 

当然のことだ。

世界に広がる黒社会のネットワークを駆使したとはいえ、情報戦において台湾と米国の差など歴然。

もし書文が、台湾黒社会が米国を出し抜けたとしても、

そんな優位が、何日も続くはずはないのだ。

 

「ゆ……ユージロー……」

「――オズマの野郎か、いや、違うな……」

 

範馬勇次郎は確か、米国と個人的に同盟を結んでいるはず。

あのオズマ大統領が裏切るとは考えにくい。

 

ならば、と書文は思う。

 

(大統領よりも上位の命令――か)

 

書文がすうと目を細める一瞬。

勇次郎が足元に力を宿し、

 

「逃げろオオオオォォオオッッッ!!!」

 

ストライダムが叫ぶ。

だが、皮肉なる一瞬。書文と勇次郎にのみ知覚できるほどの極小の時間。

逃げろと叫ぶその声こそが、このエゴイズムの権化のような男の足を止める。

一瞬、勇次郎は全てを破壊してやろうと殺気を噴出させ。

そして無数の白い球体が視界に出現する。

 

(――カプセル、我々の)

 

書文が視界の水玉模様に気づいた瞬間。

首に力を入れて目を細め、せめてもの構えを取る。

 

――鈍!

 

無数のXが飛来する。

数十もの鎮圧銃から発射される時速数百キロものゴム弾が、X字に展開して襲い来る。

書文とストライダムの体にぶち当たり運動エネルギーを一気に解放する。

武術家に生木で打ち据えられるような衝撃。

 

ストライダムは構える暇もなく食らう。

凄惨な音が幾重にも折り重なる。

血と体液が噴出する。

それは巨人の手が人形を握りつぶすような眺め。

ストライダムは藁くずのようにぐしゃぐしゃに折れ曲がる。

全身を捻れさせ眼から光が失せる。

おそらく十箇所以上の骨折、内出血、ことによると内臓破裂――。

 

そして七色の噴煙が視界を埋める。

空中でカプセルが弾けて極彩色の煙が広がる。

 

(ここまで――やるのか)

 

書文が思考する。

 

(馬鹿な、ワクチンがあるとはいえ、詳しく知りもせぬ細菌兵器を使うなど)

(そこまでして、止めたいのか、オーガを――)

 

そして側頭部からXの直撃を受け、書文の脳が頭蓋に叩きつけられる。

 

意識が吹き飛ばされる一瞬。

首がねじれた数人が倒れるのを見て、書文はオーガの逃走を感じ取り。

しかし、彼が間違いなく感染した、という事実を昏く心に思い浮かべ、

 

そして意識が闇に落ちる。

 

 

 

 

 

 

 




書いたのがだいぶ前なので大統領がオズマになってます、現在の作中ではトラムプ氏ですね。


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第8話

 

 

 

――東京

 

 

 

百畳もの畳を敷き詰めた広間。

夕刻の朱い光が差し込む部屋にて、二人の人間の影が長く伸びている。

 

一人は徳川光成。

日本有数の富豪であり、政財界に強大な権力を持つ日本最後の大物である。

小柄な老躯に対して大きく見開かれた目、どことなく蛙を思わせる容姿ではあるが、政財界を影で操ってきたその経験は伊達ではない。呉服を身につけ扇子を持ち、肘掛け椅子にゆるく座るその所作にも、大物だけが持つ一種の落ち着きのようなもの、度量の深さのようなものが存在している。

 

もう一人は鎬紅葉(しのぎ くれは)。

日本でその名を知らぬものはないほどの名医でありながら、全身を極限まで鍛えぬかれた筋肉で覆い、ファイターとしても相当の実力を持つ人物である。その肉体は近代的トレーニングの結晶であり、瞬発力、筋力、持久力、どれをとってもオリンピックのメダリストを凌駕するポテンシャルを秘めている。

だが彼すらも、東京の擁する地下の格闘技界。

東京ドーム地下闘技場においては、中堅どころに過ぎないが。

 

「本日は……」

 

筋肉の要塞、とも称されるその肉体。

前方にせり出した胸筋、大腿部が異様に膨れた足。

スーツが似合わないこと甚だしいが、そのようなことはさておき、紅葉が話を促す。

 

「どのようなご用向きですか、ご老公」

「うむ」

 

紅葉は漠然と感じ取っていた。

目が大きく、表情が豊かで、いつも愛嬌のある話し方をするこの老人が、先程から妙に押し黙っている。

何か話しにくい話題の時なのだろう。

彼はかつて癌を患い、その主治医として紅葉は何度も会っている、ゆえに、その不穏な気配を感じ取っていた。

 

「これは、わしの配下から寄せられた情報じゃが――あの範馬勇次郎についてじゃ」

「範馬氏の――」

「うむ、あいつは今、フランスにいるとの事なんじゃが――」

 

老人は、実に慎重に言葉を選んでいるふうだった。

それは秘密にしたいというだけではなく、何かを危ぶむような印象である。

 

範馬勇次郎ほどの人物であれば、その行動が時に政治や社会の流れに影響を与える。

この話は、そういった繊細な要素を含むのだろう。

余計なことを聞いてしまえば、鎬紅葉にも累が及ぶほどの。

 

紅葉はそのように理解し、あえて聞き返したり先を急がせること無く、居住まいを正す。

 

「――病気に、感染したらしいのじゃ」

「ほう……」

 

紅葉は驚くというより、半信半疑といった声を漏らす。

鬼の霍乱、という言葉は確かにあるが、まさかあの範馬勇次郎が病気にかかるとは。

 

「少なくとも……、エボラ出血熱、マールブルグウィルス、ラッサ熱……」

「――っ!?」

 

「それに、炭疽菌、東部馬脳炎、デング熱、黄熱病ウィルス――」

「…………」

 

光成はその蛙のような眼で紅葉を見つめ、大真面目に尋ねる。

 

「それでの紅葉よ、回復までにかかる期間はどのぐらいで……」

「お、お待ちください、ご老公……」

 

(何だこの話は)

(何かの喩え話か?)

(病名を詳しく言えぬから、その中のどれか一つに、という意味か?)

(いずれにしても……)

 

冷や汗を浮かべ、紅葉もまた言葉を選びつつ、冷静を装って言う。

 

「――回復がどうの、という話ではありません。

その中の……どれか一つにでも感染したなら、高確率で死ぬでしょう。

……しかし、黄熱病などいくつかの病気にはワクチンがありますから、発症の前にそれを注射すれば、ある程度は効果があります」

「もし、いちどきに全部に感染した、場合は?」

 

(…………そんな)

 

汗が頬を伝う。

困惑と混乱のあまり、口元がわずかに笑みのような形に歪む。

 

そんなことは、鎬紅葉ですら想定したことがない。

それに、おそらく人類史上、それら全てに感染した人間などいない。

だが、あえて答えるとするならば。

やはり、当たり前のことを言うしかない。

 

「――複合感染とは、単純な足し算ではありません」

「人が病魔に打ち勝てるのは、一つの病気だけを相手にできるからです」

「先ほど挙げられたのは……どれも劇症を示す攻撃力の強い細菌。

もし2つ以上、同時に感染したなら」

 

 

 

 

 

「範馬氏といえど、絶対に――」

 

 

 

 

 

 

 

 

なだらかな丘陵とワイン畑の連なる、とある小さな村。

そこには深い森があり、そこを奥へ奥へと分け入っていく、

いくつかの丘を超え、川を渡り、木々をかき分けてさらに進めば、

やがて文明の香りも遠く、木立の影はその濃さを増し、遠く渓流の音がする森に至る。

 

そこに、男がいる。

その全身はじっとりと汗で濡れている。

あぐらをかいて両腕を膝に置き、奥歯をぎりぎりと噛み締めている。

 

「――ッ」

 

目の前では火が燃えている。

太い枯れ枝を山積みにして、人一人を包み込めるほどの巨大な火が燃えている。

その根本には、鋭い枝に串刺しにされた蛇が数匹。

 

男の名は、範馬勇次郎。

 

範馬勇次郎がこの森に至って十時間ほど。

その間、彼はほとんどの時間を、こうして火の前で過ごしていた。

 

周囲の地面には赤い血痕が散っている。

腕や足に黒い斑紋が浮いている。

 

「――クゥッ……!」

 

勇次郎が咬み殺す苦痛。

それは、常人ならばその苦痛だけで絶命するほど巨大なもの。

 

「ガッ――」

 

勇次郎はわずかに吐血し、

その血潮が、火の中でじゅうと焦げる音がする。

 

高熱、悪寒、吐き気、腹痛、関節痛、耳鳴り、

そんなことは些細なこと。

 

臓器の膨張と緊縮、内臓出血、リンパの炎症、頻脈、

動悸の乱れ、体組織の壊死、虚脱、下血、意識混濁、

黄疸、色素沈着、肺浮腫、内出血、皮膚の乾燥、味覚不全、

粘膜からの分泌物、骨の痛み、筋肉の硬化、血圧の乱高下、

幻覚、幻聴、言語障害、回転性酩酊、視野狭窄、眼底出血

黒色班、腎機能障害、脳浮腫――

 

 

数えきれぬほどの苦痛が、刀剣を手にした無数の悪魔が、その体を切りさいなむ。

火はゆらゆらと燃え、勇次郎はただ、不動であった。

 

そして、また一つ。

潜伏期を終えた業病が、萌芽しつつあった――。

 

 

 

 

 

 

「もし、治療法があるとすれば……?」

「そ――それはもう、人間の持つ免疫力に期待するしかないでしょう。範馬氏ならば、人並み外れた免疫力を持っているとは思いますが……」

 

言った瞬間、徳川光成の顔にさっと明かりがさす。

 

そうか、と紅葉は思う。

先ほどの話の真偽は不明だが、おそらく範馬勇次郎が重病に罹患したことは確かだろう。

 

(……なるほど)

(これは相談ではなく、何かにすがりたかったのだ)

(何か安心できるような言葉が欲しかったのか)

 

「――そう、例えば、体を温めることは有効でしょう。周囲の温度が1度上がるごとに、免疫力が2%ほど向上する、というデータがあります」

「オオ、なるほど!」

 

子供のように無邪気な返事を返す光成。

このような話を求めているのだろう、と紅葉は言葉を続ける。

 

「あとは……バランスの良い食事をとって、睡眠をとること……そして、体の中に免疫ができるまで、じっと耐えることでしょうか。

代謝を活発にするため、汗をかいて、水を飲んで――」

 

自分の発言に、心の中で呆れてしまうことを禁じ得ない。

これではまるで風邪の往診だ、と紅葉は思う。

 

「それと、笑うこと、なども有効です。

笑うことによって、副交感神経が刺激され、免疫力に関係するNK細胞が活性化するという報告もあります」

「うむ、なるほど、なるほど、では助かるのじゃな」

 

……。

紅葉はその問に対して、何と答えたものかと逡巡する。

 

おそらく、徳川光成もそれらの病気の危険性を知らぬ訳ではなかろう。

だが、この政財界の怪物のもう一つの顔、

強き者への信奉者という側面。

範馬勇次郎というカリスマに対して向けられる、絶対の信頼と無垢なる憧憬。

そのようなものが、冷静な思考を鈍らせている。

 

ふと、紅葉は想念に囚われる。

軽く視線をそらし、障子にひらりと現れる落葉の影を見る。

 

(そう、世に永遠に生きるものなし)

 

絶対の強さを持つ範馬氏といえど、不死身ではない。

呼吸や眠りがなくては生きていけぬし、病にかかりもするだろう。

考えてみれば、当然のことだ。

負傷したことも、ダウンを喫したことも皆無ではないのだ。

 

では、範馬勇次郎といえど、死ぬこともあるのだろうか。

人類を絶滅させるほどの病原菌に感染して、劇症と昏睡の果てに死ぬのか――。

 

それは。

 

それは、想像できない。

 

範馬勇次郎という人物は、そのようなイメージからあまりに遠い。

 

医師としての経験か、それとも直感か。

どのような答えを返したものか分からぬまま、

落ち葉の影だけが、踊っていた。

 

 

 

 

 

 



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第9話

 

 

 

 

 

その気配を何と呼ぶべきか。

森の一帯にわだかまる黒い霧のような気配。

 

それを察知した小動物たちが、何かに怯えるように逃げてゆく。

鳥の気配も絶えて久しい。

 

それは百の頭を持つ魔獣が放つ殺気。

百万に咲き誇る毒花が放つ激臭。

 

そんなただならぬ気配が漂っている。

未だ燃え盛る大きな焚き火。

いかに人里から離れているとはいえ、くろぐろと立ち上るその煙をまったく一人も見咎めぬはずはないが、

まるで何かを恐れるかのように、この森に踏み込む人影はない。

 

範馬勇次郎の全身から蒸気が上がっている。

あぐらの姿勢のまま、両肩にすさまじい力を込めて自分の膝を押さえつけるような構え。

その体表には黒ずんだ血が流れている。

 

体表から汗と血の混ざった赤黒い泥が流れている。

その目はきつく閉じられ、奥歯をぎりぎりと噛みしめる。

 

ふいに、

その右手が大きく振り上げられ、

それが蛇のうねるように曲線を描き、

ムチのしなりを持って左胸を平手が撃つ。

 

空気が弾ける。

落ち葉をびりびりと震わせる、すさまじい破裂音。

それはライオンすらも怯えさせる鞭の音。

 

関節を無くし、骨を無くし、腕に液体のような柔らかさを持たせ、

無限のしなりを加えて平手を打つ技。

鞭打、である。

勇次郎の左胸に、土に残された靴跡のようにグズグズな傷跡が残っている。

 

音速に近い平手のあまりの衝撃に、皮膚が裂け、真皮の部分までが崩れているのだ。

その痛みはまさに、焼き鏝にて肉を焼くがごとく。

 

「………………ッ!!!」

 

その痛みだけで人を死に至らしめるという、鞭打ち。

自らの身体にそれを打つのは、けして錯乱ではない。

 

全身の筋肉を収縮させ凝集させ、関節がきしむほどに全身に力を込め、

爪の先や舌の先まで力を入れて全身に苦痛を分散。

かろうじて声を押し殺す。

そうやって自らに気付けを施している。

 

症状が出始めてかなりの時間が経っていた。

 

絶え間ない激痛と、苦痛が襲っている。

意識が散乱し、五感からの情報が洪水のように流れこむ。

思考が意味を失いかける。

 

範馬勇次郎は、本能的に理解していた。

もし、わずか数秒でも意識を失えば。

苦痛を正面から受け止めることをやめ、痛みに身を委ねて声を上げれば。

 

 

絶命する。

 

 

全身に気を張り、意識を保ち続ける。

それは針の頂点に立つような不安定さ。

それを1秒たりとも崩せば、

病魔が、さしもこの地上最強の生物すらも取り殺す。

 

いや、その苦痛の巨大さ。

内臓の腐敗、組織の壊死、恒常性の減退。

それらは、すでに常人ならば「死」の域に至っている。

 

口の端から息が漏れる。

それは黒く淀んだ毒のような息だ。

 

石炭を噛み砕くような不快さが常に口中にある。

荒縄が内臓に巻きつけられるような鈍痛。

 

「ちィ……ィッ」

 

自らの身体が紫色に膨れ上がって弾けそうな錯覚。

眼球が七色に濁って溶け崩れるほどの視界の乱れ、取り留めのない幻視、幻聴。

 

炎を見つめ続ける勇次郎は、全身から滝のように汗をかきながら座り続け、

数時間に一度、生木を集めて火にくべ、沢に行って数リットルもの水を飲む。

 

そんなことを、

50時間以上続けている。

 

がさり、と葉擦れの音がする。

 

勇次郎がそちらを鋭く見る。

全身が酸に焼かれるような病苦の中で、それでも反応の鋭敏さは衰えない。

 

野生の獣か。

あるいは米国の追っ手どもか。

 

勇次郎は、けして彼自身ではそう認めはしなかったであろうし、

あるいは無意識のうちであったけれども、

そうやって自分に近づいてくる存在の正体を、

あれこれと推察すること自体が極めて珍しいことであった。

 

そして藪の奥から影が現れる。

 

やや前傾に構えた姿勢。

顎の尖った印象がある細面、乱れてはいるが艶のある黒髪。

硬質な肉に覆われてはいるが、異様な長さのために細くも見える下腕部。

体には何も身につけていない。衣服といえば腰に巻いた褌のような布だけ。

そして、口の端からのぞく犬歯。

犬歯と呼ぶにはあまりにも大きく、鋭く。牙としか形容のしようがないもの。

大腿部と下腿部の膨張に対して引き絞られた膝。

発達しすぎた背筋のために頭部が前に押されるようにも見える。

 

その影が、勇次郎を見る。

丸い目は無表情ながらも、どこか好奇心を秘めた仄かな笑み。

何かを嗅ぐように鼻をひくつかせる。

 

男の浅黒い肌に滲むは、獣臭。

 

「……てめェか」

 

なぜ、この男がフランスなどにいるのか。

なぜこの森に現れたのか。

そのようなことを疑問に思う者など、ここにはいない。

 

二人はただ、星と星とが宇宙の何処かで衝突するように。

必然の如く奇跡のごとく、邂逅したのだ。

 

その雄の名は。

 

 

 

ピクル

 

 

 

 

 

 

 

 

人類最強

世界最強

生物界最強

 

そのような肩書きの中で、誰もがそれを意識もせず、

名乗ることなど思いもしないものがある。

 

すなわち、史上最強。

 

地球に生命が生まれてから、現在まで、

すべての生物の頂点に立つ。

それは北極熊か、鯨の仲間か、

あるいは白亜紀、恐竜の頂点と言われたT-レックス、ティラノサウルスか。

 

白亜紀、

仮にもし白亜紀に、人類が存在していたとしたら。

その人類は強く、疾く、Tレックスをも捕食していたとしたら。

その人物が、時を越え、現代に蘇ったとしたら。

 

100人の科学者を集めて問えば、例外なくこう言うだろう、

 

ありえない、と。

 

しかし、勇次郎の前に立つ、この男は――。

 

勇次郎が立ち上がる。

ぼたぼたと粘性の高い汗が落ちる。

 

――?

 

ピクルは、その勇次郎の姿を眺める。

 

ピクルは何かを思考する。

その思考はきわめて原始的で、言語化にも至っていない。

感情の延長のような思考である。

 

――この男は知っている。

――強い男だ。

――だが、なにか様子がおかしい。

 

一歩。

甲の部分がコブのように盛り上がった足で、地面を掴むように歩く。

 

黒髪がゆらりと揺れる。

 

知ってはいるが、どこかが違う。

そんなわずかな疑念に、ピクルが首を傾げる。

 

――そうだ

――アレを試してみよう

 

ピクルが拳を上げる。

握ったままの拳、それを水平に突き出す。

 

すでに、一撃の間合い。

勇次郎に向かって差し出された拳、

 

それはいつぞやの出会いの時、勇次郎に与えられた解けない謎。

まっすぐに押し合った力が、なぜか不思議な方向にねじ曲がり、己を転ばせた。

 

知らない、ということはあれど、

理解できない、と感じたことは無かった。新鮮な驚きであった。

 

そしてピクルは、何日もそれを思い浮かべ、思い返し、

ついには現代における武の最高峰、「合気」に近いものを身につけるに至る。

 

解けないパズルを与えられる喜び。

解けないものに熱中する楽しさ。

 

そんな無邪気さから、差し出された拳だった。

 

――与えてほしい

――あれを、もう一度

 

「……フン」

 

勇次郎もまた、拳を突き出す。

その顔面は汗に濡れている。

爪は濃い紫色に変わり、赤い指輪をはめたように関節部が赤く腫れている。

皮膚は塩の板のようにざらつき、乾燥しきっている。

そして、拳と拳。

 

指の背の部分がしっかりと合わさり、互いに固く拳を握る。

 

力が流れこむ。

背中から肩をつたい、肘、手首、そして拳へと、

風船を膨らますように気力が充填されていき。

周囲の空気が、硬化する。

二人の雄が放つ気配が、

純然たる力の集まっていくにつられ、森が緊張する。

 

そしてピクルは、口の端を曲げ、牙をむき出しにして、

笑い、

さらに莫大な力を流し込もうと。

 

突如、拳がすり抜ける。

まるで勇次郎が泥に変わったかのように。

拳が滑り、力が斜め前方に流れる。

 

体勢が崩れる。

重心が前に動く。

そして、ものの見事にピクルは転ぶ。

 

「…………チィ」

 

勇次郎は己の拳を見つめ。

わななくような、歯噛みするような、何らかの激情に顔を歪める。

そして地面に転がったピクルは、

逆さまになった姿勢のままで、目を丸くしていた。

 

――あれ

――何だ今のは

 

数瞬の間、思考が巡る。

 

――今のは、分かるぞ

 

全身に力を込める瞬間。こいつは力を抜いた。

だからバランスが崩れて、前に倒れた。

それだけのことだ、何の不思議でもない。

 

――今「こいつ」は

――簡単な、方法を選んだ

 

ピクルは言語を持たない、文明を持たない。

技術や、蓄積された知識を持たない。

だからこそ、何よりも敏感に感じ取れるものがある。

こいつは。

 

――病気だ

 

病気などという言葉や、細菌などという概念を知っていたわけではないが、

それでも、生物が時おり体調を崩すことは知っていた。

あるいは、それによって死にすら至ることも。

 

しかし、ピクルに「それ」が何かを意味するわけではない。

野生において病や毒に侵されたものも、ピクルと対峙すれば向かってきた。

激痛に身を爛れさせながら、

病苦に内臓を焼きながら、

しかし、それでも尾を振り、爪を立て、

時として、ピクルにすら痛みを与える一撃を食らわせてきた。

 

あるいは、病や毒により、そのまま死んだものもいただろう。

しかしそれらはピクルが見つける前に、もっと小さな捕食者たちによって食べられてしまう。

だから、知らない。

視界にも入らない。

 

病にあるから、だから――という思考の連続性をピクルは持たない。

 

それは古代人であるから、というだけでなく、

すなわち、彼なりの若さ、幼さ、

あるいは愚かさ、

だからピクルは、今の勇次郎に対して、

何ら特殊な感情は抱かなかった。

 

――そうか

――具合がわるいんだな

 

そう、野生において、

コンディションが悪い、などという言葉が、何の意味を持とうか――。

 

――まあ

 

 

 

 

 

――どうでもいいか

 

 

 

 

立ち上がり、勇次郎へと向き直る。

 

みき めき

そのような音がする。

ピクルの顎が開いていく。

45°

60°

 

77°

 

ずらりと並んだ鋭利な歯が光る。

 

「――ハヲオrraraahhaaa!!!!!」

 

後半は可聴領域を超えている発声。

 

喉を震わせつつ息を吐くだけの、乱雑な発声。

そのまま、上半身ごとぶつかるかのように、勇次郎へと襲いかかる。

噛みつき。

それは痛みを与えるためではない。

純然たる捕食の意思。

炎に炙られて、二人の姿が幻燈のように、揺れ――

 

魏ッッ!

空中で組み合わされる歯列。

勇次郎は体を沈めている。

 

右足を水平に突き出し、曲げた左足一本で体を支える。

コサックダンスにも似た構え、太極拳で言うなら「這」の一種。

そして勇次郎の脚が、跳ねる。

ほぼ垂直に真下から跳ねる蹴り、

地から突き出す稲妻のようにピクルの顎を突き上げる。

軸足と蹴り足が、見事なまでに縦一直線に並ぶ。

がきいっ、と骨の噛みあう音がしてピクルの体が浮く。

 

体が完全に地から離れるほどの衝撃。

水牛並みに頑健な脛骨を持つピクルですら、わずかに視界をぶれさせるほどの一撃。

次の瞬間、ピクルの顔面を手が覆う。

 

加速度が真下に切り替わる。

勇次郎の手が魔神の如き剛力を宿し、押さえつける力が背筋から腕を伝わってピクルへと流れこむ。

一瞬の後、

その顔面を真下に叩きつける。

図っ

地に染み通る力の波。

周囲の木々を揺らすほどの衝撃。

地面が泥のように沈み込む。岩盤が割れて亀裂が走る。

 

しゃがみこむような姿勢に流れた勇次郎が、

全体重、全腕力を載せて頭部を地へと叩きつける。

 

「――――ったくよオ」

 

固めていた息が肺から漏れる。

 

「じゃれつくんじゃねェ、若造が――」

 

人類の大先輩、

推定年齢は、4000万から6500万歳のピクルを、

こともなげに若造と言ってのける、その尊大なる自我。

 

そのピクルは、岩をも砕く速度で後頭部から地面に叩きつけられ。

数瞬だけ、衝撃に意識をぼやけさせるかのように表情が淡くなり、

やがて現状を認識すると

 

口角を釣り上げ、

頬を緩ませ

 

笑う。

 

にやあ、と、粘っこく笑う。

 

勇次郎の指のあいだから、その凶悪な犬歯がのぞいている。

 

――やっぱりだ

 

最初の邂逅、あの狭い部屋で拳をぶつけあった。

その時から分かっていた。

 

罵っ

光が弾ける。

ピクルの体が爆発したような感覚。勇次郎の腕が大きく跳ね上がる。

 

立ち上がるというよりは、全身の剛直、膨張、

そのような理合でピクルが脱出する。

 

地面をざざと削りながら構える原人。

 

――こいつは、本当に強い

 

「そのような存在」があるのは知っている。

生まれ落ちてから今まで、敗北など知らぬ。

そのような概念すら、無い。

目に映るものすべて捕食対象。

「そのような存在」がある。

それはあえて言語化するならば、「最強」という概念。

 

――「あいつ」のような

 

それは見上げるほどに大きく、

長大な尾と、鋭い爪、岩のような肌を持つ「あいつ」

 

――いや、「あいつ」よりも、もっと速い

――もっと強い

 

その顔が歓喜に歪む。

ピクルの足が撃たれる。

直蹴り、しかしその足は大砲のように疾く、鋭く、

そして途轍もなく重い。

 

勇次郎が両腕を立ててガードするところへ正面からぶち当たる。

ががっ、と靴と地面の間で土煙があがる。

列車と衝突するような衝撃。

 

ぎゃりぎゃり、と、

数十メートルものブレーキ痕を刻みながら押される。

勇次郎の顔面で血管が浮き出る。眼が丸く開かれる。

 

――こいつは、餌ではない

――倒すべき相手

 

範馬勇次郎は、決して被捕食者ではありえない。

あの大きな「あいつ」や、自分と同じ。

この世の食物連鎖の頂点。

王者、支配者、最も強いもの、

こいつはそんな存在なのだ。

それを理解した時、ピクルの脳内に浮かぶ概念がある。

 

それは、かつて「あいつ」に感じていたが、

「あいつ」より強くなった頃に、失われたもの。

 

この世界で、ピクルの知る世界の中で、ピクルと同じ位置に立つもの。

それがもう一人いる、ということへの違和感。

「こいつ」を倒せば、自分がその「たった一人」になれるという確信。

 

食欲とは違う、もっと根源的な衝動。

比べたい、勝ちたいという衝動。

それが湧き上がることへの、歓喜。

 

あえて形式的な言葉に当てはめるならば。

 

 

 

 

両雄 並び立たず

 

 

 

 

――そう、こいつは

――倒すべき

 

 

 

――好敵手!

 

 

 

 

 

 

「――た、確かかの、それは?」

 

再び、東京、徳川邸。

 

時刻は深夜、すでに零時を回っている。

深夜に訪ねてきたのは、小柄な体格の老人である。

 

真っ白な髪と豊かな口ひげを持ち、常にじっと何かを観察するかのような、冷徹な眼差しの老人――。

 

その老人の名は、アルバート=ペイン。

ノーベル賞の受賞経験もある科学者であり、生物学、物理学などの権威である。

かつてコロラドの岩塩層からピクルを発掘し、現代に蘇らせた張本人でもある。

 

ピクルを通じて徳川光成とも面識はあるものの、個人的な友人というわけではない。

夜半に一体何用かと、ともかくも居間に通したものの、その話を聞いた時、徳川老人の目は驚愕に見開かれることとなる。

 

「そう、間違いない」

 

ペイン博士は、半目で下から睨めつけるような、独特の鋭い眼光でそう言う。

 

「私は、知っているのだ」

 

深く静かな夜の底で、

ごくり、と徳川老人が息を呑む音がする。

 

「ドルルマン=フォグ」

「フランスに突如現れたとか言う、あのファイターじゃな」

「そう、彼こそが、まさに」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「史上最強であることを」

 

 

 

 

 

 

 

 




なろうの方の連載もよろしくお願いします
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第10話

 

 

 

 

右後方に腕を振りかぶる。

拳を固める。

直突に突き出すその風は爆圧の如く。

 

ピクルの右鎖骨から鳩尾へと流れる連撃、天渓から腹哀、冲門、そして姿勢が下がったところへ水突――喉元への一撃。

急所を意識したわけではない、全力で打つその一打一打が、本能のように人体の急所へ吸い込まれていく。

 

「――ルッッtttオアアァァrrrrhhraaaa!!!!」

 

声を超えた叫び、眼と口から体液を飛ばして悶絶する。

しかし、ピクルがさらに踏み込む。

擬ッ

歯を食いしばる音がする。ピクルのおそろしく長い腕がノーモーションで最大加速に達し勇次郎の影を貫く。

 

勇次郎の右肩へ一撃。その部分の肉がはじけ飛ぶような衝撃。

びりびりと肩に振動が走って感覚が喪失する。

続いて左腕、ピクルが振りかぶる、その先端が地に届いている。大きく円を描いて背後から頭上へ、そして鉤爪型になった指が直上へ、空気を引き裂きながら振り下ろされる。

人間を超えた柔軟性によって加速した爪が勇次郎の胸に食い込み、

体表をやすやすと切り裂き、風を曳いて振り下ろされる刹那。

寸毫だけ身を引いた勇次郎が半身となって踏み込み、大上段に拳を固める。

それは山ひとつ分の重量を圧縮したような、超重量の拳。

 

醐ッッッ

鋼鉄のハンマーで一撃されるほどの音。ピクルの頭部が地に叩きつけられ――

 

廻る。

その体が地に倒れ伏す直前。

ピクルの体が急激に折りたたまれるかに見え、体が高速で前転し、

 

脚が。

前転の勢いのままに放たれる前回り回転蹴り、岩のような角質に覆われた踵を放つ。

それはまさに投石機で打ち出される鋼鉄球。

勇次郎の鼻と唇の間隙、人中にめり込みエネルギーを開放する。

 

勇次郎の大上段からの一撃、それを直前に感知して体を前転させて勢いを殺し、

それを前回り回転蹴りに繋げる身体能力、センス、どちらも人類を超越している。

勇次郎もさすがに二歩、三歩後退する。

 

「……ヘッ…」

 

勇次郎が流血している。

黒い血を鼻から流しながら、不敵に笑う。

 

勇次郎が脚を滑らせる。後方に腕を振りかぶる構えから、開手を体の正面に出す構えへと推移する。大石を抱えるかのような姿である。

勇次郎は特定の流派やスタイルに固執しない、だからその構えの推移も無意識でのことである。

より効率的に、最適に――。

 

「――ググゥ」

 

ピクルは、その一撃一撃の突き刺さるような痛みに驚愕しながらも、

その天性のタフネスによって早くも回復しつつあった。

 

その筋肉が躍動している。

その姿勢も推移している。

より前傾に、より低く。まるで蜥蜴のように地にへばりつく構え。

それは構えというよりは、明らかなる突進の予備動作である。

 

ピクルの最大の強み、体格や質量ではるかに勝る恐竜たちに全勝してきた理由。

その最大のものは身軽さにある。

跳躍、疾走、俊敏、反転、躍動。

筋力すべてを動員したその縦横無尽の動きが、さしも原始の超獣たちをも倒してきた――。

 

そして、翔ぶ。

 

一瞬で視界から消え、葉擦れの音がわずかに流れ。

勇次郎の手が動く。

開手が羽のように舞い、空気に溶ける。

虫をはたき落とすように瞬発的な動き、それが影に触れる。

 

班ッッ

破裂音が響く。

それは手掌が打ち付けられる際、数マイクロ秒だけ極限に圧縮された空気が弾ける音。

 

どうっっ、とピクルが木に衝突する。

それは乗用車の正面衝突に匹敵するほどの威力。

立ち木がめきりと動いて根の一部が持ち上がる。

 

速く、鋭角的に、エネルギーを絞った平手打ち。

ピクルの皮膚に瞬間的な圧を加える。

 

ピクルの突進力に比べれば微々たる力であるが、そのわずかなベクトルが、ピクルの筋肉を狂わせ、軌道を曲げる。

ピクルはあらぬ方へ動き、

無惨にも立ち木に衝突、自らの跳躍力をそのまま身に浴びることとなる。

だが

 

「――ヲオォォオッッ!!!!」

 

がぎいっ、と足先が地に食い込む。

ピクルの体が反転する。

フェンスに衝突したF1カーが、すぐさま反転して駆け出すような驚愕の眺め。

 

背後を向いた勇次郎へと駆け、その後背部に一撃を――

 

影が沈む。

 

握っ

 

勇次郎の手がピクルの手首を掴んでいる。

瞬間、ピクルの疾走が、打撃が、前方へ向かう意思が、

全て一方向に収束されるような感覚。

勇次郎の全身の力が、ピクルの体を。

 

廻すッッ!!

それは腕取り背負い投げ、

しかし、もはや人間同士の闘争ではありえないほどの速度。

体が舞い、空気が鳴り、

そして地にぶち当たる。

 

 

その音は雷鳴のごとく。

木の葉を揺らし、鳥獣のすべてを恐怖させ、

山を突き抜けて地の奥底まで響くほどの音。

 

ぱらぱらと、勇次郎の体に砂粒が落ちる。

ざざざ、と小雨のような音がする。

はるか上空にまで巻き上げられた小石が、十数秒遅れて落ちている音だ。

 

ピクルの周囲にイナヅマのように広がる地裂は数十本、

その地割れは長いもので15メートル以上に達している。

世界そのものが割れたかのような眺め、

筋肉が痙攣し、瞳孔が震えている。

脳も揺れずにはおれまい。

 

――だが

 

抜ッ!

跳ねる

ピクルが跳ね起き、

そして牙を向く。

 

体の芯まで響くような痛みを与えているはずだが、その闘争心を挫くには至っていない。

 

鋼鉄製の金庫すらも砕いたであろう、あの背負投げを受けて、なお立つ。

 

打撃も投げも、どれ一つとっても必殺の威力を備えているが、

この二人の超雄たちは、それすらもなお物足りぬとでも言いたげだった。

 

「へっ……「浅い」か……」

 

「慣れねえこと、するもんじゃねェな」

 

確かに、背負投げなどは勇次郎の常なる流儀ではない。

病が、さしもこの怪物の戦い方にさえも、影響を与えずにはおかない。

だがおよそ現代において、あれほどの速度、重さ、切れ味ともに完全な背負投げは存在しないと思われるが。

それでも、なお浅い。

 

それもそのはず。

 

突進をずらす打撃も、

今の背負い投げも。

所詮は、ピクル自身の力を利用したに過ぎぬ。

 

戦艦――をご想像いただきたい。

かつて世界の海で戦いを繰り広げた――戦闘艦。

戦艦を戦艦たらしめるものは大砲、つまりは艦砲を備えていること。

 

その最終形は、かの戦艦「大和」

それに搭載されていた46センチ砲、が最も強力なものとして知られている。

 

そして、戦艦にはひとつの理念があった。

46センチ砲を持つ船は、

46センチ砲に耐えられねばならない。という理念。

 

砲弾を防ぐ装甲板。

沈みにくさを追求したバランスコントロール。

防御と攻撃、無敵の矛と最強の盾を同時に備えるべし。

 

それはすなわち、ピクルにも当てはまる。

防御力と攻撃力が、等しくあるべき。

自らの力に耐えられるほどの耐久力(タフネス)を持つべし。

 

それは、この世のほとんどの武術家が達していない境地。

ある者は攻撃力だけを研ぎ続け、

ある者は防御力だけを鍛え抜く。

 

それは、ルールがあるから。

立ち技系、寝技系、ポイント制――

そのようなルールが、理想の肉体と対立する。

 

ピクルは、確かに究極であった。

強く、鋭く、そして強靭であった。

 

ピクル自身の力では、ピクルを破壊できない――。

 

「――力みが」

 

勇次郎は、獰猛に笑う。

 

「――足りねェか」

 

拳を握る。

何かを握りつぶすかのように、渾身の力を込めて握る。

 

どくっ

 

そんな音がする。

鼓動の音が、どこか濁りを帯びている。

両拳を肩の高さに、下腕から上腕へと血液を流入させ、筋肉を硬く引き絞る。

息は荒い。

激流の河を数時間も泳ぎ続けられる勇次郎ではあるが、その息は明らかに上がっている。

そして喘鳴音――気道の狭まる音もかすかに響く。

 

ここへ来て、ついに病魔という名の軍勢が、勇次郎を制圧しつつあった。

 

いくら範馬勇次郎でも、地上最強の生物でも。

この世に不死身などありえない。

 

腕が、足が、そして内臓が、重い。

溶けた鉛に下半身が埋まるような重さ。

 

世界から色が消えている。

あるいは視野のほとんどは暗い。

 

体内のあちこちで出血している。

内臓はすでに機能の大部分を止めている。

 

心臓は、まるで火で炙られるかのように熱く、

脳は、思考がほとんど成立しないほどにノイズが酷く、

己が何をしているのか、

己は何者なのか、

あるいはそれすらも、既に意識の上に無い――。

だがそれでも、範馬勇次郎は構えている。

何かを打ち据えようとしている。

 

ピクルもまた拳を握る。

その眼からは先程の背負い投げの影響か、血の混ざった涙が流れていたものの、

顎の筋肉が樹皮のように硬く噛み締められ、全身のポテンシャルが高まっていることが伺える。

 

互いに、間合いに入っている。

周囲の空気が熱を帯びる。

風景が歪む。

戦闘の気配が微粒子となって飛び交う。

 

勇次郎とピクル、それぞれの時代で最強を冠されし二人が

 

無数の砲塔を備えたハリネズミの如き戦艦が――

 

先に動いたのは、

 

――範馬勇次郎。

 

 

 

 

 

 



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第11話

 

 

 

 

その乱打を何と呼ぶべきか。

 

豪拳は重く、

打拳は速く、

打点は鋭く。

 

ピクルの体が打拳で埋め尽くされる。

そのすべては急所を貫く鋼の槍。

突き立つ威力は爆圧のごとく。

 

肉に、臓器に、背後にすら突き抜けるような打撃。

無数の打音が折り重なって聞こえる。

痛み、衝撃、肉体の一部が消し飛ばされそうな一撃。

 

ピクルは原始的な思考で、短く思考する。

 

――痛い。

――硬い。

――強い。

 

 

 

 

――だが。

 

――軽い。

 

 

 

凡百の武道家なら十分に致命的な一撃。

しかし、やはり勇次郎のその拳は、完全性を欠いている。

足元に血溜まりができているのは勇次郎の方だ。

汗と体液と、そしてどす黒い血がとめどなく流れている。

 

鼻から、目から、そして粘膜から、皮膚から、筋肉の継ぎ目から、

汗をかくように、あるいは雨に打たれるように血を流している。

おそらく内臓――腹腔内にも、そして脳内にも。

 

毛細管がついに細菌の軍勢に敗れつつあるのか。

その体が赤く染まっている。

あるいは骨も割れ始めている。

筋肉は内出血を起こしてパンパンに膨れ上がっている。

 

「――――オオオォォオオオオ!!!!」

 

だがそれでも止まらない!!

その眼球を朱色に染めて、皮膚が腐り落ちるように爛れてなお――。

 

乱打、乱打、乱打――

 

ピクルは踏みとどまっている。

その指先がカギ型に曲がり、地面を掴んでいる。

 

ピクルは思考する。

 

――この強い「こいつ」に

――報いたい

 

それはピクルの持つ、強い者たちへの畏敬の念。

古代の暴君たちのように、大きな体を持たず、

しなやかな尾を持たず、

鋭い爪を持たぬ「こいつ」らが、全力で向かってくる。

そのことに、報いたい。

 

全力には全力を。

最大には最大で。

 

――そう

――「アレ」を

 

それは、かつて自分を追い詰めた二人の戦士から学んだこと。

ピクルは名前を覚えない、そもそも名前という概念があるのかどうか。

だが、その姿形、戦闘の経緯はよく覚えている。

 

その名前を詳らかにするなら、

一人は愚地克己

一人は範馬刃牙

 

ただの腕が、長大な尾のごとき威力を生んだ「あいつ」

小さな体が、様々な恐竜のごとくに見えた「あいつ」

 

その全てを。

 

ピクルは学習していた。

 

武術の極み、技術の頂点。

それを完全に再現するには至らぬが、

肉体の力を、さらに増幅できる手段であることを「学んだ」

 

脚。

 

乱打の嵐の中で、血を吐きながら、

ピクルは己の脚をイメージする。

 

長く、直線的、鋼のごとき己の脚を。

 

しなやかに、

柔軟に、

関節が複数あるかのように、

関節が無数にあるかのように。

 

そして思い浮かべる。

遠い過去に対峙した巨竜を。

あの身のこなしを、尾を打ち振るための体のひねりを。

その巨躯の重量を、全て尾の先端に乗せるあの一撃を。

 

尾の付け根の躍動を大腿部に、

尾のしなる姿を膝に、

尾の先端の鋭さを爪先に再現する。

 

流星雨の如き乱打は続いている。

光と音が乱れ弾ける。

滝の勢いが真横から押し寄せるような乱打。

 

それに耐え、

そして

 

 

旋!!

 

 

乱打の雨を強引に押し切るように、ピクルの体が回る。

思い切り後方に振りかぶった右足が、

驚異的な柔軟性を見せてしなる右足が、

肥大する。

それは範馬勇次郎の見た幻か。

ピクルの描くイメージか。

幻影の中でその脚が巨大な鞭となる。

 

空を裂く音が森のすべての木を揺らす――

 

足先が光と化して、範馬勇次郎の顔面に届く。

 

轟!!!

全ての乱打を、勇次郎の躯を圧倒するほどの、

滝の流れを跳ね飛ばすほどの一撃。

超絶なる後ろ回し蹴り。いや、巨竜の一撃が勇次郎を討つ。

その顔が音速の衝撃に弾かれ、

上体が跳ね飛ばされ、顔面が弾かれ、

上半身が大きくねじれて後方に振りかぶるような姿勢となり、

一瞬、ついに勇次郎の眼から光が消える。

瞳孔が開く。

 

 

――瞬間。

 

 

「――――待ってたぜ」

 

勇次郎の拳が、握られる。

足で地面をつかむように踏みとどまる。

腹筋を総動員して上体を戻す。

 

病に侵され、全身の感覚を失いかけていた。

 

五感はほぼ失われ、

全身がバラバラに分割されて空間にばら撒かれる感覚。

意識などほぼ零だった。

 

だが、その中で脳裏に閃く紫電。

脳細胞に電流のように流れるいくつかの言葉。

 

絶技

快打

激痛

 

そして――敗北。

 

その二文字、その二文字だけを。

全身の細胞が拒絶する。

 

狙っていたわけではない。

意識したわけでもない。

 

だが、無意識の奥の奥で、

「待って」はいた。

自分にカツを入れる、最高の一撃を。

己を本気にさせる、最大の危機を。

 

死にかけていた細胞が励起する。

心臓が限界を超えて拍動する。

体に火がついたかのように体温が上昇する。

そして皮膚は溶け崩れていく。

内臓のダメージも一気に加速する。

流れ落ちる血は常人なら致死量に達している。

 

そして、バラバラになっていた全身が、

ほんの寸毫の時間。かちりと噛みあうような感覚。

 

それは時間にすれば0,2秒ほどの覚醒。

極彩色の時間。

灼熱の感覚。

 

渾身の蹴りを振りきり、さすがに構えを乱すピクルの

顔面に。

渾身の右ストレートが。

光の河となり、奔る!

 

その一撃は古代人の頬に突き刺さり、

驚愕に歪むピクルの顔面を吹き飛ばし、

その意識すらも吹き飛ばし――。

 

どしゃあっ!

ピクルが崩れる。

膝を付き、顔面からその場に沈む。

 

 

 

勇次郎が腰を落とし、その場に座り込んだのは、

 

ピクルが倒れてから、ごくわずかの後だった。

 

 

 

 

 

 

男は、様々な相手と戦った。

 

恐るべき強さで向かってくるもの。

死を恐れず立ち向かうもの。

 

死んでなお、油断ならぬもの。

死んでいるのに向かってきた者もいた、あれは恐ろしかった。

 

だが、

ピクルは理解できなかった。

あの、強い「あいつ」は

 

明らかに、『死にながら』攻撃してきた。

死ぬほどの打撃を与えたのに。

それの直後に、最も痛い攻撃が来た。

 

では、あいつは

「殺せない」のではないか。

「倒せない」のではないか。

「負けない」のでは――。

 

ピクルはそんなことを、ぼんやりと考えながら。

血だまりの中で座り込む、範馬勇次郎を見下ろしていた。

 

流血こそ止まったものの、その座り込む場所には大きな血だまり、文字通りの地の水たまりができている。

しかもドス黒く、腐臭のする血液だ。

 

勇次郎の顔面は蒼白になっている。

唇がカラカラに乾いている。

 

しかし息は荒く、

すさまじい速さの拍動が、ピクルの耳にまで届いている。

 

その目は薄く開かれてはいるが、何かを見ているのかどうか。

そもそも意識があるのか。

何を思ってそこに座っているのか。

それすらも分からない。

だが、極限の状態であることは分かる。

 

――

 

ピクルはふと体を翻し、

ヤブの中へと分け入っていく。

 

残された勇次郎は、出血こそ止まったものの、

その場を全く動こうとしない。

というより、身動き一つ取っていない。

ピクルをダウンさせ、その場に座り込んだ瞬間から、

眉一つ動かさず沈黙している。

定義によっては、その時、範馬勇次郎は死の線をわずかに踏み越えたのやも知れぬ。

 

そして、藪がガサガサと鳴る。

ピクルである。

その右手には体毛がむしられたウサギを持っている。

そして左手もかるく拳を作り、中に何かを握っているようだ。

 

ピクルは、彼にしては複雑な思考で、このようなことを思っていた。

 

――「こいつ」でも、死ぬのか。

――いくら強く殴ろうとも。

――どれほど体が傷つこうとも。

――絶対に死なないと思った、「こいつ」でも。

 

――それは、

――それはとても「不自然」だ

――だから

 

ピクルはウサギを差し出す。

右手に寝そべるように置かれたウサギ。

そして、左手に何かを握ったまま、うさぎの上でぎゅっと手を握る。

ぎゅううう、と、筋肉が密度を増し、太い指がさらに密度を高め、圧縮され、中にあったものが超高圧に晒される。

そして。

ぽつ、ぽつと、赤黒い液体が滴り落ちる。

それが毛皮をむしられたウサギに降り注ぎ。

紫色の蝶に変じて、ひらひらと舞い上がる。

そんな香気が立ち昇る。

 

「――ほう……」

 

勇次郎が、ほとんど聞き取れない程度に呟く。

それは、紛れもないワインの香り。

 

ワイン造りにおいて最高級の品種とされるブドウ。ピノ・ノワール。

力強く濃厚で、どこか野性味あふれる土の匂い、そんなブドウの香りが、蒼白になった勇次郎の意識をわずかに揺らす。

 

それはおそらく、最も原始的な酒造りの一つとされるもの、

 

猿酒。

 

石のくぼみに猿が集めた果実が、自然発酵して酒に変わるという猿酒の原理を、この原始のファイターは果たして知っていたのか、それとも何らかの偶然なのか。

火も通しておらず、生そのもののウサギ。

それに原始的なワインをかけただけのもの。

 

しかしそれは、確かに料理と言えるものであった。

 

「……ゴチソウしてくれるのかい」

 

ピクルは、ただ目を大きく見開き、勇次郎にそっとウサギを差し出し続けるのみ。

 

「……ふ」

 

勇次郎は、ゆっくりと、おそろしく緩慢な動きでそのウサギを受け取り、

大きく口を開ける。

口腔に一滴の唾液も出ていない。

その歯肉には乾いた血の跡が残り、舌は――形容しがたい色に変じている。

はぐ。

そんな音を立て、勇次郎がウサギに食いつく。

ぶちりとその一部を噛みちぎり、目を閉じ、もにゅもにゅと咀嚼する。

そして、やや大きく喉を鳴らし、ごぐり、と無理矢理ぎみに飲み込む。

 

「…………っっ」

 

喉も、胃も、爛れきっている。

その激痛たるや、硫酸を流し込まれたかのよう――。

 

だが、勇次郎は二口目を食らいついた。

 

 

 

 

何度かの咀嚼の後。

少しだけ肉を残して骨だけになったウサギが、足元に転がる。

 

「……ウマかったぜ」

 

ピクルはじっとその様子を見ていたが、

何かを思い立ったかのように、ぱんと手を打つ。

 

「……あん?」

 

勇次郎が呆けたような反応を見せたのは、ピクルが突然快活な笑顔になったからだ。

立ち上がり、振り向き、藪に下半身だけ分け入ってから、こちらを向いて手招きをする。

 

「……何だってんだ」

 

極めて面倒くさそうにしながらも、勇次郎は立ち上がり、

そういえば焚き火はどうなっていたかと、背後を振り向く。

 

すでに火は消え、山積みになった炭の山だけが残されていた。

そうか。火は消えていたか、と勇次郎は、何か感慨深げな顔で思う。

 

体の奥がわずかに熱いのは、では焚き火とは関係なかったわけか――と短く思考する。

 

 

ピクルが先に立ち、勇次郎が続く。

勇次郎は平然と歩いているように見えるが、もし、武の達人がその様子を見ていたなら、わずかに重心が乱れているのを見て取ったことだろう。

ヤブをかき分け、低い枝をくぐり、登り、降り、しばらく進む。

やがて、やや開けた場所に出た。

若い葉が敷き詰められた一画がある、あれはおそらく簡易的なベッドだろう。

中央部が凹んだ石があり、そこには黒に近い赤色のブドウが幾つか載せられている。

かすかに香る発酵臭。あれがピクル手製の猿酒というわけか。

 

ではここはピクルの寝床だろうか。

ベッドと猿酒の他に文明を示すものは何一つないが、確かにここには固有の獣臭がある。

五感を失いかけている勇次郎ではあるが、それだけは嗅ぎ分けられた。

 

「……何があるって言うんだ」

 

と、勇次郎がつぶやくと、ピクルは振り向き、にまっと笑う。

顔面を思い切り緩ませた、だらしなさすら感じる笑い。

 

それはまるで「いいからいいから」と言っているような。

何かとっておきのものを、早く見せたくてウズウズしてるような顔である。

 

ピクルは猿酒に近づき、そこからブドウを一房、手に握る。

そして振り返り、また手招きをして、来た時とは違う方向のヤブに分け入る。

どうやらそれは酒というよりは、調味料に近いものかも知れなかった。

 

半発酵したブドウを溜めておき、獲物にふりかけて食するわけだ。

かつてピクルは、自分に襲いかかってくるもの、相応な強さを持った相手しか食べない、というルールを強いていた筈。

ずいぶんと文化的になったものだ、と、勇次郎も半ばあきれながら、しかしやはりピクルの真意は分からず、後に続く。

 

ピクルは、この時にかなり上機嫌だった。

それは、人に食物を振る舞うという喜び。

すばらしい食事を、分かち合うという喜びである。

病にある「こいつ」の、助けになるかもしれないという期待もあった。

何より、早く「アレ」を自慢したかった。

 

やがて再びヤブが開け、それが現れる。

 

その獲物は、頭に大きなコブを作り、

一体どこから見つけてきたのか、一つ一つが人間の頭ほどもある巨大な鎖で捕えられている。

鎖の先は家ほどもある大岩に結ばれていた。

 

そして獲物はピクルを認め、大声を上げんとする。

鎖が極端に短いのでろくに動きまわることも出来ず、地面をのたうつような格好になる。

 

「――コノ原始人、イイ加減ニ鎖ヲ、アッ!?」

 

そしてピクルの背後にいた勇次郎に気づく。

 

その獲物は。

剃り込んだ頭にうっすらと頭髪が生えている。

全身が硬質な筋肉の塊。

その中で美しくすら見える見事な歯並び。

 

ジャック・ハンマーが地面をのたうちながら、

必死に叫び声を上げる。

 

「ウワアァァアアッ!! 見ルナッッ! 見ルナアアアッッ!!!」

 

全身を真っ赤にしながら、顔を隠して転げまわるジャック。

ピクルはその頭の上に拳を差し出し、ぎゅっと握る。

ワインの香りがする雫がぽたぽたと垂れる。

 

「………………」

 

勇次郎は、満面の笑みでこちらを振り向くピクルを見て、

ジャックを見て、

もう一度ピクルを見て。

 

 

 

「………………

 

………………

 

………………ふ」

 

 

 

笑った。

 

 

「…………ふ、ふあっははは、あーーーっはははは! ぶははははは!!!

 な、何やってんだオマエ!! ぶはははははは! はっ、腹いたい! あはははははははっ!! はーっはははははっ!」

 

「ウオオォオ!! 見ルナアアッ!! 見ナイデエエェェッッ!!」

 

 

 

 

その笑いは、たっぷりと5分は続いたのだった。

 

 

 

 



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第12話

 

 

 

 

――どこから、話したものだろうか。

そう、あれは確か1960年、アメリカのMIT、マサチューセッツ工科大学でのことだよ。

 

私はまだ学生で、進路を決めかねていた。様々なものに興味を持ち、読書と研究が止められぬ時期だった。

だが私のことなど、この話においてはどうでもいい。

 

その頃、学生の間には妙な噂が流れていた。

教員棟のはずれ、老朽化した第四書庫に、宇宙人が出るという噂だ。

 

私は別に、信じてなどいなかったが……、

 

ある日、夜中遅くまで数学の問題に取り組んでいて、気がつけば既に零時を回っていた。

そして、その第四書庫の蔵書を参照したくなったのだよ。

 

夜中の学舎は暗く、窓からは街の灯も見えなかった。

科学万能の思想に染まり、幽霊や宇宙人など恐れない私でも、さすがに気味が悪かったものだよ。

なにしろ、MITは当時ですら100年に迫る歴史を持っていたからね……。

 

その時間に学生が残っていると、教員がうるさいものでね、私は暗がりの中で、カンテラ一つを頼りに書庫に踏み込んだ。

 

そこで、あの男に出会ったのだ。

 

その男は、不気味だった。

大男、では無かったな。

むしろ痩せ衰えていた。眼は深く落ち窪み、顔には影が濃く、頭髪はおろか顔面すべての体毛が抜け落ちていた。

明らかに、何か重病を患っていた。

 

その男は暗がりの中、私と同じくカンテラ一つで読書にふけっていた。

 

私が挨拶をすると――。

 

 

 

 

その男はのっそりと視線を上げ、アルバートを見遣る。

 

「……何かの研究かね?」

 

若かりしアルバート・ペインはその体毛のない顔に多少驚いたものの、驚くことが失礼に当たらないかと思い直し、そっけなく答える。

 

「チョット……解けない問題があるんです。あなたは教員ですか?」

「いや」

 

何でもないことのように、そう答える。

 

――無断侵入?

――こんな時間に?

――泥棒?

――誰か人を

 

「心配しなくてもいい……。学長の許可は取っている」

 

――なんだ

――しかし、ならば何故ここに

 

「ふむ、解けない問題が、あると言ったね」

「はあ……」

「どんな問題かね?」

 

その質問に、アルバートは少し戸惑う。

何しろすでに天才と評されているアルバートである。その時に取り組んでいたものも数学上の重要な問題であり、きわめて難しく抽象的な問題である。説明するだけでも生半可な事ではないし、ようやく解法の取っ掛かりが掴めるまで二ヶ月もかかったのだ。

 

「ええと……連続体仮説に関する問題で……」

 

アルバートは、この妙な男になぜこんな問題を話しているのだろう、という漠然とした疑問を抱きながら、

しかし、なぜか話をやめることができず、そのまましばらく説明を続けた。

 

だが全て話し終わる前に、その男は手を上げ、話を止めた。

 

「つまり……君の言いたいことは、……だね?」

 

「……っ、そ、そうです。その証明に関する諸問題の一つを検討中で…」

「ならば……といった手法で……から導き出してみたまえ。……という結論が得られるだろう」

「……!」

 

 

 

 

その時の私の驚きを、想像できるだろうか?

私の至ったであろう結論よりも、もっとずっと高度で深遠な結論を、その男は示してみせたのだ。

それは一種の計算的手法。

その分野における数多くの局面で応用が可能であり、

まるで荒れ野に高速道路が引かれるように、

数多くの問題を一気に解決する可能性を秘めていた。

 

その証明法こそは、強制法(Forcing)。

その二年後。1962年にポール・コーエンという数学者によって開発され、その功績によって65年にフィールズ賞を受賞した手法と、ほぼ同じものだったのだよ。

 

なに、なぜ私がそれを発表しなかったか、だって?

できるわけがないだろう。

私にだって、プライドがあるのだ……。

 

私が数ヶ月かかって取り組んでいた問題。

その遥か遠くにある解決法。

 

それを、あの男は。

書庫から私を追い払うためだけに、示してみせたのだよ。

 

その時、私はようやく気づいたのだ。

宇宙人が出る、というあの荒唐無稽な噂の真実と、この男の正体を。

 

かつて、天才の中の天才、と評された男がいた。

 

かの忌まわしきマンハッタン計画。その中心であったプリンストン高等研究所。そこに招聘されたメンバーの一人。

同僚であったアインシュタインやヘルマン・ワイルらが、彼こそ本当の天才だと評していた人物だよ。

 

そのあまりに異常を極める天才ぶりから、「悪魔の頭脳」とか、「宇宙人」などと呼ばれた人物……。

 

ドルルマン・フォグ? 

それは偽名だろう。

 

そう、本当の名は、

 

 

 

 

――フォン・ドルマン。

 

 

 

 

 

 

 

 

やや日が高くなり、森に差し込む光を量を増している。

風はやや涼しく、土は湿り気を帯びていた。

 

手首をさすりながら、ジャック・ハンマーが呟く。

 

「フウ……ひどい目にあったゼ」

 

あの後、

しきりにジャックを薦めてくるピクルに、勇次郎がこんな薬臭い肉が食えるかと撥ねつけると、一気に意気消沈してしまい、鎖も解いてしまった。

どうやら、ピクルもこの獲物を持て余していたようだ。

 

「……」

 

ジャックは、ふと傍らを見る。

少し離れた場所で自然石に腰掛け、範馬勇次郎が空を見上げている。

 

その風貌。

体つき、皮膚や眼球。

 

その姿は、さながら森林の奥に座す遺跡のようであった。

かつて栄華を誇った勇壮なる宮殿が、数え切れぬ歳月の果てに風化し、わずかに栄華の名残を留めるのみ。

石を積んだ城壁は半壊し、居並ぶ彫像は朽ち果て、その中に分け入れば、無数に穿たれた穴から陽光が差し込む、

銀は錆び、金は盗まれ、あとはただ獣の巣となるのみ。

そのようなイメージが連想される。

 

それは滅び。

永遠に続く王国のようであった勇次郎の肉体が、その永劫を失おうとしている。

 

「オ……オーガ」

 

ジャックは、彼の父親であり、ある時は憎むべき宿敵、ある時は尊敬すら抱いたこの地上最強の男の、そのような変わりぶりが信じられなかった。

 

「ハッ……なんて顔してやがる」

 

勇次郎はわずかに皮肉げな笑いを浮かべ、退屈そうに言う。

 

「……ぐ、具合が悪いのか?」

「大したことはねェよ」

 

ジャックの目から見ても、それが相当な業病であることは見て取れた。

確かに、今は症状がゆるやかになっている。

それは闘争によるものか、ある程度は抗体ができたのか。

あるいは何かしら免疫力を高める要因があったのか。

 

しかし、その肉体が闘病により激しく損耗しているのも事実――。

 

機銃掃射で穴だらけにされた車や、

海水を浴びせられたロボットを見るような感覚。

すなわち、生きて動いている事自体が奇跡的な――。

 

「クッ……」

 

ジャックは目をつむり、何かを噛み潰すような顔で腿を握りしめる。

そして不意に目を見開き、泡を飛ばしながら叫ぶ。

 

「オーガッッ! 俺、いい薬を持って――!」「いやそれはいい」

 

ぴしゃりと跳ねのけ、勇次郎がゆっくりと立ち上がる。

 

「それより、お前らどうしてフランスなんかにいやがる?」

 

声帯が焼けているかのように声が枯れている。肺から空気がもれるかのように、低い風鳴りの音が混ざっている。

 

「あ、アア……ピクルが貨物船に紛れてフランスに渡ったという情報が入って……。俺はその消息を追ってきたんだ。探すのが大変だったが、俺はまず港で――」

「つまり、最後は返り討ちにされたわけだ」

「ウ……そ、そうだ」

 

ピクルはというと、石のくぼみにたまった赤い液体を指ですくい、赤ん坊のようにぴちゃぴちゃと舐めている。

 

「どうやらワインに興味をもったようだ……ああやって、どこからかブドウを盗んできては、酒を作っている」

 

よく見れば、同じように上部が凹んだ石が数個放置されている。

どこから調達してくるのか、いろいろな品種のブドウが置かれ、動物から隠そうとするかのように手折った枝葉がかぶせられ、そのままひたすら放っておく。

おそろしく原始的で非効率だが、ピクルは割と楽しげに作業してるのだそうだ。

 

ワインと言ってもそれは分類上、そのカテゴリに入るというだけのこと。

原始的な製法には原始的な味。かなり酸味が強く、アルコールも弱い粗末な酒である。

しかし指を舐めるピクルの顔は真っ赤に染まり、ひどく上機嫌に見えた。

 

「……あいつ、酒は弱ェのか?」

「イヤ……おそらく古代人だからだろう。アルコールを分解する酵素を持ってないんだ。だから少量でも酔っ払う」

「なるほどね……

さて、それじゃ俺も、森を出るか」

「エ……?」

 

その唐突な発言に、ジャックもしばし困惑する。

 

「オ、オーガ、どこへ……?」

「酒でも飲みに行くか、と思ってよ」

 

首をコキリと鳴らし、勇次郎は乾いた声で答える。

やや焦った様子で、ジャックがそれに異を唱える。

 

「びょ、病気なんだろう……? 安静にした方がイイ。酒なら俺が取ってきて……」

「ハッ、そりゃ違うな」

 

違う、という言葉でジャックの動作が一瞬、止まる。

 

「俺は、病気なんかじゃねえ」

「……!?」

 

それはいかなる意味で言っているのか、

判断しかねて、二の句が継げない。

 

「もちろん、さまざまな病原菌に侵され、内臓は爛れ、筋肉は腐り、血液までもが膿んでいる。

俺の体も、かなりの部分が破壊された」

「…………」

「しかし、それを言うなら人間の体など、常に猛烈な早さで細胞が破壊されている。肉も骨も、体液もだ」

「代謝……?」

 

わずかに首肯する勇次郎。

 

「詰まるところ、生きることとは破壊と創造」

 

「破壊に偏ることもある、創造に重きをおく時期もある」

 

「だがそれは自然の摂理での上! 破壊に見合う創造があれば帳尻は合う」

 

「不自然なる物質を摂取し、いたずらに破壊を止めようとすること」

 

「苦痛に怯え、自然な回復力を信じぬこと」

 

「病というなら、それこそが病というものだッッ!」

 

――

 

その言葉を聞いたジャック・ハンマーは。

何か大きなものを見上げるかのように、近寄りがたき聖域から押しのけられるように、

数歩下がって瞠目する。

 

(――な、なんて)

(なんて大きいんだッ……)

 

(とてつもない劇症だったはずだッ)

(生死の境を彷徨ったかも知れぬのに)

(それでもまだ、自然なこと、と受け止めるのか――!)

 

勇次郎はジャックを振り返ることもせず、森の中を歩み去っていく。

ジャックはしばし迷った後、かなり遅れて後に続いた――。

 

 

 

 

 

……なに、

酒を買いに来たわけじゃねえのかい?

 

あん?

 

……その時の話を聞きてえだって?

はっ、言ってもどうせ信じやしねえ。

 

だが、まあいい。

いくらでも語ってやるさ。

 

そう、話は1864年まで遡る。

わしの爺さんの爺さんの……もう何代前かも分からねえご先祖様の代さ、その年はワインの当たり年だった。

その年に、どっかの貴族が金を出してな、

道楽で拵えたもんがある。

 

高さ3メートル。直径5メートルのワイン樽……。

アラブから運んだオークの巨木。その胴部をまるごとくり抜いて作ったもんだ。

当時は中身より、樽のほうがはるかに高価だったよ。

 

なに?

そんなでけえ樽に、ワインを詰める意味があんのか?

 

あるわきゃねえ、ただの道楽さ。

当時は4樽あったらしいが、売りさばいたり、戦争で燃えちまったりで、わしの爺さんの代には、一つだけになってたな。

 

その頃には、もう売り物だなんて感じじゃねえさ。

守り神だ。

地下のカーヴ(貯蔵庫)の奥で、ただじっと眠ってたんだよ。

 

ごくごく稀に、売ってくれと言ってくるやつもいたがね。

すべて断ってたよ。冗談じゃねえってな。

 

だが、なぜだろうな。

あの日本人には――。

 

 

 

 



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第13話

 

 

 

 

 

丘陵を埋め尽くす、見渡す限りの葡萄畑。

兎よけの低い石塀で区切られたその眺めのなかに、海原に浮かぶ船のごとき、古い醸造所がある。

 

その地下にはやはり石で組まれた地下室があり、

升目状の棚には古いワイン瓶が積まれ、

オーク樽がいくつも重ねられてホコリをかぶっている。

空気にはカビの匂いと、特有の埃っぽさが混ざる。

 

天井を這う、細い電線。

そこから繋がるいくつかの電球だけが光源である。

 

「この樽だ……」

 

空気に混じる酒精の気配。

オーク樽の焦げ付くような匂い。

 

何百と居並ぶオーク樽のその奥の奥。

ひときわ大きな。地下の一角を埋めるほどの大樽があった。

大地に根ざす巨木であった時代をそのままに、堂々たるたたずまいで座している。

 

床から天井に届くほどの高さの中で、

 

その中を満たすのは、100余年を経た葡萄酒。

 

それは眠っているのか。

あるいは、大樽の中で栄華の王国を築いているのか。

 

案内するのはしわがれた老人である。

勇次郎たちから見ればまるで童話に出てくる妖精のようだった。

口元を豊かに覆う白ひげと、年輪を重ねた職人だけが持つ眼光の鋭さが、その老人に油断のならぬ凄みを与えている。

 

「うちで一番古い……。

いや、一流どころのシャトーでも、この年代以前の大樽なんて、滅多にあるもんじゃねえ」

「……そうかい」

 

相対するのは範馬勇次郎である。

一番よいワインを、とだけ問われて連れてきたのが、カーヴの最奥。

 

老人の目から見ても、目の前の男、範馬勇次郎が病に侵されているのは明らかだった。

その眼窩は深く黒ずみ、肌は焼けたようにただれ。

それ以前に、惨憺たる戦場を歩くような、血と腐敗の匂いがしている。

 

後ろには股間に布を巻いただけの黒髪の男、

やたらとぎらついた目をした白人風の男。

 

いずれの人物も筋肉の発達が尋常ではない。

只者でないことは分かる。

しかし三人とも、とてもワインを嗜む粋人には見えない。

 

この中央の男。

この男にワインを求められた時、なぜ自分はこの大樽を思い浮かべたのか。

 

樽買いとなればもはや値段のつけようもなく、

100年以上も、この醸造所を守り続けてきた樽である。

おそらく、この醸造所の建物を含めたすべての財産よりも高価な、このひと樽を。

自分は何故、この男に売ろうとしているのか。

 

それは老人にもうまくは説明できぬ。

しかし、水が高きから低きへ流れるごとく、

預言者にひざまずくがごとく、ごく自然なことに思われた。

 

「――幾らだい」

「こいつはウチの神様だ。金で売れるもんじゃねえ」

 

なんの疑問もなく、するりと言葉が滑り出る。

 

「だから、金はいらねえ」

「……そうかい」

 

 

 

 

 

 

惜しいことを、だと?

そりゃまあ、多少は思わねえでもねえよ。

 

だが、あれでよかったと思ってるよ

……わしがその後、何を見たと思うね。

 

あの日本人、さっそくグラスに開けるかと思いきや、

樽に手をかけて、ひょいとその上に躍り上がったのさ。

 

そして、だ。

天板の一つを剥がしたかと思うと、

「入った」んだよ。

 

 

 

 

 

 

「お、おい……」

 

どぶん、と重たい音がする。

空気に花束のようななめし革のような、そんな独特の酒香が吹き抜け、地上へと逃げてゆき、

それきり何の反応もない。

 

「……飲むんじゃねえのか? 何をやってるんだ、あんたらの連れは……」

「――俺たちにもわからねエ」

 

ジャック・ハンマーが、樽を見上げつつ答える。

 

「だが、オーガは何よりも水分を失っていた。体力を消耗しているから、大量の糖分も必要だ。

それにナトリウムなども……」

 

老人は、普段はあまり意識しないワインの成分について思い出す。

確か、ワインにおける糖分はブドウ糖や果糖。

それにリンゴ酸や乳酸などの有機酸。あとは微量のナトリウムやカリウムだったはず。

そして12%ほどのエチルアルコール。

 

「だ、だからって入るこたねえだろ……。ワインなんだぞ。大量に血中に入れば、危険なことに……」

 

もっともな疑問ではある。

ジャックはしばらくの沈黙の後、曖昧模糊としたものを手探りで表現するかのように、慎重に言う。

 

「――血液を入れ替える」

「な、何だって」

「雑菌を死滅させる。体液を補完する、酵素を活性化させる、神経系を麻痺させて臓器の壊死を防ぐ、それに栄養を補う……」

「……?」

「どんな目的にしても、常軌を逸している。だが、オーガの負った病は、まともな手段で治せるようなものじゃない。だから……」

 

だから、と言い置いた後、長い沈黙が流れる。

やがて、老人は諦めたように息をつく。

この連中にも、あの日本人の考えてることが分かっていないのだ。

おそらく、あの日本人自身ですらも。

 

本能のままに求め、辿り着いたのがこのワイン樽だったということか。

 

ふと背後を振り向く。背の曲がった黒髪の男が、ワイン樽をしげしげと眺めて匂いを嗅いでいる。

白人風の男はシャツとトレーニングパンツのような軽装であるが、この黒髪の男は股間に布を巻いているだけだ。

だが、その野生の獣のような肉体の前では、服装のことなど瑣末な問題に思えた。

 

「……すぐに済むわけじゃねえんだろ?

一杯奢ってやるよ」

 

老人は、常備してあったグラスをいくつか取り出し、

手近なワイン棚から、無造作に一本を引き抜いた。

 

 

 

 

 

 

なに?

もし常人がワインに浸かったら、どうなるかって?

 

そうさな、入るだけなら別に何てことはねえ。

飲んだって、そうそう死にはしねえよ。

 

ワインの致死量ってのは、ボトル7本ぐらいだそうだ。

もちろん、一気に飲めばの話だよ、飲めるわけはねえがな……。

 

むしろ、中で酔っちまって溺れたり、

急性中毒を起こすほうが、よほど危険だ。

 

だがな、あの男は全身に傷を負っていた。

内出血なのか、外傷なのか、血まみれになった名残りもあったし……。

そんな中でワインに浸かっちまえば、全身の血行が活性化して……。

すべての傷口から、血がどんどん流れ出すことだろう。

 

……まあ、そんなことは、どうでもいいさ。

 

わしらは、ワインを開けながら、ただじっと待った。

別に身の上話なんぞするわけでもねえ。

だが、待ち疲れるほど退屈とも思わねえ。

 

待つというよりは、無限の時間が、矢の早さで流れるかのようだった。

 

わしらが何本のワインを開けたのか、

どのぐらいの時間を待ったのか。

大樽の中で、あの男は生きているのか――。

 

もう誰も、そんなことを気にしてなかったんだよ。

 

 

 

 

 

 

酒香の中で、時間が失われている。

体を包む浮揚感と、全身のひりつくような感覚。

水分が経口から、あるいは皮膚からも取り込まれるような。

血管の隅々まで古酒が染みわたるような。

 

細胞は。

範馬勇次郎という名の細胞たちは。

 

 

 

「破壊」を望んでいた。

 

 

 

成長と膨張

拡大と伸長

鍛錬と凝集

 

その筋肉はもはや密集された集積回路のごとく、

細胞はぎちぎちに詰め込まれ、力の流れは圧を高め、

頑健になっていく肉体そのものが、さらなる成長を阻んでいる。

 

この現状を打開する破壊を。

さらなる進化を導く破壊を。

貪欲なる成長を、満足させるほどの破壊を――。

 

すでに病は駆逐した。

いや、それは勇次郎の中に取り込まれていた。

その肉体の造成に係る、何十兆もの細菌群の一環として。

 

もはや、病の前の姿など忘れてしまった。

細胞すべてが歓喜している。

現状回復など、「俺たち」にはぬるすぎる――。

 

今はただ、創造を。

修復ではない、再生でもない、回復でもない。

 

 

一心不乱の創造を――。

 

 

 

 

 

 

――どれほどの時間が過ぎたのか。

 

ピクルは早々に酔いつぶれ、カーブの片隅で寝転がっていたが、

ジャックと、ワイン蔵の老人は、ただただ杯を重ねていた。

 

いつのまにか、周囲には空のボトルが散乱している。

木蓋を割られて、中身を飲み干されて転がっている樽もある。

 

空気が紫色に変じているかのような、とてつもないワイン香。

 

ふいに、ジャックの視線が動く。

ビンを抱いて船を漕いでいた老人が、その様子に気づいて目を開ける。

 

「どうした?」

「……目覚める」

 

見れば、オークの大樽に異変が起きていた。

全体がうっすらと緑色に覆われている。

 

老人の酔いは深かった。

だから、それからの一幕を、夢ではなかっただろうか、と思い返すこともある。

 

よろめきながら樽に近づけば、それは木肌の表面を覆う青カビと、綿のように盛り上がった苔である。

その樽の周辺だけ、妙に湿度が高い。それにひんやりと冷気が停滞している。まるで渓流の中にあるかのように。

 

そして、樽からすいと伸びる、一本の枝。

 

「――ヒコバエが」

 

それは切り株などから生える若い新芽。

しかし、もはや伐採されて150年になろうとするこのオーク樽で、そんなことが。

しかも、ここは地下で、日も差さないはずの場所で。

 

ずっ

 

その樹皮から、指が出てくる。

 

「オワッ!?」

 

ジャックもさすがに驚いて飛び退く。

樹皮の隙間を縫い、抜き指を差し入れたのか。

いや、オークの生木をくり抜いただけの樽に隙間などあるはずもない。

しかし、指から手、手首から腕、

 

めきり、みしり

ありもせぬ隙間を強引に押し開いて、異様な眺めで範馬勇次郎が出てこなんとする。

木肌が裂けるように分かれ、足元からは鮮紅色の液体が流れ出てくる。

 

 

 

 

 

 

そうだ。水かさがな……。

樽の中から、わずかに流れ出す程度だったのさ。

 

何十年も中身を見てなかった大樽だが、

まさか、その中身が、あれっぽっちってこたあねえさ。

 

吸収だか、蒸発だか……、

いや、んなこたあ、どうでもいいんだ。

 

俺は見とれてたんだよ。

その眺めから、目が放せなかったのさ。

 

ご先祖様から伝えられてきたワインが。

 

まさか、人を産むなんてな。

 

 

 

 

 

 

「オ、オオ――」

 

ジャック・ハンマーが、歯をかちかちと鳴らしてわななく。

その心は、えもいわれぬ高揚にうち震えていた。

酩酊のためか、あるいは信じられぬものを見たためか。

声が喉を駆け上って出てくる。

涙を流していたかもしれない。

 

「――復活!」

 

「復活!」

 

「復ッ活ッッ!!! 復ッ活ッッ!」

 

「復ッ! 活ッ!」

 

「復活!! 復活ッッ!!!!」

 

「復――活ウ!!」

 

「復ッッッ活ウウゥ!」

 

いつしか、ワイン蔵の老人と、ジャックの声が和している。

紛れもない、それは感動であった。

 

滅びたはずのものが再生すること、復活すること、

あるいは生まれ変わること。

それが人間の本能的な感動を呼び起こすのだ。

 

その肉体。ワインの赤に塗れた範馬勇次郎の肉体は、

まさに生まれたての嬰児のようであった。

 

肉がぱんぱんに張り詰めている。

皮膚がむきたての果実のように滑らかで、

頭髪の先までも力がみなぎるかのようで。

その一歩にすら重々しさを感じる。

 

そして目を開き、周囲を見渡す。

腕を上げ、自分の指先を見つめる。

 

その指先で湯気が上がっている。

全身がすさまじい熱を帯びているかに見える。

 

勇次郎は、それが自分の腕だと初めて認識するかのように、

あるいは世界を深く認識し直すかのように、腕をじっと見つめ、

 

ふいににやりと笑い、ぐっと拳を握る。

瞬間、その全身が弾ける。

 

ばしい、と周囲を打ち付ける水音。

勇次郎の全身を濡らしていたワインが、その身震い一つではじけ飛ぶ音だ。

床も天井も、猛烈な勢いでワインが叩きこまれて朱に染まる。

 

「――よし」

 

その笑い。

勇次郎本来の、不遜さや傲慢を宿した笑い、

その笑い方を見て、ジャックは彼の完全なる復活を悟った。

 

「……す、すげえ、こんなことが――」

 

ワイン蔵の老人が、不意にその背後の大樽に目を向ける。

その樽は大木から切り出したときの姿をそのままに座している。

そこに一切の切れ目は見えない、裂け目も、砕かれたオークの木片も見えぬ。

 

たしかにその側面から、この大柄な男が這い出てきたというのに、そこに傷の一つも見えない。

青々としたヒコバエがただひと枝、天を向いて伸びているだけだ。

 

「世話になったな。ちと蔵の中を汚しちまったが――」

「――構わねえ」

 

老人は、もはや勇次郎の方も見ずに、そう答える。

 

「このカーヴはもう使わねえ。天井をぶちぬいて光を入れる。

この樽が木になって、根付くように」

 

「――そうかい」

 

勇次郎はもはや何も言わず、ワイン蔵を出てゆかんとする。

いつの間にか目覚めていたピクルも、その後に続く。

 

そして、ジャックは老人の方を見て、

ふいに生真面目な表情となり、厳かに言う。

 

「タダは申し訳ねえ――」

 

老人の手を取り、何かを握らせる。

 

「受け取ってくれ――」

「ああ……」

 

そして、勇次郎たち三人がカーヴを出てゆき、

老人は何か神話的な場面に立ち会ったかのように、深い感動に包まれて立ちすくんでいた。

 

そしてゆっくりと手を開き――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そこにあった大量の錠剤に、

しばらく首を傾げていたのだった。

 

 

 



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第14話

 

 

 

 

――ドルルマン・フォグ

 

なぜ、彼が史上最強であるか、と聞かれるのかね?

 

それは当然のことだろう。

あらゆる生物の中で、肉体的には脆弱であるはずの我々が、

なぜ、霊長類の頂点として我が物顔で振る舞うのか。

 

それはもちろん、知恵あるがため。

思考、習得、記録、継承、作成、応用、協力、集団、国家……

 

あらゆる脳内活動こそが、我々を星の頂点へと押し上げた。

それは歴史が証明している。

すなわち、最高の頭脳こそ、最強であることを。

 

――フォン・ドルマン。

彼こそは。

人類史上、最高の頭脳の持ち主だった。

 

ならば彼こそが、史上最強である、と言えるだろう?

 

しかし、だ。

 

そう、トクガワさん。

あなたの知るとおり、彼は既に死んでいる。

1957年……骨腫瘍、または膵臓癌だと言われている。

 

原因は、かのマンハッタン計画。

その原爆実験によるものとも言われているが……。

 

彼は全身を癌に侵され、苦痛に身悶える中で、いくつかの精神的な革命が起こったと聞いている。

いわく、それまで信仰に熱心でなかった彼が、急に洗礼を受けたいと言い出し、

生まれ故郷の司祭を呼び寄せたとか。

 

あるいは物理学や工学、経済学などが専門だった彼が、

病の床で薬学や生理学に関心を持ち、書物を幾つも取り寄せたとか……。

 

……

 

……科学に殉じた者の、憐れむべき晩年。

そんな印象だな。

 

だが。

彼は、死んではいなかった。

その10年もあとに、学生時代の私とすれ違い。

そして現代、再び現れたのだ、「最強」を名乗って――。

 

しかも、あの姿……。

生きていれば110歳に迫る老人。とてもそうは見えなかった。

 

彼の肉体に、一体何が起こったのか。

彼が一体、何を見つけ出したのか。

興味は尽きない。

 

トクガワさん、あなたも聞いてるだろう。

世界の表に裏に、様々な組織が、ドルルマンの肉を求めて動いている。

 

彼はおそらく、手に入れたのだ。

老いることのない、頑健無比なる肉を。

 

地球の歴史において、誰も到達したことのない肉体を。

 

「史上最強」の称号を――。

 

 

 

 

 

 

戦況――。

これを戦況と言って良いならば、それは膠着状態に陥っていた。

 

アサルトライフルを構えた集団が、森を歩いている。

なだらかな丘陵地帯には民家が点在しているが、今は誰も住むものはない。

この一帯、100エーカーあまりの範囲にもはや民間人はいない。

 

その中央にある富豪の屋敷を中心として、すべて接収されるか、

あるいは何かしらの危険を覚えて街を出ている。

 

そして家々の影に、木立の奥に隠れるように在る大型トレーラー。

あるいは迷彩布に覆われた、陣幕のような野外テント。

その後部からは大型ケーブルがいくつも這い出し、手近な送電線へとよじ登っている。

 

「おい、またトレーラーが……あれはどこの」

「もう気にするな、放っておけ」

 

集団は往く。

極めて訓練された一団である。

密集陣形で素早く移動しているのに、その移動は川に映る魚影のように音を伴わないものだ。

 

「……おい、知ってるか? この戦場に、出るって噂」

「知ってるよ、俺たちはその化け物を捕獲に行くんだろ?」

「そうじゃねえよ、各国軍の無線傍聴で、時々不穏なワードが……宇宙人だとか、グレイだとか……」

「Tpyc(臆病者)かよお前……何を馬鹿な」

「そこ、静かにしろ」

 

先頭を歩く者が静かに言い、

それきり全員が沈黙する。

 

眼前に直径1メートルほどの水たまりがある。

一団は道の果てに視線をあわせたまま、無造作に水たまりを跨ぎ超えて進む。

 

そして彼らが去る。

しばらくは葉ずれの音だけが流れる。

水たまりの表面にさざ波が立つ。

 

がっ、と水面より踊り出る影、

 

それは人間の腕である。白蛇のような腕が地面を掴み、そして水中から影を釣り出す。

その水たまりは電柱がすっぽり入るほど深い。

迷彩を兼ねた水張りの塹壕である。

中から踊り出るのはウッドランドの迷彩服を肘までまくり上げた兵士。

頭髪はもちろん顔も手足も体毛というものがなく、

赤子のような丸っこい顔にはつぶらとも言える目鼻立ち。

 

かつてテレビを騒がせた銀色の宇宙人、

確かにそのような印象もある。

 

集音マイクにつながるカナル型イヤホンを外し、かるく頭を振る。

 

彼の名はノムラ。

またの名はガイアとも呼ばれ、自衛隊における第1空挺団最精鋭部隊の班長を務める男である。

過去には米国大統領の警備や、海外派兵された自衛隊部隊に一人の死者をも出さず守りきったとも伝えられる、伝説的人物。

一部ではオーガと肩を並べるとも言われた存在だが、格闘能力については兎も角――、

 

防衛、

潜入、

工作、

諜報、

そして指揮。

 

それら軍人としての総合力においては、彼以上の者など果たして存在しうるかどうか――。

 

「えーと今の連中……装備はAK100のカスタム、ロシア人かなあ……。カフカースの訛りが一人いて、歩き方は露骨にGRUのスペツナズ……重心から見て空手にキックボクシングの経験が少々……と」

 

耐水性のメモにさらさらと記録していく。

その姿には潜入工作員としての卒のなさは感じられるものの、伝説の傭兵と呼ばれるほどの気迫は影を潜めている。

 

「ふう、これでG8全部いるじゃないか、どうなってるんだろう……」

 

この、人口1000人にも満たない片田舎の町。

そこには機動トレーラーや仮設テントなどがそこかしこに配されている。

米国、ロシア、EU、中東、アジア、

西側、東側、テロリストと対テロ部隊、それに暗黒街の私兵たち。

 

それらが全て、あのドルルマン・フォグを狙っているというのか。

 

「日本は完全に出遅れたなあ……。

情報は集まってるのに肝心のドルルマンの正体を誰も知らないなんて……」

 

冗談ではなく、これらの戦力が一堂に会すれば、それだけで世界大戦の引き金にすらなりうる。

なぜ外交問題にならないのか、

報道すらされていないのか。

どうやらかなり大規模に箝口令が敷かれているようだが、各国政府はどこまで本気なのか。

 

ドルルマンを中心として、にわかに巻き起こったこの異常事態。

ようやっと事態を察知した日本政府は、事の次第がわからぬままに、ともかくも秘匿戦力であるガイアを送り込むことを決断。

しかしドルルマンへの接触は見送られており、ノムラは一人この戦場で、展開している各国部隊の情報を収集していた。

 

腰のポケットから小型の電子端末を取り出す。

カバーを本のように開けば、4インチの液晶に走る曲線、

この付近の地形図である。

そこには数百もの輝点が点在している。

 

衛星監視システム、広範囲索敵レーダーに電子感知、音響探知、それに加えてガイア自身が設置して回ったビーコン類、

それら全ての情報は一度日本へと転送され、電算処理されてこの端末へと送信されている。

数多くの組織が入り乱れるこの場所で、

展開するほとんど全ての部隊を把握しているのはガイアと、それを指揮する日本政府のみであった。

 

惜しむらくは、日本にその情報をどう活用するか、というプランが皆無なことである。

 

「うーん、台湾マフィアも動いたって情報があったけど……。

どうも来てないみたいだなあ、何か妨害があったのかな」

 

その白い指が動き、画面に何かを入力していく。

 

「今のロシア人たちも登録……っと。多分ムリだと思うけど…」

 

あの屋敷に、ドルルマンが立てこもり始めて何日が経過したのか――。

 

その間、ほとんど3時間と空けずに様々な勢力が侵入を試みた。

ある勢力はガスグレネードを投入しての一斉突撃。

ある者は遠距離からの狙撃。

大型車両で邸内に直接突入したものもいた。

 

だが結果は全滅。

 

ボディアーマーで武装した機動部隊は五体を砕かれ、

200m先から銃把を構えた狙撃兵は、スコープがドルルマンを捉えるより早く眉間に石を打ち込まれた。

ナイフや、何かの投擲武器ではない、

そこらに転がっていた小石を打ち込まれたのだ。

 

投擲だけであれば、あるいはガイアにも似たようなことは可能。

だが、狙撃兵の気配に気づき、

先手を打つなどということは軍人の常識にはない。

 

生け捕りを目的として、手段を選んでいるから、

――それだけではあるまい。

 

やはり、あのドルルマンというファイターは特別。

異常、異様、あるいは超常――。

ガイアは妄念を振り払うかのように、頭を振る。

 

「あのロシア人たちもダメだろうなあ……今から行くっぽいけど…」

 

と、その視線が画面の右上に動く。

 

そこは地形図の片隅。

何もない、空白である。

 

なぜそこに、急に意識が向けられたのか。

 

「……あれ? ここって」

 

ガイアははたと思い至る。そこにはブラジリアン・マフィアの私設部隊か何かが潜伏していたはずだ。

その輝点が今、ふいに消えたのだ。

 

ガイアの注目していた地形図の空白。

その南側の一体で、いくつかの輝点が消える。

 

「!?」

 

同時に3つ。

そして数秒後、さらに南側の数カ所で輝点が消える。

 

「なんだ? 電波妨害?」

 

だが、それでこんな部分的な消え方をするはずがない。

カメラを操作する。

地面に倒れる黒スーツの男たち。

大砲でも打ち込まれたかのように大穴の空いたトレーラー。

飴細工のようにへしゃげた大型火器。

地面に転がる硬化プラスチック製のヘルメット。

 

「その人物」が大口を開け、激情のままにそれを噛み砕く。

 

「――これは!」

 

ジャック・ハンマー。

地上最強の生物、範馬勇次郎の息子であり、ドラッグによって無類の筋力と凶暴性を発現させるファイター。

 

再び地形図に戻す。

今度は20以上の輝点がごっそりと消えている。

 

――1人じゃない。

 

ノムラの指がせわしなく動き、その一帯の全ての監視カメラを分割表示させる。

もう一人はすぐに見つかった。

 

ピクル。

恐竜期最強の漢。

大樹を蹴って水平方向に跳躍し、平均190センチの機動部隊をダース単位でなぎ倒していく。

伸ばす足先で装甲盾が簡単に砕かれ、兵士たちを数人まとめて石壁に叩きつけ、瞬時に昏倒させていく。

 

――なぜ、この二人が一緒に行動しているのか。

その疑問は、しかし検討しているヒマもない。

もう一人、誰かがいる。

だが、その姿を見つけられない。

 

画面の中、数百キロの軍用バイクが空中で回転している。

数十人の兵士に守られた機動トレーラーや兵員輸送車両が、瞬時に鉄塊と変わる。

まるで内側から破裂するような眺め。

兵士たちは透明な巨人に殴られるかのように、一瞬で弾き飛ばされて立ち木や土塀に激突して昏倒。

兵士が地面にくずおれる瞬間、すでに別の画面で何かの破壊が始まっている。

石も鉄も紙細工のように粉砕されていく。

重量物が賽子のように転がされる。

恐ろしく速い。

1コマでも画面に映っているのかどうかも分からない。

 

「これは――」

 

地形図に戻す。

図の中央にはドルルマンの立てこもる屋敷。

ジャック、ピクル、それに姿の見えない何者かは、北東から南下しつつ、広範囲の部隊を殲滅しながら降りてきている。

ジャックは西に大きく回り、ピクルはやや南寄りに動いている。数十もの輝点の消滅によって、かろうじてノムラはその動きを知る。

 

そして最も動きの早い個体、それが真っ直ぐドルルマンの屋敷に向かっている。その中間地点にあるのは、

現在、ノムラのいるポイント。

 

「――う」

 

ノムラは森の奥を見つめる。

そして自分の内側へと意識を向ける。

 

そこに潜む最強の軍人を待つ。

 

――二重人格。

 

それこそが最強の軍人と恐れられるガイアと、物静かな自衛隊員とを結ぶもの。

ノムラ自身には感知もできず、いつ出てくるのかは誰にもわからない。

 

だが、アンゴラで、ルワンダで、イラクで、

そのガイアという人格が、彼の窮地を救ってきた。

 

無敵の人格。

超人の意識。

――それが。

 

(――出てくるか)

 

ノムラは深く息を吸い――。

 

――――

 

――

 

――

 

……

 

……

 

……

 

…………

 

「あれ?」

 

ノムラは自分の両手を見つめ、

顔をぺたぺたと触る。

 

「……あ、エーと、出てきたくない感じ?」

 

次の瞬間、ノムラは垂直立ちのままでぽんと跳躍し、

 

深さ4メートルの水たまりに、そのままどぼんと飛び込んだ。

 

 

 

 

 

 

 



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第15話

 

 

 

 

 

「ミスタ、トクガワ……?」

 

アルバート博士は、怪訝な顔で庭のほうを向いていた。

その視線の先、徳川老人は縁側に仁王立ちとなり、じっと庭先を見つめる。

その蛙のごとく大きな目はますます大きく見開かれ、

下顎は突き出され、

眉間の皺は深まり、

それはこの老獪の熟慮の顔つきであった。

 

「加納! 控えおるか!」

 

庭に向けて呼ばわる。

すると立ち木の影から、スーツ姿の男が出現する。頭頂部から右側頭にかけて稲妻のごとき傷跡が走行しているものの、その凛とした佇まいには一分の隙もなく、スーツの奥には絞りこまれた筋肉の存在を伺わせる。

 

「――は、ここに」

「すぐに連絡せい! 官邸にじゃ!!」

「かしこまりました」

 

官邸、すなわち内閣総理大臣公邸、首相官邸などと呼ばれる、日本の中枢。

特定の用件を告げるわけではなく、ただ連絡を取れという。

それはすなわち、呼べということだ。

 

何一つ聞き返すこともなく、加納は何処かへ消える。

 

「トクガワさん、何をするつもりかね」

「おヌシはどうしたいのじゃ、博士」

 

振り返るその顔は、普段の好々爺とした印象が失せている。

半世紀以上に渡り日本の影に君臨してきた、政財界の怪物、その凄みが濃い陰影となって顔に張り付く。

 

「もちろん、彼の捕獲だ」

 

こともなげに、アルバート博士は告げる。

 

「すでに各国政府や暗黒街も動いている。

ドルルマンの手に入れた肉体の秘密、そしてこの世に二度と生まれないとすら言われた彼の頭脳。

それを手中に入れることがどれほどの価値があるか――」

「無理じゃな」

 

目をぎょろりと動かしつつ言う。

 

「おヌシの言うように、ドルルマンがフォン・ドルマンと同一人物ならば、史上最高の頭脳を持つ人物なら、ワシらなんぞが捕獲することはできん。

老いや病魔を超越した肉体を手に入れたなら、

それはもはや人間の手に負える存在ではなかろう」

「そうかね? 人間は猛獣すらも捕獲するが」

「それは猛獣よりも優れた部分を人間が持っておるからじゃ。

すなわち知恵じゃな。

おヌシが言うたことじゃろう。ドルルマンが人間を凌駕する知恵と肉体を兼ね備えるなら、わしらに勝てる道理はない」

「しかし……」

「たとえ勝てぬ、手に負えぬ相手でも、できることはある」

 

アルバートの発言を待たず、徳川老人が言う。

 

「――出会わせることじゃ」

「……出会う?」

「そうじゃとも」

 

その大きな目の中で、黒目がくるくると位置を変える。

それは高揚とか亢進というよりは、もっと強い「陽」の感情。

狂熱とか、愉楽とか、歓喜に近いものが潜んでいた。

 

この老人は、格闘技者の信奉者は、やはりドルルマンであっても一介のファイターとして認識していた。

老人の根底にあるのは、ファイターたちへの尊敬、憧憬、彼らに対して老人が向けるのは、常に最大限の敬意。

 

「この世で自分より強いやつなどおらん!」

 

だん、と、足で畳を打ち付ける。

 

「俺よりでかい顔などさせん! 

俺に命令はさせん!

道の真ン中を歩くな! そういうエゴを持つやつらを――出会わせることはできる!」

「そ、それは……」

「ワシはの、かつて仕損じたのじゃ。オーガと、そのセガレ、あの二人に戦いの場を提供すると約束したのに、やつらめ、ワシの知らぬ場所で勝手におっ始めよった。

じゃから――」

「……」

 

 

 

「今度こそは――」

 

 

 

 

 

 

 

 

「――ひ」

 

がしゃり、と銃を落とす。

血と臓物の匂いがむせ返るようだ。

その部屋はまさに地獄絵図。

戦友たちも、先んじて屋敷を攻撃していた何処かの兵士も、藁のカカシのようにぼろぼろに破壊されている。

 

血潮の空気の中で、大男が立っている。

平凡な白のワイシャツに、茶色のズボン。

それらは酸化した返り血で鉄錆色に染められている。

そのような姿で、ドルルマンが口を開く。

 

「銃を捨てるのかね」

 

なぜ銃を捨てたのか。

それは、銃を撃つという行動と、死という概念が兵士の中でリンクしたからだ。

スコープを覗きこむ一秒で、引き金を引き絞る一瞬で、

まるで爆散のように人間の体が引き裂かれる。

撃てば、終わる。

では撃たなければ助かるのか、そんな複雑な思考をする余裕は、すでに兵士には無い。

 

彼とても歴戦の勇士ではある。

足を震わせ、壁際にまで後退しながらも、その足は前後に配され、拳を胸の高さで構えている。

長年のトレーニングにより染み付いた格闘術。

生死のきわで、それが本能に近いものとして発動したのか、あるいは心の怯えが、鍛錬や勝利、そんな記憶の残滓にしがみつこうとしたのか。

 

「ふむ、カラテか――」

 

兵士の振動は、もはや顔の判別もつかぬほどひどい。

 

「よろしい、来たまえ」

「お――オオオオオ!!」

 

本能だけを引きずりだされたかのように、兵士が踏み込む。

正拳、左打ち下ろし、中断回し蹴り、

ぱしい、と空気が弾ける。

見えざる壁に打撃が弾かれる。

ドルルマンの大きな手が攻撃を撃ち落とし、あるいは流れを逸らしている。

 

5撃、7撃、11撃。

 

「ふむ、凡庸だな」

 

15撃――。

 

「もういい」

 

ドルルマンの指が揃えられ、攻撃の雨の中前進する。

 

極限の一瞬。

意識が引き伸ばされる。

 

直突きが異様に緩慢に感じられる。

兵士の目には、その直突きが船の舳先に思えた。

集中砲火の中をゆっくりと前進する、不沈艦。

その衝角が、牛の角の如き刃が、ゆっくりと兵士の胸部に到達し、

防刃アーマーに指先が潜り込み、

特殊繊維の装甲にずぶずぶと潜行し

服を貫き、皮膚に達し、

その奥の心臓を。

 

「引っ込んでな」

 

その襟首が掴まれる。

瞬間、兵士の意識が後方へ飛ぶ。

 

(――あれ?)

 

窓を突き破り、

部屋を見下ろし、

 

(――なんでドルルマンが、あんな遠く)

 

屋敷を見下ろし。

森が遠のく。

 

(――ああ、そうか、これが幽体離脱)

 

そして屋敷を見失ったあたりで。

兵士は意識を失った。

 

 

 

 

 

 

「――よう」

 

勇次郎は、少し様相を異にしていた。

空気の中を漂うような蓬髪、全身に纏った鋼の肉。

ゆるやかに放たれる剣呑な気配。

そのようなものは相も変わらずであるが、

特徴的なのは眼である。

 

わずかに紫の混ざった、赤い目。

充血しているというより、虹彩がワインレッドを帯びている。

口唇や爪、皮膚の薄い部分も深い紅色に染まっている。

顔と言わず全身がわずかに紅潮している。

体表面からうっすらと蒸気が上がっている。

体温が高いのか、それとも体細胞が活発に燃えているのか。

顔面や首筋に動脈が浮き出ており、それがどくどくとと脈打っている。

構えにはどことなく気だるさが漂い、

笑うような威嚇するような、左右に持ち上がった口角が、普段より野卑な面相に見せている。

 

それは、見るものによっては高揚。

戦場を渡り歩き、血と殺戮をほしいままにしていた頃の範馬勇次郎の面影。

 

だが、オーガという伝説についてまったく知らぬものが見たなら、

 

その印象は、酩酊。

 

いや、意識が乱れているわけではない。

不自然な多幸感や目眩に溺れているわけでもない。

強いて言うならば、楽しげである、と、

そのように見える。

 

普段から不敵な笑いを浮かべ、人を翻弄する勇次郎が、

さらに底の知れぬ、変幻自在の笑みを身につけたような――。

 

ざり、と一歩踏み出す。

 

「――4年ぶりかい」

 

勇次郎が言う。声には深みが増している。

 

「いや――」

 

ドルルマンは、外見の印象は4年前とさほど変わらぬ、

端的に言えば、不気味な大男。

その手足はただ太いというだけで、

筋肉質であるとか、脂肪にまみれているとか、そのような印象がない。

まるで、子供が粘土で造形したような大男。

耳は潰れておらず、鼻の高さも普通、

格闘技の経験があるようには見えない。

その薄く開かれた目と、物静かな口元、

何かをじっと評価するかのような、

冷たく無機的な眼差しもまた、4年前と変わらない。

 

彼は範馬勇次郎をゆっくりと眺めてから、口を開く。

 

「――君と会うのは、初めて、だな」

「そうかい……」

 

周囲が、変異する。

その二人の周囲で、空気が濃さを増す。

重力は強く、

風景は歪み、

影は濃く、

音は遠く、

空気に、粘性を帯びた殺気が満ちる。

 

「俺も、キサマを見るのは、初めて……だ」

 

器になみなみと満たされた、気。

4年という時間をかけて、勇次郎とドルルマンの間に熟成された気が、

いま、その器のへりから溢れ出――。

 

その時。

すでに弾痕や砲撃によって穴だらけとなったリビングに、さらに二つの影が乱入する。

 

一人はジャック・ハンマー、

今一人はピクル。

 

二人とも全身を上気させており、返り血や泥でわずかに体を汚している。

 

「――オーガッ! 周囲の連中はあらかた黙らせたッ!」

「そうかい」

 

勇次郎は簡単に答える。

ドルルマンたちを認め、そこに駆け寄る二人。

 

範馬勇次郎に同行し、しばし行動を共にしていた二人である。

勇次郎がドルルマンと戦う旨を聞くと、ジャックから協力を申し出た。

 

表向きは、そのドルルマンというファイターに興味があったから、

だが、その内心には、勇次郎から何となく目を離せぬような、そんな奇妙な感覚があった。

その身を案じている、などと直接的に表現できるものではないが、

それはやはり、

肉親として宿敵として、

深く絡みあう因縁を持つもののみが持つ、離れがたいような感情であっただろう

 

そして、

ピクルはおそらく、好奇心から。

フランスに着いて以来というもの、アルコールが抜けていない。

気まぐれにジャックや勇次郎の相手をしたかと思えば、酒を片手にごろごろと寝そべったり、小動物や虫を追いかけたり、そんな気ままな日々だった。

この今一つ心の読めない古代人は、特に何も説明せずとも、ジャックや勇次郎たちに習い、付近の部隊を蹴散らす手伝いをしていた。

 

だから、ジャックにも読めていなかった。

ピクルが、ドルルマンを見た時、どう動くか。

 

「――」

 

ピクルの髪がぞわりと逆立つ。

喉の奥から息が漏れ、目を丸くしてドルルマンを見遣る。

犬歯をつたうように涎が流れる。

 

その瞳が、不気味な大男を捉える。

腕が、脚が、胴が。

彼の経験と照合される。

 

脳裏にひらめくイメージ。

それは――

 

「……??」

 

それは、何とも合致しない。

大きなもの、小さなもの、

強いもの、素早いもの、群れるもの――

爪、牙、尾、針、甲、鱗、顎、鋏、角、毒――

 

何も浮かばない。

完全なる未知の領域、

 

いや。

こんな生き物が、

 

存在するはずがない――。

 

それは十の手足、

膨れ上がった頭、

関節の無い体、

赤や青に变化する体色――

 

彼の知る生命の常識から、大きくかけ離れたモノ。

 

それを感じた時、ピクルの背中を駆け上がる感情。

認められない。

ありえない。

存在してはいけない。

未知なるものに触れる感情。

それは、あるいは混乱や恐怖とも呼べる――。

 

「――――ッッッキャオオオォオッッ!!!!」

 

咆哮し、そして水平に飛ぶ。

影よりも低く這うような跳躍。

そのカギ型に曲がった足先が地面を掴み、

体の勢いを片足一本に流し、

地面が爆発するほどの勢いを伴う直蹴りを――放つ。

 

かつて、範馬刃牙を数十メートル吹き飛ばした、怒涛の直蹴り――。

 

屋敷が震えるほどの猛烈な一撃、

だが、ドルルマンは微動だにしない。

体に力を入れているようには見えない。

構えを取ったようにも見えない。

その脚を腹筋で受け止めて、ただ立ち尽くすのみ。

 

「!」

 

ピクルの脳裏に、イメージがひらめく。

それは、巨大な影。

頭上にひるがえる数千万もの葉陰、

その高さは鳥も超えられぬほど

その胴回りは百の獣が並んだほども、

 

巨齢樹

 

何千年も育ち続け、根を伸ばし続け、風雨に耐え続けたその姿。

荒く波打った樹皮は鎧のごとく、

隆起した根は大地にしがみつく腕のよう。

その姿は森の一部と化し、もはや天変地異ですらその栄華を脅かすことは不可能に思われるほどの――。

 

「――ッ」

 

ピクルが、退く。

息が乱れている。

肩を激しく上下させている。

頬を一条の汗がつたい、

理解し難いものに触れた目は、驚愕に震えている。

 

「ふむ、古代人か」

 

ドルルマンは、打たれた腹を軽く撫でて言う。

 

 

 

「――とくに興味は引かんな」

 

 



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第16話

 

「ピクル、下がっていろ」

 

金縛りにあっているピクルを押しのけ、

前に出てくるのはジャックである。

 

「……お前がドルルマン・フォグか」

 

その眉間では血管がぶるぶると蠕動している。

瞳孔が鋭く細められ、眼輪筋が激しく動いている。

特殊アンプルを40本ほど摂取したジャックの視界では、全てがスローに動いている。

全身の血流がめまぐるしく走行し、思考すら高速化している。

 

その腕が、思い切り後方に振りかぶられる。

上半身が180度を越えてねじられている。

 

その腕は固く長く、まるで金属塊のよう。

 

1日に30時間のトレーニング、そして生命の危険を物ともしない過剰なドラッグ。

その果てに到達した、ダイヤモンドのごとき絞られた肉。

ジャックの鋼鉄のような筋肉が、頑健さを維持したままねじれている。

そして次の瞬間、そのバネが一気に解放される

 

「――Daッッッ!!」

 

応ッッ!

暴風を曳いて放たれる上段回し打ち。

ドルルマンが腕を上げる。

だん! とジャックの腕がドルルマンのそれと衝突する。

ただ腕を上げ、脇を締めただけの構えが、その超絶たる回し打ちを止める。

 

「ッGaaaaッッッ!!!」

 

地面すれすれから伸び上がるアッパー、体重以上のエネルギーを乗せて伸び上がる蹴り。

200キロを超える咬筋力を全身に伝播させ、破城槌のごとき勢いが乗せられる直突。

顎も拳も、そして全身にもリミッターを超えた力みを与えている。

屋敷全体が恐怖に怯えるかのように揺れ、砂礫がぱらぱらと降り落ちる。

連撃がドルルマンの腕によって力をそらされ、あるいは肩で受け止められる。

その拳は鉄の壁に阻まれるが如く弾かれ、

または砂地に沈むかのように力が拡散していく。

手応えが一様ではない、

一撃ごとに肉の硬さが異なるかのような――。

 

「――シィッッ!!!」

 

顎をかすめるジャブ。常人の目には負えないほど速い。

ドルルマンはわずかに揺れるように動き、軌道の外へ動く。

その目がジャブの先端を完全に目視している。

 

数撃を撃って、ジャックはふいにドルルマンから距離を取る

 

「……っ、おまえは、ファイターではない」

 

全身から汗を吹きながら、

いびつな物を見るかのように、そう言う。

 

「なんという奇妙な肉のつきかただ。脂肪とも筋肉ともつかぬ手応え、それに不自然な体のバランス。

ステロイド系による筋量増強でも、興奮剤でもない。

おそらくは、もっと根本的な肉体改造か」

「ふむ……」

 

ドルルマンは軽く顎をさすり、その言葉に興味を示したかに見える。

 

「万能細胞――だな」

「……」

 

「フン……」

 

ジャックの発言に、勇次郎はつまらなそうに鼻を鳴らす。

 

万能細胞――。

人間を始め、すべての生物はたった1つの受精卵が増殖し、様々な細胞へと分化して構成された姿である。

ある細胞は心臓となり、ある細胞は筋肉に、

脳細胞に、

神経細胞に、

骨や血液を作る細胞に。

これらの細胞は一度分化すると元には戻らず、分化した先で自らの役割に落ち着くと、死滅するまでそのまま固定される。

心臓の細胞は、死ぬまで心臓のままだ。

 

この分化を何らかの方法で逆行させ、どんな細胞にも変化する万能の状態へと戻す、

これが万能細胞と言われるものである。

 

「すでに細胞レベルでの成功例はいくつか出ているものの、それはあくまでも細胞を生成できたというだけだ。万能細胞をどうやって目的の細胞に変化させるか、人体に移植して定着させられるか、癌化や拒絶反応のおそれはないのか、それはまだまだ数十年はかかる課題――」

「……」

「――しかも、信じがたいが、筋肉が必要に応じて瞬時に硬さを変えている。打撃においては固く、防御においては柔らかい。

弛緩や緊張というレベルではない、

必要に応じて細胞の種類すら変えている。

そんな「肉」を、完成させたのだな、貴様は」

「……詳しいのだな、君は」

「俺も肉体改造について研究した身だ。

おまえの顔も知っているぞ、

――フォン・ドルマン」

「……」

 

ジャックは緊張を解いてはいない、その指の先が、何かをつかむようにカギ形に曲げられ、常人よりもはるかに長い腕が左右に開かれる。

 

「かつて、俺にドラッグを与えた科学者がいた。

その男の蔵書にあった顔だ。

人類最高の頭脳を誇り、原爆やコンピューターの開発に関わった人物。現存する全てのコンピューターは、彼の設計をその基本原理としているという……」

「……古い話だ」

「なるほど、この一帯に駐屯してた軍隊、傭兵団はそのためか。

世界中がおまえを狙うわけだ。その細胞、その肉体、天文学的な価値がある。

――だが」

 

噛み締めた奥歯が、ぎりぎりと音を鳴らす。

 

「生物として最強とは、自惚れが過ぎる」

「……」

「確かに常人をはるかに超えた力を手に入れたようだが、所詮はただの肉。攻撃の際には硬化させ、瞬発力を与え、防御の際には柔軟性と弾力をもたせている、それだけのことだッッ!」

 

じり、とジャックが進む。

その大きく左右に広げた腕、それは防御を無視した範馬勇次郎に独特の構え、それに少し似ている。

 

「硬さにも弾力にも限界はある、肉体で最も硬い部位より頑健にはなれぬ」

 

がちいっ、とジャックの歯が打ち鳴らされる。

肉体で最も硬い部位、

それは歯質の表層、エナメル質と呼ばれる部分である。

このモース硬度は、実に6から7。

分かりやすい比較としては工具鋼、すなわち一般的なドライバーやレンチよりも硬い。

そして人体において、質量単位で最も大きな力を出せる筋肉は顎部の筋肉である。

すなわち噛み付きとは、硬度、力ともに、もっとも破壊に適した攻撃といえる。

 

さらに言うならばジャック・ハンマーの歯列は過去に何度か破壊されており、現在はファインセラミックの歯が入っている。このモース硬度は9.5に達し、自然界においてダイヤモンドに次ぐほどの――。

 

跳ぶ。

 

両腕を限界まで広げ、口角を限界まで開いている。

それは大型の猟犬か、あるいは鰐などにも似た攻撃法。

絶対の咬撃によって相手の致命点を食いちぎる戦法。

 

ドルルマンが多少動こうとも捕らえ、防御せんとすればそこを食いちぎる。

そしてドルルマンは――

動かぬ。

微動だにせぬまま、その白いワイシャツの襟にジャックが食らいつく。

 

「――その理解では」

 

ドルルマンが体を沈める。

膝を屈し、腰を折り、おそるべき柔軟性をもってその巨体が沈み、顎が地につくほどに体を折りたたむ。まるで踏みつけられたアルミ缶のような不自然な屈身。

 

だん。

 

地面に叩きつけられる寸前、ジャックは腕をついて体を支える。

 

その程度の暴れ方で放しはしない。

 

ぎり。

 

そして顎関節に満身の力を――。

 

「――0点だな」

 

体が。

浮揚する。

 

(ッ!?)

 

ドルルマンの体が一気に持ち上がる。

頸部にジャックを食らいつかせたまま、

まるで矢の放たれる如く。

立ち上がる力、背骨を伸ばす力、首を振るう力。

すべて常軌を逸している。

 

10分の1秒ほどの時間。

 

ジャックの足先が真上に打ち上がり、

襟元に食い込んだ歯が根こそぎもぎ取られ、

その長身が重力に逆らって上昇し、

ジャックとともにその歯も打ち上げられ、

さらに上昇は止まらず、

3メートル近い天井に背中から激突し、

2階の床が円形に砕かれ、

2階から見たならば、砕かれた瓦礫が数瞬だけ山なりに盛り上がって滞空し、

ごしゃあっ、と地面に落ちるジャックの周囲に、

砕かれた二階の床や、彼の歯がぱらぱらと降り落ちた――。

 

 

 

 

 

 

「……アホウがッ」

 

瓦礫の中で気絶しているジャックに、範馬勇次郎が声を落とす。

 

「布地を吟味するべしと言ったろうがッッッ!!」

 

あの一瞬。

もしジャックの歯がシャツの襟首にかかっていなかったら、ドルルマンの動きによって口が外れていたかもしれない。

布地に歯が食い込んでいたために、逃れられなかった。

だが、ドルルマンの見せた技。

そのような次元の対応でなかったことも、また明白だろう。

 

ドルルマンの首筋には一滴の血も流れていない。

食い込んだだけでヤシの実すら抉る咬合力であったはずだが、まるで意に介する様子もない。

 

「――ふむ、彼は君の弟子かね」

「違えよ、あんまり認めたくねェが、息子だ」

「なるほど」

 

ドルルマンは首をこきりと鳴らし、勇次郎に一歩近づく。

 

「では、仇討ちの名分は立ったわけだ」

「そんなことは関係ない」

 

範馬勇次郎は、ふいに静かな調子になって言う。

 

「あれは俺を狙っている。まだ及ばぬながら、俺に挑み続ける事こそヤツの生き方。

俺がその汚名をそそぐことは、それこそヤツへの侮辱というもの」

「ふむ……何か複雑なようだな、だが……」

 

その体毛のまったくない顎を撫でながら、ドルルマンは初めて、微妙に和らぐような表情をする。

 

「注がれるべき汚名は……彼だけではないのでは?」

「……ほう」

 

言葉少なく、ではあるものの、それが挑発の言葉であることは明らかだ。

すなわち、息子がこうなのだから、その親である勇次郎も――。

 

空気が黒ずむような感覚。

勇次郎の背筋が隆起するような、その気配が肥大するような感覚がある。

 

「安い挑発――」

 

だが勇次郎は、その陳腐さすら楽しむかのように、口角を上げて歯をむき出す。

 

「だが、言葉は選べ――

こんな小便臭いガキをもって、俺の力を測るなど」

 

髪の毛がぞわりと波打っている。

その目にはくろぐろとした凄みが濃い。

あるいは戦闘に臨まんとして、意図的に憎悪と怒りを高めているかのような――。

 

それを後方で見ていたピクルは、顔にじっとりと汗を浮かべて様子を見ている。

地面に縫い止められたかのように動けない。

 

その目が、

ふいに、真上を振り仰ぐ。

 

「……ふむ」

「ちっ……」

 

ドルルマンと勇次郎、二人がわずかに侮蔑めいた呟きを漏らし、意をそらす。

 

すべての窓から、壁の割れ目から荒れ狂う空気の流れが吹き込む。

わずかに遅れて巨大な影が床面を泳ぐ。

屋上に、そして庭園に降り立つ数十の落下傘部隊。

そして投下される機銃座。

頭上に大型の兵員輸送ヘリがホバリングしている。

そのローターの音は耳を聾するほど。

粗雑にして無粋な羽音が打ち付けている。

 

そして拡大された複数の言語が降りる。

曰く、完全に包囲されている。

投降しなければ射殺も辞さない。

兵力差は歴然――。

二人の超雄の戦いを妨げるには、あまりにも無粋な声。

 

そして革靴のままに踏み込んでくる、完全防備の兵士たち。

その手には鎮圧銃、電撃銃、ガス銃、その後方に重火器を構えた兵士が続く。

その装備をちらりと見て、ドルルマンがやや重たげに口を開く。

 

「米軍か――排除するかね」

 

ぼそりと、しかし存在感の強い言葉。

勇次郎も目に影を濃くし、つまらなそうに呟いた。

 

「っち、面倒なことに――」

 

『――――待ッッたんかああアアアッッ!!!!!!』

 

特大の音が屋敷を横殴りに叩きつける。

周囲の兵士たちもびくりと体をすくませるほどの音だ。

 

それはマイクのボリュームを最大にしているというだけでなく、その発信源が血管を破裂させる勢いで怒鳴っているからに他ならない。

 

『――止まれッッッ――止まらんかああアアァァァッッ』

 

そして生け垣を踏み越え、鉄の門をなぎ倒して侵入してくる大型バスの群れ。

東西南北から、すさまじい数が到来している。

 

それは屋敷全体をぐるりと囲むように整列、いや、多少なりと互いに衝突しながら慌ただしく並んでいく。

 

「な――なんだ、あれは」

 

そう呟くのはドルルマンに銃を向けている兵士の一人。

 

『そこの米軍どもオオオッッ!!

 この勝負に手出し無用じゃッッ! ワシが預かるッッッ!!!』

 

「ほう――」

 

勇次郎が、面白げに口元を動かす。

 

ドルルマンと勇次郎の対峙する部屋、その正面に陣取ったバスから老人が転がるように出てくる。

紋付羽織の正装に身を包んだ、蛙のような老人。

徳川光成――。

 

「嘘ではないぞ」

 

その老人は、拡声器を手に呼ばわる。

兵士たち一人一人に言い含めるように、声を低く落ち着かせ、その立ち姿に威厳を持たせて言う。

 

「すでにオズマ大統領と話はつけてある。それだけではない! おヌシらの本当のボスともじゃ」

「え――」

 

兵士の一人が、あからさまに動揺した声を出す。

その乱れが、ざわめきとなって伝染していく。

 

「信じられんのならとっとと確認せい!! はよう!!」

 

 

 

 

 

 

 



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第17話

 

 

 

 

 

 

「――は、では、ドルルマンとユージロー氏の接触は――」

『傍観するしかあるまい』

 

ワシントンDC、ホワイトハウス執務室。

ホットラインの黒電話を握りしめ、米国44代大統領、バラク・オズマは額から滝のように汗を流しつつ、全身をこわばらせる。

受話器を強く握りしめ、顔に密着させて声を放つ。

 

「し、しかし、一度はユージロー氏を襲撃したのですよ。彼との同盟を一方的に破棄したことになる。か、彼からどのような報復があるか――」

『軍の一部が暴走したことにすればいい。君が懇切丁寧に謝罪したまえ。君は彼の友人なのだろう?』

「な、なぜ、突然手を引くなどと言い出すのです」

 

バラク=オズマ。普段の彼はアメリカを先導する偉大なる大統領、それは間違いない。

しかし、ことは範馬勇次郎を直接敵に回すほどの事態。それに電話の相手と相まって、オズマですらも狼狽や怯えを隠せずにいる。

 

『……トクガワ老人だ、彼に頼まれてしまった』

「徳川氏……ですか? 確かに彼は日本の大物ですが、あなたの資産は遥かに……」

『古い証文を持ちだされたのだ。ドルルマンの価値と比較するのは困難だが、無視できる性質のものではない』

「……」

 

電話の相手について、

オズマですらその力の全体像を知っているわけではない。

それは、まさにアメリカの巨大さの具現。

軍産複合体の核、エネルギーコングロマリットの頂点、あるいは情報ネットワークの統括者――。

世界に君臨する超大国、それを支える経済と軍事の支配者。あるいは君臨者。

アメリカという国の影響力そのもの――。

その人間を動かすほどの証文とは、それは大戦中の武器受注に関するものか、あるいは沖縄の在日米軍に関するものか、あるいは次世代兵器の利権、それとも――。

 

「そ、その証文とは」

『オズマ君』

 

その低い、闇から響くような声に、大統領はびくりと身を震わせる。

 

『君が知るべきことではない』

「は――し、失礼を」

『君は常に強く、大きく、そして正義なるアメリカの象徴だ、そうだろう?』

「は……」

 

そしてがちゃりと、アナクロな音をもって通話が終わる。

あとに残るのは、巨大であり、闇色であるものに触れた恐怖だけ。

オズマの顔から血の気が引き、そして手の震えはいつまでも止まらなかった。

 

 

 

 

 

 

「――勇次郎、それにドルルマン君、庭園の方へ出ンか?」

 

八割がた無いに等しかった壁面の向こうから、徳川老人が呼ばわる。

巨躯の男はその小さな体をじっと見下ろした後、黙って壁に空いた大穴へと動く。

 

「へッ」

 

勇次郎も同じように、二人がほぼ並んで壁面を越えた。

 

その時。

 

わっ、と、歓声が二人に浴びせられる。

全方位から押し寄せる波の如き声。

そこを埋め尽くすのは、老若男女さまざまの人間。それに混ざって空手着、トレーナー、軍服の一団も見える。

高級そうなスーツを着込んだビジネスマンに、薄紫のドレスを着た老婦人もいる、呉服の老人もいれば若いカップルもいる。

その数、およそ2000。

それが屋敷の前庭を半円形に取り囲み、盛大な歓声を投げかけている。

 

「急ではあったがの、東京から地下闘技場の観客を千人ほど招待した。それに仏国内で集めた格闘技好き、この付近に展開していた軍人たち、神心会フランス支部の生徒や師範代もおるぞい。余計な干渉を防ぐために、民間人の観客が必要だったのじゃ」

 

そして屋敷の奥側から、廊下を通って禿頭の男たちが出てくる。独特の濃灰色の道着に身を包んだ地下闘技場のスタッフたちだが、倒れている男たちを迅速に搬送していく。このとき屋敷の裏手には大型の医療トレーラーが待機しており、そこに収容する流れであった。

 

「勇次郎、それにドルルマン君。

我々はすでにおおよその事態を把握しておる。

ドルルマン君の素性も、我々に分かる範囲で観客たちには説明しておる。

もっとも、科学者として活動していた間のことだけ、じゃがな。

――君は確かにあの科学者と同一人物なのじゃな? フォン・ドルマン君」

「……捨てた名前だ」

 

日の下に出てきたドルルマンは、その歓声に戸惑うでもなく、遺憾を示すでもなく、目の前の老人を樹木のように見下ろしていた。

 

「世界最高の頭脳を持つと言われたおヌシじゃが。どのような経緯でその肉体を手に入れたのか、詳しくは聞かぬ――」

 

一瞬の間を置き、老人の言葉が続く。

 

「だが現在、世界中のあらゆる機関がおヌシを狙っておる。それはいずれも軍事力を盾にした強引なものじゃ。君がなぜか身を隠さず、あえて火の粉を払うようにそれらを迎撃しておること、それにも何か意味があると理解しよう。だがその中で、地上最高の格闘家、範馬勇次郎が君に挑もうとしておるのじゃ。

――ワシはいち格闘技ファンとして、この戦いを邪魔されたくない。純粋に、肉体的な強さのみでどちらが強いのかを見届けたい。

それゆえ不躾ながら、この世界各国の軍隊が入り乱れる場所に介入させてもらった。そのような次第じゃ」

「……なるほど、あなたの意図は分かった」

 

ドルルマンの言葉は全く揺らぐことはなく、

それは許容なのか、寛恕なのか、何の意図も読み取れない淡白なものだった。

勇次郎がわずかに肩をすくめる。

 

「ヘッ、ジジイ……どんな手を使いやがった」

「大したことではない、

このワシ、徳川光成という老人が、いや、日本という国が築いてきた「貸し」の一部を売り払ったが――」

 

徳川老人が、顔中を紙のように歪めて笑う。

 

「史上最強と史上最「知」。この戦いの観戦料としては、安すぎるほどじゃな」

「……フン」

 

勇次郎はドルルマンから意をそらし、数歩遠ざかって肩を大きく回す。

一旦闘争の気配が緩んだのを見て取り、徳川老人はドルルマンに問いかけた。

 

「ひとつ問いたいのじゃが、ドルルマン君」

「何かな?」

「この屋敷は、君と何か関係のある場所なのかの?」

「――ふむ」

 

ドルルマンは、一度大きく周囲を見回してから答える。

 

「――この屋敷に住んでいた富豪は、私の研究に投資していたのだよ」

「ホウ」

「世間から身を隠した私に、必要な設備を与えていた。格闘家諸君を観察するためにIDKWのジャッジに身をやつしたが、それにもこの富豪の助力があった。その引き替えとして、私は彼に資産投資での助力を与えた。

経済学も私の専門分野だからね……」

「それで、なぜ殺したのかの?」

「……それは」

 

言いかけて、ふとドルルマンは言葉を止める。

周囲の観客を見るでもなく、

誰かに注意を向けるでもなく、ほんの数秒、ただ自分の想念に沈むかに見える。

 

その眼の奥にひらめく、数秒の記憶。

断片的なイメージ。

 

――

 

――なぜだ

 

――私に与えてくれてもいいだろう。

 

――君の黄金の肉を。

 

――なぜだ、君は、無敵の強さと、永遠の命を手に入れて、

 

――ひとりきりで、無限に生きると――

 

「……」

 

ドルルマンは、沈黙ののちに口を開く。

 

「――彼は、

私の研究成果を欲しがったのだよ。

私にも、その肉体を与えてほしいと。無敵の肉体を与えてくれと。

……だから、殺したのだよ。

この肉体は唯一無二であるべきだ。最強は一人であるべきだからね」

「……ふむ、なるほどのう」

 

言葉だけを見れば、外道の誹りを免れぬような発言

しかし、この老獪なる怪物、徳川光成が、今さら言葉ひとつで眉をひそめるほど青くはなかろう。

徳川老人の皿のような目が、

その発言を深く洞察すべくぎらりと光るかに見えたが、

 

「ジジイ、もういいだろう」

 

ずい、と、勇次郎の存在感がその場で膨れ上がる。

 

「ギャラリーを待たせるもんじゃねエ……」

「うむ、では始めよう。そこのオヌシらも見ていかんか!?」

 

周囲に声を張る。

遠巻きに事態を観察していた男たちが、

あるいは望遠カメラの奥にいた人々が、

 

最初は戸惑いもあったものの、

やがて一人二人と、生け垣の奥から出てくる。

そしてギャラリーは増え続けていく。

 

人の輪がその厚みを増していく。

 

歓声は止まず、

興奮はとどまるを知らない。

 

その中央で、二人の男が対峙する。

 

――

 

二人の気勢が、熱を帯びて混ざり合う。

足場は隙間から芝の生えた石畳、

周囲には瓦礫や薬莢が散乱し、

緑と血潮が混ざった混沌たる臭いがする。

 

半径30メートルほどの円を描いて、

取り囲む観客は数千人。

 

この血生臭さの残る戦場で、さらに闘争の予感に胸を震わせる人々、

それはやはり特殊な人種と言わざるをえないが、

中央の二人が放つ闘争の匂い、本能をむき出しにした気配。その二人の気炎に直接当てられて、喉の奥から声を張り上げて声援を送る、それもまた生物としての必然的な反応に近いものだろう。

 

超雄同士が、向かい合う。

レフェリーなどいるはずもなく、ルールなど無用。

 

そこにあるのは、闘争の契約のみ。

 

相手をうち伏せる、

闘士を挫く、

あるいは純粋なる破壊。

 

それのみが目的。

 

それだけが全て。

 

脚が踏み出され、互いの殺意が混ざり合う。

すでに一撃の届く間合いに接近している。

この規格外の怪物同士に、小手先の位取りなど存在しない。

 

そして最初の一撃が。

落雷のごとき一閃が――

 

今。

 

 

 

 

 

 

「オオッ!」

 

徳川老人が声を張る。

 

ぼうっ、と、風が拡大する。

10メートルもの風船が次々に破裂しているかのような、

断続的な風が群衆の頬を撃つ。

 

「――なッ」

 

その戦いを目撃できたグラップラーたちはそう多くはない。

何もかもが急ごしらえだった中で、徳川老人に同行してこの場に来れたのは、護衛役として神心会より加藤清澄、わずかに一名のみである。

 

先に仕掛けたのは範馬勇次郎。

 

速い。

 

打拳の構えから打ち終わりまでがほとんど目視できないほど速い。

手打ちではない。

足元の踏み込みから全身の関節を連動させて撃つ必殺の一撃。

 

空気が弾ける音がする。

 

ドルルマンに接触している時間が極端に短いために、空気が体表面で弾けて破裂音に近いものが発生している。

100キロを優に超える勇次郎の体が、ストロー級のボクサーよりも、いや、それが数人同時に存在しているかのように速い。

 

そして重い。

音が軽いとはいえ、その打撃の鋭さは直感的に理解できる。

それは馬上槍のごとき突き。

馬の脚力と体重と、騎士の気迫の乗った一撃。

鋼鉄の鎧すら一瞬で吹き散らす槍の嵐。

 

足元の石畳が破裂している。

厚さ1センチもの石板が次々と砕けている。

誰の目にも追えぬほどの速度で立ち位置を変えている勇次郎が、炸薬の如き踏み込みによって体を加速させ、流れるように打拳を叩き込む。

 

その動きが不意に止まる。

ぱあん、と、ひときわ巨大な音とともに二人のシルエットが止まる。

 

「なっ、あの野郎――」

 

止めた。

そうとしか見えない。

勇次郎が踏み込みつつ放った渾身の右ストレート。それがドルルマンの突き出した右手掌で止まっている。

ドルルマンはわずかに体を開いて両足を踏みしめている、

その足元で地面がえぐれ、ドルルマンは体ごと数センチ押されている。

だが体幹は崩れていない。

徳川老人が、眼を丸くして汗を浮かべる。

 

「なっ……なんちゅう……!!」

 

形容するならば、荒野を突っ走る猛牛を、体一つで止めてみせたかのような。

勇次郎のあの連撃に耐え、その一撃を片手で止める。

これほどに、言うは易しなこともあるまい。

踏ん張る力、胸筋の鍛え方。

そんなことで説明できるわけがない。

 

「~~~~~~」

 

勇次郎が拳を支点に腕と肩を膨らせ、

踏み込んだままの足で地をえぐり、押し合いの格好となる。

 

キリキリと歯を噛み合わせる音。注力によって不自然に隆起する関節。

足元の硬い土を靴の中から親指で掴み、拳で押しぬくというより、全身で前に進むという力が重機の如き重さを備え――。

 

ドルルマンが手掌を握る。

そこに剣呑な気配が生まれる。

指は節くれだっておらず、むしろうっすらと脂肪をまとっているようにも見える、ただ太いだけの指。

そこに何か得体の知れぬ気配が生まれ、

握りつぶす力が勇次郎の拳にかかり。

 

「――フン」

 

ばっ、と、拳を引く。二人が離れる。

すべては数秒の出来事。

 

歓声を浴びせている観客たちにも、わずかに戸惑いの色が混ざる。

老人も言葉を失っている。

 

これは本当に、人間同士の戦いなのか?

 

何か、あり得ざることが起こっているのは間違いない。

それに対して何らかの知見を与えてくれる人物が、この場にいないことがもどかしい。

言葉が欲しかった。

このもやもやとした不自然な感覚を、言語化してくれる格闘家が――。

 

「徳川さん、あなたでしたか」

 

徳川老人の脇から男が出てくる。

体つきは中肉中背、

丸みを帯びた構えが穏やかさを感じさせる。

禿頭に度の強そうな眼鏡をかけ、耳の下から口の上下までを完全に覆う、濃い髭が特徴的である。

 

「おお、おヌシ来とったんか!」

 

その男の名は、

 

寂海王。

 

 

 

 



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第18話

寂海王。

 

中国拳法の一派、空拳道の師範であり、海王の称号を持つ人物でもある。

気質温厚であり、その興味は人材の探索や育成に向けられている。

格闘家というよりは指導者、あるいは観察者としての色が濃い。

しかし海王の称号が示すように、技においても一流であることには疑いがない。

 

「戦況が厳しくてこの屋敷に近づけなかったのですが、まさか範馬勇次郎氏がドルルマンに挑んでいたとは」

「おヌシはなぜここに?」

「可能ならば彼をスカウトするつもりだったのですが」

「相変わらずじゃのう……」

 

徳川老人は半ば呆れたような様子である、だが、どちらも相手の方をあまり見てはいなかった。今は互いにもっと注目すべきことがある。

寂海王が場の中央へと視線を注ぐ。眼鏡が光を反射してぎらりと光る。

 

「――おヌシ、いま何が起こったのか分かるか?」

「そうですね……」

 

寂海王のその鋭い視線は、熱意か賞賛か。

あるいは深い疑問か漠然とした畏れか。

 

「勇次郎氏の体つき、以前、大擂台祭で見た時よりもシャープなものになっています。痩せたというよりは、絞り込まれた、あるいは余分な装甲を削ぎ落としたかのような。

体重が10キロは落ちているようですが、それで打撃の重さが弱まったということは一切ありません、それでいてスピードは格段に上がっている……」

 

範馬勇次郎ほど完成され尽くした武闘家に、そのような革命的な体型変化が起きたこと自体が驚愕である。しかし、問題はそれを踏まえた先にある。

 

「――そう、拳のキレは全く落ちていないのです。

それを、あのドルルマン氏……。

我々ですらマトモに受ければ落命するほどの打撃、それに何度も耐えたどころか、わずか数センチしか後退しないというのはあり得ません」

 

大岩すら動かすほどの強者の打撃、

確かに、卓抜な身体バランスや、技術の積み重ねにより生まれる構え、そして膨張させ密集した筋繊維などで、それに耐えるための要素を獲得することはできる。

だが範馬勇次郎の打撃となれば次元が違う話だ。

 

「では、どう見る?」

「――陳腐な考え方では、特殊繊維によるボディアーマー、それに足に特別なスパイクシューズを履き、地面との摩擦係数を極端に高めて耐える……関節にも各種のサポートを……」

 

その寂海王の言葉は、一応の可能性というに過ぎない。

あらためてドルルマンを見る。

茶色のズボンと襟の長いワイシャツだけという簡素な姿、確かに不自然に大きな体つきだが、その頑健さの正体がアーマーというのでは、あまりにも無体である。

 

「しかし、そんなことで耐えられる筈はないのです」

 

勇次郎が動く。

とんっと軽く地面を蹴ったかと思えば、10メートルほども後方に跳躍している。その体が伸身のまま体重を失い、観衆は一瞬、大岩が空中に浮いている画を連想する。

そして音もなく着地。

前傾に構え、両肘をカギ形に構えたと思った刹那、

それを超高速で振り乱しつつ疾駆する。

地面に設置している時間が極端に短いにも関わらず踏み込みは鋭く。

メダリストなど問題にならないほどの速さで駆ける。

 

一瞬、観衆たちは思う。

 

殴るか、

ラリアートのように巻き打ちを撃つのか、

勢いを乗せた直蹴りか。

 

ドルルマンに至る数歩手前、

ひときわ強く地面を蹴り、

勇次郎の上体が起こされ、

その巨体が浮き上がり、

 

両足がわずかなたわみを残して水平になり、

 

揃えられた両足が、ドルルマンの顔面を――

 

「どっ……ドロップキック~~!?!?」

 

加藤清澄の叫ぶその瞬間、

どごおっ、と空気が弾ける。

観客の目に幻視するのは、城門ほどもある巨大な銅鑼。

それが巨大な槌の一撃によりかき鳴らされ、はっきりと波として感じられるほどの音が爆発する。

庭園にある小さな噴水池にさざ波が立つ。

遠まきの森にまで葉ずれの波が広がる。

 

ドルルマンは、わずかにのけぞり。

その瞬間、初めて構えと言えるほどの反応を。

すなわち両腋を固めて拳を腰だめに握り、びりびりと震える振動を耐えんとする。

 

勇次郎は蹴り足の勢いのままに空中で蜻蛉を切り、

一度後方に回転して爪先から降りる。

 

そこに、掌が。

巨大な質量を押しのけて身を起こすかに見えたドルルマンが、

降りた瞬間の勇次郎に掌打を打ち込む。

あやまたず、胸部の中心。

その手が胸部に触れんとする。

 

「ヌウッ!!」

 

瞬間。

勇次郎の姿が全員の視界から消失る。

ざんっ、と地を削るような音。

観客の目が後方に流れる。

 

手の平を胸に押し当て、わずか数センチの打ち込み。

勇次郎の巨体が遥か後方に移動している。

いや、現在いる地点の少し前に地面がえぐれた痕がある。

そこで一度足を付き、更に後方に飛んだのか。

 

「なッ……何て攻防だよ!? まるでプロレスじゃね~~か!!」

 

息を呑む観衆の中で、加藤が我れ先にと叫ぶ。

 

「おっ、おおう!! 勇次郎のやつ、ファンサービスが激しいのォ……!」

 

徳川老人も、今の派手な流れをそのように理解する。

 

「いや……ッ、今のは」

 

寂海王は色を失っている。

それは、これまでに多くの者が見せた顔。

何か、信じがたいことが起こっているという顔。

だが、寂海王の冷徹なる観察者の眼が。

その混沌から更に何かを見出そうとする。

 

「――今のドロップキック、見た目だけの技ではありません」

「そッ、そうかの?」

「いや、あれが本来のドロップキックというべきなのです。プロレスでやるそれは単なる見せ技。相手の近くに飛び上がって足で押すだけだったり、ただの体当たりの延長だったりですが、今のは違います。

走る力、足を伸ばす力、全てを完全に乗せている。人間が繰り出せる技の中で、あれ以上の打撃力は理論上あり得ない。

だが、それにドルルマンは耐えた。信じがたいことです」

 

それに、と、寂海王は口元を噛み締めてから言う。

 

「あの掌底……。勇次郎氏は後方に飛ぶとき、一度地を蹴って体勢を立て直した。中国拳法で言う「消力」、古武道で言う「浮身」のように自分から飛んだにしては不自然です」

「つ……つまり?」

「あれは受け身ではない。勇次郎氏は一度こらえかけたが、ドルルマンの力を受け止めきれずに後方に飛ばされたのです」

「ぬぅ……ッ!?」

 

およそ、常識の範疇ではない。

勇次郎がそのような一撃を食らったという事実、だけではない。

人間を打撃で飛ばす。

それは多くの場合、相手の重心が崩れ、後方に「倒れた」ことがそのように見えているだけ。

もちろん、人間を大きく飛ばすような一撃を、見たことがないわけではない。

だが、ドルルマンと勇次郎の間でそれが起こることに、寂海王だけでなく、あらゆる人間が驚愕を覚えている。

腕力と抗力。それだけでは説明できない。

 

それを満たす条件は――。

 

「やはりな」

 

勇次郎が語る。

混乱と狂熱に囚われてた観衆が、びたりと動きを止めてその言葉に引き込まれる。

 

「ようやっと、分かったゼ、キサマの肉体の秘密が」

「…………」

 

ドルルマンは特に反応する様子も見せず、ただじっと言葉を待つかに見える。

 

「一般的な格闘家の体脂肪率は18%前後。ボクサーなど特にウェイトを絞り込む者の場合で10%ほどと言われている。格闘家の中でボクサーは特に軽い、180cm台の者でも70kg前後しかない」

 

ふいに、そんなことを言う。

あまりに突飛な発言であるが、観衆はその勇次郎の存在感に口もきけず、

またグラップラーたちも、その言葉の先にあるものに強く興味を惹きつけられている。

 

「かつて格闘家にスピードが重視された時代、彼奴らのウェイトは身長からマイナス100程度だった。現在ではスタミナや防御力を高めるために、少し増量してマイナス80~90というところか、身長190cmの格闘家で100~110ほど……」

 

いつの間にか、ドルルマンと勇次郎が至近距離まで近づいている。

互いに鼻をつまめるほどの間合い。勇次郎がわずかにドルルマンを見上げ、不穏な笑みを浮かべている。

 

「かつて小錦関が最も重かった時期で280kgほど、世界ではもっと上の怪物がいて、350kgなんて力士もいたという。これが人間が格闘家として活動できる限界と見るべきか」

 

ぽんと、その肩に手を乗せる。

瞬間、わずかに手に力をこめて肩を握り、ドルルマンの視線がその手に流れ、

 

「だが」

 

力の流れが――回転する力へと変わる。

 

隠ッッ!

ドルルマンが廻る。

滑るように、沈むように、

その巨体がものの見事に回転する。

倒すというレベルではなく、まさに無重力の世界でものを回すような眺め。

その太く膨らんだ肩から、庭園の石畳へと落下――

 

鈍ッ!!!

石板が砕ける。

肩が沈む。

土をえぐり返し、振動が足元を流れ、

石片を飛ばしながら、

土砂が天高く噴き上がる。

 

半径数メートルの巨大なクレーターを出現させて、ドルルマンが倒れる。

それは勢いがどうとか、巨体がとか、そのような眺めではない。

 

人体が、数センチも沈んでいる。

この水のように軽い人体が、

沈みこむ深さではない。

 

「キサマの体重は、800キロを超えている」

 

勇次郎が言う。

 

ドルルマンは、一瞬その冷淡な眼差しに色を宿したかに見え。

次の瞬間、その巨体が跳ね上がる。

手品師の見せる空中浮遊のように、その巨体が横倒しのまま1・5メートルまで浮かび上がる眺め、

一瞬だけ体を丸めて頭を上にし、

足を伸ばしてすっと着地する。

 

「その通りだ」

 

体のホコリを払いつつ、何でもない事のように答える。

 

寝たままでの跳躍、どのような筋肉を使ったのか、どのような体の構造をしているのか。

知れば知るほど、語れば語るほど、

ドルルマンは観衆の理解から離れていくかのようである。

 

「私の現在の体重は、およそ832キロ。このぐらいが限界なのだよ。常人のふりをして行動するのはね……」

「フン……」

 

「おっ、おい、どーゆーことだ!?」

 

加藤清澄が叫ぶように言う。

しかし問いを受ける寂海王も、頬に汗を浮かべて困惑するばかりである。

およそ、常人に答えられる域を越えている。

 

「――やはり、万能細胞か」

 

そう呟きつつせり出してくる人物がある。

口元に大きな布を巻いており、全身が汗と泥で汚れている。

極めて長身のために、徳川老人が大きくのけぞるように見上げる。

 

「オオッ、ジャック! おぬし無事じゃったか」

 

ドルルマンにやられた瞬間は、徳川老人も望遠カメラにて把握していた。

もちろん無事なはずはない。

顎関節と歯列を根こそぎ砕かれ、天井と地面に激しく打ち付けられた。会話をするどころか、二本足で立てているだけでも人間業ではない、常人なら痛みで失神しているはずだが、この人物はそもそも痛覚などと縁があるのだろうか。

しかし、万能細胞という言葉から先は判然としない。

漠然としたイメージはあるものの、それを言語化することが危ういかのように黙ってしまう。

寂海王がその後を続ける。

 

「――おそらく、ドルルマン氏はやはり何らかの万能細胞を完成させたのです。人体の細胞の構成元素は水素、炭素、酸素、窒素でそのほとんどを占められています。どんな生物でもほとんど変わらない……。

はずなのですが、もしドルルマン氏が、通常の細胞よりもずっと比重の重い細胞を完成させたなら、通常の人体の約8倍もの質量を持つ肉体を得たのなら」

「し、しかしの、832キロじゃぞ、トラックを一台背負っているようなもんじゃ。そ、そんな体で……」

「……動けるはずが、ない」

 

ジャックが、何かを確定しようとするかのように呟く。

この戦いを、常識の枠内に抑えこもうとするかのような頑なな言葉。

 

そう、体重が重いほうが強い。

それは格闘技界に限らない。

 

自然界でも、

粒子の世界でも、

あるいはもっと巨大な、

惑星同士、銀河同士のぶつかり合いでも、

2つのものが影響しあうとき、質量が大きなほうが優位を握る。

しかし――

 

ざわざわと呟きの波が伝播する。

森で鳴き交わす鳥たちのように、

ドルルマンの、範馬勇次郎の言葉は果たして真実なのか。

 

そんな人間が、存在しうるのか――

 

 

 




なろうの方の連載もよろしくお願いします
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第19話

 

 

ドルルマンが、動く。

 

わずかに腰を沈め、足を前後に開く。

初めて戦いのために構えたかに見える。

 

その所作に全員が注目する。

果たして――動けるのか。格闘家としての動きができるのか。

 

その送り足が地を離れ、踏み込む足を軸に体が回転する。

引き伸ばされた時間。

その蹴り足が狐月を描く。

驚異的なリーチと蹴り足の伸び。

 

鼻の下、人中をかすめて風が行き過ぎる。

勇次郎がわずかに身を反らせる。

ドルルマンの蹴り足が地に帰るとき、

石畳に触れた蹴り足が、

その指で地面をつかむようにグリップを利かせる。

 

重心が移動する。

爪先を中心として、

体が独楽のように回転する。

奥側から二撃目が襲い来る。

更に後方に飛ぶ勇次郎。

初撃から1メートルも深い位置を蹴り足が薙ぐ。

もう一度。

直下から。

革靴に覆われた足の甲が伸び上がり、天を衝くように伸び上がる。

蹴り足の勢いのままにドルルマンの巨体が後方回転。

バク宙を絡めた縦廻し回転蹴り。

連撃の間に十歩ほどの距離を踏み込んでいる。

 

ざんっ、と、両足が地に帰り着く、

空気に凄絶な気配が残っている。

誰かが息を呑む音がする。

 

沈黙を破り、突き抜けるような幾つもの歓声。

それは困惑と、わずかな怯えに彩られた叫びだ。

まさに絶技。三連回し蹴り。

まるで燕の舞うような――。

 

「あッ……ありえねえ」

 

加藤清澄は、しかし観衆と同じように見ることはできなかった。

もはや曲芸の域に達する回転三連蹴り、

明らかに重量級にできる技ではない。

動作だけなら、一級のレベルのグラップラーであればもしくは。

しかし、その速度、身の軽さ、踏み足の角度。

あれはまさに、50kg程度に絞り込んだ軽業師の動き。

その違和感に、体内に生まれた混乱に、吐き気すら覚えるほどの困惑がある。

 

「――こと熱変換効率において、人間の持ついかなる内燃機関も不完全だ」

 

ドルルマンが言う。

 

「あるいは燃料を用いた人工的な内燃機関ですらも、だ。熱効率、重量比の仕事量、どれをとっても昆虫の筋肉には遠く及ばない。ある種のアリは体重の50倍もあるエサを運び、ある種のハエは、6時間以上羽ばたき続けることができる。

その構造を真似れば、800キロ超の体重など問題ではない」

「ふん……」

 

勇次郎がにじり寄る。

その拳が、ゆらりと体の前に来る。

口元を耳まで引き裂いて笑う。

 

その眼には獰猛な色が宿り。

何かを楽しそうに賞味しているかに見える。

 

その拳が――。

 

沒ッ

何かが起こったと思った一瞬。

拳がドルルマンの耳を駆け抜けている。

拳から先が光に変じたかのような鋭打。

 

その速度、およそ0.23~0.24秒。

 

「オオッ!! あやつ! かわしおったぞ!」

 

かろうじてそれだけが分かる。

しかし徳川老人はおろか、その場の誰にも勇次郎の拳の形は見えていない。

そして、ドルルマンがいつから回避し始めたのかも。

 

「――通常の人間が、危険を察知してから回避に映るまでの時間はおよそ0.5秒。あまりにも遅い」

 

ドルルマンの低く細く、それでいて誰にもやり過ごされないような重々しい声が響く。

 

「それは脳内の情報伝達が未熟だからだ。脳内での情報処理は化学物質の噴射と受容の繰り返しという奇妙な方式によって行われる。これを電気的ネットワークに置き換えれば、処理速度ははるかに向上する」

 

頭を指でとんと叩きつつ、一歩踏み込む。

 

「やはり、君も不完全だな」

 

その腕が。

奇妙な太さを感じさせる丸太のような腕が、大上段に振りかぶられる。

 

予想される打撃は、体重を載せただけの単純な振り下ろし。

 

勇次郎は不敵な笑みを浮かべたまま、わずかに顎をそらし。

 

ぱん。

その拳は初速から音速を超え。

 

世界に、鮮血がはじけ――。

 

 

 

 

 

 

 

 

――どうぞ、狭い部屋ですけど。

 

――好きに座ってください。

 

――範馬勇次郎について知りたい、ですか?

 

――

 

――そうですね、確かに強い人です。

 

――地上最強……その言葉が最も似つかわしい。

 

――世界中を探し回っても、あるいは過去にも未来にも。

 

――あの人を超える人間は、いないんじゃないでしょうか。

 

――あ、エーと、飲み物でも。

 

――そうか、いま炭酸抜きのコーラしか……ちょっと買いに。

 

――え、いい?

 

――そうですか……

 

――ええと、そう、強いという話ですね……

 

――そう、先日、本気で戦りあって、喧嘩して……

 

――ますます、その強さを確信した気がします。

 

――え?

 

――もし、彼よりも強い人がいたら、ですか?

 

――

 

――いえ、すいません

 

――そういえば、考えたことなかったなあッて……そういうこと

 

 

 

 

 

 

 

 

火薬を仕込まれた果実のように、

鮮やかに散る赤い眺め。

勇次郎は上半身裸であったが、そこに赤い線が走っている。

その発達した筋肉が、ナイフですら容易に切り裂けぬ頑健な皮膚が裂けている。

青龍刀で作られた刀傷のような、巨大な裂傷。

 

空気に舞った血の雫が、赤い霧となって数秒、周囲に残る。

 

「どッ……どうなったンだ!? 今の!」

 

加藤清澄が言う。

寂海王はかろうじて動揺をおさえつつ答える。

 

「……勇次郎氏の踏み脚が動いていない」

 

その顔中に汗を浮かべ、わななき震えようとする口元を手で抑える。

 

「つまり、完全な回避には間に合っていない。

というよりも、あのドルルマンの手刀……人間の反応速度を完全に凌駕している。

動作の始まりから振り下ろしまで0.2秒もかかっていない。

あ、あれでは勇次郎氏といえど……」

 

しかし、もう一つ奇妙なことがある。

 

その深々と刻まれた裂傷が、一度血を吹いただけで出血を止めている。

この角度からではよく見えないが、

寂海王の見立てた間合いよりは浅かったのか。それとも勇次郎の持つ驚異的な止血能力か。

あるいは、わずかに上体を反らして致命傷を避けたか。

しかし寂海王はそれを深く考えることができなかった。

 

ドルルマンの打撃は範馬勇次郎の反応速度を超え、そして攻撃の威力が勇次郎の肉体的頑健さを超える。

そして勇次郎氏の渾身の攻撃も、ドルルマンを破壊するには至らない。

端的に考えれば、それはもはや道理に落としこめる範囲の力の差。

 

信じがたいことではあるが。

すべての面で、ドルルマンは勇次郎を――。

 

いや、まだ道はある。

寂海王は我知らず、勇次郎の勝ち筋を探ろうとしている。

それは力のカリスマである勇次郎への信奉のためか。

あるいは人智を超えた技術によって力を得たドルルマンへの、格闘家としての反発からか。

 

(――勇次郎氏に備わった強さ、それは肉体のポテンシャルだけではないはず。

先ほど、ドルルマンにやってみせたように――)

 

勇次郎が踏み込む。

フックのような短い左拳。

ドルルマンが身を引く刹那、その襟首を掴み、

脚を相手の膝に絡め。

全身に力をみなぎらせ。

 

投ッッッ

 

それは柔道で言うなら内股。

何十万本と打ち込みを繰り返したかのような完成された姿。

こうあるべき、という理想的な姿から一ミリもはみ出していない。

そこに重量差はなく。相手だけが重力を横倒しにされたような眺め――

 

どおっ――

まるで千年杉が倒れるような轟音。

その音は振動と混ざり合って遠くの山々にまで響く。

ざあっ、と土が水のように舞い上がる。

それが鳥の飛ぶほどの高さにまで打ち上がって、広範囲に砂の雨を降らす。

半壊しつつあった背後の屋敷がぱらぱらと瓦礫をこぼす。

 

そして。

 

「――へっ」

 

勇次郎がつぶやく瞬間。

 

血が、

 

大量の吐血が

 

ドルルマンの顔を、染める。

 

 

 

 

 

 

――すいません

 

――いくら考えても、想像できないんですよね。

 

――彼よりも強く、早く、知性も上回る、

 

――そんな人間が。

 

――

 

――そう、

 

――敗北することなんて。

 

――とても。

 

 

 

 

 

 

「勇次郎オオオォッッッ!!」

 

喉から絶叫をほとばしらせ、飛び出して行かんとする徳川老人を、左右からグラップラーたちが押さえる。

 

「――な、何だよッ、アレ……」

 

首を落とされたような大量の血。

それがドルルマンの上半身を赤く染めている。

 

その目は静かに、深く。

何らかの哀れみを持つかに見える。

 

「おかしいだろ!! なんで勇次郎のほうが血ィ吐いてんッだよ!!」

 

加藤清澄の目にも、ものの見事に内股が決まったかに見えた。

動作が小さくまとまっているため、二人が一瞬だけ混ざり合うかに見えるほど完璧な投げ。

 

「お……オーガっ……やはり、まだ病気が……!?」

 

ジャックが眼輪筋を震わせつつ、戦慄に震えながら言う。

 

「そっ……そうじゃ、あやつ、何かの細菌兵器を浴びていたとか……」

 

徳川老人も、しばしの間それを忘れていた。

いや、あえて考えないようにしていたのか。

 

記憶と変わらぬ、いや、さらに絞り込まれたような姿の勇次郎を見て、その声を聞いて、

病気などやはり何かの間違いだったのだと、心の奥底にしまいこんだに過ぎないのか。

 

「い、いや……あれは」

 

寂海王。

その深い経験に培われた観察眼が、まっさきにそれを見つける。

 

勇次郎の胸部。

そこに痣が浮いている。

 

コブシ大の紫色の痣。

心臓を中心に5つ。

それは花の散るように、一箇所を中心として上下左右に散っている。

 

「――ちっ」

 

勇次郎が口の端を腕でぬぐい、数歩、距離を取って呼吸を整える。

 

「……打撃です」

「な、何じゃと!? どういうことじゃ!」

「ドルルマン=フォグ。彼は地面に投げつけられる直前。いや、あるいは投げつけられた後に、手打ちで勇次郎の胸部に打撃を打ち込んだのです」

 

そのような裏技的な返し技。

古武道の世界に、なくはない。

しかし、あの投げ、常人ならば全身が砕けるほどの絶技。

あの勢いで、あの腕力で投げつけられて、なおカウンターを打てるとは。

 

ドルルマンが無造作に起き上がり、軽く首を鳴らす。

 

「――通じない」

 

ここに及んで、寂海王もその絶望を意識せずにはおけぬ。

 

「勇次郎氏の打撃も投げ技も、ドルルマンにダメージを与えるには至らない――」

 

――他に、何がある。

 

極め技。あるいは絞め技。

あるいは目つきか、金的。

 

――いや、そもそも人類とは体の構造すら違う相手。

 

今さら、そんなものが通るとは思えない。

格闘家として多くの経験を持つものでも、達人であるからこそ。

そのような相手との戦いを、想定したことはない。

 

「本当に」人間を超えた者との、戦いなど――。

 

「――よく分かった」

 

勇次郎が、

何かを話している。

 

「よくぞそこまで登りつめた。知恵の果て、知識の果てに、そんな場所があったとはな」

 

寂海王は、その勇次郎の声に何らかの動揺や、怖じ気が含まれてはいないかと、そのことに僅かな恐れを抱いた。

もし、格闘家の頂点である範馬勇次郎が敗北してしまったら。

それは、このドルルマン=フォグが地上最強である、との証明に他ならない。

自分たちとは違う、異なる道の果てにいるものが――。

 

「認めよう、お前の力、スピード、反応速度、きわめて優れている」

 

勇次郎はわずかに笑うようにゆるやかに構え、その目でじっとドルルマンを見つめている。

 

「俺よりも」

 

「――!!」

「な――」

「オーガ――!!」

 

まさか――

範馬勇次郎という、エゴイズムの極致のような男が、他者を認めるだけでも事件だというのに。

自分より強い存在を、

自分より優れたものの存在を、認めるのか――

 

「それだけに、口惜しいことだ」

 

「やっ……やめるんじゃ、勇次郎、オヌシの口からそんなことを……」

 

徳川老人が、何か、自分の最も大事なものを壊されるような恐怖に声を上げかけた刹那――。

 

「本当に惜しい。貴様が――」

 

 

 

 

 

「ここで、敗北することが」

 

 

 

 

 

 

――え?

 

――じゃあ、なぜ彼と戦ったのか、ですか?

 

――いや、負けるつもりで挑んだわけではありません。

 

――そう、確かに勝ってやると思って戦ったんです。

 

――

 

――そういうもんでしょ?

 

――今までの戦いだって、そうだッた。

 

――相手はいつも、俺よりも強大で、

 

――大きくて、経験豊富で、野生に近くて、

 

――武器だって、使ってきた。

 

――そんな相手と戦って、ある程度は勝ってきた。

 

――そう、俺たち格闘家にとって、

 

――強さ弱さの比べあいと、勝敗は、まるで別次元の話

 

――時には、自分より強い相手にだって、

 

――勝たねばならない。

 

――

 

――それは、あの人には、

 

――生涯、縁のない話かも、知れませんが。

 

 

 

 

 



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第20話

 

 

 

 

「興味深い……」

 

ドルルマンは、初めて興が乗ったかのように、首をこきりと鳴らしつつ歩く。

 

「明らかに君より強い私が、ここで敗北する、と……」

「その通りだ」

 

勇次郎は思い切り首をそらし、嘲るような皮肉げな笑みを浮かべて言う。

 

「貴様の肉体は何らかの金属で出来ている、それは間違いない」

「――ふむ」

 

ドルルマンは目を細め、その勇次郎の不敵な顔つきを深く観察する。

そして、口元をわずかにほころばせ、先を促すかのように顎を動かす。

 

「しかも、意志ひとつで自在に硬さを変える肉だ。あるときは筋肉のように柔らかく、ある時は板バネのように硬質になっている、その変化は開始から終了までおそらく0.05秒ほど。しかし金属の組成そのものが変化しているわけではない。

――言うなれば、液晶」

「ふむ、まあ、その理解でいいだろう……」

 

ドルルマンが、感嘆の響きを込めて首肯する。

 

「私の肉体は、言わば金属ユニットの集合体だ。それは結晶構造によって結びつき、「頭脳」からの指令によってその配列を変化させる。配列を密にすれば金属の硬さに、なだらかに伸ばせばゴムのような柔軟性を持つ」

 

「――ナノマシンか」

 

寂海王がつぶやく。

その言葉に反応したのはドルルマンだった。首を寂のほうに向けて声を飛ばす。

 

「――そこの君、軽々にそのような言葉を使うべきではないな。

そのようなSF的思想に落としめられるのは好みではない。この肉は自立機械であり無意識の構造体であり、あるいは循環する体液のようなものでもある。だが所詮は、頭脳に隷属するただの肉でしかないのだよ」

「……」

「けッ、脳を半導体に置き換えた男が何をぬかす」

「大したことはない。肉体に金属を埋めている者など珍しくはなかろう?」

 

おそるべき事実を、きわめて淡々と語っている。

寂海王はその語る内容について考えることに、背筋の寒さを禁じえなかった。

 

もし語ることが真実なら、

ドルルマンはもはや、厳密には生物という定義すらも――。

 

勇次郎は獰猛に笑い、言葉を続ける。

 

「そうだ、その驚くべき肉体、そこに到達する技術力、おそらく他の誰にも真似できまい」

「……ふむ、そうかもな」

 

「だからこそ、だ」

 

勇次郎は、そこで奥歯を噛み、声に苛立ちのようなものを滲ませながら言う。

 

「たとえ俺でも、核攻撃を受ければ死ぬだろう」

 

ふいに、そんな発言をする。

 

「あるいは1万人の軍勢に襲われれば、半分ほどしか道連れにできまい」

 

「ごっ……五千人は殺るってのか……」

 

加藤清澄が呟くが、他の誰も、勇次郎の突飛な発言に口を挟めない。

 

「あるいは、時間――」

 

その眼が、影のようなものを帯びている。

範馬勇次郎、この何もかもが自分を中心に回っているかのような、暴虐と自己愛の化身が、何かを憂うような、手の届かないものに思いを馳せるかのような、そんな曖昧な目をする。

 

「人間は成長し、ヒトが進化する、そんな中で、未来のいずれかの時点において、俺を超える存在が出現するかも知れぬ。

その「可能性」までを否定することは不可能だ」

「……今がそうだ、などという皮肉を言わせたいわけでは、ないようだな」

 

ドルルマンはゆっくりと顎をさすりつつ、勇次郎の言葉の果てを測りかねて言葉を濁す。

 

「キサマは――」

 

勇次郎のその声には、彼をよく知るものですら聞いたことのない、わずかに苦みの混ざった響きがあった。

それは何らかの苛立ちなのか、それとも哀惜なのか、

勇次郎本人ですら、分からぬことだろう。

 

「無限に続く血脈から、外れてしまった」

 

「永遠の命が、貴様の時を固定した」

 

「万能の肉が、進化の途を閉ざした」

 

「キサマの力が、あるいはヒトの知恵の道筋の、その延長線上のものであったなら、俺を凌駕したかも知れぬというのに――」

 

「……。ふむ、つまり、こう言いたいわけか」

 

ドルルマンは肩を回しながら、内心の発露を完全に抑えようとするかのように、重く静かな声で言う。

 

「私の技術に、何かしらの不完全性があると」

 

ドルルマンの言葉には、わずかな歯切れの悪さが見えていた。

奥歯に力を込めているかのような舌の重さ、粘っこさ。

それは、長くを生きた気難しい老人が、内心の震えるような、

 

怒り。

 

それを抑えている姿であることに、どれほどの人間が気づいたことか。

 

「研究と深化、より完全に近づこうとする流れの中にあるならば、それもいつかは克服できたはずだ、と」

「ハ、そう聞こえたなら、よかった」

 

じゃり、と、砂利の散らばる庭園を歩きながら、勇次郎がやや高く構える

 

「これでもよォ……言い方、気を使ったんだぜ」

 

「ゆ……勇次郎のやつ、言いおるのォ……」

「はい……見た目には劣勢と取られかねない状況で、まさか、あそこまで言ってのけるとは」

「おっ……おい、何だよ二人とも、今の会話がどうしたっつうンだよ!」

 

互いに間合いを詰め、周囲では息を呑む音がする。

ドルルマンが真っ先に気づき、次いで徳川老人が、そして寂海王が。

そこから戦いを見つめる観客や軍人たちにも、それが察せられていく。

そうだ、この場面は何かしらの述懐や、感慨を込めた場面ではない。

その勇次郎の言葉が、言わんとすることが。

彼独特の、人を喰ったような尊大極まる態度が、ありありと幻視される。

 

――勉強と研究に生きた、青臭い科学者がたどり着いた肉体

 

――それが、そんな穴だらけの欠陥品だとは

 

――哀れすぎて、とてもストレートにゃツッコめねえよ

 

「――ッ」

 

次に動くのは。

 

ドルルマン――。

 

その動きは山が歩む如く。

重厚ながらその動きは疾い。

 

大股で進む一歩が地面を踏みしめ、振りかぶり放たれる一撃が大気の壁を砕く。

その太い指が、グローブのように無骨に膨れた拳が、勇次郎の顔面を捉える。

打ち抜き、破砕しようとする刹那。

勇次郎の首が後方に吹き飛ばされる錯覚。

 

磁ッッッ!

 

何かが高速でこすれ合う音がする。

拳は勇次郎の耳をかすめる形になっている。

皮膚との接触面はヤスリを掛けたように裂けている。猛烈な摩擦によって皮膚が焦げ付くように黒ずんでいる。

 

「オオッ!! 今度はかわしたかッッ!」

 

徳川老人が躍り上がって歓喜する。

 

「……っ?」

 

だが、寂海王は何か違和感を感じていた。

今の一撃、あれもまた人間の回避限界をわずかに上回っていたように見える。

勇次郎の野生じみたカンで回避したということだろうか。

だが、何かが違う。

回避した、というのとは何かが――。

 

勇次郎がにやりと嗤う。

 

「IDKWとやらのジャッジに潜り込み、ここで幾らかの軍人と戦い」

 

その肌は、寂の記憶よりも紅潮してるように見えた。

それ以外にも妙に気だるいような姿勢、脱力された関節、やや弛緩した目、

まるで酩酊しているかのような――。

 

「その程度で、武を知ったつもりか」

「……何が言いたいのかね」

「面白ェものを見せてやろう」

 

とっ、とたたらを踏むように数歩後退する。

勇次郎は軽く両腕を胸の前に出し、人差し指をカギ形に曲げるような形に構える。

 

そして――脱力。

腰を思い切り落とし、背骨を弛緩させる。

踏み足はふらふらと位置を変え、

首の座らぬ幼児のように頭を揺らしている

 

地面が揺れ動いているかのように不安定に動き、

倒れそうになるとくるりと踵を軸に回転。また正対する。

その表情は悦楽の笑み。

緩んだ口元からは浮ついた空気が漏れるかに見える。

 

そして極め付きには、横隔膜の細かい振動が生み出す吸気音――。

 

「――う~~、ひっく……」

 

――え

――あれは

――もしかして

 

観客が騒然となる。

あの動き、あの表情、連想する言葉はひとつ。

それは、戦いを見守るグラップラーたちも同様。

 

「……ゆ、勇次郎? あれは、もしや、す」

「あ、あれって、もしかして、す」

「す――」

 

観客が、軍人が、格闘家が、

ただひとつの単語を同時に連想する。

 

その言葉が巨大な書き文字となって、空を覆うかのような感覚。

 

「すっ……」

 

 

 

 

 

――酔拳!?

 

 

 

 

 

「ま、まさか……」

 

寂海王は色を失っている。

 

そんなことがありうるのか。

誰もが知る拳法だが、それを、あの範馬勇次郎が。

 

「うい~~……」

 

しかし、さすがは範馬勇次郎というべきか。

その動きは、誰しもの記憶にある酔いどれと完全に一致している。

あるいは、そのような千鳥足の泥酔者を見たことがない者でも、

その動きが酩酊によるものだとはっきり感じ取れる。

 

「あっ……アレは、酔拳、じゃな?」

 

徳川老人が、今更のように寂に問いかける。

 

「は、はい、おそらくは……」

 

その手の形。

人差し指と中指をやや開き、カギ形に固める手は盃を持つ手をイメージしたものだ。

名を杯手(はいしゅ)と言う。

しかしその握り具合は、もう少し大きなもの。

観客の眼にはその握るものが連想される。

 

――あれは

――酒を入れる徳利……?

――いや、ボトルだ。

 

――そう、左手には、いかり肩のボルドー風のワインボトル。

――右手にはワイングラス。

――中身が少し入っている。

 

――赤い液体が

――動きに合わせてちゃぷちゃぷと。

――零れそうになるたび、あわてて揺れを抑えようとしている。

 

いまや観客の目に、勇次郎の握るボトルがしっかりと見えていた。

その中身、おそらくは数十年は寝かせたフルボディの赤ワイン。

バラとなめし革を合わせたような濃厚な芳香。

グラスの中で踊るその質感。

勇次郎が、その中身をグラスに注ぐ。

グラスの壁面を、赤い足を残して揺れるワイン。

それを一口煽る。

最初に口の中で転がし、

香気を鼻に抜けさせ、

胃の中にワインがゆるりと落ちていき、幸福そうな吐息をほうっと吐き出せば、

周囲には芳醇な香気が広がっていく。

 

ごくり。

誰かが唾液を呑む。

空気がワインの色に塗り替えられるかのようだ。

もはや気のせいとは言えぬほど、勇次郎の顔は紅潮している。

勇次郎自身も、その幻想のワインを楽しむかのように――。

 

「さ……さすがは範馬勇次郎だぜ、ホントに飲んでるみてーだ……」

 

口中につばが溢れてくるのを感じつつ、加藤清澄が呟く。

 

「どっ、どうなのじゃ? 酔拳とはそんなに凄い拳法かの!?」

 

徳川老人が尋ねるが、

問われた寂海王は、しかし、額に汗を浮かべて思いつめたような顔をしている。

顎を引き奥歯を噛みしめるように構え、何かを考え込む風である。

サングラスの奥で、どのような目をしているのか読み取れない。

 

「……す、酔拳とは中国拳法の一種、形象拳の一つです。

蟷螂拳や猿拳のように、他の生き物を真似する拳法ですな。

こ、この場合は、酔っぱらいの動きを真似しているのです」

 

何度か言葉を切りながら、寂が続ける。

 

「その意図は……足場の悪い場所で戦うためです。

寝っ転がったままの攻撃があったり、腰を落とした構えが多いのはそのためです。

他にはトリッキーな動きで相手の隙を突いたり、酔ったふりで敵を油断させたり……」

「ふむふむ、それで、ドルルマンに通じるのかの?」

「……つ」

 

寂海王は、一瞬の逡巡の後、堰を切ったように力強く言う。

 

「通じるわけがない!」

 

あの範馬勇次郎のやることである。

まさか、何の意味もないはずはない。

しかし中国武術の頂点、海王を継ぐものとして、正確なことを言わないわけにはいかない。

 

「先ほど言った通りです。

それが全てなのです。

酔拳は特別威力の高い技があるわけではない。

言ってしまえば演舞のための拳法……つまりは見世物に過ぎんのです」

「でっ、でものォ……映画じゃ……」

「知っています! 飲めば飲むほど強くなる、私だってそれは見たッッ!

だが所詮は映画ッッ!

 現実には酔拳だからといって、特別強い力を出せるわけではない!!」

「……あ、やっぱ見るんじゃな、そういうの……」

 

「――ここへきて奇策を弄する、か」

 

ドルルマンがその勇次郎ににじり寄り、腕を大上段に振りかぶる。

胴部に絶対の防御力を確信するからこそ可能な、大上段からの振り下ろし。

それが空を引き裂き、勇次郎めがけ――。

 

ドルルマンの拳が目標にめり込む。

勇次郎の体がぐるりと廻る。

踵を支点に反転、

回りながら倒れこむかに見えて、

その勢いのままにほぼ一回転。

拳の勢いをいなして回転力に変える。

 

踵を中心に勇次郎が廻る。

上半身がねじられる。

回転とともに腕が振られ、

拳が握られ、

それが、ドルルマンの脇腹に。接――

 

 

 

――唔ッッッッッ!!!

 

 

 

一瞬。

観客の五感が吹き飛ぶほどの衝撃。

銅鑼を鳴らすような衝撃が耳を圧す。

ドルルマンの体が1メートルほども動かされる。

 

岩が動くような、城が動くような。

絶対に動かないと思われていたものを、動かすという怪異。

 

ドルルマンは――。

 

その時初めて、観客は見た。

あの氷のような眼差しを持つ科学者が、初めて、動揺の色を見せることに――。

 

 



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第21話

ドルルマンは、脇腹を押さえ、汗を浮かべ。

口元を噛み締めながら、地面についた自分の痕跡を。

自分の移動により刻まれた、大地の深い溝を見つめている。

 

「――馬鹿な」

 

生命科学の範疇を超越しつつある科学者も、

物理法則すら超越したその現象に、焦りの色を見せる。

その目が、思考と狼狽の混ざった色に濁る。

 

――なぜ、たかだか100キロ前後のこの男に。

――私が動かされる。

――しかも、相当に緩和させているとはいえ、痛みまで。

 

「すっ……」

 

加藤清澄が、

そしてすべての観客が、数秒ほど遅れて歓声を上げる。

手を突き上げて叫ぶ。

手を叩いて賞賛する。

 

「すげえ!! すげェぜ、さすがオーガだ!!」

「おおおォォッッ!!」

「オーーーガッッ!!」

「オーガッ! オーガッッ!!」

「――さっ、さすがじゃ勇次郎。やはり地力でも、ドルルマンにダメージが通りおるぞ!!」

 

無数の試合を見てきた徳川老人ですら、そのように理解せざるを得ない。

 

「……」

 

だが、寂海王だけは、今の「現象」を測りかねていた。

 

「武」の世界に、魔法はない。

 

格闘家とは、徹底したリアリストでなければならない。

確かに、郭海皇――

あの人物の技はもはや魔法の近似にしか見えぬ。

しかしそれとても、技術の延長なことには間違いがない。

周囲が浮足立つ中、寂海王だけは、今の攻防をじっと思い返していた。

 

――あれは

――ドルルマンの拳が勇次郎氏の体にめりこんだ

――そう、先ほどと同じ、

――拳があたってから回避するかのような、わずかに遅れて見えるような回避。

――そして、体を反転させ、

――回転しつつ脇腹に回し打ち、そこまでは分かる。

 

気になることは、打撃の一瞬。勇次郎の体がピタリと静止したように見えたこと。

 

その勇次郎が踏み込む。

ゆっくりと大股に、

右足を左前に、回転しつつ左足を右後方に、

千鳥足を踏むように、めちゃくちゃな足取りで進む。

 

「――く」

 

ドルルマンも初めて腰を深く落とす。

脚を前後に開き、地に足を、文字通りめり込ませながら構える。

硬い赤土で固められた芝に、ドルルマンが超重量の足を沈ませる。

その安定性、

鉄杭を打ち込んだ砲台のごとく。

腰だめに構えた右正拳。

勇次郎が倒れかかるように迫る。

 

右拳が放たれる。

 

大木すらなぎ倒す威力を秘めた正拳が、勇次郎に触れ、

一瞬、確かにその顔面を撃ちぬくかに見え、

勇次郎の体がずるりと粘性を持って動く。

体が右下方に流れる。

流体のように下方に回避している。

空気に焦げるような臭いが生まれ、

勇次郎の体がぐるりと回転。

ドルルマンに一瞬だけ背中が見える。

一回転以上もの回転を伴う、酔漢の踏み込み。

胴回しとともに裏拳が、ドルルマンの腹部に、

触れ。

勇次郎の全身が剛直し――。

 

――呑ッッッッ!!!!

 

「――ガッッ!」

 

一瞬、全員がそれを認識する。

800キロを超えるはずのドルルマンの体が。

その両足が、地を離れている。

巨砲が、城が、戦艦が浮くかの如き眺め、

 

ずん、と重厚な音とともに着地。

そして右膝が地に付く。

 

腹部に生まれた信じがたい衝撃。

口の端から体液が流れ落ちる。

 

「――そんな、ことが」

 

それは、おそらくはドルルマン自身すら想定していなかった、明確なダメージ。

その痛みに、未知なる衝撃に、百年を生きた老科学者が震える声を漏らす。

 

「あ、あれは……」

 

寂海王が、二度目となる不可思議な打撃を見て、今度こそ正体を見極めようと思考を巡らす。

 

――剛直だ。

――確かに打撃の際、勇次郎氏が全身の筋肉を固めていた。

――寸勁か、

――あるいは、剛体術

――いや、そうか、あれは……

 

「……そうか、ビリヤードです」

 

ふいに、そんな言葉をつぶやく。

そのあまりにも唐突な単語に、徳川老人らが寂のほうへと振り向く。

 

「ど、どういうことじゃ??」

「勇次郎氏の打撃の正体です。

徳川さん、日本には剛体術と呼ばれる概念があるそうですね?」

「うむ……近代空手に概念としてのみある言葉……だそうじゃがの」

 

打撃の際、人間の体はエネルギーを伝えようとすると同時に、打撃によるショックを吸収しようとする。

手首、肘、肩、

そして全身の肉と関節が緩衝材となり、打撃を吸収する。

それに逆らい、インパクトの瞬間、関節を固め、全身の肉を硬化させることによって、伝えるエネルギーを最大にする。

それが剛体術の概念である。

 

「その極限がビリヤードなのです。徳川さん、ビリヤードの的球に、手球を真正面から当てた場合、どうなりますか?」

「そ、そりゃあ勿論、的球が吹っ飛んでいくし、手球は……あっ」

「そうです、手球はその場に静止する。ほぼ完璧に正面を捉えた場合、手球は自分の持つ運動エネルギーをすべて使い切り、その場に止まるのです」

「な、なるほどのォ……

そういえば打撃の時、勇次郎の体が固まったように見えたが……」

「そうです、インパクトの際に全身を固めて、体重をすべて打撃に乗せているのです」

 

――だが、

――それでは半分だ

 

そうだ、たとえ剛体術でも、ドルルマンの超重量を吹き飛ばすほどの威力は得られない。

何かもっと、根本的に、

強烈な加速度を生み出している要素があるはず。

 

戦況は傾きつつあった。

ドルルマンは勇次郎の手足を払おうと身をかわし、あるいは迫り来る手足を撃ち落とそうとする。

しかし勇次郎の動きはまるで紙人形のごとし、

打撃をずるり、とすり抜けてその内側に踏み込み、腹部に肘を。

爆発の如き衝撃。

体が浮く。光が弾ける。

打撃の音が城門にぶち当たる破城槌の如く。

反吐を吐きながら後退するドルルマンにさらに追いすがる。

不可思議な打撃にドルルマンがはっきりと焦りの色を浮かべる。

この漢は、ドルルマンにすら理解しがたい打撃を放つ。

 

ならば、その体を掴んで引き裂いてやろうと、

手を開き、その太い十指を突き出す。

 

勇次郎が身をかわしつつ深く踏み足を入れ、手の甲に、下腕部に側頭部をつけるように滑りこむ。

体を回す。

腕に沿って回転しながら踏み込む。

踵が地をえぐる。

そして上腕部をドルルマンの顔に押し当て。

超打撃が、弾ける。

 

豪。

 

全身に爆薬を仕込んでいるかのような、音と衝撃。

その眺めに、ジャックも、加藤清澄も息を呑む。

そして。

 

「――そうか」

 

寂海王が、ようやく理解したという顔で声を放つ。

 

「分かったのか――?」

 

ジャックが呟く。

寂海王はうなずき、短く断言する。

 

「信じがたい技術です。あれはまさに、ハンマー投げの原理」

「はっ……ハンマー投げ??」

 

またもや唐突な言葉である。加藤清澄が頓狂な声を上げる。

 

「人間の体が生み出せる、最も鋭い加速。それは疾走や跳躍ではない、踵を軸とした回転なのです」

 

東洋に、超人と呼ばれる男がいる。

ルーマニア人のやり投げ選手を母に、東洋の鉄人と言われたハンマー投げの選手を父に持つ、伝説的な日本人選手。

おもに腕力に任せて強引に投げる競技と言われがちなハンマー投げにおいて、その選手の体格は187センチ97キロ、比較的小柄な方とされている。

だが、その100メートルスプリントは十秒台。誰にも真似のできぬ瞬発力と、高度な技術により裏打ちされた高速スピンにより、数多くの優勝歴を残している。

 

「し、知っとるぞ、その選手は確か……」

 

徳川老人が言いかけようとするが、寂海王は己の考えに没入しているかのように、構わず言葉を続ける。

 

「7.26キロものハンマーを80メートル以上も投げる競技です。

投擲の瞬間、ハンマーが有している力は実に400キロ以上。

遠心力により外側に吹き飛ぼうとするハンマーを、強烈な背筋力と腕力によって引きつけつつ、的確なタイミングで投げるのです。

このとき、ハンマーの初速は秒速30メートル近くにまで達するといいます」

「う、うむ……」

「踵を軸に回転することにより、人間はそれほどの力をハンマーに乗せることができるのです。それは最大で3500から4000ニュートン。体重の4倍と言われています。そしてもちろん、範馬勇次郎氏の身体能力、筋力は、ゴールドメダリストを超越する。

そして、その衝撃力を受け止めるために、拳をダイヤモンドのように強く握り固めている――」

「じゃ、じゃあよ、まさか、あの酔拳は――」

 

加藤清澄の顔面が驚愕に固まる。

そう、あの酔拳は見せ掛けの動きではない。

あの揺れるような動き、

よろめくような回転、

ドルルマンの拳を受けて、

あるいは足をもつれさせて転ぶような動きの、回転。

 

それがすべて、

 

加速、

 

だとしたら。

全ての動きが、一連の加速動作として組み込まれているとしたら。

 

「……それだけでは、ありません」

 

視界の先で、ドルルマンが大きくのけぞる。

体液を吐いて飛ぶ。

驚愕に強張る顔を勇次郎の拳が覆う。

そして爆圧と見まごうほどの衝撃の伝播。

 

「加速の間、勇次郎氏の肉体は恐ろしいまでの柔軟性を見せている。関節がなくなるどころか、骨すらも溶けるほどの」

 

ドルルマンが踏みとどまる。

眼から虹彩が消え、激烈な憤怒が宿る。

右腕のシルエットがかき消える。

銃撃のごとき右拳が疾る。

 

拳は勇次郎にめり込み、肉を歪ませ、

ずるり、と

勇次郎の体が流れ、拳にそって回転。

そして一撃が――。

 

「信じがたい――そんな回避が現実にありうるとは」

「お、おい、どーゆうことだよ、説明してくれよ」

 

加藤清澄が声を荒げる。

寂海王はそちらに視線をやり。

 

「――あくまで、推測の話ですが」

 

と前置いて話す。

 

「あれは正確には回避ではない。ドルルマンの拳は間違いなく勇次郎氏に接触している。

紙一重というわけではない。

拳が勇次郎氏の顔面を捉え、撃ち抜かんとする瞬間に致命傷だけを避けているのです」

「どっ……どーいうことだ???」

「あれは反射です」

 

人間が、危険を察知してから動き出し、回避を終える時間はおよそ0.5秒。

それは、ゼロから反応しているためである。

視覚や聴覚で危険を察し、その回避法を考え、行動に移す。

この考える、という時間こそが最大のタイムラグを生む。

しかし、人体にはもっと素早い反応がある。

 

それが反射。

 

熱い器に手が触れた時、人間は瞬間的に身を引く。

その反応は脳を経由しない。

指先で伝わった反応が、過剰な電気信号となって腕全体に伝播し、

すべての筋肉を瞬間的に縮めることによって、「手を引く」という「結果」を引き出す。

 

「ボクシングの世界においても、パンチを受けた瞬間に反射的に首の関節をこわばらせ、頭を後方に引いて脳の揺れを抑えることでダメージが軽減する。そのような反射的な防御が存在すると言われています。

歴代のチャンプの中でもごく数人の、特異な反応速度を持つ選手。

それも、人生の絶頂期とも言えるほんの一時期、パンチを受けてから体が反応した、そのような証言が見られます。

つまり、勇次郎氏のあの回避は」

「――?」

「感覚の全てを皮膚に集中させ、拳が当たる位置、角度、それに対する適切な体の動き、

それらを全て、無意識下にインプットしているのです!」

「なっ!?」

 

右頬に正拳。

全身が左側に流れようとする反射に染まる。

ずるり。

振り抜かれる刹那の瞬間。

拳の側面へと、

体が流れる。

その動きは流体の如く。

回転。

その体捌きは長腕を振るう投石機のごとく。

握。

その握りは鋼鉄球のごとく。

 

回避、加速、そして打撃。

どれ一つとっても人間業ではない。

その神技の三重奏が、ドルルマンの黄金の肉すらも――動かす。

 

「もしドルルマンがプロの格闘家であれば、こうはいかなかった」

 

その推測が確信へと深まるに連れ、寂海王の語り口は熱を帯びていく。

 

「ジャッジとして格闘家を研究したようですが、しょせんは素人。

その打撃は速いものの直線的、

狙う場所も胸部や頭部など、分かりやすい急所ばかり。

ならばこそ、あのような、

側面に回り込むような回避が成立するのです。

もっとも、勇次郎氏以外がやろうとしても、頭を吹き飛ばされて終わりでしょうが……」

「つ、つまり、打撃をある程度受けて、その上で回避しとるのか?」

「そうです。肉体的なダメージも皆無ではない。それでもなお、目で見て回避するよりは早いと判断した」

「信じられんことするのォ……」

「しかも、回避によって体が流れることすらも加速の一部に取り入れている」

 

語る寂海王もまた、自分の言葉が信じられないという顔である。

今の攻防は、人智を超えた技術の結晶。

普段の勇次郎の戦い方ではない。

 

それは、勇次郎が強者であるため。

世界において、範馬勇次郎にあらざる全てがあまりにも弱いため。

 

だから、技を使わぬ。

だから、奇策を用いない。

 

(――では、今のドルルマンは)

(勇次郎氏が、技を使うほどの相手だと認識した、ということか)

(確かに、ピクルに対して合気を見せたことはあった……)

 

拳。

裏拳。

肘。

上腕側撃。

 

その全てが、光の炸裂を伴ってドルルマンを圧倒する。

 

「――ガアアアァッッ!!!!!」

 

ドルルマンが叫ぶ、腕を振り上げ、掴みかかろうとする老科学者の懐へ、身を低くして潜り込む。

そして両拳を突き出し、腹部に当て。

回転を、踏み込みを、全身の剛直を。

その瞬間、勇次郎の肉体は二列の破城槌へと変わり――

 

弩ッッッ!!!

 

一瞬、ドルルマンの背中が風船のように膨らんで見える。

拳が背後へ抜けるほどの強烈な双拳併打。

膝が落ちる。

ドルルマンがくずおれる。

数百キロもの荷重を載せた拳が、さしもドルルマンの肉体すら滅ぼさんとしている。

 

想像すらしていなかった衝撃と痛みに、ドルルマンの顔から体から、体液が流れている。

それは果たして汗か、涎か、それともそれに類似する何か人工的な成分なのか。

 

「――フン」

 

勇次郎とても万全な姿、というわけではない。

その頬にはヤスリを掛けた材木のように、痛々しい裂傷が刻まれている。

胴にも顔にも、内出血の青痣が浮き出ている。

骨や内臓すらも無傷ではあるまい。

ドルルマンの拳を、接触によって感知するあの回避。

常人ならば回避するどころではない。

そのまま、接触部分だけを削ぎ落とされるほどの打撃だったのだ。

 

だが、いま立っているのは勇次郎。

膝を屈したのはドルルマン。

誰にでも分かる、シンプルにして絶対の図式。

 

頭がより高い位置にある方が、勝者――。

 

加藤清澄が、周囲に確認するかのように言葉を放つ。

 

――勝ったのか?

 

一瞬、観衆もそれを信じかけた。

勇次郎が、言葉を放つ。

 

「――もういいだろう」

 

空気が弛緩し始める。

安堵と賞賛の入り混じった気配。

今にも全員が両手を突き上げ、腹の底からの叫びをあげようとした刹那――。

 

勇次郎の言葉が、それを止める。

 

「――そろそろ」

 

 

 

 

 

「本気を見せろ」

 

 

 

 

 

(――!!)

 

驚愕したのは、もちろん寂海王だけではあるまい。

 

――まさか。

――まだ、これ以上が、あるというのか。

 

「すべてを出し切っている者の眼じゃねェ」

 

体からゆらりと熱気を上げつつ、勇次郎が歩く。

 

「まだ何か、あるんだろう?」

「ふ……」

 

ドルルマンは、奇妙に引き歪んだような顔で勇次郎を見て、

ゆらりと煙のように立ち上がり、

一瞬、口角を少しだけ左右に引き上げ、口の端を奇妙に歪める。

寂海王は、かなり後になって、

あれは、ほとんど表情すら失ったドルルマンが見せた、皮肉げな笑いだったのだと理解する。

 

次の瞬間。

ドルルマンが、片足を上げる。

 

「――何だ?」

 

疑念の呟きを漏らすのは加藤清澄である。

恐ろしいまでの柔軟性、というよりは、関節が球体ででもあるかのように、見事に真上に跳ね上がった足、

その脚が、瞬間。世界から消失する。

 

――嚴ッッッッ!!!!

 

「――ヒッ」

「――うわァッ!!」

 

その途轍もない轟音に、観客は瞬間的に手で体をガードしようとする。

まさに弾速の如き勢いで振り下ろされる脚。

そしてドルルマンの脚は、まさに鉄塊そのもの。

それがどれほどの威力を生んだものか。

もうもうと土煙が上がっている。

 

それが晴れる頃。

ドルルマンは、あの不気味な大男の姿はどこにも見えない。

 

そこは庭園の中央付近。

石畳の道に囲まれた、小さな正方形の芝に、巨大な大穴が空いている。

それは地下に存在する空洞のようだった。

ドルルマンが蹴り足の振り下ろしにより、地下空間の天板を突き破ったということか。そしてそこに逃れたと。

 

「――フン」

 

その穴は、底も見えない。

何やら風のうなりのようなものが聞こえるが、中の様子は窺えない。

 

 

 

 

勇次郎は一秒の間も置かず、

その闇の中へと、身を躍らせた。

 

 

 



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第22話

 

 

それは天然の洞窟ではなく、明らかに人工的に作られた空間であった。

大地を貫く縦穴は狭く、その断面はほぼ正方形であり、壁面はコンクリートで固められている。本来は排気口か、エレベーターでも取り付ける予定があったのか。

 

そこを降りていく。

重力に身を任せながら、

不敵に闇の底を見下ろし、壁面に手を当てながら降りる。

 

そして、十数秒。

 

勇次郎の瞳孔が絞られる。

闇色の筒の中でその底を捉え、口角から牙のような犬歯がのぞく。

 

蹴撃、

壁面を蹴り反対方向にベクトルをかける。

硬いコンクリートの壁面に背中からぶち当たり、体を丸めて肩、背中、腰部を順に壁面に這わせる。

そして地面と接触。

つま先から地面に降りて体を横倒しに、そして膝側面、大腿部、再び腰部、背筋、肩甲骨へと順に接地させていく。

 

重力分散型着地。

 

パラシュート降下技術の一つであり、足から順番に、転がるように体を接地させていくことで荷重を分散させる着地法。

勇次郎は壁面を利用することで、着地の前段階からそれを開始する。

勇次郎の判断力と感性の前では、L字状の空間はなだらかな坂道とほぼ同義。

肉体の中で丸みを帯びた部分だけを、壁面から床に、床から更に進行方向へと連続的に荷重をかけていく。

下へと向かうベクトルは横向きになり、体を転がす力へと変換される。

 

だん、

と最後にひときわ大きな音がした時、勇次郎は何事もなかったかのように、暗闇の中に直立していた。

 

勇次郎の前方には通路が伸びている。

 

その奥には明かりが見える。

通路の壁面に据えられた蛍光灯が、灰色の光を放っている。

 

勇次郎が歩みを進める。

悠然と、花道を進むレスラーのように堂々とした足取りで。

落ちてきた縦穴の上で大勢が騒いでいたが、それも次第に遠くなっていき、やがて消えた。

 

通路は広く、そして長く長く続いていた。

一定間隔で灯される蛍光灯が、勇次郎の体に複雑な印影を刻む。

 

――

 

何か。

通路の奥から、聞こえてくる。

 

それはドルルマンの声。

あの独特な、生ゴムを通して話すようなくぐもった声だ。

 

――とは

 

――

 

――おかしいとは、思わなかったかね?

 

勇次郎はその声を聞いているのかいないのか、ただ黙々と歩き続けるのみ。

その声は通路の奥から響くのか、あるいはどこか虚空から霊体の声のように響くのか、それすらも曖昧である。

 

――あの時、

 

――なぜ私の肉体が、1527日と4時間後に完成する、と言ったのか。

 

――私の実年齢は、112歳。

 

――しかし、あの時、

 

――わたしが、そのような老人に見えたかね?

 

――

 

――そう、完成していたのだよ、

 

――すでに私は、黄金の肉を、

 

――不死の肉体を、手に入れていた。

 

――では、私の肉体は、

 

――何をもって、完全となるのか?

 

それは空気の震えであったのか。

あるいは勇次郎の脳内に、何らかの方法で送り込まれた言葉なのか。

 

――私は、極微小のユニット群により、

 

――ブロック細工のように、自在に操れる肉体を考案した。

 

――すべてのユニットが、あるときは硬質に、あるときは柔軟に結びつき、

 

――思考回路や、内燃機関までも模倣する、万能の肉。

 

――そして私は、生物として強さ、頑健さを求めるため、

 

――より比重の大きな原子を、その素材として求めた。

 

――原子価を操作し、

 

――導電素と非導電素によってユニットを形成し、

 

――あらゆる分子的な連結を可能とする、

 

――万能の肉を。

 

視界が開ける。

 

巨大な部屋である、旅客機が丸ごとひとつ収まりそうなほど。

中央に立つのは、ドルルマン=フォグ

床から幾つものチューブが伸び、肩や背中に接続されている。

半透明のチューブの中を、コロイド状の液体が送り込まれている。

 

その部屋はまばゆい光に満ちている。

見渡す限りを貴金属の輝きが埋めている。

 

それは、あるいは古代の遺物。

足の踏み場もないほどの、金の盃、金の指輪、首飾り、ティアラ、

ずらりと並べられた木製の人形が着るのは、黄金の鎧、黄金のデスマスク

捧げ持つのは宝石の嵌めこまれた槍、着こむのはエメラルドと金の板が編み込まれた鎧、

そして無造作に散らばる金の延べ板。

 

そして部屋の四隅には、山のように積まれた金貨。

家がひとつ、丸ごと隠れるほどの、巨大な金貨の山がそびえている。

 

煉瓦のような純金のインゴットが、壁を築くほどに積み上げられ、

黄金の輝きが、部屋を満たしている――

 

「かつて1530年頃――、

インカ帝国へと攻め入ったスペイン軍は、アタワルパという王を囚え、幽閉した。

兵力において劣るスペイン軍は、アタワルパ王を傀儡とすることで、インカ帝国を牛耳ろうと考えたわけだが……」

 

ドルルマンの声は冷静さを取り戻している。

揺るぎなき自信に満ち、すべてを見通す森の大樹のような、威風堂々たる態度である。

 

「アタワルパ王はひとつの提案をした。もし私を開放してくれるなら、大広間をいっぱいにするほどの黄金を与えてやると。

スペイン軍を率いるフランシスコ・ピサロは半信半疑であったが、その申し出はすみやかに履行され、またたくまに部屋いっぱいの黄金が集められたという――」

 

「……」

 

「――しかし皮肉なことに、その黄金の山がピサロの欲望を励起させてしまった。そのクアルト・デル・レスカテ(身代金の部屋)にもまるで満足せず、結局はインカ帝国のすべてを破壊し尽くしてしまった――」

 

無造作に金貨の山を拾い上げ、がらがらと重たげな音をたてて指の間からこぼす。

その眺めはまさに黄金の海。

見渡す全てが黄金に輝き、乱反射する光が眼前を満たす。

あらゆる時代、あらゆる形態の装飾品、金貨、そして地金、

黄金にかぎらず、宝石やプラチナ、芸術品としての価値が地金の価値を上回るものも少なくはない。

その眺めは龍の巣穴か、海賊の聖域か――。

 

「黄金とは価値の象徴であり、欲望の度量でもある。より大きな欲望を持つものが、多くの黄金を独占する。それもまた一つの道理であり、帰結。

――私の欲望は、それなりに巨大と言えるようだ」

 

「はっ、周りくどいことを――」

 

勇次郎が吐き捨てるように言う。

 

「キサマの肉体が、黄金で出来ていると言いたいだけだろう」

「その通りだ」

 

どっ、

そんな重厚な足音がする。

ドルルマンの外見はさほど変化していない。

しかし、勇次郎へと歩みを進めるその一歩が、強化コンクリートの床を踏みしめるその足音が、先ほどとは比較にならないほどの重量感を備えている。

 

「通常の人間ならば、私程度の体格で体重は120キロ前後。この体を、19.30の比重を持つ金に置き変えるために、大変な苦労があったのだよ」

 

ドルルマンは過去の艱難辛苦を偲ぶというよりは、ごく淡々と、何かの義務であるかのように語る。

 

「私の開発した黄金の肉。万能性を持つマイクロユニットは、純度の高い黄金から40:1の割合で生成される。この体を完成させるためには、技術力や発想力よりも、何よりも時間が必要だった。経済学も私の専門とはいえ、極秘裏にこれだけの金を集めるのは容易ではなかったのだよ。

私が収集した金は現在の流通レートで約50億ドル……生成できたユニットは……」

 

その背中から、肩から、全てのチューブが抜け落ち、

コロイド状の金が、泥となって地面に撒かれる。

 

「約2300キロ……というところか」

「はっ……やけに饒舌になったじゃねェか」

 

勇次郎はあえて悠々と歩を進める。

 

「今まではスカスカだった、ってことか」

「少し違うな――まだ有機細胞の占める部分が多かったのだよ。黄金の肉の純度を高めるほどに、通常の生命活動は不要になっていく。

私はもはやリンゴをかじる必要もないし、

今は呼吸も、排泄も、眠りも――勝利に打ち震えるような感動も、遠ざかる――」

 

右腕を。

不自然に膨れているのは以前と変わらないが、もっとずっと確かな重量感を備え、必殺の威力を秘めた右腕を、高々と構え、

 

勇次郎が無言にて気迫を充実させ、無意識下のレベルで身構え、

 

ドルルマンの手が、

ゆっくりと動き、

 

勇次郎の脇腹に、

 

触れる。

 

「――へっ」

 

勇次郎は、頭を軽くもたげてつぶやく。

 

「――バレたか」

 

次の瞬間。

勇次郎の体が超高速で弾かれる。

一瞬で高速列車のごとき速度まで加速される肉体。

その体は縦回転しながら吹き飛び、

金貨の山を波を蹴立てて吹き散らし、

どばあん、とコンクリートの壁に激突する。

 

細かくひび割れた壁面から、石辺がパラパラとこぼれ。

 

「ガッ……」

 

勇次郎の口から、濁った声が漏れる。

 

――あの驚異的な回避。

ドルルマンの腕にそって回転するような動き。

回転を利用した加速と打撃。

 

それらに共通することは、

カウンター技、ということ。

 

素人であるがための直線的な打撃、

顔面という王道的な狙い。

それゆえに浸け込む隙があった。

 

しかし、ドルルマン=フォグ

地上最「知」なるもの。

その原理に、対応に、いつまでも気づかぬはずはない。

 

異端の回避には、異端の戦術。

回避されるのならば、体に直接触れてから攻撃すれば良い。

打撃が回避されるなら、投げれば良い。

ドルルマンの圧倒的なまでのパワーあればこそ可能な技。

いや、もはや技とすら呼べぬ。

極大のパワーで、超越の肉体で、ただ虫をはたくように破壊するのみ

 

ドルルマンが跳ぶ。

2トンを超す巨体で、かるく十数メートルを滞空する。

金貨の山の頂で、壁に縫い付けられたような姿勢の勇次郎へと。

そして重量数百キロの右足が伸ばされ、その胸を撃ち抜く――

 

かと思われた瞬間。その脚が胸部にすいと触れ。

 

――

 

番ッッッッ!!!

 

勇次郎の肉体が、コンクリート壁に10センチほども押し込まれる。

巨大な強化コンクリートの壁が一気にひび割れ、破砕の波が広がり。

確実な手応えがドルルマンの脚に伝わり、

 

がっ、

ドルルマンの手が勇次郎の頭部を掴み、ぶんと腕を振る。

一瞬後には勇次郎の体は高々と放り投げられる。

天井までの高さは約30メートル。この巨大な部屋の中で、勇次郎の肉体が奇妙な浮遊感を持って宙を舞うかに見え。

 

ざんっ

ドルルマンが金貨の山の中に腕を突き刺す。

鈍色に光る古代のコインの山。そのはるか奥に腕を付き入れ、

そして引き抜かれるとき、周囲のコインが水のようにざざざと音を立てて盛り上がる。

 

それは車。

 

どのような道楽で作られたのか、

どのような経緯を経てドルルマンの手に渡ったのか

ボディのほとんどを24金で造られたリンカーン・コンチネンタルが金貨の山より引きぬかれ、

内部にぎっちりと詰まっていた金貨が、指輪が、宝剣が、装身具が、インゴッドがその重量で窓を割りつつ流れ出し。

 

その黄金の塊が力任せに投擲される。

内部にまで黄金を充填させ、もはやどれほどの重量に達しているのかも分からぬ車体が、空中で勇次郎をとらえ、

金貨を光の粒となって撒き散らしながら壁に激突する。

 

――ッッッッッ!!!!!!

 

空間全体を震わすほどの轟音。

リンカーンがドルルマンに腹を向け、コンクリートにめり込み、

その下部ではフロント部分が床を向き、数センチ浮いて止まっている。

あらゆる場所から黄金が滝のように流れている。

 

大股で、半ば跳躍するような歩みでドルルマンが往く。

ばん、と、音速の壁がやすやすと引き裂かれる音。

壁面にめり込むリンカーンに、破滅的な勢いを乗せた右正拳が叩き込まれる。

豪。

くもの巣状に走る亀裂が更に広がり、石片と土と黄金が散らばり、

金貨が床を転がり、離れた場所で黄金の鎧が倒れ。

リンカーンの車体がくの字に圧し曲がって更に奥へと押し込まれる。

 

24金製のリンカーンとはいえ、当然その下回り部分はスチール製。

そこへ二撃、三撃。

やがて雨のような乱打へ。

 

ドライブシャフトが切断され、

 

配管が圧し潰され、

 

フレームがねじ曲げられ、

 

エンジンオイルが噴き出し、

 

アンダーカバープレートが易易と引き剥がされる。

 

内部の宝飾品が変形した状態で飛び出し、

周囲の壁面ががらがらと崩れて、なおも止まらぬ。

艦砲射撃のごとき威力を載せた一撃が、その重厚なる轟音が、

無限に折り重なるように響き渡る――。

 

 

 

 

 



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第23話

 

 

 

 

 

――

 

 

――

 

 

――

 

 

――

 

 

――と

 

 

――

 

 

――

 

 

――っとだ

 

 

――

 

 

――

 

 

――

 

 

――

 

 

――

 

 

 

 

 

 

――もっと、破壊を

 

 

 

 

 

 

そう明確に思考したわけではない。

だが、範馬勇次郎。

無数の業病に冒され、恐るべき強敵たちと戦い、

そして今まさに人智を超えた力に圧し潰されそうになる中で、

彼の細胞が、範馬勇次郎という肉体そのものが、ほのかにそう思った。

 

――もっと破壊を

 

――もっと窮地を

 

――もっと強敵を

 

それはあるいは、生まれ落ちてからずっと、彼の細胞が語りかけている言葉。

細胞の間を流れる電気的刺激となって、全身が一つの意志を共有しているような。

 

再生のために破壊を望み、

成長のために強者を望む、

 

だが、いつからだろうか、

彼の肉体が、いかなる相手にも満足しなくなったのは。

 

肉体は何者にも脅かされず、

 

脅威を感じることもない、

 

世界最強の生物、その言葉をもはや誰も疑わない。

あらゆる格闘家も、彼のことを知る人々も、敵であった者すらも。

 

――なんという退屈

 

――なんという退廃

 

――なんという堕落

 

しかし、

 

これ以上の成長

 

これ以上の強靭

 

これ以上の頑健

 

それを、どうやって手に入れればいいのか。

どのように成長すればいいのか

どこまで頑健となればいいのか

 

目標

 

理想

 

到達すべき場所

 

そのようなものを失って久しい。

 

――人間は成長し、ヒトが進化する

 

――そう、範馬の血

 

――過去から未来へと繋がる、成長と進化の血

 

――それを揺り起こす

 

――強者を

 

 

「――」

 

 

――

 

――こいつなら

 

――こいつならば、目覚めさせることが

 

――そう、範馬の

 

 

 

 

 

 

――血を

 

 

 

 

 

 

「――っ」

 

ドルルマンが腕を引く。

24金のリンカーンの向こう側で、もはや絶命どころか、肉片すら残らぬほどの状態になっていてもおかしくない。

 

だが何故か、履き古した靴のように、配管も機械部分も扁平となったリンカーンの底部で、

何か少しだけ、熱気のようなものを感じた気が――

 

がり

 

石が削れるような音。

リンカーンの車体が、数センチ押し出される。

 

「――何だと」

 

車体が、壁面全体がぐらぐらと振動している。

粘土に押し込んだミニカーのように、完全に埋没している状態のリンカーンが、がりがりと壁面を削りながら押し出されてくる。

 

そして、内部から響く一撃。

 

どおん、と鳴り響く音とともに、リンカーンの24金の車体が壁面から剥がれ、金貨を撒き散らしながら床に倒れる。

 

壁面に空いた穴から出てくるのは、範馬勇次郎。

その全身は朱色に染まっている。

どくどくと流れる血が床に幾何学模様を残す。

 

その流血は、多くは背中から流れているようだ。

柔らかな24金のボディよりは、コンクリートに押し当てられた背中側のほうが出血がひどかったということか。

 

だが。

その時、ドルルマンも、勇次郎すらも気づいてはいなかったが、

肩甲骨の真下、膨れ上がった筋肉同士が折り重なる位置から流血がある。

 

上半身に何も身につけぬ勇次郎の体躯は、膨れ上がった筋肉が更に引き絞られて凝縮している。

その背中。

 

鬼の顔、と呼ばれる彼に独特の打撃筋肉(ヒットマッスル)が、今はどのような顔に歪んでいるのか――。

 

その目から流れる赤い血が、

血の涙を流す鬼の顔が、何を予感させるのか――。

 

だが、その血は数秒で止まる。

 

傷は背中だけではなく、

額にも、胸部にも、目に見えて裂けている傷口がある。

だがそれも、全身を駆け巡るアドレナリンによって、やがて止まる。

 

「――とっくに、五体バラバラかと思ったが」

 

だが、満身創痍であることは間違いあるまい、

ドルルマンはそのように理解し、ならば何度でも破壊を繰り返そうと手を伸ばす。

 

瞬間。勇次郎が踏み込み。

下方から伸びる右が。

ドルルマンの腹を捉え。

 

その金属塊のごとき肉体を、

超重量の体躯を

突き抜けるような衝撃が、

 

ドルルマンの肉を透過し、

 

「背中」を砕く。

 

「がっ――!?」

 

 

 

 

「……図に乗りやがって……」

 

 

 

 

 

 

がらん、といくつもの飛礫が転がる。

ネズミほどの大きさの、黄金の塊。

 

「なぜ」

 

――なぜ、この男は滅びない。

――なぜ、無敵であるはずの肉を、脅かす。

 

「―――ッッッガアアァァアア!!!」

 

千の獅子がいちどきに吼えるほどの咆哮。

勇次郎が裂帛の気合とともに繰り出す右回し蹴り。頭を狙う高さ。

 

「ぐうっ」

 

ドルルマンの機械的な反射神経がガードを命じる。腕を上げてその脚を受け止める。

ぶし、と腕と肩の間に鮮血が弾ける。

勇次郎の足の肉が裂けて血が吹き出す。

 

ごっ、

弾けるような音。

数個の金塊が飛び散る。がらんがらんと重厚な音を立てて転がる。

上腕の肉が砕けている。内部から爆発したかのように。手首の部分が大きくえぐれている。

シャツの手元が切り裂かれ、内部にのぞくのは裂けた人工皮膚。その奥に鈍く輝く黄金。

 

「う――」

 

「――ッッオオオオオオオォォォ!!!!」

 

勇次郎が宙を舞っている。

 

折りたたまれた体、振り上げられた脚が天を衝くように伸びている。

縦回転からの踵落とし。

ドルルマンは全身の肉を硬化させ、両足で地面を掴むように構える。

 

瞠ッッッ!!!!

満身の力をもって、雷鳴のごとく打ち下ろされる踵。

ドルルマンの肩口に食い込むそのエネルギーが、肩から胸、胸から腰へと降り、

ばぐ。と。

三度、肉をはじけさせる。

右膝に生まれた亀裂から、釘のように細く尖った金塊が飛び出て床に投げ出される。ズボンが内部から切り裂かれている。

 

「ぐうっ……!」

 

「――意外とモロいな、ドルルマン」

「……っ、私の体を破壊したことは、評価しよう」

 

ドルルマンは肩を、膝を順番に手で覆う。

手が除かれた時、まるで手品のように、裂け目が、砕け散った部分が埋められている。

だが、その部分は周囲と微妙に色が違い、融合していない。

周辺の「肉」を寄せ集めて、応急的に修復しただけなのは明白だった。

 

「……中国拳法に、そのような神秘があるらしいな。触れたものを内部から破壊する、相手の体を突き抜けて破壊する……。

浸透勁、あるいは通背拳、と言ったか……」

「違うな」

 

勇次郎は、妙に興奮しているようだった。

その目は赤くぎらつき、口元は常よりももっと凶悪に嗤っている。

ドルルマンに与えた打撃、打撃や蹴りの際に血しぶきが飛んでいたのはドルルマンも気づいている。おそらく自己の肉体の破壊すら厭わぬほどの打撃だったはず、しかしすでに血は止まり、痛みなど気にする素振りもない。

 

「人間を殴るように戦ってたのが間違ってただけのこと」

 

奥歯をがちりと鳴らしながら、鷹揚に語る。

 

「キサマを倒すには、殴るではなく、砕くが相応しいと識ったまでのこと」

 

勇次郎の体が蒸気を上げている。

ドルルマンは、常人をはるかに超える感覚器官で察する。

彼のガス交換効率、代謝率、それらが著しく上昇している。

短くはあるが深い呼吸。異様に高い体温。

彼の体細胞が、激烈なまでに活動を高めている。

 

そのような現象を、知識としては知っていた。

例えば、零下30度の極寒で、突如として防寒着を脱ぎ捨てた時。

あるいは、全身を強く打ち、生死の境を彷徨うとき。

 

人間の肉体は、すべての負荷をシャットアウトし、ただ体細胞の活性化のみに全力を費やす。

それを知るものは、その時間をこう表現する。

 

黄金の刻――と。

 

「――そう、上手くいくかな」

 

ドルルマンは全身の肉質を変化させる。

黄金の肉、黄金を原料とするマイクロユニット、その強みは分子結合にも似た万能の連結にある。

結晶構造のように強固に結びつけば、金属の如き硬さを、

分子鎖のように長く結びつけば、ゴムのような柔軟さを見せる。

 

勇次郎が構える。

 

「――?」

 

ドルルマンはコンマ数秒、困惑する。

それは右手を反時計回りに回転させ、手の平を上にして肩の前に構えるような姿。

手首のねじりに引きつられて、腕も肘も、大きく上方向にねじれている。

もし、この場にそれを知るものが居たなら、きっと仰天したに違いない。

 

かの空手家、鎬昂昇。

 

彼が最大トーナメントにて、兄である鎬紅葉に用いた構えである。

しかし、範馬勇次郎が果たしてそれを記憶していたのかどうか。

あるいは彼の本能が、最適な構えを自動的に編み出したのか。

 

菩ッッ!!

腕が放たれる。

ドルルマンが全身をゴム地のように変異させて構える。

 

その正拳が右脇腹を狙い、肉をかすめ。

 

――怨ッッッッ!!!

 

「――ぐあっっ!!!」

 

脇腹の一部が消し飛ぶ。

そこだけ空間がえぐれたかのように、ものの見事に肉がえぐられる。

吹き飛ばされた木の葉状の切片が7・8枚、空中でその金属としての本分を取り戻し、すさまじい速さで滑空。

ざん、と手裏剣のように壁に突き刺さる。

 

「――お、おおっ……」

 

ドルルマンの面相が色を帯びている。

驚愕でもなく、賞賛でもなく、

はじめて、脅威の色に歪んでいる。

 

紐切り。

 

その構えの要旨は、インパクトの瞬間の手首の回転にある。

不自然に手の平が上を向いた形、そこから接触の瞬間、手首を一回転以上ひねることで、皮膚を、その内側の神経までもズタズタに切り裂く技。

だが勿論、手首のひねり、打撃点の見切り、範馬勇次郎のそれは鎬昂昇を大きく上回ると見るべきだろう。

ドルルマンの腹をかすめる極小の時間、

その瞬間だけを引き絞れば、勇次郎の手首の回転は、

おそらくは巨大な出力装置に連結する、工業用ドリルか、

あるいは数トンの重量を浮かせる、軍用ヘリのローターにすら匹敵する回転力。そして指先にまでみなぎる破壊の意志。

柔らかな黄金など、その回転に巻き込まれた瞬間、世界から消失するかのように引き裂かれたことだろう。

 

再び手の平を上に向けた構え。

踏み込む、というよりはずかずかと大股で歩いて間合いを詰める。

大気をはじけさせる音とともに右手がかき消える。

 

ドルルマンが肉を硬化させて耐えようとする刹那。

勇次郎の極限まで研ぎ澄まされた観察眼が、その肉質に反応する。

 

刹那、

 

拳が。

 

開手から正拳へ、鋼のごとき凝縮力で握られた拳がその胸部に、

――炸裂する、

 

体内に亀裂が侵食する――

その亀裂から、高温のマグマがあふれだすような、

あるいは恒星の如き強い光が炸裂するかのような、

それは悠久無限、万世不変のものが滅びる眺め――。

 

「――ガッ……」

 

ドルルマンの体に、警告に近い思考が流れる。

ユニットの連結が切断されている。

いくつかの緊急的な補填が要求されている。

その微細な金属ユニットを統括するのは、ドルルマンの内部に存在する「頭脳」

一度、ユニットが離れてしまえば、再び支配下に置くのは容易ではない。

 

想定してはいなかった。

この肉体を、万能の肉を、砕き、刻むことが可能だとは。

 

有機物と無機物の狭間に位置するドルルマンに、痛みや苦痛などはあまり意味をなさぬ。

だが、自らの総量が削られることには、確かな脅威がある。

 

「――終わりだな」

 

勇次郎は拳を金属のように握り固め、満身に殺意をみなぎらせて言う。

 

「……」

 

ドルルマンが、初めて一歩、退く。

 

足元の金塊を、金貨を、装飾品を踏み散らしながら後退する。

やがてその背中は、どん、と積み上げたインゴットの壁にぶつかる。

小国の国家予算に匹敵するほどの、純金のインゴットの壁である。

 

「……往生際が悪ィぜ」

「……」

 

ドルルマンは、しかし、

 

その目から、ふいに怯えの色が消える。

勇次郎よりもわずかに大きいその体で、顎をそらし、科学者の冷徹な目を取り戻して、静かに言う。

 

「――いいのかね」

「……あ?」

 

「私に勝ってしまって、いいのかね、と聞いたのだが」

「……」

 

ドルルマンは視線を宙に泳がせる。

その瞳が、それすらも人工的なものには違いなかろうが、憂いの色を帯びている。

それは、彼が生きてきた100年余りの時間を振り返るかのような、

出会ってきた何百人もの天才たちを、激動と混迷の時代を、思い返すかのような姿である。

 

「――私が、この肉体を手に入れようとしたこと、その切っ掛けは、死への怯えだった」

「……」

 

勇次郎は、この男が何を言い出すかではなく、

なぜこの段に及んで、何かを憐れむような声を放つのか、

それに怪訝さを覚え、歩みを止める。

 

「だが、寿命を克服して、私はより死が恐ろしくなった。

長大な時間を生きて、膨大な知識を蓄えるごとに、より死から遠ざかろうと思った」

 

「そして私は黄金の肉を求めた。有機体ではなく、無機物へ」

 

 

 

「だが……」

 

 



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第24話

 

 

――なぜだ

 

――私に、与えてくれてもいいだろう

 

――なぜだ、

 

――私にも、不死を、不滅を

 

――悠久の刻を

 

「完全なる不老不死、無敵の肉体、その向こうには何があるのか――」

 

「何も」

 

「何もなかったのだよ」

 

「私は、黄金の肉で自らを置き換えた瞬間、それに気づいた」

 

「気づいてしまったのだよ……」

 

ドルルマンの声は、奇妙な憂いを帯びていた。

この世の不条理を嘆く思想家のような。

世界の終りを見通した預言者のような、

あるいは、もっとずっと魯鈍で、浅ましい嘆き。

 

それは、ドルルマン自身ですらそうは認められなかったかも知れぬが、

ある意味では、愚者の悔恨にも近いものだった。

 

「無敵とは孤独――」

 

「不死身とは孤独――」

 

「そして最強とは、どこにも行けない、ということ――」

 

ドルルマンが、腕を大きく振り上げる。

瞬間的にそれを加速、超重量の釣り鐘の如き威力が勇次郎を襲う。

 

「だから私は!」

 

地面がやすやすと爆裂する。

強化コンクリートを薄氷のように割り、土と石片を巻き上げる。

粉塵の中で勇次郎の体が回転する。

胴回りの回転力が足の先へと伝播し、

爪先で神域の威力を備えてドルルマンの顔面を打つ!

光が弾ける。

人口皮膜の内側で顔面に亀裂を生みながら、ドルルマンはなおも踏みとどまる。

 

「友である富豪を手にかけた!! 彼に『この場所』は耐えられぬ!!」

 

「そして私は!」

 

「人類を『この場所』に到達させまいとしたのだよ!!!」

 

ドルルマンの黄金の腕が背後に振りかぶられ、

壮絶な乱打となって前方を面的に覆う。

 

「人類に不死身など不要だ!」

 

「最強など要らぬ!」

 

打。

殴。

撃。

 

そして超重量の体当たりが重なりあう。

 

勇次郎は回避し、あるいは迎撃する。

全身が燃えたぎるように熱い。

限界を振り切っている反射神経の前に、予備動作の大きい乱打は意味を成さない。

 

「私が揺るぎない世界最強となって!!」

 

「『この場所』を独占するべきなのだよ!!」

 

音。

圧。

大気の震え。

 

「私だけが!!」

 

「科学者である私だけが!!」

 

「この永遠という虚無に、最強という孤独に耐えられる!!!!」

 

――ゴッッ!!

ドルルマンの腕と、勇次郎の腕が正面からぶつかる。

重量差にしておよそ20倍。

しかし。

 

指から上腕へ、上腕から肘へと。

亀裂が走るのは、

ドルルマンの腕。

 

「――そして、君もだ」

 

その手を、どこか陶然とした目で見つめ、ドルルマンが語る。

 

「……何だと?」

 

勇次郎が、初めて彼の言葉に反応するかのように、問い返す。

ドルルマンは、ひびわれた腕で、己の右目を指し示して言う。

 

「私の眼球……これは特別製でね……」

「電子顕微鏡並みの解像度を持ち、赤外線や電磁波すらも見ることができる……」

「君の肉体も、よく見える」

 

「……およそ、常人の常在菌とは思えぬ凶悪な細菌が、巣食っていることも、分かるよ」

 

「……ちっ」

 

勇次郎は、短く舌打ちをする。

 

「それに、これまでの戦闘……およそ、人間業とは思えない」

「肉体が頑健である、というだけではもはや説明しきれない」

「気づいているのかね、君もまた、人としての条理を踏み越えようとしていることに」

 

言葉が途切れかける刹那、勇次郎の脚が疾る。

ドルルマンは片膝を立ててそれを受け止める。

 

「寒さへの耐性なら、毛皮を持つ生物より強く」

 

勇次郎の右前蹴り。

全身を硬化させて耐える。

体内の一部に亀裂が生まれる。

 

「免疫力ならワニやゴキブリよりも強い」

 

咆哮とともに捻れを伴う右の紐切り。ドルルマンの頬が大きく削られる。

 

「放射線ですら、君を脅かすことはできないかも知れぬ」

 

勇次郎のすさまじいまでの連撃が、一つ一つに破壊の神を宿す技が、その黄金の肉を削ぎ、砕き、圧倒していく。

 

「そして、寿命――」

 

ドルルマンが人口皮膜の下で片頬をゆがめ、奇妙に嗤う。

 

「君は、あるいは時の流れにすら、勝ってしまうのかも――」

 

がしり、と。

勇次郎の蹴り足を捕まえる。

その瞬間。勇次郎が掴まれた脚を軸に回転。

もう片方の足が鞭のようなしなりを見せて飛び。ドルルマンの手首に激突。

すでに亀裂の入っていた手が、ガラス細工のように弾ける。

 

「俺を」

 

勇次郎は、怒気を、

内部から湧き上がるような怒気を、黒ぐろとした吐息に乗せて、吐き出す。

 

「憐れむか、ドルルマン」

 

「涙ぐましいことだ」

 

圧倒されているはずのドルルマンが、不意に冷ややかさを見せてそう告げる。

 

「強敵を探し、東奔西走」

 

「君の息子……だったか。明らかに君より数段弱い彼を、暖かく見守り、成長を待つ」

 

「黙れ」

 

「そこまでするほど、耐え難いのかね――

 最強という名の、孤独が」

 

「黙れ!!!!」

 

大地を爆裂させながらの直蹴り。

ドルルマンの黄金の肉に沈み込み。その右腰部を、爆散させるように吹き飛ばす。

 

大きくバランスを崩したドルルマンが、どさりとその場に尻餅をつく。

 

「俺が戦いを求め、強者を求めるのは、餓えからではない」

 

「では……?」

 

「そんなことを、考えたこともねェ」

 

皮肉げな笑いを浮かべ、勇次郎はそのように答える。

 

「生きていることに、戦うことに、理由など必要ない」

 

「……」

 

「キサマが最強になりえなかったのは、俺のほうがより、強いから――」

 

「……」

 

「最強の座に、永遠の座に座るには、キサマは弱かった。それだけのことだ――」

 

「……ああ」

 

ドルルマンは、何かを深く安堵するかのように。

ゆっくりと、息を吐いた。

 

「そうだよ、分かっていたさ……」

 

「私は、孤独や永遠に耐えられるほど、強くなかっただけだ」

 

「無敵の肉を得ても、私の心まで、無敵になれたわけではない」

 

「所詮、生まれついての強者とは、違うのだな……」

 

ドルルマンは、範馬勇次郎を見上げる。

その高みを見つめる眼差しは、疲れきったような、あるいはもう十分に戦った、という充足のようなものが浮かんでいた。

 

「君ならば、あるいは耐えられるかも知れぬ」

 

「最強であることの重責に、無敵であることの無頼に」

 

「長い時間を、我ら力なき者の希望として、生きていくことも――」

 

 

 

 

 

 

「――だが」

 

 

 

 

 

がち、と、ドルルマン頬の内側で、小さな音がする。

 

即座にそれは発動する。

 

この巨大な地下空間の天蓋、その四隅に四角い穴があき、灰色の柱が降りてくる。

どおお、と振動とも轟音ともつかない震えが地下を満たす。

さしも勇次郎も、その異変に目を見張る。

 

「――これはッ!」

「――この液体が何か分かるかね?

セメントだよ。

私が調合した超早固性のポルドランドセメントだ。この空間容量であってもわずか8時間で完全に凝固する。近郊に隠された20以上のタンクから、極めて迅速にこの部屋に流れ込んでくる。

そして、この土地の土壌は比較的柔らかくてね……。

ローヌ川に通じる地下水脈が、砂岩層などが深く重層的に存在している。

この空間は、セメントの重量により自動的に沈降していく設計になっているのだよ。

そして地下で砕け、数十のセメント塊となって、自重により最大千メートルほども沈降する。地下の岩盤の一部となってしまえば、もはや見つけ出し、掘り出すことは容易ではない。おそらく現行の技術では不可能だろう」

 

ドルルマンは何でもない事のように淡々と語り、わずかに顎を反らせて余裕ありげに嗤う。

 

「私はしばらく地下で眠るとしよう。そう、誰かが私を掘り起こすまで、百年ほどね」

 

そのセメントはすでに足首にまで達している。一体どこにそれだけのタンクを設置していたのか。本当にこの地下空間を埋め尽くさんとする勢いでセメントの柱が流れ落ちている。

 

「――オーガ!!」

 

その時。地下空間の入り口に人影が現れる。

ようやくあの縦穴を降りきり、地下に駆けつけたのはジャック・ハンマー。

 

「――お仲間が来たようだな。さて、君はもうこの部屋から退散したまえ。君たちならあの縦穴を登れるだろう」

 

「キ、サマ――」

 

勇次郎は、

その顔面に、縦横に血管が走っている。

噛み締められた臼歯群が、鉄板すら引きちぎる強さで噛み合わされ、ぎちぎちと鳴る。

その怒りの形相は、もはや人語にて形容するのが不可能なほど。

 

「逃げる気、かッ……!」

「逃げるのではない、これもまた勝負の形だよ」

 

「そう、長生き比べなら、まだ私の方に分がありそうだ」

 

「百年後、君がまだ生きていたら、会いに行くかな――」

 

「それでいいのかッッ!! キサマはッッッ!!!!」

 

へたり込み、脚を液状のセメントに埋めたドルルマンに、勇次郎が言葉を投げる。

 

「キサマは――」

 

一瞬の沈黙の後、勇次郎が声を張る。

 

「まだ、成長の余地があるはず!! キサマはまだ格闘家としては未熟!

修練を積むか、キサマであれば賢しさをもって武を読み解けば――」

「……」

「認めんぞ、こんな形で俺の前から消えることなど――!!」

 

――

 

「……ふむ、分かるぞ。

今、君は実に「らしくない」発言をしているな」

 

ドルルマンは、何とも言えぬ玄妙な目で勇次郎を見て、そう言う。

 

「君はもっと、本能的で、無頼で、叙情と無縁な人間だと思っていた。

この場から私が失せることを許すぐらいなら、今すぐ止めを刺すぐらいのことは、すると思っていたのだが」

「……」

 

「……お、オーガ……?」

 

その様子を背後から見ているジャックは、その勇次郎の気配に、

これまでジャックが見てきたものとはどこか違う、

おそらくは、ジャックも、他の誰も、見たことがないような姿の勇次郎が、そこにいる。

それを見るのが危ぶまれるような感覚に、

一歩たりとも、歩を進められずにいた。

 

すでに、立っているものは膝の高さまで、

座っているドルルマンは、腰までがセメントに埋まっている。

 

セメントの流れ落ちる音の洪水、

その中で、ドルルマンの言葉は続く。

 

「光栄だ」

 

「一介の科学者である私が、君ほどの男に、そこまで言わせるとはな」

 

「最強である君から「技巧」を引き出し、無頼である君から「惜別」を引き出せた」

 

「……そして、自分よりも強い相手にすら打ち克つ」

 

「君の、本当の強さを、引き出せたのだな……」

 

……

 

……

 

……

 

「だが、私は、もう疲れてしまったよ……」

 

がく、

 

床がわずかに傾く。

ついに、この立方体の地下空間自体が、どこか破滅的な音を立てて傾斜を始めた。

傾斜はやがて、沈降に移行するだろう。

そうなればもはやこの地下室が、数十億ドルの金塊が、そして世界最高の頭脳が、地の底に消えるのにわずかの時間もかかるまい。

 

「……」

 

ドルルマンは、ふいに視線を上げ。

 

範馬勇次郎に、世界最強の生物に、じっと視線を注ぐ。

 

憂いと悔恨と、寂寞を込めた眼を向けて、

 

短い一言を、呟いた。

 

「――すまない」

 

「――クッ……」

 

勇次郎は、ジャックに背を向け、腿までをセメントに埋めたまま。

 

 

 

――咆哮する

 

 

 

膨大な空気を一気に声に変えて。

声を超越した震えを放つ。

それは、地下の隅々にまで

あるいは、大地を突き抜け、岩に染み入り、

 

世界の隅々にまで、届くかに思われた――。

 

 

 



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第25話 エピローグ

アメリカ合衆国、ホワイトハウス

 

執務室の黒電話が、けたたましく鳴り響く。

 

「――っ」

 

しばらく前より、特定の人物との連絡のために設置されているホットラインである。

専用回線の先には、アメリカ最大の実力者が存在するはずだ。

 

ここ数日、その人物のせいで、オズマ大統領は生きた心地がしなかった。

仏国においてドルルマンと範馬勇次郎の接触、それは勇次郎、ドルルマンともにその場から姿を消す、という終焉を迎えたらしい。

結局のところ、ドルルマンの頭脳も、彼が世界中から収集したという数十トンもの金塊も、そして彼の研究成果も手に入らなかった。

 

もっとも、それは大した問題ではない。

結局のところ、それらはどの国にも、どの勢力にも渡らなかった。

 

ならば問題はない。

アメリカが世界最大の軍事大国であるという、その現状が揺るがないなら、それでよいのだ。

 

だが、その過程で範馬勇次郎氏を裏切ったこと。それは重大である。

範馬勇次郎とアメリカとの友好条約、それは国と国の条約に匹敵するものではあるが、実務的にはオズマ大統領と勇次郎の個人的条約のような形で行われている。

有り体に言うならば、その破棄はオズマ自身の肉体的危機という意味を持つ。

その事実が重くのしかかっていた。一日2・3個は胃に穴が開く思いである。

 

今、鳴り響いているのは、その命令を出した人物からのホットライン。

米国第44代大統領、バラク・オズマは居住まいを正し、額に汗を浮かべつつ電話を取る。

 

「も……もしもし」

 

『――よお、しけた声してやがんな』

 

「!?」

 

オズマは我が耳を疑う。

その人を喰うような不遜な声、それは間違いなく、範馬勇次郎氏のものだ。

 

「お……オーガ!? な、なぜそこに」

 

専用回線の相手は、掛け値なしに米国最大の重要人物。

その居住する場所は、オズマですら正確には知らない。警備も並の国家元首のそれより厳重なはず。

だが、とオズマは思う。

それが何の意味を持つというのだろう。

どこにでも行き、何事をも為す、それが範馬勇次郎という人物ではないか。

だが、そんな思考に長くをかけてはいられなかった。

 

『俺を裏切り――』

 

「……っ!」

 

『あまつさえ襲撃し、細菌兵器を用い、ドルルマンのいた屋敷では、重火器まで持ちだしたな』

 

「お、オーガ、ご、ごご、誤解だ、それは……」

 

それは軍の一部が暴走したこと

私も命令されて指示したまで

逆らうことは許されなかった

殺害までするつもりは

 

言葉が喉をついて出かかり、しかし、形にならずに消える。

 

今、脳裏に浮かんだ言葉は、偽りだ。

 

範馬勇次郎に対し、偽りをもって答えること、

それは頭を44マグナムで撃ちぬくより確実な、明確な自殺行為だ。

 

『ほう、誤解か』

 

「……っ」

 

『――どう誤解か、言ってみるがいい』

 

「そ、それは……」

 

アメリカ大統領とはいえ、肉体的には脆弱なる一個人。

範馬勇次郎の怒気、その片鱗に触れるだけでも大変なことである。

だがオズマはぎりぎりと唇を噛み締め、眼に力を入れて答えた。

 

「――き、君は誤解している。

――す、全てはそこにいる人物ではなく、私の判断で行ったことだ」

 

『……、ほう』

 

「ア、アメリカの利益は勿論、国際社会の安寧のために、ドルルマンの身柄をアメリカ以外に渡すわけにはいかなかった。

だ、だから私は決断した。

君に了承を取ることは、ふ、不可能と思われたため、実力行使を試みるしかなかった。そ、そのことについては、私の全身全霊を賭して詫びるつもりだ」

 

『はっ……なるほどな』

 

「ど、どうか、お詫びの機会を――」『オズマ』

 

背後から剣を突き立てるような勇次郎の声に、オズマは背骨を剛直させる。

 

『キサマが忠誠を誓うべきはこんな白ブタではない、

そうだな?』

「……し、白ブタ……。

……も、もちろん、だ。私は、アメリカという国家にこそ忠誠を誓う」

『ならばいい、キサマの事情も汲んでやろう』

「……っ!」

 

オズマはずるり、と椅子の中で滑るように腰を落とした。

全身が飴になって溶けるような感覚がある。

勇次郎の厳かな赦しの言葉に、オズマは心の底から安堵し、筋肉や内臓すらも弛緩するような思いだった。

端的に言うなら、

その赦しの言葉だけで、腰が抜けてしまったのだ。

もし直接会って言われたならば、眼から滂沱の涙を流し、足元に跪いていたかもしれない。

 

『詫びたいなら、夕飯どきに俺の家に来い、上等の酒でも持ってな』

「――えっ? 家っ……て……」

 

その唐突な言葉に、思わずオズマは聞き返し。

 

「ゴ……ゴメン、クダサイ」

 

たどたどしい日本語で範馬刃牙の家を訪れたのが、その10時間後のことである。

空軍機を飛ばして、横須賀から大使館専用車で来たのだ。

 

壁も、屋根も、道も、

見渡す限り悪辣な落書きで埋まっている。異様な町並み。

 

「え~~~~~っ……!?」

 

安いサッシ戸の奥から登場するのは、地下闘技場チャンピオン、範馬刃牙である。

 

まだ若いながらも無数の死線をくぐり、地上最強の一人に数えられるほどの実力者ではあるが、さすがに戸を開けたらアメリカ大統領が立っていた、という状況には面食らわざるをえないようだ。

 

「ヘッ、遅えぞ」

 

その背後から、のっそりと現れるのは範馬勇次郎。

いつものような黒のカンフー着に戻ってはいるが、やや引き締まったような体つきと、少しばかりほぐれた顔つきは未だそのままである。もっともオズマ大統領がフランスでの勇次郎を知るはずはないが。

 

しかし、あの電話の時、範馬勇次郎氏はどこにいて、どのようなルートで日本のこの家まで移動したのだろうか。

アメリカの影の支配者であるあの人物がどうなったのか、あまり想像したくはないが、それも合わせて謎が深まるばかりである。

 

「ユ、ユージロー、本日は、お招きに……」

「酒は持ってきたのか」

「こ、これを」

 

その一本は大統領の移動とは別に、在日大使館が急ぎ調達したものである。およそ日本に存在する酒類の中で、間違いなく上位十指に入る、というほどに高価な一本だった。

 

「ロ、ロマネコンティの1985年もので」「ワインかよッッッッ!!!!」

 

周囲のガラスがびりびり震えるほどの大声で怒鳴られ、オズマは身をすくめる。

 

「お前ッ……気の利かねェ……飲み飽きてッ……」

「ひ、す、すまない、気に入らなかったか……? で、では今すぐジャパニーズ・サケ(日本酒)でも……」

「ちっ……まあいい、上がってその辺に座れ」

「あ、ああ……」

 

どすん、と受け取ったワイン瓶を適当に放り投げ、勇次郎は家の奥に動く。

 

「お、親父ッ! 説明してくれよッッ!」

「――説明?」

「そ、そうだッ! なんでいきなり鍋なんだよッッ!!」

 

何やら勇次郎氏とミスター刃牙が揉めているが、

オズマは混乱と緊張で、状況を冷静に把握するどころではない。

 

おそるおそる家の中へと踏み込む。

なるほど、確かに円形の木製テーブルの中央にカセットコンロが置かれ、

その上で、安いアルミ鍋でぐつぐつと鍋が煮えている。

 

そして、全身の四割を包帯でぐるぐる巻きにしたストライダムが、汗だくになりながら正座して、せっせと鍋のアクをすくっていた。

なぜか涙を誘う眺めであった。

 

「す、ストライダム大佐」

「……あ、大統領」

 

オズマはストライダムの近くににじり寄り、こっそりと耳打ちする。

 

「こ、これは何……だ? 日本のホームパーティか……?」

「は、はい、それに近いものです……。このナベで煮込んだ材料を、各自、小皿で取って食べるのです」

「……ゆ、ユージロー氏は、こんな会合を開く人物だったか……?」

 

「ああ、説明といえばな」

 

その範馬勇次郎は、刃牙の背中をぽんと叩きながら言う。

 

「ジャックは来れねェぜ、まだ新しい歯を入れてねえんだとよ」

「そーーーゆーーーことじゃなくてッッ!!

いや、てか兄さんも呼ぼうとしたのかよッッッ!!」

 

ミスター刃牙は顔から汗を飛ばして声を上げているが、それは憤慨というより、混乱の度合いがかなり強いようだ。

 

どうも、勇次郎氏の様子がおかしい。

 

具体的にどう、と言われると難しい。

いつも人を喰ったような態度ながら、おどけたような言動をすることも無くはないし、意外な行動で周囲を驚かせることも確かにあった。

 

だが、今日はさすがにくだけ過ぎではないだろうか?

 

話し方も、普段の威厳に満ち溢れたような口調から、肩の力の抜けた、軽妙なとも言える口調になっている。

顔はうっすらと赤らんで見えるし、表情も、オーガに形容されるほどに険しく、表情筋を深く歪める独特の笑い方をしているが、それは獰猛さというより、もっと明白に陽気な笑み、とすら思える。

 

――それに、この顔ぶれは。

 

オズマは部屋の隅の方を見て、そこにいるゲストに目を見張ったものの、

緊張のあまり声を上げることができず、身を小さくしている。

 

「こ、この鍋は、まさか勇次郎氏が用意したのか……?」

「いえ、私が頼まれて、自費で……」

「……そ、そうか……」

 

勇次郎氏とミスター刃牙の言い合いはまだ続いている。

 

「てか親父ッ! なんか酒の匂いするぞッ!! 酔ってんのかよッッ」

「ああ心配すんな、もうじき抜ける」

「心配じゃなくってッ!!!」

「ッせえな、鍋がやりたくねェのか、刃牙よ」

「……えッ、そりゃ……」

 

ミスター刃牙は、なぜか照れたように赤くなって、指をもじもじと動かす。

 

「…………ど、どうしてもやるってなら、…………そりゃ、まあ……

ヤブサカでは……ないっつーか…………その……」

「どっちだ!!!!!」「しっ、したいよッッ!」

 

半径100メートルに届くほどの爆音で問われて、刃牙は身をこわばらせつつ認める。

へっ、と軽く息を吐いて、勇次郎がのっそりと座卓のそばに座る。

 

「おう――そろそろ、煮えたか?」

「う、うむ、もういつでも大丈夫だ」

 

ストライダムも最初は勇次郎の提案に面食らったものの、

何か逆らい難いものを感じ、ともかくも命令を履行することに集中するべきと判断。もくもくとアクをすくうことに専心していた。

 

ストライダムの長年の経験と、生まれ持ったカンが告げている。

今のこの状況を、乱してはいけないと。

 

この状況は特例であり、記憶すらしてはいけないのだと、

後になってこの時の話を蒸し返したら殺される、そんな確信まである。

 

考えないように、意識しないように、

ストライダムは心を空っぽにして、ひたすらにアクをすくう機械と化していた。

 

「そ、それから親父、お客さんのことちゃんと紹介してくれよッッ、あの人誰なんだよッ!」

「――あん?

ああ、そういや、お前」

 

と、勇次郎は部屋の一角を見て、そこにいる人物に声をかける。

 

「お前は、500円玉とか食べるんじゃねェだろうな」

 

「まったく、君の冗談ときたら……」

 

 

 

 

 

 

 

 

その大柄な男は、

 

ドルルマン=フォグは口角を上げて、にやりと笑う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「笑えるな」

 

 

 

 

 

 

 

(完)

 

 

 




これにて投稿完了です、ここまで読んでいただきありがとうございました。
現在はおもに「なろう」で書いていますが、他にも色々な場所で色々なものを書いてきたので、サルベージする形でアップしていければと思っています、次回はたぶん理想郷以外から...

現在メインで行っている連載はこちらです、こちらもよろしくお願いいたします
https://ncode.syosetu.com/n1867fd/


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