劇場版クレヨンしんちゃん ちょー嵐を呼ぶ、黄金の聖杯戦争 (ホットカーペット)
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プロローグ とある剣製の過去

プロローグという名の前置き。
ぶっちゃけ一番の難産だったと思う。


 

 

 

 

――それはずっと昔、俺がまだ幼い子供だった頃。

 

 

 

冬木の街で、歴史に残るような大きな火災があった。

 

 

 

燃え盛る炎は、家も人も、全てを燃やし尽くして。

 

 

 

そこにあったものを、何もかもを飲み込んで。

 

 

 

――俺は、その炎の中で全てを失った。

 

 

 

気がつけば、周りにあったのは元は人間だった黒い物体。

 

 

 

頭も顔も、手も足も何もかもが炎で焼けただれた、物言わぬ骸――いや、それならまだ幸せなほうで。

 

 

 

中にはそんな状態でなお、生きている人がいて。

 

 

 

その人達は、死にながら、弱弱しくも必死に叫んでいた。

 

 

 

「痛い」「死にたくない」「助けて」と。

 

 

 

「頼む」「殺してくれ」「誰か」と。

 

 

 

声は、燃え盛る炎の中でもはっきりと聞こえて。

 

 

 

俺は、その中を一人で、ただただ歩いていた。

 

 

 

――熱かった。痛かった。苦しかった。

 

 

 

そして何より……怖かった。

 

 

 

歩くたびに聞こえる、声が聞こえる。

 

 

 

苦しみの声、痛みの声、救いを求める声。

 

 

 

もがき苦しむ声、苦痛の声、死を懇願する声。

 

 

 

そんな声を無視して、歩き続ける自分に。

 

 

 

それでも助かりたいと思っている自分に。

 

 

 

ただただ、死にたくなかった。その思いで、他の人を見捨ててまで、俺は歩き続けていた。

 

 

 

――その地獄の世界から俺を救ってくれたのは。

 

 

 

“衛宮切嗣”という、一人の男だった。

 

 

 

切嗣が助けてくれた時のことは、実はそれほどよく覚えているわけじゃない。

 

 

 

でも、おぼろげな記憶の中で覚えていたのは、こちらを泣きながら見つめる男の顔があった。

 

 

 

その男は俺を抱きしめると、「ありがとう」と何度も呟いていた。

 

 

 

――助けられたのは、本当は俺のほうのはずなのに。

 

 

 

何時までも、いつまでも「ありがとう」と小さく呟き続けていた。

 

 

 

……その時、俺の生き方は決まったのかもしれない。

 

 

 

あの時のように、あの炎の中から自分を救ってくれた切嗣のように、誰かの『正義の味方』になりたいという思いは。

 

 

 

――あの時、見捨ててしまった人のために、せめて、生き残った自分は何かしたいという思いは。

 

 

 

助かってくれてありがとうと泣いていた切嗣のように、なりたいと感じたのは。

 

 

 

――あの火の中で、助かってしまった自分は、何かしなければならない、という思いは。

 

 

 

自分も、誰かを助けられるような大人になりたいと、願ったのは。

 

 

 

…………けれど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……なあ、父さん」

 

「ん?

 どーした、士郎?」

 

 

それは、彼のとある過去の回想。

あれは忘れもしない――夜空に星空と綺麗な満月が登っていた日の夜、野原 ひろしとその息子である“野原”士郎は野原邸の縁側で、静かに星空を眺めていた。

季節は長い冬を越えた春先、地面に降り積もっていた雪も殆どが解けており、地面からは春の息吹が出始める頃。

とはいえ時刻は夜を過ぎていることもあり、外に出るととたんに若干の肌寒さが二人を包み込む。

 

ひろしは晩酌用のビール缶を片手に開けており、傍らにはおつまみにとひろしの好物である枝豆が添えてある。

隣に座る士郎はまだ未成年であるためビールが飲めるはずもなく、コップの中に注がれていたジュースをちびちびと飲んでいた。

 

温かい月明かりにふんわりと包まれて、二人は互いに枝豆に手を伸ばしながら、静かに夜空を見上げていた。

互いに言葉を交わすこともなく、ただただ静かに月を眺めていて――そして、ふと気が付けば士郎は、そんな事をひろしに尋ねていた。

 

 

「父さんの夢って……何だったの?」

 

「んー、俺の夢?」

 

「うん……父さんってさ、小さいころなに目指してたのさ?」

 

 

こくんと頷く士郎の表情は、無邪気そのもの。

ひろしはそんな息子の顔を見つつ「んん……夢……そうだな~……」と腕を組んでひとしきり考えはじめる。

夢、つまりは自分が将来なりたかったものの事を言うのだろう。

これはアレか、自分の夢が士郎の将来にも関わってくるのか、とひろしは一瞬にして脳内に打算めいた思考を張り巡らす。

 

 

 

……ここは正直に話すべき所だろうか?

本来ならばそうするべきところなのだろう。

だが、正直に小学校の頃に短冊に書いた『上京して課長になりたい』……な~んて事を真面目に話したところで「あ、そうだったんだ……」の一言で呆れられて終わるのが目に見えている。

小学生の頃から課長を目指してた父親? 嫌過ぎる。自分だったら絶対に嫌だ。

ここは一つ、息子に夢をもたせるという意味でも、尤もらしい夢をエピソードを添えて話して、父親の株を上げるべきかもしれぬ……。

いや、だけど親として純粋な子供に嘘をつくという行為が決して許されるのだろうか……。

だが……課長はやっぱり嫌だ……いや、しかし……。

 

と、ひろしの頭中では“本当のことを話すか“それとも“大人のプライドを取るか”という善と悪の戦いが始まっていた。

 

 

『いっちゃえよ、ひ・ろ・し!

 どうせ昔の事だ、誰も知らないことだから好きに言ってしまえばいいんだゾ!』

 

『ダメよひろし、息子に、純粋な子供に嘘をつくなんて。

 私はあなたをそんなふうに育てた覚えはないわ!』

 

『そんなの関係ないゾ!

 世の中所詮嘘と金で塗りたくられているんだ!

 それにほら、毒だって少量ならば万病のもとになるっていうゾ!』

 

『キィー、黙りなさい、この泥棒猫!』

 

『何よ、横恋慕しちゃって、このバカスパナ!』

 

 

そんなひろしの頭でがやがやと叫んでいる声が二人。やけにひろしの息子にくりそつな天使と悪魔が口論を続けていた。

というよりも勝手に喧嘩をはじめやがった。

 

 

(――いや、お前を育てたのは俺だろ!

 っていうかそれを言うなら毒も薬にもなる、だろうが!)

 

 

騒がしく喧嘩を始める二人に脳内で突っ込みを入れつつ、難しい顔でひとしきり考えていたひろしは――。

 

 

「んん、水泳選手だ。

 水泳選手……だったかなぁ。

 とーちゃん、こう見えても泳ぎが本当に上手くってさ」

 

 

父親の株を上げる方を選んだ。

脳内で『ひろしぃぃぃぃぃ!?』と天使(?)が絶叫し悪魔が大喜びでケツだけダンスを踊るが、ひろしはあえて無視。

確かに天使の言う通り息子にウソを付くのは若干気が引けるが、まあどうせ自分の過去なんて誰も知らないことだろし、嘘も方便っていうやつだ――と内心で自分を納得させる。

だいいち、考えてみたら真顔で『課長になりたかった』なんてあんまりにもカッコ悪すぎる。

まー水泳が得意なのは事実だし、なら半分事実だからいいのだろう……とひろしは自分を勝手に納得させた。

 

 

「……す、水泳選手?」

 

「ああ、そうさ!

 こう見えてとーちゃん、昔は筋肉ムキムキマッチョマンだったんだぜ?

 学校の水泳の授業なんかじゃあ、いつもクラスの中でも群を抜いてぶっちぎりだったなー。

 そのあまりの速さからよ、周りの連中からは“本マグロのひーちゃん”……なーんて言われて恐れられててな。

 水泳の国体選手になってオリンピックに出ようかなー……なんて本気で考えたもんだっ!」

 

 

一度決めてしまえばなんとやら。

天使を振りきったひろしは若いころの“本マグロひーちゃん伝”説を、さも自慢げに語り始めた。

 

実際のところ、『本マグロのひーちゃん』と呼ばれていたこと自体は本当に事実である。そして、泳ぎが上手なことも。

だがそれは田舎の学校に限った話であり、当然世界レベルで見た場合その実力はマグロどころかタガメ程度にしか過ぎなかっただろう。

もちろん国体選手になろうとした事もオリンピック選手になろうとしたことなどありもせず、そこらへんは全くの嘘っぱちである。

 

ところが調子に乗ったひろし、当時の自分は腹筋が割れてたムキムキマッチョマンだっただの、実力を見込んで勧誘の人が来ただの、歩くだけで女学生から「キャーキャー」言われてモテただの、色々とありもしないエピソードを脚色して語りはじめた。

 

 

「……でさあ、バレンタインデーなんかすごかったなぁ!

 俺が歩く度に女子が悶えて悶えて、あちらこちらから歓声が聞こえてな~。

 あっちこっちをチョコが飛ぶように入り乱れ……って」

 

「へ……へぇ~~」

 

「……オ、オイ、士郎。なんだよその胡散臭げな目は。

 さては父ちゃんの言うこと信じてないな?」

 

 

ひろしの話がバレンタインもてもてエピソードに差し掛かった頃になって、ひろしはようやく隣で息子が“山田のりこ目”でこちらを見ていることに気がついた。

父親を見ている士郎の目には、ありありと疑いの眼差しが含まれている。

その目つきから察するに、どうやらひろしのウソは簡単に見破られているようだ。

なぜ士郎がひろしの話を疑っているのかといえば――彼はとある事実を知っているからである。

 

 

「……だってその本マグロのひーちゃん、前にしんのすけの犬かきに負けたじゃん」

 

 

士郎の鋭いツッコミにうぐぅっ!、とひろしは思いっきり狼狽える。

 

……遡ることあれは夏の季節、野原一家一同でプールに出かけた際の出来事だ。

大人用のプールにて、ひろしは自分の株をあげようと(周りに女子大生も一杯いたこともあり)プールで自信満々に泳ぎを披露していた。

50メートルプールをバタフライで移動するひろしはそれはそれは速く、家族の声援も合わさりそれなりに周りの注目を浴びていて。

 

そして自信満々でクロールを披露していたひろしは――その隣を猛スピードで犬かきで泳ぐしんのすけに負けたのだった。

 

いくらなんでも犬かきに負けた大人がオリンピックなんて、と士郎は主張する。

確かに現役時代はマグロまではいかないかもしれなかったが、それなりに泳ぎは速かったのは事実。

だがそのマグロが幼稚園児の犬かきに負けたのも事実なのである。

最も、犬かきだというのに猛スピードで泳ぐ弟を見ていた士郎は、あの時はしんのすけが異次元レベルに見えたと後に語っているほどなのだが……。

 

どちらにせよ、その光景を目の当たりにしていた士郎としては、とてもじゃないがひろしがマグロレベルだっとは到底信じられるはずもない。

というよりもマグロと言うよりは、せいぜいカツオあたりが限界かもしれない……?

 

 

「それにさ、最近お腹も出てきたじゃん。

 腹筋じゃないじゃん、それただの脂肪じゃん」

 

 

士郎の視線がひろしの腹に向かい、うぬぅ、と今度は腹を抑える。手に感じた感触は、確かに柔らかかった。

アスリート(笑)と言われてしまいそうなほどにたるんだ腹部は、この頃さらに贅肉が増えたような気がする。

そこは毛髪に次いで、ひろしの最近の密かな悩みでもあった。

 

 

「それで本マグロとかターミネーターとか言われてもなー……」

 

「そ、それはだな!

 その……なんだ、あれ、ほら、あれだよ!」

 

「あれって何さ」

 

 

腹がたるんだ幼稚園児に負けるような大人をマグロと崇めることはできないと主張する士郎に、言い返せないひろし。いと哀れである。

あたふたする父親を見ている士郎の視線は、ひろしの株が「ふつう」から「しょーもない父親に」にランクダウンしていく。

そんな士郎の視線から父親としての評価が大幅に下がりつつあることを機敏に感じ取ったひろしは、このままではいかんと慌てて話をそらす事にした。

 

 

「……と、ところでさ!

 そういう士郎は、何になりたいんだ?」

 

「俺?」

 

「そ、そ、そ!

 士郎は大人になったら、一体何になりたいんだ?

 課長か、それとも水泳選手か?」

 

「(課長?)

 えーと、俺は……」

 

 

ひろしが(よし、うまく話を逸らした!)と脳内でガッツポーズをとっている中、士郎は自分の夢について考えはじめる。

そこでふと士郎は、昨日見た夢の出来事を思い出した。

 

昔の夢。

自分が最後に覚えている、素人しての最初の記憶であり、子供の頃の出来事。

燃え盛る炎の中でこちらを見ていた男……。

 

そもそも、この話をしようとした目的がそこにあった。

そうだ、自分は……。

 

 

「……正義の味方、かなぁ」

 

 

士郎はゆっくりと、噛みしめるように答えた。

 

それは士郎が幼少の頃から抱いていた夢。

思い返すのはあの火事の中、自分の命を顧みずに、必死に助けてくれた一人の男。

自分を助けてくれた、たった一人の正義の味方。

ぼんやりとした視界の向こうで、こちらを見ていた衛宮 切嗣という男の姿。

涙を流しながら、喜んでいた切嗣の表情――その時の光景は、未だに士郎の目にありありと焼き付いていた。

 

 

「へー、正義の味方ねー……。

 しんのすけが好きそうな奴だなぁ」

 

「アハハハ、確かにそうかも。

 あいつアクション仮面とかカンタムロボとか好きだもんなあ」

 

「じゃああれか、士郎も将来はしんのすけの好きなヒーローの一人になるかもな」

 

 

ヒーロー好きの弟を思い出し、思わず二人は笑い出す。

もし自分の兄がヒーローになったら、きっとしんのすけは大騒ぎするだろう、と。

その光景が容易に浮かび、二人はまた互いに笑いはじめた。

 

 

「……ねえ、父さん。

 あの火災の事、覚えてる?」

 

「……ああ、俺も覚えてるよ。

 あの時は皆で会社切り上げて、皆して慌てて消火活動にいったもんなあ……」

 

 

歴史にも残ることになるだろう冬木の大火災は、瞬く間に隣の春日部にも伝わった。

当然ふたば商事にも連絡があり、ひろしは業務を中止し慌てて上司や部下とともに火災現場に駆けつけ、消火活動に加わった。

 

その生存者は絶望的とまで言われていた災害の中、奇跡的に無傷同然で運び出された一人の少年。

何の因果か、後日野原家の遠縁の親戚であることが伝えられ、慌ててひろしはみさえやしんのすけとともに病院へ出向き。

その子供がこうして自分の息子になろうとは――その時のひろしは思いもよらなかっただろう。

 

 

「……俺、あの時さ。

 切嗣さんに助けてもらったことは今でも覚えてるんだ」

 

 

ひろしは黙って、士郎の独白に聞き入る。

 

 

「おじさんさ……泣いてたんだ。

 俺を見て、ありがとうって何度も呟いて」

 

 

何で、彼は泣いてたのだろうか。

士郎には切嗣の涙の訳が分からず、そう疑問に思っていた彼に対して、ひろしは即答でこう答えた。

 

『そりゃあ当然、士郎が助かってくれて嬉しかったに決まってるだろ』

 

それは、人として当然の感情だとひろしは言っていた。

人は本当に嬉しい時には、涙を流すものなのだと。

 

その言葉を聞いて、士郎の夢は、衛宮切嗣のようになることだと思った。

自分も、そんなふうになりたいと、切嗣のように喜べる人になりたいと。

他人のために涙を流せるような人間になりたいと、感じたのだ。

 

 

「だから、俺は切嗣のおじさんのような人になりたいんだ。

 そうして、困っている人を助けたい」

 

「……成る程なぁ。

 どうして急にそんな話なんかするかと思ったけど、そういう訳か。

 お前にとって、切嗣さんは文字通り人生を変えた人でもあるんだもんな」

 

「へへへ…………うん」

 

 

恥ずかしそうに笑う士郎に、同じようにひろしも笑い返す。

ひろしは、今こうして隣に立っている義理の息子を助けた恩人のことを思い返していた。

 

あの火災の中、士郎を必死で助けたという謎の男。

その姿を見た病院のナースたちが「渋い」だの「オトナの魅力」だの「ヒゲ」だの「目が死んでる」だのキャーキャー盛り上がっていたのがまっこと気に食わなかったが、“士郎を助けてくれた”それだけでひろしはその男を信用したのだ。

そして病室で士郎からその話を聞いて、ぜひとも会ってお礼がしたいと、何度も考えたものだった。

ついでに女性にモテる秘訣とかも聞きたいものだった。自分だって大人だし、ヒゲだってあるし、モテるパーツは同じはず……と考えていたから。

 

 

――だが、ひろしとその男が対面することはなかった。

何度も病室を訪れたものの、不思議と彼に会う機会に恵まれず。

病院から連絡を取り付け、連絡先を教えてもらおうにも都合がつかず。

ひろしが士郎と出会うようになると、その男が訪れる回数も急激に減り始め。

そして士郎が野原夫妻に養子として引き取られるという話が決定したその夜――彼は忽然と姿を消してしまっていた。

冬木のほうに家を構えたと聞いても、訪ねてみれば常に海外に出かけてばかりで、結局のところ互いに対面する機会は終ぞ訪れず、結局モテる秘訣も聞き出せずじまいであった。

 

 

何故、会いたがらないのか。

その理由も分からず、唯一分かったのは衛宮切嗣という名前のみ。

故郷も生い立ちも分からぬ、そしてなぜあの火災現場にいたのかもわからぬ、胡散臭さ満載の正体不明の人物だったが――何故か、ひろしは彼が不思議と悪い男には見えなかった。

 

 

「ま、それもいい答えだと思うぞ、俺としては……」

 

 

ひろしはビールを一気に喉の奥へと流しこむ。

別にひろしは士郎の夢を否定する気はない。

 

――だが。

 

 

「……士郎」

 

「ん、何?」

 

「夢を追うのは別にいいことだ。

 俺も士郎の、その正義の味方って夢を応援してるよ。

 けどよ……大事なこと、一つだけ忘れちゃいけないぞ」

 

「……大事なこと?」

 

 

ああ、とひろしは士郎に向き直る。

士郎を見つめるその目は、先程のホントかどうかも分からない本マグロひーちゃんを語っていた時の同一人物とは思えないほどに真剣な眼だ。

 

 

「夢を追いかけるのは、確かにいいことだ。

 自分のやりたいことを一心に追いかける姿ってのは、誰でも憧れるもんだ。

 士郎の夢の、正義の味方になるっていうのも、いいかもしれない。

 ……けどな、大事なのは、時には周りにも目を向けて見るってことなんだ。

 これが単純そうで、実は難しい事さ。

 『灯台下暗し』ってあるように、人間は実は足元のことは案外気が付かないもんだ。

 人間ってのはどうしたって、自分勝手になるように造られているんだからな」

 

「周りの人に……目を向ける?」

 

「ああ」

 

 

いつの間にか取り出した二杯目のビールのプルタブを開け、ひろしは士郎に切り出した。

 

 

「なあ士郎。

 俺さっき、マグロになりたかったって言ってただろ?」

 

「水泳選手だよ」

 

「あれ、そうだったっけ? ……ま、別にいいか。

 確かに俺は、高校時代は水泳選手になりたかった。

 けどまあ、今見てりゃー分かるように、俺は水泳選手じゃなくてふたば商事のただの係長だ」

 

 

それはつまり、ひろしは結局夢を諦めたということだ。

士郎のところで言うならば、それは正義の味方を捨てたということ。

 

 

「俺さ、いつも思うんだよ。

 もし俺があの時ああ決断していれば、もしこうしていれば、もしかしたら俺は億万長者になってたんじゃないかって。

 高校時代から本気で水泳選手を目指したりすれば、国体の選手になれたかもしれないし」

 あるいは、上京時代から、大当たりを夢見て続けてた毎週一回の宝くじを今でも続けてたら、もしかしたら……ってな」

 

 

ひろしが上京したての頃は、彼の中には様々な夢に満ち溢れていた。

だが、長く東京で生活する中、あるものは忘れ、あるものは捨てて……そうして夢は、一つづつ消えていった。

そうして残ったものを合わせて、今の係長という立場に落ち着いたのだ。

そこにはかつて夢見た生活は、何処にもありはんしない。

故に、時たまもう一度だけ……と思うことがあるのだ。

 

――しかし。

 

 

「けどさ、そこまで考えて……ふと、こういう考えに行き着くわけさ。

 確かにもしそうなっていたら、俺は今よりももっと偉くなってたり、億万長者になれたかもしれない。

 そりゃあ確かに、今よりは質的には恵まれた生活だっただろうさ。

 けどさ、そうなると――そこに、はたして今の生活はあったのか……ってな?」

 

「??」

 

 

士郎はひろしの言っている意味が今ひとつ理解できないのか、首をかしげる。

 

 

「あー、つまりだ。

 もし俺が億万長者になったり、社長になったりしてたら……きっと美人でナイスバディなお姉さんを嫁さんに貰っていただろうし、家だってもっと豪勢な所に住んでいたさ。

 ビールだって一日一缶だけじゃなくて、こんな安物じゃない本場モンのドイツのビールをたらふく飲めただろうし、ツマミには枝豆じゃなくてもっといいモンが食えただろうし。

 もっといい嫁さんと結婚してたりして毎日毎日……イーッヒッヒッヒッヒ!」

 

「…………」

 

「!!

 ……ゴホンッ!

 けどよ~、もし仕事一筋でがむしゃらに働いていたとしても。

 水泳選手になって、一躍人気者になっても。

 宝くじ一等当てて美人の嫁さん貰ってたとしてもさ……」

 

 

危うく欲望に逸れそうになった話を慌てて軌道修正し、一呼吸置いてひろしは呟く。

 

 

「……そこに、みさえはいなかったと思うんだ」

 

「母さんが……いなかった?」

 

 

ひろしとみさえ。

よくよく喧嘩することも多い二人であるが、傍らで見ている士郎の立場としては、本当にお似合いの夫婦だと思っている。

互いに信頼し合い、時には喧嘩し合い、しかしそこには確かな絆があるのだ。

 

その二人が会わなかったという“もしも”は――その二人の子供である士郎には、あまり想像もつかない事であった。

 

 

「ああ、そうさ。だってそうだろ?

 俺の隣に美人の嫁さんがいたなら、逆に俺の隣にみさえがいることはなかった。

 ってことはだ、みさえがいなかったら俺は結婚することはなかっただろうし、そうなるとしんのすけやひまわりは生まれなかったし、シロにだって会えることはなかった。

 しんのすけがいなかったってことは、だ。ひまわりの名前だってどうなってたか分からないだろうし、この家にも出会うことはなかっただろうし……」

 

 

ひろしはぽんと、士郎の頭を撫でた。

士郎とは比べ物にならないくらいのごつごつとした大きな、ぬくもりを持った手が士郎の頭をなでる。

 

 

「こうして俺の自慢の息子にも会って、こうして二人で将来を語り合うこともなかったんじゃないか……って、思うのさ。

 ……そう思えば、今の生活は十分俺には他とは比べようのないくらい幸せなんだ。

 例え安っぽいビール飲む生活だろうと、安い小遣いであくせくする生活だろうと、胸を張って、幸せだって自慢できるくらいな。

 逆に、今更夢を追いかけるったって、この幸せを失うのなんか逆に耐えられないだろうしさ」

 

 

――ひろしがもし、水泳選手になっていたのならば。

 

もし夢を追っていたのなら、この生活は無かったのかもしれない。

もし夢が実現していたのなら、彼らは家族ではなかったかもしれない。

 

今のひろしにとって、世界で一番大事なものは何よりもこの家族である。

妻がいて、息子たちがいて、娘がいて、ペットがいて……それでこそ、野原ひろしであるのだ。

もしこの光景を失うことになったのなら、ひろしは言葉通り、夢でもなんでもかなぐり捨ててしまうだろう。

 

 

「それとも何だ、士郎は俺との生活はイヤってか?」

 

「い、いや、そんなワケないよ!

 むしろ、この家の家族になれて……俺は……」

 

 

思い返すのは、病院での記憶。

病院の一室で今までの記憶を失っていた士郎。

家族も身内もおらず、名前すら――自分にはなく。

『士郎』という名前を頼りに、ただ生きている実感もなく過ごす、空虚な日々。

 

 

そんな中に訪れた、自分の遠縁と名乗る二人の夫婦と、一人の幼稚園児。

 

二人は士郎を本当の子供のように心配し、励まし。

そしてしんのすけは初対面の彼を兄のように慕った。

 

時にはお見舞いだというのにひろしがアダルトな本を持ってきてみさえにぶん殴られたり、何をトチ狂ったか病院に寿司をお見舞いに持ってきてナースに説教されたりと散々な事があったが、その生活の中で、士郎は初めて笑うことができた。

病室に花や果実、しんのすけのお絵かきが置かれるようになり、真っ白な部屋に、生活に色ができはじめたのだ。

 

士郎が家族になってからも、普通ならばとても考えられないような波瀾万丈な出来事が続いたりと、色々な事が起こった毎日だったが。

それは楽しくもあり、苦労もあり、別れがあり――出会いがあり。

 

その過程を経て、士郎は――野原士郎になれたのだ。

それは士郎にとって、胸を張って自慢できることであった。

 

 

「俺は、良かったと思ってる。

 父さんと母さんの息子になれて、本当に」

 

 

士郎は自信を持って、真っ直ぐな目をして答える。

 

士郎は確かに自分を救ってくれた切嗣に感謝はしていた。

それこそ、彼の生き方を自身の夢と定めるまでに。

 

――だが、それ以上に。

士郎は自分という人を育ててくれた、無償の愛情を注いでくれた、二人にはそれ以上に感謝の念を持っていた。

 

 

「……ワッハハハハ!

 士郎にそう言って貰えるなんて父親冥利に尽きるよ、本当に!」

 

 

これほど息子に慕われるなんて、父親としてこれほど名誉な事はない……と、ひろしはひとしきり大笑いする。

 

 

「士郎。その気持ち、大事にするんだぞ?

 お前の夢はとても素晴らしいことだと思うし、俺だって素晴らしい夢だと思ってる。

 お前がその夢を追いかけるっていうんなら、もちろん応援だってしてやる。

 ……けどな、夢を追いかけるのもいいが――まず、お前は周りの人間を幸せにするんだ。

 それが人として第一歩なんだと思うし……きっと正義の味方の第一歩になるのかもしれない」

 

「……うん」

 

「夢っていうのは素敵な事だ。

 けど、結婚はそれ以上に素敵なことだった。

 家族を持つっていうのはな、暖かくて、楽しくて……。

 帰れる場所があるっていうのは、それだけで安心できるもんだ」

 

 

それは、ひろしの人生経験から得られあt結論であった。

自分が一人ではない、そう思えるだけで頑張れることができる、安心することができる。

だからこそ、ひろしは大切な人こそが大事だと、主張する。

 

 

「夢を追いかけ続けるってことは確かに大事な事だが……人間ってのは夢だけじゃあ生きていけないんだ。

 そういう人ってのは必ず誰かがそばにいて支えてくれているもんなんだ。

 逆にだ、もし誰かが自分を支えていてくれてるなら、自分はその人を助けてあげなきゃならない。

 一人じゃあ夢を叶えることはできないし、一人ぼっちの人間が一人前の生活なんか、できやしない。

 此処で言う俺にとって支えてくれる人ってのは、士郎――お前たち、俺の家族なんだ」

 

「家族……」

 

「ねーねー、二人共何の話してるの~。

 もしかしてY談~?」

 

 

二人の間に、小さな子どもがひょっこりと割り込んだ。

縁側で長らく話し込んでいた二人が気になったのか、士郎の家族である彼の弟が、窓から顔を出していた。

 

 

「おう、しんのすけか。

 ちょーどよかった、ちょっと話するからそこに座ってろ」

 

「ほっほほーい。

 枝豆もらうねー」

 

 

しんのすけは小皿の中に手を伸ばし、枝豆を一つ口に頬張る。

「うーん、このお味がたまらないのよねー」と呟きながら枝豆を食す幼稚園児、兄から見ても大変クールだとしみじみと感じる。

 

 

「う~ん……塩味が効いてていい感じ♪

 あ、ジュース頂戴」

 

「それ俺のだ」

 

「ふんだ! 士郎にーちゃんのどケチ!」

 

 

しんのすけの手は士郎のジュースをかすめ、ジュースを強奪し損ねたしんのすけは膨れながら枝豆を一気に頬張る。

 

 

「アッハハハハ!

 ……いいか、二人共。

 “人生”の中で夢を追いかけるのは大事なことだけど、さ。

 けど、その人生の“人”として“生”きていく中で本当に一番大事なのは……自分を愛してくれる人を見つけること。

 大切な人を見つけて、そして、その人達を大切にすること。

 俺はそういうことだと、絶対にそう思ってる」

 

「大切な人~?」

 

「そうさ、大切な人さ。

 何を偉そうなこと言ってたってさ、人間何だかんだ言って一人じゃあ生きていけないのよ、これが。

 例え夢を叶えたって、たくさんの人間を救ったからって、それが自分を支えてくれた周りの人たちをないがしろにするようなものだったら……。

 それはもう夢じゃないんだ、唯の自分のひとりよがりなのさ。

 ――ま、要するにだ、自分一人で全部成し遂げたって思ってる奴に、偉くなる資格なんてない!」

 

「おおー、父ちゃん、なんだかよく分かんないけどカッコイイこと言ってる!」

 

 

自信満々に自説を披露するひろしに、しんのすけはイマイチ話が分からないながらも何らかのカッコよさを感じ、拍手する。

 

 

「だろ、だろ? それに、だ。

 俺さ、こうして未だに係長だし水泳選手にも慣れなかったし、金持ちにもなれなかった。

 偉くも慣れなかったし、その切嗣さんみたいに立派な人間には、なれなかった。

 結局昔の夢なんかどれもこれも叶えることはできなかったんだよ。

 ……けれどよ、今じゃあこうして家を構えて女房をもらって、息子や娘たちやペットに囲まれた生活を送れてる。

 これがな……物凄く、幸せなことなのよ。

 そして、だ、そう思うと……その生活を守ること。

 これも十分……夢だと思うのさ」

 

 

ひろしは幸せそうな顔をして、家族と、家を眺める。

その言葉は、士郎に確かな衝撃を与えていた。

 

士郎の夢は、正義の味方になることである。

だが……もし、士郎が夢を叶えるために、この家族を犠牲にしなければ、と言われたのなら?

もしどちらかを選択しなければいけないのなら。

 

――自分は、どうすればいいのか?

 

 

 

そんな士郎の内心を悟ったひろしは、笑いながら再度士郎の頭を撫でた。

 

 

「士郎、今はまだ分かんなくていいさ。

 そうやって悩んで悩んで……長い年月をかけて、自分なりに考えるんだ。

 そうして、ある日ふと、俺の言っていたことを――そういや親父が昔こんな事言ってたっけなー、って感じで思い出してくれりゃそれでいい。

 士郎は士郎の、自分の答えを見つけるんだ」

 

「自分なりの……答え?」

 

 

ひろしは、士郎に明確な答えを望まなかった。

学生とはいえひろしから見れば士郎はまだまだ子供であり、難しい問題に結論を出せるとは思っていなかった。

そして、無理に出す必要もないと――ひろしは思っていた。

 

あくまで自分の言ったことは一つの結論であり、世の中には様々な考えがある。

その中で、自分の言葉が士郎の人生の助けになればいい、それくらいの気持ちであった。

 

ただひとつ、大切な人を悲しませるような奴にはなるなと、それだけを伝えたかったのだ。

 

 

「ま、俺が言いたいのは以上だ。

 士郎もしんのすけも、何時かは一緒にいて本当に良かったって、そう思える相手を見つけるんだぞ?

 そーして、俺みたいな口うるさくてくたびれて崩れたようなやつじゃなくて、もっとこう綺麗で上品な嫁さんを…………ん?」

 

 

そこまで言い終えて、ふとひろしは二人の表情の異変に気がつき、話を中断した。

 

ひろしの脳内では、本来ならば今頃二人の息子は自分を尊敬の目で見つめているはずであった。

しかし、今の二人の息子はまるでこの世ならざる化物を見たかのような表情で、その顔色は青ざめている。

 

 

「と、父ちゃん……」

 

「ん?

 どうしたんだよ二人共、そんな青い顔して」

 

「後ろ、後ろ……」

 

「んん?」

 

 

よく見ると、二人の視線が後ろに注がれていることに気がついたひろしは、しんのすけと士郎に促され、ひょいと何気なく背後を振り返った。

そして、振り向いたことを即座に後悔することとなる。

 

 

「――へぇぇぇ?

 あたしってそんなにくたびれて崩れた嫁さんなんだぁぁ」

 

「はっ!?」

 

 

ひろしの背後には、先程まで話題に上がっていた愛する妻――みさえの姿がそこにあった。

 

もっとも、その妻はひろしの言っていた理想のパートナーの姿とは程遠く、鬼のような形相でこちらを見ている。

頭にはなんかツノみたいなのが二つ生えていて、背後はメラメラ燃え上がっている。

目なんか全部金色に輝いてて、もう本当に鬼のようだ。

 

 

「……げ、ゲェェェッ!

 み、みさみさみさみさみさえ、いいいいつからそこに……?」

 

「口うるさい、の辺りからかしらねぇ?」

 

 

それはつまり、要するに悪いところだけピンポイントに聞かれているということだ。

よりにもよって最悪の部分だけ聞かれてしまったことにひろしは息子たちと共に顔が真っ青になる。

一方の赤鬼は、ずしん、ずしんと地響きを立てながら(ひろし視点)、ゆっくりと接近する。

 

 

「あ、あわわわわわ……」

 

 

――ああ、状況は最悪だ。

よりにもよってみさえに聞かれるだなんて。

 

今から先ほどの話を繰り返すか?

いや、そんな事をしても話を誤魔化しているだけだろうと思われるのがオチだ。

だいたい、話の中で実際みさえをけなしていたのだから、言えるわけがない。

 

第一、目の前で怒りに燃えるオーガを見ていると、言い訳とかそんな事している暇すらないだろう。

どうにか良い手段を考えようとして、しかし考えつかないひろしは、傍らの息子に助けを求めようと視線を向け――。

 

そこには誰もいなかった。

 

 

「んなっ!

 い、いない!?

 何処消えやがった!」

 

 

士郎たちに視線を送ろうとしてみれば、これまた器用に二人共タイミングよくその場から消えていた。

忽然と姿を消した息子たちを慌てて探してみれば、いつの間にか縁側からリビングの方に戻っている。

兄弟仲良く、和気藹々とした雰囲気で話し込んでいる。そこには背後にいる親に対しては我関せずといった態度ありありでひろしに背中を向けている。

哀れひろし、子供に見捨てられた。現実は非情である。

 

 

「あ、あいつらぁぁぁ!

 俺が折角良い事言ってたのに、あっさりと見捨てやがってぇ!?」

 

「へぇぇ?

 あたしがくたびれた話がそんなにいいことなんだぁ……」

 

「え?

 あ、いや、その、これはですね……」

 

 

ああ言えばこう言う、というわけではないが今のみさえには何を言っても悪い方向にしか聞こえないようである。

もはや取り付く島もない、野原ひろし、絶体絶命のピンチ。

 

 

逃げ場なし、言い訳もできないひろしに残された選択は――

 

 

答え① ダンディなひろしは突然アイデアがひらめく

 

答え② 仲間がきて助けてくれる

 

答え③ 現実は非情である。

 

 

 

 

 

――ここは、答え④ 褒め殺しだ!

 

 

「お、お前だって昔は可愛かったんだぞ、みさえーーーーッ!」

 

「黙れぇ!」

 

 

ハズレだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「イ゛ェ゛アアアアアア!!!」

 

夜空に、ひろしの絶叫がこだましたという……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

家の外で夫婦間による惨劇が開かれている中、居間に戻った士郎に、しんのすけは話しかけた。

 

 

「ねーねー、士郎にーちゃん」

 

「ん?

 どうした、しんのすけ?」

 

「士郎にーちゃんってさ、正義の味方になりたかったの~?」

 

「え……って、聞いてたのか!?」

 

「うん。

 夢の所までバッチリ」

 

 

どうやらしんのすけは士郎の話を途中から聞いていたらしく、ニヤニヤと笑いながら話しかける。

幼稚園児のような夢を幼稚園児相手に聞かれたことに、士郎の中で流石に気恥ずかしさがこみ上げてくる。

 

 

「ウフフ、士郎にーちゃんって意外に子供だったんだねー。

 か・わ・い・い・♪」

 

「ぐっ!

 う、うるさい。俺はまだ学生だ、18歳未満は子供だ!

 だから大丈夫なんだ!」

 

 

恥ずかしさからか、士郎はまるで若さを気にする年配主婦のような意味不明な理論を振りかざす。

 

 

「だいじょーぶ。

 オラ、士郎にーちゃんは絶対正義の味方になれるって信じてるゾ。

 士郎にーちゃんなら、きっと誰にも負けないすごいヒーローになれるゾ」

 

「えっ?」

 

 

てっきりからかわれるかとおもいきや、しんのすけの次の言葉は士郎を応援するものであった。

予想外といえば予想外の言葉に、士郎は若干狼狽える。

 

 

「そ……そうかな?」

 

「うん。

 だって、このオラがそう言うんだから、絶対間違いないゾ!」

 

 

胸を張って答えるしんのすけの言葉には、兄に対する全面的な信頼が見え隠れしている。

幼稚園児の主張など、本来ならばなんの根拠にもならないものだ。

 

……だがその言葉は、今の士郎にとって何よりも大きな励ましであった。

士郎の口元に笑みが浮かび、しんのすけの頭を撫でる。

 

 

「……そっか、ありがとうな、しんのすけ。

 応援してくれて」

 

「えへん、どーいたまして。

 ま、ヒーローって言ってもアクション仮面やカンタムロボあたりには負けますかなー?」

 

「ガクッ!

 お、お前なー、そこは普通もっと励ますところだろ?」

 

「だってー、士郎にーちゃんはあの二人に比べたら年季が違いすぎるゾ。

 士郎にーちゃんみたいな青臭いのがヒーロー語ったって、どうせ理想をいだいて溺死しろとか言われたり、姉妹の女の子に好かれて女関係こじらせて修羅場になるとか、そういう展開になるに違いないゾ」

 

「話が具体的すぎるわっ!」

 

 

自分も知らない未来のバッドエンドルートを語られて、士郎はそんな存在に絶対になるもんか――! と、固く誓う。

実は将来しんのすけの予言したような男に出会うことになるのだが、そんな事とはつゆ知らず、士郎はまともな人生を送ろう、絶対にと決意した。

 

そんな二人に、妹であるひまわりがトコトコと近づく。

 

 

「たいぁ!」

 

「あ、ホラ。ひまもシロもにーちゃんを応援してるってさー」

 

「たいたい!」

 

「アンアン!」

 

 

しんのすけはひまわりを抱きしめ、士郎のほうに向ける。

ひまわりは士郎に手を伸ばしながら、「たいたい!」と無邪気に笑う。

鳴き声がした方を見ると、窓から顔を出したシロが、士郎を見ていた。

二人の言っていることは士郎には分からない――だが、しんのすけの言うとおり、きっと応援しているのだろう。

ここにもまた、家族があった。士郎の夢を純粋に応援してくれる、家族の姿が。

 

 

「ああ――しんのすけ、ひまわり、シロ。みんな……ありがとうな」

 

 

士郎はそんな彼らに、彼らと同じように――笑って返した。

 

 

 

 

 

 

 

 

すべてを失った少年を、何も持ってなかった少年を、当然のように受け入れて、当然のように育てたひろしとみさえ。

 

少年を兄として慕い、純粋に夢を応援するしんのすけとひまわり。

 

少年と、その弟が二人で拾ってきた子犬の、シロ。

 

 

 

 

 

少年という少年の夢は、きっと、それでも変わらないのだろう。

 

それは皆を救う、困っている人を救うという、正義の味方という存在。

 

たとえ、何時かは変わるかもしれないけれど、それでも憧れた、ある一人の男の姿。

 

――けれど。

 

 

 

 

 

『――こんな小さな子供を、これからずっと一人でこんな病室に閉じ込めろってのか!?

 俺はそんなの絶対に認めないぞ!

 金が何だ! 遠い親戚が何だ!

 俺が、俺が絶対にこの子を立派に育ててみせる!

 絶対にだ!』

 

 

 

『あたしたちが引き取るのは難しいですって!?

 ちょっとあんた、目の前に今不幸になろうとしてる子供がいるのよ!

 親として、困ってる子供を助けるのは当然のことでしょう!?』

 

 

 

『かぁーーっ! 馬鹿だな、お前!

 俺が養ってるから俺たちに迷惑かけてる?

 馬鹿馬鹿、本ッ当にお馬鹿!

 子供ってのは散々親に文句言って迷惑をかければいいんだ!

 親ってのは、子供が迷惑をかければかけるほど喜ぶ生き物なんだよ!』

 

 

 

『オラ、士郎にーちゃんが家族で本当によかったゾ!

 だって、士郎にーちゃんがにーちゃんになってくれたんだもん!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

家族の言葉は――その日、士郎の心に確かに深く刻み込まれた。

 

それは、この世界におけるターニングポイントだったのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

劇場版 クレヨンしんちゃん!

 

ちょー嵐を呼ぶ、黄金の聖杯戦争!

 

 

 

 

 

 

「見れば~~~~?」

 

 

 




もしかしたらのIF。
もし士郎が野原家の息子になってたなら、普通に真人間になっていたと思うんだ。
目指すはプリズマ☆イリヤの士郎、かな?

ちなみにこの時間軸での切嗣はその後士郎と会うことは一度もありませんでした。
原作でも魔術に関わらせたくないという気持ちがありましたから、きっと野原家の一員になった士郎を見て安心したのでしょう。


士郎が成長してるのにしんのすけがそのままなのは気にしないでおくれ。


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第1話 弓兵と遠坂の受難


沢山の閲覧、お気に入り登録、感想ありがとうございます(*´ω`*)
つたない文章ですが、完結目指して頑張っていくのでこれからもよろしくお願いします。

突然ですがクレしんの新しい映画の予告がきたそうですね。
グルメが面白かったのでひそかに期待しています。


 

 

 

『聖杯戦争』

 

それは実に500年前から続く、イエス・キリストが残したとされる伝説の聖杯をめぐり、選ばれし七人の魔術師が骨肉の争いを繰り広げる戦いである。

聖杯に選ばれし『証』を持つ7人の魔術師達は、各々が知恵を振り絞り、死力を尽くし、競い合い、化かし合い、殺し合い――時には手を取り合い、たった一人にのみ与えられる勝利へと目指す。

ある者は根源へ至ろうと、ある者は己の権威を高めんと、ある者は一族の悲願を叶えんと。

様々な魔術師の思惑が絡み合い、混ざり合い、彼らは最後の一人になるまで闘いぬき、勝利をもぎ取らんとする。

 

そしてその勝者にのみ――聖杯に触れる権利が与えられるのである。

究極の願望器たる“聖杯”へと。

 

 

『聖杯』

 

それは手にした者に対し、いかなる願い事でも叶えることが可能な、究極の願望器。

『万能の釜』とも呼ばれるそれは、魔術師にとって、いや世界中のすべての人間にとって聖杯は憧れであり、同時に崇拝の対象であり、そして畏怖の根源でもある。

世界中に点在する聖杯のうち、冬木に存在するその聖杯は、聖杯戦争の勝者にのみ手にすることができる――まさしく選ばれし者のみに与えられる、最高の栄誉。

“サーヴァント”を召喚し得るだけの膨大な魔力、それは魔法に例えられるほどの強大な力を持つもの――それが、聖杯。

 

 

『サーヴァント』

 

それは聖杯戦争を勝ち抜くために、魔術師たちの駒となり、手先となる使い魔。

聖杯により呼び出される者達は過去にその名を轟かせた、百戦錬磨の英雄――即ち、英霊。

七人の魔術師に、7つのクラスに振り分けられた彼らは、おのおのの使い魔となり、己の思いのために戦う。

彼らも又、己の願いを適えるため、プライドのため、あるいは失われたものを取り戻すため――。

 

魔術師たちはそんな彼らを律するための証、令呪と共に、互いのサーヴァント共に戦いを繰り広げる。

そのあまりの苛烈さ故に、冬木の聖杯を未だ手にしたという記録はないという。

 

 

 

――そして、聖杯誕生から実に200年。

 

実に五度目を数える事となる聖杯戦争がこの地、冬木で始まろうとしていた――――。

 

 

 

 

 

 

その舞台は春日部に隣接する場所に位置する街、冬木市。

長き冬が続くことからその名が名付けられたこの都市は、中央を流れる川を境目に、近代的な町並みが立ち並ぶ『新都』、そして古くからの町並みがそのまま残っている『深山町』の二つに分けられる。

街の周囲を山と海に囲まれ、実は意外にも日本有数の霊地の一つとされている――そんな、変哲のない街であった。

 

巨大ロボが襲来したり大人が消失したりと、災難続きの隣市春日部に比べると騒動もなく平々凡々な街に見える――が、実はその日常の裏では、魔術師による非日常な世界が広がっている。

冬木のその霊地として質の高い有数の霊脈は、古来より多くの魔術師達の興味を引いた。

それは今だに何度となく魔術師たちが訪れ、多くの魔術師たちがこの地に移住するきっかけともなっている程である。

 

そして、嘗て幾度と無く行われた聖杯戦争――近いもので言うと、実に10年前にもこの地で聖杯戦争が行われている。

そういう点では春日部とどっちもどっちな市であろう。

 

 

そんな冬木市の小高い丘、その区画だけまるで時が止まったかのような歴史の重みをもつ洋風の邸宅――遠坂邸において、今まさにその非日常な世界が始まろうとしていた。

屋敷の地下室、レンガ造りの薄暗い空間では、今宵の聖杯戦争の参加者に選ばれた一人の少女が、今まさにサーヴァント召喚の儀式を執り行おうとしていた。

 

女性、というよりは少女と形容したほうが正しいだろう。

実際彼女は未だ学生の身分であり、幼さの残りつつ整った顔に艶やかな黒髪をツインテールにまとめ、スレンダーな体型に赤いセーターに黒いミニスカートを纏っている。

美少女と形容するに相応しい容姿に勝ち気そうな目つき、そして性格がツンデレであることも加えて――学校で“全身絶滅危惧種美少女”というあだ名が付いている少女の名は、遠坂凛。

この屋敷の持ち主であり、魔術師として歴史的な重みのある遠坂の若き現当主であり――同時に冬木のオーナーの看板を掲げる優れた魔術師である。

 

 

彼女に聖杯戦争の証たる令呪が現れたのは、ほんの一、二週間前のことだった。

聖杯戦争に選ばれる、それは魔術師にとって栄誉であるが、同時にそれは生死をかけた戦いへの片道切符でも同義である。

自らにその令呪が刻まれたことに対し彼女は当初は驚いたものの、その一方でこれも当然かもしれない――という思いが何処かにはあった。

 

聖杯戦争にて勝利を収めること。

それは遠坂家の悲願でもある。

げんに嘗て凛の父親じしんもその戦争に身を投じ――そして、二度と戻ってくることはなかった。

今は亡き父から遠坂家と、魔術と、その願いを受け継いだ彼女もまた、この聖杯戦争に参加する決意を固めるのは当然であったのかもしれない。

 

「――魔法陣の準備よし、宝石の準備よし、魔力の準備よぉし。

チョークも新品を使ったし、お掃除だって念入りにしたからホコリひとつなし。

体調も万全、お風呂にも入ったし、身だしなみもOK。

宝石も最高ランクのをありったけ用意したし……もう、これ以上ないくらいの万全な布陣ね!」

 

魔法陣に使用したのはすべて一級品、それも一度も使われていない全くの新品を使用した、非常に高価なもの。

部屋にも身体にも汚れは一つとしてなく、その現状は凛にとってこれ以上ないくらいのベストコンディションな状態であった。

果たしてお風呂に入る事の必要性が全く分からないが、きっと彼女にとっては非常に重要な要素の一つなのだろう。

それだけに、彼女がこの儀式にいかに力を入れ込んでいるかがわかる。

 

 

それも当然といえば、当然。

聖杯戦争は魔術師の争いであると同時に、英霊同士での戦いでもある。

というよりも、魔術師が司令となり英霊が戦うという構図が出来上がっていると表現したほうが正しいかもしれない。

つまり、サーヴァント同士の戦いが聖杯戦争の戦いである、とも言える。

 

無論、サーヴァントを囮にして単独で活動する常識知らずな物好きマスターもいるかもしれないが……サーヴァントが戦う以上、自分の召喚したサーヴァントがより優れた英霊、より優れたクラスであれば有利であるのは自明の理。

そういう点から見ても、聖杯戦争はサーヴァント召喚のところから戦いは始まっていると言っても良い。

 

そして、それを知っているからこそ凛はこの召喚に全てを賭けていた。

何せ預金通帳の半額をはたいてまでこの魔方陣を用意したのだから、彼女の気迫と力の入れ具合を物語っている。

 

「……いよっし、準備万端!

さぁ、さっさと始めましょうか!」

 

凛は両の頬をぱちんと叩き自らを奮い立たせ、意気揚々とサーヴァント召喚の準備をはじめる。

唯一の心残りは、時間や金銭面の都合で用意できなかった英霊の触媒であるのだが――代わりに凛が選んだものは、今は亡き彼女の父親が残した宝石であった。

故に凛はその宝石に絶対の信頼を置いていたのだ、自分の父親が間違った判断をするはずがないと。

たとえ、遠坂が“うっかり”の家系だったとしても、たとえサーヴァントを卸し切れずに弟子に裏切られて殺されるような馬鹿でない限りは、この宝石はとても素晴らしいものだと、みじんも疑っていなかった。

 

 

――実はこの時、地下室に立てかけられている時計の針がかなり遅れていたということに、彼女は終ぞ気がつくことはなかった。

この大ポカに対して、後に遠坂はこの時のことをこう語っている。

 

「あの時の自分はハイになっていた。

 初めての修学旅行にドキドキワクワクして、当日旅のしおりとかを忘れる小学生みたいな気分だった。

 今は本気で反省している」

 

そしてこの言葉通り、遠坂凛はこの失敗談を生涯忘れることはなかった。

なぜなら――そのうっかりのおかげで、この後彼女は死ぬほど後悔することになるのだから。

 

 

 

 

 

 

「素に銀と鉄。

 礎に石と契約の大公。

 祖には我が大師シュバインオーグ。

 降り立つ風には壁を。

 四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉路は循環せよ」

 

「閉じよ(満たせ)。

 閉じよ(満たせ)。

 閉じよ(満たせ)。

 閉じよ(満たせ)。

 閉じよ(満たせ)。

 繰り返すつどに五度。

 ただ、満たされる刻を破却する」

 

それはサーヴァントを召喚するための、遠坂に伝えられた呪文。

サーヴァント召喚を確実にするための呪文が、第四次聖杯戦争から10年の時を経て、第五次聖杯戦争の今、父親から娘によって紡がれる。

凛が呪文を唱えると、魔方陣を中心として膨大な魔力が収束し始める。

 

「―――Anfang(セット)」

 

「――告げる。

 汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。

 聖杯の寄るべに従い、この意、この理に従うならば応えよ」

 

「誓いを此処に。

 我は常世総ての善と成る者、

 我は常世総ての悪を敷く者。

 汝三大の言霊を纏う七天、

 抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ―――!」

 

実は開始前に盛大な間違いを犯しているとは知らず、凛は自信満々に詠唱を唱え続ける。

魔力の渦は途切れることなく、目に見える形で魔法陣の中に集まりつつある。

魔力が貯まるその光景に、否応なく凛の気持ちも高揚していく。

 

「――いよっし、手応え抜群!」

 

魔術に確かな手応えを感じた凛は、成功を確信し令呪の刻まれた手を振り上げる。

こうまで準備を重ねてきた召喚だけに、凛の期待は否が応にも高まる。

 

果たしてどんな英霊が呼び出されるのか?

赤い暴君か?

はたまた狐耳の半人半獣か?

できればクラスだったらセイバーあたりがいいなー、なんて思いつつ凛は期待の眼差しで魔法陣を見つめ――。

 

 

――魔力の渦は収束したかと思うと、ぽすんと、何とも気の抜けるような音を立てて四散。

後に残ったのは――残留する魔力と何の変化もない魔方陣、そしてその前でガッツポーズをとる少女のみであった。

 

「――――ありゃ?」

 

成功を100%予想していた少女の口から、普段聞くことができないような何とも気の抜けた声が漏れた。

彼女としては成功を確実に予感していただけに、この反応は予想外。

 

彼女の予想としては、今頃 \ジャジャーン/ とばかりに魔法陣の中から英霊が召喚されるはず。

だが彼女の予想に反して、魔法陣からはネズミ一匹出る気配もない。

実際にネズミが出られても困りものだが、『何も出ませんでした―!』でも対処に困る。

予想外の事態に、凛はガッツポーズのままというなんとも情けないポーズで固まっていた。

 

「……なんででないのかしら……ああ、そうか。

 もしかして、呼び出すのに時間がかかるのかしら?」

 

しばらくして再起動した凛は誰も出てこない理由について、もしかしたら時間がかかるのではないかと考え始める。

なにせ今から自分が呼び出すのは、人類史に名を残した英霊。

そして、彼らはそのまま現れるのではなく、英霊の座からコピーを取るような形でこの場に召喚されるのだ。

ならば座から英霊を呼び出す以上、そりゃあ一手間もふた手間も必要なことは間違いないだろう。

と、なると英霊が現れるのにある程度時間がかかるのかもしれない――と遠坂は真面目に考え、しばらく待ってみることにした。

 

実際の所時間がかかるとかそんな訳があるはずないのだが、そんなこと知らない凛は大真面目に椅子に座り、己の従者が出てくるのを待ちじっと魔法陣を睨みつける。

 

 

五分。

 

「……」

 

十分。

 

「…………」

 

ニ十分。

 

「……………………っ」

 

 

――三十分。

 

「…………遅いわよっ!!!」

 

時計の長針がちょうど半回転くらいしたところで、遂に凛の忍耐が限界に達した。

半刻の間蓄えられ、そして爆発した怒りのおもむくままにうんともすんとも答えない魔方陣に詰め寄る。

 

「何で出てこないのよ! お前は一昔前のインターネットか何かか!? ええ!?

 回線でも混んでるのか!? 誰かがたくさん英霊でも呼んでるのか?

 なら光通信でも使え!」

 

ゲシゲシと床に描かれた魔法陣を何度も踏みつけ、理不尽な怒りをぶつける。

最も踏んだり罵倒したからといって何かが帰ってくるというわけでもなく、魔法陣は沈黙を保ったまま。

それがさらに凛の怒りを買い、「でやあああああっ!」と木製の椅子を思いっきり叩きつける。

まるで乙女の腕とは思えないほどの腕力に、木製の椅子は木っ端微塵に吹き飛んだ。

それでようやく気でも晴れたのか、その光景を見てようやく自分の行為がどれだけ馬鹿っぽくて無駄であるか悟った凛は、頭を無理やり冷却させると“どっか”と音を立てて椅子――はついさっき粉砕されたので机に座り込む。

 

そう、常に優雅たれ、常に冷静たれ。

今は必要なのは怒りではなく、どうやったら結果が出てくるのかということだ。

椅子を破壊した時点で優雅の欠片もないが、誰も見てないからノーカンである。

 

「……ったくもう、なんで出てこないのかしら。

手順、どっか間違えた?

いやちゃんと確認とったし……」

 

もしかして手順に間違いでもあったかと机の上に手順が書かれた用紙を手元に持ち、穴が空くほどに見つめる。

実は手順じゃなくて時計の遅れがあったことに微塵も気が付かず、凛はそれこそ内容をすらすらと答えられるほどに覚えに覚えた紙切れを睨みつける。

当然、それは今まで何度も暗記した内容である。彼女の手順にも抜けている部分があるはずもない。

答えが壁に立てかけてあるとは梅雨も知らず、間違いに気がつくはずもない。

しばらくうんうんと唸っていた凛は、結局ため息とともにメモ用紙を机に戻した。

 

「……あ、そっか!

 もしかしたら別の場所に出たのかも!」

 

また何か変なことでも思いついたのか、ふと頭に浮かんだ名案にポン、と手を打つ。

なにせ英霊を召喚するのだから、もっとそれ相応な場所に出るのかもしれない。

こんな辛気臭い地下室よりももっとそれらしい場所があるはず!

例えば一階とか二階とか――きっと今頃そこにいるに違いない、と凛は考えた。

 

無論そんな事あるはずもないのだが、サーヴァント召喚が初めての凛が分かるはずもない。

 

と、なれば次の手段は――

 

「もしもーし。

何処にいますかー、戸棚の中ですかー?」

 

家中の捜索である。

どこかにいると思われるサーヴァントに対し、幾度となく呼びかけ。

リビングの食器棚の中を開け、クローゼットの中をあさり。

 

「もしかして、机の下とかかしら……」

 

テーブルの下や、ダンボールの中等、家中の人が入りそうなところは例え小さいところでも虱潰しに探していく。

 

 

これはその最中の出来事であり、遠坂邸のある一室。

純白の清潔感漂うドアの前で、凛は立ちすくんでいた。

 

「…………」

 

先ほどこの場所が思い浮かんだのが数分前の出来事。

確かに“ココ”も人が入る場所だ……一応。

だが、そこは彼女としては開けたら開けたで若干躊躇する場所であった。

しかし、だからといって素通りするわけにも行かずしばらく難しい顔で扉を睨みつけていた凛は、思い切ってドアノブに手を伸ばす。

 

「…………せいやっ!」

 

そして覚悟を決めて、ドアを勢いよく開け放ち、白い陶器のある清潔感溢れる小さな部屋の中には――

 

「――いない、か。ま、流石に此処に出るようなら逆に引いちゃうわね」

 

そこに呼び出されてなかったことにある意味で逆に安心しつつ、“トイレ”と表札が置かれたドアを閉める。

万が一ここに英霊が現れていたら、果たしてどのような対応をすれば良かったのか凛には分からなかった。

「すいません、そこトイレですよ」とでも言えばいいのだろうか?

ともかくそこに現れなかったことに関しては安堵しつつ、とはいえいないとなれば何の解決にもならず、凛は捜索を続ける。

 

――しかしその後、さらに一時間ほど捜索するものの、必死の捜索も虚しく彼女はサーヴァントが見つかることはなかった。

 

 

 

 

 

 

「ったく、一体全体何処に隠れてんのよ!?」

 

地下室にて凛はやりきれない思いに吠えていた。

家中捜索した結果、全てが空振りに終わった凛はイラツキのボルテージが再度上昇しつつある。

密かに考えが“出てこない”から“隠れている”にシフトしていることに凛は全く気がついていない。

失敗したという選択肢に全くたどり着く気配がないという点で、ある意味とてつもないポジティブ精神の持ち主であった。

 

――ズシンッッ!!

 

その時である。

地響きのような強烈な音とともに、地下室に大きな衝撃が走ったのは。

 

「ぅひゃっ!?」

 

突然生じた衝撃に対し、思わず凛は猫のように首をすくめる。

まるで地震でも起こったかのような振動は地下室も震わせ、パラパラと天井からホコリが落下しており、揺れている家具がいかにその衝撃が大きかったかを物語っている。

 

「な、なに……今の。

う、上から、かしら?」

 

凛はびくびくと震えながら、恐る恐る天井を見上げる。

いくら魔術師と言えど地下室が揺れるほどの衝撃を体験したことなどなく、凛にとっては初めての事態だ。

サーヴァントが何処に行ったのかという問題は既に消え失せ、頭のなかにあるのは今起こった想定外の揺れに対してだ。

 

一度きりで収まった振動を見ても、先ほどの揺れが地震ではないのは確定的に明らかだ。

となると、凛の家に何かが起こったという事になる。

もしかして、なんかの道具に仕掛けていた魔術が暴走でもしたのか、と思い至るが、地下室まで揺らせるほどの衝撃を持つ道具は、ないはずだ。

 

ということは、先ほどの衝撃は何らかの外的要因によって起こされた、という可能性が高い。

 

「…………」

 

凛は恐る恐る地下室を上がり、一階へと向かう。

だが一階を見回しても、そこに何の変哲もない。

 

――となると、残りは二階。

凛は地下室から一階へ上がり、さらに二階の階段へと向かう。

ぎしり、ぎしりと一歩ずつ階段を踏みしめる。

その先にあるのは、二階の部屋へとつながるドアだ。

凛には普段見慣れた階段が、やけに長く見えたような気がした。

 

一階が何もなかったということは、二階で何かが起こり、それが地下まで響いてきたという線が濃厚だ。

衝撃から察するに、二階の自室当たりが一番あやしいだろう。

しかし、何が? 部屋に何か落ちてきたのか?

と、なると落ちてきたものは……。

 

(……もしかして、下着ドロ!?)

 

そりゃあ自分でいうのもアレだが、凛ははっきり言って美少女だ。

校内でも猫をかぶって優等生の振りをしているだけあり、校内、郊外ともに人気は非常に高い。

となればそんな女子の下着を盗むような輩がいてもおかしくはない。

しかも発生源は自室ときた、目的が泥棒である可能性は高い。

 

 

――そういえば、隣の春日部では過去に巨大ロボが攻めてきて大騒ぎになった、という話を聞いたことがある。

機械音痴な凛はテレビやネットが使えず、新聞でしか確認できなかったものの、その大きさと春日部の巨大な足あとを見て思いっきり吹いた記憶がある。

 

先ほどの地響きも、一回限りの強烈なもの。

まさか、今の地響きはその足あと?

私の家の近くにはあんな巨大ロボがいるのか?

 

ともかく、部屋の様子を確認しないと話は始まらない。

自室の前にたつと、凛はゆっくりと、恐る恐るドアを開ける。

何かしらの反応があったならすぐさまガンドを放つ準備をしつつ、もしそこに下着ドロがいたなら叩きのめす覚悟を決めつつ、ゆっくりと部屋の様子をうかがい――

 

 

――そこにいたのは、先ほどまでは無かった大きな穴が開いた天井。

そして、家具の上にどっかりと座り込む“赤い外套を纏った男”であった。

 

「――――――――っ」

 

凛は、一目見て彼が異常であることに気がついた。

その赤い外套は、魔術師の目から見ても間違いなく上質の聖骸布。

その下には黒い鎧を纏っており、体格を見ても一目見て彼が戦いの中で生き抜いてきた英雄だということが分かる。

しかも――凛よりも、はるかに格上の戦いを。

 

肌の色は、褐色。

色素が抜け落ちたような白髪に、鳶色の見るものすべてを射抜くような鋭い鷹の目が光る。

 

彼の周りには天井が崩落した時にできたのか、周りには、木屑や柱の破片が散らばっている。

座っている家具もよく見ればタンスであるし、周りの家具も床に転がっている。

カーテンもぼろぼろであるし……と、なると先ほどの衝撃の原因は、目の前のこの男――。

 

「…………」

 

一方の男は、部屋の中に踏み込んだ凛に、値踏みするように視線を向ける。

彼女の顔に何処と無く懐かしいような感情を覚えつつ、男はゆっくりと口を開いた。

それは、聖杯戦争に召喚された、英霊としては当然の確認であり。

 

「――全く、こんな荒々しい召喚は初めてだ。

君が、私のマスター……」

 

 

 

「へ、変質者ーーーーっ!!」

 

「は?」

 

「も、もしもし警察ですか!?

 うちに下着ドロが!

 泥棒が天井突き破って落ちてきましたぁー!」

 

「うぉおおいッ、ちょっと待て!」

 

 

凛は天井ぶち破ってベッドに居座る“不審者”に対し、躊躇なく黒電話に110番したのだった。

 

 

 

 

 

 

「……ふう。全く……呼び出されて早々通報されることになるとは……。

長いこと英霊をやってきたが、こんな経験は初めてだ」

 

すんでのところで犯罪者にならずにすんだ男。

三十分程の遅れの後に登場した凜のサーヴァントである“アーチャー”は、先ほどまでの騒動を思い出し「やれやれ」と首を振りため息をついた。

 

なにせあと数分遅かったら聖杯戦争敗北どころか、危うく住居不法侵入と器物破損、その上下着ドロの罪で牢屋にぶち込まれるところだったのである。

人生の敗者どころか人として恥ずかしい奴という烙印を押されるところだったアーチャーは、本当にギリギリだったのか若干冷や汗をかいていた。

凛としてもいきなり通報した点はマズかったと感じているのか、文句も言わずに素直にアーチャーに頭を下げる。

 

「悪かったわね、何も聞かずに110番しちゃって。

 今度からちゃんと話聞いてから通報することにするわ」

 

(謝る所はそこか……)

 

理由を聞いてからでも110番されるようでは結果は変わらない様に思える。

正体を表しても、凛の中ではアーチャーが相変わらず不審人物であることに代わりはなく

 

「怪しい下着ドロ」

 

から

 

「怪しいサーヴァント」

 

に格上げ(?)されたくらいであった。

 

 

そもそも、なぜアーチャー――凛のサーヴァントたる彼が天井をぶち破って現れたのかといえば、召喚された場所がよりにもよって遠坂邸の上空だったのだ。

なぜそうなったか原因は不明だが、召喚された身から説明すると、気がつけば街が見渡せる上空から重力に従い落下していたのである。

絶叫しながら天井を突き破って命からがら助かったと思えば、マスターに出会ったかと思うと下着ドロに間違われて通報されかける。

召喚されてからの波乱の連続に、開始数分にしてアーチャーには既にどっと疲れがたまっていた。

 

しかも、未だ苦難は終わりを告げていない。

なんとか警察に突出されるのは回避したものの、マスターである少女からの評価は著しく低く、視線は相変わらず鋭いままである。

マスターからの信頼がまるで感じられないことに頭痛を覚えつつも、アーチャーは先ほどの電話の仕返しとばかりに、皮肉交じりの言葉を凛に投げかける。

 

「それにしても、だ。

サーヴァントをまさかこそ泥と間違うようなマスターに召喚されるとはな。

このようなマスターで聖杯戦争を勝ち抜けるか……これからが心配だ」

 

「ええ、あたしも天井から降ってきて頭打って記憶失うサーヴァントが仲間なんて、思いッッッッきり心配だわ」

 

「ぐっ!」

 

皮肉もあっさりと返され、アーチャーは言葉に詰まる。

召喚時の不手際は凛のせいであるとはいえ、天井に大穴を開け自室をメチャクチャに破壊した実行犯はほかならぬアーチャーである。

その点に対しては言い訳もできない。

 

その上、このサーヴァント……どういうわけか記憶が無いとのたもうた。

着地とか召喚の際の不手際、とか色々言っていたが、自分の儀式に一欠片の不手際もないと固く信じている凛には、アーチャーが大ポカやらかしたようにしか見えないのである。

そもそもサーヴァントが記憶を失う、ということ事態余程のことがなければありえないことであるため、全く信用すらできない。

 

記憶が無いということは、非常に厄介だ。

記憶がなければ彼がどんな英雄であるか判別などできるはずもないし、そうなると戦術すらたてられず、サーヴァントの切り札である宝具すら使うことができない。

戦力ダウンとかそういうレベルの話ではなく、根本的に戦えるかどうかが怪しいのである。

 

天井突き破るわ衝撃で記憶を失うわ、凛は自分のサーヴァントが限りなく情けなく見えた。

はぁ~~、と深い深い溜息をつきつつ凛が空を見上げ、アーチャーによって開けられた大穴を仰ぎ見る。

天井にぽっかりと開いた穴からは、綺麗な星空が見えていた。

 

――ああ、素晴らしい光景だ……夜空を見ながら寝れるなんて、なんてロマンチックなのだろう。

雨が降ればきっと風邪をひくだろうし、床が濡れてしまえば当然雨漏りだってするだろう。

というよりももうすぐ冬じゃん、雪降るじゃん。ヤバい。

 

「…………状況は、最悪ね」

 

これから先、冬にかけて冬木は雪が積もる季節を迎える。

部屋に雪が積もれば大問題だ。雪が積もれば部屋が寒くなるし、重みで家が傷むわ木材が侵食されるわ大変だ。

無論雪の問題だけではなく、防犯の面でも問題多数。

屋根の上から自室に潜り込めるなんて、泥棒の前で鍵をかけずに家を出るようなものだ。

加えてよりにもよって破壊されたのが自室の天井であるということもあり、生活を整えるには早急に天井の修理を行う必要があった。

 

ああ……いったい修繕にいくらくらいの資金がかかるのだろうか?

ただでさえ凛の家は年季が入っているため、例えばガス爆発で全壊した一戸建てをまるまる建て替えるのとは全くわけが違うのだ。

そもそも聖杯戦争中の修理となるため、魔術を秘匿するという意味でも時間の都合など色々と手間がかかることは間違いないだろう。

 

「ああ、これでまたウチの預金が飛んで行く……」

 

「…………すまん、マスター」

 

天井の修理費に飛ばされていく金額の想像をして、通帳から大量の万札が天使の羽を生やして飛んで行く光景を幻視し、凛は「るー」と涙を流した。

宝石魔術を得意とする遠坂家は、文字通り高価な宝石を魔術に使用するため、文字通りマネーを湯水のように使う。

それ故に基本的に金欠……というわけではないが、お金のやりくりが非常に難しいのである。

しかもそれがアホらしい理由となれば、なおさらだ。

彼女も毎日家計簿と電卓の間でにらめっこしている父親の背中を見て育っただけあり、お金の大切さはそれはそれは骨身に染みていた。

 

故に、サーヴァント召喚に加えて天井の大破は序盤にして痛すぎる損害であった。

 

「……まぁ、落ち込んでても仕方がないか。

とりあえずお金とかの今後の問題は置いといて……今、何するべきかよね」

 

とりあえずサーヴァントは召喚できたのだから、と凛は早急に気持ちを切り替える。

その目は先程までとは違い、聖杯戦争参加者、遠坂凛の魔術師としての目であった。

 

「フム、そうだな。

他のマスターがサーヴァントを召喚している可能性もあるし、聖杯戦争は既に始まっていると言ってもいいだろう」

 

「そうね……ならアーチャー、出かけるわよ。

ちょっと教会まで行くから、護衛お願いね」

 

聖杯戦争を始める前に、サーヴァントを召喚したのだから教会に伝える義務がある。

冬木の教会、そこにいるのは神父という役職の魔術師であり、凛の師匠にして後見人でもある人物。

遠坂の資産管理をそこの神父に一任していることもあり、屋根の修理に対しても一言言っておく必要があるだろう。

 

本心はあの神父には天井がぶっ壊れたことなんて教えたくなかったのだが。

もしサーヴァント呼んで天井ぶっ壊したなんて言ったら、あの似非神父は涙を流して大笑いすることが目に見えているからである。

……そうだ、サーヴァント召喚のせいで起こった事故なわけなのだし、どうせなら修繕費も教会にすべて押し付けてしまおうと、凛はよからぬ事を企んでいた。

 

 

――今思えば、その考えが天罰(!?)となって彼らに襲いかかったのかもしれない。

 

「教会?

そこに監督役でもいるのかね?」

 

「そーね、一応私の後見人よ。

 とりあえず、一言くらいは連絡くらいしておかないと……」

 

アーチャーとこれからの行為について会話を交わしつつ、凛が外へ通じるドアをバタリと閉めた瞬間――。

背後にて轟音が響き渡り、凛を猛烈な突風が襲った。

 

「ぬひゃあーーっ!?」

 

「り、凛っ!?」

 

まるで台風が発生したかのような凄まじい突風が凛の背後から吹きすさび、その細く軽い身体は容易く空に吹き飛ばされる。

空中へと投げ出されたマスターを見たアーチャーは、慌てて自身も後を追い、空を蹴った。

 

「だ、大丈夫か?」

 

「痛ったたたた……こ、こっちは大丈夫よ。

 ありがと、アーチャー……」

 

そのまま地面に叩きつけられていたら、間違いなく重傷だったであろう。

しかし、空中で舞い上がった凛はアーチャーによって見事に抱きとめられ、無事に着地。

そのため凛の身体が傷ひとつ負うことはなかった。

 

 

――だが、その代償はとてつもなく大きすぎるものだった。(凛談)

 

「……もう! サーヴァントと言い突風といい!

いったい何が……起こっ…………ぁ……………………?」

 

起こったのよ――と、後ろを振り向いた凛の言葉は止まり、その顔はぴしりと凍りついた。

その顔は蒼白を通り越して、もはや真っ白となっている。

 

「??

 凛、いったいどうし……たの…………だ…………」

 

次いで何があったのかと振り向いたアーチャーの顔も、その光景を見てマスターと同じような色となった。彼の場合肌の色は褐色だが。

同じ顔色になった二人の主従が振り向いた先、先ほど凛が出てきた玄関先には――――

 

 

“なにもなかった”

 

 

「…………あるぇ?」

 

語弊があるかもしれないので詳しく説明するならば、そこには“家があったはずだった”。

紛れもなく、遠坂凛の居城たる遠坂家が先ほどまでそこにはあったはずなのだ。

というよりも先ほど凛がそこから出てきたのだから、家があって当然なのである。

 

だが、今彼らの視界にあるのは、瓦礫の山。

建造物らしき影など何処にもなく、まっ平らな平地があるだけだった

 

――つまりだ。

今、凛の家は天井のみならず余すところなくすべてが崩壊し、先ほどの突風は家が崩壊した時に発生した余波だったのだ。

 

凛の家は見た目は洋館であるが、遠坂家は日本における魔術師として、非常に歴史の重みがある家系である。

凛にとってそこはただの住居ではなく、先祖代々受け継がれた、大事な、歴史ある由緒ある遠坂家の魔術工房にして、住居であった。

「優雅うんたら」という教えを受け継いだ凛の父親である時臣のもと、それは凛じしんも変わるはずもなく、時には生活費を切り詰めてまで大事にしてきた、大切な思い出のある家であった。

 

 

――それが。

思い出の家が。

これ以上ないくらいに重要な拠点が。

凛の唯一の生活の地点が。

遠坂の誇る最強の要塞が。

 

サーヴァント召喚のための魔方陣を書いた地下室含め、全てが瓦礫の山と化していたのである。

それもよりにもよって彼女が召喚したサーヴァントが天井突き破った衝撃でぶっ壊れたという、なんとも馬鹿げた理由で。

 

「…………」

 

崩壊した家の前で、アーチャーは石の様に固まっていた。

そりゃあどう見ても遠坂邸崩壊の理由が、自分が天井ぶっ壊した事が原因であることは火を見るより明らかなのだから。

彼には珍しく思考停止状態に陥りつつ、冷や汗をだらだら流しギギギ……と隣の少女に恐る恐る目を向ける。

 

一方で彼の視線の先、マスターである家主の少女は、目の前の光景をただ呆然と見ているだけだった。

先ほどまであった家がなくなっていたのだ。その衝撃は計り知れないものだろう。

どうして家がないのか? さっきまで家はあったはずなのに。

……ああ、そうか、と凛はとある答えに思いついた。

 

一方のアーチャー、凛の様子に雷でも落ちるか、いや雷程度ではすまないだろう、火とか水とかガンドとか吹き荒れ拳や足は飛んでくるだろう。

格闘技で首でも締めてくるのか? と報復をおそれ身構えていたアーチャーの予想とは裏腹に、凛の言葉はやけに軽やかな声で、全くもって彼を責めるようなものではなかった。

 

「……あらら? おっかしいなあ、アーチャー。

私いきなり目が悪くなったのかしら。

あのねー、眼の前にあるはずのものが、見えないのよ。

おかしいじゃない、そこには家があるはずなのにさぁ」

 

「り、凛……」

 

――凛は、明るく笑っていた。

予想外に明るいマスターの様子に、アーチャーは絶句。

本来ならば家が倒壊したならばショックのあまり泣き崩れたり錯乱してもおかしくないはず。

だというのに凛はキャヒヒヒと軽やかに笑いながら家のあった所を指さし、何故かピョンピョンと跳ねている。

 

これが普段の彼女がしているのならば可愛げがあるかもしれないが、状況が状況だけに全くそんな感情は湧き上がらない。

アーチャーにしてみれば、これならばまだ殴られたり怒られたほうがマシであった。

それならば、彼女の感性はまだ“まとも”であるとはっきりしていたからだ。

 

「家があるはずなのに、見えない……そうか、見えないだけできっとそこにあるのね!

見えるけど、見えないもの……ってどこぞのカードゲームか!

アッハハハハハ、おっかしー!

ヒャッハー!」

 

――いかん、完全におかしくなってる。

 

言うまでもなく、見るまでもなく、凛は明らかにヤバい状態にあった。

目には光が宿ってないし動きは糸で紡がれたマリオネットの如くギクシャクしている。

顔に張り付いている笑みは怒りが一回転してできた笑いのような表情であり、見るものすべてに恐怖感を与えている。

 

「あ、アハハ、ここにね、玄関があったはずなのよ。

やけーに年季が入っててさ、たまーにドアが開かない時があったのよ。

そういうときは横の所を蹴れば開いたんだけど……。

あ、見て、ドアちゃんとは残ってるじゃない。

なら大丈夫ねー!」

 

何が大丈夫かは分からないが、凛はドアがあることに安堵したのか小走りにドアに近づく。

実際には倒壊を免れた玄関のドア枠の部分だけがかろうじて残っているだけなのだが、凛にはアーチャーが見えない部分まで見えているらしい。

アーチャーが静止する間もなく、凛はドアを開けよう力を込め――バタンと木造の扉は“後ろ向きに倒れた”のだった。

 

「あっ」

 

唯一無事だったドアは枠を外れ、床にばったりと倒れる。

開け放たれた枠の向こうには、開放感たっぷりの空間が広がっていた。

 

まあ、なんということでしょう、天井は星空、床には瓦礫の山が広がっております。

ドアの向こうには、冬木の素敵な夜景がまるで絨毯のよう。

素敵、この上ない素敵、少なくとも今の凛にはそう見えていた。

 

「……うっわあー、キレー!

私の家って何時からこんな広々とした空間になったのかしら―。

素敵ねー、冬木の夜景を見れるなんて……あ、ホラ、見てアーチャー。

アレが冬木の商店街なのよー、野菜とかお魚とかがお安いのよ―。

アッハハハハハ!」

 

「 」

 

星空が覗き、夜景を見渡せる家。

言葉にすればそれは素晴らしいが、実際に目の前にあるのは凛の目にだけ見えているエアハウス。要するに何もない。

だが、凛にはそれがうれしいらしく絶景の夜空と夜景にキャイキャイと無邪気(?)喜んでいる。

もちろんアーチャーはそれに対し返す言葉がない。

 

というよりも、どうすればいいのか分からない。

長い英霊生活の中、様々な表情を見たことがあると言えど、こんな状態の彼女に会った経験など全く、そんな彼が返す言葉なんて分かるはずもない。

もしここに聖杯があったなら、アーチャーは間違いなくこの状況の解決をどうするべきか、という願いを即座に求めただろう。

 

アーチャーはもう逃げ出したかった。

それはもう、嘗ての経験から彼女が完全にブチ切れた時の騒動は骨身に染みてわかっているからである。

ましてや今はそれ以上――怒り状態から一回転して笑っている状態なのだ。

この状態からアーチャーに矛先が向ければ――令呪で殺害されることすら予期される。

 

だが、それでも彼は凛のサーヴァント。

彼女のパートナーとして、こうして選ばれた身なのである。

パートナーとして現実逃避ばかりしているマスターに対し現状でできる最優先の手を打つ必要がある。

たとえそれが地雷を踏み抜くような行為であったとしても。

 

「…………ま、マスター、落ち着いてくれ。

確かに、現実を見たくない気持ちはわかる。

だが、だがな」

 

とは言っても、アーチャーの言葉は及び腰。

なぜなら今の凛は作動寸前の爆雷。わずかでも刺激すれば、爆発しかねない不発弾なのである。

何時コチラにガンドや大魔術が向けられるかわからない以上、綿密に仕掛けられた地雷原を歩くかのごとく心境でアーチャーはゆっくりと凛に踏み込んでいく。

 

そんなアーチャーの思いが通じたのか、ずっと高笑いしていた凛の声はばったりと途切れた。

カクン、と首は下がり、表情は髪の毛に隠れる。

 

「……言わないでよ、アーチャー。

それくらい、私だって分かってるから」

 

――どうやら、思いは通じたようだ。

 

アーチャーはホッと胸をなでおろす。

その声色は冷静に戻っており、普段通りの凛である。

流石は凛、遠坂の魔術師を名乗るだけはある――とアーチャーは一瞬安堵する。が、直後にそれは大きな間違いであったと気付かされることになる。

彼女は全然分かってなかった。

遠坂凛の受けた心の傷は、アーチャーですら考えつかないくらいにそれはそれは深かったのだ。

 

「そうよこれは幻術よ、幻覚なのよ。

おかしいじゃない、さっきまであった家がないなんて。ありえない。

我が家よ? 遠坂家の家よ? 築年 数十年以上の物凄い家なのよ。

こんな馬鹿げたことがあっていいはずはないわ。

きっと何者かのスタンド攻撃よ。きっとそうよ、エンヤ婆あたりかしら。

間違い無いわ間違い無いわ間違い無いわ間違い無いわ間違いないわ間違い無いわ…………」

 

凛は決して立ち直った訳ではなく――むしろあまりの現実の重さにそこから逃避する道を選んだ。

魔術師の少女は辛すぎる現実を直視できず、現実から逃げてブツブツと頭を抱え自分の世界に引きこもってしまった。

 

「…………」

 

変わり果てた凛の姿に、もはや自分が打てる手立てはないと、がっくりとアーチャーは項垂れる。

全壊した邸宅の前、自分の殻に閉じこもってしまったマスターの傍ら、記憶がないサーヴァント。

アーチャーがこの世界の聖杯戦争を進め――そして、自らの願いを叶えるためには、まず、この状況をいかにして切り抜けるかという難題が立ちふさがった。

 

 

 

聖杯戦争参加者、遠坂凛。

 

 

――聖杯戦争開始一日目にして、拠点喪失。

 

 





さっそく遠坂邸崩壊。一話目にしてここまで凛とアーチャーをひどい目に合わせた人が今までいただろうか。
ちなみにこのアーチャーは野原ではなく原作のアーチャーです。

果たしてアーチャーは風間君ポジションになるのかそれともマサオ君ポジションになるのか……。


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第2話 “野原”の日常


大変遅くなって申し訳ございません。
おまけに話があまり進まなくてすみません。
プロットの段階ではこの三倍の速さで進んでいたんです。
書いてるうちに半分になって、中身作っているうちに3分の1になっちゃった。
どうしてこうなった!



 

 

「た、頼む~みさえ……もう勘弁してくだせぇ……。

お前はマリリ・モンローだ……決してコッペパンなんかじゃないです……。

叩くところがないからって顔を殴るのはもうやめちくり~」

 

野原家の一階、寝室に並べられた布団の中でひろしは魘されていた。

夢の中でみさえは、ひろしに向かってラッシュを繰り出しており、背後には幽霊のような男がみさえと共にパンチを叩き込んでくる。

「オラオラオラオラァ!」と叫びながら何故か時間を止められた上で迫り来るみさえは、まさしく悪夢そのもの。

終いには波紋を流されタンクローリーに潰され、そして顔面に渾身のパンチを叩きこまれそうになった所で――

 

「ハッ!?」

 

まさに最悪の瞬間、続きを見るのを生存本能が拒否したのか、拳が迫るその一瞬でひろしは夢から目覚めた。

慌てて布団から跳ね起き、そこがエジプトではなく家の中であることを確認。

ついでに顔面が無事である事を確認して、自分が柱の一族とか吸血鬼ではなく野原ひろしであることも確認する。

 

「…………なんだ、夢か~……。

ぁぁぁ、夢でよかった~~」

 

ほっとするあまり、ひろしは布団の上でしくしくと泣き出す。

夢の中でも妻の尻に敷かれている自分に嫌気を覚えつつも、一方で妻がスタンド使いでなかったことに安堵する。

時間を止められた上に延々と殴られ続ける感覚は、悪夢に等しい惨たらしい仕打ちであった。

実際に悪夢であったのだが。

 

寝室のカーテンからは、布の向こう側から光が差し込んでおり、部屋を僅かだか明るく染めている。

太陽の位置から、朝が到来したことをひろしに告げている。

そういえば今は朝だけど、いったい何時なのかとひろしは寝ぼけ眼で布団の近くに置いてあるはずの時計を確認しようとした。

 

「すぴー……すぴー……」

 

時計のあるところには、時計よりもやけに大きく、しかももぞもぞと動く物体が。

暗闇の中、目を凝らして見てみると、そこには時計……だけではなく、静かに寝息を立てながら時計を抱いたまま眠る息子の姿があった。

 

「なんだよ、しんのすけ……時計抱いたまま眠りやがって……。

お前は卵を温めてる親鳥か何か……ふぁ~~」

 

一体何をどうすれば、隣の布団から時計のある所まで寝相で移動できるものか。

大事そうに時計を抱えながら眠る姿は、産んだ卵を抱えている親鳥そのもの。

きっと夢の中でも鳥になっているに違いない。

 

そんな息子の可愛らしい一面を寝ぼけ眼で見たひろしは時間を確認することも忘れ、すぐさま眠気の赴くままに布団に潜り込み、二度寝の体制に入る。

そして直ぐにことの重大さに気が付き、跳ね起きた。

 

「――――時計っ!?」

 

そうだ、さっきしんのすけは時計を抱えていた。

そしてしんのすけの抱いている時計は、ボタン式のアラーム時計であったはず。

それが人によって強く抱きかかえられていたのだから、時間になっても鳴るはずがない。

 

慌てて時計もろとも一体化しているしんのすけをそのまま持ち上げ、腹の時計を確認する。

 

「い、今何時だよ!?

……9時ぃ!?」

 

時計の短針はアラームがなるはずの7をとっくの昔に通過し、すっかり左を向いていた。

それを認識した瞬間、ひろしの脳裏には今日の予定が走馬灯のように過ぎさっていく。

 

――今日は平日、会社がある。

そして、思い返せば早朝からだい~じな会議があったよーななかったよーな……。

いや、確かにあった。数日前から上司からも散々念を押されていたっけ……。

そして現在時刻はとっくの9時。ということは……。

 

「――だあああああああああああああああっ!!」

 

ひろしは叫んだ。そりゃもう大声で叫んだ。

完全に遅刻だ、大遅刻。

その上大事な会議まですっぽかしてしまった。

 

もはや怒られるどころの話ではない、会社に大損害だした時点で責任問題だ、その上……。

首がポンポンはね飛ぶ最悪の状況が頭に思い浮かび、野原家にひろしの絶叫が木霊する。

その悲鳴に慌てて跳ね起きたみさえもまた、しばらくしてひろしと同じような理由で絶叫したのであった。

 

「すぴー……すぴー……」

 

なお、それにも関わらず時計を抱え込んでいた本人は、全く夢の世界から目覚める気配はなかったそうな。

 

 

 

 

 

コトコトと鍋の中の具材が煮込まれ、溶け出した味噌の良い香りが辺りに漂う。

フライパンの上では卵が熱せられ、炊飯ジャーからはお米の匂いが鼻孔を刺激する。

家族の朝食を作るのは主に主婦の役割であり、そこから漏れることもなく、台所でみさえが普段通りに朝食を作っていた。

違いといえば今日の朝食が前日とは違い和風である点だろう。

 

「……でも良かったわよね~、実は時計の針が動いてた……なーんて」

 

目玉焼きに味噌汁、ご飯と一般的な朝食を作りつつ、みさえは今朝の出来事を思い返す。

 

絶叫が飛び交い布団が宙を舞う波乱な目覚めであったが、結局、種を明かせば彼らが起きていたのはなんの偶然か、いつもどおりの時間であった。

というのもしんのすけが抱いた時に時計の針が動いたのか、腹の中の時計の時刻は現在時刻よりも数時間ほど進んでいたのである。

最も時間が大切なひろしにはどっちが正しかろうが関係なく、彼は本気で現在時刻が9時であると思い込んでいた。

故に彼の意識では遅刻したことに変わりはなく、みさえが居間の時計との時刻の差異に気がつくまで、ひろしは白い塊と化していたのである。

 

「よかねーよ。

ったく、今回ばかりは心臓が止まるかと思ったぜ……」

 

白い塊から無事に人間に戻ることができたひろしだったが、危うく大事な会議をすっぽかして、サラリーマン生活に致命傷が与えられる寸前(というより、ひろしの中では致命傷だった)の身としてはあくまで慰め程度にしかならない。

そもそも時計に悪戯なんかしないでほしいと切に願うのだが……そんな願いが天に届いたことなどこれまで一度もなかった。

 

「ウチの時計、なんていうか本当に仕事できないわよね。

何か別のに買い替えたほうがいいのかしら?」

 

「何にだよ?

しんのすけに抱かれない、ひまわりに分解されない、士郎がわざわざ一階まで止めにこない、お前に壊されない。

そんな時計があったらもうとっくの昔に買ってるって」

 

野原家の時計ほど仕事をしない――いや、仕事ができない時計もないだろう。

今日に限らず、過去にも早朝に何かしらの用事があるときや旅行するときなど、何度も早起きを予定するような場面は何度もあった。

その度に目覚まし時計がかけられていたのだが、大事な会議とか早朝に何かしらの用事があると、全くもって役に立たなくなる。

となると当然予定した時間に起床できなくなり――どういうわけか必ずと言って遅刻してしまうというジンクスがある。

 

まず、今日に限らずしんのすけは時計を服の中や布団にしまう悪癖の持ち主。

ひまわりは赤ん坊にして時計分解中毒者。

士郎は親切のつもりなのか時折トイレの最中に、わざわざ勝手に止めに来て部屋に戻る(しかもその時の記憶は全くない)。

 

お陰で目覚まし時計が機能したことは殆どなく、その度に大騒動を起こした上で遅刻し、朝に苦労する生活が続いているのだ。

 

「「はぁ~~……」」

 

とことん遅刻と縁の深い野原家であった。

頭痛や胃へのダメージに互いに深~~いため息を吐きつつ、ひろしは眠気覚ましのコーヒーを流し込んで新聞を広げる。

しばらくするとドタドタと階段を降りる音とともに、士郎が台所に顔を出した。

 

「おはよう、父さん、母さん」

 

「よ、士郎。おはようさん」

 

「おはよう、士郎」

 

士郎の自室は野原家の二階部分にある。

その為朝の騒動でも起きなかったらしく、何事もなかったかのように普通に挨拶を交わして席についた。

 

が。

 

「あ、そうだ、二人共聞いてよ。

今朝あたり、なんだかもの凄い悲鳴があったよーな気がしたんだけど……何かあったりした?」

 

「「っ!」」

 

どうやら聞こえていたらしい。

士郎の質問にギクリ、と二人は震える。

朝に聞いた悲鳴というのは、もちろん二人のあの悲鳴であることに間違いはない。

あの時の二人の悲鳴は実は二階にまで聞こえており、夢の中の士郎を一時起こすまでの音量であったのだ。

 

「ああ、い、いや、なんでもないなんでもない。

きっと気のせいだろ、うん」

 

「そ、そうそう、きっと夢の中の出来事よ」

 

「「あ、アハハハハハ………」」

 

「?」

 

阿鼻叫喚の出来事を思い出したくないのか、二人は早朝のことを無かったことにした。

まあ結果的に何もなかったのだから、別になんともないさ……と、みさえとひろしは互いに目で示し合わせる。

そんな二人のおかしな態度に首を傾げつつ、まあ何もなかったのならこれ以上聞かなくてもよいか、と士郎はテーブルの上にチラシへと目を戻した。

 

「ててててて」

 

さて、士郎が起きたことで反応した野原家の一員が、もう一人。

野原家の長女、ひまわりである。

大人たちは辛い朝であるが、食べる、遊ぶ、寝るが仕事の赤ん坊にとって昼夜の区別はなきに等しく、早朝でも元気全開で遊んでいた。

一人で居間で暇をつぶしていたひまわりであったが、起床した兄の姿を見つけるとすぐさま近づいた。

 

「たいぁー、うー」

 

「ん?」

 

足元まで移動したひまわりは士郎の足を引っ張り、自身の存在を主張する。

おそらく遊んでくれ、と言っているのだろう。

そんなひまわりの態度に気がついた士郎は、ひょいと妹を抱き上げる。

 

「……お、ひまー、おはよう」

 

「とたとー!」

 

「お前は偉いなー、ちゃんと早起きできて。

お兄ちゃんなんかまだ寝てるっぽいしな」

 

野原家の家族は一人を除き、既に全員が起床していた。

ひろしを一時期絶望に追いやった朝に起こった騒動の主犯は――噂をすればなんとやら、のそりのそりとゆったりした動作で台所に現れた。

 

「ううーん、朝の香りはバードピア……オラは渡り鳥パトロール……」

 

もそもそと、半脱げのパジャマを引きずりながら最後まで寝ていたしんのすけが現れた。

幼稚園児にとって早起きはつらく、普段の機敏な動きからは考えられないほどに動作は怠慢であった。

いまだ半分は夢の中の鳥状態なのか、寝ぼけ眼で大きな口を開けて欠伸をする弟に士郎は苦笑する。

 

「しんのすけ、わけわかんないこと言ってないで早く着替えるぞ」

 

「士郎にーちゃん、オラまだ眠いんだゾー……」

 

「そんな事言ってると、また幼稚園バスに乗り遅れるぞ?

ああ、ほら、ちゃんとパジャマ脱いで……」

 

しんのすけの通うふたば幼稚園は、早朝に送迎バスが各家庭を回る。

もしこれを逃すと、幼稚園へは自転車通学となるため、何としてでもバスに乗らねばならない。

しかもそうなった場合、幼稚園に届けるのはたいていがみさえの役割だ(たまに士郎)。

 

そうなると結構面倒であるため、早朝に比較的手の開いている士郎がしんのすけの着替えを手伝う。

手間のかかる弟をあやしつつ、ボタンを外していると……しんのすけは、上目遣いでぽっと頬を染めていた。

 

「や、優しく脱がせてねェ~ン……?」

 

「お前は一体、何を想像してるんだよ!?」

 

自分の行為の一体何処に頬を染める要素があったというのか。

 

「いやー、日々の生活に潤いを持たせてあげようと思って」

 

「いらねーよ、全っ然いらねーよ!

無用な気遣いだよ本当に!」

 

弟にそんな顔されても全然うれしくないし、正直気持ち悪い。

まさしく心底無用な気遣いであった。

 

「そーだぞ、しんのすけ。

そーいうのはな、お前じゃなくて女の子が言えば喜ばれるんだよ」

 

ひろしはというと、そんな二人を咎めるかとおもいきや的はずれな主張を始める。

 

「いいか、二人共?

女のパジャマを脱がせるってのは、男の夢なんだからな~」

 

女性のパジャマを脱がせるのは、男の神聖な儀式。

一人のチェリーボーイが、立派な男になるための必要な儀式なのである。

故にそうそう出すものでも体験するものでもないのだ……と、ひろしは持論を並べる。

 

「ほほう、そーなんだ。

ちなみにとーちゃんとにーちゃんはどんな人を脱がせるのがいいのー?」

 

「うーん……そうだなぁ。

やっぱりこう、紫色の髪の眼帯しててさ、献身的な幸薄い女性がいいなぁ……」

 

「俺は……そうだな、縦ロールの金髪女性がいいかな?

こう、さ、高貴なオーラ纏っててさ、名家の生まれでさ。

『脱がせてくださる?』とか聞かれるのがたまんねー!」

 

しんのすけの着替えは中断され、朝から“誰のパジャマを脱がせるか”について議論が開始された。。

ひろしはどこぞのペガサスに乗る英霊な彼女がいいと主張し、士郎は誰がいいかと聞かれ、どこぞの名門魔術師一族の主席候補を思い浮かべた。

傍らから見れば非常に馬鹿に見える会話であるが、本人たちは至って真面目なのがたちが悪い。

 

「おうおう、士郎もマニアックな所いくね!」

 

「そりゃ父さんの息子だからな!」

 

互いに互いの趣味が気に入ったのか、大笑いで褒め称える。

外見は和気藹々とした雰囲気であるがその内容は至って馬鹿丸出し。

血は繋がっていなくとも、間違いなくこの二人は親子であった。

いろんな意味で。

 

「――――うぉっほん!」

 

そんな幸せな世界に、突然亀裂が入る。

幸せな世界に浸っていた三人の間に割って入ったのは、朝食を作っていたみさえであった。

不機嫌な顔の侵入者は鼻息荒く、先ほど作り終わった朝食の乗ったお盆をゴトン! と乱暴にテーブルに落とし、三人の顔をぐるりと睨みつける。

 

「三人共……そんな下らないこと話してると、本当に遅刻しちゃうわよ?」

 

献身的で薄幸でも貴族の生まれでもないただの主婦みさえ、彼女の三人を目を見るその目は非常に鋭く。

その視線は朝っぱらからしょーもない話題で盛り上がる男性諸君に冷水を浴びせる。

 

「ハッ!? さ、さっさと食って会社行かなきゃな!」

 

「お、俺も学校があるしな!」

 

「オラも幼稚園行かなきゃ!」

 

特に自分の夫がチェリーボーイ卒業が眼帯した訳のわからない女性がいいと言われたみさえの怒りは、当然ひろしに向けられている。

朝からみさえの怒りの受けてはたまらないと、慌てて三者三様に食事を開始。

みさえの怒りを向けられ、夢の中での出来事を思い出したひろしはひときわ早く朝食を平らげると、逃げれば勝ちとばかりにすぐさま玄関へと向かう。

 

実際に会社員であるひろしは、この三人の中でいち早く出かける立場にある。

 

「じゃあ、仕事に行ってくるわ!

この分じゃあ朝の会議は大丈夫っぽいな」

 

「行ってらっしゃーい。

お土産はグレードチョコビプレミアムセットね~」

 

「あ、じゃあ俺は中華鍋。

鉄分補給できるおっきいやつな!」

 

「するかっ!

あと士郎、おみやげ頼むんならもう少し高校生らしいおみやげを選べ!」

 

出かけようとするひろしの背後、壁から顔を出しつつおみやげを主張する息子二人。

しんのすけはともかくとして、おみやげに中華鍋とはいったい何なのだ?

高校生のくせに調理器具を欲する息子の将来心配をしつつ、ひろしは会社へと向かう。

 

「俺もごちそうさまでした、さて、と……」

 

「にーちゃんオラを着替えさせて~」

 

「ごめんな、しんのすけ。

ちょっとひまわりにご飯上げなきゃいけないからな」

 

「むー……」

 

しんのすけは士郎に着替えさせてと要求するものの、士郎にはひまわりに食事を与える仕事が残っていた。

断られてしまったしんのすけであるが、士郎を取られたとはいえ流石に相手は赤ん坊。

この状況下で妹を怒るわけにもいかず、おとなしく一人で着替えようとするが……。

 

「…………へっ」

 

「!?」

 

笑われた。

そんな彼を、彼女は笑った。

ひまわりは今、明らかにしんのすけを見た上で、嘲笑した。

負け犬の彼を、兄の腕の中で抱かれるという勝者の上から目線で笑ってみせたのだ。

 

(く~~~~!

生意気な、赤ん坊の癖してッッ!)

 

その心情は男を取られた某ばら組担任のよう。

怒りのあまりしんのすけは何処からかハンカチを取り出して、それはそれは激しく噛みしめる。

 

「ほらひま。

ご飯だぞ―」

 

「たぃあー♪」

 

(キィィィィィィィィ!)

 

しんのすけの嫉妬心などつゆ知らず、士郎はひまわりを片手で抱き上げ、スプーンで一口一口食べさせる。

ひまわりは兄を独り占めできて大変ご満悦であり、あえてしんのすけに見せつけるようにして食事を口にしていく。

それがまたしんのすけの嫉妬を煽り、さらに激しくハンカチを噛み締め――。

 

ブチッ!

 

「…………」

 

刃すら受け止める歯によって、ハンカチが真ん中から二つに裂けた。

よりにもよってしんのすけお気に入りのアクション仮面ハンカチが。

 

「オラ……何やってんだろ……?」

 

勝手に激怒し自分で宝物を粉砕、ふんだり蹴ったりである。

どんよりと落ち込むしんのすけを、ひまわりに食事を終えた士郎が見つけた。

 

「しんのすけ、何落ち込んでるんだ?

一緒にバスの見送りに行くぞ~」

 

「!

うっほほーい!」

 

流石は士郎にーちゃん、オラをまだ見捨ててはいなかった!

先ほどとは心機一転、ハンカチを破壊したショックは消え失せしんのすけは思い切り喜ぶ。

玄関へと向かう二人をまだ遊び足りないのか、ひまわりが背後からその後を追いかける。

 

「ててててて」

 

「あ、ひまごめんな。

ちょっと今遊んでる暇ないんだ」

 

「ひま、お前はじゅーぶん士郎にーちゃんと遊んだでしょ。

今度はオラの番!」

 

「むぅー」

 

かまってくれない兄に、今度はひまわりは剥れる番となった。

それで終わればよかったのだが――。

 

「……エッヘヘヘヘ♪」

 

後ろにいるひまわりにむけて、士郎を独占しているしんのすけはニヤリと、あえてひまわりに分かるように笑った。

さらに先ほど笑った仕返しとばかりに、自慢気にダブルピースを送る。

無論、それを見たひまわりはたいへん激怒。

 

「!? てぁ!!

く~~、たぃぁくぁwせdrftgyふじこ!」

 

「あー、ごめんごめん、直ぐ戻るからな―」

 

「むー!

ててててててて!」

 

ひまわりは必死で足元にいる邪悪な存在を士郎に訴えるが、士郎が足下で行われている攻防やひまの怒りに気が付くはずもない。

当人がまるで分かっていないことにさらに激怒したひまわりは、諦めきれないのか士郎たちの後を猛烈なスピードでつけていく。

 

 

玄関にてしんのすけと待つこと数分、しんのすけの通う幼稚園のバス――通称猫バスが到着した。

バスの扉が開き、しんのすけの担任である吉永みどりが顔を出す。

 

「おはよーよしなが先生!」

 

「おはようございます、先生」

 

「おはよう、しんちゃん。士郎くんもおはようございます。

いっつもご苦労様です」

 

「いえいえ、こちらこそ。

しんのすけ、幼稚園じゃ先生のいうことをよ~く聞くんだぞ?」

 

遊び盛りの幼稚園児というのは、大人からすれば面倒のかかる存在だ。

こと、しんのすけが何かしらの行動を取ると常に騒動がついて回るので、先生方には兎に角迷惑をかけている。

それは特に、しんのすけのクラスであるひまわり組の担当であるみどりにとっては……。

 

「大丈夫ですよ~、いつもの事ですから。

……あら」

 

「…………本当に、いっつもすいません。

ホラ、先生に迷惑かけるなよ?」

 

「ほっほーい!」

 

しんのすけを乗せると、バスは出発する。

窓からこちらへ手を振る弟に手を振り返し、士郎もさあ登校しようと玄関においてある鞄を手に取りに戻る。

いざ出かけようとすると、居間からみさえが困惑した表情で出てきた。

 

「ねえ、士郎。

ひまわり知らない?」

 

「え、ひまわりがいないのか?」

 

「それがね、どこにもいないのよ。

さっきから探してるんだけど……いったいどこに行ったのかしら?」

 

士郎たちがバスを待っている時、みさえがひまわりを探しに居間に入ると、ひまわりの姿は影も形もなかった。

ひまわりはしんのすけの妹だけあり、行動範囲が無駄に大きい。

みさえは寝室や台所、ひまわりが秘密の隠し場所にしてるトイレなども探したのだが、何処にも見当たらず。

玄関には士郎たちが、窓も鍵がかかっているため、外に出れるはずがない。

となると残るのは、必然的に室内ということになるのだが……。

 

「分かった、俺も探すよ」

 

好奇心旺盛で、しかも小さい赤子。

見つけるのは難しい。

登校時刻まではまだ時間があるため、士郎もひまわりを探そうと家の中に入る。

 

「おっかしーなー……さっきご飯上げてたのに。

おーい、ひまわりー?」

 

「たぃあー」

 

士郎が名前を呼ぶと、何処からか声が帰ってくる。

 

「あれ、そこかしら?」

 

「ん?

後ろか?」

 

声のする方向を振り返ると、みさえと士郎は互いに顔を見合わせる。

 

「いない……」

 

「わね……」

 

「ぃうー」

 

「もう、ひまったらー?

どこにいるのー?」

 

呼ぶたびに返事は帰ってくるものの、声を頼りに振り返ればそこには誰もいない。

声はすれども姿は見えず、ひまわりは一体何処に消えたのだろうか?

 

「もう、一体どこにいるのかしら……」

 

「おーい、ひまー」

 

「あう~」

 

士郎がひまわりを呼ぶと、また返事が聞こえてくる。

互いに振り返ると、しかしまた誰もいない。

 

「…………ん?」

 

ふとんの中を探していたみさえの手が、ふと止まった。

みさえや士郎が呼ぶたびに聞こえてくるひまわりの声。

それは全て、士郎の近くから聞こえてきていることに気がついたのだ。

 

(も、もしかして……)

 

声をかけて振り返っても、そこには士郎がいただけ。

であるので今度は“声をかけずに”、ひまわりの捜索をしているゆっくりと士郎の方を振り向き――。

 

「って士郎、背中!

背中にひまが張り付いてる!」

 

「え……んなっ!?」

 

「えへへ~♪」

 

見つからないのも当然――ひまわりは、士郎の背中に今の今までべったりと張り付いていた。

実は先ほど、士郎がしんのすけを見送ろうと玄関にて靴を履いているその僅かな隙に、ひまわりは素早く接近し背中にしがみついたのである。

それからはしんのすけやみどりはもちろん、バスの中にいた誰にも気配を気取られることなく背中に張り付き、そして微動だにせずにいたのだ。

その隠密スキルはもはやアサシンクラスといってもよいかもしれない。

 

「なんで背中に張り付いてるのよ!

お前は忍者か!」

 

「い、いったいいつの間に……」

 

「もう、ひまったら!

お兄ちゃんはねー、これから学校なの。

迷惑かけちゃだめよー?」

 

「むぁー!」

 

みさえが引き剥がそうとするが、まだ遊び足りないのかひまわりは士郎の背中から離れようとしない。

 

「ごめんなひまわり。

帰ってきたら遊んでやるかさ、さ」

 

「むー……」

 

遊ぶ約束を取り付けてなおふくれっ面のひまわりであるが、とりあえずは納得してくれたらしくようやく制服から手を放した。

 

「それじゃあ、行ってくるよ。

母さん、ひまわり」

 

「いってらっしゃーい。

気を付けてねー」

 

「たぁー!」

 

母親と妹に見送られ、二人に手を振りつつ士郎は、冬木にある学校へと向かったのだった。

 

 

 

「――でね、士郎にーちゃんは縦に長いくるくるパーマの人のボタンを外すのが好きなんだって」

 

「えーと……それってさ、要するにアフロな男の服を脱がせたいってことなの?」

 

「……士郎さん、随分変わった趣味持ってるんだな」

 

幼稚園行きのバスの車内。

しんのすけは友人たちに今朝の出来事を――誰のパジャマを脱がしたいかという話をしていた。

無論幼稚園児が大人の趣味を完全に理解できるはずもなく、やけに改悪された内容となっている。

 

マサオは士郎の謎の趣味に戸惑い、ヘタに聡明な風間は逆に邪推している。

一方のネネは、年上の高校生の恋愛に興味津々であった。

 

「あーら、世の中恋愛は自由よ?

男が好きな男の人だって、いたっておかしくないんじゃない?

ねえ、ボーちゃんはどう思う?」

 

若くして同性愛を認める幼稚園児。

春日部の住人の精神年齢は、かなり高い。

 

「……人の趣味は、人それぞれ。

決して笑ったりしちゃ、いけない!」

 

「おーーーー!

流石はボーちゃん!」

 

「流石はかすかべ防衛隊一の賢者!」

 

「かっこいい!」

 

「……ボー……」

 

人間として立派なことを言ったボーちゃんに拍手喝采が送られる。

実はそこに根本的な間違いがあることに、彼らが気がつくわけもない。

 

「……士郎くんって、あんな趣味持ってるんですね……?」

 

「まあ子どもたちの言うことですからね、話半分に聞いておきましょう……」

 

そして、運転手たる園長と、みどりもまた。

幼稚園バス、そしてふたば幼稚園に――士郎の趣味が激しく曲解されて広まっていった。

 

 

 

 

 

 

士郎が住んでいる街、春日部から彼が通っている高校――「私立穂群原学園」が存在する冬木市へは、電車を利用して通学している。

春日部から冬木へ、サラリーマンや学生でごった返す電車に揺られ、冬木へと向かう。

駅から通学路へ、学校に近づくにつれて、次第に通学路は同じ制服を纏った学生で溢れていく。

 

「おいっす、一成」

 

「む、野原か。おはよう」

 

その通学路の最中、士郎は友人の一人である眼鏡をかけた男子学生、一成と顔を合わせた。

 

“柳洞一成”。

士郎のクラスメートであり、生徒会長でもある。

しんのすけ曰く“生徒会長オーラ”を発しているらしく、そのカリスマ性は高いとされている。

容姿端麗成績優秀、頭脳明晰を地で行く凄い人間であり、士郎は“男じゃなく女だったらよかったのに”とうっかり発言し彼との間にホモ疑惑が密かに持ち上がってたりしている。

 

そんな一成と士郎は、不思議なことに友人であった。

元々共に根が真面目なのが気が合ったのかもしれない。

 

「最近寒くなったよな」

 

「うむ、ようやく冬らしくなったと言ったところだな」

 

「冬は嫌だよな~、寒いし雪かきとか大変だし。

寒くなると女の子の肌の露出も減っちゃうし……はぁ~~……」

 

「……お前は本当にブレないな」

 

ここ数日、随分と気温は下がり冬模様が街に見え始めていた。

学生たちはマフラーやコートを羽織り、各々の防寒対策をしている。

そうなると自然と女子たちは厚着となり――父親に似て女の子好きなのか、士郎は寒くなったことよりもむしろ女の子の露出が減ったことに残念がっていた。

寒さよりも女性の露出を心配する彼を一成は呆れ顔で見つめていた。

 

そんな二人の話を背後から聞いていた女子生徒が、残念がる士郎の姿を見てケラケラと笑っていた。

 

「よーう、士郎。相変わらず女の後でも追っかけてるみたいだな?」

 

「なんだよ、綾子。

人がまるで女の子好きなみたいに言いやがって」

 

「いや、実際そうだろ?

お前のいままでの言動を考えてみろって」

 

振り返ってみると、そこにいたのは“美綴綾子”。

彼女もまた一成と同じく士郎の同級生であり、士郎が所属している弓道部の部長でもある。

容姿端麗、才色兼備と揃った美少女であり、姉御肌な性格もあってか男女からも人望が厚く、学校での人気は高い。

 

ちなみに士郎から見ると彼女とは友人関係であると同時に、部長と部員の関係でもある。

役職は綾子のほうが上であるが、弓道の実力では士郎のほうが上であり、大会では幾度となく優勝を飾るほどの腕前を誇っていることから「穂群のシモヘ○ヘ」「赤毛ゴルゴ」という名が出回っているほどであった。

 

「そうそう、士郎。

この前ウチに新入部員が入ったんだ、少しでいいから道場に顔出しといてくれないかな?」

 

「お、新入部員が来るのか、分かった。

今年は可愛い子とかいるかな~?」

 

前述したように士郎は弓道部のエースであり、つまりはこの学校における“顔”でもある。

部長としては、有数の実力者を後輩に顔見せさせるのは当然の事である。

が、そんな事情も知らず士郎は可愛い後輩の姿を想像して顔がにやけ気味であった。

えへらえへらと笑う同級生に綾子はハァ、と頭を押さえる。

 

(こんな奴が私より実力が上なんて……その上……ハァ)

 

「オイ、士郎。

お前はな、ウチのエースとして後輩に指導する身なんだぞ?

若い子にそんなだらしない顔見せるなって。

そんな体たらくじゃ、他の部員に示しもつかないぞ?」

 

「若い子って……オイ、一年年下なだけではないか美綴」

 

綾子に突っ込む一成。

弓道場の中では、何人か後輩が既に練習を始めていた。

 

「――だからさ、お前はたるんでるんだ。

もし何かしらの噂がたったら困るのは――」

 

「――あ、見て!

あれ、弓道部の野原先輩よ!」

 

弓道場に入っても綾子の小言は終わっていなかったが、士郎の姿を見た後輩たちはそれはそれは騒ぎ始めた。

 

「大会で穂群原を連続優勝に導いた、うちの学校のエース!」

 

「試合で出した成績は脅威の命中率99%!

人呼んで冬木の赤毛スナイパー!」

 

「「「きゃー!」」」

 

前述したとおり、弓道部のエースとして活躍している士郎は当然学校の内外で人気がある。

こと、弓道を志す女子にしてみれば所謂アイドル扱いであり、士郎の姿を見つけた後輩たちは黄色い歓声を上げて『サインください!』『握手して!』と一斉に群がった。

当然、アイドルに夢中な彼女らの目に、隣にいる部長は映らない。

 

「むぎゅっ!」

 

数の暴力により説教は中断、綾子は押しのけられ、士郎は後輩たちに囲まれる。

士郎は可愛い後輩に囲まれアイドル扱いされ、まんざらでもない表情だ。

 

「い、いや~困ったなー。

それじゃサインでも……」

 

「…………」

 

調子よくサインやら握手やらをする士郎。

その姿はどことなくふたば商事で働く某サラリーマンを思い起こさせる。

当然、説教を中断されたり士郎に女子が群がったりと、綾子は色んな意味で面白くない。

 

「士郎ッ!」

 

「ん?

い、いってててててて!」

 

鋭い声が聞こえたと思ったら、耳に激痛が走る。

士郎は割って入った綾子に耳を引っ張られ弓道場の隅へと引き摺られていった。

 

「もう、言ってるそばからお前は!

いいか、お前はウチのエースなんだ!

エースとして上級生としてもう少し貫禄を持ってだな……」

 

「は、はい。すみません。

すみません、反省してます……」

 

綾子の表情は完全に怒り顔。

怒り狂った女性の機嫌を取るためには、例え自分が悪くなかったとしてもとにかく謝るしかない。

士郎はそれを父親から教えられ、同時に目の前で見ていた。

 

父親にならいへこへことしきりに頭を下げて謝る士郎。

その光景を見ていた後輩たちは、若干引いている。

 

「……さ、流石は部長。

あの野原先輩が腰に敷かれてる……」

 

「すご~~い……」

 

「まさしく女性は強し、だな」

 

まるでどこかの家の夫婦の様子を幻視したような気がした、一成であった。

 

 

 

「耳が痛ぇ」

 

「自業自得だ……」

 

綾子に引っ張られ、寒さとは別に赤くなった耳をさすりながら教室へと入る。

結局あの後後輩の前で長々と説教されるわ、お陰で足は痺れるわと朝から散々であった。

 

「よっ、士郎!

おっはよーさん!」

 

「あ、藤ねえ。

おはよう!」

 

士郎を呼び止めたのは、彼の担任である藤村大河だ。

ちなみに彼女にタイガーと言うのは禁句である。

 

「あ、士郎。

この前みさえさんにいただいたお漬物、とっても美味しかったってお礼言っといて頂戴?」

 

「ああ、わかった。

母さんに伝えとくよ」

 

二人の関係は、単なる教師と生徒というものではない。

もちろん別に禁断の恋という意味ではなく、かつて士郎が世話になった衛宮切嗣の、彼の住居を用意したのが彼女の祖父なのである。

その祖父の孫娘である大河は、時折衛宮家を訪れたり掃除をしていたりと、なにかと切嗣の世話を焼いていた。

ある日、時折家を訪れていた野原家と知り合うこととなり――なんの偶然か、こうして士郎の学校の教師となり今でも交流が続いているのである。

 

(独り身は寂しいのか)彼女は時折、野原家を訪れてはしんのすけやひまわりの面倒を見ることもあり、家族とは仲が良い。

両親からの反応もよく、みさえともこうして料理をおすそ分けしあう仲となっていた。

 

その親しみやすい性格から、生徒たちからの信頼も厚く、意外に聡明な部分もあるために教師としての実力は高い。

最も、野原家で見せる素の彼女は、最近みさえに類似する点が多くなり始めているのは秘密である。

 

(バラしたら竹刀のプロトンスイッチで殺されるからなー……)

 

「さ、みんな席について!」

 

大河の号令と共に、生徒たちは席につき、朝のHRが始まる。

それが、野原士郎の日常であった。

 

 

 

 

 

 

午前の授業を終えると、昼休みを迎える。

たいていの学生が教室や学食に向かう中、士郎は生徒会室のストーブの前で工具を片手に陣取っていた。

 

「毎度毎度悪いな、野原」

 

「いいっていいって、これくらい」

 

数分ほど前、一成から故障したストーブを修理できないかと頼まれた士郎は、二つ返事で引き受けこうして生徒会室まで来ていた。

手先が器用な事、そして“とある理由”により機材の修理が得意な士郎は、こうして時折一成から学校の機材の修理を頼まれることが多々ある。

一成としては予算不足による苦肉の策であったが、士郎としては内申点も稼げるうえに楽してそれなりの“対価”が貰えるので結構おいしい仕事だったりする。

 

ちなみにこれから士郎が行うのは、普通の修理ではない。

ストーブという重厚な金属の塊を直すことは容易なことではなく、通常ならば士郎のような学生では難しい作業となる。

ましてや目の前のストーブのように、“どの部分が壊れているのか”から調べる場合だと、かなりの時間を擁することとなる。

 

――そう、通常の手段ならば。

 

「それじゃあ、始めるか」

 

士郎は手をストーブにかざし、精神を集中させる。

精神を統一させ、外界からの音を、一切遮断する。

 

――ガキン、と“何かが落ちるような感触”と共に、士郎の脳裏にストーブの構造が浮かび上がった。

 

「――うん、ちょっとネジが緩んでるところがあるな。

そこ直せばまあしばらくは持つだろ」

 

「そうか、ならよかった。

――しかし、なんとも不思議な力だな、壊れた部分が自然に分かるとは……」

 

一成は、士郎の持つ不思議な力に唸る。

士郎の特殊な力……それは、機械に手をかざし何やら念じれば、自然と機械の構成が分かるというもの。

 

特に壊れた箇所を修理する場合は壊れた状態も分かるため、今回のように修理にはもってこいの能力であった。

士郎はこうして、生徒会室のストーブをこれまで何度も修理していた経験がある。

 

「ハハ、まあ自分でも不思議に思うよ」

 

(――まぁ世の中には魔法とかパラレルワールドとかタイムマシンとかあるくらいだしな~。

いまさらこれくらいじゃあ驚かないし)

 

一成から見れば摩訶不思議な力であるが、タイムマシンとか光り輝く温泉とか巨大ロボとか映画の世界とかパラレルワールド、この世のありとあらゆる不思議な力を経験していた士郎にとって、この程度の超能力などなんとでもない。

それこそあらゆる望みを叶える願望器とか実は何度も見てきた立場で考えれば、今更機械の構造が分かる程度とか別に「その程度?」で終わってしまう程度の神秘だ。

むしろそのような経験をしたために彼の中に秘められていた、ある種の才能が開花しつつあるのかもしれない。

 

兎に角破損箇所は分かったのだからと士郎はごそごそと工具を取り出し、破損した箇所を修理していく。

もともと手先が器用であることも幸いし、士郎は手慣れた様子でストーブを修理していく。

その様子を見ながら、一成がぽつりと呟いた。

 

「ただ、どうせならその力で直してほしい所だな」

 

「だよな。

なんで構造とか壊れたところしか分かんないんだよ。

微妙に使いづらいことこの上ないんだよな~……」

 

前述したとおり、士郎が分かるのはその物体の構造、そして壊れている箇所ぐらい。

壊れた部位が分かったからといってどうにかなるというものではなく、その先はどうやっても人力が必要となる。

さらに壊れた部分がもし士郎でも修復不可能な部位であったら、それはもうお手上げなのである。

 

この世界には色んな力があるというのに、どうして自分は物の構造がわかるだけなのだ……と世の中の不条理を士郎は嘆いた。

 

「あーあ、魔法の力とか欲しーなー……。

こう、自分の思い通りの道具作れたりとか物直す力とかー」

 

「そんな便利すぎるものがあってたまるものか。

ホラ、購買のパンとかお菓子を持ってきたぞ」

 

「おう、いっつも悪いな。

それじゃー頑張んなきゃな……探せば意外にあると思うんだけどな~……」

 

実は自分の中に眠るとんでもない才能に微塵も気が付かず、士郎は愚痴りつつも代金とばかりのお菓子やパン目当てにストーブを修理していく。

もしその光景をあかい魔術師がいたら、魔術を安売りされてていることに噴出し、激怒していただろう。

 

――そして、実はそれは遠くない未来であったりする。

 

 

 

ストーブの修理を終え、一成から受け取った報酬代わりのお菓子やらパンやら戦利品を抱えて士郎は教室に戻った。

そんな彼の姿を見つけたのは、士郎の友人である間桐 慎二である。

 

「よう、野原。

相変わらず慈善事業に勤しんでるようだな?」

 

「慎二、違うぞ。

これは資本主義の相応の対価なんだよ」

 

「何言ってんだ、お前?」

 

士郎と慎二はクラスメートであると同時に共に弓道部に所属しており、所謂“悪友”の関係にあたる。

これに一成や綾子を加えたのが、主にこの学校における彼らの交友関係であった。

ちなみに三人と共通してそれなりに女性にモテる性格や顔であるが、別に品性高潔という訳ではないので、士郎とその手の話題で盛り上がることも多々あったりする。

 

(パンごときで何度も修理に駆り出されるお前もお前だけどな……)

 

「あ、そうだ。

慎二、この前お前から借りておいた雑誌後で返すよ」

 

「分かった……ってあの雑誌お前が持ってったのかよ!?

クソ、道理で何処にもないわけだ……桜に見つかったのかと思ったじゃないか」

 

数日ほど前、慎二の所有していたアダルト系雑誌が忽然と姿を消した。

何処を探しても見つからず、てっきり妹に見つかったのかと報復にビクついていたのだ。

当然彼の妹がそんなことに気がつくはずもなく、何も言わない妹にさらに怯え、家では休まらない日々が続いていたというのに……。

 

「お前な、いい加減その癖やめろよ!

いったい誰に似たんだよ!?」

 

「ごめんごめん。

……慎二、まだ桜に尻にしかれてるのか?」

 

「ふ、フン、お前には関係のないことだろ?

それに、妹に兄が負けるなんてあるわけ無いじゃないか!」

 

そんなことはない――と、慎二は主張する。

変にプライドの高い慎二にとって、年下の、しかも妹に負けることなど彼あってはならないことである。

そう、兄より優れた妹などいない!

 

「ふーん……だってさ、桜」

 

「っ!?」

 

「嘘だ」

 

「こ、この野郎!」

 

とは言うものの、実際の力関係は未だ桜のほうが上。

桜の名前が出た途端、慎二は思いっきりビクついた。

その慎二の態度そのものが、間桐における兄妹間の力関係を如実に表している。

 

「クソ、もうこの話は終わりだ、終わり!

そうだった……野原、お前遠坂について何かしらないか?」

 

「え? 遠坂?

遠坂になにかあったのか?」

 

遠坂凛――それは士郎の学校で『全身絶滅危惧種』のアダ名を持つ超が付く美少女。

容姿端麗成績優秀、おまけに性格も良く教師からの受けも良い、この現代においてリアルでアイドル扱いされている凄腕の美少女である。

 

一成や綾子は彼女の本性を察知しているのか邪険に扱っているが、学校の大半の生徒が彼女に好印象を抱いている状態だ。

 

そんな、粗探ししたところで弱点すら見つけられないような彼女に、何があったのだろうか?

とはいえ早朝、凛の姿を見ていない士郎は質問に答えようがなく、慎二は逆にそんな士郎に何故か驚いていた。

 

「何って……なんだ、お前知らないのか?

いや、よく分かんないんだけどさ……今朝あいつ、結構やつれて登校したんだぜ。

その上時折物陰で人知れず『クククク』とか『ウフフフフ』とか笑ってたりするんだよ。

屋上でもなんかシャドーボクシングやってるし、あのままだと気持ち悪いから何とかしたいんだよ」

 

学校のアイドルともなると、常に人目を引くのは当然。

ところがそんな彼女は普段なら決して考えられないような奇行を繰り返した。

 

まず早朝の時点でおかしかった。

登校してみれば、何故かげっそりとやつれている。

それでも普段の優等生ぶりはそのままであったが昼休み、人気のないところにいたかと思うと奇妙な笑い声をあげているのをうっかり慎二は目撃してしまったのだ。

 

それを見ていた慎二はというと――不気味に笑う遠坂は、それはそれは恐ろしかった。

魔術関係の知識が若干ある慎二は、実は彼女は何かしら怪しげな儀式でも行っているのではないかと邪推していた。

何せ、あのうっかり魔人と呼ばれた遠坂の血脈である。

何かをトチ狂って宇宙の彼方のタコ型怪物を呼び出されたりとか、実はもう中身が魚人とかこんにゃくとかと入れ替わったりしていたら目も当てられない。

 

「な、なんだよそりゃ……。

言っとくけど俺は知らないからな?」

 

「ふ~~~~ん……。

それ、本当か?」

 

士郎はもちろん何も知らないと主張する。

それは考えてみれば当然の事であり、ただの一般人たる彼と校内一の美少女との間に、何かしらの接点があるはずもない。

――が、慎二はその事実を考慮の上で疑っていた。

 

「わからないぞ……野原のことだからな~。

知らずのうちに相手の心を抉るような言葉喋ったりとか。

相手のハートを引っ掛けるような発言を何気なしにとかしていそうだしな?」

 

「な、なんでそこまで俺を疑うんだよ。

俺にそこまで疑われる要素があるってのか?」

 

「ある」

 

慎二の士郎を疑う目線は止まない。

 

こう見えて、士郎は意外に女子からの好感度は高い。

顔もいいし成績もそれなり、弓道部のエースであるため知名度も高く、学校の内外で有名。

そして料理上手で家庭的、よく弟達と遊ぶ様子が目撃されており、他人から見れば彼は非常に面倒見がいい人物として映っている。

何より、完全無欠な才色兼備というわけではなく、どことな~く手を伸ばせば届きそうにある、というのが士郎が好かれている理由であった。

要するに、親しみやすいのが一番の特徴。

それが、間桐慎二から分析した野原士郎像であった。

 

げんに、彼は複数の女性から好意を向けられているのを慎二およびに一成は知っている。

慎二の妹とかも含めて校内の女子からも好意が向けられており、弓道部の部長とかも案外怪しい。

 

更に問題なのは、士郎が自分に向けられる好意(しかも女性限定)に関してまるで気づいていないということ。

本人は自分を凡夫だと信じて疑っておらず、そんな自分が好かれるはずがない……と思っている。

となると、先ほど慎二が疑ったように、本人が全く気がついていないところで何かしらのフラグを立てて放置している可能性も、無きにしも非ずなのである。

 

つまりどういうことかというと、士郎が女性と関わると何かしらの化学反応が起こるのが通例なのである。

ということで今回の遠坂事件に関しても士郎が何かしら関与しているのではないかと慎二は勝手に疑っていた。

 

「だーかーらー、そんなことないって。

それに、相手はあの遠坂だぞ?

俺なんかと恋愛ごとなんてそうそう起こるはずもないだろ?」

 

「……ああ、そうかい……」

 

(こりゃ、本当に知らないみたいだな)

 

心の底から遠坂との関係を否定する士郎に、慎二はこの発言より士郎が“関係者”でないことを再確認し、そして改めて友人の女性に対する疎さを再確認する。

妹が好いているのだから姉だってどうなるか分からないというのに……。

 

まあ士郎の恋愛事情はともかくとして、そもそも慎二の目的は遠坂の奇行を解決したいがために士郎に声をかけていたのであって、別に関係ないのならこれ以上踏み込む必要はない。

そう、無理に接触して桜の機嫌を損ねる必要は何処にもないのである。

 

「そーか、知らないならそれでいいさ。

引き止めて悪かったよ。

まさか……でも、しかし……流石になあ……」

 

しかし、士郎が問題でないとなると、いったい何があの遠坂をそうさせたのか。

 

流石にあの遠坂が、“魔術師”たる遠坂が、自分がサーヴァント呼び出しましたよ、ってあからさまなサインを出すはずがない。

多分アレは――そう、きっと何かをだますためのサインなのだろう。

きっと遠坂には僕らには見えない誰かが付け狙っているのだろう、と慎二は無理やり納得することにした。

 

 

――そう、遠坂の自宅がすでに崩壊しているなどとつゆ知らずに。

屋上で行われたシャドーボクシングが、実は彼女の従者との死闘によるものだとも知らずに。

 

 

「なんだありゃ……いつもの慎二じゃないな……?

雑誌のこと桜に言いつけてやる」

 

何やら変なことを聞いてきた挙句、自分がだらしないのではないかと暗に疑って帰って行った慎二に対し、士郎は若干不機嫌であった。

故に彼は慎二に対してしょうもない復讐を企む。

そして後に、本当に桜に対して雑誌の事を伝えてしまった。

 

……どうやら慎二の災難は終わりそうもないようだ。

 

 

 

「野原、あの遠坂の様子がおかしいらしいんだ。

何か知らないか?」

 

「あ、士郎、ここにいたのか。

遠坂の様子がおかしいんだってさ、何か知らない?」

 

「あ、士郎!

何だか遠坂さんの様子がおかしいのよ。

怒ったりしないから、何かあったんならお姉ちゃんに正直に話しなさい?」

 

「だからさ、一成も綾子も藤ねえもなんで皆まず俺に聞きに来るんだよ!?

っていうか藤ねえの何だ?

俺がなにか犯罪でも犯したんじゃないかって口ぶりだよな!?」

 

 

 

 

 

 

時間は一気に放課後まで進む。

学生にとっては狭苦しい授業から解放され、思い思いの楽しみ方が始まる時刻。

帰りのHRにて注意事項を説明していた大河は、思い出したように生徒たちに最近街を賑わしている事件についての注意を促していた。

 

「あ……そーそーそーだった。

何でも最近、冬木とか春日部で深夜に青タイツで紅い棒持った変態が若者を狙って町中を徘徊してるっていうから、みんな下校時に注意してね~」

 

最近、冬木や春日部に不審者が出没するとの情報がまことしやかに騒がれていた。

内容は大河が語ったように、見るからに怪しい恰好の人間が武器を持って若者狙いで徘徊するというもの。

言葉にすると何とも怪しげな情報であるが、内容が内容だけに学校関係者は神経をとがらせていた。

 

――実際は綿密な計算、人払いの行われた襲撃であったのだが、人外クラスの実力を持つ者が平気で街をうろつく春日部では全くと言っていいほど機能しておらず、目撃情報が警察に相次でいたのである。

 

(全身青タイツに……紅い棒……?)

 

士郎はその話から、犯人像を考察する。

全身青タイツ……ということは、顔面から足元まで隠すタイプ?

黒い犯人が蒼くなった、そういう感じなのだろうか?

そうして――そいつは赤い槍を担いでいる。

青タイツが迫ってくる!

 

槍というと、やはり刺す用途に使用するものだ。

何に? それはもちろん……ナニに決まっている。

 

(な、何者なんだ……)

 

なぜ全身青タイツなのか。

なぜ“若者のケツ”を狙うのか。

やっぱりそっち方面の好きな人なのだろうか?

 

なまじ“オカマ”によくよく会う事の多かった士郎は、その男がいつの間にか“男好きの男”へと変化していた。

彼の中で疑問ばかりが頭に思い浮かぶが、一つだけ分かることがある。

紛れも無く変態である。

 

そして、赤い槍で若者を狙う……そういうプレイが好きな男なのだろうか?

 

「アレかな?

オリンピックがもうすぐあるからって、はしゃぎすぎた変質者かな?」

 

「そーね……士郎の言うとおり、学校でも騒ぎたい男好きな変態って形で纏まっているわ。

ちなみにもう警察関係の人も動いているらしいから、みんなもあんまり羽目外しちゃダメよー」

 

怪しいとはいえ武器を所持していること、そして既に一部でも事件となっており、警察が動き始めていた。

大河は決して警察沙汰になるようなことに巻き込まれないように、と生徒たちに釘を念に刺しつつ、HRを終えた。

 

 

そうして、冬木と春日部では

 

「オリンピック開催に合わせて、全身青タイツで赤い槍を持って男のケツを狙う不審者が出没する」

 

という噂がまことしやかにささやかれる事となる。

 

 

なおこれは余談であるが、この噂により実害をかぶった男が一人。

その男は自分が男好きとか穴をホるのが好きだとかいう噂がマスターの耳に入るやいなや、必死に弁明するものの

 

「別に貴方が何しようと趣味については私は一切関わりません。

ですが、一応聖杯戦争中ですのであまり羽目外し過ぎないようにしてください。

あとあんまり近づくな変態」

 

と3メートルくらい離れたところから言われたという。

その当の本人は自分のあまりの扱いと世の中の不条理さに「あんまりだァァ……」と本気で泣いちゃったとか。

 

 

 

 

 

おまけ

 

 

「えーと、それで……屋根伝いに全身青タイツが移動していた、と?」

 

春日部のとあるバーで、刑事二人が聞きこみをしていた。

 

「そうなのよー!

ココの所冬木でも何か騒がしいって言うじゃない!

襲われたりとかしたら困っちゃうじゃないー?」

 

「オイオイ、こんなオカマバーとか襲う物好きな奴がいるのかね……?」

 

ガタイの良い元プロレスラーなウェイターは、同じくらいガタイのいい従業員が「イヤンイヤン」とクネクネする様を怪訝な目で見ていた。

 

「わからないわよ、お兄たまとかあれでいて結構魅力的だから。

あーホント、襲われたらどうしようかしら」

 

「えっ?」

 

「えっ?」

 

「……え、えーと、じゃあ、とりあえず俺たちは帰りますんで。

何かあったら、また連絡お願いします」

 

「あーら、せっかく来たんだから、ゆっくりしていったらどう?」

 

「あ、いえ署に帰って調書書かないといけないんd」

 

「ホラ、皆お客さんのことおもてなしして!」

 

「ハーイ!」

 

店の奥からぞろぞろと現れるウェイター達。

無論みんなオカマ。

ヒゲ。ガタイがいい。

 

(早く帰りてぇ。

妻に会いてぇ)

 

(なんでオカマバーに聞きこみに行かなきゃならないんだよぅ……)

 

刑事二人は冬の寒い夜、オカマに囲まれた自分たちの不遇を嘆いていたという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

春日部の地中深くにその“物体”は存在した。

 

何層もの地層よりも深く潜り込み、決して誰にも到達できないような深度に、その物体は鎮座していた。

 

漆黒の円柱状の物体。

 

一目でそれは自然の創りだしたものではない事が分かる。

 

正確に整えられた六角柱。

 

前方と、そして後方の両側に取り付けられた、ほぼ完璧に近い形の球体。

 

紛れも無く、それは人為的な手が加えられた建造物。

 

鉄製の表面装甲は、まるで数百年もの間そこに置かれていたかのように劣化している。

 

嘗ては鮮やかに塗装されていた装甲も、表面に塗装されていた“目”のような形のアートも、もはや見る影もない。

 

 

その物体は――とある人物により、はるか過去の時間にその部分に埋め込まれた。

 

第三次聖杯戦争も、冬木の第四次聖杯戦争も、幾度と無く行われた大戦の間も。

 

長い年月を経て、その物体は誰にも見つからずに地中深くで不気味にその時を待っていた。

 

 

 

カチリ、と。

 

ブゥゥン、と鈍い音を発し、ソレは起動する。

 

表面に蛍光色が走り、フォトニック結晶で作られた構造体が光を通す。

 

オリジナルとは程遠い演算能力ながらも、この世界においてはどのスーパーコンピュータをも凌ぐ性能を誇るマシンが、唸りを上げてこの世に産声を上げる。

 

誰も聞くことのない、届くことのない音声案内が、地中深くに響き渡る。

 

『……年…を再■認、20■■年……確■。

タイ……設定■開始……。』

 

『X1~Z■……のコ…ド■ャスト……始。

決■術…を……、■擬人格、…………に異常■し。

……■、チェッ■■了』

 

『ダーク■ーポレ…ーシ……製ダ…ー■■■セル、活動を開始……す。

繰り……ます、ダミー■■■セル、活動を■■します……』

 

 

 

『ヤッホ!』

 

――静かに、明確な悪意は活動をはじめた。

 

 





士郎くんの壊れっぷりが半端ない……こりゃもう半分しんのすけや。
まあこれでいいか! 書いてて結構楽しかったし。

劇場版らしく、最後にちょっとだけ敵側の事情を入れてみたり。
ラスボスかどうかは分からないけど、多分こいつが元凶みたいですね。
これからも敵がドシドシ出てくる予定です(白目


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第3話 彼らとカノジョの遭遇


相変わらずの遅筆ですみません。
このペースじゃあ終わるまで一体何年かかるのか……。
ようやくFateらしい(?)キャラクター登場。
だが戦闘シーンはもっと先になる予定……。



 

 

――放課後。

 

学校では堅苦しい授業から開放された学生たちが、部活に勤しんだり友人と出かけたりと、それぞれが思い思いの日常を過ごす。

そんな中、別に積極的に他人を手伝おうとか道場の掃除を頼まれるとか、実は明日告白するんだ、写真もあったりして――なんてフラグになるような事もなく、青くて赤い槍の変質者がうろついているという情報を知った士郎は、尻を狩られてはたまらんと掃除を終えて大河の言うことに従い早めに下校することにし、綾子にひと声かけ部活動を早めに切り上げた。

 

途中、偶然春日部に用事があった一成と共に、二人は春日部へと向かう。

列車の中で今日の授業の事や、テレビの中の話題など他愛のない話をしつつ、二人は駅へと降りた。

そこで二人は思わぬ人物と出会うこととなる。

 

「おっす!

こんにちはさんです!」

 

「おう、こんにちは……って、しんのすけ?」

 

何やらこちらに向かってきた小さな影。

それは今朝の幼稚園の制服から、普段着に着替えたしんのすけの姿であった。

意外な場所で弟との再開に士郎は目を丸くする。

無駄に行動半径の広いしんのすけといえど、用がなければこのような遊ぶ場所もない駅前に、そうそう来ることはない。

 

「あ、生徒かいちょーの人もいる!

こんにちはです!」

 

「うむ、しんのすけか。

こんにちは」

 

士郎の隣にいた一成も、しんのすけと挨拶を交わす。

士郎の友人である一成と彼の弟であるしんのすけの間には、これまでも何度か面識があった。

 

その中でしんのすけは士郎の言葉から、一成の事を“生徒かいちょーの人”と呼んでいる。

幼稚園児が“生徒会長”という言葉の意味を知っているのかは定かではないが、“とにかく凄く偉い人”として記憶しているらしい。

 

「しんのすけ、なんでお前こんなところにいるんだ?」

 

「んーとね。暇だったから士郎にーちゃん迎えに来たんだゾ」

 

「ふむ、幼稚園児にして兄のお迎えをするとは、感心感心」

 

しんのすけの言葉を額面通りに受け取った一成は、わざわざ兄を迎えにきたしんのすけの行動に素直に感心する。

だがわざわざ迎えに来てもらった当の本人はというと、一成とは正反対の疑わしい目つきでしんのすけを見ていた。

 

「……とか言って、ホントはまた何かやらかして母さんから逃げてきただけじゃないのか~?」

 

士郎の視線は、疑惑を含んだ疑いありありの目。

まるでしんのすけの言葉を信用していない。

 

しかし、しんのすけのこれまでの行動を考えればそれも納得がいく。

というのも前述したとおり、基本的に遊び盛りのしんのすけが、(幼稚園児にとっては)つまらない駅前に来ることはまずない。

さらに言うなら今みたいに兄の見送りにくるような律儀な奴なんかじゃない――ということは士郎が一番知っている。

 

だのにしんのすけは目の前にいて、しかも自分の見送りに来たと主張する。

――となると、見送りは建前で、何かしらの要因により駅前に来ざるを得なかった、と予想したほうが自然なのだ。

 

「ホラ、怒んないから正直に言いなって」

 

「むー、失敬な!

そんな……まるでオラがしょっちゅうかーちゃんに迷惑かけてるよーな人の言い方して!

失礼しちゃうゾ!」

 

「「いやいやいや、それはない!」」

 

まるでコントでもしているように一成と士郎は同時に否定した。

野原家の嵐を呼ぶ幼稚園児は、常になにかしらの騒動をやらかしてはそのたびにみさえを困らしている。

士郎はもとより一成もその行動ぶりは把握しており、というよりも何度も騒動に巻き込まれた事のある身としては、誰にも迷惑かけていないというしんのすけの言葉に同意できるはずもない。

二人に揃いも揃って否定されむくれていたしんのすけであったが、そういえば、と冬木に住んでいる一成がこの場にいることに気が付いた。

 

「あれ? どうしてせいとかいちょーの人がここにいるの?

二人共どっかいくの?」

 

「ああ、実は私が少しばかり春日部に用事があってな。

士郎と行き先が同じだから同行しているんだ」

 

寺生まれの息子である一成は、学生ながらも学校のことだけではなく寺関係の仕事でも時折忙しくなる。

その用事の中には冬木の外に出ることもあり、そして今日は偶然にも、早めに帰る士郎と途中まで行動を共にすることとなったのだ。

 

が、しんのすけは共に行動する二人にあらぬ関係を邪推する。

 

「ほっほ~う……二人で、とな?

放課後に逢引とは……もしかして、二人はとっくの昔にそのような関係に?」

 

「「ちがう!

そんな訳ないだろが!」」

 

恋人疑惑を持ち出され、思わず大声で否定。

 

「しんのすけ、別に同性愛者を否定するという訳ではないが、私と士郎はそのような関係では全くないぞ?」

 

「うんうん!」

 

「確かに、私は野原には生徒会長として感謝している。

だが流石に恋愛感情までは持ち合わせてはおらんよ。

友情に近いものは感じているが」

 

「うんうん……って、え、な、なんだよ……急に褒めやがって。

そんなことされてもうれしくともなんともないんだからな!」

 

否定した、はずだが。

――だんだんと、状況が怪しくなってきた。

 

最初はしんのすけの誤解をとくための弁解だったはずが、途中から何故か一成は士郎を褒めはじめ、対して士郎はこれに反応し、これまた何故かツンデレし出した。

互いの間に何処となく、友情以上の何かが見え隠れしているのは気のせいだろうか。

そんな光景を見ていた言い出しっぺの本人はというと、冗談のつもりだったのにマジでいい感じの雰囲気が出来上がったこと、予想外の展開に戸惑っている。

 

(え……何この雰囲気?)

 

言い出しっぺのしんのすけ、これには戸惑いを隠せない。

本人はというと先ほどの発言は、本当に――心底冗談のつもりであったのだ。

だというのに何故か自分の兄は顔を赤らめている。

そして友人はそんな彼を誉めている。もしかしてこれは褒め殺し?

 

今朝のバスでも士郎が男が好きなのかとか話題に上がったことを思い出し、マジでマジっぽい雰囲気になり始めた二人を、しんのすけは青い顔で見ていた。

 

「ふ……二人共、本当に、その。

お付き合いしてるとか……そういう関係ではないんですな?」

 

「「そりゃあ当たり前だろ?」」

 

『何を当然』という表情で関係を否定する二人。

この時ほど兄の発言に信用性を感じられなかったのは初めてであった――としんのすけは後に語っているという。

 

「ね……ねーねー、ところでさー。

せいとかいちょーのひと、どっか行くんでしょ?

オラも一緒にいってもいい?」

 

「いや、ちょっと色々と回るからな。

幼稚園児には少しばかりきついと思うからな」

 

一成の用事は春日部の数か所を回るものであり、幼稚園児の脚力では辛い部分がある。

 

「えー、オラもいきたいー」

 

「コラしんのすけ、一成は俺たちと違って本当に大事な用事があるんだ。

邪魔しちゃダメだろ?」

 

「えー……オラが行けないってことは……お寺同士の裏談合でもするの?

それとも日本寺連合による日本転覆計画?」

 

「何を想像しているんだ君は!

私の神社は清廉潔白だ、何もやましいことはしてないぞ!」

 

「い、一成。

日本征服なんて馬鹿な真似はやめるんだ!」

 

「だから考えてないってーの!?」

 

一成のお寺が関与している計画はともかくとして、しんのすけはどうも一成と共に行動したがっていた。

駅前に来たことといい、なんというか、しんのすけの行動はどうも怪しい。

士郎がしんのすけに尋ねようと考え――。

 

「しんちゃーん、どこにいるのー?」

 

会話の最中、背後から自身を呼ぶ声が聞こえ、しんのすけは思いっきり震えた。

 

「ゲッ!!

ま、まさかここまで……いけない、二人共隠れてー!」

 

その声が聞こえた瞬間、しんのすけは思いっきり危険を察知した。

声の主がこちらに接近する気配を感じたしんのすけは、今この場にいては不味いとばかりに、慌てて駅前の茂みの中へ身を隠そうとする。

それどころか、その場にいた士郎と一成も一緒に引っ張り始めた。

 

「はっ?」

 

「ちょ、おいしんのすけ!

一体何を……」

 

「いいから二人共、早く早く!

どうなっても知らないゾ!」

 

小さな身体で必死に二人を引っ張るしんのすけ。

その、あまりに尋常ならざる様子につられ、狼狽えながらも士郎と一成も共に近くの茂みへと身を隠す。

駅前の茂みとはいえ高校生を隠すにも十分な大きさの植物は、潜り込んだ三人の体を完全に覆い隠す。

完全に緑の中に身体を隠した三人は、それぞれがその隙間から目を凝らし駅前の光景を見守る。

しんのすけがこれほどうろたえているのだ、一体何が起こるのかと身構えていると――先ほどの声の主であるしんのすけの友人である桜庭ネネの姿がそこにあった。

 

「……あれ?

あれって、ネネちゃんじゃないのか?」

 

「そうそう。

ネネちゃん……こんなところまで嗅ぎつけてきて、本当にしつこいゾ……」

 

「しーんーちゃーん?

どーこーにーいーるーのー?」

 

鬼やみさえが現れるのかとおもいきや、そこにいたのは、意外にもしんのすけの友人であるネネであった。

ネネは駅前をうろうろと、しきりに士郎の横にいるしんのすけの名を呼んでいる。

きょろきょろとせわしなく視線を動かしているその姿は、つまり――。

 

「……オイ、呼んでるぞしんのすけ?」

 

「オラしんちゃんじゃないもん。

しんのすけだもん」

 

しんのすけを探している、ということだ。

そのしんのすけはというと、呼ばれているにも関わらず一向に茂みの中から出ようとしない。

 

この状況から察するに、ネネはしんのすけを捜索していて、しんのすけはそんな彼女から逃げてきたほうなのだろう。

そしてわざわざ駅前まで逃走し、さらにネネはわざわざそれを追って駅前まで探しに来た。

 

「あれー?

おかしいなあ、しんちゃん、今朝はちゃんと幼稚園に来てたし、駅前に行く姿を見たって言ってたのに……」

 

茂みの中のしんのすけたちには気がつかないものの、よほど大切な用事でもあるのかネネは見つからないにもかかわらず全く諦める気配がない。

ふらふらうろうろと動きまわるが、一向に駅前から動かない。

 

「……しんのすけ、お前俺の迎えとか言ってるけど、実はただ単にネネちゃんから逃げてきただけだろ?」

 

「失礼な!

士郎にーちゃんをお出迎えするついでに、逃げ出してきたんだゾ!」

 

出迎えするついでに逃げるとか、どう見ても時系列がおかしいようにも思えるが……。

ともかくしんのすけはネネから逃げるためにこうしてわざわざ駅前まで来たことに間違いはないようである。

 

しかし、そうなると疑問が一つ残る。

しんのすけの行動である。

これで二人が実は片方が吸血鬼で片方がそれを狩るための真祖の姫君だったり、命をかけて殺しあう姉妹のような関係ならばその行動も納得できるものだが、目の前のネネを含め「かすかべ防衛隊」を名乗る彼らは普段から仲の良い友人関係にある。

別にここまでして逃げ続ける必要はどこにも感じられない。

 

「……しんのすけ、別に友人ならば逃げる必要はないのではないか?

ほら、あの様子ではただ遊び相手を探しているだけにも見えるが……」

 

「そ、そりゃあ……普段通りの遊びなら別にオラもいいんだけどさー……」

 

だが、隣のしんのすけは明らかにネネに対して強い拒否反応を示している。

しんのすけは言葉を途中で止めて、顔を青ざめながらちょいちょいとネネを指さした。

具体的に言えば、彼女の背後の部分に対して。

“見れば分かるよ”と言いたげな顔をしている。

 

普段はノリのいいしんのすけがここまで拒否反応を示している。

一体何があのしんのすけをそこまでさせてるのか、と不思議に思いつつ士郎と一成はネネの背後に目線を向け――。

 

「「うっ!?」」

 

二人揃って顔を思いっきりひきつらせる事となった。

 

 

ネネの背後、そこにはしんのすけの友人である風間、マサオ、ボーのおなじみの顔ぶれが並んでいた。

普段から一緒に行動している彼らがそこにいることには、特に疑問はない。

 

だが二人が驚愕したのは、彼らの様子にあった。

ネネのハツラツとした表情とは対照的に、後ろにいる三人の表情たるやまるで子供らしくない。

子供は風の子、とはいうがその表情は決して風のなかで遊ぶような生き生きとしたものではなく、逆に病人のようにげっそりとやつれこんでいる。

その姿は、まるで人生に疲れた大人のような完全に悟りきった表情だ。

 

例えるならば、まるで今から奴隷市場に売られようとしている奴隷のようなもの。

その集団の先頭を歩くネネは、さながら奴隷の主といったところだろうか。

時折三人がきちんと後ろについてきているかどうか確認している当たり、完全に主従の関係が出来上がってしまっている。

 

いまだ太陽が天高く昇っているというのに、風間以下三人の部分だけ、空気がどんよりと重くなっており真っ暗な空間が形成されている。

暗黒、カオス、絶望――そう表現したほうがいいかもしれない。

当然それは周囲にも伝搬しており、先頭で引っ張っているネネがなぜ気が付かないのか? というレベルのやつれ具合だった。

 

うろうろと辺りをやけにしつこく探すネネの後ろを、まるで風間たちは芋虫のように続いていく。

いったいこの幼稚園児たちに何があったのか? と冷や汗を流す士郎と一成。

 

――そして、二人は驚愕の理由を目の当たりにする!

 

「……あーあ、ここにもいないのかしら。

本当に何処行っちゃったのかしら、しんちゃん?

折角公園でボーちゃんたちと“リアルおままごとヴァージョン2”をやろうかと思ってたのにー」

 

「「…………」」

 

ぽつりと呟いたネネの声は、しかし近くの茂みに隠れていた三人にはしかと聞こえていた。

ネネの口から発せられた不穏な言葉にしんのすけは思いっきり震え、一成と士郎は思わず顔を引き攣らせた。

 

(…………り、リアルおままごとだとぉ!?)

 

(しかも……ヴァージョン2ッ!?)

 

リアルおままごと、しかもヴァージョン2。

その言葉に二人は戦慄し、同時にしんのすけがここまで逃げていた理由を今、完全に理解した。

 

 

『リアルおままごと』……その名の通り内容が非常にリアルな桜田印のおままごとである。

 

それは所詮子供のおままごと――等と、決して侮ってはいけない。

もし入ったら最後、それは決して逃れることはできない牢獄。

ネネの取り仕切るリアルおままごととは、幼稚園児がやる気分で参加するような生半可なものではないのである。

 

夫婦ごっこ?

お医者さんごっこ?

はたまた、結婚式ごっこ?

 

――否。

ネネ印のリアルおままごとは……真心皆無、やさしさ0%の愛憎ドロドロ入り交じった火サス顔負けのサスペンスドラマものなのである。

 

あるときはダブル不倫旅行中の中年夫婦。がばったり出会う修羅場。

あるときは、不況に生きる極貧夫婦。が夫が浮気する修羅場。

あるときは魔術師の家系のエリート男と、その従者に恋している彼の許嫁。が戦いの最中に許嫁が従者に恋するあまりエリート男をポイッチョする修羅場。

あるときは付きで行われた戦争において二人の英霊の間で揺れるマスター……等など。

 

そのリアルさ、えげつないまでに現実面を極限まで追求されたシナリオ。

人間の深い部分に存在する情愛や悪意をこれでもかと言わんくらいに混ぜあわせたようなストーリー。

 

その上、話題が学園モノやスポーツ系だったとしても、何故か途中から登場人物が修羅場に巻き込まれてしまうという構成。

リアルおままごと中ならば一切の妥協提言離脱を許さぬネネ無双。

 

この条件故に、しんのすけ以下友人たちはこぞってリアルおままごとに対して拒否反応に近いレベルの恐怖を抱いていた。

参加すれば楽しくもなくむしろ疲れるばかりで、誰もが不幸になるような遊びなど――だれがやりたがるだろうか?

 

事実、このおままごとをたった一度だけ経験した保育士志望の学生が、リアルおままごとがが原因で危うく道を閉ざそうになった事例もあるほどである。

 

それはもちろんここにいる三人――しんのすけの兄である士郎は言わずもがな、過去に一成もリアルおままごとを体験したことがあった。

その時のことは決して他人に語ろうとはしなかったものの、二人共一度見ただけでなぜあのしんのすけがそこまで嫌がるのかという事は、すぐに理解することができた。

 

しかも、今回はそれに加えて――

 

(ヴァージョン2?

なにが2なんだっ!?)

 

(前に見た時とて、あれほどまでに酷いおままごとはないと思っていたのだが……。

あれから何がグレードアップしているというのだ?)

 

前述したように、リアルおままごとは心も精神も胃も痛める大変人に悪い遊びだ。

ネネのおままごとの酷さは二人とも骨身に染みて感じるほどに経験している。

それがどういうわけか、レベルアップしてヴァージョン2として帰ってきた。

何がどう上がったのかは知らないが、回りからしてみれば大変迷惑極まりないグレードアップであることに間違いはない。

 

「ギロッ!」

 

(!!)

 

(んなっ!?)

 

(いかん!)

 

――不意に、振り向いたネネの鋭い視線が一瞬だけ、士郎たちと交わったような――気がした。

反射的に三人は茂みの中に身をひそめ、息を殺す。

対してネネは何かしらの存在を感じ取ったのか、つかつかつかと士郎たちに向かって歩き始める。

そして、その歩みは士郎たちの潜む茂みの目の前にて止まった。

 

士郎たちのほんのすぐ先、そこには今世界で最も恐ろしい幼稚園児がそこにいる。

 

「……おかしいわねぇ……今たしかにしんちゃんと士郎さん、あと誰だっけ……お寺の人の気配を感じたんだけど……?」

 

(け、気配を感じ取るなよ~……幼稚園児……)

 

(春日部の子供は……化け物か……!?)

 

人数どころか、誰だったのかすら感知するという野生児なみの感を働かせるネネ。

今此処で見つかれば、確実にリアルおままごと“ヴァージョン2”に引き込まれてしまるのは間違いない。

三人は息をひそめ、物音ひとつ立てずに目の前にいる少女に気づかれない様に気配を隠す。

 

――そんな彼らの祈りが天に通じたのか、ネネはついに彼らを見つけることをあきらめた。

 

「……あーあ、しょーがないわね。

こうなったら今日はしんちゃん抜きでリアルおままごとやりましょ。

それじゃあみんな、公園に帰って……

 

『リアルおままごとⅡ

ローマの休日は麗しのサブリナ、昼下がりの情事のパリの恋人。

緑の館の尼僧物語はおしゃれ泥棒』

 

やりにいきましょーか!」

 

「…………おー」

 

しんのすけの捜索を諦めたネネは、連行していた捕虜達だけでリアルおままごとを実行する事にした。

 

しんのすけがいないからこのままやめるんじゃないのか?――なんて、僅かに残った期待は完全に打ち砕かれ、背後の三人は激しく項垂れる。

ネネ本人のやる気は充分、その後ろの友人たちは力なく心底いやそうに追従。

というよりも本当に心底嫌なのだが、どうせここで反対意見を言ったところで黙殺されるか目で威圧されるかが目に見えている。

彼らに残された道はネネに従い、暗黒の世界へと旅立つのみなのである。

 

こうして、ネネたちは駅前からいつもの公園へと向かっていった。

その背後には相変わらず、風間らが取り憑いた相手が間違えて高名なお坊さんだった背後霊のような状態で続いていった。

 

――合掌。

 

 

ネネたちの姿が駅前から完全に見えなくなった事を確認し、三人はようやく茂みから身を出した。

 

「はー、危なかったー。

駅前じゃなかったら見つかってたかも……」

 

身体についた葉っぱを落としつつ、ネネに見つからずに済んだことにしんのすけは心底安堵する。

もしあの場で捕まっていたら、数時間はリアルおままごとから解放されなかっただろう。

そして、それは士郎と一成も同じ。

 

「……なあ、一成」

 

「なんだ、士郎?」

 

「…………ローマの休日、麗しのなんたら?

なんなんだろうな、一体……」

 

「題名からまるで内容が掴めないな……」

 

リアルおままごとに参加せずに済んだこともそうであるが、二人が気になったのは今日行われるおままごとの題名であった。

まるで映画タイトルをごちゃまぜにしたような、幼稚園児の考えたような題名ではあるが、あのネネのことである、きっとまた何かしらの映画を見て影響されたに違いない。

 

 

――余談だが、この後行われたリアルおままごとで何故か行きずりの観光客が訪れたローマにて、皇帝とアイドルとの間に略奪愛が発生することとなる。

坊主頭の観光客は絶叫して泣きながら逃げ出し、何故かアイドルに選ばれた児女が激怒しながらその後を追い、皇帝とその付き人が必死で諫めるというカオスな空間が形成された。

彼らの予言は、見事に的中したのである。

 

 

「大変だな、しんのすけ……」

 

「全くだゾ。

あーあ、あの様子じゃあ今日は風間くんたちとは遊べそうもないなー」

 

「え? なんでだ?」

 

「見つかったらネネちゃんにまず密告される」

 

「「えっ?」」

 

しんのすけ、風間、マサオ、ネネ、ボー。

彼らかすかべ防衛隊は、共に固い絆で結ばれた親友である。

だが、今この場においてしんのすけは彼らにとってまんまとネネから逃げおおせた裏切り者にしか過ぎない。

 

もし彼らに見つかったりしたら――

 

「それでー、次にオラをあの手この手で騙してネネちゃんの所まで連行して。

それでネネちゃんが裏で糸を操ってましたー、なんて事になるに違いないゾ」

 

それは決して誇張でもなく、遊んでいる最中、ボールを取りに行っていたらいつの間にか帰宅途中のサラリーマンになっていた、気がつけば役柄に引き込められていた――なんて過去に何度もあったくらいである。

かくいう一成や、この場にいない慎二や桜たちもまたそれで捕まった経験があり、あの時は士郎と共にさんざんリアルおままごとに巻き込まれる羽目となった。

その上士郎は後に謝罪として一斉に昼食を奢る羽目となり、慎二は丸一日魘されるわ大変であった。

 

「そ、そうか……大変だな……」

 

「幼稚園児の世界というのも、世知辛いものだ……」

 

単純そうに見えて意外に複雑かつ裏切り、悲しみのある幼稚園児の関係に、冷や汗を流した士郎と一成であった。

 

 

 

 

「じゃ~ね~、せいとかいちょーの人。

また明日~」

 

無事ネネから脱出できた士郎たちは途中で用事のある一成と分かれ、自宅へと向かう。

 

「士郎にーちゃん、そーいや今日は早かったんだね」

 

「ああ。なんでもここら辺で不審者がいるらしくてさ、藤ねえが言ってたんだ。

部活を切り上げて帰ってきたんだ」

 

幼稚園児であるしんのすけは、学生に比べると早めに帰宅できる。

一方の士郎は学生であり、さらに弓道部の活動や学校の用事などで遅くなることが多々あるため、夕方にもならない時刻に帰ってくることはあまりない。

今日は不審者の警告があったことで早めに帰れたのであり、こうしてしんのすけが駅前でばったり士郎に出会えたのも偶然にすぎない。

そういう意味では、こうして二人で帰ることは結構珍しい事であった。

 

「ふーん……。

ねーねー、フシンシャって反宗教的な人のこと?」

 

「それは“信じない人”の事。

俺が言ってるのは、“見るからに怪しい人”ってことだ」

 

「ほーほー……見るからに怪しい人……」

 

「そ。しんのすけも気をつけろよ。

青タイツ被って赤い槍持った見るからに怪しい奴なんだからな?」

 

不審者についてしばらく考えていたしんのすけは、一言呟く。

 

「それって組長先生も?」

 

「オイしんのすけそれ絶対に本人に言うんじゃないぞ?

言ったらあの人多分泣くからな?」

 

意見には心底同意するが、士郎はしんのすけに絶対に他言しない様に釘を打った。

 

組長先生――本名、高倉文太。

物腰が柔らかく非常に心優しい性格なのだが、それと対称的に明らかにヤクザそっくりな顔をしている、しんのすけの園の園長である。

 

その性格は非常に温厚で、まさしく人格者。

子どもたちを愛し、そして時には愛するゆえにしっかりと叱ることもあるという、子供好きな、理想の延長である。

そういう点では、本当にいい人なのであろう。

 

――だが。

天は二物を与えず、と言うが神様は彼に両極端なものを与えたらしく、その心優しさと引き換えに外見は完全に考慮の外に置かれていた。

なにせ、その容姿がヤバすぎるのだ。

元々色黒な肌に髪型は天然パーマ、そしてサングラスを愛用。派手なスーツを着ている上に顔面には過去の事故の傷跡まである。

加えて、生まれついての鋭い眼光はまさしくヤクザそのものだ。

 

本人はこれまで生きていて一度も警察に(関わることはあっても)お世話になるようなことは一度もない……らしい。

だというのに、顔のおかげで初対面の人間はまず彼をヤクザと間違える。

次に幼稚園児の園長だと分かると、半数の人はまず嘘ではないかと疑い、さらに半分は幼稚園児を隠れ蓑にして……と考えてしまう。

残りはと言うと、立派に働いて更生したんだなぁ……と勘違いするのである。

 

こうまで恐れられる顔だというのに、本人は温厚で臆病で泣き虫、という。

もし面と向かって貴方の顔は不審者級ですよ、なーんて言った日には絶対に泣く姿が容易に想像できる。

最も、それを否定出来ないほどに確かに不審者級なのだが。

 

「ふーん……オラそのフシンシャに会ってみたいなー」

 

「おいこら、そんなこと言ってると本当になっちゃうぞ。

もし園長連合みたいな人たちに出会ったらどうするんだ?」

 

「う……それは嫌かも……」

 

園長連合、というのは大阪で遭遇した全国の幼稚園の園長達が集合した時の出来事である。

 

皆園長と同じく非常に善人であるのだが――顔が非常に怖かった。

というよりも、どこぞの人造人間を運用するような司令だったり、名前に“13”なんてつきそうな暗殺者っぽい人に顔が似てる園長までいたのである。

 

「ハハハ、そうだろ?

平和が一番、一番!」

 

「……士郎にーちゃん相変わらず面白みのない答えだゾ。

まるでとーちゃんみたい」

 

「え……そうか?

まあ毎日愚痴に付き合ってるからなー……もしかして、伝染っちゃったかも?」

 

「モ~。足の匂いまではうつさないでよー。

一人だけでも大変なのに」

 

「ハハハハハハ」と二人で笑い合う。

帰り道、弟と交わす他愛のない会話……それは、彼の普段通りの日常。

 

――だが、しんのすけの言葉がフラグになったのかは知らないが、二人はこの後に本当に不審者に出会うこととなる。

 

 

 

時間はしばらく経過し、我が家も大分近くなりはじめた頃。

 

二人の進行方向の先、道路の中央に人がぶっ倒れていた。

両手両足を四方に広げ、大地に大の字でうつ伏せ状態のその女性は、ぴくりとも動かない。

 

「あ、士郎にーちゃん、そこ人が倒れてるゾ。

危ないよ」

 

「ああ、気をつけるよ」

 

道路に人が倒れている、ということについて。

二人は“倒れた人物を踏まないよう”に、脇を通ってナチュラルに素通りし。

 

「…………って何ぃ!?」

 

事の異常性に気が付き慌てて引き返した。

 

しんのすけの言葉通り、そこでは女性が大の字で倒れていた。

閑静な住宅地とはいえそこは車通りが皆無というわけでもなく、もし発見が遅れていたら、危うく引かれていた可能性もあるだろう。

 

「あっぶね!

倒れてる人なんて普段通りのことだから思わずスルーしそうになったぜ!」

 

「別に慣れることでもないでしょ」

 

「細かいことは気にするな。

っと、それよりも……」

 

春日部じゃあ誰かが路上で倒れることは日常茶飯事……という訳ではないが、別段珍しいことではない。

士郎は路上に倒れている女性の容体を確認する。

 

「……よかった、まだ息はあるみたいだ!

見たかんじどこも怪我して無いみたいだし、大丈夫っぽいな?

それにしても、ひき逃げ?

じゃなさそうだよな……タイヤ痕とかないし……」

 

幸いにも女性には息があり、衣類にも傷らしい傷もついていなかった。

人が無事なのは幸いであったが、問題はなぜ彼女が倒れていたという事だ。

 

路上に倒れている時点でまず考えられるのがひき逃げの可能性である。

しかし、テレビであるようなブレーキ痕などは道路には確認できず、女性の体にも車に衝突したらしいような傷らしい傷はどこにも見当たらない。

衣類の汚れ具合も殆ど無く、自動車に轢かれたというよりは、女性がその場に倒れたと考えたほうが正しいだろう。

 

――そして、倒れている事以上にその女性には不審な点がもう一つ。

 

「……なんでこの人、今時ローブなんか纏ってるんだ?

青タイツとか紫ローブとか、春日部じゃこんなのが流行ってるのか?」

 

士郎が気になったのは女性の格好について。

女性が身に纏っていたのは冬用のセーターといった防寒具や士郎のような学生服でもなく、身体を覆うような形で纏うタイプの、紫色のローブだった。

 

確かに寒いとはいえ、通常女性が纏うような衣類ではない。

というよりも、ファッションに敏感な女性が、こんな恰好で外を歩いている姿なんて見る事すらないだろう。

だが、実際に目の前にいるその女性の格好はまるで、古い魔法使いが現代に現れたかのようなちぐはぐな格好であった。

 

一体なぜこの女性はそんなローブを着用しているのか?

疑問は尽きないばかりだが、新たな発見をしたのは、しばらく周りをちょろちょろと周っていたしんのすけだった。

 

「……あれ? 士郎にーちゃん、この人なんか書いてるゾ。

ほら、ここんとこ」

 

「え? ……あ、ほんとだ。

何か書いてあるな……」

 

しんのすけの言葉に視線を移してみると、女性の右腕の部分に何やら文字が書かれている。

倒れた人間、その近くにある文字――ということは。

 

「これってもしかして……シャイミングソーセージ!?」

 

「それを言うならダイイングメッセージ。

別に光り輝く食べ物じゃないぞしんのすけ。

どれ、何々……?」

 

何かしら伝えたい事でもあったのか、道路には赤い液体で書かれた文字が連なっていた。

赤い液体、そしてその傍で倒れている女性。

そこから連想させられるのは――人間の血液。

もしや見えない範囲で何かしらの怪我でもしているのか、頭脳が大人な子供名探偵とかでよくある明らかにあからさまなダイイングメッセージなのかと思いつつ、恐る恐る文面に目を通し。

 

「うっ!?」

 

そして、士郎はその内容のあまりの酷さに思いっきり顔を引き攣らせた。

 

 

『――無念無念まさしく無念。最後にできることならばイイ男と手をつないで死にたかった。

まともな恋愛もできずに死ぬなんて、悔やんでも悔やみきれない。燃えるような情熱的でハートフルな恋愛がしたかった。

食事にも誘われたかったしナンパとかされて奢られてみたかったしおしゃれもしたかったし六○木にも行きたかったしホストに死ぬほど金を貢いでみたかった。

合コンにも行ってみたかったカラオケにも行きたかった妊娠したかったエステにも云々……(以下あまりにも長すぎるので割愛)』

 

 

――そこには、遺言と呼ぶにはあまりにも長ったらしすぎる文章が道路に延々と残されていた。

死の間際に書かれたものとは思えぬほどの長文で、しかも内容はダイイングメッセージなどではなく、恋にあぶれた女性の恨みつらみがびっしりと書かれている。

よほどこの女性はこの世に未練があったのか、それとも出会いがない事への恨みが募っていたのだろうか。

おまけに何処で調達したのか、よくよく見れば書いている文字は血ではなく右手に握りしめられている赤マジックであった。

 

「な……なんだコレ?

これじゃあ遺言じゃなくて、単なる主婦の願望じゃねーか。

うっわ細か~……まるで模様みたいだな」

 

内容も酷いものだが、道路に隙間なくびっしりと描かれた文字の集合体は、いかにこの女性の過去がすさんだものであったかを如実に表している。

きっと彼女の過去は士郎たちが想像できないほどに凄まじいものだったのであろう。

 

実際、彼女の過去は想像もできないほどにすさまじい生涯なのだが、メッセージにはこれっぽっちも書かれていなかった。

書かれていたのは、自らの欲望とこの世のカップルに対する恨みつらみばかり。

 

というか、何もこの状況でこんな道路に書かなくとも……。

と、女性の心の内側というものを垣間見た気がして、二人は激しく引いていた。

 

「うっわ……これはひどいゾ。

ハァ~~、しかも書いてるのが母ちゃんとまったく同レベルじゃん。

なんだかオラ、心配して損した気分……」

 

「俺もだ……」

 

何かしら物騒な事件に巻き込まれたかと心配していたら、ふたを開けてみればただ単に出会いが無かった不幸な独身女性が行き倒れていただけであった。

何事もなかったとはいえ何ともアホらし過ぎる結末に、二人とも脱力する。

とはいえ、このまま女性を放置しておくわけにもいかない。

 

「ところでさ、士郎にーちゃん。

どーするこの人?」

 

「あ、そういえばそうだよな。

う~~~~ん……」

 

今の今まで忘れていたが、目の前の女性は救助が必要な人間なのである。

たとえそれが事故ではなく単なる行き倒れだったにせよ、それでも目の前に人が倒れていることに代わりはない。

応常識的観念から言えば、ここで選択肢としては“助ける”というコマンドを選ぶべきなのであろう。

 

しかし、しかしだ。

士郎としては、赤マジックで遺言のようなメッセージのような愚痴のようなものを書くような人とぶっちゃけて言うとあんまり関わり合いになりたくなかった。

だからといってそのまま見捨てるという選択肢も、一応人道的な意味合いでは選ぶわけにもいかないだろう。

いやけれども例え正義の味方だったとしても、正直に言うとこのおばさんを助けて何かしらの関わりをもつというのも……。

 

「なんというか、あんまり関わりたくないけど……。

とりあえず警察と救急車くらいは呼ぼうぜ。

見た感じ事故っぽくはないし、どうやら行き倒れっぽいしな……」

 

事故の可能性は一つもなく、どうせ長い遺言書くぐらいの気力はあるのだから事件性はないだろう。

そう判断し、後のことは公務員に任せようと近くの公衆電話まで向かおうとする。

 

そこで不意に、ぴたりと士郎の動きが止まった。

 

「……!?」

 

「どったの士郎にーちゃん?」

 

突然動きを止めた兄にしんのすけは訝しげな表情を向ける。

しかし、士郎は答えようとせずに顔をひきつらせながら、“足首に感じた違和感”に視線を向ける。

 

――そこではがっしりと“ナニカが士郎の足首を掴んでいた。

 

士郎の足首を掴む、細い指。

がっちりと掴んで離さない、白くほっそりとした腕。

それは、先ほどまで道路に倒れていた紫ローブの女性へと繋がっていた。

 

「こ、こいつ……動くぞぉ!!」

 

先ほどまで微動だにしていなかったというのに、その女性はまるで得物を見つけた虫のように素早い動きで士郎の足首を拘束した。

が、足首を動かしたままで停止。

しんのすけが近くにあった枝で女性をつんつんとつつくが、女性は打って変わってぴくりとも動かない。

 

「気のせいだゾ、気のせい。

きっとシゴコーチョクってやつだゾ」

 

「死んでねえっての!

いったいどこでそんな単語を覚えてるんだよ……」

 

幼稚園児にして変な方面で博識な弟の将来を心配する。

第一硬直しているならば、動きすらしないのだが。

 

なんというか、女性から不穏な気配を感じ取った士郎は足首を掴んでいる手を外そうと腕を伸ばし――。

 

 

――がしり、と今度は手首が掴まれた。

 

 

「「!!!!!」」

 

二人の表情が一気に凍りつく。

 

――今、間違いなく動いた。

それは士郎の勘違いでも幻覚でもないことは確かであり、(動いたよな?)(うん、動いたゾ)と二人は視線で会話をする。

死後硬直とかそういう問題ではなく、確実に意思を持って動く生命体である。

 

そして、女性は士郎を確実に捉えている。

何故捉えているかは分からないが、士郎はその時、まさしく女性にとっての得物であったのだ。

 

――女性はブツブツと小さな声で呟いているのが、二人の耳に入った。

 

「……せっかく見つけた、若い男……。

ぴっちぴちの高校生……。

その上魔術師となれば、逃がしてなるものか……。

逃してなるものか……」

 

それは小さいながらも、やけに耳に迫る声であった。

 

士郎の手首を掴んでいるほうとは反対の手が、大地をつかむ。

うつ伏せの状態から、手足が四方に伸び上がり、まるで蜘蛛のように身体が浮き上がる。

四つん這いの状態からゆっくりと身体を起こし、ふらふらとしながらも立ち上がる。

 

 

「決 し て 逃 が し て な る も の く わ ぁ ぁ ぁ ぁ ッ !」

 

 

その声は――まるで地獄の底から響くような声だった。

 

 

 

「「うわああああああ!

喋ったあああああああ!!」」

 

 

 

後に、衛宮士郎としんのすけ、そして女性――『キャスター』。

この三人の『最悪の出会い』とまで言われ笑い話となり、キャスターにとって過去最悪の黒歴史となる、恥ずかしい出会いが。

 

 

――そして。

この時、彼女との出会いを以って、野原一家の聖杯戦争が始まったのだ。

 

冬木で行われた“はず”の、聖杯戦争。

それは冬木の聖杯に留まらず、地球を。

そして人類の過去、現在、未来を賭けた巨大な戦いが――いま、幕を開けたのである。

 

 

 





――園長連合
連合かどうかは忘れちゃったけど、幼稚園の組合で大阪に集まったときのお話。
『大阪で食いだおれるゾ』より。
あの面々と同席したら多分作者は泣くと思う。

アニメじゃコミカルだけど、実際リアルおままごとを体験したらトラウマものだと思う。それにいっつも付き合う春日部防衛隊の面々は凄いなぁ。
キャスターさんはよくあるテンプレ。この作品ではものすごい残念仕様となってます。ただ、原作でも家庭っぽい願い事してた人なので野原家とは凄い絡ませやすいと思う。
あと外伝とか入れてみたいなあ。



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第4話 追うもの、追われるもの


気がつけば前回の投稿してからもう半年以上が経過したでござる。
待たせたな!

……ハイ、すいませんリアルでお待たせしました。
就職関係とか引っ越し関係とか、手持ちのパソコンが全部XPなので買い替えとかで時間が取られてしまい、たいへん遅れてしまいました。申し訳ない。
一応プロットとかはある程度は考えてあるんですが、肉付け作業で時間がとられてしまって……。
これからは更新速度を上げていきたいですね。

あと、感想のほうで色々とありますが、途中からの返答できなかった分はここで回答します。
返答できませんでしたが、皆様の感想は大変ありがたく読ませてもらっていますので、これからもよろしくおねがいします。

・キャスタールートについて。
大変申し訳ありませんが、メディアさんと士郎とのカップリングはありません。
キャスターさん、当分はまつざか先生枠となりますので……。
いえ、ちゃんと彼女にも救いはありますよw

・原作キャラの立ち位置
冬木の火災から切嗣によって救われた、と知られていますので士郎はそれなりに注目はされてます。
でも魔術は一見習ってなさそうなので原作ほど注目されてるということではありません。
言峰は切嗣つながりでそれなりには気にしていると思います。ただ同居人の扱いでかなり苦労してそうですが。

・好きなキャラ
昔はセイバーが好きでしたが、今ではプリズマ☆イリヤにハマっております!
やっぱり子供が活躍するのは好きですね。

・冬木の立地
あまり遠いと野原家から通う意味がなくなってしまい、あんまり春日部と関わりがなくなってしまうので春日部と隣り合わせということにしました。
立地条件とかは……まあSSということで、勘弁して下さい。



 

――それは、士郎と一成が電車に乗り、春日部の駅前に到着する時刻から若干前のことである。

 

春日部の閑静な住宅地を、流行から真正面に挑みそうな全身を覆うくらいの、紫のローブをその身に羽織った女性が歩いていた。

雪がちらつく、というわけではないが十分に気温の低い春日部において、薄布を纏うというはなはだ不釣り合いな格好の女性。

そのせいかはどうかはわからないが、その足取りはまるで両足に鉛でもついているかのように重く、一歩前に進むたびに吐く息も荒い。

顔まですっぽりと覆うローブを被っている故に表情をうかがい知ることはできないものの、時折ちらちらとのぞく顔色はひどく悪く。

加えて、ふらふらと壊れたメトロノームの如く上半身を不規則に揺らしながら歩くさまは、まるであてもなく彷徨うゾンビのようであった。

 

(や――やばい‥…)

 

そう、女性――この第五次聖杯戦争におけるサーヴァントの一人として召喚された英霊キャスターは、ゾンビと表現するよりも、本当にゾンビ化一歩手前の状態にあった。

本来ならば今頃は英霊として、聖杯戦争に参加しているはずの彼女が、なぜこのようなゾンビ状態に置かれているのか。

腐っててもサーヴァント、そんな彼女をここまで追い詰めたその原因はというと――。

 

 

――ゴグォォォォォォ……

 

 

彼女の腹から響き渡る、絶対に女性が出しちゃあいけないような強烈な音。

グゴゴゴ……という地響きにも似た音を出す腹を、彼女は力なく左手で抑える。

 

(……お腹、減った……わ……)

 

そう、キャスターがこんなゾンビみたいになった原因。

それは、先ほどからひっきりなしに音を立て続け、彼女に空腹を訴えている胃袋にあった。

要するに『空腹』である。

 

実は彼女、この数日間ほど食事どころか水分すらほとんど口にしていないのである。

それゆえに、こうして歩いている状態においても常に耐え難い空腹と水分不足に悩まされていた。

と、なると某ゾンビの如く足りないエネルギーのせいでふらふらと歩くのも当然。

何故彼女がこんな、お坊さんの苦行じみた行為を行っているのか……というよりも、そんな羽目になったのか?

 

 

そもそも、聖杯戦争により現界する“サーヴァント”が空腹に悩まされることじたい、まずありえない事態なのだ。

元々その身体を聖杯からの魔力によって現界させている彼女は、身体のつくりこそ人とあまり変わりはないものの、人間が必要にするであろう睡眠や食事などを行う必要はない。

一応食事や睡眠ができないというわけではないのだが、しかし、マスターから魔力供給を受けたほうがはるかに効率が良いだけなのである。

 

――が。

サーヴァントが食事を必要しないのが“通常”であるならば、サーヴァントには本来ならばマスターがいることもまた“通常”のこと。

召喚された彼女――サーヴァント全員には本来ならば主となるマスターが必要であり、こうして現界している間はマスターより魔力供給を受けて活動するのが普通なのである。

しかし、どういう訳か今の彼女にマスターと呼べる存在はいない。

訳あって以前のマスターを失って(自ら縁を切って)から、はや2日。

後先考えずに家を飛び出してしまったキャスターは、文字通り着の身着のまま無一文で行くあてもなく、ここの数日、春日部の街をひたすら彷徨っていたのだ。

 

魔力さえあれば不眠不休で何でもできるサーヴァントであるが、逆にマスターからの魔力供給がなければ活動することすら危うい。

とりわけ“魔術師”のクラスであるキャスターは戦闘を行うにも莫大な魔力を消費するので、何か一つ行動を起こそうにも魔力消費が半端ではないのである。

 

さて、マスターから魔力供給が行えない以上、ほかの手段で魔力を供給するほかない。

考えられる手段としては一般人から魔力を奪い取る“魂喰い”が挙げられるが、それもキャスター自慢の魔術を行使する魔力がなければお話にならない。

(というよりもこの春日部でそんなことをすること自体、守護者に喧嘩を売るに等しい行為なのかもしれないが)

 

となるともう一つ、前述したとおりに食事や睡眠でもある程度魔力の回復はできるが――今のキャスターは、文字通り一文無しだ。

身体を維持するための魔力なんてとっくの昔に枯渇しているし、それ以前に空腹と疲労で人間として危険な領域に達しているのである。

一応、空腹や疲労などは一度霊体化さえできればリセットが可能なのだが、そもそもそんな魔力すら不足している状態ではなんら役に立ちもしない。

 

――魔術を使えないキャスターなど、雑魚同前。

映画の際に毎度のように行われる某未来から来た猫型ロボットから四○元ポケットを取り上げたようなもの。

 

幸い、元マスターが冬木ではなく春日部在住であったのが原因なのか、彷徨う彼女が他のサーヴァントに出会うようなことはなかった。

もしここで他のサーヴァントに相対などしたら、結果は火を見るよりも明らかだ。

聖杯史上類を見ない三日足らずでの敗北を喫することになるだろう。

しかしこうして激しい苦しみを味わっていることを考えると、いっそのこと一思いにやってくれたほうが幸せにも思えてくる。

 

「あぅぅ……もう歩けない~……」

 

一歩一歩歩くたびに、刻々と身体から体力が砂時計の砂のように消耗されていく。

半ば無意識のうちに歩いていたキャスターであったが、多魔力不足に空腹、そして疲労という三連コンボに、ついに歩く気力すら失せ、道路の脇で立ち止まり、膝をつく。

 

ひもじさと虚しさと悲しさに包まれ、道路わきに座り込むそんな彼女の傍らを、何の偶然か一組の男女が通りかかった。

おそらくは互いに通じ合った関係なのだろう、赤子を抱えているところから見ても、二人は夫婦である事に違いはない。

道端で座り込んでいたキャスターは何の考えもなしに、通り過ぎてゆく二人に視線を合わせた。

 

そして、彼女はなぜこの時に顔を上げてしまったのか、と猛烈に後悔する羽目となる。

 

 

「ねぇ~、純一さん。

今日の晩御飯、何にしようかしら?」

 

男の方に腕を絡まつつ、髪の毛を後ろで束ねた女性は『純一さん』と呼ばれた男に問いかける。

女性のスキンシップに対し男の方は苦笑しつつも、それを拒むような様子は全くない。

 

「うーん、そうだね……今日はせっかくキミも幼稚園から早めに帰ってこれたんだから……。

そうだ!

今日は君の大好きなものでも注文しちゃおうか、み・ど・り♪」

 

「え、いいの?

なんでも好きなものだなんて……私、お寿司とか中華とか高いものとか頼んじゃうわよ?」

 

「もちろん。

キミが好きなものは、僕も大好きだからね。

別に構わないよっ♪」

 

「やだぁ、純一さんったらっ♪

もぅっ!」

 

夫婦で共働きするくらいの、安月給もなんのその。

お金なんぞ問題外だといわんばかりに、二人は周りの人間が砂糖を吐きそうな会話を繰り返し、キャッキャウフフ、キャッキャウフフフフフ――とピンク色のラブリーハートをあたりにばら撒いていく。

 

「いちゃいちゃ♪」

 

「いちゃいちゃいちゃ♪」

 

もう見るからに「私達とっても幸せでーす♪」というオーラ前回で、仲睦まじく会話を交わす二人。

余程幸せなのだろうか、会話の節々からハートマークが溢れ出るように飛び出る始末。

それどころか二人は完全に己の世界に入り込んでおり、傍らで座り込んでいるキャスターを視界に収める事すらない。

幼児を導く立場でありながら、道端で困っている人に気が付かないというのはともかくとして。

周囲にそのラブラブっぷりを無駄にばら撒きながら、その夫婦は道端で座り込む女性に声をかけるどころか気がつくことすら無く、立ち去っていった。

 

 

さて、立ち去っていく夫婦のそのリア充っぷりを唖然とした顔で眺めていたキャスターは、しばらくしてようやく自分が完全にスルーされていたことに気が付いた。

確かに誰にも見つかりたくはない、と思っていたところはあるものの、別にあんな一般人にまでスルーされたいとまでは思っていない。

完全な背景扱いされ、一般人の視界にすら収まらないという酷い扱いに、キャスターのプライドは悉くズタボロにされた。

 

――そして当然、キャスターは激怒した。

 

「――畜生ッッ!

畜生ォォォォォッッ!」

 

叫んだ。

心のままに、腹の底から、力の限り叫んだ。

 

「何なんだあのバカップル、いやバカ夫婦!

真っ昼間の天下の往来でこれ見よがしにいちゃつきやがって!

なンでこんなところで夕方前で腕組んでラブリー会話なんかする必要があるのよ!

と、とことん人に見せびらかして行きやがったわ!

クッソー、そんなに自分が幸せだってアピールしたいのかコンチクショー!?

お前らなんか成田離婚でもしてしまえ!」

 

キャスターは怒りのままに思ったことをそのまま喚き散らす。

なんで私がこんなに苦しんでいるというのに、あんな奴らがあんなに幸せそうにしているのか?

生前は結婚をしたにも関わらずとんでもない結果に終わるわ、マスターには恵まれずこうして醜態を晒している……挙句先ほどのように一般人の視界にすら映らないという扱い。

嘗ては女王にまで上り詰めた神代の魔女が、今では空腹に恋愛に男に飢えるただの喪女。そしてまさかの背景化。

我ながら情けないにも程がある。

 

そこに通りかかった、平凡ながらもそれはそれは幸せそうな夫婦。

子供も儲けるほどに幸せそうな夫婦が、なにげに自分の理想とそれなりに被っていたことと相まってか、逆にあまりに自分がみすぼらしく見えてしょうがなかった。

 

――そんなキャスターの脳内に、不意に某ライダーの姉二人にくりそつな、紫色のツインテールのそっくりの顔をした幼い姉妹がうつりこんだ。

 

 

※○の中には数字が入ります。

 

『みてー!

あのおばさん、バツ○ですって!』

 

『えー、マジ!? バツ○!?

○○歳にもなってバツ○ー?』

 

『キモーイ!』

 

『バツ○が許されるのはー、○×歳くらいまでだよねー!?』

 

『キャッハハハー!』

 

 

「ムッキイイイイイイイイーーッッッ!」

 

馬鹿にされた!

あんな青二才(?)どもにすら馬鹿にされた!

 

果たしてそれは現実に起こったものなのか、はたまたキャスターの空腹から来た幻覚であったのかはなのかは定かではない。

だが、何処かの誰かがその時、キャスターのことを激しく馬鹿にしたことだけは事実であった。

怒りのままにキャスターは手近にあった小石を姉妹(の幻影?)めがけて分投げるも、小石は当たることなく姉妹はキャスターをゲラゲラと笑いながら、すぅっとその姿を消してしまう。

 

哀れキャスター、罵られ損。

幻覚(?)を見た影響か、すっからかんのはずのキャスターの内部から、一体何処から生み出しているのか怒りという名のエネルギーがこみ上げる。

人間、空腹になると怒りやすくなるというが、キャスターの場合それは完全に理不尽な怒りであった。

 

「キィィーーッ!

なんだって私が!

コルキスの女王が!

こんな目にあわなきゃならないのよ!?

……そうよ!

せ、せめて……この私の恨みつらみを、道路に書いてやる!

最後に思いっきり人様に迷惑かけてから消えてやるわー!

苦しみなさい春日部ェ!」

 

ふつふつと湧き上がる怒りは、収まる所を知らない。

爆発寸前の燃焼エネルギーをガンガンと道路を足蹴にすることで発散していたキャスターは――唐突に道路に落書きするという謎の行動を思いつく。

大の女性が、道路に落書き。

何故道路に落書きするのかは分からないが、。思い立ったがなんとやら、彼女は何処で調達したのか赤マジックを手に持ったかと思うと、道路にマジックを塗りたくり始めた。

 

キャスターは、自らの魔力残量が本気で0になりかけているのも構わず、ものっ凄い勢いで道路に自らの恨みつらみを記す。

 

 

――恵まれた環境からクソのようなマスターに出会った恨み。

 

――いい男と出会えなかった恨み

 

――せっかく21世紀に呼び出されたというのに、ろくに遊べなかった恨み。

 

――最近狐やら青髭やらの人気に押されてリアルで自分の出番が無くなりつつある恨み。

 

――きのこ月姫新作はよー!

 

 

その他もろもろを、春日部市の所有する公共物に対し怨念をコレでもかと書き連ねる。

直前に会ったあの夫婦の影響かは定かではないが、恨みつらみの内容は主に恋愛に若干偏っていた。

 

それからしばらくして、“幼稚園の夫婦なんて死すべし! 慈悲はない!”とキャスターが書こうとしたところで……。

 

「ぐふっ!」

 

ハイテンションになっていたキャスターはさらなる消耗に陥っていたことすら気が付かず、ついに生命維持活動に支障をきたすほどの危険領域に到達。

それでも赤マジックをがっしりと握りしめたまま、その場でばったりと倒れた。

 

幸か不幸か、キャスターが落書きをする場面が人に見つかることはなかったが、逆に彼女が倒れてからも通りがかった人は一人もいなかった。

どういう訳か通ったのはキャスターが倒れる前に通ったふたば幼稚園の先生である夫婦二人のみ。

警察にも救急車にも通報してくれる人はおらず、このままでは魔力を完全に失い、誰にも気が付かれることもなく、彼女はそのまま消滅するかと思われた。

 

 

――――……………………

 

 

「……にーちゃ……人が……れてる……」

 

「……ぶねっ……ルーしそうに……たぜ」

 

 

だが――天は彼女を見捨てなかった。

というよりも、この場合“彼ら”が悪魔にでも引っかかったのかもしれない。

そこに通りかかったのは――幸か不幸(?)か、とある歳の離れた兄弟。

二人がキャスターを発見すると同時に、朦朧とした意識の中で、キャスターは何かを感じ取った。

 

彼女の耳から、何かしらの話し声が入る。

それに気がつけたのは、彼女がキャスターという魔術師のクラスだからこそ感じ取れたのかもしれない。

あるいは魔力が本気で枯渇している今だからこそ、身体が一番に欲しているものを本能的に察知できたのだろうか。

何れにせよ、キャスターにとって見ればそれは一本の光明であった。

 

視界を僅かに上げてみれば、こちらを見下ろすおにぎり頭。

そして、その背後にいるのは、赤毛の学生服を纏った男。

 

どこにでもいるような男子学生の姿が、そこにあった。

 

 

……が、その条件は、キャスターにとっては、心底求めていたものだった。

 

 

――ぴっちぴちの男子学生?

 

ちょうどよく魔力回路もち。

男子高生。

若い。

しかもけっこうイケメン。

男。

 

オトコ……?

 

♂…………ッ!?

 

 

 

――――オトコォォォォォォッッッ!

 

 

先ほどまで死にかけていた状態からの再起動。

それはまるで海底で得物を待ち構え、自分の足で一瞬にして絡め捕らえるタコの如く、キャスターの手は男子高生の足首に絡みついた。

 

 

 

 

 

――ああ、何故こんなことになったのか

 

士郎はただひたすら心の中で自問自答を繰り返していた。

 

今日も、何事もなく一日が終わるはずだった。

学校でも別にフラグになるような行動は何もしていなかったはずだ。

早めに帰って、『艦C○RE』とか、慎二たちと巨大ロボに乗って戦うFPSの約束を取り付けていたはずなのだ。

 

――ところがどっこい、自分の意思とは関係なく勝手にイベントが始まってしまったのだ!

 

(なんだっていうんだ。

俺は普通に人助けしようとしただけじゃないか……何したっていうんだよぅ)

 

『道端で倒れていた女性がいたので、助けようとしたら襲われた』

 

士郎の立場からすれば村人とエンカウントしたところに村人がボスに化けたような心境である。

『だまして悪いが』というわけではないが、これはきっとアレか――正義の味方になんかなるな、という神からの提示なのか。

そんなものになると将来こんな風に女性関係に苦労することになるという警告なのだろうか?

 

士郎の脳裏には、赤いコートをまとった男が『理想を抱いて溺死しろ』――という情景が浮かんだが、正体不明の女性に足を掴まれているこの状況、溺死じゃなくて捕食されて死にそうである。

いったいどこで選択肢を間違えたのかと激しく後悔する士郎の目の前で――その考えの元凶である女性は、ゆっくりと立ち上がり。

 

「――けっして、逃がしてなるものくわぁぁぁぁぁぁぁッッッ!!」

 

女性だというのに、それはまるで地の底から轟くかのような、大きく、よく響く叫び声。

それは、目の前にいる人間に威圧感を与えるには十分であった。

 

「「うわああああああ!

しゃ、喋ったあああああああっ!!」」

 

まるで先ほどまで行き倒れていたとは思えぬほどの凄まじい咆哮と、その気迫。

とは言ってももとはといえば英霊たる彼女は、一般人たる士郎たちとは根本的にステータスが異なるわけであり、そんな彼女のオーラが(一応)一般人である二人を軽く超えるのも当然。

 

だが、そんなことを士郎たちが知る由もなく、倒れていたかと思いきや突然としてボス化した女性に、士郎としんのすけは揃って絶叫。

普通の日常生活の中で突如出現した怪物に全く同時のタイミングで叫び声を上げた。

特にしんのすけは女性に関して何かしら思うところがあったのか、そのショックは士郎よりもはるかに大きかった。

 

「わああああああ! で、出たぁーーっ!

妖怪若者キラーおばばだゾ!」

 

「よ……妖怪ぃ! こんな真昼間からかよ!?」

 

「ああー、こんなところで出会っちゃうなんてー!

オラの人生オワター!」

 

女性の姿を見たしんのすけは『妖怪若者キラーオババ』という何とも不吉な言葉を叫びながら、頭を抱えた。

絶望のあまり頭を抱え、五歳にして人生の終わりを嘆く幼稚園児。

何が彼を――しんのすけをここまで絶望させる要素が目の前の女性にあるというのだろうか。

 

「しんのすけ、どうしたんだ!?」

 

「士郎にーちゃん!

この……よ、妖怪若者キラーオババは、若い男に飢えた独身女性なんだゾ!

婚活にハブられ男に捨てられ歳を重ねた女性が、男気を求めて夜な夜な若い男を逆レ(ピー)するんだ!

特に妖怪若者キラーオババは、男子学生が大の好みなんだゾぉぉぉ!」

 

「っ!!!!!」

 

妖怪キラーオババ――それは現代のすさんだ社会が生み出した悲しい妖怪。

男女比ほぼ半分の地球において、運命の悪戯により男との出会いに恵まれず、仕事にばかりかまけて、無駄に歳を重ねてしまった悲しき女……。

我々にも決して遠い世界の存在ではなく、過去にはしんのすけの幼稚園にも似たような妖怪が出没していたという経緯がある。

(ちなみに徳郎さんはまだ存命しているため現在は妖怪ではない)

 

「っていうかさ、それってモロ俺じゃん!?」

 

ふと――士郎は気が付いた。

しんのすけの説明の中であった、妖怪若者キラーオババの好みの男性。

『若い男』『男子高生』。

しんのすけも男であるが、そのどちらもが……若くて男子学生という条件が、不幸(?)にも士郎に当てはまっていた。

 

――ま、まさかこいつ、男を狙うためにこうやって被害者に擬態していたというのか?

真昼間からけが人を装い善良な人間を狙う凄まじく悪質な手口に、士郎は戦慄した。

その上、妖怪が好む男の条件は、今の士郎そのもの。

 

つまり今……士郎は捕食される側にいるのだ!

 

「だッッ――――誰が私を妖怪だとおゥウウああぁぁぁアアァァァッッ!?」

 

「「ひぃぃぃぃぃぃ!!」」

 

そしてしんのすけの言葉は当然、その場にいた本人の耳にもしかと入った。

そりゃあ自分を裏ボスやら妖怪やら食虫植物のような扱いされ、しかもそれを至近距離で大声で言われれば、聞こえるのは当然であるし怒り狂うのは当然であろう。

しかし、怒りに加えて激しく狂乱し、ぶぉんぶぉんと髪を振り乱す姿ははっきり言ってしんのすけの言うように、妖怪と言われても大差なかった。

 

「まぁだ私はッ……ぴっちぴちの『ピー』歳よッ!

『ピー』歳よッッ!

『ピー』歳なのよッッッ!?

オババなんて言うなァァァァ!!」

 

「うわあああああ!

で、出たーっ、自分の年齢発言!」

 

女性は発狂しながらしきりに自らの年齢を連呼し、まだ自分は若いと主張する。

女性にとって年齢関係の事を聞かれるのはタブーだ。

特にだんだんと年齢に関して厳しくなると、その傾向が顕著になるという――らしい(ひろし談)。

そして普段みさえが激怒するように、その女性も全くそっくりに激怒した。

年齢を指摘されて激怒する時点で既に片足を突っ込んでいるようなものだが、さらに女性が語った年齢も決してぴっちぴちなんて言える歳ではなかったと記録しておこう。

 

「士郎にーちゃん謝って!

にーちゃんが余計なこと言うからこんなことになっちゃったんだゾ!」

 

「す、すすすすいませんでした、“おばさん”!

……って、元はといえばお前が最初に言い出したことだろうが!?」

 

しんのすけに促され、士郎はついつい頭を下げるが――そもそも“妖怪”だの“ババア”だの言い出したのはしんのすけである。

そのことに気が付いたものの、この時士郎も本心が出たのか(?)ついうっかりNGワードを口走ってしまっていた。

 

「ば――――ババアですってェェェェェェっっっ!?」

 

「はっ、しまった!?」

 

本人は極めて謝罪のつもりだったのだが、ついうっかり行ってしまった一つの失言。

自らの失態に気がついた士郎はすぐさま再度謝罪するものの、時すでに遅し、火を消し止めるどころかガソリンを注ぎ込む勢いで女性の怒りを激しく燃え上がらせる。

 

「ち、違うんです、これは!

決してババアといってもその、おばさんがババアというわけじゃなくて……。

あ、その、今のババァ発言もその決して年齢の事を含んでいるわけでは!

違うんです、決してそんなこと思ってなんかないから!」

 

「はぁ!?

ババァ!? 年齢ッ!? おばさんンンン!?」

 

何とか女性の怒りを鎮めようと、士郎は必死で弁解するも、全てが悪い方向へと捉えられていく。

必死の説得も焼け石に水、女性の心の中はもはや炎の渦。

士郎の言葉によって可燃物を次々とつぎ込まれ、轟々と燃えさかる炎は、一向に鎮火する気配が見えない。

まさしく文字通り、ドツボにはまりこんでいく。

 

(――――あ、ダメだなこりゃ)

 

そこまで悪化させたのは自分であるとはいえ、女性の目を一目見た士郎は、本能的にその怒りを鎮めることが不可能であることを悟った。

RPGでたとえるならば、既に第三形態まで進化しつつある女性の姿を見れば、言葉ではどう言いつくろうことも不可能であろう。

それを本能で感じ取った士郎は、故に――

 

「――逃げるぞしんのすけぇぇぇ!」

 

三十六計逃げるに如かず、士郎はしんのすけの首根っこをつかみ、全速力でその場から逃走を決断。

凄まじいスピードで脱兎の如き勢いで背中を見せ、その場から遁走を試みる。

 

「あっ、テメー逃げんじゃねーっ!?

待ちやがれコラァァァァッ!」

 

言うだけ言って逃げ出した(キャスター視線)少年の背中に、先ほどからまるで893まがいの暴言しか出てこない女性。

とても先ほどまでの、行き倒れた女性を助けようとした少年たちの風景とは思えぬ変わり様である。

 

「バイバイ、おばさーん!

まーたーねー!」

 

「あ、バイバーイ……じゃないっつーの!

だからおばさん言うなってさっきから言ってんだろがこんちくしょー!」

 

士郎の腕の中で視界の中で遠ざかる女性に、しんのすけはのん気にも無邪気に手を振り、女性もその様子につい手を振り返し……。

言葉の端にあったババア発言にまた激怒。

背後で騒ぐ女性をしり目に、しんのすけを後ろ向きでその手に抱えて逃げる士郎は、市街地を高速で駆け抜ける。

 

「おおー、士郎にーちゃんはやいはやーい!」

 

「ハッハッハ、どうだ!?

これでも俺は高校で弓道部所属で走り高跳び何度も練習してたんだぞ!」

 

「それぜんぜん関係ないと思うゾ」

 

「細かいことは気にするな!」

 

弓道部所属とか高跳びが関係するのかはわからないが、しんのすけを担いでいるとはいえ、現役高校生である士郎の脚力と体力は相当なものである。

特に、弓道部とはいえ曲がりなりにも運動部に所属している身としては、通常の学生よりも身体能力が高いのは当然である。

そのうえ彼が背負っている幼稚園児である弟の体重は彼の体力の前にはほぼ無いに等しく、何ら障害にはならない。

よって今、士郎は全速に近いスピードで走っていた。

 

「サラマンダ」

 

「それ以上は絶対言わせねーぞ!」

 

多くのプレイヤーにトラウマを植え付けたしんのすけの言葉を遮り、士郎は春日部の街並みを駆ける。

そうして、走り始めてから数分ほどが経過した。

走り始めてからすでに五分以上、もうそろそろあの女振り切ったかなー、と考えつつ、士郎は背後を振り返り――。

 

「待てェェェェ!!!」

 

そこにいたのは全く距離が縮まることもなく、鬼気迫る表情で迫りくる妖怪若者キラーオババであった。

 

「う、うぉぉぉぉぉぉぉ、嘘だろ!?

速過ぎるだろーー!?」

 

士郎の予想を大幅に裏切り、その女性は士郎とほぼ等速の凄まじいスピードで走っていた。

紫のローブを風にはためかせ、まるでゴール手前で全力疾走するマラソン選手の如く女性は走る走る。

どことなくポージングも様になっているような気がしてならない。

 

実際、女性も本当は人間ではなくある意味で妖怪みたいな存在であるため、身体能力も実はオリンピック選手くらいはあるのだが――それを士郎たちが知る由もない。

加えて、女性にとって士郎たちは死中に活を見出したものであり、文字通り死に物狂いで追いかけているのだが――当然、それもまた士郎たちが知る由もない。

 

背後から迫り来る魔の手。

それから必死に逃げる士郎。

追われる士郎もそうであるが、その士郎にひっついてる状態のしんのすけはさらに修羅場だ。

背後から迫りくる女性の姿が丸見えの状態である。

必死の形相でこちらに迫りくる女性の姿は、しんのすけにとってみさえのように――いや、それ以上に恐ろしい存在であった。

 

「わぁぁぁ、士郎兄ちゃんーー!

妖怪若者キラージェットおばさんが追っかけてくるゾー!」

 

「お、おばさんンンンンン!?

だからお・ね・え・さ・ん・と!

呼びなさいィィィィッ!!」

 

「きゃーーーーっ!?」

 

しんのすけの“おばさん”発言にさらにヒートアップしたジェットが追加されたおばさん改めジェットおねえさんは、更にスピードを加速させる。

眼前に迫る凄まじい形相ですさまじい速度で迫る女性に、しんのすけは思わず悲鳴を上げた。

 

「この!

男子高生がァァァァァァ!!」

 

「うわぁぁぁぁぁ!! ってか俺かよ!?

な、なんでさぁぁぁぁぁぁ!!!」

 

その上、どういう理屈か妖怪は士郎に狙いを定めた。

ババァ発言は(半分くらいは)士郎のものではないというのに、どういう訳か連帯責任により標的にされてしまったようだ。

 

春日部の町並みを、三人が走る。

士郎は相変わらずの全力疾走なのだが、恐ろしいことに妖怪との距離は一向に縮まろうとしない。

 

 

二人が(色々な意味で)生命の危機に直面している仲、所は変わって野原家のすぐ隣の庭先。

放棄を片手にのんびりと掃除をしているのは、通称“隣のおばさん”……本名、北本。

野原家とも顔見知りであり、“歩くワイドショーのおばさん”という異名を持つほどの噂好きの彼女であるが、それ以外に関しては普通に常識人であり、その時もまた普段のようにまたぱさぱさと道路の掃除をしていた。

なお彼女の名前は、近所の住人ですら誰も知らないと言われている。

 

「はーあー……寒いけど今日もいい天気ねえ。

こういう日は軒下で焼き芋でも食べたくなるわぁ」

 

のほほんとした雰囲気に囲まれ何気なしに空を見上げれば、そこには一面の青空が広がっている。

空の美しさに掃除の手を止め、空気の澄んだ冬空の青々さを仰ぎ見る。

 

空を見上げつつ、掃除が終わった後のこの平和な午後の予定をどうしようかとしばしの間物思いに浸っていると――ドドドド……と何やら遠くから音が響いてきた。

 

「ん?」

 

それは、まるで何かがこちらへ接近するような足音だ。

何事かと音のする方向に目を凝らしてみると、道路の向こう側より見知った兄弟がこちらに近づいてくる。

しんのすけをひっつかみ、地を蹴り背後に煙を巻き上げて、こちらへ向けて接近する士郎。

 

二人とも騒がしい兄弟で知られているが、隣のおばさんにとっては顔なじみの二人である。

二人の姿を見た隣のおばさんは、にこやかに挨拶を交わし――

 

「あーら、士郎くんにしんちゃんじゃない、こんにち……」

 

 

「「……いやぁぁぁぁああああああぁぁぁぁ……!!!」」

 

 

――二人はおばさんに挨拶する間もなく、悲鳴を上げて彼女の隣を全力で駆け抜けていった。

 

 

「…………は、ってありゃま、何かしらあんなに慌てて……」

 

 

「……待てェェェェえええええェェェェ……!!!」

 

挨拶もせずすさまじい顔で家を通り過ぎて逃げていく二人を訝しんでいると、今度は背後から謎の女性が突風の如く駆け抜けていく。

紫色のローブをはためかせ、ドップラー効果で変化する叫び声をあげる謎の存在は二人とともに、一瞬にして視界の向こうへと消えたのであった。

 

「…………えーと?

あれって士郎君にしんちゃんよね。

なにかあったのかしら、あんなのに追いかけられて……?」

 

何かと騒がしい兄弟であるとはいえ、そう簡単に見ず知らずの女に追いかけられるような事をする人物でないはずである。

それは彼女自身がよく知っていることである……が、げんに今、そこにいたのは追われる男子二人に、追っている女性。

 

これは――もしや……?

長年“歩くワイドショー”と自称してきた、何かしらの事件の予感を感じ取った隣のおばさんは――

 

「……今日も野原さんトコ、随分と騒がしいのねぇ。

さ、こっちはお掃除お掃除~♪」

 

疑惑は“忙しい”の一言で終了し、何事もなかったように普段通りに掃除を再開。

野原家の近所に住む住人にとって、士郎たちが誰かに追いかけられようが、野原家に何かが起こることなど、幸も不幸もいつもと変わらぬ日常なのである。

そして、彼女の中で今回もその騒動の中の一つにカウントされてしまい、追いかけられている二人に救いの手が差し伸べられることはなかった。

 

 

――結局士郎(としんのすけ)、そしてジェットおばさんとの死闘はそれから十数分もの間続いたという……。

 

 

 




あとがき

とりあえずここまで。
まだ二人とキャスターの追いかけっこは続きます。


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