タイムスリップ令和ジャパン (QgkJwfXtqk )
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01.2025 タイムスリップとその経緯

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 2025年。

 平成37年、日本列島は100年前の時代へとタイムスリップした。

 

 中華人民共和国が開発した次元振動弾の暴発が原因だった。

 次元振動弾とは、日米台の軍事的圧力に耐えかねた中華人民共和国が起死回生の戦力として高位次元理論を元にして開発した超兵器であった。

 

 平成30年代の極東アジアは極度の緊張感の下にあった。

 平成30年代に入って以降、経済成長の著しく鈍化した中国は軍需をもって経済拡大を図ったが、対して日本もGDP2%枠を投じた積極的平和主義を提唱し、軍拡を推し進めた。

 竜虎の対峙。

 その上で米国も本気の軍拡を実施。

 台湾へは日米が共同でテコ入れをしていた。

 そこで発生した朝鮮内戦。

 白頭山の噴火により北朝鮮は不安定化し、韓国と世界に支援を要請。

 要請を受けた韓国政府は北朝鮮を助けようとした。

 韓国軍の予算を削って。

 これに韓国軍上層部がガチ切れして軍事クーデターが勃発。

 韓国内での混乱に、北朝鮮が乗じて同胞への人道支援の名の下で食料収奪に強襲。

 北朝鮮軍の主力が南下した所、北朝鮮国内に残っていた軍の一部が反乱を宣言。

 朝鮮半島は四分五裂して、誰も幸せになれない内戦が始まった。

 

 周辺諸国は不干渉条約を策定。

 国境線を封鎖した。

 それでも国外脱出を図った人間は、人道支援として済州島もしくはカムチャッカ半島の人道的収容施設へと送られた。

 

 当初は不干渉を宣言し遵守していた極東の日米台中露であったが、日米の干渉を求めた親米派政権が正統韓国政府軍の偽装を行ったF-15戦闘機で対馬を爆撃した為に事態が急変する。

 難民を乗せた民間航空機を飛ばし、その陰にF-15を潜ませて爆撃を行ったのだ。

 対馬の小学校と役場を爆撃。

 死傷者が200人近く発生した。

 特に死者の多くは子供だった。

 小学生だった。

 その事に日本国内の世論は沸騰する。

 この惨劇を引き起こした親米派政権は情報工作を行い、正統韓国政府のネット公報を偽装して爆撃理由を公表した。

 曰く「対馬で国外へと避難した年若い韓国人女性が性奴隷にされていた為、日本の植民地主義へと鉄槌を下した」と。

 慌てた正統韓国政府であったが、ネットで国民の支持が集まった為、調子に乗って爆撃を認めてしまった。

 その上で日本に対して謝罪と賠償を要求した。

 沸騰した世論に後押しされた日本政府は国連安保理を招集、対馬列島と朝鮮半島の間に防空特別圏の設定を認めさせた。

 飛ぶものは軍民を問わず叩き落とす宣言する。

 又、洋上でも日本領海への韓国籍船舶の進入を、それが無害航行でない可能性が大であると全面拒否すると宣言。

 

 とはいえ戦争に発展した訳では無かった。

 日本政府は即時の報復は行わず、被害現場の詳細の公表と世界中のマスコミを呼び込んで正統韓国政府の糾弾を行った。

 その上で、正統韓国政府に対して謝罪と原因究明、そして責任者の処罰を要求した。

 又、被害者への賠償の為として日本国内の韓国政府資産の凍結を実施した。

 

 ここまでは中国にとっては良い話であった。

 中国に正面から逆らう日本の国力が、対朝鮮半島で削れるだろうからだ。

 或は対朝鮮半島の為に対中融和政策を行う事を期待した。

 その為の外交的接触も行った。

 だが、キレた日本は中国の想定の斜め上を言った。

 軍拡を開始したのだ。

 対中軍備とは別枠で、予算を更に乗せたのだ。

 防衛大綱は改訂され人員規模の拡張こそ低調ではあったが、陸上自衛隊は各種AFV2000両の調達を中心に重機械化が推し進められ、航空自衛隊はF-3の増産と防空ミサイル群の規模拡張、海上自衛隊に至っては計画の進んでいた4万t級多目的母艦(空母)がキャンセルされ7万t級が建造される事となった。

 

 藪をつついて蛇が出た様なものであった。

 血の気の多すぎる日本の行動に慌てた中国は、1枚看板の正規軍や無害化された戦略核ミサイルに代わる兵器を求めた。

 それが次元振動弾だった。

 

 大馬力で開発された次元振動弾は威嚇と実験を兼ねて太平洋上空 ―― 宇宙空間で爆破しようとしたら、工作不良であったロケットが上昇途中で落下してしまった。

 次元振動弾は太平洋上でさく裂する。

 この結果、日本列島やグアム島などが100年の時間をさかのぼる事となった。

 

 

 

 

 

 時に1925年

 奇しくも大正から昭和へと変わろうとした時代。

 昭和では無く令和が始まった。

 

 

 

 

 

 



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02-1925-1 日本の混乱

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 1925年へと飛んだ日本は、世界とのネットワークが全く途絶している事に気付いた。

 緊急事態対処として国会を召集。

 併せて日本政府は在日米軍司令部を含めてアメリカ大使館と協議を行った。

 その後、各国大使館と協議を行った。

 アメリカが優先されたのは、在日米軍あればこそであった。

 

 原因は不明。

 されど、中華人民共和国の次元振動弾が原因ではないかとの推測はされていたが、詳しくは判らなかった。

 海上自衛隊と航空自衛隊、海上保安庁が周辺捜索を開始。

 朝鮮半島は兎も角と、近い国家である台湾への連絡回復をと船舶の派遣を決定した時だった。

 北側対馬海峡で警戒中の海上保安庁より、至急とされた報告が内閣府に届けられたのは。

 船舶の領海接近を確認し対処しようとしたらトンデモナイ事が判った、と。

 彼らは古臭い駆逐艦でやってきた。

 曰く「朝鮮総督府より、連絡の途絶した内地の状況を確認する為に来た」のだと。

 日本政府に、日本がタイムスリップをした事が初めて伝わった瞬間だった。

 

 混乱のるつぼに叩き落とされた日本。

 同時に、世界も混乱した。

 極東の列強末席が、一夜にして別の存在へと成り替わっていたからだ。

 

 そこからの1年は混乱と混沌の時間だった。

 日本にとっても、世界にとっても。

 

 

 

 

 

――領土問題

 最初に問題となったのは、残された日本帝国の領域、朝鮮半島、台湾島、関東州、樺太南部、南洋諸島だった。

 国際連盟や米英仏などの太平洋領域に権益と権限とを持つ列強とも協議した結果、日本政府は暫定的ながらも日本帝国の権利と義務とを負う事になる。(※1)

 日本政府の方針としては、朝鮮半島と台湾島は民族自決と面倒事から離れるという意味で独立させようとしていた。

 

 

朝鮮半島

 日本政府は転移前の関係が劣悪だった事もあり民族独立の美名の下で、投資は借金という形にした上で「放り捨てるべき」という意見すらあった(※2)。

 この意見に日本国内に在留していた在日朝鮮人も乗った(※3)為、ほぼ本決まりとなりかかったが、それを止めたのが朝鮮総督府だった。

 朝鮮総督府の人間からすれば、近代国家のていをなしていない朝鮮半島を無理やりに放り出すのは鬼畜の所業であるとの認識だった。

 彼らは誠心誠意、日本の為に内鮮一体化を目指した理想家であった事もその行動原理となった。

 同時に、当時の朝鮮人も反対した。

 教育を得だした彼らは日本の発展ぶりを見て、その内側にある事の利益を理解したのだ。

 誇り(民族独立)より飯(経済的恩恵)。

 しかも、親日派の知識人は日本との交流の中で日本人に朝鮮人が蔑視されている事を理解した。

 蔑視される原因 ―― 歴史も理解した。

 そんな彼らは、独立後に日本から援助が受けられるなどと甘い想像はしていなかった(※4)。

 朝鮮総督府と二人三脚で親日宣伝務めた親日派知識人は、最終的に朝鮮での人民投票を行い、有効投票者数の7割以上の日本への帰属希望を集める事に成功する。

 又、法律家からも日韓併合条約に分離独立に関する条項が存在していない為に、日本政府の朝鮮側の合意を得ない分離独立は違法であるとの意見が上がった為、朝鮮半島の分離独立は断念される事となった。

 

 

台湾島

 日本政府は独立の方針であったが、台湾総督府は現時点での台湾島の産業の乏しさから独立は困難であると判断していた。

 又、独立の話が出た頃と前後して中国からの接触があった。

 偉大なる中国への復帰の命令だ。

 この事に、台湾人は拒否感を示す。

 日本帝国も日本も豊かな国だが、中国はそうではない。

 凋落を好んで選ぶ趣味は無いと言うのが、大多数の台湾人の選択だった。

 将来的な分離独立に含みを残したまま、日本の統治下に残る事となる。

 

 

関東州

 租借地であった為、租借権の売却を日本政府は検討する。

 これに対して関東軍が激烈に反対する。

 又、自衛隊の近代的な装備を見た関東軍首脳陣は、この軍備あれば中国を統治する事すら可能であると判断、日本政府に対して対中戦争の献策をする始末であった。

 これにキレた日本政府は、関東軍の鎮圧を決定。

 意図的に関東軍の暴発を誘導し、立案の段階で関東軍の首脳陣を捕縛処断する事とした。

 その事に気付かない関東軍若手将校は中国との紛争を立案、その計画の策定を持って日本政府は破防法を関東軍に適用、この捕縛を行う。

 又、若手の独断専行を止めなかった首脳陣に関しても、監督不行き届きとしての処断を断行する。

 後に関東処分と言われた苛烈な粛軍であった。

 日本政府は一罰百戒、日本陸軍の残余による独断専行 ―― 好戦的な気分をへし折る為に断行したのだ(※5)

 関東処分の後は、チャイナへの有償返却を日本政府は選んだ。

 だが、有償の金額の高さにチャイナ政府が二の足を踏み、無償化ないしは有償額の引き下げ交渉にチャイナが入った所で、アメリカ政府が乱入。

 日本政府が提示した額の倍額を提示した為、日本政府は関東州権益と満鉄に関わる全ての権利をてアメリカに売却する事とした(※6)。

 

 

樺太南部

 ソ連との国境線があり、重工業なども無い事もあって日本政府は最初から保護を選択。

 但し日本への編入ではなく自治国となった。

 朝鮮半島や台湾島、或は関東州在住の日本帝国人が多く流入する形となった。

 特に関東処分で不遇をかこった人材も多く流入した為、日本国への反発もあって尚武な国づくりを進めていく事となる。

 尚、人口構造が男性に偏っている為、諸外国に女性の流入を訴えるという涙ぐましい努力を行っていく事となる(※7)

 

 

南洋諸島

 日本帝国の信託統治領となってまだ10年と経っていなかった為、近代的な国家の独立を行うだけの基盤が無かった為、早期の独立は断念する事となる。

 日本政府は独立に向けたロードマップを作製、独立に向けた作業に入る事となる。

 

 

 4年の歳月を掛けた後に日本国と朝鮮州、台湾州、樺太州、南洋州から構成される日本連邦が成立する事となる(※8)。

 

 

 

 

 

(※1)

 対価として、日本は日本帝国時代の対外外交条約と貿易協定を継承する事となる。

 このお蔭で日本は資源の輸入に於いて一息つく事となる。

 資源不足に日本の足元を列強が見なかったと言うのは、一見すると不自然であるが、国際連盟にせよ列強にせよ、世界大戦が終結したばかりの現状で世界が不安定化する事を望まなかった為である。

 

(※2)

 台湾も同一条件で独立させるが、ODAで借金は相殺する予定であった。

 

(※3)

 発展途上国を、日本で蓄えた資産で合法的に支配出来るとの皮算用からであった。

 窓口となった韓国民団では、接触を開始した時点で大韓民国建国準備委員会を発足させ、日本政府に対しては朝鮮民族への賠償行為としての活動支援を要請していた。

 無論、黙殺されたが。

 

(※4)

 当時、在日朝鮮人からの接触を受けた彼らは、在日朝鮮人の余りにも甘い見通しと、甘言に呆れたとの感想を記録に残している。

 曰く「彼らは同胞であると言うが、その視線は内地(日本)人以上に我々を蔑視するものだった。言葉の端々から下に見ているのが見て取れた」と。

 

(※5)

 関東軍処分は、その苛烈さ故に日本帝国陸軍将校と日本政府との関係に深い影を残す。

 日本政府は法的な根拠と証拠を十分に用意して毀損の無いように行動しており、であるが故に感情的な相克は後々まで尾を引く事となる。

 捕縛される事となった関東軍若手将校の主導的人物は獄中にて、食器のナイフを持って抗議の割腹自殺を図るほどであった。

 とは言え、即座に発見された為、死ぬことは無かった。

 そのまま裁判が実行され、1年の裁判を経て最終的には死刑が確定する。

 帝国陸軍将校より助命嘆願が出されるも却下され、刑の確定から1年で執行された。

 裁判の際、日本政府を「武人の心を判らぬ匹夫の群れ」と痛烈に批判、対して法務大臣が記者会見の際に「近代国家で法も護れぬのであれば、それは武人では無く蛮人だ」とコメントし物議をかもした。

 

(※6)

 米臨時代表部(在日米軍と在留米国人の管理組織)から、将来的な歴史の流れを知らされたアメリカ政府であったが、アメリカ国内での景気拡大に伴う市場拡大要求に抗しきれなかった。

 農作物と資源に関しては日本が大口顧客となったが、同時に日本からの鉄鋼やショベルカー等の建設機器、樹脂製品などなどの高品位品や新素材などの輸入も劇的に発生した為、相殺状態となって居た。

 対日貿易の関税は無きに等しかったが、アメリカの製品が売れる目処などごく一部の趣味性の高いモノ以外は殆ど売れないのが実情だった。

 だからこそ、真っ新な開拓地をアメリカの産業界は欲したのだ。

 それが中国大陸だった。

 底なし沼である可能性を把握しつつも、民意に圧される形でアメリカは中国進出を進める事となる。

 

(※7)

 労働力確保の為もあり、諸外国からの積極的な移民受け入れ政策を実行した。

 この為、1930年代に入ると欧州で迫害を受けたユダヤ系の流入する事となる。

 又、内戦状態になった中国、ソ連が混乱した際にもかなりの難民を受け入れる事となった。

 結果として、日本帝国の雰囲気を強く残しながらも無国籍染みた民族構成の国家(自治国)となっていく。

 

(※8)

 単純に日本国の拡大とならなかったのは、将来的には各州の独立を想定しての事であった。

 その為、各州は日本国憲法の遵守こそ要求されるが法律に関しては独自のものの制定が認めらている。

 又、州軍の保有が認められている。

 国家として見た場合、外交に関しての権限が無いだけである。

 

 

 

 

 

 



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03.1925-2 アメリカの混乱

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 タイムスリップで混乱した日本。

 その次に混乱した国家は、アメリカ合衆国であった。

 グアムとの連絡が唐突に途絶したと思ったら、100年後の米軍が日本国に駐留していてコンタクトを取って来たからだ。

 

 在日米軍との交流。

 在日米軍を介しての日本との交流。

 100年先の情報を得た事はアメリカに莫大な恩恵を与える事となる。

 同時に、迷う事となる。

 100年の間、アメリカが被った被害や重責を思えば、資本主義国家の雄として立つ事は果てしなく面倒事ではないのかと思ったのだ。

 この為、100年を研究し検討するシンクタンク、センチュリー機関が創設された。

 主題はアメリカの覇権体制による損得。

 日本との関係の是非。

 そして重視されたのが、100年後のアメリカが白人国家では無くなっているという事。

 在日米軍の指揮官はプエルトリコ系であった為、この事をアメリカは深く認識するようになった。

 白人国家としてのアメリカは、そうであるが故に、苦悩する事となり、問題を棚上げする事となった。

 後の事は後で考えよう、と。

 

 尚、このセンチュリー機関の検討の中には、在日米軍による日本政府の掌握による日本の先進科学の収奪も含まれていた。

 だが検討が行われる頃には、日本国内の在日米軍施設の燃料は枯渇状態になっており、その様な作戦の実行は困難なのが実情であった。

 又、機関に参加していた在日米軍からの出向者が、感情的に難しい事、そして自衛隊の配置状況(※2)から在日米軍が何らかのアクションを起こそうにも難しいと。

 又、特に出向者が主張したのは、失敗した場合には100年先の日本は敵になる。

 今の日本のGDPはアメリカの比では無いので、短期的には問題は無いかもしれないが、長期的には凄惨な報復がなされるであろう(※3)と。

 この結果、親日路線が堅持される事となる(※4)。

 

 

――対日貿易

 タイムスリップした日本が欲した食料を供給できるのはアメリカだけであった。

 日本は輸出を要請する。

 アメリカ側も、世界大戦終結後にだぶついていた食料の輸出先となる為にこれを快諾する。

 対価として日本はエアコンや冷蔵庫などの電気製品を提案する(※1)。

 東京を訪れていたアメリカの交渉団、特に交易に関わる企業の人間はこの受諾を政府に要請し、貿易が始まる。

 

 

――対中進出

 対日交渉中、雑談の際に日本帝国の本土4島以外の領土権益の処分に関する話題が出た。

 この為、アメリカは他の国家に先駆けて日本に対して関東州と満州の権益売却に関する交渉を行う事に成功する。

 但し、対中進出に関しては、日本政府からは控えめながらも「買ってもらえるのは嬉しいけど、大丈夫ですか? 泥沼化確定していますよ??」という善意の心配を受け、在日米軍からも失敗する確率200%(100%確実に失敗して、100%大炎上大被害が出るの意味)と止められたが、世界大戦後にだぶついた国内生産力の新しい消費先 ―― 市場を求める国内経済界の声に押される形で対中進出を行う事となる。

 又、アメリカ陸海軍に新しいポストを用意出来る事も評価された。

 

 

 

 

 

(※1)

 日本で使用されていたエアコンや冷蔵庫などの白物家電、後は食糧倉庫などで使われる業務用設備。

 アメリカからすれば100年は進んだものであり、売れるし売りたいと熱望していた。

 後にアメリカ国内でリバースエンジニアリングによる模倣が図られるが、電子機器技術を筆頭とした基盤的技術の乏しさから失敗。

 この結果、開き直ったアメリカ企業は失敗した部品を日本から輸入し、アメリカ国内で組みつけて完成、販売を開始した。

 

 

(※2)

 2020年代の自衛隊と在日米軍は一体化が進んでおり、であるが故に何らかの特殊なアクションを行おうとした場合、即座に物資の集積などの準備が相手に伝わるというのが実情であった。

 

 

(※3)

 在日歴の長い出向者であったので、日本人を良く理解していた。

 本当にキレた時の日本人が躊躇や容赦の無い事をやらかす事を良く理解していた。

 又、歴史を紐解いて太平洋戦争に至る歴史を講義し説明も行った。

 出向者は、味方には死ぬほど甘いが敵となれば損得勘定抜きで動くところのある、面倒くさく非常に危険な日本人という民族の事を良く理解していた。

 それを判りやすく講義した。

 

 

(※4)

 日本が目的の無い軍備拡張を準備した時点で、アメリカは日本に対する戦争準備を行う。

 そうでないのであれば平和的な対応に終始する。

 これが基本方針であった。

 科学技術や国力が上である事が見てとれる日本に対しアメリカが警戒心をさして高めずにいたのは、日本の軍備がアメリカから見て実に慎ましい事が原因であった。

 陸上戦力が9個師団8個旅団体制(7個自動車化師団、1個機械化師団、1個機甲師団、6個機械化旅団、1個空挺旅団、1個海兵旅団)。

 航空戦力は戦闘機500機体制。

 洋上戦力が軽空母2隻、ヘリ搭載駆逐艦4隻、ミサイル駆逐艦12隻、駆逐艦20隻、フリゲート22隻。

 油断は良くないが警戒をする必要も無いほどに規模が小さい。

 そう見えていた。

 戦車は全て40t以上の重戦車で約1000両。

 戦闘機はジェット機で、しかもほぼ同数の戦闘UAVが保有されている。

 駆逐艦は最低でも5千t級で32隻。ヘリ搭載駆逐艦は名前詐欺の実質空母。軽空母は軽とは付くが基準で6万t級の超大型艦である。

 しかも空母的な戦力では、揚陸艦と言う名前の5万t級艦まで2隻居る始末である。

 自衛隊の戦力を把握した時、アメリカ軍関係者は「詐欺かよ、ふざけんな!」と切れたと言う。

 尚、その後、珈琲を飲んだ後に友好路線を選んで良かったと先人の賢明さに感謝し乾杯したと言う。

 

 

 

 

 

 




2019.05.08 内容の追加と修正実施


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04.1925-3 ブリテンと交渉

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 日本政府が対外交渉で付けた優先順位は、第1位はアメリカであったが2位はイギリスであった。

 これは日本の経済を回す上で必要な資源を輸入する交渉相手として一番に大きいと言うものがあった。

 グレートブリテン。

 オーストラリアからの鉄資源や中東からの原油などの輸入を筆頭に、日本は様々なものの輸入を必要としていた。

 問題は対価であった。

 この点は在日米軍という鎹のあった日とアメリカの関係とは異なる為、難航する事となった。

 世界大戦の終結で国力の低下していたイギリスが欲したのは現金であったが、日本政府は安易な金での取引は、将来に禍根を残すだろうとして渋ったのだ。

 半年近い交渉で日本政府は中華人民共和国の前例に倣う事とした。

 イギリスに対して大規模なインフラ投資を対価とする事を提案したのだ。

 イギリス本土への最新鋭のインフラを整備し、スエズ運河の拡張、中東では石油精製プラントや真水の精製プラントの整備やオーストラリアでの港湾設備まで様々なものを提案した。

 いわば、停滞していたイギリス経済の活性化に寄与できる投資の提案である。

 しかも、日本は国内ゼネコン各社やその周辺に仕事を斡旋する事が出来る。

 一挙両得の提案であった。

 これにイギリスは乗る事となる。

 インフラの整備には時間が必要とされる為、5年間の間に日本-イギリス間での投資額と輸入量が策定される事となった(※1)。

 

 日本とブリテンの交渉で問題となったのは、交易以外に2つあった。

 1つは日英同盟であり、1つは国際連盟に関してであった。

 国際連盟への加盟と常任理事国の座に関しては、日本が日本帝国が諸外国と締結していた条約と債務を引き継ぐ事を宣言した為、問題なく入れ替わる事となった。

 問題は、日英同盟の処遇であった。

 問題の複雑さから交易交渉の後に棚上げされる事となった。

 又、併せて海軍軍縮条約に関わる部分が大きく取りざたされる事となった。

 日本は戦艦こそ保有していなかったが空母は1隻保有し2隻目が艤装段階にあった。

 基準排水量で62,000tもの大型艦(イギリス視点)である。

 2隻揃えば日本帝国が締結していたワシントン軍縮条約を遥かに凌駕し、そもそも1隻あたりの基準排水量でも超過していた。

 その他、主力である駆逐艦も上限排水量は当然であり、合計排水量でも超過していた。

 この時代の常識に照らしてみれば、日本の保有する護衛艦(駆逐艦)は、全てが軽巡洋艦の様な大型艦であったのだ。

 これにはイギリスは当然ながらも軍縮条約の主要国であるアメリカも頭を抱えた。

 念の為と、日本に条約に沿った軍備への軍縮を提案したが拒否された。

 逆に日本は護衛艦の巡洋艦としての登録を提案した。

 巡洋艦枠であれば、備砲の項目に目をつぶり、適当にA(重巡)B(軽巡)のカテゴリーに分ければ問題は無い。

 一時はそれで良いと言う見方があった、そこには22隻のFFM(フリゲート艦)が入っていないのだ。

 此方も基準で3,900t、余裕で駆逐艦の上限枠を超えていた。

 潜水艦は保有の合計排水量には収まっていた。上限枠は余裕で超えていたが。

 100年先の軍備を、今の常識では図りきれない。

 それがイギリスとアメリカの結論であった。

 だが同時に、この交渉の中で両国は、日本帝国と比較して日本は、極めて穏当な国家であり、過度な軍拡は行わないであろうと見て取れた。

 又、奇しくも両国が日本の食料と資源という2つの生命線を握れたことも、日本に対する安堵感に繋がる事となった(※2)。

 

 

 

 

 

(※1)

 「第1次日本-ブリテン交易と投資に関する条約」という形でまとまる。

 この第1次条約の結果を見て、次の交易を検討する事となっている。

 第1次条約は1926年から1931年まで実施された。

 第2次条約は1931年から1933年までの3年間で打ち切られ、第3次条約へ更新される。

 これはナチス・ドイツの成立した為、戦備を整える方向へと舵を切った為であった。

 この為、第3次条項はインフラ整備のみならずイギリスへの戦備提供が盛り込まれる事となった。

 又、付帯して日英同盟も改訂され、イギリス本土防衛に関する協力が推進される事となる。

 

 

(※2)

 最終的に1927年度日-ブリテン-アメリカ環太平洋軍事力制限協定に繋がる事となる。

 だが、この協定が発効する前にフランスが、モノ申すと関与してきたため、発効はなされなかった。

 

 

 

 

 

 



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05.1925-4 フランスの迷走

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 日本がタイムスリップ後に主たる外交相手として選んだのはアメリカとブリテンであった。

 だがそれ以外の国家との外交交渉を行っていない訳では無かった。

 当然ながらもチャイナやソ連とも接触を行った。

 その中で、特に激烈な反応をしたのはフランスだった。

 発端は仏大使だった。

 日本政府の遣欧派遣団に随行した際、混乱予防としての決められていた未来情報の提供自粛(※1)を破り、フランス政府へと提供したのだ。

 とは言え日本政府も情報の管理に関しては手を尽くしていた為、伝える事が出来たのは、未来でドイツと戦争になり、フランス国家が塗炭の苦しみを味わうという情報だけであった。

 又、日本がフランスと比べて遥かに高度な文明水準にある事は、1925パリ万博に日本館とは別個に臨時出店したパビリオンで伝わった。

 フルカラー写真に始まって各種工業製品その他の展示物。

 その中でフランス人の目を引いたのは、公害対策であった。

 有毒な物資を除去する技術と言う項目に、フランス人は自国領内に存在する世界大戦の古戦場 ―― その毒ガスの汚染地帯対策を日本に要求したのだ。

 日本側はアフリカからのレアメタルなどの資源輸入を対価として受け入れる事となった(※2)

 日本国によるフランス北部の古戦場危険地帯の除染と再生計画は、フランスが想定するよりもずっと手早いものとなった。

 この事を知ったフランス内の政治集団が、日本を親フランスとし、利益の供与を行わせる為の政治外交活動を行った。

 それは難航していたワシントン軍縮条約に関する日本の処遇問題である。

 日本、ブリテン、アメリカの交渉内容を把握はしていなかったフランスは、会議場にて日本に対する厚意の表明を行った。

 35,000t級 14in.砲を搭載する戦艦2隻の新造許可である。

 同時に、戦艦は2隻を上限として、その余剰となった保有枠を空母と巡洋艦の枠に転用させる。

 これをもって日本のワシントン軍縮条約体制への継続的な参加を要求したのだ。

 なし崩しでの決着(※3)を目論んでいた日本、ブリテン、アメリカは慌てた。

 日本は必要性の薄い戦艦を建造するなど面倒くさいと思い、ブリテンとアメリカは、日本が何を生み出すかで戦々恐々となったのだ。

 とは言え、条約型戦艦を2隻だけ。

 他の洋上戦力に関しては既存の予定通りであった為、発言を受けての直近では混乱したものの、それ以降はブリテンとアメリカは好意的に受諾する事となる。

 そうなったが為、日本は必要性の乏しかった戦艦というものを建造する事となった(※4)。

 

 

――植民地経営への組み込み

 日本とブリテンとの交渉を見ていたフランスは、遠隔地であるベトナムでの鉄道建設などを日本に委託する事を考えた。

 天然資源が採れるので、港湾設備などの建設費用も出させる事で、資源の提供を対価に出来ると踏んだのだ。

 日本も、天然ゴムなどの供給元として有望であった為、このフランス政府の思惑に乗る事となる。

 

 

 

 

 

(※1)

 これは、未来情報を元に今、生きている人の選別が行われるのではないかとの危惧が成された為の要請であった。

 それも日本政府の独断では無く、米国や英国大使館を中心とした在日本大使館協議会が日本政府の要請を受けて検討し、承諾した内容である。

 この為、情報提供事件発覚以降は在日仏国大使館及び仏国人に対する待遇は極端に悪化する事となる。

 又、この行為が、後に独国大使館員の隠れネオナチ ―― ナチスシンパによる暴走を生み出す。

 

 

(※2)

 日本側からの要望では無く、フランス側からの要請であった為、この費用に関しては適正利益を確保する事に成功した。

 大型重機の投入や、毒ガスの化学物質中和剤の研究が行われた。

 化学物質の研究に関しては、研究施設をフランス領内に設置した為、その知見はフランスの科学技術の発展に貢献する事となる。

 又、後にはこの経験で日本の持つ土木技術に着目したフランスは、アフリカやベトナムでのインフラ整備を日本に委託する事となる。

 尚、毒ガスによる汚染地帯の浄化であるが、領域が極めて広大である事から、現地調査をした陸上自衛隊経由でフランス政府には100年からの時間が必要である旨、報告書として提出されている。

 これにフランス政府は了解する。

 この環境改善に必要なコストはフランスが1元の窓口となるが、同時に、この経費の半分をドイツ側にフランス政府は押し付けた。

 一方的な要請、要求、命令に対しドイツ政府は、そもそもとしてベルサイユ条約の中に北フランスの戦災補償は含まれていた筈だと反発、フランス-ドイツ間の政治的な緊張に繋がる。

 

 

(※3)

 主たる軍縮対象が戦艦であったが為、日本は戦艦を保有しない事と、空母の更新に関して条約の枠内で行う形とする事で、オブザーバー参加という地位へと日本を落ち着ける事を考えていた。

 フランスの厚意によって御破算となった。

 

 

(※4)

 政治からの要請だけで戦艦の建造を簡単に決定出来た理由は、建造費用だった。

 大和型戦艦の建造費用を元にした試算をした際、2,000億程度という数字が出た為、その程度であれば特に問題なく建造は可能だと判断されたのだ。

 実際問題として、艦歴を重ねたこんごう型護衛艦の更新も検討されており、そちらの更新が1隻辺り1,500億と見られていた為、こんごう型の更新を数年遅らせるだけで対応可能なのだ。

 とはいえ、建造を命じられた海上自衛隊は全くと言っていい程にやる気が無かった。

 2020年代に入って漸く得られた増員で低充足の艦を満たし、念願の60,000t級正規空母を運用しよとしていたのだから、新たな必要性の乏しい艦に人員を喰われてはと思うのも当然であろう。

 不満はあれども政治に逆らえる筈も無く、結局、こんごう型イージスシステム艦の代替として、エリア防空システム艦として建造を検討を開始した。

 エリア防空能力を持ち、戦艦としては基準で20,000t級、主砲は5in.砲単装砲を4門積んだ程度でお茶を濁そうとした。

 それに待ったをかけたのが陸上自衛隊である。

 米海兵隊から戦艦が揚陸作戦時の火力支援手段として実に有力であったという情報を受け、積極的な建造を支援する事となったのだ。

 又、フランス政府からの助言として、この時代は政治的には戦艦の保有こそが国力と国威を証明するものであるとと伝えられた為、日本政府は海上自衛隊に「一見して戦艦と判るフネ」としての建造を命令する。

 1年の検討期間後、最終的には35,000型甲種護衛艦として建造される事が決定する。

 基準排水量35,000t 13.5in.砲3連装3基を搭載する、堂々たる戦艦となる。

 基本設計は日本帝国海軍戦艦群の最終形である大和級を手本とする事となる。

 速力は、護衛艦として最低でも30ノットとされた。

 主機はガスタービンを採用する。

 主砲に関しては、大口径砲の製造技術を持たない為、ブリテンで余剰となっていたキング・ジョージⅤ級などの予備砲身の提供を受け、砲塔自体は機力による自動化を極限まで推し進めたものを新造する事となる。

 又、砲身に関してはサーマルジャケットを兼ねた水冷ユニットを被せる事で、機力による発砲速度の上昇に備えるものとされた。

 尚、この計画が公表された時、帝国海軍趣味者の間では、B-65型超甲巡の焼き直しだと言ったモノが居たが、それは正鵠を射たものであった。

 艦橋こそパゴダ型ではなく、あさひ型のデザインを踏襲した上で大型化高層化したものであったが、それ以外の船体の形や主砲の配置などはB-65型超甲巡によく似ていたのだから。

 艦名はやまと。

 35,000tのフネに付ける事には批判もあったが、戦艦はこの2隻をもって最後になるであるが為、この艦名が通る事となった。

 

 

 

 

 

 




2019.04.22 文章の追加
2019.05.08 文章の修正実施


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06.1926 令和の始まり

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 アメリカ、イギリス、そしてフランスとの交渉により、食料と資源の輸入に成功した日本は、取りあえずは1息つく事が出来た。

 タイムスリップによる混乱と不安も、取りあえずの石油資源と食料が調達出来た事で治まる事となった。

 内需、日本国を運営していく上で必要な物資は、現段階のものでは全然足りるものでは無かった。

 又、輸入が出来る様になったとはいえ、それを運ぶための船団が、タイムスリップによって半減してしまっているのも痛かった。

 特に、宝石よりも貴重な日本人船員の多くが失われているのがとても痛い。

 だが、それでも尚、日本は国家の破断面を前に踏みとどまる事には成功していた。

 

 又、国際舞台に立つ事も可能となった。

 これを期に今上天皇明仁陛下は引き伸ばしになっていた退位を決意(※1)。

 日本政府も承認した為、1926年をもって浩宮殿下による皇位継承と改元が交付された。

 奇しくも1926年は昭和天皇の即位と改元の年であった。

 

 

――日本連邦国 成立

 新天皇の即位を祝う即位の礼が行われる。

 この際、列強各国、及び国際連盟へと加盟した各独立国、未加盟の国家へも招待状が送られた(※2)。

 併せて即位を記念する国際観艦式の開催も決定する(※3)。

 又、即位の礼に合わせて、日本国に北日本(樺太)邦国、朝鮮共和国、台湾民国、南洋邦国、千島共和国(※4)の5か国が参加する日本連邦国の設立が宣言される事となった。

 無論、形式としてのものであり、国家としての体裁を整えるのは当分先ではあったが、慶事に合わせるというが為、実施された。

 尚、諸外国からは天皇を戴く国家では変わりが無いため、インペリアル・ジャパンと呼称される事が多かった。

 特に北日本邦国人や朝鮮共和国人などが海外に渡った際に「帝國臣民」などと自称していた事も理由にあった。

 憲法は日本国憲法、法律も日本国に準じたものを使用する。

 その上で、各邦国に合わせた法律が施行されるものとされた。

 外交は日本連邦国としても行うが日本で行う、各邦国は独自での外交活動は禁止とされた。

 国防は日本国の自衛隊。各邦国で整備する治安維持と国境線の保護を主目的とする連邦軍、そしてそれらを束ねる統合軍が建軍された(※5)。

 

 

――経済政策、内需の拡大政策

 喫緊の課題となったのが、内需を動かす為の資源の輸入であった。

 アメリカ、ブリテン、フランスから輸入する諸鉄鋼材、食料、石油、天然ゴムなどの品目だけでは、日本国内の需要を賄う上で全く足りなかった。

 当座は、在庫を持って対処する形とはなるが、木材を筆頭に、早期の輸入を図るべき物資は山ほどに存在していた。

 この問題に対処する為、内閣府の下に戦略資源庁が創設された。

 経済産業省と外務省の人材に加えて、大手商社や地質等の学者などの人員を集めた、資源開発と輸入の専門庁である。

 調査部門には自衛隊からの護衛役まで配置する手厚さであった(※6)。

 取りあえず、植民地への投資が可能となっているブリテンとフランスの植民地からの資源開発と購入とが進められる事となった。

 又、植民地などで交易をする際に現金が必要となる為、現在のバーター取引外の現金(主にポンドとドル)を確保する必要性が出て来た。

 この為、戦略資源庁は資源調査と並行して、輸出可能な商品の市場調査も同時進行する事となる。

 対象は富裕層、及び官庁である。

 高額商品を大量に仕入れてくれそうな場所が、利益率も良いとされている。

 

 

――日の丸船団の構築へ

 半減した日本の船団の再構築は、急務であった。

 船も人も不足していた。

 パナマ船籍などの乗組員は、国籍の多くがフィリピンなどであった。

 この日本への定着、乃至は祖国への帰郷に関しては、日本と当該国との間での外交に委ねられた。

 日本としては重要な船乗りとして厚遇をし、諸外国側も未来を知る人間として厚遇を約束した為、綱引きが発生していた。

 只、祖国に帰った者の多くが、縁者も無く、生活水準の低さに根を上げて、日本への帰順を希望するのだった。

 

 

 

 

 

(※1)

 生前退位は御高齢もあって当初より予定されていたのだが、中国や韓国を筆頭とする周辺諸国との国際環境の悪化から国内を混乱させる事は本意ではないとの大御心により引き伸ばされていた。

 

 

(※2)

 海外からの賓客を招く事は、未来情報の漏えいに繋がるとの懸念が出されたが、遅かれ早かれ伝わるだろうし、そもそも、出島の様なモノを作って物資と情報のやり取りを制限するなど土台、困難という開き直りがあった。

 特に、インフラ整備で日本から民間人も海外へと派遣する為、どれ程に契約で縛ったとしても無理であろうと言うのが有識者会議の結論であった。

 であれば、世界の事は世界に任せるという、良くも悪くも適当な対応を行う事が決定された。

 

 

(※3)

 国際観艦式の開催に関しては、観艦の賓客としての招待を即位の礼の際に行ったが、各国は日本の洋上戦力の様子を見る為として、観艦式への参加を表明する事となる。

 最初に手を挙げたのがフランス。

 当初は謝辞をした日本であったが、祝いたいとの好意を盾に言われては固辞できるものでもなく、フランス艦の参加を受諾する。

 であればとアメリカとイギリスも手を挙げ、後はなし崩しの様に参加国が増えて行った。

 尚、この時点では立場の未確定であった在日米軍もCVNを参加させる事とはなっていた。

 

 

(※4)

 北方4島を含む千島列島は、日本と一緒にタイムスリップした。

 故に、露国人が在住していた。

 日本としては人道的支援として食糧援助をしつつ、その帰属に関して頭を悩ませた。

 全島を日本に編入するつもりではあるが、現住する露国人を粗末に扱うのは目覚めが悪いというものであった。

 だが、問題は意外な事に簡単に片付いた。

 千島列島の露国人が、自分たちで投票と意思統一を行い、日本への帰順を申し出たのだ。

 そこには千島列島に駐留する露国軍も含まれていた。

 朝鮮/台湾方式での日本への、日本連邦(当時は構想段階)への参加表明、それも露国大使館を通じてだ。

 彼らの殆どが、ソ連に郷愁は感じていた。

 同時に、スターリンに対する恐怖を感じていた。

 言わば露国から日本への亡命であった。

 但し、極々少数の人間が日本への帰順を拒否し、こっそりとソ連へと渡っていたが。

 

 

(※5)

 将校の教育に関しては意思疎通を図る意味でも、日本国での実施に一元化する事となった。

 この為、防衛大学校の規模拡張と空陸海の教育施設も拡張される事となる。

 余談ではあるが、緒邦国人が日本の本土で生活する最初の例であったが為、悲喜交々の物事が発生し、又、この場を介する事で日本の情報が各邦国へと伝わって行った。

 

北日本(樺太)邦国

 ソ連との国境を抱えている為、邦国軍として国境警備担当の3個歩兵連隊が編制される事となる。

 基幹となるのは、日本帝国陸軍樺太駐留部隊であった。

 小銃などの装備は日本陸軍のものが使用されるが、自動車に関しては日本製のトラックなどの各種車両が提供されている。

 大量調達の関係上、トラックメーカーの民生品規格を配備している。

 日本帝国陸軍軍人のみで構成されている性格上、日本帝国陸軍の気風を一番に色濃く残している。

 

朝鮮共和国

 ソ連、チャイナと国境を接する関係上、邦国軍は国境警備担当として2個自動化師団が編制される事となる。

 基幹となるのは日本帝国陸軍経験者であるが、大多数は朝鮮共和国人が採用されている。

 装備は北日本と同様の調達となっている。

 

台湾民国

 国境線を接する国家が無いが国土が広い事もあり、2個歩兵連隊による警備部隊が編制された。

 装備は北日本に準じる事となる。

 朝鮮共和国と同様に台湾人が将兵の中心となっている。

 又、水上警備部門が発足した。

 此方は元々は日本帝国海軍が担当していた海洋保安業務を引き継ぐ事を目的としている事もあり、当座は海上保安庁から人員を派遣し教育し、船舶も海上保安庁からの移管したもので発足する形となった。

 新編という事もあり、構成員の殆どが台湾系日本人である為、台湾では誇り高く扱われる事となる。

 

南洋邦国

 その国土の関係上、設立されたのは海洋警備部隊としての性格が強い組織となった。

 歩兵は首都に置かれた1個歩兵連隊(1個大隊規模)のみでありながら、これは邦国としての名誉を重視した結果である。

 装備は関東処分で発生した余剰装備が充てられた。

 台湾民国と同様に海上保安庁の肝入りで部隊が編制される事となる。

 尚、日本帝国の管轄下になってまだ時間も少なく、教育制度その他の整備が行われていなかった為、南洋邦国人による部隊編成は困難であり、日本や他の邦国で雇用された人間が派遣され、編制されている。

 

千島共和国

 駐留していたロシア軍を元に編成される。

 日本とソ連との緊張も無い為、3個連隊の歩兵部隊に再編された。

 これはロシア製装備の整備が今後、困難になる事が予想された為、予備として保管はするものの、主力装備から外す為である。

 日本が細心の注意を払って対応する邦国でもある。

 又、将兵の交流と相互理解は最優先で行われている。

 

 

(※6)

 海外で展開する陸上自衛隊という事で、後の時代にはスパイもの的な娯楽作品の題材とされる事が多かった。

 とは言え、スパイ的な作業など殆どなく、調査団の護衛任務が主であったが。

 

 

 

 

 

 




史実より8年程遅れて令和スタートです。


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07.1927 欧州の余波

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――ブリテン

 最初のインフラ輸出先となったブリテン。

 そこでブリテン人の目を引いたのは、高性能な作業機械もであるが、先ず何よりも自動車だった。

 日本政府が気を効かしてブリテン王室へと贈呈した自動車は日本政府が特注した最上級のそれであり、その佇まいと機械的な信頼性が評判を呼んだのだ。

 特に、貴族たちはこぞって購入する事となる。

 ブリテン製自動車とは比較にならない機械的な信頼性と居住性。そして高価格と相まって、日本製自動車を持つ事がステータスシンボルとなっていく。

 日本はブリテンに於ける日本ブランドの確立の為、自動車 ―― 高級車専用の整備工場を生み出した。

 

 ブリテンは英国大使館と共同で、ブリテンの経済拡大を主目的とした経済政策を纏める事となる。

 10年後を見据えた軍事力の拡張よりも、20年後を見据えた経済力を求めたのだ。

 製鉄所を含む重工業の再建と投資。

 その市場としてのブリテン植民地への投資が行われて行く事となる。

 建前としては植民地ではなく、ブリテン連邦加盟国への国力涵養としての投資として。

 これによってブリテン政府は莫大な負債を抱えていく事となるが、同時に、経済の活性化に成功する。

 第2次産業革命とも自称する事となる。

 

 

――フランス

 日本の情報でドイツの再隆起を知ったフランスは、対ドイツ戦争計画の立案を始める。

 具体的にはドイツが再軍備を行った時点で宣戦布告である。

 その軍備が整う前にドイツ経済の心臓部でもあるルール地方を掌握し、フランス-ドイツの国境線を東へと100㎞押し込む事を決断したのだ。

 世界大戦の傷跡癒えぬフランスであったが、国家の矜持として決してドイツの風下には立たぬという決意があった。

 その事が日本との関係強化に繋がっていく。

 1つは、日本がフランスの毒ガス汚染地帯の防除にと持ち込んだ各種の土木機材である。

 民生用の機材ではあったが、その作業効率は驚異的の1言であったが為、将来のドイツ戦を睨んだ場合、野戦築城――塹壕の設営その他に大なる効果を発揮すると認識。

 当時、フランスに派遣されていた民間の技術者は、フランスからの各種接待によって装備の融通こそしなかったものの、様々な発想を伝えた。

 それを元にフランス政府は国内メーカーへ類似にものを発注する事となった。

 とは言え、日本の持ち込んだソレは油圧式のディーゼル機であり、電子制御され無人作業すら出来る程の最新鋭型であった、

 その様なモノ、到底にまねのできる筈も無かった。

 であればと、日本への売却を要望する事となる。

 併せてフランス国内に製造工場の誘致も要請した。

 日本は売却を受諾する。

 只、製造に関しては国内工場での一括製造を行って居た為、不可能である事を回答し、整備工場と訓練所の併設という形をとった(※1)。

 

 

――ドイツ

 フランスから極度に敵視されている為、経済的な混乱と政治的な混乱が悪化の一途を辿る。

 その為、強い反フランス思想が醸成されていく。

 パブなどでも「フランスの死か、我らの死か」と叫ばれる程になっていく。

 ついでにユダヤ系への憎悪もぶち上げられるのが国家社会主義の政党の常だった。

 国家社会主義の泡沫政党に、日本から密航した独国外交官であった若者が接触した。

 彼はネオ・ナチだった。

 ゲルマンの、ドイツ人のドイツを取り戻す為、危険を乗り越えて魂の祖国へと渡ったのだ。

 彼の苦労は報われる。

 

 

――ポーランド

 ドイツへの未来情報の漏えいはネオ・ナチの若い外交官だった。

 だがポーランドに関しては、在日本波国大使館の総員が関わっていた。

 祖国の滅亡と塗炭の苦しみを回避する為に、どうするべきかと苦慮しての結果だった。

 結論は、現状では軍事力に乏しいドイツへと先制攻撃をする事によって、ドイツという国家を滅亡させてしまえば、残るはソ連への対応だけである。

 そちらは隙を見せなければ何とかなるであろうという計算だった。

 事実上の新興国であり、ポーランドの軍事力も立派とは言い難いが、フランスがドイツへ攻撃的な政策を行っているのを見て、共同して殴り掛かれば問題ないという結論に達したのだった。

 後は、戦車などを如何に揃えるか。

 ポーランドと波蘭大使館は、日本を活用する事を検討する。

 

 

 

 

 

(※1)

 ノックダウン形式であれば不可能では無いのだが、ジャパン・プレミアムとして日本は国内での製造に拘った。

 ブランドを生み出す為であった。

 安い取引はしないという意思表示でもあった。

 メイドイン・ジャパンの銘板が付けられた機材は高級品であると認識させようというのだ。

 又、工場を設置しない理由はもう1つあった。

 将来にあり得る第2次世界大戦である。

 フランスとドイツの戦争が勃発した場合、工場が接収され、或は略奪されるのが見えて居た為、その様な危険を冒す気になれなかったのだ。

 

 

 

 

 




書き溜めてた分が切れました。
これから連日更新は難しいですので、ご了承ください。


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08.1928-1 日本ソ連戦争-1

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 日本連邦の発足。

 だがその中に含まれている千島共和国の存在に面白からざるものを感じたのがソ連政府であった。

 日本帝国が日本になったと思えば、千島列島はロシア領になり、それから共和国として独立し日本連邦へと参加したのだから。

 未来の自分達のものが奪われた ―― そんな理不尽な感覚を抱いていた。

 その不満に火を点けたのがスターリンとトロツキーの対立である。

 既にレーニンの後継者としての立場を固めたスターリンであったが、トロツキー派を完全に下せた訳では無かった事が、現状に繋がっていた。

 そこに、未来のロシアの領土が日本に収奪されたという情報が来たのだ。

 スターリンは、ソ連の守護者として外敵から国土を護る義務がある ―― にも関わらず、それを成せないのであればレーニンの後継者では無い。

 そうトロツキー派が政治活動を行ったのだ。

 無理筋ではあるが、同時に一理はある主張に、まだ足場の固まり切っていなかったスターリンは抵抗しきれなかった。

 対日旧領回復行動に繋がる。

 初手は、日本時代 ―― 平成時代に準じた国土・国境線の策定を主張した。

 日本は拒否した。

 ソ連へと亡命してきた露国大使館員からの情報で、日本は平和主義であると聞いていたソ連は、軍事力を背景にした圧力を加える事を選択する(※3)。

 樺太北部に4個師団を集結させ、併せて2個師団をウラジオストクへ集めた。

 朝鮮共和国との国境線にも3個師団を終結させた。

 ブラフとしてだった。

 日本が保有する戦力の約半数もの大部隊を国境線に張り付けたのだ。

 その内実は装備も十分では無い軽歩兵であるとは言え、その数は力だった。

 その力を背景にする事で、日本が戦争を忌避するのであれば、折れるというのがソ連の読みだった。

 激しく読み違えた。

 読みでは無く、それは願望であったのだから。

 

 

――国際社会

 国際連盟ではソ連の行動を激しく非難した。

 だが、実行力のある戦争抑止の行動は行えなかった。

 場所が極東であると言うのが1つ。

 もう1つとして、日本の力を見たいと言うのが列強諸国の本音であったのだから。

 故にに誰もが、決定的な事を口にする事は無かった。

 議会は重ねつつも、無為に時間だけが過ぎていく事となる。

 最終的に決まった事は1つ。

 ソ連の軍隊が日本の国境線を超えた場合、領海へと侵入した場合にはこれを宣戦布告に準ずるものとして日本が行動する事への、国際的な同意だけであった。

 後の歴史は、この同意の議決が決した日こそ、日ソの戦争の口火であったとしている。

 アメリカ・ブリテン・フランス・イタリアの4カ国は日本へ観戦武官の派遣を決定。

 ソ連は、日本が一切の交渉に応じなかった事に立腹、何より、交渉の不成立はスターリンの権威を損なう事に繋がった為、対日懲戒戦争を決意する事となる。

 

 

――ソ連・対日戦争計画

 建国して時間の無いソ連は、とても世界大戦の様な大規模な戦争をする余力など無かった。

 故に朝鮮半島へと張り付けた部隊は囮とした。

 主力は樺太となる。

 樺太には既に3個のうち2個の師団が終結を完了していた。

 対する日本の戦力は3個の歩兵連隊と、日本本土から派遣されてきた1個連隊、そして樺太・千島問題が発生して以降に増強された連隊規模の部隊のみ(※1)。

 倍を超える戦力差に、先ず負ける事は無いとソ連政府は判断していた。

 それどころか師団規模での増派をしない時点で、日本政府は建前として樺太共和国の防衛を主張してはいるが実は樺太南部を放棄するつもりだと認識していた。

 

 

――日本・対ソ戦争計画

 樺太は国境線を保持 ―― 最終的な奪回を前提とした戦略的後退は認められる ―― し、千島列島を狙うソ連の船団は洋上にて捕捉、撃滅が決定していた(※2)。

 大事な事は、この時代に於いて舐められぬと言う事。

 その為に自衛隊に要求されたのは勝利では無く、圧倒的な勝利であった。

 この時点で燃料問題は大分緩和されていた為、制限の掛けられていた哨戒機による広域哨戒が再開され、又、大型無人哨戒機によるウラジオストクの偵察が随時実施されるようになった。

 その他、千島共和国のスラブ系日本人から有志を募ってユーラシア大陸への偵察隊の投入も検討されたが、そちらは時期尚早と断念される事となる。

 

 

――観戦武官の所感

 日本へと派遣された観戦武官たちがまず驚いたのは、日本の道路事情だった。

 そして車だ。

 欧米列強が製造している自動車とは比較にならない乗り心地の車、バス、そしてトラック。

 そしてその数だ。

 アメリカ以外の全ての国家の常識を遥かに超えた数の車が、東京から北海道まで動いていた。

 そして飛行機。

 船舶。

 その全てが100年の時代を理解させるものであった。

 そして、観戦武官たちは樺太に入る。

 それは日ソの紛争が始まる2週間ほど前の事であった。

 

 

 

 

 

(※1)

 樺太に駐屯していたのは第11師団から派遣された第10即応機動連隊であった。

 増強された部隊は自衛隊第2師団から抽出された第3普通科連隊を中心に構成されていた。

 第2戦車連隊からは10式戦車を完全充足している2個中隊と、第2特科連隊から99式自走榴を完全充足の特科大隊が1個組み込まれているという重編制の機械化連隊戦闘団であった。

 当初は第2師団を丸ごと派遣する事も想定されていたのだが、弾薬の補給などのインフラの問題があり断念されていた。

 その代わり、増強された第1対戦車ヘリコプター隊の派遣が、海上自衛隊のDDHを母艦とする形で行われていた。

 この派遣規模を聞いた樺太共和国が、ソ連同様に日本は樺太南部を放棄する積りではないかと訝しんだのも当然であった。

 対地ミサイル連隊や航空部隊に関する情報が抜けて居た為、この危惧も当然ではあった。

 そして、日ソ開戦から2日で、その疑念は払底される事になる。

 

 

(※2)

 当初は樺太北部まで侵攻制圧を検討されたが、制圧後の治安維持活動の手間もあり、早々に放棄された。

 但し、樺太北部とユーラシア大陸の連絡を途絶させ、降伏を促す方向での干渉は行う予定とされた。

 

 

(※3)

 ソ連軍(約150,000名)

  極東第1軍(樺太鎮定軍)

   歩兵師団(充足)

   歩兵師団(充足)

   歩兵師団(未充足 1個連隊のみ。残りはシベリア鉄道にて輸送中)

   戦車師団(未充足 2個戦車連隊)

   砲兵旅団(充足)

  極東第2軍(千島鎮定軍)

   歩兵師団(充足 渡洋作戦の為、軽装備主体)

   歩兵師団(充足 渡洋作戦の為、軽装備主体)

  極東第3軍(朝鮮鎮定軍)

   歩兵師団(未充足 人員不足により1個連隊欠)

   歩兵師団(未充足 人員不足により2個連隊欠)

   歩兵師団(充足 新兵主体であり、重装備は甚だ乏し)

 

 日本連邦軍(約15,000名)

  日本陸上自衛隊

   北部方面隊樺太派遣団

    第10即応機動連隊

    第1独立装甲連隊(第3普通科連隊を中核に、2個戦車中隊、1個特科大体で編成)

   北部方面隊千島派遣群

    第1空挺団(第1普通科大隊のみ展開)

朝鮮半島派遣団

    第8師団

    第14旅団

    西部方面戦車団

  樺太共和国

   第1歩兵連隊(充足)

   第2歩兵連隊(未充足 1個大隊欠)

   第3歩兵連隊(未充足 1個大隊欠)

  千島共和国

   第1歩兵連隊(充足 装甲化)

   第2歩兵連隊(未充足 装甲化)

  朝鮮共和国

   第1歩兵師団(自動車化 充足)

   第2歩兵師団(自動車化 未充足)

 

 

 

 

 




2019.04.28 修正実施 表現の乱れの修正、朝鮮共和国軍の追記


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09.1928-2 日本ソ連戦争-2

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 日本政府と自衛隊の戦備は十分であった。

 問題は、野党と世論であった。

 政府の方針に対して批判はしたいが、批判すれば、それは北方4島が日本の領土では無いと宣言する事になるからだ。

 独立と日本連邦への編入も、公平な民主主義によって下された判断である以上、その過程にも文句を付ける事は出来ない。

 よって、野党とマスコミの主要な主張は非戦、戦争回避にのみ集中する事となっているが、これに慌てたのが千島共和国の外交部であった(※1)。

 千島共和国に連絡し、その後、日本政府との交渉に入った。

 第1回目は深夜、午前1時に行われた。

 既にウラジオストクには大型の輸送船とその護衛と思しき戦闘艦が集結しており、悠長に事を運んでいる余裕は無かったのだ。

 その会議にて千島共和国外交官は、日本政府に千島共和国防衛に関する確認を行った。

 日本に帰属してまだ間もないロシア系日本人としては、マスコミが煽り、加熱させている反戦運動に対して大いに警戒していたのだ。

 これに日本政府は、心配の要らぬ事を告げた。

 ソ連が千島共和国向けに用意している部隊は洋上にて撃滅する予定である事を。

 実は、この洋上迎撃計画自体は既に千島共和国へは伝達されていた。

 スパイ活動 ―― ソ連側に寝返った(表替えった)人間を警戒し、詳細こそ伝えては居なかったが。

 だが、日本政府は今回の千島共和国側の不安を理解し、迎撃作戦と参加部隊の詳細を伝達した。

 その内容に、参加していた千島共和国軍(邦軍)より派遣されていた武官が安堵し、その内容を千島共和国外交団に伝達した事で、一応の安堵をした。

 その上で、会議では2つの事が決定した。

 1つは、陸上自衛隊からの部隊を千島列島に展開させると言う事。

 これは、人質という訳ではなく、どちらかと言えば千島共和国住民への民心慰撫の面が強かった(※2)。

 同時に、日本国民への宣伝も行った。

 所謂 クウェート式、まだあどけないロシア系日本人少女を使い、千島へと迫るソ連の脅威を訴えさせたのだ。

 露骨にして単純な手法ではありそれを批判する声 ―― マスコミ関係者も居たが、今回は単純にも日本側は守備側であり、戦争への経緯に欠片とも問題が無かった為、その声が大きな影響力を持つ事は無かった。

 又、この報道に動かされる形で在日米軍が海兵1個大隊を千島に派遣する事となった(※3)。

 奇しくも日米露の連合軍が千島に誕生するのだった。

 

 

――1928.5 ソ連・開戦決断

 戦力の集結が終わっては居なかったが、日本側が千島への空挺部隊の展開を行った事をスターリンが重視し、開戦を決断した。

 又、本来は威嚇用として想定されていた朝鮮半島付近の3個師団にも懲罰としての南進を命じた(※4)

 輸送船への乗り込みを開始した時、日本側から通告があった。

 ソ連籍船舶複数の領海侵入は非友好的意図の恐れがある為、船団が領海に接近した場合、これを撃滅するとの通告であった。

 日本側外交官が断言した事は、ソ連上層部に少なからぬ衝撃を与えたが、同時に、それはスターリンの面子へも多大な衝撃を与えた。

 スターリンは激怒した。

 かの暴虐な資本主義帝国主義の国家へと、礼儀知らずの振る舞いに痛打をもって返答をせねばならぬと決意した。

 千島攻略船団には十分な護衛を付け、船団が日本の領海に接近するのと時間を併せて樺太、朝鮮への侵攻を下命した。

 

 

――日本側・戦争準備宜し

 戦争準備は完了していた。

 常時、偵察機による高高度からの偵察と、打ち上げられた偵察衛星によってソ連軍の行動は丸裸にしていたのだから。

 戦闘攻撃機と哨戒機への爆装準備は完了していた。

 在日米軍から爆撃機も派遣されていた。

 法的な準備も完結していた。

 国民の了解も得ていた(※5)。

 1928年5月。

 日本政府はソ連の千島侵攻船団の出港を確認後、TVにて国民に布告する。

 気の早い新聞社が日ソ開戦として出した号外は奪い合いとなった。

 だが、開戦は号外の1週間後であった。

 

 

――戦争・開戦

 ソ連千島攻略船団に約10kmの距離を取って随伴していた日本海上自衛隊の哨戒艦が、日本領海に接近した事を警告する。

 返礼は発砲であった。

 とは言え、ソ連駆逐艦からの発砲が哨戒艦を傷つける事は無かったが。

 だが、この発砲を持って日本はソ連との戦争状態に突入した事を世界に対して宣言した。

 同時刻、ソ連樺太鎮定軍と朝鮮鎮定軍が南下を開始した。

 

 

 

 

 

(※1)

 旧露国大使館員である。

 目端の効いた旧ロシア大使館員はソ連に帰順したとして良い扱いを受けるとは思っていなかった為、ほぼ全員が千島共和国についていた。

 

 

(※2)

 タイムスリップ当時の露国極東軍千島駐留部隊は、日露関係の安定と露国の経済的困窮から小規模 ―― 未充足の2個歩兵大隊を基幹とする混成連隊規模であった。

 この組織を前身とする千島共和国軍(邦軍)は、看板として2個連隊編制と成ってはいたが、その内情は未充足の6個歩兵中隊と1個対戦車中隊からなる軽歩兵部隊でしかなかった。

 そこにソ連の2個師団からの揚陸部隊が来るのだ。

 千島共和国の住人が萎縮し、母国(日本)から防衛の担保を欲するのも当然であった。

 この為、展開力から第1空挺団第1大隊が選抜、派遣されたのだ。

 しかも1個中隊は空挺降下を行い、千島列島防衛に対して日本は本気であるとのアピールまで行った。

 空挺降下する様を千島の地場放送局によるTV中継なども実施。

 日本は千島の民心慰撫に極めて心を砕いていた。

 

 

(※3)

 在日米軍の派遣は、単純なる義侠心などでは無かった。

 日本とアメリカの間での日米安全保障条約の締結が決まらない(安全保障での協力はする事自体は決定しているものの、アメリカのモンロー主義の影響で、どこまでの協力関係を行うのかで議論が止まっている)為、不確かな地位にある在日米軍が、内部の士気低下を抑止する為もあり行ったものであった。

 現時点で、在日米軍の生活費は日本政府からの特別措置の予算で賄われている。

 故に、食客としての分を果たすべきではないのかとの議論があった。

 又、在日米軍の中には祖国への帰属意識とは別に、白人国家として有色人種に対し人種差別的な政策を行っているアメリカへの忌避感も少なからずある事も、在日米軍の難しさでもあった。

 

 

(※4)

 途中の経緯を抜きにして、開戦直前のスターリンにとっては奪われた旧領の奪回のみが目的であり、であるが故に日本が道理を弁えた行動を取れば、血は流れないという思いがあった。

 であるが故に、日本が千島へと戦力を増強していく事に憤怒した。

 100年の歴史とやらで増長していると思ったのだ。

 有り体にいえば舐められたと判断したのだ。

 この為、スターリンは朝鮮半島への懲罰を決定。

 更なる3個師団の派遣を決定するほどであった。

 

 

(※5)

 コリア内戦から日本国民は、事、国家の防衛に於ける軍事力の行使というものに忌避感を抱いて居なかった。

 戦争は良くない。

 だが、相手の善意を妄信する事は、それ以上に良くない。

 又、スターリンと言う人間の人物像が知られているのも大きかった。

 国民の誰もが、共産主義者ですらも、スターリンという人間の持つ暴力性を認識していた。

 故に、国民が一丸となっていたのだ。

 国民の一部は、義勇隊の創設を国に要求する程であった。

 

 

 

 

 

 




2019.04.27 微修正実施
2019.05.13 表現の修正実施


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10.1928-3 日本ソ連戦争-3

+

――千島戦線(D-Day)

 最初に決着したのは、千島戦線だった。

 千島へ向かった攻略船団は日本の領海に入る際、張り付いていた海上自衛隊の哨戒艦から最終警告を受けた。

 見るからに軽武装、それもたった1隻で船団の傍に居た哨戒艦である。

 船団は、それをせせら笑いながら無視した。

 その結果は過酷であった。

 日本の領海に侵入すると共に、空中に待機していた航空機による攻撃を受けた。

 延べ3桁近い航空機の攻撃は、その真の力とも言うべき空対艦ミサイルではなく、より安価な空対地ミサイルや滑空誘導爆弾であった。

 護衛する駆逐艦や、輸送艦の持つ火砲の遥か外側から撃ち込まれる様は無慈悲の1言に尽きた。

 その様を見ていた船団に張り付いていた哨戒艦の艦上にあったアメリカの観戦武官が「そこにロマンチズムなどは一片も無く、ただ科学と合理が生み出した鉄の雨は自然現象の様にソ連の船団を崩壊せしめた」と報告書にまとめたほどであった。

 護衛の艦艇も含めて大小34隻のソ連船団は悉くがオホーツク海の藻屑となった(※1)。

 尚、洋上に投げ出されたソ連軍将兵で1万名程は、救助船を用意していた自衛隊の手で救われ、後にはその多くが千島共和国へ移住する事となる(※2)。

 

 

――モスクワ(D-Day)

 千島への侵攻船団壊滅の情報をモスクワが、その当日に把握する事は出来なかった。

 さもありなん。

 5万名近い人間を載せた大船団が全滅と言うのは空前絶後であり、誰であれ想定する事など出来る筈も無かった。

 その為、最初の電文から、日本の航空攻撃が強力であったとだけ理解した。

 慌ててソ連の持つ航空部隊を樺太と朝鮮へと振り向けた。

 千島侵攻船団に関しては、船団に随伴させるだけの航続力のある航空機は無かった為、船団の将兵の努力を期待する旨、スターリンの名に於いて発信した。

 既に存在しない船団に。

 モスクワの反応速度は決して悪いものではなかった。

 只、現実が、日本がそれを優に上回っていただけで。

 

 

――樺太戦線(D-Day)

 国境線を突破したソ連軍を待ち受けていたのは、地雷と野砲、対地ミサイル、高速滑空弾による歓迎であった。

 100m前進する毎に1個大隊が消滅する ―― それはさながら鉄の雨であった。

 国境線を1キロ押し込んだ時点で、未だ自衛隊にも樺太共和国軍にも接触しなうちに3割近い将兵を失った極東第3軍の司令部は根を上げ、モスクワへと進退の伺いを立てた。

 開戦初日で発生するには余りにも大きすぎる被害に、モスクワも攻勢の停止を許可した。

 しかしながら、停止はしても定期的な砲撃を受ける為、部隊を小隊単位で分散配置して塹壕の構築を図り、被害の低減を図る事となる。

 既に樺太戦線の攻勢は初日に頓挫する形となった。

 

 

――朝鮮戦線(D-Day)

 ソ連の侵攻が順調であったのは朝鮮半島であった。

 但しそれは、土地を稼ぐと言う意味であり、戦闘に勝っている訳では無かった。

 日本側が、投入できる戦力に対して戦線が余りにも広大である為、30㎞程内側へ防衛が行いやすい場所まで引き込む前提で住民の避難を行わせていたからだ。

 朝鮮共和国政府も不承不承ではあるが了承しており(※4)、ある意味で至極当然の結果であった。

 樺太戦線の情報を得ていた朝鮮鎮定軍司令部は隷下の部隊へ、慎重な前進を下命していた。

 だがD-Day初日には接敵する事も無く歩兵師団は13㎞の進出に成功した。

 自衛隊、朝鮮共和国軍どころか一般市民すら見ない進軍となった。

 

 

――日本側対応(D-Day)

 事前の偵察と無線傍受からソ連の動きを掴んでいた日本側は、特に問題も無く作戦を遂行していた。

 千島攻略船団への守勢攻撃。

 樺太侵攻部隊への守勢防御。

 朝鮮侵攻部隊への守勢防御。

 だが、それだけで戦争に勝てる訳ではない。

 終わる訳ではない。

 故に、日本は攻勢防御も開始していた。

 1つは潜水艦による間宮海峡での洋上交易路の破壊、そして港湾への機雷の設置。

 1つは巡航ミサイルによる北樺太の物資集積所への攻撃。

 1つはウラジオストクの機雷封鎖。

 日本は喧嘩を売って来たソ連への報復として、そのシベリア域の経済を破壊する積りであった。

 

 

――朝鮮戦線(D-Day+1)

 初日の順調な進軍に疑念を抱いた2日目。

 地獄の蓋が開いた。

 空爆である。

 航空自衛隊、海上自衛隊、そして在日米軍の航空機による総攻撃であった(※3)。

 樺太戦線の悲惨さの連絡を受けて居た為、野営する際に退避壕などの準備を十分に行っていた為、即座に3個師団が壊滅する様な事は無かった。

 だが壕から出れば、即座に消滅しかねない程の猛爆撃であった。

 又、弾薬や食料その他の物資は尽くが灰燼に帰していった。

 その様を前線で見ていた観戦武官は航空機こそが次世代の戦争を決めるのだというレポートを纏める事になる。

 だが同時に、この1日だけで日本と在日米軍が消費した燃料弾薬の総量に、恐怖していた。

 世界大戦時代の航空機が消費した燃料弾薬とは、文字通りに桁が違っていたのだから。

 違い過ぎていた。

 

 

――樺太戦線(D-Day+4)

 3日間に渡って行われた砲撃の後、5日目の払暁。

 樺太共和国軍が反撃に出た。

 独断専行では無いが、樺太共和国軍が自衛隊に強く主張して行われた反撃であった。

 陸上自衛隊から派遣を受けた戦車を先頭に立てた突進は、防衛線などとは言えない薄いソ連軍の左翼前線を突破、その後、右翼に旋回する事でソ連軍の半包囲に成功する。

 見事な機動であった。

 自衛隊から提供された無線機やトラックなどの効果も絶大ではあったが、先ずは日本帝国陸軍将兵(現役兵)が基幹となった樺太共和国軍の高い練度があっての成功であった。

 その効果は絶大。

 補給線を寸断され、後方をかく乱されたソ連軍の士気はみるみると低下していった。

 5日目の夕方には脱走兵も相次ぐ様になっていた。

 

 

 

 

 

(※1)

 大は大型貨物船から小は大型の漁船まで。

 34隻もの艦船を喪失した事は、ソ連の極東経済に深い打撃を与える事となった。

 更には樺太との間宮海峡が海上自衛隊潜水艦部隊の手で封鎖され、尽くが撃沈されてしまった為、ソ連のオホーツク海沿岸域の経済活動は事実上、壊滅した。

 

 

(※2)

 降伏する際、主導を握ったのは指揮官たちと同時に政治将校たちであった。

 理論的に将兵を説き伏せ、捕虜になった後に人心を掌握する様に、そして責任を自分が取ると明言する様は、娯楽映像作品などでは無い現実を、自衛隊と日本に教えるのだった。

 

 

(※3)

 D-Day初日に反撃を行わなかった理由は、自衛隊と在日米軍の調整に手間取ったからであった。

 この戦争に関し在日米軍は当初、爆撃機の乗員毎のレンタルを除いては関与を予定していなかったが、千島列島へと海兵隊を派遣すると同時に日本政府に対して戦争への参加を伝達した。

 在日及びグアムに駐留するインド太平洋軍の全てを。

 これは日本とアメリカの間で所属の揺れていた在日米軍の決意であった。

 この時点で日本とアメリカとの間では安全保障条約は成立していない。

 アメリカが孤立主義を維持していた事が原因である。

 関東州権益の売買を元にした日本に対する良き隣人外交は行ってはいたが、その国内の政治情勢として安全保障条約 ―― 同盟関係の締結に踏み込む事が出来なかったのだ。

 であるが故に、在日米軍は宙に浮く形となった。

 日本と同盟を締結しないのであれば、日本国内に米軍が駐留する法的根拠は消滅する。

 だがアメリカと米国は完全なイコールでは無い。

 政治的なウルトラCとして、在日米軍の日本への帰順・帰化を成すべきかと言えば、それは難しい。

 在日米軍としては米国への忠誠が緩んだ訳では無いし、そしてアメリカにとっても在日米軍の持つ軍事力と科学力はあまりにも魅力的であったのだから。

 故に、状況が安定するまで問題の最終的な解決は先送りするものとして、当座は日本とアメリカが在日米軍の経費(維持費)を折半する形となったが、その金額にアメリカは恐怖した。

 近代兵器の維持費の余りの高価格さは1つの衝撃であった。

 毎年、戦艦の建造費用に匹敵する額が飛ぶ事に、アメリカ政府はそのままの在日米軍のアメリカ軍編入に躊躇したのだ。

 又、在日米軍側としても、白人社会として非白人を差別している今のアメリカへの帰順は、もろ手を上げて賛成出来るものではなかったのも大きい。

 これが、在日米軍の立場が不確かなものになる理由であった。

 であるが故に、在日米軍はこの戦争への参加を決意する。

 下世話な表現をするならば下宿代を払うという意味が1つ。

 そしてもう1つは将来の在日米軍、そして在日米軍が保護すべき米国の保護という問題解決への回答の為の行動であった。

 後の日本連邦構成国、アメリゴ共和国(邦国)にしてアメリカ準州のグアム特別州への流れである。

 

 

(※4)

 戦意と装備に不測の無かった朝鮮共和国政府としては国境線での応戦を主張していたが、如何せん朝鮮共和国軍の規模が小さく、又、訓練も十分では無かった為、自衛隊の指揮を受け入れていた。

 只、国土が蹂躙される危機と、日本連邦への献身を宣伝した為、共和国軍への参加希望者が徴募事務所へと殺到し、臨時の義勇兵連隊が編制される事となる。

 尚、日本から移住してきた在日朝鮮人が、ここぞとばかりに反日本を宣伝した所、集会所が襲撃を受けたり、演説に泥玉が投げられる様な事があった。

 在日朝鮮人は共和国政府に保護を要請するが、日本連邦ひいていは朝鮮共和国防衛に合力しない人間を優遇する必要は認められないとの門前払いを受ける事となる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




2019.04.28 修正実施


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11.1928-4 日本ソ連戦争-4

+

 開戦から6日目、誰の目にも決着はついていた。

 当事者の一方であるソ連を除いて。

 

 

――朝鮮戦線(D-Day+5)

 樺太戦線に於ける樺太共和国軍の活躍を聞いた朝鮮共和国軍司令部は、彼らに出来て我らに出来ぬ筈なしと自衛隊側に強く上申する。

 政治的な判断もあった。

 義勇兵も集まる国民の戦意、民意を無下には出来ないという判断であった。

 この要請に日本政府は最初は渋ったものの、元々が自衛隊による反撃行動自体は予定されていた為、最終的には朝鮮共和国軍の参加を受諾。

 開戦6日目(D-Day+5)に反攻作戦が実施される事となった。

 全域で圧力を掛けつつ、反攻部隊がソ連軍左翼からの突破と機動によって後方分断による補給線の破壊とソ連軍の士気低下、そして包囲を図る事が目的とされた。

 先鋒は第12普通科連隊を基幹とする連隊戦闘団であった。

 これに朝鮮共和国軍1個師団が追従し、戦果の拡大を図るものとされた。

 作戦開始は6日目の夜明け前。

 人の一番集中力に乏しい時間を狙っての攻勢であった。

 日本側の反抗作戦にソ連は抵抗出来なかった。

 4日に及んだ爆撃で燃料弾薬を焼き尽くされ、指揮系統も寸断され尽くしたソ連軍には抵抗する余力どころか意思すらも消滅していた。

 これがソ連領内での、ソ連防衛戦であれば話も違ったであろうが、これは侵略戦争である。

 その上で圧されてしまえば戦意を維持する事など不可能であった。

 ソ連軍朝鮮戦線司令部は、部隊の壊乱を恐れてモスクワの了解を得る前に独断で撤退を決定(※1)。

 だが、全てが遅かった。

 疲弊し果てていた将兵は、接敵しても碌な抵抗も出来ぬままに打ち倒されていった。

 余裕のあった部隊は投降を選択したが、それが出来たのは極々限られた部隊だけであった。

 開戦6日目にして、朝鮮戦線は終息した。

 

 

――オホーツク海航空戦(D-Day+5)

 報道の行われている地上戦や、派手な船団消滅のあった洋上戦に比べて航空戦は地味ではあった。

 だがソ連に対する痛打と言う意味では一番に大きな影響を与えていた。

 グアムに駐留していた米国インド太平洋軍の爆撃機による、ウラジオストクを筆頭とするソ連の全ての港湾に対する爆撃とシベリア鉄道の駅や橋、そして物資集積所への容赦の無い爆撃が実行されたのだ。

 ソ連も抵抗しようとするも、高射砲も航空機も届かぬ高高度の爆撃機に対応する術など無かった。

 ソ連の極東経済は枯死しつつあった。

 冬が入る前に何とかして欲しい。

 その声が強い調子で上に上げられていった。

 

 

――モスクワ(D-Day+6)

 日本との戦争の趨勢は、このモスクワで政治的な問題を引き起こした。

 戦争を主導したスターリンに対するトロツキー派の反抗である。

 スターリン自身の戦争指導能力に対する深刻な疑問符が付く事になった為、ソ連の指導者としての適性が問われる形となったのだ。

 こうなっては戦争どころでは無くなってくる。

 スターリンは日本との講和の道を探る事となった。

 

 

――樺太戦線(D-Day+7)

 ソ連軍を撃退し、国境線を回復した自衛隊と樺太共和国軍。

 戦前からの予定として樺太北部への侵攻は行わない予定であったが、ここで樺太共和国軍の連隊長が暴走する。

 撤退するソ連軍を追撃しながらソ連領内に意図的に進軍したのである。

 自衛隊の支援を受けない自動車化されただけの歩兵連隊であったが、既に壊乱と壊走状態のソ連軍では抵抗しきれず、たった1日の戦闘で戦線を北部側40㎞から押し上げる事に成功したのだ。

 色を塗っただけの民生用の車両を装備しただけの部隊であったが、その機械的信頼性の高さが、これを成功させたのだ。

 戦功を誇って報告した樺太共和国軍連隊長は、その絶頂を噛みしめる前に連隊長の座を即座に解任され、自衛隊の警務隊によって拘束された。

 軍律違反の罪である。

 参謀団も、事情聴取を行って侵攻に寄与したと判明した者は、残らず捕縛していった(※2)。

 この素早い行動と、その詳細を包み隠さずに公開する姿勢に、観戦武官たちは日本の国家が民主主義であり法治国家であるという事への強い意志を実感した旨、本国へと報告していた。

 その後、全部隊は国境線まで後退する事となる(※3)。

 

 

――終戦(D-Day+25)

 樺太の陥落とモスクワの政治的混乱から、流石のスターリンも停戦を決断した。

 中立国であり、ソ連に対して友好的であり同時に日本とも関係のあったフランスを頼っての事だった。

 この講和要請に日本は乗り、戦争は終結する事となる。

 講和会談の場所は、パリにて行われた。

 日本は講和の条件として戦争首謀者の処分、戦費賠償、戦場となった国土の原状回復賠償、樺太北部の割譲(※4)、オホーツク海での日本の優先権の承認を求めた。

 この屈辱的内容をソ連は受け入れた。

 1つは、樺太北部で発生した事がシベリアに広がる事を危惧したのだ。

 又、早期に日本との講和を行う事で、国内の政治闘争に全力を投じられるだけの環境をスターリンが欲したのだ。

 いみじくも、世界大戦時にレーニンがドイツ/独国との講和を纏めたのと同じ状況であった。

 これにより、日本ソ連戦争は終結する。

 その戦闘期間から別名、1週間戦争と呼ばれた。

 

 

 

 

 

(※1)

 情報の伝達が困難というのも大きかった。

 補給路としても利用できる陸路は破砕され、通信に電波を出せばミサイルが叩き込まれ、物資の集積所は真っ先に燃やされた。

 天幕や人の集団が見かけられれば爆弾が降って来る。

 炊事に火を焚けば爆弾が降って来る。

 何もなくても、何処かには爆弾が降って来る。

 食料は無く、睡眠も満足に取れない。

 この様な状況で即時、適切な連絡など出来る筈も無いというのが実情であった。

 司令部ですら既に満足な食事を得られなくなっていては、将兵に献身を求めるなど出来る筈も無かった。

 ただ1つ、モスクワを除いて。

 

 

(※2)

 この行為に参謀団では日本は戦争に勝つ気があるのかと気勢を上げ、それどころか余勢をかって樺太全土の掌握を訴えたが、日本側はこれを一顧だにしなかった。

 現地部隊の暴走による戦争計画の崩壊、そして望まぬ永続的な戦争こそを恐れたのだ。

 部隊の士気低下が生み出す問題よりも、それを日本政府は恐れた。

 この果断な行動と、嘗ての関東処分によって、尚武の気風こそ残ったが日本帝国陸軍の持っていた独断専行を是とする空気 ―― 将校は絶滅した。

 

 

(※3)

 部隊の国境線への後退は、クレムリンに「日本は平和主義を標榜するので、これ以上の戦争は出来ぬ軟弱な国家である」という誤った認識を与える事になった。

 日本は単純に、樺太北部への進軍と統治のコストが割に会わぬと言う判断であり、同時に、包囲し補給路を断つ事で干上がらせれば良いと言う判断をしていただけであった。

 この判断の誤りが2週間に及ぶ戦争状態の継続 ―― 即ち、樺太へ物資や人員の補給を行い、戦争状態を継続する事で日本からの譲歩、講和の話を持ち出させようと努力する事となった。

 その結果は、樺太へと物資を運び込もうとした極東のソ連船舶の消滅、樺太住民が飢餓状態となりソ連への忠誠心の消滅に繋がった。

 事前に備蓄していた樺太内の食料燃料その他は、尽くが在日米軍爆撃機に焼かれていたのだ。

 飢えを前に抵抗出来る筈も無かった。

 開戦から20日目、樺太北部はソ連軍指揮官共に、日本への降伏を決断する事となった。

 

 

(※4)

 樺太北部は、本来、ソ連への返還予定であったが(これをスターリンの政治的得点とさせる事で、講和の成立を狙っていた)、樺太の住人とソ連軍俘虜がこれに反対。

 日本、千島共和国への参加を訴えて来たのだ。

 スターリンへの恐怖と共に、占領下に入って以降の日本から齎された食料と物資に心を奪われた事が原因であった。

 更には、千島共和国と言うロシア系国家の存在も心強かった為でもある。

 これには日本側も想定外であった為、慌てる事となった。

 

 

 

 

 

 




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2019.05.01 誤字修正実施


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12.1928-5 戦争の与えた影響

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 日本ソ連戦争の終結は新しい体制の誕生でもあった。

 日本の国威増大と反比例するソ連の国際的地位の暴落。

 それが世界中へと影響を与えていく事になった。

 

 

――日本

 建国したばかりであった千島共和国は、樺太北部を含めて拡大し、オホーツク共和国へと改名する事となった。

 日本のODAにて行われたオハ油田の開発によって、日本の邦国で随一の豊かさを誇る事に成る(※1)。

 又、戦訓を元にした軍備の再編も行われる事となった。

 問題視されたのは日本連邦が防衛する規模に対する自衛隊の規模の少なさであった。

 戦車等の装甲車の不足も深刻であった。

 如何に現行の装備が優れていても、その数が余りにも劣ってしまっていては問題である事が認識されたのだ。

 自衛官への成り手は、タイムスリップによって発生した経済的な混乱の余波として、志願者が増加傾向であったのが救いではあった。

 

 

――アメリカ

 日本ソ連戦争の結果、ソ連の圧力の消えた関東州および満州で経済活動を活発化させる事となる。

 食料に関しては、適正価格である限り日本はほぼほぼ無限に買い取っていく為、どれ程生産しても問題が無かった。

 溢れたアメリカの金の投資先として活性化していく事となる。

 又、その中で日本製のトラックや耕作機械が販売されて行く事となる。

 これは観戦武官として日本を訪れていた将校が発見し、報告したものが伝わった為であった。

 アメリカと日本の物価(経済力)の差から日本製の耕作機械は非常識なほどに高額なものであったが、同時に、その能力もアメリカ製のソレとは段違いであった為、満州に入植したアメリカ人にとって日本製の耕作機械を買う事は、1つのステータスシンボルとなっていった。

 又、農業のみならず、土木作業などの現場でも日本製のものが、その性能もさる事ながら故障率の低さでステータスとなっていくのだった。

 只、ステータスであるが故に狙われる事が多く、アメリカにとって大きな悩みのタネとなっていくのだった。

 満州の開発と開拓、そして調査の際に油田の存在が発見された。

 在日米軍経由で日本に確認した所、後に大慶油田と命名される大油田であった事が判明する。

 この発見を期に、アメリカは中国への進出を強めていく事となる。

 

 

――チャイナ

 アメリカによる満州開発と、その利潤に目の色を変える事になる。

 特に石油は大きかった。

 それまでは満州に大きな意識を向けて居なかったが、満州と関東州のアメリカの投資と比例する様に返還運動が発生していく事となる。

 とはいえ、アメリカ側は一顧だにせず。

 チャイナとアメリカとの確執となっていく。

 

 

――ソ連

 日本ソ連戦争によって膨大な賠償金を背負う事になった。

 とは言え成立してまだ国力の弱いソ連が簡単に返済出来る訳も無く難儀する事となる。

 その為、日本は提案として返済の一環として、シベリアでの採掘権を売却する事を提案する。

 租借では無く、国策企業としてシベリア資源開発公社を作り、そこを経由して資源売却を行うものとするのである。

 これに、ソ連は乗る。

 資源開発に伴うインフラ整備に関しては、日本が投資を約束した為、遅れているシベリア開拓事業が進む事を夢見たのだ。

 尤も、この事業で売却された鉱山は高利益を望める場所ばかりであった為、ソ連にとっては頭の痛い問題となった。

 又、ソ連は理解していなかった。

 一度完膚なきまでに陸海を問わずに物流網が破壊されたシベリアでインフラ整備を主導する組織が国では無いという事を、そして、その組織が地元の住民を雇うという意味を。

 それよりもソ連は、スターリンは日本がシベリアで経済活動をする事で得た利益で、国内の権力闘争に傾注していく事となる。

 

 

――フランス

 観戦武官からの報告書を元に、対ドイツ戦争を前提とした戦備の構築に努めていく事となる。

 重視したのは機動戦であり、同時に野砲であった。

 樺太戦線の戦訓から、事前砲撃の重要性を再確認したのだ。

 とは言え、世界大戦の被害から完全に復調した訳では無いフランスとしては、出来る事はそう多く無かった。

 それ故にフランスは、ドイツが軍備を再建しようとした時に先制攻撃する事こそが肝要であると判断していた。

 先制攻撃でドイツのルールなどの西部の工業地帯を占領する事で、ドイツの戦争遂行能力を破綻せしめる積りなのだ。

 その為に必要なモノは機械的信頼性の高い戦車、歩兵装甲車両群、機械化された砲兵、兵站、様々なものを揃える必要性を自覚していた。

 とは言え、全てを更新するだけの経済力はフランスには無かった。

 それ故に、フランスは戦車と歩兵装甲車両に注力し、砲兵は代替を航空機に行わせる事で対処させる事を考えていた。

 最終的には、エクレールプラン(※2)として纏められる事となる。

 

 

――ブリテン

 観戦武官が持ち帰った日本の、自衛隊では無く国家の情報から、国力の涵養こそが大事であると判断し、日本からのインフラ投資のみならず、工業製品の近代化(未来化)に努力する事となる。

 これは単純な設備更新のみならず、学校制度の改革も含まれていた。

 在日英国大使館との交流で得た未来情報、1950以降の英国の衰退をブリテンが繰り返さない為の努力でもあった。

 ある意味、日本に関わった列強の中で一番に未来を見据え、恐怖していたのはブリテンであった。

 

 

――ポーランド

 ソ連の国力の低下によって、後背の安全を確保されたと判断した。

 その為、軍事力の拡大とドイツへの圧力を深める方向で動く事となる。

 その中には、ドイツ敵視政策を継続するフランスとの協力関係の強化もあった。

 

 

――ドイツ

 フランスとポーランドによる挟撃と、経済の混迷が国家社会主義政党に力を与える事となっていく。

 又、経済的活動を活性化させる為、ソ連との経済関係を深めていく事となる。

 これは第2次ラッパロ条約として纏まり、ドイツはソ連の国力拡張に関わる5ヵ年計画に関与していく事となる。

 

 

 

 

 

(※1)

 シベリア ―― ユーラシア大陸のソ連領は、日本ソ連戦争によって破壊されたインフラの影響で経済活動は停滞し、冬の時代を迎える事となる。

 又、ソ連は日本ソ連戦争に於いて完膚なきまでの敗北をした結果、軍事力の増強に精を傾ける事となり、民生の活力は更に低下する事となる。

 これが後に、オホーツク共和国へのソ連からの亡命者が続発する遠因ともなった。

 

 

(※2)

 エクレールプランは、ドイツへの先制攻撃と保障占領とを目的とした極めて攻撃的なプランであった為、その情報が国外に出る事をフランス政府は極度に恐れていた。

 又、戦車や装甲車に関して、自衛隊の装備する装甲車両の売却を日本に要請するが、日本は拒否する。

 この為、次善の策として開発への協力を要請する事となるが、これにも日本は簡単に承諾する事は無かった。

 フランス政府は、かつての日本に好意的に技術協力をしていた事を盾に、協力を要請する事となる。

 対して日本としても安全保障の問題もあるが、それ以上に安易な技術協力は、フランスの独自の技術開発力を阻害し、ひいては、この世界の健全な発展を阻害するのではないかとの危惧があったのが大きい。

 難航した日本とフランスの交渉、そこにブリテンが乱入する。

 日本との関係の深いアメリカを巻き込み、日本の先進技術活用に関する相互協定を呼びかけたのだ。

 その上で、国際連盟をも巻き込んだ。

 国際連盟の常任理事国である日本、ブリテン、フランスにアメリカがオブザーバー参加する安全保障理事会を作り、技術の伝播と戦争を抑止する体制を作り上げる事を提案したのだ。

 建前としては。

 本音としては、フランスの交渉を利用し、アメリカと日本の関係を利用する事で、形骸化していた日本ブリテン同盟から一気に日本をブリテンの帝国維持体制へと取り込む積りであった。

 フランスとアメリカを巻き込む事は業腹であったが、フランスは主に欧州亜大陸にしか興味が無く、アメリカは支那大陸にのめり込んでいて、他に興味を示さないので、ブリテンの世界帝国の運営には大きな影響もないと言うのが、情報機関の見立てであった。

 その上で日本だ。

 正体の読みにくい日本であったが、在日英国大使館との交流から日本の気性を把握したブリテンは、日本という国が日本の本土が安泰であり経済活動が円滑に行えれば外へ野心を向ける様な気性では無いと理解した。

 であれば、との判断であった。

 後に、G4と呼ばれる防衛協定に昇華する。

 尚、この協定に参加出来なかった列強諸国は反発を深める事となる。

 

 

 

 

 

 




令和元年、初日更新に頑張りました。
これからもよろしくお願いいたします。

2019.05.01 誤表現を修正


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13.1929-1 新しい動き

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 日本-ブリテン-フランス-アメリカの4カ国協定(※1)によって世界は一応の安定を見た。

 そして日本は、3大強国との関係と交易とを確としたものへと出来たが為、日本と円とが世界経済に関わる様になっていく。

 軍事と、それに類される分野での協力や交易は慎重に行われたが、鋼材から始まって各種工作機械などは大々的に売買されて行くようになる。

 

 

――ブリテン

 ブリテンでは、インフラ整備にかこつけた、ブリテン国内の製造設備の大更新が行われるようになった。

 これは産業革命以来の伝統 ―― 即ち、古い製造設備が残っており、アメリカなどと比べて効率が相対的に悪化しつつあったブリテンの国内産業の活性化が目標であった。

 何としても世界帝国を維持したいとのブリテンの野望であった。

 その為には何でもやる、その気概があった。

 在日英国大使館経由で得た最先端の経済理論を元に、ブリテンはなりふり構わぬ経済政策を行っていく。

 市場としてのインド、チャイナ、そして日本。

 数的規模の大きい市場を持つチャイナ。

 宗主国として自由の効く市場であるインド。

 そして購買力のある日本。

 問題は、購買力のある日本に売り込めるものが少ないと言う事であった。

 主要な繊維や工業製品などで日本に売り込めるものではなかった。

 否、好事家や趣味人の間では珍重されては居たが、それで大々的な利益が出る筈が無かった。

 故に、日本には石油や鉱物資源を売りつけ、その対価を植民地諸国に高く売りつける事で利益を稼ぐ方向へとシフトしていた。

 特に日本との協力によって得た製造設備の更新は、ブリテン製品の精度を上げ値段を下げる事が可能となり怒涛の様な勢いでインドとチャイナに流れ込む事となる。

 莫大な利益がブリテンに流れ込む事となる。

 ブリテンにとって日本は、資源を金に変える錬金の大釜と化していく。

 もっと金を稼ぐためブリテンは大釜にくべる資源を増やす為、アフリカと中東の開発を進めていく事になる。

 又、インフラのみならずブリテンは日本の作業車を大量に導入していく事になる。

 その導入の為に、ブリテンは整備などのサービスを目的とした日本の工場をブリテン国内に誘致する事に成功する。

 

 

――フランス

 ドイツ憎しで一致団結したフランスは、一心不乱の軍備拡張に邁進した。

 故に、ドイツ内部で支持を集めつつある国家社会主義党に対しては深く深く期待していた。

 国家社会主義党がドイツを後戻りできない場所まで押し上げて、世界の敵になる事を。

 その為の資金援助すら行っていた。

 全ては大フランスを生み出す為に。

 ブリテンは世界経営に邁進し、欧州亜大陸には興味を示していない。

 アメリカは中国経営を愉しみ、欧州亜大陸には興味を示していない。

 日本は自国の再編成に勤しみ、欧州亜大陸には興味を示していない。

 であれば、フランスがその責任を果たす ―― との認識であった。

 小癪な事にブリテンに作られた日本の工場、そこから民生用として導入した高出力ディーゼルエンジンを使った装甲車や戦車を生み出していく。

 日本から輸入した鉄は、その品質から戦闘車両をより良いものへと変えて行く。

 フランスの重工業界からは反発の声も上がったが、フランス政府は短期間でドイツを叩きのめす為の戦力を整備する方策であるとして押し切った。

 

 

――アメリカ

 過熱する投資熱の消費先として極東の重要度が上がっていく。

 自らの優先権のある関東州と満州、そして日本の朝鮮半島とソ連のシベリアだ。

 巨大な中国市場への足掛かりである関東州と、真っ新な新世界である満州は、アメリカ人のフロンティアスピリッツを掻き立てた。

 新しい世界での冒険。

 広大な満州の地で興される農業。

 石油が出た事から工業も盛んになった。

 満州はアメリカ人にとって、乳と蜜の流れる大地となった。

 在日米軍経由で中国人との衝突のリスクが伝えられたが、満州の旨みを前にすれば看過すべきリスクであった。

 又、朝鮮半島とシベリアの資源開発は莫大な利潤を投資する企業に与える事になる。

 投資に関しては鷹揚な日本は、アメリカ人が適正な税金を払いさえすれば驚く程簡単に投資と営利活動を認めていた。

 環境対策その他の書類こそ煩雑ではあったが、それは日本企業でも一緒である為、文句を言える筈も無かった。

 とは言え、良い事ばかりでは無い。

 ユーラシア大陸での経済活動を活性化させると共に、チャイナとの摩擦が大きくなっていった。

 アメリカが関東州や満州で稼ぐ利益は、正しくはチャイナの利益であり、それが簒奪されているという認識であった。

 

 

――チャイナ

 日本ソ連戦争の余波により、国内紛争が再発する事となる。

 大別すると北チャイナと南チャイナという2つの軍閥の対立となる。

 満州権益の関係もあり、アメリカが北チャイナへ支援を行っていた為、小競り合い程度しか発生していなかったのだが、ドイツからの支援の本格化(※2)により自信を回復した南チャイナは本格的な軍事行動を開始する。

 北伐と呼ばれた1連の作戦は、アメリカの支援を受けた北チャイナの勝利に終わった。

 アメリカの支援の中には軍事顧問団の派遣が含まれており、チャイナの地ではドイツからも派遣されていたドイツ軍事顧問団と戦闘を行った事例もあった。

 チャイナの大地でぶつかる先進国同士の軍隊。

 とは言え、日本と言う策源地を得ていたアメリカが軍需民需を問わず物資を大量に北チャイナへと提供出来ていたのに対し、ドイツは本国からの距離があり過ぎた事と輸送力の乏しさに、対抗できる筈も無かったのだ。

 開戦から数ヶ月で侵攻作戦は頓挫し、撤退する。

 日ブリテンフランスが主導し国際連盟による紛争解決スキームでの処理が図られる事となる。

 南チャイナによる北チャイナへの賠償、北チャイナの自治権の承認、満州に於けるアメリカ権益の承認といった事が戦時賠償として要求される事となる。

 これに南チャイナの世論は沸騰する。

 だが、既に軍事による勝敗は決して居た為、国際世論には抵抗出来ず(※3)、停戦と講和を決断する。

 この、国際連盟による屈辱的な講和斡旋を。

 チャイナの国民世論にアメリカへの怒りが加わる。

 そして国際連盟にも反発が強まる。

 チャイナはドイツとの関係をより深める事を選択し、進めていく事となる。

 

 

 

 

 

(※1)

 G4は事実上の軍事条約であり、同盟関係にも近いモノであったが、アメリカ国内の世論に配慮する形で協定と言う名前が使用されている。

 

 

(※2)

 ドイツはフランスとポーランドによる監視の厳しさから、国外での軍事力の涵養と軍事技術の強化を図る事となり、国策として対外協力を推進する事となる。

 1つがソ連との関係強化であり、もう1つがチャイナとの中独合作の深化であった。

 アメリカが北チャイナを支援する関係上、G4諸国は精神的に北チャイナ寄りとなっており、国際的に孤立気味であった南チャイナにとって、ドイツは唯一と言ってよい支援国であった。

 

 

(※3)

 日本とブリテン、フランスの艦船による国際連盟の名の下での戦争抑制作戦が行われ、東シナ海と南シナ海での軍需物資を積載した船舶の臨検が行われた事が、南チャイナの継戦能力に止めを刺す事となった。

 尚、この対象は北チャイナも含まれているのだが、アメリカは日本の協力を得る事で、日本海 - 朝鮮半島を経由して物資を搬入しており、特に影響を受ける事は無かった。

 この点を南チャイナとドイツは国際連盟の場で非難するも、アメリカは建前として、朝鮮半島とシベリア開発向けの物資であると宣言し、突っぱねる事となった。

 

 

 

 

 

 




2019.05.04 文章の修正を実施


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14.1929-2 戦後の日本

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 日本の国防に関して問題化したのは2つ。

 1つは、戦車などの重装備の保有数 ―― 規模だ。

 此方は軍需による日本の国内生産力の行使、即ち景気対策としての軍拡を実施しさえすれば問題とはならない。

 問題はもう1つ、エンジンやミサイルなどの完全な輸入で賄っていたもののメンテナンスである。

 此方は実に頭の痛い問題となっていた。

 特にエンジンに関しては、航空機用が民需も含めて大きな問題となった。

 タイムスリップが判明して早々にエンジンのリバースエンジニアリングは在日米軍の協力も得て行っていたが、日本ソ連戦争という実戦で、恐ろしい程の勢いで稼働率が下がる事となったのだ。

 何とか、戦争は乗り切る事に成功したが、日本は慌ててエンジンなどの開発を進める事とした。

 

 

――装甲車両の開発

 日本本土と異なり台湾や朝鮮、樺太のインフラは貧弱であった。

 貧弱であるからこそ装軌車両が必要であり、又、各邦軍(連邦軍)の装甲化も喫緊の課題とされた。

 大規模な歩兵部隊を前線に張り付けるコストを回避する為に、日本は機械化を推し進める事となる。

 最初に開発されたのは戦車であった。

 主砲は砲弾の備蓄がある16式機動戦闘車の105㎜ライフル砲が選択された。

 重量39t。

 装甲は防弾鋼板の溶接構造を採用しているのは、本車両が想定する敵車両の攻撃力からの判断であった。

 エンジン、足回り、FCS、全ての面で簡素化と可能な限りのコストの削減が図られている。

 これは生産コストの低減もあるが、整備能力の低い各邦軍に配備し、運用する際に問題が発生しない様にとの配慮であった。

 1920年代の人間に、急に100年先の技術を使えと言うのは酷であり、教育をするにしても教官の育成は簡単に行えない事が理由であった。

 又、10式戦車などとの顕著な違いとしては、居住性の改善があった。

 前線に張り付ける運用も想定される本車両は、居住快適性も重要な項目であった。

 2年の歳月という、極めて短時間で開発された本戦車は31式戦車と命名され配備される事となる(※1)。

 31式戦車の開発と前後して、出来るだけ同じメンテナンス部品を使う装甲車両の開発も行われた。

 此方も単独でのコストではなく運用や整備まで含めたコストの圧縮を狙う形であった。

 31式戦車が最優先された為、1年遅れの32年度に制式化され、此方は32式シリーズと呼ばれた。

尚、陸上自衛隊の装備に関しては10式戦車と16式機動戦闘車の定数拡大をもって対処するものとされた。

 

 

――航空機の開発

 日本ソ連戦争によって爆撃機の有用性を把握した日本は、大型爆撃機の開発に取り組む事となる。

 前提となる大型爆撃機向けの大出力エンジンが無かった為、最優先で行われる事となる。

 又、制空戦闘機の開発もスタートする。

 今後、登場するであろうレシプロ機への対応としての防空迎撃機の開発である。

 性能だけで言えば航空自衛隊の戦闘機群は50年と先を行く隔絶した性能を持っているが、如何せん数の問題がある。

 この為、ターボプロップエンジンを搭載する制空戦闘機の開発がスタートする。

 主武装は20㎜機関砲と携帯SAMを転用した近距離空対空ミサイルだ(※3)。

 速度の優位とレーダーによる管制を受けた誘導弾を持った全天候型戦闘機だ。

 20年は優位が保てるであろうとの判断であった。

 此方は3年程の時間で完成する事なる。

 1933年にF-5戦闘機と命名され、配備されて行く事となる。

 他に、ヘリコプターで対地攻撃型の開発が行われた。

 50年は防空手段の未発達であろう事から、経空砲兵的な運用を期待しての事であった。

 とは言え、輸送ヘリの武装化によるものではない。

 これは、輸送ヘリとしての能力に積載量を喰われる事を懸念しての事であった。

 

 

――艦船の開発

 やまと型甲種護衛艦の建造は山場を迎えていた。

 それ以外で、この時代へと適合する為の艦船の建造に関しては、主たるものは自粛状態にあった。

 軍縮条約への恭順と言っても良い。

 日本にとって、海洋での脅威となりうる国家はアメリカとブリテンだけであり、その2国とも良好な関係を維持している関係上、戦力の整備を行う必要が特には感じられなかったと言うのが大きい。

 この為、建造されたのは基準1500t級のOPVが精々であった。

 これは領海が拡大した事への対応が主目的であった。

 特に南洋邦国でのプレゼンスの維持の為は重要であった。

 同じ事はオホーツク海全域でも言えた。

 この為、30隻近い建造が行われる事となった(※2)。

 だがOPVの建造以上に重視され拡大したのは海上保安庁の船舶であった。

 従来の倍以上の領海と排他的経済水域を得た為、倍とは言わぬレベルでの規模拡張を強いられる事となった。

 

 

 

 

 

 

(※1)

 31式戦車は、日本からしてみれば極めて手頃で簡素化された戦車であったが、同時に、同世代の戦車からすれば隔絶し過ぎる戦車であった。

 傾斜された装甲、長砲身大口径砲の搭載、大出力エンジン。

 即ち、中戦車以下の火力に対応できる装甲、重戦車を撃破出来る火力、軽戦車にも匹敵する機動力。

 これらを高次元でバランスを取った31式戦車の登場は従来の戦車を全て陳腐化せしめ、31式shock、或は標準戦車shockと言われるものを世界に与える事となる。 

 以前には10式戦車や90式戦車も存在してはいたが、事31式が衝撃を与えたのは、この戦車を日本が国内向けに積極的に宣伝していた事が大きい。

 その上で海外からのメディアからの取材も受け入れて居た為、諸外国に知れ渡ったのだ。

 試作車が出来た段階でフランスは、決戦戦車として3桁単位での購入を打診するほどであった。

 

 

(※2)

 それなりの規模での建造となった為、アメリカやブリテンへの確認を行った所、基準1500tと駆逐艦規模ではあったが、76㎜の主砲が1門と防空用の短距離ミサイルしか持たない、純然たる哨戒艦であった為、問題になる事は無かった。

 又、海上保安庁の巡視船に関しても同じであった。

 大型巡視船などは軽巡並みの規模を誇っては居たが、その火力の低さと船体構造が戦闘向きでは無い事から問題とされなかった。

 

 

(※3)

 主武装20㎜2門を想定していたが、詳細設計の時点で機載用のコンパクト軽量な20㎜砲の開発が難航する事が判明した為、一旦は20㎜武装は撤回され、12.7㎜機銃を採用する事となる。

 その後も20㎜砲の開発自体は検討されるが、最終的には新規開発は却下される事となる。

 但しそれは20㎜砲の搭載を断念する事は意味しない。

 将来的な大型爆撃機等との交戦を考えた場合、20㎜砲の持つ威力は魅力的であったからである。

 この為、最終的には翼内への搭載を諦め、機首部分へM197機関砲の改修型を搭載する事で落ち着く事となる。

 

 

 

 

 




2019.05.04 記載を追加する。


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15.1929-3 世界恐慌-1

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 過熱した経済活動の果てに、ニューヨークの証券取引上での株価暴落を発端とする世界恐慌が勃発する。

 痛打を受けたのはドイツ、イタリア、ソ連であった。

 その事が世界に戦雲を呼ぶ事となる。

 

 

――ドイツ

 世界経済で主導する経済力と大規模な市場とを持つ日本、アメリカ、ブリテン、フランスとの関係の悪さが、この不況によってドイツに与えた打撃は痛打と言って良かった。

 そもそも、日本との交流によってG4は経済活動が活性化し長足の進歩を遂げており、その商品は高品質化と低価格化が進んでいた。

 対してドイツは、漏れ伝わって来るものでそれなりの進歩は遂げていたが、対抗できる筈も無かった。

 それでも細々とした貿易は行われてはいたが、悪化する景気を支えられる様な水準では無かった。

 如何にして景気を拡大路線に乗せるか、と言う問題に於いてドイツはその生産力を消費出来る独占的な市場を国外に持たなかったのだ。

 この為、必死になって南チャイナとソ連とに食い込んでいく事になる。

 南チャイナにとっても、北チャイナとの戦争からの経緯でG4諸国との関係が悪化して居た為、ドイツの姿勢を歓迎する事となった。

 北チャイナに流れ込んでいるアメリカ製の武器に対抗するには、最新鋭の装備がどうしても必要になるからだ。

 この事はソ連も同じであった。

 日本ソ連戦争の経緯からG4とは友好的とは言えない関係にある為、ソ連の経済発展の為にはどうしてもドイツの協力が必要であったのだ。

 このチャイナとソ連という市場を手に入れる事が出来た為、ドイツ経済は一息つく事が可能となった。

 だが政治的に見た場合、別の問題が浮上する。

 窮地に陥ったドイツ経済に対してG4は全く手を伸ばす事が無かったのだ。

 むしろ逆、ドイツを苦しめる政策を取っていた。

 ブリテンやフランスはドイツを狙い撃ちした関税を設置していた。

 アメリカは、チャイナでの南北問題に関わっている為、最初から敵視されていた。

 日本はそもそも輸入するのは食料と資源が主である為、その両方を産出しないドイツでは話にならなかった。

 プライドの高いドイツ人が、世界は敵であると認識するのも当然であった(※1)。

 この結果が、ドイツに国家社会主義政党の躍進を生む事となる。

 アドルフ・ヒトラーが歴史の表舞台に顔を出す。

 

 

――イタリア

 世界経済の低迷が波及したイタリアは、ドイツ以上に悲惨だった。

 状況は同じであったが、ドイツとは異なりソ連やチャイナに入れ込む事が出来なかった為だ。

 ソ連とはある程度の経済的な交流も出来ており、

 ファシスト党による独裁体制の確立こそなり、治安も安定していたが景気の低迷は留まるところを知らぬと言うのがイタリアの実情であった。

 この状況を打破する為、イタリアは新しい市場を求める事となる。

 それは新しい植民地を求める行動へと繋がっていく。

 

 

――ソ連

 世界恐慌への対応と日本ソ連戦争での敗戦を糊塗する為もあり、五ヵ年計画として国力の拡大と涵養を大々的に打ち出す事とった。

 問題は、その原資だ。

 重工業を興すにも、農業を興すにも全てに金が掛かる。

 だがソ連には金が無かった。

 日本ソ連戦争の敗戦、その賠償はソ連に重くのしかかっていた。

 だからこそスターリンは、政敵であるトロツキー派の処断を終えるや五ヵ年計画の断行を決断した。

 次の戦争に、次の次の戦争に負けぬ為の国家を作り出す為に。

 その決断を支える金は重税と農作物の輸出で賄う事とした。

 重税は都市部も農村部も問わなかった。

 問題は農作物の輸出だ。

 豊かな穀倉地帯であるウクライナが生み出した農作物を海外へ売却する事で国家改造の原資としたのだ。

 この第1次五ヵ年計画がソ連発展の切っ掛けとなる。

 だが同時に、ソ連の国家を蝕む事となる。

 生活に足る農作物すらも取り上げられたウクライナでは餓死者が続発し、国外へと逃げ出す農民が多発した。

 それはウクライナだけでは無く、豊かとは言い難いソ連東部地方でも同じであった。

 シベリア等の農村も、モスクワ周辺の農村と平等に税が課せられたのだ。

 人民の平等を謳うソ連にとっては当然の話であり、そしてシベリアの農村の人間にとっては死活問題となる重税であった。

 そもそも、日本ソ連戦争によってシベリアは物流網を破壊し尽くされているのだ。

 その状況下で農業も経済活動も順調に出来る筈も無かった。

 故に、ウクライナと同様にシベリアでもソ連から逃げ出す動きが出た。

 此方は、ロシア人同胞の国家、オホーツク共和国がある為、逃げ出すという決断はある意味で簡単であった。

 問題は海で阻まれていると言う事であり、最悪なのはオホーツク沿岸域の中型以上の船が日本ソ連戦争の際に尽く焼かれていたという事だ。

 それでも尚、シベリアの民は東を目指す事となった。

 村に居ても死ぬだけであれば、せめて希望に向かいたいとの思いがそうさせたのだ。

 持ち出せる限りの食料と家財とを持って旅立ったシベリアの民。

 沿海州にたどり着く頃には疲弊し果てている有様だった。

 沿岸州ではソ連からの戦時賠償として資源開発を許されていた日本とアメリカの企業が居た(※2)。

 ソ連との関係は良好とは言えない日本であったが、疲労困憊したシベリアの民を見捨てられる程に薄情では無かった。

 ソ連との協定で雇える範囲で人を雇い、そして人道的支援としてささやかではあったが食料と医療援助を行った。

 それが評判を呼び、更に人が集まる事となった。

 1日の食事の為に身を売る女性。

 子供だけでもと、やせ細った体で縋りついて来る大人。

 自分はどうなっても良いからと、配給を子や孫に分け与える老人。

 そんな姿を見せられてまで動けぬ程に、日本人というものは酷薄ではなかった。

 それはアメリカ人も一緒であった。

 日本はオホーツク共和国と樺太共和国での受け入れを、アメリカは満州での受け入れを決断した(※3)。

 この状況を把握したソ連は過酷な脱農者狩りを行うようになっていく。

 一度、日本とアメリカの活動圏に入られると、日ソ戦時賠償協定の問題で高圧的な対応が困難となるからである。

 この事が、シベリアでのソ連の支持へ痛烈な打撃を与える事となる。

 

 

 

 

 

(※1)

 地味にポーランドによるドイツ敵視政策も効いていた。

 ポーランドは国力の涵養と共に、中欧に於ける反ドイツ連帯を生み出すように活動しており、オーストリアを除く各国との関係は良好とは言い難いものとなっていた。

 国力から言えば、ドイツにとってポーランドを筆頭とした中欧諸国など敵と言うのも烏滸がましいのが実情であったが、外交的に言えば話は別となる。

 国際連盟の場などで常に敵対的に動いて来る国家群というものの鬱陶しさは筆舌に尽くし難いと言うものであった。

 何故、これ程にドイツが憎まれねばならぬとの思いが、そして元来のドイツ人のプライドの高さが、最終的にドイツ人に世界への憎悪を与える事になる。

 世界に冠たるドイツを、世界が認めぬのであれば世界を変えよう、と。

 

 

(※2)

 沿岸州にて活動しているのは日本ソ連戦争の戦時賠償協定に基づき、日本籍を持った企業だけであった。

 故にアメリカは、日本企業と合弁企業を日本国内で興して参加していた。

 又、合弁企業である為、日本製の高性能な工作機械等の導入が容易となる利点があり、後にはシベリア向けに合弁企業を立てた上で、主な経済活動は満州や朝鮮半島で行う企業も現れた。

 

 

(※3)

 日本とアメリカの共同エクソダス計画は、「オーバーマン」と命名されていた。

 これは鉄の男と謳われたスターリンを超える、鼻をあかしてやるとの意味で命名されたものであった。

 延べで100万人近い大脱国であった。

 但し、この計画に両国の軍を投入する事は憚られた為、民間軍事企業を創設し、その企業で対応するものとした。

 後に、日本統合軍外人部隊の始まりである。

 この日本の行動に、アメリカも乗った。

 此方も民間企業の組織として成立させた。

 特徴としては、組織を構築したのが満州であり、そこに出稼ぎに来ていた朝鮮共和国人が朝鮮共和国政府の斡旋によって参加していた事である。

 当時、満州でのアメリカの治安維持活動に朝鮮邦国人が朝鮮邦国政府の斡旋で参加していた。

 これは、朝鮮政府にとっては貴重な外貨獲得手段であった。

 故にアメリカ企業は安価(アメリカ人に比べて)な傭兵として朝鮮人を雇用しているのだった。

 これ以降、アメリカは多少粗暴であり戦意の継続に難点を抱える所もあったが安価な兵隊として使える朝鮮人を傭兵として満州と関東州の支配に使っていく事となる。

 

 

 

 

 

 



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16.1929-4 世界恐慌-2

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 アメリカ発の世界恐慌の波は瞬く間に世界を駆け抜けた。

 だがその影響の少ない国家もあった。

 G4である。

 4カ国はそれぞれに世界恐慌を余裕を持って乗り切っていた。

 その事が益々もって非G4国との感情的対立を煽る事になったのは、仕方のない話であったが。

 

 

――日本

 投資先として広大な邦国を抱えていた日本は、不況の影響というモノを殆ど受ける事は無かった。

 マスコミが性癖として危機を煽ろうとしたが、情報分析能力に疑問符の付けられていた人々の扇動に国民が乗る事は無かった。

 そんな事よりも新日本領域の開発であった。

 樺太、台湾、朝鮮、南洋、積極的な日本企業群の投資が経済を活性化させ、日本は空前の好景気となっていた。

 それ故に、日本はソ連で悲惨な状況にあるロシア人への支援を決意したとも言えた。

 受け入れ先としてオホーツク共和国であったが、過酷な避難生活で疲弊した人々をそのまま送り込むには生活環境が過酷すぎた。

 結局、100万とも言われたロシア避難民の2割近くが特別労働者枠として日本本土で生活する事となる(※1)。

 この避難民の問題でソ連との関係が悪化する側面はあったが、日本政府は人道的処置であるとして退く事無く対峙した。

 ソ連の脱農者狩りと対峙する民間軍事企業は、頑健な体で逃れて来たロシア人にとって最良の就職先であった。

 危険手当も含めて待遇は良く、その上で同胞を救えるのだ。

 その士気は高かった。

 その構成員には義侠心に駆られた日本人も多く参加し、又、日本企業を介して日本が支給する日本製装備への興味を持ったG4諸国の退役軍人なども参加していた(※2)。

 

 

――アメリカ

 世界恐慌の発端ではあったが、世界恐慌に苦しむ国家にとっては誠に腹立たしい事に、アメリカは世界恐慌の影響から素早く抜け出していた。

 投資先として関東州と満州、沿岸州があり、市場として日本と北チャイナが存在していたからだ。

 相も変わらず日本の食料の購入は旺盛であり、同時に、日本の商社はアメリカの食料物流インフラへの投資も継続している。

 素晴らしい交易相手だった。

 北チャイナは南チャイナと対立している為、多くの軍需物資を必要としており、幾らでも買い込んでいく。

 最上の市場であった。

 黄金時代と言って良いアメリカ。

 だが問題が無い訳では無かった。

 チャイナ全域での反アメリカ感情の高まりである。

 南チャイナからすれば民族の敵であり、北チャイナからすれば国家の金を吸い取っていく寄生虫との意識が醸成されていたのだ。

 この話の背景にはチャイナ共産党の存在があった。

 チャイナを貪るアメリカとその手下である北チャイナ、抵抗しきれない南チャイナでは無く、チャイナの未来はチャイナ共産党が護る。

 そう宣伝しだしたのだ。

 そのバックにはソ連が居た。

 これはアメリカに対する嫌がらせであった。

 余剰となっていたソ連製兵器をチャイナ共産党に安価で提供する。

 僅かなりともソ連五ヵ年計画の資金の足しにもしようと言う、なんともいじましい話でもあった。

 兎角、これ以降、中国全土でアメリカ人とアメリカ企業が襲撃される事件が続発する事となる。

 この事にアメリカ人は激怒。

 関東州のアメリカ軍部隊を増強し、沿岸州に投入していた朝鮮人傭兵組織をアメリカ企業の護衛として満州や北チャイナへ投入していく事となる。

 民間企業の私的な護衛戦力と言う建前により、法的な面でアメリカ軍を展開するよりも柔軟に行えるという利点からの行為であった。

 問題は、横柄で暴力的な朝鮮人傭兵によって、チャイナ人のアメリカへの不満が高まった事である。

 

 

――ブリテン

 日本を金を生み出す錬金術の巨釜としていたブリテンにとって、世界恐慌というモノの影響はそよ風の程度のものであった。

 しかも日本の投資で経済が活性化していた中東、アフリカ、インドの植民地は、ブリテン製の製品を大量に購入していく市場としても成長していた。

 その結果、ブリテン本島の経済活動も活性化するという好循環が生まれていた。

 黄金の大ブリテン時代と評価する人間も居た。

 とは言え、問題の無い訳でも無かった。

 中東やインドでは、発展した経済力を背景に、ブリテンに対して自治権の拡大や独立の意見が盛り上がりつつあったあのだ。

 過日であれば断固として弾圧を行ったであろうが、日本との交流で、弾圧が経済の低迷に繋がると言う事を理解していたブリテンは、自分から金を稼げる体制を壊す気など毛頭なかった。

 とは言え、簡単に自治権は兎も角として独立を認めてしまえば、現在の大ブリテン体制は崩壊してしまう。

 ブリテンは好景気をタネにして、難しいかじ取りを迫られることになる。

 

 

――フランス

 フランスは唯一、G4で世界恐慌の影響を大きく受けた国であった。

 だが同時に、それを経済政策で乗り越えた国でもあった。

 又、国際連盟の場でポーランドを筆頭とした中欧諸国の反ドイツ感情を知り、その支援(※3)を行う事でフランスを中心とした反ドイツ連帯を生み出す事に成功する。

 これによって名実ともに欧州亜大陸の盟主の座をフランスは得る事に成功する。

 同時に、ポーランドはフランスのこの政策の恩恵で近代国家として重要な重工業の育成に成功する事となる(※4)。

 対ドイツ戦争を真剣に考えているフランスにとって、世界恐慌への対応も軍拡で行おうとしていた。

 日本がソ連との戦争で投入した兵器群、特に隔絶した性能を見せた航空機分野への投資が最優先で行われた。

 シベリア全土を麻痺せしめたあの航空戦力があれば、対ドイツ戦争など直ぐにも終結せしめる事が出来るとの判断だ。

 とは言え、容易に100年先の技術を模倣できる筈も無く、その点に於いては七難八苦といった状況となったが。

 

 

 

 

 

(※1)

 国籍は日本連邦オホーツク共和国籍の特別日本本土居住許可者とされた。

 これは日本国内での労働力の不足を補う目的もあった。

 好景気に沸く日本で、第1次産業に従事する人は減少傾向にあった為だ。

 最終的にはこの特別居住者は日本国籍が与えられ、日本本土に住むロシア系日本人となる。

 尚、第1次産業に就いたロシア人であったが不人気であったのは漁業であった。

 これは海を見た事も無い人間が避難民の大多数であった事が主因であった。

 

 

(※2)

 尚、参加した外国籍者の中には、在日米軍も存在した。

 仕事を探していた在日米軍に日本政府が教官役としての業務を斡旋したのだ。

 自衛官は拡大した自衛隊と邦国軍の教育で手一杯であった為の事であった。

 この頃から、在日米軍は日本政府との連携を特に深めていき、日本連邦構成邦国グアム共和国の建国に至る事となる。

 在日米軍内の非白人層と、アメリカ軍内部での非白人層への差別意識の問題が、大きな問題であり、在日米軍のもろ手を挙げたアメリカへの帰順は無理であると言うのが在日米軍と在日米大使館の最終決断となった。

 将来、2025年頃であれば話も違うであろうとの判断が行われ、グアム共和国は日本とアメリカとの両方に所属する特別国家として成立する。

 主要産業は軍事と観光、そして漁業となった。

 

 

(※3)

 日本の先進技術の技術を受けたフランス製兵器の市場としての意味合いもあった。

 

 

(※4)

 フランス製兵器の大量導入を対価とする、重工業へのインフラ投資であった。

 欧州亜大陸の盟主としてフランスは、大盤振る舞いをしたと言っても良い。

 但しこれも、対ドイツ戦争を真剣に考えていたフランスにとって、ドイツを挟撃する相手を育てると言う意味において重要な政策であった。

 中欧側にドイツにとって脅威となる国家が存在する事で、ドイツは軍事力を涵養したとしても分散配置を強いられる事に成る。

 そうなれば、フランスが組み立てていた先制強襲の戦争計画は簡単に遂行できるだろうとの見立てであった。

 

 

 

 

 

 



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17.1930 ユダヤの民

+

 日本のタイムスリップで劇的に変わる事になったのは、ユダヤであった。

 在日米軍からアメリカを経由してユダヤ系富裕層に1940年代、たった10年後に訪れる悲劇に関する情報が渡った。

 荒唐無稽とは思えないリアルな写真などの証拠。

 それを裏打ちするように、ユダヤの身の回りでは悪意や嫌悪感の表明が増加傾向にあった。

 未来情報が確かであると理解した時、ユダヤはパニック状態に陥った。

 急いでアメリカとドイツのみならずブリテンやフランスと言った様々な国々のユダヤが話し合った。

 その結果、基本方針としてドイツ領内からのユダヤの大脱出が決定した。

 危険性の通達は、富裕層のみならず一般労働者まで伝達される事となる。

 だが問題があった。

 脱出は問題は無いが、問題は何処に逃げれば良いかと言う事だ。

 そもそもユダヤは亜欧州の国々で忌避される所があった。

 その上で大恐慌だ。

 いち早く恐慌を脱したブリテンやフランスは別だが、それ以外の国々で不景気で他所の国から人が来る事を歓迎するなどある筈も無かった。

 この為、大多数のドイツ在住ユダヤは資産や身辺の整理をしつつ状況を伺っていた。

 その状況が変えたのは、アメリカと満州だった。

 満州を得たアメリカは、その大地を乳と蜜の流れる場所へと変えようとしていた。

 その為、労働力として良く教育を受けていたユダヤの入植は大歓迎されたのだ。

 その流れにドイツも乗った。

 国内不安の原因の1つが消えるのだ、反対する理由など無かった。

 フランスや中欧諸国も協力した。

 これは対ドイツ戦争準備の一環だった。

 ドイツの国力を削ると言う。

 ユダヤへの憎しみでドイツは気付いて居なかった。

 ユダヤの富裕層と労働力との喪失がドイツ経済に与える打撃を。

 気づかぬままに、ドイツはユダヤに逃げられていくのだった。

 

 

――満州

 元々のチャイナ人の少なさから、ユダヤ人労働者は歓迎された。

 チャイナ、ユダヤ、アメリカ、ロシア、コリア、そしてジャパンまで様々な人間が集まる、人間の坩堝と化していく満州。

 その中で問題となったのは、北チャイナからの流入だった。

 彼らはユダヤと異なり、基礎的な教育も受けて居なかった為、労働力としての価値は乏しかった。

 その為、その待遇も労働力相応のものとなった。

 通常であれば、それで話が終わるのだが、この場は満州。

 チャイナにとって、チャイナのものであると言う意識の働く場所であったのだ。

 この為、チャイナを搾取する象徴として満州でコーカソイド系の住人が狙われた犯罪が多発していく事となる。

 無論、コーカソイド系とてやられっ放しにする筈も無く、自衛に手を尽くしていた。

 治安の悪化は満州での経済活動を停滞させる事に繋がる為、アメリカの経済界はアメリカ政府に強く、対応策を要求する事となる(※1)

 

 

――沿岸州

 交易を行っていた富裕層のユダヤは、ソ連領内での経済活動にも着手した。

 主要とするのは娯楽。

 ソ連は5ヵ年計画で重税に喘ぐが故に息抜きを求めるだろうとの読みであった。

 特に沿岸州は日本とアメリカによる経済活動によって、それなりに潤っており、嗜好品は飛ぶように売れる事になる。

 特にアルコール。

 そこでユダヤは日本に目を付けた。

 日本から安い徳用焼酎を買い込み、満州で瓶を詰め替えてロシアで売る。

 余りにも売れすぎて焼酎の製造が追いつかなくなると、今度は日本の酒蔵に投資を始めた。

 その上で、焼酎の製造に必要な芋は満州で作らせ、買い付け、日本の酒蔵に売る。

 この貿易の流れでユダヤは大きな資金を作る事に成功する。

 この資産を元にユダヤは沿岸州の有力者を買収、更に日本への資材売却事業に食い込んでいく事となる。

 

 

――欧州

 極東アジアでユダヤの経済活動が活性化した事は、ドイツ以外の欧州に住むユダヤにとっても福音であった。

 特に満州では、土地の購入や経済活動などに一切の制限が無い為、欧州で息苦しさを感じていたユダヤの多くが移住していく事となる(※2)

 流石に著名な富裕層が移住という事は無かったが、それでも分家を送り、経済発展の旨みを逃さぬ様に活動をしていた。

 この事が、ドイツでは問題化した。

 経済的な窮乏の度合いが高まる事を、ユダヤが原因であると今まで以上に声高に主張する様になったのだ。

 ナチス党は、ドイツとソ連との結びつきから反共を主張しても市民の同意を得られ辛い為(※3)、格好の標的となったのだ。

 

 

 

 

 

(※1)

 満州での経済活動の不安定化が、最終的にアメリカへ満州の地にフロンティア共和国を建国させる事を決断させる。

 それ程に、満州での経済活動の旨みというものは大きかったのだ。

 

 

(※2)

 ユダヤの流入により、満州の基本言語がチャイナ語からブリテン/アメリカ語へと変わっていく事となる。

 又、日本との経済的な結びつきも強い為、日本語も使われるようになり3ヵ国の言葉が入り混じった言語へと変貌していく事となる。

 

 

(※3)

 とは言え、ドイツ国内で共産主義を標榜し、過激な活動をする者は躊躇なく弾圧されていた。

 政治的には、ソ連を主導するスターリンと対立したトロツキー派の行動であると宣伝され、ドイツとソ連の友好関係に問題が波及する事は無かった。

 

 

 

 

 

 




2019.05.08 誤字や表現のブレなどの問題点の修正
2019.05.08 文章の一部を修正
2019.05.08 文章の一部を修正 ( ;∀;)<オナジトコロノシュウセイダヨ!!


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18.1931 日本統合軍

+

 日本ソ連戦争終結後に行われた自衛隊と連邦軍の再編成は、ロンドン軍縮条約の影響も受けつつ、粛々と実行された。

 

 

――ロンドン軍縮条約

 ロンドン軍縮会議自体には、日本としては環太平洋域での敵対的な国家の不在から海洋戦力の拡張を必要とする事が無い為、気楽な形での参加となった。

 只、会議において日本の建造中の35,000t型甲種護衛艦が話題となる(※1)。

 日本ソ連戦争で猛威を振るった日本の軍事力と科学力。

 その新しい結実としての存在に、どの国も恐れを抱いたのだ。

 建造ペースも設計に着手してから恐ろしい程に短期であり、更には2隻をほぼ同時に建造している工業力も、その恐怖を増幅させた。

 その為、日本に対して新型戦艦の情報開示を可能な限り求めた。

 世界が安心の為に欲していたのは日本が建造する戦艦によって、既存の世界各国が保有する戦艦が陳腐化する事であったのだ。

 最大排水量で35,000t。主砲は14in.砲を上限とする枠こそあったが、100年先の科学力が何を生み出すかと恐れたのだ。

 戦々恐々としながら日本に問いただす事となったロンドン軍縮会議。

 だが問われた日本からすれば、機密の固まりと言ってよい防空システム回りに比べて主砲塔や装甲などの情報は機密性が乏しい部分であった為、拍子抜していた。

 情報開示を快諾した。

 その上で軍縮会議参加国に対し、建造現場での見学会開催を提案した。

 この情報に、軍縮会議参加国は狂喜した(※5)。

 対して、軍縮会議へ不参加であるドイツやソ連が猛烈な不満を表明する事となる。

 とは言え軍縮会議不参加国であり、では軍縮会議へ参加しますとか尋ねられれば拒否した。

 そんな国家へ配慮される事は無かった(※4)。

 

 

――自衛隊

 自衛隊の役割は再定義される。

 防衛を担う範囲が劇的に広がった為、軍事力の再編成を含めた改革が行われる事となった。

 

陸上自衛隊

 日本列島防衛を主任務とし、諸邦国への非常時の緊急展開を担当する事となる。

 機械化師団/旅団 装軌車両を主体とした重部隊。

 自動化師団/旅団 装輪車両を主体とした地域防衛部隊。

 機動師団/旅団  日本列島外への緊急展開も主任務とした部隊。

 機甲師団/旅団  機甲打撃力を有する部隊。

 

北部方面隊(北海道地方)

 北海道防衛と共にオホーツク共和国への支援を行う。

  第2師団 (機械化)

  第5師団 (機動化/オホーツク共和国への初動支援を担当)

  第7師団 (機甲)

  第11旅団(自動化)

  第16旅団(機械化/樺太駐屯)

東北方面隊(東北地方)

 東北地方の防衛を主任務とする。

  第6師団 (自動化)

  第9師団 (自動化)

東部方面隊(関東地方)

 東京を中心とした防衛を主任務とする。

  第1師団 (自動化)

  第12師団 (自動化)

中部方面隊(関西地方)

 関西を中心とした防衛を主任務とする。

  第3師団 (自動化)

  第10師団 (自動化)

  第13旅団 (自動化)

  第14旅団 (自動化)

西部方面隊

 九州防衛と共に朝鮮共和国と台湾共和国への支援を担当する。

  第4師団 (機動化/朝鮮共和国への初動支援を担当)

  第8師団 (機動化/台湾共和国への初動支援を担当)

  第15旅団 (自動化)

  第17師団 (機械化/朝鮮駐屯)

  第18師団 (自動化/台湾駐屯)

陸上総隊

 方面隊に所属しない部隊の管理も担当する。

  第1空挺団

  水陸機動団

  第1機動群 (グアム駐屯)

  南洋警備団(南洋共和国駐屯)

 

 

航空自衛隊

 日本列島の防空と、邦国での防空と対地戦闘を主任務とする。

 特に、敵領土への侵出爆撃任務に関しては、在日米軍を教師として急速な戦力化に努めている(※2)。

 現在、邦国軍向けの簡易汎用戦闘機の開発が山場を迎えており、その装備を前提とした建軍が行われている。

 又、航空自衛隊向けのF-3戦闘機の増産も順調に行われている。

 

北部方面航空隊

 東北以北の防空任務。

  第2航空団(1個飛行隊、樺太駐屯)

  第3航空団

中部方面航空隊

 日本中央部の防空任務。

  第6航空団

  第7航空団

西部方面航空隊

 西日本と朝鮮半島方面の防空任務。

  第5航空団

  第8航空団(1個飛行隊、朝鮮駐屯)

南西方面航空隊

 沖縄以南の防空任務。

  第9航空団

  第4航空団(台湾駐屯)

 

 

海上自衛隊

 拡大した日本の領海防衛を担当する為、OPVの増産と地方隊の拡大が行われている。

 大型艦の建造に関しては必要性の乏しさから中断されているが、軍縮条約参加に伴う政治的事情により戦艦2隻が建造中である。

 但し、将来的な戦争を想定した上での護衛空母や船団護衛艦の研究は行われている。

 地方隊は、領海警備を任務とする関係上、海上保安庁と密接な関係を結ぶ事となる。

 特に南洋その他の日本列島外に配置される海上保安庁部隊は海上自衛隊の地方隊で船舶の補給整備なども行うようになっている。

 

戦闘艦

 空母型護衛艦     2隻

 ヘリ空母護衛艦    2隻

 ヘリ搭載戦闘護衛艦  2隻

 多目的輸送護衛艦   2隻(揚陸任務艦)

 ミサイル護衛艦   12隻(僚艦防空機能保有艦)

 対潜護衛艦      2隻(対潜能力強化型艦)

 汎用護衛艦     14隻

 多機能護衛艦    22隻

 哨戒艦       32隻

 

地方隊

 領海警備を任務とする為、各邦国に地方隊が別個に建軍されている。

 

 グアム共和国のみ、在日米軍が主導している為、その名誉と実力を尊重する形で地方隊を設営はしておらず、海自連絡員の駐在と海上保安庁の派遣に留まっている。

 尚、在日米軍に残されている大型空母や揚陸艦などは整備の問題からグアム共和国では無く、日本国内に駐留している。

  横須賀地方隊

  呉地方隊

  佐世保地方隊

  舞鶴地方隊

  大湊地方隊

  大泊地方隊   (樺太地方隊)

  仁川地方隊   (朝鮮地方隊)

  高雄地方隊   (台湾地方隊)

  トラック地方隊 (南洋地方隊)

 

 

――連邦軍

 日本ソ連戦争の終結によって、早急な戦力化を急ぐべき周辺国家との軋轢は無くなった為、自衛隊に比べると、その戦力の涵養に関してはゆっくりとしたものとなっている。

 但し、台湾方面に関しては、チャイナの一部急進的愛国主義者が台湾はチャイナ固有の領土であり日本はチャイナへ返還するべきであると声明を繰り返しており、日本とチャイナの間での政治的な問題と化しつつあった。

 日本は台湾の民意(※3)を元に拒否するも、チャイナとしては面子の問題から引き下がる事が出来ず、日本とチャイナの間での政治的な問題化しつつあった。

 この為、日本と台湾民国政府は台湾軍を大規模重武装化する事でチャイナに対する抑止力とする事し、台湾民国軍への重装備配備は最優先で行われる事となった。

 

 オホーツク共和国では補修部品の枯渇からロシア系重装備の稼働が困難となってきた為、日本製の装備への切り替えが進む事となる。

 

 

 師団/旅団番号に関して、管理の簡便さから統一化する際にグアム共和国(在日米軍)より、ロシアの後塵を拝するのは何とか成らぬものかとの相談があり、グアム共和国はオホーツク共和国より後に日本連邦へ参加したものの、部隊番号は相前後する事となった。

 

 機械化師団/旅団 装軌車両を主体とした重部隊。

 自動化師団/旅団 装輪車両を主体とした地域防衛部隊。

 機甲師団/旅団  機甲打撃力を有する部隊。

 

北日本(樺太)邦国

 第1旅団    (自動化/101旅団)

 第2旅団    (自動化/102旅団)

 第1独立機甲連隊(機甲 /701連隊)

朝鮮共和国

 第1師団    (機械化/201師団)

 第2師団    (自動化/202師団)

 第3旅団    (機甲 /203旅団

台湾民国

 第1師団    (機械化/301師団)

 第2旅団    (機甲 /302旅団)

 第3旅団    (自動化/303旅団)

南方邦国

 第1連隊    (軽自動/401連隊)

グアム共和国

 第1師団    (機械化/501師団)

オホーツク共和国

 第1師団    (機械化/601師団)

 第2旅団    (自動化/602旅団)

 

 

 

 

 

(※1)

 この時点でやまと型護衛艦の1番艦は建造行程の7割が終了しており、その姿が呉の造船ドックで現れつつあった。

 戦艦であると同時に、老朽化問題の出ていたこんごう型DDGの役割を一部代替する防空艦としての僚艦防空能力が付与されてた艦であった。

 VLSやミサイルに関しては、既存艦に搭載されていたものを在日米軍の了解と監視の下でリバースエンジニアリングを実施し、特許権を暫定的に在日米軍が持つものとして、その承諾の下で製造している。

 飛行甲板に関しては、第3砲塔発砲時の爆風から逃れる為、第2煙突と格納庫を一体化させ、第2煙突と第3砲塔の間に設ける形となる。

 

 艦名 やまと(やまと型防空護衛艦) 

 建造数   2隻(やまと むさし)

 基準排水量 34,300t

 主砲    45口径13.5in.3連装砲 3基9門

 副砲    62口径5in.単装砲 6基6門

 VLS     Mk41 64セル(前部32セル 後部32セル)

 他     CIWS 2基  SeRAM 2基  3連装短魚雷 2基

 航空    ヘリ格納庫(SH-60級1機 UAV2機が可能/常用予定無し)

 

 

(※2)

 侵出型高速攻撃機として開発が決定された。

 当初はB-52爆撃機を手本として検討されていたが、日本が保有する技術で短期的に開発出来るものを前提に再検討した結果、B-1爆撃機の様な音速爆撃機(仮称:XB-1)が選ばれた。

 但し、開発に時間が掛かる事が想定された為、戦争の危険性が指摘されている1940年代に戦力化されるべき爆撃機の早期調達が提起され、P-1哨戒機をベースとした爆撃機の開発も決定した。

 元より9t級の搭載能力を持っているP-1は、機体後部のソノブイランチャー部分を爆弾庫へと改設計し、各種の対潜機材を撤去する事で16t級の爆弾搭載能力が期待出来ていた。

 

 

(※3)

 日本連邦国の構成国家台湾民国として建国される際に行った国民投票は3択で行われている。

 日本帰属、チャイナ帰属、自主独立。

 その結果として日本への帰属が決まって居た為、日本はチャイナの言い分を認めなかった。

 対するチャイナは日本の不正選挙であると宣伝し、又、台湾への宣伝工作を行う。

 日本帝国から日本の統治下に入っても、特に大きな不満は無かった為、台湾人のチャイナへの帰属意識を高めようと言う工作が成功する事は無かった。

 それどころか、台湾を訪れていたチャイナの外交官の横柄な態度に、台湾人はチャイナへ幻滅する事となり、かえってチャイナへの反発が生まれる有様であった。

 

 

(※4)

 直接、日本の情報を得る事は出来なかったドイツとソ連であったが、関係を深めていたイタリアから情報を得る事には成功した。

 その後、ソ連は日本ソ連戦争にて傷付いたソ連の軍事的権威を回復させる為、そして日本への牽制としてウラジオストクに50,000t級16in.砲戦艦2隻を配備する事を決意する。

 とは言え、ソ連の重工業では即座の建造は困難であった為、スターリンは早期整備を目的に基本設計と1番艦の建造を海外 ―― ドイツに発注する事とした。

 そのドイツであるが、ソ連が発注しようとする戦艦は過去に類を見ない大排水量と大口径砲を備えた大型艦となる為、設計と建造に時間が掛かる事は明白であり、その事を正直にスターリンに連絡していた。

 この為にスターリンは50,000t級就役までの繋ぎとして、何より自身の苛立ちを紛らせると同時に日本への牽制と嫌がらせを目的として通商破壊艦、ドイッチュラント級装甲艦を発注する事となる。

 発注を受けたドイツは慌てた。

 ドイッチュラント級装甲艦は28㎝と大口径砲を有してはいるが、戦艦と戦うには余りにも装甲が貧弱であったのだ。

 その事が艦の売却後に判明しては沽券にかかわると判断したドイツは、ソ連に対してヴェルサイユ条約の制限に縛られない様に強化するという建前で2ヶ月の設計改修時間を取る様に交渉した。

 強化されると言う事であればとソ連側は受諾。

 こうして、28㎝砲3連装2基搭載する20,000t型装甲巡洋艦として建造される事となる。

 ソ連はこの艦を日露戦争時、日本を相手に優れた戦績を残したウラジオストク巡洋艦隊の指揮官に因んでバローン・エヴァルトと命名する(※後にアドミラル・エヴァルトに改名)。

 名前からもスターリンの期待の程が判ると言う艦となった。

 設計図を渡されたソ連では2隻が建造される事となる。

 

 

(※5)

 やまと型護衛艦は、見学したロンドン軍縮条約参加国にとって良い意味で常識を越えた戦艦であった。

 主砲の13.5in.砲はブリテン製の中古品であったが、増設された砲身冷却システムや自動化された砲塔 ―― 装弾システムは、衝撃だった。

 どれ程の装填速度を有するのか想像も出来ないものであった。

 防御に関しては、詳細を把握する事は出来ないものの、艦内を歩くだけで合理的である事が見て取れた。

 又、可燃物が徹底して撤去されており間接的な防御力の向上に腐心しているのが見て取れた。

 だが同時にそれは、今、ロンドン軍縮条約参加国が行っている戦艦設計を洗練させた範疇に留まっていたのだ。

 布張りのレシプロ機と第5世代型ステルス機を比較するような、される様な悲惨な思いはせずに済んだのだ。

 「日本も、人間の国家であった」そんな感想をやまと見学団の残したほどであった。

 だから気付かなかった。

 気付ける筈も無かった。

 やまとの本質がレーダーと電子機器、そしてミサイルにある事を。

 広域防空艦である事を。

 その意味の分かるのは在日米軍関係者のみ。

 そして在日米軍関係者は、戦艦にまでソナーと短魚雷まで装備させた海上自衛隊に呆れていた。

 

 

 

 

 

 




2019.05.10 修正実施


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19.1932-1 上海事件-1

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 事の発端はあれども黒幕と言う程の物は無かった。

 単純に、チャイナ国内で醸成されたアメリカ貨排斥運動と反アメリカ感情の高まりが生んだ悲劇であった。

 

 

――状況:事前

 北チャイナを支援するアメリカであったが、南チャイナを無視している訳では無かった。

 商売相手として尊重すらしていた。

 それ故に、南チャイナの領域で活動するアメリカ人は少なくなかった。

 但し、治安の悪化には注意していた。

 特に大手の民間貿易企業は、アメリカの半国営の民間軍事企業を護衛として雇う事が常となっていた。

 主となる兵士は日本ソ連戦争で俘虜となり、だがオホーツク共和国(日本)への帰化が心情的に困難なロシア人、そして朝鮮人だった。

 この頃になると朝鮮共和国政府は積極的な外貨獲得手段として朝鮮人傭兵を活用しており、日本政府の承諾の下で最大で中隊を単位として、4桁以上の朝鮮共和国軍人をアメリカに貸し出していた。

 コーカソイド(アメリカ)人を護衛するモンゴロイド(コリア)人と言う構図(※1)。

 その上で、チャイナからみて傲岸な態度をみせる。

 これがチャイナに仄かな怒りを与えていた。

 

 

――上海事件・チャイナ共産党

 南北チャイナに挟まれて劣勢なチャイナ共産党であったが、武器だけは豊富にあった。

 シベリアで日本とアメリカの圧力を受けているソ連が、特にアメリカの下腹部と言ってよいチャイナでの騒乱を求めて、旧式化した武器弾薬を大量に提供していた為だ。

 この武器を手に、チャイナ共産党は反アメリカの宣伝に努めた。

 チャイナを搾取するアメリカと、その手先であるコリアという風に。

 その上で賄賂を用いて南チャイナの軍閥に懐柔の手を伸ばした。

 狙うのは上海。

 アメリカを含めた列強諸国の足掛かりであり、チャイナの意思を示すには絶好の場であった。

 軍は少なく、民間人は多い。

 この場所で事を起せば、世界に宣伝する事が出来るだろうというのが、チャイナ共産党の考えであった。

 チャイナと世界の戦争状態。

 それこそが、南北チャイナによって圧迫されたチャイナ共産党の生き残れる道であると、チャイナ共産党指導部は喝破したのだ。

 アメリカを筆頭とするヨーロッパ・アメリカへの憎悪を炊きつけた。

 

 

――上海事件・発端

 上海市から内陸に100㎞程離れた村で起った武力衝突が口火となった。

 増長した態度のアメリカ人が悪かったのか。

 虫の居所の悪かったコリア人が悪かったのか。

 乱暴者で気の短いチャイナ人が悪かったのか。

 何が悪かったと特定する事に意味は無い。

 只、その村で商人のアメリカ人が襲われ、護衛のコリア人が反撃し、チャイナ人が殺されたと言うのが全てであった。

 ある意味でチャイナ全域でよく見る話であった。

 被害者と加害者が往々にして入れ替わるが、新聞に書かれて終わる。

 少なくとも当事者以外には。

 そんな話が大きな問題となったのは、火に薪をくべるチャイナ共産党が居たからだった。

 事前に誼を通じていた南チャイナの軍閥を唆し、大騒動へと発展させた(※2)。

 発端となったアメリカ人とコリア人を吊るし、満天下にチャイナからのアメリカ排斥を訴えさせたのだ。

 この扇動にチャイナの大衆は乗った。

 発端となった軍閥に、民族の英雄の下で兵隊となりたいと志願するお調子者も出た程だった。

 又、軍閥と関わらず非チャイナに対する暴動が、燎原の大火の如く広がって行った。

 慌てたのは南チャイナである。

 この勢いに抵抗してはチャイナ南部の主導的立場を明け渡す事になりかねない。

 財も民も握る南チャイナであったが、その優位性は絶対では無い。

 複数の軍閥を束ねる事で成り立つ、比較的という言葉が似つかわしい優位性であったのだ。

 であればこそ、民意に背ける筈も無かった。

 協力関係にあったドイツを夷狄の中から除く様に宣伝し、同時に国際連盟の場にてチャイナの総意として列強諸国の中国への過干渉停止と不平等条約の撤廃、そして駐留する軍隊の即時撤退を訴えたのだ。

 国際連盟は荒れた。

 上海に日本帝国から引き継いだ小さな権益を持つだけの日本は兎も角、大きな権益を持っていたアメリカ、ブリテン、フランスなどは激高した。

 特に、議題の当事者であった為にオブザーバーとして参加していたアメリカは、自国民を殺されたにも関わらず非難される状況に大激怒した。

 そして先ず謝罪をするのが筋であると反論する。

 ブリテンとフランスも同調する。

 だが南チャイナも一歩も退かなかった。

 此処で退いては南チャイナはチャイナ国民の支持を失い、又、チャイナ全土を統治する正統な権利者 ―― 国家の擁護者としての立場を完全に喪失してしまうとの思いからだった。

 白熱した会議は連日連夜に及ぶ事となる。

 

 

――上海事件・北チャイナ

 チャイナ全土に広がった反アメリカの機運に焦ったのは北チャイナである。

 南チャイナに比べて勢いでも規模でも劣る北チャイナが今まで存続できたのは、アメリカの支援と満州から得られる税金あればこそであった。

 その為、事件発生当初はアメリカを擁護する宣伝を行っていた。

 だが、それがチャイナの民衆の怒りを買った。

 北チャイナの各地で暴動が続発する事となった。

 特に北チャイナの拠点であった北京での暴動は凄まじかった。

 チャイナ共産党が手引きをし、武器を提供した大衆は暴れ回った。

 北チャイナの軍は将兵の脱走と離反が続発した為、北チャイナの指導者は満州への移動を決断。

 奉天を次なる根拠地と定め、鐡道にて移動を開始した。

 それが北チャイナの運命を決めた。

 その行動予定を手に入れたチャイナ共産党が、暗殺を決行したのだ。

 鉄道に爆薬を仕込み、爆殺したのだ。

 これによって北チャイナは崩壊する。

 北チャイナは混乱の坩堝と化する。

 

 

――上海事件・国際状況

 国際連盟での会議は怒鳴り合いに終始し、その結末は誰も読めなかった。

 それを終わらせたのは、上海近郊で蜂起した軍閥であった。

 義勇兵や馬賊などが参加し、遂には10万と号する程の大軍勢となった彼らは、その巨体を維持する為の餌を必要とした。

 それが上海であった。

 兵を整えて上海に向けて進軍を開始する。

 上海市には降伏を。

 上海に在住するアメリカ・ヨーロピア ―― 夷狄に対しては即時の、チャイナからの退去を命じていた。

 猶予は、軍勢が上海に到着するまでの3日。

 出来る筈も無かった。

 国際連盟の場は、この無法を宣言した軍閥と、その管理者たる南チャイナを非難する場となった。

 南チャイナにも言い分はあった。

 そもそも、植民地の如く扱われているチャイナの民衆の蜂起である。

 世界大戦後に定められた民族自決の原則に基づいて考えれば、その行為は認められるべきだ ―― と主張した。

 だがそれが通る事は無かった。

 反対したチャイナ、棄権したドイツとソ連を除く全ての安全保障理事会の参加国が一致し、チャイナの国際連盟の参加資格の停止を決めた。

 併せて上海市防衛に列強が兵を出す事は、自衛の範疇である事が宣言された。

 チャイナは世界から孤立した。

 

 

――上海事件・防衛戦力の集結

 アメリカを筆頭とする列強諸国は、軍閥に膝を屈する事を良しとはしなかった。

 アメリカは関東州に駐屯する海兵隊から1個連隊を先遣隊として派遣し、続いてフィリピンから1個師団を派遣する事を決断。

 ブリテンはシンガポールから陸軍1個旅団相当の兵を派遣する事を決断。

 フランスはインドシナからの1個旅団を派遣する事を決断する。

 そして日本も、緊急展開部隊に指定されていた第8師団を動かす事を決断。先遣隊として第42連隊を緊急展開させる事とした。

 都合、2個師団2個旅団規模である。

 決して軍閥風情に劣る様な将兵では無かった。

 だが問題は時間であった。

 その全てが集結するには1月近い時間を必要とすると予想された。

 否、ブリテンやフランスの部隊は海を越えての展開を前提としていなかった為、1ヶ月で先遣隊を派遣できれば御の字と言う有様であった。

 ここに、上海防衛の主力は軽装備のアメリカ海兵隊1個連隊と、圧倒的な輸送力を持った日本の第42即応機動連隊(※3)となる事が決定した。

 とは言え、これだけで10万の軍勢と戦える筈も無い。

 日本は日本ソ連戦争以来の空軍の動員を行う事を宣言した。

 又、護衛艦いずもを旗艦とする任務部隊を編制、攻撃ヘリを搭載して上海沖へと向かわせた。

 海洋戦力に関しては、アメリカやブリテンも巡洋艦を含む艦隊を派遣した。

 陸の兵こそ乏しいが、それを支える空海の戦力は圧倒していた。

 尚、南チャイナの軍艦も上海には停泊していたが、国際連盟での騒動を聞いた指揮官は、今回の事件への局外中立を宣言し、艦隊の保全を図った。

 ボイラーの火を止め、弾薬庫を封印し、上海の列強連絡会の監査を受け入れる宣言をする徹底っぷりであった。

 このお蔭で、南チャイナ海軍は壊滅を免れた。

 

 

 

 

 

(※1)

 アメリカに雇われた傭兵はコリア人のみならずロシア人やアメリカ人、ユダヤ人。果ては日本人やドイツ人までも居たが、数も多く一番に悪目立ちしたのがコリア人であった。

 

 

(※2)

 アメリカへのチャイナの反発は目に見えるレベルで広がっていた為、扇動自体は簡単に行った。

 又、上海と言う大きな獲物があった事も大きい。

 チャイナ共産党が唆した軍閥は5万の規模の軍勢を有していた。

 対する上海に駐屯する兵は併せても1千を越えようかといった程度しか居なかった。

 上海の夷狄を打ち滅ぼし、その財を奪い尽くし、その功績を持って満天下に南チャイナの真なる指導者である事を示すのだ ―― そんな甘言に、軍閥の首領は乗ったのだ。

 

 

(※3)

 第8師団は機動化師団としての規模改変と、装備の変更が行われている真っ只中であった為、第42即応機動連隊以外が、即時に戦闘態勢へと移行できる様な状態では無かった。

 とは言え、1個連隊だけの派遣では死にに行かせる様なものである。第42連隊を死なせるなと師団長が檄を飛ばし、第8師団で戦闘可能な練度にあった部隊をかき集めて、臨時の装甲連隊戦闘団(第81独立装甲連隊と命名)を編制して後詰とした。

 編成未了ながらも10式戦車を受領している第8戦車連隊を根幹に、第8偵察大隊や第43普通科連隊から抽出した部隊で構成されている。

 特科部隊こそ含まれて居ないが、10式戦車2個中隊と16式機動戦闘車を1個中隊規模有する、強力な機甲部隊であった。

 この臨時部隊を第8師団の将兵は何とか3日で編成し上海へと派遣した。

 

 

 

 

 

 




2019.05.10 記述の修正
2019.05.10 記述の修正


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20.1932-2 上海事件-2

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 小銃だけを手に展開したアメリカ海兵隊。

 だが支援は潤沢であった。

 海には関東州に停泊していたアメリカ海軍巡洋艦が駆けつけており、空には自衛隊と在日米軍の航空機が舞っているのだから。

 初陣であった海兵隊少尉は、自身の不遇を嘆くよりも、噂に聞くエンペラーの軍勢と未来のアメリカの力を見れる事に興奮していた事を手記に残していた。

 

 

――上海事件・軍閥

 約10万の大軍となったが促成と言ってよい為、規律など殆ど無く、移動は遅々として進まなかった。

 その上で食料や燃料などが不足気味であった為、上海市に向かう途中に存在した町で徴発しながらとなる。

 その様はさながらに野盗か蝗の如きであった。

 結局、上海市の周辺部に軍閥の先遣部隊として約1万の兵が到着したのは、本拠地を出発して8日目の事であった。

 到着後、自信と自負、そして欲を滾らせて上海市への降伏の是非を問うと、市長及び列強の責任者で作られた臨時自治委員会側より返答があった。

 拒否である。

 それどころか軍閥の面子を潰すかの如く、上海市から内陸部への街道を制圧し物流を滞らせている事の非難が成されていた。

 先遣部隊指揮官は、小癪な事を述べた使者を殺し、又、列強の軍が残っている事を口実として上海市攻略戦の実施を世界に向けて宣言した。

 

 

――上海事件(D-Day)

 自衛隊によるUAVやヘリによる偵察で、先遣部隊の実情を捉えていた防衛側は楽観していた。

 先遣部隊が自動車などこそ有しているが戦車や野砲といった重装備を装備しない軽歩兵部隊である事が見て取れたからだ。

 規模こそ1万を数える程ではあったが纏まりが無く、広大な上海市の外周部で分散して攻撃をして来ては脅威となったであろうが、その様な兆候は見られなかった。

 又、短時間ではあったが準備が出来ていたのも大きい。

 自衛隊が持ち込んできた大規模な土木作業機材の機力と、軍閥の到着に時間が掛かった事と相まって、上海市を守る塹壕や対戦車壕の造成が間に合ったのだ。

 そこからの2日間、世界大戦への従軍経験のある兵は手記に「その様、ソンムの如し」と書く程の状況となった。

 無論、攻撃側のみの惨状であったが。

 既に2日目の午前には、軍閥側の衝突力は消滅していた。

 

 

――上海事件・航空攻撃

 軍閥と言う野戦軍の撃滅が主目的であり、更には現状で相対しているのが先遣部隊であった為、日本は本格的な空爆を差し控えていた。

 B-52を筆頭とした戦略爆撃機群は野戦軍を目標とするには少しばかり大きすぎた。

 身軽な攻撃機を投入するには、上海での航空機運用のインフラが不足し過ぎていた。

 何より弾薬が、日本ソ連戦争で大盤振る舞いしていた為に不足気味であったと言う事もあった。

 その為、日本は自衛隊とグアム共和国軍(在日米軍)のヘリ部隊をかき集め、いずもを旗艦とする任務部隊に乗せていた(※1)。

 そのヘリ部隊が戦線投入されていないのは、ヘリ部隊の予備部品の枯渇と機材の老朽化による稼働率が問題であったのだ。

 前哨戦の段階で消耗し、いざ軍閥の主力部隊との戦闘時に戦えぬようであれば意味が無い。

 そう上海防衛司令部では判断していた。

 

 

――上海事件(D-Day+9) 増援/軍閥側

 軍閥の主力部隊が上海周辺に到着する。

 先遣隊の苦戦を聞いていた軍閥の頭領であったがその顔に不満も怒りも浮かんでは居なかった。

 歩兵主体の先遣隊で戦車などを保有する先進国の軍隊相手では荷が重いという事は理解していたからだ。

 故に、対策を取っていた。

 近隣の南チャイナ軍へ声を掛け、輸入した列強製の戦車を装備していた部隊を引き抜いて来たのだ。

 その多くは世界大戦時に使用された旧式であったが、200両を超える数は脅威であった。

 練度も悪くない。

 ドイツの軍事顧問団からの教育を受けた精鋭だったのだ。

 この戦車部隊が軍閥の上海攻撃に参加したと聞いた南チャイナの頭領が、呆然とし、そして激怒したという事から、この部隊の貴重さが良く判る。

 その他、野砲や歩兵砲も大量にかき集めていた。

 此方はチャイナ共産党が秘匿していた物資の提供で成り立っていた。

 促成の為、練度には疑問符があるものの、3桁を超える砲は厄介であった。

 

 

――上海事件(D-Day+9) 増援/防衛側

 この時間で防衛側も手をこまねいていた訳では無かった。

 自衛隊の臨時増援用部隊である第81独立装甲連隊が上海に入った。

 第81独立装甲連隊には時間的余裕があった事もあり、台湾にて先行量産型の31式戦車で運用試験を行っていた部隊も予備部隊として編入、増強された。

 機材への習熟こそ成せてはいないが、富士教導団の将兵が基幹となった部隊の為、不安は無かった。

 この他、シンガポールのブリテン旅団1個が上海入りしていた。

 此方は海上自衛隊が第1輸送隊と第2輸送隊(※2)、そして就役前のさつま型多目的輸送艦まで投入した一大輸送作戦によって成されていた。

 LCACによって重装備も装備したまま到着しており、戦力として極めて心強いものとなっている。

 尚、インドシナのフランス部隊も、1週間後には到着予定となっていた。

 

 

――上海事件(D-Day+10)

 軍閥の主力と上海防衛隊の衝突が本格的に始まった。

 自衛隊が上海市を囲むように大規模に巡らせた戦車壕の切れ目、3本の大道路を巡る攻防となった。

 防衛隊は、指揮権の問題からそれぞれを自衛隊、アメリカ軍、ブリテン軍が担当する事となる。

 重装備の無いアメリカ軍に対し、自衛隊は16式機動戦闘車の中隊を1個、支援に回した。

 10式戦車は第81独立装甲連隊と共に、予備として上海市中心に配置された。

 3つの主要戦線以外にはフランスやイタリアの部隊が警戒の為に対応していた。

 対する軍閥側は3つの道路に均等に部隊を分けて攻撃を仕掛けた。

 志願兵などの欲に釣られて軍閥に参加した人間を先頭に立てたのだ。

 「一番に上海に乗り込めた者は最大の手柄として報奨は望むまま」という甘言に騙され、突撃した。

 その結果、この1日だけで2000名を超える死者がでた。

 

 

――チャイナ共産党

 防衛戦が始まると共に、上海市内での活動を活発化させた。

 特に防衛隊の補給路への破壊工作、襲撃は、それを想定していなかった防衛隊側に甚大な被害を与える事になる。

 襲撃はハーグ陸戦条約に基づいて軍服などを着る事も無く、時には女子供を囮にして行われた。

 防衛隊側に被害以上にストレスを与える作戦だった。

 それは、中華人民共和国の工作員がチャイナ共産党へ伝授した作戦であった(※3)。

 この対応に日本のヘリコプター部隊は忙殺される事になる。

 空中からの偵察と護衛、そして非常時の支援任務だ。

 完全に装甲化された車両を護衛に付けられる自衛隊は兎も角、アメリカ海兵隊やブリテン陸軍には装甲化された装輪車両など無い為、襲撃を受けた際には被害が出やすかった。

 

 

 

 

 

(※1)

 上海事件が日本国に戦闘ヘリ部隊の重要性を再認識させる事となり、新型攻撃ヘリの開発が検討される事となる。

 但し、日本国内の航空機設計/開発技術者の乏しさから、現状で即座に手を付けられるものでは無かった。

 この為、日本政府は国家主導による設計士や技術者の養成に邁進する事となる。

 

 

(※2)

 タイムスリップ時点で日本の造船所が海外から発注を受けて建造していた大型貨客船2隻(かしはら しゃるんほるすと)を、日本政府が民間支援の一環として購入し海上自衛隊に編入した部隊。

 平時は、はくおうやなっちゃんWorldと同様に特別目的会社が管理運営している。

 

 

(※3)

 タイムスリップ後、大多数の中華人民共和国民は日本への帰順を選択した。

 極々一部の人間がチャイナへと密航し、チャイナ共産党へ合流していた。

 

 

 

 

 

 



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21.1932-3 上海事件-3

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 チャイナ共産党が行った上海市防衛隊への破壊工作は、国際連盟で大問題となった。

 戦争に於ける作法の全てを無視する暴挙であり、この反応も妥当であった。

 国際連盟安全保障理事会は、南チャイナの代表を呼びつけて査問会を開いた。

 慌てたのは南チャイナである。

 身の潔白と、次には上海市に展開する列強諸国による謀略を訴えた。

 南チャイナは、移民による伝手のあるアメリカで自身が被害者である事を強く訴える事で査問会の流れを変えようとした。

 特にアメリカ人が有するミリシアへの伝統的価値観に沿う形で訴えた。

 曰く、チャイナの行動は列強への市民レベルでの抵抗だと。

 アメリカ議会が紛糾した。

 アメリカの世論も盛り上がった。

 そこに、日本が圧倒的な情報で殴り込んだ。

 加害者はチャイナの悪しき部分であり、被害者はか弱き一般のチャイナ。

 アメリカを代表とする列強は、その被害者を守るべき立ち上がっているのだと ―― 宣伝戦だ。

 軍閥は上海市に隷属を命じていた。

 特にその事をアピールする事で、上海市を東洋のアラモだと宣伝したのだ。

 このアピールは効いた。

 グアム共和国軍(在日米軍)の協力で、アメリカ人に一番刺さるフレーズを選んだのだ。

 しかも、幾度も行われた襲撃で出た被害者の中で一番の美少女を選んで、インタビュー動画を撮り、「チャイナ/上海の実相」と題して映画化して配信までしたのだ。

 世論が一気にひっくり返る。

 チャイナの善き市民を助け、悪しきチャイナを叩けとの声でアメリカの世論は染まった。

 アメリカ軍は正義の軍隊である。

 

 

――上海事件(D-Day+12)

 2日間に渡って歩兵による攻撃を行い、撃退された軍閥。

 只の力攻め、志願兵を前面に押し立てての人海戦術であった。

 だが3日目は違った。

 2日間の戦闘で日本とアメリカ、ブリテンの陣地をつぶさに観察し、攻勢の主軸を定めたのだ。

 標的はアメリカ海兵隊。

 日本よりも質で劣り、ブリテンよりも数で劣る。

 遮蔽物を使い、野砲の支援を受け、虎の子の戦車部隊を前面に出しながらの攻撃であった。

 押し込まれて行くアメリカ海兵隊。

 16式機動戦闘車の支援を受けているとは言え、腰を据えた野砲の支援の下で接近戦をされては対応しきれない。

 通常は対砲射撃の応酬となり、連続した砲戦は困難であるのだが、事、今回は上海防衛隊側に野砲の類が少ない為、応射出来ないのだ。

 アメリカ海兵隊が軽装備である事を見抜いた軍閥側の作戦勝ちであった。

 16式機動戦闘車も支援に前に出ようとはするが、装甲がそう厚い訳では無い為に野砲による制圧射撃を受けていては思う様には出来なかった。

 軍閥側はアメリカ海兵隊を突破できる。

 そう信じた。上海防衛隊がヘリ部隊を投入するまでは。

 アメリカ海兵隊の状況を把握した上海防衛隊司令部は自衛隊の攻撃ヘリ部隊の投入と、第81独立装甲連隊の投入を決断。

 本物の装甲を持った戦車による逆襲は、軍閥の装甲部隊と約1個師団の攻撃を完全に頓挫、粉砕せしめた。

 野砲部隊はヘリ部隊による襲撃によって撃破された。

 この1日の戦闘で、軍閥は実に3万人近い兵が死傷する事となる。

 

 

――チャイナ共産党

 戦闘開始から13日目、チャイナ共産党は追いつめられていた。

 治安維持活動の一環としてブリテンがチャイナ人とチャイナ共産党とを分離する為、チャイナ共産党に対して懸賞金を掛けたのだ。

 見知らぬ人間を見つけたら酒代にはなる懸賞金。

 何かの兆候を発見したら贅沢な食事が出来る懸賞金。

 チャイナ共産党の情報を得たら1週間は寝て過ごせる懸賞金。

 実際の襲撃を阻止する程の情報であれば1年は遊んですごせる懸賞金。

 チャイナ人は血眼になってチャイナ共産党を探す事となった。

 チャイナ共産党が人民の海に潜れぬ様に分断したのだ(※1)。

 これでは軽歩兵でしかないチャイナ共産党兵に出来る事など何も無かった。

 だからこそチャイナ共産党は軍閥との呼応を図る。

 比較的防衛線が薄い場所を探し出し、内外から挟撃して上海市の陥落を狙うのだ。

 

 

――上海事件(D-Day+15)

 開戦13日目の戦闘で軍閥は大敗したが、それでもまだ戦闘を続けていた。

 1つには被害の大半が開戦前に集まって来た野盗や破落戸の志願者だったからだった。

 虎の子の戦車部隊は半壊していたし、野砲部隊に至っては消滅していたが、それでも軍閥の主力と呼べる部隊はまだまだ健在であったのだ。

 負けてはいないというのが頭目の手ごたえだった。

 そして、チャイナ共産党との合同での側面攻撃作戦という起死回生の策があった事が大きい。

 散発的な襲撃を行う事で欺瞞をしながら、3日かけて作戦準備を行った。

 そして開戦16日目、側面からの攻撃を敢行した。

 世界大戦時の塹壕戦術、戦車やありったけの自動車の前面に塹壕を埋めれるだけの薪や藁を載せて突撃したのだ。

 上海防衛隊側は政治的要求から、フランス・インドシナ旅団の合流後の反撃(D-Day+18)を予定し準備していた為、後手に回ってしまったのだ。

 攻撃を受けた側面、その守備に就いていたのはフランスの警備中隊とフランス人とチャイナ人の志願兵だった。

 ヘリ部隊も、最低限度の偵察用と連絡用を除いて整備を行っていた為、大規模な航空支援は不可能だった。

 その状況下で日本が行ったのは、先ず偵察だった。

 偵察ヘリを軍閥の防空網へ突入させてまでして情報を集めた。

 損傷機や未帰還機を出しながらも偵察ヘリ隊は任務を果たした。

 現時点での敵の配置を把握したのだ。

 側面攻撃に来た軍閥旅団規模部隊が最後の予備であると把握した日本は、最後の手札を切った。

 31式戦車中隊を基幹とする装甲中隊戦闘団の投入だ。

 合わせて、上海防衛隊は内側から呼応しようとするチャイナ共産党部隊の鎮圧に、志願した警官隊で編成した部隊を投入した。

 内も外も血みどろになる戦い。

 これが上海防衛戦最後の山場となった。

 戦いは一昼夜に及び、最終的には防衛側が勝利した(※2)。

 

 

――上海事件(D-Day+31)

 フランス旅団到着後に行われた反撃は、アメリカのフィリピン師団の到着後、掃討戦へと移行した。

 最終的に、事件勃発から32日目に国際連盟にて正式に上海事件の終息が宣言された。

 軍閥は消滅。

 チャイナ共産党も上海組織は壊滅する結果となった。

 

 

 

 

 

(※1)

 上海チャイナ人とチャイナ共産党とを分断で来た理由の1つは、日本が根回しをして積極的に行った襲撃事件の周辺被害者へのフォローがあった。

 流れ弾や爆発で怪我をした人へは医療サービスを提供し、家財を失った人にそれなりのフォローを行ったのだ。

 民心慰撫、大衆を味方にする為に行った事であったが、これが大成功となった。

 チャイナ人が政治に求めるもの、評価する徳を日本やアメリカなどの列強が示した事となったのだ。

 同時に、上海市民の南チャイナやチャイナ共産党に対する好意は激減する事となった。

 

 

(※2)

 この戦いで大活躍したのが31式戦車だった。

 戦車らしく敵軍の砲弾から味方を護りそして敵戦車を粉砕した。

 市街戦でもセンサーで敵の居所を把握し、105㎜砲は立てこもった建物を撃ち抜いて敵を叩きのめした。

 八面六臂の大活躍。

 しかも、激戦の最中にあっても喪失車両が出なかったのだ。

 被弾してもものともせず応射し、キャタピラが切られればその場で最後まで戦い抜いた。

 フランス兵は31式戦車を「我らが守護天使」と呼び、親しんだ。

 惚れこんだと言っても良い。

 それはフランス旅団が到着後、日本に対して31式戦車の装甲中隊戦闘団を編入してくれるように依頼した事にも表れていた。

 この事が後にフランス陸軍の、31式戦車購入希望という話に繋がる事となる。

 日本からすれば31式戦車は、各邦国軍向けに整備性を運用コスト低減を念頭に第3.5世代戦車の技術で作られた第2.5世代であった。

 だが他の国からすれば、撃破不可能の重戦車であった。

 尚、10式戦車であったが、撃破数などは此方が遥かに上であったのだが、その運用スタイルが余りにも異質過ぎて、16式機動戦闘車の如く戦車に似たナニカという風に映っており、食指が動く事は無かった。

 

 

 

 

 

 




2019.05.12 表現の修正を実施


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22.1932-4 チャイナの大地

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 上海市を巡る戦闘は決着した。

 上海市防衛隊は軍閥を殲滅すると共に、軍閥の本拠地を保障占領する事に成功する。

 上海市を狙った軍閥は文字通り消滅し脅威は消えた。

 問題は、誰がこの事件の責任を取るかと言う事であった。

 

 

――南チャイナ

 配下とは言え、半独立状態の軍閥が勝手に起こした戦争で虎の子の機甲部隊を失った南チャイナを更なる悲劇が襲う。

 戦争責任である。

 軍閥の消滅後、南チャイナに日本、アメリカ、ブリテン、フランス、イタリアの5か国連名による戦争賠償請求が突きつけられたのだ。

 法外な金額に頭を抱えた南チャイナは、友好国であるドイツに泣きついたが、そのドイツも国際舞台の中心からは外れている為、大きな助けになる事は無かった。

 半年に及ぶ賠償交渉。

 最終的に南チャイナは、列強諸国が余りにも法外な要求を継続する様であれば最後の一兵まで戦い抜くと開き直って交渉するに至った。

 戦争と言う不経済な状況を嫌った列強がこれに折れる。

 最終的に南チャイナは、戦死者に対する慰問金としての戦費賠償を支払う事で合意する。

 その他、10年間の特権的貿易権を5か国に認める。

 これは事実上の関税権の喪失であった。

 又、各国へ個別で様々なものを認める事となる。

 日本に対しては、沖縄は日本固有の領土であり台湾は独立国として日本連邦へ参加している事を公式に認める事となった。

 アメリカに対しては、満州での独占的地位の承認を99年に渡って認める事となった。

 ブリテンに対しては、香港を租借ではなく割譲する事となった。

 フランスに対しては、広州租借地が割譲される事となった。

 イタリアに対しては、上海近郊の港町が99年間租借される事となった。

 そして上海は、自由都市として南チャイナの支配下から独立する事となった。

 踏んだり蹴ったりとなった。

 そして、この敗北によって南チャイナの政治的権威は喪失の危機に陥る事となる。

 これに慌てた南チャイナは、戦争に関する全ての責任をチャイナ共産党に押し付ける事にする。

 曰く、チャイナ共産党による陰謀であると。

 何かの証拠を見つけた訳では無かった。

 責任を押し付ける都合のよい相手がチャイナ共産党しか居なかった(※1)というのが大きい。

 証拠は捏造して対応した。

 大々的にチャイナ共産党を批判した。

 この為、もとより悪かった南チャイナとチャイナ共産党の関係は極端に悪化する事となる。

 

 

――チャイナ共産党

 南チャイナの国力に被害を与える事には成功したが、その結果として南チャイナから目の敵にされる事となった。

 この為、南チャイナの領域から北チャイナ側へと移動する。

 南チャイナ軍に襲われながら行われた逃走は、チャイナ共産党軍の戦力を大きく削られる大敗北となったが、それを誤魔化す為にチャイナ共産党は新生の為の苦難、長征と言って謳う事とした。

 

 

――フロンティア共和国

 北チャイナによる統制が失われて以降、軍閥、チャイナ共産党、馬賊、その他が入り混じった混沌の大地へと変貌した。

 その事に危機感を抱いたのは満州に入植したユダヤでありアメリカであった。

 治安が麻の如く乱れ、商売は困難になるどころか、襲撃から身を護る事で精一杯な有様となった。

 アメリカの資産が危うい。

 日本から権益を購入して既に5年以上が経過し、官民からの膨大な投資が行われてきた場所なのだ。

 それが危ういと言うのは、アメリカにとって看過し得ない事態だった。

 同時に、それはユダヤにとっても同じであった。

 漸く得た安住の地、法的に差別される事も無く自由な職業に就く事の出来る場所を失う訳には行かなかった(※2)。

 アメリカとユダヤは共謀し、満州の大地を独立させる事を決意する。

 その為の手段はハワイ方式が採用された。

 同時に、アメリカは在日米軍(グアム共和国)からの提言を受け、チャイナで共同歩調を取る事の多い3ヵ国に対して根回しを行った。

 日本、ブリテン、フランスの3ヵ国は、満州に建国される新国家(フロンティア共和国)にて自国の国民と権益とが排除されないのであればと承認する事とする。

 蜂起は、アメリカ人入植者が行った。

 チャイナ人馬賊の農園への襲撃を撃退した時に、これを撃退し、リンカーンのゲティスバーグの演説を元にした、満州に於ける諸国民の平等と安寧を叫んだのだ(※3)

 これに関東州に駐屯していたアメリカ軍が呼応する。

 正義を守るアメリカ軍は、人間の叫びを無視しないとアメリカ大統領が宣言。

 このアメリカの行動を国際連盟の場で日本、ブリテン、フランスは支持する事を宣言した。

 これに激高したのが南チャイナだ。

 アメリカと列強による許されざる植民地帝国主義だと弾劾した。

 だが、国際連盟の参加資格を停止している為、国際社会へ訴えるにしても、出来る事など殆ど無かった。

 この事に、更に激発する。

 G4による世界支配だと、宣伝戦を行った。

 だが、北チャイナで猖獗を極めた混乱をアメリカが積極的に報道していた為に、アメリカの行為は混乱したチャイナの大地に秩序をもたらすものとして積極的に評価された。

 アメリカ軍が満州に介入して約1月。

 戦乱は終息し、満州の治安が回復した。

 

 

――ソ連

 アメリカによる手際良い満州の切り取りに、ソ連は恐怖した。

 既に沿岸州を筆頭として、シベリアの各地で日本やアメリカの企業が経済活動を行っていたのだから。

 5ヵ年計画に必要な財源の為に絞った寒村の農民が流出している現状、既に流出防止に秘密警察などを動員していたが、更なる防止策を講じていく事となる。

 又、日本やアメリカの後背を突くという意味でチャイナ共産党への支援を強化していく事となる。

 

 

 

 

 

(※1)

 南チャイナの主敵は北チャイナであるが、北チャイナは頭目が爆殺されて以降、国家 ―― 組織として完全に瓦解していた。

 その様な相手が事件の黒幕であるなどと主張した場合、南チャイナは国家の態を成していない相手に良いようにされたとなる為、国家としての面子が消滅してしまうのだ。

 故に、押し付ける相手としてはチャイナ共産党しか居なかった。

 確たる証拠がある訳では無かったが、宣伝と情報工作でチャイナ共産党は悪であると必死に宣伝する事となる。

 

 

(※2)

 この意識にはロシア系の難民も賛同していた。

 法治された安住の大地を誰もが失いたくなかったのだ。

 同時に、豊かになった満州へと他の場所から流入してくるチャイナが問題となっていたのもある。

 経済問題で満州に流入したチャイナは、満州で経済的に成功する為の事実上の共通語 ―― アメリゴ語も日本語も不慣れであった為、どうしても低所得となりやすかった。

 この為、成り上がる為に不法行為や暴力行為に手を染める人間が多く、治安悪化の要因としてチャイナ人の拡大は問題視されていた。

 言ってしまえば、満州はチャイナ人だけのものでは無くなっていた。

 

 

(※3)

 この大地に居るアメリカ人、ユダヤ人、ロシア人、ジャパン人、チャイナ(マンチュリア)人。その他の民族が等しく繁栄できる様になるべきだと結んだ。

 その結びから、宣言は6民族共栄宣言と言われた。

 6番目の民族は5族以外の全ての民族を入れるものとされている。

 

 

 

 

 

 



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23.1932-5 31式戦車shock

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 東アジアに比べて平和にまどろんでいた欧州であるが、戦争の足音は少しづつ響いていた。

 

 

――ポーランド

 1920年代より行われたフランスの支援による重工業の育成は、軌道に乗りつつあった。

 工場の設備などは、設備更新を行っていたブリテンからの輸入によって近代化が出来つつあった。

 その成果が1932年に完成した国産戦車10TP(※1)であった。

 無論、10TPの完成によって1足飛びに機械化戦力を保有出来る様になったという訳では無い。

 依然としてポーランドは欧州に於いては中進国でしか無い為、歩兵が戦力の主力であり、輸送部隊は馬車が中心であった。

 とは言え、それはポーランドのみならず、他のヨーロッパ諸国も一緒であった。

 日本に感化される形で、自動車化を推し進められたのはブリテンとフランスだけであった。

 政治的には、対ドイツを前提としたソ連との不可侵条約の締結に成功した。

 在日波大使館からの情報で、隙を見せればソ連は攻めて来る相手であると認識はしていたが、先にフランスや周辺国と一緒にドイツを叩いてしまえば、全力で抵抗出来ると言う計算があった。

 

 

――ソ連

 5ヵ年計画によって国力の涵養には成功しつつあった。

 とは言え、5ヵ年計画の資金源として農作物の飢餓輸出を行った為、穀倉地帯であるウクライナは荒れ果てていた。

 無茶な増税によってシベリアは人民が逃げ散り、又、日本とアメリカによる浸食を受ける有様であった。

 それでも尚、ソ連は強大化した。

 ドイツとイタリアの協力によって、重工業が長足の発展をする事となった。

 日本が満州や沿岸州などで使用している耕作機械や土木用重機などを参考にした機材を開発し、人口の減ったウクライナなどへ投入し、生産力を補った。

 シベリアの開発も、日本やアメリカの利益にもなっていると思えば業腹ではあったが順調であった。

 ポーランドとの不可侵条約の締結もあり、軍事に投じる予算を抑えられている事が、この好循環を生んでいた。

 軍事費を抑えているとは言え、スターリンは屈辱を受けた日本ソ連戦争を忘れてはいなかった。

 日本への報復を誓っていた。

 10年後をめどに軍事力を高め、日本をソ連の大地から追放する積りであった。

 そうすれば日本が開発し沿岸州が生んでいる利益は全てロシアのものとなる。

 併せてアメリカを追放すれば、ソ連は黄金のシベリアを手にする事が出来るのだ。

 その為の重工業の発展、科学技術の育成なのだ。

 不可侵条約を締結したポーランドなどの小国は、シベリアを回収した後に滅ぼせば良いと判断していた。

 だが上海事件で日本軍(自衛隊)の実戦力を把握したスターリンは顔色を変えた(※2)。

 10倍以上の戦力比をひっくり返すだけの力を自衛隊が持っている事に戦慄した。

 特に、大口径砲を愛するスターリンは、自国の戦車を遥かに凌駕する大口径砲を搭載した重戦車、31式戦車に嫉妬した。

 同時に、自国の戦車が31式戦車に及ばない事に激怒した。

 ここから31式戦車を超える重戦車の開発が命令された。

 

 

――ドイツ

 南チャイナの凋落は、ドイツの商機拡大の好機であった。

 上海市で壊滅した戦車の代替を売りつける好機であった。

 ヘリコプターの脅威は航空機を売りつける好機であった。

 戦車をもっと揃える為に重工業のプラントを売りつける好機であった。

 大商いとなり、対価として植民地 ―― 青島が租借地としてドイツの手に戻ってきたのだ。

 政権を取ったばかりのナチス党にとっては、望外のご褒美と言える事態であった。

 ナチス党とアドルフ・ヒトラーの支持率は極端に跳ね上がる事となった。

 だが気持ち良くしていられたのもそこまでであった。

 31式戦車の登場と、それが波及させた事態に衝撃を受ける事となる。

 ポーランドの10TP戦車は、現時点でドイツの持つ全ての戦車に優越しており、問題視された。

 反ドイツ的言動と国家戦略を隠しもしないフランスが、31式戦車を200両導入する事を日本に持ちかけた事は国防への深刻な問題だと認識された。

 フランスの影響を受けてイギリスも31式戦車100両の購入を検討し、同時に日本へと合同で30t級戦車の開発を持ちかけた事に至っては、極秘に進められていたドイツの再軍備計画に深刻な影響を与える事となった。

 ドイツが将来の主力と定めていた戦車(※3)を凌駕している為、改めて陸軍の再軍備計画は検討し直される事となった。

 

 

――フランス

 上海事件の戦訓を得たフランスは、日本に対して31式戦車200両の購入を打診する(※4)。

 4個大隊と予備車両として2個師団を編制。

 来る対ドイツ戦争に於いては、決戦部隊として活躍させる積りであった。

 だが同時に、購入交渉が長引く事を想定し、31式戦車の影響を受けた20t級戦車の開発に着手する。

 これは在日仏大使館からフランスへ帰化した従軍経験者からのアドバイスでもあった。

 第2次世界大戦の記録を元に説明した。

 40t級の重量がある戦車は運用に注意が必要である為、20t級のバランスの良い戦車が主力であった方が良いのだと。

 この為、20t級戦車の開発がスタートした。

 

 

――イギリス

 31式戦車の戦闘力は上海で把握してはいたが、当座、日本と事を構えるべき状況も発生しないであろう事から、購入を検討するほどでは無かった。

 フランスが購入希望を出すまでは。

 日本がタイムスリップして来て以降、フランスとも良好な外交関係を維持しては居たが、海を隔てているとはいえ隣国が31式戦車という強力無比な戦車を配備しようとする事を座視する訳にはいかなかった。

 その為、とりあえず100両の発注を行う事を決意する。

 同時に、日本に対して共同での戦車開発を持ちかける事となる。

 フランスに比べて、陸戦への緊迫感が低い為(※5)、イギリスの戦車開発能力の向上を図る余裕があったのだ。

 但し、日本からの貿易対価としてインフラ更新が行われ、重工業の劇的な近代化が図られていた為、新戦車はヨーロッパ諸国の保有する戦車を一気に陳腐化させる重戦車 ―― 30t級戦車として開発する事を計画した。

 

 

 

 

 

(※1)

 10TPとはポーランド軍10t戦車の意味であった。

 日本ソ連戦争に派遣した観戦武官が報告した日本の10式戦車の概念を研究し、走攻防のバランスの取れた戦車として開発された。

 重量は14.2t、主砲は32口径47㎜砲が採用されている。

 車体はボルトを使用せず、溶接が採用されている。

 1930年代前半の戦車としては極めて先進的な戦車として完成したが、先進的過ぎるが為にポーランドの国力では大量生産が困難となってしまった。

 この為、より使いやすい戦車が求められ、7TPが開発される事となった。

 所が7TP戦車の設計途中で31式戦車shockが発生した。

 上海事件で31式戦車の傍で闘ったフランス軍が纏めたレポートが手に入ったのだ。

 概念だけでは無く、実戦で示した100年先の戦車の能力は、一夜にして10TPも7TPも陳腐化させてしまった。

 この為7TPの開発は中止され、戦闘重量25tの25TP開発が指示された。

 併せて、25TPが量産できる様な国力増強計画が立てられた。

 尚、10TPに関しては、現時点で本戦車に対抗出来る戦車が存在し無い為、生産性を高める改良を施した上で量産が指示された。

 

 

(※2)

 日本ソ連戦争の際には一方的に軍が壊滅した事と、壊滅後にソ連へと帰還した将兵が極々限られていた為に殆ど戦訓は得る事は出来ずにいた。

 この為、列強のマスコミが様々な情報を収集し発信した上海事件が、ソ連が自衛隊の戦闘力の詳細に触れる機会となった。

 それ以前にスパイを通して日本ソ連戦争の情報を収集してはいたが、余りにも荒唐無稽な戦闘力を自衛隊が発揮して居た為に信じ切れなかったのだ。

 シベリアの経済を破壊した航空戦力だけでは無く、陸上戦力も規格外であるとソ連は初めて理解したのだ。

 

 

(※3)

 ドイツ陸軍は、ヨーロッパのインフラ事情から戦車を運用する上では15tが適切に運用する上限であろうと判断した。

 その上で諸外国の戦車に優越するものとして20t級の戦車開発を検討していた。

 その判断は、工業力に劣るポーランドが開発した戦車が10t級(実際には15t級であるが、この事は公表されてなかった)を開発した事で裏打ちされた。

 イギリスの30t級戦車開発計画で、この目論見は完全に破綻するが。

 

 

(※4)

 日本にとって31式戦車は邦国軍向けの、整備性が良く、高度過ぎる技術は使っていない第2.5世代戦車であった。

 輸出など最初から検討していなかった。

 この為、フランスからの熱烈な売却要請に困惑する事となる。

 その後に入って来たイギリスからの売却要請にも頭を抱える事となった。

 

 

(※5)

 フランスでは、ドイツでナチス政権の発足と共に早晩に再軍備を宣言するだろうと判断していた。

 この為、対ドイツ戦争の勃発は5年以内となるであろうと、準備活動に拍車を掛ける事となる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




2019.05.15 固有名詞の間違いを修正


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24.1933 アメリカの道

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 1930年代に入ったアメリカは、株の一時的な暴落 ―― リセッションこそ経験したが、その後も順調な経済発展を続けていた。

 極東を新しいフロンティアとして手に入れたアメリカは、雄飛を続けていた。

 満州は国家を樹立し、沿海州では鉱物資源を得ると共に民主主義を伝授し、日本は農作物も鉱物資源も大きなお得意様となっていた。

 技術開発ではグアム共和国軍(在日米軍)の協力で、長足の進歩を遂げつつあった。

 開発した技術を工業製品として商売を行う為に必要なものは日本が売ってくれるのでアメリカの裏庭である南米経済を席捲する事が出来た。

 その経済力を背景に国内の開発も進んでおり、アメリカは正しく黄金時代を迎えていた。

 外敵としてチャイナやソ連も居るが、極東に於いてはG4の足並みが乱れる事は無い為、アメリカは文字通り無敵の国家として在った。

 但し、小癪な存在も居た。

 チャイナ共産党である。

 フロンティア共和国や、その周辺で跋扈し、治安を悪化させる存在として嫌悪していた。

 この為、アメリカはフロンティア共和国を通して民間企業がそれぞれ独自に組織していた自警組織を整理統廃合して大規模な重武装民間軍事組織を作り出す。

 フロンティア警備保障、通称F.D.Sである。

 警察や軍隊としなかったのはフロンティア共和国以外での運用を考慮しての事だった。

 チャイナ全域や沿岸州などで活動する企業にも安全保障業務を行う為であった。

 顧問にはグアム共和国軍(在日米軍)が就任。

 本部を関東州アメリカ軍基地に隣接する場所に置いた。

 有事にはフロンティア共和国軍に編入される為、戦車などの重装備の保有が認められている。

 その人的な中心はコリア系日本人であった。

 F.D.Sは朝鮮共和国と提携し、朝鮮共和国軍で軍事訓練を受けた人材をリクルートしているのだった。

 アメリカと朝鮮共和国の物価の差が大きい為、アメリカにとってコリア系日本人は手頃に使える人材であった(※1)。

 

 

――アメリカ海軍

 ワシントン軍縮条約以降、太平洋は平穏な海のままであった。

 海上自衛隊やグアム共和国(在日米軍)海軍部隊と演習や交流を行いながらも平和に過ごしていた。

 その状況が変化したのは、アメリカの極東進出であり、ソ連の海軍再建計画であった。

 ソ連が20,000t級で28㎝砲を持った巡洋戦艦1隻を建造し、ウラジオストクに配備する事を計画している事が判明したのだ。

 ワシントン軍縮条約に参加していないソ連が大型艦を建造し、アメリカにとって重要な権益のある極東へ配備する事は座視し得ない問題であった。

 しかも、ソ連新大型艦はドイツの通商破壊向け巡洋艦であるドイチュラント級の設計を踏襲したものになるという。

 アメリカの核心的海外領土 ―― 富を生み出す満州、沿海州とのアクセスを邪魔される危険性、それだけでアメリカ海軍は色めき立った。

 新しい敵、殴り掛かっても殴り殺しても良い相手の誕生に歓喜した。

 この為、アメリカ海軍はソ連大型艦の性能を過大に見積もり(※2)、その対策として高速戦艦の建造を計画した(※3)。

 幸い、フロリダ級とワイオミング級戦艦の4隻が代艦条項に合致していた為、この4隻を退役させて2隻の高速戦艦を建造する事とした。

 ワシントン軍縮条約連絡会議にて、その旨を伝達した所、満場一致で了承された。

 

35,000t級高速戦艦

 基準排水量 35,000t

 主砲    14in.3連装砲塔 3基

 速力    31ノット

 

 グアム共和国軍(在日米軍)の支援を受けて設計された本級は当初、30,000t級12in.砲艦として設計されていたが、友好国とは言え日本の35,000t型新型戦艦に見劣りするのは如何なものかと議会で問題となり現案へと拡大する事となった。

 この為、当初は3隻建造する予定であったものが2隻へと縮小される事となった。

 

 

――アメリカ陸軍

 フロンティア共和国の建国に伴い、満州の地に3個師団を派遣する事となった。

 アメリカ経済の好調に支えられて順調に規模拡大を図る事に成功する。

 問題は戦車を筆頭とした装甲車両であった。

 1932年時点でアメリカが保有する戦車群は、31式戦車shock以降の列強諸国が計画した20t~30t級の戦車整備計画には全く対応出来て居なかった。

 特に、大々的に重戦車の開発を叫んでいるソ連とフロンティア共和国北方で対峙する関係上から、30t級中戦車の開発と配備は急務であった。

 当初はブリテンやフランスに倣って、日本へと31式戦車の購入を依頼するべきとの声もあったが、議会がそれに反対した。

 急務ではあっても即時、必要では無い。

 ソ連も又、まだ開発段階である為にアメリカが開発し製造するべきだとの事であった。

 グアム共和国軍(在日米軍)の協力の下、開発は進められる事となる。

 30t級の車体と90㎜砲を持った中戦車の開発がスタートする。

 又、量産する必要性から戦車よりも軽量かつ簡素で量産に向いた戦車駆逐車の開発も、歩兵部隊向けとしてスタートした。

 この他、上海事件でその威力を感じたヘリコプターの開発もスタートした。

 飛行機と比べると新機軸である為、試行錯誤が続いていく事となる。

 

 

 

 

 

(※1)

 邦国として独立以降、それ以前の日本帝国時代の様に国家の予算が潤沢に得られる訳では無くなった朝鮮共和国としても、主要産業が鉱山でしかない国にとっての貴重な外貨獲得手段となっていた。

 ODAなどはあったが、一応は返済期限のある借金であった。

 朝鮮共和国は独自の産業を、金を生み出す手段を求めていたのだ。

 この為、F.D.Sへの人材供給は1930年代に於ける朝鮮共和国の主要産業へと発展していく事となる。

 朝鮮共和国軍に志願して男として一人前。F.D.Sへ参加出来て一流とされた時代である。

 顧問であるグアム共和国軍(在日米軍)としても、日本 ―― 自衛隊式の訓練を受けた部隊と言うのは使い勝手が良い為、非常事態などでは重用する事となり、手厚い対応を行う事となる。

 尚、コリア系日本人部隊は最低でも中隊単位で運用される。

 1930年代の主要任務は、フロンティア共和国とチャイナ北部との国境線警備であった。

 チャイナ人の流入阻止である。

 この任務でコリア系日本人部隊は、流入して来るチャイナ人へ酷薄な対応を行う事で有名となり、チャイナ人の怨嗟の的となっていた。

 

 

(※2)

 配備されるであろう港から、ウラジオストク級巡洋戦艦と呼称された。

 その性能見積もりに関しては、元設計となったドイチェラント級のそれではなく、アメリカ海軍が通商破壊に用いられると困る性能が元となっていた。

 つまりは日本帝国海軍の金剛級高速戦艦である。

 金剛級の性能を元に、情報収集で得たウラジオストク級の性能は想定された。

 

ウラジオストク級高速戦艦(推定)

 基準排水量 25,000t

 主砲    28㎝3連装砲 3基

 速力    30ノット

 

 自らの推定したウラジオストク級の性能の厄介さに、アメリカ海軍は戦慄した。

 新型高速戦艦の必要性を痛感する事となる。

 尚、このアメリカの対応に驚いたのはソ連である。

 自らが建造するバローン・エヴァルト級装甲通商破壊艦を2回りは凌駕する巨艦が建造され、アジアに配備される事となったのだ。

 慌てて50,000t級戦艦の建造計画を先に進める事となった。

 又、この事に脅威を感じたのはドイツであった。

 チャイナと対立状態にあるアメリカが強力な海洋戦力を東アジアに展開させるという事は、ドイツとチャイナの貿易関係に甚大な影響を与えかねないと危惧したのだ。

 この為、ドイツは35,000t級の日本アメリカの戦艦群に対抗できる ―― 少なくとも脅威を相手に感じさせるだけの戦艦を青島租借地へと配備せねばならぬと確信する事となった。

 この為、バローン・エヴァルト級をドイツ向けとして建造するものとした。

 だが、ヨーロッパの中型戦艦の建艦競争がある為に、26,500tのダンケルク級への対抗を無視する訳にも行かず、最終的には公称20,000tの装甲巡洋艦と称しながら実態は基準排水量28,000tの高速戦艦として建造がスタートした。

 このベルサイユ条約を丸きり無視した方針は、ドイツ海軍内部でも問題とされたが、ドイツ政府より、そう遠くない時期にベルサイユ条約自体を破棄する予定であると告げられ、沈静化する事となる。

 その後、ソ連とドイツの新型戦艦の建艦とアジアへの配備計画にブリテンとフランスも対応する事となる。

 両国とも、アジアに戦艦を配備する事となった。

 アメリカの建艦計画による波及効果であり、海上自衛隊は非公式会合にてアメリカ海軍に対してアジアの緊張状態を生み出す引き金を引いた事を非難した。

 

 

(※3)

 尚、アメリカ海軍の一部には、極東の友好国である日本がウラジオストク級へは対応するであろうし、その日本が建造中の35,000t級高速戦艦もあるので、アメリカ海軍が過大な対応をする必要は無いのではないかとの声も上がっていた。

 だが、ワシントン軍縮条約締結後、ようやく巡って来た大型艦建造のチャンスに目の色を変えた海軍上層部は、その声に耳を傾ける事は無かった。

 

 

 

 

 

 




2019.05.16 文章表現を修正


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25.1934 シベリアの冷たい夏

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 5ヵ年計画によってその国力を増しつつあったソ連は、シベリア ―― 沿海州周辺に於けるイニシアティブを日本やアメリカから回収する事を考える様になった。

 日本ソ連戦争の終戦協定で定められた賠償金相当額の採掘期間が終った訳では無かったが、ドイツの支援によって拡大しつつあるソ連の重工業が鉱物資源を自前で消費出来る様になってきたのが理由として大きかった。

 日本に対しソ連は、沿海州での特別採掘権と企業活動に於ける特別待遇の廃止、そして日本とアメリカとが採掘等の経済活動を円満に行う為に整備した設備や周辺インフラの所有権をソ連に無償供与する事を要請した。

 無法と言ってよいソ連の要請に対して、当然ながらも日本は拒否する。

 

 

――ソ連

 沿海州権益の回収交渉に於いてソ連が日本に対して強気で交渉に出られた理由は、日本の軍事力の混乱があった。

 連続した戦争によって日本は国力を消費し過ぎてしまったのではないかと、ソ連上層部は認識し判断したのだ。

 この判断には、上海事件以降に自衛隊や連邦軍の全てが再編成に入っており、演習などが不活性化している事も影響していた。

 そして、この数年で竣工予定の日本の35,000t級戦艦の存在が大きかった。

 現時点でもオホーツク海どころか日本海すらもソ連の海上優位性は失われつつあり、その状況下で新戦艦が登場されては日本へ抵抗する事は不可能となるとソ連海軍が報告を上げていた。

 ドイツより購入した通商破壊艦バローン・エヴァルトは前年に竣工し大きな戦力になる事が期待されては居たが、いまはソ連に回航されてきたばかりで錬成途上にあり、地球を半周してウラジオストクへ展開させるなど困難であった。

 だからこそ、ソ連は今と言う時を選んで日本との交渉に出たのだ。

 ソ連とて沿海州の権益の全てが日本から返ってくると想定している訳では無かった。

 それどころか、スターリンは日本が返還してくるのは極僅かであろうと思っていた。

 それ程に日本とソ連には国力の差があると認識していた。

 だからこそ、僅かでもソ連の失われた権益を回復すれば得点となるのだ。

 5ヵ年計画の躍進に、日本ソ連戦争敗戦の傷を少しでも癒す事で華を添える積りであった。

 

 

――日本

 ソ連からの突然の権益返還要求に日本の世論は激高した。

 日本ソ連戦争から5年以上が経過し、沿海州開発は日本とソ連が共に利益を得られており友好的な関係が築けていたと思っていた所であったのが大きかった。

 経済界でも、沿海州で安価に産出される資源が突然に途絶える事は許されざる暴挙であるとの認識が広がった。

 そして日本政府は、ソ連の行為を日本に対する挑戦と理解した。

 日本ソ連戦争から5年が経過し、国力を増してきたソ連が、拡張主義に走ったという認識である。

 史実のソ連の情報と行動とが日本の目を曇らせた。

 現在、上海事件の影響で自衛隊と連邦軍の再編成を行っている為、その隙を狙われたのだろうと言う分析もあった(※1)。

 故に、国家安全保障会議では、ソ連に対して力を誇示する事で戦争を抑止する事が採決される事となる。

 第1の対応として日本は、フロンティア共和国 ―― アメリカに対して満州にある大規模演習場を借りる事とした。

 今の陸上自衛隊の中で将兵の練度充足度共に極めて高い、日本国の切り札的存在である第7機甲師団ち第2機械化師団の全てを満州の大地へ送り込み、ソ連の鼻先で大演習を行う事を決意したのだ。

 これを満州大演習として大々的に宣伝し、ソ連を含めた諸外国のマスコミに公開する事としたのだ。

 第2には就役したばかりの大型護衛艦(戦艦)やまとを含めた任務部隊を編成し、各連邦の海軍との合同演習を日本海(ウラジオストク沖)で実施する事とした。

 その演習の項目には、水陸機動団による着上陸作戦も含まれて居た。

 力には力を。

 これがソ連の恫喝(※2)に対する日本の回答であった。

 この他、沿海州で活動中の日本企業に対する警備も行う事とした。

 ソ連との協定にて自衛隊や警察の展開は禁止されている為、内閣府の外郭団体として国外情報局を設置し、その配下に武力行使組織 ―― 特機隊を創設したのだ。

 官営のPMSCであった。

 人員は外征専門部隊として新編された第101海兵旅団から抽出されるものとされた。

 第101海兵旅団と特機隊には、これまで企業が独自に用意していた自警組織を整理統合する役割を負う事となった為、外国籍(※3)の自衛官が生まれる事となる。

 この為、第101海兵旅団の隷下には、第101外人連隊が編制される事となった。

 

 

――ソ連

 日本が示した全面対峙の姿勢に慌てたのはソ連である。

 ソ連の意識として、日本に小さな妥協を求めた筈が、拒絶どころか威嚇されたのだ。

 スターリンが会議にて、日本を帝国主義的強欲の徒であると罵ったという記録が残されている。

 とは言え、ソ連側に出来る事など少なかった。

 機械化された師団を動員しての演習をシベリアで行う事としたが、動員できる師団は機械化といっても精々が自動車を装備した程度であり、それも師団全てを自動車に乗せるなど夢のまた夢といった有様なのだ。

 日本側に対抗したと言うには余りにも寒い懐事情であった。

 この為、ソ連は警察組織に対してシベリア全域での日本とアメリカの企業への嫌がらせを指示する。

 同時に、日本とアメリカの企業から便宜を受けている地元住民や企業に対する締め付けも支持した。

 せめてもの意趣返しであった。

 だがこの事が、シベリア全域でのソ連に対する支持の著しい低下を生む事となる。

 5ヵ年計画が始まって以来、増税や強制的な人員の供出 ―― 賦役じみた労働の強制などで痛めつけられていたシベリアの人民は、日本やアメリカの企業に協力し、その対価で生活してこれていたのだ。

 その事を理解しているソ連共産党の人間も居たが、スターリンの指示には逆らえる筈も無かった。

 シベリアに不和の種が蒔かれた。

 東で面子に傷を入れられたソ連は、その代償を西で求めて行く事となる。

 

 

 

 

 

(※1)

 日本ソ連戦争から上海事件と言う形で日本の領域の外側での自衛隊の実戦参加が続いていた。

 この事から日本は、自衛隊が今後も本土防衛だけでは無く外征する可能性が高いと判断した。

 陸上総隊の指揮下に外征専用の機械化旅団(第101海兵旅団)が新編される事となった。

 この事が自衛隊の組織に混乱を与える事となる。

 相次ぐ組織拡大と師団/旅団の増設は、既存部隊から人員を抽出して新設の部隊の基幹要員とした為、既存の部隊も人員不足が深刻化したのだ。

 タイムスリップによって混乱した日本国の経済は、今だ自律状態に戻っておらず働き口が少ない為に自衛隊への志願者は多かった。

 だが、その多すぎる志願者によって教育システムがパンクしてしまっていたのだ。

 新兵の教官も、新兵の訓練場所にも困っていたのだ。

 自衛隊の充足度は、額面では劇的に向上し、規模も拡大していたが、その内情は寒かった。

 連邦軍の錬成に関して、形になりつつあったが、それでも重装備の充足は十分では無く、機械化旅団と言っても、せいぜいがトラックしか配備されていない様な部隊が大多数であった。

 如何に日本の工業力と言えど、総兵力11個単位(5個師団6個旅団2個連隊)の装備を数年で揃えるのは困難であった。

 工場への投資と規模拡張も行われていたが、現在の所定数の製造が終わったら黒字倒産をしてしまう様な事とならぬ様に慎重に行われている為、全ての装備が揃うまでは、まだ数年の月日を必要としていた。

 

 

(※2)

 少なくとも日本は、ソ連による行為を恫喝であると認識していた。

 

 

(※3)

 各企業が現地採用した外国籍の人員で編成したり、或は満州(フロンティア共和国)で人員を集めた為、多種多様な国籍の人間が居た。

 

 

 

 

 

 




2019.05.17 文章表現を修正


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26.1935 政争と戦争の狭間

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 1935年、欧州に於いて2つの大きな出来事があった。

 1つはイタリアのエチオピア侵攻である。

 もう1つはドイツのベルサイユ条約破棄、即ち再軍備宣言であった。

 

 

――イタリア

 アメリカに端を発した世界恐慌の余波はイタリアを揺さぶった。

 とは言え、致命的な打撃を受けた訳では無かった。

 不景気と言う世界の世相の空気を受けて、イタリア国民の意欲が萎縮してしまったのが原因であった。

 景気の良いG4諸国との貿易交渉 ―― 市場開放交渉を行ってはいたが、どの国からも好意的な反応は得られなかった。

 G4諸国は積極的な経済のブロック化を行っている訳では無かったが、態々イタリア経済を助けるべき理由も無かったのだ。

 G4諸国の市場開放への返礼が何も出来ないと言うのが大きかった。

 G4以外の国家、ソ連やドイツといった経済規模の大きな国家は、イタリア同様に世界恐慌の余波に揺られており、市場開放要求を呑む余地など無かった。

 国外市場が得られないのであれば、国内市場の活性化を図るしかない。

 イタリア政府も様々な経済政策を行ったが、景気を刺激し続けられる程に大規模なものを行う事が出来ないでいた。

 この為、ムッソリーニは景気刺激策としての最終手段を選択する。戦争である。

 併せてイタリア経済の贄、市場を欲した。

 即ちアフリカに残された独立国、エチオピア帝国に戦争を仕掛け、これを潰し、植民地へとしようと決断したのだ。

 

 

――国際連盟

 イタリアの決断に対し、国際連盟の安全保障理事会は民族自決の原則に大いにもとる行為であると激しく非難した。

 これに対してイタリアは、奴隷制度を有する非文明国家であるエチオピア帝国を滅ぼし、エチオピアの民を文明化する事は先進国の義務であると反論した。

 これにはエチオピア帝国も反論する。

 それはイタリアが先進国であると言う自負による傲慢である、と。

 そして、批判の多い奴隷制度に関しても改革する用意があると宣伝した。

 イタリアに国力で劣るエチオピア帝国は、戦争となれば亡国である事を自覚していた為、国際秩序を主導するG4諸国側にすりよる形で、必死になって宣伝戦を行った。

 その成果もあって、国際世論に於いてはエチオピア帝国を支持する声が大きかった。

 特に経済的に安定し不安の無い日常を送っているG4諸国の国民は、気分として正義 ―― 名誉を求めていた。

 その気分がG4諸国を動かす事となる。

 だがイタリアは揺るがなかった。

 ムッソリーニからすれば、エチオピア帝国の都合などどうでも良く、イタリアの都合が最優先であった。

 イタリアの為に、イタリアの経済を刺激する戦争を、生産力を都合よく消費出来る市場である植民地を欲したのだ。

 国際連盟の場で劣勢になろうと、国際世論の批判にさらされようと、ムッソリーニは断固たる決意でイタリアの為にエチオピア帝国に戦争を仕掛ける積りであった。

 その事を把握したG4は国際連盟安全保障理事会にて、国際連盟加盟諸国に対して戦争抑止行動を取る事の決議を行った。

 イタリアは舐めていた。

 G4が金にならない行為に軍隊を動かす事は無いと思っていた。

 だが、G4の国民は金では無く名誉の為に軍隊を動かす事を支持していた。

 ブリテンは即時、ブリテン地中海艦隊を動員して紅海を封鎖し、イタリア領ソマリランドなどへのイタリアのアクセスを不可能とした。

 フランスはアフリカに配置していた陸軍1個旅団をエチオピア帝国へと派遣した。

 日本も国家の意思を示すと言う目的で艦隊を紅海に派遣する事とした(※1)。

 

 

――ドイツ

 イタリアが生み出した国際社会の混乱、その最中にドイツはベルサイユ条約の破棄と再軍備の宣言を行った。

 建前としては、イタリアのエチオピア侵攻(植民地化)宣言の様に軍事力が無ければ諸外国に良い様にされてしまう事への対抗であった。

 常々、フランスやポーランドはドイツへの敵意を隠しておらず、その上で陸軍の増強を続けている。

 ドイツの陸軍は戦車も無く、無防備にも等しいにも関わらずである。

 この国際情勢の下、国家国民を守る為にドイツは責任ある行動を選択すると宣言したのだ。

 陸軍の増強、空軍の創設、その他、様々な政策を取り、ドイツを守るとの宣言であった。

 国際関係が一気に緊迫した。

 

 

――国際連盟

 最初に反応を出したのはフランスであった。

 ドイツの再軍備宣言の全文を把握すると共に、即座に宣言を出した。

 フランスはドイツの再軍備を断固として容認しない。

 即時、ドイツが再軍備宣言を取り下げない場合、ドイツに諸外国への侵略の意図があると判断し、フランスは先制攻撃 ―― 予防戦争を行う覚悟があると宣告したのだ。

 慌てたのはドイツだ。

 フランスがドイツに対して敵対的であったとは理解していたが、ここまで過激な宣告をしてくるとは想定外であった。

 又、フランスに合わせてポーランドも予備役の招集を行っているのも恐怖であった。

 再軍備を果たした後であれば、フランスにもポーランドにも負けない自信があったが、徒手空拳の今はまだ無理であった。

 ドイツと同じように慌てたのは、日本とブリテンであった。

 軍事力による国家間の問題解決は国際連盟で厳しく否定するものとされていた。

 イタリアのエチオピア侵攻が批判されるものと同じである。

 そしてイタリアによる軍事力の行使を批判する側のフランスが、ドイツに対して明確な原因や理由も無く将来の脅威に対応する為と言う理由で軍事力を行使してしまっては、国際連盟の権威も、国際関係の秩序も崩壊してしまうのだ。

 日本とブリテンは必死になってフランスを宥めた。

 だがフランスは頑なだった。

 かつて在日仏大使館経由で知った未来情報、フランスの亡国への怒りと恐怖に我を忘れているのだった。

 今ならばドイツは赤子の手をひねる様に潰せる。

 だが未来はどうか? そう思えばこそ、開戦の機は今しかないとの思いだった。

 国際秩序の為、必死に説得した日本とブリテン。

 数ヶ月に及んだ交渉の結果、何とかフランスの戦争へ向かって振り上げた拳を下させる事に成功した。

 その代償として日本とブリテンはフランスとの軍事同盟を締結し、それぞれ1個機甲旅団を下限とする戦力をフランスへと展開させる事となった。

 又、日本はそれまで渋っていたフランスからの31式戦車売却要請を受け入れる事となる(※2)。

 ドイツも、野放図な軍拡が出来ない様に、各種軍備の調達に関する枷 ―― バーミンガム条約(※3)を受け入れる事となる。

 

 

――イタリア

 イタリアはドイツの再軍備宣言に端を発した欧州の政治的混乱の間にアフリカへの戦力移動を図ったが、日本とブリテンによる海上封鎖は強固であり困難であった。

 最終的にイタリアは国際社会の圧力に折れる事となる。

 国際連盟の場に於いてイタリアはエチオピア帝国に対して奴隷制度の撤廃などを要求し、これが通った事をもって、対エチオピア帝国の文明化は成功したと宣言し、国内向けには一応の面子が保たれる形となった。

 だが、国際社会への、特にG4諸国への敵愾心は高まる事となり、再軍備に関する制限を受けた事で国際連盟への反発を深めたドイツへの接近に繋がっていく。

 

 

――フランス

 現時点での対ドイツ戦争を阻止されたが、念願の31式戦車を獲得出来た事や、ドイツの再軍備に関して一定の枷を付ける事が出来た為、概ね、現状に満足する事となった。

 但し、ドイツへの警戒心が鈍る事は無く、今まで以上にポーランドを筆頭とする中欧諸国へと接近を図り、対ドイツ戦争となった場合には挟撃出来る体制づくりを進める事となる。

 その代償という訳では無いが、エチオピア帝国の文明化に関する助言指導の義務を、国際連盟の監視下に於いて背負う事となった。

 エチオピア帝国経済へのアクセス権も同時に得られた為、フランスに対する飴的な要素も強かった。

 

 

 

 

 

(※1)

 就役したばかりのやまとを旗艦とした任務部隊を編制した。

 紅海を封鎖すると言う任務に戦艦(防空護衛艦)を投入する事は過大とも言えるが、海上自衛隊としてはこの際にやまと型の試験を行う積りであった。

 遠洋航海と任務が長期に亘った場合に問題が無いかとの。

 哨戒機を持ち込む為に空母(空母型護衛艦)ずいかくも持ち込んだ。

 その他、グアム共和国軍(在日米軍)が定期整備の終わったばかりの原子力空母A・リンカーンを随伴させていた。

 その護衛として多機能護衛艦や哨戒艦が11隻、随伴していた。

 ブリテンの地中海艦隊と併せて、圧倒的な戦力となった。

 ある意味で日本に慣れていたG4を除く諸外国は、戦艦を軽々しく投入する日本に呆れ、そして原子力空母と空母型護衛艦の威容に恐怖した。

 

 

(※2)

 決定した31式戦車の売却であるが、陸上自衛隊/日本連邦軍向けとは異なるバージョンとなった。

 火力、装甲、機動性能その他に変化は無いのだが、31式戦車を含む令和日本の軍事装備に於ける重要なネットワーク戦能力が外されているのだ。

 改修の建前としては、フランス軍の通信システムへの参加の為であった。

 この為、フランスは気付く事は無かった。

 31式戦車が、ネットワークを介する事で個にして集団であり、集団にして個であるという恐ろしい存在から、只単純に強力な戦車へと成り下がった事に。

 こうして31式戦車はType-31Fとしてフランスに200両、売却される事となった。

 ドイツは再軍備宣言を取り下げずに済んだが、同時に40t級の超戦車を敵対国が大量に装備すると言う状況に恐怖する事となった。

 尚、Type-31Fの重整備に必要な工場は、イギリスに作ってある重機向け整備工場を拡張して対応するものとした。

 予備部品こそ大量に供給はするが、日本はフランスへのフリーハンドを与える積りは無かった。

 フランスが31式戦車を調達する事に成功した為、イギリスも売却要請を強めた。

 これに対して日本は、本国向けの製造に差しさわりが出る事を理由に拒否し、代価としてイギリスの30t級戦車開発計画に協力する事となった。

 

 

(※3)

 正式には「ドイツ再軍備に関する国際協調条約」と言う。

 交渉の舞台となったのがブリテンのバーミンガムで行われた為、この名前が付いた。

 

 

 

 

 

 




2019.05.18 文章を追加し修正する


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27.1936-01 東京軍縮会議

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 1935年に発生したエチオピア危機とドイツの再軍備宣言、バーミンガム条約の制定は、G4諸国に戦争への危機を感じさせた。

 現体制で利益を得ている4カ国は全くと言ってよいほどに戦争を望んでは居なかった(※1)。

 格下の国家を相手に出来た戦争の様なものでは無く、本当の先進国同士の戦争だ。

 イタリアを相手にしたエチオピア危機ではブリテンがスエズ運河を封鎖し、日本が戦艦と大型空母を持ち出すと言う破格の対応をしていた為、実際の戦争になる可能性は極めて低かったが、ドイツに関しては話は別であった。

 100個を超える師団と戦車を持つフランスに対しドイツは10個師団、戦車も保有してはいない。

 だが実際の戦争となれば、徴兵し瞬く間に大規模な軍隊を作り上げるだろう。

 ドイツにそれだけの力がある事はフランスとて認めていた。

 認めていたからこそフランスは電撃的な先制攻撃でドイツから勝利を得ようとしていたのだ。

 だがバーミンガム条約でその条件は消えた。

 バーミンガム条約によってドイツは、合法的に新しく60個の師団を編制する自由を得た。

 戦車の調達も可能になった。

 フランスに比べれば規模は劣るが、近代的な軍隊を構築する権利を得たのだ。

 代償としてフランスは強力無比な未来の戦車であるType-31Fを200両調達する権利を得たが、ドイツの再軍備を認めた事と等価であるかと言えば疑問である ―― そうフランスの世論は判断していた。

 そして分裂していた。

 対ドイツ同盟をポーランドと締結しドイツを挟撃すべきとの意見が主流ではあったが、まだ世界大戦の記憶が遠くないが為、フランス国内でもドイツを懐柔し平和の道を模索すべきであるとの意見が一定の支持を集めていた。

 このフランスの穏健派にブリテンが乗った。

 日の沈まぬと豪語する世界帝国を経営するブリテンであったが、昨今ではその世界中の植民地で独立要求運動が活発化しつつあったのだ。

 武力蜂起する様であれば鎮圧すれば良いだけだが、どの植民地も判で押したかの様に非暴力不服従の運動であったのだ(※2)。

 ブリテンは正直、頭を抱えていた。

 世界帝国の内側で混乱している状況で外側で戦争などが起こされては迷惑千万なのだ。

 故にその政治力を存分に発揮する事となる。

 G4の残る2ヵ国に関しては簡単だった。

 日本もアメリカも戦争を欲しては居なかった。

 共に新しく得た領土の経営にのめり込んでおり、それを邪魔する存在 ―― 戦争を唾棄すべきと認識していたのだから。

 日本はソ連と、アメリカはチャイナと小さな紛争を繰り返しては居たが、大規模な戦争を、国家総力戦を行いたいとは露も思っていなかった。

 G4の他に召集されたのは3ヵ国であった。

 列強、国家総力戦が可能な国家。

 ドイツ、イタリア、ソ連だ。

 ブリテンの提案にそれぞれの国家は、それぞれの理由で参加を決断した。

 再軍備に掛かる時間を稼ぐために参加するドイツ。

 世界の頂点の一角であると言う政治的な宣伝効果を狙ったイタリア。

 国内をまとめ上げる為に行う粛清の口実を探していたソ連。

 7つの国家が、会議の場所である東京に集まった(※4)。

 

 

――東京軍縮会議

 その基本は現在保有する軍事力を元にして、これ以上の大規模な建艦競争を抑制する事が狙いであった。

 最初に提唱された主力艦(※3)の保有比率はブリテン:アメリカ:日本:フランス:イタリア:ドイツ:ソ連の7カ国で5:5:5:1.67:1.67:1:1となった。

 

      保有比率  保有総t数

ブリテン   5     63.5万t

アメリカ   5     63.5万t

日本     5     63.5万t

フランス   1.9     33.5万t

イタリア   1.9     33.5万t

ドイツ    1.5    19.0万t

ソ連     1.5    19.0万t

 

 1艦あたりの基準排水量は、戦艦は最大で35,000t。空母は最大で30,000tとされた。

 但しこれは日本の保有する空母型艦の排水量が余りにも超過している事から、既存の艦艇に関しては1艦あたりの基準排水量は問わないものとされた。

 基準排水量に関しては、艦齢20年を超えた主力艦の代艦規定に関するものとされた。

 余りにも日本に甘い方針であると、日本の脅威を常に感じていたソ連は激高する事となる。

 だが新興の海軍を持つソ連とドイツに対しては甘い飴も用意されていた。

 対ブリテン比率3割、19万tの主力艦保有である。

 ブリテンは会議に於いてドイツとソ連に対して19万tの合計排水量と、1艦あたりの基準排水量の代艦規定を守りさえすれば新規艦の建造を認める方針を示したのだ。

 これにはフランスが激高した。

 ドイツに新しい戦艦保有枠を与えるなど許しがたい暴挙であると声高に会議にて主張する事となる。

 慌てたのはブリテンである。

 まさかのG4の身内から反逆者が出るのは想定外であったからだ。

 又、ソ連も自国の保有枠の少なさに不満を表明する。

 ヨーロッパ方面とアジア方面の2つに艦隊を分ける必要性がある国情であるにも関わらず、日本やブリテンの半分以下の枠であっては自国を護り抜けないというのが彼らの主張であった。

 この2つの問題で東京軍縮会議は紛糾する事となる。

 

 

――個別交渉・フランス

 ドイツの再軍備を認めるバーミンガム条約を締結した際に、フランスはブリテンと日本との間で安全保障条約を締結しており、ドイツが戦争を決意した場合でも数的な不利が発生する余地など無かった。

 フランスのドイツの新規戦艦保有に対する反発は感情的なものであった。

 そして内政、フランス国内世論へのポーズであった。

 故にブリテンと日本とフランスで行われた個別交渉自体は比較的平穏であった。

 フランスが求めたのは保証であった。

 それを日本に求めた。

 日本のフランスに常時の艦隊派遣である。

 これには日本が猛烈に反発した。

 哨戒艦や多機能護衛艦の1隻程度であれば、外洋航海訓練の一環として派遣する事もやぶさかではないが、フランス国民を安堵させる規模となれば空母クラスの護衛艦を含めた任務部隊を派遣せざる得なくなる。

 それは流石に負担が大きすぎた。

 日本はバーミンガム条約締結の時点で人質同然に1個機甲旅団のフランス派遣を行う事に同意しているのだ、それ以上を求めるのは傲慢であると憤怒した。

 慌てたのはブリテンである。

 東京軍縮会議とは逆に、日本が本気で不満を表明したのだ。

 在日英国大使館から日本がキレた場合の危険性というものを切々と説明されていたブリテンは恐怖した。

 慌てて日本を全力で宥めた。

 最終的には、日本に対して長期航海訓練で定期的にヨーロッパを訪れて貰い、その際にフランスに寄港し、ブリテン海軍と併せて3ヵ国でフランス防衛海洋演習を行う事で決着がつく事となる(※5)。

 

 

――個別交渉・ソ連

 ソ連とブリテンの交渉は難航する事となる。

 ソ連が求めたのは単純に保有枠の拡大であり、拡大を求める理由はある意味で正統であったからだ。

 対ブリテン比率で5割の保有枠だ。

 それだけあればヨーロッパ方面でもアジア方面でも一定の抑止力になるという計算だった(※6)。

 だが主催国であるブリテンとしてそれを認める訳にはいかなかった。

 認めた場合、ドイツもイタリアも、フランスすらも保有枠の拡大を言い出し紛糾し、東京軍縮会議が流会するのは目に見えていたからだ。

 交渉は1ヶ月に及んだ。

 最終的に、ソ連が折れる形で決着する。

 但し、東京軍縮会議の保有枠を全面的に受け入れる対価も用意された。

 通商破壊艦バローン・エヴァルトだ。

 当初は20,000tという大型艦で主砲も28㎝砲を持つ事から主力艦の保有枠に入れる予定であったが、巡洋艦枠の例外規定として保有する事となったのだ。

 事実上の保有枠の積み増しであったが、各国から反対の声は上がらなかった。

 

 

――締結

 3ヶ月近い交渉の結果、成立する事となった東京軍縮会議。

 だが最後にドイツが想定外の発言をする。

 陸上戦力と航空戦力の制限の提案である。

 ドイツの安全の為、周辺諸国の軍備に枷をはめたかったのだ。

 だが提案したその場で残る6ヵ国全てが反対した為、議題とされる事は無かった(※7)。

 

 

 

 

 

(※1)

 フランスがドイツとの戦争を想定し準備しているのも、今の繁栄を失うまいとする行為であった。

 防御の為の攻撃であった。

 豊かになったG4諸国は、戦費も含めて、戦争で得るものよりも失うものの多い国家へとなっていた。

 

 

(※2)

 この裏にはそれぞれの植民地の未来 ―― 在日大使館が居た。

 背負うべき国家を無くした在日大使館であったが、彼らは折れては居なかった。

 その大多数が国家の選りすぐりのエリートであった彼らは、祖国が国家で無ければ自分たちの手で国家を起させれば良いと開き直っていたのだ。

 主導したのは在日印度大使館だった。

 21世紀の大国の一角であった矜持を胸に、彼らは在日大使館同士での連携を作り上げ、連帯した対ブリテン独立運動組織を築き上げていた。

 

 

(※3)

 日本の保有艦艇が戦艦よりも空母が多い為、主力艦とは戦艦と空母を併せて数えるものとされた。

 

 

(※4)

 会議開催を提唱したのがブリテンであったが開催の場所が日本とされたのは、参加を渋るであろうドイツやソ連に対する餌であった。

 G4やその周辺国と比べて日本の情報を殆ど持たない2カ国であれば、合法的に日本に入国して情報を得られる機会があれば、嬉々として参加してくるだろうとのブリテンの読みであった。

 実際、予備交渉の段階で渋っていたドイツとソ連であったが、両国とも本会議の開催地が日本と知って即答で参加を表明した。

 ブリテンにすれば、参加させさせれば後は交渉で枷をはめる事は可能と判断していた。

 

 

(※5)

 尚、演習の際に消費する燃料や食料に関してはブリテン持ちとされた。

 

 

(※6)

 ヨーロッパ方面で保有枠の半分、約16万tあればフランスやドイツなどと戦闘をする場合にも優位には立てなくとも絶望的なまでの劣勢にはならぬだろうとの計算であった。

 ブリテンとの戦争を考えても、ブリテン本土艦隊には限定的には対抗可能であった。

 アジア方面で主要な敵対国である日本は戦艦を2隻しか保有していない。

 その上でブリテンやアメリカのアジア艦隊を含めても、約16万tの艦隊があれば大丈夫だと計算していた。

 

 

(※7)

 各国はドイツの主張をジョークであると笑っていた。

 ブリテンが必死になってソ連と交渉している間、東京見物を行い物見遊山をしていた各国代表には精神的な余裕があった。

 無かったのはブリテンである。

 交渉に疲弊しながらまとめ上げた東京軍縮条約にケリを入れるが如きドイツの行為に本気でキレた。

 その怒りは、ドイツの提案に対するブリテン代表の最初の言葉に表れていた。

 

「ドイツは戦争を望むか? 容赦の無い戦争を望むのか? であれば我が国は全力で饗宴する用意がある」

 

 ブリテンらしからぬ直接的な表現に、ブリテンの怒りの深さが表れていた。

 この怒りと疲弊とを癒す為、ブリテンの代表団は東京軍縮条約締結後、会議の最終的な調整と称して2週間ほど日本の温泉観光地に逗留して帰国した。

 

 

 

 

 

 




2019.05.21 表現を修正
2019.06.12 表題のナンバリング修正


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28.1936-02 シベリア独立戦争-01

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 東京軍縮会議の終結と共に、ソ連は政治の季節となった。

 ソ連に於ける政治の季節とは、粛清という血なまぐさい風を伴っていた。

 スターリンが粛清に踏み切った事に何かの大きな原因が在った訳では無い。

 強いてあげるならば日本ソ連戦争から積もって来たソ連赤軍へのスターリンの不信と、5ヵ年計画の邪魔をするが如く動くレーニン時代からの党重役たち非スターリン派へのスターリンの不満が原因であると言えるだろう。

 同時に、ソ連大衆への締め付けでもあった。

 非革命的という言葉で赤軍と共産党を掌握し粛清する事で、スターリン体制の鋼の如き完成を狙ったのだった。

 赤軍将校から共産党役員、一般の人間すら非革命的であるとして処断されていった。

 

 

――バローン・エヴァルトの反乱

 大粛清の始まる前にウラジオストクへと回航された通商破壊艦バローン・エヴァルトであったが、大粛清の影響で物流が滞った為に、明日の食事にすら事欠く状態に陥っていた。

 ヨーロッパ方面からアジアへの大航海こそ乗り切れはしたが乗組員たちは疲弊し、船体のメンテナンスすら滞っていた。

 士気の低下を危ぶんだ政治将校が景気づけに艦名をバローン・エヴァルト(エヴァルト男爵号)からアドミラル・エヴァルト(エヴァルト提督号)へ変える事を提案し実行したのだが、物資不足から艦尾の艦名を書き換える事すら出来ない有様であった。

 艦長や政治将校はこの状況を打破する為、様々な手段を講じた。

 窮状を赤軍上層部へ訴え、共産党に党を介して沿海州からの支援を願った。

 その事が共産党上層部の怒りを買った。

 非革命的であるとアドミラル・エヴァルトの艦長と艦付きの政治将校が捕えられたのだ。

 その暴挙に、艦と艦の乗組員の為に走り回っていた2人の事を知っていたアドミラル・エヴァルトの水兵たち大いに怒った。

 怒った上で、飢餓で死ぬ位なら2人を取り戻し、戦って死のうと決意したのだ。

 下士官に率いられた水兵たちは、武器を手に2人が囚われていた共産党支部へと殴り込みをかけ、2人の救出に成功した。

 部下の起こした、正に反乱としか言いようのない所業に、艦長は腹を決めた。

 自分はどうなっても良いので部下たちを生き残らせようと政治将校と話し合った。

 結果としてアドミラル・エヴァルトは28㎝砲でウラジオストクの共産党支部を脅して燃料を強奪するや否や出港し、一路東を目指した。

 日本の排他的経済水域に入ると、海上自衛隊の哨戒艦がアドミラル・エヴァルトに立ち塞がった。

 空には非常時に備えて哨戒機が爆装して飛んでいた。

 緊張の時間。

 アドミラル・エヴァルトの艦首と艦橋で水兵が白旗を振った。

 生き残る為、亡命を選択したのだ。

 亡命先は日本連邦のロシア人国家であるオホーツク共和国であった。

 

 

――赤軍粛清

 歴史に類を見ない、20,000t級の大型艦の亡命騒動にソ連は揺れた。

 現時点でソ連海軍最大の戦闘艦であり象徴でもあったアドミラル・エヴァルトで反乱が発生し、亡命したのだから当然だろう。

 当然ながらもスターリンは大激怒した。

 アドミラル・エヴァルトに対しては、事の原因が赤軍と共産党の不作為でありサボタージュであった為、即時の帰国と恭順を行えば罪に問わぬ事を宣伝し、温情を見せた。

 だが赤軍と共産党、そしてシベリアの指導部に関してスターリンは激しく追及した。

 特にソ連海軍は東京軍縮会議で妥協した事を激しく追及されていた所であった為(※1)、将官級の上層部は軒並み処刑され、続いて上級将校も粛清の対象となっていった。

 こうなると慌てるのが人間である。

 アドミラル・エヴァルトの事件は海軍の引き起こした問題であったが、既に陸軍も粛清の対象となっており、最上級者である元帥までも処分されていた。

 ソ連赤軍は、祖国への忠誠と粛清への恐怖に揺れる事となる。

 その心情に救いとなる存在があった。

 ソ連と並ぶロシア人によるロシア人の為のロシア人の国家、オホーツク共和国である。

 ロシア人を2度に渡って打ち破った、宿敵と言える日本人の国家である日本連邦に属しては居るが、ロシア人の自治は赦されている。

 ソ連赤軍の上級将校は様々な手管を使って家族を連れてシベリアへ渡り、日本企業(日本政府)を介してオホーツク共和国へと渡った。

 これにスターリンは激怒した。

 祖国への忠誠心を持たぬ人間は生きる価値は無いとまで言い切り、特別許可を持たぬソ連赤軍将校が家族と共にシベリアに居る場合、裁判なしに即座に射殺できる権利を粛清部隊に与える始末であった。

 

 

――シベリア

 スターリンの粛清部隊と共に、その手足となる赤軍部隊もシベリアに大規模に配置された。

 国境線や、日本やアメリカの企業の活動領域を封鎖し亡命を許さぬのがスターリンの指示であった。

 だが、ただでさえ疲弊していたシベリア経済は、この負担に耐えかねる事となった。

 農村では食料の徴発が行われ、都市部では生活物資が徴発された。

 抵抗する者はソ連の革命精神に反する者として処罰された。

 粛清部隊に反抗した者は射殺すらされた。

 この状況にシベリアは耐えた。

 ロシア人としての忍耐強さが状況を受け入れさせた。

 だがそれも、ある農村で粛清部隊が種籾すら食料として徴発するまでであった。

 明日どころか今日までも生きれないとなったシベリアのロシア人は激発した。

 革命を叫んだ。

 暴君を許すなと怒りの声を上げた。

 

 

――シベリア独立戦争

 最初は、革命を叫んではいても暴動でしか無かった。

 それを革命と言う形へと変えたのは、シベリアの各地へ家族を連れて潜伏していたソ連赤軍の上級将校たちであった。

 彼らは、自分たちがオホーツク共和国へ穏便に渡る事は不可能となっている事を自覚していた。

 シベリアに居る事すら自殺行為であると理解していた。

 それでも尚、一縷の望みをもって家族と共にシベリアに居たのだ。

 そんな上級将校たちであったが故に、生きる為に立ち上がったシベリアの住民を見捨てる事が出来なかった。

 上級将校たちは次々とシベリアの革命軍に参加した。

 その檄に、シベリアに駐留していたソ連赤軍も呼応した。

 シベリアの独立戦争が始まった。

 

 

 

 

 

(※1)

 東京軍縮会議での条約締結に向けた妥協を、スターリンはソ連海軍の独断専行であると断じ、処分を行っていた。

 これは条約締結後であっても条約を守らない為の、合法的に条約から離脱する為の行為であった。

 スターリンは50,000t級戦艦を諦めてはいなかった。

 その上で日本を見て、建造をしてしまえば列強も文句は言わぬだろうと見ていたのだ。

 ソ連海軍が勝手な判断で条約を締結したが、ソ連国内では予定通りに建造を行った。

 条約を違反したのはソ連海軍の上層部であり処罰済みであるとする予定だった。

 

 

 

 

 

 




2019.05.20 文章の修正を実施
2019.06.12 表題のナンバリング修正


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29.1936-03 シベリア独立戦争-02

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 シベリア独立戦争。

 後にそう呼ばれる戦争は、その響き程に確たる戦闘が続いた訳では無かった。

 特に、アドミラル・エヴァルトの亡命事件から数ヶ月の間は、散発的な銃撃戦が起きる程度であった。

 これは、シベリアの状況が原因であった。

 シベリアのインフラは日本ソ連戦争の被害から立ち直れていなかった為、如何にソ連赤軍が大規模な軍隊を送って鎮圧しようと計画しても、それを実行し得る余力が無かったのだ。

 その上で5ヵ年計画による収奪が、シベリアの大地から軍隊を養うだけの力を奪っていた。

 兵員を輸送するにも時間が掛かり、その上、軍隊として活動する為に必要な食料物資その他も後方 ―― ソ連西方域から持ち込まねばならぬのだ。

 如何にスターリンが脅し、或は発破を掛けようとも、ソ連赤軍の動きが遅々たるものとなるのも当然であった。

 対して独立運動側も、元ソ連赤軍シベリア駐留部隊も含めて、多くの人々が生きるか死ぬかの所にあり、能動的な行動は行えずにいた。

 

 

――交渉・日本/ソ連

 日本とソ連の交渉は、シベリアの独立戦争の発端となったアドミラル・エヴァルトに関する事であった。

 ソ連の国家資産である同艦の即時引き渡し要求であった。

 艦長と政治将校に関しては犯罪者としての引き渡しを要求していた。

 日本としては艦長と政治将校、そして乗組員に関しては事情聴取後にオホーツク共和国への亡命を認める予定であった為、犯罪者としての引き渡し要請に関しては人道的な配慮から拒否する旨、最初に宣言した。

 問題はアドミラル・エヴァルトである。

 同艦をソ連へと返却する義理も義務も日本には無いのだが、同時に沿海州での権益と言う問題があった。

 ソ連の外交代表は必死だった。

 もしアドミラル・エヴァルトの返却が成されない場合、沿海州で行っている日本ソ連戦争終戦条約の賠償協定に基づく経済活動を排除せざるを得なくなると通告した。

 日本とソ連の間での信義が失われたと判断せざるを得ないからであるとソ連外交代表は言い切った。

 これには日本も憤慨した。

 高圧的なソ連の姿勢を糾弾し、条約内容を遵守しないのであれば条約成立前の状態 ―― 戦争状態へと戻らざるを得ないと反論する。

 紛糾する会議。

 そこに齎されたシベリアでの武装蜂起の一報に、互いに相手がやったのだと確信した(※1)。

 取りあえず、交渉は事態が落ち着くまで一時閉会となった。

 この時点で日本もソ連も、シベリアでの蜂起が長期間に渡る事は無いと判断していた。

 

 

――沿海州対応・日本/アメリカ

 シベリア独立戦争終結後の流れを知るものからすれば意外な話であったが、この戦争に日本は当初から関与していた訳では無かった。

 想定外であった。

 日本連邦への圧力の軽減を狙い、ソ連の国力を低下する様には活動してはいたが、シベリア全土で独立運動が勃発する様な事は想定していなかった。

 故に日本は、日本の管理下で沿海州を中心にシベリアに進出しているアメリカ企業と事態の把握と対策を練る為に開催されたアメリカの外交代表との会議の場で、開口一番にアメリカの陰謀を疑う事を発言したのだ。

 尋ねられたアメリカ外交代表は、唖然とした表情で日本の策謀では無いのかと問い返していた。

 日本とアメリカの仲介役として居たグアム共和国(在日米軍)代表は、この短い応酬にて事態を把握すると「何て事だ(ホーリー・シット)」と天を仰いでいた。

 だが状況を把握してからの決断は早かった。

 国境線に戦力と物資を集積させ、可能であれば干渉する ―― ソ連からシベリアを分離独立させ緩衝国家の建国を目指すとした。

 可能であれば、という曖昧な表現を用いた理由は、世界大戦後の干渉戦争の影響であった。

 軍事力を持って侵攻し土地を掌握したとしても、民心まで把握できなければパルチザンによる抵抗運動が発生し、統治は不可能になる、なったという戦訓である。

 しかも、住民から外敵であると認識された場合、対立する独立運動派とソ連赤軍とを怨讐を越えて団結させてしまう可能性だってある。

 最終的には軍事費を浪費しただけで、投資した沿海州の権益をすべて失い撤退する羽目になりかねない。

 この点に於いて日本とアメリカの認識は一致していた。

 

 

――日本・オホーツク共和国

 日本政府はオホーツク共和国から、シベリアの独立戦争への干渉を要求されていた。

 正確に表現するならば、生活物資や食料を奪われ塗炭の苦しみを受けているシベリア住民の保護だ。

 同じロシア人(ロシア系日本人)として何とかしてやりたいという気持ちであった。

 アドミラル・エヴァルトの艦長たちからの事情聴取によって、ソ連の内情を知ったオホーツク共和国は義憤に駆られていたのだ。

 内情は、マスコミが面白おかしく編集した上で新聞やネットで公開していた。

 余りにも脚色の強い部分には日本政府やオホーツク共和国政府から指導が入ったが、基本的に情報統制を是としない方針の下で情報は公開され続けた。

 この為、気の短いオホーツク共和国住民などは武器を手に、漢気あるロシア人であれば義勇軍を組織してシベリアに渡ろう! 等と街路で呼びかける程であった。

 そこまで行かない者たちも、シベリアの国は違えども同胞たる人々の為に義援金や義援物資の提供を行う様になっていった。

 又、この動きはオホーツク共和国以外でも日本やその他の邦国にも広がって行った。

 善意、それは日本と日本連邦の豊かさがもたらしたものであった。

 タイムスリップから国土の拡大、そして戦争と言った立て続けの難題によって日本の経済は混乱から脱する事は出来ずにいたが、それでも2020年代の科学力と経済力とを持つ日本である。

 その日本に統制された日本連邦は世界でも随一と言って良い豊かさがあった。

 衣食住に於いて絶望する様な不足など無い生活があった。

 故に、隣人の不幸に敏感となっていたのだ。

 民主主義国家である日本は民意に逆らう事は出来ない。

 この為、ソ連との関係を極度に悪化させない範囲での人道的な干渉の道を探る事となる(※2)。

 

 

――ソ連・義勇軍

 日本との交渉の席で、日本がシベリアの蜂起の裏側に居ると確信したソ連は恐怖した(※3)。

 何とかして日本が本格的に侵略をしてくる前にシベリアの反乱を鎮圧しようと決断した。

 だがその為には自動車や戦車が不足していた。

 日本ソ連戦争で鉄道を代表とするシベリアの交通インフラは完膚なきまでに破壊され、そして今だに十分に回復していないのだ。

 であれば部隊を展開させる為には馬車や自動車が必須であった。

 だが、馬車は兎も角、自動車は不足していた。

 又、人に対する威圧効果が高い戦車も不足していた。

 この窮状に救いの手を伸ばしたのはドイツとイタリアであった。

 両国とも戦車や自動車の売却を提案したのだ。

 それだけではなく義勇兵の派遣、戦闘機や爆撃機のパイロットをその機材ごと派遣する事を提案していた。

 無論、善意では無く開発したばかりの装備を実戦で試験をしたいと言う思いがあった。

 又、31式戦車の登場で一気に陳腐化してしまった戦車などの処分の為に売りつけたという側面もあった。

 その事をソ連も理解していた。

 足元を見られている事にスターリンは怒りすら感じていた。

 だが同時に、窮状に於いて助けの手が伸ばされた事を感謝していた。

 これがドイツ、イタリア、ソ連による事実上の3国同盟の発足であった。

 

 

 

 

 

(※1)

 日本からすれば、ソ連への反感が溜まっていたシベリアを意図的に暴発させる事で武力鎮圧の口実を作ったのだと考えていた。

 ソ連からすれば、日本が沿海州のみならずシベリア全土を侵略する為に策謀したのだと思えていた。

 

 

(※2)

 人道的な干渉を主とするが、同時に、武装難民対策として日本政府は日本国統合軍に対し初めて実戦的な命令 ―― 部隊の動員を含めた戦争準備を発するのだった。

 日本とソ連の国境線に3個師団(第17師団 第201師団 第601師団)を基幹とする日本連邦統合軍第1軍団が編制された。

 オホーツク共和国では旧ロシア軍人やソ連軍人が大挙して義侠心を持って共和国軍の門を叩いたため、臨時として第603師団(自動化)が少ない国防予算をやりくりして編制された。

 又、シベリアでの作戦行動を前提とした航空部隊が新しく編制された。

 航空自衛隊やオホーツク共和国軍などから集めたパイロットと新鋭の戦闘機、後に自由の守護者(フリーダム・ファイター)の名で知られるF-5戦闘機で編成された第10航空団であった。

 3個飛行隊を基幹とした第10航空団は、シベリア各地を転戦する事を前提として輸送機や連絡機、果ては重編制の地上警備部隊(連隊規模)が指揮下にあった。

 又、第10航空団の運用を支援する為、朝鮮半島の防空指揮所が強化される事となった。

 

 

(※3)

 全くの杞憂であったのだが、猜疑心の強いスターリンにとって疑惑は事実と同一の存在であった。

 日本を滅ぼすべし。

 そう凝り固まっていく事となる。

 

 

 

 

 

 




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30.1936-04 シベリア独立戦争-03

+

 シベリアの混乱に対応する為、日本はシベリア各地に派遣している特機隊(※1)の増強と、物資の集積を行った。

 日本とアメリカの企業を保護する為である。

 アメリカ企業も独自に傭兵を雇うなどして自衛はしていたが、建前として日本の管理下 ―― 日本ソ連戦争の停戦条約で日本の得たシベリア資源の採掘権で企業活動を行っている為(※2)、保護する義務があるのだ。

 又、ソ連政府にも独立運動派に対しても人道的対応以外での中立を宣言した。

 ソ連側も、この判断は好意的に受け取っていた。

 日本とソ連は甘く見ていた。

 食料も生活物資も枯渇しつつある場所で、それを豊富に有しているという意味を。

 

 

――沿海州人道事件

 散発的な戦闘であっても軍隊が動けば資源を消費する。

 特に食料の消費は止める事の出来ないものである。

 その為、ソ連赤軍は反乱に参加していた村に駐屯しては食料や生活物資を消費し続けていた。

 この状況に根を上げたある村が、人道的活動として村に訪れていた赤十字の医療スタッフに対して何を差し出しても良いから子供の分の食料を融通して欲しいと泣きついたのだ。

 赤十字のスタッフは、その悲痛極まりない願いに応えた。

 近くのアメリカ企業が採掘を行っている鉱山へ訪れ、食料の提供を要請したのだ。

 やせ細ったロシア人の子どもたちを見たアメリカ企業は人としての善性を発揮し、快く備蓄に余裕のある食料や生活物資を義援品として提供した。

 又、有志が私物の物資をカンパとして供出もした。

 ここまでは善意と美談の物語である。

 問題は、この物語の舞台となった村に駐屯したソ連軍部隊の人品が余りにも卑しかったという事である。

 ソ連軍は、村に戻って来た赤十字スタッフと村人に銃を突きつけて、シベリア独立派と何らかの連携をしていないかの検査を行った。

 その際に発見したのだ。

 気の良いアメリカ人が供出した物資の中にある、アルコールを。

 アルコールをソ連軍将校は、危険物資の可能性があると難癖を付けて徴発した。

 徴発したアルコールはそう多い量では無かった為、将校だけで共有される事となる。

 それに満足出来なかったのが下士官であり兵士だった。

 食事も満足に得られない寒村で不満が溜まっていた所に、僅かばかり手に入ったアルコールを将校たちが独占したのだ。

 不満しか無かった。

 だからこそ、ソ連軍下士官は一計を案じた。

 ある場所が判っているのだから、徴発してしまおうと。

 下士官に乗せられた調子の良い将校が、歩兵の1個分隊を率いてアメリカ企業を訪問した。

 題目は、シベリア独立派を匿っていないかとの監査であった。

 アメリカ企業はそれに応じた。

 アメリカ企業の施設内に入ったソ連軍は手当たり次第にアルコールを探した。

 そして備蓄してあった食料を徴発しようとした。

 それに、アメリカ人がキレた。

 ソ連軍の行動は横暴であり、法的根拠は無いと非難した。

 監査役として居た日本政府の役人も、それを支えた。

 日本ソ連戦争の終戦協定には、ソ連領内で活動する場合に徴発などの要求を受け入れる必要は無いとの事を告げた。

 アルコールも生活物資も食料も供出しないと宣言した。

 その事に将校はキレた。

 有り体に言えば目の前のアルコールを取り返そうとされた事に暴発した。

 拳銃を抜いて脅した。

 供出しないのであれば、貴様らを反革命分子として処分すると叫んだ。

 それをアメリカ人が嗤った。

 我々はソ連人では無く、共産党は関係ないと啖呵を切った。

 その事が最後の引き金となった。

 歩兵小隊を率いて来た将校は、共産党への忠誠心だけでソ連軍の中で生き残って来た男だった。

 故に、己のアイデンティティを否定されたと感じたのだ。

 将校は発砲し、部下に殺せと命令した。

 そこから戦闘になった。

 アメリカ企業とて無防備では無く、企業の雇っていた傭兵と日本の特機隊が少数とは言え駐屯していた。

 激しい戦闘は双方に少なからぬ死傷者を出し、アメリカ企業が辛くもソ連軍分隊を撃退する事に成功した。

 だが、それで終わる筈も無かった。

 生き残った将校は村に戻るや否や、上官にアメリカ企業がシベリア独立派と連携していると報告したのだ。

 ソ連軍指揮官は色めき立った。

 シベリア独立派を叩くと言う功績を挙げ、外敵を追い払うチャンスであると認識したのだ。

 再度、アメリカ企業の施設を襲撃するソ連軍。

 だが日本側も黙って待っていた訳では無かった。

 状況を報告し、近隣の特機隊駐屯地から増援を受け入れていた。

 当初は施設を引き払って避難する予定でもあったのだが、施設に居た作業員が100人を超えていた為、直ぐに動かせるヘリが中型2機しか無い状況では簡単に避難する事が出来なかったのだ。

 他の避難手段、車は最初の戦闘で破損してしまっていた。

 歩いての避難は厳しいシベリアの環境下で一般の人間に出来る筈も無かった。

 

 

――会談・日本/アメリカ/ソ連

 ソ連軍のアメリカ企業襲撃事件は即日、日本政府へと伝わって震撼させた。

 矢張りシベリア独立運動とはソ連の仕込みであると、沿海州及びシベリアから日本とアメリカを追い払う為の謀略であると判断させたのだ。

 事件の報告は即時、アメリカ政府にも行った。

 アメリカは激怒した。

 謀略以前に舐められたと認識したのだ。

 日本とアメリカは連名でソ連の代表を呼びつけた。

 だが呼び出しを受けたソ連代表も激怒していた。

 此方は現地部隊からの報告、アメリカ企業がシベリア独立派を支援していたとの虚報を信じ切っていたのだ。

 矢張り日本とアメリカはシベリアを切り取る積りであったかと判断していたのだ。

 会談は最初から罵り合い染みた形で行われた。

 アメリカとソ連は、非難の応酬に終始したのだ。

 日本が提供した報告書を、ソ連は頭から否定した。

 ソ連が提供した報告書を、アメリカは鼻で笑った。

 丸一日掛けて行われた、何の成果も生み出さない会談であった。

 会談の最後に日本とアメリカは自衛措置を講じる事を宣告した。

 ソ連も、国を護る為の行為を行う事を宣告した。

 事実上の宣戦布告が交わされた瞬間であった。

 そしてこれが、本格的なシベリア独立戦争の始まりとなった。

 

 

――シベリア独立戦争・日本/アメリカ(D-Day)

 日本政府はソ連との会談の破綻を持って、国民に対して情報を公開する。

 その上で、日本国の責任としてソ連沿海州に駐留する日本人とアメリカ人の生命と財産の保護を目的とした全ての行動を行使すると宣言した。

 この事に野党は、自衛隊と邦国軍が日本連邦の領域外で活動するのは憲法第9条に於ける戦争の放棄 ―― 国際紛争の解決の為に武力を行使する事に繋がると批判したが、日本政府は否定した。

 紛争を解決する為に自衛隊と軍を動かすのではなく、あくまでも日本人とアメリカ人の保護が目的である為、憲法第9条の精神に抵触しないと反論した。

 この日本政府の姿勢を日本国民は支持した。

 タイムスリップ前の韓国との紛争に始まって、タイムスリップ後の日本ソ連戦争や上海事件を経験した日本の有権者はガチガチのリアリストになっていた。

 憲法第9条の精神とは別に、積極的平和主義に基づく自衛は大切であると認識していたのだ。

 この認識を反映する形で日本の政治的勢力に於いて護憲派は極少数の派閥となっていた為、日本政府は強気に出られたとも言えた。

 ともかく。

 国民の支持の下、かねてより朝鮮半島北部に集結させていた日本連邦統合軍第1軍団に対して、沿海州の日本とアメリカ企業の保護の為の進軍を命じた。

 又、アメリカ側も自衛戦闘の題目をもって、フロンティア共和国北部に集結させていた2個師団を動かした。

 日本とアメリカはシベリアに於ける両軍の作戦行動に関する連絡会の設置を合意。

 事実上の合同作戦本部の設置となった。

 

 

――シベリア独立戦争・ソ連(D-Day)

 日本とアメリカの軍が、会談決裂から間を置く事無くソ連領内に侵略してきた事にスターリンは激怒した。

 そして納得した。

 矢張り、日本とアメリカは帝国主義的拡張を求めてソ連を襲う積りであったのだと、己の見通しの正しさに安堵していた。

 ソ連軍に対しては反革命分子の掃討ともに、日本とアメリカを撃破する事を命じていた。

 スターリンはソ連軍の科学的な劣勢を理解していた。

 だが同時に、広大な国土による縦深と厳しい冬をもってすれば戦いぬく事は可能であろうと信じていた。

 頑強なソ連人は決して侵略者には屈しないのだ。

 即座に10個師団の新たなシベリア派遣を決断。

 併せてシベリア軍管区に対しては、徹底抗戦を命令していた。

 

 

 

 

 

(※1)

 特機隊は、日本ソ連戦争終戦条約に基づいて時限創設された非軍事、非警察の官営PMSC組織であり、シベリアに於いて日本人を保護する組織である。

 管理は内閣府が行う。

 構成人員は自衛官、警察、元傭兵など様々となっている。

 シベリアでの活動終了(採掘権の失効)後は、第101海兵旅団に統合される予定である。

 

 

(※2)

 ソ連から得たシベリアの資源採掘権は、企業に対して競売に掛けられており、それにアメリカ企業が参加していた。

 

 

 

 

 

 




2019.06.12 表題のナンバリング修正


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31.1936-05 シベリア独立戦争-04

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 日本アメリカとの会談決裂後、ソ連赤軍の体制は反革命的シベリア分離主義者討伐から外敵からの国防へ変化した。

 シベリアに展開していた全ての部隊を統括する極東赤旗総戦線に改編された。

 この時点で総兵力は4個歩兵師団と1個戦車師団、人員にして60,000名余りであった。

 スターリンは、増援として10個師団(歩兵師団6個 戦車師団4個)を送る事を決定した。

 この他、ドイツとイタリアから義勇戦車旅団が1個ずつ入る予定であった。

 都合15個師団、2個旅団の総兵力180,000余名の大兵力であった(※1)。

 これ程の戦力を投じれば、シベリアの大地に精通し地の利を持つソ連赤軍が外敵を撃退出来るだろうと言うのがソ連赤軍参謀本部の考えであった。

 増援に送る部隊は、粛清によってスターリンへの熱い忠誠を誓う部隊であり、万が一にもシベリア独立派への恭順などはあり得ない。

 その上でスターリンに自信を与えていたのは、31式戦車に対抗する為に開発した45t級重戦車KV-1の存在であった。

 45tと言う31式戦車にも劣らぬ重量級戦車は、5ヵ年計画によって長足の進歩を遂げたソ連の成果であった。

 傾斜した重装甲は全ての砲弾に耐えうる力を持ち、主砲の48.4口径76㎜砲は既存の戦車の全てを撃破可能な長砲身大口径砲であった。

 KV-1戦車にスターリンは大きな期待を寄せ、大増産を命じた程であった。

 とは言え、開発力はあっても生産を行うにはソ連経済が余りにも貧弱であった為、シベリアへ投入出来たのは初期量産型の47両のみであった。

 他はBT戦車が主力ではあったが、スターリンに不安は無かった。

 日本とアメリカが用意していた戦力が、現時点で日本が3個師団、アメリカが2個師団である事を掴んでいたからだ。

 彼我の兵力差は約3倍。

 しかも、更に10個師団単位での動員をする予定であった。

 地の利と数的優位があれば日本ソ連戦争の報復が出来るであろうと、ソ連の名誉の復権が成されるであろうと確信していたのだった。

 

 

――沿海州・第1空挺団(D-Day)

 全ての発端となったアメリカ企業の施設に対し、日本は全力で支援を行う事とした。

 足の長いF-3戦闘機の護衛を付けてたMV-22垂直離着陸機を投入し、第1空挺団を現地に入れたのだ。

 ソ連による強欲的な行動に断固たる対応を取るという宣言であった。

 そして、友邦と正義の為に日本は血を流す覚悟があると言う宣伝でもあった。

 この為に戦場慣れしたマスコミの帯同を、特例として許していた。

 日本は情報の収集と分析、そして公開に注意する事で、対ソ連戦争もだが底なしに資源と人命を飲み込んでいく治安維持戦をする積りは無かった。

 敵はソ連であり、ロシア人は友人である。

 このスタンスで宣伝活動を繰り広げていく事となる。

 

 

――沿海州・日本/アメリカ(D-Day ~7)

 最初の目標は、日本人及びアメリカ人の安全確保であった。

 故に前衛部隊は装輪装甲車や自動車で固められた部隊であり、偵察衛星や長距離滞空型UAVの情報を元に、ソ連軍と出来るだけ会敵しないコースで一気に進軍した。

 自衛隊は偵察衛星やUAVの情報をアメリカ軍にも、情報士官を派遣して随時提供していた。

 この様な作戦行動であれば補給線などの問題も出るが、通路の確保は第2部隊に任せるものとされた。

 時間だけが優先され、側面すら気にする事無く両軍は突進した。

 日本は16式機動戦闘車を有する第17師団から抽出された第171連隊戦闘団が前衛を担っていた。

 対してアメリカは完成したばかりの25t級の新鋭M2A中戦車があり、M2A中戦車で定数を満たしていた戦車連隊を前衛としていた(※2)。

 だが、配備が開始されたばかりのM2A中戦車は機械的な成熟が出来ておらず、国境線を突破して半日で保有台数の7割が脱落してしまっていた。

 高い工業力と技術力を誇るアメリカであったが、初めて生み出した25tもの戦車では経験が足りて居なかったのだ。

 この為、最初のアメリカ企業の施設に到着したころには自動車部隊と化していた。

 

 

――シベリア・シベリア独立派(D-Day ~21)

 ソ連軍は日本とアメリカの軍との交戦は避けつつ、先ず、シベリア独立派の掃討に注力していた。

 特に、西方から物資を持ち込みやすいシベリア西部領域 ―― 西シベリア低地で蜂起したシベリア独立派は簡単に鎮圧されていった。

 それは軍事力の差もさる事ながら、ソ連軍が豊富に持ち込んだ食料や生活物資の力が大きかった。

 粛清から逃げ出したソ連将校は別であったが、一般の人々は生活苦からの自暴自棄的な蜂起であったので豊富な食料と生活物資、そして早期に帰順すれば罪に問わないと言う慰撫工作を受けては、簡単に矛を収めるのも当然であった。

 瞬く間に西シベリア低地帯を掌握していく第2赤旗戦線。

 但し、担当するのは分派された3個師団だけであった。

 残る7個師団から成る第2赤旗戦線の本隊は、補給線でもあるシベリア鉄道沿いに東進を続けた。

 とは言え、快適に前進できたのはインフラが優先的に復興されたオムスクまでであった。

 そこから先の交通インフラは、シベリア鉄道こそ優先的に修復されたが、道路や橋などは日本ソ連戦争の被害が手つかずである場所も多かった。

 80,000人近い大軍の移動は儘ならぬ状態にあった。

 その事がシベリア独立派に再建する時間を与えた。

 それまで緩い連帯でしか無かったシベリア独立派は、逃れて来た元赤軍少将を代表として組織化されて行く事となる。

 ばらばらだった戦力を統合し、旅団を編制していく。

 各旅団は2,000名を上限として編成され、それぞれがシベリア独立軍旅団としてナンバリングされていった。

 同時に、沿海州の組織を経由して接触して来ていた元同胞、ロシア系日本人であるオホーツク共和国と会談を持つ事となる。

 オホーツク共和国は、同じスラブ人として人道的な支援を申し出ていた。

 その上で、シベリア独立派は何をするかを尋ねて来たのだった。

 それまで餓死するよりは戦死をしようと言う、ある意味で極めて後ろ向きの集団であったシベリア独立派は己の存在意義に直面する事となった。

 独立派と名乗ってはいても、真剣に独立を考えていた訳ではなかったのだから。

 そこに、オホーツク共和国は囁く、本当に独立を考えているのであれば協力する用意がある、と。

 

 

――満州・ユダヤ人(D-Day-10~)

 シベリアでの活動領域を広げつつあったユダヤの民にとって、シベリアの独立運動は絶好の商機であった。

 ユダヤ系ロシア人を介する事でシベリア独立派に接触し、世界大戦時に大量生産されて余剰となって各国の倉庫に眠っていた武器を大量に買い付けて売りつけていた。

 その中にはイギリスやフランスが保有していた戦車も含まれて居た。

 31式戦車shockによって一気に陳腐化した世界大戦直後の戦車たちは、朽ち果てる寸前にヨーロッパから遠く離れたシベリアで活躍する場を与えられたのだった。

 対価は鉱物資源であり、将来、独立した場合の鉱山の採掘権であった。

 フロンティア共和国で経済力を付けたユダヤ人は、次なる儲け口として日本とアメリカが独占していたシベリアの資源開拓に関与する事を狙ったのだった。

 

 

――沿海州/ウラジオストク・奇妙なる戦争(D-Day ~21)

 事実上の宣戦布告を交わし合った日本アメリカとソ連であったが、事、沿海州に於いては大規模な交戦は発生していなかった。

 部隊同士が接触しても、銃撃を交わし合う事も無く警戒しつつ離れるのが常であった。

 それは日本とアメリカの領域と、ソ連の領域が複雑に入り乱れている事が原因であった。

 1発の銃声で全てが変貌する様な、薄氷の上に立つ平穏であった。

 だがそれがソ連海軍の拠点、ウラジオストクを維持させていた。

 スターリンへの報告は、常に日本とアメリカの帝国主義者から祖国を護る為に奮戦しているとされていたが、その実態は目減りする燃料と食料に怯える日々であった。

 港から出撃した駆逐艦や潜水艦は全てが消息不明となり、1隻たりと帰って来る事は無かったのだから。

 ウラジオストクには1個師団が集結していた。

 その事もウラジオストクの食料事情を悪化させる原因となっていた。

 今はまだ温かい季節の為、暖房用の燃料の心配をする必要は無かったが、戦争が冬までに終わるとウラジオストクの人間は軍人も市民も、誰も思っては居なかった。

 その事が人の心に影を落とし、閉塞感に繋がって行った。

 ウラジオストクは、真綿で首を締められる様にゆっくりと戦う力を奪われていっていた。

 第1赤旗戦線は、その配下の各部隊に日本アメリカとの徒な戦闘を禁じていた。

 食料その他の物資が不足する状態で、ほぼ同規模の日本アメリカと交戦してしまっては一方的な敗北が確実だからである。

 ソ連側からしてみれば奇妙な事に、帝国主義の徒である日本もアメリカもソ連領内に設けた非革命的人民収奪拠点を護るだけで積極的に打って出て来る気配は無かった。

 この為、戦力の保全に努めていたのだった。

 

 

――日本・航空部隊(D-Day~)

 シベリア独立戦争へ本格的な関与を行う事が決定して以降、日本は情報偵察衛星の他に高高度偵察機であるグローバルホークをシベリア方面に投入していた。

 本格的な侵攻作戦の実施に備えて道路情報や集落情報、そして電波情報を収集していた。

 又、非常時に備えて空にAP-3局地制圧用攻撃機(※3)を遊弋させていた。

 タイムスリップから10年、日本の燃料事情は劇的に改善し、燃料を大量に消費する空中パトロールを随時可能にしていた。

 

 

 

 

 

(※1)

 ソ連軍は、都合15個師団の極東赤旗総戦線のうち、開戦前よりシベリアに駐屯していた5個師団を第1赤旗戦線と命名。

 増援の10個師団を第2赤旗戦線と命名した。

 この他、ドイツとイタリアからの義勇旅団は、ソ連に到着次第、第2次増援の部隊と共に第3赤旗戦線を編制する予定とされた。

 

 

(※2)

 グアム共和国軍(在日米軍)からの支援を受けて開発されたM2中戦車は先進的な概念 ―― 傾斜装甲や空間装甲を採用しており、他のG4諸国を含めて日本の工業的支援を受けていない戦車の中では随一と言って良い完成度を誇っていた。

 だが、それまで10t台の戦車しか開発運用した経験しか持たなかったアメリカは、足回りや整備性に於いて充分な技術的蓄積が無かった為、稼働率は高いとは言えなかった。

 特にシベリア独立戦争で使用されたM2A型の場合、稼働率は充分な整備部隊と予備部品を豊富に用意して尚、6割程度であった。

 この為、シベリア独立戦争の最中でも、現場単位で随時改良が施されていた。

 改良の経験、そして運用実績と戦訓を元にシベリアから修理で満州に送られた破損車両に小規模改良施したM2A2型が誕生する事となる。

 尚、M2Aシリーズの主砲は当初は50口径90㎜砲を予定していたが、開発が難航した為、やや旧式ながらも安定した性能を持つM1897 75㎜砲が搭載されている。

 

 

(※3)

 元は海上自衛隊が運用していたP-3C哨戒機。

 P-1への更新によって退役したP-3Cで、機体寿命の残っていた機体を航空自衛隊に移管し改造した機体。

 武装は20㎜ガトリング砲2門、35㎜機関砲1門、105㎜ライフル砲1門となっている。

 所属は、航空総隊の第11航空団(攻撃コマンド)第111航空隊であるが、気象が安定している事などから西部方面航空隊第8航空団の基地に同居している。

 

 

 

 

 

 




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32.1936-06 シベリア独立戦争-05

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 シベリア独立戦争が真にシベリアの独立運動へと変わるのは豊原(ウラジミロフカ)宣言によってであった。

 場所はその名の通り北日本邦国の首都、豊原。

 日本とオホーツク共和国、アメリカとフロンティア共和国、そしてシベリア独立派の5つの立場の国家が話し合い、宣言された。

 その内容は、シベリア独立運動がソ連の圧政からロシア人の独立を目的とする、ロシア人の民族国家樹立の宣言であった(※1)。

 同時に、この目的の為に日本連邦国とアメリカ、フロンティア共和国などは全面的な協力を行う事を宣言した。

 宣言に合わせて、ソ連に対して宣告が成された。

 

 シベリアはソヴィエトを認めない。

 シベリアはソヴィエトの統治を認めない。

 シベリアはスラブ人によるスラブ人の為のスラブ人の国家を目指す。

 よってソ連には、即時オビ川以東の大地より兵を引き払う事を要求する。

 撤退する場合、将兵の安全は保障する。

 撤退しない場合、実力をもって成すものである。

 

 ソ連とスターリンの横面を全力で叩くが如き宣告であった。

 当然ながらもスターリンは激高した。

 そして極東赤旗総戦線の司令部に対し、全力でシベリアの独立派を自称する反革命的組織を叩き潰し、ソ連領内を我が物顔で闊歩する日本とアメリカの帝国主義者をソ連の大地から追い払う事を厳命した。

 

 

――ソ連・第1赤旗戦線(D-Day+23)

 スターリンからの厳命を受けた第1赤旗戦線は、それまでの避戦の姿勢から一変して攻勢に出る事となった。

 第1目的は1個歩兵師団が立てこもってはいるが孤立状態にあるウラジオストクと、ハバロフスクとの連絡線の回復である。

 日本とアメリカはそれぞれの企業の活動地域に分散しており、ソ連軍を積極的に分断している訳では無かった為、勝利を政治的に欲した第1赤旗戦線は全力でハバロフスク-ウラジオストク間の打通を図ったのだ(以後、HB打通作戦と呼称する)。

 戦力は、ハバロフスク近郊で活動していた第11赤旗歩兵師団と第11赤旗戦車師団のほぼ全力(※2)。

 1個連隊のみ、ハバロフスク防衛に残しての全面攻勢であった。

 無論、補給が途絶えがちで物資の不足している事を自覚していた第1赤旗戦線司令部は、勝ち続ける目処が無い事を自覚していた為、打通後は速やかに第12赤旗歩兵師団とウラジオストクに残された物資を持ってハバロフスクへと撤退する積りであった。

 ウラジオストクの艦隊に関しては、自力にてオホーツク海の北端港町マガダンへの移動が厳命された。

 この他、温存されていた航空隊約200機の投入も決意していた。

 極東赤旗総戦線司令部は、シベリア全域で1000機近い航空機を指揮下に置いていたが、航空燃料の不足によりHB打通作戦に投入出来るのは、この200機余りが限度であった。

 

 

――日本/アメリカ・沿海州(D-Day+23~26)

 通信量の増大と各部隊の動きから日本も早期に第1赤旗戦線動きを把握した。

 数的にも質的にも日本アメリカ連合軍に比べて劣勢なソ連側が攻勢に出て来るのは想定外であった為、日本アメリカ・シベリア戦線連絡会(以後、合同作戦司令部と呼称する)は一時的に混乱した。

 確認の為にハバロフスクへ強行偵察を行った偵察機が、ソ連側が隠す事無く部隊を動かしている事を確認。

 この為、攻勢作戦は事実であり、そして第1赤旗戦線は本気である事を把握した。

 合同作戦司令部はHB打通作戦部隊を迎撃する事を選択する。

 幕僚の一部からは、一旦はソ連HB打通作戦部隊をウラジオストクまで通させた後に包囲し、降伏を強いた方が良いのではとの意見も出た。

 戦闘を極力抑えて彼我の死傷者を減らそうという考えであった。

 だが否定される。

 それよりも、初戦からソ連側の作戦を破綻せしめる事で第1赤旗戦線の戦意低下を図り、これによってシベリアの開放を早期に実現した方が、トータルでの死傷者が減ると言うのが判断の論拠であり、日本政府の判断であった。

 この方針に従い、第601師団がHB打通作戦部隊の前方に立ちはだかり、攻撃を開始した。

 完全充足状態の機械化師団である第601師団は、HB打通作戦部隊と同じスラブ人 ―― ロシア人の部隊であったが、一切の躊躇なく殴り掛かったのだ。

 シベリアをソ連のくびきから解き放とう! そんなスローガンと共に、オホーツク共和国のロシア系日本人は31式戦車を前面に立てて戦った。

 ソ連側が頼みとした戦車師団は主力と頼る戦車がBT戦車であった為、第601師団はHB打通作戦部隊を一蹴した。

 その上で上空にAP-3極地制圧用攻撃機が乱舞し攻撃を加えたのだ。

 HB打通作戦部隊はハバロフスクより進軍を開始して100㎞も進まぬうちに、その衝撃力を、文字通り粉砕されてしまったのだ。

 戦車戦で歯が立たない事を把握した第1赤旗戦線は、慌てて航空攻撃を図った。

 併せて我が物顔で空を飛ぶAP-3の排除も図る。

 2個の師団はこの時点で2割近い被害を受けていたが、第1赤旗戦線は諦めていなかった。

 スターリンに厳命されているのだ。

 諦めるという選択肢などある筈も無かった。

 必死になってハバロフスクを飛び立った200余機のソ連赤軍航空隊であったが、第10航空団の迎撃によって頓挫する事となる。

 迎撃に出たのは第10航空団の2個飛行隊であり、その総数は50機を超える程度であったが、ソ連側は一方的に狩られて行く事となる。

 第10航空団のF-5戦闘機は、ネットワーク化された防空システムの中で最大限の能力を発揮する様に動いた。

 高度10,000という、ソ連機では到達する事も出来ない高々度から睥睨するE-767早期警戒管制機がソ連機の数、高度、飛行方向を把握し、逃げようのない場所からF-5にPSAMミサイルでの攻撃を指示するのだ。

 集団ではあっても個の集まりでしか無かったソ連機では抵抗のしようも無く、各個に撃破されていった。

 それは水に溶ける砂糖の様に、ソ連赤軍航空隊は消滅していった。

 

 

――ソ連・第1赤旗戦線(D-Day+27)

 戦いにすらなっていないHB打通作戦部隊の状況を、4日目にして受け入れた第1赤旗戦線は作戦の中止を決定。

 同部隊に後退を命じた。

 だが、それは余りにも遅かった。

 ヘイロン川以北のブラゴヴェシチェンスク近郊で防衛任務に当たっていたアメリカ第14師団がハバロフスクから西方に繋がる連絡路の遮断に動き出していたのだ。

 慌てる第1赤旗戦線であったが、凶報は更に続く事になる。

 沿海州と満州(フロンティア共和国)に挟まれる場所にあるユダヤ自治州が、自治権拡大を求めて蜂起したのだ(※3)。

 当然、シベリア独立運動への協力も宣言している。

 即座の鎮圧を検討したが、その前に沿海州北部域に展開していた日本第17師団が、オホーツク共和国より増派されて来た第603師団の先遣部隊、そしてシベリア独立軍の第1旅団と共にハバロフスクを包囲したのだ。

 この時点でソ連側守備部隊は、HB打通作戦部隊の第11赤旗歩兵師団から分離させた1個連隊のみ。

 第1赤旗戦線はハバロフスク住民を強制動員して促成の守備部隊 ―― ハバロフスク赤衛師団を構築、旧式化して倉庫に放置していた世界大戦やロシア革命時代の武器を持たせて前線に立たせた。

 ここにシベリア独立戦争前半の山場となるハバロフスク市防衛戦が発生する事となる。

 

 

――日本・守勢攻撃(D-Day+30)

 HB打通作戦部隊を撃破した日本だが、ハバロフスクとウラジオストクに対しては包囲に留めていた。

 都市攻略戦となれば大量の死傷者が発生する事を嫌ったのだ。

 日本連邦統合軍の将兵は当然ながらも、都市住民も出来る限り傷付ける訳には行かなった。

 彼らも将来のシベリア国家の国民なのだから。

 そして同時に、他のシベリアの人々 ―― 積極的にソ連にもシベリア独立派にも与していない人々へのアピールもあった。

 日本はソ連と戦うのと同じように、シベリアの人々を相手にした宣伝戦と民心慰撫を図っていたのだ。

 常に正義の仮面(ベビーフェイス)を被り続けるのだ。

 その事をアメリカにも、強く伝達していた。

 無論、正しいだけではロシア人は服従しない。

 ロシア人が頼りとするに相応しい力を示す必要もあった。

 故に、ハバロフスクとウラジオストクのソ連軍には容赦の無い空爆が繰り返された。

 精密な攻撃の可能なAP-3極地制圧用攻撃機は、弾薬備蓄庫や食料備蓄庫、果ては軍施設を常に攻撃し続けていた。

 昼も夜も続けられた攻撃は、第1赤旗戦線の戦闘力と共に戦闘意欲を削り続けた。

 我が物顔でシベリアの空を飛び破壊を振りまくAP-3の事を、ハバロフスクとウラジオストクの両都市に立てこもるソ連軍人は空の黒死病(ペスト)と恐れた。

 又、一方的にソ連軍航空機を狩り尽くしていくF-5戦闘機の事は、低視認型の制空迷彩にあって尚、赤く目立つ国籍識別票から血塗れの目玉(ブラッディ・ボール)と言う名を付けていた。

 尚、ウラジオストクを出港したソ連海軍艦船でマガダンへと到着出来たものは1隻と無かった。

 開戦から1月で、第1赤旗戦線の歩兵を除く海空の戦力は事実上、消滅する事となっていた。

 

 

――ソ連・側面攻撃(D-Day+33)

 正面戦争では一方的な打撃を被っていたソ連であったが、それ故に側面攻撃に注力する部分があった。

 チャイナ共産党への援助の強化、即ち、チャイナでの反アメリカ作戦である。

 特にチャイナ北部、フロンティア共和国周辺での活動を強化する様にスターリンは指示していた。

 フロンティア共和国の軍は7個の歩兵師団から成っている。

 自動車化程度の装備しかないがそれでも7個師団12万と余名の為、これがそのままシベリア戦線に投入されては困るのだ。

 チャイナ共産党としてもソ連の支援は願ったりであった。

 現在、チャイナで安定した勢力である南チャイナを打破する為には、フロンティア共和国と衝突させる必要性がある事を認識していた。

 ドイツからの全面支援を受けた南チャイナの軍勢は強力であり、質的にも数的にも劣位となったチャイナ共産党軍では勝利する事はおぼつかないのだから。

 チャイナ全土を巻き込む戦乱状態を作り出さねばならぬ。

 そうやって南チャイナが消耗すれば、チャイナ共産党がチャイナの天下を取る目が出て来るという計算であった。

 チャイナ共産党は、チャイナ北部での反アメリカ運動を激化させた。

 

 

 

 

 

(※1)

 シベリアにおけるロシア人の民族独立を堂々と宣言され1番焦ったのはソ連であったが、2番目に焦ったのはブリテンであった。

 インドを筆頭に世界中にある植民地が民族自決を求めており、その声をよりにもよってG4が裏打ちする様な行為をされたのだ、焦るのも当然であった。

 結局、ブリテンは1937年に大ブリテン帝国の全ての植民地が集まった合同会議を行う事を決定し、宣言する事で慰撫した。

 

 

(※2)

 スターリンは対日対アメリカの最前線に立つ第1赤旗戦線が数的には兎も角、質的には劣勢である事を理解していた。

 この為、戦意鼓舞の為、極東赤旗総戦線司令部の指揮下にある全ての師団に名誉師団号 ―― 赤旗の名と新しいナンバリングを付ける事を命じていた。

 ナンバリングを新しくしたのは、歴史を作り出せという意味であった。

 

 

(※3)

 フロンティア共和国を経由したユダヤ人社会からの強烈な支援があればこそ、短期間に武力組織を構築する事に成功した。

 目的は1つ。

 ユダヤ人によるユダヤ人の為のユダヤ人国家の樹立である。

 ユダヤ教を法律に組み込んだ国家の樹立だ。

 ユダヤ独立派はアメリカ国内のユダヤ人を通してアメリカ、そして日本にもコンタクトを取っており、内諾を得る事に成功していた。

 ブリテンにも協力を要請していた。

 否、事実上の命令を出していた。

 ブリテンにこれ程に強気でユダヤが出たのは、世界大戦時にユダヤ人に対してブリテンの行った不義理 ―― 世界大戦でブリテンに協力すれば中東のエルサレムを中心にした土地をユダヤ人へ割譲するという約束を反故にした事への代償という側面があればこそであった。

 ブリテンは、独立運動の高まりで不安定化しつつある中東に、更に火種を入れるよりはマシと判断し、ユダヤへ協力する事とした。

 

 

 

 

 

 




2019.05.27 文章の修正を実施
2019.06.12 表題のナンバリング修正


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33.1936-07 シベリア独立戦争-06

+

 ソ連軍がシベリアに駐留させていた5個師団の内、2個師団(1個歩兵師団、1個戦車師団)が包囲拘束され、1個歩兵師団が日本連邦統合軍包囲下に置かれた為、シベリアのイニシアティブは日本とアメリカ側に大きく傾く事となった。

 シベリア独立派はこの時間的余裕を持ってシベリア独立軍を組織する事に成功した。

 8個の旅団を編制する。

 とは言え、1個旅団は1,000名から2,000名程度の小規模なものであり、又、装備の大半もアメリカから提供された世界大戦時の余剰品である為、ソ連軍と正面から戦う事など不可能であった。

 とは言え、自動車は日本製が大盤振る舞いされており機動力は極めて高かった(※1)。

 それ故に、3個旅団でシベリア独立軍集成第1師団を編制すると、残る5個師団はシベリアの北部および東部の人口の閑散とした地帯の掌握に投入される事となる。

 ソ連軍も居るが、此方は2個師団が広域に分散する形となっている為、航空自衛隊の全面支援を受けたシベリア独立軍に対抗するのは困難であった。

 

 

――アンガラバイカル方面・アメリカ(D-Day+34)

 アメリカ第11師団はイルクーツクへ向けて西進を続けていた。

 相対しているのは第1赤旗戦線の第14師団であったが、此方は広域に展開したままで必死に抵抗していた。

 スターリンの指示 ―― シベリアの死守命令が原因の全てであった。

 シベリア独立派鎮圧の為に広域に展開していた第14赤旗歩兵師団は、本来、集結して応戦するべきであったのだが、集結する為にはイルクーツクに後退する必要がある。

 だがスターリンの指示によって、それが出来なくなっていたのだ。

 戦略的要請でも戦術的目的でもなく、政治的命令によってソ連第14赤旗歩兵師団は戦力を失い続けていた。

 只、同時に小なりとはいえ戦闘が連続する事でアメリカ第11師団の進軍速度を低下せしめる効果は発揮していた。

 この為、イルクーツクのソ連第14赤旗歩兵師団は防備を固める時間を得ていた。

 後方の第2赤旗戦線の先遣隊が物資や燃料と共に到着しつつある事と、近隣の航空基地に航空隊を集結させる事に成功しつつある為、極東赤旗総戦線ではイルクーツクにてアメリカの西進を止められるであろうという憶測が広がっていた。

 敵がアメリカ第11師団だけであれば、その予測もあながち間違いでは無かった。

 だがこの時点でアメリカは、フロンティア共和国に対して陸軍の派遣を命令。

 これにフロンティア共和国は保有する5個師団の内、装備良好な2個師団の供出を受諾する。

 併せて、フロンティア共和国内で破壊活動を行っているチャイナ共産党に対応する為、3個の予備師団を動員する事を決定した。

 2個のフロンティア共和国師団(第3歩兵師団 第4歩兵師団)は、アメリカの指揮下に入り、アメリカ第11師団と共に極東第1軍団を編制する事となり、2個師団はアメリカ第11師団の開いた道を真っすぐに西進したのだ。

 3個師団はイルクーツクの西方、ウランウデにて合流する。

 併せて野戦飛行場を整備し、物資の集積を行ってイクルーツク攻略戦に備える事となる。

 

 

――チャイナ(D-Day+37~)

 ソ連の指示を受け、先ずは手を伸ばしやすい相手であるアメリカとその手先であるフロンティア共和国へと矛を向けた。

 チャイナ人を煽り、敵愾心を燃え上がらせたのだ。

 ユーラシア大陸極東域にてフロンティア共和国は、チャイナ人の土地にチャイナ人以外の手によって生み出された国家であり、同時に、周辺国でも随一の豊かさを持った成功しつつある国家であった。

 故にチャイナ人は嫉妬していた。

 チャイナの大地が混乱と戦乱にまみれているにも関わらず、平穏であり豊かである事に。

 そのチャイナ人の心の隙間にチャイナ共産党が囁いた。フロンティア共和国の富はチャイナ人のものであり、アメリカとフロンティア共和国の住人を追い出してチャイナ人が取り戻すべきであると煽ったのだ。

 中華と言う天下無双の大国であったと言う伝統と誇りの欠片を持ちながらも、戦乱と貧困による貧しさとひもじさに絶望していたチャイナ人達は、チャイナ共産党の煽りに乗った。

 フロンティア共和国内のチャイナ人は人的な規模でこそ最大ではあったが、大多数は資本を持たず、又、産業界の主要言語であるブリテン/アメリカ語も日本語も使えない為、待遇の悪い単純労働者が多かった。

 満州もチャイナ人の大地であったにも関わらず、下人の如く扱われている事に屈折した感情を抱いていた。

 であるが故に、アメリカとその配下どもを追い出せば、金銀財宝と豊かな大地は自分達のものであると希望を抱いたのだ。

 フロンティア共和国でアメリカ ―― 外敵追放を叫んだ暴動が続発する事となる。

 この事態に、フロンティア共和国は非常事態を宣言し、問題が続発するチャイナ人とアメリカ人を筆頭とする他民族との間に深い溝が出来る事となる。

 又、シベリア独立戦争に人手を取られたフロンティア共和国はアメリカに対して支援を要請した。

 これにアメリカ政府は、日本を介して朝鮮共和国に対してコリア系日本人傭兵(※2)を手配して対応した。

 暴動などへ酷薄な対応をするコリア系日本人の存在は、フロンティア共和国のチャイナ人を震え上がらせる事となる。

 

 

――イルクーツク・ソ連(D-Day+35)

 アメリカやフロンティア共和国の新聞を介した情報や、高い未帰還率を承知で行われていた航空偵察(※3)によって、接近するアメリカ軍が3個師団の情報を把握した第1赤旗戦線第14赤旗歩兵師団は、絶望した。

 第2赤旗戦線に対して早期の合流を要請したが、合流は簡単では無かった。

 開戦劈頭(D-Day)から日本が断続的にオムスク以西のシベリア鉄道に対して爆撃を行っており、鉄道網はマヒ状態に陥っていたからだ。

 こうなっては、大多数の自動車を持たない文字通りの歩兵師団は、歩いて移動するしかなかった。

 物資の輸送も馬車に頼る有様となった。

 これでは進軍速度が上がる筈も無かった。

 スターリンは日本の戦略爆撃に対応出来る航空機の開発を厳命したが、一朝一夕に開発出来る様なものでは無かった。

 日本の爆撃機は試作品どころか実験室レベルどころか、構想段階の航空機ですら到達不可能な高度を飛んできて爆弾を降らしていくのだ。

 しかも高高度からの爆撃であるにも関わらず、ピンポイントで駅舎や線路を破壊していくのだ。

 手の施しようが無かった。

 ソ連の航空機の状況を纏めたレポートを読んだスターリンは、その夜、深酒をしたという。

 数的に不利であればせめて質的な強化を求め、新鋭のKV-1戦車の早期到着を望んだ第14赤旗歩兵師団であったが、KV-1は砲と装甲こそ1級品であったが足回りとエンジン回りの技術的熟成が殆ど成されておらず故障が頻発し、KV-1を装備する戦車連隊は歩兵にすら劣る速度でしか進軍出来ないでいた。

 この為、第2赤旗戦線はBT戦車を装備した部隊を先にイルクーツクへと先行させる事とした。

 途中で故障して脱落しても、後続の部隊が回収しながら進むので、BT戦車部隊にはわき目も振らずに前進する事を命じていた。

 又、航空部隊の集結を行ってた。

 極東赤旗総戦線司令部は、イルクーツク以西に残っていた航空機約500をかき集めた。

 その上で、ソ連軍上層部に更なる支援を掛け合い、1000余機の増援を勝ち取っていた。

 スターリンが発した命令は極東赤旗総戦線への厳命であると同時に、ソ連軍に対してもサボタージュなど許さぬ過酷さがあるのだ。

 ソ連軍は第3派の増援部隊の編制も進める事としていた。

 

 

――シベリア・沿海州(D-Day+37~40)

 日本軍によって包囲され、攻撃を受け続けたハバロフスク-ウラジオストク打通作戦部隊(以後、HB打通作戦部隊と呼称する)は、それでもスラブ人らしい粘り強さを発揮して1週間は耐えた。

 食料を焼かれ、物資を焼かれ、それでも壕を作って籠り、耐えていたのだ。

 だがそれも1週間が限界であった。

 絶える事の無い砲撃に死傷者が6割を超えた時、HB打通作戦部隊司令部は状況回復の余地が無い事を受け入れた。

 降伏である。

 白旗を掲げて、日本側に人道的処置を願う事となる。

 HB打通作戦部隊が消滅した事をもって、ウラジオストク市長も降伏を決断した。

 第12赤旗歩兵師団司令部もそれを受け入れた。

 既に兵士や市民を問わずウラジオストクの人間の大多数は飢餓状態に陥っており、救援部隊の消滅は彼らの心の支えを完全にへし折る形となったのだ。

 ウラジオストクからの最後の電文 ―― 降伏に関する報告を受けたハバロフスクは、逆に益々もって戦意を高める事となった。

 此方は、包囲下にあるとは言え周辺から食料が調達できる程度には余裕があり(※4)、又、兵力も2個の師団を編制する事に成功した市民部隊、ハバロフスク赤衛師団が居る事もあって未だ降伏する向きは無かった。

 

 

 

 

 

(※1)

 整備する部品の都合上、旅団単位で配備されるメーカーを揃えて居た為、何時しか各旅団は配備された自動車メーカーの名前が渾名として定着する事となる。

 

 

(※2)

 朝鮮共和国軍のレンタルとでも言うべき要請であった。

 朝鮮共和国にとって最大の産業が傭兵であり、アメリカは金主であった為、日本政府の了解が出次第、2個師団規模の予備役兵を徴集しフロンティア共和国へと送る事となる。

 このアメリカからの給与と日本からの地方創成交付金によって、朝鮮共和国は発展していく事となる。

 主要産業は傭兵と鉱山であった。

 尚、朝鮮共和国へと渡った元在日韓国人が重工業などの誘致を要請したが、日本企業は日本政府の指導もあって頑として協力を拒否した。

 

 

(※3)

 アメリカ軍への航空支援はアメリカ陸軍航空隊が行っていたが、その支援を日本のAWACS機が行っていた。

 ソ連からの偵察機、或は攻撃機はAWACS機が離陸直後から把握しており、アメリカ側迎撃機へ的確な誘導を提供できている為、余程の時以外でソ連軍機が帰還するのはあり得ない程の状態になっていた。

 既にシベリア東部の航空優勢を握った日本は、大シンアンリン山脈を越えて西方までAWACS機を安全に侵出させる事が出来ているのが大きかった。

 但し、日本列島の空港からの展開では手間がかかり過ぎる為、フロンティア共和国領内はチチハル近郊に航空自衛隊基地を造成する事となった。

 又、別の問題としてAWACS機が4機しかない為、常時カバーする事が難しい事も問題であった。

 この為AEW機も併せて進出する。

 尚、AEW機の航空管制能力が乏しい為、航空自衛隊チチハル基地には前線防空指揮所が促成で建設される事となった。

 アメリカは、この経験からグアム共和国(在日米軍)から以前よりアドバイスを受けていたアメリカ空軍の創設と、莫大な開発コストの掛かる航空管制機の開発に積極的に取り組んでいく事となる。

 

 

(※4)

 これはシベリアで国家樹立後に首都としてハバロフスクを使いたいと言うシベリア独立派の意向によるものであった。

 過度な破壊をしてしまっては首都としての機能を失いかねない。

 又、苛烈な攻撃をしてしまっては住民の心がシベリア独立派や日本から離れてしまうであろう事が予想された為であった。

 この為、ハバロフスク占領作戦に関しては一種の政治的な作戦となっており、効率は度外視されていた。

 

 

 

 

 

 




2019.05.28 表現の一部変更
2019.06.12 表題のナンバリング修正


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34.1936-08 シベリア独立戦争-07

+

 イルクーツク近郊の航空優勢に関して、ほぼ互角の状態であった。

 質的な面で言えば、グアム共和国(在日米軍)の支援を受けて開発されたアメリカの戦闘機群は金属翼、引き込み脚、密閉コクピットなどと云った同時代の先を行くコンセプトで作られた近代戦闘機であり、特にシベリアに派遣されていたアメリカ陸軍シベリア遠征隊の機体は新鋭機が集められていたのだ。

 ソ連軍機に比べると極めて有力な戦闘機であった。

 日本の先進的な技術力の恩恵を一切受ける事の出来ないソ連製の航空機は、質的な面でアメリカに劣っていた。

 とは言え、如何なアメリカとは言え一足飛びに2000馬力級のエンジンを開発配備出来る筈も無い為、極端に性能が離れている訳では無く、ソ連機でも抵抗は可能であった。

 そうであればソ連は数で圧せば良いとばかりにイルクーツク周辺に戦闘機だけでも500機から終結させ、対応していた。

 正に質と量の戦いとなっていた。

 アメリカは日本のAWACS機による支援を受けている為、効率的な迎撃には成功していたが、数的な不利による劣勢を強いられていた。

 この為、アメリカは日本に対してF-5戦闘機のイルクーツク方面への投入を要請した。

 日本はこの要請に、日本本土で錬成を終えたばかりの航空自衛隊と台湾民国の2個飛行隊で第11航空団を編制して送り込んだ(※1)。

 支援部隊は第10航空団から分派する形となった。

 

 

――イルクーツク航空戦(D-Day+38~52)

 イルクーツクを巡る戦いは、航空戦による航空優勢の奪い合いでもあった。

 日本の戦略爆撃によって航空機の対地攻撃の恐ろしさを十分に認識しあったアメリカとソ連の両軍は、先ずは航空優勢を握る事に注力していたからであった。

 航空戦闘の主導権はソ連側にあった。

 数的優位を盾にソ連側は多方面からの飽和突入の真似事をやっていた為、アメリカ側は撃墜による航空優勢の獲得よりもミッションキルによる自軍防衛に手一杯になっていたからだ。

 この為、アメリカのイルクーツクへの進軍計画が停滞していた。

 第3赤旗戦線本隊の到着まで粘りたい第1赤旗戦線第14師団側としては理想的な展開であった。

 であるが故に、アメリカ側も対抗策を取った。

 日本の航空隊への参陣要請である。

 これによって航空戦闘の天秤はアメリカ側に傾く事となる。

 国内向けの宣伝も兼ねて、F-5戦闘機を装備した日本航空隊が到着した際にはアメリカのマスコミによるインタビューなども行われた。

 アメリカが装備する戦闘機よりも1回りは大きいF-5戦闘機は、風防回りなどの機体各部が航空力学に基づいた洗練された流麗なデザインである事もあってアメリカ人記者の目に、文字通り未来の戦闘機に見えた。

 アメリカ人記者は本国向けの新聞記事で、シベリアの自由を支える為に来た義勇の士(サムライ・キャバリー)と呼び称えた。

 その評判は、実際にソ連軍航空隊と交戦すると共に跳ね上がる事になる。

 出撃を始めるや第11航空団はソ連軍航空隊相手に常に勝利し、アメリカ軍基地にソ連軍機接近を知らせる空襲警報が鳴る事は無くなった。

 アメリカ人記者たちはF-5戦闘機に自由の守護者(フリーダム・ファイター)の呼び名を送り、称えた(※2)。

 慌てたのはソ連側である。

 200余機のソ連軍機を駆逐し、東部シベリアの空を瞬く間に掌握した戦闘機がイルクーツクの正面に来て猛威を振るいだしたのだ。

 慌てるのも当然であった。

 ソ連側は当分の間、積極的な戦闘を控えて消耗を抑える戦略に出る。

 小規模な偵察のみを行い、その間に対応を考えようとした。

 所が、積極性に劣る所の無いアメリカが、イルクーツク周辺の航空的なイニシアティブを握ると共に積極的な行動を開始した。

 既に判明しているソ連軍航空基地への攻撃を開始したのだ。

 この為、レーダーなどを持たないソ連側はイルクーツクからアメリカ軍が集結しているウランウデまでの間に前衛対空警戒拠点を配置し、人の目による早期発見を図った。

 アメリカ軍機の接近が判明すると同時に飛行できる機体を空中避難させるようになり、或は後方の基地へと下げる様になる。

 だが航空機は守れても航空基地の機能は失われて行く。

 航空機を運用する為の燃料や予備部品などの物資も失われて行く。

 瞬く間にイルクーツク周辺のソ連軍航空隊はその機能を失って行った。

 だが極東赤旗総戦線は諦めてはいなかった。

 来るべきアメリカによる総攻撃に備える為、新しい航空基地を作り物資を集積していった。

 日本/アメリカの目を逸らす為、航空機は配置せず、人員すら必要最小限度に抑える程であった。

 その上で毎日襲撃を受ける既存航空基地には航空機の模型 ―― 模擬航空機を隠蔽しながら設置し、自軍がこの基地をまだ使う積りであると日本/アメリカに認識する様に誘導するほどであった。

 技術では負けれども、創意工夫で抵抗しようとする意志があった。

 そんなイルクーツクのソ連軍に1つの朗報が齎された。

 チャイナ共産党の工作員が、ウランウデのアメリカ軍の補給線でもあるシベリア鉄道への破壊工作を成功させたのだ。

 それも複数個所で。

 このお蔭で、アメリカ軍による空爆はピタリと止まる事となった。

 

 

――沿海州・ハバロフスク攻防戦-1(D-Day+41~48)

 完全に日本連邦統合軍第1軍団とシベリア独立軍集成第1師団に包囲されたハバロフスクは、それでもよく耐えていた。

 ソ連側の防衛戦力も増しており、開戦から1月を越えた頃には3個師団を号する程になっていた。

 1つは第11赤旗歩兵師団だ。

 とは言え、その内実は寂しい。

 ハバロフスクに残っていた第11赤旗歩兵師団の歩兵連隊を基幹として、包囲され降伏する事となったハバロフスク-ウラジオストク打通作戦部隊の残余 ―― ハバロフスクに撤退してきた敗残兵で編成されているのだ。

 精々が半個旅団といった規模であった。

 1つはハバロフスクの健全な壮年男子をかき集めたハバロフスク赤衛師団。

 人員こそ10,000名を超えては居るが、訓練も殆ど受けていない民兵であった。

 最後の1つは、ハバロフスク忠勇突撃師団。

 勇ましい名前ではあるが、此方の内情は悲惨そのものであった。戦災孤児となった未成年の子どもや寡婦となった女性たちをかき集めてでっち上げた部隊であった。

 武器すらも十分では無い。

 やけくそ染みた極東赤旗総戦線の命令で編成された部隊であったが、恥と常識、そして良識を残していた第1赤旗戦線の参謀たちは誰もがこのハバロフスク忠勇突撃師団を実戦投入したいなどとは欠片も思っていなかった。

 それでも尚、降伏しないのは第1赤旗戦線にとって一縷の望みがあったからだ。

 第13赤旗師団だ。

 ヤクーツク盆地方面に展開していた第13赤旗師団は、日本第201師団との交戦を重ね敗北を繰り返しては居たが、分散配置されていたが為に、師団本隊が完全に捕捉されずに生き延びていたのだ。

 日本側も航空偵察などで必死になって捜索してはいたが、純然たる歩兵師団 ―― 機械化装備を殆ど持たず、小部隊に分かれて行動する第13赤旗師団を発見出来ずにいた。

 この第13赤旗師団がハバロフスク包囲部隊と交戦した際に、第1赤旗戦線は第11赤旗歩兵師団とハバロフスク赤衛師団を伴って脱出する積りであったのだ。

 ハバロフスク忠勇突撃師団に対しては、降伏するハバロフスクに残し老人や病人、一般市民の保護に当たらせる積りであったのだ。

 だが、事は簡単に終わらなかった。

 日本側が第13赤旗師団の捕捉撃滅の為、そして連戦している日本連邦統合軍第1軍団を休息させる為に、日本連邦統合軍第2軍団を編制し、ニコライエフスクナムーレに上陸させたのだ。

 日本統合軍第2軍団は上陸時点で第2機械化師団、第603自動化師団、そして台湾からの第302機甲旅団で構成されていた(※3)。

 そこに第201機械化師団が日本連邦統合軍第1軍団から移管し、又、シベリア独立軍集成第2師団も編入されていた。

 これは、第13赤旗師団の捕捉撃滅後、素早くシベリア北部を鎮定する事を目的とするからであった。

 日本連邦統合軍第2軍団は、ユーラシア大陸上陸後、素早くソ連第13赤旗師団の捕捉撃滅に動き出す。

 

 

 

 

 

(※1)

 尚、第10航空団本隊は東部シベリアの航空優勢を固める事が出来た事、開戦劈頭から前線に立ち続けていた事も加味されて、朝鮮共和国へと後退させて休養と再訓練を行う事とされた。

 第10航空団の穴埋めは、第8航空団朝鮮飛行隊が行うものとされた。

 後に第8航空団は朝鮮半島へと移動し、第10航空団と共にユーラシア方面飛行隊へと拡大再編成される事となる。

 

 

(※2)

 F-5戦闘機自体はシベリア東部空域での第10航空団所属機の方が派手に活躍してはいたのだが、如何せん自衛隊は文化的な衝突を恐れてアメリカ人記者を積極的に受け入れておらず、又、アメリカ人記者側もアメリカ以外の状況にはさしたる興味も示していなかった為、アメリカの一般人がF-5に触れたのはこれが初めてでたったのだ。

 更には日本側がAWACS機を頂点とする広域のネットワーク戦に関する情報を出さぬ為に、アメリカ人記者に関心を持たれない様に積極的にF-5戦闘機の宣伝を行った。

 記者をコクピットに座らせるサービスすら行った。

 電源の入っていないF-5戦闘機のコクピットはタッチパネルの集合体でしか無い為、電源車を付けて機上訓練モードを一部動かして見せる程の大サービスを行った。

 これによってアメリカ人記者は益々、F-5戦闘機を未来戦闘機であると認識するようになった。

 尚、これ以降に第11航空団はオーバーなネーミングの大好きなアメリカ人たちからサムライ・キャバルリー航空団とも呼ばれる事となる。

 

 

(※3)

 日本連邦統合軍第1軍団の朝鮮共和国部隊である第201機械化師団の活躍がこの派兵に繋がった。

 日本連邦国の中で、元日本帝国の植民地であったという事で、台湾民国と朝鮮共和国は微妙なライバル意識があり、何かと張り合う事が多かったのだ。

 最初は台湾民国側も最精鋭である第301機械化師団の派遣を検討していたのだが、日本防衛総省が止めたのだ。

 チャイナへの抑えとして、台湾から大規模な部隊を抽出するのは良策では無いと説得した。

 この為、第302機甲師団が選ばれたのであった。

 

 

 

 

 

 




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35.1936-09 シベリア独立戦争-08

+

 シベリア独立戦争は開戦から1月以上が経過し、全体の流れとしては日本/アメリカ側に勝利の天秤は傾きつつあった。

 この状況に焦りを覚えたスターリンは、ウラル山脈の麓は西シベリア低地の西方域で行っていた第3赤旗戦線の編成を5個師団2個旅団(※1)で止めて早期にシベリアへと投入する事を決断する。

 その上で、ソ連を戦時体制 ―― 国家総力戦の体制へと移行させ、3桁単位での師団を創設し報復する事を検討した。

 だが、それにソ連の国内事情が待ったをかけた。

 国力を涵養する5ヵ年計画に必要な予算を国民への重税で賄っていたソ連経済は、ここで労働人口を兵士として奪われてしまっては早晩に破産する事になってしまう事が予想されていた。

 国内経済を見ていた官僚たちは、現時点ではソ連経済の不良債権と言って良いシベリアを切り捨てる方が、シベリアの独立を阻止する為に戦費を積み上げるよりも良いというレポートを提出していた(※2)。

 問題は、ソ連とスターリンの面子が潰されるという事であった。

 最終的にはポーランドとの友好関係を強化する事で、ソ連の西方の部隊を投入出来ないか検討する事となる。

 

 

――沿海州・ハバロフスク攻防戦-2(D-Day+48~52)

 第13赤旗師団は1個連隊規模の部隊を囮としてハバロフスクへと移動した。

 この囮に日本連邦統合軍第2軍団は見事に引っかかっり、アルダン高原に向かって誘引されていた。

 ハバロフスクを包囲していた日本連邦統合軍第1軍団は決して油断していた訳では無かったが、降伏せしめたハバロフスク-ウラジオストク打通作戦部隊(以後、HB打通作戦部隊と呼称)の後送その他で人手を取られており、どうしても厳重な警戒が出来ていない状態にあった。

 そのお蔭で、第13赤旗師団は日本軍に発見される事無くハバロフスクまで20㎞の所まで接近する事に成功した。

 そこまで接近した第13赤旗師団は、始めて全力で戦闘行動を開始する。

 その動きにハバロフスクの第11赤旗歩兵師団と、ハバロフスク赤衛師団が呼応。

 3個師団による解囲脱出作戦、対するのは日本も3個師団、第17機械化師団、第601機械化師団、そしてシベリア独立軍の集成第1師団であった。

 とは言え第17師団は降伏したHB打通作戦部隊への対応に動いており(※3)、実質1個師団強規模の戦力での迎撃となった。

 数的不利の上で挟撃された為、第601機械化師団は無理せずに交代。

 問題はシベリア独立軍集成第1師団が頑強過ぎるレベルで撤退を拒否したという事だった。

 スターリンへの恐怖を裏に隠していたシベリア独立軍は、それ故にソ連軍との戦いで必要以上に前に出ようと言う悪癖を抱えていたのだ。

 これには日本連邦統合軍第1軍団も慌てた。

 この様な場所でシベリア独立軍の象徴的位置にある集成第1師団を失う訳にはいかないのだ。

 第17機械化師団で即応できた部隊と第601機械化師団での全力反撃を行った。

 戦いは乱戦となり、容易に極地制圧用攻撃機による航空支援も難しい程に前線が入り乱れる形となった。

 日本側も必死であり、ソ連側も必死となった。

 激しい戦闘は1昼夜に及んだ。

 日本側は戦線を整理し、航空支援で一気に戦闘を片付けようとした。

 ソ連は、そうはさせまいと被害を無視してまで日本側に食らいつこうとした。

 だが、そこで物資の不足が出た。

 如何に戦意が在ろうとも弾薬が無ければ戦えない。食料が無ければ動けない。

 激しく部隊が衝突して2日目の朝、ソ連軍は戦闘能力を喪失し、昼には行動能力すら喪失した。

 そして3日目、ソ連軍は組織的な抗戦能力まで喪失した。

 日本連邦統合軍第1軍団は、急いで南下させた日本連邦統合軍第2師団の部隊と共にソ連軍3個師団を包囲下に収める事に成功した。

 ソ連軍の作戦は失敗したのだ。

 日本は1時間の猶予を与えて降伏を要求。

 ソ連側は、生き残っていた上級指揮官が降伏を受諾する事を選んだ。

 問題はハバロフスクであった。

 同市に残っていた政治将校が徹底抗戦を叫び、ハバロフスク忠勇突撃師団があると宣言したのだ。

 これには市上層部と、傷病者の為に責任者として残留していたソ連軍上級将校も慌て、諌めた。

 だが教条主義的な政治将校は、それらの行為を反革命的だと断じ、捕縛し処罰しようとした。

 この為、ソ連軍責任者は、携帯していた拳銃でこの常軌を逸していた政治将校を射殺する。

 これをもってハバロフスクを巡る戦闘は決着する事となった。

 同時にそれは、シベリア東部域をシベリア独立派が掌握した事を意味した。

 

 

――ハバロフスク・シベリア独立派(D-Day+55)

 ハバロフスクに入ったシベリア独立派は、シベリア市庁舎を借り上げてシベリア共和国の本陣とした。

 そして、日本、アメリカ、オホーツク共和国、フロンティア共和国、朝鮮共和国、台湾民国、ブリテン、フランスの政府代表と共に、シベリア共和国の建国を宣言した。

 シベリア共和国の建国承認は、直ちに国際連盟の議題となった。

 ソ連やドイツ、イタリアの反対の中、G4諸国の根回しもあって多数決により承認される事となる。

 

 

 

 

 

 

(※1)

 2個旅団は、それぞれドイツとイタリアからの義勇部隊であった。

 

 

(※2)

 レポートの作成者は、スターリンから本当にシベリアはソ連経済にとって不良債権であるかの再確認をして来てほしいと頼まれ、西シベリア低地にて木を数えると言う名誉ある仕事を賜る事となる。

 

 

(※3)

 オホーツク共和国の第601機械化師団やシベリア独立軍の集成第1師団は元々がソ連の同胞であった事から感情的なしこりとトラブルが予想された為、第17機械化師団でHB打通作戦部隊の処理 ―― 人員の組み分けと後方への後送作戦を行っていた。

 この上で、シベリア独立軍の集成第1師団は速成部隊である為、練度と装備で不安があった。

 

 

 

 

 

 




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36.1936-10 シベリア独立戦争-09

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 ハバロフスク ―― シベリア東部域の陥落はソ連に予想されていた、だが大きな衝撃を与えた。

 スターリンの機嫌は極端に悪化した。

 スターリンはソ連軍に対してイルクーツクの死守を厳命した。

 だが、ソ連軍首脳陣はスターリンの言葉に唯々諾々と従わなかった。

 日本軍の爆撃機によるインフラの破壊戦術によって、第2赤旗戦線のシベリア輸送が遅々として進んではいない為、一部部隊を無理にでもイルクーツクへと送り込むよりもクラスノヤルスクを要塞化し、エニセイ川を防衛ラインとして活用する事を提案した。

 日本/アメリカ側にとって、中央シベリア高原を越えて補給する事は困難が伴うであろう事から、第2赤旗戦線と第3赤旗戦線の総力を挙げて迎撃する事で日本とアメリカその他の軍を粉砕し、その後、余勢をかって反撃する事を提案するのだった。

 その上でポーランドに隣接する西部から戦力を抽出し5個師団規模の第4赤旗戦線を編制すれば勝てるというのが、ソ連軍上層部の判断であった。

 この意見にスターリンも納得する。

 だがこの戦略は、ポーランドが不戦協定を結ぶ事を拒否した為に難航する。

 正確には、不戦協定に付随して相互に国境線から500㎞の地域に軍を配置しない聖域設定への大反発である。

 余りにもソ連にとって都合のよい要求に、ポーランドは激怒したのだ(※1)。

 交渉を重ねる事で不戦協定自体は合意に達したが、国境線からポーランド軍を後退させる事には失敗する。

 

 

――イルクーツク方面・日本/アメリカ(D-Day+57~)

 重要な補給線であるシベリア鉄道への破壊工作に対応する為、日本はAP-3による哨戒を実施する。

 併せて鉄道の早期復旧に努める事となる。

 全域での復旧に2週間を見る事となった為、この期間、攻勢の手を緩める事となる。

 だが同時に、シベリア東部域で展開していた部隊を集合させる時間ともなった。

 又、シベリア東部を完全に掌握した結果、沿海州などからもシベリア独立軍へ参加する市民が増大し、6個の旅団が追加で編成される事となった。

 装備は降伏したソ連軍の物や、アメリカが世界大戦時に使用していた旧式などであったが、治安維持部隊として速成され、各地に食料生活物資などを持って展開していく事となる(※2)。

 

日本

 日本連邦統合軍第1軍団(3個師団1個旅団)

  第17機械化師団

  第601機械化師団

  第101海兵旅団

  集成第1師団(シベリア独立派)

 日本連邦統合軍第2軍団(4個師団1個旅団)

  第2機械化師団

  第603自動化師団

  第201機械化師団

  第302機甲旅団

  集成第2師団(シベリア独立派)

アメリカ

 第1シベリア軍団(5個師団)

  第11師団

  第14師団

  第2戦車師団

  第1歩兵師団(フロンティア共和国)

  第2歩兵師団(フロンティア共和国)

 

 航空部隊の集結も行われている。

 ソ連側が数で来る事に対応する為、アメリカも陸軍航空隊を追加配備する。

 この為、日本/アメリカ側もイルクーツク方面に宛てられる航空戦力は400機を超える事となる。

 又、この時点で、戦争期間中に限りという暫定措置で日本製の機載無線機がアメリカ軍機にも搭載される事となった。

 これによって、アメリカの航空部隊の運用効率が劇的に向上する事となる。

 

 

――イルクーツク方面・ソ連(D-Day+61)

 現時点でソ連側がイルクーツクに集結出来た戦力は2個師団規模の歩兵部隊と、500機を超える戦闘機部隊だけであった。

 生還率の低い偵察機による強行偵察や、潜伏しているチャイナ共産党からの情報によって、日本/アメリカ連合軍が10個師団を超える戦力を終結させつつある事を把握したソ連は、イルクーツクの防衛は不可能と判断。

 以後、遅滞戦闘を行う事を選択する。

 又、イルクーツクからクラスノヤルスクまでの道中にある都市は物資も建物も全て焼き払う、焦土戦術の命令がスターリンによって厳命される事となる。

 この事が現地住民の怒りを買う事となる。

 重税によって生活はギリギリであったものが、更に戦争によって焼かれる。

 食料も家も。

 その情報を先行して情報収集していたシベリア独立軍偵察部隊が把握し、日本/アメリカの合同司令部へ報告した。

 日本は戦略爆撃機による物流インフラの破壊のみならず、市区町村に向けた宣伝ビラを散布していく事となる。

 これらの事から、ソ連は人民から見捨てられる事となる。

 

 

――チタ・日本/アメリカ(D-Day+61~)

 ソ連の遅滞戦術を把握した日本/アメリカ合同作戦司令部は1つの案を出した。

 機動力と機械的信頼性に優れる装備を持った日本は、その2個軍団をもってバイカル湖を北回りに迂回突破する事で、一挙にイルクーツクを抜いてソ連軍の後方を脅かそうと言うのだ。

 併せて、アメリカ第1シベリア軍団はソ連の耳目を集める為にもイルクーツクを正面から殴り掛かるものとされた。

 作戦名はNutcracker(くるみ割り)作戦とされた。

 日本とアメリカの軍によってソ連軍を挟み込み、一気に叩き潰すのだ。

 ソ連はシベリア鉄道沿線に部隊を集中して配置して居た為、日本の動きを把握出来なかった。

 又、日本の道中にあった村々はシベリア独立派が手を回しており、その動きをソ連に伝える事は無かった。

 そしてソ連による航空機の偵察は、日本が全力で封殺していた。

 この為、ソ連が日本の迂回突破に気付いたのは日本軍の先遣部隊がクラスノヤルスクに200㎞まで迫った時であった。

 同時に、その時点でイルクーツクからクラスノヤルスク間にある大規模な都市にはそれぞれ師団規模で効力部隊を送り込んでいたのだ。

 迂回突破と全面展開である。

 ソ連側はパニックに陥った。

 慌ててソ連軍はクラスノヤルスクの防備を固めつつ、航空部隊による偵察と襲撃を試みた。

 如何に航空機の性能に優れる日本とは言え、クラスノヤルスクはソ連の内懐であり、航空優勢は得られると踏んでの行動であった。

 だが、ソ連機とは比べ物にならない程に足の長い日本のF-5戦闘機部隊は、バイカル湖付近からでも余裕でクラスノヤルスクまでの航空優勢を握った。

 その上で、日本の陸上部隊が持っている防空力があった。

 幸運にもF-5部隊の迎撃を受けなかったソ連軍機であっても、日本の部隊に近づけば片端から撃墜されていくのだ。

 抵抗出来る筈も無かった。

 そして日本を相手に混乱し、航空部隊を振り向けた結果、航空部隊という傘を失い丸裸となったイルクーツク方面に残っていた第1赤旗戦線の2個師団は、アメリカの力押しとも言える攻撃に打ち破られる事となる。

 その上で、撤退すべき後方の無い第1赤旗戦線は、その司令部ごとアメリカに降伏する事となる。

 尚、イルクーツクではアメリカとソ連の戦車部隊の衝突が初めて発生した。

 ソ連のBT戦車隊は、日本の31式戦車でないならとそう負けはすまいとアメリカのM2戦車隊に果敢に戦いを挑んだが、その結果は完敗となった。

 足回りこそ技術的な熟成が進んではいないアメリカM2戦車であったが、攻撃力と装甲に於いてBT戦車を遥かに優越しているのだ。

 その上で、グアム共和国軍(在日米軍)から先進的な戦術を伝授されているのだ。

 負けるはず等無かった。

 この結果、クラスノヤルスクから以東は、たった2週間余りでソ連から切り取られる事となった。

 

 

 

 

 

(※1)

 ポーランドは将来のソ連との戦争を睨んだ国境防衛作戦を策定していた。

 それが500㎞から後退するとなれば、破綻するのだ。

 ポーランドが反発するのも当然であった。

 同時にポーランド政府のスケベ心、ソ連と戦争を行っている日本とアメリカへ恩義を売って何らかの支援を受けようと言う狙いがあった。

 ソ連から反感を買う事にはなるが、元よりソ連は敵国であると覚悟を決めていた為に特には問題視されなかった。

 実際、このポーランドの判断に対する感謝として、日本はポーランドに対する貿易制限を緩める事となり、ODAが実施される事となる。

 

 

(※2)

 日本とアメリカからの低利融資として行われた食料と生活物資の融通は、シベリアの非独立派住民の歓心を買う事に成功する。

 この事がシベリア独立派の足場固めに大いに役立つ事となる。

 一般市民はソヴィエトであろうが無かろうが、先ず生活が大事であったのだ。

 この為、安全の確保された場所から交通インフラの再建に、ODAとして日本とアメリカの企業が出て来る事となる。

 特にシベリア鉄道に関しては、戦争へも直接的な影響を与える為、高い優先度をもって復旧と、複線化が推し進められる事となる。

 

 

 

 

 

 




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37.1936-11 シベリア独立戦争-10

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 クラスノヤルスク以東を失ったソ連は、最終防衛ラインをノヴォシビルスクに定めて戦力の集中を行う事となった。

 市街地の要塞化を推し進め、陸軍は8個師団の歩兵師団と2個師団の戦車師団。ドイツとイタリアから来た義勇旅団が併せて2個居る。

 この他、オビ川北部に3個歩兵師団が広く展開しており、万が一の日本軍による迂回突破を警戒させるのだった。

 時間の掛かる事ではあったが、ソ連にとって幸いな事に日本/アメリカ連合軍も動きがクラスノヤルスクの攻略後、補給線の構築と物資の備蓄、そして部隊の休息と再編制を行う為に不活発化しており、問題は無かった。

 だが同時にソ連の指導者であるスターリンは、この戦争の趨勢からノヴォシビルスクが護りきれると思う程に楽観は出来なかった。

 師団数で言えば、ほぼ同数であり、これにノヴォシビルスクに籠って戦う事を加味すれば彼我の戦力差は倍以上になる。

 だがその計算は今までもしていたのだ。

 戦争の指導者として常に数的優位を得られる様に配慮してきていたのだ。

 にも関わらず、常に一方的に負け続けたのだ。

 であればノヴォシビルスク防衛戦でも、一方的に負けてしまうのではないかとスターリンが危惧するのも当然であった。

 かと言ってシベリアの中心であるノヴォシビルスクを、シベリア独立派を自称する叛徒に明け渡す事は断じて許容できる話では無かった。

 5ヵ年計画で少なくない予算を投じたクズネツク工業地帯が失われるなど、認められる話では無かった。

 故にスターリンは国際連盟を介して日本とアメリカへの停戦を呼びかける事とした。

 バイカル湖以東をシベリア自治州としてスラブ人の自治を認めるので、ソ連への復帰を呼びかけたのだ。

 シベリア独立派に対しては、本騒乱に於ける一切の責任は問わない事を宣言した。

 日本とアメリカに対しては、シベリア自治州内に限って自由な経済活動を認める事とした。

 スターリンとしては大きく譲歩した積りであったが、日本、アメリカ、シベリア共和国は話にならぬと一蹴した。

 既に戦争の大勢は日本とアメリカに傾いており、シベリア共和国の独立も宣言したのだ。

 その様な状況でスターリンの虫の良すぎる提案を受け入れる道理は無かった。

 とは言え、日本とアメリカとてソ連を屈服させる為にモスクワまで進軍するのは余りにも戦争経費が掛かり過ぎるとして、どこかで手打ちをする道を探っていた。

 シベリアの独立戦争は、開戦から3ヶ月目に入ると共に、政治的な色彩を強める事となった。

 

 

――日本(D-Day+65)

 日本にとって一番に憂慮するべき事は、ソ連との戦争にどこまでも引きずり込まれる事である。

 過去の日中戦争の様に何処までも逃げられてしまえば、泥沼の戦争となってしまう。

 まだ日本世論は横暴なソ連への反感で一杯であり、又戦争自体も優位である事 ―― 日本人の死傷者は500名にも届いておらず、そもそも連戦連勝である事が後押しし、戦争に対しては好意的であるが、それが何時までも続くと思う程、日本政府は呑気では無かった(※1)。

 それどころか、いつひっくり返ってしまうかと怯えてすらいた。

 その意味では、話にならぬ内容であってもスターリンが停戦と講和を呼びかけた事は好機であると認識していた。

 とは言え、オビ川以東をシベリア共和国として独立させるのは絶対条件であった。

 独立したシベリア共和国が独立国家としてソ連と対峙し国家を運営する為には、クズネツク工業地帯が絶対に必要であるという計算があったのだ。

 それは、内閣府の下に大学などと連携して作られたシベリアの独立後の国家運営に関する検討本部、通称シベ検による報告書を元にした判断であった。

 沿海州などの資源地帯だけでは、ソ連に抵抗出来ない。

 クズネツク工業/資源地帯を持たずバイカル湖以東でシベリア共和国が独立した場合、シベリアは国力の増進を図る事が困難であり、この場合、独立から10年でソ連の軍事的圧力に抗しかねてソ連との緩やかな連合化、最終的には自治州としての再併合となるだろうと言うのが、シベ検の報告書であった。

 そうなってしまえば、シベリア独立戦争に費やした戦費は全くの無駄になり、沿海州を中心に日本の持つ権益も奪われてしまうだろう。

 その様な事、日本としては断じて認める訳にはいかなかった。

 よって日本は、ソ連の継戦能力の背骨を折る事を検討する事となる。

 標的はスターリン。

 スターリンの心を狙う作戦を検討する事となる。

 

 

――チャイナ共産党(D-Day+66)

 スターリンから命令された、日本/アメリカ連合軍の補給線を叩くという作戦は、執拗なまでの日本の哨戒によって十分に成功出来ては居なかった。

 シベリア鉄道の線路を破壊しようと爆薬を持ち込もうとしても、センサーで把握され問答無用に攻撃を受けるという恐ろしさであった。

 失敗が2桁に達した頃、チャイナ共産党は主目的をシベリアでの破壊工作では無くより後方、フロンティア共和国やウラジオストクでのテロ活動に絞る事とした。

 経済的な混乱が発生すれば軍事活動にも大なる影響が出るという判断であった。

 実際、チャイナ人の少ないウラジオストクは兎も角、構成人口の過半数をチャイナ人が占めるフロンティア共和国での破壊工作は面白い様に成功した。

 この為、シベリア独立戦争に投入予定であったフロンティア共和国の3個歩兵師団が治安維持任務に投じられると言う大金星すら上げる事に成功した。

 だがその代償は大きかった。

 フロンティア共和国内でのチャイナ人の立場が一気に悪化したのだ。

 アメリカは、チャイナ共産党が隠れる人民の海 ―― フロンティア共和国内のチャイナ人社会を徹底的に破壊する事を選んだのだ。

 チャイナ共産党に懸賞を掛け、又、チャイナ共産党を支持した人間は悉く、フロンティア共和国から追放した。

 その上で、犯罪歴のある者も、軽微とは言い難い罪であれば家族もろともフロンティア共和国から追放する事を選んだ。

 空恐ろしい程の弾圧であった。

 アメリカ人入植者にチャイナ共産党員と間違われた無辜のチャイナ人が射殺されるという痛ましい事故もあった。

 だがそれでも弾圧は続けられた。

 労働人口としてロシア人やユダヤ人、果てはアメリカ本土で喰いつめたアフリカ系アメリカ人までもが流入して来ている為、労働集団としてのチャイナ人の価値が相対的に低下していた事が、この事態を後押しする事となった。

 この事が一般のチャイナ人にコーカソイド系を主とするフロンティア共和国構成民族への強い反発を生む事となり、フロンティア共和国は騒乱の大地へと変貌していく事となる。

 この燻っている状態に、チャイナ共産党は油を注ぎ続けるのであった。

 

 

――ソ連(D-Day+67)

 腰の定まらないスターリンであったが、ソ連と言う国家は先に定めた予定に従って、戦力の集中を行っていた。

 対ポーランド向け部隊を残して、第4赤旗戦線として20個師団がシベリアに向けて動員されて行く事となる。

 未だ日本の爆撃を受けていないエカテリンブルグに集結させ、移送を行っていた。

 都合30個師団規模の戦力。

 その報告を見た時、スターリンは恐れおののいた。

 気が付けばソ連の持つ軍事力の半数以上をシベリアに投入している。これが失われてしまえば動員を掛けるしか無くなる。

 その影響は確実にソ連経済を蝕むだろう。

 とは言え、1つの勝利も無く退いてしまえばスターリンの権威に手酷いダメージを与える事になり、ソ連の崩壊すら招きかねない。

 スターリンは決断した。

 G4でソ連に比較的融和なフランスを介して日本/アメリカとの非公式な停戦に向けた協議を行う事を。

 

 

 

 

 

 

(※1)

 実際問題として、野党が国会で連日の如く政府与党を批判し続けている。

 又、教条的憲法固守派にして反戦主義者がデモを行っており、この対応を誤れば、有権者が政府与党を傲慢であると認識する恐れがあり、そうなれば戦争への支持どころか政府与党への支持も吹き飛ぶ恐れがあった。

 この為、政府与党は慎重な対応を行っていた。

 

 

 

 

 

 




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38.1936-12 シベリア独立戦争-11

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 2ヶ月を超えるシベリア独立戦争、日本/アメリカとソ連の正面衝突は恐ろしい現実を世界に教えた。

 日本とアメリカの経済力だ。

 戦費に息切れを起こしつつあるソ連に対し、日本もアメリカも莫大な戦費を費やしているにも関わらず戦時国債の発行などをする事もなく本国では余裕で平時体制のままであった。

 戦況の報道もほぼ無制限に行われており、各国の観戦武官も受け入れていた。

 戦場を見るよりも雄弁に、どちらが勝っているかを教えていた。

 この状況にニューヨークやロンドンの金融市場では、安定した金融資産を求める富裕層が日本国債を求める動きが出る事となる。

 当初日本は日本国債の海外売却には積極的では無かったが、ニューヨークやロンドンの金融市場の意向を受けた両国政府からの熱心な要請を受ける形で発行した日本国債の1割を提供する事となった。

 尚、ソ連も戦費調達の為に戦時国債を発行しようとしたが、大口の買い手が付かぬ有様であった。

 

 

――ノヴォシビルスク攻防戦(D-Day+69~83)

 夏の気配が去りつつある中、本格的なノヴォシビルスクを巡る戦いが始まった。

 ノヴォシビルスクはシベリアの首都と呼ばれる程の大都市であり、ソ連は市民を疎開させていなかった。

 大都市の人口と10個師団を超える兵士を抱えたノヴォシビルスクは、さながら大要塞であった。

 日本とアメリカはこの要塞に対し、敵味方市民を問わず大被害が予想される攻略戦 ―― 市街戦を仕掛ける行うのではなく、ソ連軍ごと都市部を完全に包囲し、補給を断つ事で降伏を強いる予定であった。

 戦費の余裕、補給の充実、戦力の優位がこの横綱相撲とも言うべき方針を日本/アメリカ連合軍に許していた。

 この日本/アメリカの行動を察知したソ連は、第2のハバロフスクを起してなるものかと応戦に出る事となる。

 特にソ連が警戒したのは日本軍であった。

 日本軍がオビ川を渡河し、後方で暴れられては溜まらぬとばかりにありったけの機甲部隊をぶつけた。

 主力は新鋭のKV-1戦車であり、ドイツとイタリアの義勇部隊 ―― 装甲旅団も参加していた。

 地の利を得ていると信じたソ連軍はオビ川の渡河を図っていた日本軍2個師団に、実に1000両近い戦車対戦車車両装甲車部隊で日本軍に殴り掛かったのだ。

 そして敗北した。

 クラスノヤルスク攻略後に再編成された日本軍は、8個師団と大規模化した部隊を纏める為にシベリア総軍を編制する。

 同時に、旧来の第1軍団と第2軍団をそれぞれ軍集団へと改編した。

 渡河命令が下ったのは、その第2軍集団隷下の第21軍団であった。

 所属しているのは第2機械化師団と集成第2師団(シベリア独立軍)だ。

 平成の御代より陸上自衛隊最精鋭師団として名を知られていた第2師団は、タイムスリップ後の拡大再編成で重機械化師団へと強化されていた。

 自走榴弾砲や連隊規模の対戦車部隊などを定数で抱えていた。

 だが一番は、10式戦車3個大隊で編成されている第2戦車連隊であろう。

 100両を超える10式戦車は10倍を超える相手を蹂躙し、壊滅せしめたのだ。

 見た時は死ぬ時(キャッチ・アンド・キル)

 第2機械化師団に連絡将校として派遣されていたアメリカ軍将校は、10式戦車を31式戦車の比では無い、戦車の様な戦車では無い何かであったと評していた(※1)。

 又、アメリカ軍も活躍していた。

 特に野砲部隊は、ソ連軍がノヴォシビルスクの外周に配置していた部隊を片っ端から焼き払っていた。

 制空権を奪って以降は、戦闘機にまで爆装して空襲を行っていた。

 この1連の戦いで5個師団規模の戦力と機甲車両を根こそぎに失ったソ連軍であったが、それでも戦意が折れる事は無かった。

 日本とアメリカに包囲され、補給は断たれ、物資の集積場所へは応射出来ない遠距離から野砲を叩きこまれ、都市外周に配置された重装備は遠距離から戦車砲で狙撃され、川は奪われ戦闘艇も漁船も輸送船も問わず焼き払われ、空は奪われ兵隊が見える所に居れば銃撃が行われる様な状態になってもまだ戦意を保っていた。

 それ程にスターリンは恐ろしかったのだ。

 そのスターリンへの報告は、極東赤旗総戦線は日本とアメリカの帝国主義者に必死になって抗戦していると言うものであった。

 そして、出来るだけ早期の支援部隊の投入、そしてノヴォシビルスクへの補給を望む内容であった。

 スターリンは極東赤旗総戦線に対し、派遣準備中の20個師団のみならず残る航空隊も1000機単位で増援として送る事を約束していた(※2)。

 だが、国際関係の変化が、それを押しとどめる事となる。

 日本とポーランドの接近である。

 

 

――外交・日本/ポーランド(D-Day+74)

 駐ポーランド日本大使館は、ポーランド政府と共同で記者会見を行い、両国の親善と友好を謳ったのだ。

 同時に、その友好の証として日本から土木建機の提供が予定されている事も公表された。

 この発表の場で慌てたのはソ連のマスコミである。

 すわ、ソ連に対する西側からの参戦かと慌てたのだ。

 これに対し日本の大使が、あくまでも平和的な関係である事を強調した。

 その上で、日本から親善団が派遣される予定である事を付け加えた。

 護衛艦むさしを旗艦とする護衛部隊と共に、ポーランドを訪問する予定であると。

 ソ連は恐怖した。

 戦略的存在である戦艦を軽々しく欧州へと派遣する日本の姿勢に、そしてレニングラードに強襲上陸戦をされてしまえばとの想定に。

 日本は平和的であると主張していたが、それをソ連は、スターリンは信じる事が出来る筈が無かった。

 

 

――航空宣伝戦・日本(D-Day+75)

 ソ連の、スターリンの継戦意欲をくじく為、日本はグアム共和国軍(在日米軍)の戦略爆撃機を動員した。

 目標はモスクワ。

 冷戦時代でも、ポスト冷戦期でも行われなかった、米軍機によるモスクワの蹂躙に、爆撃機パイロットたちは色めき立った。

 但し、落とすのは爆弾では無くチラシである。

 早期の停戦を呼びかける、平和を希求する内容のチラシだ。

 それを、ソ連航空隊が到達し得ない高々度から行うのだ。

 宣伝的な爆撃。

 当然、宣伝にはBGMが重要である為、無線 ―― 国際チャンネルでアベ・マリアを流しながら行うのだ。

 爆撃機パイロット達は歓声を上げた。

 只、戦略爆撃機の数は少ない為に日本海上自衛隊からP-1部隊もありったけ動員された。

 こうして都合約100機となった部隊は親善航空隊(モスクワ・エクスプレス)と命名された。

 作戦名はSC(サンタクロース)、誰もがその意味を違える事は無かった。

 

 

――終戦への経緯・ソ連(D-Day+78)

 モスクワの空を侵されて以降、ウラル山脈周辺の都市部にも日本軍機が侵入してはビラを散布する様になった。

 内容は一様に、平和を希求するものであった。

 だがスターリンはその意図を誤解する事無く受け取っていた。

 脅しである。

 必要があればソ連経済にとっての背骨とも言うべきウラル工業地帯を焼き払うと言う。

 スターリンは激怒した。

 だが、激怒したが対応する力は無かった。

 一縷の望みを掛けて、ノヴォシビルスクの部隊に決戦を命じようとしたが、実情を把握しているソ連軍上層部が止めた。

 それよりは、現時点でシベリアを損切りとして切り離し、ノヴォシビルスクの将兵を救出し、将来の捲土重来に備えるべきだと訴えたのだ。

 この訴えに、スターリンは激怒し、その晩はウォトカを痛飲し、翌日、ソ連軍上層部の要請を受け入れるのだった。

 3ヶ月に及んだ戦争は、ここに終結する事となる。

 

 

 

 

 

 

(※1)

 口の悪いイギリス軍観戦武官は、「Type-31は世界にショックを与えた。Type-10は敵に絶望を与えた」と評した。

 

 

(※2)

 この時点でソ連軍航空機の消耗は2000機を越えており、機体よりも1線級パイロットの消耗がソ連軍にとって手痛い事となっていた。

 AWACSの管制下で確認も出来ぬ遠距離からP-SAMを撃って来る日本軍機は兎も角、AWACSによる支援を受けているとはいえ従来の航空戦の延長にあるアメリカ軍機には、開戦当初はある程度は抵抗出来ていたソ連軍航空隊が、熟練パイロットの払底に伴いキルレシオが一挙に悪化しだしていたのだ。

 ソ連航空隊は規模こそまだまだ1級であったが、その戦力としての価値は急速に失われつつあった。

 それでも、日本/アメリカによる空爆が行われようとすれば、ノヴォシビルスクの士気を護る為にも出撃せざる得ぬのだ。

 ソ連航空隊は、傷の止血をせぬままに戦っている様なものであった。

 

 

 

 

 

 




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39.1936-13 シベリア独立とその周辺余波

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 3ヶ月に及んだ戦争は、その最後の戦いの場所であるノヴォシビルスクにて講和条約が結ばれた。

 内容はオビ川以東をシベリア共和国の地として認め、オビ川以西をソ連の地として認める相互承認と、不可侵条約の締結であった。

 全くと言って良い程、良い所の無かったソ連は、この後、スターリンが国内引き締めの為の粛清を強化していく事となる。

 

 

――シベリア共和国

 独立に成功したシベリア共和国は、その存続の為に日本とアメリカとの間に様々な条約を締結する事となる。

 安全保障条約は東ユーラシア安全保障協定として、シベリア共和国とフロンティア共和国、そしてユダヤ人の自治国であるパルデス国(※1)を日本とアメリカが保証するものとなった。

 これは、同時に日本とアメリカの公式な同盟関係の始まりともなった。

 不足する食料や各種物資の供給に関しても、この安全保障協定の中で解決する事となる。

 その上でシベリア共和国は、民主主義国家として成り立って行く為の試行錯誤を続けていく事となる。

 経済的には、当面は日本とアメリカの企業活動による雇用が主的なものとなり、民族資本の涵養が遅れる事に関しては目を瞑る事となった。

 その代わり日本とアメリカに対しては、シベリア共和国内での経済活動の自由を与える対価として、法の遵守を厳格に行う事を要請する事となる。

 

 

――日本/シベリア共和国・国防交渉

 シベリア共和国から日本は戦車や航空機の売却要請を受ける事になる。

 当然、シベリア独立戦争の際に高性能を見せつけた10式戦車やF-5戦闘機を念頭に置いた要請であった。

 この交渉の場で日本は素直に10式戦車やF-5戦闘機はその調達コストや運用コストを開示し、それでも欲しいのかと尋ねた。

 シベリア共和国側は、その余りの高コストさに衝撃を受けて、謝辞する事となる。

 とは言え、国防にその2つが欠かせない事もあり交渉を重ねる事となる。

 31式戦車ですら、シベリア共和国からすれば高性能ではあるが高額過ぎる為、数を揃える事が難しかった。

 この為、シベリア共和国は戦車に関しては当面はアメリカ製のM2戦車を導入する事で対応する事となった。

 同時に、日本政府に対して廉価な戦車と航空機の開発を要請する事となった。

 日本としても簡単に供給できる戦車などの重要性が認識された為、第3国向け装備の開発が行われる事となる(※2)。

 又、戦車等の戦闘用のみならず、トラック等も大量に日本から購入する事となる。

 この為、自動化と言う意味ではG4を除く国家としては1番先進的な軍隊へと成長する。

 又、この影響によってシベリア共和国内で自動車の運転能力、機械に触れた人間が劇的に増えた事が、シベリア開発への機械力の導入を簡単にした側面があった(※3)。

 

 

――パルデス国

 ユダヤ人のユダヤ人によるユダヤ人の国家として、建国された。

 その建国に関してはアメリカ内のユダヤ系財閥のサポートもであるが、ブリテンの支援も大きかった。

 世界大戦に於いて発行した空手形を、回収する為、全力で支援していた。

 とは言え、立地的には同盟関係にあるフロンティア共和国とシベリア共和国に囲まれている為、安全無比であり、心配は無かった。

 只、産業が乏しい為、主要産業は近隣諸国への出稼ぎ状態であった。

 乏しい財政の中、東ユーラシア安全保障協定に戦力を抽出している。

 

 

――アメリカ・フロンティア共和国

 シベリア独立戦争が終結した為、それまでは後回しにされていたフロンティア共和国内でのチャイナ共産党対策である。

 又、チャイナ共産党に扇動された一部のチャイナ人である。

 アメリカ政府は、シベリア独立戦争に投入していた各部隊をチャイナとの国境線に配置し、チャイナ人のフロンティア共和国への流入を阻止する事とした。

 この為に、日本に対して航空機による支援(※4)を要請する事となる。

 又、アメリカはフロンティア共和国-チャイナ間の国境線に関して、2km程の有刺鉄線による侵入禁止地帯を設置し、その地帯に入った者は不法入国者及び不法入国手配者として処断する事とした。

 物理的に、フロンティア共和国への窓口を絞る政策に出たのだ。

 この政策に対し、チャイナからはチャイナ人の蔑視政策であると強い反発が出たが、アメリカは不法入国を図る犯罪人に掛けるべき情けは無いと相手にもしなかった。

 又、フロンティア共和国内部での戸籍制度を厳格化する事とチャイナ共産党の情報に懸賞金を掛ける事で、チャイナ共産党のあぶり出しにも努める事となった。

 一連の政策は、フロンティア共和国内のチャイナ人も反発する事ともなった。

 だが、フロンティア共和国は、この政策に非難をした人間に厳格な対応を行い、力任せで沈静化させた。

 声を上げた人間は等しくチャイナ共産党関係者であるかと疑われ、最悪の場合には一族郎党が皆、フロンティア共和国から追放される憂き目にあうのだ。

 そんな状況下で声を上げ続けられる人間など居る筈も無かった。

 又、フロンティア共和国内でのチャイナ共産党の破壊活動の被害はチャイナ人にも等しく訪れており、同時に、被害にあった他民族人から白い目で見られる状況が続いた為、最終的にはフロンティア共和国で一番にチャイナ共産党を嫌うのはチャイナ人となった。

 

 

――ソ連

 大幅に国土を失ったソ連、スターリンはその元凶をソ連赤軍の不甲斐なさであると断じ、軍への粛清を強行した。

 だが同時に、尉官級より下の人員に対しては手厚い対応を行った。

 又、持ち帰れた少なく貴重な戦訓を元に、戦車や航空機の開発を進める事となった。

 戦車は、自信を持って送り出した筈のKV-1が惨敗に終わった為に力を入れて開発が行われる事となった。

 機動力よりも攻撃力と防御力とを優先して日本戦車部隊と正面から戦える重戦車と、快速をもって日本戦車部隊を迂回突破して後方を破壊出来る機動戦車の2種類の開発を推し進める事となる(※5)。

 

 

――ドイツ・イタリア

 義勇部隊はごく一部しか生還しなかった。

 装甲車両は全て失われた。

 この為、得られた戦訓は、現有の戦車では日本の戦車に全く歯が立たないというだけであった。

 イタリアは重工業の限界から、ソ連に共同での機動戦車の開発を持ちかけた。

 ドイツは、10式戦車の延長線上にある31式戦車を100両保有する事となるフランスの存在に恐怖した。

 この為、本格的な50t級重戦車の開発に邁進する事となる。

 

 

 

 

 

(※1)

 パルデスとはヘブライ語で楽園の意味であり、この建国がユダヤ人にとってどれほどの願いであったかが良く判る命名となっている。

 当初はユダやジオン、イスラエルなどの名前も候補に挙がっていたが、最終的には中東に戻れた場合に使う名前として残された。

 

 

(※2)

 安価である事と、同時期の諸外国装備に優越する事が重視されている。

 同時にネットワーク戦非対応と、過度の先進技術(主に電子機器)を投入しない事も定められた。

 先ずはシベリア共和国向けに戦車と、足回りを共通化させた装甲車の開発が決定した。

 航空機はコストの面からエンジンの新規開発は行わず、アメリカから1000馬力級空冷エンジンを輸入し、それを再整備して採用した防空戦闘機の開発が決定した。

 只、航空機エンジンに関して購入相手の都合を考える上で水冷エンジンも選択肢に含める事を一部のメーカーが主張した為、別個に開発する事となった。

 2機種の並列開発に関しては、航空機開発技術者の養成を兼ねる面があり、若手主体で行われた。

 これは同時に、ベテランが関わっている戦略爆撃機開発が大詰めを迎えている事も原因であった。

 又、実戦投入されたAP-3制圧攻撃機の不具合 ―― 105㎜砲の反動の大きさに機体の構造へ過度の負担が掛かってしまった為、シベリア独立戦争後半で飛べる機体が半減してしまった事への対応にベテラン勢の手が掛かっているのも大きい。

 AP-3はシベリア独立戦争で大なる戦果を挙げている為、今後とも運用していく為に不具合の解消と共に様々な改良がおこなわれる事となっている。

 

 

(※3)

 農業に関して、日本が関与した事で農作物の品種改良を推し進める事となり、西シベリア低地での開拓事情が本格化していく事となる。

 昔ながらの村ではなく、企業化された大規模開拓事業団の様な村が幾つも西シベリアに出来る事となる。

 簡単に成功する訳では無いが、営々と努力が続いていく事となる。

 

 

(※4)

 日本に要請したのは空中からのセンサーによる不法入国者の捜索であった。

 日本はAP-3と、無人偵察機を派遣する事となる。

 この対価として1000馬力級エンジンのアメリカ国内向け価格での提供と、自由な改造を認める破格の権利をアメリカは日本に提供したのだ。

 

 

(※5)

 機動戦車開発に関する判断は、ソ連軍が10式戦車の情報を上手く得られなかった事が大きい。

 遠距離から一方的に殴殺された為、10式戦車の能力を図りきれなかったのだ。

 

 

 

 

 

 




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40.1936-14 スペイン内戦-1

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 ユーラシア大陸の東側で激しい戦争が行われていた頃、同時に西端であるスペインで内戦が勃発していた。

 世界大戦の後に国内情勢の悪化していたスペインは、政権派と革命派とに分裂し、血で血を洗う内戦へと突入していたのだ。

 その状況に国際社会は積極的な対応を取れずにいた。

 誰の目にもスペイン政府の統治能力は破綻していたが、革命側が旗印とするのがドイツやイタリアの流れをくんだ国家社会主義であってはG4 ―― 欧州の管理者を自認するフランスとしては、積極的な支援を行いたいものでは無かった。

 又、純然たる国内問題である為、国際連盟としても関与し辛いというのが実情であった。

 

 

――ドイツ

 国際社会が腫れものを扱うが如く見ているスペイン内戦に、公然と革命派を支援する国があった。

 ドイツである。

 国家社会主義の同胞として、圧政を行う支配者を打倒する為に協力すると宣言して資金や物資の融通、機甲部隊や航空部隊を含めた大規模な義勇軍の派遣を行ったのだ(※1)。

 機甲部隊に関しては、ソ連に派遣されていた部隊とは違い、各種の実験的な戦車や装甲車も含まれて居た。

 ソ連へ送った部隊とは異なり、スペイン内戦に投入した部隊は新兵器の実証実験や運用テストを兼ねていたのだ。

 主力は、新鋭と言って良い25t級のⅢ号戦車は、フランスの数的な主力であるS34戦車に対抗する為、傾斜装甲を採用した事や長砲身7.5cm戦車砲を保有しており、現時点で欧州最良の戦車であるとドイツ人は誇る戦車であった。

 だが、フランスがJ36として導入する事となった日本製のType-31戦車に対抗するには非力であった。

 フランスへの諜報工作で判明したJ36は40t級の車体と、105㎜戦車砲を持つ破格の重戦車であるのだ。

 ドイツ陸軍は、J36はその重量故に鈍重であろうから機動戦を行えば後方に回り込む事は可能であり、そうなれば撃破可能であると判断していた。

 だが、その判断に怒りをもって否定した人物がいた。

 ヒトラーである。

 如何に100年先の技術的優位があるとは言え、東洋人の製造物に欧州人の、アーリア人の生み出すものが劣るのは許せるものではないと演説をしたのだ。

 その上で、J36を正面から撃破可能な戦車の開発を命じていた。

 ヒトラーの至上命題、その成果がスペイン派遣義勇部隊に含まれて居た。

 戦闘重量70tにも及ぼうかと言う超重量級戦闘車両、試製駆逐戦車VK65だ。

 制式にはVK6505(P)と言う。

 試作車両の為1両のみであるが、主砲は長砲身12.8㎝砲を搭載しており、数値の上ではJ36を遥かに凌駕する化け物であった。

 ドイツで行われた義勇部隊の結成式典で華々しく紹介され、世界中に衝撃を与える事となる。

 とは言え、これが戦車では無く砲塔の無い駆逐戦車として完成したのは、ドイツの技術的な限界であった。

 足回りもエンジンも、10kmも動かさぬ内に重整備を要求するほどにデリケートな代物で在り、とても軍で制式化される様なものではなかった。

 正式な命名をされる事無く、計画名であるVK6505(P)を略したVK65という名で呼ばれているのも、この為であった(※2)。

 ドイツ陸軍としては、如何に強力であってもこの様な運用に大なる問題を抱えた車両など採用する気は一切無いのだが、ヒトラーの肝入りという事で、義勇部隊に含まれて居た。

 

 

――イタリア

 ドイツと並ぶ国家社会主義国家ではあったが、国力的にソ連に送った機甲部隊が義勇兵として出せる精一杯であった為、イタリアはドイツへの対抗心から義勇部隊の派遣自体は行う事を宣言したが、歩兵主体での派遣となった。

 

 

――スペイン政権派/フランス

 ドイツの大規模な義勇軍、特に装甲部隊の存在はスペインの政権与党を慌てさせた。

 Ⅲ号戦車を筆頭とするドイツ軍戦車部隊に対抗できる部隊はおろか戦車すら政権派のスペイン軍は保有していなかったからだ。

 社会主義という誼でソ連に接触を図るが、この時点でソ連は日本/アメリカとシベリアを巡っての戦争をしている最中であり、義勇部隊どころか戦車、戦闘機の類をスペインに提供する余裕など一切無かった。

 この状況に絶望したスペイン政権派は、一縷の望みを掛けて国際連盟に訴えた。

 だが国際連盟の安保理は、スペインの状況が純然たる内戦である事から、干渉しかねていた。

 特に戦争中の日本とアメリカは、欧州の事は欧州で決めるべきではないかとの態度で臨んで居た為、スペインにとってとても頼れるものでは無かった。

 国際連盟の声明として、政権派も革命派も問わず人道的な対応を訴えるという玉虫色なものが出される程度でしかなかった。

 この為、スペイン政権派は反ドイツを鮮明にしているフランス政府へ接触する事となる。

 内戦終結後に民主的な選挙をする事を確約する事で欧州の盟主を気取るフランスの気持ちをくすぐり、同時に実利としてドイツ軍の新鋭戦車と戦った際の戦訓を全て提供するから戦車などの装備の融通を要求したのだ。

 この事にフランスの陸軍が、新鋭のS34戦車の実戦テストを行う好機であると反応した為、フランスはS34戦車を装備する1個連隊を基幹とする義勇部隊を派遣する事となった。

 S34戦車は23t級の車体に、軽量な75㎜野砲を主砲として搭載しており、奇しくもドイツ軍の主力であるⅢ号戦車と似た諸元を持っていた。

 但し諸元には出ない違いは大きかった。

 日本製のJ36を介して得た先進的な設計思想を取り入れられたS34戦車は装甲配置や内部装甲、或は足回りや通信設備などの面でⅢ号戦車に優越していると言うのがフランス人の判断であった。

 それを実証すべく、スペインへと赴くのであった。

 

 

――ブリテン

 フランスもドイツも新兵器の実験場としてスペイン内戦を捉えた事に、ブリテンも乗る事とした。

 特に、ドイツが持ち込んでいる新鋭戦闘機の性能を把握する為、義勇部隊として航空部隊をスペイン政権派に派遣する事とした。

 建前としては、フランス同様に内戦終結後の公平な選挙の開催である。

 その上で、国際連盟を動かしてブリテンに、スペイン内戦に於ける非人道的な戦争行動が発生しないかの監視業務を依頼させたのだ。

 これによって、ブリテンはスペイン政権派として軍を派遣するにも関わらず、その運用に於いては自由度を確保した。

 その上で、現在日本の協力を得て鋭意開発中の40t級重突撃戦車(※3)が完成すれば、スペインでの実用試験を行う積りであった。

 

 

 

 

 

 

(※1)

 尚、政権側がソ連と友好関係にある社会主義者である事は、政府発表などからは削除されていた。

 ドイツとソ連との関係を阻害する要素は、世論統制によって慎重に排除されていた。

 

 

(※2)

 尚、VK65は、ヒトラーの命令によって急遽、開発製造された車両であった為、それまで研究されていた50t級戦車計画案のものを流用している。

 この為、65tと言う重量に耐えかねていたのだ。

 又、旧来の計画を流用した為に、装甲も垂直装甲を多用した古臭いものとなっていた。

 主砲に関しては、特注で1門のみ製造された12.8㎝砲であり、こちらも余りにも大きく重量過多であり、戦闘車両に搭載するのものとしては甚だ不適格であった。

 当初は10.5㎝対空砲を転用したものを搭載する予定であったのだが、ヒトラーよりJ36よりも大口径である事が求められた事が、この事態となっていた。

 これらの事からVK65は、ドイツ陸軍内部で”ヒトラーの玩具”と揶揄されていた。

 尚、このVK65のスペインへの輸送に関しても大問題となった。

 余りにも重量過多により通常の輸送船では搭載する事も困難であった為、分解状態で、それもクレーンや船体構造を強化した専用の輸送船が仕立てられる有様であった。

 難物であるVK65であったが、その尋常では無い装甲と大口径砲は戦場で充分に活躍する事となる。

 

 

(※3)

 開発開始時には30t級とされていたが、Type-31を念頭に日本と共同で行った概念研究で、歩兵戦車や巡航戦車といったブリテンが以前から有していた戦車では戦場で充分な活躍が困難であると判明。

 これによって、防御力と機動力とを兼ね備えた戦車を開発する為には大型化が必要であると理解し、計画を拡大変更したのだ。

 40t級はインフラに与える負担が極めて大きいが、敵の戦車に勝てぬ戦車では意味が無いとの判断が勝ったのだった。

 敵の戦車の攻撃に耐えられぬ戦車では無駄であり、敵の戦車を捉えられぬ戦車では無価値である。

 冷静な判断であった。

 この為、従来の分類とは異なる突撃戦車 ―― 主力戦車と言う概念が生み出された。

 これはブリテンの先見性であり、同時に、明確な敵を持たぬが故の精神的余裕の産物であった。

 この様に先進的な40t級重突撃戦車であったが、そうであるが故に開発が難航していた。

 エンジンこそ開発中であった航空機用の水冷エンジンの800馬力級モデルの搭載とすんなりと決まったが、40t級というブリテンとしては空前の大重量を支える足回りの開発は難航する事となる。

 又、主砲も70㎜以上の長砲身大口径を開発する事となり、此方も時間を必要としていた。

 

 

 

 

 

 




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41.1937 ドイツの策動

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 ソ連とスペインに義勇軍と物資を提供したドイツに、看過しえない問題が発生した。

 国庫の枯渇である。

 G4 ―― 主にフランスの敵視政策によって、特にヨーロッパ域内での国外向け経済活動が活性化させ辛い立場にあったドイツの経済は低調であった。

 ヒトラー政権になって以降の経済政策によって雇用自体は劇的に向上してはいるのだが、経済規模の伴わないそれは、労働者の賃金増大や消費活動の拡大をもたらしては居なかった。

 それ故に税収は拡大せず、国庫は苦しいままであったのだ。

 この状況下で外貨を消費したソ連やスペインへの協力は、ドイツに重くのしかかったのだ。

 資源不足こそ、ソ連からの輸入(※1)で一息を吐く形とはなっていたが、ドイツの外貨不足は深刻であった。

 この為、ドイツは非G4諸国への工業製品の売却の道を探す事になる。

 大口なのはチャイナであったが、その次に南米諸国への売り込みを図る事となる。

 

 

――チャイナ

 チャイナ共産党が火を点けたチャイナ人民による反アメリカの機運は収まる所を知らなかった。

 チャイナの各地で、一般のアメリカ人が犯罪に遭う事が多くなった。

 この為、アメリカ政府は自国民に対してフロンティア共和国や上海、香港など以外での活動を自粛する様に呼びかける事となった。

 結果として、チャイナ本土で流通するアメリカ製品は減少する事となる。

 この隙間を突くように、ドイツはチャイナに対して輸出攻勢を掛ける。

 元よりドイツとチャイナの関係は良好であった為、対アメリカ戦(※2)を睨んでドイツ製の戦車や戦闘機を大量に購入していく事となる。

 ドイツは、アメリカのM2戦車に対し自国のⅢ号戦車が攻撃力と機動性では優位であるが、装甲に於いてはやや不利である事を認識しており、チャイナに対しても、Ⅲ号戦車の改良型を提案した。

 Ⅲ号戦車C型である。

 エンジンと足回りを強化し、その上で装甲を強化したモデルである。

 A型に比べて4tもの重量が増した29tというⅢ号戦車C型は、傾斜地などでの運用には神経を使う部分もあったが、シベリア独立戦争での戦訓を元に改良された新鋭戦車と言う売り込み文句はチャイナ人の心を捉えた。

 その他、外見でも強そうに見えるⅢ号戦車C型はチャイナ人の好みであった。

 最終的にチャイナはドイツに400両ものⅢ号戦車C型を発注する事となる。

 200両はドイツ本国から完成品として輸入し、100両はチャイナに部品を輸送して組み立てるとし、そして最後の100両はチャイナで製造する事とされた。

 又、運用実績次第では更なる購入契約を結ぶ事がドイツとチャイナ間で取り決められた。

 併せてドイツから軍事顧問団を招聘し、チャイナは機甲部隊の育成に全力を傾ける事となる。

 この時点でフロンティア共和国に存在する戦車は、フロンティア共和国軍2個戦車旅団分と、アメリカ機械化師団の分だけであり、200両を超える程度であった。

 チャイナは倍の戦車で殴れば勝てるとの算段をしていた。

 その他、航空優勢の確保の為、戦闘機に関してもチャイナはドイツに大量発注を行う事となる。

 ドイツ経由で齎されたシベリア独立戦争の戦訓は、それだけの脅威をチャイナに認識させるに至っていた。

 如何に大量の戦車を揃えても、空から潰されては意味が無い ―― そう思わせられるだけの被害を、ソ連陸軍は航空機によって受けていたのだ。

 ドイツはチャイナに対して、新鋭の1000馬力級水冷エンジンを備えた戦闘機の売却を了承した。

 

 

――ドイツ

 国庫の不足をチャイナとの交易で幾分か補う事に成功するが、それで何とかなる程にドイツの経済規模は小さく無かった。

 その事がヒトラーに1つの決断をさせる事となる。

 中欧の掌握である。

 ドイツへの敵対行動を隠しもしないポーランドは無理にしても、オーストリアや周辺諸国を併合すれば、それらの国の中央銀行にある資産を収奪しドイツ経済は一息つく事が出来る。

 その上で、ドイツ経済は労働者を手に入れる事が出来るのだ。

 労働者の入手先として当初はトルコとの提携も考えられていたのだが、ドイツがソ連と接近した為、その話は御破算となっていた。

 この為に中欧と中東、そして南米へと手を伸ばす事となる。

 

 

――中欧

 フランスとポーランドが音頭を取っている反ドイツ連帯であるが、オーストリアやチェコ・スロバキアといったドイツの裏庭とも言うべき国家群への影響力はそこまで大きなものとはなっていなかった。

 それよりも世界大戦の影響で政治的に不安定な状況が続いていた事から、ファシズムの台頭とドイツへの親近感 ―― 大ドイツ主義へと回帰する事態となっていった。

 この状況にヒトラーは乗る。

 フランスやポーランドとの戦争リスクはあるものの、外貨不足に苦しむドイツにとって、中欧諸国の中央銀行が保有している外貨や金塊が余りにも魅力的であったのだ。

 ドイツは大ドイツ主義による大団結と、ゲルマンによる生存圏確立に向けた宣伝を深めていく事となる。

 

 

――中東

 ブリテンが軟着陸を図っている中東の独立指向への対応に、真っ向から逆らう様な行動をドイツは取る事となる。

 各地域の独立強行派に秘密裏に接触しドイツへの留学を招聘したり、頭脳労働者や一般労働者を問わずにドイツ国内の仕事を斡旋したのだ。

 この他、秘密裡に武器の売却にまで手を広げていた。

 主としては小火器などであったが、一部は戦車すら含まれて居た。

 これらは、イタリア領東アフリカへの輸出品目に混入させる事でイギリスの目を誤魔化していた。

 中東の大地は既に、日本の石油需要によって潤滑な資金があった為、ドイツにとって良い金蔓へと育って行った。

 この時点でブリテンが把握していたのは、ドイツへの留学の増大だけであり、ドイツの策謀に気付く事は無かった。

 

 

――南米

 ドイツが資金源として主目標としたのは軍事独裁政権下にあるべネズエラであった。

 基本的に親米路線を取っているベネズエラであったが、政権首脳陣への賄賂攻勢を行う事で、ドイツに対する融和政策を行わせる様にしたのだ。

 その上で、戦車や装甲車などの最新兵器を惜しげも無く販売する事を約束したのだ。

 南米を自らの裏庭とするアメリカであったが、そうであるが故に、地域の安定性を損なう危険性のある武器の売却に関しては慎重であったことが

裏目に出てしまい、ドイツとベネズエラの接近を許す事となる。

 ドイツはベネズエラへの接近を足掛かりに、かつてファシズム政権を立てていたアルゼンチンへと接触を図る事となる。

 アルゼンチンは、内政の混乱と外交の失敗の重なりによってイギリスの属国の様な立場に立たされており、その国民と軍部の不満に乗る形となった。

 

 

 

 

 

(※1)

 ドイツとソ連の交易は、事実上のバーター取引であった。

 ソ連が必要とした工業力や、工業製品の対価として鉱物資源や原油などを輸入していた。

 ソ連とて重工業の発展によって旺盛な内需を抱えてはいたのだが、皮肉にもシベリア以東を喪失した事によって資源の消費先が減少して居た為、ドイツの需要に答える事が出来ていた。

 

 

(※2)

 チャイナ共産党の扇動によって、チャイナ人には等しく1つの思いを持つようになった。

 それはチャイナ人の大地である満州からアメリカ人を追放してこそ、チャイナの栄光は蘇るというものである。

 他のG4、特にアジア人であり中華の序列に含まれている筈がチャイナを尊重しない日本人は憎たらしい敵であった。

 そしてチャイナの大地を侵食するアメリカが、ブリテンが、フランスが敵であった。

 それら4ヵ国民は、中華の秩序を乱す者たちという意味で“四夷狄子”という蔑称が付けられる事となる。

 同時に、チャイナ政府はドイツは友好国であり、中華秩序に下らぬものの徳のある国家であると遇するように宣伝を繰り広げる事となる。

 

 

 

 

 

 



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42.1938-1 戦車開発競争/G4

+

 シベリア独立戦争の戦訓は、各国に戦車の開発競争を呼ぶ事となった。

 十分な装甲を持ち、高い機動力を持ち、あらゆる戦車を打破し得る火力を持った戦車が望まれる時代である。

 

 

――アメリカ

 シベリア独立戦争に於いて実戦投入されたM2戦車は、その足回りこそ技術的な未成熟故のトラブルを多発はしたが、火力と装甲はソ連BT戦車を相手に充分な効果を発揮し、一方的な勝利を得る事に繋がった。

 だが同時に、日本と交戦したKV-1戦車に衝撃を受ける事になる。

 主砲こそ76㎜と、M2戦車とほぼ同格の火力を持つKV-1であったが、車重45tが与える重装甲は圧倒的であった。

 M2の主砲である75㎜は90㎜砲の開発の遅延によって代替として搭載されたものであり、元が1900年代以前に開発された野砲であった為、KV-1の正面装甲を打破するのは極めて困難であった(※1)。

 この事から、アメリカ陸軍は鋭意新鋭の対戦車90㎜砲の開発を進める事となる。

 当初はM2戦車を改良し搭載する予定であったのだが、シベリア独立戦争の戦訓があった為に車体構造から一新した新型戦車として生み出される事となった。

 M3中戦車。

 新開発の90㎜砲を持ち、重量は32tとなった。

 アメリカ陸軍としてはより装甲の厚い戦車を求めていたが、アメリカ本土で製造し、海上輸送をすると言う必要から、重量を抑える必要があったのだ。

 この決定にアメリカ陸軍は不満を覚える。

 再びソ連と戦争をする事となった場合、M3戦車ではKV-1戦車やその後継と戦うには明らかに装甲が不足しているのだから。

 この為、火砲その他を部品としてフロンティア共和国に持ち込み、同地の重機工場で製造する体制の構築を図った。

 打倒KV-1戦車。

 アメリカ陸軍の不安と不満が行わせた行動であった。

 この結果、重量制限の撤廃される事となる戦車は、仮称F(フロンティア)戦車として開発が行われる事となる。

 更なる長砲身化した90㎜砲と40tを超える重量を持つ事実上の重戦車開発であった(※2)。

 

 

――ブリテン

 日本との共同で行われていた重突撃戦車の開発が漸く終了する。

 チャレンジャー戦車である。

 新開発の17lb.戦車砲を持ち、傾斜装甲と空間装甲を持った42tの重戦車 ―― 事実上の主力戦車の誕生である。

 開発に時間が掛かった理由は、チャレンジャー戦車が単なる高性能戦車ではなく、今のブリテンで量産し整備する事が安易に成し得る戦車として望まれた事が理由であった。

 その意味でチャレンジャー戦車は、日本の持っている戦車に関するノウハウを吸収する為の戦車でもあった。

 そして、チャレンジャー戦車開発で蓄積したノウハウを元に、歩兵戦車の後継である機動砲車が開発された。

 チャレンジャー戦車のコストが高額である為、戦車部隊向けの巡航戦車は兎も角として歩兵部隊に随伴する歩兵戦車まで更新するのは負担が大きすぎるのだ。

 歩兵に随伴できる程度の機動力と、戦車以外の目標を破壊できる火力、歩兵程度の火力から身を護れる程度の装甲を持った、低コストな車両として機動砲車は開発される事となった(※3)。

 新規開発された6lb.対戦車砲を主砲とし、重量は18tに抑えられていた。

 軽量化の為、鋳造された砲塔は薄い装甲ながらも傾斜を充分に計算されて作られており、G4や列強以外の国から見れば立派な戦車であった。

 否、それどころか高威力な6lb.砲によって、ドイツやソ連にとっては40t級以上の重戦車以外では撃破されかねないパンチ力を持った厄介な相手であった。

 尚、コストを下げる為、日本の企業の支援を受けてトラック向けに開発したディーゼルエンジンを搭載していたのだが、車体重量の軽さから軽快な機動力を発揮した。

 この為、ソ連などは軽戦車と判断していた。

 命名はバンク、歩兵部隊の堤防となる事を期待されたバンク機動砲車となった。

 

 

――フランス

 日本から導入したType-31戦車 ―― J36戦車を装備した事によってドイツに対する正面戦力の優位性を確保しているフランスであったが、補助戦力を見た場合、ドイツがⅢ号戦車C型や後継車両を開発している事から、75㎜22t級のS34戦車では早晩に陳腐化する事が予想された。

 この為、補助戦車として30t級戦車の開発がスタートする。

 研究の為、日本からシベリア独立戦争で鹵獲したドイツとソ連の戦車を購入し分析した。

 分析によってフランスは、ドイツとソ連の戦車に共通する弱点として足回りがある事を理解した。

 即ち、機動性である。

 フランスは次期騎兵戦車に高い機動力を求める事となった。

 問題は、機動力のベンチマークとなったのがJ36戦車だと言う事である。

 最低でもJ36戦車に追随可能な騎兵戦車と言う要求は、フランスの工業界にとって余りにも高度で在り過ぎた。

 この為、機動力の要求を下げるか、装甲(重量)を下げるかと言う選択を迫られた。

 その選択にフランスは、第3の回答を選んだ。

 二者択一とする1台の戦車では無く、それぞれの目標を達成した2台の戦車を作る事としたのだ。

 これはJ36戦車が高性能であっても200両しか存在していない事が理由であった。

 主力部隊の戦車としては200両は少なかった。

 攻勢の主力としては、フランス陸軍は400両は必要であると計算していたのだ。

 不足する200両が機動性が高くとも装甲が薄い戦車となれば、日本戦車に戦いを挑んだソ連戦車の如くドイツ戦車と戦う際に悲惨な事に成るのは明白であったからだ。

 とは言え、全ての戦車を重装甲にする必要は無い。

 装甲よりも機動力を必要とする場面もそれなりにあるだろうと言うのがフランス陸軍の判断であった。

 この為、35t級重戦車と30t級騎兵戦車が開発される事となる。

 主砲は共に新開発の長砲身90㎜砲を搭載する事となる。

 重戦車として開発されたB38戦車は、J36戦車導入前よりフランス陸軍内で検討されていた1921年計画車を原案とした、やや古いコンセプトで纏められた車両であったが、最近のドイツの拡張主義に早期に対応する必要から採用される事となった。

 対して騎兵戦車は、J36の運用実績と情報を元に1から開発される事となり、開発はB38に比べて1年遅れて完成する事になる。

 こちらは多数の新機軸を盛り込む関係上、民間企業では無く陸軍設計工場が主体となって設計開発される事となった。

 完成後は、AMX39と命名される事となった。

 

 

――日本

 10式戦車と31式戦車で併せて2000両を超える規模の戦車部隊を有する日本 ―― 日本連邦統合軍であったが、シベリア共和国を筆頭とした第3国の友好国向けの戦車を開発する必要が生まれた。

 高度な技術を一切使わず、出来る限り廉く、そして整備し易いシンプルな戦車というコンセプトとなった。

 この為、セラミックス装甲なども一切導入せず、エンジンやFCSもデジタル化の行われて居ない戦車であり、同時に、導入国の既存の装備(機銃や発煙筒、果てはエンジン)も採用し易い設計が採用される事となった。

 砲塔は安く軽量に仕上げる為、鋳造式も検討されたが、最終的にが採用されたのは鍛造の装甲板をフレームに溶接して造られたオーソドックスな砲塔であった。

 これは製造コストの問題よりも、機械的な信頼性と品質が重視された結果であった(※5)。

 この結果、重量は38tに抑えられる事となる。

 主砲は、フランスの開発した90㎜砲を採用している(※4)。

 命名は38式戦車とされ、その販売国第1号はシベリア共和国となった。

 同時に日本の各連邦国軍でも31式戦車よりも整備コストが抑えられる為、38式戦車が採用される事となった。

 又、陸上自衛隊でも第101海兵旅団(外人部隊)の様な海外への展開が前提とされる部隊では、整備への負担が少ないと言う点が評価され、改良型が採用される事となった。

 改良型である38式戦車B型(本国用)は、主砲を31式戦車と同じ105㎜砲へと換装と増加装甲を設置し、無線機などを自衛隊規格へと交換したものであった。

 

 

 

 

 

(※1)

 グアム共和国軍(在日米軍)の技術的な指導によって成形炸薬弾が用意されており、交戦は不可能では無い。

 

 

(※2)

 F戦車は、最終的にM24戦車として完成する事となる。

 2桁の登録番号となっているのは、2桁台がフロンティア共和国の戦車工場で開発/製造された事を意味し、1桁台はその4番目に検討された事を意味している。

 M2を元にした1番目の案、M3を元にした2番目の案、日本の31式戦車を模倣した3番目の案の全てを破棄し、1から検討開発された戦車である。

 

 

(※3)

 機動砲車は、その由来から歩兵支援を主体とする車両であったが、その運用は諸外国の対戦車自走砲と変わるものでは無かった。

 又、生産が容易であった為、大量に生産され、チャレンジャー戦車の不足した部隊では戦車の代役としても運用された。

 

 

(※4)

 当初は共同開発の形となったブリテンの17lb.砲を採用する予定であったが、ブリテン政府より、17lb.砲を諸外国に拡散されてしまっては困ると言うクレームを受けて断念。

 次善の案として6lb.砲の提案を受けたが、それでは諸外国の戦車に比べて小口径であり商品の魅力が落ちると日本が拒否する。

 この結果、日本は代案としてフランスと交渉をする事となる。

 シベリア独立戦争で得たドイツとソ連戦車の残骸を安価で提供する対価として、フランス国内向け価格での90㎜砲の輸入を行う事としたのだ。

 フランスとしても諸外国向けに砲弾は売れるので利益が上がる為、了解する事となる。

 尚、90㎜砲のライセンス生産を行わなかった理由としては、38式戦車が輸出専用であり何両製造するかも判らない為、メーカー側が設備投資を断った事が原因であった。

 これは嘗て日本が製造していた90㎜砲を再生産しないのも同じ理由である。

 そして、砲弾の製造すらフランスに委託し、全量を輸入で賄う理由でもあった。

 

 

(※5)

 尚、実際に製造ラインを組む際に計算した所、この時点で予定されていた1000台程度の製造であれば、鋳造よりも鍛造の方が値段が安く出来る事が判明している。

 

 

 

 

 

 




2019.06.15 説明を追加
2019.06.15 記述を追加
2019.06.16 説明を修正


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43.1938-2 戦車開発競争/枢軸 イタリアの決断

+

 シベリア独立戦争の戦訓、それは自信を持って送り出した新鋭の戦車が走攻防の全てで日本はおろかアメリカにすら劣っていたと言う過酷な現実をドイツ、ソ連、イタリアの首脳陣へと突きつける内容であった。

 

 

――ソ連

 自信を持って送り出したKV-1は一方的に敗北した。

 足回りこそ問題を抱えているが、火力と装甲には自信を持っていた。

 にも関わらず、一方的に敗北した事は、スターリンを激怒させた。

 重戦車を作れと叫んだ。

 この為、ソ連では一度に5つの戦車が研究開発される事となった。

 3つの重戦車と中戦車、そして軽戦車である。

 重戦車の開発チームに命じられたのは、その手段は問わぬから31式戦車に打ち勝つ事であった。

 中戦車は重戦車を機動力で補助する戦車であった。

 軽戦車は偵察用であり、対シベリア共和国戦の際、広大なシベリアを縦横に走り回る事が望まれていた。

 重戦車の3系統は①KV-1戦車の正統発展形、②火力と装甲を更に強化した戦車、③走攻防のバランスを改めて取り直した新開発戦車、という3つであった。

 KV-1戦車の正統発展形である①号案車は、早期からKV-2の名前が与えられる事となる。

 重視されたのは機械的信頼性の低さから故障を頻発した足回りの強化であった。

 KV-2の開発チームはシベリア独立戦争の戦訓から、日本の戦車がKV-1戦車に対して圧倒的な優位性を見せた原因の1つはKV-1戦車の足回りにあったと見做したのだ。

 KV-1は突撃しようとしても最大速力20㎞も出せず、途中で故障を起こしたりすらしていたのだ。

 これでは勝てる戦でも勝てる筈が無いと言う認識であった。

 この結果、KV-2は足回りとエンジンとを中心に強化された戦車となった。

 主砲は新開発の85㎜が搭載される。

 重戦車としての性格を持ったKV-2戦車であったが、高い機動性を発揮する事から中戦車の様に運用できる為、戦車部隊の指揮官はKV-2戦車の定数配備を要求する者が続発する事となる。

 ②号案車の開発チームは火力と装甲の強化した戦車を命じられていたが、検討をする中でKV-1の車体を流用したままでは限界がある事を把握した。

 この為、発想を逆転させる事とした。

 大事な事は大火力と重装甲であり、目的は敵戦車の撃破である。

 KV-1を基として、この3点さえ守った車両(・・)であれば良いのだとシンプルに発想を転換させたのだ。

 その結果、②号案車は固定式戦闘室と大口径榴弾砲を搭載した対戦車自走砲として完成する事となる。

 スターリンはこの結果 ―― 開発チームの結論に首を傾げたが、その試作車を用いた実証実験の際に大口径の152㎜砲が放つ榴弾が1発でKV-1戦車を撃破、文字通り粉砕した事で大喜びし、この量産を命じる事となった。

 砲の口径から、SU-152と命名される事となる。

 比較的簡単に開発の進んだ①号案車と②号案車の2チームに比べ、③号案車の開発は難航する事となる。

 そもそも、原案となったKV-1は、ソ連の戦車開発技術の総力を集めて開発されたものであったのだ。

 それを簡単に、1から再検討し直して凌駕出来る戦車など作れる筈も無かった。

 それでもスターリンの期待に応える為、③号案車開発チームは幾度も試行錯誤を重ねていく事になる。

 走攻防、そのバランスを取る上でソ連軍上層部より45tという車重を護る事が厳命されていた。

 この為に主砲は、SU-152で採用された大口径大威力ながらも規模も重量も破格の152㎜榴弾砲は採用せず、開発されたばかりのコンパクトな122㎜カノン砲を転用した戦車砲を採用する事となった。

 足回りに関しては、KV-2で採用されたKV-1の発展型が採用された。

 そして特徴となるのは車体である。

 45tで実現し得る最大限度の防御力を狙い、車体は生産性を度外視したものが採用された。

 製造に掛かる工程数が増えようとも全方向に対して極端なまでに傾斜を意識した形となったのだ。

 特に前面は凸型(シチュチー・ノス)にも似たデザインとなった。

 従来の戦車は勿論、日本の未来戦車とも異なる意匠となった③号案車に、スターリンは、これぞソヴィエトの科学性の結実であると手放しで賞賛する事となる。

 この為、③号案車はスターリンの名前を取り、IS戦車と命名された。

 紆余曲折の多い重戦車に比べて、中戦車の方は比較的簡単に方針は決まった。

 出来るだけ安く、数を揃えられる機動力のある戦車を開発すると言う。

 但し、装甲と火力に関してもおざなりにはされなかった。

 31式戦車は兎も角としてアメリカやフランス、イギリスらが整備を進めている30t級の中戦車群に優越、乃至は対応可能な戦車である必要性は決して低くはないからである。

 この結果、新中戦車は前面のみならず全周を傾斜装甲で覆い、又直線主体で簡素化されたデザインとして生まれる事となる。

 主砲はKV-2戦車と同じ、85㎜砲が搭載される事となった。

 重量は34t。

 ある意味で軽量化簡素化されたKV-2戦車、それがこのT-34戦車であった(※1)。

 この為、KV-2戦車とT-34戦車はライバル関係になる事となる。

 装甲のKV-2戦車か、機動力のT-34戦車か、ソ連陸軍は頭を悩ませる事となる。

 KV-2戦車をライバルとするT-34戦車であるが、実はもう1つライバルとなる戦車があった。

 T-45戦車である。

 10t級の偵察用軽戦車、新規に開発された軽戦車である。

 T-34戦車と同様のコンセプトの下で開発された為、傾斜させた直線主体のT-45戦車の外観は、T-34戦車に実にそっくりなものとなっていた。

 違いとしては、偵察を主任務とする為に火砲を37mmと抑えて、その代わりソ連戦車としては珍しい大型の無線機を搭載させている事であった。

 KV-2戦車派は、中途半端なT-34戦車ではなくKV-2戦車とT-45戦車の組み合わせこそが最適解であると主張し、逆にT-34戦車派はKV-2戦車やT-45戦車を組み合わせる様な事をすれば後方への負担を強く強いる事になるので主力となる戦車はT-34戦車で統一するべきだと主張した。

 この2派の対立は、ソ連陸軍上層部を悩ませる事となる。

 この為、玉虫色ではあったが、当座は各戦車を試験的に量産し、運用試験を行って様子を見る事とされた。

 

 

――ドイツ

 ヒトラーは激怒した。

 選ばれしアーリア人が、多少進歩した程度の東洋人に負けるのは断じて許せぬと激怒した。

 その結果、生まれたのはVK6505(P)試製駆逐戦車であったが、流石のヒトラーもこの重量70tを超える超重量級の試作駆逐戦車を量産する様に命じる程に血迷ってはいなかった。

 だが量産できる重戦車を至急開発配備する事は厳命した。

 この政治からの要求に、ドイツ陸軍はかねてより陣地突破用の重戦車として研究をしていた45t級のVK45戦車案をたたき台として開発を進める。

 早期実用化と生産性の容易さへの要求から、31式戦車shock以降に開発される戦車のトレンドである傾斜装甲を取り入れていない垂直な装甲で囲われた戦車となった。

 傾斜させないが故に抱える装甲の効率の悪さは、装甲そのものを厚くすると言う力技で解決を図っていた。

 それ程に、早期の実用化を目指したのだ。

 この為、重量は計画原案の45tから大きく膨れ上がる事となり、最終的には59tにも達した。

 この事は本戦車 ―― Ⅳ号戦車の足回りに尋常では無い負担を与える事となったが、ドイツ陸軍はⅣ号戦車を陣地突破と守勢攻撃用の戦車としての役割を担うものと定めた為、特に大きく問題視はしなかった。

 主砲は長砲身8.8㎝砲を搭載している。

 1938年の時点に於いて、日本戦車を除く全ての列強の戦車を屠れる戦車であった。

 但し、Ⅳ号戦車が高コストである事はドイツ陸軍以上にドイツ軍需省が問題視し、Ⅳ号戦車の大量産には反対の声を上げる。

 対してドイツ陸軍も、軍馬として使える戦車を数的な主力とする事を約束し、開発を行った。

 現在主力戦車として保有しているⅢ号戦車をチャイナ向けに開発したⅢ号戦車C型、これを元に各部を改良し主砲は長砲身化した75㎜に換装したⅢ号戦車D型である。

 設計時に余裕を見込んでいたお蔭で、27tと重量が増えては居たが特に問題を生まず、先ず先ずの性能を発揮した。

 ドイツ陸軍は当座、このⅢ号戦車の改良型で各国の新型戦車に対抗しつつ、更なる40t級の戦車開発に邁進する事となる。

 

 

――イタリア

 イタリアは恐怖した。

 それなりの自信を持ってソ連に送り出した義勇装甲旅団が何の成果を上げる事も無く壊滅した事に。

 そして、それ以降のドイツやソ連、或はG4諸国が行っている戦車開発競争の規模に。

 イタリアとて列強と呼ばれる国家ではあったが、その重工業はひいき目に見ても発展しているとは言い辛く、20t級の戦車の開発と配備が精々であるというのがイタリア政府の自己分析であった。

 一応は新戦車の開発を行っては居たが、既に諸外国では30t級や40t級を平気で開発し、量産している。

 ドイツなどは50tを超える超戦車を開発しているのだ。

 この状況にイタリアが恐怖するのも当然であった。

 ドイツとの連携を重視する一部のイタリア人からは、ドイツとの同盟関係を締結し、ドイツから戦車の輸入を行うべきであるとの声も上がったが、ムッソリーニはその声に容易に賛同はしなかった。

 ドイツとの同盟強化を行えば、短期的には国防力が向上するが、同時に、ドイツ以上の軍事力を持ち、ドイツと対立しているフランスとの関係が決定的に悪化するのが見えているからだ。

 ドイツとフランスが戦争を始めた場合、ドイツは後背のポーランドにも対応する必要がある為、フランスに勝利するのは難しいだろう。

 又、フランスには事実上の同盟国であるブリテンと日本が居る。

 であればイタリアがドイツに与する事は自殺行為である ―― ムッソリーニは冷徹にそう判断していた。

 ドイツにも事実上の同盟国であり陸軍大国でもあるソ連が居るので、戦争になっても簡単に負ける事はないかもしれないが、そのソ連は日本やアメリカと対峙しているのだ。

 どう見てもドイツにソ連が加わっても分が悪かった。

 それに何より、イタリアはドイツ同様に国家社会主義 ―― ファシズムによる政治を行っているが、フランスとはそこまで緊張関係には無いのだ。

 ブリテンや日本とも、エチオピア帝国を植民地化しようとした際に邪魔をされた恨みこそあるが、では積極的に戦争を仕掛けたいのかと問われれば、否と言える程度の関係は保っていた。

 或は、現段階でフランスがドイツに宣戦布告をした場合でも巻き添えを喰らわぬ程度に、G4諸国と友好関係を維持していると言えた。

 ある意味でドイツ・ソ連寄りではありながらも、G4諸国との間でやや中立的な立場にイタリアは居るのだ。

 微妙な位置に居るイタリアの舵取りに悩むムッソリーニ。

 職務の傍ら、痛飲と暴食を重ねる日々。

 そこに救いの手が差し伸べられた。

 それは日本からイタリアに戻っていた、元在日伊国大使館員であった。

 イタリアを愛するが故に、ファシズムではあってもとイタリアに帰国し、在野にて仕事を得ていた。

 その生活の中で、未来で想像していたイタリアとは異なる安定しているファシズム下のイタリアに感銘を受け、そして国民から愛されイタリアの漢気を魅せるムッソリーニに惚れこみ、協力を申し出たのだ。

 未来の情報と共に。

 それは、イタリアの植民地であるリビアの油田に関する情報であった。

 ムッソリーニは歓喜した。

 決断した。

 この油田の開発権益を日本に売りつける事を。

 その対価として日本が主導権を持って開発しているシベリアと言う市場に、そして日本連邦という大市場に優先的権利を持ってアクセスする権利を求める事を。

 無論、イタリアも日本に対して貿易に於ける優先権を与える積りであった。

 これは即ち、ムッソリーニは同じファシズム国家であるドイツを見限り、友好国であるソ連を見捨て、日本 ―― G4へと与するという決断であった。

 重要な戦車に関しては、G4諸国から輸入してしまえば良いと開き直ったのだ。

 何ならば、日本が第3国向けに開発中と宣伝している中戦車、後の38式戦車を買えれば最高であるとすら思った。

 このイタリアの決断は、世界に凄まじい衝撃を与える事となる。

 

 

 

 

 

(※1)

 T-34戦車の命名は、その重量から取られている。

 T-45戦車の命名は、その前面装甲厚から取られている。

 但し、T-45戦車の開発チームはT-34戦車をライバル視して居た為、数字の上で上位になるようにと命名に装甲厚を選択したという面もあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




2019.06.16 題名を修正


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44.1938-3 イタリアの衝撃

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 G4、日本に付くと決断したムッソリーニであったが、その行動は実に慎重であった。

 リビアの油田情報が事前にドイツやソ連などに漏れぬよう、自身と側近だけに情報の共有を留めた上で国際連盟大使に、日本との間で個別交渉の場を設ける様に指示する。

 表向きの題目は貿易の拡大と、イタリアと日本との友好関係の増進とした。

 この題目であれば、事前に情報を得た国々の目にはイタリアがシベリア独立戦争でやや悪化した日本との関係改善に乗り出した程度に見えるという計算があった。

 そこまで事前の情報漏えいを警戒する相手は、当然と言うか、友好関係にあった(・・・)ドイツとソ連であった。

 日本との交渉への妨害を警戒しているのだ。

 同盟とまではいかずとも、事実上の連帯をしていた関係を脱しようとするのだ。

 しかも、交渉の手札とするのはドイツもソ連も重工業化に伴い喉から手が出る程に欲しい資源、原油なのだ。

 である以上、ドイツもソ連も何をしでかすか判らないとムッソリーニが警戒するのも当然であった。

 

 

――国際連盟・日本/イタリア

 題目として、イタリア領東アフリカとクウェートで経済活動を行っている日本企業との交易に関する協定であった。

 日本企業が現地で必要とする食料などは当初、周辺のブリテン植民地より購入していた。

 だが最近になって武力による独立運動を行う手合い(※1)が増え、治安は悪化の一途を辿り、周辺からの輸入に頼るようになっていた。

 そこにイタリアが食い込もうとした ―― そう、日本も世界も判断していた。

 故に、比較的呑気に日本は会議に臨み、そして精神的な衝撃を受ける事となる。

 交渉の場には、極秘にスイスへと入国してきていたムッソリーニが居たのだから。

 その口から語られたのは、リビアの油田を介したイタリアと日本の関係深化である。

 イタリアは日本への政治的、外交的な奇襲に成功した。

 

 

――日本

 日本にとって、資源の輸入先が広がる事は良い事であった。

 同時に、潜在的な敵国であるソ連やドイツの有力な友好国が減るのは歓迎すべき事態であった。

 又、イタリアの望んでいる日本連邦とシベリア開発へのアクセスは、日本とイタリアの経済力の格差からすれば大きな問題には成らなかった。

 それよりはイタリアの経済に低関税でアクセスできることの方が旨みが大きかった。

 問題としては、イタリアからの軍事的な要請 ―― ドイツから圧力を受ける事に成った場合の支援に関しては、日本はある意味で諦観を持って受け入れていた。

 既にフランスには1個機甲旅団が駐屯し、何故かブリテンにも教導隊枠で1個装甲連隊が居るのだ。

 更に1個旅団程度であれば、欧州に1個師団を配置したと思えば良いのだと開き直っていた(※2)。

 

 

――ブリテン

 リビアに良質な油田があると言う事はブリテンにとって福音であった。

 これは中東に於いて武力を伴った独立運動が散発的に発生する様になり、安定して石油をブリテン本島へと送り込む事が難しくなった事が理由であった。

 中東に比べリビアの治安は安定している為、安定して供給を受けられる事が想定された。

 この為、日本とイタリアの交渉を後押しすると共に、日本に対してはブリテンに対してある程度の売却を要請する事となる。

 このブリテンの姿勢に、フランスも1口乗る事となる。

 日本としては、当座の石油資源の輸入量は確保していた為、商いとしてリビア油田は見る ―― 資源を産出した上で手頃な売り込み先があるのであれば問題は無いと、受け入れていた。

 

 

――ドイツ

 ヒトラーは激怒した。

 かかるイタリアの恥ずべき裏切り行為は看過し得ないと大激怒した。

 だが、現状でイタリアに懲罰戦争を仕掛けるにしても国境を接しておらず、出来る事は無かった。

 それどころか、中東への極秘裏に行っている武器売却に関してはイタリア領東アフリカを介さねばならぬ関係上、イタリアの機嫌を取らねばならなかった。

 ヒトラーは珈琲を暴飲し、サラダを暴食して怒りを発散していた。

 その上で、中欧を掌握した後のイタリア侵攻計画を立てる様にドイツ陸軍へと命令する事となった。

 

 

――ソ連

 スターリンはムッソリーニの破廉恥振りに激怒した。

 痛飲した。

 酔った上で、ソ連の友邦はドイツしかないと宣言した。

 ソ連への支援として訪れていたイタリア人は粛々とソ連を去って行った。

 

 

――フランス

 フランスにとって、その柔らかな下腹部に迫る場所に居たイタリアがG4陣営の軍門に下るのは福音であった。

 この為、全力でイタリアと日本の関係が促進する様に協力を行った。

 国際連盟の会議でイタリア大使を詰るドイツ大使を諌める程に、親イタリア的態度を示す程であった。

 

 

――イタリア

 大博打に打ち克ったイタリアは、この外交的な勝利を大いに宣伝し、同時にイタリアと日本 ―― G4の友好を大きく謳う事となる。

 イタリアの生活は流入してくる日本製の物資で潤い、又、服飾や嗜好品、一部の工芸品が日本へと飛ぶように売れる様になった為、経済が活性化する事となる。

 リビアの油田権益へ日本資本の参入を許した事に関しては、この経済の活性化がイタリア人に問題意識を持たせずに済む事となった。

 イタリアは空前の好景気に沸く事となる。

 

 

 

 

 

(※1)

 当然ながらもドイツが売り付けた武器を手にしていた。

 ブリテンも、旧在日大使館系ではない過激な独立派の急速な展開に警戒し、情報を集めてはいたが、この時点でドイツの影は確認出来ていなかった。

 

 

(※2)

 陸上自衛隊としては、日本政府の決定に反抗する積りは無いが、それでも愕然となった。

 シベリア独立戦争の影響による規模拡大 ―― シベリア共和国に駐屯する2個師団の調整を漸く終えたと思った所に、この更なる1個旅団の派遣の話である。

 頭を抱える事となった。

 後方地帯への派遣や、フランスやブリテンの様な有力な友好国への駐屯ならまだしも、下手をすればドイツとの前線に立つ事になりかねない()タリアへの派遣である。

 下手な練度や装備で送り出す訳にも行かない。

 総予備とも言える第7機甲師団の戦力を一時的に下げる事とはなるが、同師団から人員と機材を分けて第13旅団を自動化旅団から機甲旅団へと改編し派遣する事となった。

 第7機甲師団に大穴を開ける事となる決定であったが、この点に関しては日本政府も了解し、早期に穴を埋めるべく予算措置をする事となる。

 又、日本に残る部隊は人員を新設部隊へととられる為、警備を主任務とする自動化部隊が大多数となる事になった。

 これら、陸上自衛隊の乾いたぞうきんを絞るが如き改編によって、最終的に、ブリテン島に本拠地を置き、中東までも担当する遣欧総軍が編制される事となる。

 尚、この遣欧総軍とシベリア総軍の司令部の人員を抽出する為、日本本土では5個の方面隊の内、2つを解体する羽目になっている。

 派遣地域の増大、部隊の増大に上級将官級から中堅士官まで自衛隊は深刻な人材不足に陥る事となり、財務省に人員教育などを目的とした予算の大幅増の請求書を送りつける事となる。

 請求書の額を見た財務省は陸上自衛隊に負けず劣らず真っ青になった。

 この様な陸上自衛隊の艱難辛苦に、グアム共和国軍(在日米軍)将官は旧知の陸上自衛隊将官に対し「世界の警察は大変だろ(グッドラック!)」と訳知り顔で親指を立てたと言う。

 不幸中の幸いは、タイムスリップの余波 ―― 経済の混乱がまだ終息しきっておらず、自衛隊への志願倍率がまだまだ高止まりしている事であった。

 

 遣欧総軍

  司令部 ― ブリテン

   第10機甲師団    クウェート駐屯

   第13機械化旅団   イタリア駐屯

   第19機械化旅団   フランス駐屯

   第102海兵機甲旅団 ブリテン駐屯(※)

 

※ブリテンが他の国には旅団を派遣するのにわが国には連隊であるかとヘソを曲げた為、第101海兵旅団から1個普通科大隊を分派させ、旅団へと格上げされる事となった。

 尚、規模の小ささに少々とブリテンからクレームが入ったが、その分としてF-5戦闘機を保有する航空隊を1個派遣する事で対応した。

 クウェートへの第10師団の機甲化と派遣に関しては、欧州総軍の戦略予備と言う側面があり、同時に悪化する中東情勢への重しとしての役割を、ブリテンに要求された事が原因であった。

 この対価として、クウェートでの日本の経済活動に対するブリテンの支援が入る事となった。

 

 

 

 

 

 



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45.1938-4 中東クライシス

+

 ヒトラーは激怒していた。

 日々激怒し、珈琲を暴飲し、サラダを平らげ、そして自らに禁じていた肉を食う程に怒り狂っていた。

 かの悪逆非道な裏切り者、イタリアへの鉄槌を熱望していた。

 そしてある日、閃きが与えられた。

 現段階ではイタリア本土へ軍事的な懲罰を与える事は出来ない。

 だが、その手足たる植民地はどうか。

 リビアは日本やブリテンの資本が入る事もあってイタリアも治安維持に精を出しているが、イタリア領東アフリカは貿易拠点などの役割はあっても資源の産出なども殆ど無い為、イタリアの目は緩い。

 しかも、中東のブリテン植民地に武器を売りつける足掛かりとして使っているので、ドイツは現地勢力に独自のコネクションを有している。

 イタリア領東アフリカは、ドイツにとって火を点けやすい場所であった。

 

 

――ドイツ

 ヒトラーの命令を受けたナチス党親衛隊(SS)は、イタリア領東アフリカでの活動を行う。

 乏しい国家予算の中から小銃や手榴弾などの武器弾薬を集め、そしてイタリアへの反発心を持った反イタリア運動派にも、アンダーグラウンドな住人にも分け隔てなく武器を安価で売りさばいたのだ。

 その効果は覿面であった。

 イタリア領東アフリカの各地で暴動が勃発する事態となった。

 それぞれは小規模でありイタリア領東アフリカに駐屯するイタリアの治安維持部隊によって簡単に鎮圧されていったが、物資の略奪などが発生する事もあってイタリア領東アフリカの治安は極端に悪化していく事となる。

 但しその暴動がドイツの中東への密貿易に利用するイタリア領東アフリカの南部域には広がらぬ様に、ドイツは細心の注意を払って行動していた。

 そのお蔭で、イタリア領東アフリカの南部域で発生する暴動は少なかった。

 

 

――国際連盟

 イタリア領東アフリカでの治安悪化は、イタリアとムッソリーニの権威を大きく傷つける事となった。

 この為、イタリアは鎮圧する為に2個師団をイタリア本土から派遣し、鎮圧に力を入れた。 

 同時に暴動で使われる武器弾薬の入手経路を探す事となる。

 世界大戦の終結によって過剰となった武器弾薬が第3世界(less developed country)に出回ってはいても、軍隊を動員せねばならない規模の暴動が頻発するのは余りにも異常であると言うのがイタリアの判断であった。

 この為、国際連盟を介して、諸外国に大規模な武器弾薬の売却が無いかの確認を行う。

 これに近隣の中東域で反乱の頻発しているブリテンが乗った。

 第3世界に混乱を呼び込まない為の武器流通に関する協定が、国際連盟加盟国の間で締結される事となった。

 同時に、国際連盟による治安維持活動の一環として中東-東アフリカに権益を持った国々 ―― イタリアとブリテン、フランスに日本の4カ国は、同地域に於ける武器の不法な売買や流通を監視する為、紅海からアラビア海、そしてペルシャ湾までの海域に於ける自由な臨検を行う権利が与えられた。

 この国際連盟の決定に、ドイツは大きく反発する事となる。

 軍艦にせよ民間船舶にせよ、それぞれの旗国に管理される存在であり、如何なる国家組織であれ平時に於いてその管理権を侵す事は許容し難いと、断固として主張したのだ。

 その上でドイツ国際連盟大使は、もしドイツ軍艦及び民間船舶を臨検しようとするならば、実力を以って阻止する事も吝かでは無いと、強い調子で宣言する事となる。

 この反応にドイツへの猜疑心を深めたイタリアとブリテンは、ドイツに対して強い調子で反論する事となる。

 曰く、暴動頻発地帯近域に於ける治安維持活動への協力を断る事は、無害航行の権利を与える条件である沿岸国の平和・秩序・安全を害さないという条件に反する行為であると。

 そして、無害航行権利の停止した国家の艦船は、即座に4ヵ国の領海から退去させるとも宣言した。

 こうなるとドイツは頭を抱える事になる。

 領海へと入れないと言う事は、ブリテンや日本といった島国とは貿易が事実上出来なくなる事を意味するからだ。

 とは言え、ドイツ国際連盟大使も簡単に退く訳には行かなかった。

 ドイツ本国より、交易を途絶させない為に臨検を受け入れるとしても最低でも1ヶ月は、臨検の開始を遅らせる様にとの指示が出ていたのだから(※1)。

 この為、ドイツ国際連盟大使は交渉に出る。

 時間稼ぎとしての、臨検行動のガイドライン作成である。

 ドイツ国際連盟大使は、臨検を実行する人間が、臨検の名の下で軍艦にせよ民間船舶にせよ通信設備や暗号、艦船の機密情報に触れる ―― 諜報活動を行う事への疑念が隠しきれないと大々的に主張したのだ。

 この反論に、誰しもがブリテンの名前を思い浮かべた。

 そして全会一致で臨検の手順の策定自体には同意する事となる。

 誰しもが臨検に際して諜報(ブリテン)活動の被害を受けたくないと言う思いは一緒であったから。

 又、ブリテンも同意していた。

 此方も、自分(ブリテン)が行う様に諸外国が諜報活動を仕掛けて来ては厄介だと言う思いがあればこそであった。

 この為、臨検の手順の策定作業は紛糾しつつも進行していく事となる。

 

 

――海洋示威行動

 国際連盟による臨検の手順と規範の策定が終わっていない為、臨検は行わないものの哨戒を兼ねた示威行動(ショー・ザ・フラッグ)を行い、挙動不審な船舶の捜索を行っていたイタリア、ブリテン、フランス、日本。

 日本はP-1哨戒機をクウェートへ展開させ、周辺海域の哨戒を開始した。

 この日本の活動に刺激を受け、ブリテンは日本を真似て開発した双発の対潜哨戒機を投入し、イタリアやフランスは哨戒用の水上機で洋上哨戒活動を実施していく事となる。

 当初はバラバラに行われていた4ヵ国による哨戒活動であったが、日本が哨戒効率の向上を呼び掛け、3ヵ国が同意し連絡事務所 ―― 事実上の司令部が創設される事となった。

 場所は、アデン湾に面した治安の安定しているフランス領ソマリのジブチに設けられた。

 東アフリカ-中東治安維持作戦(フロム・ザ・シー)司令部と命名された。

 統制と連携の取れた空海の戦力による哨戒活動は、副次的に洋上の治安を向上させる効果があった。

 この結果に気を良くしたブリテンは、航空機による哨戒活動の範囲を陸上に広げて暴動 ―― 反乱予備軍に対する示威活動を行っていく事となる。

 

 

――ドイツ

 臨検の手順策定が定まっていない状況であれば臨検は無い。

 そう思う程にドイツは油断してはいなかった。

 中東イギリス領に売却予定の武器を満載した貨物船をそのままイタリア領東アフリカへと送り込む事をせず、南大西洋海域で待機させ、同じく北大西洋で長距離航海訓練中であった装甲艦ドイッチュラントを護衛に付けたのだ。

 その事が逆にブリテンの目を引く事となった。

 ドイツとイタリア領東アフリカとの間で行き来している貨物船は比較的多い。

 にも関わらず、ドイツが護衛として装甲艦を付けた貨物船であり、しかも航路は態々喜望峰回りという遠回りをしているのだ。

 不審であり、注目しない筈が無かった。

 ブリテンは巡洋艦を1隻、張り付けさせた。

 無論、臨検をする事は出来ないが、監視をする事は出来るのだから。

 又、貨物船が港に着いて荷の陸揚げをするとなれば、荷の検疫をする事が出来る。

 その時に貨物船の荷物を確認してしまえば良い ―― そう判断し、イタリアやフランス、日本に情報を流していた。

 その流された情報の先には、ドイツに買収されたイタリア領東アフリカ南部の港町の検疫担当も居た。

 今までは、このイタリア人がドイツの密輸を見て見ぬふりをする事で、中東への武器弾薬の中継密貿易を成り立たせていたのだ。

 だが今度はそうはいかない。

 イタリア本国から来ている査察官とブリテン人の調査員が一緒に検疫と調査をする予定となっているのだ。

 ドイツ貨物船に積んでいる荷物は、書類上は農機具となっていたが数千人分もの武器弾薬である。

 見られてしまえば申し開きなど出来る筈も無かった。

 焦ったイタリア人は、ドイツに連絡をする。

 連絡を受けたドイツも大いに焦る事になる。

 何とかしてブリテン巡洋艦を振り切ろうと努力する事となる。

 

 

――西インド洋攻防戦

 ブリテンからドイツの不審な貨物船と護衛の装甲艦ドイッチュラントの情報と協力要請を受けた日本は、アデン湾に展開していた艦艇から2隻、哨戒艦を分派する事となる。

 派遣する哨戒艦は、外洋哨戒艦と分類されこそすれど基準2500tという、並の駆逐艦を遥かに凌駕する船体を持った艦であった。

 外洋哨戒艦は、哨戒艦とは異なり日本がタイムスリップ後に新しく整備を進めた艦であり、上海その他、海外での運用(gunboat diplomacy)も念頭に入れた設計のされた艦種であった。

 3in.砲を3門搭載し、この時代の人間に判りやすい威圧効果のある外観となっている。

 又、フランスもブリテンからの連絡を受けて、駆逐艦2隻を派遣していた。

 これにブリテンの増援、駆逐艦2隻を含めて都合7隻の軍艦に包囲網を形成されてしまっては、ドイツ側に出来る事は無かった。

 1週間近い睨み合いの末、ドイツは2隻に対してドイツ国内への帰還を命じるのであった。

 

 

――ドイツ

 ヒトラーは激怒した。

 かの我が物顔で世界支配者の顔をするG4は許してはおけず、腰巾着の様に媚び諂うイタリアに至っては誅罰を与えるべしとすら思った。

 だが現時点で出来る事は無い為、その怒りは長年の禁を破って煙草を吸う事で解消し、報復を誓う事となった。

 尚、武器弾薬はスペインの革命派に高く売りつける事となったが、その事がブリテンに今回のドイツの行動 ―― 貨物船の荷物の正体を教える事になるのだが、ドイツは気付かなかった。

 ドイツは限りなく黒に近い灰色(suspect)から、(culprit)となったのだ。

 これが、ブリテンがフランスのドイツ包囲網に積極的に参加する切っ掛けでもあった。

 

 

 

 

 

(※1)

 これは、既にドイツを出港済みの武器弾薬を満載した船舶が中東の港に入るまでの日数を計算しての指示であった。

 

 

 

 

 

 



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46.1938-5 スペイン内戦-2

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 スペイン内戦は、諸外国からの義勇部隊などの参戦はあっても盛り上がりに欠ける形で推移していた。

 内戦が勃発して1年がたち、積極的に支援を続けているのはドイツだけとなっていた。

 ドイツに並んで義勇軍を派遣していたイタリアは、日本やG4との関係改善と共に国際協調の為という題目で兵を退き、それ以外の国々は新兵器の実験やお付き合い程度の人道的な活動が主であったのだから当然かもしれない。

 当初はソ連も、社会主義を標榜する政府側を支援する動きもあったのだが、シベリア独立戦争の被害が余りにも大きすぎて、外国に支援する余力など無かった。

 そもそも、ソ連にとって数少ない友邦国であるドイツと対立する勢力 ―― 政府側に後から支援を行うと言うのも政治的に難しいものがあったのだ。

 この様に、政府側が掲げるのが社会主義で革命側が国家社会主義を掲げていた事も、G4や列強諸国が支援に積極的でない原因であった。

 社会主義と国家社会主義。

 民主主義と資本主義を標榜する国際社会としては、どちらも応援したいと思いづらい主義主張を掲げているのだから、ある意味で当然の結果であった。

 鉄火場を飯の種とするマスコミこそ大規模にスペインに入って報道合戦を繰り広げていたが、一般の大衆にとっては直近に行われていたシベリア独立戦争に比べれば規模が小さい為、今一つ関心が集まらなかった。

 又、経済的にも影響が小さいと言うのも見逃せない部分であった。

 重要な資源や農産物を産出する訳でも無いスペインは、ブリテンやフランス、イタリアなどの列強との経済的な連携が薄い為、生活に影響を受けなかった欧州諸国民は政府が莫大な税金を使ってまでスペイン内戦に介入するべきだと思えなかったのだ。

 極々一部の政党が、人権や国威などを理由に介入を訴えたが支持を集める事は出来ずにいた。

 無論、戦禍による陰惨な悲劇に対しては憤りの声を上げる者も居るのだが、それが国家的な動きを求める程の世論のうねりに育つ事は無かった。

 大小さまざまな悲劇や喜劇もあったが、おおよそ世界は冷静にスペイン内戦を見ていた。

 

 

――戦局

 政府側も革命側も、相手に決定的な打撃を与えられる程の戦力差を作る事が出来ず、この1年は一進一退といった状況が続いていた。

 この状況が変わったのは、ドイツによる義勇軍への増援が行われてからだった。

 ドイツは、スペインの戦場を中国や南米などに売りつけている兵器の宣伝の場として積極的に活用しだしたのだ。

 開発したばかりのⅢ号戦車D型やⅣ号戦車、或は戦闘機まで持ち込んでアピールを行っていた。

 これらは旧式の機材しか持たぬ政府軍を圧倒していく事となる。

 革命派の勝利は間近である。

 そう世界が思った時、ブリテンが義勇軍を派遣した。

 戦闘機部隊と、支援する陸上戦力だ。

 政府の反対を押し切って有志による参加 ―― その様な形で行われる(※1)。

 ブリテン戦闘機部隊とドイツ戦闘機部隊の戦闘は、ブリテン側有利に進む事になる。

 戦闘機の性能自体はそこまで差が無く数ではドイツが優位であったのだが、運用に於いてシベリア独立戦争の戦訓と日本のシステム化された運用方法を取り入れていたブリテンが圧倒していたのだ。

 航空優勢を握ったブリテンと政府側は、革命派とドイツの進撃を食い止める事に成功する。

 又、陸戦に於いても少数ながら持ち込まれていたバンク機動砲車が活躍する。

 起伏の多い山がちな地形で至近距離での戦闘が多発した為、バンク機動砲車の6lb.砲でⅢ号戦車D型の装甲を撃ち抜く機会が多かったのだ。

 2ヶ月を超える戦闘で、ドイツがスペインに持ち込んでいたⅢ号戦車D型は半数が撃破されてしまう事となる。

 面目躍如たるブリテン戦車部隊に対し、ドイツ戦車部隊はヒトラーから痛烈に怒られる事となる。

 チャイナからは、ドイツから購入したⅢ号戦車C型の性能 ―― ドイツの戦車技術に対する憂慮が伝えられた。

 30t近い中型のⅢ号戦車が、20tを切る小型のバンク機動砲車に負けるのはドイツの戦車技術が劣るからではないか? という事である。

 バンク機動砲車の大戦果は、バンク機動砲車の単純な性能によるものと言うよりも戦術 ―― 隠蔽されたバンク機動砲車の陣地に、ドイツ戦車部隊指揮官がⅢ号戦車D型を頭から突っ込ませた事が原因(※2)であったが、部外者にその様な事が判る筈も無かった。

 ドイツは救急の対応として敵陣地突破用の60t級の重戦車、Ⅳ号戦車の派遣を決定する。

 又、Ⅲ号戦車の改修も決定した。

 全周に傾斜装甲を採用した新しい中戦車、Ⅴ号戦車の開発も進んでは居たが高価格となる事が予想された為、ドイツ陸軍に安価なⅢ号戦車系を捨てると言う選択肢は無かったのだ。

 尚、ヒトラーはVK6505(P)が何故活躍しないのかと激怒しドイツ陸軍を問責したが、ドイツ陸軍機甲科の上層部からVK6505(P)が1度に10kmしか動かない(※3)守勢任務向けの車両の為、ドイツとスペイン革命派は優勢であって常に攻勢であるので活躍の場が無いのだと説明を受けた。

 己が愛した車両が活躍できないのは不満であったが、ドイツが優れているが為と説明されたヒトラーは大いに満足した。

 ドイツはブリテンへの報復に燃え上がる事となる。

 

 

――ブリテン

 やる気に燃えたドイツに対し、ブリテンは同時期にスペインからの撤収を決定していた。

 ブリテン航空基地を巡る戦いにてドイツ戦車部隊もだがスペイン革命派も誘引し、これを撃破出来て居た為、戦場にはスペイン革命派の武器が大量に遺棄されていたからだ。

 即ち、当初目的 ―― ドイツがスペインに売却した、本来はイタリア領東アフリカへ売却予定であった武器の鹵獲に成功したのだから。

 その上でバンク機動砲車の実戦での運用実績を積めて、航空部隊に至っては数的不利をモノともしないシステム化された運用が実戦で試せたのだ。

 しかもドイツの最新の戦車であるⅢ号戦車D型の鹵獲にも成功している。

 これ以上ないと言う成果を上げていた。

 であれば、社会主義者をこれ以上支える義理など無いと言うのが実際であった。

 本国からの命令であるので、と一言、スペイン政府軍に連絡したブリテンはそそくさと撤兵した。

 

 

――フランス

 ブリテン同様にスペインに陸軍を義勇部隊として派遣していたフランスは、持ち込んでいた増加試作型のB38戦車での十分な実戦テストを果たせた事もあり、撤兵を決める。

 形としては、ブリテンに手を回して「民族自決という国際連盟の大義から撤兵すべきである」と言う提案をブリテンに行って貰い、その提案を受けてフランスは撤兵を実行した。

 

 

――終結

 スペイン内戦は、ブリテンとフランスというG4の2大国に逃げられた政府軍の敗北に終わった。

 ドイツは国家社会主義の勝利であると大々的に宣伝した。

 ソ連はスペインの旧政府は、社会主義を標榜しては居たが、人民の為の社会主義では無かったが為に敗北したのであり、これが社会主義の正しさを否定するものでは無いとコメントを発表した。

 

 

 

 

 

(※1)

 ブリテンが参戦する目的は、ドイツの装備であった。

 正確に言えば、ドイツがイタリア領東アフリカへ持ち込もうとして失敗し、それを糊塗する為にスペインに押し付けた武器弾薬である。

 ブリテンはこれを捕獲し、イタリア領東アフリカや中東で暴動から押収した武器と比較検証する事で、ドイツの暴動への関与を把握しようと言うのであった。

 尚、政府が反対すると言う形が取られているのは、ドイツが売却した武器をある程度接収したら、即座に政府命令(・・・・)という形で撤収する為である。

 

 

(※2)

 ドイツ戦車部隊が大損害を受けた戦いの目的が、ブリテン戦闘機部隊の根拠地を叩くと言う作戦であり、ドイツ戦車部隊の指揮官にブリテン戦闘機に手を焼いていた上級司令部から「如何なる犠牲を払っても航空基地へと進軍し、コレを叩くべし」との命令が出ていた事が原因であった。

 ドイツ人らしい生真面目な戦車部隊指揮官は指揮下の戦車全てをすり潰す覚悟で突進し、実際に半数を超える戦車を喪失した。

 その上で、作戦は失敗した。

 戦車の余りの損耗に目を回したドイツ上級司令部が、航空基地の20㎞手前で作戦の中止を命令したのだから。

 スペイン内戦屈指の戦車戦は、ドイツの戦車に対する自負に深い傷を与える事となる。

 とは言え、ブリテンはこの戦いでのドイツの遮二無二な攻勢に警戒し部隊を後退させた為、ドイツは戦略的な目的は達成したとは強弁する事は出来た。

 

 

(※3)

 1度である。

 1時間でも1日でもなく、1回である。

 整備を完了させた後に1回、10km動かすだけで足回りは故障を頻発し、整備を必要とするのだ。

 これでは攻勢任務にとてもではないが使えるものでは無かった。

 開発したスタッフが現地で改修作業なども行っては居たが、技術的な熟成が出来ていない事や、そもそも設計の甘さなどがあり、使える車両へとなる見込みは殆ど無かった。

 この為、VK6505(P)駆逐戦車の運用実績を基に、設計を改めたVK6507(P)の開発がドイツ本国では行われていた。

 

 

 

 

 

 



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47.1938-6 レーベンスラウムの余波

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 ドイツがオーストリアとチェコスロバキアの併合に意欲を持って取り組む様になったのは、大きく言えばドイツ経済が理由にあった。

 小さく言えば、ドイツ軍が原因であった。

 ドイツ軍の再軍備の為にドイツ政府が発行していたメフォ手形と呼ばれる軍備費手形、その最初の償還期限が近づいていたからであった。

 メフォ手形によるドイツ軍の再軍備はドイツ経済の活性化 ―― 景気回復の一助とはなったが、世界経済の大多数を占めるG4諸国とドイツとの関係が良好とは言い難かった為、ドイツ企業の世界との貿易量と額は伸び悩み、期待されていた程の波及効果が生み出されたとは言い難いのが現実であった。

 チャイナとの軍事協力と武器売却は少なくない利益を上げては居たが、軍需主体であり、ドイツ経済の浮揚に結びつくとは言い難かった。

 それはソ連との関係に於いても同じことが言えた。

 ドイツ経済は、旺盛な購買力を持った市場を欲していたのだ。

 だが旺盛な購買力を持った国は、その大多数がG4の勢力下であり、無理な願いであった。

 それ故に、ドイツはドイツ人 ―― ゲルマン民族の多く住むオーストリアとチェコスロバキアの併合を目論む事となったのだ。

 同じゲルマン民族の大団結と言う建前を持って、2つの国家を市場として取り込むのだ。

 併せて両国の中央銀行が保有している(a gold bar)も、メフォ手形の償還に際しては役立つと見られていた。

 ドイツは収奪経済への道を転がり出していた。

 

 

――ドイツの拡張主義

 ヒトラーの掲げるスローガンに、何時の頃からか“アーリア人によるアーリア人の為のアーリア人の生存圏確立”が入る様になった。

 1つの欧州、1つの国家、1つの家(Grosartiges Europa)

 ドイツを中心とした中欧諸国の大団結によって永劫の繁栄(ミレニアム)を謳歌する大帝国を確立させるのだ、と連呼するようになった。

 同時に、国家社会主義政党の私兵集団である親衛隊(SS)が、オーストリアやチェコスロバキア、他の諸国で、国家社会主義の宣伝と情報収集活動を開始する。

 両国の世論を誘導し、自分達から(・・・・・)ドイツへの参加を熱望する様に誘導するのだ。

 ドイツは、G4と政治的な対立が続いている事を理解していた。

 特にフランスとの対立は政治的な段階を越えつつある、薄氷の上を歩くが如き関係にあると理解していた。

 日和見とも言える態度を見せているブリテンや、已むを得ずシベリアで激突する事となった日本とアメリカとは違い、フランスとは欧州の主導権を掛けて争っていると言う理解である(※1)。

 故に、ドイツはドイツの拡張主義では無く、ドイツへの統合をオーストリアとチェコスロバキアに熱望されて統一すると言う筋書きで進める積りである。

 当座の目標はオーストリアとチェコスロバキアの2カ国であるが、可能であればハンガリーやスロバキア、ルーマニアまでも併合を目論んでいた。

 ドイツの必要とする購買力と労働力は、それ程に不足しているのだった。

 ヒトラーと国家社会主義によるドイツは一見では繁栄している様に見えたが、その実として極めて不安定な国家であった。

 

 

――国際連盟

 オーストリアとチェコスロバキアで盛り上がりつつある、ドイツへの帰属 ―― 統一論に、フランスは動き出す事となる。

 情報機関を派遣し、世論の動きや国民感情を把握せんとする。

 情報収集活動の最中、親衛隊(SS)と小規模な衝突が発生する事となる。

 又、デモなどでゲルマン系の両国国民が暴力的に振る舞う様を見ていた。

 その上で、非ゲルマン系の両国国民が、粗暴な国家社会主義への嫌悪感を内包しつつ、だが、その粗暴性故に表明できていない現実を把握した。

 故にフランスは、オーストリアとチェコスロバキアに於けるドイツへの称賛と国家統合への希求を、ドイツによる情報工作であると断じた。

 その上で国際連盟に対し、ドイツが国際連盟の規約第11条第2項に定められた連盟加盟各国間の良好なる関係を撹乱せしめる行為を行っていると弾劾したのだ。

 国際連盟は蜂の巣をつついたような騒動となった。

 国際連盟に加盟する大多数の国家は、先の世界大戦から10年以上を経過し平和にまどろんで居た為、戦争の脅威から目を逸らし続けていたのだ。

 それは、平穏であれと言う願いにも似た被膜に包まれていた現実を直視する時が来た事を示していた。

 国際連盟は紛糾する事となる。

 ドイツとてG4には及ばぬものの一角の列強であり、列強同士の戦争は国際連盟加盟国の大多数を占める中小規模の国家にとって、その余波だけで死ねる死活問題であった。

 ドイツを殴る気満々のフランス、加勢する気満々のブリテン、巻き込まれる事を覚悟している日本。 そして中欧の雄であるポーランドは、ドイツへの横殴りの決意を隠した笑顔を見せていた。

 周辺諸国の厳しい対応に、ドイツは慌てる事となる。

 ドイツにとって中欧のオーストリアとチェコスロバキアは、安全に切り取れる対象であればこそ価値のある相手であったが、戦争を行ってまで取るには価値が低かった。

 だが同時にドイツとて矜持があった。

 国際社会に威圧されて引き下がれぬ国民感情というものがあった。

 世界大戦の敗北の恥辱から復活したと言う意地。

 或は、ドイツ政府が常に宣伝していた精強なるドイツ国防軍は、莫大な税金を投じて作り上げられているドイツの軍は、列強の干渉に折れねば成らぬほどに弱い存在であるのか? というドイツ軍の根幹に関わりかねない深刻な疑問であった。

 ドイツ政府は進退窮まる事となる。

 

 

――チャイナ

 民族自決と内政干渉の問題に揺れる国際連盟に対し、空気を読まないチャイナが爆弾を落とした。

 この民族自決への制限と列強による内政干渉と言う問題こそは、正にチャイナが10年に渡って味わっている恥辱であり、アメリカを筆頭とする列強各国はチャイナの大地から追放されるべしと宣言したのだ。

 どの国の国際連盟大使も唖然とした。

 友好関係から自国への支持を行ってくれるものと信じていたドイツは呆然となった。

 チャイナから国土を割譲せしめたブリテンやフランスは、戦争を仕掛けて負けた敗戦国の分際で寝言を言うなと唖然とした。

 大多数の国連加盟国は、アジアの田舎者が先進国の深刻な会議にアジアの片田舎の小さなことで口出しするなと憤然とした(※2)。

 だがチャイナは真剣であった。

 真剣に、アメリカを筆頭とするG4による横暴を訴えたのだ。

 ドイツを批判するのであればアメリカを、日本を、ブリテンを、フランスを糾弾するべきであると訴えたのだ。

 国際連盟の総会は一気に荒れだす事となる。

 

 

 

 

 

(※1)

 ドイツのG4諸国への理解は、この程度であった。

 事実として、4カ国の対ドイツ感情は極めて悪かった。

 歴史を知るが故に警戒を緩める事の無く、何時かは殴る事に成りそうだと覚悟している日本。

 裏庭である南米に手を入れられ、チャイナ相手に武器を流し込む事で何時かはぶん殴ろうと決意しているアメリカ。

 イタリア領東アフリカの経緯から中東に着火したのはドイツではないかと睨み、何時かケジメを付けさせたいと狙っているブリテン。

 元駐日仏国大使館経由で未来情報を知り、フランス国土に戦禍が及ぶ前にドイツを焼き尽くす事が決定しているフランス。

 どの国も、ドイツに友好的な感情を抱かず、何時戦争になるのかと図っているのが現実であった。

 国際連盟などの場で、露骨な反ドイツ行動を示されなかった為、ドイツは厳しい現実を認識出来ずにいるのだった。

 

 

(※2)

 尚、アジアと言う地理的な枠に於いては日本もアジアの国ではあったが、G4を含めて国際社会の中で日本と言う国家はアジアの国家と言う(カテゴリー)では無く、異質な、冠の無い日本と言う分類が成されていた。

 特に、G4でも列強でも無い国家にとって日本は、アジアでは無く、先進国では無く、列強では無く、もっと恐ろしくも悍ましいナニカ ―― と言う扱いであった。

 

 

 

 

 

 



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48.1938-7 アジアの発火

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 国際連盟にてチャイナ代表が議会の流れを打ち壊すのと同時期に、チャイナ共産党が動き出す。

 チャイナとフロンティア共和国 ―― アメリカを対立させ、最終的に戦争を起こさせる事でチャイナの国力を疲弊させ、チャイナの大地をチャイナ共産党が支配するという目論見であった。

 チャイナは、チャイナ共産党が煽っている満州(フロンティア共和国)奪回の民意に推される形でフロンティア共和国との政治的な対立が続いている、

 その上でチャイナは満州掌握の為としてドイツから大量の戦車や戦闘機、火砲を導入している。

 既にその規模は準列強の規模 ―― 戦車は500両を越え、戦闘機は1000機を超える規模を誇っており、国際連盟の場でアメリカがドイツに野放図な武器の売却は戦争の火種になる可能性があると苦言を呈する程であった。

 これ程の軍備拡張をする原資は何かと言えば重税、そして各種希少資源の採掘権の売却であった。

 資源の採掘権の売却は、言わばチャイナ国内の植民地化に繋がる行為であり、”満州の植民地からの回収”をスローガンにしつつ、それを行う為に国内に植民地状態を生み出すと言うのは余りにも皮肉な現実であった。

 又、皮肉と言う意味では重税も皮肉であった。

 重税を課せられたチャイナ国民は、生活の苦しさの中でチャイナ共産党が宣伝する豊かな大地である満州に夢を見た。

 豊かな大地があり、先進的な工業があり、石油すらある満州は、チャイナ人にとって豊かになれる理想郷であった。

 だがそれをフロンティア共和国とアメリカが独占し、コリア系日本人の棒子(※1)が邪魔をしている。

 チャイナ共産党の宣伝もあってチャイナ人はそう思い込んでいた。

 故にチャイナ人の大衆から裕福層までチャイナ政府へ ”(歴史的経緯は抜きにして)先祖伝来の地である満州を外敵より奪還し国民を豊かにせねばならない” と連呼する様になったのだ。

 この国民の声に応える為、チャイナは当初の予定を越えて軍備を拡張する事(※2)となり、更なる重税が課せられていくのだから、皮肉以外の何ものでもないだろう。

 

 

――アメリカ/フロンティア共和国

 アメリカ政府は、チャイナ内部で進行している対フロンティア共和国戦争準備を軽視してはいなかった。

 だが同時に、平時のアメリカに大規模な軍事部隊をフロンティア共和国に展開させるだけの予算は無かった。

 現時点でアメリカがフロンティア共和国に駐留させているのは戦車師団1個と歩兵師団2個だけであった。

 これに5個のフロンティア共和国軍歩兵師団が加わる。

 全ての部隊が機械化、或は自動車化されており、決して小規模な軍隊では無いが、チャイナが全力で殴り掛かってきた場合に安心して居られる程の戦力と言う訳では無かった。

 この為、航空機による対地攻撃力を強化する事で抑止力とする計算であった。

 日本のAP-3を真似る形で開発した制圧攻撃機、AB-17とAC-47の2機種を70機近く配備していた。

 無論、対地航空部隊が自由に活動できる為の制空航空部隊の手配もおざなりにはされなかった。

 フロンティア共和国各地に各機種併せて500機近い戦闘機を駐留させていた。

 その中には、日本が第3国向けに開発した空冷エンジン型の汎用戦闘機F-6(※3)も1個飛行隊分含まれて居た。

 又、航空支援などの教導に、グアム共和国軍(在日米軍)からも人員が派遣されていた。

 出来る限りの防御を固めたアメリカとフロンティア共和国であったが、出来る限りは戦争を回避したいと言うのが心情で在り、外交ルートでのチャイナ政府との接触を行ってはいた。

 

 

――チャイナ共産党

 チャイナ共産党にとって平穏は敵であった。

 相次ぐ敗戦で実戦部隊が枯渇したチャイナ共産党軍は、シベリア共和国が生まれた為にソ連からの支援も満足に受けられず、独力で既存のチャイナの統治体制打破を目指す武力闘争が出来ぬ程に脆弱な存在に成り果てていた。

 であればこそチャイナ共産党は、チャイナ政府軍とアメリカ軍が4つに組む戦争を望んでいた。

 この為、チャイナとフロンティア共和国の国境線地帯での活動に力を入れていく。

 

 

――チャイナ

 チャイナ政府としては、アメリカやフロンティア共和国と対峙はすれども決定的な事態 ―― 武力衝突には至らぬ様に注意していた。

 フロンティア共和国はG4、列強、国際連盟に支持された国家だ。

 そんな国を戦争で否定し、蹂躙し、我がものとするには圧倒的な勝利が必要であるとチャイナ政府は考えていた。

 それにはまだ戦力が足りない。

 ドイツに発注した軍備も揃っていないのだ。

 故に、現時点では満州奪還の戦を始めるべきはいまでは無いと思っていた。

 だがチャイナの民心はそうでは無い。

 豊かさを求め満州奪還を叫ぶ大衆からの圧力は、民主主義国家では無いチャイナにとっても無視し得るものでは無かった。

 この為にチャイナは民心のガス抜きとして、フロンティア共和国との国境付近で4個師団を動員した大演習を行う事を決意し、宣伝した。

 宣伝する理由の半分は、フロンティア共和国への圧力であった。

 同時に、不随意に戦争を起こさぬ為の努力でもあった。

 アメリカ/フロンティア共和国も国境線を挟んだ場所に2個師団を動員し、演習 ―― 対応訓練を行う事を宣言していた。

 全てはそれで終わる筈だった。

 その目論みをチャイナ共産党が壊す。

 チャイナ軍とフロンティア共和国軍に放たれた弾丸、国境線を突破された跡。

 地獄の釜が開く。

 

 

 

 

 

(※1)

 日本人への総称的な蔑称である日本鬼子とは別に、フロンティア共和国の国境線でチャイナ人の不法入国を断固とした態度で阻止しているコリア系日本人は棒子と呼び、恐れた。

 名前の由来は発見した不法入国者を、棒で容赦なく殴りつける為であった。

 

 

(※2)

 当初は400両程度の整備を見ていたドイツ製戦車配備が、最終的には1000両に達する事になった。

 Ⅲ号戦車系が600両、Ⅳ号戦車が200両、そして補助戦力としてⅢ号戦車の車体を基に8.8㎝砲を搭載する重対戦車車両であるC型Ⅲ号突撃砲が200両である。

 C型Ⅲ号突撃砲は、チャイナに建設された戦車工場で独自に開発された車両、第1号となった。

 この時点でアメリカが事実上の重戦車であるM24戦車の開発と配備を行っている事をチャイナも把握しており、対抗できるⅣ号戦車の購入を決定はしていたのだが、同時にⅣ号戦車が車両価格の高さ故に大量配備が困難である為、より安価な対戦車車両を欲したチャイナ政府の要求に応える形で開発された。

 絶対的な要求として、M24戦車を撃破可能な8.8㎝砲の採用があった。

 だが30t以下の重量であるⅢ号戦車系の車体に重量級の8.8㎝砲を搭載するのは不可能であった。

 戦車で無理であれば、ドイツ本国で開発運用されているⅢ号突撃砲のスタイルであればどうかと言えば、此方も車高を下げる為にやや手狭となっているⅢ号突撃砲の戦闘室では、8.8㎝砲を搭載する事は困難であった。

 難題に当たったドイツ人技師は、発想の転換を行う事とした。

 前例はVK6505(P)。

 車体は前後逆としてエンジンを車体前面に配置、戦闘室を後方へと引き下げたこの配置であれば、8.8㎝砲を搭載し、正面に十分な装甲を充てられるという計算であった。

 ダグイン戦術を使う前提で車体の正面装甲は厚くせず、戦闘室正面のみⅣ号戦車と同格の100㎜厚とする割り切りであった。

 これによって完成したC型Ⅲ号突撃砲は31tという準中量級の重量の割に絶大な火力を持った対戦車車両として完成する事となった。

 無論、弱点は多い。

 戦闘室正面以外の装甲は脆弱の1言であり、重量バランスの悪さから機動性能は良好とは言い難かった。

 だがそれでも、チャイナが独自に開発した車両と言う事で、チャイナの誉れ“鉄牛戦車”と謳われる事となる。

 

 

(※3)

 F-6戦闘機は、アメリカから輸入した1000馬力級空冷エンジンを搭載した局地戦闘機として完成していた。

 1000馬力級エンジンはデジタル制御の導入を含めた各部の調整が行われており、最大で1200馬力近い出力が出る様になっている。

 武装は12.7㎜砲4門か機載用に新開発された20㎜砲4門、乃至は混載が可能な様になっている。

 防弾性能にも十分な配慮が行われている。

 特徴としては、近距離防空任務向けとして航続性能を割り切った局地戦闘機とした為、機体がコンパクトに纏める事が出来た点にある。

 又、第3国向けではあるが製造コストの面から統合ディスプレイや感圧式操縦桿、整備用の自己診断システムなどが搭載されている為、最初に導入したアメリカ軍などでは、実際に運用を開始するまでに日本の技術者を呼んで試行錯誤を繰り返す事となった。

 この経緯があって、アメリカ軍のF-6戦闘機部隊はフロンティア共和国に駐屯している。

 アメリカ本土には2機が送られ、試験と解体調査が行われた。

 尚、このF-6戦闘機はシベリア共和国を最大の顧客として想定しており、寒冷地での運用に向けた設計が成されている。

 だがソ連軍機と最初に交戦したのは、シベリアでは無くカレリアの空であった。

 その建国の経緯故にソ連と対峙する事に躊躇の無いシベリア共和国は、フィンランドの危機に際して大規模な支援を行っていた。

 尚、輸出向け戦闘機と言う事で愛称(ペットネーム)が付けられる事となり、最大の顧客(カスタマー)となる予定のシベリア共和国軍の命名で、その俊敏さを表す意味で(ラーストチカ)となった。

 尤も、日本国内では空冷エンジンを採用している事から何処となく三菱A6Mと似ているとして、“令戦”なる渾名がマスコミの手で広められていたが。

 

 

 

 

 

 




仕事が多忙になりますので、更新が滞って行きます。
ご了承ください。


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49.1938-8 満州事件とその余波

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 チャイナ共産党が誘導して発生したチャイナ軍とアメリカ/フロンティア共和国軍の衝突は、両軍共に戦意と名誉欲に不足の無い指揮官が揃って居た為、最初は両軍ともに連隊規模での火力の応酬であったのが最終的には6個師団が正面からぶつかり合う大会戦へと発展した。

 全面戦争への忌避は、アメリカもチャイナも共有して居た為、両政府は軍事衝突の情報が上がる共に図ったかのように同じ指示 ―― 現地部隊へ戦闘の拡大を抑止する様に指示を出すのだが、その時点で既に師団規模での戦闘に発展していた。

 この為、アメリカは陸上戦力の少なさを補う為、航空部隊を大規模に投入した。

 その中には新鋭の対地攻撃機材である制圧攻撃機、AB-17とAC-47の姿があった。

 対してチャイナは、アメリカを刺激しない様にと演習に参加させていなかった機甲部隊の投入を決意し、C型Ⅲ号戦車を主力とする機甲旅団をドイツ人教導隊と一緒に前線へと放り込むのであった。

 シベリア独立戦争以来の、正規軍同士の戦闘は、世界中の耳目を集める事となる。

 

 

――アメリカ

 戦闘自体はアメリカ/フロンティア共和国合同軍の優位に推移した。

 陸戦に於いてはアメリカ軍期待の重戦車である40t級のM24戦車は当然ながらも、M2戦車を基にシベリア独立戦争の戦訓を反映して開発された30t級主力戦車であるM3戦車もチャイナ軍が装備している戦車群を圧倒し続けた。

 Ⅲ号戦車C型は走攻防といった戦車の基本的な性能的ではM3戦車にそこまで劣るものではなかった。 だが、組織戦闘能力が違い過ぎていた。

 グアム共和国軍(在日米軍)から無線を介した集団戦闘を徹底的に叩き込まれ統制された戦闘が可能となっていたアメリカ軍戦車部隊は、個の戦車の集団でしかなかったチャイナ軍戦車部隊にとって別次元の相手であった。

 又、チャイナ軍の誇りである独自開発したC型Ⅲ号突撃砲も、その初陣は散々なものとなった。

 それは性能によるものが原因では無く運用、元々が待ち伏せての戦闘が主である筈の突撃砲で名前通りの突撃を、アメリカ軍への積極的な戦闘をやってしまった事が原因であった。

 突撃を図ったC型Ⅲ号突撃砲部隊は、アメリカ軍M3戦車部隊よる側面攻撃 ―― 機動力と無線による連携によって効果的な運動を行い側面を取っての攻撃を受け壊乱したのだ。

 歩兵砲兵も、通信機による効果的な連携と恩恵をアメリカ軍に与えていた。

 あるアメリカ軍大隊指揮官は、一連の戦闘を指して“演習の様な実戦”とすら言っていた。

 この様に、陸戦に於いてはアメリカ軍は極めて高い戦果を挙げた。

 問題は航空部隊であった。

 別に制空戦闘で問題が出た訳では無い。

 アメリカ陸軍航空隊の主力であったP-36戦闘機はチャイナ軍航空隊の数的な主力であったドイツ製のAr68に対して優位に戦闘を進めたし、試験的に採用していた日本製のF-6(※1)部隊もすばらしい勢いで撃墜数を稼いでいた。

 問題は対地攻撃、制圧攻撃機であった。

 4個の歩兵師団を投入しているチャイナ軍の数的優位性を打ち消す為、アメリカ軍は航空優勢を握るや即座にAB-17制圧攻撃機とAC-47制圧攻撃機の2機種を投入したが、大損害が発生したのだ。

 特にAC-47制圧攻撃機が尋常では無い被害を出したのだ。

 これは2つの理由があった。

 1つは、AC-47制圧攻撃機が元々は輸送機でありコクピットやエンジンなどに装甲が施されて居なかった事が原因であった。

 そしてもう1つは、AB-17制圧攻撃機でも被害を出す原因となった事であった。

 それは制圧攻撃機として搭載している火器に起因する問題であった。

 正確に言うならば照準である。

 制圧攻撃機は機関砲で地上を制圧する攻撃を行うのだが、機械的な補助も無く直接パイロットの目で照準しようとした場合、制圧攻撃機はかなり低空へと降りねばならぬのだ。

 これによって地上側からの反撃を簡単に受けたのだ。

 そもそも、攻撃すべき敵を発見する為に攻撃が可能な高度よりも更に低空に降りる事も多く、歩兵の小銃による被害すら出ていた。

 アメリカ軍は制圧攻撃機の投入を、投入開始から3日で緊急停止する事となった。

 

 

――チャイナ

 国境線で発生したアメリカ/フロンティア共和国軍とチャイナ軍の衝突は、最終的にチャイナ領内へと国境線が20㎞程入る形で終息した。

 チャイナ政府は、アメリカ政府に対して、今回の武力衝突は帝国主義的な拡張を目的とした許されざる侵略行為であるとして、即時、チャイナ領内からの撤兵を要求した。

 これに対してアメリカ政府は声明を発表する。

 チャイナ領内を一部占拠している事は自衛措置であると主張する。

 武力衝突がチャイナ領内からの攻撃によって起因したモノである為、アメリカ政府とフロンティア共和国政府はフロンティア共和国の国土に被害が及ばぬ様に安全確保する為の保障占領を行っているものであり、チャイナ政府が今回の武力衝突で発生した被害の保障と原状回復の為の賠償、そして責任者の処分を行えば即時、撤兵するとした。

 チャイナは激怒した。

 チャイナ政府の認識では、戦闘を終息させる為に一時的に戦力を後退させたのに、敗北し賠償金を支払えと言われるのは業腹であった。

 チャイナ人としては、一方的に攻め入って来た夷の蛮族が一方的に責任者の処罰 ―― 謝罪を求めて来る事は、嘗てのアヘン戦争を思い起こさせた。

 チャイナは政府から人民から、反アメリカの機運が一気に高まった。

 

 

――国際連盟

 チャイナ/フロンティア共和国の国境で発生した武力衝突の仲裁に国際連盟が乗り出す事となった。

 その際に問題となったのは、現地にて武力衝突の状況を調査し精査報告する調査団の人選であった。

 アメリカは国際連盟理事国である日本やブリテンを推し、チャイナはドイツを推していた。

 当然ながらも、共に相手の推薦国を利害関係国であると非難し合った。

 最終的には両国の関係国からやや中立的な立場にある列強国家と言う事で、イタリアが選ばれる事となる。

 

 

――チャイナ/ドイツ

 自国内に侵略し存在しているアメリカ/フロンティア共和国軍を外交的手段で追い払う事とは別に、物理的な復仇 ―― 軍事的な勝利を狙うチャイナ政府は、ドイツに対して更なる軍備の売却を持ちかける事となる。

 チャイナ政府のAr68戦闘機に代わる最新鋭戦闘機の売却要請に対し、ドイツ政府はBf109戦闘機の売却を提案する。

 但し、全機が完成品としての売却であった。

 対するチャイナ政府は、稼働率の問題とチャイナ国内の工業技術の涵養と言う面からチャイナの工場でのライセンス生産か、最低でも一部部品にチャイナ製を採用したノックダウン生産を求めていた。

 この為、数度の折衝が行われる事となった。

 最終的にドイツ政府は、Bf109戦闘機をチャイナが50機、完成品として購入すれば、Bf109の競合機であったHe112のライセンス生産を認めると言う形で決着する事となる。

 この他、注文してはいるが届いていない重戦車であるⅣ号戦車の早期引き渡しと、更なる売却を求める事となる。

 この大幅な軍拡に必要な原資の為、資源開発と売却に関して以前より要請のあった日本との交渉に向き合う事となる。

 日本が求めていたのはレアアースとタングステン、そして蛍石などであった。

 日本のチャイナ進出に関して、チャイナ人がセンシブルな反応を起こさぬ様に配慮が行われる事となり、日本はフランスを間に仲介させる事となった(※2)。

 

 

――ドイツ

 チャイナの要請に応じる形で、ドイツ軍向けのⅣ号戦車の生産を一旦停止してチャイナへ送る分を揃えたドイツ。

 そんな配慮をする程に、ドイツにとってチャイナの存在は大きくなっていた。

 政府や軍のレベルの話だけでは無く、民間でもドイツとチャイナは接近していた。

 ドイツを苦しめている労働人口の不足に関して、チャイナ政府がチャイナ人のドイツへの労働者としての移住を斡旋しだしたのだ。

 それは、ドイツ内にチャイナタウンが出来上がる程のものであった。

 フロンティア共和国建国からアメリカとの関係が悪化し続けていたチャイナにとって、雄飛する先としてアメリカよりもドイツが人気になっていたのだ。

 そんな大事な顧客であるチャイナへと大量の戦車や野砲を輸送する際、ドイツはアメリカによる妨害を危惧する事となる。

 既にアメリカは、ドイツからチャイナへ武器を大量に売却する事に対して、戦争を煽る行為であるとの非難を繰り返している。

 もしも、チャイナへの武器を満載した船団がアメリカの海軍に拿捕されては大問題である。

 ドイツは装甲艦ドイチェラントを旗艦とする護衛戦隊を編制し、輸送船団を護衛させる事とした。

 傲岸不遜なドイツ人は、自らの行動がアメリカにどんな反応を起こさせるかを理解していなかった。

 

 

 

 

 

(※1)

 アメリカ軍は、試験的に採用したF-6戦闘機に対して“XPF-6”と言う名を与えていた。

 フロンティア共和国での実験的な運用で、XPF-6戦闘機は性能の高さと共に高い稼働率を実現していた。

 だが同時にアメリカ軍は、XPF-6戦闘機の大量導入には否定的であった。

 これは、他のアメリカ製の戦闘機とは別の整備用の機材や備品を必要とする事が原因であった。

 特に消耗品は、日本製の純正品が性能発揮の為に推奨されて居る為、性能を十全に発揮させようとすると全量を日本から輸入する事となる。

 それは安全保障上、如何なものかと言う意見が出たのだ。

 又、パイロットの問題もあった。

 操縦システムが、従来のアメリカ製戦闘機とは全く異なるのだ。

 操縦桿1つとっても、両足の間にある操縦桿で直接舵を動かすアメリカ式に対して、操縦席右側に殆ど動かない感圧式の操縦桿でFBWによるコンピューター制御で舵を動かす日本式は余りにも違い過ぎていた。

 これではパイロットの教育システムを2通り必要としてしまうのだ。

 負担が大きいと言うのがアメリカ陸軍航空隊の意見であった。

 尚、戦闘機を操るパイロットたちからは、XPF-6戦闘機の性能、扱いやすさ、機械的信頼性の高さから大量導入を求める声が上がってはいた。

 

 

(※2)

 日本とチャイナの資源売却に関する接近に、アメリカは日本との外交の場で不満を表明する事となる。

 アメリカ政府の中には、日本とチャイナの接近によってアメリカの極東権益が挟撃される事を警戒する向きがあったのだ。

 アメリカ政府内での動きを機敏に察知した日本政府は、アメリカを宥める為、様々な便宜を図っていく事となる。

 1つにはアメリカ軍が大被害を出した制圧攻撃機の運用に関する研究への協力があった。

 又、アメリカ国内での宣伝にも注力していた。

 アメリカの親しい国家である日本、利益を共有できる国家である日本、オリエンタルで興味深い国家である日本、即ち良き隣人である日本というイメージ戦略である。

 そこにはグアム共和国(在日米軍)情報部の協力もあった。

 民主主義国家であるアメリカは、有権者たちの世論の動向に逆らえない。

 故に日本は、アメリカの一般市民に日本へ敵対的な行動をする事を忌避する感情を植え付ける事に注力していたのだ。

 

 

 

 

 

 



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50.1938-9 欧州の混乱

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 ドイツは苦境にあった。

 強大な艦隊で海洋を支配するブリテンや裏切り者であるイタリア、そして積極的にドイツと敵対してくるフランスに半包囲されているのだ。

 ソ連との間に強固な同盟関係を築いているとは言え、その間には目障りなポーランドも居る。

 四面楚歌と言うべきドイツ。

 だがそれでも尚、ヒトラーはドイツの領域(レーベンスラウム)拡大を諦める積りは無かった。

 ドイツが発展する為には、常に労働者と市場とを欲している。

 そして何より償還の時期を迎えつつあるメフォ手形の問題があった。

 メフォ手形の債務に関しては、オーストリアやチェコスロバキアを併合し建設する予定の大欧州連合帝国(サード・ライヒ)でひと息つける予定であった。

 併合する国々の中央銀行から金を収奪出来る筈であるのだ。

 それ故にドイツは、何としても中欧の諸国を併合する積りであった。

 その最大の障害であるG4、特にフランスをどうするのかが問題であったのだが、ある意味で想定しない方向からの攻略法が親衛隊(SS)から提案された。

 カギとなるのはフランス国内に存在する共産主義者だ。

 現在のフランス政権は1920年代後半 ―― タイムスリップしてきた日本との接触以降、大統領は変われども常に政権を維持しているG4協調主義者であり、反ドイツ主義者であり、軍備優先主義者であった。

 それ故に(・・・・)、一般のフランス人有権者の間では政府に対するある種の飽き(・・)が生まれていた。

 そこを突こうと言うのだ。

 ソ連を介して共産主義者に接触し欧州の大連合を提案し、ドイツ敵視政策を実施しているフランスの現政府の打倒を目指すのだ。

 その提案 ―― 策謀にヒトラーは許可を出す。

 

 

――フランス

 1930年代のフランスの政治勢力は、大きく4つの派閥に分かれていた。

 基本的な民意として、フランス国内が再度戦争によって荒らされる事を嫌がるという意味において、4つの派閥は共通していた。

 即ちフランスの平穏。

 違いは、その目的の実現手段であった。

 G4としての協調、ドイツとの敵対、欧州の統括を自認する事を柱とした大陸派。

 G4との協力と共にドイツとの協調も重視し、欧州での再度の戦争を阻止したい融和派。

 現時点で築き上げた軍事力を基に欧州での主導的立場を得たいとする民族派。

 社会主義に基づいた平等な世界を希求する平和派。

 問題は、平和派が4つの派閥の中では最も勢力が小さく、そして名前とは裏腹な過激な共産主義者の集まりであったという事であった。

 とは言え平和派は、それ程に大きな勢力では無かった。

 その状況を変えたのがソ連の接触 ―― 物心両面からの大規模な支援であった。

 特に活動資金を得た事が平和派の活動を活性化させた。

 大規模に行われた宣伝は、おおよそのフランス人が持つ親ロシア的社会主義的なものへの親近感を掻き立てさせた。

 その上で、長期に渡った大陸派政権への反発 ―― 親G4政策で得られる利益の配分が少ないと感じていた人々を煽る事に成功する事となる。

 大陸派は政権与党という事で独占的に得ていた未来情報を基に国家運営を行ってきた。

 その運営は誠にフランスの未来と繁栄とを考えていたと言えるのだが、未来を知って動いているという意識が独善的な行動を取らせており、その結果、大陸派は平和派のみならず、それ以外の派閥からも距離を取られる事へと繋がっていた。

 とは言えども、フランスに安定と繁栄をもたらしていた為に大陸派はフランス人有権者の支持を消極的ながらも集める事に成功し続けていたのだ。

 その状況が、ソ連を介したドイツの介入によって変化する。

 豊富な資金を得た平和派は大馬力で宣伝工作を実施していく。

 その主張は、G4との協調によって繁栄するフランスは、繁栄するが故に戦争を忌避するべきであり、その為にはソ連やドイツとも協力関係を構築していくべきであるという内容であった。

 ある意味で正論であった。

 正論であるが故に平和派は勢力を拡大する事に成功するのだ。

 だが、その平和派はその急伸ゆえに政権与党に危機感を抱かせる事になる。

 フランスは政治の季節に突入する。

 

 

――ドイツ

 ヒトラーは半信半疑で行ったフランスの政情を不安定化させる工作が成功 ―― フランスの意思決定能力が著しく阻害され外交的な活動力が低下するという好機を逃さず中欧の統一に乗り出した。

 オーストリアやチェコスロバキアなどの国々で国民投票を強要し、その結果を以って連邦国家の建国を行ったのだ。

 反ナチスの人間たちは国際社会にドイツの不正義を訴えるが、建前であっても国民投票が行われており、その結果としての連邦国家の樹立 ―― ドイツ連邦帝国(サード・ライヒ)の誕生である為、欧州に直接的な権益の無い日本やアメリカは戦争を行うだけの大義を得られないのだ。

 同様に、ブリテンも戦争の大義は兎も角としてブリテン国民が中欧に対する関心の薄い為、戦争を行う事は出来なかった。

 これらの事から国際社会と国際連盟では、ドイツの行為を非難こそすれども、経済的な締め付け以上の施策は打てなかった。

 唯一、ポーランドは戦争も辞せずとの態度を取ったが、それもソ連がドイツ支持と、ドイツとポーランドの戦争となればドイツ側に立って戦争に参加する用意があるとの声明によって腰砕けとなっていた。

 フランス大陸派と同様にドイツに敵意を持ち軍備拡張に努めていたポーランドであったが、ドイツとソ連を敵に回しての2正面作戦を行う程に血迷ってもいなかった。

 フランスであれば、大陸派が盤石の政治体制を維持できていれば、条理道理を捨ててドイツへと宣戦布告を行っていたであろう。

 ある意味で、対ドイツの主軸であったフランスの混迷がドイツの拡張を許したのだ。

 その事がヒトラーに自信を与えた。

 そして、ドイツ経済に猶予を与える事となった。

 とは言え、それは経済の破綻が少しだけ先延ばしにされたというものに過ぎないのであった。

 故にヒトラーは次の標的に、ポーランドを定めた。

 大ドイツ(サード・ライヒ)の建国に、小癪にも邪魔を仕掛けて来たのだ。

 その懲罰を行うべきであるというのが、その判断理由であった。

 

 

――ドイツ海軍の拡張

 ポーランドとの戦争を決意したヒトラーであったが、軍の全てを欧州大陸での戦争に振り向けられた訳では無かった。

 貴重なお得意先 ―― チャイナとの問題があったからである。

 特に軍事面でチャイナはアメリカと対立し続けている為、常にドイツに最新の装備を求めていた。

 ドイツの軍事研究費用にも少なくない額を投資してくれていたのだ。

 そんな大事なチャイナへの海洋交易路がブリテンやアメリカ、日本などによって脅かされているのだ。

 ヒトラーは海軍に対して、万難を排して海洋交易路を護れるだけの艦を建造する事を厳命した。

 慌てたのはドイツ海軍である。

 それまでドイツ海軍はブリテンとフランスの海軍を主敵と定め、ドイツ近海での制海権の維持と北大西洋でのブリテンの海洋交易路の破壊を主任務と考えていた。

 そこに、チャイナとの海洋交易路の確保命令が下ったのだ。

 慌てるのも当然であった。

 最終的にドイツ海軍はZ艦隊計画とは別の、2万t級装甲艦12隻と2万t級哨戒空母4隻、そして補給艦を中心としたE艦隊計画をまとめ上げる事となった。

 ヒトラーはこの計画に修正を加え(※1)承諾する。

 だがこれは、あからさまなまでに東京軍縮条約違反であった。

 装甲艦は巡洋艦の範疇をあからさまに超える大型艦であり、戦艦として数えた場合にはドイツの保有枠を遥かに超過するのだ。

 世界に大きな波紋を広げる事となる。

 

 

――海軍休日の終焉

 ドイツのE艦隊計画に強烈な反発を示したブリテン。

 ドイツが世界中で大型艦を動かすと言う事は、世界帝国であるブリテンへの明確な挑戦であると認識したのだ。

 或いは、世界規模での通商破壊作戦を実施する力を欲しているとの認識だ。

 その反応にドイツは慌てる。

 ドイツとしては、12隻の装甲艦と言っても主砲は30㎝を越えず、砲門数も6門と少なく抑える事で戦艦では無いとの主張であったのだ。

 外洋航海に対応する為に、少し大きくなった巡洋艦 ―― その程度の認識であったのだ。

 だが東京軍縮会議では、巡洋艦の定義も定められていた。

 戦艦の補助戦力として整備を行わない様に20㎝砲を上限とし、基準排水量も1万tを超えぬ事が定められていたのだ。

 これを基にブリテンはドイツに対し、E艦隊計画の破棄を要求する。

 この要求にヒトラーは激怒した。

 上述の様に、ドイツ/ヒトラーとしては東京軍縮会議に対して配慮していたにも関わらず、ブリテンから一方的に断罪され、日本もアメリカもブリテンに協同しているのだ。

 断じて許せる筈が無かった。

 ヒトラーは東京軍縮会議からの脱退を宣言。

 世界の建艦競争が勃発する事となる。

 

 

 

 

 

(※1)

 E艦隊計画の象徴となる3万t級の大型巡洋戦艦の建造をヒトラーは求めたのだ。

 ドイツ海軍首脳部としては、大型艦の建造保有枠をZ艦隊計画で使い切っている為、反対であったが、ヒトラーとしては交渉の見せ金としての大型艦を欲したのだ。

 交渉が行き詰まれば、建造を中止し、それを以って交渉の妥結を目指すと言う理由であった。

 

 

 

 

 

 



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51.1939-1 戦雲

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 ドイツの野放図な艦隊建造計画が引き起こした海軍休日の崩壊は、同時に、国力を涵養していたブリテンとアメリカにとっては老朽化した主力艦群の更新を行う好機であった。

 その上でG4はドイツとソ連との戦争を極めて可能性の高い未来であると判断し、4ヵ国による共同での戦争遂行計画が立案される事となった。

 対ドイツ戦争案(ケース・ブラック)対ソ連戦争案(ケース・レッド)対チャイナ戦争案(ケース・イエロー)と言う、現時点でG4と対立している3ヵ国との総合的な戦争計画が作られて行く事になる。

 戦争計画は、最終的に新秩序(デイ・アフター)と名付けられる。

 但し、この戦争計画は本質的には防衛的なものとなっていた。

 是は、日本との交流以降、平和である事のメリットを享受し経済的繁栄をしてきた4ヵ国には積極的に戦争を仕掛ける理由が乏しかったからだ。

 資源地帯と市場とのアクセスが平穏に維持されていれば金が常に生み出され続ける形が出来上がっているのだから。

 だからこそ、統合戦争計画新秩序(デイ・アフター)の内容は苛烈なものとなっていた。

 金稼ぎの邪魔をする相手に手加減をする必要など一切認める必要が無い為である。

 

 

――日本

 日本に要求されているのは、シベリア共和国方面での対ソ連戦備の維持と西太平洋-インド洋間での海洋交易路の保全であった。

 この為、日本はシベリア共和国への軍需物資の支援と共にシベリア共和国軍の錬成に着手する。

 有事に際しては50個師団100万人体制が構築出来るだけの戦争準備だ。

 ソ連との戦争が行われなかった場合、欧州への戦力派遣も前提とした条約を日本とシベリア共和国は締結する事となる。

 シベリア共和国はその対価として、日本が日本連邦の6ヵ国に与えている優先的立場と同等のモノを得られる立場を獲得した。

 日本連邦の準加盟国となったのだ。

 シベリアのロシア人は、形式的とは言え天皇を戴く事に内心では複雑なものを抱えてはいたのだが、ソ連の圧力に対抗する為には日本の助力が必要であり、それを担保する為に同盟以上の確約を日本から引き出す対価として受け入れたのだ。

 海の戦備に関しては、主要な脅威は潜水艦である為、15000t級の対潜指揮艦(※1)と5000t級汎用護衛艦と3000t級の対潜哨戒艦による海上護衛ユニットを編制すると言う腹積もりであった。

 又、戦争準備としての人員の確保準備にも着手する事となった。

 これに合わせて海上自衛隊は、人手を喰う旧世代艦の更新を推し進める事となった。

 特に、それまでは御座なりにされていたあめ・なみ型汎用DDの更新は急務となった。

 省力化ネットワーク戦対応の5000t級汎用艦(ワークホース)での更新である。

 海上自衛隊は、この状況に合わせる形で大規模な部隊の再編成を行う事となる。

 最終的には16個の任務部隊(ユニット)を編制する事が目標とされた。

 2個の航空ユニット。

 12個の海上護衛ユニット。

 2個の両用戦ユニット。

 航空ユニットに関しては、想定される脅威がマリアナ海戦(マリアナ・キャンペーン)に於ける米海軍航空隊級の攻撃として編制される事とされた。

 1波300機の攻撃を捌けるだけの防空力が求められたのだ(※2)。

 技術的な格差も勘案して100機の防空機(※3)を用意出来るだけの空母と防空と対潜の護衛艦、そして潜水艦が必要とされた。

 この結果1個航空ユニットは、しょうかく型航空護衛艦1隻に2隻の30000t級航空護衛艦、防空護衛艦4隻、汎用護衛艦6隻、潜水艦3隻で構成するものとされた。

 これだけでも海上自衛隊の人員を大きく喰う事となる為、非常措置として海上自衛隊は人手を日本人のみならず日本連邦人に開く事となる。

 海上護衛ユニットは上述の様に3種類の艦で構成される。

 旗艦であり、対潜戦闘システムの中枢を担う対潜指揮艦1隻と独自に戦闘可能な2隻の汎用護衛艦、対潜指揮艦とのネットワーク下でその手足として走り回る4隻の対潜哨戒艦だ。

 両用戦ユニットは、各完全機械化された1個師団を輸送できる部隊として大型輸送艦を手配する事とされた。

 この結果、今後日本は30000t級航空護衛艦4隻、15000t級対潜指揮艦12隻、5000t級汎用護衛艦36隻、3000t級対潜哨戒艦48隻、都合100隻を整備する計画となった。

 これに戦時消耗を前提とした予備艦の建造が入るのだ。

 試算した防衛省も精査した財務省も、政治によって決断された膨大な建造計画を呆然と受け入れていた。

 この他、両用 ―― 着上陸作戦に備えた10000t級対地支援護衛艦6隻の建造も検討されていた。

 本来、この手の任務にはやまと型護衛艦が充てられる予定とされていたが、その防空力が評価され航空ユニットへの編入も検討されている為、その代替として予定されていた。

 無論、あめ/なみ型汎用護衛艦の代艦建造の優先順位は低い為、一度に建造される訳では無い。

 それでも平時であれば野放図と言って良い一大建艦計画であった。

 日本はこれを、1939年度中期防としてまとめ上げる事となる。

 この他にも水上戦力を世界中に展開させる為の各種支援艦の整備も推し進める事となり、この事はタイムスリップ後、低調であった日本造船業界に大きな活況を与える事となる。

 

 

――アメリカ

 チャイナとの戦力の衝突が続いている為、陸軍の装備と編制に関しては戦時を見越した形と成っているので、今回の戦力整備に於いて重視されたのは海軍であった。

 東太平洋 ―― 日本との海洋交易路の保全と、北大西洋の掌握である。

 とは言え、どちらも困難と言う訳でも無かった。

 太平洋方面で言えば先ず敵が居ない(・・・・・)ので、万が一のドイツ潜水艦部隊への備えと言う程度であった。

 大西洋方面も、ドイツとの正面に立つのはブリテンであり、此方も対潜が主体ではあった。

 故に、中心となるのは対潜部隊であるが、アメリカ海軍とアメリカ政府は、この状況で戦艦を含めた大型艦の建造を行わないと言う選択をする積りは無かった。

 強大な海軍はG4の中の勢力争いに於いて優位に立ちうる道具であると認識していたからだ。

 とは言え無思慮に建造する訳でも無く12隻の大型正規空母と8隻の戦艦に抑える(・・・)予定であった。

 その分、ドイツの装甲艦に対抗する為の大型巡洋艦や護衛空母に関しては恐ろしい勢いでの建造が決定した。

 

 

――ブリテン

 戦争準備として、欧州の大地でドイツ人を屈服させる歩兵部隊、その数的な主力となるインド人の師団編制に着手する事となる。

 又、海洋戦力に関して言えば、ブリテンの国力の象徴として先ず12隻の高速戦艦の建造を決定した。

 その上で戦後を見据えての航空戦力の拡張を重視する事となる。

 これは空母の建造であり、同時に対艦攻撃機の開発であった。

 ドイツが建造している大型艦を殴殺する為の航空機を、日本と共同で開発する事を決定したのだ。

 対潜に於いては、日本からの対潜戦術及びソナー類の導入が大きかった。

 それまでは独自技術の育成を重視していたブリテンであったが、戦争が近づけはそのような事は言っている余裕は無くなった。

 

 

――フランス

 政治的混乱から大規模な軍拡計画を策定は出来ずにいた。

 とは言え、海洋戦力はブリテンとアメリカが居り、この上で有事に際してイタリアもG4側に立つ様に秘匿交渉を行っており色よい返事を貰えている現状で、特に大きな問題となる事は無かった。

 陸上戦力も営々と育ててきており、戦時体制への移行を行いさえすれば問題は無かった。

 問題は国内の混乱である。

 宣戦布告を受けるまでは、親ソ連/ドイツである平和派による政治的な妨害が続くであろう事が予想されていた。

 その意味においてフランスの政権与党にとって平和派は最早、売国奴と同義であったが簡単に弾圧してしまう訳にはいかなかった。

 現時点ではデモなどの平和的な抗議や主張で収まっているが、警察や軍を用いて鎮圧を始めれば必ずや武力闘争を行うであろう。

 又、平和派以外の野党勢力も、平和派が弾圧されれば次は我もかと判断し、平和派に加担するであろう事が推測された。

 この状況でフランス政府が出来る事は少なかった。

 それでも尚、出来る事を探していた。

 

 

――ドイツ

 E艦隊計画を発端としたG4による戦争準備に、ドイツは恐怖した。

 ドイツが何とか整備しようとしているZ艦隊計画の大型艦群よりもはるかに巨大な艦隊群が生み出されようとしている事を恐れた。

 故にドイツは、対G4戦争計画を策定する事となる。

 フランスとイタリアを下し、欧州を統一する事で大国家を生み出し、その国力を背景にブリテンと和平を行うという腹積もりであった。

 如何に強大な海軍があろうとも、内陸にある帝都ベルリンまで攻め寄せる事は不可能であろうというのがその判断の背景にあった。

 

 

――ソ連

 己の関与しない所で勃発した戦雲に、ソ連は敏感に反応する事となる。

 フィンランドとの国境変更交渉である。

 ソ連にとって重要なレニングラードが余りにも国境線に近い為、その安全性を確保する為にフィンランドに対して領土の割譲要求を出す事となった。

 割譲要求と言う極めて高圧的な態度にソ連が出たのは、シベリア独立の影響であった。

 シベリアでの敗北により、ソ連指導者スターリンの権威が低下した為、それを少しでも補う為の外交的な勝利が必要とされたのだ。

 しかしながらフィンランド側は、その要求を拒否する。

 この時点でポーランドやシベリアとの対ソ連携を行っていたフィンランドは、簡単に折れる事は無かった。

 小国に逆らわれると言う、面子を潰されたソ連はフィンランドとの戦争を欲する様になる。

 

 

 

 

 

(※1)

 15000t級対潜指揮艦は、ヘリ及びドローンの運用を主目的とした空母型護衛艦であった。

 徹底的な自動化を推し進めた15000t級対潜指揮艦は、極めて少数での運用が前提となっていた。

 

 

(※2)

 この想定を聞いたグアム共和国軍(在日米軍)は、腹を抱えて笑った。

 アメリカとブリテンは、何と戦う積りかと戦慄した。

 日本としては、万が一にもドイツが空母機動部隊を作り上げた場合への備えであったのだが、ある意味で過剰であった。

 

 

(※3)

 艦載防空機は、F-5戦闘機をベースにした艦載型(F-5S)が投入される予定であった。

 新開発の航空機用ミサイル ―― ネットワーク化にも一部対応した近距離ミサイルを最低でも8発搭載出来るF-5S戦闘機は、ネットワーク下で効果的な迎撃に成功すれば倍以上の敵機と交戦し得ると言うのが海上自衛隊上層部の判断であった。

 

 

 

 

 

 




2019.09.11 修正実施


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