タイムスリップ令和ジャパン (◆QgkJwfXtqk)
しおりを挟む

A.D.2025
001 タイムスリップとその経緯


+
幸福は空から降ってくる物でも、誰かに与えられる物でもない
自分で作り出すものなのだ

――エミール=オーギュスト・シャルティエ    
 







+

 2025年。

 平成37年、日本列島は100年前の時代へとタイムスリップした。

 

 中華人民共和国が開発した次元振動弾の暴発が原因だった。

 次元振動弾とは、日米台の軍事的圧力に耐えかねた中華人民共和国が起死回生の戦力として高位次元理論を元にして開発した超兵器であった。

 

 平成30年代の極東アジアは極度の緊張感の下にあった。

 平成30年代に入って以降、経済成長の著しく鈍化した中国は軍需をもって経済拡大を図ったが、対して日本もGDP2%枠を投じた積極的平和主義を提唱し、軍拡を推し進めた。

 竜虎の対峙。

 その上で米国も本気の軍拡を実施。

 台湾へは日米が共同でテコ入れをしていた。

 そこで発生した朝鮮内戦。

 白頭山の噴火により北朝鮮は不安定化し、韓国と世界に支援を要請。

 要請を受けた韓国政府は北朝鮮を助けようとした。

 韓国軍の予算を削って。

 これに韓国軍上層部がガチ切れして軍事クーデターが勃発。

 韓国内での混乱に、北朝鮮が乗じて同胞への人道支援の名の下で食料収奪に強襲。

 北朝鮮軍の主力が南下した所、北朝鮮国内に残っていた軍の一部が反乱を宣言。

 朝鮮半島は四分五裂して、誰も幸せになれない内戦が始まった。

 

 周辺諸国は不干渉条約を策定。

 国境線を封鎖した。

 それでも国外脱出を図った人間は、人道支援として済州島もしくはカムチャッカ半島の人道的収容施設へと送られた。

 

 当初は不干渉を宣言し遵守していた極東の日米台中露であったが、日米の干渉を求めた親米派政権が正統韓国政府軍の偽装を行ったF-15戦闘機で対馬を爆撃した為に事態が急変する。

 難民を乗せた民間航空機を飛ばし、その陰にF-15を潜ませて爆撃を行ったのだ。

 対馬の小学校と役場を爆撃。

 死傷者が200人近く発生した。

 特に死者の多くは子供だった。

 小学生だった。

 その事に日本国内の世論は沸騰する。

 この惨劇を引き起こした親米派政権は情報工作を行い、正統韓国政府のネット公報を偽装して爆撃理由を公表した。

 曰く「対馬で国外へと避難した年若い韓国人女性が性奴隷にされていた為、日本の植民地主義へと鉄槌を下した」と。

 慌てた正統韓国政府であったが、ネットで国民の支持が集まった為、調子に乗って爆撃を認めてしまった。

 その上で日本に対して謝罪と賠償を要求した。

 沸騰した世論に後押しされた日本政府は国連安保理を招集、対馬列島と朝鮮半島の間に防空特別圏の設定を認めさせた。

 飛ぶものは軍民を問わず叩き落とす宣言する。

 又、洋上でも日本領海への韓国籍船舶の進入を、それが無害航行でない可能性が大であるとして、全面拒否すると宣言。

 

 とはいえ戦争に発展した訳では無かった。

 日本政府は即時の報復は行わず、被害現場の詳細の公表と世界中のマスコミを呼び込んで正統韓国政府の糾弾を行った。

 その上で、正統韓国政府に対して謝罪と原因究明、そして責任者の処罰を要求した。

 又、被害者への賠償の為として日本国内の韓国政府資産の凍結を実施した。

 

 ここまでは中国にとっては良い話であった。

 中国に正面から逆らう日本の国力が、対朝鮮半島で削れるだろうからだ。

 或は対朝鮮半島の為に対中融和政策を行う事を期待した。

 その為の外交的接触も行った。

 だが、キレた日本は中国の想定の斜め上を行った。

 軍拡を開始したのだ。

 対中軍備とは別枠で、予算を乗せてきたのだ。

 防衛大綱は改訂され人員規模の拡張こそ低調ではあったが装備面の拡張は著しいものがあった。

 陸上自衛隊は各種AFV2000両の調達を中心に重機械化が推し進められ、策源地攻撃用の大型ミサイルの整備が決定された。

 航空自衛隊はF-3の増産と防空ミサイル群の規模拡張が行われた。

 海上自衛隊に至っては計画の進んでいた40000t級多目的母艦がキャンセルされ、70000t級の純然たる空母が建造される事となった。

 戦争を行わない代わりとして、朝鮮半島の諸勢力が手出しできない戦力(・・・・・・・・・)の整備が行われる事となったのだ。

 血の気の多すぎる日本の行動に慌てた中国は、1枚看板の正規軍や無害化された戦略核ミサイルに代わる兵器を求めた。

 それが次元振動弾だった。

 

 大馬力で開発された次元振動弾は威嚇と実験を兼ねて太平洋上空 ―― 宇宙空間で爆破しようとしたら、工作不良であったロケットが上昇途中で落下してしまった。

 次元振動弾は太平洋上でさく裂する。

 この結果、日本列島やグアム島などが100年の時間をさかのぼる事となった。

 

 

 

 

 

 時に1925年。

 奇しくも大正から昭和へと変わろうとした時代。

 昭和では無く令和が始まった。

 

 

 

 

 

 




2019.11.02 文章修正
2022.10.18 構成修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

A.D.1925
002 日本の混乱


+

 1925年へと飛んだ日本は、世界とのネットワークが全く途絶している事に気付いた。

 緊急事態対処として国会を召集。

 併せて日本政府は在日米軍司令部を含めてアメリカ大使館と協議を行った。

 その後、各国大使館と協議を行った。

 アメリカが優先されたのは、在日米軍あればこそであった。

 原因は不明。

 されど、中華人民共和国の次元振動弾が原因ではないかとの推測はされていたが、詳しくは判らなかった。

 海上自衛隊と航空自衛隊、海上保安庁が周辺捜索を開始。

 朝鮮半島は兎も角と、近い国家である台湾への連絡回復をと船舶の派遣を決定した時だった。

 北側対馬海峡で警戒中の海上保安庁より、至急とされた報告が内閣府に届けられたのは。

 船舶の領海接近を確認し対処しようとしたらトンデモナイ事が判った、と。

 彼らは古臭い駆逐艦でやってきた。

 曰く「朝鮮総督府より、連絡の途絶した内地の状況を確認する為に来た」のだと。

 日本政府に、日本がタイムスリップをした事が初めて伝わった瞬間だった。

 混乱のるつぼに叩き落とされた日本。

 同時に、世界も混乱した。

 極東の列強末席が、一夜にして別の存在へと成り替わっていたからだ。

 そこからの1年は混乱と混沌の時間だった。

 日本にとっても、世界にとっても。

 

 

 

 

 

――領土問題

 最初に問題となったのは、残された日本帝国の領域、朝鮮半島、台湾島、関東州、樺太南部、南洋諸島だった。

 国際連盟や米英仏などの太平洋領域に権益と権限とを持つ列強とも協議した結果、日本政府は暫定的ながらも日本帝国の権利と義務とを負う事になる。*1

 日本政府の方針としては、朝鮮半島と台湾島は民族自決と()()()()()()()()という意味で独立させる事を考えていた。

 

 

――朝鮮半島

 日本政府は当初、転移前の関係が劣悪だった事もあって()()()()の美名の下で、独立を促せば朝鮮人は乗ってくるだろうと判断していた。

 日本帝国が行った投資 ―― 朝鮮半島に存在する日本資産は、独立した朝鮮半島政府が買い取る(借金として背負う)ものとし、言ってしまえば()()()()()予定であった。*2

 この日本政府の方針に、特別在留許可を持って日本国内に居住していた朝鮮人も乗った。*3

 この為、ほぼ本決まりとなっていた独立案であったが、それを止めたのが朝鮮総督府だった。

 朝鮮総督府の人間からすれば、近代国家のていをなしていない朝鮮半島を無理やりに放り出すのは鬼畜の所業であるとの認識だった。

 彼らは誠心誠意、日本の為に内鮮一体化を目指した理想家であった事もその行動原理となった。

 同時に、コリア人も反対した。

 教育を得だした彼らは日本の発展ぶりを見て、その内側にある事の利益を理解したのだ。

 誇り(民族独立)より(経済的恩恵)

 実に実利的判断であった。

 しかも、親日派の知識人は日本との交流の中で日本人に朝鮮人が蔑視されている事を理解した。

 蔑視される原因 ―― 歴史も理解した。

 そんな彼らは、独立後に日本から援助が受けられるなどと甘い妄想はしていなかった。*4

 朝鮮総督府と二人三脚で親日宣伝に務めた親日派知識人は、最終的に朝鮮での人民投票を行い、有効投票者数の7割以上の日本への帰属希望を集める事に成功する。

 又、法律家からも日韓併合条約に分離独立に関する条項が存在していない為に、日本政府の朝鮮側の合意を得ない分離独立は違法であるとの意見が上がった為、日本政府は極めて渋々ながら、朝鮮半島の分離独立を断念する事となった。

 

 

――台湾島

 日本政府は独立の方針であったが、台湾総督府は現時点での台湾島の産業の乏しさから独立は困難であると判断していた。

 この為、独立させるにしても10年から20年は準備期間が必要であろうと訴えていた。

 又、独立の話が出た頃と前後してチャイナからの接触があった。

 偉大なるチャイナへの復帰の命令だ。

 この事に、タイペイ人は拒否感を示す。

 日本帝国も日本も豊かな国だが、中国はそうではない。

 凋落を好んで選ぶ趣味は無いと言うのが、大多数のタイペイ人の選択だった。

 この為、朝鮮半島を先例とした国民投票が実施され、その結果、将来的な分離独立に含みを残したまま、日本の統治下に残る事となる。

 

 

――関東州

 租借地であった為、租借権の売却を日本政府は検討する。

 これに対して関東軍が激烈に反対する。

 又、自衛隊の近代的な装備を見た関東軍首脳陣は、この軍備があれば中国を統治する事すら可能であると判断、日本政府に対して対中戦争の献策をする始末であった。

 これにキレた日本政府は、関東軍の鎮圧を決定。

 意図的に関東軍の暴発を誘導し、立案の段階で関東軍の首脳陣を捕縛処断する事とした。

 その事に気付かない関東軍若手将校はチャイナとの紛争を立案し、日本政府はチャイナへの武力行使計画の策定を理由に破防法を関東軍に適用、この捕縛を行った。

 又、若手の独断専行を止めなかった首脳陣に関しても、監督不行き届きとしての処断を断行する。

 後に関東処分と言われた苛烈な粛軍であった。

 日本政府は一罰百戒、日本陸軍の残余による独断専行 ―― 好戦的な気分をへし折る為に断行したのだった。*5

 関東処分の後は、チャイナへの有償返却を日本政府は選んだ。

 だが、有償の金額の高さにチャイナ政府が二の足を踏み、無償化ないしは有償額の引き下げ交渉にチャイナが入った所で、アメリカ政府が乱入した。

 日本政府が提示した額の倍額を提示した為、日本政府は関東州権益と満鉄に関わる全ての権利をアメリカに売却する事とした。*6

 

 

――樺太南部

 ソ連との国境線があり、重工業なども無い事もあって日本政府は最初から保護を選択していた。

 但し日本への編入ではなく自治国とする事とした。

 これは朝鮮半島や台湾島、或は関東州に在住していたジャパン(日本帝国)人の居留地としての利用も考えていた為であった。

 ジャパン(日本帝国)人からは故郷(日本本土)への帰還を希望する人も多かったが、日本政府は社会混乱を避ける為として、これを断固として拒否した。*7

 とは言え、最終的に南樺太へと移住した日本人は、そこまで多くは無かった。

 それぞれ朝鮮半島や台湾島に生活の拠点と資産とを有していた人間は、大意に於いて日本であるのならばと、根を下ろし続ける事としていたからだ。

 その代わりに、元日本帝国軍人の多くが流入した。

 特に関東処分で軍を追放された人材も多く流入した為、尚武な国づくりを進めていく事となる。

 尚、人口構造が男性に偏っている為、諸外国に女性の流入を訴えるという涙ぐましい努力を行っていく事となる。*8

 

 

――南洋諸島

 日本帝国の信託統治領となってまだ10年と経っていなかった為、近代的な国家の独立を行うだけの基盤がある筈も無く、日本政府も早期の独立を断念する事となる。

 とは言え、何時までも保護国(信託統治領)のままと言うのも問題であると判断。

 国家を担える人材の教育と、経済を支える産業の育成の2つを柱として、日本政府は南洋諸島の育成に関するロードマップを作製する事となる。*9

 

 

――日本連邦

 4年の歳月を掛けた後に日本国と朝鮮州、台湾州、樺太州、南洋州から構成される日本連邦が成立する事となる。*10

 

 

 

 

 

 

*1

 日本帝国の権利権益と義務継承の対価として、日本は日本帝国が結んでいた対外外交条約と貿易協定を継承する事が出来た。

 このお蔭で、死活的問題となりつつあった資源の輸入に関して一息つける事となる。

 資源不足に日本の足元を列強が見なかったと言うのは、一見すると不自然であるが、国際連盟にせよ列強にせよ、世界大戦が終結したばかりの現状で世界が不安定化する事を望まなかった事が理由であった。

 又、各列強 ―― 日本の米国大使館や英国大使館などが全力で、アメリカやブリテンに対して日本を追い詰めない様に働きかけたと言うのも大きい。

 各大使館は理解していた。

 追い詰められた時の日本人が()()()()()()()()()()()と言う事を。

 そして、この時点での日本の国力は、この時代の国家を全て相手にした上で戦争を遂行できるだけの規模である事も。

 その必死さが伝わった結果でもあった。

 

 

*2

 尚、台湾も日本資産の処分に関しては朝鮮半島と同一条件で独立させるが、同時に同等額を政府開発援助(ODA)の形で長期ゼロ金利融資で提供し、将来的なインフレで相殺させる形を検討していた。

 この扱いの差が、台湾と朝鮮への日本の心理的距離であった。

 

 

*3

 ()()()()()を、日本で蓄えた資産で合法的に支配出来るという皮算用からの事であった。

 窓口となった韓国系民族団体では、接触を開始した時点で大韓民国建国準備委員会を発足させ、日本政府に対しては朝鮮民族への賠償行為としての活動支援を要請していた。

 無論、黙殺されたが。

 尚、北朝鮮系民族団体は、政治的発言能力を喪失していた。

 

 

*4

 当時、在日朝鮮人からの接触を受けた彼らは、在日朝鮮人の余りにも甘い見通しと、甘言に呆れたとの感想を記録に残している。

 曰く「彼らは同胞であると言うが、その視線は内地(ジャパン)人以上に我々を蔑視するものだった。言葉の端々から下に見ているのが見て取れた」と。

 

 

*5

 関東処分は、その苛烈さ故に日本帝国陸軍将校と日本政府との関係に深い影を残す。

 日本政府は法的な根拠と証拠を十分に用意して毀損の無いように行動しており、であるが故に感情的な相克は後々まで尾を引く事となる。

 捕縛される事となった関東軍若手将校の主導的人物は獄中にて、食器のナイフを持って抗議の割腹自殺を図るほどであった。

 とは言え、即座に発見された為、死ぬことは無かった。

 そのまま裁判が実行され、1年の裁判を経て最終的には死刑が確定する。

 帝国陸軍将校より助命嘆願が出されるも却下され、刑の確定から1年で執行された。

 裁判の際、日本政府を「武人の心を判らぬ匹夫の群れ」と痛烈に批判、対して法務大臣が記者会見の際に「近代国家で法も護れぬのであれば、それは武人では無く蛮人だ」とコメントし、物議をかもした。

 

 

*6

 在日米軍と日本在留米国人を管理する臨時組織である米臨時代表部から、将来的な歴史の流れを知らされたアメリカ政府であったが、アメリカ国内での景気拡大に伴う市場拡大要求に抗しきれなかったのだ。

 農作物と資源に関しては日本が大口顧客となったが、同時に日本からの鉄鋼やショベルカー等の建設機器、樹脂製品などなどの高品位品や新素材などが大量に流入する事態となっており、交易としては相殺状態となって居た。

 日本の対アメリカ関税は無きに等しかったが、アメリカ製品で売れるものは極々一部の趣味性の高いモノだけであるのが実情だった。

 それらは、アメリカから見て実に高額で大量ではあったが、同時に日本とアメリカの貿易と言う大きな枠組みで見れば、極めて限定された、少額な貿易であった。

 ()()()()()、真っ新な開拓地をアメリカの産業界は欲したのだ。

 それがユーラシア大陸であった。

 産業界(有力有権者たち)からの強い要求を受け、底なし沼である可能性を把握しつつもアメリカはチャイナ進出を行う事となる。

 

 

*7

 只でさえタイムスリップによって社会的混乱が発生し日本社会を滅茶苦茶 ―― 経済活動は寸断状態で、食料も配給制となっているのだ。

 この状況では、同じ民族であるからと言って、言葉以外は一切が異なる人々を受け入れるだけの余裕を、さすがの日本も有しては居なかった。

 この点に関して、タイムスリップで巻き込まれた外国籍人も居るのだから、数十万だろうが数百万だろうがジャパン(日本帝国)人を受け入れれば良いのでは無いかと、良識ぶって主張する人間も居たが、日本政府がその類の意見(綺麗事)を受け入れる事は無かった。

 それは一般の日本人も一緒であった。

 タイムスリップと言う非常事態によって、日本人の行動様式は非常事態対応仕様(レッド・アラート・モード)へと切り替わっていたのだから。

 

 

*8

 この女性の流入を促進する為、ジャパン(日本帝国)を色濃く残しながらも、女性の権利と権限を強く認める国家へと進む事となる。

 又、労働力確保の為もあり、諸外国からの積極的な移民受け入れ政策を実行した。

 この為、1930年代に入ると欧州で迫害を受けたユダヤ系が流入する事となる。

 又、内戦状態になったチャイナや、ソ連が混乱した際にもかなりの難民を受け入れる事となった。

 結果として、日本帝国の雰囲気を強く残しながらも無国籍染みた民族構成の国家となっていく。

 

 

*9

 尚、この当初想定されていた最長の20年後の南洋諸島の人々は、見事にオセアニア系日本人と言う意識を持った人々へと成長していた。

 ある意味で当然の話ではあるのだが、南洋諸島は雑多な島と雑多な人々の寄せ集めであり、言葉1つとってもバラバラであった。

 この為、教育をする為に日本語が導入された。

 日本語の教育の為に、日本の様々な娯楽(サブカルチャー)が導入された。

 結果、彼らは染まった、日本人に()()()のだ。

 日本政府が当初の独立予定を思い出した時には、時すでに遅し。

 民族独立の事を尋ねた所、本土(日本)田舎(オセアニア)を見捨てるのかと怒り出す始末であった。

 

 

*10

 単純に日本国の拡大とならなかったのは、将来的には各州の独立を想定しての事であった。

 その為、各州は日本国憲法の遵守こそ要求されるが法律に関しては独自のものの制定が認められている。

 又、州軍の保有が認められている。

 国家として見た場合、外交に関しての権限が無いだけである。

 

 




2019.11.02 文章修正
2020.08.25 文章修正
2020.08.25 脚注修正
2022.10.18 構成終了


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

003 アメリカの混乱

+

 タイムスリップで混乱した日本。

 その次に混乱した国家は、アメリカ合衆国であった。

 グアムとの連絡が唐突に途絶したと思ったら、100年後の米軍が日本国に駐留していてコンタクトを取って来たからだ。

 

 在日米軍との交流。

 在日米軍を介しての日本との交流。

 100年先の情報を得た事はアメリカに莫大な恩恵を与える事となる。

 同時に、迷う事となる。

 100年の間、アメリカが被った被害や重責を思えば、資本主義国家の雄として立つ事は果てしなく面倒事ではないのかと思ったのだ。

 この為、100年を研究し検討するシンクタンク、センチュリー機関が創設された。

 主題はアメリカの覇権体制による損得。

 日本との関係の是非。

 そして重視されたのが、100年後のアメリカが白人国家では無くなっているという事。

 在日米軍の指揮官はプエルトリコ系であった為、この事をアメリカは深く認識するようになった。

 白人国家としてのアメリカは、そうであるが故に、苦悩する事となり、問題を棚上げする事となった。

 後の事は後で考えよう、と。

 

 尚、このセンチュリー機関の検討の中には、在日米軍による日本政府の掌握による日本の先進科学の収奪も含まれていた。

 だが検討が行われる頃には、日本国内の在日米軍施設の燃料は枯渇状態になっており、その様な作戦の実行は困難なのが実情であった。

 又、機関に参加していた在日米軍からの出向者が、感情的に難しい事、そして自衛隊の配置状況(※2)から在日米軍が何らかのアクションを起こそうにも難しいと。

 又、特に出向者が主張したのは、失敗した場合には100年先の日本は敵になる。

 今の日本のGDPはアメリカの比では無いので、短期的には問題は無いかもしれないが、長期的には凄惨な報復がなされるであろう(※3)と。

 この結果、親日路線が堅持される事となる(※4)。

 

 

――対日貿易

 タイムスリップした日本が欲した食料を供給できるのはアメリカだけであった。

 日本は輸出を要請する。

 アメリカ側も、世界大戦終結後にだぶついていた食料の輸出先となる為にこれを快諾する。

 対価として日本はエアコンや冷蔵庫などの電気製品を提案する(※1)。

 東京を訪れていたアメリカの交渉団、特に交易に関わる企業の人間はこの受諾を政府に要請し、貿易が始まる。

 

 

――対中進出

 対日交渉中、雑談の際に日本帝国の本土4島以外の領土権益の処分に関する話題が出た。

 この為、アメリカは他の国家に先駆けて日本に対して関東州と満州の権益売却に関する交渉を行う事に成功する。

 但し、対中進出に関しては、日本政府からは控えめながらも「買ってもらえるのは嬉しいけど、大丈夫ですか? 泥沼化確定していますよ??」という善意の心配を受け、在日米軍からも失敗する確率200%(100%確実に失敗して、100%大炎上大被害が出るの意味)と止められたが、世界大戦後にだぶついた国内生産力の新しい消費先 ―― 市場を求める国内経済界の声に押される形で対中進出を行う事となる。

 又、アメリカ陸海軍に新しいポストを用意出来る事も評価された。

 

 

 

 

 

(※1)

 日本で使用されていたエアコンや冷蔵庫などの白物家電、後は食糧倉庫などで使われる業務用設備。

 アメリカからすれば100年は進んだものであり、売れるし売りたいと熱望していた。

 後にアメリカ国内でリバースエンジニアリングによる模倣が図られるが、電子機器技術を筆頭とした基盤的技術の乏しさから失敗。

 この結果、開き直ったアメリカ企業は失敗した部品を日本から輸入し、アメリカ国内で組みつけて完成、販売を開始した。

 

 

(※2)

 2020年代の自衛隊と在日米軍は一体化が進んでおり、であるが故に何らかの特殊なアクションを行おうとした場合、即座に物資の集積などの準備が相手に伝わるというのが実情であった。

 

 

(※3)

 在日歴の長い出向者であったので、日本人を良く理解していた。

 本当にキレた時の日本人が躊躇や容赦の無い事をやらかす事を良く理解していた。

 又、歴史を紐解いて太平洋戦争に至る歴史を講義し説明も行った。

 出向者は、味方には死ぬほど甘いが敵となれば損得勘定抜きで動くところのある、面倒くさく非常に危険な日本人という民族の事を良く理解していた。

 それを判りやすく講義した。

 

 

(※4)

 日本が目的の無い軍備拡張を準備した時点で、アメリカは日本に対する戦争準備を行う。

 そうでないのであれば平和的な対応に終始する。

 これが基本方針であった。

 科学技術や国力が上である事が見てとれる日本に対しアメリカが警戒心をさして高めずにいたのは、日本の軍備がアメリカから見て実に慎ましい事が原因であった。

 陸上戦力が9個師団8個旅団体制(7個自動車化師団、1個機械化師団、1個機甲師団、6個機械化旅団、1個空挺旅団、1個海兵旅団)。

 航空戦力は戦闘機500機体制。

 洋上戦力が軽空母2隻、ヘリ搭載駆逐艦4隻、ミサイル駆逐艦12隻、駆逐艦20隻、フリゲート22隻。

 油断は良くないが警戒をする必要も無いほどに規模が小さい。

 そう見えていた。

 戦車は全て40t以上の重戦車で約1000両。

 戦闘機はジェット機で、しかもほぼ同数の戦闘UAVが保有されている。

 駆逐艦は最低でも5千t級で32隻。ヘリ搭載駆逐艦は名前詐欺の実質空母。軽空母は軽とは付くが基準排水量で6万t級の超大型艦である。

 しかも空母的な戦力では、揚陸艦と言う名前の5万t級艦まで2隻居る始末である。

 自衛隊の戦力を把握した時、アメリカ軍関係者は「詐欺かよ、ふざけんな!」と切れたと言う。

 尚、その後、珈琲を飲んだ後に友好路線を選んで良かったと先人の賢明さに感謝し乾杯したと言う。

 

 

 

 

 

 




2019.05.08 内容修正
2022.10.18 構成修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

004 ブリテンと交渉

+

 日本政府が対外交渉で付けた優先順位は、第1位はアメリカであったが2位はイギリスであった。

 これは日本の経済を回す上で必要な資源を輸入する交渉相手として一番に大きいと言うものがあった。

 グレートブリテン。

 オーストラリアからの鉄資源や中東からの原油などの輸入を筆頭に、日本は様々なものの輸入を必要としていた。

 問題は対価であった。

 この点は在日米軍という鎹のあった日本とアメリカの関係とは異なる為、難航する事となった。

 世界大戦の終結で国力の低下していたイギリスが欲したのは現金であったが、日本政府は安易な金での取引は、将来に禍根を残すだろうとして渋ったのだ。

 半年近い交渉で日本政府は中華人民共和国の前例に倣う事とした。

 イギリスに対して大規模なインフラ投資を対価とする事を提案したのだ。

 イギリス本土への最新鋭のインフラを整備し、スエズ運河の拡張、中東では石油精製プラントや真水の精製プラントの整備やオーストラリアでの港湾設備まで様々なものを提案した。

 いわば、停滞していたイギリス経済の活性化に寄与できる投資の提案である。

 しかも、日本は国内ゼネコン各社やその周辺に仕事を斡旋する事が出来る。

 一挙両得の提案であった。

 これにイギリスは乗る事となる。

 インフラの整備には時間が必要とされる為、5年間の間に日本-イギリス間での投資額と輸入量が策定される事となった(※1)。

 

 日本とブリテンの交渉で問題となったのは、交易以外に2つあった。

 1つは日英同盟であり、1つは国際連盟に関してであった。

 国際連盟への加盟と常任理事国の座に関しては、日本が日本帝国が諸外国と締結していた条約と債務を引き継ぐ事を宣言した為、問題なく入れ替わる事となった。

 問題は、日英同盟の処遇であった。

 問題の複雑さから交易交渉の後に棚上げされる事となった。

 又、併せて海軍軍縮条約に関わる部分が大きく取りざたされる事となった。

 日本は戦艦こそ保有していなかったが空母は1隻保有し2隻目が艤装段階にあった。

 基準排水量で62,000tもの大型艦(イギリス視点)である。

 2隻揃えば日本帝国が締結していたワシントン軍縮条約を遥かに凌駕し、そもそも1隻あたりの基準排水量でも超過していた。

 その他、主力である駆逐艦も上限排水量は当然であり、合計排水量でも超過していた。

 この時代の常識に照らしてみれば、日本の保有する護衛艦(駆逐艦)は、全てが軽巡洋艦の様な大型艦であったのだ。

 これにはイギリスは当然ながらも軍縮条約の主要国であるアメリカも頭を抱えた。

 念の為と、日本に条約に沿った軍備への軍縮を提案したが拒否された。

 逆に日本は護衛艦の巡洋艦としての登録を提案した。

 巡洋艦枠であれば、備砲の項目に目をつぶり、適当にA(重巡)B(軽巡)のカテゴリーに分ければ問題は無い。

 一時はそれで良いと言う見方があったが、そこには22隻のFFM(フリゲート艦)が入っていないのだ。

 此方も基準で3,900t、余裕で駆逐艦の上限枠を超えていた。

 潜水艦は保有の合計排水量には収まっていた。上限枠は余裕で超えていたが。

 100年先の軍備を、今の常識では図りきれない。

 それがイギリスとアメリカの結論であった。

 だが同時に、この交渉の中で両国は、日本帝国と比較して日本は、極めて穏当な国家であり、過度な軍拡は行わないであろうと見て取れた。

 又、奇しくも両国が日本の食料と資源という2つの生命線を握れたことも、日本に対する安堵感に繋がる事となった(※2)。

 

 

 

 

 

(※1)

 「第1次日本-ブリテン交易と投資に関する条約」という形でまとまる。

 この第1次条約の結果を見て、次の交易を検討する事となっている。

 第1次条約は1926年から1931年まで実施された。

 第2次条約は1931年から1933年までの3年間で打ち切られ、第3次条約へ更新される。

 これはナチス・ドイツが成立した為、戦備を整える方向へと舵を切った為であった。

 この為、第3次条項はインフラ整備のみならずイギリスへの戦備提供が盛り込まれる事となった。

 又、付帯して日英同盟も改訂され、イギリス本土防衛に関する協力が推進される事となる。

 

 

(※2)

 最終的に1927年度日-ブリテン-アメリカ環太平洋軍事力制限協定に繋がる事となる。

 だが、この協定が発効する前にフランスが、モノ申すと関与してきたため、発効はなされなかった。

 

 

 

 

 

 




2022.10.18 構成修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

005 フランスの迷走

+

 日本がタイムスリップ後に主たる外交相手として選んだのはアメリカとブリテンであった。

 だがそれ以外の国家との外交交渉を行っていない訳では無かった。

 当然ながらもチャイナやソ連とも接触を行った。

 その中で、特に激烈な反応をしたのはフランスだった。

 発端は仏大使だった。

 日本政府の遣欧派遣団に随行した際、混乱予防として決められていた未来情報の提供自粛*1を破り、フランス政府へと提供したのだ。

 とは言え日本政府も情報の管理に関しては手を尽くしていた為、伝える事が出来たのは、未来でドイツと戦争になり、フランス国家が塗炭の苦しみを味わうという情報だけであった。

 又、日本がフランスと比べて遥かに高度な文明水準にある事は、1925パリ万博に日本館とは別個に臨時出展したパビリオンで伝わった。

 フルカラー写真に始まって各種工業製品その他の展示物。

 その中でフランス人の目を引いたのは、公害対策であった。

 有毒な物資を除去する技術と言う項目に、フランス人は自国領内に存在する世界大戦の古戦場 ―― その毒ガスの汚染地帯対策を日本に要求したのだ。

 日本側はアフリカからのレアメタルなどの資源輸入を対価として受け入れる事となった。*2

 日本国によるフランス北部の古戦場危険地帯の除染と再生計画は、フランスが想定するよりもずっと手早いものとなった。

 この事を知ったフランス内の政治集団が、日本を親フランスとし、利益の供与を行わせる為の政治外交活動を行った。

 それは難航していたワシントン軍縮条約に関する日本の処遇問題である。

 日本、ブリテン、アメリカの交渉内容を把握はしていなかったフランスは、会議場にて日本に対する厚意の表明を行った。

 35,000t級 14in.砲を搭載する戦艦2隻の新造許可である。

 同時に、戦艦は2隻を上限として、その余剰となった保有枠を空母と巡洋艦の枠に転用させる。

 これをもって日本のワシントン軍縮条約体制への継続的な参加を要求したのだ。

 なし崩しでの決着を目論んでいた日本、ブリテン、アメリカは慌てた。*3

 日本は必要性の薄い戦艦を建造するなど面倒くさいと思い、ブリテンとアメリカは、日本が何を生み出すかで戦々恐々となったのだ。

 とは言え、条約型戦艦を2隻だけ。

 他の洋上戦力に関しては既存の予定通りであった為、発言を受けての直近では混乱したものの、それ以降はブリテンとアメリカは好意的に受諾する事となる。

 そうなったが為、日本は必要性の乏しかった戦艦というものを建造する事となった。*4

 

 

――植民地経営への組み込み

 日本とブリテンとの交渉を見ていたフランスは、遠隔地であるベトナムでの鉄道建設などを日本に委託する事を考えた。

 天然資源が採れるので、港湾設備などの建設費用も出させる事で、資源の提供を対価に出来ると踏んだのだ。

 日本も、天然ゴムなどの供給元として有望であった為、このフランス政府の思惑に乗る事となる。

 

 

 

 

 

 

*1

 これは、未来情報を元に今、生きている人の選別が行われるのではないかとの危惧が成された為の要請であった。

 それも日本政府の独断では無く、米国や英国大使館を中心とした在日本大使館協議会が日本政府の要請を受けて検討し、承諾した内容である。

 この為、情報提供事件発覚以降は在日仏国大使館及び仏国人に対する待遇は極端に悪化する事となる。

 又、この行為が、後に独国大使館員の隠れネオナチ ―― ナチスシンパによる暴走を生み出す。

 

 

*2

 日本側からの要望では無く、フランス側からの要請であった為、この費用に関しては適正利益を確保する事に成功した。

 大型重機の投入や、毒ガスの化学物質中和剤の研究が行われた。

 化学物質の研究に関しては、研究施設をフランス領内に設置した為、その知見はフランスの科学技術の発展に貢献する事となる。

 又、後にはこの経験で日本の持つ土木技術に着目したフランスは、アフリカやベトナムでのインフラ整備を日本に委託する事となる。

 尚、毒ガスによる汚染地帯の浄化であるが、領域が極めて広大である事から、現地調査をした陸上自衛隊経由でフランス政府には100年からの時間が必要である旨、報告書として提出されている。

 これにフランス政府は了解する。

 この環境改善に必要なコストはフランスが1元の窓口となるが、同時に、この経費の半分をドイツ側にフランス政府は押し付けた。

 一方的な要請、要求、命令に対しドイツ政府は、そもそもとしてベルサイユ条約の中に北フランスの戦災補償は含まれていた筈だと反発、フランス-ドイツ間の政治的な緊張に繋がる。

 

 

*3

 主たる軍縮対象が戦艦であったが為、日本は戦艦を保有しない事と、空母の更新に関して条約の枠内で行う形とする事で、オブザーバー参加という地位へと日本を落ち着ける事を考えていた。

 それがフランスの()()によって御破算となったのだ。

 

 

*4

 政治からの要請だけで戦艦の建造を簡単に決定出来た理由は、建造費用だった。

 大和型戦艦の建造費用を元にした試算をした際、2,000億程度という数字が出た為、その程度であれば特に問題なく建造は可能だと判断されたのだ。

 実際問題として、艦歴を重ねたこんごう型護衛艦の更新も検討されており、そちらの更新が1隻辺り1,500億と見られていた為、こんごう型の更新を数年遅らせるだけで対応可能なのだ。

 とはいえ、建造を命じられた海上自衛隊は全くと言っていい程にやる気が無かった。

 2020年代に入って漸く得られた増員で低充足の艦を満たし、念願の60,000t級正規空母を運用しようとしていたのだから、新たな必要性の乏しい艦に人員を喰われてはと思うのも当然であろう。

 不満はあれども政治に逆らえる筈も無く、結局、こんごう型イージスシステム艦の代替として、エリア防空システム艦として建造検討を開始した。

 エリア防空能力を持ち、戦艦としては基準で20,000t級、主砲は5in.砲単装砲を4門積んだ程度でお茶を濁そうとした。

 それに待ったをかけたのが陸上自衛隊である。

 米海兵隊から戦艦が揚陸作戦時の火力支援手段として実に有力であったという情報を受け、積極的な建造を支援する事となったのだ。

 又、フランス政府からの助言として、この時代は政治的には戦艦の保有こそが国力と国威を証明するものであると伝えられた為、日本政府は海上自衛隊に「一見して戦艦と判るフネ」としての建造を命令する。

 1年の検討期間後、最終的には35,000型甲種護衛艦として建造される事が決定する。

 基準排水量35,000t 13.5in.砲3連装3基を搭載する、堂々たる戦艦となる。

 基本設計は日本帝国海軍戦艦群の最終形である大和級を手本とする事となる。

 速力は、護衛艦として最低でも30ノットとされた。

 主機はガスタービンを採用する。

 主砲に関しては、大口径砲の製造技術を持たない為、ブリテンで余剰となっていたキング・ジョージⅤ級などの予備砲身の提供を受け、砲塔自体は機力による自動化を極限まで推し進めたものを新造する事となる。

 又、砲身に関してはサーマルジャケットを兼ねた水冷ユニットを被せる事で、機力による発砲速度の上昇に備えるものとされた。

 尚、この計画が公表された時、帝国海軍趣味者の間では、B-65型超甲巡の焼き直しだと言ったモノが居たが、それは正鵠を射たものであった。

 艦橋こそパゴダ型ではなく、あさひ型のデザインを踏襲した上で大型化高層化したものであったが、それ以外の船体の形や主砲の配置などはB-65型超甲巡によく似ていたのだから。

 艦名はやまと。

 35,000tのフネに付ける事には批判もあったが、戦艦はこの2隻をもって最後になる事が想定されていた為、この艦名が採用される事となった。

 

 




2019.04.22 文章追加
2019.05.08 文章修正
2020.08.25 文章修正
2020.08.25 脚注修正
2022.06.07 文章修正
2022.10.18 構成修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

A.D.1926
006 令和の始まり


+

 アメリカ、イギリス、そしてフランスとの交渉により、食料と資源の輸入に成功した日本は、取りあえずは1息つく事が出来た。

 タイムスリップによる混乱と不安も、取りあえずの石油資源と食料が調達出来た事で治まる事となった。

 内需、日本国を運営していく上で必要な物資は、現段階のものでは全然足りるものでは無かった。

 又、輸入が出来る様になったとはいえ、それを運ぶための船団が、タイムスリップによって半減してしまっているのも痛かった。

 特に、宝石よりも貴重な日本人船員の多くが失われているのがとても痛い。

 だが、それでも尚、日本は国家の破断面を前に踏みとどまる事には成功していた。

 

 又、国際舞台に立つ事も可能となった。

 これを期に今上天皇明仁陛下は引き伸ばしになっていた退位を決意(※1)。

 日本政府も承認した為、1926年をもって浩宮殿下による皇位継承と改元が公布された。

 奇しくも1926年は昭和天皇の即位と改元の年であった。

 

 

――日本連邦国 成立

 新天皇の即位を祝う即位の礼が行われる。

 この際、列強各国、及び国際連盟へと加盟した各独立国、未加盟の国家へも招待状が送られた(※2)。

 併せて即位を記念する国際観艦式の開催も決定する(※3)。

 又、即位の礼に合わせて、日本国に北日本(樺太)邦国、朝鮮共和国、台湾民国、南洋邦国、千島共和国(※4)の5か国が参加する日本連邦国の設立が宣言される事となった。

 無論、形式としてのものであり、国家としての体裁を整えるのは当分先ではあったが、慶事に合わせるというが為、実施された。

 尚、諸外国からは天皇を戴く国家では変わりが無いため、インペリアル・ジャパンと呼称される事が多かった。

 特に北日本邦国人や朝鮮共和国人などが海外に渡った際に「帝國臣民」などと自称していた事も理由にあった。

 憲法は日本国憲法、法律も日本国に準じたものを使用する。

 その上で、各邦国に合わせた法律が施行されるものとされた。

 外交は日本連邦国としても行うが日本が代表し、各邦国は独自での外交活動は禁止とされた。

 国防は日本国の自衛隊。各邦国で整備する治安維持と国境線の保護を主目的とする連邦軍、そしてそれらを束ねる統合軍が建軍された(※5)。

 

 

――経済政策、内需の拡大政策

 喫緊の課題となったのが、内需を動かす為の資源の輸入であった。

 アメリカ、ブリテン、フランスから輸入する諸鉄鋼材、食料、石油、天然ゴムなどの品目だけでは、日本国内の需要を賄う上で全く足りなかった。

 当座は、在庫を持って対処する形とはなるが、木材を筆頭に、早期の輸入を図るべき物資は山ほどに存在していた。

 この問題に対処する為、内閣府の下に戦略資源庁が創設された。

 経済産業省と外務省の人材に加えて、大手商社や地質等の学者などの人員を集めた、資源開発と輸入の専門庁である。

 調査部門には自衛隊からの護衛役まで配置する手厚さであった(※6)。

 取りあえず、植民地への投資が可能となっているブリテンとフランスの植民地からの資源開発と購入とが進められる事となった。

 又、植民地などで交易をする際に現金が必要となる為、現在のバーター取引外の現金(主にポンドとドル)を確保する必要性が出て来た。

 この為、戦略資源庁は資源調査と並行して、輸出可能な商品の市場調査も同時進行する事となる。

 対象は富裕層、及び官庁である。

 高額商品を大量に仕入れてくれそうな場所が、利益率も良いとされている。

 

 

――日の丸船団の構築へ

 半減した日本の船団の再構築は、急務であった。

 船も人も不足していた。

 パナマ船籍などの乗組員は、国籍の多くがフィリピンなどであった。

 この日本への定着、乃至は祖国への帰郷に関しては、日本と当該国との間での外交に委ねられた。

 日本としては重要な船乗りとして厚遇をし、諸外国側も未来を知る人間として厚遇を約束した為、綱引きが発生していた。

 只、祖国に帰った者の多くが、縁者も無く、生活水準の低さに根を上げて、日本への帰順を希望するのだった。

 

 

 

 

 

(※1)

 生前退位は御高齢もあって当初より予定されていたのだが、中国や韓国を筆頭とする周辺諸国との国際環境の悪化から国内を混乱させる事は本意ではないとの大御心により引き伸ばされていた。

 

 

(※2)

 海外からの賓客を招く事は、未来情報の漏えいに繋がるとの懸念が出されたが、遅かれ早かれ伝わるだろうし、そもそも、出島の様なモノを作って物資と情報のやり取りを制限するなど土台、困難という開き直りがあった。

 特に、インフラ整備で日本から民間人も海外へと派遣する為、どれ程に契約で縛ったとしても無理であろうと言うのが有識者会議の結論であった。

 であれば、世界の事は世界に任せるという、良くも悪くも適当な対応を行う事が決定された。

 

 

(※3)

 国際観艦式の開催に関しては、観艦の賓客としての招待を即位の礼の際に行ったが、各国は日本の洋上戦力の様子を見る為として、観艦式への参加を表明する事となる。

 最初に手を挙げたのがフランス。

 当初は謝辞をした日本であったが、祝いたいとの好意を盾に言われては固辞できるものでもなく、フランス艦の参加を受諾する。

 であればとアメリカとイギリスも手を挙げ、後はなし崩しの様に参加国が増えて行った。

 尚、この時点では立場の未確定であった在日米軍もCVNを参加させる事とはなっていた。

 

 

(※4)

 北方4島を含む千島列島は、日本と一緒にタイムスリップした。

 故に、露国人が在住していた。

 日本としては人道的支援として食糧援助をしつつ、その帰属に関して頭を悩ませた。

 全島を日本に編入するつもりではあるが、現住する露国人を粗末に扱うのは寝覚めが悪いというものであった。

 だが、問題は意外な事に簡単に片付いた。

 千島列島の露国人が、自分たちで投票と意思統一を行い、日本への帰順を申し出たのだ。

 そこには千島列島に駐留する露国軍も含まれていた。

 朝鮮/台湾方式での日本への、日本連邦(当時は構想段階)への参加表明、それも露国大使館を通じてだ。

 彼らの殆どが、ソ連に郷愁は感じていた。

 同時に、スターリンに対する恐怖を感じていた。

 言わば露国から日本への亡命であった。

 但し、極々少数の人間が日本への帰順を拒否し、こっそりとソ連へと渡っていたが。

 

 

(※5)

 将校の教育に関しては意思疎通を図る意味でも、日本国での実施に一元化する事となった。

 この為、防衛大学校の規模拡張と空陸海の教育施設も拡張される事となる。

 余談ではあるが、諸邦国人が日本の本土で生活する最初の例であったが為、悲喜交々の物事が発生し、又、この場を介する事で日本の情報が各邦国へと伝わって行った。

 

北日本(樺太)邦国

 ソ連との国境を抱えている為、邦国軍として国境警備担当の3個歩兵連隊が編制される事となる。

 基幹となるのは、日本帝国陸軍樺太駐留部隊であった。

 小銃などの装備は日本陸軍のものが使用されるが、自動車に関しては日本製のトラックなどの各種車両が提供されている。

 大量調達の関係上、トラックメーカーの民生品規格を配備している。

 日本帝国陸軍軍人のみで構成されている性格上、日本帝国陸軍の気風を一番に色濃く残している。

 

朝鮮共和国

 ソ連、チャイナと国境を接する関係上、邦国軍は国境警備担当として2個自動化師団が編制される事となる。

 基幹となるのは日本帝国陸軍経験者であるが、大多数は朝鮮共和国人が採用されている。

 装備は北日本と同様の調達となっている。

 

台湾民国

 国境線を接する国家が無いが国土が広い事もあり、2個歩兵連隊による警備部隊が編制された。

 装備は北日本に準じる事となる。

 朝鮮共和国と同様に台湾人が将兵の中心となっている。

 又、水上警備部門が発足した。

 此方は元々は日本帝国海軍が担当していた海洋保安業務を引き継ぐ事を目的としている事もあり、当座は海上保安庁から人員を派遣し教育し、船舶も海上保安庁からの移管したもので発足する形となった。

 新編という事もあり、構成員の殆どが台湾系日本人である為、台湾では誇り高く扱われる事となる。

 

南洋邦国

 その国土の関係上、設立されたのは海洋警備部隊としての性格が強い組織となった。

 歩兵は首都に置かれた1個歩兵連隊(1個大隊規模)のみでありながら、これは邦国としての名誉を重視した結果である。

 装備は関東処分で発生した余剰装備が充てられた。

 台湾民国と同様に海上保安庁の肝入りで部隊が編制される事となる。

 尚、日本帝国の管轄下になってまだ時間も少なく、教育制度その他の整備が行われていなかった為、南洋邦国人による部隊編成は困難であり、日本や他の邦国で雇用された人間が派遣され、編制されている。

 

千島共和国

 駐留していたロシア軍を元に編成される。

 日本とソ連との緊張も無い為、3個連隊の歩兵部隊に再編された。

 これはロシア製装備の整備が今後、困難になる事が予想された為、予備として保管はするものの、主力装備から外す為である。

 日本が細心の注意を払って対応する邦国でもある。

 又、将兵の交流と相互理解は最優先で行われている。

 

 

(※6)

 海外で展開する陸上自衛隊という事で、後の時代にはスパイもの的な娯楽作品の題材とされる事が多かった。

 とは言え、スパイ的な作業など殆どなく、調査団の護衛任務が主であったが。

 

 

 

 

 

 




2022.10.18 構成修正

史実より8年程遅れて令和スタートです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

A.D.1927
007 欧州の余波


+

――ブリテン

 最初のインフラ輸出先となったブリテン。

 そこでブリテン人の目を引いたのは、高性能な作業機械もであるが、先ず何よりも自動車だった。

 日本政府が気を効かしてブリテン王室へと贈呈した自動車は日本政府が特注した最上級のそれであり、その佇まいと機械的な信頼性が評判を呼んだのだ。

 特に、貴族たちはこぞって購入する事となる。

 ブリテン製自動車とは比較にならない機械的な信頼性と居住性。そして高価格と相まって、日本製自動車を持つ事がステータスシンボルとなっていく。

 日本はブリテンに於ける日本ブランドの確立の為、自動車 ―― 高級車専用の整備工場を生み出した。

 

 ブリテンは英国大使館と共同で、ブリテンの経済拡大を主目的とした経済政策を纏める事となる。

 10年後を見据えた軍事力の拡張よりも、20年後を見据えた経済力を求めたのだ。

 製鉄所を含む重工業の再建と投資。

 その市場としてのブリテン植民地への投資が行われて行く事となる。

 建前としては植民地ではなく、ブリテン連邦加盟国への国力涵養としての投資として。

 これによってブリテン政府は莫大な負債を抱えていく事となるが、同時に、経済の活性化に成功する。

 第2次産業革命とも自称する事となる。

 

 

――フランス

 日本の情報でドイツの再隆起を知ったフランスは、対ドイツ戦争計画の立案を始める。

 具体的にはドイツが再軍備を行った時点で宣戦布告である。

 その軍備が整う前にドイツ経済の心臓部でもあるルール地方を掌握し、フランス-ドイツの国境線を東へと100㎞押し込む事を決断したのだ。

 世界大戦の傷跡癒えぬフランスであったが、国家の矜持として決してドイツの風下には立たぬという決意があった。

 その事が日本との関係強化に繋がっていく。

 1つは、日本がフランスの毒ガス汚染地帯の防除にと持ち込んだ各種の土木機材である。

 民生用の機材ではあったが、その作業効率は驚異的の1言であったが為、将来のドイツ戦を睨んだ場合、野戦築城――塹壕の設営その他に大なる効果を発揮すると認識。

 当時、フランスに派遣されていた民間の技術者は、フランスからの各種接待によって装備の融通こそしなかったものの、様々な発想を伝えた。

 それを元にフランス政府は国内メーカーへ類似のものを発注する事となった。

 とは言え、日本の持ち込んだソレは油圧式のディーゼル機であり、電子制御され無人作業すら出来る程の最新鋭型であった、

 その様なモノ、到底まねのできる筈も無かった。

 であればと、日本への売却を要望する事となる。

 併せてフランス国内に製造工場の誘致も要請した。

 日本は売却を受諾する。

 只、製造に関しては国内工場での一括製造を行って居た為、不可能である事を回答し、整備工場と訓練所の併設という形をとった(※1)。

 

 

――ドイツ

 フランスから極度に敵視されている為、経済的な混乱と政治的な混乱が悪化の一途を辿る。

 その為、強い反フランス思想が醸成されていく。

 パブなどでも「フランスの死か、我らの死か」と叫ばれる程になっていく。

 ついでにユダヤ系への憎悪もぶち上げられるのが国家社会主義の政党の常だった。

 国家社会主義の泡沫政党に、日本から密航した独国外交官であった若者が接触した。

 彼はネオ・ナチだった。

 ゲルマンの、ドイツ人のドイツを取り戻す為、危険を乗り越えて魂の祖国へと渡ったのだ。

 彼の苦労は報われる。

 

 

――ポーランド

 ドイツへの未来情報の漏えいはネオ・ナチの若い外交官だった。

 だがポーランドに関しては、在日本波国大使館の総員が関わっていた。

 祖国の滅亡と塗炭の苦しみを回避する為に、どうするべきかと苦慮しての結果だった。

 結論は、現状では軍事力に乏しいドイツへと先制攻撃をする事によって、ドイツという国家を滅亡させてしまえば、残るはソ連への対応だけである。

 そちらは隙を見せなければ何とかなるであろうという計算だった。

 事実上の新興国であり、ポーランドの軍事力も立派とは言い難いが、フランスがドイツへ攻撃的な政策を行っているのを見て、共同して殴り掛かれば問題ないという結論に達したのだった。

 後は、戦車などを如何に揃えるか。

 ポーランドと波蘭大使館は、日本を活用する事を検討する。

 

 

 

 

 

(※1)

 ノックダウン形式であれば不可能では無いのだが、ジャパン・プレミアムとして日本は国内での製造に拘った。

 ブランドを生み出す為であった。

 安い取引はしないという意思表示でもあった。

 メイドイン・ジャパンの銘板が付けられた機材は高級品であると認識させようというのだ。

 又、工場を設置しない理由はもう1つあった。

 将来にあり得る第2次世界大戦である。

 フランスとドイツの戦争が勃発した場合、工場が接収され、或は略奪されるのが見えて居た為、その様な危険を冒す気になれなかったのだ。

 

 

 

 

 




2022.10.18 構成修正

書き溜めてた分が切れました。
これから連日更新は難しいですので、ご了承ください。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

A.D.1928
008 日本ソ連戦争-1


+
世の中で、最もよい組み合わせは力と慈悲
最も悪い組み合わせは弱さと争いである

――ウィンストン・チャーチル    
 







+

 日本連邦の発足。

 だがその中に含まれている千島共和国の存在に面白からざるものを感じたのがソ連政府であった。

 日本帝国が日本になったと思えば、千島列島はロシア領になり、それから共和国として独立し日本連邦へと参加したのだから。

 未来の自分達のものが奪われた ―― そんな理不尽な感覚を抱いていた。

 その不満に火を点けたのがスターリンとトロツキーの対立である。

 既にレーニンの後継者としての立場を固めたスターリンであったが、トロツキー派を完全に下せた訳では無かった事が、現状に繋がっていた。

 そこに、未来のロシアの領土が日本に収奪されたという情報が来たのだ。

 スターリンは、ソ連の守護者として外敵から国土を護る義務がある ―― にも関わらず、それを成せないのであればレーニンの後継者では無い。

 そうトロツキー派が政治活動を行ったのだ。

 無理筋ではあるが、同時に一理はある主張に、まだ足場の固まり切っていなかったスターリンは抵抗しきれなかった。

 対日旧領回復行動に繋がる。

 初手は、日本時代 ―― 平成時代に準じた国土・国境線の策定を主張した。

 日本は拒否した。

 ソ連へと亡命してきた露国大使館員からの情報で、日本は平和主義であると聞いていたソ連は、軍事力を背景にした圧力を加える事を選択する(※3)。

 樺太北部に4個師団を集結させ、併せて2個師団をウラジオストクへ集めた。

 朝鮮共和国との国境線にも3個師団を集結させた。

 ブラフとしてだった。

 日本が保有する戦力の約半数もの大部隊を国境線に張り付けたのだ。

 その内実は装備も十分では無い軽歩兵であるとは言え、その数は力だった。

 その力を背景にする事で、日本が戦争を忌避するのであれば、折れるというのがソ連の読みだった。

 激しく読み違えた。

 読みでは無く、それは願望であったのだから。

 

 

――国際社会

 国際連盟ではソ連の行動を激しく非難した。

 だが、実効力のある戦争抑止の行動は行えなかった。

 場所が極東であると言うのが1つ。

 もう1つとして、日本の力を見たいと言うのが列強諸国の本音であったのだから。

 故に誰もが、決定的な事を口にする事は無かった。

 議会は重ねつつも、無為に時間だけが過ぎていく事となる。

 最終的に決まった事は1つ。

 ソ連の軍隊が日本の国境線を超えた場合、領海へと侵入した場合にはこれを宣戦布告に準ずるものとして日本が行動する事への、国際的な同意だけであった。

 後の歴史は、この同意の議決が決した日こそ、日ソの戦争の口火であったとしている。

 アメリカ・ブリテン・フランス・イタリアの4カ国は日本へ観戦武官の派遣を決定。

 ソ連は、日本が一切の交渉に応じなかった事に立腹、何より、交渉の不成立はスターリンの権威を損なう事に繋がった為、対日懲戒戦争を決意する事となる。

 

 

――ソ連・対日戦争計画

 建国して時間の無いソ連は、とても世界大戦の様な大規模な戦争をする余力など無かった。

 故に朝鮮半島へと張り付けた部隊は囮とした。

 主力は樺太となる。

 樺太には既に3個のうち2個の師団が集結を完了していた。

 対する日本の戦力は3個の歩兵連隊と、日本本土から派遣されてきた1個連隊、そして樺太・千島問題が発生して以降に増強された連隊規模の部隊のみ(※1)。

 倍を超える戦力差に、先ず負ける事は無いとソ連政府は判断していた。

 それどころか師団規模での増派をしない時点で、日本政府は建前として樺太共和国の防衛を主張してはいるが実は樺太南部を放棄するつもりだと認識していた。

 

 

――日本・対ソ戦争計画

 樺太は国境線を保持 ―― 最終的な奪回を前提とした戦略的後退は認められる ―― し、千島列島を狙うソ連の船団は洋上にて捕捉、撃滅が決定していた(※2)。

 大事な事は、この時代に於いて舐められぬと言う事。

 その為に自衛隊に要求されたのは勝利では無く、圧倒的な勝利であった。

 この時点で燃料問題は大分緩和されていた為、制限の掛けられていた哨戒機による広域哨戒が再開され、又、大型無人哨戒機によるウラジオストクの偵察が随時実施されるようになった。

 その他、千島共和国のスラブ系日本人から有志を募ってユーラシア大陸への偵察隊の投入も検討されたが、そちらは時期尚早と断念される事となる。

 

 

――観戦武官の所感

 日本へと派遣された観戦武官たちがまず驚いたのは、日本の道路事情だった。

 そして車だ。

 欧米列強が製造している自動車とは比較にならない乗り心地の車、バス、そしてトラック。

 そしてその数だ。

 アメリカ以外の全ての国家の常識を遥かに超えた数の車が、東京から北海道まで動いていた。

 そして飛行機。

 船舶。

 その全てが100年の時代を理解させるものであった。

 そして、観戦武官たちは樺太に入る。

 それは日ソの紛争が始まる2週間ほど前の事であった。

 

 

 

 

 

(※1)

 樺太に駐屯していたのは第11師団から派遣された第10即応機動連隊であった。

 増強された部隊は自衛隊第2師団から抽出された第3普通科連隊を中心に構成されていた。

 第2戦車連隊からは10式戦車を完全充足している2個中隊と、第2特科連隊から99式自走榴を完全充足の特科大隊が1個組み込まれているという重編制の機械化連隊戦闘団であった。

 当初は第2師団を丸ごと派遣する事も想定されていたのだが、弾薬の補給などのインフラの問題があり断念されていた。

 その代わり、増強された第1対戦車ヘリコプター隊の派遣が、海上自衛隊のDDHを母艦とする形で行われていた。

 この派遣規模を聞いた樺太共和国が、ソ連同様に日本は樺太南部を放棄する積りではないかと訝しんだのも当然であった。

 対地ミサイル連隊や航空部隊に関する情報が抜けて居た為、この危惧も当然ではあった。

 そして、日ソ開戦から2日で、その疑念は払底される事になる。

 

 

(※2)

 当初は樺太北部まで侵攻制圧を検討されたが、制圧後の治安維持活動の手間もあり、早々に放棄された。

 但し、樺太北部とユーラシア大陸の連絡を途絶させ、降伏を促す方向での干渉は行う予定とされた。

 

 

(※3)

 ソ連軍(約150,000名)

  極東第1軍(樺太鎮定軍)

   歩兵師団(充足)

   歩兵師団(充足)

   歩兵師団(未充足 1個連隊のみ。残りはシベリア鉄道にて輸送中)

   戦車師団(未充足 2個戦車連隊)

   砲兵旅団(充足)

  極東第2軍(千島鎮定軍)

   歩兵師団(充足 渡洋作戦の為、軽装備主体)

   歩兵師団(充足 渡洋作戦の為、軽装備主体)

  極東第3軍(朝鮮鎮定軍)

   歩兵師団(未充足 人員不足により1個連隊欠)

   歩兵師団(未充足 人員不足により2個連隊欠)

   歩兵師団(充足 新兵主体であり、重装備は甚だ乏し)

 

 日本連邦軍(約15,000名)

  日本陸上自衛隊

   北部方面隊樺太派遣団

    第10即応機動連隊

    第1独立装甲連隊(第3普通科連隊を中核に、2個戦車中隊、1個特科大隊で編成)

   北部方面隊千島派遣群

    第1空挺団(第1普通科大隊のみ展開)

朝鮮半島派遣団

    第8師団

    第14旅団

    西部方面戦車団

  樺太共和国

   第1歩兵連隊(充足)

   第2歩兵連隊(未充足 1個大隊欠)

   第3歩兵連隊(未充足 1個大隊欠)

  千島共和国

   第1歩兵連隊(充足 装甲化)

   第2歩兵連隊(未充足 装甲化)

  朝鮮共和国

   第1歩兵師団(自動車化 充足)

   第2歩兵師団(自動車化 未充足)

 

 

 

 

 




2019.04.28 修正実施
2022.10.18 構成修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

009 日本ソ連戦争-2

+

 日本政府と自衛隊の戦備は十分であった。

 問題は、野党と世論であった。

 政府の方針に対して批判はしたいが、批判すれば、それは北方4島が日本の領土では無いと宣言する事になるからだ。

 独立と日本連邦への編入も、公平な民主主義によって下された判断である以上、その過程にも文句を付ける事は出来ない。

 よって、野党とマスコミの主要な主張は非戦、戦争回避にのみ集中する事となっているが、これに慌てたのが千島共和国の外交部であった(※1)。

 千島共和国に連絡し、その後、日本政府との交渉に入った。

 第1回目は深夜、午前1時に行われた。

 既にウラジオストクには大型の輸送船とその護衛と思しき戦闘艦が集結しており、悠長に事を運んでいる余裕は無かったのだ。

 その会議にて千島共和国外交官は、日本政府に千島共和国防衛に関する確認を行った。

 日本に帰属してまだ間もないロシア系日本人としては、マスコミが煽り、加熱させている反戦運動に対して大いに警戒していたのだ。

 これに日本政府は、心配の要らぬ事を告げた。

 ソ連が千島共和国向けに用意している部隊は洋上にて撃滅する予定である事を。

 実は、この洋上迎撃計画自体は既に千島共和国へは伝達されていた。

 スパイ活動 ―― ソ連側に寝返った(表替えった)人間を警戒し、詳細こそ伝えては居なかったが。

 だが、日本政府は今回の千島共和国側の不安を理解し、迎撃作戦と参加部隊の詳細を伝達した。

 その内容に、参加していた千島共和国軍(邦軍)より派遣されていた武官が安堵し、その内容を千島共和国外交団に伝達した事で、一応の安堵をした。

 その上で、会議では2つの事が決定した。

 1つは、陸上自衛隊からの部隊を千島列島に展開させると言う事。

 これは、人質という訳ではなく、どちらかと言えば千島共和国住民への民心慰撫の面が強かった(※2)。

 同時に、日本国民への宣伝も行った。

 所謂 クウェート式、まだあどけないロシア系日本人少女を使い、千島へと迫るソ連の脅威を訴えさせたのだ。

 露骨にして単純な手法ではありそれを批判する声 ―― マスコミ関係者も居たが、今回は単純にも日本側は守備側であり、戦争への経緯に欠片とも問題が無かった為、その声が大きな影響力を持つ事は無かった。

 又、この報道に動かされる形で在日米軍が海兵1個大隊を千島に派遣する事となった(※3)。

 奇しくも日米露の連合軍が千島に誕生するのだった。

 

 

――1928.5 ソ連・開戦決断

 戦力の集結が終わっては居なかったが、日本側が千島への空挺部隊の展開を行った事をスターリンが重視し、開戦を決断した。

 又、本来は威嚇用として想定されていた朝鮮半島付近の3個師団にも懲罰としての南進を命じた(※4)。

 輸送船への乗り込みを開始した時、日本側から通告があった。

 ソ連籍船舶複数の領海侵入は非友好的意図の恐れがある為、船団が領海に接近した場合、これを撃滅するとの通告であった。

 日本側外交官が断言した事は、ソ連上層部に少なからぬ衝撃を与えたが、同時に、それはスターリンの面子へも多大な衝撃を与えた。

 スターリンは激怒した。

 かの暴虐な資本主義帝国主義の国家へと、礼儀知らずの振る舞いに痛打をもって返答をせねばならぬと決意した。

 千島攻略船団には十分な護衛を付け、船団が日本の領海に接近するのと時間を併せて樺太、朝鮮への侵攻を下命した。

 

 

――日本側・戦争準備宜し

 戦争準備は完了していた。

 常時、偵察機による高高度からの偵察と、打ち上げられた偵察衛星によってソ連軍の行動は丸裸にしていたのだから。

 戦闘攻撃機と哨戒機への爆装準備は完了していた。

 在日米軍から爆撃機も派遣されていた。

 法的な準備も完結していた。

 国民の了解も得ていた(※5)。

 1928年5月。

 日本政府はソ連の千島侵攻船団の出港を確認後、TVにて国民に布告する。

 気の早い新聞社が日ソ開戦として出した号外は奪い合いとなった。

 だが、開戦は号外の1週間後であった。

 

 

――戦争・開戦

 ソ連千島攻略船団に約10kmの距離を取って随伴していた日本海上自衛隊の哨戒艦が、日本領海に接近した事を警告する。

 返礼は発砲であった。

 とは言え、ソ連駆逐艦からの発砲が哨戒艦を傷つける事は無かったが。

 だが、この発砲を持って日本はソ連との戦争状態に突入した事を世界に対して宣言した。

 同時刻、ソ連樺太鎮定軍と朝鮮鎮定軍が南下を開始した。

 

 

 

 

 

(※1)

 旧露国大使館員である。

 目端の効いた旧ロシア大使館員はソ連に帰順したとして良い扱いを受けるとは思っていなかった為、ほぼ全員が千島共和国についていた。

 

 

(※2)

 タイムスリップ当時の露国極東軍千島駐留部隊は、日露関係の安定と露国の経済的困窮から小規模 ―― 未充足の2個歩兵大隊を基幹とする混成連隊規模であった。

 この組織を前身とする千島共和国軍(邦軍)は、看板として2個連隊編制と成ってはいたが、その内情は未充足の6個歩兵中隊と1個対戦車中隊からなる軽歩兵部隊でしかなかった。

 そこにソ連の2個師団からの揚陸部隊が来るのだ。

 千島共和国の住人が萎縮し、母国(日本)から防衛の担保を欲するのも当然であった。

 この為、展開力から第1空挺団第1大隊が選抜、派遣されたのだ。

 しかも1個中隊は空挺降下を行い、千島列島防衛に対して日本は本気であるとのアピールまで行った。

 空挺降下する様を千島の地場放送局によるTV中継なども実施。

 日本は千島の民心慰撫に極めて心を砕いていた。

 

 

(※3)

 在日米軍の派遣は、単純なる義侠心などでは無かった。

 日本とアメリカの間での日米安全保障条約の締結が決まらない(安全保障での協力はする事自体は決定しているものの、アメリカのモンロー主義の影響で、どこまでの協力関係を行うのかで議論が止まっている)為、不確かな地位にある在日米軍が、内部の士気低下を抑止する為もあり行ったものであった。

 現時点で、在日米軍の生活費は日本政府からの特別措置の予算で賄われている。

 故に、食客としての分を果たすべきではないのかとの議論があった。

 又、在日米軍の中には祖国への帰属意識とは別に、白人国家として有色人種に対し人種差別的な政策を行っているアメリカへの忌避感も少なからずある事も、在日米軍の難しさでもあった。

 

 

(※4)

 途中の経緯を抜きにして、開戦直前のスターリンにとっては奪われた旧領の奪回のみが目的であり、であるが故に日本が道理を弁えた行動を取れば、血は流れないという思いがあった。

 であるが故に、日本が千島へと戦力を増強していく事に憤怒した。

 100年の歴史とやらで増長していると思ったのだ。

 有り体にいえば舐められたと判断したのだ。

 この為、スターリンは朝鮮半島への懲罰を決定。

 更なる3個師団の派遣を決定するほどであった。

 

 

(※5)

 コリア内戦から日本国民は、事、国家の防衛に於ける軍事力の行使というものに忌避感を抱いて居なかった。

 戦争は良くない。

 だが、相手の善意を妄信する事は、それ以上に良くない。

 又、スターリンと言う人間の人物像が知られているのも大きかった。

 国民の誰もが、共産主義者ですらも、スターリンという人間の持つ暴力性を認識していた。

 故に、国民が一丸となっていたのだ。

 国民の一部は、義勇隊の創設を国に要求する程であった。

 

 

 

 

 

 




2019.04.27 修正実施
2019.05.13 表現修正
2022.10.18 構成修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

010 日本ソ連戦争-3

+

――千島戦線(D-Day)

 最初に決着したのは、千島戦線だった。

 千島へ向かった攻略船団は日本の領海に入る際、張り付いていた海上自衛隊の哨戒艦から最終警告を受けた。

 見るからに軽武装、それもたった1隻で船団の傍に居た哨戒艦である。

 船団は、それをせせら笑いながら無視した。

 その結果は過酷であった。

 日本の領海に侵入すると共に、空中に待機していた航空機による攻撃を受けた。

 延べ3桁近い航空機の攻撃は、その真の力とも言うべき空対艦ミサイルではなく、より安価な空対地ミサイルや滑空誘導爆弾であった。

 護衛する駆逐艦や、輸送艦の持つ火砲の遥か外側から撃ち込まれる様は無慈悲の1言に尽きた。

 その様を見ていた船団に張り付いていた哨戒艦の艦上にあったアメリカの観戦武官が「そこにロマンチズムなどは一片も無く、ただ科学と合理が生み出した鉄の雨は自然現象の様にソ連の船団を崩壊せしめた」と報告書にまとめたほどであった。

 護衛の艦艇も含めて大小34隻のソ連船団は悉くがオホーツク海の藻屑となった(※1)。

 尚、洋上に投げ出されたソ連軍将兵で1万名程は、救助船を用意していた自衛隊の手で救われ、後にはその多くが千島共和国へ移住する事となる(※2)。

 

 

――モスクワ(D-Day)

 千島への侵攻船団壊滅の情報をモスクワが、その当日に把握する事は出来なかった。

 さもありなん。

 5万名近い人間を載せた大船団が全滅と言うのは空前絶後であり、誰であれ想定する事など出来る筈も無かった。

 その為、最初の電文から、日本の航空攻撃が強力であったとだけ理解した。

 慌ててソ連の持つ航空部隊を樺太と朝鮮へと振り向けた。

 千島侵攻船団に関しては、船団に随伴させるだけの航続力のある航空機は無かった為、船団の将兵の努力を期待する旨、スターリンの名に於いて発信した。

 既に存在しない船団に。

 モスクワの反応速度は決して悪いものではなかった。

 只、現実が、日本がそれを優に上回っていただけで。

 

 

――樺太戦線(D-Day)

 国境線を突破したソ連軍を待ち受けていたのは、地雷と野砲、対地ミサイル、高速滑空弾による歓迎であった。

 100m前進する毎に1個大隊が消滅する ―― それはさながら鉄の雨であった。

 国境線を1キロ押し込んだ時点で、未だ自衛隊にも樺太共和国軍にも接触しないうちに3割近い将兵を失った極東第3軍の司令部は音を上げ、モスクワへと進退の伺いを立てた。

 開戦初日で発生するには余りにも大きすぎる被害に、モスクワも攻勢の停止を許可した。

 しかしながら、停止はしても定期的な砲撃を受ける為、部隊を小隊単位で分散配置して塹壕の構築を図り、被害の低減を図る事となる。

 既に樺太戦線の攻勢は初日に頓挫する形となった。

 

 

――朝鮮戦線(D-Day)

 ソ連の侵攻が順調であったのは朝鮮半島であった。

 但しそれは、土地を稼ぐと言う意味であり、戦闘に勝っている訳では無かった。

 日本側が、投入できる戦力に対して戦線が余りにも広大である為、30㎞程内側へ防衛が行いやすい場所まで引き込む前提で住民の避難を行わせていたからだ。

 朝鮮共和国政府も不承不承ではあるが了承しており(※4)、ある意味で至極当然の結果であった。

 樺太戦線の情報を得ていた朝鮮鎮定軍司令部は隷下の部隊へ、慎重な前進を下命していた。

 だがD-Day初日には接敵する事も無く歩兵師団は13㎞の進出に成功した。

 自衛隊、朝鮮共和国軍どころか一般市民すら見ない進軍となった。

 

 

――日本側対応(D-Day)

 事前の偵察と無線傍受からソ連の動きを掴んでいた日本側は、特に問題も無く作戦を遂行していた。

 千島攻略船団への守勢攻撃。

 樺太侵攻部隊への守勢防御。

 朝鮮侵攻部隊への守勢防御。

 だが、それだけで戦争に勝てる訳ではない。

 終わる訳ではない。

 故に、日本は攻勢防御も開始していた。

 1つは潜水艦による間宮海峡での洋上交易路の破壊、そして港湾への機雷の設置。

 1つは巡航ミサイルによる北樺太の物資集積所への攻撃。

 1つはウラジオストクの機雷封鎖。

 日本は喧嘩を売って来たソ連への報復として、そのシベリア域の経済を破壊する積りであった。

 

 

――朝鮮戦線(D-Day+1)

 初日の順調な進軍に疑念を抱いた2日目。

 地獄の蓋が開いた。

 空爆である。

 航空自衛隊、海上自衛隊、そして在日米軍の航空機による総攻撃であった(※3)。

 樺太戦線の悲惨さの連絡を受けて居た為、野営する際に退避壕などの準備を十分に行っていたお陰で、即座に3個師団が壊滅する様な事は無かった。

 だが壕から出れば、即座に消滅しかねない程の猛爆撃であった。

 又、弾薬や食料その他の物資は尽くが灰燼に帰していった。

 その様を前線で見ていた観戦武官は航空機こそが次世代の戦争を決めるのだというレポートを纏める事になる。

 だが同時に、この1日だけで日本と在日米軍が消費した燃料弾薬の総量に、恐怖していた。

 世界大戦時代の航空機が消費した燃料弾薬とは、文字通りに桁が違っていたのだから。

 違い過ぎていた。

 

 

――樺太戦線(D-Day+4)

 3日間に渡って行われた砲撃の後、5日目の払暁。

 樺太共和国軍が反撃に出た。

 独断専行では無いが、樺太共和国軍が自衛隊に強く主張して行われた反撃であった。

 陸上自衛隊から派遣を受けた戦車を先頭に立てた突進は、防衛線などとは言えない薄いソ連軍の左翼前線を突破、その後、右翼に旋回する事でソ連軍の半包囲に成功する。

 見事な機動であった。

 自衛隊から提供された無線機やトラックなどの効果も絶大ではあったが、先ずは日本帝国陸軍将兵(現役兵)が基幹となった樺太共和国軍の高い練度があっての成功であった。

 その効果は絶大。

 補給線を寸断され、後方をかく乱されたソ連軍の士気はみるみると低下していった。

 5日目の夕方には脱走兵も相次ぐ様になっていた。

 

 

 

 

 

(※1)

 大は大型貨物船から小は大型の漁船まで。

 34隻もの艦船を喪失した事は、ソ連の極東経済に深い打撃を与える事となった。

 更には樺太との間宮海峡が海上自衛隊潜水艦部隊の手で封鎖され、尽くが撃沈されてしまった為、ソ連のオホーツク海沿岸域の経済活動は事実上、壊滅した。

 

 

(※2)

 降伏する際、主導を握ったのは指揮官たちと同時に政治将校たちであった。

 理論的に将兵を説き伏せ、捕虜になった後に人心を掌握する様に、そして責任を自分が取ると明言する様は、娯楽映像作品などでは無い現実を、自衛隊と日本に教えるのだった。

 

 

(※3)

 D-Day初日に反撃を行わなかった理由は、自衛隊と在日米軍の調整に手間取ったからであった。

 この戦争に関し在日米軍は当初、爆撃機の乗員毎のレンタルを除いては関与を予定していなかったが、千島列島へと海兵隊を派遣すると同時に日本政府に対して戦争への参加を伝達した。

 在日及びグアムに駐留するインド太平洋軍の全てを。

 これは日本とアメリカの間で所属の揺れていた在日米軍の決意であった。

 この時点で日本とアメリカとの間では安全保障条約は成立していない。

 アメリカが孤立主義を維持していた事が原因である。

 関東州権益の売買を元にした日本に対する良き隣人外交は行ってはいたが、その国内の政治情勢として安全保障条約 ―― 同盟関係の締結に踏み込む事が出来なかったのだ。

 であるが故に、在日米軍は宙に浮く形となった。

 日本と同盟を締結しないのであれば、日本国内に米軍が駐留する法的根拠は消滅する。

 だがアメリカと米国は完全なイコールでは無い。

 政治的なウルトラCとして、在日米軍の日本への帰順・帰化を成すべきかと言えば、それは難しい。

 在日米軍としては米国への忠誠が緩んだ訳では無いし、そしてアメリカにとっても在日米軍の持つ軍事力と科学力はあまりにも魅力的であったのだから。

 故に、状況が安定するまで問題の最終的な解決は先送りするものとして、当座は日本とアメリカが在日米軍の経費(維持費)を折半する形となったが、その金額にアメリカは恐怖した。

 近代兵器の維持費の余りの高価格さは1つの衝撃であった。

 毎年、戦艦の建造費用に匹敵する額が飛ぶ事に、アメリカ政府はそのままの在日米軍のアメリカ軍編入に躊躇したのだ。

 又、在日米軍側としても、白人社会として非白人を差別している今のアメリカへの帰順は、もろ手を上げて賛成出来るものではなかったのも大きい。

 これが、在日米軍の立場が不確かなものになる理由であった。

 であるが故に、在日米軍はこの戦争への参加を決意する。

 下世話な表現をするならば下宿代を払うという意味が1つ。

 そしてもう1つは将来の在日米軍、そして在日米軍が保護すべき米国の保護という問題解決への回答の為の行動であった。

 後の日本連邦構成国、グアム共和国にしてアメリカ準州のグアム特別自治州への流れである。

 

 

(※4)

 戦意と装備に不足の無かった朝鮮共和国政府としては国境線での応戦を主張していたが、如何せん朝鮮共和国軍の規模が小さく、又、訓練も十分では無かった為、自衛隊の指揮を受け入れていた。

 只、国土が蹂躙される危機と、日本連邦への献身を宣伝した為、共和国軍への参加希望者が徴募事務所へと殺到し、臨時の義勇兵連隊が編制される事となる。

 尚、日本から移住してきた在日朝鮮人が、ここぞとばかりに反日本を宣伝した所、集会所が襲撃を受けたり、演説に泥玉が投げられる様な事があった。

 在日朝鮮人は共和国政府に保護を要請するが、日本連邦ひいては朝鮮共和国防衛に合力しない人間を優遇する必要は認められないとの門前払いを受ける事となる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




2019.04.28 文章修正
2020.01.28 文章修正
2022.10.18 構成修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

011 日本ソ連戦争-4

+

 開戦から6日目、誰の目から見ても決着はついていた。

 当事者の一方であるソ連を除いて。

 

 

――朝鮮戦線(D-Day+5)

 樺太戦線に於ける樺太共和国軍の活躍を聞いた朝鮮共和国軍司令部は、彼らに出来て我らに出来ぬ筈なしと自衛隊側に強く上申する。

 政治的な判断もあった。

 義勇兵も集まる国民の戦意、民意を無下には出来ないという判断であった。

 この要請に日本政府は最初は渋ったものの、元々が自衛隊による反撃行動自体は予定されていた為、最終的には朝鮮共和国軍の参加を受諾。

 開戦6日目(D-Day+5)に反攻作戦が実施される事となった。

 全域で圧力を掛けつつ、反攻部隊がソ連軍左翼からの突破と機動によって後方分断による補給線の破壊とソ連軍の士気低下、そして包囲を図る事が目的とされた。

 先鋒は第12普通科連隊を基幹とする連隊戦闘団であった。

 これに朝鮮共和国軍1個師団が追従し、戦果の拡大を図るものとされた。

 作戦開始は6日目の夜明け前。

 人の一番集中力に乏しい時間を狙っての攻勢であった。

 日本側の反攻作戦にソ連は抵抗出来なかった。

 4日に及んだ爆撃で燃料弾薬を焼き尽くされ、指揮系統も寸断され尽くしたソ連軍には抵抗する余力どころか意思すらも消滅していた。

 これがソ連領内での、ソ連防衛戦であれば話も違ったであろうが、これは侵略戦争である。

 その上で圧されてしまえば戦意を維持する事など不可能であった。

 ソ連軍朝鮮戦線司令部は、部隊の壊乱を恐れてモスクワの了解を得る前に独断で撤退を決定(※1)。

 だが、全てが遅かった。

 疲弊し果てていた将兵は、接敵しても碌な抵抗も出来ぬままに打ち倒されていった。

 余裕のあった部隊は投降を選択したが、それが出来たのは極々限られた部隊だけであった。

 開戦6日目にして、朝鮮戦線は終息した。

 

 

――オホーツク海航空戦(D-Day+5)

 報道の行われている地上戦や、派手な船団消滅のあった洋上戦に比べて航空戦は地味ではあった。

 だがソ連に対する痛打と言う意味では一番に大きな影響を与えていた。

 グアムに駐留していた米国インド太平洋軍の爆撃機による、ウラジオストクを筆頭とするソ連の全ての港湾に対する爆撃とシベリア鉄道の駅や橋、そして物資集積所への容赦の無い爆撃が実行されたのだ。

 ソ連も抵抗しようとするも、高射砲も航空機も届かぬ高高度の爆撃機に対応する術など無かった。

 ソ連の極東経済は枯死しつつあった。

 冬が入る前に何とかして欲しい。

 その声が強い調子で上に上げられていった。

 

 

――モスクワ(D-Day+6)

 日本との戦争の趨勢は、このモスクワで政治的な問題を引き起こした。

 戦争を主導したスターリンに対するトロツキー派の反抗である。

 スターリン自身の戦争指導能力に対する深刻な疑問符が付く事になった為、ソ連の指導者としての適性が問われる形となったのだ。

 こうなっては戦争どころでは無くなってくる。

 スターリンは日本との講和の道を探る事となった。

 

 

――樺太戦線(D-Day+7)

 ソ連軍を撃退し、国境線を回復した自衛隊と樺太共和国軍。

 戦前からの予定として樺太北部への侵攻は行わない予定であったが、ここで樺太共和国軍の連隊長が暴走する。

 撤退するソ連軍を追撃しながらソ連領内に意図的に進軍したのである。

 自衛隊の支援を受けない自動車化されただけの歩兵連隊であったが、既に壊乱と壊走状態のソ連軍では抵抗しきれず、たった1日の戦闘で戦線を北部側40㎞から押し上げる事に成功したのだ。

 色を塗っただけの民生用の車両を装備しただけの部隊であったが、その機械的信頼性の高さが、これを成功させたのだ。

 戦功を誇って報告した樺太共和国軍連隊長は、その絶頂を噛みしめる前に連隊長の座を即座に解任され、自衛隊の警務隊によって拘束された。

 軍律違反の罪である。

 参謀団も、事情聴取を行って侵攻に寄与したと判明した者は、残らず捕縛していった(※2)。

 この素早い行動と、その詳細を包み隠さずに公開する姿勢に、観戦武官たちは日本の国家が民主主義であり法治国家であるという事への強い意志を実感した旨、本国へと報告していた。

 その後、全部隊は国境線まで後退する事となる(※3)。

 

 

――終戦(D-Day+25)

 樺太の陥落とモスクワの政治的混乱から、流石のスターリンも停戦を決断した。

 中立国であり、ソ連に対して友好的であり同時に日本とも関係のあったフランスを頼っての事だった。

 この講和要請に日本は乗り、戦争は終結する事となる。

 講和会談の場所は、パリにて行われた。

 日本は講和の条件として戦争首謀者の処分、戦費賠償、戦場となった国土の原状回復賠償、樺太北部の割譲(※4)、オホーツク海での日本の優先権の承認を求めた。

 この屈辱的内容をソ連は受け入れた。

 1つは、樺太北部で発生した事がシベリアに広がる事を危惧したのだ。

 又、早期に日本との講和を行う事で、国内の政治闘争に全力を投じられるだけの環境をスターリンが欲したのだ。

 いみじくも、世界大戦時にレーニンがドイツ/独国との講和を纏めたのと同じ状況であった。

 これにより、日本ソ連戦争は終結する。

 その戦闘期間から別名、1週間戦争と呼ばれた。

 

 

 

 

 

(※1)

 情報の伝達が困難というのも大きかった。

 補給路としても利用できる陸路は破砕され、通信に電波を出せばミサイルが叩き込まれ、物資の集積所は真っ先に燃やされた。

 天幕や人の集団が見かけられれば爆弾が降って来る。

 炊事に火を焚けば爆弾が降って来る。

 何もなくても、何処かには爆弾が降って来る。

 食料は無く、睡眠も満足に取れない。

 この様な状況で即時、適切な連絡など出来る筈も無いというのが実情であった。

 司令部ですら既に満足な食事を得られなくなっていては、将兵に献身を求めるなど出来る筈も無かった。

 ただ1つ、モスクワを除いて。

 

 

(※2)

 この行為に参謀団では日本は戦争に勝つ気があるのかと気勢を上げ、それどころか余勢をかって樺太全土の掌握を訴えたが、日本側はこれを一顧だにしなかった。

 現地部隊の暴走による戦争計画の崩壊、そして望まぬ永続的な戦争こそを恐れたのだ。

 部隊の士気低下が生み出す問題よりも、それを日本政府は恐れた。

 この果断な行動と、嘗ての関東処分によって、尚武の気風こそ残ったが日本帝国陸軍の持っていた独断専行を是とする空気 ―― 将校は絶滅した。

 

 

(※3)

 部隊の国境線への後退は、クレムリンに「日本は平和主義を標榜するので、これ以上の戦争は出来ぬ軟弱な国家である」という誤った認識を与える事になった。

 日本は単純に、樺太北部への進軍と統治のコストが割に合わぬと言う判断であり、同時に、包囲し補給路を断つ事で干上がらせれば良いと言う判断をしていただけであった。

 この判断の誤りが2週間に及ぶ戦争状態の継続 ―― 即ち、樺太へ物資や人員の補給を行い、戦争状態を継続する事で日本からの譲歩、講和の話を持ち出させようと努力する事となった。

 その結果は、樺太へと物資を運び込もうとした極東のソ連船舶の消滅、樺太住民が飢餓状態となりソ連への忠誠心の消滅に繋がった。

 事前に備蓄していた樺太内の食料燃料その他は、尽くが在日米軍爆撃機に焼かれていたのだ。

 飢えを前に抵抗出来る筈も無かった。

 開戦から20日目、樺太北部はソ連軍指揮官と共に、日本への降伏を決断する事となった。

 

 

(※4)

 樺太北部は、本来、ソ連への返還予定であったが(これをスターリンの政治的得点とさせる事で、講和の成立を狙っていた)、樺太の住人とソ連軍俘虜がこれに反対。

 日本、千島共和国への参加を訴えて来たのだ。

 スターリンへの恐怖と共に、占領下に入って以降の日本から齎された食料と物資に心を奪われた事が原因であった。

 更には、千島共和国と言うロシア系国家の存在も心強かった為でもある。

 これには日本側も想定外であった為、慌てる事となった。

 

 

 

 

 

 




2019.05.01 誤字修正
2022.10.18 構成修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

012 戦争の与えた影響

+

 日本ソ連戦争の終結は新しい体制の誕生でもあった。

 日本の国威増大と反比例するソ連の国際的地位の暴落。

 それが世界中へと影響を与えていく事になった。

 

 

――日本

 建国したばかりであった千島共和国は、樺太北部を含めて拡大し、オホーツク共和国へと改名する事となった。

 日本のODAにて行われたオハ油田の開発によって、日本の邦国で随一の豊かさを誇る事に成る(※1)。

 又、戦訓を元にした軍備の再編も行われる事となった。

 問題視されたのは日本連邦が防衛する規模に対する自衛隊の規模の少なさであった。

 戦車等の装甲車の不足も深刻であった。

 如何に現行の装備が優れていても、その数が余りにも劣ってしまっていては問題である事が認識されたのだ。

 自衛官への成り手は、タイムスリップによって発生した経済的な混乱の余波として、志願者が増加傾向であったのが救いではあった。

 

 

――アメリカ

 日本ソ連戦争の結果、ソ連の圧力の消えた関東州および満州で経済活動を活発化させる事となる。

 食料に関しては、適正価格である限り日本はほぼほぼ無限に買い取っていく為、どれ程生産しても問題が無かった。

 溢れたアメリカの金の投資先として活性化していく事となる。

 又、その中で日本製のトラックや耕作機械が販売されて行く事となる。

 これは観戦武官として日本を訪れていた将校が発見し、報告したものが伝わった為であった。

 アメリカと日本の物価(経済力)の差から日本製の耕作機械は非常識なほどに高額なものであったが、同時に、その能力もアメリカ製のソレとは段違いであった為、満州に入植したアメリカ人にとって日本製の耕作機械を買う事は、1つのステータスシンボルとなっていった。

 又、農業のみならず、土木作業などの現場でも日本製のものが、その性能もさる事ながら故障率の低さでステータスとなっていくのだった。

 只、ステータスであるが故に狙われる事が多く、アメリカにとって大きな悩みのタネとなっていくのだった。

 満州の開発と開拓、そして調査の際に油田の存在が発見された。

 在日米軍経由で日本に確認した所、後に大慶油田と命名される大油田であった事が判明する。

 この発見を期に、アメリカは中国への進出を強めていく事となる。

 

 

――チャイナ

 アメリカによる満州開発と、その利潤に目の色を変える事になる。

 特に石油は大きかった。

 それまでは満州に大きな意識を向けて居なかったが、満州と関東州のアメリカの投資と比例する様に返還運動が発生していく事となる。

 とはいえ、アメリカ側は一顧だにせず。

 チャイナとアメリカとの確執となっていく。

 

 

――ソ連

 日本ソ連戦争によって膨大な賠償金を背負う事になった。

 とは言え成立してまだ国力の弱いソ連が簡単に返済出来る訳も無く難儀する事となる。

 その為、日本は提案として返済の一環として、シベリアでの採掘権を売却する事を提案する。

 租借では無く、国策企業としてシベリア資源開発公社を作り、そこを経由して資源売却を行うものとするのである。

 これに、ソ連は乗る。

 資源開発に伴うインフラ整備に関しては、日本が投資を約束した為、遅れているシベリア開拓事業が進む事を夢見たのだ。

 尤も、この事業で売却された鉱山は高利益を望める場所ばかりであった為、ソ連にとっては頭の痛い問題となった。

 又、ソ連は理解していなかった。

 一度完膚なきまでに陸海を問わずに物流網が破壊されたシベリアでインフラ整備を主導する組織が国では無いという事を、そして、その組織が地元の住民を雇うという意味を。

 それよりもソ連は、スターリンは日本がシベリアで経済活動をする事で得た利益で、国内の権力闘争に傾注していく事となる。

 

 

――フランス

 観戦武官からの報告書を元に、対ドイツ戦争を前提とした戦備の構築に努めていく事となる。

 重視したのは機動戦であり、同時に野砲であった。

 樺太戦線の戦訓から、事前砲撃の重要性を再確認したのだ。

 とは言え、世界大戦の被害から完全に復調した訳では無いフランスとしては、出来る事はそう多く無かった。

 それ故にフランスは、ドイツが軍備を再建しようとした時に先制攻撃する事こそが肝要であると判断していた。

 先制攻撃でドイツのルールなどの西部の工業地帯を占領する事で、ドイツの戦争遂行能力を破綻せしめる積りなのだ。

 その為に必要なモノは機械的信頼性の高い戦車、歩兵装甲車両群、機械化された砲兵、兵站、様々なものを揃える必要性を自覚していた。

 とは言え、全てを更新するだけの経済力はフランスには無かった。

 それ故に、フランスは戦車と歩兵装甲車両に注力し、砲兵は代替を航空機に行わせる事で対処させる事を考えていた。

 最終的には、エクレールプラン(※2)として纏められる事となる。

 

 

――ブリテン

 観戦武官が持ち帰った日本の、自衛隊では無く国家の情報から、国力の涵養こそが大事であると判断し、日本からのインフラ投資のみならず、工業製品の近代化(未来化)に努力する事となる。

 これは単純な設備更新のみならず、学校制度の改革も含まれていた。

 在日英国大使館との交流で得た未来情報、1950年代以降の英国の衰退をブリテンが繰り返さない為の努力でもあった。

 ある意味、日本に関わった列強の中で一番に未来を見据え、恐怖していたのはブリテンであった。

 

 

――ポーランド

 ソ連の国力の低下によって、後背の安全を確保されたと判断した。

 その為、軍事力の拡大とドイツへの圧力を深める方向で動く事となる。

 その中には、ドイツ敵視政策を継続するフランスとの協力関係の強化もあった。

 

 

――ドイツ

 フランスとポーランドによる挟撃と、経済の混迷が国家社会主義政党に力を与える事となっていく。

 又、経済的活動を活性化させる為、ソ連との経済関係を深めていく事となる。

 これは第2次ラパッロ条約として纏まり、ドイツはソ連の国力拡張に関わる5ヵ年計画に関与していく事となる。

 

 

 

 

 

(※1)

 シベリア ―― ユーラシア大陸のソ連領は、日本ソ連戦争によって破壊されたインフラの影響で経済活動は停滞し、冬の時代を迎える事となる。

 又、ソ連は日本ソ連戦争に於いて完膚なきまでの敗北をした結果、軍事力の増強に精を傾ける事となり、民生の活力は更に低下する事となる。

 これが後に、ソ連からオホーツク共和国への亡命者が続発する遠因ともなった。

 

 

(※2)

 エクレールプランは、ドイツへの先制攻撃と保障占領とを目的とした極めて攻撃的なプランであった為、その情報が国外に出る事をフランス政府は極度に恐れていた。

 又、戦車や装甲車に関して、自衛隊の装備する装甲車両の売却を日本に要請するが、日本は拒否する。

 この為、次善の策として開発への協力を要請する事となるが、これにも日本は簡単に承諾する事は無かった。

 フランス政府は、かつての日本に好意的に技術協力をしていた事を盾に、協力を要請する事となる。

 対して日本としても安全保障の問題もあるが、それ以上に安易な技術協力は、フランスの独自の技術開発力を阻害し、ひいては、この世界の健全な発展を阻害するのではないかとの危惧があったのが大きい。

 難航した日本とフランスの交渉、そこにブリテンが乱入する。

 日本との関係の深いアメリカを巻き込み、日本の先進技術活用に関する相互協定を呼びかけたのだ。

 その上で、国際連盟をも巻き込んだ。

 国際連盟の常任理事国である日本、ブリテン、フランスにアメリカがオブザーバー参加する安全保障理事会を作り、技術の伝播と戦争を抑止する体制を作り上げる事を提案したのだ。

 建前としては。

 本音としては、フランスの交渉を利用し、アメリカと日本の関係を利用する事で、形骸化していた日本ブリテン同盟から一気に日本をブリテンの帝国維持体制へと取り込む積りであった。

 フランスとアメリカを巻き込む事は業腹であったが、フランスは主に欧州亜大陸にしか興味が無く、アメリカは支那大陸にのめり込んでいて、他に興味を示さないので、ブリテンの世界帝国の運営には大きな影響もないと言うのが、情報機関の見立てであった。

 その上で日本だ。

 正体の読みにくい日本であったが、在日英国大使館との交流から日本の気性を把握したブリテンは、日本という国が日本の本土が安泰であり経済活動が円滑に行えれば外へ野心を向ける様な気性では無いと理解した。

 であれば、との判断であった。

 後に、G4と呼ばれる防衛協定に昇華する。

 尚、この協定に参加出来なかった列強諸国は反発を深める事となる。

 

 

 

 

 

 




2019.05.01 表現修正
2022.10.18 構成修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

A.D.1929
013 新しい動き


+

 日本-ブリテン-フランス-アメリカの4カ国協定(※1)によって世界は一応の安定を見た。

 そして日本は、3大強国との関係と交易とを確としたものへと出来たが為、日本と円とが世界経済に関わる様になっていく。

 軍事と、それに類される分野での協力や交易は慎重に行われたが、鋼材から始まって各種工作機械などは大々的に売買されて行くようになる。

 

 

――ブリテン

 ブリテンでは、インフラ整備にかこつけた、ブリテン国内の製造設備の大更新が行われるようになった。

 これは産業革命以来の伝統 ―― 即ち、古い製造設備が残っており、アメリカなどと比べて効率が相対的に悪化しつつあったブリテンの国内産業の活性化が目標であった。

 何としても世界帝国を維持したいとのブリテンの野望であった。

 その為には何でもやる、その気概があった。

 在日英国大使館経由で得た最先端の経済理論を元に、ブリテンはなりふり構わぬ経済政策を行っていく。

 市場としてのインド、チャイナ、そして日本。

 数的規模の大きい市場を持つチャイナ。

 宗主国として自由の効く市場であるインド。

 そして購買力のある日本。

 問題は、購買力のある日本に売り込めるものが少ないと言う事であった。

 主要な繊維や工業製品などで日本に売り込めるものではなかった。

 否、好事家や趣味人の間では珍重されては居たが、それで大々的な利益が出る筈が無かった。

 故に、日本には石油や鉱物資源を売りつけ、その対価を植民地諸国に高く売りつける事で利益を稼ぐ方向へとシフトしていた。

 特に日本との協力によって得た製造設備の更新は、ブリテン製品の精度を上げ値段を下げる事が可能となり怒涛の様な勢いでインドとチャイナに流れ込む事となる。

 莫大な利益がブリテンに流れ込む事となる。

 ブリテンにとって日本は、資源を金に変える錬金の大釜と化していく。

 もっと金を稼ぐためブリテンは大釜にくべる資源を増やす為、アフリカと中東の開発を進めていく事になる。

 又、インフラのみならずブリテンは日本の作業車を大量に導入していく事になる。

 その導入の為に、ブリテンは整備などのサービスを目的とした日本の工場をブリテン国内に誘致する事に成功する。

 

 

――フランス

 ドイツ憎しで一致団結したフランスは、一心不乱の軍備拡張に邁進した。

 故に、ドイツ内部で支持を集めつつある国家社会主義党に対しては深く深く期待していた。

 国家社会主義党がドイツを後戻りできない場所まで押し上げて、世界の敵になる事を。

 その為の資金援助すら行っていた。

 全ては大フランスを生み出す為に。

 ブリテンは世界経営に邁進し、欧州亜大陸には興味を示していない。

 アメリカは中国経営を愉しみ、欧州亜大陸には興味を示していない。

 日本は自国の再編成に勤しみ、欧州亜大陸には興味を示していない。

 であれば、フランスがその責任を果たす ―― との認識であった。

 小癪な事にブリテンに作られた日本の工場、そこから民生用として導入した高出力ディーゼルエンジンを使った装甲車や戦車を生み出していく。

 日本から輸入した鉄は、その品質から戦闘車両をより良いものへと変えて行く。

 フランスの重工業界からは反発の声も上がったが、フランス政府は短期間でドイツを叩きのめす為の戦力を整備する方策であるとして押し切った。

 

 

――アメリカ

 過熱する投資熱の消費先として極東の重要度が上がっていく。

 自らの優先権のある関東州と満州、そして日本の朝鮮半島とソ連のシベリアだ。

 巨大な中国市場への足掛かりである関東州と、真っ新な新世界である満州は、アメリカ人のフロンティアスピリッツを掻き立てた。

 新しい世界での冒険。

 広大な満州の地で興される農業。

 石油が出た事から工業も盛んになった。

 満州はアメリカ人にとって、乳と蜜の流れる大地となった。

 在日米軍経由で中国人との衝突のリスクが伝えられたが、満州の旨みを前にすれば看過すべきリスクであった。

 又、朝鮮半島とシベリアの資源開発は莫大な利潤を投資する企業に与える事になる。

 投資に関しては鷹揚な日本は、アメリカ人が適正な税金を払いさえすれば驚く程簡単に投資と営利活動を認めていた。

 環境対策その他の書類こそ煩雑ではあったが、それは日本企業でも一緒である為、文句を言える筈も無かった。

 とは言え、良い事ばかりでは無い。

 ユーラシア大陸での経済活動を活性化させると共に、チャイナとの摩擦が大きくなっていった。

 アメリカが関東州や満州で稼ぐ利益は、正しくはチャイナの利益であり、それが簒奪されているという認識であった。

 

 

――チャイナ

 日本ソ連戦争の余波により、国内紛争が再発する事となる。

 大別すると北チャイナと南チャイナという2つの軍閥の対立となる。

 満州権益の関係もあり、アメリカが北チャイナへ支援を行っていた為、小競り合い程度しか発生していなかったのだが、ドイツからの支援の本格化(※2)により自信を回復した南チャイナは本格的な軍事行動を開始する。

 北伐と呼ばれた1連の作戦は、アメリカの支援を受けた北チャイナの勝利に終わった。

 アメリカの支援の中には軍事顧問団の派遣が含まれており、チャイナの地ではドイツからも派遣されていたドイツ軍事顧問団と戦闘を行った事例もあった。

 チャイナの大地でぶつかる先進国同士の軍隊。

 とは言え、日本と言う策源地を得ていたアメリカが軍需民需を問わず物資を大量に北チャイナへと提供出来ていたのに対し、ドイツは本国からの距離があり過ぎた事と輸送力の乏しさに、対抗できる筈も無かったのだ。

 開戦から数ヶ月で侵攻作戦は頓挫し、撤退する。

 日ブリテンフランスが主導し国際連盟による紛争解決スキームでの処理が図られる事となる。

 南チャイナによる北チャイナへの賠償、北チャイナの自治権の承認、満州に於けるアメリカ権益の承認といった事が戦時賠償として要求される事となる。

 これに南チャイナの世論は沸騰する。

 だが、既に軍事による勝敗は決して居た為、国際世論には抵抗出来ず(※3)、停戦と講和を決断する。

 この、国際連盟による屈辱的な講和斡旋を。

 チャイナの国民世論にアメリカへの怒りが加わる。

 そして国際連盟にも反発が強まる。

 チャイナはドイツとの関係をより深める事を選択し、進めていく事となる。

 

 

 

 

 

(※1)

 G4は事実上の軍事条約であり、同盟関係にも近いモノであったが、アメリカ国内の世論に配慮する形で協定と言う名前が使用されている。

 

 

(※2)

 ドイツはフランスとポーランドによる監視の厳しさから、国外での軍事力の涵養と軍事技術の強化を図る事となり、国策として対外協力を推進する事となる。

 1つがソ連との関係強化であり、もう1つがチャイナとの中独合作の深化であった。

 アメリカが北チャイナを支援する関係上、G4諸国は精神的に北チャイナ寄りとなっており、国際的に孤立気味であった南チャイナにとって、ドイツは唯一と言ってよい支援国であった。

 

 

(※3)

 日本とブリテン、フランスの艦船による国際連盟の名の下での戦争抑制作戦が行われ、東シナ海と南シナ海での軍需物資を積載した船舶の臨検が行われた事が、南チャイナの継戦能力に止めを刺す事となった。

 尚、この対象は北チャイナも含まれているのだが、アメリカは日本の協力を得る事で、日本海 - 朝鮮半島を経由して物資を搬入しており、特に影響を受ける事は無かった。

 この点を南チャイナとドイツは国際連盟の場で非難するも、アメリカは建前として、満州と朝鮮半島とシベリア開発向けの物資であると宣言し、突っぱねる事となった。

 

 

 

 

 

 




2019.05.04 文章修正
2022.10.18 構成修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

014 戦後の日本

+

 日本の国防に関して問題化したのは2つ。

 1つは、戦車などの重装備の保有数 ―― 規模だ。

 此方は軍需による日本の国内生産力の行使、即ち景気対策としての軍拡を実施しさえすれば問題とはならない。

 問題はもう1つ、エンジンやミサイルなどの完全な輸入で賄っていたもののメンテナンスである。

 此方は実に頭の痛い問題となっていた。

 特にエンジンに関しては、航空機用が民需も含めて大きな問題となった。

 タイムスリップが判明して早々にエンジンのリバースエンジニアリングは在日米軍の協力も得て行っていたが、日本ソ連戦争という実戦で、恐ろしい程の勢いで稼働率が下がる事となったのだ。

 何とか、戦争は乗り切る事に成功したが、日本は慌ててエンジンなどの開発を進める事とした。

 

 

――装甲車両の開発

 日本本土と異なり台湾や朝鮮、樺太のインフラは貧弱であった。

 貧弱であるからこそ装軌車両が必要であり、又、各邦軍(連邦軍)の装甲化も喫緊の課題とされた。

 大規模な歩兵部隊を前線に張り付けるコストを回避する為に、日本は機械化を推し進める事となる。

 最初に開発されたのは戦車であった。

 主砲は砲弾の備蓄がある16式機動戦闘車の105㎜ライフル砲が選択された。

 重量39t。

 装甲は防弾鋼板の溶接構造を採用しているのは、本車両が想定する敵車両の攻撃力からの判断であった。

 エンジン、足回り、FCS、全ての面で簡素化と可能な限りのコストの削減が図られている。

 これは生産コストの低減もあるが、整備能力の低い各邦軍に配備し、運用する際に問題が発生しない様にとの配慮であった。

 1920年代の人間に、急に100年先の技術を使えと言うのは酷であり、教育をするにしても教官の育成は簡単に行えない事が理由であった。

 又、10式戦車などとの顕著な違いとしては、居住性の改善があった。

 前線に張り付ける運用も想定される本車両は、居住快適性も重要な項目であった。

 2年の歳月という、極めて短時間で開発された本戦車は31式戦車と命名され配備される事となる(※1)。

 31式戦車の開発と前後して、出来るだけ同じメンテナンス部品を使う装甲車両の開発も行われた。

 此方も単独でのコストではなく運用や整備まで含めたコストの圧縮を狙う形であった。

 31式戦車が最優先された為、1年遅れの32年度に制式化され、此方は32式シリーズと呼ばれた。

尚、陸上自衛隊の装備に関しては10式戦車と16式機動戦闘車の定数拡大をもって対処するものとされた。

 

 

――航空機の開発

 日本ソ連戦争によって爆撃機の有用性を把握した日本は、大型爆撃機の開発に取り組む事となる。

 前提となる大型爆撃機向けの大出力エンジンが無かった為、最優先で行われる事となる。

 又、制空戦闘機の開発もスタートする。

 今後、登場するであろうレシプロ機への対応としての防空迎撃機の開発である。

 性能だけで言えば航空自衛隊の戦闘機群は50年と先を行く隔絶した性能を持っているが、如何せん数の問題がある。

 この為、製造経験のあるジェットエンジンから技術を流用し、ターボプロップエンジンを搭載する制空戦闘機の開発がスタートする。

 主武装は20㎜機関砲と携帯SAMを転用した近距離空対空ミサイルだ(※3)。

 速度の優位とレーダーによる管制を受けた誘導弾を持った全天候型戦闘機だ。

 20年は優位が保てるであろうとの判断であった。

 此方は3年程の時間で完成する事となる。

 1933年にF-5戦闘機と命名され、配備されて行く事となる。

 他に、ヘリコプターで対地攻撃型の開発が行われた。

 50年は防空手段の未発達であろう事から、経空砲兵的な運用を期待しての事であった。

 とは言え、輸送ヘリの武装化によるものではない。

 これは、輸送ヘリとしての能力に積載量を喰われる事を懸念しての事であった。

 

 

――艦船の開発

 やまと型甲種護衛艦の建造は山場を迎えていた。

 それ以外で、この時代へと適合する為の艦船の建造に関しては、主たるものは自粛状態にあった。

 軍縮条約への恭順と言っても良い。

 日本にとって、海洋での脅威となりうる国家はアメリカとブリテンだけであり、その2国とも良好な関係を維持している関係上、戦力の整備を行う必要が特には感じられなかったと言うのが大きい。

 この為、建造されたのは基準1500t級のOPVが精々であった。

 これは領海が拡大した事への対応が主目的であった。

 特に南洋邦国でのプレゼンスの維持の為は重要であった。

 同じ事はオホーツク海全域でも言えた。

 この為、30隻近い建造が行われる事となった(※2)。

 だがOPVの建造以上に重視され拡大したのは海上保安庁の船舶であった。

 従来の倍以上の領海と排他的経済水域を得た為、倍とは言わぬレベルでの規模拡張を強いられる事となった。

 

 

 

 

 

 

(※1)

 31式戦車は、日本からしてみれば極めて手頃で簡素化された戦車であったが、同時に、同世代の戦車からすれば隔絶し過ぎる戦車であった。

 傾斜された装甲、長砲身大口径砲の搭載、大出力エンジン。

 即ち、中戦車以下の火力に対応できる装甲、重戦車を撃破出来る火力、軽戦車にも匹敵する機動力。

 これらを高次元でバランスを取った31式戦車の登場は従来の戦車を全て陳腐化せしめ、31式shock、或は標準戦車shockと言われるものを世界に与える事となる。 

 以前には10式戦車や90式戦車も存在してはいたが、殊31式が衝撃を与えたのは、この戦車を日本が国内向けに積極的に宣伝していた事が大きい。

 その上で海外からのメディアの取材も受け入れて居た為、諸外国に知れ渡ったのだ。

 試作車が出来た段階でフランスは、決戦戦車として3桁単位での購入を打診するほどであった。

 

 

(※2)

 それなりの規模での建造となった為、アメリカやブリテンへの確認を行った所、基準1500tと駆逐艦規模ではあったが、76㎜の主砲が1門と防空用の短距離ミサイルしか持たない、純然たる哨戒艦であった為、問題になる事は無かった。

 又、海上保安庁の巡視船に関しても同じであった。

 大型巡視船などは軽巡並みの規模を誇っては居たが、その火力の低さと船体構造が戦闘向きでは無い事から問題とされなかった。

 

 

(※3)

 主武装20㎜2門を想定していたが、詳細設計の時点で機載用のコンパクト軽量な20㎜砲の開発が難航する事が判明した為、一旦は20㎜武装は撤回され、12.7㎜機銃を採用する事となる。

 その後も20㎜砲の開発自体は検討されるが、最終的には新規開発は却下される事となる。

 但しそれは20㎜砲の搭載を断念する事は意味しない。

 将来的な大型爆撃機等との交戦を考えた場合、20㎜砲の持つ威力は魅力的であったからである。

 この為、最終的には翼内への搭載を諦め、機首部分へM197機関砲の改修型を搭載する事で落ち着く事となる。

 

 

 

 

 




2019.05.04 記載追加
2022.10.18 構成修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

015 世界恐慌-1

+

 過熱した経済活動の果てに、ニューヨークの証券取引場での株価暴落を発端とする世界恐慌が勃発する。

 痛打を受けたのはドイツ、イタリア、ソ連であった。

 その事が世界に戦雲を呼ぶ事となる。

 

 

――ドイツ

 世界経済で主導する経済力と大規模な市場とを持つ日本、アメリカ、ブリテン、フランスとの関係の悪さが、この不況によってドイツに与えた打撃は痛打と言って良かった。

 そもそも、日本との交流によってG4は経済活動が活性化し長足の進歩を遂げており、その商品は高品質化と低価格化が進んでいた。

 対してドイツは、漏れ伝わって来るものでそれなりの進歩は遂げていたが、対抗できる筈も無かった。

 それでも細々とした貿易は行われてはいたが、悪化する景気を支えられる様な水準では無かった。

 如何にして景気を拡大路線に乗せるか、と言う問題に於いてドイツはその生産力を消費出来る独占的な市場を国外に持たなかったのだ。

 この為、必死になって南チャイナとソ連とに食い込んでいく事になる。

 南チャイナにとっても、北チャイナとの戦争からの経緯でG4諸国との関係が悪化して居た為、ドイツの姿勢を歓迎する事となった。

 北チャイナに流れ込んでいるアメリカ製の武器に対抗するには、最新鋭の装備がどうしても必要になるからだ。

 この事はソ連も同じであった。

 日本ソ連戦争の経緯からG4とは友好的とは言えない関係にある為、ソ連の経済発展の為にはどうしてもドイツの協力が必要であったのだ。

 このチャイナとソ連という市場を手に入れる事が出来た為、ドイツ経済は一息つく事が可能となった。

 だが政治的に見た場合、別の問題が浮上する。

 窮地に陥ったドイツ経済に対してG4は全く手を伸ばす事が無かったのだ。

 むしろ逆、ドイツを苦しめる政策を取っていた。

 ブリテンやフランスはドイツを狙い撃ちした関税を設置していた。

 アメリカは、チャイナでの南北問題に関わっている為、最初から敵視されていた。

 日本はそもそも輸入するのは食料と資源が主である為、その両方を産出しないドイツでは話にならなかった。

 プライドの高いドイツ人が、世界は敵であると認識するのも当然であった(※1)。

 この結果が、ドイツに国家社会主義政党の躍進を生む事となる。

 アドルフ・ヒトラーが歴史の表舞台に顔を出す。

 

 

――イタリア

 世界経済の低迷が波及したイタリアは、ドイツ以上に悲惨だった。

 状況は同じであったが、ドイツとは異なりソ連やチャイナに入れ込む事が出来なかった為だ。

 ソ連とはある程度の経済的な交流も出来ており、

 ファシスト党による独裁体制の確立こそなり、治安も安定していたが景気の低迷は留まるところを知らぬと言うのがイタリアの実情であった。

 この状況を打破する為、イタリアは新しい市場を求める事となる。

 それは新しい植民地を求める行動へと繋がっていく。

 

 

――ソ連

 世界恐慌への対応と日本ソ連戦争での敗戦を糊塗する為もあり、五ヵ年計画として国力の拡大と涵養を大々的に打ち出す事となった。

 問題は、その原資だ。

 重工業を興すにも、農業を興すにも全てに金が掛かる。

 だがソ連には金が無かった。

 日本ソ連戦争の敗戦、その賠償はソ連に重くのしかかっていた。

 だからこそスターリンは、政敵であるトロツキー派の処断を終えるや五ヵ年計画の断行を決断した。

 次の戦争に、次の次の戦争に負けぬ為の国家を作り出す為に。

 その決断を支える金は重税と農作物の輸出で賄う事とした。

 重税は都市部も農村部も問わなかった。

 問題は農作物の輸出だ。

 豊かな穀倉地帯であるウクライナが生み出した農作物を海外へ売却する事で国家改造の原資としたのだ。

 この第1次五ヵ年計画がソ連発展の切っ掛けとなる。

 だが同時に、ソ連の国家を蝕む事となる。

 生活に足る農作物すらも取り上げられたウクライナでは餓死者が続発し、国外へと逃げ出す農民が多発した。

 それはウクライナだけでは無く、豊かとは言い難いソ連東部地方でも同じであった。

 シベリア等の農村も、モスクワ周辺の農村と平等に税が課せられたのだ。

 人民の平等を謳うソ連にとっては当然の話であり、そしてシベリアの農村の人間にとっては死活問題となる重税であった。

 そもそも、日本ソ連戦争によってシベリアは物流網を破壊し尽くされているのだ。

 その状況下で農業も経済活動も順調に出来る筈も無かった。

 故に、ウクライナと同様にシベリアでもソ連から逃げ出す動きが出た。

 此方は、ロシア人同胞の国家、オホーツク共和国がある為、逃げ出すという決断はある意味で簡単であった。

 問題は海で阻まれていると言う事であり、最悪なのはオホーツク沿岸域の中型以上の船が日本ソ連戦争の際に尽く焼かれていたという事だ。

 それでも尚、シベリアの民は東を目指す事となった。

 村に居ても死ぬだけであれば、せめて希望に向かいたいとの思いがそうさせたのだ。

 持ち出せる限りの食料と家財とを持って旅立ったシベリアの民。

 沿海州にたどり着く頃には疲弊し果てている有様だった。

 沿海州ではソ連からの戦時賠償として資源開発を許されていた日本とアメリカの企業が居た(※2)。

 ソ連との関係は良好とは言えない日本であったが、疲労困憊したシベリアの民を見捨てられる程に薄情では無かった。

 ソ連との協定で雇える範囲で人を雇い、そして人道的支援としてささやかではあったが食料と医療援助を行った。

 それが評判を呼び、更に人が集まる事となった。

 1日の食事の為に身を売る女性。

 子供だけでもと、やせ細った体で縋りついて来る大人。

 自分はどうなっても良いからと、配給を子や孫に分け与える老人。

 そんな姿を見せられてまで動けぬ程に、日本人というものは酷薄ではなかった。

 それはアメリカ人も一緒であった。

 日本はオホーツク共和国と樺太邦国での受け入れを、アメリカは満州での受け入れを決断した(※3)。

 この状況を把握したソ連は過酷な脱農者狩りを行うようになっていく。

 一度、日本とアメリカの活動圏に入られると、日ソ戦時賠償協定の問題で高圧的な対応が困難となるからである。

 この事が、シベリアでのソ連の支持へ痛烈な打撃を与える事となる。

 

 

 

 

 

(※1)

 地味にポーランドによるドイツ敵視政策も効いていた。

 ポーランドは国力の涵養と共に、中欧に於ける反ドイツ連帯を生み出すように活動しており、オーストリアを除く各国との関係は良好とは言い難いものとなっていた。

 国力から言えば、ドイツにとってポーランドを筆頭とした中欧諸国など敵と言うのも烏滸がましいのが実情であったが、外交的に言えば話は別となる。

 国際連盟の場などで常に敵対的に動いて来る国家群というものの鬱陶しさは筆舌に尽くし難いと言うものであった。

 何故、これ程にドイツが憎まれねばならぬとの思いが、そして元来のドイツ人のプライドの高さが、最終的にドイツ人に世界への憎悪を与える事になる。

 世界に冠たるドイツを、世界が認めぬのであれば世界を変えよう、と。

 

 

(※2)

 沿岸州にて活動しているのは日本ソ連戦争の戦時賠償協定に基づき、日本籍を持った企業だけであった。

 故にアメリカは、日本企業と合弁企業を日本国内で興して参加していた。

 又、合弁企業である為、日本製の高性能な工作機械等の導入が容易となる利点があり、後にはシベリア向けに合弁企業を立てた上で、主な経済活動は満州や朝鮮半島で行う企業も現れた。

 

 

(※3)

 日本とアメリカの共同エクソダス計画は、「オーバーマン」と命名されていた。

 これは鉄の男と謳われたスターリンを超える、鼻をあかしてやるとの意味で命名されたものであった。

 延べで100万人近い大脱国であった。

 但し、この計画に両国の軍を投入する事は憚られた為、民間軍事企業を創設し、その企業で対応するものとした。

 後の、日本統合軍外人部隊の始まりである。

 この日本の行動に、アメリカも乗った。

 此方も民間企業の組織として成立させた。

 特徴としては、組織を構築したのが満州であり、そこに出稼ぎに来ていた朝鮮共和国人が朝鮮共和国政府の斡旋によって参加していた事である。

 当時、満州でのアメリカの治安維持活動に朝鮮邦国人が朝鮮邦国政府の斡旋で参加していた。

 これは、朝鮮政府にとっては貴重な外貨獲得手段であった。

 故にアメリカ企業は安価(アメリカ人に比べて)な傭兵として朝鮮人を雇用しているのだった。

 これ以降、アメリカは多少粗暴であり戦意の継続に難点を抱える所もあったが安価な兵隊として使える朝鮮人を傭兵として満州と関東州の支配に使っていく事となる。

 

 

 

 

 

 




2022.10.18 構成修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

016 世界恐慌-2

+

 アメリカ発の世界恐慌の波は瞬く間に世界を駆け抜けた。

 だがその影響の少ない国家もあった。

 G4である。

 4カ国はそれぞれに世界恐慌を余裕を持って乗り切っていた。

 その事が益々もって非G4国との感情的対立を煽る事になったのは、仕方のない話であったが。

 

 

――日本

 投資先として広大な邦国を抱えていた日本は、不況の影響というモノを殆ど受ける事は無かった。

 マスコミが性癖として危機を煽ろうとしたが、情報分析能力に疑問符の付けられていた人々の扇動に国民が乗る事は無かった。

 そんな事よりも新日本領域の開発であった。

 樺太、台湾、朝鮮、南洋、積極的な日本企業群の投資が経済を活性化させ、日本は空前の好景気となっていた。

 それ故に、日本はソ連で悲惨な状況にあるロシア人への支援を決意したとも言えた。

 受け入れ先としたのはオホーツク共和国であったが、過酷な避難生活で疲弊した人々をそのまま送り込むには生活環境が過酷すぎた。

 結局、100万とも言われたロシア避難民の2割近くが特別労働者枠として日本本土で生活する事となる(※1)。

 この避難民の問題でソ連との関係が悪化する側面はあったが、日本政府は人道的処置であるとして退く事無く対峙した。

 ソ連の脱農者狩りと対峙する民間軍事企業は、頑健な体で逃れて来たロシア人にとって最良の就職先であった。

 危険手当も含めて待遇は良く、その上で同胞を救えるのだ。

 その士気は高かった。

 その構成員には義侠心に駆られた日本人も多く参加し、又、日本企業を介して日本が支給する日本製装備への興味を持ったG4諸国の退役軍人なども参加していた(※2)。

 

 

――アメリカ

 世界恐慌の発端ではあったが、世界恐慌に苦しむ国家にとっては誠に腹立たしい事に、アメリカは世界恐慌の影響から素早く抜け出していた。

 投資先として関東州と満州、沿海州があり、市場として日本と北チャイナが存在していたからだ。

 相も変わらず日本の食料の購入は旺盛であり、同時に、日本の商社はアメリカの食料物流インフラへの投資も継続している。

 素晴らしい交易相手だった。

 北チャイナは南チャイナと対立している為、多くの軍需物資を必要としており、幾らでも買い込んでいく。

 最上の市場であった。

 黄金時代と言って良いアメリカ。

 だが問題が無い訳では無かった。

 チャイナ全域での反アメリカ感情の高まりである。

 南チャイナからすれば民族の敵であり、北チャイナからすれば国家の金を吸い取っていく寄生虫との意識が醸成されていたのだ。

 この話の背景にはチャイナ共産党の存在があった。

 チャイナを貪るアメリカとその手下である北チャイナ、抵抗しきれない南チャイナでは無く、チャイナの未来はチャイナ共産党が護る。

 そう宣伝しだしたのだ。

 そのバックにはソ連が居た。

 これはアメリカに対する嫌がらせであった。

 余剰となっていたソ連製兵器をチャイナ共産党に安価で提供する。

 僅かなりともソ連五ヵ年計画の資金の足しにもしようと言う、なんともいじましい話でもあった。

 兎角、これ以降、中国全土でアメリカ人とアメリカ企業が襲撃される事件が続発する事となる。

 この事にアメリカ人は激怒。

 関東州のアメリカ軍部隊を増強し、沿海州に投入していた朝鮮人傭兵組織をアメリカ企業の護衛として満州や北チャイナへ投入していく事となる。

 民間企業の私的な護衛戦力と言う建前により、法的な面でアメリカ軍を展開するよりも柔軟に行えるという利点からの行為であった。

 問題は、横柄で暴力的な朝鮮人傭兵によって、チャイナ人のアメリカへの不満が高まった事である。

 

 

――ブリテン

 日本を金を生み出す錬金術の巨釜としていたブリテンにとって、世界恐慌というモノの影響はそよ風の程度のものであった。

 しかも日本の投資で経済が活性化していた中東、アフリカ、インドの植民地は、ブリテン製の製品を大量に購入していく市場としても成長していた。

 その結果、ブリテン本島の経済活動も活性化するという好循環が生まれていた。

 黄金の大ブリテン時代と評価する人間も居た。

 とは言え、問題の無い訳でも無かった。

 中東やインドでは、発展した経済力を背景に、ブリテンに対して自治権の拡大や独立の意見が盛り上がりつつあったのだ。

 過日であれば断固として弾圧を行ったであろうが、日本との交流で、弾圧が経済の低迷に繋がると言う事を理解していたブリテンは、自分から金を稼げる体制を壊す気など毛頭なかった。

 とは言え、自治権は兎も角として簡単に独立を認めてしまえば、現在の大ブリテン体制は崩壊してしまう。

 ブリテンは好景気をタネにして、難しいかじ取りを迫られることになる。

 

 

――フランス

 フランスは唯一、G4で世界恐慌の影響を大きく受けた国であった。

 だが同時に、それを経済政策で乗り越えた国でもあった。

 又、国際連盟の場でポーランドを筆頭とした中欧諸国の反ドイツ感情を知り、その支援(※3)を行う事でフランスを中心とした反ドイツ連帯を生み出す事に成功する。

 これによって名実ともに欧州亜大陸の盟主の座をフランスは得る事に成功する。

 同時に、ポーランドはフランスのこの政策の恩恵で近代国家として重要な重工業の育成に成功する事となる(※4)。

 対ドイツ戦争を真剣に考えているフランスにとって、世界恐慌への対応も軍拡で行おうとしていた。

 日本がソ連との戦争で投入した兵器群、特に隔絶した性能を見せた航空機分野への投資が最優先で行われた。

 シベリア全土を麻痺せしめたあの航空戦力があれば、対ドイツ戦争など直ぐにも終結せしめる事が出来るとの判断だ。

 とは言え、容易に100年先の技術を模倣できる筈も無く、その点に於いては七難八苦といった状況となったが。

 

 

 

 

 

(※1)

 国籍は日本連邦オホーツク共和国籍の特別日本本土居住許可者とされた。

 これは日本国内での労働力の不足を補う目的もあった。

 好景気に沸く日本で、第1次産業に従事する人は減少傾向にあった為だ。

 最終的にはこの特別居住者は日本国籍が与えられ、日本本土に住むロシア系日本人となる。

 尚、第1次産業に就いたロシア人であったが不人気であったのは漁業であった。

 これは海を見た事も無い人間が避難民の大多数であった事が主因であった。

 

 

(※2)

 尚、参加した外国籍者の中には、在日米軍も存在した。

 仕事を探していた在日米軍に日本政府が教官役としての業務を斡旋したのだ。

 自衛官は拡大した自衛隊と邦国軍の教育で手一杯であった為の事であった。

 この頃から、在日米軍は日本政府との連携を特に深めていき、日本連邦構成邦国グアム共和国の建国に至る事となる。

 在日米軍内の非白人層と、アメリカ軍内部での非白人層への差別意識の問題が、大きな問題であり、在日米軍のもろ手を挙げたアメリカへの帰順は無理であると言うのが在日米軍と在日米大使館の最終決断となった。

 将来、2025年頃であれば話も違うであろうとの判断が行われ、グアム共和国は日本とアメリカとの両方に所属する特別国家として成立する。

 主要産業は軍事と観光、そして漁業となった。

 

 

(※3)

 日本の先進技術の供与を受けたフランス製兵器の市場としての意味合いもあった。

 

 

(※4)

 フランス製兵器の大量導入を対価とする、重工業へのインフラ投資であった。

 欧州亜大陸の盟主としてフランスは、大盤振る舞いをしたと言っても良い。

 但しこれも、対ドイツ戦争を真剣に考えていたフランスにとって、ドイツを挟撃する相手を育てると言う意味において重要な政策であった。

 中欧側にドイツにとって脅威となる国家が存在する事で、ドイツは軍事力を涵養したとしても分散配置を強いられる事に成る。

 そうなれば、フランスが組み立てていた先制強襲の戦争計画は簡単に遂行できるだろうとの見立てであった。

 

 

 

 

 

 




2022.10.18 構成修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

A.D.1930
017 ユダヤの民


+

 日本のタイムスリップで劇的に変わる事になったのは、ユダヤであった。

 在日米軍からアメリカを経由してユダヤ系富裕層に1940年代、たった10年後に訪れる悲劇に関する情報が渡った。

 荒唐無稽とは思えないリアルな写真などの証拠。

 それを裏打ちするように、ユダヤの身の回りでは悪意や嫌悪感の表明が増加傾向にあった。

 未来情報が確かであると理解した時、ユダヤはパニック状態に陥った。

 急いでアメリカとドイツのみならずブリテンやフランスと言った様々な国々のユダヤが話し合った。

 その結果、基本方針としてドイツ領内からのユダヤの大脱出が決定した。

 危険性の通達は、富裕層のみならず一般労働者まで伝達される事となる。

 だが問題があった。

 脱出は問題は無いが、問題は何処に逃げれば良いかと言う事だ。

 そもそもユダヤは亜欧州の国々で忌避される所があった。

 その上で大恐慌だ。

 いち早く恐慌を脱したブリテンやフランスは別だが、それ以外の国々で不景気で他所の国から人が来る事を歓迎するなどある筈も無かった。

 この為、大多数のドイツ在住ユダヤは資産や身辺の整理をしつつ状況を伺っていた。

 その状況を変えたのは、アメリカと満州だった。

 満州を得たアメリカは、その大地を乳と蜜の流れる場所へと変えようとしていた。

 その為、労働力として良く教育を受けていたユダヤの入植は大歓迎されたのだ。

 その流れにドイツも乗った。

 国内不安の原因の1つが消えるのだ、反対する理由など無かった。

 フランスや中欧諸国も協力した。

 これは対ドイツ戦争準備の一環だった。

 ドイツの国力を削ると言う。

 ユダヤへの憎しみでドイツは気付いて居なかった。

 ユダヤの富裕層と労働力の喪失がドイツ経済に与える打撃を。

 気づかぬままに、ドイツはユダヤに逃げられていくのだった。

 

 

――満州

 元々のチャイナ人の少なさから、ユダヤ人労働者は歓迎された。

 チャイナ、ユダヤ、アメリカ、ロシア、コリア、そしてジャパンまで様々な人間が集まる、人間の坩堝と化していく満州。

 その中で問題となったのは、北チャイナからの流入だった。

 彼らはユダヤと異なり、基礎的な教育も受けて居なかった為、労働力としての価値は乏しかった。

 その為、その待遇も労働力相応のものとなった。

 通常であれば、それで話が終わるのだが、この場は満州。

 チャイナにとって、チャイナのものであると言う意識の働く場所であったのだ。

 この為、チャイナを搾取する象徴として満州でコーカソイド系の住人が狙われた犯罪が多発していく事となる。

 無論、コーカソイド系とてやられっ放しにする筈も無く、自衛に手を尽くしていた。

 治安の悪化は満州での経済活動を停滞させる事に繋がる為、アメリカの経済界はアメリカ政府に強く、対応策を要求する事となる(※1)。

 

 

――沿海州

 交易を行っていた富裕層のユダヤは、ソ連領内での経済活動にも着手した。

 主要とするのは娯楽。

 ソ連は5ヵ年計画で重税に喘ぐが故に息抜きを求めるだろうとの読みであった。

 特に沿海州は日本とアメリカによる経済活動によって、それなりに潤っており、嗜好品は飛ぶように売れる事になる。

 特にアルコール。

 そこでユダヤは日本に目を付けた。

 日本から安い徳用焼酎を買い込み、満州で瓶を詰め替えてロシアで売る。

 余りにも売れすぎて焼酎の製造が追いつかなくなると、今度は日本の酒蔵に投資を始めた。

 その上で、焼酎の製造に必要な芋は満州で作らせ、買い付け、日本の酒蔵に売る。

 この貿易の流れでユダヤは大きな資金を作る事に成功する。

 この資産を元にユダヤは沿海州の有力者を買収、更に日本への資材売却事業に食い込んでいく事となる。

 

 

――欧州

 極東アジアでユダヤの経済活動が活性化した事は、ドイツ以外の欧州に住むユダヤにとっても福音であった。

 特に満州では、土地の購入や経済活動などに一切の制限が無い為、欧州で息苦しさを感じていたユダヤの多くが移住していく事となる(※2)。

 流石に著名な富裕層が移住という事は無かったが、それでも分家を送り、経済発展の旨みを逃さぬ様に活動をしていた。

 この事が、ドイツでは問題化した。

 経済的な窮乏の度合いが高まる事を、ユダヤが原因であると今まで以上に声高に主張する様になったのだ。

 ナチス党にとっては、ドイツとソ連との結びつきから反共を主張しても市民の同意を得られ辛い為(※3)、ユダヤが格好の標的となったのだ。

 

 

 

 

 

(※1)

 満州での経済活動の不安定化が、最終的にアメリカへ満州の地にフロンティア共和国を建国させる事を決断させる。

 それ程に、満州での経済活動の旨みというものは大きかったのだ。

 

 

(※2)

 ユダヤの流入により、満州の基本言語がチャイナ語からブリテン/アメリカ語へと変わっていく事となる。

 又、日本との経済的な結びつきも強い為、日本語も使われるようになり3ヵ国の言葉が入り混じった言語へと変貌していく事となる。

 

 

(※3)

 とは言え、ドイツ国内で共産主義を標榜し、過激な活動をする者は躊躇なく弾圧されていた。

 政治的には、ソ連を主導するスターリンと対立したトロツキー派の行動であると宣伝され、ドイツとソ連の友好関係に問題が波及する事は無かった。

 

 

 

 

 

 




2019.05.08 文章修正
2019.05.08 文章修正
2019.05.08 文章修正
2022.10.18 構成修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

A.D.1931
018 日本統合軍


+

 日本ソ連戦争終結後に行われた自衛隊と連邦軍の再編成は、ロンドン軍縮条約の影響も受けつつ、粛々と実行された。

 

 

――ロンドン軍縮条約

 ロンドン軍縮会議自体には、日本としては環太平洋域での敵対的な国家の不在から海洋戦力の拡張を必要とする事が無い為、気楽な形での参加となった。

 只、会議において日本の建造中の35,000t型甲種護衛艦が話題となる(※1)。

 日本ソ連戦争で猛威を振るった日本の軍事力と科学力。

 その新しい結実としての存在に、どの国も恐れを抱いたのだ。

 建造ペースも設計に着手してから恐ろしい程に短期であり、更には2隻をほぼ同時に建造している工業力も、その恐怖を増幅させた。

 その為、日本に対して新型戦艦の情報開示を可能な限り求めた。

 世界が安心の為に欲していたのは日本が建造する戦艦によって、既存の世界各国が保有する戦艦が陳腐化しないという証拠であったのだ。

 最大排水量で35,000t。主砲は14in.砲を上限とする枠こそあったが、100年先の科学力が何を生み出すかと恐れたのだ。

 戦々恐々としながら日本に問いただす事となったロンドン軍縮会議。

 だが問われた日本からすれば、機密の塊と言ってよい防空システム回りに比べて主砲塔や装甲などの情報は機密性が乏しい部分であった為、拍子抜けしていた。

 情報開示を快諾した。

 その上で軍縮会議参加国に対し、建造現場での見学会開催を提案した。

 この情報に、軍縮会議参加国は狂喜した(※5)。

 対して、軍縮会議へ不参加であるドイツやソ連が猛烈な不満を表明する事となる。

 とは言え軍縮会議不参加国であり、では軍縮会議へ参加しますかと尋ねられれば拒否した。

 そんな国家へ配慮される事は無かった(※4)。

 

 

――自衛隊

 自衛隊の役割は再定義される。

 防衛を担う範囲が劇的に広がった為、軍事力の再編成を含めた改革が行われる事となった。

 

陸上自衛隊

 日本列島防衛を主任務とし、諸邦国への非常時の緊急展開を担当する事となる。

 機械化師団/旅団 装軌車両を主体とした重部隊。

 自動化師団/旅団 装輪車両を主体とした地域防衛部隊。

 機動師団/旅団  日本列島外への緊急展開も主任務とした部隊。

 機甲師団/旅団  機甲打撃力を有する部隊。

 

北部方面隊(北海道地方)

 北海道防衛と共にオホーツク共和国への支援を行う。

  第2師団 (機械化)

  第5師団 (機動化/オホーツク共和国への初動支援を担当)

  第7師団 (機甲)

  第11旅団(自動化)

  第16旅団(機械化/樺太駐屯)

東北方面隊(東北地方)

 東北地方の防衛を主任務とする。

  第6師団 (自動化)

  第9師団 (自動化)

東部方面隊(関東地方)

 東京を中心とした防衛を主任務とする。

  第1師団 (自動化)

  第12師団 (自動化)

中部方面隊(関西地方)

 関西を中心とした防衛を主任務とする。

  第3師団 (自動化)

  第10師団 (自動化)

  第13旅団 (自動化)

  第14旅団 (自動化)

西部方面隊

 九州防衛と共に朝鮮共和国と台湾民国への支援を担当する。

  第4師団 (機動化/朝鮮共和国への初動支援を担当)

  第8師団 (機動化/台湾共和国への初動支援を担当)

  第15旅団 (自動化)

  第17師団 (機械化/朝鮮駐屯)

  第18師団 (自動化/台湾駐屯)

陸上総隊

 方面隊に所属しない部隊の管理も担当する。

  第1空挺団

  水陸機動団

  第1機動群 (グアム駐屯)

  南洋警備団(南洋邦国駐屯)

 

 

航空自衛隊

 日本列島の防空と、邦国での防空と対地戦闘を主任務とする。

 特に、敵領土への侵出爆撃任務に関しては、在日米軍を教師として急速な戦力化に努めている(※2)。

 現在、邦国軍向けの簡易汎用戦闘機の開発が山場を迎えており、その装備を前提とした建軍が行われている。

 又、航空自衛隊向けのF-3戦闘機の増産も順調に行われている。

 

北部方面航空隊

 東北以北の防空任務。

  第2航空団(1個飛行隊、樺太駐屯)

  第3航空団

中部方面航空隊

 日本中央部の防空任務。

  第6航空団

  第7航空団

西部方面航空隊

 西日本と朝鮮半島方面の防空任務。

  第5航空団

  第8航空団(1個飛行隊、朝鮮駐屯)

南西方面航空隊

 沖縄以南の防空任務。

  第9航空団

  第4航空団(台湾駐屯)

 

 

海上自衛隊

 拡大した日本の領海防衛を担当する為、OPVの増産と地方隊の拡大が行われている。

 大型艦の建造に関しては必要性の乏しさから中断されているが、軍縮条約参加に伴う政治的事情により戦艦2隻が建造中である。

 但し、将来的な戦争を想定した上での護衛空母や船団護衛艦の研究は行われている。

 地方隊は、領海警備を任務とする関係上、海上保安庁と密接な関係を結ぶ事となる。

 特に南洋その他の日本列島外に配置される海上保安庁部隊は海上自衛隊の地方隊で船舶の補給整備なども行うようになっている。

 

戦闘艦

 空母型護衛艦     2隻

 ヘリ空母護衛艦    2隻

 ヘリ搭載戦闘護衛艦  2隻

 多目的輸送護衛艦   2隻(揚陸任務艦)

 ミサイル護衛艦   12隻(僚艦防空機能保有艦)

 対潜護衛艦      2隻(対潜能力強化型艦)

 汎用護衛艦     14隻

 多機能護衛艦    22隻

 哨戒艦       32隻

 

地方隊

 領海警備を任務とする為、各邦国に地方隊が別個に建軍されている。

 

 グアム共和国のみ、在日米軍が主導している為、その名誉と実力を尊重する形で地方隊を設営はしておらず、海自連絡員の駐在と海上保安庁の派遣に留まっている。

 尚、在日米軍に残されている大型空母や揚陸艦などは整備の問題からグアム共和国では無く、日本国内に駐留している。

  横須賀地方隊

  呉地方隊

  佐世保地方隊

  舞鶴地方隊

  大湊地方隊

  大泊地方隊   (樺太地方隊)

  仁川地方隊   (朝鮮地方隊)

  高雄地方隊   (台湾地方隊)

  トラック地方隊 (南洋地方隊)

 

 

――連邦軍

 日本ソ連戦争の終結によって、早急な戦力化を急ぐべき周辺国家との軋轢は無くなった為、自衛隊に比べると、その戦力の涵養に関してはゆっくりとしたものとなっている。

 但し、台湾方面に関しては、チャイナの一部急進的愛国主義者が台湾はチャイナ固有の領土であり日本はチャイナへ返還するべきであると声明を繰り返しており、日本とチャイナの間での政治的な問題と化しつつあった。

 日本は台湾の民意(※3)を元に拒否するも、チャイナとしては面子の問題から引き下がる事が出来ず、日本とチャイナの間での政治的な摩擦は表面化し始めていた。

 この為、日本と台湾民国政府は台湾軍を大規模重武装化する事でチャイナに対する抑止力とする事にし、台湾民国軍への重装備配備は最優先で行われる事となった。

 

 オホーツク共和国では補修部品の枯渇からロシア系重装備の稼働が困難となってきた為、日本製の装備への切り替えが進む事となる。

 

 

 師団/旅団番号に関して、管理の簡便さから統一化する際にグアム共和国(在日米軍)より、ロシアの後塵を拝するのは何とか成らぬものかとの相談があり、グアム共和国はオホーツク共和国より後に日本連邦へ参加したものの、部隊番号は相前後する事となった。

 

 機械化師団/旅団 装軌車両を主体とした重部隊。

 自動化師団/旅団 装輪車両を主体とした地域防衛部隊。

 機甲師団/旅団  機甲打撃力を有する部隊。

 

北日本(樺太)邦国

 第1旅団    (自動化/101旅団)

 第2旅団    (自動化/102旅団)

 第1独立機甲連隊(機甲 /701連隊)

朝鮮共和国

 第1師団    (機械化/201師団)

 第2師団    (自動化/202師団)

 第3旅団    (機甲 /203旅団

台湾民国

 第1師団    (機械化/301師団)

 第2旅団    (機甲 /302旅団)

 第3旅団    (自動化/303旅団)

南洋邦国

 第1連隊    (軽自動/401連隊)

グアム共和国

 第1師団    (機械化/501師団)

オホーツク共和国

 第1師団    (機械化/601師団)

 第2旅団    (自動化/602旅団)

 

 

 

 

 

(※1)

 この時点でやまと型護衛艦の1番艦は建造工程の7割が終了しており、その姿が呉の造船ドックで現れつつあった。

 戦艦であると同時に、老朽化問題の出ていたこんごう型DDGの役割を一部代替する防空艦としての僚艦防空能力が付与されていた艦であった。

 VLSやミサイルに関しては、既存艦に搭載されていたものを在日米軍の了解と監視の下でリバースエンジニアリングを実施し、特許権を暫定的に在日米軍が持つものとして、その承諾の下で製造している。

 飛行甲板に関しては、第3砲塔発砲時の爆風から逃れる為、第2煙突と格納庫を一体化させ、第2煙突と第3砲塔の間に設ける形となる。

 

 艦名 やまと(やまと型防空護衛艦) 

 建造数   2隻(やまと むさし)

 基準排水量 34,300t

 主砲    45口径13.5in.3連装砲 3基9門

 副砲    62口径5in.単装砲 6基6門

 VLS     Mk41 64セル(前部32セル 後部32セル)

 他     CIWS 2基  SeaRAM 2基  3連装短魚雷 2基

 航空    ヘリ格納庫(SH-60級1機 UAV2機が可能/常用予定無し)

 

 

(※2)

 侵出型高速攻撃機として開発が決定された。

 当初はB-52爆撃機を手本として検討されていたが、日本が保有する技術で短期的に開発出来るものを前提に再検討した結果、B-1爆撃機の様な音速爆撃機(仮称:XB-1)が選ばれた。

 但し、開発に時間が掛かる事が想定された為、戦争の危険性が指摘されている1940年代に戦力化されるべき爆撃機の早期調達が提起され、P-1哨戒機をベースとした爆撃機の開発も決定した。

 元より9t級の搭載能力を持っているP-1は、機体後部のソノブイランチャー部分を爆弾庫へと改設計し、各種の対潜機材を撤去する事で16t級の爆弾搭載能力が期待出来ていた。

 

 

(※3)

 日本連邦国の構成国家台湾民国として建国される際に行った国民投票は3択で行われている。

 日本帰属、チャイナ帰属、自主独立。

 その結果として日本への帰属が決まって居た為、日本はチャイナの言い分を認めなかった。

 対するチャイナは日本の不正選挙であると宣伝し、又、台湾への宣伝工作を行う。

 日本帝国から日本の統治下に入っても、特に大きな不満は無かった為、台湾人のチャイナへの帰属意識を高めようと言う工作が成功する事は無かった。

 それどころか、台湾を訪れていたチャイナの外交官の横柄な態度に、台湾人はチャイナへ幻滅する事となり、かえってチャイナへの反発が生まれる有様であった。

 

 

(※4)

 直接、日本の情報を得る事は出来なかったドイツとソ連であったが、関係を深めていたイタリアから情報を得る事には成功した。

 その後、ソ連は日本ソ連戦争にて傷付いたソ連の軍事的権威を回復させる為、そして日本への牽制としてウラジオストクに50,000t級16in.砲戦艦2隻を配備する事を決意する。

 とは言え、ソ連の重工業では即座の建造は困難であった為、スターリンは早期整備を目的に基本設計と1番艦の建造を海外 ―― ドイツに発注する事とした。

 そのドイツであるが、ソ連が発注しようとする戦艦は過去に類を見ない大排水量と大口径砲を備えた大型艦となる為、設計と建造に時間が掛かる事は明白であり、その事を正直にスターリンに連絡していた。

 この為にスターリンは50,000t級就役までの繋ぎとして、何より自身の苛立ちを紛らせると同時に日本への牽制と嫌がらせを目的として通商破壊艦、ドイッチュラント級装甲艦を発注する事となる。

 発注を受けたドイツは慌てた。

 ドイッチュラント級装甲艦は28㎝と大口径砲を有してはいるが、戦艦と戦うには余りにも装甲が貧弱であったのだ。

 その事が艦の売却後に判明しては沽券にかかわると判断したドイツは、ソ連に対してヴェルサイユ条約の制限に縛られない様に強化するという建前で2ヶ月の設計改修時間を取る様に交渉した。

 強化されると言う事であればとソ連側は受諾。

 こうして、28㎝砲3連装2基搭載する20,000t型装甲巡洋艦として建造される事となる。

 ソ連はこの艦を日露戦争時、日本を相手に優れた戦績を残したウラジオストク巡洋艦隊の指揮官に因んでバローン・エヴァルトと命名する(※後にアドミラル・エヴァルトに改名)。

 名前からもスターリンの期待の程が判ると言う艦となった。

 設計図を渡されたソ連では2隻が建造される事となる。

 

 

(※5)

 やまと型護衛艦は、見学したロンドン軍縮条約参加国にとって良い意味で常識を越えた戦艦であった。

 主砲の13.5in.砲はブリテン製の中古品であったが、増設された砲身冷却システムや自動化された砲塔 ―― 装弾システムは、衝撃だった。

 どれ程の装填速度を有するのか想像も出来ないものであった。

 防御に関しては、詳細を把握する事は出来ないものの、艦内を歩くだけで合理的である事が見て取れた。

 又、可燃物が徹底して撤去されており間接的な防御力の向上に腐心しているのが見て取れた。

 だが同時にそれは、今、ロンドン軍縮条約参加国が行っている戦艦設計を洗練させた範疇に留まっていたのだ。

 布張りのレシプロ機と第5世代型ステルス機を比較するような、される様な悲惨な思いはせずに済んだのだ。

 「日本も、人間の国家であった」そんな感想をやまと見学団が残したほどであった。

 だから気付かなかった。

 気付ける筈も無かった。

 やまとの本質がレーダーと電子機器、そしてミサイルにある事を。

 広域防空艦である事を。

 その意味の分かるのは在日米軍関係者のみ。

 そして在日米軍関係者は、戦艦にまでソナーと短魚雷まで装備させた海上自衛隊に呆れていた。

 

 

 

 

 

 




2019.05.10 修正実施
2019.12.03 誤字修正
2022.10.18 構成修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

A.D.1932
019 上海事件-1


+
皆、自分以外の全ての人々はいずれ死ぬ運命にあると考えている

――エドワード・ヤング    
 







+

 事の発端はあれども黒幕と言う程の物は無かった。

 単純に、チャイナ国内で醸成されたアメリカ排斥運動と反アメリカ感情の高まりが生んだ悲劇であった。

 

 

――状況:事前

 北チャイナを支援するアメリカであったが、南チャイナを無視している訳では無かった。

 商売相手として尊重すらしていた。

 それ故に、南チャイナの領域で活動するアメリカ人は少なくなかった。

 但し、治安の悪化には注意していた。

 特に大手の民間貿易企業は、アメリカの半国営の民間軍事企業を護衛として雇う事が常となっていた。

 主となる兵士は日本ソ連戦争で俘虜となり、だがオホーツク共和国(日本)への帰化が心情的に困難なロシア人、そしてコリア人だった。

 この頃になると朝鮮共和国政府は積極的な外貨獲得手段として朝鮮人傭兵を活用しており、日本政府の承諾の下で最大で中隊を単位として、4桁以上の朝鮮共和国軍人をアメリカに貸し出していた。

 コーカソイド(アメリカ)人を護衛するモンゴロイド(コリア)人と言う構図(※1)。

 その上で、チャイナからみて傲岸な態度をみせる。

 これがチャイナに仄かな怒りを与えていた。

 

 

――上海事件・チャイナ共産党

 南北チャイナに挟まれて劣勢なチャイナ共産党であったが、武器だけは豊富にあった。

 シベリアで日本とアメリカの圧力を受けているソ連が、特にアメリカの下腹部と言ってよいチャイナでの騒乱を求めて、旧式化した武器弾薬を大量に提供していた為だ。

 この武器を手に、チャイナ共産党は反アメリカの宣伝に努めた。

 チャイナを搾取するアメリカと、その手先であるコリアという風に。

 その上で賄賂を用いて南チャイナの軍閥に懐柔の手を伸ばした。

 狙うのは上海。

 アメリカを含めた列強諸国の足掛かりであり、チャイナの意思を示すには絶好の場であった。

 軍は少なく、民間人は多い。

 この場所で事を起せば、世界に宣伝する事が出来るだろうというのが、チャイナ共産党の考えであった。

 チャイナと世界の戦争状態。

 それこそが、南北チャイナによって圧迫されたチャイナ共産党の生き残れる道であると、チャイナ共産党指導部は喝破したのだ。

 アメリカを筆頭とするヨーロッパ・アメリカへの憎悪を炊きつけた。

 

 

――上海事件・発端

 上海市から内陸に100㎞程離れた村で起った武力衝突が口火となった。

 増長した態度のアメリカ人が悪かったのか。

 虫の居所の悪かったコリア人が悪かったのか。

 乱暴者で気の短いチャイナ人が悪かったのか。

 何が悪かったと特定する事に意味は無い。

 只、その村で商人のアメリカ人が襲われ、護衛のコリア人が反撃し、チャイナ人が殺されたと言うのが全てであった。

 ある意味でチャイナ全域でよく見る話であった。

 被害者と加害者が往々にして入れ替わるが、新聞に書かれて終わる。

 少なくとも当事者以外には。

 そんな話が大きな問題となったのは、火に薪をくべるチャイナ共産党が居たからだった。

 事前に誼を通じていた南チャイナの軍閥を唆し、大騒動へと発展させた(※2)。

 発端となったアメリカ人とコリア人を吊るし、満天下にチャイナからのアメリカ排斥を訴えさせたのだ。

 この扇動にチャイナの大衆は乗った。

 発端となった軍閥に、民族の英雄の下で兵隊となりたいと志願するお調子者も出た程だった。

 又、軍閥と関わらず非チャイナに対する暴動が、燎原の大火の如く広がって行った。

 慌てたのは南チャイナである。

 この勢いに抵抗してはチャイナ南部の主導的立場を明け渡す事になりかねない。

 財も民も握る南チャイナであったが、その優位性は絶対では無い。

 複数の軍閥を束ねる事で成り立つ、比較的という言葉が似つかわしい優位性であったのだ。

 であればこそ、民意に背ける筈も無かった。

 協力関係にあったドイツを夷狄の中から除く様に宣伝し、同時に国際連盟の場にてチャイナの総意として列強諸国の中国への過干渉停止と不平等条約の撤廃、そして駐留する軍隊の即時撤退を訴えたのだ。

 国際連盟は荒れた。

 上海に日本帝国から引き継いだ小さな権益を持つだけの日本は兎も角、大きな権益を持っていたアメリカ、ブリテン、フランスなどは激高した。

 特に、議題の当事者であった為にオブザーバーとして参加していたアメリカは、自国民を殺されたにも関わらず非難される状況に大激怒した。

 そして先ず謝罪をするのが筋であると反論する。

 ブリテンとフランスも同調する。

 だが南チャイナも一歩も退かなかった。

 此処で退いては南チャイナはチャイナ国民の支持を失い、又、チャイナ全土を統治する正統な権利者 ―― 国家の擁護者としての立場を完全に喪失してしまうとの思いからだった。

 白熱した会議は連日連夜に及ぶ事となる。

 

 

――上海事件・北チャイナ

 チャイナ全土に広がった反アメリカの機運に焦ったのは北チャイナである。

 南チャイナに比べて勢いでも規模でも劣る北チャイナが今まで存続できたのは、アメリカの支援と満州から得られる税金あればこそであった。

 その為、事件発生当初はアメリカを擁護する宣伝を行っていた。

 だが、それがチャイナの民衆の怒りを買った。

 北チャイナの各地で暴動が続発する事となった。

 特に北チャイナの拠点であった北京での暴動は凄まじかった。

 チャイナ共産党が手引きをし、武器を提供した大衆は暴れ回った。

 北チャイナの軍は将兵の脱走と離反が続発した為、北チャイナの指導者は満州への移動を決断。

 奉天を次なる根拠地と定め、鐡道にて移動を開始した。

 それが北チャイナの運命を決めた。

 その行動予定を手に入れたチャイナ共産党が、暗殺を決行したのだ。

 鉄道に爆薬を仕込み、爆殺したのだ。

 これによって北チャイナは崩壊する。

 北チャイナは混乱の坩堝と化する。

 

 

――上海事件・国際状況

 国際連盟での会議は怒鳴り合いに終始し、その結末は誰も読めなかった。

 それを終わらせたのは、上海近郊で蜂起した軍閥であった。

 義勇兵や馬賊などが参加し、遂には10万と号する程の大軍勢となった彼らは、その巨体を維持する為の餌を必要とした。

 それが上海であった。

 兵を整えて上海に向けて進軍を開始する。

 上海市には降伏を。

 上海に在住するアメリカ・ヨーロピア ―― 夷狄に対しては即時の、チャイナからの退去を命じていた。

 猶予は、軍勢が上海に到着するまでの3日。

 出来る筈も無かった。

 国際連盟の場は、この無法を宣言した軍閥と、その管理者たる南チャイナを非難する場となった。

 南チャイナにも言い分はあった。

 そもそも、植民地の如く扱われているチャイナの民衆の蜂起である。

 世界大戦後に定められた民族自決の原則に基づいて考えれば、その行為は認められるべきだ ―― と主張した。

 だがそれが通る事は無かった。

 反対したチャイナ、棄権したドイツとソ連を除く全ての安全保障理事会の参加国が一致し、チャイナの国際連盟の参加資格の停止を決めた。

 併せて上海市防衛に列強が兵を出す事は、自衛の範疇である事が宣言された。

 チャイナは世界から孤立した。

 

 

――上海事件・防衛戦力の集結

 アメリカを筆頭とする列強諸国は、軍閥に膝を屈する事を良しとはしなかった。

 アメリカは関東州に駐屯する海兵隊から1個連隊を先遣隊として派遣し、続いてフィリピンから1個師団を派遣する事を決断。

 ブリテンはシンガポールから陸軍1個旅団相当の兵を派遣する事を決断。

 フランスはインドシナからの1個旅団を派遣する事を決断する。

 そして日本も、緊急展開部隊に指定されていた第8師団を動かす事を決断。先遣隊として第42連隊を緊急展開させる事とした。

 都合、2個師団2個旅団規模である。

 決して軍閥風情に劣る様な将兵では無かった。

 だが問題は時間であった。

 その全てが集結するには1月近い時間を必要とすると予想された。

 否、ブリテンやフランスの部隊は海を越えての展開を前提としていなかった為、1ヶ月で先遣隊を派遣できれば御の字と言う有様であった。

 ここに、上海防衛の主力は軽装備のアメリカ海兵隊1個連隊と、圧倒的な輸送力を持った日本の第42即応機動連隊(※3)となる事が決定した。

 とは言え、これだけで10万の軍勢と戦える筈も無い。

 日本は日本ソ連戦争以来の空軍の動員を行う事を宣言した。

 又、護衛艦いずもを旗艦とする任務部隊を編制、攻撃ヘリを搭載して上海沖へと向かわせた。

 海洋戦力に関しては、アメリカやブリテンも巡洋艦を含む艦隊を派遣した。

 陸の兵こそ乏しいが、それを支える空海の戦力は圧倒していた。

 尚、南チャイナの軍艦も上海には停泊していたが、国際連盟での騒動を聞いた指揮官は、今回の事件への局外中立を宣言し、艦隊の保全を図った。

 ボイラーの火を止め、弾薬庫を封印し、上海の列強連絡会の監査を受け入れる宣言をする徹底っぷりであった。

 このお蔭で、南チャイナ海軍は壊滅を免れた。

 

 

 

 

 

(※1)

 アメリカに雇われた傭兵はコリア人のみならずロシア人やアメリカ人、ユダヤ人。果ては日本人やドイツ人までも居たが、数も多く一番に悪目立ちしたのがコリア人であった。

 

 

(※2)

 アメリカへのチャイナの反発は目に見えるレベルで広がっていた為、扇動自体は簡単に行った。

 又、上海と言う大きな獲物があった事も大きい。

 チャイナ共産党が唆した軍閥は5万の規模の軍勢を有していた。

 対する上海に駐屯する兵は併せても1千を越えようかといった程度しか居なかった。

 上海の夷狄を打ち滅ぼし、その財を奪い尽くし、その功績を持って満天下に南チャイナの真なる指導者である事を示すのだ ―― そんな甘言に、軍閥の首領は乗ったのだ。

 

 

(※3)

 第8師団は機動化師団としての規模改変と、装備の変更が行われている真っ只中であった為、第42即応機動連隊以外が、即時に戦闘態勢へと移行できる様な状態では無かった。

 とは言え、1個連隊だけの派遣では死にに行かせる様なものである。第42連隊を死なせるなと師団長が檄を飛ばし、第8師団で戦闘可能な練度にあった部隊をかき集めて、臨時の装甲連隊戦闘団(第81独立装甲連隊と命名)を編制して後詰とした。

 編成未了ながらも10式戦車を受領している第8戦車連隊を根幹に、第8偵察大隊や第43普通科連隊から抽出した部隊で構成されている。

 特科部隊こそ含まれて居ないが、10式戦車2個中隊と16式機動戦闘車を1個中隊規模有する、強力な機甲部隊であった。

 この臨時部隊を第8師団の将兵は何とか3日で編成し上海へと派遣した。

 

 

 

 

 

 




2019.05.10 記述修正
2019.05.10 記述修正
2022.10.18 構成修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

020 上海事件-2

+

 小銃だけを手に展開したアメリカ海兵隊。

 だが支援は潤沢であった。

 海には関東州に停泊していたアメリカ海軍巡洋艦が駆けつけており、空には自衛隊と在日米軍の航空機が舞っているのだから。

 初陣であった海兵隊少尉は、自身の不遇を嘆くよりも、噂に聞くエンペラーの軍勢と未来のアメリカの力を見れる事に興奮していた事を手記に残していた。

 

 

――上海事件・軍閥

 約10万の大軍となったが寄せ集めと言ってよい為、規律など殆ど無く、移動は遅々として進まなかった。

 その上で食料や燃料などが不足気味であった為、上海市に向かう途中に存在した町で徴発しながらとなる。

 その様はさながらに野盗か蝗の如きであった。

 結局、上海市の周辺部に軍閥の先遣部隊として約1万の兵が到着したのは、本拠地を出発して8日目の事であった。

 到着後、自信と自負、そして欲を滾らせて上海市への降伏の是非を問うと、市長及び列強の責任者で作られた臨時自治委員会側より返答があった。

 拒否である。

 それどころか軍閥の面子を潰すかの如く、上海市から内陸部への街道を制圧し物流を滞らせている事への非難が成されていた。

 先遣部隊指揮官は、小癪な事を述べた使者を殺し、又、列強の軍が残っている事を口実として上海市攻略戦の実施を世界に向けて宣言した。

 

 

――上海事件(D-Day)

 自衛隊によるUAVやヘリによる偵察で、先遣部隊の実情を捉えていた防衛側は楽観していた。

 先遣部隊が自動車などこそ有しているが戦車や野砲といった重装備を装備しない軽歩兵部隊である事が見て取れたからだ。

 規模こそ1万を数える程ではあったが纏まりが無く、広大な上海市の外周部で分散して攻撃をして来ては脅威となったであろうが、その様な兆候は見られなかった。

 又、短時間ではあったが準備が出来ていたのも大きい。

 自衛隊が持ち込んできた大規模な土木作業機材の機力と、軍閥の到着に時間が掛かった事と相まって、上海市を守る塹壕や対戦車壕の造成が間に合ったのだ。

 そこからの2日間、世界大戦への従軍経験のある兵は手記に「その様、ソンムの如し」と書く程の状況となった。

 無論、攻撃側のみの惨状であったが。

 既に2日目の午前には、軍閥側の衝突力は消滅していた。

 

 

――上海事件・航空攻撃

 軍閥と言う野戦軍の撃滅が主目的であり、更には現状で相対しているのが先遣部隊であった為、日本は本格的な空爆を差し控えていた。

 B-52を筆頭とした戦略爆撃機群は野戦軍を目標とするには少しばかり大きすぎた。

 身軽な攻撃機を投入するには、上海での航空機運用のインフラが不足し過ぎていた。

 何より弾薬が、日本ソ連戦争で大盤振る舞いしていた為に不足気味であったと言う事もあった。

 その為、日本は自衛隊とグアム共和国軍(在日米軍)のヘリ部隊をかき集め、いずもを旗艦とする任務部隊に乗せていた(※1)。

 そのヘリ部隊が戦線投入されていないのは、ヘリ部隊の予備部品の枯渇と機材の老朽化による稼働率が問題であったのだ。

 前哨戦の段階で消耗し、いざ軍閥の主力部隊との戦闘時に戦えぬようであれば意味が無い。

 そう上海防衛司令部では判断していた。

 

 

――上海事件(D-Day+9) 増援/軍閥側

 軍閥の主力部隊が上海周辺に到着する。

 先遣隊の苦戦を聞いていた軍閥の頭領であったがその顔に不満も怒りも浮かんでは居なかった。

 歩兵主体の先遣隊で戦車などを保有する先進国の軍隊相手では荷が重いという事は理解していたからだ。

 故に、対策を取っていた。

 近隣の南チャイナ軍へ声を掛け、輸入した列強製の戦車を装備していた部隊を引き抜いて来たのだ。

 その多くは世界大戦時に使用された旧式であったが、200両を超える数は脅威であった。

 練度も悪くない。

 ドイツの軍事顧問団からの教育を受けた精鋭だったのだ。

 この戦車部隊が軍閥の上海攻撃に参加したと聞いた南チャイナの頭領が、呆然とし、そして激怒したという事から、この部隊の貴重さが良く判る。

 その他、野砲や歩兵砲も大量にかき集めていた。

 此方はチャイナ共産党が秘匿していた物資の提供で成り立っていた。

 促成の為、練度には疑問符があるものの、3桁を超える砲は厄介であった。

 

 

――上海事件(D-Day+9) 増援/防衛側

 この時間で防衛側も手をこまねいていた訳では無かった。

 自衛隊の臨時増援用部隊である第81独立装甲連隊が上海に入った。

 第81独立装甲連隊には時間的余裕があった事もあり、台湾にて先行量産型の31式戦車で運用試験を行っていた部隊も予備部隊として編入、増強された。

 機材への習熟こそ成せてはいないが、富士教導団の将兵が基幹となった部隊の為、不安は無かった。

 この他、シンガポールのブリテン旅団1個が上海入りしていた。

 此方は海上自衛隊が第1輸送隊と第2輸送隊(※2)、そして就役前のさつま型多機能輸送艦まで投入した一大輸送作戦によって成されていた。

 LCACによって重装備も装備したまま到着しており、戦力として極めて心強いものとなっている。

 尚、インドシナのフランス部隊も、1週間後には到着予定となっていた。

 

 

――上海事件(D-Day+10)

 軍閥の主力と上海防衛隊の衝突が本格的に始まった。

 自衛隊が上海市を囲むように大規模に巡らせた戦車壕の切れ目、3本の大道路を巡る攻防となった。

 防衛隊は、指揮権の問題からそれぞれを自衛隊、アメリカ軍、ブリテン軍が担当する事となる。

 重装備の無いアメリカ軍に対し、自衛隊は16式機動戦闘車の中隊を1個、支援に回した。

 10式戦車は第81独立装甲連隊と共に、予備として上海市中心に配置された。

 3つの主要戦線以外にはフランスやイタリアの部隊が警戒の為に対応していた。

 対する軍閥側は3つの道路に均等に部隊を分けて攻撃を仕掛けた。

 志願兵などの欲に釣られて軍閥に参加した人間を先頭に立てたのだ。

 「一番に上海に乗り込めた者は最大の手柄として報奨は望むまま」という甘言に騙され、突撃した。

 その結果、この1日だけで2000名を超える死者がでた。

 

 

――チャイナ共産党

 防衛戦が始まると共に、上海市内での活動を活発化させた。

 特に防衛隊の補給路への破壊工作、襲撃は、それを想定していなかった防衛隊側に甚大な被害を与える事になる。

 襲撃はハーグ陸戦条約に基づいて軍服などを着る事も無く、時には女子供を囮にして行われた。

 防衛隊側に被害以上にストレスを与える作戦だった。

 それは、中華人民共和国の工作員がチャイナ共産党へ伝授した作戦であった(※3)。

 この対応に日本のヘリコプター部隊は忙殺される事になる。

 空中からの偵察と護衛、そして非常時の支援任務だ。

 完全に装甲化された車両を護衛に付けられる自衛隊は兎も角、アメリカ海兵隊やブリテン陸軍には装甲化された装輪車両など無い為、襲撃を受けた際には被害が出やすかった。

 

 

 

 

 

(※1)

 上海事件が日本国に戦闘ヘリ部隊の重要性を再認識させる事となり、新型攻撃ヘリの開発が検討される事となる。

 但し、日本国内の航空機設計/開発技術者の乏しさから、現状で即座に手を付けられるものでは無かった。

 この為、日本政府は国家主導による設計士や技術者の養成に邁進する事となる。

 

 

(※2)

 タイムスリップ時点で日本の造船所が海外から発注を受けて建造していた大型貨客船2隻(かしはら しゃるんほるすと)を、日本政府が民間支援の一環として購入し海上自衛隊に編入した部隊。

 平時は、はくおうやナッチャンWorldと同様に特別目的会社が管理運営している。

 

 

(※3)

 タイムスリップ後、大多数の中華人民共和国民は日本への帰順を選択した。

 極々一部の人間がチャイナへと密航し、チャイナ共産党へ合流していた。

 

 

 

 

 

 




2019.10.29 文章修正
2020.04.24 文章修正
2022.10.18 構成修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

021 上海事件-3

+

 チャイナ共産党が行った上海市防衛隊への破壊工作は、国際連盟で大問題となった。

 戦争に於ける作法の全てを無視する暴挙であり、この反応も妥当であった。

 国際連盟安全保障理事会は、南チャイナの代表を呼びつけて査問会を開いた。

 慌てたのは南チャイナである。

 身の潔白と、次には上海市に展開する列強諸国による謀略を訴えた。

 南チャイナは、移民による伝手のあるアメリカで自身が被害者である事を強く訴える事で査問会の流れを変えようとした。

 特にアメリカ人が有するミリシアへの伝統的価値観に沿う形で訴えた。

 曰く、チャイナの行動は列強への市民レベルでの抵抗だと。

 アメリカ議会が紛糾した。

 アメリカの世論も盛り上がった。

 そこに、日本が圧倒的な情報で殴り込んだ。

 加害者はチャイナの悪しき部分であり、被害者はか弱き一般のチャイナ。

 アメリカを代表とする列強は、その被害者を守るべく立ち上がっているのだと ―― 宣伝戦だ。

 軍閥は上海市に隷属を命じていた。

 特にその事をアピールする事で、上海市を東洋のアラモだと宣伝したのだ。

 このアピールは効いた。

 グアム共和国軍(在日米軍)の協力で、アメリカ人に一番刺さるフレーズを選んだのだ。

 しかも、幾度も行われた襲撃で出た被害者の中で一番の美少女を選んで、インタビュー動画を撮り、「チャイナ/上海の実相」と題して映画化して配信までしたのだ。

 世論が一気にひっくり返る。

 チャイナの善き市民を助け、悪しきチャイナを叩けとの声でアメリカの世論は染まった。

 アメリカ軍は正義の軍隊である。

 

 

――上海事件(D-Day+12)

 2日間に渡って歩兵による攻撃を行い、撃退された軍閥。

 只の力攻め、志願兵を前面に押し立てての人海戦術であった。

 だが3日目は違った。

 2日間の戦闘で日本とアメリカ、ブリテンの陣地をつぶさに観察し、攻勢の主軸を定めたのだ。

 標的はアメリカ海兵隊。

 日本よりも質で劣り、ブリテンよりも数で劣る。

 遮蔽物を使い、野砲の支援を受け、虎の子の戦車部隊を前面に出しながらの攻撃であった。

 押し込まれて行くアメリカ海兵隊。

 16式機動戦闘車の支援を受けているとは言え、腰を据えた野砲の支援の下で接近戦をされては対応しきれない。

 通常は対砲射撃の応酬となり、連続した砲戦は困難であるのだが、事、今回は上海防衛隊側に野砲の類が少ない為、応射出来ないのだ。

 アメリカ海兵隊が軽装備である事を見抜いた軍閥側の作戦勝ちであった。

 16式機動戦闘車も支援に前に出ようとはするが、装甲がそう厚い訳では無い為に野砲による制圧射撃を受けていては思う様には出来なかった。

 軍閥側はアメリカ海兵隊を突破できる。

 そう信じた。上海防衛隊がヘリ部隊を投入するまでは。

 アメリカ海兵隊の状況を把握した上海防衛隊司令部は自衛隊の攻撃ヘリ部隊の投入と、第81独立装甲連隊の投入を決断。

 本物の装甲を持った戦車による逆襲は、軍閥の装甲部隊と約1個師団の攻撃を完全に頓挫、粉砕せしめた。

 野砲部隊はヘリ部隊による襲撃によって撃破された。

 この1日の戦闘で、軍閥は実に3万人近い兵が死傷する事となる。

 

 

――チャイナ共産党

 戦闘開始から13日目、チャイナ共産党は追いつめられていた。

 治安維持活動の一環としてブリテンがチャイナ人とチャイナ共産党とを分離する為、チャイナ共産党に対して懸賞金を掛けたのだ。

 見知らぬ人間を見つけたら酒代にはなる懸賞金。

 何かの兆候を発見したら贅沢な食事が出来る懸賞金。

 チャイナ共産党の情報を得たら1週間は寝て過ごせる懸賞金。

 実際の襲撃を阻止する程の情報であれば1年は遊んですごせる懸賞金。

 チャイナ人は血眼になってチャイナ共産党を探す事となった。

 チャイナ共産党が人民の海に潜れぬ様に分断したのだ(※1)。

 これでは軽歩兵でしかないチャイナ共産党兵に出来る事など何も無かった。

 だからこそチャイナ共産党は軍閥との呼応を図る。

 比較的防衛線が薄い場所を探し出し、内外から挟撃して上海市の陥落を狙うのだ。

 

 

――上海事件(D-Day+15)

 開戦13日目の戦闘で軍閥は大敗したが、それでもまだ戦闘を続けていた。

 1つには被害の大半が開戦前に集まって来た野盗や破落戸の志願者だったからだった。

 虎の子の戦車部隊は半壊していたし、野砲部隊に至っては消滅していたが、それでも軍閥の主力と呼べる部隊はまだまだ健在であったのだ。

 負けてはいないというのが頭目の手ごたえだった。

 そして、チャイナ共産党との合同での側面攻撃作戦という起死回生の策があった事が大きい。

 散発的な襲撃を行う事で欺瞞をしながら、3日かけて作戦準備を行った。

 そして開戦16日目、側面からの攻撃を敢行した。

 世界大戦時の塹壕戦術、戦車やありったけの自動車の前面に塹壕を埋めれるだけの薪や藁を載せて突撃したのだ。

 上海防衛隊側は政治的要求から、フランス・インドシナ旅団の合流後の反撃(D-Day+18)を予定し準備していた為、後手に回ってしまったのだ。

 攻撃を受けた側面、その守備に就いていたのはフランスの警備中隊とフランス人とチャイナ人の志願兵だった。

 ヘリ部隊も、最低限度の偵察用と連絡用を除いて整備を行っていた為、大規模な航空支援は不可能だった。

 その状況下で日本が行ったのは、先ず偵察だった。

 偵察ヘリを軍閥の防空網へ突入させてまでして情報を集めた。

 損傷機や未帰還機を出しながらも偵察ヘリ隊は任務を果たした。

 現時点での敵の配置を把握したのだ。

 側面攻撃に来た軍閥旅団規模部隊が最後の予備であると把握した日本は、最後の手札を切った。

 31式戦車中隊を基幹とする装甲中隊戦闘団の投入だ。

 合わせて、上海防衛隊は内側から呼応しようとするチャイナ共産党部隊の鎮圧に、志願した警官隊で編成した部隊を投入した。

 内も外も血みどろになる戦い。

 これが上海防衛戦最後の山場となった。

 戦いは一昼夜に及び、最終的には防衛側が勝利した(※2)。

 

 

――上海事件(D-Day+31)

 フランス旅団到着後に行われた反撃は、アメリカのフィリピン師団の到着後、掃討戦へと移行した。

 最終的に、事件勃発から32日目に国際連盟にて正式に上海事件の終息が宣言された。

 軍閥は消滅。

 チャイナ共産党も上海組織は壊滅する結果となった。

 

 

 

 

 

(※1)

 上海チャイナ人とチャイナ共産党とを分断で来た理由の1つは、日本が根回しをして積極的に行った襲撃事件の周辺被害者へのフォローがあった。

 流れ弾や爆発で怪我をした人へは医療サービスを提供し、家財を失った人にそれなりのフォローを行ったのだ。

 民心慰撫、大衆を味方にする為に行った事であったが、これが大成功となった。

 チャイナ人が政治に求めるもの、評価する徳を日本やアメリカなどの列強が示した事となったのだ。

 同時に、上海市民の南チャイナやチャイナ共産党に対する好意は激減する事となった。

 

 

(※2)

 この戦いで大活躍したのが31式戦車だった。

 戦車らしく敵軍の砲弾から味方を護りそして敵戦車を粉砕した。

 市街戦でもセンサーで敵の居所を把握し、105㎜砲は立てこもった建物を撃ち抜いて敵を叩きのめした。

 八面六臂の大活躍。

 しかも、激戦の最中にあっても喪失車両が出なかったのだ。

 被弾してもものともせず応射し、キャタピラが切られればその場で手の届く範囲の敵を掃討しきるまで戦い抜いた。

 フランス兵は31式戦車を「我らが守護天使」と呼び、親しんだ。

 惚れこんだと言っても良い。

 それはフランス旅団が到着後、日本に対して31式戦車の装甲中隊戦闘団を編入してくれるように依頼した事にも表れていた。

 この事が後にフランス陸軍の、31式戦車購入希望という話に繋がる事となる。

 日本からすれば31式戦車は、各邦国軍向けに整備性を運用コスト低減を念頭に第3.5世代戦車の技術で作られた第2.5世代であった。

 だが他の国からすれば、撃破不可能の重戦車であった。

 尚、10式戦車であったが、撃破数などは此方が遥かに上であったのだが、その運用スタイルが余りにも異質過ぎて、16式機動戦闘車の如く戦車に似たナニカという風に映っており、食指が動く事は無かった。

 

 

 

 

 

 




2019.05.12 表現修正
2022.10.18 構成修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

022 チャイナの大地

+

 上海市を巡る戦闘は決着した。

 上海市防衛隊は軍閥を殲滅すると共に、軍閥の本拠地を保障占領する事に成功する。

 上海市を狙った軍閥は文字通り消滅し脅威は消えた。

 問題は、誰がこの事件の責任を取るかと言う事であった。

 

 

――南チャイナ

 配下とは言え、半独立状態の軍閥が勝手に起こした戦争で虎の子の機甲部隊を失った南チャイナを更なる悲劇が襲う。

 戦争責任である。

 軍閥の消滅後、南チャイナに日本、アメリカ、ブリテン、フランス、イタリアの5か国連名による戦争賠償請求が突きつけられたのだ。

 法外な金額に頭を抱えた南チャイナは、友好国であるドイツに泣きついたが、そのドイツも国際舞台の中心からは外れている為、大きな助けになる事は無かった。

 半年に及ぶ賠償交渉。

 最終的に南チャイナは、列強諸国が余りにも法外な要求を継続する様であれば最後の一兵まで戦い抜くと開き直って交渉するに至った。

 戦争と言う不経済な状況を嫌った列強がこれに折れる。

 最終的に南チャイナは、戦死者に対する慰問金としての戦費賠償を支払う事で合意する。

 その他、10年間の特権的貿易権を5か国に認める。

 これは事実上の関税権の喪失であった。

 又、各国へ個別で様々なものを認める事となる。

 日本に対しては、沖縄は日本固有の領土であり台湾は独立国として日本連邦へ参加している事を公式に認める事となった。

 アメリカに対しては、満州での独占的地位の承認を99年に渡って認める事となった。

 ブリテンに対しては、香港を租借ではなく割譲する事となった。

 フランスに対しては、広州租借地が割譲される事となった。

 イタリアに対しては、上海近郊の港町が99年間租借される事となった。

 そして上海は、自由都市として南チャイナの支配下から独立する事となった。

 踏んだり蹴ったりとなった。

 そして、この敗北によって南チャイナの政治的権威は喪失の危機に陥る事となる。

 これに慌てた南チャイナは、戦争に関する全ての責任をチャイナ共産党に押し付ける事にする。

 曰く、チャイナ共産党による陰謀であると。

 何かの証拠を見つけた訳では無かった。

 責任を押し付ける都合のよい相手がチャイナ共産党しか居なかった(※1)というのが大きい。

 証拠は捏造して対応した。

 大々的にチャイナ共産党を批判した。

 この為、もとより悪かった南チャイナとチャイナ共産党の関係は極端に悪化する事となる。

 

 

――チャイナ共産党

 南チャイナの国力に被害を与える事には成功したが、その結果として南チャイナから目の敵にされる事となった。

 この為、南チャイナの領域から北チャイナ側へと移動する。

 南チャイナ軍に襲われながら行われた逃走は、チャイナ共産党軍の戦力を大きく削られる大敗北となったが、それを誤魔化す為にチャイナ共産党は新生の為の苦難、長征と謳う事とした。

 

 

――フロンティア共和国

 北チャイナによる統制が失われて以降、軍閥、チャイナ共産党、馬賊、その他が入り混じった混沌の大地へと変貌した。

 その事に危機感を抱いたのは満州に入植したユダヤでありアメリカであった。

 治安が麻の如く乱れ、商売は困難になるどころか、襲撃から身を護る事で精一杯な有様となった。

 アメリカの資産が危うい。

 日本から権益を購入して既に5年以上が経過し、官民からの膨大な投資が行われてきた場所なのだ。

 それが危ういと言うのは、アメリカにとって看過し得ない事態だった。

 同時に、それはユダヤにとっても同じであった。

 漸く得た安住の地、法的に差別される事も無く自由な職業に就く事の出来る場所を失う訳には行かなかった(※2)。

 アメリカとユダヤは共謀し、満州の大地を独立させる事を決意する。

 その為の手段はハワイ方式が採用された。

 同時に、アメリカは在日米軍(グアム共和国)からの提言を受け、チャイナで共同歩調を取る事の多い3ヵ国に対して根回しを行った。

 日本、ブリテン、フランスの3ヵ国は、満州に建国される新国家(フロンティア共和国)にて自国の国民と権益とが排除されないのであればと承認する事とする。

 蜂起は、アメリカ人入植者が行った。

 チャイナ人馬賊の農園への襲撃を撃退した時に、リンカーンのゲティスバーグの演説を元にした、満州に於ける諸国民の平等と安寧を叫んだのだ(※3)

 これに関東州に駐屯していたアメリカ軍が呼応する。

 正義を守るアメリカ軍は、人間の叫びを無視しないとアメリカ大統領が宣言。

 このアメリカの行動を国際連盟の場で日本、ブリテン、フランスは支持する事を宣言した。

 これに激高したのが南チャイナだ。

 アメリカと列強による許されざる植民地帝国主義だと弾劾した。

 だが、国際連盟の参加資格を停止している為、国際社会へ訴えるにしても、出来る事など殆ど無かった。

 この事に、更に激発する。

 G4による世界支配だと、宣伝戦を行った。

 だが、北チャイナで猖獗を極めた混乱をアメリカが積極的に報道していた為に、アメリカの行為は混乱したチャイナの大地に秩序をもたらすものとして積極的に評価された。

 アメリカ軍が満州に介入して約1月。

 戦乱は終息し、満州の治安が回復した。

 

 

――ソ連

 アメリカによる手際良い満州の切り取りに、ソ連は恐怖した。

 既に沿海州を筆頭として、シベリアの各地で日本やアメリカの企業が経済活動を行っていたのだから。

 5ヵ年計画に必要な財源の為に絞った寒村の農民が流出している現状、既に流出防止に秘密警察などを動員していたが、更なる防止策を講じていく事となる。

 又、日本やアメリカの後背を突くという意味でチャイナ共産党への支援を強化していく事となる。

 

 

 

 

 

(※1)

 南チャイナの主敵は北チャイナであるが、北チャイナは頭目が爆殺されて以降、国家 ―― 組織として完全に瓦解していた。

 その様な相手が事件の黒幕であるなどと主張した場合、南チャイナは国家の体を成していない相手に良いようにされたとなる為、国家としての面子が消滅してしまうのだ。

 故に、押し付ける相手としてはチャイナ共産党しか居なかった。

 確たる証拠がある訳では無かったが、宣伝と情報工作でチャイナ共産党は悪であると必死に宣伝する事となる。

 

 

(※2)

 この意識にはロシア系の難民も賛同していた。

 法治された安住の大地を誰もが失いたくなかったのだ。

 同時に、豊かになった満州へと他の場所から流入してくるチャイナが問題となっていたのもある。

 経済問題で満州に流入したチャイナは、満州で経済的に成功する為の事実上の共通語 ―― アメリカ語も日本語も不慣れであった為、どうしても低所得となりやすかった。

 この為、成り上がる為に不法行為や暴力行為に手を染める人間が多く、治安悪化の要因としてチャイナ人の拡大は問題視されていた。

 言ってしまえば、満州はチャイナ人だけのものでは無くなっていた。

 

 

(※3)

 この大地に居るアメリカ人、ユダヤ人、ロシア人、ジャパン人、チャイナ(マンチュリア)人。その他の民族が等しく繁栄できる様になるべきだと結んだ。

 その結びから、宣言は6民族共栄宣言と言われた。

 6番目の民族は上記の5族以外の全ての民族を入れるものとされている。

 

 

 

 

 

 




2020.01.28 文章修正
2022.10.18 構成修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

023 31式戦車shock

+

 東アジアに比べて平和にまどろんでいた欧州であるが、戦争の足音は少しづつ響いていた。

 

 

――ポーランド

 1920年代より行われたフランスの支援による重工業の育成は、軌道に乗りつつあった。

 工場の設備などは、設備更新を行っていたブリテンからの輸入によって近代化が出来つつあった。

 その成果が1932年に完成した国産戦車10TP(※1)であった。

 無論、10TPの完成によって1足飛びに機械化戦力を保有出来る様になったという訳では無い。

 依然としてポーランドは欧州に於いては中進国でしか無い為、歩兵が戦力の主力であり、輸送部隊は馬車が中心であった。

 とは言え、それはポーランドのみならず、他のヨーロッパ諸国も一緒であった。

 日本に感化される形で、自動車化を推し進められたのはブリテンとフランスだけであった。

 政治的には、対ドイツを前提としたソ連との不可侵条約の締結に成功した。

 在日波大使館からの情報で、隙を見せればソ連は攻めて来る相手であると認識はしていたが、先にフランスや周辺国と一緒にドイツを叩いてしまえば、全力で抵抗出来ると言う計算があった。

 

 

――ソ連

 5ヵ年計画によって国力の涵養には成功しつつあった。

 とは言え、5ヵ年計画の資金源として農作物の飢餓輸出を行った為、穀倉地帯であるウクライナは荒れ果てていた。

 無茶な増税によってシベリアは人民が逃げ散り、又、日本とアメリカによる浸食を受ける有様であった。

 それでも尚、ソ連は強大化した。

 ドイツとイタリアの協力によって、重工業が長足の発展をする事となった。

 日本が満州や沿海州などで使用している耕作機械や土木用重機などを参考にした機材を開発し、人口の減ったウクライナなどへ投入し、生産力を補った。

 シベリアの開発も、日本やアメリカの利益にもなっていると思えば業腹ではあったが順調であった。

 ポーランドとの不可侵条約の締結もあり、軍事に投じる予算を抑えられている事が、この好循環を生んでいた。

 軍事費を抑えているとは言え、スターリンは屈辱を受けた日本ソ連戦争を忘れてはいなかった。

 日本への報復を誓っていた。

 10年後をめどに軍事力を高め、日本をソ連の大地から追放する積りであった。

 そうすれば日本が開発し沿岸州が生んでいる利益は全てロシアのものとなる。

 併せてアメリカを追放すれば、ソ連は黄金のシベリアを手にする事が出来るのだ。

 その為の重工業の発展、科学技術の育成なのだ。

 不可侵条約を締結したポーランドなどの小国は、シベリアを回収した後に滅ぼせば良いと判断していた。

 だが上海事件で日本軍(自衛隊)の実戦力を把握したスターリンは顔色を変えた(※2)。

 10倍以上の戦力比をひっくり返すだけの力を自衛隊が持っている事に戦慄した。

 特に、大口径砲を愛するスターリンは、自国の戦車を遥かに凌駕する大口径砲を搭載した重戦車、31式戦車に嫉妬した。

 同時に、自国の戦車が31式戦車に及ばない事に激怒した。

 ここから31式戦車を超える重戦車の開発が命令された。

 

 

――ドイツ

 南チャイナの凋落は、ドイツの商機拡大の好機であった。

 上海市で壊滅した戦車の代替を売りつける好機であった。

 ヘリコプターの脅威は航空機を売りつける好機であった。

 戦車をもっと揃える為に重工業のプラントを売りつける好機であった。

 大商いとなり、対価として植民地 ―― 青島が租借地としてドイツの手に戻ってきたのだ。

 政権を取ったばかりのナチス党にとっては、望外のご褒美と言える事態であった。

 ナチス党とアドルフ・ヒトラーの支持率は極端に跳ね上がる事となった。

 だが気持ち良くしていられたのもそこまでであった。

 31式戦車の登場と、それが波及させた事態に衝撃を受ける事となる。

 ポーランドの10TP戦車は、現時点でドイツの持つ全ての戦車に優越しており、問題視された。

 反ドイツ的言動と国家戦略を隠しもしないフランスが、31式戦車を200両導入する事を日本に持ちかけた事は国防への深刻な問題だと認識された。

 フランスの影響を受けてイギリスも31式戦車100両の購入を検討し、同時に日本へと合同で30t級戦車の開発を持ちかけた事に至っては、極秘に進められていたドイツの再軍備計画に深刻な影響を与える事となった。

 ドイツが将来の主力と定めていた戦車(※3)を凌駕している為、改めて陸軍の再軍備計画は検討し直される事となった。

 

 

――フランス

 上海事件の戦訓を得たフランスは、日本に対して31式戦車200両の購入を打診する(※4)。

 4個大隊と予備車両として2個師団を編制。

 来る対ドイツ戦争に於いては、決戦部隊として活躍させる積りであった。

 だが同時に、購入交渉が長引く事を想定し、31式戦車の影響を受けた20t級戦車の開発に着手する。

 これは在日仏大使館からフランスへ帰化した従軍経験者からのアドバイスでもあった。

 第2次世界大戦の記録を元に説明した。

 40t級の重量がある戦車は運用に注意が必要である為、20t級のバランスの良い戦車が主力であった方が良いのだと。

 この為、20t級戦車の開発がスタートした。

 

 

――イギリス

 31式戦車の戦闘力は上海で把握してはいたが、当座、日本と事を構えるべき状況も発生しないであろう事から、購入を検討するほどでは無かった。

 フランスが購入希望を出すまでは。

 日本がタイムスリップして来て以降、フランスとも良好な外交関係を維持しては居たが、海を隔てているとはいえ隣国が31式戦車という強力無比な戦車を配備しようとする事を座視する訳にはいかなかった。

 その為、とりあえず100両の発注を行う事を決意する。

 同時に、日本に対して共同での戦車開発を持ちかける事となる。

 フランスに比べて、陸戦への緊迫感が低い為(※5)、イギリスの戦車開発能力の向上を図る余裕があったのだ。

 但し、日本からの貿易対価としてインフラ更新が行われ、重工業の劇的な近代化が図られていた為、新戦車はヨーロッパ諸国の保有する戦車を一気に陳腐化させる重戦車 ―― 30t級戦車として開発する事を計画した。

 

 

 

 

 

(※1)

 10TPとはポーランド軍10t戦車の意味であった。

 日本ソ連戦争に派遣した観戦武官が報告した日本の10式戦車の概念を研究し、走攻防のバランスの取れた戦車として開発された。

 重量は14.2t、主砲は32口径47㎜砲が採用されている。

 車体はボルトを使用せず、溶接が採用されている。

 1930年代前半の戦車としては極めて先進的な戦車として完成したが、先進的過ぎるが為にポーランドの国力では大量生産が困難となってしまった。

 この為、より使いやすい戦車が求められ、7TPが開発される事となった。

 所が7TP戦車の設計途中で31式戦車shockが発生した。

 上海事件で31式戦車の傍で闘ったフランス軍が纏めたレポートが手に入ったのだ。

 概念だけでは無く、実戦で示した100年先の戦車の能力は、一夜にして10TPも7TPも陳腐化させてしまった。

 この為7TPの開発は中止され、戦闘重量25tの25TP開発が指示された。

 併せて、25TPが量産できる様な国力増強計画が立てられた。

 尚、10TPに関しては、現時点で本戦車に対抗出来る戦車が存在し無い為、生産性を高める改良を施した上で量産が指示された。

 

 

(※2)

 日本ソ連戦争の際には一方的に軍が壊滅した事と、壊滅後にソ連へと帰還した将兵が極々限られていた為に殆ど戦訓は得る事は出来ずにいた。

 この為、列強のマスコミが様々な情報を収集し発信した上海事件が、ソ連が自衛隊の戦闘力の詳細に触れる機会となった。

 それ以前にスパイを通して日本ソ連戦争の情報を収集してはいたが、余りにも荒唐無稽な戦闘力を自衛隊が発揮して居た為に信じ切れなかったのだ。

 シベリアの経済を破壊した航空戦力だけでは無く、陸上戦力も規格外であるとソ連は初めて理解したのだ。

 

 

(※3)

 ドイツ陸軍は、ヨーロッパのインフラ事情から戦車を運用する上では15tが適切に運用する上限であろうと判断した。

 その上で諸外国の戦車に優越するものとして20t級の戦車開発を検討していた。

 その判断は、工業力に劣るポーランドが開発した戦車が10t級(実際には15t級であるが、この事は公表されてなかった)を開発した事で裏打ちされた。

 イギリスの30t級戦車開発計画で、この目論見は完全に破綻するが。

 

 

(※4)

 日本にとって31式戦車は邦国軍向けの、整備性が良く、高度過ぎる技術は使っていない第2.5世代戦車であった。

 輸出など最初から検討していなかった。

 この為、フランスからの熱烈な売却要請に困惑する事となる。

 その後に入って来たイギリスからの売却要請にも頭を抱える事となった。

 

 

(※5)

 フランスでは、ドイツでナチス政権の発足と共に早晩に再軍備を宣言するだろうと判断していた。

 この為、対ドイツ戦争の勃発は5年以内となるであろうと、準備活動に拍車を掛ける事となる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




2019.05.15 誤字修正
2022.10.18 構成修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

A.D.1933
024 アメリカの道


+

 1930年代に入ったアメリカは、株の一時的な暴落 ―― リセッションこそ経験したが、その後も順調な経済発展を続けていた。

 極東を新しいフロンティアとして手に入れたアメリカは、雄飛を続けていた。

 満州は国家を樹立し、沿海州では鉱物資源を得ると共に民主主義を伝授し、日本は農作物も鉱物資源も大きなお得意様となっていた。

 技術開発ではグアム共和国軍(在日米軍)の協力で、長足の進歩を遂げつつあった。

 開発した技術を工業製品として商売を行う為に必要なものは日本が売ってくれるのでアメリカの裏庭である南米経済を席捲する事が出来た。

 その経済力を背景に国内の開発も進んでおり、アメリカは正しく黄金時代を迎えていた。

 外敵としてチャイナやソ連も居るが、極東に於いてはG4の足並みが乱れる事は無い為、アメリカは文字通り無敵の国家として在った。

 但し、小癪な存在も居た。

 チャイナ共産党である。

 フロンティア共和国や、その周辺で跋扈し、治安を悪化させる存在として嫌悪していた。

 この為、アメリカはフロンティア共和国を通して民間企業がそれぞれ独自に組織していた自警組織を整理統廃合して大規模な重武装民間軍事組織を作り出す。

 フロンティア警備保障、通称F.D.Sである。

 警察や軍隊としなかったのはフロンティア共和国以外での運用を考慮しての事だった。

 チャイナ全域や沿岸州などで活動する企業にも安全保障業務を行う為であった。

 顧問にはグアム共和国軍(在日米軍)が就任。

 本部を関東州アメリカ軍基地に隣接する場所に置いた。

 有事にはフロンティア共和国軍に編入される為、戦車などの重装備の保有が認められている。

 その人的な中心はコリア系日本人であった。

 F.D.Sは朝鮮共和国と提携し、朝鮮共和国軍で軍事訓練を受けた人材をリクルートしているのだった。

 アメリカと朝鮮共和国の物価の差が大きい為、アメリカにとってコリア系日本人は手頃に使える人材であった(※1)。

 

 

――アメリカ海軍

 ワシントン軍縮条約以降、太平洋は平穏な海のままであった。

 海上自衛隊やグアム共和国(在日米軍)海軍部隊と演習や交流を行いながらも平和に過ごしていた。

 その状況が変化したのは、アメリカの極東進出であり、ソ連の海軍再建計画であった。

 ソ連が20,000t級で28㎝砲を持った巡洋戦艦1隻を建造し、ウラジオストクに配備する事を計画している事が判明したのだ。

 ワシントン軍縮条約に参加していないソ連が大型艦を建造し、アメリカにとって重要な権益のある極東へ配備する事は座視し得ない問題であった。

 しかも、ソ連新大型艦はドイツの通商破壊向け巡洋艦であるドイッチュラント級の設計を踏襲したものになるという。

 アメリカの核心的海外領土 ―― 富を生み出す満州、沿海州とのアクセスを邪魔される危険性、それだけでアメリカ海軍は色めき立った。

 新しい敵、殴り掛かっても殴り殺しても良い相手の誕生に歓喜した。

 この為、アメリカ海軍はソ連大型艦の性能を過大に見積もり(※2)、その対策として高速戦艦の建造を計画した(※3)。

 幸い、フロリダ級とワイオミング級戦艦の4隻が代艦条項に合致していた為、この4隻を退役させて2隻の高速戦艦を建造する事とした。

 ワシントン軍縮条約連絡会議にて、その旨を伝達した所、満場一致で了承された。

 

35,000t級高速戦艦

 基準排水量 35,000t

 主砲    14in.3連装砲塔 3基

 速力    31ノット

 

 グアム共和国軍(在日米軍)の支援を受けて設計された本級は当初、30,000t級12in.砲艦として設計されていたが、友好国とは言え日本の35,000t型新型戦艦に見劣りするのは如何なものかと議会で問題となり現案へと拡大する事となった。

 この為、当初は3隻建造する予定であったものが2隻へと縮小される事となった。

 

 

――アメリカ陸軍

 フロンティア共和国の建国に伴い、満州の地に3個師団を派遣する事となった。

 アメリカ経済の好調に支えられて順調に規模拡大を図る事に成功する。

 問題は戦車を筆頭とした装甲車両であった。

 1932年時点でアメリカが保有する戦車群は、31式戦車shock以降の列強諸国が計画した20t~30t級の戦車整備計画には全く対応出来て居なかった。

 特に、大々的に重戦車の開発を叫んでいるソ連とフロンティア共和国北方で対峙する関係上から、30t級中戦車の開発と配備は急務であった。

 当初はブリテンやフランスに倣って、日本へと31式戦車の購入を依頼するべきとの声もあったが、議会がそれに反対した。

 急務ではあっても即時、必要では無い。

 ソ連も又、まだ開発段階である為にアメリカが開発し製造するべきだとの事であった。

 グアム共和国軍(在日米軍)の協力の下、開発は進められる事となる。

 30t級の車体と90㎜砲を持った中戦車の開発がスタートする。

 又、量産する必要性から戦車よりも軽量かつ簡素で量産に向いた戦車駆逐車の開発も、歩兵部隊向けとしてスタートした。

 この他、上海事件でその威力を感じたヘリコプターの開発もスタートした。

 飛行機と比べると新機軸である為、試行錯誤が続いていく事となる。

 

 

 

 

 

(※1)

 邦国として独立以降、それ以前の日本帝国時代の様に国家の予算が潤沢に得られる訳では無くなった朝鮮共和国としても、主要産業が鉱山でしかない国にとっての貴重な外貨獲得手段となっていた。

 ODAなどはあったが、一応は返済期限のある借金であった。

 朝鮮共和国は独自の産業を、金を生み出す手段を求めていたのだ。

 この為、F.D.Sへの人材供給は1930年代に於ける朝鮮共和国の主要産業へと発展していく事となる。

 朝鮮共和国軍に志願して男として一人前。F.D.Sへ参加出来て一流とされた時代である。

 顧問であるグアム共和国軍(在日米軍)としても、日本 ―― 自衛隊式の訓練を受けた部隊と言うのは使い勝手が良い為、非常事態などでは重用する事となり、手厚い対応を行う事となる。

 尚、コリア系日本人部隊は最低でも中隊単位で運用される。

 1930年代の主要任務は、フロンティア共和国とチャイナ北部との国境線警備であった。

 チャイナ人の流入阻止である。

 この任務でコリア系日本人部隊は、流入して来るチャイナ人へ酷薄な対応を行う事で有名となり、チャイナ人の怨嗟の的となっていた。

 

 

(※2)

 配備されるであろう港から、ウラジオストク級巡洋戦艦と呼称された。

 その性能見積もりに関しては、元設計となったドイッチュラント級のそれではなく、アメリカ海軍が通商破壊に用いられると困る性能が元となっていた。

 つまりは日本帝国海軍の金剛級高速戦艦である。

 金剛級の性能を元に、情報収集で得たウラジオストク級の性能は想定された。

 

ウラジオストク級高速戦艦(推定)

 基準排水量 25,000t

 主砲    28㎝3連装砲 3基

 速力    30ノット

 

 自らの推定したウラジオストク級の性能の厄介さに、アメリカ海軍は戦慄した。

 新型高速戦艦の必要性を痛感する事となる。

 尚、このアメリカの対応に驚いたのはソ連である。

 自らが建造するバローン・エヴァルト級装甲通商破壊艦を2回りは凌駕する巨艦が建造され、アジアに配備される事となったのだ。

 慌てて50,000t級戦艦の建造計画を先に進める事となった。

 又、この事に脅威を感じたのはドイツであった。

 チャイナと対立状態にあるアメリカが強力な海洋戦力を東アジアに展開させるという事は、ドイツとチャイナの貿易関係に甚大な影響を与えかねないと危惧したのだ。

 この為、ドイツは35,000t級の日本アメリカの戦艦群に対抗できる ―― 少なくとも脅威を相手に感じさせるだけの戦艦を青島租借地へと配備せねばならぬと確信する事となった。

 この為、バローン・エヴァルト級をドイツ向けとして建造するものとした。

 だが、ヨーロッパの中型戦艦の建艦競争がある為に、26,500tのダンケルク級への対抗を無視する訳にも行かず、最終的には公称20,000tの装甲巡洋艦と称しながら実態は基準排水量28,000tの高速戦艦として建造がスタートした。

 このベルサイユ条約を丸きり無視した方針は、ドイツ海軍内部でも問題とされたが、ドイツ政府より、そう遠くない時期にベルサイユ条約自体を破棄する予定であると告げられ、沈静化する事となる。

 その後、ソ連とドイツの新型戦艦の建艦とアジアへの配備計画にブリテンとフランスも対応する事となる。

 両国とも、アジアに戦艦を配備する事となった。

 アメリカの建艦計画による波及効果であり、海上自衛隊は非公式会合にてアメリカ海軍に対してアジアの緊張状態を生み出す引き金を引いた事を糾弾した。

 

 

(※3)

 尚、アメリカ海軍の一部には、極東の友好国である日本がウラジオストク級へは対応するであろうし、その日本が建造中の35,000t級高速戦艦もあるので、アメリカ海軍が過大な対応をする必要は無いのではないかとの声も上がっていた。

 だが、ワシントン軍縮条約締結後、ようやく巡って来た大型艦建造のチャンスに目の色を変えた海軍上層部は、その声に耳を傾ける事は無かった。

 

 

 

 

 

 




2019.05.16 文章修正
2022.10.18 構成修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

A.D.1934
025 シベリアの冷たい夏


+

 5ヵ年計画によってその国力を増しつつあったソ連は、シベリア ―― 沿海州周辺に於けるイニシアティブを日本やアメリカから回収する事を考える様になった。

 日本ソ連戦争の終戦協定で定められた賠償金相当額の採掘期間が終った訳では無かったが、ドイツの支援によって拡大しつつあるソ連の重工業が鉱物資源を自前で消費出来る様になってきたのが理由として大きかった。

 日本に対しソ連は、沿海州での特別採掘権と企業活動に於ける特別待遇の廃止、そして日本とアメリカとが採掘等の経済活動を円満に行う為に整備した設備や周辺インフラの所有権をソ連に無償供与する事を要請した。

 無法と言ってよいソ連の要請に対して、当然ながらも日本は拒否する。

 

 

――ソ連

 沿海州権益の回収交渉に於いてソ連が日本に対して強気で交渉に出られた理由は、日本の軍事力の混乱があった。

 連続した戦争によって日本は国力を消費し過ぎてしまったのではないかと、ソ連上層部は認識し判断したのだ。

 この判断には、上海事件以降に自衛隊や連邦軍の全てが再編成に入っており、演習などが不活性化している事も影響していた。

 そして、この数年で竣工予定の日本の35,000t級戦艦の存在が大きかった。

 現時点でもオホーツク海どころか日本海すらもソ連の海上優位性は失われつつあり、その状況下で新戦艦が登場されては日本へ抵抗する事は不可能となるとソ連海軍が報告を上げていた。

 ドイツより購入した通商破壊艦バローン・エヴァルトは前年に竣工し大きな戦力になる事が期待されては居たが、いまはソ連に回航されてきたばかりで錬成途上にあり、地球を半周してウラジオストクへ展開させるなど困難であった。

 だからこそ、ソ連は今と言う時を選んで日本との交渉に出たのだ。

 ソ連とて沿海州の権益の全てが日本から返ってくると想定している訳では無かった。

 それどころか、スターリンは日本が返還してくるのは極僅かであろうと思っていた。

 それ程に日本とソ連には国力の差があると認識していた。

 だからこそ、僅かでもソ連の失われた権益を回復すれば得点となるのだ。

 5ヵ年計画の躍進に、日本ソ連戦争敗戦の傷を少しでも癒す事で華を添える積りであった。

 

 

――日本

 ソ連からの突然の権益返還要求に日本の世論は激高した。

 日本ソ連戦争から5年以上が経過し、沿海州開発は日本とソ連が共に利益を得られており友好的な関係が築けていたと思っていた所であったのが大きかった。

 経済界でも、沿海州で安価に産出される資源が突然に途絶える事は許されざる暴挙であるとの認識が広がった。

 そして日本政府は、ソ連の行為を日本に対する挑戦と理解した。

 日本ソ連戦争から5年が経過し、国力を増してきたソ連が、拡張主義に走ったという認識である。

 史実のソ連の情報と行動とが日本の目を曇らせた。

 現在、上海事件の影響で自衛隊と連邦軍の再編成を行っている為、その隙を狙われたのだろうと言う分析もあった(※1)。

 故に、国家安全保障会議では、ソ連に対して力を誇示する事で戦争を抑止する事が採決される事となる。

 第1の対応として日本は、フロンティア共和国 ―― アメリカに対して満州にある大規模演習場を借りる事とした。

 今の陸上自衛隊の中で将兵の練度充足度共に極めて高い、日本国の切り札的存在である第7機甲師団と第2機械化師団の全てを満州の大地へ送り込み、ソ連の鼻先で大演習を行う事を決意したのだ。

 これを満州大演習として大々的に宣伝し、ソ連を含めた諸外国のマスコミに公開する事としたのだ。

 更には海上自衛隊においても就役したばかりの大型護衛艦(戦艦)やまとを含めた任務部隊を編成し、各連邦の海軍との合同演習を日本海(ウラジオストク沖)で実施する事とした。

 その演習の項目には、水陸機動団による着上陸作戦も含まれて居た。

 力には力を。

 これがソ連の恫喝(※2)に対する日本の回答であった。

 この他、沿海州で活動中の日本企業に対する警備も行う事とした。

 ソ連との協定にて自衛隊や警察の展開は禁止されている為、内閣府の外郭団体として国外情報局を設置し、その配下に武力行使組織 ―― 特機隊を創設したのだ。

 官営のPMSCであった。

 人員は外征専門部隊として新編された第101海兵旅団から抽出されるものとされた。

 第101海兵旅団と特機隊には、これまで企業が独自に用意していた自警組織を整理統合する役割を負う事となった為、外国籍(※3)の自衛官が生まれる事となる。

 この為、第101海兵旅団の隷下には、第101外人連隊が編制される事となった。

 

 

――ソ連

 日本が示した全面対峙の姿勢に慌てたのはソ連である。

 ソ連の意識として、日本に小さな妥協を求めた筈が、拒絶どころか威嚇されたのだ。

 スターリンが会議にて、日本を帝国主義的強欲の徒であると罵ったという記録が残されている。

 とは言え、ソ連側に出来る事など少なかった。

 機械化された師団を動員しての演習をシベリアで行う事としたが、動員できる師団は機械化といっても精々が自動車を装備した程度であり、それも師団全てを自動車に乗せるなど夢のまた夢といった有様なのだ。

 日本側に対抗したと言うには余りにも寒い懐事情であった。

 この為、ソ連は警察組織に対してシベリア全域での日本とアメリカの企業への嫌がらせを指示する。

 同時に、日本とアメリカの企業から便宜を受けている地元住民や企業に対する締め付けも指示した。

 せめてもの意趣返しであった。

 だがこの事が、シベリア全域でのソ連に対する支持の著しい低下を生む事となる。

 5ヵ年計画が始まって以来、増税や強制的な人員の供出 ―― 賦役じみた労働の強制などで痛めつけられていたシベリアの人民は、日本やアメリカの企業に協力し、その対価で生活してこれていたのだ。

 その事を理解しているソ連共産党の人間も居たが、スターリンの指示には逆らえる筈も無かった。

 シベリアに不和の種が蒔かれた。

 東で面子に傷を入れられたソ連は、その代償を西で求めて行く事となる。

 

 

 

 

 

(※1)

 日本ソ連戦争から上海事件と言う形で日本の領域の外側での自衛隊の実戦参加が続いていた。

 この事から日本は、自衛隊が今後も本土防衛だけでは無く外征する可能性が高いと判断した。

 陸上総隊の指揮下に外征専用の機械化旅団(第101海兵旅団)が新編される事となった。

 この事が自衛隊の組織に混乱を与える事となる。

 相次ぐ組織拡大と師団/旅団の増設は、既存部隊から人員を抽出して新設の部隊の基幹要員とした為、既存の部隊も人員不足が深刻化したのだ。

 タイムスリップによって混乱した日本国の経済は、今だ自律状態に戻っておらず働き口が少ない為に自衛隊への志願者は多かった。

 だが、その多すぎる志願者によって教育システムがパンクしてしまっていたのだ。

 新兵の教官も、新兵の訓練場所にも困っていたのだ。

 自衛隊の充足度は、額面では劇的に向上し、規模も拡大していたが、その内情は寒かった。

 連邦軍の錬成に関して、形になりつつあったが、それでも重装備の充足は十分では無く、機械化旅団と言っても、せいぜいがトラックしか配備されていない様な部隊が大多数であった。

 如何に日本の工業力と言えど、総兵力11個単位(5個師団6個旅団2個連隊)の装備を数年で揃えるのは困難であった。

 工場への投資と規模拡張も行われていたが、現在の所定数の製造が終わったら黒字倒産をしてしまう様な事とならぬ様に慎重に行われている為、全ての装備が揃うまでは、まだ数年の月日を必要としていた。

 

 

(※2)

 少なくとも日本は、ソ連による行為を恫喝であると認識していた。

 

 

(※3)

 各企業が現地採用した外国籍の人員で編成したり、或は満州(フロンティア共和国)で人員を集めた為、多種多様な国籍の人間が居た。

 

 

 

 

 

 




2019.05.17 文章修正
2022.10.18 構成修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

A.D.1935
026 政争と戦争の狭間


+

 1935年、欧州に於いて2つの大きな出来事があった。

 1つはイタリアのエチオピア侵攻である。

 もう1つはドイツのベルサイユ条約破棄、即ち再軍備宣言であった。

 

 

――イタリア

 アメリカに端を発した世界恐慌の余波はイタリアを揺さぶった。

 とは言え、致命的な打撃を受けた訳では無かった。

 不景気と言う世界の世相の空気を受けて、イタリア国民の意欲が萎縮してしまったのが原因であった。

 景気の良いG4諸国との貿易交渉 ―― 市場開放交渉を行ってはいたが、どの国からも好意的な反応は得られなかった。

 G4諸国は積極的な経済のブロック化を行っている訳では無かったが、態々イタリア経済を助けるべき理由も無かったのだ。

 G4諸国の市場開放への返礼が何も出来ないと言うのが大きかった。

 G4以外の国家、ソ連やドイツといった経済規模の大きな国家は、イタリア同様に世界恐慌の余波に揺られており、市場開放要求を呑む余地など無かった。

 国外市場が得られないのであれば、国内市場の活性化を図るしかない。

 イタリア政府も様々な経済政策を行ったが、景気を刺激し続けられる程に大規模なものを行う事が出来ないでいた。

 この為、ムッソリーニは景気刺激策としての最終手段を選択する。戦争である。

 併せてイタリア経済の贄、市場を欲した。

 即ちアフリカに残された独立国、エチオピア帝国に戦争を仕掛け、これを潰し、植民地へとしようと決断したのだ。

 

 

――国際連盟

 イタリアの決断に対し、国際連盟の安全保障理事会は民族自決の原則に大いにもとる行為であると激しく非難した。

 これに対してイタリアは、奴隷制度を有する非文明国家であるエチオピア帝国を滅ぼし、エチオピアの民を文明化する事は先進国の義務であると反論した。

 これにはエチオピア帝国も反論する。

 それはイタリアが先進国であると言う自負による傲慢である、と。

 そして、批判の多い奴隷制度に関しても改革する用意があると宣伝した。

 イタリアに国力で劣るエチオピア帝国は、戦争となれば亡国である事を自覚していた為、国際秩序を主導するG4諸国側にすりよる形で、必死になって宣伝戦を行った。

 その成果もあって、国際世論に於いてはエチオピア帝国を支持する声が大きかった。

 特に経済的に安定し不安の無い日常を送っているG4諸国の国民は、気分として正義 ―― 名誉を求めていた。

 その気分がG4諸国を動かす事となる。

 だがイタリアは揺るがなかった。

 ムッソリーニからすれば、エチオピア帝国の都合などどうでも良く、イタリアの都合が最優先であった。

 イタリアの為に、イタリアの経済を刺激する戦争を、生産力を都合よく消費出来る市場である植民地を欲したのだ。

 国際連盟の場で劣勢になろうと、国際世論の批判にさらされようと、ムッソリーニは断固たる決意でイタリアの為にエチオピア帝国に戦争を仕掛ける積りであった。

 その事を把握したG4は国際連盟安全保障理事会にて、国際連盟加盟諸国に対して戦争抑止行動を取る事の決議を行った。

 イタリアは舐めていた。

 G4が金にならない行為に軍隊を動かす事は無いと思っていた。

 だが、G4の国民は金では無く名誉の為に軍隊を動かす事を支持していた。

 ブリテンは即時、ブリテン地中海艦隊を動員して紅海を封鎖し、イタリア領ソマリランドなどへのイタリアのアクセスを不可能とした。

 フランスはアフリカに配置していた陸軍1個旅団をエチオピア帝国へと派遣した。

 日本も国家の意思を示すと言う目的で艦隊を紅海に派遣する事とした(※1)。

 

 

――ドイツ

 イタリアが生み出した国際社会の混乱、その最中にドイツはベルサイユ条約の破棄と再軍備の宣言を行った。

 建前としては、イタリアのエチオピア侵攻(植民地化)宣言の様に軍事力が無ければ諸外国に良い様にされてしまう事への対抗であった。

 常々、フランスやポーランドはドイツへの敵意を隠しておらず、その上で陸軍の増強を続けている。

 ドイツの陸軍は戦車も無く、無防備にも等しいにも関わらずである。

 この国際情勢の下、国家国民を守る為にドイツは責任ある行動を選択すると宣言したのだ。

 陸軍の増強、空軍の創設、その他、様々な政策を取り、ドイツを守るとの宣言であった。

 国際関係が一気に緊迫した。

 

 

――国際連盟

 最初に反応を出したのはフランスであった。

 ドイツの再軍備宣言の全文を把握すると共に、即座に宣言を出した。

 フランスはドイツの再軍備を断固として容認しない。

 即時、ドイツが再軍備宣言を取り下げない場合、ドイツに諸外国への侵略の意図があると判断し、フランスは先制攻撃 ―― 予防戦争を行う覚悟があると宣告したのだ。

 慌てたのはドイツだ。

 フランスがドイツに対して敵対的であったとは理解していたが、ここまで過激な宣告をしてくるとは想定外であった。

 又、フランスに合わせてポーランドも予備役の招集を行っているのも恐怖であった。

 再軍備を果たした後であれば、フランスにもポーランドにも負けない自信があったが、徒手空拳の今はまだ無理であった。

 ドイツと同じように慌てたのは、日本とブリテンであった。

 軍事力による国家間の問題解決は国際連盟で厳しく否定するものとされていた。

 イタリアのエチオピア侵攻が批判されるものと同じである。

 そしてイタリアによる軍事力の行使を批判する側のフランスが、ドイツに対して明確な原因や理由も無く将来の脅威に対応する為と言う理由で軍事力を行使してしまっては、国際連盟の権威も、国際関係の秩序も崩壊してしまうのだ。

 日本とブリテンは必死になってフランスを宥めた。

 だがフランスは頑なだった。

 かつて在日仏大使館経由で知った未来情報、フランスの亡国への怒りと恐怖に我を忘れているのだった。

 今ならばドイツは赤子の手をひねる様に潰せる。

 だが未来はどうか? そう思えばこそ、開戦の機は今しかないとの思いだった。

 国際秩序の為、必死に説得した日本とブリテン。

 数ヶ月に及んだ交渉の結果、何とかフランスの戦争へ向かって振り上げた拳を下させる事に成功した。

 その代償として日本とブリテンはフランスとの軍事同盟を締結し、それぞれ1個機甲旅団を下限とする戦力をフランスへと展開させる事となった。

 又、日本はそれまで渋っていたフランスからの31式戦車売却要請を受け入れる事となる(※2)。

 ドイツも、野放図な軍拡が出来ない様に、各種軍備の調達に関する枷 ―― バーミンガム条約(※3)を受け入れる事となる。

 

 

――イタリア

 イタリアはドイツの再軍備宣言に端を発した欧州の政治的混乱の間にアフリカへの戦力移動を図ったが、日本とブリテンによる海上封鎖は強固であり困難であった。

 最終的にイタリアは国際社会の圧力に折れる事となる。

 国際連盟の場に於いてイタリアはエチオピア帝国に対して奴隷制度の撤廃などを要求し、これが通った事をもって、対エチオピア帝国の文明化は成功したと宣言し、国内向けには一応の面子が保たれる形となった。

 だが、国際社会への、特にG4諸国への敵愾心は高まる事となり、再軍備に関する制限を受けた事で国際連盟への反発を深めたドイツへの接近に繋がっていく。

 

 

――フランス

 現時点での対ドイツ戦争を阻止されたが、念願の31式戦車を獲得出来た事や、ドイツの再軍備に関して一定の枷を付ける事が出来た為、概ね、現状に満足する事となった。

 但し、ドイツへの警戒心が鈍る事は無く、今まで以上にポーランドを筆頭とする中欧諸国へと接近を図り、対ドイツ戦争となった場合には挟撃出来る体制づくりを進める事となる。

 その代償という訳では無いが、エチオピア帝国の文明化に関する助言指導の義務を、国際連盟の監視下に於いて背負う事となった。

 エチオピア帝国経済へのアクセス権も同時に得られた為、フランスに対する飴的な要素も強かった。

 

 

 

 

 

(※1)

 就役したばかりのやまとを旗艦とした任務部隊を編制した。

 紅海を封鎖すると言う任務に戦艦(防空護衛艦)を投入する事は過大とも言えるが、海上自衛隊としてはこの際にやまと型の試験を行う積りであった。

 遠洋航海と任務が長期に亘った場合に問題が無いかとの。

 哨戒機を持ち込む為に空母(空母型護衛艦)ずいかくも持ち込んだ。

 その他、グアム共和国軍(在日米軍)が定期整備の終わったばかりの原子力空母ロナルド・レーガンを随伴させていた。

 その護衛として多機能護衛艦や哨戒艦が11隻、随伴していた。

 ブリテンの地中海艦隊と併せて、圧倒的な戦力となった。

 ある意味で日本に慣れていたG4を除く諸外国は、戦艦を軽々しく投入する日本に呆れ、そして原子力空母と空母型護衛艦の威容に恐怖した。

 

 

(※2)

 決定した31式戦車の売却であるが、陸上自衛隊/日本連邦軍向けとは異なるバージョンとなった。

 火力、装甲、機動性能その他に変化は無いのだが、31式戦車を含む令和日本の軍事装備に於ける重要なネットワーク戦能力が外されているのだ。

 改修の建前としては、フランス軍の通信システムへの参加の為であった。

 この為、フランスは気付く事は無かった。

 31式戦車が、ネットワークを介する事で個にして集団であり、集団にして個であるという恐ろしい存在から、只単純に強力な戦車へと成り下がった事に。

 こうして31式戦車はType-31Fとしてフランスに200両、売却される事となった。

 ドイツは再軍備宣言を取り下げずに済んだが、同時に40t級の超戦車を敵対国が大量に装備すると言う状況に恐怖する事となった。

 尚、Type-31Fの重整備に必要な工場は、イギリスに作ってある重機向け整備工場を拡張して対応するものとした。

 予備部品こそ大量に供給はするが、日本はフランスへのフリーハンドを与える積りは無かった。

 フランスが31式戦車を調達する事に成功した為、イギリスも売却要請を強めた。

 これに対して日本は、本国向けの製造に差しさわりが出る事を理由に拒否し、代価としてイギリスの30t級戦車開発計画に協力する事となった。

 

 

(※3)

 正式には「ドイツ再軍備に関する国際協調条約」と言う。

 交渉の舞台となったのがブリテンのバーミンガムで行われた為、この名前が付いた。

 

 

 

 

 

 




2019.05.18 文章修正
2022.10.18 構成修正
2023.08.30 文章修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

A.D.1936
027 東京軍縮会議


+
幸福は空から降ってくる物でも、誰かに与えられる物でもない
自分で作り出すものなのだ

――エミール=オーギュスト・シャルティエ    
 




+

 1935年に発生したエチオピア危機とドイツの再軍備宣言、バーミンガム条約の制定は、G4諸国に戦争への危機を感じさせた。

 現体制で利益を得ている4カ国は全くと言ってよいほどに戦争を望んでは居なかった(※1)。

 格下の国家を相手に出来た戦争の様なものでは無く、本当の先進国同士の戦争だ。

 イタリアを相手にしたエチオピア危機ではブリテンがスエズ運河を封鎖し、日本が戦艦と大型空母を持ち出すと言う破格の対応をしていた為、実際の戦争になる可能性は極めて低かったが、ドイツに関しては話は別であった。

 100個を超える師団と戦車を持つフランスに対しドイツは10個師団、戦車も保有してはいない。

 だが実際の戦争となれば、徴兵し瞬く間に大規模な軍隊を作り上げるだろう。

 ドイツにそれだけの力がある事はフランスとて認めていた。

 認めていたからこそフランスは電撃的な先制攻撃でドイツから勝利を得ようとしていたのだ。

 だがバーミンガム条約でその条件は消えた。

 バーミンガム条約によってドイツは、合法的に新しく60個の師団を編制する自由を得た。

 戦車の調達も可能になった。

 フランスに比べれば規模は劣るが、近代的な軍隊を構築する権利を得たのだ。

 代償としてフランスは強力無比な未来の戦車であるType-31Fを200両調達する権利を得たが、ドイツの再軍備を認めた事と等価であるかと言えば疑問である ―― そうフランスの世論は判断していた。

 そして分裂していた。

 対ドイツ同盟をポーランドと締結しドイツを挟撃すべきとの意見が主流ではあったが、まだ世界大戦の記憶が遠くないが為、フランス国内でもドイツを懐柔し平和の道を模索すべきであるとの意見が一定の支持を集めていた。

 このフランスの穏健派にブリテンが乗った。

 日の沈まぬと豪語する世界帝国を経営するブリテンであったが、昨今ではその世界中の植民地で独立要求運動が活発化しつつあったのだ。

 武力蜂起する様であれば鎮圧すれば良いだけだが、どの植民地も判で押したかの様に非暴力不服従の運動であったのだ(※2)。

 ブリテンは正直、頭を抱えていた。

 世界帝国の内側で混乱している状況で外側で戦争などが起こされては迷惑千万なのだ。

 故にその政治力を存分に発揮する事となる。

 G4の残る2ヵ国に関しては簡単だった。

 日本もアメリカも戦争を欲しては居なかった。

 共に新しく得た領土の経営にのめり込んでおり、それを邪魔する存在 ―― 戦争を唾棄すべきと認識していたのだから。

 日本はソ連と、アメリカはチャイナと小さな紛争を繰り返しては居たが、大規模な戦争を、国家総力戦を行いたいとは露も思っていなかった。

 G4の他に召集されたのは3ヵ国であった。

 列強、国家総力戦が可能な国家。

 ドイツ、イタリア、ソ連だ。

 ブリテンの提案にそれぞれの国家は、それぞれの理由で参加を決断した。

 再軍備に掛かる時間を稼ぐために参加するドイツ。

 世界の頂点の一角であると言う政治的な宣伝効果を狙ったイタリア。

 国内をまとめ上げる為に行う粛清の口実を探していたソ連。

 7つの国家が、会議の場所である東京に集まった(※4)。

 

 

――東京軍縮会議

 その基本は現在保有する軍事力を元にして、これ以上の大規模な建艦競争を抑制する事が狙いであった。

 最初に提唱された主力艦(※3)の保有比率はブリテン:アメリカ:日本:フランス:イタリア:ドイツ:ソ連の7カ国で5:5:5:1.67:1.67:1:1となった。

 

      保有比率  保有総t数

ブリテン   5     63.5万t

アメリカ   5     63.5万t

日本     5     63.5万t

フランス   1.9     33.5万t

イタリア   1.9     33.5万t

ドイツ    1.5    19.0万t

ソ連     1.5    19.0万t

 

 1艦あたりの基準排水量は、戦艦は最大で35,000t。空母は最大で30,000tとされた。

 但しこれは日本の保有する空母型艦の排水量が余りにも超過している事から、既存の艦艇に関しては1艦あたりの基準排水量は問わないものとされた。

 基準排水量に関しては、艦齢20年を超えた主力艦の代艦規定に関するものとされた。

 余りにも日本に甘い方針であると、日本の脅威を常に感じていたソ連は激高する事となる。

 だが新興の海軍を持つソ連とドイツに対しては甘い飴も用意されていた。

 対ブリテン比率3割、19万tの主力艦保有である。

 ブリテンは会議に於いてドイツとソ連に対して19万tの合計排水量と、1艦あたりの基準排水量の代艦規定を守りさえすれば新規艦の建造を認める方針を示したのだ。

 これにはフランスが激高した。

 ドイツに新しい戦艦保有枠を与えるなど許しがたい暴挙であると声高に会議にて主張する事となる。

 慌てたのはブリテンである。

 まさかのG4の身内から反逆者が出るのは想定外であったからだ。

 又、ソ連も自国の保有枠の少なさに不満を表明する。

 ヨーロッパ方面とアジア方面の2つに艦隊を分ける必要性がある国情であるにも関わらず、日本やブリテンの半分以下の枠であっては自国を護り抜けないというのが彼らの主張であった。

 この2つの問題で東京軍縮会議は紛糾する事となる。

 

 

――個別交渉・フランス

 ドイツの再軍備を認めるバーミンガム条約を締結した際に、フランスはブリテンと日本との間で安全保障条約を締結しており、ドイツが戦争を決意した場合でも数的な不利が発生する余地など無かった。

 フランスのドイツの新規戦艦保有に対する反発は感情的なものであった。

 そして内政、フランス国内世論へのポーズであった。

 故にブリテンと日本とフランスで行われた個別交渉自体は比較的平穏であった。

 フランスが求めたのは保証であった。

 それを日本に求めた。

 日本のフランスに常時の艦隊派遣である。

 これには日本が猛烈に反発した。

 哨戒艦や多機能護衛艦の1隻程度であれば、外洋航海訓練の一環として派遣する事もやぶさかではないが、フランス国民を安堵させる規模となれば空母クラスの護衛艦を含めた任務部隊を派遣せざる得なくなる。

 それは流石に負担が大きすぎた。

 日本はバーミンガム条約締結の時点で人質同然に1個機甲旅団のフランス派遣を行う事に同意しているのだ、それ以上を求めるのは傲慢であると憤怒した。

 慌てたのはブリテンである。

 東京軍縮会議とは逆に、日本が本気で不満を表明したのだ。

 在日英国大使館から日本がキレた場合の危険性というものを切々と説明されていたブリテンは恐怖した。

 慌てて日本を全力で宥めた。

 最終的には、日本に対して長期航海訓練で定期的にヨーロッパを訪れて貰い、その際にフランスに寄港し、ブリテン海軍と併せて3ヵ国でフランス防衛海洋演習を行う事で決着がつく事となる(※5)。

 

 

――個別交渉・ソ連

 ソ連とブリテンの交渉は難航する事となる。

 ソ連が求めたのは単純に保有枠の拡大であり、拡大を求める理由はある意味で正当であったからだ。

 対ブリテン比率で5割の保有枠だ。

 それだけあればヨーロッパ方面でもアジア方面でも一定の抑止力になるという計算だった(※6)。

 だが主催国であるブリテンとしてそれを認める訳にはいかなかった。

 認めた場合、ドイツもイタリアも、フランスすらも保有枠の拡大を言い出し紛糾し、東京軍縮会議が流会するのは目に見えていたからだ。

 交渉は1ヶ月に及んだ。

 最終的に、ソ連が折れる形で決着する。

 但し、東京軍縮会議の保有枠を全面的に受け入れる対価も用意された。

 通商破壊艦バローン・エヴァルトだ。

 当初は20,000tという大型艦で主砲も28㎝砲を持つ事から主力艦の保有枠に入れる予定であったが、巡洋艦枠の例外規定として保有する事となったのだ。

 事実上の保有枠の積み増しであったが、各国から反対の声は上がらなかった。

 

 

――締結

 3ヶ月近い交渉の結果、成立する事となった東京軍縮会議。

 だが最後にドイツが想定外の発言をする。

 陸上戦力と航空戦力の制限の提案である。

 ドイツの安全の為、周辺諸国の軍備に枷をはめたかったのだ。

 だが提案したその場で残る6ヵ国全てが反対した為、議題とされる事は無かった(※7)。

 

 

 

 

 

(※1)

 フランスがドイツとの戦争を想定し準備しているのも、今の繁栄を失うまいとする行為であった。

 防御の為の攻撃であった。

 豊かになったG4諸国は、戦費も含めて、戦争で得るものよりも失うものの多い国家へとなっていた。

 

 

(※2)

 この裏にはそれぞれの植民地の未来 ―― 在日大使館が居た。

 背負うべき国家を無くした在日大使館であったが、彼らは折れては居なかった。

 その大多数が国家の選りすぐりのエリートであった彼らは、祖国が国家で無ければ自分たちの手で国家を起させれば良いと開き直っていたのだ。

 主導したのは在日印度大使館だった。

 21世紀の大国の一角であった矜持を胸に、彼らは在日大使館同士での連携を作り上げ、連帯した対ブリテン独立運動組織を築き上げていた。

 

 

(※3)

 日本の保有艦艇が戦艦よりも空母が多い為、主力艦とは戦艦と空母を併せて数えるものとされた。

 

 

(※4)

 会議開催を提唱したのがブリテンであったが開催の場所が日本とされたのは、参加を渋るであろうドイツやソ連に対する餌であった。

 G4やその周辺国と比べて日本の情報を殆ど持たない2カ国であれば、合法的に日本に入国して情報を得られる機会があれば、嬉々として参加してくるだろうとのブリテンの読みであった。

 実際、予備交渉の段階で渋っていたドイツとソ連であったが、両国とも本会議の開催地が日本と知って即答で参加を表明した。

 ブリテンにすれば、参加さえさせれば後は交渉で枷をはめる事は可能と判断していた。

 

 

(※5)

 尚、演習の際に消費する燃料や食料に関してはブリテン持ちとされた。

 

 

(※6)

 ヨーロッパ方面で保有枠の半分、約16万tあればフランスやドイツなどと戦闘をする場合にも優位には立てなくとも絶望的なまでの劣勢にはならぬだろうとの計算であった。

 ブリテンとの戦争を考えても、ブリテン本土艦隊には限定的には対抗可能であった。

 アジア方面で主要な敵対国である日本は戦艦を2隻しか保有していない。

 その上でブリテンやアメリカのアジア艦隊を含めても、約16万tの艦隊があれば大丈夫だと計算していた。

 

 

(※7)

 各国はドイツの主張をジョークであると笑っていた。

 ブリテンが必死になってソ連と交渉している間、東京見物を行い物見遊山をしていた各国代表には精神的な余裕があった。

 無かったのはブリテンである。

 交渉に疲弊しながらまとめ上げた東京軍縮条約にケリを入れるが如きドイツの行為に本気でキレた。

 その怒りは、ドイツの提案に対するブリテン代表の最初の言葉に表れていた。

 

「ドイツは戦争を望むか? 容赦の無い戦争を望むのか? であれば我が国は全力で饗宴する用意がある」

 

 ブリテンらしからぬ直接的な表現に、ブリテンの怒りの深さが表れていた。

 この怒りと疲弊とを癒す為、ブリテンの代表団は東京軍縮条約締結後、会議の最終的な調整と称して2週間ほど日本の温泉観光地に逗留して帰国した。

 

 

 

 

 

 




2019.05.21 表現修正
2019.06.12 構成修正
2022.10.18 構成修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

028 シベリア独立戦争-01

+

 東京軍縮会議の終結と共に、ソ連は政治の季節となった。

 ソ連に於ける政治の季節とは、粛清という血なまぐさい風を伴っていた。

 スターリンが粛清に踏み切った事に何かの大きな原因が在った訳では無い。

 強いてあげるならば日本ソ連戦争から積もって来たソ連赤軍へのスターリンの不信と、5ヵ年計画の邪魔をするが如く動くレーニン時代からの党重役たち非スターリン派へのスターリンの不満が原因であると言えるだろう。

 同時に、ソ連大衆への締め付けでもあった。

 非革命的という言葉で赤軍と共産党を掌握し粛清する事で、スターリン体制の鋼の如き完成を狙ったのだった。

 赤軍将校から共産党役員、一般の人間すら非革命的であるとして処断されていった。

 

 

――バローン・エヴァルトの反乱

 大粛清の始まる前にウラジオストクへと回航された通商破壊艦バローン・エヴァルトであったが、大粛清の影響で物流が滞った為に、明日の食事にすら事欠く状態に陥っていた。

 ヨーロッパ方面からアジアへの大航海こそ乗り切れはしたが乗組員たちは疲弊し、船体のメンテナンスすら滞っていた。

 士気の低下を危ぶんだ政治将校が景気づけに艦名をバローン・エヴァルト(エヴァルト男爵号)からアドミラル・エヴァルト(エヴァルト提督号)へ変える事を提案し実行したのだが、物資不足から艦尾の艦名を書き換える事すら出来ない有様であった。

 艦長や政治将校はこの状況を打破する為、様々な手段を講じた。

 窮状を赤軍上層部へ訴え、共産党に党を介して沿海州からの支援を願った。

 その事が共産党上層部の怒りを買った。

 非革命的であるとアドミラル・エヴァルトの艦長と艦付きの政治将校が捕えられたのだ。

 その暴挙に、艦と艦の乗組員の為に走り回っていた2人の事を知っていたアドミラル・エヴァルトの水兵たちは大いに怒った。

 怒った上で、飢餓で死ぬ位なら2人を取り戻し、戦って死のうと決意したのだ。

 下士官に率いられた水兵たちは、武器を手に2人が囚われていた共産党支部へと殴り込みをかけ、2人の救出に成功した。

 部下の起こした、正に反乱としか言いようのない所業に、艦長は腹を決めた。

 自分はどうなっても良いので部下たちを生き残らせようと政治将校と話し合った。

 結果としてアドミラル・エヴァルトは28㎝砲でウラジオストクの共産党支部を脅して燃料を強奪するや否や出港し、一路東を目指した。

 日本の排他的経済水域に入ると、海上自衛隊の哨戒艦がアドミラル・エヴァルトに立ち塞がった。

 空には非常時に備えて哨戒機が爆装して飛んでいた。

 緊張の時間。

 アドミラル・エヴァルトの艦首と艦橋で水兵が白旗を振った。

 生き残る為、亡命を選択したのだ。

 亡命先は日本連邦のロシア人国家であるオホーツク共和国であった。

 

 

――赤軍粛清

 歴史に類を見ない、20,000t級の大型艦の亡命騒動にソ連は揺れた。

 現時点でソ連海軍最大の戦闘艦であり象徴でもあったアドミラル・エヴァルトで反乱が発生し、亡命したのだから当然だろう。

 当然ながらもスターリンは大激怒した。

 アドミラル・エヴァルトに対しては、事の原因が赤軍と共産党の不作為でありサボタージュであった為、即時の帰国と恭順を行えば罪に問わぬ事を宣伝し、温情を見せた。

 だが赤軍と共産党、そしてシベリアの指導部に関してスターリンは激しく追及した。

 特にソ連海軍は東京軍縮会議で妥協した事を激しく追及されていた所であった為(※1)、将官級の上層部は軒並み処刑され、続いて上級将校も粛清の対象となっていった。

 こうなると慌てるのが人間である。

 アドミラル・エヴァルトの事件は海軍の引き起こした問題であったが、既に陸軍も粛清の対象となっており、最上級者である元帥までも処分されていた。

 ソ連赤軍は、祖国への忠誠と粛清への恐怖に揺れる事となる。

 その心情に救いとなる存在があった。

 ソ連と並ぶロシア人によるロシア人の為のロシア人の国家、オホーツク共和国である。

 ロシア人を2度に渡って打ち破った、宿敵と言える日本人の国家である日本連邦に属しては居るが、ロシア人の自治は赦されている。

 ソ連赤軍の上級将校は様々な手管を使って家族を連れてシベリアへ渡り、日本企業(日本政府)を介してオホーツク共和国へと渡った。

 これにスターリンは激怒した。

 祖国への忠誠心を持たぬ人間は生きる価値は無いとまで言い切り、特別許可を持たぬソ連赤軍将校が家族と共にシベリアに居る場合、裁判なしに即座に射殺できる権利を粛清部隊に与える始末であった。

 

 

――シベリア

 スターリンの粛清部隊と共に、その手足となる赤軍部隊もシベリアに大規模に配置された。

 国境線や、日本やアメリカの企業の活動領域を封鎖し亡命を許さぬのがスターリンの指示であった。

 だが、ただでさえ疲弊していたシベリア経済は、この負担に耐えかねる事となった。

 農村では食料の徴発が行われ、都市部では生活物資が徴発された。

 抵抗する者はソ連の革命精神に反する者として処罰された。

 粛清部隊に反抗した者は射殺すらされた。

 この状況にシベリアは耐えた。

 ロシア人としての忍耐強さが状況を受け入れさせた。

 だがそれも、ある農村で粛清部隊が種籾すら食料として徴発するまでであった。

 明日どころか今日までも生きれないとなったシベリアのロシア人は激発した。

 革命を叫んだ。

 暴君を許すなと怒りの声を上げた。

 

 

――シベリア独立戦争

 最初は、革命を叫んではいても暴動でしか無かった。

 それを革命と言う形へと変えたのは、シベリアの各地へ家族を連れて潜伏していたソ連赤軍の上級将校たちであった。

 彼らは、自分たちがオホーツク共和国へ穏便に渡る事は不可能となっている事を自覚していた。

 シベリアに居る事すら自殺行為であると理解していた。

 それでも尚、一縷の望みをもって家族と共にシベリアに居たのだ。

 そんな上級将校たちであったが故に、生きる為に立ち上がったシベリアの住民を見捨てる事が出来なかった。

 上級将校たちは次々とシベリアの革命軍に参加した。

 その檄に、シベリアに駐留していたソ連赤軍も呼応した。

 シベリアの独立戦争が始まった。

 

 

 

 

 

(※1)

 東京軍縮会議での条約締結に向けた妥協を、スターリンはソ連海軍の独断専行であると断じ、処分を行っていた。

 これは条約締結後であっても条約を守らない為の、合法的に条約から離脱する為の行為であった。

 スターリンは50,000t級戦艦を諦めてはいなかった。

 その上で日本を見て、建造をしてしまえば列強も文句は言わぬだろうと見ていたのだ。

 ソ連海軍が勝手な判断で条約を締結したが、ソ連国内では予定通りに建造を行った。

 条約を違反したのはソ連海軍の上層部であり処罰済みであるとする予定だった。

 

 

 

 

 

 




2019.05.20 文章修正
2019.06.12 構成修正
2022.10.18 構成修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

029 シベリア独立戦争-02

+

 シベリア独立戦争。

 後にそう呼ばれる戦争は、その響き程に確たる戦闘が続いた訳では無かった。

 特に、アドミラル・エヴァルトの亡命事件から数ヶ月の間は、散発的な銃撃戦が起きる程度であった。

 これは、シベリアの状況が原因であった。

 シベリアのインフラは日本ソ連戦争の被害から立ち直れていなかった為、如何にソ連赤軍が大規模な軍隊を送って鎮圧しようと計画しても、それを実行し得る余力が無かったのだ。

 その上で5ヵ年計画による収奪が、シベリアの大地から軍隊を養うだけの力を奪っていた。

 兵員を輸送するにも時間が掛かり、その上、軍隊として活動する為に必要な食料物資その他も後方 ―― ソ連西方域から持ち込まねばならぬのだ。

 如何にスターリンが脅し、或は発破を掛けようとも、ソ連赤軍の動きが遅々たるものとなるのも当然であった。

 対して独立運動側も、元ソ連赤軍シベリア駐留部隊も含めて、多くの人々が生きるか死ぬかの所にあり、能動的な行動は行えずにいた。

 

 

――交渉・日本/ソ連

 日本とソ連の交渉は、シベリアの独立戦争の発端となったアドミラル・エヴァルトに関する事であった。

 ソ連の国家資産である同艦の即時引き渡し要求であった。

 艦長と政治将校に関しては犯罪者としての引き渡しを要求していた。

 日本としては艦長と政治将校、そして乗組員に関しては事情聴取後にオホーツク共和国への亡命を認める予定であった為、犯罪者としての引き渡し要請に関しては人道的な配慮から拒否する旨、最初に宣言した。

 問題はアドミラル・エヴァルトである。

 同艦をソ連へと返却する義理も義務も日本には無いのだが、同時に沿海州での権益と言う問題があった。

 ソ連の外交代表は必死だった。

 もしアドミラル・エヴァルトの返却が成されない場合、沿海州で行っている日本ソ連戦争終戦条約の賠償協定に基づく経済活動を排除せざるを得なくなると通告した。

 日本とソ連の間での信義が失われたと判断せざるを得ないからであるとソ連外交代表は言い切った。

 これには日本も憤慨した。

 高圧的なソ連の姿勢を糾弾し、条約内容を遵守しないのであれば条約成立前の状態 ―― 戦争状態へと戻らざるを得ないと反論する。

 紛糾する会議。

 そこに齎されたシベリアでの武装蜂起の一報に、互いに相手がやったのだと確信した(※1)。

 取りあえず、交渉は事態が落ち着くまで一時閉会となった。

 この時点で日本もソ連も、シベリアでの蜂起が長期間に渡る事は無いと判断していた。

 

 

――沿海州対応・日本/アメリカ

 シベリア独立戦争終結後の流れを知るものからすれば意外な話であったが、この戦争に日本は当初から関与していた訳では無かった。

 想定外であった。

 日本連邦への圧力の軽減を狙い、ソ連の国力を低下する様には活動してはいたが、シベリア全土で独立運動が勃発する様な事は想定していなかった。

 故に日本は、日本の管理下で沿海州を中心にシベリアに進出しているアメリカ企業と事態の把握と対策を練る為に開催されたアメリカの外交代表との会議の場で、開口一番にアメリカの陰謀を疑う事を発言したのだ。

 尋ねられたアメリカ外交代表は、唖然とした表情で日本の策謀では無いのかと問い返していた。

 日本とアメリカの仲介役として居たグアム共和国(在日米軍)代表は、この短い応酬にて事態を把握すると「何て事だ(ホーリー・シット)」と天を仰いでいた。

 だが状況を把握してからの決断は早かった。

 国境線に戦力と物資を集積させ、可能であれば干渉する ―― ソ連からシベリアを分離独立させ緩衝国家の建国を目指すとした。

 可能であれば、という曖昧な表現を用いた理由は、世界大戦後の干渉戦争の影響であった。

 軍事力を持って侵攻し土地を掌握したとしても、民心まで把握できなければパルチザンによる抵抗運動が発生し、統治は不可能になる、なったという戦訓である。

 しかも、住民から外敵であると認識された場合、対立する独立運動派とソ連赤軍とを怨讐を越えて団結させてしまう可能性だってある。

 最終的には軍事費を浪費しただけで、投資した沿海州の権益をすべて失い撤退する羽目になりかねない。

 この点に於いて日本とアメリカの認識は一致していた。

 

 

――日本・オホーツク共和国

 日本政府はオホーツク共和国から、シベリアの独立戦争への干渉を要求されていた。

 正確に表現するならば、生活物資や食料を奪われ塗炭の苦しみを受けているシベリア住民の保護だ。

 同じロシア人(ロシア系日本人)として何とかしてやりたいという気持ちであった。

 アドミラル・エヴァルトの艦長たちからの事情聴取によって、ソ連の内情を知ったオホーツク共和国は義憤に駆られていたのだ。

 内情は、マスコミが面白おかしく編集した上で新聞やネットで公開していた。

 余りにも脚色の強い部分には日本政府やオホーツク共和国政府から指導が入ったが、基本的に情報統制を是としない方針の下で情報は公開され続けた。

 この為、気の短いオホーツク共和国住民などは武器を手に、漢気あるロシア人であれば義勇軍を組織してシベリアに渡ろう! 等と街路で呼びかける程であった。

 そこまで行かない者たちも、シベリアの国は違えども同胞たる人々の為に義援金や義援物資の提供を行う様になっていった。

 又、この動きはオホーツク共和国以外でも日本やその他の邦国にも広がって行った。

 善意、それは日本と日本連邦の豊かさがもたらしたものであった。

 タイムスリップから国土の拡大、そして戦争と言った立て続けの難題によって日本の経済は混乱から脱する事は出来ずにいたが、それでも2020年代の科学力と経済力とを持つ日本である。

 その日本に統制された日本連邦は世界でも随一と言って良い豊かさがあった。

 衣食住に於いて絶望する様な不足など無い生活があった。

 故に、隣人の不幸に敏感となっていたのだ。

 民主主義国家である日本は民意に逆らう事は出来ない。

 この為、ソ連との関係を極度に悪化させない範囲での人道的な干渉の道を探る事となる(※2)。

 

 

――ソ連・義勇軍

 日本との交渉の席で、日本がシベリアの蜂起の裏側に居ると確信したソ連は恐怖した(※3)。

 何とかして日本が本格的に侵略をしてくる前にシベリアの反乱を鎮圧しようと決断した。

 だがその為には自動車や戦車が不足していた。

 日本ソ連戦争で鉄道を代表とするシベリアの交通インフラは完膚なきまでに破壊され、そして未だに十分に回復していないのだ。

 であれば部隊を展開させる為には馬車や自動車が必須であった。

 だが、馬車は兎も角、自動車は不足していた。

 又、人に対する威圧効果が高い戦車も不足していた。

 この窮状に救いの手を伸ばしたのはドイツとイタリアであった。

 両国とも戦車や自動車の売却を提案したのだ。

 それだけではなく義勇兵の派遣、戦闘機や爆撃機のパイロットをその機材ごと派遣する事を提案していた。

 無論、善意では無く開発したばかりの装備を実戦で試験をしたいと言う思いがあった。

 又、31式戦車の登場で一気に陳腐化してしまった戦車などの処分の為に売りつけたという側面もあった。

 その事をソ連も理解していた。

 足元を見られている事にスターリンは怒りすら感じていた。

 だが同時に、窮状に於いて助けの手が伸ばされた事を感謝していた。

 これがドイツ、イタリア、ソ連による事実上の3国同盟の発足であった。

 

 

 

 

 

(※1)

 日本からすれば、ソ連への反感が溜まっていたシベリアを意図的に暴発させる事で武力鎮圧の口実を作ったのだと考えていた。

 ソ連からすれば、日本が沿海州のみならずシベリア全土を侵略する為に策謀したのだと思えていた。

 

 

(※2)

 人道的な干渉を主とするが、同時に、武装難民対策として日本政府は日本連邦統合軍に対し初めて実戦的な命令 ―― 部隊の動員を含めた戦争準備を発するのだった。

 日本とソ連の国境線に3個師団(第17師団 第201師団 第601師団)を基幹とする日本連邦統合軍第1軍団が編制された。

 オホーツク共和国では旧ロシア軍人やソ連軍人が大挙して義侠心を持って共和国軍の門を叩いたため、臨時として第603師団(自動化)が少ない国防予算をやりくりして編制された。

 又、シベリアでの作戦行動を前提とした航空部隊が新しく編制された。

 航空自衛隊やオホーツク共和国軍などから集めたパイロットと新鋭の戦闘機、後に自由の守護者(フリーダム・ファイター)の名で知られるF-5戦闘機で編成された第10航空団であった。

 3個飛行隊を基幹とした第10航空団は、シベリア各地を転戦する事を前提として輸送機や連絡機、果ては重編制の地上警備部隊(連隊規模)が指揮下にあった。

 又、第10航空団の運用を支援する為、朝鮮半島の防空指揮所が強化される事となった。

 

 

(※3)

 全くの杞憂であったのだが、猜疑心の強いスターリンにとって疑惑は事実と同一の存在であった。

 日本を滅ぼすべし。

 そう凝り固まっていく事となる。

 

 

 

 

 

 




2019.05.21 文章修正
2019.06.12 構成修正
2019.06.16 表現変更
2022.10.18 構成修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

030 シベリア独立戦争-03

+

 シベリアの混乱に対応する為、日本はシベリア各地に派遣している特機隊(※1)の増強と、物資の集積を行った。

 日本とアメリカの企業を保護する為である。

 アメリカ企業も独自に傭兵を雇うなどして自衛はしていたが、建前として日本の管理下 ―― 日本ソ連戦争の停戦条約で日本の得たシベリア資源の採掘権で企業活動を行っている為(※2)、保護する義務があるのだ。

 又、ソ連政府にも独立運動派に対しても人道的対応以外での中立を宣言した。

 ソ連側も、この判断は好意的に受け取っていた。

 日本とソ連は甘く見ていた。

 食料も生活物資も枯渇しつつある場所で、それを豊富に有しているという意味を。

 

 

――沿海州人道事件

 散発的な戦闘であっても軍隊が動けば資源を消費する。

 特に食料の消費は止める事の出来ないものである。

 その為、ソ連赤軍は反乱に参加していた村に駐屯しては食料や生活物資を消費し続けていた。

 この状況に根を上げたある村が、人道的活動として村に訪れていた赤十字の医療スタッフに対して何を差し出しても良いから子供の分の食料を融通して欲しいと泣きついたのだ。

 赤十字のスタッフは、その悲痛極まりない願いに応えた。

 近くのアメリカ企業が採掘を行っている鉱山へ訪れ、食料の提供を要請したのだ。

 やせ細ったロシア人の子どもたちを見たアメリカ企業は人としての善性を発揮し、快く備蓄に余裕のある食料や生活物資を義援品として提供した。

 又、有志が私物の物資をカンパとして供出もした。

 ここまでは善意と美談の物語である。

 問題は、この物語の舞台となった村に駐屯したソ連軍部隊の人品が余りにも卑しかったという事である。

 ソ連軍は、村に戻って来た赤十字スタッフと村人に銃を突きつけて、シベリア独立派と何らかの連携をしていないかの検査を行った。

 その際に発見したのだ。

 気の良いアメリカ人が供出した物資の中にある、アルコールを。

 アルコールをソ連軍将校は、危険物資の可能性があると難癖を付けて徴発した。

 徴発したアルコールはそう多い量では無かった為、将校だけで共有される事となる。

 それに満足出来なかったのが下士官であり兵士だった。

 食事も満足に得られない寒村で不満が溜まっていた所に、僅かばかり手に入ったアルコールを将校たちが独占したのだ。

 不満しか無かった。

 だからこそ、ソ連軍下士官は一計を案じた。

 ある場所が判っているのだから、徴発してしまおうと。

 下士官に乗せられた調子の良い将校が、歩兵の1個分隊を率いてアメリカ企業を訪問した。

 題目は、シベリア独立派を匿っていないかとの監査であった。

 アメリカ企業はそれに応じた。

 アメリカ企業の施設内に入ったソ連軍は手当たり次第にアルコールを探した。

 そして備蓄してあった食料を徴発しようとした。

 それに、アメリカ人がキレた。

 ソ連軍の行動は横暴であり、法的根拠は無いと非難した。

 監査役として居た日本政府の役人も、それを支えた。

 日本ソ連戦争の終戦協定には、ソ連領内で活動する場合に徴発などの要求を受け入れる必要は無いとの事を告げた。

 アルコールも生活物資も食料も供出しないと宣言した。

 その事に将校はキレた。

 有り体に言えば目の前のアルコールを取り返そうとされた事に暴発した。

 拳銃を抜いて脅した。

 供出しないのであれば、貴様らを反革命分子として処分すると叫んだ。

 それをアメリカ人が嗤った。

 我々はソ連人では無く、共産党は関係ないと啖呵を切った。

 その事が最後の引き金となった。

 歩兵小隊を率いて来た将校は、共産党への忠誠心だけでソ連軍の中で生き残って来た男だった。

 故に、己のアイデンティティを否定されたと感じたのだ。

 将校は発砲し、部下に殺せと命令した。

 そこから戦闘になった。

 アメリカ企業とて無防備では無く、企業の雇っていた傭兵と日本の特機隊が少数とは言え駐屯していた。

 激しい戦闘は双方に少なからぬ死傷者を出し、アメリカ企業が辛くもソ連軍分隊を撃退する事に成功した。

 だが、それで終わる筈も無かった。

 生き残った将校は村に戻るや否や、上官にアメリカ企業がシベリア独立派と連携していると報告したのだ。

 ソ連軍指揮官は色めき立った。

 シベリア独立派を叩くと言う功績を挙げ、外敵を追い払うチャンスであると認識したのだ。

 再度、アメリカ企業の施設を襲撃するソ連軍。

 だが日本側も黙って待っていた訳では無かった。

 状況を報告し、近隣の特機隊駐屯地から増援を受け入れていた。

 当初は施設を引き払って避難する予定でもあったのだが、施設に居た作業員が100人を超えていた為、直ぐに動かせるヘリが中型2機しか無い状況では簡単に避難する事が出来なかったのだ。

 他の避難手段、車は最初の戦闘で破損してしまっていた。

 歩いての避難は厳しいシベリアの環境下で一般の人間に出来る筈も無かった。

 

 

――会談・日本/アメリカ/ソ連

 ソ連軍のアメリカ企業襲撃事件は即日、日本政府へと伝わって震撼させた。

 矢張りシベリア独立運動とはソ連の仕込みであると、沿海州及びシベリアから日本とアメリカを追い払う為の謀略であると判断させたのだ。

 事件の報告は即時、アメリカ政府にも行った。

 アメリカは激怒した。

 謀略以前に舐められたと認識したのだ。

 日本とアメリカは連名でソ連の代表を呼びつけた。

 だが呼び出しを受けたソ連代表も激怒していた。

 此方は現地部隊からの報告、アメリカ企業がシベリア独立派を支援していたとの虚報を信じ切っていたのだ。

 矢張り日本とアメリカはシベリアを切り取る積りであったかと判断していたのだ。

 会談は最初から罵り合い染みた形で行われた。

 アメリカとソ連は、非難の応酬に終始したのだ。

 日本が提供した報告書を、ソ連は頭から否定した。

 ソ連が提供した報告書を、アメリカは鼻で笑った。

 丸一日掛けて行われた、何の成果も生み出さない会談であった。

 会談の最後に日本とアメリカは自衛措置を講じる事を宣告した。

 ソ連も、国を護る為の行為を行う事を宣告した。

 事実上の宣戦布告が交わされた瞬間であった。

 そしてこれが、本格的なシベリア独立戦争の始まりとなった。

 

 

――シベリア独立戦争・日本/アメリカ(D-Day)

 日本政府はソ連との会談の破綻を持って、国民に対して情報を公開する。

 その上で、日本国の責任としてソ連沿海州に駐留する日本人とアメリカ人の生命と財産の保護を目的とした全ての行動を行使すると宣言した。

 この事に野党は、自衛隊と邦国軍が日本連邦の領域外で活動するのは憲法第9条に於ける戦争の放棄 ―― 国際紛争の解決の為に武力を行使する事に繋がると批判したが、日本政府は否定した。

 紛争を解決する為に自衛隊と軍を動かすのではなく、あくまでも日本人とアメリカ人の保護が目的である為、憲法第9条の精神に抵触しないと反論した。

 この日本政府の姿勢を日本国民は支持した。

 タイムスリップ前の韓国との紛争に始まって、タイムスリップ後の日本ソ連戦争や上海事件を経験した日本の有権者はガチガチのリアリストになっていた。

 憲法第9条の精神とは別に、積極的平和主義に基づく自衛は大切であると認識していたのだ。

 この認識を反映する形で日本の政治的勢力に於いて護憲派は極少数の派閥となっていた為、日本政府は強気に出られたとも言えた。

 ともかく。

 国民の支持の下、かねてより朝鮮半島北部に集結させていた日本連邦統合軍第1軍団に対して、沿海州の日本とアメリカ企業の保護の為の進軍を命じた。

 又、アメリカ側も自衛戦闘の題目をもって、フロンティア共和国北部に集結させていた2個師団を動かした。

 日本とアメリカはシベリアに於ける両軍の作戦行動に関する連絡会の設置を合意。

 事実上の合同作戦本部の設置となった。

 

 

――シベリア独立戦争・ソ連(D-Day)

 日本とアメリカの軍が、会談決裂から間を置く事無くソ連領内に侵略してきた事にスターリンは激怒した。

 そして納得した。

 矢張り、日本とアメリカは帝国主義的拡張を求めてソ連を襲う積りであったのだと、己の見通しの正しさに安堵していた。

 ソ連軍に対しては反革命分子の掃討ともに、日本とアメリカを撃破する事を命じていた。

 スターリンはソ連軍の科学的な劣勢を理解していた。

 だが同時に、広大な国土による縦深と厳しい冬をもってすれば戦いぬく事は可能であろうと信じていた。

 頑強なソ連人は決して侵略者には屈しないのだ。

 即座に10個師団の新たなシベリア派遣を決断。

 併せてシベリア軍管区に対しては、徹底抗戦を命令していた。

 

 

 

 

 

(※1)

 特機隊は、日本ソ連戦争終戦条約に基づいて時限創設された非軍事、非警察の官営PMSC組織であり、シベリアに於いて日本人を保護する組織である。

 管理は内閣府が行う。

 構成人員は自衛官、警察、元傭兵など様々となっている。

 シベリアでの活動終了(採掘権の失効)後は、第101海兵旅団に統合される予定である。

 

 

(※2)

 ソ連から得たシベリアの資源採掘権は、企業に対して競売に掛けられており、それにアメリカ企業が参加していた。

 

 

 

 

 

 




2019.06.12 構成修正
2022.10.18 構成修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

031 シベリア独立戦争-04

+

 日本アメリカとの会談決裂後、ソ連赤軍の体制は反革命的シベリア分離主義者討伐から外敵からの国防へ変化した。

 シベリアに展開していた全ての部隊を統括する極東赤旗総戦線に改編された。

 この時点で総兵力は4個歩兵師団と1個戦車師団、人員にして60,000名余りであった。

 スターリンは、増援として10個師団(歩兵師団6個 戦車師団4個)を送る事を決定した。

 この他、ドイツとイタリアから義勇戦車旅団が1個ずつ入る予定であった。

 都合15個師団、2個旅団の総兵力180,000余名の大兵力であった(※1)。

 これ程の戦力を投じれば、シベリアの大地に精通し地の利を持つソ連赤軍が外敵を撃退出来るだろうと言うのがソ連赤軍参謀本部の考えであった。

 増援に送る部隊は、粛清によってスターリンへの熱い忠誠を誓う部隊であり、万が一にもシベリア独立派への恭順などはあり得ない。

 その上でスターリンに自信を与えていたのは、31式戦車に対抗する為に開発した45t級重戦車KV-1の存在であった。

 45tと言う31式戦車にも劣らぬ重量級戦車は、5ヵ年計画によって長足の進歩を遂げたソ連の成果であった。

 傾斜した重装甲は全ての砲弾に耐えうる力を持ち、主砲の48.4口径76㎜砲は既存の戦車の全てを撃破可能な長砲身大口径砲であった。

 KV-1戦車にスターリンは大きな期待を寄せ、大増産を命じた程であった。

 とは言え、開発力はあっても生産を行うにはソ連経済が余りにも貧弱であった為、シベリアへ投入出来たのは初期量産型の47両のみであった。

 他はBT戦車が主力ではあったが、スターリンに不安は無かった。

 日本とアメリカが用意していた戦力が、現時点で日本が3個師団、アメリカが2個師団である事を掴んでいたからだ。

 彼我の兵力差は約3倍。

 しかも、更に10個師団単位での動員をする予定であった。

 地の利と数的優位があれば日本ソ連戦争の報復が出来るであろうと、ソ連の名誉の復権が成されるであろうと確信していたのだった。

 

 

――沿海州・第1空挺団(D-Day)

 全ての発端となったアメリカ企業の施設に対し、日本は全力で支援を行う事とした。

 足の長いF-3戦闘機の護衛を付けたMV-22垂直離着陸機を投入し、第1空挺団を現地に入れたのだ。

 ソ連による強欲的な行動に断固たる対応を取るという宣言であった。

 そして、友邦と正義の為に日本は血を流す覚悟があると言う宣伝でもあった。

 この為に戦場慣れしたマスコミの帯同を、特例として許していた。

 日本は情報の収集と分析、そして公開に注意する事で、対ソ連戦争もだが底なしに資源と人命を飲み込んでいく治安維持戦をする積りは無かった。

 敵はソ連であり、ロシア人は友人である。

 このスタンスで宣伝活動を繰り広げていく事となる。

 

 

――沿海州・日本/アメリカ(D-Day ~7)

 最初の目標は、日本人及びアメリカ人の安全確保であった。

 故に前衛部隊は装輪装甲車や自動車で固められた部隊であり、偵察衛星や長距離滞空型UAVの情報を元に、ソ連軍と出来るだけ会敵しないコースで一気に進軍した。

 自衛隊は偵察衛星やUAVの情報をアメリカ軍にも、情報士官を派遣して随時提供していた。

 この様な作戦行動であれば補給線などの問題も出るが、通路の確保は第2部隊に任せるものとされた。

 時間だけが優先され、側面すら気にする事無く両軍は突進した。

 日本は16式機動戦闘車を有する第17師団から抽出された第171連隊戦闘団が前衛を担っていた。

 対してアメリカは完成したばかりの25t級の新鋭M2A中戦車があり、M2A中戦車で定数を満たしていた戦車連隊を前衛としていた(※2)。

 だが、配備が開始されたばかりのM2A中戦車は機械的な成熟が出来ておらず、国境線を突破して半日で保有台数の7割が脱落してしまっていた。

 高い工業力と技術力を誇るアメリカであったが、初めて生み出した25tもの戦車では経験が足りて居なかったのだ。

 この為、最初のアメリカ企業の施設に到着したころには自動車部隊と化していた。

 

 

――シベリア・シベリア独立派(D-Day ~21)

 ソ連軍は日本とアメリカの軍との交戦は避けつつ、先ず、シベリア独立派の掃討に注力していた。

 特に、西方から物資を持ち込みやすいシベリア西部領域 ―― 西シベリア低地で蜂起したシベリア独立派は簡単に鎮圧されていった。

 それは軍事力の差もさる事ながら、ソ連軍が豊富に持ち込んだ食料や生活物資の力が大きかった。

 粛清から逃げ出したソ連将校は別であったが、一般の人々は生活苦からの自暴自棄的な蜂起であったので豊富な食料と生活物資、そして早期に帰順すれば罪に問わないと言う慰撫工作を受けては、簡単に矛を収めるのも当然であった。

 瞬く間に西シベリア低地帯を掌握していく第2赤旗戦線。

 但し、担当するのは分派された3個師団だけであった。

 残る7個師団から成る第2赤旗戦線の本隊は、補給線でもあるシベリア鉄道沿いに東進を続けた。

 とは言え、快適に前進できたのはインフラが優先的に復興されたオムスクまでであった。

 そこから先の交通インフラは、シベリア鉄道こそ優先的に修復されたが、道路や橋などは日本ソ連戦争の被害が手つかずである場所も多かった。

 80,000人近い大軍の移動は儘ならぬ状態にあった。

 その事がシベリア独立派に再建する時間を与えた。

 それまで緩い連帯でしか無かったシベリア独立派は、逃れて来た元赤軍少将を代表として組織化されて行く事となる。

 ばらばらだった戦力を統合し、旅団を編制していく。

 各旅団は2,000名を上限として編成され、それぞれがシベリア独立軍旅団としてナンバリングされていった。

 同時に、沿海州の組織を経由して接触して来ていた元同胞、ロシア系日本人であるオホーツク共和国と会談を持つ事となる。

 オホーツク共和国は、同じスラブ人として人道的な支援を申し出ていた。

 その上で、シベリア独立派は何をするかを尋ねて来たのだった。

 それまで餓死するよりは戦死をしようと言う、ある意味で極めて後ろ向きの集団であったシベリア独立派は己の存在意義に直面する事となった。

 独立派と名乗ってはいても、真剣に独立を考えていた訳ではなかったのだから。

 そこに、オホーツク共和国は囁く、本当に独立を考えているのであれば協力する用意がある、と。

 

 

――満州・ユダヤ人(D-Day-10~)

 シベリアでの活動領域を広げつつあったユダヤの民にとって、シベリアの独立運動は絶好の商機であった。

 ユダヤ系ロシア人を介する事でシベリア独立派に接触し、世界大戦時に大量生産されて余剰となって各国の倉庫に眠っていた武器を大量に買い付けて売りつけていた。

 その中にはイギリスやフランスが保有していた戦車も含まれて居た。

 31式戦車shockによって一気に陳腐化した世界大戦直後の戦車たちは、朽ち果てる寸前にヨーロッパから遠く離れたシベリアで活躍する場を与えられたのだった。

 対価は鉱物資源であり、将来、独立した場合の鉱山の採掘権であった。

 フロンティア共和国で経済力を付けたユダヤ人は、次なる儲け口として日本とアメリカが独占していたシベリアの資源開拓に関与する事を狙ったのだった。

 

 

――沿海州/ウラジオストク・奇妙なる戦争(D-Day ~21)

 事実上の宣戦布告を交わし合った日本アメリカとソ連であったが、事、沿海州に於いては大規模な交戦は発生していなかった。

 部隊同士が接触しても、銃撃を交わし合う事も無く警戒しつつ離れるのが常であった。

 それは日本とアメリカの領域と、ソ連の領域が複雑に入り乱れている事が原因であった。

 1発の銃声で全てが変貌する様な、薄氷の上に立つ平穏であった。

 だがそれがソ連海軍の拠点、ウラジオストクを維持させていた。

 スターリンへの報告は、常に日本とアメリカの帝国主義者から祖国を護る為に奮戦しているとされていたが、その実態は目減りする燃料と食料に怯える日々であった。

 港から出撃した駆逐艦や潜水艦は全てが消息不明となり、1隻たりと帰って来る事は無かったのだから。

 ウラジオストクには1個師団が集結していた。

 その事もウラジオストクの食料事情を悪化させる原因となっていた。

 今はまだ温かい季節の為、暖房用の燃料の心配をする必要は無かったが、戦争が冬までに終わるとウラジオストクの人間は軍人も市民も、誰も思っては居なかった。

 その事が人の心に影を落とし、閉塞感に繋がって行った。

 ウラジオストクは、真綿で首を締められる様にゆっくりと戦う力を奪われていっていた。

 第1赤旗戦線は、その配下の各部隊に日本アメリカとの徒な戦闘を禁じていた。

 食料その他の物資が不足する状態で、ほぼ同規模の日本アメリカと交戦してしまっては一方的な敗北が確実だからである。

 ソ連側からしてみれば奇妙な事に、帝国主義の徒である日本もアメリカもソ連領内に設けた非革命的人民収奪拠点を護るだけで積極的に打って出て来る気配は無かった。

 この為、戦力の保全に努めていたのだった。

 

 

――日本・航空部隊(D-Day~)

 シベリア独立戦争へ本格的な関与を行う事が決定して以降、日本は情報偵察衛星の他に高高度偵察機であるグローバルホークをシベリア方面に投入していた。

 本格的な侵攻作戦の実施に備えて道路情報や集落情報、そして電波情報を収集していた。

 又、非常時に備えて空にAP-3局地制圧用攻撃機(※3)を遊弋させていた。

 タイムスリップから10年、日本の燃料事情は劇的に改善し、燃料を大量に消費する空中パトロールを随時可能にしていた。

 

 

 

 

 

(※1)

 ソ連軍は、都合15個師団の極東赤旗総戦線のうち、開戦前よりシベリアに駐屯していた5個師団を第1赤旗戦線と命名。

 増援の10個師団を第2赤旗戦線と命名した。

 この他、ドイツとイタリアからの義勇旅団は、ソ連に到着次第、第2次増援の部隊と共に第3赤旗戦線を編制する予定とされた。

 

 

(※2)

 グアム共和国軍(在日米軍)からの支援を受けて開発されたM2中戦車は先進的な概念 ―― 傾斜装甲や空間装甲を採用しており、他のG4諸国を含めて日本の工業的支援を受けていない戦車の中では随一と言って良い完成度を誇っていた。

 だが、それまで10t台の戦車しか開発運用した経験しか持たなかったアメリカは、足回りや整備性に於いて充分な技術的蓄積が無かった為、稼働率は高いとは言えなかった。

 特にシベリア独立戦争で使用されたM2A型の場合、稼働率は充分な整備部隊と予備部品を豊富に用意して尚、6割程度であった。

 この為、シベリア独立戦争の最中でも、現場単位で随時改良が施されていた。

 改良の経験、そして運用実績と戦訓を元にシベリアから修理で満州に送られた破損車両に小規模改良施したM2A2型が誕生する事となる。

 尚、M2Aシリーズの主砲は当初は50口径90㎜砲を予定していたが、開発が難航した為、やや旧式ながらも安定した性能を持つM1897 75㎜砲が搭載されている。

 

 

(※3)

 元は海上自衛隊が運用していたP-3C哨戒機。

 P-1への更新によって退役したP-3Cで、機体寿命の残っていた機体を航空自衛隊に移管し改造した機体。

 武装は20㎜ガトリング砲2門、35㎜機関砲1門、105㎜ライフル砲1門となっている。

 所属は、航空総隊の第11航空団(攻撃コマンド)第111航空隊であるが、気象が安定している事などから西部方面航空隊第8航空団の基地に同居している。

 

 

 

 

 

 




2019.06.12 表題修正
2022.10.18 構成修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

032 シベリア独立戦争-05

+

 シベリア独立戦争が真にシベリアの独立運動へと変わるのは豊原(ウラジミロフカ)宣言によってであった。

 場所はその名の通り北日本邦国の首都、豊原。

 日本とオホーツク共和国、アメリカとフロンティア共和国、そしてシベリア独立派の5つの立場の国家が話し合い、宣言された。

 その内容は、シベリア独立運動がソ連の圧政からロシア人の独立を目的とする、ロシア人の民族国家樹立の宣言であった(※1)。

 同時に、この目的の為に日本連邦国とアメリカ、フロンティア共和国などは全面的な協力を行う事を宣言した。

 宣言に合わせて、ソ連に対して宣告が成された。

 

 シベリアはソヴィエトを認めない。

 シベリアはソヴィエトの統治を認めない。

 シベリアはスラブ人によるスラブ人の為のスラブ人の国家を目指す。

 よってソ連には、即時オビ川以東の大地より兵を引き払う事を要求する。

 撤退する場合、将兵の安全は保障する。

 撤退しない場合、実力をもって成すものである。

 

 ソ連とスターリンの横面を全力で叩くが如き宣告であった。

 当然ながらもスターリンは激高した。

 そして極東赤旗総戦線の司令部に対し、全力でシベリアの独立派を自称する反革命的組織を叩き潰し、ソ連領内を我が物顔で闊歩する日本とアメリカの帝国主義者をソ連の大地から追い払う事を厳命した。

 

 

――ソ連・第1赤旗戦線(D-Day+23)

 スターリンからの厳命を受けた第1赤旗戦線は、それまでの避戦の姿勢から一変して攻勢に出る事となった。

 第1目的は1個歩兵師団が立てこもってはいるが孤立状態にあるウラジオストクと、ハバロフスクとの連絡線の回復である。

 日本とアメリカはそれぞれの企業の活動地域に分散しており、ソ連軍を積極的に分断している訳では無かった為、勝利を政治的に欲した第1赤旗戦線は全力でハバロフスク-ウラジオストク間の打通を図ったのだ(以後、HB打通作戦と呼称する)。

 戦力は、ハバロフスク近郊で活動していた第11赤旗歩兵師団と第11赤旗戦車師団のほぼ全力(※2)。

 1個連隊のみ、ハバロフスク防衛に残しての全面攻勢であった。

 無論、補給が途絶えがちで物資の不足している事を自覚していた第1赤旗戦線司令部は、勝ち続ける目処が無い事を自覚していた為、打通後は速やかに第12赤旗歩兵師団とウラジオストクに残された物資を持ってハバロフスクへと撤退する積りであった。

 ウラジオストクの艦隊に関しては、自力にてオホーツク海の北端港町マガダンへの移動が厳命された。

 この他、温存されていた航空隊約200機の投入も決意していた。

 極東赤旗総戦線司令部は、シベリア全域で1000機近い航空機を指揮下に置いていたが、航空燃料の不足によりHB打通作戦に投入出来るのは、この200機余りが限度であった。

 

 

――日本/アメリカ・沿海州(D-Day+23~26)

 通信量の増大と各部隊の動きから日本も早期に第1赤旗戦線の動きを把握した。

 数的にも質的にも日本アメリカ連合軍に比べて劣勢なソ連側が攻勢に出て来るのは想定外であった為、日本アメリカ・シベリア戦線連絡会(以後、合同作戦司令部と呼称する)は一時的に混乱した。

 確認の為にハバロフスクへ強行偵察を行った偵察機が、ソ連側が隠す事無く部隊を動かしている事を確認。

 この為、攻勢作戦は事実であり、そして第1赤旗戦線は本気である事を把握した。

 合同作戦司令部はHB打通作戦部隊を迎撃する事を選択する。

 幕僚の一部からは、一旦はソ連HB打通作戦部隊をウラジオストクまで通させた後に包囲し、降伏を強いた方が良いのではとの意見も出た。

 戦闘を極力抑えて彼我の死傷者を減らそうという考えであった。

 だが否定される。

 それよりも、初戦からソ連側の作戦を破綻せしめる事で第1赤旗戦線の戦意低下を図り、これによってシベリアの開放を早期に実現した方が、トータルでの死傷者が減ると言うのが判断の論拠であり、日本政府の判断であった。

 この方針に従い、第601師団がHB打通作戦部隊の前方に立ちはだかり、攻撃を開始した。

 完全充足状態の機械化師団である第601師団は、HB打通作戦部隊と同じスラブ人 ―― ロシア人の部隊であったが、一切の躊躇なく殴り掛かったのだ。

 シベリアをソ連のくびきから解き放とう! そんなスローガンと共に、オホーツク共和国のロシア系日本人は31式戦車を前面に立てて戦った。

 ソ連側が頼みとした戦車師団は主力と頼る戦車がBT戦車であった為、第601師団はHB打通作戦部隊を一蹴した。

 その上で上空にAP-3極地制圧用攻撃機が乱舞し攻撃を加えたのだ。

 HB打通作戦部隊はハバロフスクより進軍を開始して100㎞も進まぬうちに、その衝撃力を、文字通り粉砕されてしまったのだ。

 戦車戦で歯が立たない事を把握した第1赤旗戦線は、慌てて航空攻撃を図った。

 併せて我が物顔で空を飛ぶAP-3の排除も図る。

 2個の師団はこの時点で2割近い被害を受けていたが、第1赤旗戦線は諦めていなかった。

 スターリンに厳命されているのだ。

 諦めるという選択肢などある筈も無かった。

 必死になってハバロフスクを飛び立った200余機のソ連赤軍航空隊であったが、第10航空団の迎撃によって頓挫する事となる。

 迎撃に出たのは第10航空団の2個飛行隊であり、その総数は50機を超える程度であったが、ソ連側は一方的に狩られて行く事となる。

 第10航空団のF-5戦闘機は、ネットワーク化された防空システムの中で最大限の能力を発揮する様に動いた。

 高度10,000メートルという、ソ連機では到達する事も出来ない高々度から睥睨するE-767早期警戒管制機がソ連機の数、高度、飛行方向を把握し、逃げようのない場所からF-5にPSAMミサイルでの攻撃を指示するのだ。

 集団ではあっても個の集まりでしか無かったソ連機では抵抗のしようも無く、各個に撃破されていった。

 それは水に溶ける砂糖の様に、ソ連赤軍航空隊は消滅していった。

 

 

――ソ連・第1赤旗戦線(D-Day+27)

 戦いにすらなっていないHB打通作戦部隊の状況を、4日目にしてようやく受け入れた第1赤旗戦線は作戦の中止を決定。

 同部隊に後退を命じた。

 だが、それは余りにも遅かった。

 ヘイロン川以北のブラゴヴェシチェンスク近郊で防衛任務に当たっていたアメリカ第14師団がハバロフスクから西方に繋がる連絡路の遮断に動き出していたのだ。

 慌てる第1赤旗戦線であったが、凶報は更に続く事になる。

 沿海州と満州(フロンティア共和国)に挟まれる場所にあるユダヤ自治州が、自治権拡大を求めて蜂起したのだ(※3)。

 当然、シベリア独立運動への協力も宣言している。

 即座の鎮圧を検討したが、その前に沿海州北部域に展開していた日本第17師団が、オホーツク共和国より増派されて来た第603師団の先遣部隊、そしてシベリア独立軍の第1旅団と共にハバロフスクを包囲したのだ。

 この時点でソ連側守備部隊は、HB打通作戦部隊の第11赤旗歩兵師団から分離させた1個連隊のみ。

 第1赤旗戦線はハバロフスク住民を強制動員して促成の守備部隊 ―― ハバロフスク赤衛師団を構築、旧式化して倉庫に放置していた世界大戦やロシア革命時代の武器を持たせて前線に立たせた。

 ここにシベリア独立戦争前半の山場となるハバロフスク市防衛戦が発生する事となる。

 

 

――日本・守勢攻撃(D-Day+30)

 HB打通作戦部隊を撃破した日本だが、ハバロフスクとウラジオストクに対しては包囲に留めていた。

 都市攻略戦となれば大量の死傷者が発生する事を嫌ったのだ。

 日本連邦統合軍の将兵は当然ながらも、都市住民も出来る限り傷付ける訳には行かなかった。

 彼らも将来のシベリア国家の国民なのだから。

 そして同時に、他のシベリアの人々 ―― 積極的にソ連にもシベリア独立派にも与していない人々へのアピールもあった。

 日本はソ連と戦うのと同じように、シベリアの人々を相手にした宣伝戦と民心慰撫を図っていたのだ。

 常に正義の仮面(ベビーフェイス)を被り続けるのだ。

 その事をアメリカにも、強く伝達していた。

 無論、正しいだけではロシア人は服従しない。

 ロシア人が頼りとするに相応しい力を示す必要もあった。

 故に、ハバロフスクとウラジオストクのソ連軍には容赦の無い空爆が繰り返された。

 精密な攻撃の可能なAP-3極地制圧用攻撃機は、弾薬備蓄庫や食料備蓄庫、果ては軍施設を常に攻撃し続けていた。

 昼も夜も続けられた攻撃は、第1赤旗戦線の戦闘力と共に戦闘意欲を削り続けた。

 我が物顔でシベリアの空を飛び破壊を振りまくAP-3の事を、ハバロフスクとウラジオストクの両都市に立てこもるソ連軍人は空の黒死病(ペスト)と恐れた。

 又、一方的にソ連軍航空機を狩り尽くしていくF-5戦闘機の事は、低視認型の制空迷彩にあって尚、赤く目立つ国籍識別票から血塗れの目玉(ブラッディ・ボール)と言う名を付けていた。

 尚、ウラジオストクを出港したソ連海軍艦船でマガダンへと到着出来たものは1隻として無かった。

 開戦から1月で、第1赤旗戦線の歩兵を除く海空の戦力は事実上、消滅する事となっていた。

 

 

――ソ連・側面攻撃(D-Day+33)

 正面戦争では一方的な打撃を被っていたソ連であったが、それ故に側面攻撃に注力する部分があった。

 チャイナ共産党への援助の強化、即ち、チャイナでの反アメリカ作戦である。

 特にチャイナ北部、フロンティア共和国周辺での活動を強化する様にスターリンは指示していた。

 フロンティア共和国の軍は7個の歩兵師団から成っている。

 自動車化程度の装備しかないがそれでも7個師団12万と余名の為、これがそのままシベリア戦線に投入されては困るのだ。

 チャイナ共産党としてもソ連の支援は願ったりであった。

 現在、チャイナで安定した勢力である南チャイナを打破する為には、フロンティア共和国と衝突させる必要性がある事を認識していた。

 ドイツからの全面支援を受けた南チャイナの軍勢は強力であり、質的にも数的にも劣位となったチャイナ共産党軍では勝利する事はおぼつかないのだから。

 チャイナ全土を巻き込む戦乱状態を作り出さねばならぬ。

 そうやって南チャイナが消耗すれば、チャイナ共産党がチャイナの天下を取る目が出て来るという計算であった。

 チャイナ共産党は、チャイナ北部での反アメリカ運動を激化させた。

 

 

 

 

 

(※1)

 シベリアにおけるロシア人の民族独立を堂々と宣言され1番焦ったのはソ連であったが、2番目に焦ったのはブリテンであった。

 インドを筆頭に世界中にある植民地が民族自決を求めており、その声をよりにもよってG4が裏打ちする様な行為をされたのだ、焦るのも当然であった。

 結局、ブリテンは1937年に大ブリテン帝国の全ての植民地が集まった合同会議を行う事を決定し、宣言する事で慰撫した。

 

 

(※2)

 スターリンは対日対アメリカの最前線に立つ第1赤旗戦線が数的には兎も角、質的には劣勢である事を理解していた。

 この為、戦意鼓舞の為、極東赤旗総戦線司令部の指揮下にある全ての師団に名誉師団号 ―― 赤旗の名と新しいナンバリングを付ける事を命じていた。

 ナンバリングを新しくしたのは、歴史を作り出せという意味であった。

 

 

(※3)

 フロンティア共和国を経由したユダヤ人社会からの強烈な支援があればこそ、短期間に武力組織を構築する事に成功した。

 目的は1つ。

 ユダヤ人によるユダヤ人の為のユダヤ人国家の樹立である。

 ユダヤ教を法律に組み込んだ国家の樹立だ。

 ユダヤ独立派はアメリカ国内のユダヤ人を通してアメリカ、そして日本にもコンタクトを取っており、内諾を得る事に成功していた。

 ブリテンにも協力を要請していた。

 否、事実上の命令を出していた。

 ブリテンにこれ程に強気でユダヤが出たのは、世界大戦時にユダヤ人に対してブリテンの行った不義理 ―― 世界大戦でブリテンに協力すれば中東のエルサレムを中心にした土地をユダヤ人へ割譲するという約束を反故にした事への代償という側面があればこそであった。

 ブリテンは、独立運動の高まりで不安定化しつつある中東に、更に火種を入れるよりはマシと判断し、ユダヤへ協力する事とした。

 

 

 

 

 

 




2019.05.27 文章修正
2019.06.12 構成修正
2022.10.18 構成修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

033 シベリア独立戦争-06

+

 ソ連軍がシベリアに駐留させていた5個師団の内、2個師団(1個歩兵師団、1個戦車師団)が包囲拘束され、1個歩兵師団が日本連邦統合軍包囲下に置かれた為、シベリアのイニシアティブは日本とアメリカ側に大きく傾く事となった。

 シベリア独立派はこの時間的余裕を持ってシベリア独立軍を組織する事に成功した。

 寄せ集めから8個の旅団を編制する。

 とは言え、1個旅団は1,000名から2,000名程度の小規模なものであり、又、装備の大半もアメリカから提供された世界大戦時の余剰品である為、ソ連軍と正面から戦う事など不可能であった。

 一方で、自動車は日本製が大盤振る舞いされており機動力は極めて高かった(※1)。

 それ故に、3個旅団でシベリア独立軍集成第1師団を編制すると、残る5個旅団はシベリアの北部および東部の人口の閑散とした地帯の掌握に投入される事となる。

 ソ連軍も居るが、此方は2個師団が広域に分散する形となっている為、航空自衛隊の全面支援を受けたシベリア独立軍に対抗するのは困難であった。

 

 

――アンガラバイカル方面・アメリカ(D-Day+34)

 アメリカ第11師団はイルクーツクへ向けて西進を続けていた。

 相対しているのは第1赤旗戦線の第14師団であったが、此方は広域に展開したままで必死に抵抗していた。

 スターリンの指示 ―― シベリアの死守命令が原因の全てであった。

 シベリア独立派鎮圧の為に広域に展開していた第14赤旗歩兵師団は、本来、集結して応戦するべきであったのだが、集結する為にはイルクーツクに後退する必要がある。

 だがスターリンの指示によって、それが出来なくなっていたのだ。

 戦略的要請でも戦術的目的でもなく、政治的命令によってソ連第14赤旗歩兵師団は戦力を失い続けていた。

 只、同時に小なりとはいえ戦闘が連続する事でアメリカ第11師団の進軍速度を低下せしめる効果は発揮していた。

 この為、イルクーツクのソ連第14赤旗歩兵師団は防備を固める時間を得ていた。

 後方の第2赤旗戦線の先遣隊が物資や燃料と共に到着しつつある事と、近隣の航空基地に航空隊を集結させる事に成功しつつある為、極東赤旗総戦線ではイルクーツクにてアメリカの西進を止められるであろうという憶測が広がっていた。

 敵がアメリカ第11師団だけであれば、その予測もあながち間違いでは無かった。

 だがこの時点でアメリカは、フロンティア共和国に対して陸軍の派遣を命令。

 これにフロンティア共和国は保有する5個師団の内、装備良好な2個師団の供出を受諾する。

 併せて、フロンティア共和国内で破壊活動を行っているチャイナ共産党に対応する為、3個の予備師団を動員する事を決定した。

 2個のフロンティア共和国師団(第3歩兵師団 第4歩兵師団)は、アメリカの指揮下に入り、アメリカ第11師団と共に極東第1軍団を編制する事となり、2個師団はアメリカ第11師団が拓いた道を真っすぐに西進したのだ。

 3個師団はイルクーツクの西方、ウランウデにて合流する。

 併せて野戦飛行場を整備し、物資の集積を行ってイルクーツク攻略戦に備える事となる。

 

 

――チャイナ(D-Day+37~)

 ソ連の指示を受け、先ずは手を伸ばしやすい相手であるアメリカとその手先であるフロンティア共和国へと矛を向けた。

 チャイナ人を煽り、敵愾心を燃え上がらせたのだ。

 ユーラシア大陸極東域にてフロンティア共和国は、チャイナ人の土地にチャイナ人以外の手によって生み出された国家であり、同時に、周辺国でも随一の豊かさを持った成功しつつある国家であった。

 故にチャイナ人は嫉妬していた。

 チャイナの大地が混乱と戦乱にまみれているにも関わらず、平穏であり豊かである事に。

 そのチャイナ人の心の隙間にチャイナ共産党が囁いた。フロンティア共和国の富はチャイナ人のものであり、アメリカとフロンティア共和国の住人を追い出してチャイナ人が取り戻すべきであると煽ったのだ。

 中華と言う天下無双の大国であったと言う伝統と誇りの欠片を持ちながらも、戦乱と貧困による貧しさとひもじさに絶望していたチャイナ人達は、チャイナ共産党の煽りに乗った。

 フロンティア共和国内のチャイナ人は人的な規模でこそ最大ではあったが、大多数は資本を持たず、又、産業界の主要言語であるブリテン/アメリカ語も日本語も使えない為、待遇の悪い単純労働者が多かった。

 満州もチャイナ人の大地であったにも関わらず、下人の如く扱われている事に屈折した感情を抱いていた。

 であるが故に、アメリカとその配下どもを追い出せば、金銀財宝と豊かな大地は自分達のものであると希望を抱いたのだ。

 フロンティア共和国でアメリカ ―― 外敵追放を叫んだ暴動が続発する事となる。

 この事態に、フロンティア共和国は非常事態を宣言し、問題が続発するチャイナ人とアメリカ人を筆頭とする他民族との間に深い溝が出来る事となる。

 又、シベリア独立戦争に人手を取られたフロンティア共和国はアメリカに対して支援を要請した。

 これにアメリカ政府は、日本を介して朝鮮共和国に対してコリア系日本人傭兵(※2)を手配して対応した。

 暴動などへ酷薄な対応をするコリア系日本人の存在は、フロンティア共和国のチャイナ人を震え上がらせる事となる。

 

 

――イルクーツク・ソ連(D-Day+35)

 アメリカやフロンティア共和国の新聞を介した情報や、高い未帰還率を承知で行われていた航空偵察(※3)によって、接近するアメリカ軍3個師団の情報を把握した第1赤旗戦線第14赤旗歩兵師団は、絶望した。

 第2赤旗戦線に対して早期の合流を要請したが、合流は簡単では無かった。

 開戦劈頭(D-Day)から日本が断続的にオムスク以西のシベリア鉄道に対して爆撃を行っており、鉄道網はマヒ状態に陥っていたからだ。

 こうなっては、大多数の自動車を持たない文字通りの歩兵師団は、歩いて移動するしかなかった。

 物資の輸送も馬車に頼る有様となった。

 これでは進軍速度が上がる筈も無かった。

 スターリンは日本の戦略爆撃に対応出来る航空機の開発を厳命したが、一朝一夕に開発出来る様なものでは無かった。

 日本の爆撃機は試作品どころか実験室レベルどころか、構想段階の航空機ですら到達不可能な高度を飛んできて爆弾を降らしていくのだ。

 しかも高高度からの爆撃であるにも関わらず、ピンポイントで駅舎や線路を破壊していくのだ。

 手の施しようが無かった。

 ソ連の航空機の状況を纏めたレポートを読んだスターリンは、その夜、深酒をしたという。

 数的に不利であればせめて質的な強化を求め、新鋭のKV-1戦車の早期到着を望んだ第14赤旗歩兵師団であったが、KV-1は砲と装甲こそ1級品であったが足回りとエンジン回りの技術的熟成が殆ど成されておらず故障が頻発し、KV-1を装備する戦車連隊は歩兵にすら劣る速度でしか進軍出来ないでいた。

 この為、第2赤旗戦線はBT戦車を装備した部隊を先にイルクーツクへと先行させる事とした。

 途中で故障して脱落しても、後続の部隊が回収しながら進むので、BT戦車部隊にはわき目も振らずに前進する事を命じていた。

 又、航空部隊の集結を行ってた。

 極東赤旗総戦線司令部は、イルクーツク以西に残っていた航空機約500をかき集めた。

 その上で、ソ連軍上層部に更なる支援を掛け合い、1000余機の増援を勝ち取っていた。

 スターリンが発した命令は極東赤旗総戦線への厳命であると同時に、ソ連軍に対してもサボタージュなど許さぬ過酷さがあるのだ。

 ソ連軍は第3派の増援部隊の編制も進める事としていた。

 

 

――シベリア・沿海州(D-Day+37~40)

 日本軍によって包囲され、攻撃を受け続けたハバロフスク-ウラジオストク打通作戦部隊(以後、HB打通作戦部隊と呼称する)は、それでもスラブ人らしい粘り強さを発揮して1週間は耐えた。

 食料を焼かれ、物資を焼かれ、それでも壕を作って籠り、耐えていたのだ。

 だがそれも1週間が限界であった。

 絶える事の無い砲撃に死傷者が6割を超えた時、HB打通作戦部隊司令部は状況回復の余地が無い事を受け入れた。

 降伏である。

 白旗を掲げて、日本側に人道的処置を願う事となる。

 HB打通作戦部隊が消滅した事をもって、ウラジオストク市長も降伏を決断した。

 第12赤旗歩兵師団司令部もそれを受け入れた。

 既に兵士や市民を問わずウラジオストクの人間の大多数は飢餓状態に陥っており、救援部隊の消滅は彼らの心の支えを完全にへし折る形となったのだ。

 ウラジオストクからの最後の電文 ―― 降伏に関する報告を受けたハバロフスクは、逆に益々もって戦意を高める事となった。

 此方は、包囲下にあるとは言え周辺から食料が調達できる程度には余裕があり(※4)、又、兵力も2個の師団を編制する事に成功した市民部隊、ハバロフスク赤衛師団が居る事もあって未だ降伏する向きは無かった。

 

 

 

 

 

(※1)

 整備する部品の都合上、旅団単位で配備されるメーカーを揃えて居た為、何時しか各旅団は配備された自動車メーカーの名前が渾名として定着する事となる。

 

 

(※2)

 朝鮮共和国軍のレンタルとでも言うべき要請であった。

 朝鮮共和国にとって最大の産業が傭兵であり、アメリカは金主であった為、日本政府の了解が出次第、2個師団規模の予備役兵を徴集しフロンティア共和国へと送る事となる。

 このアメリカからの給与と日本からの地方創成交付金によって、朝鮮共和国は発展していく事となる。

 主要産業は傭兵と鉱山であった。

 尚、朝鮮共和国へと渡った元在日韓国人が重工業などの誘致を要請したが、日本企業は日本政府の指導もあって頑として協力を拒否した。

 

 

(※3)

 アメリカ軍への航空支援はアメリカ陸軍航空隊が行っていたが、その支援を日本のAWACS機が行っていた。

 ソ連からの偵察機、或は攻撃機はAWACS機が離陸直後から把握しており、アメリカ側迎撃機へ的確な誘導を提供できている為、余程の時以外でソ連軍機が帰還するのはあり得ない程の状態になっていた。

 既にシベリア東部の航空優勢を握った日本は、大シンアンリン山脈を越えて西方までAWACS機を安全に侵出させる事が出来ているのが大きかった。

 但し、日本列島の空港からの展開では手間がかかり過ぎる為、フロンティア共和国領内はチチハル近郊に航空自衛隊基地を造成する事となった。

 又、別の問題としてAWACS機が4機しかない為、常時カバーする事が難しい事も問題であった。

 この為AEW機も併せて進出する。

 尚、AEW機の航空管制能力が乏しい為、航空自衛隊チチハル基地には前線防空指揮所が促成で建設される事となった。

 アメリカは、この経験からグアム共和国(在日米軍)から以前よりアドバイスを受けていたアメリカ空軍の創設と、莫大な開発コストの掛かる航空管制機の開発に積極的に取り組んでいく事となる。

 

 

(※4)

 これはシベリアで国家樹立後に首都としてハバロフスクを使いたいと言うシベリア独立派の意向によるものであった。

 過度な破壊をしてしまっては首都としての機能を失いかねない。

 又、苛烈な攻撃をしてしまっては住民の心がシベリア独立派や日本から離れてしまうであろう事が予想された為であった。

 この為、ハバロフスク占領作戦に関しては一種の政治的な作戦となっており、効率は度外視されていた。

 

 

 

 

 

 




2019.05.28 表現変更
2019.06.12 構成修正
2022.10.18 構成修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

034 シベリア独立戦争-07

+

 イルクーツク近郊の航空優勢に関しては、ほぼ互角の状態であった。

 質的な面で言えば、グアム共和国(在日米軍)の支援を受けて開発されたアメリカの戦闘機群は金属翼、引き込み脚、密閉コクピットなどと云った同時代の先を行くコンセプトで作られた近代戦闘機であり、特にシベリアに派遣されていたアメリカ陸軍シベリア遠征隊の機体は新鋭機が集められていたのだ。

 ソ連軍機に比べると極めて有力な戦闘機であった。

 日本の先進的な技術力の恩恵を一切受ける事の出来ないソ連製の航空機は、質的な面でアメリカに劣っていた。

 とは言え、如何なアメリカとは言え一足飛びに2000馬力級のエンジンを開発配備出来る筈も無い為、極端に性能が離れている訳では無く、ソ連機でも抵抗は可能であった。

 そうであればソ連は数で圧せば良いとばかりにイルクーツク周辺に戦闘機だけでも500機から集結させ、対応していた。

 正に質と量の戦いとなっていた。

 アメリカは日本のAWACS機による支援を受けている為、効率的な迎撃には成功していたが、数的な不利による劣勢を強いられていた。

 この為、アメリカは日本に対してF-5戦闘機のイルクーツク方面への投入を要請した。

 日本はこの要請に、日本本土で練成を終えたばかりの航空自衛隊と台湾民国の2個飛行隊で第11航空団を編制して送り込んだ(※1)。

 支援部隊は第10航空団から分派する形となった。

 

 

――イルクーツク航空戦(D-Day+38~52)

 イルクーツクを巡る戦いは、航空戦による航空優勢の奪い合いでもあった。

 日本の戦略爆撃によって航空機の対地攻撃の恐ろしさを十分に認識しあったアメリカとソ連の両軍は、先ずは航空優勢を握る事に注力していたからであった。

 航空戦闘の主導権はソ連側にあった。

 数的優位を盾にソ連側は多方面からの飽和突入の真似事をやっていた為、アメリカ側は撃墜による航空優勢の獲得よりもミッションキルによる自軍防衛に手一杯になっていたからだ。

 この為、アメリカのイルクーツクへの進軍計画が停滞していた。

 第3赤旗戦線本隊の到着まで粘りたい第1赤旗戦線第14師団側としては理想的な展開であった。

 であるが故に、アメリカ側も対抗策を取った。

 日本の航空隊への参陣要請である。

 これによって航空戦闘の天秤はアメリカ側に傾く事となる。

 国内向けの宣伝も兼ねて、F-5戦闘機を装備した日本航空隊が到着した際にはアメリカのマスコミによるインタビューなども行われた。

 アメリカが装備する戦闘機よりも1回りは大きいF-5戦闘機は、風防回りなどの機体各部が航空力学に基づいた洗練された流麗なデザインである事もあってアメリカ人記者の目に、文字通り未来の戦闘機に見えた。

 アメリカ人記者は本国向けの新聞記事で、シベリアの自由を支える為に来た義勇の士(サムライ・キャバリー)と呼び称えた。

 その評判は、実際にソ連軍航空隊と交戦すると共に跳ね上がる事になる。

 出撃を始めるや第11航空団はソ連軍航空隊相手に常に勝利し、アメリカ軍基地にソ連軍機接近を知らせる空襲警報が鳴る事は無くなった。

 アメリカ人記者たちはF-5戦闘機に自由の守護者(フリーダム・ファイター)の呼び名を送り、称えた(※2)。

 慌てたのはソ連側である。

 200余機のソ連軍機を駆逐し、東部シベリアの空を瞬く間に掌握した戦闘機がイルクーツクの正面に来て猛威を振るいだしたのだ。

 慌てるのも当然であった。

 ソ連側は当分の間、積極的な戦闘を控えて消耗を抑える戦略に出る。

 小規模な偵察のみを行い、その間に対応を考えようとした。

 ところが、積極性に劣る所の無いアメリカが、イルクーツク周辺の航空的なイニシアティブを握ると共に積極的な行動を開始した。

 既に判明しているソ連軍航空基地への攻撃を開始したのだ。

 この為、レーダーなどを持たないソ連側はイルクーツクからアメリカ軍が集結しているウランウデまでの間に前衛対空警戒拠点を配置し、人の目による早期発見を図った。

 アメリカ軍機の接近が判明すると同時に飛行できる機体を空中避難させるようになり、或は後方の基地へと下げる様になる。

 だが航空機は守れても航空基地の機能は失われて行く。

 航空機を運用する為の燃料や予備部品などの物資も失われて行く。

 瞬く間にイルクーツク周辺のソ連軍航空隊はその機能を失って行った。

 だが極東赤旗総戦線は諦めてはいなかった。

 来るべきアメリカによる総攻撃に備える為、新しい航空基地を作り物資を集積していった。

 日本/アメリカの目を逸らす為、航空機は配置せず、人員すら必要最小限度に抑える程であった。

 その上で毎日襲撃を受ける既存航空基地には航空機の模型 ―― 模擬航空機を隠蔽しながら設置し、自軍がこの基地をまだ使う積りであると日本/アメリカに認識する様に誘導するほどであった。

 技術では負けれども、創意工夫で抵抗しようとする意志があった。

 そんなイルクーツクのソ連軍に1つの朗報が齎された。

 チャイナ共産党の工作員が、ウランウデのアメリカ軍の補給線でもあるシベリア鉄道への破壊工作を成功させたのだ。

 それも複数個所で。

 このお蔭で、アメリカ軍による空爆はピタリと止まる事となった。

 

 

――沿海州・ハバロフスク攻防戦-1(D-Day+41~48)

 完全に日本連邦統合軍第1軍団とシベリア独立軍集成第1師団に包囲されたハバロフスクは、それでもよく耐えていた。

 ソ連側の防衛戦力も増しており、開戦から1月を越えた頃には3個師団を号する程になっていた。

 1つは第11赤旗歩兵師団だ。

 とは言え、その内実は寂しい。

 ハバロフスクに残っていた第11赤旗歩兵師団の歩兵連隊を基幹として、包囲され降伏する事となったハバロフスク-ウラジオストク打通作戦部隊の残余 ―― ハバロフスクに撤退してきた敗残兵で編成されているのだ。

 精々が半個旅団といった規模であった。

 1つはハバロフスクの健全な壮年男子をかき集めたハバロフスク赤衛師団。

 人員こそ10,000名を超えては居るが、訓練も殆ど受けていない民兵であった。

 最後の1つは、ハバロフスク忠勇突撃師団。

 勇ましい名前ではあるが、此方の内情は悲惨そのものであった。戦災孤児となった未成年の子どもや寡婦となった女性たちをかき集めてでっち上げた部隊であった。

 武器すらも十分では無い。

 やけくそ染みた極東赤旗総戦線の命令で編成された部隊であったが、恥と常識、そして良識を残していた第1赤旗戦線の参謀たちは誰もがこのハバロフスク忠勇突撃師団を実戦投入したいなどとは欠片も思っていなかった。

 それでも尚、降伏しないのは第1赤旗戦線にとって一縷の望みがあったからだ。

 第13赤旗師団だ。

 ヤクーツク盆地方面に展開していた第13赤旗師団は、日本第201師団との交戦を重ね敗北を繰り返しては居たが、分散配置されていたが為に、師団本隊が完全に捕捉されずに生き延びていたのだ。

 日本側も航空偵察などで必死になって捜索してはいたが、純然たる歩兵師団 ―― 機械化装備を殆ど持たず、小部隊に分かれて行動する第13赤旗師団を発見出来ずにいた。

 この第13赤旗師団がハバロフスク包囲部隊と交戦した際に、第1赤旗戦線は第11赤旗歩兵師団とハバロフスク赤衛師団を伴って脱出する積りであったのだ。

 ハバロフスク忠勇突撃師団に対しては、降伏するハバロフスクに残し老人や病人、一般市民の保護に当たらせる積りであったのだ。

 だが、事は簡単に終わらなかった。

 日本側が第13赤旗師団の捕捉撃滅の為、そして連戦している日本連邦統合軍第1軍団を休息させる為に、日本連邦統合軍第2軍団を編制し、ニコライエフスクナムーレに上陸させたのだ。

 日本統合軍第2軍団は上陸時点で第2機械化師団、第603自動化師団、そして台湾からの第302機甲旅団で構成されていた(※3)。

 そこに第201機械化師団が日本連邦統合軍第1軍団から移管し、又、シベリア独立軍集成第2師団も編入されていた。

 これは、第13赤旗師団の捕捉撃滅後、素早くシベリア北部を鎮定する事を目的とするからであった。

 日本連邦統合軍第2軍団は、ユーラシア大陸上陸後、素早くソ連第13赤旗師団の捕捉撃滅に動き出す。

 

 

 

 

 

(※1)

 尚、第10航空団本隊は東部シベリアの航空優勢を固める事が出来た事、開戦劈頭から前線に立ち続けていた事も加味されて、朝鮮共和国へと後退させて休養と再訓練を行う事とされた。

 第10航空団の穴埋めは、第8航空団朝鮮飛行隊が行うものとされた。

 後に第8航空団は朝鮮半島へと移動し、第10航空団と共にユーラシア方面飛行隊へと拡大再編成される事となる。

 

 

(※2)

 F-5戦闘機自体はシベリア東部空域での第10航空団所属機の方が派手に活躍してはいたのだが、如何せん自衛隊は文化的な衝突を恐れてアメリカ人記者を積極的に受け入れておらず、又、アメリカ人記者側もアメリカ以外の状況にはさしたる興味も示していなかった為、アメリカの一般人がF-5に触れたのはこれが初めてだったのだ。

 更には日本側がAWACS機を頂点とする広域のネットワーク戦に関する情報を出さぬ為に、アメリカ人記者に関心を持たれない様に積極的にF-5戦闘機の宣伝を行った。

 記者をコクピットに座らせるサービスすら行った。

 電源の入っていないF-5戦闘機のコクピットはタッチパネルの集合体でしか無い為、電源車を付けて機上訓練モードを一部動かして見せる程の大サービスを行った。

 これによってアメリカ人記者は益々、F-5戦闘機を未来戦闘機であると認識するようになった。

 尚、これ以降に第11航空団はオーバーなネーミングの大好きなアメリカ人たちからサムライ・キャバリー航空団とも呼ばれる事となる。

 

 

(※3)

 日本連邦統合軍第1軍団の朝鮮共和国部隊である第201機械化師団の活躍がこの派兵に繋がった。

 日本連邦国の中で、元日本帝国の植民地であったという事で、台湾民国と朝鮮共和国は微妙なライバル意識があり、何かと張り合う事が多かったのだ。

 最初は台湾民国側も最精鋭である第301機械化師団の派遣を検討していたのだが、日本防衛総省が止めたのだ。

 チャイナへの抑えとして、台湾から大規模な部隊を抽出するのは良策では無いと説得した。

 この為、第302機甲師団が選ばれたのであった。

 

 

 

 

 

 




2019.06.12 表題修正
2022.10.18 構成修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

035 シベリア独立戦争-08

+

 シベリア独立戦争は開戦から1月以上が経過し、全体の流れとしては日本/アメリカ側に勝利の天秤は傾きつつあった。

 この状況に焦りを覚えたスターリンは、ウラル山脈の麓は西シベリア低地の西方域で行っていた第3赤旗戦線の編成を5個師団2個旅団(※1)で止めて早期にシベリアへと投入する事を決断する。

 その上で、ソ連を戦時体制 ―― 国家総力戦の体制へと移行させ、3桁単位での師団を創設し報復する事を検討した。

 だが、それにソ連の国内事情が待ったをかけた。

 国力を涵養する5ヵ年計画に必要な予算を国民への重税で賄っていたソ連経済は、ここで労働人口を兵士として奪われてしまっては早晩に破産する事になってしまう事が予想されていた。

 国内経済を見ていた官僚たちは、現時点ではソ連経済の不良債権と言って良いシベリアを切り捨てる方が、シベリアの独立を阻止する為に戦費を積み上げるよりも良いというレポートを提出していた(※2)。

 問題は、ソ連とスターリンの面子が潰されるという事であった。

 最終的にはポーランドとの友好関係を強化する事で、ソ連の西方の部隊を投入出来ないか検討する事となる。

 

 

――沿海州・ハバロフスク攻防戦-2(D-Day+48~52)

 第13赤旗師団は1個連隊規模の部隊を囮としてハバロフスクへと移動した。

 この囮に日本連邦統合軍第2軍団は見事に引っかかり、アルダン高原に向かって誘引されていた。

 ハバロフスクを包囲していた日本連邦統合軍第1軍団は決して油断していた訳では無かったが、降伏せしめたハバロフスク-ウラジオストク打通作戦部隊(以後、HB打通作戦部隊と呼称)の後送その他で人手を取られており、どうしても厳重な警戒が出来ていない状態にあった。

 そのお蔭で、第13赤旗師団は日本軍に発見される事無くハバロフスクまで20㎞の所まで接近する事に成功した。

 そこまで接近した第13赤旗師団は、始めて全力で戦闘行動を開始する。

 その動きにハバロフスクの第11赤旗歩兵師団と、ハバロフスク赤衛師団が呼応。

 3個師団による解囲脱出作戦、対するのは日本も3個師団、第17機械化師団、第601機械化師団、そしてシベリア独立軍の集成第1師団であった。

 とは言え第17師団は降伏したHB打通作戦部隊への対応に動いており(※3)、実質1個師団強規模の戦力での迎撃となった。

 数的不利の上で挟撃された為、第601機械化師団は無理せずに後退。

 問題はシベリア独立軍集成第1師団が頑強過ぎるレベルで撤退を拒否したという事だった。

 スターリンへの恐怖を裏に隠していたシベリア独立軍は、それ故にソ連軍との戦いで必要以上に前に出ようと言う悪癖を抱えていたのだ。

 これには日本連邦統合軍第1軍団も慌てた。

 この様な場所でシベリア独立軍の象徴的位置にある集成第1師団を失う訳にはいかないのだ。

 第17機械化師団で即応できた部隊と第601機械化師団での全力反撃を行った。

 戦いは乱戦となり、容易に極地制圧用攻撃機による航空支援も難しい程に前線が入り乱れる形となった。

 日本側も必死であり、ソ連側も必死となった。

 激しい戦闘は1昼夜に及んだ。

 日本側は戦線を整理し、航空支援で一気に戦闘を片付けようとした。

 ソ連は、そうはさせまいと被害を無視してまで日本側に食らいつこうとした。

 だが、そこで物資の不足が出た。

 如何に戦意が在ろうとも弾薬が無ければ戦えない。食料が無ければ動けない。

 激しく部隊が衝突して2日目の朝、ソ連軍は戦闘能力を喪失し、昼には行動能力すら喪失した。

 そして3日目、ソ連軍は組織的な抗戦能力まで喪失した。

 日本連邦統合軍第1軍団は、急いで南下させた日本連邦統合軍第2師団の部隊と共にソ連軍3個師団を包囲下に収める事に成功した。

 ソ連軍の作戦は失敗したのだ。

 日本は1時間の猶予を与えて降伏を要求。

 ソ連側は、生き残っていた上級指揮官が降伏を受諾する事を選んだ。

 問題はハバロフスクであった。

 同市に残っていた政治将校が徹底抗戦を叫び、ハバロフスク忠勇突撃師団があると宣言したのだ。

 これには市上層部と、傷病者の為に責任者として残留していたソ連軍上級将校も慌て、諌めた。

 だが教条主義的な政治将校は、それらの行為を反革命的だと断じ、捕縛し処罰しようとした。

 この為、ソ連軍責任者は、携帯していた拳銃でこの常軌を逸していた政治将校を射殺する。

 これをもってハバロフスクを巡る戦闘は決着する事となった。

 同時にそれは、シベリア東部域をシベリア独立派が掌握した事を意味した。

 

 

――ハバロフスク・シベリア独立派(D-Day+55)

 ハバロフスクに入ったシベリア独立派は、シベリア市庁舎を借り上げてシベリア共和国の本陣とした。

 そして、日本、アメリカ、オホーツク共和国、フロンティア共和国、朝鮮共和国、台湾民国、ブリテン、フランスの政府代表と共に、シベリア共和国の建国を宣言した。

 シベリア共和国の建国承認は、直ちに国際連盟の議題となった。

 ソ連やドイツ、イタリアの反対の中、G4諸国の根回しもあって多数決により承認される事となる。

 

 

 

 

 

 

(※1)

 2個旅団は、それぞれドイツとイタリアからの義勇部隊であった。

 

 

(※2)

 レポートの作成者は、スターリンから本当にシベリアはソ連経済にとって不良債権であるかの再確認をして来てほしいと頼まれ、西シベリア低地にて木を数えると言う名誉ある仕事を賜る事となる。

 

 

(※3)

 オホーツク共和国の第601機械化師団やシベリア独立軍の集成第1師団は元々がソ連の同胞であった事から感情的なしこりとトラブルが予想された為、第17機械化師団でHB打通作戦部隊の処理 ―― 人員の組み分けと後方への後送作戦を行っていた。

 この上で、シベリア独立軍の集成第1師団は速成部隊である為、練度と装備で不安があった。

 

 

 

 

 

 




2019.06.12 表題修正
2022.10.18 構成修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

036 シベリア独立戦争-09

+

 ハバロフスク ―― シベリア東部域の陥落はソ連に予想されていた、だが大きな衝撃を与えた。

 スターリンの機嫌は極端に悪化した。

 スターリンはソ連軍に対してイルクーツクの死守を厳命した。

 だが、ソ連軍首脳陣はスターリンの言葉に唯々諾々と従わなかった。

 日本軍の爆撃機によるインフラの破壊戦術によって、第2赤旗戦線のシベリア輸送が遅々として進んではいない為、一部部隊を無理にでもイルクーツクへと送り込むよりもクラスノヤルスクを要塞化し、エニセイ川を防衛ラインとして活用する事を提案した。

 日本/アメリカ側にとって、中央シベリア高原を越えて補給する事は困難が伴うであろう事から、第2赤旗戦線と第3赤旗戦線の総力を挙げて迎撃する事で日本とアメリカその他の軍を粉砕し、その後、余勢をかって反撃する事を提案するのだった。

 その上でポーランドに隣接する西部から戦力を抽出し5個師団規模の第4赤旗戦線を編制すれば勝てるというのが、ソ連軍上層部の判断であった。

 この意見にスターリンも納得する。

 だがこの戦略は、ポーランドが不戦協定を結ぶ事を拒否した為に難航する。

 正確には、不戦協定に付随して相互に国境線から500㎞の地域に軍を配置しない聖域設定への大反発である。

 余りにもソ連にとって都合のよい要求に、ポーランドは激怒したのだ(※1)。

 交渉を重ねる事で不戦協定自体は合意に達したが、国境線からポーランド軍を後退させる事には失敗する。

 

 

――イルクーツク方面・日本/アメリカ(D-Day+57~)

 重要な補給線であるシベリア鉄道への破壊工作に対応する為、日本はAP-3による哨戒を実施する。

 併せて鉄道の早期復旧に努める事となる。

 全域での復旧に2週間を見る事となった為、この期間、攻勢の手を緩める事となる。

 だが同時に、シベリア東部域で展開していた部隊を集合させる時間ともなった。

 又、シベリア東部を完全に掌握した結果、沿海州などからもシベリア独立軍へ参加する市民が増大し、6個の旅団が追加で編成される事となった。

 装備は降伏したソ連軍の物や、アメリカが世界大戦時に使用していた旧式などであったが、治安維持部隊として速成され、各地に食料生活物資などを持って展開していく事となる(※2)。

 

日本

 日本連邦統合軍第1軍団(3個師団1個旅団)

  第17機械化師団

  第601機械化師団

  第101海兵旅団

  集成第1師団(シベリア独立派)

 日本連邦統合軍第2軍団(4個師団1個旅団)

  第2機械化師団

  第603自動化師団

  第201機械化師団

  第302機甲旅団

  集成第2師団(シベリア独立派)

アメリカ

 第1シベリア軍団(5個師団)

  第11師団

  第14師団

  第2戦車師団

  第1歩兵師団(フロンティア共和国)

  第2歩兵師団(フロンティア共和国)

 

 航空部隊の集結も行われている。

 ソ連側が数で来る事に対応する為、アメリカも陸軍航空隊を追加配備する。

 この為、日本/アメリカ側もイルクーツク方面に宛てられる航空戦力は400機を超える事となる。

 又、この時点で、戦争期間中に限りという暫定措置で日本製の機載無線機がアメリカ軍機にも搭載される事となった。

 これによって、アメリカの航空部隊の運用効率が劇的に向上する事となる。

 

 

――イルクーツク方面・ソ連(D-Day+61)

 現時点でソ連側がイルクーツクに集結出来た戦力は2個師団規模の歩兵部隊と、500機を超える戦闘機部隊だけであった。

 生還率の低い偵察機による強行偵察や、潜伏しているチャイナ共産党からの情報によって、日本/アメリカ連合軍が10個師団を超える戦力を集結させつつある事を把握したソ連は、イルクーツクの防衛は不可能と判断。

 以後、遅滞戦闘を行う事を選択する。

 又、イルクーツクからクラスノヤルスクまでの道中にある都市は物資も建物も全て焼き払う、焦土戦術の命令がスターリンによって厳命される事となる。

 この事が現地住民の怒りを買う事となる。

 重税によって生活はギリギリであったものが、更に戦争によって焼かれる。

 食料も家も。

 その情報を先行して情報収集していたシベリア独立軍偵察部隊が把握し、日本/アメリカの合同司令部へ報告した。

 日本は戦略爆撃機による物流インフラの破壊のみならず、市区町村に向けた宣伝ビラを散布していく事となる。

 これらの事から、ソ連は人民から見捨てられる事となる。

 

 

――チタ・日本/アメリカ(D-Day+61~)

 ソ連の遅滞戦術を把握した日本/アメリカ合同作戦司令部は1つの案を出した。

 機動力と機械的信頼性に優れる装備を持った日本は、その2個軍団をもってバイカル湖を北回りに迂回突破する事で、一挙にイルクーツクを抜いてソ連軍の後方を脅かそうと言うのだ。

 併せて、アメリカ第1シベリア軍団はソ連の耳目を集める為にもイルクーツクを正面から殴り掛かるものとされた。

 作戦名はNutcracker(くるみ割り)作戦とされた。

 日本とアメリカの軍によってソ連軍を挟み込み、一気に叩き潰すのだ。

 ソ連はシベリア鉄道沿線に部隊を集中して配置して居た為、日本の動きを把握出来なかった。

 又、日本の道中にあった村々はシベリア独立派が手を回しており、その動きをソ連に伝える事は無かった。

 そしてソ連による航空機の偵察は、日本が全力で封殺していた。

 この為、ソ連が日本の迂回突破に気付いたのは日本軍の先遣部隊がクラスノヤルスクに200㎞まで迫った時であった。

 同時に、その時点でイルクーツクからクラスノヤルスク間にある大規模な都市にはそれぞれ師団規模で効力部隊を送り込んでいたのだ。

 迂回突破と全面展開である。

 ソ連側はパニックに陥った。

 慌ててソ連軍はクラスノヤルスクの防備を固めつつ、航空部隊による偵察と襲撃を試みた。

 如何に航空機の性能に優れる日本とは言え、クラスノヤルスクはソ連の内懐であり、航空優勢は得られると踏んでの行動であった。

 だが、ソ連機とは比べ物にならない程に足の長い日本のF-5戦闘機部隊は、バイカル湖付近からでも余裕でクラスノヤルスクまでの航空優勢を握った。

 その上で、日本の陸上部隊が持っている防空力があった。

 幸運にもF-5部隊の迎撃を受けなかったソ連軍機であっても、日本の部隊に近づけば片端から撃墜されていくのだ。

 抵抗出来る筈も無かった。

 そして日本を相手に混乱し、航空部隊を振り向けた結果、航空部隊という傘を失い丸裸となったイルクーツク方面に残っていた第1赤旗戦線の2個師団は、アメリカの力押しとも言える攻撃に打ち破られる事となる。

 その上で、撤退すべき後方の無い第1赤旗戦線は、その司令部ごとアメリカに降伏する事となる。

 尚、イルクーツクではアメリカとソ連の戦車部隊の衝突が初めて発生した。

 ソ連のBT戦車隊は、日本の31式戦車でないならとそう負けはすまいとアメリカのM2戦車隊に果敢に戦いを挑んだが、その結果は完敗となった。

 足回りこそ技術的な熟成が進んではいないアメリカM2戦車であったが、攻撃力と装甲に於いてBT戦車を遥かに優越しているのだ。

 その上で、グアム共和国軍(在日米軍)から先進的な戦術を伝授されているのだ。

 負けるはず等無かった。

 この結果、クラスノヤルスクから以東は、たった2週間余りでソ連から切り取られる事となった。

 

 

 

 

 

(※1)

 ポーランドは将来のソ連との戦争を睨んだ国境防衛作戦を策定していた。

 それが500㎞から後退するとなれば、破綻するのだ。

 ポーランドが反発するのも当然であった。

 同時にポーランド政府のスケベ心、ソ連と戦争を行っている日本とアメリカへ恩義を売って何らかの支援を受けようと言う狙いがあった。

 ソ連から反感を買う事にはなるが、元よりソ連は敵国であると覚悟を決めていた為に特には問題視されなかった。

 実際、このポーランドの判断に対する感謝として、日本はポーランドに対する貿易制限を緩める事となり、ODAが実施される事となる。

 

 

(※2)

 日本とアメリカからの低利融資として行われた食料と生活物資の融通は、シベリアの非独立派住民の歓心を買う事に成功する。

 この事がシベリア独立派の足場固めに大いに役立つ事となる。

 一般市民はソヴィエトであろうが無かろうが、先ず生活が大事であったのだ。

 この為、安全の確保された場所から交通インフラの再建に、ODAとして日本とアメリカの企業が出て来る事となる。

 特にシベリア鉄道に関しては、戦争へも直接的な影響を与える為、高い優先度をもって復旧と、複線化が推し進められる事となる。

 

 

 

 

 

 




2019.06.12 表題修正
2022.10.18 構成修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

037 シベリア独立戦争-10

+

 クラスノヤルスク以東を失ったソ連は、最終防衛ラインをノヴォシビルスクに定めて戦力の集中を行う事となった。

 市街地の要塞化を推し進め、陸軍は8個師団の歩兵師団と2個師団の戦車師団。ドイツとイタリアから来た義勇旅団が併せて2個居る。

 この他、オビ川北部に3個歩兵師団が広く展開しており、万が一の日本軍による迂回突破を警戒させるのだった。

 時間の掛かる事ではあったが、ソ連にとって幸いな事に日本/アメリカ連合軍も動きがクラスノヤルスクの攻略後、補給線の構築と物資の備蓄、そして部隊の休息と再編制を行う為に不活発化しており、問題は無かった。

 だが同時にソ連の指導者であるスターリンは、この戦争の趨勢からノヴォシビルスクが護りきれると思う程に楽観は出来なかった。

 師団数で言えば、ほぼ同数であり、これにノヴォシビルスクに籠って戦う事を加味すれば彼我の戦力差は倍以上になる。

 だがその計算は今までもしていたのだ。

 戦争の指導者として常に数的優位を得られる様に配慮してきていたのだ。

 にも関わらず、常に一方的に負け続けたのだ。

 であればノヴォシビルスク防衛戦でも、一方的に負けてしまうのではないかとスターリンが危惧するのも当然であった。

 かと言ってシベリアの中心であるノヴォシビルスクを、シベリア独立派を自称する叛徒に明け渡す事は断じて許容できる話では無かった。

 5ヵ年計画で少なくない予算を投じたクズネツク工業地帯が失われるなど、認められる話では無かった。

 故にスターリンは国際連盟を介して日本とアメリカへの停戦を呼びかける事とした。

 バイカル湖以東をシベリア自治州としてスラブ人の自治を認めるので、ソ連への復帰を呼びかけたのだ。

 シベリア独立派に対しては、本騒乱に於ける一切の責任は問わない事を宣言した。

 日本とアメリカに対しては、シベリア自治州内に限って自由な経済活動を認める事とした。

 スターリンとしては大きく譲歩した積りであったが、日本、アメリカ、シベリア共和国は話にならぬと一蹴した。

 既に戦争の大勢は日本とアメリカに傾いており、シベリア共和国の独立も宣言したのだ。

 その様な状況でスターリンの虫の良すぎる提案を受け入れる道理は無かった。

 とは言え、日本とアメリカとてソ連を屈服させる為にモスクワまで進軍するのは余りにも戦争経費が掛かり過ぎるとして、どこかで手打ちをする道を探っていた。

 シベリアの独立戦争は、開戦から3ヶ月目に入ると共に、政治的な色彩を強める事となった。

 

 

――日本(D-Day+65)

 日本にとって一番に憂慮するべき事は、ソ連との戦争にどこまでも引きずり込まれる事である。

 過去の日中戦争の様に何処までも逃げられてしまえば、泥沼の戦争となってしまう。

 まだ日本世論は横暴なソ連への反感で一杯であり、又戦争自体も優位である事 ―― 日本人の死傷者は500名にも届いておらず、そもそも連戦連勝である事が後押しし、戦争に対しては好意的であるが、それが何時までも続くと思う程、日本政府は呑気では無かった(※1)。

 それどころか、いつひっくり返ってしまうかと怯えてすらいた。

 その意味では、話にならぬ内容であってもスターリンが停戦と講和を呼びかけた事は好機であると認識していた。

 とは言え、オビ川以東をシベリア共和国として独立させるのは絶対条件であった。

 独立したシベリア共和国が独立国家としてソ連と対峙し国家を運営する為には、クズネツク工業地帯が絶対に必要であるという計算があったのだ。

 それは、内閣府の下に大学などと連携して作られたシベリアの独立後の国家運営に関する検討本部、通称シベ検による報告書を元にした判断であった。

 沿海州などの資源地帯だけでは、ソ連に抵抗出来ない。

 クズネツク工業/資源地帯を持たずバイカル湖以東でシベリア共和国が独立した場合、シベリアは国力の増進を図る事が困難であり、この場合、独立から10年でソ連の軍事的圧力に抗しかねてソ連との緩やかな連合化、最終的には自治州としての再併合となるだろうと言うのが、シベ検の報告書であった。

 そうなってしまえば、シベリア独立戦争に費やした戦費は全くの無駄になり、沿海州を中心に日本の持つ権益も奪われてしまうだろう。

 その様な事、日本としては断じて認める訳にはいかなかった。

 よって日本は、ソ連の継戦能力の背骨を折る事を検討する事となる。

 標的はスターリン。

 スターリンの心を狙う作戦を検討する事となる。

 

 

――チャイナ共産党(D-Day+66)

 スターリンから命令された、日本/アメリカ連合軍の補給線を叩くという作戦は、執拗なまでの日本の哨戒によって十分に成功出来ては居なかった。

 シベリア鉄道の線路を破壊しようと爆薬を持ち込もうとしても、センサーで把握され問答無用に攻撃を受けるという恐ろしさであった。

 失敗が2桁に達した頃、チャイナ共産党は主目的をシベリアでの破壊工作では無くより後方、フロンティア共和国やウラジオストクでのテロ活動に絞る事とした。

 経済的な混乱が発生すれば軍事活動にも大なる影響が出るという判断であった。

 実際、チャイナ人の少ないウラジオストクは兎も角、構成人口の過半数をチャイナ人が占めるフロンティア共和国での破壊工作は面白い様に成功した。

 この為、シベリア独立戦争に投入予定であったフロンティア共和国の3個歩兵師団が治安維持任務に投じられると言う大金星すら上げる事に成功した。

 だがその代償は大きかった。

 フロンティア共和国内でのチャイナ人の立場が一気に悪化したのだ。

 アメリカは、チャイナ共産党が隠れる人民の海 ―― フロンティア共和国内のチャイナ人社会を徹底的に破壊する事を選んだのだ。

 チャイナ共産党に懸賞を掛け、又、チャイナ共産党を支持した人間は悉く、フロンティア共和国から追放した。

 その上で、犯罪歴のある者も、軽微とは言い難い罪であれば家族もろともフロンティア共和国から追放する事を選んだ。

 空恐ろしい程の弾圧であった。

 アメリカ人入植者にチャイナ共産党員と間違われた無辜のチャイナ人が射殺されるという痛ましい事故もあった。

 だがそれでも弾圧は続けられた。

 労働人口としてロシア人やユダヤ人、果てはアメリカ本土で喰いつめたアフリカ系アメリカ人までもが流入して来ている為、労働集団としてのチャイナ人の価値が相対的に低下していた事が、この事態を後押しする事となった。

 この事が一般のチャイナ人にコーカソイド系を主とするフロンティア共和国構成民族への強い反発を生む事となり、フロンティア共和国は騒乱の大地へと変貌していく事となる。

 この燻っている状態に、チャイナ共産党は油を注ぎ続けるのであった。

 

 

――ソ連(D-Day+67)

 腰の定まらないスターリンであったが、ソ連と言う国家は先に定めた予定に従って、戦力の集中を行っていた。

 対ポーランド向け部隊を残して、第4赤旗戦線として20個師団がシベリアに向けて動員されて行く事となる。

 未だ日本の爆撃を受けていないエカテリンブルグに集結させ、移送を行っていた。

 都合30個師団規模の戦力。

 その報告を見た時、スターリンは恐れおののいた。

 気が付けばソ連の持つ軍事力の半数以上をシベリアに投入している。これが失われてしまえば動員を掛けるしか無くなる。

 その影響は確実にソ連経済を蝕むだろう。

 とは言え、1つの勝利も無く退いてしまえばスターリンの権威に手酷いダメージを与える事になり、ソ連の崩壊すら招きかねない。

 スターリンは決断した。

 G4でソ連に比較的融和なフランスを介して日本/アメリカとの非公式な停戦に向けた協議を行う事を。

 

 

 

 

 

 

(※1)

 実際問題として、野党が国会で連日の如く政府与党を批判し続けている。

 又、教条的憲法固守派にして反戦主義者がデモを行っており、この対応を誤れば、有権者が政府与党を傲慢であると認識する恐れがあり、そうなれば戦争への支持どころか政府与党への支持も吹き飛ぶ恐れがあった。

 この為、政府与党は慎重な対応を行っていた。

 

 

 

 

 

 




2019.06.12 表題修正
2022.10.18 構成修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

038 シベリア独立戦争-11

+

 2ヶ月を超えるシベリア独立戦争、日本/アメリカとソ連の正面衝突は恐ろしい現実を世界に教えた。

 日本とアメリカの経済力だ。

 戦費に息切れを起こしつつあるソ連に対し、日本もアメリカも莫大な戦費を費やしているにも関わらず戦時国債の発行などをする事もなく本国では余裕で平時体制のままであった。

 戦況の報道もほぼ無制限に行われており、各国の観戦武官も受け入れていた。

 戦場を見るよりも雄弁に、どちらが勝っているかを教えていた。

 この状況にニューヨークやロンドンの金融市場では、安定した金融資産を求める富裕層が日本国債を求める動きが出る事となる。

 当初日本は日本国債の海外売却には積極的では無かったが、ニューヨークやロンドンの金融市場の意向を受けた両国政府からの熱心な要請を受ける形で発行した日本国債の1割を提供する事となった。

 尚、ソ連も戦費調達の為に戦時国債を発行しようとしたが、大口の買い手が付かぬ有様であった。

 

 

――ノヴォシビルスク攻防戦(D-Day+69~83)

 夏の気配が去りつつある中、本格的なノヴォシビルスクを巡る戦いが始まった。

 ノヴォシビルスクはシベリアの首都と呼ばれる程の大都市であり、ソ連は市民を疎開させていなかった。

 大都市の人口と10個師団を超える兵士を抱えたノヴォシビルスクは、さながら大要塞であった。

 日本とアメリカはこの要塞に対し、敵味方市民を問わず大被害が予想される攻略戦 ―― 市街戦を仕掛ける行うのではなく、ソ連軍ごと都市部を完全に包囲し、補給を断つ事で降伏を強いる予定であった。

 戦費の余裕、補給の充実、戦力の優位がこの横綱相撲とも言うべき方針を日本/アメリカ連合軍に許していた。

 この日本/アメリカの行動を察知したソ連は、第2のハバロフスクを起してなるものかと応戦に出る事となる。

 特にソ連が警戒したのは日本軍であった。

 日本軍がオビ川を渡河し、後方で暴れられては溜まらぬとばかりにありったけの機甲部隊をぶつけた。

 主力は新鋭のKV-1戦車であり、ドイツとイタリアの義勇部隊 ―― 装甲旅団も参加していた。

 地の利を得ていると信じたソ連軍はオビ川の渡河を図っていた日本軍2個師団に、実に1000両近い戦車対戦車車両装甲車部隊で日本軍に殴り掛かったのだ。

 そして敗北した。

 クラスノヤルスク攻略後に再編成された日本軍は、8個師団と大規模化した部隊を纏める為にシベリア総軍を編制する。

 同時に、旧来の第1軍団と第2軍団をそれぞれ軍集団へと改編した。

 渡河命令が下ったのは、その第2軍集団隷下の第21軍団であった。

 所属しているのは第2機械化師団と集成第2師団(シベリア独立軍)だ。

 平成の御代より陸上自衛隊最精鋭師団として名を知られていた第2師団は、タイムスリップ後の拡大再編成で重機械化師団へと強化されていた。

 自走榴弾砲や連隊規模の対戦車部隊などを定数で抱えていた。

 だが一番は、10式戦車3個大隊で編成されている第2戦車連隊であろう。

 100両を超える10式戦車は10倍を超える相手を蹂躙し、壊滅せしめたのだ。

 見た時は死ぬ時(キャッチ・アンド・キル)

 第2機械化師団に連絡将校として派遣されていたアメリカ軍将校は、10式戦車を31式戦車の比では無い、戦車の様な戦車では無い何かであったと評していた(※1)。

 又、アメリカ軍も活躍していた。

 特に野砲部隊は、ソ連軍がノヴォシビルスクの外周に配置していた部隊を片っ端から焼き払っていた。

 制空権を奪って以降は、戦闘機にまで爆装して空襲を行っていた。

 この1連の戦いで5個師団規模の戦力と機甲車両を根こそぎに失ったソ連軍であったが、それでも戦意が折れる事は無かった。

 日本とアメリカに包囲され、補給は断たれ、物資の集積場所へは応射出来ない遠距離から野砲を叩きこまれ、都市外周に配置された重装備は遠距離から戦車砲で狙撃され、川は奪われ戦闘艇も漁船も輸送船も問わず焼き払われ、空は奪われ兵隊が見える所に居れば銃撃が行われる様な状態になってもまだ戦意を保っていた。

 それ程にスターリンは恐ろしかったのだ。

 そのスターリンへの報告は、極東赤旗総戦線は日本とアメリカの帝国主義者に必死になって抗戦していると言うものであった。

 そして、出来るだけ早期の支援部隊の投入、そしてノヴォシビルスクへの補給を望む内容であった。

 スターリンは極東赤旗総戦線に対し、派遣準備中の20個師団のみならず残る航空隊も1000機単位で増援として送る事を約束していた(※2)。

 だが、国際関係の変化が、それを押しとどめる事となる。

 日本とポーランドの接近である。

 

 

――外交・日本/ポーランド(D-Day+74)

 駐ポーランド日本大使館は、ポーランド政府と共同で記者会見を行い、両国の親善と友好を謳ったのだ。

 同時に、その友好の証として日本から土木建機の提供が予定されている事も公表された。

 この発表の場で慌てたのはソ連のマスコミである。

 すわ、ソ連に対する西側からの参戦かと慌てたのだ。

 これに対し日本の大使が、あくまでも平和的な関係である事を強調した。

 その上で、日本から親善団が派遣される予定である事を付け加えた。

 護衛艦むさしを旗艦とする護衛部隊と共に、ポーランドを訪問する予定であると。

 ソ連は恐怖した。

 戦略的存在である戦艦を軽々しく欧州へと派遣する日本の姿勢に、そしてレニングラードに強襲上陸戦をされてしまえばとの想定に。

 日本は平和的であると主張していたが、それをソ連は、スターリンは信じる事が出来る筈が無かった。

 

 

――航空宣伝戦・日本(D-Day+75)

 ソ連の、スターリンの継戦意欲をくじく為、日本はグアム共和国軍(在日米軍)の戦略爆撃機を動員した。

 目標はモスクワ。

 冷戦時代でも、ポスト冷戦期でも行われなかった、米軍機によるモスクワの蹂躙に、爆撃機パイロットたちは色めき立った。

 但し、落とすのは爆弾では無くチラシである。

 早期の停戦を呼びかける、平和を希求する内容のチラシだ。

 それを、ソ連航空隊が到達し得ない高々度から行うのだ。

 宣伝的な爆撃。

 当然、宣伝にはBGMが重要である為、無線 ―― 国際チャンネルでアベ・マリアを流しながら行うのだ。

 爆撃機パイロット達は歓声を上げた。

 只、戦略爆撃機の数は少ない為に日本海上自衛隊からP-1部隊もありったけ動員された。

 こうして都合約100機となった部隊は親善航空隊(モスクワ・エクスプレス)と命名された。

 作戦名はSC(サンタクロース)、誰もがその意味を違える事は無かった。

 

 

――終戦への経緯・ソ連(D-Day+78)

 モスクワの空を侵されて以降、ウラル山脈周辺の都市部にも日本軍機が侵入してはビラを散布する様になった。

 内容は一様に、平和を希求するものであった。

 だがスターリンはその意図を誤解する事無く受け取っていた。

 脅しである。

 必要があればソ連経済にとっての背骨とも言うべきウラル工業地帯を焼き払うと言う。

 スターリンは激怒した。

 だが、激怒したが対応する力は無かった。

 一縷の望みを掛けて、ノヴォシビルスクの部隊に決戦を命じようとしたが、実情を把握しているソ連軍上層部が止めた。

 それよりは、現時点でシベリアを損切りとして切り離し、ノヴォシビルスクの将兵を救出し、将来の捲土重来に備えるべきだと訴えたのだ。

 この訴えに、スターリンは激怒し、その晩はウォトカを痛飲し、翌日、ソ連軍上層部の要請を受け入れるのだった。

 3ヶ月に及んだ戦争は、ここに終結する事となる。

 

 

 

 

 

 

(※1)

 口の悪いイギリス軍観戦武官は、「Type-31は世界にショックを与えた。Type-10は敵に絶望を与えた」と評した。

 

 

(※2)

 この時点でソ連軍航空機の消耗は2000機を越えており、機体よりも1線級パイロットの消耗がソ連軍にとって手痛い事となっていた。

 AWACSの管制下で確認も出来ぬ遠距離からP-SAMを撃って来る日本軍機は兎も角、AWACSによる支援を受けているとはいえ従来の航空戦の延長にあるアメリカ軍機には、開戦当初はある程度は抵抗出来ていたソ連軍航空隊が、熟練パイロットの払底に伴いキルレシオが一挙に悪化しだしていたのだ。

 ソ連航空隊は規模こそまだまだ1級であったが、その戦力としての価値は急速に失われつつあった。

 それでも、日本/アメリカによる空爆が行われようとすれば、ノヴォシビルスクの士気を護る為にも出撃せざる得ぬのだ。

 ソ連航空隊は、傷の止血をせぬままに戦っている様なものであった。

 

 

 

 

 

 




2019.06.04 誤字脱字の修正実施
2019.06.04 表現の一部変更を実施
2019.06.12 表題のナンバリング修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

039 シベリア独立とその周辺余波

+

 3ヶ月に及んだ戦争は、その最後の戦いの場所であるノヴォシビルスクにて講和条約が結ばれた。

 内容はオビ川以東をシベリア共和国の地として認め、オビ川以西をソ連の地として認める相互承認と、不可侵条約の締結であった。

 全くと言って良い程、良い所の無かったソ連は、この後、スターリンが国内引き締めの為の粛清を強化していく事となる。

 

 

――シベリア共和国

 独立に成功したシベリア共和国は、その存続の為に日本とアメリカとの間に様々な条約を締結する事となる。

 安全保障条約は[東ユーラシア安全保障協定]として、シベリア共和国とフロンティア共和国、そしてユダヤ人の自治国であるパルデス国(※1)を日本とアメリカが保証するものとなった。

 これは、同時に日本とアメリカの公式な同盟関係の始まりともなった。

 不足する食料や各種物資の供給に関しても、この安全保障協定の中で解決する事となる。

 その上でシベリア共和国は、民主主義国家として成り立って行く為の試行錯誤を続けていく事となる。

 経済的には、当面は日本とアメリカの企業活動による雇用が主的なものとなり、民族資本の涵養が遅れる事に関しては目を瞑る事となった。

 その代わり日本とアメリカに対しては、シベリア共和国内での経済活動の自由を与える対価として、法の遵守を厳格に行う事を要請する事となる。

 

 

――日本/シベリア共和国・国防交渉

 日本はシベリア共和国から戦車や航空機の売却要請を受ける事になる。

 当然、シベリア独立戦争の際に高性能を見せつけた10式戦車やF-5戦闘機を念頭に置いた要請であった。

 この交渉の場で日本は素直に10式戦車やF-5戦闘機はその調達コストや運用コストを開示し、それでも欲しいのかと尋ねた。

 シベリア共和国側は、その余りのコストの高さに衝撃を受けて、謝辞する事となる。

 とは言え、国防にその2つが欠かせない事もあり交渉を重ねる事となる。

 31式戦車ですら、シベリア共和国からすれば高性能ではあるが高額過ぎる為、数を揃える事が難しかった。

 この為、シベリア共和国は戦車に関しては当面はアメリカ製のM2戦車を導入する事で対応する事となった。

 同時に、日本政府に対して廉価な戦車と航空機の開発を要請する事となった。

 日本としても簡単に供給できる戦車などの重要性が認識された為、第3国向け装備の開発が行われる事となる(※2)。

 又、戦車等の戦闘用のみならず、トラック等も大量に日本から購入する事となる。

 この為、自動化と言う意味ではG4を除く国家としては1番先進的な軍隊へと成長する。

 又、この影響によってシベリア共和国内で自動車の運転能力、機械に触れた人間が劇的に増えた事が、シベリア開発への機械力の導入を簡単にした側面があった(※3)。

 

 

――パルデス国

 ユダヤ人のユダヤ人によるユダヤ人の国家として、建国された。

 その建国に関してはアメリカ内のユダヤ系財閥のサポートもであるが、ブリテンの支援も大きかった。

 世界大戦に於いて発行した空手形を、回収する為、全力で支援していた。

 とは言え、立地的には同盟関係にあるフロンティア共和国とシベリア共和国に囲まれている為、安全無比であり、心配は無かった。

 只、産業が乏しい為、主要産業は近隣諸国への出稼ぎ状態であった。

 乏しい財政の中、東ユーラシア安全保障協定に戦力を抽出している。

 

 

――アメリカ・フロンティア共和国

 シベリア独立戦争が終結した為、それまでは後回しにされていたフロンティア共和国内でのチャイナ共産党対策に乗り出した。

 又、チャイナ共産党に扇動された一部のチャイナ人も対象である。

 アメリカ政府は、シベリア独立戦争に投入していた各部隊をチャイナとの国境線に配置し、チャイナ人のフロンティア共和国への流入を阻止する事とした。

 この為に、日本に対して航空機による支援(※4)を要請する事となる。

 又、アメリカはフロンティア共和国-チャイナ間の国境線に関して、2km程の有刺鉄線による侵入禁止地帯を設置し、その地帯に入った者は不法入国者及び不法入国手配者として処断する事とした。

 物理的に、フロンティア共和国への窓口を絞る政策に出たのだ。

 この政策に対し、チャイナからはチャイナ人の蔑視政策であると強い反発が出たが、アメリカは不法入国を図る犯罪人に掛けるべき情けは無いと相手にもしなかった。

 又、フロンティア共和国内部での戸籍制度を厳格化する事とチャイナ共産党の情報に懸賞金を掛ける事で、チャイナ共産党のあぶり出しにも努める事となった。

 一連の政策は、フロンティア共和国内のチャイナ人も反発する事ともなった。

 だが、フロンティア共和国は、この政策に非難をした人間に強硬な対応を行い、力任せで沈静化させた。

 声を上げた人間は等しくチャイナ共産党関係者であるかと疑われ、最悪の場合には一族郎党が皆、フロンティア共和国から追放される憂き目にあうのだ。

 そんな状況下で声を上げ続けられる人間など居る筈も無かった。

 又、フロンティア共和国内でのチャイナ共産党の破壊活動の被害はチャイナ人にも等しく訪れており、その上、被害にあった他民族人から白い目で見られる状況が続いた為、最終的にはフロンティア共和国で一番にチャイナ共産党を嫌うのはチャイナ人となった。

 

 

――ソ連

 大幅に国土を失ったソ連、スターリンはその元凶をソ連赤軍の不甲斐なさであると断じ、軍への粛清を強行した。

 だが同時に、尉官級より下の人員に対しては手厚い対応を行った。

 又、持ち帰れた少なく貴重な戦訓を元に、戦車や航空機の開発を進める事となった。

 戦車は、自信を持って送り出した筈のKV-1が惨敗に終わった為に力を入れて開発が行われる事となった。

 機動力よりも攻撃力と防御力とを優先して日本戦車部隊と正面から戦える重戦車と、快速をもって日本戦車部隊を迂回突破して後方を破壊出来る機動戦車の2種類の開発を推し進める事となる(※5)。

 

 

――ドイツ・イタリア

 義勇部隊はごく一部しか生還しなかった。

 装甲車両は全て失われた。

 この為、得られた戦訓は、現有の戦車では日本の戦車に全く歯が立たないというだけであった。

 イタリアは重工業の限界から、ソ連に共同での機動戦車の開発を持ちかけた。

 ドイツは、10式戦車の系譜である31式戦車を200両保有する事となるフランスの存在に恐怖した。

 この為、本格的な50t級重戦車の開発に邁進する事となる。

 

 

 

 

 

(※1)

 パルデスとはヘブライ語で楽園の意味であり、この建国がユダヤ人にとってどれほどの願いであったかが良く判る命名となっている。

 当初はユダやジオン、イスラエルなどの名前も候補に挙がっていたが、最終的には中東に戻れた場合に使う名前として残された。

 

 

(※2)

 安価である事と、同時期の諸外国装備に優越する事が重視されている。

 同時にネットワーク戦非対応と、過度の先進技術(主に電子機器)を投入しない事も定められた。

 先ずはシベリア共和国向けに戦車と、足回りを共通化させた装甲車の開発が決定した。

 航空機はコストの面からエンジンの新規開発は行わず、アメリカから1000馬力級空冷エンジンを輸入し、それを再整備して採用した防空戦闘機の開発が決定した。

 只、航空機エンジンに関して購入相手の都合を考える上で水冷エンジンも選択肢に含める事を一部のメーカーが主張した為、別個に開発する事となった。

 2機種の並列開発に関しては、航空機開発技術者の養成を兼ねる面があり、若手主体で行われた。

 これは同時に、ベテランが関わっている戦略爆撃機開発が大詰めを迎えている事も原因であった。

 又、実戦投入されたAP-3制圧攻撃機の不具合 ―― 105㎜砲の反動の大きさに機体の構造へ過度の負担が掛かってしまった為、シベリア独立戦争後半で飛べる機体が半減してしまった事への対応にベテラン勢の手が掛かっているのも大きい。

 AP-3はシベリア独立戦争で大なる戦果を挙げている為、今後とも運用していく為に不具合の解消と共に様々な改良がおこなわれる事となっている。

 

 

(※3)

 農業に関して、日本が関与した事で農作物の品種改良を推し進める事となり、西シベリア低地での開拓事情が本格化していく事となる。

 昔ながらの村ではなく、企業化された大規模開拓事業団の様な村が幾つも西シベリアに出来る事となる。

 簡単に成功する訳では無いが、営々と努力が続いていく事となる。

 

 

(※4)

 日本に要請したのは空中からのセンサーによる不法入国者の捜索であった。

 日本はAP-3と、無人偵察機を派遣する事となる。

 この対価として1000馬力級エンジンのアメリカ国内向け価格での提供と、自由な改造を認める破格の権利をアメリカは日本に提供したのだ。

 

 

(※5)

 機動戦車開発に関する判断は、ソ連軍が10式戦車の情報を上手く得られなかった事が大きい。

 遠距離から一方的に殴殺された為、10式戦車の能力を図りきれなかったのだ。

 

 

 

 

 

 




2019/06/12 表題修正
2020/03/28 文章修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

040 スペイン内戦-1

+

 ユーラシア大陸の東側で激しい戦争が行われていた頃、同時に西端であるスペインで内戦が勃発していた。

 世界大戦の後に国内情勢の悪化していたスペインは、政権派と革命派とに分裂し、血で血を洗う内戦へと突入していたのだ。

 その状況に国際社会は積極的な対応を取れずにいた。

 誰の目にもスペイン政府の統治能力は破綻していたが、革命側が旗印とするのがドイツやイタリアの流れをくんだ国家社会主義であってはG4 ―― 欧州の管理者を自認するフランスとしては、積極的な支援を行いたいものでは無かった。

 又、純然たる国内問題である為、国際連盟としても関与し辛いというのが実情であった。

 

 

――ドイツ

 国際社会が腫れものを扱うが如く見ているスペイン内戦に、公然と革命派を支援する国があった。

 ドイツである。

 国家社会主義の同胞として、圧政を行う支配者を打倒する為に協力すると宣言して資金や物資の融通、機甲部隊や航空部隊を含めた大規模な義勇軍の派遣を行ったのだ(※1)。

 機甲部隊に関しては、ソ連に派遣されていた部隊とは違い、各種の実験的な戦車や装甲車も含まれて居た。

 ソ連へ送った部隊とは異なり、スペイン内戦に投入した部隊は新兵器の実証実験や運用テストを兼ねていたのだ。

 主力は、新鋭と言って良い25t級のⅢ号戦車は、フランスの数的な主力であるS34戦車に対抗する為、傾斜装甲を採用した事や長砲身7.5cm戦車砲を保有しており、現時点で欧州最良の戦車であるとドイツ人は誇る戦車であった。

 だが、フランスがJ36として導入する事となった日本製のType-31戦車に対抗するには非力であった。

 フランスへの諜報工作で判明したJ36は40t級の車体と、105㎜戦車砲を持つ破格の重戦車であるのだ。

 ドイツ陸軍は、J36はその重量故に鈍重であろうから機動戦を行えば後方に回り込む事は可能であり、そうなれば撃破可能であると判断していた。

 だが、その判断に怒りをもって否定した人物がいた。

 ヒトラーである。

 如何に100年先の技術的優位があるとは言え、東洋人の製造物に欧州人の、アーリア人の生み出すものが劣るのは許せるものではないと演説をしたのだ。

 その上で、J36を正面から撃破可能な戦車の開発を命じていた。

 ヒトラーの至上命題、その成果がスペイン派遣義勇部隊に含まれて居た。

 戦闘重量70tにも及ぼうかと言う超重量級戦闘車両、試製駆逐戦車VK65だ。

 制式にはVK6505(P)と言う。

 試作車両の為1両のみであるが、主砲は長砲身12.8㎝砲を搭載しており、数値の上ではJ36を遥かに凌駕する化け物であった。

 ドイツで行われた義勇部隊の結成式典で華々しく紹介され、世界中に衝撃を与える事となる。

 とは言え、これが戦車では無く砲塔の無い駆逐戦車として完成したのは、ドイツの技術的な限界であった。

 足回りもエンジンも、10kmも動かさぬ内に重整備を要求するほどにデリケートな代物で在り、とても軍で制式化される様なものではなかった。

 正式な命名をされる事無く、計画名であるVK6505(P)を略したVK65という名で呼ばれているのも、この為であった(※2)。

 ドイツ陸軍としては、如何に強力であってもこの様な運用に大なる問題を抱えた車両など採用する気は一切無いのだが、ヒトラーの肝入りという事で、義勇部隊に含まれて居た。

 

 

――イタリア

 ドイツと並ぶ国家社会主義国家ではあったが、国力的にソ連に送った機甲部隊が義勇兵として出せる精一杯であった為、イタリアはドイツへの対抗心から義勇部隊の派遣自体は行う事を宣言したが、歩兵主体での派遣となった。

 

 

――スペイン政権派/フランス

 ドイツの大規模な義勇軍、特に装甲部隊の存在はスペインの政権与党を慌てさせた。

 Ⅲ号戦車を筆頭とするドイツ軍戦車部隊に対抗できる部隊はおろか戦車すら政権派のスペイン軍は保有していなかったからだ。

 社会主義という誼でソ連に接触を図るが、この時点でソ連は日本/アメリカとシベリアを巡っての戦争をしている最中であり、義勇部隊どころか戦車、戦闘機の類をスペインに提供する余裕など一切無かった。

 この状況に絶望したスペイン政権派は、一縷の望みを掛けて国際連盟に訴えた。

 だが国際連盟の安保理は、スペインの状況が純然たる内戦である事から、干渉しかねていた。

 特に戦争中の日本とアメリカは、欧州の事は欧州で決めるべきではないかとの態度で臨んで居た為、スペインにとってとても頼れるものでは無かった。

 国際連盟の声明として、政権派も革命派も問わず人道的な対応を訴えるという玉虫色なものが出される程度でしかなかった。

 この為、スペイン政権派は反ドイツを鮮明にしているフランス政府へ接触する事となる。

 内戦終結後に民主的な選挙をする事を確約する事で欧州の盟主を気取るフランスの気持ちをくすぐり、同時に実利としてドイツ軍の新鋭戦車と戦った際の戦訓を全て提供するから戦車などの装備の融通を要求したのだ。

 この事にフランスの陸軍が、新鋭のS34戦車の実戦テストを行う好機であると反応した為、フランスはS34戦車を装備する1個連隊を基幹とする義勇部隊を派遣する事となった。

 S34戦車は23t級の車体に、軽量な75㎜野砲を主砲として搭載しており、奇しくもドイツ軍の主力であるⅢ号戦車と似た諸元を持っていた。

 但し諸元には出ない違いは大きかった。

 日本製のJ36を介して得た先進的な設計思想を取り入れられたS34戦車は装甲配置や内部装甲、或は足回りや通信設備などの面でⅢ号戦車に優越していると言うのがフランス人の判断であった。

 それを実証すべく、スペインへと赴くのであった。

 

 

――ブリテン

 フランスもドイツも新兵器の実験場としてスペイン内戦を捉えた事に、ブリテンも乗る事とした。

 特に、ドイツが持ち込んでいる新鋭戦闘機の性能を把握する為、義勇部隊として航空部隊をスペイン政権派に派遣する事とした。

 建前としては、フランス同様に内戦終結後の公平な選挙の開催である。

 その上で、国際連盟を動かしてブリテンに、スペイン内戦に於ける非人道的な戦争行動が発生しないかの監視業務を依頼させたのだ。

 これによって、ブリテンはスペイン政権派として軍を派遣するにも関わらず、その運用に於いては自由度を確保した。

 その上で、現在日本の協力を得て鋭意開発中の40t級重突撃戦車(※3)が完成すれば、スペインでの実用試験を行う腹積もりであった。

 

 

 

 

 

 

(※1)

 尚、政権側がソ連と友好関係にある社会主義者である事は、政府発表などからは削除されていた。

 ドイツとソ連との関係を阻害する要素は、世論統制によって慎重に排除されていた。

 

 

(※2)

 尚、VK65は、ヒトラーの命令によって急遽、開発製造された車両であった為、それまで研究されていた50t級戦車計画案のものを流用している。

 この為、65tと言う重量に耐えかねていたのだ。

 又、旧来の計画を流用した為に、装甲も垂直装甲を多用した古臭いものとなっていた。

 主砲に関しては、特注で1門のみ製造された12.8㎝砲であり、こちらも余りにも大きく重量過多であり、戦闘車両に搭載するのものとしては甚だ不適格であった。

 当初は10.5㎝対空砲を転用したものを搭載する予定であったのだが、ヒトラーよりJ36よりも大口径である事が求められた事が、この事態となっていた。

 これらの事からVK65は、ドイツ陸軍内部で”ヒトラーの玩具”と揶揄されていた。

 尚、このVK65のスペインへの輸送に関しても大問題となった。

 余りにも重量過多により通常の輸送船では搭載する事も困難であった為、分解状態で、それもクレーンや船体構造を強化した専用の輸送船が仕立てられる有様であった。

 難物であるVK65であったが、その尋常では無い装甲と大口径砲は戦場で充分に活躍する事となる。

 

 

(※3)

 開発開始時には30t級とされていたが、Type-31を念頭に日本と共同で行った概念研究で、歩兵戦車や巡航戦車といったブリテンが以前から有していた戦車では戦場で充分な活躍が困難であると判明。

 これによって、防御力と機動力とを兼ね備えた戦車を開発する為には大型化が必要であると理解し、計画を拡大変更したのだ。

 40t級はインフラに与える負担が極めて大きいが、敵の戦車に勝てぬ戦車では意味が無いとの判断が勝ったのだった。

 敵の戦車の攻撃に耐えられぬ戦車では無駄であり、敵の戦車を捉えられぬ戦車では無価値である。

 冷静な判断であった。

 この為、従来の分類とは異なる突撃戦車 ―― 主力戦車と言う概念が生み出された。

 これはブリテンの先見性であり、同時に、明確な敵を持たぬが故の精神的余裕の産物であった。

 この様に先進的な40t級重突撃戦車であったが、そうであるが故に開発が難航していた。

 エンジンこそ開発中であった航空機用の水冷エンジンの800馬力級モデルの搭載とすんなりと決まったが、40t級というブリテンとしては空前の大重量を支える足回りの開発は難航する事となる。

 又、主砲も70㎜以上の長砲身大口径を開発する事となり、此方も時間を必要としていた。

 

 

 

 

 

 




2019.06.12 表題修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

A.D.1937
041 ドイツの策動


+

 ソ連とスペインに義勇軍と物資を提供したドイツに、看過しえない問題が発生した。

 国庫の枯渇である。

 G4 ―― 主にフランスの敵視政策によって、特にヨーロッパ域内での国外向け経済活動が活性化させ辛い立場にあったドイツの経済は低調であった。

 ヒトラー政権になって以降の経済政策によって雇用自体は劇的に向上してはいるのだが、経済規模の伴わないそれは、労働者の賃金増大や消費活動の拡大をもたらしては居なかった。

 それ故に税収は拡大せず、国庫は苦しいままであったのだ。

 この状況下で外貨を消費したソ連やスペインへの協力は、ドイツに重くのしかかったのだ。

 資源不足こそ、ソ連からの輸入(※1)で一息を吐く形とはなっていたが、ドイツの外貨不足は深刻であった。

 この為、ドイツは非G4諸国への工業製品の売却の道を探す事になる。

 大口なのはチャイナであったが、その次に南米諸国への売り込みを図る事となる。

 

 

――チャイナ

 チャイナ共産党が火を点けたチャイナ人民による反アメリカの機運は収まる所を知らなかった。

 チャイナの各地で、一般のアメリカ人が犯罪に遭う事が多くなった。

 この為、アメリカ政府は自国民に対してフロンティア共和国や上海、香港など以外での活動を自粛する様に呼びかける事となった。

 結果として、チャイナ本土で流通するアメリカ製品は減少する事となる。

 この隙間を突くように、ドイツはチャイナに対して輸出攻勢を掛ける。

 元よりドイツとチャイナの関係は良好であった為、対アメリカ戦(※2)を睨んでドイツ製の戦車や戦闘機を大量に購入していく事となる。

 ドイツは、アメリカのM2戦車に対し自国のⅢ号戦車が攻撃力と機動性では優位であるが、装甲に於いてはやや不利である事を認識しており、チャイナに対しても、Ⅲ号戦車の改良型を提案した。

 Ⅲ号戦車C型である。

 エンジンと足回りを強化し、その上で装甲を強化したモデルである。

 A型に比べて4tもの重量が増した29tというⅢ号戦車C型は、傾斜地などでの運用には神経を使う部分もあったが、シベリア独立戦争での戦訓を元に改良された新鋭戦車と言う売り込み文句はチャイナ人の心を捉えた。

 その他、外見でも強そうに見えるⅢ号戦車C型はチャイナ人の好みであった。

 最終的にチャイナはドイツに400両ものⅢ号戦車C型を発注する事となる。

 200両はドイツ本国から完成品として輸入し、100両はチャイナに部品を輸送して組み立てるとし、そして最後の100両はチャイナで製造する事とされた。

 又、運用実績次第では更なる購入契約を結ぶ事がドイツとチャイナ間で取り決められた。

 併せてドイツから軍事顧問団を招聘し、チャイナは機甲部隊の育成に全力を傾ける事となる。

 この時点でフロンティア共和国に存在する戦車は、フロンティア共和国軍2個戦車旅団分と、アメリカ機械化師団の分だけであり、200両を超える程度であった。

 チャイナは倍の戦車で殴れば勝てるとの算段をしていた。

 その他、航空優勢の確保の為、戦闘機に関してもチャイナはドイツに大量発注を行う事となる。

 ドイツ経由で齎されたシベリア独立戦争の戦訓は、それだけの脅威をチャイナに認識させるに至っていた。

 如何に大量の戦車を揃えても、空から潰されては意味が無い ―― そう思わせられるだけの被害を、ソ連陸軍は航空機によって受けていたのだ。

 ドイツはチャイナに対して、新鋭の1000馬力級水冷エンジンを備えた戦闘機の売却を了承した。

 

 

――ドイツ

 国庫の不足をチャイナとの交易で幾分か補う事に成功するが、それで何とかなる程にドイツの経済規模は小さく無かった。

 その事がヒトラーに1つの決断をさせる事となる。

 中欧の掌握である。

 ドイツへの敵対行動を隠しもしないポーランドは無理にしても、オーストリアや周辺諸国を併合すれば、それらの国の中央銀行にある資産を収奪しドイツ経済は一息つく事が出来る。

 その上で、ドイツ経済は労働者を手に入れる事が出来るのだ。

 労働者の入手先として当初はトルコとの提携も考えられていたのだが、ドイツがソ連と接近した為、その話は御破算となっていた。

 この為に中欧と中東、そして南米へと手を伸ばす事となる。

 

 

――中欧

 フランスとポーランドが音頭を取っている反ドイツ連帯であるが、オーストリアやチェコ・スロバキアといったドイツの裏庭とも言うべき国家群への影響力はそこまで大きなものとはなっていなかった。

 それよりも世界大戦の影響で政治的に不安定な状況が続いていた事から、ファシズムの台頭とドイツへの親近感 ―― 大ドイツ主義へと回帰する事態となっていった。

 この状況にヒトラーは乗る。

 フランスやポーランドとの戦争リスクはあるものの、外貨不足に苦しむドイツにとって、中欧諸国の中央銀行が保有している外貨や金塊が余りにも魅力的であったのだ。

 ドイツは大ドイツ主義による大団結と、ゲルマンによる生存圏確立に向けた宣伝を深めていく事となる。

 

 

――中東

 ブリテンが軟着陸を図っている中東の独立指向への対応に、真っ向から逆らう様な行動をドイツは取る事となる。

 各地域の独立強行派に秘密裏に接触しドイツへの留学を支援したり、頭脳労働者や一般労働者を問わずにドイツ国内の仕事を斡旋したのだ。

 この他、秘密裡に武器の売却にまで手を広げていた。

 主としては小火器などであったが、一部は戦車すら含まれて居た。

 これらは、イタリア領東アフリカへの輸出品目に混入させる事でイギリスの目を誤魔化していた。

 中東の大地は既に、日本の石油需要によって潤滑な資金があった為、ドイツにとって良い金蔓へと育って行った。

 この時点でブリテンが把握していたのは、ドイツへの留学の増大だけであり、ドイツの策謀に気付く事は無かった。

 

 

――南米

 ドイツが資金源として主目標としたのは軍事独裁政権下にあるべネズエラであった。

 基本的に親米路線を取っているベネズエラであったが、政権首脳陣への賄賂攻勢を行う事で、ドイツに対する融和政策を行わせる様にしたのだ。

 その上で、戦車や装甲車などの最新兵器を惜しげも無く販売する事を約束したのだ。

 南米を自らの裏庭とするアメリカであったが、そうであるが故に、地域の安定性を損なう危険性のある武器の売却に関しては慎重であったことが

裏目に出てしまい、ドイツとベネズエラの接近を許す事となる。

 ドイツはベネズエラへの接近を足掛かりに、かつてファシズム政権を立てていたアルゼンチンへと接触を図る事となる。

 アルゼンチンは、内政の混乱と外交の失敗の重なりによってイギリスの属国の様な立場に立たされており、その国民と軍部の不満に乗る形となった。

 

 

 

 

 

(※1)

 ドイツとソ連の交易は、事実上のバーター取引であった。

 ソ連が必要とした工業力や、工業製品の対価として鉱物資源や原油などを輸入していた。

 ソ連とて重工業の発展によって旺盛な内需を抱えてはいたのだが、皮肉にもシベリア以東を喪失した事によって資源の消費先が減少して居た為、ドイツの需要に応える事が出来ていた。

 

 

(※2)

 チャイナ共産党の扇動によって、チャイナ人には等しく1つの思いを持つようになった。

 それはチャイナ人の大地である満州からアメリカ人を追放してこそ、チャイナの栄光は蘇るというものである。

 他のG4、特にアジア人であり中華の序列に含まれている筈がチャイナを尊重しない日本人は憎たらしい敵であった。

 そしてチャイナの大地を侵食するアメリカが、ブリテンが、フランスが敵であった。

 それら4ヵ国民は、中華の秩序を乱す者たちという意味で“四夷狄子”という蔑称が付けられる事となる。

 同時に、チャイナ政府はドイツは友好国であり、中華秩序に下らぬものの徳のある国家であると遇するように宣伝を繰り広げる事となる。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

A.D.1938
042 戦車開発競争/G4


+

 シベリア独立戦争の戦訓は、各国に戦車の開発競争を呼ぶ事となった。

 十分な装甲を持ち、高い機動力を持ち、あらゆる戦車を打破し得る火力を持った戦車が望まれる時代である。

 

 

――アメリカ

 シベリア独立戦争に於いて実戦投入されたM2戦車は、その足回りこそ技術的な未成熟故のトラブルを多発はしたが、火力と装甲はソ連BT戦車を相手に充分な効果を発揮し、一方的な勝利を得る事に繋がった。

 だが同時に、日本と交戦したKV-1戦車に衝撃を受ける事になる。

 主砲こそ76㎜と、M2戦車とほぼ同格の火力を持つKV-1であったが、車重45tが与える重装甲は圧倒的であった。

 M2の主砲である75㎜は90㎜砲の開発の遅延によって代替として搭載されたものであり、元が1900年代以前に開発された野砲であった為、KV-1の正面装甲を打破するのは極めて困難であった(※1)。

 この事から、アメリカ陸軍は鋭意新鋭の対戦車90㎜砲の開発を進める事となる。

 当初はM2戦車を改良し搭載する予定であったのだが、シベリア独立戦争の戦訓があった為に車体構造から一新した新型戦車として生み出される事となった。

 M3中戦車。

 新開発の90㎜砲を持ち、重量は32tとなった。

 アメリカ陸軍としてはより装甲の厚い戦車を求めていたが、アメリカ本土で製造し、海上輸送をすると言う必要から、重量を抑える必要があったのだ。

 この決定にアメリカ陸軍は不満を覚える。

 再びソ連と戦争をする事となった場合、M3戦車ではKV-1戦車やその後継と戦うには明らかに装甲が不足しているのだから。

 この為、火砲その他を部品としてフロンティア共和国に持ち込み、同地の重機工場で製造する体制の構築を図った。

 打倒KV-1戦車。

 アメリカ陸軍の不安と不満が行わせた行動であった。

 この結果、重量制限の撤廃される事となる戦車は、仮称F(フロンティア)戦車として開発が行われる事となる。

 更なる長砲身化した90㎜砲と40tを超える重量を持つ事実上の重戦車開発であった(※2)。

 

 

――ブリテン

 日本との共同で行われていた重突撃戦車の開発が漸く終了する。

 チャレンジャー戦車である。

 新開発の17lb.戦車砲を持ち、傾斜装甲と空間装甲を持った42tの重戦車 ―― 事実上の主力戦車の誕生である。

 開発に時間が掛かった理由は、チャレンジャー戦車が単なる高性能戦車ではなく、今のブリテンで量産し整備する事が安易に成し得る戦車として望まれた事が理由であった。

 その意味でチャレンジャー戦車は、日本の持っている戦車に関するノウハウを吸収する為の戦車でもあった。

 そして、チャレンジャー戦車開発で蓄積したノウハウを元に、歩兵戦車の後継である機動砲車が開発された。

 チャレンジャー戦車のコストが高額である為、戦車部隊向けの巡航戦車は兎も角として歩兵部隊に随伴する歩兵戦車まで更新するのは負担が大きすぎるのだ。

 歩兵に随伴できる程度の機動力と、戦車以外の目標を破壊できる火力、歩兵程度の火力から身を護れる程度の装甲を持った、低コストな車両として機動砲車は開発される事となった(※3)。

 新規開発された6lb.対戦車砲を主砲とし、重量は18tに抑えられていた。

 軽量化の為、鋳造された砲塔は薄い装甲ながらも傾斜を充分に計算されて作られており、G4や列強以外の国から見れば立派な戦車であった。

 否、それどころか高威力な6lb.砲によって、ドイツやソ連にとっては40t級以上の重戦車以外では撃破されかねないパンチ力を持った厄介な相手であった。

 尚、コストを下げる為、日本の企業の支援を受けてトラック向けに開発したディーゼルエンジンを搭載していたのだが、車体重量の軽さから軽快な機動力を発揮した。

 この為、ソ連などは軽戦車と判断していた。

 命名はバンク、歩兵部隊の堤防となる事を期待されたバンク機動砲車となった。

 

 

――フランス

 日本から導入したType-31戦車 ―― J36戦車を装備した事によってドイツに対する正面戦力の優位性を確保しているフランスであったが、補助戦力を見た場合、ドイツがⅢ号戦車C型や後継車両を開発している事から、75㎜22t級のS34戦車では早晩に陳腐化する事が予想された。

 この為、補助戦車として30t級戦車の開発がスタートする。

 研究の為、日本からシベリア独立戦争で鹵獲したドイツとソ連の戦車を購入し分析した。

 分析によってフランスは、ドイツとソ連の戦車に共通する弱点として足回りがある事を理解した。

 即ち、機動性である。

 フランスは次期騎兵戦車に高い機動力を求める事となった。

 問題は、機動力のベンチマークとなったのがJ36戦車だと言う事である。

 最低でもJ36戦車に追随可能な騎兵戦車と言う要求は、フランスの工業界にとって余りにも高度で在り過ぎた。

 この為、機動力の要求を下げるか、装甲(重量)を下げるかと言う選択を迫られた。

 その選択にフランスは、第3の回答を選んだ。

 二者択一とする1台の戦車では無く、それぞれの目標を達成した2台の戦車を作る事としたのだ。

 これはJ36戦車が高性能であっても200両しか存在していない事が理由であった。

 主力部隊の戦車としては200両は少なかった。

 攻勢の主力としては、フランス陸軍は400両は必要であると計算していたのだ。

 不足する200両が機動性が高くとも装甲が薄い戦車となれば、日本戦車に戦いを挑んだソ連戦車の如くドイツ戦車と戦う際に悲惨な事に成るのは明白であったからだ。

 とは言え、全ての戦車を重装甲にする必要は無い。

 装甲よりも機動力を必要とする場面もそれなりにあるだろうと言うのがフランス陸軍の判断であった。

 この為、35t級重戦車と30t級騎兵戦車が開発される事となる。

 主砲は共に新開発の長砲身90㎜砲を搭載する事となる。

 重戦車として開発されたB38戦車は、J36戦車導入前よりフランス陸軍内で検討されていた1921年計画車を原案とした、やや古いコンセプトで纏められた車両であったが、最近のドイツの拡張主義に早期に対応する必要から採用される事となった。

 対して騎兵戦車は、J36の運用実績と情報を元に1から開発される事となり、開発はB38に比べて1年遅れて完成する事になる。

 こちらは多数の新機軸を盛り込む関係上、民間企業では無く陸軍設計工場が主体となって設計開発される事となった。

 完成後は、AMX39と命名される事となった。

 

 

――日本

 10式戦車と31式戦車で併せて2000両を超える規模の戦車部隊を有する日本 ―― 日本連邦統合軍であったが、シベリア共和国を筆頭とした第3国の友好国向けの戦車を開発する必要が生まれた。

 高度な技術を一切使わず、出来る限り廉く、そして整備し易いシンプルな戦車というコンセプトとなった。

 この為、セラミックス装甲なども一切導入せず、エンジンやFCSもデジタル化の行われて居ない戦車であり、同時に、導入国の既存の装備(機銃や発煙筒、果てはエンジン)も採用し易い設計が採用される事となった。

 砲塔は安く軽量に仕上げる為、鋳造式も検討されたが、最終的に採用されたのは鍛造の装甲板をフレームに溶接して造られたオーソドックスな砲塔であった。

 これは製造コストの問題よりも、機械的な信頼性と品質が重視された結果であった(※5)。

 この結果、重量は38tに抑えられる事となる。

 主砲は、フランスの開発した90㎜砲を採用している(※4)。

 命名は38式戦車とされ、その販売国第1号はシベリア共和国となった。

 同時に日本の各連邦国軍でも31式戦車よりも整備コストが抑えられる為、38式戦車が採用される事となった。

 又、陸上自衛隊でも第101海兵旅団(外人部隊)の様な海外への展開が前提とされる部隊では、整備への負担が少ないと言う点が評価され、改良型が採用される事となった。

 改良型である38式戦車B型(本国用)は、主砲を31式戦車と同じ105㎜砲へと換装と増加装甲を設置し、無線機などを自衛隊規格へと交換したものであった。

 

 

 

 

 

(※1)

 グアム共和国軍(在日米軍)の技術的な指導によって成形炸薬弾が用意されており、交戦は不可能では無い。

 

 

(※2)

 F戦車は、最終的にM24戦車として完成する事となる。

 2桁の登録番号となっているのは、2桁台がフロンティア共和国の戦車工場で開発/製造された事を意味し、1桁台はその4番目に検討された事を意味している。

 M2を元にした1番目の案、M3を元にした2番目の案、日本の31式戦車を模倣した3番目の案の全てを破棄し、1から検討開発された戦車である。

 

 

(※3)

 機動砲車は、その由来から歩兵支援を主体とする車両であったが、その運用は諸外国の対戦車自走砲と変わるものでは無かった。

 又、生産が容易であった為、大量に生産され、チャレンジャー戦車の不足した部隊では戦車の代役としても運用された。

 

 

(※4)

 当初は共同開発の形となったブリテンの17lb.砲を採用する予定であったが、ブリテン政府より、17lb.砲を諸外国に拡散されてしまっては困ると言うクレームを受けて断念。

 次善の案として6lb.砲の提案を受けたが、それでは諸外国の戦車に比べて小口径であり商品の魅力が落ちると日本が拒否する。

 この結果、日本は代案としてフランスと交渉をする事となる。

 シベリア独立戦争で得たドイツとソ連戦車の残骸を安価で提供する対価として、フランス国内向け価格での90㎜砲の輸入を行う事としたのだ。

 フランスとしても諸外国向けに砲弾は売れるので利益が上がる為、了解する事となる。

 尚、90㎜砲のライセンス生産を行わなかった理由としては、38式戦車が輸出専用であり何両製造するかも判らない為、メーカー側が設備投資を断った事が原因であった。

 これは嘗て日本が製造していた90㎜砲を再生産しないのも同じ理由である。

 そして、砲弾の製造すらフランスに委託し、全量を輸入で賄う理由でもあった。

 

 

(※5)

 尚、実際に製造ラインを組む際に計算した所、この時点で予定されていた1000台程度の製造であれば、鋳造よりも鍛造の方が値段が安く出来る事が判明している。

 

 

 

 

 

 




2019.06.15 説明を追加
2019.06.15 記述を追加
2019.06.16 説明を修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

043 戦車開発競争/枢軸 イタリアの決断

+

 シベリア独立戦争の戦訓、それは自信を持って送り出した新鋭の戦車が走攻防の全てで日本はおろかアメリカにすら劣っていたと言う過酷な現実をドイツ、ソ連、イタリアの首脳陣へと突きつける内容であった。

 

 

――ソ連

 自信を持って送り出したKV-1は一方的に敗北した。

 足回りこそ問題を抱えているが、火力と装甲には自信を持っていた。

 にも関わらず、一方的に敗北した事は、スターリンを激怒させた。

 重戦車を作れと叫んだ。

 この為、ソ連では一度に5つの戦車が研究開発される事となった。

 3つの重戦車と中戦車、そして軽戦車である。

 重戦車の開発チームに命じられたのは、その手段は問わぬから31式戦車に打ち勝つ事であった。

 中戦車は重戦車を機動力で補助する戦車であった。

 軽戦車は偵察用であり、対シベリア共和国戦の際、広大なシベリアを縦横に走り回る事が望まれていた。

 重戦車の3系統は①KV-1戦車の正統発展形、②火力と装甲を更に強化した戦車、③走攻防のバランスを改めて取り直した新開発戦車、という3つであった。

 KV-1戦車の正統発展形である①号案車は、早期からKV-2の名前が与えられる事となる。

 重視されたのは機械的信頼性の低さから故障を頻発した足回りの強化であった。

 KV-2の開発チームはシベリア独立戦争の戦訓から、日本の戦車がKV-1戦車に対して圧倒的な優位性を見せた原因の1つはKV-1戦車の足回りにあったと見做したのだ。

 KV-1は突撃しようとしても最大速力20㎞も出せず、途中で故障を起こしたりすらしていたのだ。

 これでは勝てる戦でも勝てる筈が無いと言う認識であった。

 この結果、KV-2は足回りとエンジンとを中心に強化された戦車となった。

 主砲は新開発の85㎜が搭載される。

 重戦車としての性格を持ったKV-2戦車であったが、高い機動性を発揮する事から中戦車の様に運用できる為、戦車部隊の指揮官はKV-2戦車の定数配備を要求する者が続発する事となる。

 ②号案車の開発チームは火力と装甲の強化した戦車を命じられていたが、検討をする中でKV-1の車体を流用したままでは限界がある事を把握した。

 この為、発想を逆転させる事とした。

 大事な事は大火力と重装甲であり、目的は敵戦車の撃破である。

 KV-1を基として、この3点さえ守った車両(・・)であれば良いのだとシンプルに発想を転換させたのだ。

 その結果、②号案車は固定式戦闘室と大口径榴弾砲を搭載した対戦車自走砲として完成する事となる。

 スターリンはこの結果 ―― 開発チームの結論に首を傾げたが、その試作車を用いた実証実験の際に大口径の152㎜砲が放つ榴弾が1発でKV-1戦車を撃破、文字通り粉砕した事で大喜びし、この量産を命じる事となった。

 砲の口径から、SU-152と命名される事となる。

 比較的簡単に開発の進んだ①号案車と②号案車の2チームに比べ、③号案車の開発は難航する事となる。

 そもそも、原案となったKV-1は、ソ連の戦車開発技術の総力を集めて開発されたものであったのだ。

 それを簡単に、1から再検討し直して凌駕出来る戦車など作れる筈も無かった。

 それでもスターリンの期待に応える為、③号案車開発チームは幾度も試行錯誤を重ねていく事になる。

 走攻防、そのバランスを取る上でソ連軍上層部より45tという車重を護る事が厳命されていた。

 この為に主砲は、SU-152で採用された大口径大威力ながらも規模も重量も破格の152㎜榴弾砲は採用せず、開発されたばかりのコンパクトな122㎜カノン砲を転用した戦車砲を採用する事となった。

 足回りに関しては、KV-2で採用されたKV-1の発展型が採用された。

 そして特徴となるのは車体である。

 45tで実現し得る最大限度の防御力を狙い、車体は生産性を度外視したものが採用された。

 製造に掛かる工程数が増えようとも全方向に対して極端なまでに傾斜を意識した形となったのだ。

 特に前面は凸型(シチュチー・ノス)にも似たデザインとなった。

 従来の戦車は勿論、日本の未来戦車とも異なる意匠となった③号案車に、スターリンは、これぞソヴィエトの科学性の結実であると手放しで賞賛する事となる。

 この為、③号案車はスターリンの名前を取り、IS戦車と命名された。

 紆余曲折の多い重戦車に比べて、中戦車の方は比較的簡単に方針は決まった。

 出来るだけ安く、数を揃えられる機動力のある戦車を開発すると言う。

 但し、装甲と火力に関してもおざなりにはされなかった。

 31式戦車は兎も角としてアメリカやフランス、イギリスらが整備を進めている30t級の中戦車群に優越、乃至は対応可能な戦車である必要性は決して低くはないからである。

 この結果、新中戦車は前面のみならず全周を傾斜装甲で覆い、又直線主体で簡素化されたデザインとして生まれる事となる。

 主砲はKV-2戦車と同じ、85㎜砲が搭載される事となった。

 重量は34t。

 ある意味で軽量化簡素化されたKV-2戦車、それがこのT-34戦車であった(※1)。

 この為、KV-2戦車とT-34戦車はライバル関係になる事となる。

 装甲のKV-2戦車か、機動力のT-34戦車か、ソ連陸軍は頭を悩ませる事となる。

 KV-2戦車をライバルとするT-34戦車であるが、実はもう1つライバルとなる戦車があった。

 T-45戦車である。

 10t級の偵察用軽戦車、新規に開発された軽戦車である。

 T-34戦車と同様のコンセプトの下で開発された為、傾斜させた直線主体のT-45戦車の外観は、T-34戦車に実にそっくりなものとなっていた。

 違いとしては、偵察を主任務とする為に火砲を37mmと抑えて、その代わりソ連戦車としては珍しい大型の無線機を搭載させている事であった。

 KV-2戦車派は、中途半端なT-34戦車ではなくKV-2戦車とT-45戦車の組み合わせこそが最適解であると主張し、逆にT-34戦車派はKV-2戦車やT-45戦車を組み合わせる様な事をすれば後方への負担を強く強いる事になるので主力となる戦車はT-34戦車で統一するべきだと主張した。

 この2派の対立は、ソ連陸軍上層部を悩ませる事となる。

 この為、玉虫色ではあったが、当座は各戦車を試験的に量産し、運用試験を行って様子を見る事とされた。

 

 

――ドイツ

 ヒトラーは激怒した。

 選ばれしアーリア人が、多少進歩した程度の東洋人に負けるのは断じて許せぬと激怒した。

 その結果、生まれたのはVK6505(P)試製駆逐戦車であったが、流石のヒトラーもこの重量70tを超える超重量級の試作駆逐戦車を量産する様に命じる程に血迷ってはいなかった。

 だが量産できる重戦車を至急開発配備する事は厳命した。

 この政治からの要求に、ドイツ陸軍はかねてより陣地突破用の重戦車として研究をしていた45t級のVK45戦車案をたたき台として開発を進める。

 早期実用化と生産性の容易さへの要求から、31式戦車shock以降に開発される戦車のトレンドである傾斜装甲を取り入れていない垂直な装甲で囲われた戦車となった。

 傾斜させないが故に抱える装甲の効率の悪さは、装甲そのものを厚くすると言う力技で解決を図っていた。

 それ程に、早期の実用化を目指したのだ。

 この為、重量は計画原案の45tから大きく膨れ上がる事となり、最終的には59tにも達した。

 この事は本戦車 ―― Ⅳ号戦車の足回りに尋常では無い負担を与える事となったが、ドイツ陸軍はⅣ号戦車を陣地突破と守勢攻撃用の戦車としての役割を担うものと定めた為、特に大きく問題視はしなかった。

 主砲は長砲身8.8㎝砲を搭載している。

 1938年の時点に於いて、日本戦車を除く全ての列強の戦車を屠れる戦車であった。

 但し、Ⅳ号戦車が高コストである事はドイツ陸軍以上にドイツ軍需省が問題視し、Ⅳ号戦車の大量産には反対の声を上げる。

 対してドイツ陸軍も、軍馬として使える戦車を数的な主力とする事を約束し、開発を行った。

 現在主力戦車として保有しているⅢ号戦車をチャイナ向けに開発したⅢ号戦車C型、これを元に各部を改良し主砲は長砲身化した75㎜に換装したⅢ号戦車D型である。

 設計時に余裕を見込んでいたお蔭で、27tと重量が増えては居たが特に問題を生まず、先ず先ずの性能を発揮した。

 ドイツ陸軍は当座、このⅢ号戦車の改良型で各国の新型戦車に対抗しつつ、更なる40t級の戦車開発に邁進する事となる。

 

 

――イタリア

 イタリアは恐怖した。

 それなりの自信を持ってソ連に送り出した義勇装甲旅団が何の成果を上げる事も無く壊滅した事に。

 そして、それ以降のドイツやソ連、或はG4諸国が行っている戦車開発競争の規模に。

 イタリアとて列強と呼ばれる国家ではあったが、その重工業はひいき目に見ても発展しているとは言い辛く、20t級の戦車の開発と配備が精々であるというのがイタリア政府の自己分析であった。

 一応は新戦車の開発を行っては居たが、既に諸外国では30t級や40t級を平気で開発し、量産している。

 ドイツなどは50tを超える超戦車を開発しているのだ。

 この状況にイタリアが恐怖するのも当然であった。

 ドイツとの連携を重視する一部のイタリア人からは、ドイツとの同盟関係を締結し、ドイツから戦車の輸入を行うべきであるとの声も上がったが、ムッソリーニはその声に容易に賛同はしなかった。

 ドイツとの同盟強化を行えば、短期的には国防力が向上するが、同時に、ドイツ以上の軍事力を持ち、ドイツと対立しているフランスとの関係が決定的に悪化するのが見えているからだ。

 ドイツとフランスが戦争を始めた場合、ドイツは後背のポーランドにも対応する必要がある為、フランスに勝利するのは難しいだろう。

 又、フランスには事実上の同盟国であるブリテンと日本が居る。

 であればイタリアがドイツに与する事は自殺行為である ―― ムッソリーニは冷徹にそう判断していた。

 ドイツにも事実上の同盟国であり陸軍大国でもあるソ連が居るので、戦争になっても簡単に負ける事はないかもしれないが、そのソ連は日本やアメリカと対峙しているのだ。

 どう見てもドイツにソ連が加わっても分が悪かった。

 それに何より、イタリアはドイツ同様に国家社会主義 ―― ファシズムによる政治を行っているが、フランスとはそこまで緊張関係には無いのだ。

 ブリテンや日本とも、エチオピア帝国を植民地化しようとした際に邪魔をされた恨みこそあるが、では積極的に戦争を仕掛けたいのかと問われれば、否と言える程度の関係は保っていた。

 或は、現段階でフランスがドイツに宣戦布告をした場合でも巻き添えを喰らわぬ程度に、G4諸国と友好関係を維持していると言えた。

 ある意味でドイツ・ソ連寄りではありながらも、G4諸国との間でやや中立的な立場にイタリアは居るのだ。

 微妙な位置に居るイタリアの舵取りに悩むムッソリーニ。

 職務の傍ら、痛飲と暴食を重ねる日々。

 そこに救いの手が差し伸べられた。

 それは日本からイタリアに戻っていた、元在日伊国大使館員であった。

 イタリアを愛するが故に、ファシズムではあってもとイタリアに帰国し、在野にて仕事を得ていた。

 その生活の中で、未来で想像していたイタリアとは異なる安定しているファシズム下のイタリアに感銘を受け、そして国民から愛されイタリアの漢気を魅せるムッソリーニに惚れこみ、協力を申し出たのだ。

 未来の情報と共に。

 それは、イタリアの植民地であるリビアの油田に関する情報であった。

 ムッソリーニは歓喜した。

 決断した。

 この油田の開発権益を日本に売りつける事を。

 その対価として日本が主導権を持って開発しているシベリアと言う市場に、そして日本連邦という大市場に優先的権利を持ってアクセスする権利を求める事を。

 無論、イタリアも日本に対して貿易に於ける優先権を与える積りであった。

 これは即ち、ムッソリーニは同じファシズム国家であるドイツを見限り、友好国であるソ連を見捨て、日本 ―― G4へと与するという決断であった。

 重要な戦車に関しては、G4諸国から輸入してしまえば良いと開き直ったのだ。

 何ならば、日本が第3国向けに開発中と宣伝している中戦車、後の38式戦車を買えれば最高であるとすら思った。

 このイタリアの決断は、世界に凄まじい衝撃を与える事となる。

 

 

 

 

 

(※1)

 T-34戦車の命名は、その重量から取られている。

 T-45戦車の命名は、その前面装甲厚から取られている。

 但し、T-45戦車の開発チームはT-34戦車をライバル視して居た為、数字の上で上位になるようにと命名に装甲厚を選択したという面もあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




2019.06.16 題名を修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

044 イタリアの衝撃

+

 G4、日本に付くと決断したムッソリーニであったが、その行動は実に慎重であった。

 リビアの油田情報が事前にドイツやソ連などに漏れぬよう、自身と側近だけに情報の共有を留めた上で国際連盟大使に、日本との間で個別交渉の場を設ける様に指示する。

 表向きの題目は貿易の拡大と、イタリアと日本との友好関係の増進とした。

 この題目であれば、事前に情報を得た国々の目にはイタリアがシベリア独立戦争でやや悪化した日本との関係改善に乗り出した程度に見えるという計算があった。

 そこまで事前の情報漏えいを警戒する相手は、当然と言うか、友好関係にあった(・・・)ドイツとソ連であった。

 日本との交渉への妨害を警戒しているのだ。

 同盟とまではいかずとも、事実上の連帯をしていた関係を脱しようとするのだ。

 しかも、交渉の手札とするのはドイツもソ連も重工業化に伴い喉から手が出る程に欲しい資源、原油なのだ。

 である以上、ドイツもソ連も何をしでかすか判らないとムッソリーニが警戒するのも当然であった。

 

 

――国際連盟・日本/イタリア

 題目として、イタリア領東アフリカとクウェートで経済活動を行っている日本企業との交易に関する協定であった。

 日本企業が現地で必要とする食料などは当初、周辺のブリテン植民地より購入していた。

 だが最近になって武力による独立運動を行う手合い(※1)が増え、治安は悪化の一途を辿り、周辺からの輸入に頼るようになっていた。

 そこにイタリアが食い込もうとした ―― そう、日本も世界も判断していた。

 故に、比較的呑気に日本は会議に臨み、そして精神的な衝撃を受ける事となる。

 交渉の場には、極秘にスイスへと入国してきていたムッソリーニが居たのだから。

 その口から語られたのは、リビアの油田を介したイタリアと日本の関係深化である。

 イタリアは日本への政治的、外交的な奇襲に成功した。

 

 

――日本

 日本にとって、資源の輸入先が広がる事は良い事であった。

 同時に、潜在的な敵国であるソ連やドイツの有力な友好国が減るのは歓迎すべき事態であった。

 又、イタリアの望んでいる日本連邦とシベリア開発へのアクセスは、日本とイタリアの経済力の格差からすれば大きな問題には成らなかった。

 それよりはイタリアの経済に低関税でアクセスできることの方が旨みが大きかった。

 問題としては、イタリアからの軍事的な要請 ―― ドイツから圧力を受ける事に成った場合の支援に関しては、日本はある意味で諦観を持って受け入れていた。

 既にフランスには1個機甲旅団が駐屯し、何故かブリテンにも教導隊枠で1個装甲連隊が居るのだ。

 更に1個旅団程度であれば、欧州に1個師団を配置したと思えば良いのだと開き直っていた(※2)。

 

 

――ブリテン

 リビアに良質な油田があると言う事はブリテンにとって福音であった。

 これは中東に於いて武力を伴った独立運動が散発的に発生する様になり、安定して石油をブリテン本島へと送り込む事が難しくなった事が理由であった。

 中東に比べリビアの治安は安定している為、安定して供給を受けられる事が想定された。

 この為、日本とイタリアの交渉を後押しすると共に、日本にブリテンに対してある程度の売却を要請する事となる。

 このブリテンの姿勢に、フランスも1口乗る事となる。

 日本としては、当座の石油資源の輸入量は確保していた為、商いとしてリビア油田は見る ―― 資源を産出した上で手頃な売り込み先があるのであれば問題は無いと、受け入れていた。

 

 

――ドイツ

 ヒトラーは激怒した。

 かかるイタリアの恥ずべき裏切り行為は看過し得ないと大激怒した。

 だが、現状でイタリアに懲罰戦争を仕掛けるにしても国境を接しておらず、出来る事は無かった。

 それどころか、中東への極秘裏に行っている武器売却に関してはイタリア領東アフリカを介さねばならぬ関係上、イタリアの機嫌を取らねばならなかった。

 ヒトラーは珈琲を暴飲し、サラダを暴食して怒りを発散していた。

 その上で、中欧を掌握した後のイタリア侵攻計画を立てる様にドイツ陸軍へと命令する事となった。

 

 

――ソ連

 スターリンはムッソリーニの破廉恥振りに激怒した。

 痛飲した。

 酔った上で、ソ連の友邦はドイツしかないと宣言した。

 ソ連への支援として訪れていたイタリア人は粛々とソ連を去って行った。

 

 

――フランス

 フランスにとって、その柔らかな下腹部に迫る場所に居たイタリアがG4陣営の軍門に下るのは福音であった。

 この為、全力でイタリアと日本の関係が促進する様に協力を行った。

 国際連盟の会議でイタリア大使を詰るドイツ大使を諌める程に、親イタリア的態度を示す程であった。

 

 

――イタリア

 大博打に打ち克ったイタリアは、この外交的な勝利を大いに宣伝し、同時にイタリアと日本 ―― G4の友好を大きく謳う事となる。

 イタリアの生活は流入してくる日本製の物資で潤い、又、服飾や嗜好品、一部の工芸品が日本へと飛ぶように売れる様になった為、経済が活性化する事となる。

 リビアの油田権益へ日本資本の参入を許した事に関しては、この経済の活性化がイタリア人に問題意識を持たせずに済む事となった。

 イタリアは空前の好景気に沸く事となる。

 

 

 

 

 

(※1)

 当然ながらもドイツが売り付けた武器を手にしていた。

 ブリテンも、旧在日大使館系ではない過激な独立派の急速な展開に警戒し、情報を集めてはいたが、この時点でドイツの影は確認出来ていなかった。

 

 

(※2)

 陸上自衛隊としては、日本政府の決定に反抗する積りは無いが、それでも愕然となった。

 シベリア独立戦争の影響による規模拡大 ―― シベリア共和国に駐屯する2個師団の調整を漸く終えたと思った所に、この更なる1個旅団の派遣の話である。

 頭を抱える事となった。

 後方地帯への派遣や、フランスやブリテンの様な有力な友好国への駐屯ならまだしも、下手をすればドイツとの前線に立つ事になりかねない()タリアへの派遣である。

 下手な練度や装備で送り出す訳にも行かない。

 総予備とも言える第7機甲師団の戦力を一時的に下げる事とはなるが、同師団から人員と機材を分けて第13旅団を自動化旅団から機甲旅団へと改編し派遣する事となった。

 第7機甲師団に大穴を開ける事となる決定であったが、この点に関しては日本政府も了解し、早期に穴を埋めるべく予算措置をする事となる。

 又、日本に残る部隊は人員を新設部隊へととられる為、警備を主任務とする自動化部隊が大多数となる事になった。

 これら、陸上自衛隊の乾いたぞうきんを絞るが如き改編によって、最終的に、ブリテン島に本拠地を置き、中東までも担当する遣欧総軍が編制される事となる。

 尚、この遣欧総軍とシベリア総軍の司令部の人員を抽出する為、日本本土では5個の方面隊の内、2つを解体する羽目になっている。

 派遣地域の増大、部隊の増大に上級将官級から中堅士官まで自衛隊は深刻な人材不足に陥る事となり、財務省に人員教育などを目的とした予算の大幅増の請求書を送りつける事となる。

 請求書の額を見た財務省は陸上自衛隊に負けず劣らず真っ青になった。

 この様な陸上自衛隊の艱難辛苦に、グアム共和国軍(在日米軍)将官は旧知の陸上自衛隊将官に対し「世界の警察は大変だろ(グッドラック!)」と訳知り顔で親指を立てたと言う。

 不幸中の幸いは、タイムスリップの余波 ―― 経済の混乱がまだ終息しきっておらず、自衛隊への志願倍率がまだまだ高止まりしている事であった。

 

 遣欧総軍

  司令部 ― ブリテン

   第10機甲師団    クウェート駐屯

   第13機械化旅団   イタリア駐屯

   第19機械化旅団   フランス駐屯

   第102海兵機甲旅団 ブリテン駐屯(※)

 

※ブリテンが他の国には旅団を派遣するのにわが国には連隊であるかとヘソを曲げた為、第101海兵旅団から1個普通科大隊を分派させ、旅団へと格上げされる事となった。

 尚、規模の小ささに少々とブリテンからクレームが入ったが、その分としてF-5戦闘機を保有する航空隊を1個派遣する事で対応した。

 クウェートへの第10師団の機甲化と派遣に関しては、欧州総軍の戦略予備と言う側面があり、同時に悪化する中東情勢への重しとしての役割を、ブリテンに要求された事が原因であった。

 この対価として、クウェートでの日本の経済活動に対するブリテンの支援が入る事となった。

 

 

 

 

 

 




2022.10.19 文章修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

045 中東クライシス

+

 ヒトラーは激怒していた。

 日々激怒し、珈琲を暴飲し、サラダを平らげ、そして自らに禁じていた肉を食う程に怒り狂っていた。

 かの悪逆非道な裏切り者、イタリアへの鉄槌を熱望していた。

 そしてある日、閃きが与えられた。

 現段階ではイタリア本土へ軍事的な懲罰を与える事は出来ない。

 だが、その手足たる植民地はどうか。

 リビアは日本やブリテンの資本が入る事もあってイタリアも治安維持に精を出しているが、イタリア領東アフリカは貿易拠点などの役割はあっても資源の産出なども殆ど無い為、イタリアの目は緩い。

 しかも、中東のブリテン植民地に武器を売りつける足掛かりとして使っているので、ドイツは現地勢力に独自のコネクションを有している。

 イタリア領東アフリカは、ドイツにとって火を点けやすい場所であった。

 

 

――ドイツ

 ヒトラーの命令を受けたナチス党親衛隊(SS)は、イタリア領東アフリカでの活動を行う。

 乏しい国家予算の中から小銃や手榴弾などの武器弾薬を集め、そしてイタリアへの反発心を持った反イタリア運動派にも、アンダーグラウンドな住人にも分け隔てなく武器を安価で売りさばいたのだ。

 その効果は覿面であった。

 イタリア領東アフリカの各地で暴動が勃発する事態となった。

 それぞれは小規模でありイタリア領東アフリカに駐屯するイタリアの治安維持部隊によって簡単に鎮圧されていったが、物資の略奪などが発生する事もあってイタリア領東アフリカの治安は極端に悪化していく事となる。

 但しその暴動がドイツの中東への密貿易に利用するイタリア領東アフリカの南部域には広がらぬ様に、ドイツは細心の注意を払って行動していた。

 そのお蔭で、イタリア領東アフリカの南部域で発生する暴動は少なかった。

 

 

――国際連盟

 イタリア領東アフリカでの治安悪化は、イタリアとムッソリーニの権威を大きく傷つける事となった。

 この為、イタリアは鎮圧する為に2個師団をイタリア本土から派遣し、鎮圧に力を入れた。 

 同時に暴動で使われる武器弾薬の入手経路を探す事となる。

 世界大戦の終結によって過剰となった武器弾薬が第3世界(less developed country)に出回ってはいても、軍隊を動員せねばならない規模の暴動が頻発するのは余りにも異常であると言うのがイタリアの判断であった。

 この為、国際連盟を介して、諸外国に大規模な武器弾薬の売却が無いかの確認を行う。

 これに近隣の中東域で反乱の頻発しているブリテンが乗った。

 第3世界に混乱を呼び込まない為の武器流通に関する協定が、国際連盟加盟国の間で締結される事となった。

 同時に、国際連盟による治安維持活動の一環として中東-東アフリカに権益を持った国々 ―― イタリアとブリテン、フランスに日本の4カ国は、同地域に於ける武器の不法な売買や流通を監視する為、紅海からアラビア海、そしてペルシャ湾までの海域に於ける自由な臨検を行う権利が与えられた。

 この国際連盟の決定に、ドイツは大きく反発する事となる。

 軍艦にせよ民間船舶にせよ、それぞれの旗国に管理される存在であり、如何なる国家組織であれ平時に於いてその管理権を侵す事は許容し難いと、断固として主張したのだ。

 その上でドイツ国際連盟大使は、もしドイツ軍艦及び民間船舶を臨検しようとするならば、実力を以って阻止する事も吝かでは無いと、強い調子で宣言する事となる。

 この反応にドイツへの猜疑心を深めたイタリアとブリテンは、ドイツに対して強い調子で反論する事となる。

 曰く、暴動頻発地帯近域に於ける治安維持活動への協力を断る事は、無害航行の権利を与える条件である沿岸国の平和・秩序・安全を害さないという条件に反する行為であると。

 そして、無害航行権利の停止した国家の艦船は、即座に4ヵ国の領海から退去させるとも宣言した。

 こうなるとドイツは頭を抱える事になる。

 領海へと入れないと言う事は、ブリテンや日本といった島国とは貿易が事実上出来なくなる事を意味するからだ。

 とは言え、ドイツ国際連盟大使も簡単に退く訳には行かなかった。

 ドイツ本国より、交易を途絶させない為に臨検を受け入れるとしても最低でも1ヶ月は、臨検の開始を遅らせる様にとの指示が出ていたのだから(※1)。

 この為、ドイツ国際連盟大使は交渉に出る。

 時間稼ぎとしての、臨検行動のガイドライン作成である。

 ドイツ国際連盟大使は、臨検を実行する人間が、臨検の名の下で軍艦にせよ民間船舶にせよ通信設備や暗号、艦船の機密情報に触れる ―― 諜報活動を行う事への疑念が隠しきれないと大々的に主張したのだ。

 この反論に、誰しもがブリテンの名前を思い浮かべた。

 そして全会一致で臨検の手順の策定自体には同意する事となる。

 誰しもが臨検に際して諜報(ブリテン)活動の被害を受けたくないと言う思いは一緒であったから。

 又、ブリテンも同意していた。

 此方も、自分(ブリテン)が行う様に諸外国が諜報活動を仕掛けて来ては厄介だと言う思いがあればこそであった。

 この為、臨検の手順の策定作業は紛糾しつつも進行していく事となる。

 

 

――海洋示威行動

 国際連盟による臨検の手順と規範の策定が終わっていない為、臨検は行わないものの哨戒を兼ねた示威行動(ショー・ザ・フラッグ)を行い、挙動不審な船舶の捜索を行っていたイタリア、ブリテン、フランス、日本。

 日本はP-1哨戒機をクウェートへ展開させ、周辺海域の哨戒を開始した。

 この日本の活動に刺激を受け、ブリテンは日本を真似て開発した双発の対潜哨戒機を投入し、イタリアやフランスは哨戒用の水上機で洋上哨戒活動を実施していく事となる。

 当初はバラバラに行われていた4ヵ国による哨戒活動であったが、日本が哨戒効率の向上を呼び掛け、3ヵ国が同意し連絡事務所 ―― 事実上の司令部が創設される事となった。

 場所は、アデン湾に面した治安の安定しているフランス領ソマリのジブチに設けられた。

 東アフリカ-中東治安維持作戦(フロム・ザ・シー)司令部と命名された。

 統制と連携の取れた空海の戦力による哨戒活動は、副次的に洋上の治安を向上させる効果があった。

 この結果に気を良くしたブリテンは、航空機による哨戒活動の範囲を陸上に広げて暴動 ―― 反乱予備軍に対する示威活動を行っていく事となる。

 

 

――ドイツ

 臨検の手順策定が定まっていない状況であれば臨検は無い。

 そう思う程にドイツは油断してはいなかった。

 中東イギリス領に売却予定の武器を満載した貨物船をそのままイタリア領東アフリカへと送り込む事をせず、南大西洋海域で待機させ、同じく北大西洋で長距離航海訓練中であった装甲艦ドイッチュラントを護衛に付けたのだ。

 その事が逆にブリテンの目を引く事となった。

 ドイツとイタリア領東アフリカとの間で行き来している貨物船は比較的多い。

 にも関わらず、ドイツが護衛として装甲艦を付けた貨物船であり、しかも航路は態々喜望峰回りという遠回りをしているのだ。

 不審であり、注目しない筈が無かった。

 ブリテンは巡洋艦を1隻、張り付けさせた。

 無論、臨検をする事は出来ないが、監視をする事は出来るのだから。

 又、貨物船が港に着いて荷の陸揚げをするとなれば、荷の検疫をする事が出来る。

 その時に貨物船の荷物を確認してしまえば良い ―― そう判断し、イタリアやフランス、日本に情報を流していた。

 その流された情報の先には、ドイツに買収されたイタリア領東アフリカ南部の港町の検疫担当も居た。

 今までは、このイタリア人がドイツの密輸を見て見ぬふりをする事で、中東への武器弾薬の中継密貿易を成り立たせていたのだ。

 だが今度はそうはいかない。

 イタリア本国から来ている査察官とブリテン人の調査員が一緒に検疫と調査をする予定となっているのだ。

 ドイツ貨物船に積んでいる荷物は、書類上は農機具となっていたが数千人分もの武器弾薬である。

 見られてしまえば申し開きなど出来る筈も無かった。

 焦ったイタリア人は、ドイツに連絡をする。

 連絡を受けたドイツも大いに焦る事になる。

 何とかしてブリテン巡洋艦を振り切ろうと努力する事となる。

 

 

――西インド洋攻防戦

 ブリテンからドイツの不審な貨物船と護衛の装甲艦ドイッチュラントの情報と協力要請を受けた日本は、アデン湾に展開していた艦艇から2隻、哨戒艦を分派する事となる。

 派遣する哨戒艦は、外洋哨戒艦と分類されこそすれど基準2500tという、並の駆逐艦を遥かに凌駕する船体を持った艦であった。

 外洋哨戒艦は、哨戒艦とは異なり日本がタイムスリップ後に新しく整備を進めた艦であり、上海その他、海外での運用(gunboat diplomacy)も念頭に入れた設計のされた艦種であった。

 3in.砲を3門搭載し、この時代の人間に判りやすい威圧効果のある外観となっている。

 又、フランスもブリテンからの連絡を受けて、駆逐艦2隻を派遣していた。

 これにブリテンの増援、駆逐艦2隻を含めて都合7隻の軍艦に包囲網を形成されてしまっては、ドイツ側に出来る事は無かった。

 1週間近い睨み合いの末、ドイツは2隻に対してドイツ国内への帰還を命じるのであった。

 

 

――ドイツ

 ヒトラーは激怒した。

 かの我が物顔で世界支配者の顔をするG4は許してはおけず、腰巾着の様に媚び諂うイタリアに至っては誅罰を与えるべしとすら思った。

 だが現時点で出来る事は無い為、その怒りは長年の禁を破って煙草を吸う事で解消し、報復を誓う事となった。

 尚、武器弾薬はスペインの革命派に高く売りつける事となったが、その事がブリテンに今回のドイツの行動 ―― 貨物船の荷物の正体を教える事になるのだが、ドイツは気付かなかった。

 ドイツは限りなく黒に近い灰色(suspect)から、(culprit)となったのだ。

 これが、ブリテンがフランスのドイツ包囲網に積極的に参加する切っ掛けでもあった。

 

 

 

 

 

(※1)

 これは、既にドイツを出港済みの武器弾薬を満載した船舶が中東の港に入るまでの日数を計算しての指示であった。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

046 スペイン内戦-2

+

 スペイン内戦は、諸外国からの義勇部隊などの参戦はあっても盛り上がりに欠ける形で推移していた。

 内戦が勃発して1年がたち、積極的に支援を続けているのはドイツだけとなっていた。

 ドイツに並んで義勇軍を派遣していたイタリアは、日本やG4との関係改善と共に国際協調の為という題目で兵を退き、それ以外の国々は新兵器の実験やお付き合い程度の人道的な活動が主であったのだから当然かもしれない。

 当初はソ連も、社会主義を標榜する政府側を支援する動きもあったのだが、シベリア独立戦争の被害が余りにも大きすぎて、外国に支援する余力など無かった。

 そもそも、ソ連にとって数少ない友邦国であるドイツと対立する勢力 ―― 政府側に後から支援を行うと言うのも政治的に難しいものがあったのだ。

 この様に、政府側が掲げるのが社会主義で革命側が国家社会主義を掲げていた事も、G4や列強諸国が支援に積極的でない原因であった。

 社会主義と国家社会主義。

 民主主義と資本主義を標榜する国際社会としては、どちらも応援したいと思いづらい主義主張を掲げているのだから、ある意味で当然の結果であった。

 鉄火場を飯の種とするマスコミこそ大規模にスペインに入って報道合戦を繰り広げていたが、一般の大衆にとっては直近に行われていたシベリア独立戦争に比べれば規模が小さい為、今一つ関心が集まらなかった。

 又、経済的にも影響が小さいと言うのも見逃せない部分であった。

 重要な資源や農産物を産出する訳でも無いスペインは、ブリテンやフランス、イタリアなどの列強との経済的な連携が薄い為、生活に影響を受けなかった欧州諸国民は政府が莫大な税金を使ってまでスペイン内戦に介入するべきだと思えなかったのだ。

 極々一部の政党が、人権や国威などを理由に介入を訴えたが支持を集める事は出来ずにいた。

 無論、戦禍による陰惨な悲劇に対しては憤りの声を上げる者も居るのだが、それが国家的な動きを求める程の世論のうねりに育つ事は無かった。

 大小さまざまな悲劇や喜劇もあったが、おおよそ世界は冷静にスペイン内戦を見ていた。

 

 

――戦局

 政府側も革命側も、相手に決定的な打撃を与えられる程の戦力差を作る事が出来ず、この1年は一進一退といった状況が続いていた。

 この状況が変わったのは、ドイツによる義勇軍への増援が行われてからだった。

 ドイツは、スペインの戦場を中国や南米などに売りつけている兵器の宣伝の場として積極的に活用しだしたのだ。

 開発したばかりのⅢ号戦車D型やⅣ号戦車、或は戦闘機まで持ち込んでアピールを行っていた。

 これらは旧式の機材しか持たぬ政府軍を圧倒していく事となる。

 革命派の勝利は間近である。

 そう世界が思った時、ブリテンが義勇軍を派遣した。

 戦闘機部隊と、支援する陸上戦力だ。

 政府の反対を押し切って有志による参加 ―― その様な形で行われる(※1)。

 ブリテン戦闘機部隊とドイツ戦闘機部隊の戦闘は、ブリテン側有利に進む事になる。

 戦闘機の性能自体はそこまで差が無く数ではドイツが優位であったのだが、運用に於いてシベリア独立戦争の戦訓と日本のシステム化された運用方法を取り入れていたブリテンが圧倒していたのだ。

 航空優勢を握ったブリテンと政府側は、革命派とドイツの進撃を食い止める事に成功する。

 又、陸戦に於いても少数ながら持ち込まれていたバンク機動砲車が活躍する。

 起伏の多い山がちな地形で至近距離での戦闘が多発した為、バンク機動砲車の6lb.砲でⅢ号戦車D型の装甲を撃ち抜く機会が多かったのだ。

 2ヶ月を超える戦闘で、ドイツがスペインに持ち込んでいたⅢ号戦車D型は半数が撃破されてしまう事となる。

 面目躍如たるブリテン戦車部隊に対し、ドイツ戦車部隊はヒトラーから痛烈に怒られる事となる。

 チャイナからは、ドイツから購入したⅢ号戦車C型の性能 ―― ドイツの戦車技術に対する憂慮が伝えられた。

 30t近い中型のⅢ号戦車が、20tを切る小型のバンク機動砲車に負けるのはドイツの戦車技術が劣るからではないか? という事である。

 バンク機動砲車の大戦果は、バンク機動砲車の単純な性能によるものと言うよりも戦術 ―― 隠蔽されたバンク機動砲車の陣地に、ドイツ戦車部隊指揮官がⅢ号戦車D型を頭から突っ込ませた事が原因(※2)であったが、部外者にその様な事が判る筈も無かった。

 ドイツは救急の対応として敵陣地突破用の60t級の重戦車、Ⅳ号戦車の派遣を決定する。

 又、Ⅲ号戦車の改修も決定した。

 全周に傾斜装甲を採用した新しい中戦車、Ⅴ号戦車の開発も進んでは居たが高価格となる事が予想された為、ドイツ陸軍に安価なⅢ号戦車系を捨てると言う選択肢は無かったのだ。

 尚、ヒトラーはVK6505(P)が何故活躍しないのかと激怒しドイツ陸軍を問責したが、ドイツ陸軍機甲科の上層部からVK6505(P)が1度に10kmしか動かない(※3)守勢任務向けの車両の為、ドイツとスペイン革命派は優勢であって常に攻勢であるので活躍の場が無いのだと説明を受けた。

 己が愛した車両が活躍できないのは不満であったが、ドイツが優れているが為と説明されたヒトラーは大いに満足した。

 ドイツはブリテンへの報復に燃え上がる事となる。

 

 

――ブリテン

 やる気に燃えたドイツに対し、ブリテンは同時期にスペインからの撤収を決定していた。

 ブリテン航空基地を巡る戦いにてドイツ戦車部隊もだがスペイン革命派も誘引し、これを撃破出来て居た為、戦場にはスペイン革命派の武器が大量に遺棄されていたからだ。

 即ち、当初目的 ―― ドイツがスペインに売却した、本来はイタリア領東アフリカへ売却予定であった武器の鹵獲に成功したのだから。

 その上でバンク機動砲車の実戦での運用実績を積めて、航空部隊に至っては数的不利をモノともしないシステム化された運用が実戦で試せたのだ。

 しかもドイツの最新の戦車であるⅢ号戦車D型の鹵獲にも成功している。

 これ以上ないと言う成果を上げていた。

 であれば、社会主義者をこれ以上支える義理など無いと言うのが実際であった。

 本国からの命令であるので、と一言、スペイン政府軍に連絡したブリテンはそそくさと撤兵した。

 

 

――フランス

 ブリテン同様にスペインに陸軍を義勇部隊として派遣していたフランスは、持ち込んでいた増加試作型のB38戦車での十分な実戦テストを果たせた事もあり、撤兵を決める。

 形としては、ブリテンに手を回して「民族自決という国際連盟の大義から撤兵すべきである」と言う提案をブリテンに行って貰い、その提案を受けてフランスは撤兵を実行した。

 

 

――終結

 スペイン内戦は、ブリテンとフランスというG4の2大国に逃げられた政府軍の敗北に終わった。

 ドイツは国家社会主義の勝利であると大々的に宣伝した。

 ソ連はスペインの旧政府は、社会主義を標榜しては居たが、人民の為の社会主義では無かったが為に敗北したのであり、これが社会主義の正しさを否定するものでは無いとコメントを発表した。

 

 

 

 

 

(※1)

 ブリテンが参戦する目的は、ドイツの装備であった。

 正確に言えば、ドイツがイタリア領東アフリカへ持ち込もうとして失敗し、それを糊塗する為にスペインに押し付けた武器弾薬である。

 ブリテンはこれを捕獲し、イタリア領東アフリカや中東で暴動から押収した武器と比較検証する事で、ドイツの暴動への関与を把握しようと言うのであった。

 尚、政府が反対すると言う形が取られているのは、ドイツが売却した武器をある程度接収したら、即座に政府命令(・・・・)という形で撤収する為である。

 

 

(※2)

 ドイツ戦車部隊が大損害を受けた戦いの目的が、ブリテン戦闘機部隊の根拠地を叩くと言う作戦であり、ドイツ戦車部隊の指揮官にブリテン戦闘機に手を焼いていた上級司令部から「如何なる犠牲を払っても航空基地へと進軍し、コレを叩くべし」との命令が出ていた事が原因であった。

 ドイツ人らしい生真面目な戦車部隊指揮官は指揮下の戦車全てをすり潰す覚悟で突進し、実際に半数を超える戦車を喪失した。

 その上で、作戦は失敗した。

 戦車の余りの損耗に目を回したドイツ上級司令部が、航空基地の20㎞手前で作戦の中止を命令したのだから。

 スペイン内戦屈指の戦車戦は、ドイツの戦車に対する自負に深い傷を与える事となる。

 とは言え、ブリテンはこの戦いでのドイツの遮二無二な攻勢に警戒し部隊を後退させた為、ドイツは戦略的な目的は達成したとは強弁する事は出来た。

 

 

(※3)

 1度である。

 1時間でも1日でもなく、1回である。

 整備を完了させた後に1回、10km動かすだけで足回りは故障を頻発し、整備を必要とするのだ。

 これでは攻勢任務にとてもではないが使えるものでは無かった。

 開発したスタッフが現地で改修作業なども行っては居たが、技術的な熟成が出来ていない事や、そもそも設計の甘さなどがあり、使える車両へとなる見込みは殆ど無かった。

 この為、VK6505(P)駆逐戦車の運用実績を基に、設計を改めたVK6507(P)の開発がドイツ本国では行われていた。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

047 レーベンスラウム

+

 ドイツがオーストリアとチェコスロバキアの併合に意欲を持って取り組む様になったのは、大きく言えばドイツ経済が理由にあった。

 小さく言えば、ドイツ軍が原因であった。

 ドイツ軍の再軍備の為にドイツ政府が発行していたメフォ手形と呼ばれる軍備費手形、その最初の償還期限が近づいていたからであった。

 メフォ手形によるドイツ軍の再軍備はドイツ経済の活性化 ―― 景気回復の一助とはなったが、世界経済の大多数を占めるG4諸国とドイツとの関係が良好とは言い難かった為、ドイツ企業の世界との貿易量と額は伸び悩み、期待されていた程の波及効果が生み出されたとは言い難いのが現実であった。

 チャイナとの軍事協力と武器売却は少なくない利益を上げては居たが、軍需主体であり、ドイツ経済の浮揚に結びつくとは言い難かった。

 それはソ連との関係に於いても同じことが言えた。

 ドイツ経済は、旺盛な購買力を持った市場を欲していたのだ。

 だが旺盛な購買力を持った国は、その大多数がG4の勢力下であり、無理な願いであった。

 それ故に、ドイツはドイツ人 ―― ゲルマン民族の多く住むオーストリアとチェコスロバキアの併合を目論む事となったのだ。

 同じゲルマン民族の大団結と言う建前を持って、2つの国家を市場として取り込むのだ。

 併せて両国の中央銀行が保有している(a gold bar)も、メフォ手形の償還に際しては役立つと見られていた。

 ドイツは収奪経済への道を転がり出していた。

 

 

――ドイツの拡張主義

 ヒトラーの掲げるスローガンに、何時の頃からか“アーリア人によるアーリア人の為のアーリア人の生存圏確立”が入る様になった。

 1つの欧州、1つの国家、1つの家(Grosartiges Europa)

 ドイツを中心とした中欧諸国の大団結によって永劫の繁栄(ミレニアム)を謳歌する大帝国を確立させるのだ、と連呼するようになった。

 同時に、国家社会主義政党の私兵集団である親衛隊(SS)が、オーストリアやチェコスロバキア、他の諸国で、国家社会主義の宣伝と情報収集活動を開始する。

 両国の世論を誘導し、自分達から(・・・・・)ドイツへの参加を熱望する様に誘導するのだ。

 ドイツは、G4と政治的な対立が続いている事を理解していた。

 特にフランスとの対立は政治的な段階を越えつつある、薄氷の上を歩くが如き関係にあると理解していた。

 日和見とも言える態度を見せているブリテンや、已むを得ずシベリアで激突する事となった日本とアメリカとは違い、フランスとは欧州の主導権を掛けて争っていると言う理解である(※1)。

 故に、ドイツはドイツの拡張主義では無く、ドイツへの統合をオーストリアとチェコスロバキアに熱望されて統一すると言う筋書きで進める積りである。

 当座の目標はオーストリアとチェコスロバキアの2カ国であるが、可能であればハンガリーやスロバキア、ルーマニアまでも併合を目論んでいた。

 ドイツの必要とする購買力と労働力は、それ程に不足しているのだった。

 ヒトラーと国家社会主義によるドイツは一見では繁栄している様に見えたが、その実として極めて不安定な国家であった。

 

 

――国際連盟

 オーストリアとチェコスロバキアで盛り上がりつつある、ドイツへの帰属 ―― 統一論に、フランスは動き出す事となる。

 情報機関を派遣し、世論の動きや国民感情を把握せんとする。

 情報収集活動の最中、親衛隊(SS)と小規模な衝突が発生する事となる。

 又、デモなどでゲルマン系の両国国民が暴力的に振る舞う様を見ていた。

 その上で、非ゲルマン系の両国国民が、粗暴な国家社会主義への嫌悪感を内包しつつ、だが、その粗暴性故に表明できていない現実を把握した。

 故にフランスは、オーストリアとチェコスロバキアに於けるドイツへの称賛と国家統合への希求を、ドイツによる情報工作であると断じた。

 その上で国際連盟に対し、ドイツが国際連盟の規約第11条第2項に定められた連盟加盟各国間の良好なる関係を撹乱せしめる行為を行っていると弾劾したのだ。

 国際連盟は蜂の巣をつついたような騒動となった。

 国際連盟に加盟する大多数の国家は、先の世界大戦から10年以上を経過し平和にまどろんで居た為、戦争の脅威から目を逸らし続けていたのだ。

 それは、平穏であれと言う願いにも似た被膜に包まれていた現実を直視する時が来た事を示していた。

 国際連盟は紛糾する事となる。

 ドイツとてG4には及ばぬものの一角の列強であり、列強同士の戦争は国際連盟加盟国の大多数を占める中小規模の国家にとって、その余波だけで死ねる死活問題であった。

 ドイツを殴る気満々のフランス、加勢する気満々のブリテン、巻き込まれる事を覚悟している日本。そして中欧の雄であるポーランドは、ドイツへの横殴りの決意を隠した笑顔を見せていた。

 周辺諸国の厳しい対応に、ドイツは慌てる事となる。

 ドイツにとって中欧のオーストリアとチェコスロバキアは、安全に切り取れる対象であればこそ価値のある相手であったが、戦争を行ってまで取るには価値が低かった。

 だが同時にドイツとて矜持があった。

 国際社会に威圧されて引き下がれぬ国民感情というものがあった。

 世界大戦の敗北の恥辱から復活したと言う意地。

 或は、ドイツ政府が常に宣伝していた精強なるドイツ国防軍は、莫大な税金を投じて作り上げられているドイツの軍は、列強の干渉に折れねば成らぬほどに弱い存在であるのか? というドイツ軍の根幹に関わりかねない深刻な疑問であった。

 ドイツ政府は進退窮まる事となる。

 

 

――チャイナ

 民族自決と内政干渉の問題に揺れる国際連盟に対し、空気を読まないチャイナが爆弾を落とした。

 この民族自決への制限と列強による内政干渉と言う問題こそは、正にチャイナが10年に渡って味わっている恥辱であり、アメリカを筆頭とする列強各国はチャイナの大地から追放されるべしと宣言したのだ。

 どの国の国際連盟大使も唖然とした。

 友好関係から自国への支持を行ってくれるものと信じていたドイツは呆然となった。

 チャイナから国土を割譲せしめたブリテンやフランスは、戦争を仕掛けて負けた敗戦国の分際で寝言を言うなと唖然とした。

 大多数の国連加盟国は、アジアの田舎者が先進国の深刻な会議にアジアの片田舎の小さなことで口出しするなと憤然とした(※2)。

 だがチャイナは真剣であった。

 真剣に、アメリカを筆頭とするG4による横暴を訴えたのだ。

 ドイツを批判するのであればアメリカを、日本を、ブリテンを、フランスを糾弾するべきであると訴えたのだ。

 国際連盟の総会は一気に荒れだす事となる。

 

 

 

 

 

(※1)

 ドイツのG4諸国への理解は、この程度であった。

 事実として、4カ国の対ドイツ感情は極めて悪かった。

 歴史を知るが故に警戒を緩める事の無く、何時かは殴る事に成りそうだと覚悟している日本。

 裏庭である南米に手を入れられ、チャイナ相手に武器を流し込む事で何時かはぶん殴ろうと決意しているアメリカ。

 イタリア領東アフリカの経緯から中東に着火したのはドイツではないかと睨み、何時かケジメを付けさせたいと狙っているブリテン。

 元駐日仏国大使館経由で未来情報を知り、フランス国土に戦禍が及ぶ前にドイツを焼き尽くす事が決定しているフランス。

 どの国も、ドイツに友好的な感情を抱かず、何時戦争になるのかと図っているのが現実であった。

 国際連盟などの場で、露骨な反ドイツ行動を示されなかった為、ドイツは厳しい現実を認識出来ずにいるのだった。

 

 

(※2)

 尚、アジアと言う地理的な枠に於いては日本もアジアの国ではあったが、G4を含めて国際社会の中で日本と言う国家はアジアの国家と言う(カテゴリー)では無く、異質な、冠の無い日本と言う分類が成されていた。

 特に、G4でも列強でも無い国家にとって日本は、アジアでは無く、先進国では無く、列強では無く、もっと恐ろしくも悍ましいナニカ ―― と言う扱いであった。

 

 

 

 

 

 




2019/11/17 題名変更


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

048 満州事件-1

+

 国際連盟にてチャイナ代表が議会の流れを打ち壊すのと同時期に、チャイナ共産党が動き出す。

 チャイナとフロンティア共和国 ―― アメリカを対立させ、最終的に戦争を起こさせる事でチャイナの国力を疲弊させ、チャイナの大地をチャイナ共産党が支配するという目論見であった。

 チャイナは、チャイナ共産党が煽っている満州(フロンティア共和国)奪回の民意に推される形でフロンティア共和国との政治的な対立が続いている。

 その上でチャイナは満州掌握の為としてドイツから大量の戦車や戦闘機、火砲を導入している。

 既にその規模は準列強の規模 ―― 戦車は500両を越え、戦闘機は1000機を超える規模を誇っており、国際連盟の場でアメリカがドイツに対し「野放図な武器の売却は戦争の火種になる可能性がある」と苦言を呈する程であった。

 これ程の軍備拡張をする原資は何かと言えば重税、そして各種希少資源の採掘権の売却であった。

 資源の採掘権の売却は、言わばチャイナ国内の植民地化に繋がる行為であり、”満州の植民地からの回収”をスローガンにしつつ、それを行う為に国内に植民地状態を生み出すと言うのは余りにも皮肉な現実であった。

 又、皮肉と言う意味では重税も皮肉であった。

 重税を課せられたチャイナ国民は、生活の苦しさの中でチャイナ共産党が宣伝する豊かな大地である満州に夢を見た。

 豊かな大地があり、先進的な工業があり、石油すらある満州は、チャイナ人にとって豊かになれる理想郷であった。

 だがそれをフロンティア共和国とアメリカが独占し、コリア系日本人の棒子(※1)が邪魔をしている。

 チャイナ共産党の宣伝もあってチャイナ人はそう思い込んでいた。

 故にチャイナ人の大衆から裕福層までチャイナ政府へ ”(歴史的経緯は抜きにして)先祖伝来の地である満州を外敵より奪還し国民を豊かにせねばならない” と連呼する様になったのだ。

 この国民の声に応える為、チャイナは当初の予定を越えて軍備を拡張する事(※2)となり、更なる重税が課せられていくのだから、皮肉以外の何ものでもないだろう。

 

 

――アメリカ/フロンティア共和国

 アメリカ政府は、チャイナ内部で進行している対フロンティア共和国戦争準備を軽視してはいなかった。

 だが同時に、平時のアメリカに大規模な軍事部隊をフロンティア共和国に展開させるだけの予算は無かった。

 現時点でアメリカがフロンティア共和国に駐留させているのは戦車師団1個と歩兵師団2個だけであった。

 これに5個のフロンティア共和国軍歩兵師団が加わる。

 全ての部隊が機械化、或は自動車化されており、決して小規模な軍隊では無いが、チャイナが全力で殴り掛かってきた場合に安心して居られる程の戦力と言う訳では無かった。

 この為、航空機による対地攻撃力を強化する事で抑止力とする計算であった。

 日本のAP-3を真似る形で開発した制圧攻撃機、AB-17とAC-47の2機種を70機近く配備していた。

 無論、対地航空部隊が自由に活動できる為の制空航空部隊の手配もおざなりにはされなかった。

 フロンティア共和国各地に各機種併せて500機近い戦闘機を駐留させていた。

 その中には、日本が第3国向けに開発した空冷エンジン型の汎用戦闘機F-6(※3)も1個飛行隊分含まれて居た。

 又、航空支援などの教導に、グアム共和国軍(在日米軍)からも人員が派遣されていた。

 出来る限りの防御を固めたアメリカとフロンティア共和国であったが、出来る限りは戦争を回避したいと言うのが心情で在り、外交ルートでのチャイナ政府との接触を行ってはいた。

 

 

――チャイナ共産党

 チャイナ共産党にとって平穏は敵であった。

 相次ぐ敗戦で実戦部隊が枯渇したチャイナ共産党軍は、シベリア共和国が生まれた為にソ連からの支援も満足に受けられず、独力で既存のチャイナの統治体制打破を目指す武力闘争が出来ぬ程に脆弱な存在に成り果てていた。

 であればこそチャイナ共産党は、チャイナ政府軍とアメリカ軍が四つに組む戦争を望んでいた。

 この為、チャイナとフロンティア共和国の国境線地帯での活動に力を入れていく。

 

 

――チャイナ

 チャイナ政府としては、アメリカやフロンティア共和国と対峙はすれども決定的な事態 ―― 武力衝突には至らぬ様に注意していた。

 フロンティア共和国はG4、列強、国際連盟に支持された国家だ。

 そんな国を戦争で否定し、蹂躙し、我がものとするには圧倒的な勝利が必要であるとチャイナ政府は考えていた。

 それにはまだ戦力が足りない。

 ドイツに発注した軍備も揃っていないのだ。

 故に、現時点では満州奪還の戦を始めるべきはいまでは無いと思っていた。

 だがチャイナの民心はそうでは無い。

 豊かさを求め満州奪還を叫ぶ大衆からの圧力は、民主主義国家では無いチャイナにとっても無視し得るものでは無かった。

 この為にチャイナは民心のガス抜きとして、フロンティア共和国との国境付近で4個師団を動員した大演習を行う事を決意し、宣伝した。

 宣伝する理由の半分は、フロンティア共和国への圧力であった。

 同時に、不随意に戦争を起こさぬ為の努力でもあった。

 アメリカ/フロンティア共和国も国境線を挟んだ場所に2個師団を動員し、演習 ―― 対応訓練を行う事を宣言していた。

 全てはそれで終わる筈だった。

 その目論みをチャイナ共産党が壊す。

 チャイナ軍とフロンティア共和国軍に放たれた弾丸、国境線を突破された跡。

 地獄の釜が開く。

 

 

 

 

 

(※1)

 日本人への総称的な蔑称である日本鬼子とは別に、フロンティア共和国の国境線でチャイナ人の不法入国を断固とした態度で阻止しているコリア系日本人は棒子と呼び、恐れた。

 名前の由来は発見した不法入国者を、棒で容赦なく殴りつける為であった。

 

 

(※2)

 当初は400両程度の整備を見ていたドイツ製戦車配備が、最終的には1000両に達する事になった。

 Ⅲ号戦車系が600両、Ⅳ号戦車が200両、そして補助戦力としてⅢ号戦車の車体を基に8.8㎝砲を搭載する重対戦車車両であるC型Ⅲ号突撃砲が200両である。

 C型Ⅲ号突撃砲は、チャイナに建設された戦車工場で独自に開発された車両、第1号となった。

 この時点でアメリカが事実上の重戦車であるM24戦車の開発と配備を行っている事をチャイナも把握しており、対抗できるⅣ号戦車の購入を決定はしていたのだが、同時にⅣ号戦車が車両価格の高さ故に大量配備が困難である為、より安価な対戦車車両を欲したチャイナ政府の要求に応える形で開発された。

 絶対的な要求として、M24戦車を撃破可能な8.8㎝砲の採用があった。

 だが30t以下の重量であるⅢ号戦車系の車体に重量級の8.8㎝砲を搭載するのは不可能であった。

 戦車で無理であれば、ドイツ本国で開発運用されているⅢ号突撃砲のスタイルであればどうかと言えば、此方も車高を下げる為にやや手狭となっているⅢ号突撃砲の戦闘室では、8.8㎝砲を搭載する事は困難であった。

 難題に当たったドイツ人技師は、発想の転換を行う事とした。

 前例はVK6505(P)。

 車体は前後逆としてエンジンを車体前面に配置、戦闘室を後方へと引き下げたこの配置であれば、8.8㎝砲を搭載し、正面に十分な装甲を充てられるという計算であった。

 ダグイン戦術を使う前提で車体の正面装甲は厚くせず、戦闘室正面のみⅣ号戦車と同格の100㎜厚とする割り切りであった。

 これによって完成したC型Ⅲ号突撃砲は31tという準中量級の重量の割に絶大な火力を持った対戦車車両として完成する事となった。

 無論、弱点は多い。

 戦闘室正面以外の装甲は脆弱の1言であり、重量バランスの悪さから機動性能は良好とは言い難かった。

 だがそれでも、チャイナが独自に開発した車両と言う事で、チャイナの誉れ“鉄牛戦車”と謳われる事となる。

 

 

(※3)

 F-6戦闘機は、アメリカから輸入した1000馬力級空冷エンジンを搭載した局地戦闘機として完成していた。

 1000馬力級エンジンはデジタル制御の導入を含めた各部の調整が行われており、最大で1200馬力近い出力が出る様になっている。

 武装は12.7㎜砲4門か機載用に新開発された20㎜砲4門、乃至は混載が可能な様になっている。

 防弾性能にも十分な配慮が行われている。

 特徴としては、近距離防空任務向けとして航続性能を割り切った局地戦闘機とした為、機体がコンパクトに纏める事が出来た点にある。

 又、第3国向けではあるが製造コストの面から統合ディスプレイや感圧式操縦桿、整備用の自己診断システムなどが搭載されている為、最初に導入したアメリカ軍などでは、実際に運用を開始するまでに日本の技術者を呼んで試行錯誤を繰り返す事となった。

 この経緯があって、アメリカ軍のF-6戦闘機部隊はフロンティア共和国に駐屯している。

 アメリカ本土には2機が送られ、試験と解体調査が行われた。

 尚、このF-6戦闘機はシベリア共和国を最大の顧客として想定しており、寒冷地での運用に向けた設計が成されている。

 だがソ連軍機と最初に交戦したのは、シベリアでは無くカレリアの空であった。

 その建国の経緯故にソ連と対峙する事に躊躇の無いシベリア共和国は、フィンランドの危機に際して大規模な支援を行っていた。

 尚、輸出向け戦闘機と言う事で愛称(ペットネーム)が付けられる事となり、最大の顧客(カスタマー)となる予定のシベリア共和国軍の命名で、その俊敏さを表す意味で(ラーストチカ)となった。

 尤も、日本国内では空冷エンジンを採用している事から何処となく三菱A6Mと似ているとして、“令戦”なる渾名がマスコミの手で広められていたが。

 

 

 

 

 

 




2019/11/15 題名変更


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

049 満州事件-2

+

 チャイナ共産党が誘導して発生したチャイナ軍とアメリカ/フロンティア共和国軍の衝突は、両軍共に戦意と名誉欲に不足の無い指揮官が揃って居た為、最初は両軍ともに連隊規模での火力の応酬であったのが最終的には6個師団が正面からぶつかり合う大会戦へと発展した。

 全面戦争への忌避は、アメリカもチャイナも共有して居た為、両政府は軍事衝突の情報が上がると共に図ったかのように同じ指示 ―― 現地部隊へ戦闘の拡大を抑止する様に指示を出すのだが、その時点で既に師団規模での戦闘に発展していた。

 この為、アメリカは陸上戦力の少なさを補う為、航空部隊を大規模に投入した。

 その中には新鋭の対地攻撃機材である制圧攻撃機、AB-17とAC-47の姿があった。

 対してチャイナは、アメリカを刺激しない様にと演習に参加させていなかった機甲部隊の投入を決意し、C型Ⅲ号戦車を主力とする機甲旅団をドイツ人教導隊と一緒に前線へと放り込むのであった。

 シベリア独立戦争以来の、正規軍同士の戦闘は、世界中の耳目を集める事となる。

 

 

――アメリカ

 戦闘自体はアメリカ/フロンティア共和国合同軍の優位に推移した。

 陸戦に於いてはアメリカ軍期待の重戦車である40t級のM24戦車は当然ながらも、M2戦車を基にシベリア独立戦争の戦訓を反映して開発された30t級主力戦車であるM3戦車もチャイナ軍が装備している戦車群を圧倒し続けた。

 Ⅲ号戦車C型は走攻防といった戦車の基本的な性能ではM2戦車にそこまで劣るものではなかった。だが、組織戦闘能力が違い過ぎていた。

 グアム共和国軍(在日米軍)から無線を介した集団戦闘を徹底的に叩き込まれ統制された戦闘が可能となっていたアメリカ軍戦車部隊は、個の戦車の集団でしかなかったチャイナ軍戦車部隊にとって別次元の相手であった。

 又、チャイナ軍の誇りである独自開発したC型Ⅲ号突撃砲も、その初陣は散々なものとなった。

 それは性能によるものが原因では無く運用、元々が待ち伏せての戦闘が主である筈の突撃砲で名前通りの突撃を、アメリカ軍への積極的な戦闘をやってしまった事が原因であった。

 突撃を図ったC型Ⅲ号突撃砲部隊は、アメリカ軍M3戦車部隊よる側面攻撃 ―― 機動力と無線による連携によって効果的な運動を行い側面を取っての攻撃を受け壊乱したのだ。

 歩兵砲兵も、通信機による効果的な連携と恩恵をアメリカ軍に与えていた。

 あるアメリカ軍大隊指揮官は、一連の戦闘を指して“演習の様な実戦”とすら言っていた。

 この様に、陸戦に於いてはアメリカ軍は極めて高い戦果を挙げた。

 問題は航空部隊であった。

 別に制空戦闘で問題が出た訳では無い。

 アメリカ陸軍航空隊の主力であったP-36戦闘機はチャイナ軍航空隊の数的な主力であったドイツ製のAr68に対して優位に戦闘を進めたし、試験的に採用していた日本製のF-6(※1)部隊もすばらしい勢いで撃墜数を稼いでいた。

 問題は対地攻撃、制圧攻撃機であった。

 4個の歩兵師団を投入しているチャイナ軍の数的優位性を打ち消す為、アメリカ軍は航空優勢を握るや即座にAB-17制圧攻撃機とAC-47制圧攻撃機の2機種を投入したが、大損害が発生したのだ。

 特にAC-47制圧攻撃機が尋常では無い被害を出したのだ。

 これは2つの理由があった。

 1つは、AC-47制圧攻撃機が元々は輸送機でありコクピットやエンジンなどに装甲が施されて居なかった事が原因であった。

 そしてもう1つは、AB-17制圧攻撃機でも被害を出す原因となった事であった。

 それは制圧攻撃機として搭載している火器に起因する問題であった。

 正確に言うならば照準である。

 制圧攻撃機は機関砲で地上を制圧する攻撃を行うのだが、機械的な補助も無く直接パイロットの目で照準しようとした場合、制圧攻撃機はかなり低空へと降りねばならぬのだ。

 これによって地上側からの反撃を簡単に受けたのだ。

 そもそも、攻撃すべき敵を発見する為に攻撃が可能な高度よりも更に低空に降りる事も多く、歩兵の小銃による被害すら出ていた。

 アメリカ軍は制圧攻撃機の投入を、投入開始から3日で緊急停止する事となった。

 

 

――チャイナ

 国境線で発生したアメリカ/フロンティア共和国軍とチャイナ軍の衝突は、最終的にチャイナ領内へと国境線が20㎞程入る形で終息した。

 チャイナ政府は、アメリカ政府に対して、今回の武力衝突は帝国主義的な拡張を目的とした許されざる侵略行為であるとして、即時、チャイナ領内からの撤兵を要求した。

 これに対してアメリカ政府は声明を発表する。

 チャイナ領内を一部占拠している事は自衛措置であると主張する。

 武力衝突がチャイナ領内からの攻撃によって起因したモノである為、アメリカ政府とフロンティア共和国政府はフロンティア共和国の国土に被害が及ばぬ様に安全確保する為の保障占領を行っているものであり、チャイナ政府が今回の武力衝突で発生した被害の保障と原状回復の為の賠償、そして責任者の処分を行えば即時、撤兵するとした。

 チャイナは激怒した。

 チャイナ政府の認識では、戦闘を終息させる為に一時的に戦力を後退させたのに、敗北し賠償金を支払えと言われるのは業腹であった。

 チャイナ人としては、一方的に攻め入って来た夷の蛮族が一方的に責任者の処罰 ―― 謝罪を求めて来る事は、嘗てのアヘン戦争を思い起こさせた。

 チャイナは政府から人民から、反アメリカの機運が一気に高まった。

 

 

――国際連盟

 チャイナ/フロンティア共和国の国境で発生した武力衝突の仲裁に国際連盟が乗り出す事となった。

 その際に問題となったのは、現地にて武力衝突の状況を調査し精査報告する調査団の人選であった。

 アメリカは国際連盟理事国である日本やブリテンを推し、チャイナはドイツを推していた。

 当然ながらも、共に相手の推薦国を利害関係国であると非難し合った。

 最終的には両国の関係国からやや中立的な立場にある列強国家と言う事で、イタリアが選ばれる事となる。

 

 

――チャイナ/ドイツ

 自国内に侵略し存在しているアメリカ/フロンティア共和国軍を外交的手段で追い払う事とは別に、物理的な復仇 ―― 軍事的な勝利を狙うチャイナ政府は、ドイツに対して更なる軍備の売却を持ちかける事となる。

 チャイナ政府のAr68戦闘機に代わる最新鋭戦闘機の売却要請に対し、ドイツ政府はBf109戦闘機の売却を提案する。

 但し、全機が完成品としての売却であった。

 対するチャイナ政府は、稼働率の問題とチャイナ国内の工業技術の涵養と言う面からチャイナの工場でのライセンス生産か、最低でも一部部品にチャイナ製を採用したノックダウン生産を求めていた。

 この為、数度の折衝が行われる事となった。

 最終的にドイツ政府は、Bf109戦闘機をチャイナが50機、完成品として購入すれば、Bf109の競合機であったHe112のライセンス生産を認めると言う形で決着する事となる。

 この他、注文してはいるが届いていない重戦車であるⅣ号戦車の早期引き渡しと、更なる売却を求める事となる。

 この大幅な軍拡に必要な原資の為、資源開発と売却に関して以前より要請のあった日本との交渉に向き合う事となる。

 日本が求めていたのはレアアースとタングステン、そして蛍石などであった。

 日本のチャイナ進出に関して、チャイナ人がセンシブルな反応を起こさぬ様に配慮が行われる事となり、日本はフランスを間に仲介させる事となった(※2)。

 

 

――ドイツ

 チャイナの要請に応じる形で、ドイツ軍向けのⅣ号戦車の生産を一旦停止してチャイナへ送る分を揃えたドイツ。

 そんな配慮をする程に、ドイツにとってチャイナの存在は大きくなっていた。

 政府や軍のレベルの話だけでは無く、民間でもドイツとチャイナは接近していた。

 ドイツを苦しめている労働人口の不足に関して、チャイナ政府がチャイナ人のドイツへの労働者としての移住を斡旋しだしたのだ。

 それは、ドイツ内にチャイナタウンが出来上がる程のものであった。

 フロンティア共和国建国からアメリカとの関係が悪化し続けていたチャイナにとって、雄飛する先としてアメリカよりもドイツが人気になっていたのだ。

 そんな大事な顧客であるチャイナへと大量の戦車や野砲を輸送する際、ドイツはアメリカによる妨害を危惧する事となる。

 既にアメリカは、ドイツからチャイナへ武器を大量に売却する事に対して、戦争を煽る行為であるとの非難を繰り返している。

 もしも、チャイナへの武器を満載した船団がアメリカの海軍に拿捕されては大問題である。

 ドイツは装甲艦ドイチェラントを旗艦とする護衛戦隊を編制し、輸送船団を護衛させる事とした。

 傲岸不遜なドイツ人は、自らの行動がアメリカにどんな反応を起こさせるかを理解していなかった。

 

 

 

 

 

(※1)

 アメリカ軍は、試験的に採用したF-6戦闘機に対して“XPF-6”と言う名を与えていた。

 フロンティア共和国での実験的な運用で、XPF-6戦闘機は性能の高さと共に高い稼働率を実現していた。

 だが同時にアメリカ軍は、XPF-6戦闘機の大量導入には否定的であった。

 これは、他のアメリカ製の戦闘機とは別の整備用の機材や備品を必要とする事が原因であった。

 特に消耗品は、日本製の純正品が性能発揮の為に推奨されて居る為、性能を十全に発揮させようとすると全量を日本から輸入する事となる。

 それは安全保障上、如何なものかと言う意見が出たのだ。

 又、パイロットの問題もあった。

 操縦システムが、従来のアメリカ製戦闘機とは全く異なるのだ。

 操縦桿1つとっても、両足の間にある操縦桿で直接舵を動かすアメリカ式に対して、操縦席右側に殆ど動かない感圧式の操縦桿でFBWによるコンピューター制御で舵を動かす日本式は余りにも違い過ぎていた。

 これではパイロットの教育システムを2通り必要としてしまうのだ。

 負担が大きいと言うのがアメリカ陸軍航空隊の意見であった。

 尚、戦闘機を操るパイロットたちからは、XPF-6戦闘機の性能、扱いやすさ、機械的信頼性の高さから大量導入を求める声が上がってはいた。

 

 

(※2)

 日本とチャイナの資源売却に関する接近に、アメリカは日本との外交の場で不満を表明する事となる。

 アメリカ政府の中には、日本とチャイナの接近によってアメリカの極東権益が挟撃される事を警戒する向きがあったのだ。

 アメリカ政府内での動きを機敏に察知した日本政府は、アメリカを宥める為、様々な便宜を図っていく事となる。

 1つにはアメリカ軍が大被害を出した制圧攻撃機の運用に関する研究への協力があった。

 又、アメリカ国内での宣伝にも注力していた。

 アメリカの親しい国家である日本、利益を共有できる国家である日本、オリエンタルで興味深い国家である日本、即ち良き隣人である日本というイメージ戦略である。

 そこにはグアム共和国(在日米軍)情報部の協力もあった。

 民主主義国家であるアメリカは、有権者たちの世論の動向に逆らえない。

 故に日本は、アメリカの一般市民に日本へ敵対的な行動をする事を忌避する感情を植え付ける事に注力していたのだ。

 

 

 

 

 

 




2019/11/15 題名変更


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

050 ドイツ連邦帝国成立に纏わる諸事

+

 ドイツは苦境にあった。

 強大な艦隊で海洋を支配するブリテンや裏切り者であるイタリア、そして積極的にドイツと敵対してくるフランスに半包囲されているのだ。

 ソ連との間に強固な同盟関係を築いているとは言え、その間には目障りなポーランドも居る。

 四面楚歌と言うべきドイツ。

 だがそれでも尚、ヒトラーはドイツの領域(レーベンスラウム)拡大を諦める積りは無かった。

 ドイツが発展する為には、常に労働者と市場とを欲している。

 そして何より償還の時期を迎えつつあるメフォ手形の問題があった。

 メフォ手形の債務に関しては、オーストリアやチェコスロバキアを併合し建設する予定の大欧州連合帝国(サード・ライヒ)でひと息つける予定であった。

 併合する国々の中央銀行から金を収奪出来る筈であるのだ。

 それ故にドイツは、何としても中欧の諸国を併合する積りであった。

 その最大の障害であるG4、特にフランスをどうするのかが問題であったのだが、ある意味で想定しない方向からの攻略法が親衛隊(SS)から提案された。

 カギとなるのはフランス国内に存在する共産主義者だ。

 現在のフランス政権は1920年代後半 ―― タイムスリップしてきた日本との接触以降、大統領は変われども常に政権を維持しているのはG4協調主義者であり、反ドイツ主義者であり、軍備優先主義者であった。

 それ故に(・・・・)、一般のフランス人有権者の間では政府に対するある種の飽き(・・)が生まれていた。

 そこを突こうと言うのだ。

 ソ連を介して共産主義者に接触し欧州の大連合を提案し、ドイツ敵視政策を実施しているフランスの現政府の打倒を目指すのだ。

 その提案 ―― 策謀にヒトラーは許可を出す。

 

 

――フランス

 1930年代のフランスの政治勢力は、大きく4つの派閥に分かれていた。

 基本的な民意として、フランス国内が再度戦争によって荒らされる事を嫌がるという意味において、4つの派閥は共通していた。

 即ちフランスの平穏。

 違いは、その目的の実現手段であった。

 G4としての協調、ドイツとの敵対、欧州の統括を自認する事を柱とした大陸派。

 G4との協力と共にドイツとの協調も重視し、欧州での再度の戦争を阻止したい融和派。

 現時点で築き上げた軍事力を基に欧州での主導的立場を得たいとする民族派。

 社会主義に基づいた平等な世界を希求する平和派。

 問題は、平和派が4つの派閥の中では最も勢力が小さく、そして名前とは裏腹な過激な共産主義者の集まりであったという事であった。

 とは言え平和派は、それ程に大きな勢力では無かった。

 その状況を変えたのがソ連の接触 ―― 物心両面からの大規模な支援であった。

 特に活動資金を得た事が平和派の活動を活性化させた。

 大規模に行われた宣伝は、おおよそのフランス人が持つ親ロシア的社会主義的なものへの親近感を掻き立てさせた。

 その上で、長期に渡った大陸派政権への反発 ―― 親G4政策で得られる利益の配分が少ないと感じていた人々を煽る事に成功する事となる。

 大陸派は政権与党という事で独占的に得ていた未来情報を基に国家運営を行ってきた。

 その運営は誠にフランスの未来と繁栄とを考えていたと言えるのだが、未来を知って動いているという意識が独善的な行動を取らせており、その結果、大陸派は平和派のみならず、それ以外の派閥からも距離を取られる事へと繋がっていた。

 とは言えども、フランスに安定と繁栄をもたらしていた為に大陸派はフランス人有権者の支持を消極的ながらも集める事に成功し続けていたのだ。

 その状況が、ソ連を介したドイツの介入によって変化する。

 豊富な資金を得た平和派は大馬力で宣伝工作を実施していく。

 その主張は、G4との協調によって繁栄するフランスは、繁栄するが故に戦争を忌避するべきであり、その為にはソ連やドイツとも協力関係を構築していくべきであるという内容であった。

 ある意味で正論であった。

 正論であるが故に平和派は勢力を拡大する事に成功するのだ。

 だが、その平和派はその急伸ゆえに政権与党に危機感を抱かせる事になる。

 フランスは政治の季節に突入する。

 

 

――ドイツ

 ヒトラーは半信半疑で行ったフランスの政情を不安定化させる工作が成功 ―― フランスの意思決定能力が著しく阻害され外交的な活動力が低下するという好機を逃さず中欧の統一に乗り出した。

 オーストリアやチェコスロバキアなどの国々で国民投票を強要し、その結果を以って連邦国家の建国を行ったのだ。

 反ナチスの人間たちは国際社会にドイツの不正義を訴えるが、建前であっても国民投票が行われており、その結果としての連邦国家の樹立 ―― ドイツ連邦帝国(サード・ライヒ)の誕生である為、欧州に直接的な権益の無い日本やアメリカは戦争を行うだけの大義を得られないのだ。

 同様に、ブリテンも戦争の大義は兎も角としてブリテン国民の中欧に対する関心の薄さの為、戦争を行う事は出来なかった。

 これらの事から国際社会と国際連盟では、ドイツの行為を非難こそすれども、経済的な締め付け以上の施策は打てなかった。

 唯一、ポーランドは戦争も辞せずとの態度を取ったが、それもソ連がドイツ支持と、ドイツとポーランドの戦争となればドイツ側に立って戦争に参加する用意があるとの声明によって腰砕けとなっていた。

 フランス大陸派と同様にドイツに敵意を持ち軍備拡張に努めていたポーランドであったが、ドイツとソ連を敵に回しての2正面作戦を行う程に血迷ってもいなかった。

 フランスであれば、大陸派が盤石の政治体制を維持できていれば、条理道理を捨ててドイツへと宣戦布告を行っていたであろう。

 ある意味で、対ドイツの主軸であったフランスの混迷がドイツの拡張を許したのだ。

 その事がヒトラーに自信を与えた。

 そして、ドイツ経済に猶予を与える事となった。

 とは言え、それは経済の破綻が少しだけ先延ばしにされたというものに過ぎないのであった。

 故にヒトラーは次の標的に、ポーランドを定めた。

 大ドイツ(サード・ライヒ)の建国に、小癪にも邪魔を仕掛けて来たのだ。

 その懲罰を行うべきであるというのが、その判断理由であった。

 

 

――ドイツ海軍の拡張

 ポーランドとの戦争を決意したヒトラーであったが、軍の全てを欧州大陸での戦争に振り向けられた訳では無かった。

 貴重なお得意先 ―― チャイナとの問題があったからである。

 特に軍事面でチャイナはアメリカと対立し続けている為、常にドイツに最新の装備を求めていた。

 ドイツの軍事研究費用にも少なくない額を投資してくれていたのだ。

 そんな大事なチャイナへの海洋交易路がブリテンやアメリカ、日本などによって脅かされているのだ。

 ヒトラーは海軍に対して、万難を排して海洋交易路を護れるだけの艦を建造する事を厳命した。

 慌てたのはドイツ海軍である。

 それまでドイツ海軍はブリテンとフランスの海軍を主敵と定め、ドイツ近海での制海権の維持と北大西洋でのブリテンの海洋交易路の破壊を主任務と考えていた。

 そこに、チャイナとの海洋交易路の確保命令が下ったのだ。

 慌てるのも当然であった。

 最終的にドイツ海軍はZ艦隊計画とは別の、2万t級装甲艦12隻と2万t級哨戒空母4隻、そして補給艦を中心としたE艦隊計画をまとめ上げる事となった。

 ヒトラーはこの計画に修正を加え(※1)承諾する。

 だがこれは、あからさまなまでに東京軍縮条約違反であった。

 装甲艦は巡洋艦の範疇をあからさまに超える大型艦であり、戦艦として数えた場合にはドイツの保有枠を遥かに超過するのだ。

 世界に大きな波紋を広げる事となる。

 

 

――海軍休日の終焉

 ドイツのE艦隊計画に強烈な反発を示したブリテン。

 ドイツが世界中で大型艦を動かすと言う事は、世界帝国であるブリテンへの明確な挑戦であると認識したのだ。

 或いは、世界規模での通商破壊作戦を実施する力を欲しているとの認識だ。

 その反応にドイツは慌てる。

 ドイツとしては、12隻の装甲艦と言っても主砲は30㎝を越えず、砲門数も6門と少なく抑える事で戦艦では無いとの主張であったのだ。

 外洋航海に対応する為に、少し大きくなった巡洋艦 ―― その程度の認識であったのだ。

 だが東京軍縮会議では、巡洋艦の定義も定められていた。

 戦艦の補助戦力として整備を行わない様に20㎝砲を上限とし、基準排水量も1万tを超えぬ事が定められていたのだ。

 これを基にブリテンはドイツに対し、E艦隊計画の破棄を要求する。

 この要求にヒトラーは激怒した。

 上述の様に、ドイツ/ヒトラーとしては東京軍縮会議に対して配慮していたにも関わらず、ブリテンから一方的に断罪され、日本もアメリカもブリテンに協同しているのだ。

 断じて許せる筈が無かった。

 ヒトラーは東京軍縮会議からの脱退を宣言。

 世界の建艦競争が勃発する事となる。

 

 

 

 

 

(※1)

 E艦隊計画の象徴となる3万t級の大型巡洋戦艦の建造をヒトラーは求めたのだ。

 ドイツ海軍首脳部としては、大型艦の建造保有枠をZ艦隊計画で使い切っている為、反対であったが、ヒトラーとしては交渉の見せ金としての大型艦を欲したのだ。

 交渉が行き詰まれば、建造を中止し、それを以って交渉の妥結を目指すと言う理由であった。

 

 

 

 

 

 




2019/10/25 題名変更


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

A.D.1939
051 戦雲


+

 ドイツの野放図な艦隊建造計画が引き起こした海軍休日の崩壊は、同時に、国力を涵養していたブリテンとアメリカにとっては老朽化した主力艦群の更新を行う好機であった。

 その上でG4はドイツとソ連との戦争を極めて可能性の高い未来であると判断し、4ヵ国による共同での戦争遂行計画が立案される事となった。

 対ドイツ戦争案(ケース・ブラック)対ソ連戦争案(ケース・レッド)対チャイナ戦争案(ケース・イエロー)と言う、現時点でG4と対立している3ヵ国との総合的な戦争計画が作られて行く事になる。

 戦争計画は、最終的に新秩序(デイ・アフター)と名付けられる。

 但し、この戦争計画は本質的には防衛的なものとなっていた。

 是は、日本との交流以降、平和である事のメリットを享受し経済的繁栄をしてきた4ヵ国には積極的に戦争を仕掛ける理由が乏しかったからだ。

 資源地帯と市場とのアクセスが平穏に維持されていれば金が常に生み出され続ける形が出来上がっているのだから。

 だからこそ、統合戦争計画新秩序(ニューオーダー)の内容は苛烈なものとなっていた。

 金稼ぎの邪魔をする相手に手加減をする必要など一切認める必要が無い為である。

 

 

――日本

 日本に要求されているのは、シベリア共和国方面での対ソ連戦備の維持と西太平洋-インド洋間での海洋交易路の保全であった。

 この為、日本はシベリア共和国への軍需物資の支援と共にシベリア共和国軍の錬成に着手する。

 有事に際しては50個師団100万人体制が構築出来るだけの戦争準備だ。

 ソ連との戦争が行われなかった場合、欧州への戦力派遣も前提とした条約を日本とシベリア共和国は締結する事となる。

 シベリア共和国はその対価として、日本が日本連邦の6ヵ国に与えている優先的立場と同等のモノを得られる立場を獲得した。

 日本連邦の準加盟国となったのだ。

 シベリアのロシア人は、形式的とは言え天皇を戴く事に内心では複雑なものを抱えてはいたのだが、ソ連の圧力に対抗する為には日本の助力が必要であり、それを担保する為に同盟以上の確約を日本から引き出す対価として受け入れたのだ。

 海の戦備に関しては、主要な脅威は潜水艦である為、15000t級の対潜指揮艦(※1)と5000t級汎用護衛艦と3000t級の対潜哨戒艦による海上護衛ユニットを編制すると言う腹積もりであった。

 又、戦争準備としての人員の確保準備にも着手する事となった。

 これに合わせて海上自衛隊は、人手を喰う旧世代艦の更新を推し進める事となった。

 特に、それまでは御座なりにされていたあめ/なみ型汎用DDの更新は急務となった。

 省力化ネットワーク戦対応の5000t級汎用艦(ワークホース)での更新である。

 海上自衛隊は、この状況に合わせる形で大規模な部隊の再編成を行う事となる。

 最終的には16個の任務部隊(ユニット)を編制する事が目標とされた。

 2個の航空ユニット。

 12個の海上護衛ユニット。

 2個の両用戦ユニット。

 航空ユニットに関しては、想定される脅威がマリアナ海戦(マリアナ・キャンペーン)に於ける米海軍航空隊級の攻撃として編制される事とされた。

 1波300機の攻撃を捌けるだけの防空力が求められたのだ(※2)。

 技術的な格差も勘案して100機の防空機(※3)を用意出来るだけの空母と防空と対潜の護衛艦、そして潜水艦が必要とされた。

 この結果1個航空ユニットは、しょうかく型航空護衛艦1隻に2隻の30000t級航空護衛艦、防空護衛艦4隻、汎用護衛艦6隻、潜水艦3隻で構成するものとされた。

 これだけでも海上自衛隊の人員を大きく喰う事となる為、非常措置として海上自衛隊は人手を日本人のみならず日本連邦人に開く事となる。

 海上護衛ユニットは上述の様に3種類の艦で構成される。

 旗艦であり、対潜戦闘システムの中枢を担う対潜指揮艦1隻と独自に戦闘可能な2隻の汎用護衛艦、対潜指揮艦とのネットワーク下でその手足として走り回る4隻の対潜哨戒艦だ。

 両用戦ユニットは、各完全機械化された1個師団を輸送できる部隊として大型輸送艦を手配する事とされた。

 この結果、今後日本は30000t級航空護衛艦4隻、15000t級対潜指揮艦12隻、5000t級汎用護衛艦36隻、3000t級対潜哨戒艦48隻、都合100隻を整備する計画となった。

 これに戦時消耗を前提とした予備艦の建造が入るのだ。

 試算した防衛省も精査した財務省も、政治によって決断された膨大な建造計画を呆然と受け入れていた。

 この他、両用 ―― 着上陸作戦に備えた10000t級対地支援護衛艦6隻の建造も検討されていた。

 本来、この手の任務にはやまと型護衛艦が充てられる予定とされていたが、その防空力が評価され航空ユニットへの編入も検討されている為、その代替として予定されていた。

 無論、あめ/なみ型汎用護衛艦の代艦建造の優先順位は低い為、一度に建造される訳では無い。

 それでも平時であれば野放図と言って良い一大建艦計画であった。

 日本はこれを、1939年度中期防としてまとめ上げる事となる。

 この他にも水上戦力を世界中に展開させる為の各種支援艦の整備も推し進める事となり、この事はタイムスリップ後、低調であった日本造船業界に大きな活況を与える事となる。

 

 

――アメリカ

 チャイナとの戦力の衝突が続いている為、陸軍の装備と編制に関しては戦時を見越した形と成っているので、今回の戦力整備に於いて重視されたのは海軍であった。

 東太平洋 ―― 日本との海洋交易路の保全と、北大西洋の掌握である。

 とは言え、どちらも困難と言う訳でも無かった。

 太平洋方面で言えば先ず敵が居ない(・・・・・)ので、万が一のドイツ潜水艦部隊への備えと言う程度であった。

 大西洋方面も、ドイツとの正面に立つのはブリテンであり、此方も対潜が主体ではあった。

 故に、中心となるのは対潜部隊であるが、アメリカ海軍とアメリカ政府は、この状況で戦艦を含めた大型艦の建造を行わないと言う選択をする積りは無かった。

 強大な海軍はG4の中の勢力争いに於いて優位に立ちうる道具であると認識していたからだ。

 とは言え無思慮に建造する訳でも無く12隻の大型正規空母と8隻の戦艦に抑える(・・・)予定であった。

 その分、ドイツの装甲艦に対抗する為の大型巡洋艦や護衛空母に関しては恐ろしい勢いでの建造が決定した。

 

 

――ブリテン

 戦争準備として、欧州の大地でドイツ人を屈服させる歩兵部隊、その数的な主力となるインド人の師団編制に着手する事となる。

 又、海洋戦力に関して言えば、ブリテンの国力の象徴として先ず12隻の高速戦艦の建造を決定した。

 その上で戦後を見据えての航空戦力の拡張を重視する事となる。

 これは空母の建造であり、同時に対艦攻撃機の開発であった。

 ドイツが建造している大型艦を殴殺する為の航空機を、日本と共同で開発する事を決定したのだ。

 対潜に於いては、日本からの対潜戦術及びソナー類の導入が大きかった。

 それまでは独自技術の育成を重視していたブリテンであったが、戦争が近づけはそのような事は言っている余裕は無くなった。

 

 

――フランス

 政治的混乱から大規模な軍拡計画を策定は出来ずにいた。

 とは言え、海洋戦力はブリテンとアメリカが居り、この上で有事に際してイタリアもG4側に立つ様に秘匿交渉を行っており色よい返事を貰えている現状で、特に大きな問題となる事は無かった。

 陸上戦力も営々と育ててきており、戦時体制への移行を行いさえすれば問題は無かった。

 問題は国内の混乱である。

 宣戦布告を受けるまでは、親ソ連/ドイツである平和派による政治的な妨害が続くであろう事が予想されていた。

 その意味においてフランスの政権与党にとって平和派は最早、売国奴と同義であったが簡単に弾圧してしまう訳にはいかなかった。

 現時点ではデモなどの平和的な抗議や主張で収まっているが、警察や軍を用いて鎮圧を始めれば必ずや武力闘争を行うであろう。

 又、平和派以外の野党勢力も、平和派が弾圧されれば次は我もかと判断し、平和派に加担するであろう事が推測された。

 この状況でフランス政府が出来る事は少なかった。

 それでも尚、出来る事を探していた。

 

 

――ドイツ

 E艦隊計画を発端としたG4による戦争準備に、ドイツは恐怖した。

 ドイツが何とか整備しようとしているZ艦隊計画の大型艦群よりもはるかに巨大な艦隊群が生み出されようとしている事を恐れた。

 故にドイツは、対G4戦争計画を策定する事となる。

 フランスとイタリアを下し、欧州を統一する事で大国家を生み出し、その国力を背景にブリテンと和平を行うという腹積もりであった。

 如何に強大な海軍があろうとも、内陸にある帝都ベルリンまで攻め寄せる事は不可能であろうというのがその判断の背景にあった。

 

 

――ソ連

 己の関与しない所で勃発した戦雲に、ソ連は敏感に反応する事となる。

 フィンランドとの国境変更交渉である。

 ソ連にとって重要なレニングラードが余りにも国境線に近い為、その安全性を確保する為にフィンランドに対して領土の割譲要求を出す事となった。

 割譲要求と言う極めて高圧的な態度にソ連が出たのは、シベリア独立の影響であった。

 シベリアでの敗北により、ソ連指導者スターリンの権威が低下した為、それを少しでも補う為の外交的な勝利が必要とされたのだ。

 しかしながらフィンランド側は、その要求を拒否する。

 この時点でポーランドやシベリアとの対ソ連携を行っていたフィンランドは、簡単に折れる事は無かった。

 小国に逆らわれると言う、面子を潰されたソ連はフィンランドとの戦争を欲する様になる。

 

 

 

 

 

(※1)

 15000t級対潜指揮艦は、ヘリ及びドローンの運用を主目的とした空母型護衛艦であった。

 徹底的な自動化を推し進めた15000t級対潜指揮艦は、極めて少数での運用が前提となっていた。

 

 

(※2)

 この想定を聞いたグアム共和国軍(在日米軍)は、腹を抱えて笑った。

 アメリカとブリテンは、何と戦うつもりかと戦慄した。

 日本としては、万が一にもドイツが空母機動部隊を作り上げた場合への備えであったのだが、ある意味で過剰であった。

 

 

(※3)

 艦載防空機は、F-5戦闘機をベースにした艦載型(F-5S)が投入される予定であった。

 新開発の航空機用ミサイル ―― ネットワーク化にも一部対応した近距離ミサイルを最低でも8発搭載出来るF-5S戦闘機は、ネットワーク下で効果的な迎撃に成功すれば倍以上の敵機と交戦し得ると言うのが海上自衛隊上層部の判断であった。

 

 

 

 

 

 




2019.09.11 修正実施


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

052 カレリア地峡紛争-1

+
強者の理屈は、いつでもまかり通る

――ラ・フォンティーヌ    
 







+

 ソ連からの国境線変更の交渉を受けたフィンランドは、基本的に拒否を貫いていた。

 国力の差から言えばソ連側が圧倒的に優位な2国の関係であったが、フィンランドには2つの頼るべきものがあった。

 国際連盟とワルシャワ反共協定(※1)である。

 1935年のエチオピア危機以来、平和維持の為の戦力展開を辞さなくなった国際連盟は、武力に頼った国境線の変更を断固として認めないと言う事で意思が統一されていた。

 又、ワルシャワ反共協定に関しては文字通りの反共連合である為、ソ連の横暴に対しては断固とした対応を期待できたのだ。

 

 

――フィンランド

 国際連盟に対して、ソ連から受けた横暴な要求をはねのける為の協力を要請する。

 その上でソ連に対しては武力を以て国境線の変更を図るのであれば、実力をもって抵抗すると宣言した。

 その上で、乏しい国家予算の中から軍事費を捻出し、軍の強化を図る事となった。

 だが同時に、その軍備の増強を背景としてソ連に対して戦争を回避する為の交渉を継続した。

 戦争となれば負ける。

 負けずとも被害は甚大となるだろう。

 それがフィンランド政府の偽らざる本音であった。

 

 

――国際連盟

 ソ連に対しては強制的な国境線の変更を行わない様に要求を出し、その上で必要があれば国境監視団を編成し戦力の衝突を抑止する旨、提案される事となった。

 だがこれが即座に通る事は無かった。

 主要理事国の1つ、フランスが国内の政治的混乱によりソ連に対する強いメッセージを出す事を躊躇した事が理由であった。

 又、ドイツがソ連側に立った事も大きかった。

 ソ連の国防上の理由で在る以上、武力衝突に至っていないのであれば国際社会は2国間の交渉に関与するべきでは無いと主張したのだ。

 これにチャイナが同調した。

 満州事件に関して、国際連盟からの干渉を快く思っていなかったチャイナは、ここぞとばかりにドイツとソ連の肩を持ったのだ。

 主要理事国では無いにせよ、大国と言って良い2国がソ連側に回った為、国際連盟の足並みが揃うには時間が掛かる事となる。

 

 

――ソ連

 外交的勝利を求めたにも関わらず、軍事的勝利が必要となった状況にソ連上層部は頭を抱える事となった。

 当然である。

 ソ連軍がシベリア独立戦争で受けた傷、その後に行われた粛軍による傷は決して浅いものでは無かったのだから。

 だが、それ故にソ連軍の士気は高かった。

 ソ連軍は佐官級以上の指揮官が軒並み粛清、或は退役していた為、組織として相当に若々しい組織となっていたのだ。

 それ故に、フィンランドとの武力衝突は汚名返上の機会であり、同時に自らの昇進に繋がる機会でもあると認識していたのだから。

 とは言え、ソ連軍が全力でフィンランドに対峙出来た訳では無かった。

 最大の敵であるシベリア共和国、下腹部を狙って来る怨敵ポーランド、この2カ国への備えを削る訳にはいかないからだ。

 この為、ソ連は徴兵を強化して歩兵師団を新設し、侵攻部隊に充てる事とした。

 ソ連政府は国内に対しては、この徴兵を指して、外交を支える戦力であると宣伝した。

 尚、開戦後には、素晴らしく小さな戦争を行うピクニックの様な戦争であると宣伝した。

 最終的にソ連軍は、新規徴兵した兵を中心とした12個師団21万名を用意し、フィンランドに圧力を掛ける事となる。

 尚、新兵主体である為、戦車、装甲車が優先的に配備されている。

 この部隊の錬成に関してソ連政府はドイツを中心とした友好国のメディアに公開を許可し、フィンランドに圧力を掛けた。

 訓練では、最新鋭の45t級戦車であるISが公開され、その洗練されたデザインは、世界中の戦車開発に少なくない衝撃を与えていた。

 ソ連軍としては珍しい程に情報を公開したのは、ソ連上層部の中に居る非戦派 ―― 外交的勝利派の影響であった。

 非戦派にとって、今のソ連はシベリア独立戦争によって国力が大幅に減衰しており、戦争の出来る状態では無いと言うのが共通の認識であった。

 

 

――シベリア共和国

 ソ連と対峙するシベリア共和国にとって、ソ連とフィンランドの衝突はもろ手を挙げて歓迎すべき事態であった。

 日本連邦から全幅の支援を受けているとは言え、対峙するソ連は国力で倍近い格上の国家であった。

 その格上国家が少しでも疲弊するのであれば何でもすると言うのが、シベリア共和国の方針であった。

 即座にソ連相手の非難声明を上げると共に、日本へ確認の上で義勇軍の編成とフィンランド派遣を決定した。

 シベリア共和国政府の要請を受けて日本は、機甲部隊を含めた重部隊の派遣を了承する。

 日本としても、ソ連の国力低下は願っても無い事である為、日本は派遣部隊の装備に関して優先的に提供する事を約束、実行する。

 このお蔭で、編成された第1シベリア義勇団(※2)は、戦車、装甲車、野砲を充足した増強機械化旅団となる。

 航空部隊でも義勇部隊を編成した。

 此方は、F-6戦闘機を中心とした20機余りの部隊であった。

 気前よく新鋭機を義勇部隊として貸し出す理由は、アメリカから購入した諸戦闘機とは比べ物にならぬ高い稼働率があった。

 又、消耗品に関しては、日本がブリテン駐留部隊を介して協力すると言うのも大きかった。

 この他、シベリア独立戦争の際に鹵獲したソ連軍の小銃や野砲、果ては戦闘機などの提供もフィンランドに約束していた。

 

 

――フランス

 国内の親ソ連派 ―― 平和派が活発に活動することによる国内情勢の混乱は、欧州の盟主を自認するフランスに積極的な行動を許さなかった。

 それ程にフランス国内の平和派は有力であり、同時に過激な主張を繰り返していた。

 フランス政府が、最悪の状況として内戦(シビル・ウォー)への備えをする程度に。

 とは言え、何もしないという選択肢も政権にとってはあり得ない話であった。

 義勇部隊の編成こそ行わなかったが、ブリテンに声をかけて戦争抑止の為の海洋任務部隊を編成し、ソ連への圧力を掛ける事を決定していた。

 又、保有する旧式装備、戦車、野砲、航空機、小銃などのフィンランドへの提供も申し出ていた。

 

 

――ブリテン

 国際連盟主体の平和監視団編成が行われていない現状、フィンランドへの支援はフランスと共同で行う戦争抑止の為の任務部隊の編成と派遣の他は、人道に基づいた支援が中心であった。

 これは、主にフランスに遠慮したと言う面があった。

 世界はブリテンが、旧大陸(欧州)はフランスが、などという認識があった為、出しゃばる事を躊躇したと言う側面があった。

 同時にブリテンは世界を制するが故に、その世界各地での植民地での独立を求めた活動が活発化しており、その対応に外交力が食われていると言う状況でもあった。

 この状況であっては、如何に世界帝国であると自認するブリテンであっても自由には動けないでいた。

 

 

――アメリカ

 国際連盟に正式加盟していないアメリカが国家として行った動きは乏しかった。

 1つはソ連に対する非難声明。

 1つは民需物資の売却に関する声明。

 1つは、日本に対して売却中の1000馬力級エンジンに関して優先度を上げる ―― 国内需要向けを一時中断した上で、日本へ売却する事を選択した。

 アメリカにとって優先されるのは対中、満州経営であった。

 

 

――日本

 シベリア共和国同様に、ソ連の国力低下を狙う意味でフィンランドへの人道的支援を宣言する。

 その上でフィンランドに対して、軍事物資の提供を行う対価として国境線条約の締結を持ちかけた。

 これはフィンランドが国境線を外側に向けて変更する場合には、日本と国際連盟の承認を必要とする事を定める条約であった。

 これは、日本の国内世論対策が主となった条約の締結要請である。

 即ち、防衛装備移転三原則に基づいた処置であった。

 シベリア独立戦争の頃より、日本の武器輸出に関してはかなり柔軟性を持ったものとなっていたが、それでも新規に輸出する場合には国内世論や国会での審議に時間が掛かる状態ではあった。

 この為、国境線条約をフィンランドと結ぶ事で、フィンランドは日本の防衛装備転移三原則を遵守する積りがあると宣言して貰ったのだ。

 フィンランドとしては、特に問題となる事は無かった為、国際条約としては恐ろしい速度での締結になった。

 この締結をもって、日本は、人道的国防装備の売却を宣言した。

 主たるものは防御的な装備、携帯食料や衣料品、簡易対戦車ロケット、地雷などである。

 その上で、フィンランド政府から強く要求されたのが戦闘機であった。

 日本はエンジンの整備性が高いと言う事と、既にシベリア共和国に供給し、運用実績のあるF-6戦闘機を主として売却する事を決めた。

 又、F-6戦闘機の数が揃うまでの数合わせとして、ブリテン製1600馬力級水冷エンジンを搭載したF-7戦闘機も少数が提供された(※3)。

 シベリア共和国空軍向けに本格的に量産の始められたF-6戦闘機では無く、いまだ低率量産段階にあるF-7戦闘機を最初に供出する理由は、エンジンがブリテン製である為、保守部品の供給が容易である事が大きかった。

 

 

 

 

 

(※1)

 ソ連の周辺に存在するフィンランド、ポーランド、シベリアの3ヵ国から構成されている。

 名前の由来は、協定が締結されたのがワルシャワ市であった為である。

 当初は対ソ連での情報の共有が目的であったが、シベリアが日本連邦に参加する事になって以降はある程度日本の先進技術の共有が図られる事となっていた。

 先進技術の共有 ―― 漏えいに関して日本は、シベリアへの圧力低下を狙うと言う意味で黙認していた。

 但し、物資の売却に関しては慎重に行う様に要請(・・)していた。

 これは対フランスの絡みがあった。

 ポーランドを自国の影響下にある国家と認識するフランスと波風を立てぬ為であった。

 フィンランドに関してはフランスの強い影響下にある訳では無かったが、フランスの持つ欧州の盟主と言う認識故に過度の日本からの干渉に対してはフランスが遺憾の意を表明する事があった。

 とは言え、1930年代後半に入ってからのフランスの政治的混乱により、フランスの欧州全域に対する影響力は格段に低下する事となり、フィンランドもポーランドも自国防衛の為にも日本に頼る形となる。

 

 

(※2)

 第1シベリア義勇団

  1個機械化歩兵連隊

  2個自動化歩兵連隊

  1個戦車連隊

  1個自走砲兵連隊

  1個偵察大隊

 錬成途上の部隊から、人員を集成して作られた第1シベリア義勇団は、過度にソ連を刺激しないという政治的判断から旅団規模を公称しているが、人員は約15000人を数える、堂々とした師団規模部隊であった。

 4個中隊編成の戦車連隊が装備する戦車は、3個中隊こそアメリカ製のM2戦車であったが、1個中隊は日本から導入したばかりの新鋭38式戦車が定数配備されていた。

 機械化部隊の装甲車に関しても、38式装軌装甲車が充足している。

 この他、部隊で使用される自動車は全て日本製が配備されていた。

 日本製の自動車、特にトラックは雪のフィンランドでも問題なく稼働し、その整備性も相まって兵たちから高く評価される事となる。

 この為、フィンランドは戦争終結後も日本に対してトラックの提供 ―― 売却を要請する事となる。

 

 

(※3)

 日本政府がフィンランドに提供を決めたF-7戦闘機は、日本連邦統合軍欧州総軍欧州方面隊隷下の第666航空団(トリプル・シックス)で運用試験が行われていた機体12機であった。

 ブリテン空軍の部隊錬成にも協力していた第666航空団は、ある種の宣伝部隊も兼ねていた。

 海外輸出向けのF-7戦闘機 ―― 特に欧州で好まれている水冷式のエンジンを搭載している為、模擬空戦などを行って機体性能をアピールする事が望まれていたのだ。

 第666航空団が大仰な部隊番号と部隊名(ニックネーム)を持っているのも、或は髑髏をあしらった派手な部隊章を持っているのも、宣伝任務を持っている為であった。

 フィンランドのパイロットたちは、ブリテンの地で第666航空団から航空機材を譲り受け、そして訓練を受ける事となる。

 尚、同様の部隊としてF-6戦闘機を装備したシベリア総軍の隷下にある第501航空団(ストライカーズ)が存在している。

 

 

 

 

 

 




2019/10/01 文章修正
2019/11/15 題名変更


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

053 カレリア地峡紛争-2

+

 ソ連にとってフィンランドの反応はまだしも、国際連盟と国際社会の激しい反発は想定外であった。

 中でもスターリンを激怒させたのは、シベリア共和国が行う義勇部隊の派遣であった。

 否、義勇部隊は兎も角としてシベリア共和国が義勇部隊の輸送船団護衛に、ソ連にとって許しがたい裏切り者である重巡洋艦アドミラル・エヴァルトを充てた事がスターリンの逆鱗に触れたのだ。

 万難を排してアドミラル・エヴァルトを撃沈する事を命じると共に、シベリア共和国へ圧力を掛ける事を命じた。

 スターリンの厳命に、ソ連軍はフィンランドとの戦争準備と並行してシベリア共和国に対する圧力作戦、西シベリア低地に展開している部隊を用いた大演習 ―― 1939西シベリア演習を急遽実施する事を宣言するに至った。

 

 

――シベリア共和国/日本

 1939西シベリア演習に対応する為、シベリア共和国は同様の大演習を実施する事を日本政府に要請した。

 日本政府は、この要請に対して日本連邦統合軍シベリア総軍及び連邦総軍(※1)を挙げた機動演習を実施する事を決定した。

 その他、完成したばかりのB-1爆撃機とB-2爆撃機(※2)による空爆演習も実施される事となった。

 義勇部隊や人道支援物資の輸送に関しては、日本総軍及び連邦総軍南洋方面隊から艦を集成し第391任務部隊(TF-391)を編制し、護衛に充てる事となった。

 TF-391は、70,000t級空母型護衛艦 ずいかくと35,000t級防空護衛艦 むさしを中心に大小21隻の戦闘艦が集まった堂々たる空母打撃群(CSG)であった。

 退役間際のタイコンデロガ級を筆頭とした7隻のイージスシステム艦による防空戦闘力、ヘリ搭載戦闘護衛艦(ひゅうが型護衛艦)を中心とした6隻の護衛艦による対潜戦闘力。

 その上で、外周を固める多機能護衛艦と、潜水艦が居るのだ。

 ソ連の不穏な動きを前提として、人道的な輸送支援なれども全面戦闘も想定する布陣であった。

 

 

――フィンランド

 1939年後半、いまだフィンランドとソ連の間での交渉は続いていた。

 だがそれは戦闘が起きていないと言う事を意味しない。

 国境線に於ける小規模散発的な部隊の衝突、偵察機による偵察、或は航空優勢を握る為の航空部隊の威嚇合戦。

 それは正しく見えざる戦争(ファニー・ウォー)であった。

 この時点でフィンランドが保有する航空機は戦闘機や爆撃機、練習機などを含めて100機に達していなかった。

 対してソ連側は500機を超える戦力をフィンランドとの国境線付近に展開させていた。

 いまだ銃弾の飛び交わぬ空の小競り合いであるが、フィンランド側は明らかな劣勢に立たされていた。

 その状況を一変させる機材が届く。

 日本製水冷戦闘機F-7である。

 ブリテンにて猛特訓を受けたパイロット達の操るF-7戦闘機は、たったの12機ではあったが、それまで圧倒的劣勢に追い込まれていた航空優勢を、少なくともやや劣勢と言う水準にまで挽回する事に成功したのだ。

 これは本格的な戦闘では無く、現状は小規模な偵察機や戦闘機による航空機の小競り合い ―― 威嚇合戦であると言うのも大きいだろう。

 だがそれでも、カレリアの空を征くF-7戦闘機の雄姿は、フィンランドの人々を大きく勇気づける事となった。

 

 

――ソ連

 シベリア独立戦争(シベリア・ディスグレィス)に於いてソ連空軍を壊滅寸前まで追い込んだ日本製戦闘機が西方に出現した。

 その一報はソ連空軍に予定された、だが尋常では無い衝撃を与えた。

 日本がフィンランドに新鋭レシプロ戦闘機を売却すると言う情報はソ連上層部も掴んではいたのだが、それが実際に眼前に現れれば現場は動揺すると言うものであった。

 特に最初にカレリアの空を舞ったF-7戦闘機はフィンランド本国へ到着して直ぐであった為に塗装が特徴的な白灰色の日本迷彩(ロービジビリティ)のままであった。

 かつてシベリアの空で日本軍機(F-5戦闘機)との絶望的な戦いを経験していたソ連空軍パイロット達は、その色を覚えていた。

 ソ連空軍を震撼させたF-7戦闘機。

 だが極々一部のベテランパイロット達は冷静に状況を判断し、かつての怨敵(F-5戦闘機)に比べてF-7戦闘機はソ連の新鋭Yak-9戦闘機で立ち向かうのであれば、それ程に(・・・・)怖い存在では無いと報告書を上げた(※3)。

 それがソ連空軍の士気が崩壊しなかった理由であった。

 同時に、ソ連は航空機用エンジンの開発に関してドイツに対して協力を要請する事となる。

 

 

――日本

 フィンランドでの、実戦さながらのF-7戦闘機の運用実績によって完成度の高まったF-7戦闘機は、正式にF-7B型戦闘機として輸出商品としてのラインナップに乗る事になる。

 とは言えF-6戦闘機に比べて高級機(ハイエンド・モデル)であった為、フィンランドからの追加売却の要請は入らなかった。

 如何に優れた戦闘機であっても、数的に余りにも劣勢であっては如何ともし難いというのがフィンランド空軍の冷静な判断であった。

 だが、フィンランドで活躍するF-7戦闘機の需要が消えたと言う訳では無い。

 ブリテンを筆頭に、ポーランドやイタリアからの受注を受ける事となる。

 只、その際にポーランドは自国でライセンス生産が可能なように改造(ディチューン)して欲しい旨を、日本に要求した。

 これを日本は拒否する事となる。

 低価格化への改造自体は可能であるが、F-7戦闘機はエンジンは兎も角として、電子機器(アビオニクス) ―― FCSや操縦系統(フライ・バイ・ライト)、或は複合素材製の機体構造や外皮などをポーランド国内の技術で製造するのは不可能というのが判断理由であった(※4)。

 それをおして改造/再設計するとなれば、それはほぼ新規開発と呼べるものであろう。

 日本は、ポーランドに対して、ポーランドの技術と予算とで新戦闘機の開発を提案する事となった。

 自国の技術水準を理解するポーランドは日本との共同開発に心を動かされた部分もあったのだが、議会がソ連とドイツに対抗する戦闘機を早期に揃えるべきと声高に主張した為、日本の提案を謝絶し、F-7戦闘機とF-6戦闘機の導入を優先する事となる。

 尚、この一連の交渉を見ていたアメリカやブリテンは、ポーランドの蛮勇ぶりに呆れていた。

 ライセンス生産による技術の提供を少しだけ期待していたイタリアは、黙ってF-7戦闘機を導入。

 空力やその他の技術で模倣できる所は模倣し、イタリア国産戦闘機の技術を向上させる事に努めた。

 

 

 

 

 

(※1)

 連邦総軍とは極東方面で、日本総軍が管轄する日本列島以外の防衛を担当する部隊である。

 4個の方面隊と5個師団5個旅団、約130,000名で編制されている。 

  オホーツク方面隊(豊原)

   1個自動化師団/第603師団

   2個自動化旅団/第101旅団 第102旅団

  台湾方面隊(タイペイ)

   2個機械化師団/第18師団 第301師団

   1個自動化旅団/第303旅団

   2個海兵旅団/第203旅団 第302旅団

  朝鮮方面隊(ソウル)

   1個自動化師団/第202師団

  南洋方面隊(グアム)

   1個機械化師団/第501師団

 戦略予備的な意味合いを持っている日本総軍と違い、シベリア総軍にとって後詰めの部隊であった。

 

 

(※2)

 B-1爆撃機はP-1哨戒機を基に、対潜設備を撤去し燃料を増設した簡易(・・)爆撃機であった。

 完全な新機軸として開発する事としたB-2爆撃機が失敗した場合に備えた機体であった。

 尚、B-2爆撃機の開発が成功した場合、B-1爆撃機は制圧攻撃機へと改造される事とされていた。

 この為、B-1爆撃機の構造はP-1哨戒機に比べて強化されたものとなっていた。

 B-2爆撃機は、B-52爆撃機を手本とした純然たる戦略爆撃機として開発された。

 日本国が初めて開発する機体と言う事で各部の設計は手堅くまとめられている。

 エンジンは16,000lb級のF7-IHI-10Cを6基搭載し、最大搭載量は50,000lbsとされている。

 開発に協力したグアム共和国軍(在日米軍)の一部将官からは物足りない ―― 目標が低すぎると言う指摘もあったが、日本としては開発の確実性を重視した格好であった。

 取りあえず、シベリアの基地より出撃し、モスクワまでの各地を焼けるのであれば問題ないと言う意識でった。

 とは言えB-2爆撃機の性能が低いと言う訳では無い。

 実用高度14,400m、巡航速度920km/hという数値は、諸外国の航空機にとって現用機は勿論、中長期的な開発計画の航空機でも撃墜はおろか到達と追随の不可能な数値であった。

 この上で日本は、諸外国が装備するであろうジェット戦闘機に対応する為、超音速爆撃機の開発にも着手する事となる。

 

 

(※3)

 この報告書自体は、Yak-9戦闘機であれば不利ではあるが絶望的では無い(・・・・・・・・・・・・・・)と言う主旨で書かれていた。

 だがソ連空軍の士気崩壊を恐れたソ連軍上層部はこれを改竄し、Yak-9戦闘機であれば対応可能である(・・・・・・・)であるとして各部隊に広める事となる。

 実際問題として1500馬力級のエンジンを搭載したF-7戦闘機に対し、1000馬力級のエンジンを搭載したYak-9戦闘機は性能的に極めて不利であったが、フィンランド空軍の数的な主力はF-6戦闘機を筆頭にした1000馬力級エンジン搭載機であった為、ソ連の誇る新鋭戦闘機というYak-9戦闘機の看板が恥辱にまみれる事は無かった。

 但し、それがソ連の航空優勢に繋がるかと言えば、それは否であった。

 ソ連側もYak-9戦闘機は量産が始まったばかりであり、数的主力は旧世代と言って良いYak-7戦闘機であった為、この戦争に於いてソ連が質の面でフィンランド空軍に優越する事は無かった。

 

 

(※4)

 内心としてポーランドが望んでいた製造技術の供与と言うのは、最初の段階で日本から拒否されていた。

 日本が提示するのは買うか買わないかという2択だけであった。

 

 

 

 

 

 




2019/10/01 文章修正
2019/11/15 題名変更


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

054 カレリア地峡紛争-3

+

 シベリア共和国の義勇部隊のフィンランド派遣は大馬力で行われる事となった。

 各部隊の連携訓練もそれ程行われる事は無く、佐官級以上の指揮官達は輸送艦や人員輸送艦(※1)をネットワーク化して、意思伝達や部隊運用に向けた図上演習を行う事で対応するものとされた。

 ここまで急ぐ理由は、フィンランドとソ連の開戦前には義勇部隊をフィンランドに送り込みたいと言うシベリア共和国政府の要望があった。

 同時に、日本政府としては開戦に至る前にフィンランド側を強化する事で、ソ連政府に冷静な判断(・・・・・)を強いたいと言う思惑があった。

 

 

――ソ連

 戦争を抑止する為として大々的にマスコミに公開されて行われた第391任務部隊(TF-391)の出港式典を、ソ連は苦々しく見ていた。

 特にスターリンは、アドミラル・エヴァルトは断固として撃沈するべきであると見ていた。

 それ故に、ソ連はフィンランドとの開戦を遅らせる決断をしていた。

 潜水艦であれば国籍など不明となる。

 アドミラル・エヴァルトを含むTF-391が平時と思ってバルト海を訪れた時、所属不明の潜水艦(・・・・・・・・)で水中からの集中攻撃を行うという作戦を立てたのだ。

 現時点でバルト海に投入できる潜水艦は12隻。

 漁船に偽装した哨戒艇をスカゲラック海峡に投入しTF-391を捕捉、包囲し打撃を与える積りであった。

 第1目標はアドミラル・エヴァルト。

 第2目標は各種輸送艦。

 そして、可能であれば日本の海洋戦力の象徴である、超々々大型空母ずいかくと戦艦むさしの撃沈であった。

 攻撃に成功した潜水艦は勲章の授与を確約し、撃沈出来た場合は昇進も約束した。

 12隻の潜水艦には最優先で物資を融通し訓練時間も存分に与えた。

 ソ連は万全な形でTF-391を迎え撃つ積りであった。

 

 

――日本

 TF-391を編成するのと前後して、日本は北海-バルト海に於ける航路安全の為の航空部隊の展開を行った。

 元から航空部隊の駐屯していたブリテンを主基地とし、非常時の支援用にポーランドへ航空基地を借り受ける交渉を行ったのだ。

 展開する主力はP-1哨戒機とE-767AWACS、そしてEC-2電子戦機であった。

 護衛(エスコート)用としてF-3戦闘機も1個飛行隊が展開していた。

 欧州に短時間でここまで航空戦力を展開出来たのは、欧州総軍の後方支援を行うクウェートの基地あればこそであった。

 G4を含めて諸外国は、日本が滅多な事では海外展開させない未来戦闘機、F-3戦闘機を欧州に展開した事で日本の本気を見た。

 とは言え、日本の目的はそれ程に威圧的なものでは無かった。

 単純に、P-1哨戒機にせよE-767AWACSにせよ展開速度が速いので、護衛をするには同等以上の高速発揮が可能なF-3戦闘機が必要だというだけであった。

 

 

――ドイツ

 フィンランドにて繰り広げられたF-7戦闘機とYak-9戦闘機の実弾を伴わない空戦情報をソ連から得たドイツは、現状ではドイツ空軍の主力機である1000馬力級エンジンを搭載したBf109戦闘機ではF-7戦闘機に対抗する事は困難であると判断していた。

 これは推測では無く、事実であった。

 ソ連から求められたエンジンの共同開発の為、ドイツは情報収集としてソ連のフィンランドとの国境線近くに10機のBf109戦闘機を派遣、情報収集を行った結果だった。

 1000馬力級エンジンを搭載したBf109E型戦闘機では、F-7戦闘機に全くと言って良い程に歯が立たなかったのだ。

 この為、開発中であった現エンジンの改良型、1500馬力級の実用化に努める事となる。

 又、このエンジンの開発で得られた知見をソ連側にも提供し、共同での大馬力エンジンの開発に着手する事となった。

 そこに登場したのがF-3戦闘機、ジェットエンジン機である。

 日本がジェットエンジンの戦闘機を保有する事は知っていたが、P-1哨戒機などと違いシベリア独立戦争にも投入されず本土以外には展開させない為、ある種の張子の虎と見ていたのだ。

 そのジェット戦闘機が欧州に展開し、活動する様にドイツは衝撃を受けた。

 Bf109戦闘機では勝てない、と。

 その結論に激怒したヒトラーは、ドイツの航空機製造メーカーに対して、ジェットエンジン戦闘機の開発を厳命する事となる。

 

 

――ブリテン

 ドイツ同様にF-3戦闘機の衝撃を受けたブリテンも、独自の次世代戦闘機開発に注力する事となる。

 だが同時に、開発と量産体制の確立まで時間を必要とするジェットエンジンのみに注力する事無く、補助戦力としてのレシプロエンジン機の開発も進める事とした。

 ある意味で、これがドイツとの国力の差であった。

 

 

――フランス

 国内の政治的混乱から、ジェットエンジンの開発に全力を傾ける事が出来ずにいた。

 エンジンメーカーへの指示と、補助金を捻出する事は出来たが、それが精一杯であった。

 フランスの航空産業は少しづつ世界の流れから遅れ出していた。

 

 

――アメリカ

 日本に次いでジェットエンジンと、ジェットエンジン機に関する知見の豊富なのはアメリカであった。

 グアム共和国(在日米軍)経由でふんだんに未来情報を知り得たアメリカは、本格的なジェットエンジン戦闘機を開発する余力を持っていた。

 にも関わらず、開発を本格化していなかった理由は、開発に必要な膨大な予算の問題であった。

 或は敵。

 1939年の時点でアメリカにとっての主敵はチャイナであり、その航空戦力は貧弱であったが為、ジェットエンジン機を大馬力で開発する必要性に乏しかったからだ。

 ある意味でアメリカは平和にまどろんだ国家だった。

 とは言え、F-3戦闘機の欧州展開を切っ掛けに列強各国でジェットエンジン機の開発がスタートした状況を座視する事は無かった。

 各メーカーに補助金をふんだんに与え、グアム共和国(在日米軍)から得た情報を提供し、G-4で最初のジェット戦闘機を開発する事となる。

 

 

 

 

 

(※1)

 人員輸送艦とは、タイムスリップ時に民間造船会社が受注建造途中であった大型客船や貨客船を景気対策として日本政府が買い取った船舶の総称である。

 又、タイムスリップ後、自衛隊(日本連邦統合軍)の活動圏が地球規模に広域化した為、師団規模の部隊も輸送可能な様に100,000総トン超級の大型客船を基にした人員輸送艦なでしこ型6隻を発注する事となった。

 又、一部の中型貨客船の場合、人員輸送よりも通信機を増設し、ヘリ甲板まで設置した指揮機能強化型人員輸送艦も存在する。

 マスコミや野党からは、最終的に30隻を超える大整備計画となった外洋船舶整備計画(人員輸送艦のみならず、タンカーや自動車運搬船などの雑多な、建造途中の大型船舶の買い上げ)は官需主導による不正常な政府予算の運用であり、拡張的軍国主義的の表れであると批判の声も上がった。

 だが日本政府は、この批判を退けて整備計画を遂行した。

 この官需あればこそ民需が復活するまでの短く無い期間、日本国造船業界と雇用を守る事が出来るとの判断であった。

 尚、平時には船乗りの訓練船(訓練学校)を兼ねる病院船として南洋方面や欧州、アメリカに派遣されている。

 又、建造が進んでいた客船は豪華な内装のまま建造され、外交文化交流用に用いられた。

 人員輸送を艦船に頼る理由は、航空機で世界展開するには、日本本土を除く各地の航空機運用インフラの整備状況が極めて劣悪だからである。

 

 

 

 

 

 




2019/10/03 文章修正
2019/11/15 題名変更


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

055 カレリア地峡紛争-4

+

 第391任務部隊(TF-391)に護衛されたフィンランド人道支援船団とアドミラル・エヴァルトは、日本連邦統合軍クェート基地を経由して第2スエズ運河を通り、ブリテン島はポーツマス軍港へと入港した。

 ここで艦船の整備と、乗組員たちの休養を行った。

 ここから先は事実上の敵地とTF-391司令部は判断しており、万が一の事態が発生せぬ様に万全を期す為であった。

 特に、シベリア共和国が用意した輸送船はアメリカやブリテンの船会社から借り受けたものが多かった為、日本船籍のものと比較すると小型な船が多く船員たちの消耗も激しかったのだ。

 TF-391側でも、空母型護衛艦ずいかくや防空護衛艦むさしといった居住性にも十分な配慮がなされた大型艦は兎も角、3900tという比較的小規模で尚且つ乗員が少ないあさかぜ型多機能護衛艦(FFM)の乗員の疲労は無視できるものでは無かった。

 幸い、フィンランドとソ連との状況は未だ開戦には至っておらず、又、一触即発と言うべき緊張状態にも陥っていなかった為(※1)、TF-391司令部は日本政府やシベリア共和国政府、そしてフィンランド政府に確認の上で2週間の整備と休養の時間を取った。

 

 

――ドイツ

 日本艦隊の情報を少しでも得ようとポーツマスにスパイを投入し、又、大型漁船を徴発しスパイ船に仕立て上げてその行動を監視しようとしていた。

 諜報活動であると同時に、ある意味で日本に対する意趣返しであった。

 ドイツ領海のすぐ外をP-1哨戒機が定期的に飛行しており、これにドイツ空軍が監視と称して嫌がらせに飛行機を派遣したのだが、全くと言って良い程に相手にされなかった為、著しく面子が傷つけられていたのだ。

 航続距離を考えて爆撃機を派遣すれば、余りの速度差に完全に置いてけぼりとなった。

 速度を考えて戦闘機を派遣すれば、最高速度を出せる短時間だけは追従できる(※2)のだが、燃料を余りにも消費する為に30分もせぬうちに撤退する羽目に陥っていた。

 この事態は、ドイツ空軍の責任問題にまで発展していた。

 それ故に、ヒトラーはジェットエンジン機の開発に対し更なる注力を命じていく事となる。

 

 

――ブリテン

 日本の持ち込んだP-1哨戒機は、世界大戦で受けた潜水艦被害の記憶が生々しいブリテンにとって、喉から手が出る程に欲しい航空機であった。

 日本との演習にて、その性能を理解したブリテンは、日本に対して何が何でも売って欲しいと要求する事となる。

 日本としては拡大G4協定によって先進武器売却の縛りの緩いブリテンであれば、P-1哨戒機の売却に関しては吝かでは無かった。

 売却の条件としては、分解解析(リバース・エンジリアニング)を行わない事と転売を行わない事、そして消耗品の一切を日本から輸入する事であった。

 完全な輸入品と言う事にブリテンは難色を示したが、日本が稼働率に直結する部分に関してはブリテン内の日本連邦統合軍航空基地に充分な集積を行う事を提案した為、納得する事となる。

 この様に一時は契約寸前まで進んだブリテンのP-1哨戒機購入であったが、思わぬ所からストップが入る事となる。

 声を上げたのはブリテンの情報分析提案組織であるPFI機関(Prosperity through information)であった。

 PFI機関とは、元在日英国大使館関係者や在日英国人でブリテンに帰順した人々が所属し、未来情報を基に様々な提案を内閣に対して行う組織であった。

 そのPFI機関の人間で、元英王立海軍士官であった人間が、前のめりになっていた政府とブリテン海軍を止めたのだ。

 その声はP-1哨戒機を購入するのは良いが、運用し続けるコストは計算しているのか、との疑問であった。

 P-1哨戒機を運用する上で必要となるインフラ、パイロットは当然にしても航空基地の整備に始まってエンジンやアビオニクスの整備する人間まで1から教育する必要がある。

 その上で、小は燃料から大は弾薬や保守部品、消耗品の数々を全て日本から購入し続ける必要がある。

 特に大量に消耗する事となるソノブイの価格は、決して無視できるものでは無かった。

 その事を冷静に計算しているのか、という声であった。

 冷静なPFI機関の声に、ブリテン海軍上層部は、世界帝国として繁栄を極めているブリテンの経済力であれば、日本の高額機であっても購入も運用も思うが儘であると返事をした。

 だがブリテン政府は、少しだけ冷静になって、日本に確認を行った。

 日本は導入コストから1回の作戦行動辺りで掛かるコストを含めてライフサイクルコストを提示した所、ブリテン政府はもとより海軍上層部まで顔を真っ青にして卒倒寸前になった。

 高額であろうとは予想はしていたが、まさか1個飛行隊分の航空機を揃えるだけで、戦艦が数隻から撃沈(・・)されるというのは予想外であったのだ。

 世界帝国として、世界中に部隊を展開せねばならぬブリテンとしては、高性能も大事ではあるが数を揃える事も大事なのだから。

 慌てて、ブリテン政府はP-1哨戒機の導入をキャンセルし、次善の策を検討する事となる。

 1つはP-1哨戒機との更新で退役したP-3C哨戒機の導入であった。

 既に日本連邦統合軍では完全に退役しているP-3C哨戒機であったが、状態の良いものは樺太で予備機として保存されているのだ。

 だが再就役に掛かるコストは決して安いものでは無く、周辺インフラの整備には矢張り莫大なコストが掛かる。

 その上で機体自体の余命はそこまで永くは無い。

 ブリテンからすれば魅力的な案では無かった。

 最終的に日本とブリテンは共同で汎用の大型機 ―― 4発エンジン機を開発し、それを基に対潜哨戒機の開発を行う事となる(※3)。

 尚、コストの問題もあってソノブイの搭載は計画立案時から諦められており、磁気探知システム(MAD)と対水上レーダーによる哨戒が主要装備と定められた。

 

 

――第391任務部隊

 休息と補給を行ったTF-391は、陣容を更に拡大する事となる。

 ブリテンなどの義援物資や義勇部隊を載せた船舶も護衛する事となったからである。

 これは、ソ連が声高に国際連盟による介入を批判する為、万が一の可能性(・・・・・・・)を考慮しての事だった。

 当然ながらも、ブリテンからも巡洋艦を中心とした護衛部隊が参加する事となった。

 TF-391司令部は、その配置を輸送船などの直衛とした。

 これはソ連の妨害活動に於いて潜水艦が一番厄介であろうと言う判断に基づくものであった。

 TF-391司令部の認識としては、ブリテンの護衛部隊()護衛対象であった。

 ブリテンの駆逐艦が潜水艦に対して無力だと言う訳では無い。

 だがTF-391に所属する対潜任務艦群にとっては、水中雑音を放出し過ぎるので傍に居て欲しくないと言うのが正直な感想であった。

 TF-391はそれ程の緊張感を持って水中の敵に対処しようとしていた。

 尚、水上及び空中の敵に関して言えば、油断はして居ないが、TF-391の実力であれば一方的に撃破可能と言うのが事前の戦術分析(オペレーションズ・リサーチ)の結果であった。

 又、そこまで堂々と戦争の危険性を乗り越えてソ連が前に出て来る事は無いだろうと言う判断もあった。

 

 

――フランス

 盛大な船団を組んで出港するTF-391。

 だが、その前に出港した船団があった。

 フランスの義勇物資輸送船団である。

 義勇物資輸送船団は、TF-391の派手な出港式典を隠れ蓑にする様にブレスト軍港を出港した。

 これは、フランス国内の政治状況、国民の一部に存在するソ連へのシンパシーを感じている市民の反発が大きく出ない様に、だが同時にフランスの欧州盟主と言う立場がフィンランドへのソ連の不当な行為を座視する事は出来ないと言う、2つの立場のバランスを取ったものであった。

 船団の旗艦はアメリカの支援を受けて建造され、就役したばかりの22000t級新鋭高速空母ジョフレであった。

 密閉式格納庫を持つ点ではアメリカ式の設計とは異なっているが、アメリカが重ねて来た空母運用ノウハウを加味して建造されたジョフレは、フランス海軍初の空母ではあったが、高い完成度を誇っている。

 ジョフレにはフランスがフィンランドへ売却した航空機と大量の武器弾薬が積み込まれていた。

 フランス政府は、ソ連が妨害に出る可能性を考慮して、物資の輸送にジョフレを筆頭とした高速艦を充てる事としていたのだ。

 空母1隻と護衛の駆逐艦2隻という小規模な編成であるのも、快速の為であった。

 世界とソ連の耳目がTF-391に集まっている内にフランスの義勇物資輸送船団はフィンランドへ駆け込む予定であった。

 問題は、ソ連の戦意が世界のフランスの予想を遥かに上回っていた事だろう。

 そしてもう1つ、船団の中心に居るのがジョフレ ―― 空母であった事がスカゲラック海峡で悲劇を生む事となる。

 

 

――スカゲラック海峡事件

 国家からの絶対命令でシベリア共和国のアドミラル・エヴァルトと日本のずいかくを狙っていたソ連潜水艦部隊。

 その前衛であったソ連の漁船へ偽装した情報収集船は3隻、TF-391の出港の情報を得て以降、緊張感を持ってスカゲラック海峡を遊弋していた。

 情報収集船には、可能であればTF-391に追従する事が求められていた。

 そして、活動中の情報収集船2号艦が空母(ジョフレ)を発見した。

 霧の出た悪条件下であったが、戦艦や輸送船とは違う特徴的な構造を持つ空母は容易に識別出来た。

 無線で空母発見を打電した情報収集船。

 それを受信したスカゲラック海峡に展開中であったソ連潜水艦の艦長は驚くと共に歓喜した。

 功名心に逸った艦長は絶好の襲撃の機会であると判断した。

 本来ソ連潜水艦部隊は、TF-391がバルト海に進入後に襲撃を行う予定であり、情報収集船の無線を受信した潜水艦は本来、襲撃任務を予定していなかった。

 だが近海を空母が2隻しか護衛を付けずに航行していると言う絶好の機会を逃すのは余りにも勿体ないと判断した。

 政治将校が当初の作戦からは逸脱する事を懸念するが、艦長は空母を撃沈すればフィンランドへの増援を阻止すると言う本来の目的を達成出来ると反論、その上で懸賞金の事を述べた。

 これに、最終的に政治将校も同意し、潜水艦は空母へ襲撃を行う事とした。

 この時点でジョフレは霧の出る悪天候の為、民間籍船との接触事故などを恐れて速度を落としていた。

 この為、ソ連潜水艦は絶好の射点を得る事となる。

 放たれた魚雷は4発。

 うち2発が、ジョフレの右舷に命中する事となる。

 

 ジョフレ襲撃を受けるとの一報を最初に受けたのは、TF-391本隊から先行していたひゅうがを旗艦とする第391.2任務部隊(TF-391.2)であった。

 急行したTF-391.2が見たのは、傾斜し轟轟と燃えているジョフレであった。

 TF-391.2の指揮官は、救難活動を宣言し、洋上に避難したジョフレ乗組員の救助と共に、ジョフレの消火活動に協力する事とした。

 同時に、この被害が機雷乃至は魚雷によるものである可能性を考慮し、指揮下のたかなみ型護衛艦部隊には周辺警戒を命じた。

 この時点で襲撃したソ連潜水艦は脱兎の如く離脱していた為、ジョフレの報復に成功する事は無かった。

 

 喫水線の下に2発の魚雷を受けたジョフレであったが、アメリカ式のタフな設計に助けられて即座に沈没する事は無かった。

 又、機関室も全滅する事が無かったお蔭で微速ながらも移動する事が可能であった為、ジョフレの艦長はジョフレをスウェーデンへと動かし、浅瀬に座礁させる事に成功した。

 だが幸運であったのはここまでであった。

 火災の原因でもあった、満載した救援物資は三日三晩と燃え続け、ジョフレの喫水線から上の構造物を燃やし尽くしたのだった。

 

 

 

 

 

(※1)

 ソ連も、TF-391がバルト海に入った時点で平時 ―― まだ戦時では無いと油断させる為、意図的にフィンランドとの交渉を引き延ばしていた。

 

 

(※2)

 ドイツ側は、この成果に日本の大型ジェットエンジン機の性能はさして高く無いと判断していた。

 だが日本/P-1側は洋上哨戒の為に、ドイツ側が邪魔できない程度に速度を抑えていたと言うのが実状であった。

 この誤解は、TF-391がバルト海進出を図るのと前後して、E-767が本格的な活動を開始するまで続いた。

 

 

(※3)

 ブリテンの主要パートナー企業はアブロ社が担い、そこにビッカースなどのブリテンの航空機メーカーが参加する形となった。

 これは、航空機の開発で日本の開発スタイルを少しでも各メーカーに吸収させたいと言うブリテン政府の判断であった。

 

 

 

 

 

 




2019/10/11 FFMをつしま型からあさかぜ型へと変更
2019/11/15 題名変更


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

056 カレリア地峡紛争-5

+

 ジョフレの大破炎上(※1)は、フランス国内の世論に火を点けた。

 新鋭でありブリテンやアメリカの持つ正規空母群と比較しても劣る所の無い、戦艦に次ぐフランス海軍の誇りと竣工の時より宣伝されていたフネなのだ。

 その反応も当然であった。

 議会ではソ連との関係の深い平和派が声高に、政府がフィンランドに肩入れをした結果であると叫んだ。

 混乱するフランスの政局。

 だが、世論調査に於いて平和派に対する支持はそれ程に高まっては居なかった。

 フランスの誇りを傷つけられた事への怒りの方が強かった。

 それ故に、フランス政府はこの状況を攻勢的に活用する事を決断する。

 後に平穏の為の平和の否定(レッド・パージ)と呼ばれる政治的排斥行動である。

 ジョフレを傷つけたものはソ連かソ連に与する国であると断じ、国民に対してソ連とドイツの枢軸国家との対峙を叫んだのだ。

 当然ながらも平和派は反発し、中でも過激な者達は武力を伴った街頭デモを行った。

 それこそがフランス政府の狙いであった。

 かの如く主張を武力で掲げる者は民主主義の敵であると断じ、国家警察による武力鎮圧を開始する。

 フランスの治安は悪化する事となるが、最終的に世論の集約には成功する事となる。

 

 

――アメリカ

 ジョフレの損害の衝撃はフランスも大きかったが、ある意味でアメリカにも大きな衝撃を与えていた。

 ジョフレの設計には、アメリカ海軍がグアム共和国(在日米軍)の協力の下で行っていた次世代空母設計計画(※2)の成果が反映されており、にも関わらず2発の魚雷で実質廃艦状態まで追い詰められたのだ。

 俄には信じ難い話であった。

 この為、グアム共和国(在日米軍)とアメリカの海軍の合同調査チームが編成され、フランスに派遣される事となった。

 調査の末に判明したのは、ジョフレが余りにも可燃物を積み過ぎていたという事実であった。

 軍需物資を満載した上で内装に木を多用していた為、用意されていた消火設備では対応しきれなかったと言う現実である。

 この為、アメリカはグアム共和国(在日米軍)と日本海上自衛隊の勧めもあって、艦の不燃化に取り組んでいく事となる。

 

 

――日本

 ジョフレの事件を受け、敵性潜水艦の存在を把握した日本であったが、第391任務部隊(TF-391)を後退させると言う選択肢は取らなかった。

 ソ連が戦争を望むのであれば、それを全力で正面から対峙して組み伏せるべしという判断であった。

 同時に、TF-391として派遣されている艦と乗組員への全幅の信頼あればこそでもあった。

 日本は即日に国際連盟に於いて記者会見を行った。

 フランスにジョフレの遭遇した境遇への哀悼を示すと共に、卑劣な行為を行った不明の国家への非難を行う。

 その上で、周辺諸国に対して宣告(・・)を行った。

 人道的目的で活動するTF-391の航路、その公海上で潜航する潜水艦を発見した場合、音響爆雷による警告を1度は行うが、万が一浮上しなかった場合には所属不明の不逞潜水艦(・・・・・・・・・・)と判断し撃沈する、と。

 この極めて攻撃的な日本の宣言に対し国際世論は衝撃を受ける事となる。

 日本のマスコミの中には、余りにも平和主義からかけ離れた攻撃的な宣言であり、侵略的な内容は憲法違反であると叫ぶ人間も居た。

 だが日本政府は、この宣言は自衛の範疇であり、人道目的の完遂の為に必要な処置であると反論した。

 日本の世論はフィンランドに対して同情的であり、同時に、ジョフレが受けた卑劣な攻撃に対して反感を持っていた為、マスコミの扇動が上手く行く事は無かった。

 

 

――ソ連

 日本の宣言にソ連は歓喜した。

 盛ったと言って良いジョフレへの攻撃によって、ソ連はTF-391が撤退すると考えていたが、それが否定されたのである。

 展開中の潜水艦部隊に、万難を排して大型巡洋艦アドミラル・エヴァルトと空母ずいかく、戦艦むさしを撃沈する様に命じた。

 その上で、日本の哨戒機の活動を邪魔する様にソ連航空部隊に命令した。

 哨戒機への妨害は、日本の帝国主義的宣言に対するソ連人民の抵抗であるとした。

 とは言え、ソ連の領空まで哨戒機が接近して来ない為、戦闘機部隊に出来る事は無かった。

 では爆撃機などの大型機はどうかと言えば、此方も不可能に近かった。

 ソ連はシベリア独立戦争の戦訓から航空機開発に関して迎撃機に傾注していた為、碌な大型機を保有していなかったのだ。

 とは言え、ソ連政府の厳命である為、妨害活動と称して輸送機を派遣していた。

 

 

――バルト海

 政治からの命令により虎口に飛び込む事となったTF-391であったが、そこに100年の技術差による慢心、或は驕りというものは無かった。

 P-1哨戒機による丁寧な先行飛行と、ひゅうがを旗艦とする第391.2任務部隊(TF-391.2)の先遣部隊による制圧。

 世界中の耳目が集まる中、TF-391は一路フィンランドを目指す。

 最初の戦闘は、サウンド海峡であった。

 デンマークとスウェーデンとの間にある隘路(チョークポイント)だ。

 ソ連は3隻の潜水艦を配置し、虎視眈々と襲撃の機会を狙っていた。

 攻撃の指示に関しては、ソ連がTF-391に随伴させている貨物船に偽装した監視船が行うものとしていた。

 監視船の無線指示によってソ連潜水艦部隊は行動するのだ。

 無線指示に従い、聴音探知に引っかからぬ様に機関を停止し、ひっそりと待っていたソ連潜水艦部隊であったが、状況を把握する為に使用した潜望鏡が潜望鏡探知レーダーに捉えられ、所在が把握される事となった。

 探知しだい即座に、SH-60L哨戒ヘリによって行われた音響爆雷による警告。

 だが、ソ連潜水艦部隊は共産党の命令の為、浮上する事は出来なかった。

 退避を図るソ連潜水艦3隻であったがその様な事をTF-391が許す筈も無く、尽くが音速よりも早く放り込まれる垂直発射型対潜ミサイル(VLA)によって殲滅された。

 その様を間近で見た監視船は、報告書に“その様相は戦闘では無く処理(・・)であった”と記載する程であった。

 その後も、バルト海に入って以降2度、襲撃を行おうとしたが、都度都度毎に処理されていた。

 この状況に、監視船に乗っていたソ連潜水艦部隊指揮官は、何としても帝国主義的暴虐象徴であるTF-391に一矢報いんと図る。

 超遠距離からの一斉水雷攻撃だ。

 無線で事前の海域を指定し、有効射程のギリギリからの雷撃 ―― これであればソ連上層部から出された優先襲撃目標は狙う事は出来ずとも、TF-391に一撃を与える事は出来るだろうとの判断であった。

 場所は、ゴトランド島東方海域だ。

 潜望鏡も使用せずに行う一斉射は、周辺の一般民間船舶や監視船までも被害を受ける危険性はあったが、ソ連潜水艦部隊の意地を見せてやるとの一念であった。

 とは言え事前にTF-391に探知される事無く集結出来たソ連潜水艦は3隻だけであった。

 他に2隻、参加しようとしていたのだが、洋上航行中をP-1哨戒機に発見され、退避行動を余儀なくされていたのだ。

 この為、発射出来たのは12発に留まっていた。

 内、正常に作動したのは10発。

 これがTF-391を襲った。

 対するTF-391は、10発の魚雷を探知した時点で対魚雷用魚雷(ATT)を使用した。

 ソ連監視船が見たのはTF-391が打ち上げたATT、そして10個の水中爆発であった。

 その衝撃が冷めやらぬ内にVLAが放たれ、3つ、海の藻屑が生み出された。

 

 

――ソ連

 TF-391監視船より報告された、ソ連潜水艦部隊の被害に、ソ連海軍上層部はスターリンに対して作戦の中止を上申した。

 今現在ソ連が装備する潜水艦では自殺的攻撃ですらなく、只の自殺でしかないとの内容であった。

 捲土重来、臥薪嘗胆。

 未来の為に今は耐えるべきと訴えたのだ。

 粛清すら覚悟して上申したソ連海軍潜水艦部隊指揮官であったが、スターリンの反応は平穏なものであった。

 周りの人間が恐怖を覚える程に平坦な声で、上申を了承した。

 又、潜水艦部隊に対して、新型潜水艦と新型魚雷の開発を行う様に命じた。

 今は勝てずとも、10年後には勝てる潜水艦部隊の育成を命じた。

 

 その夜、スターリンは痛飲した。

 

 

 

 

 

(※1)

 喫水線から上が炎上したジョフレであったが、平時であり回収作業に時間を掛けられたお蔭で廃艦処分は免れる事となる。

 これ程の被害を受けてしまえば、修復には新しく艦を建造するのにも匹敵する程の手間暇が掛かる事になる為、廃艦処分が妥当となるのだが、フランス海軍は今回の被害を精査、解体と修復を行う事で、被害に強い艦船建造に向けた知見の蓄積を行うべきであると判断したのだ。

 設計に協力したアメリカも、この作業に参加する事となる。

 

 

(※2)

 グアム共和国(在日米軍)の保有する原子力空母を調査し、その運用実績を基にアメリカ海軍が今必要とする正規空母はどの様なものかを探求する計画であった。

 この計画の成果が33000t級将来空母計画案(FCVTP)として纏まる事になる。

 特徴としては、艦様を一変させる事となったアングルド・デッキの採用があった。

 その他の特徴は、甲板を装甲化し蒸気カタパルトや先進着艦システムを採用し、エレベーターは側舷(デッキサイド)式に2基にするなど多岐に亘っている。

 そして、この成果を基にアメリカ海軍はヨークタウン級2番艦エンタープライズを改装し、実験する事となった。

 流石に飛行甲板の装甲化までは十分に行う事は出来なかったが、それでも従来のアメリカ空母とは一線を画す防御力を誇る事となった。

 尚、この実験的改装の実施に関しては、アメリカの技術的な熟成の問題があり、グアム共和国(在日米軍)を介して日本も支援を行った。

 エンタープライズの運用実績が、アメリカの次世代空母、37000t級大型空母エセックス級に繋がる事となる。

 

 尚、ジョフレ級の設計時点ではFCVYPは纏まっておらず、採用されたのは飛行甲板の装甲化とアングルド・デッキ等に限られていた。

 格納庫を効率的に運用できるデッキサイドエレベーターが採用されなかったのは、ジョフレが主として運用される北海海域が荒れやすい海である為、構造上の弱点となる開口部を作る事をフランス海軍が嫌がった事が理由であった。

 だが、この開口部が存在しなかった事が、格納庫内の物資が炎上した際に洋上投棄が出来ないと言う事に繋がる。

 この為、調査後に行われたジョフレの修復の際には開口部を兼ねたサイドエレベーターが採用された。

 

 

 

 

 

 




2019/10/09 文章修正
2019/11/15 題名変更


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

057 カレリア地峡紛争-6

+

 所属不明(・・・・)の不逞潜水艦を尽く排し、船団に所属する全ての輸送船と貨客船を守り切ってフィンランドへと導いた第391任務部隊(・・・・・・・・)の武威と名声は、世界に轟く事となる。

 対して、何故か(・・・)ソ連の名声は地に落ちる事となった。

 そしてフィンランドの戦意は天を突かんばかりとなった。

 武器弾薬、義勇兵。

 それらがソ連の妨害を越えて届いたと言う事は、世界はフィンランドを見捨てて居ないと言う証拠であったからだ。

 だが、フィンランド政府はソ連との交渉に於いて常に慎重であった。

 小国と言って良いフィンランドにとって、どの様な形であれ戦争の負担は大きいからだ。

 フィンランドとソ連の外交交渉は続いていく。

 

 

――ソ連

 潜水艦部隊の完敗は、スターリンの戦意に大きな傷をつける事となった。

 ソ連上層部に、この状況下に於いてフィンランドとの戦争を行う事へ深刻な危機感を持たせる事にも繋がった。

 とは言えソ連としても拳を振り上げた以上は何の成果も無く下ろしてしまっては、徒に己の権威を傷付ける結果にしかならない。

 この為、落としどころを得る為の果実 ―― 勝利が望まれた。

 レニングラードの安全を確保する為の国境線の押し上げでは無く、政治的な敗北を印象付けさせない為の紛争と勝利とを狙った作戦を、ソ連軍上層部は決断する事となる。

 ソ連国内の体面を維持する為の政治的勝利。

 国内向けの宣伝は少しづつ変更されていった。

 

 

――フィンランド

 ソ連の情報収集に手を抜いていないフィンランド政府は、ソ連側の意図を誤る事無く理解していた。

 その上で、被害を出来るだけ抑える為の敗北(・・)を検討していた。

 国境線での紛争に勝利し、だがその後の外交交渉にて紛争再発の抑止策として、レニングラード湾口の島嶼をフィンランドがソ連に割譲する事を提案するという腹積もりであった。

 国境線の変更よりも被害の少ないモノを()として提示し、ソ連に政治的勝利と宣伝できる材料を与えて、その拳を下ろさせようと言う狙いであった。

 尚、併せてこの様な国境線の変更に関わる要求を再度出せない様な条約の締結も狙う事とした。

 そしてそれ故にフィンランド政府は軍に対して、国境線で戦闘が発生した場合、絶対に退くなと厳命する事となった。

 又、TF-391を派遣している日本政府に対して、ソ連との紛争が発生した場合に即座に武力を伴った紛争を停止させる為の行動を行って欲しい旨を、要望する事となる。

 日本政府は、フィンランドの目的を了解し、紛争勃発時の素早い行動を約束する事となる。

 

 

――カレリア地峡紛争

 ソ連側国境線沿いに展開していた歩兵連隊に対しフィンランド側より発砲を確認、その制圧の為にソ連軍歩兵部隊は国境線を越えた。

 カレリア地峡紛争の勃発である。

 フィンランド側もソ連側も大規模な戦闘、戦争に発展する事を自制する姿勢であった為、この戦いに投入された戦力は両軍併せても1万人にも届かない規模であった。

 だが同時に、投入された部隊は共に最精鋭であり、戦いは短くも苛烈であった。

 ソ連は新鋭のIS重戦車を前衛に前進し、フィンランドは歩兵部隊が日本製の対戦車装備で迎撃した。

 使い捨ての対戦車ロケットや対戦車地雷等は絶大な効果を発揮したが、充分な戦車などを有しないフィンランド部隊は、ソ連部隊の突進に抵抗しきれずに国境線を押し込まれる事となる。

 この為、フィンランド軍上層部は自陣営にあって近代戦に対応しうる戦車 ―― 38式戦車を保有するシベリア共和国軍戦車部隊に出動を要請した。

 激突するIS重戦車と38式戦車。

 シベリア共和国軍が持ち込んでいた38式戦車は、38式戦車B型という90㎜砲を搭載した輸出モデルであり、その砲口径ではIS重戦車の122㎜砲に比べて劣ってはいたが威力ではそん色なく、発砲速度で優越していた。

 又、装甲面では日本製の高品位装甲板が使用されている38式戦車はIS戦車に完全に凌駕していた。

 だが個々の性能差を補う以上の数をソ連側は投入していた。

 その上、シベリア共和国軍義勇部隊が持ち込んでいた38式戦車は1個中隊分のみ。

 それ以外の部隊が装備していたアメリカ製のM2戦車ではIS重戦車に対抗できぬ為、シベリア共和国軍義勇部隊は苦戦を強いられる事となる。

 又、ソ連が補助戦力として期待し投入していたT-34戦車も、その軽快さを利用した機動を行ってフィンランド軍を苦しめる事になる。

 良い所もなく負けたシベリア独立戦争であったが、そうであるが故にソ連軍に数多の戦訓を与え、その進歩を促していたのだ。

 この為、戦車の少ないフィンランドは対戦車装備を持った歩兵部隊による肉薄戦闘を敢行し対抗した。

 イギリスの観戦武官は、その様を“寸土を血で染め合う様な戦闘”と報告書にしたためていた。

 空中での戦いは、お互いが本格的な戦闘へと陥らぬ様にと細心の注意を払って戦力を投入していた。

 この為、ソ連側の数的優位性が失われ、フィンランドは日本製のF-7戦闘機とF-6戦闘機によって航空優勢の確保に成功していた。

 とは言え、航空優勢を掌握しても対地支援攻撃を行える程の余裕はない為、偵察を行うのが精一杯であった(※1)。

 

 

――日本

 事前の取り決め通り、日本は行動を開始する。

 G4のみならず国際連盟参加各国にも根回しまで行っていたお蔭で、カレリア地峡での戦闘の勃発から3日で国際連盟安全保障理事会の戦闘の停止命令を引き出すや、素早い戦力の展開を行った。

 TF-391からむさしを旗艦とする戦力を抽出し第391.4任務部隊(TF-391.4)を編成すると、カレリア地峡地帯へと派遣。

 併せてずいかくが搭載するF-35B戦闘機部隊を紛争地帯上空へと展開させた。

 目的はフィンランドとソ連の戦力を引き離す事である。

 無論、フィンランド側は停戦命令を受け入れ、速やかな戦力の後退に応じる事を宣言した。

 ソ連側も紛争の拡大は想定していなかった為、戦闘の停止を受け入れる旨、宣言した。

 だが、ソ連軍前衛部隊の一部将校が功を焦り、戦闘停止命令の発効前にフィンランド側が後退した地帯への進出を図った。

 この行為を止める為、前線のTF-391.4はむさしの主砲による警告射撃を実施した。

 だが、警告の為の射撃であった為、砲弾は警告先の部隊より離れた場所に着弾したのでソ連軍は警告の意図を把握せず、前進した。

 ソ連政府は前線部隊の暴走であると日本、フィンランドに対して遺憾の意を表明するも、その前進がソ連にとって利益であると判断し停止命令を出す事は無かった。

 それ程に大きく出る積りも無い為、日本もフィンランドも受け入れるだろうと言う判断であった。

 日本を甘く見ていた。

 だが、日本はこの行為を座視せず、国際連盟安全保障理事会が出した停戦命令を違反する部隊への実力行使を行うと宣言した。

 部隊の暴走とは、即ち、ソ連軍司令部の統制外と言う事であり、であれば相手はソ連軍でなく、野盗の類である。

 よって日本政府は野盗の殲滅を実行する、と。

 国際連盟と安全保障理事会の、平和を守護する存在としての権威を守る為に出された日本の宣言であった。

 その苛烈と言って良い宣言に、ソ連は慌てて突出中の部隊に停止命令を出すも少しだけ遅かった。

 宣言と同時にむさしは行動を開始していたのだから。

 象徴的な意味でむさし単独で行われた艦砲射撃。

 完全な自動化と水冷システムを組み込まれたブリテン製の13.5in(34.29cm).砲は、公称スペックである毎分4発と言う戦艦の主砲としては非常識な発射レートを実戦でも完全に発揮した。

 雨霰と降り注いだ13.5in.砲弾は、上昇意欲の強いソ連軍将校とその部隊を消滅させた。

 むさしの艦砲射撃が、カレリア地峡紛争の終焉を告げる鐘の音となった。

 

 

 

 

 

(※1)

 航空優勢の確保と自由な偵察が可能となった事が、ソ連部隊の情報をフィンランド側が充分に得る事に繋がり、戦力的に劣勢な戦車部隊の効果的な運用に繋がっていた。

 

 

 

 

 

 




2019/11/15 題名変更


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

058 海の余波

+

 カレリア地峡紛争の終結。

 最終的にフィンランド政府が用意した落としどころ ―― レニングラード湾口の島嶼を4つ、ソ連に対して割譲する事で決着する事となった。

 又、国境線を中心にフィンランドとソ連との間に約2kmの非武装地帯を設ける事でも合意する事となる。

 カレリア国境線画定条約である。

 同時にこの条約は、フィンランドとソ連の国境線に関する最終的解決を第1条に定める事となった。

 国土を得られたソ連の戦果としての勝利であると同時に、今後の国土割譲を封じたフィンランドの政治的勝利でもあった。

 尚、この条約締結に向けた交渉の際に、ソ連はフィンランドに対し不戦条約と並んで相互防衛条約、事実上の同盟締結を持ちかけた。

 その対価は無論、ワルシャワ反共協定からの離脱(※1)である。

 ソ連から国土を守ると言う意味ではフィンランドにとっても魅力的な提案ではあったが、国力を涵養する上で重要な協力関係にあるポーランドとシベリア共和国 ―― 日本連邦との関係を悪化させてまで行う利点が無い為、謝辞する事となった。

 

 

――ソ連

 小なりとは言え得られた軍事的な勝利(慎重に、むさしに焼き払われた部隊に関する情報は隠蔽された)に、ソ連上層部は沸きあがった。

 スターリンは陸軍上層部を揃えて笑顔でウォッカを振る舞った。

 その上で、海軍に対しては改めて日本への対策を厳命した。

 潜水艦と、カレリアで暴威を見せつけた戦艦むさしへの対応だ。

 カレリアで振るわれた火力が、カレリアの指呼の地であるレニングラードで発揮される事を恐れたのだ。

 ソ連海軍は建造中であった基準排水量65000tの戦艦、ソビエツキー・ソユーズ級の建造ペースを速める事を提案した。

 現在、ソ連の各造船工廠にて6隻が建造中のソビエツキー・ソユーズ級戦艦の主砲は、発射速度こそ劣るものの口径では遥かに大きい15in(38.1cm).砲(※2)であり、これを3連装3基搭載する大型戦艦であった、

 この為、2隻以上のソビエツキー・ソユーズ級で当たりさえすればやまと級にも対抗は可能であろうと言うのがソ連海軍の見立てであった。

 だがスターリンはそれで満足しなかった。

 洋上での会敵と戦闘を狙ったとして、やまと級がそれを忌避した上でレニングラードを狙った場合どうするのかという発想であった。

 或は、探知しきれなかった場合への恐怖と言っても良いだろう。

 快速を予定するソビエツキー・ソユーズ級ではあるが、公称30ノットを上限とするやまと級に全力で動かれては、追尾を回避される可能性もあった。

 故に、スターリンはソ連海軍に数を揃える事を厳命した(※3)。

 

 

――ドイツ

 カレリアの戦闘の影響は少なからずドイツにも影を落とす事となった。

 観戦武官が得た良い話として、ソ連のIS戦車が日本製戦車に対して互角に近い形で闘えたと言う報告があった。

 シベリア独立戦争で一方的に蹂躙されるだけだったソ連戦車が、新開発のIS戦車であれば曲がりなりにも38式戦車B型に対抗出来たと言う事は、IS戦車と技術的/諸元的に近いドイツⅣ号戦車でも対抗可能と言う事を示していた。

 ドイツ陸軍と技術部は歓声を上げた。

 対してドイツ空軍は、カレリアの航空戦に於いてF-7/F-6戦闘機が示した圧倒的な撃墜対被撃墜比率(キルレシオ)と、その背景となる性能に対して恐怖した。

 現時点でドイツの航空機開発メーカーは、ヒトラーの肝入りでジェット戦闘機開発に全力を挙げていた。

 だが未だジェットエンジンの開発は難航状態であり、そんなエンジンを搭載した試作機たちも、ドイツ空軍の主力機であるBf109の最新型モデルに対して優位であるとは言い難いのが実状であった。

 この状況に危機感を抱いたドイツ空軍上層部はヒトラーに直談判し、Bf109戦闘機と将来のジェット戦闘機との間を取り持つ機体としての補助戦闘機開発許可を得る事となる。

 歓喜したのがドイツ陸軍で恐怖したのがドイツ空軍、対してドイツ海軍は絶望していた。

 ソ連の潜水艦による第391任務部隊(TF-391)襲撃作戦を支援していたドイツ海軍は、ソ連海軍が投入した戦力と被害とを正確に把握できていたからである。

 殲滅されたと言って良い、その被害を。

 この為、ドイツ潜水艦は如何にして探知されずに動くかと言う部分に注力していく事となる。

 即ち、潜水艦の脱可潜艦化である。

 水中高速型船体の開発や、可潜時間の延長など多岐に亘る項目で技術革新に向けた努力を積み重ねていく事となる。

 又、ソ連同様に間近で見たやまと型の火力に現在の主力艦であるビスマルク級では対抗不可能と判断し、建造の途に着いたばかりの大型戦艦H級の建造を急がせる事となる。

 

 この結果、ドイツ海軍は、チャイナとの交易路保護用のプロイセン級装甲艦の建造も進めていた事もあって造船能力の限界に達する事となる。

 

 報告を受けたヒトラーは決断を下した。

 ドイツ海軍に対し戦艦と装甲艦の建造を最優先とする事を命じ、併せて戦艦と装甲艦以外の艦艇に関しては、着工済みの艦以外の整備に関して一時凍結を命じた。

 この結果、中小艦艇の建造には甚大な影響が出る事と成った。

 熟練の工員や建設資材が戦艦と装甲艦に優先された為、建造は極めてスローペースなものとなった。

 ドイツ海軍はいびつな形で成長する事となる。

 

 尚、この方針にとっての例外は23000t級の重空母、グラーフ・ツェッペリンだ。

 ドイツ海軍初の空母として建造が行われている本艦は、空母の建造に関する知見がドイツ海軍にも造船業界にも皆無であった事が災いし、その建造は遅々として進んではいなかった。

 この為、ヒトラーは当初、工事が難航するグラーフ・ツェッペリンの建造に関しては停止するべきではないかと判断をしていたが、ドイツ海軍上層部の強い説得により建造は続行される事となった。

 日本のしょうかく級を見たドイツ海軍上層部は、空母を戦艦と並ぶ1流海軍の象徴であると認識していた事が理由だった。

 その上で、ドイツ海軍にとって第1の仮想敵であるフランス海軍が空母を保有している事(※6)も無視できない理由として存在していた。

 フランスが保有するものをドイツが持っていないのは国威に関わる。

 そう説得されてはヒトラーとて折れるしかなかった。

 

 

――ブリテン

 やまと型に触発されたソ連の軍拡計画に慌てる事となる。

 この時点でブリテンの新戦艦として就役しつつあるのは38000t規模のキングジョージ5級であり、主砲は14in.砲4連装3基の高速戦艦であった。

 6隻を建造する予定となっているが、最近になって諸元の詳細が判明したソビエツキー・ソユーズ級に対して明らかに劣勢である為、着工済みの4番艦で打ち切り、5番艦6番艦の資材を流用し、より強力なライオン級(45000t級 16in.砲連装4基)の建造に着手する事となった。

 そしてソビエツキー・ソユーズ級やドイツH級を圧倒できる大型戦艦の建造を構想する事となる。

 ブリテン海軍の一部には、次世代の主力艦である空母に傾注するべきであるとの意見も根強くはあったが、欧州にて対峙するソ連やドイツの大型戦艦に劣る戦艦しか整備出来ないのは世界帝国であるブリテンの誇る王立海軍(ロイヤルネイビー)の名折れであるとの意見が政治サイドから出されては抵抗しきれる筈も無かった。

 最終的に50000t級船体と16in.砲を搭載する大型戦艦の建造が決定する事となる(※4)。

 尚、この決定をブリテン経済界はもろ手を挙げて歓迎する事となる。

 日本との交易によって経済力を増強していたブリテン経済にとって、大型戦艦の建造は鉄量の大きな消費先として有望であった為である。

 この他、ブリテン製のエンジンを積み圧倒的な能力を見せつけたF-7戦闘機の導入が決定する事となる。

 この時点でブリテンでもF-7で搭載された水冷1500馬力エンジンを搭載した戦闘機が実用化されてはいたが、技術的な比較などの意味もあって導入される事となった。

 F-7、改めスワロウFG.1(※5)として2個飛行隊分がブリテン空軍に納入される事となる。

 

 

 

 

 

(※1)

 ワルシャワ反共協定からフィンランドを脱落させる要求は、ソ連にとってフィンランドを目標とするものではなく、ポーランドを標的とするものであった。

 世界大戦からの関係で、ソ連への敵対的な立場を維持し続けているポーランドへの圧力と言う側面が大きかった。

 

 

(※2)

 原型はドイツ製の38㎝砲である。

 ドイツとの軍需物資及び技術の融通協定の一環として入手した。

 本来、戦艦用の大口径砲の技術は高度な機密の固まりであり、近隣諸国へおいそれと提供されるものでは無いのだが、この時点でドイツはブリテンの新戦艦群に対抗する為に、より大口径の40㎝砲を開発しており、38㎝砲の機密性が低下していた事が、この技術の提供に繋がっていた。

 

 

(※3)

 数を揃える事を命じられたソ連海軍であったが、与えられている予算や資源の問題からソビエツキー・ソユーズ級の更なる量産は困難であった。

 この為、ソビエツキー・ソユーズ級と同じ15in.砲を保有するより安価な戦力整備に走る事となった。

 バルト海での近距離航海しか想定しない、レニングラード防衛専任の艦 ―― 海防戦艦である。

 スターリンの厳命によって手早く設計された海防戦艦は、15000t級の船体に15in.砲連装砲塔2基を搭載するものとされた。

 2基の主砲塔は艦の前後に配置された事から、ドイチュラントスキーなどと揶揄される艦となるが、その設計自体はソ連海軍が独自に行ったものであった。

 

 

(※4)

 後にヴァンガードと命名される事となる50000t級戦艦の技術的特徴としては、ブリテン海軍戦艦として初の、国際共同開発の16in.砲を搭載している点にあった。

 共同開発の相手としてブリテンが声を掛けたのは日本である。

 ブリテンにとって幸いであったのは、この頃丁度日本でも対地支援火力としてのやまと型の再評価が成されていたと言う事だ。

 離島防衛や着上陸作戦時に使い勝手の良いやまと型であるが、現状では2隻しか無い為に任務と訓練、そして整備のローテーションが上手く回せていなかったのだ。

 この為、軍艦の建造に関して無条約時代に突入した事もあり、更なる対地支援艦(バトルワゴン)の建造が検討されていたのだ。

 当初はブリテンから再度13.5in.砲の中古砲を購入しやまと型2隻の追加を検討していたのだが、ブリテンからの提案に基づいた再検討が行われ、最終的に共同開発する新型16in.自動砲を3連装3基搭載する52000t型護衛艦(きい・クラス)2隻の建造を行うものとされた。

 無論、ブリテンの狙いはやまと型が実装している自動装填システムであった。

 日本としてはそこまで秘匿するべき技術では無かった為、この共同開発要請に乗る形となった。

 ブリテンにとって誤算だったのは、共同開発に際して日本側が開示したやまと型の自動給弾システムが余りにも複雑であり、高度であり、高コストである事だった(これは構造の複雑さもさる事ながら共同開発の弊害でもあった。共同開発であった為にブリテンが整備しようとした分まで日本の工作精度や基準が要求され、日本の物価が波及したという側面があったのだ)。

 従来の大口径砲とは比較にならない毎分4発と言う発射レートを実現する為には、ブリテンが想定していた以上の、遥かに上の、従来とは比較にならないコストが必要であった。

 無論、経済的に上り調子であり軍事費にも余裕があるブリテンにとって支払えぬ様な額では無く、実際、ヴァンガードには実装されてはいる。

 だが、可能であればとブリテンが目論んでいた、先行して建造しているライオン級の改装 ―― 同16in.砲の搭載を諦める事にはなった。

 又、砲身や砲塔の機構自体はブリテンで製造される事となったが、砲弾及び弾薬の製造に関しては要求される工作精度の問題から日本に委託する事となった。

 これはヴァンガードが1隻だけの戦艦であった事による、特例措置であった。

 戦艦とはいえたった1隻の為に専用の砲弾と弾薬を製造する設備を整備するのは高コストであると言う認識に基づいたものであった。

 

 この日本とブリテンが共同開発を行った16in.砲の精度と発砲速度に慌てたアメリカは、グアム共和国(在日米軍)を介して購入を要請する事となる。

 この要請を受けて日本は国際協調の一環という事でブリテンを説得し、アメリカに対して4隻分の3連装砲塔12基分のシステム1式の売却を行う事とした。

 尚、アメリカはライセンス生産を要求したが、その点については日本ブリテンの両国とも譲る事は無く、砲システムの製造はブリテン、弾薬は日本の供給と言う形で決着した。

 

 

(※5)

 スワロウ()愛称(ペットネーム)は、F-7戦闘機の最初の導入国(カスタマー)であるブリテンによって決定した。

 これ以降、F-7戦闘機は航空自衛隊内部では非公式ながらも“飛燕”と言う名前で呼ばれる事となった。

 

 

(※6)

 フランス海軍の空母は、1939年の時点ではスカゲラック海峡事件での大破炎上にて悪い意味で有名となったジョフレが唯一の就役済みの艦であった。

 再就役には年単位の時間が必要であろうと判断されていたジョフレであるが、その代わりと言ってはなんであるが、この時点で2番艦のペインヴェが艤装段階に入っていた。

 尚、ヒトラーはソ連製の魚雷数発で大破してしまうフランス製の空母に関して、脅威として認識する事への疑念を抱いていたが、ドイツ海軍上層部の意向に押し切られる形でグラーフ・ツェッペリンの建造を許可する事となる。

 

 

 

 

 

 




2019/10/24 文章の修正実施
2019/10/24 文章の修正実施


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

059 フランスの回天とドイツの対応

+

 フランスの政治的混乱と欧州に於ける主導権(イニシアティブ)の喪失によって誕生する事となったドイツ連邦帝国。

 その経済はオーストリアやチェコ、ハンガリーと言った国々を併呑した事でひと息つく事が出来た。

 否、それどころか各国の中央銀行を解体し、ドイツへ金を集め、不足していた労働者を得て、新しい市場を得た事でドイツの株価は上がり、景気は上昇した。

 この偉業をドイツ人の血を1滴も流す事無く成し遂げたヒトラーの権威は大いに高まる事となった。

 ベルリンで行われた軍事パレードの演説でヒトラーは千年帝国(ミレニアム)とすら誇った。

 その武威に、ユーゴスラビアやブルガリアと言った国々も親ドイツ外交を行う様になり、ヒトラーの名声は絶頂を迎える事となった。

 

 

――フランス

 ドイツの躍進を苦々しく思っていたフランスは、国内の統制に全力を挙げる事となった。

 “平穏の為の平和の否定(レッド・パージ)”に伴う平和派を主体とした反政府デモの続発とフランス政府による武力鎮圧は、フランス国内で少なからぬ血を流す事に繋がった。

 だがフランス政府は、それを断固とした形で遂行した。

 併せて、平和派 ―― 共産主義と国家社会主義の非合法化まで踏み込む事を決意していた。

 この状況に平和派でも過激な人間たちが、ソ連を介して流れ込んできていたドイツ製の武器を手に蜂起を行った。

 これに軍の一部まで加わる事となる。

 平和派は人民の人民による連帯と権利の獲得を宣言し、これに合わせて自らを人民戦線と命名。

 武力蜂起を、帝国主義と戦争を希求するフランスの支配層 ―― 第3共和制打破を目指す人民戦線革命であると宣言した。

 だが、この事態を想定し準備していたフランス政府は主張の近い民族派と連携を行い、親人民戦線路線を取っていた融和派には切り崩し工作を行って政治的勢力としての無力化を行った。

 フランスの政治勢力の中で平和派は孤立した。

 その上で、人民戦線に対して一切の躊躇なき弾圧と武力鎮圧を断行した。

 それは、どこか平和ボケしていた平和派支持者が粛清(・・)と慄く程の苛烈さであった。

 これによってフランス国内の混乱は驚くべき速さで終息に向かう事となる。

 

 

――ドイツ

 フランス国内の血腥い世論統一行動に、ドイツは恐怖した。

 暴力に酔ったフランス政府は国内を統一すると共にドイツに殴り掛かってくる事が容易に想像出来たからである。

 故にヒトラーはソ連を経由したフランス人民戦線への支援を行う様に命じたが、国家憲兵隊のみならず軍までも動員するフランス政府の行動の前では、大きな意味を成さなかった。

 この為、ヒトラーは親衛隊に対してフランスの政体もしくは国家を混乱せしめる手段の検討を命じた。

 親衛隊は、この難しい命令に対して植民地帝国であるフランスの養分 ―― 植民地の混乱化で対応する事を進言した。

 かつてブリテンに対して行った植民地独立運動の支援である。

 ドイツの行動の結果だけが原因ではないが、世界中の植民地から独立、乃至は自治権拡大を要求されたブリテンは、独立闘争こそ抑止する事には成功したものの、その外交力/政治的行動力を大きく割かれる状況に陥っていた。

 この再現を狙うのだ。

 特に独立運動の火が燻っているフランス領インドシナ(ベトナム)は、ドイツの影響圏であるチャイナに近い為支援が行いやすい点でも素早い成果が期待できた。

 ヒトラーはこの進言の実行を命じた。

 同時に、フランスの資源地帯と言って良いアフリカでの独立運動の支援活動も命令した。

 千年帝国であるドイツの、将来的な資源確保が狙いであった。

 とは言え、アフリカ東部と中東近海に於ける国際連盟の治安維持活動と言う前例があった為、ドイツから直接アフリカへ軍事物資を提供する事は行わないものとされた。

 仲介先として南米を利用する事を画策したのだ。

 狙ったのはアルゼンチンとベネズエラであった。

 アルゼンチンはブリテンの影響下にある国家であったが、嘗てはファシスト体制の樹立を図った事もあった為、ファシズムの連帯と連携が容易であろうと言うのが判断理由であった。

 同時に、伝統的な寡頭支配体制が敷かれている為、賄賂などによる買収の容易さも勘案されていた。

 ベネズエラに関しては、軍事独裁政治が行われている為、武器の売却などによってベネズエラ政府へと接近する事が容易であろうと言う判断であった。

 又、ベネズエラの石油への渇望もあった。

 ドイツはソ連との関係の良好さから石油をある程度輸入できていたが、それは湯水の如く使える程では無かった。

 この為、ドイツ経済界は新しい石油の輸入先を欲していたのだ。

 

 

――ベトナム

 ドイツは、フランスの平和派やチャイナを介する事で国際社会からの目を誤魔化したままベトナム独立派と接触する事に成功した。

 1900年代以前からずっとフランスからの独立を目指す人間が活動していたフランス領インドシナでは、支援が貰えるのであれば色は問わない ―― ドイツとの連帯を辞さない、実利的な人間が多かった。

 故に、ベトナム独立派はドイツからの支援を受けてフランス領インドシナに於ける武力闘争を即座に開始した。

 ドイツがベトナム独立派に提供した物資は、チャイナから買い戻した旧式の小銃や手榴弾、爆薬などが主であったが、フランス本土の政情不安の余波で余裕を失っていたフランス駐留軍に痛打を与える事は容易であった。

 フランス領インドシナの治安は一気に悪化する事となる。

 その上、ドイツに与したチャイナ政府は国内で余剰となっていた労働力(・・・)を義勇兵としてフランス領インドシナに送り込んだ。

 事実上の棄民であったが、数的に大規模とは言えなかったベトナム独立派は義勇兵として十分に活用した。

 フランス領インドシナの治安悪化は、全土に広がる事となる。

 既に国内で流した血に酔っていたフランス政府は、この独立運動を受けてフランス領インドシナ駐留軍に断固たる処置を厳命した。

 独立運動が血の気が多い人間揃いのフランス領インドシナだけでは治まらず、インドシナ連邦全域に広がる事を恐れた側面もあった。

 とは言えこの時点でフランス領インドシナに駐屯していたフランス軍部隊は、軽装備の歩兵部隊が主力であり、それも書類上は2個師団と為っていたが、フランス本土の騒乱に人員を奪われてしまっており1万に満たぬ数しか居なかった。

 これではフランス政府が要求する、断固とした処置を行える筈も無かった。

 この為、インドシナ連邦駐留フランス軍司令部は、フランス政府に対し人員の増員と共に重装備部隊の派遣を要請する事となる。

 それが不可能であるならば、ブリテンに倣ったベトナム独立派との交渉を行うべきであると上申した。

 フランス領インドシナの現実を見た上申であり、実質的には嘆願であった。

 だがフランス政府は国威が損なわれると、その上申を却下した。

 その上で要請に応じる形で、アフリカの植民地に展開させていた部隊を派遣する事を約束した。

 フランス領インドシナで上がった烽火は、火を点けたドイツの望む効果を生み出そうとしていた。

 

 

――日本

 アジアの地で発生した大規模な民族自決を願う独立運動に連動し、日本国内では一部政治勢力からその支援を行うべきであると言う意見が上がった。

 大アジア主義の焼き直しの様な民族自決を希求する理想主義者と、フランス領インドシナを独立させて日本の影響下に組み入れるべきだという、これまた戦前の日本(ビフォー・パシフィックウォー)が罹っていた膨張主義の鬼子の様な人間たちであった。

 当然ながらもマスコミなどで旗振りとなっているのは前者 ―― 理想主義に基づいた甘美な未来への希望であった。

 だが、この意見が日本の世論の中心になる事は無かった。

 G4と言う枠組みに於ける日本とフランスの関係性も理由にはあった。

 だがそれ以上に、タイムスリップから10年以上が経過し、この時代の空気に馴染んでいた日本の世論は冷静であり、マスコミや空疎な理想論に踊らされる事は無かったのだ。

 或は冷淡であった。

 漸く資源の輸入が日本国内の経済を回すに足る規模を満たすようになり、民需主導の活性を取り戻しつつある現在、現実的な日本の利益に直結しない近隣国家の内紛に関与し国力を消費するなど真っ平御免という感情であった。

 評論家や文芸家の一部からは、この世論を指して“人のぬくもりを失った日本”等と言う声が上がったが、日本の世論が動く事は無かった。

 良くも悪くも現実主義であり、現世利益主義であった。

 この日本の姿勢に、植民地を抱えるフランスとブリテンは安堵した。

 

 

――オランダ

 オランダは民族独立運動の勢いがオランダ領東インドに波及する事を恐れた。

 オランダ領東インドは、1930年代に入って始まった日本との資源貿易でオランダに莫大な富を与える打ち出の小づちであったからだ。

 日本企業の進出に伴い、日本からの円借款によるインフラ投資も行われており、その影響によってオランダの経済界も良好な影響を受けていた。

 口の悪い人間は、オランダ領東インドを指してオランダの本体(・・・・・・・)と言う程であった。

 オランダ領東インドの安定は、オランダ経済にとって生命線でもあった。

 その生命線に火が点こうかと言うのだ、オランダ政府が慌てるのも無理はなかった。

 オランダ政府はオランダ領東インドの治安維持組織を強化(※1)すると共に、フランスに対して可及的速やかなる事態の沈静化を要請する事となる。

 

 

 

 

 

(※1)

 人口規模の小さなオランダでは、オランダ領東インドの治安維持に必要な人員を賄いきる事が出来ず、傭兵を導入する事となった。

 フロンティア共和国で勇名を馳せていた、コリア系日本人の組織である。

 オランダ政府は、日本とアメリカに事前交渉を行った。

 日本は、建前として民間主体であり、朝鮮共和国の経済にとってプラスであるならばと了承した。

 アメリカは、現時点でフロンティア共和国での所要量を満たしている為、特に問題では無いと返答した。

 最後にオランダが交渉した朝鮮(コリア)共和国は、貴重な外貨獲得の機会であると認識し、二つ返事で派遣を了承した。

 鉱山資源の輸出程度しか外貨獲得の手段の無い朝鮮(コリア)共和国にとって、傭兵としての人員派遣は経済にとって無くてはならない柱に成長していた。

 これは朝鮮(コリア)共和国経済の歪さではあったが、同時に仕方のない面があった。

 日本連邦の一員として朝鮮(コリア)共和国が独立して以降、産業育成の為の日本からの大規模な投資が行われていない為であった。

 日本は生活水準の向上などの為であれば円借款 ―― 政府開発援助(ODA)による投資は惜しまなかったが、教育や民族資本の蓄積に関わりそうな部分は、朝鮮(コリア)共和国政府の専管事項であるとして、関与しようとしなかったのだ。

 この為、朝鮮(コリア)共和国はグアム共和国やオホーツク共和国は当然としても、同じ日本(ジャパン)帝國の末裔である樺太(ノース・ジャパン)邦国や台湾(タイペイ)民国に劣る発展具合であった。

 無論、その原因 ―― 日本に於いて我侭を尽くした在日朝鮮人の歴史を知れば、日本の対応(unfriendly attitude)も理解できる部分はあった。

 とはいえ自分たちがした事ではないのに理不尽であると言う感情もあり、それが朝鮮(コリア)共和国内に於ける在日朝鮮系住民に対する反感と冷遇に繋がってはいたが。

 

 ともかく。

 朝鮮(コリア)共和国政府は、国家の発展と日本連邦内での地位向上を目指す為の外貨は幾らあっても過剰と言う事は無い為にオランダ政府の要請を受けて幾らでも人員を派遣するのだった。

 オランダ領東インドは新しい火種を自ら作る事となる。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

060 策動するドイツ

+

 フランス領インドシナの独立戦争に着火する事に成功したドイツであったが、それ以降の援助に関しては積極的と言う訳では無かった。

 ドイツにとってフランスの足を引っ張ると言うだけが目的であり、フランス領インドシナは不安定化さえすれば、それ以上は望んで居なかった。

 いわんや、独立が成功する事も自らの支配下に組み込む事にも興味など無かった。

 ある意味で、それが独立運動 ―― 民族独立と言う巻藁に着火出来た理由であった。

 この方針に基づき、独立の武力闘争開始後はベトナム独立派からの要請を受けて武器弾薬を売却するだけのドライな関係に終始していた。

 尚、ドイツはベトナム独立派の間にチャイナ南部の軍閥を入れる事で、フランス領インドシナの独立戦争に直接関与を行わない様に細心の注意を払っていた。

 アフリカ東部域や中東でイタリアとブリテンの植民地を荒らした際の経験、国際連盟安全保障理事会で追及された経験が生きていた。

 

 

――フランス

 フランスは国家の威信を懸けてフランス領インドシナの反乱鎮圧に乗り出した。

 とは言えフランス本土の装備及び練度の高い精鋭部隊を抽出派遣するのではなく、比較的政情の安定していたアフリカ各地に駐屯していた部隊を主力とした。

 これはフランスが事態を甘く見ていたからではなく、フランス本国の部隊が国内の治安維持とドイツとの戦争を睨んで動かせない為であった。

 とは言え、これだけでは人員が足りない為、フランスはアメリカのフロンティア共和国軍を参考にする形でインドシナ連邦に属する各王国から好待遇で人員を募る事となった。

 給与や福祉面での待遇の良さから、4万人規模と言うそれなりの人員を集める事に成功する。

 とは言えその多くは軍経験を持たない一般人であった。

 軍、あるいは部隊と呼ぶには余りにも杜撰な集団であったが、フランスは基幹要員にフランス人を充てる事と、治安維持の為の部隊であるからとの割り切りで、僅かばかりの武器の運用訓練を施すや現場へと投入する事となる。

 待遇の良さで釣られただけの、訓練もロクに受けてない兵たちであったが、それ故に暴力を振るう事に躊躇は無かった。

 又、民族的にも独立闘争を行っているベトナム独立派とインドシナ連邦軍の主構成民族が異なって居た事も、暴力に歯止めが掛からない要因であった。

 だが、躊躇の無い暴力の行使は、ベトナム独立派以外の住民の反発を買う事となる。

 

 

――ドイツ/アルゼンチン

 アルゼンチンとの接触と友好的関係の構築に関しては、良好とは言い難かった。

 ファシズムに夢を見た活動家などは、ドイツからの接触にもろ手を挙げて歓迎したが、アルゼンチンの政権はドイツとの接触に積極的では無かった。

 経済的繁栄を謳歌するブリテンとの交易と、ブリテンを介してG4諸国と交易できた事(※1)がアルゼンチンに莫大な恩恵を与えているからであった。

 この為、態々にG4と関係が良好とはとても言えないドイツと好意的な関係を構築する意義をアルゼンチンは見いだせなかったのだ。

 軍事政権と言う事を鑑みて、ドイツの最新鋭軍備をライセンス生産と技術開示を含む好条件で提供する事も提案が成されたのだが、此方も上手くは行かなかった。

 アルゼンチン軍はドイツ製兵器よりもブリテン製やアメリカ製、可能であれば日本製の装備を求めていた為であった。

 シベリア独立戦争やスペイン内戦での戦績は、ドイツ製兵器の商品価値に対し多少の好条件程度では拭いきれない汚点を与えていたのだ。

 更に言えばアルゼンチン陸軍は、この時点で200両にも満たぬ数ではあったが日本製の戦闘車両(※2)の導入に成功しており、この状況下でドイツ製の陸上装備は欲していなかったのが大きかった。

 この為、アルゼンチン政府はドイツ外交団に対し、武器売却を好条件と言って提案するのであればドイツ製大型艦の無償提供程度は申し出ない限り魅力的とは言い難いと返事を返した。

 ドイツ外交団は返事に詰まった。

 この話をドイツ外交団経由で聞いたドイツ海軍は激怒した。

 要求される任務に対し投入できる大型艦の少なさが問題となっている現状で、その様な世迷い事を受ける余裕はないと返事を行った。

 この無茶な要求からアルゼンチンから見下されていると感じたドイツは、手段を問わない交渉攻勢に出た。

 アルゼンチン軍事政権関係者の、個人に絞った贈賄攻勢である。

 とは言え、この贈賄攻勢は早々に頓挫する事になった。

 アルゼンチンを自国の領域と認識していたブリテンの情報機関が動いた為である。

 最初の収賄の時点でアルゼンチン軍事政権内の人物は、汚職による追放を受けて失職、併せてドイツ外交団に対してメッセージ(警告)が発せられた。

 ブリテンは独立した国家間の交渉に関与するものではない。但しそれは、公正な外交交渉に限ってである、と。

 最終的にドイツとアルゼンチンの外交交渉は、当たり障りのない内容に決着した。

 とは言え、アルゼンチン産の農畜産物がドイツ国内にある程度、流通する事となり、その食卓を豊かにした為、ドイツ政府は外交の成功を宣伝した。

 

 

――ドイツ/ベネズエラ

 アルゼンチン以上の軍事独裁政権国家であるベネズエラとドイツの交渉は、比較的スムーズに行われた。

 この原因はベネズエラの状況にあった。

 かつては産油国である事を背景にした経済力と発言力とを持っていたのだが、日本が主体となって行われた中東やリビアでの油田開発によって原油価格が下落傾向にあった為、その立場は揺らいでいた。

 その上で国際原油市場が安定している為、原油を必要とするG4や諸々の国々などの国際社会が、圧政を行っているベネズエラの軍事独裁政権に対して批判的となっていたのだ。

 国際的に孤立していたベネズエラは、ドイツからの接触を無下に扱う事は出来なかったのだ。

 又、ドイツ側も必死であったのも大きい。

 この時点でアルゼンチンとの外交交渉が難航していた為、外交団の上層部はヒトラーに掛けあってその独裁的決済(・・・・・)を取ると、ベネズエラに対してアルゼンチンに対するモノ以上の好意的(・・・)な条件での軍事協力(※3)を提案していたのだ。

 ドイツとベネズエラの協力協定はとんとん拍子に締結された。

 これによってベネズエラは最新鋭の大型艦1隻を含む艦隊を整備する事と成り、中南米では一躍有力な海軍力を保有する事となった。

 又、ドイツから手頃な価格で大量に提供される事となるⅢ号戦車は、G4を筆頭とする列強諸国にとっては旧式兵器の様な扱いであったが、中南米の諸国にとってはまだまだ新鋭と言って良い戦車であった為、ベネズエラは中南米の雄という立場を確立させる事となる。

 対してドイツ側は、常に不足気味であった原油の大量輸入の交易を成立させ、又、アフリカに対する工作拠点を得る事に成功したのだ(※4)。

 この事は大いに宣伝され、ヒトラーの功績として称えられる事となる。

 

 

――フランス領アフリカ

 ベネズエラに迂回貿易の拠点を得たドイツは、アフリカの独立運動という種火に巻藁をくべて風を送るべく努力を開始した。

 特に今、アフリカの地に駐屯していたフランス軍部隊はかなりの量がフランス領インドシナへと動員されており、着火は容易であろうと言う判断があった。

 だが、事はそう上手くいかない。

 アフリカと言わず世界中の植民地の独立運動に手を焼いていたブリテンが構築した情報網に、ドイツ人工作員がキャッチされたのだ。

 アフリカは、ブリテン人とフランス人とドイツ人の謀略戦の舞台となった。

 

 

 

 

 

(※1)

 この時代のアルゼンチンの主要産業は農業であった為、品質さえ良ければ日本が常に輸入を受け入れていた。

 アメリカとの関係も良好であった。

 

 

(※2)

 軍事政権がアルゼンチン陸軍の要求を受けて飴を与える意味もあり、日本に対し大量の農畜産物の対価として装甲車両の提供を要請した結果であった。

 20両の38式戦車と38式戦闘装甲車が60両、そして100両の38式装軌装甲車であった。

 38式戦闘装甲車とは、38式戦車が高額で手の出せない国家向けに開発された、38式装軌装甲車のバリエーション車両である。

 38式装軌装甲車の車体にブリテン製6lb.砲砲塔を搭載した、戦車の様な外見を持っている。

 とは言え車体は装甲車であり防御力は戦車とは比べ物にならず、砲塔も重量的制約から装甲は薄い、火力支援車両でしかなかったが。

 日本が輸出向けに開発した38式戦車/装甲車のシリーズが日本連邦及びG4以外の国家に纏まって売却された最初の例でもあった。

 尚、アルゼンチン陸軍の戦車は、その数的な主力は予算面の問題もあってアメリカ製のM2戦車であった。

 シベリア独立戦争後、その戦訓を基にM3戦車の開発配備を行っていた為、余剰となっていたM2戦車をアメリカが比較的安価で売却していた事が理由であった。

 G4、或いはドイツやソ連以外の国家にとって戦車は、その急速な発展もあって一線級の能力を持つ車両であり、自力で開発も製造も行えない貴重な戦力であった。

 

 

(※3)

 この提案の中には、ドイツが整備を進めている最新鋭の大型装甲艦プロイセン級1隻を含む4隻の艦船の提供も含まれて居た。

 プロイセン級の提供にドイツ海軍は激怒するも、その決済を行ったのがヒトラー本人であった為、抵抗する事は出来ず、受諾する事と成る。

 ドイツ海軍のせめてもの抵抗として、ベネズエラに提供される艦は12番艦と指定 ―― 後回しにされた。

 

 

(※4)

 ドイツとベネズエラの外交交渉によって石油の輸出向け設備の更新もドイツが行う事となった。

 その維持管理を名目としてベネズエラの領内にドイツ軍の駐屯する租借地を作ったのだ。

 ベネズエラ国内の民間感情に配慮し、ドイツ軍はベネズエラ陸軍の教導を行う事となる。

 又、租借地は港湾施設を含んでいる為、ドイツ海軍の海外拠点としての整備も行われ、潜水艦部隊を含むドイツカリブ戦隊が編制された。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

061 彼らの海/我らの海-1

+

 東南アジアや南米、アフリカで活動を行っているドイツであるが、その本国域外に於いて本命と呼べるのはチャイナであった。

 特に、戦闘機や戦車などの売却を対価とする資源、希少資源の確保はドイツ経済にとって死活的な問題に繋がる部分もあった。

 この為、チャイナとの交流と交易は、政府よりも民間が積極的であった。

 武器弾薬に医療品、食料品や衣料品その他色々と。

 満州事件によってアメリカ/フロンティア共和国と本格的に対峙し戦争状態に陥ってはいないものの、事実上の戦時体制へと移行しつつあるチャイナは物資をあればある程に購入する様になっていた。

 ドイツ中の企業が沸き立つのも当然であった。

 又、ソ連も対シベリア共和国を睨んで軍事物資の購入を行っており、それ以上に経済発展 ―― 重工業の涵養に必要な物資をドイツから買いあさっていた。

 その上で、ドイツは経済の血液である石油を、ベネズエラより安定的に供給を受ける事が可能になっているのだ。

 活性化した外交、そして宣伝省の活躍によってドイツ国内の雰囲気は極めて盛り上がり、景気に空前の好況感を与える事となっていった。

 

 

――ドイツ

 チャイナにⅣ号戦車を筆頭とした大量の軍事物資を売却する契約をしていたドイツだが、その大量の物資の輸送は上手くいっていなかった。

 先ず問題となったのはドイツの海運業界が持つ輸送力 ―― 貨物船の量と規模の問題であった。

 貨物船をドイツが保有していないと言う訳では無い。

 だが、それらは既に民間の交易で運用されており、ドイツからチャイナまで無寄港で到達可能でドイツ政府が傭船出来る大型船は極々少なかったのだ。

 徴発が不可能と言う訳では無いのだが、ヒトラーは民間に負担を掛けない事を公約に掲げている関係上、政治的に困難であった。

 航海に於いて無寄港を要求される理由は、ドイツがG4を筆頭とする国際社会と対立状態にある為であった。

 ブリテンやフランスの持つ世界中の植民地に寄港した場合、何の嫌がらせを受けるか判らない。

 そうドイツは判断していた。

 補給や上陸を断られたりするのは可愛いもので、難癖を付けて物資の接収が行われるかもしれないと危惧していたのだ。

 その上でアメリカが居る。

 チャイナへの軍事物資の売却を大声で非難しており、対抗手段を取ると明言しているのだ。

 この時点で国際連盟の安全保障理事会では、チャイナの地で起こっている軍事的衝突の再発と拡大を抑止する目的で、国際連盟加盟国に対してチャイナへの軍事物資売却の自制を求める内容の決議が行われていた(※1)。

 ドイツは、この決議を拡大解釈したアメリカが軍艦を派遣し、公海上でドイツ貨物船を拿捕する事を恐れた。

 この為、ドイツは就役していた大型艦から、戦艦シャルンホルストと装甲艦アドミラル・グラーフ・シュペーの2隻を抽出、これに仮装巡洋艦や補給艦を組み込み船団護衛部隊、モンスーン戦隊を編成する事と成る(※2)。

 航路に関しては、外交で、親ファシズム的な立場を取っていたポルトガルの協力を得る事に成功し、途中の寄港地としてポルトガル領モザンビークを使う事が可能となった。

 真水や食料、燃料の補給はそこで出来る事となった。

 とは言え戦艦を含む大型艦船への補給となればその必要な量は莫大であり、辺境と言って良いポルトガル領モザンビークで賄うのは中々に難しいのが現実であった。

 この為、ドイツはポルトガルに対して補給物資の対価とは別に資金を提供し、事前に物資の集積を依頼する事となった。

 

 

――アメリカ

 ドイツの軍事物資の輸送船団を妨害する為、アメリカは巡洋艦の派遣を検討していた。

 足が速く長い新鋭のブルックリン級軽巡洋艦で2乃至3隻程度の小規模な任務部隊を編成すれば、捕捉に失敗する事も無いだろうし、接触し続ける事も可能であろうとの判断であった。

 そこにドイツ・モンスーン戦隊の戦力情報がもたらされた。

 戦艦を含む大戦力である事を知ったアメリカは、頭を抱える事になる。

 ドイツの正気を疑うと共に、ブルックリン級による妨害部隊(ハラスメント・ユニット)の編制と派遣は諦める事となった。

 ソ連と並ぶ粗暴な独裁国家としてドイツを見ていたアメリカは、ドイツが万が一に血迷う ―― 妨害部隊への攻撃を行う可能性が高いと判断していた。

 戦艦と装甲艦を前にすれば、如何に新鋭とは言え所詮は軽巡洋艦でしかないブルックリン級では散々な結果になるのは目に見えていた。

 そんな状況で血に飢えた粗暴なドイツ人が踏み止まれる筈がない、と。

 ドイツ人への酷い風評、或いは偏見であったが、ドイツ連邦帝国(ナチス・ドイツ)実績(・・)を見れば、強ち間違えていないと言うものであった。

 その上で、グアム共和国(在日米軍)から未来にして過去に起こされた独逸第3帝國の蛮行(・・・・・・・・・)を伝えられているのだ。

 とてもではないがドイツ人の理性に期待など出来るものでは無い、そう判断していた。

 であれば通常は、理性を発揮せざるを得ないだけの戦力を投入するものであるのだが、現時点でのアメリカには戦艦であるシャルンホルストに対抗できる高速艦が存在していなかった。

 高速性であれば、シャルンホルストを超える戦闘艦はある。

 火力であっても、シャルンホルストを超える戦闘艦はある。

 だが高速性能と火力とを併せ持った戦闘艦、いわば高速戦艦をアメリカは保有していなかったのだ。

 東京軍縮条約体制下で新造艦の整備が止められていた事が理由であった。

 現時点で30ノットが発揮可能な50000t級高速戦艦4隻の建造と、ドイツの装甲艦への対抗を目的とした25000t級大型巡洋艦6隻の建造を予定しており、アメリカが無策と言う訳では無かった。

 特に25000t級大型巡洋艦は、その1番艦と2番艦は整備計画がアメリカの議会を通ると同時に、臨時予算措置で着工まで行われていた(※3)。

 アメリカは、ドイツの長距離航行可能な高速戦闘艦を恐れていたのだ。

 或いは、今の状況を予見していた。

 残念ながら、今回は対応が間に合わなかったが。

 この為、アメリカは対策として任務部隊に空母を組み込む事を考えた。

 艦載機を用いて遠距離から接触し続け、行動を監視する事としたのだ。

 だがその案では一定の安全は確保出来はするものの、ドイツが本格的に任務部隊への襲撃を図った場合には遁走するしかない点に於いては、さして差のある案では無かった。

 護衛戦力の必要性と不足とを痛感するアメリカであったが、そこへ救いの手が差し伸べられた。

 差し出したのはフランス。

 G4の連絡部会に於いてシャルンホルストに優越する火力と伍し得る速力を持った最新鋭の高速戦艦ダンケルクの、乗員込みでの提供(リース)を申し出たのである。

 対価は大規模な車両 ―― 小型四輪駆動車やトラックなどの提供である。

 フランスは、フランス領インドシナに於いて治安維持活動に必要な各種車両が不足していたのだ(※4)。

 アメリカはフランスの提案を二つ返事で受け入れた。

 最新の小型4輪駆動車(ジープ)を含む、各種車両約2000台の提供を約束した(※5)。

 こうして有力な護衛戦力を得る事となったアメリカ海軍は、空母1隻巡洋艦2隻の大西洋艦隊第1任務部隊(TF-21)(※6)を素早く編成すると、フランスへと派遣した。

 

 

 

 

 

(※1)

 この決議に付帯し国際連盟安全保障理事会は国際連盟加盟国に対し、チャイナへの軍事物資の輸送と思われる貨物船の貸し出し要請を受けた場合の拒否及び安全保障理事会への報告を求めていた。

 この点に関しG4やドイツなどの国家以外の外交代表から、民間の経済活動を抑止しようというのはいかがなものかと疑念が述べられたが、国際連盟安全保障理事会のメンバー国は、民間を否定するものでは無いが紛争を抑止する事が優先されるべきと反論した。

 この為、ドイツは外国籍貨物船の傭船を諦めたのだ。

 

 

(※2)

 モンスーン戦隊は、シャルンホルストを中心に7隻の戦闘艦と補給艦から構成されている。

  戦艦    1隻(シャルンホルスト)

  装甲艦   1隻(アドミラル・グラーフ・シュペー)

  駆逐艦   2隻

  仮装巡洋艦 2隻

  補給艦   1隻

 戦隊に航続能力に乏しく居住性が限定的であり遠洋への投入に問題を抱えているドイツの駆逐艦が含まれて居る理由は、潜水艦への警戒であった。

 バルト海にてソ連が行った事と同じことをアメリカが行うのではないかと警戒したのだ。

 特にアメリカの植民地であるフィリピンにはアメリカの潜水艦部隊が配置されている。

 警戒しない理由が無かった。

 尚、外洋に於ける哨戒の主力として期待されたのは水上機の運用機能を強化された仮設巡洋艦であった。

 

 

(※3)

 それだけ25000t級大型巡洋艦をアメリカ海軍に必要としていた。

 アメリカ議会には余りにも建造を急ぐ姿勢に疑念を抱く議員も居たのだが、後に、このシャルンホルスト級とドイッチュラント級の脅威を再確認する情勢に至って、アメリカ海軍の慧眼を称える様になった。

 尚、25000t級大型巡洋艦の設計が素早く完了したのは、グアム共和国(在日米軍)の協力あればこそであった。

 米海軍(・・・)が嘗て保有していたアラスカ級の設計図を参考にし、その運用実績を加味した上で設計されていた。

 そこまで手間を掛けたにも関わらず短期間で設計図が完成したのは先進技術(コンピューター)の賜物であった。 

 25000t級大型巡洋艦は、アメリカ海軍が先進的手法で初めて建造する大型艦であった。

 技術的な特徴としてはアメリカが独自に開発した自動装填装置付きの12in.砲の存在があった。

 その他、徹底的に建造の効率を追求した設計が行われている事が特徴となっていた。

 結果、25000t級大型巡洋艦は着工から1年6ヶ月で就役すると言う記録を打ち立てる事となる。

 最終的に27400tの大型巡洋艦として生まれた艦はアラスカと命名さられた。

 

 

(※4)

 フランスの自動車産業も発展しては居たのだが、フランス国内に於ける混乱 ―― 所謂“平穏の為の平和の否定(レッド・パージ)”によって生産の現場は効率的な商業活動を行えていない事が最大の理由であった。

 又、予算面の都合もあった。

 フランス政府は国内の混乱やフランス領インドシナの独立運動に対するに当たり、特別予算を組みこそすれど、それは戦時予算の様な規模にはなって居なかった。

 危機感の問題というよりも、融和派や民族派との政治的な取引の結果であった。

 2つの派閥、特に避戦を重視し平穏な社会情勢の下での経済発展を重視する融和派が、国庫への負担の大きい大規模な軍事予算に難色を示した為である。

 フランス政府部内にも、この状況を楽観視する者も少なからず居た事が、この妥協に繋がった。

 結果としてインドシナ連邦軍で使用する車両が不足する事と成った為、フランス政府は金を掛けずに車両を入手する手段を模索し、その結果が、アメリカに対するダンケルクの貸与と物々交換(バーター)での各種車両の提供申し込みであった。

 

 

(※5)

 一度の貸与に対する対価としては大盤振る舞いと言って良い。

 この背景の1つには、アメリカ国内でトラックの在庫がだぶついていたのが大きかった。

 アメリカの自動車業界は、グアム共和国を経由して未来の自動車の方向性を知り、その方向性に基づいた新技術を開発し、それを投入した新世代の自動車を市場へと送り出す様になっていたのだ。

 市場も、アメリカ人たちはそれを歓声を持って受け入れており、その為に旧式の車両は不人気となって売れなくなっていたのだ。

 ある意味で、アメリカ国内の中古車市場、その健全性を維持する為の不良在庫一掃という側面があった。

 この為、使う現場であるフランス領インドシナのインドシナ連邦軍は車両の故障や補修部品の不足に苦しむ事になり、フランス政府に苦情を上げる事になるのだが、フランス政府は事実上無償で手に入ったのだから文句を付けるなと黙殺した。

 尚、ジープに関しては初期生産分であり、ある意味で先行量産型の実地テストを押し付けた側面があり、此方も少なからぬ故障が発生していた。

 

 

(※6)

 TF-21は、最終的に6隻の戦闘艦で構成される事となる。

  戦艦    1隻(ダンケルク)

  空母    1隻(レンジャー)

  巡洋艦   2隻

  大型駆逐艦 2隻

 大型駆逐艦は、ダンケルクを貸し出す際にフランスがジョフレの前例(潜水艦による被害)を思いだし、万が一に備える為として、追加で提案したものである。

 アメリカは戦力が増える事を肯定的に判断し、フランスの提案を受け入れた。

 航続能力の問題に関しては大型駆逐艦は比較的余裕を持っている為、フランスがアフリカなどに有している植民地で補給を行えれば問題は無いだろうと判断された。

 それでも念の為、アメリカは高速補給船を2隻、手配していた。

 

 

 

 

 

 




2019.11.02 文章の修正実施
2019.11.02 文章の記述修正実施
2019.11.02 文章の記述修正実施


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

062 彼らの海/我らの海-2

+

 モンスーン戦隊に守られつつドイツを発つ東征船団(イースト・エクスプレス)は、大小合わせて8隻の貨物船で構成されていた。

 出来るだけ船齢の若い船が集められており、各船には武器弾薬その他、様々なものが満載されていた。

 とは言え、このたった8隻の船舶だけでチャイナが購入した物資の全てを送れる訳では無かった。

 特に60t近い重量級のⅣ号戦車に関しては、軽量化の為に分解した状態であっても乗せられる貨物船は限られているのが実状であった。

 又、場所を取る戦闘機の輸送に関しても、簡単に行くものでは無かった。

 8隻の船腹から見て、都合3回は必要となる事が予想されていた。

 ドイツは、今回の航海で経験を積み次回に活かす事を考えていた。

 この為、長距離航海経験の豊富な民間人船長を船団司令部のアドバイザーとして招聘し、その上で物資の輸送量を減らしてでも各艦船の保守部品を大量に用意していた。

 陸軍国家であるドイツは、己が外洋航海というものの経験が乏しい点は深く自覚しているのだった。

 その為、航海準備は綿密に行われていた。

 

 

――アメリカ

 追跡すべき対象、ドイツの準備が遅れている為、アメリカの大西洋艦隊第1任務部隊(TF-21)は十分な訓練が行えていた。

 特に、フランス艦との合同作戦訓練に時間を割けた事は大きかった。

 その上で、ブリテンに寄港していた日本第391任務部隊(TF-391)や英海軍本土艦隊まで一緒になった共同訓練を行い、親善を深めていた。

 救難訓練に始まって航行訓練、果ては防空訓練が行われ、そこでは日本の艦載対艦攻撃ユニット ―― 攻撃型ドローンのQA-1(ゴースト)(※1)の初公開も行われていた。

 一連の親善訓練の中、演出上手なアメリカは戦艦むさしと戦艦フッドの2隻が、TF-21の戦艦ダンケルクと共に空母レンジャーを守りながら北海を往く様を上手くとらえた写真を撮ってマスコミに提供し、世界を大いに沸かせた。

 ブリテンでは海洋秩序の守護者(レヴィアタン)との文言(キャプション)が付けられた。

 ドイツは声高にG4による海洋支配であり、国際的な調和関係を乱すものであると非難した。

 ソ連は戦艦の建造に更なる注力を行う様になった。

 様々な波紋を広げつつ、TF-21は航海準備を進めていた。

 

 

――ドイツ

 錬成を重ねる様をマスコミを介して世界に発信しているアメリカに、ドイツは強い危機感と圧迫を感じていた。

 この為、モンスーン戦隊の錬成もそこそこに、東征船団への物資の積み込みが終わり次第、即座に出港させる事とした。

 船団の結成式や出港式典なども行わず、夜陰に紛れて三々五々に船団所属船は港を出て別個の航路を選んでいた。

 ドイツはアメリカの追っ手を撒く為、優速のモンスーン戦隊を囮にして、船団はバルト海から北海を抜けるまで独航させようとしたのだ。

 合流はアゾレス諸島とした。

 だが船団に属する各船は北海を抜け出る前、夜が明けると共にアメリカ海軍機による接触が始まった。

 或は巡洋艦が、駆逐艦が、戦艦が、追跡していた。

 船団の動きを察知されていた事を理解したモンスーン戦隊の指揮官は、各船各艦に対して欺瞞航路の終了と共に集合命令を出した。

 このまま分散していては各個撃破の危険性が高いと言う判断であった。

 シェトランド諸島沖にて合流、堂々と船団を組み南下を開始する。

 チャイナへと至る航海は、最初から苦難と共に幕を開ける事となる。

 とは言えアメリカTF-21は、航空機の接触こそ継続的に行っていたが戦艦も巡洋艦も接近させようとはして来なかった。

 その点を戦隊指揮官は安堵しつつも、同時に、何時接触して来るのかと神経をすり減らしていく事になる。

 接触している航空機 ―― 艦載攻撃機を追い払おうにもモンスーン戦隊が保有する航空機は水上機のみであり、追い払うどころか対抗する事も難しいのが現実であった。

 戦隊指揮官は航海録に、今後は戦隊/艦隊には航空優勢を握る為に空母を編入する必要性がある事を強く訴える内容を記していた。

 

 

――ポルトガル領モザンビーク

 神経をすり減らしつつ航海を続けた東征船団は、1隻も脱落する事無くポルトガル領モザンビークへ到達する事に成功した。

 だが同時に、船団が1隻も欠ける事の無かったのは、此処までであった。

 装甲艦アドミラル・グラーフ・シュペーのディーゼルエンジンを筆頭に、各艦に様々な不調が出る事となる。

 又、駆逐艦部隊は乗員の疲弊が酷い事になっていた。

 長距離航海を前提としない装備、そして訓練のままでこの大航海の任についていたのだ。

 疲弊するのも当然であった。

 できれば1週間以上の修理、補給、休息が必要な状態であった。

 だが政治的事情から、それを認める事は出来なかった。

 チャイナから船団の到着を要求する催促が、これ以上の納期の延長は看過し得ないと言う強い内容でドイツ本国へ届いていたのだ。

 チャイナから得る資金がドイツの予算に於いて小さくない役割を果たしている為、如何(ゴーイング・マイウェイ)なドイツとは言え顧客の意向を無視出来る筈は無かった。

 この為、戦隊指揮官は苦渋の決断を下す。

 装甲艦アドミラル・グラーフ・シュペーと駆逐艦2隻をモンスーン戦隊から分離する事を決断。

 又、船団の輸送船に関しては、停泊中でなければならない程の消耗、故障などは抱えて居なかった為、補給後、即座に出港する事を決断した。

 

 

――東征

 真水や燃料、食料の補給こそ出来たものの、十分な休息を取る事の出来なかった東征船団は、その巡航速力が低下していた。

 それでも尚、遮二無二にチャイナを目指していた。

 インド洋を渡り、大スンダ列島を南から回り、マカッサル海峡からセレベス海を抜けて太平洋に出るのだ。

 チャイナへの最短ルートとは言い難い航路選択はブリテンやアメリカの強い影響下にある海域を避けると言う意味合いであった。

 真水の不足や生鮮食料の枯渇が東征船団を襲う。

 少なくない乗員、船員が倒れた。

 それでも尚、東征船団は怯む事無くチャイナを目指す。

 

 

――第21任務部隊

 十分な補給と、支援を受け続けたTF-21は余裕をもって航海していた。

 又、ドイツ東征船団の速度が遅い事や度々停泊していた事(※2)も余裕に繋がっていた。

 唯一欠乏したのは嗜好品 ―― アイスクリームとワイン程度であった。

 これはアメリカとフランスで融通し合っていた事が原因だった。

 又、TF-21に乗り合わせたマスコミにも大盤振る舞いしていた事も理由であった。

 何とも締まらない話ではあったが、嗜好品の不足は乗員の士気に直結する為、アメリカはフィリピンの東洋艦隊から嗜好品と生鮮食料品を満載した補給船を派遣する事と成る。

 

 

――太平洋

 艱難辛苦を乗り越えて太平洋(平和の海)へと到達した東征船団。

 彼らを迎えたのはアメリカ東洋艦隊(フィリピン・フリート)に属する戦艦部隊であった。

 アメリカは、太平洋艦隊 ―― 真珠湾からペンシルバニア級戦艦2隻を態々派遣していたのだ。

 都合3隻の戦艦に挟まれる形となった東征船団は、何とか振り切ろうと努力する。

 だが東征船団に属する貨物船達は、長距離航海の影響で15ノットを超える速度が出せなくなっており、それは不可能であった。

 その上で離れていたTF-21もいつの間にか加わっていた。

 戦艦3隻に追尾されると言う重圧に、東征船団は更に疲弊していく事となる。

 このままでは全輸送船のチャイナ到着が困難になる可能性があった。

 それ故に戦隊指揮官は開き直って、東征船団を直線で目的地であるチャイナ、ドイツ租借地である山東半島に向かわせた。

 そして日本領海に接近した時、最後の歓迎隊(・・・)が姿を現した。

 戦艦やまとを旗艦とした日本の本土防衛部隊だ。

 動揺する戦隊幕僚団に対し、戦隊指揮官は悟った顔で只、直進を命じていた。

 その横で日本、アメリカ、フランスの戦艦たちは見事な単縦陣を組んで並走していた。

 東征船団はエスコート(・・・・・)に導かれ、青島港に入港するのだった。

 

 

 

 

 

(※1)

 i3(ネットワーク戦)コンセプトに基づいて性能改善が行われて量産されているF-3の第3期生産型(バッジ3)、F-3C用に開発された自律型随伴戦闘UAV(オプション・ドローン)QF-1の艦載用モデルである。

 戦闘と命名されてはいるが、索敵任務にも投入する事が可能な多目的機でもある。

 ステルス機でもあるQA-1は爆弾倉を持っている。

 タイムスリップ後に量産されたQA-1Bは、機外兵装ステーションが増設されており、QF-1を設計する時点で想定していなかった大型空対艦ミサイル(ASM)、或はコンパクト化の出来ない旧型の空対艦ミサイルの搭載も可能になっている。

 

 

(※2)

 無理なスケジュールで航海していた為、インド洋のど真ん中で停泊して船団輸送船の修理を行う必要が出る事があったのだ。

 又、稀に船団から輸送船がはぐれてしまう事もあり、この際にも停泊して捜索する事があった。

 

 

 

 

 

 




2019/11/07 表現修正を実施


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

063 彼らの海/我らの海-3

+

 這う這うの体でチャイナに到着したドイツ東征船団。

 その入港を確認したアメリカ第21任務部隊(TF-21)は、余裕をもってフロンティア共和国へと寄港した。

 そして世界は、武力衝突に発展しなかった事を見て、アメリカとドイツ両国の理性に安堵した。

 

 

――ドイツ

 脱落した貨物船が1隻も無かった事から、ドイツ政府はドイツの海洋力の素晴らしさを世界に見せつけるものであると国内に向かって宣伝する事となる。

 ドイツ海軍も今回の、船団あるいは艦隊による大規模航海で様々な知見が得られたとした。

 とは言え問題も認識していた。

 1つは、ドイツ海軍の航空機運用能力の乏しさである。

 東征船団が洋上に出て以降、常にアメリカの航空機は接触し、その位置を無線で報告していた。

 航空機と言う存在が、広大な外洋に於いて圧倒的な哨戒力を持つ事を見せつけていたのだ。

 これはドイツ海軍にとって深刻な脅威と言えた。

 別に遠征任務に関する問題では無い。

 これ程の遠征任務がドイツ海軍に課される事はそう多くは無いだろう。

 だが、将来のブリテンやフランスとの戦争の際に想定している任務 ―― 通商破壊戦の任務にも航空機の哨戒力は脅威になるだろう。

 水中に隠れる事も出来る潜水艦はまだしも、目立ちやすい大型艦では、航空機に即座に狩り出される危険が高いと言う認識である。

 ドイツ海軍は頭を抱える事になる。

 ドイツ海軍とて洋上に於ける航空機運用能力が無い訳では無い。

 既にドイツ初の空母グラーフ・ツェッペリンは公試の段階に入っており、2番艦であるペーター・シュトラッサーの建造も艤装段階に達している。

 ドイツ海軍は空母を手に入れる寸前となっていた。

 又、E艦隊計画に基づいて、グラーフ・ツェッペリン級よりも簡便な防空護衛空母(※1)としての20000t級空母4隻の建造も予定されていた。

 艦載機の開発も順調ではあった。

 だが、その艦載機が問題であった。

 この時点で艦載機として予定している戦闘機はBf109の改良型である。

 性能自体は、ブリテンやフランスの艦載機と比較して劣っている訳では無い。

 だが大きな問題があった。

 艦上機として軽量化する必要性と、艦隊直上での防空任務が遂行されれば良いとの割り切りによって、その航続距離は400㎞台と極めて短いものであった。

 これでは空母を含んだ通商破壊戦部隊から前進配置し、部隊に接近する航空機を撃退する事で部隊の位置を隠匿する任務など期待できる筈も無かった。

 この為、ドイツ海軍は航空機メーカーに対して、長距離飛行可能な艦上戦闘機の開発を要請する事と成る(※2)。

 2つ目には、この遠征で消費した予算だ。

 戦艦1隻が世界を半周したのだ。

 その運用費は、平時体制のドイツ海軍の予算を大きく食い荒らす事となった。

 また備蓄していた燃料も大きく目減りしており、艦艇を海に出して訓練をするのも容易では無いと言う状態に陥っていた。

 来年度に於けるドイツ水上艦部隊の練度低下が恐れられるまでの事態となっていた。

 今回の東征は、ドイツ政府からの命令である為、予算と燃料の補填自体は約束されてはいたのだが、如何せん燃料はドイツ国内全体で需要の逼迫が起きており、何時満足な量の充てんがなされるか判らないのが実状であった。

 この為、ドイツ海軍高官の一部は“ドイツ海軍は名誉と引き換えに未来を失った”等と嘆く有様であった。

 又、燃料の不足はチャイナでも深刻であった。

 GDPで世界の半分以上(G4)を敵に回し、国際連盟からは戦争拡大を抑止するためとして軍需物資の輸出入を監視されている状況下である為、軍需物資としての側面を持つ石油がチャイナに簡単に入ってくる筈も無かった。

 ドイツ海軍は頭を抱えた。

 

 

――アメリカ

 概ね成功と言って良いドイツの船団追跡劇であった。

 長距離航海訓練としても、良い結果を残していた。

 特に空母の運用に関しては、グアム共和国(在日米軍)経由で学習した先進的な空母運用方法を、実戦に近い環境で継続的に行えた事は、大きな成果となった。

 数々の成功と失敗が、明日のアメリカ海軍空母運用に大きな成果を与えると認識されていた。

 又、フランスの戦艦ダンケルクとの長距離航海も、近い将来にアメリカ海軍が習得する高速戦艦群の運用に関する知見を得る事に繋がった。

 日本やグアム共和国(在日米軍)から得られる未来の知識や戦訓は、未来の技術を背景にして初めて意味のあるモノが少なくない為、それらの知識を血肉とし、今の技術で出来る事を行っていく為には地道な研究と訓練が大事であった。

 フロンティア共和国へと入ったTF-21は、2週間の休息と補給、そして整備を行った後、黄海にて日本やブリテンとの親善(・・)訓練を実施した。

 共同航行や救難訓練は広くマスコミにも公開され、盛況となった。

 無論、その目的はドイツと共にチャイナへの威嚇であったが。

 訓練後、改めて休養を行い英気を養ったTF-21は大西洋への帰路に就いた。

 今度は太平洋を横断し、パナマ運河を越えて戻る積りであった。

 途中、横須賀港やパールハーバーに寄港し、歓待を受けて行く事と成る。

 寄港先でワインや日本酒、焼酎にバーボン、様々な酒類を飲み、兵たちも様々な美食を味わったこの航海を、戦艦ダンケルクのフランス人士官は“素晴らしき航海”と呼ぶ事となる。

 TF-21は極東を離れたが、太平洋艦隊から分派されてきた戦艦ペンシルバニアを旗艦とする2隻の戦艦群は、そのままフロンティア共和国に駐留する事となった。

 これは万が一にドイツが血迷った場合、一番に脅威となる戦艦シャルンホルストを実力で鎮圧する事が目的であった。

 

 

――チャイナ

 東シナ海のみならずチャイナの前庭である筈の渤海や黄海を自由に遊弋する海の支配者 ―― 戦艦(レヴィアサン)の姿は、チャイナの威信を著しく傷つけるものとなった。

 東洋の守護者、竜たるチャイナにも戦艦が必要であると国民は声を大きくして訴える事となる。

 だが、今のチャイナには戦艦を建造するだけの工業力が存在しなかった。

 ドイツの協力によって、戦車や戦闘機などはそれなりに生産する事が可能となっていたが、戦艦と呼べる大口径砲を積んだ、鋼鉄の鎧をまとった戦闘艦を建造する能力など無かった。

 であればと、輸入を検討するのがチャイナであったが、戦艦を建造可能な国家は限られていた。

 チャイナと対立するアメリカを筆頭とするG4諸国は、建造を依頼するだけ無駄であった。

 では友邦と呼べるドイツやソ連はどうであるかと言えば、此方は自国向けの戦艦の建造だけで精一杯であり、とてもではないがチャイナ向けの戦艦を建造する余力など無かった。

 そもそも、チャイナの財政は近年の対アメリカ戦備計画で極めて逼迫して来ており、1等国の証であり戦略兵器でもある戦艦を整備する余力など、とてもではないが有してはいなかった。

 この現状に切歯扼腕したチャイナは、戦艦では無く戦艦に準じたものの取得を目指す事となる。

 それが装甲艦であり海防戦艦であった。

 装甲艦と言えばドイツが著名であるが、ドイツは自国向けで造船能力が精一杯となっていた。

 この為、白羽の矢が立ったのは、G4に積極的に与していない中立国家であるスウェーデンであった。

 スウェーデンは、チャイナからの依頼に対して混乱しつつも中立の立場を維持する為にもG4、ブリテンに連絡を取った。

 ブリテンの反応は、非好意的ながらも阻止はしないと言うものであった。

 これは、チャイナが求めた海防戦艦が主砲こそ有力に成りえる28.3cm砲を搭載するが、船体規模はスウェーデンの造船能力の限界から10000tに満たないものとされており、外洋航海能力が限定的である ―― 海防戦艦である事が理由であった(※3)。

 こうしてチャイナは大型艦を手に入れる事となる。

 建造の契約を交わして直ぐに、チャイナは国内に対して大々的に戦艦の取得を宣言した。

 名前は、チャイナの未来に向かって航海するフネとして、鄭和とされた。

 

 

――タイ

 チャイナが海防戦艦を整備する事は、東南アジアで唯一の独立国であるタイの国民感情を刺激した。

 又、隣国のフランス領インドシナで治安が悪化している事も、国威の象徴的な軍艦の建造をタイが行う事を国民が要求する事となった。

 この為、タイは日本に対して20㎝砲を搭載する3000t級の海防戦艦の建造を依頼する事となる。

 対して日本は、この要望に対して建造コストを理由に否定的な返答をする事となる。

 この頃、日本では8in.砲を搭載する10000t級の対地支援護衛艦 ―― 事実上の重巡洋艦クラスの整備を進めており、8in.砲であれば新造できる余力を有していた。

 問題は、この新開発された8in.砲が日本の大口径砲らしく完全自動化された砲である事だ。

 当然ながらも建造費用は嵩む。

 1基分の砲システム一式だけで、タイが建造費用として用意していた予算を上回るのだ。

 この見積もりがタイの意欲を撃沈する事となる。

 又、整備性の事も問題であった。

 日本の水準で艦を建造した場合、とてもではないがタイで整備できない。

 先進国と言って良いフランスですら、日本から導入した31式戦車の運用に四苦八苦しているのだ。

 タイが対応出来る筈も無かった。

 とは言えタイは引き下がらなかった。

 この時点でタイは日本に海軍将校を派遣しており、海軍将校と言うまがりなりにも軍事の技術者達は日本の先進技術の一端を見て、それに惚れこんでいたのだ。

 或は、日本製と言うネームバリューが持つ抑止力を幻視していた。

 この為、タイは日本に対して必死に交渉を行った。

 連日に渡った交渉は、意外な事に日本連邦内からも援護が出る事となる。

 シベリア共和国や朝鮮(コリア)共和国と言った外威(・・)に接する国々が、判りやすい洋上戦力を欲したのだ。

 この時点で日本が日本連邦参加各国に提供していたのは、海上保安庁の巡視艇をベースとしたフネであり、それは機能的ではあったが決して象徴的な力を感じるフネでは無かったのだ。

 この結果、日本はタイ及び国内邦国向けの低技術(ローコスト)艦を開発建造する事を約束する事となる。

 

 

 

 

 

(※1)

 ドイツ海軍上層部は現在のZ艦隊やE艦隊の大型艦整備で、ドイツの軍需造船部門の能力を超過しかねない事を理解していた。

 この為、E艦隊計画に基づいて整備を図る呼称C級空母に関しては建造効率を優先した簡易的な空母としての建造が行われるものとされていた。

 この為、グラーフ・ツェッペリン級で求められた15㎝砲の主砲(・・)等の装備は最初から考慮外とされ、更には早期戦力化への要求から工期短縮と、建造に使用する資源を出来るだけ少なくする事が要求された為、最終的に17000t級の軽空母として設計される事と成る。

 これは防空を主任務と割り切る事で艦載機数を戦闘機主体の、それも20機台に減らした事の効果が大きかった。

 尚、海軍上層部の一部からは17000t型C級空母が早期に陳腐化せぬ様に、G4諸国の海軍が導入しつつある空母の新技術群 ―― アングルド・デッキや側舷エレベーターの導入の必要性を訴える声も上がって居た。

 だがドイツには、それら新装備の基礎的な研究も技術も無く、技術保有国(G4)からの導入も不可能であった為、早期の戦力化が困難であろうという常識的判断に従い、却下される事となった。

 尚、後にフォン・リヒトホーフェン級と名付けられる事と成る17000t級空母の設計図は、ドイツ/ソ連の技術協力協定に基づきソ連に提供される事と成る。

 

 

(※2)

 ドイツ航空機メーカー各社の反応は手酷いものであった。

 メッサーシュミット社を筆頭に、ヒトラーの命令によってジェット戦闘機開発に総力を上げている状況なのだ。

 にも関わらず、ごく少数しか生産しないであろう海軍専用機を新規に開発する余裕など、ドイツの航空機メーカーにある筈も無かった。

 この為、ドイツ海軍は少しでも航続距離を延ばす工夫 ―― 増槽などを翼下に搭載するなどをメーカーに要求する事となる。

 

 

(※3)

 尚、ブリテン政府は、スウェーデン政府に対して海防戦艦鄭和の図面の提供を秘密裏に要請した。

 スウェーデンは、中立を維持する為、これを受け入れる事となった。

 海防戦艦鄭和は生まれる前から、その詳細が知られる事となる。

 

 

 

 

 

 




2019/11/15 文章修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

064 満州事件-3

+

 洋上に於いては問題の無かったアメリカであったが、事、陸上に於いては問題が山積する事となる。

 ドイツからの新装備導入によってチャイナは満州事件の終息に関する交渉の場に出てこなくなっていた。

 チャイナ国内の世論が、夷狄討つべしで統一されつつあるのが大きな問題となっていた。

 現在のチャイナ政府は軍閥 ―― 事実上の軍事独裁政権であったが、それ故に世論に敏感であったのだ。

 この状況下においてアメリカに譲歩する事は、チャイナにとって政治的な自殺に繋がりかねない危険な行為なのだ。

 対するアメリカも、対チャイナ世論が硬直しつつあった。

 チャイナ国内でアメリカ人が残忍に殺害されるなどの事件が多発している事が理由であった。

 アメリカでのチャイナ系移民に対する排斥運動が始まっていた。

 ここで思わぬ余波、被害を被ったのが日本のタイムスリップ以前にアメリカに移民していたジャパン()系である。

 頭に血を上らせたアメリカ人から見て、等しく黄色人種と言う事で似て見えたのだ。

 この人種問題は、日本とアメリカとの間で少なからぬ問題を抱える事となる(※1)。

 この為、日本政府はよりアメリカ国内に於ける親日情報工作に力を入れる事となる。

 ハリウッドの映画会社を買い取り、良き日本人とアメリカ人とが手を結んで悪と戦うなどの単純明快なものから、アメリカ向けの新規アニメの作成と放送、或は漫画の出版など。

 その様は、協力していたグアム共和国(在日米軍)の人間が、文化侵略をしている様なものではないかとの手記を残す程の勢いであった(※2)。

 だが、実際問題として1920年代後半から始まっていた日本の文化的進出はアメリカに着々と根付いていく事となる。

 

 

――アメリカ/フロンティア共和国

 チャイナ国内の反アメリカ機運を誤る事無くアメリカは理解していた。

 この為、機先を制する形でフロンティア共和国内へのチャイナ人の流入を正式に制限する事となる。

 更には、一定期間定職に就いていないチャイナ人のフロンティア共和国からの追放も行う事となった。

 この事がチャイナ人のプライドを傷つけ、フロンティア共和国内での暴動に繋がった。

 とは言え、上海などのチャイナの地に比べて軍用武器は殆ど流通していないフロンティア共和国であったので、その脅威はそう大きなものでは無かった。

 だが、アメリカはフロンティア共和国政府に対し、断固たる武力鎮圧を指示する。

 それはフロンティア共和国からチャイナ人の一掃を図るが如き指示であった。

 その理由、1つにはチャイナ人は労働力であっても、欧米からの移民に比べると教育水準が低い為、労働力としての優先度の低さが原因であった。

 そしてもう1つは、追放の理由 ―― 定職に就けなかったチャイナ人たちが徒党を組み、強盗事件を繰り返し、更には売春や不法な薬物売買を行っていると言う現実があった。

 アメリカは1920年代から営々と投資してきたフロンティアの地(約束された大地)を、腐敗と汚職の地にするつもりなどさらさら無かったのだ。

 とは言え、全てのチャイナ人を一掃しようと言う訳では無かった。

 善良なチャイナ人にはフロンティア共和国への帰化の機会を与え、フロンティア共和国への忠誠と法治の遵守が出来るならば在留を許した(・・・)

 この結果、苛烈な治安維持戦争がフロンティア共和国で勃発する事となる(※3)。

 

 

――チャイナ

 アメリカ本土とフロンティア共和国内でのチャイナ人排斥運動に対し、チャイナ政府は非人道的行為であると国際社会へと訴える事となる。

 とは言え、アメリカでの排斥運動はまだしも、フロンティア共和国で行われているのは暴徒の排除と同化要求であり、非人道的と言うには些か筋が悪かった。

 国際連盟の場で問題を主張するも、チャイナの友邦であるドイツですら消極的な姿勢に終始していた(※4)。

 この為、チャイナ国内では改めて北伐 ―― 満州の中華帰服を叫ぶ様になる。

 その背後にはチャイナ共産党の姿もあった。

 チャイナ共産党にとっては、チャイナがアメリカと対峙し勢力を弱める事こそが、自分たちが勢力を拡大する機会であると認識しており、機を見ては常にチャイナ国内の反アメリカ機運を煽っていた。

 その事をチャイナ政府も認識してはいたのだが、取り締まりきれずにいた。

 否、チャイナ共産党の弾圧自体は行っていた。

 だがチャイナ共産党が、その党派色を隠して煽っている反アメリカ運動に関しては、民衆の支持と言う意味で抑えきれなかったのだ。

 この為、フロンティア共和国での排斥運動への対抗措置としてアメリカ人を排斥していく事となる。

 定住とキリスト教の布教を図るアメリカ人の神父などは兎も角、旅行者やビジネスマンまで入国を拒否する様にしたのだ。

 悪手であった。

 チャイナの一般大衆は大きく喜んだが、アメリカは激怒する事となる。

 フロンティア共和国では、旅行者やビジネスマンと言った一時的な在留者に対する排除行動は行っていなかった為、アメリカの怒りも当然であった。

 それは人の往来を認めたチャイナとアメリカの修好条約違反でもあった。

 アメリカはチャイナの姿勢を大きく非難する事となる。

 だがチャイナは民意であると一蹴した。

 そのチャイナの姿に、ブリテンやフランスと言った国家も、チャイナの姿勢に危惧を持った。

 外交条約を国民感情に阿って反故にするその姿勢が、何時、自分達に降りかかるのかと心配したのだ。

 この為、アメリカの対チャイナ政策と行動とを陰から支援していく事となる。

 チャイナの孤立は深まる事となる。

 

 

――ドイツ

 チャイナとアメリカの対立が深まる事は、ドイツへの武器輸出要請が出る事に繋がる。

 だがドイツはもろ手を上げてこれを歓迎しきれない状況に陥りつつあった。

 ドイツ国内での生産力の問題と、輸送力の問題である。

 国内での戦車、火砲の製造分に関してはチャイナを優先する事が出来ない訳では無い。

 だが輸送力に関しては致命的であった。

 東征船団に属する船舶は現在、ドイツ租借地である青島で整備と補給、そして休息を行っているが、まだドイツに向けて出港出来ずにいた。

 到着して1月余りも経過しているにも関わらずである。

 これは、青島の艦船の整備力が著しく乏しい事が原因でもあったが、同時にドイツとチャイナの距離の遠さをも示していた。

 チャイナは早期の購入分全量の引き渡しを要求していたが、現在抱えている受注済みの軍需物資の輸送ですら、東征船団規模を2回行わねばならぬのだ。

 ドイツ側は受注済みの軍需物資の輸送に、年単位での時間的猶予を要求していた(※5)。

 この状況下で、更なる追加は中々に困難であった。

 事この時点に至ってドイツはチャイナに対してライセンス生産の幅を大きく認める事とした。

 又、純然たる軍需物資では無い物に限っては、第3国の貨物船を傭船し対応する事とした。

 

 

 

 

 

(※1)

 この為、ジャパン系アメリカ人でありチャイナ系ではない事を主張しようとして、ジャパン系はあるバッジを服やバックなどに好んで付ける様になった。

 旭日旗と星条旗とをあしらったバッジだ。

 それは後に、カルフォルニア州などで認められ優良市民章(サン&スター)と呼ばれる事となる。

 

 

(※2)

 とは言え日本とアメリカの良好な関係は、アメリカ国内に於ける非白人層 ―― 有色人種の地位向上に繋がる為、グアム共和国(在日米軍)では積極的に支援する方向に動いていた。

 

 

(※3)

 治安維持戦争でフロンティア共和国の頼もしい先鋒となったのが朝鮮(コリア)共和国の半国営の傭兵、民間軍事会社(PMC)であった。

 日本統合軍で兵士として鍛えられ、更には長年の鬱屈した対中感情からチャイナ人へ暴力を振るう事に躊躇が無いコリア系日本人は暴徒の弾圧組織として最悪(・・)であり、そして効果的(・・・)であった。

 血も涙も無い弾圧はチャイナ人の怨嗟と怨恨を生み出したが、暴徒を短期間で沈静化させる効果があった。

 

 

(※4)

 ドイツも、その国内でユダヤ人やロマの民を排除している為、チャイナとの共同歩調を取るのが困難であった。

 尚、1930年代後半になると、余程のドイツ人としての意識の高いユダヤ人を除いて、多くのユダヤ人がアメリカや東ユーラシアのパルデス国に移民し終えていた。

 熟練の労働者や知的階層を大きく失ったドイツは、慢性的な労働力不足に悩み続ける事となる。

 一応、ドイツ連邦帝国(サード・ライヒ)の建国によって中欧の人間、非アーリア系コーカソイド(セカンド・クラス)を得る事が出来はしたが、それでも十分では無かった。

 この為、第3身分 ―― 奴隷的労働力(サード・クラス)を求めてポーランドを狙う事となっていく。

 

 

(※5)

 ドイツはチャイナに対して時間的猶予と共に、護衛部隊の運用費も要求していたが、これに関してはチャイナが契約外であると突っ撥ねる事となる。

 契約では、ドイツが責任をもってチャイナまで届けるとされていたからだ。

 とは言え護衛部隊無くば、チャイナが購入した軍需物資が確実に届く可能性が低下する為、チャイナも強硬な態度を取り続ける事は無かった。

 幾度もの2カ国折衝の果てに、今後の追加購入分に関してドイツとチャイナとで護衛部隊の運用費を折半する事となる。

 

 

 

 

 

 




2019/11/16 文章修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

A.D.1940
065 満州事件-4


+

 ユーラシア大陸東部での戦雲の高まりに、アメリカ政府は痛痒を感じつつも対応の準備を進めていく。

 約束の大地(フロンティア・リパブリック)に安寧を取り戻し、チャイナには鉄槌を加える積りであった。

 アメリカにとってチャイナはその人口故に市場として期待できる面はあるものの、同時にチャイナ人がフロンティア共和国で暴動を繰り返した事で否定的な感情を抱いているのだった。

 それは、チャイナに商売をする為に入国した人間が手荒く扱われた事も理由にあった。

 この為、将来に起こるであろう戦争はフロンティア共和国の防衛が主目的で在り、間違ってもチャイナ本土進攻を予定しない作戦計画が立てられる事となった。

 侵攻して来るチャイナ軍を都度都度で打ち払い、併せて航空戦力による戦略爆撃(・・・・)で国力を潰し、洋上封鎖を行って資源の流入と外国(・・)との交易を潰す。

 グアム共和国(在日米軍)から得た日中戦争(・・・・)の詳細で、アメリカは人民の海で泳ぎたいと露程も思わなくなっていた。

 

 

――日本連邦国

 チャイナとの全面衝突を想定とした戦争準備を進める事となったアメリカが頼ったのが日本だった。

 とは言え参戦を求める訳では無い。

 軍需物資の売却や医療支援、或は将兵の休息に関する協力要請であった。

 この要請を受けた日本は、アメリカとの間で締結されている対ソ連として締結されていた極東軍事協定に基づいて受諾する事となる。

 その中には、チャイナの洋上封鎖作戦を行う際の支援と共に、寄港地として台湾(タイワン)民国へのアメリカ海軍の利用も含まれて居た。

 又、グアム共和国(在日米軍)に対して、アメリカ合衆国の特別州 ―― グアム特別自治州としての動きを要求した。

 目的は、米海兵隊を基幹としたグアム共和国陸軍の派遣である。

 グアム共和国軍は、その成り立ち故に自衛隊を除く日本連邦統合軍の中で別格の位置にあった。

 人口規模故に1個師団しか編成されてはいないが、連邦統合軍の中では唯一、師団編制の中に空中騎兵(ヘリコプター)部隊も含む重編制部隊である(※1)。

 この為、日本連邦統合軍統合司令部では、戦略機動予備としての役割を与える程であった。

 その第501機械化師団の投入の要求であった。

 日本政府は、グアム共和国政府の判断を確認した上で容認する事となる。

 この他、フロンティア共和国政府がシベリア共和国に対して参戦要請を出す事となる。

 此方は相互安全保障を謳った東ユーラシア安全保障協定に基づいたものであった。

 広大な面積を有する満州の大地を守るには、部隊は幾らあっても多すぎると言う事は無かったのだ。

 この要請を受け、シベリア共和国は日本に確認の上で1個機械化師団(第702機械化師団)と2個自動化師団(第712自動化師団 第714自動化師団)の派遣を決定する。

 守勢任務向けの装備が与えられている自動化師団が派遣されたのは、主たる役割がフロンティア共和国の国境線防衛であると説明されたからである。

 又、対ソ連との前線から重装備の機械化師団を複数抽出し派遣する事に日本連邦統合軍シベリア総軍司令部が反対したと言うのも大きい。

 ソ連軍の活動は、カレリア地峡紛争以前より活性を失っていたが、油断できるものではないというのがその判断理由であった(※2)。

 

 

――パルデス

 ユダヤ人国家であり、同時にフロンティア共和国とシベリア共和国の衛星国でもあるパルデス国は、東ユーラシア安全保障協定に基づいた戦力の派遣をアメリカから要求されると同時に承諾していた。

 国家の興亡、或は維持が血を以って贖われる事を理解しているが故の事であった。

 とは言え産業に乏しいパルデス国の経済事情は良好とは言い難く、その為、保有する軍備も機械化どころか自動化も充分ではないのが実状であった。

 この為、参戦の対価としてパルデスはアメリカに対して広大な満州で活動するに十分な量の自動車に始まり、戦車や装甲車の提供を要求する事となる。

 これに対してアメリカは、フロンティア共和国で製造しているトラック類の優先提供を約束した。

 戦車に関しては、装備更新に伴って余剰となっていたM2系の戦車が提供されていた。

 だが装甲車に関してだけは、提供が行えぬとの返答であった。

 パルデスの念頭にあったのは日本が手頃な値段で世界中に売却しつつある全装軌式の装甲車(※3)であったが、アメリカでは全装軌式の装甲車両をまだ開発と配備を出来ずにいたのだ。

 工業力、或は技術的な限界が理由であった。

 戦車を開発製造する技術を踏まえれば、全装軌式装甲車が必要とするエンジンや足回りを造れない訳では無いのだが、それでは戦車と同じ様な値段の装甲車となってしまうのだ。

 それでは数を揃える事が出来ず、意味が無いと言うのがアメリカの軍上層部の判断であった。

 これはアメリカだけではなく、ブリテンやフランス、その他の先進諸国でも同様であった。

 この為、装甲化された人員の輸送に関しては半装軌車(ハーフ・トラック)が主役となっていた。

 とは言え此方も安いとは言えず、しかも平時体制であったアメリカ軍の予算では、その軍内部の需要を満たす程の量を揃えては居なかったのだ。

 この為、装甲化人員輸送手段に関しては将来的な提供の約束に留まる事となった。

 

 

――フロンティア共和国

 アメリカの号令の下、戦時体制に突入する事となる。

 この事がフロンティア共和国内での人種問題 ―― チャイナ系フロンティア人や在留チャイナ人と、それ以外の民族との間での緊張感を呼ぶ事となる。

 この為、在留チャイナ人やチャイナ系フロンティア人の中にはフロンティア共和国からチャイナへの移住を図る人間が少なからず出た。

 又、ごく一部のチャイナ系フロンティア人はフロンティア共和国軍に志願し、忠誠の証を立てようとした。

 この、フロンティア共和国内部でのチャイナ人の動きが、チャイナにアメリカの決断を伝える事となった。

 

 

 

 

 

(※1)

 グアム共和国軍第501機械化師団は、米第3海兵師団を母体としており、師団記章もその頃のものが継承されている。

 とは言え、グアム本島の人口は20万を超える程度である為、その労働人口的な意味で2万人近い第501機械化師団を編成し続ける事は通常は不可能である。

 既にタイムスリップして10年以上が経過し、退役した軍人もおり、若い兵卒も歳を重ねている。

 にも関わらず、師団規模を維持できているのは、人員がアメリカ本土からも派遣されてきているからである。

 これは当初、米海兵隊の持つ先進軍事技術の習得を目的としていた。

 だが現在はグアム共和国(在日米軍)に対するアメリカの影響力確保が役割となっていた。

 故にアメリカ海兵隊の帳簿上、グアム共和国陸軍第501機械化師団はアメリカ合衆国海兵隊第3師団でもあった。

 尚、日本本土からも将兵は派遣されている。

 これは将校の教育機関が日本連邦統合軍として統一され、日本本土の各学校で行われている事も理由にあった(※学校制度への提言や、教官の派遣も在日米軍として実施しており、全くの日本色に染まる訳では無い)。

 ある意味で第501機械化師団は、日本とアメリカとの狭間に居る国家であるグアム共和国の象徴であり、日本とアメリカとの鎹でもあった。

 

 

(※2)

 ソ連側の事情として、この時点でソ連軍は活動をかなり低下させていた事がある。

 繰り返された戦争や粛清によって、ソ連軍は再編成の季節に入っていた。

 又、ソ連指導部が勝利の得やすい(・・・・・・・)欧州方面での活動に注力している事も、シベリア方面での活動の低下に繋がってはいた。

 とは言え、戦力自体は移動していない為、油断など出来るものでは無いのだ。

 緊張緩和(デタント)に向けた外交的取り組みが行われてはいるものの、予備交渉の水準で終始していた。

 にも関わらず、定期的に国境線付近を国章の描かれていない国籍不明機(・・・・・)が飛行しているのだ。

 日本連邦統合軍シベリア総軍としては警戒を緩める筈もなかった。

 尚、ソ連政府内では、スターリンが10年を目処として日本との戦争を避ける方針を打ち出してはいた。

 とは言え、スターリンは融和的な態度を日本に取る事が、日本にシベリア以西への領土的な野心を起させる可能性を危惧しており、日本と対峙している第1東方戦線に対しては、一歩も退かぬ態度を日本に対して示すように厳命していた。

 

 

(※3)

 現在、日本が正式に販売を開始したのは38式装軌装甲車ファミリーであった。

 アルゼンチンが非G4国家としては初めて導入し、その性能もさることながら整備性の高さと、整備性に裏打ちされた稼働率の高さから評判を呼んでいた。

 38式装軌装甲車は、非先進国への売却と運用を前提とした、多少の性能向上よりも整備性を優先した設計が成されている。

 補修部品も、高品位高精度な日本製でなくても良い様に設計されている。

 この為、列強クラスの国家であれば性能面であれば38式装軌装甲車に準じた装軌装甲車を量産する事は可能であった(※値段に目をつぶればと言う但し書きは付くが)。

 とは言え日本製と言う価値(ネームブランド)、そして装甲材の性能では傑出したものがあり、世界中で好評される事となる。

 

 

 

 

 

 

 




2019/11/17 文章修正
2019/11/17 文章追加
2019/11/20 文章修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

066 満州事件-5

+

 アメリカが政治的にも軍事的にも準戦時態勢へと移行した事はチャイナに恐怖を与えた。

 彼我の国力差を良く理解するチャイナ政府は、国民世論を基にしたアメリカとの対立こそ是としてはいたが、全面対決 ―― 戦争は全く望んでいなかった。

 最低でも、ドイツに発注していた武器弾薬類が届くまでは戦争を行う気は無かった。

 その為、慌てて融和姿勢へと舵を切る事となる。

 又、国際世論に平和を訴える事も併せて行う。

 国際連盟の場で、チャイナ北部に関する平和化に向けた努力を提案していく。

 又、南チャイナの領域で交易関係を維持しているブリテンとフランスに対して強い働きかけをする事となる。

 

 

――アメリカ

 チャイナの平和希求の行動は、守勢攻撃に向けた準備で戦意が折れた ―― そうアメリカは理解した。

 だが同時にチャイナ国内の世論が対アメリカ強硬路線である為、最後までチャイナが折れる可能性は乏しいとも判断していた。

 この為、チャイナと和平交渉を行うのと並行して、現時点で行っている戦争計画の準備を進める事とした。

 和戦両様の構えである。

 事前に声を掛けていた3ヵ国に加えて日本と朝鮮(コリア)共和国の7ヵ国での満州大演習(※1)を企画したのだ。

 そこにはチャイナの民心を威圧すると言う側面もあった。

 実施する場所は、フロンティア共和国とチャイナの国境線地帯 ―― チャイナ側へと国境線を押し出している突出部(バルジ)とは別の場所であった。

 

 

――チャイナ

 積極的な和平交渉に出たチャイナ。

 その中でアメリカとの大きな争点になったのは、チャイナ国内に於けるアメリカ人の排除であった。

 チャイナ政府としては、民間で大きな流れとなっているアメリカ人排斥運動を止める事は難しいと言う態度であった。

 チャイナ側からすれば、チャイナ人の反アメリカ感情はフロンティア共和国でのチャイナ人の扱いに起因するものであり、チャイナ側がそれを受け入れるのは困難であると言う主張である。

 だが、アメリカはそれを受け入れなかった。

 フロンティア共和国でのチャイナ人の扱いに関しては、治安維持の側面から行われているものであるというのが理由であった。

 そこでチャイナは、相互の排斥活動の禁止を提案するが、それもアメリカ側は拒否する事となる。

 アメリカはチャイナ人の排斥的政策を行っても居ないフロンティア共和国が、明らかにアメリカ人の排斥運動を実施しているチャイナと同列に語られる事は異常であると反論した。

 事、この時点でチャイナは気付く事になる。

 アメリカは交渉をしている積りは無いのだと。

 非戦を目指すのであれば、アメリカが求める事をチャイナはまる飲みせよと要求していたのだと。

 チャイナは恐怖した。

 この交渉に前後して各国のメディアを受け入れての満州大演習が行われており、1000台近い戦車/装甲車(AFV)と1500門近い野砲が入り乱れる様にチャイナは、明確な圧力を受けている事を理解した。

 これにフロンティア共和国内に残る部隊や、チャイナ領への突出部(バルジ)を防衛している部隊を加味すれば、総数で20万を超えている。

 チャイナ政府はチャイナ軍司令部に対しアメリカ軍へ対抗しうる可能性を確認した所、現有兵力では平野部の多い河北部 ―― 中心となる北京を含めて黄河北岸側の保全は不可能であるとの返答であった。

 であれば江南 ―― 長江以南への引きずり込みを図ればどうかと追加して尋ねた所、今のチャイナの国際関係では支援が受けられぬ為に抵抗が成功する見込みは無いとの返事であった。

 周辺諸国がアメリカの友邦(G4)に固められているのだ。

 ドイツなどへの支援を求めても届く当てもないというのが実状であるという返事であった。

 開戦すれば必敗、その返答にチャイナ政府はアメリカへの妥協を選択する事となる。

 

 

――チャイナ共産党

 チャイナ政府内に居る情報工作員からの報告によって、チャイナ政府がアメリカとの妥協へ外交の舵を切った事に歓喜していた。

 これで、チャイナ政府とチャイナ人との間での断層が生まれるとの判断である。

 1940年の時点でチャイナ共産党はチャイナ政府からの攻撃と弾圧を受け続けた結果、軍閥としての組織を維持し続けるのが困難な状況に陥りつつあった。

 であればこそ、チャイナ政府がチャイナ人民の支持を失う事は願っても無い慶事であった。

 チャイナ共産党指導部は、当座は武力的な活動よりもチャイナ人の不満が高まる様に宣伝工作に力を入れていく事となる。

 又、戦力涵養の為、ソ連に接近していく事となる。

 経済支援や軍事支援を求めたのだ。

 当初はソ連とチャイナの関係から難航した。

 ソ連はドイツを介してチャイナとも近い関係にあった為だ。

 これはチャイナが対峙するフロンティア共和国がソ連の敵であるシベリア共和国と同盟関係にあるが故の部分があった。

 チャイナに協力する事でフロンティア共和国へ圧力が掛かり、最終的にシベリア共和国の国力が低下する事を狙っていたのだ。

 この関係が、チャイナがアメリカへの妥協姿勢を国際社会で打ち出した事で破綻したのだ。

 ソ連はチャイナに変わる、対東方国家群(ジャパン-アングロ・ユニオン)組織としてチャイナ共産党と手を握る事と成る。

 

 

――アメリカ-チャイナ1940 融和条約

 紆余曲折の末、アメリカの要求をまる飲みする形で外交交渉は終結する事となる。

 チャイナ領域に於けるアメリカ人の保護義務をチャイナ政府は受け入れた。

 その上で、チャイナ領内での非アメリカ/フロンティア政府軍を除く武装組織(PMSC)の自由な活動も、アメリカ人保護を目的として認める事となった。

 フロンティア共和国とチャイナの国境線には50㎞の非武装地帯が設定される事となった(※2)。

 又、アメリカへの賠償として、チャイナに対するアメリカ/フロンティア共和国製品の輸入関税の、向こう10年間の停止も行われる事となった。

 尚、チャイナの軍事装備の更新に関しても明確な枠こそ作られなかったが“平和の為に自制的に行うものとす”という文言が条約に含まれて居た。

 この余りの屈辱的内容に、チャイナ人の世論は沸騰する事となる。

 

 

――チャイナ

 チャイナがアメリカと締結した融和条約は、チャイナ人にとって到底受け入れられるものでは無かった。

 アメリカ帝国主義への反対と、それを受け入れたチャイナ政府の弱腰に対する反発が大きく盛り上がる事と成る。

 とは言え、チャイナ政府はそれらの反対運動を、融和条約に基づいて取り締まっていく。

 チャイナ国内で高まる不満の矛先は、同じ帝国主義者への抵抗運動を行っているフランス領インドシナへと向かい始める。

 同じアジア人の連帯を叫び、アジア人の裏切り者である日本人やチャイナを蝕むアメリカ人などの帝国主義的支配国家(ジャパン-アングロ・ユニオン)からのアジアの独立を夢見る様になる。

 大アジア連帯(グレート・アジア)主義である。

 この動きは少なからず日本 ―― 北日本(ジャパン)邦国に残っていた主義者的な人間に影響を与える事となる。

 

 

 

 

 

(※1)

満州大演習

 参戦兵力 約100,000人

 参加AFV  約 1,000両

 参加野砲 約 1,500門

  10個師団

  1個旅団

  1個連隊

 

 アメリカ

  1個師団(機械化)

 日本

  1個連隊(機甲化)

 グアム共和国

  1個師団(機械化)

 フロンティア共和国

  1個師団(機甲化)

  1個師団(機械化)

  2個師団(自動化)

 シベリア共和国

  1個師団(機械化)

  2個師団(自動化)

 パルデス国

  1個旅団(機械化)

 朝鮮(コリア)共和国

  1個師団(自動化)

 

 

 戦闘序列

在フロンティア共和国アメリカ作戦司令部

 満州大演習第1軍集団

 

  第1軍

   第1軍団

    第11機械化師団(アメリカ)

    第5歩兵師団/機械化(フロンティア共和国)

    第702機械化師団(シベリア共和国)

  第4軍団

    第3海兵師団/第501機械化師団(グアム特別自治州/グアム共和国)

    第1独立装甲連隊(日本)

    第7機甲旅団(パルデス国)

 

  第2軍

   第2軍団

    第3師団/自動化(フロンティア共和国)

    第4師団/自動化(フロンティア共和国)

    第712自動化師団(シベリア共和国)

    第714自動化師団(シベリア共和国)

   第3軍団

    第2師団/戦車(フロンティア共和国)

    第204自動化師団(朝鮮(コリア)共和国)

 

 

 2個の軍に分かれての対抗戦である

 尚、朝鮮(コリア)共和国はアメリカに恩の売り(稼ぎ)時と認識し、戦力の供出を自ら提案した。

 当然、事前に日本からの了承も得ている。

 但し、邦国として外国(G4)との独自の軍事協定は好ましからざると言う判断から、朝鮮(コリア)共和国とフロンティア共和国との間での対中協力条約と言う形にまとめられる事となった。

 

 

(※2)

 これは国境線からチャイナ領での50㎞である。

 同時に、上空を国際連盟の監視機(・・・・・・・・)が哨戒する事とされた。

 チャイナ政府も当初は、領土割譲に近い条件であると難色を示したが、アメリカは譲らなかった。

 今回の満州事件がチャイナ領からの攻撃が始まる切っ掛けと主張し、それを押し通したのだった。

 

 

 

 

 

 




2020/03/13 文章修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

067 フランス植民地帝国の壊乱-01

+
勝利は最も根気のある者にもたらされる

――ナポレオン    
 







+

 チャイナ国内に於いて征夷運動(アンチ・ジャパン-アングロ)として始まった日本とヨーロッパ-アメリカの排斥は、アメリカ-チャイナ1940 融和条約によって頓挫する事となる。

 チャイナ政府が、表立った列強(ジャパン-アングロ)に対する暴力を取り締まる様になったのだ。

 暴力を抑止すると言う意味に於いて至極真っ当なチャイナ政府の行動であったが、チャイナ共産党が煽った儒教的な中華思想によってチャイナ人達は、下等と言って良い蛮族(ジャパン-アングロ)風情の風下に立つが如き行動であると批判する事となる。

 都市部では政府に対する抗議運動が起こり、純朴な人間の多い田舎の農村では蜂起が多発した。

 とは言え、チャイナ政府はそれらを看過せず、全力で鎮圧に出た。

 チャイナ全土で6万人近い死傷者が出る事と成り、後には光隠弾圧と呼ばれる事となる。

 その苛烈さは、対アメリカ戦争へのチャイナ政府の恐怖心の裏返しであった。

 

 

――大アジア連帯主義

 チャイナ政府による弾圧から逃れる為、反帝国主義国家(ジャパン-アングロ)を掲げたチャイナ人思想家の一部は、フランス領インドシナへの義勇兵に紛れて国外脱出をする事となる。

 その際に思想家たちは己を、アジアを一体として西欧列強から解放する為の烈士であると主張する事になった。

 フランス領インドシナに居る理由は、アジアとチャイナの列強支配からの解放の糸口として、西欧強大国家群の一角フランスに抵抗するベトナム人を助ける為であるとしていた。

 ある意味で大アジア連帯(グレート・アジア)主義とは、国を追われた思想家たちが己の境遇を糊塗する為に主張した思想であった。

 とは言え、独立を願うベトナム人が大アジア連帯(グレート・アジア)主義に連帯感を感じる事は無かったが。

 歴史的に見てベトナムとチャイナは幾度も戦火を交えて来た関係である。

 ベトナムとチャイナの連帯などタチの悪いジョークであった。

 或は、新手のチャイナの拡張主義の露呈に見えていた。

 だが同時に、現実主義のベトナム独立運動の指導者たちは戦力として参加するのであればチャイナ人の思想に目を瞑るだけの器量を持っていた。

 又、チャイナから流れて来る武器も魅力的であった。

 例えそれが、チャイナが新鋭のドイツ製装備に切り替えると共に余剰となっていた旧式装備であっても、貴重な武器であった。

 ベトナム人は将来の協力と言う空手形を切り、チャイナ政府は空手形を信じるふりをして協力関係を深めた。

 

 

――ベトナム

 悪化し続けていたフランス領インドシナの治安は、新設したばかりのインドシナ連邦軍を投入し容赦の無い鎮圧作戦を実行した事でハノイなどの都市部は一応の安定を取り戻す事となる。

 それは弾圧と言う言葉も生ぬるい、血の粛清であった。

 フランス駐留軍もだが、インドシナ連邦軍もその構成員達はベトナムとは民族が異なる為、ベトナム人を弾圧する事に呵責を感じる事が無かった事が原因だった。

 その事がベトナム人に広く、フランスとインドシナ連邦への反発を植え付ける事になる。

 とは言えベトナム独立派は、チャイナとチャイナの背後に居るドイツの都合で蜂起した素人集団であった為、有意な形でフランス軍と闘えずに居た。

 地方で散発的に武力蜂起し、鎮圧されると言う事が繰り返されていた。

 大言壮語を吐くチャイナ人思想家など、実際の戦場ではものの役にも立ちはしなかった。

 この状況を変えたのはジャパン人達であった。

 彼らは旧帝国陸軍将校であり、陸上自衛隊の教育まで受けた元北日本(ジャパン)邦国軍人だ。

 チャイナ人思想家の唱えた大アジア連帯(グレート・アジア)主義に感化され、軍を脱走し、國を捨ててベトナムにはせ参じた者達であった。

 とは言え、欲もあった。

 陸上自衛隊での再訓練で現代的な法と規律の遵守と徹底して教育されていたのだが、

それでも戦前の(・・・)帝国軍人将校らしい欲望 ―― 八紘一宇(グレート・アジア)と言う大義への陶酔と国家樹立への功と言う名誉欲に炙られ血迷った者達であった(※1)。

 或は関東処分に端を発する、日本政府による日本帝国陸軍将校に対する数々の冷遇(・・)に対する反発もあった。

 このジャパン人将校団が、ベトナム人とチャイナ人の烏合の衆に規律を叩きこみ軍隊へと変貌させる事となる。

 

 

――フランス

 ベトナム独立派が、暴徒集団から組織化された軍へと変貌する事によって、フランス領インドシナの治安は再び悪化する事となる。

 特に物資の補給元となる北部では活発化したゲリラ戦によって、フランス軍やインドシナ連邦軍がそれなりの規模で駐屯する都市部であってすら安全には過ごせなくなりつつあった。

 特に、練度の低いインドシナ連邦軍の被害は甚大であった。

 当然ながらも経済活動も停滞し、北部はフランスにとって金を生まない大地へと変貌を遂げた。

 これに慌てたフランス政府は、アフリカ駐留軍の移動を急ぐ事となる。

 又、航空部隊の増援に関しても重視された。

 水上艦部隊による洋上封鎖を強化する為であった。

 ベトナム独立派が活動する物資を得られぬ様に、と言う狙いがあった。

 このお蔭で、少なからぬ船舶を臨検し、武器弾薬の押収に成功していた。

 武器弾薬の密輸船がチャイナ籍船である事から、フランス政府はベトナム独立派の後方にチャイナ政府、或はチャイナの軍閥が存在すると判断した。

 チャイナ政府に対し、ベトナム独立派への支援がチャイナより行われている可能性がある為、取り締まりを依頼する事となる。

 フランスは釘を刺せば(・・・・・)、チャイナ政府は唯々諾々と従うだろうと判断していたのだ。

 アメリカに折れたチャイナに国家としての気概は無いと判断していたのだ。

 だがチャイナは、列強(G4)でも上位のアメリカや日本はまだしもフランスに下に見られる理由は無いと、内心(・・)で激怒した。

 当然ながらもチャイナ政府は、フランスに対して国内の取り締まりを約束するだけに留まった。

 それどころか、この屈辱が原因となってベトナム独立派に対して更なる便宜を図る様になった。

 チャイナ国内でのベトナム独立派-軍の錬成支援や、旧式となった戦車や戦闘機の提供まで行いだす始末であった。

 フランスは、己の行いで敵を増やした。

 

 

――フランス領アフリカ

 治安維持執行部隊であるフランス軍が勢いよく引き抜かれる事となった為、フランス領のアフリカ各地の治安は緩やかながらも悪化していく事となる。

 この為、フランスは警察組織のみならず各種国家機関まで動員して治安維持活動を行う事となり、本来の業務が疎かになる。

 それが、ドイツ人の活動を活性化させる事に繋がった。

 

 

 

 

 

(※1)

 日本政府がジャパン人将校団の存在を把握するのは、かなり後になってからであった。

 1つは北日本(ジャパン)邦国軍が、身内意識を発揮して離脱した将校たちの存在を隠蔽した事があった。

 だがそれ以上に、日本政府がフランス領インドシナへの興味を示していなかったと言うのが大きい。

 この為、ジャパン人将校達を把握したフランスが、日本に対して陰謀の可能性を連想するのも止む無き話であった。

 日本とフランスの関係を悪化させてしまう事態を引き起こす事となり、日本は関係改善に苦慮する事となる。

 

 

 

 

 

 




2019/11/28 題名修正
2019/11/29 文章修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

068 フランス植民地帝国の壊乱-02

+

 ベトナム独立派が手に出来た武器はチャイナからの余剰兵器の横流しが主体で在る為、小銃の他は手榴弾やダイナマイトの様な爆発物が精々であった。

 チャイナとフランスの関係が悪化すると共に、旧式ながらも機関銃や大砲も入手できる様になる。

 又、戦闘をすれば練度の低いインドシナ連邦軍は簡単に壊乱する為、その装備 ―― 武器弾薬自動車を入手する事も出来た。

 とは言えフランスとて世界を牛耳るG4の一角であり、その正規軍は本国からはるか離れたフランス領インドシナであっても戦車や装甲化自動車(アーマー・トラック)(※1)を多数装備しており、ベトナム独立派にとって簡単な相手では無かった。

 只、武力鎮圧に際して過度の暴力を振るう悪癖のあるフランス軍やインドシナ連邦軍は、一般的なフランス領インドシナ住民から忌避されており、その活動を支える情報収集の面では圧倒的に劣勢であった。

 情報的な優位、すなわち一般のフランス領インドシナ住民の支持あればこそベトナム独立派は装備に劣るフランスと戦えているとも言えた。

 

 

――ベトナム

 ベトナム独立派-軍が軍としての体裁を整える事が出来たのはジャパン人、北日本(ジャパン)邦国からやってきた義士(・・)将校たちの力あればこそであった。

 義士将校たちはジャパン帝国陸軍、関東軍時代に培っていたチャイナとの(コネクション)を介してベトナム独立派に接触したのだった。

 当初は白い目で見られていた義士将校たちであったが、日本国陸上自衛隊で受けた教育によって培った作戦指揮能力で、小規模なチャイナ人部隊を率いてインドシナ連邦軍に痛打を与え続けた事で信頼を獲得し、軍の建設に携わる事となったのだ。

 だが義士将校たちが作り上げようとしたのは陸上自衛隊では無かった。

 彼らの心のふるさと、ジャパン帝国陸軍式の組織を指向していた。

 そんな義士将校に鍛えられたベトナム独立派-軍は急速に軍としての能力 ―― 規律と命令への服従という技能を獲得していった。

 この時点でベトナム独立派-軍はベトナム人とチャイナ人が、合わせて5万近い軍勢となっていた。

 その全てが戦闘要員(ライフルマン)という訳では無いが、それでもこの時点で3万人前後の総兵力しか持たないフランス軍/インドシナ連邦軍と数の上では互角以上となっていた。

 この数的優位は、特に訓練不十分なインドシナ連邦軍相手には大きな効果を上げた。

 倍以上の数で包囲し、猛攻撃を加えれば簡単に撃破出来たのだ。

 これによってベトナム独立派-軍は農村部から始まり、フランス領インドシナの北部でじりじりと支配領域を増やしていく事となる。

 

 

――フランス

 ベトナム北部での一時的(・・・)劣勢の原因を、練度及び装備良好な部隊の少なさにあると喝破したフランス政府は、フランス軍アフリカ駐留部隊のみならず、フランス本土からの戦力の抽出を決断した。

 その決断の背景には、駐日仏国(・・)大使館経由で日本から得た未来情報があった。

 越南戦争(第二次インドシナ戦争)である。

 燎原の火の如く広がった戦争は、莫大な人員と物資を注ぎ込んだ米国であっても勝ち切れなかったと言う史実(・・)である。

 米国が如何に戦争の自由を縛られているとは言え、列強が植民地に負けるなどという信じがたい事実を前に、フランスは恐怖した。

 フランスは100年の宿敵と言えるドイツと正面から対峙している。

 そのドイツは、中欧諸国を併合しドイツ連邦帝国(サード・ライヒ)等と言う明確なナチズムに基づく拡張主義を取っているのだ。

 そう遠くない未来で雌雄を決するだろうと言うのが、フランス政府の確信(・・)であった。

 であればこそ、この状況下で別の大きな戦線を抱える訳には行かないと言うのがフランス政府の判断であった。

 幸いにしてフランス国内の騒乱 ―― “平穏の為の平和の否定(レッド・パージ)”による平和派の殲滅は成功裏に終わりつつある為、戦力の抽出は可能であった。

 フランスは3個の歩兵師団に戦車旅団を付けて、フランス領インドシナへの派遣を決定する(※2)。

 

 

――ドイツ

 フランスの国力がフランス領インドシナに注がれていく状況に歓喜した。

 特に、ドイツにとって忌々しい事にドイツ国防軍よりも優良な装備を誇るフランス陸軍がフランス本土から減少する事は、福音ですらあった。

 J38(31式)戦車を保有する部隊まで派遣される事を期待した程であった。

 とは言え派遣された戦車部隊は1個旅団規模であり、欧州随一の大陸軍(グランダルメ)と謳うフランス陸軍にあっては小規模であった。

 この為、ドイツはアフリカ大陸に存在するフランス領での独立に向けた武力蜂起支援を加速させていく。

 だが、既にフランスはもとよりブリテンからもアフリカでのドイツの動きは不穏なものと判断されており、ドイツ人は常に監視されていた。

 この為、思う様な活動が出来ない状況にあった。

 ドイツは迂遠ながらも、自国の強い影響下にあるスペインを介して干渉を行う努力を開始した。

 

 

 

 

 

(※1)

 日本が装備する装軌装甲車や装輪装甲車の有用性を見て、フランスが独自に運用する装備。

 アメリカの様に半装軌車(ハーフ・トラック)を多数そろえる程の余力が無いが、治安維持活動に装甲車は必要であるとの観点から、トラックに耐小銃弾防御が可能な装甲を与えた車両。

 とは言え、日本の様な乗り心地と防弾性能を両立させた防弾タイヤを製造する技術が無い為、総ゴム塊タイヤとなっており乗り心地は最悪である。

 又、エンジンの非力さから、装甲に搭載力を奪われており、人員輸送力も高いとは言い難い。

 総じて、過渡期の装備であると言えるだろう。

 或は植民地警備用であった。

 中途半端と言って良い性能の装甲化自動車であっても、貧弱な火器しか持たぬ植民地の独立運動派が相手ならば猛威を振るう事が可能であった。

 尚、フランスがフランス領インドシナへと投入した車両は、アメリカから譲り受けた中古車を改造したものである為、タイヤは通常のものであった。

 

 

(※2)

 戦車部隊の派遣を決定すること自体は簡単であった。

 だが問題は重装備の輸送であった。

 軽量快速、30t級のAMX39戦車はまだしも、主力であるJ38戦車は44tもの重量級である。

 この時代のフランスの輸送力と、貧弱なフランス領インドシナの港湾設備 ―― 荷揚げ能力では簡単では無かった。

 この為、目を付けたのが日本である。

 日本はフィンランド支援の為に派遣していた第391任務部隊(TF-391)の全てを日本本土へと帰還させていた訳では無かった。

 フィンランドとソ連との間での和平交渉成立までの停戦監視業務を国際連盟から委託され、遂行していたからだ。

 この為、TF-391に護衛された人道物資輸送船団も、その大半が欧州に残っていた。

 その輸送力の借り受けをフランス政府は願い出たのだ。

 具体的には輸送力もさる事ながら、港湾機能に頼らぬ揚陸能力を持った8900t級のおおすみ型輸送艦くにさきと54000t級のさつま型多機能輸送艦つがるだ。

 この2隻の輸送力があれば、フランスがフランス領インドシナに送りたい戦車などの大半を輸送する事が出来る筈であった。

 この貸出(リース)要請に対して日本は国会、安保関連委員会で審議を行った。

 審議は紛糾した。

 植民地の独立運動は民族自決の観点からすれば正しい行為であり、それを否定する事に日本が手を貸す事は正しい行為であるのかと、野党のみならず与党議員の一部からも懐疑の念が出された。

 道義的な問題であると同時に、フランスが行っている苛烈な鎮圧行動は、それに日本が加担する事による政府批判 ―― 内閣支持率の低下を恐れると言う生臭い問題でもあった。

 とは言えフランス政府が提示した輸送の対価、アルジェリアでのガス採掘権とマダガスカルでのチタン鉱山の採掘権の貸し出しは実に魅力的であった為、フランスの要請を一蹴する事も出来なかった。

 最終的に日本は、フランスに対して適正なる対価と共に暴徒の鎮圧に際して過度(・・)な暴力の使用を自制する事を要請し、承諾する事となる。

 民族自決の問題に関しては、フランスとフランス領インドシナの問題であり、そこに関与する事はフランスに対する内政干渉に当たると言う理屈であった。

 その上で人道主義に基づいた暴力の抑止を要請する、要請をフランスに受け入れさせる為の対価としての輸送力の提供と言う形で落ち着く事となった。

 尚、フランスもこの要請には誠実に答える姿勢をとり、治安維持戦(平成のIRAQ派遣)に於いて実績を持つ日本から治安維持に於ける民心慰撫の研究者を招聘し、事に当たる事とした。

 フランスとて弾圧が目的では無く、治安維持の手段としての暴力である為、別の安価な手段で平和が維持できるなら柔軟な姿勢を取る事に異論は無かった。

 

 

 

 

 

 




2019/11/29 文言修正
2019/12/01 文章修正(きい型多機能輸送艦をさつま型へと改名)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

069 フランス植民地帝国の壊乱-03

+

 フランスのアフリカ植民地に対するドイツの干渉は、フランスとブリテンの反応を呼んだ。

 熾烈な情報戦と工作員による死闘が繰り広げられる事になる。

 通常、外交の表舞台から隠れた情報戦であっても娯楽作品(パルプ・フィクション)の様な銃撃戦や殺し合いなどは発生しない(※1)。

 だがアフリカ沿岸域やスペイン国内に於いて、フランスはドイツに対して躊躇の無い攻撃を仕掛けていた。

 これは1つに、フランスがそう遠くない未来でドイツと雌雄を決する事になるだろうと覚悟を決めていた事が大きかった。

 そして戦争となればドイツを滅ぼすまで戦う積りであった。

 それ程に、在日仏国大使館から齎された第2次世界大戦の記録 ―― 独国によって1度は滅亡した未来と言うものへ怒りを滾らせていた(・・・・・・・・)のだ。

 更に言えば欧州連合(EU)と言う未来も気に入らなかった(・・・・・・・・)

 非戦の為に仏国(未来のフランス)独国(ドイツ如き)に阿った風に見えたのだ。

 ドイツの風下には絶対立たぬ。

 その為には、ドイツを再建できない様に徹底的に叩き潰す所存であった。

 その覚悟たるや、日本の未来情報を共有するG4の連絡会で他3ヵ国が顔を引きつらせる(ドン引きする)程であった。

 

 

――スペイン

 フランスとドイツの乱闘(・・)に巻き込まれたスペイン人の死傷者が度々に発生する為、スペインは秘密裏にフランスとドイツにそれぞれ接触し、穏当な接触は出来ないのかと遺憾の意の表明を行った。

 これに対してフランスは高圧的と言って良い態度で、ドイツが国際秩序への挑戦を行っている事が原因であると返答した。

 その上で、スペインに対して国際秩序を乱すドイツを排する事への協力を要請する有様であった。

 対してドイツも、フランスによる理不尽な暴力的行為への自衛であり、スペインはフランスを排するべきであると主張した。

 スペイン政府は頭を抱える事となった。

 政治体制的な面で言えばドイツ寄りのスペインであったが、フランスは国境線を接している国家であり、更には列強国 ―― 軍事大国でもあるのだ。

 内戦の傷跡も生々しいスペインが、政治的なものであっても気軽に敵対的な態度を取れる相手では無かった。

 ではドイツを切ってフランスに付けば良いかと言えば、それも難しかった。

 ファシズムを標榜し国際的にドイツと親密であった為、フランスを筆頭として世界経済の潮流を握るG4諸国と距離があったのだ。

 イタリアの様な鬼札(石油資源)があれば陣営の変更(ドイツとの別離)をしても問題は無いだろうが、その様な便利な存在(ワイルドカード)をスペインは有していなかった。

 結局のところ、スペインの立場は強大国に挟まれた中堅国の悲哀とも言うべきものであった。

 

 

――イタリア

 アフリカに於けるフランス/ブリテンとドイツの対立と暗闘でスペインと共に迷惑を被ったのはイタリアであった。

 別にドイツがイタリアを介してフランスのアフリカ領にアクセスしようとしたと言う訳でもない。

 だが、イタリアを豊かにする約束の大地(リビア)に隣接する、フランスの植民地で小規模な騒乱 ―― 独立運動が発生する余波が達しつつあるのだ。

 難民だ。

 その難民の口を介してリビアに、フランスの植民地での独立運動の話が入って来たのだ。

 イタリア政府は頭を抱えた。

 1930年代に入って漸くリビアでの独立運動を鎮圧する事に成功したばかりなのだ。

 万が一にもリビア人の独立欲が再燃されてしまっては大変な事になるだろう。

 今のリビアは、石油資源の開発に日本とブリテンを主とした企業による投資が活発に行われており、その影響で停滞しがちなイタリア経済も活性化していたのだ。

 イタリア経済の活力源が止まるなど、イタリアにとって許せる話では無かった。

 とは言え、現段階で弾圧を含めた取り締まりを行う事は反発を呼び、それが独立運動の火だねになりかねない為に、高圧的な選択肢を取れる筈も無かった。

 故にイタリアは飴と鞭を選ぶ事となる。

 示威行動として、戦車を含めた重装備を持ったイタリア正規軍をリビアに配置した。

 同時に、リビア人の民族主義者の穏健派に接触し、イタリアの植民地では無い様々な権利と限定的ながらも自治権を持った自治州 ―― 或はイタリアに束ねられた同盟体、各リビア在住諸民族の自治国的な地位を目指す事を図る。

 独立した植民地国家の連合体(コモンウェルス)であるブリテン連邦でも無ければ、フランスの様な海外県として国家への統合を目指すものでもない、ある意味で日本連邦の様な着地点を目標としていた。

 それは、ある意味でリビアに於けるイタリア人の特権的地位を抑制する政策であったが、可能としたのはイタリアに於けるムッソリーニのマフィアさえも抑えつけ、イタリア人にすら(・・・・・・・・)規則を強制する事の出来る力があればこそであった。

 ある意味でムッソリーニは、執政者としてヒトラーよりもスターリンよりも優れたる人物であった。

 

 

――ブリテン

 ブリテン連邦とは、1930年代中盤に発生したブリテンの各植民地が連帯し非暴力を徹底させた独立運動の成果 ―― 1937年のブリテン帝国合同会議によって宣言された、ブリテンを頂点とする多国家連合体である。

 この宣言に基づきブリテンは、各植民地に対して大幅な自治権を認めると共にブリテン人の植民地に於ける各種特権を抑制する事となる。

 外交に関しても発効にこそブリテン連邦評議会による承認が必要であるが、独自の交渉は可能であった。

 防衛、軍事に関しては戦時の指揮権はブリテンが一元管理はするものの、軍備に関しては連邦構成各国が独自に行える事も認めた。

 この事実上の独立の対価として、ブリテン連邦の参加各国はブリテンへの忠誠とブリテン連邦への帰属を認める事となる。

 在日英連邦大使館連合による対ブリテン独立運動組織の大いなる勝利であった。

 同時にブリテンの勝利でもあった。

 ブリテンが真に望んで止まなかったのは、黄金の大ブリテン時代の原動力でもある市場 ―― 植民地の非関税市場としての存続であったのだから。

 ブリテン連邦宣言から既に2年以上が経過し、旧ブリテン植民地群は安定しつつあった。

 だが同時に連邦各国の、一部の先鋭的な民族主義者たちは自国からのブリテンの追放を叫び続けていた。

 特に中東は、元々が独立国家であった為にその傾向が強かった。

 それを経済的な発展 ―― 生活の向上で宥め賺していた。

 だが、中東地域は石油を生み出すが故に利益供与も出来るのだがアフリカの場合は鉱山開発と内陸国家が大半である為、利益供与(与えるべきアメ)を用意するまでに時間が掛かるのが問題であった。

 しかもアフリカの各国家が単一民族による自然発生国家では無く、アフリカを切り分けた先進国の都合によって生まれた多民族国家である為、国家内部での民族間の対立が多々発生しているのだ。

 治安を安定させるのは簡単では無く、逆に、民族派に火を点ける事が簡単すぎる場所であった。

 そんなブリテン連邦アフリカ諸国の隣国 ―― フランス領アフリカで、フランスの圧政を理由にした独立運動が、ドイツの支援によって多発しだしたのだ。

 ブリテンがドイツへの殺意を溜めるには十分な理由であった。

 同時に、フランスに対しても植民地へのガス抜きの必要性を提案した。

 

 

――フランス

 植民地経営としては各国を独立させるという意味で先に足を洗ったブリテンに対し、そもそもフランスは海外県としてフランスの一部へと取り込む形をしていた為、同じような手が使えないという状況があった。

 フランスにとってアフリカの植民地独立派は、言わばフランスからの分離独立派となるのだ。

 簡単に認める訳にはいかなかった。

 故にフランスはブリテン連邦の成立、ブリテン植民地(ドミニオン)の独立を忌々しい行為として見ていた。

 実際、フランス領アフリカ各地での独立運動は、ブリテン連邦の成立以降に数を増やしていた。

 在日英連邦大使館連合の対ブリテン独立運動を真似ていた為、非暴力であり、ある意味で対話主体であったのが幸いであったが。

 それ故にフランスは、フランス領アフリカの各地からフランス正規軍を抽出し、フランス領インドシナに派遣できたのだ。

 そこに、出元不明(ドイツ)の武器弾薬が流れ込み、武力による独立運動が続発するようになったのだ。

 フランスが激怒したのも当然であった。

 フランス政府内でのドイツへの敵愾心は燃え上がったが、フランス領インドシナで戦争が起きている今の段階で、ドイツと戦争を行う事は得策でないと自制していた。

 この自制によるストレスが、ある意味でアフリカやスペインでのドイツ人工作官へ向けられ、後の小説家が“陰の粛清(アンダー・バレット)”と呼ぶ、陰惨な戦いを生む理由となっていた。

 

 

――ドイツ

 ドイツのフランスのアフリカ植民地に対する工作は、投入される予算や人員に対して成功しているとはとても言えぬ状況であった。

 よく訓練されている工作官たちが捕殺されていく状況に、ドイツは頭を抱えていた。

 ドイツの、海外でも活動できる親衛隊の諜報工作員(スパイ)は極めて少数であり、この消耗戦を継続し続ける事は親衛隊と言う組織の崩壊に繋がりかねない危険性を孕んでいた。

 とは言え現状のドイツとフランスの関係であれば、フランスの植民地に着火し続けなければドイツは国家の存続が危ぶまれる ―― 鎮火と共にフランスが報復として戦争を仕掛けて来るのが明白である為、アフリカの民族派への支援を渋る訳には行かないのだ。

 ある意味で因果応報のドイツの苦境であった。

 何としてもフランスの手足を縛る、縛り続ける。

 その目的の為、当初は着火後は手を出す予定の無かったベトナム独立運動への支援をドイツは決断していた。

 チャイナのドイツ租借地である青島で武器を生産する事と成る。

 この事が、アメリカの耳目を集める事となる。

 

 

 

 

 

(※1)

 情報/諜報戦に於いて殺される人間は、基本的に自国民の内通者が主であった。

 相手国の工作員(スパイ)を殺害した場合、止め処が無い報復合戦へと発展する事がある為である。

 

 

 

 

 

 




2019/12/01 文章修正
2019/12/02 文章修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

070 日本連邦-1

+

 混迷を深めつつある世界にあって日本は、その世界戦略(ドクトリン)の策定 ―― 或は世界に対する日本の立ち位置を再定義する必要があると感じていた。

 圧倒的な国力に任せた場当たり的な対応、国際連盟と友邦国(G4)に任せた世界秩序の維持では無く、責任ある国家としての力の行使である。

 タイムスリップから15年が経過し、日本の国内状況の安定と好景気に支えられ、政府が長期政権となって余裕を持てた事が、この日本の再定義に繋がった。

 又、欧州に端を発して立ち上る戦雲を前に国内を引き締め、かかる戦乱に立ち向かえる準備を改めてしようと言う事となった。

 それは前年に行われたG4の連絡部会にて決定した将来に想定される対ドイツ戦役への備えを、日本連邦統合軍と言う部門にだけ限定するのではなく、国家としてどう立ち向かうのかと言う政治/戦略水準で考えようと言う発想であった。

 日本国会で喧々諤々の議論が繰り広げられ、拡大国家安全保障会議(NSC-U)では日本と各邦国の主要閣僚による日本の国家戦略に関する骨子の構築が話し合われる事と成る。

 

 

――シベリア共和国

 日本国及び日本連邦に参加する7ヵ国の経済共同体であり、互助を目的とする国家であると再定義された。

 この議論の中で対ソ連互助的な要素の強かったシベリア共和国は、同盟の延長線上としての帰属では無く日本連邦への国家統合に関し改めて国民投票を行う事と成る。

 とは言え、大きな混乱が起こる事は無かった。

 1つには隣国であり対立する敵 ―― ソ連がある以上は単独で国家の生存は困難であると言うシベリア共和国民の冷静な判断があった。

 それはシベリア共和国と言う国家の持つ性格でもあった。

 誰に、何処に帰属するかが問題では無い。

 ソ連の圧政から逃れ、人として生き続ける事が目的という、ある種の生存の為の互助会的な性格だ。

 であれば、圧倒的な国力を持つ日本連邦の庇護下に居続ける事に拒否は無かった。

 又、自由であり尊重されると言うものも大きかった。

 統治者としての日本は、シベリア共和国を植民地の様には扱わず、教育制度や統治システムを構築するにしてもロシア人の意見、風習、感情に出来るだけ配慮していた(※1)。

 その上で経済発展である。

 1936年の独立戦争終結後に行われた日本資本を中心とした投資は、シベリア共和国国民の生活水準を常に向上させる事に繋がった。

 寝ていても成果が得られる筈は無く勤勉である事は求められたが、努力に対する対価は常に約束されていた。

 その上で各種社会保障の充実に向けた努力も宣言されていた。

 全てが完璧な訳では無い。

 だが努力する事への成果は期待できる、未来を夢見る事の出来る国家へと育ちつつあった。

 この為、ソ連共産党出身者は日本こそが社会主義的国家ではないかと思う程であった。

 ソ連時代の弾圧を受けた記憶が濃厚であった事もあり、日本連邦への国家統合的参加に関する国民投票は可決される事となった。

 

 

――グアム共和国

 日本連邦に所属しながらもアメリカのグアムであり、その忠誠は米国に捧げられている特殊な国家としての位置づけに変化は無い。

 只、生活物資の大半が日本から輸入され、又、高学歴者の多くが日本に出稼ぎに行くようになっている為、生活スタイルに対する日本の影響は大きくなっていた。

 日本連邦の邦国として唯一、無条件での日本本土との人の流動が可能であると言うのが大きかった。

 日本連邦の中でグアム共和国は別格の地位にあると言える。

 又、グアム共和国軍(在日米軍)の高級将官は日本連邦統合軍幕僚本部に出向しており、日本への影響力も大きかった。

 この為、所属の定まらなかったタイムスリップ時点での日本滞在旅行者で英語を話せる者の多くがグアム共和国へ帰属する事となる。

 日本人でも米国文化に憧れた人間の流入があった。

 そして、アメリカの準州であると言う事から、アメリカからも少なからぬ人間の流入があった。

 これはグアム共和国軍の維持に向けた人員の融通と言う側面と同時に、米国の軍事技術と知見の吸収と言う狙いがあった。

 この為、グアム共和国は米国の文化を根幹に置きながらも、混沌とした国家へと成長していく事となる。

 

 

――台湾(タイワン)民国

 軽工業を主体とした日本企業の進出が行われており、その経済発展は目覚ましいものとなっていた。

 政治的に安定している台湾は、島国と言う事から大陸からの浸透などを警戒せずとも好い為、日本政府が企業の海外進出先として薦めていると言うのも大きかった。

 この事が、台湾民国の民意を益々もって日本側に引き寄せさせる事に繋がっていた。

 とは言え統治機構に関しては台湾での高等人材の教育が進んでいない為、未だ日本の支援に頼っている側面がある。

 

 

――朝鮮(コリア)共和国

 タイムスリップ以前の日本と大韓民国との問題に端を発した関係の問題に関しては、今だ尾を引いているというのが現実であった。

 日本企業の進出は余り進んではおらず、経済的には台湾(タイワン)民国の後塵を拝していた。

 だが、そうであるが故に朝鮮総督府時代からのコリアに居たジャパン人が日本との折衝を行い、半島北部での鉱山開発を根幹とした経済発展に努力していた。

 とは言え、大きな経済の柱は傭兵であり続けていた。

 アメリカの要請を受けてフロンティア共和国へと派遣している兵員は、年間で5万人を越えており、莫大な外貨を齎していた。

 又、日本とフロンティア共和国との間での貿易中継点としても活躍しだしていた。

 日本の了解の下でアメリカ企業も進出してきており、フロンティア共和国に最もアクセスし易い日本連邦領と言う面から、地道ながらも堅実に発展しつつあった。

 フロンティア共和国との経済的な結びつきが強い朝鮮(コリア)民国は、グアム共和国とは別の意味でアメリカの影響が強い国家であった。

 尚、教育に関しては、大韓民国での失敗を精緻に調査し、間違っても反日運動が起きぬ様に考えられた日本との統合を目指す方針が採られていた。

 この点に関して、北日本(ジャパン)邦国や台湾(タイワン)民国と強い共同歩調を採っていた。

 

 

――北日本(ジャパン)邦国

 日本人と似て非なるジャパン人と言う位置づけは、中々に難しい側面を抱えていた。

 基本的に日本帝國の末裔と言う意識が強く、尚武の気風がある。

 とは言え、意思疎通の簡便さがあって、日本企業の進出熱は高い。

 国土的には産業の育成が難しい場所である為、漁業が主体となっている。

 日本としては、ある意味で一番に経済発展に向けた協力を行っている邦国であるが、同時に日本帝国時代の文化も尊重する必要がある為、その政策に関しては難しい部分がある。

 この為、ジャパン人の若手人口の少なからぬ数が、経済活動に勢いのあるシベリア共和国に出稼ぎに出ていた。

 その上で、ロシア系日本人の嫁を見つけて帰国する例が多く、日本帝国の末裔であると同時に、日本より混血の進む国家に育ちつつあった。

 又、旧日本帝国軍人の多くは日本連邦統合軍 ―― 自衛隊へ参加する事となる。

 

 

――オホーツク共和国

 グアム共和国と並ぶ、タイムスリップ以前の国家 ―― ロシアの存在感を残す国家ではあったが、国家の維持に必要なインフラや物資を日本に頼る他ない為、国土の狭さもあって急速な日本化が進む国家であった。

 日本ソ連戦争によって旧ソ連軍人が一時期、大量に居たのだが、主要産業が漁業であった為、シベリア共和国が日本連邦に参加すると共に、海の苦手な者を中心に出稼ぎ、乃至は移住を行った。

 繁栄しているとは言い難いが、北樺太の油田によって安定して国家経営が出来ていた。

 ある意味で、邦国群の中で一番に呑気な立場の国家となっていた。

 

 

――南洋(ミクロネシア)邦国

 国家としての基盤の無い状態であった為、独立から10年以上も経過しても完全な自治は見えてこないのが実状であった。

 現地語での高等教育が困難であり、島々での文化の相違から日本語が完全に共通語として定着している。

 本来、日本としては日本本土から離れた南洋(ミクロネシア)邦国を維持する積りは余り無かった ―― 放棄するのも寝覚めが悪いと言う程度の意識で受け入れ、将来的な独立を目指した領域であったが、教育方面からの急速な日本化が進んでいる為、国民が自己を日本人として認識する様になっていた。

 主要な産業は観光と漁業、駐屯する日本連邦統合軍(※2)と言う有様で在り続けた。

 現在、本格的な宇宙開発拠点としての整備が検討されており、南洋(ミクロネシア)邦国としては新しい産業に繋がると賛成の方向で動いている。

 

 

 

 

 

(※1)

 シベリア共和国に対する日本の配慮は、日本がオホーツク共和国との関係で積み重ねた経験が元になっていた。

 無論、国家統合 ―― 日本連邦への完全な参加に伴う日本語教育や日本国憲法を前提とした人権教育 ―― 日本人化が要求され、実行される事とはなっているが、それも3世代50年程度の時間を見越した、時間を掛けたものとされた。

 

 

(※2)

 領海警備部隊が主であり、南洋方面での緊張が無い為に、大きな部隊が駐屯する事も無かった。

 とは言え港湾設備は十分なものが手配されており、官民の遠洋航海訓練の支援に使われたりしている。

 

 

 

 

 

 




2019/12/02 文章修正
2020/02/15 文章修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

071 日本連邦-2

+

 日本連邦統合軍と言う形が完成しつつある。

 国防の基本戦略としては、ソ連を主敵と定め、日本経済にとって活力の原動力であるシベリア共和国の防衛が主任務となる。

 その戦闘教義(ドクトリン)は、ネットワーク化された部隊による効率的な戦闘力発揮と、敵司令部の撃破による敵部隊の無力化であった。

 これは、数的な不利が予想されるソ連との戦争に於いて、その攻勢を如何に小規模な部隊で頓挫せしめるかが重視された結果である。

 問題は自衛隊と建軍されてまだ歴史の浅い邦国軍の練度の差であった。

 この為、シベリアのソ連と対峙する部隊の錬成は大急ぎで行われる事となった。

 尚、陸上部隊に於いては数的な不利を補う必要から戦車、装甲車、特科(野砲)などの重装備が重視された。

 

 

――日本連邦統合軍

 4つの総軍司令部の下で自衛隊と7つの邦国軍が統合運用される。

 航空部隊で対地攻撃を主任務とする部隊も、編入されている。

 防空を主任務とする部隊は、3個の防空方面隊に集約されている。

 海洋戦力は機動運用部隊と各総軍管理下の警備部隊に分かれて運用される。

 

 

>日本総軍(司令部/東京)

 日本列島防衛を担当する。

 又、他の部隊への予備隊的な役割も存在する。

 

>>北部方面隊(司令部:札幌)

 シベリア総軍及び北域方面隊の後方を担っている。

  第2機械化師団 (所属:日本/北海道)

  第7機甲師団  (所属:日本/北海道)

  第11自動化師団 (所属:日本/北海道)

 

>>東部方面隊(司令部:東京)

  東京の防衛、及び本州東部を担当する。

  第1師団    (所属:日本/東京)

  第6自動化師団 (所属:日本/東北)

  東部方面即応団 (所属:日本/北陸)

 

>>西部方面隊(司令部:大阪)

  関西以西の防衛を担当する。

  台湾及び朝鮮方面の後方を担っている。

  第3自動化師団 (所属:日本/関西)

  第4機械化師団 (所属:日本/九州)

  第8機械化師団 (所属:日本/九州)

  第15軽機動旅団 (所属:日本/沖縄)

  第1海兵旅団  (所属:日本/沖縄)

  西部方面即応団 (所属:日本/中部)

 

>>第1総隊(司令部:東京)

  予備的な部隊を総括する。

  又、災害時を含む非常時には、手薄となっている日本各地への部隊展開も担当する。

  第一空挺団   (所属:日本/関東)

  水陸機動団   (所属:日本/九州)

  第14軽機動旅団 (所属:日本/四国)

 

>>中央航空方面隊

  日本本土防空を統括する。

  第2航空団    (北海道)

  第6航空団    (関東)

  第9航空団    (九州)

  海洋航空団    (中国)

  第2戦略航空団  (沖縄)

 

>シベリア総軍

 シベリア共和国に駐屯し、対ソ連を前提として編成されている。

 各部隊の錬成が十分とは言えない為、高練度部隊のみが第1方面隊指揮下で前線に配置されている。

 第2方面隊は、治安維持と錬成が主任務となっている。

 

>>第1方面隊

  ソ連との正面に位置する部隊。

  第5機甲師団   (所属:日本/シベリア)

  第9機械化師団  (所属:日本/シベリア)

  第201機械化師団 (所属:朝鮮/シベリア)

  第205機械化師団 (所属:朝鮮/シベリア)

  第601機械化師団 (所属:オホーツク/シベリア)

  第703機動師団  (所属:シベリア/シベリア)

  第704機動師団  (所属:シベリア/シベリア)

  第705機動師団  (所属:シベリア/シベリア)

  第706機動師団  (所属:シベリア/シベリア)

  第103機甲旅団  (所属:北日本/シベリア)

  第二空挺団    (所属:日本/シベリア)

  第1ミサイル師団 (所属:日本/シベリア)

 

>>第2方面隊(司令部:)

  シベリア共和国東部域の治安維持を主任務とし、戦力の錬成に努めている。

  日本師団が所属する理由は、錬成途上のシベリア師団の教導任務の為である。

  第16機械化師団  (所属:日本/シベリア)

 第17機械化師団 (所属:日本/シベリア)

  第602機械化師団 (所属:オホーツク/シベリア)

  第701機械化師団 (所属:シベリア/シベリア)

  第702機械化師団 (所属:シベリア/シベリア)

  第708機動師団  (所属:シベリア/シベリア)

  第707自動化師団 (所属:シベリア/シベリア)

  第709自動化師団 (所属:シベリア/シベリア)

  第203機甲旅団  (所属:朝鮮/シベリア)

 

>>シベリア航空方面隊

 シベリアの防空任務を統括すると共に、ソ連に対する戦略爆撃部隊を整備している。

  第3航空団    (シベリア)

  第7航空団    (シベリア)

  第501航空団   (シベリア)

  第11戦術航空団  (シベリア)

  第1戦略航空団  (シベリア)

 

>遣欧総軍(司令部:クウェート)

 欧州方面に配置された部隊。

 

>>欧州方面隊(司令部:ロンドン)

  諸般の事情から欧州に派遣される事となった部隊。

 駐屯する各国で部隊の教導を行い、或はドイツとの戦争に備えている。

  第2海兵旅団   (所属:日本/ブリテン)

  第13機械化旅団  (所属:日本/イタリア)

  第19機械化旅団  (所属:日本/フランス)

  第666航空団   (ブリテン)

 

>>中東方面隊(司令部:クウェート)

  欧州方面隊の後詰めとしての役割が大きい。

  その役割故に輸送艦船が多く配置されている。

  第10機甲師団   (所属:日本/クウェート)

  第4航空団     (クウェート)

 

 

>連邦総軍

 各方面隊への後方支援を担当している。

 この為、本総軍司令部に指揮権は与えられておらず、各邦国の要請に応じた国防が主任務となる。

 

>>北域方面隊(司令部:豊原)

  北日本邦国及びオホーツク共和国の防衛を担当する。

  第101軽機動旅団 (所属:北日本/樺太)

  第102軽機動旅団 (所属:北日本/樺太)

  第603自動化師団 (所属:オホーツク/オホーツク)

 

>>台湾方面隊(司令部:タイペイ)

  台湾と上海防衛を担当する。

  第18機械化師団  (所属:日本/台湾)

  第301機械化師団 (所属:台湾/台湾)

  第303軽機動旅団 (所属:台湾/台湾)

  第304軽機動旅団 (所属:台湾/台湾)

  第302海兵旅団  (所属:台湾/上海)

  第2ミサイル師団 (所属:日本/台湾)

  第5航空団    (台湾)

  第12戦術航空団  (台湾)

 

>>朝鮮方面隊(司令部:ソウル)

  朝鮮半島の防衛と、有事におけるフロンティア共和国支援が含まれる。

  第202自動化師団 (所属:朝鮮/朝鮮)

  第204自動化師団 (所属:朝鮮/朝鮮)

  第8航空団    (朝鮮)

 

>>南洋方面隊(司令部:グアム)

 グアム及びミクロネシア方面の防衛を担当。

  第501機械化師団 (所属:グアム/グアム)

  第401警備旅団  (所属:南洋/南洋)

  第18航空団    (所属:グアム/グアム)

  第5空母航空団  (グアム)

 

 

――陸上戦力(主要部隊)

>機械化師団:11個

 戦闘部隊の基幹を成す部隊である。

 海外派遣されている部隊は、根拠地の部隊と連隊単位でローテーションされる。

 尚、第501師団は在日米軍海兵隊師団が前身で、独特の気風がある。

>>師団司令部

 普通科(機械化)連隊

 普通科(機械化)連隊

  普通科(機械化)連隊

 戦車連隊

  特科連隊

  高射連隊

  空中機動連隊(第501機械化師団のみ)

 対戦車大隊

  偵察大隊

 

>機甲師団:3個

 打撃戦力である事を期待される機甲打撃部隊。

>>師団司令部

 戦車連隊

 戦車連隊

 戦車連隊

 戦車連隊

 普通科(機械化)連隊

  偵察連隊

 装甲特科連隊

  装甲高射連隊

 

>自動化師団:10個

 災害対策も主任務に入っており、予備自衛官が多数在籍する。

 人員の錬成も担当しているが、主要部隊以外での人員充足率は低い。

 装輪装甲車が装備の主体であるが、16式機動戦闘車が配備されており火力は高い。

>>師団司令部

 普通科(自動化)連隊

 普通科(自動化)連隊

 普通科(自動化)連隊

  機動戦闘連隊

 即応機動大隊

 

>ミサイル師団

 地対地高速滑空ミサイルを装備する部隊。

>>師団司令部

 対地ミサイル連隊

 対地ミサイル連隊

 対地ミサイル連隊

 対艦ミサイル連隊(第2ミサイル師団のみ配置)

 対艦ミサイル連隊(第2ミサイル師団のみ配置)

 高射連隊

 

>機動師団:5個

 新編されたシベリア共和国部隊を、機械化/自動化するまでの暫定処置として編成している。

 安価な装甲化トラック等が機動手段となっている。

 急速な部隊拡大がある為、各種重装備は十分では無い。

>>師団司令部

  普通科連隊

  普通科連隊

  普通科連隊

  対戦車大隊

  高射大隊

  特科大隊

 

>機械化旅団:3個

 政治的要求から編成された部隊。

 対ドイツを前提として海外に駐屯し、教導隊的な任務も行う。

 第204旅団に関しては、予算の問題から師団化が出来なかった為、旅団となっている。

>>旅団司令部

 普通科(機械化)連隊

 普通科(機械化)連隊

 戦車大隊(第13旅団、第19旅団のみ配置)

 対戦車大隊(第204旅団のみ配置)

 偵察大隊

 特科大隊

 

>軽機動旅団:6個

 郷土防衛を主任務とする部隊であり、予備自衛官が多数在籍する。

 陸上自衛隊の部隊の人員充足率は極めて低い。

>>旅団司令部

  普通科(自動化)連隊

 普通科(自動化)連隊(第14旅団、第15旅団では未編制)

 即応機動大隊

 

>機甲旅団:2個

 小規模な打撃部隊であり、政治的理由から編制された側面が大きい。

>>旅団司令部

 戦車連隊

  普通科(機械化)大隊

  高射大隊

  偵察中隊

 

>海兵旅団:3個

  日本国籍を持たない日本連邦人自衛官が多数在籍する、海外展開部隊。

  ロシア系が多いが、アメリカ系や台湾朝鮮系の人間も結構在籍する。

  基本的に連隊指揮官以上の高級将校は自衛官が担っている。

  連邦軍の軍人にとって、地位上昇に於ける登竜門を兼ねている。

>>旅団司令部

 普通科(機械化歩兵)連隊

 普通科(機械化歩兵)連隊

 戦車大隊

 対戦車大隊

 偵察大隊

 特科大隊

 

>警備旅団:1個

  南方邦国部隊。

  各邦国が最低でも旅団規模である為、名前だけ拡大している。

>>旅団司令部

  警備隊(複数)

 

>空挺団:2個

 空挺降下作戦が可能な精鋭部隊。

 緊急展開部隊としての側面が強い。

>>団司令部

  普通科大隊

  普通科大隊

  空挺特科大隊

 

>水陸機動団:1個

 海兵旅団が海外展開部隊でしかないのに対し、純然たる両用戦部隊として編成されている。

 この為、特殊部隊的な性格を有する。

>>団司令部

 普通科(水陸機動)連隊

 普通科(水陸機動)連隊

 水陸機動戦闘上陸大隊

 水陸機動特科大隊

 水陸機動偵察中隊

 

>方面即応団

 日本本土各地での部隊の枯渇に伴って編成された災害支援向け部隊。

 失業対策の側面もあって編成されており、部隊の平均年齢は高く自衛官の練度は低い。

 駐屯地の保全なども担当する。

>>団司令部

 普通科(自動化)大隊

 普通科(自動化)大隊

 普通科(自動化)大隊

 

 

――航空戦力(主要部隊)

 航空部隊のパイロット育成に関しては、日本で一括して行われている。

 各航空基地の作戦指揮所はネットワーク化されており、機能を喪失しても別の場所が引き継ぐ事が可能となっている。

 飛行方面隊隷下の航空団は2乃至3個の飛行隊で編成されている。

 

 戦闘飛行隊

  制空任務部隊であり、主要装備はF-15とF-3となっている。

  運用コストの問題と性能差があり過ぎる為、主要配備先は日本本土が中心である。

 

 攻撃飛行隊

  対地攻撃任務部隊であり、主要装備はF-35AとF-5となっている。

  F-35Aは偵察任務を行う事が多い。

 

 前線飛行隊

  前線での戦闘任務を担当し、主要装備はF-5となっている。

  この他、F-6やF-7を装備し諸外国への教導任務も担当する。

 

 戦術飛行隊

  陸上部隊への継続的な支援を行う部隊であり、AP-3CやAC-2を装備する。

 

 戦略飛行隊

  戦略級爆撃を実行する部隊であり、B-1やB-2*1)、B-52を装備する。

 

 空母飛行隊

  艦載機部隊であり、主要装備はF-35BとF-8*2となっている。

 

 

―― 海上戦力(主要艦艇)

 基本的に海上自衛隊が戦力の根幹であり、邦国海軍は殆どが警備艇が主体となっている。

 タイムスリップ後に問題化したのはイージスシステムの保守点検の部品供給であった。

 この為、海上自衛隊/在日米軍第7艦隊はイージスシステム艦で艦齢の高い艦を予備艦に指定する事となる。

 

 

>航空機運用艦 7隻

 ニミッツ級航空母艦  (81,000t級原子力航空母艦(CVN))

  ロナルド・レーガン

 しょうかく型護衛艦  (68,000t級航空機搭載護衛艦(CV)

  しょうかく ずいかく

 いずも型護衛艦    (19,500t級多機能航空支援護衛艦(DDM)

  いずも  かが

 ひゅうが型護衛艦   (13,950t級ヘリコプター搭載護衛艦(DDH)

  ひゅうが いせ

 

>揚陸/輸送艦 7隻

 さつま型護衛艦            (31,000t級多機能輸送艦(LHA)

  さつま つがる

 ワスプ級強襲揚陸艦          (28,500t級強襲揚陸艦(LHD))

  ワスプ

 サン・アントニオ級ドック型輸送揚陸艦 (19,208t級ドック型輸送揚陸艦(LPD))

  グリーン・ベイ

 おおすみ型護衛艦           (8,900t級輸送艦(LST))

  おおすみ しもきた くにさき

 

>ミサイル護衛艦 7隻

 まや型護衛艦           (8,200t級イージスシステム護衛艦(DDG)

  まや   はぐろ

 あたご型護衛艦          (7,750t級イージスシステム護衛艦(DDG)

  あたご  あしがら

 アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦 (7,600t級ミサイル駆逐艦(DDG))

  ベンフォールド マッキャンベル マスティン ジョン・S・マケイン

 

>防空護衛艦 2隻

 やまと型護衛艦   (34,300t級防空護衛艦(BB))

  やまと むさし

 

>汎用護衛艦 23隻

 ゆきかぜ型護衛艦   (6,200t級汎用護衛艦(DD)*3

  ゆきかぜ はつかぜ フレッチャー

 あきづき型護衛艦   (5,100t級防空機能強化型護衛艦(DD)

  あきづき てるづき すずつき ふゆづき

 あさひ型護衛艦    (5,100t級対潜機能強化護衛艦(DD)

  あさひ  しらぬい

 たかなみ型汎用護衛艦 (4,650t級汎用護衛艦(DD)

  たかなみ おおなみ まきなみ さざなみ すずなみ

 むらさめ型護衛艦   (4,550t級汎用護衛艦(DD)

  むらさめ はるさめ ゆうだち きりさめ いなずま

  さみだれ いかづち あけぼの ありあけ

 

>多機能護衛艦

 あさかぜ型護衛艦   (3,900t級多機能護衛艦(FFM)) 

  あさかぜ はつしも やよい  きさらぎ しらつゆ  

  しらゆき まつかぜ かみかぜ はるかぜ しぐれ 

  あさつゆ はやて  おいて  ゆうなぎ ゆうぐれ

  ゆうだち みかづき のわき  うしお  ねのひ

  ひびき  しろたえ

 

 

 

 

*1

 B-1爆撃機とB-2爆撃機は日本製である。

 B-1爆撃機は、P-1を基に対潜装備を外し、爆弾倉を強化すると言う手堅い設計で素早い戦力化が図られている。

 B-2爆撃機は米国製B-52を手本(タイププレーン)全く新規(ゼロ・スタート)の爆撃機として開発された。

 当初はリフティングボディを採用した超音速爆撃機としての開発も検討されたのだが、検討段階で開発に足る技術蓄積が十分ではないと判明した為、その開発遅延のリスクが問題視される事となり、最終的に標準的なデザインの爆撃機として完成した。

 

 

*2

 F-5戦闘機の開発の際に提案されていた、多目的STOL機案を原案にした艦載戦闘機。

 30000t級航空護衛艦向けに開発された。

 基礎的な研究開発が行われており、更にはF-5向けに開発されてた諸技術が流用出来た為、早期の実用化が可能となっていた。

 

 

*3

 ゆきかぜ型護衛艦は、むらさめ型護衛艦とグアム共和国のアーレイ・バーク級駆逐艦の後継として開発された大型駆逐艦である。

 

 




2019/12/03 文章追加
2020/07/14 文章修正
2020/07/14 脚注追加


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

072 日本連邦-3

+

 経済力、軍事力のみならず国土の面でも世界的規模となった日本連邦。

 日本政府はそうであるが故に、己の行動に注意していた。

 その上で、世界に対して働きかけ(イニシアティブ)を行わねばならぬ事を理解していた。

 それは世界の流れの中で足掻く側から脱し、世界の流れを作る側(グレートゲーム・プレイヤー)に立たねばならぬと言う決意であった。

 米国の庇護下にあった日本から、多くの国と人とを庇護する日本へと変わったのだという。

 戦争の足音が聞こえるが故に、日本政府は改めて己を定めたのだ。

 最終的に、この決意は日本連邦の繁栄を願う総理大臣談話として発表される事となる。

 

 

――日本連邦の国家戦略

 1940年時点で日本経済は既に回復基調を越えた活力を得ていた。

 その経済の動力源、その最大のものはシベリア開発であった。

 豊富な地下資源や森林資源を持ち、それらを得るためのインフラ投資は日本国内企業の旺盛な生産力に応えていた。

 又、それ以外の邦国群の発展 ―― 国土開発も良好な影響を与えていた。

 円借款と政府開発援助(ODA)は、グアム共和国を除く全ての邦国にとって国家発展への慈雨となっていた。

 同時に、教育に関しても中等教育が熱心に推奨された。

 この教育のツール、或は教育に於ける道徳部分に日本的な内容 ―― 思想が加味されており、日章旗への敬意と、日本連邦に対する帰属意識を植え付ける様に計算されていた。

 これはグアム共和国(在日米軍)のアドバイスが大きかった。

 米国/アメリカと言う移民集団をまとめ上げる為に何が必要であるかとのアドバイスであった。

 50年後、全ての日本連邦邦国群の人々が、等しく我らは日本邦国人(・・・・・・・・)と認識する事を目指すのだ(※1)。

 日本は巨大な円経済圏が持つメリットを良く把握し、手放すつもりは無かった。

 安定した共存共栄の生存圏を維持する事こそが国家の発展と生存に寄与すると認識していた。

 

 

――周辺国家との関係

 民族自決と共に拡大主義を否定し、相互不干渉主義に基づいた応戦戦略(Tit for tat)を標榜する事と成る。

 日本と日本連邦、同盟などを締結した友好国家(G4)による経済関係の強さが、この主張を可能にしていた。

 それ故に、積極的な利益対立のある国家であるソ連とチャイナに対しては強い警戒を持って当たる事となった。

 ソ連に関しては、国境線を接している事による軍備的な側面が重視された(※2)。

 チャイナに対しては、中国が米国に行っていた浸透を受けない様にとの防諜的な側面が重視された。

 但しそれらは1国平和主義的なものではなく、多国家による共同防衛を指向していた。

 敵を孤立させる様に動き、自分は味方を常に増やしていく。

 ある意味でソ連とチャイナを日本は、永劫の敵と定めたのだった。

 そして味方、味方予備軍である周辺の国々に対しては良き隣人外交を行うように定めた。

 

 

――諸外国の植民地対策

 アジア・アフリカの欧州の植民地問題に対しては、日本は内政不干渉の原則に基づいて行動する事を宣言した。

 同時に、過度な人権侵害に繋がる場合には、提案(・・)を行う事も宣言した。

 民族自決と、支配国と植民地との間で人権の平等と尊重が望ましいが、武力による独立運動は一般の人々の平穏な生活と人権を大きく傷つける可能性が高い為、好ましからざると言う立場を宣言したものであった。

 この宣言内容にG4も、それ以外の植民地を抱えた欧州国家も安堵した。

 対してチャイナは、日本の帝国主義的な恥知らずの宣言であり、民族自決に基づくアジアの連帯 ―― 大アジア(グレート・アジア)主義に真っ向から挑戦する悪の宣言であると宣伝する事となる。

 日本とチャイナの政治的対立は深まる事と成った。

 それは或は、東アジアの政治体制 ―― 中華思想に基づくチャイナの中華秩序と、それを真っ向から否定し我が道を征く日本の対立でもあった。

 とは言え、現時点で日本とチャイナは国境線を接しては居ない為、火種に育つ訳では無かったが。

 

 

――外交/クウェート

 日本連邦統合軍が日本連邦外で最大の拠点を設けているのはブリテン連邦のクウェートであった。

 石油の輸入先であり、同時に欧州への軍の展開拠点として1個師団を基幹とする大規模な基地が造成されていた。

 重視されたのはクウェートとの友好関係である。

 地元にも利益が循環する構造を目指して、投資されており、クウェート人の日本連邦統合軍駐屯部隊に対する民意は良好であった。

 この為、反ブリテン武力蜂起が少なからず発生している中東のブリテン連邦参加国の中で、クウェートの治安は安定していた。

 

 

――外交/オランダ領インドシナ

 石油や生ゴムといった天然資源の産出地帯の為、日本政府はオランダ政府と交渉し物資の輸入と共に資源開発に進出していた。

 オランダとしても植民地の経済活動の活性化は歓迎できる為、日本企業の進出をある程度認めていた。

 只、摩擦が無い訳では無かった。

 進出してた日本企業が雇った現地スタッフで、オランダ人を現地住民より優先する姿勢を見せない事が軋轢を生んでいた。

 職歴や技能だけで優劣をつける日本企業の姿勢は、白人であり支配国の人間であるというオランダ人のプライドをいたく傷つけるものであったのだ。

 

 

――外交/オーストラリア

 天然資源の豊富なオーストラリアへの進出は、日本にとって重要であった。

 白豪主義を標榜するオーストラリアは、ブリテンと日本との間での協定に基づく頭越しに決められた日本企業の進出は、面白い物では無かったが、進出した日本企業の必要性に応じた日本によるオーストラリアのインフラに対する投資 ―― 積み出しに向けた港湾設備や、鉱山からのアクセス路の整備による経済効果は無視しきれるものでは無かった。

 その上で日本企業での雇用は、オーストラリア人の民意を変えた。

 又、インフラ整備に伴って、オーストラリア市場に日本製の工作機械や自動車などが流通する様になり、それらの物資によって生活の利便性が著しく向上した事も、オーストラリア人の日本人への感情が好転する切っ掛けとなった。

 その上で日本人は、民間交流を通じた娯楽面(ソフト・パワー)による親日本派オーストラリア人の育成も図っていた。

 パン()サーカス(娯楽)で、オーストラリア人を骨抜きにしようとしていたのだ。

 この為、何時しかオーストラリアは白豪主義を変更する事無く、だが日本人は非白人層とは別のカテゴリーに入れるという柔軟さを身に着けるのだった。

 

 

 

 

 

(※1)

 日本連邦人の創生を目的とする50年計画が立案されると共に、それまで連邦構成国でありながらも経済支援などは友好的中立国家(・・・・・・・)扱いの範疇に治まっていた朝鮮(コリア)共和国への扱いが変更される。

 インフラ整備や企業の進出などの制限が緩和された。

 この方針変更の背景には、朝鮮(コリア)共和国政府のコリア人の努力とジャパン人の支援の成果があった。

 未来の末裔が起こした事を良く認識し、その事を恨みこそすれど日本人を恨まぬ様にコリア人を統制してきた成果だ。

 ある意味で日本連邦成立からの10と余年で禊を済ませたのだ。

 尚、その禊の中には、朝鮮(コリア)共和国に渡って(日本から強制退去させられて)来た在日韓国人/朝鮮人の事もあった。

 大多数の人々は、ゆっくりと朝鮮(コリア)共和国に馴染んでいった。

 だが一部の、日本で蓄えた莫大な資産を持ち、その資産によって新生した朝鮮(コリア)共和国を自由に操ろうとした人々に対して朝鮮(コリア)共和国政府は一切の躊躇の無い弾圧を行った。

 様々な法律を駆使し、捕縛し、その資産を没収していったのだ。

 慌てた朝鮮人/韓国人は日本政府に対して日本国憲法に朝鮮(コリア)共和国が違反していると訴えたが、日本政府は朝鮮人/韓国人は日本人では無く日本国憲法に寄る保護対象では無いと却下した。

 その上で日本政府は、日本邦国の法律の独立性は、日本連邦への帰属と団結を阻害しない範疇に於いては保たれねばならぬと宣言した。

 即ち、日本連邦所属邦国は日本の植民地では無いと言う事である。

 最終的に、権力指向の強かった朝鮮人や韓国人は1930年代後半までには壊滅する事となる。

 

 

(※2)

 日本の対ソ連戦略もしっぺ返し戦略(TFT)に基づくものであったが、同時に、ソ連の崩壊 ―― 国家滅亡までは行わないものとされていた。

 これは、ソ連が崩壊しシベリア共和国が吸収した場合、新たなるロシア()の誕生に繋がるからである。

 日本は自ら育てた大地を、新たなる敵にする積りは無かった。

 この為、ソ連との戦争は国家の滅亡に直結しない国境紛争の範疇に留める積りであった。

 無論、その範疇には国境線部隊の後方、ソ連の製造業や資源地帯、物流網の粉砕は含まれて居たが。

 政治的制約の制限戦争(越南戦争)を日本は自分がする積りは無かった。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

073 アメリカの帝国主義-1

+

 G4体制が確立して以降の東アジア経営(フロンティア共和国)で利益を挙げて来たアメリカにとってドイツという国家は、小癪ではあるがそれ以上でもそれ以下でも無かった。

 G4の連絡部会でしきりにドイツに憤慨するフランスに対して、そこまで嫌うならばさっさと攻め滅ぼせば良いのにと思う程度であった。

 東アジア経営と日本との交易によって、その圧倒的な生産力を消費する事の出来ているアメリカは、経済的な活況が著しい為に旧大陸(ヨーロッパ)古い国家(・・・・)など相手にする必要が無かったのだ。

 又、景気の良さであればブリテンやフランスも同様であり、両国との交易も順調である為、猶更にドイツと関わる必要性が乏しかったのだ。

 その風向きが変わったのは、ドイツとチャイナの接近、そしてチャイナとフロンティア共和国の度重なる紛争であった。

 そして、アメリカの裏庭であるアメリカ大陸へドイツが手を伸ばした事が決定打となった。

 アメリカにとってドイツは脅威では無い。

 だが不快であった。

 アメリカの有権者、或は企業を経営する富裕層は、金儲けの邪魔をする国家への制裁を声高に主張する事と成る。

 民主主義国家アメリカは、国民の声を背に動き出す。

 

 

――対ベネズエラ

 手始めとしてアメリカはベネズエラに対し、ドイツとの関係を再考する様に促した。

 だがベネズエラ政府はこれを一顧だにせず拒否する。

 古くからベネズエラを含む中南米、南米諸国を見下してきたアメリカの態度への不満が爆発した格好であった。

 それどころか、アメリカへの意趣返しをするかの様に、ベネズエラ政府は新たにドイツとの交渉を始める事を公布する。

 ドイツ製兵器の更なる導入と、近代的な戦車(・・・・・・)の運用技術の獲得を目的としたドイツ人将校団の受け入れである。

 その上で、ドイツとコロンビアの関係を仲立ちしようとしていた。

 この動きにアメリカは激怒する。

 自国の裏庭に手を出したドイツに懲罰を与え、反アメリカの機運を醸し出したベネズエラも反省させねばならぬと決断した。

 その為の手段としてアメリカは、ベネズエラの反軍事政権派に対して加勢し、軍事クーデターによる政権転覆を狙う事となる。

 この時点でアメリカ軍内部には、グアム共和国(在日米軍)からの提案によって非公然任務向けの秘匿特殊作戦部隊(アンダーグラウンド・ユニット)(※1)が編制されつつあり、名誉を得る機会(サクセス)を窺っていたのだ。

 アメリカ政府は秘匿特殊作戦部隊に対し、ベネズエラの反軍事政権派の実行部隊の訓練を命じる事となる。

 そして作戦の際には、帯同し成功の一助となる様にも命じていた。

 

 

――対チャイナ/ドイツ

 一度、ドイツは鬱陶しいと思ったアメリカは、チャイナ国内で活動する事にも敵意を覚えた。

 この為、アメリカは比較的チャイナで自由に動く事の出来るフランス人を情報収集に使う事となる。

 アメリカと同じ言語を使うブリテンは、警戒される。

 チャイナに似ているコリアの傭兵達は、軍務は兎も角として情報収集には不安が残る。

 日本はチャイナに積極的に関わろうとは絶対にしない。

 現地チャイナ人は、信用できない。

 故に、第3者的なポジションを維持しているフランスが協力相手として選ばれたのだ。

 その対価として、アメリカはフランスに対する再度の自動車/トラック類(中古車)の提供を持ちかけた。

 対してフランスは要望された情報収集工作に、必要に応じた(・・・・・・)破壊工作をオプションとして付ける代わりに、2つの要求を出す。

 1つは、輸送力の問題で時間の掛かっているアフリカ駐留フランス軍のフランス領インドシナへの移送協力。

 もう1つは、フランス領インドシナに展開する部隊の休息先としてアメリカのフィリピン自治領の提供を要請した。

 アメリカは、その程度であればと快諾した。

 日本と並び世界第1級の海洋輸送力を誇るアメリカ海運業界にとって、フランス軍の移送程度は余裕であったし、アメリカの自治領であるフィリピンに関しても休息(バカンス)としての利用など全く問題で無かったからだ。

 これによってフランスは、チャイナにてアメリカの手先として動き出す。

 

 

――国際連盟

 跳梁するドイツを包囲し締め上げる為の手段として、アメリカは国際連盟への正式加盟を決定する。

 以前からオブザーバーとして参加はしていたが、正式加盟と共に常任理事国へ選出される事となる。

 アメリカの常任理事国入りに合わせて、理事会が改編される事と成る。

 拒否権を持った常任理事国4ヵ国と、イタリア、ドイツ、ブラジル、ソ連という地域強国から選出される非常任理事国から成る8ヵ国体制だ。

 尚、チャイナがアジアの代表であるからと常任理事国入りを声高に主張するも日本連邦(・・・・)が選出されている事を理由に一蹴されている。

 又、ドイツがスペインの選出を要望するが、此方も国力が理事国に相応しからざると一蹴されている。

 国際連盟は、日本などのG4を軸とした国家間の平和と利害調整を行う場として機能しており、そこに国家間は平等であるなどと言う理想主義の入り込む余地など存在しなかった。

 この点を指して、チャイナは帝国主義国家(ジャパン-アングロ)による密談の場(サロン)であると批判を強めていく事となる。

 正式に常任理事国となったアメリカは、即、理事会の開催を要求する。

 理事会でアメリカは、ドイツの不見識な国際的活動によって戦乱の芽が出ていると批判し、ドイツの国際社会での活動を監視し、必要があれば制限しなければならないと主張した。

 特に批判したのは、無差別に行われている武器の売却であった。

 当然ながらもブリテンとフランスは賛成に回る。

 これにドイツは大きく慌てる事と成る。

 アメリカの提案に常任理事国(日本、ブリテン、フランス)とその腰巾着(イタリア)が賛成に回り、風見鶏(ブラジル)は役に立たない。

 ソ連が好意的中立を保っているだけの苦境となった。

 とは言え、武器売却はドイツの貴重な外貨収入源であった為、素直には頷けない。

 国家の独立性その他の詭弁を用いてドイツはアメリカの主張に対峙していく事となる。

 

 

 

 

 

(※1)

 秘匿部隊である事から命名されておらず、その移動手段として用意された小型空母の名前からラングレー部隊と渾名されている。

 尚、空母が供されている理由は、本秘匿部隊が移動用に、在日米軍の技術支援を受けて開発した実用的なヘリコプターを装備している事が理由だった。

 日本以外では初となるヘリコプター展開部隊であるのだ。

 武装型と輸送型の併せて11機が配備されていた。

 非公然任務向けとして、海外での運用が予定されていると言うのも大きい。

 後の時代には、「急行せよ! 特殊作戦部隊ラングレー」としてTVドラマ化され人気を博す事となる。

 

 

(※2)

 フィリピンの独立運動は既に終息段階にあった。

 とは言え、アメリカへの反発は根強い為、ある程度の独自権限を持った自治州となっている。

 フィリピン経済は、作る農作物をほぼ全て買い取っていく日本と言う大市場(ブラックホール)によって盛況を呈していた。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

074 アメリカの帝国主義-2

+

 国際連盟に正式加盟したアメリカが最初に行ったのは国際的武器取引に関する制限条約の提案であった。

 具体的には、国際連盟安全保障理事会にて紛争当事国(・・・・・)と言う認定を行い、その紛争当事国に対して国際連盟加盟国の武器売却は制限されると言うものであった。

 又、これを実効性のあるモノとする為、安全保障理事会の下に紛争抑止小委員会を作り、世界中の武器取引の調査を行わせると言う事を併せて提案していた。

 アメリカの狙いは、先ずチャイナであった。

 軍閥が横行し治安も悪いチャイナは、国際連盟が初めて紛争当事国として定めるに相応しい ―― 安全保障理事会の場でアメリカは堂々と主張した。

 当然ながらもチャイナは烈火の如く怒った。

 安全保障理事会の選出国(メンバー)でないチャイナは、マスコミを介してアメリカに対して謂れなき侮辱であると主張し、撤回と謝罪を要求する事と成る。

 だがアメリカはその要求を拒否する。

 昨今の満州事件の原因も、嘗ての上海事件の原因も、チャイナ国内が軍閥の割拠による不安定状態である事が原因であると断じたのだ。

 過去10年、チャイナの大地から砲火の絶えた日は無かったと言うアメリカの主張は事実であった。

 その上でフランスも、アメリカに加担した。

 フランス領インドシナで跳梁するチャイナ人(義勇兵)の存在に苛立ちを覚えているからであった。

 そして義勇兵が持ち込んで来る兵器たちも脅威であったのだ。

 フランスは安全保障理事会の場で、チャイナへの武器の輸出入管理はチャイナの平穏のみならず周辺国にも平和を齎すだろうと演説を行った。

 慌てたのはチャイナと並んでドイツである。

 チャイナへの武器売却はドイツの輸出に大きな割合を占めており、それが止められるとドイツの外貨入手手段はかなり限られたものとなってしまうのだ。

 その上で、チャイナが国際的武器取引に関する制限条約の前例(・・)となれば、後は国際連盟安全保障理事会常任理事国(G4)がそれをどんなに恣意的に運用するか判ったものでは無いというのがドイツの考えであった。

 人も国も、自分が行うのと同じように他の人や国が行うと思う。

 ドイツにとって条約とは、己の都合が良い様に恣意的に運用し、或は都合よく破る対象であった(※1)。

 

 

――国際連盟安全保障理事会

 アメリカとフランスの提案に対してチャイナは、紛争当事国との指定と武器の売却制限は内政干渉であり、道理にもとる許されざる帝国主義的精神の発露であると主張した。

 その主張に、国際連盟加盟国でも一定の国は同意を示した。

 内政干渉への抵抗と言う言葉は、それなりの合理性はある主張であったからだ。

 とは言え、実際問題としてチャイナの大地が安定していると言うのは難しいのが現実であった。

 一応は国家としてチャイナ政府の下で纏まってはいるが、中央の軍は兎も角として地方の軍は独自の権利を少なからず持つ、事実上の軍閥状態であった。

 更にはチャイナ共産党の跳梁、チャイナ政府や外国人などを対象とした、目的を選ばぬテロ行為(※2)が横行しているのだ。

 チャイナ国内の治安は安定してはおらず、政府要人や外国人は護衛を付けねば安心して出歩けぬというのが実状であった。

 このチャイナの実情をアメリカは余すことなく国際連盟安全保障理事会で開陳した。

 その上で、周辺諸国 ―― 北はフロンティア共和国、東は日本連邦、南はインドシナ連邦に難民が流出しており、深刻な問題となっていた(※3)。

 尚、西に関しては近年になってチャイナから独立したばかりの東トルキスタン共和国(※4)が存在していたが、此方は流入するチャイナ人難民を一切認めておらず、国家への侵略行為の尖兵であるとして武力行使を辞さぬ態度を見せていた為、チャイナ人側も難民として渡ろうとはしていなかった。

 

 

――チャイナ

 真綿で首を絞められる様なアメリカの対チャイナ政策に、チャイナはなりふり構わぬ形で宣伝戦に出る事となる。

 アメリカ国内の新聞社に大金をばら撒き、アメリカとチャイナの友好を記事にする様に依頼したのだ。

 著名な文化人へも懐柔を試み、アジアの偉大なる文化国であるチャイナを蛮族の様に扱ってはならないと言う世論を作ろうとした(・・)

 当然ながらも失敗した。

 既にアメリカ国内の世論は反チャイナ(イエロー・パージ)に染まっているのだ、この状況下で新聞社や文化人が親チャイナの声を上げられる筈も無かった。

 それどころか、新聞社の一部はチャイナからの接触を公表し、チャイナの不当なる世論干渉と批判したのだ。

 アメリカ国内の世論は更に沸騰する事となる。

 

 

――国際連盟安全保障理事会

 チャイナの強硬な反対とドイツの頑固な抵抗により国際連盟安全保障理事会は、紛争処理に向けた調査委員会を設置して先ず調査を行う事を定めた。

 チャイナ国内の状況調査である。

 紛争国指定は内政干渉であり、独立国家としては断固として抵抗せざるを得ないと言うチャイナの主張は、国際連盟加盟国の間で軽く扱われる事はなかったのだ。

 かくしてチャイナやアメリカ、アメリカの友好国(G4)では無い第3国の人間を中心とした調査団が編成され、チャイナに派遣される事となる。

 団長は、非G4で親チャイナでは無いという事が重視され、イタリアから抜擢される事となる。

 

 

 

 

 

(※1)

 条約(ルール)の枠内で、手段を問わず最大限の利益を稼ごうとするのが日本。

 条約(ルール)が定まっても、都合が悪く成れば破棄に走るのがアメリカ。

 条約(ルール)を最大限自分に都合よく定めるが、遵守はするのがブリテン。

 条約(ルール)によって束縛されるのは、自分では無いと信じているのがフランス。

 

 

(※2)

 チャイナ共産党の目的は、当然ながらもチャイナに共産国家を樹立させる事である。

 その為にチャイナ政府の要人や機関へ攻撃を行っていた。

 又、外国人に関してはロシア系以外は全てチャイナを侵略する帝国主義者の先兵であるので、隙を見ては殺害を図っていた。

 チャイナ共産党の目的に賛同せず、協力しないチャイナ人はチャイナ政府の手先か、帝国主義的な外国に阿る売国奴であるので、根絶やしにせんばかりの勢いで殺害していた。

 

 

(※3)

 アメリカは、フロンティア共和国へのチャイナ人の流入を認めておらず、国境線に鉄条網を用意し、国境警備部隊を巡回させていた。

 国境警備部隊にはフロンティア共和国構成民族で最大規模となっているチャイナ人を用いる訳には行かぬ為、日本政府の了解の下、コリア系日本人による民間軍事企業(PMSC)を増強し投入する事となった。

 とは言え、国境線の全てに張り付けられる程の部隊を揃える事は人的にも予算的にも不可能である為、国境線 ―― 非武装地帯に空中哨戒機を常駐させて発見に努め、その上で国境警備部隊の機動投入で対処する形である。

 尚、難民の排除に関しては、国境警備(コリア系日本人)部隊に対して武器使用に関する大幅な裁量を与えて対応していた。

 そこに人道主義(ナイーブ・シンキング)は存在しておらず、生々しい現実だけがあった。

 アメリカにも人道主義者は存在していたが、既にアメリカ国内でのチャイナ人排斥運動が発生している状況下でチャイナ人の人権問題に声を上げられる者など存在しなかった。

 

 日本連邦への難民は、日本領先島諸島や台湾民国領へと船で渡ってくる人々であった。

 日本政府は人道的処置として保護し、その全てをチャイナから独立している自由都市上海へと送り付けていた。

 この日本政府の断固とした方針に対して中国系日本人や人権派弁護士が、チャイナ政府に罪はあってもチャイナ人には無い、日本は新しい同胞として受けいれる器量を見せるべきだ等と批判の声を上げたが、日本人の反応は捗々しくなかった。

 タイムスリップ前の対中感情の悪さを引き摺っていた事もあるが、タイムスリップ後に見た上海事件や満州事件でチャイナ人が見せた横暴さと横柄さに愛想が尽きたと言うのが大きい。

 その上でタイムスリップの結果として日本人に成れた、中国系以外の所謂新日本人(・・・・)達が、己の既得権を侵すであろうチャイナ系日本人と言う新人(ニューカマー)の受け入れに断固とした反対の声を上げたのだ。

 建前として、チャイナ政府はチャイナは安定していると主張しているにも関わらずチャイナ人難民を受け入れる事はチャイナへの内政干渉であるとか、そもそも現状として日本は移住/移民を受け入れていないにも関わらずチャイナ人を難民として受け入れた場合には世界中から難民を自称する人間が大挙して押し寄せて来る危険性があるとか、様々な主張が行われた。

 結果、日本政府は初期の予定通りの上海市移送を継続する事となる。

 

 インドシナ連邦に関しては、フランス政府として取り締まりを行いたいのが本音であったが、既にフランス領インドシナとチャイナの国境地帯は独立派の活動地帯であり、難民の取り締まりやチャイナへの移送などが出来ない状況に陥っていた。

 とは言え、難民のチャイナ人が定着できるかと言えばそうでは無く、水資源や生活物資の面で先住のフランス領インドシナ(ベトナム)人と取り合い状態に陥っており、チャイナ人難民対先住民(ベトナム人)との間で武力衝突が起きる有様であった。

 この事は統治する側のフランスにとって大問題であったが、同時に、ベトナム独立派にとってもチャイナとの協力関係がある為に頭の痛い問題となっていた。

 このチャイナ人難民を大アジア主義によるベトナム独立への義勇兵と割り切り受け入れるには、避難民たちは老人や女子供が多すぎていた。

 

 

(※4)

 東トルキスタン共和国は、チャイナの国力を削ると言う意味でアメリカと日本の独立に関する支援を受けていた。

 とは言え、直接的な陸上の国境を接しない日本にとってチャイナの脅威は限定的である。

 にも関わらず、熱心に行われた日本の支援は、日本国内の新疆(ウイグル)系日本人による悲痛な嘆願が背景にあった。

 将来の民族浄化と言う悲劇の回避を願われれば、日本政府として動かない訳には行かなかったのだ。

 

 

 

 

 

 




2020/02/17 文章修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

A.D.1941
075 アメリカの帝国主義-3


+

 チャイナを狙い撃ちにした紛争国への武器輸出制限に関して筋道が見えてくると、次にアメリカは軍事政権国家に対する武器の輸出制限を国際連盟安全保障理事会に提案した。

 無論、その標的はドイツとの急接近を図っているベネズエラだ。

 アメリカは、ドイツがアメリカ大陸に手を出す事を許す積りは無かった。

 躊躇の無い力の行使。

 それを、正義(・・)として行うのだ。

 建前として、ベネズエラの軍事政権による一般市民への圧政を阻止すると言うものであった。

 軍事政権が行っている政策と行動を、圧政と見える様に針小棒大に脚色した報告書をいつも国際連盟安全保障理事会に提出する。

 それは情報戦であり、宣伝戦でもあった。

 グアム共和国(在日米軍)の手ほどきを受けて行われたソレは、国際連盟に加盟する国々の世論に大きな影響を与える事となる。

 それは人権意識であった。

 人が人として普遍的に得られるべき権利の保護。

 その目的の為、人道に基づき人を傷付ける武器の商業的な管理を行おうと言うアメリカの示した建前は、武器を商う国家以外にとってとても耳に心地良く響いたのだ。

 甘美な正義の響きである為、裕福な先進国の有権者たちが主導する国際世論は正義の名に酔う事となる。

 国際世論に推される形で、国際連盟の安全保障理事会はアメリカの意図通りに動く事となる(※3)。

 

 

――ベネズエラ

 軍事政権は、その国家の体面としてアメリカによる過度な干渉に対して大きく反発する事となる。

 だが同時にベネズエラ国内では反軍事政権派が、国外からの助力を基に軍事政権への対決姿勢を強めた。

 反軍事政権派は、軍事政権とドイツの接近がベネズエラに更なる軍事的な圧政を齎すと危惧していた為、アメリカの干渉は千載一遇のチャンスであると認識していた。

 この為、反軍事政権派はアメリカに接触し、協力を申し出る事となる。

 如何にベネズエラの軍事政権による圧政が過酷であるかを、ベネズエラ人の口から語ってみせたのだ。

 国際世論もだが、ベネズエラの国内世論も軍事政権に対して厳しい目を向ける事となる。

 これに軍事政権は大いに慌てる。

 慌てた結果、最悪の選択を行ってしまう。

 批判に対して弾圧を行えば、益々もって世論の風向きは悪化する ―― そう冷静に判断する事の出来ない人間が軍事政権の中枢に居たのだ。

 短絡的と言っていい判断で、ベネズエラ国内に報道管制を敷くと共に国家非常事態を宣言、軍部隊を街路に立たせて国内世論の引き締めを図ったのだ。

 その上で、国内のアメリカ人などの拘束を図った。

 最悪の選択であった。

 

 

――関係諸国の反応

 ベネズエラの軍事政権の選択に対し、アメリカは米大陸の正義を担うモノとしての行動を開始した。

 ベネズエラに対して遺憾の意を表明すると共に、不測の事態に備える為としてアメリカ大西洋艦隊から空母を基幹とした任務部隊をカリブ海に派遣する事を宣言したのだ。

 併せて、海兵隊の緊急展開部隊1個旅団に渡洋準備を命令した。

 判りやすい威圧であった。

 このアメリカの行動に慌てたのはドイツである。

 ドイツから見てアメリカの行動は、最早、ベネズエラの軍事政権打倒へ向けた準備行動に見えていた。

 ベネズエラはドイツにとって重要な石油の輸出元であり、軍需物資の輸出先なのだ。

 何としてもそれだけは阻止せねばならなかった。

 アメリカを牽制する為、ドイツは乏しい重油をやり繰りして戦艦と空母を含む大規模な艦隊をベネズエラに派遣する事を決定した。

 これは、最悪の場合でもドイツがベネズエラに派遣していた各タンカーの護衛とし、ドイツへと原油を満載にして無事に帰還させる為の戦力であった。

 戦艦ビスマルクと共に派遣する、就役したての空母グラーフ・ツェッペリンがあればアメリカもそこまで無法な事は出来ないだろうと言うのがドイツの判断であった(※1)。

 アメリカとドイツが空母と戦艦を含む大規模な戦力をカリブ海に派遣する事に、心穏やかで居られなかった国家がある。

 ブリテンだ。

 ベネズエラの隣国はブリテン連邦のガイアナであり、ガイアナ政府はブリテンに対し、ベネズエラで軍事衝突が発生した場合に備えた戦力の派遣を要請したのだ。

 又、ブリテン連邦に属する国々がカリブ海周辺に存在する事も、ブリテン連邦の盟主であるブリテンに、この状況を座視すると言う選択肢を与えなかった。

 ブリテンは、アメリカと連絡と連携をしつつ、此方も空母と戦艦を含む戦隊をカリブ海へと派遣する事となった。

 アメリカ、ブリテン、ドイツの海洋戦力がカリブ海で睨み合いをする事となる。

 

 

――ベネズエラ軍事クーデター

 ドイツの加勢があるとは言え、列強の上位存在であるG4の2ヵ国の戦力に睨まれる事となったベネズエラ軍事政権は慌てる事と成る。

 如何に穏便に事態を終息させるか。

 発端となったのがベネズエラ国内のアメリカ人の拘束である為、軍事政権内の穏健派は即時解放を行うべしと主張したが、これに強硬派が乗る事は無かった。

 ベネズエラという国の面子が掛かっているのだ。

 ここで列強、G4を相手にするとは言え、容易に引き下がっては更なる内政干渉を受けるだろうと主張していた。

 ある意味で正論であった。

 この為、ベネズエラは国際連盟の場にてアメリカとブリテンの非道を非難し(※2)、不当な内政干渉を即座に中止する様に要求した。

 国際連盟の総会は、ベネズエラの主張を一蹴した。

 アメリカが展開しているのは公海上であり、その要求は不当な拘束を受けている(アメリカ)国民保護である為、内政干渉では無いと言うのだ。

 国際連盟常任理事国の貫目 ―― 或は日本がタイムスリップ後に作り上げられてきたG4の主導権(イニシアティブ)は、国際連盟を発足当時の烏合の衆の如き何も決められない組織から、実際的な利害調整と危機対応組織へと変貌させていた。

 国際連盟は綺麗事を盾にした中小国家の泣き言を相手にする事は無いのだ。

 国際連盟安全保障理事会は、ベネズエラに対してアメリカ国民の即時解放と共に、ベネズエラ国内での国民に対する弾圧の停止を要請(・・)する事となる。

 完全にベネズエラの面子を潰す要請に、ベネズエラ軍事政権の強硬派は沸騰する事となる。

 国際連盟をG4による帝国主義の徒と呼び、断固とした対峙を主張する。

 対して穏健派は、国際連盟の安全保障理事会にて将来的な経済封鎖を含めた実力行使が話し合われていると言う事実を前に、妥協する事(・・・・・)を決定した。

 強硬派の排除 ―― 軍事クーデターだ。

 穏健派はアメリカと密かに連絡を取り、穏健派による一定期間のベネズエラ統治の継続と共に、将来的な民主選挙の実施を約束する事で協力を取り付ける事に成功した。

 アメリカとしては、中南米からのドイツ勢力を一掃できさえすれば良かったので、軍事政権の継続も民主主義化も、そこまで重要視する事では無かった。

 

 

――対峙

 軍事クーデターは、アメリカと軍事政権穏健派の交渉が成立後、即座に行われた。

 強硬派が何らかの行動を起こす前にケリを付けると言う算段であった。

 この為、穏健派はアメリカの軍事支援を要請した。

 アメリカは大西洋艦隊から空母を更に2隻派遣し、この要請に応じた。

 その上でアメリカはブリテンに対し、ドイツ艦隊の牽制を要請した。

 共に戦艦と空母を1隻づつ保有する戦力であった為、睨みあいをする事で膠着状態を作り出しやすかったのだ。

 ドイツは増勢されたアメリカ艦隊に気を配りつつ、ドイツ艦隊の傍で演習するブリテンの戦隊と対峙する事を強いられる事となる。

 この為、軍事クーデターに積極的に対応する時間を奪われた。

 気付いた時には、穏健派による政権奪取が終わっている有様であった。

 ドイツの面目を保たんと、グラーフ・ツェッペリンはベネズエラの首都、カラカスの上空に情報収集を目的と称して艦載機を飛ばそうとするも、ブリテンの艦載機が邪魔をして、示威行動を十分に果たす事は出来なかった。

 だが同時に、アメリカが3隻集中投入した空母の破壊力 ―― カラカスの強硬派軍部隊が簡単に掃討される様を間近に見て、空母の重要性を再認識する事とはなった。

 ドイツ艦隊はアメリカ海軍空母部隊の情報を手土産に、ドイツのタンカー船団を守りつつドイツへの帰路に就いた。

 

 

 

 

 

(※1)

 ドイツ初の正規空母として就役したグラーフ・ツェッペリンであったが、その戦闘力はヒトラーなどのドイツ政権中枢の人々が思う程に強力な訳では無かった。

 アメリカの艦載機は、既に2000馬力級のエンジンを搭載したものが主力となっており、対してドイツは1000馬力級である。

 しかも、ドイツの航空機開発と製造の軸足がジェットエンジン搭載機の開発と製造に移っている為に1000馬力級の艦載機の製造は満足に行われておらず、今回のカリブ海派遣でも定数一杯に艦載機を搭載出来ていなかった。

 一応、1500馬力級空冷エンジン機の新規開発をドイツ海軍としても行ってはいたが、試作機の飛行が始まったばかりであり、主力になってはいなかった。

 尚、今回のカリブ海派遣には、その試作機2機がグラーフ・ツェッペリンに搭載され、持ち込まれていた。

 ドイツ海軍は、今回の派遣で戦闘が発生する危険性は乏しいと判断していた。

 

 

(※2)

 自衛の範囲で動いていたブリテンが非難されるのは、日ごろの行いと言うべきであった。

 日本とフランスはブリテンを同情の目で見て、ドイツとソ連は猜疑の目で見ていた。

 

 

(※3)

 国際連盟加盟国が(ドイツなどから見て)安易に国際連盟安全保障理事会でアメリカを支持したのは、人道人権の言葉で国民が酔っていたと言う事と同時に、アメリカの目的が国際連盟の各加盟国の政府にとってそこまで刺激的では無い事も理由であった。

 独立した国家の内政に干渉するのでは無く、純然たる武器管理 ―― 国家の外側から、国民を弾圧する道具を無責任に供給する行為を止めようと言うだけなのだ。

 国民に圧政を行っている国家か或は軍事独裁政権の国家でも無ければ、国民世論に迎合し、その支持を集めたいと言う気分(スケベ心)が出るのも当然であった。

 

 

 

 

 




2020/01/07 文章修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

076 アメリカの帝国主義-4

+

 ベネズエラの軍事クーデターに纏わる経緯をドイツから入手したチャイナは、アメリカに恐怖した。

 思いだしたのだ。

 G4を筆頭とした列強の持つ傲慢さと狂暴さを。

 理屈を超えて振り回されるソレ(・・)に国家を寸断され、蹂躙されて来た過去と現在を思いだしたのだ。

 

 

――チャイナとドイツ

 ドイツに対して更なる軍備の売却を要請しようとするが、困難な問題に直面する事となる。

 財政 ―― 財源だ。

 打ち続く戦乱によりチャイナの経済は堅調な成長を行えない状態が続いており、税収は常に下降傾向にあった。

 この為、通常の予算で対価を用意するのが困難になりつつあったのだ。

 チャイナ政府は国家防衛の為であるとして重税を課してはいたのだが、それでも追いつかなくなっていたのだ。

 資源や権益での支払いは、チャイナ国内で価値のあるめぼしいモノが少なくなっており難しい。

 軍備向けの国債を発行すると言う選択肢もあったが、そもそも纏まった規模の国債購入が可能な裕福国がアメリカを筆頭としたG4陣営とその影響下にある為、全く期待できない。

 八方塞となったチャイナ政府は、禁断の資源に手を出す事となる。

 人間(・・)だ。

 労働人口の不足しているドイツに対し、チャイナ人を提供しようと言うのだ。

 この提案にドイツは最初は困惑し、そして最後に歓喜した。

 ドイツはユダヤ人の追放と再軍備を行って以降、慢性的に労働力の不足に苦しんでいたのだから。

 ドイツ政府は、このチャイナ人労働者を管理(※1)し、ドイツ国内の企業に斡旋する事で対価を得る事となる。

 事実上の奴隷貿易の復活であった。

 

 

――国際連盟安全保障理事会

 イタリア人調査団が、チャイナでの状況をつぶさに調査した内容を纏め、報告書として安全保障理事会に提出した。

 その内容は概ね、アメリカの主張を肯定するものであった。

 イタリア人の目から見てチャイナの現状は、治安は麻の如く乱れ、各地で馬賊が跳梁していた。

 地方の軍は軍閥と化しており、チャイナ政府の統治は届いていない。

 チャイナ人の一般大衆は戦乱に喘いでいる ―― 報告書はそう纏められていた。

 この報告書を確認したチャイナは帝国主義国家(ジャパン・アングロ)による謀略であると声高に主張した。

 とは言え、国際連盟の安全保障理事会には参加が許されなかった為、主張したのは国際連盟総会であったが。

 だが総会に於ける反応は芳しく無かった。

 世界経済に於いて過半数どころでは無い経済規模を誇る強者連合(G4)に、敵対してもいないのに面と向かって批判できる国家などある筈も無いのだから。

 安全保障理事会ではドイツがチャイナへの弁護を行っていたが、その主張はチャイナの主張をまる飲みした無理筋のモノであった為、ドイツの友邦であるソ連以外の安全保障理事会参加国 ―― イタリアやブラジルの賛同を得る事は出来なかった。

 アメリカはドイツの非理論的な主張を無視し、報告書を基に粛々と議事を進行させてチャイナを紛争当事国に認定する様に安全保障理事会の議長に要求する。

 議長(国)であるフランスは、これを嬉々として受け入れてチャイナの紛争国認定に関する決議を行った。

 議決は賛成6、反対1、棄権1、と言う結果となった。

 反対票を投じたのはドイツであったが、拒否権を持たぬ非常任理事国である為、その意味は無かった。

 この結果にチャイナは激怒し、国際連盟の脱退を宣言する事となる。

 

 

――ドイツ

 安全保障理事会にて行われたチャイナの紛争国認定と、それに伴った武器売却の制限は国際連盟加盟国であるドイツを縛る事と成った。

 とは言えチャイナはドイツに対して契約/支払い済みの軍備の引き渡しを強く要求した。

 ドイツ側としても製造済みのチャイナ向け軍備の代金を得る事は重要であった。

 又、チャイナが約束した魅力的な対価 ―― 労働力の提供も、早期の取得をドイツ産業界がドイツ政府に対して要求していた。

 この状況に苦慮したドイツ政府は、最終的な決断を下した。

 ドイツの国際連盟脱退である。

 ドイツ代表は国際連盟総会の場にて、痛烈に覇権主義国家集団(ジャパン・アングロ)を批判し、民族自決の誇りの為に脱退すると宣言した(※2)。

 

 

――アメリカ

 チャイナの紛争国認定が、チャイナとドイツの国際連盟脱退によって事実上無効化された事に関して、アメリカは余り気にしていなかった。

 チャイナを締め上げる事が直接出来なくは成ったが、であれば間接的に絞り上げれば良いからだ。

 反対勢力の消滅した安全保障理事会にて、チャイナへの武器流入を阻止する為に、チャイナへの武器供給国への経済制裁を提唱する。

 この提案に対して反対したのはソ連だけであった。

 国際連盟加盟国に対して自制を要求するのではなく、非国際連盟加盟国への干渉を行う議決を行う事は国際連盟加盟国を安全保障理事会の徒として帝国主義的に運用する行為であると言うのが、その主張内容であった。

 対してアメリカは、チャイナ国内で活動する国際連盟加盟国国民の安全確保とチャイナ周辺の国際連盟加盟国への難民の流出を阻止する事が目的であり、これは国際連盟加盟国の共通利益であると主張したのだ。

 とは言えソ連の主張にも見るべき点があった為、ブラジルが安全保障理事会ではなく国際連盟総会で決議を行う事を提案した。

 安全保障理事会は国際連盟加盟国の為の組織である。

 その上の行動として、国際連盟が非国際連盟加盟国に対し行動するのであれば国際連盟総会が相応しいと言うのが主張であった。

 ブラジルの思わぬ主張ではあったが、アメリカはそれを受け入れた。

 G4の連絡会に於いて日本、ブリテン、フランスの支持を取り付けている為、国際連盟総会に於いても否決される事は無いと言うのがアメリカの票読みであったのだから。

 国際連盟総会は初めての議題 ―― 非加盟国への強制力を伴った議決に紛糾した。

 異を唱える意見の多くは、国際連盟の強権発動は慎重であるべきと言う内容であった。

 とは言え、強くアメリカへ反対の声を上げうる国家が居る筈も無く、議論は3日で終息し議決となる。

 議決は、国際連盟加盟国の過半数がアメリカの主張に賛同し、ここに国際連盟史上初の非国際連盟加盟国への制裁が行われる事が決定した。

 この議決によって、国際連盟は連盟加盟国間の利害調整と安全保障のみならず世界への干渉 ―― 平和と人権に基づく行動を行う組織へと変貌する事となった(※3)。

 

 

 

 

 

(※1)

 ドイツ国内にチャイナ人が生活する共同生活施設(コンツェントラツィオンス・ラーガー)が設けられる事となり、仕事に行く際の管理は治安維持に力を振るう必要性もあってドイツ保安警察が担当した。

 ドイツに渡ったチャイナ人は、3食と週末の休暇こそ与えられたが、過酷な労働と給与も娯楽も無い生活を強いられる事となった。

 ドイツに派遣された(売られた)チャイナ人は、故郷へ戻れる事だけを夢見て働いた。

 とは言え、無事に帰郷出来たのは半数にも満たなかった。

 食事は3食提供されるとは言え粗末なモノである為、栄養失調で倒れる者も多かった。

 過酷な待遇故に共同生活施設や労働現場で脱走を図るチャイナ人も少なからず居たが、成功をする事は先ず無かった。

 脱走出来たとしても、この頃のドイツでアジア(チャイナ)人は目立つ為、ドイツ保安警察によって簡単に捕縛、射殺される事が多かった。

 又、奇跡的にドイツ保安警察に発見されなくても、ドイツ人の日本への反発と憎悪のはけ口として消費(・・)されると言う末路があった。

 この他にも様々な過酷な出来事がドイツに渡ったチャイナ人の身に降りかかった。

 この為、後の時代に人権問題となってチャイナとドイツの関係に禍根を残す事となる。

 

 尚、この事を世界(G4)は重視しなかった。

 人権意識と言う意味では先進的である筈の日本も。

 一部の人権団体が非難声明を発表するが、日本政府が動く事は無かった。

 日本政府にとってチャイナ人の人権問題よりも、日本と日本連邦の繁栄こそが重要であり、それ以外の問題に首を突っ込む(世界の警察を気取る)予算も動機も無いのだから。

 

 

(※2)

 尚、日本ではドイツ人による自殺的ジョークだと理解された。

 人権弾圧国家がチャイナ人の人権を口にした時点で失笑ものである、と。

 但し、日本の政府関係者は戦争の足音が近くなった事を理解した。

 

 

(※3)

 非G4派国際連盟加盟国の筆頭にあったソ連は、国際連盟総会での議決に恐怖した。

 G4の絶大な影響力と国力は、世界の敵を作り出せる(・・・・・)のだと。

 ソ連はドイツとチャイナの行動の是非を冷静に分析し、アメリカの行動も止む無しと認識はしたが、それでも目の前で世界の敵を定めると言う行為には恐怖を感じるしか無かった。

 今現在のソ連の国力はG4の最下位国であるフランスの足元にも及ばず、更にはシベリア共和国の分離独立もあって経済の発展も良好とは言い難かった。

 この状況で積極的なG4との対立を選択するほどにスターリンも呑気では無かった。

 ソ連外交部に対し、G4とは消極的中立関係を維持する様に指示を出す事となる。

 その夜、スターリンは痛飲した。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

077 ジェット戦闘機時代の幕開け-1

+

 日本と言う存在が加速させたジェットエンジン航空機の開発競争は、1941年が到達点となった。

 アメリカ、ブリテン、フランス、ドイツ、ソ連、そして日本が開発したジェットエンジン機が空を飛ぶ事となる。

 第1世代型戦闘機の誕生である。

 各国が華々しく宣伝したジェット戦闘機群であるが、同時に日本の戦闘機群が提示した戦闘機の未来図を理解した国は、第2世代型戦闘機へのステップアップも見据えており、技術開発の勢いは加速する事となる。

 

 

――アメリカ

 元々の高い工業力とグアム共和国(在日米軍)からの技術指導と技術資料、そして実機(F-18)を持っている事は、アメリカのジェットエンジン機開発に長足の進歩を与えた。

 その進歩を以ってアメリカは国内企業複数にジェットエンジンの開発と、戦闘機と爆撃機の試作を命じた。

 平時の予算規模とは思えぬお大尽な予算措置であり、野党からの批判を受ける事となったが、アメリカ政府はここが投資のしどころであると判断し、断固とした態度で予算を通したのだ(※1)。

 重視されたのは、軽量単発エンジン機による迎撃機と大陸横断爆撃機の開発であった。

 想定される主戦場は約束の地(フロンティア共和国)、支那大陸だ。

 敵はドイツ製戦闘機 ―― 今後、彼らが開発するであろうジェット戦闘機群だ。

 数社によるコンペ後、主力機として採用されたのは後退翼を持った単発機であった。

 レーダーと連動する火器管制システムを搭載し、整備性にも配慮され、空力的にも洗練された機体であったが、唯一、難航したのは機関砲の選択であった。

 既存の機体に採用されていた12.7㎜は、今後は非力となる事が予想された為、20㎜機関砲の新規開発が行われる事となった。

 問題は、先進的な技術を好むアメリカ空軍高級将校の一部から、将来的には高い誘導能力を持ったミサイルが搭載される事になるので、わざわざに20㎜機関砲を開発するのは無駄では無いのかとの声が上がった事である。

 ある意味でミサイル万能論であった。

 この議論を知ったグアム共和国(在日米軍)は慌てて議論に介入する。

 ミサイルの将来的な能力と現時点での能力との差、将来的な高い命中率を持ったミサイルを実用化するまでに掛かる時間など、様々な情報を持って議論に参加した。

 最終的に、20㎜機関砲の新規開発が決定される。

 尚、議論を決定づけた最大のものは、参考資料として提示された日本が生産している最新鋭の空対空ミサイルの値段であった。

 使い道の無いお守り(・・・)等とも揶揄され、毎年の予算折衝で日本財務省と防衛総省との間で生産の中断が検討される超高額なアクティブレーダー誘導型の長距離空対空ミサイル1発の値段は、下手な戦艦よりも高額であったのだ。

 時代遅れになる事が確実な20㎜機関砲を新規開発するよりも、いっそ日本製のミサイルを輸入すれば良いと威勢よく叫んでいたアメリカ空軍高級将校も、その値段を知った瞬間「キガクルットル(ホーリ・シット)」と絶句していた(※3)。

 このミサイルを日本は3桁を軽く超える規模で備蓄しているのだと言う。

 尚、議論の場に参加していた財務省官僚はひきつけを起こした様に、首を左右に振っていた。

 アメリカは、ミサイルに関してアメリカ経済の発達と共に進歩させ、自前で開発製造して行く事を強い意思で決定した。

 

 

――ブリテン

 英国の凋落(English disease)という未来図から逃げる為、なりふり構わぬ政策 ―― 日本へと全力で接近して国内重軽工業を近代化(建てなお)させる為の投資や技術導入を図り、植民地は政治的独立を許しつつも経済圏への残留を強いた上でブリテン経済の養分(市場)とした結果、ブリテン経済はWWⅠ以前の輝きを取り戻しつつあった。

 その輝きの結実として、ブリテンは独自設計による双発双胴型とデルタ翼型の2種類の大型戦闘機を開発する事に成功した。

 イギリス空軍としては先行する日本を倣った通常型の戦闘機開発をメーカーに要求したのだが、メーカー側が独自設計に拘って抵抗した為、最終的に要求性能が発揮出来るならば(・・・・・・・・・・・・・)認めると言う形に落ち着いたのだった。

 完成した2種類の機体は、高い出力を誇るエンジンのお蔭で要求性能を満たしていた為、ブリテン空軍と海軍はそれぞれ発注を行った。

 特徴としては、レーダーによる全天候型の性能を持っている事であった。

 この点に於いてブリテンのレーダー技術はアメリカの先を行っていた。

 尚、後にブリテンのレーダー技術の先進性に目を付けたアメリカが、ブリテンに対してレーダーとミサイルの共同開発を持ちかける事となる。

 これは、レーダーにせよミサイルにせよ、最終的には単独での開発も製造も困難になると言う史実(・・)を知ったアメリカが、であれば友好国(G4)との間であれば技術開発と生産の効率化を図る事も良いのではないかと判断した結果であった。

 ブリテンは、アメリカの提案に乗る形で新型レーダーと空対空ミサイルの共同開発に乗り出す事となる。

 

 

――フランス

 ジェット機開発に注力したいフランスであったが、その開発はフランスが思う程に進捗する事はなかった。

 問題は技術であり予算であった。

 1930年代初頭からの戦車開発競争は、陸軍国にしてドイツと国境を接するフランスにとって他のG4よりも優先順位の高いものであった為、航空機開発予算が低調であった。

 そこに止めを刺したのが、フランス領インドシナで勃発した植民地紛争(独立運動)である。

 平時体制のままであったフランス予算の余力を、恐ろしい勢いで飲み込んで行ったのだ。

 これでは技術開発に回せる予算など残る筈も無かった。

 又、1938年より続いたフランスの政治的混乱、“平穏の為の平和の否定”(レッド・パージ)も問題であった。

 政治情勢の混乱と小規模ながらも国内で頻発した騒動(流血沙汰)が、メーカーから腰を据えた技術開発の余裕を奪っていたのだ。

 この為、本格的なジェット戦闘機開発競争が始まった時点で、アメリカやブリテンは勿論、ドイツやソ連と比べても遅れを取っていた。

 機体設計に関しては問題が少なかったが、ジェットエンジンの開発に関しては、致命的に遅れていた。

 フランスは、素直に日本に泣き付いた。

 推力50KN級のジェットエンジンの共同開発(・・・・)乃至は売却を要請したのだ。

 当然ながらも日本は技術開発と言う名の技術供与に関しては拒否し(※2)、売却に関する検討を行った。

 問題は、日本側が持っているジェットエンジンは高性能であると同時に、性能相応の値段であると言う事であった。

 この為、日本製ジェットエンジンの導入を断念する事となる。

 代替として、フランスは空母技術の開発で協力したアメリカからジェットエンジンを購入する事となった。

 尚、このジェットエンジン購入契約の際にフランスは、現金の他にアフリカでの鉱山採掘権などを用意する事で、ジェットエンジンのライセンス生産権を獲得し、これがフランス製ジェットエンジンの根幹となった。

 ジェットエンジンを得た事でフランスのジェット戦闘機開発は本格化した。

 とは言え、諸外国に遅れ気味であった為に割り切った開発となった。

 アメリカとブリテンの機体が開発着手時からレーダーを装備した全天候型として設計されていたのに対し、フランスはレーダーを装備しない機体として設計される事としたのだ。

 戦闘機向けのレーダー開発で遅れを取っていたと言うのも事実であるが、同時に、この新しいジェット戦闘機が戦う(でなければ戦えぬ)場はフランス本土(対ドイツ戦)である為、地上側にレーダー網を設置し、誘導すれば当座は機載レーダーは不要であると割り切ったのだ。

 この割り切りが、本格的な開発着手が遅かったにも関わらず、フランス初のジェット戦闘機開発がG4他諸国に遅れずに済んだ理由であった。

 

 

――イタリア

 列強の一角としての矜持から、ジェット戦闘機開発自体は行っていたものの、実用的なジェットエンジンの開発が難航した為、ブリテンからのエンジンの輸入を行った。

 ブリテンのアメリカへの対抗心 ―― フランスがアメリカ製エンジンを導入した事を煽って得た契約であった。

 但し、此方はフランスとは異なり、完成品の完全な輸入であった。

 しかもエンジンの売買契約は、ブリテン製のジェット戦闘機導入を行う対価としての性格 ―― 予備エンジンの購入数を増やしたものでった。

 ムッソリーニはイタリアの工業力の限界を良く理解しており、ジェット戦闘機を必要数製造する事は難しいと割り切っていたのだ。

 とは言え国の威信の為、イタリア製ジェット戦闘機の開発は続行された。

 後発として第1世代戦闘機としては最後に空へと飛び立つ機体となったが、先行するアメリカやフランスの設計から多大な影響を受け、高い完成度を誇るジェット戦闘機として世に出る事となる。

 

 

――ドイツ/ソ連

 ソ連との共同開発とは、即ち、ソ連が有していた希少鉱物資源を利用したジェットエンジンの開発であった。

 この為、ドイツが設計したジェットエンジンの信頼性は向上し、連続稼働時間も延長していった。

 だが、推力に関してはアメリカ製やブリテン製に匹敵する水準に到達する事は出来ずにいた。

 機体に関してはF-3の欧州展開以前に基礎設計が終わっていた為、先進的なデザインを採用する事無く両翼吊り下げ式のデザインを採用していた。

 ドイツ空軍としても、諸外国が開発中のジェット戦闘機の情報は得ていた為、自らが開発中の機体が登場すると同時に旧式化するリスクを理解していた。

 だが、ここで設計を改めていてはG4諸国の後塵を拝する事が予想された為、先ずはドイツはG4(ジャパン・アングロ)に劣るものでは無いと宣伝する為の機体であると割り切って、開発を進めたのだった。

 このお蔭で、日本の技術的影響を受けていないドイツ製ジェット戦闘機の開発もG4に遅れる事なく進捗し、1941年にお披露目の日を迎える事が出来た。

 この機体はドイツとソ連の共同開発の成果であると宣伝され、両国で量産された。

 だがエンジン推力に比べて機体が大きく重かった為、G4諸国のジェット戦闘機との交戦は荷が重く(※4)、その主たる役割は対地攻撃となる事が想定されていた。

 この為、最初のジェット戦闘機に続く防空向けの迎撃戦闘機の開発が至上命題として出される事となる。

 手元にあるジェットエンジンが非力であるならば、機体を小型化すれば良いと判断し、近距離防空用軽量単発迎撃機の開発が行われた。

 此方は、並行して行われていたジェットエンジンの改良 ―― 出力向上に成功した事もあって、G4諸国の主力ジェット戦闘機に抵抗できる能力を得る事に成功していた。

 

 

――日本

 日本は、列強諸国のジェット戦闘機開発競争をわき目に見ながら呑気に構えていた。

 質的な主力であるF-3戦闘機は性能面で隔絶しており、数的な主力であるターボプロップ機のF-5戦闘機は性能的には劣勢となる可能性があるが、主装備(ミサイル)を長射程なものへ換装すれば問題は無いと考えていたのだ。

 そこに要求(クレーム)を突きつけた邦国があった。

 シベリア共和国である。

 シベリア共和国政府は、対峙するソ連がジェット戦闘機を押し立てて来るのに日本連邦がプロペラ機では国の威信が問われ国民は不安を感じると日本連邦議会の場で主張したのだ。

 これにグアム共和国(在日米軍)も賛同する事となる。

 此方は、自前で装備していた米国製航空機の運用維持費が負担となってきた為、運用コストが掛からない防空戦闘機を求めたのだった(※5)。

 両邦国の要求に日本の衆参両院でも議論が発生し、最終的には航空機開発技術の維持を兼ねた日本連邦統合軍(邦国)向けの軽量戦闘機開発計画が立案される事となる。

 重視されたのは単価ではなくライフサイクルコスト、運用基盤の貧弱な場所でも運用できる整備性、そして将来発展性であった。

 性能そのものよりも、運用が重視された戦闘機であった。

 この為、整備性と武器の搭載の簡便さから低翼機となり、エンジンは単発 ―― XF5を基に、多少の性能低下は目を瞑って低価格化したものが採用されていた。

 F-9戦闘機として完成する事となる。

 尚、そのデザインは、グアム共和国(在日米軍)高級将校が「J・タイガー」と漏らす程には米国製F-5戦闘機と似ていた(※6)。

 

 

 

 

 

(※1)

 1941年に戦闘機の技術開発を統合し、促進する為にアメリカはアメリカ空軍の創設を決定する。

 又、海軍艦載機向けの技術開発の統合と技術共有も積極的に行われる事が定められる。

 

 

(※2)

 エンジン技術の供与拒否は、エンジンというものが設計のみならず素材精製その他、多岐に亘る技術の集大成である為、安易な供与が大きな問題を呼ぶ可能性が高いと言うのが理由であった。

 又、フランスという国は将来的に無思慮な武器売却を行うリスク ―― 商売敵となる可能性がある為、躊躇されていた。

 何より、G4の連絡部会に於いて、アメリカとブリテンの連名で抗議が為されたと言うのが大きい。

 世界のパワーバランスを取る為にも、技術の共同開発を行うのであればG4の4ヵ国で行われるべきであるとの主張である。

 日本としても技術の共同開発 ―― 技術開発を睨んでの、共同研究の解放を検討していた為、最終的には4カ国による技術共同開発の第1号として、ジェットエンジンに関わる基礎研究が行われる事と成った。

 

 

(※3)

 このミサイル1発の値段が戦艦並と言う数字は、インフレによる値段の高騰と言う背景(カラクリ)があった。

 1ジャパン円≠1日本円であると言う部分を無視した、グアム共和国(在日米軍)からの参加者と反ミサイル万能論者が結託して出した、暴投の様な数字であった。

 だが、議論の場でその事が気付かれる事は無かった。

 

 

(※4)

 ジェット戦闘機の開発にしのぎを削った国々は、それぞれマスコミに自らが開発中のジェット戦闘機の性能を概略とは言え公表して居た為、ドイツは自分が将来対峙する相手を知る(絶望する)事が出来ていた。

 

 

(※5)

 グアム共和国に戦闘機が必要な外敵は存在しているとは言い難かったが、在日米軍 ―― 米軍の末裔として、戦闘機の保有は維持しておきたいと言うのが、ある意味で気分(・・)であったのだ。

 

 

(※6)

 の呟きが元となり更には訛り、グアム共和国(在日米軍)でのF-9戦闘機の愛称(ペットネーム)守護騎士(ジェダイ)となるのだった。

 尚、F-9の航空自衛隊内での呼び名は9の番号からナイン、或はカットラスとなっていた。

 

 

 

 

 

 




2020/01/23 文章修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

078 ジェット戦闘機時代の幕開け-2

+

 列強の間で出そろった第1世代型ジェット戦闘機。

 その衝撃は、列強以外の国家にも大きな影響を与える事となる。

 

 

――チャイナ

 アメリカは正式採用したばかりの新鋭ジェット戦闘機 ―― 空軍建軍後第1号にして命名則変更後初の機体である事からF-1戦闘機と命名された機体、先行量産型を主戦場と想定しているフロンティア共和国に持ち込んだ。

 アメリカを守る剣、セイバーという愛称(ペットネーム)を付けられたF-1戦闘機は、フロンティア共和国の地で広く公開され、チャイナ人にも大きな衝撃を与える事となった(※1)。

 従来とは全く異なるデザイン、展示飛行で見せた俊敏さと速度は、従来のレシプロ戦闘機を時代遅れにするものであった。

 更には度々にチャイナの領空、国境線から50㎞付近までの空にF-1戦闘機を国際連盟の監視機の護衛(・・)名目で飛行させ、示威を行っていた。

 無論、チャイナとしても攻撃は出来ないにしても国家の威信を賭けて迎撃(スクランブル・エスコート)を図るのだが、ドイツから導入しライセンス生産を行ったチャイナ製1000馬力級のレシプロ戦闘機では高度10,000m以上を悠々と飛ぶF-1戦闘機を妨害するどころか接近する事すらも難しい有様であった。

 稀に、低空を飛んでいる機体があっても、此方は速度差でどうにもできなかった。

 この事がチャイナ人を打ちのめした。

 何故なら、この時に使用されたのはFC-1戦闘機、チャイナが自国生産した最新鋭機であったからだ。

 ドイツからライセンス生産権を得た機体を原型に、チャイナの手で新鋭ドイツ製1000馬力級水冷エンジンへの乗せ換えを行い、1940年後半から生産を始めたばかりの機体だったのだ。

 だが、希望の星は堕ちた。

 世代の差は残酷な現実をチャイナに突きつける事となった。

 とは言え、手間暇金を掛け、量産にこぎつけたばかりの新鋭機が、即座に役立たずとなった等と言う話は、簡単には受け入れがたかった。

 この為、迎撃(スクランブル)の方法が失敗したのかと、様々な戦法を考えて実行した。

 だがそれらは、尽く失敗していく事となる。

 最終的に、失敗が2桁に達したころにチャイナはレシプロ戦闘機ではジェット戦闘機に対抗できないと言う現実を認めた。

 認めると同時に、慌ててドイツに泣き付いた。

 チャイナにもジェット戦闘機を売ってくれと、世界に冠たる(・・・・・・)とドイツの宣伝する新鋭機を売ってくれと。

 泣き付かれたドイツだが、簡単に売れるタマが無かった。

 実用化されたばかりのMe262戦闘機にせよ新規開発中の機体にせよ、ドイツとソ連が共同で開発しているものであり、各種権利は2カ国で平等に折半されていたのだ。

 そしてソ連は、現チャイナ政府に見切りを付けていた為、技術漏えいの危険性を建前にして、チャイナへの売却を拒否したのだ。

 この為、ドイツはチャイナにジェット戦闘機を売れなくなった。

 だがチャイナは諦めなかった。

 新鋭機も開発中の機体も2カ国共同開発であって売れないのであれば、チャイナが独自にドイツの航空機メーカーにすれば良いだろうと開き直ったのだ。

 チャイナ外交代表はドイツ政府とドイツ空軍省を熱心に口説き、最終的に、チャイナ向けジェット戦闘機の開発が認められる事となる。

 メーカーは、チャイナに齎されたFC-1戦闘機の原型機を開発した会社であった。

 開発計画名は抵抗戦闘機(ヴィーダシュタント・イエーガー)帝国主義国家群(ジャパン・アングロ)からの侵略に対抗する為の戦闘機なれとの願いが込められた命名であった。

 要求されたのはジェット戦闘機である事、出来るだけ早く実用化出来る事、出来るだけ安価である事、チャイナでエンジン以外は製造ができる程に単純な設計である事とされた。

 この過酷と言って良い要求に、メーカーは全力で応えた。

 チャイナの金で生み出される機体は、エンジン以外はチャイナでライセンス生産する事が決まっていた。

 だが機体の権利はドイツのメーカーが保有するので、ドイツや他の国で採用されればそのまま利益となるのだ。

 メーカーも本気になると言うものであった。

 ドイツとソ連によるジェット戦闘機の共同研究と開発計画への参加が認められていなかった同社であったが、幸運な事に社内計画として軽ジェット戦闘機の開発研究を行っていた為、計画の開始と共に開発はスムーズに進む事となる。

 生産効率を最優先として、主翼も含めて直線主体となった無骨なデザインは、ドイツとソ連が開発した機体とは全く異なっていた。

 だが最大の特徴はエンジンの配置にあった。

 単発のエンジンを背負い式に配置したのだ。

 これは、将来でのエンジン換装による高性能化を見越したデザインであった。

 抵抗戦闘機(ヴィーダシュタント・イエーガー)は生産性と整備性と共に、発展余裕を与えられた戦闘機として生み出される事となった。

 更には、開発着手から4ヶ月で試作機が空を飛んだ。

 チャイナ政府は大喜びで、本戦闘機をFJ-2戦闘機と命名し採用する事となる。

 又、FJ-2戦闘機の試作機を確認したドイツも、開発の難航しているソ連との共同開発中であった単発軽量戦闘機の補助戦力として、FJ-2戦闘機をHe500の名前で採用する事となった。

 

 

――ポーランド

 ドイツとソ連によるジェット戦闘機実用化によって、航空戦力に於いて劣勢に陥る事が明確となった現状に、ポーランド政府は大きく慌てる事となった。

 とは言え、ポーランド国内にはジェットエンジンの技術どころかイタリアの様に戦闘機開発を試みれる様なメーカーは無い為、ジェット戦闘機を生産する国家から導入する事となる。

 この時点で輸出する余力のある列強は日本、アメリカ、ブリテンであった。

 とは言え、技術的な意味で最有力候補の日本製F-9戦闘機は性能相応の値段もさる事ながら、日本自らの需要 ―― 邦国向けの生産が始まったばかりであり、ポーランドが運用出来る様に調整(デチューン)した機体が用意される事を期待する事は不可能であった(※2)。

 次に購入が検討されたのは、アメリカ製F-1戦闘機かブリテン製ハンター戦闘機(※3)だった。

 だがそこに思いがけない国家、スウェーデンからの提案が来た。

 SAAB 29戦闘機だ。

 イタリアと同じようにジェットエンジンは自国生産ではなくブリテンからの輸入に頼る戦闘機である。

 全体としてアメリカ製F-1戦闘機に似た外観をしているが、太く、どことなくユーモラスなデザインをしていた。

 とは言え、SAAB 29戦闘機はまだ完成してはいなかった。

 エンジンの供給を国外に頼っていた関係上、どうしても列強クラスの国家には遅れてしまうのだ。

 だが、だからこそスウェーデンはポーランドに提案をしたのだ。

 一緒にSAAB 29戦闘機を開発しようと。

 ポーランドの要求を入れた戦闘機に仕上げます、と。

 それはポーランドの自尊心に響く、中々に魅力的な提案であった。

 だが、開発に要求される予算が大きかった為、ポーランドは別の国にも声を掛ける事となる。

 フィンランドだ。

 ワルシャワ反共協定の同盟国であり、ポーランド同様に自国での戦闘機開発能力を持たないフィンランドに、一緒に戦闘機を開発しないかと提案したのだ。

 その提案にフィンランドも乗った。

 最終的に3ヵ国の要求を組み入れて開発される事となったSAAB 29戦闘機は、汎欧州戦闘機と言う計画名が付く事となった。

 尚、3ヵ国の要求は、それぞれ方向性が異なる部分があり、それらを1つの機体にまとめ上げる事に時間が掛かる事となった。

 だが破綻する事無く、スウェーデンは戦闘機開発経験の無い2国を巧みに説得し完成させた。

 

 

 

 

 

(※1)

 日本が運用する先進的ジェット戦闘機群は、日本がチャイナと国境を接して居ない事もあって、余りチャイナ人の耳目を集めていなかった為、このアメリカ製F-1戦闘機がチャイナ人の知る初めてのジェット戦闘機となったのだ。

 1932年の上海事件で日本もジェット戦闘機などを投入しては居たが、視認しにくい高度からの誘導爆弾攻撃が主体であった為に目立っていなかったのだ。

 そして何より、日本戦車が発揮してみせた圧倒的な力に目がいっていたのだ。

 

 

(※2)

 実際、駄目で元々とポーランドが日本にF-9の売却を要請した所、現時点ではポーランドが要求する期日に満足な数を供給する事は困難であるとの回答であった。

 F-9戦闘機は、シベリア共和国やグアム共和国のみならず、経済力のある台湾(タイワン)民国やオホーツク共和国が導入を希望していたのだ。

 日本国内での生産余力は限界に達しつつあった。

 この為、日本はF-3戦闘機などの重要航空機以外の生産を、今後の輸出も睨んで人件費が安く、日本語教育がいきわたっている北日本(ジャパン)邦国で行う事を検討する様になる。

 これは主要産業の乏しい北日本(ジャパン)邦国への経済支援と言う側面もあった。

 

 

(※3)

 ブリテン製の3番目に開発されたジェット戦闘機。

 オーソドックスなデザインで作られた本機は、単座の輸出用の機体でもあった。

 これはフランスのミステールⅡ戦闘機を手本として、簡素なレーダーを選択する事によって全天候性の能力を削る代わりに、値段と運用コストを下げたのだ。

 運用インフラの乏しいブリテン連邦の中進国での運用が念頭にあった為である。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

079 ジェット戦闘機時代の幕開け-3

+

 国家の威信を賭けたジェット戦闘機開発。

 だがそこに、国家ならざるモノ ―― 企業が加わっていた。

 その名はエンタープライズ、グアム共和国の建国後、グアム共和国政府と民間出資者とで資本を用意した半官半民の企業である。

 その設立目的は観光以外の産業の少ないグアム島で産業を興し、10万を超える国民に仕事を与える事であった。

 エンタープライズ社がジェット戦闘機の開発に乗り出したのは、ベンチャー的な理由では無く、より切実な理由があった。

 ジェット戦闘機の開発に着手した時点でエンタープライズ社も既に設立から10年を経過し、それなりの成功を収めては居た。

 だがそれは漁業や農業などでしかなかった。

 その立地条件や歴史的背景その他から見て当然であるが、グアム共和国としては、それを簡単に受け入れて先端企業の存在を諦める訳には行かなかったのだ。

 例え、贅沢と言われても。

 何故なら、グアム共和国内には、少なからぬ日本とグアム共和国の大学などで教育された高等教育人材が居た。

 だがその使い道(・・・)が無い為、常に高度な教育を受けた若い人達は日本へと流出し続けていたのだ。

 グアム共和国は日本の邦国の中で一番、高齢化が進んでいたのだ。

 無論、今はまだそこまで問題になってはいないが、早晩問題化するのは明らかであった。

 だからこそ、ジェット戦闘機の開発と製造なのだ。

 エンタープライズ社は日本政府と日本防衛総省と折衝を重ね、細心の注意を払って日本の軍需産業と商品が重ならない様に配慮し、同時に日本の軍需企業と連携した開発に着手する事となる。

 軽ジェット戦闘攻撃機、開発計画である。

 日本政府としても、グアム共和国の人口と経済が健全さを保つ事は重大な関心事であった為、その支援は惜しみなく行われる事となった。

 軍需企業側としても積極的に協力しやすい状況であった。

 エンタープライズ社は資本規模や地場であるグアム島の敷地的な問題からも全てを内製化する事は不可能であり、設計と組み立てこそ出来ても日本の軍需企業の下請け(コンポーネントの製造)に頼らざるを得ないのだ。

 であればお得意先(Win-Winの関係)に成れる、そういう計算であった。

 実際、この最初の軽ジェット戦闘攻撃機(LJFA)計画に着手すると同時にエンタープライズ社が行ったのが、諸元計画値に基づいて各軍需企業から購入する技術の策定であったと言う辺り、お察しであった。

 とは言え、枯れた技術をかき集めて生み出される事と成るLJFA-01は軽量な攻撃機的な要素の強い戦闘機とされていたが、それは日本とグアム共和国(在日米軍)との間での認識でしかなかった。

 計画の時点で推力22kNを2発持ち、最大速力は第2世代戦闘機に準ずるマッハ0.9級と言う、第1世代戦闘機を配備し始めたばかりの国家にとっては、立派な重戦闘機であった。

 

 

――フランス

 輸出を前提とした新ジェット戦闘機、LJFA-01戦闘機の計画が公表された途端、何時もの病気(・・・・・・)を発症した。

 日本に対して売却を要請したのだ。

 日本は今回、フランスにグアム共和国(在日米軍)を介してエンタープライズ社を紹介し、自らは支援(ケツ持ち)に徹した。

 フランスとエンタープライズ社の交渉は、交渉の場に臨席していた日本政府関係者が後に同僚に「タヌキとキツネの化かし合いの如し」と感想を述べていた。

 ウーラガン戦闘機を実用化出来たとは言え対ドイツ戦争を睨んで使える戦闘機なら幾らでも欲しいフランスと、グアム共和国の為に何としても売りたいエンタープライズ社。

 ある意味で合意点は簡単に見えそうであるが、そうでは無かった。

 単純に買いたいと売りたいという話だけでは無く、技術を含めて欲しがるフランスに対し、技術の提供は絶対に許さない(許されない) ―― 日本の軍需企業の技術は勿論であるが、自社で独自に育てている設計その他の技術も提供する訳には行かないと言うのがエンタープライズ社の立場であったからだ。

 正しく、魑魅魍魎の綱引きであった。

 最終的にフランスはエンタープライズ社に折れ、技術提供は無し(※1)とし、同時に当初は予定して居なかった開発資金への協力を行い、その対価としての優先提供権を得る事となった。

 エンタープライズ社がCGで見せたLJFA-01戦闘機は、フランスの目にそれ程に魅力的に見えたのだ。

 

 

――ポーランド

 SAAB 29戦闘機の導入を決定しているとは言え、ポーランドの目にもLJFA-01戦闘機は魅力的に見えていた。

 エンタープライズ社が公開し、フランス経由でLJFA-01戦闘機の詳細を得たポーランドは、未来的な日本連邦製(・・・・・)を持つ夢を見た側面があった。

 だが現実的な必要性もあった。

 まだ完成していないSAAB 29戦闘機の保険として確保したいと言う事と、大多数の第1世代戦闘機よりも高い諸元を誇りつつ攻撃機としての側面 ―― 下手な爆撃機並みの3t近い爆弾搭載力を持つ事が、ポーランド陸軍に実に魅力的に見えていたのだ。

 ドイツとソ連に挟まれたポーランドは陸上戦力に於いて常に劣勢を強いられていた。

 この状況を打破し得るのが航空機 ―― 攻撃機であると言う認識があった。

 だが、攻撃機を運用するには戦闘機で航空優勢を握らねばならない。

 航空優勢を握る為の戦闘機を揃えた上で十分な数の爆撃機を揃える事は、ポーランドの予算では厳しい。

 だからこそ(・・・・・)、LJFA-01戦闘機なのだ。

 戦闘機として航空優勢確保に働き、確保後には地上部隊を溶かす為に使える戦闘機。

 SAAB 29戦闘機に比べて割高ではあったが、取得する価値はあると言うのが、ポーランド陸軍の計算であった。

 この為、ポーランドはワルシャワ反共協定の同盟国であるシベリア共和国を介して日本に話を持ちかけた。

 日本はフランスの時と同様の態度で交渉の場を用意する事となった。

 ポーランドは技術供与の要求を交えなかった為、特に波乱など起きる事無く、売買交渉は纏まる事となる。

 とは言え、フランスとの違いはそれだけでは無かった。

 LJFA-01戦闘機の売却と共に、ジェット戦闘機運用環境の整備支援が含まれる事になったからだ。

 今までジェット戦闘機を扱った事の無かったポーランドは、自分の航空機運用能力を過信する事は無かったのだ。

 この為、エンタープライズ社はグアム共和国(在日米軍)と日本政府に相談し、グアム共和国軍から軍事顧問団(※2)を派遣すると言う事で決着した。

 

 

 

――ドイツ

 ドイツは大きく慌てる事となる。

 G4の一角であるフランスはまだしも、科学的中進国と侮っていたポーランドまでジェット戦闘機の配備計画を進めるという状況は、ドイツにとって座視し得ない脅威であった。

 否、フランスにせよポーランドにせよ、それぞれが保有する、保有しようとしている第1世代戦闘機は脅威であっても、そこまで深刻という訳では無かった。

 ドイツとしても、最初のジェット戦闘機であるMe262に続いて、1からソ連と共同で開発を行っている迎撃戦闘機計画の進捗状況が良好であったからだ。

 エンジンの開発 ―― 推力の向上と寿命の延長こそやや(・・)遅延気味であったが、機体の方はモックアップが完成し審査が行われていた。

 F-1戦闘機を筆頭としたG4第1世代戦闘機群も取り入れたデザインとなっており、視察したヒトラーも大いに満足していた。

 そこに、降って湧いたような日本のLJFA-01戦闘機開発計画とフランスとポーランドが購入交渉を開始したとの一報は、ヒトラーの横っ面を全力で叩く様なものであった。

 一報に最初に接した晩はチョコレートをドカ食いし、ふて寝をしたのだった。

 翌日、空軍の高級将校を集めると、覇権主義国家(ジャパン・アングロ)との対決が近いのだと演説し、航空機開発メーカーに対して、至急、更なる高性能戦闘機の開発を厳命する様に命じた。

 このヒトラーの命令を受け、ドイツの航空機開発はカンブリア大爆発の如く、多種多様様々な戦闘機プランが立案され、思案され、廃案になり、或は製造が命じられる事となった。

 尚、この狂乱染みたジェット戦闘機開発に掛かる予算は、ドイツ海軍から接収して配分された。

 重要なチャイナとの海洋貿易路を保護するE艦隊計画の艦艇は建造ペースを落とされつつも続行が認められたが、Z艦隊計画の大型艦は軒並み停止 ―― 着工前の艦は廃止が命じられる事となった。

 ドイツ海軍は大いに荒れる事となる。

 

 

――アメリカ

 アメリカの準州であるグアム特別自治州(共和国)の企業が独自に戦闘機を開発すると聞き、アメリカは開発への参加を希望した。

 あわよくば、日本の航空機開発技術の一端でも得られればとの希望であったが、エンタープライズ社側は首を横に振った。

 現段階でアメリカが保有している技術では、LJFA-01戦闘機の開発に要求される水準に達していないというのが答えであった。

 グアム共和国(在日米軍)の協力を得て長足の進歩を遂げていたアメリカの航空機関連技術であったが、100年の差はその程度で埋められる程度に甘いものでは無かったのだ。

 半官とは言え営利性を大事にするエンタープライズ社は、冷徹な判断でアメリカとの共同開発を拒否した。

 この返答に恥辱を感じつつアメリカは次善の案として、開発現場に若手技術士官を勉強に送る事を提案した。

 この要求に対しては、日本政府に確認を取った上で受け入れた(※3)。

 又、LJFA-01戦闘機の小規模導入も決定する事となる。

 

 

――エンタープライズ社

 図らずも現時点で200機を超える発注を受けた事は、エンタープライズ社の社員の士気を大きく高める事となった。

 同時に、開発に失敗は許されないと緊張をもって仕事に当たる事ともなる。

 対地攻撃を前提としたオーソドックスな配置の双発エンジン、機体構造は炭素繊維複合材を多用し軽量化に努めた。

 軽量化した分の余力は被弾時への備えに使われた。

 コクピットの装甲化(アーマー・バスの採用)と、両エンジンの間に装甲材を入れて被弾時の被害限定などだ。

 尚、LJFA-01戦闘機の外観における最大の特徴は主翼にあった。

 前進翼である。

 主翼の構造材に炭素繊維複合材を導入し操作系にFBWを採用した事で可能となった前進翼の採用を、主設計者が強硬に主張したのだ。

 目的は、技術の誇示であり、同時に対地攻撃の際に運動性を高める事が大事であると言うのが理由であった。

 多分に趣味性の高い主張であったが、エンタープライズ社の社長がその名前通りに冒険心に不足の無い人物であった為、最終的に前進翼が採用される事となった。

 さて、ハード面での冒険によって割を喰う部門が出た。

 デジタル化戦闘機で無くてはならぬソフトウェア部門だ。

 全くの新規設計機のソースコードを作るのに短期間では不可能であると、ソフトウェア部門の部長が会議にて吠える事となる。

 顧客(カモ)は開発着手から1年程度と言う、エンタープライズ社の人間からすれば信じられない納期を口にしていたのだから。

 連日連夜、会議が行われた。

 最終的な結論として、LJFA-01戦闘機の初期ロットは能力を抑えたモデルとして世に出す事となった。

 限定的な機動と機銃射撃、無誘導のロケットや爆弾を運用できる程度だ。

 フランスやポーランドに行っていたプレゼンに於いて、LJFA-01戦闘機はデジタル化の恩恵によって大規模な機体改修を行わずとも段階的に性能向上が出来ると謳っており、であれば、問題は無いだろうと言う、ある種の開き直りであった(※4)。

 紆余曲折を経たLJFA-01戦闘機の試作機は、開発着手から1年半で完成する事となった。

 それに際し日本連邦統合軍で制式化する事と成り、YF-10の番号が与えられた。

 愛称は“大地を射抜く者”との意味を込めてアーチャーとされた。

 

 

 

 

 

(※1)

 但し、汎用技術であり、消耗品でもある増槽(ドロップタンク)に関わる設計などは提供される事となった。

 

 

(※2)

 グアム共和国空軍と航空自衛隊から人員を抽出して軍事顧問団は構成された。

 尚、この部隊を編成する会議の場で1つ、問題が発生した。

 部隊名である。

 当初は適当なナンバーを割り振り、通りの良さそうな名前を付ける予定であったのだが、グアム共和国の若手士官 ―― タイムスリップ後の任官した新世代士官(ニューエイジ)が爆弾発言を放った。

 曰く、部隊名はフライング・タイガース(・・・・・・・・・・・)が良いのではないか、と。

 日米に関わりのある軍事顧問団としてみれば相応しいのかもしれないが、余りにもナイーブな問題を内包する名前であった。

 会議室の空気が凍った。

 航空自衛隊側の出席者は表情を消し(あ”あ”? と目を細め)、グアム共和国空軍側の出席者は信じられないモノを見る目で(ファッキン・クレイジーと呟きながら)発言者を見た。

 会議室の空気が変わった事は理解した若手士官であったが、その理由が理解出来なかった。

 珈琲を飲んで喉を湿らせた会議の座長が、驚く程平坦な声で理由を尋ねた。

 その問い掛けに若手士官は、虎が如何に素晴らしい生き物かを熱烈に主張し、段々と興奮し、最後に日本に留学した時に覚えた虎の歌(六甲おろし)を歌いだした。

 重度の頭痛に耐える表情をした座長が若手士官(虎キチ)に歴史を知らないのかと尋ねた所、虎は必ず蘇ります。だから虎を飛ばす(胴上げする)のですと真顔(キメた目つき)で答えた。

 駄目だコイツ(アカン)、会議室の参加者の心は1つになった。

 こうして、一歩間違うと日(在日米軍)関係に重大な傷を入れかねなかった問題は、あっさりと水に流された。

 そして若手士官は、座長の秘書の手によって会議室から追放された。

 会議参加者はそれ以降、無駄口を叩く事も無く、粛々と会議を進めた。

 最終的に軍事顧問団は第108航空団(ウォードッグ)として編成される事になった。

 

 

(※3)

 日本がアメリカの要求を容認した背景には、G4による技術共同開発がスタートしていた事が大きかった。

 とは言え、この話を聞いたフランスは切歯扼腕して、優先提供権を梃に自分の国の人間も参加させるべきだと主張する事になる。

 当然、その様な契約内容で無い為、そして現場で日本語と(アメリカ)語が飛び交う上にフランス語まで混ぜては面倒であると言う理由で拒否される事となった。

 尚、その様を横で見ていたブリテンは、LJFA-01戦闘機の開発が終了した後の、次なる戦闘機開発で協力しないかと持ちかける事となる。

 

 

(※4)

 尚、フランスやポーランドは余り気にしていなかった。

 日本連邦製の先進的なジェット戦闘機である事が大事であり、爆撃機並みに爆弾を運用できると言う事が大事であったからだ。

 その先への進化も、そこまで費用を掛ける事なく可能であるならば、何の文句も無かった。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

080 ユーゴスラビア紛争-1

+
汝の運命は、汝自身の胸中にある

――シラー    
 







+

 ジェット戦闘機の開発が起点となり、ドイツとソ連の協力関係は深化した。

 その上で問題となったのは両国の距離だ。

 それは物理的と言うよりも、物流と言う面でだった。

 実際、領域的な領土ではドイツが大欧州連合帝国(サード・ライヒ)を建国した事で国境を接する事にはなっていたのだ。

 とは言え、接するようになってまだ2年と少しの為、大規模な人や物資を行き交わせられるだけの交通網 ―― 道路や鉄道網が組み上がっていなかった。

 両国とも交通網の整備に予算を掛けていた為、時間が掛かれども(何時かは)解決する問題の筈であった。

 だが国際情勢の変化が、そんな呑気な(何時かはという)態度を許さなくなる。

 ドイツの国際連盟脱退と、アメリカ主導で行われた対ドイツ経済制裁(封鎖)である。

 国内の治安が悪く(※1)周辺の国際連盟加盟国(・・・・・・・・・・)との武力衝突を頻発させているチャイナへ積極的に武器を売るドイツに対し、国際連盟はチャイナへの武器売却を停止する様に要請する。

 無論、国際連盟から脱退済みのドイツは要請を拒否した為、国際連盟安全保障理事会はドイツが武器売却停止の要請を受け入れるまで、人道的なものを除く全ての品目に対する無制限での経済制裁(・・・・・・・・・)を国連加盟国に対し指示したのだ。

 これにはドイツとソ連も頭を抱える事になる。

 国際連盟加盟国であるソ連も、その指示に従わざるを得なかった。

 表向きとしては。

 2国間協議で、今後も軍事物資の融通と技術の交流が継続する事が決定し、その対処も考えていた。

 例えば試作機が飛行段階に到達寸前となっている共同開発の戦闘機。

 名前こそ違っていても同じ設計図から生み出された戦闘機であるが、国際連盟安全保障理事会から問題として指摘された場合は、他人の空似(・・・・・) ―― 共同研究された技術で作られた為に、別々ではあるが似てしまったのは仕方が無いと強弁する事が決められていた。

 だが、軍需物資などの非人道的な物資の売買を止めたと主張していても、実際に輸送される場を監視されてしまっては問題となる。

 そして、ドイツとソ連の国境は短く、鉄道や道路は少なかった。

 国際連盟安全保障理事会に監視が可能であると思える程に。

 ドイツとソ連は、この解決(・・)に乗り出す事となる。

 

 

――東欧処理

 ドイツとソ連にまたがる最大の国家はポーランドであったが、これを味方に引き入れるのは不可能であると言うのが両国の判断であった。

 対ドイツの連帯をフランスと行い、対ソ連の協定(同盟)をシベリア共和国 ―― 日本と行っている国家なのだ。

 甘言で乗せる事は不可能であるし、ポーランドの国民世論を調略する事も難しいだろうと言う判断が成されていた。

 故に、狙ったのはドイツとソ連の南側、バルカン半島を中心とした地域の国家群だ。

 既にユーゴスラビアやブルガリアと言った国家はドイツの影響下に入って久しい為、簡単な世論工作でドイツが主催する大連合への参加(併合)は容易であると見られていた。

 ルーマニアに関しても、政治勢力として反ユダヤ(・・・・)極右政党が主導権を握っており、国際連盟加盟国ではあったが親ドイツ的な立場を採っており、此方も引き込む事は難しくないと言う認識であった。

 とは言え3国を纏めてドイツが併合してしまうのは、ソ連としては余り歓迎できるものでは無かった。

 事実上の同盟関係にある両国であったが、であるが故の均衡が求められる側面があったのだ。

 ソ連はドイツに対し、併合後のルーマニア領の北東域(ブコビナ及びベッサラビア)の割譲を要請する事となる。

 ドイツはソ連との接触(アクセス)領域拡大が目的である以上は問題も無く、又、ルーマニアの本体(ルーマニア中央銀行)も押さえる事が出来るので、特に問題は無いとソ連の要請を受け入れた。

 ルーマニアは、ルーマニア人の関わらぬ場所で国土の割譲が決定するのだった。

 

 

――ブルガリア

 ブルガリアはドイツとの経済的な結びつきが強かった為、ルーマニアやユーゴスラビアとドイツの交渉が表面化した時点で、大欧州連合帝国(サード・ライヒ)への参加を決断する事となる。

 これはドイツの手腕と言うよりも、世界経済に於いて独占的な地位を占めるG4の傲慢 ―― 自らの領域以外に関心が薄いという事が理由であった。

 日本、アメリカ、ブリテン、フランス。

 それぞれが大規模な経済圏を持ち、交易する事で余裕を持って経済発展する事が可能となっていたのだ。

 であれば東欧、欧州の片田舎で特産品もそう無い地域に目を向ける筈もなかったのだ。

 本来であれば欧州の盟主を気取っていたフランスが手を差し伸べている筈であったのだが、フランス領インドシナで勃発した騒乱によって外交的、経済的リソースが失われており、ブルガリアやバルカン半島諸国に目を向け、手を差し伸べる余力を失っていた事が、ドイツの拡張を許す事態となったのだった。

 

 

――ルーマニア

 ルーマニアにとってドイツとの連帯は国家の存亡に関わる問題であった。

 その根源にあるのはソ連である。

 日本との戦争でシベリアを失い、フィンランドとの戦争でも事実上の敗北を喫したソ連が、国威の回復手段としてルーマニアに圧力を掛ける様になっていたからである。

 国境線の再策定(領土割譲)要求は日増しに高まっていた。

 見せつける様に、国境付近で演習を行うソ連。

 T-34戦車などを大量に保有する近代的な陸軍の威圧は絶大だった。

 ソ連軍は日本に敗れたとは言え、否、日本とアメリカが相手であったからこそ敗れただけであり、G4や列強以外の国家にとっては絶望的な力を持った存在であった。

 そんな状況に於いて、政治的に近いドイツが声を掛けて来たのだ。

 ルーマニアが天祐と信じて、ドイツの手を掴んでしまうのも仕方のない事であった。

 大欧州連合帝国(サード・ライヒ)参加を即答したルーマニア。

 その代償は決して小さく無かった。

 建前として独立は維持しているものの、国際連盟からの脱退を含めたドイツの属国化であり、国土(ブコビナ及びベッサラビア)のソ連への割譲であった。

 ルーマニアの世論は激高した。

 だが時すでに遅し。

 ルーマニアの政権を握っていた親ドイツ派政党は、自らの下部組織(武力組織)とドイツから派遣されて来たナチス党親衛隊(SS)の力を借りて、反対派を弾圧していったのだ。

 デモは武力粉砕され、反政権政治勢力は非合法であると警察に刈り取られていった。

 ルーマニアは冬の時代を迎える事となる。

 国を脱出出来た者たちは、国外にて反政府運動 ―― ルーマニア解放運動に身を投じる事となる。

 その頂点として、ルーマニア人による国際連盟総会での演説があった。

 ルーマニアで発生している人権(政治弾圧)問題を大きく国際社会へ訴えたのだ。

 とは言え、この時点でルーマニアは国際連盟を脱退しており、国際連盟に出来る事はドイツに対する非難声明の採択程度であったが。

 国際連盟の非加盟で、独立した国家の内側で発生している事態に対し、内政不干渉の原則がある以上、国際連盟が出来る事など限られているのが現実であった。

 唯一、G4 ―― フランスが事態解決に協力する事を約束した。

 但しそれはフランスの問題、フランス領インドシナの紛争が片付き次第と言う但し書きの付いた約束であったが。

 

 

――ユーゴスラビア

 比較的簡単に済むと思われていたユーゴスラビアの併合は、ドイツにとって大きな蹉跌となる事となる。

 大欧州連合帝国(サード・ライヒ)への参加は、ドイツへの経済的依存度の高さもあってユーゴスラビア政府がドイツへの追従の必要性を盛んに宣伝した為、ブルガリアと同様にドイツの腕へ簡単に収める事が出来た。

 だが、ユーゴスラビア軍は、この政府の方針に敢然と反旗を翻した。

 フランスを筆頭に、様々な国への留学経験者を抱えていたユーゴスラビア軍には、政府が盛んに宣伝する素晴らしき大欧州連合帝国(サード・ライヒ)が、世界を支配するG4と対峙する泥船であると見えていた。

 ユーゴスラビア軍高官は、最初、政府に翻意を促した。

 だが政府はユーゴスラビア軍の声に耳を貸す事は無かった。

 それどころか、警察を使い一部の軍高官を逮捕し、ユーゴスラビア軍を掌握しようとした。

 これに反発したユーゴスラビア軍上層部はクーデターを決断する。

 ユーゴスラビア内戦の勃発である。

 

 戦火は再び、バルカン半島から立ち上ろうとしていた。

 

 

 

 

 

(※1)

 主として問題となったのは、チャイナで経済活動を行っていた国際連盟加盟国の市民の安全であった。

 チャイナは渋々ながらも国内の外国籍在留者の安全確保に努めては居たが、継続していたチャイナ共産党による扇動もあって、盗賊や軍閥などのみならず一般のチャイナ人も外国籍在留者を襲う事件を度々引き起こしていた。

 その対象はアメリカ人やブリテン人、フランス人のみならず、ドイツ人にまで及んでいた。

 チャイナに於ける外国人 ―― 特にコーカソイド系に対する憎悪の深さが見て取れた。

 尚、それとは別にアジア系も襲われていたのは、主にチャイナにアメリカ人などの護衛役(PMSC)として入っていたコリア系ジャパン人の活躍(・・)が理由であった。

 

 

 

 

 

 




2020/02/02 文章表現修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

081 ユーゴスラビア紛争-2

+

 ドイツによるバルカン半島の掌握は、フランスとイタリアにとって座視出来るものでは無かった。

 フランスにとっては、自らがフランス領インドシナのちょっとした紛争(・・・・・・・・)にかまけている隙を狙って怨敵ドイツが勢力拡大を図ろうとしているのだ。

 決して許せるものでは無かった。

 イタリアにとっては、対立国となったドイツが自国周辺で勢力を拡大する事を認められる筈が無かった。

 その上で、未回収のイタリア問題が存在した。

 旧オーストリアの地方のみならず、アドリア海をまたぐ旧ヴェネツィア共和国領までもがドイツが掌握しようと言うのだ。

 未回収のイタリア問題解決を政策として掲げていたムッソリーニは、ドイツの行為を見過ごす訳にはいかないのだ。

 両国は、バルカン半島の3ヵ国がドイツとの連帯 ―― 大欧州連合帝国(サード・ライヒ)への参加交渉が始まると共に、国際連盟安全保障理事会や総会の場で度々、ドイツの侵略的政策を問題として取り上げていた。

 とは言え、フランスがフランス領インドシナに外交リソースを奪われている為、主に主導していたのはイタリアであった。

 だが、安全保障理事会も総会も両国程に積極的では無かった。

 イタリアの外交力に問題がある訳では無い。

 単純に、国際連盟の主役たるG4、フランス以外の3ヵ国が積極的でないと言う事が理由であった。

 安全保障理事会にせよ総会にせよ、戦争の可能性がありそうな事に関して参加各国は常にG4の顔色を窺うのが常であったから仕方のない話であった。

 故に、反ドイツと言う点でフランスに次ぐポーランド(中欧の狂犬国家)ですら、強硬論を口に出しかねていた。

 G4が消極的な理由は、日本にせよアメリカにせよ、金の掛かる対ドイツ戦争は先送り出来るものなら先送りしたいと言う本音があった為である。

 日本とアメリカは、国際連盟がユーゴスラビア問題に積極的に関与しようとする事は、ドイツとの戦争の引き金を引きかねないと認識していたのだ。*1

 その最中で犠牲になるのはユーゴスラビアやルーマニアであったが、それらの国々も曲がりなりにも独立した国家であり、独立した国家の政府が自らの選択として国際連盟を脱退しドイツに与したのだ。

 であれば苦労も犠牲も自己責任の範疇であると言うのが、G4の共通した認識であった。

 

 

――ユーゴスラビアの混乱

 政府の親ドイツ政策を許容し得ない亡国への道であると判断した軍高官はクーデターによる政権打倒を決意した。

 全国に広がる軍を掌握し、政府庁舎その他を一挙に制圧せんと考えたのだ。

 だが、軍高官が軍全体をおさえると言う事を選択した事が政府へ対応する時間を与える事となった。

 政府側に居た軍部隊や、政府が全権を握っていた警察が、軍高官たちの動きを察知し、報告したのだ。

 謀は速さこそ尊ぶべきであったのだ。

 この時点で反政府軍高官が掌握していたのは軍の4割、政府は残る6割と警察とでクーデター派を襲撃し一挙に鎮圧する事を試みた。

 果たして、クーデター派は一網打尽の憂き目にあう事となった。

 ただ問題は、この鎮圧作戦に対してクーデター派の若手士官たちが身を捨ててでも国を守らんと全力で抵抗した為、鎮圧に来た軍と警察の部隊に尋常では無い被害を与える事となる。

 軍は壊乱し、警察も機能不全に陥ったユーゴスラビア。

 この惨状にドイツは善意の手(・・・・)を差し伸べた。

 軍事部隊と警察部隊の派遣である。

 警察部隊は保安警察 ―― 中でも政治的な任務を負う秘密警察局(ゲシュタポ)だ。

 無論その目的はユーゴスラビアの治安維持では無く、ユーゴスラビアの反ドイツ分子の取り締まりであった。

 そして軍事部隊は、ドイツ軍では無かった。

 武装親衛隊である。

 ヒトラーは国際連盟に於ける対ドイツ感情を読み取り、軍を派遣しない事でフランスなどへ配慮(・・)したのだ。

 とは言え派遣された武装親衛隊は戦車や装甲車も有した、立派な装甲部隊であったが。

 ドイツの差し伸べた手をユーゴスラビア政府が有難く思っていたのは、武装親衛隊と秘密警察局の部隊が本格的に活動を開始するまでの短い時間であった。

 

 

――イタリア

 バルカン半島でのドイツの行動に対し、国際連盟が一丸となった攻撃的対応が出来ない事に切歯扼腕したイタリアは、次善の策としてユーゴスラビアへの積極的な情報収集活動に精を出す事とした。

 幸い、アドリア海を挟んでの対岸である為、高速水上艇による潜入が容易であった。

 故にユーゴスラビアで活動している武装親衛隊と秘密警察局の暴力をつぶさに見る事となる。

 両組織がユーゴスラビアに入って1ヶ月。

 そのたった1ヶ月でユーゴスラビア政府は機能を喪失し、ドイツ人の大欧州連合帝国(サード・ライヒ)移行期間臨時総督が全権を握る様になっていた。

 ドイツの恐るべき手際の良さに、イタリアは衝撃を受ける事となる。

 ユーゴスラビア各地で翻る大欧州連合帝国旗(ハーケン・クロイツ)

 その旗の下で良識あるユーゴスラビア人たちは必死になって抗議活動を行い、そして弾圧されていた。

 ドイツへの抵抗活動は日々、大規模化し、そして流血沙汰が増えていた。

 イタリアは歓喜した。

 これは着火し易い(・・・・・・・・)、と。

 元より多民族の寄り合い国家であったユーゴスラビアは、ドイツ人が統治し易い様に各民族の反目を煽る様な政策を行った結果、憎悪の煮え滾る坩堝と化しつつあったのだから。*2

 イタリアは保管していた旧式装備 ―― 第1次世界大戦時代の武器弾薬を盛大にユーゴスラビアにばら撒く事とした。

 治安維持コストの増大によってドイツが混乱するユーゴスラビアを放棄し、その隙を狙って未回収のイタリア(旧ヴェネツィア共和国領)の奪還を図る積りであった。

 

 

 

 

 

 

*1

 日本やアメリカがドイツとの早期の戦争を回避しようとする理由は、別に人道主義や平和主義に基づくものではない。

 単純に、戦争の効率を考えての事であった。

 G4が共同で行っていたドイツの国情分析によって、ドイツの財政と経済活動が苦境にある事が判っていた。

 表向きはアウトバーンなどのインフラ整備や軍備の刷新による需要によって活況ではあったのだが、所詮は官需であり、民需による自律的な発展を行えていなかった。

 既に国内市場は頭打ちの状態であり、であれば世界の市場へ挑むのが通例であるのだが、世界の市場の大部分を占めるG4諸国と対立している為、ドイツはチャイナ以外の大規模な市場と交易が出来ずにいたのだ。

 しかも国際連盟を脱退した事によってG4以外の国際連盟加盟国との交易も低調になっており、そこに軍事に関わる物資の売買を全面的に禁止する経済制裁が加わっていた。

 武器弾薬は勿論、高品位の鉄なども軍事転用が可能と言う理由で国連加盟国には売買の禁止が国際連盟安全保障理事会から通達されている有様なのだ。

 残された大口の商売相手であるチャイナは軍備の交易こそ旺盛であったが、民需に関しては戦乱の影響で購買力は低下の一途を辿っており、ドイツ企業の生産力の吐きだし先として不十分であったのだ。

 又、国内需要に関しては、熟練労働者でもあったユダヤ人が追放され、代わりに言葉も通じないチャイナ人労働者が来た事も問題であった。

 労働力としての問題 ―― 単純労働で使い潰すのであれば問題は無いだろうが、高度な作業はとてもではないが任せられない労働力の劣化(・・)と言う問題もあった。

 だがそれ以上に問題だったのがユダヤ人労働者は消費者でもあったが、チャイナ人労働者は消費者では無いと言う事であった。

 身分的な意味ではドイツ政府の管理する物資扱いであり、又、給与が支払われていない為に自ら消費活動を行う事はない(・・・・・・・・・・・・・)のだ。

 これが、この時点で10万人に達するレベルで存在しているのだ。

 ドイツの武器輸出の対価としてドイツに売られたチャイナ人は、武器を持ってきたフネに乗せられて欧州に運び込まれ続けていた。

 ドイツ人自身はチャイナ人労働者を安価な労働力(スレイブ)を得られたと無邪気に喜んでいたが、その実としてドイツ経済を蝕む毒となっていた。

 消費活動 ―― 経済活動の低下は、ドイツの税制を直撃していた。

 いわば、労働力の不足(ユダヤ人追放)がドイツ経済から活性を奪っていたのだ。

 その事にドイツは気付いていなかった。

 ヒトラーを筆頭にドイツの首脳陣は、G4との対立がドイツの苦境の原因であるとしか認識出来ずにいた。

 この様にドイツは、戦争を先送りすればするほどに困窮していくのが見えているのだ。

 であれば、早々にドイツへ戦争を仕掛ける必要性は無いのだ。

 日本やアメリカなどの冷静な人間は、ドイツは自重で地獄に転がり落ちていく国家なのだから、性急にドイツと戦争をする必要は無く、落ち切った所で止めを刺してやれば労せずに滅ぼせるだろうと言う分析情報(レポート)を上げる程だった。

 ドイツの新装備(ドイツ脅威のメカニズム) ―― 新型戦車、ジェット戦闘機、大型戦艦等々を華々しく宣伝されてはいたが、その性能は日本は当然にしても他のG4にも劣っている上、数も少なかった。

 最新の重戦車であるⅣ号戦車の生産は遅々としており、又、チャイナに輸出している事もあって充足状態にあるのはいまだ4個連隊しかなかった。

 最初のジェット戦闘機であるMe262は、1個飛行隊も編成出来ずにいた。

 戦艦に至ってはZ艦隊計画は凍結され、E艦隊計画のみが続行されているが、それも新規着工は禁止されていた。

 対するG4の戦備と言うものに隙は無かった。

 例えば経済的な意味で末席側のフランスであるが、フランス領インドシナでの戦乱によって予算が奪われている状況であるにも関わらず、フランス本土の軍備近代化は怠りなく実施していたのだ。

 陸上戦力で言えば、J36(31式)戦車の運用実績を基に開発した50t級の新型重戦車ARL40の生産を始めていた。

 ARL40戦車は、現時点でドイツが装備する全ての戦車を撃破可能であり、そして配備数は500両を超えていた。

 この数はドイツが保有する重戦車Ⅳ号戦車の倍を優に超えていた。

 空は、フランス国産のジェット戦闘機を開発配備を行うのと並行して、アメリカやブリテンから輸入まで行って、一線級戦闘部隊の全てをジェット戦闘機で編成していた。

 流石に海洋戦力に関しては低調であったが、ドイツは陸上で国境を接する相手であり、同盟相手である日本やアメリカ、ブリテンが世界に冠たる海軍国である以上、特に問題にはならなかった。

 海外県(植民地)紛争に予算を奪われつつもこれを成し得るフランスは流石は列強であり、世界を支配する者達(ヘゲモニー・シスターズ)の一角であった。

 時間が経過する程に、自陣営(G4)は有利になり、ドイツは不利になるのだ。

 であれば、感情論以外でドイツと素早く戦争をせねばならぬ理由は無い。

 冷静に冷徹に、G4はドイツを見ていた。

 

 

*2

 ドイツのユーゴスラビア統治の方法は、ブリテンによるインド支配政策を真似た部分があった。

 分断し、反目させ、統治すると言う。

 それは、多民族国家であるユーゴスラビアの弱点を突いた政策であった。

 比較的人口の多い、だが絶対的多数では無いセルビア人を支配階層として扱い(懐柔し)、その下で各民族が反目する様に差し向ける事で、統治者(ドイツ人)へ団結して対応できない様に仕向けたのだ。

 暴動などが起きる可能性は高いし、実際、ドイツ人が入って以降、抵抗運動が頻発してはいたが、個々の小さな抵抗であれば鎮圧も容易いとドイツ人は判断していた。

 その甘い判断 ―― 認識は、後にユーゴスラビア人とドイツ人が共有(・・)する地獄を生み出す事となる。

 

 




2020.02.08 文章修正
2020.02.11 文章修正
2020.06.11 文章修正
2020.06.11 脚注修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

082 チャイナ動乱-1

+
政治とは、流血を伴わぬ戦争である
一方、戦争とは、流刑を伴う政治である

――毛沢東    
 







+

 チャイナの内側では、沸々としたチャイナ政府への反発が圧力を高めつつあった。

 1940年に締結されたアメリカ-チャイナ融和条約は、その屈辱的な内容から政府への批判を呼んだが、それがいつの間にか、チャイナ政府の打倒へと過激化しつつあったのだ。

 革命への機運であった。

 チャイナの大地をアメリカやブリテン、フランスに国土を奪われて抵抗も出来ずチャイナの権威を失墜させ続けている政府は、天命を失っているが故にこの惨状をチャイナに齎した ―― そんな噂が広がっていた。

 広げたのは当然、チャイナ共産党である。

 チャイナ共産党は、チャイナの主導権を握るにはチャイナ政府が外夷(ジャパン・アングロ)と戦争を行い疲弊した時を狙う必要があると見ていた。

 だが現実はチャイナ共産党にとって非情であった。

 肝心のチャイナ政府が、外夷(ジャパン・アングロ)と戦うどころかその武威に膝を屈したのだから。

 現実的な対応とも言えるのだが、これではチャイナ政府を打倒する事が出来ぬとチャイナ共産党は頭を抱える事になる。

 故に、天命を持ちだしたのだ。

 

 

――チャイナ政府

 チャイナ政府としては、決して外夷(ジャパン・アングロ)にひれ伏した積りは無かった。

 臥薪嘗胆、国力を涵養し精強な軍を作り上げ、何時かは(・・・・)外国勢力を打ち払う積りであったのだ。

 問題は、その何時かはが、何時になるかが判らないと言う事であろう。

 チャイナ政府は冷静に自国と列強、特にG4(ジャパン・アングロ)との差を理解していた。

 諦観と共にソレを受け入れていた。

 だが、チャイナ政府が受け入れていても多くのチャイナ人が受け入れる事は無かった。

 偉大なる中華とは中原、世界の中心に居る国と民なのだ。

 それが化外の地に住む者どもに劣るなど決してある筈の無い話であった。

 にも拘らず差が存在するのは、悪があるから。

 天命を失い徳の無いチャイナ政府を戴いているからだ ―― チャイナ共産党の宣伝に、その甘美な内容に、チャイナ人の多くが酔いしれた。

 慌てたのはチャイナ政府である。

 腐敗してもいたが、同時にチャイナを愛していたチャイナ政府の人間は大いに慌てる事となる。

 それなりの高等教育を受けた人間の多いチャイナ政府は、チャイナ人の間で流布されるようになった天命論、革命の行き先が見えていたのだ。

 革命がチャイナ人の優秀さを礎にした理論である為、次の政府はその民意に逆らう事無く諸外国と素直に衝突すると言う未来が見えたのだ。

 対する諸外国は躊躇も容赦もしないだろう。

 その果てにあるのは、何百何千万というチャイナの血が大地を染める事態だ。

 故にチャイナ政府は断固とした態度で、国内の人心掌握に乗り出す事となる。

 大弾圧の始まりである。

 

 

――チャイナ共産党

 チャイナ人が抱いた革命への情動に対するチャイナ政府による即座の、そして徹底的な弾圧方針は、チャイナ共産党にとって寝耳に水の驚愕であった。

 過去の対外交渉の例から、優柔不断に当初は様子見をするだろうと予測していたのだ。

 油断であったと言えるだろう。

 チャイナの歴史を紐解けば、時の統治側が大衆を弾圧する事に躊躇した例などトンと無い事に気付けた筈だった。

 現実は非情である。

 都会の街路で革命を訴えるビラを配れば処断され、人が集まっていれば警官に散らされ、抗議をすれば捕えられる。

 都会が駄目なら田舎でとなれば、此方はもう少し容赦が無かった。

 頭を抱えたチャイナ共産党は、であれば是非もなしと予定を少し早めて全面的、だがゲリラ的な武力活動を開始する事とした。

 武器弾薬は、はるばるソ連から陸路で密輸されてきており、十分であった。

 (フロンティア共和国)との国境線は堅いが、西(東トルキスタン共和国)は建国したばかりと言う事もあって国境線の管理がユルかった為だ。

 その際にソ連は共産主義の連帯(・・・・・・・)と称していたが、チャイナ共産党はその真意を見誤らなかった。

 日本とアメリカ ―― ユーラシア大陸東部の国家群の注意を引き、少しでもソ連への圧力を低下させる為、と言う狙いを寸毫の誤りも無く理解していた。

 言わば火種としての役割だ。

 だが、それでも良かった。

 チャイナを支配できるのであれば、他所の誰からどう思われようと関係無いのだから。

 チャイナの全てを支配しさえすれば全てをひっくり返せる。

 その様にチャイナ共産党は確信していた。

 ソ連から送られてくる武器には、戦車こそ無かったが旧式化した戦闘機なども含まれて居た(※1)。

 チャイナ共産党は、チャイナの北西地域を拠点と定め、軍事組織としての活動を活発化させる事となる。

 この地方の掌握を目的とした理由は、辺境としてチャイナ政府の圧力が弱い事と共に、フロンティア共和国との国境線に近く、チャイナ政府が大規模な軍事作戦を躊躇する可能性が高い事が理由であった(※2)。

 

 

――チャイナ政府

 よりにもよってフロンティア共和国との国境線近くで大規模な戦力を揃えつつあるチャイナ共産党に頭を抱えたチャイナ政府であるが、とは言え手緩い対応をする訳には行かなかった。

 チャイナの正統なる主として、叛徒の存在を許しておける筈も無いのだから。

 とは言えフロンティア共和国やアメリカの手前、即座に軍を動員し問答無用に鎮圧へ取り掛かれる訳では無かった。

 別にアメリカとの間で、チャイナ領域内での軍隊の行動に関して条約の類を結んでいた訳では無い。

 だが国境線、国境線から50㎞の非武装が定められている地域の傍でも軍を動かす可能性がある為、事前折衝を行う積りであった。

 幾度ものアメリカとの国境線紛争を経験し、チャイナ政府も学習(・・)していたのだ。

 並行して情報収集を行った。

 アメリカは数度に及んだチャイナ政府との折衝に於いて、最終的にチャイナ軍の行動は治安維持活動であると了解する事と成った。

 その頃には情報収集の成果、チャイナ共産党軍の全容も見えていた。

 総兵力は約30万。

 複数の軍閥を掌握した事で戦車や野砲、戦闘機すら保有する近代的な軍隊(※3)。

 それがチャイナ共産党軍であった。

 故にチャイナ政府は、動員できる限りの兵を投入する事を決心した。

 チャイナ政府直轄の精兵100万に、最新鋭の戦車や戦闘機、果てはアメリカを真似た対地攻撃機(AC)も含まれて居た。

 チャイナ共産党がチャイナ混乱の根源であろうと見ての事であった。

 半分は。

 残り半分は言いがかりであった。

 チャイナ共産党がいかがわしい革命思想を撒き散らす諸悪の根源であると宣言して討伐する事で、チャイナ人に広がりを見せている革命への心理的賛同をへし折る積りであった。

 

 

――大アジア連帯(グレート・アジア)主義

 チャイナ政府とチャイナ共産党が前面衝突へと突き進む状況下で、違った動きを見せたのは大アジア連帯(グレート・アジア)主義者であった。

 フランス領インドシナの戦いで一定の成果を挙げ、偉大なるチャイナの誇りを取り戻しつつあった彼らは、それ故に悩んでいたのだ。

 何故? と。

 自分たちはフランス人と戦えるのに、チャイナ政府は外夷(ジャパン・アングロ)と戦えないのだろうかと。

 素朴な疑問と言えるだろう。

 そんな活動家たちの疑問に、大アジア連帯(グレート・アジア)の精神的支柱となった人達は頭を悩ませ、そして1つの結論を出した。

 チャイナ政府の天命が失われた(・・・・・・・)からである、と。

 理由が得られたのであれば対応は1つであった。

 大アジア連帯(グレート・アジア)主義の為、アジア諸民族の柱である偉大なるチャイナ復興の為、堕ちたチャイナ政府討つべし! その叫びが広がる事となる。

 特にチャイナ南方、フランス領インドシナに近い地域には、武器を持ち、戦闘経験も豊富な男たちが多かった為、即座に火が点く事となる。

 

 チャイナ動乱の勃発である。

 

 

 

 

 

(※1)

 ソ連から送られた戦闘機は、陳腐化したレシプロ戦闘機どころか複葉機まで含まれて居た。

 但し、整備部品は十分とは言えなかった為、その稼働率は高いものでは無かった。

 

 

(※2)

 尚、これに付随してチャイナ共産党はフロンティア共和国とアメリカと接触し、可能であれば支援を得ようとしていた。

 対価はフロンティア共和国の承認であり、以後のチャイナとアメリカの相互承認による不可侵協定の締結であった。

 国境線に悩まされる事は無くなると言う意味で、アメリカはソレを魅力的なものと感じたが、とは言えシンクタンクであるセンチュリー機関とグアム特別自治州(在日米軍)から連名で否定的報告書が出された(チャイナを信じるのはバカだと言われた)為、それ以降、アメリカはチャイナ共産党の交渉提案に乗る事は無かったが。

 

 

(※3)

 この時点でチャイナ政府はチャイナ共産党とソ連の関わりを察知できずにいた。

 ある意味で当然であった。

 チャイナ政府と昵懇の関係にあるドイツの同盟国であるソ連が、(チャイナ共産党)と関わりを持っていると想像する事が出来なかったのだから。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

083 チャイナ動乱-2

+

 チャイナ政府とチャイナ共産党の間に立ち上る戦雲に、割って入ろうとする大アジア主義者(グレート・アジア)たちの蜂起を知った日本は手を叩いて喜んだ。

 愛する(・・・)チャイナが数を増やす機会(・・・・・・・)を得ようと言うのだ。

 喜ばぬ筈が無かった。

 その喜びのままに、日本は支援(・・)を決定する。

 但し、売名では無いのだから善意と言うものの表明はあからさまにやるものではない。

 日本が支援したとは判らない様に、ひっそりと行う事が決定した。

 具体的には、シベリア共和国にペーパーカンパニーを作り、動機(カバーストーリー)として社長がソ連に嫌な思いをさせられたから反チャイナ共産党で、ついでに商売の邪魔をするチャイナ政府が嫌いだから、とされた。

 シベリア独立戦争で鹵獲したものや、シベリア共和国軍装備を日本製へ更新する事で余剰となって倉庫に積み上げられていたモノ ―― 廃棄する予算も勿体ないと放置されていたソ連製の武器弾薬を送りつける事としたのだ。

 カバーストーリーを信じさせる為、表に立たせたのはロシア系日本人と言う念の入れ様である。

 これにはチャイナ人も簡単に騙されるしかなかった。

 

 

――G4

 日本の愛するチャイナの増殖計画(・・・・・・・・・・・・)であるが、日本はその前段階としてG4連絡部会の秘匿会議(オフレコ会)で議題にした。

 最終的にチャイナが分裂し、弱体化するとは言え、短期的には戦乱が加速するのだ。

 チャイナへの権益を持つアメリカ、ブリテン、フランスに一言、声を掛けるのも当然であった。

 特にフランスは、支援する予定の大アジア主義者(グレート・アジア)とフランス領インドシナで現在進行形として戦っており、その支援ともなれば気を遣う部分があった。

 対してフランスは、大アジア主義者(グレート・アジア)が武器を持ってフランス領インドシナに戻ってこないのであれば問題は無いと返答した。

 尚、その戻って来ないかの確認は、日本はフランスに対して積極的に協力(・・・・・・)するべきであるとも主張した。

 日本は、大アジア主義者(グレート・アジア)へ提供する武器を陸揚げする港として、チャイナに接するフランス領広州湾市の利用を認める事を対価として了承する事となる。

 フランス領インドシナの国境線監視とは、主要街道と入国審査所を介さないヒトやモノの往来(密入国)の摘発であった。

 この監視に日本は最新鋭機 ―― 輸出を前提にTAI(トヨタ・エアクラフト・インダストリー)*1が開発した双発ターボプロップ旅客機を基に、レーダーや様々なセンサーと通信機を積んだP-4対地監視機の投入を決定する。

 とは言え、日本連邦統合軍機を素直に投入すると国会で野党に追及される可能性がある為、日本政府は日本連邦統合軍軍事業務外注組織という体裁を取ってPMSCで対応する事とした。

 念を入れて日本の目の届きにくいグアム共和国に本籍を置く半民半官(アンダーグラウンド)な企業、後に日本の非公式非公開軍事作戦の遂行を担当するSMS(スズキ&マリー・スペシャルサービス)社の設立である。

 SMS社はP-4P(民間仕様機)部隊をフランス領広州腕市に展開し、フランス領インドシナの国境線監視に当たった。

 尚、SMS社の設立に併せて日本もグアム共和国(在日米軍)からの助言もあって非公開特殊工作部隊(アンダーグランド・ユニット)を整備する事とした、

 部隊名は特務情報隊(オメガ)

 社外に対してはSMS社の警備部隊として公表されており、その拠点は機密保持のし易いグアム島に置かれていた。

 日本の南チャイナ支援に関する諸行動に関してブリテンとアメリカは、特に否定する理由も無い為、行動を肯定する事と成る。

 只アメリカは、それとは別に日本がフランス領インドシナ国境線地帯に投入するP-4対地監視機へ興味を示す事と成る。

 フロンティア共和国国境地帯に投入している空中哨戒機が、地上の監視は乗員の視認に頼っているのとは異なり、P-4対地監視機は対地レーダーやセンサーと言った先進的な監視手段を持っているのだ。

 興味を示さぬ筈が無かった。

 国境線の広さと武器の密輸入と言う意味ではブリテンやフランスもアフリカで問題を抱えているのだが、此方は広大過ぎるからと、匙を投げているのが実状であった。

 空中からの国境線監視は、国力もだが監視する地域が広すぎてはどうにもならぬと言うのが、両国の実感であった。

 

 

――大アジア主義者(グレート・アジア)

 フランス領インドシナ帰りの人間が中心となって、チャイナ南方で武力蜂起を敢行した。

 その数約3万。

 瞬く間に勢力としての基盤となる都市を掌握した。

 チャイナ政府が軍の主力を北方、チャイナ共産党討伐に集めた隙を突いた格好だった。

 地方軍閥からも兵を動員していた為、その勢いを止められる兵力がチャイナ南方には存在しておらず、大アジア主義者(グレート・アジア)は破竹の勢いでチャイナ南方の沿岸域を掌握していく。

 そしてフランス領インドシナとの国境線地帯まで勢力を拡張させた時点で自らの望む新国家、チャイナ共和国 ―― 南チャイナの建国を宣言する事となる。

 腐敗し天命を失ったチャイナ政府を打倒し、チャイナに敵対的な諸勢力*2を国内から追い払い、チャイナ人を中心に諸族の王道楽土を作り出すのだと高らかに謳っていた。

 

 

――ジャパン系日本人

 武器の供与に絡んで大アジア主義者(グレート・アジア)と接触したロシア系日本人(日本政府工作員)は、交渉を進めるうちにとんでもないものを見る事となる。

 南チャイナ軍で活躍するジャパン系日本人だ。

 義士将校と慕われ、政治的な意味合いと役割を持った高級指揮官こそ居ないが、ジャパン系日本人将校たちは南チャイナ軍で重要な役どころを担っていた。

 その報告を受けて唖然とした日本政府。

 慌てて詳細と身元の確認を行う様に指示を出した。

 隠されている事でも無く、それどころか彼ら自身が自慢げに言う為、詳細は直ぐに判明した。

 北日本(ジャパン)邦国軍出身であり、大アジア主義(グレート・アジア)に賛同して軍を抜け、国を抜けてやって来たと言う事。

 総数は15名。

 フランス領インドシナでの戦乱を戦い抜き、生き残れた男たちはそれだけであった。

 日本政府は頭を抱えた。

 北日本(ジャパン)邦国に確認した所、確かにジャパン系日本人であると言う事であった。

 アジアを憂い、アジアの大義に殉じる為、軍を出て、国を捨てたのだと言う。

 日本政府は激怒した。

 日本政府は関東処分以来、名誉欲に取りつかれた様に見える旧帝国(ジャパン)軍人が、一事があれば何をしでかすか判らないと動向を警戒しており、北日本(ジャパン)政府に対しても行動の把握を命じていた。

 にも拘らず、北日本(ジャパン)政府は旧帝国(ジャパン)軍人が軍を辞め、國を出た事を報告しなかったのだ。

 しかもその理由が、ミスや失念していたからなどでは無く意図的なもの ―― 大アジア主義者(グレート・アジア)へ賛同した者たちへの情、身内意識による隠蔽である。

 日本政府が激怒するのも当然であった。

 しかも、ひっそりと活躍しているならまだしも、南チャイナの建国宣言以降は公然とマスコミに名前も顔も晒し、その活躍の詳細を語っているのだ。

 曰く、アジアの曙 ―― 世界史に於ける再興を目指すのだ、と。

 この事態に日本政府はフランス(活躍した場の主)が知るのも時間の問題であると判断し、自らの手で処断(ケジメ)を付ける事を決断する。

 北日本(ジャパン)邦国で情報の隠蔽に関わっていた全ての軍と政府関係者の処罰、服務規程違反による公職追放と被選挙権のはく奪、公安警察による身辺監視の実施が決定した。

 ジャパン帝国からの伝統で、名誉を重んじる社会である北日本(ジャパン)邦国に於いて、この内容は事実上の社会的死刑であった。

 そして、南チャイナ軍に参加した者たちへは物理的な死を与える積りであった。

 だが、実行前にフランスの情報機関が気付いた。

 即座にフランス政府は日本に対し遺憾の意(早急な原因と対応、そして謝罪の要求)を告げる。

 日本政府は素直に折れた。

 掴んでいる限りの情報を伝達し、その上で早急な処分(・・)の実施を約束した。

 謝罪 ―― 謝意に関しても、フランスが満足する回答(誠意とは金額)を用意した。

 1つは装備更新によって二線級はおろか練習用からも外され保管されていた車両の提供である。

 具体的にはフランス領インドシナで今最も必要とされ、かつフランスで用意するのは難しい装甲車、96式装輪装甲車200台の無償提供だ。

 そしてもう1つは、F-9戦闘機の海外売却開始時に於ける優先権である。

 フランスが欲するものを、欲するよりも少し多く用意する。

 この日本の提案をフランスは、満面の笑みと共に受け入れた。*3

 フランスが解決すれば、後は義士を自称する名誉乞食将校である。

 日本はフランスと共同で抹殺作戦を敢行した。

 少数のフランス領インドシナに残っていた者たちに対しては、非正規特殊部隊(オメガ・ユニット)による暗殺を実行した。

 夜間、トンキン湾の母艦おおすみを発ったV-22垂直離着陸機で現地へ高速で侵出し襲撃、そして撤退すると言う早業は、レーダーなど持たないベトナム独立派で対処できるものでは無かった。

 対して、人数の多いチャイナに居る者たちは無慈悲な処罰が実行された。

 南チャイナのチャイナ人を買収し、ジャパン系日本人に大東亜の為の壮行会(・・・)と称した宴会を行わせ、そこをステルス戦闘機であるF-3戦闘機で爆撃したのだ。

 現地に先行していた現地工作員が現地を確認し、レーザーで誘導した爆撃は、狙い誤る事なく目標となった宴会場を直撃した。

 念の為、と4発も叩き込まれたレーザー誘導2,000lb.爆弾は、爆心地を文字通り消し飛ばした。

 

 

――南チャイナ

 ジャパン系日本人将校たちに行われた爆撃。

 内陸の、南チャイナの領域であるにも関わらず正体に関わる情報を一切残さなかった高度な爆撃は、そうであるが故に、犯人が誰であるかを南チャイナに理解させていた。

 尚、ロシア系日本人(日本政府工作員)との交渉に携わっていた南チャイナの要人は、交渉の場の雑談でその点を率直に尋ねた。

 返答は笑顔だった。

 コーカソイド系らしからぬ曖昧な笑い(アルカイックスマイル)だった。

 何も言わぬその姿に、チャイナ人は怖気を感じ、以後、その点に触れる事は無かった。

 

 

 

 

 

*1

 TAIとは、トヨタ資本の民需向け航空機開発製造メーカーである。

 トヨタが航空機の製造に進出した理由は、その自動車メーカーとしての生産力が、このタイムスリップ後の世界では十分に発揮させられないと言う現実を睨んだものであった。

 シベリア開発などでの需要は旺盛であったが、それが乗用車の需要と言う訳では無かった為、工場を持て余したのだ。

 この持て余した工場と行員の転用先として考えられたのが、航空機の製造であったのだ。

 配下のスバルが航空機部門を持っていた為、それを中核として国内の中小規模の航空機メーカーを買収しTAIとして再編成したのだ。

 航空機開発メーカーの雄である三菱重工が日本政府の要請もあって拡大した日本の領域を縦横に飛び回れる中型以上の旅客機開発と製造を指向していた為、これ幸いと日本連邦外への輸出などを想定した小規模旅客機の開発と販売を商売の主軸とした。

 尚、TAIとしては小規模旅客機販売だけに終始する積りは無く、技術を研鑽し、最終的には大型旅客機の開発を行う積りであった。

 トヨタの航空機分野への進出を見て臍を噛んだのは、ホンダであった。

 優秀な航空機部門を持っていたが、その全てをタイムスリップで失った為である。

 とは言え、その開発データは残されていた為、再出発を決意する事となる。

 

 

*2

 この時点でロシア系日本人(日本政府)と好意的接触が行われていた為、南チャイナは慎重に外夷(ジャパン・アングロ)と敵対する文言を宣言から排除していた。

 その事に、大アジア主義者(グレート・アジア)でも過激派に属する人間は不満の声を上げていたのだが、実際問題として、フランスは兎も角として日本やアメリカと敵対して勝てると思う程に南チャイナの指導層は夢を見て居なかった。

 

 

*3

 この時点で、フランス領インドシナの紛争の天秤はフランスに傾きつつあったと言うのが大きい。

 勝者としての余裕があったのだ。

 フランス本土の対ドイツ部隊を除く、世界中のフランス軍を後先考えずに投入した結果でもあった。

 戦意に於いて不足の無いベトナム独立派であったが、大した後ろ盾も無しに世界有数の大国と戦い続ける事は困難であった。

 チャイナからの人や物資の融通(密輸)は、日本のP-4対地監視機が展開し、それに連動したフランス軍の掃討部隊が活動しだすと共に、急速に減少していく事となる。

 更に致命的であったのが、義勇兵として来ていた大アジア主義者(グレート・アジア)が南チャイナの建国に前後して、フランス領インドシナでの戦いに向けた戦意を喪失した事であった。

 その多くが、早急に帰国し南チャイナで地位を得るという事に関心を移していたのだ。

 これでは大アジア主義者(グレート・アジア)が戦力になる筈も無かった。

 その他、迫りつつある対ドイツ戦争を考えた場合、陸空の重要な戦力供出を期待できる同盟国としての日本の機嫌を損なう訳にはいかないと言う生臭い理由もあった。

 フランス領インドシナの戦乱が拡大した原因に日本の人間が関わっていた事は腹立たしいが、所詮は海外領(ドミニオン)の出来事であり、フランス人の死者は余り出ていない。

 それよりも本土たるフランスの防衛こそが最優先課題なのだ。

 フランス本土に戦禍を及ぼさせない為、日本を引き回さねばならないと考えていた。

 その意味で今回の日本の失敗(・・)天祐(神の助け)であると神に感謝をささげた程であった。

 傲慢さで知られるフランス人であったが、その程度の計算は行っていた。

 

 




2020/02/15 文章修正
2020/04/28 文章修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

084 チャイナ動乱-3

+

 南チャイナの建国宣言に、チャイナ政府は慌てる事となる。

 3個師団も投入すれば粉砕できそうな、木っ端な軍閥に毛の生えた程度の軍しか持たない南チャイナだが時期が悪かった。

 チャイナ政府軍は主力をチャイナ共産党打倒の為に動かしており、首都である南京の直衛2個師団を除けば柔らかな下腹部とも言えるチャイナ南部沿岸域に残っている戦力は軽装の警備部隊程度なのだ。

 それも、かき集めても1個師団にも満たない規模だ。

 即座の鎮圧は困難な状況であった。

 とは言え、無視する訳には行かない。

 警部部隊は敗北し続け、既に幾つもの都市が南チャイナの支配下に入っている。

 フランス領インドシナで戦い生き残って来た兵士たちは、ジャパン系日本人将校の教育もあって、一筋縄ではいかない軍へと育っていたのだから。

 ドイツ式の教育と装備を持ったチャイナ政府軍主力ならまだしも、碌な訓練も装備も与えられていない治安維持を主たる役割とする様な部隊で抵抗出来る筈も無かった。

 勢力拡張の勢いの激しさは、1月で南シナ海に面した沿岸域を掌握した事にも表れていた。

 チャイナ政府としてはいっそ政治的外交的な面倒が起きても、南チャイナが広州湾市(フランス)香港市(ブリテン)と衝突する事を期待したが、両市の周辺を南チャイナが掌握しても、何のトラブルにも発展する事は無かった。

 アジアの優位性を声高に主張する大アジア主義(グレート・アジア)の南チャイナであったが、同時に、己の分と言うものを弁えていた。

 少なくとも()は勝てないと自重出来たのだ。

 この為、チャイナ政府は南チャイナに対して当座、己のみで対処せざるを得なくなった。

 大急ぎで徴兵を行って軍を作り出す。

 3ヶ月で10万の軍を作り出した。

 訓練など受けず、装備も火器は旧式で軍服も碌に支給されていない、近代以前の軍隊であったが、それでも10万の兵である。

 これに、チャイナ共産党討伐部隊から引き抜いた10万の精鋭部隊を加えて20万、巨大な南チャイナ討伐軍を編成した。

 チャイナ政府は南チャイナを決して甘く見てはいなかった。

 否、南チャイナへの恐怖と言うよりも、己の基盤の危うさへの自覚であった。

 チャイナの地で広く人口に膾炙する様になった易姓革命への恐怖が、チャイナ政府への反発の()が小さいうちに、全力で鎮圧しようと言う意思に繋がったのだ。

 

 

――南チャイナ討伐戦

 速やかな南チャイナの討伐を望んだチャイナ政府は、討伐軍の指揮官に対して早期の実行を厳命した。

 この為、討伐軍は訓練不十分の中で出征する事となる。

 だが進軍は順調に行かなかった。

 携行する食料その他の物資はチャイナ共産党討伐軍が優先されて少なく、では征路上の村々から徴発しようとすればチャイナ政府への反発から十分に得られなかった。

 この為、一部指揮官は非常の手段である(・・・・・・・・)と宣言し、強制徴発を行い、村々の反発を買う有様であった。

 否。

 南チャイナ討伐軍では無く、チャイナ政府への支持が失われつつあったのだ。

 20万の将兵は、通過する都市や村の人々の視線からその事を敏感に感じ取っていた。

 苦難と共に南へと進軍する南チャイナ討伐軍に対し、南チャイナ軍は重装備こそ乏しかったが戦意は天を突かんばかりとなっていた。

 住民の協力を得て、戦闘の準備を進める。

 時間が進む毎に志願者が続出し、その総兵力は8万を優に上回っていた。

 その様は現代的な軍隊とは言い難かったが、その目は偉大なチャイナ復興への思いに燃えていた。

 とは言え南チャイナ軍の指揮官は、情熱とヤル気だけで装備と数に優れる南チャイナ討伐軍に勝てると思う程に呑気では無かった。

 故に、策を弄した。

 調略を、南チャイナ討伐軍(・・・・・・・・)に仕掛けたのだ。

 狙うのは一般の人々からの敵意に晒され心が疲弊した徴兵部隊、そして功名心に逸った精鋭部隊指揮官だ。

 元より、ある日突然に兵隊にさせられた人々の集まりである徴兵部隊の調略は簡単であった。

 精鋭部隊の指揮官は、南チャイナ軍に下ればチャイナ政府軍の時代よりも優遇する事を約束した。

 チャイナ政府の十年来の敵であるチャイナ共産党討伐から外され、功を立てる機会を奪われたと認識していた為、優遇を約束した調略に応じる事となった。

 見事な調略であった。

 その成果が、両軍の対決時に出る。

 戦闘が開始されると共に、何と南チャイナ討伐軍20万の軍勢から8万もの兵が離脱、南チャイナ軍に付いたのだ。

 敵を前に4割もの兵が離反したのだ。

 その大多数が質の悪い数合わせの徴兵部隊であったとは言え、南チャイナ討伐軍としては堪ったものでは無かった。

 しかも、寝返りに前後して特攻部隊が司令部を強襲、討伐軍指揮官が戦死したのだ。

 師団以下の各部隊の指揮系統が生き残っているとは言え、これでは規律を持った軍隊では無く武器を持っただけの集団へと成り下がるしか無かった。

 南チャイナ討伐軍は潰走する事と成る。

 

 

――南チャイナ

 存亡を懸けた大決戦で大々的な勝利を得た南チャイナ軍は、呼応した部隊や降伏した部隊を吸収し、更には志願兵を得て20万の大軍へと成長する。

 不足する重装備は、チャイナ政府軍の遺棄装備で補充された。

 とは言え未だ軍としての体裁を整えたとはとても言えない状態であった。

 だが、南チャイナ軍にゆっくりとしている時間は無かった。

 チャイナ政府軍の主力がチャイナ共産党討伐の為に出征している今こそが、チャイナ政府を討ち滅ぼす絶好のチャンスなのだから。

 2ヶ月掛けて軍を再編成 ―― 3つの軍団司令部と17個師団体制へと再編成すると、戦略機動が可能な約5万の将兵、精鋭3個師団によるチャイナ政府のある南京市攻略作戦を開始した。

 目標はチャイナ政府の打倒、ではない。

 首都である南京市の攻略である。

 これは、軍事的な要求では無く、政治的な目的の為であった。

 大決戦での勝利によって、チャイナ南部域の大衆の熱狂的な支持を集める事に成功した南チャイナは、更にチャイナ政府の定める首都たる南京市を攻略する事で、チャイナ南部の雄としての立場を確立させる積りであった。

 そこまで勢力を拡大すればチャイナ政府軍の主力を敵としても簡単に敗北する事は無くなり、であればチャイナ政府とチャイナ共産党の衝突の隙を窺い、チャイナの全てを治める事が可能になるだろう。

 又、南チャイナにはチャイナ政府やチャイナ共産党と比べると、決定的に欠けているものがあり、その事がこの難しい攻勢を命じた側面があった。

 欠けているもの、それは後ろ盾(・・・)である。

 チャイナ政府にはドイツが、チャイナ共産党にはソ連がそれぞれ居る(※1)。

 だが南チャイナには居ないのだ。

 チャイナの領土を侵食するアメリカ、ブリテン、フランスとの交渉は、南チャイナの存在意義(外夷の打ち払い)からして不可能だった。

 残るG4 ―― 日本は交渉の為の接触を試みても、一切が拒否されていた。

 チャイナの民族自立と国際連盟が掲げる内政不干渉の原則を理由に挙げられては、何も言い返せる事は無かった。

 更には、日本は国際連盟安全保障理事会にて内政不干渉の原則を基に、チャイナの内戦に於いて諸勢力へ加勢する事、或は支援に関わる交渉をする事を禁止する宣言を採択させる始末であった。

 これによって南チャイナは国際連盟加盟国、世界経済の8割以上との交渉の道を断たれたのだ。

 劇的な戦力拡大も、経済的支援も得られる見込みの無い南チャイナは、その存続の為には何としてもチャイナ政府の権威を失墜させる必要性があった。

 南チャイナ軍は、チャイナの民に自らの正統性を示す為、南京攻略を大々的に宣言し、出征する事と成る。

 

 

――チャイナ政府

 余りの状況の悪さに、激怒したチャイナ政府であったが、同時に激怒し過ぎて冷静になっていた。

 チャイナ共産党討伐軍から戦力を引き抜いて、南チャイナ軍への対応に充てる ―― と言うのが簡単には出来なかった。

 既に戦力の衝突が始まっており、安易な戦力の抽出と転用は戦局に手酷い影響を与える可能性があったからである。

 軍参謀団の報告に、その夜、蒋介石は老酒を浴びる程飲んだ。

 翌日、即座に転用できる可能な限りの戦力を計算し、防衛計画を立てる様に厳命した。

 命令する方は簡単であるが、命令される方は堪ったものでは無い。

 とは言え、命が懸かっている。

 軍参謀団は必死になって対応に努めた。

 各軍閥に声を掛け、戦後の恩賞を対価に2万の兵を動員する事に成功した。

 戦力としては大隊や中隊、大きいものでも連隊規模に届かない小規模戦力の寄せ集めであったが、その練度は決して低いものでは無かった。

 元より南京に駐留していた1個師団と併せれば、将兵の数だけで言えば同等の戦力を揃える事に成功した。

 その上で軍参謀団は蒋介石の許可を取り、切り札(ワイルドカード)を切る交渉を行った。

 ドイツ軍軍事顧問団である。

 最新鋭のⅣ号戦車を中心とした増強装甲連隊規模の戦力は、今のチャイナ政府軍南京守備部隊にとって宝石よりも価値のある存在であった。

 ドイツはチャイナ政府が約束した膨大な対価に、ドイツ軍事顧問団がチャイナ義勇軍として参戦する許可を出す事となった。

 

 

――南京攻防戦

 ほぼ同数のチャイナ政府軍と南チャイナ軍の衝突は、長江を挟む形で始まった。

 両軍共に、この時代のチャイナに於いては精鋭と言って良く、戦術は多彩であり、運動も的確で在り、白兵戦となっても共に簡単に崩れる事は無かった。

 とは言え、戦車や装甲車の不足(※2)もあってチャイナ政府軍はじりじりと後退し、最終的には南京市に立て籠もる事となった。

 だがそれはチャイナ政府軍参謀団とドイツ軍事顧問団とで練られた防衛計画であった。

 南京市に誘い出された南チャイナ軍は、都市攻略戦を始めると共に動きが止まった。

 それが狙いだったのだ。

 最初から南京市に籠っていれば警戒されると判断し、南京市外周である程度の交戦をした上で籠城してみせたのだ。

 その事に気付かなかった南チャイナ軍は、チャイナ政府軍による航空偵察によって、その戦力と指揮系統をつぶさに把握される事となる(※3)。

 そして翌日、チャイナ政府軍はありったけの航空機を爆装し、事前に把握した目標への総攻撃を下命した。

 戦闘機や爆撃機、果ては練習機にすら火炎瓶を詰め込んでの一大空爆戦である。

 攻撃開始から半日も経ずして南チャイナ軍の指揮系統は寸断され、組織戦闘能力を喪失した。

 そこへ、止めとして近隣の都市に隠蔽させていたドイツ人チャイナ義勇軍が突撃した。

 狙うのは南チャイナ軍の司令部だ。

 後に電撃戦(ブリッツ・クリーク)とも呼称される航空機による近接支援の下での戦車と装甲車による突破戦術は南チャイナ軍の戦意を粉砕し、勝利を決定づける事となった。

 南京市は見事な勝利と共に、チャイナ政府の手に残される事となる。

 

 

 

 

 

(※1)

 チャイナ共産党とソ連の関係が表沙汰になっている訳では無かった。

 だがソ連がドイツが仲介しようともチャイナ政府と距離を取り、そしてチャイナ共産党の軍には余り輸出された例の無い(誰も買わない)ソ連製の戦闘機があるのだ。

 目聡い者は、ソ連とチャイナ共産党の関係を見誤る事は無かった。

 例え公式の外交関係が無かったとしても。

 

 

(※2)

 チャイナ政府軍にとって極めて腹立たしい事に、南チャイナ軍の戦車も装甲車も自動車も、全てが元チャイナ政府軍のものであった。

 南チャイナ軍に寝返った指揮官が、装備と部隊を丸ごと無傷で南チャイナ軍に持ち込んだのだ。

 しかも、戦車の装甲に書かれていたチャイナ政府軍を示す国章にわざわざに×を入れ、その横に南チャイナの国章を入れると言う煽りを行っていた。

 蒋介石も怒りの余りに昼間、軍参謀団の前で白酒を飲み、南チャイナへ暴言の限りを叫ぶと乾した杯を床に叩きつけるほどであった。

 

 

(※3)

 とは言え、この時点での南チャイナ軍に戦闘機は疎か偵察機や連絡機の類も無い為、チャイナ政府軍側の航空行動を抑止する事など出来る筈も無かった。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

A.D.1942
085 チャイナ動乱-4


+

 南チャイナが南京市を攻略できなかった事 ―― 独立国家としての基盤を作れなかった事を日本は問題視しなかった。

 チャイナの分裂を期待する日本であったが、既にチャイナは中国と比較して南チャイナを含めて四分五裂どころか6分割状態(※1)であるのだから。

 しかも最大勢力であるチャイナ政府はチャイナ共産党と本格的な戦争状態に突入しており、南チャイナが国家としての基盤が脆くあっても早急に問題となる様な状況には無いのだ。

 陸の国境を接する事の無い対岸の大火事とばかりに、呑気に眺めていた。

 だが、この状況を幸いとして動く者たちも居た。

 アメリカだ。

 

 

――アメリカ

 フロンティア共和国の国境線で度重なった紛争の戦費と密入国者阻止に必要とされる経費は、アメリカにとっても軽い負担では無かった。

 これを如何に削減するか。

 アメリカ政府では幾つもの検討が行われた。

 チャイナとの和解、そしてチャイナの努力による密入国を抑制するプランは早々に破棄された。

 この10年に積み上げられてきたチャイナへのアメリカの不信は、それ程に深いものであった。

 チャイナにも言い分はあった。

 そもそもチャイナからすれば、先祖伝来であるチャイナの大地に侵略してきたのはアメリカであり列強(ジャパン・アングロ)なのだから。

 とは言え、フロンティア共和国はアメリカとチャイナの間で正式に結ばれた国際条約で独立した国家であるのだ。

 国際連盟に正式に加盟もしている。

 如何にチャイナ人が感情的に受け入れがたくとも、それを国際社会が受け入れる筈も無かった。

 この感情に基づく拗れ、そして何よりもチャイナの悪癖 ―― 物事への判断を恣意的に実施し、自分に都合よく解釈し行動する癖を発揮している事が、アメリカにチャイナとの和解が不可能である事を教えていた(※2)。

 最終的に1つの行動が決定される。

 緩衝国家の建国(・・・・・・・)である。

 フロンティア共和国とチャイナの間に国家を作り上げ、物理的に距離を取らせようと言う判断であった。

 とは言え、緩衝国家が自立した国家として成り立つまでに必要とされるコストは決して安価とは言えぬ為、コスト削減と言う視点から見た時に妥当な選択肢とは言えなかった。

 この判断を変えたのは、グアム特別自治州(在日米軍)経由で日本から教えられた情報であった。

 緩衝国家として仮定されていたモンゴルの地に、世界有数の地下資源、将来に於いて重要となるレアアースが大量に眠っているとの情報であった(※3)。

 この情報を得たアメリカ政府は決断した。

 

 

――南モンゴル共和国

 元よりチャイナ北部のモンゴル地域では独立に向けた機運があった。

 チャイナ人の支配に対する反発が強かったと言うのも理由にある。

 だがそれ以上に、フロンティア共和国が建国されるに伴って流入してきたチャイナ人によって、従来のモンゴル住人の生活が脅かされる様になったと言うのが大きい。

 これはその地理条件から、一獲千金を夢見てフロンティア共和国に密入国を狙った人間が集まってきていたためだ。

 又、フロンティア共和国から追放されたチャイナ人が、故郷に戻ることなく、モンゴル地域に居付いたと言うのも大きな理由だ。

 活気は増えたが、同時に治安が悪化していたのだ。

 この状況にうんざりした地元の民が、独立を口にする様になっていたのだ。

 そこに、アメリカが接触した。

 チャイナのモンゴル人は、独立に向けて動き出す事となった。

 地元の有力者や軍閥を巻き込んでいく。

 有力者の多くはチャイナ人であったが、チャイナへの帰属よりも一族の利益を重んじる彼らは、独立で得られる利益に、涎を流してソロバンを弾いていた。

 軍閥は簡単であった。

 独立独歩の気風がある彼らは、南京の地から好き勝手な指示を出してくるチャイナ政府に強い反発を抱いていたのだから。

 特に、アメリカとの戦争やチャイナ共産党との抗争で資金や兵の拠出を強いられ続けてきた事への怒りは深かった。

 しかも、供出したにも拘らず与えられるものは何もなかった。

 勝利すらも無かった(・・・・・・・・・)

 軍閥がチャイナ政府を見限るのも当然であった。

 こうした条件が重なった結果、チャイナ北部の独立の火の手はアメリカが点火して半年もせぬうちに大火へと育つ事となる。

 

 

 

 

 

(※1)

 広大な中国の領域をそのままチャイナとして見た場合、6つに分裂していた。

 中央を抑え最大勢力であるチャイナ政府。

 北西部に基盤を持つチャイナ共産党。

 南沿岸域を掌握しつつある南チャイナ。

 北東部でアメリカの庇護下にあるフロンティア共和国。

 西方の日本の支援によって独立を果たした東トルキスタン共和国。

 そしてチベットだ。

 チベットはまだ完全に独立した訳では無いが、チャイナの弱体化へ向けた努力の一環として日本がチベット独立派に接触しており、武器の融通のみならず軍事教官の派遣、その他もろもろの支援を行っていた。

 本格的な独立に向けた武装蜂起を行っていない理由は、日本の諸外国支援向けの外交資源が東トルキスタン共和国絡みで消耗していたと言う事が大きい。

 如何に日本が強大であるとは言え、1国を独立させて自立させるまで支援すると言う事は簡単では無いし、時間の掛かるものであったのだから。

 特に速成ながらも内政向けの人員 ―― 所謂官僚機構の構築は、本当に大変なものであった。

 内閣府に設けられている情報組織隷下の研究機関では10年20年と時間が掛かるだろうとの報告を上げていた程であった。

 簡単に権力争いを通り越して武力抗争すら始めかねない人々を宥め賺して、ケツを叩いて、日本から派遣された東トルキスタン共和国支援官僚団は必死になって仕事をしていた。

だがそれでも、東トルキスタン共和国がウイグルの地を完全に掌握するまでには至っていなかった。

 それが、チャイナ共産党とソ連との東トルキスタン共和国内を経由する陸路(密輸ルート)が、維持されている理由でもあった。

 唯一、順調に進んでいたのは独立に向けた軍組織の構築位であった。

 こちらはシベリア共和国軍の建軍などで経験を積んできた自衛隊なればこそであった。

 尚、装備に関してはインドの安定に寄与するという理由でブリテンを巻き込み、インドなどで流通していた旧式装備を買い上げて供与していた。

 とは言え、それで全てを賄える筈も無いし、一般には流通しない機関銃や野砲などの問題がある為、日本製の武器も供与されてはいた。

 尚、日本製の武器とは言うが、正しい意味での日本製(Made in Japan)では無かった。

 日本はシベリア共和国の日本連邦への編入後、対ソ連を前提とした膨大な数の装備を整える必要性からウラジオストク近郊に軍需工廠を設けていたのだ。

 10Km四方はあろうかと言う、日本本土では考えられない程に広大な敷地が用意されたウラジオストク軍需工廠であったが、シベリア共和国軍向けの装備製造が一段落すると、暇を持て余す事となる。

 その為、諸外国(発展途上国)への供与用の非高度武器製造も担う事となっていたのだ。

 そしてフランスへ提供された96式装輪装甲車、予備装備として保管されていた同車両200両が整備と改修されたのも、本ウラジオストク工廠であった。

 

 

(※2)

 アメリカの判断材料には、グアム特別自治州(在日米軍)から送られた、中国100年史の情報もあった。

 世界第2位の経済大国に成り上がるまでの経緯、成り上がってからの傍若無人なふるまい、そして米国との全面的な対立。

 アメリカはチャイナを、手を携える国家として不適格であると判断していた。

 

 

(※3)

 日本はレアアースの情報を、アメリカがチャイナ分割へ前のめりになる為の餌として使っていた。

 この時点で日本は、海底からのレアアース回収技術を確立させて居た為、チャイナにある地下資源はさして魅力的なものでは無かったと言うのが大きい。

 それよりは、アメリカがチャイナの大地に縛られて足抜け出来なくなる方が、日本としては利益が大きかった。

 日本の国内には、アジアは日本人の利益圏であり、その独占へと向けた努力をするべきだと言う声が一定数見られていた。

 ある種の大アジア主義(リメンバー・インペリアルジャパン)であったが、日本政府が真剣に応じる事は無かった。

 利益を独占すると言う事は、面倒事も全て背負い込むと言う事だからだ。

 アジア ―― ユーラシア大陸の面倒事と言えばソ連とチャイナと言う2つの国家だ。

 それを日本一国で対処するなどという事は、面倒などと言う言葉で言い表す事は出来ない事態と言えるだろう。

 日本は世界の警察官(面倒事of面倒事)をする積りは無かった。

 共存共栄の美名の下、多少の利益と共に応能負担とばかりに出来る国家へと面倒事を押し付ける気満々であった。

 それが、アメリカの背中を押した理由であった。

 

 

 

 

 

 




2020/02/19 文章修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

086 チャイナ騒乱-5

+

 チャイナ北辺(内モンゴル)で始まった独立運動-闘争の報告に、蒋介石は一瞬、呼吸を忘れた。

 即座に北方に拠点を置いていた軍閥に対して討伐を命令しようとするが、果たせなかった。

 連絡を図るも電話には出ず、使者を送っても門前払いを受ける始末だった。

 何をしているのかとチャイナ政府内の不満が沸点に到達する寸前、独立運動組織がラジオ放送を行った。

 チャイナに混乱を齎し続けているチャイナ政府への非難、独立に向けた理念の公表、独立を図る領域の宣言、国際社会に向けて民族自決に基づく行動への支援を訴える内容などが並んでいた。

 ありきたりな言葉を連ねた放送に、チャイナ政府の人間が動かされる事は無かった。

 チャイナの歴史に於いて、時の為政者に叛旗を翻す者は佃煮に出来る程に居たのだから。

 今代に於いて、その末席に連なり、破滅する者が出て来ただけだ。

 考える事は如何に鎮圧するか、そして鎮圧を実行するべき軍閥が何故か反応を見せないと言う事への疑問であった。

 その回答が、ラジオ放送の最後に与えられた。

 南モンゴル独立委員会を自称する集団に名を連ねていたのだ、軍閥の首魁が。

 寝返っていた事を知ったチャイナ政府は激怒した。

 必ずやこの恥ずべき叛徒を撃ち滅ぼさねばならぬと決心した。

 だが問題は、討ち滅ぼす為の軍勢であった。

 現時点でチャイナ政府軍は、各軍閥を併せて150万の将兵が居ると公称していた。

 だがその中で約34万余りの兵は、動員する事の出来ない警察的な戦力 ―― 地方や軍閥の警備部隊であった。

 残るは約116万だが、此方も自由に動かせる訳では無かった。

 チャイナ共産党との戦いに約90万の兵が動員されており、更には南チャイナに対する対応で20万の兵が投入されていたのだ(※1)。

 今現在で、チャイナ政府が黄河以北で自由に動かせる兵は10万と居なかった。

 約4個師団の兵、だが同時にドイツ式の訓練を受け装備を持った部隊であり、地方の軍閥や蜂起した民衆を潰すなどはそう難しい話では無い、()()()()

 南モンゴル独立派が拠点とする場所が、フロンティア共和国との国境線付近の都市に置かれていなければ。

 そこは、アメリカとの間で結ばれた条約 ――アメリカ-チャイナ1940 融和条約によってチャイナ政府軍が武装しては入れぬ()()()()()と定められた場所であった。

 これにはチャイナ政府も頭を抱えざるを得なかった。

 融和条約を破り、非武装地帯の叛徒(南モンゴル独立派)の本拠を叩かんとチャイナ政府が軍を展開させればアメリカは激烈な反応を見せるだろう。

 望む者の居ない、チャイナとアメリカの全面戦争となる可能性すら存在していた。

 チャイナ政府は可能性に恐怖した。

 既にチャイナ共産党に南チャイナと干戈を交えているのだ。ここで更にもう一つ敵を増やす余裕は無かった。

 それも相手は世界の支配国家(ジャパン・アングロ)の序列第2位の国力を誇るアメリカだ。

 チャイナ政府は、チャイナ(世界の中心国家として)の自負として負ける積りはなかった。

 だが同時に、勝てると断言する事が出来ない事を自覚してもいた。

 それ故に、チャイナ政府が最初に行った事は、南モンゴル独立派へ対して分離独立の愚を説いて、武器を捨てて帰順する事を望むと言う穏当な内容の公式声明(ステートメント)の発表であった。

 

 

――チャイナ共産党

 チャイナ共産党が未来に支配するべき土地の分断を認めるが如きチャイナ政府の行動は、チャイナ共産党として断固として認める事の出来ぬ話であった。

 とは言え、現状で3倍近い兵力差でチャイナ政府軍から攻められている状況では、出来る事など限られていた。

 別段、会戦などでチャイナ共産党軍が致命的な敗北を喫した訳では無い。

 そもそも、大規模な会戦からは徹底的に逃れる戦略 ―― 人民の海に潜り、地積を防壁とするゲリラ戦を行っていたのだ。

 決定的な敗北などあり得なかった。

 このゲリラ戦あればこそ、装備のみならず兵の質と数でも劣るチャイナ共産党軍が、チャイナ政府軍に抵抗する事が出来ているのだと言えた。

 だが決定的な敗北こそ免れていても、地積を防壁とする遅滞戦術は支配領域を常に失い続けているのと同義であった。

 チャイナ共産党の支配領域にはまだ余裕があるが、それでも何時かは追いつめられてしまうだろう。

 チャイナ共産党指導部は現状に危機感を抱いていた。

 その打開策は1つ。

 チャイナ政府軍の攻勢正面をチャイナ共産党から離すのだ。

 攻勢が止まれば仕切り直しも図る事が出来るだろう。

 その為の奇貨として南モンゴルの独立運動を利用しようと決断した。

 

 

――国際連盟

 南モンゴル独立派の声明に対していち早く好意的な反応を示したのはアメリカであった。

 アメリカは大統領談話として、アジアに民族自決の思想に基づいた新しい民主主義国家の誕生を歓迎すると内容を公表した。

 そこには、アメリカとして南モンゴル独立派との対話を行う用意がある事も含まれて居た。

 国際社会 ―― 特に列強(ビック・ゲームプレイヤー)と呼ばれる国々は、その談話に隠された意味、或は意図を誤る事無く理解していた。

 即ち、南モンゴル独立派の(ケツ持ち)にはアメリカが居ると言う宣言だ。

 好意的に受け止めたのは言わずともがな、G4(ジャパン・アングロ)であった。

 日本は、楽しいチャイナ分割ゲームに参加者が増える事に手を叩いて喜んでいた。

 ブリテンは、取りあえず誰か(チャイナ)が不幸になる事を愉しんでいた。

 フランスは、苦労させられた大アジア主義者(叛徒のボランティア)の元締めなチャイナが悲惨な目に遭う事に、自分たちの復讐(予定)分の()()()だと笑っていた。

 対して非G4(ドイツ・ソ連)は大いに慌てる事となる。

 ドイツは、チャイナが本格的な紛争状態に突入する事で、()()()が滞る危険性に怯えた。

 ソ連は、事実上の多民族国家であるが為に、民族自決の原理を掲げた独立運動へ支援(介入)すると言うアメリカの行為に恐怖した。

 それ以外の国家 ―― 例えばイタリアは、世界の向こう側での出来事であると興味を示す事すら無かった。

 誰もチャイナに同情する事は無かった。

 だが同情は無くとも、打算による加勢はあった。

 ソ連である。

 ソ連はアメリカの行いに恐怖したが為、それを再発させない様にと世界を巻き込む事を決意したのだ。

 その舞台に選んだのは国際連盟であった。

 国際連盟総会の場にてソ連代表は、アメリカによる非国際連盟加盟国(チャイナ)国内の独立運動への好意的対応は明確な内政干渉であり、国際連盟総会はその良識に基づいてアメリカへと大統領談話撤回を要求する声明を発表するべきであるとの緊急動議を提出したのだ。

 国際連盟総会の場は紛糾する事になる。

 ソ連に複数の国が加勢の声を上げたからだ。

 国際連盟を支配する安全保障理事会常任理事国(ジャパン・アングロ)、その専横に抗議の声を上げた格好であった。

 この為、国際連盟総会でソ連の緊急動議は却下される事無く、だが同時にソ連の望んだ声明が採択される事も無く、議論が交わされる事となった。

 主題は()()()()()の是非。

 国際連盟が、その加盟国や非加盟国で発生した人道の関わる問題に対してどう対処するべきなのかと言う議論だ。

 それは幾度も国際連盟の場でも議論された、内政干渉と言う言葉の定義 ―― 人道(正義)の有様と、そこに国際連盟(社会)がどう関わって良いのかが、問い直される事となる(※3)。

 

 

――アメリカ

 喧々諤々とした議論が国際連盟総会の場で繰り広げられるのを横目に、フロンティア共和国(アメリカ)は隠す所も無くあけっぴろげに南モンゴル独立派に接触した(※2)。

 フロンティア共和国政府は、公然と政府公使を南モンゴル独立派へと派遣し、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()なる長ったらしい名前を付けた会議の開催を呼びかけたのだ。

 南モンゴル独立派はフロンティア共和国の提案を快諾し、即座に会議の開催を決めた。

 しかも開催場所や日時すらも即決で決められた。

 アメリカによる事前協議(仕込み)の賜物であったのだが、世界は国際連盟総会での議論が遅々として進まぬ事とは比較出来ぬ素早さに衝撃を受けるのであった。

 議論が進まぬ理由は、多くの代表が正義を心根に置いて真剣にやればこそであったが、一般の人々の目には会議が踊っている(ウィーン会議の如し)と見えていた。

 激論の交わされる国際連盟総会をしり目に、南モンゴル独立派とフロンティア共和国(アメリカ)の会議が開催された。

 此方も、実にあけっぴろげであった。

 その様は、交渉の場にフロンティア共和国やアメリカ日本、果てはチャイナのマスコミまで連れ込んでいる辺りにも表れていた。

 しかも、歓迎式典は当然として両代表による会談までマスコミに公開されたのだ。

 情報の提供と言う意味で至れり尽くせりの()()を受けた各国各社のマスコミは、自然と会議に対して好意的な解釈を添えて世界に情報発信を行った。

 批判的な色彩を加えたのは、唯一、チャイナのマスコミだけであった。

 そんな会議の場で南モンゴル独立派は、マスコミに向けてチャイナからの離脱と民族自決への渇望を熱く語った。

 チャイナ人と歴代チャイナ政府による搾取と併せて、だ。

 歴史を知るチャイナ人からすれば南モンゴル独立派 ―― モンゴル系チャイナ人の主張は噴飯物であったが、その判りやすい物語設定(ストーリー)が、世界にウケた。

 国際社会の、世界中の国々の世論が南モンゴル独立派支持へと変わった。

 国際的な世論の変化は、国際連盟総会の議論の流れも変えた。

 内政干渉への問題の是非はとも角として、この眼前の南モンゴル独立派に関しては支持しても良いのではないか、と(※4)。

 アメリカの目論み通りであった。

 

 

――チャイナ

 蒋介石はアメリカに続いて国際社会に激怒した。

 その怒りのままに痛飲した。

 翌日、赤ら顔のまま部下に対し内モンゴルは化外の地であり、彼らは蛮族らしくチャイナの徳を拒否したのだと語った。

 部下も、その内容を渋々ではあったが受け入れた。

 チャイナ政府軍参謀団は、安堵と共に受け入れていた。

 ある意味で現実的な対応であった。

 戦争の回避を優先したチャイナ政府の判断であった。

 問題は、民主主義国家とは言えぬチャイナであったが、国民世論の動向を無視できないと言う事。

 そしてチャイナ政府の()には、煽ると言う意味で世論操作を自由に行える相手が居たと言う事だ。

 チャイナ共産党は、チャイナ政府の判断を嘲笑うかの様に世論戦を開始する。

 諸外国の走狗、チャイナの伝統を穢す分離独立派からチャイナ北辺を解放するべきである ―― チャイナ政府などの諸外国との交渉を重ねる事で、現実を理解していた人間はまだしも、そうでないチャイナの一般大衆は()()()()()()()と言う枕詞の付いた扇動に、簡単に乗ってしまった。

 チャイナ政府は頭を抱える事になる。

 

 

 

 

 

(※1)

 この時点で南チャイナと対峙するのは20万の軍と警備部隊から引き抜いた10万の、30万の将兵であった。

 数字としては大きいが、守備範囲が広い ―― 長江以南と沿岸域へと広域的に展開する必要があった為、南チャイナに対して攻勢に出られる程の戦力では無かった。

 又、チャイナ南部の都市農村がチャイナ政府軍と南チャイナ軍の両軍による徴発によって物資の備蓄が著しく低下している為、軍の能動的な活動を支える力が低下していたと言うのも大きい。

 この為、チャイナ政府は南チャイナ討伐を、チャイナ共産党討伐終了後に予定していた。

 それまでは物資の備蓄と守勢攻撃に、チャイナ政府軍の行動を限定させる腹積もりであった。

 

 

(※2)

 あけっぴろげも何も、元から南モンゴル独立派の背中を押して独立運動 ―― 武装蜂起を行う様に誘導したのがアメリカである。

 それ故に正々堂々と正面から関係を持つ事で、裏側の事情を国際社会の場に対して誤魔化せるのだと言う認識をアメリカは抱いていた。

 だが、人はそれを()()と言う。

 

 

(※3)

 民族独立と言う美名と正義は、ヴェルサイユ体制(世界大戦の後始末)によって確立した理念であった。

 この理念あればこそ、世界大戦の後に独立を果たせた国家があった。

 まがう事無き正義。

 だが同時に、正義であれば全てを認められる訳では無かった。

 多くの国が多かれ少なかれ、或は規模の大きさを問わずとして国内に民族問題を抱えていた為、そこを正義の名の下で欲深い国家(ジャパン・アングロ)に突かれ、国家が分断させられては堪らないからだ。

 国際連盟総会が紛糾するのも当然であった。

 

 

(※4)

 同じ民族独立を掲げたベトナム独立派が、世論の支持はおろか独立運動の是非が議題となっていた国際連盟総会で話題にも上がらなかった事と、ある意味で対照的であった。

 誰もが(ジャパン・アングロ)遊ばれる事(内政干渉)を恐れたが、同時に、虎の()を踏む事も恐れていたのだった。

 哀れ、ベトナム独立派は国際社会に於いて孤児であった。

 ドイツ、或はソ連に余力があれば、或は支援もあり得たが、現状でそれを期待する事など出来る筈も無かった。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

087 チャイナ動乱-6

+

 チャイナ政府とフロンティア共和国-アメリカとの全面衝突を画策するチャイナ共産党であったが、チャイナ共産党の領域がチャイナ政府軍90万によって包囲されている以上は、現地に纏まった規模の工作部隊を送り込む事は難しかった。

 そもそも、フロンティア共和国もアメリカも南モンゴル独立派への手厚い支援を宣言はしているが軍事部隊をチャイナの領土内には進出させては居なかった。

 これではチャイナ政府軍とアメリカ軍とを衝突させる事は難しかった。

 頭を悩ませたチャイナ共産党。

 最終的には()()()を投入する事とした。

 ソ連から供与された双発レシプロ爆撃機だ。

 他の3機の戦闘機(複葉機)と一緒に1機だけ、分解され部品の姿で送られて来ていたのだ。

 ()()()と名付けられていた爆撃機は、チャイナ共産党幹部が自らの非常時脱出用機として確保していたのだ。

 それを投入する決断をしたのだ。

 狙ったのは南モンゴル独立派の根拠地だ。

 チャイナ共産党の領域から侵出するには航続距離が厳しい為、爆弾はごく少数となった。

 その代わりチャイナ民族の大団結への帰順を要求する旨の掛かれた紙 ―― (ビラ)爆弾を搭載する事と成った。

 チャイナ政府軍機に偽装する為、塗装も国籍マークも変えた機体は、チャイナ共産党の希望を載せて飛ぶ事となる。

 

 

――空爆

 白昼堂々と低空で侵入し、機体を多くの人間の耳目に晒しながら行われた南モンゴル独立派の拠点への爆撃は、成果を挙げた。

 さもありなん。

 南モンゴル独立派に戦闘機はおろか防空施設 ―― 対空攻撃手段も無かったのだから失敗する理由が無かった。

 拠点中にビラを撒き、拠点の町にあってひときわ大きな建物に爆弾を直撃させたのだ。

 純軍事的には大成功であった。

 問題は、その大きな建物が南モンゴル独立派が使用する施設でも無ければ軍事施設の類でも無かった事だった。

 病院であったのだ。

 女性や子供、老人。

 老いも若きも、怪我をした者も、病気をした者も、その少なからぬ人々が傷つき、死んだ。

 その惨状を世界中から集まっていたメディアが目にし、それぞれの国へと発信する事となる。

 チャイナの蛮行を非難する声が世界中に溢れる事となった。

 多くのマスコミ関係者が持っていた日本製のカメラとフィルム(※1)は、爆撃機の胴体に付けられたチャイナ政府軍機を示す国籍マークを鮮やかに捉えていたのだから。

 フロンティア共和国政府は、即座に人道に基づいた支援を宣言した。

 アメリカや日本も()()()()()を宣言する。

 国際連盟の総会でも、警告も無しに病院に空爆を行った事が問題であるとされた。

 総会での議論で()()()()()()と言う概念も提唱され、この新概念に基づいてチャイナの行動が批判されるに至った。

 国際連盟総会の場の空気がこうもチャイナに批判的になっては、流石のソ連(反G4主義者)とて“アメリカ(ジャパン・アングロ)の覇権主義による被害者チャイナ”などと言う従来の主張を繰り返す事は出来なかった。

 国際世論は、チャイナ批判一色に染まる事となる。

 対してチャイナの世論は、政府への賛歌に染まった。

 チャイナの民衆は、その大地を侵す外夷(ジャパン・アングロ)に対し弱腰であったチャイナ政府へ不満を高めていた。

 そこにチャイナ政府は、チャイナからの分離独立と言う王道に背いた叛徒に対し空爆と言う絶対の意思()を示してみせたのだ。

 これを支持せぬ筈が無かった。

 そしてチャイナ政府は、大いに混乱していた。

 

 

――チャイナ政府

 国内からの称賛と国外からの批判を浴びたチャイナ政府が先ず行おうとしたのは事実関係の確認、そして犯人探しであった。

 だが、事態はその様な事を悠長に行える程にゆっくりとしてはいなかった。

 フロンティア共和国が、()()()()部隊を南モンゴル独立派本拠地へと派遣する事を宣言したのだ。

 人道支援部隊は()()()()()の高い部隊だ。

 要するに、フロンティア共和国軍の医療部隊に護衛部隊が付いた部隊(ユニット)であった。

 その意味する所はフロンティア共和国軍の越境である。

 チャイナ政府として断じて許せる話では無かった。

 駐チャイナフロンティア共和国大使を呼び出し、フロンティア共和国の行動はどれほどの美名を付けたとしても明白な侵略であると厳重な抗議を行おうとした。

 だが出来なかった。

 コーカソイド系のフロンティア共和国大使が開口一番に行ったのは、チャイナ政府の()()に対する非難であったから。

 その上で、文明国として未開国家の蛮行は断じて許容する事は出来ないとまで宣言された。

 チャイナ政府は面食らい、そして怒りに震えた。

 蛮行云々はどうでも良かった。

 只、自らの国を()()()()などと罵られた事が許せなかった。

 チャイナ政府の矜持を持った外交代表は、外交官の役目を忘れたかの様に血相を変え、怒鳴る様に自衛権の行使を宣言した。

 それは事実上の宣戦布告である ―― そうフロンティア共和国大使は冷静に指摘した。

 双方ともに血圧の上がった状態で行われた対話は、だが最終的には決裂(開戦)の寸前で立ち止まる事が出来た。

 1つは、フロンティア共和国が派遣する部隊が、医師こそ軍医ではあったが、純然たる善意に基づいた義勇であったと言う事。

 そして護衛部隊が軍部隊では無く(果てしなく類似ではあるが)、民間軍事企業(PMSC)が担当すると言う事であったのだ。

 チャイナへの配慮、振り上げた拳の下ろし所は用意されていたのだ。

 全てを飲み込んで人道支援部隊の受け入れを口にする蒋介石。

 だが全ては終った(メデタシ メデタシ)、そんな訳は無かった。

 フロンティア共和国大使が、この発端となった非人道的な爆撃の責任の所在を口にしたのだ。

 外交代表は、その言葉に何も答える事は出来なかった。

 チャイナ政府部内でも責任の追及 ―― 実行者の究明は行われていたのだが、現時点では一切が不明であった。

 その事を外交の場で馬鹿正直に言える筈も無かった。

 この為、外交代表はある意味で最悪の言葉を返事とした。

 チャイナの()()()()である、と。

 この一言がフロンティア共和国、そしてアメリカに対して、かの爆撃を実行したのがチャイナ政府であったと()()させる事となったのだから。

 

 

――アメリカ

 アメリカは当初、チャイナ政府の姿勢からなし崩しの形で南モンゴルの独立が果たせるのではないかと見ていた。

 形式としてチャイナ内の自治国のまま、だが最終的にアメリカの影響下にある独立国家としての立場を得ると言う形だ。

 チャイナの面子とアメリカの実利を両立させる()()()()()()()等と認識していた。

 その認識を壊したのが、南モンゴル独立派拠点への爆撃であった。

 事前の警告も無しに行われた爆撃は、チャイナ政府の強い意志が込められているとアメリカは認識した。

 それは、戦争のリスクが高まる事を意味していた。

 グアム自治州(在日米軍)からも警告のレポートが出されていた。

 だがアメリカは、己が試算した、南モンゴル領域を掌握する事で得られる経済的な好影響を鑑み、そのリスクを敢えて侵す事を決断した。

 将来の戦略物資であるレアメタルの確保は、アメリカ経済の未来に関わると言う認識を抱いた為であった。

 又、アメリカ軍の将校の一部には、チャイナとの戦争を好機と捉える人間が居た。

 シベリア共和国独立戦争以来となる名誉の稼ぎ時、と言う様な認識だ。

 しかもシベリア共和国独立戦争とは違い、先進化したアメリカ軍単独で後進国(チャイナ)を殴る事になるのだ。

 簡単に英雄に成れる素晴らしい戦争(ビッグ・チャンス)の到来だと認識したのも仕方のない事であった。

 様々な理由からアメリカは、期待を込めて戦争の準備に取り掛かる事となる。

 

 

――国際連盟総会

 世界中に広まったチャイナへの非難の世論、その民意に押される形で国際連盟総会は1つの結論と1つの行動を選択した。

 結論は、国際連盟加盟国が一丸となった、チャイナに対する非難声明を発表すると言う事(※2)。

 行動は、チャイナ政府と南モンゴル独立派への対話の提案であった。

 結論は兎も角として、行動に関してはある意味で玉虫色的なものであった。

 とは言え、それまで自らが国際連盟加盟国と非加盟国を問わずタブーとしていた内政干渉の分野に踏み込んだ提案であり、国際連盟総会の場が理想主義から実際的なものへと変化しつつある事を示していた。

 対話の場所は、自由上海市が選ばれた。

 いつの間にか国際連盟の管理都市となっていた上海であるが、そうであるが故に交渉を舞台とする事で、国際連盟の指導力(イニシアティブ)が発揮されやすいだろうとの判断があった。

 又、それ以外にも、そもそもアジアで外交の場として使える()()()の都市が他に無いと言うのも理由にあった。

 チャイナ政府からすれば日本やアメリカの影響下(G4の勢力圏下)にある都市は論外であったし、南モンゴル独立派にしてもチャイナの都市で行おうとすれば暗殺を警戒するだろう。

 この提案に併せて自由上海市に駐屯するイタリア軍部隊(海兵連隊)(※3)に対し、警備を厳重に行う様に要請する事と成る。

 

 

――チャイナ共産党

 南モンゴル独立派の拠点爆撃に成功し、チャイナ政府とフロンティア共和国/アメリカの関係悪化に歓声を上げたチャイナ共産党であったが、それが戦争へと繋がらなかった為、失望する事となる。

 チャイナ政府軍からの攻撃は、低調にはなったものの、その包囲が解かれた訳でも無い為、未だ苦境に陥ったままであったと言うのも大きい。

 この為、第2の矢、第3の矢を用意する事となる。

 チャイナ政府軍の包囲下に無い、隠れ潜んでいたチャイナ共産党組織に対し、上海での対話を破壊する様に厳命した。

 又、再度の南モンゴル独立派拠点への爆撃を行う事も決定した。

 とは言え、即座の出撃は不可能であった。

 無傷で生還した爆撃機であったが、ソ連から持ち込まれたエンジンの消耗品などは少なく、整備出来る人間も十分では無かった事が理由であった。

 チャイナ共産党は、ソ連に対して更なる支援を要求する事と成る。

 

 

――ソ連

 ユーラシア大陸東側で発生した危機は、ソ連の希望通りに推移していた。

 アメリカとチャイナの対立激化は、シベリア共和国の後背を支える2つの柱の1つが弱まる事を意味するのだ。

 ソ連にとって喜ばしい話であった。

 問題は、その対立の激化を更に促す為の支援をチャイナ共産党が要求している事であった。

 具体的には更なる爆撃機の供与、戦車の提供、武器弾薬の融通。

 その要求(欲しいモノ)リストを見たソ連のチャイナ共産党との窓口役は、余りにも厚顔無比な内容に怒るよりも先に呆れる始末であった。

 確かに装備の更新で余剰となった旧式の戦闘機や爆撃機、戦車などは存在していたが、それらも訓練に用いられたり売却されたり、或は鋳つぶして再資源化するソ連の大事な資産(※4)なのだ。

 チャイナ共産党(クレクレ乞食)の望むままに供与などする筈も無かった。

 とは言え、今のソ連にとってチャイナ共産党は大事な協力相手(子分)である為、その要求を無下にする訳にもいかず少なくない武器弾薬の提供を約束する事となった。

 

 

――自由上海市対話

 各国各勢力の思惑が入り乱れた中、開催されたチャイナ政府と南モンゴル独立派の対話は、最初っから紛糾する事となった。

 南モンゴル独立派が、拠点爆撃への謝罪と犯人(パイロット)の引き渡しを要求したからである。

 無論、色々な意味でチャイナ政府が受け入れられるものでは無かった。

 この為、チャイナ政府側は一言も答える事無く、チャイナからの分離独立を図る南モンゴル独立派を面罵するに至った。

 とは言え、即座に戦争に突入しそうかと言えば、そう言う訳でも無かった。

 互いに落としどころを探っている部分があった。

 戦争を何とか回避し、自分の主張を相手に飲ませようと努力し合う。

 正に外交が行われていた。

 だが5日目の朝、全てを台無しにする事態が発生した。

 テロだ。

 チャイナ共産党の秘密部隊が用意した爆発物を満載した自爆車両が、南モンゴル独立派代表団の乗った車列に突撃 ―― 自爆したのだ。

 自由上海市の流通の多い大通りでさく裂した爆弾は、死者重軽症者505名と言う大惨事を巻き起こす事となった。

 当然、南モンゴル独立派の面々も多くが即死した。

 そして犯行と同時に、自由上海市のみならずチャイナの主要都市で、チャイナからの離脱を図る南モンゴル独立派に対する制裁であると言う事の書かれたビラが盛大にまき散らされた。

 それはまるで、チャイナ政府が爆殺を行ったが如き書き方をされたビラであった。

 会場へと向かう途中に拾ったビラに、事態を理解できないチャイナ政府代表団であったが、そこを暴漢の一団が襲った。

 南モンゴル独立派代表団のかたき討ちだと、口々に叫んでいた。

 護衛として付いていたイタリア海兵連隊によって、暴漢は撃退され、幸いな事に死者は出なかったが、それでも負傷者は多数出た。

 文字通り、対話の舞台は爆散する事となる。

 

 

 

 

 

(※1)

 日本は、利用にデジタル環境を必要とするデジタルカメラの輸出に関しては諦めていた。

 その代わり、古参のカメラメーカーなどはこぞって新しくフィルムカメラを製造し、フルカラーのフィルムと共に輸出していた。

 一般(富裕層)向けに洒落たデザインを採用したコンパクトカメラの売れ行きも好調であったが、それ以上にマスコミ(映像報道関係者)向けに発売された機能を優先した無骨な一眼レフカメラは既存カメラを一掃する勢いで広がっていた。

 特にG4(ジャパン・アングロ)の領域では、日本製を使わない者は居ないと言う程に売れていた。

 

 

(※2)

 この決議の際、ソ連は棄権していた。

 いかな独裁国家のソ連とは言え、国際世論に対して真っ向から反旗を翻す選択を出来る程の国力を持っている訳では無い事の証拠であった。

 反G4筆頭と呼べるソ連がこの体たらくであった為、どの国も決議に於いて反対の票を出す事は無かった。

 

 

(※3)

 自由上海市に平時から駐屯する戦力は、イタリアの海兵連隊だけとなっている。

 イタリアの部隊が世界の反対側へと展開する事になった理由は2つある。

 1つは、チャイナの国際連盟離脱時に行われた国際連盟自由上海市総督部とチャイナ政府との交渉の結果であった。

 チャイナの国民世論と警戒感から、チャイナ政府が国際連盟自由上海総督部に対して上海に駐屯する軍はG4以外が出す事をお願いしたいと泣き付いたのだ。

 国際連盟自由上海総督部側はそれを受け入れた。

 但し、国際連盟自由上海総督部が緊急時と判断した際にはチャイナ政府の了解を得ずとも日本やアメリカなどの部隊を配置させる自由があると言う事を前提として、であった。

 又、その内容は書類として残されると共に、公開される事とされた。

 チャイナ国民に対しても公開される事に、チャイナ政府は難色を示した ―― チャイナの民の自尊心を傷つけるものであると主張したが、この点に関して国際連盟自由上海総督部が折れる事は無かった。

 国際連盟自由上海総督部の中で日本人出向者(日本国外務省スタッフ)が、文章にもせぬ秘密条約としていた場合、土壇場でチャイナ政府が戦力配置の自由に関する権限を反故にする可能性が高いと()()に主張した結果であった。

 結果、緊急時に於いてチャイナ政府が判断を誤らぬ(スケベ心を出さぬ)様に太い釘が刺される事となったのだ。

 2つ目は、国際連盟安全保障理事会理事国としてイタリアに要求された献身(オナー)であった。

 イタリアは安全保障理事会の名誉理事国となっていた。

 常任理事国(G4)の様な権限(議決への拒否権)こそ有しないが、それに準じた名誉と権利を持つ常任の理事国となっていたのだ。

 その対価、世界への献身が1個海兵連隊を世界の裏側へと常駐させる事であった。

 常駐させるのが師団規模であればイタリアとしても苦しかったが、1000人にも満たぬ小規模であり、しかも駐屯に掛かる経費は国際連盟から出される為、問題は低かった。

 又、派遣されているイタリア人将兵の士気も低くは無かった。

 それどころか派遣期間中の短期休暇などの際に、特権的に近隣の日本への旅行や買い物が認められていたりする為、人気の配置となっていた。

 

 

(※4)

 シベリア共和国独立(シベリア地帯を失って)以降、ソ連の経済や資源の状況は余裕を失っていた。

 人口(人材)の流出、世界経済(ジャパン・アングロ)との対立、軍事予算の圧迫がソ連経済の足を引っ張り続けていた。

 この状況下に於いてチャイナ共産党が望む様な、チャイナ共産党軍を近代化させられる規模の軍事物資を、売却では無く融通する事など出来る筈も無かった。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

088 チャイナ動乱-7

+

 チャイナ北辺(南モンゴル)を巡ってアメリカとチャイナの衝突 ―― 戦争の可能性が高まっている(コリジョンコースに乗った)事を把握した日本政府は、その分析を行った。

 その結果、勝利(目的達成)に関してアメリカが得る事は間違いないが、戦争自体は長期に渡るだろうと言うのが結論となった。

 過去の、日中戦争の経緯と経過に基づいた分析に因るものであった。

 アメリカは()()()の日本帝国とは比べ物にならない程の国力を誇っているが、それでも日本はアメリカとチャイナの戦争に関して、楽観視する事が出来なかった。

 戦争は国力だけでするものではなく、ましてや相手と行う行為であるのだ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()ものでは決してない。

 日中戦争時が良い前例と言えた。

 日本が如何に攻め込もうとも、逃げると決めた中国国民党政権は逃げに逃げ続け、日本が望んだ戦争の終結が果たされる事は無かったのだから。

 その情報を日本はアメリカに提供し、チャイナとの戦争の困難さを伝えていた。

 にも関わらず、アメリカの戦争に対する所見は全面戦争(国家総力戦)の必要は無いと言う極めて楽観的なものであった。

 これには日本政府も、グアム共和国(在日米軍)と一緒に頭を抱える事になる。

 ソ連と対峙する地域(シベリア共和国)を抱える日本の立場としては、戦争の長期化によって万が一にもフロンティア共和国(シベリア共和国の柔らかな下腹部)が不安定化されてしまっては困ると言うのが正直な感想であった。

 この為、日本は戦争の際にはアメリカが早期に勝利できる様に支援をする事を決定し、これをグアム共和国(在日米軍)を経由してアメリカに申し出ていた。*1

 申し出を受けたアメリカは、チャイナ相手の戦争(リブート・素晴らしい小さな戦争)であるにも関わらず真剣な態度を見せる日本に少しばかり困惑しながらも、支援が得られるのであればと申し出を受ける事とする。

 協力に関する詳細は最終的に[1942年 日本・アメリカ ユーラシア大陸に於ける協力協定]として纏められる事となる。*2

 

 

――アメリカ

 部隊と戦争物資の集積を開始する。

 1940年に実施した満州大演習並の正面兵力だけで1()0()()の機械化された戦力を用意する積りであった。

 本気で動員を掛ければ100万の軍勢を用意する事も簡単なのがアメリカと言う国家であるのだが、それは国家総力戦体制になればこそであった。

 そして今回、アメリカ政府はそこまでする積りは無かった。*3

 アメリカ陸軍からはフロンティア共和国に駐屯している完全充足状態の第11機械化師団だけを投入し、数的な主力はフロンティア共和国軍に任せる事としていた。

 逆に言えば、それだけの戦力がフロンティア共和国には存在していたのだ。

 優良歩兵部隊であり常設部隊でもある3個の機械化師団は4個の歩兵連隊を基幹とする20,000人規模の4単位師団 ―― 重師団(編制)であり、装備もハーフトラックやトラックなどで全部隊の完全な自動化を果たしていた。

 対戦車部隊も抜かりは無く、M2戦車乃至はM3対戦車自走砲部隊が1個連隊ほど付けられていた。

 列強クラスの国家の正規師団に劣る所の無い、堂々たる部隊だ。

 この他にも常設師団は2個、フロンティア共和国は保有していた。

 1個は機甲化師団。

 M2戦車とM3戦車を装備する3つの戦車連隊と、ハーフトラックで機械化された1個歩兵連隊で編制されている。

 1個は自動化師団。

 此方は師団と言う名前であるが実態は国境警備部隊であり、その主力はトラックやジープが機動展開する軽歩兵部隊であった。*4

 アメリカは自動化師団を除くフロンティア共和国の4個師団と第11機械化師団の約100,000の兵で機械化など()()されていない軽歩兵主体のチャイナに圧勝する積りであった。

 フロンティア共和国には動員を前提とした予備歩兵師団が7個存在していたが、アメリカはこれを行わない積りであった。

 この方針に対してアメリカ陸軍参謀組織は異を唱えた。

 占領地の治安維持活動には多くの人手が必要とされる為、フロンティア共和国軍予備歩兵師団を動員する必要性があると言う主張だった。

 だがそれをアメリカ政府は却下した。

 理由は、軍事では無く政治であった。

 或は経済(民意)と言えた。

 フロンティア共和国はアメリカの経済、或は産業界にとって金を生むガチョウ ―― 市場であると同時に東アジア領域に向けた生産拠点でもある為、投資家たちにとってフロンティア共和国の経済状況と云うものは重要な関心事であった。

 この様な背景がある為、フロンティア共和国の経済に悪影響を与える事が確実な兵の動員と言うものをアメリカ政府が選択できる筈が無かった。

 ある意味で慢心であり、その点に危惧を感じて上申する気骨のあるアメリカ陸軍将官も居たが、アメリカ政府は意に介する事無く反論した。

 実際に戦争を担当するアメリカ陸軍フロンティア共和国駐留軍司令部より、()()()()()()()()()()であるとの報告が上がっているのだ、と。

 アメリカ陸軍内部の不一致を問われる様な返答に、気骨ある将官も黙らざるを得なかった。

 この様にアメリカの軍と政府では戦争への楽観論がまん延していた。

 口さがないアメリカ政府高官は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()などと言い放つ有様であった。

 とは言え、兵の数として不足している事自体はアメリカ政府もアメリカ陸軍も等しく認める事であった。*5

 それ故に対策も採られていた。

 不断の努力を以って作り上げられた、ジェット戦闘機や大型爆撃機、対地攻撃機などを装備するアメリカ陸軍航空隊が、様々な名目でフロンティア共和国の地へと展開していた。

 アメリカ海軍も、日本との合同軍事演習と言う名目で空母に戦艦まで派遣していた。

 又、そもそもの兵力の不足自体に関しても()()と言うものがあった。

 友邦国である。

 常日頃から支援を行っているパルデス国(ユダヤ人国家)に、更なる支援を約束する事で2個の歩兵(非自動化)旅団を供出させていた。*6

 バルデス国の経済事情もあり、自動車などの装備は殆ど持たない軽歩兵の2個旅団であったが、支援の先渡しとしてフロンティア共和国で作られたトラックとジープが大量に融通され、促成の自動車化旅団へと変貌していた。

 そして本命と言えるのは朝鮮(コリア)共和国軍である。

 日本政府の了解の下、自動化師団が3個、フロンティア共和国に派遣される約束となっていた。*7

 3個師団2個旅団、フロンティア共和国軍が持つ7個の予備歩兵師団に比べれば規模は劣るが、それでも50,000を超える兵である為、アメリカ陸軍フロンティア共和国駐留軍司令部は戦争に自信を持っていた。

 

 

――チャイナ

 自由上海市対話の失敗と、その後のアメリカを代表とした国際世論 ―― テロの実行犯はチャイナである。その証拠にチャイナ政府代表に被害は無いが、南モンゴル代表団は死傷者が大量に出た! との声に、チャイナは恐怖した。

 弁解の声を上げようとするが、どの国もまともに取り合う事は無かった。

 国内のチャイナ排除を進めているアメリカや、そもそも対話する意思を見せない日本。

 関心を全く見せないブリテンやフランスは、まだ良い方であった。

 警備担当として面子を潰されたイタリアは取り付く島もない。

 同様に、自らの仕切りをぶち壊された国際連盟は怒り心頭で接触する事すら許されない有様であり、加盟各国も塩対応であった。

 国際連盟加盟国で唯一、接触し交渉の場を設ける事が出来たのはソ連だけであったが、成果は()()()()()()()()と言う程度であった。

 しかもその事を伝えるマスコミは、チャイナが公開した写真に対して「テロに遭う事は無さそうな会談」等とのキャプション(悪意のあるジョーク)を付ける始末だった。

 余りの四面楚歌の状況に、チャイナは戦争を覚悟した。

 南モンゴル独立派による武力蜂起と、アメリカの加勢は確実であると。

 だが同時に、チャイナはそこに光明も感じた。

 ()()()()()()()()()()()()()

 100万と号するチャイナ政府軍に対して、同規模の兵力を南モンゴル独立派にせよアメリカにせよ揃える事は不可能。

 正面装備で劣れども、規模で戦う事は出来る筈。

 蒋介石は老酒を飲みながら、熱く叫んでいた。

 チャイナ政府軍は戦争準備に取り掛かる。

 冷静なチャイナ政府軍参謀団は、自らが作り出した1940年度対アメリカ戦予測(レポート1940 ケース:ブルースター)を忘れてはいなかった。

 だがそれ故に、外夷(ジャパン・アングロ)に一矢報いんと練り上げて来た戦争計画(ブルー6)が存在した。

 

 奇しくも、その()()()()()()()()()()()が戦争の扉を開ける事となる。

 

 

 

 

 

 

*1

 支援内容の主なものは非戦闘部門であり、特に戦争で重要となる情報の提供 ―― 偵察衛星と気象衛星が収集した情報の提供であった。

 この時点で日本の偵察衛星は、ユーラシア大陸東部であればどの場所であってもレーダー衛星と光学衛星がそれぞれ1日1回は撮影出来る体制となっていた。

 気象衛星も、広大な日本連邦の領域(シベリアから南洋まで)をカバー出来る体制が構築されており、その範囲にチャイナの広大な国土も含まれて居た。

 

*2

 後に、ブリテンとフランスも加わったジャパン・アングロ情報協定(カイルアイズ)として発展改訂される事となる。

 4ヵ国の情報機関による情報と分析の共有が定められている。

 又、情報漏洩対策として各国に機密保護とスパイ対策への()()が定められた。

 尚、命名の由来は[1942年 日本・アメリカ ユーラシア大陸に於ける協力協定]が衛星情報の共有(提供)であった事から、ローマ神話の天空神(カイルス)から採られている。

 当初はギリシャ神話(ウーラノス)から命名する事も考えられたが、語感が悪かったと言う事と、ローマ帝国の繁栄(パクス・ロマーナ)へあやかる為として、カイルスの名前が使用される事となった。

 

*3

 日本陸上自衛隊の体制や在日米軍からの情報を得ていたアメリカは、将来的な陸軍の常備軍化を検討していた。

 だが現段階では実施されていない為、陸軍の各部隊を大規模に動員しようとすればアメリカの産業界から人を徴発する事に繋がる。

 それはアメリカ経済に対して好ましくない影響を過分に与えると、アメリカ政府は判断していた。

 又、アメリカの有権者はそれを望まないであろう事も理解していた。

 それ故にチャイナとの戦争は、南モンゴルの民へ義侠心から手を差し伸べていたアメリカに、()()()()()()()()()()()()事で始まる予定とされていた。

 

*4

 フロンティア共和国の国境線警備業務の多くは、建国時からの人手不足 ―― チャイナからの移民拒否が主な原因となった労働力の不足により、朝鮮(コリア)共和国の管理下にある民間軍事企業(PMSC)へ委託していた。

 とは言え建国して10年の月日が経過した現在では、欧州からのユダヤ人を筆頭にある程度の人々が移民して来ていた為、()()()()()が可能になりつつあった。

 その象徴が、この自動化師団であった。

 

*5

 アメリカ陸軍は、現時点(1942年次)でチャイナがアメリカに指向出来る戦力は政府軍や軍閥も含めて50万を超えていると認識していた。

 これに、南チャイナやチャイナ共産党と電撃的な妥協が行う事が出来れば、徴兵なども含めて倍近い戦力にする事も可能であると考えられていた。

 

*6

 この時点で2個の歩兵旅団は動員を行い、フロンティア共和国へ共同演習の名目で展開し、アメリカ陸軍の手ほどきによって自動車化の訓練を受けていた。

 尚、バルデス国は戦車や野砲の融通も望んで居た。

 だがアメリカはフロンティア共和国軍の充足が先であるとして、バルデス国軍に提供するのは戦争終結後であると突っ撥ねていた。

 

*7

 日本は、日本連邦の代表であり外交と防衛に関わる全権を統括するが、同時に、日本連邦に参加する各国の主権と独自性を全否定する事は無いという事が常々明言されており、今回の派兵に関してはそれが実証された形であった。

 アメリカの要請と朝鮮(コリア)共和国の希望を聞き、判断を下したのだ。

 とは言え、日本製装備を持ったまま朝鮮(コリア)共和国軍として派兵されるとなれば、日本連邦の根幹となる日本国憲法との兼ね合いに問題が出る為、これまでのコリア系日本人傭兵部隊(PMSC)と同様に、朝鮮(コリア)共和国軍から一度離れて、と言う形となった。

 尚、その装備に関しては、派兵の対価とは別にアメリカが提供すると言う事で話がついていた。

 コリア系日本人将兵は、日本連邦統合軍で支給されている日本製とは比べ物にならない ―― 新品ながらも洗練度合いの低い(古臭い)フロンティア共和国製のアメリカ式装備に四苦八苦しながら習熟訓練を行った。

 当初は、前例に倣って新しく軍事企業(PMSC)を立ち上げようとしたのだが、万を優に超える人間を管理出来るような組織が簡単に作れる筈も無かった為、最終的には朝鮮(コリア)共和国政府で管理する事となる。

 朝鮮(コリア)共和国内閣府の隷下に義援庁を設立し、義援庁特別義勇(ボランティア)団として派遣する形となったのだ。

 派遣される将兵の側からしても政府の管理下で派遣されると言う事で、身元や給与待遇が保障されるとして、歓迎される事となる。

 尚、日本が今回の派兵を認めたのは、朝鮮(コリア)共和国がどんな形であれ金を稼ぎ、経済が自立してくれるなら金の(外貨であるか)汚れ(獲得手段)も問わぬと言う姿勢であればこそであった。

 




2020/03/13 文章修正
2020/03/13 脚注改修
2020/03/14 文章修正
2020/03/24 脚注修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

089 チャイナ動乱-08

+

 アメリカとチャイナは共に戦争を決定していた。

 アメリカは、南モンゴルの領域の掌握と黄河以北の制圧に向けた作戦準備に余念が無かった。

 チャイナは、チャイナ共産党軍との戦いから戦力を抽出するなどして戦力をかき集める事に全力であった。 *1

 後は、両国とも如何に相手から手を出させるかと言う段階へと至っていた。

 正義の御旗(大義名分)を得るためには、決して自分の側から手出しはさせぬと、両国の軍司令部とも強く軍勢の手綱を握っていた。

 緊張感漂う前線。

 そんな最中、南モンゴルの空で()()()な事件が発生する事と成る。

 

 

――豊鎮市事件

 緊張が高まると同時に、チャイナ軍は航空機による南モンゴル領域の偵察に力を入れだした。

 これは地上 ―― 南モンゴル独立派の影響力が強い場所が、チャイナ政府関係者にとってもはや安全では無いと言う認識からであった。 *2

 南モンゴル独立派の軍勢や、アメリカ/フロンティア共和国が侵入して来ていないかを空から警戒していたのだ。

 長距離を長時間に亘って飛びながら地上を監視する必要がある為、チャイナ政府軍は大型の爆撃機をこの任務に宛てていた。

 その中の1機、ソ連から購入していた爆撃機が事件の発端となる。

 爆撃機はチャイナ政府軍の保有する機材では旧式の部類に入り、そうであるが故に選ばれた機材であった。

 開戦劈頭で失われても惜しく無い機材、そして乗組員であった。

 ある意味で、この乗組員の質の悪さが事件を引き起こす事に繋がる。

 ()()()、何時もの監視業務に飛んだ爆撃機の機影をアメリカの空中哨戒機(E-24)*3が搭載していたレーダーが把握した。

 レーダーの情報で、爆撃機の飛行コースが南モンゴル独立派の拠点へと向かっている事を把握したE-24のクルーは、アメリカ陸軍フロンティア共和国駐留軍司令部の航空指揮所へと報告する。

 報告を受けた航空指揮所は、この爆撃機の任務を、南モンゴル独立派の拠点への爆撃任務である可能性が高いと判断し、即座にフロンティア共和国の国境線付近に仮設された航空基地に対して緊急発進(スクランブル)を命令した。

 出撃したのは、速度に優れたF-1(セイバー)戦闘機だ。

 命令は、爆撃機の任務を阻止する事であった。

 この時点でのアメリカは、最新鋭のF-1戦闘機が立ちふさがればチャイナの爆撃機は簡単に任務を諦めるものと考えていた。

 だが、チャイナの爆撃機クルーは、F-1戦闘機が現れた場所を重要視した。

 接触した場所は叛徒(南モンゴル独立派)が領土と主張する場所でこそあったが、アメリカ空軍機が自在に飛ぶ事を許されているチャイナの領空 ―― フロンティア共和国の国境線から50㎞よりも遥かにチャイナの内側に入った場所であったのだ。

 レーダーによって遠距離から航空機の所在を把握できるE-24の存在を知らなかった爆撃機クルーは、F-1戦闘機が現れた理由を戦闘空中哨戒(CAP)任務の最中、爆撃機を発見したのだと認識した。

 即ち、アメリカ軍による侵略的軍事作戦が行われている最中だと認識したのだ。

 無線で緊急事態を宣言する。

 だがその後、後退する事は無かった。

 低空へと退避しつつも、進路はそのままであった。

 死ぬ危険性をおして(撃墜されたとしても)アメリカの侵略作戦の一端でも掴んでやると、愛国精神を発揮したのだ。

 称賛されるに相応しい爆撃機(チャイナ人)クルーの行動であったが、F-1戦闘機(アメリカ人)パイロットから見れば()()()()()()()()()()()()()()()()()()()に見えた。

 上海事件の頃から度重なった経験によってアメリカ軍人は、チャイナ人に良識と人道と言うものは期待できないという認識を持っていたが故、と言えた。

 無線にて状況を報告したF-1戦闘機パイロットは、併せて威嚇射撃の許可を求めた。

 危険を伴う要求であったが、航空指揮所はパイロットの判断の正しさを認め、実弾による威嚇射撃を許可した。

 ()()()()

 当然、良く狙って()()()()射撃だ。

 問題は狙われた側、爆撃機パイロットの質であった。

 射撃が警告として意図的に外されたのではなく、たまたま外れたのだと認識したのだ。

 爆撃機のコクピット脇を走った火線 ―― 曳光弾が大量に含まれて居た20㎜弾は、そうであるが故に、迫力を持っていた。

 パニックの様な心理に陥った爆撃機パイロットは回避行動、急旋回を試みた。

 低空で乱暴な勢いで姿勢を変えようと言う事は、旧式であった爆撃機にとって許容できる操作では無かった。

 爆撃機は何かの冗談の様な動きで大地へと吸い込まれていった。 *4

 

 

――チャイナ

 チャイナの領空で、アメリカの戦闘機に、チャイナの爆撃機が撃墜された。

 この情報が流れると共に、チャイナ政府軍は事前の想定(対アメリカ戦争計画 ブルー6)通りに行動を起こした。

 アメリカが爆撃機を撃墜した事での宣伝*5を行ってはいたが、それこそがアメリカの侵略的行動を糊塗する為の謀略であると断じ、戦争計画を稼働させた。

 その第一歩が、()()()()()()()()()であった。

 浅ましくも南モンゴルなどと自称した叛徒の領域へ20,000を超える騎馬兵を解き放ち、村々に蓄えられている貴重品を筆頭に食料や燃料、家畜に飼葉などの様々なものを略奪し、奪えないものは焼き尽くす様に命令していた。

 南モンゴル独立派への嫌がらせであると同時に、アメリカ軍が南進してきた際の行動を鈍らそうと判断しての事であった。

 一般的な軍隊にとって武器弾薬は兎も角として食料の類は現地で賄うのが大半であり、チャイナ政府軍にとっても常識であった。

 併せて、燃料なども焼き尽くさせる事で、アメリカ軍の進軍を遅らせようと言う狙いがあった。

 ドイツ製の重戦車(Ⅳ号戦車)を筆頭とした各種機械化された重装備を揃えたチャイナ政府軍は、満州事件の頃とは比較にならない程に強化されてはいたのだが、それでもアメリカ軍と正面から戦えると()()する事は無かった。

 それ程に、ドイツ軍軍事顧問団に鍛えられていたチャイナ政府軍の参謀団は冷静であった。

 この南モンゴルと称する領域への焼き討ち作戦に並行して、黄河以北のチャイナ政府管理下にある市や村の全域に対して、避難指示を出した。

 此方も狙いは同じであった。

 この命令に老人や子供、そして女性が応じて避難を開始する。

 チャイナ政府軍は少なくないトラックを動員し、これを助けた。

 そして壮年の男性を中心とした外夷(ジャパン・アングロ)への敵意と血気に不足の無い人々は、チャイナ政府軍が配給する武器を持って山野に籠る事となる。

 ゲリラ戦の準備であった。

 チャイナ政府軍は国家の総力を挙げてアメリカと戦う積りであった。

 

 

――アメリカ

 チャイナが唐突に行った暴挙 ―― チャイナ北辺での焦土作戦は、その詳細が判ってくると共にアメリカへ大きな衝撃を与えた。

 アメリカにとってチャイナの行動は、人道に反するどころでは無い()()であった。

 だが呆然としている余裕は無かった。

 既にチャイナ政府軍の騎馬部隊に対して、南モンゴル独立派に与した軍閥が反撃を行ってはいたが、その成果は芳しく無かった。

 自由気ままに攻撃対象を選べるチャイナ政府軍騎馬部隊に対して、南モンゴル独立派の軍閥は装備の劣悪さ*6と守るべき領域の広さから、十分に対抗しきれずに居た。

 この為、南モンゴル独立派からアメリカに対して大至急の支援要請が出された。

 その悲鳴染みた要請に、アメリカは()()()()の名に於いてチャイナの領土へと部隊を進める事となる。

 アメリカ軍先遣部隊が国境線を越えた日、アメリカ-チャイナ戦争は宣戦布告が交わされる事無く勃発したのだった。

 

 

 

 

 

 

*1

 チャイナ政府は自由上海市対話の失敗を機に、チャイナ共産党への攻撃を控えさせた。

 アメリカとの戦争を睨んでの事であった。

 その動きを見たチャイナ共産党は、チャイナ政府へと密書を送った。

 チャイナに生きる人々の不倶戴天の敵である外夷(ジャパン・アングロ)、これを打ち払う為であればチャイナ共産党はチャイナ政府に協力する用意があるとの呼びかけであった。

 チャイナ政府はその呼びかけに応じた。

 数度の交渉の末、黄河以北の地で侵略者と戦う際の協力を定めた[河北防衛協定]が結ばれる事となった。

 この協定を締結するに当たり、チャイナ政府内部ではひと悶着があった。

 陰日向に戦乱を起こして跳梁していたチャイナ共産党 ―― 証拠の少ない邪推の類ではあったが、チャイナ政府関係者にとっては事実であった為、その言葉を信じるなどあり得ないし、協力するなど狂気の沙汰であると言う声が上がっていたのだ。

 だがそれを蒋介石は押し切った。

 ()()()とは言えチャイナ共産党と和睦するのは癪であり不快であったが、先ずは難敵アメリカとの戦いに全力を投じれるようにするのが肝要であるとの判断であった。

 実際、この蒋介石の決断あればこそ、チャイナ政府軍は総力をもってアメリカとの戦争に専念する事が可能となった。

 

*2

 実際問題として、南モンゴル独立派による組織的な襲撃こそ発生はしていないものの、モンゴル系の一般住人からチャイナ政府機関関係者が路上にて襲われる等の事件が頻発していた。

 

*3

 E-24とは日本が運用していたAWACS及びAEW機を手本として開発された機体である。

 積載力と航続能力に優れた爆撃機を基として、各種レーダーを搭載している。

 新鋭の機材であるが、()()()()()()()()()()を再度行わせない為にフロンティア共和国へと持ち込まれていた。

 又、爆撃機では無く、日本から輸入した民間航空機(TAI CC200シリーズ機)をベースに開発した、限定的ながらも航空管制能力も付与したXE-1(試験型航空哨戒管制機)も持ち込んでいた。

 CC200シリーズとはTAIが世界に売る為に開発した最初のモデルだった。

 アビオニクスなどこそデジタル化してはいたがエンジンにはアメリカ製の2000馬力級空冷エンジンを採用するなど、諸外国で運用と整備が出来るようにかなり配慮されていた。

 各国の航空機メーカーの旅客機と比較して隔絶した性能を誇っているが、値段も性能に比例している為、一般層を相手とした航空路線向けの機材としては売れなかった。

 売れたのは、富裕層を相手とした高価格高級(ファースト・クラス)路線だ。

 その性能の高さ ―― 騒音対策や振動対策、飛行速度や航続能力が高く評価され、富裕層を相手とした航空路線を持つ企業が採用する事となった。

 高級路線が売るべき先であると理解したTAIは、CC200シリーズに室温管理や座席の質感などで入念に選び抜いた設備を搭載したプレミアム・グレード(富裕層向け特別仕様機)を設定する。

 機体後部にバーの設備までオプションで取り付ける事の出来るCC200-PGモデルは、その狙い通り、空を旅する人間の憧れとなった。

 尚、XE-1となった機体はアメリカ空軍が技術研究用に購入した機体の1つであり、アメリカの航空会社がPGモデルの追加購入を行い、余剰となっていた標準モデル機を購入したものであった。

 尚、そのXE-1への改造に際してはエンタープライズ社が協力している。

 

*4

 後年、アメリカとチャイナの資料を突き合わせた結果、豊鎮市事件が全くの偶発的な出来事であり、不幸な事件であったと言う調査結果が国際連盟安全保障理事会に提出された。

 とは言えチャイナは、面子の問題もあって2000年代に入るまで本調査報告書をアメリカの陰謀と呼び続けた。

 

*5

 事件後から、アメリカは南モンゴル独立派へ非人道的な爆撃を再度行おうとしたチャイナ政府軍爆撃が、迎撃に出たアメリカ軍戦闘機の警告射撃に驚いて墜落したと言う事実を公表してはいた。

 だがチャイナは、その余りにも情けない(警告射撃にビビって墜落したという)理由であった事もあり、頑として受け入れる態度を見せる事は無かった。

 

*6

 南モンゴル独立軍の主力を成す軍閥は、辺境の弱小組織であり、車どころが馬さえ十分に持っていなかった。

 そして、()()()()()()()()、アメリカからの援助を期待して南モンゴル独立派へと参加したのだった。

 アメリカは、その要請に応えて武器弾薬や自動車の提供を約束していたが、今はまだ十分な量が供給されてはいなかった。

 戦争に必要な分 ―― コリア系日本人の自動化師団が優先された事が理由であった。

 




2020/03/18 文章修正
2020/03/24 脚注修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

090 チャイナ動乱-09









+

 チャイナはアメリカとの戦争状態に突入する少し前に、ドイツに対して強い調子で1つの事を要請していた。

 要請された内容は契約していた武器売却で、既に対価を引き渡し(チャイナ人労働者の渡欧)済みとなっている分の早期の、そして確実な引き渡しである。

 チャイナとしては当然の要請であり、ドイツとしては実に困った要請であった。

 この時点でチャイナとドイツの間で結ばれていた武器売却に関する契約で未履行分はⅣ号戦車36両を筆頭にして防空車両や半装軌装甲車など併せて200余両。

 そして新鋭のジェット戦闘機、FJ-2に搭載されるジェットエンジンの部品200セットであった、

 チャイナとして優先順位が高いのはジェットエンジンの供給であった。

 Ⅳ号戦車などの陸上装備は既にある程度まとまった数がチャイナ政府軍へと配備されており、チャイナとしても陸軍精鋭部隊の質に於いてはアメリカ陸軍にそう劣っていないと言う自負があった。

 だが空は違う。

 アメリカが持ち込んでいるF-1戦闘機(セイバー)に、今現在でチャイナ政府軍が装備する戦闘機群は()()に勝てないのだ。

 それ程の差が、ジェット戦闘機とレシプロ戦闘機の間には存在していたのだ。

 チャイナが、万難を排し最優先で、1セットでも多くのジェットエンジンを届ける様に要請するのも当然であった。

 対するドイツ。

 ジェットエンジンを揃える事自体は、自国向けに月産で二桁を超える勢いで量産 ―― 生産が本格化している事もあり、そう難しい話では無い。

 問題は、ドイツからチャイナへと送り届ける事であった。

 この数年で繰り返された物資と人員の輸送によってドイツの海洋力はかなり疲弊しており、早期に護衛を付けた船団を組む事は困難であったのだ。

 ドイツ政府が民間需要に影響を与えない範囲で借り上げ出来る大型優速の貨客船は払底状態にあり、護衛戦力に関しても同様であった。*1

 幾度かの折衝の末、ドイツとチャイナは1つの合意に達した。

 或は妥協。

 エンジンの輸送を行うと言うチャイナの要請は通り、だが同時にドイツの海洋力では輸送を行えないと言うドイツの要求も通る事となった。

 一般の物資に紛れさせ、第3国(ソ連)の輸送船で送ると言う合意である。

 様々な難題を抱えた合意であった。

 

 

――ソ連

 降って湧いた(チャイナへのエンジン輸送)話に、ソ連の外交官は単純に衝撃を受けた。

 ソ連人としての正直な感想として外交官は、チャイナとアメリカの戦争は心底どうでも良かった。

 その国力差からアメリカが勝つのは見えており、その経緯にソ連が絡んで利益を得る事は不可能である事は明白であったからだ。*2

 高みの見物といった態で居た所に持ち込まれた話にソ連外交官は自らの空耳を疑い、並んで座っていたドイツとチャイナの外交官の顔をまじまじと見ながらもう一度、言って欲しいと返した。

 だが現実は非情であった。

 ()()を把握したソ連外交官は、内心の混乱を顔に出す事無く政府へと連絡しますとだけ返した。

 報告、その第一報を受けたソ連政府は慌てた。

 小規模ながらもソ連が断続的に行っていたチャイナ共産党への援助(陸路の密輸)が諸外国に見つけられたのかと早合点したのだ。

 国際社会と国際連盟に知られる訳にはいかない非常事態であった。

 密輸ルートの場である東トルキスタン共和国、そこに駐屯する日本への警戒心からであった。

 ソ連は己の行いが(日本)の尾を踏みかねない危険な行為*3である事を理解してはいたのだから。

 秘密を知るソ連首脳陣は真っ青な顔で(脳内でwarningを鳴り響かせながら)、チャイナ共産党との関係断絶と、証拠隠滅*4を決定した。

 その中心は、秘密を知るチャイナ共産党首脳部の暗殺計画だ。

 だが計画が実行される前に第二報で詳細が届き、チャイナ共産党首脳部が歴史の闇に葬られる事は免れたのだった。

 尚、ドイツとチャイナの要請に関してソ連は、輸送を請け負う事は認めた。

 だがその条件として、輸送はあくまでもソ連の海運民業部門が請け負うと言う事と、輸送時にアメリカや国際連盟加盟国による臨検を受けて積み荷(エンジンセット)を接収された場合の責任に関してソ連側は一切を請け負わない事の文章化であった。

 ドイツとチャイナはそれを受け入れる事となる。

 

 

――チャイナ

 陸上戦力と航空戦力に隠れているが、チャイナは水上戦力の整備に関して手を抜いていると言う訳では無かった。

 とは言え重工業が発達しているとは言い難いチャイナである為、花形の水上戦力と呼べる戦艦や空母を自ら建造する事は出来ない。

 代わりに重視されたのは、魚雷艇に代表される沿岸域での戦闘艇であった。

 我が物顔でチャイナ近海を遊弋する外夷(ジャパン・アングロ)の大型艦群に対し、一矢報いる戦力の整備方針は、国力相応の現実的な選択であった。

 その方針の下で黄海のチャイナ海軍部隊には30隻を超える魚雷艇や、機雷母艦などが整備されていた。

 戦争と成れば、黄海に面したアメリカ海軍拠点に対して積極的機雷散布を行ってその行動を抑制し、それでも出撃して来るのであれば、魚雷艇による夜間雷撃を敢行する。

 それがチャイナ海軍の戦争計画であった。

 又、チャイナ海軍の象徴、チャイナの矜持としての公称10,000t級海防戦艦の整備計画も進んでいた。

 既にスウェーデンの地では進水を果たし、正式に鄭和の艦名が付けられた海防戦艦は、スウェーデンにて艤装工事が進められていた。

 問題は、この鄭和であった。

 チャイナ本土から遠く離れた欧州の地に在る為、アメリカとの戦争が勃発した場合に無事にチャイナへと来る事が出来るかが危惧されたのだ。

 幸い、兵装以外の艤装工事は完了しており、航行自体は可能な状態にあった。

 ここでチャイナは賭けに出る事を選択した。

 艤装未了ではあっても航行が可能であるなら、鄭和はチャイナへと回航させようと決めたのだ。

 当然、スウェーデンの造船関係者は大反対した。

 機関などの設置こそ完了してはいるが、艤装の終わっていない、海上公試もしていない艦をぶっつけ本番でチャイナまで遠征させようと言うのは、常識を持ったスウェーデン造船関係者にとって正気の沙汰では無かった。

 しかも、乗組員はチャイナ人だ。

 スウェーデンで一応の訓練を受けてはいたが、外洋航海の経験など殆ど無い、チャイナ人だ。

 早期回航を聞いたスウェーデン人は、発言したチャイナ人の正気を疑う程であった。

 とは言え、鄭和の建造に少なくない金を積まれていたスウェーデンは、チャイナに対して同情的ではあった。

 ()()()()()を持っていた。

 その情に従い、忠告をした。

 現状の鄭和をチャイナへと回航させるのは、冒険的決断を通り越した自殺的決断であると。

 だが、チャイナの決意は固かった。

 一週間近く及んだ交渉の結果、チャイナの要求通りに鄭和はチャイナへと回航される事が決定した。

 それが、後に“鄭和の大遠征”とも呼ばれる、苦難に満ちた大航海の始まりであった*5

 

 

 

 

 

 

*1

 チャイナへの護衛任務に重油を大量に消費し続けていた結果、ドイツ海軍は外洋での訓練を満足に行う事も出来なくなっており、艦艇乗組員の練度は1930年代に比べ明らかに低下していた。

 ドイツ政府は海軍に対して重油の補償を約束し、実際に追加で配分されてはいたのだが、その量は護衛任務で消費した量に比べて余りにも少なかった。

 これは陸軍の機械化率の上昇と、空軍のジェット戦闘機の配備によって、ドイツ軍全体での燃料の消費量が上昇している事が原因であった。

 この為、ドイツ海軍は練度も士気も下降傾向にあり、とてもではないがチャイナへの航海など出来る状態に無かった。

 

*2

 ソ連の駐ドイツ外交官は、ソ連が極秘裏に行っていたチャイナ共産党への支援と言う情報を持っていなかった。

 この為、アメリカとチャイナの衝突を純然たる対岸の火事として見ていた。

 後は、戦後にドイツの観戦武官が纏めるであろう戦争観戦記録(レポート)を得られる様に交渉すれば良い程度に考えていたのだ。

 

*3

 ソ連は、日本と言う国家がチャイナとチャイナ共産党に対して警戒心を持っている事を理解していた。

 日本から極秘裏に亡命してきた露国人から、未来のチャイナ ―― 中国の情報を得て居ればこそであった。

 ある意味で、日本の対チャイナ感情を一番よく把握しているのはソ連と言えるだろう。

 そして、未来の情報を得たソ連にとってもチャイナ共産党と言う存在は劇薬(将来の敵)であり、警戒対象であった。

 尚、チャイナ(チャイナ共産党の未来)に警戒しているにも関わらず支援を続けている理由は、未来の敵(チャイナ)よりも現在の敵(日本)と言う認識があればこそであった。

 現在を乗り越えねば未来は無い。

 ソ連にとって日本とはそれ程の難敵であった。

 

*4

 隠滅される証拠の中には、チャイナ共産党幹部の謀殺も含まれて居た。

 それ程にソ連は、日本が自らの領域(東トルキスタン共和国)に手を突っ込まれた事に対する怒りを恐れたのだ。

 そして、日本の支援を受けて発展するシベリア共和国をソ連は恐れたのだ。

 独立の経緯ゆえにソ連に対する敵意を隠そうともしないシベリア共和国は、日本の支援によって国力を大幅に増やしていた。

 人口、経済、軍事、あらゆる分野で()()と侮る事は出来ない相手へと育っていたのだから。

 

*5

 尚、その5年に及ぶ苦難の航海 ―― 日々は、現代のアルゴノーツとして歌劇や映画の題材となる。

 




2020/03/25 文章修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

091 チャイナ動乱-10

+

 チャイナ政府軍騎兵部隊による()()()()()()()()()は、アメリカに心理的衝撃を与えると共に、その戦争計画を大きく狂わせる事となった。

 アメリカにとってチャイナとの戦争は、攻勢で終始するものと考えられていたのだから。

 それが、開戦劈頭に20,000人規模、1個師団級の兵力による南モンゴル独立派 ―― 南モンゴル人への襲撃が行われたのだ。

 事前の戦争計画(イエロー・プラン)*1は完膚なきまでに破壊された。

 この時点でアメリカが即座に投入出来るのは、アメリカ第11機械化師団とフロンティア共和国の3個機械化師団だけであった。

 フロンティア共和国第4機甲師団は、戦車などの重装備が戦争前の大規模整備を行っている最中であり、とてもではないが動かせる状態に無かった。

 又、朝鮮(コリア)共和国軍やバルデス国軍の部隊は、装備への慣熟が十分では無いとの判断が下されていた。

 4個の機械化師団、80,000人を超える兵力は、軽装備の騎兵部隊でしかないチャイナ政府軍に対して圧倒的に優位ではあった。

 正面から戦うのであれば。

 チャイナ政府軍騎兵部隊が行っているのは、軽快を第1とした小隊規模以下の(グループ)に分かれての()()()()である。

 そこに戦闘を行おうと言う意思は無かった。

 それがチャイナ政府軍参謀本部の命令であった。

 南モンゴル独立軍(軍閥)が守る村や町は徹底的に避け、或は南モンゴル独立軍の騎馬部隊が捜索し攻撃を行おうとしても、逃げ切る事が困難な場合以外は応戦する事が無い程に、その命令は徹底されていた。

 チャイナ政府軍騎兵部隊が行っているのはゲリラ戦ですら無かったのだ。

 これでは()()()()()()になる筈が無かった。

 その上で問題となるのは、守るべき領域の広さであった。

 南モンゴル独立派が公式に()()と宣言している領域は1,000,000k㎡を超えていた。

 日本列島(本土)の倍以上の広大な大地であり、南モンゴル独立軍の小規模な(1000名にも満たない)騎馬部隊でどうにか出来る筈も無かった。

 南モンゴル独立派からの悲鳴のような支援要請に、アメリカ軍は即座に投入出来る部隊の全てを投入する事を決定した。

 だがそれは僅かに5個師団。

 グアム特別自治州軍(在日米軍)から駐フロンティア共和国アメリカ軍参謀本部に派遣されて来ていた在る米国系日本人参謀は、広げられた地図を前に「広大な南モンゴル(メニー メニー バスト)余りにも少ない兵力(メニー メニー フュー)」と呟き、この戦争の先行きに嘆息したのだった。

 

 

――南モンゴル攻防戦(D-Day+0~14)

 出来る限り急いで南モンゴルの大地へと進出した南モンゴル独立義勇軍(アメリカ軍)であったが、2週間を経過してもまだ掌握 ―― 安全を確保出来ているのは南モンゴルの1/3にも満たない領域であった。

 否、1/3()安全を確保出来ていたと言うのが実状であった。

 機械化師団の主要車両である半装軌車(ハーフトラック)の機械的信頼性や燃料の問題*2もあったが、何よりアメリカ側が掌握した南モンゴルの領域へチャイナ政府軍騎兵部隊が入り込まぬ様に、領域の外周に広く部隊を展開せざるを得なかったと言うのが大きかった。

 端的に言えば人手(ユニット)不足であった。

 この為、アメリカは開戦から一週間目には装備習熟の途上であった朝鮮(コリア)共和国軍とバルデス国軍の投入を決断していた。

 それぞれの国家から控え目ながらも否定的反応が出ていたが、アメリカはそれを押しきった。

 政治的な決断と言うよりも、それ程にチャイナ政府軍騎兵部隊による惨禍 ―― 先行したマスコミによって報道された状況が酷かったのだ。

 現場に居た両国将兵は、新聞などでそれらを知っていた為、早期参戦に対して積極的であった。

 「蛮行を許すな(ストップ・ソロー)!」を合言葉に、参戦命令を受けて速やかな準備を行って前線へと向かった。

 この都合3個師団2個旅団に側面を守らせつつ、アメリカは主力となる各師団を前進させた。*3

 

 陸上部隊の前進に併せて戦闘機や爆撃機、連絡機に輸送機までも投入した空中からのチャイナ政府軍騎兵部隊捜索に乗り出す事となる。

 だが、その状況 ―― 騎兵部隊が狩り出されるのを座視するチャイナ政府軍では無かった。

 即座に投入できる戦闘機を前線に張り付けて対応するのだった。

 熾烈な航空戦が勃発する事となる。

 とは言えアメリカ側は状況を楽観視していた。

 フロンティア共和国に配備されていた戦闘機の数的な主力は、制空戦闘機として優秀なF-1(セイバー)戦闘機であったのだ。

 旧式のレシプロ戦闘機しか保有していないチャイナの航空戦力など鎧袖一触である筈()()()のだ。

 だが現実は非情であった。

 戦闘の開始からアメリカ空軍機の被害は続出し続けていた。

 別に、チャイナの戦闘機がF-1戦闘機と戦える訳では無い。

 ドイツ人教官に鍛えられたチャイナ人パイロットが殊更に優秀であった訳でも無い。

 1対1だろうが2対1だろうが、余裕を持ってアメリカのパイロット達は勝利する事が出来ていた。*4

 だが、ここでも距離の問題 ―― チャイナの大地の広大さがアメリカの足を引っ張る事となる。

 食料と共に燃料も枯渇した南モンゴルでは、前線に航空基地を設営する事が不可能であったのだ。

 否、基地の設営自体は出来ていた。

 問題は航空基地が航空基地たる為に必要な燃料であった。

 後方からトラックなどで燃料を輸送しようにも、その輸送力は陸上戦力の補給と南モンゴルへの人道支援とで分け合う事となっている為、とてもではないが燃料消費の大きいジェット戦闘機を運用するのに必要とする量を備蓄出来ずにいたのだ。*5

 この為、結果として足が長いが鈍足な爆撃機や輸送機、連絡機などが捜索の為に単独で前線を飛ぶ事態が多発する事となってしまい、チャイナ戦闘機に襲われ撃墜される例が多発したのだ。

 

 特に爆撃機は大きい被害を受け続けており、爆撃機部隊指揮官は空中からの哨戒作戦の一時中断を上申する程であった。*6

 だが()()()()()()、この時点で空中からの捜索任務が南モンゴル独立派を見捨てないという姿勢の象徴となっていた為、作戦中断の上申は却下される事となった。

 とは言え、何の対応も取らないと言う訳では無い。

 単機での任務が危険であるのだから、捜索効率が落ちても戦闘編隊(コンバット・ボックス)が組める複数機による捜索へと切り替えられる事となった。

 アメリカ空軍は塗炭の苦しみを味わいながら、戦いを続ける事と成る。

 

 

――渤海攻防戦(D-Day0~+10)

 チャイナの思惑通りに事態が推移し、アメリカの陸空は悪戦苦闘にまみれていたが、事、海に関してはそうはいかなかった。

 チャイナ海軍は、機雷の散布は勿論、魚雷艇による襲撃も出来ず、ただ軍港で逼塞するだけであった。

 理由の1つは、開戦前からアメリカが駆逐艦や哨戒艇を渤海から黄海に至る公海に展開させ、チャイナによる攻撃的機雷戦を抑止していたと言うのが大きい。

 そしてもう1つは、日本の偵察衛星による情報であった。

 チャイナ軍港の状況と動向、その詳細を把握したアメリカは、開戦して以降は燃料の補給や人員の移動などがあれば即座に攻撃機を飛ばす等の妨害活動を継続していた。*7

 ある意味で、アメリカはチャイナ海軍に対しておざなりな対応をしているとも言えたが、これには理由があった。

 ちょうど開戦の日、アメリカの東シナ海分艦隊の主力は、フィリピン近海(南シナ海)にてブリテンの東洋艦隊と合同訓練を行っていた為だ。

 開戦の報告を受けた東シナ海分艦隊指揮官は、急遽、演習を打ち切りフィリピンで補給と休息を取った。

 参謀の中には渤海へと急行する事を主張する者も居たが、指揮官は主張を退けた。

 燃料と食糧の不足、そして兵の疲弊を重視したのだ。

 又、渤海に残っている東シナ海分艦隊の戦力でもチャイナ海軍の()()()()()を抑止する事が可能だと言う冷静な計算もあった。

 果たせるかな、東シナ海分艦隊主力が戻るまで渤海のチャイナ海軍は動けずにいた(フォウニー・ウォー)

 そして開戦から8日目、帰還した東シナ海分艦隊は全力でチャイナ海軍に襲い掛かった。

 空母2隻戦艦3隻を主力とする東シナ海分艦隊の無慈悲な攻撃は、只の1日で渤海のチャイナ海軍を殴殺した。

 チャイナが営々と育て上げた魚雷艇部隊は、大きな戦果を上げる事もなく消滅した。

 当然だろう。

 2隻の空母 ―― エンタープライズとヨークタウンによる100機を超える航空攻撃なのだ。

 東シナ海分艦隊の接近に気付かぬまま軍港に逼塞していた30隻程度の魚雷艇に出来る事などある筈も無かった。

 ただ偶然にも哨戒に出ていた魚雷艇2隻は無事であったが、反撃をしようにも相手は空母の航空隊だ。

 必殺の魚雷を抱えて突進しようにも、相手がどこに居るかすらわからないというのが現実であった。

 この為、魚雷艇は一目散に逃げだした。

 その判断の正しさは、翌日に証明される。

 東シナ海分艦隊の砲戦部隊が、チャイナの軍港へと殴り込んで来たからだ。

 コロラドを旗艦とした戦艦巡洋艦併せて8隻の砲戦部隊が振りまいた16in.砲弾と8in.砲弾は、軍港を石器時代の荒野へと強制的に変容(タイムスリップ)させていた。

 

 

 

 

 

 

*1

 開戦劈頭で第1軍はチャイナ北部の主要都市である北京市を強襲し包囲する。

 攻略は行わずに降伏を呼びかける事でチャイナ政府軍主力を誘出し、決戦を強要すると言うものであった。

 決戦によってチャイナは軍の主力を殲滅し、講和につなげ、南モンゴルを独立させるとされていた。

 兵員の差は圧倒的であったが、爆撃機や攻撃機を大量に揃えた空軍と海軍の航空戦力によって差は埋められる計算であった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

アメリカ/対チャイナ戦争計画

>司令部:東ユーラシア総軍 ―― 東ユーラシア総軍参謀団

第1軍団

 第11機械化師団/アメリカ

 第1機械化師団/フロンティア共和国

 第2機械化師団/フロンティア共和国

 第3機械化師団/フロンティア共和国

 第4機甲師団/フロンティア共和国

 

第2軍団

 第101義勇師団/朝鮮(コリア)共和国

 第102義勇師団/朝鮮(コリア)共和国

 第103義勇師団/朝鮮(コリア)共和国

 第3自動化旅団/バルデス国

 第7自動化旅団/バルデス国

 

*2

 アメリカは彼我の国力差から、開戦は己がイニシアティブを握るものだと認識しており、その認識に立って戦争に必要な物資の備蓄計画を立てていた。

 即ち、民需へ過度な負担を与えない速度での備蓄である。

 この方針の為、開戦時点でフロンティア共和国に集められていた燃料は、5個もの機械化師団が縦横に走り回れる程では無かった。

 この為、民需用の燃料の徴発と共に、緊急避難的措置として日本からの燃料輸入を行っていた。

 これで一息つく予定であったが、簡単には予定通りとなる事は無かった。

 今度は焼き討ちを受けた南モンゴルの人々向けの救援物資輸送にトラックを大規模に使用する事となり、此方でも大量の燃料を消費する羽目に陥ったからである。

 燃料は、高度に自動車化されたアメリカ軍の泣き所であった。

 当然、アメリカとしても自軍の弱点は自覚しており、シベリア独立戦争での戦訓を基にした燃料の備蓄や、前線への燃料輸送計画なども立案されてはいたのだが、チャイナの守勢攻撃的な焦土作戦等と言う想定外にも程がある()()を受けては、事前計画が破綻するのも当然であった。

 家も食料も燃料も失って丸裸となった南モンゴルの人民を守る事の負担は、アメリカにとっても決して軽いものでは無かった。

 

*3

 この時点でアメリカは、当初予定していた作戦の中止と共に部隊編成を再編していた。

 第1軍として主要5個師団を管理していたものを、軍司令部の隷下に2個の軍団司令部を新設し、併せてアメリカ第11機械化師団は軍司令部直轄とした。

 とは言え、軍団司令部は新設を決定したからと言って、即座に湧く(ポップ)様なものでも無い為、当座は各軍団の師団長で先任の者が担当する事とされた。

 尚、新設された各軍団司令部の要員は、急いでアメリカ本土から派遣される事となった。

 朝鮮(コリア)共和国軍とバルデス国軍に関しては、元より補助戦力 ―― 占領地の治安維持が主任務とされていた為、当初の予定通り第2軍として管理される事となった。

 

*4

 実際、空戦が始まってから多数の撃墜王(5機撃墜のエース)がアメリカ空軍に生まれており、地上の陰惨さを糊塗するかの様にマスコミは盛んに宣伝していた。

 アメリカはその動きに乗り、気分を盛り上げる為に5機以上の撃墜を成したパイロットに対して()()()()の許可を出した。

 

*5

 実際、撃墜王と祭り上げられた戦闘機パイロットは、その全てがフロンティア共和国の基地から出撃した者たちであり、戦場はフロンティア共和国付近の空域であった。

 

*6

 爆撃機がこれ程に被害を受けた理由は、爆撃機自体の()()()にあった。

 他の空中捜索任務に充てられた飛行機たちとは違い、装甲があり自衛火力もある為、最前線での捜索任務に投入され続けた結果であった。

 そして爆撃機クルー達は、その結果をある意味で誇っていた。

 チャイナ空軍機に襲われればひとたまりもない輸送機や連絡機などに代わって、前線に立ち続けた名誉であると。

 爆撃機クルー達は自らの義務に忠実であり献身的であった。

 

*7

 本格的な爆撃を実施していない理由は、南モンゴル領域での捜索任務に戦力を取られている為である。

 又、同時にアメリカにとって渤海周辺のチャイナ海軍戦力が、さして脅威では無いと言うのも大きい。

 この為、アメリカ空軍が無理をして攻撃を行う必要性が乏しかったのだ。

 




2020/03/27 図面挿入
2020/03/27 文章修正
2020/04/04 文章修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

092 チャイナ動乱-11





+

 

 

【挿絵表示】

 

 

 アメリカとチャイナの戦争が始まって2週間が経過した。

 偶発的な事故を発端とした開戦は、アメリカにとって当初の予定よりもかなり早かった。

 各種物資の備蓄も部隊の錬成も、全てが不十分な状況下での開戦はアメリカにとって実に不本意なものであった。

 この戦争を統括する東ユーラシア総軍、その指揮中枢である東ユーラシア総軍参謀団は、事前の計画が何一つ達成されない状況に苛立っていた。

 彼らは、そしてアメリカは忘れていたのだ。

 戦争には()()()()()と言う事を。

 対してチャイナは、自らが行った守勢攻撃的焦土戦術の成果を驚きと共に受け入れていた。

 強大なアメリカ相手に嫌がらせ程度になるのが精々*1ではないかと思っていたのが、絶大な遅滞効果が発生したのだ。

 チャイナが驚くのも当然であった。

 だが、チャイナは驚くだけでは無く即座に対応 ―― 事前の戦争計画を基にした戦果の拡大に乗り出す事となる。

 

 

――アメリカ 銃後の戦い(D-Day+14~21)

 当初予定の戦争計画と現実の戦争経過との乖離を、アメリカは()()()()()()

 これは、南モンゴルの各地に入ったマスコミが盛んに現地の被害を報道した結果でもあった。*2

 アメリカ本土での厭戦気分の醸成を狙ったチャイナの行動であったが、宣伝戦(プロパガンダの活用)に於いて100年の長があるグアム共和国(在日米軍)の支援を受けていたアメリカはその様な隙を見せる事は無かった。

 即座に、最前線の部隊に同行していた従軍記者の記事と写真とを臨時便の連絡機*3で後送し、それぞれの新聞社へと届けた。

 危機管理(早期発見、早期対応)のお手本の様な行動であった。

 アメリカ政府の主導(コントロール)もあって各新聞社は、その紙上で大々的にチャイナの謀略を叫び、チャイナの発する報道を宣伝工作だと断じた。

 これによって世論は定まった。

 それまで大多数のアメリカ人にとって他人事であったアメリカとチャイナの戦争が、卑劣な情報操作でアメリカを騙そうとしたチャイナへの懲罰戦争に変わった瞬間であった。

 そもそも、チャイナがアメリカ本土で蔓延していた反チャイナ感情(アンチ・チャイナ)を甘く見ていた事が、この状況を生んだとも言えた。

 民意の後押しを受けたアメリカ政府は大統領談話として、断固として旧弊にして悪辣なチャイナを打破し、南モンゴルの地に自由と平等、そして民主主義を齎す事を宣言する事となる。

 そしてチャイナの地に居るアメリカ軍への大々的なテコ入れも発表した。

 尚、その内容には対チャイナ戦争計画を主導した東ユーラシア総軍の司令官と参謀長の更迭も含まれて居た。

 

 

――東ユーラシア総軍再編(D-Day+20~)

 この戦況の責任を取る形で更迭された司令官と参謀長とは異なり、その手足であり頭脳でもある参謀団が解体される事は無かった。

 参謀団まで刷新しては現場(前線部隊)が混乱するだろうとの判断によるものであった。

 フィリピンから渡って来た新しい司令官の下で東ユーラシア総軍は、戦争を行いつつ、()()()()()()の総軍再編に取り掛かる事となる。

 その最大の目玉は戦力の拡張である。

 東ユーラシア総軍司令官は20個師団40万の軍勢が戦争の勝利に必要であると声を上げたのだった。

 それを聞いた誰もが、少数の師団でチャイナに勝利し得ると豪語し、失敗した前司令官との違いを理解した。

 兵力不足の誤りを率直に語る新司令官に反発した者も居ない訳では無かったが、大多数の将校は、この新しい司令官の下で団結する事となる。

 人心を掌握した司令官は、自らの構想に不足している約11個師団分の戦力をかき集める為に奔走する事となる。

 先ずはアメリカ陸軍参謀部に対し、かつてフロンティア共和国に駐屯し、その防衛戦力の中核を成していた2個師団 ―― 第14機械化師団と第2機甲師団の再派遣を要請する。

 ユーラシア大陸の風土に慣れた即戦力が求められたのだ。

 両師団は、満州大演習終了後の1941年度にアメリカ本土へと帰還したばかりであった。*4

 両師団は慌ただしく、太平洋を渡る事となる。

 続いて司令官が命じたのは、フロンティア共和国軍予備(歩兵)師団7個の動員である。

 この決定にはアメリカ人投資家や、フロンティア共和国の財界から強い反発の声が上がったが、司令官は強権をもってその声を圧し潰した。*5

 次に求めたのはグアム特別自治州軍(在日米軍)第501機械化師団の動員である。

 日本連邦統合軍にあって陸上自衛隊に準じた装備を持つ高度機械化高練度師団は、勝利を貪欲に求める司令官にとって何よりも優先して確保するべき戦力であった。

 とは言えグアム特別自治州は、アメリカ合衆国の州であると同時に日本連邦加盟()と言う特殊な立ち位置にある為、日本との折衝を必要とした。

 日本は幾ばくかの難色を示しつつ、司令官が述べた「戦争を早期に終わらせる為には第501機械化師団が必要だ」と言う言葉に従う事となる。*6

 尚、第501機械化師団自体は、既に兵卒の大半がアメリカ出身者で占められている事もあって、派遣には積極的であった。

 この他、[東ユーラシア安全保障協定]*7に基づいてシベリア共和国に参戦を要請する事となる。

 此方はシベリア共和国が日本連邦編入以前に締結し、その後も失効手続きを行っていない条約である為、その要請受諾に日本が反対する事は無かった。

 とは言え、シベリア共和国防衛に甚大な影響を出されては困る為、此方も慎重な調整が行われ、最終的に2個師団が派遣される事となる。*8

 こうして、司令官が着任して1月も経たぬ内に、東ユーラシア総軍は額面上20個師団2個旅団体制へと増強される事となる。

 残念ながら全ての戦力が揃うのは、移動その他が全てスケジュール通りに行えたとしても1年以上先の事であったが。

 

 

――チャイナ

 南モンゴル独立派の領域に行った守勢攻撃的焦土戦術の成果を、チャイナは驚きをもって受け入れた。

 目標はアメリカの進行速度の低下(ハラスメント・アタック)程度であったのが、アメリカの戦争計画を頓挫せしめたのだ。

 驚くなと言う方が難しいだろう。

 とは言え、東ユーラシア総軍の新しい司令官は就任後、幾度もチャイナに対する強硬な発言(南モンゴルの状況への批判)を行っており、アメリカのチャイナ侵略への渇望が止まった訳では無いと判断していた。

 前線の軍を潰せぬのであれば、後方の政治(民意)を潰す事を狙った情報戦であったが、此方は完全に失敗していた。それはチャイナにとって手痛い失敗であった。

 アメリカの民意を誘導できなかったことが痛いのでは無い。

 アメリカの意を組んで情報工作をしてくれていた親中派(イエロー・ハガー)が、アメリカの弾圧(カウンター・イエロー)によって政治生命を断たれた事が問題であった。

 特にアメリカ政府に近い場所に居た議員やロビイストが失脚したり、或は収監(チャイナからの収賄罪)された事は、チャイナがアメリカとのパイプを失った事を意味したのだから。

 この結果、チャイナはアメリカとの政治方面からの戦争終結工作を断念する事となる。

 軍事方面からの戦争終結へ向けた活動としては、この守勢攻撃的焦土戦術の()()を最大限に活用する方向でアメリカに圧力を掛ける事となる。

 チャイナから見たアメリカは、愚かしい事に大衆の感情 ―― 民意に逆らえない。

 であれば、南モンゴルの状況(惨状)を盛んに報道させれば、遮二無二前進せざるを得なくなる。

 突進してくる東ユーラシア総軍主力をチャイナの内懐まで引きずり込み、疲弊させて決戦を強要し、撃破する。

 この戦果を以ってチャイナはアメリカへ講和を呼びかけるのだ。

 チャイナ政府軍参謀団は、この方針に従って、南モンゴルに放つ騎兵部隊に更なる追加 ―― 各部隊各軍閥から騎兵をかき集め、軽騎兵師団を2個速成して投入する事となった。

 開戦劈頭から投入された騎兵も、騎兵師団として纏めた。

 併せて3個師団、5万近い騎兵が狼藉御免状(略奪乱暴自由許可)片手に、縦横に南モンゴルの地で暴れる事となる。

 南モンゴルは猖獗の大地へと変貌する事となる。*9

 

 

 

 

 

 

*1

 チャイナの()()からすれば、地元民が困窮しようとも戦争には関わりの無い話であり、見捨てれば良いだけの話であったのだ。

 紀元前から絶滅戦争も辞さずに争って来た民族の末裔は、列強的文明人(ジャパン・アングロ)とは一味違った戦争観を持っていた。

 

*2

 アメリカ軍より先にマスコミが現地に入っていた理由は、チャイナが情報戦としてマスコミを招待したからであった。

 総勢で50名を超えるマスコミによって、南モンゴルの惨劇は余すところ無く世界に伝えられていた。

 尚、招待されたマスコミの中には、ドイツやソ連のみならず列強(ジャパン・アングロ)も含まれて居た。

 これは、報道内容(インフォメーション・ウォーファル)に中立性と客観性を()()する為の工作であった。

 チャイナの報道官は自ら(チャイナ騎兵部隊)の手で灰燼に帰した村や遺体を前にして、その事をおくびにも出さず、惨状を作り出したのはアメリカの侵略的帝国主義でありその尖兵である満州の傀儡政権であると声高に非難していた。

 

*3

 連絡機は通常の輸送機などではなく、グアム共和国軍(在日米軍)が用意した、日本政府専用機である大型渡洋旅客機(MHI MSJ-702)であった。

 MSJ702-200とは従来の民間旅客機(ボーイング製旅客機など)の更新用として、日本政府の後押しで開発された旅客機である。

 特徴としては主翼下に備え付けられた2発のエンジンが挙げられた。

 標準的なスペックのターボファンエンジンはアメリカやブリテンなどでも整備し易い様に作られていた。

 足回りも、ある程度は地方の不整地(非舗装)滑走路でも運用できる様に強化もされていた。

 とは言え、現時点で海外への売却はその高額さもあって未だ成功していない。

 太平洋すら無給油で渡洋可能な航続性能は各航空会社にとって魅力的であったが、そこまでの長距離路線が存在していなかった為、その性能が()()であったと言う側面もあった。

*4

 両師団がアメリカ本土へと帰還した理由は、満州大演習でフロンティア共和国軍の練度が良好である事が確認され、アメリカ議会で3個もの師団を海外に派遣し続ける事が問題視された為であった。

 

*5

 東ユーラシア総軍司令官には、それを成せるだけの権限が、アメリカ大統領から与えられていた。

 目的は1つ。

 チャイナに勝利する事である。

 尚、その権限にはアメリカ陸軍の本格的な動員は含まれてはいないが、その代償として、大幅な予算の裁量権が与えられていた。

 その裁量権に基づき司令官はフロンティア共和国軍予備師団や各国から動員した軽装備部隊に対する戦車などの重装備の充当を実施させた。

 

*6

 日本にとっての利益はアメリカとチャイナの戦争の早期終結である為、司令官の要求を却下する事は難しかった。

 とは言え、二つ返事で派遣を了承する事は()()として将来に禍根を残す可能性があった為、3日に渡る交渉が行われる事となった。

 

*7

 フロンティア共和国とシベリア共和国、そしてバルデス国との間で結ばれた相互安全保障と支援に関する協定である。

 国家承認と、それぞれの主敵(チャイナとソ連)との戦争に際して参戦を要請された場合、参戦する義務を定めていた。

 外敵の無いバルデス国が加わっているのは、小規模国家である為、フロンティア共和国にせよシベリア共和国にせよ、滅亡すれば即、バルデス国への脅威へと繋がる為、その存続に協力すると言う宣言であった。

 又、この協定に参加する事を対価に、アメリカから軍事的な支援も受けていた。

 

*8

 当初は東ユーラシア総軍司令官は少なくとも5個師団の派遣を要求していたのだが、此方は司令官自身の発言 ―― 就任時に行った東ユーラシア総軍に2()0()()師団を揃えると言う宣言が言質となり、2個師団に絞られる事となった。

 とは言え派遣される2個師団はシベリア共和国軍の中でも装備状態と練度、人員充足率の面でも良好な精鋭部隊の第701機械化師団と第707自動化師団であった為、司令官は大きな満足を抱く事となった。

 両師団とも装備は第501機械化師団には劣るが、それでも日本製の兵器が完全充足状態であるのだ。

 司令官がその攻撃力に、大いに期待するのも当然であった。

 

*9

 チャイナがこれ程乱雑に南モンゴルの民を扱う理由は、叛徒の同胞と言う理由もあった。

 又、南モンゴルから現地民族が消滅したとしても、その空き地へとチャイナ人が入植すれば良いと言う理由もあった。

 チャイナによる南モンゴルへの政策は、急速に民族浄化の色彩を帯びていく事となる。

 




2020/04/04 文章修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

093 チャイナ動乱-12

+

 

 

【挿絵表示】

 

 

 戦力の集積と再編成に取り掛かったアメリカの東ユーラシア総軍であったが、とは言えその主力である第1軍団の前進が止まる事は無かった。

 一年後には戦力が数の上で倍以上、質と言う意味であれば倍とは言わない戦力となる事が決まったにも関わらず出血の継続する(戦力を消耗し続ける)前進を継続する事は、戦力の逐次投入と評する事の出来る、ある意味で愚策とも言える選択であった。

 その事を東ユーラシア総軍司令官と参謀団も自覚はしていた。

 だが、アメリカは南モンゴル人への()()()()()()()()()()()を掲げて開戦(応戦)したのだ。

 であればこそ、南モンゴルへとチャイナが行い続けている守勢攻撃的焦土戦術へ対応しないと言う選択肢を、例え軍事的にどれ程に愚かしくとも政治的に選べる筈が無かった。

 第1軍主力は、柔らかな下腹部を第2軍に守られつつ一途に前進を続けた。

 目標は南モンゴル独立派の本拠地だ。*1

 

 

――国際連盟/国際社会

 チャイナの手で積極的に拡散された南モンゴルでの惨状に、国際連盟は大きく反応する事となる。

 国際連盟加盟国の大多数が、民主主義国家であるが故に。

 本部(スイス・ジュネーブ)から見れば地球の反対側であり、大多数の国際連盟加盟国にとって辺境と言って良いチャイナの出来事であるが、情報にとって地理的な距離は問題では無かった。

 特に写真が重要な役割を果たした。

 南モンゴルで撮影された数々の写真は、劇的に向上したフィルムの質も相まって、遠く離れた街路で読む新聞であっても現地の惨劇の生々しさがそのままに伝わっていた。

 それが多くの人々の心に刺さり、それぞれの政府を動かす事に繋がったのだ。

 その集大成が国際連盟の総会であった。

 議論の主となったのは、チャイナの期待した()()()()()()()()()()()()()()()()()()では無く、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()であった。

 そして議題となったのは、南モンゴルの地で行われ続けている非国際連盟加盟国での非人道的な事態にどう対処するかであった。

 この状況に慌てたチャイナは駐スイス・チャイナ大使を特命国際連盟特使として、国際連盟へ接触を図った。

 チャイナ特命国際連盟特使はチャイナへの国際世論を改善させろと言う本国からの大命を胸に秘め、オブザーバー資格で国際連盟総会に臨んだ。

 だが、チャイナ特命国連特使に出来たのは、国際世論の改善(宣伝戦)などでは無く、只の釈明であった。

 目を合わせる事も無いアメリカ大使、鼻で笑っているブリテン大使、嗤う事を止めないフランス大使。

 そして日本大使は無表情(ブッダ・スマイル)であった。

 概して言えるのは、チャイナ特命国際連盟特使を相手にしないと言う姿勢であった。*2

 だがG4の大使たちは()()だった。

 大多数の国際連盟大使は国際連盟総会の後ろに居る自国の有権者を見ており、チャイナの特命国際連盟特使が1つ発言すると10を優に超える非難を競う様に発していたのだから。*3

 チャイナを吊るし上げる場となった国際連盟総会。

 それでも必死にチャイナの立場を主張したチャイナ特命国際連盟特使であったが、非情にもその眼前で、国際連盟安全保障理事会に於いて南モンゴルでの()()()()()()()()()()()()を要求する議決が行われたのだった。

 国際連盟安全保障理事会では全会一致で、国際連盟加盟各国全てがアメリカに対して可能な限りの支援行動を行い、早期の南モンゴルでの()()()()()()()()()()を図る事が決議された。

 

 

――日本

 国際連盟安全保障理事会の議決(1942.EY05議決)と、アメリカからの非公式な外交ルート(G4秘密協議会)で受けた協力要請に基づいて、日本も支援内容を議論した。

 アメリカが希求していた地上戦力 ―― 日本国自衛隊の派遣を含む日本連邦統合軍のチャイナ派遣は非現実的であると早々に却下された。

 令和(タイムスリップ)以前に比べて緩くなっているとは言え、それでも日本国憲法の軍事力の行使に関する縛りは決して緩いものでは無いのだから。

 その代わりシベリア共和国が行っている派兵への支援が行われる事となった。

 具体的には、日本連邦統合軍から少なからぬ規模の航空部隊をシベリア共和国軍へと移管し、フロンティア共和国へ派遣すると言うものであった。

 つつがなく国会でも審議され、()()()()()()()()()()()と言う付帯条件付きで承認される事となった。

 派遣される航空部隊は第11戦術航空団に所属するF-5C戦闘機*4を装備する攻撃飛行隊とAC-2極地制圧用攻撃機の部隊であり、補給機部隊ごと派遣される。

 F-5C戦闘機でアメリカ空軍爆撃機が行う捜索任務を護衛し、捜索中に発見したチャイナ政府軍騎兵部隊をAC-2極地制圧用攻撃機が撃滅する予定であった。

 その他、モンゴル国*5と交渉を行い、その領空上でE-767早期警戒管制機(AWACS)による()()を行う権利を獲得していた。

 無論、空中警戒訓練中に得た軍事情報は、通信訓練として()()()()()()に送られる予定であった。

 東ユーラシア総軍は、事、空中に於いては万全の支援が得られる事となる。

 

 

――チャイナ

 東ユーラシア総軍第1軍団の包囲殲滅を目的と定めたチャイナ政府軍は、チャイナ共産党との停戦合意成立と共に総兵力約800,000、44個の師団と旅団の軍勢から約半数を引き抜き、それまでアメリカ軍に応戦していた部隊 ―― 北京鎮護軍や騎兵部隊も編入し、2つの北伐軍集団と2つの軍から成る北伐総軍を編制した。*6

 この時点で東ユーラシア総軍第1軍団は4個の機械化師団しか居ない為、その戦闘力が如何に優れて居ようとも倍以上の戦力で包囲攻撃を行えば勝つ事は難しくない。

 それがチャイナ政府軍参謀団の判断であった。

 ドイツの軍事顧問団も、同じように判断していた。

 ドイツの誇るⅣ号戦車を装備するチャイナ政府軍戦車師団への自信もあっての事であった。

 だが、問題があった。

 チャイナの広大さである。

 チャイナ共産党討伐の為、西征総軍としてチャイナ西方域に集中していた戦力を北伐総軍として転用するのだ。

 その主力である2個の軍集団の再配置に時間が必要となるのも当然であった。

 この為、既に作戦行動を行っていた第1騎兵軍に対して、更なる時間稼ぎを下命する事となる。*7

 

 

 

 

 

 

*1

 南モンゴル独立派の拠点は、現時点では無事だった。

 これは、この場所が連隊規模以上の軍閥が防衛していたと言う事と共に、チャイナ政府軍の思惑が絡んでいた。

 南モンゴル独立派の拠点を敢えて攻略しない事で、アメリカに退けない理由を与えると言う。

 チャイナは南モンゴルでの騎兵部隊の活躍によって生まれた状況を最大限に活用する様に対アメリカ作戦を変更していた。

 目標は、現時点での東ユーラシア総軍の主力たる第1軍。

 この包囲殲滅を図る事で、チャイナ政府軍参謀団はアメリカとの早期戦争終結を図る積りであった。

 

*2

 G4の国際連盟大使は外交官で在り()()()()()さを知悉する専門家たちだ。

 そうであるが故に、今はチャイナと友好的接触を行わない事こそが外交(チャイナへのメッセージ)であると一致していたのだった。

 

*3

 尚、チャイナ特命国際連盟特使が友好的発言を期待していたソ連国際連盟大使は、総会の間、常に目を瞑って口を閉じ、腕を組み続けていた。

 

*4

 1940年代に入ると共にG4を含めた諸外国でジェット戦闘機の実用化が進む(性能寿命の問題が発生した)為、F-5戦闘機は防空任務を解かれていた。

 但し、機体寿命自体はまだまだ残っていた為、対地攻撃能力を向上させる為の改造が施されている。

 この改造に併せて、C型(F-5C)の名前が与えられた。

 尚、C型の元となったB型(F-5B)は、シベリア独立戦争での戦訓を基に行われた空対空戦闘能力向上モデルであり、最大の改良点は主翼の大型化と空中受油装備の設置である。

 広大なシベリアの空で運用するには、A型(F-5A戦闘機)では航続性能 ―― 滞空性能が不足ぎみであったのが理由だった。

*5

 ソ連の隣国時代には社会主義国家であったモンゴルは、シベリア共和国の成立からしばらくして国名から人民共和国の名前を削った。

 又、シベリア共和国やフロンティア共和国との関係を深める方向に政治の舵を切っていた。

 中小国家としての正しい選択を選んだと言える。

 その上で国際連盟への加盟も交渉中であった。

 この為、日本やアメリカからの投資も始まっており、チャイナやソ連からは親G4国と見られていた。

 

*6

 歩兵主体の第1北伐軍集団と、最低でも自動車を装備した機動力の高い第2北伐軍集団、そして軍とは名ばかりで1個師団しか所属していなかった北京鎮護軍には歩兵師団及び機械化師団、嚮導団まで編入し北京鎮護()と言う体裁を名実ともに獲得させる事となった。

北伐総軍

-第1北伐軍集団

--4個軍

 歩兵師団:28個

 機械化歩兵師団:2個

-第2北伐軍集団

--3個軍

 機械化歩兵師団:4個

 自動化歩兵師団:6個

 戦車師団:2個

-北京鎮護軍

 歩兵師団:3個

 機械化師団:1個

 嚮導団:1個(増強戦車旅団規模)

-第1騎兵軍

 騎兵師団:3個

 

*7

 時間稼ぎの一環として、モンゴル国を経由した形で南モンゴル東方域 ―― 東ユーラシア総軍第1軍団の制圧した地域への騎兵部隊の突入を下命していた。

 目標は、南モンゴル東方域での騒乱と、可能であれば東ユーラシア総軍の補給線への攻撃を行って混乱させる事であった。

 




2020/04/02 文章修正
2020/04/04 文章修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

094 チャイナ動乱-13

+

 

 

【挿絵表示】

 

 

 国際連盟で議決された、国際連盟加盟国に求められる積極的人道活動への参加要請とは、即ち、軍事力の派遣であった。

 無論、戦争の正面に立てと言う要求では無いが、幾ら人手があっても過剰となる事は無い後方支援への部隊の派遣が望まれたのだ。

 国際連盟安全保障理事会隷下に南モンゴル人道支援委員会(司令部)が設けられ、各国からの部隊を募る事となった。

 その詳細が明らかになると共に、小は連隊規模から大は師団規模まで部隊派遣を宣言する国家が続出する事となる。

 これは、南モンゴル人道支援活動の活動資金を国際連盟(G4)とアメリカが全額負担する為、態の良い出稼ぎ(アルバイト)になる為であった。

 アメリカ政府は、この状況に笑いながら金を用意した。

 金如きで兵隊を買えるなら、札束でアメリカの若者が流す血が減る(未来の有権者を守れる)ならば幾らでも刷ってくれてやろうと言うのだ。

 アメリカは、正に国力の戦い(横綱相撲)を見せつけるのだった。

 

 

――南モンゴル西方領域航空戦(D-Day+31~45)

 シベリア共和国軍航空隊(日本国航空自衛隊)がフロンティア共和国航空基地に展開し、作戦行動を開始すると共に、アメリカ空軍爆撃機隊の捜索任務での被害は劇的に低下する事となった。

 ()()としてモンゴル国上空を飛ぶE-767早期警戒管制機の(レーダー)が南モンゴルの領域、その尽くを収めた為に、完全にチャイナ政府軍戦闘機部隊を封殺する事が可能になったのだ。

 それまでもレーダーによる空中からの監視と言う意味ではアメリカ空軍もE-24空中哨戒機を投入していたのだが、その性能(100年の技術革新)の差 ―― レーダー能力と管制能力、そして何より通信能力の隔絶が、チャイナ空軍機の活動を早期発見する事に繋がったのだ。

 そして発見してしまえば、戦闘空中哨戒任務(CAP)に当たっていたF-5C戦闘機が即座に迎撃に向かい、これを撃墜した。

 航続距離の問題に関してはKC-46A空中給油・輸送機を飛ばす事で対処しており、このお蔭でF-5C戦闘機は5機が常時遊弋(オン・ステーション)出来ていた。*1

 消費する燃料に関しては日本で備蓄されていたものが()()()()()で売却され、サービスとしてフロンティア共和国の港までアメリカの戦艦並に巨大な日本の()()タンカーの手で運ばれていた。

 又、前線への輸送に関しても日本は支援を行った。

 民間軍事企業(SMS社)を介する事で面倒な法律上の問題を棚上げにして、日本連邦統合軍のもののみならず、日本国内で使用されていた大型タンクローリー/タンクトレーラーを臨時に借り上げて投入していたのだ。

 チャイナとの戦争の泥沼化を恐れて支援要請を出したのはアメリカであったが、日本の対応はアメリカがチョッと引くレベル(米帝ムーブの発露)となっていた。*2

 かくしてアメリカの気分は兎も角として、日本の支援によって、南モンゴルの航空優勢は急速にアメリカ側へと傾いていく事となる。

 対するチャイナ。

 ある日突然に始まった異常、出撃した戦闘機が戦果を得るどころか尽くが未帰還機となる状況に、チャイナは悟った。

 ()()()()()()()()

 全く同じであったのだ、ドイツの軍事顧問団経由で得たソ連分裂戦争(シベリア独立戦争)でソ連空軍が陥った状況 ―― ()()にも接敵できなかった機体以外、全て帰還しないと言う状況と。

 チャイナ政府軍司令部は恐怖した。

 とは言え怯えたままに状況を座視する訳にはいかず、チャイナ政府軍参謀団はドイツの軍事顧問団と共に対応する事を試みていく。

 先ずは投入する戦闘機を増やしてみたが、撃墜される戦闘機の数が増えただけに終わった。

 1個飛行隊を丸ごと投入して、その悉く ―― 1機たりとも戻らなかった。

 続いて、空を飛ぶ時間が長ければ迎撃されるのだと想定し、南モンゴルに航空基地を設営して対応しようとした。

 設営した翌日に、アメリカ軍から爆撃を受ける事となった。*3

 最終的にチャイナは、2つの決定をする。

 1つは短期的な対応。

 新鋭のジェット戦闘機が完成するまで南モンゴルの地では積極的な航空戦は仕掛けないと言う事。

 もう1つは中期的な対応。

 ドイツ軍事顧問団の提案を基に考案された、簡便で小型、飛行場以外の場所からでも運用出来て奇襲的に使える近距離迎撃型ロケット戦闘機(IRFコンセプト)開発(ドイツへの発注)である。

 IRFコンセプトは、ある意味で地対空ミサイルの走りとも言える、先進的な発想であった。

 問題は、いつ完成するかは判らないと言う事であったが。

 

 

――南モンゴル 東ユーラシア総軍前進限界(D-Day+32~46)

 西進を続ける東ユーラシア総軍第1軍団と、その側面を守る第2軍団であったが、開戦から1ヵ月を越えると共に限界を迎えつつあった。

 燃料の問題では無い。

 日本の支援(日本製タンクローリー/トラックの投入)もあって、完全な機械化が成されている第1軍団にせよ第2軍団にせよ、潤沢とまではいかないが、必要十分な程には燃料を筆頭とした各種物資は支給が成される様になっていた。

 掌握した南モンゴルへの支援物資も、国際社会(日本連邦)からの支援によって当座の必要量は確保出来つつあった。

 にも拘らず、東ユーラシア総軍の前進は限界に達しつつあった。

 チャイナ政府軍の抵抗が激化した訳では無い。

 単純に()()()()()が表面化しだしたのだ。

 現時点で東ユーラシア総軍で実働しているのは8個師団2個旅団だけであり、中でも前進する第1軍団の側面 ―― 総延長が800㎞を越えた側面を守る第2軍団の兵力は3個師団2個旅団だけなのだ。

 空からの支援を受け、見晴らしの良い場所を中心に展開し、完全に自動車化された部隊であればこそ機動力に支えられた警戒/防衛線を敷く事が出来ていたのだが、それは余りにも薄く、度々チャイナ政府軍騎兵部隊の侵入を許す事に繋がっていた。

 1個の師団/旅団辺り150㎞を超える長さを警備し、敵の侵入を阻止せよと言うのが無理難題なのだ。

 又、この状況を見たチャイナ政府軍北鎮守護軍も()()()()()()()()()()に備えた戦略的助攻として、東ユーラシア総軍第2軍団へ積極的な戦闘を仕掛けていた。*4

 戦車を含む機械化された戦力で構成された嚮導団を持った北鎮守護軍の攻勢に、警備を目的としたジープ/トラックが主体の自動車化軽歩兵部隊の集まりでしかない第2軍団は後退を余儀なくされていた。*5

 特に、兵の質と言う面で朝鮮(コリア)共和国義勇師団に劣っていたバルデス国部隊、その第7自動化旅団が嚮導団の攻勢正面となってしまい、散々な被害を出す事になった。

 嚮導団が増強2個連隊程度の戦力であった為、包囲などされる事無く撤退に成功したが、将兵の3割が死傷する大損害が発生していた。

 各部隊の対装甲火力が不足するならばと、航空機による支援 ―― 爆撃や対地攻撃が行われたのだが、チャイナ政府軍航空隊の頑強な抵抗と徹底した対空擬装によって、十分な成果を上げる事は出来なかった。*6

 とは言え北鎮守護軍の司令部は、被害こそ抑えられてはいてもアメリカが投入してきた航空戦力の規模に驚き、空爆による被害を拡大させない為に30㎞程前進した所で攻撃を終息させたのだった。

 チャイナ政府は、この一連の戦いを“黄河北会戦”と命名し、北京市防衛の成功であり勝利であると大々的に宣伝した。

 対する東ユーラシア総軍司令部は、この戦線の後退自体は否定的に受け止めなかった。*7

 問題として認識したのは第2軍団の質、現時点で貴重な戦力であるが装備も編成も補助戦力、警備部隊の域を出ない事であった。

 貧弱な装備で北鎮守護軍に立ち向かった朝鮮(コリア)共和国義勇師団であったが、日本連邦統合軍による教育の成果 ―― 兵の質を示すように強固な抵抗を行い、白兵戦の最中には逆襲すらしていた。

 チャイナが命名した黄河北会戦で第2軍団が全面的な壊乱に至らなかったのは偏に、兵の健気さがあったと言えるだろう。*8

 何にせよ、東ユーラシア総軍の状況が安穏として居られない ―― 政治的な要求があるとは言え、容易に前進を選べなくなりつつあると言う事が露呈していた。

 更に凶報は続く。

 北鎮守護軍との交戦で少なくない被害を出した第2軍団は、その警戒/防衛戦を寸断されてしまい、その回復に時間が掛かっていた。

 その間隙を突いて第1騎兵軍第3騎兵師団*9が南モンゴル東方域に侵入を果たしたのだ。

 こうなっては東ユーラシア総軍は前進するどころでは無くなったのだった。

 

 

――南モンゴル西方域運動戦

 東ユーラシア総軍第1軍団の前進が完全に停止したが、同総軍司令部は南モンゴル西方域で跳梁するチャイナ政府軍騎兵部隊への対応を、陸上部隊の投入を諦める積りは無かった。

 航空部隊による捜索と空襲は一定の成果を挙げてはいたが、チャイナ政府軍騎兵部隊の活動を封殺するには至っておらず、地面を一歩一歩と踏み固める(染め上げる)陸上部隊がやはり大事であったのだ。*10

 この対応に東ユーラシア総軍は、第1軍団に先行する形で展開力に優れた装輪部隊を投入する事を決断する。

 空の目と共に、地上からも捜索し、チャイナ政府軍騎兵部隊の撃滅を図るのだ。

 中心となるのはフロンティア共和国に到着していた増援 ―― グアム特別自治州(在日米軍)第501機械化師団隷下で、展開力に優れた装輪装甲車(Type22 MAVファミリー)を装備する第501偵察大隊となる。

 これに第2軍団から無理矢理に抽出した2個の自動車化歩兵連隊*11を組み込んで、第501増強偵察旅団戦闘団を編成した。

 主たる役割は、小隊以下の小規模部隊に分かれて南モンゴル西方域を縦横に走り回り、チャイナ政府軍騎兵部隊捜索を行う事であった。

 撃破に関しては航空部隊を誘導しても良いが、そもそも第501偵察大隊は16式機動戦闘車や22式歩兵戦闘車といった火力に優れた車両を保有している為、単独での撃破も余裕でこなす事が期待出来た。

 尚、第501増強偵察旅団戦闘団が消費する燃料弾薬食料などに関しては、第1軍団で責任を持って輸送し支援するものとされた。

 南モンゴル西方域の戦いは新しいステージへと入る事となる。

 

 

――南モンゴル独立派(D-Day+32~)

 南モンゴルの地で好き放題に跳梁するチャイナ政府軍騎兵部隊。

 その活動によって、南モンゴルの地は混乱の坩堝へと叩きこまれていた。

 既に経済活動は破綻し、物流は止まっている。

 小さな村々は襲われて亡ぶか、それとも食糧の不足で亡ぶかと言う所まで追い詰められつつあった。

 開戦してたった1月余りで陥った苦境に、南モンゴル独立派の住人たちの戦意は逆に燃え盛っていた。

 それぞれの町では自警団を組織し、食料を管理し、その上でアメリカに対して速やかな救援が困難であるなら武器だけでも送る様に要請した。

 又、生き残っていた小さな村々に対しては、村を捨てて大きな町へと身を寄せる様に指示を出した。

 村を捨てる村人たちは、自らの手で運び出せぬ食料や家に火を放ち、せめてものチャイナ政府軍騎兵部隊への嫌がらせと共に、チャイナへの報復を誓うのだった。

 アメリカは南モンゴル独立派の要請を受けて、大量の武器弾薬を空輸し供与していった。

 南モンゴルは修羅の大地へと変貌を遂げた。

 

 

 

 

 

 

*1

 本任務に於ける燃料の供給はアメリカが担当していた為、戦闘機をたった5機飛ばし続ける事に必要な燃料を把握できていた。

 整備と予備を含めて5セット25機の戦闘機。

 予備を含めて3セット6機の空中給油・輸送機。

 予備を含めて3セット3機の早期警戒管制機。

 この他、予備部品を前線基地へと運び込む輸送機たち。

 それらを動かす為に垂れ流すが如き燃料の消費に、それを平然と(涼しい顔で)実行する日本に、未だ戦時体制に突入していない(全力全開モードの余地を残していた)アメリカは恐怖していた。

 そんなアメリカの反応に日本は、自分たちが米国を見る気分とそっくりだと感慨深いものを感じていた。

 尚、グアム共和国(在日米軍)高級士官は、この倍くらいは用意した方が安全ではないかと内心で思っていた。

 元祖物量の申し子、米軍士官は()が違っていた。

 

*2

 日本の思惑は当然、アメリカの対チャイナ戦争の早期決着である。

 チャイナが増え(分裂す)るのは実に望ましいのだが、その過程でアメリカが疲弊して(反戦機運が盛り上がって)しまうと、この後に控えるであろう対ドイツ・ソ連戦争に甚大な影響が出てしまうと言うのが、その理由であった。

 日本は、開戦して1月余りの状況を見て、()のアメリカの戦争遂行能力に危機感を抱いていたのだ。

 それは、1つの事を日本が忘れていた為の懸念であった。

 米国が本気モードになったのは、日本帝国に横っ面を全力で殴られて(パールハーバーされて)以降だったと言う事を。

 

*3

 日本の偵察衛星による情報に基づいた爆撃である。

 チャイナ政府軍が必死になって行った物資の集積は、アメリカ空軍爆撃機隊による1度の攻撃で灰燼へ帰した。

 

*4

 軍事的な目的の他、チャイナ政府が開戦劈頭から国土を失っていく状況に意気消沈したチャイナ国民を盛り上げる為、戦争を勝利するその日まで戦い抜く為の民心慰撫として勝利を、吉報を求めたと言う政治的な側面も大きかった。

 

*5

 嚮導団とはチャイナ政府軍の機械化部隊を嚮導する為に、ドイツ軍事顧問団の肝煎りで編制された部隊である。

 装備するのは、Ⅳ号戦車でもC型Ⅲ号突撃砲でも無く、Ⅲ号戦車C型。

 純然たる中型戦車であり、攻勢任務を行える部隊であった。

 

*6

 アメリカは日本の航空戦を模倣し効率的な空爆を行うとし過ぎていた事も、この戦いに於ける効率の低さに繋がっていた。

 日本の対地攻撃は、先進的な通信ネットワークに支えられているからこそ、シベリア独立戦争で絶対的(スマート)な効果を発揮できたのだから。

 とは言え、効率が低いなら数を増やせばよいとばかりに戦闘機までも対地攻撃任務に投入し、猛爆撃を敢行した。

 

*7

 敗北の責任を、現東ユーラシア総軍司令官が前任の司令官に全て押し付ける事に成功していたと言うのも大きかった。

 

*8

 傭兵稼業で来ていたコリア系日本人が、そこまでの献身を行ったのは、1920年代から脈々と続いていた朝鮮(コリア)共和国の稼ぎ頭としての誇りと、アメリカが行っていた死傷者への手厚い補償あればこそでもあった。

 名誉と金。

 即物的な、だが確たる利益が朝鮮(コリア)共和国傭兵部隊の勇名を支えていた。

 

*9

 師団と命名されてはいるが、その実態は小隊規模部隊の集まりであり、その総数は2000名にも満たない。

 兵も、第1騎兵師団と命名された部隊の成功を見て各軍閥から急遽かき集められた者達であった為に質も悪く、軍装すらも纏っていない者も居た。

 その様はチャイナ政府軍高官ですら、()()()()と酷評する程であった。

 だが今、チャイナ政府軍が望んで居るのは、南モンゴル東方域での治安の悪化と物流の混乱を引き起こす野盗働きであった為、ある意味で適任であった。

 

*10

 空襲の効果が限定的となっている背景には、チャイナ側が空襲が活発化すると共に部隊を更に細分化させる事で、空の目から逃げようとした事が大きかった。

 如何にアメリカとて、10騎と居ない、軍服も着ていないだけの集団を無差別に空襲をする事は憚られたのだ。

 

*11

 抽出元の部隊は、被害の比較的少なかった第102義勇師団だ。

 その将兵が朝鮮(コリア)共和国軍の一員として日本連邦統合軍に参加し、第501機械化師団(在日米軍)将兵との連携にも慣れている事が、抽出の理由となった。

 又、被害の受けていない第1軍団の歩兵部隊から抽出されなかった理由は、第1軍団の歩兵部隊は半装軌装甲車を装備する(展開力で自動車化部隊に劣る)機械化歩兵部隊であった事が理由であった。

 




2020/04/04 文章修正
2020/04/05 文章修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

095 チャイナ動乱-14

+

 

 

【挿絵表示】

 

 

 手早く出港準備を整えたチャイナ未完の海防戦艦鄭和は、スウェーデンを出ると一路東を目指した。

 比喩では無く物理的に。

 バルト海、鄭和の艦長はこの海で乗組員の錬成を行う積りであった。

 主機、そしてフネとしての最低限度の艤装が施されただけの鄭和。

 それだけでも祖国への途(地球を半周する大航海)は大変であるのに、その上で乗組員たちの練度はお世辞にも高い訳では無いのだ。

 別に乗組員の人品が悪い訳では無い。

 只、10,000t級の大型艦を操り、外洋を自ら操ったフネで航海した経験が無いのだ。

 ()()()()()()

 長江で運用されてきた警備艇で経歴を積み上げて来ていた為、艦長は自らの能力 ―― 外洋航行を指揮する経験値の不足を自認していたのだ。

 本来であれば、スウェーデン人のベテラン船乗り(スウェーデン海軍OB)を雇い、その指導の下でチャイナへと回航させる予定であった。

 だが、今回の航海が鄭和は未完成*1で、しかも充分な訓練も行わずに決行すると言う事態と相成った為、付き合いきれぬと()()()()()()()

 こうなってしまっては、艦長に選択の余地は無かった。

 チャイナ本国から早期の帰国を要求されてはいたが、比較的海の穏やかなバルト海で錬成を行わざるを得なかった。

 尚、この急遽決まった錬成によって、鄭和の航海を把握する為に北海へと派遣されていたアメリカの軽巡洋艦(情報収拾任務艦)臨時戦隊は任務に失敗する事となり、アメリカは大いに慌てる事となる。

 アメリカは、鄭和が通商破壊戦に出る事を恐れていたのだ。

 その鄭和が行方不明となった事で、アメリカは大西洋艦隊を総動員して捜索を行う事と成った。*2

 

 

――南モンゴル西方領域(D-Day+46~53)

 素早く南モンゴル西方域へと進出した第501増強偵察旅団戦闘団。*3

 側面や退路などを考慮せず、一気に南モンゴル独立派の拠点まで突き進む。

 タンクローリーまで部隊に随伴させていた為、道中の燃料の心配などは無かった。

 途中で幾度か自動車化部隊の車両(アメリカ製のトラック)が故障を起こしたが、都度都度、随伴させていた整備部隊が持ち込んでいた(過剰なほどに携帯していた)各種部品で即座に修理していた。

 燃料にせよ各種整備物資にせよ、これ程に用意したのは東ユーラシア総軍司令部の第501増強偵察戦闘団に対する期待の表れであった。

 その甲斐あって進出を開始して7日と経ぬ内に、南モンゴル独立派の拠点に到着した。

 大量の自動車と、何より雄々しい各種の22式機動装甲車(歩兵戦闘型や対空型、偵察型など)と16式機動戦闘車の群れは、チャイナ政府軍の騎兵部隊に怯えて避難して来ていた南モンゴルの人々の心を解きほぐす力があった。

 簡素ながらも歓迎の式典が行われる。

 だが、第501増強偵察旅団戦闘団は休息もそこそこに、活動を本格化する。

 精強な将兵でも疲労はあった。

 だが、歓迎式典とそれに前後した南モンゴルの人々からの()()()()()()が、それを忘れさせたのだ。

 一兵卒から指揮官まで、皆、戦意に溢れて動く事を選んでいた。

 旅団司令部を南モンゴル独立派拠点に設けると、分隊規模の捜索戦闘隊を編成し出撃させた。

 相手(チャイナ政府軍騎兵部隊)が10人程の小部隊に分かれて襲ってきているので、その対応としてであった。

 良好なセンサーを備えた第501捜索大体の装輪装甲車群を目として核として、その手足に自動車(トラック)化部隊を付けて放つのだ。

 都合20個程の偵察戦闘隊(ユニット)が作られた。

 広大な南モンゴル西方域に対して、()()()20個であったが、司令部側は自信を持っていた。

 各装甲車のセンサーの質に、南モンゴル住人からの支援(情報)に、空からの目(爆撃機による捜索部隊)に、自信を持っていた。

 対するチャイナの第2騎兵師団は、この対応に苦慮する事となる。

 ()()などと大仰な名前を与えられていたが、精々が2000名程の軽装騎兵部隊にしか過ぎないのだ。

 トラック等では無い、日本製(本物)の装甲車が相手では荷が重すぎていた。

 第501増強偵察旅団戦闘団が活動を開始するや否や、南モンゴル独立派の拠点近くで活動していた部隊は溶けだした。

 第2騎兵師団は通信機も持たない、各部隊の独立性の高い軽装部隊(焦土化専従部隊)の集まりであった事が禍した。

 極わずかな、生き残れた部隊が慌てて報告に(逃げ)戻った事で、漸く第2騎兵師団司令部が事態を把握した時には、既に3割近い部隊が消滅している有様であった。

 師団長は慌てて残余の部隊をかき集める事を決断する。

 北伐総軍司令部からの命令は()()()()()の焦土戦術であり、である以上は南モンゴルの領域からの撤退も選択肢であった。

 だが、戦意と祖国への忠誠心に不足の無かった師団長は、まだ抗戦を諦めていなかった。

 念頭にあったのは、上層部から連絡を受けていた第1騎兵師団の動向であった。

 チャイナ政府軍から精鋭の騎兵を選抜し集成された第1騎兵師団は、長駆モンゴル国を経由して南モンゴル領域の東方域を襲撃する予定であったのだから。

 アメリカ軍の後方で撹乱し、その補給路を寸断される状況となれば、敵機械化部隊(第501増強偵察旅団戦闘団)の活動は低下せざるを得ない ―― そう判断したのだ。

 又、援軍の存在も計算に入っていた。

 チャイナ共産党の第1歩兵師団である。

 装甲車など一切無い、文字通りの歩兵師団であるが、その総数は20,000余名と大規模である為、増強連隊規模の兵力しか無い第501増強偵察旅団戦闘団との交戦は可能であると判断していた。*4

 とは言え、師団長は馬鹿正直にチャイナ共産党へと状況を話して共闘しようと言う気はさらさらに無かった。

 数ヵ月前までは殺し合いをしていた相手であり、アメリカとの戦争が終わったら殺さねばならぬ相手なのだ。

 戦友は勿論、仲間ですら無かった。

 第1歩兵師団と第501増強偵察旅団戦闘団が共倒れしてくれる事こそが最上であった。

 この目的の為に第2騎兵師団は、第501増強偵察旅団戦闘団を誘導する。

 数キロ離れて、それも1分と満たぬ短さで姿を見せただけの相手にすら有効な攻撃が出来ると言う、非常識な(狂ってる)戦闘力を持った第501増強偵察旅団戦闘団であるが、起伏に富んだ地形を慎重に選択したお蔭で、被害を抑えつつ誘導に成功する事となる。

 

 

――南モンゴル東方戦線(D-Day+45~59)

 黄河北会戦以降、東ユーラシア総軍第2軍団と北伐総軍北京鎮護軍の戦いは一進一退の態を成す様になっていた。

 アメリカが第2軍団の火力不足を補うように航空対地攻撃に力を入れて戦線を押し上げようとすれば、チャイナはドイツ仕込みの機動戦を行って対抗した。

 又、砲兵の存在も大きかった。

 正規の師団編制を行っているチャイナ側には当然の如く砲兵(けん引野砲)部隊が含まれて居たが、アメリカ側は警備目的の軽自動車化師団であった為に107㎜の迫撃砲しか含まれて居なかった為、射程距離に於いては圧倒的に不利であったのだ。

 如何に航空支援があろうとも、装備の差は如何ともし難かった。*5

 共に決定打に欠いていたが為、北京鎮護軍と第2軍は一進一退を繰り返す羽目になっていた。

 更にアメリカにとって頭の痛い問題があった。

 チャイナ北伐総軍第1騎兵軍、第1騎兵師団と第3騎兵師団だ。

 2個師団併せても5,000名にも満たない騎兵であったが、アメリカが掌握する南モンゴル東方域に南北から適時侵入し、破壊と混乱を撒き散らしていた。

 事実上の非対称戦争であった。

 しかも、正規戦争と()()()()非対称戦争だ。

 護るべきものを抱えたアメリカにとって、撹乱を目的とするソレは、非常に効果的で悪辣な手段であった。

 この為、第2軍を主力として、少なからぬ部隊が対応に追われる羽目になっており、南モンゴル東方戦線が停滞する一因となっていた。*6

 唯一、アメリカにとって朗報であったのは、再編の為に後方に下げられていた第7自動化旅団を戦車大隊を持った機械化部隊へ改編した事と、第501機械化師団の戦線投入が可能になった事であった。

 第7機械化旅団は、第2軍に戻され、戦略予備とされた。

 第501機械化師団は、第4機甲師団に加勢し南モンゴル東方域北辺で暴れている第1騎兵師団への対応に投入される事となった。

 

 

――合戦準備-第501増強偵察旅団戦闘団(D-Day+52~59)

 罠と気付かぬままに第2騎兵師団に誘導される第501増強偵察旅団戦闘団 ―― 等では当然、無かった。

 航空機からの索敵によって、()()()()()()()師団規模部隊(第1歩兵師団)の存在も把握していた。

 にも関わらず前に出る理由は、この眼前の戦力を撃破せねば南モンゴルの人々に甚大な被害が出る事が目に見えていたからである。

 とは言え第501増強偵察旅団戦闘団旅団長は、無策で当たる積りは無かった。

 誘導(エサ)をゆっくりと追いかけつつ、分散していた部隊を集め、又特科(砲兵)部隊の不足については航空支援を要請していた。

 要請に対する東ユーラシア総軍の返答は快諾 ―― 爆撃機/攻撃機/制圧用攻撃機の用意と共に、増援を行う事を告げた。

 フロンティア共和国内で準備を終えた第501機械化師団隷下の第501特科連隊から1個大隊(第5015特科大隊)を空輸すると言うのだ。*7

 第501機械化師団の移動支援に展開していたグアム共和国軍第3輸送航空隊(ユニコーン・フリート)による全力輸送であった。*8

 舗装どころかろくに均してもいない大地へ、豪快に砂塵を巻き上げて着陸し車両を吐きだしていくC-2B輸送機の群れ。

 弾薬、燃料、食料、様々なものが空輸されてくる。

 特設の飛行場。その移動管制施設の屋根からその様(未来isパワー)を、第501増強偵察旅団戦闘団付きのアメリカ軍連絡将校は驚く以上の諦観をもって(ハイライトの消えた眼で)眺めていた。

 特に仕事が無かった為、朝から眺め続けていた。

 ひっきりなしに離着陸を繰り返す、下手な爆撃機よりも巨大で、高速な輸送機の群れを。

 その耳が、近くに居たグアム共和国軍(在日米軍)将校の()()を捉えるまで。

 曰く、日本は大型輸送機を作らないから困る。C-17クラスの大型機があれば戦車でも自走砲でも持ち込めたんだがな、と。*9

 連絡将校は天を仰いで小さく、頭オカシイ(ファッキン・クレイジー)と呟いていた。

 

 

――チャイナ政府軍

 チャイナ政府軍参謀団は焦っていた。

 別に、南モンゴル西方域で起きている事態を把握していた訳では無い。*10

 だが、小競り合いを優位に行えている河北方面 ―― 北京鎮護軍からの報告や、渤海で漁船に偽装した情報収集船がかき集めた情報(マル・シップの活動活発化)、そしてフロンティア共和国で発行されている新聞(マスコミ)の報道から、東ユーラシア総軍の物資事情が急速に改善しつつある事を把握していた為であった。

 アメリカの攻勢 ―― 東ユーラシア総軍の活動活発化は、そう遠くないとチャイナ政府軍参謀団は判断していた。

 南モンゴルを完全に喪失する日も遠くない、そう考えられていた。

 元より、南モンゴル領域に仕掛けた守勢攻撃的焦土戦術は、チャイナ本土へのアメリカ軍侵攻を少しでも遅らせる為の時間稼ぎでしか無かった。*11

 故に、その事に()()()()()()

 だが開戦して1ヵ月、想定以上の負担をアメリカに与えていた状況で、何もせぬままに南モンゴルを()()()のは口惜しく思えたのだ。

 欲、であった。

 今現在のチャイナ北部での彼我兵力差は、チャイナ政府軍が数的には圧倒的に優位であった。

 現時点で北伐総軍は第1騎兵軍を除いて4個軍、約24師団が展開を終えていた。

 対するアメリカは約10個師団しか存在せず、しかもその内の4個師団は野砲などの重装備を持たない軽装備部隊なのだ。

 その上でアメリカ軍は、その優位点である機械化部隊が、燃料不足で活動が低下しているのだ。*12

 今なら痛打を与えられるかもしれない。

 その甘美な勝利への()が、チャイナ政府軍参謀団の戦争計画を狂わせたのだ。

 その背景の1つには、チャイナ航空隊の希望、チャイナ初のジェット戦闘機であるFJ-2戦闘機(ヴィーダシュタント・イエーガー)が実戦配備されつつあるというのもあった。

 エンジンの寿命と信頼性に少なからぬ問題を抱えてはいたが、それでもアメリカの戦闘機であれば十分に戦える ―― 戦える筈だとチャイナは判断(希望的推測)をしていた。

 FJ-2戦闘機はソ連の手でドイツから届いたエンジンを載せ、既に1個目の飛行隊が編制され、南京付近の飛行場で練磨が行われていた。

 2個目の飛行隊も部隊完結を間近に控えていた。*13

 蒋介石はチャイナ政府軍高官から提唱された反攻作戦について、作戦の失敗自体は危惧しなかったものの、作戦でチャイナ政府軍の中核を成す高練度/良装備部隊を失うことは恐れた。

 だが最終的に、成功する事によるチャイナ人の戦意高揚と鼓舞が、この戦争の勝利に繋がると信じ、作戦を認可した。

 チャイナ政府軍参謀団がドイツ軍事顧問団と共同で研究検討されていた南モンゴルでの守勢攻撃作戦、(カイル)が実働する事となる。

 

 

 

 

 

 

*1

 鄭和は進水はしても竣工までは至っていない。

 その上で、本来は造船所の手で試験運用を行った後に実施する各部の手直し工事などもやらない事とされていた。

 

*2

 余談ではあるが、大西洋中に展開するアメリカ海軍部隊に対して、鄭和の捜索命令は出されていたが、撃沈命令は出されていなかった。

 アメリカとチャイナの戦争が、公式にはチャイナへの南モンゴルの独立戦争であり、アメリカは義侠心を持って参加した()()()()3()()という政治的立場があった為である。

 ある意味でアメリカとチャイナは、まだ全面戦争の段階に達して居なかった。

 

*3

第501増強偵察旅団(旅団司令部は第501偵察大隊司令部が兼任)

 第501偵察大隊

 第1021自動車化歩兵連隊

 第5011集成自動車化歩兵連隊

 (第102義勇師団の各連隊から中隊を引き抜き、501thRBCTの後方支援を目的に臨時編成)

 全ての部隊が装輪乃至は自動車化されている。

 又、南モンゴル独立派から200名程の騎兵が案内などの目的の為、編入された。

 

*4

 第1騎兵師団師団長が第501増強偵察旅団戦闘団の兵力を詳細に把握できていた理由は、アメリカ側が南モンゴル西方域の民心慰撫を狙って、その出陣の様を大々的にマスコミに取材させていたと言うのが大きかった。

 この為、第501増強偵察旅団戦闘団に砲兵(特科部隊)が随伴していない事も把握していた。

 日本製の装甲車こそ脅威であるが、それも大隊規模でしかない ―― その戦力分析が、交戦可能と言う判断に繋がっていた。

 

*5

 アメリカとてこの状況に甘んじる積りは無く、コリア系日本人による義勇師団の重装備化を計画しては居たのだが、如何せん各義勇師団は最前線で北京鎮護軍と対峙し続けている為、装備改編を目的に後方へと下げる事が出来ないでいた。

 

*6

 ドイツ軍事顧問団は、このチャイナの作戦を()()()()()と呼び、注目する報告書を上げていた。

 将来の対フランス戦争に有効であろうと言う判断であった。

 

*7

 第5特科大隊は、第501特科大隊の中にあって緊急展開力に優れた19式装輪自走155㎜榴弾砲Ⅲ型を装備する部隊である為、空輸が可能であった。

 弾薬給弾車まで派遣されている。

 尚、19式装輪自走155㎜榴弾砲()型とは、タイムスリップ後に19式の車体が入手出来なくなった為、車体を日野自動車製8輪トラック(共通戦術車)に変更し、各部のマイナーチェンジを行ったモデルである。

 独国製車体を使うⅠ型であるが、保守部品の枯渇などもあって砲システムを移植するⅠ+型への改修も行われている。

 共通戦術車の開発製造を三菱重工が担当していない理由は、戦車/装軌装甲車/装輪装甲車の製造を一手に引き受けていた為、製造余力が乏しくなっていた事と、トヨタのロビー活動にあった。

 タイムスリップによって引き起こされた日本経済の低調化、その中で安定した官需の独占は困ると言う主張が背景にあった。

 この為、三菱重工の支援を受けつつ、日野自動車が開発と製造を担当した。

 

*8

 無論、第3輸送航空隊は日本連邦統合軍(航空自衛隊)からグアム共和国軍(在日米軍)へ一時的に移管された部隊である。

 日本のアメリカ支援は、憲法に基づいた政治的(面倒くさい)問題がある正面部隊以外では、極めて手厚く行われていた。

 

*9

 日本がC-2輸送機より大型の機体を開発していないのは、1つは航空機開発能力の限界と言う部分があった。

 戦闘機を筆頭とした状況の変化に伴って()()()()()()()()()()と比べ、C-2輸送機は日本の環境/状況が激変して今であっても要求に耐える必要十分な性能を誇っており、無理に人員を割いて開発を行う必要性が乏しかった為、概念研究だけは行われていたが、本格的な開発は行われずにいた。

 米系将校からは、米空軍が保有していた戦略的長距離大型(C-17/C-5級)輸送機の必要性も提唱されてはいたのだが、現状、日本が責任を持つ(軍事的プレゼンスを発揮すべき)領域が日本を東端としてシベリア西端までなので、海運と陸路(鉄道)で充分にカバーできるのだ。

 特に、この時代の戦争に掛かる速度(テンポ)であれば。

 偵察衛星によって周辺諸国を隈なく監視しているのは、伊達では無い ―― その程度の自負は、覇権国家(G4)の一角として日本は抱いていた。

 結果、長距離大型輸送機に関しては概念研究と、他の大型機とも共有できる技術の開発が行われるに留まっていた。

 とは言え、全く開発する気が無い訳では無く、一応は大型機開発計画(スケジュール)にも組み込まれてはいた。

 具体的には、現在開発が進められているF-3主力戦闘機の後継、6GF/F-XX((仮称)F-11)が完成して以降と言う予定であった。

 

*10

 日本はC-2B輸送機を投入するのと前後して、フロンティア派遣部隊に対してチャイナ側の航空機撃滅を指示した結果、チャイナ政府軍航空部隊は南モンゴル西方域で完全に活動能力を喪失していた。

 度重なった被害に、チャイナ政府軍は同戦域での航空部隊の運用を停止する程であった。

 

*11

 南モンゴルの人々に対するチャイナの酷薄さは、南モンゴル独立派が独立を叫び叛旗を翻した時点で、守るべき民草ではなくなったと言うのが大きかった。

 元より、蒋介石を筆頭とした()()()()()()()()()()()()()()()()を持つ人間にとって、大衆とは数でしか無かった。

 慈しむ相手ではなく、税を絞るべき相手でしかなかった。

 税を払い、或は兵となって使われるべき人足。

 にも関わらず、その務めから逃げたのだ。

 その様な叛徒 ―― 化外の地のまつろわぬ民など、積極的に損害を与えるべき()でしかなかった。

 

*12

 前線でのアメリカ軍の動きからの推測であった。

 現実には、アメリカの軍需物資の備蓄は十分に行われる様になっていたのだが、部隊の再編制も行っていた関係もあって、活動が低下していた。

 その事がチャイナの誤解に繋がっていた。

 

*13

 これ程の製造ペースは、エンジン到着前に、機体側で作れる部分は先に大量に製造していたと言うのが大きかった。

 




2020/04/18 文章修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

096 チャイナ動乱-15

+

 

 

【挿絵表示】

 

戦況図面情報*1

 

 

 アメリカは、本土から増援として送る2個師団及び、戦車などの装備輸送に関して、日本に対して支援を要請する事となった。

 第501機械化師団の輸送で活躍したさつま型輸送艦(31,000t級多機能輸送艦)やRO-RO船などの重量級装備を簡単に輸送できる艦船に着目した為であった。

 日本は要請に対し、軍艦による支援は難しい(面倒くさい)として、内閣府外郭団体と民間企業で管理している民間籍(チャーター)船団*2を、民間軍事企業(SMS社)へと特別に貸し出し、そこがアメリカからの業務を請け負う形とした。

 これによってアメリカ本土師団の輸送は、予定よりも2ヶ月早まる事となる。

 後には、国際連盟加盟国で派遣を宣言した国家の部隊輸送も依頼された。

 SMS社による輸送 ―― 日本船への乗船が、多くの国々が実際に日本を知る機会となる。

 船内での生活の快適さもあって、SMS社輸送船団はその船名などからマル・フリートと言う愛称で親しまれる事となる。

 又、この結果を受けてアメリカもグアム特別州(在日米軍)を介して日本造船会社にRO-RO船の建造を依頼する事と成る。*3

 

 

――烏拉会戦(D-Day+60~61)

 増強された第501増強偵察旅団戦闘団(Gs 501th)*4は、第5015特科大隊の戦闘準備が完了すると同時に、全力で第1歩兵師団(Cc 1st)に殴り掛かった。

 目標は第1歩兵師団の殲滅。

 撃破では無く、可能な限りの被害を与える事であった。*5

 対する第1歩兵師団。

 こちらも周辺偵察は行っていた為、第2騎兵師団(Cn 2nd)と第501増強偵察旅団戦闘団が近傍で戦闘を行っているのは認識していた。

 偵察に出している部隊が襲われる事の警戒はしていたが、戦闘の可能性に関して余り考えては居なかった。

 まさか増強連隊(2,000名にも満たない)規模の部隊が、20,000人を超える自部隊(第1歩兵師団)に積極的に殴り掛かってくるなど、想定出来なかったのだ。

 この油断が、第501増強偵察旅団戦闘団に戦闘のイニシアティブを渡す事となる理由であった。

 そして戦闘が始まる。

 払暁から行われた第5015特科大隊(野砲)の砲撃は、第1歩兵師団にとって最悪の目覚まし音(モーニング・ベル)となった。

 偵察衛星とUAVによる徹底して第1歩兵師団の展開状況を収集し行われたソレは、瞬く間に第1歩兵師団が持っていた野砲などの重装備を粉砕した。

 第5015特科大隊は、2個射撃中隊からなる小規模部隊であったが、19式装輪自走155㎜榴弾砲Ⅲ型は数の不利を補うだけの射撃の正確さと発砲速度を見せていた。

 弾薬給弾車まで展開しての猛射撃は、第1歩兵師団側に複数師団規模砲兵からの射撃と誤認させる程であった。

 そこに第501偵察大隊の装甲車群が突撃する。

 105㎜戦車砲を筆頭に様々な砲弾、機関砲、機関銃、小銃が叩き込まれた第1歩兵師団の戦意は粉砕されていた。

 何より、初弾で師団司令部が物理的に粉砕されている為、抗戦するどころの話では無かった。

 生き残った各級指揮官たちが撤退を指示するが、起伏と植生が乏しい見晴らしの良い場所で逃げる事は簡単では無かった。

 何より機動力の差が大きかった。

 又、第1歩兵師団が潰走段階に達して対空機材の有無が確認された為、大々的に投入する事となった制圧用攻撃機の群れが、大地に赤い染みを広げ続けた。

 第1歩兵師団の8割が、チャイナ共産党軍へ帰る事は出来なかった。

 戦闘が発生した地名から烏拉会戦と命名された第501増強偵察旅団戦闘団と第1歩兵師団の戦いは、都合2日と続いたが、ついぞ戦いと呼べるものにならなかった。

 尚、第2騎兵師団は戦いの余波 ―― 第501増強偵察旅団戦闘団を誘導する為に固まって動いていた所を制圧攻撃機に襲撃され、全滅していた。

 

 

――会戦準備(D-Day+60~67)

 最終的に、チャイナ政府軍がこの戦いまでにかき集めた戦力は5個軍に達していた。

 歩兵師団28個、自動化歩兵師団4個、機械化歩兵師団5個、戦車師団2個の都合39個師団、800,000名に迫ろうかと言う大軍団であった。*6

 しかも兵卒の多くはドイツ軍事顧問団の教育を受けており、高い練度を誇っていた。

 装備も、Ⅳ号戦車を筆頭に300両近く保有している。

 チャイナ政府軍参謀団が、今ならば勝てると信じるに足る戦力であった。

 対するアメリカが用意出来たのは2個軍、約14個師団であった。

 装備の質自体は高く、全ての部隊が最低でも自動車化された高い機動力を誇っていた、

 機械化師団6個、自動化師団2個、機甲師団1個、義勇師団3個、予備師団1個の13個師団、200,000名を超えない程度であった。

 しかも第一次河北会戦の被害を癒しきれていない3個の義勇師団の様に、少なからぬ部隊が万全とは言い難い状態にあった。

 地理的な面から言えば攻勢を掛けているのはアメリカであったが、戦争の主導権はチャイナの手にある事が、この第二次河北会戦に表れていた。

 アメリカは日本の偵察衛星情報で、チャイナの軍事力の集積を把握すると同時に防衛計画を練った。

 彼我兵力差から勝利は望めない事を理解した上で、如何にして被害を限定するかと言う視点での防衛計画であった。

 この為、一時的な放棄の許される領域を計算し、南モンゴル独立派へと一般住民の避難を指示する事となった。

 その際、東ユーラシア総軍司令官は、最低でも来年末までには南モンゴル全域を奪還する事(アイ・シャル・リターン)を約束し、戦場となる南モンゴル領域からの避難を飲ませていた。

 これによって作戦の自由(フリーハンド)を得た東ユーラシア総軍は具体的な戦争準備を進めていく事となる。

 最大の問題は、圧倒的な火力 ―― 野砲の不足であった。

 東ユーラシア総軍の柔らかな下腹部とも呼べる第2軍の中核を成す4個師団に野砲は殆ど配備されていなかった。

 精々が迫撃砲でしかなかった。

 アメリカは航空支援で何とか対応する積りではあったが、それでも対応しきれるとは限らない為、徹底して塹壕を作ると共に、大胆な戦線の整理を予定した。

 対して第1軍に関しては不安を抱いては居なかった。

 2~3倍程度の戦力差であればひっくり返せると確信すらしていた。

 第501増強偵察旅団戦闘団が挙げた戦果は、それ程の自信を東ユーラシア総軍司令部に与えていた。

 南モンゴルの少なからぬ領域を()()()に手放す事を考えていた東ユーラシア総軍であったが、第1軍へ出された基本方針は、現所在地の可能な限りの維持であった。

 これは、南モンゴル全域からの撤退と言う選択肢は取れないと言うアメリカの政治的な立場と、最西端の前線で戦う第501増強偵察旅団戦闘団を見捨てる事が出来ないと言う2つの事情からであった。

 東ユーラシア総軍参謀の1人が、第1軍が敵中に孤立する危険性もあるので後退させるべきだと主張した際、司令官は一言だけ答えた。

 アメリカは戦友を見捨てない、と。

 とは言え、政治的なアプローチからの問題解決を司令官は検討し、そのまま総司令部(ホワイトハウス)へと上げてもいた。

 

 

――渤海海戦(D-Day+68)

 両軍共に決戦の機運を高めている状況で、戦いの口火を切ったのは用意の整いつつある陸では無く、戦意に不足の無い(戦闘を待ちわびた)空でも無く、開戦以来敗北を続けた海であった。

 仕掛けたのはチャイナ。

 先の渤海攻防戦を生き延びていた魚雷艇2隻と、青島にあるドイツの工場から納入された4隻の高速武装艇で渤海臨時戦隊を作り、ここを通るアメリカの船を襲おうとしたのだ。

 狙ったのは()()()()

 河北での大攻勢を前にした側面支援、アメリカの燃料事情に少しでも打撃を与えようとしての事であった。

 最良の選択肢としては無差別な機雷(浮遊機雷)散布による渤海全域の封鎖であったのだが、チャイナの渤海部隊が保有している機雷が少なかった為、次善の策として水上部隊による襲撃が考えられたのだ。*7

 とは言え、機雷戦をしない訳では無く、水上襲撃と前後して偽装漁船による機雷散布を実施する予定であった。

 当然、アメリカは苛烈な反撃を行うであろう事が予想される為、チャイナ渤海部隊はこの作戦の終了と共に渤海海域を脱出する事とされた。

 脱出に際しては、魚雷艇高速武装艇の放棄も認める事とされた。

 とは言え、アメリカは渤海で軽巡洋艦や駆逐艦による哨戒作戦を行っており、襲撃の成功は兎も角として、帰還は絶望的であった。

 その事を理解しつつ、襲撃部隊の将兵は旺盛な戦意を見せていた。

 作戦決行の前夜の壮行会では、歴史あるチャイナの水軍部隊の精華を蛮夷(アメリカ)に教育してやらん、とまで盛り上がるほどであった。

 そして壮行会の翌日、東シナ海に展開していた偽装漁船の情報収集船が、西へ向かうタンカーを発見したとの一報を上げた。

 戦闘艇たちはそれぞれ漁船などの民間船舶に偽装して出撃、分散してタンカーの襲撃を図った。

 対して、アメリカ海軍はタンカーの護衛に2隻の駆逐艦を直衛に充てていた。

 その他に、渤海を巡回(パトロール)している軽巡洋艦を旗艦とした戦隊が存在していた。

 既に渤海はアメリカのコントロール下にある、そんな認識もあって海洋交易路での直衛は駆逐艦2隻となっていたのだ。

 尚、守られているのはタンカーだけではなく、医療物資、或はアメリカ本土からの様々な軍事物資などを満載した貨物船も含まれて居た。

 10隻を超える船団は、ゆっくりと進んでいた。

 そこを襲撃する6隻の戦闘艇。

 高速武装艇が撹乱し、魚雷艇が魚雷でタンカーを仕留めると言う段取りであった。

 国際法上で要求される軍艦旗の掲揚も行わぬまま襲撃を開始した漁船(高速武装艇)に慌てたアメリカ海軍駆逐艦は、翻弄される事になる。

 100tにも満たない高速武装艇は、艦砲どころか機銃が当たっても粉砕されかねない貧弱な存在であったが、撹乱に徹する(回避を優先した)運動を取っていれば、簡単に駆逐艦から排除される事は無いのだ。

 その隙を突いて魚雷艇がタンカーに突撃した。

 魚雷は各艇2発、計4発しかない為、魚雷艇部隊指揮官は少しでも命中精度を上げようと肉薄雷撃を下命した。

 この命令に各将兵は良く従い、魚雷の発射は距離2,000まで我慢した。

 魚雷艇の動きに気付いた駆逐艦が必死に阻止しようとするが、今度は高速武装艇が邪魔をする。

 次々と撃破される高速武装艇。

 魚雷艇も1隻、身を挺して沈んだ。

 だが、それらの献身あればこそ、旗艦の魚雷艇は絶好の魚雷発射位置に到着した。

 人の執念の結実であった。

 放たれた魚雷は、狙い誤る事無くタンカーの横っ腹に命中した。

 上がる水柱、魚雷艇には歓声が充満した。

 だが()()はそこまでだった。

 水柱が消えた後、そこにあったのは何事も無く進む中型タンカー(15万t級スエズMAX)の姿だった。

 命中はしたが火災も発生せず、威風堂々と進んでいる。

 二重船殻や不活性ガスシステムなどの安全性もだが、そもそも、下手な戦艦よりも巨大な船体が高い防御力を与えているのだった。

 魚雷艇の乗組員たちは、その様に驚愕したまま水底へと沈むのだった。

 

 

 

 

 

 

*1

 US:アメリカ

 Gs:グアム共和国(特別自治州)

 kr:朝鮮(コリア)共和国

 Fr:フロンティア共和国

 Bc:バルデス国

 Sr:シベリア共和国

 

 Cn:チャイナ

 Cc:チャイナ共産党

 

*2
 

 タイムスリップした直後の不況時、造船会社倒産の危機を乗り切る為に日本政府は造船各社が建造中だった様々な貨客船や客船を買い取っていた。

 それから20年近くが経過した現在、日本連邦統合軍の裏方を支える戦力となっている。

 当初は時機を見て海上自衛隊に吸収させる予定であったのだが、定年退職した海上自衛官の再就職先として便利であった為、内閣府の外郭団体が一元管理する現体制へとなっていた。

 現在、人員輸送艦(100,000総t級客船)なでしこ型を中心とした軍事規格船8隻と15隻の高速貨客船(高速フェリー)、3隻の大型客船(人員輸送/病院船)と5隻の自動車運搬船(重量物運搬船)が在籍している。

 以前はタンカーも在籍していたが、日本経済の活動活発化に伴い、民間へと売却されている。

 

 

*3
 

 尚、このRO-RO船を手本として、アメリカ国内でも独自に類似船舶の建造に取り掛かる事となる。

 

 

*4
 

第501増強偵察旅団(臨時集成部隊)

 第501偵察大隊

 第1021自動車化歩兵連隊

 第5011集成自動車化歩兵連隊

 第5015特科大隊

 

*5
 

 尚、捕虜に関しては認められないとされた。

 投降してきた場合、武装解除後に()()()()()()()()()()()()()とされた。

 寒い南モンゴルの地で、乱暴狼藉の限りを尽くした人間が、武器も無く解放された場合にどうなるか。

 その点に関してアメリカ軍の法務が議論する事になったが、余剰人員を抱えるだけの物資的な余裕が無い事と、南モンゴル人の()()()()()()が重視された為、投降者の保護は行われない事が決定された。

 東ユーラシア総軍参謀団の一部には、南モンゴル人のストレス発散によってチャイナと南モンゴルの間で根深い民族的対立が発生し、将来的な国家の再統合を妨げる事に繋がる事を期待する人間も居た。

 

 

*6
 

 チャイナ政府軍に於いて、機械化歩兵師団と自動化歩兵師団の違いは、戦車部隊を最低でも大隊規模で持っているか否かという点であった。

 又、歩兵部隊の移動に自動車/トラックを装備すると言う意味での分類もあった。

 10台以上の車両があれば自動化歩兵師団であり、装備率が50%を越えれば機械化歩兵師団として扱われるという。

 ある意味で大変におおらか()な分類が成されていた。

 

 

*7
 

 本来チャイナは4桁を超える機雷を用意していたのだが、開戦劈頭のアメリカ海軍の攻撃によって失われていたのだ。

 現在、急いで量産を進めているが、備蓄されているのは100基に満たない数であった。

 

 




2020/04/19 文章修正
2020/04/20 文章修正
2020/04/22 文章修正
2020/04/26 文章修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

097 チャイナ動乱-16

+

 渤海海戦で自国のタンカーを傷つけられた日本は、護衛に失敗したアメリカ以上に怒った。

 戦時の事である事から海難事故の保険も利かず、日本人船員も負傷していたのだから、日本の国内世論に於いて()()()()()を行ったチャイナに対する報復論が盛り上がるのも妥当な話であった。

 一部の野党とマスコミからは、アメリカの戦争へ協力を行った事が原因だとの批判の声も上がったが、それが大勢となる事は無かった。

 とは言え日本政府は、チャイナへの制裁(武力行使)を主張する世論に迎合する事は無かった。

 世論 ―― 対外強硬論に迎合する事は戦争への道(ロード・オブ・大東亜戦争)を歩む事だと認識してであった。

 日本は、タイムスリップによる経済混迷からようやく脱し、繁栄の坂道を登り始めたばかりなのだ。

 そんな状況故に、日本政府は人命と物資と金銭の無駄遣いである戦争は()()()()()回避せねばならぬモノと決意していた。

 だが同時に政治家(ヤクザな人気商売)であるが故に、世論を丸っと無視する事も出来なかった。

 故に、チャイナに対して明確な国際法違反 ―― 軍籍船の海軍旗不掲揚問題をもって、責め立てる事とした。

 併せて、政府系シンクタンクなどを使って世論沈静化を図ったお蔭で、過激な、それこそチャイナへの爆撃を主張する意見は収束していく。

 とは言え日本政府は、過激な世論が完全に収束したとしてもチャイナの国際法違反を許す積りは無かったが。

 戦時とは言え、軍艦旗を下ろしたままに非交戦国の民間籍船を襲撃するなど、許されるべきでは無いからだ。

 この無法を看過していては、何時しか、()()()()()などと言って、特設巡洋艦(武装貨客船)による無差別無制限通商破壊作戦などをやらない可能性が無いとは言いきれない。

 或は、渤海に浮遊機雷をばら撒く様な無差別攻撃(貧者の戦術)を出されては、日本の安全保障にも影響が出かねない。

 その様な蛮行に繋がりかねない芽は、早期に断たねばならぬからだ。

 自由上海市の大使館を窓口にして、チャイナに対し日本は、被害船の籍国として国際法違反の原因と責任者の究明、責任者への処罰と再発防止策の策定を強く要求する。

 しかも、この要求が受け入れられない場合、日本は事態改善の為の対応を()()()()()()()()()()にまで言及していた。

 慌てたのはチャイナだ。

 アメリカの(サポート)に日本が居る事は理解していたが、ここまで露骨に出て来るとは予想していなかったからだ。

 法治国家と言い難い社会構造のチャイナは、国際法を遵守することへの意識、或は優先度が低かった。

 故に、戦闘時の軍艦旗掲揚に関しても、戦闘を優位に進める為の策略という程度の認識しか無かったのだ。

 この為、チャイナは日本の要求を帝国主義に基づく、強欲な干渉であると強く反発する事となる。

 数日に渡った日本とチャイナの交渉は完全に平行線となり、決裂する事となる。

 この為、日本は事態改善の為の行動に出る。

 先ずは国際連盟の活用である。

 国際連盟安全保障理事会にて、チャイナの非文明国的行動の非難と再発防止を議題に上げるのだった。

 チャイナは日本が即座に武力行使に来るのではと戦々恐々としていた所に、この対応であった為に拍子抜けをし、同時に、ジャパンとは異なり日本は今まで自ら戦争を仕掛けた事が無かった事を思い出した。

 防衛戦争しかしない国。*1

 しかも、自ら国家間の問題を解決する手段としての戦争(武力行使)を放棄している事を宣言している。

 日本と言う国家は、戦争を自ら行う気概の無い()()()では無いかとチャイナが思うのも仕方のない話であった。

 

 

――国際連盟安全保障理事会

 日本の要求で開催された国際連盟安全保障理事会で議論された、国際法の遵守に関する問題は、白熱する事となる。

 罰則規定の設けられていない、法的拘束力の無い国際法であるが故に、締結国が此れを尊重せねばならぬと言うのは、最初に議決する事が出来た。

 その上で戦争による国際法違反と、国際法違反による被害が発生した場合には、違反国が謝罪と賠償、原因を究明した報告書の提出と責任者の処罰。そして原状回復費用と被害者への見舞金を出すのであれば、国際法違反は許されると明文化された。

 問題は、国際法に違反し戦争当事国外(非戦争参戦国)へ被害を出したにも関わらず、その責任から逃れようとする国家である。

 罰則規定が存在しない国際法である為、国際法違反による被害の責任を追求しようとすれば、被害を受けた国家による報復を認めねばならぬのだ。

 そうでなければ誰も、戦争などと言う生々しい状況で国際法を遵守しようとはしないだろう ―― 日本はそう主張し、国際連盟安全保障理事会の空気を掌握していった。

 日本のこの姿勢に関し、他のG4諸国は諸手を上げて賛同していた。

 基本的にG4諸国は国際法(ルール)を作る側であり、強制する側である為、デメリットなど存在していないと言うのが大きかった。

 戦争当事国であるアメリカにとっては、チャイナによる策謀(国際法違反に基づいた謀略)を封止する事に繋がるというメリットがあった。

 ブリテンとフランスに関して言えば、アフリカやアジアでの治安維持に関して、紛争や治安維持の悪化なども戦争に準じる()()()()()としてしまえば、原因(ドイツ)に対する実に便利な権利(棍棒)となる話であった。*2

 対して慌てたのはソ連と、ソ連が纏めていた南米などのG4に対する反発の強い国家群であった。

 国際法違反による戦争被害など、でっち上げようとすれば簡単に出来る事であり、そうなれば圧倒的な国力(世界GDP8割以上)を持ったG4の前に成す術など無いのだから。

 とは言え既に国力差と、国力差に裏打ちされた国際影響力の差(G4へ尻尾を振る国の多さ)に、そもそも反G4国家群が出来る事など限られていた。

 故に、正論を武器にする。

 議場を武器にする。

 国力の差が出る、国際連盟総会や国際連盟安全保障理事会の()に出る事なく、ただの1つの()として対峙出来る場で、G4に主張するのだ。

 この涙ぐましいソ連などの反G4国の主張を、G4側は受け入れた。

 とは言え、これは別に反G4国(中級規模国家群)*3に阿ったからでは無かった。

 逆に、日本などはソ連などの法治を甘く見る癖のある国家(独裁国家)に対し、言い逃れの出来ない環境づくりとして、反G4国家群の要求を受け入れていた。

 国際連盟の場で、安全保障理事会で審議した上で総会で多数決を行う事で、国際連盟加盟国に対して報復権の行使に関する干渉を許さない為である。

 その上で、国際連盟加盟国には加盟国の報復権行使に対する支持と支援義務を、()()()()で定めさせていた。

 国際連盟で正式に取り決めた事に面従腹背する事は、断固として赦さぬと言う姿勢である。

 日本政府は怒っていた。

 面倒くさい事を引き起こしたチャイナに怒っていた。

 普通に戦争戦闘で傷つけられただけなら遺憾の意を表明するだけで終わらせられたのに、小知恵を巡らせて狡っからい事(国際法違反)をするから、秩序を守り守らせる側の国家として動かざるを得なくなったのだから。*4

 兎も角。

 紆余曲折の果てに、国際連盟加盟国の自衛の為の報復権に関して全会一致で承認される事となった。

 その第1号は、当然ながらも日本による対チャイナ懲罰動議であった。

 これまで以上に厳しい内容となっていた。

 チャイナに対する国際連盟加盟国による経済封鎖 ―― 国営や民間を問わないチャイナ籍企業の活動禁止と共に、チャイナ人の入国拒否まで含まれているのだから。

 例外としては外交官であったが、その自由行動への制限すら含ませていた。

 外交関係に関するウィーン条約に抵触しかねない内容であり、反G4国家群は強い反発を示したが、日本が強い態度で、外交官の自由を阻止するのではない。

 只、その監視を強化するのみであると強く主張した為、反G4国家群は折れざるを得なかった。*5

 

 

――日本チャイナ交渉

 前回とは異なり、日本とチャイナの直接交渉が行われる事と成る。

 舞台となったのは、仲介役も担った自由上海市であった。

 チャイナに在ってチャイナの管理下に無い、この独立都市は国際連盟に特殊な立場で参加する事となっている事もあり、この様な交渉の場として最適であった。

 とは言え、チャイナ政府と南モンゴル独立派との交渉の際にテロが行われていた為、自由上海市の治安を預かるイタリアは、緊張をもって望んで居た。*6

 とは言え交渉自体は短時間で終わった。

 日本が淡々と納得できる理由、責任者の首、見合った賠償の3つを要求し、その上で1週間と期限を切った上でのチャイナ政府の回答を要求しただけだったのだから。

 チャイナは、交渉の場として設定されていた時間一杯に何とか交渉の糸口を探したが、日本は雑談に応じる事無く笑み(ブッダスマイル)を浮かべていた。

 和か戦か(エンコかチャカか)、その選択肢は与えた。

 後はチャイナが選ぶだけ ―― 交渉の場ではあったが、それは交渉では無かった。

 時間の最後に、日本の代表は思い出した様に1言、伝えた。

 日本は1週間後を目処に水上艦部隊を渤海に進出させる事を()()()()()()、と。

 

 

 

 

 

 

*1

 しかも、2度の対ソ連戦でも、戦場で優位であったにも関わらず、ソ連を体制崩壊にまで追い詰めようとしなかったのだ。

 日本からすれば、戦争の損益分岐などを勘案しての決断であったが、得られる利益があるならば、その効率などは問わずに最大化を図るチャイナの国民性からすると、理解できない話であったのだ。

 故に、勝てる戦争を最後まで完遂しない、精神的に惰弱だとチャイナが思うのも仕方のない話であった。

 

 

*2

 実際、1942年に入ると共にフランスは対ドイツ戦争計画の精査修正と、軍事物資の集積を開始していた。

 とは言えフランス領インドシナ情勢は、まだ紛争状態が続いている為、本格的に行動するのは状況が沈静化し次第という予定であった。

 既に鎮圧の目処は見えて来ているフランス領インドシナであったが、ドイツとの戦争のさなかに再着火されてしまっては安心して戦争出来ない ―― 2正面作戦を回避する為、フランスは慎重に行動していた。

 

 

*3

 G4へと小さくとも物申せる国家はソ連を中心とした経済的に発展途上の、中級規模の国家しかなかった。

 これは、小規模な国家の場合だと反抗するしないの前に、小国の絡まぬ周辺での経済的な外交交渉の余波だけで潰れかねないので、常にG4の顔色を窺わざるを得ないのが現実であったためだ。

 その意味では、周辺諸国がG4へと変わった途端に、機会を見て(恩の売り時を見て)体制を変革してまでG4への協力を宣言したモンゴル国、旧名モンゴル()()()()()は見事な生き残り術を発揮したと称賛されるべきであろう。

 

 

*4

 日本は、世界秩序よりも自領域(日本連邦)の開発発展が優先であり、金儲けこそが楽しくも大事な事であった。

 そんな日本にとって、国際連盟の場で主導権を発揮して議論を纏めるなど、名誉ではあっても面倒事でしか無かった。

 そんなのはアメリカか、ブリテンがやれば良いのだ。

 それにフランスが茶々を入れるのを日本は黙って見ていれば良い ―― ある意味でトンでも無い日本の本音の国家方針であった。

 だが同時に、圧倒的な経済力を背景にする全世界を相手に戦争を行い、平然と勝利する事が可能な覇権国家である日本が、かの如く()()からこそ世界は、他G4にせよ自由を満喫出来ているとも言えていた。

 

 

*5

 そもそも、敵対国の外交官の監視は平素から行われるものであり、その活動を可視化するだけであるので日本の主張に強く反発し続けるのは難しいものであった。

 とは言え、監視される側からすれば、公然と監視され、その行動が公文書として国際連盟安全保障理事会の報復権に関する小委員会で管理される事と成る為に、交渉相手に対してチャイナ外交官に対応する事への忌避を植え付ける効果があった。

 ありていに言えば、チャイナに対する嫌がらせ()()が目的であった。

 

 

*6

 イタリアは交渉の場に第三者、国際連盟安全保障理事会が()()()()()()()()()()として参加していた。

 チャイナが日本を信用していない為、護衛の問題でもめていたと言うのも大きい。

 だがそれ以上に日本が参席を要求していた。

 チャイナとの交渉内容を公開しながら行う事で、後日、チャイナが宣伝戦(情報工作)を行う余地を残させない為である。

 

 




2020/04/22 文章修正
2020/04/23 文章修正
2020/04/24 文章修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

098 チャイナ動乱-17

+

 日本から出された3つの要求 ―― 納得できる理由、責任者の首、見合った賠償は、どれもこれもチャイナが簡単に呑めるものでは無かった。

 責任者の首と言えば、実際に立案した者は魚雷艇と共に海の藻屑となっていた。

 とは言え、誰かを適当に責任者に仕立て上げる事は簡単であるが、そんな事をしてしまえば、海上部隊の、ひいては軍全体の士気が地に堕ちる事となるだろう。

 戦争中に出来る事では無かった。

 一番簡単に見える賠償は、その額ゆえに不可能だった。

 日本が出してきた請求額は、チャイナの年間の軍事費と同額であったのだから。

 流石に吹っ掛け過ぎだと憤慨し減額を要求するチャイナであったが、日本は拒否した。*1

 そして、理由である。

 戦闘を優位に進める為であるとしか説明しようがなく、その事を日本に対して伝達しているのだが、その様なモノは理由では無いと突っ撥ねられていた。

 ではそれ以上の理由を用意するとなれば、責任者の首と同じ話となる。

 チャイナの対アメリカ政策と戦争を自ら否定せねばならなくなるのだ。

 戦時中である事を抜きにしてもチャイナは10年来と評するレベルで反アメリカ、反外夷(ジャパン・アングロ)で民意を煽って来ていたのだ。

 それを今更否定しては、チャイナの政府高官たちは軒並み、民衆の手で吊るされる事になるだろう。

 とてもではないが、出来る事では無かった。

 八方塞となったチャイナは、必死になって国際連盟加盟の国々へ外交交渉を持ちかける事となる。

 日本の報復権を、国際連盟の総会で認める事が無い様にしたいが為であった。

 様々な手管(賄賂等)を用いて、国と国との外交の場を作り出す事までは成功するのだが、その先の反応は捗々しいものでは無かった。

 1人1国とて、チャイナの要求を聞いて国際連盟総会の場で活動する事を約束するモノは居なかった。

 比較的友好関係を築けていたとチャイナが自認していたソ連ですら、チャイナの主張を傾聴するだけであった。

 チャイナの主張を記録せずに聞くだけと言う態度の外交官はまだマシで、挨拶を交わした途端に要件は終ったとばかりに退出する外交官すら居た。*2

 これ程の扱いをチャイナが受ける理由は、外交先として選んだ国々が日本に阿ったからでは無かった。

 そもそもとして、チャイナが国際連盟を軽視した態度と外交とを繰り返してきた結果であった。

 国際連盟総会での非難決議を鼻で笑い、国際社会と諸外国とはチャイナにとって都合のよい様に使うだけの存在であると認識し、行動してきた結果であった。

 正しく因果応報。

 その現実を、チャイナは突きつけられたのだ。

 アメリカとの戦争が起きる前、アメリカで行った宣伝(情報工作)が失敗した時に自覚するべきだったのだ。

 宣伝が失敗したのは、宣伝内容が杜撰だった訳でも、宣伝に掛けた予算が足りなかった訳でも無く、純粋にチャイナへの憎悪が存在していたためであると言う事実を。

 自らを世界随一の歴史を持った大国、中原(世界の中心)の大国と自認していたチャイナは、この段になって漸く、自らが世界から憎まれている事を理解した。

 チャイナの駐スイス大使は、個人的に親しかったスイス人から忠告を貰った。

 自らの国力も弁えず、強大な列強に議決権の数を持って抵抗する(寡は衆に敵せずの論に基づく)組織である国際連盟を脱退し、列強(ジャパン・アングロ)に独りで歯向かうチャイナは、愚か者(未開人)であると嗤われているのだと。

 この忠言を含めて、スイスでの外交成果を余すことなく報告された蒋介石は、その夜、黙って老酒を呷っていた。

 

 

――チャイナ

 自らの置かれた絶望的な状況を理解したチャイナであったが、とは言え日本との交渉を諦める訳には行かなかった。

 既にアメリカと戦争をしている状況で、日本と戦争をするなど狂気の沙汰であるからだ。

 その程度の計算をするだけの判断力はチャイナにも残っていた。

 ジャパンへの留学経験のある者や、日本人の政府関係者と接触した事のある者をかき集めて、対案を練る事とした。

 目的は日本との戦争回避である。

 それだけを目的とした行動方針、行動計画だけが求められた。

 時間は無かった。

 スイスでの外交で時間を浪費した結果、日本の回答期限まで残された時間は殆ど無かったのだから。

 対策班は1昼夜、考え抜いた行動計画を上申する。

 時間の無さゆえに粗削りな内容となっていたが、それを読んだ蒋介石は顔をしかめた後、受け入れる旨を口にした。

 上申内容を要約するならば、日本への全面的な屈服であった。

 責任者は適当(適切)な者を人身御供として処罰し、渤海での類似の案件が再発しない様に、チャイナ軍は渤海沿岸域から全面撤退を行う。

 賠償金に関しては予算、税収の不足を正面から口にして、資源の売却と共に、長期間での償却を願い出る事とされた。

 幸いな事に、日本はアメリカとの戦争に関しては言及していなかった為、 国民に対する言い訳は用意する目処があった。

 予定されている第二次河北攻勢、秘匿作戦名(カイル)の勝利である。

 この勝利と共に、何時もの宣伝 ―― 暴虐なる外夷(ジャパン・アングロ)に対する臥薪嘗胆の合言葉を連呼する事で誤魔化せると見ていた。

 ここまではある意味で蒋介石も想像していた通りの内容であった。

 想定外であったのは、渤海に進出してくる予定の日本海軍部隊を自由にさせるという事であった。

 軍事的報復を行ったと言う事実を持って、日本の世論のガス抜きを行う事が目的であった。

 その被害がどれ程になるのか、想定出来るものでは無かった。

 日本の新聞で収集した情報ではやまと型対空護衛艦(戦艦)、竣工したばかりのあそ型対地護衛艦(重巡洋艦)*3まで投入されるのではと伝えられていた。

 渤海沿岸域がどれ程酷い事になるのか、想像するだに恐ろしかった。

 だが日本対策班(アストロミー・オブザーバー)は、その新聞内容に光明を見た。

 集められる限りの記事、日本の新聞社のみならずアメリカやブリテンの特派員(特別駐留認可記者)による記事を見ても、日本が作戦海域としているのは渤海に限定されていたのだから。

 東シナ海沿岸域、特にチャイナ政府にとって重要な経済基盤である長江流域が含まれて居ない事は救いであった。

 懲罰を行う積りはあっても滅ぼす積りはない。

 そんな日本の外交メッセージを正確に受け取ったのだった。

 日本対策班は()()()()()を避ける為、蒋介石の了解の下でスイスの大使館を通じて日本にメッセージを送った。

 対話に心残れど(事後の対談を望む)渤海に残心無し(好きにやれ)、と。

 

 

――日本/懲罰行動

 スイス大使館を通じたチャイナからのメッセージを受け取った日本は、防空護衛艦やまとを旗艦とした渤海派遣戦隊群(TF-42.1)を渤海へと侵入させた。

 ある意味で手打ちの為の武力発揮を望まれる当水上艦戦隊は、大小合わせて5隻の護衛艦から成っていた。

 マスコミが報道(リーク)していた通り、やまととあそが含まれて居る。

 だがそれ以上に象徴的であったのは、日本連邦統合軍としての派遣を象徴する様に朝鮮(コリア)共和国の軍艦、新鋭の5,000t型護衛艦(海防駆逐艦)*4白頭が参加していた。

 5隻の艦艇は、朝鮮(コリア)共和国に駐屯していた第8航空団に所属するF-3戦闘機の群れに見守られながら、渤海に面したチャイナの港を焼き尽くした。

 大は軍港から小は漁港まで、存在した船舶の尽くと一切合切の造船設備を消滅せしめたのだ。

 日本の大義名分は、渤海で二度と国際法に反した漁船(民間船舶)への偽装を不可能にすると言うものであった。

 その姿は正しく暴君(グレートゲーム・プレイヤー)であった。

 暴力であった。

 但し、一般人の居住区域への被害は一切無かった。

 海兵部隊が上陸して略奪が行われる事も無かった。

 その事が、益々以って日本対策班に恐怖を与えた。

 日本が、怒りに任せた無思慮な暴力を振るうだけの粗暴者(ゴロツキ)ではなく、冷静に利益を計算して暴力を振るう組織暴力者(ヤクザ)である事を示しているのだから。

 日本対策班は蒋介石に対して、日本との交渉は心して行うように上申するのであった。

 

 

 

 

 

 

*1

 請求された修理費用は、タイムスリップ前に建造されていた中型タンカー(15万t級スエズMAX)の建造費とほぼ同額と算出されていた。

 被雷と言う設計時には想定されていない被害を受けたフネである為、何処に負荷が掛かっているか判らぬ為、徹底した船体の調査を行った上で修理せねばならないと言うのが論拠であった。

 その上で運行が出来ない期間の、タンカー所有会社に対する利益補償。

 負傷した乗組員の医療費と見舞金が乗るのだ。

 それを()()()()()()()()で、しかも減額無しで叩きつけられたのだ。

 チャイナが頭を抱えるのも当然であった。

 

 

*2

 これ程に外交的態度を投げ捨てた様な酷い対応を行ったのは、チャイナが無理矢理に元チャイナであるからと呼びつけた東トルキスタン共和国位であった。

 賄賂(積み上げられた札束)に負けた下級の外交スタッフと違い、国連代表になれる程の見識を持ち、日本へも留学した事のあった外交官は、外交的と言うよりも、国家存続に寄与する為の行動として面会を行ったのだった。

 チャイナが、チャイナから独立した東トルキスタン共和国を国として認めたと言う記録を残す為である。

 そして、対面したと言う記録が出来れば、それ以降は言質を与えない為、一言も発する事無く退席したのだった。

 

 

*3

 あそ型対地護衛艦は、1939年次対ドイツ戦備計画に基づいて計画建造された、事実上の砲戦型重巡洋艦である。

 1939年に策定されたにも関わらず、1942年早々に竣工出来た理由は、以前よりやまと型の補完戦力として10,000t程度の着上陸作戦支援用護衛艦の建造が検討されていたと言うのが大きい。

 尚、主砲に関してのみ、原案とは大きく異なる事となる。

 当初の10,000t型案であれば、余剰兵器として保管状態にあった203mm自走りゅう弾砲の砲身(M201榴弾砲)を流用し自動化単装砲塔6基6門と成っていたのだが、そこにアメリカが横やりを入れたのだ。

 きい型護衛艦に関わるブリテンとの技術共同開発事業を知ったアメリカが、艦砲の共同開発を要求(泣き付いて)して来たのだ。

 グアム共和国(在日米軍)の口利きもあり、又、G4内に於いてブリテンを偏重すると言う形になるのも問題であるとの政治的判断から、自動化8in.連装砲の共同開発が行われたのだった。

 この8in.連装砲を搭載する為、当初の10,000t型対地護衛艦から船体設計の変更が行われ、最終的には13,000t型甲種護衛艦として建造された。

 

 艦名 あそ(あそ型対地護衛艦)

 建造数   6隻(あそ いこま 以下艦名未定)

 基準排水量 14,650t

 主砲    55口径8in.連装砲 3基6門

 VLS     Mk41 32セル(前部32セル)

 他     CIWS 2基  SeaRAM 2基  3連装短魚雷 2基

 航空    UAV専用格納庫(観測用UAV 3機)

 

 

*4

 タイの要請を受けて開発された戦闘艦である。

 タイ向け1番艦の名前を採ってトンブリ級とも言われるが、タイの知名度が低い為、もっぱら5,000t型丁種警備艦(Type-T 5,000t)を略す形で、T3級と言う名前で認識されている。

 此れは、本級が有償軍事援助(FMS)形式で売却される為、日本での予算を付ける上での名前が必要とされての措置であった。

 現在、売却契約が締結されているのは3ヵ国。

 タイ、朝鮮(コリア)共和国、台湾(タイワン)民国に、それぞれ2隻が引き渡される予定となっていた。

 

 艦名 5.000t型丁種警備艦(韓国(コリア)共和国仕様)

 建造数   2隻(白頭 艦名未定)

 基準排水量 4,750t

 主砲    37口径8in.連装砲 3基6門

 副砲    51口径105㎜速射砲 4基4門

 他     35㎜連装砲 2基  3連装短魚雷 2基

 

 




2020/04/24 誤字修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

099 フランス植民地帝国の壊乱-04

+

 1940年より始まっていたフランス領インドシナでの独立闘争は、2年の月日を経て鎮圧されようとしていた。

 フランスが本気を出した ―― アフリカなどから装備と練度の良好な正規フランス人による部隊を投入したと言うのが大きい。

 日本やアメリカには劣るが、それでもこの時代としては十分な信頼性を持った装甲と機動手段を持った、練度良好な部隊である。

 旧式の小銃や手榴弾、自作の爆弾が精々のベトナム独立派が頑強に戦い続ける事が出来る筈も無かった。

 又、フランスは、フランス領インドシナを重視している事を示す為に今現在で1隻しか稼働状態にない空母ペインヴェまで投入していた。

 ジョフレが被ったスカゲラック海峡事件での戦訓に基づいた大改装こそ行われていないが、小規模な改装と運用の手直しは行われて居た為、フランスは戦艦ストラスブールを旗艦とする6隻の護衛部隊も付けて東洋戦隊の名前を付けて派遣していた。*1

 こうなってしまえば、ベトナム独立派は狩られるだけの存在になるしかなかった。

 如何に人民の海に潜って隠れていても、武器を持って戦おうとすれば鏖にされるのだ。

 この状況に止めを刺したのがチャイナ人義勇兵 ―― 大アジア連帯主義(グレート・アジア)者の離脱である。

 度重なった敗北、劣勢であったが為に士気も盛り上がらなかったチャイナ人義勇兵が、祖国から届いた大アジア連帯主義に基づく南チャイナ独立運動に心惹かれたのも、ある意味で仕方のない話であった。

 とは言え、抜けられるベトナム独立派からすればたまったものでは無い。

 既にベトナム独立派を軍たらしめてきた職業軍人集団、中堅指揮官も兼ねていたジャパン人将校団が喪われていた所に、兵士たちも失ったのだ。

 武力闘争の継続など出来るものでは無かった。

 又、フランスがベトナム独立派の活動資金元を調べ、それらを潰す動きをしていたと言うのも大きい。

 特に、フランス領インドシナの民族系資本に対しては、相互監視と密告の奨励を行い、それが出来ないのであれば重税を課す様な事をしていたのだ。

 指揮する者が減り、兵は失われ、金は無い。

 その様な状況で独立運動を継続し続けられる筈も無かった。

 

 

――ベトナム独立派

 大規模な軍事蜂起、抵抗運動が困難になる中で、ベトナム独立派の主要な人間が考えたのは、政治的妥協であった。

 独立はもはや不可能であるが、それでも最低限度のベトナム人の権利をフランスに認めさせたいと言う思いからであった。

 問題は、その要求をフランスが飲む必要は無いと言う事である。

 既に大勢は決しているのだ。

 敗者の願いを勝者が受け入れる必要性など皆目無かった。

 だがそれでも、独立派は自らの行動が、これまで重ねて来た死者が犠牲が全くの無意味であったと言う事に耐えられなかった。

 故に、無謀なテロ活動に注力する事となった。

 政治的妥協をフランスに要求し、それが認められないのであればテロを行う様になったのだ。

 当初はフランス政府関係施設を狙っていたが、直ぐに防備を固められて()()を出す事が難しくなった。

 その結果、次善の策として公衆の場でのテロ行為が行われる様になる。

 それは当然ながらも一般のベトナム人を巻き込む行為となる。

 それが、ベトナム独立派の思惑とは異なり、一般のベトナム人の心をベトナム独立派から引き離していく事へと繋がっていく。

 

 

――フランス

 大規模なベトナム独立運動軍の撃滅に成功し、チャイナ ―― 南チャイナとの国境線付近も完全に掌握する事に成功したフランスであったが、問題は山積していた。

 大規模なベトナム独立派の軍勢こそ殲滅せしめたが、今度はテロ活動が行われており、治安は悪化の一途をたどっていた。

 これでは、フランスのアジア経営が立ち行かなくなる。

 それでなくとも、延べで100,000以上の将兵を紛争と治安維持戦に投入しているのだ。

 その戦費は、フランスに重くのしかかっていた。*2

 フランスは早期のフランス領インドシナ ―― インドシナ連邦全域での収支の黒字化が望まれていた。

 重税を課すのは簡単であるが、それでは再び治安が悪化するだろう。

 そうなれば、今、フランス領インドシナに派遣されている戦力はそのまま駐屯させ続けなければならないだろう。

 それは、今後のそう遠くない頃に勃発するであろう(殴り掛かる予定の)ドイツとの戦争を考えれば、どう考えても悪手であった。

 フランスとしては、開戦と共に営々と育て上げて来た機甲部隊でドイツが対応する前に殴り殺す予定であったが、()()()()()

 第1次世界大戦(ワールド・ウォーⅠ)の戦訓や、日本から知らされた独仏戦争の情報を考えれば、予定通りに戦争が推移するとは限らないと覚悟はしておくべきであるともフランスは考えていた。

 そうなれば、インドシナ連邦軍をフランス本土へと徴集する必要が出て来るかもしれない。

 その様な事を考えると、今現在の武力に頼った統治政策は好ましいものでは無かった。

 ベトナム人とインドシナ連邦をフランスに心服させねばならぬ。

 フランスがその結論に達するのも当然であった。

 とは言え、独立運動 ―― 紛争が繰り広げられ、今もテロが続発する有様なのだ。

 簡単な話では無かった。

 頭を抱えたフランスは、最終的にブリテンとアメリカの植民地政策を混ぜ合わせたモノを採用する事となる。

 フランス領インドシナをフランス海外特別自治県として、フランス領に留めながらも()()()()の自治権を与えようと言うのだ。

 ある意味で古典的な、(自治)()であった。

 この政策がベトナム人のベトナム独立派支持層の背骨を折る事となる。

 苛烈なテロを行わずとも、権利が得られるのだ。

 にも関わらずベトナム独立派は、フランスからの自治権()の話が公表された後であってもテロを続けた。

 今更退けぬと言う理由もあっただろう。

 だがそれは、ベトナム人の民意と乖離した行動となったのだ。

 大衆から見捨てられたベトナム独立派は、フランス政府からの過酷な追撃を受け続ける内に、何時しか歴史上の存在へと変わるのだった。

 

 

――ベトナム特別自治県

 紆余曲折を経て治安の安定したフランス海外県ベトナム特別自治県であったが、問題はその経済であった。

 如何にしてベトナム独立派鎮圧に掛かった戦費を回収するのか? と言う問題である。

 重税で絞れば治安は悪化する。

 経済振興に予算を振れば本末転倒だ。

 この為、フランスは日本に助力を求めた。

 未来での越南の情報を基に、出来る限り安く、そして効率的に経済発展をさせようと考えたのだ。

 日本政府はフランスの要請に、国際発展研究機構*3に対処を委託した(ブン投げた)

 国際発展研究機構側は、日本人的な勤勉さを発揮し、フランスの要求 ―― 少ない出資で安定した経済発展と言う我侭な要望に応えていく事となる。

 重視されたのは鉱物資源の輸出と、食料生産である。

 そして副作用も大きいが、短期的に金を生むのは傭兵稼業(アメリカ側に立ったチャイナ派兵)であると告げた。

 フランスは、主要輸出産業が傭兵である朝鮮(コリア)共和国の経済情報を得て、精査した結果、インドシナ連邦軍のアメリカ派兵(輸出)を決断した。

 アメリカはフランスの提案を、喜んで受け入れた。

 そして契約金として、少なくない額をフランスへと提供した。

 ベトナム特別自治県の経済発展は、この血染めの金が基点となるのだった。

 

 

 

 

 

 

*1

 尚、大型戦闘艦2隻を含む準艦隊規模の部隊である為、その整備に関してはシンガポールの軍港を利用する事でブリテンとの間で話が付いていた。

 当初は、日本の軍港も検討されていたのだが、日本を訪問した経験を持ったダンケルクの艦長が待ったをかけたのだ。

 ()()()()()()()()()()()()が発生しかねない、と。

 別に日本がフランス人を差別するとか言う事がある訳では無い。

 ダンケルクの整備に関して、日本人は完璧であった。

 又、観光に出ようとすれば仏系日本人がガイドをしてくれるし、寄港地の地元住民も拙いフランス語で話しかけて来るなど歓迎してくれる。

 日本の美点を口にするダンケルク艦長に、海軍上層部は首を傾げた。

 であれば何が問題なのか、と。

 艦長は答えて曰く。

 物価の差であり、通貨価値の差であった。

 日本で一寸した小物 ―― 現地の子ども(ティーンエイジャー)が気軽に買う様なモノであっても、下士官はおろか下級の将校ですら手が出せないのだ。

 この事実が、自国が世界に冠たる列強である事に自負を持つフランス人を打ちのめすのだと言う。

 デパートに出かけた子供が、玩具に手を出そうとして値段を見て尻尾を垂らした様なモノだと海軍上層部は認識した。

 笑い話のようなモノであるが、打ちのめされた将兵の士気低下は看過しがたい問題なのだ。

 最終的に、艦長その他、上級士官一同で私物の貴重品を供出し合って、これを駐日フランス大使館を通じて売却し(質草に入れて)、日本海軍(海上自衛隊)に泣き付いて記念品を用意して貰い、これを配る事になったのだ。

 そこまでしなければ士気を取り戻せず、無事に太平洋を乗り越える事は難しかっただろうとダンケルク艦長は自信満々に言った。

 フランス政府は、このダンケルク艦長の上申を、何とも言えない気分で受け入れたのだった。

 

 

*2

 一応、フランスは通常の国家予算に影響を出さぬ様に国債を発行し、凌いでいた。

 大口の購入国家はG4、日本やブリテンだ。

 両国はアフリカなどでの資源開発と売却に関する権限を担保として盛大に買い込んでいた。

 これは資源の安定的な確保が目的であるのと同時に、フランスと言う世界の軸の1つが不安定化する事を回避する為の措置として日本-ブリテン-フランスで協議され、行われたモノであった。

 尚、アメリカが参加していない理由は、自前の戦争(対チャイナ戦争)があった為である。

 又、国債は2カ国以外にも、ポーランドなどが購入していた。

 此方は、将来的な対ドイツ戦争を睨んでの事であった。

 国債を買う事で恩を売ったのだ。

 実際、この国債取引の後に、フランスからジェット戦闘機や戦車などの装備の安価での購入が可能となった。

 

 

*3

 タイムスリップ後に新設された内閣府の外郭団体である。

 国際協力機構(JICA)やアジア経済研究所、民間の研究機関(シンクタンク)等を束ねる組織であり、当初は日本連邦参加国の経済発展と国内安定化を主題とする研究の発表と意見交換を行っていた。

 だが現在、国際連盟の協力研究機関(アドバイス・オブザーバー)として国際社会に関与する立場へとなっていた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

100 チャイナ動乱-18

+

 日本連邦統合軍は日本国自衛隊を基幹とし、日本連邦に参加する7つの邦国軍で構成されている。

 統括管理するのは日本連邦防衛総省である。

 とは言え各邦国が予算と人を出すだけで各邦国軍に関与できないかと言えば、そうではない。

 逆に、日本連邦統合軍へと供出した部隊にせよ、していない部隊にせよ、各邦国軍はその帰属する邦国政府の意向を強く受ける事となる。

 改正された日本連邦の規約に於いて、そう定められてるのだ。

 日本は、法治と言うものを厳格に運用する所があるのだ。

 或はそれは官僚的な考えであるとも言えた。

 自らの力の泉源である法。その法の権威を非常事態だからの一言で蔑ろにする、()()()()()()等と言うフザケた事を許す訳にはいかないからだ。

 アメリカとチャイナとの戦争に於いて言えば、日本政府はその憲法の制約故にアメリカに対して、参戦要請を受けても日本連邦統合軍の投入は不可能であるとG4の連絡部会で通達していたが、同時に、シベリア共和国がフロンティア共和国との安全保障条約に基づいて参戦する事を止める事が無かったのが範例と言えるだろう。

 日本連邦は日本政府の方針とは離れ、アメリカとチャイナの戦争と言う沼にずっぽりと首まで浸かる事となる。

 

 

――グアム共和国(特別自治州)軍/第501機械化師団

 SMS社が統括する輸送船団(マル・フリート)によって、一気にユーラシア大陸へと渡った第501機械化師団は、フロンティア共和国領内にて戦闘準備を進めた。

 これはアメリカの強い意向によって移動を最優先で行った事が理由だった。

 しかも、只でさえてんやわんやと云った状況であった上に、政治的な理由から第501偵察大隊を南モンゴル西方域への緊急展開を命じられたのだ。

 第501機械化師団総体としての戦争準備が滅茶苦茶になったのも、ある意味で当然であった。

 米国の力の切っ先として非常時ともなれば世界中に真っ先に派遣される第3海兵師団を前身とした第501機械化師団であったが、既にその頃から数えて20年近くが経過しており、特に兵卒は完全に入れ替わっている事もあって、即応能力は極めて低下していた。

 シベリア独立戦争にも派遣されず、それ以外の細かい紛争にも投入される事が無かったのだから、ある意味で当然であった。

 日本連邦統合軍で随一の実戦経験を持つ第501機械化師団が出動を命じられる事の無かった理由は、日本と在日米軍との間での微妙な、ある意味で政治的な問題があった為である。

 タイムスリップ以来、日本とアメリカの鎹であり、同時に日本への武力支援を担ってきた在日米軍であったが、それは航空及び海上部隊に限られてきていた。

 陸上部隊は陸上自衛隊の、後には日本連邦統合軍の総予備と指定され、常に()()されてきた。

 戦闘を行えば確実に消耗する()()、即ち将兵の補充が難しいと言うのが理由であった。

 グアム共和国の総人口は在日米軍や日本滞在中であった米国人の移住者を含めても300,000人に満たない程度であるのだから仕方が無い。

 労働人口に占める軍人の割合から考えれば、総兵力で50,000人近い規模を維持している事が非難される状況ですらあった。*1

 同時に、自衛隊による在日米軍との友諠に基づいた配慮が原因でもあった。

 日米安全保障条約以来の友軍として、日本連邦統合軍にあってグアム共和国軍は別格とされていた。*2

 又、友軍としての歴史以上に重要視されている事があった。

 世界最強を誇り、様々な戦訓を重ねた米軍としての知見だ。

 米軍の高等教育を受けて来た在日米軍の将校団は、その智を以って日本連邦統合軍を支える参謀(ブレーン)的な位置にもあった事も、グアム共和国軍の地位が特殊化した理由でもあった。*3

 とは言え、1930年代に入ってからはアメリカ陸軍との交流の積極化と共に、将兵の供給(受け入れ)が始まった為、第501機械化師団は実働部隊として動けるだけの余力を取り戻す。

 これに併せて第501機械化師団は部隊を再編する事と成る。

 元々の第3海兵師団が2個歩兵連隊を基幹とし、戦車部隊も保有しない小規模緊急展開部隊(旅団規模機械化歩兵部隊)であったのを、普通科(歩兵)連隊3個と戦車連隊1個を基幹とした日本連邦統合軍の規定する正規(甲種)機械化師団へと拡大させたのだ。

 第501機械化師団は、戦車こそ31式戦車であったが、それ以外は陸上自衛隊と同じ最新鋭装備を持った打撃師団へと生まれ変わったのだ。*4

 

 

――第501機械化師団 第1戦車大隊

 装備練度共に精鋭と言って良い第501機械化師団の将兵は初陣を前に程よい緊張感と興奮に包まれていた。

 第501戦車大隊の将兵を除いて。

 此方は、ほぼ全員がチャイナとの戦争が後1年遅ければと呪詛を吐いていた。

 それはその理由は、今、本土*5で試験中の次期主力戦車が原因であった。

 42式戦車、乃至は43式戦車と呼ばれるであろう試作戦車(TKX-5)は、その構想段階からグアム共和国軍(在日米軍)の士官と研究者が参加しており、その中には第501戦車大隊の将兵も含まれており、彼らも知っていたのだ。

 次期主力戦車の頼もしさ(恐ろしさ)を。

 31式戦車が使えない戦車である訳では無い。

 だが、シベリアの広大な大地での運用を前提に設計された試作戦車(TKX-5)は、90式戦車を上回る巨体と、55tにも達する重量の、堂々たる重戦車であった。

 主砲こそ10式戦車と同じ44口径120㎜滑腔砲であったが、装甲には複合装甲と共に実用化されたばかりの通電式電磁装甲が空間装甲を兼ねて採用されていた。

 エンジン出力は1800馬力。

 泥濘地帯であろうとも、飛ぶように駆け抜ける機動力を持っていた。

 だが一番の特徴は、AI(人工知能)による戦車の一元制御である。

 その能力は、非常時には完全自律(無人運用)が可能な水準に達しており、一部の人間は()()()()()()等と呼ぶほどであった。

 後数年、戦争が起きるのが遅ければ、その様な戦車で実戦に挑める可能性があったのだ。

 第501戦車大隊の将兵が微妙な気持ちになるのも当然であった。

 尤も、彼らが保有する31式戦車自体も日本連邦統合軍以外にとっては垂涎の超戦車であり、近くで慣熟訓練中であったバルデス国第7機械化旅団やフロンティア共和国第21自動化師団の戦車部隊将兵は暇を作っては見学に来ていた。

 そして衝撃を受けていた。

 両国の戦車部隊に対してアメリカが支給しているのはシベリア独立戦争時に主力であったM2中戦車と、その運用実績と戦訓を基に開発したM3中戦車である。

 些か古臭いM2中戦車は兎も角、新鋭として渡されたM3中戦車であっても31式戦車と比べれば見劣りがしていたのだ。

 ソ連の誇るKV-1重戦車などとも戦える様にと、30t級の車体に無理矢理に90㎜砲を搭載した結果、些か車体に比べて砲塔が巨大(アンバランス)化しており、その外観からも差が歴然としているのだから、その反応も仕方のない話であった。

 同行していたアメリカ軍戦車将校は、余りにも31式戦車を羨ましがる両国の戦車兵に面白くないモノを感じ、上層部に対して31式戦車に対抗して新鋭の戦車 ―― フロンティア工廠製の40t級のM24重戦車を持ち込む事を上申した。

 友軍(グアム共和国軍)の戦車が強壮なのは良い事であるが、それによって友軍(バルデス国とフロンティア共和国)の士気が下がられては堪らぬと、東ユーラシア総軍司令部もこれを了承した。

 それどころか、東ユーラシア総軍司令官も見物に訪れる程に積極的であった。

 運用の際の能力比較確認と言う建前(言い訳)で持ち込まれたM24は最新であるE3型、エンジンと足回りを特に入念に強化したモデルであり、46tと言う重量でありながらも中戦車の如く動く事の出来る重戦車であった。

 目の前でM24E3重戦車と31式戦車(Type-31)の両方の性能を把握した総司令官は、興奮と敗北感と納得などの感情がないまぜとなった気分のまま、盛大にコーンパイプから煙を噴き上げさせるのだった。

 

 

――朝鮮(コリア)共和国

 開戦して2ヶ月が経過した戦争の状況は朝鮮(コリア)共和国にとって、とてもではないが受け入れられる状況には無かった。

 送り出した3個師団分、優に60,000名余りの将兵の約2割が死傷したと言う報告が上がって来たのだから冷静で居られる筈も無かった。

 無論、戦死者にせよ負傷者にせよ十分な手当てが遺族、当人、政府にも入ってはいるのだが、それはそれ、これはこれである。

 アメリカ軍が当初説明していた部隊運用は、義勇師団(コリア傭兵部隊)は補助戦力として主要部隊の後方に配置し治安維持任務に投入する ―― 死傷者はそう発生しないと予定されていたのだ。

 だから砲兵部隊も付けられていない自動車化された軽歩兵師団だったのだ。

 にも関わらず、第1次河北会戦ではチャイナ北京鎮護軍の猛攻を正面から受け止める事となり、大損害を被ったのだ。

 機甲戦力すら含んだ北京鎮護軍の攻勢を受け止めてみせた義勇師団は美事であったが、それはそれ、これはこれである。

 朝鮮(コリア)共和国政府は、猛烈な抗議を行った。

 併せて、日本に対しては国連決議に基づいて朝鮮(コリア)共和国軍の派遣許可を求めた。

 その理由は金、ではない。

 劣悪な装備のまま、再度のチャイナの攻勢を受けるであろう義勇師団への支援であった。

 シベリア総軍に派遣している部隊を転用させろと言う訳では無い。

 只、朝鮮方面隊隷下の2個師団、朝鮮(コリア)共和国軍に残されていた正規師団(最後のカード)を切る許可を願い出たのだ。*6

 併せて、チャイナから万が一の渡洋攻撃を想定して第214警備師団の動員が行われる事とされた。

 警備師団は朝鮮(コリア)共和国政府の管理下にある為、問題なく実行された。

 派遣許可の要請を受けた日本政府は、状況を勘案した上でこれを了承する事となる。

 同時に、日本総軍西部方面隊第4機械化師団から1個連隊戦闘団を編成し朝鮮半島へ派遣して、動員される軽装備の第214警備師団の支援を行う事を決定した。

 日本政府は防衛総省からの報告を基に、チャイナ側が渡洋作戦を行う可能性は低いと判断していたが、同時に朝鮮(コリア)共和国の民心慰撫に現地に日本旗が必要(ブーツ・オンザ・グランド)と判断した結果であった。

 兎も角、派遣の許可を得た朝鮮(コリア)共和国政府は、アメリカに対して2個師団の増派と、併せてコリア系日本人義勇師団部隊への支援許可を要請(要求)した。

 要請を受けた東ユーラシア総軍参謀団の反応は芳しいものでは無かった。

 朝鮮(コリア)共和国軍の自動化師団は列国の機甲師団以上の戦闘力を持っていると認識されていた為、義勇師団を統括する第2軍第2軍団に編入するのでは無く、東ユーラシア総軍の予備戦力としたがっていたのだ。

 政治的要求もあって広域に展開する事となった第1軍は、チャイナの反攻作戦を受ければ後方(フロンティア共和国)との連絡/補給線を寸断される危険性が高かった。

 総司令官の強い要請を受けて、アメリカ政府が()()()()の確保に奔走はしていたが、それでも予備があるに越した事は無いと言うのが、参謀団の認識であったのだ。

 これに朝鮮(コリア)共和国政府は激怒した。

 2個の増派する自動化師団は、コリア系日本人の若者の血が無為に流れない為のものであると強く要求する事となった。

 本来、日本連邦(列強筆頭)に属するとは言え朝鮮(コリア)共和国とアメリカとの国力差を見れば無茶な要求とも言えたのだが、事、この戦争に関して言えば通る事と成る。

 何故なら、義勇師団が大きな被害を受けた理由が、東ユーラシア総軍参謀団による事前の戦争計画の杜撰さと、開戦後の戦争指導の誤りが大きかったからである。

 政治的な理由があったとは言え、それで全てが許される訳では無いのだ。

 幾度かの交渉(一方的決着の態を避ける為の儀式)の末に、2個の自動化師団は無事に義勇師団の支援に入る事が出来たのだった。

 

 

――北日本(ジャパン)邦国

 日本連邦成立後は友邦国に囲まれる形となって居たが故に、平穏のままに日々を過ごし実に影の薄かった北日本(ジャパン)邦国は、このアメリカとチャイナの戦争を1つの機会(チャンス)と認識した。

 ジャパン帝国の末裔として、武名を世界に響かせる好機であると。

 極端に血の気の多い名誉乞食の類は軍や政府などの公職から追放されて久しいが、残っていたジャパン系日本人が名誉も要らぬ木石に類される人間では無いのだから。

 更には、ジャパン帝国の末裔として北日本(ジャパン)邦国とある種の兄弟国家的な関係にある朝鮮(コリア)共和国の義勇師団が上げた武勲 ―― 第1次河北会戦にて圧倒的劣勢にあっても、コリア系日本人ここに在りと満天下に示した戦いぶりが、北日本(ジャパン)邦国軍人の血を滾らせたのだ。

 戦場が欲しい。

 日本ソ連戦争に於いて、一部の過激な人間の愚行によって背負う事となった汚名(軍律を理解せぬ愚者の烙印)を雪ぐ機会を北日本(ジャパン)邦国軍人は切実に欲していた。

 又、北日本(ジャパン)邦国政府も別の理由から参戦を渇望していた。

 此方は経済、産業的な意味である。

 北日本(ジャパン)邦国が独自に用意した陸上戦闘車両、41式駆逐戦車(Type-41TDV)のお披露目を狙っていたのだ。

 無論、お披露目の目的は海外への積極的な売却である。

 北日本(ジャパン)邦国は、軍需企業を産業の柱に成長させようと考えていたのだ。*7

 日本政府はこの北日本(ジャパン)邦国からの情熱的要求に折れる事となる。

 国際連盟安全保障理事会の決議に基づいての派遣であるので大義名分はあり、派遣に掛かる費用もアメリカ持ちであるのだ。

 派遣する戦力も前線 ―― シベリア総軍に派遣している部隊は動かさない為、戦力として考えれば特に問題は無く、反対する理由が乏しいと言うのが実状であった。

 とは言え、戦場で死傷した将兵への見舞金その他や、損耗した装備の補充の費用に関しては北日本(ジャパン)邦国に持たせる事にはしたが。

 日本は日本連邦の守護者(ケツ持ち)ではあったが、無条件の庇護者(保護者)では無いのだから。

 いくつかの、義勇軍派遣に関わる取り決めを行った上で、日本政府は北日本(ジャパン)邦国軍からの義勇軍派遣を認めるのだった。*8

 第101義勇自動化師団は、その戦意を表すような恐ろしい速さで派遣準備を整え、SMS社の手で海を渡るのであった。

 到着は、奇しくもチャイナ北伐総軍が攻勢に出る前日であった。

 

 

 

 

 

 

*1

 グアム共和国軍の規模が認められている背景の1つには、独立当初のグアム共和国経済に於ける軍に関連する雇用の大きさがあった。

 タイムスリップ以前のグアム島の産業が、観光を柱としていたが故の事であった。

 有り体に言って、日本の地方経済が自衛隊駐屯地(自衛官と家族の消費)に支えられているのと同一の状況であった。

 とは言えそれで全てが解決する訳では無い。

 在日米軍でグアムの経済が維持されるとして、その在日米軍を維持する金は誰が出すのかと言う問題が残っていたからだ。

 この時点でアメリカはグアムと在日米軍を維持するコストの余りの高額さと、その支えるべき在日米軍とその関係者の大半が非白人層であった為、積極的な支援に及び腰であった。

 純然たる白人国家であるアメリカにとって、非白人層(カラード)へ莫大な税金を投じる事は高い政治的リスクを伴う行動であったのだ。

 例え、100年先の科学技術を収集できるとは言え、それが直近の選挙へ好意的な影響を与えるとは考え辛いのが現実であった。

 民主主義国家の弱みと言えるかもしれない。

 グアムと在日米軍としても、1920年代のアメリカの事情は把握していたし、理解もしていたが、今日明日の生活を、食事を必要としていたのだ。

 故に、グアムと在日米軍は日本を頼り、日本も又、グアムの不安定化を避ける為に莫大な支援(地方交付税交付金)を行う事となる。

 グアム共和国として日本連邦にグアムと在日米軍が参加する事となった背景には、この様な生臭い現実があった。

 

 

*2

 日本とグアム共和国(在日米軍)との関係性に一番嫉妬していたのは、北日本(ジャパン)邦国であった。

 日本連邦が成立してまだ間もない頃は特に顕著であり、統合連邦軍の非公式な連絡部会(アルコールの出る懇親会)の場で北日本(ジャパン)邦国軍士官が酔った勢いもあってか「同じ同胞よりも、外人を優先するのか」等と発言した事もあった程である。

 尚、その後、酔っ払い共の小競り合いになって、最後は日本も邦国も入り乱れての大乱闘と言う酷い事になってしまった為、酔っ払いのバカ騒ぎ(ザ・ブラックヒストリー)事件として全てが無かったことにされた。

 とは言え日本連邦統合軍としての体裁が整って10年以上が経過し、シベリアで行われる大規模演習などでグアム共和国軍(在日米軍)の精強さを肌身で味わった事で、今では偏見は消え失せていた。

 但し、嫉妬は消えなかった。

 16式機動戦闘車を筆頭に、本土軍(陸上自衛隊)と同等の装備が邦国軍(グアム共和国軍)には優先して与えられていたのだから仕方が無い。

 高度な装備への習熟度合いとの兼ね合いと言う理由もあったのだが、人間、そう易々と妬心を消せる筈も無かった。

 

 

*3

 大国軍の末裔と言う意味に於いては、ロシア極東軍の流れを汲むオホーツク共和国軍も同様であったのだが、此方はタイムスリップに巻き込まれたのが千島列島に駐屯していた小規模部隊であり、最上級将校が中佐であった事もあって、歴史的経緯を抜きにしても日本連邦統合軍内に於いて強い影響力を持てる筈も無かった。

 露国軍経験者はグアム共和国軍への対抗意識から、ソ連軍亡命者を組織して邦国軍随一の陸軍を建軍しようと試みたが、オホーツク共和国の人口がソ連からの亡命者などを含めても500,000人にも及ばない為、50,000人規模の陸軍を維持するだけで精一杯であった。

 

 この状況に切歯扼腕していたオホーツク共和国軍上級将官の一部過激派は、シベリア共和国が独立するや否や、ロシア人連帯としての合併を検討した。

 無論、狙ったのは軍の拡大に必要な国力(人口)である。

 シベリア共和国を()()し、日本連邦内での序列(地位)向上を狙った側面もあった。

 とは言え、その検討を知ったオホーツク共和国政府は大いに慌てる事となる。

 それはロシア復活への志向であると見られ兼ねない行為であり、日本政府の勘気に触れる行為であると危惧されたからだ。

 この時点でのオホーツク共和国の経済は、石油資源の使用が国家統制から外れた事によって漁業と水産加工を中心とした産業が隆盛しつつあったが、それでもまだまだグアム共和国と同様に日本の支援(地方交付税交付金)頼りであった。

 又、医療システムを筆頭に、様々な生活インフラが、日本からの支援あればこそ成り立っていたのだ。

 この状況下で日本の怒りに触れる事はオホーツク共和国の経済的破滅に繋がりかねない狂気の沙汰としか言いようの無い危険行為だったのだ。

 オホーツク共和国政府が慌てるのも当然であった。

 慌ててオホーツク共和国は軍に対して検討の中止と、検討資料の廃棄を命令する事となる。

 当然、オホーツク共和国軍首脳部は上級将官を含む過激派も、身内であると庇おうとしたが、オホーツク共和国政府はそれを許さなかった。

 文民統制(シビリアン・コントロール)と言う錦の御旗を以って、反論を封殺した。

 ここで、オホーツク共和国軍が軍事クーデターなどを考えなかったのは、10年を超えて繰り返された日本式の民主主義と法治主義の教育の賜物と言えた。

 そして何より、軍事クーデターを起こした場合、即座に日本が鎮圧に走ると言うのが目に見えていたと言うのが大きい。

 オホーツク共和国軍は忘れていなかった。

 日本ソ連戦争の際、日本に民族的な意味で最も近い北日本(ジャパン)邦国軍が暴走した際、一切の躊躇なく行われた粛清を。

 統治者としては基本的に緩い日本であるが、事、軍の暴走に関してはどの様な規模であれ、その一切を許す積りが無いと行動で示していたのだから。

 オホーツク共和国政府に恭順した軍の過激派には、その潔さから責任者の公職追放こそ行われ無かったが、責任者から末端の士官まで降格や減給などの厳しい処分を受ける事となる。

 尚、日本政府は、個別の邦国連絡会議の場でオホーツク共和国政府による処罰を了承する旨を()()した。

 雑談の中で何気なく行われた通達に、オホーツク共和国政府は恐怖した。

 通達は、シベリア共和国軍での検討が筒抜けであった事を示していたのだから。

 兎も角。

 この様に、日本連邦として1つの国として纏まってはいたが、建国当初の日本とオホーツク共和国との間には一定の緊張感があった。

 しかしそんな2国関係も、日本連邦建国から10年を経た頃には、すっかり弛緩したものになっていた。

 オホーツク共和国が、政府も軍も周辺が邦国(広い意味で自国)である為に緊張感を失いすっかり呑気になってしまったからである。

 男衆は日本製の最新漁船でベーリング海峡でカニ漁をし、内地(日本)に売って金を稼ぎ、ヤポン・ウォッカ(焼酎)をしこたま飲む生活に満足してしまったのだから。

 女衆は日本製の服やら化粧品やら電気家具やらに心を打ち抜かれていた。

 子どもたちは奔流となった文化(サブ・カルチャー)に押し流され、ロシア人であった事を忘れる始末であった。

 気が付けばオホーツク共和国は、日本連邦7邦国のなかで一番に日本化が進む国となっていた。

 

○オホーツク共和国軍(1942年編制)

第601機械化師団 (完全充足)

第602機械化師団 (完全充足)

第603自動化師団 (未充足/ローテーション用の予備部隊)

第604海上機動旅団(未充足/千島列島全域の警備と災害対応部隊を兼ねる)

 

 

*4

 10式戦車が配備されなかった理由は、その運用コストと後方への負担の重さもあったが、何よりも車内空間が手狭過ぎて、大きい身体をした米系日本人が長時間乗り続けるのは辛かったと言うのが大きかった。

 米軍でM1戦車(エイブラムス)に搭乗経験のあった機甲科将校は、試乗した際に「戦闘機かよ(身動きが出来ない)!」と悲鳴のような感想を漏らした程であった。

 この状況で他に選択肢が無ければ10式戦車を受け入れていたのだが、この時点で邦国軍向けとしてやや大柄な31式戦車が実用化されていた為、第501戦車大隊は31式戦車を採用する事としたのだ。

 31式戦車は10式戦車に比べて攻撃力(105㎜戦車砲採用)防御力(複合装甲の不採用)が低く、主砲の自動装填装置が無いなど劣ってはいたが、居住性(アメニティ)に関しては米系日本人(米軍戦車搭乗経験者)露系日本人(露軍戦車搭乗経験者)のアドバイスを受け、彼らの体格を念頭に置いて設計されていた為、極めて良好であった。

 尚、性能に関してだけ言えば、10式戦車(主力)はおろか90式戦車(予備)にも劣る31式戦車であったが、この時代の戦車を相手にするのであれば必要十分を超えている(オーバースペックも良いところな)為、問題視されなかった。

 

 

*5

 1940年代に入ると生粋の米国人であった米系日本人(グアム共和国人)であっても、日本の事を()()と呼称する事が多くなっていた。

 これは、日本連邦への参加後に拡大化した交流によって、いつの間にか染まって(洗脳されて)いたためだ。

 流れ込んで来る豊富な物資と情報が日本語の習得への後押しをした結果とも言えた。

 それは軍人であるが故に、米国への強い帰属意識を持っているグアム共和国軍(在日米軍)であっても一緒であった。

 それどころか、グアム共和国軍へ派遣されていた自衛官や、英語の習得や米国文化への憧れなどからグアム共和国軍へ()()()()日本人の影響もあって、強い日本化が進んでいる程であった。

 そもそも在日米軍、日本駐留部隊であった為、()()()()()()()()()と言うべきだろうが。

 

 

*6

 朝鮮(コリア)共和国軍は正規部隊が6個師団と1個旅団があり、その他に4個の警備(予備役)師団で構成されていた。

 正規部隊は最低でも自動車化されており、国家と経済規模から考えれば過大とも言える戦力であったが、その殆どがシベリア総軍に供出されており、その維持運用費用は全額日本が負担していた。

 日本陸上自衛隊やグアム共和国軍(在日米軍)に比べれば劣るが、充分な装備と練度を誇っている。

 尚、朝鮮(コリア)共和国軍の自動化師団は、フロンティア共和国/アメリカとチャイナの関係が悪化するに伴い増強され、甲種自動化師団として他の地域の自動化師団とは区別されている。

 その戦闘力は機械化師団に準じるものがあると判定されていた。

 

朝鮮(コリア)共和国軍(1942年編制)

第201機械化師団(完全充足)

第202自動化師団(完全充足)

第203機甲旅団 (完全充足)

第204自動化師団(完全充足)

第205機械化師団(完全充足)

第211警備師団 (予備部隊/海外派遣要員の所属部隊を兼ねる)

第212警備師団 (予備部隊/海外派遣用意の所属部隊を兼ねる)

第213警備師団 (予算上の都合から師団司令部以外は存在しない帳簿上の部隊)

第214警備師団 (予備部隊)

 

朝鮮(コリア)共和国軍 甲種自動化師団(主要戦闘部隊のみ列記)

>普通化連隊(自動車化)

>普通化連隊(自動車化)

>普通化連隊(自動車化)

>戦車大隊

>偵察大隊

>特科連隊

 

 

*7

 北日本(ジャパン)邦国が独自の装甲車両を開発、製造出来たのは、国家樹立後から官民一体となって営々と続けて来た努力の成果であった。

 厳冬の大地と言う、環境的に工業化の難しい中で北日本(ジャパン)邦国は1930年代から一丸となって工業の育成に努力を重ねていた。

 軍装備の保守部品(非高度部品)を製造する事から少しずつ積み上げて(ステップアップして)来ていた。

 その努力あればこそ、40年代に入ってから行われた日本の国策 ―― 北日本(ジャパン)邦国に航空製造工場を作り、輸出向けの戦闘機などが製造されていく事に繋がったのだ。

 日本政府の方針があるとは言え、企業は条件が悪ければ唯々諾々と従う事はないのだから。

 北日本(ジャパン)邦国に航空機製造工場が誘致出来た理由は、製造に携わる技術者の育成がかなり進んでいたと言うのが大きかった。

 投資(教育)を大きく必要とせずとも製造スタッフを雇う事が出来ると言うのは、他の邦国に比べて大きなアドバンテージであったのだ。

 航空機製造工場が出来た後は、その取引によって地場のメーカーは技術力を蓄える事が出来ていた。

 この事が北日本(ジャパン)邦国の国内資本による重工業企業の成立に繋がる。

 北日本崎神重工業、略して北崎重工であった。

 41式駆逐戦車は、北崎と北日本(ジャパン)邦国軍が共同で開発 ―― 旧軍(ジャパン帝国軍)の戦車戦経験者と北崎の技術者、そして社長である崎神の伝手によって日本本土から拉致(ヘッドハンティング)されて来た現場を引退した装甲車設計経験者と工学部を出たばかりの技術者の卵(ミリタリー趣味のエンジニア)が喧々諤々と議論を重ね、試作し、完成させた戦闘車両であった。

 重量が20tを切る車体に300馬力級の日本製ディーゼルエンジンとトランスミッションを搭載している為、高い信頼性と共に軽快な機動力を誇る。

 火力は、砲塔の無い固定式の戦闘室にブリテン製6lb.砲を採用している。

 装甲 ―― 鋼材は全て日本からの輸入品となっており、同一厚の諸外国製よりも高い性能を誇っていた。

 射撃指揮システムなど電子装備(ベアトロニクス)は通信設備以外搭載しない、割り切った作りの駆逐戦車であった。

 同一任務向けの車両としては、38式装軌装甲車(Type-38APC)のバリエーションである38式戦闘装甲車(Type-38CAV)もあり、此方も主砲はブリテン製6lb.砲を採用していた。

 にも拘らず、北崎と北日本(ジャパン)邦国が41式駆逐戦車を開発した理由は2つ、否、3つあった。

 1つは、38式戦闘装甲車が大柄であると言うのが理由であった。

 生産コスト削減の為、装甲兵員輸送車(APC)の車体をそのまま流用して開発された38戦闘装甲車は車体高が高く、その上に砲塔を載せている為、全高が3mに達しようかと言う程に巨大であるのだ。

 3mと言う数値は並の戦車よりも遥かに高く、北日本(ジャパン)邦国軍にとって余りにも目立ちやすい車両であった。

 対して41式駆逐戦車は砲塔を採用しなかった事もあって2.2mを切る車高となっており、通常の移動時の被発見率が低く、戦車壕の利用(ダグイン)に際しても比較的安全である事が期待出来た。

 2つ目は値段である。

 輸出を前提に開発された38式装軌装甲車であったが、割り切りが甘く、陸上自衛隊向けに開発された24式装軌装甲車(Type-24APC)シリーズで実用化された人命保護を考慮した贅沢装備がそのまま採用されていた為、どうしても高額になりがちであった。

 しかも、製造は日本国内で行われている為、人件費も高い。

 これに対して41式駆逐戦車は、必要最低限度の装備以外は全て省かれており、人件費の安い北日本(ジャパン)邦国で製造されるのだ。

 如何に基本コンポーネントを輸入に頼っているとは言え、値段の差が歴然と出るのも当然であった。

 尚、3つ目は、日本連邦邦国初の戦闘車両開発と言う名誉が欲しかったと言うものである。

 かの様に様々な理由の下で開発された41式駆逐戦車は、防衛装備庁による審査と試験を終え、日本連邦統合軍の正式駆逐戦車として承認されていた。

 エンジン、主砲、装甲と重要なコンポーネントは全て日本他から輸入し、設計と組み立てだけを北崎が行う、ノックダウン生産の様な車両であったが、この41式駆逐戦車があればこそ、北崎重工業は北日本(ジャパン)邦国工業界の雄として成長をしていく事となるのだ。

 

 

*8

 東ユーラシア総軍派遣部隊は、日本連邦統合軍シベリア総軍からの抽出を認めないと定められていた。

 北日本(ジャパン)邦国軍もそれを守り、派遣するのは2個の軽機動旅団から選ばれる事となった。

 ここで北日本(ジャパン)邦国は禁じ手とも言える行動を行う。

 第102軽機動旅団から歩兵連隊を1個を引っこ抜いて第101軽機動旅団に編入、第101義勇自動化師団へと改編改称したのだ。

 ローテーション用部隊を解体すると言う荒業に、日本の防衛総省は唖然としたのだった。

 部隊のローテーション自体は、各邦国軍が担当するものであり、特に規定がある訳では無いのだが、前線に配備された部隊の士気は下がる ―― そう危惧したのだが、その前線部隊である第103機甲旅団の将兵は溢れんばかりの情熱を持って第101義勇自動化師団を激励し、それを支える為、ソ連との前線で奮闘する事を誓っていた。

 防衛総省のスタッフ(陸上自衛隊と在日米軍将校)は、その戦意の高さに言い知れぬ(ジャパン帝国軍マジパナイ)と感嘆していた。

 

北日本(ジャパン)連邦軍(1942年編制)

第101義勇自動化師団 (完全充足)

第102自動化旅団   (未充足/1個歩兵連隊のみ所属)

第103機甲旅団    (完全充足)

 

※第101義勇自動化師団 臨時編成 (主要部隊のみ列挙)

第1011普通科連隊 (自動化)

第1012普通科連隊 (自動化)

第1022普通科連隊 (自動化)

第101駆逐戦車大隊(臨時編成)

第101重迫撃砲大隊(臨時編成)

 

 




読んで下さる皆様のお蔭をもちまして、第100話まで到達いたしました。
戴いている感想も励みとなっております。
ここに厚く御礼申し上げます。
これからもご笑覧頂ける様な作品作りに邁進いたします。

2020/04/30 文章修正
2020/05/04 文章修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

101 チャイナ動乱-19

+

 古来より会戦、乃至は決戦と言うものは、戦う両者が決断して初めて成立するものであった。

 回避すると言う事が可能だからだ。

 だが、この黄河以北に於ける戦いは()()ではなかった。

 軍事的合理性に基づけば戦闘を回避したいのはアメリカ側であったが、民主主義国家の軍隊と言うものは軍事的合理性よりも政治と民意、或は正義と言うものに重きを置かざるを得ないのだ。

 故にアメリカは南モンゴルの人々を守る為、チャイナの攻勢を正面から受け止める事と成る。

 第2次河北会戦。

 アメリカとチャイナの全力での殴り合いが始まる。

 

 

――第2次河北会戦 東部戦線(D-Day+

 第2次河北会戦 ―― 作戦名(カイル)の第1攻勢を担当するのは第1北伐軍集団*1であった。

 3個軍24個師団、400,000を優に超える将兵は、命令が発せられると共に北上を開始する。

 第1攻勢の目標は東ユーラシア総軍第2軍*2の捕捉と殲滅。

 正面から攻撃を仕掛け、これを撃滅する積りであった。

 包囲殲滅などを仕掛けない理由は、第2軍の規模の小ささである。

 この時点で北伐総軍総司令部は、継続して行っていた威力偵察やスパイ活動によって第2軍の中でも前線に居るのが第2軍団であり、その戦力は第1次河北会戦の被害から回復しきれていない3個師団 ―― 40,000名にも満たないという実状を把握していた。

 第1攻勢の目的は東ユーラシア総軍の主力、第1軍の補給線破壊と包囲。

 高度に機械化された戦力の集まりである第1軍は、()()()()()()()()補給が途切れた場合の戦闘力低下は著しいのだ。

 故に、第1北伐軍集団の最終到達地点はモンゴル国国境地帯と設定されていた。

 自軍の優に10倍近い戦力の接近を把握した東ユーラシア総軍第2軍団司令部は、予想されていた衝撃に晒されていた。

 人の津波と言う言葉が交わされる程であった。

 とは言え、この攻撃は予想されたものであった為、その衝撃による司令部の判断低下等と言う事態が引き起こされる事は無かった。

 同時に、前線で防衛ラインを構築していたコリア系日本人将兵の士気も低下していなかった。

 戦意に溢れていると言う事と共に、祖国が支援の手を差し伸べている事が伝えられていたからだ。

 増援の2個師団、朝鮮(コリア)共和国第202自動化師団と第204自動化師団はフロンティア共和国領内を抜けており、近日中に合流が可能な位置まで前進していた。

 又、第23軍団が支援できる位置まで進出してきている事も心強い内容であった。

 この為、第2軍団司令部はチャイナの攻勢に対し、先ずは現所在地での可能な限りの持久を図る事とした。

 チャイナ北伐総軍第1北伐軍集団を出血死させる積りであった。

 尚、第21軍団は第1軍第12軍団と協力し、未だ活動を続けているチャイナ第1騎兵師団の早期撃滅が厳命されていた。

 第1騎兵師団は用心深く、地元住民に紛れ込みやすい10人以下で常に移動し、連続して襲撃を行わない事で所在を東ユーラシア総軍に掴ませ難い様に工夫していたのだ。

 この為、被害自体は低下傾向にあったが、その壊滅には時間が掛かっていた。

 故に、第21軍団と第12軍団を投入し、地元からは義勇兵(ボランティア)を募り、日本による航空支援を集中して受けられる様にして、封殺する積りであった。

 

 

――第2次河北会戦 西部戦線(D-Day+

 北伐総軍第2北伐軍集団*3に要求されるものは、その機動力をもって南モンゴル中部から西方域に掛けて全域で東ユーラシア総軍第1軍*4に圧力を掛け、拘束し、第2軍への支援を行えなくする事であった。

 敢えて、積極的な攻勢は行わず、遠距離からの砲戦を主体として行い、燃料と弾薬を浪費させる様に仕向ける事が厳命されていた。

 全面的な攻勢は、第1軍集団の全面攻勢による後方遮断の効果が出てからとされていた。

 第2軍集団の戦車乗り等は、ドイツ軍事顧問団の猛烈な訓練を潜り抜けた精鋭集団であると言う自負もあって、この方針には批判的であった。

 良質な戦車と良好な戦技を持つチャイナ戦車部隊であれば、アメリカの戦車部隊であっても正面からねじ伏せる事も出来るだろうと言うドイツ軍事顧問団の褒め言葉(リップサービス)を真に受け過ぎて居た部分があった。

 とは言え、この時点でチャイナが把握していた第1軍の兵力は5個師団規模であり、戦車部隊も5個連隊。

 しかも、保有する戦車はアメリカ軍の第11機械化師団こそM3戦車F型*5を装備していたが、それ以外の機械化師団隷下の戦車連隊が装備する戦車は、シベリア独立戦争時代の主力であるM2中戦車*6が数的な主力である為、同数以上のⅢ号戦車C型とC2型投入するのだから対等以上に戦えると北伐総軍司令部では判断するのも当然であった。

 尚、警戒するべきは日本製の16式機動戦闘車(Type-16MCV)があったが、航空優勢を握った上で3倍以上の戦車で戦闘を仕掛ければ、如何に性能が良くとも撃破は可能であろうと推測していた。

 対して東ユーラシア総軍は、第1軍に対して可能な限り現在展開地域の確保継続(≠死守)を命じていた。

 これは、輸送力などの限界から、南モンゴル西方域の住民避難が進んで居ない事が理由であった。

 アメリカはチャイナが(カイル)作戦で第1軍の包囲と補給線の破壊を狙うであろう事は認識していた。

 認識した上で、第1軍に対しては上記の命令を出していたのだ。

 政治的に南モンゴルに住む人々を見捨てられないアメリカにとって、()()()に第1軍がチャイナ軍の包囲下に陥る事は許容できる事であったのだ。

 尚、第1軍が攻勢に出ること自体は可能であったが、守るべき領域の広さ ―― 攻勢を仕掛けた隙を突く形で騎兵部隊の様なものが再度、後方へと侵入されては厄介な為、選択肢として選ばれる事は無かった。

 アメリカは、正義(南モンゴルの人々の為)と言う錦の御旗を下ろす積りも汚す積りも無かった。

 

 

――航空状況

 チャイナ政府軍は航空部隊運用の拠点を北京に定めていた。

 黄河周辺に於いて随一の大都市であるお蔭で、物資の集積が容易であると言うのが理由であり、同時に青島のドイツ工廠からの資材の支援を受けやすいと言う事も理由にあった。

 ドイツは、建前として局外中立を宣言していたが、民間主体の商売は別であると言う屁理屈をもってチャイナに、ドイツ政府管理下の青島で製造した軍需物資を供給し続けていた。

 アメリカはドイツの態度に疑惑を隠す事無く、国際連盟による査察を要求したのだが、ドイツは国際連盟非加盟国である事を理由に拒否していた。

 チャイナ政府軍は投入出来る、そして戦果を期待できるだけの技量を持った部隊をかき集めていた。

 その数、およそ500機。

 数的な主力はレシプロ戦闘機であり期待の新鋭決戦機、FJ-2戦闘機(ヴィーダシュタント・イエーガー)は100機にも届かない量であった。

 だが、アメリカとて全ての航空機がジェット化された訳では無く、爆撃機にせよ輸送機にせよレシプロ機が現役であるのだ。

 チャイナ政府軍参謀団ではFJ-2戦闘機でF-1戦闘機(セイバー)を妨害すれば、攻撃を仕掛けて来るであろうアメリカの爆撃機隊への対応は可能と見ていた。

 ある意味でチャイナは、()()()()()()()()は端から諦めていた。

 アメリカの航空優勢確保を如何に妨害するか、と言う点に絞って航空作戦は立案されていた。

 陸上戦力が圧倒的数的優位を持つが故の割り切りであった。

 空でアメリカを自由にしなければ勝てる。

 チャイナの自信であった。

 対してアメリカがフロンティア共和国に集積出来ていた航空機は800機を超えていた。

 数的な優位は確保していたのだが、問題は、それだけの数の航空機を運用できる基地が、フロンティア共和国内にしか用意出来ていないと言う事である。

 南モンゴル東方域に進出後、補給線は日本の支援もあって日々太くなり、各部隊の自由な行動を支え現地住民を飢えさせないだけの物資が各地に集積される様になっていたが、それでも3桁単位での航空戦力が自由に活動できるだけの量には届いていなかった。

 南モンゴルの広さと共に、散発的ながらも延々と妨害活動(ハラスメント)を継続していたチャイナ第1騎兵師団の影響であった。*7

 この為、アメリカは数的にも質的にも優位であるにも関わらず、不利な戦いを強いられる事が想定されていた。

 唯一、良い話と言えるのは、グアム共和国 ―― エンタープライズ社から購入したF-10戦闘機(アーチャー) ―― アメリカではF/A-3戦闘攻撃機と命名された戦闘機部隊の一部が実戦投入可能な練度に達していたと言う事だ。

 無理矢理な形で先行量産型(事実上の試作機)を揃えた為、この時点で15機と小勢ではあったが、東ユーラシア総軍参謀団は大きく期待していた。

 戦闘機、制空任務の部隊こそジェット戦闘機の導入に成功しているアメリカであったが、対地攻撃任務の部隊に関してはレシプロ戦闘機が基本である為、チャイナの妨害を受けるであろう近接航空支援(CAS)の際には大きな損害を受ける可能性が高かったからだ。

 高速侵入と対地攻撃、攻撃後の制空戦闘が可能と言うF/A-3戦闘攻撃機は、夢の万能戦闘機に見えていた。

 

 

 

 

 

 

*1

 北伐総軍の数の上での主力である第1北伐軍集団は、3つの軍に属する24個の歩兵師団で構成されている。

 装備はドイツ式であり、主要部隊の装備もドイツ製乃至はライセンス生産されたものが配備されていた。

 その質も、ドイツ軍事顧問団による指導を受けて十分な訓練が行われており、極めて良好である。

 残念な点があるとすれば、チャイナの予算の問題で各軍に軍司令部直轄の砲兵部隊が用意されていない事であろう。

 砲兵は、各師団の歩兵砲が主力であった。

 作戦発令時、北伐総軍にあって北京付近に集合していた。

 

○北伐総軍 第1北伐軍集団

第3軍  歩兵師団:8個

第5軍  歩兵師団:8個

第11軍 歩兵師団:8個

 

※標準的チャイナ歩兵師団(1942年編制)

歩兵連隊

歩兵連隊

歩兵連隊

砲兵連隊

偵察連隊

 

 

*2

 チャイナ北伐総軍司令部が作戦開始を発令した時点で、ユーラシア総軍第2軍に属していたのは8個師団2個旅団である。

 偵察などによってチャイナによる攻勢準備を把握しており、遅滞防御戦闘に向けた複数の陣地の構築を全力で行っていた。

 フロンティア共和国経由で持ち込まれた日本製の土木機材によって、塹壕などの構築は予備も含めて二桁以上用意されていた。

 又、地雷に関しても大量に埋設(チャイナ領内故に容赦なく用意)されていた。

 問題は第1北伐軍集団同様に野砲部隊の乏しさであった。

 が、射程も発射速度も段違いな19式155㎜自走榴弾砲Ⅲ型を定数保有する朝鮮(コリア)共和国2個自動化師団隷下の2個の野砲(特科)連隊が居る為、第2軍司令部は2個連隊を暫定的に軍司令部直轄として、この機動運用をもって対抗する積りであった。

 

○東ユーラシア総軍 第2軍

第2軍団 5個師団

 第101義勇師団(kr)

 第102義勇師団(Kr)

 第103義勇師団(kr)

 第202自動化師団(kr)

 第204自動化師団(kr)

第21軍団 1個師団 1個旅団

 第7機械化旅団(Bc)

 第101義勇自動化師団(Nj)

第23軍団 1個師団 1個旅団

 第3自動化旅団(Bc)

 第24予備師団(Fr)

 

※略名

Kr 朝鮮(コリア)共和国

Bc バルデス国

Nj 北日本(ジャパン)邦国

Cr シベリア共和国

Fr フロンティア共和国

 

 

*3

 北伐総軍第2北伐軍集団は、数こそ9個師団と第1北伐軍集団の1個軍と同等程度であったが、戦車、半装軌車、トラックを多数装備しており、展開力と戦闘力は同等以上とチャイナ政府軍参謀団では認識されていた。

 戦車部隊の主力はⅢ号戦車C型及び改良型のC2型である、これをC型Ⅲ号突撃砲で支援する形となっていた。

 Ⅲ号戦車は共に30t近い重量と、7.5㎝砲を持つ堂々たる中戦車である事から、アメリカの主力であるM3戦車相手であっても十分以上に戦えると考えられていた。

 又、第22軍には貴重な、機械化された軍司令部直轄の砲兵師団が付けられていた。

 師団と呼称しているが実態は増強連隊規模であり、射撃部隊だけを見れば旅団の呼称が適当であったが、重量のある重カノン砲を運用する為に周辺部隊が大型化した事と、対外的な宣伝(見栄)も兼ねて師団の名前が与えられていた。

 

○第2北伐軍集団

21軍 4個師団

 機械化歩兵師団:4個

22軍 5個師団

 戦車師団:2個

 機械化歩兵師団:2個

 機械化砲兵師団:1個

 

 

*4

 ユーラシア総軍第1軍は、この時点で書類上では良好な装備を持つ9個師団と1個旅団が属する有力な機甲戦力集団であった。

 10を超える戦車連隊を抱えており、その中にはグアム共和国軍(在日米軍)とシベリア共和国軍部隊が持ち込んだ日本製の31式戦車も含まれて居る。

 圧倒的な戦闘力を誇る集団であった。

 書類の上では。

 この時点で第1軍で最も戦車を保有する第12軍団4個師団は南モンゴル北方域で撹乱を最優先に活動していた第1騎兵師団の撃滅に拘束されており、第1軍司令部が掌握出来ていたのは、第1軍団と第11軍団のみであった。

 

○東ユーラシア総軍 第1軍

第1軍団:3個師団

 第11機械化師団(US)

 第1機械化師団(Fr)

 第3機械化師団(Fr)

第11軍団:2個師団 1個旅団

 第2機械化師団(Fr)

 第21自動化師団(Fr)

 第501増強偵察旅団(Gs)

第12軍団:4個師団

 第4機甲師団(Fr)

 第501機械化師団(Gs)

 第701機械化師団(Sr)

 第707自動化師団(Sr)

 

 

*5

 M3戦車とは、アメリカがシベリア独立戦争の戦訓を基に開発した30t級中戦車である。

 戦争中に鹵獲したソ連のKV-1重戦車も分析研究しており、重戦車を殺せる中戦車として主砲には50口径90㎜砲が採用されている。

 量産性と整備性を優先した設計が行われており、車体の機械的信頼性は極めて高い。

 問題は、主砲の90㎜砲であった。

 M3戦車は30t級とは言うものの初期量産型のA型では32tであり、大威力であると共に重量のある90㎜砲を搭載、運用するには余りにも車体が小さすぎ、そして軽すぎていた。

 しかも、車体正面装甲を厚くした結果と砲重量が相まって、重量バランスに問題(フロント・ヘビーと言う持病)を抱えていた。

 機械的な信頼性は高いが、その運用には注意を必要とする戦車であった。

 第11機械化師団が装備しているのはM3戦車のエンジンと車体正面装甲を強化したA2E型であった。

 チャイナが開発したC型Ⅲ号突撃砲への対応 ―― 8.8㎝砲を想定して装甲を強化していた。

 この結果として、更なる重量バランスの悪化を招いていた。

 この為、アメリカ陸軍は主力戦車としてのM3戦車の改良をA2E型で諦め、次なるM4戦車の開発に注力する事となる。

 尚、M3戦車自体は、量産性の高さから補助戦力向けに52口径76.2㎜砲へと換装し、併せて車体各部を運用実績を基に改良したB型シリーズとして、開発と量産が行われる事となる。

 

 

*6

 M2中戦車は、アメリカがグアム共和国軍(在日米軍)の支援を受けて初めて開発した中戦車であった。

 高い目標の下で設計されたM2中戦車であったが、この時点でのアメリカの技術的限界から試作車両の製造時に少なからぬトラブルを頻発させた。

 その上で運用試験でも問題が発生した為、最初の試作車両 ―― M2A型の実用化は中止された。

 M2A型の試験結果を基に、各部の設計をやり直した新試作車が製造され、此方は十分と言って良い性能を発揮した為、M2B型戦車として量産された。

 現在、アメリカがフロンティア共和国軍などに支給しているモデルは、シベリア独立戦争の戦訓を基に改修されたB2G+型であった。

 最大の外見的変更点は、主砲をフランス製の75㎜からアメリカ製の75㎜へ換装した事である。

 

 

*7

 後方撹乱活動を継続する。

 その1点に目的を絞り、無理な攻撃を行わず、部隊を温存し続ける事を選択した第1騎兵師団師団長の判断が、この結果に繋がっていた。

 とは言え軽装な騎兵部隊である為、物資は攻撃 ―― 収奪が出来なければ困窮する筈であったが、その点は必要に応じてモンゴル国へと離脱し、そこで物資を購入する事で賄っていた。

 無論、モンゴル国政府の許可があっての行動では無い。

 それどころか親G4政策を掲げるモンゴル国政府は、第1騎兵師団の行動を把握すると慌てて軍を出して取り締まりを図った。

 だが小規模な集団で侵入してくるが為に捕捉が難しかった。

 又、何より第1騎兵師団の将兵は、行儀が良く通常の倍以上の値段(収奪した財貨の大盤振る舞い)で物資を買っていく上客(カモ)であったが為、モンゴルの庶民がその活動を支援 ―― 情報の秘匿や、取り締まり活動の情報提供などを行う有様であったのだ。

 これではモンゴル国による取り締まりが上手く行く筈も無かった。

 第1騎兵師団将兵は、正規の教育を受けた兵士の集まりであったが故に、これ程に活動を継続出来たと言えるだろう。

 

 




2020/07/09 内容修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

102 チャイナ動乱-20

+

 第1次世界大戦以来の、800,000を超える将兵がぶつかる大会戦が始まった。

 チャイナは必勝の念を込めて。

 アメリカは不敗を誓って。

 

 

【挿絵表示】

 

 

アメリカ / 東ユーラシア総軍

○第1軍

第1軍団

 第11機械化師団(US)

 第1機械化師団(Fr)

 第3機械化師団(Fr)

第11軍団

 第2機械化師団(Fr)

 第21自動化師団(Fr)

 第501増強偵察旅団(戦闘団)(Gs)

第12軍団

 第4機甲師団(Fr)

 第501機械化師団(Gs)

 第701機械化師団(Sr)

○第2軍

第2軍団

 第101義勇師団(kr)

 第102義勇師団(Kr)

 第103義勇師団(kr)

 第202自動化師団(kr)

 第204自動化師団(kr)

第21軍団

 第7機械化旅団(Bc)

 第101義勇自動化師団(Nj)

第23軍団

 第707自動化師団(Cr)

 第3自動化旅団(Bc)

 第24予備師団(Fr)

 

チャイナ / 北伐総軍

○第1北伐軍集団

3軍

 歩兵師団:8個

5軍

 歩兵師団:8個

11軍

 歩兵師団:8個

北京鎮護軍

 歩兵師団:4個

 機械化師団

 嚮導団

 第3騎兵師団

○第2北伐軍集団

21軍

 機械化歩兵師団:2個

 自動化歩兵師団:2個

22軍

 戦車師団:2個

 機械化歩兵師団:2個

 

 

――東部戦線(D-Day+69~83)

 アメリカ側の航空偵察を掻い潜り、夜間の移動によって攻勢準備を整えた第1北伐軍集団に属する3個軍24個師団は、払暁に動き出す。

 対してアメリカ側も戦闘準備を万全に整えていた。

 前線で備えていたのは東ユーラシア総軍第2軍第2軍団の5個師団だけであったが、地雷原と火点で武装した強固な塹壕と十分な弾薬を持ち込んでいた野砲があったのだ。

 又、2個の自動化師団は火力の乏しい義勇師団に、朝鮮(コリア)共和国で保管されていた予備装備*1を持って来ていたのだ。

 ボルトアクション式小銃が装備の主体であるチャイナ歩兵部隊に対し、火力に於いて圧倒する事となる。

 しかも陣地は後方に幾つも用意しており、適時、使用する許可が出ているのだ。

 第2軍団は司令部から一兵卒に至るまで、自軍の一桁上の規模を相手にした悲壮感、或は負ける積りは一切無かった。

 その自負を示す通り、第1北伐軍集団は初日の攻勢で第2軍団の陣地を突破する事は叶わなかった。

 それは2日目、3日目と変わらず、ただ死屍累々とした結果があるのみであった。

 一部では、陣地に取り付く事も成功したが、逆襲によって撃退されていた。

 とは言え、全てが第2軍団の思惑通りに展開していた訳では無い。

 第2軍団が展開し、守備するべき範囲は広過ぎるのだ。

 第1北伐軍集団は、その数的優位を活かす様に陣地の無い個所から南モンゴルへの侵入を図り、成功していく事となる。

 第1北伐軍集団による陣地への攻撃はある種、囮であった。

 運動戦による包囲を狙っていたのだ。

 とは言え、歩兵が文字通りに()()()であったが為、第2軍団は包囲される前に陣地を放棄し後退していた。

 多少の出血は強いられたものの当初の予定通りの戦況推移に、チャイナ政府軍参謀団の血気に逸った若い者などは満州回復(フロンティア共和国撃滅)とまで言い出す程であった。

 

 

――航空戦(D-Day+69~83)

 第1北伐軍集団が動き出した事で、チャイナ側の物資の集積状況が把握出来たアメリカ空軍は全力で爆撃に出る事となった。

 又、前線への近接航空支援も行おうとした。

 だがそれは、言葉にする程に簡単な事では無かった。

 この時点で、アメリカがフロンティア共和国に配置していた爆撃機は大小合わせて200機余りでしかなく、爆装できる戦闘機を含めても500機に届かないのだ。

 この規模の戦力で、連日10,00km2からと言う広大な戦線全てに手を回そうと言うのは些かもって無理があった。

 中隊規模で爆撃機を投入しても、チャイナ側も迎撃を図ってくる。

 護衛に戦闘機を付けるが、それ以上の数で迫られては被害が少なからず出る。

 圧倒的な性能を誇るF-1戦闘機(セイバー)であったが、チャイナのFJ-2戦闘機(ヴィーダシュタント・イエーガー)対策として全てを投入出来る訳では無い事も大きな原因であった。*2

 これらの大本は、攻勢と守勢と言う機先を制されている(イニシアチブを握られている)事が、投入できる航空機を縛っているのだった。

 とは言え、何の対応も採らないと言う選択肢はアメリカに無かった。

 予備として東シナ海に待機していた空母部隊、太平洋艦隊第3任務部隊(TF-1.3)*3による北京近在の航空基地攻撃が決定した。

 爆撃機部隊の攻撃に合わせて、空母2隻による全力攻撃である。

 先の渤海のチャイナ海軍基地撃滅で自信を持っていたTF-1.3の首脳陣であったが、この北京航空基地攻撃に関しては失敗に終わった。

 100機からの航空機が集中して投入されたのだが、チャイナ側も予備の戦闘機まで根こそぎに投入して迎撃したのだ。

 その数、約150機余り。

 その多くはレシプロ機であり複葉機すら含まれて居た。

 アメリカ海軍のレシプロ艦載戦闘機に比べて見劣りのする機体ばかりであったが、それでも数の優位と言うものはバカに出来ぬ力があった。

 倍とは言わぬ戦闘機に囲まれた艦載戦闘機隊は抵抗するだけで必死となり、艦攻/艦爆を守り抜く事が出来なくなったからだ。

 四方八方から好き放題に攻撃を受け、北京市の50㎞手前の空域で艦攻隊指揮官は攻撃の中止を宣言、部隊を撤退させた。

 最終的に、空母まで帰還出来たのは6割以下、54機だけと言う惨状であった。

 さながら北京市は航空要塞の如き状況であった。

 全般的に苦戦気味のアメリカ航空部隊であったが、唯一活躍していたのがF/A-3戦闘攻撃機(アーチャー)であった。

 前線への空爆を行いつつ、爆撃後は攻撃を仕掛けて来るチャイナ戦闘機部隊を排除すると言う八面六臂の活躍を見せていた。

 特に、日本から有償軍事援助(FMS)形式で提供されていた近距離空対空ミサイル(AAM-7)が威力を発揮していた。

 その高額さ故に銀の弾丸(シルバー・ブレット)などとも揶揄されるAAM-7であるが、1発必中で確実に相手を叩き落とすのだ。

 この為、東ユーラシア総軍司令部はF/A-3戦闘攻撃機を航空優勢掌握に転用すると共に、日本に対しては更なるAAM-7の売却を要請する事となる。*4

 

 

――西部戦線(D-Day+69~90)

 東部戦線とは異なり、此方の戦いは一進一退の状況を呈していた。

 数で差が少なく、質では圧倒されている東ユーラシア総軍第1軍を前に、北伐総軍第2北伐軍集団は攻めあぐねていた。

 少しでも前に出ようとすれば野砲が、その圧倒的な射程距離の差で一方的に叩いてくる状況にある為、助攻である第2北伐軍集団としては、無理な攻撃を行って貴重な戦車を無為に失う訳には行かないと言う事情があった。

 航空部隊は両軍共に東部戦線に軸足がある為、此方の上空での戦いは比較的のんびりとしていた。

 そもそもシベリア共和国空軍(日本連邦統合軍航空部隊)が展開しているのだ。

 アメリカの出番は小さく、そしてチャイナの活動する余地など少なかった。*5

 第1軍にとって問題は正面の第2北伐軍集団よりも、後方に侵入しつつある第1北伐軍集団であった。

 補給線がそう遠くない時間に寸断されるであろう事が見て取れたからだ。

 想定される状況であった為、武器弾薬燃料と食料、出来る限りの備蓄を進めては居たのだが、第2北伐軍集団との戦いでかなりの勢いで消費する羽目になっており、とてもではないが安心できる状況には無かった。

 

 

――第1騎兵師団(D-Day+69~74)

 東ユーラシア総軍の後方で暴れ続けていた第1騎兵師団であったが、第12軍団と第23軍団の都合5個師団から包囲されてしまっては、どうにも出来る事は無かった。

 隙を見て、モンゴル国への脱出も試みようとしたが、モンゴル国も軍を展開しだしているのが確認されており、南モンゴルを脱したとしても状況に違いは無かった。

 この時点で総兵力は1000名を切っており、武器弾薬食料、その全てが枯渇しつつあった為、第1騎兵師団師団長は1つの決断を下した。

 降伏である。

 今までの活躍 ―― (野盗)働きから、師団長は自身にせよ配下の兵にせよ降伏後の扱われ方に思う所はあったが、それでも全滅まで戦うよりも、幾ばくかの兵はチャイナに帰れるであろうと判断しての事であった。

 実際、戦争が終わった後にチャイナの地を踏めた人間は412名。

 降伏時の将兵の半分以下であり、そこに師団長以下第1騎兵師団幹部は誰も含まれていなかった。

 

 

 

 

 

 

*1

 日本で既に退役済みであり、各邦国軍の訓練用として配られた陸上自衛隊の旧装備 ―― 89式5.56㎜小銃や5.56mm機関銃MINIMI、果ては84㎜無反動砲等であった。

 訓練用と言う事で、多かれ少なかれガタは来ていたが、十分に実用に足る武器であった。

 本来、この様な急場で性能は良くとも()()()へと変える事は良くないのだが、そもそも、義勇師団の将兵は、この装備で育てられているのだ。

 その操作に悩む事も迷う事も無かった。

 弾薬の補給に関しても、2個の自動化師団の後方が受け持つ事とされ、万全と言って良い状況であった。

 

 

*2

 F-1戦闘機とFJ-2戦闘機が正面から同数で戦った場合、圧倒的にF-1戦闘機が有利であった。

 ドイツとチャイナの技術と努力の結晶であるFJ-2戦闘機であるが、対するF-1戦闘機は200㎞/毎時近い程に優速であり、簡易ながらもレーダーを搭載しているのだ。

 同じジェット戦闘機とは言え、世代が違っていた。

 言わばFJ-2戦闘機が、手探りで開発された黎明期のジェット戦闘機であるならば、F-1戦闘機は確たるコンセプトの下で開発された実用のジェット戦闘機なのだ。

 生産性や整備性その他の部分まで含めて、隔絶していると言って良いだろう。

 だが、それでも、最高速度900㎞/毎時と言う速度を持つと言う点に於いて、油断の出来ない相手であった。

 又、チャイナはレーダー網こそ作り上げてはいなかったが、軍民を問わぬ対空監視網を構築し、アメリカの航空部隊に対して組織的に対抗していた。

 

 

*3

 チャイナとの戦争勃発と共に投入された東洋艦隊隷下の東シナ海分艦隊であったが、開戦劈頭の渤海撃滅戦以後、消耗した航空機や弾薬の補充にハワイまで後退していた。

 その際に、チャイナの充実した航空戦力に備えて巡洋艦や駆逐艦などの護衛戦力を増強し、太平洋艦隊に移管した上で第3任務部隊として再編されていた。

 当初は、更なる空母の増派、大西洋艦隊からの派遣も検討されていたのだが、チャイナの()()()()()鄭和がスウェーデンを出港して以降の所在が不明であった為、不可能となっていた。

 一応、アメリカとチャイナは直接的な戦争状態に無い ―― 建前として、アメリカはフロンティア共和国への支援を行っているだけとされていた。チャイナも、アメリカとの全面戦争状態を避ける為、アメリカの建前を受け入れていた。

 だが、チャイナの通商破壊艦が大西洋で所在不明で存在していると言う事は、非常に大きなプレッシャーとなっていたのだ。

 

 

*4

 AAM-7の値段は戦闘機1機よりも高額である為、アメリカは1,000発単位での購入を打診して値引きを要求する。

 これに対して日本は、この時代の戦闘機を相手にするのであれば威力にせよ射程にせよオーバースペックなAAM-7よりも、日本がF-5戦闘機やF-9戦闘機で自衛用として使用している短距離空対空ミサイル(AAM-6)を提案した。

 AAM-6は陸上部隊向けの携帯地対空誘導弾(PSAM-2)と弾体が共通である為、大量生産されており値段がAAM-7に比べて1桁安いのだ。

 この日本の提案にアメリカは折れ、AAM-6の導入に舵を切る。

 AAM-6を運用し、その性能を理解したアメリカは、国産(アメリカ製)の実用的ミサイル開発と導入計画を一時中断し、現用戦闘機に対してAAM-6の搭載を大々的に進める事となる。

 又、日本に対してライセンス生産を要求するのだが、此方は拒否される事と成る。

 

 

*5

 残念ながらもシベリア共和国空軍航空隊も、対地攻撃に全力を出せる状況では無かった。

 フロンティア共和国内に備蓄されていた航空燃料などが、東部戦線の航空隊に大きく割かれている為、活動を低下させざるを得なかったのだ。

 この為、東ユーラシア総軍司令部も偵察と航空優勢掌握に絞った航空戦に徹する様に指示を出していた。

 

 




2020/05/12 図面修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

103 チャイナ動乱-21





+

 

 

【挿絵表示】

 

 

アメリカ / 東ユーラシア総軍

○第1軍

第1軍団

 第11機械化師団(US)

 第1機械化師団(Fr)

 第3機械化師団(Fr)

第11軍団

 第2機械化師団(Fr)

 第21自動化師団(Fr)

 第501増強偵察旅団(戦闘団)(Gs)

第12軍団

 第4機甲師団(Fr)

 第501機械化師団(Gs)

 第701機械化師団(Sr)

○第2軍

第2軍団

 第101義勇師団(kr)

 第102義勇師団(Kr)

 第103義勇師団(kr)

 第202自動化師団(kr)

 第204自動化師団(kr)

第21軍団

 第7機械化旅団(Bc)

 第101義勇自動化師団(Nj)

第23軍団

 第707自動化師団(Cr)

 第3自動化旅団(Bc)

 第24予備師団(Fr)

 

チャイナ / 北伐総軍

○第1北伐軍集団

3軍

 歩兵師団:7個

5軍

 歩兵師団:6個

11軍

 歩兵師団:8個

北京鎮護軍

 歩兵師団:4個

 第12機械化師団

 嚮導団

 第3騎兵師団

○第2北伐軍集団

21軍

 機械化歩兵師団:2個

 自動化歩兵師団:2個

22軍

 戦車師団:2個

 機械化歩兵師団:2個

 

 

 チャイナ政府軍参謀本部は沸きあがっていた。

 第1北伐軍集団の攻勢は被害こそ事前の想定を上回っていたが、その進軍は予定通りであり、南モンゴルの領域を分断するのもあと少しにまで迫っていた。

 空中の戦いに於いては、当初の見込みよりもかなり健闘していた。

 少なからぬ被害が出ており、航空優勢の掌握など想像も出来ない状態ではあるものの、アメリカ側の自由な爆撃の阻止には成功し続けていた。*1

 渤海周辺の海軍基地を破壊したアメリカ空母の航空部隊を撃退した事に至っては、チャイナの空中勇士による快挙とすら言えた。

 チャイナ国内でも盛んに宣伝され、チャイナ大衆の溜飲を大いに下げる事となった。

 尚、この宣伝の際に北伐総軍の司令官は、記者を前にした演説の際に「アメリカに兵なし」と断言しチャイナ系報道機関の記者たちが大きな歓声を挙げる一幕があった。

 

 

――東部戦線/渤海方面(D-Day+83~91)

 チャイナ北伐総軍北京鎮護軍は第1北伐軍集団第5軍の助攻として、フロンティア共和国国境線に向かって前進を開始した。

 それまで北京鎮護軍の正面に配置されていた東ユーラシア総軍第2軍第2軍団の部隊が姿を消した事が理由であった。

 戦闘機などを投入した航空偵察によってチャイナは、第2軍団の部隊が単純に戦線を下げるのではなく、別方面へと移動したと言う事を把握する。

 北伐総軍参謀本部は、これを第1北伐軍集団の前進に押される形で転進したものと判断、短くも激しい議論の末、北京鎮護軍に対して前進する事を指示した。

 東部戦線東端の前線は、フロンティア共和国との国境線まで50㎞を切っていた。

 それ故に北伐総軍参謀団は(カイル)作戦立案時、この一帯はアメリカが威信を懸けた必死の防衛戦を行うであろうと想定し、前進を考えなかったのだ。

 その状況が変わったのだ。

 堅牢と見える陣地を放棄し、防衛部隊は移動した。

 北伐総軍参謀本部は、これを第1北伐軍集団の前進の圧力に耐えかねた戦力の増強 ―― 転用であると判断したのだ。

 恐らくはアメリカも、チャイナがこの方面は無理に出て来ないだろうと想定したのだろうと判断した。

 実際、渤海に面した地域の突破を図れば陸上部隊の抵抗もだが、アメリカ海軍部隊(TF-7.1)による攻撃を受ける可能性があった。

 特に、渤海周辺の海軍基地を焼き払った空母艦載機部隊の攻撃力は恐るべきものがあった。

 だがその恐るべき空母艦載機部隊は北京への空爆を図った際に大損害を受け、空母部隊も東シナ海より後退している。

 チャイナから見て、今は天祐と言うべき時であった。

 北伐総軍参謀本部は北京鎮護軍に対し、全力での前進を命令した。

 万難を排して前進し、フロンティア共和国領内にまで押し込み、防衛のし易い小凌河一帯までの掌握が目標とされた。

 チャイナは事前の作戦計画に拘泥し、(チャンス)を逃す積りは無かった。

 (カイル)作戦の内容を大幅に変更してフロンティア共和国本土へと軍を進める事で、アメリカに対して講和を強いる事を考えたのだ。

 チャイナはアメリカが如何に満州(フロンティア共和国)へと投資したか理解していた。

 ()()()()()()、その投資の果実が傷つけられるリスクをアメリカに、アメリカの有権者(投資家)へと思い知らせ、早期講和をアメリカ政府へと働きかける様に仕向ける積りであったのだ。

 アメリカ国内の親チャイナ派(チャイナ・ロビー)は、フロンティア共和国利権に近い議員たちが主導したチャイナ排斥運動(イエロー・パージ)によって文字通り消滅していたが、それでもアメリカ社会の中でチャイナ系移民は生き残っていた。

 日本人風の名前に改名するなどして息を潜めて生きていたチャイナ系アメリカ人からの情報でアメリカの行動原理などを認識していたチャイナ政府は、民主主義国家であるアメリカの主権者と世論を狙ったのだ。

 回天の為に、否、この戦争の趨勢を決定づける為に、北京鎮護軍は高い戦意と共に主力である第12機械化師団を前面に押し立てて北進した。

 第1次河北会戦でも活躍した第12機械化師団の将兵は、自分達の手で戦争を終わらせる名誉を与えられたと勇躍していた。

 精鋭と言って良い第12機械化師団はⅢ号戦車C型を戦車大隊の定数一杯 ―― 4個中隊と本部管理小隊まで充足させ52両も装備していたのだ。

 戦車兵たちは、この攻撃力をもってすればフロンティア共和国国境まで迫るのは容易であろうと確信していた。

 だが、思いはフロンティア共和国国境線まで20kmに迫った時、粉砕される事となる。

 そこには第21軍団、北日本(ジャパン)邦国から参戦した第101義勇自動化師団が陣地を構築し周到な戦闘準備を整えて待ち構えていたのだ。

 第101義勇自動化師団は日本連邦統合軍が定める所の軽機動旅団*2を母体としていた為、対装甲火力を持った装甲車両は臨時編成された第101駆逐戦車大隊が保有する41式駆逐戦車 ―― 正規量産型だけでは数が少なすぎて、無理矢理に先行量産型まで持ち込んだ31両が全てであった。

 52両対31両の戦い。

 広大なチャイナの大地、彼我の距離約1000mで始まった砲火の応酬。

 双方ともに自信を持って臨んだ戦いであったが、その結果は(戦車砲)(装甲板)の差が全てであった。

 容赦なく叩き込まれた6lb.砲弾はⅢ号戦車C型の装甲を叩き割り、必死になって撃ち返された7.5㎝砲弾は41式駆逐戦車の傾斜した正面装甲を貫く事は出来なかったのだから。

 41式駆逐戦車は防御側として戦車壕に籠っていたのは大きな優位点(アドバンテージ)であり、対してチャイナ側がこれまでの戦いで慢心してしまい陣地と判っていても真正面から攻撃を仕掛けると言う愚を犯したというのも大きいだろう。

 だが、何よりも大きかったのは、残酷なまでの科学技術の差、日本製の仮帽付被帽付徹甲弾(APCBC)と均質圧延鋼装甲の力であった。

 結果は、31両の圧勝で終る。

 41式駆逐戦車側は1両の損失も出す事無く、Ⅲ号戦車C型を16両も屠ったのだ。

 チャイナの戦車大隊指揮官にとっては悪夢だっただろう。

 正面から腰を据えて仕掛ければ瞬く間に7両が撃破され、であればと地形を利用して近づこうとしても8両が撃破されるのだから。

 そして16両目が被弾し擱座、炎上を始めた戦車から乗組員が脱出を始めるのを見て、戦車大隊指揮官は後退を指示するのだった。

 初陣での大勝利に大きく沸きあがる第101義勇自動化師団。

 対する第12機械化師団側も正面から攻撃を仕掛ける愚を悟り、迂回突破等を図る事となるが、そちらは第7機械化旅団が対応に動いた。

 第101義勇自動化師団は北京鎮護軍の主力、3個の歩兵師団による攻撃を受け防戦で手一杯となっていたのだ。

 第21軍団司令部からの命令に、第7機械化旅団は俊敏に動き出す。

 第7機械化旅団は、元は軽装備の第7自動化(自動車化)旅団であり、第1次河北会戦で全将兵の2割が死傷すると言う甚大な被害を受けて後方で再編成された部隊であった。

 装備こそ更新されはしたが、喪われた将兵の補充は十分では無かった。

 又、補充された将兵は殆どが若者(新規志願者)であった為、練度も低下していた。

 だが、アメリカの支援あればこそ国家が維持されている事を理解するバルデス国(ユダヤ)人は、ここで戦う事が祖国の為(一所懸命)であると奮起していた。

 人員と訓練の不足を、戦意(モラール)が補っていた。

 ユダヤ人の第7機械化旅団は、ドイツ人の教育を十分に受けた第12機械化師団へ真っ向から戦いを挑むのだった。

 第7機械化旅団の戦車大隊が装備する戦車は、数的にはM2戦車 ―― シベリア独立戦争での戦訓を基に各部を改良が施されたB2G+型である。

 最新鋭のM4戦車や事実上の重戦車であるM24戦車、或はアメリカ戦車部隊の数的主力であるM3戦車に比べればいささか古めかしいが、とは言え32tと言う車体に75㎜砲を持っている堂々たる中戦車であり、Ⅲ号戦車C型に些かも劣る所は無かった。

 両者の戦いは一昼夜にも及ぶ事となる。

 東ユーラシア総軍司令部も、ここを抜かれる訳にはいかぬと航空部隊を集中投入した。

 対して北伐総軍も、ここが第2次河北会戦の勘所であるとありったけの航空部隊を投入し、対抗した。

 空は入れ代わり立ち代わりに100機近い航空機が常に飛び交い、戦っていた。

 前線まで直ぐ近い所にまで行ってその様を見聞きしたフランス人従軍記者は、記事の見出し(キャプション)に「チャイナ。晴れ、時々、航空機」と付ける程であった。

 大地と空の激戦。

 最終的に、第7機械化旅団は半壊する事を代償に、フロンティア共和国国境線まで10Kmを残して第12機械化師団の前進を阻止する事に成功するのだった。*3

 

 

――東部戦線/南モンゴル方面(D-Day+83~95)

 北京鎮護軍の攻勢が行き詰りつつあるのに対し、第1北伐軍集団は当初の目的を達成しつつあった。

 モンゴル国への打通 ―― 南モンゴルの分断である。

 これは東ユーラシア総軍司令部の優先順位に於いて、第1北伐軍集団の北上を阻止すると言う事が低かった事が理由であった。

 歩兵主体の部隊故に、その前進速度は高いとは言えなかったが、確実に南モンゴルの大地を切り取って行っていた。

 対する第2軍団は積極的な交戦は控えつつ、その進路をコントロールする事に傾注した。

 南モンゴルの住民を安全に避難させる為である。

 この結果、チャイナ側が掌握した地域の住人は、殆どがモンゴル民族では無くチャイナ民族であった。

 大多数の住人が避難した結果、今度はチャイナ側がアメリカが味わっていた補給の苦痛を味わう事となる。*4

 反アメリカ色の強いドイツの新聞は「アメリカの帝国主義を蹂躙するチャイナの大波」などと持て囃したが、配食が十分に行われなくなって以降は、実態としてはアメリカ側が退けばこそ進む事が出来たと言う側面が大きかった。

 何にせよ、(パイル)作戦発動から1月で、第1北伐軍集団はモンゴル国国境を睨む場所まで前進する事に成功したのだった。

 

 

――日本-チャイナ交渉(D-Day+85~91)

 チャイナ水上艦部隊による日本のタンカー攻撃事件の補償問題は、自由上海市にて断続的に交渉が重ねられていた。

 日本側の要求は渤海周辺を焼き尽くす以前と全く同じであり、その意味で交渉の余地と言うものは存在しなかった。

 チャイナもそれを受け入れており、粛々と責任者(イケニエ)を選んでは原因と責任と理由とを背負わせていた。

 故に、交渉の主題は賠償金額と内容に絞られていた。

 当初、チャイナは鉱山権益などの譲渡を提案していたのだが、それは日本が拒否した。

 ユーラシア大陸利権 ―― チャイナとの関係強化は、日本にとって全く以って好ましいものでは無い為だ。

 緩い日本人(レッド・リベラル)や、乃至は中国系日本人などが利権による関係であっても、コレを梃に日本とチャイナの友好を言い出しかねないからだ。

 その様な()()()は御免被ると言うのが日本政府の本音であった。

 故に、この交渉は可能な限りの賠償金の減額と、支払いの猶予(分割払いの長期化)が話し合われるものであった。

 日本は減額交渉こそ一切応じない構えであったが、その支払いに関しては融通を利かせる事を認めていた。

 但し、チャイナが「()()1()0()0()()()()()」等と言いださない様には締め付けていたが。

 チャイナは減額こそ諦めたが、戦争中と言う事で可能な限りの支払い期間の延長と、猶予を求めた。

 喧々諤々の議論の末、戦争終結年度を起点に10年間で支払いを行うものとされた。

 調印の後、チャイナ代表はおもむろに1つの話題 ―― 依頼を出した。

 チャイナとアメリカとの講和の仲介である。

 滔々とチャイナ代表は状況を語る。

 チャイナに攻め込んできたアメリカは叩きだされる寸前であり、大事であろうフロンティア共和国の存続も風前の灯である。

 だが、チャイナとしては100年の怨讐の元となりかねないフロンティア共和国侵攻は行いたくない。

 故に日本には、チャイナとアメリカの平和への扉を開く協力をして欲しいのだ、と。

 チャイナ代表の長広舌を聞き終えた日本代表は、ゆっくりとした仕草で煙草を銜えて火を点けた。

 アメリカの友人から送られたハバナ産の葉巻だ。

 盛大に煙を吐きだし、灰皿へと押し付けて消すと、秘密を明かすように囁いた。

 実は事前にアメリカの自由上海市駐留代表とお会いしてましてね、と。

 もしその()()が出たならと、伝言を頼まれていたのだという。

 チャイナ代表団の耳目が集まった所で「Nuts!(寝言は寝てから言え馬鹿野郎)」と叫んだ。

 その言葉に目を白黒されるチャイナ代表に、日本代表は、私はブリテン訛りなので正しく言えなかったかもしれませんがと、他人を食った顔で笑っていた。*5

 

 

 

 

 

 

*1

 全力戦闘を開始して10日が経過した頃よりFJ-2戦闘機(ヴィーダシュタント・イエーガー)の活動は、保守部品の枯渇やエンジンの不調機体の続出などから低下していった。

 この為、チャイナは大規模な集団で投入するのではなく、1個編隊3機程度での出撃に限定される様になっていた。

 これではアメリカのF-1戦闘機(セイバー)に対して果敢に戦闘を挑む所では無かった。

 戦場にあって存在を誇示し、F-1戦闘機が迫れば退き、退けば近づくような運用(ハラスメント・タッチ)が精々と言う有様であった。

 この状況をチャイナとて認めている訳では無く、ドイツに対して至急、予備部品などの供給強化を要請する。

 ドイツとしても、貴重なジェット戦闘機同士の実戦の情報を収集出来る機会である為にチャイナの要請に応えたいのは山々であったが、物理的に難しいと言う事情があった。

 高度な科学技術の結晶であるジェットエンジンの部品は、ドイツ本土でしか製造されていないのだ。

 チャイナが如何に札束を積もうとも、ドイツが如何に売りたくて堪らなくとも、距離があり過ぎた。

 この為、次善の策として青島(ドイツ租借地)の工廠で、多少の性能劣化に目を瞑った上で、代替物資(マテリアル)によるジェットエンジンの部品製造を目指す事となる。

 

 

*2

 日本連邦統合軍は、シベリア独立戦争とシベリア共和国の日本連邦への参加に伴って広大化した国土防衛の為、組織を大幅に拡張する必要に迫られた。

 そこで問題化したのは兵員の訓練もであるが装備、装甲車両や火砲の整備である。

 日本政府は、経済循環の為の官需として、日本連邦統合軍への予算投入を認めていたが、如何せん製造力には限界があった。

 この問題に対応する為、日本は国内企業に資金援助を行って工場を拡張させると共に、シベリア共和国のウラジオストクにも工廠を用意していた。

 とは言え、工場施設は簡単に拡張する事が出来ても、作る人材の育成は簡単では無い。

 日本の軍需工場群は、いまだ十分な生産力を発揮するまでには至っていなかった。

 故に、日本は暫定的措置として、陸上戦力の根幹を成す歩兵師団/旅団を大きく5つに区分(カテゴライズ)し管理する事としていた。

 

優先度第1位

 機械化師団/旅団:各方面隊の戦力の基幹として期待される部隊

優先度第2位

 海兵旅団:緊急展開部隊として運用される予定の部隊。外人部隊としての側面がある

優先度第3位

 (第1類)自動化師団/旅団:戦闘への積極的な参加を前提とする自動化部隊

優先度第4位

 (第2類)自動化師団/旅団:戦闘を余り前提としない自動化部隊

優先度第5位

 機動師団/旅団:予備戦力として、郷土防衛と災害対応に軸足を置いた部隊

 

 安全な後方と判断されていた北日本(ジャパン)邦国の軽機動旅団は、特に装甲車両の配備が遅れ気味であった。

 22式装輪装甲車(Type-22APC)は勿論、装甲化トラックと言える安価な 37式装甲機動車(Type-37AMV)すら配備が行われていなかった。

 制式化されていない、装甲キットが()()()に準備されているだけのトラックが主体であったのだ。

 この事が独自の装甲車両、41式駆逐戦車を開発する意欲に繋がった側面があった。

 

 

*3

 この時点で第12機械化師団と共に、第101義勇自動化師団と交戦していた3個の歩兵師団も甚大な被害を被った為、北京鎮護軍は前進を停止して戦力の再編成に入った。

 但しそれは、再度の攻勢に向けた準備であった。

 第21軍団としては残念な事に、北京鎮護軍はフロンティア共和国への突入をいまだ諦めてはいなかったのだ。

 戦争を終結させる可能性を持った攻撃と言う事で、北伐総軍全体の期待を背負っていると言うのが大きい。

 そしてもう1つ、北京鎮護軍には切り札とも呼べる嚮導団が無傷で残っていると言うのも大きかった。

 嚮導団とは、ドイツ式機甲戦術をチャイナが吸収する為のモデル部隊として編制された部隊であり、その人員の練度は極めて高かった。

 そして何より、ドイツが対31式戦車として開発した60t級の超戦車、Ⅳ号戦車を保有していたのだ。

 北京鎮護軍が戦力として期待するのも当然であった。

 これまで先頭に居なかった理由は過大な重量による低い機動性と、貴重なⅣ号戦車を航空攻撃から回避させるべく、慎重に進軍させていた為だった。

 

 

*4

 チャイナ軍の軍需物資、特に糧秣に関しては現地での調達に頼っていた部分が大きかった。

 米などは兎も角、肉や野菜と言った生鮮食材に関しては自動車化の殆どされていないチャイナ政府軍では搬送が難しいと言う側面があり、同時に、そもそもとして国内での活動しか想定されていなかった事も大きな理由であった。

 軍が移動する先で食材を買うと言う事も、地元住民にとっては大事な現金収入の機会であったからだ。

 その前提が、この南モンゴルの地では崩れていた。

 チャイナが自ら行った攻勢的焦土戦術で南モンゴルの民間物流は寸断され、地方の食料は枯渇しており、それを支えていたアメリカが住民ごと退いたのだ。

 残された市町村に食材など残っている筈も無かった。

 伝統的に温食を重視するチャイナの将兵は食材や燃料の不足で、温食どころか充分な食事もとれぬ状況に瞬く間に戦意が低下していったが、それでも勝っていると言う思いが将兵の足を前に進ませるのだった。

 

 

 

*5

 日本政府は、アメリカが多少の劣勢程度で振り上げていた拳を下げる事は無いだろうと確信していた。

 そもそも、東ユーラシア総軍には北日本(ジャパン)邦国とグアム共和国と朝鮮(コリア)共和国とシベリア共和国と、日本連邦加盟国の半数が参加しており、その状況は良く把握していたのだ。

 圧されてはいるが、フロンティア共和国国境線が突破される恐れはないと判断していた。

 この時点で、一番危険であった北京鎮護軍の突進は完全に停止しており、第1北伐軍集団の前進が止まりつつあった。

 チャイナの意気込みとは別に、第2次河北会戦の攻勢は終焉を迎えつつあった。

 であれば後は1年後にでも確実に反撃に出るのがアメリカであると言うのが日本の判断であった。

 尚、この日本によるアメリカ評を聞いたアメリカ外交官は、グアム共和国(在日米軍)関係者に「日本の期待()が重い」とこぼしたという。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

104 チャイナ動乱-22

+

 

 

【挿絵表示】

 

 

アメリカ / 東ユーラシア総軍

○第1軍

第1軍団

 第11機械化師団(US)

 第1機械化師団(Fr)

 第3機械化師団(Fr)

第11軍団

 第2機械化師団(Fr)

 第21自動化師団(Fr)

 第501増強偵察旅団(戦闘団)(Gs)

第12軍団

 第4機甲師団(Fr)

 第501機械化師団(Gs)

 第701機械化師団(Sr)

○第2軍

第2軍団

 第101義勇師団(kr)

 第102義勇師団(Kr)

 第103義勇師団(kr)

 第202自動化師団(kr)

 第204自動化師団(kr)

第21軍団

 第7機械化旅団(Bc)

 第101義勇自動化師団(Nj)

第23軍団

 第707自動化師団(Cr)

 第3自動化旅団(Bc)

 第24予備師団(Fr)

 

チャイナ / 北伐総軍

○第1北伐軍集団

3軍

 歩兵師団:7個

5軍

 歩兵師団:6個

11軍

 歩兵師団:8個

北京鎮護軍

 歩兵師団:4個

 第12機械化師団

 嚮導団

 第3騎兵師団

○第2北伐軍集団

21軍

 機械化歩兵師団:2個

 自動化歩兵師団:2個

22軍

 戦車師団:2個

 機械化歩兵師団:2個

 

 

――西部戦線/(D-Day+83~96)

 東部戦線と比較して、アメリカ側(第1軍団)チャイナ側(第2北伐軍集団)も共に積極的な攻撃を控えてはいた。

 東部戦線が主軸であると言う認識が相互に存在している事が理由であった。

 だがそれは、対峙するだけである事を意味せず、機動をしないと言う訳では無い。

 チャイナ側としては出来るだけ前進を行おうとするし、アメリカ側はそれを阻止したいし可能であれば前進したい。

 大規模な砲火の応酬こそ行われなかったが偵察部隊は積極的に活動し、戦火を交えていた。

 絶え間ない運動戦の最中、東部戦線第1北伐軍集団がモンゴル国国境線までの地域を掌握したという情報が第2北伐軍集団司令部に齎された。

 歓声が上がった。

 第1北伐軍集団の北境(モンゴル国)到達は即ち、第1軍団の補給路を遮断する事に成功した事を意味するからだ。

 この時点で第2北伐軍集団も事前に用意していた燃料と弾薬を大きく消耗しており、又、可動率も危険な水準にまで低下しつつある事も重なり、攻勢の中止 ―― 終了も検討されていた。

 そこにこの朗報である。

 前線の士気も上がった。

 それまで終わりの見えなかった運動戦の終末点が漸く、認識出来たからだ。

 勝てる。

 チャイナはアメリカ(列強)に勝てるとの思いが、チャイナ人将兵の戦意を大いに高めた。

 この為、第2北伐軍集団司令部は運動戦の中止と、全面攻勢を決定した。

 アメリカの第1軍団が燃料と食料の枯渇で動けなくなる事を狙い、第2北伐軍集団司令部は第21軍と第22軍に対して積極的な攻勢を命じた。

 動くだけでは無く砲火を交える事で弾薬まで消耗させ、消耗した弾薬の補給に物資を消耗させようと言う腹積もりであった。

 対してアメリカは、これを真っ向から受けて立つ構えを見せた。

 故に、広大な南モンゴル西部域で彼我併せて10個を超える、最低でも自動化された師団が激突する。

 それまでの(三味線をひく)戦いとはうって変わって、激烈な戦いへと移行した。

 航空戦力は両陣営ともに東部戦線に集中していた為、ほぼほぼ陸上戦力で行われた文字通りの()()であった。

 両陣営併せて1000台を超える戦車装甲車の群が激突し、撃破し、撃破され、野に残骸を晒した。

 戦車戦だけで言えばチャイナ側(ドイツ製)の被害が大きかったが、戦車を倒すのは別に戦車では無いのだ。

 野に伏せた(隠れていた)対戦車砲陣地や野砲、或は急遽転用された対空砲などによって、アメリカ側の戦車も多くが撃破されていった。

 攻防は一進一退の様相を呈していく。

 血のにじむような努力を重ねて作り上げ、そして、無情にもすり潰されて行く戦車装甲車の群れを前にして、だがチャイナ側に焦りは無かった。

 撃破される戦車、装甲車、死んで逝く兵こそが、アメリカの消耗を意味しているからであり、それが積み上がった時、アメリカは膝を屈するのだと思っていた。

 だが、そんなチャイナの思惑は、決戦が始まって3日4日と経っても実現はせず、それどころかチャイナ側の物資不足が露呈しだした1週間を超えてもまだ、アメリカ側に物資不足の兆候は出て来なかった。

 第2北伐軍集団司令部は大きく慌てた。

 チャイナ側は息切れしているのに、アメリカにその兆候は無い。

 それは即ち、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()事を意味していた。

 決戦の前提が全てひっくり返るのだ。

 慌てた第2北伐軍集団司令部は、ありったけの航空戦力を偵察に投入した。

 投入された機体は、殆どが帰って来なかった。

 だが、不帰を覚悟して送り出された多量の航空機は、飽和攻撃の役目を果たし、極わずかな機体が、貴重な情報を持ち帰った。

 夕暮れの中、偵察機はモンゴル西方域とモンゴル国とを繋いだ光の道(車のヘッドライトの連なり)を見た。

 第1軍団の補給線は、モンゴル国に繋がっていたのだ。

 

 

――外交交渉 チャイナ-モンゴル間

 第2北伐軍集団から、モンゴル国がアメリカの補給を支えていると言う報告を受け、チャイナ政府は激怒した。

 この戦争が始まる前にチャイナはモンゴル国と相互不可侵と不干渉条約を締結していたのだ。

 チャイナ政府が激怒するのも当然の話であった。

 急いでモンゴル国の大使を呼びつけて、厳重に抗議を行う。

 対してモンゴル国大使は涼しい顔で、モンゴル国内の民間企業が経済活動として物資の売却をしているだけであり、モンゴル国政府はチャイナとの対立は望んでは居ないと返事をした。

 この返答にチャイナ政府が納得する筈も無かった。

 モンゴル国政府は国の方針に従わぬ民間企業を取り締まる必要があるとチャイナ政府は強く主張した。

 だが、数時間に渡る交渉においてモンゴル国大使がチャイナ政府の要求に折れる事は無かった。

 最終的にチャイナ政府は、武力を以て脅す事を選択した。

 モンゴル国との国境線地帯に到達した第1北伐軍集団によるモンゴル国侵攻である。

 別に掌握する必要は無い。

 統治する必要も無い。

 モンゴル国を混乱の坩堝に叩きこみ、モンゴル国を介した第1軍団への補給路を断てれば良いのだから簡単な話だ。

 だが、この脅しにモンゴル国大使は屈する事は無かった。

 笑みを浮かべて、モンゴル国も同盟関係がありますと返答した。

 相手は日本国。

 日本-モンゴル東ユーラシア安全保障条約を締結しているのだと言う。

 即座にチャイナ政府は駐モンゴル大使に確認を命じた所、事実の裏取りが成された。

 既にモンゴル国にはシベリア総軍から抽出された日本連邦統合軍2個師団と航空部隊が展開していた。

 余りの状況に絶望したチャイナ政府は、モンゴル国大使に泣き付くように過去の友諠に基づいた親チャイナ外交を採ってくれる様に訴える程であった。

 だがモンゴル国大使は、その訴えを鼻で笑った。

 友諠のあった国相手に侵攻の脅しを行ったのはどの国であるのか? と。

 それどころか、そもそも南モンゴルはモンゴル人の大地であったが、それを国力に基づいて強奪し、支配してきたのはチャイナであると強く批判する程であった。

 ここにチャイナとモンゴル国の外交交渉は決裂する事となる。

 

 モンゴル国との外交交渉の決裂を報告された蒋介石は、その夜、痛飲した。

 

 

――41式駆逐戦車

 20tにも満たない軽量な軽戦闘車両である41式駆逐戦車が実証した能力は、アメリカを瞠目させるものがあった。

 アメリカも歩兵師団の対戦車部隊向け装備として、M10対戦車自走砲(GMC)と言う車両の開発と配備を進めてはいたが、此方はM3戦車の車台を流用して開発された30t級と言う大型車両だった。

 3in.砲を搭載し、火力も十分でありアメリカが自信をもって配備を進めている車両であったが、問題が1つあった。

 車体価格である。

 アメリカ陸軍に配備する分に於いて問題がある訳では無い。

 だが、フロンティア共和国軍を筆頭に諸外国部隊へと大量に配備 ―― 配布(プレゼント)するには余りにも高く、そして生産工程が複雑過ぎた。

 アメリカの工業力が本気を出せば簡単ではあるのだが、そこまでコストを掛ける必要があるのかと言えば難しい所もあったのだ。

 金満と言って良いアメリカだが、無尽蔵に放蕩出来る程では無いのだから。

 だから、41式駆逐戦車に目を付けたのだ。

 自国生産優先購入政策(バイ・アメリカン法)がある為、当初のアメリカは北崎重工業からライセンス生産権の取得を考えていた。

 だが41式駆逐戦車の性能を支える諸要素、日本製の高品位な均質圧延鋼装甲や、民生品を転用したコンパクトで信頼性の高いディーゼルエンジンとトランスミッション等の大部分が、アメリカで製造する事が出来ない*1為、出来るのはノックダウン生産が精々であった。

 それをアメリカは呑む事となる。

 ある意味でアメリカ陸軍の正規装備としてでは無い事が、それを許したのだ。

 アメリカと北崎重工業の協議の結果、41式駆逐戦車はM41駆逐戦車(TD)として採用する事となった。

 生産は北日本(ジャパン)邦国領の北崎重工業豊原工場が実施する。

 又、生産数が北崎重工業の当初予定よりも大規模で、かつ早期製造を要求される為、豊原工場を拡張する事となったが、これに対してアメリカが投資する事で、M41の消耗品などをアメリカ側で製造する事となる。

 尚、41式駆逐戦車をM41駆逐戦車(M41A1TD)として採用する際、1つだけ大きな設計変更が行われた。

 主砲の換装である。

 6lb.砲が搭載されていた理由は、砲自体の素性の良さ ―― 入手の簡便さと安さ軽さ。そして火力のバランスもさることながら、設計を行う際にスペイン内戦時のバンク機動砲車の情報を参考にしていた事が理由であった。

 が、アメリカには同じく軽量な対戦車砲として40口径75㎜砲があった為、こちらに換装される事となった。

 基本設計の古い75㎜砲であったが、6lb.砲に比べて大口径化した事による火力の向上が有意であった為、M41駆逐戦車の製造開始以降は41式駆逐戦車も75㎜砲搭載モデルが標準化する事となる。

 又、この75㎜砲搭載型(Aシリーズ)はその安さからシベリア共和国などの地方歩兵連隊内の火力部隊(対戦車中隊)などに採用されていく事となる。*2

 

 

 

 

 

 

*1

 日本は諸外国への先進技術の流出阻止に関する政策は緩めてはいなかった。

 この為、41式駆逐戦車をアメリカで製造するのに必要な鋼材やエンジンなどの生産技術の供与にも否定的であった。

 共同での技術開発こそ継続的に行われてはいたが、日本がかつて韓国や中国に対して行った様な()()は行っていない。

 これはアメリカのみならず、ブリテンやフランスは当然、それ以外の国家に対してもであった。

 日本連邦の諸邦国に対してすら、独自の技術の涵養は行っても、技術の供与は行っていなかった。

 

 

*2

 日本もシベリア共和国などへも中距離多目的誘導弾(ATM-6系列)の配備を行ってはいた。

 だがそれは日本連邦統合軍の予算で配備や演習での消耗が出来る日本連邦統合軍供出部隊に限っての話である。

 地方歩兵連隊はシベリア共和国の予算で管理運営される国境線警備担当部隊であり数を必要とする部隊でもある為、とてもではないがシベリア共和国の予算にATM-6系列のミサイルを装備する部隊を揃える力は無かった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

105 チャイナ動乱-23

+

 冬が来ると共に、アメリカとチャイナは塹壕と陣地とを作ってのにらみ合いとなった。

 アメリカからすれば戦力が揃うまでは積極的な行動を取る理由が無かった。

 チャイナは、戦力の消耗と燃料その他の物資が枯渇状態になった為、動けなかった。

 自然発生した休戦状況の下、両軍は小競り合いをしつつ春の攻勢に向けた準備を行っていた。

 

 

――チャイナ

 モンゴル国のスタンスが、チャイナに対して友好的(隷属的)中立から敵対的(自律的)中立へとシフトした事による影響は、チャイナにとって小さいものでは無かった。

 懲罰的行動を行おうにも日本がモンゴル国の背景に居る ―― 日本連邦統合軍が駐屯しているのだ。手出しなど出来るものでは無かった。

 幸い(不思議な)な事は、モンゴル国にせよ日本にせよ、チャイナへ積極的に攻撃(宣戦布告)を行う意思は見せていないと言う事だった。*1

 兎も角、東ユーラシア総軍第1軍の包囲と消耗を強いると言う戦略目的達成は不可能となった為、チャイナ政府は貴重な重装備を装備する第2北伐軍集団を消耗させきる訳には行かぬと、戦闘の中止を命令する事となる。

 同時に第1北伐軍集団、北京鎮護軍に対する期待が更に膨らむ事となる。

 何としてもフロンティア共和国領内に侵攻し、アメリカのユーラシア大陸に於ける基盤、策源地を粉砕しアメリカに和平を強いらねばならぬのだ。

 だが、そんなチャイナ政府の希望に対して現実は非情であった。

 この時点で北京鎮護軍は、主力である第12機械化師団が半壊しており、その上で北京に備蓄していた燃料と弾薬、予備部品の類を極度に消耗しており、衝突力を喪失していたのだ。

 特に燃料の枯渇が深刻だった。

 (カイル)作戦発令までに随分な量を北京市に備蓄していたのだが、アメリカとの激烈な航空戦による消耗は、その尽くを喰いつくさんばかりとなっていた。

 これではどうにもならない。

 折しも季節は冬に差し掛かり、雪が降り始めている。

 軍が動く為の物資以前に、冬に耐えるべき物資を備蓄するべき状況が近づいていた。

 北伐総軍は、これ以上の無理な攻勢は徒に部隊を消耗するだけであるとして、チャイナ政府に対して(カイル)作戦中止を上申。

 チャイナ政府はこれを受け入れた。

 その上で、侵略的外夷(アメリカ軍)を寸断する事に成功した事をもって作戦の成功を宣伝する。

 今までチャイナを侵食して来ていた帝国主義者の鼻っ柱を大きく殴りつけたと、チャイナ人の意気は大いに盛り上がった。

 その盛り上がりを、チャイナ政府は文字通り()()()()事とする。

 全国津々浦々からの大徴兵である。

 チャイナはアメリカの弱点に将兵の不足を見た。

 機械化戦力は、西部戦線での戦訓から互角には戦えると見た。

 であれば、敵の弱点を突くのが王道であるのだ。

 100個師団100万兵(イーバイ・イーバイワン)の掛け声と共に、男女を問わず若者をかき集めだした。

 又、正式にチャイナ共産党とも協定を結び、チャイナ共産党軍と共にチャイナ共産党討伐軍を対アメリカ戦争に指向出来る体制を作り上げた。

 公称200万の大チャイナ軍の建軍であった。

 尚、この建軍に合わせて、チャイナ政府は南チャイナ()()()に対し、不戦条約の締結を持ちかけていた。

 世界に冠たるチャイナ人として、外憂を取り除く事が優先であり、その大事の前にチャイナ人同士で戦争をするのは宜しくないと言うのが建前であった。

 南チャイナは、チャイナ政府の腹積もり*2を良く認識していたが、国家基盤のぜい弱な南チャイナとしては統治機構(税収)の確立と軍編制の時間を得る事が大事であると判断し、この交渉を受け入れていた。

 

 

――アメリカ

 チャイナの攻勢終了をしのぎ切る事に成功したアメリカであったが、その内情は悲惨の一言であった。

 機械化戦力の集中している第1軍の装甲車両は多くが破損しており、その戦力回復にはとてつもなく時間と労力が掛かる事が想定されていた。

 又、第2軍も疲弊していた事から、チャイナが攻勢を終了させ、持久体制に移行すると共に、本格的な戦力再編に取り掛かる事となる。

 戦力の再編と、新装備の充足も図られる事となる。

 特に数的な意味での戦力の中枢となるフロンティア共和国部隊は、大きく増強される事となった。

 現時点で1個機甲師団/4個機械化師団/6個予備時師団の11個師団体制であるのだが、これを3個機甲師団/6個機械化師団/2個自動化師団へと拡張するのだ。

 幸い、将兵に関しては万民平等の開拓地と言う言葉に惹かれてヨーロッパから渡ってきた兵役経験者 ―― ドイツを追放されたユダヤ人や一山上げようと渡ってきたポーランド人にアイルランド人、果てはファシズムを嫌ったドイツ人まで揃っていた為、短期的な戦力化が期待されていた。

 戦車も、フロンティア共和国の工場を拡張する事でⅢ号戦車は勿論、Ⅳ号戦車も撃破可能なM4戦車系で充足を図る事とされた。

 又、M24戦車も最新のE3型が増産され、軍団直轄の予備部隊 ―― 独立戦車連隊へと配備される事となっていた。

 未だチャイナ軍最強のⅣ号戦車との交戦は果たしていないが、優位に戦えるであろうと確信していた。

 この他、国際連盟を通じて各国からの義勇(傭兵)部隊の派遣が続々と伝えられていた。

 現時点でアメリカを含めて30個近い師団規模部隊がフロンティア共和国の地に集結する予定となっていた。

 その全てを最低でも自動化、過半数は機械化する事でチャイナに対する数的不利を質でひっくり返す積りであった。

 M41(41式駆逐戦車)を導入する理由もそこにあった。

 だが、それでもアメリカが想定して居たのはチャイナ100万の軍勢であった。

 そこに齎されたチャイナの大徴兵令(イーバイ・イーバイワン)

 アメリカの想定の約2倍、200万の軍勢をチャイナが用意すると言うのは想定外にも程がある事態であった。

 アメリカは頭を抱え、そして陸上戦力のみに拘らない戦争勝利に向けて動き出す事となる。

 即ち、南モンゴルを巡る限定戦争から、チャイナとの全面戦争体勢への移行である。

 アメリカの正規軍を全面動員する訳では無い。

 只、自らに課していた戦争を行う領域の限定 ―― 渤海/黄河以北から南モンゴルに限られていたアメリカ軍の行動をチャイナ全土へと広げると言う決定であった。

 航空部隊によるチャイナの戦争体制の破壊が、アメリカの参謀本部で検討される様になった。

 チャイナは、(アメリカ)の尾を踏んだのだ。*3

 

 

――国際連盟義勇軍

 国際連盟を介して南モンゴルへの義勇部隊の派遣を決めた1942年の末の時点で、10を超えていた。

 大多数は大隊、乃至は連隊規模であった。

 多くの国家にとって地球の裏側(チャイナ)へと兵力を送ると言うのは、それ程の難事であった。

 だがそれでも、派遣の対価であるアメリカからの軍事供与(ごほうび) ―― 戦車や戦闘機などの供与は魅力的であり過ぎた。

 又、3つ程、旅団規模を超える戦力の派遣を決定した国家があった。

 インドシナ連邦(フランス)とポーランド、そしてオランダであった。

 それぞれ事情があった。

 フランスの理由は単純だった。

 フランス領インドシナの独立運動を鎮圧する際に投入されたインドシナ連邦軍の将兵は、陰惨な治安維持戦で血に酔い狂って醒める気配は無く、フランスから与えられた軍役の特権に驕り、フランス領インドシナ住人から恨まれている為、今後の治安に悪影響を与えない様に()()()()()と考えていたのだ。

 無論、アメリカから供与される戦車や装甲車、自動車も魅力的であったが、それ以上に棄民の要素が大きかった。

 ポーランドは全く別であった。

 ドイツと対立する状況下故に実利として戦車が欲しくはあったが、それ以上に、来るべきドイツとの戦争に備えてアメリカの歓心を買うと言うのが最優先の目的であった。

 その為であれば派遣する精鋭2個師団が文字通りに全滅しても良いと、ポーランド政府は派遣部隊の司令官に対して非情とも言える命令を下していた。

 重く複雑な背景を持つ2国に対し、オランダの派遣理由は、何というか、牧歌的ですらあった。

 自動車が欲しかったのだ。

 戦車どころか装甲車ですらなく、自動車 ―― トラックだった。

 とは言えそれは呑気な理由では無い。

 オランダにとっては、ある意味で死活問題に繋がっていた。

 日本が原油や生ゴム欲しさにオランダ領東インド諸島(インドネシア)に進出し投資していた為、オランダ領東インド諸島の経済発展は著しいものがあった。

 だがそれもごく一部だけである。

 鉄道や港湾などの物流インフラの貧弱さによって、経済発展の恩恵が波及する事は少なかった。

 経済発展の格差は、オランダ領東インド諸島の現地住人の不満を引き起こしていた。

 まだ独立運動などの政情不安などにはつながってはいなかったが、このまま経済発展の格差を放置していてはどうなるか判らないというのが実状である。

 故に、物流を支える存在として、アメリカからのトラックを欲したのだ。

 オランダの工業力では、必要な数を作る事が出来ず。

 オランダの経済力では、必要な数を買う事が出来ず。

 だから、オランダはアメリカの要請に応じて派兵する事としたのだった。

 

 

 

 

 

 

*1

 チャイナからすれば不思議な話であったが、日本からすれば、アメリカが主役の戦争に割って入るなど無粋であり、必要性など皆目感じていなかったのだ。

 そもそもアメリカは必ず勝つ(絶対的な信頼感)のだから、参戦しては名誉乞食だと言う認識である。

 当のアメリカとしては、日本が参戦してくれれば面倒事が消え去るので大賛成(ウェルカム! 状態)であったが、その態度を日本はアメリカ的な奥ゆかしさ(アメリカンジョーク)と認識していた。

 日本とアメリカの深刻な認識の齟齬は兎も角として、実利的な面で日本政府は漸く装備と練度が良好なものへと達しつつあるシベリア総軍の主要部隊が消耗する事は避けたいし、そもそも、財務的な意識として戦争などと言う無駄な出費は抑えたいと言う部分もあった。

 戦争から逃げる気はない。

 だが、戦争を避けられるのであれば全力で避けたいと言うのが日本のスタンスであった。

 対してモンゴル国。

 此方は日本よりも更にシンプルであった。

 チャイナと戦争したとして、得られるものなど何もないと言うのが理由であった。

 戦争に参加し勝利すれば賠償金は得られるかもしれないが、戦争の経費を考えれば、黒字になるか怪しかった。

 では領土を得るのはどうかと言えば、此方は、モンゴル国とチャイナの間にある土地は全てが南モンゴルなのだ。

 占領したとしても、南モンゴルへの割譲が要求されるだろう。

 全くと言って良い程に()が無いのだ。

 モンゴル国が戦争に意欲的でないのも当然であった。

 

 

*2

 チャイナ政府の目的は、南チャイナの独立を認める積りは無く、アメリカとの戦争終結までの限定的な安全確保交渉である。

 アメリカとの戦争終結後は、その余勢をかって一挙に南チャイナ等と言う分離独立派は殲滅する積りであった。

 

 

*3

 アメリカはチャイナとの全面戦争は望んで居なかった。

 チャイナ現政府の打倒も考えてもいなかった。

 単純に、資源地帯でもある南モンゴルをチャイナから分離独立させ、自国の影響(管理)下に入れる事が出来れば十分であったのだ。

 何とも傲慢な列強の、G4の、世界覇者の一角(グレートゲーム・プレイヤー)の態度であった。

 或は温情であった。

 ()()が、殺す積りは無いと言う。

 それは国家が国家を見る目では無く、畜産を見る目であった。

 ()()()()()が故に、チャイナの反応はアメリカの怒りを呼んだのだ。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

106 ユーゴスラビア紛争-3

+

 イタリアによるユーゴスラビア干渉は、恐ろしい勢いで紛争の火種を撒き散らす事に繋がった。

 そもそもユーゴスラビアの治安維持体制が崩壊し、日々乗り込んできた余所者(ドイツ人)への憎悪と余所者の操り人形(セルビア人)への不信感とが募っていたのだ。

 街路や田舎で、反発したユーゴスラビア人(非セルビア系諸民族)とセルビア人は小競り合いを繰り返す有様であった。

 流石に武装したドイツ人、それも引き金の軽い野蛮人を相手に喧嘩を売る様な人間は少数派であったが。

 そんな状況で、イタリアはユーゴスラビアの非セルビア人反ドイツ組織に接触した。

 ユーゴスラビア共産党である。

 ユーゴスラビア共産党は、ユーゴスラビアにあって有力な組織ではあるが、国王派(ロンドン亡命政府)旧国軍(ユーゴスラビア軍残党)なども存在する為、最有力という訳では無かった。

 にも拘らず接触した理由は、イタリアに帰化した伊国人(タイムスリップ経験者)による情報であった。

 後に、南斯拉夫社会主義連邦共和国を建国すると言う未来情報あればこそであった。

 

 

――ユーゴスラビア共産党

 ユーゴスラビア共産党は、共産主義を標榜しているが、共産主義の本尊と言ってよいソ連との距離は全く近く無かった。

 当然であろう。

 今現在、現在進行形でユーゴスラビアを侵略しているドイツとソ連は同盟関係にあるのだ。

 ドイツにとって、戦争中の中国を除いた最大の貿易相手国はソ連であり、ソ連は国際連盟の会議で公然とドイツの肩を持った発言を繰り返していた。

 軍事的にも共同で武器開発を行い、軍人の交流も積極的に行われていた。

 止めに、隣国ルーマニアの領土をドイツから割譲されているのだ。

 同じ共産主義の旗を掲げるとは言え信用出来る筈が無かった。

 故に、ソ連とドイツと対立するG4陣営の国家であるイタリアが支援の手を差し伸べてきた時、躊躇なくその手を握り返したのだった。

 ドイツへの抵抗(パルチザン)運動を行うには、圧倒的に武器が足りなかったのだから。

 イタリアはユーゴスラビア共産党に対して武器弾薬の融通と資金援助を約束した。*1

 莫大と言って良いイタリアの援助は、その対価としてユーゴスラビア領フィウーメ等(未回収のイタリア)の割譲が求められていた。

 ユーゴスラビア共産党は()()()()()()と言う文言を以って、問題の先送りによる(将来的な反故を前提とした)秘密協定を締結した。

 

 

――国際連盟

 ブリテンに亡命していた元ユーゴスラビア国王は、ユーゴスラビアの解放を求めて国際連盟総会の場にて演説を行った。

 ドイツがユーゴスラビアで行っている行為は明確に侵略であり、国際社会はこれを断固として許してはならず、国際連盟は総力を挙げて、ドイツと対峙せねばならないと叫んだ。

 だがその反応は寒々しいものであった。

 演説が終わっても拍手もまばらだった。

 冷ややかな反応は、ある意味で当然であった。

 ユーゴスラビアは国際連盟を脱退し、自ら好んでドイツを盟主とした同盟体である大欧州連合帝国(サード・ライヒ)に参加したのだ。

 その参加が失敗に終わったからと言って、加盟もしていない国際連盟に泣き付かれても困ると言うのが実状であった。

 そもそも国際連盟は独立し責任を持った国家の集合体であり、加盟国間での利益調整などを通して平和と繁栄を目的とする組織なのだ。

 加盟国の平和と安定に資する為の行動は積極的に行う積りはあったが、間違っても地球全体を対象とした社会的乃至は普遍的な正義実現等は掲げていないのだ。

 ある意味で、天性の機会主義者である日本が主導的な位置に居る組織らしい現実主義であった。

 理想主義が否定される訳では無いが、理想だけで物事を動かす事の出来ない組織であった。

 であるが故に、ある種の自業自得と言って良いユーゴスラビアの惨状に国際連盟加盟国は、深い同情こそ感じても国際連盟として動くつもりは一切無かった。*2

 そもそも、動くとして()()()()()()()()()()()

 国際連盟総会の反応に気落ちした元ユーゴスラビア国王は、亡命政府を置いたブリテン国際連盟代表に泣き付いたが、亡命政府預かり(パトロン)としての義務は果たしたとばかりに、そっけなくあしらわれていた。

 尚、この時点でユーゴスラビアへの干渉を始めていたイタリアは、国王だったと言う看板()はあっても権威も経済力も無い国王派に興味を示す事は無かった。

 

 

――ドイツ

 ドイツのユーゴスラビア処分に対して国際連盟総会が積極的な行動を行おうとしていない事を知ったヒトラーは、これを好機と捉え一挙にユーゴスラビアの併呑 ―― 大欧州連合帝国(サード・ライヒ)への編入を推し進めようとした。

 だが、この時点でイタリアから渡された武器弾薬によってユーゴスラビア共産党が武力抵抗(パルチザン)を開始しており、ユーゴスラビアは安定を喪失しつつあった。

 ユーゴスラビアを管理するセルビア人による組織、ユーゴスラビア大欧州連合帝国(サード・ライヒ)参加準備委員会、通称準備委員会(パペット・ドール)は繰り返し襲撃を受けていた。

 建前として、解散した国家と軍に代わるユーゴスラビアの民主的統治代行でしかない準備委員会は自衛の為の武装をして居なかった為、ユーゴスラビア共産党にとっては格好の標的であった。*3

 治安の悪化に伴い、ユーゴスラビアの経済は急速に悪化していくが、その点にドイツが気を払う事は無かった。

 ドイツにとってユーゴスラビアの価値とは、その中央銀行に収蔵されていた金でしかなく、その、ユーゴスラビアの血とも言える金は既にドイツに向けて搬出済みであった。

 ドイツ人がユーゴスラビアの地の治安安定 ―― 経済活動を重視しないのも、ある意味で道理であった。

 それどころか、もっとユーゴスラビアを疲弊させれば、安定したドイツへの労働移民と言う声掛けで、安価な労働力を得られるのではないかと考えていた。

 とは言え、問題が無い訳では無かった。

 治安コストの上昇である。

 秘密警察(ゲシュタポ)と武装親衛隊による活動は、それ自体が金の掛かる行為なのだから。

 ユーゴスラビアの税収、準備委員会の予算から()()してはいたのだが、そもそも経済活動が低下して税収が下がっているのだ。

 この為、ドイツは新しい金蔓を狙う事となる。

 オランダだ。

 1940年代に入ったオランダは繁栄に酔いしれていた。

 G4程では無いにせよドイツよりは遥かに豊かな社会となっていた。

 医療と福祉が充実し、食料に不足は無かった。

 観光客としてヨーロッパ中に出回るほどであった。

 その原資は工業や農業、観光業などが生み出したものでは無く、日本との貿易、即ちオランダ領東インド諸島が生み出す利益(あぶく銭)であった。

 その金を、ドイツは狙う事としたのだった。

 

 

 

 

 

 

*1

 融通される武器弾薬は中古品が中心であった。

 その殆どはフランスが提供(アフリカの港で押収)した武器 ―― ドイツ帝国やオーストリア・ハンガリー二重帝国などで製造され第1次世界大戦の同盟国陣営で使用された武器であった。

 旧式ではあるがドイツなどの規格で作られている為、補給が容易(ドイツからの奪取で対応できる)だろうと考えられていた面があると同時に、フランスの意趣返しでもあった。

 フランスの下腹部(フランス領アフリカ)に騒乱を作ろうとした武器をもって、ドイツ(諸悪の根源)に痛打を与えようと言うのだ。

 発案者はフランス政府内で大いに賞賛されていた。

 尚、旧式では無い武器の筆頭は、近年になって実用化されたばかりのフランス製携帯対戦車兵器、ロケット補助付き無反動砲(ランス-ATM)であった。

 これは日本連邦統合軍普通科部隊に配備されている110㎜個人携帯対戦車弾(パンツァーファウスト3)を真似た、歩兵向け対戦車用無反動砲であった。

 着手は1930年代 ―― シベリア独立戦争で日本がシベリアへと供与したものを見聞きし、その破格の対戦車能力を知った事が発端であった。

 とは言え、ロケット推進部分の開発に手間取り、実用化に成功したのは1940年代に入って以降であった。

 又、実用化こそ成功してはいるが、ロケット部分の信頼性は乏しく、その改善にはまだまだ時間が掛かるのが実状であった。

 欠点はあれどもランス-ATMは、歩兵でも重戦車を狩れる力を与える武器であった為、フランスは技術的に未成熟である事には目を瞑り、大いに量産していた。

 その一部が、実用試験も兼ねて、ユーゴスラビア共産党に供与されたのだ。

 資金援助に関しては、低利融資であった。

 独立を回復して以降に弁済する事として、ユーゴスラビア共産党が必要とする資金をイタリアは融通するのだ。

 リビアの油田で儲けているイタリアは、G4程では無いにしても世界的に見て金満の国家であった。

 

 

*2

 ユーゴスラビアの掌握はドイツの発展を意味するのだがG4にとっては些事も同然であった。

 正直な話として世界の大部分を影響圏に納めているG4にとって、欧州東端のドイツ/ソ連連合体(ヒンタルランド・ユニオン)など、国運を掛けて挑むレベルの敵では無くなっていた。

 これ程にG4と言う組織が強い結束力を発揮しているのは、競争はあっても、利益分野が相剋していないと言う事が大きかった。

 日本、アメリカ、ブリテン、フランス。

 どの国も極めて我の強い国家であるが、その確信的な利益部分が離れており、対立する事が無かったと言うのが大きい。

 日本は日本連邦加盟国の領域の発展を楽しみとし、後は自由貿易さえ出来れば問題ないと考えていた。

 アメリカはユーラシア大陸権益(フロンティア)の拡大による国家経済の繁栄が慶びであり、同時に日本連邦と言う大規模な市場を得て、世界を相手にする必要性を感じていなかった。

 ブリテンは日の沈まぬ帝国として世界主導的立場である事に喜びを感じていた。そして日本との交易による経済的な刺激により、ブリテン帝国の広大な版図の多くで発展が進んでいた。

 フランスはヨーロッパの盟主と言う名誉に酔いしれていた。そして怨敵ドイツを叩き潰す日を指折り待ち続けていた。

 経済規模の差はあれど、それぞれの国家の得意分野は異なり、支え合う構造になっていたのも大きい。

 支え合う事が繁栄の礎と、4ヵ国の全てが理解しているが故にG4と言う共同体は安定しているのだ。

 そして、そうであるが故に、ドイツへの殺意を隠さぬ(ドイツブッコロスマン)フランスですら、ユーゴスラビアを口実とした性急なドイツとの開戦は避けようとしていた。

 十分な戦争準備を整え、一気に潰す積りであった。

 国際連盟は独立した国家の集合体であるが、同時に中心にある安全保障理事会を牛耳るG4(ジャパン・アングロ)の補助的機関の性格を持っていた。

 であるが故に国際連盟加盟国は、G4の気分に忖度していた ―― そう評する事も出来るだろう。

 尤も、そうでなくとも現実主義者の集まりとなっている国際連盟は、自国の発展に何ら寄与しない正義とやらで、ユーゴスラビア(自業自得で苦界に堕ちた国)に手を差し伸べようと言う理想主義者(夢想家)は存在しなかったが。

 余りにも人道に悖る行為、例えば()()()()等が行われるなどすれば話は別だが、ユーゴスラビアの現状は、ユーゴスラビアと言う国家が消滅し、ユーゴスラビア人は自治する権利を失って被支配者層へと落ちると言う程度の話なのだ。

 であれば、自業自得と言う扱いになるのも仕方のない話であった。

 

 

*3

 準備委員会の参加者が自衛の為の武装を持たず、警備員も用意出来なかった背景には、ドイツによる干渉もあった。

 軍のクーデターを発端とした激しくも短い内戦によってユーゴスラビアの実力組織、軍と警察は相食む結果、共に壊乱し、それがドイツの侵出と統治に利していたのだ。

 であれば態々にドイツの統治に反抗しそうな組織()を作る事など、認める筈も無かった。

 無論、座視する訳では無く、派遣されてきていた秘密警察(ゲシュタポ)と武装親衛隊は全力で襲撃犯を追っていく事となる。

 追跡は強引であり乱暴であり、何より無法であった。

 この為、ユーゴスラビアの治安と対ドイツ感情は急速に悪化していく事となる。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

107 ユーゴスラビア紛争-4

+

 ユーゴスラビアの状況は加速度的に悪化していった。

 当初は、ユーゴスラビアの裏切り者(セルビア人)だけが狙われていた武力闘争(パルチザン)の矛先であったが、イタリアからの豊富な武器密輸が始まって以降は侵略者(ドイツ人)も狙われる様になった。

 最初は軽武装の秘密警察(ゲシュタポ)が。

 作戦行動中や、或は休日に歩いている所を襲われて、多くの人間が殉職した。

 慌てて取り締まろうとするセルビア人の統治機構 ―― 準備委員会(パペット・ドール)であったが、その手足となるべき警察組織は崩壊して久しい為、出来る事など殆ど無かった。

 日々積み上がっていくセルビア人とドイツ人の死体。

 この状況に流石のドイツ人も慌て、準備委員会へと警察の再編成を認める事と成るが、話はそう簡単には進まなかった。

 そもそも警察官として訓練を受けていた人間が軍との衝突によって物理的に少なくなっており、又、ドイツ人の手先として動く事を良しとしない人間が多かった。

 だがそれ以上に、予算の問題があった。

 ユーゴスラビア経済が生み出した富、その成果である税は大欧州連合帝国(サード・ライヒ)参加準備費としてその大半がドイツに収奪されており、その残り ―― 準備委員会に与えられている予算では、ユーゴスラビア全土で治安回復活動を行えるだけの警察官を用意する事が困難であった。

 この為、準備委員会は再建する警察の活動領域を自身が重要と判断した首都やセルビア人居住区に限る事とした。

 重要区域外の地方に対しては、地方自治体が独自に()()()()の構築を命じたのだ。

 悪手であった。

 既にこの時点で治安の悪化やドイツ人とセルビア人による横暴な態度を目にした()ユーゴスラビア人は大欧州連合帝国(サード・ライヒ)への反発を強めていた為、この自警組織は反ドイツ派(アンチ・ライヒ)の温床へと育つ事となる。*1

 

 

――ドイツ

 ユーゴスラビア情勢の不安定化をドイツ政府は、当初甘く見ていた。

 優秀なドイツ秘密警察(ゲシュタポ)や武装親衛隊であれば、()()()抵抗など容易に踏みつぶせると信じていた。

 己が火を点けたフランス領インドシナの鎮圧にフランスが手間取った姿を見ていたが、それはフランス人がマヌケ(カエル野郎)だからだと認識して(嘲笑って)いた。

 だが現実は、ドイツ人の願望を無視し、簡単に悪化していった。

 最初は準備委員会のメンバーが吊るされ、次はセルビア人が老若男女を問わず狙われた。

 だが欧州の支配層たるドイツ人が狙われるとは思っていなかった。

 その幻想はナチス党の高官が、大欧州連合帝国(サード・ライヒ)編入委員会の委員長 ―― 事実上のユーゴスラビア統治者であり、後には総督となる立場へと就任する為にユーゴスラビアを訪れた際に消し飛ぶ事となる。

 それは()()()()であった。

 乗っていた車にフランス製のロケット補助付き無反動砲(ランス-ATM)が叩き込まれ高官は即死し、車と共に派手に四散したのだ。

 この事にドイツ人は激怒した。

 特にヒトラーは大激怒であった。

 戦争を経ずして政治によって得たユーゴスラビアは、政治家としてのヒトラーの勲章であったのだ。

 それが汚されたのだ。

 それも低く見ていたユーゴスラビア人によって。

 烈火の如く怒るのも当然であった。

 この為、編入委員会に対して不逞なユーゴスラビア人を容赦なく取り締まる事を強く指示する事となる。

 ヒトラーの厳命を受けた編入委員会は、編入委員会の下にユーゴスラビア治安維持委員会を創設する。

 この治安維持委員会の名に於いて、秘密警察と武装親衛隊に対して治安維持に関わる諸権限の無制限使用を認めた。

 その上で、武装親衛隊だけでは足りなくなるであろう実行部隊の不足は、新たにドイツ人を指揮官としたセルビア人治安維持部隊を編成する事で解消を図った。

 後に、歴史に悪名を刻み込む事となるユーゴスラビア特別行動隊(アインザッツグルッペン)であった。

 人件費の削減の為、特別行動隊は刑務所の服役囚から募られた。

 減刑を対価に、働く事を強いたのだ。

 

 

――セルビア

 ドイツ人高官の暗殺以降、劇的に悪化していく国内情勢に、大多数のセルビア人 ―― 良識を維持していた人々は危機感を募らせていた。

 そもそも準備委員会(ドイツ人傀儡)として、何時のまにか他のユーゴスラビア人との溝が出来つつあったのだ。

 実態の無い特権を与え(押し付け)られ、それを理由に他民族からは恨まれる。

 そこに、札付きの人間をかき集めた治安維持部隊(アインザッツグルッペン)を編成すると言うのだ。

 正気の沙汰では無かった。

 セルビア人の良識派は、準備委員会に対して特別行動隊の編制と運用を凍結する事を要請した。

 回答は、暴力であった。

 セルビア人穏健派集会に対し、穏健派がその名に反して()()()()()()()()()()()()()と言う嫌疑(口実)で、編制されたばかりの特別行動隊がドイツ人に言われるままに強襲を行った。

 捕縛では無く制圧。

 その力を躊躇なく振りまいたのだ。

 10名を超えるセルビア人有力者が捕縛され、死者行方不明者は不明と言う有様であった。

 この惨劇で一気にセルビア人の大多数は反併合(アンチ・ライヒ)へと傾く事となった。

 同じセルビア人同士ででも反目と暴力が始まったのだ。

 セルビア人の準備委員会メンバーは、遅まきながらも自らの立ち位置(ルビコン川を渡った事)を理解した。

 理解しても、出来る事は無かった。

 治安維持委員会(ドイツ人)に言われるが儘に、特別行動隊を運用していく事となる。

 地獄の始まりであった。

 

 

――イタリア

 反ドイツ派の手に武器が渡る様に手配したイタリアであったが、ユーゴスラビアの地が混沌と混迷、血と暴力に満ちた場所へと変貌する速度の余りの速さに、ドン引きしていた。

 イタリア人にとって、アフリカやアジアでフランスやブリテンが繰り広げた治安維持戦は、その情報の収集こそ行ってはいたが、それでも何処かよそ事であった為、目と鼻の先で行われる惨劇の生々しさに驚いたのだ。

 喪われて行く命にムッソリーニは国際連盟の場で哀悼の意すら表明する程であった。

 だが同時に、一切の悔恨も無く、更なる武器の供給を行っていた。

 イタリアも又、列強(リヴァイアサン)の一角であったのだから。

 未回収のイタリア(ユーゴスラビア領フィウーメ等)と言う国益の為であれば、躊躇なく他国を踏みにじれる国家であった。

 アドリア海は武器弾薬を満載したイタリアの高速密輸船が縦横に走り回る。

 ユーゴスラビアの惨状に燃料が掛けられ続けているのだ。

 だが、ドイツも無能と言う訳では無かった。

 ユーゴスラビアの陸の国境で武器の流入を阻止し、又、ユーゴスラビア国内の武器製造を厳しく監視しているにも関わらず流通する武器弾薬が減少もせず、襲撃が頻発している事に、原因は海であると察知する事となった。

 急いで港の物流監視を強化したドイツであったが、地の利のあるユーゴスラビア共産党とイタリアによる密輸入を、陸上からだけで阻止する事は出来なかった。

 ドイツ人の目を掻い潜って、イタリアの高速密輸船はユーゴスラビアの地にせっせと武器弾薬、医療品などを持ち込み続けた。

 特に重要であったのは医療品だ。

 ユーゴスラビア共産党は、混乱に満ちたユーゴスラビアの地で不足しがちな医療品を通貨として、自らへの支持 ―― 支配地域の拡大を図っていたのだから。

 

 

――ユーゴスラビア共産党

 対ドイツ抵抗運動(パルチザン)はかなり優位に進める事が出来ていた。

 これは彼ら自身の有能さと共にイタリアとフランスによる支援が豊富であった事、そしてドイツが重視する領域へと手を出していないと言う事が大きかった。

 これは非ユーゴスラビア共産党の反ドイツ武装勢力の勢力減衰を狙っての事であった。

 将来の、ドイツ人を追い出した後での政治闘争を前提とした判断が理由だ。

 ユーゴスラビア共産党に対抗できる組織を、ドイツ人の手で弱体化させる積りなのだ。

 とは言え壊滅させようと言う訳では無い。

 弱った所に手を差し伸べ、吸収すると言う所まで考えられていた。

 ある意味で、ユーゴスラビア共産党は誠に邪悪であった。

 だが、邪悪であるからこそユーゴスラビアの地で勢力の拡大を図れていた。

 注意深くドイツ人へ被害を過度に与えないと言う方針で動いていたユーゴスラビア共産党であったが、特別行動隊(アインザッツグルッペン)の一隊が支配下の地域に進出して来た事で方針を変更せざるを得なくなる。

 粗暴かつ横暴な特別行動隊が自らの領域で自由に動く事を許すと言う事は、統治者としてのユーゴスラビア共産党の沽券に関わってくるからだ。

 民を守らぬ組織に支持が集まる事は無いのだから。

 苛烈な戦闘が始まる。

 が、戦闘自体はユーゴスラビア共産党優位に推移した。

 これは、この時点でユーゴスラビア共産党の戦闘部隊が旧ユーゴスラビア軍の経験者を集め、イタリアからは教官となる人間を招聘していたが為の、ある意味で当たり前の結果であった。

 寄せ集めの犯罪者上がりの集団が、勝てる相手では無かった。

 だがその事が、ドイツ人の耳目を集める事となる。

 ドイツ人は、ユーゴスラビア共産党を有力な()と認識する事となったからだ。

 更なる特別行動隊の派遣のみならず、良好な装備の与えられた武装親衛隊 ―― 義勇セルビア人連隊までドイツ人は投入してきた。

 反ドイツ武装勢力の中では優良と言って良いユーゴスラビア共産党であったが、突撃砲や装甲車などを保有した正規の武装親衛隊を相手とするのには荷が勝ちすぎていた。

 フランス製の対戦車装備を持つとは言え、それは万能と言う訳では無いのだから。

 この為、イタリアに対して可能な限り対装甲装備の提供を求めていく事となった。

 

 

――ドイツ

 ドイツは義勇セルビア人連隊の活躍もあって、ユーゴスラビア共産党の支配領域に拠点を作る事に成功した。

 その事が、ユーゴスラビア共産党の実態を掴む事に繋がった。

 海の密輸ルート、即ちイタリアとユーゴスラビア共産党の関係把握である。

 密輸の記録は細心の注意を払って行われていた為、具体的な密輸品目をドイツが把握する事は叶わなかったが、言ってしまえば状況証拠だけで充分なのだ。

 ドイツの官僚たちは、イタリアがユーゴスラビアの混乱の背後に居ると断じ、その報告を上げた。

 報告を見たヒトラーは激怒した。

 嘗ての同盟国家であったモノの行いとして、余りにも恥ずべき行為であると。

 至急、ドイツのイタリア大使を呼びつけて厳重な抗議が行われた。

 だがイタリア大使は太々しい態度で、それを跳ね除けた。

 ドイツが具体的な証拠を持たぬと見抜き、イタリアが行っているのは医療品などの人道的物資の輸出許可だけであると断言してみせたのだ。

 そう反論されてしまっては、ドイツに出来る事は無かった。

 逆に、イタリア大使からイタリアの名誉を棄損するドイツの行為に対する抗議を受ける始末となった。

 ヒトラーは激怒した。

 その夜、ホットラインでスターリンに対イタリア戦の必要性(愚痴)を語り、そして痛飲した。

 翌日、ヒトラーはイタリアへの報復として、ドイツ海軍に対してアドリア海への展開を命じた。

 命令する側は簡単であるが、受ける側はそうではない。

 ドイツ海軍としてはチャイナとの交易路保護に人員や燃料、平たく言って予算を喰われていた為、大型艦を派遣する余裕など無かった。

 艦自体は、それこそチャイナ交易路保護向けのプロイセン級装甲艦が戦列に加わりつつあるのだが、派遣出来る程の練度に達して居なかった。

 それが今のドイツ海軍の状況であった。

 故にドイツ海軍はイタリア海軍と対峙する可能性を看過し、洋上密輸船対策のみを任務とする部隊で派遣する事とした。

 旗艦には通信設備を強化した仮設巡洋艦を充て、その下に駆逐艦と魚雷艇、そして潜水艦をもってドイツ地中海戦隊と呼称する事となる。

 とは言え仮設巡洋艦は兎も角、それ以外の小型艦にとっては、アドリア海への派遣は大冒険であり、その戦力がアドリア海に揃うまでは相当な時間を要する事となる。

 

 

――オランダ

 日本とオランダ領東インド諸島との資源貿易は、オランダに莫大な利益を齎した。

 だがそれが、皮肉な事にオランダの不安定化に繋がる事となる。

 政府/王室と財閥が利益を独占する形となり、若者を中心に現体制への不満が高まる事となる。

 勇気を持ち雄飛を望む人間は、日本の投資によって好景気に沸いているオランダ領東インド諸島へと旅立ったが、それが出来る人間が多い訳では無いのだ。

 その心の隙間に国家社会主義(ナチズム)が浸透する事となる。

 強い指導者によるドイツの活力ある姿は、オランダの現状への不満を持った人々に対して新しい国家像を見せる事となる。

 この点に対して対策の必要性を考える政治家もオランダ政府には居たのだが、大多数は資源利益(あぶく銭)に目が眩んでいた。

 この頃、()()()()()()()()()()()()と言うものが提唱され、政府は支持していた。

 これは政府と政府関係者は得られた利益を積極的に活用(散財)する事で国家経済を回し、国家経済が回れば労働者層にも金が回り不満は解消される ―― そんな理屈であった。

 要は金を使えと言う主張に、多くのオランダ領東インド諸島で利益を得ていた人間たちは安易に乗ってしまい。抜本的な不満解消に努める事は無かった。

 その事がオランダの不満者層に圧力を与える事となる。

 又、富裕層の消費活動も、旺盛ではあったが、その購買意欲はブリテン製やアメリカ製、可能であれば日本製の商品に向けられており、消費活動によって労働者階層へお金が回る事は少なかった。

 労働者階層も怒るのは当然であった。

 その事がナチズムが内包する民族共同体と言う思想 ―― 労働者の権利保護などの社会主義的思想に被れる事となっていくのだ。

 オランダの労働者から見たドイツの労働者は幸せそうであった。

 故に、自分たちも幸せになりたいと思ったのも自然な事であった。

 ある意味でドイツがオランダ掌握に乗り出す前に、オランダではドイツを受け入れる用意が出来つつあったのだ。

 

 

 

 

 

 

*1

 実際、ユーゴスラビア最大の反ドイツ派(アンチ・ライヒ)武装組織となるユーゴスラビア共産党も、自警組織を傘下に収める事で、公然と構成員の訓練や装備の調達を行っていた。

 警備用として、装甲車すら用意した程であった。

 それ程では無いにしても、多かれ少なかれ自警組織は反準備委員会の色彩は帯びていた。

 その事にドイツ人とセルビア人が気付いたのは、状況が完全に悪化(流血の事態が日常化)してからの事であった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

108 ユーゴスラビア紛争-5

+

 日々急速に悪化を続けるユーゴスラビア情勢を前にイタリアは、慌てて部隊の動員を行い戦争準備を重ねる事となった。

 イタリアが慌てる理由は、当初で想定していたよりも遥かに早く事態が進んでゆくからだ。

 ヨーロッパの火薬庫と言う渾名は伊達では無かった。

 しかも、単純にドイツとユーゴスラビアによる争いだけではなく、ユーゴスラビアの諸民族間でも流血沙汰が発生していた。

 最初はドイツの手先となっていたセルビア人が狙われた。

 老人が、女性が、子供が襲われ、吊るされ、或は川に浮いた。

 誰が犯人なのか、警察の失われたユーゴスラビアで判る事は無かった。

 故に、セルビア人は無差別の報復を選択した。

 流血と混乱が一気に広がる。

 それを止めるだけの力を持ったセルビア人穏健派は、特別行動隊(アインザッツグルッペン)によって壊滅していた事が、事態の悪化を推し進める事となった。

 暴力の連鎖。

 この事態故に、イタリア人の庇護者を自認するムッソリーニは、()()()()()()()()ドイツと衝突するリスクを理解した上であっても、ユーゴスラビア領フィウーメ等(未回収のイタリア)に於けるイタリア人住民の保護に動かざるを得なかったのだ。

 主力として第10軍団と第21軍団の2個軍団10個師団の動員が発令されていた。

 

 

――ドイツ

 ユーゴスラビアでの政情不安 ―― 事実上の紛争状態へと悪化していく状況をドイツ人も座視していた訳では無かった。

 これ以上の秘密警察(ゲシュタポ)派遣は無意味であると判断し、武装親衛隊(Waffen-SS)の大規模投入を決定した。

 それまでの秘密警察の補助部隊として派遣されていた連隊規模部隊ではなく師団を、それも5個派遣するとした。*1

 治安維持部隊の用意と共に、武器の流入を抑える為のアドリア海へ派遣されたドイツ地中海戦隊であったが、到達できたのは仮設巡洋艦と駆逐艦だけに留まった。

 道中のほとんどを反ドイツ国家の海域を通過する為、高速発揮が可能であっても航続性能に乏しい小型の魚雷艇では航海する事は不可能だった。

 この為、武器密輸阻止の哨戒活動が十分に行えているとは言い難かった。

 少ない手数を増やす為に現地の漁船を徴発し哨戒艇として運用を試みてはいたが所詮は転用の漁船。

 レーダーなども無く人間の目でしか捜索できない為に密輸船を発見する事は難しく、又、密輸船と思しきものを発見できたとしても速力の遅さから追尾する事は不可能であった。

 結果、頼れるものは商船改造の仮設巡洋艦で持ち込んだ、艦載水上機のみと言う有様であった。

 とは言え水上機で出来るのは捜索のみであり、結局は戦力不足であった。

 又、アドリア海の公海上ではイタリア海軍の駆逐艦か水雷艇の妨害工作(嫌がらせ)を幾度となく受けていた。

 このドイツ海軍の名に泥を塗るかの如き惨状に業を煮やしたドイツ海軍上層部は、とっておきと言って良い空母、慣熟訓練を終えたばかりのグラーフ・ツェッペリンの派遣を決めた。*2

 又、哨戒用の魚雷艇も用意する事とした。

 とは言え、ドイツから無理矢理に岸伝いに持ち込むのではない。

 分解して輸送するのでもない。

 同盟国 ―― ソ連からの購入である。

 二桁を超える魚雷艇を購入し、黒海から持ち込んだ。

 グラーフ・ツェッペリンが生み出した()()()()()()は、睨みあいで済んだ。

 だが、この魚雷艇は違う。

 イタリアが持ち込んだ高速密輸船とドイツの魚雷艇の戦いは熾烈なものとなった。

 昼はグラーフ・ツェッペリンの艦載機による哨戒によって高速密輸船側も迂闊な行動は取れなくなった為、戦いは自然と夜へ、夜戦へと移った。

 高速密輸船と魚雷艇が激しい運動戦(ロックンロール)を繰り返し、そこにイタリアの哨戒艦が割って入る事も度々であった。

 特に公海上でイタリアによるドイツ魚雷艇への妨害は露骨であった。

 ドイツのS-7型(Sボート)の設計図を基にソ連が建造したG-39型魚雷艇は100tにも満たぬ小型艇であり、1000tを超えるイタリア駆逐艦が巻き起こす波に簡単に弄ばれるのだった。

 現場で、ドイツ人が抗議をしても、イタリア人は知らんぷりをし、それどころか交信をする事は稀と言う有様だった。

 その態度を見て漸くドイツは、ユーゴスラビアへの武器密輸の背後に居るのがイタリアであると認識したのだった。

 

 

――ソ連

 東欧処分をドイツと手を携えて進めているソ連であったが、事、ユーゴスラビアに於けるドイツの()()に、何とも言えない気分を味わっていた。

 現地住民が反発するなら、四の五の言わずに100万でも200万でも鎮圧部隊を投入してしまえば良いのに何をウダウダとやっているのかと、疑問すら感じていた。

 共産主義国家故の、人件費と言うものの概念に重きを置かない国家故とも言えるだろう。

 又、ドイツのユーゴスラビアでの苦境は、ソ連にとって商売のタネであった事も、そんな呑気なソ連の気分に反映していた。

 ドイツから設計図を買い込んで建造したG-39型魚雷艇が売れたのは良い事だし、グラーフ・ツェッペリン用の燃料や食料などもソ連から買ってくれているのは有難い話であった。

 対価として、ドイツが纏めた空母を実際に運用して得られた知見はとても貴重なものであった。

 ソ連は、戦争にならない紛争であればもっと続けば良いのにとすら思っていた。

 だが、その様な他人事染みて見て居られたのも、アドリア海での()()が激化するまでの事、即ちドイツがユーゴスラビアの事態の裏側にイタリアが居ると確信するまでの事であった。

 先ずはイタリアに外交的接触を行い、ユーゴスラビア情勢への関与に非難を行った。

 これに対してイタリアは、当然ながらも()を認める事は無く、それどころかドイツの行いを名誉棄損であると非難する程であった。

 実際、ドイツの()()は状況証拠に因るものであり、明確な証拠は存在していなかった。

 故に外交圧力を掛ける事でイタリアがドイツに忖度する様に仕向けようとしていた側面があった。

 それが突っ撥ねられたのだ。

 ドイツの面目は丸つぶれであった。

 そこまではまだ、ソ連は笑って事態を見ている事が出来た。

 それが出来なくなったのは、面子を潰されたドイツがソ連に対し協力を要請したからだ。

 国際連盟の場で、国際連盟は人道的配慮からユーゴスラビアへの武器流入を阻止するべきだと主張して欲しいと言う要望であった。*3

 ソ連として、大きな外交的労力を消費する話では無かった為、受け入れ、国際連盟総会で提案する事とした。

 その反応は、ソ連とドイツの想像と全く異なるものとなった。

 

 

――国際連盟

 日本のタイムスリップと、その後に生まれたG4体制(覇権国家連合体)の成立は、好む好まざるとに関わらず国際連盟を変質化させる事となる。

 その最たるものは過度な理想主義からの脱却である。

 将来的な目標としての理想は大切であるが、現実を忘れて理想のみに拘泥してしまっては本末転倒となってしまうのだから。

 国際連盟誕生の礎となった“国際平和機構の設立”と言う概念はそのままに、国際的(世界規模)の平和を目指すのではなく、先ず、加盟国の平和を求める形となったのだ。

 それは安全保障理事会理事国(ジャパン・アングロ)を軸とした加盟各国の互助会 ―― 利害調整と集団安全保障と言う形で実現しつつあった。

 加盟国が平和と平穏を謳歌出来るようになれば、その周囲の非加盟国も平和となる。

 そんな考え方であった。

 この状況下でソ連から持ち込まれた、()加盟国であるユーゴスラビアへの対応の提案は、ドイツの希望とは全くかけ離れた方向へと転がる事となる。

 即ち、ユーゴスラビア周囲の国際連盟加盟国の安全確保である。

 国際連盟の常任理事国でもある()()イタリアは兎も角、ギリシャはユーゴスラビアからの難民に関して苦慮していた事が重要視された。

 最終的に国際連盟の名に於いて、国防に必要な予算が低利融資される事となり、又、G4各国からの武器売却に関する優遇措置を取る事が定められた。

 その上で、難民対策としてのユーゴスラビア領の保護占領が検討される事となった。

 ギリシャ国内に難民が流入しては大変であるので、ユーゴスラビア領内を一定規模占領し、安全を確保し、難民の流入を阻止した方が良いのではないかと言う考えである。

 これにはソ連もドイツも大いに慌てる(藪蛇であったと焦る)事となる。

 ソ連は慌てて、ユーゴスラビアは非国際連盟加盟の独立国家である為、内政干渉であると懸念を表明する。

 この為、先ずは安全保障理事会の下に特別調査委員会を設立し、ユーゴスラビア領内の状況を把握する事となった。

 見事な藪蛇(アナコンダ)であった。

 

 

 

 

 

*1

 ヒトラーの命令を受けた武装親衛隊であったが、その派遣戦力の選択と抽出が簡単に出来た訳では無かった。

 1940年代に入って軍組織としての体裁を整えた、ある意味で新設組織である為に十分な兵員を擁してはいなかったのだ。

 ドイツ陸軍に劣らぬ精鋭10個の師団を擁すると号していたが、その多くは訓練が十分では無い若者(ヒトラーユーゲント)であり実戦投入が躊躇われるのが実状だった。

 この為、親衛隊本部はヒトラーに直訴し、軽犯罪者を中心にした懲罰部隊 ―― 治安維持任務部隊を創設し、不足する部隊の充足を図る許可を得た。

 武装親衛隊は、著しい人員と装備の消耗が起きるであろう治安維持戦へ、大規模な人員の派遣を嫌がったと言うのが実際であった。

 この目的の為、オーストリア人やセルビア人()()()による義勇部隊も武装親衛隊は用意する程であった。

 これらの努力によって最終的に、ユーゴスラビアへ派遣される5個師団で、真水(真正の武装親衛隊)は2個師団に抑えられる事となるのだった。

 

 

*2

 空母グラーフ・ツェッペリンのアドリア海投入と言う判断は、空母と言う、戦艦に次ぐ戦略的価値を持った存在が周りに与える影響と言うものをドイツ海軍が充分に理解していたとは言い難い事(政治センスの乏しさ)の表れであった。

 捜索手段としての優秀性もさる事ながら、アドリア海にドイツ海軍の象徴的大型艦を置く事で、最近のドイツ政府内で行われているユーゴスラビア情勢に対する主導権争い(ババ抜き)で一定の影響力を握りたいと言う思惑(スケベ心)が原因であった。

 だが周辺国は違った。

 特に内懐(ドゥーチェのバスタブ)に空母を置かれる事となったイタリアの反応は激烈であった。

 即座に戦艦と空母を含んだ対応(撃沈)可能な部隊を用意すると共に、監視として駆逐艦をグラーフ・ツェッペリンへ常に張り付けるのだった。

 G4諸国も、バルト海の女王(ヒキコモリ)が顔を出したと情報収集に注力をしていた。

 ブリテンは空母機動部隊を派遣し、フランスも巡洋艦を派遣した。

 日本に至ってはP-1を派遣する程であった。

 尚、ドイツ側は耳目が集まった事に()()()()()()()()()()()と謎の満足感を覚えていた。

 

 

*3

 協力要請に関する外交の場で、ドイツは国際連盟の場でソ連に主張して欲しい事の一覧表をも持ち込んでいた。

 必死であった。

 尚、その一覧には、ユーゴスラビアで起きている惨劇阻止に向けた国際連盟の関与に関わる文言は、慎重に取り除かれていた。

 何とも欲深い事に、ドイツが望んで居るのは、ユーゴスラビアのドイツ主導での安定化であり、間違っても国際連盟に手を出して欲しくないと思っていた。

 本来ドイツはユーゴスラビアの国庫 ―― 金などを根こそぎに奪い去ったのだから、手放しても良かったのだ。

 それが出来ないのは、ヒトラーが国内向けに行った演説が原因であった。

 ユーゴスラビア収得の成果を大きくアピールする為に使った、ドイツ人(サード・ライヒ)にとってユーゴスラビアは死命的利益領域であると言う言葉が、ドイツを縛る事となったのだ。

 何ともドイツらしい(マヌケな)話であった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

A.D.1943
109 ユーゴスラビア紛争-6


+

 この数年の国際的紛争に一番頭を悩ませている国は、ソ連であった。

 アメリカやフランスなどG4(超大国)にとっては()()()()()と言う程度であり、その対応で消費する国力は大きな問題では無かった。

 又、チャイナやドイツなどは自業自得で、その上目の前の紛争に対応する事で精一杯なので悩んでいる暇も無かった。

 それ以外の国家、国際連盟の加盟諸国などは紛争と物理的に距離がある事もあって、如何に利益を上げるか(G4から利益を貰うか)と言う事に血道を上げている程度だった。

 当事者では無いからこその呑気さであった。

 だがソ連は、呑気に構える事は出来なかった。

 チャイナにせよドイツにせよ経済関係のある友邦国であり、又、日本(G4筆頭)からは睨まれている立場なのだ。

 同時に国際連盟を脱退した2国と違い、ソ連は国際連盟加盟国であると同時に非常任(常任理事国には劣る)とは言え理事国と言う名誉ある立場でもあった。

 ある意味で複雑な立場であると言えた。

 国際連盟非加盟の2大強国のドイツとチャイナと、国際連盟との橋渡しをする立場であるとも言えた。

 利益を得る事が出来る立場ではあった。

 だが同時に、危うい立場でもあった。

 ドイツにせよチャイナにせよ、()()()()()()()からだ。

 小さな紛争であれば、利益の衝突であるならば中立と言う立場も美味しい。

 だが本格的な戦争と成れば話は違う。

 アメリカとの事実上の戦争状態に入ったチャイナは言うまでもないが、ドイツも又、チャイナの紛争に深く関与し、ユーゴスラビアではイタリアを敵に回し国際連盟からも危険視される様になっているのだ。

 国際連盟と対立してまでドイツを支持する事は、果たしてソ連の利益となるのか? と言う、ある意味で()()()()()()()()()を考えるべきではないかと言う意見が、ソ連の政府内でも持ちあがったのも当然であった。

 ヒトラーに対してシンパシーを感じているスターリンであったが、個人的な感情だけで国の事を決める事は出来ない。

 又、ソ連政府内の意見を頑として否定するだけの判断材料を持たない事も大きかった。

 スターリンはユーゴスラビアを起点にして将来発生するであろうドイツとG4/国際連盟との戦争にどう対処するべきか、悩んだ末に痛飲した。

 翌日は二日酔いだった。

 そして問題を先送りした。

 

 

――ドイツ

 アドリア海を舞台として段々と過激化していくドイツ海軍とイタリア海軍のさや当て。

 共に最低限度の自制はしており、銃撃砲撃などの類が行われる事は無かったが、投入される戦力は拡張し続けていた。

 イタリアの駆逐艦に魚雷艇は弄ばれた為、ドイツは駆逐艦を増派した。

 ドイツの駆逐艦部隊の練度は、この時点で世界第4位の海軍力を誇っていたイタリア海軍の船乗り(水上艦勤務者)にとって脅威と呼べる水準に達しては居なかったが、イタリアはその増派(エスカレーション)に付き合う事を選択した。

 

 先ずは軽巡洋艦、ジュゼッペ・ガリバルディを基幹とした軽巡洋艦戦隊を投入した。

 封殺した(OverKill)

 イタリアの最新鋭と言って良い軽巡洋艦であり、その船体規模、重巡洋艦に準じた9000t級を前にしては、ドイツが持ち込んだ2000t級のZ5型駆逐艦で対抗する事は難しかった。

 この為、ドイツ駆逐艦は密輸船を追いかける所か、イタリア軽巡洋艦に追い回されるのが常であった。

 酷い時にはユーゴスラビア領海内にまで追い立てられ、慌てて空母であるグラーフ・ツェッペリンが前に出る事もある程だった。

 30,000tと言う巨体と15㎝砲を持ったグラーフ・ツェッペリンは、このアドリア海では空母(最重要護衛対象)と言うよりも超大型軽巡洋艦(戦闘部隊のケツ持ち役)であった。

 この事をドイツ海軍としては危険視していた。

 ドイツ海軍の3つの柱である戦艦、装甲艦、そして空母。

 その空母の最初の1隻であり、ドイツ海軍に空母運用ノウハウを積ませてくれるグラーフ・ツェッペリンが損傷するリスクは看過できないのだ。

 そして、それはヒトラーも同様であった。

 観点は政治側 ―― 大々的にグラーフ・ツェッペリンによるアドリア海の安全確保を宣言した手前、偶発的であっても傷つくのは認められなかったのだ。

 それが、グラーフ・ツェッペリンに対する()()()()()()()()を認める指示を出す理由であった。

 積極的自衛行動の自由を認められたグラーフ・ツェッペリンの首脳陣は、大いに苦慮する事となる。

 確かに今現在のアドリア海でグラーフ・ツェッペリンは圧倒的優位な立場を得ている。

 だがそれも、イタリアが艦隊の増派を行わなければと言う但し書きが入る程度のものであった。

 タラント港に集結しているイタリアの機動部隊が出てくれば簡単にひっくり返されるだろうと判断していた。

 イタリアの擁する正規空母アクィラを恐れていたのだ。*1

 この為、ドイツ海軍はドイツ空軍に対してユーゴスラビアへの展開を要請する事となる。

 グラーフ・ツェッペリンの複葉機主体の艦載機では、アクィラが搭載する1500馬力級の水冷レシプロ戦闘機に対抗するのは難しかった為だ。

 この要請に対し、ドイツ空軍は名誉を得る好機であると判断し、精鋭部隊(第2教導航空団)の派遣を決めるのであった。

 尚、ヒトラーは、正規軍のユーゴスラビア派遣と言う行為が持つ政治的リスクの大きさに許可を出す事に躊躇した。

 だが最終的に、ドイツ海軍とドイツ空軍の連名による嘆願に応じる事となる。

 

 

――イタリア

 ドイツが過剰なまでの反応を示そうと言う中で、イタリアの水上艦部隊の運用は抑制的であった。

 別に戦意が折れた(腰が退けた)と言う訳では無い。

 イタリアが未回収のイタリア(ユーゴスラビア北部沿岸域)への浸透を進める中で、陸路でのユーゴスラビア共産党への物流(アクセス)網の構築に成功しつつあったと言うのが大きかった。

 イタリアは出来るだけ労力を掛けずに未回収のイタリア(ユーゴスラビア領フィウーメ等)の奪取を考えており、ドイツとの全面戦争と言う効率の悪い事態(ハイリスク・ローリターン)は望んで居なかったからだ。

 アクィラの機動部隊をタラントに用意しつつもアドリア海に展開させない理由も、そこにあった。

 ドイツが退くに退けない所まで押し込む気は無かったのだ。

 イタリアは、ある意味でドイツに配慮していた。

 だがそれは弱腰と言う事を意味しない。

 ムッソリーニは、イタリアが独裁制と言う、国民の支持(人気)あってこそ政治を纏める事の出来る体制である事を忘れては居なかったからだ。

 空前の好景気に支えられ、圧倒的な国民の支持を受けているムッソリーニのファシズム政権であったが、そこに慢心は無かった。

 だからこそ、ドイツの()()に全力で殴り返す事を選択する事となった。

 

 

――アドリア海クライシス

 発端はドイツであった。

 ドイツ海軍を支援する為にユーゴスラビアに派遣されたドイツ空軍部隊第2教導航空団は困惑していた。

 ()()()()()と。

 つばぜり合いの様な緊迫感はあっても、両陣営の艦艇は砲塔を動かそうとはしておらず、一触即発の緊張感は無かったのだから。

 少なくとも、ドイツ海軍から事前に伝達(ブリーフィング)されていた状況とは異なっていた。

 その誤解は、激しく競り合う時間が夜間であり、飛行機が投入される事の少ない事が原因となっていた。

 そもそも、第2教導航空団が派遣された理由はイタリアのアクィラ対策であった為、アクィラがアドリア海に出て来ない限り役目が無いのが実際である。

 名誉を得んと意気揚々と来た第2教導航空団にとって、想定外の事態であった。

 その事が、パイロットの規律の緩みを齎した。

 又、そもそもドイツ空軍は建軍されてまだ日が浅く、パイロットの多くが年若いと言う事情もあった。

 この緩んだ若いパイロットが蛮行を、イタリアの飛行艇を()()してしまったのだ。

 その日、事件を起こす事となるパイロットは定期洋上哨戒(ストレス発散の空中散歩)に出ていた。

 その際にユーゴスラビアの領海の直ぐ外側の海域で、漁船の傍で海上に着水したイタリアの飛行艇を発見した。

 すわ、密輸船への物資輸送かと判断し、即座にイタリアの飛行艇が逃げられないようにと銃撃を敢行したのだ。

 正に即断即決速攻であり、射撃は過たず飛行艇へと吸い込まれる。

 見事なまでの早業であった。

 問題は、パイロットは戦闘機乗りとして対地攻撃の訓練を受けて居なかった為、翼だけを狙う積りが飛行艇の機体をも直撃し、漁船ともどもズタズタにしてしまったのだ。

 尤も、パイロットは気にしなかった。

 悪の密輸船とその協力者を叩いたとばかりに、意気揚々とした気分で基地へと報告した。

 密輸船撃破! と。

 第2教導航空団はパイロットの報告、撃破した海域の情報をドイツ海軍に伝達し、ドイツ海軍はにっくき密輸船の確保に近隣を遊弋中であった駆逐艦や魚雷艇を走らせた。

 この時点では、ドイツは情勢を把握しては居なかった。

 ドイツ空軍機が何をしたか、知らされていなかった。

 故に、現場に着いたドイツ海軍は破損した飛行艇と漁船の乗組員を犯罪者の様に扱い、そして証拠を得んと飛行艇と漁船とを調査した。

 密輸の証拠を押さえようと乗り込んだドイツ水兵たちであったが、イタリアの飛行艇にも漁船にも、そんな証拠は一切無かった。

 当然である。

 飛行艇は救難機であり漁船は純然たる民間漁船でしか無かったのだから。

 洋上にて邂逅していた理由は、漁船で急患が発生し救難援助を無線で発信し、それを受けたイタリア海軍が飛行艇を飛ばしたからであった。

 その詳細を把握したドイツ駆逐艦艦長は真っ青になった。

 証拠隠滅を考えたが、それを実行するだけの時間的余裕は無かった。

 イタリア海軍が現場に到着したからだ。

 重巡洋艦並の大型軽巡洋艦ジュゼッペ・ガリバルディが現場に到着したからである。

 何時もは自制され動く事など無かった主砲の筒先は、ドイツ駆逐艦を狙って動く事になった。

 但し発砲する事は無かった。

 只、要求しただけであった。

 飛行艇及び漁船の乗組員の引き渡しと、飛行艇と漁船の()()の共同調査であった。

 突きつけられた要求をドイツ駆逐艦艦長は突っ撥ねようとした。

 海域がユーゴスラビアの領海近くである事から、調査権は自分たちにあると主張したのだ。

 だがジュゼッペ・ガリバルディの返答は、ドイツ駆逐艦の逆の方向へ向けた発砲であった。

 発砲後、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()と返信した。

 イタリア海軍は、ジュゼッペ・ガリバルディは状況を知っているのだとドイツ駆逐艦艦長は理解した。

 だが状況の分からぬ駆逐艦乗組員たちは強硬と言って良いイタリア(裏切り者)の態度に激高し、駆逐艦の主砲をジュゼッペ・ガリバルディへと向けるべきだと主張するほどであった。

 だが、ドイツの状況(立場)の悪さを自覚しているドイツ駆逐艦艦長は動けなかった。

 ナチズムに染まっていない時代に軍歴を積んできたドイツ駆逐艦艦長は良識的、或は常識に基づいての本音であれば、()()()に捕虜及び死傷者を引き渡すべきだと考えていた。

 だが同時に、それが祖国に尋常では無い影響を与える事も判っていたので、良心に基づいた行動を取れずにいたのだ。

 対峙は一昼夜に及んだ。

 グラーフ・ツェッペリンが参陣しドイツ側に戦力比が傾いたが、その半日後にはイタリアのアクィラと戦艦リットリオが現場に到着し、戦力比の天秤は再びイタリア側へと傾いた。

 現場での睨みあいと同時に、ドイツとイタリアの外交部は中立国であるスイスのチューリッヒを舞台に折衝を行った。

 慇懃なれども強硬な態度を崩さないイタリア代表に対し、ドイツ代表は時間と共に事件の詳細を知り自国の立場の悪さを理解していったが、それでも折れる事は無かった。

 面の皮の厚さ(恥知らず)は列強の外交官の必須事項だからだ。

 とは言え、何処かに落としどころは必要であった。

 落としどころ ―― 折れるのは、面子の横っ面を張り飛ばされる形となったイタリアには無理な話であった。

 喧々諤々の外交の末、最終的に第三者である国際連盟が捕虜及び死傷者を預かる事で決着した。

 イタリアとしては、ドイツ()の懐から同胞を逃す事が出来たと言う外交的勝利である。

 ドイツとしては、直接にイタリアへ捕虜及び死傷者を引き渡さずに済ませ外交的敗北から逃れたと言う形となった。

 このドイツとイタリアの艦艇群が睨みあう海域で、国際連盟からの要請を受けて捕虜及び死傷者の引き受けに派遣されたのは日本艦であった。

 ブリテンやフランス程には反ドイツでは無いと思われたが故に選ばれたのだった。

 ドイツはソ連(同盟国)、無理であればギリシャ(影響力の行使可能な国)を希望したが、当然ながらも却下された。

 日本は万が一に備える形で、中東方面隊としてクウェートに配置されていたすずつきとひびきを派遣し、捕虜及び死傷者を引き受けるのだった。

 

 

 

 

 

 

*1

 空母アクィラは、イタリアが初めて手にした正規空母であった。

 当初は貨客船ローマを改装する事が想定されていたのだが、それが変更されたのは1935年のエチオピア帝国侵攻作戦が原因であった。

 この作戦が日本とブリテンの海洋戦力(空母機動部隊)によって頓挫する事となった為、イタリアに空母と言う艦種の重要性を教えたのだ。

 改装空母では無く、日本は兎も角としてブリテンやフランスの空母とは正面から戦えるだけの空母が要求されたのだ。

 とは言え、即座に建造出来た訳では無かった。

 この頃はヴィットリオ・ヴェネト級戦艦の建造が優先されていた為、研究を継続する事に留まった。

 それがアクィラと名付けられる空母の運命を大きく変えた。

 1938年のリビア油田の発見と、電撃的に行われたイタリアとG4陣営の和解である。

 リビアの油田はブリテンとフランスが市場に供給した分を全て買い取る様な勢いで売れ、イタリア経済に大きく資する事となった。

 又、和解した事でG4陣営の市場、特に日本に参入出来た事はイタリア経済を活気づかせる事となる。

 重工業などの面で日本の市場に参入する事は出来なかったが、職人の技が関わってくる分野ともなれば話は違う。

 服飾やワインに芸術品、果ては趣味性の高い自動車やバイクなどが飛ぶように売れたのだ。

 イタリアは空前の好景気と成っていた。

 それが、アクィラが正規空母として建造出来た理由であった。

 又、建造に際してはブリテンとフランスの支援を受ける事が出来た事も大きかった。

 G4陣営との関係改善の結果、イタリアの空母整備計画は地中海の安寧を守る事が第一義となった。

 即ち、()()()()()()()()()()()の保護である。

 こうなればブリテンやフランスにとっては自国の安全保障を補助するモノとなる為、その建造に支援を行うのも当然の成り行きであった。

 最終的に空母アクィラは、34,000t級の堂々たる大型空母として生み出される事となる。

 

 艦名 アクィラ(アクィラ級空母)

 建造数   2隻(アクィラ スパルヴィエロ)

 基準排水量 33,900t

 最大速力  31ノット

 兵装    13.5cm単装両用砲8門 他多数

 航空    常用72機(補用5機)

 

 基本設計はイタリア海軍の手で行われたが、ブリテン空母群での運用実績やジョフレ級空母に投入された知見を吸収していた。

 言わば、アメリカの33000t級将来空母計画案(FCVTP)の流れに居る空母として誕生したのだ。

 アメリカから導入した蒸気カタパルトを持ち、格納庫とエレベーターはジェット戦闘機の運用も想定したものとなっている。

 グラーフ・ツェッペリンとは世代が違う存在であり、1940年代にあっては地中海の女王と呼べるフネ、それがアクィラであった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

110 ユーゴスラビア紛争-7

+

 

 アドリア海で発生した戦争に繋がりかねない危機的状況は、日本にとって降って湧いた迷惑であった。

 国際連盟安全保障理事会常任理事国として国際連盟からの依頼(世界の警察官役)から逃げる積りは無いが、誰かが肩代わりしたいと申し出れば全力で譲りたいのが本音であった。

 とは言え本音は兎も角として、日本人らしい性癖としてやるならば全力で果たそうと努力していた。

 事前情報で死傷者が出ているとの情報があった為、護衛艦(FFM)ひびきは格納庫のUAVを下し医療ユニット(ミッションモジュール)を搭載していた。

 そもそも護衛艦すずつきの随伴としてひびき(FFM)が選ばれた理由が、ひびきが即応可能(レディネス)な状態にあったと言う事と共に、その高い居住性を見込んでの事であった。

 海外での長期にわたる展開を前提とする、言わば古い(ブリテン的な)意味での巡洋艦の性格を持ったフネであった事もあり、居住性はそれ以前の護衛艦と比較すると段違いに向上していたのだから。

 しかもひびきの属するベースライン4(拡大あさかぜ型)は、タイムスリップ後の国際環境の変化に対応する為に様々な設計の変更が行われており、その1つとして増員(海上警備専任部隊など)を受け入れる余力があった。

 今回、念の為として警備分隊が、イタリア人を受け入れるひびきには乗り込んでいた。

 日本としては十分に配慮と警戒をした上で、すずつきとひびきを派遣したのだ。

 派遣された2隻は、目的地にあるモノが面倒事とは理解しつつも、日本人的生真面目(与えられた仕事への忠実)さから、最大限に素早くアドリア海へと進出した。

 到着しだい即座にドイツに対してイタリア人の捕虜、及び死傷者引き渡しを要求した。

 これに、ドイツは難色を示した。

 実はこの時点で、国際連盟総会から日本に対して()()の原因調査も行う様に要請されていたのだ。

 ドイツは原因調査に関する捕虜の尋問はドイツ艦 ―― グラーフ・ツェッペリンにて行う事を要請していた。

 国際連盟に預けた話を反故にするドイツの要請であったが、一応は理由があった。

 負傷者は治療の為、他の捕虜などと一緒にグラーフ・ツェッペリンへ移乗させ治療を行っている。

 だが状態が良好とは言い難いので、外洋で負傷者を更に移乗させる事は負担が大きいと言う主張であった。

 事情聴取に関しては、ドイツは人道主義に基づいて、グラーフ・ツェッペリンへの他国軍人の乗艦を特別に認め、事情聴取に全面的に協力する用意があると主張したのだ。

 人道主義的と言う皮を被せた身柄の引き渡し拒否と言うドイツの手前勝手な意見を、イタリアは鼻で嗤い頑として受け入る積りは無い事を宣言した。

 又、日本もドイツの意見を一顧だにしなかった。

 そもそも、すずつきにはSH-60L多目的哨戒ヘリが搭載されており、SH-60Lは人員輸送任務時には機材を降ろす事で担架などをそのまま載せる事が可能であったのだ。

 ドイツの考えていた負傷者の身体の負担と言うものは存在していなかった。

 相手(日本)は自分達の常識の枠外にあるのだ、と言う事をドイツは、ドイツ海軍はグラーフ・ツェッペリンの飛行甲板に降り立ったSH-60Lを前にして漸く理解するのだった。

 連絡用としてグラーフ・ツェッペリンに搭載されていたドイツ初のヘリコプターFw61とは比べ物にならぬ実用性と先進性とを兼ね備えたSH-60Lは、それだけの科学的衝撃力(インパクト)を持っていた。*1

 事情聴取が始まる。

 だがその前に問題があった。

 それは、アドリア海の状況が日本の想定して居たソレを遥かに上回る酷さ、緊張感を孕んでいると言う事だった。

 筒先を向け合う事だけは無かった(最低限度にはお行儀よくしていた)が、その殺気にも似た緊張感は隠せなかった。

 戦艦と空母と巡洋艦に駆逐艦、果ては魚雷艇までもが一触即発の体で睨みあいをしていた。

 そんな場所を発火させずに落ち着かせるには5000t未満の護衛艦2隻では役者不足 ―― 現場についたすずつきの艦長は冷静に判断し、即座に日本連邦統合軍幕僚本部に対して戦力の増派を要請したのだった。

 調停役が言う事を聞かせるには、()()()()()()()が必要なのだ。

 問答無用で殺気立って対立する両者を鎮められるだけの、かつての米国が如き(プレゼンス)が。

 この為、日本連邦統合軍幕僚本部は日本政府の了解の下、クウェート基地から戦艦の様な偉容を持つあそ型護衛艦(CA)かさぎの追加派遣を決定した。

 可能であればやまと型護衛艦(BB)の投入も行いたい所であったが、やまとは日本近海で任務にあたっており、むさしは定期検査に入っていた為、即座に投入出来る状態には無かった。*2

 全速力でアドリア海へ航海するかさぎ。

 状況が長引く事を想定し、16,000t級のおおなみ型補給艦(AOR)さかたが続く。

 当初日本は、国際連盟加盟国であり深い友好関係を持っているトルコ*3に寄港し、そこで事情聴取を行う積りであったのだが、それにはドイツが難色を示した。

 国際社会(国際連盟)からの状況説明を要求する声に、ドイツは道義的責任から対応をする事を決意したのだが、同時にドイツは国際連盟の下に居る訳では無いのだと。

 ドイツが妥協できるのは、公海上での事情聴取のみであると主張した。

 この為、事件の調査はアドリア海公海上で行われる事となり、この為、さかたまで派遣される事となり、日本は難しいかじ取り(面倒事への対応)を強いられる事となっていた。

 

 

――フランス

 ドイツへの敵愾心に於いて遅れる所のない(ドイツ絶対曇らせるマンの)フランスは、アドリア海の状況を座視する積りは無かった。

 国際連盟総会にて()()()()()()()()()()()()()()()()としての監査役の艦を派遣する事の必要性を主張し、見事この権利をもぎ取るや、トゥーロンの軍港から就役したての新鋭戦艦ジャン・バールを旗艦とする艦隊を派遣した。

 とは言え戦艦を含む艦隊派遣はコストの掛かる為、政治的理由(ドイツへの嫌がらせ)だけが目的では無く軍事的な理由 ―― ドイツ空母の祖となるグラーフ・ツェッペリンの情報を間近で収集すると言う目的もあった。

 この結果、狭いアドリア海には大型艦が密集する事態となった。

 イタリアとフランスの戦艦が2隻。

 イギリスとイタリアとドイツの空母が3隻。*4

 イタリアとフランスにイギリス、そして日本の巡洋艦が7隻。

 さながら国際観艦式めいた状況であった。

 文字通りの睨みあい。

 調査を行う日本は、これが戦争の引き金になりかねない(心底から厄い事態)と理解しており、慎重に進めていた。

 この為、時間があった事からフランスのジャン・バールの艦長は、調査は別として、折角にこの場に集ったのだから交流(外交)をするべきだと主張し、各国の大型艦で部隊の指揮官や艦長等の交流会を持ちまわりで開催する事を提案する。

 ブリテンとイタリアは即座に賛成の声を上げ、日本は消極的な(遊びではないのだとイラつきつつ)賛成を表明。

 無論、ドイツにも声を掛けた。

 ほぼ嫌がらせである。

 調査の際に軍事機密が云々と言っていたので、断れば田舎者扱い。

 賛成しようとすれば、恐らくはドイツ本国(ヒトラー)から叱責されるであろうし、そうなれば指揮官や艦長としての権限は無いのかい? と尋ねる(皮肉れる)と言う読みであった。

 実際、ドイツから参加の是非についての回答には時間が掛かった。

 最終的にドイツも参加する事となる。

 洋上で開催される交流会。

 海軍は砲火を交えずとも戦いを行うのだ。

 

 

――ドイツ

 イタリアとの対峙もフランスの嫌がらせも、ドイツは恐れなかった。

 だが、日本からの飛行艇と漁船を銃撃したパイロットの事情聴取は恐れた。

 ユーゴスラビアのドイツ空軍駐屯空港でドイツが行った聞き取り調査で、本案件に於けるドイツの過失は明白となっていたからだ。

 しかもこのパイロット、若い為にかかなり態度が悪い(鼻っ柱が強い)

 日本人を偶々に調子に乗ってる黄色人種(劣等民族風情)と笑い、イタリアは日和った腑抜けと馬鹿にする。

 上官も列席した、佐官級の法務士官による聞き取り調査であったにも関わらずである。

 ヒトラーが政権与党の座について以降、常に行われて続けた情報操作(プロパガンダ)が生み出した典型的ドイツ人(モンスター)であった。

 成人した立場でナチス党による政権奪取とそれ以降のドイツの変容を見ていた人間にとって、恐るべき次世代(子どもたち)であった。

 若いパイロットの聞き取りを行ったドイツ空軍法務士官は頭を抱えた。

 その気分のままに法務士官は聞き取り内容を纏めた。

 こんな奴を事情聴取され(飢えた狼どもの前に出し)ては、やった事の謝罪と賠償は兎も角、やってない事まで要求されかねないとの恐怖感に満ちた法務士官の報告書に、ドイツ上層部も頭を抱えた。

 法的にもドイツが悪い ―― 公海上で救護活動を行っていたイタリア軍飛行艇と民間漁船を、警告も無しに銃撃し撃破しているのだ。

 非列強、或は発展途上国か植民地程度の相手であれば逆ねじを喰らわせ、雀の涙ほどの慰問金を支払えば済んだかもしれないが、相手はイタリア(列強)だ。

 しかも証拠は押さえられている。

 では、調査を行っている相手を脅し、自分に都合の良い報告書を纏めさせる事が出来ないかと言えば、相手は列強でも更に上位たるG4(ジャパン・アングロ)の筆頭たる日本なのだ。

 絶対に不可能であった。

 如何にドイツの傷を小さくするのか。

 全てはイタリアと国際連盟による陰謀であると主張する事は容易いだろう。

 ドイツ上層部も、一定数のドイツ(アーリア)人優位主義に染まっていた人々はそう主張した。

 だが、多くの人間はそれに反対した。

 強硬な主張は戦争を呼ぶ。

 戦争と成れば即座にイタリア、フランス、ポーランドから侵攻を受けるだろう。

 だが今現在のドイツ軍には、それらからドイツ本土を守り抜くだけの準備が整っていないのだ。

 であれば避戦しかないと言うのが、大多数である反戦派の主張であった。

 ヒトラーは党内、経済界、軍首脳部から話を聞き、悩み抜き、冷徹な決断を下した。

 自裁、パイロットに詰め腹を切らせたのだ。

 1人の心身に問題のあったパイロットが浅慮にも行動し、その結果、国家間の大問題へと発展した。

 その事をドイツでの事情聴取中に理解した結果、自らを裁いたと言う形にしたのだ。

 こうして、パイロットとしての技量に将来を期待されていた若者は、その傲慢さと愚かさの責任を取らされたのだった。

 経緯ゆえに大々的に死を悼む事は許されなかったが、同僚たちからは愛されていたパイロットであった為、パイロットの乗機を示す胴体後部に書かれた黄色い機体番号に黒い布が被せられ、弔意が示されたのだった。

 そして現場のパイロット達は、イタリアと日本への憎悪を募らせた。

 何時かは報復を! そう叫ぶ程だった。

 自殺したパイロットの死体を確認し、銃撃した戦闘機を確認する為に日本の法務士官とイタリア人 ―― 飛行艇乗組員であり被害者がユーゴスラビアのドイツ空軍駐屯飛行場を訪れた際、殺さんばかりの視線を向けた程であった。

 とは言え大多数の人間は日本の使った移動手段、フランスとイタリアの艦載機に護衛されて来たCV-22(垂直離着陸機)に度肝を抜かれていたが。

 

 

――アドリア海クライシス

 ドイツパイロットの死亡と、己の所業を悔いた()()が発見された事もあり、アドリア海での緊張は急速に緩和の方向へと動き出した。

 ドイツ政府が公式に謝罪し、漁民への補償と共にイタリアへの賠償を約束した事が大きかった。

 だが同時に、ドイツは事件の遠因ともなったユーゴスラビアへの武器密輸問題の解決に、国際連盟やイタリアの協力を呼びかける事となった。

 尚、ドイツの呼びかけに対し国際連盟総会はイタリアが発起する形で、周辺国にとってユーゴスラビアに於ける平穏こそが利益であると言う議決を取るに留まる事となる。

 少しばかり迂遠な、ドイツ非難決議であった。

 尚、決議の補足には、ユーゴスラビアからの難民流入に苦しむ国際連盟加盟国(ギリシャ)に対して国際連盟はあらゆる手段を以って支援するとも記されていた。

 ユーゴスラビア情勢に関し、ドイツに対する太く長い釘を刺した形である。

 アドリア海の危機的な状況は脱したが、バルカン半島(ヨーロッパの火薬庫)の火は燻りこそすれども鎮火する気配は無かった。

 

 

 

 

 

 

*1

 シベリアで地獄を見たドイツ陸軍や、ジェット戦闘機開発競争で苦杯を飲み続ける羽目になっているドイツ空軍と比べ、ドイツ海軍は今まで日本の脅威(未来的科学技術)に対する意識が薄かった。

 伝統的にドイツ海軍の主敵はブリテンでありフランスであり、それ以外と関わる事は無いと、ある種、視野狭窄(田舎のプレスリー)的であったのだ。

 近年になって時々、ヨーロッパにも出現する様になった日本海軍であったが、ドイツ海軍にとっては仮想敵とはなり辛かった。

 アジアで相対する事はあったが、それでも脅威と呼べるのは敵対心を隠さないフランス海軍であり、陰湿なイギリス海軍であったのだ。

 或は、世界中に展開させるだけの国力を持ち、チャイナで対立構造にあるアメリカ海軍であった。

 だからドイツ海軍はアドリア海で初めて意識したのだ、G4筆頭の日本海軍(海上自衛隊)を。

 国力に裏打ちされた圧倒的なまでに先進的な艦と装備とを。

 その思いは、後に事件の調査の為に飛行艇と漁船とを異形の飛行機(CV-22)が易々と海上から吊り上げて、戦艦並に巨大なおおなみ型補給艦(16,000t級AOR)しんじの艦後部の広大な飛行甲板に乗せてしまった事で、益々強まる事となる。

 

 

*2

 そもそも、かさぎがクウェートに配置された理由が、むさしの定期点検による欧州/中東方面での大型艦(判りやすいプレゼンス)減少への対応であったのだから、これは仕方のない話であった。

 この経験から、海上自衛隊は実用実戦的な戦力の整備のみならず象徴的戦力(プレゼンス・シップ)の整備の重要性を認識する事となる。

 尚、この時点で拡大やまと型護衛艦(BB)、後のきい型護衛艦(52,000t型BB)は着工にこそこぎ着けていたが艤装はおろか進水もしておらず、戦力に数える所の話では無かった。

 戦艦乃至は空母の様な護衛艦の追加整備が日本で検討が開始された事を知ったグアム共和国兼アメリカ連絡事務次官 ―― 退役して日本本土大使館付きとなった元在日米軍高官は、旧知の内閣府防衛政策参与の元自衛隊高官に対して凄く良い笑顔で親指を突き上げていた(Good Luck! 世界の警察管殿)

 米国軍人として中東や亜細亜で面倒事(紛争処理)に向き合う事の多い軍歴を重ねて来たが故の、ある意味で解放感の表明であった。

 とは言え、感情(イチ抜けの喜び)を向けられた元自衛隊高官は黒い顔で思いっきり親指を下に振って(アメリカがやれよ!)返していたが。

 元在日米軍高官は誠に残念と両の掌を振って(アメリカは地中海に居ないモンと)返し、元自衛隊高官は益々黒くした顔で鼻息も荒く両腕の拳を突きあわせて(何時か引きずりこんでやると)応じた。

 それは、G4内に於ける何とも醜い主導権争い(責任者の押し付け合い)であった。

 

 

*3

 日本とトルコの友好関係の礎となっていたのはエルトゥールル号の遭難事件であり、それに端を発した永い関係、と言う訳では全くない。

 一応、その要素もあるのだが、それ以上に大きかったのは、タイムスリップ後に日本が諸外国からの歓心を買う為に世界周遊の医療航海を行わせた病院船船団(アスクレピオス・フリート)であった。

 船団の各病院船は、タイムスリップ時に日本に寄港していた豪華客船を日本が借り上げ、最新式の医療設備を搭載する様に改造し、そこに医師会から各分野の医者を派遣して貰い用意したものであった。

 100年先の医療は、多くの人間を救う事となり、その中にムスタファ・ケマルと言う人間が居た。

 極言すれば、ただそれだけの事であった。

 

 

*4

 アドリア海での騒動(イベント)に、ブリテンは嬉々として首を突っ込む事を選択していた。

 エジプトに駐留していた地中海艦隊から空母アークロイヤルを旗艦とした訓練艦隊を編成し、()()()()訓練航海でアドリア海へと来たと言う(タテマエ)であった。

 ブリテンの、他人の嫌がる事を進んですると言う性根の表れと言えた。

 尚、真面目な目的として、ドイツ海軍の練度を計ると言う目的もあった。

 グラーフ・ツェッペリンは無論であるが、ドイツの駆逐艦も北海にも出て来ない(ヒキコモリ傾向がある)為、その情報を収集する事は重要であった。

 海洋国家の矛にして盾たるブリテン海軍にとってドイツの大型艦の情報も重要であったが、海洋戦力の下支えとして縦横に駆け回る駆逐艦も又、決して軽視出来るモノでは無いのだから。

 例え、ドイツの駆逐艦の数がブリテンの1個艦隊分にも満たぬ様なものであるとは言え油断する積りは無かった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

111 さまよえるオランダ

+

 ドイツがイタリアに謝罪する事で一応の終息を迎える事となったアドリア海の緊張(アドリア・クライシス)であったが、その事が新しい緊張を生み出す切っ掛けとなる。

 それは、ドイツ(ヒトラー)独裁的政治体制(人気が命のフューラー稼業)である事が理由であった。

 格下(ヘタリア)と見ていたイタリアに敗北を喫したと言う事は、それ程の衝撃(政治的インパクト)をドイツに与える事となったのだ。

 この状況を打破する為、ヒトラーは2つの事を示す事とした。

 1つは軍事力の鼓舞。

 陸海空の3軍による大規模な軍事演習と閲兵式を執り行わせる事としたのだ。

 最新鋭の重戦車、ジェット戦闘機。

 そして戦艦。

 国民に向けて大々的にアピールを行い、併せて軍事専門家(マスコミ)による解説を行う事で、()()()にイタリアへと傷を与えたのは余りにもドイツ軍が優れていた為である ―― そう思う様に誘導しようと言うのだ。

 友邦(数少ない同盟国)ソ連にも声を掛け、部隊(連隊規模)の派遣を受ける段取りをしていた。

 ソ連側も、シベリア共和国 ―― 日本連邦と対峙し続ける自国の軍事的技術を世界(非G4陣営諸国)に向けてアピールする事で販路を得たい(武器売却による外貨取得)と言う欲があり、ドイツの提案に乗る事となった。

 ドイツとソ連による合同演習(アピール)は、その構想の発表だけで両国の国民と、両国との距離の近い国家からは好意的に評価される事となった。

 だがコレだけでは誤魔化しだけである。

 その上でヒトラーは、1つの政治的勝利を望む事となる。

 対象はオランダだ。

 以前よりドイツはオランダの分不相応な富 ―― オランダ領東インドが生み出した富を狙っていたが、今はそれ以上に傷付いたヒトラーの権威を回復させる為の、政治的成果としてオランダの併合を狙っていた。

 既にドイツの策謀もあって、国民の一部には大欧州連合帝国(ファシズム)への憧憬を抱いた政治的勢力すら生まれているオランダは、ドイツの格好の標的 ―― 過程(道路)では無く目的(獲物)であった。

 

 

――オランダ

 国際連盟にも加盟し、オランダ領東インドを介した日本との交流も盛んな為、親G4国家(G4の属国)と見なされているオランダであったが、その国内状況は少しばかり複雑であった。

 政治家や資産家(アッパー・クラス)は、金を貢いでくれる日本に対して好意的であった。

 一般労働者(ロウワー・クラス)は生活するだけで精一杯であった。

 だが、高度な教育を受けた上級労働者(ミドル・クラス)の人間には、日本に対する反感が生まれつつあった。

 高度な教育を受けたが故に、日本のオランダ貿易政策*1が、まるで先進国(列強)が発展途上国を相手にする様なものであると理解出来ていたのだ。

 一般のオランダ人は、日本と積極的に交流する事(日本から見て交易の旨味)が無かったが為、日本が持つ100年の先進性を良く理解出来ていなかったのだ。

 この点で言えば、対立してきたソ連やドイツ等の一般人の方がよっぽど、その()()()()を理解していた。

 彼彼女らは、出征していった隣人が全くと言って良いほどに帰って来れなかった事の意味を理解していたのだから。

 兎も角。

 物理的心理的距離の遠さから、オランダ人は日本の事を()()()()()()()()()()()()()()()()()と認識していた。

 であればこそ、アジア人国家(劣等種国家)が白人先進国家であるオランダを低く見るのは赦しがたいと思っていた。

 拭い難い差別意識の発露とも言えた。

 又、極一部の人間は、オランダ領東インドで日本人から受けた扱いに怒りを燃やしてもいた。

 高等教育を受け、オランダ領東インドに進出した日本企業に雇われた経験のある人間だ。

 日本企業の()()()()()()()()彼らは、優秀な自分たちが現地住人(オランダ領東インド人)と同列に扱われ、或は、下に扱われた事に憤慨していたのだ。*2

 反日本主義(黄禍論)のオランダ人は、G4として日本との距離が近いアメリカ、ブリテン、フランス。それにイタリアと言った名だたる強国(列強)が当てにならぬと断じ、世界を主導するべき白人の優位性を維持するドイツ・ソ連への接近を強く主張したのだ。

 そこに、ある意味でドイツの繁栄を憧れた労働者*3が加わる形で、オランダの親ドイツ派は大きな政治勢力へと育つ事となる。

 又、オランダ政府内に、ドイツとの適切な距離感を取るべきと主張する人間が居た事が、この動きを助長した。

 ドイツとG4(フランス)の対立が過激化しつつある現在の国際的政治状況を理解し、同時に、フランスから断片的に教えられた来るべき戦争(フューチャー・ヒストリー)で独逸に蹂躙される阿蘭陀を知った事が原因であった。

 ドイツに蹂躙される事を恐れ、だが積極的に対決姿勢を取れるだけの国力の無いオランダの哀しさでもあった。

 フランスと対ドイツに於ける共同歩調を検討しつつはあったが、戦争となれば即座に蹂躙される程度には狭い国土であるオランダが出来る事など殆ど無いのだから。

 フランスやイギリス、或は強大無比な日本の軍を引き込んだとしても国土の狭さ ―― 地積の乏しさ故に、戦火がオランダの政治と経済の中心地帯を焼く事を止められない。

 オランダ政府は冷静に、評価していた。

 その事が、ドイツとの決定的な対立をオランダが取り得ない理由であった。

 

 

――ポーランド

 対ドイツに於いて国家の取りうる選択肢に困っているオランダに対し、迷わないポーランド(タイムレス東欧狂犬国家)が好意的に接触を図った。

 共に手を携えてドイツをぶん殴ろうと言うお誘いは、生臭い話をすれば、オランダの金で武器を開発し製造しようと言う話でもあった。

 ポーランドの重工業はフランスやブリテンからの技術供与(旧式設備の売却)によって発展を遂げつつあったが、その工業化に予算が掛かり過ぎてしまい、目的であった軍備の増強へと十分には回せていなかった。

 新装備の開発は25TPの後継として、列強の標準(トレンド)を追う30t級の中戦車、32TP*4の開発こそ出来てはいたが、その本格的な量産は難しいのが実状であった。

 従来のモノよりも更に重量化した、1920年代であれば重戦車と呼ばれてもおかしくない32tもの()戦車を量産するには工場の増築と、製造インフラの大規模な更新が不可欠であるからだ。

 それには莫大な予算が居る。

 ()()()()()オランダへの声掛けであった。

 戦車の製造ラインに投資させようと言うのだ。

 このポーランドの提案に、オランダは熟慮の末、乗る事となる。

 

 

――ドイツ

 オランダとポーランドの軍事協力協定は、ドイツに焦りを与える事となる。

 既にフランス、イタリア、ポーランドと三方を敵国に囲まれている上に、1国が加わるのだ。

 悪夢であった。

 オランダは財政こそ豊かであったが、軍事的な脅威は低い。

 だが海に面していた。

 即ち、ブリテンや日本の軍が緊急展開して来やすい場所にあるのだ。

 国家は軽視出来ても、その地理的特性は甘く見る事など出来なかった。

 この為、戦略的思想/視点に()()()()()ヒトラーは、オランダの属国化に向けた秘密工作の加速を厳命する事となる。

 

 

 

 

 

 

*1

 日本は、オランダ領東インドの算出する資源のみを欲し、オランダが作り出した工業製品を見向きする事は無かった。

 農作物に関しては日本も興味を示す事はあったのだが、輸出コストの問題からアメリカやオーストラリアの様な環太平洋国家群に太刀打ち出来なかった。

 尚、オランダは工業の確立の為、日本からも大量に工作機械などを輸入していた。

 

 

*2

 日本企業からすれば、オランダの高等教育と言われても100年も昔の(古臭い)モノであり、それに高い評価を付ける事は難しかった。

 高等教育を受けた事による学習能力の高さはあるが、それは現場に入ってからの実績に反映される類の話であり、入社時点での評価に繋がる事は無かった。

 又、オランダ人(白人)だからと優遇する義理も無かった。

 この為、先に入社していたオランダ領東インド人(インドネシア人)の下に、オランダ人が配属される例も多かった。

 平等であったのだ。

 平等に扱われた事が、一部のオランダ人が持つ優越意識を刺激し反日本へと走らせたのだ。

 尚、日本企業で日本の先進性の一端に触れた多くの若いオランダ人は、日本との格差を理解し、現実を受けれていた。

 問題は、現実を受け入れたオランダ人はオランダ領東インドで仕事に就いたままであるのに対し、反日本となったオランダ人は仕事を辞め、オランダに帰ったと言う事である。

 オランダ領東インドへと渡ったオランダ人の、ごく少数の反日本主義者だけがオランダ本土に帰る為、自然とオランダに於ける世論に於いて反日本の人間の主張が大きく扱われる事となるのだ。

 この後に、オランダ政府はこの反日主義に手を焼く事となる。

 

 

*3

 国家社会主義を標榜するドイツ・ヒトラー政権は、そうであるが故に企業と共に労働者への手厚い補償を謳っていた。

 現実的な側面としては、ヒトラー政権の有力な支持層である労働者階層からの歓心を買うと言う側面があった。

 誰もが持てる自動車(フォルクス・ワーゲン)余暇に行楽地へと行く道路(アウトバーン)、或は住宅の提供など様々な労働者の支持を得る為の努力をヒトラーは惜しまなかった。

 この事が、諸外国からのドイツ人労働者への羨望に繋がっていた。

 尚、それらの施策に使われる予算の原資が併合した国家の資産、或はユダヤ人がドイツを離れる際に収奪した資産やチャイナ人による奴隷労働であった事を気にする人間は居なかった。

 

 

*4

 32TPの開発計画は、量産の出来なかった25TPでの失敗を基にポーランド陸軍が保有する虎の子の2個戦車師団(6個戦車連隊)を充足できるだけの量産が可能な中戦車として開発がスタートした。

 重要視されたのは、ドイツのⅢ号戦車やソヴィエトのT-34戦車と正面から戦える性能である事と共に、製造コストを出来るだけ抑える事であった。

 この為、最低限度の避弾経始こそ考慮されたが、それ以外は性能向上などを無視した極力複雑な線を排除した設計が行われた。

 その徹底ぶりは、この時代では標準装備であった車体前面の機銃が搭載されないと言う所に現れていた。

 出来るだけ安く、敵戦車を撃破出来る戦車。

 それが32TPに要求された事であった。

 尚、主砲はフランスから長砲身90㎜砲を導入している。

 1940年代前半の30t級戦車であれば全て撃破可能な大口径砲である。

 32TPが公開されるや、その衝撃は欧州に広がった。

 それ以上の戦車を配備しているブリテンやフランスは兎も角として、準G4と自負し欧州の強国と誇っていたイタリアは、強い衝撃を受けていた。

 だがそれ以上に衝撃を受けたのは、仮想敵国であるドイツである。

 軍事的脅威以上に面子の問題であった。

 ヒトラーの。

 劣等国家と見ていたポーランドが、自国の主力中戦車以上の戦車を開発した事にヒトラーは激怒し、Ⅲ号戦車系に代わる中戦車の整備計画を厳命した。

 

 




 新しい仕事に慣れる為に時間が掛かり、更新頻度は劇的に低下しました。
 できるだけ週一更新、最低でも月一更新を目指して頑張ります。

2020/09/18 文章修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

112 日本の事前行動-01







+

 ユーラシア大陸で行われているアメリカとチャイナの戦争は言うに及ばず、欧州でもG4とドイツとの対立は激化の一途を辿っており、日本に世界の潮流が大きな戦(ワールド・ウォー)へ向かいつつある流れを理解させた。

 嘗ての歴史の陣営 ―― 連合国と枢軸国よりも経済格差の大きな、G4(ジャパン・アングロ)/国際連盟と大欧州連合帝国(サード・ライヒ)*1であったが、それでも尚、ドイツが調和のある世界秩序(パクス・ジャパンアングロ)との対峙(覇権主義)を諦めてはいない事が、その行動で実証されていた。

 安寧の中で穏当に金儲けに邁進したい日本としては、本当に迷惑極まり無い話であった。

 日本連邦として広大な未発展の領域を得た結果得られた、嘗ての停滞(タイムスリップ前の喪われた30年)後退(タイムスリップによる経済活動の破綻)を乗り越えた経済発展の機会がふいになる危機であった。

 情報分析機関(連邦情報局)は、戦争による日本への影響を、予定される戦場が日本から遠い事によって直接的には受ける危険性は乏しいものの、戦争による世界物流の混乱 ―― 海洋交易路の不安定化は日本経済へ混乱を齎し、その悪影響は10年を超えるだろうと言う研究報告書(レポート)()()していた。

 この事が日本の世論に、来る戦争への参戦も止む無しの雰囲気を作り上げていた。

 未だ生き残っている極左的平和主義者(一国平和主義者)は、如何なる理由があっても戦争は良くないと言う主張を繰り広げていたが、既にこの時代に来て(タイムスリップから)20年が経過しようとする中で2度の戦争を経験し、()()()()を理解した有権者は、誰もその主張に乗る事は無かった。

 そもそも、殆どが高齢者であった為、体力的にもデモをする余力も無く、再建されたSNSで批判を展開する(愚痴をこぼす)のが精一杯の有様であったと言うのも大きいだろう。

 尚、タイムスリップ前ならば()()()()()()反戦の文字を旗頭に世論形成(世論捏造)に勤しんだであろうマスコミ(売文屋)が組織だって支援に動く事は無かった。

 2度の戦争を含むタイムスリップ後の日々で現実と向き合う人間がマスコミの中にも増えた事と、そもそもとして頑迷な極左的平和主義者(リベラルを自称する極左趣味者)の多くが定年によって会社を去った事もあって、現実主義(世論の創作では無く世論の太鼓持ち)に回帰していた。

 結果、国民世論の潮流に逆らった主張に賛同していても(部数)に結びつかぬと掌返し(機会主義の発揮)を行っていたのだ。

 この様な結果もあって日本は、国民の総意として金蔵に手を突っ込んで来る奴は全て敵であると戦争を容認する事となっていた。

 この為、機を見るに敏な野党などは、マスコミの討論番組などで、戦争が起これば全力でそれを終わらせる為に努力する事こそが人道に基づいた平和主義であるなどと主張する有様であった。

 日本は、資本主義であり民主主義の海洋国家(リヴァイアサン)としてドイツとの戦争に取り組む事となる。

 

 

――対ソ連

 日本が対ドイツを考える上でソ連との国境線は第2戦線であった。

 日本は嘗ての太平洋戦争末期の()()()を忘れては居なかった。

 その後の歴史も忘れて居なかった。

 故に、日本の政府関係者の一部からは、ドイツとの戦争前に、先にソ連と()()()()()()()()を起こし、その軍事力を一度壊滅させてしまってはどうか? と言う意見が出る始末であった。

 ソ連がシベリア共和国との全面に配置した各師団や重装備を撃滅する事は難しいだろうが、それらの行動を支える後方 ―― 物流網(ロジスティクス)を完膚なきまでに破壊し、向こう十年は大規模で能動的な活動が出来ない様にするのは、そう難しくは無いと言う話であった。*2

 その際に主力となるであろう飛行部隊、爆撃機部隊には新鋭のB-2爆撃機が続々と配属され続けられており、2個飛行隊が戦闘配置に就いていた。

 熟練のB-52による爆撃部隊(ソ連ゼッタイ焼きたいマン)も1個飛行隊が残っていた。

 戦力に不足など無かった。

 とは言え、その攻撃で消費する弾薬は決して少なくは無い。

 平時の予算では、爆撃に必要な弾薬を備蓄するのは難しかった。

 しかも、弾薬の不足に加えて可動率も低下するだろう。

 予防行動でドイツとの戦争への初動が遅れたらどうするのか? と言うのが反対派の主張であった。

 それに今のソ連の防空体制であれば、対ドイツを行いつつ()()()()()を行った時点で焼き払う事は難しい事では無いと言う部分もあった。

 一定の合理性がある主張であった為、最終的に日本はソ連に対する予防攻撃を選択する事は無かった。*3

 最終的に、日本はソ連に対する圧力の強化 ―― フィンランドやポーランドとの連帯の強化が策定された。

 包括的防衛力整備援助(ミリタリー・フレームワーク)協定をソ連の周辺諸国と締結し、低利な融資と通常の販売価格よりも安価に軍備を提供する体制の構築を行った。

 この詳細を知ったスターリンは、党要職の人間と共に幾夜も痛飲し()()()()()を病院送りにした。

 

 

――対チャイナ

 アメリカとチャイナの戦争に対する日本のスタンスは通常運転(アメリカ頑張れ、チャイナは増えろ)であった。

 とは言え、主となるのはアメリカであり、過剰な支援を行う事はアメリカの矜持に傷を付ける事となるので細心の注意が払われる事となっていた。*4

 取りあえず、参戦しているグアム共和国軍(在日米軍)を筆頭とした4ヵ国軍に対しては、武器弾薬、そして補修部品の供給に関して最優先で行う事とした。

 その上で、日本政府は5年の時限立法としてユーラシア非常事態対処法を成立させた。

 主目的は、軍需物資の生産に対する予算措置である。

 日本はある意味で、この非常事態対処法の成立と共に準戦時体制へと入る事となる。

 食料や各種資源の管理。

 その分野は軍需のみに限らず、民需までもカバーしていた。

 目端の利いた者は、その動きから日本政府が戦争準備に入った事を、それも今までの戦争とは違う、国家総力戦を想定して居るであろう事を了解し、株式市場で大きな利益を上げる事に成功した。

 その他、日本は米国前例を基にした軍事支援物資(レンドリース)の準備を各企業に指示していた。

 自動車やトラックを筆頭として、提供先の現場でも保守点検の容易な装備の開発である。

 自衛隊向け(ハイエンド)装備を簡素化するのではなく、1から簡素なものを開発する事としたのだ。

 前々から話を受けていた各自動車メーカーは、極めて簡素で生産性が高く、そして整備性にも優れた車両を短期間で完成させた。

 デザインに色気などは一切無く、製造効率を最優先した直線主体で無骨な合理性と信頼性だけで完成した支援供与車両(MLシリーズ)は、ある意味で日本自動車業界の本気であった。

 尚、完成した車両は即座に実戦投入 ―― チャイナで活動中のグアム共和国軍(在日米軍)北日本(ジャパン)邦国軍に供与され、実戦の場での運用試験が行われたが、その試験結果は上々であった。*5

 尚、この結果をみたアメリカ政府は、未だ戦時体制に移行していない自国の産業界の状況を鑑み、MLシリーズの輸出を日本に打診する事となる。

 アメリカの自動車産業界も圧倒的な生産力を誇ってはいるのだが、戦時体制に移行していない今の状況では、その生産力は民需に喰われており、アメリカ軍が欲するだけの車両、トラックなどを供給しきれていないのだ。

 正確に言えば、アメリカ軍が必要とする分は足りていた。

 だが、アメリカが参戦の出汁として各国に提供を約束した分には不足していたのだ。

 この要求に、日本は応える事となる。

 

 

 

 

 

 

*1

 尚、ドイツにとって唯一の同盟国と言って良いソ連であったが、そのソ連はドイツに与して国際連盟から離脱し、今の国際社会体制との対立を選ぶ ―― その様な選択を行う事は無かった。

 それどころかドイツとの連帯、事実上の同盟関係は維持しつつも国際連盟内での地位の維持と影響力の拡大に腐心しているのが実際であった。

 ドイツに対しては「ドイツの国際連盟への窓口」であると説明し、同じ話を国際連盟の場でも行っていた。

 ある意味でソ連はドイツと国際連盟とを両天秤に掛けていた。

 これはソ連が日和見主義から二股(コウモリ)外交を行っているからでは無く、国の後方に強大な敵国(日本連邦)を抱えている事が理由であった。

 ソ連とは比較できない程に強大な国力を持ち、1936年の傀儡国家(シベリア共和国)の建国以降も強硬で敵対的な態度を崩さない日本連邦の存在は、常にソ連のストレスであり続けた。

 別に、ソ連やスターリンが猜疑心が深い訳では無い。

 ソ連の東方国境線では()()()()()が追尾どころか視認する事も難しい高度で侵犯が繰り返されており、フィンランドとのカレリア地峡紛争の際には国際連盟の名の下で日本は躊躇なく武力を行使した狂犬国家なのだ。

 しかも並行してシベリア共和国西方で大規模な陸空の戦力を動員した機動演習までやってみせた戦争狂国家であった。

 この恐るべき超大国に硬質な対抗が出来ぬのであれば軟性の対応 ―― 対話を選択するのが世の常ではあるが、ソ連からの対話要求に日本が応じる事は無かった。

 不測の事態(ホット・ウォー)に備えた外交チャンネル、ホットラインこそ維持されているが、緊張緩和に向けたソ連の努力が実る事は無かった。

 日本が無理であればと、国境線で対峙するシベリア共和国との対話を試みてはいたが、此方は、その()()()()()から日本以上に強硬であった。

 この様な状況では、ソ連が国家の安寧と発達を犠牲にしてまで軍備を整えるのは止むを得ない事であった。

 そして、であるが故に、その狂犬国家に一定の首輪を嵌められる国際連盟と言う組織に所属する事を、その組織内で影響力を高める事にソ連は腐心するのだ。

 

 

*2

 尚、その余波によってソ連東部領域の民間向け物流網も消滅し、ソ連人民が塗炭の苦しみを味わう事となる事も想定されたが、対ソ連先制攻撃論を張る人は誰もその事を問題視する事は無かった。

 露系日本人も、そしてシベリア系日本人(旧ソ連人)もだ。

 否、シベリア共和国政府としては歓迎できる事態であるとすら評していた。

 ソ連民間の生活が困窮すれば、シベリア共和国への亡命者が出る事が予想されていたからである。

 日本資本による開発が本格化しつつあるシベリア共和国は、ソ連に備えた軍事力を整備しつつ経済活動を行わねばならぬ為、労働力が不足気味であったのだ。

 受動的(パッシブ)な労働力の収奪は、シベリア共和国にとって願っても無い話なのだから。

 シベリア共和国は、国境線を接するソ連領域の人民、その気持ち(豊かになりたいと言う欲望)を刺激する様に、民間ベースでの交流(宣伝)を行うのだった。

 

 

*3

 尚、数十年後の戦後 ―― 緊張緩和期(デタント)の時代に、この頃の日本の攻撃的(アグレッシブ)対ソ連戦争案を知った()()()人は、心底から平和に感謝し、国際連盟への加盟継続を指示し続けたスターリンの慧眼に敬意を表した。

 とは言え、スターリンとレーニンの銅像を倒す事は止めなかったが。

 

 

*4

 日本のアメリカ評の高さを聞いたアメリカ大使館付きの日本駐留連絡武官は、毎度の事ながらの自国に対する日本の高い評価と期待とに嘆息するのみであった。

 現実とかい離した様なアメリカ像で見られる事の大変さ。

 その事を、アルコールの入った緩い交流会(パーティー)の場で、日本連邦統合軍の将官に直截的に告げた事もあった。

 が、その時の将官の反応は、出来の良いアメリカンジョークを聞いた時に類されるものであった。

 尚、同席していたグアム共和国軍(在日米軍)の連絡武官は、凄く複雑な笑顔(アルカイックスマイル)を浮かべていた。

 何をやらかした、米国(ファッキン・フューチャー・アメリカァァァ)!! と、アメリカ人日本駐留連絡武官は内心で罵った程であった。

 兎も角。

 アメリカ側にとって正直な話として、地の利と数の優位を持ったチャイナは、想定して居たほどに楽勝出来る相手では無いし、その戦争は軍事費をモリモリと食べる底なし沼であった。

 日本が参戦してくれるなら、参戦しないまでも積極的に支援してくれるならばどれ程に楽であろうかとは、東ユーラシア総軍参謀団のみならず、アメリカ政府関係者ですら思う事ではあった。

 

 

*5

 MLシリーズの製造効率優先主義は、乗用車(ML-1)トラック(ML-2)の部品共通率が7割を超えていると言う所にも現れていた。

 個々の性能や居住性などは無視に等しい扱いとなり、フレーム以外では同じ部位であれば部品の流用が利く様に設計されていた。

 この為、一部の現場の人間は融通が利いてないと怒る一幕もあった。

 尚、安全基準は日本本土のソレに一切到達していない為、MLシリーズの車両を日本の公道を走らせる事は原則禁止されている。

 この点だけでもMLシリーズの自動車が、設計段階から如何にコストダウンをするかの努力が行われたかを示していた。

 

 




2020/08/28 文章修正
2020/10/03 文章修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

113 チャイナ動乱-自然休戦期

+

 チャイナとの戦争で、春を待っての大規模攻勢を予定しているアメリカ。

 この時点で参戦国はフロンティア共和国の他、シベリア共和国を筆頭として日本連邦の4邦国に加えてフランスやオランダなど10ヵ国を上回り、事実上の国際連盟連合軍(ワールド・フォース)と化していた。

 総兵力は陸海空に軍属なども含めて60万を超え、師団数は30個を数えていた。

 世界中からの戦力は、日本の連邦統合軍(海上自衛隊)と海運業界の全面支援もあって春期大攻勢までの大方の集結を終えていた。

 20ノット以上の巡航速度を誇る日本の海運力(マル・フリート)の力であった。*1

 このお蔭で、世界中から身体1つで満州に集まった将兵は、与えられたアメリカ製や日本製の新装備への習熟に充分な時間を掛ける事が出来たのだ。

 新鋭の装備を持った60万の精兵。

 だがそれでも、チャイナ軍は決して甘く見る事の出来る相手では無かった。

 100個師団100万兵(イーバイ・イーバイワン)の掛け声と共に集まった(狩り集められた)チャイナ人は速成としか言いようの無い訓練を受け、無茶苦茶な勢いで行われた編成によって、冬を越すまでに北京-黄河以北の前線へと配置されていた。

 その数、実に40万人。

 新たな部隊は、河北鎮護総軍と命名されていた。*2

 チャイナのマスコミは、偉大なる中原を守る精兵と宣伝していた。

 とは言え、その装備状態は、寒いものであった。

 小銃や機関銃などは兎も角、野砲などの重装備は十分では無く、軍服も満足に支給されて居ない部隊が殆どであった。

 だが、塹壕に籠って抵抗するのであれば必要十分な水準に達している ―― 少なくとも東ユーラシア総軍参謀団でも、敵として障害になっていると判断していた。

 その上で元からの精鋭、機動戦力たる北伐総軍も再編成を行っており、質は兎も角として数的には開戦前の規模を回復していた。

 東ユーラシア総軍(アメリカ)は、戦争の早期終結の為、冬が明けてからの攻勢計画を練り直す事とした。

 

 

――アメリカ-東ユーラシア総軍

 WW1と見紛うばかりの塹壕を作り上げたチャイナに対し、その突破の手段としてアメリカは当初、日本とグアム共和国(在日米軍)が共同管理している大威力兵器(核兵器)も検討していた。

 簡単に広域を焼ける核兵器は、効率(コストパフォーマンス)と言う意味で最良であったからだ。

 又、大威力兵器と言うものを使ってみたいと言う単純な欲求もあった。

 とは言え日本が強く反対し、グアム共和国軍(在日米軍)も残留放射線などの問題から推奨できないと反対した為、断念された。*3

 この為、アメリカは力技(物量)でチャイナの防衛ラインを破壊する事とした。

 航空優勢を掌握出来るだけの航空機を用意し、併せて爆撃機と共に500機近い対地攻撃機を用意する。

 又、アメリカ政府の核兵器使用要求を拒否したグアム特別自治州軍(在日米軍)に対して、拒否の対価として日本の支援供与物資、具体的には4t級(中型規格)のML-3を優先して大量に融通させる事を要求(事実上の懇願)した。

 これはML-3を改造し自走式多連装ロケットランチャー(MLRS)を用意しようと考えた為であった。

 アメリカも自前でトラックの用意は出来るのだが路外、即ち悪路走破性に於いて日本製に勝てない為、前線部隊に随伴して機動する事も要求されるMLRSには不足していると判断した結果だった。*4

 初手は地対地ロケット弾で行い、機甲部隊が前進。

 その対応に生き残った部隊が抵抗の為に姿を見せれば、対地攻撃機隊が処理していく。

 容赦と言うものの存在しない、塹壕の蹂躙戦術であった。

 又、野砲や航空機の整備に注力しているとは言え、戦車の整備にアメリカが手を抜く事は無かった。

 それどころか大規模な増産をアメリカ本土とフロンティア共和国で行っており、本格的な増産に着手したこの一冬だけで2000両を遥かに超える数を整備していた。

 当然、主力は36t級の76.2㎜砲を搭載した重量級中戦車のM4戦車と、事実上の重戦車であるM24戦車である。

 アメリカの本気であった。*5

 

 

――チャイナ

 アメリカの戦力充実ぶりをフロンティア共和国へと侵入していたスパイによって把握したチャイナ参謀団は、黄昏た。

 数的な優位こそ確保してはいたが、その質の差は圧倒的になっていたからだ。

 チャイナが頼みとする陸上戦力、特にⅣ号戦車は(カイル)作戦の結果、壊滅的状態に陥っていた。

 別にⅣ号戦車が戦場で撃破された、全滅した訳では無い。

 それなりの被害は出ていたが、(カイル)作戦の時点で60t級のⅣ号戦車を撃破可能なM4戦車が大規模に配備されていた訳では無かったのだから。

 問題は、攻勢の頓挫による撤退であった。

 塹壕等の陣地構築に余裕がある場所までの後退は、食料や燃料の不足、航空優勢喪失に伴う航空攻撃の激化によって、正しく苦行となっていた。

 路上で撃破されたモノ、燃料不足で放棄されたモノ、或はその鈍重さが嫌われて放置されたモノまで出ていた。

 精鋭との呼び名もあった嚮導団も、蓋を開ければその体たらくであった。

 結果、今現在のチャイナの手にあるⅣ号戦車は200両を切るまでになっていたのだ。

 又、被害状況で言えばⅢ号戦車C型やC型Ⅲ号突撃砲を保有する部隊は更に悲惨だった。

 此方は主として第2北伐軍集団に配備され、アメリカの機甲部隊と真っ向から殴り合ったのだ。

 戦車などは半壊し、操るべき戦車兵たちも多くが傷つき倒れていた。

 戦車自体の補充もだが、喪われた戦車兵と言う技術者の回復は容易な事では無かった。

 そもそも、戦車兵の教育は嚮導団の()()()()()()戦車教育団がドイツ人の協力の下で行っていた。

 その嚮導団が壊滅的な被害を受けているのだ。

 戦車兵の教育が開戦前と同様に出来る筈も無かった。

 そして悲惨さで言えば空はそれ以上であった。

 開戦劈頭は輝きを持っていたチャイナ航空部隊であったが、()()()()()()()を最後の戦勲とし、それ以降は積極的な作戦能力を喪失したのだ。

 航空機自体の消耗や保守部品の不足による稼働率の低下。

 チャイナ航空部隊は、冬期自然休戦期のアメリカ空軍の跳梁を阻止できぬまでにやせ細っていたのだ。

 そして春先となっても、その回復は殆ど出来て居なかった。

 特にFJ-2戦闘機(ヴィーダシュタント・イエーガー)は悲惨だった。

 希少金属を多用するジェットエンジンの部品枯渇は、チャイナだけでどうにかなるものでは無かった。

 希少金属の不足、そして部品への加工はドイツ本土の工場でしか出来ないものが多く存在して居たのだから。

 又、他の航空機も悲惨な状態であった。

 そして何より、アメリカの航空後方破壊爆撃戦(ステラテジー・ボミング)によって、航空部隊の錬成に必要な燃料の輸送すら困難になっていたのだ。

 装備の回復も、乗員の訓練も出来ない航空隊に期待できる事は殆ど無かった。

 この為、チャイナ参謀団は悲痛な覚悟を決める事となる。

 黄河以北の戦線に張り付けた部隊には死守命令を出すと共に、黄河以北に住む全ての住人を強制的に避難させ食料やインフラを破壊すると言う、決死の消耗強要(シーフォア)作戦であった。

 無論、消耗させるだけでアメリカとの戦争に勝てる訳では無い。

 その為に、インフラの整っている北京市に機甲部隊を集結させ、アメリカ軍が消耗し息切れをした瞬間を狙って逆襲 ―― フロンティア共和国へと侵攻し、これを人質に取る事で戦争の終結を図ると言うものであった。

 無論、そこまで理想的に作戦が遂行できたとしても内モンゴル独立は受け入れざるを得ないだろうし、(カイル)作戦の頃に夢想した満州(フロンティア共和国)回復などはあり得ないだろう。

 だが、これしかチャイナが採れる作戦は無かった。

 重装備の回復に関してドイツとの折衝(輸入交渉)を重ねてはいるが、既にドイツ側の海洋輸送能力が限界状態にある為、更なる契約は困難であった。

 締結済みの契約内容を守ろうと努力する事を約束するだけ、ある意味でドイツは誠実であるとも言える状況だった。

 そして、ドイツ以外に積極的にチャイナを支えてくれようと言う国家は居ない。

 そもそも、チャイナと言う国家自体が悪魔的精度で行われているアメリカの戦略爆撃*6によって枯死しかかっているのだ。

 正しく四面楚歌であった。*7

 自国の陥った状況を理解し作戦の概要を聞いた蒋介石は、悄然とした顔で受け入れた。

 最早、自棄酒を呷る元気すら無かった。

 

 

 

 

 

 

*1

 アメリカもグアム共和国(在日米軍)の協力の下、独自にRO-RO船の研究開発を進めてはいたのだが、いまだ実用的な船の建造には至っていなかった。

 総トン数6,320tの輸送船フリーダムが試験的に建造されては居たが、船の構造に起因する形で車両搭載数は日本のRO-RO船と比較すると極めて見劣りがするのが実状であった。

 船内の構造自体はグアム共和国(在日米軍)の協力で()()()なものが設計出来てはいたのだが、資材の品質 ―― 強度などの問題から、実際に作り上げる事が難しかったのだ。

 フリーダムも、その構造の一部には日本製の鋼材が利用されていた程であった。

 100年先の知見があっても、基礎的な技術水準の向上が無ければ再現は難しいのだ。

 この為、アメリカはチャイナとの戦争が激化すると共に、日本製RO-RO船の購入を強化していくと共に、SMS社の輸送船部門(マル・フリート)に対しても規模の拡張を要求していくのだった。

 尚、アメリカ政府と軍としては輸送力に不満のあったフリーダムであったが、アメリカの海運業界としては()()()輸送船であった為、民間向けとして改良型の建造が行われる事となった。

 

 

*2

 尚、河北鎮護総軍と、ほぼ規模と言って良い50万人近い兵が、チャイナにとっての後背である長江付近で訓練を受けていた。

 此方は長江総軍と命名されている。

 長江総軍が前線へと派遣されていない理由は、河北の訓練地の不足もあったが、チャイナの輸送力の限界もあった。

 そしてアメリカによる妨害である。

 アメリカは冬季自然休戦期となっても、戦争を止めなかった。

 陸上戦力の集積と訓練とを行う傍ら、爆撃機部隊によるチャイナ全域に対する物流(インフラ)破壊作戦を行い続けたのだ。

 日本のB-52やB-2を念頭(タイプ・モデル)に、技術実証も兼ねて開発された4発機の超大型長距離爆撃機 ―― 超哨戒爆撃機計画(ウルトラ・パトロールボマー・プロジェクト)の成果たるB-21は、駅を橋を道路を発電所を港を焼き続けていたのだ。

 5t近い爆弾搭載量を誇り戦闘行動半径3,000㎞を誇るB-21は、フロンティア共和国やフランス領インドシナを拠点にチャイナのほぼ全土をその翼下に置き、爆弾の雨を降らせ続けた。

 チャイナも、これを阻止せんと全力で対応したが、ジェット戦闘機(FJ-2 ヴィーダシュタント・イエーガー)部隊も含めたあらゆる戦闘機部隊を差し向けても、高速で高度1万mを悠々と飛ぶB-21を撃破するどころか交戦する事も殆ど出来ないのが現実であった。

 戦争に本気となったアメリカは、チャイナの軍の前に国家を、その経済を殺しにかかっていた。

 長江総軍が前線に居れない理由は、ある意味で余波でしか無かった。

 

 

*3

 被爆国として、核兵器に対するアレルギー的な国民世論を持つ日本は、核兵器自体の製造、保有、そして開発には積極的では無かった。

 だが同時に、世界の核利用を止める事が出来ない事も理解していた。

 アインシュタインその他、著名な科学者によって核の持つ力は知られつつあったのだから。

 又、アメリカにはグアム共和国軍(在日米軍)の原子力空母ロナルド・レーガンの情報が渡っており、そこから核を用いた技術の情報が世界に広がるのも時間の問題であろうとも認識していた。

 この為、国際連盟の中に核技術の平和利用を主目的とした技術管理の委員会を設立させた。

 とは言え、日本以外の国からすれば、それこそアメリカですらも核の技術を実用化する為に必要なコストが莫大過ぎて、戦時予算でも組まない限りは簡単に開発出来ないのが実状であったが。

 又、1930年代の日本では、核兵器を使用させない為の日本による世界掌握(パクスジャポニカ)を主張する政治団体が熱心な活動をしていた程であった。

 日本政府がその声に乗る事は無かったが。

 日本政府は公式発表を行い、動力源は別として、核分裂を利用した武器開発は行わないとしている程であった。

 とは言え、日本政府は他国の核兵器体制の成立は許しても、その利用を許す積りは無かった。

 タイムスリップの時点で日本は、中国の新型爆弾(次元振動弾)に対抗する為にレーザー融合弾(純粋水爆)の技術を確立させており、それを研究温存し続けていたのだ。

 尚、日本政府は簡単には使う事の出来ない武器を製造する予算的な無駄を嫌い、ソ連その他が核武装をするまでは技術の公表も、製造もおこなう積りは無かった。

 この事実を糊塗する為、B-52を保有する部隊が維持され続けていたのだ。

 タイムスリップの時点でグアムに駐留していたB-52は、在日米軍と定めた協定に基づいて米国製核兵器の運用能力が付与されており、この事はG4の連絡協議会で公表されていた。

 念の入った欺瞞工作により、G4ですら日本が大威力兵器(レーザー融合弾)の保有能力を持つ事を認識出来ずにいた。

 世界は、核の恐怖といまだ向き合っては居なかった。

 

 

*4

 搭載するロケット弾(地対地ロケット弾)に関しては、グアム共和国軍(在日米軍)の協力によって射程10kmのものが実用化されており量産体制が整っていた。

 元々は、日本がシベリア総軍に配備している28式装輪自走多連装ロケットシステム(Type-28 WRLS)を真似たものであり、この時代のモノとしては長射程と良好な命中精度を誇っていた。

 尚、今回の運用に関しては日本の全面協力によって衛星測位システム(GPS)情報が、その情報端末と共に提供されており、ロケット砲部隊の運用は極めて先進的な環境が与えられていた。

 

 

*5

 尚、装甲戦闘車両としては、更には1000両を超える北日本(ジャパン)/北崎重工業製のM41駆逐戦車(TD)が加わるのだ。

 チャイナとアメリカの装甲車両の差は、数の上でも倍を超えており、その質の差も勘案すれば差はチャイナにとって絶望的状況であった。

 

 

*6

 当然ながらも、日本の情報 ―― 偵察衛星による情報の集積と日中戦争時代の記録を基にした分析があればこそ、チャイナへの爆撃は効果的かつ効率的に行われていた。

 又、チャイナ航空部隊が壊滅した事も、爆撃が容易な昼間中高度爆撃を可能にしていたと言うのも大きい。

 効率の悪い、防衛力の集積を行っている大都市 ―― 北京は勿論、首都南京への爆撃は行っては居なかったが、そうであるが故に、道路や線路、橋や港は定期的に爆撃され、混乱していた。

 

 

*7

 チャイナの国際的孤立、立場の厳しさはアメリカの戦略爆撃への非難 ―― 爆撃によって民間人も少なからず被害が出ている事を停戦への突破口にしようと図った際に、大きく露呈した。

 友好関係を維持していたソ連へ全力で外交交渉を仕掛け、国際連盟総会の場で如何に戦争であるとは言え非人道的行為は抑制されるべきだとの声を挙げさせた。

 

 だが国連加盟国の殆どは、()()()()()()()()()()に興味を示す事など無かった。

 そもそも、開戦はチャイナの側から仕掛けていると言うのが、国際連盟での共通認識であった。

 国際連盟非加盟国の、それも負けている側の寝言に付き合う気は無かった。

 門前払いにも等しい悲惨な状況であったが、諦めないチャイナの駐スイス大使は、人道と言う建前を押し立てて、渤海事件の際に知己を得た日本代表に接触した。

 非公式に行われた会談で、チャイナ駐スイス大使は白人社会(アングロサクソン)からのアジア人への暴力を阻止すべきだと、有色人種の連帯を強く訴えた。

 大アジア連帯主義(八紘一宇)染みた主張をするチャイナ駐スイス大使に、日本の国際連盟代表は冷笑を以って答えた。

 人道主義と言うのであれば降伏すれば良い、と。

 日本は仲介する用意があると告げた。

 冷淡すぎるとも言える日本国際連盟代表の態度に怒りを感じたチャイナ駐スイス大使は、アメリカの爆撃によって死傷した民間人の写真を突きつけて、これを見ても心が動かないのかと叫ぶ程であった。

 だが、日本の国際連盟代表は一瞥しただけで、それが戦争(トータル・ウォー)ですよと鼻で嗤うに留まった。

 秘書役として国際連盟代表に付いていた若い米系日本人は、これが日本人の戦争感(パシフィック・ウォーのトラウマ)であると嘆息していた。

 無論、日本人的な笑顔(アルカイックスマイル)で全てを誤魔化しながら。

 

 




2020/10/03 文章修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

114 チャイナ動乱-24

+

 春の訪れと共に冬期自然休戦期は終焉を迎えた。

 アメリカの春期大攻勢目覚め(グッド・モーニング)作戦の始まりであった。

 その第1段階であるアラーム(目覚まし時計が鳴った)作戦が行うのは休戦期の終わりを告げる号砲、500両を超えるM-1MLRSから放たれた地対地ロケット弾であった。

 1両あたり10発のロケット弾、都合5000発を超えるソレは正しく鋼鉄の豪雨であった。

 チャイナ河北鎮護総軍が築いた塹壕線は、30分にも満たない時間で文字通り耕された。

 だが、それで塹壕が破壊された訳では無い。

 塹壕に籠っていた将兵が皆殺しにされた訳でも無い。

 それどころか、攻撃の規模に比べれば軽微と言える被害に留まっていた。

 これは重火力が少ない分を補うように塹壕を、ドイツ人将校の指導を受けて世界大戦(WW1)を思わせる程の規模で作った成果だった。

 ロケット弾攻撃を受けた各部隊は、アメリカの侵攻再開を上級司令部に報告する。

 だが、それこそがこのロケット弾攻撃アラーム(目覚まし時計)作戦の狙いであった。

 報告の為に垂れ流された無線通信をSMS社(出向航空自衛隊)対地監視機(P-4)が収集し、その情報が航空管制機(E-302)*1によって整理分析されF-10(グアム共和国軍機/本国仕様)部隊に伝達(データ・リンク)される。

 この標的指示(ターゲティング)に従ってF-10は速やかな攻撃(ミサイル・デリバリー)を実行したのだ。

 第2段階、ノック(部屋の扉が叩かれた)作戦であった。*2

 戦闘再開から半日も経ずして河北鎮護総軍は司令部と通信施設が機能を喪失し、完膚なきまでに指揮系統が寸断された。

 40万を数えた将兵は塹壕に籠った軍隊では無く、穴に潜った個人の群れと成り果てたのだ。

 そこに第3段階、ウェイクアップ(ベッドから身体を起こそう!)作戦が発動する。

 東ユーラシア総軍の全面攻勢である。

 断続的な野砲の支援の下、野戦工兵部隊の地雷処理戦車と装甲化された日本製建設機械(ブルドーザーやロードローラー)によって塹壕地帯に開口部を作り、重装甲の機甲部隊を流し込むのだ。

 それも、1カ所や2カ所では無くほぼ全面で行ったのだ。

 指揮系統が失われ、そもそも十分な機動投入可能な予備兵力の少なかった河北鎮護総軍に対応する力は無かった。

 戦闘再開から3日で河北鎮護総軍は塹壕地帯から完全に叩きだされ、総兵力の実に7割を喪失するに至った。*3

 目覚め(グッド・モーニング)作戦は正しく力技であり、物量と質の優位性を生かした正面突破作戦(アメリカン・プレイ)であった。*4

 とは言え良い事ばかりでは無かった。

 一気に戦線を押し上げた ―― 大勝利の結果、事前想定以上の大規模な俘虜を得てしまった東ユーラシア総軍は、攻勢を一時中断せねばならなくなったのだから。

 28万近い捕虜の後送に、補給の要である輸送(トラック)部隊が集中投入される事となり、補給が滞りがちとなってしまったのだ。

 東ユーラシア総軍の参謀の過激な一部からは、俘虜は歩かせれば良いと言う声も上がってはいたが、そうなると移動に時間が掛かり過ぎる。

 その食料の手配もだが、そもそも28万もの敵兵が、東ユーラシア総軍の中に長々と居続ける事となるのだ。

 万が一にも暴動を起こされてはたまらない。

 暴動を起こさぬ様に東ユーラシア総軍から監視要員を割こうにも、俘虜の数が多すぎて必要とされる人員が多すぎて、攻勢の部隊からも人手を集めねばならなくなる。

 攻勢を一時中断せざるを得なかった。*5

 

――チャイナ

 ドイツ人軍事顧問団がアメリカの攻勢に十分に抵抗できる ―― 十分な予備戦力の投入や、弾薬の補給を途切らせねば1年や2年は持つとの太鼓判を押していた河北鎮護総軍塹壕戦が、たった3日で無力化された事実は、チャイナの戦争計画に深刻な影響を与えていた。

 チャイナ参謀団の戦争計画、消耗強要作戦(シーフォア)が初手から崩れたのだから当然であろう。

 この為、非常の決断を下した。

 河北鎮護総軍司令部からの要請、後詰めであった北京鎮護総軍の投入により全面反撃を却下し、又、河北鎮護総軍の指揮下にある貴重な機甲部隊 ―― 機動反撃部隊に後退を厳命した。

 黄河以北の地を放棄する決定であった。

 そして河北鎮護総軍の残余に対しては、機動反撃部隊撤退の為の時間稼ぎ(殿作戦)を命じた。

 非常であり、非情の決定であった。

 この決定が行われた理由の1つは、黄河以南の防衛体制が殆ど出来てないと言う厳しい現実があった。

 河北鎮護総軍の塹壕構築に予算と資材を大量に投入していた為、第2戦線として計画されていた黄河防衛ラインは、計画書だけの存在であったのだ。

 このままでは東ユーラシア総軍は1月もせぬうちにチャイナ北部の中枢都市北京を包囲、或は攻略するまで至りかねない。

 それが決断の理由であった。

 だがこの決定が、益々もって河北鎮護総軍の崩壊を早める事となる。

 事実上の死守命令に対し、河北鎮護総軍で少しでも目端の利く人間は、塹壕線があったにも関わらず赤子の手をひねるが如く潰された経験から命令の無意味さを理解していた。

 生き残る為に下がれぬのであれば、前に出るしかない。

 死守命令が通達されて数日もせぬうちに、万を超える将兵が東ユーラシア総軍に向かって前進する事となった。

 手には白い旗を持って。

 寝て起きれば、隣で寝ていたはずの戦友が、或は指揮下の部隊が、はたまた指揮官が消え失せているのだ。

 こうなってしまえば、残った将兵の戦意が維持できる筈も無かった。

 そもそも、河北鎮護総軍司令部の機能が極めて低かった事も、河北鎮護総軍の自壊に拍車を掛ける事となった。

 司令部の正規要員は総軍司令官も含めてノック(部屋の扉が叩かれた)作戦のミサイル攻撃で吹き飛ばされており、今の河北鎮護総軍司令官は野戦任官で少将の階級に特進した少佐であり、その参謀団は尉官クラスが3人居るというだけの有様であった。

 その上、通信機器も不足しているのだ。

 これで10万を超える将兵を掌握しろと言うのが無茶と言うものであった。

 自総軍の状態を把握した河北鎮護総軍司令官は、この状況を奇貨と捉え、脱走兵の存在を見逃す様に指示した。

 これは決死の偵察によって、東ユーラシア総軍が俘虜の護送に労力を割いている事を認識しての事であった。

 戦闘をするよりも兵を送りつける ―― 俘虜を相手に取らせた方が時間を稼げると言う判断であった。

 この、一歩間違えれば利敵行為売国的判断と批判されかねない司令官の判断に、チャイナ参謀団は消極的同意をもって応じた。

 これは、抵抗させる積りであればせめて食料を、武器弾薬の補給を行って欲しいと言う河北鎮護総軍の要求を拒否していた事への、ある意味で対価(罪滅ぼし)であった。*6

 

 

――アメリカ

 目覚め(グッド・モーニング)作戦の大々的な成功は、1941年度での苦戦によって自信を失っていたアメリカ軍を精神的な意味で立ち直らせる事に繋がった。

 それは軍のみならず、政府や民間でもそうであった。

 アメリカ本土では素早い進軍による早期戦争の終結を期待する声が上がる程であった。

 アメリカ政府は、その声に押される形で東ユーラシア総軍司令官に対して年内の戦争終結へ向けた努力を要求する程であった。

 だが、東ユーラシア総軍司令官は緩んではいなかった。

 政府に対しては()()()()()と言う形で返答し、言質を与えぬ様にしていた。

 これは対チャイナ戦争を指導する立場になる事が決まって以降、グアム共和国軍(在日米軍)を介して日本から得た日()戦争の情報 ―― 戦訓があればこその慎重さであった。

 当座の目標としてはチャイナ北部の政治経済の中心である北京攻略を目指す作戦立案を参謀団へ指示していたが、日中戦争の戦訓から見てチャイナが北京が陥落した程度で和睦を選ぶとは思えなかったのだ。

 この為、硬性の北京攻略作戦と同時進行で、軟性の作戦立案をアメリカ政府に要求した。

 アメリカ政府は、この東ユーラシア総軍司令官の要求を受け、極秘裏にグアム共和国軍(在日米軍)と日本政府と協議を行った。

 この戦争の目的はフロンティア共和国の安全確保であり、その為の内モンゴル独立であった。

 協議の結果、日本の主張 ―― 地域安定の為の中国の数的拡大案(チャイナ・ビスケット)に引きずられる形で、北京を中心とした中原一帯に独立国家建国を目指す事が決定した。

 戦争の片手間にするには面倒事であったが、日本がその為の協力を、物心両面に加えて資金面でも一切惜しまずに行う事を約束した為、アメリカも乗る事を選んだのだった。*7

 

 

 

 

 

 

*1

 E-302とは、部品の枯渇と老朽化の問題が大きくなりつつあったE-767AWACSの後継として開発された早期警戒管制機であった。

 三菱重工製の中型旅客機、300席級のM302がベースとなっている。

 M302は日本政府の要請 ―― 日本連邦の全地域に中継無しに到達可能な機体が欲しいとの声を受けて開発された10,000㎞級の航続距離を持つ中型機であった。

 この為、開発には内閣府の予算から支援が行われている。

 又、自衛隊も、軍用機の母体となれる機体が増える事は歓迎できる為、予算と人員の支援を行った。

 E-302は、M302の初めての軍用モデルであった。

 とは言え、この時代では国外で運用するには航空インフラが脆弱である為、E-302が展開し辛い場所でも運用がし易い小型のAEW&C機 ―― TAI社製30座席級のターボプロップ機をベースとしたものも開発されている。

 此方は、E-30として採用されている。

 

 

*2

 後に、このアメリカチャイナ戦争を精査した軍事研究家は、この日本の先進型航空機運用能力が全面的に活用された本作戦を指して、日本の戦争加担であるとのレポートを纏める事となる。

 このレポートを基に日本の野党や反戦主義者から日本政府への非難の声が上がるが、日本政府は国会答弁に於いて、戦争協力を行ったのは自治権を持ったグアム共和国の民間企業(SMS社)であり、日本政府は戦争への関与を行っていないと断言した。

 SMS社への自衛官の短期的な移籍などを指摘する声もあったが、日本政府は自衛官個人が長期休暇を取って日本政府の認める企業に短期的に就労(アルバイト)する事は個人の自由と権利に関する事であると一顧だにしなかった。

 そして一般の日本国民は、自衛官の被害も無く、日本国への損害も無い為、野党その他を支持する事は無かった。

 その頃になると日本人も、完全に大国の流儀(グレートゲームプレイヤーの態度)()()()()()()()

 

 

*3

 河北鎮護総軍が喪った総兵力の7割、28万人にも達する将兵であるが、当然ながらもその全てが戦死した訳では無かった。

 陣地を死守し、全滅するまで戦った部隊も居はしたが、大多数は東ユーラシア総軍の攻撃を受け、或は包囲されると共に降伏を選択していた。

 22万を超える捕虜。

 だがアメリカは、この事態を想定して100万人規模の捕虜収容所を用意していた。

 想定外であったのは、この河北鎮護総軍将兵に女性兵士が多数含まれて居たと言う事であった。

 問題が発生しないように捕虜の男女を分ける際、婦女暴行を恐れた一悶着が発生したり、或は男性兵に身を偽った女性兵が出るなどの奇想曲染みた事態が発生し、後に映画の題材にもなった。

 

 

*4

 目覚め(グッド・モーニング)作戦の概要を知らされた日本人は、正しくアメリカ人の戦争スタイルであると感心していた。

 尚、()()()()と名付けてはいるが、実際は鈍器で塹壕を正面から叩き割るが如き作戦である為、素晴らしき永眠(グッド・モーニングスター)作戦などと言う人間も居たが。

 

 

*5

 尚、極々一部の極めて過激な参謀は、チャイナ人の降伏を受け入れず、既に降伏済みのチャイナ人まで現場で射殺してしまい、攻勢を継続するべきだと言う声を挙げていた。

 当然、その声が大きく支持される事は無かった。

 明確なハーグ陸戦条約の違反であると同時に、28万もの人間を殺害する為の弾薬が勿体ないし、それを行えば補給に大きな負担を掛ける事となって攻勢の継続は不可能になる。

 結局は無駄であり無意味である為、発覚すればアメリカの看板に染みを付ける様な事が選択される事は無かった。

 

 

*6

 戦車や野砲などの重装備は勿論、歩兵装備まで含めて武器弾薬が不足気味と言う理由もあったが、それ以上にチャイナ北部の物流網がアメリカの手によって麻痺状態に陥っていたと言うのが理由として大きかった。

 集積地でもある北京の備蓄に余裕はあったが、それを無事に河北鎮護総軍へと届けるだけの術が無かったのだ。

 黄河を渡る船は多くが破壊されており、渡った先でも、モノを運ぶだけのトラックや馬車も失われていたのだ。

 10万を超える将兵が必要とする量を送る事など、全くもって不可能と言うのが現実であった。

 無論、ある程度はこの状況は想定されていた為、冬期自然休戦期に河北鎮護総軍でも少なからぬ食料や武器弾薬の備蓄を行ってはいたのだが、その多くが塹壕線の周囲に集積されていた為、火に焼かれるかアメリカの手に落ちていた。

 

 

*7

 日本は友好国(アメリカ)の直接管理下に無いチャイナ系の友好的緩衝国家を必要としていた事が、この約束の背景にあった。

 これはタイムスリップ後の人種問題の解決と言う側面があった。

 中国人問題である。

 韓国と並んで明確な日本の敵国であった中国の人間は、タイムスリップ後の特別措置での日本国国籍の特別付与から外されていた。

 特別な在留許可こそ急遽策定された臨時在留許可法によって与えられていたが、そこにはかつての韓国人/朝鮮人に与えられていた許可とは全く異なった自由の無いものであった。

 被選挙権も参政権も無いのは当然であったが、住居の自由や就業の自由も与えられていなかった。

 その上で、警察への定期的な報告義務が課せられると言う厳しい管理が行われていた。

 又、中国大使館も事実上の閉鎖状態に追い込まれていた。

 他の各国大使館が、自国出身の日本国籍特別取得者の取りまとめ役として維持されているのと対照的であった。

 これは、日本国籍の特別付与を前に大使館に対して行った強制監査によって、中国が日本国内で行っていた情報工作戦(アンダーグラウンド)の詳細を得た事が発端であった。

 一般に公表される事の無い事であったが、少なくない数の中国人及び中国シンパの人間が拘束され、処罰された。

 無論、内乱罪の適用である、

 又、併せて中国人が主として関わった組織には、破壊活動防止法の適用が行われた。

 日本政府は一切の容赦を行わなかった。

 同時にそれは、国家の庇護を失った人間の脆弱さを教えていた。

 一罰百戒の精神をもって中国人を遇した事で、日本国内の多くの()日本人に対し、日本人と日本への同化を促す効果があった。

 だがそれでも、中国人対策にはコストが掛かっている部分があった。

 日本への帰化を望み日本人以上に日本への忠誠を示す事を選んだ一部の人間 ―― 求められるのは忠誠のみならず、過酷な待遇への耐性もあった。

 帰化しても国政への参政権及び被選挙権は与えられず公職への就職も不可能となっており、一般の日本人と全く同じ権利を得るのはタイムスリップ後の日本生まれの世代からとされていた。

 しかも、微罪であっても、犯罪を行った場合には帰化権利の消滅を個人と5等親までの親族まで含まれると言う非常に過酷な待遇であった。

 だが、それでも尚、特別在留中国人と言う檻の中に居るよりも、日本人となる事を選ぶ人間は少なく無かった。

 これ程の管理が出来たのは、日本国内に於いて金銭の授受、取引をタイムスリップ後は完全に個人番号管理(マイナンバー)で行ったお蔭であった。

 そしてそれは、元をただせば中国本土で行われていた身元管理システムを模したものであった。

 ある意味で因果応報であった。

 兎も角。

 この様に支系日本人にもならない、問題の無い特別在留中国人の移民先として、友好的緩衝国家が必要とされたのだ。

 尚、特別在留中国人が移民する際は、資産や家財その他は一切持ちだし禁止であるが、相応の準備金が日本円で用意されるものとされた。

 記憶した事、未来情報の漏えいリスクは当然あったが、看過し得る範囲に収まるものと考えられていた。

 余談ではあるが台湾人に関しては、本省人は他の国籍者同様に扱われ、外省人に関しては中国人と同様に扱われた。

 この為、タイムスリップ時点で外省系台湾人として日本に帰化していた人間も臨時在留許可法によって監視対象に入れられる事となった。

 その事で国会議員の一部から憲法違反の声が上がっていたが、中国の情報工作戦の実態が判明するや、声を上げていた人間の多くが内乱罪に問われる事となり、批判の動きは沙汰止みとなっていった。

 

 




2020/09/25 文章修正
2020/10/03 文章修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

115 チャイナ動乱-25







+

 戦争再開から一週間も経ずして40万と号した大軍勢を失い黄河以北での優勢を喪失したチャイナは、その国家の体面に深刻な傷を負う事となった。

 敵であるアメリカの強大さよりも、チャイナ政府に()が無いのではないかとチャイナの一般大衆から思われる様になったのだ。

 対外戦争に於いて常に負け続けて来たが故の、ある意味で評価が蓄積した結果だった。

 しかも今回、この戦争は()()()()()()()()()? との期待もあったが為、失望がより深くなったと言う側面があった。

 だが、チャイナ政府は折れて居なかった。

 100万の軍勢で駄目なら200万の軍勢を宛てれば良い。

 200万で駄目ならば400万の軍勢を作り出せば良いとの剛毅な意見がチャイナ参謀団では幅を利かせていた。

 だが兵は兎も角として、黄河以北喪失の危機は重要都市である北京喪失に直結しかねない重大な事態であった。

 だがチャイナ政府は重要視してはいなかった。

 南京を首都とする現在のチャイナにとっての主要産業地帯は長江流域である為、歴史的要衝の都市を失う事による体面の問題はあっても、国家の死活問題には直結していない事も理由として大きかった。

 先端装備の主要生産拠点である山東半島(ドイツ租借地)近くまでアメリカが近づく事は厄介であるが、()()()()ドイツは好意的中立を維持しているのだ。

 ()()()()()()であれば問題は無いだろうとチャイナは判断していた。*1

 この為、チャイナ参謀団は貴重な機甲部隊を北京市近郊から更に下げる事を決定する。

 建前としては反撃用としての再編成であり、場所は華北平原南部の中心的地位を持った徐州とされた。

 これは比較的交通インフラの破壊を免れていた事も大きい。

 とは言え北京市から見て500㎞近く下げる事となる為、東ユーラシア総軍の矢面に立つ北京鎮護軍はその意図を誤解しなかった。

 この為、塹壕の構築を含めた陣地作成に血道を上げる事となる。

 尚、この決定に合わせて内モンゴル西方域にて東ユーラシア総軍第1軍と対峙していた第2北伐軍集団も後退が命令される事となる。

 この決定に慌てたのはチャイナ共産党である。

 チャイナ政府との共闘関係の約定を交わしてはいたが、チャイナ共産党軍は兵の数こそ居ても近代的な装備、重装備は勿論ながら無線などの通信機器や軍服まで事欠く有様で在り、完全に機械化されたアメリカの部隊と正面から殴り合える様な状態では無かった。*2

 この為、新編された東ユーラシア総軍第11軍*3は無人の野を行くが如く西進するのだった。

 

 

――東ユーラシア総軍

 第1次攻勢作戦(グッド・モーニング)の成功によって、アメリカは黄河以北のイニシアティブを握った。

 その優位性を生かす為、第2攻勢は第1次のソレを上回る全面攻勢が予定されている。

 目標は北京。

 目標は黄河。

 かつて中原とも呼ばれたチャイナの心臓部を掌握する作戦であった。

 第2次攻勢作戦平和への道(ロードローラー)、黄河以北の平穏を回復させる為の作戦であると嘯かれていた。

 この時点で東ユーラシア総軍は指揮下の部隊を4つの軍に分けて運用していた。*4

 正面から北京を目指す第2軍と第22軍。

 渤海沿岸部を一気に南下し、山東半島の孤立化を目指す第1軍。

 そして、対チャイナ共産党として西進を図る第11軍。

 その全てに十分な航空支援を行う用意をしていた。

 特に、チャイナの先端軍備の供給元と言って良い山東半島(ドイツ租借地)とチャイナの分断を任務とする第1軍には、チャイナ側が必死になって抵抗する可能性もある事を見越して、アメリカ海軍の全面支援が行われる予定となっていた。*5

 

 

――チャイナ共産党

 捨て駒の様な扱いを受けたチャイナ共産党では、チャイナ政府に対する反発が強いモノとなっていた。

 それは日々、己の領域へと迫りくる東ユーラシア総軍第11軍に対する恐怖の裏返しでもあった。

 重装備を失ったチャイナ共産党軍はゲリラ戦での抵抗を試みるが、戦場である南モンゴルの領域に於いてはチャイナ共産党軍こそが外部からの侵略者である為、民衆の支持を得られる筈も無く、各個撃破され一方的に狩られていた。

 潜るべき人民の海こそが、チャイナ共産党の敵となっているのだ。

 勝ち目などある筈も無かった。

 勢力を失い続けるチャイナ共産党。

 だが、不思議な事に末端の部隊は潰されても、指揮系統や中枢組織に被害は出て居なかった。

 敗走を重ねるチャイナ共産党は、その理由を考えるよりも生き延びる事に必死であった。

 散り散りとなって逃げるチャイナ共産党指導部、そこに日本が接触した。

 月餅(チャイナ・ビスケット)計画、日本とアメリカによるチャイナ分割工作の一環である。

 現地住民に成りすまし活動していた支那(中国)系日本人の情報工作員(エージェント)は、チャイナ共産党指導部の要人で、比較的穏健派と呼べる人物が孤立した所を拉致したのだ。

 目的は、安全な場所で日本とアメリカが()()する為であった。

 拉致された人物が選ばれた理由は、比較的穏健な思想を持つ事と、何より、上位者に絶対的に服従し行動する事の出来る性質を見込んでの事であった。

 交渉(脅迫)によって、上位者を共産党指導者からG4(ジャパン・アングロ)へと切替えさせようというのだ。

 そもそも、日本とアメリカの影響下にある国家としてチャイナ北部を統治させる組織としてチャイナ共産党が選ばれた理由は、それ以外のある一定の統治能力を持つ事が期待できる組織 ―― 軍閥が事実上の消滅状態にあった為であった。

 国家の運営とは一朝一夕で出来るものでは無いのだから、既存の組織で使えるものは使う。

 それが日本の認識であり、アメリカもそれを承諾した。

 とは言え、日本の情報からチャイナ共産党の悪しき部分、特にその指導者の厄介性が認識されていた為、現指導者と過激な思想の人間は排除(パージ)し、共産主義の看板を下ろして再出発をさせると言う前提であったが。

 その要求を、拉致されて来た要人 ―― 周恩来は幾つかの交渉の末に受け入れる事となる。

 これは、1つには日本とアメリカが新しい北部チャイナ国家に対して要求する事が、モンゴル、フロンティア共和国(マンジュ)東トルキスタン共和国(ウイグル)、そして将来的には独立したチベットも含めた()()()()()()()()だけであったと言うのが大きかった。

 日本にせよアメリカにせよ、新しい北部チャイナの国家を植民地や属国にしようと言う意図は無かったのだ。

 無論、国家運営に人材(アドバイザー)の派遣を行う話はあったが、それもあくまでもチャイナ人による自治を助ける為の手段であった。

 北部チャイナに新たに興される国家の役目は1つ。

 現チャイナ政府と対峙する事であった。

 この、日本やアメリカの支配下にある国家の安全を守る緩衝国家を欲し、その為の支援は惜しまないと言う話を受けて、周恩来はチャイナ人の政治勢力が排除されつつあるチャイナの北部域でチャイナ人の自治を守る為に交渉を受け入れたのだ。

 周恩来が要求を受け入れると同時に、新国家準備委員会が発足した。

 合わせて、日本が主体となって旧悪のチャイナ共産党指導部は抹殺される事となった。*6

 

 

 

 

 

 

*1

 無論、この様な甘い認識をアメリカが追認する様な筈も無く、アメリカは対チャイナ戦争の一環として山東半島の封鎖と無力化も検討していた。

 最も穏当な手段で、第三者組織である国際連盟安全保障理事会による査察と駐留。

 過激な手段では、ドイツによる戦争関与を理由にした占領が予定されていた。

 尚、ドイツへの憎悪を隠さないフランスは、山東半島の占領案をG4の連絡会で盛大にアメリカに提案していた。

 何ならそのままフランスは対ドイツ戦争を始めても良いと宣言する程であった。

 陸軍の動員等、フランスの戦争準備は万端とは言い難いが、それはドイツも一緒なので問題では無いという認識が在っての事であった。

 幾度もの改定が行われ、練り上げられた最新の1941年度改訂版対独戦争計画(ラファール・プラン)に、フランスはかなりの自信があったのだ。

 過激と言って良いフランスに対して、日本やブリテンは、事後が面倒くさいので宣戦布告無しに爆撃をするのは勘弁してくれと言う立場であった。

 どの国も、ドイツとの関係悪化や戦争を忌避しては居なかった。

 

 

*2

 当初はソ連から融通された戦車やチャイナから供与された旧式化した重装備を装備した部隊が師団規模程度には居たのだが、1941年の秋から冬にかけての冬期自然休戦期までの戦いで壊滅しており、再建の目処など何もないのが実状であった。

 この為、第2北伐軍集団の後退は、チャイナ共産党にとってチャイナの明白な裏切り行為であった。

 しかも、この時点で最悪な事にチャイナ共産党軍は小規模な部隊が乱立したゲリラ組織から連隊を基幹とした軍事組織へと再編成されていたのだ。

 指揮系統その他、直ぐ様に人民の海に潜る(ゲリラ戦体制へ移行する)事は難しかった。

 チャイナ共産党内部でチャイナ政府への怨嗟と憎悪の声が高まるのも当然の事であった。

 

 

*3

 2個師団1個旅団編成であった第11軍団を基に、6個師団規模の自動化師団主力の高速展開軍として創設された。

 その中には7000人規模ながら強引に師団の名を名乗る、南モンゴル独立軍第1義勇師団の姿もあった。

 新編された第11軍の目的は南モンゴル西方域の掌握 ―― 対チャイナ共産党軍対策であった。

 尚、これに歩調を合わせて日本は、その属国とも呼べる東トルキスタン共和国に対して軍事的なてこ入れを行っていた。

 独立後に編成された軍の練度が上昇していた為、MLシリーズの戦闘車両や航空機などを供与したのだ。

 特に重視されたのは偵察用の軽量航空機、ML-19であった。

 連絡/偵察機(ML-19)はSTOL性に優れており、何より簡素な機体で運用コストが抑えられており、国としての産業基盤に乏しい東トルキスタン共和国でも整備運用が出来る点で実に優秀な機体であった。

 供与(廉価リース)されたML-19のお蔭で、東トルキスタン共和国は国境線の管理能力を得る事が出来る様になった。

 これらの目的は、万が一にもチャイナ共産党がウイグルの地に逃れて再起を図る事が無いようにする為であった。

 日本とアメリカは、金床と金槌の役割を分担していた。

 

 

*4

 アメリカ本土からの2個師団の増派とフロンティア共和国軍の全面的な動員、そして世界中からの派兵を受けて東ユーラシア総軍は目覚め(グッド・モーニング)作戦開始時点で32個師団5個旅団へと大幅に拡大されていた。

 又、次善の宣言通りに装備の大盤振る舞いを行う事が実証された為、南米などの国家からも参戦 ―― 派兵の打診があった程であった。

 アメリカはそれらを全て受け入れる事を宣言していた。

 これは、ある意味で国費の濫費の様にも見えるが、アメリカからすれば本土の工場などが持つ余剰生産力の消費と言う側面があり、景気活性化策でもあった。

 フロンティア共和国へと安い人件費を求めて工場などが進出した結果、アメリカ本土の工場群は稼働率が低下気味であったのだ。

 そこに、大規模軍需と言う特需を与えるのだ。

 国家総力戦体制にならない範疇での軍備の大幅発注は、景気に対して良好な影響を与えていた。

 アメリカ大統領の支持率は、対チャイナ開戦以降の景気拡大と歩みを共にして上昇し続けていた。

 又、経済的な効果の他に、諸外国から将兵が来る事でアメリカの若者が血を流す危険性が低減するのだ。

 であれば、アメリカが多少の出費(準列強クラス国家の国家予算程度の出費)を厭う筈も無かった。

 

東ユーラシア総軍

 第1軍/11個師団

  第1軍団

   第11機械化師団(US)

   第1機械化師団(Fr)

   第3機械化師団(Fr)

  第12軍団

   第4機甲師団(Fr)

   第501機械化師団(Gs)

   第701機械化師団(Sr)

  第13軍団

   第14機械化師団(US)

   第2機甲師団(US) 

   第22機械化師団(Fr)

  第41軍団

   ポーランド第1戦車師団

   ポーランド第1機械化師団

 

 第2軍/8個師団 3個旅団

  第21軍団

   第7機械化旅団(Pc)

   第101義勇自動化師団(Nj)

  第23軍団

   第707自動化師団(Kr)

   第3機械化旅団(Pc)

   第24自動化師団(Fr)

  第24軍団

   オランダ第1自動化師団

   オランダ第2自動化師団

   オランダ第1戦車師団

  第25軍団

   第23自動化師団(Fr)

   第25自動化師団(Fr)

   国際連合軍第1旅団

 

 第11軍/7個師団 1個旅団

  第111軍団

   第2機械化師団(Fr)

   第21自動化師団(Fr)

   モンゴル第1義勇師団(Mo)

  第51軍団

   第27機械化師団(US)

   国際連合軍第2旅団   

   フランス第1自動化師団

   フランス第2自動化師団

   フランス第3自動化師団

 

 第22軍/6個師団 1個旅団

  第221軍団

   第101機械化師団(kr)

   第102機械化師団(Kr)

   第103機械化師団(kr)

  第222軍団

   第26機械化師団(Fr)

   第202自動化師団(kr)

   第204自動化師団(kr)

   国際連合軍第2旅団

 

 

US(アメリカ

Fr(フロンティア共和国

Gs(グアム共和国軍(在日米軍)

Sr(シベリア共和国

Kr(朝鮮(コリア)共和国

Pc(パルデス

Nj(北日本(ジャパン)邦国

Or(オランダ

Fc(フランス

Mo(モンゴル

 

 

*5

 第1軍の作戦は、チャイナの武器供給を削ると言う目的と共に、アメリカ海軍に対する名誉挽回の場の提供と言う役割も担っていた。

 1941年の戦いで、軽い気持ちで空母航空隊を投入し北京を狙った結果、チャイナの必死の防戦に敗れ敗退した事は、世界有数の戦力集団と言う自負のあったアメリカ海軍の面子を大きく傷付けた。

 故に、アメリカ海軍は東ユーラシア総軍(アメリカ陸軍)に対し、名誉挽回の機会を望んだのだ。

 アリゾナを旗艦とし、戦艦8隻と空母5隻を中心に編成された第5艦隊(TF-5)は、()()()()()全ての国家の海軍と戦う事の出来る大艦隊であった。

 又、そこには海兵隊も加わっていた。

 強襲部隊である第1海兵師団が、支援の為に準備されていた。

 作戦名は津波(ウォーター・ハンマー)

 アメリカ海軍は、海から第1軍の邪魔をする全てを叩き潰し、海洋国家の矛たる本懐(リヴァイアサンの何たるか)を示す積りであった。

 

 

*6

 グアム共和国軍(在日米軍)内の()()()を指導教官として作り上げられた日本の情報工作機関(トウキョウ・フーチ)は、その数々の明かす事の出来ない秘密作戦(アンダーグランド・オペレーション)の1つとして、SMS社の特務警備部隊(オメガ)を実行部隊として暗殺作戦を実行した。

 先ずは、支那系日本人の潜入工作官によって所在地を把握し、ステルス機(F-3戦闘機)による夜間空爆を実行し混乱させた所でオメガを投入。

 確実に抹殺する事に成功した。

 尚、この作戦に支那系日本人が排除されずに用いられている理由は、その置かれた環境の厳しさ故に、支那系日本人が一般の日本人以上に日本人らしく振る舞い、日本の利益を考えるが故であった。

 支那系日本人は朝鮮系日本人と共に、血を以って日本人の一員たる資格を示し続けていた。

 旧敵国民であると言う事は、重い(シリアスな)のだ。

 尚、余談ではあるが旧敵国民と言う点では露系日本人も()()であったが、彼らは何も考える事無くカニと鮭を売った金でアルコールを飲んでマヨネーズを喰って日本のサブカルチャーに耽溺し、普通に日本人になっていた。

 軍や官僚で栄達を図ろうと言う人間も居る事は居るのだが、大半の人々は呑気であった。

 或は、かつて世界の半分を支配下に治めていた国家の民は、面の皮の厚さが違っていたと言うべきか。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

116 チャイナ動乱-26

+

 チャイナ共産党指導部が一夜にして消滅し、その軍が瓦解した事はチャイナ政府にとって衝撃であった。

 軍が消滅し指導部が瓦解したのではなく、指導部が先に消えている(首狩り作戦が行われた)のだ。

 嘗て()()()()をしたジャパン系日本人将校団と言う、忘れたかった事も合わせて、恐怖していた。

 そして、チャイナ共産党指導部が消滅した流れの詳細を知るや慌てて、南京周辺の防空網強化に乗り出す有様であった。

 特に、ジェット戦闘機(FJ-2 ヴィーダシュタント・イエーガー)部隊は、南京市周辺にかき集める事が厳命された。

 これは蒋介石の自己保身もあったが、同時に、チャイナ経済界からの要求であった。

 アメリカの戦略爆撃によって物流が寸断され、混乱の一途を辿っているチャイナ経済がこのままでは破綻すると泣き付いて来たのだ。

 チャイナ経済の混乱は、冬期自然休戦期当初から発生してはいた。

 だがその頃は、戦争の為であり民族の試練だなどと宥め賺し、そして冬期自然休戦期が終わっての戦いでアメリカに一撃を食わせれば爆撃は止まると言って収めていたのだ。

 それが、ふたを開けてみれば黄河以北の事実上の喪失である。

 アメリカの爆撃だって止む様子は無い。

 戦争が終わる様には見えない。

 であれば、戦争の遂行に必要な経済 ―― 軍需の生産を安定して行えるだけの協力を経済界に対して政府は図るべきである! とチャイナ経済界から主張されては、チャイナ政府として拒否できる筈も無かった。

 元々、決戦に向けた戦力維持の観点から出撃が行われる事の無かったFJ-2戦闘機であったが、南京周辺にかき集められる事となり、チャイナ人がその姿を見る事は稀となる。

 厳重に隠蔽された掩体壕の中で翼を休める抵抗戦闘機(ヴィーダシュタント・イエーガー)の姿に、搭乗員たちは言い知れぬ感情(敗北の予感)を味わっていた。

 だが南京だけに戦力を集めた訳では無い。

 後退していた機甲部隊に、周辺で訓練なりをしていた長江総軍の部隊をかき集めて第1集成山東軍集団を作り上げ、東ユーラシア総軍第1軍の南進の阻止に動いていた。

 戦車等の先端装備を製造する山東半島(ドイツ租借地)が包囲、孤立化されては、チャイナの軍はそう遠くない日に、石器時代に戻ってしまう危険があった。

 Ⅲ号戦車C型にせよFJ-2戦闘機にせよ、アメリカの最新装備と比較すれば劣るものではあったが、それでも抵抗は出来るのだ。

 又、昨年からは150㎜榴弾砲の製造も始まっているのだ。

 それらが失われれば、抵抗など出来なくなってしまう。

 山東半島の孤立は、何としても阻止せねばならぬ重大事であった。

 この為、1943年を象徴する様な、北京市の包囲戦よりも激しい黄河の戦い ―― 最終的な決戦の場所から泰山会戦と呼ばれる戦いが発生する事となる。

 

 

――泰山会戦 ステージ0

 黄河を基準に第1集成山東軍集団は第1の防衛ライン構築に励んだ。

 河の土手に陣地を構築し、渡河を図るであろう東ユーラシア総軍第1軍に痛打を与える積りであった。

 逆に言えば、第1軍がいまだ進軍して来ていない黄河以北の地も全て見捨てるのだ。

 天津市などの大都市も200㎞近い土地も、全てを放棄する事としていた。

 通常であれば遅滞戦闘の1つも行うべきであったが、遮蔽物の乏しい平野で、制空権も無い状況で、練度がお世辞にも高いとは言い難い第1集成山東軍集団で出来る作戦行動では無かった。

 故の、黄河防衛線なのだ。*1

 練度が低く、装備も乏しく、陣地構築に必要な部材もロクに持たない第1集成山東軍集団であったが、黄河の土手を利用すれば十分な塹壕、防衛陣地が構築できると言う計算であった。

 エンジン不調などで動けぬⅣ号戦車などを埋めて、トーチカともしていた。

 撃破された戦車から回収した戦車砲なども据え付けて運用する準備もしていた。

 又、徴発した漁船に武装を施し、臨時の戦闘ボート部隊も作った。

 戦闘機部隊も可能な限りかき集められていた。

 これらの事が出来たのは、言ってしまえば黄河以北の地を()()()()お蔭であった。

 チャイナ参謀本部は落ち気味の国民と軍の戦意を高める為、大黄河要塞防衛線と命名し公表していた。

 又、黄河流域の住民も、その要塞防衛線の造成に動員していた。

 チャイナ大団結造成動員隊の名前で動員されたのは、老若男女を問わぬ、約10万近い人々であった。

 家から持ち寄った道具などで要塞防衛線を造成する積りであった。

 しかも、戦闘となれば人民義勇部隊と改称し、そのまま戦闘部隊に組み込む事も予定されていた。

 だが、その予定は果たされなかった。

 造成の前に、動員が完了するよりも前に第1軍が黄河流域へと到達した為、チャイナ大団結造成動員隊の編成は中止され、人民義勇部隊として発足したのだった。

 とは言え与えられるべき武器が碌に届いていない為、クワやシャベルを片手に塹壕の中に籠るのが精一杯と言う、戦闘部隊とは名ばかりの部隊であったが。

 対する第1軍。

 こちらは11個師団と比較的小規模ではあり、兵力も20万に満たないのだが、その全部隊は機械化されており、戦車師団も3個を含んでいた。

 又、チャイナが要塞防衛線の構築を始めたと言う偵察結果を受けて更に2個のミサイル砲兵旅団、M-1MLRS部隊の増派を受けていた。

 頭数(チャイナ)質と数(アメリカ)の戦いが、ここでも再現されようとしていた。

 

 

――南チャイナ

 チャイナの苦境は南チャイナにとって福音であった。

 一応は停戦状態にあるとは言え、事が済めば征服に来るのは目に見えていた為、チャイナが疲弊し、外征能力を喪失する事は、南チャイナを国として纏める好機となるからだ。

 とは言え、今現在で南チャイナが支配している領域の経済力では、如何に時間的余裕を得ようとも、チャイナの軍勢に抵抗できる軍を作り上げる事など不可能であった。

 自ら不可能であれば、策略をもって行う。

 チャイナ人らしい考えで(自分の都合で諸外国を見て)動き出した。

 先ずは、チャイナと戦争をするアメリカに接触した。

 要求したのは国家承認と武器の提供である。

 これにアメリカは、国家承認こそ約束したが武器の提供は拒否した。*2

 南チャイナは次に日本との交渉を図ったが、日本は民族自決と独立国家の内政への不干渉の原則により、国家として確立していない南チャイナと接触する事は出来ぬと接触すら拒否していた。

 チャイナ分割工作(チャイナ・ビスケット)を知る人間であれば、どの口が言うのかと思う理屈(建前)であったが、建前(綺麗事)として見事である為、南チャイナに出来る事は無かった。*3

 この事で凹む事無く南チャイナは他のG4にも声を掛けた。

 フランス領インドシナ(ベトナム)での独立戦争で対峙していたフランスは日本以上に拒否していた。

 最後は武力衝突の無いブリテンであったが、此方は香港の目の前に軍閥を作りたくないと言う素直な感情に従って、社交辞令に終始して援助だの支援だのの言質を一切与えずにいた。

 このG4の態度によって国際連盟加盟国の殆どは、南チャイナとの外交に乗る事は無かった。

 只1国、ソ連を除いて。

 ソ連は南チャイナの動きをみて、自ら接触して来ていた。

 ()()()()をしたチャイナ共産党に代わって、チャイナの大地でG4への嫌がらせを出来る尖兵を欲したが故の行動であった。*4

 ソ連からの支援によって、南チャイナは国家としての体裁を整えていく事となる。

 尚、ソ連から武器輸出の対価として南チャイナの地で共産主義への()()を深める事を要求されたが、そちらは全て拒否し(聞き流し)ていた。

 南チャイナの要人にとってソ連など、独立をする為に必要だから頭を下げるフリをしただけの相手であったからだ。

 ソ連と南チャイナの関係は、ある意味で似通った国家の協力であった。

 

 

――北京市攻防戦

 積極的な攻勢が望まれている東ユーラシア総軍第1軍に対し、北京市攻略部隊に要求されるのは時間を掛けた攻勢であり、別種の難しさがあった。

 全力攻撃を仕掛ければ1週間も経ずして北京市を灰燼の野へとするのは容易いのだが、後を考えての事であった。

 政治の要求である。

 北京市を孤立させて籠ったチャイナ軍部隊を疲弊させ、同時に北京市のチャイナ人の心をチャイナ政府から離し、新しいチャイナ北部の国家へと忠誠を誓うように仕向けようと考えていたのだ。

 又、可能であれば北京市のみならずチャイナ全土の人間の心をへし折りたいとも思っていた。

 故に、アメリカはマスコミの前線部隊への帯同を許していた。

 そして同時に、北京市のみならずチャイナ全土へと北京市防衛部隊と攻略部隊の戦いの詳細を、ビラに写真付きで載せてばら撒いていた。

 ビラには、併せてアメリカとの和睦を訴える内容も記されていた。

 情報戦である。

 チャイナ政府が可能な限り隠していた、チャイナがアメリカに一方的に敗れていると言う情報は、チャイナの一般大衆に衝撃を与える事となる。

 無論、それをチャイナ政府はアメリカの謀略であると訴えるが、戦意の様相を間近で見ている北京市の人間は、それを素直に受け取る事は無かった。

 そもそもアメリカの優位さは、北京市のチャイナ人の胃袋が強く主張していた。

 包囲され生活物資の流入が止まった北京市。

 しかも北京市内に備蓄されていた食料や燃料などは、保管していた倉庫が精密な爆撃によって甚大な被害を出しているのだ。

 無論、各家庭で備蓄されていた分や家庭菜園もあるので、即座に飢餓状態に陥る訳では無いが、それでも包囲されて1週間も経ぬ内に、北京市住民の戦意は衰えていく事となる。

 又、アメリカはチャイナ系アメリカ人を北京市に潜伏させており、そこからの情報もビラに載せる事でチャイナ側に、疑心暗鬼を生じさせようとしていた。

 政治的な目標へ軍事が乱れずに進んでいるアメリカ側に対して、チャイナ側は混乱があるのみであった。

 黄河以北の地を諦めると言う消極的決断こそ成されてはいたが、では北京市はどうするのか。

 軍はどう動くべきなのか。

 北京市で抗戦するとして、どこまで抵抗すれば良いのか。

 何時まで抵抗すれば良いのか。

 チャイナ参謀団では誰も、提示する事が出来なかったのだから。

 それは蒋介石でも同じであった。

 黄河の戦いの助功として北京市が抵抗する事は望まれていたが、それ以上の事は何も定まっていなかったのだ。

 ある意味で、誰もが北京市の陥落が、黄河以北の喪失を決定づけると言う現実を直視できないが故の事態とも言えた。

 北京市の状況は、ただ只管に悪化の一途を辿る事となる。

 

 

 

 

 

 

*1

 チャイナ参謀団では、この黄河以北の防衛放棄に対して、せめて食料燃料などを徴発して焦土作戦をするべきではないかとの声も上がった。

 だが、今の第1集成山東軍集団の練度と装備では、()()を行っている最中に第1軍に捕捉撃滅される可能性が高い為、放棄された。

 只、天津市などの食糧庫などへの放火などは指示されたが、此方は現地の警察組織や自警団の手によって阻止されていた。

 ある意味で、チャイナは天津市などを見捨てる前に、天津市()()見捨てられていた。

 尚、この一連の話の中で、天津市などの市民の避難などの事がチャイナ参謀団で検討される事は無かった。

 

 

*2

 南チャイナとの交渉開始当初のアメリカ政府は、南チャイナを敵の敵は味方と言う理屈によって受け入れて、軍事的経済的な大規模援助を検討していた。

 これはアメリカの大統領が比較的中国に対する理解(シンパシー)があった事も理由でもあった。

 だが、アメリカ大統領が前のめりになりつつある事を危惧したホワイトハウスの国務(外交)スタッフが、この交渉がある事をグアム共和国軍(在日米軍)にリークした事で流れが変わった。

 グアム共和国軍(在日米軍)は本気になって止めた。

 その上で日本も詳細を伝え、助言を求めた。

 国外への情報漏洩とも言えるが、そこは建前としてチャイナ分割工作(チャイナ・ビスケット)に関する情報伝達と言う体を取った。

 そして知らされた日本は、真顔(ガチ切れ)で止めに出た。

 敵の敵は味方では無い、()()()()()()()()なのだ、と。

 日本とグアム共和国軍(在日米軍)説得(説教)()()を試みたアメリカ大統領であったが、南チャイナを支援した結果、南チャイナがチャイナを取り込んで強大な国家へと成長する可能性があると言われれば、反論するのも難しかった。

 又、今のチャイナとの戦争もアメリカの楽観主義が原因だと言われてはぐうの音も出なかった。

 これを機とし、ホワイトハウス関係者や情報分析官も必死になってアメリカ大統領の翻意を促した。

 ホワイトハウス政策スタッフの一部からは日本からの内政干渉ではないかと言う声(日本への感情的反発の声)も上がったが、最終的には南チャイナ支援反対派が大統領を説得する事に成功する。

 それは大統領にも影響力を持った、ホワイトハウスの外の知識層 ―― 知チャイナ派(≠親チャイナ派)のチャイナ研究者の分析(レポート)も大きな役割を果たしていた。

 

 この為、南チャイナへの支援は()()()()()()()()()()()()()()()()とされ、食料や衣料品などの()()と、チャイナとの戦争終結後の国家承認に留まる事となった。

 

 

*3

 日本の本音は、如何にチャイナ分割工作(チャイナ・ビスケット)を実施中とは言え、面倒くさい理屈を掲げた大アジア連帯(グレート・アジア)主義者の残党で、しかも北日本(ジャパン)のジャパン帝国軍崩れの連中を使った相手に協力する積りは無いと言うものであった。

 南チャイナが独立する事は容認できるが、この大アジア連帯(グレート・アジア)主義にチャイナで大きい影響力を持たせる事は危険であると認識していた結果であった。

 

 

*4

 南チャイナが消極的に対峙するチャイナはソ連の同盟国であるドイツの友好国であったがソ連も、そしてドイツですらも気にする事は無かった。

 ソ連にせよドイツにせよ、チャイナとは歴史があるだけのアジアの田舎者(未開人)であり、主要国(ゲームプレイヤー)にも成れぬ栄養分(商売相手)でしか無かったからだ。

 後にソ連と南チャイナの連帯を知ったチャイナは、ドイツを介してソ連に抗議しようとするが相手にされる事は無かった。

 その事に、自国の立ち位置を知った蒋介石は痛飲する事となる。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

117 チャイナ動乱-27

+

 アメリカ海軍大西洋艦隊(第2艦隊)は鬱屈の日々を送っていた。

 冬期自然休戦期が終わってからの活躍が著しいユーラシア方面の陸軍、そして昨年の屈辱を晴らすが如く暴れている極東艦隊(第5艦隊)に対し、通商破壊艦鄭和の足取りを捕捉する事に失敗し続けていたからだ。

 幸いなことに大西洋にせよインド洋にせよ太平洋にせよ、アメリカ船籍の船舶に被害 ―― 消息不明となる事件が発生していないので、第2艦隊司令長官の責任を問われる事態にまで発展はしていないが、それでも第2艦隊に関わる人々は心中穏やかでは居られなかった。

 この為、第2艦隊は訓練や休息、果ては整備のスケジュールまでもを蹴り飛ばす勢いで()動する艦を根こそぎ大西洋に解き放ち、鄭和を探していた。

 アメリカの国務省にも働きかけ、G4のみならず国際連盟加盟国にも捜索への協力をお願いしていた。

 だが、鄭和はおろかその影すら見つける事は出来なかった。

 少なくとも1942年度では。

 

 

――偵察巡洋艦 ミルウォーキー

 1942年が終わりを迎えようとする頃、第2艦隊司令長官は大きな要求を突きつけられる事となった。

 所属する全空母の、第5艦隊への供出である。

 目的は第5艦隊に空母を集中配備し、空母機動部隊を創設する事であった。

 突飛な発想と言う訳では無い。

 元より、空母の集中運用と言う概念はグアム共和国軍(在日米軍)を経由して効率的な空母運用構想(太平洋戦争の戦訓)は得ていた。

 それが今まで行われていなかった理由は、アメリカの仮想敵 ―― チャイナにせよドイツにせよ貧弱な海上戦力しか有していない事が理由だった。

 集中運用する空母の圧倒的打撃力よりも、分散運用した空母による広域哨戒能力が重視されていた事が理由だった。

 空母はおろか戦艦、重巡洋艦すらロクに保有していないのだ、言ってしまえば敵足り得なかったのだ。*1

 それが、北京市を巡る航空戦の結果、変化する事となる。

 水上戦力に敵は居らずとも、陸上は違う事が判明したのだ。

 特に攻勢の場合、或は敵の重要防御拠点を正面から殴り飛ばす場合、やはり空母は集中して運用されるべき ―― そうアメリカ海軍上層部は判断したのだ。

 とは言え、第2艦隊側からすればたまったものでは無い。

 空母の、航空機の持つ広域哨戒能力が一挙に奪われる事となるからだ。

 巡洋艦などが保有する水上機は残っては居るが、母艦への回収などで手間のかかり過ぎる事、そして洋上の状態(シー・ステート)にかなり拘束される為、外洋に於ける水上機の広域哨戒能力は空母艦載機に比べて劣っているというのが現実であった。 

 故に第2艦隊司令長官は、代わりとなる艦の早期配備を要求する事となる。

 哨戒巡洋艦(パトロール・クルザー)、ミルウォーキーだ。*2

 就役前ではあったが、艤装は終えており装備の最終試験中であったミルウォーキーは、艦載機部隊として先行量産型のF/VP-1哨戒戦闘機*3の評価試験部隊が、現場での試験と言う名目でミルウォーキーに乗り組む事となり、第2艦隊へと編入されたのだった。

 これは、状況の緊急性と言うよりも第2艦隊司令部の腹いせであった。

 様々な経緯を経て北大西洋に投入されたミルウォーキーであったが、第2艦隊の現場からは概ね歓迎されていた。

 空母と言う空からの目を奪われた第2艦隊の哨戒手段は、速力と航続力のバランスから主に軽巡洋艦、それも新鋭と言って良いアトランタ級やブルックリン級では無く旧式化著しいオマハ級が担っていたのだ。

 これは別段に第2艦隊が軽視されていたからでは無い。

 アトランタ級軽巡洋艦も配備はされていたのだ。

 だがアトランタ級が()()()()を重視した一種の防空巡洋艦であり、空母の直衛艦を担っていた為、空母と一緒に第5艦隊へと抽出されていたのだ。

 代替艦に関してアメリカ海軍上層部も早期に手配する事を約束してはいたのだが、如何せんアメリカ海軍全体が名誉挽回の為にと第5艦隊へ手厚く支援をせねばならぬ状況では、簡単に履行できる事では無かった。

 故に、ミルウォーキーは歓迎されたのだ。

 鄭和を発見し、そして必要とあらば独力でも撃破出来る力を持ったミルウォーキーは、第2艦隊の希望でもあった。

 だが、それでも鄭和を発見する事は叶わなかった。

 

 

――装甲艦 鄭和

 バルト海で訓練を積んでいた鄭和は、冬を迎える頃には艦の各部に幾多もの故障を抱える事となっていた。

 竣工がまだどころか、各部の試験も受けていない完成前の状態であったのだ。

 ある意味で当然の結果であった。

 又、艦の活動費用の問題も重くのしかかりつつあった。

 重油もだが食料、水もタダでは無いのだから。

 この事もあって鄭和は1942年の末には訓練をするどころでは無くなっていた。

 又、冬のバルト海の気候が厳しいと言うのもあった。

 この為、友好国であるソ連に避難し、冬を越す事となる。

 そこで問題となったのが活動費用である。

 特に問題なのは、ソ連の重油価格が高止まりしている事である。*4

 重油が無ければ艦の運航どころか、冬は艦内での生活環境維持にまで重大な影響を及ぼす事になる。

 そして、重油の調達に予算が取られると、今度は食料の調達にも甚大な影響を及ぼす。

 及ぼしているのが鄭和の現状であった。

 如何にして、この難局を乗り切るのかと艦長から将校下士官一兵卒までもが頭をひねる事となる。

 最終的に、鄭和の乗組員はソ連の地で自活に勤しむ事となる。

 屋台だ。

 鄭和に必要最小限度の人間を残し、買い出しをし、この東ヨーロッパではまだ珍しいチャイナ料理の露天だ。

 その上でチャイナの在外公館を通して、鄭和の運航費をチャイナ本国に要請するのだった。

 アメリカ海軍が鄭和を必死になって探しても見つけられない理由は、ここにあった。

 大西洋、北海、バルト海にすら出ていないのだ。

 見つけられる筈も無かった。

 

 

 

 

 

 

*1

 ドイツは戦艦も空母も保有していたのだが、アメリカから見てそのいずれもが大きな脅威ではなかった。

 日本からの未来情報によって、その詳細な設計情報を得ていた事が理由である。

 第1次世界大戦の頃の設計に現代風の皮を被せただけの戦艦や、実験艦の延長を脱する事の出来ない空母。

 装甲艦の評価も低くされていた。

 1万t級と軽量であるにも関わらず戦艦級となる大口径砲を備え、そして自艦の主砲直撃に耐える力を与える脅威の設計力 ―― そんなモノをドイツが持っていない事を理解したからだ。

 それどころか火砲に重量を奪われ、軽巡洋艦並みの装甲しか持たぬのだ。

 対処する戦力は必要だし甘く見るのは危険であったが、同時に、大きく恐れろと言うのも無理があった。

 

 

*2

 ミルウォーキーは、アメリカが外洋での装甲艦や仮設巡洋艦などによる通商破壊戦へ対応する為に計画したキティホーク級哨戒巡洋艦の2番艦であった。

 18,000t級と言う従来の巡洋艦を遥かに超える巨体を持ち、8in.3連装砲を3基有する点だけを見れば単なる大型重巡洋艦であるのだが、キティホーク級はその3基の砲塔を艦前方に集中配置させていた。

 これは防御区画の短縮と言うのが目的ではない。

 その艦級名に加えられた哨戒(パトロール)の役割の為、従来の1万t級とは別格の航空機運用能力が付与されていた。

 艦後部に大型の格納庫と飛行甲板を持ち、7機の()()()()()()が運用できる様に設計されていた。

 又、特徴としては主機にディーゼルエンジンを採用したと言うのが大きい。

 これは通商破壊艦を探して長期間、洋上で活動できる様にする為の選択であった。

 1番艦であるキティホークはアメリカ製のディーゼルエンジンが採用され、2番艦であるミルウォーキーには日本製のディーゼルエンジンが輸入され採用されていた。

 これは、技術試験と比較と言う意味合いよりも、キティホーク向けに開発した大型船舶用のディーゼルエンジンの実用化が難航していた為に行われた、ある種の非常対応であった。

 アメリカ海軍は、主機の輸入と言う選択をする程に通商破壊艦を警戒していた。

 尚、1番艦であるキティホークでは無くミルウォーキーが第2艦隊に配備された理由は、ディーゼルエンジンの問題であった。

 船舶用の大型高出力ディーゼルエンジンの実用化は、日本と言う見本をみて長足の進歩を遂げたアメリカであっても困難であったからだ。

 最終的に、キティホークと3番艦オーガスタ以外の同型艦8隻は、全て船舶用ディーゼルエンジンを日本から輸入し搭載する事となる。

 

キティホーク級哨戒巡洋艦

 

【挿絵表示】

 

 主砲:8in.3連装砲  3基

 両用砲:5in.連装砲  4基

 速力:33ノット

 主機:ディーゼル

 艦載機:垂直離着陸機 7機(+補用2機/部品状態で搭載)

 

 

 計画当初は対潜も考慮の上でヘリコプター搭載が考えられたが、実用的な対潜と哨戒が可能な機体は、早期の実用化は困難であり、日本からの輸入も不可能であると判断された結果、エンタープライズ社製の垂直離着陸機が採用される事となった。

 

 

*3

 F/VP-1哨戒戦闘機はエンタープライズ社が2番目に開発した航空機であり、同社はF/A-3戦闘攻撃機(F-10戦闘機)に次いで本機を開発した事により、やや特殊なデザイン(謙譲表現)ながらも確たる航空機メーカーとしての地位を確立させる事となる。

 F/VP-1哨戒戦闘機の開発は、当初、アメリカが行っていた実用的哨戒ヘリコプター開発計画(マルチコプター・プロジェクト)が発端であった。

 日本が運用する各種ヘリコプターの能力に惹かれての事であったが、如何にアメリカとて哨戒任務にも使えるレベルの飛行性能を持ったヘリコプターの開発は不可能であった。

 自社の技術を把握する各アメリカ航空機メーカーは、アメリカ海軍から構想レベルの話を聞いた段階で降りる有様であった。

 これでは哨戒巡洋艦が、その武器を得られないとアメリカ海軍は大きく慌てた。

 最悪の場合には水上機を搭載する事も検討しつつ、何とか新型機開発の道を探した。

 そして、アメリカ空軍向けで日本の技術も導入してF/A-3戦闘攻撃機を納入したエンタープライズ社に目を付ける(泣き付く)事となる。

 エンタープライズ社では当時、F/A-3戦闘攻撃機の開発が一段落していた為、アメリカ海軍の要請を受けることを選択する。

 そして、社内検討の結果、ヘリコプターよりも垂直離着陸機の方が、アメリカ海軍の欲する飛行性能を実現可能であると返答した。

 この回答に喜んだアメリカ海軍は、その場で試作機の開発を発注する程であった。

 発注を受けたエンタープライズ社には腹案があった。

 空力などの基礎設計まで行っていた偵察攻撃UAV、その有人機化である。

 これは日本連邦統合軍が進めていた戦闘ヘリの更新計画、前線経空攻撃偵察ユニット計画(スーパーチョッパー・プロジェクト)に向けて用意していたものであった。

 残念ながらエンタープライズ社の案は1次選考で落選していたが、そのお蔭で転用できるという部分があった。

 日本防衛総省にも確認し、了解を得て開発に着手する事となる。

 哨戒をする為の長い航続距離。

 巡洋艦クラスの船体でも運用できる垂直離着陸性能。

 迎撃を受けた場合には自衛できるだけの格闘性能。

 無茶な要望ではあったが偵察攻撃UAV(社内プロジェクト名:フライングパンケーキ)には要望に応えるだけの能力があった。

 只、問題は日本製の先進的鋼材、繊維素材を使えばと言う但し書きが付く事だったが。

 機体制御にも電子機器を必要としていた。

 これが面倒くさい問題を引き起こす事となる。

 建前としてあった、アメリカが自国(グアム特別自治州)内の企業に発注したと言う形式では、今度は日本側の先端技術物資輸出規制に引っ掛かってしまうのだ。

 国内(グアム共和国)なら兎も角、海外(グアム特別自治州)であっては、制限を掛けざるを得ないのだ。

 政治的な問題であった。

 アメリカ海軍は全力で政府に泣き付き、付き合いの深まっていた海上自衛隊にも泣き付き、解決の糸口を探した。

 最終的に、日本とアメリカの政府が折衝を行い、F/A-3戦闘攻撃機と同様に全量を日本連邦内で製造し輸出すると言う事で決着する事となる。

 そこに所属の問題などは一切記されておらず、ただ売却に関する契約が行われていた。

 正しく政治(玉虫色の決着)であった。

 政治的な問題は兎も角として、技術的には順調に開発された垂直離着陸機は、開発開始から半年も経ずして試験機が完成し、日本連邦統合軍やアメリカ海軍関係者にお披露目された。

 まるで円盤の様なその独特のデザインに、日本連邦統合軍関係者は本気で作りやがったと呆れ、そしてアメリカ海軍関係者は絶句していた。

 そしてアメリカ海軍関係者は、実際に飛行してみせた際の試験機の性能にさらに絶句していた。

 ジェット戦闘機程では無いが、ジェット戦闘機と比較できる水準の飛行性能を持った垂直離着陸機と言う時点で規格外の性能なのだ。

 ()()のデザイン的特異性など気になる筈も無かった。

 その場で、実用機の開発が熱望される事となる。

 これ程にとんとん拍子に開発が進んだ理由は、エンタープライズ社の能力ではなく、技術協力を求められる他社 ―― 日本の航空機開発技術者の層が厚くなった事と、何よりスーパーコンピューターなどによるシミュレーション技術の向上があった。

 第4世代級ジェット戦闘機クラスともなれば簡単では無いが、それ以前の水準の性能であれば比較的余裕で開発するだけの基盤が、日本にも出来上がっていた。

 その恩恵が出た形である。

 こうしてF/VP-1哨戒戦闘機は、そのデザインからは信じられない程に順調に開発され、配備された。

 

 

*4

 対日防衛軍備の拡張に必要な産業の振興に必要な資金を資源輸出に頼っているソ連は、ドイツに向けて原油を売りつけ続けていたのだ。

 その結果、民需分まで輸出に喰われる形となってしまい、ソ連国内で流通する石油量は所要の7割程度にまで落ち込む有様であった。

 重工業を発展させる為の施策が、重工業を含むソ連の民需を圧迫すると言う本末転倒の状況に陥っていた。その事をスターリンを含めてソ連上層部も理解していた。

 理解していて尚、日本への恐怖が民需を殺してでも国防に国力を注ぎ込ませていた。

 それ程に日本を恐れる理由は、毎年毎年に日本連邦統合軍がシベリアの国境地帯で行っている軍事演習の影響もあったが、それ以上に日本の民需 ―― 一般市民の経済力に対する恐怖であった。

 ソ連とシベリア共和国/日本が対峙するノヴォシビルスク、オビ川で分断された市街は東西で残酷な程の差が出来ていた。

 シベリア共和国独立当初は差が無かった。

 だが、シベリア共和国が日本連邦に加盟して以降は急速に高層ビルが立ち並ぶようになり、鉄道や道路の整備が推し進められ、不夜城の様に煌々と街明かりが灯り続けるようになった。

 対してソ連も国の面子をかけ、金に糸目を付けぬ勢いで西ノヴォシビルスクの発展を進めるのだが、勢いでも華やかさでも追いつけずにいた。

 正しく国力の差であった。

 その差をソ連の人民も良く判っていた。

 良く判った上で行動していた。

 それは、シベリア共和国との国境線に配置されているソ連軍部隊の役割が、日本連邦統合軍 ―― 日本帝国主義者から国を守るよりも、シベリア共和国での生活に憧れた人民の流出を阻止する方向へと変わりつつある程であった。

 

 




2020/11/03 文章修正
2020/11/23 挿絵挿入


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

118 チャイナ動乱-28

+

 後に泰山会戦と呼ばれる一連の戦いは、東ユーラシア総軍第1軍が黄河に到着するよりも先に、先ず水上(黄河)を巡る形で始まった。

 河口部をアメリカ海軍艦艇が掌握したが、チャイナ側は黄河に於いて漁船を武装させた軽量快速の戦闘ボート部隊を持ち出して抵抗した。

 チャイナが抵抗を続ける事が出来た理由は、航空戦力の状況にあった。

 常に3隻もの空母を黄海に展開させ続けているアメリカ海軍は黄河周辺での航空優勢を握ってはいたのだが、それは盤石と呼べる水準には無かった。

 3隻の空母では、常に空に飛ばせる航空機は50機にも満たないのだ。

 これではチャイナの航空部隊を数で圧倒する事は難しかった。

 加えて、チャイナの戦闘機部隊パイロット達の献身があった。

 何より航空機の質で抵抗出来ていたと言うのが大きい。

 貴重なジェット戦闘機(FJ-2)こそ投入してはいなかったが、FC-1戦闘機の最新モデルであるA型*1を装備した精鋭部隊が配備されており、アメリカの2000馬力級エンジンを搭載した空母艦載機であっても自由な行動を許さなかったのだ。

 又、チャイナ側が泰山周辺に航空基地を急造して、航空部隊を集中して運用している事がチャイナ側に数の上での優位を与えていた事も大きかった。*2

 この様に空からの脅威が限定されている事が、チャイナの戦闘ボート部隊に活躍できる余地を与えたのだ。

 戦闘ボート部隊は黄河付近の東ユーラシア総軍第1軍部隊に攻撃を加え、或は夜陰に乗じて少数の部隊を上陸させるなどの活躍を見せていた。

 だがアメリカとて無策では無い。

 黄河流域での戦闘に備えて哨戒魚雷艇を用意していたのだ。

 戦闘ボート部隊が活動を開始する事に遅れること2日で、アメリカは魚雷艇母艦と浮きドック艦からなる部隊を黄河近海に進出させ特設基地を設営してみせた。

 熾烈な黄河を巡る戦いが発生する。*3

 

 

――泰山会戦 水上ステージ

 黄河を巡る水上戦闘は主に昼の戦いであったが、常にアメリカ側が圧倒的に優位であった。

 チャイナには地の利と数こそあったが、その装備が違い過ぎていたのだ。

 所詮は漁船改造で小型な戦闘ボートである為、対哨戒魚雷艇に使える武装は無理矢理に付けた7.92㎜の機関銃が精々であった。

 大型の戦闘ボートの一部は大威力を持った8.8㎝ロケット対戦車砲を搭載していたのだが、火砲の不足が祟って搭載した戦闘ボートは極々限られていた。

 これでは、戦いにならぬと言うのが正直な話であった。

 数によって撹乱し、抵抗は可能であったが、戦闘が始まって2日もすれば、誰の目にも勝てる見込みのない戦いと判る有様であった。

 この状況を打破する為、戦闘ボート部隊の指揮官は、積極的な逆襲を上申した。

 アメリカの哨戒魚雷艇の特設基地を襲撃しようと言うのだ。

 その為に魚雷艇部隊が全滅して以降、死蔵状態であった533㎜魚雷を無理矢理に戦闘ボートの艦首部分に搭載していた。

 照準装置など無く、真っ向から突き進んで射程に入ったら発射、離脱すると言う荒っぽい作戦であった。

 問題は、黄河河口部にあった。

 アメリカが、この手の戦闘ボートによる反撃を阻止する為、河口海域一帯を封鎖していたのだ。

 ロープを組み上げただけの対小型艇網であったが、その効果は確実 ―― 無策で突っ込めばスクリューが巻き込んで行動不能になる事が予想されていた。

 陸上からの偵察でその事を把握した戦闘ボート部隊指揮官は、果断な策を選択する。

 陸を超えていくのだ。

 元より、小型の漁船が基となった戦闘ボート、偵察機の飛ばない夜に台車にのせて河口部へと移動し、翌日の夜間、決戦を仕掛けるものとした。

 この動きをアメリカは察知しきれなかった。

 戦闘ボート部隊の活動が低下した事自体は現場からの報告で察知していたが、その理由を連日の戦闘による戦闘部隊の疲弊、そして戦意低下と判断していたのだ。

 それ程に哨戒魚雷艇と戦闘ボートの戦い(キルスコア)は圧倒出来ていたのだ。

 1943年に入ってからの連戦連勝によってアメリカは、チャイナ兵は弱腰であり、弱気であり、戦意に問題を抱えていると認識する様になってしまっていたのだった。

 だが実際のチャイナ兵は、戦意ある熱狂(英雄)的指揮官の下では果敢であり戦意の不足は見せなかった。

 勇将の下に弱卒なしの言葉通りであった。

 現場の哨戒魚雷艇部隊の将兵はその事を理解していたが、アメリカ海軍の上層部は正しく認識していなかった。

 ある意味でその認識が、勇敢なるチャイナ戦闘ボート部隊の夜襲を許した最後の切っ掛け(トリガー)であった。

 とは言え、成功したのは夜襲と言う作戦の実行だけであったが。

 アメリカ海軍は、この特設基地の警備に手を抜いていなかったのだから。

 駆逐艦と哨戒魚雷艇による守備部隊は、夜であってもその任務を忘れていなかった。

 最初に戦闘ボート部隊の夜襲を察知したのは、フロンティア共和国海軍所属の駆逐艦リバティ*4であった。

 その高精度多機能な日本製の()()()()レーダーが、接近する戦闘ボート部隊を発見したのだ。

 リバティの乗組の操作員は、その全機能を十分に活用できる域には達していなかったが、日本のメーカーサポートによる自動化された機能が動いたのだ。

 接近中の戦闘ボート部隊が指定した自動捕捉エリアに入ると共に操作員へと警報が発せられた。

 この時点では、まだアメリカの軍用レーダーは戦闘ボート部隊を捉えていなかった。

 ()()()()()、リバティは特設基地防衛隊に組み込まれていたし、その外周に位置していたとも言える。

 その役割をリバティは果たした。

 艦長は即座に警報を防衛隊指揮官に上げ、報告を受けた指揮官は日本製のレーダー性能に疑念を一切持たぬ為、即座に哨戒任務艦以外の全艦艇に迎撃を命じていた。

 この時点で防衛隊と戦闘ボート部隊の距離は約40㎞であり、リバティが探知した事で全てが決したと言っても過言では無かった。

 闇夜の中、抵抗する術も無く一方的に砲弾を叩きこまれた戦闘ボート部隊は、発見から30分もせぬ内に存在を記録上のものへと転じるのであった。

 

 

――泰山会戦 黄河戦域

 勇敢な将と、それに従う兵たちが戦闘ボート部隊から失われた結果、黄河水上での戦いの天秤は大きくアメリカ側に傾いていた。

 まだ、指揮官は居た。

 まだ、兵隊は居た。

 まだ、漁船も残っていた。

 だがそれだけだった。

 勇敢な将兵が失われた穴は、簡単に塞げる様なものでは無かったのだ。

 この為、第1集成山東軍集団司令部では直ぐにも渡河作戦が行われるだろうと判断し、隷下の部隊へ対応準備を下命した。

 とは言え、出来る事は心構え位であったが。

 一部の部隊を除いてトラックなどの、部隊を即応展開させる為の()が殆ど無い第1集成山東軍集団では機動防御など望むべくもないと言うのが実状だった。

 黄河を防衛ラインと定め、河口から済南市までの300㎞近い川岸に塹壕を掘っては居たが、不十分な数の小銃以外には手持ち火器(火炎瓶や手投げ式の爆薬)が火力主体で稀に航空機による直協火力支援が頼り。

 戦車にせよ野砲はほとんど存在しないのだ。

 他に出来る事など無かった。

 死を覚悟した将兵は、それでもチャイナ人の意地を見せようと心を決めていた。

 だが、何日たってもアメリカは渡河作戦を強行しようとはしなかった。

 各地域で嫌がらせの様に野砲の雨を降らせ、或は戦車砲での直接射撃を行ったが、それだけだった。

 MLRS部隊による鉄の嵐を降らせることも、航空機による集中的な爆撃を行うことも、連隊規模での渡河作戦を行うことも無かった。

 無論、平和と言う訳では無いし、各地の被害は毎日1000名単位で死傷者が出ては居たが、それでも想定した最悪よりはかなり()()であった。 

 もしかして、敵第1軍は急な前進を優先する余り、渡河準備が出来ていないのではないか? と第1集成山東軍集団司令部が考え出したころ、最悪の凶報が渤海の監視部隊からもたらされた。

 黄河河口より南側一帯でアメリカが揚陸作戦を開始したとの一報である。

 規模は師団規模。

 戦車まで揚陸させていた。

 極めつけの凶報であった。

 

 

――泰山会戦 揚陸/渡河戦

 即座に第1集成山東軍集団司令部は邀撃を決断。

 貴重な機甲予備戦力 ―― 戦車連隊を基幹とした旅団戦闘団に対して出撃を下命する。

 全てを上陸させてしまっては、以後の抵抗は不可能となるだろうとの判断からであった。

 そもそも、第1集成山東軍集団は渤海沿岸部に大規模な部隊を貼り付けては居らず、警戒と地雷敷設の為の軽歩兵(徴発兵)師団が薄く広く配置されているだけであったのだ。

 抵抗など望むべくも無かった。

 一部の果断な(考えなしの)指揮官が反抗を図るが、空母艦載機による対地攻撃と戦艦の砲撃によって揚陸部隊に接近する前に、生物から有機物の塊へと存在を変えるだけに終わっていた。

 これを阻止せんが為、おっとり刀で戦闘機部隊にも渤海沿岸域での戦闘行動 ―― アメリカの艦載機部隊への迎撃を命じたが、時を同じくして、黄河上空にもアメリカのジェット戦闘機が出現し、第1集成山東軍集団の陣地へと猛攻撃を開始したのだ。

 アメリカ空軍部隊が、第1軍の後方に航空基地を設営し、部隊を展開させたのだ。

 黄河流域での航空優勢は瞬く間にアメリカに握られる事となった。

 こうなってしまえば渤海沿岸域での防空戦どころではない。

 数段は格上のアメリカ製ジェット戦闘機を相手に、チャイナ航空部隊は絶望的な防衛戦闘に挑む事となる。

 だがそれでも、アメリカの行動(ターン)は終らない。

 それまで投入されなかったMLRS部隊(ロケット弾部隊)が一斉に投入され、貧相なチャイナ陣地を無機物と有機物の混在する土くれへと還し、そこを装甲化された水陸両用車両が突いたのだ。

 渡河作戦の始まりである。

 8カ所で同時多発的に行われた渡河作戦は、第1集成山東軍集団の対応力の限界を優に超えていた。

 予備部隊である機甲部隊は、動かそうと擬装を解くと同時に上空を舞う航空機に発見され、空爆によって溶けていく有様であった。

 そもそも、MLRS部隊による鉄の豪雨は、守備部隊の戦意(モラール)を粉砕しており、前線の部隊に抵抗できる筈も無かった。

 アメリカの、質の伴った物量を見せつけられた格好であった。

 揚陸作戦が始まって8時間後、第1集成山東軍集団司令部は、黄河流域での防衛作戦を放棄する決定を下した。

 素早い決定の理由は、渤海から揚陸してきた機甲部隊 ―― アメリカ海兵師団の存在が大きかった。

 旅団規模とは言え、迎撃として投入された予備戦力の機甲部隊が鎧袖一触だったのだ。

 そんな極めて有力な機械化両用戦部隊に、無防備と言って良い後方から攻撃されてしまっては、抵抗出来ぬままに包囲され殲滅されると言う恐怖であった。

 この為、撤退は素早く決定される。

 大多数が周辺から徴発した武装農民の類であるとは言え、記録の上では100万近い大兵力を誇った第1集成山東軍集団は、何も出来る事無く後方 ―― 泰山要塞へと撤退するのだった。*5

 

 

 

 

 

 

*1

 チャイナ国内に製造ラインが組み上げられたFC-1戦闘機は、チャイナの努力とドイツの支援によって改良が重ねられ、チャイナ航空部隊を支えていた。

 泰山会戦で登場した新型は、量産開始から2度目の大規模な改良が行われたA型(アドバンスト・モデル)であった。

 1750馬力の新型水冷エンジンを搭載し、高々度でもアメリカの艦載機(レシプロ戦闘機)と十分に渡り合う事の出来る性能を持った戦闘機である。

 尚、レシプロエンジンとしては最新鋭である1750馬力水冷エンジンのライセンス生産権をドイツがチャイナに売却した理由は、ドイツの航空機エンジンの主流がジェットエンジンへと変わっていた事が理由であった。

 早晩に陳腐化するものを後生大事に抱えていても意味がない。

 どうせなら売れる時に売りつけろとばかりにドイツ側が持ちかけ、チャイナが購入していたのだ。

 只、製造に高い工作精度を要求する為、チャイナ工場での生産の歩留まりはお世辞にも良好とは言えず、稼働率にも問題を抱えていた。

 

 

*2

 空母とは移動できる航空基地であり、その地上航空基地に対する優位性は神出鬼没性 ―― ()()()()()()()()に起因したものである。

 逆に言えば、ある領域に於いて腰を据えての殴り合いとなった場合、純粋に数の戦いとなる。

 又、空母と言うフネの上に全ての機能を押し込んだが故の難しさ ―― フネの容積に起因する整備効率の難しさが出る部分がある。

 泰山会戦初頭のアメリカ機動部隊の苦戦は、空母が無敵の存在ではない事を教えるものであった。

 

 

*3

 黄河に駆逐艦などを投入しない理由は、如何に黄河が巨大な大河とは言え、1000tを超える()()()では、身動きが取れないと言うのが理由である。

 海では小型である駆逐艦であっても、川では身動き一つとる事にも注意を要する大型艦なのだ。

 正面から戦えば戦闘ボートなど敵ではない駆逐艦だが、その戦う事が難しいのが川の戦いなのだ。

 隠れた場所からの魚雷、或は機雷。

 川とは、とてもでは無いが駆逐艦を投入できる戦場では無いのだ。

 

 

*4

 駆逐艦リバティはアメリカ製では無く、日本がMLシリーズの1つとして用意(ラインナップ)した護衛駆逐艦であった。

 その成り立ち故に基本的にアメリカ製の軍備を揃えるフロンティア共和国であったが、対日関係 ―― ()()()()()()()の顔を立てる為として、このチャイナとの戦乱が始まって以降は一定数の割安な日本のMLシリーズを導入していたのだ。

 又、アメリカも日本の造船技術を学びたいと言う理由から、この護衛駆逐艦の導入は後押し(購入予算の一部補助)をしていた。

 

 艦名 リバティ級対潜護衛駆逐艦(DEL) (日本クラス名 ML-118_F1型)

 建造数   4隻 (リバティ フリーダム インディペンデンス ガード)

 基準排水量 1420t

 主機    ディーゼルエンジン 2基

 速力    最大28ノット

 兵装    54口径5in.単装砲 1基1門

       60口径40㎜単装砲 2基2門

       3連装短魚雷  2基

       爆雷投下軌条 2基

 (※兵装は、発注先の要望に合わせて変更出来る)

 

【挿絵表示】

 

 

 日本以外でも運用できる様に、購入した各国で整備できる様に注意して設計されている非システム(ローテク)艦。

(但し、日本邦国向けに限っては、電子装備なども充実している)

 エンジンやレーダーなどは民生品が主体である為、運用コストは極めて手頃となっている。

 現在、タイ王国やポーランドなどからも資料請求を受けている。

 

 

 

 

 艦名 すずや型対潜護衛駆逐艦(DEL)

 建造数   2隻 (すずや くまの 以下未定)

 基準排水量 1420t

 主機    ディーゼルエンジン 2基

 速力    最大28ノット

 兵装    54口径5in.単装砲 1基1門

       62口径40㎜単装砲 1基1門

       8連装近距離防空ミサイルシステム

       3連装短魚雷  2基

 

【挿絵表示】

 

 邦国で一番最初に手を挙げた北日本(ジャパン)の艦名がクラス名となっている。

 

 

 

 

 艦名 まつ型多目的護衛駆逐艦(DEM)

 建造数   12隻 (まつ たけ 以下未定)

 基準排水量 1510t

 主機    ディーゼルエンジン 2基

 速力    最大28ノット

 兵装    54口径5in.単装砲 1基1門

       62口径40㎜単装砲 1基1門

       8連装短距離防空ミサイルシステム

       3連装短魚雷  2基

 

【挿絵表示】

 

 ML-118型の使い勝手の良さから、日本でも大量導入が決定された。

 但し、リバティ級/すずや型との差は、本クラスはシステム艦として各部が最適化されている点と、UAV/UUVの運用能力を付与されている事である。

 この為、100t程重量化しており、建造費用も2割ほど高騰している。

 尚、船体中央部の構造が変化している様に見えるが、是は波浪除けの覆いが追加されているからであり、主要な構造に変更は無い。

 

 

*5

 尚、撤退した第1集成山東軍集団の陣地に残されていたのは、兵の規模と比較して余りにも乏しい武器弾薬と食料、大量の死傷者、そして10万を超える捕虜であった。

 ある意味で、これが第1軍の進軍を止める事となった。

 接収できた食料の乏しさや、大量の死傷者は想定の範囲内であったが、10万を超える捕虜など事前に想定できる筈も無かった。

 面倒くさいので、とばかりに武装解除して解放しようとしたが、今度は捕虜側から懇願される事となる。

 ()()()()は赦してくれ、と。

 そう、捕虜の武装は大多数が銃などの火器ではなく、自分たちで持ち込んだ()()()だったのだ ―― そもそも、武器として持ち込んだ訳でもない。

 陣地造営の為にと命令され持ち込み、そして結果として、武器の如く最後まで持っていたのがクワやスキと言った農機具と言うだけであった。

 何とも評し難い状況であった。

 最終的に、()()は接収し、人道的配慮から()()()を配布すると言う形で落ち着く事となる。

 ある意味で、軍隊と言うものの官僚的性格の発露であった。

 

 武装を解かれた捕虜たちは、農機具とわずかばかりのお土産、配られたチョコレートなどの嗜好品を手に家への帰路に就くのだった。

 この戦争以降、黄河流域に親アメリカ派が多く生まれる事となる。

 




2020/12/07 文章修正
2020/12/08 文章追加


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

119 中央アジアに吹く風-1

+

 日本政府は、アメリカとチャイナの戦争に関して呆れ(言わんこっちゃない)以外の感想を持たなかった。

 チャイナ分割計画(チャイナ・ビスケット)と言う側面からすれば、応援する気持ちもあったが、歴史的背景 ―― 満州利権売却の頃からロクな事には成らぬと止めて来ていたのだ。

 にも拘わらず、この体たらくである。

 日本政府が呆れているのもさもありなんと言うべきであった。

 尚、伝統的(リベラル派残党)な一部の野党からは、日本政府が積極的に二国間の戦争を止めようとしないのは()()()()利益を狙っているのではないかと批判する向きもあった。

 日本政府からすれば、邪推にも程がある意見であった。

 自動車類から始まったMLシリーズ*1食料品(軍用糧食・嗜好品)の提供こそ行っていたが、総じて価格に占める利益率は抑え目であり、そもそも戦争が終われば消えるのが特需(バブル)と言うものであり、そんな程度のモノに頼ろうと言う程に日本政府も企業も不健全では無かった。*2

 それよりも極東で日本が重視していたのは、チャイナ人の流出問題であった。

 チャイナ人は既に4億からの人口を誇っている。

 これが、一方的にアメリカから押されている状況で、戦乱を避ける為にと1%でも国を出れば400万人からの大移動なのだ。

 人道主義に基づいて受け入れるべき等と軽く言える話では無かった。

 タイムスリップ前の情報 ―― 中東やアフリカの難民問題を忘れていなかった日本は、今の情勢を甘く見ては居なかった。

 日本連邦への流入は、チャイナとの間に海やフロンティア共和国などが存在する事から難しいだろう。

 だが、独立したばかりで国としての基盤の弱い東トルキスタン共和国や、独立準備中のチベットなどに来られては、大変な事になってしまうのが見えていた。

 日本は2つの国に反チャイナ拠点としての役割を期待しており、であればこそチャイナ人の流入による混乱や、人口に占めるチャイナ人の拡大による親チャイナ化など認められるものでは無かった。

 この為、日本は干渉を強化する事となる。

 

 

――東トルキスタン共和国

 国家としての基盤が出来つつある東トルキスタン共和国は民族意識が勃興しつつある段階に達していた為、過度な干渉は一般市民からの感情的な反発を引き起こす危険性があった。

 この為、日本が行ったのは東トルキスタン共和国の国体防衛に向けた宣伝工作と、急進派の民族主義派への資金援助であり、支援はこの二つを柱としていた。

 チャイナ人の下にはつかない、自主独立する誇りあるウイグル民族と言う意識を共有させる事が目的であった。

 又、国家防衛に資する武器供給に関しても新興国の自国防衛支援計画(セルフ・ディフェンス・プログラム)として纏められ、MLシリーズの購入許可と政府開発援助(ODA)による低利率借款が用意される事となった。

 とは言え、簡単に決まった訳では無い。

 独立を保持する事は大事だが、日本との関係を深化させ過ぎた場合、チャイナと決定的な対立関係に陥る可能性があると言うのが、ウイグル人穏健派から出たのだ。

 又、日本国内でも反対派が声を上げていた。

 立地条件や日本の完全なコントロール下に無いと言う事から、供与されたMLシリーズを東トルキスタン共和国の不心得者が海外へと流出させ、日本の技術を敵対国(ドイツ・ソ連)が把握する危険性を指摘する意見であった。

 一理はある意見ではあったがMLシリーズは輸出を前提に考えられており、特に主として提供する事になる陸上装備には余り高度な技術が用いられておらず杞憂に類される意見であった。

 無論、ML-371 ―― 5.56㎜自動小銃(アサルトライフル)の連射や単射を管理する機関部周りは先進技術の精華ではあるのだが、そこまで神経を尖らせても意味がないと割り切っていた。*3

 尚、供給に関しては日本連邦で国境線を接しているシベリア共和国からの鉄道となった。

 この目的の為、日本はODAを活用した上で大規模なシベリア-東トルキスタン鉄道の建設に取り掛かった。

 ODAと言う、東トルキスタン共和国が借金をする形式である事を指して、経済的な植民地化に等しく、それは日本の帝国主義の現れであると言う人間も日本国内には居たが、大きな影響力を持つ事は無かった。

 東トルキスタン共和国としては経済の活性化に大きな役割を果たす鉄道インフラの構築を、借款と言う形をとる事で短期的には大きな出費も無く行える事はとても重要な事であった。

 又、鉄道整備作業に関して労働者の雇用や食料などの購入等々、地元にも整備予算が還元される形を採っていた事も、日本の評判を支えたとも言えた。

 とは言え、鉄道インフラの整備は年単位の事業である為、建設による効果が出るのは幾分は先の話であったが。

 それまでは道路が、道路を通って流し込まれる大規模なトラック輸送部隊(コンボイ)が東トルキスタン共和国を支え続ける事となる。

 

 

――チベット

 独立国としての体裁を整えていた東トルキスタン共和国(ウイグル族)に対し、いまだチャイナの影響下にあるチベット族へのテコ入れは難航する事となる。

 一応、日本の支援による独立準備は進められてはいたが、まだ確たる所まで進んではいなかったからだ。

 チベット族の問題、国家運営に関われる高能力人材の確保と育成が遅れていた事と、独立を支援する日本の外交能力の多くが東トルキスタン共和国の人材育成に投じられてる為、支援力が低下していると言うのが大きかった。*4

 だが、状況の変化がチベット独立派や日本から、その様な悠長な事を言う余裕を奪った。

 日本の危機的予測を裏付ける様に、チベットへチャイナ人難民が流入し、それに伴って治安の悪化が始まったのだ。

 これは、チベット一帯はチャイナの中で安寧が保たれていた事が理由だった。

 軍閥が横暴を働かず、アメリカの爆撃も無い ―― 日本がアメリカに対し秘密裏に戦略爆撃の対象からチベットの領域を外すように頼んでいた事が理由だった。

 元より軍事施設も無く、経済的にも今のチャイナの中で大きな役割を担っている訳でもない事が、アメリカが日本の要求を受け入れた理由でもあった。

 この為、戦火を逃れる為に少なくないチャイナ人が()()()()()()()で流れ着いていたのだ。

 これがチベットに混乱を呼ぶ事となった。

 資産も家財も無くチベットに来た人々は、多くは真面目に仕事を探そうとした。

 だが、ごく一部の人間が()()()()()を選んだ、その結果だった。

 窃盗強盗に始まり、様々な非合法な事に手を染めて、地元のチベット人と大きな軋轢を起こして回ったのだ。

 チベット人の間でチャイナ人排斥運動が起こるのも当然の話であった。

 この流れに、チベット独立派と日本は逆らう事無く乗る事とする。

 そして隣国たるインド(ブリテン)もこの流れに加わる事を主張した。

 インドの近隣に野蛮粗暴好戦的な国が居るよりも、G4の影響下にある独立国(緩衝地帯)が出来る方が良いと言うのが本音であった。

 最終的に、日本が金を出しインド(ブリテン)が人を出す形で支援する事が決められた。

 

 

――チャイナ

 アメリカとの戦争、前線への兵士や物資の供給に加えて銃後の防衛体制の構築(アメリカ戦略爆撃部隊への対応)に追われていたチャイナにとって、チベットでの本格的な独立運動の勃発は悪い冗談の様な話であった。

 1つ(チャイナ共産党)が消えれば別の1つ(チベット独立派)が出て来たなど、悪夢以外の何ものでも無かった。

 とは言え、人口的にも産業的にも特に大きな重要性のある地域では無い為、戦争が終わるまで放置(短い夢でも見ていろ)で良いのではと言う意見が出て、それが大勢を占める事となった。

 独立運動の後に、日本とブリテンが居ると言う事が判明するまでの、短い間だけだが。

 別に決定的な証拠があった訳では無い。

 只、状況証拠として謎の先進的な短機関銃(ML-157)を持った、チベット独立派を支援する浅黒い肌をしたヒンドゥー教徒(インド人)が確認されているのだ。

 2国が後ろに居ると判断するにはそれだけで十分(状況証拠が真っ黒だ!!)であった。

 慌てたチャイナは、対策を練る事となるが、既に警察組織では対応しきれない状況に陥りつつあるのだ。

 軍の投入以外、出来る事は無かった。

 それが果てしなく難しいと言う事に目を瞑れば。

 治安維持戦に投入出来るだけの良く訓練を受けた、装備良好な部隊は悉くアメリカとの戦線に投入され片っ端から鉄火によって熔けているのだ。

 しかも南チャイナを牽制する任務にも、ある程度の部隊が拘束されている。

 この状況で、チベットに向けられるのは錬成途上の、招集したばかりの部隊しか無かった。

 低練度の部隊を過酷な治安維持戦に投入する事が何を生むか、チャイナはそれを理解していた。

 理解していたが、座してチベット独立を認めるよりはマシであると判断し、地獄の扉を開く選択肢を選んだ。

 先遣隊として3個連隊、その後詰めに2個の山岳歩兵師団を派遣する事をチャイナ政府は決断した。

 

 

――日本

 チャイナ政府内に居るスパイ(金銭による協力者)からチャイナが大規模な部隊をチベットに派遣しようとしている事を早期に認識していた。

 だが日本は、その行動を阻止しようとはしなかった。

 チャイナが自ら地獄の釜を蹴り倒せば、独立運動の激化と言うチャイナにとっての地獄が始まるのは目に見えていたからだ。

 とは言え、全く何も対応しないのは事後に、数十年の未来に批判される種を残す事となるのでと、言い訳染みた阻止作戦(アリバイ工作)は実施した。

 外交面からの、チャイナに対して独立運動阻止に武力投入は如何なものかとの提言である。

 突っ撥ねられる予定での行動であったのだが、チャイナの反応は違った。

 上海に設けられていた外交の場で日本の外交官と顔を合わせていた外交官は、日本の()()を聞くや真っ青になって報告しますと返すのが精一杯と言う体たらくであったのだ。

 さもありなん。

 日本から煮え湯を幾度も飲まされていたチャイナは、提言を()()()()と理解していたのだ。

 日本は余り自覚していなかったが覇権国家の、世界支配者の(G4)筆頭の言葉と言うものは果てしなく重く、そして恐ろしいものであるのだ。

 徒に軍事力を行使しようとはしないが、一度、使うと決めれば決定的な所まで相手を殴り続ける ―― そんな凶暴な実績を日本は積み上げてきているのだ。

 提言が、チャイナには自主的な平穏(土下座)介入されての平穏(チャカ)かと聞かれたと思うのも仕方の無い話であった。

 平素であれば全力での抵抗をしたであろうチャイナであるが、このアメリカと戦争をしている最中に日本まで乱入されては堪らない、そう判断するだけの理性は維持していた。

 最終的に、チャイナは外交接触の1週間後に、日本の提案を前向きに検討して受け入れると返事をしたのだった。

 そして、武力弾圧では無く、警察力による統治力強化に舵を切る旨を、公表した。

 結果を聞いた日本のチベット工作官たちは、酢を飲んだように(どうしてこうなった!? と)顔を顰めあっていた。

 

 

 

 

 

 

*1

 防諜面からの要求もあって、意図的に規則性を無視したナンバリングの与えられているMLシリーズであるが、当初は自動車とその周辺の機材の提供として始まっていた。

 だが、各国からの要請を受け入れる形で拡大を続け、最終的には空母や護衛艦まで含まれる様になっていた。

 標準的な価格帯よりも抑えた価格で提供される為、MLシリーズ欲しさに、アメリカ-チャイナ戦争に参戦する国家も出る程であった。

 意外な人気商品に、()()()があった。

 北日本(ジャパン)邦国軍からの要請でML-182として加えられた指揮刀は、日本の製鉄業界が割と本気を出して鍛造している為、伝統的な日本刀とは似て非なる代物として完成していた。

 折れにくく、曲がりにくく、そして錆びにくい。

 しかも軽い。

 北日本(ジャパン)邦国軍で人気が爆発し、その上で()()()()()とお土産・贈答用として評判となったのだ。

 その人気の程は、後に改良型(ワルノリ)として未来感の加味 ―― 刀身を黒くしてカーボン地の拵えを備えたML-182o(サイバーパンクモデル)が出る有様であった。

 余談ではあるが、極一部のブリテン人は()()として発注していた。

 

 

*2

 特需を当て込んでの設備投資を日本企業が行う積りは一切なかったが、日本製品の売り込み、と言う意味では活用する積りであった。

 特にレトルト食料品メーカーによる、行動中配給食(レーション)の売込みに対する情熱は凄かった。

 複数メーカーが協力して、和洋中な食を中心としたプレーンな味付けのセットを開発して日本政府へと働きかけ、ストーブ付き前線食(レーション)としてMLシリ-ズに押し込んだのだ。

 胃袋を抑えれば勝てる、そう言わんばかりの行動であった。

 実際、ML-913として採用されたレトルト食品群は、前線の将兵の胃袋をガッチリと掴み、この戦争後も日本から輸入を図る様になる程であった。 

 尚、こっそりとカップ麺メーカーも冬の加給食(おやつ)枠で参加していた。

 寒空の下でも手軽に食える温食と言う事で、後には日本食と言えばラーメンと言う人が生まれる程であった。

 

 

*3

 そもそもとしてML-371は安価に供給する事を目的に、多少の射撃性能向上よりも整備性や生産性を優先した設計が行われていた。

 鉄よりも安く、木よりも量産に向いた樹脂をボディに採用している。

 外見的な特徴としては、ブルパップ式の採用である。

 訓練未了の不慣れな人間に渡しても反動を抑え込みやすいと言う利点と、コンパクトであるので大量に輸送(輸出)する際に手間が抑えられると言う事が評価されての事であった。

 後にML-371はシベリア共和国の工廠にて大量生産され、主に国際連盟加盟国に大量に供給された結果、自由の銃(フリーダム・ライフル)なる渾名まで頂戴する事となる。

 

 

*4

 東トルキスタン共和国以外にも日本連邦内の北日本(ジャパン)邦国やシベリア共和国、南洋(ミクロネシア)邦国で日本が持つ国家運営の能力を育成する余力が消費され続けていたと言うのも大きい。

 地方自治体しか存在していなかった南樺太はまだマシな方で、ソ連から大量の亡命者を受け入れて建国されたシベリア共和国は地方自治体からの構築を行わねばならず、国家以前に民主主義とはなんぞやと言う所から教育する必要のあった南洋(ミクロネシア)邦国に至っては論外ですらあった。

 国を生み出す大事情を支えると言う意味に於いて、日本は投げだすことも無く良くやっていると評しても良かった。

 少なくとも、日本が支えていたどの国も未だ破綻もせず、住民感情も良好であるのだから。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

120 中央アジアに吹く風-2

+

 チャイナは、日本からの()()を受けチベット地域への治安維持を目的とした軍の追加派兵を断念した。

 その代わり、3000名からの治安維持特別行動警察隊(スペシャル・ポリス・タスク・ユニット)の派遣を行う事とした。

 無論、当初予定されていたチベット派遣軍から人員を選抜抽出した部隊だ。

 看板を架け替えただけ、では無い。

 銃器などの武装は持たない、平和の為の純然たる治安維持部隊である ―― チャイナはそう宣伝していた。

 実態としては、チャイナ軍は相次ぐ敗北と大規模な徴兵によって武器が不足気味であると言うのが大きな理由であった。

 その上でチャイナ軍上層部は、アメリカとの戦争が終わるまでは本腰を入れる事の出来ないチベット方面での治安維持に、武器は回したくなかった。

 そこに日本からの要請があり、それに嬉々として乗った部分があったのだ。

 治安維持作戦であるのに非武装、チベットへ棍や杖などは持ち込んでも銃火器の類は持ち込めないと言うのは大きく不利な話であった。

 だが別にチャイナも無策な訳では無い。

 チベットの警察組織には旧式ながらもそれなりの数の武器が備蓄されており、暴徒(チベット独立派)が武装しているのでと言う建前で使用させる積りであった。

 ある意味で外交的平常運転(タヌキと狐の化かし合い)であった。

 

 

――ブリテン

 ブリテンから見て日本の対チャイナ外交は拙いの一言であった。

 もう少し追い込んで、上手く煽って暴発させれば良いのだがと思う程に。

 とは言え、日本が()()からこそ吸える蜜もある為、そこを矯正しようとは思っていなかったが。*1

 故に、香港系の工作員(チャイナ系スリーパー)に対してチャイナの現地治安維持部隊が暴発する様に誘導する事を命じていた。

 既にブリテンは少なくない労力を払って、インドにあった古い武器を大量にチベットに流し込み、ばら撒いていた。

 その上で日本製の武器、ML-157*2を持たせたボランティア(義勇兵)も送り付けていた。

 香港系工作員による工作は、チベット領域内の不満を持ったチャイナ人難民グループに接触し、焚きつけたのだ。

 曰く、チベットはチャイナの土地であり、チベットの先住民が先に居たと言うだけで()()を持っているのはおかしい。

 曰く、自分たちのみならず子どもや親まで家も無く食事にも事欠いているのに、チベットの人々は先住であると言うだけで家を持ち腹いっぱいに食べている。

 などなど。

 聞く人の良心を眠らせる(正義感を暴走させる)囁きは、難民生活によって疲れ果てていたチャイナ人の耳に良く馴染んだ。

 不満を燻らせていく。

 何日も何日も、何週間も何週間も、じっくりと時間を掛けて燻らせ、下地を作っていく。

 そして最後にそっと風を吹き込む。

 チベットの人々による()()()がチャイナ人難民を襲っている。

 若い女性がかどわかされ、性的奴隷とされている。

 火が、点いた。

 

 

――チベット

 ブリテンの手腕(ワッザ)によって武力蜂起したチャイナ人難民は、()()()難民キャンプの近くに放置されていた銃や青龍刀を手にするやチベット人の自警団施設に向かって突進した。

 チャイナ人の警察組織が押っ取り刀で駆けつけて、兎にも角にも暴力の応酬だけは阻止しようとする。

 だがブリテン人が時間を掛けて誘導していたのだ。警察の説得如きに暴発したチャイナ人難民が治まる事は無かった。 

 それどころか、警察はチャイナ人の尊厳を穢すのかと怒鳴る始末であった。

 最終的に武器で非武装(銃器不携帯)の警察を脅して排除するや、暴発したチャイナ人難民の集団は自警団の施設を襲った。

 だが、成功したのはそこまでだった。

 警察を下した事で己に酔っていた彼らは、自警団の施設を見るや問答無用で発砲していた。

 内奸討つべし(チベット人に死を)! と叫び、火炎瓶すら投げようとしていた。

 この時点で彼らの脳裏には、()()()()()()()()()()()と言う話は消えていた。

 ただ只管に、日ごろの不平不満をぶつけたいと言う感情だけがあった。

 だから気が付かなかった。

 蜂起した難民キャンプから自警団施設までの間で、一般のチベット人を見なかった事を。

 男性はおろか、買い物に出た女性も、街路で遊ぶ子供も見なかった。

 その事に、その事の意味に気付かぬままに銃を発砲した。

 その返答は、その100倍1000倍の銃弾であった。

 ML-157やリー・エンフィールド、果てはルイス軽機関銃まで使用した歓迎の弾幕は、防弾装備など何も持たなかったチャイナ人を、難民も警察も問わずに打ち倒した。

 点火した火は盛大に燃え上がった。

 

 

――チャイナ

 チャイナ政府にとってチャイナ人難民の暴発も問題であったが、応戦で警察まで巻き込んで()()()にした自警団は論外であった。

 急いで自警団への立ち入り検査と逮捕、武器の没収を行おうとした。

 だが、ブリテンの仕込みはチャイナの対応の先を行く。

 警察が動く前に、マスコミに対して声明を発表した。

 チャイナ人暴徒と一緒にチャイナ警察も自警団施設を襲って来た為、実力を以って自衛したのだと堂々と発表した。

 常であれば信用されない類の話であったが、そこに暴徒に混じって()()()()()()()()()()()()()()()の写真を添えたのだ。

 又、写真と主張とが印刷された紙が何ものか(ブリテン)の手によって大量にチベット各地にばら撒かれ、情報は一挙に広まった。

 その威力は絶大であった。

 中立的なチベット大衆が一気に反チャイナに染まり、まだ血生臭さの残る自警団施設周辺に支持者が集まる程であった。

 過激な者は警察署や難民キャンプにまで抗議デモを行う有様ともなった。

 チャイナ政府は大きく慌てた。

 日本は怖いが、これをこのまま放置していてはアメリカとの戦争が終わる前にチベットが手に負えない事になると判断、軍の派遣を決断した。

 取りあえず、アメリカ戦に投入するには不安な装備と練度の部隊を10万名ほど。

 自警団や暴発しそうなチベット人を数で潰す積りだった。

 尚、武器弾薬の不足は、豊富な武器を持っていた自警団を襲って取得せよとの命令も併せて発令していた。

 相手から武器を奪う事で相手の戦闘力は低下し、自らの戦闘力は向上する。

 名案であった。

 先ず、()()()()()と言う点を除けば。

 叩き上げの派遣部隊指揮官は、チャイナ参謀本部から来たまだ年若い連絡官の(ドヤァ顔)を見て、嘆息を堪えるのが精一杯であった。

 とは言え感情的に反発出来る筈も無かった。

 武器は、そもそも不足しているのだから。

 長江流域の工業地帯が必死になって武器弾薬を製造していたが、作った片端からアメリカ戦で熔け散っているのだ。

 前線で輸送途中で、或は工場で。

 しかも、武器を必要とする将兵は徴兵によって常に増え続けているのだ。

 チャイナ政府は、長江流域の工業地帯以外のチャイナ人を総動員する勢いを見せていた。*3

 これではチベット派遣軍の装備が酷い事になるのも仕方の無い話であった。

 代償とするかのように、チベットの地での自由な徴発その他がチベット派遣軍には認められる事となった。

 装備劣悪であっても餌をぶら下げればどうにでもなる。

 チャイナ参謀本部は、そう考えていた。

 

 

――日本

 チベット情勢に日本が気付いたのは、状況が加速度的に悪化 ―― チベット人とチャイナ人の間で頻発的ながらも銃弾の応酬が日常化してからの事であった。

 仕方の無い側面があった。

 チャイナがアリバイ工作染みた提案に()()()折れて軍のチベット派遣を取りやめた為、日本はチベット情勢が動くのはもう少しかかるだろうと判断して外交資本(人員や予算)をオランダに振り分けていたのだ*4、さもありなんとも言うべき事態であった。

 とは言え、座視する訳にはいかない。

 日本は当初予定していたチベット独立へ向けた支援に全力を傾ける事となる。

 

 

 

 

 

 

*1
 

 ブリテンは、資源を対価とした日本の支援を受けた事によって1930年代以降、大規模な経済的な躍進を遂げていた。

 特に、グレートブリテン島の発展は第2期黄金時代(リブート・ゴールデンエイジ)と称される程であった。

 正に日本の甘さであると言うのが、ブリテンの正直な感想である。

 日本は適正な貿易こそ望んでも、その絶対的と呼べる国力を以って世界に覇を唱える(パクス・ジャポニカ)を行おうとはしなかった。

 技術の提供と流出こそ警戒はしていたが、発展の協力は幾らでもしていた。

 ()()()()()

 競争相手を育てる様な行為はあり得ないし、他国の植民地を収奪し自国の利益を極大化しようともしない態度もあり得ない。

 だが同時に、そうであるが故に日本は発展しているのだとも理解していた。

 ()()()()()によって、日本はブリテンのみならずアメリカやフランスのみならず世界中と交易をおこなっている。

 穏当であり平和的であるからこそ、日本の商売相手である世界は日本製品を買うだけの経済力を保持しているのだ、と。

 ある意味でブリテンは、日本を通して世界を見る事で、ゆるやかに帝国主義から脱しようとしていた。

 無論、()()の為の武力行使を躊躇する積りは無かったが。

 ブリテンの、世界帝国の主たる矜持(名誉も守れぬ繁栄に意味はない)に些かの曇りも無い。

 

 

*2

 ML-157 9㎜短機関銃は、日本が安価な歩兵以外の兵科の自衛装備(PDW)として提供する為に開発したコンパクトな火器であった。

 M3短機関銃や9㎜機関拳銃を参考に開発されており、直線で構成されたボディはプレス加工の鋼材で構成されており、合理的ではあっても色気は無かった。

 樹脂を多用したブルパップ式のデザインであるML-371 5.56㎜自動小銃に比べれば古臭く感じる部分もあったが、その分、極めて安価に、そして手早く製造出来ていた。

 又、鋼材で構成されるが故の重さも値段以外の理由があった。

 ML-157が拳銃用の9㎜パラベラム弾を高速でばら撒く際に、その反動を抑える効果を狙っていたのだ。

 ML-157の開発に携わった米系日本人自衛官は、CGG(四角いグリースガン)と言う愛称を与えており、何時しかそれが公式名に採用されていた。

 設計主任は簡易型9㎜機関拳銃と言う名で呼んでいたのだが、そちらが流行る事は無かった。

 言いやすさもだが、そもそも、人間だれしも中年自衛官(リーダー)よりも金髪美女自衛官(アイドル)に弱いモノなのである。

 そもそも、デザインはグリップにマガジンを差す構造であった為に外見的には9㎜機関拳銃的であり、オープンボルトを採用し鋼板プレス加工と溶接を多用した構造はM3グリースガンに類似点が多かった。

 その意味に於いてはどちらも近く、どちらとも違う。

 無理に近いモノを言えば、参考品としてグアム共和国軍(在日米軍)から提供されていたCBJ-MSと言う有様である。

 どちらでも良かったから、後は発言者の()()()()になったとも言えた。

 尚、ML-157の支給を受けた一部の自衛官(ナラシノ・バスターズ)は、この話を知って淑女の差し込み銃(パッキン・ガン)と言う卑猥な渾名を付けてしまい、それを知った同僚(メスゴリラ)達から白い目で見られたと言う。

 

 

*3

 経済や食料生産、或は生活といったものを考慮しないチャイナ政府による無茶な動員は、一般チャイナ人の不満を燻らせる方向に働く事となっていた。

 その事をチャイナ政府も認識はしていたが、理解はしきれていなかった。

 アメリカとの戦争で負ければ死ぬだけ、その思いがあったからだ。

 だが一般のチャイナ人からすれば、それは事実では無かった。

 アメリカとの戦闘で負けて捕虜となった人間が、お菓子などのお土産を手に解放されたりしている事を知ったからだ。

 アメリカが捕虜虐殺などは考えず、面倒事から離れる為に適当に行った行為は、チャイナ人が重視する儒教 ―― ()と言う視点から見て、決して小さな事では無かった。

 だがチャイナ政府は、解放された捕虜の再動員に目を向け過ぎて居て、()()()()()()()()()()と言うものがどんな影響を及ぼすか、理解しきれなかったのだ。

 精々がお人よしの(マヌケな)アメリカ人めと嘲笑う程度だった。

 故に、地獄への道は善意によって舗装されていると言う事を思い出すのは、もう少し先の話となる。

 

 

*4

 オランダの一般市民の対日感情悪化は、排斥にまでは至っていないものの、軽視するには余りにも危険、そう日本政府は判断していた。

 オランダ本国は勿論、オランダ領東インドでも地味に反日感情がまん延しつつあった。

 大本は拗らせた人々だった。

 日本企業に雇われたが白人待遇(エリート扱い)をされなかった事に反発し、会社を辞めて悪口を言いふらす。

 その事が、日々の鬱屈を晴らす格好の娯楽となっていたのだ。

 オランダ政府も、経済政策の失敗 ―― 富の一定層への集中によって再分配が阻害されている現実から目を逸らさせる為、これを助長していた側面があった。

 内部を安定させるには外敵を用いる、その範例であった。

 外敵としては、ドイツも候補に成りえたのだが、オランダの親ドイツ派は親日派以上に規模が大きく、なによりドイツは隣にある大国なのだ。

 政治的にも下手な事が出来る筈も無かった。

 ある意味で日本は、オランダにとって適当なサンドバッグであったのだ。

 日本としてはオランダ本国の反日感情などどうでも良かったが、オランダ領東インドでの経済活動に影響が出ては問題である為、その慰撫に努めようとした矢先の事であった。

 この為、オランダの反日感情への積極的な対策は後回しにされる事となる。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

121 中央アジアに吹く風-3

+

 チベットでの独立運動が激化して以降、独立運動支援(緩衝国建国への策謀)を隠さなくなったブリテンにチャイナは深く激怒した。

 チャイナにとってチベットは自国領域と言う認識と共に将来の利益、水及び地下資源と言う意味で重要な位置を占めていた。

 その大事なチベットをブリテンに奪われるなど我慢ならなかった。

 それに、相手はブリテンなのだ。

 日本やアメリカに比べれば国力が隔絶している訳では無いし、インドからチベットへの経路は限られている。

 勝利が得られると、チャイナが激怒しながらも冷静に計算したのも当然の話であった。

 久方ぶりに勝利が見える状況に、チャイナ参謀団は少しだけ沸いた。

 尚、現在進行形でアメリカと戦争をしており、チャイナの国力はそこで盛大に浪費し続けていると言う事を認識していた一部の冷静な人間も居たが、()()()()()()()()()()()その事を口にする事は無かった。

 因みに、冷静な人間も忘れていた事が1つあった。

 それは、ブリテンは日本やアメリカに劣れども世界支配国家の一角(ジャパン・アングロ)であり、世界帝国である事を。

 そして邪悪さと言う意味に於いては、日本は当然にしてアメリカですら相手にならぬ国である事を。

 ある意味でチャイナは忘れていたのだ。

 日本が焼いた渤海の様に、或はアメリカが現在進行形でチャイナを焼いている様に、円明園を()()()()()()()と言う事を。

 

 

――チャイナ

 先ずチャイナは、チベットの現地住民が暴力を以って独立運動を開始した事を理由に、軍のチベット派遣を日本に対して伝達した。

 無論、日本対策班からの献策による行動であった。

 理屈(建前)を重視する日本は、チャイナが道義や人道を全面に立てている限りは即座に強硬な対応に出ては来ないと言う読みであった。

 果たして、日本の返答は()()()()()と言う注釈付きでの、一般市民への被害を限定させる努力の要請に留まった。

 無論、それで日本がこれ以上干渉して来ないと思う程にチャイナもナイーブでは無かった。

 だが、貴重な時間が稼げた外交的勝利と判断していた。

 この間に出来る限り戦力をチベットに集中させ、短期決戦を図る事を目指した。

 事前に派遣していた部隊に加え、10万の兵で増強しチベット鎮定軍と呼称させる事となった。

 機甲戦力や野砲などの派遣はアメリカとの戦争が続行中である為に不可能であったが、その代わりにチャイナ参謀団は航空部隊を派遣する事とした。

 無論、最新鋭機などでは無く前線(対アメリカ戦)には出せない機体 ―― 偵察機として使うのも憚られる様な複葉機たちであった。

 とは言え、軽武装の独立派を蹂躙するには十分だろうと言うのがチャイナ参謀団の見立てであった。

 それとは別に徴兵したばかりの兵を50万人程、警察補助隊として家族ごとチベットに送り付ける事を考えていた。

 此方はチャイナ政府上層部の決定であった。

 チベットへの、事実上の移民(棄民)政策だ。

 チャイナの経済はアメリカの戦略爆撃によって混迷しつつある為、国内避難民が発生しているのだ。

 その避難先(はけ口)としてチベットを利用する積りであった。

 尚、警察補助隊は住居を筆頭とした生活の基盤は、独立を図る不逞現地人(一般チベット人)から没収(略奪)して賄うものとされた。

 チャイナ人のチベットへの蔑視が如実に表れている話であった。

 

 

――ブリテン

 予定通りに着火し、激しく燃え盛る様になったチベット独立運動に愉悦を感じたブリテンは、少しだけドイツの気分を理解していた。

 少しの手間で敵対国が右往左往しているのだ、楽しい以外の感情が出る筈が無かった。

 とは言え、手間とは予算であり、予算とは国家の資産を使う事を意味するのだ。

 国家指導者が愉悦の為に、国力を浪費する事は決して褒められる事ではない ―― そうブリテンの指導者層は誰もが理解し、そうであるが故に愉悦は酒と共に独りで噛みしめ、公の場ではブリテンの利益のみを理由と口にしていた。

 ブリテンにとって、チベットを独立させ日本と共同で国際社会で承認する(ケツ持ち)理由は3つであった。

 インドへの脅威低下と、インド産業の市場としてのチベット確保。

 そしてチベットの資源であった。

 前者2つはブリテン主導でインドに利益を与える事で、ブリテン連邦で潜在的な強国であると同時に独立志向の強いインドに親ブリテン派を作る事が目的であった。

 特に、利益に聡い ―― 損得勘定が優先される経済界を狙ったのだ。

 この為、旧式兵器の供与以外ではインドにも利益が行くように配慮していた。 

 ブリテンで設計された戦時急造向けの簡素な構造をしたステン短機関銃や手榴弾、弾薬などの生産をインドの工場で行い、チベットの独立派に提供したのだ。*1

 ブリテンの政策と投資によって、主に軽工業に属する分野でインド経済は活況を迎える事となる。

 又、歩兵火器のみならず、ブリテンは戦車をチベットに供与していた。

 軽戦車だ。

 31式戦車shockによって好む好まざるにかかわらず一気に()()()()()()()へ突入したブリテンの機甲部隊は、機動力はあっても余りにも装甲が薄く火力の乏しい軽戦車を前線部隊から下げており、余剰となった車両が大量にあったのだ。

 一部は汎用輸送車などへと改良・転用もしていたのが、基本設計の古い車両や小さすぎる車両などは倉庫で埃を被っていた。

 それを輸送機でチベットへと持ち込んだのだ。

 日本の大型輸送機(C-2)を参考に開発された、後部開口部(ランプ)を持った近代的な輸送機は軽戦車を含む大量の軍事物資をチベット独立派が必要とするだけの量を必要とするだけの期間、常に送り続けたのだ。

 大規模と言ってよい航空輸送作戦を、余技の如き気楽さで実行したという点に於いてブリテンは、紛れもない世界帝国(G4たる一角)であった。

 その他、チャイナが航空隊をチベットに展開させると、対抗して旧式化した航空機 ―― ブリテン空軍(RAF)の主力戦闘機がジェット化すると共に余剰になっていた1()0()0()0()()()()戦闘機を供与したのだ。

 無論、チベット人パイロットが戦闘機の供与に合わせて用意出来る筈もなく、イギリス空軍を一時的に退役したブリテン人パイロットが()()()()()()を発揮して参加していた。*2

 

 

――日本

 ガッツリとブリテンがチベットへの軍事支援を行っている陰で、日本はチベットが独立宣言をすると同時に国家承認が即座に行われる準備に務めていた。

 フランスとアメリカに話を通し、G4(ジャパン・アングロ)として独立承認の共同声明を準備し、国際連盟への加盟も同日に行える様に外交的な準備を進めた。

 無論、武器弾薬その他の物資供給も行ってはいたが、日本の影はブリテンに比べれば薄かった。*3

 だが、外交工作を進める上で、影の薄さは大きな意味を持つ。

 今回の場合で言えば、チャイナはブリテンに外交資産を集中させていたが故に、日本の動きに気づく事が遅れたのだ。

 例え気づけたとしても、チャイナが何か出来たとは限らない。

 だが、例え羽虫の様な力しかない邪魔であっても、邪魔が入らぬという事に勝るものは無いのだ。

 尚、国際連盟を舞台とした事でソ連も日本の動きを大まかながらも察知はしたが、チャイナとの関係が疎遠となった事もあり、その事をチャイナに伝達する事は無かった。*4

 

 

――チベット

 総数で1万人を超えないチベット独立派であったが、日本とブリテンの支援によって数はあれども装備では決定的に劣るチベット派遣軍との戦いを有利に進める事が出来た。

 そもそも、チベットとチャイナをつなぐ道路は国籍不明の爆撃機(ジャパン・ボマー)が定期的に耕して(爆撃して)おり、チベット派遣軍の本隊はチベットまで到達出来ていなかったのだ。

 その上、一般の住民もチベット独立派を支持しているのだ。

 これでは本格的な戦争になる筈も無かった。

 人手不足を埋める為、チャイナ系住民やチャイナ人難民などがチャイナ派遣軍に志願(が徴用)し抵抗を続けてはいるが、流れを止める程の力は無かった。

 結果、最初の本格的な武力衝突 ―― チベット独立派の拠点を武装したチャイナ難民が襲った日から数えて2ヶ月を超える頃にはチベットの主要都市ラサでの攻防戦が始まる事となった。

 ラサをめぐる戦いでチャイナ人たちは、チベット人を巻き込むことも辞さない無差別な抵抗を繰り広げた。

 街路に爆弾を仕掛けたトラップや、水道に劇物を混入させるなどしたのだ。

 だが、その事がラサに住むチベット人の怒りを買う事となり、ラサ攻防戦が始まって3週間でチャイナ人はラサから叩き出される事となった。

 ほうほうのていでチャイナ人たちはラサを離れた。

 だが()()()()()()()為、逃げそこね捕らえられた警察や軍の人々は裁判の末、等しく吊るされる事態となっていた。*5

 チャイナの決定的な敗北とも言えた。

 だがそれでもチャイナは、意地でもチベット独立を許す積りは無かった。

 チベット派遣軍への更なる10万の兵の増員を決定した。

 装備も、アメリカとの戦争に必要な分から、少なからぬ量を分けて用意する事とした。

 徹底抗戦の構えを見せたのだ。

 又、チベット特別軍事裁判に対しても、チャイナ人を不当不法な裁判でもって処罰したとして違法を宣言。

 違法な裁判を開いた廉でチベット独立派と日本の政府関係者に対して、チャイナの特別立法裁判への出廷を命じていた。

 チャイナは自覚する事の無いままに国の四方に敵を抱える羽目に陥り、G4の3つと事実上の交戦状態となったのだ。

 この恐るべき事態に気づいた蒋介石は、ひっそりと一人夜中に痛飲しようとアルコール度数の強い老酒(ラオチュー)を用意したが、その健康を案じた夫人に止められたのだった。

 健康に悪いと言う夫人に、戦争より健康に悪いものは無いのだと抗弁する蒋介石であったが、その主張が通る事は無かった。

 

 

 

 

 

 

*1

 ブリテンによるインド懐柔方針は、その実利面からのアプローチ故にインド側からも歓迎をもって迎えられていた。

 20世紀初頭は民族主義の勃興によって完全なブリテンからの独立を主張していたインドであったが、ブリテン連邦の経済連合と言う側面と、ブリテン連邦の一員として日本連邦の市場に最恩恵国待遇(G4トリートメント)接続(アクセス)出来る特権を認識して以降、下火になっていた。

 形式的とは言えブリテンの国王を掲げ、軍事的にブリテンの要請を受け入れなければならないという事は極めて()()()であったが日本市場から得られる利益、そして何より(ハードカレンシー)を自由に得られると言う事はそれ程の意味を持つのだ。

 世界帝国たるブリテンの£通貨(ポンド)も強いのだが日本の\通貨(エン)は日本の経済力を背景として国際通貨(G4カレンシー)の中でも絶対的な位置にあった。

 

 尚、この事から判る様に、日本最大の()()()()は円であった。

 

 

*2

 無論、すべてはブリテン政府の仕込みであり、ジェット戦闘機への機種転換を嫌がったベテランのパイロットが最後の花を咲かせたいと参加していた。

 20機近い戦闘機で構成された第1チベット義勇航空隊(ワイルドギース)は、チベットの空でチャイナと熾烈な戦闘を繰り広げた。

 かつてブリテンの空を駆けたスピットファイア戦闘機は蛇の目(ラウンデル)の代わりにガチョウを描いて異国の地を飛んだ。

 そして大なる戦果を掲げ、優雅なる守護者(プラウド・スピッティ)なる愛称が捧げられる事となる。

 

 

*3

 戦車や戦闘機といった大物装備の供与を行ったブリテンが目立つというだけであり、日本の支援も決して貧弱という訳ではなかった。

 それどころか徒歩の歩兵部隊が主となるチベット独立派にとって、L16b 81㎜先進化迫撃砲の廉価モデルであるML-81迫撃砲や、シベリア共和国軍からの要請で開発された12.7㎜弾を使用する単発の39式12.7㎜対物ライフル(イエロー・デグチャレフ)の簡易量産モデルであるML-915対物ライフルといった携帯し易い火力は、頼れる相棒であった。

 下手な歩兵砲よりも長射程のML-81迫撃砲は凶悪の一言であり、狙撃にも使われたML-915対物ライフルの威力と命中精度は無慈悲であった。

 その上、大量に供与された高性能なML-04無線機は、烏合の衆でしかなかったチベット独立の志士たちを集団として戦える存在へと変えた。

 武器装備の使用に関しては、教官をSMS社(日本国外郭軍事組織)から受け入れていた。

 鬼より怖いと言われた教官(レンジャー・インストラクター)たちはチベット独立の闘士を、短い時間であっても胸に飾ったダイヤモンド徽章の如く精一杯に磨き上げた。

 まがりなりにも軍隊という形を整えたチベット独立派は、日本の偵察衛星による情報を受ける事で効率的な作戦が可能になり、数で勝りドイツ陸軍式教育を受けた将校も交じるチャイナのチベット派遣軍と互角に渡り合う事が可能となったのだ。

 空を舞うスピットファイヤ戦闘機がチベット人の心を支えたように、チベット独立派の土台を日本は支えたのだ。

 故に、後に日本とブリテンは、チベット独立を支えた両輪と称えられる事となった。

 

 

*4

 チベットの独立はチャイナの国力低下を意味し、それはとりもなおさずソ連の支援対象国でありチャイナと対立する南チャイナへの脅威が低下する事を意味するのだ。

 その意味では、ソ連はチベットの独立を支持する立場にあった。

 覇権国家群(ジャパン・アングロ)への反発、そもそも日本に対する憎悪を持つソ連であったが、状況を冷徹に見る目と感情で暴走しないだけの自制心を維持していた。

 

 

*5

 チベット人の怒りが生んだ悲劇的な光景と言えたが、チベット派遣軍が行った()()が少なからぬ女性や子供を巻き込んでおり、その結果 ―― 因果応報であった。

 多くのチベット人が報復を叫び、チベット独立派もその声に応えたのだ。

 尚、簡易ながらも裁判が行われたのは日本からの強い制止に依るものであった。

 別段、俘虜となったチャイナ人を哀れんだ訳ではない。

 只、チベット独立に向けた国際世論工作を進めていたが為、チベット独立と言う()()にケチがついては後々が面倒であるというのが理由であった。

 そしてもう1つ、()()()()()から戦時で処刑などを行う際には瑕疵の無い物的証拠を残した上で実行せねば、後から()()()()を付けられるか判ったものではないというものがあった。

 紳士的な(真顔での)日本の説得に、チベット独立派も折れた。

 とは言え裁判に時間を掛ける積りは無かった。

 日本は各種航空移動手段を総動員する勢いで国際連盟本部(ジュネーブ)から安全保障理事会軍事法務委員の人間を拉致する勢いで連れてきて、軍事法務委員を裁判長として緊急裁判を開催させたのだ。

 その間、わずか3日。

 すさまじいまでの力技であった。

 力技は、取り調べから裁判から全てをマスコミの前で行うという所まで達していた。

 一月に及んだ裁判 ―― チベット特別軍事裁判は、日本の法務士官が検事役を担当して行われた。

 チャイナ人被告(捕虜)を弁護したのはチャイナから派遣されてきた法務を担当する将校であったが、自国も参加するハーグ陸戦条約を理解しているとは言い難く、暴徒(チベット独立派)からの俘虜の解放を要求するに終始するに留まっていた。

 対して日本の法務士官は、世界各地での戦争での経験を持った米軍法務士官からの知見も得ていた為、法と証拠の下でチャイナ人捕虜の有罪をさらっていくのだった。

 その様は、裁判それ自体が公開処刑と評される無残な結果となった。

 捕虜は全員が有罪。

 その上で罰則に関しては、チベットがいまだ独立国家ではない為にチャイナの法が適用された。

 当然、殺人罪である。

 そして殺人の罪に対して下された判決は死刑であった。

 チャイナの法務士官は裁判を日本による法匪的行動であり横暴であると主張したが、日本は裁判内容を取り調べから全公開しており、そして裁判の流れ自体に恣意的乃至は違法性の類は無かったが為、誰もチャイナの主張に賛同する者は居なかった。

 それはチャイナの友好国にして反日的国家であるドイツですら批判は行わず、処刑が人道的に行われる事を希望すると発表するに留まっていた所にも現れていた。

 それ程に、チベット派遣軍の行いは酷過ぎたとも言える。

 チャイナ人俘虜の悲鳴、或いは助命嘆願は無視され、判決確定後、速やかに刑は実施された。

 尚、この裁判では、誰がチベット派遣軍に非道な行動の許可を与えたのかと言う点を明らかにする為として、チャイナに総統(国家元首)である蒋介石の出廷が要求されたが拒否されている。

 この為、全責任をチベット派遣軍司令部が負う事となり、チベット特別軍事裁判で司令部要員に対する逮捕命令が出された。

 

 




2020/01/06 文章修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

122 フランス植民地帝国の壊乱-05

+

 チベット独立派によるラサ掌握は、チャイナがチベットの南東域を喪失した事を象徴した。

 チベットにはチャイナ人が難民以外にも商機を求めて入植して来た人も多かったが、その多くは、ラサにチベット独立旗がはためいたと知るや潮が引くように退去していった。

 チベットの治安が崩壊した訳でも無ければ、いわれなき暴力や迫害が頻発するようになった訳でも無かったが、()()()()()()()()しているチャイナ人は危険の可能性を察知する能力が高く、それ故の行動であった。

 これが、チベットにおけるチャイナ人が多ければ別の選択肢(反チベット闘争)も選択肢であったかもしれない。

 だが、今のチベットにはそれだけのチャイナ人は居なかった。

 尚、チベット南東域のチャイナの警察機構は、チベット独立派から積極的に攻撃された訳ではなかったが構成員の多くが職場を離れており、機能を失っていた。

 尚、統治/行政機構に至っては、責任者が真っ先に逃げ散ってしまい瓦解する始末であった。

 アメリカとの戦争による劣勢。

 或いはそれ以前からの対外戦争における連続した敗北が、チャイナ人の心に逃げ癖を与えていた。

 この結果、チベット独立派はもちろん、その後ろにいた日本すらも想定外の速度でチベットの大地が本来の主の手に戻ろうとした。

 これには日本も慌てて、チベットの独立宣言と国家承認、国際連盟への加盟準備を一気に進める事となる。

 チベット独立派に対しても対チャイナ闘争だけではなく、治安維持と行政 ―― 統治活動を行う事を提案していた。

 この為、チベット独立派の攻勢は停止し、チャイナ側は戦力の立て直しに掛かる貴重な時間を得る事となる。*1

 チベット独立派が攻勢を止めた事に安堵したチャイナ派遣軍は、このある種の停戦期間を反攻準備に使いたがった。

 武器弾薬食料の集積、人員の配置。

 例え練度武装で劣っていても、兵員の数で2桁近い規模の差をつけて殴り掛かれば勝てる。

 そう計算していた。

 だが、政治が()()を許さなかった。

 チベット独立派がラサのポタラ宮にて軍事式典(パレード)を行い、併せてチベットの独立を宣言したからだ。

 チャイナ政府は、断固とした攻勢を厳命した。

 

 

――チベット独立宣言の余波

 他所から民族独立運動としてチベットを見ると、チャイナと言う強国*2に立ち向かったアジアの片田舎の貧民(チベット人)が自らの力で大金星(ジャイアントキリング)に成功した様に見えていた。

 無論、チベット独立運動を他所の場所で詳細を知れる程に教養のある人間であれば、チベット独立派の後ろに武器弾薬資金などを都合する()()()()()()が居ることは容易に想像出来る事ではあったが、それでも血を流して戦っているのはチベット人なのだ。

 その奮戦に敬意を抱くのも当然であった。

 そして、それとは別のごく一部の人間は、アジア人であるチベットの人間に出来たのだから自分たちでも出来るのではないかと思ったのだ。

 そのごく一部の人とは、以前にドイツが民族意識に火を点けて回っていたアフリカのフランス植民地群であった。

 

 

――アフリカ/フランス植民地

 1930年代末にドイツは、フランスに混乱をもたらす為にフランス植民地(海外県)へ武器をばら撒く事を画策していた。

 当然、植民地で独立運動を起こさせる為だ。

 植民地での独立運動は、その鎮圧にフランスの国力を消費すると共に、植民地での経済活動が停滞する事によるフランスの国力低下が期待できる一挙両得の(美味しい)作戦であった。

 その前段階としてドイツは宣教師に扮した工作員(ヴァッフェンSS)をアフリカに放ち、民族自決と言う概念を広めていっていたのだ。

 民族独立と言う夢だけではない。

 フランス人を追い出した後で現地住民が独占できる益 ―― 資源売却益と言う実利、そもそもフランス人(カエル野郎)に頭を下げなくても良いし顎で使われる事は無いという自由。*3

 言葉巧みにアフリカの各地で、植民地人として扱われているアフリカの人々の()()()に火を点けて回った。

 途中でアフリカの、フランス留学もした様な高学歴の人間も引き込んだ為、アフリカ人自身が自立的に独立への希望とフランスへの敵愾心に燃え上がる様になった。

 そこまではドイツの勝利であった。

 だが同時に、そこまでであった。

 武装蜂起を行うために必要な、肝心要と言える武器を持ち込む事にドイツが失敗したからだ。

 イタリア領東アフリカで密輸に失敗 ―― イタリア・フランス・ブリテン・日本による洋上密輸阻止作戦東アフリカ-中東治安維持作戦(フロム・ザ・シー)と、荷揚げする港湾での検査の厳格化が、武器密輸を不可能にしたのだ。

 様々な()()を行使すれば、或いは不可能ではなくなり少し難しいという程度になるかもしれないが、ドイツは武器密輸からのアフリカの混乱を手軽い(ローコスト・ハイリターン)からこそ実施しようとしたのであり、ドイツの外交/国防資産を浪費してまで実行する必要はないと判断したのだ。

 この結果、アフリカの独立運動は散発的な抗議活動(暴動)はできても大規模化する事はなかった。

 ドイツへの失望とフランスへの憎悪を滾らせ、独立に向けた気持ちを埋火の様に持ち燻ぶらせていた。

 それが、チベットの建国(独立宣言)で再点火する事となった。

 アフリカの人々は考えた。

 武器を外から持ち込めないのであれば、自分たちで作れば良い、と。

 フランスにせよ国際連盟にせよ、武器の輸出入は厳格化していたのだが、武器を作るのに必要な治具や鋼材などの持ち込みに制限を掛けては居なかったのだ。

 適当な武器を見本に、見よう見まねで武器を作る。

 失敗した。

 当たり前の話であるが、銃と言うものも簡単に見えて奥が深い。

 使えるものを生み出すには、様々な知見や知識を積み重ねなければならぬのだから。

 故にアフリカの高学歴独立派の人間は、かつての(ドイツ)に頼る事となる。*4

 

 

――ドイツ

 自分が種を蒔いたアフリカ独立運動が、自立的に続いていた事に感動したドイツは全面的な支援を約束した。

 民族の自主的自立的国家こそが世界の安定と平和、そして繁栄に資すると言うのが理由である。

 嘘だが。

 ドイツとしてはどんな理由だろうが、どんな相手だろうがフランス(ドイツを狙ってくるカエル野郎)の足を引っ張ってくれるのであれば、例え悪魔であろうとも手を結ぶ積りであった。

 その覚悟あればこそ、非アーリア(ユダヤ)人どころではない、ナチス的な思想に於いて正しく埒外である劣等人種(ネグロイド人)であろうと気にせずに優遇するのであった。

 生産のしやすい簡単な単発銃(ライフル)の設計をドイツで行い、無償で提供した。*5

 大量に消費するであろう弾薬の材料も手配した。

 善意によって地獄への道は舗装されるという。

 では底意のある善意で舗装された道であれば、どれほどの場所(地獄)へつながるのだろうか。

 アフリカでそれが試される。

 

 

――フランス

 海外県(植民地)で同時多発的に始まった武力蜂起(暴力を伴う独立運動)に、大いに慌てる事となる。

 昨年、フランス領インドシナ(ベトナム)での独立運動を平定したと思った矢先に、この事態である。

 しかも武力蜂起の規模、或いは地域の広大さはアジアでの比ではないのだ。

 蜂起自体はそれぞれ数百人から多くても千人に届かない程度で、本気を出したフランス軍が臨めば鎮圧は容易かったが、余りにも広域で発生し過ぎて、数が足りな過ぎていた。

 そもそも、フランスがアフリカに駐屯させていた部隊は、その少なからぬ数がフランス領インドシナでの治安維持戦へ投入するため引き抜かれていた。

 圧倒的な兵力不足。

 これではどうしようも無かった。

 フランス政府は軍に対して鎮圧を厳命したが、フランス軍上層部は鎮圧の為に本土軍電撃部隊(エクレア・ユニティ)の投入許可を政府に求めた。

 その事が、フランス政府を悩ませた。

 フランス本土軍電撃部隊とは、フランス本土に用意された対ドイツ戦争(先制攻撃)部隊の事であった。

 高練度で良好装備の現役兵部隊であり、機甲師団や機械化歩兵師団によって構成されたドイツ攻撃の急先鋒部隊だ。

 当然、全てが機械化されており、その展開力は極めて高い。

 その高い展開(機動)力が、広域でのバカ騒ぎ(独立運動)に水を掛けるのに必要だというのがフランス軍上層部の判断であった。

 その判断にフランス政府は、1つ返事(Oui)と言う訳にはいかなかった。

 電撃部隊はドイツとの戦争を短期間で片づける為にと、フランスが一心不乱に作り上げてきた決戦部隊なのだ。

 それを、()()()()()()()()()()()()で消耗させる訳にはいかないというのがフランス政府の認識であった。

 フランス政府は独立運動自体を厄介であると認識はしつつも、その脅威を重く受け止めていなかった。

 軍と政府の折衝の結果、電撃部隊の転用は行われない事となった。

 だが電撃部隊の各師団から人員を抽出し、それを基幹とした複数のアフリカ機動部隊(機動師団)の創設と派遣が決定した。

 不足する戦車や装軌装甲車の代わりに、自動車を装甲化した軽装輪装甲車を配備した。

 VBA(アフリカ装甲車)とも呼ばれた軽装輪装甲車は民間用の自動車に鉄板を張り付けた程度の装甲車で、防護力も()()()()と言う評価であったが、抵抗銃の7.92㎜小銃用実包に対してはある程度の防護が期待出来ると判断して配備された。

 装甲よりも、広域に展開できる機動力が要求されての事であった。*6

 又、フランス領インドシナでの治安維持戦の経験から、アフリカの親フランス派アフリカ人を徴兵した治安維持戦補助部隊の構築も目論む事となる。

 当初は、治安維持戦に慣れたインドシナ連邦軍の投入も検討していたのだが、インドシナ連邦軍の高練度部隊はアメリカ-チャイナ戦争へ参戦しており、しかもその収益(アメリカからの傭兵代)が余りにも魅力的であった(美味しかった)為、検討以上の事に発展する事は無かった。

 故に、親フランス派アフリカ人部隊の創設である。

 フランス人がフランス領インドシナでの治安維持戦の成果よもう一度と思うのは当然の事ではあった。

 だが1つ、フランス人は理解していなかった。

 アフリカでの己の嫌われ具合と言うものを。

 アフリカの混迷が始まる。

 

 

 

 

 

 

*1

 日本の提案(指示)に対してチベット独立派の中で武断派の人間は、拙速をもって攻勢を強め、チャイナ派遣軍が混乱状態にある今、一気に支配地域を拡大するべきだとの声を上げたが、日本にその主張を受け入れる積りは無かった。

 今、支配領域の安定を無視して攻勢を続行するのは簡単である。

 或いはチベットの地からチャイナを追い出す事を早く達成出来るかもしれない。

 だが万が一に、その短い時間でチベット各地の治安が悪化し、群雄割拠の情勢となった場合、チベットが独立国家として纏まる為には相当な時間と流血を必要とする可能性が出てくるのだ。

 最悪の場合、チャイナが再び出てくる可能性もあるだろう。

 日本はそう言って武断派を説得した。

 その余りにも暗い可能性に、顔をしかめた武断派であったが、実際問題としてチベットの治安維持機構は機能停止状態となっている。

 この為、物流も滞りがちなのだ。

 強盗の類が増えたという訴えもあった。

 この為、日本の説得を悲観的過ぎると蹴る程に武断派も能天気ではなく、戦闘続行の声を下げるのだった。

 尚、この説得が成功した背景の1つには、チャイナ派遣軍が再編成で機甲部隊等を投入し、チベット独立派が苦境に陥った場合、日本による軍事支援(義勇軍派遣)が確約された事もあった。

 空手形ではない事を示すように、日本はシベリア総軍第1方面隊に所属する第二空挺団の1個機械化連隊と1個空中騎兵連隊を東トルキスタン共和国に展開させ、この事が武断派に安心感を与えていた。

 

 

 

*2

 20世紀から列強との闘いで敗れ続け、国土を失い続けているチャイナであるが、大多数の国家や民族から見れば大国に位置する国家であった。

 それは眠れる獅子とも呼ばれていた事からも明らかであった。

 何より、アメリカを筆頭とする列強と年単位で戦えているのだ。

 普通の国家であれば開戦して早々に国土を失い、植民地にされかねない相手と戦えるという時点で、凄い事なのだ。

 只、戦争を繰り広げた相手国が、日本にせよアメリカにせよブリテンにせよ、規格外(覇権国家群)なだけであった。

 

 

*3

 フランスの植民地(海外県)ではアフリカの人々の独立感情に火を点ける事に成功したドイツであったが、ブリテンに対するソレは失敗していた。

 当然だろう。

 ブリテンは、軍事や外交に一定の制約があるとはいえ各植民地をブリテン連邦加盟国と言う枠内で独立させており、その上でブリテン傘下の旨味(G4経済圏へのフリーアクセス権の付与)を提示しているのだ。

 面従腹背、白人野郎(キング・ジョージⅥ)を敬ったフリをするだけで笑える程の利益を得られるのに態々完全独立を図ろうとする物好きは居なかった。

 

 

*4

 ドイツを師と言うアフリカ人の高学歴者たちであったが、総じて、ドイツ人の事をアフリカの民(ネグロイド人)を下等民族だと下に見てくる手合いであると嫌ってもいた。

 交渉の場にいるアフリカ人をドイツ語の判らぬ蛮族と思い、アフリカ人の前で笑いながらドイツ語で侮辱的な言葉を投げかけてくるのだ。

 むしろ嫌わない方が不思議であった。

 フランスに留学し高等教育の一環で哲学まで修めた様な人間であれば、ドイツ人を教養がない蛮族、綺麗事(建前)すら守れぬ程度の低い人間であると馬鹿にするのも当然の話であった。

 

 

*5

 先進国ではない場所で、劣等人種(ネグロイド人)が操るという事で、ドイツの開発した単発銃の設計はシンプル極まりないものとなった。

 そのシンプルさ加減は、日本の20式5.56㎜自動小銃を見て以降、先進国で一気に研究や普及が進んだ突撃銃(アサルトライフル)の様な全自動射撃能力を持たないどころか、弾倉すら無い所に現れていた。

 そこまでする必要があるのか、そこまでした意味があるのかと言う点で難しい部分もあったが、少なくともドイツ人としてはネグロイド人()()が作り使うのであれば、そこまで簡素化せねば生産も整備もできないだろうという善意での行動であった。

 この為、1943型単発式小銃(フォルクスゲヴェーア)として設計された簡易小銃は、照準も適当であれば、その名の通り弾倉も無いと言う形で完成する事となる。

 だが、作りの簡単さ故にアフリカの何処其処で製造され普及する事となる。

 フランス植民地の人間は、この銃を抵抗銃(レジスタンス)と名付け、愛用した。

 

 

*6

 当初は間に合わせの装甲機材と言う扱いであった軽装輪装甲車であったが、正式装備の装軌装甲車や戦車が、広いアフリカの大地で機動運用を行うには余りにも燃費が悪く整備の手間がかかる為、何時しかアフリカ機動部隊の主力装備へと成りあがっていた。

 戦車にせよ装軌装甲車にせよ良い装備ではあるのだが、雑多な軽歩兵でしかないアフリカ独立運動に投入するには()()()()()()()()のだ。

 この為、フランスは後に高速展開可能な装輪装甲車と装輪偵察戦闘車の開発に着手する事になる。

 

 




2020/12/27 表現修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

123 フランス植民地帝国の壊乱-06

+

 アフリカのフランス海外県(植民地)で勃発した独立運動に一番迷惑を被ったのはブリテンだった。

 日本の旧英国植民地人(英系日本人)の策謀から始まったブリテンの体制変換 ――

強権的に海外を支配する植民地帝国体制から共存共栄(美辞麗句)を掲げ、独立した植民地による統合された国家としてのブリテン連邦として安定していたブリテンにとって、植民地独立を目指す闘争と言う奴は実に迷惑な代物であった。

 ブリテン連邦内の各国で独立運動が起こる事を危惧してと言う訳ではない。

 ブリテンの監督下でゆっくりとではあるが民主主義と法治による自治権を回復しつつあるブリテン旧植民地群の住人は、独立国家であると言う意識を育てていたのだ。

 ブリテン連邦加盟国の連絡部会で外交官たちが「え、独立? 今頃??」と言う位には意識の差があった。

 ()()()()()迷惑なのだ。

 独立国家として安定性と、経済的な発展を始めたブリテン連邦加盟国にとって、近場で難民の発生しそうな荒事は迷惑千万なのだ。

 一部の理想主義的な人間(コスモポリタン被れ)は、同じアフリカ人として助けるべきだとの理想論を口にして居たが、その甘言に乗るお調子者は出なかった。

 当たり前である。

 ブリテンの連邦国家省が旗振りをし、国際発展研究機構(日本)が全面協力をし、各国の指導者層は足並みをそろえて生活の質的向上への努力を重ねているのだ。

 子供が食べる物が無いと泣かない社会へ、祖父母が食べる物を減らして自分たちに分けない社会を作る事に優先される事は無い。

 まだまだ成果が出たとは言い難いが、それでも成果への萌芽は見えてきているのだ。

 そんな状況で、気分が良くなるだけの国力の浪費を選ぶ国家指導者も、有権者も居る筈が無かった。

 ()()()()()迷惑なのだ。

 フランスの植民地(海外県)での戦乱で発生した難民がブリテン連邦加盟国に4桁5桁単位で流れて来られては、まだ国家としての基盤の弱いブリテン連邦加盟諸国では対応しきれない事が想定されるからだ。

 ブリテン連邦加盟国連絡会議では、真剣に国境封鎖が検討される事態となっていた。

 ブリテン政府は、事態の早期終息をフランス政府に強く要求する程であった。

 

 

――日本

 フランス植民地の混乱は、日本にとって迷惑千万な話であった。

 現地には資源開発その他の産業に日本企業も進出しており、その保護は日本の責務でもあったからだ。

 とは言え、では自衛隊を派遣しますとは言えない状況にあった。

 治安が悪化しているとは言え、全くの戦乱的な状況になっているかと言えばそうではない。

 そもそもアフリカのフランス植民地も現地住民の要望を取り入れる形で制度改革が行われており、フランスの法制上では収奪の対象でしかなかった植民地ではなく海外県としてフランス本土に準じた扱いに代わっていたのだ。*1

 言ってしまえば、治安が悪化したから軍隊を派遣させろと言う様なものなのだ。

 とてもではないがフランスが受け入れる事は出来ないし、日本としてもフランスとの関係に深刻な問題を招きかねない為に選べる事ではなかった。

 この為、当初は治安維持組織かフランス軍による保護を要望したのだが、残念ながらフランスにそんな余力は無かった。

 しかも問題は、フランス海外県で日本企業が進出している場所は資源地帯が殆どと言う事であった。

 貴金属や希少金属の鉱山などなど。

 即ち、独立運動を行う人間にとっても経済活動(活動資金の為の収奪)を行い易い場所なのだ。

 重要であるのに、何故にフランスによる防護の手が届き切らないかと言えば、政治的に優先されるのが都市部 ―― 人口集積地帯であるからだ。

 フランスの選択は間違ってはいない。

 只、日本にとっては正解ではないというだけだ。

 日本はフランスとの折衝を重ねた。

 日本企業はその間、独自に自衛体制を整えた。傭兵の活用である。

 ()()()()を雇用し、自衛しようとしたのだ。

 だがこれは悪手となった。

 警備目的で、傭兵などを雇用するノウハウの無い企業が慌てて現地住人などを雇った結果、不心得者が入り込んでしまい、支給した武器の筒先を雇用者側へと向けたのだ。

 痛ましい事件が幾つか発生し、慌てた日本外務省は企業に対して傭兵の雇用を禁止する事態へと発展する。

 とは言え、企業側からすれば国策にも乗って海外進出し、結果、出先で危険な事態に直面したのだ。

 その自衛を止めるのであれば代替案を寄越せと声を上げるのも当然であった。

 フランスと国内企業との板挟みになった日本は、逡巡の後に内閣府の外郭団体であり半官半民の軍事企業SMS社陸上部隊の投入を決断した。

 正確には新規部隊の創設と派遣である。

 これは、従来の自衛隊一時退職者からなる非公開特殊作戦部門(アンダーグラウンド・ユニット)とは別に、企業派遣を主任務とする傭兵部門を創設し、派遣するというものであった。

 通称はSMS社外人部隊(SMSエトランジェ)であった。*2

 とは言え、発足させる事を決定して直ぐに派遣出来る部隊や人材が魔法の様に登場する(POPしてくる)訳でもない為、当座は非公開特殊作戦部門と同様に、自衛隊から人員を派遣して凌ぐ事となる。*3

 

 

――フランス

 G4の連絡部会にてブリテンに詰られ日本から白眼視されたフランスは、せめてアメリカを味方にしようとする。

 が、アメリカはアメリカで対チャイナ戦争の真っただ中。

 フランスに対して、派遣して貰っているインドシナ連邦軍の撤兵は無いよね? と釘を刺してくる始末であった。

 四面楚歌の状況に()()たフランスは、もう知らんとばかりに全力でアフリカ独立運動鎮圧に乗り出す事となる。

 軍事国債を大々的に発行し、それを原資として日本との経済連携によって世界大戦(WWⅠ)の痛みを癒す事に成功していたフランス経済を戦時体制へと一気に動かしたのだ。

 新型の装輪型兵員輸送車やら25㎜対戦車砲や37㎜歩兵砲を積んだ偵察戦闘車の製造を皮切りに、75㎜や90㎜のカノン砲を搭載した13t級の偵察戦闘車(EBR装甲車)まで開発量産に取り掛かる始末であった。

 13t級と言う、一昔前であれば中戦車並みの重量を持ったEBR装甲車は、日本の16式機動戦闘車(Type-16 MAV)から着想を受けていた。

 偵察を行い、或いは歩兵部隊に随伴して火力支援を行う。

 戦車との違いは、EBR装甲車がトラックなどの装輪車両との連携を前提にしていると言う事だ。

 整備や補給、予備部品を可能な限りでトラックなどと共通化させているのだ。

 装甲面を見れば心もとないが、それ以外であれば極めて使い勝手の良い戦闘車両として生まれた。

 無論、戦車と対峙しなければと言う注釈が必要ではあったが。

 ある意味で戦艦と巡洋戦艦の様な関係性であったが、フランスは問題視しなかった。 

 EBR装甲車は16式機動戦闘車のコンセプトを濃厚に受け継いでいたからだ。

 即ち、EBR装甲車に要求される本質は戦車を代行する戦力では無く、戦車の自由な運用を支える為の補助戦力なのだ。

 言葉遊びのようでいて、それが本質であった。

 (戦車)無き(戦場)蝙蝠(EBR装甲車)

 戦車よりも安く作れ、戦車よりも安く動かせる、戦車が居ない場所で使う装備なのだ。

 正に、アフリカの様な場所に最適の装備であった。

 これを毎月1000両単位での生産をフランスは始めたのだ。

 野砲も戦車も戦闘機も一気に戦時体制での生産に取り掛かった。

 列強(G4の一角)としての力だ。

 アフリカを鎮めたら何があってもドイツを潰す、そう決意しての動きであった。*4

 装備を増産した事で不足した兵員は、アフリカやアジアで金で人を買うが如くかき集めていた。

 フランス人兵士の動員こそ、フランス本土での経済活動への悪影響と物資生産の混乱の恐れを鑑みて()()行ってはいないが、それもドイツとの戦争が近づけば行うと腹を決めていた。

 大陸軍(グランダルメ)大陸の覇者(ナポレオンとその将星)の末裔は全力で戦争を行おうとしていた。

 

 

――ドイツ

 ヒトラーは状況の変化を理解する為に大量のチョコレートとコーヒー、そして禁じていたアルコールの助けを必要とした。

 アフリカでフランスに一寸した嫌がらせをしたら大爆発(フランス大激怒)した ―― その流れはそれ程に理解に苦しむ因果であった。

 少なくともドイツにとっては。

 人間と言うものは往々にして自分の物差しで他人を測り、判断し、行動する。

 そこに希望的観測も乗るのだから、えてして現実とは乖離した憶測を事実や、冷静な判断と思い込んでしまう。

 その事を暴飲暴食の果てにヒトラーは理解した。

 理解したが受け入れるかと言えば否である。

 ドイツ連邦帝国の首魁(フューラー)として、ドイツの滅亡を断固として受け入れる訳にはいかなかった。

 ドイツ国防軍参謀本部に対し、()()()()()()()()()()()対フランス戦争計画の策定を厳命した。

 その上で、対外秘密工作を担当する親衛隊対外宣伝本部に対して、当座の軍事予算を確保する為の対外交策を命じた。

 オランダの掌握である。

 オランダ領東インドが生み出す富を我が物とし、フランスとの戦いに備える積りだった。

 又、オランダ領東インドの人間を、民族国家樹立の約束(空手形)を行って動員する事も考えていた。

 ゲルマン民族が迎える国家存亡の試練、フランス、或いはブリテンとの戦争には兵隊(消耗品)は幾らあっても過剰と言う事は無いのだから。

 既に親衛隊による下準備が成果を上げている事を理解していたヒトラーは3ヶ月以内でのオランダの併合を厳命した。

 ヒトラーはフランスがアフリカを鎮定するまでに最短でも1年と読み、これからの1年こそがドイツの存亡につながるのだと政府要人の前で演説を行うのだった。

 

 

 

 

 

 

*1

 1940年代に於いて、フランスの海外県と言う制度と、ブリテンのブリテン連邦と言う制度の差というものは、極端に大きなものは存在していなかった。

 フランスと言う大きな国家の構成員である事を要求するか、それとも独立した国家の集合体としてブリテン王室の下に在るかと言う程度であった。

 一般国民の権利などに於いて、フランスとブリテンに極端な差は無かった。

 資産や人権など、法の下での平等こそ成されてはいたが、参政権その他の政治的権利に関しては()()()と明示されては居ても、現時点で権利は凍結されていた。

 これは、民主主義国家の市民(有権者)としての教育を十分に受けていない人々に無条件で権利を譲渡する事が生む混乱を憂慮しての事だった。

 フランスにせよブリテンにせよ、宗主国に力があるからこそ出来た政策であった。

 にも拘わらず両国に差があるのは、偏に名誉の問題であった。

 改めて言う。

 ブリテン連邦に独立国家として自分の旗を持って加盟しているか、フランスの海外県として内側に居てフランスの旗を掲げざるを得ないのかの差。

 それが全てであった。

 海外県と言う制度、偉大なるフランスへ帰属させてやるという善意(傲慢さ)が生んだ状況であった。

 

 

*2

 外人部隊と言う呼称は、ある意味で正規軍(志願兵)と対比する形で使用されるものであったが、SMS社に於いて外人部隊と言う呼称を使用する理由は、日本連邦人以外にも広く門戸を開いた組織であるという事を意味する為に選ばれていた。

 その点に於いてSMS社は建前として民間企業ではあるが、同時に強い官の管理下にある事を示している。

 尚、日本の軍事組織に於いて外人部隊とも呼ばれている組織は、SMS外人部隊の他にもう1つ存在している。

 陸上自衛隊に在る、2個の海兵旅団だ。

 此方は、日本国籍者との結婚以外で手軽に日本国籍(≠日本連邦国籍)取得をする為の軍役部門である。

 軍事経験者の殆どは、この部隊へと志願していた。

 尚、最前線に派遣されがちな戦闘部隊であるが、日本人としての認識、権利、一般生活の学習を行う部署を抱えているのが特徴となっている。

 対してSMS社外人部隊(SMSエトランジェ)は、日本国籍取得への特別待遇は無いが、その分、高給と福祉社会保障、そして自衛隊に準じた新装備が与えられていた。

 又、休暇を日本国内で過ごす事も出来る為、日本連邦内は勿論、日本連邦外からも志願者が多い組織となる。

 

 

*3

 自衛隊からの人員派遣と言うが、4桁5桁の人間を簡単に派遣できる程に自衛隊も余裕のある組織ではない。

 守るべき領域の広さに比べて規模は小さめであるというのも理由であるが、それ以上に日本経済が好調となりつつある昨今、老若男女問わず働こうという人間は民間企業で争奪戦になりつつあり、そうであるが故に自衛隊を志願する人間は減少傾向にあった事も理由だった。

 衣食住に給与、後は名誉まで日本も()()()()()の好待遇を用意していたが、それでも寒冷地から熱帯まで泥にまみれて不眠不休で月月火水木金金とばかりに働く仕事をしたいと思う人間が多く出る筈も無く、仕方のない話であった。

 とは言え人が居ないからと物理的な理由があっても自衛隊は軍隊だ。

 軍である以上は政治からの命令(シビリアンコントロール)を拒否できる筈も無く、比較的人員に余力を持っていたシベリア総軍から人員を抽出する事とした。

 シベリア総軍はソ連と正面からにらみ合っている部隊であり、危険な政治的メッセージになりかねない行為であったが、陸上戦力の弱体化を補う様に日本は航空部隊 ―― 特に爆撃部隊の増強を行う事とした。

 その上で侵攻爆撃的なシナリオで大規模航空演習を臨時に行い、非常時には非情の対応が行われる(スケベ心を出したら絶対に焼く)とソ連に対して伝達していた。

 その意味をソ連は誤ることなく理解し、臨時の航空演習から数年の間、ウラル山脈以東に展開する陸上部隊の移動に関して公表するという対応に出る事となる。

 無論、面従腹背 ―― 頭を下げて腹を見せるのと同時進行で、高高度迎撃用高速戦闘機の開発促進を行っても居たが。

 

 

*4

 フランスが大量に刷った戦時国債を引き受けたのは日本とブリテンであった。

 日本からすればフランスから資源を輸入する上での対価(オマケ)みたいな金額であり、大きな問題にはならなかった。

 ブリテンは、アフリカのブリテン連邦加盟国周辺の安定を金で買うとの認識であった。

 どちらの国にせよ、大きな負担ではないと軽い調子で国債を購入した。

 普通の国家、G4以外の国家であれば10年分とは言わない国家予算に匹敵する金額であったが、それを成せるが故のG4であった。

 尚、余談ではあるがアメリカは対チャイナ戦争に戦時国債は発行していない。

 桁が違うのだ。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

124 フランス植民地帝国の壊乱-07







+

 フランスのアフリカ海外県で勃発した独立運動に迷惑を被ったのはブリテンである。

 他の国は、迷惑などと言う言葉では生ぬるい辛酸を味わう事となった。

 特に国力の乏しい宗主国が治めていた植民地には、独立への意志と武器とが燎原の火の如く及ぶ事となった。

 中でもスペインは悲惨であった。

 1930年代中頃での内戦とその後の世界経済(G4)との距離感(親ドイツ政策)によって経済が低迷し、結果、国力の深刻な低下が発生してスペイン領サハラ(アフリカ)に十分な統治能力(治安維持機構)を維持する事ができなくなっていたのだ。

 この為、武力紛争を止める事が出来なかった。

 西サハラとも呼ばれる地は、無慈悲な暴力が支配する大地と化していた。

 対して比較的良好な状態にあるのは、ポルトガルの植民地であった。

 ポルトガルの経済状態にとって、アフリカでの治安維持活動は控えめに表現しても地獄となる案件であったが、幸運な事にアフリカのポルトガル領の大多数は、安定したブリテン連邦加盟国に囲まれていたのだ。

 おかげで武器や暴徒、或いは難民の流入をコントロールできていた。

 そしてベルギー領コンゴは、地獄の地と化していた。

 管理できないが故に混乱したスペイン領と異なり、コンゴ自由国時代から白人層への憎悪を煮詰めてきたコンゴ人は、手に武器が届くやいなや、即座に(スナック感覚で)近隣の人々(白人支配層)を襲ったのだ。

 男は吊るされ、老人は焼かれ、子供は撃たれ、女は犯された。

 ベルギー政府による白人優遇策によって、多くのベルギー人がコンゴに入植していたが故の悲劇であった、

 尤も、かつてのベルギー国王が行っていた統治も似たようなものであった為、因果応報とも言えたが。

 このような陰惨さと悲劇とが手を取り合った狂乱(バカ踊り)に、アフリカで独立を維持していたエチオピアとリベリアは恐怖した。

 ある意味で、この騒乱に於いて心底からの被害者と呼べるのはこの2国であったかもしれない。

 

 

――エチオピア

 イタリアによる植民地化の危機を脱して以降のエチオピアは、国際連盟の加盟国として安定した経済発展を遂げていた。

 ()()()()と言う但し書きはあったが。

 安定した国内統治と発展は、帝国主義(インペリアリズム)から覇権国家連合(パクス・ジャパンアングロ)と言う国際情勢の変化をエチオピア皇帝が敏感に理解し、対応できたが故であった。

 植民地化の危機(1935-エチオピア事件)の縁を理由に日本やブリテンに接近し、その支持と援助とを勝ち取っていたのだ。

 特に日本は、クウェートに駐屯する遣欧総軍向けの日本的生鮮食料品の生産拠点として企業が進出を行っていた。

 米は兎も角として、野菜類を日本から持ち込むのはコストが掛かり過ぎるのだ。

 クウェートで生産される農作物も買い取りは行ってはいるが、その生産量と質は日本(21世紀人の胃袋)を満足させる水準にはほど遠かった。

 企業による農業を行う為、日本はエチオピアに対して政府開発援助(ODA)を以ってインフラ整備を行った。

 近代的な港湾施設、上下水道、そして電力の供給である。*1

 口の悪い者(ドイツなど)は、日本によるエチオピアの植民地化だと批判の声を上げたが、日本もエチオピアも世界も、誰も相手にする事は無かった。

 この様に、安定した独立国であるエチオピアは、周辺をブリテン連邦加盟国とイタリア植民地に囲まれているお陰もあってアフリカの独立運動騒乱が頻発する様になった当初は、直接的な影響は無かった。

 だが、近隣のイタリア領ソマリランドで独立運動が始まり、無関係では居られなくなる。

 難民の流入、なにより活動資金を求めた独立運動組織がエチオピアに遠征(強盗)に来るようになったのだ。

 当初は国際連盟の場でイタリアに事態回復に向けた努力を要求したが、果たされる事は無かった。

 イタリアは植民地経営の軸足を()()()()()()()とも呼んだイタリア領リビアに定めており、イタリア領ソマリランドは金食い虫のお荷物(生かすに難しく、捨てるに惜しい)と見ており、その統治には積極的で無かったからだ。

 イタリアの余りの無責任さに腹を立てたエチオピアは、自衛の為の努力を開始する。

 とは言え、長大なエチオピア-イタリア領ソマリランド間の国境を封鎖できるだけの軍をエチオピアは持たなかった。

 又、イタリア軍の近代的な装備の横流しや、強奪によって重武装化していたイタリア領ソマリランドの独立派は、近代化されているとは言い難いエチオピア軍にとって強敵であった。

 この為、エチオピア政府は日本に対して軍事支援を要請する事となる。

 軍事同盟の締結と、日本連邦統合軍の師団規模以上での大規模派遣要請である。

 エチオピアに日本の権益があれば拒否される事は無いと言う読みがあっての行動だった。

 その打診を受けた日本は頭を抱えた。

 日本政府としては、企業主体ではなく日本としての野放図な海外への進出には否定的であるという事も大きいが、それ以上に日本防衛総省が悲鳴を上げたのだ。

 平時体制の日本連邦統合軍に、エチオピアの様な巨大な国家(100万k㎡以上)で治安維持活動をする様な余力など無いと断言した。

 日本の外交窓口がエチオピアに対して好意的ではあっても、日本連邦統合軍の派遣に対しては積極的でない事を把握したエチオピアの外交団は、二の矢を放つ。

 軍事同盟の提携はそのままだが、日本連邦統合軍の派遣ではなくエチオピア軍近代化への協力要請であった。

 その上で、対価としてエチオピア軍の日本連邦統合軍への供出を提案したのだ。*2

 日本政府は、熟慮の末、エチオピアの要請を受け入れる事となる。

 

 

――リベリア

 周囲の殆どをフランスの植民地に囲まれた小国、リベリアに出来る事など無かった。

 素直に縁故のあるアメリカに頼った。

 アメリカにしても、国土が狭く、治安の安定しているリベリアでの活動は、それ程に大きな戦力を割く必要性も無い為、アメリカ海軍の大西洋東部での活動拠点整備を兼ねて、支援していく事となる。

 アメリカにとっては利益の乏しい行動ではあるのだが、G4としての立場から来る責任と同時に、まじりっ気のない正義の行動であった事から、アメリカ大統領の外交的評価(ポイント)稼ぎになると、対チャイナ戦争の真っ只中であっても気軽に戦力を派遣するのだった。*3

 

 

――ベルギー

 頼れる国のあったエチオピアとリベリアは幸いであった。

 だがベルギーに頼れる国は無かった。

 ドイツとフランスと言う2つの強国に挟まれるという立地条件故に行われていた中立政策が、国際連盟に加盟こそしてはいても有力な関係国と言うものをベルギーが作らずにいた理由だった。

 それが裏目に出る。

 コンゴ自由国時代と比較すれば、善政を行っていると断言しても良いベルギーであったが、所詮は植民地としての範疇に留まっていた。

 であれば、それがコンゴの人々に感謝される筈も無かった。

 元よりベルギーの貧弱な国力では、広大と言ってよいコンゴに駐屯させられた警察/軍組織など極僅かでしかなかった。

 独立運動と言う津波に全力で抵抗を図ったが、儚く飲み込まれるのが常であった。

 その様は、独立運動の本場ともいえるフランス植民地よりも悲惨であった。

 ここでベルギーは政治的決断を行う。

 フランスへの接近である。

 中立政策を破棄してフランスの影響下に入る事を代償に、フランス軍のコンゴ派遣を要請したのだ。

 だが、フランスの返答は拒否であった。

 ベルギーを影響下に置くメリットと、コンゴでの治安維持に掛かるコストとを比較すれば、ある意味で当然の反応だが、ベルギーは大きく慌てる事となる。

 コンゴの地下資源権益などの提供も餌にして交渉を継続しようとするベルギーであるが、フランスは外交自体は継続しようとしても、コンゴの治安維持への協力を約束しようとはしなかった。

 フランスにとっては自前の海外県(植民地)維持が最優先であり、他所の、鉱物資源に優れては居ても治安の悪い場所への投資を行う(スケベ心を出す)余裕など無いのだから。

 慌てたベルギーはドイツへと接近しようとしたが、ドイツもベルギーの話に乗る事は無かった。

 如何にドイツとは言えフランスとの戦争に備えて軍を拡張している最中に、海外へと大規模な軍の派遣を行う余力は無いのだ。

 ヒトラーは将来での支援に含みを残した交渉を行ったが、ベルギーにとってそれが救いになる訳ではなかった。

 ベルギーが欲したのは来年ではなく今日明日の支援であるからだ。

 当ての外れたベルギーは、国際連盟総会の場で人道に基づいた支援を要求するのだが、反応は嘲笑でもって行われた。

 G4(支配者たち)は礼儀正しく反応をする事は無かったが、非白人国家の代表たちは国力も無いのに白人国家であるからと偉ぶっていたベルギーの凋落(惨めな姿)を笑いものにするのだった。

 四面楚歌。

 尤も、ベルギーが手を打てぬ間にコンゴが独立を果たせるかと言えば、その様な事は無かった。

 ベルギー政府の手を離れた地域では、様々な軍閥が乱立し、血も涙もない内戦状態へと突入していったからだ。

 コンゴの地獄が始まった。

 

 

――ポルトガル

 国力の乏しさと言う意味ではスペイン程に酷くは無く、ベルギー程に悲惨ではない。

 だがブリテン程に植民地が安定している訳でも無ければ、フランス程にやけくそになれる国力があった訳でもない。

 ポルトガルは、なんとも言い難い立ち位置にあった。

 故に、必死になって植民地の安定に手を尽くす事になった。

 治安維持に金を掛け、同時に、ポルトガル領アフリカの現地住人に自治に向けた権利の開放を志向する事となる。

 それは植民地の独立につながる決断であったが、植民地に対する責任を果たせないとして世界中から嘲笑されているスペインやベルギーの轍を踏みたくないと言う意地故の事であった。

 幸いな事に、事態が極端に悪化する前に手を打てたお陰で、ポルトガルはベルギー領コンゴとの国境を抱えるポルトガル領アンゴラ北部での国境警備に全力を出す事が出来た。

 又、近隣のブリテン連邦加盟国が支援の手を差し伸べたというのも大きい。

 ブリテン連邦加盟国群にとっては、騒乱が自国に接近せぬようにとの緩衝を求めての事であった。

 ブリテン連邦加盟国は、盟主ブリテンを動かしたのだ。

 これによってポルトガルは、ブリテンの支援を受けて事態に立ち向かう事となった。

 

 

――スペイン

 宗主国が統治力を喪失した植民地程、ひどいものは無い。

 ベルギーが僅かなりとも管理をする努力を行えたのに対し、スペインにその様な余裕は無かった。

 現地に居たスペイン人を救助する余力も無かった。

 スペイン内戦の傷はそれ程に重かった。

 産業は消え、港湾は焼かれ、国庫は空となっていた。

 ドイツを同盟国としていたが、過度な干渉を恐れて援助を受ける事も無かったのだ。

 1940年代のスペインは、先進国と言う表現を用いる事に躊躇いを覚える程の惨状であった。

 スペインは、西サハラを統治する国としての道義的責任を果たす事は無かった。

 

 

 

 

 

 

*1

 国家の近代化に必要な部分、その教育以外でのインフラ部分を網羅する勢いで日本はエチオピアを援助する事となる。

 食糧生産拠点の整備と言う目的のみならず、日本の国内事情があった。

 1940年代に入り、日本が行っていた日本連邦加盟国のインフラ整備、特にシベリア共和国の近代化が、事前に()()()()()()()とされた要目を終えていた事が理由であった。

 即ち、シベリアのインフラ整備に力を振るった日本のゼネコン群が()となったのが大きい。

 インフラ整備に関わるゼネコンは、タイムスリップ後に混乱した日本経済再起動で軍需と共に活躍した大切な柱であり、であるが故にゼネコンに関わる関連業界は大規模化していた。

 それが暇 ―― 不景気に陥ってしまっては、好景気になりつつある日本経済に深刻な影を落としかねなかったのだ。

 無論、日本政府としても大手ゼネコンの首脳陣と会議を行い、肥大化したゼネコンの着地点を探す努力を行っていたのだが、簡単に結論の出る事ではなかった。

 ()()()()()、エチオピアへの発展援助であるのだ。

 エチオピアへの援助は、エチオピアの要望を聞き、無理はせず、だがその目的は徹頭徹尾に日本の為(ゼネコンの飯のタネ)であった。

 尚、このエチオピア援助の目玉は電力供給手段 ―― 洋上(船舶)型核融合発電所の貸与であった。

 エチオピア1国の電力需要を全て賄えるだけの力を持った50万t型核融合発電船(ウルトラ・パワープラント・シップ)は、空母や戦艦などよりも遥かに日本の国力を象徴していた。

 エチオピアから英雄の名(テオドロスⅡ)の名を与えられた400m近い全長と70mを超える全幅を持った発電船は、エチオピアに到着した際に大いに歓迎され、エチオピア皇帝も臨席した歓迎式典が行われた程であった。

 

 

*2

 この迂遠とも、面倒くさいとも言えるエチオピアの外交は外交術であると共に、日本の面子を慮っての事であった。

 日本におけるエチオピアの位置づけを理解していたエチオピア政府は、単なる軍事援助であれば日本は断らないだろうとは理解していた。

 だが日本主体で、小規模であってもエチオピアで大規模強盗団(イタリア領ソマリランド独立派)対策を行った場合、問題が出てくるというのがエチオピア皇帝の判断であった。

 国境線が長大な為、如何に機動力が高くても小規模な部隊では対処出来ないだろう。

 対処できなかった場合、日本はその面子に掛けて努力する事になるだろう。

 即ち、治安維持活動の泥沼化だ。

 エチオピアに進出している多くの日本企業、その投資を投げ捨てる様な事を日本はしないだろう。

 だからこそ、エチオピアが主体となった防衛計画であるのだ。

 エチオピア軍の供出に関して言えば、日本連邦統合軍の人的な限界を把握した上での提案である。

 日本に阿った様に見えるエチオピアの行動であるが、その本質は独立国家としての矜持であった。

 即ち、御恩と奉公(ギブ・アンド・テイク)

 エチオピアは援助を受けるだけの国家ではないという意思表示なのだ。

 

 

*3

 露悪的な表現をするならば、対チャイナ戦争が優勢なれども長期化の兆しを見せている為、判りやすい大統領が齎した()()()()()()()として選ばれたという側面もあった。

 編成されたばかりの海兵隊1個師団が航空隊と共に海を渡った。

 この為、リベリアでの国境防衛戦は()()()()()()とも呼ばれる事となる。

 

 




2020年、愚作をご覧いただきありがとうございました。
来年が皆様に良き年でありますようお祈りいたします。
では!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

125 日本の事前行動-02

+

 フランスが完全に戦時体制へ移行した事から、日本は欧州での戦争は近いと判断。

 G4の連絡会で定められていた戦争協力の準備を開始する。

 フランスが主導する対ドイツ戦争計画への協力は、戦地が地球の反対側である事も相まって日本経済に対して相応の負担(ストレス)を掛けるモノであったが、国際連盟を中心とした秩序(パクス・ジャパンアングロ)が日本に利益を齎している以上、その維持に務めるのは当然の話である。*1

 少なくとも日本の世論も、この政府の動きを肯定的に捉えていた。

 北はシベリア、オホーツク。

 南はミクロネシア。

 広大な国土と国際社会との密接さを十分に理解し、そして戦争を乗り越えてきた日本の有権者たちは、平和主義、或いは外交への過度な期待を持たないというのが大きかった。

 殴られる時は、理由も無く殴られる。

 相手の都合と言う筋金入りに勝手な都合で殴られる。

 である以上は、二度と殴って来ようと思わない程に殴り飛ばす事は、或いは平和的状況を齎すのではないか? と思っていた。

 民主主義国家である日本の政府は、国民の負託と意思に従って動く。

 チャイナ制裁として渤海を焼き払ったのも、正にこの戦略方針(Tit for tat)に則っての事であった。*2

 だが同時に、その戦争と戦備に関する計画が野放図であってはならないと、日本の有権者は判断していた。

 特に、戦後には必要性が減る大型護衛艦の類の整備計画に関しては厳しい声が上がった。

 その結果、衆議院議員総選挙で政府の戦備計画に批判的な野党が躍進する事となり、かつて策定した戦争計画の改定が行われる事となる。

 

 

――露系日本人とソ連系日本人

 人種(DNA)的な意味に於いて全く同一と言ってよい露系日本人とソ連系日本人は、共に日本人と成ってはいるが、その性格とでも言うべきものは大分違ってきていた。

 環オホーツク海 ―― アリューシャン列島と樺太島北半分を領土とする露系日本人国家であるオホーツク共和国に住む露系日本人は、極めて()()民族になりつつあった。

 日本連邦と友邦国(アメリカ合衆国)に囲まれていると言う軍事的脅威の無さと、そして漁業を中心とした日本からの投資によって露国時代(タイムスリップ前)では考えられない水準で経済が回っている事がその理由だった。

 一応、オホーツク海から北太平洋までの洋上治安維持を担当する事が定められては居たが、主要な接続相手国はアメリカであり、そもそも交易路として使うにも危険のない海域が殆どなのだ。

 この為、オホーツク共和国海軍が保有する艦艇は哨戒艦(OPV)と、警備艦(DP)と言う名前で採用された巡視船(海上保安庁向け船舶)が主力であった。

 遭難救助と、不審船と言う名前の密漁船相手が主任務であり、その密漁船も日本連邦内の何処かの国家所属なので、武力衝突などは考えられない平和なものであった。

 脅威の乏しさと、人口的な限界からの選択であった。

 これは航空部隊に関しても言えていた。

 戦闘機は当然にして洋上哨戒機すらも保有しておらず、救難飛行艇と中型捜索航空機が主力となっていた。

 唯一、陸上部隊のみが10万人規模の戦力を揃えては居たが、日本連邦統合軍に派遣されて(出稼ぎして)いる部隊 ―― 露国陸軍の伝統を引継いだ高練度高充足の2個の機械化師団以外は予備自衛官が主体の留守部隊であった。

 蟹を売って酒を買う呑気な国家、などとシベリア共和国から揶揄される始末であった。

 逆に言えば、それ程に蟹が儲かっていたのだ。

 特に日本本土の経済状況が安定して以降は、オホーツク共和国の蟹はアリューシャン蟹なるブランドで高値で取引される様になっており、一攫千金を夢見た若者や借金まみれの人間が逆転を狙って流入する程であった。

 人が集まれば金が更に動く。

 一儲けした男たちの財布を狙って女たちが集まり、女が集まれば女を食い物にする男も集まる。

 歓楽街の出来上がりだ。

 金、酒、女とくれば次は賭博だ。

 カジノ特区があれよあれよと言う間に出来上がる。

 この時代、平成(タイムスリップ前)の日本が見ていたラスベガス(カジノの王様)は存在しない為、金を使いたい金持ちが集まる様になる。

 なった。

 それが、後には娯楽小説や映画などで欲望の島々(ノース・ロアナプラ)などと言うあだ名を付けられたオホーツク共和国の実相であった。

 無論、日本国内と言う事で警察もしっかりと活動しており、小説や映画などの舞台にされる様な治安の悪さは無い。

 そもそも多くの人々は純朴で、蟹を売って酒を買って飲むだけが楽しいし、そんな旦那の尻を叩くのを趣味にした奥様方が居て、日本から流れ込んでくるサブカルチャーの合間に勉強をする様な子供たちが多いのだ。 

 蟹と石油の利益によって、寒い北の諸島国家であっても飯、酒、娯楽の分野で日本本土並みの生活が送れている為、治安など悪化しようも無いのだ。

 或いは、露国時代の軍備が博物館に纏められている事も理由であったのかもしれない。

 荒野で実弾を撃てたり、戦車(T-90)にも乗れるオホーツク共和国ミリタリーツアーなどもあり、その中には如何わしい外見の(外見に頓着しなさ過ぎる)趣味者も含まれていた事も理由だったかもしれない。

 実態として、南のグアム共和国か北のオホーツク共和国などと言う風に呑気な国家になり果てていたのだが、イメージと言うものは恐ろしい。

 そのイメージによって、ソ連系日本人国家であるシベリア共和国は微妙にオホーツク共和国へ隔意を抱いていた。

 さもありなん。

 シベリア共和国はスターリンの粛清への恐怖から生まれた国家であり、常にソ連の圧力を正面から受け止めている国家なのだ。

 緊張感が違うのも当然であった。

 シベリアの広大な領域で生まれた資源を原材料に、現役兵による最低でも自動車化された9個の正規師団(ナンバー・デビジョン)を持ち、さらには予備役兵による郷土師団(ホーム・デビジョン)*3が23個用意されていた。

 その他、日本製31式戦車や38式戦車、或いは建国時にアメリカから買い込んだM2中戦車は優に1000両を超えており、正規師団分以外にも戦車旅団を3個保有していた。

 野砲の整備が遅れがちであったが、これは戦車以上に操作員に高度な教育を必要とするからであり、その点に関しては短期的には航空部隊による対地攻撃で充当させる腹積もりであった。

 シベリア共和国陸軍はユーラシア大陸東部域で有数の規模へと成長していた。

 そしてこの軍が、ヨーロッパ派遣部隊の人的な主力となる事が決まる。

 とは言え、アメリカの対チャイナ戦争への正規師団を派遣している状況である為、郷土師団から人員を抽出した装甲旅団が8個を編成し日本連邦統合軍管理下へと移動させる事となる。

 装甲旅団は、装甲化された歩兵連隊2個と戦車大隊1個を基幹とした機甲部隊となる。

 問題は、装甲車などの操作の出来る人員は多く居るシベリア共和国陸軍であったが、新たに8個の戦車大隊を編成するだけの余剰な戦車乗員は居なかった。

 この為、8個の戦車大隊に必要な人員は、余力のあるオホーツク共和国や陸上自衛隊(予備自衛官の招集)で賄われる事となる。

 これが、ある種の緊張感のあったシベリア共和国とオホーツク共和国の関係が劇的に改善される理由となった。*4

 最初はギクシャクとしていた両邦国人の関係であったが、大抵は日本人が(金蔵)となって飲み会を開くと、後は酷い事になって翌朝には仲間(二日酔いの同病相憐れむ)と言う塩梅だった。

 尚、日本人は二日酔いの頭痛と、飲み干された酒の請求書を見ての鈍痛が半々であったという。

 後には、米系日本人もこの装甲旅団に配属される事となり、同じような宴会(飲兵衛共の共謀)が繰り返される事となる。

 流石のお人よしな日本人も、何度も財布を爆散されてはたまらぬと抵抗したのだが、そこは日本人を良く知る米系日本人、腹を割って話す場(ブレイコー・エンカイ)が必要と強く訴えて各隊で開催させていった。

 部隊が新設されると上長の金で死ぬほどに飲む。

 上長の財布は死ぬ。

 そんな日本連邦統合軍の宴会の(ダメな)伝統が1つ、ここで生まれるのだった。

 

 

――日本

 日本の、海洋戦力を主体とした対ドイツ戦争戦備計画は、ある意味に於いてトラウマ(米国の記憶)が生み出したものであった。

 米国が行った対独国戦争、その圧倒的なまでの物量によって圧殺する戦争に憧れていたのだ。

 今の日本の国力であれば()()が再現できる。

 出来るのであればそれをやりたい。

 止める者はおらず邁進した、それは暴走であった。

 そこに指摘が入り、指摘が冷静な内容であり、そして指摘者達が選挙で支持されたが故に、日本政府は指摘を受け入れて再検討を開始する事になったのだ。

 基本的な方針(コンセプト)は1つ。

 ()()()()()()()()()()()()

 勝つという言葉は誰も使わなかった。

 国力の差からして勝って当たり前であり、負けるという発想が挟まる余地は無かったからだ。

 相手の土俵に乗る事無く、一方的に蹂躙する。

 そこに戦争(対等な戦い)をすると言う発想は微塵も無かった。

 参席していた高級将官が、余りの身も蓋も無い表現に顔を顰めたが、否定する言葉を吐く事は無かった。

 そもそも、直近のシベリア独立戦争でも、技術力の格差をもっての蹂躙(ワンサイドゲーム)をしているのだ。

 今更と言う話であった。

 騎士道だの人道だのの綺麗なおとぎ話は、戦争が終わった後で悲劇的に喜劇的に使えば良いだけなのだ。

 日本は武士道の国である。

 武士道とは勝てば官軍(如何にいわれど勝つことが本にて候)なのだから。

 先ずは100隻からの艦艇整備計画は中止された。

 予算付き、着工済みの艦はそのまま建造が続行されたが、それ以外に関しては全て、中止とされた。*5

 これは、対ドイツ戦に於いて潜水艦などによる洋上交易路を守ろうと言う守勢攻撃的(ディフェンシブ)な作戦をするよりも、先ず潜水艦を運用できない様にする攻勢攻撃的(オフェンシブ)な作戦こそが戦争を早期に鎮められると言う判断である。

 開戦劈頭からのドイツ本国への攻撃である。

 航空その他の軍事施設のみならず、港湾施設や駅、橋などを片っ端から破壊するのだ。

 潜水艦が如何に脅威であったとしても、運用するのに必要な港が消滅してしまえば如何ともしがたいだろう。

 開戦前に潜水艦が出撃していたとしても、所詮は狭い北海である。

 哨戒機部隊と潜水艦(SS及びSSn)部隊を展開させておけば対処できると判断されていた。

 そもそもブリテンの要望を受け、2国共同管理と言う形式で水中固定聴音機がブリテン島周辺に配備されているのだ。

 まだ未完成ではあるものの、それでも北海からイギリス海峡までは網羅しているのだ。

 ドイツ潜水艦部隊が簡単に逃れられる筈は無い。

 そして本命であるドイツ本土への攻撃は、多種多様な爆弾を高々度から降らせる事の出来る爆撃機部隊が有力な手段であるのだが、爆撃隊は重要な対ソ連抑止力である為、その主力部隊をシベリアから動かす訳には行かないのだ。

 故に、その代替手段として地対地超音速滑空弾(GGSGM)部隊を主軸としたミサイル打撃部隊 ―― 第8ミサイル師団を新設し、ブリテン島に展開させるものとされた。

 これに合わせて偵察衛星による情報収集と分析に本腰を入れる事ともされた。

 日本は、楽に勝つための努力を惜しむつもりは無かった。

 

 

 

 

 

 

*1

 尚、日本に住む自らを()()()などと規定している一部の評論家からは、この際にブリテンとフランスとの関係を切って、ドイツに与し新世界の秩序体制を構築し、日本の利益拡大を狙うべきだとの声が上がった。

 利益の共有ではなく独占。

 だが日本政府がそれらの声を一顧だにする事は無かった。

 世界の利益を独占するという事は、世界の責任も一手に背負うと言う事なのだから。

 そして、世界を敵にする事でもある。

 かつての米国を見ていれば良くわかる。

 世界に憎まれながら各地に軍を派遣し、或いは国内でテロを起こされる。

 多少の名誉や利益で、そんな面倒くさい事を背負う羽目になるのは嫌だと思うのは当然であった。

 この点に関して日本連邦では唯一、グアム共和国軍(在日米軍)だけが日本政府の本音に同意していた。

 国力の強大な国家として世界に責任を持つのは仕方がない。

 だが、せめて他の強国(アメリカ・ブリテン・フランス)とも分かち合いたい。

 と言うか背負わせたいというのが、ある種、国際連盟体制維持に注力する日本の本音であった。

 尚、日本はこの本音を隠すことなく行動し、G4連絡部会でも主張している為、ある意味でG4の残る3ヵ国は日本を安心して見ている事が出来る ―― 出来た事が、G4(ジャパンアングロ)体制が安定した理由でもあった。

 

 

*2

 尚、TFT(しっぺ返し)戦略に基づいてであれば、ドイツにせよソ連にせよチャイナにせよ、1度はチャンスを与えるべきではないのかと言う意見もあった。

 だが、3国とも自らそのチャンスを棒に振ったと言うのが日本政府の見解だった。

 

 

*3

 郷土師団とは日本連邦統合軍(陸上自衛隊基準)で定められた編成の部隊では無く、シベリア共和国軍が独自に整備している部隊であり、二線級部隊として国境警備その他の任務に投入される部隊である。

 各師団は2個の旅団司令部を持ち、6つの自動車化狙撃兵連隊が所属している。

 各連隊は500~600名ほどで構成されている。

 他には各種支援部隊がある。

 戦車や野砲などを装備する部隊は含まれておらず、総数は平均して5,000名にも満たない。

 この時代の一般的な部隊と比較すれば、せいぜいが歩兵旅団程度の規模であるが、これはソ連/露国と陸上自衛隊に因るものであると言えた。

 但し、全部隊が完全自動車化されており、又、配属された兵はもれなく自動車運転資格の習得を国の費用で行っている為、兵士の配属先としては人気が高い。

 この他、日本の方針(支援)によって国語や数学などの教育も行っている為、ある種の教育機関としての役割も果たしていた。

 日本が支援するのは、師団教育が日本人化教育を狙っていたからであった。

 任務の合間に、学習の合間に、日本の甘味や娯楽で日本漬けにしようという狙いだ。

 その結果、各連隊の部隊章が()()()()()()()()になったのはご愛敬。

 日本連邦統合軍上層部は、政府の方針に沿って自分たちから染めようとした手前、その行動を阻止する事は出来なかった。

 その結果、連邦統合軍合同訓練などを介して他の部隊にも()()していく事となる。

 

 

*4

 総人口が2億を超える超大国と言ってよい日本連邦であったが、世界の裏側(ヨーロッパ)へと動かせる戦力は、遣欧総軍も含めて10万に届かないというのが実情であった。

 日本は、国家総力戦体制に移行せぬままに対ドイツ戦争を終わらせる積りであった。

 洋上戦力による戦争支援を中心に考えていたのも、ある意味で、若い労働力を戦争に注ぎ込まずに済ませる為の方便でもあった。

 徴兵制は有していない日本と日本連邦加盟国であったが、予備自衛官制度等はあり、有事における()()自体は選択肢として存在している。

 だが、短期的に正面戦力を嵩上げする対価が余りにも大きく、そしてその対価を必要とするほど対ドイツ戦争は日本にとって死活問題となる戦争では無かった。

 

 

*5

 この決定の結果、1939年次対ドイツ戦備計画で予定されていた106隻の大規模建艦計画で生き残ったものは約2割、21隻に留まる事となった。

 

 計画名:30,000t級航空護衛艦4隻

  ⇒39,000t ひりゅう型多機能航空支援護衛艦  1隻

   ひりゅう

 計画名:15,000t級対潜指揮艦12隻

  ⇒20,500t やましろ型ヘリコプター搭載護衛艦 3隻

   やましろ ふそう かい

 計画名:10,000t級対地支援護衛艦6隻

  ⇒あそ型対地護衛艦2隻

   あそ いこま

 計画名:5,000t級汎用護衛艦36隻

  ⇒5,500t  あやなみ型多機能護衛艦 6隻

   あやなみ しきなみ あさぎり ゆうぎり あまぎり さぎり

 計画名:3,000t級対潜哨戒艦48隻

  ⇒3,300t級 ちくご型対潜護衛艦 9隻

   ちくご あやせ みくま とかち いわせ ちとせ

   によど てしお よしの

 

 その余りの大鉈ぶりに軍事識者(ミリタリーマニア)の一部からは、海上自衛隊始まって以来の大敗北などと言われる始末であった。

 とは言え、海上自衛隊側では全てを悪しく認識していた訳では無かった。

 大規模な建艦計画を実現する上で必要な乗組員の手配に四苦八苦していた為である。

 枠自体は埋まっていた。

 日本連邦全体に声を掛け、高額な報酬も用意したのだから埋まらぬ筈は無かった。

 問題は、その大半がソ連系日本人であり、その多くが船に乗った事はおろか海を見た事も無いという事であった。

 船乗り(シーマン)を育てる前に、海を怖がらない教育が必要となっていた。

 これでは人員教育が当初の予定(想定)通りに行く筈も無い。

 海上自衛隊の教育隊関係者は、建艦計画が凍結(事実上の破棄)されたの一報に歓声を上げた程であった。

 

 




 新年あけましておめでとうございます。
 今年もよろしくお願いします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

126 世界大戦の胎動-01

+

 日本が行った大規模建艦計画のキャンセルは、世界に衝撃を与えた。

 G4の連絡会でその意図は説明していた為、アメリカ、ブリテン、フランスの3国は日本の意図を誤解する事はなかった。*1

 だが、その様な情報を得ていない諸外国は日本が対ドイツ姿勢を緩和する兆候であると判断していた。

 30,000t級大型空母(39,000t級 多機能航空支援護衛艦 ひりゅう型)*2を筆頭にした100隻規模の大規模建艦計画を、臨時国債(戦時国債)の発行などもせずに実行していた日本だが、遂に限界に達したのだろうと言われれば、納得する国が多かったのだ。

 その筆頭は無論、ドイツであった。

 G4筆頭であり世界を相手に戦争が出来る(ワールド・オーダー)日本が強硬路線を捨てたとの一報を、ベルリンの総統府で聞いたヒトラーは歓声を上げた(オッパイプルンプルン!)

 爆発した感情のままに、総統府に集まっていたナチス党高官などと祝杯を挙げた。

 そして、外交工作部隊に対して、この機を逃さずオランダ併合を更に加速させる様に()()した。

 G4とは言え、ブリテンは欧州に興味が無く、フランスは植民地対策に走り回り、アメリカはチャイナとの戦争に掛かりっきり(人民の海での運動会)、そして日本が日和った ―― そう見えていたが故の指示だった。

 又、日和った日本がドイツ側に付くようにジュネーブで日本の国際連盟代表団に接触し、外交交渉をさせる事も併せて指示した。

 融和の対価は、ドイツがオランダを併合した際には税制面で優遇する事だ。

 ()()()()()()()()()()を自任するヒトラーの戦略的な判断であった。

 歯車が回った。

 

 

――オランダ

 ドイツが国運を賭ける勢いで親ドイツ派工作を仕掛けた。

 狙うのは金。

 国庫に積み上げられている金であり、金を生み出すオランダ領東インドである。

 オランダは今、国内が2つに分かれつつあった。

 オランダ領東インドが生み出す金(日本への資源売却の上がり)を得られる富裕層と、そうでない人々とである。

 富裕層が使う金が回りまわって、一般の人たちの財布も豊かにはしてくれるが、それで納得できる程に人間は()()ない。

 特に、目の前で狂乱する金遣い(バブルのバカ騒ぎ)を見ている人々は。不満を燻ぶらせていた。

 ここに、オランダ領東インド帰りの、挫折した人々*3が加わった時、煙は火へと変わる。

 国富を独占し、アジア人に阿って白人の尊厳を汚すオランダ政府の打倒を目指す政治運動へと発展していったのだ。

 デモによる政治要求活動が活発化していた。

 ここにドイツ人が加わった。

 そもそも、アーリア人(北方系白人)優越主義を唱えているのがナチス党で、ドイツの国是なのだ。

 拗らせたオランダ人の胸には良く響くというものである。

 調子よくドイツの工作官たちが、オランダ人は名誉アーリア人である等と耳元で囁けば、後は手のひらで転がされるだけになっていた。

 特別である事に憧れ挫折した子供は、特別であると認められた時、他の事が見えなくなるのだ。

 その上、オランダに入っていたドイツ工作班の財布は厚い ―― ヒトラーの肝いりの作戦と言う事で予算を大きく与えられており、その金をばら撒く事で、貧困を原因とした反政府の人々の心を捉える事にも成功する。

 オランダの反政府グループが親ドイツに瞬く間に染まったのも当然の話だった。

 

 

――ベルギー

 アフリカの植民地で発生した独立運動への対応能力が無かったベルギーは、最初、原因となったフランスへ非難の声を上げた(泣きついた)が、フランスは遺憾の意を表明するだけでなんの対処もしようとはしなかった。

 当然である。

 原因が何であれ、独立国には自分で問題を解決する能力が要求されるからだ。

 だが、そんな原則すらベルギー領コンゴでの独立運動に慌てたベルギー政府は忘れていた。

 結果、国際連盟の総会に於いて国際社会の()()による独立運動の鎮圧を主張する有様であった。

 無論、国際連盟加盟国は嘲笑をもって答えた。

 植民地とは未開の地を預かり文明の灯を伝える為に行われるから認められているだけであり、それが出来ないのであれば放棄するべきだというのが、概ねの国際連盟加盟国の反応であった。

 とは言え、独立運動による植民地の放棄とは余りにも不名誉な話であった。

 とてもではないがベルギー政府に受け入れる事の出来るものではなかった。

 せめて他国に売却しようとしても、独立運動鎮圧に掛かるコスト問題からどの政府も二の足を踏んでいた。

 そもそも、ベルギー領コンゴの様な広大な土地の独立運動を容易に鎮圧できるのはG4位なものである。

 とは言えフランスは自前の植民地(海外県)鎮圧で手一杯。

 そしてフランス以外のG4は、植民地と言う形に否定的に(独立させてモノを売った方が儲かると)考えている為に論外であった。

 頭を抱えたベルギーに、ソ連が声を掛けた。

 ソ連は共産主義国家として植民地を欲する事は無いが、人道的配慮に基づいてコンゴの地に平和を齎す任を背負う用意があると告げたのだ。

 ベルギー領コンゴは優良な資源地帯である為、失われた資源地帯であるシベリアの代替を欲したのだ。

 シベリア独立戦争の敗北によって、ソ連の発展は著しく停滞していた。

 これを、コンゴを委任統治領として吸収する事で経済発展の起爆剤としようと考えたのだ。

 独立運動平定には相応の軍事力 ―― 陸軍の派遣が必要になるが、主敵である日本が積極的に戦争を仕掛ける気は無いと判断されていた為、何とか出来るという計算であった。*4

 このソ連の提案にベルギーは乗った。

 名誉も富も失うが、ベルギー領コンゴの惨状が続けば続くほどに国際社会から嘲笑されると言う未来予想に耐えられなかったのだ。

 無論、ベルギーがベルギー領コンゴに保有する権益に関しては、ソ連と保証する約束が交わされはしていたが。

 ベルギー領コンゴは、ソ連委託統治領コンゴとして再出発する事となる。

 コンゴは暗闇の時代(レオポルド2世の統治)が終わり、少しばかりの休養期間の後に暗黒の時代(スターリンの統治)が始まる事となる。

 

 

 

 

 

 

 

*1

 日本の方針自体には理解は示したが、同時に、日本が用意するとした地対地超音速滑空弾(GGSGM)などの新世代兵器に関して、知見の無さから有効性に懐疑的であった。

 特に、矢面に立つフランスは、そんなモノよりも戦車と戦闘機を派遣してくれと言う有様であった。

 多少は大威力で、少しばかり長射程で、なんとなく高精度な長距離砲。

 その様に地対地超音速滑空弾を認識していたのだから当然かもしれない。

 認識が覆るのは、シベリアでの演習で実際に着弾するところを確認してからの事であった。

 正確に目標に着弾し、破壊していく様にフランスの観戦武官は興奮し、自国への売却を要請していた。

 先進技術の塊である事を理由に、日本は断った。

 この為、フランスは独自に誘導爆弾の開発に取り掛かった。

 航空機のジェット化に伴って余剰が生まれつつあるレシプロエンジンを流用した、機械式の飛翔爆弾(クルーズミサイル)である。

 機械式誘導なので、精度の期待できない無差別爆撃染みた代物であったが、被害を与えれば良し。

 与えられなくてもドイツ側の防空資産(リソース)を消費させれば良しと考えた荒っぽい兵器の開発であった。

 一方でドイツ戦への切迫感の無いブリテンは、日本の軍事水準に近づく為に政策 ―― 全ての基本となるコンピューターの開発を推し進めた。

 尚、アメリカはコンピューターを含めた全般的な技術開発を進めると共に、今の非G4相手であれば航空優勢を握って絨毯爆撃をすれば良いかと割り切って、6発式の超爆撃機の開発を進めた。

 

 

*2

 艦名 ひりゅう(ひりゅう型多機能航空支援護衛艦)

 建造数   1隻(ひりゅう)

 基準排水量 39,200t

 兵装    Mk41 32セル

       CIWS 2基  SeaRAM 2基  3連装短魚雷 2基

 航空    STOVL機 22機~30機  ヘリコプター12機

 

 ひりゅう型は当初、しょうかく型と2隻でグループを組んで航空戦隊(ユニット)を構築する予定であった。

 この為、()()()()の自衛能力と対潜能力、そして僚艦防空能力が求められ、VLS及び短魚雷が搭載されている。

 1939年度中期防の破棄に伴い、ひりゅうにはしょうかく型と共に空母ローテーションを組む事が要求される事となり、艦隊指揮システムや医療システムその他の強化が行われる予定とされている。

 戦時対応量産艦の性格を持っていたひりゅう型は新機軸が投入されておらず、いずも型としょうかく型での実証された各設備をそのまま搭載されている。 

 その1つは、実用化されていた艦船向け反応炉(パッケージ化原子炉)の搭載である。

 潜水艦では、従来の守勢的な運用を担う通常動力潜とは別に、攻撃的運用を担う特殊動力潜水艦(SSn)として、小出力炉(AIPとしての小型原子炉)を搭載したクラス(くろしお型)が生産されているのだが、ひりゅう型への搭載は諦められていた。

 炉自体の値段と、設計に掛かる時間が嫌われたという事が理由であった。

 そして文章化されない非常時の行動として、しょうかく型を守る被害担当艦になる事が要求されていたというのも大きな理由であった。

 建造の進んでいたひりゅうは姉妹艦が流産した結果、艦様や内部構造の大きな改装も必要とせずに対応できる部分、相応の余裕と後日装備でお茶を濁された部分には大きく手が入る事となった。

 対価として、後日装備の空間的な余裕が与えていた居住性(アメニティ)に関しては悪化する事となる。

 尚、艦載機はF-35BR型である。

 F-35BR型とは、タイムスリップ後にグアム共和国軍(在日米軍)の了解の下でF-35B戦闘機を解体分析し、日本独自で生産したSTOVL(短距離離陸・垂直着陸)機であった。

 計画のスタートはタイムスリップ後、かなり早かった。

 これはF-35Bの生産拠点が日本に無く、全機がアメリカからの輸入であった事が大きな理由であった。

 日本に生産拠点のあるF-35Aと共通する部品なら何とかなっても、STOVL機故の独自部品に関しては入手の当てが無いのだから、当然の話であった。

 グアム共和国軍(在日米軍)としても、自前のF-35Bを稼働し続けさせる為に協力した。

 尚、当初はF-3戦闘機の艦載機モデルか、或いは新型艦載機の開発も検討されていたが、しょうかく型護衛艦(航空機搭載護衛艦)がF-35Bを前提とした航空艤装を行っていた事と、STOVL機を独自開発する事の高い難易度が勘案され、F-35Bの解体分析による生産が決定されたのだった。

 機体構造や制御プログラムなど、日本では再現しきれなかった部分もあり、又、F-3の技術を導入した部分もあり、外見はF-35B型とBR型に差異は無いが、内部構造は4割が異なっている。

 又、日本の技術向上などもあって、1943年次で生産されているBlock41では純正のF-35Bと同等の性能にまで達している。

 現在、日本連邦統合軍の艦載機はF-35BR系で統一された状態にある。

 

 

*3

 オランダで高等教育を受け、立身を狙ってオランダ領東インドへと渡った若者たちは少なからぬ規模であった。

 彼らが思い描いていたのはアジアの変異種(日本企業)()()()()()()()現地未開人(インドネシア住人)を顎で使う優雅な生活であった。

 だが現実は厳しい。

 彼らが受けた高等教育は、日本企業が要求するモノとは異なっていた為、扱いは現地採用スタッフ(インドネシア住人)と変わらぬものであった。

 無論、高等教育を受けた事によって()()()()を習得していた為、真剣に仕事に取り組んだ若者たちは、相応の待遇を直ぐに受ける事が出来るようになった。

 問題は、真剣に取り組まない ―― オランダ人としてインドネシアの住人に優越感を拗らせていた人間であった。

 オランダ人(支配民族)として得られるべき待遇が与えられず、インドネシア住人(被支配民族)風情と一緒に扱われ、或いは昇進したインドネシア住人に使われる事が我慢できなかったのだ。

 この扱いを、()()()()であるとオランダの現地総督府に訴える人間が出る程であった。

 無論、日本企業に()()され、日本の生み出す金のお零れに与っている現地総督府の人間が、この馬鹿馬鹿しい訴えに対応する事は無かったが。

 果ては、昇進し管理側になったインドネシア住人に手荒く扱われる様になるのだ。

 拗らせた人間に耐えられる話では無かった。

 夢破れた人々は、()()()()()()()()インドネシア住人への怒り、()()()()()()()()()()()()日本への憎悪、そして何より()()()()()()()()()オランダ政府への怨嗟を持ってオランダに帰ってきていたのだ。

 

 

*4

 全方位に猜疑の目を向ける被害妄想の申し子的なソ連らしからぬ判断ではあるが、これは日本が日本連邦統合軍シベリア総軍から戦力を引き抜いていたからこそであった。

 日本がチャイナやドイツ相手に国力が削られている内に発展せねばとの思いであった。

 尚、非情な話であるが日本の国力は減衰していない。

 円と言う輸出品を持ち、過剰生産力を戦争国への輸出で消費する、戦争の前面に立たない国家は戦争で儲ける事が出来るからだ。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

127 世界大戦の胎動-02








+

 総統の厳命が下った事で、オランダに潜伏して情報工作活動に従事していた武装親衛隊(Waffen-SS)の特別工作行動隊は、()()積極的な行動を開始した。

 既にオランダ国内では、ドイツの宣伝工作によってオランダの植民地(オランダ領東インド)でその支配者であるオランダ人を()()()()()日本への反発が強まっていた。

 オランダ本国の一般大衆が貧しいのは、日本と結託したオランダ政府が搾取しているから。

 卑劣な日本の手から、オランダを取り戻すべき。

 そして欧州の同胞(ドイツ連邦帝国)と手を携え、日本を筆頭とした悪辣な覇権国家群(ジャパンアングロ)から白人(コーカソイド)の誇りを取り戻すべきなのだ。

 なんとも拗らせた感情*1に、一部のオランダ人は囚われる事となっていた。

 ドイツ側も、第1次世界大戦を大人として過ごしていた様な高位の指揮官たちは理性的 ―― オランダ併合後には日本との協調も視野に入っているので過度な反日思想の伝染は問題であると認識していたが、現場に居る若い隊員はナチス党の宣伝(プロパガンダ)を真に受けて選ばれし民(アーリア人)としての特権意識を拗らせた者が多く、日本を敵視し、オランダ人の感情に寄り添っていた。

 この状況をオランダ政府は座視しなかった。

 民主主義国家であるが故に、有権者の声を無視する事は出来ないが、同時に、まだ日本への反発の声は有権者の過半数には届いていないのだ。

 であればこそ、国益の視点から日本との適切な距離感を重視し、反日世論を潰す事にオランダ政府が躊躇する筈も無かった。

 国内の新聞など(マスメディア)には反日を煽る様な記事を出す事を禁じると共に、街頭での過度な反日宣伝を警察を使った取り締まりを開始した。

 

 

――ドイツ

 日本との接触を図るが欧州(ドイツ近隣)の国際連盟加盟国は、どの国も協力的とは言い難かった。

 日本も含めてG4はドイツに対して敵対的である為、仲介の労を取った所で感謝されるどころか敵と認識されかねない(お前はドイツ側かい、メーン?)為、二の足を踏むのも仕方のない話であった。

 ドイツ外交官たちはドイツを見る目の厳しさを肌で感じつつ、否、であるが故に祖国の為に必死になって行動した。

 ドイツ本国の外務省に掛け合って()()()()()()()()()()も用意してはいたのが、東欧 ―― バルカン半島などでのやり口を見ていた諸国は、そもそもとしてドイツを信用しておらず、距離を取りたがっていた。

 交渉になるならない以前に、その入り口に立てないのが現状だった。

 通常の国家間であれば大使館を互いの国に置くなどするものであり、そうであれば書簡の1つ、或いは電話で簡単に接触できるものであったが、日本相手ではそうならない。

 日本はタイムスリップ直後 ―― 国際連盟に()()()から外交の窓口を国際連盟とジュネーブの日本大使館に絞っていたのだ。*2

 これは情報漏洩の対策であり、タイムスリップの混乱を抑える為の()()()()()として行われたものであった。

 だが日本側の利益(情報統制の容易さ)と同時に、世界側から見ても日本の行動を把握(管理)し易いと評価され、()()()()()として継続されていた。

 又、G4筆頭の窓口が国際連盟にあると言う事が国際連盟の権威に箔をつけている為、国際連盟が非公式に、この状態の継続を望んだというのも大きかった。

 そして()()()()()()()()、ドイツは日本との接触が難しかったのだ。

 国際連盟を脱退したドイツは窓口を1つ、失っていた。

 更には、この時期の日本外交関係者は原子力関連での国際協定*3調印に向けて大変に忙しかったというのも、ドイツにとって不幸な現実であった。

 国際連盟主導による原子力管理体制の構築は、日本が1930年代中頃から国際連盟総会で声を上げてきた案件だった。

 安定した電力(エネルギー)が世界の平和と安定に資するという思いと、原子力の軍事利用(使えない兵器の整備)と言う悪夢から逃れたいと言う思いを両輪に行っている政策であった。

 ある意味で日本の外務省と()()()にとって悲願と言える政策であった。

 それが、日本のエチオピア支援 ―― 高出力で先進的で安全な核融合炉をお披露目した事を切っ掛けに一気に進みだしたのだ。

 連日連夜と国際連盟総会や原子力管理体制準備会が開かれ、原発設置を誘致したいポーランドやフィンランド、南米諸国と議論を行っていたのだ。

 並行してG4連絡部会でも色々と話し合いを行っていた。

 この様な状況では日本にドイツへと向ける外交力がある筈も無かった。

 ドイツからの連絡に対して日本は、日本ドイツ会談は前向きに検討しますと返信(政治的表現による明白な謝絶)していた。

 外交的欠礼(塩対応)どころではない日本の態度に、若いドイツ外交官たちは激高した。

 折角、世界に冠たるドイツ人が突然変異的な劣等種たる日本人に利益を供与し、協力させてやろうと言うのになんという態度か! と。

 若い外交官たち、否、外交官のみならずドイツの若者たちの多くは、ナチス党のプロパガンダに染まり過ぎて世界(G4)を正しく見る事が出来なくなっていたのだ。

 この為、非礼な日本に()()()()()()()()と、ヒトラーの指示を逸脱し、日本と距離を取る動きを行った。

 オランダ、オランダ領東インドでドイツが主導権を握っている(メインプレイヤー)であると信じるが故であった。

 尚、若い外交官たちを管理すべきベテラン外交官は交渉の失敗、交渉の扉を開けずにいる事の責任を問われる事を恐れ、この事態をドイツ本国へと報告しなかった。

 日本と交渉中。

 ただそれだけをドイツ外務省に電信していた。

 

 

――オランダ

 オランダの現政権打倒を叫ぶデモの激化と、親ドイツ派ベルギー人(ベルギー・ナチス党)が活発な行動を行う事で政情の不安定化が激化する国内情勢に対し、オランダ政府は決して無為無策では無かった。

 それどころか素早く国家緊急事態を宣言し警察と軍とを鎮圧の為に投入する用意を進める程であった。

 富裕層、経済界の上層部もそれを是認していた。

 当然であった。

 デモなどで声高に主張されているオランダ(白人)優先主義*4は、オランダ繁栄の基となるオランダ領東インド経営(日本との商売)を破壊する主張であったのだ。

 資源とは、存在するだけで金になるのではない。

 買う奴が居て始めて金銭的価値が生まれるのだから。

 或いは、売り手として独占していれば話は違っただろうが、日本は石油資源の入手に関しては中東を開発し、ゴム資源ではタイと資源開発の話を進めていた。

 既にオランダ領東インドに頼り切る体制を終えていたのだ。

 にも拘わらず馬鹿げた要求を押し付けられれば日本が反発する(買わぬと言い出す)のは必定であり、となればこの繁栄は一夜にして終わる ―― その様な現実的感覚をオランダの上層部は保持していたのだ。

 だがそこにドイツが待ったを掛けた。

 親ドイツ的なオランダの国民感情はドイツ系オランダ人の心情の素直な吐露であり、そこへの配慮が必要であるという()()であった。

 正しく内政干渉であった。

 オランダ政府内で激高する人間が出た程に、なんとも酷いドイツからの接触であったが、とは言えオランダとドイツ程の国力差があっては簡単に門前払いが出来る筈も無かった。

 この為、オランダ政府は外交の席でドイツの要求を拝聴しつつ、言質を与える様な返事をしない様に細心の注意を払い、時間稼ぎに出た。

 稼いだ時間で、先ずドイツ国内の親オランダ政治家に接触を図った。

 その場でオランダは、オランダが反ドイツ的に動くつもりはなく、中立 ―― 反ドイツの急先鋒であるフランスとの間でバランスを取り続ける積りである事を説明し、ヒトラーへのとりなしを頼んだ。

 だが、親オランダのドイツ政治家はその要求を鼻で笑った。

 ドイツが断固としてオランダを併合する積りである事を知っていた親オランダ政治家は、ドイツ政府の秘密の一端をつまびらかにする様に告げた。

 最早、中立などと言う曖昧な立場の許される時代ではない、と。

 オランダ政府は、その言葉に含まれているモノ(意図)を理解した。

 恐怖した。

 ドイツはオランダに従属か死かを望んでいるのだと把握した。

 慌てたオランダはドイツに対抗できる同盟国を探す事となる。

 最有力なのはフランスであったが、オランダ政府はその選択肢を除外した。

 (ドイツ)から逃れようとして(フランス)に頼って喰われる ―― フランスの対ドイツ戦争で利用されては堪らないと言う判断であった。

 オランダが望むのはドイツとの拮抗であって、対立では無いのだ。

 であれば、とワルシャワ反共協定の盟主としてソ連やドイツと対峙するポーランドに話を持ち掛ける事となる。

 ワルシャワ反共協定と言うソ連との対決色の強い同盟体制を持つポーランドは、同時にドイツとも衝突を恐れていない為に誤解されがちであるが、その態度の背景にあるものは少しばかり違うのだ。

 ソ連と対峙するのは北欧諸国との連帯と、そして日本の支援あればこそである。

 そしてドイツとの対峙には、ブリテンの支援とフランスとの連携が前提であった。

 オランダは知らなかったのだ。

 ポーランドは、フランスと同様に事あればドイツを殴る、殴り殺す予定である事を。

 中欧の狂犬の名は伊達では無かった。

 オランダが、ドイツの干渉をはね退けたいと言う希望に対し、ポーランドはオランダが対ドイツ包囲網に参加する事で、ドイツ包囲網が更に強化されると認識した。

 この為、ポーランドはオランダに対して武器売却などの軍事支援であれば即座に行う用意があると即答していた。

 ブリテンとフランスによる支援によって、ポーランドの重工業は長足の進化を遂げており、G4が保有する最新鋭のもの程ではないにせよ戦車や戦闘機を量産する力を手に入れていた。

 戦車兵の教育部隊まで派遣できるとポーランドは善意で告げていた。

 軍事力を揃える事が、ドイツの干渉を拒否する最善手であるとポーランド外交官は胸を張って告げていた。

 オランダは頭を抱えた。

 狼から逃げようとして虎は避けたのに、頼った相手は戦意アグレッシブな(ポーランド)だったのだから。

 とは言え、交渉を持ち掛けたのはオランダからであった為、ポーランドからの善意を簡単に拒否出来る筈も無かった。

 こんな筈ではと思いつつ、とりあえずドイツへのけん制として、ポーランドとの間に安全保障条約の締結と共に戦車100台の購入を中心とした軍事協定が締結される事となった。

 ポーランド製の33t級の中戦車(32TP)はポーランド陸軍が使用していた中古であった。

 32TPより装甲とエンジンを強化した35TPの開発配備に伴って余剰となっていた車両を格安で提供するとされていた。

 旧式化してはいたが、その装甲と火力はドイツ陸軍の数的主力であるⅢ号戦車系列とは対等以上に戦う力を持っていた。

 とは言え100台では、ドイツに抵抗は出来ても、ドイツにとっては脅威にはならぬだろう。

 オランダの現実的な判断、バランス感覚であった。

 だが、オランダの感覚がドイツにそのまま適用される訳では無いのだ。

 オランダ-ポーランド間で軍事条約を締結する行為がどれほどの衝撃をドイツに与えるか理解せぬまま、オランダはポーランドと複数の条約に調印していた。

 

 

――ドイツ

 ヒトラーは激怒した。

 生ぬるい同化工作をやっていたから、オランダがポーランドと手を組もうとしていると認識し、武装親衛隊(Waffen-SS)の特別工作行動隊隊長を直々に呼び出して叱責した。

 その上で、オランダへの工作の強化、早期の掌握。

 その為には()()()()()()()()()()と明言した。

 G4に関して言えば日本とは既に交渉中でアメリカはチャイナとの戦争で忙しい為、フランスが感情的反発(ヒステリー)を起こしても、G4が一致団結して過度な対応をしてこないだろうと言う()()があった。

 好機を逃してはならない! そうヒトラーは激を飛ばすのであった。

 

 

 

 

 

 

*1

 そもそもG4(ジャパン・アングロ)は、その名の通りにアメリカとブリテン、そしてフランスが属している。

 にも拘らず白人の復権を主張できるのは、ドイツ人による宣伝工作の結果とは言え、本当にオランダ人の拗らせ具合は中々のモノであった。

 無論、全てのオランダ人が拗らせている訳では無い。

 政府や富豪等、日本と交渉できる国家の中枢に近い層は勿論の事、インドネシアで実際に日本の国力の一端に触れた者や、就職できた人間の殆どは反日など論外だと言う判断をしていた。

 只、感情の話になれば、冷静な者が激高した者を抑える事は難しい。

 そういう話であった。

 

 

*2

 尚、まことに当然ながらも日本連邦諸国と、アメリカ、ブリテン、フランスだけは別枠として扱われており、東京に大使館を開設し日本政府との直接回線を維持していた。

 当然、各大使館と本国とは回線が繋がっている。

 陰謀論に耽った人々は、これを支配の糸(トウキョウ・コード)と呼んだ。

 尚、余談ではあるが国際連盟の窓口事務所も東京に開設されている。

 G4以外の人間にとって、この窓口に務める事が日本に大手を振って在留する機会である為、国際連盟で働くスタッフにとってはかなり人気の職場であった。

 仕事が勉強の機会である事は勿論、余暇でグルメや観光を味わうも良し。

 ()()()()()()()()()が、祖国では高値で飛ぶように売れるのだ。

 国際連盟職員は誰もが1度は日本に赴任したいと思っていた。

 

 

*3

 原子力、核反応技術の平和利用に向けた国際協力体制の構築である。

 軍事利用を阻止する狙いもあり、技術の共同開発と共にウランやプルトニウムなどの資源管理の厳格化 ―― 濃縮は国際的監視管理下で行う事が計画されていた。

 自由な原子力の研究は出来なくなるが、その対価として日本は、安全性の高い第4世代型原子炉の提供(リース)を約束していた。

 運用と管理(警備)に日本人が関わる事になるが、その代わりに低価格で安定した電力が得られるのだ。

 利益は大きかった。

 尚、極一部の国は日本がエチオピアに提供した核融合炉技術の公開と提供とを主張したが、そちらは日本が突っぱねていた。

 技術的優位性は日本の生命線であるが、それ以上に、核融合炉は今回の協定の主題である核反応とは異なると言うのも理由であった。

 余談ではあるが、ソ連がコンゴを管理下に入れる事としたのも、この日本が主軸となった原子力管理体制下での利益を見込んでの部分があった。

 コンゴに埋蔵されているウラン資源を掌握し、これを積極的に国際市場へと輸出する事で国際連盟内の原子力共同開発と共同管理の体制下で一定の地位を得ようというのだ。

 それは安全保障の視点だった。

 国際連盟(G4)の統治体制へ寄与する事で、ソ連の存在意義を高め、日本との緊張緩和を図ろうという努力であった。

 ある意味でソ連は、ドイツよりも露骨に日本/G4へとすり寄ろうとしていた。

 

 

*4

 デモ隊の主張は単純であり、優良種たるオランダ人のモノで金儲けをする多少発展した程度の黄色人種(日本人)は身の程を弁えて()()()()()支払う(上納)すべし、であった。

 資源の売却価格を引き上げ、オランダ人を大量に高給で雇えと言う要求。

 どこら辺の人間が主張しているのか、良く分かる話であった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

128 チャイナ動乱-29





+

 アメリカとチャイナの戦争、その北京市を巡る戦いは意外な程に長引いていた。

 北京市の市外に展開していた部隊は早々に掃討されはしたが、北京市自体は包囲が始まって3ヶ月が経過しても、まだ陥落していなかったのだ。

 補給線は断たれ、航空優勢は奪われ、飢えと恐怖に苛まれても尚、北京市はチャイナの旗を掲げていた。

 だがそれは、チャイナ軍の努力に寄るものでは無かった。

 アメリカが北京市を包囲こそすれども本格的な陸戦 ―― 攻略戦を仕掛けていないからだった。

 ()()()()()()を考慮しての圧力、軍事拠点への砲撃や空爆こそ断続的に行ってはいたが陸上部隊が北京市の市街区へと侵入する事は無かった。

 少なくとも、今はまだ。

 

 

――チャイナ/北京市

 アメリカ軍の厳重な包囲下に入り、武器弾薬は勿論ながらも食料や水の補給すら断たれた北京市は日々、戦意が下がっていっていた。

 戦っていれば少しは気も紛れたかもしれないが、砲撃こそ深夜に行われてはいるが歩兵や戦車部隊が攻め寄せて来ることは無かった。

 食事でも十分に食べられていれば気も休まったかもしれないが、燃料の不足から満足な温食を用意する事が出来ず、そもそも食材も満足に無いのだ。

 不貞寝でもしようかと思えば、昼も夜も爆撃や砲撃が繰り返されて熟睡など夢のまた夢と言う有様。

 この有様で戦意が維持できる方がどうかしていた。

 更には守るべき北京市市民からの目の冷たさもあった。

 軍であるが故にと、最優先で水食糧燃料が配給されているのだ。

 何も出来ていないにも拘わらずである。

 配給の車、或いは軍は常に白い目に晒され続けた。

 チャイナ軍の士気は落ちるのも当然であった。

 通常、籠城戦の場合には外部からの救援を期待するものであるが、それは物理的に無理な話であった。

 既に東ユーラシア総軍第1軍は北京市より遥か南である黄河流域を超えて泰山要塞にまで到達しており、北京市は敵中に孤立した様なものなのだから。

 アメリカ側の攻勢はチャイナから、北京市を解囲解放させるだけの戦力的な余裕を奪っているのだ。

 解放部隊(救いの手)など期待出来るものでは無かった。

 チャイナ軍参謀本部からの定時通信でも、常に勇戦を期待する言葉はあっても、援軍に関するものは1つとして無かった。

 この状況に自棄を起こした一部の指揮官は、()()()()()()()()()を主張する程であったが、そもそも、解囲が出来る程の戦力があれば北京市に押し込まれる事は無かったと言える。

 どれ程に検討しても、無理な話であった。

 自棄を起こし、暴発した一部の部隊が外に出たが、都度都度、土くれに還るだけであった。

 絶望しかない日々。

 それこそがアメリカの狙いであった。

 そして、北京市にたてこもる人々が()()()()()頃、アメリカは動いた。

 

 

――ドイツ

 黄河河口部から上陸したアメリカ海兵隊の動きは、ドイツにとって予想外であり、同時に、想定していた()()に繋がった。

 即ち、1個師団の海兵隊(重編成の機械化)師団は泰山要塞包囲に向かうのではなく、南下を行ったのだ。

 無論、その目的はチャイナと山東半島(ドイツ)との分断である。

 ドイツは、チャイナとアメリカの戦争に対して公式に局外中立を宣言している。

 武器弾薬の売却に関してはチャイナとドイツ海外領(山東半島)のドイツ民間企業現地工場との取り決めで行われるものであり、ドイツ政府としては関与していない ―― そういう態度であった。

 無論、アメリカがドイツの主張を受容した訳では無いが、外交リソースの配分的な問題から積極的に対応する事は無かった。

 事実上の多国籍軍と化したアメリカのユーラシア部隊を統制する事や、周辺諸国との折衝、何よりチャイナの分割に向けた調整にアメリカの外交官たちは走り回っていたのだ。

 それなりに有力ではあっても深刻な脅威では無いドイツ製の軍備などを問題視する暇は無かったのだ。

 アメリカの軍側としても、一日で100の武器をドイツが売り渡しても、一日で10000の武器をアメリカが叩き壊せば問題は無いと言うのが現実であった。

 実際、戦争は1942年後半以降はアメリカの圧倒的な優勢で推移しており、アメリカの慢心を諫める声は上がらなかった。

 とは言えそれはアメリカ側の都合、視点であり、それを知らぬドイツとしては、アメリカによる山東半島への()()()()()すら想定せねばならぬ状況であった。

 アメリカとの和解の必要性がドイツに発生した。

 問題は、どうやってそれを成すのか? であった。

 周辺国でドイツ寄りでアメリカと関係を持った国家、そんなものは無い。

 そもそもドイツ寄りの独立国家(国際連盟加盟国)と言うものが欧州に残っていない。

 東欧の国家群でドイツ寄りの国家群は併合作業の真っただ中(事実上の国家解体状態)であり、アメリカとの関係の深い国家は総じて国際連盟加盟国(親G4国家群)でありドイツとの関係は疎遠であった。

 ソ連だけがその枠外(親ドイツにして国際連盟加盟国)にあるとも言えたが、そのソ連の反応は良好ならざるものであった。

 ソ連としては、()()()()()()()が継続する対日関係がある以上、極東に於いて積極的な外交は行いたくないと言う事情があっての事だった。

 又、ソ連上層部が、積極的にではなくともドイツとは距離を取る事を考えていた事も大きかった。*1

 結局、ドイツは日本に頼る事を考えるに至った。

 既に日本とはジュネーブで()()()()()()()()()()のだ。

 であれば容易いであろうと言う判断であった。

 自らの舞台とばかりに二つ返事で受け入れたドイツ外務省は日本との交渉、その事実を知って頭を抱えた。

 現場の自己保身と上層部の事なかれ主義、そして拗らせた自負(アーリア人至上主義)が生み出した事故としか言いようがない有様だ。

 それ以外に言い様がなかった。

 とは言え、今更に事実を公表し出来ていませんとは言えない。

 ヒトラーの激怒も恐ろしいが、ナチス政権内での権力争いも熾烈なのだ。

 下手な事になれば、ナチス党親衛隊に外交を仕切られる可能性どころか、ドイツ外務省解体すらあり得た。

 故にドイツ外務省は省一体となって、それまで以上に必死になって日本との交渉の窓口を探す事になる。

 

 

――チャイナ

 チャイナ軍の関心は、アメリカの大規模攻勢を受けている泰山要塞に集中していた。

 泰山要塞とはチャイナで融通可能なありったけの資材、野砲やその他をかき集めて作られた広域要塞群の総称であった。

 チャイナ政府はこれを、外夷からチャイナを守る大要塞であると宣伝していた。

 とは言え称えられる泰山要塞であるが、永久築城と呼べる程の構造にはなっておらず、古くからの寺院や建物を流用し、複数の塹壕や退避壕などで構成された野戦築城の範疇であったが。

 だが、山岳と言う地形に支えられた堅牢さは、烏合の衆とそう大差の無いチャイナ軍に対し、近代的なアメリカ軍の攻撃に耐える力を与えていた。

 黄河が突破されてはや2週間、それでも尚、組織的な戦闘を継続できている事からチャイナ参謀団は、そう認識していた。

 であれば、この場が決戦の場であると判断し投入できる最後のカード(戦略予備)、連隊規模の戦車部隊を中核にまとめ上げた師団規模の混成機械化部隊投入を決断した。

 アメリカ軍の左側面から後方へと機動し、その補給線を断つのだ。

 合わせて、投入可能な7個歩兵師団、10万名余りの部隊をアメリカ軍の右側面から突入させる事とした。

 左右から挟撃させる事で、アメリカ側の対応力の飽和を狙うのだった。

 又、これとは別に、南モンゴルから生還した将兵を基幹として新たに編成した遊撃部隊、第1()()騎兵師団の投入も決めた。

 アメリカ軍の後方を不安定化させようと言う狙いであった。

 黄河上流域で渡河し、アメリカ軍の補給線を潰すのだ。

 なんとも気宇壮大な反撃計画は、手早く月輪作戦と名付けられた。

 だが、戦争を回天出来ると信じた月輪計画は、その起案を蒋介石が決済するよりも前に頓挫する事となる。

 アメリカの一手、北京市の独立宣言が全てを吹き飛ばしたのだ。 

 

 

――チャイナ人民共和国

 アメリカが北京市に圧迫を加えつつも攻略を行わなかった理由は、正にこの為であった。

 チャイナ北部の切り取り、モンゴルやフロンティア共和国とチャイナとの緩衝地帯、独立国家を建国させたのだ。

 絶え間ない圧力によって疲弊し、救援を行わない南京を首都としたチャイナ ―― チャイナ民国への不信を醸成させ、そして苦境からの()()()として周恩来を与えたのだ。

 形式(建国神話)として、チャイナ共産党崩壊からチャイナの地を放浪していた周恩来が、北京市民の塗炭の苦しみを知ってこれを救わんとして身を捨ててでもとフロンティア共和国に渡ってアメリカと交渉、その行動と徳を知ってアメリカは協力を約束した。

 そう宣伝された。

 北京市に籠っていたチャイナ軍部隊も、この周恩来の徳に打たれて忠誠を誓う事となる。

 無論、宣伝である。

 実態は極めて生々しく血塗れであった。

 チャイナ民国への忠誠を誓っていた中堅以上の将校は悉く暗殺され、生き残った将校は死ぬよりはマシとの思いから、チャイナ人民共和国への帰順を誓った。

 鞭だけでは無く飴も約束された。

 アメリカに歯向かいさえしなければ、そしてチャイナ民国と対峙するのであれば最新の武器が供与されるとされ、又、昇進も組織が刷新されるので容易であるとされた。

 兵たちに関しては簡単だった。

 死ねと命じてきたチャイナ民国に一泡吹かせる事が出来る。生き残れると言った途端にチャイナ民国旗を地面に叩きつけチャイナ人民共和国に忠誠を叫んでいた。

 北京市民や周辺の住人、チャイナ人民共和国の領土とされた地方に住む人々は、取り合えずアメリカとの戦争が終わったと認識し、新しい主として周恩来を受け入れたのだった。

 

 

――チャイナ民国

 まるで質の悪い詐術(ペテン)に掛かった様に、黄河以北に独立国家が生まれた。

 その事をチャイナ民国政府が認識したのは、北京市に籠った部隊との連絡が途絶したとチャイナ民国軍が報告するよりも先に、チャイナ人民共和国からの外交使者が自由上海市で接触してきた事によってだった。

 チャイナ民国政府は混乱した。

 その上で妄言であると切り捨てた。

 だが、月輪作戦は停止させた。

 アメリカ側の攻撃が止まった事と、北京市との連絡が不自然に途絶えた事によって、尋常ならざる事態が起きていると認識したからだった。

 小規模な偵察部隊を派遣し、或いは友好国からの情報収集に努めた。

 その結果、チャイナ人民共和国建国が事実であると認識したのは、ソ連から、チャイナ人民共和国が独立国として国際連盟への加盟を申請したと聞かされてだった。

 又、偵察部隊も幾つかは生還し、北京市には見慣れぬ旗が星条旗(アメリカ国旗)と共に翻っていると報告した。

 更なる凶報がチャイナ民国を襲った。

 泰山要塞がアメリカ軍によって完全に包囲されたとの報告である。

 いつの間にかアメリカ軍は倍以上の兵力に増強されていたのだと言う。

 合わせて、武器弾薬の倉庫としていた寺院などが片っ端から爆撃によって粉砕されたとも報告された。

 蒋介石は激怒した。

 チャイナの怨敵アメリカに鉄槌を与えねばならぬと決心した。

 周恩来と名乗る、この恥ずべき漢人の裏切り者に必ずや天誅を与えんと決心した。

 そして、とりあえず老酒をがぶ飲みした。

 出来た事はそれだけであった。

 

 

――国際連盟

 チャイナ人民共和国の加盟申請は受理された。

 同時に、チャイナ人民共和国代表は国際連盟にチャイナ民国との戦争終結に向けた協力を要請した。

 政治的主張の相違から戦争をするが、元はチャイナ人同士なのだ。

 同胞の間で血が流されるのは悲しいので、国際連盟に於いては人道的に協力して欲しいと訴えたのだ。

 この声に、国際連盟は応える事とした。

 国際連盟の名に於いて、チャイナでの戦争の仲裁に乗り出す事を国際連盟総会で決議した。

 日本、ブリテン、フランス。

 そしてアメリカも賛同していた。

 ソ連代表(ミスター・ダー)は、茶番劇を腹の底で嗤い、そして恐れながら*2、それを表情に出す事なく賛同の手を挙げていた。

 

 

 

 

 

 

*1

 ソ連政府は、様々な情報からフランスを主軸にしたG4による対ドイツ戦争がそう遠くない将来に発生すると判断していた。

 これはソ連のスパイ網による成果、と言う訳では無いし、別段にソ連の情報分析力が高度であった訳でも無い。

 一般的な国家は、概ね、その様に現状を判断していた。

 ドイツですらフランスとの戦争は確定事項であると認識していた。

 そう思っていなかったのは、オランダなどのごく一部の国家であった。

 否、ドイツとフランスの間にあるが故に、戦争が起きれば真っ先に蹂躙される為、そうでないと()()()()()()と言うのが正直な話であった。

 この為、オランダの富裕層や政府関係者では資産や家族を国外に移す動きが水面下では行われていた。

 

 

*2

 この列強(G4)によるチャイナ分割と、その恒常化工作は、1つ間違えばソ連の身の上に来ると言う深刻な恐怖感を与えていた。

 これは別にソ連人故の被害妄想と言う訳では無い。

 現に、シベリアは日本に切り取られているのだから。

 いつかはシベリアを()()するのがソ連人上層部の共通する夢であり合言葉でもあったが、その唱和を心から信じている人間は、誰も居なかった。

 スターリンですらも例外では無かった。

 ソ連と日本との国力差を冷静に認識するだけの計算力は失っていないのだから。

 只、政治的に誰もそれを口に出さないだけで。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

129 チャイナ動乱-30







+

 国際連盟から()()()()()()()()()()と言う善意と言う名の真綿で首を絞められ、北京市と黄河以北を失い、泰山の地まで包囲されたチャイナ民国に選択の余地は無かった。

 この為、チャイナ民国政府は先ず非公式な形でチャイナ人民共和国の承認を行い、その対価として泰山要塞へのアメリカ軍の攻撃停止を要請した。

 別段に、陰謀などがあっての事では無かった。

 政府内での意識の統一を図りたいと言うのが理由であった。

 今まで、妥協なき外夷(ジャパンアングロ)打倒を叫んできていたのだ。

 現実に即した妥協であっても、方針を変えるのであればそれなりの準備が要ると言うものであった。

 自由上海市での非公式折衝の場で、チャイナ民国代表団は頭を下げてアメリカと国際連盟安全保障理事会の代表団に依願していた。

 この()()に対し、アメリカ代表団は受け入れを宣言していた。

 但し、泰山要塞に対する食糧及び医療品以外の搬入は、例えスコップの1つであっても禁止する事、そして泰山要塞エリア内での作業 ―― 要塞強化工事等の一切を行わない事を対価として要求していた。

 当然の要求であった。

 だが同時に、それは泰山要塞に関する主導権(イニシアティブ)をアメリカが握っていると言う意思表示でもあった。

 常のチャイナ人外交官であれば、その尊大さからまだ落ちていないし落ちる予定も無い等と反駁していたかもしれないが、既にその気概は折れていた。

 黄河以北が失われたから? ありえない。

 軍が壊滅的状況だから? 人を狩り集めれば良い。

 南部の分離独立派(大アジア連帯主義)が調子に乗って独立を宣言したから? 冗談の類だ。

 だが、連日連夜に渡って行われていたアメリカの戦略爆撃によるチャイナ民国経済の混乱は座視出来るものでは無かった。

 特に、金を生む心臓部と呼べる長江流域の混乱は、蒋介石の支持母体の弱体化を意味した。

 チャイナ民国の経済界は声を揃えて主張した。

 アメリカとの講和を。

 北京などが一時的にチャイナの手から離れても、100年後200年後に取り返せればよい ―― そう主張していた。

 その声に蒋介石が抵抗する事は出来なかったのだ。

 

 

――チャイナ民国

 アメリカとの交渉の席に着く前に蒋介石が行ったのは、チャイナ民国政府部内での意思統一であった。

 当然、火急の事態である為に穏当な手順、穏便な手段で行われたものでは無かった。

 粛清である。

 敗北のうち続く中であっても尚、外夷(ジャパンアングロ)との妥協なき戦争の継続を叫ぶ様な血迷った人間は、機会主義者の多いチャイナ人にあってもごく少数ではあるが居た。

 信念の人とも言える。

 信念を曲げぬ人とも言える。

 ()()()()()、一切の躊躇なく蒋介石は暗殺した。

 蒋介石の指示に、その腹心は少しだけ抵抗した。

 疑念を呈した。

 彼らもまた、愛国者ではないか? と。

 対する蒋介石の回答は苛烈だった。

 国家の窮状を理解せず、只、自分の感情を優先させる様な人間を生かしておくだけの余裕は無いと断じたのだ。

 害悪ですらあると告げ、処分を実行した。

 尚、処分された人間の中には、政治的に蒋介石と対立していた人間も含まれていた。

 アメリカとの事実上の停戦交渉を控え、政敵の排除も行ったのだ。

 停戦交渉を()()()()()()と言い換えて叫べば、一定の人間が蒋介石を自動的にチャイナ民族の敵と言い出しかねない空気があったのだ。

 それ故の強権発動であった。

 とは言え、政敵を一掃できた訳では無かった。

 政治的な嗅覚に優れた少なくない人間は、事前にチャイナ民国を離れ、再起を狙う事とした。

 反外夷(ジャパンアングロ)、反チャイナ民国の思いを心に灯した人々は、南を目指した。

 

 

――アメリカ

 偶発的な戦争勃発から初期の苦戦、そして攻勢攻撃を行っている今に至っても、アメリカの政治的な目的に歪みは無かった。

 ユーラシア大陸に築いた新しいコロニー(植民地)、フロンティアの安全確保である。

 いくらか経費(戦費)を必要としたが、投資として見ればまだ誤差の範囲内であり、軍需関連企業へのテコ入れの機会だと考えれば全体として問題の無い額に収まっていた。

 日本やグアム共和国軍(在日米軍)から導入された新概念や技術を実戦で試せる機会だと見た軍人も居た。

 総じて言える事は、アメリカは冷静であると言う事であった。

 軍人(アメリカンボーイズ)の死傷者が少ない*1と言う事も、アメリカ世論がチャイナへの更なる懲罰を叫ばない理由であった。

 チャイナと言う世界の片田舎で、アメリカが正義の力を振るった(素晴らしき、小さな戦争)と言う程度の認識だった。

 このお陰で、アメリカは安定した世論を背景としてチャイナとの交渉に臨む事が出来ていた。

 

 

――アメリカ-チャイナ民国 外交交渉

 紆余曲折の末に1943年の秋口に自由上海市でアメリカとチャイナ民国の終戦に向けた交渉が始まった。

 アメリカの要求は7つであった。

 

 1つ、アメリカとチャイナ民国間での即時停戦。

 2つ、南モンゴルの独立承認。

 3つ、チャイナ人民共和国の独立承認。

 4つ、アメリカとチャイナは現在の前線を国境線として相互承認。

 5つ、泰山要塞とその一帯はアメリカ側が支配する。

 6つ、戦争の発端となった南モンゴルでの病院空爆の責任者の捜索と処罰。

 7つ、戦争の戦費賠償をチャイナはアメリカに対して行う事。

 

 交渉の席に着いて早々、社交辞令も無しにアメリカ代表団が投げつけた要求一覧を見たチャイナ民国代表団は予想していた衝撃を受けた。

 その高圧的な態度は、正しくアメリカ(アメリゴウェイ)であった。

 圧倒的な国力と国力に裏打ちされた軍、そして軍の成果あればこその態度であった。

 とは言え、この要求を唯々諾々と呑む事はチャイナ民国代表団には出来る事では無かった。

 チャイナ民国にも意地がある、面子もある。

 何より、こんな全面降伏染みた要求を丸のみしては、交渉終了後に代表団の責任者は()()()()()()()と言う恐怖があった。

 故に、各条件に対して積極的に交渉を開始した。

 過酷としか言えぬアメリカの要求であったが、その実として要求項目の大半は交渉妥結の為の(ブラフ)であった。

 交渉によって何某の成果を得たと言う形で無ければ、チャイナ民国代表団も面子が立たぬだろうと言う、ブリテンからの入れ知恵であった。

 大事なのは1から3までの要求であり、それ以下は両国の融和を象徴してと取り下げる事が予定されていた。

 その象徴として泰山要塞地帯からの退却、黄河を国境線とする事を提案する積りであった。*2

 問題、と言うか予想外であったのは、余りの国力と戦力の差からチャイナ側が全ての条件を検討しだした事であった。

 その結果、1週間程度で纏まると考えていた外交交渉は冬まで続く事となる。

 

 

――南チャイナ

 チャイナ民国がアメリカとブリテン(チベット独立運動)との戦争で国力を消費する中で、南チャイナはソ連の支援を受けながら軍事力の涵養を行っていた。

 無論、チャイナ民国打倒は()()()()()検討していない。

 打倒への誘惑はあるが、正直、現時点で打倒してしまえば次なるG4(ワールド・オーダー)の敵と認識されるのは目に見えていたからだ。

 現実的な自己認識であった。

 元より、南チャイナの根幹を成す大アジア連帯主義(グレート・アジア)者たちの多くはチャイナの知識層(インテリ)出身者な為、その程度の政治的センスを持つ人間は多く居た。

 その上で、チャイナ民国から蒋介石の粛清を逃れてきた人間まで吸収しているのだ。

 政治組織 ―― 国家としての基盤は、軍閥と言う水準を遥かに超えていた。

 又、ソ連からの支援団(外交団)を受け入れていると言うのも大きかった。

 国家として承認を受けていない南チャイナであったが、ソ連経由で国際情勢に関する情報を得ているのだ。

 それよりは国家としての基盤づくりを優先していた。

 とは言え現時点では武夷山脈以南から東南丘陵の一帯を抑えているだけにしか過ぎない南チャイナは、大きな産業地帯も工業地帯、或いは有力な鉱山なども掌握出来ていない為に国力的な意味に於いてチャイナ民国に対抗するのは難しいのが現実であった。

 故に南チャイナは、チャイナ民国がアメリカとの外交交渉に伴って軍事活動を低下させた機を逃さず、活動を活発化させた。

 狙いは長江上流域 ―― 重慶を中心とした四川盆地だ。

 この一帯は工業地帯であると共に油田やガス田を抱えており、掌握できれば南チャイナの国家体制を確立させる大きな力となるだろう。

 無論、チャイナ民国側とて守備部隊を置いていたし、更にはチベットへ向けた部隊の休息と再編成の拠点としても利用していた。

 ()()()()()南チャイナは狙うのだ。

 チベットでチャイナ民国と戦っているブリテンと交渉し、その支援を受ける事が期待出来たからだ。

 南チャイナは四川盆地を得て国家の基盤を固める。

 ブリテンはチベットへのチャイナ民国からの流入路を断つ事が出来る。

 交渉の成立は不可能ではない筈だった。

 無論、これは南チャイナがチャイナ民国の正面に立つ事を意味し、その点を憂慮する者も南チャイナ内にも居たが、元より独立運動を行っている ―― チャイナ民国からの憎悪を大きく受ける事よりも、国家の基盤確立を優先するべきとの主張が大勢を占め、憂慮する声が主流になる事は無かった。

 幸い、南チャイナはブリテン領香港と領域を接しているので接触自体は容易であった。

 そしてブリテンの反応も良好であった。

 最終的に、チベットと南チャイナの相互承認と香港の永続的なブリテン帰属の文章化を対価として、南チャイナはブリテンからの軍事支援を取り付ける事に成功する。*3

 ブリテンの交渉が妥結するや否や、南チャイナは全力で四川盆地の攻略に乗り出した。

 とは言え戦力の中心は純然たる歩兵部隊であり、総数は10万を号していたが機械化されているのはごく一部、補給のトラックなどを民間から徴発したものが全てと言う有様であった。

 一応、戦車なども含まれてはいたが、これはチャイナ民国軍が戦場から撤退する際に遺棄していたものを回収し、整備したものであり、その数は10台にも満たなかった。

 とは言え、それなりの訓練を受けた兵隊達が、旧式ではあっても十分な装備を持ち、そして指揮官達はフランス領インドシナで実戦経験者が多いのだ。

 一部には北日本(ジャパン)の将校団から教育を受け、或いはソ連軍の訓練も受けていた。

 これでブリテンからの軍事支援(航空攻撃)まで受けられるのだ。

 訓練も不十分なら装備も劣悪 ―― そもそも武器弾薬の数が十分とはとても言えないチャイナ民国軍のチベット方面部隊では抵抗するだけで精一杯と言う有様であった。

 

 

――チャイナ民国

 アメリカとの終戦に向けた外交交渉の隙を突く形で動き出した南チャイナに対し、激怒した蒋介石であったが、出来る事は少なかった。

 四川方面への更なる増援をチャイナ民国軍に厳命しようとするが、既に予備戦力と呼べるものは払底して居たため、不可能であった。

 泰山要塞への支援に動かしたのが、最後の予備戦力であった。

 現在は泰山要塞を挟んでアメリカ軍と対峙している。

 無論、戦闘自体は終息状態にあるのだが、外交交渉に於ける見せ札の役割を担っている為、容易に引き抜く事が出来ないのだ。

 避難民などを徴兵し、新しい部隊を作る事は不可能では無いが、アメリカによる戦略爆撃によって麻痺状態に陥っていたチャイナ民国の経済は、徴兵した新しい兵に武器弾薬はおろか軍装すら満足に支給出来る状態には無かった。

 そもそも、チャイナ民国軍は徴兵によって兵は揃えられたとしても、それらを直接指揮する現場の指揮官が圧倒的に不足していた。

 幾度も軍が壊滅し、或いは包囲され続けているが故の事だった。

 この為、チャイナ民国軍参謀団は四川盆地の放棄を蒋介石に上申していた。

 現時点で四川盆地周辺に居る部隊は、抵抗したと言う事実以外の実績は何も残せないだろうとの判断があり、であれば一度退いてから再度取り返せば良いと言う軍事的合理性であった。

 政治側から見て、とても受け入れがたい問題ではあった。

 チャイナ民国の権威が更に落ちる、即ち天下を治める徳がチャイナ民国政府から失われたとチャイナ人民に認識される事を恐れたのだ。

 とは言え、打てる手が無いのも事実であった。

 苦悩の末に酒を呷った蒋介石は、そのまま吐血して病院に担ぎ込まれる事となる。

 非常事態である。

 最高権力者が人事不省となり、生まれた権力の空白期間。

 そこでチャイナ民国政府の序列第2位は独断で動く事を決めた。

 悠長に蒋介石の回復、そして指示を待つ余裕はないとの覚悟からだった。

 四川盆地周囲の部隊には撤退準備を命令し、併せて南チャイナとの接触を行った。

 四川盆地にある産業設備(インフラ)を傷つけない代わりに、部隊の安全な後退を要求したのだ。

 それはある意味で南チャイナを独立した存在であるとチャイナ民国が認める行為であった。

 チャイナ民国序列2位はその事を理解しつつ、交渉を行わせ、纏めさせた。

 南チャイナが、国家承認と言う餌をぶら下げる事で、交渉に乗ってくるだろうと読んでの事であった。

 実際、南チャイナは交渉に素直に乗ってきた。

 又、併せてブリテンとチベット独立派にも接触を行った。

 四川盆地を失う事はチベットへの補給路(アクセス)を失う事と同義であった為、チベット高原からのチャイナ民国軍および関係者の全面退去を行う。

 その安全確保が狙いであった。

 無論、此方も武器弾薬や資産などを完全な形で放棄する事を約束する事で、ブリテンとチベット独立派は受け入れる事となる。

 ドラスティックな選択で、チャイナ民国西部域の安定を確保したチャイナ民国序列第2位であったが、その目的は権力の簒奪では無かった。

 その内心を言えば、全責任を自分が負う事でチャイナ民国と言う国家と、蒋介石と言う指導者を生き残らせる事であった。

 責任を取り、蒋介石が意識を回復し状況を説明したら自決する覚悟であった。

 忠義の士であった。

 その事を蒋介石も知っているが為、意識回復後にチャイナ民国の現状を報告された際、ただ静かに頷いたのだった。

 苦労を掛けた事を労り、そしてその決断の全てを自分が承認すると宣言すると、チャイナ民国序列第2位の手から自決用の拳銃を取り上げていた。

 

 

――アメリカ-チャイナ民国 外交交渉

 聊か後回しとなっていた外交交渉であったが、最終的に3つの主要条項と幾つかの付帯条件をもって妥結する事となる。

 

 1つ、旧チャイナ領内に誕生した7つの国家の相互承認。

 2つ、チャイナ民国とチャイナ人民共和国との国境線は黄河流域と定める事。

 3つ、戦時賠償に関しては相互に放棄する。

 

 概ね、アメリカの狙い通りであり、同時にチャイナ民国側からすれば黄河以南で泰山要塞その他の掌握されていた領土が返還されたお陰で面目の保てた内容となっていた。

 これによってチャイナ大陸での戦争はひと段落する事となる。*4

 

 

 

 

 

 

*1

 ユーラシア総軍としての死傷者は少なからず出て居たが、その大半は貧弱な装備を手にチャイナの攻勢を正面から受け止めた朝鮮共和国軍(コリア系日本人)であり、又、世界中から集まっていた義勇部隊であった。

 朝鮮(コリア)共和国軍は、残念ながらも仕方がない話であり、その勇敢さと献身は讃えられていた。

 だが、他の義勇部隊に関して言えば、何とも言い難いのが実情だった。

 装備はアメリカに準じるものが与えられて居たのだが、装備への習熟度や、そもそも兵員としての訓練が十分とは言い難かった為、チャイナ軍との交戦によって相応以上の被害を出していたのだ。

 故に、人員の訓練度や装備の質が良好であった北日本(ジャパン)邦国やバルデス国からの部隊は、その戦果に比して大きな被害を出してはいなかった。

 

 

*2

 黄河以南の支配地域を放棄する事は、チャイナ民国とドイツ領山東半島との連絡線を復活させることを意味するが、アメリカは特に重視していなかった。

 既にG4の中では、ドイツの取潰しは決定事項であったからである。

 戦争となった際に、攻撃すればよいと言う程度の扱いであった。

 

 

*3

 大アジア連帯主義的には、チャイナの大地が外夷(ジャパンアングロ)勢力の支配下にある事は業腹な事態であるが、これも偉大なるチャイナの伝統を後世に残すため仕方のない事と受け入れていた。

 そして100年後、或いは200年後に取り戻そうと臥薪嘗胆を合言葉にするのだった。

 尚、ブリテン側はその事を理解しており、であるからこそ、香港の永続的なブリテン帰属を文章として残させたのだ。

 法的に香港は既にチャイナ民国からブリテンへと正式に割譲されているのだが、にも拘わらず南チャイナにも同様の意思を示させたのは、ブリテンの深刻なチャイナ不信感であった。

 1930年代からのアメリカとチャイナの紛争を見ていれば、当然そうなると言うものであった。

 

 

*4

 尚、全くの余談であるが、この交渉妥結のパーティーに参加していたアメリカ海軍士官の不用意な一言が、ある種の喜劇的な波紋を呼ぶ事となる。

 発言は、鄭和に関する事であった。

 チャイナ民国海軍の象徴である鄭和。

 欧州を出発し、アメリカ海軍の目を掻い潜っていまだ発見できない鄭和をアメリカ海軍は高く評価していた。

 であるが故に、今はどこを航海しているのかと尋ねたのだ。

 だが、チャイナ民国海軍側は違う受け取り方をした。

 アメリカ海軍は戦勝の戯れに鄭和を捕捉し、或いは撃沈する積りだと認識したのだ。

 故に、残念ながらも行方不明と説明(難破した可能性を示唆)し、鄭和に対しては当座の帰国を禁じる旨を、ソ連経由で伝達するのだった。

 この結果、鄭和の冒険は第1幕(戦時編)が終わり新しい2幕目、戦後編が始まる事となる。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

A.D.1944
130 世界大戦の胎動-03






+

 ドイツとオランダの緊張の高まりは北海に緊張感を齎す事となった。

 オランダに対して圧力をかける為、ヒトラーは北海に大型艦を展開させるようにドイツ海軍に対して命令したのだ。

 とは言え、ドイツ海軍側としては簡単に頷ける話では無かった。

 数年来と相次いだ外洋での長期任務の結果、ドイツ海軍に割り当てられていた燃料は常に枯渇状態にあり、特に燃料の消費が著しい大型艦は定期的な外洋での訓練を抑制する有様となっていた。*1

 この為、ドイツ海軍の提督達は連名で、ヒトラーに対して職を賭ける覚悟をもって燃料の特別配当が無ければ大型艦を動かす事は反対であると直訴を決行した。

 対するヒトラーは提督達を解任した。

 それは認識の相違に因るものであった。

 ドイツ海軍に燃料が無い。

 だがそれは、ドイツ海軍全艦の燃料槽を2度は満杯に出来る量を備蓄した上での話であった。

 ドイツ海軍からすれば、来る将来の戦争に備えて備蓄していた燃料と言う認識であった。

 だがヒトラーからすれば、ドイツ全体で燃料は不足気味であるにも拘わらず、更なる燃料を欲するドイツ海軍は強欲極まりないと見えたのだ。

 これは、ヒトラーが陸軍での軍歴を重ねていたが故の、海軍の思考様式を理解せぬが故の判断とも言えた。

 又、年齢層の高いドイツ海軍指揮官達の若返りを図ったと言う側面もあった。

 とは言え、鞭だけでは人は動かせない。

 ヒトラーは海軍に対して燃料の特別配給を約束した。

 配給元は、ヒトラーの私兵と言ってよい武装親衛隊(Waffen-SS)だ。

 今はまだ歩兵(非機械化)師団が中心であるが、将来 ―― 戦争が勃発し軍事予算が拡張された際には大規模拡張(機甲化)を予定しており、その際に備えて押さえて(キープして)いた燃料である。

 とは言え、配給されるのは車両用のガソリンである為、ドイツ海軍にとっては有難迷惑な側面があった。

 この為、ドイツ海軍は軍需相に接触し、ガソリンを兵器・弾薬の生産に向けて押さえている重油と交換する様に提案した。

 軍需相は、この提案に乗った。

 とは言えドイツ海軍が希望するだけの量の重油を自身の裁量で手配する事は不可能である為、産業界に声を掛け、広くかき集める事で対処したのだった。

 兎にも角にも、様々な努力の結果、ドイツ海軍は戦艦ビスマルクとシャルンホルスト、巡洋艦プリンツ・オイゲンと言う()()な大型艦3隻と5隻の駆逐艦から成る()艦隊を編成し、北海南部域へと展開させるのだった。

 ドイツ海軍としては空母グラーフ・ツェッペリンまで派遣し、1等海軍の証とも言える機動部隊(空母任務部隊)を編成したいとの希望があった。

 だが、如何せんアドリア海から戻ってきたばかりであった為、乗組員の疲労や船体の故障など問題が山積した状態となっており派遣は見送られる事となった。

 余談ではあるがグラーフ・ツェッペリン級空母の2番艦であるペーター・シュトラッサーであるが、こちらは進水こそ終えていたが資材や工員などの手配でプロイセン級装甲艦建造が優先された結果、艤装途中で建造が止まっていた。

 対チャイナ貿易で要求されるプロイセン級装甲艦以外の整備は全てがこの様であった。

 ある意味でドイツ海軍の状況が、ドイツ自体の状況を示していた。

 

 

――フランス

 ドイツ海軍北海に進出するとの一報に、フランス海軍は色めき立った。

 岸壁の女王(港湾警備員)バルト海の支配者(ヒキコモリ)かと言っていた、ドイツ海軍の戦艦(高価値標的)が出張ってきたのだ。

 興奮しない筈が無かった。

 ()()開戦していない為に発見して撃沈を! と言う訳にはいかないが、それでも対峙する事は良い事であった。

 フランス陸軍に比べて最近では活躍の場が少なかったフランス海軍にとって、絶好の機会(アピールポイント)なのだから。

 最新鋭の戦艦、空母を投入し世界へフランス海軍の武威を示さんと盛り上がった。

 とは言え、余り過大な戦力を持ち込んでは()()()()()が発生しかねないと、フランス海軍も最低限度の自制心は発揮していたが。

 ドイツが持ち込んだ艦隊よりも少しだけ大きな艦隊を張り付ける事としていた。

 主役は戦艦リシュリューとクレマンソー、そして空母ペインヴェだ。

 ジョフレの戦訓を元に、建造途中で大規模な設計変更を行ったペインヴェは、就役が当初予定よりも2年近くも遅れる事となったが、その甲斐のある強靭な空母として誕生していた。

 この3隻に、フランスの誇る大型駆逐艦 ―― 軽巡洋艦にも匹敵する3,000t級の駆逐艦を4隻付けて派遣した。

 フランスとしては手加減をした積りであったが、ドイツ側からすれば過剰規模(オーバーキル)も良いところであった。

 

 

――オランダ

 自国領海のすぐ外側で発生した大国同士の睨み合いは、オランダ政府の胃袋を直撃した。

 1940年代前半、オランダの海洋防衛方針は金を生むオランダ領東インドの治安維持が第一であった。

 日本が安定して活動してくれれば勝手に金が生まれる(税収が発生する)

 であればこそオランダは、巡洋艦やフリゲート、或いは小型砲艦を建造し東アジアへと派遣していた。

 敵はオランダ領東インドの海賊や独立運動の人々である。

 最大の脅威と言えるのは、ある意味で日本であったが、これは海軍でも政府でも、見て見ぬふりが成されていた。

 正直、日本が切り取りにかかって来れば抵抗など出来ない話であったが、そこはもう開き直るしかなかったし、実際に開き直っていた。

 日本が宣言している、現在の世界体制の変化を望まないと言う言葉と、G4(ワールド・オーダー)である事の道義的な責任を信じる事としたのだ。*2

 さて、優先されたオランダ東インド艦隊であるが、対してオランダ本土艦隊の戦力はごく少数に留まっていた。

 景気の良さと国民の不満を逸らす狙いもあって、国家を象徴する大型艦として15,000t級の海防戦艦アムステルダム*3が建造されていたが、それ以外には魚雷艇と機雷敷設艦、そして練習艦を兼ねた老朽駆逐艦が配備されているだけであった。

 これでは戦艦を含んだ部隊に対して抑止力となるのは難しい。

 難しいが成さねばならぬ。

 オランダはアムステルダムを出向させ、対峙させる事とした。

 又、非常時に備えて機雷戦の準備を進めるのだった。

 

 

――ブリテン

 北海で始まったバカ騒ぎであるが、意外な話としてブリテンは積極的に加わろうとしなかった。

 無視しようと言う訳では無い。

 只、戦艦 ―― 新鋭艦であるキングジョージⅤ級の様な大型艦を派遣しないと言う話である。

 大型艦が無い訳では無い。

 天下の王立海軍(グランド・フリート)、その本土艦隊である。

 戦艦なぞ10を超えて在籍していたが、それを出撃させない理由は訓練計画であった。

 バカ騒ぎの舞台が、北海とは言え沿岸域であり、戦争に直結しそうに無いのだ。

 であれば、将来に備えて主力艦群の練度を上げる事を優先しようと言うのも当然の話であった。

 軽巡洋艦を中心とした部隊を派遣し、その動向には注意を払う事とした。

 又、フランスに話を通し、フランスの戦艦に観戦武官を乗り込ませる様に手配した。

 フランスは、イギリスがこの(バカ騒ぎ)の主役を譲ってくれるのだと理解し、喜んで乗艦を認めていた。

 

 

――ソ連

 北海の入り口で始まった緊張状態に頭を抱えたのはソ連であった。

 ソ連にとって大事な海洋貿易路、その隘部(チョーク・ポイント)で戦艦を含んだ大艦隊の睨み合いである。

 頭を抱えない筈が無かった。

 睨み合いであり第3国の無害航行が保証されているとは言え、そうですかとソ連籍貨客船に護衛を付けずに運航するなど、ソ連の沽券に関わる重大事であった。

 とは言え問題は、1943年迄の時点でソ連が用意出来る()()()が存在していないと言う事であった。*4

 当初の予定であれば65,000t級の大戦艦ソビエツキー・ソユーズ級やレニングラードの防衛を専門とする15,000t級の海防戦艦(バルト海の女王)レニングラード級が竣工している筈であったのだが、設計の遅れと工員(技術者)の不足、そして何より配分される鋼材等の資源が致命的に不足していた事が理由だった。

 スターリンの厳命があるにも関わらず、この状態である理由は、サボタージュや嫌がらせ等では無かった。

 これは陸軍国家であるソ連にとって優先すべきは陸空であり、その陸空が仮想敵国(日本連邦)に対して圧倒的に劣っている事が理由だった。

 いや、日本に劣っているのは以前からであり、ある意味で()()()()であった。

 問題は、日本製の戦車や戦闘機の購入を始めたポーランドやフィンランドと言ったソ連西方の(かつて威圧し、失敗した)国々であった。

 その国々が、ソ連の兵器よりも優れた兵器を装備しだしたのだ。

 スターリンのみならず大概のソ連人が持つ心の宿痾(疑心暗鬼)が、鎌首をもたげた。

 ()()()()()()()()()、と。

 戦車を戦闘機を、質で劣るのであれば数で圧倒せねばならない。

 又、新しい戦車、新しい戦闘機の開発に全力を注がねばならない ―― ソ連海軍を除く誰もが、その意見で一致団結した。

 結果、ソビエツキー・ソユーズもレニングラードも見事に工期が遅延していた。

 尚、この件に関してはスターリンも海軍を叱る事は無かった。

 とは言え、それで済む訳ではない。

 特に、この北海南部域が火薬庫(一触即発)となった状況では。

 ソ連の政権内部での政治的な駆け引きは直ぐに政治的な対立、暗闘へと変わった。

 そしてスターリンの忠実なるしもべ、内務人民委員部(NKVD)は事態の原因をソ連海軍の怠慢(サボタージュ)で処理しようと動き出した。

 この情報(何時ものソ連仕草発動)を知って慌てたソ連海軍は、いっそやられる前にやれとNKVDを襲うべきかと血迷う程であった。

 その最中、少しだけ頭の冷えていた参謀がソ連の港に隠れていた救世主を思い出す。

 鄭和だ。

 鄭和は基準排水量9,700tと、実質10,000t級と言う()()()であり、28㎝と言う大口径砲を持った1930年代後半に就役したばかりの近代的な戦闘艦なのだ。

 これであれば問題は無いと、ソ連海軍上層部が飛びついたのも仕方のない話であった。

 都合よく、鄭和には無期限でのチャイナ帰還停止命令が出て居る。

 これを()()()()()()()()()と思うのも道理ではあった。

 鄭和の運命が転がりだす。

 

 

 

 

 

 

*1

 書類の上では各種任務向けに燃料がドイツ海軍に対して増配される事とはなっていたが、そもそもとしてドイツが輸入生産出来ている燃料の量が年間で消費する量を下回っている為、空手形以上の意味は無かった。

 それどころか、産業界からは軍向けの燃料を分けて貰わねば経済活動が停滞すると言われる有様であった。

 ソ連から輸入する石油や石炭ベースの人造石油だけでは、ドイツと言う国家を支え切れずにいた。

 石油資源地帯の大半をG4に抑えられたが故の、そしてG4と対立的立場にあるが故の惨状と言えるだろう。

 ドイツに於いて軍は強い立場を持っては居るが、それでも産業界(金主)に対して強権を振るえる訳では無かった。

 ドイツ政府ですらも産業界に阿っていた。

 この為、ドイツ海軍はドイツ陸軍並びにドイツ空軍に対して協力を要請したが、こちらもすげなく断られる事となる。

 フランスへの対抗の為、50t級を超える重戦車(燃料バカ食い車両)を多数揃える羽目になっている陸軍にそんな余力は無かった。

 空軍も同様である。

 レシプロエンジンからジェットエンジンへの切り替えによる燃料の消費増大は空軍から悲鳴のような燃料割り当て増の要求が出される程であった。

 この様な事態の為、ドイツ海軍の深刻な燃料不足が解消される目途は立っていなかった。

 

 

*2

 現実的な話として、日本との国力比からオランダが万が一の武力衝突となれば抵抗など出来る筈も無い。

 だからこそオランダは、オランダ政府はオランダ領東インドでは日本への配慮(ゴマ擦り)を細心の注意を払って続けていた。

 その様を指して、反政府的な口の悪い人間などは日本領東インドの管財(黄色人種の使用人)国家等と言っていた。

 その事もあって、オランダで反日本主義が一定の支持を集める事に繋がっていた。

 

 

*3

 10,000tを超える大型艦の整備こそ決定したが、オランダにその技術も経験も無い為、その設計と建造は日本に外注される事となった。

 日本とオランダの友好を示す艦、と言うのが公式な見解である。

 海防()()と命名されてはいるが、その主砲は重巡洋艦級である8in.砲であり、装甲その他の点でも重巡洋艦の範疇に含まれている。

 アムステルダムが海防戦艦と言う呼称を用いる理由は、政治であった。

 同時に、フランスやドイツ、或いはブリテンと言った強国を刺激しない為の選択でもあった。

 尚、重巡洋艦としてみた場合、アムステルダムは完全自動化された8in.砲を9門備えた欧州でも有数の強力な艦であった。

 主砲は日米が共同開発した55口径8in.砲の修正(デチューン)版を採用している。

 発砲速度を抑える代わりに、部品の点数を下げて保守点検に関わるコストを下げたモデルとされているが、それでも全自動化されているお陰で毎分7発の発射速度を有しており、極めて優秀な8in.砲であった。

 速力こそ巡洋艦種としては鈍足の類であったが、それは書面上の事であった。

 日本製の大出力ディーゼル主機は、27ノットと言う速度を短時間の最大速力(カタログ・スペック)では無く、燃料が尽きるまで走らせ続けられる連続発揮可能速度(リアル・スペック)としていたのだから。

 嵐の中であっても、或いは武器弾薬その他を満載にしていても27ノットを発揮し続ける事が出来るのだ。

 アムステルダムの登場は、ポーランドやノルウェーなどの中等国家の海軍に大きな衝撃を与えるものであった。

 その意味でアムステルダムも、正しく海防戦艦(リトル・モンスター)であった。

 

 艦名 アムステルダム(アムステルダム型海防戦艦)

 建造数   1隻

 基準排水量 14,300t

 主砲    55口径8in.3連装砲 3基9門

 機銃    60口径40㎜単装砲 2基

 他     3連装短魚雷 2基

 装甲    耐8in.防護を実施

 速力    27ノット

 主機    ディーゼル

 

 

【挿絵表示】

 

 

 アムステルダムの登場は、欧州の中小国に大型艦(国家象徴艦)整備への欲望をまき散らす事となる。

 正しく狂騒曲(バカ騒ぎ)と呼べるものであった。

 その点に関し日本とも関係の深いフィンランドが、発端となった(引き金を引いた)日本に対し外交の場で非公式に非難の声を上げる程であった。

 この点に於いて日本は、()()()()()()が欧州に大きな影響を与えるなど想定していなかった。

 日本にとってアムステルダムは古臭い(非ネットワーク型)中型砲撃任務艦に過ぎず、駆逐艦(DD)は勿論として、SSMを搭載していれば小型の多目的フリゲート(FFM)ですら一方的に撃沈が可能な存在にしか過ぎなかったのだから。

 非公式な場故に日本は率直に認識不足を詫びる事となる。

 合わせて、埋め合わせと言う形でフィンランド向けに()()()の建造を約束する事となった。

 

 

*4

 一応、23,000t級のガングート級戦艦3隻をソ連も保有してはいたが、近代化改修もされていない世界大戦(WWⅠ)前に就役した姿のままの弩級戦艦であった為、近代的(ポスト・ワシントン条約型)戦艦がにらみ合う場に持ち出せるはずが無かった。

 陸式の田舎海軍(田舎者)と笑われる事もあるソ連海軍であったが、恥は知っていた。

 本来、ガングート級も1930年代後半には近代化改修の予算を付ける予定となっていたのだが、ソビエツキー・ソユーズ級などへの資源と人員の集中がスターリンより命令されていた為、無期限の凍結となっていた。

 又、カレリアでの紛争の後には警備任務で出動を重ねていた為に、機関部などが故障を頻発する様になっており、とてもでは無いが遠洋任務に投入出来る状態に無かった。

 

 




愚作、タイムスリップ令和ジャパンも皆様のご愛顧によってめでたくもUA100万アクセスを達成いたしました。
改めて御礼申し上げます。

2020/04/05 文章修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

131 世界大戦の胎動-04







+

 ソ連海軍から鄭和の傭船(レンタル)を持ち掛けられたチャイナ民国は、2つ返事で了承した。

 戦争に敗れたチャイナ民国の予算では、大型艦と言ってよい艦艇の維持費を用意する事が難しかったのだ。

 別段、アメリカに巨額の戦時賠償を求められた訳では無い。

 だが国内で派手に戦争をした(アメリカの容赦ない戦略爆撃の)影響は、チャイナ民国の経済に重大な影を落としており、税収が極端に悪化していたのだ。

 この状況下で増税を行えば革命運動が勃発しかねず、民衆に強権を以って対峙する事を基本とするチャイナ人式の統治であっても民心慰撫に務めざるを得なかったのだ。

 そのしわ寄せが一番に及んだのが軍事であり、そして、中でも海軍だった。

 チャイナ民国は、ソ連に対して鄭和の竣工への協力*1と訓練を行う事を、傭船費用とは別に要求した。

 ソ連はそれを快諾し、傭船契約が結ばれる事となった。

 ソ連の指揮下で運用される際にはソ連船籍の装甲艦ヴォストークと名乗り、ソ連海軍旗を掲げる事となる。

 尚、鄭和の乗組員たちはチャイナ民国海軍旗を掲げれぬ事に屈辱を覚えたが、潤沢に供給される様になった食料や嗜好品を前に、簡単に割り切るのだった。

 

 

――ソ連

 ソ連海軍からの()()()()()()()()は、スターリンを喜ばせた。

 少ない労力と時間で、北海(ホット・エリア)を面目を守って航行出来るようにした努力を評価した。

 上機嫌で海軍を褒めるスターリンに、付和雷同して拍手するソ連の首脳陣。

 例外は、チャイナ民国との交渉で己を介さなかったと臍を曲げた外務省と、海軍を粛清する(功績を挙げる)機会がふいになった事に気分を害した内務人民委員部(NKVD)程度であった。

 兎にも角にも、ソ連海軍は危機を脱した。

 後は、ヴォストーク(鄭和)に随伴させる艦の選抜と訓練であった。

 スターリンが最初の任務として大仕事を用意していたからだ。

 船団護衛だ。

 ソ連の支配下となったアフリカのコンゴ、その地で()()()()()()に就く5万近い将兵の乗った船団を無事に送り届ける事だ。

 造船能力の低いソ連が保有する大型の客船や貨客船は少なく、大多数は中小型の船舶であった。

 にも拘わらず大人数を、様々な機材と共に運ばねばならぬ為に船団は、船団を組む船舶数はとても大きなものとなる事が予想された。

 北海での護衛(プレゼンス)任務もだが、護衛自体がソ連海軍にとっては大仕事となったのだ。

 外洋任務経験の乏しいソ連海軍にとって、荷の重すぎる話であり、ソ連陸軍などへ1度の航海で輸送するべき人員を減らすべきだとの交渉まで行った。

 旧式の小型輸送船などが行方不明になって(遭難して)は堪らないし、その可能性は極めて高いのだから。

 だが、その交渉が実る事は無かった。

 5万名もの輸送は、スターリンの肝いりだったのだから。

 コンゴを素早く平定する事でソ連の国家の威信を国際社会に見せつけたいと言う思いがあったからだ。

 又、仕事をし損ねた内務人民委員部(NKVD)が、代わりに功績を挙げる場所としてコンゴを見ていた ―― スターリンの背中を押していたと言うのも大きい。

 スターリンがその気で、内務人民委員部(NKVD)が積極的である案件を止める手段などソ連にある筈も無かった。

 この為、ソ連海軍は頭を絞る事となる。

 なけなしのソ連製大型艦である軽巡洋艦マクシム・ゴーリキーと、嚮導(大型)駆逐艦のタシュケント*2が投入される事となった。

 だが、それがソ連海軍水上戦部隊に出来る精一杯であった。

 シベリアの独立と、その後の軍事的対立によって経済の成長が阻害されてきたソ連では、陸軍と空軍が最優先とされていた為、駆逐艦は兎も角として巡洋艦クラスは碌に整備されていなかったのだ。

 しかも、スターリンの()()によって一度は大型艦建造を最優先していたのだ。

 軍事的要求、合理性よりも政治が優先された結果とも言えるだろう。

 故に、この現状も仕方のない話であった。

 とは言え、だから船団から輸送船が失われ(遭難し)ても良いとはならない。

 故にソ連海軍は外洋航路航行経験を十分に積んだ乗組員のいる優良中型貨物船を徴発(チャーター)し、武装と通信設備を乗せた仮設巡洋艦(エスコート・クルーザー)に仕立て上げたのだ。

 尚、中型とは言え優良船複数をソ連海軍が借り上げる事に、兵員の輸送計画を立てている人間は腹を立ててソ連海軍に怒鳴り込む事となる。

 此方も、5万名もの人間を輸送するために船舶の調整に四苦八苦していたのだから、仕方の無い話であった。

 怒鳴りあい、つかみ合い、殴り合いの大騒動となる。

 一触即発となる現場、楽しそうに(ワクテカで)状況を見ている内務人民委員部(NKVD)

 これが解決したのは、関係者各位で冷静な人間が上司に泣きつき、泣きつかれた上司がその上司へと泣きつき、最終的にスターリンにまで泣きついた結果だった。

 泣きつかれると言う珍しい事態にスターリンも驚いた。

 その驚きが苛烈な対応に繋がらなかったのは関連する全ての人間にとって僥倖であった。

 又、5万名と言う数字は別段に意味のある(軍事的裏付けのある)数字では無かった事も大きな理由であった。

 泣きついてきた人間にウォトカを振舞って、スターリンは第1回目の輸送船団が届ける人員を4万名に減らす様に指示した。

 

 

――鄭和

 運命の流転と言うには余りにも()()な境遇を乗り切る為、艦長以下乗組員達は出航迄の間、日中は過酷なまでの訓練に費やし、或いは屋台で金を稼ぎ、そして夜はウォトカを飲んで爆睡する日々を過ごした。

 ソ連から艦の運営費が出ても、屋台は継続していた。

 人気が出て固定客を掴んだお陰で儲けが大きく、それを惜しんだと言う事と、多くの市民が店舗の継続を懇願したと言うのが大きかった。

 珍しい東方(中華)料理が、ソ連人民の胃袋を掴んでいたのだ。

 油が多く、濃い味で、しかも安い為、港湾の寒い環境で過酷な労働に従事する人々にとって必須染みた食事になっていた。

 奇しくも、鄭和の偽名であるヴォストークは、そのまま東方料理(ヴォストーク)としてレニングラード市に定着する事となる。

 尚、鄭和の艤装に関しては、戦闘が要求される訳では無い為、武装面での工事は余り行われなかった。

 この為、機銃などの配置が予定されていた乗員が余る事となり、鄭和が出航して以降も屋台が続けられると言う側面もあった。

 悲喜交々な日常的部分は別として、軍艦としての鄭和はソ連の手を借りて完成する事となる。

 通信設備などは、ソ連経由でドイツ製最新のものが搭載された。

 洋上での故障に備えた部品も、スウェーデンから取り寄せられていた。

 ソ連人もチャイナ人も、この航海が大変なものになると言う予感を抱いていたのだ。

 故に、後悔せぬようにと出航前に開かれた交流会を兼ねた壮行会は、ウォトカとラオチューが飛び交い、多くの人間が床を寝床とする事となる。

 

 

――ドイツ

 ソ連が大艦隊を用意し、アフリカまでの遠征を行うと知ったドイツは好意的な反応を示した。

 当然であろう、フランス艦隊とやや劣勢で対峙する所に()()()の大艦隊が来ると言うのだ。

 歓待と、友好親善の共同訓練を行って、フランス艦隊を鼻を明かしてやりたいと思うのも当然であった。

 だが、ドイツの目論見に反して、ソ連がドイツの話に乗ってくる事は無かった。

 大艦隊などと言っても実際は中小型船の大船団(雑多な寄せ集め)に、護衛の軍艦が3隻に仮設巡洋艦(軍艦もどき)が8隻なのだ。

 戦力として数えられるなど迷惑な話だったのだから。

 その上に船団の大多数は老朽船である為、護衛の艦船(シェパーズ)が船団から離れたら迷子が出かねない危険を孕んでいるのだ。

 とてもでは無いが、親善の為だのと理屈が付けられていても受け入れられる話で無かった。

 この話を聞いたドイツ側は、激怒 ―― する事は無かった。

 ソ連が、船団護衛に使える大型艦の不足に苦慮していると言う話は、プロイセン級(20,000t級P型)装甲艦*3を揃えつつあるドイツにとって自尊心を擽る話であったからだ。

 ドイツはソ連を友邦国としていたが、同時に格下とも見ている為、ソ連の苦労を甘美なものとして味わうところがあった。

 

 

――日本

 基本的に、国際連盟の加盟国であり法的にも問題の無いソ連の船団に対してどの国も妨害などを考える事は無かった。

 只、外洋で作戦行動を行うソ連軍艦と言う事で、各国海軍は電波情報の収集に熱を入れる事となる。

 当然、その中には日本も含まれている。

 投入されたのはしぐれ。

 あさかぜ型多機能護衛艦(FFM)の1隻であり、遣欧総軍欧州方面隊に所属し、北海での事態に対応する為にブリテンへ派遣されていたフネであった。

 当初は特殊動力潜水艦(SSn)も情報収集任務に投入する事も検討されたが、音紋その他を北海航海中に収集する事が出来た為、アフリカまで追跡させる事は無かった。

 それよりは緊急性の高い北海でドイツ海軍艦艇の音紋収集が大事であると判断されたのだ。

 かくして1隻で任務に就いたしぐれだが、その高度な対電波ステルス性能からソ連側からすると視認は出来てもレーダーなどで確認が取れない為*4亡霊艦(ゴースト)として恐れられる事となる。

 

 

――北海

 ソ連船団の通過と言う未来図に、北海での緊張感は高まる事となる。

 フランスにせよドイツにせよ相手を一切信用していないのだ。

 ソ連船団通過の際に()()()()()()()()()()()? と警戒するのも当然であった。

 この為、両国は奇しくも一致した行動にでた。

 相手をけん制する為に、共に駆逐艦などを増派したのだ。

 軍艦の密度が指数関数的に跳ね上がっていった為、漁船や民間の貨客船、タンカーの航行にも影響が出る事となる。

 この状況に頭を抱えた北欧諸国は、少ない保有艦艇から牽制の為に艦艇を派遣する羽目になっていった。

 当初は我関せずと言う態度であったブリテンが動く。

 事、この状態になってしまうと無視する事が政治的にできなくなったのだ。

 何より、自国の庭先で、ブリテンの漁船も活発に活動しているのだ、それを保護する為に動くのは当然であった。

 近代化改装を終えたばかりの戦艦フッドを旗艦とした艦隊(N部隊)を派遣する事となった。

 フランスとドイツに追加してブリテンが加わり、更に軍艦の密度が上がったこの事態に、慌てた北海を交易路とした中小の国家は、国際連盟安全保障理事会に泣きつく事となる。

 困ったのは第三者である国際連盟理事国、日本とアメリカである。

 別に戦争をする訳でも無ければ、勝手に臨検などをしている訳でも無い。

 単純に艦艇を北海に出しているだけなのだ。

 それを何の問題に問えと言うのか、と。

 念のためにと非公開会議でブリテンとフランスに確認するが、何が問題があるのかと返してきた。

 日本もアメリカも、それを否定する事が出来ない。

 国際連盟も大いに荒れる事となる。

 喧々諤々の大騒動。

 面倒くさくなったアメリカは、いっそ国際連盟総会でドイツに対して「国際秩序を乱す行為を批判する」的な議決を出し、ドイツが退けば良し、引かぬのであればそれを理由に戦争を仕掛けてしまえば良いのではと言い出す始末だった。

 流石にソレはフランスが止める。

 戦争準備が一切整っていないのだから、当然である。

 尚、誰もソ連の船団を問題にする事は無かった。

 最早、問題はそこに無いのだから。

 会議は踊り、先に進まなくなっていった。

 

 

 

 

 

 

*1

 主砲や主機の取り付け、航海に必要な最低限度の艤装が行われているだけの状態でスウェーデンの造船所を出航していた鄭和は、外洋で十分に任務を果たせる状態では無かった。

 その上で、碌な整備も受けぬままに今まで過ごしていた為、大幅な手入れを必要とした。

 ソ連はスウェーデンの造船技術を見れる好機として、当初はこれを喜んでいたが、実際に工事に入ると鄭和の状態の悪さに閉口するのだった。

 

 

*2

 イタリアの指導の下で設計が行われた3000t級大型駆逐艦のタシュケント級は、規模の小さいソ連海軍にとって宝石よりも貴重な駆逐艦であった。

 嚮導と名前が付く通り、より小型な駆逐艦たちを指揮する為の艦であり、ソ連の工業力的に量産可能な駆逐艦が1000t級であった為に生み出された駆逐艦であった。

 本来であればタシュケント級は駆逐戦隊として、5乃至6隻の駆逐艦を指揮する事が想定されているのだが、今回の任務を考えると2000t未満の駆逐艦を投入する事は、居住性及び航続性能から困難であると判断され単艦での参加となった。

 

 

*3

 E艦隊計画の中心としてP級計画艦はチャイナへの航海によって得たドイツ海軍の経験をもとに設計が幾度となく修正され、プロイセン級装甲艦として生み出される事となった。

 ポケット戦艦(戦艦の様に振舞う巡洋艦)と言うよりも、現代に蘇った巡洋戦艦と言うべき性格をした装甲艦である。

 格上(戦艦クラス)とは戦わずに逃げ、格下(巡洋艦以下のクラス)とは積極的に戦い、これを排除すると言うコンセプトであった為である。

 戦艦は強力であるが、その速力的問題から捕捉さえされなければ船団を逃げ切らせる事が出来るとの認識であった。

 水上機の運用能力が強化されているのも、この為である。

 外洋でも積極的に水上機を運用し、戦艦などを早期発見して回避する目的であった。

 

 艦名 プロイセン級装甲艦

 建造数   12隻 (プロイセン バイエルン ブランデンブルク 4番艦以降は建造途中)

 基準排水量 22,700t

 主砲    52口径28㎝3連装砲 2基6門

       55口径15㎝連装砲  2基4門

 装甲    耐8in.防護を実施

 速力    33ノット

 主機    ディーゼル

 艦載機   水上機7機

 

 

 奇しくもプロイセン級装甲艦は、目的は違えどもアメリカのキティホーク級偵察巡洋艦に似た装備構成となっていた。

 差は主砲と艦載機程度である。

 只、口径に於いて28㎝を採用し、8in.のキティホーク級に対して威力で優位に立つプロイセン級であったが、発射速度を加味した場合、その評価は逆転する。

 そもそも、装甲に於いて20,000t級で実現できるのは精々が耐8in.砲弾レベルである為、命中してしまえば差など少ないのだから。

 又、艦載機で見た場合、もはや比較する事が残酷であるとも言えた。

 プロイセン級が搭載するのは古式ゆかしい複葉の水上機であるのに対し、キティホーク級は垂直離着陸が可能な、プロペラ推進式艦載戦闘機の極北に居るF/VP-1哨戒戦闘機だからだ。

 又、艦載機を除くあらゆる面でプロイセン級を圧倒する30,000t級の大型巡洋艦であるアラスカ型の建造も進めている為、アメリカ海軍はプロイセン級を深刻な敵とは認識して居なかった。

 

 

*4

 ソ連船団の艦船には、ソ連とドイツが共同研究して開発した艦載型レーダーが幾種類か搭載されていた。

 又、大型の客船の中には、高価な日本製の輸出用民生規格(漁船用)レーダーを搭載しているものもあった。

 1930年代後半からは、ある程度の先進技術機器も日本は輸出する様になっていた。

 無論、無差別に行われてはいない。

 電子回路などのブラックボックス化を行った上で、機密保持に関する厳しい条約を締結した国際連盟加盟国に限りと言う形である。

 ソ連の民間船舶に搭載出来たのも、ソ連が国際連盟に加盟し続けていればこそであった。

 尚、この機密保持に関する条約とブラックボックス化(分解禁止処置)であるが、ソ連は意外なほどに遵守し、分解その他を行わないのは勿論、ドイツの技術者相手にも詳細を告げる事をしなかった。

 これは、日本への恐怖があればこそであった。

 下手な事をすれば日本が完膚なきまでに敵になり、敵となれば一切の妥協はしてこないだろうと言う恐怖だ。

 その恐怖があるにも関わらず日本製の航行レーダーを購入したのは、バルト海や北海といった海域の気象環境が悪く遭難などの危険が高いからであった。

 

 




2021/03/12 文章修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

132 世界大戦の胎動-05






+

 欧州中と言ってよい規模で艦艇が集まり、世界の耳目が集まっている北海南部海域。

 緊張して、誰もが固唾をのんで事態に臨んでいた。

 既にフランスとドイツの関係は危険水位へと達しているのはどの国の目にも明白であったからだ。

 だが同時に、この事態が戦争に繋がらないだろうとは予想していた。

 何しろ欧州の大多数の国家が艦艇を派遣する大騒動になっているのだ、そんな場所は誰もが注意して行動するだろうから問題は発生しないだろうと()()()()()()()()

 睨みあう(ホットポイントの)フランスとドイツですらそう思っていた。

 緊張感の伴った小競り合い。

 その程度で終わるだろうと、信じていた。

 

 

――ドイツ

 ヒトラーより、()()()()()()()()()()()()()()()()を厳命された武装親衛隊(Waffen-SS)にとって北海南部での艦隊の睨み合いは絶好の機会であった。

 時流に乗った部分が大きいとは言えオランダ社会の中に無視しえない規模の親ドイツ派を作り上げており、その中には現役の軍人も含まれていたのだ。

 こうなれば小規模の集団、或いは()()を自由にする事も容易であった。

 全てはオランダ(ドイツ)の為と言って言いくるめて、ドイツ人は準備を進めた。

 対オランダ限定戦争計画、秘匿名称カルネアデス(緊急避難的措置)である。

 オランダを収める為の小さな戦争。

 誰も損をしない、オランダとの経済交流が太い日本にすら配慮した*1素晴らしい戦争計画であった。

 ドイツに対して圧力を高めているフランスも、ドイツが偉大さを増せば手を出してはこれなくなるだろう。

 ポーランドに至っては平伏以外は出来ない。

 ドイツが強大化する事によって生まれるヨーロッパの安寧 ―― そう考えていた。

 

 

――北海南部域

 始まりは余りにも小さな爆発であった。

 フランス艦隊やオランダ艦隊と睨みあっていたドイツ艦隊の駆逐艦、その側舷がいきなり爆発し炎上したのだ。

 即座にドイツは、オランダに対して()()()()()を問う電文を発した。

 理由の如何によっては発砲も辞さないと言う強硬な一文が添えられていた。

 慌てたのはオランダ側である。

 ただ対峙していただけの相手が、いきなり爆発し、その理由がオランダにあると言ってきたのだ、慌てぬ筈が無い。

 オランダの指揮官は急いでこの場の各オランダ艦艇に対して発砲の有無を確認すると共に、オランダ本国へと緊急電を発した。

 常識的な対応であった。

 だが、今回はそれが仇となる。

 この海域に出てきていたオランダの各艦と連絡に時間が掛かってしまい、ドイツ艦隊との連絡が十分に行えなかったのだ。

 ドイツ艦隊は、その行動を時間稼ぎと判断し、()()()()を宣言したのだ。

 その判断の背景には、オランダの最有力艦である海防戦艦アムステルダムがドイツ艦隊の前に出てきたと言うのも大きい。

 オランダ側としては抑止力を期待しての行動であったが、ドイツ側は威圧に出てきたと判断したのだ。

 この場に居たドイツ艦で最大のものが、アムステルダムよりも小型な装甲艦アドミラル・シェーアであったと言うのも、その判断の背景にあった。

 戦艦ビスマルクなどは、補給の為にドイツ本国(キール軍港)へと帰還していたのだ。

 間が悪い(このタイミングが狙われた)と言う話であった。

 兎も角、主砲の口径こそアムステルダムに優越するアドミラル・シェーアであったが、それ以外のあらゆる面で劣勢にあった。

 特に、アドミラル・シェーアの艦長はアムステルダムの主砲発砲速度を恐れていた。

 10,000tと言う船体に28.3㎝砲を載せたアドミラル・シェーア(ドイッチュラント級装甲艦)は、その火力相応の防御力を有していなかったのだから。

 否、それどころか比較的薄いとすら評価されていた。

 故に、現状の至近距離で戦闘ともなれば、手に負えないだろうと考えたのだ。

 自衛行動とは、ドイツ海軍にとって貴重な大型艦を傷つけさせない為の行動であった。

 とは言え、即座に発砲 ―― 砲火を交えようとした訳では無い。

 ドイツ側の指揮官も艦長たちもそれ程に短慮では無かった。

 只、工作官(Waffen-SS)だけは違っていたが。

 彼らは()()()をしていた。

 オランダ艦艇の艦長で、経済的事情を持つ(金を必要とした)人間を見つけ出して捕まえた(リクルートした)のだ。

 

 大病を患った家族の為に金を欲したオランダ艦の艦長は、己とその部下が死ぬ可能性が高い事を理解して尚、ドイツ艦へ向けての発砲を命じた。

 始まりの号砲が響く。

 

 

――北海南部海戦

 誰もが注視する中で行われたオランダ艦 ―― オランダ側駆逐艦の射撃は、至近距離であった事から見事にアドミラル・シェーアを捉えた。

 そこから始まった事態(破局)は、素晴らしく単純であり、であるが故に誤解の余地のないモノ(戦闘)へと発展する。

 アドミラル・シェーアが暗号化しない無線にて()()()()を宣言し、即座に反撃を開始した。

 主砲である28.3㎝砲には砲弾が装填済みであった為、オランダ側が何らかのアクションを起こす前に発砲が行われた。

 至近距離で放たれた砲弾は、誤る事無く最初に発砲したオランダ駆逐艦を粉砕した。

 更には副砲が別のオランダ艦に向けて発砲を開始する。

 他のドイツ艦艇も、攻撃を開始する。

 こうなってしまえばオランダ側に出来る事は無く、只ひたすらに応戦するのみであった。

 とは言え、ドイツ側と違って即応準備が出来ていなかった為、先ずはけん制の発砲を行いつつ退避するという塩梅であった。

 そんなオランダ艦艇の中にあってアムステルダムが、唯一、気を吐いていた。

 最前線に居た事もあり、殿とばかりにドイツ艦隊に立ちふさがったのだ。

 直ぐに被弾し傷だらけになるアムステルダムであったが、駆逐艦などの主砲程度で、その凶器としての本質はいささかも減じる事は無かった。

 8in.砲との撃ち合いを前提に船体各部へと十分な厚みを持って施された装甲、そして日本の設計技術が生み出した装甲配置あればこそのタフネスさであった。

 素晴らしい運動性を発揮し、発射された魚雷は見事に回避してみせていた。

 そして反撃となる。

 全自動化された8in.砲は、素晴らしい速さで戦闘準備を終わらせて雨霰とばかりに砲弾をドイツ側に浴びせだしたのだ。

 狙ったのは、退避中のオランダ艦艇を追いかけていたドイツ側の駆逐艦部隊だ。

 自らに迫るドイツ艦を相手にせず、味方を守る為に奔るアムステルダム。

 ドイツ駆逐艦部隊は、直ぐに火だるまとなる。

 この間、ほんの5分と経過していない。

 アドミラル・シェーアが火力をアムステルダムへと指向させる前の早業であった。

 こうなってしまうとドイツ側も離脱を優先せざるを得ない。

 が、そこに戦闘準備を終わらせたフランス海軍(ドイツ絶対ぶん殴るマン)が乱入する。

 ドイツ艦隊に対して砲口を突き付けつつ、無線にて戦闘停止要求(撃ってこいと挑発)を行ったのだ。

 ドイツもフランスと交戦する程には頭に血を上らせていない。

 ドイツ艦隊指揮官は旗下の艦艇に対し、フランス艦艇に対して絶対に発砲しない様に命令する。

 問題は、既にオランダ艦艇へ向けて発砲済みであった事と、フランス艦艇はオランダ艦艇とドイツ艦艇の間に潜り込んできたと言う事であった。

 フランス海軍指揮官は、嬉々としてドイツに対する自衛戦闘を宣言した。*2

 とは言えドイツ側にはフランスの戦意に応じる余力は無かった。

 ドイツからしてもフランスは10年来の敵意に燃える相手ではあったが、既にアムステルダム1隻によって艦隊の大多数が撃破されているのだ。

 この上でフランス側と交戦するのは不可能と冷静にドイツ艦隊指揮官は判断し、退却開始を命令するのだった。

 流石のフランスも素直に退いたドイツ相手に追撃する事は無かった。

 世界の耳目が集まっていると言う意識あればこその態度であった。

 これにてフランス・オランダ・ドイツの戦いは一旦は収まる事となる。

 だが、この日、世界を驚愕させる事は、これだけに終わらなかった。

 オランダの駆逐艦が情報収集に来ていた日本艦、まつ型汎用哨戒艦さくら相手に発砲したのだ。*3

 唐突に、それも至近距離で砲撃されたさくらは船体に被弾する事となるが、幸いにも主機への被害は出なかった為、即座に離脱を敢行。

 常であれば出す事のない最大速力 ―― 海上自衛隊艦船らしくあり哨戒艦(OPV)らしからぬ32ノットと言う韋駄天っぷりを発揮してみせた。

 逃走しながらもオランダ駆逐艦に対して攻撃の理由を問うと共に、攻撃を受けた事を無線にて報告していた。

 慌てて追撃に出たオランダ駆逐艦であったが、巧みな機動性を発揮するさくらに致命打を与える事は出来なかった。

 それどころか、さくらの76㎜砲で手痛い反撃を喰らっていた。

 主砲、艦橋、煙突と主要な場所に複数の被弾をし、艦長以下多くの人間が死傷したオランダ駆逐艦は追撃が困難となった。 

 最終的にオランダ駆逐艦を振り切ったさくらは、近海に展開していたブリテン海軍部隊と合流し、この庇護を受ける事となる。

 

 

――日本/オランダ

 負傷者こそ出たが、幸いにして戦死者を出す事は免れたさくら。

 だが、話がそこで終わる訳では無い。

 日本政府は、国内世論が激高せぬ様に注意して情報を開示すると共に、オランダ政府に対して謝罪と賠償、原因の究明、そして責任者の処罰を要求した。

 国際連盟を舞台に、自らの事務所へとオランダ代表を呼び出した。

 高圧的な態度はグアム共和国(在日米軍)の入れ知恵だった。

 覇権国家(G4) ―― 世界秩序の担い手が舐められては困ると言うのがその理由であった。

 日本とは日本連邦であり、日本連邦とはグアム共和国(在日米軍)であると言う認識あればこそとも言えた。

 グアム共和国(在日米軍)も又、順調に日本化をしていたとも言える。

 兎も角、お手本(米国)を元に覇権国仕草をしてみたと言う態の日本であったが、された側はたまったものでは無かった。

 オランダは恐怖した。

 恐怖したどころでは無かった。

 怒れる日本がチャイナ相手に力を振るった記憶もまだ生々しいのだ。

 同じように海洋から攻撃を受けたら、或いはオランダ領東インドを焼かれたら ―― オランダは()()()

 日本に対しては、必ずや誠意ある対応を行うと平身低頭どころか平伏する勢いで頭を下げて時間を得ると、人権だのなんだのと言う建前をかなぐり捨てて動き出す。

 恐慌状態に陥ったオランダ政府は、全ての責任をさくらを攻撃した駆逐艦の艦長に押し付ける事を決めた。

 又、尉官級以上の基幹要員も全て拘束し、()()()()()()()()()()を行った。

 その結果、浮かび上がったのはドイツの策謀であった。

 オランダ併合作戦(カルネアデス)が判明した訳では無い。

 だが、オランダ国内で好き勝手にドイツが政治的に活動していたと言う事は判った。

 ガチギレしたオランダ政府は、それまで国民の一部にある親ドイツ派へ配慮していた部分をかなぐり捨てて、全力で弾圧を行う事となった。

 又、現時点で判明している事を全て日本に通達していた。*4

 

 

――ドイツ

 北海南部海戦の結果 ―― ドイツ人将兵の死傷者を理由にしてオランダへの懲罰と併合を予定していたドイツ(Waffen-SS)であったが、その予定は悉く外される事となる。

 ()()は出ると思っていた被害が、死傷者が出るどころか駆逐艦は2隻が戦没し、4隻が中大破と言う体たらく。

 アドミラル・シェーアも良くて中破、厳しく判定すれば大破と言う有様なのだ。

 それが新鋭とはいえたった1隻の海防戦艦(重巡洋艦)から被ったと言うのだ。

 オランダを得る上での()()()()()と言う予定が、ドイツ海軍の名誉に深刻なダメージを与える結果となっていた。

 又、この被害を梃子にしてオランダ政府を威圧し併合する予定が、オランダは日本への対応に掛かりっきりでありドイツに怯え委縮する気配は無い(ドイツ如きに構ってられない国家の緊急事態)

 北海南部海戦の話し合いにはフランスが出てくる有様。

 その上、オランダ国内に作っていた親ドイツ組織が片っ端から摘発され、弾圧されだす始末。

 予想外にも程があると言うものであった。

 ドイツ政府内部で工作部隊(Waffen-SS)の責任を問う声が上がる程であった。

 だがWaffen-SSの指揮官は涼しい顔で、戦争の理由は出来たのだから併合してしまえば問題は無いと嘯くのだった。

 その上で、オランダ政府の目は日本に向いている。

 世界の目もそうである。

 であれば、準備を見抜かれる恐れも無い。

 懲罰として侵攻すれば問題は無いと断言していた。

 最終的にヒトラーは、この発言を認めオランダ侵攻作戦ケース・レッド(血に沈めろ)の発動を指示するのだった。

 

 

 

 

 

 

*1

 日本が保有するオランダ領インドシナ利権の保証と、輸出に関わる税率などの低減をもって同意させる積りであった。

 ドイツの外務省が継続的に日本と外交を重ねているのである。

 であれば、この方向に対して日本の反発は無い ―― そう判断していた。

 

 

*2

 無茶苦茶とも言えるフランス海軍指揮官の行動であったが、これは彼の独断と言う訳では無かった。

 既にドイツとの戦争を決意していたフランス政府が、出撃前にドイツ側と交戦する可能性があった場合、積極的に行動して良いと伝達していたのだ。

 フランス陸軍は現時点でのドイツ側との開戦に否定的であったが、それは芸術的勝利(アート・オブ・ウォー)が望めないからと言う理由であり、戦争自体に関して言えば負ける要素は無いと断じていた。

 であれば、四の五のと言わずともドイツを殴ってよいのではないか? と言う認識(コンセンサス)がフランスに成立していた。

 その結果であった。

 

 

*3

 無論、これもドイツ(Waffen-SS)によるオランダ併合作戦の一環であり、仕込みであった。

 オランダと日本とを離間させ、万が一にも日本がオランダ救援に動けない様にする為であった。

 尚、このオランダ駆逐艦の艦長は、ドイツ人に煽られた反日本(オランダ人至上)主義者であった。

 日本人に個人的恨みを抱えていた駆逐艦艦長に対し、オランダのドイツ併合の暁には好待遇を約束する事で、日本艦への攻撃を行わせたのだ。

 

 

*4

 日本への対応として、ある意味で満点の行動であるが、これはブリテンの入れ知恵でもあった。

 最初の国際連盟事務所で日本代表団の部屋から出てきたオランダ代表が、それこそ心臓麻痺で死んでしまいそうな顔色をしていた為、それを偶然にも見たブリテン代表が仏心を出したのだった。

 無論、善意だけでは無く、実利を狙った部分もある。

 ヨーロッパ亜大陸内に親ブリテン国を作っておく事で、対ドイツ戦争後のヨーロッパでフランスに極端に強い主導権を得させない為の工作でもあった。

 尚、この一環としてブリテンはイタリアとポーランドにも支援を行っていた。

 ブリテンにとってヨーロッパは、戦争が起きる程に対立して貰っては困るが、同時に、統一した存在になられても困ると言うのが本音であった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

133 胎動の終焉

+

 人権人道その他をかなぐり捨て、自国の将兵に対して科学(自白剤)と暴力とを用いる事を躊躇しなかったオランダは、()()()()()()()()オランダ国内の関係各部署や民間人、果てはドイツ人にも一切の容赦を行わなかった。

 累計で100名を超える人間が拘束され、尋問された。

 ドイツ人への対応に関しては、非合法(アンダーグラウンド)な手段までも容認され、実行された。

 結果として判明した事は、日本哨戒艦(さくら)襲撃の実行(責任者)はオランダ駆逐艦の艦長であり、同艦の幹部将校は関与していないと言う事であった。

 旧式とは言え基準排水量で1500tを超える駆逐艦だ、その乗員は150名からを数えるにも拘わらず、艦長が独断でフネを動かせた理由は、出航前に乗り込んできた30名余りの()()()にあった。

 オランダ海軍司令部からの命令であると、偽造された命令書で提示し、艦長が話は聞いているとして乗船を許可したこの臨検隊とは、真っ赤な偽物 ―― ドイツ人(Waffen-SS)による艦掌握部隊であった。

 基幹要員を拘束し、或いは武器で脅して駆逐艦を乗っ取ったのだ。

 こんな事が出来たのは、オランダ海軍司令部で親ドイツ派が閥を形成していたからであった。*1

 愛国者として、祖国の繁栄(ドイツとの融合)を願っての行動であった。

 無論、それは一般的には売国と言える。

 オランダ政府は情報収集と並行して、軍や政府部内に蔓延っていた親ドイツ派の粛清を敢行した。

 過度なまでの危機感*2が生んだ暴走でもあった。

 兎も角、余りにも血臭漂う情報は資料として纏められるや否や速やかに日本へと伝達された。

 資料には、責任者として処罰(処刑)された大量の人員リストが添付されていた。

 これ程に苛烈な行動を行ったオランダを、日本は受け入れていた。

 少なくとも責任の所在を判明させ、処罰すると言う意味に於いてこれ以上は無いと言えるのだから。

 尚、日本側が納得したとの報告を聞いたオランダの対日担当官は、それまで余りに緊張していた為、その一報に緊張が緩んで失神してしまっていた。

 それ程に、オランダは日本への対応に緊張感をもって臨んでいたのだった。

 

 

――ドイツ

 発動される事となったオランダ侵攻作戦(ケース・レッド)

 投入される兵力は、1個装甲師団(戦車師団)と3個歩兵師団を基幹として、重戦車を装備した独立装甲連隊や空挺部隊を組み込んだドイツネーデルランド軍団を編成し投入するものとされた。

 当初は、オランダの親ドイツ派を呼応蜂起させる事で本格的な戦闘も経ずして併合する予定であったが、オランダ側が強硬姿勢を取った為、全面的な戦闘を行う事となった。

 呼応する予定であった親ドイツ派オランダ人は片っ端から摘発され、又、オランダ陸軍の殆どが国境線に展開させてきたのだから仕方がない。

 戦後の為、金の為、無傷に近い形でオランダを欲したドイツであったが、それは叶わぬ夢と化したのだ。

 とは言え、今更に退ける話ではない。

 独裁国家とは独裁者に対する国民の支持があってこそであり、支持される為には()()()()()()()()()()()()()のだから。

 一度はオランダが悪と定めて拳を振り上げてしまえば、後はその拳を振り下ろさねばならぬのだ。

 でなければ今度は独裁者が地位から引きずり降ろされる。

 それが独裁国家と言うものであった。

 結果、懲罰戦争として正面からオランダを攻撃する事となる。

 とは言え、ドイツ政府としては勝算が極めて高い為、この点に関しての不安は無かった。

 鎧袖一触のオランダは勿論、先制攻撃計画(ケース・ブラウン)が用意してあるポーランドも1月で戦争を終わらせる事が出来るだろう。

 強大なフランスであっても、練り上げられた戦争計画(ケース・イエロー)が用意できており、苦戦はしても最後は勝てる目途が立っているのだ。

 恐るべきは覇権国家群(G4)であるが、欧州に居るのはフランスとブリテンだけであり主敵たるフランスは打倒する目途が立っている。

 ブリテンはヨーロッパ亜大陸に興味は示していない。

 アメリカはユーラシア大陸(対チャイナ戦争)の後始末で身動きが取れず、そして日本はドイツに対して融和的なのだ。

 恐れるものなど何もないと言うのが正直な話であった。

 この政府の気分が感染してか、世界大戦からの復帰戦を勝利で飾ろうと気合の入ったドイツ陸軍(国防軍)であったが、気合が入ると言う意味ではドイツ空軍も同じであった。

 育て上げてきたジェット化した戦闘機や急降下爆撃機の部隊をお披露目する好機であると張り切っていた。

 又、ドイツ海軍も稼働全艦をもって()()を行う積りであった。

 海防戦艦アムステルダムは脅威であったが、その主砲よりも大口径を、その発射速度の効果を打ち消せるだけの数の砲を揃えれば排除は容易だと言うのが判断であった。

 又、空母艦載機による襲撃も考えていた。

 そこには1つ、フラストレーションの発散と言う側面があった。

 気位の高いドイツ人の()()()()()()()()()という自負を粉砕する残酷な現実(パクス・ジャパンアングロ)、それを少しでも忘れられそうだと言う事だ。

 一週間で戦争を終わらせる事を厳命したヒトラー。

 それは国際連盟からの干渉を恐れてでは無く、ドイツ人によるドイツ人の為のドイツ連邦帝国の威信を見せつけろと言う意思であった。

 

 尚、1914年から5年かけて行われた世界大戦(グレイト・ウォー)でも、同様の事が言われていた。

 「クリスマスまでには終わる」、と。

 無論、言うまでも無くその願望(希望)が果たされる事は無かった。

 

 

――国際連盟

 北海南部海戦を議題として国際連盟の総会は大いに荒れる事となった。

 公表されているのが、オランダが最初に発砲したと言う事実(ファクト)である為、どう対処するべきであるのか大いに紛糾したのだ。

 国際連盟と言う組織が世界大戦によって生み出された、集団的安全保障による戦争の防止と紛争の抑止が目的である事が、その理由であった。

 戦争と紛争を防止すると言う題目を見れば、自ら発砲したオランダの非は明白であったからだ。

 一部の(ソ連などの親ドイツ系)国家が、オランダ非難の決議を出すべきだと主張するのも仕方の無い話であった。

 とは言え常任理事国(日本)に近い国は常任理事国による秘密会議や日本とオランダでの会談の動きから、一方的にオランダが悪い訳では無いのでは? との理解をしてはいた。

 それ故に非難決議の前に原因究明を主張し、オランダに対しても、釈明を求めたのだ。

 2派による議論はオランダが動けばある意味で解決する話であったが、肝心のオランダにその()()が無かった。

 日本との外交 ―― 折衝に全能力を振り向けているのだ。

 仕方の無い話であった。

 又、国際連盟常任理事国の動きが遅いのも仕方の無い話であった。

 当事者である日本は仕方が無いだろう。

 アメリカはチャイナの仕切りで忙しかったから外交力を発揮する余裕が無いのも仕方が無い。

 ブリテンもチベット独立に向けた調整(雑に独立させて混乱させる訳にいかない為)に少なくない外交資産を消費しており仕方の無い話であった。

 唯一、余力があって隣国であるフランスだが、此方は論外であった。

 もうドイツなんて殴って良いじゃ無い(歴史上の概念にすれば無問題)とばかりに、対ドイツ全面戦争準備に傾倒しており外交をする気が一切無かったのだ。

 又、ポーランド(ドイツぶん殴りたい友の会会員)との調整やフランス海外県との戦力引き抜きに関する折衝などで外交資産を消費しているのも、国際連盟軽視的な動きに繋がったとも言えた。

 このように常任理事国が独自行動を行っている事が、総会の紛糾に繋がっていた。

 混迷する国際連盟、そこでイタリアが立ち上がった。

 この混乱を治めれば、常任理事国に準じる名誉と利益が得られると判断しての行動であった。

 又、イタリア国内に日本連邦軍が駐留しているお陰で、他の非G4国家群よりは日本に近い為、この武力衝突の真実 ―― どうやらドイツによる謀略らしいと言う感触を得ていた事も、イタリアの背中を押していた。

 バルカン半島の問題からこっち、フランス程では無いがイタリアもドイツは殴りたいのだから。

 そもそも、ファシズム政治の発祥はイタリアであるのにファシズムの本元と言わんばかりの顔をしているドイツが、ムッソリーニは嫌いだったのだ。

 であれば、公然と嫌がらせが出来る好機を逃すはずも無い ―― そういう事であった。

 イタリアの積極的外交(エントリー)によって、国際連盟総会の議論は反ドイツの方向へと流れ出す。

 この流れにソ連が慌てる。

 それはドイツに対する強い親近感があっての行動では無く、ドイツと言う国際連盟(ジャパンアングロ)の敵が消える事への恐怖であった。

 ()()()()となっては堪らないのだから。

 ソ連は必死で軟着陸できる方向へと外交努力を重ねる事となる。

 

 

――開戦

 国際社会が様々な思惑をもって動く中、孤立状態にあったドイツは己の利益だけを見た行動を開始する。

 先ずは外交的宣言。

 被害を受けたドイツに対しオランダは十分な謝罪も賠償も行わず、外交的にも対応して来ているとは言い難い事を非難した。

 その上で、24時間以内に満足のいく回答が成されない場合、ドイツは実力を世界に示す事となると締めくくった。

 事実上の宣戦布告であった。

 無論、その要求にオランダが答える事は無かった。

 北海南部海戦の前であれば、政府を非難するマスコミや政治家、或いは一般市民も居ただろう。

 だが、ドイツの影響下にあった人々は漏れなく捕縛され、処断されていた。

 呑気な(現実を直視しない)平和愛好者は残っていたし、その行動をオランダ政府が抑制しようとは考えていなかったが、平和愛好者とは本質的に無被害で正論を言う事が趣味な人間が大多数であった為、一部の硬骨漢を除いて大多数の人間は、強硬な行動を辞さなくなったオランダ政府に対しわが身を顧みずにモノ申すと行動する事は無かった。

 オランダはドイツの不当な要求に対して断固として対応すると宣言した。

 

 24時間と言う猶予は、静かに経過した。

 そして払暁、ドイツの戦車群がオランダとドイツの国境線を超えた。

 ドイツの対オランダ限定戦争、(レッド)作戦の発動だ。

 作戦名の如く、朝焼けに染まった鋼鉄の魔物(ベヒモス)の群れが進む姿は黄昏の始まり(ラグナロック)を幻視させる光景であった

 欧州の戦争が始まる。

 

 

 

 

 

 

*1

 尚、ドイツ艦へ最初に発砲した駆逐艦に関しては、ドイツ側の報復によって爆沈し生存者皆無であったが為に発砲に至ったプロセス等を解明する事は出来なかった。

 だが、海軍司令部側に臨検隊派遣命令に関する控えが残っていた為、さくらに発砲した駆逐艦と同様の事が発生していたであろうと推測されていた。

 

 

*2

 オランダ政府が危機感を抱いたのは日本だけでは無く、否、日本以上にドイツに対する強い危機感(恐怖)が行動の原動力となっていた。

 国内安定の為にも一定の親ドイツ派が生まれている事を容認していたら、親ドイツ(反日本)感情を拗らせて売国をしようとしていたのだ。

 危機感を抱かない方がおかしいと言うレベルの話であった。

 詳細な情報が集まるまで待つ ―― そんな悠長な事を選択する余地余力などオランダには無いのだから。

 

 




2021/04/11 文章修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

134 第2次世界大戦-01

+
戦争は誰が正しいかを決めるのではない
誰が生き残るかを決めるのだ

――バートランド・ラッセル    
 







+

 ドイツの行った24時間と言う時限をきった外交的宣言を受けて国際連盟は緊急総会を開催した。

 幾ばくかの議論の末、全会一致でドイツへの非難決議を採択する事となる。

 付帯して、実際に戦争となった場合に国際連盟加盟各国は()()()()()での事態収拾に協力する事が文言にもりこまれていた。

 協力には、あらゆる手段(戦争)が含まれると各国代表の誰もが認識していた。

 フランス代表は満面の笑みを浮かべていた。

 ブリテン代表は昏く嗤っていた。

 アメリカ代表は面倒くさげな態度を崩さなかった。

 日本代表は何時もの笑み(アルカイックスマイル)を顔に張り付けていた。

 その他の国々の代表も、それぞれの立場に相応しい振る舞いをしながら賛成票を投じていた。

 尚、ドイツとの事実上の同盟国であるソ連代表は、諦観した顔で賛成票を投じていた。*1

 国際連盟総会とは別に安全保障理事会も開催され、国連総会決議に基づいてドイツに対する集団的自衛権の発動(戦争行動)を行うに際して()()()()()()()指揮系統の統一と連絡の場 ―― 戦争補完委員会が設置される事となった。

 とは言え委員会の名の通り、この戦争補完委員会には指揮権などは与えられ無かった。

 G4が全力を発揮しようと言うのだ、戦争は直ぐに終わるだろうと言うのが大方の見方であった為だ。

 楽観論と言うよりも、歴然たる事実であった。

 ()()()()()()()()()()()

 「クリスマスまでには戦争は終わる」それが初めて歴史的ジョークでは無く事実になるだろう、そんな事を戦争補完委員会のフランス人委員は真面目な顔で述べていた。

 

 

――オランダ

 ドイツの宣言を受けてオランダ政府が行った事は3つ。

 1つは言うまでもない話であるが、ドイツの要求の断固たる拒否である。

 2つ目は国民に厳しい戦争を乗り切る為の大団結の呼びかけだ。

 尚、国民の反発は無かった。

 親ドイツ派で表立っていた人々は既に制圧(弾圧)済みであった為、反発の声を上げられる人々が居なかったのだ。

 ドイツがそれまでの()()()()()()()()()()()()と言う友誼や親愛さの仮面の下に隠されていた本音 ―― 粗暴な野心をむき出しにした事は、一般のオランダ人にドイツとの友好など論外であると認識させていた。

 そもそも、事態の展開が早すぎて、在野側では何ら有意な手を打つ(主張をする)ことも出来なかったと評すべきかもしれない。

 インターネット(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)が無い時代では、一般の人間が情報を得て声を上げるまでに掛かる時間、或いは労力は余りにも大きいのだから。

 併せて、予備役兵の招集と一般市民の後方への避難の呼びかけも行った。

 それがドイツとの戦争に間に合う筈はないとオランダ政府も判っていたが、断固たる覚悟でドイツに挑むと言うアピールにはなっていた。

 最後の1つは、国際連盟安全保障理事会(主としてフランスとブリテン)に全力で泣きついた事だった。

 ドイツからの宣告より以前、北海南部で戦力が睨み合いを始めた頃よりオランダ政府は内々で国際連盟加盟国として国家の保障(庇護)を要請しており、そしてこの火急の事態となってからは実際の戦力展開を要求したのだ。

 正確には土下座する勢いで平伏し、ズボンに縋りつく勢いで懇願したと表現するべきだろう。

 オランダ政府は、折れるべき時を見誤らなかった。

 この見栄も恥も投げ捨てた態度には、百戦錬磨の外交官たちも苦笑し受け入れるのみであった。

 元より、国際平和維持を務めとする国際連盟である。

 その面子に掛けてもドイツの横暴を見逃す事は出来ぬ話なのだから。

 このG4の意向を受け、国際連盟安全保障理事会戦争補完委員会は、即座にオランダ支援総軍の設置を決定した。

 そして手際よくオランダ支援総軍の設置準備委員会なる看板を作り上げる(でっち上げる)と、その肩書をもって国際連盟安全保障理事会職員を連絡官の名目でオランダに送り付けていた。

 政治である。

 国際連盟は決してオランダを見捨てないと言うアピールであった。

 わずか1日でここまで出来たのは、危機感の表れであると同時に、フランスが中心になってドイツとの戦争準備を進めていたと言うのが大きかった。

 

 

――ドイツ

 オランダの抵抗は予想していた。

 フランスが強硬な態度に出る事もその範疇であった。

 ソ連が日和って国際連盟に折れるのはスラブ人(ウンターメンシュ)故に仕方がないと受け入れていた。

 だが、国際連盟が一丸となってドイツとの戦争準備を行うなど予想外であった。

 しかも、友好関係を築けつつあったと思っていた日本までが国連総会の場で賛成票を投じるなど、理解の範疇外と言うものであった。

 慌てて外務省を呼び出したヒトラーは、そこで初めて、日本との外交交渉の()()を知った。

 既にドイツネーデルラント軍団はオランダ国内へと侵入し、頑強な抵抗にあいつつもコレを粉砕し前進している所だ。

 全ては手遅れとなっていた。

 ドイツ政府、ナチス党幹部職員だけの前でヒトラーは顔を真っ赤にして罵声を上げた(ウント・ベトローゲン・ヴォルデン!)

 恥知らずめ(チクショーメ)! 恥知らずめ(チクショーメ)! 恥知らずめ(チクショーメ)! と連呼しながら従兵に酒を持ってこさせて飲みだした。

 自分で飲むだけでは無く、その場に居た全ての人間に飲ませた。

 禁酒の誓いなど知った事では無かった。

 飲まねばやってられない気分という奴であった。

 とは言え、どれ程に強い酒を飲んでも空気は沈痛であり、さながら通夜といった有様であった。

 心理的な影響がアルコールの浸食を許さないのだ。

 であれば狂うしかない。

 ヒトラーは飲み干したグラスを床に叩きつけると、眦を上げて宣言した。

 「戦争だ(クリーク)!」

 我らが死ぬか、奴らが死ぬかの大戦争(クリーク)だ!! と吠えた。

 その狂気が伝播したように、誰もがグラスを床に叩きつけ「戦争(クリーク)!」と唱和し続けたのだった。

 熱狂(ヤケクソ)の時間。

 だがそれが、ドイツ上層部の人間に精神的な均衡を取り戻させた。

 冷静になれば後は、出来る限りの仕事をするだけであった。

 機械的に、そして迷いなくドイツは動く。

 限定戦争(対オランダ)から全面戦争(対国際連盟)となったが、既にドイツには戦争計画自体に問題は無かった。

 戦争機関であるドイツ参謀本部では、来るべき戦争(ネクスト・ウォー)に備えて全ての国家に対する戦争計画が用意されているのだから。

 とは言え、計画はあっても準備はされていなかった。

 取り合えず当初予定通りにポーランドを潰し、フランスを沈め、おそらくは横から殴り込んでくるであろうイタリアを焼き尽くしてヨーロッパを統一し、国際連盟(G4)との拮抗状態を作れば戦争を止める事が出来るだろう ―― そう考えていた。

 

 

――ポーランド

 国際連盟の看板を背負っての対ドイツ全面戦争と言う事態に、ポーランド将兵は沸き上がった。

 そして、急いで将兵の動員を掛ける事となった。

 1944年に入って以降、どの様な形であるにせよ戦争が勃発すると理解していたポーランド政府であったが、裕福とは言い難い国家国力である為、ギリギリのタイミングまで軍民の戦時体制への移行を遅らせざるを得なかったのだ。

 そして人件費を浮かしながら、弾薬などの備蓄を優先していたのだ。

 とは言え準備は行っており、動員開始から2週間程度で第1線で必要とされる部隊の将兵は充足する予定であった。

 常識的な判断と言えるだろう。

 又、ドイツとの関係性に於いて主導権がある(殴る側と言う意識)事も悪かった。

 戦争は自分たちの都合で行う者だと言う認識だ。

 ある意味で慢心であった。

 そのツケをポーランドは払う羽目に陥るのだ。

 対峙していたドイツは、動員と言う意味に於いては全てを終わらせた状態であったのだから。*2

 ドイツはオランダ侵攻の3日目にポーランドに対して国際連盟加盟国に対する自衛行動を宣言し、侵攻を開始したのだった。

 装甲化された70個師団150万近い大兵力による全面攻勢だ。

 国境線地帯での防戦が出来たのは15時間、1日にも満たぬ間だけであった。

 否、この時点でポーランドが国境地帯に張り付ける事が出来ていた兵力は10万にも満たない為、15時間()持久できたと評するべきかもしれない。

 これは陸上戦力比で圧倒的劣勢であっても、航空部隊に関してはドイツ側の規模が抵抗可能な水準に収まっていたと言うのが大きい。

 事実上、4つの前線を抱えているドイツは、それ故に戦力の集中がし辛い側面があったのだ。

 とは言え、おっとり刀での反撃(カウンター)では、腰の入ったドイツの全力打(フルスイング)に対処し続けるのは無理がある。

 戦力の再編を目的に、早々に後退を決断した。

 併せて前線部隊も可能な限りの後退を決定した。

 それが15時間目に国境線が突破された理由でもあった。

 敗走ではあっても潰走ではない。

 死者は仕方が無くも、負傷者は可能な限り残さず、整然とした後退だ。

 その様を見たベテランのドイツ指揮官は格下と見下していたポーランド軍の練度を理解し、この戦役が面倒くさいモノになる予感を抱く程であった。

 ポーランドの(戦争)が始まる。

 

 

――イタリア

 未回収のイタリアへと公然と戦力を()()させる事の出来る好機到来に、イタリアは歓喜した。

 とは言え拙速に兵を動かしては、戦後に国際連盟(G4)に批判されると考える程度の冷静さは残っていた。

 それ故に、ドイツのバルカン半島侵略への対応と言う理論武装を行った。

 又、国民に対しては大団結したイタリアの男気を見せる時であるとも強く宣伝した。

 これは、近代国家としてイタリアが、国家への国民の帰属意識に弱い所を抱えるが故の行動だった。

 ある種、都市国家の連合体的な意識をイタリア国民は持っており、それ故に国外での作戦行動に対して将兵の戦意と言うものが微妙な部分があるのだ。

 その是非は兎も角として、それでは攻勢が主となるドイツとの戦争は覚束ない。

 イタリアに来た伊国(未来イタリア)人から未来の情報を知らされたムッソリーニは、イタリアが未来に於いて情けない国家(ヘタリア)などと思われる事など許容する積りは無かった。*3

 イタリアが余裕を持って戦争体制への移行を行えるのは、ドイツがバルカン半島からイタリアまでの地域では守勢としていた事が大きかった。

 既にバルカン半島からの富の収奪をドイツは終えていた。

 だからこそ、戦争中のわずかばかりの時間、イタリアが掌握して(預かって)いても問題は無いと考えていたのだ。

 

 

 

 

 

 

*1

 議決前にソ連はドイツ駐ソ連大使に対して国際連盟内での自国の行動を説明し、国際連盟に加盟し続ける事、そして軍事的なオプションは選択しない事を通達している。

 ソ連側からすれば随分と譲歩した(ドイツに甘い)対応であったが、対面に座ったドイツ大使は鳩が豆鉄砲を食ったような顔になっていた。

 当然だろう。

 ドイツとしてはソ連は最低でも中立、或いは対ポーランドと限定した参戦を想定していたのだから。

 戦争となれば、と言う前提で。

 そしてドイツは総統たるヒトラーのみならず政府要人たちは皆、オランダへの懲罰戦争(併合作戦)が大規模な戦争に繋がるとは思っていなかったのだ。

 国際社会で孤立し、外交による国際連盟加盟国の()()を理解していなかったが故の誤認であった。

 一縷の望みを掛けて、ドイツ大使は尋ねた。

 日本が反対してくれるのではないか、と。

 駐ソ連大使は、この数年、ソ連に赴任し続けていた。

 それ故にドイツ外務省の公式伝達にあった()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()との情報を信じていたのだ。

 無論、その様な話は無い。

 ソ連の担当者は何とも言い難い顔であり得ない(ニエット)と答えた。

 ドイツ大使は慌てて大使館に戻り、急いで仔細を報告した。

 オランダ侵攻が国際連盟との、G4との全面戦争に繋がると言う情報。

 だが、全ては遅すぎた。

 ドイツ(チュートン)的な伝統によって、至急とされた情報は手間を掛けて暗号化されてドイツに送られた。

 そして手続きに則って解凍され、報告された。

 報告書が外務省の手からヒトラーの元へと届いたのは、ドイツ装甲(戦車)師団の先鋒がオランダ国境線を蹂躙してから5時間後の事であった。

 

 

*2

 独裁国家とは言っても企業家の意見が無視できる筈も無いにも拘わらず、経済に悪影響をもたらす労働力の収奪を実行できていた理由は、フランスであった。

 1930年代後半からずっと、対ドイツ強硬姿勢を崩さず、暇があれば国境線地帯で軍事演習を欠かさない国、それがフランスだったのだ。

 であれば、憎悪を受けるドイツが多少なりと経済に悪影響が出ようとも国防力の増強に積極的となるのも仕方の無い話であった。

 

 

*3

 この伊国人の様に過去への干渉を図る人間は、様々な理由や信念を持って日本を離脱し、過去の祖国へと渡っていた。

 だがその大多数は、各自の祖国に渡る前に日本の海の荒波に消えた。

 そして極々少数の人間が命からがらに過去の祖国へと渡る事に成功したが、殆どが強い影響力を発揮できる事は無かった。

 ある種、発作的な歴史を変えようと言う野心(ロマンティシズム)に炙られた行動であった為、十分な用意 ―― 手土産(未来情報)が用意できなかったのだ。

 それでも有能であれば話は別であったが、その様な短慮で情熱に浮かれた人間が有能に見えるかと言えば中々に難しいのが現実だった。

 ある種、狂人じみた部分が見えるからだ。

 であれば、元から居る、身元も判り、政治的にも問題は無く、又、日本のスパイと言う危険性の無い人間が優先されるのが当たり前であった。

 重用されないならまだマシで、ソ連の様な国家ではスパイの可能性と言うだけで処分されていた。

 それでも一応は情報を齎してはいたのだが、疑情報(ミスリード)の可能性が捨てきれぬと、纏められてはいても重視はされず、検証などされる事も無かった。

 又、持ち出せた情報量の問題もあった。 

 大量の情報を流出可能な電子媒体は、その理由を問わず持ち出す事は出来なかった。

 押収される際などに私物だから、個人の権利だからという様な主張をし抵抗を行う者も居たが、頑として受け入れられる事は無かった。

 マスコミに伝えて政治問題化しようとしても、出来なかった。

 誰もが一様に「非常時だから仕方がない」と言って取り合わなかったのだ。

 それは非常時に際した日本/日本人が無意識に行う、非合理すらも是とする強権性の容認 ―― 法の恣意的運用すらも含まれた、種の存続と生命維持を最優先とした非常行動(災害対応ロジック)の発露と言えるかもしれない。

 兎も角、電子情報での持ち出しが不可能ならば本等と言う形もあったが、此方は有体に言って()()()()()()()()()()()()()()()()()()()為、日本の情報流出対策の目を掻い潜る事は不可能であった。

 かくして、このイタリアに渡った人間は、それらの貴重な例外であった。

 尚、日本の同盟国たるG4への情報の流出はある程度、容認されていた。

 過度に取り締まる事で日本への反発を醸成したくないと言うのが一つ。

 そしてもう一つは、科学力や工業基盤の無い所に先進的な情報を与えた所で意味が無いと言うのが大きかった。

 1543年の種子島で、高性能だからとグロック拳銃を渡しても再現出来無いのと一緒で。

 再現したいのであれば日本から部品を、或いは完成品を輸入しなければならず、更には輸入した結果が良ければ更に輸入したくなる ―― 日本に依存する事となる。

 日本の生存戦略は、ある意味に於いて誠に悪辣とも言えた。

 G4(ジャパンアングロ)を纏まらせている柱の一つは、間違いなくこの日本の行動(ヤンデレ)にあった。

 アメリカはグアム共和国軍(在日米軍)と言う鎹があった為、気付く前に完全に堕ちていた。

 フランスはドイツを殴れるならどうでも良かった。

 ブリテンは他の二か国を見て諦めて受け入れていた。

 

 




2021/04/09 文章修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

135 第2次世界大戦-02







+

 取り合えず日本は、当座の軍事予算として100兆円を用意した。

 その上で、国際連盟安全保障理事会戦争補完委員会の管理下で行われた軍事行動に関して()()()()()()()()()()を行うと宣言したのだ。*1

 ()()で、である。

 G4諸国他、世界各国もある程度の経済発展はしているのだが、にしても法外と呼べる資金の用意であった。

 日銀と財務省は共同で、400兆までであれば問題なく処理できるとの宣言を出していた。

 貯め込んでいた外貨、金、或いは資源を惜しげも無く提供すると言う宣言でもあった。

 目的は勿論、ドイツとの戦争の早期終結である。

 ドイツとの戦争で影響を受けるヨーロッパは、世界でも上位の市場なのだ。

 そこが戦争如きで荒らされてはたまらないと言うのが、日本の経済界の本音であった。

 日本の貿易相手としてヨーロッパ亜大陸自体がそれ程に重要と言う訳では無いのだが、フランスやオランダなどの植民地を抱えた国家や、それぞれの貿易相手国が世界中に居るのだ。

 即ち、ヨーロッパがくしゃみをすれば世界が風邪をひく ―― そういう繋がりがあるのだ。

 であれば、日本が気楽に愉快に経済活動を継続するには世界が平和である必要があった。

 世界の片田舎の戦争に、兆単位での資金を流し込むことを国民が是とするのも、これが理由であった。

 日本は、善意などではなく徹頭徹尾、日本の都合に基づいて戦争へと加わるのだ。

 

 

――ブリテン/事前状況一般

 ブリテン政府は、先ずはオランダを支援する必要がある(見捨てないとのアピールの)為、緊急展開部隊でもある水陸両用戦部隊(第7コマンド旅団)のオランダ展開を決定した。

 第7コマンド旅団は戦車や装甲車、果ては野砲までも保有する機甲部隊であり、日本やアメリカの海兵隊を念頭に置いて編成された、強襲も可能な着上陸部隊であった。

 元々は海外への緊急展開部隊として構想された部隊であり、故に重装備の輸送に関しても高速性が重視され、専門の大型艦 ―― 日本の貨物船を真似て設計された水陸戦母艦(RORO船)アルビオンが用意されていた。

 7隻の建造が予定されているアルビオン級であったが、現時点では2隻しか就役していなかった。

 2隻では第7コマンド旅団の装備の全てをオランダまで一度に輸送できる訳では無かったが、それでも1週間あれば可能であった。

 流石にドイツ軍の越境には間に合わないが、それでも十分な展開速度であった。

 この他、航空部隊の派遣も決定した。

 最新鋭のジェット戦闘機を含む200機規模の部隊を派遣する事をオランダ政府に約束した。

 しかしながら、此方は簡単に派遣させられる訳では無い。

 運用する為の基盤 ―― 整備部隊や基地防空部隊の展開や、大量の燃料弾薬予備部品といった物資の備蓄が無ければ、航空部隊は十分な活躍は出来ないのだから。

 事前に行われていたブリテンとオランダとの防衛協議によって、ブリテンの航空部隊が展開する場所(野戦航空基地)も土地と建物だけは用意されてはいたのだが、如何せんドイツとの開戦が早すぎて、物資の備蓄などが殆ど出来ていなかったのだ。

 この為、ブリテンは手持ちの戦闘機で航続距離の長い機体(レシプロ戦闘機)を当座の防空用として投入する事となる。

 とは言え、別段苦境を覚悟した戦いになる訳では無い。

 ドイツ空軍もまだ完全にジェット戦闘機化は成されては居ないのだから。

 何より、投入される機体で主力となるスワロウFG.1C戦闘機(アドバンスト・スワロウ)は、その価値は聊かも減じて居ないというのが大きい。

 自動航行が可能なアビオニクスは、長躯戦闘を無理なく遂行する事が出来るし、高性能なFCSは言うまでもない。

 そして何より近代化改修(アドバンストモデル化)によって得られた短距離空対空ミサイル(AAM-6)の運用能力が持つ意味は大きかった。

 射程に収めれば必ず墜とす(シュート・アンド・キル)

 ある意味でF-7Cは、第1世代型はもとより第2世代型ジェット戦闘機と比較してすら凶悪な機体であった。

 この他、ブリテンは北海に海軍空母機動部隊を展開させる事としており、ドイツに航空優勢を与えるつもりはさらさら無かった。*2

 又、ブリテン海軍では戦艦部隊の出撃準備を進めさせていた。

 新世代(ポスト・ヤマト級)戦艦として建造されたヴァンガードを筆頭に、新型戦艦だけでもキングジョージ5級が4隻とライオン級が2隻が就役しており、その他にも近代化大改装を終えたフッドやネルソン級戦艦、リヴェンジ級戦艦が控えているのだ。

 世界第3位の大海軍(ロイヤル・ネイビー)の誉はここにあり、そう言わんばかりの武威であった。

 とは言え訓練などで弾薬を消費していたり、或いは整備を受けている艦が少なからず居る為、先ずは北海北部海域の封鎖 ―― ドイツ海軍の通商破壊戦阻止準備が主となっていた。

 オランダに向けてドイツ艦隊が出撃する兆候は掴んでいたが、フランス海軍程度で対処できるだろうとの判断から、一歩引く形で見ていた。

 フランスも、45000t級の大型戦艦であるアルザスこそ間に合わなかったが、リシュリュー級3隻とガスコーニュ級3隻の計6隻の新鋭戦艦が就役しているのだ。

 ビスマルク級を中心としたドイツ艦隊なぞ対応は余裕であろうと見ていた。

 

 

――フランス/事前状況一般

 このタイミングでの開戦は、フランスにとって想定外であった。

 主にアフリカの海外県(植民地)の治安回復にフランス本土の部隊を派遣しており、そこに対ドイツ戦争計画の中核を成す電撃部隊(エクレア・ユニット)の人員も含まれていたからだ。

 栄光のフランス陸軍本土部隊(グランダルメ)は部隊総数こそ大して減っていなかったが、人員の2割から3割が抽出され派遣されていた。

 これ程の決断が出来たのも、ドイツが自分から戦争を行わないだろうと推測さればこそであった。

 まさか国連加盟国相手に戦争を仕掛けるはずがないとか、まさかG4を相手に戦争を自分から挑むとは、とフランス政府は考えていたのだ。

 その点に於いてあるフランス人政府高官は、ドイツの理性を高く評価し過ぎていた事を反省すると述べる程であった。

 とは言え、ドイツは現時点でオランダとポーランドと言う二正面作戦を行っており、戦力をフランス側へと動かす気配も、フランスとの国境線に配置されている部隊が能動的に動く気配も無かった。

 西で守って東で戦う(ファニー・ウォー)、その様なドイツの狙いが透けて見えた。

 その推測を、開戦以来行ってきた航空偵察 ―― ドイツ領内へと強行突入し生還した偵察機が持ち帰った情報と、日本の偵察衛星が収集し伝達されてきた情報が補強していた。

 フランス-ドイツ国境線から100㎞圏内のドイツ陸軍部隊は極めて不活発であったのだ。

 恐らくはドイツ西方の陸軍はその戦力の多くをポーランド攻略に引き抜かれているのだろう。

 であれば、フランスのする事は1つだった。

 全力でドイツを殴る。

 当初は戦力不足もあって守勢攻撃を主体とした国土防衛を考えていた*3が、相手が弱体と成れば話が変わる。

 営々と策定していた対ドイツ戦争計画(アウステルリッツ・プラン)に基づいた作戦の実行が命令される事となる。

 第1段階として、アルザス地方から一気にドイツ領内へと侵攻し、ライン川沿いにルール工業地帯まで一気に制圧しドイツ経済の背骨をへし折る。

 第2段階は、北ドイツ平原を西進し一気にベルリンを攻略すると言うものであった。

 ルール工業地帯とベルリンと言うドイツの骨格を掌握し、他の地域は他の参戦国に任せると言う姿勢でもあった。

 見事なまでに己の都合を優先したフランスであったが、覇権国家(G4)はそれが許されると考えていた。

 問題は()()()()()と言う事であった。

 

 

――日本/事前状況一般

 ドイツのトチ狂った宣言に、ある意味で一番激怒したのは日本であった。

 事前に予定していた短期決戦に向けた戦争準備が一切整わぬうちに開戦する事となったのが理由であった。

 なし崩しで意味が分からぬままに戦争状態に突入したソ連とは異なり、万全の戦争計画を立てて行う初めての戦争と言う事で、割と日本人はノリノリだったのだ。

 それは、日本海上自衛隊が大艦隊の整備計画を立てて、それがほぼ無批判で通った事が示してもいた。

 兎も角、陸の主力となるフランスと海の支配者となるブリテンを支え、とっとと戦争を終わらせようと考えていた日本の戦争計画はドイツのオランダ侵攻によって一気に潰えた。

 とは言え、部隊や物資の集積と言う手間が加わっただけであり、その分の戦争期間が伸びると言うだけであると言うのも、日本の正直な感想であった。

 取り合えず山東半島のドイツ領を潰し、予定されていた戦力を欧州へと派遣する事が決定され、粛々と実行される事となる。

 とは言え問題もあった。

 オランダに侵攻したドイツ軍対策である。

 本来であればブリテン島に展開した第8ミサイル師団による対地攻撃が可能であるのだが、現時点で第8ミサイル師団はブリテン島に展開するどころか未だ書類上の存在でしかなかった。

 これではどうにも支援のしようが無い。

 とは言え、出来ませんとは言えない。

 これは日本とオランダとの関係に因る話では無く、国際連盟安全保障理事会戦争補完委員会の要請でオランダに緊急展開する事となったブリテン駐屯の第2海兵旅団に対する責任であった。

 第2海兵旅団の将兵の多くは日本国籍を欲した諸外国からの志願者であり、そうであるが故に、実戦に際しての被害などは兎も角として支援をおざなりに出来る話では無かった。

 日本と言う国家の信頼性に直結するからである。

 日本人は戦友(国民と国民予備軍)を見捨てない ―― その建前(金看板)に泥を付ける訳にはいかないからである。

 この為、日本は1つの決断を下す。

 当初は予定されていなかった戦略爆撃機(戦略飛行隊)の欧州展開である。

 この決断はシベリア共和国防衛戦略に始まって、様々な事に大きな影響を及ぼす事になるが、それをおして尚、日本は爆撃機部隊の欧州投入を決定した。*4

 ソ連をけん制する為、北極圏経由の無着陸横断を行うのだ。

 それが覇権国家の本気と言うものであった。

 

 

――アメリカ/事前状況一般

 アメリカは心底うんざりしていた。

 チャイナとの戦争が終わったと思ったら、ドイツが発狂したのだ。

 有象無象の次は狂人であるかと、本気で面倒くさがっていた。

 しかも主役は自分(アメリカ)では無い。

 脚光も称賛も浴びるだろうが、自分だけ(オンリー・ミー)では無いのだ。

 アメリカの政府も陸軍もやる気も湧かぬと言うものであった。

 只1つ、アメリカ海軍を除いて。

 アメリカ海軍はチャイナとの戦争で余り活躍する事が無かった為、今後の予算折衝の際に公言出来る成果(戦果)を欲していたのだ。

 民主主義国家の軍隊として、少なくない国費を投じて建造された戦艦や高速戦艦、空母、哨戒巡洋艦と言った艨艟の存在意義を示さねばならないのだ。

 幸い、と表現するのは聊か露悪的であるが、ドイツ海軍艦艇はチャイナとの貿易を護衛する為に大西洋からインド洋で活動していた。

 この撃滅と、ユーラシア大陸のドイツ領(山東半島)制圧で戦功を上げようと言うのがアメリカ海軍の合言葉になっていた。

 尚、アメリカ陸軍も、参戦には前向きであった。

 建前として、世界秩序の為の正義の戦争(ドイツ・サンドバック大会)であるので、正義の国家たるアメリカが参加せずには居られないと言うものがあった。

 又、国際連盟安全保障理事会常任理事国(ワールドオーダー)としての責任も声高に主張された。

 だが何よりの理由は、元手不要 ―― 日本がお小遣い(予算)を用意してくれて、名誉稼ぎが出来る好機なのだ。

 参戦しないと言う選択肢がある筈が無かった。

 

 

 

 

 

 

*1

 無論、武器弾薬食料その他の物資に関しては、日本が供給できるものは全て日本製で賄われる事が前提ではあった。

 ガソリンなども、日本で精製されたものが供給される事となっていた。

 その意味に於いて、100兆円と言う予算は全てが国際連盟側で戦争へ参加する国に配られる類のものではなく、ある種の日本の内需拡大政策的な要素を含んでいた。

 

 

*2

 尚、北海南部域に空母機動部隊を投入する事は、ドイツ潜水艦部隊に標的をプレゼントする様な行為であるとの批判がブリテン海軍の上層部から出ていた。

 だがその点に関しては日本連邦統合軍遣欧総軍が、哨戒機並びに水上艦/潜水艦部隊を対潜支援(エスコート)に提供する事で、批判の声は簡単に治まった。

 そもそも北海には、その全域を覆うには不十分ではあるものの水中固定聴音機の設置が進んでおり、ドイツ海軍の潜水艦が跳梁するのを許さぬ環境が整いつつあるのだ。

 十分な警戒を行えば、大きな脅威では無いとブリテン海軍上層部が判断するのも妥当な話であった。

 

 

*3

 オランダからの支援要請は受け取っていたが、どの様な形で実行するかはフランスが計画し実行するものであるとしていた。

 フランスに都合が良ければオランダを見殺しにしても構わない。

 そうフランス政府は非情の判断を行っていた。

 尚、この態度が明け透けであった為、オランダは親ブリテン色が濃くなっていく。

 

 

*4

 投入されるのは爆撃機だけではなくAC-2を装備する戦術飛行隊や電子航空団(電子戦部隊)警戒航空団(早期警戒部隊)は当然として、今まで日本連邦領域外へ展開する事の無かった無人(UAV)飛行隊までも含まれていた。

 無人飛行隊が運用するUAVは偵察や目標指示(ターゲティング)等を担っており、戦略飛行隊が戦術目標を相手にレーザー誘導爆弾を高高度(高度15,000)から投下する際に必要不可欠な部隊であった。

 特に、敵が防空火力を用意している様な環境への強行突入と目標指示(ハードターゲティング)任務は重要視されている。

 航空自衛隊としては有人機を投入するのはリスクが高いと判断しての事であり、それ故にステルス化された高速突入型UAVが開発される程であった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

136 第2次世界大戦-03





+

 1940年代に入ったオランダ陸軍は好調な経済を背景にして、全部隊の完全な自動車化を達成していた。*1

 日本を真似る形で高練度な常備軍的な性格を持った8個師団1個旅団 ―― 2個の自動化(歩兵)師団と6個の機械化師団、そして1個の戦車旅団だ。

 加えて、8個の予備歩兵師団も保有していた。

 オランダの国家規模を考えれば、中々に頑張っていると言える。

 又、更なる規模の拡大も検討されはしたのだが、経済が堅調に拡大傾向にあった為に経済界との人材の奪い合いとなった事、又、ドイツへの配慮から見送られていた。

 そして現在、2個の自動化師団と3個の機械化師団、そして動員がかろうじて完了していた1個の予備歩兵師団が国境線地帯に塹壕を掘って抵抗を続けていた。

 残る部隊は電撃戦(機動突破)を図るドイツの装甲連隊戦闘団(カンプグルッペ)群への対応を行っていた。

 将兵の質と言う意味に於いてドイツに水をあけられているオランダは、それを補うには数をもって当たらざるを得なかったのだ。

 これは空の戦いに於いてオランダ側が劣勢であった事も理由にあった。

 列強(ジャパンアングロ)はおろかドイツと比較しても旧式 ―― 1000馬力級レシプロ戦闘機が主体のオランダでは、ドイツのジェット戦闘機や2000馬力級エンジンを持ったレシプロ戦闘機には抵抗出来なかったのだ。

 ブリテンが航空部隊を展開(エアカバーを提供)してはいたのだが、この時点ではブリテンとオランダの間で効果的な指揮と連携の体制が整っていなかった為、ドイツ空軍機の跳梁を抑えきる事は難しかったのだ。*2

 空間の壁、航空基地と前線との距離の近さがドイツに優位性(アドバンテージ)を与えているのだ。

 ドイツ本土のレーダー網がブリテン空軍の動きを把握し、その間隙を縫う様に地上攻撃を繰り返していたのだ。

 戦えば負ける事は無いブリテン空軍機であったが、ドイツが徹底してブリテン空軍機との接触を回避しては如何ともし難かった。

 だがオランダ軍の奮戦は、それらの劣勢をものともせぬ、正に献身であった。

 血と地積とで贖いながら援軍が来るまでの時間を稼ごうとしていた。

 

 

――ドイツ/オランダ戦線

 オランダの抵抗の頑強さはドイツにとって計算外であった。

 当初は1週間でアムステルダムまで到達し戦争を終わらせる事が出来るだろうと豪語していたドイツネーデルランド軍団司令部であったが、国境線を突破して3日目となっても100㎞どころか50㎞と進む事が出来ずにいた。

 将兵の質、装備の優位性があっても尚、オランダ軍の抵抗を排除するのは難しかったのだ。

 このままでは攻勢が頓挫する危険性があった。

 開戦2日目から謎の高性能(日本の)爆撃機がドイツの空を飛び回りだし、北ドイツ平原を中心としたオランダに隣接するドイツ領の鉄道や橋、軍事拠点への爆撃を開始しだしたのだから。

 要撃不能な高高度からの爆撃は絨毯爆撃の様な物量感こそ無かったが、投下された爆弾は呆れる程の精度を発揮し、ドイツの戦争インフラを破壊し続けていた。*3

 このままでは前線部隊への燃料弾薬の補給が不可能になる恐れがあった。

 故にドイツネーデルランド軍団司令部と国防軍参謀本部は早期の決着を求めて更なる戦力の追加を決めた。

 問題は、その戦力をどこから抽出するかであった。

 南部方面の部隊は遠すぎた。

 東部方面の部隊はポーランド攻略に投入されていた。

 西部方面の部隊、その主力は来るべきフランスとの闘いに備える為、動かす事は難しい。

 迷った国防軍参謀本部に、親衛隊作戦本部が声を掛けた。

 ドイツ西部で錬成訓練中であった武装親衛隊(Waffen-SS)の部隊があり、これを預ける事が出来ると。

 2個の装甲擲弾兵(機械化歩兵)師団と1個のSS重戦車大隊と言う、強力な戦力であった。*4

 政治的には対立している親衛隊からの提案を、国防軍参謀本部は受け入れていた。

 どの様な思惑があれ装甲化された戦力は大事であり、又、この様な二流の戦場(オランダ)で国防軍の貴重な装甲戦力を消費しないと言う事は、フランスとの決戦を控えた今にとって極めて重要であるからだ。

 だが、戦場はドイツの都合だけで動く訳では無かった。

 ドイツの増援が到着するのと前後する頃には、オランダ側にも増援が到着していた。

 日本とブリテンの旅団戦力だ。

 戦力のシーソーが一気に変わる。

 

 

――北海南部戦域

 オランダへの打撃を目的としてドイツ海軍は行動が命じられた。

 戦艦ビスマルクを旗艦とした4隻の戦艦と3隻の装甲艦、そして2隻の巡洋艦からなる打撃部隊(ストライクグループ)であった。

 この護衛に空母グラーフ・ツェッペリンが付いていた。

 事実上の空母機動部隊であった。

 対するフランスは、ガスコーニュ級の戦艦3隻を投入して対抗した。

 本来はリシュリュー級戦艦3隻まで一緒に投入するべきであったが、ガスコーニュ級の準姉妹と呼べるリシュリュー級は、大西洋に展開していたドイツ装甲艦への対応に派遣されているのだった。*5

 期せずしてドイツはフランスに対して戦力分散を強いる事に成功していたのだった。

 結果、第2次世界大戦初の洋上海戦、そして人類史初の空母機動部隊同士の戦いはフランスが数的劣勢を強いられながら戦う事となる。

 更に不幸であったのは、空母艦載機の質に於いてドイツ側が優位であったと言う事だ。

 これはフランスが、空母艦載機のジェット機化を具体的に計画する段階であったが故の事であった。

 陳腐化したレシプロ戦闘機の更新、乃至は改良に予算を投じる意義が見いだせなかったからだ。

 対してドイツは、空母艦載機のジェット機化がまだまだ困難であった為、エンジンの換装を含む改良を進めていたのだ。

 全般的な航空機の技術に於いてはフランスが優越していたにも関わらず、この1944年の洋上に限ってはドイツが優位に立つ事となったのだ。

 この事実にフランスとドイツは気づかぬまま、両航空隊は北海南部で衝突する事となる。

 結果は言うまでも無く、フランス側の敗北であった。

 別に全滅や潰走をした訳では無い。

 フランスによる攻撃部隊は、機体の格差を理解した時点で対艦攻撃部隊を撤退させ、戦闘機部隊は殿としての時間稼ぎに徹したというだけである。

 問題は、ドイツからの攻撃であった。

 併せて30機にも満たない小さな戦爆連合であったが、豪胆なドイツ側指揮官は強襲を指示する。

 機体の能力差にモノを言わせて強引にフランスの防空部隊を突破、急降下爆撃と雷撃とを成功させたのだった。

 都合3発の250㎏爆弾と4発の航空魚雷がフランスの戦艦群に命中した。

 特に旗艦として艦隊の先頭に居たガスコーニュには攻撃が集中、250㎏爆弾2発と魚雷2発が命中し艦上で火災が発生する惨事となった。

 ドイツ海軍航空隊にとって大戦果であった。

 とは言えこの程度で沈むほどにフランス戦艦も脆い訳では無かった。

 そもそも戦艦と言う兵器は実にしぶとく、その上でフランス海軍は()()()()()()()を基に被害対応(ダメージコントロール)能力を磨いてきていたのだ。

 ものの2時間で火災の鎮火と応急処置とを済ませてみせたのだった。

 とは言え戦闘任務の継続は困難と判断し、フランス艦隊は北海南部域から後退する事となる。

 後に、第1次北海南部海戦と呼ばれる戦いは、こうして幕を閉じる事となった。

 フランス水上艦部隊を排除したドイツ水上艦部隊は一気に南下を図った。

 だが、行く手を阻むものはまだ存在した。

 ブリテン海軍である。

 ブリテン海軍が北海に展開させていた大型水上艦は、空母機動部隊の護衛に配置していたフネ ―― 近代化改装を行っているとは言え旧式のウォースパイトとレパルス、そして巡洋艦部隊であった。

 この時点でアルビオンを含むブリテン海軍部隊はオランダに展開し、部隊や物資の輸送を行っているのだ。

 オランダの港湾が焼かれるのは戦争であり()()()()()が、ブリテンの戦友が被害を受けるとなれば見過ごす訳にはいかなかった。

 空母機動部隊指揮官は即座に、護衛部隊に迎撃を命令した。

 数でも砲雷戦能力でもドイツ側に劣るブリテン水上艦部隊であったが、命令が下されるや否や、聊かの怯みを見せる事無く喜び勇んでドイツ水上艦部隊へと向かって突進を開始したのだ。

 見敵必戦(キャッチアンドキル)

 合理的ではあるが敢闘精神に欠ける様にも見えるフランス水上艦部隊に対し、ブリテン海軍の将兵は王立海軍の伝統を身をもって示すが如く、或いは狂犬(ウォーモンガー)の如くドイツ艦隊に突進した。

 又、空母艦載機による攻撃も敢行した。

 艦載機の質と言う意味に於いてはブリテンもフランスと大差は無いのだが、数が違っていた。

 イラストリアス級空母6隻が集中投入されていたのだ。

 ブリテンは数を揃える事、そして集中して運用すると言う原則を忠実に守っていた。

 結果、ドイツ水上艦部隊は一度に100機を超える戦爆連合に襲われる事となった。

 ドイツ側は対艦攻撃機迄も防空に回して対応したが、それでもグラーフ・ツェッペリン1隻が積める程度の数 ―― 30機にも満たない迎撃機では焼け石に水であった。

 更にはドイツの航空指揮誘導システムも飽和し、30機のドイツ海軍機は集団ではなく個々の戦闘機へと分解され戦う事となった。

 否、戦いと言うよりも生き残るのに必死になっただけであった。

 それが3波に及んだ。

 ドイツ側にとって幸いだったのは、ブリテン海軍の対艦攻撃機の性能が乏しかったが為、ドイツの大型水上艦で撃沈されたものは出て居ないという事であった。

 それでも、どの艦も少なからぬ被害を受けていた。

 大は爆弾か魚雷、小は機銃掃射による被害だった。

 だが、深刻な被害が出なかった事から、ドイツ水上艦部隊は応急処置を行い隊列を整えるとオランダへの突入を再開しようとした。

 そこをブリテン水上艦部隊が襲った。

 ドイツ水上艦部隊が、対空回避運動(盆踊り)によって足が止まってしまった事によって会敵に成功したのだ。

 戦力数の差だけで言えば圧倒的にドイツ側優位であったのだが、長時間に及んだ防空戦闘によって疲弊していた為、撤退を選択した。

 それはフランス海軍との戦闘で得た勝利を、ブリテン海軍との戦闘で汚したくないと言う功名心(スケベ心)でもあった。

 ブリテンの戦艦を沈めるよりも、ドイツの戦艦が傷つく事を恐れたのだ。

 尚、ブリテン側はウォースパイトの速力では本気で後退を始めたドイツ艦に追従する事は不可能であった為、早々に追撃を断念した。

 結果、第1次北海南部海戦は国際連盟側が勝利を得る事となる。

 戦術的には引き分け、戦略的には明確に国際連盟側(ブリテン - フランス)の勝利であった。

 

 

――フランス/アルザス-ロレーヌ地方

 オランダへのドイツ水上艦部隊突入を阻止した国際連盟。

 一応はフランス海軍も勝利側には居る。

 だが、勝者との称号はブリテンの恩情(政治的配慮)で与えられたものでしかない ―― その事をフランス自身がよく理解していた。

 ()()()()()()()()、フランスは勝利を欲した。

 フランス陸軍は未充足であった。

 戦力の集積も予備役の動員も不十分であったが、政治的に勝利が必要とされたのだ。

 軍事は政治に隷属する。

 民主主義国家にとってそこに例外は無い。

 フランス陸軍首脳部は一応の反論を行った上で、ドイツ侵攻部隊に対して作戦開始を命令した。

 発令から3時間後、先鋒部隊はドイツの国境線を突破する。

 第2次世界大戦西部戦線の始まりである。

 

 

 

 

 

 

*1

 オランダの機械化部隊を支えるのは、G4やそれに準じた国家群の様な本格的な装軌装甲車や半装軌式装甲車(装甲化ハーフトラック)では無かった。

 その殆どは日本の37式装甲機動車(Type-37AMV)のコンセプトを真似て軍用トラックをベースに開発した装輪装甲車であった。

 機械化と名乗ってはいても諸外国の部隊とは性格が全く異なっていた。

 路外機動力は低いが舗装率の高いオランダ国内での運用が前提であり、兵員輸送手段の装甲化と割り切っていた為、それで十分であったのだ。

 

 

*2

 ブリテンとしては航空部隊の指揮権をオランダに与える積りは無く、オランダとて無条件でブリテンの指揮下に入りたくない ―― 政治的にも入れないと言う問題もあった。

 この問題は国家間の面子も掛かっている為、解消には時間が掛かる事となる。

 短期的には、高度な通信システムを持つ日本の早期警戒管制機(AWACS)が展開する事で解決したが、抜本的には統合的な指揮統制調整機関、国際連盟安全保障理事会統合参謀本部が発足するまで解決する事は無かった。

 

 

*3

 戦術目標への爆撃が行われない理由は、対地攻撃を行う上で必要な目標策定(UAV)部隊がヨーロッパへ進出出来ていなかったからである。

 固定目標への爆撃が可能であったのは、地球全域を網羅するGPS網が完成しており、その誘導によって知性化爆弾(Joint Direct Attack Munition)が使用出来る為であった。

 尚、この固定目標への爆撃は、この時点ではベルリンなどのドイツ政府機関へは行われていない。

 現時点での優先順位が低い事と、万が一のドイツ側が降伏する可能性を見ての事だった。

 

 

*4

 この戦力供出は、国防軍の苦慮を慮ってと言う訳では無いし、オランダ工作に失敗した事への汚名返上と言う訳でも無く、単純に親衛隊による功名稼ぎであった。

 戦力不足で苦戦はしていても勝ちやすい場所であると親衛隊作戦本部はオランダの戦いを認識していたのだ。

 戦功を稼ぎ、その功績をもって更なる組織拡大を図るのが狙いだった。

 親衛隊はこの戦争を理解していなかった。

 

 

*5

 このドイツ装甲艦(プロイセン級装甲艦)対策で大型艦を派遣していたのはフランスだけではなく、アメリカやブリテンも高速戦艦や哨戒巡洋艦、或いは大型巡洋艦を派遣していた。

 基準排水量が20,000tを超えるプロイセン級装甲艦はそれ程の脅威であったのだ。

 条約型巡洋艦では対抗できない火力と装甲を兼ね備え、標準的な戦艦よりも遥かに優速で長い航続距離を持つプロイセン級は、洋上交易路を持つ側からすれば絶対に自由にさせてはならぬ戦力 ―― 脅威だった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

137 第2次世界大戦-04





+

 ドイツによるポーランド侵攻は機械化、自動車化も含めて歩兵師団86個と、戦車師団10個からなる約200万余りの大軍勢によって行われた。

 それを北部軍集団、中央軍集団、第4軍集団と言う3つの軍集団に分けて運用していた。

 北部軍集団の目的は、失われたドイツ領(自由ダンツィヒ)の回復とポーランドの海の玄関口の掌握、そしてバルト三国(国際連盟加盟国)に対するけん制であった。

 中央軍集団がポーランド攻略の主力であり、ポーランド侵攻部隊の6割近い戦力を保有していた。

 そして第4軍集団であるが、此方は比較的にポーランド側の戦力が少ないと判断された南部域の掌握を担っていた。

 広域な担当領域の為、自動車化部隊が優先して配置されていた。*1

 これ程の兵力を投入する理由は、このポーランド戦役(東部戦線)を出来る限り短期間で収束させねばならぬと言うドイツの都合であった。

 フランスと言う格上の敵を抱えている為、この200万の兵力をいつまでも東部戦線に張り付けて置く事は出来ないのだから。

 対するポーランド軍は、20個の歩兵師団が主力であり、機械化戦力として5個の機械化歩兵師団と10個の戦車師団を用意していた。

 総兵力で言えば約80万、彼我兵力差は2倍を超えていた。

 しかもドイツ側にはまだ予備兵力が残っていた。

 対フランス戦力まで含めれば総兵力は500万近いのだ、その差は歴然であった。

 だが、その事にポーランドが絶望しているかと言えば、そうでは無かった。

 その差をひっくり返す ―― は無理にしても、互角の戦いに持ち込む事が出来るだけの用意をしていたのだ。

 1つは自動車化。

 ポーランドは数の劣勢を機動性で対処しようと、全ての部隊に自動車を配備する事を目指した。

 国産の自動車や支援国たるブリテンからの導入、何よりアメリカ-チャイナ戦争へ参戦した事で得られた日本製(ML-01/02)の導入により、完全 ―― とまでは行かないものの、かなりの自動車化を達成していた。

 少なくとも戦車師団や機械化師団は全てが自動車化されていた。

 この機動力の高さがポーランド軍に大きなアドバンテージを与える事になる。

 2つ目は通信システムだ。

 日本製の通信システム(ML-04)を、戦車や自動車よりも最優先で発注したのだ。

 その規模は、日本の通信機用の生産ラインを全て食いつぶさんばかりの勢いであった。

 流石に他の発注してきた国への義理が立たぬと難色を示した日本であったが、ポーランドは他の発注国に頭を下げて回って、様々な対価まで約束して購入してみせたのだった。

 とは言え、まだ配備したばかりであり、現場部隊の機材への習熟や整備が十分とは言い難かったが。

 兎も角、ポーランド軍は(情報の共有)(部隊の機動性)に於いてはドイツ軍に優越した状況で開戦を迎えていた。*2

 

 

――ポーランド/東部戦線

 国家を生き残らせる。

 それ以外の全てを切り捨て、その目的の為にドイツを殴り飛ばすと決断していたポーランド軍の後退は、戦略的後退であり、何よりも攻勢的な行動であった。

 主要な場所以外での防御を諦め、だが同時に、機動戦闘が可能な部隊による遊撃戦を選択したポーランド軍。 

 ポーランドの大地は南北に500㎞に迫ろうかと言う広大さであり、その全てを網羅しうる前線を作るには、ドイツ軍ポーランド侵攻部隊200万は余りにも不足していた。

 当初は津波の如く、ポーランドの大地を塗り替えていたドイツ軍は国境線を突破して100㎞までは余裕だった。

 200㎞までに問題は無かった。

 だが300㎞、開戦から10日目を超えて最前線部隊がヴィスワ川に到達しようと言う頃になると状況が変わりだす。

 先ず、前衛であった中央軍集団第1装甲軍の消耗が3割を超えたのだ。

 人員はそうでもないのだが、戦車や装甲車の被害が大きすぎた。

 前衛部隊に配備されているのが中戦車、Ⅲ号戦車及びその後継であるⅤ号戦車系列であったと言うのが大きかった。

 Ⅲ号戦車にせよⅤ号戦車にせよ中戦車として機動性が優先されており、その実現の為に装甲は()()()薄目だったのだ。

 少なくとも、38TJの90㎜砲や数的主力である35TPの90㎜砲を前にして余裕であると評するのは難しい程度には。

 本来であればドイツ側とて重戦車であるⅣ号戦車や新鋭のⅥ号戦車を前衛にしたいところであったが、重戦車は重戦車であるが故に展開速度に問題を抱えており攻勢任務には向いていなかった。

 故の、この惨状であった。

 その上、ヴィスワ川までの到達に要したたった10日間の戦いでドイツ空軍が想定以上に消耗していたと言うのも大きかった。

 航空戦力に関しても数的にはドイツ側が優位であったのだが、守勢の強みとブリテンからの軍事援助で構築されたレーダー網によってポーランド側は少ない戦力であっても十分に活用する事が出来たのだ。

 更には、無理を言って少数ながらも導入した新鋭機(F-10戦闘機)は目の覚めるような活躍を見せていた。

 特に鮮烈であったのは11機で出撃した初陣だった。

 レーダーに見守られ防空指揮所の指示(支援)を受けながらドイツ空軍機約30機余りの編隊に殴り掛かり、蹂躙し、被害を受ける事無く撃破に成功したのだ。

 ドイツ空軍にすさまじい衝撃を与える事となった。

 落とされたのが二線級のレシプロ戦闘機ではなく、れっきとした新鋭機 ―― ソ連と共同技術開発し生み出されたTa183であったと言うのも大きかった。

 とは言え、その戦いで撃墜されたのは約半数であり、残りは被弾しつつも撤退に成功してはいた。

 だからこそ、恐るべき怪鳥(前進翼機)の情報、戦闘詳細がドイツ空軍に齎される事となったのだ。

 その後もF-10戦闘機は戦場に現れ、都度都度、ドイツ航空隊の作戦を邪魔し続けた。

 特に爆撃隊は手荒く痛めつけられた。

 高度1万メートルまで余裕で駆け上がり、そこを戦場として自在に戦える心臓(エンジン)を持った荒鷲は、いまだ完全なジェットエンジン機への機種転換の終わっていなかったドイツ爆撃隊にとって悪夢と同義語であった。

 数的にはごく少数であり、又、彼我損失割合(キルレート)こそ凶悪な数字ではあっても実際にF-10戦闘機に落とされたドイツ空軍機はごく少数であった。

 だがそれでも初戦のイメージの大きさ、そしてポーランド側による空の支配者(Air Dominance)と言う異名を付けた積極的な宣伝活動もあって、ドイツ空軍司令部はF-10戦闘機との交戦は可能な限り回避する様に命じる程であった。

 様々な要因が重なった結果、ドイツの攻勢はその衝突力を喪失する事となる。

 

 

――バルト海

 ドイツ海軍によるバルト海掌握は、比較的容易に進んだ。

 重巡洋艦アドミラル・ヒッパーを旗艦とした水上艦部隊(バルト海戦隊)がバルト海へと出るのに相前後して、ポーランド海軍部隊はポーランドを離れた。

 ポーランド海軍の主力はブリテンで建造された駆逐艦4隻であり、後は哨戒艦や魚雷艇が精々であった為、重巡洋艦を含んだ有力なドイツ水上艦部隊との交戦 ―― 抵抗は不可能であり無意味であるとの判断であった。

 ポーランド海軍とて戦意に不足は無かったが、現時点で祖国の前で倒れる事に意味が無いと理解していたのだ。

 国防の誓いに身をゆだねると言う甘美な誘惑を、理性で押さえつけたのだ。

 そう遠くない未来に国際連盟加盟国が総力を挙げて行う反攻作戦に戦力として参加できる艦艇を残す、と言う明確な目標があった事も良い方に作用した。

 最終的にポーランド海軍は出航後にありったけの機雷を散布し、同盟国でもあるフィンランドへと向かった。

 潜水艦を除いて。

 ポーランド潜水艦部隊は、水上艦部隊離脱後もポーランド近海に残って情報収集と偶の嫌がらせ雷撃任務を背負うのだった。

 対潜能力の貧弱なドイツ海軍にとって、このポーランド潜水艦は非常に鬱陶しい存在となる。

 

 

――フィンランド

 対ソ連を前提としたポーランドとの同盟関係にあるフィンランドは、()()()()()()()()ポーランドへの大規模な軍の派遣を決定した。

 それ程にフィンランドはソ連と言う国家を信用していなかった。

 とは言え、戦力を送るには陸路でも海路でも近いとは言い難い両国であった為、バルトエストニア、ラトビア、リトアニアの3国を経由しての派遣となった。

 正直な話として、軍備と言う意味に於いては貧弱な3国はドイツとの戦争に繋がり兼ねない行動は避けたいと言うのが本音であったが、加盟する国際連盟安全保障理事会戦争補完委員会 ―― G4からの()()を受けてはどうにもならなかった。

 横暴なドイツは恐ろしいし野蛮なソ連は洒落にならない。

 だが一番危険なのは容赦の無い覇権国家群(ジャパンアングロ)なのだから。

 兎も角、バルト3国の協力によってフィンランドは精鋭と言って良い航空部隊と機械化された陸軍約10万をポーランドに送る事となる。

 

 

――デンマーク

 ドイツに隣接する国際連盟加盟国の中で唯一、ドイツとの戦争に積極的ではなかったのがデンマークであった。

 これは経済力に起因する軍事力の乏しさ故に()()()()と言うのが実情であった。

 国際連盟加盟国の一員としてなけなしの正規軍を国境線に配置し、予備役兵の動員も行ったが、これらは国際連盟安全保障理事会戦争補完委員会(日本)からの融資があればこそ出来た行動であった。

 この状況を把握するドイツも、デンマークに関しては放置状態であった。

 国際連盟加盟国としてドイツへ宣戦布告を行った事への懲罰は、オランダを掌握した後にと言う事で先送りされる事となった。

 故にデンマーク・ドイツ国境地帯は軍の睨み合いと偵察機の飛ばしあいこそあれども火力の応酬は無い、まやかしの前線(ファニー・フロントライン)と言われる事となる。

 

 

――イタリア

 ヒトラーにとって、最も潰したい国家はイタリアであった。

 とは言え腹立たしい事にドイツ本土進攻が可能な国力を持った国家で、一番、ドイツ本土への侵攻を行いそうに無い国家も又、イタリアであった。

 イタリアが見ているのは未回収のイタリア(旧ヴェネチア共和国領)のみであるのだから。

 今だ都市国家的な性格を持ったイタリアはファシスト党(偉大なるドゥーチェ)の力をもってしても、いまだイタリアと言う統一国家の領域にまで国民意識が達していなかった。

 イタリアの為、イタリア民族の為と言う帰属意識の乏しさとも言える。

 故に、イタリアは大国の一角ではあっても対外侵略戦争を行うだけの力に乏しいのだ。

 その意味に於いて、ドイツが侵攻しなければ当座は放置出来る場所であった。

 この為、ドイツは約10個師団からなるアルプス軍集団を編成しイタリアと対峙させてはいても、同軍集団司令部に対しては守勢防御以外の一切の行動を禁じる程であった。

 この事はバルカン半島の放棄にもつながる選択肢であったが、既にあらかたの資産は収奪済みである為、特に大きな問題では無かった。

 政治的にはヒトラーとナチス党の失点ともなる話であったが、大ドイツの為に断腸の思いで、などと宣伝する事で失点としては大きなものには成らなかった。

 そもそも、ドイツ自体の安全が最優先として行動すると言う方針だ。

 余程の人間(大ドイツ主義者)でも無い限り、反対する人間が出る筈も無かった。

 そして、その()()()()()と言う奴は、今のドイツではナチス党の党員が大半である為、党首 ―― 総統たるヒトラーの決定に異を唱える筈も無かった。

 全会一致の勢いで決められたイタリア不干渉。

 只、ヒトラーだけは、この方針の指示書にサインする際に本当に、心底から残念な顔をしていたと言う。

 

 

 

 

 

 

*1

 ドイツ軍に於ける自動車化部隊とは、歩兵の移動が自動車で行われると言う意味ではなく、後方部隊までも自動車での機動が可能な部隊と言う意味合いであった。

 軍需による各産業の活性化、その一環であったが、200を超える全師団の自動車化はドイツ国防軍にとってまだまだ未来の話であった。

 装甲化に至っては、予定すら立てられぬと言うのが実情でもあった。

 

 

*2

 尚、日本製戦車の導入も行われており、此方は日本が一般海外向けとして開発した38式戦車(Type-38)を38TJとして100両程導入していた。

 38TJは、38tと言う1940年代中盤では比較的軽量な(主力)戦車であったが、合理的な避弾経始を優先したデザインであり、そもそも装甲材の質が余りにも違っている為、40t以下のクラスは勿論、50t級の戦車と比較しても十分な防御力が与えられていた。

 その代償と言う訳では無いが車内空間は極めて狭く、実際に戦争に投入されるまで ―― 被弾し、装甲の能力を実証するまでは、一部からは非難の声が上がっている程だった。

 主砲は90㎜砲を採用している。

 40t以下の中戦車向け戦車砲としては大口径であるが、ポーランド軍は更に金を掛けて日本から高価な装弾筒付翼安定徹甲弾(APFSDS)を輸入していた。

 同量の金を投げるが如きと言われた高価格弾であり、ポーランドの財務省は凄い顔で必要性を再確認した程であった。

 無論、軍も政府も導入を強力に後押しした。

 負けじのポーランド軍魂(ユサール魂)の発露であり、そして何よりもドイツの中戦車は勿論、重戦車も絶対に撃破してやる(ブッコロス)と言う強い決意の現れであった。

 

 




2021.06.01 文章修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

138 第2次世界大戦-05






+

 国際連盟の一員として参戦する事となった対ドイツ戦争に於いて、日本が先ず行うべきなのは山東半島に存在するドイツ領(ドイツ海外領)の制圧であった。

 特に警戒していたのは日本の近海での潜水艦や装甲艦による無制限通商破壊戦である。

 日本列島間やユーラシア大陸との航路、果てはアメリカとの太平洋航路で跳梁されてはたまったものではないからだ。

 そもそも本土の目と鼻の先に戦争相手国の領土の存在を許すなど戦争に対して()()()であるとすら考えていた。

 取り合えず日本は、独系日本人外務省職員を特使として派遣して降伏勧告を通告した。

 簡単につぶせる場所で、しかもドイツ本国からの援軍は無い。

 そもそも、ドイツ側としてこの場所を保持し続ける意味は無かろうと言う常識的な判断から、勧告内容は極めて穏当なものとなった。

 日本連邦統合軍の駐屯とドイツ軍部隊の武装解除があれば拘束などは行わず、域内のドイツ法も尊重すると言う内容となっていた。

 食料その他の物資も、適切な価格で融通するとされた。

 何とも甘い対応とも言えたが、山東半島を更地にするコストと、統治機構を粉砕して直接統治する面倒とを考えると、素直に下ってくれる事は大変にありがたいのだ。

 だが、この日本のスタンスに反対する国が2つあった。

 1つはチャイナ ―― チャイナ民国だ。

 国際連盟加盟国として、先祖伝来のチャイナの大地をドイツから取り戻したいと言う主張であった。

 無論、日本は一蹴したが。

 チャイナ民国軍は一度壊滅して再建途上の今である為、文明国としての流儀が出来そうに無い ―― ロマンス(出会ったその場でフォーリンラブ)だの何だのと、戦後処理が面倒くさい事になるのは嫌だと言うのが理由としては大きい。

 だがそれ以上に、公式に山東半島はドイツへと売却されたものであるのだ。

 ドサクサに紛れて領土の回収と、ドイツの工場などの設備を接収しよう等と言いだしたチャイナ民国に対しては、国際連盟安全保障理事会から公式に遺憾の意(イエローカード)が出されていた。

 遺憾の意と言えば軽くも見えるが、この場合のソレは甘いモノではない。

 付帯して、国際連盟安全保障理事会戦争補完委員会の統制を逸脱し、自国利益を優先した行動を採るのであればそれは国際連盟の敵である ―― 国際連盟からの永久追放と加盟国(主に日本)への懲罰行動の許可を出すと言う通告が出されたのだ。

 こうなってはチャイナ民国が出来る事など無かった。

 只でさえ戦争であらゆるものを失い、残された領土内での統制が乱れつつあるチャイナ民国が国としての形を維持するには国際社会(G4)からの支援を必要としているのだ。

 この遺憾の意と言う議決への流れを作った日本への反発すら表明する事も出来ず、チャイナ民国は平伏したのだった。

 残るもう1国、正確に言うならば地域はドイツ、ドイツ海外領、山東半島の自治政府だった。

 日本からの特使を丁寧に遇し、ドイツ極東軍司令官とドイツ東洋艦隊司令官も一緒に居る会談の場にて、形式的とは言え1度は抵抗したいと述べたのだ。

 独系日本人特使は理解しがたいと言う顔で、必ず死にますよ? と尋ねると言うよりも翻意を促すために確認した。

 が、ドイツ軍人は折れなかった。

 微笑みすら浮かべてドイツ極東軍司令官は先ず特使に感謝の弁を述べ、それから日本が強大と言う事は理解していると続けた。

 その態度は、よく言われる四面四角なドイツ的頑迷さとは全く無縁の態度であった。

 理性と悟性とがない交ぜになったものを瞳に浮かべ、ドイツ人として誇り、ドイツ軍人としての名誉、そして戦後を見据えた上で我々は()()()()()()()()()()の意義を示さねばならないと言った。

 それは、ドイツと言う民族国家消滅を想定した、ある種の殉死的な意味すらも含んだ言葉であった。

 失礼ながら、と独系日本人特使は反論した。

 余りにも悲観的ではないだろうか、と。

 独系日本人特使は己が生きていた時代(Lost History)を鑑みて、戦争終結後のドイツが東西乃至はそれ以上に分割される事はあっても、民族国家としては生き残れるだろうと考えていたのだ。

 対して、この時代を生きてきたドイツ極東軍司令官は、フランスとポーランドのドイツへの態度 ―― 世界(国際連盟)の敵として扱われている事から、民族国家としての再興を、少なくとも短期間では成せぬだろうと判断していた。

 或いは、ドイツの立地が対立する陣営の間であったならば、前衛乃至は緩衝国家としての再興が勝者たちから要求されるかもしれない。

 だが、今現在の世界情勢でそれは無い。

 G4(ジャパンアングロ)が余りにも圧倒的だからだ。

 ドイツ以外で、G4に抵抗しそうな国家は幾度も戦争をしたソ連位であるが、そのソ連も今では国際連盟の従順な構成員(ミスター・ダー)でしかない。

 万が一、将来、G4が分裂し対立を始めたとしても、G4各国は海で隔てられており、内陸国のドイツが緩衝地帯となる事はあり得ない ―― 少なくともブリテンが欧州亜大陸に直接的な支配領域を得ようとしない限り。

 ()()()()()()()、戦ってドイツ民族の誇りとドイツ軍人の献身を歴史に刻まねばならないと言う。

 欧州戦線での戦いでも、それらは示されるだろう。

 だが、敵はフランスでありポーランドである。

 彼らが果たしてドイツの名誉ある行いを正しく残すであろうか? それは質問と言うよりも確認であった。

 その言葉に、独系日本人特使は同意をする以外の反応を示す事が出来なかった。

 

 

――日本

 外務省経由で齎された、山東半島のドイツが死合いを望んでいると言う話に日本政府は頭を抱えた。

 いや、気持ちは判るし、別段に日本にとって面倒が大きく乗ってくる話ではない。

 それどころか話を聞いた人間で血の気の多い者は、ドイツの心意気を無視しては日本人の名折れであり武士の情け(手加減は失礼である)との精神で相対するべきだと主張する程であった。

 尤も、大多数の人間は、そういう良識に基づいての覚悟を決めた人間を敵と認識するには心苦しく、出来れば、本人の希望に反するとは言え生き残らせたいと願っていた。

 その大多数の人間に、日本の意思決定に関わる人々も含まれていた。

 故に命令(オーダー)が発せられた。

 山東半島のドイツ人の本懐を果たさせ、併せて被害(ドイツ人死者)を最小限度に抑える様にとの。

 尚、この点に於いて日本側の死者が考慮されないのは、発生しえないモノを検討する必要性が、思考実験すらも含めて皆無であるからであった。

 偶発的な事象、或いは事故などで発生する可能性はあり得るが、事、海洋及び空中での戦闘に於いてそれが発生すると言う事はあり得なかった。

 それ故の()()()でもあった。

 だが命令された側にとっては、そうそう気楽に構えられる訳では無かった。

 今の日本連邦統合軍の、特に日本本土軍(自衛隊)の戦備は火力が強大である為、被害を限定すると言う事が極めて難しいのだ。

 如何に味方の被害を抑えて相手を無力化するかと言う、ある意味で真っ当な思想に基づいて油断なく進化を続けていた日本の火力は、それを裏打ちする科学水準の高さによって、この年代の諸外国軍の持つ()()とは比較にならぬ威力に達していたのだから。

 対艦で言えば、主力となる対艦ミサイルは重量級の超音速弾(ASM-3シリーズ)は、相手が戦艦級であっても速度と弾体重量で大抵の装甲をぶち抜いて船体に致命傷を与える事が出来る。

 下手をすると1発で相手を轟沈(生存者ゼロ)せしめる可能性すらあった。

 又、廉価な多目的弾(ASM-4シリーズ)はどうかと言えば、此方も凶悪であった。

 言ってしまえば、重量約500㎏の榴弾が音速の約8割で突っ込んでくるのだ。

 14in.級以上の戦艦砲等に比べると物足りない数字かもしれないが、確実に船体の弱点に命中し、戦艦であっても軽視する事の難しい被害を与えるであろう。

 更に言ってしまえば軽対艦誘導弾(ASM-4シリーズ)は命中して終わりではなく、それをつゆ払いに本命 ―― 500lb.誘導化爆弾(JDAM)が続く事を意味しているのだから。

 では次善と言って良い艦砲射撃はと言えば、16in.砲弾にせよ13.5in.砲弾にせよ雨霰と降り注ぐのだ、白旗を掲げて降伏するよりも先に沈んでしまうのは目に見えていた。

 魚雷に至っては言うまでもない。

 対艦攻撃用として潜水艦が装備する長魚雷は、500lb.を超える炸薬が船底で起爆すると言う凶悪な兵器なのだ。

 並みの艦船では船体が真っ二つになるのだ、喰らった艦船の乗組員が生き残れるか否かなど神のみぞ知ると言う有様だろう。

 この様に、人情と言うモノを加味させるには()()()()()()()()()()()のだ。

 にも拘わらず、出来るだけドイツの面子が立つ(見せ場を作る)ように行わなければならない。

 無理難題と言えるだろう。

 とは言え、命令されれば行動しなければならぬのが宮仕え(特別職国家公務員)の辛い所。

 ドイツ極東軍を瞬殺せず、とは言え余り無駄な苦しみを与えない方向で撃滅する方策を短時間でひねり出す事となる。

 結論は洋上決戦であった。

 ある程度、敵側を視認しつつ攻撃を行うので、加減がしやすいと言う事が理由であった。

 練度十分なあそ型(14.650t級対地)護衛艦2隻に加え、ドイツ側に強大な敵と戦ったと言う満足感を与える為に、就役したばかりで練度が十分とは言い難いものの極東最大の直接戦闘艦 ―― 52,000t級防空護衛艦(戦艦)きいの投入を行うものとされた。

 

 

――アメリカ

 日本が戦艦を持ち出すと聞いて黙って居られなくなったのは、誰あろうアメリカである。

 極東で唯一の魅せ場になるのが見えている為、これに参加せずに何とすると言う気分であった。

 幸い、チャイナとの戦争に際して戦艦部隊を極東に派遣していた ―― まだハワイへと帰還させていなかった部隊が居る為、見せ場に参加する戦力は居るのだ。

 それも新世代型戦艦(ポスト・ヤマトクラス)としてアメリカが自信をもって建造した基準排水量50,000tの、重武装重装甲ながらも最大速力31ノットを誇るアイオワ級高速戦艦*1の2隻だ。

 アイオワとケンタッキー。

 アイオワ級戦艦は日本と共同開発した最新鋭の全自動化16in.砲を3連装3基9門備えた、きい型護衛艦(戦艦)の姉妹と言うよりは親戚の様なフネであった。

 アメリカは、名誉を与える為であるならば、16in.砲戦艦3隻で迎えるべきだと国際連盟安全保障理事会戦争補完委員会の席上で、強く強く主張(参加を要請)していた。

 日本は、過剰火力にならぬか心配しつつ、参加を快諾していた。

 

 

――ドイツ極東軍/東洋艦隊司令部

 アメリカの善意を知ったドイツ極東軍司令部は、ある種の乾いた笑いを浮かべていた。

 現時点で山東半島に駐屯していた10,000t級越えの大型艦はプロイセン級装甲艦のポツダムとアドミラル・ヒッパー級重巡洋艦ブルッヒャーのみなのだから。

 後はヒトラーの政治的見地からの指示として行われた、外洋が荒れがちな極東海域では運用が難しいケーニヒスベルク級軽巡洋艦のケルンと駆逐艦2隻が居るだけであった。

 ヒトラーとしては、日本が無視しえない有力ではあるが、深刻な脅威ではない戦力を配置する事が政治であると言う認識であったのだ。

 問題は、世界有数の荒海である日本列島近海で運用するには、ドイツの比較的小型な艦は役者不足であったと言う事だ。

 山東半島の工廠で様々な試行錯誤が行われはしたし、決してドイツとしても手を抜いた訳では無いのだが、実働戦力と数えられるのはポツダムとブルッヒャーの2隻のみだった。

 山東半島の直衛に魚雷艇なども配備はされているが、広い外洋に面している為、有意な戦力と数えるのは難しいのが現状であった。

 尚、本来は潜水艦も3隻が在籍しており、うち稼働状態にあった2隻が訓練と哨戒とを兼ねて東シナ海で任務に出て居たのだが、()()()()()()()()()()を境に連絡が途絶えていた。

 その事を誰もが誤解しなかった。

 制海権が無いと言う次元を超えている現状を把握できぬ程に、呑気な人間は居なかった。

 ある意味でドイツ極東軍司令部と東洋艦隊司令部が祖国に殉じる(勇者の如く倒れる)事を決めた背景であった。 

 又、ドイツ本国が対日戦争と言う全く想定していなかった現状に混乱し、積極的に命令を出してこなかった事も、この判断を後押ししていた。

 

 

――山東半島東部海域海戦

 経緯故に政治的な意味合いの強いこの海戦は、ある種の神話(サーガ)的な色彩を帯びる事となったが、実際の戦いは散文的なものに終始した。

 当然であろう。

 16in.砲戦艦3隻と、装甲艦と重巡洋艦各1隻の戦いでしかないのだ。

 走攻防、そして数とあらゆる面で劣る側が善戦するなど不可能と言っても過言では無かった。

 そもそも、ドイツ側は乗組員から30代以下を全員下船させ、40歳以上も志願者のみでフネを運用しているのだ。

 後に、露悪的表現を好む人間が()()()()と評したのも仕方の無い話であった。

 とは言え日本側もドイツ側に華を持たせる為、発砲が出来る距離まで接近する事となる。

 砲戦距離3万。

 だがそれは、日本がきい型の装甲に自信を持っていたからでも無ければ、ドイツの艦砲が当たらぬと慢心していた訳でも無かった。

 単純に、その砲弾を艦対空誘導弾で叩き落とせるからであった。

 きい型の計画時の名前は52,000t級()()護衛艦、退役するこんごう型ミサイル護衛艦(イージスシステム艦)の役割を一部引き継ぐ事も目的としていたのだ。

 将来の脅威 ―― 超音速の対艦ミサイル飽和攻撃へ対応出来る性能が付与されていたきい型にとって、正直な話としてポツダムが散発的に放ってくる28㎝砲の砲弾は余裕をもってさばける程度の脅威でしかなかった。

 3度の斉射までドイツ側の発砲を許し、そこから攻撃を開始した。

 きいがポツダムを、アイオワとケンタッキーがブルッヒャーを狙った。

 ポツダムは最初の斉射で命中弾が発生した。

 比較的薄いプロイセン級装甲艦の水平装甲は重い16in.砲が大角度で突入してくる事に耐える事は出来なかった。

 そして砲弾は恐ろしく短い間隔で更に叩き込まれた。

 戦闘開始から1分と経たぬうちに3度も砲弾が降り注ぎ、日本が意図していた降伏を強いるよりも先に、無慈悲にも弾薬庫と機関部を粉砕する事となった。

 言うまでも無く轟沈である。

 そして僚艦のブルッヒャーの運命は、ある意味で、より悲惨であった。

 きいと比較して見て命中精度が低い為、命中 ―― 沈没までに5分の時間を要したのだから。

 雨霰と降り注ぐ16in.砲砲弾に弄ばれると言う地獄を経る事となっていたのだ。

 船体を隠す程に乱立する着弾の水柱は1万tを超える船体を小舟の様に弄んでいた。

 否、そもそも5分を要したと言うのも推測であった。

 余りの発射速度の為、確認する為に5分で発砲を止めた所、ブルッヒャーは浮いていなかった為、5分で沈んだのだろうと推測されただけの話であった。

 祖国と民族に殉じようと言う精神(ロマンチズム)の発露は、軍事的技術格差の前では全くの無力であった。

 尚、本海戦の映像は日本の手で高解像度で残されていたが、その余りの酷さ(公開処刑っぷり)に、武士の情けと公開を躊躇う程であった。

 

 

――ドイツ山東半島

 洋上戦闘での一方的かつ短期間での殴殺に、ドイツ極東は名誉の為の抵抗と言う決意を粉砕された。

 特に下士官や兵の戦意が完全に消失した。

 勝利が望めないどころか、名誉も何もなく、それこそ機械的に屠殺されるが如く死ぬのは勘弁であるとの人間としての素直な感情の発露であった。

 この結果、ドイツ海外領山東は素直に降伏する事となる。

 

 

 

 

 

 

*1

 アイオワ級戦艦は新世代戦艦として、アメリカが戦後を睨んだ ―― 21世紀まで運用できる発展余裕を持った戦艦として設計された戦艦であった。

 当初は4隻の整備で終わる予定であったが経済的政治的理由から更に2隻の建造が認められていた。

 経済的な理由は、更新された製鉄業界の製造力の消費先として造船業界へのテコ入れの必要性が訴えられた事が大きかった。

 アメリカ製鉄業界と造船業界の象徴的な役割が要求されたとも言える。

 政治的には、ブリテンが新世代戦艦を7隻し、フランスも8隻建造する事への対抗であった。

 尤も、ブリテンは兎も角としてフランスからすると、このアイオワ級の整備と並行して大型巡洋艦と自称するも基準排水量が25,000t(※計画時)に達する(ほぼほぼ戦艦クラスの)アラスカ級を平然と6隻整備している癖に何を言っているのかと言う気分ではあったが。

 

 艦名 アイオワ級戦艦

 建造数   6隻

 基準排水量 50,000t

 主砲    50口径16in.3連装砲 3基 9門

 両用砲   38口径 5in. 連装砲 8基16門

 装甲    耐16in.防護を実施

 速力    33ノット

 主機    蒸気タービンエンジン

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

139 第2次世界大戦-06

+

 1944年の対ドイツ開戦時、フランス本土にあった大陸軍(グラン・ダルメ)は主だったもので歩兵師団40個、機械化歩兵師団16個、戦車師団10個を数えていた。*1

 純粋なフランス人のみならず、フランス海外県(植民地)からの志願兵も含めて150万近い将兵であった。

 本来であればこの更に倍の兵力 ―― 歩兵師団47個と自動車化師団10個、機械化師団も6個を数える程の戦力を整備していたのだが、残念ながらもアフリカその他の海外県での治安維持戦に投入されており、この場に揃う事は無かった。

 最低でも歩兵部隊の移動は自動車化されており、その上で歩兵師団と自動車化師団の差は、後方部隊まで自動車化出来ているか否かの差であった。

 又、自動車化された歩兵連隊にも、装甲化トラックなどを装備した前衛向けの部隊と、非装甲のトラックだけが輸送力の部隊が混在していた。

 補給面(整備面)では悪夢に近い状態であったが、その事に目を瞑ればフランス陸軍はヨーロッパ、否、ユーラシア大陸国家でも随一と言えるだろう。

 その()()がフランスに、戦力不足の現状での攻勢を決定させたのだった。

 対するドイツ陸軍。

 此方は、この東部方面に配備していたのは歩兵師団60個、機械化師団14個、自動化師団12個、戦車師団10個もの大戦力であった。*2

 総兵力約200万にも達していた。

 数だけを見ればフランスのドイツ侵攻軍に優越していた。

 問題は、フランスが開戦の時点でまだ予備役兵の動員にまで()()()()()()()()のに対し、ドイツは動員状態にあると言う事だった。

 この差は大きい。

 フランスも予備役兵の動員令は出しており、1乃至2ヶ月後には100を超える師団が用意出来るものとされていた。

 又、ドイツの歩兵師団は、その大半が()()()()()()()()()であり後方部隊の大半は馬やロバに頼っていた事も、フランスとドイツの差と言えた。

 とは言え、ドイツとて30年代から延々と時間と金を掛けて対フランス戦備を整えてきていたのだ。

 百年兵を養うは一日これを用いんがためなり。

 フランスとドイツは、それぞれの国家が営々と作り上げてきた全てをぶつけるのであった。

 

 

――フランス-ドイツ航空戦

 アルザス・ロレーヌ地方を起点とした対ドイツ侵攻作戦、その初手はフランスが大量に用意していた無人飛行爆弾(プアマンズ・クルーズボマー)であった。

 その数、初日だけで実に300機を超えていた。

 原始的な機械式自律誘導装置によって、日本の偵察衛星が把握していたドイツの航空基地や軍事拠点に向かって飛翔し、着地(墜落)し爆発する。

 目標への命中に関する平均誤差半径(CEP)は手荒いものであり、良くて数百メートル、悪いと数キロと言うそれは、純軍事的には大きな脅威とは言いづらかった。

 戦闘機での迎撃も、そう難しいモノではないのだ。

 だが、それをレーダーに対する隠れ蓑として、フランスの爆撃機や攻撃機の部隊がドイツ国境を越えてくるとなれば話は違う。

 レーダー関連技術がお世辞にも進歩しているとは言い難いドイツにとって、レーダー上の情報だけで、無人飛行爆弾と爆撃機や攻撃機を識別する事は難しく、故に、飽和攻撃となるのだ。

 更には、そこにフランスの護衛戦闘機が付くのだ。

 フランスの航空攻撃開始から1週間もせぬうちに、ドイツの防空戦闘は飽和する羽目に陥った。

 これ程の事が出来たのは、フランスがドイツとの国境近くに20を超える特設航空基地を用意していたと言うのが大きい。

 又、基地へと続く道路を準備していた事、基地の近くに隠蔽した物資集積所を用意していたのも大きい。

 そして何より、それらの情報をドイツが把握できない様に、ドイツの航空偵察の類を完全に撃退(シャットアウト)出来ていたと言うのが一番の理由だろう。

 ドイツは、フランスが開戦劈頭で大規模な航空攻撃を予定していると察知はしていたが、その規模までは理解出来ていなかったのだ。

 無論、ドイツとて状況を座視した訳では無かった。

 フランスに頭上を握られては戦争にならぬとドイツ陸軍は空軍に強く要求、最終的にヒトラーすらも動かして航空戦力の集中が成される事となる。

 空軍総司令官は()()()()()をフランス戦に投入する事を約束した。

 問題は、何時迄にと言う事だった。

 手すきの航空部隊を集中させる事は問題ではない。

 だが、集めた航空部隊を運用する事は簡単ではない。

 燃料弾薬に予備部品の備蓄、整備兵などの移動。

 そもそも、航空機を展開させる基地の手配。

 ヒトラーや空軍総司令官がやれと命令しても、それを実行するのはそう簡単ではないのだ。

 しかも、その空軍基地は常にフランス側に狙われており、昼夜を問わずに無人飛行爆弾が狙ってくるのだ。

 基地の拡張も物資の備蓄も簡単に出来るモノでは無かった。

 それでもドイツ人らしい不断の努力を積み重ねで、開戦から1週間で西部(フランス-ドイツ)戦線に開戦前の2倍近い戦闘機部隊を展開させる事には成功していた。

 とは言え部隊数こそ増えては居たが、戦闘投入可能な戦闘機数は開戦前の1.4倍と言う程度に留まっていた。

 フランスの航空攻勢は、航空装備技術の差以上に事前準備の差によって明確な結果を齎していた。

 航空優勢はフランスが握った。

 それをフランスが確たるものと理解した時、それがフランス陸軍前進の時であった。

 

 

――フランス陸軍/第1次ドイツ侵攻作戦

 初手は牽引式野砲の一斉射撃だった。

 国境線から10㎞程の全て、フランスの偵察部隊が把握したドイツ側の防衛拠点を全て耕す勢いで猛烈な砲撃が行われた。

 そして始まる進軍。

 フランスはアルザス・ロレーヌ総軍が攻勢の主軸を担う事となる。

 中でも装甲部隊を集めた第13軍は、貧弱なドイツの抵抗射撃をものともせずに前進した。

 国境線を突破した日、その日だけで第13軍は40㎞近い進撃に成功していた。

 他のアルザス・ロレーヌ総軍隷下の第1軍と第39軍も、その側面を支える形で進軍しており、30㎞を超えていた。

 初日の攻勢としては大成功であった。

 翌日も、その後も同じように出来るだろう。

 参謀本部でも前線でも、誰もがそう思っていた。

 参謀本部では大っぴらかにワインで乾杯し、前線の将兵もこっそりと持ち込んでいたワインを回し飲みして今日の勝利を祝い、明日の勝利を祝った。

 フランスが勝利の美酒 ―― その予感に酔いしれていたのは、その夜迄であった。

 翌日、国境線から50㎞を超えた時点で、ドイツ側の抵抗が頑強なものとなった。

 別段にコンクリートで固めた永久陣地が複数用意されていた訳では無い。

 塹壕が用意されていた訳でも無い。

 だがしっかりと作り上げられた野戦陣地が連なり、そこに大量の銃器や対戦車兵器、そして大口径の対戦車砲が備え付けられていたのだ。

 7.5㎝や8.8㎝もあったが、大多数は10.5㎝から15㎝であった。

 それが大量に陣地に設置され、攻撃してくる。

 ドイツ自慢の戦車は影も見せなかった。

 だが、陣地に籠った大口径砲の厄介さは、戦車とは別種であり、そして別格であった。

 フランスが前面に立てている55tの重戦車ARL40は重戦車の呼び名(クラス名)に相応しい防御力を誇っていたが、隠蔽された陣地から至近距離で四方八方より叩き込まれてくる大口径の徹甲弾(AP)成形炸薬弾(HEAT)に耐えられる程に頑強な訳では無かった。

 手ひどい被害を重ねていくフランス装甲部隊。

 10m進むたびに1両の戦車が脱落する、そんな戦いが繰り広げられる事となる。

 だが、それでも押し込むのはフランスだ。

 攻勢を続けているのはフランスだ。

 それ故に、フランス参謀本部では事態の深刻さに気付けなかった。

 だが前線部隊は異常を感じていた。

 1つは捕虜の少なさ。

 陣地まで迫られたドイツ陸軍は、それまでの頑強な抵抗を忘れたかのように何の躊躇も無く陣地を捨てて撤退する。

 戦死者こそ残しても、負傷者を残す事は先ずない。

 全くない訳では無い。

 だが余りにも少ない。

 異常と言えた。

 もう1つは、陣地に蓄積されていた弾薬や食料だ。

 少ない。

 とても少ない。

 元より放棄予定 ―― 数度の火力応酬後には放棄する予定だった、そう思っても不思議では無い程に弾薬も食料も陣地には少なかった。

 何より、野砲の鹵獲が無いのが不気味だった。

 後方部隊が撤退する隙も与えずに前進できていない事を意味するからだ。

 アルザス・ロレーヌ総軍の前進は続いている。

 表向き(広報で)は連戦連勝とされている。

 だが、前線に居るフランス軍将兵は己が勝利しつつあるとは思えて居なかった。

 

 

――ドイツ/西方総軍司令部

 フランスの攻勢を、ドイツ西方総軍司令部は諦観と共に受け入れていた。

 遅滞戦闘によってフランスの攻勢を制御し()()()()()()()()と引き込む事は予定通りであったが、にしてもフランスの進軍速度は事前の想定以上であった。

 どれ程に戦車や装甲車を撃破しても、遮二無二突進してくるフランス軍。

 この為、元々、遺棄も想定されて開発製造された安価な簡易対戦車砲*3を大量に喪失していた。

 1000だの2000だのと失った所で痛痒を感じない程度には量産していたが、それでもここまで失うのは予想以上であった。

 陸上の戦いは概ね、作戦通りであった。

 フランス軍の攻勢を正面から受け持つW軍集団の損失も、想定の範囲内には収まっていた。

 A軍集団及び第3軍集団によって、フランス軍が脇道に逸れる事も無い。

 そもそも、フランスが望むルール工業地帯への道へと誘導しているのだ。

 ()()()()()()()と認識する事も無かった。

 フランスは勝っている積りなのだ ―― 少なくともフランスの軍上層部、そして政府は。

 ドイツにとって問題は空の戦いであった。

 開戦劈頭から航空優勢を奪われ続けているのだ、黄色(ケルプ)作戦が第2段階に入った時までフランスの航空戦力が自由に動いていては、効果が半減する事が見えていた。

 この為、西方総軍司令部は直接にヒトラーへと掛け合い、ヒトラー自らが本土防空決戦戦力と命名していた虎の子の第2世代級ジェット戦闘機部隊の前線投入許可をもぎ取った。

 

 

――オランダ戦線

 日本の第2海兵旅団とブリテンの第7コマンド旅団が防衛戦に加入して以降、戦闘の天秤は一気にオランダ側へと傾く事となった。

 訓練と装備良好な機甲部隊は、オランダ軍に最も欠けていたものだから、ある意味で当然だった。

 たった2個旅団、されど2個旅団。

 特に日本の第2海兵旅団は3個の大隊戦闘団と予備の装甲中隊戦闘団とに分割されオランダ領内を火消し役に奔走した。

 中でも世界の耳目を集めたのは、増援としてオランダに到着したドイツ武装親衛隊(Waffen-SS) ―― 重装備を誇った第518SS重戦車大隊と第2海兵旅団装甲中隊戦闘団によるオランダの都市ユトレヒトを巡る戦いだ。

 無論、他にもドイツやオランダの歩兵師団が激しく戦火を交えてはいたのだが、両部隊の戦いは。

 片や戦闘重量が70tにも達しようかと言う最新の重戦車 ―― Ⅵ号戦車。

 片や戦闘重量は56tの比較的軽量な、日本の新鋭主力戦車 ―― 42式戦車。

 世界の注目が集まるのも当然であった。

 各国の観戦武官やマスコミが固唾をのんで見守った戦闘は、何の劇的なモノも無く終わる事となる。

 攻撃を仕掛けたⅥ号戦車は、遮蔽物の向こう側に身を顰め、或いは縦横に機動する42式戦車の姿を見る事も無く一方的に撃破されていった。

 冗談の様な戦いだった。

 42式戦車は走りながら発砲し、又は遮蔽物から出た途端に発砲する。

 通常であれば命中を期待する事など出来ない射撃が、確実に命中していく。

 対してⅥ号戦車は、十分に42式戦車を視認する事が出来ず、発砲はめくら撃ち状態であった。

 これでは命中を期待するどころか、至近弾すらも難しいのが実情であった。

 観戦武官やマスコミ、或いはドイツ軍戦車乗組員すらも何が起こっているのか理解する事は難しかった。

 とは言え、ドイツ側指揮官も全くの無能と言う訳では無い。

 正面からの攻撃(Waffen-SS)を囮としてのユトレヒト市の迂回包囲、そして突破を図ろうとしたのだ。

 だが、その動きを装甲中隊戦闘団がオランダ軍部隊と共に抑える。

 オランダ軍の指揮通信系統を装甲中隊戦闘団の通信小隊が代行する事で、速やかな部隊展開と戦闘とが可能となった結果だった。

 無論、装甲中隊戦闘団が受けていたUAVなどでの偵察情報のバックアップあればこそと言う側面もあった。

 かの如く、ネットワーク戦を可能とする未来型旅団(Type-2040Brigade)の戦力倍増要素とは恐ろしいものであるのだ。

 世界は日本の一端を知る事となる。

 尚、ユトレヒト市を巡る戦いは、この後、ドイツ側が撤退するまでの小競り合いで2日ほど続く事となった。

 

 

 

 

 

 

*1

 電撃部隊(エクレア)と俗称されていた対ドイツ部隊は、正式には改定され続けた戦争計画に則って第42計画軍(PlanⅩⅩⅩⅩⅡ野戦軍)なる名前が充てられていた。

 主力となる1つの総軍と側面を支える2つの軍集団、そして1つの戦車軍集団に分けて運用するのだ。

アルザス・ロレーヌ総軍

  22個歩兵師団

  4個機械化歩兵師団

  2個戦車師団

 第1軍

 第2軍

 

第4軍集団

  12個歩兵師団

  1個戦車師団

 第11軍

 第41軍

 第42軍

 

第9軍集団

  8個歩兵師団

  1個戦車師団

 第5軍

 第91軍

 

第7戦車軍集団

  4個機械化歩兵師団

  6個戦車師団

 第7軍

 第77軍

 

 

*2

 ドイツは対フランス用として集積させた戦力を西方総軍として1個の司令部の下で一元管理していた。

 全ては、緻密に練り上げられた攻勢防御作戦黄色(ゲルプ)の為であった。

西方総軍

 A軍集団

  10個歩兵師団

  3個自動車化師団

 B軍集団

  7個歩兵師団

  6個機械化師団

  1個戦車師団

 W軍集団

  30個歩兵師団

  4個自動車化師団

  2個戦車師団

 第3軍集団

  13個歩兵師団

  2個自動車化師団

 第1装甲軍集団

  8個機械化師団

  5個戦車師団

 

 

*3

 10.5㎝Pak 42及び15㎝Pak 43と言う2つの対戦車砲は1940年代初頭に、来るべきフランスとの決戦に向けて開発された対戦車砲であった。

 特徴は高性能を追求していない、と言う事である。

 特殊な鋼材を出来るだけ使わない様に配慮し、量産がし易い簡素な構造を採用していた。

 砲身命数すらも度外視する事が認められていた。

 とは言え、先行して(本命として)開発されていた10.5㎝Pak 42が、簡易と言う表現を用いるにはまだまだ贅沢な構造を残しており、設計図検討時に生産効率が予定を下回る事が想定された為、予備として開発されていた15㎝Pak 43の開発も加速させる事となった。

 15㎝Pak 43は若手技術者が中心となって開発されており、文字通りの意味で割り切った対戦車砲として生み出された。

 大重量砲弾で相手の装甲を叩き割る大威力砲は、そうであるが故に、次発装填を割り切っていた。

 装填時間を短縮できそうな設計を全て諦め、砲を安くする事を優先したのだ。

 その徹底ぶりに、兵士たちは15㎝Pak 43に一発屋(撃ったら逃げろ)と言うあだ名を与える程であった。

 

 




2021.05.21 文章修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

140 第2次世界大戦-07







+

 ドイツ西方空域でのドイツとフランスの航空戦は、フランスがドイツ領内に進むにつれてドイツ側優位になりつつあった。

 ドイツ側が後退する際に交通インフラを破壊しながら後退していたからだ。

 橋を落とし、道路に大穴を開ける。

 特に主要道路には徹底して行われていた。

 又、大規模なものでは、丘陵地帯に爆薬を仕掛けて人工的な山崩れすら起こして道路を封鎖していた。

 地形すら変える勢いで行われたソレは、地元経済に甚大な被害を与える事になるが、ドイツ軍は躊躇なく行っていた。

 日本などに比べて平らな土地と言っても過言ではないドイツであるが、やはり道路と比べれば丘陵や農地、その他を通れば物流 ―― 補給の効率が低下するのも当然であった。

 又、小さな道には何処其処に(対戦車地雷等)が仕掛けられており、()()()()()を行わねば安心して使えるものでは無かった。

 航続距離が長いとは言い難い第2世代型ジェット戦闘機の戦いは、距離の問題を無視できるものでは無いのだ。*1

 又、連日の出動によって交換部品の減少や、それに端を発した機材故障などのトラブルが続発する様になった事も、()()()()()()()()()()航空優勢争奪戦の低調化を齎していた。

 ジェット戦闘機の、である。

 両陣営ともに主戦力(ジェット戦闘機部隊)が駄目と成れば諦める程に戦意は低く無く、二線級の装備となっていたレシプロ戦闘機の部隊を前線へと投入ししのぎを削った。

 フランスは自前が駄目であるならばと、盟友(G4)であるブリテンと日本に航空部隊の配備を強く要請した。

 が、両国の反応は芳しいものでは無かった。

 共に、自国の部隊が戦っているオランダ戦線を優先したからである。

 特に日本は、この段階でヨーロッパに配備していた部隊規模が小さい為、ない袖が振れる筈も無かった。

 対してブリテンであるが、此方は協力自体は約束したのだが、地上(支援)部隊の展開無しに航空部隊を投入する事は難しい為、時間が必要であると言う返事であった。

 当然である。

 貴重な最新鋭ジェット戦闘機を、フランスの為に片道使い捨て上等で投入する程、ブリテンは有情な国家では無いのだから。

 アメリカにも相談したのだが、此方も協力自体は約束したが、早期というのは難しいと言う返事であった。

 フランスは友好国を一通り罵った後、戦力の集中と再編の努力を開始した。

 尚、ドイツは最新鋭のジェット戦闘機を保有する友好国が存在しない為、黙ったままに努力を続けた。

 

 

――フランス/アルザス・ロレーヌ総軍

 急進するアルザス・ロレーヌ総軍(フランス)W軍集団(ドイツ)の戦いは、交通インフラが破壊されている事もあって、ライン川を介する形で行われ続けた。

 如何にドイツとは言え川を破壊する迄は出来ない ―― そう見越しての事であった。

 又、ライン川は作戦の第1段階目標であるルール工業地帯へと繋がっている事も、好都合であったのだ。

 それはドイツにとっても()()であった。

 兎も角。

 遅滞戦闘(ジリジリと後退)をするドイツと、追撃(遮二無二の前進)を行うフランス。

 その流れはライン川とマイン川が合流する地点、マインツ市近郊まで続いた。

 マインツ市、そこをドイツ軍は大量のべトンや鋼材を用いて要塞化していたのだ。

 否、マインツ市だけではない。

 ダルムシュタット市やフランクフルト市までも連携する大要塞地帯と化していた。

 その全てが永久陣地と言う訳では無いのだが、丁寧に作られた塹壕や掩体壕は決して侮れるものでは無かった。

 それらは空からでは判らぬ様に、厳重な偽装が行われ、市民は大多数が強制的に避難させられ、戦いに備えていたのだ。

 ドイツ軍はこの場を決戦の地に選んだ。

 フランス軍の先遣(威力偵察)部隊は、一当たりした後にそう上層部に報告していた。

 報告にアルザス・ロレーヌ総軍司令部は踊りあがった。

 この時点でアルザス・ロレーヌ総軍は、保有する装甲機材の4割を損耗しており、フランス軍上層部では先鋒の役割の交代を検討しだしている状態であった。

 ()()()()()()()()()()

 前線の将兵たちは交代する事を望んでいた。

 フランスが押している側(攻撃側)とは言え、装甲部隊の被害は大きく、又、戦利品も少ない。

 勝っていると思わせてくれる、哀れな捕虜も殆ど居ない。

 後方からの補給は途絶えがちで、食事は冷たく十分な量が回る事は少ない。

 開戦前のフランス軍上層部がドイツの事を、一足で踏みつぶせる哀れな世界の敵(腐ったジャガイモ)と宣伝していたにも拘わらず、だ。

 戦意が下がるのも当然だった。

 だが上層部、特にアルザス・ロレーヌ総軍司令部 ―― 司令官の感情は違った。

 ドイツを消滅させる戦争の先鋒を仰せつかり、50万を超える大軍を預かり、戦功を名誉を稼ぐ機会であったにも拘わらず、それを成さず、ただ()()()()()()()()()に消耗し、名誉を他の人間に与えるなど認められる筈が無かった。

 配下の状態は把握していた。

 戦意が下がり、装備状態も良好とは言い難くなりつつある事は認識して居た。

 だからこそ、決戦を喜んだのだ。

 この戦いに勝利し、名誉と共に後続部隊 ―― 第2陣の第4軍集団へと交代しようと考えたのだ。

 個人の欲望が、アルザス・ロレーヌ総軍50余万の人間の運命を決めた。

 

 

――ドイツ/西方総軍

 フランス軍前衛部隊がマインツ市への攻撃を開始せり、そう現場の()3()軍集団司令部から報告を受けた西方総軍司令部は喝采を上げた。

 そして後方 ―― 開戦以来、国土が削られていく報告に胃を痛めながらも耐えに耐え、軍を信じていたヒトラーへ短い報告を行った。

『Rana esculenta』

 フランスでも一般的に食べられているカエルの名前、その意味するものは()()()()調()()()()()()()であった。

 返信はヒトラーの出す総統指令で最も短いものであった。

()

 意味する事は一つ。

 勝て、ただそれだけが返されたのだった。

 黄色(ケルプ)作戦が第2段階を迎える。

 

 

――マインツ会戦

 ドイツが誘い、フランスが乗ったこの戦い。

 初手は凡戦の構えであった。

 名誉欲に突き動かされたフランスであったが、無理な攻勢(ソンムの戦いの再現)を行ってでもと思う程に愚かでは無かったからだ。

 ドイツ側は勿論、防戦の一手であり、無理な反攻を行う筈も無かった。

 大量の対戦車砲はフランス側の戦車が攻め寄せるのを阻止した。

 だがフランスにはドイツに無い、絶対的な優位点があった。

 野砲の数である。

 ドイツは確実にフランス戦車を撃破できる点を重視し、野砲よりも対戦車砲の量産を優先していた。

 その悪い影響であった。

 そしてもう1つ。

 フランスが攻略側であるお陰で、野砲を自由に展開できると言う事であった。

 これは砲兵戦に於いて圧倒的な優位をフランスに与える事となった。

 大量の榴弾によってマインツ市外郭の火点や陣地を1つずつ丁寧に潰し、そして接近していく。

 その様は正に戦場の支配者であった。

 支配者の寵愛を受ける者が戦場では勝利者となる。

 寵愛(降り注ぐ榴弾)が敵の頭を押さえ、戦車が盾となって敵に迫り、そして歩兵が蹂躙する。

 ドイツ側も猛烈に反撃(カウンターバッテリー)を行うが、その発砲を捉えられて、反反撃(カウンター・カウンターバッテリー)を喰らう始末であった。

 又、籠っている場所が判っているのでと、猛烈なロケット弾攻撃も浴びせられた。

 それは建物を破壊しつくす勢いでもあった。

 ドイツの想定外、フランスにはマインツ市を確保する理由など無かったのだ。

 戦闘開始から3日で、マインツ市外郭の拠点は軒並み潰され、市内の建物も2割以上が崩壊していた。

 歴史ある建物、民家、教会や病院、細かい事を問わず片っ端から吹き飛ばす勢いだった。

 ドイツ側はフランスの余りの乱暴さに絶句する程であった。

 尚、フランスは、焼夷榴弾を用いないだけ有情であると胸を張っていた。

 この勢いで交戦が続けば、1月と持たずにマインツ市はフランスの手に落ちる、そう判断したドイツ西方総軍司令部は、やや準備不足 ―― 囮としてアルザス・ロレーヌ総軍の前に立ち続け、そして再編の為に後退していたW軍集団の一部が被害甚大による再編の遅れで再配置されていない事を看過し、反撃を決定する。

 主力はW軍集団。

 マインツ市へと取り付いているアルザス・ロレーヌ総軍の横っ面へ、戦車を先頭に立てて殴り込んだのだ。

 その際、それまで用意していた罠を発動させる。

 マインツ市周辺の大規模な建物、フランス軍が接収し指揮所にしそうな建物の地下に仕込んでいた爆薬を片っ端から発破したのだ。

 この罠が数日、或いは数週間で用意されたものならばフランスも気づいただろう。

 だがコレは何年も掛けて用意された罠だった。

 厳重に防水して埋められ、導火線も砲撃で掘り返せぬほどに地中深くを通っていた。

 ドイツ人の執念深さの結晶の様な罠であった。

 吹き飛んだのは建物だけでは無かった。

 道路も掘り返され、橋もその周辺の土地が崩れる程の爆薬が用いられた。

 地形を変える大爆破。

 そこからドイツ軍の反撃が始まる。

 マインツ市の近郊で身を潜めていたB軍集団が、W軍集団と共に、それまで温存していた機械化部隊、装甲部隊を前面に押し立てての攻勢に出る。

 秘匿していた電子戦部隊も、フランス軍の通信網を寸断する。

 ドイツ空軍も今が活躍の時とばかりに、攻撃機(対地攻撃任務機)を前線に出す。

 その様は正に大攻勢であった。

 対するフランスは、爆破の罠に巻き込まれたのは総兵力の1割にも満たない数であった。

 問題は、そこにアルザス・ロレーヌ総軍の司令部が含まれていると言う事であった。

 そして複数の師団司令部も吹き飛んでいた。

 そこに通信妨害が入るのだ、有体にいってワチャクチャであった。

 バイクなどで連絡を回復しようにも、道路も手荒く掘り返されており、短時間での連絡は不可能と言う有様。

 更には、ドイツ最精鋭の装甲部隊である第1装甲軍集団が側面 ―― シュツットガルト方面から、側面を支えてきたA軍集団と共にアルザス・ロレーヌ総軍をかき回したのだ。

 後備え(第2陣)に準備していたフランスの第4軍集団は、敵国領内に居ると言う緊張感を途切らせてはいなかったが、攻勢を行っているのは自分と言う意識からどうしても油断してしまっていた。

 そこに、大爆破である。

 幸い、第4軍集団司令部は移動中であったお陰で爆破に巻き込まれる事は無かったが、それでも幾つかの師団司令部は巻き込まれていた。

 その上で道路などが爆砕されたのだ。

 第4軍集団司令部は、これは尋常な事ではないぞと判断し、果断な決断を下した。

 前進である。

 後退を主張する参謀も居たが、第4軍集団司令官は断固として前進を宣言した。

 これはドイツの反撃の一矢であり、ここで下がればアルザス・ロレーヌ総軍の運命は決まるだろう。

 フランス男は戦友を見捨てない! そう言い放った。

 この腰の据わった指揮官の態度が、第4軍集団司令部から弱気の風(逃げ腰)を払った。

 だが、一般将兵はそういう訳にはいかない。

 前線から逃げ散ってくる将兵、そして追いかけてくるドイツ軍装甲部隊の群れの勢いに圧される事となる。

 被害を顧みない程の第1装甲軍集団の攻勢に、第4軍集団は最初の接触で甚大な被害を出す事となる。

 機材、特に戦車の数が余りにも違い過ぎたのだ。

 1個師団分の戦車しか隷下に置かぬ第4軍集団に対し、第1装甲軍集団には5個の戦車師団と8個の機械化師団が居るのだ、指揮官の性根や将兵の献身でひっくり返せるものでは無かった。

 しかも遮蔽物の少ない平地での衝突であり、又、第4軍集団の殆どは移動体制にあって陣地も何も無かったのだ。

 抵抗出来る筈が無かった。

 第4軍集団は総兵力の約40%を失うと言う大敗を喫して後退するのだった。

 この第4軍集団の後退に巻き込まれる形で、アルザス・ロレーヌ総軍の側面を支えていた第9軍集団も敗退する事となる。

 此方は、A軍集団と小競り合いをしつつ整然と後退する事に成功する。

 (A軍集団)(第9軍集団)の戦力差を冷静に見れば、戦車師団を持ったフランス側が有利であったが、下手に抵抗し敵中に孤立する事を恐れたのだ。

 この一連の戦いでフランスの誇る装甲部隊、第7戦車軍集団は活躍の場を得る事は無かった。

 予備戦力と位置付けられ、後方にあったと言う事が1つ。

 そしてもう1つは、指揮系統の問題であった。

 フランスのドイツ侵攻作戦には、その作戦部隊の全てを前線で統括する司令部が存在せず、全て後方からの指揮に頼っていた。

 第4軍集団にせよ第9軍集団にせよ、第7戦車軍集団に命令する権限は持っていなかったのだ。

 この為、両軍集団の情報を得たフランス陸軍参謀本部が第7戦車軍集団に命令を出す頃には後退する段階に入っており、何も出来る事が無かったのだ。

 とは言え、このままでは両軍集団に更なる被害が出る可能性がある為、その後退支援として前線に出る事を第7戦車軍集団司令部は上申した。

 日本製のJ36戦車(31式戦車)を前面に押し立てて反攻すれば、ドイツの逆襲とて粉砕も夢ではないとも判断していた。

 だが、フランス陸軍参謀本部からの返答は却下であった。

 フランス陸軍の最精鋭装甲部隊、虎の子と言ってよい第7戦車軍集団が()()()()退()()で傷つくなど許せなかったからだ。

 将兵の命も、名誉も考慮されていない指示を受けた第7戦車軍集団司令官は、黙って机を叩き、後退を命令したのだった。

 こうして4日に渡った交戦の末、アルザス・ロレーヌ総軍は後方との連絡を断たれ、マインツ市近郊で川とドイツ軍とに挟まれる形で孤立する事となった。

 とは言え、いまだ戦闘する余力は残していたが。

 司令部を突如として失うと言う大混乱を越えて、組織的戦闘能力を維持できていたのは、幸いな事にアルザス・ロレーヌ総軍隷下の第13軍司令部が無事であったお陰であった。

 上位、及び各軍司令部の人員が消息を絶った(戦死した)結果、臨時にアルザス・ロレーヌ総軍を預かる事となった第13軍は、その司令官の手足となって獅子奮迅の活躍をみせ、アルザス・ロレーヌ総軍の惨めな総降伏(サレンダー・モンキー)と言う恥辱だけは免れていた。

 ドイツ軍の反撃開始から4日目の時点でアルザス・ロレーヌ総軍は総兵力の65%を維持していた。

 とは言えこれはアルザス・ロレーヌ総軍、或いは第13軍司令部の能力にのみ帰する話では無い。

 ドイツ側(西方総軍)の作戦が、フランス領内への侵攻を睨んだ黄色(ケルプ)作戦の第3段階に移行したと言うのも大きかった。

 又、正面に立っていたW軍集団が予定よりも消耗が激しく、積極的な攻勢が難しかったと言うのもある。

 だが何より、そうやって見逃せる程にアルザス・ロレーヌ総軍が弱まっていたと言うのが大きかった。

 総員の65%を維持しているとは言え、意気軒昂で装備良好な部隊はその半数以下(約31%)であり、それ以外は大なり小なりの負傷を負っていた。

 であれば、W軍集団とマインツ市に配置された第3軍集団で対応可能、そうドイツは判断していた。

 

 

――マインツ会戦の終結

 フランスの攻撃から始まった一連の戦いは、最終的に9日間で終わり、ドイツの勝利として歴史に刻まれる事となった。

 ドイツ領内に侵攻していたフランス軍部隊は叩き出される勢いで戦線を後退させた。

 重装備を捨ててまで後退したフランスをドイツが追撃出来なかったのは、奇しくもフランスが重装備を捨てたのと同じ理由であった。

 インフラが破壊され過ぎていたのだ。

 如何な戦車、如何な無限軌道とは言え、この時代の装甲車の足回りでは荒れ果てた大地を自由に走り回るのは難しかった。

 又、戦車が前に進めたとしても、その補給部隊が追従出来ないと言う問題もあった。

 ドイツ人は少しばかりやり過ぎていた。

 兎も角、ヒトラーが上機嫌でアーリア民族の優秀さの証明と宣伝する程度には大勝利で終わったのだった。

 マインツ市近郊に残ったアルザス・ロレーヌ総軍を除けば。

 

 

 

 

 

 

*1

 ドイツのジェット戦闘機の航続距離が短い理由は、出来る限り機体を小さくし、同時に出来る限り出力の大きいエンジンを搭載した結果であった。

 これは、日本の戦闘機や爆撃機を仮想敵と定めた為、最高速度や高高度への上昇能力の要求が極めて厳しく、そして妥協せずに実現する事が最優先されたからであった。

 その代償が航続距離の短さと、兵装の少なさとなってしまっていたのだ。

 低燃費大出力エンジンの開発がドイツで難航していた事も、この原因となっていた。

 そして、ドイツ製ジェット戦闘機を仮想敵としたフランスのジェット戦闘機も、同じ病を抱える事となっていた。

 フランスも又、ジェットエンジンの開発改良で難航しているのだった。

 無論、ブリテンやアメリカからの有償支援を受けられる分、フランスはドイツに対して優位ではあったが、近年は陸軍の整備や海外県(植民地)の警備活動などに予算を喰われており航空機関連部門への投資は低調となっていた為、ドイツに対して圧倒的と呼べる程の優位性が無いのが実情であった。

 

 




2021.05.21 文章修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

141 第2次世界大戦-08







+

 フランスのドイツ本土進攻作戦が失敗に終わった影響は、決して小さいモノでは無かった。

 国際連盟が公式にドイツへ宣戦布告を行って約1ヶ月。

 その間に構築された戦線は4つあるのだが、その全てに影響を与えていた。

 ポーランドとドイツが正面から殴り合い続けている東部戦線。

 フランスが後退する事となった西部戦線。

 イタリアがバルカン半島を抑えつつある南部戦線。

 オランダ防衛に成功しつつある北部戦線。

 戦争の流れが変わる事となる。

 

 

――東部戦線

 ポーランド戦線は、頑強なポーランド軍の抵抗によってドイツ軍は前進こそ継続できていたものの、衝突力と呼べるべき力強さは喪失していた。

 ポーランド軍が退くからこそ進めている。

 当のドイツ軍 ―― 東方総軍司令部ですら、そう認識していた。

 その最大の原因は空であった。

 東方総軍の前進を支えた空からの支援、ドイツ空軍航空隊が航空優勢を握った事で行えていた自由な対地攻撃(空地連携による急降下爆撃)が、失われた結果であった。

 この原因は、西部(フランス)戦線に最精鋭のTa183装備部隊を含んだ主要な制空部隊が引き抜かれた事が発端であった。

 ドイツ空軍はポーランド航空部隊の戦力を見た上で決断を行ったのだが、それに前後する形で国際連盟支援部隊、フィンランド軍航空部隊が展開した事で計算(想定)が崩れたのだ。*1

 日本からの支援によって長足の進歩を遂げたフィンランド空軍であったが、その数的な主力はレシプロ戦闘機であった。

 とは言えドイツ空軍が甘く見れる相手では無い。

 日本製のF-6戦闘機、その最新型であるD型 ―― 1000馬力級エンジンからより大出力の2200馬力級エンジンへと換装した多用途戦闘機モデルであったからだ。

 重量が4割近く増大した大馬力エンジンはそれ故に大きくあり、エンジンのカウリングが歪に拡大している。

 重量増と空力特性の悪化を招いたモデルであったが、その馬鹿馬鹿しい程の馬力増大が問題をねじ伏せていた。

 流石に、最新の第2世代型ジェット戦闘機に対抗するのは難しいが、それら最新のジェット戦闘機部隊は西部戦線に引き抜かれて不在となったのだ。

 戦いの天秤が傾くのも当然の話であった。

 外見故に、空飛ぶ不格好等と言う不名誉なあだ名を頂戴したF-6D戦闘機であったが、黄昏を迎えたレシプロ戦闘機の時代に於いて、最後の輝きを見せる事となる。

 そもそもドイツはG4(フランス)との対決を前提に、航空部隊の主力機を早期にジェット戦闘機化を行う事に注力していた。

 この為、レシプロ戦闘機の性能向上などをなおざりにしていたのだ。

 列強(G4+ドイツ・ソ連)以外の国家はレシプロ戦闘機が主力であった為、ドイツ周辺の国々を牽制するだけならばBf 109などの既に生産配備済みの機体で十分だったのだ。

 多少の改修などは行われても、抜本的な強化は行われていない。

 この為、2線級の部隊が装備する1000馬力級エンジンの、1930年代後半に開発製造された機体では、F-6D戦闘機への対抗は難しかった。

 果たして、フィンランド航空部隊がポーランドに展開して1週間も経ずに、ポーランドの航空優勢は国際連盟側のものとなる。

 結局、甘く見ていた(舐めていた)のだ。

 ポーランド空軍の戦闘機が、ごく少数のF-10戦闘機以外はブリテンやフランスが製造販売していた1000馬力級エンジンの旧式化したレシプロ戦闘機であった事が理由としてあったとは言え、何ともお粗末な話であった。

 とは言え、当初はドイツ空軍側は大きな問題と見ていなかった。

 何故ならポーランド空軍やフィンランド航空部隊の大多数は制空戦闘機であり、ドイツ空軍の様な対地攻撃機、急降下爆撃機は余り保有していなかったからだ。

 西部戦線(対フランス戦)が片付くまでは、空は膠着していても問題は無い、地上のドイツ陸軍は優秀であり、独力で押し込む事も可能だろう ―― そう甘く見ていた。

 甘い見通しがひっくり返るのは、ドイツ側の航空優勢喪失から1週間も必要としなかった。

 空の脅威が消えた事で、ポーランド陸軍が()()()()()()に出たのだ。

 それまで厳重に温存し、運用するにしても小規模で行っていた野砲の投入を大規模に、そして集中的に運用しだしたのだ。

 元々の国土防衛計画としてもポーランド陸軍は地積の活用は重要視していた。

 空間を防壁とする為にドイツ国境線から戦線をポーランド国内へと引きずり込んで、ドイツ空軍機の活動が低下した時を狙って大反抗、守勢攻撃に出る予定であったのだ。

 増大した国力を注ぎ込み営々と作り上げてきたポーランド陸軍野砲部隊の規模は、ドイツ陸軍のソレを遥かに上回っていた。*2

 野砲だけでは無い。

 対地ロケット部隊も大量に用意していた。

 その最初の獲物は、東プロイセンより南下してきているドイツ東方総軍の北部軍集団の15個師団であった。

 歩兵師団を主力として編成されている北部軍集団は、ドイツ東方総軍司令部にとっては助攻であった。

 同時に、バルト三国などの国際連盟加盟国へのけん制も兼ねていた。

 ある意味で()()()()()()()()()と現状を捉えていた北部軍集団は、想定していなかったポーランド軍の反攻に慌てる事となる。

 歩兵師団と同数のポーランド軍砲兵師団 ―― 第1ポーランド砲兵軍集団による猛射は、北部軍集団の甘い未来予想図と一緒に、多くの将兵を消し飛ばした。

 

 特に凶悪だったのは反撃部隊に先行して偵察を行っていた軽装騎兵、浸透偵察部隊であった。

 自衛用のピストルを右手に左手は手綱を。

 胸からは双眼鏡を下げ、そしてコンパクト大出力な日本製の通信機を背負っただけの彼らは、極々少数の集団で秘密裏に北部軍集団の前衛に居た第48軍の後方へと迂回侵入し、軍および師団司令部その他の重要部隊の位置を調べ上げたのだ。

 その情報あればこそ、第48軍への砲撃が極めつけに効果的に行われたのだ。

 更には、準備砲撃で混乱した所へ戦車部隊が強襲した。

 事前偵察によって師団と師団の隣接点を突く形で突破し、そのまま後方をかく乱。

 混乱し果てた所に歩兵師団が前進し、排除に掛かる。

 幾度も行っていた演習の成果が発揮され、瞬時と呼べる程の短さで壊乱する第48軍。

 そして第48軍の壊乱、その混乱の波及を受ける形で、隣接していた第47軍も混乱する。

 そしてポーランド軍の別動部隊が、その後方へと侵入し包囲に掛かった。

 熟練の指揮官に率いられていた第47軍は混乱下での現有地点の維持は困難であると判断し、被害を限定させる為、後退を決断した。

 問題は、その後方にすらポーランド軍が浸透制圧を掛けていると言う事だった。

 最終的にポーランド軍内に孤立した第47軍は降伏する事となる。

 第48軍が壊滅し、第47軍が包囲された事によって、北部軍集団は主要部隊の7割を失った。

 この為、北部軍集団司令部は東プロイセン防衛の為として後退を決断する。

 既に北部軍集団司令部最後の手駒である第71軍も練度と装備共に優秀なポーランド軍前衛(装甲)部隊との戦闘が始まっており、そこでポーランド軍の戦意を知った北部軍集団司令部が、自分たちも第47軍の惨状を再演する事を恐れたのだ。

 北部軍集団に本来要求されていた事 ―― 自由ダンツィヒの回復とポーランドの海の玄関口の掌握、そしてバルト三国に対するけん制を思えば、ある意味で正しい選択でもあった。

 1個師団に対し、進軍してくるポーランド軍への抵抗と、後退してくる第48軍や第47軍の残余を吸収する様に命じ、全力で後退していた。

 この殿の1個師団が生還できた理由は、ポーランド軍歩兵師団による圧力 ―― 攻撃こそ受けても、戦車を先頭にした大規模な強襲を受けなかったと言うのが大きい。

 これは、ポーランド軍による攻撃が北部軍集団の後退、そして東プロイセンまで追い込んで無力化することが目的であったからだ。

 見事に目的を達成したポーランド軍。

 これで北部からの圧力から解放されたポーランド軍は、ドイツ東方総軍(東部戦線)の主力である中央軍集団の撃滅に取り掛かる事となる。

 

 

――西部戦線

 フランスとの陸軍大国同士の真っ向からの殴り合いに関して言えば、ドイツ軍が()()()()()影響が果てしなく大きかった。

 インフラの破壊だ。

 橋を落とし道路を崩す。

 道路以外にはそこかしこに地雷まで埋設すると言う念の入れよう。

 その余りの酷さは、フランス軍参謀本部が後退する各部隊に対して戦車や装甲車などの装軌車両以外の車両の放棄を必要な場合に於いて許可するという程である辺り、状況の酷さが見て取れていた。

 その装軌車両であるが燃費の悪さが災いし、ドイツ軍の追撃を逃れる為に放棄せざるを得ない事態が度々、発生していた。

 後退 ―― 事実上の敗走なのだ。

 後衛部隊への燃料弾薬の補給が通常通りに行える筈が無かった。

 最初は丁寧にエンジンや主砲などを爆砕してもいたのだが、後退が続く中ではそれも難しくなる。

 そもそも、後衛戦闘の最中の戦車などの放棄となれば敵の眼前なのだ。

 そんな事をする余裕が無い状況も多々発生すると言うものであった。

 少なくない量の戦車、装甲車をドイツ軍は手に入れる事となる。

 これに遺棄されたトラック等の装輪車両が加わり、更には食料や燃料、果てはワインなどのアルコールが加わるのだ。

 ドイツ軍将兵はフランス軍の遺棄物資を戦地特配(ナポレオン・ボーナス)と呼んでいた。

 問題は、それらを得た事による進軍速度の低下であった。

 インフラを破壊し尽くした状況での追撃戦自体は想定通りであり、事前に用意していた特別部隊 ―― 機械化工兵部隊も十分に活躍していた。

 だが、前衛となって前進していた部隊が、この戦地特配を自部隊のものとして独占的に確保しようとしたのだ。

 別段、個人的な分け前を欲したと言う理由では無い。

 只、それまでの戦いでフランス軍の装備の優秀さを理解したが為、わき目もふらずに前進するよりも、少しでも戦地特配を確保し、戦力の増強を図ろうとしたのだ。

 ある意味で正しく、ある意味で間違った選択。

 その結果、ドイツへ侵攻していたフランス軍は壊乱を避ける事が出来たのだった。

 仕切り直しの様な様相を呈している西部(フランス-ドイツ)戦線。

 問題はドイツの中に孤立し、包囲されたアルザス・ロレーヌ総軍であった。

 マインツ市、マインツ要塞の一部を掌握出来ていた為、雨露を凌ぎ、ある程度の防衛体制の構築には成功していたが、それでもドイツ軍の重包囲下にあると言うプレッシャーは大きかった。

 30万を超える将兵は辛抱強く友軍による解囲を待つ事となる。

 そしてフランス本土でも、このアルザス・ロレーヌ総軍の解放は重大な政治的案件となった。

 万難を排して解放せよと、フランスの大統領は陸軍に対して厳命する事となる。

 だが、命令されたからと言って簡単に出来る話では無かった。

 戦力自体はある。

 壊滅した第4軍集団は兎も角として、ほぼ無傷で後退してきた第7戦車軍集団や第9軍集団はすぐさまに再出撃が可能だからだ。

 問題は解放部隊の進軍路であった。

 道はあった。

 第42計画軍(PlanⅩⅩⅩⅩⅡ野戦軍)策定時に検討されていた予備の侵攻ルート、メッス市を起点としてザールラント地方を経由してルール地方へと侵攻作戦が検討されていたのだ。

 行動計画自体は確としたものが既に用意されていた。

 採用されなかった理由、ライン川流域を介した侵攻ルートが選ばれた理由は、何か大きな問題があったからではない。

 そこにライン川があるからであった。

 補給などでライン川の水運を用いる事が重視された結果だった。

 問題は、ドイツによる自爆的インフラ破壊戦術だった。

 航空偵察によって、このザールラント地方を介した侵攻ルートでも相当な道路などの破壊が行われているのは判明している為、埋設されている事が予想される地雷や残置爆薬の問題があったのだ。

 故に、()()()()()()()()()()()()()()()

 日本に。

 フランス独力でも道路の復旧や地雷除去は可能である。

 だが、それがアルザス・ロレーヌ総軍を救うのに間に合うかは別問題であった。

 だから日本だった。

 フランスとの契約に基づいて、WWⅠの古戦場(汚染)地帯回復作業の為に配置されていた日本の工兵部隊、第1装甲施設(旅団)を求めたのだ。

 高度に機械化され、自動化されている第1装甲施設団であれば、道路の回復と地雷や残置爆薬の除去まで同時に行う事が出来る、そう考えての事であった。

 実際、21世紀型の非対称戦争への訓練として、地雷やIED対策用の機材も持ち込んでいた第1装甲施設団であれば、そう難しい任務では無かった。

 とは言え、日本は即答しなかった。

 問題が1つ、あったのだ。

 フランスとドイツが真っ向から衝突する現場へ、フランス軍の指揮下で入ると言う。

 友軍としてフランスを信用してはいる日本であったが、自国の将兵の命が係わる問題である為、軽々しい返答は出来なかったのだ。

 数日の折衝の結果、護衛としてフランス陸軍1個機甲師団が、第1装甲施設団の指揮下に入ると言う事で決着が付く事となる。

 フランス陸軍部隊が他国の指揮下に入るのは前代未聞の事であったが、それだけ、アルザス・ロレーヌ総軍の解放と言うのは政治的な重さを持っていたのだ。

 尚、これに伴って第1装甲施設団の団長は、この任務期間は陸将補(少将)から陸将(中将)配置陸将補へと昇格する事となる。

 そして指揮下に入るフランス機甲師団の師団長、及び幕僚団は臨時に1階級下の階級を帯びる事となる。*3

 非常時の指揮権の明確化の為の措置であった。

 それ程に、フランスはアルザス・ロレーヌ総軍の救助を望んだのだった。

 

 

 

 

 

 

*1

 カレリア地峡紛争の終結後、日本はソ連への牽制を主目的としてフィンランドとの間に自衛(軍事)支援協定を締結し、各種支援を行っていた。

 日本にとってソ連は、日本連邦とシベリア共和国を安定させる上で必要不可欠な()()()()()()()()()であり、そして倒すに易い国でもあった。

 だからこそ、日本はフィンランドを支援するのだ。

 やぶれかぶれとなったソ連政府が乾坤一擲の大博打、対日宣戦布告など出来ない様にバランスを取ろうとしたのだ。

 程よい形での左右からの圧力。

 少なくとも日本人はそう考えていた。

 戦闘機や戦車、野砲にトラックなどの友好国価格での提供と、共同軍事演習も行った。

 日本の支援の詳細を知ったスターリンは休肝日を設定し、それ以外の日は夜遅くまで痛飲する様になった。 

 

 

*2

 ドイツ陸軍は主敵をフランスと定め、その準備に邁進していた事が、このポーランド陸軍との野砲戦力の圧倒的な格差に繋がっていた。

 ドイツ陸軍はドイツの砲生産能力を、野砲よりも対戦車砲を量産する事に注いでいたのだから。

 フランスが呆れる程に鹵獲した、後退するたびにドイツが陣地に放棄していった対戦車砲の理由であった。

 

 

*3

 この日本フランス合同部隊に於ける階級章問題は、その後の国際連盟での合同軍事行動などの際にも、少なからぬ尾を引く事となる。

 それは、自衛隊の将官の階級の少なさである。

 日本連邦統合軍だけで動く時代は簡単であったが、国際連盟として動くとなればそういう訳にもいかない。

 後に日本政府は、将官の階級を再編成する事となる。

 但し、日本だけで行うのではなく、G4及び国際連盟加盟国間での合同作戦に向けた再編成としての整理統廃合であった。

 

 




2021.06.14 文章修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

142 第2次世界大戦-09






+

 イタリアにとって対ドイツ戦争(ポテトマッシャー・ウォー)未回収のイタリア(旧ヴェネチア共和国領)回復だけが目的であり、それ以上の()()は過大 ―― 将来への禍根となる、それがムッソリーニの判断であった。

 不安定な(主無き)バルカン半島の掌握は、領土拡大と言う名誉欲こそ充足できたとしても、その統治コストで早晩に放棄せざるを得ないだろう事は目に見えていた。

 イタリアはG4との貿易によって繁栄を謳歌しているのだ。

 イギリスやフランスに売る資源も出なければ、日本に売れる工芸品の類も政情不安から安定して生産できない土地など、有体に言って不良資産でしかないのだ。

 国内の安定と経済の繁栄によって国民からの圧倒的な支持を得ているムッソリーニは、領土の拡張による支持集めなど不要であるとも言えた。

 では、対ドイツ戦線はどうかと言えば、此方も、正直な話として乗り気には成れなかった。

 ドイツ軍が恐ろしいと言う訳では無い。

 重戦車の類に関して言えば劣勢ではあったが、中戦車では互角と言う自負があった。

 国産戦車の開発配備を行うと共に、オイルマネー(リビア油田)の力でブリテンやアメリカ、果ては日本から戦車や対戦車車両を買い漁っているのだ。

 イタリア単独でドイツと戦争をするのは難しくとも、国際連盟の一員として戦うのであれば全くの不足は無かった。

 だが、政治的に言えば別となる。

 対ドイツ戦争を渇望していたフランスが居るのだ。

 ドイツと言う国家を解体したいと虎視眈々と狙っているフランスが居るのだ。

 そんなフランスが居る戦争で積極的に活動し、活躍し、睨まれては堪らない。

 そうムッソリーニは考えていた。

 あくまでもイタリアは国際連盟の善意ある加盟国であり、G4の忠良なる友好国であり、なによりもフランスの善良なる隣国 ―― そのスタンスを崩す訳にはいかないのだから。

 その為にムッソリーニは、フランスに対しては別個で特任連絡武官を派遣し、国際連盟の枠の中でフランスの要請を()()し動くと言う形を取る程であった。

 フランス一強の時代のヨーロッパ大陸で生き残り方を考えての事であった。

 かの如く、気は使うが戦争の正面に立つつもりのないイタリアは、ある意味で気楽な形で戦争に臨んでいた。

 その目論見が潰えたのは、無論、フランスのドイツ侵攻作戦の敗北によってだった。

 

 

――フランス - イタリア交渉

 フランスはドイツ領内に孤立しているアルザス・ロレーヌ総軍救出の為の助攻をイタリアに要求する事となる。

 できるだけ早く、できるだけ大規模に。

 可能であればマインツ市近郊まで突進して、解囲し、救出してくれても構わない。

 そこまでフランスは言い切っていた。

 対価として、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()とまで断言していた。

 フランスとしては大盤振る舞いという積りの話であった。

 だがイタリアからすれば、簡単に言うなと言う話であった。

 基本として守勢防御であり、必要であれば攻撃も行うと言うスタンスで戦争準備を行ってきたのがイタリア陸軍なのだ。

 物資の備蓄も、備蓄した物資の配送計画も、全てが国内が基本となっていたのだ。

 この体制を攻勢攻撃に切り替えるのは一朝一夕にできる事では無かった。

 特にイタリア陸軍は予算を正面装備に偏重し、その対価として後方部隊の自動車化などが殆ど行えていなかったのだ。*1

 フランスの要求に即答出来ないのも当然であった。

 フランスの反発を買わぬようイタリアは、自身の弱点とも言える後方段列の貧弱さを明け透けに説明していた。

 現在の体制では100㎞や200㎞は前進出来たとしても、とてもでは無いがマインツ市まで戦力として部隊を到達させる事は難しい。

 恐らくはボーデン湖近郊まで押し上げる事が精々であると言い切った。

 そもそも、南方からのマインツ市を目指す場合、ドイツですらも移動に難儀をする程にインフラが破壊されたライン川周辺を通る事となるのだ。

 冷静に考えて、簡単な話では無かった。

 とは言え、互いの立場の差故に、フランスの要求を全却下する事はイタリアには難しい。

 故に、多少の時間を貰い、助攻を行う事は可能であるとして交渉する事となる。

 ある種、緊張感をもって交渉に臨んでいたイタリアに対してフランスの本音としては、マインツ市解放と言う目標は駄目で元々、可能であれば程度の腹積もりであった。

 自軍が苦戦したドイツ陸軍をイタリア陸軍が排除しマインツ市へと打通する事は難しいだろうとの、ある種の見下しがあったのだから。

 フランスの真の目的は、イタリア軍のドイツ本国への攻撃であった。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()にあった。 

 本命である日本フランス合同部隊による解放作戦に向けた囮 ―― ドイツ軍の予備戦力をドイツ南部域(イタリア戦線)に投入させれば良いと言う認識であったのだ。

 正しく傲慢(支配者の態度)であった。

 それ故に、イタリアとしてはあっさりとした形で要望が通る事となった。

 通ったからには行わねばならない。

 イタリア軍ドイツ侵攻作戦(トォオーノ)が始まる事となる。

 

 

――フランス

 主攻である日本との合同軍と助攻であるイタリア軍。

 解放作戦自体の実行が決定しても、それまでの間、決してフランスは余裕をもって準備が行えた訳では無い。

 アルザス地方からの突破を図ってくるドイツ軍への応戦、予備部隊の早期の戦力化、そして何よりもマインツ市のアルザス・ロレーヌ総軍への支援があった。

 解放部隊が到着するまで抗戦できるように、武器弾薬食料を補給し続けねばならぬのだ。

 その手段は空であった。

 輸送機による緊急補給作戦(Operazione = Canna da pane)である。

 フランスが保有する輸送機、そして爆撃機にまで物資を満載し、マインツ市へと運び込むのだ。

 とは言え、規模が足りない。

 30万を超える将兵が必要とする量を届けるには機体数が圧倒的に足りなかった。

 それ故にフランスはブリテンやイタリア、そして日本にまで輸送機の融通を願う事となる。

 否、輸送機だけでは無い。

 マインツ市へと輸送機と爆撃機を流し込む、空中回廊を確保する為の戦闘機部隊も欲したのだ。

 ヨーロッパ西部戦線での航空戦の天秤は、この時点ですでにフランス側に傾いては居たが、それは、鈍足な輸送機が安全に飛べる空であると言う事と等しい訳では無かった。

 ドイツ領内の航空基地破壊を図るフランス軍爆撃機部隊は少なからぬ被害を受け続けていたのだから。

 そして、マインツ市への物資空輸 ―― 空中回廊の保全に限っても同じ事であった。

 甚大な被害が出る訳では無い。

 だが、決して無視できる規模の被害では無かった。

 又、この空中回廊の護衛行動は、フランスの戦闘機部隊から行動の自由を奪う事となり、それまでの航空優勢確保戦に比べて段違いに大きな被害が発生する事と繋がっていた。

 それ故の戦闘機部隊の増派要請であった。

 国際連盟安全保障理事会戦争補完委員会を介して行われた要請に、ブリテンとイタリアが応じる事となる。

 ブリテンはオランダ方面に投入する事の難しい、ブリテン本島内で無聊をかこっていた足の短いジェット戦闘機部隊を派遣する事を約束した。

 イタリアは余裕の少ない中であったが、フランスへと阿る為に戦力の派遣を受け入れたのだ。

 この他、アメリカも支援に応じる事は述べて居た。

 とは言え、如何せん戦力の移動が大変である為、フランスが必要とする即座(イミディ)性に乏しい事から当てにする事は無かった。

 3ヵ国の航空部隊によって生み出された空中回廊(コリドー)をもって行われたマインツ市への空輸作戦。

 最初は、マインツ市に空港設備が無かった為に空中投下が主であった。

 だがそれでは効率が悪かった。

 投下による破損、損耗は結構な割合に上るからだ。

 故に、野戦空港が作られる事となる。

 日本が投入したC-2輸送機で強行着陸を行い、急造用の鉄板や各資材や建築機材を持ち込んで野戦空港を造成する事とした。

 非常造成作戦、一夜城(オペレーション スノマタ)である。

 この時代の輸送機や爆撃機などとは比較にならぬ、30tを優に超えるC-2輸送機の輸送力を背景にした力技であった。

 C-2輸送機の速度と不整地着陸能力あればこそとも言えた。

 とは言え、着陸先の下調べも殆ど出来ぬままに投入する事となるC-2輸送機に関して、日本は全損 ―― 廃棄すら覚悟していた。

 ハイリスクな作戦。

 だが、フランスにとってアルザス・ロレーヌ総軍が全て失われるリスクを理解するが故に、日本はヨーロッパに持ち込んでいた全てのC-2輸送機、20余機あまりを投入した。

 その護衛に、日本はオランダの防空から戦闘機部隊を抽出し、護衛に付けた。

 又、温存していた爆撃機と大型誘導爆弾(2000ポンド精密誘導爆弾) ―― JDAMをもって、ドイツ国内の空港に片っ端から大穴を開けていったのだ。

 通常弾頭であるので復旧自体はそう難しくは無いが、如何せん2000ポンド(925kg)と言う重量級である為、機力をそう使()ぬ状況では、破壊された滑走路の回復は数日どころでは無い時間が必要となるのだ。

 更には、復旧作業中にも日本はブリテン空軍と共に爆撃(ハラスメント・アタック)を繰り返し、復旧を阻害したのだ。

 一夜城作戦は、対ドイツ戦争前半における最大規模の航空作戦となった。*2

 

 

――ドイツ

 突如として国内西部域で始まった未来的な航空戦は、ドイツ空軍に手痛い被害を与える事となった。

 前線の航空基地が片っ端から機能を喪失していくのだ。

 幸い、厳重な隠ぺいが行われている格納庫や燃料弾薬庫への被害は少なかったが、滑走路を破壊されてしまえば戦闘機が飛べる筈も無かった。

 これでは抵抗しろと言うのが難しかった。

 ドイツとて手をこまねいていた訳でも無く、垂直発射型の極極地防空戦闘機などの開発を行ってはいたが、この1944年の時点ではまだ技術実験の段階であった。

 ドイツの航空関連資材と人材とが、真っ当な戦闘機 ―― 第2世代型ジェット戦闘機と空対空誘導弾の開発に集中していたのだから仕方の無い話であった。

 又、そもそも、1930年代からのユダヤ系を筆頭とした頭脳流出がドイツの工業分野での力を奪っていたと言う側面も大きかった。

 図面をひける研究開発者は居ても、図面を具体化する技術者のレベルで人材が深刻な枯渇を起こしていたのだ。

 これでは如何にヒトラーが声を張り上げても、或いは空軍大元帥が脅しても、開発がスケジュール通りに成される筈も無かった。

 無い袖は振れぬのだから。

 現実を把握したヒトラーは痛飲した。

 このままドイツの空(航空優勢)を奪われてしまえば、フランス国境線地帯へと押し返した前線がドイツ領内へとまた押し込まれてしまうのではないかと危惧したのだ。

 そして戦争で負ける、そう直感したのだ。

 この為、戦局を挽回させる事を目標として、フランス国内への早期侵出 ―― 守勢攻撃をドイツ陸軍に対して厳命する事となる。

 慌てたのはドイツ陸軍である。

 確かにフランス国内への侵攻作戦自体は準備中であったが、ドイツ-フランス間の物流インフラの回復が成されていないのだ。

 各部隊は手持ちの物資だけでは、撤退したフランス軍の遺棄物資を回収しているとは言え各部隊は1週間と戦えない。

 これでは負ける為に戦う様なものだと言うのが認識であった。

 後1月、せめてそれだけの準備期間が必要と言うのが、西方総軍と国防軍最高司令部の判断であった。

 だが、その主張にヒトラーは首を縦に振らなかった。

 それでは遅すぎると感じたのだ。

 国際連盟軍 ―― ドイツ空軍からの報告によって、西部戦線に投入されているのがフランスのみならず日本、ブリテンやイタリアが居る事を認識したヒトラーは、これが一時的な攻撃ではない、一大攻勢の前触れであると認識していたのだ。

 西方総軍と国防軍最高司令部からの使者、将官を前に()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()であると宣言したのだ。

 その上で、ドイツの生存の為に西方総軍をすり潰しても構わぬとすら断言していた。

 目的は支配する為の攻撃(攻勢攻撃)では無く敗北から逃れる為の攻撃(守勢攻撃)であると。

 ここまで言われてしまえば、ドイツ陸軍に抵抗する術は無かった。

 とは言え全くの無準備で出来る話では無い為、1週間だけ猶予を貰い、その上でフランス本土侵攻作戦赤色(ロート)を発動する事となる。

 

 

――イタリア

 フランスからの要請(事実上の命令)を受けて行われた(トォオーノ)作戦は、泥縄と無謀とが渾然一体となった攻撃であったが、初動に於いては大勝利を得る事となる。

 ドイツ側も、まさかイタリアが攻勢に出てくるとは想像していなかったのだ。

 イタリア如きがドイツに積極的に歯向かってくる事は無い。

 そんな、ある種の傲慢さが生んだ隙をイタリアの切っ先が突いた形であった。

 ドイツの前線部隊を蹂躙し、1日だけで20㎞に迫る距離を押し込む事に成功したイタリアであったが、調子に乗る事は無かった。

 雷総軍司令部もイタリア陸軍上層部も、そしてムッソリーニも、無理をする積りは一切無かったのだから。

 戦後を見据えた、フランスに阿る作戦ではあるが、その程度の為にイタリア男子の血が流れる事を良しとする程に、フランスに()()()()を抱いている訳では無いのだから。

 それどころかブリテンへの接触を強め、交渉を重ねていた。

 ムッソリーニが、ブリテンと言う国家がヨーロッパ大陸に団結した勢力が出来上がる事を望まないであろうと言う事を正確に把握しての行動であった。

 将来のヨーロッパで獅子身中の虫となる対価として、ブリテンの協力を要求する ―― それが狙いであった。

 外交こそが、この戦争の時代における政治家の戦場であった。

 

 

 

 

 

 

*1

 イタリアとてこの弱点を看過していた訳では無く、ドイツとの戦争が勃発して以降は日本からMLシリーズの導入を図り改善を目指してはいた。

 だが、如何せんこの時点では発注合意書が日本の工場に届くか届かないかと言う状況であり、物資の輸送は文字通りの馬車頼りと言う有様であった。

 それでも国内であれば鉄道インフラを利用する事で、機械化部隊が必要とする燃料その他を前線へと送る体制が整えられてはいた。

 

 

*2

 本作戦まで日本が爆撃部隊の投入を()()していた理由は、本格的な攻勢を前にドイツ側に日本の爆撃関連情報を与えない為であった。

 電波情報は勿論、爆弾の威力も又、ドイツ側が日本の爆撃に対応しようとする際には重要となってくるからだ。

 とは言え、この時点でフランスがドイツに万が一にも折れてしまった場合、戦争計画自体が1から組みなおしになり、掛かる予算の桁が上がる危険性がある為、軍事的な要請よりも政治側の要請に基づいて、ドイツ領内への爆撃作戦は実行されたのだった。

 

 尚、フランス政府がドイツに折れる可能性に関して日本政府は、極めて低いと判断していた。

 だが、フランスも民主主義国家である以上、民意が折れてしまえば政府が抵抗する事は難しいとも判断していた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

143 第2次世界大戦-10







+

 総統の勅命(総統閣下の馬鹿野郎)によって、用意の整わないままにフランス本土侵攻を強いられる事となったドイツ西方総軍は、師団長級以上の将官を集めて総員に(ロート)作戦の真なる狙いを告げた。

 ある種のヤケクソ、或いは生贄に対する贖罪であった。

 時間を稼ぐための攻撃。

 成功は目標としていない。

 フランス、国際連盟の動きを阻害する為だけの全滅をも想定した攻撃。

 その重い現実を前に口を噤める程に西方総軍司令部は冷徹ではいられなかったのだ。

 只、であるからこそ西方総軍の上級指揮官達は(ドイツ)の置かれた状況を正しく認識し、献身を発揮する事となる。

 

 

――フランス侵攻作戦(ロート)

 無限軌道(キャタピラ)の力技で整備の整わぬインフラを踏破し、取りあえず装甲部隊だけは前線にかき集める事に成功した西方総軍。

 その動きをフランスは正しく把握していた。

 只、その意図を正しく把握する事は出来なかったが。

 自分たちこそが攻撃側であると言う認識に立脚し物事を見ていたのだ。

 であるが故に、このドイツ側の動きも防衛体制の強化にしか見えなかった。

 前線部隊に気の緩みは無かったが、上層部はマインツ市への空輸作戦や解放作戦に注視し過ぎていた。

 又、近日を予定しているイタリアのドイツ領侵攻作戦(トォオーノ)が発動すればフランスへと能動的に動くだけの余力がドイツには無いだろうと言う判断もあった。

 合理的な判断と言えるだろう。

 問題は、相手であるドイツが総統命令によって合理性を捨てた行動に出たと言う事であった。

 そして前線にあった兵力の差を失念していたと言う事だろう。

 ドイツ側はアルザス・ロレーヌ総軍との戦闘での消耗と、マインツ市の包囲に戦力を割かねばならぬ関係から、攻撃に出た西方総軍の総兵力は約87万、各師団合わせて46個もの大戦力であった。

 対するフランス側は、アルザス・ロレーヌ総軍が敵中に孤立し、その救援に部隊を割いている為、西方総軍に指向出来た戦力は32万に満たない規模であった。

 師団数で言えば17個師団。

 ドイツとの戦力比は2倍を超えていた。

 2倍を超える戦力が遮二無二、損害を考えずに突進してくると言う事をフランス上層部は少し甘く見ていた。

 特に先頭に配置された重戦車群 ―― 69.8tにも達するⅥ号戦車と、67tにも達するⅣ号戦車の改良型であるⅦ号戦車は、速度こそ遅いが、身に纏った重厚な装甲がフランスの主力戦車砲である90㎜砲の砲弾をはじき返し、進軍を止める事は無かった。

 逆に、ドイツ側のⅥ号戦車の長砲身8.8㎝砲とⅦ号戦車の10.5㎝砲は命中すればフランスのARL40重戦車の装甲を容易にぶち抜いていた。

 これは、ドイツとフランスの技術格差に起因したものでは無かった。

 逆に、装甲 ―― 製鉄技術と言う意味では、日本の影響を受けているフランスの方が優位であった。

 ただ如何せん重戦車に対する両国の認識の差がこの結果に繋がったのだ。

 フランスにとって重戦車とは、(主力)戦車の運用を支援する重装甲車両であった。

 即ち、装甲も重要であるが、ある程度は中戦車や装甲車などと一緒に機動戦が出来る能力が要求されていると言う事を意味していた。

 対してドイツにとっての重戦車は、強烈な敵戦車との交戦(抗戦)を前提とした、ある種の移動可能な防護拠点であった。

 それ故に機動性は必要最低限度に割り切られ、その分、装甲に重点が置かれていたのだ。

 言ってしまえば、フランスの重戦車は攻勢向けであり、ドイツの重戦車は守勢向けであった。

 その差が、想定とは違った攻守で行われた戦いで明確化したのだ。

 足を止めての殴り合いを強いられたフランスの重戦車は、装甲の薄さが問題として露呈した。

 前進し攻撃する事を命じられたドイツの重戦車は、被弾による撃破よりも足回りの故障などで擱座する事が相次いだ。

 ある意味、戦争と言うものは相手が居るものであり、自分勝手な事前な想定と言うものは通らないと言う事を示すようなものであった。

 

 

――フランス

 ドイツによる被害を考慮しない大攻勢に大いに慌てる事となる。

 被害を無視した攻勢を受けてしまえば、数的不利が持つ意味が重くのしかかってくるからだ。

 慌てて、後方で再編成中だった砲兵部隊を前線へと動かした。*1

 これに対してドイツも、フランス軍が遺棄した野砲をフランス砲(フロックス・アルティレリー)と名付けて持ち込み、応戦した。

 対戦車砲を優先したが為、数も揃わぬ旧式の野砲が主力であったドイツ野砲部隊にとって、弾薬も含めて鹵獲できたフランスの新鋭野砲は慈雨にも似た存在であった。

 フランスの地で、フランスの砲をもって行われる熾烈な砲撃戦は、何とも皮肉めいた戦いであった。

 とは言え、当事者たちにとっては命が懸かっている。

 皮肉でも冗談でも無い現実なのだ。

 フランスは更に、温存していたJ36(31式)戦車の投入を決断する。

 将来に起こるであろう決戦の為として、アルザスの防衛部隊には組み込まれて居なかったが、想定される未来ではなく危機的な現在への対応が優先されるべきとの常識的な判断であった。

 その上で、要塞攻略戦を想定して開発と配備が行われていたARL40At駆逐戦車の投入を決断した。

 その名からも判る通りARL40重戦車の車体を流用した駆逐戦車だ。

 尤も、車体(シャーシ)は前後逆になっており、フロントエンジンとリアの戦闘室と言う形になっている。

 これは長大な、野砲をベースに開発された155㎜砲を運用する為の構造であった。

 更には、正面だけに限れば250㎜を超える装甲を与えられている、戦闘重量60tを超える重駆逐戦車(モンスター)だ。

 その対価として機動性は劣悪の一言であり、又、側面装甲も70㎜程度とかなり薄いものとなっていた。

 だがその欠点は、陣地に籠っての防衛戦闘であれば欠点としては看過しうるレベルの問題となる。

 J36戦車とARL40At駆逐戦車の投入は、ドイツの進軍を頓挫せしめる効果を発揮する。

 ドイツ側が攻撃に出て11日目、国境線から50㎞程押し込まれた所での事であった。

 当然としか言いようがない。

 日本製の照準装置によって、接近する前に一方的に撃ってくるJ36戦車。

 接近は出来るが、圧倒的な防御力と尋常では無い火力によって確実に潰しにくるARL40At駆逐戦車。

 砲弾の数だけドイツ戦車の残骸が戦場に転がる ―― そんな状況で、馬鹿正直に正面から仕掛ける程にドイツ軍の将兵は愚かでは無かった。

 凌ぎ切った、そうフランスが安堵した時、ドイツの(ロート)作戦第2段階が発令された。

 

 

――ドイツ

 重戦車をかき集めた機甲突撃戦術は莫大な被害、投入した戦車の8割を損耗する事態となった。

 前衛となった第1装甲軍集団第11装甲軍は、文字通りの全滅状態であった。

 攻勢作戦であった事から、その全てが遺棄された訳ではなく、4割近い車両の回収と修理は可能であったが、それにしても酷い損害であった。

 だが、この献身によって西方総軍は(ロート)作戦の第2段階を発令できる状態に持ち込む事に成功する。

 側面を気にせずに行われた第11装甲軍に突進への対応によって、フランスが有力な装甲部隊をその正面にかき集めたが為、突進した50㎞が()()()()()()()()()()()()()となったのだ。

 撃たれても撃たれても突進し、フランス将兵がドイツ装甲部隊将兵の正気を疑い、或いはレミングの行進の如くと笑った攻勢は、自殺的攻撃ではなく、勝算に基づいた作戦であったのだ。

 満を持して、それまで温存してきた中戦車 ―― Ⅴ号戦車を主要装備とする機動展開力に優れたB軍集団が、側面を第3軍集団に守られつつ展開を開始したのだ。

 目標はパリ。

 少なくとも燃料が続く限り、前進する積りであった。

 そしてB軍集団とは別に、5000人規模の特殊部隊がフランス軍を避ける形でフランス領内へと浸透していった。

 アメリカ-チャイナ戦争の戦訓を基に生み出された、後方かく乱部隊(コマンド・ユニット)だ。 

 騎馬やオートバイなどを装備し、最終的には小隊規模(100人単位)の部隊で縦横無尽に動き、フランス領内の橋や鉄道などのインフラを破壊し、或いは物資集積所を襲撃する事で、最長で一ヶ月はフランス領内を混乱させる事が期待されていた。

 生還の難しい任務であったが、頬に特徴的な傷のある指揮官は、この命令を男子一生の快事とばかりに承諾し、自ら陣頭指揮を行ってフランス領内へと潜り込んでいった。*2

 フランスはこの動きに動員途上で人員の訓練未了な部隊迄も投入し、対応していく事となる。

 

 

――ブリテン

 ブリテンは事前の協定に従って陸軍の大規模なヨーロッパ大陸への戦力派遣を行っていた。

 ブリテン海外派遣軍(British Expeditionary Force)である。

 30万規模の将兵は、10個の機械化歩兵師団と4つの戦車師団を基幹とする2個の軍団で成っている。

 ()()()()()()()が、完全な装甲化と自走化が行われており、その価値は極めて重い部隊であった。

 とは言え、戦車や装甲車、自走砲を大量に保有しているが故に、ブリテン本土から即座に全部隊が海を渡る事は難しかった。

 これは海洋移動が難しいと言う意味では無い。

 単純にブリテンの輸送力の問題であった。

 海洋利用 ―― 制海権と言う意味では完全に国際連盟側が握っており、北海に展開している海上自衛隊の手によってドイツ潜水艦部隊が完全に封殺されてはいたのだから。

 海の戦いに於いて科学力の格差と言うモノは絶対的な、ある種の断崖絶壁として存在する事となる。

 ドイツ潜水艦部隊は、開戦から1月も経ずしてヨーロッパ大陸周辺の浅い海に展開し、情報収集をするのが精々と言う所まで追い詰められる事となる。

 では何が問題となっているのかと言えば、これは輸送力に求められた。

 如何な海洋帝国ブリテンとは言え、40t級の戦車を何百台も海を渡らせる事は難しかった。

 アメリカ同様に日本のRORO船を手本にした車両運搬船の建造も進んでは居たが、その数は十分では無かったのだ。

 通常であれば日本の船団と傭船契約を行い、移動を委託する事も出来るのだが今は戦時。

 日本の輸送船団は、それこそヨーロッパへと日本の部隊を移動させる事に投入されている為、ブリテンは自力で重装備をヨーロッパ大陸へと届けなければならなかったのだ。

 結果、開戦から1月以上が経過した今でも、まだ戦闘参加は成されていなかった。

 とは言え、BEFが投入を予定している場所はオランダ、対ドイツ北部戦線と国際連盟安全保障理事会戦争補完委員会で定められており、このオランダの戦いは国際連盟側(G4)が優位な形で安定していた為、フランス北部のベルギーとの国境地帯で編成と訓練を行っていた。

 フランスはドイツの第2攻勢(赤作戦第二段階)に対応する為、このBEFのフランス本土戦闘への投入を国際連盟安全保障理事会安全保障理事会戦争補完委員会の場で要請してきたのだ。

 自国防衛の戦力が引き抜かれる事に、オランダ代表は血色を変えたが、フランスは譲らなかった。

 オランダ戦線が安定している事を指摘し、同時に、戦後のオランダ復興 ―― 戦災からの回復にフランスが全面的に協力する事を約束する事でオランダを黙らせていた。

 その粗暴なフランス代表の振る舞いをブリテン代表は文明国の仕草では無いと腹の底で笑いつつ、オランダが同意するのであればBEFのフランス展開は受け入れると述べる事となる。

 

 

――日本

 ヨーロッパ大陸での陸戦は、フランスとブリテンが居れば問題は無いと判断していた所にこの事態である。

 アルザス・ロレーヌ総軍の解放作戦と合わせて、駐フランス日本連邦統合軍部隊 ―― 第19機械化旅団もBEFと歩調を合わせてフランス戦線へと投入される事となる。

 とは言え此方は機械化されているとは言え旅団規模である為、予備部隊としての役割を担う事となる。

 これに合わせて日本は、部隊の指揮権を国際連盟軍に奪われぬ様に遣欧総軍司令部をクウェートからロンドンへと移す事となる。

 交渉事などに於いて、国力もあるが、階級(金星の数)がモノを言う部分もある為であった。

 

 

 

 

 

 

*1

 砲兵部隊は攻勢の頓挫による撤退の際に野砲などの重装備の殆どを遺棄していた為、装備さえ支給されれば再編成は容易であったのだ。

 野砲などの装備に関しては、動員中の予備役部隊向けのモノがあったのだ。

 しかも保管装備 ―― 旧式ではなく、常設部隊向けと同一の最新鋭装備である。

 この点に於いてフランスは、誠に以って列強国家であった。

 

 

*2

 このコマンド部隊、いわゆるフリーデンタール特殊戦隊として知られる事となるこの部隊の活躍は、後にはある種の冒険譚として娯楽作品などの題材とされる事となる。

 これは、同部隊によるかく乱効果拡大を狙い、ドイツ側が宣伝を行ったと言うのが1つ。

 そしてもう1つは、同部隊の一部精鋭が洒落っ気を出して厳戒態勢のパリ市へと侵入し、その象徴的なエッフェル塔、その入り口に深夜、ドイツ語で()()()()()()()()()()()()()()と言うカードを花束と一緒に置くと言う大胆不敵な行動を行った事が理由だった。

 無論、これもフランスに混乱を起こさせる為であった。

 下手な爆弾をパリ市で炸裂させるよりはこちらの方が、フランス政府と軍の面子を潰す事に繋がり、躍起になるだろうと言う判断であった。

 実際、この事件以降、フランスの軍と警察組織が活動を活発化させ、その捜査活動がフランスの物流その他の混乱を引き起こさせる事となった。

 このパリ市へと侵入した部隊は、見事にドイツへと生還しており、ヒトラーより勲章を授与された。

 

 尚、戦後になって行われた本作戦への評価は、将兵の選抜や訓練、装備に手間が掛かった割に期待したほどの戦果を挙げられていないと言うものであった。

 これは、馬やオートバイと言ったものが移動手段であった為に持ち運べた弾薬の量が余りにも少なかった事、即ち同部隊が小規模な軽歩兵部隊でしかなかった事に原因が求められる事であった。

 或いは、かつてのチャイナの如く国際法を無視して非道の類を働けば、もう少しばかりの戦果は期待出来たかもしれないが、さしものドイツ人も格上の(報復の恐れのある)相手にそれを行う程の蛮勇は無かった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

144 第2次世界大戦-11

+

 戦争が始まって2ヶ月が経過しようとしている今現在、ドイツ海軍は積極的な作戦行動が行えなくなっていた。

 カテガット海峡辺りまでは進出も出来るが、そこから先は地獄と同義であった。

 デンマークに展開したブリテンの哨戒機がスカゲラック海峡の空を自由に飛び回り、ドイツ海軍艦艇が進出しようものなら、ブリテン艦隊が舌なめずりをしながら殴り込みに来るのだ。

 例え、装甲艦の1隻であっても、キングジョージⅤ級戦艦など複数の戦艦からなる洋上打撃部隊を放り込んでくる容赦の無さであった。

 水上艦同士の殴り合いなど、これが最後であろうからとの判断あればこその行動だ。

 ブリテンの艦長たちは、史上最後の水上砲撃戦で敵艦を沈めたと言う称号を欲していたのだ。

 最近はそこにフランス艦隊も加わる様になっており、如何にドイツ海軍が自らを大洋艦隊などと号していても、簡単に対抗できるものでは無かった。

 せめてブリテンの哨戒機の自由行動を抑止出来ればもう少しは戦争に貢献(活躍)出来るだろうと判断し、陸軍に対してデンマークへの侵攻と掌握を提案もしたが、馬鹿を言うなとの反応であった。

 既に4つの戦線を抱えている陸軍にとって、海軍の要求は正気の外側にあるモノだ。

 特に、2つ(対オランダ、対イタリア)では明確に劣勢になっている状況なのだ、有閑となっている海軍から人手を奪わないだけ有難いと思えと言うのが、陸軍の本音であった。*1

 この結果、ドイツ海軍が当座、存在を誇示できるのは開戦前に外洋へと展開していたごく一部に限られる事となる。

 

 

――ドイツ海軍

 開戦時に外洋に出て居たドイツ海軍水上戦闘艦は、プロイセン装甲艦2隻と仮設巡洋艦1隻の3隻であった。

 ドイツ海外領山東への定期便に護衛として付けられていた艦たちである。

 ドイツ海軍上層部は、この3隻にドイツ近海へと戻るのではなく、外洋に在り続ける事を命じた。

 民間貨客船に武装を施しただけの仮設巡洋艦は兎も角、基準排水量が2万tを超えるプロイセン級は一般的な巡洋艦 ―― 軍縮条約で定める所の重巡洋艦の基準をはるかに上回る水上戦闘艦である為、牽制任務に付けるのには最適であるとの判断であった。

 国際連盟に従い、ドイツに対して宣戦布告を行った国はG4や列強以外も大量に含まれている為、それらの国々の船舶を襲い、海洋交易を阻害する事で国際連盟での反ドイツな空気を変えようと言う狙いもあった。

 手早く、南大西洋-インド洋通商破壊作戦と作戦名が定められ、部隊名はモンスーン戦隊とされた。

 問題は、開戦時には3隻は護衛するべき貨客船と共に帰路で大西洋へと入った辺りであった為、弾薬の類は兎も角として水や食糧、そして燃料が枯渇気味であると言う事だった。

 この為、3隻は不足する物資の確保を目的に近くを航海していた一般貨客船を襲った。

 奇しくも、最初の獲物とされたフネは、近づいてみれば艦尾に三色旗(トリコロール)を掲げた憎っくきフランス籍の貨物船であった。

 戦争の原因国家のフネであると乗員一同が上から下まで勇躍して追尾、包囲、そして降伏させた。

 流石に、乗組員は必要最低限度の食料と水を与えてから救命艇に乗せて追放する程度の理性は保っていたが、船舶の方は爆破処分をしていた。

 尚、得られた食料や水はそう多いものでは無かったが、開戦劈頭から幸先が良いと将兵の士気は大いに上がる事となる。

 それから1週間で3隻の獲物を得た。

 フランスとブリテン、そしてブラジルの商船だった。

 最初の獲物(フランス籍船)が上げた電報(悲鳴)から、南大西洋海域が危険の海になった事は即座に知れ渡ったが、出来る事は少なかったのだ。

 又、プロイセン級装甲艦にも仮設巡洋艦にも偵察用の水上機が搭載されていると言うのも大きかった。

 ドイツ海軍は、連続的にアジアへの艦隊派遣が行われる様になると共に、艦載型水上機の能力強化と、母艦側の運用能力を強化していた。

 これは1939年に行われた第1回目のチャイナ派遣時、東征船団(イースト・エクスプレス)の際に結成されたモンスーン戦隊の戦訓 ―― アメリカとフランスの艦隊には空母が含まれており、その空中からの偵察によって追跡を振り切る事が出来なかった事が発端となっていた。

 とは言え水上機である。

 単発複葉機と言う古色蒼然としたモノから低翼単発機へと更新はしたが、空母艦載機の急速な進化の前では蟷螂の斧にも似た程度の話であった。

 索敵は兎も角、艦上空での限定的な防空は難しいだろうとドイツ海軍も判断していた。

 この為、プロイセン級装甲艦の後継には砲戦能力を強化した空母型通商破壊艦、乃至は空母機能を有した装甲艦の建造が妥当であると言う研究結果を纏める程であった。*2

 ある意味で、事前の研究成果が生きる形となっていた。

 

 

――フランス

 南大西洋でドイツの艦隊が暴れる。

 その一報は、国際社会に衝撃を与えた。

 戦艦でしか太刀打ちできぬ様な大型の装甲艦、それが2隻も居ると言うのだ。

 一報が届くや否や、大騒動になる。

 特にフランスは、顔を真っ青にした。

 アフリカに派遣していた部隊の本土帰還を進めようとした矢先の事なのだから当然の話だろう。

 この時点では対ドイツ侵攻作戦は順調に推移していたが、ドイツを広範に掌握するには人員が必要なのだ。

 その意味で、ドイツ側の邪魔を赦す訳にはいかなかった。

 とは言え簡単ではない。

 1944年の時点でフランスは、ポスト条約型戦艦と言うべき新世代の高速戦艦を8隻用意出来ていた。

 45,000tのアルザス級2隻と42,000tのガスコーニュ級3隻、37,000tのリシュリュー級3隻だ。

 ガスコーニュ級以上の5隻は、ドイツ最大のビスマルク級戦艦とも1対1で正面から殴り合って勝てる大戦艦であり、フランスの建艦技術の華とも呼べる艨艟たちであった。

 問題は()であった。

 或いは、フランス海軍の規模的な問題とも言えた。

 ビスマルク級戦艦とすら優位に戦え、プロイセン級装甲艦であれば一方的に潰せる戦艦は、たった5隻しかいない。

 ビスマルク級戦艦を含むドイツ本国艦隊と対峙しつつ、広大な南大西洋で2隻のドイツモンスーン戦隊を追うのは不可能であった。

 特に、南大西洋のプロイセン級装甲艦は厄介であった。

 条約型巡洋艦(最大10,000t級のクルーザー)程度であれば、同様の巡洋艦で行動を抑制し、或いは追撃する事も可能であったのだが、プロイセン級装甲艦は20,000tを超える大型艦だ。

 整備を進めているフランス最大の重巡洋艦、サン・ルイ級でも正面から対峙するのは余りにも危険な任務だ。

 とは言え、南大西洋が重要なのはフランスだけではない。

 ブリテン連邦の加盟国も多いのだ。

 又、南アメリカ大陸は自分の国の裏側であると公言してはばからぬのがアメリカなのだ。

 この大海軍国である2か国にとっても南大西洋が重要である以上、フランスが積極的に動かずとも何とかなる、するだろうと考えていたのだ。

 フランスが追加で戦力は派遣せずとも、早々に解決するだろう。

 そう思っていた。

 実に甘い考えであった。 

 南アメリカ大陸大西洋岸国家にとっては大西洋海洋航路が使えなくなるのは死活問題であると言う視点が抜け落ちていたのだから。

 何より、南アメリカ諸国は国際連盟加盟国として国際連盟総会での議決に応じ、対ドイツ戦争への協力(参戦)に同意したと言う事 ―― 最も国際連盟の総会の場でドイツを罵り、()()()()()()()()()()()()()()()()()と言うのを決して忘れてはいないと言う事を。

 腰の引け気味だったフランスにも、国際連盟(G4)は責任を果たすべきとの強い声が寄せられる事となる。

 

 

――国際連盟

 ドイツの本土(大洋)艦隊が事実上の封殺状態にある為、南大西洋に面した国家群は、国際連盟加盟国の海軍(G4主力艦隊)によるドイツ通商破壊艦船の撃滅を強く要求する事となる。

 又、インド洋、及び南太平洋に面した国々も、被害が波及して来られては堪らぬと、その声に同意していた。

 この流れに、大西洋方面で最も海軍力を持ったブリテンとアメリカとが乗る形となり、日本も支援に動いた(ケツもちした)結果、有力な大型艦艇が南大西洋で連携して動く事となった。

 主力となったのはアメリカとブリテンだ。

 象徴的な戦力としてアイオワ級戦艦やキングジョージⅤ級戦艦の出撃が決められた。

 フランスもガスコーニュ級戦艦を供出する事となった。

 日本もきい型護衛艦(戦艦)を含む5隻の護衛艦を振り分けた。

 だが、列強(G4)にとって真に重要なのは戦艦では無く、艦隊の目となってドイツ艦艇を探す航空機 ―― 空母群であった。

 アメリカ、ブリテン、フランスの都合5隻の空母が主力であった。

 日本からの情報で知っては居るが、それとは別にして、航空機で大型艦を撃沈すると言う機会を、実証するチャンスを逃す積りは無かったのだ。

 尚、国際連盟の総会ではG4以外の国々もドイツモンスーン戦隊の位置を捉える為、駆逐艦や巡洋艦を派遣する事を定めた。

 主権国家として、自国の防衛に絡む所を他所の国に依存する事は政治的に問題であったからである。

 各国から合わせて12隻の艦艇が捜索任務に就く事となった。

 その中にはソ連の装甲艦ヴォストーク(鄭和)が含まれていた。

 

 

――モンスーン戦隊

 国際連盟加盟国が全力で襲い来る、途切れがちなドイツ本土からの連絡でそれを知ったモンスーン戦隊司令部は絶望の中に沈んだ。

 装甲艦2隻と仮設巡洋艦1隻しかない部隊への対応として過剰だと呆れてもいた。

 この辺りはドイツが大陸国家であり、ドイツ海軍もまた陸式であった事が理由と言えるかもしれない。

 海洋交易路に脅威を与えられた海洋国家の反応の過激さを想像出来なかった、とも言える。

 兎も角として、護衛対象であった輸送船団の対応が問題となってくる。

 ドイツ本国からの指示により、必要最小限度の水と食料だけを積んだ船団は、今は交戦国ともなった友邦国 ―― ソ連を頼る事となる。

 無論、ソ連の信託統治領コンゴだ。

 既にソ連(スターリン)の了解は得ていた。

 公式には拿捕と言う扱いでコンゴの港湾に係留し、必要な経費や水食糧などは後払いとする事となっていた。

 密約である。

 この為、後顧の憂いを断てたモンスーン戦隊は全力で、逃げに走った。

 目指したのはインド洋であった。

 南下してくる高速戦艦群を避ける為でもあった。

 モンスーン戦隊司令部は、国際連盟が全力で襲ってくる事が判明した時点で、作戦目的を通商破壊戦の実施から、部隊の保全に切り替えたのだ。

 部隊が存続している限り、国際連盟は脅威を感じ続け、対処する為に艦隊を派遣し続けねばならない。

 それが値千金の戦果である、との判断であった。

 ある種、極めて後ろ向きの(敢闘精神の無い)考え方であったが、ドイツ本国(ヒトラー)との距離の遠さが、それを許していたのだ。

 かくしてモンスーン戦隊は、南大西洋にて夏を迎える事となる。

 

 

 

 

 

 

*1

 ドイツは国際連盟との戦争が始まると共に、()()()()()()()()()()()()()()と宣言し、連邦帝国に加盟する全ての国から全力で徴兵を開始していた。

 これによって、3ヶ月で100万の兵を揃えられる予定であった。

 問題は、装備は最新式とは言い難く、中堅指揮官や下士官は著しく不足していると言う事だろう。

 近代的な陸軍とは全く以って言い難い戦力となる事は、既に予想されていた。

 正直な話として、イタリアやポーランドを相手にするなら兎も角、フランスやブリテンを相手に優勢に戦おうとするのは不可能であろうと言うのがドイツの認識であった。

 日本との戦闘に至っては、抵抗すら無駄であろうとも。

 だが、戦闘を行う事によって相手の()()を消費させ、主力であるドイツ人部隊による対応が可能になるのだ。

 全くの無駄と言う話では無かった。

 ただ、この強引な動員によって労働人口を劇的に食い荒らされるドイツ連邦帝国加盟国の社会構造や経済に壊滅的な影響が発生しつつあった。

 物資の生産や物流、果ては治安維持にまで甚大な影響が出て居た。

 壮年までの男女が引き継ぎも儘ならぬままに、動員されていったのだ。

 当然の話であった。

 だがヒトラーは国家の滅亡よりも酷い事は無いと判断し、断固とした実行を命令していた。

 

 尚、全く以って酷い話であるが、この無差別動員からドイツ本国は慎重に除外されていた。

 ある程度の動員は行われているが、それは企業活動や物流への混乱を最小限度に抑える様に配慮された上での事であった。

 建前としては、ドイツ連邦帝国の経済と軍事物資生産の健全性を維持する為。

 本音としてはヒトラーとナチス党は、自分たちの支持者の機嫌を損ねる政策を行う事を嫌ったと言う事である。

 

 

*2

 プロイセン級装甲艦の後継として研究に着手された空母的な通商破壊艦であるが、これはE艦隊計画に於ける空母、1番艦がシークシュピッツェと命名された事でシークシュピッツェ級と命名された2万t級哨戒空母とは全く別の艦となる事が想定されていた。

 シークシュピッツェ級は哨戒空母と類別されてはいるが、砲戦能力も重視しているグラーフ・ツェッペリン級に比べると空母機能のみを重視して設計されているのだから。

 防空以上の目的を持った砲は装備せず、装甲も航空機からの経空攻撃手段への防御に限定されている。

 これは複数のプロイセン級と艦隊を組んで運用する事が前提となっている事、そして建造費用と建造期間をできるだけ短縮しようと言う目的からの事であった。

 高価で製造に手間のかかる装甲材を出来るだけ使用せず、艦内構造も出来るだけ簡素化していた。

 その為、通商破壊戦を重視する一派からはシークシュピッツェ級は評価されず、次なる空母機能を持った通商破壊艦に繋がるのだ。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

145 第2次世界大戦-12





+

 ドイツ戦争。

 国際連盟に於いて命名された、第2次世界大戦(World War - Second)とも俗称される国際連盟対ドイツの戦争の公式な名前である。

 欧州のみならず大西洋全域や極東も戦域に含まれている事もあって、ドイツは盛んに世界大戦の呼称を使いたがっていた。

 だが極東戦線は戦争と呼ぶには余りにもあっさりと終結し、大西洋の戦いも実質モンスーン戦隊のみが実働部隊と言う有様であるのだ。

 世界で戦争が起きていると言うには聊か誇張の伴う表現であると言えた。

 特に、世界の大多数の人間にとっては、他人事であった。

 戦場となっているフランスやポーランド、オランダ。

 或いはドイツと言った欧州に住む人々以外にとっては、遠い世界の出来事であった。

 そして、その他人事と言うものに日本人も含まれていた。

 

 

――日本/銃後の雰囲気

 タイムスリップと言う空前絶後の出来事からはや20年が過ぎようとしている日本。

 労働人口の多くが平成(タイムスリップ前)を大人の目で見た事の無い世代となっていた。

 これは同時に、この紛争多き1900年代(血の気の多い時代)を駆け抜けてきた事を意味している。

 タイムスリップ早々に戦争を仕掛けてきたソ連。

 更にもう一回、舐め腐った理由で戦争を仕掛けてきたソ連。

 泥沼(無駄遣い)と言う他ない、何度も何度も繰り返されたチャイナでの紛争。

 それ以外でも、多々、戦乱が起きていた。

 嘗ての世界と異なり、対話による戦争の回避なぞあり得ない ―― 少なくとも彼我共に、戦争を選ばないほうが利益が出ると思わない限り、簡単に(スナック感覚で)戦争を選ぶ時代であると理解していた。

 それ故に、ドイツ戦争に対しても同情、或いは憐憫を覚える事は無く、反戦争運動などと言う機運が起こる事も無かった。

 一部の政治学者や国際評論家を自称する人間からは、G4(覇権国家群)の一角として日本は世界に責任があると言う声も出ては居たが、それが大きく注目される事は無かった。

 当然である。

 大多数の日本人は、世界を背負うなどと言う面倒くさい事はご免であると心底から思っていたのだから。

 それは日系日本人だけではなく、タイムスリップ後に日本に加わった米系や英系、果ては露系の日本人ですら同意する事であった。

 タイムスリップ当初は、先進者(未来人)として世界を善導するべきであると日本政府に声を挙げていた人間も居たのだが、今ではそんな人間も滅多に居ない。

 日本の生活が20年を超え、日本の国籍を得て、生活が根付いてしまうと、なんと言うべきか()()()()してしまい、安穏とした日常を愛し、それを邪魔するモノを敵視する様になっていったからである。

 世界の不平等への批判を、戦争への反対の意思を、良く冷えたビールと唐揚げ枝豆で消費する生活に馴染んでしまったのだ。

 政治的な事を口にし、同時に、同じかそれ以上の熱量で野球やサッカーの試合の結果を話したり、或いはゲームやアニメ、音楽その他のサブカルチャーを楽しむ生活を愛する様になったのだ。

 天下国家を語る人間は、憎悪すら込めて日本人化(Corrupt)と読んだ。

 とは言え人間というものは、そう言う存在であった。

 平穏と繁栄は人間を文化的にさせる ―― そう評する人間も居る程であった。

 タイムスリップの余波による経済的混乱の収まった1930年代中盤以降、G4を主な相手国とした貿易の本格化や日本連邦諸国への投資、特にシベリア共和国と言う広大な新領域(ブルーオーシャン)を得た事で日本の経済活動は活性化していたのだ。

 軍需官需主体から民需主導の経済への移行は、経済活動の活性化によって成されつつあった。

 だからこそ、日本は世界を見て居なかったのだ。

 市場としての日本連邦。

 資源その他の輸入先としてのG4。

 それだけで日本は事足りていたのだから。

 嘗ての米国の様な超大国として世界に君臨したいなど、欠片も思っていなかったのだ。*1

 そうであるが故に、日本人はドイツとの戦争も主役である必要は無いと認識して居た。

 世界の向こう側で、拗らせた貧乏人(ドイツ人)が暴れ出した。

 だがフランスが戦前よりドイツへの殺意を滾らせていたので、戦争は簡単に片が付くだろうと思っていた。

 一般市民も、政治家も、軍事評論家を自称する人間ですらも、戦争は短期間で国際連盟の勝利で終わると認識して居た。

 違いは、戦争に掛かる時間程度であった。

 日本の戦争計画を理解する政治家は、協力をするにしても時間が掛かるし、フランスも即座には全力を発揮できないだろうから半年は掛かると考えていた。

 フランスの対ドイツ戦争計画を分析していた軍事評論家は、1月でドイツは瓦解するとTVで言っていた。

 一般市民に至っては、貧弱なドイツなので1週間で戦争が終わるのではないかと無責任にインターネットで呟き合っていた。

 それが、戦争が始まった頃の雰囲気であった。

 

 

――独系日本人

 日系外日本人に於いて独系日本人の数、そして影響力は極めて小さいものであった。

 只、意識の高さ故に上げる声の大きさだけは大きかった。

 世界への、日本による干渉(善導)を主張し、過激な者はかつての祖国に対する実力による救済(NSDAP党の排除)すらも真剣に語っていた。

 だが日本人は、日系のみならず非日系も含めて、全ての日本人は礼儀正しく無視をしていた。

 そもそも日本政府は内政不干渉の原則を厳格に適用する事を自任しており、この手の主張に同意する事は無かった。*2

 日本政府にも日本社会にも相手にされなかった結果、最終的に独系日本人も、日本の生暖かい生活に慣れ、何時しかその手の過激な事を口にする事は無くなっていった。

 結果、1940年代の独系日本人が上げる声は、独の魂であるからと日本の地で本場式のビールやソーセージを広める為の主張と、独ビールのブランド維持の為のアレコレ(製法の規定その他)に向けた要求が大半となっていった。

 唯我独尊とも言われた独系も、結局は日本人化していったのだ。

 そんな独系日本人も、今回のドイツ戦争に対しては複雑な思いを抱いていた。

 1925年からの、ドイツの選択としての現状をつぶさに見ているので、ヒトラーとNSDAPに騙された被害者としてのドイツ/ドイツ人は居ないと言う現実を受け入れていたというのが大きい。

 少しだけ意識の高さを維持していた人間は、日本がドイツに手を差し伸べるべきだったとも言っていたが、チャイナやアフリカで好き勝手やる破落戸に差し出す手は無いと言う常識的反論の前には勝てなかった。

 そんな、常識的な独系日本人がドイツ戦争に思う所は1つ。

 戦争で被害を受けるのは仕方がないし、正直、民主主義国家であるので自業自得であるが、敗戦後の統治で非道な目に遭うのは避けたい、出来れば、被害者は少ない方が心の負担が少ない ―― そういう程度の話であった。

 フランスにせよポーランドにせよ、それ以外の国家にせよドイツへの憎悪が燃え滾っているのは判っている。

 或いはドイツが歴史的表現にされてしまうのも仕方の無い話だろう。

 資産が根こそぎに奪われ、インフラが破壊されつくすのも、是非の無い話であろう。*3

 だがそれは別にして一般的ドイツ人への過度な被害、戦後ロマンス(謙譲表現)などが少ないに越した事は無いとの思いであった。

 

 戦後統治への寛大さの発揮と言う要望(希望、乃至は祈り)は、独系日本互助会(旧独国駐日大使館)を通じて日本政府に届けられる事となる。

 

 

――日本政府

 日本政府はドイツ戦争を楽観していた。

 G4/国際連盟から見てドイツ連邦帝国は弱小勢力であり、その正面に立つフランスは日本の目から見ても万端の準備を揃えていたのだから。

 だから、事前の協定にて日本連邦統合軍陸上戦力のヨーロッパ派遣を要求されてはいたが、その準備を熱心に行う事は無かった。

 派遣第1陣がヨーロッパに到着するより先に、ドイツは全土が蹂躙されベルリンは陥落するだろうと言うのが大方の見方であった。

 それだけの差が、フランスとドイツの陸軍にはあったのだ。

 だからこそ、開戦劈頭での国際連盟総会の場で、大規模な資金供与を宣言したとも言えた。

 戦争での功績レース、()()()()()()()()()()()()()()()()()で出遅れる事を外務省が危惧し、日本政府に強く主張した結果であった。

 酷い話ではあるが、金で片が付くなら全く楽であると言うのが日本の気分であった。

 結果、日本は初動部隊の主力である遣欧総軍中東方面隊第10機甲師団のヨーロッパへの移動すら遅れる事となったのだ。

 最短1週間で、第10機甲師団の第1陣がブリテンへと渡っている筈が、輸送用の船舶の都合などもあって、開戦から1週間目であっても移動調整官以外がクウェートから出てくる事は無かった。

 誠に以って、緩んでいると言えるだろう。

 その事態が急変するのは、フランスのドイツ侵攻作戦の頓挫であった。

 フランスが自信をもって放り込んだ精鋭部隊が壊乱し、戦線がフランス領内にまで押し込まれたのだ。

 日本は状況を把握(コレ、アカン奴だと認識)するや否や、戦争準備を全力で行う様に動き出した。

 西部戦線が()()()()()()()と、ドイツを打破するのが非常に手間になるからだ。

 又、戦力の転用によって、東部(ポーランド)戦線や南部(イタリア)戦線にも尋常では無い影響を与える事になるだろう。

 それでは戦争が長期化し、当座予算として用意した100兆円や、余裕で支出出来る400兆円では戦費が収まらなくなる可能性が出てくるのだ。

 戦費はまだよい。

 日本で作った兵器や物資を売りつけるのだから、日本にとって赤字になると言う訳では無い。

 政府の支出は民間の利益であり、民間の利益は経済の好況であり、経済の好況は税収に繋がるのだから。

 だが、軍需向けの生産に日本の経済界が縛られてしまえば、その影響は計り知れないほど大きくなる。

 誠に以って好ましくない話なのである。

 日本は日本連邦統合軍陸上部隊の派遣を急がすと共に、再配置の容易な航空部隊の早期ヨーロッパ展開を推し進める事となる。

 フランスの蹉跌が日本の本気を産んだ。

 

 

 

 

 

 

*1

 日本の世界に対する積極的干渉意欲の乏しさは、諜報活動、特に情報工作活動の乏しさに現れていた。

 情報収集は抜かりなく行われていた。

 だが、世界史100年分のアドバンテージに基づいた、反日的な人間への対応はなおざりとなっていた。

 それはヒトラーへの対応でも現れていた。

 ヒトラーの台頭で困るのはドイツ人であり、周辺諸国である。

 日本人では無い。

 であれば、それは彼らの選択である。

 ある意味で割り切って(切り捨てて)いたのだ。

 傲慢さとも言えた。

 事が起これば実力を以って排除すれば良い。

 そうでなければ自由にすればよい。

 日本も自由にする。

 それは、自覚無き覇権国家の態度とも言えた。

 他者の顔色を窺うのは()()()()()であり、覇者とは他人の顔色を窺わないものなのだから。

 尤も、高圧的な態度で外交をする事の無い日本であったが故に、その事を世界も日本も気付く事は無かったが。

 

 

*2

 日本の内政(対外)不干渉主義が、一部の特殊な独系(ネオナチ支持者系)日本人の非合法的な日本離脱と、ドイツへの移住に繋がっていた。

 タイムスリップ当初に、超法規措置的に行われた国内外の移動禁止令は、先進技術の拡散や未来情報に基づいた混乱を抑止する為に行われた政策であった。

 技術拡散は簡単な話だ。

 日本の生存に直結する科学技術の優位性保持も大事であったが、善意としての(日本)の技術を先食いする事によって健全な技術の発展を阻害するリスクがあると考えられたのだ。

 そして大多数の人間にとっては意外な(ジョーク染みた)話であるが、日本政府が重視していたのは後者のリスクであった。

 何故なら、先進技術とは、それを支える(量産し得る)工業基盤が無ければ、画餅にしかならぬからである。

 例えば核エネルギーの理論(E=mc2^2の公式)を知ったとして、それで原子炉を簡単に作れる訳がないという話なのだ。

 問題は未来情報である。

 此方は、将来情報に基づいた人間の選別に繋がると言う事が懸念されての事であった。

 歴史的に見て、将来罪を犯す可能性があるからとして、その人間を排除してしまって良いのかと言う倫理的理由であった。

 人間は変わる。

 日本連邦がジャパン帝国に代わって、極東の地に居る事で世界は変わった。

 変わった結果、罪を犯す人間の人生も変わり、そうならなくなっているかもしれない。

 にも拘わらず、罪を未来に犯すからと処罰しようと言うのは余りにも傲慢であると言う話であった。

 何とも理想主義的な話とも言えた。

 コレが日本の政策として選択されたのは日本人の倫理観と言うよりも、誰も重視していなかったが故に、理想主義が通ったと言うのが実情であった。

 タイムスリップ直後の混乱期、日本と日本人の生存が最優先であるとされていた頃、誰も世界の人間の事など考えて居なかったのだから。

 日本人に害をもたらさない理想主義であれば、適当に受け入れて、声のデカい理想主義者を黙らせて、食料や資源の調達に向けた話し合いに注力したい ―― ある種の雑さが生んだ政策決定であった。

 尚、余談ではあるが、その理想主義でも保護されなかった人々は居た。

 ジャパン帝国陸軍の青年将校たちである。

 既に1925年の時点で()()を持っており、日本に被害をもたらす可能性は大であったからだ。

 日本人は四角四面な理想主義者では無く、実利優先主義の徒であるから、当然の話とも言えた。

 

 

*3

 この独系日本人の容赦仮借の無い戦争観は、言ってしまえば戦争にも人道や道義と言うものが重視されるべきとの欧米的な理想主義の結果では無かった。

 日本人社会に溶け込んだ結果、日本人のソレが感染した結果であった。

 戦争で被害が出る?

 仕方が無いよね、戦争だもの。

 戦争と言うモノの被害を、何か超自然的な災害と捉える日本人の戦争観への汚染。

 文化と言う意味に於いて、独系日本人の日本人化は不可逆的な所まで進んでいるとも言えた。

 




2021.10.30 文章修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

146 第2次世界大戦-13

+

 ドイツ戦争の流れ(長期戦化の様相を呈しつつある事)に静かにブチ切れた日本政府であったが、如何せん、物理的距離の問題から出来る事は限られていた。

 陸上部隊の欧州展開は簡単ではない。

 クウェートの第10機甲師団こそ全ての予定を放り投げて1週間で移動予定となっては居たが、それ以外の戦力は船便の影響で最短でも2ヶ月と言う有様であった。

 平均で30ノット近い速力を誇る日本の快速輸送船団(マル・フリート)であったが、そもそも、その船団は仕事の一環で世界中に派遣されているのだ。

 日本から物資を送るにしても、先ず、日本に帰らねばならないのだ。

 又、荷物を海に捨てて帰る訳にもいかない。

 契約と言うものがあるし、何より、持って行ったものをそのまま持ち帰ってきても、置き場にも困ると言うものだからだ。

 又、海上戦力も同じだ。

 ある程度は先行して欧州に艦隊を集める事も出来るが、その主力である護衛艦隊群(エスコート・フリート)は、その名前の通り護衛せねばならぬのだから。

 陸上部隊を輸送する艦隊を。

 攻撃と防御とを同時にするには戦力が不足していたのだ。

 特に、世界規模 ―― 前線であるヨーロッパと、日本列島の距離の問題はとても大きなものであった。

 日本連邦統合軍の海洋部隊はG4と比較してすら隔絶した戦力を誇っていたが、日本の念頭にあるのは嘗ての世界の最強戦力集団、秩序の守護者である米海軍であったのだから。

 12隻もの原子力空母を持った海洋の支配者。

 その3割にも満たない、()()()()()()()だと言うのが海上自衛隊の自己認識であった。

 日本政府も同様であった。

 日本の財務省だけが何かを言いたがっていたが、2010年代後半から1930年代までのアレコレ*1で、政治的発言力を喪失していたが為、賢明にも沈黙を守っていた。

 そして、グアム共和国軍(在日米軍)も又、この件に関しては礼儀正しく沈黙を守っていた。

 時々、新世代の日本人(日本連邦成立後の日本人)から、アメリカならぬ米国とはどれ程の強大な国家であったのかと恐れられたりもしたが、それに対しても曖昧に笑って(アルカイックスマイルで)沈黙を守っていた。

 その代わり、再配置が容易であり、展開速度の速い航空戦力の早期投入が決定された。

 早期投入自体は当初の予定通りであったのだが、更なる高速化である。

 当初は、燃料弾薬の十分なヨーロッパ方面への備蓄を以って行われる予定であった。

 この予定をキャンセルし、事前に備蓄していたクウェート基地を拠点として実行するものとしたのだ。

 ドイツからの迎撃を躱す為、高高度(高度14,000mOver)からの衛星誘導爆弾が選択された。

 取り合えず、ドイツ領内の戦争インフラを破壊し尽くせばドイツの攻勢は止まるだろうとの、何とも乱暴極まりない方針であった。

 狙ったのは橋、運河、鉄道だ。

 その上でレーダーサイトや空軍基地、操車場に発電所も狙うものとした。

 前線部隊が如何に精強であろうとも、燃料弾薬食料を輸送する血管が詰まってしまえば枯死せざる得ないと言う判断からである。

 操車場や発電所を標的とする事は、厳密に言えばハーグ陸戦条約が定める所の第27条*2に違反する所があったが、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()から、問題は無いと日本連邦統合軍法務局は判断していた。

 又、高高度からの爆撃は付帯被害を出す恐れもあったが、日本政府は戦争に関しては、それは是非も無く発生してしまう不幸な事故と割り切っていた。

 ゼロリスク主義の日本国民ですら、そう判断していた。

 それどころか、都市を焼夷弾による絨毯爆撃によって焼く事を考慮していない日本政府は()()()()()であると認識して居た。

 かくして、日本は長距離爆撃を開始する。

 

 

――ドイツ

 開戦から既に2ヶ月が経過した現在、戦争は概ね、ドイツが想定していた通りに進行していた。

 最大の敵であるフランスを、国内に引きずり込んで叩く。

 それによって国土西方安定を得た上で先にポーランドを潰す。

 イタリアとオランダは、国境線を安定させた上で、ポーランドとフランスを下した後に戦力を差し向ける ―― 少なくともヒトラーにとっては、満足のいく戦況であった。

 フランスとの戦いが薄氷の上の均衡であっても。

 ポーランドへの侵攻が衝突力を喪失しつつあっても。

 イタリアから国内に侵攻されていても。

 オランダは攻勢が完全に頓挫していても。

 それでも、ヒトラーにもたらされる報告は、順調の二文字だけであり、実際、物事の表層を見ればその通りであったのだから。

 このまま半年内にはポーランドを下し、ブリテンや日本からの増援が来る前にフランスを下し、イタリアやオランダなどは主力を転用すれば容易に蹂躙出来るだろう。

 そして、全ヨーロッパ統一をもってG4とも講和を図る。

 そんな夢をヒトラーは抱いていた。

 ドイツがヨーロッパを掌握し、海岸線を要塞化する事に成功すれば、如何な日本、如何なG4とてドイツとの戦争は難儀なものとなる。

 ブリテンがあるとはいえ、海を越えての上陸戦は簡単な事ではないからだ。

 そして、戦争が長期化すれば民主主義と言う大衆に媚びねばならぬ政治体制のG4は、戦費拡大 ―― 戦争負担増に苦しむ大衆の声に必ずや折れて、ドイツとの講和を選ぶだろう。

 そう判断していた。

 残念ながら、現実はそうならない。

 国家と国民とが近い(イコールとなる)民主主義国家に於いて、戦争が劣勢であるから、戦費が嵩むから戦争を止めようと言う声はまず、上がらないものなのだ。

 少なくとも国家総力戦に於いては。

 国の面子は自分の面子であり、それを潰されておめおめと講和を望む、そんなに民主主義国の国民と言うものは穏当では無いのだ。

 復讐を、全力での報復を声高に叫ぶものなのだから。

 例えG4をヨーロッパ亜大陸から海へと追い落とす事に成功したとしても、戦争がドイツの希望通りに終わる筈など無かった。

 そして、実際問題として日本は、座して海に追い落とされる積りは無かったのだ。

 その事を思い知るのは、日本の苛烈にして精緻な爆撃が始まる事でだった。

 

 

――ドイツ空襲

 B-2爆撃機による空襲は、初手が対レーダー誘導弾(ARM-1C)*3によるドイツ防空網の目を潰す事であった。

 専任として電波情報収集機能を強化されたB-2AR爆撃機は、電波情報収集機が事前に収集していたレーダー波の発信地域の情報を元に侵入し、わざとレーダー波を浴びて発信地を特定、その上で弾頭重量300㎏級のARM-1Cを叩き込むのだ。

 ドイツも油断していた訳では無かったが、まさかこれ程に早く、そして劇的に日本が攻撃に出てくるとは想定外であったのだ。

 それぞれ、20発近いARM-1を抱えて飛んだB-2AR爆撃機は、文字通り、1日でドイツから空への目を奪ったのだ。

 とは言え、全ての(レーダーサイト)が潰された訳では無い。

 何しろ数が多かった。

 探知能力の問題もあって、ドイツは4桁単位で防空レーダーを整備していたのだ。

 これに対して日本が投入出来たARM-1Bは、運用できるB-2ARの機数の問題から1度に200発が上限となっていた。

 これでは潰しきれるものでは無かった。

 だが、それでも十分であった。

 その後ろに続くB-2の群れに、ドイツがレーダーによる邀撃機を差し向ける事は不可能になったのだから。

 ドイツの主力邀撃機、Ta183は、その性能だけを見ればB-2を邀撃する事が可能だった。

 だがそれも、レーダーによる誘導あればこその話に過ぎない。

 出力の小さいエンジンで要求された性能を発揮する為、レーダーその他は、一切搭載出来なかったのだ。

 しかも航続距離が長いとは言えない。

 常に空を飛んでいて命令を受けて迎撃する ―― そんな運用など出来る筈も無かった。

 結果、ドイツ領内西方域の物流インフラは甚大な被害を被る事となる。

 この1日の空襲でドイツ-フランス戦線に直ぐに影響が出る訳では無い。

 前線部隊にせよ、それに近い場所にせよ、食料や弾薬、燃料までそれなりに備蓄しているからである。

 それは日本も織り込み済みだった。

 継続的に爆撃を繰り返す積りだった。

 その上でフランスには1週間、あらゆる被害を無視して現在位置を死守する様に要請(事実上の命令)を行っていた。

 フランス戦線の流れが、この爆撃から変わる事となる。

 

 

――エチオピア

 ヨーロッパでの戦争はエチオピアに大きな影響を与える事は無かった。

 だが、エチオピア皇帝は、()()()()()()()()積極的な関与を図る事とした。

 日本の援助を引き出す為の御恩と奉公(ギブ・アンド・テイク)だ。

 エチオピアに駐留している日本連邦統合軍士官から、陸軍部隊のヨーロッパ派遣が遅れていると言う問題を聞き、であるならば、と日本連邦統合軍の指揮下でのエチオピア陸軍の派遣を打診したのだ。

 最小でも師団乃至は旅団規模。

 必要であれば10万単位(数個師団)からの派遣も受け入れるとの事であった。

 そもそも、エチオピアは日本連邦との協定で、日本連邦統合軍に部隊の供出を約束していた。

 本来それは、日本連邦国内での運用(対ソ連戦争)が想定され締結された内容であったのだが、それをエチオピアは特例として臨時改定して派遣 ―― 供出する用意があると告げたのだ。 

 幸い、既に日本連邦統合軍式の装備と訓練は始まっていた為、派遣までの時間はそう大きくはない。

 そして日本は、陸上部隊が不足しているからこそ、このエチオピアからの提案に飛びつくだろう。

 そうエチオピア皇帝は読んでいたのだ。

 日本は、幾ばくかの()()()()()の後、受諾した。

 そしてエチオピアへの格別の配慮を行う事となる。

 エチオピアは、恩の売り時を誤らなかったのだ。

 こうしてエチオピア軍はMLシリーズや31式戦車などを装備した、日本連邦統合軍(邦国正規軍)並みの軍隊へと成長する事となる。

 後には、ブリテン連邦の南アフリカ共和国か、それとも日本連邦のエチオピア帝国かと言われる事となる。

 

 

 

 

 

 

*1

 日本の軍拡 ―― タイムスリップ前に行っていた、軍事覇権主義に基づく暴走をしていた中国や、軍事的暴走を行った韓国に対抗する為の()()()()()化を目的とした防衛力強化や、タイムスリップ後の経済支出 ―― 経済安定化の為の国債を元本とした大規模支出に省を上げて抵抗したのだ。

 軍拡、或いは経済支出のどちらかだけであれば、財務省も渋々とではあっても同意しただろう。

 だが、同時であったのだ。

 しかも時限的なものには見えない形での出費が続く事が想定されたのだ。

 これには財務省もキレた。

 まるで日中戦争の様な泥沼の出費になる、日本経済が破綻すると言い出したのだ。

 それも、政府に向かって上申(レクチャー)するだけでなく、マスコミに手記として発表すらした。

 財務省の危機感の表れとも言えた。

 その内容は、冷静に見て認めるべき部分もあった。

 だが、受け取るべき日本国の主権者、日本国民は冷静では無かったのだ。

 文字通りの国難を前にして、財務省の理屈を振りかざすものであると感情的にキレたのだ。

 当然だろう、タイムスリップ前の韓国による対馬爆撃から、タイムスリップ後のソ連による横暴な軍事力行使。

 又、経済的混迷 ―― 食糧配給制度によって、コメとイモが主食となって、肉や魚をたらふくに食べるなど夢のまた夢と言う状況となっていたのだ。

 にも拘わらず千年一日の如く、平和な頃と同じ様に、子孫に苦難を残すなと言われて同意出来る程に、日本人は温和では無かった。

 世論は沸騰。

 そこに野党(ポピュリズムの下僕)が、己の支持拡大の好機とばかりに煽ったのだ。

 喧々諤々の議論の末、財務省は組織改編される事となった。

 総括する財務省と言う組織()こそ生き残ったが、その権限や実務人員は全て、歳入庁と歳出庁と言う形で分割されたのだ。

 更には財務官僚のトップである財務事務次官は、混乱の責任を取って辞任する事となった。

 それどころか、財務省の首脳陣と呼べる人員は軒並み、辞任乃至は地方への左遷人事が行われた。

 文字通りの粛清が成されたのだ。

 高位財務官僚の1人は、余りの事に抗議の自殺 ―― 遺書を残して電車に飛び込もうとする騒ぎを起こしたが、それに対する国民の同情は湧かなかった。

 停滞する経済によって自殺した人間が相当数、出て居るのだ。

 他人を殺すような(経済政策)をしておいて、死ぬ事も出来なかった人間が何をぬかすか、というのが世間の雰囲気であった。

 結局、財務省の解体と再編成は粛々と実行された。

 更には、自殺未遂をする様な情緒不安定な人間が財務省を預かる事になるのは宜しからざるのではないかとの議論が行われ、今後の財務省事務次官には当座(期限の限られぬ形で)、歳入歳出の両庁から上がってくる事が禁止される始末であった。

 正しく日本の有権者の()()、であった。

 

 口の悪い人間は、食い物の恨みが財務省を潰したと評する、一大騒動であった。

 

*2

 防守されていない都市、集落、住宅または建物は、いかなる手段によってもこれを攻撃または砲撃することはできない。

 

 

*3

 ARM-1C対レーダー誘導弾は、ASM-3超音速対艦誘導弾を元に開発されたARM-1シリーズの低価格長射程化モデルである。

 C型はA型と比べて誘導部分等の全面改良が施されており、共通部分はエンジンなどの極々限られた部分となっている。

 性能的はA型に比べて低下している。

 これは、1940年代のレーダーサイトを撃破するのに必要最小限度の性能を維持した上で、使いやすい様に低価格化を狙った結果である。

 現在、更なる低価格化対レーダー誘導弾である小型のARM-2シリーズが実用化されている。

 ドイツ空襲にてARM-Cが投入された理由は、その大威力を評価しての事であった。

 初投入であり、ドイツ側が本ミサイルへの対応を行えてない状況下である為、レーダーオペレーターがレーダーイルミネーターの傍に居る可能性が高い。

 であれば、より被害半径の大きなARM-1Cを投入すれば、貴重なレーダーオペレーターを殺傷する事も可能である。

 そう判断されての事であった。

 実際、このドイツ空襲の第一撃で1000人を超えるドイツ軍レーダーオペレーターや整備技術者が失われる。

 これが、ドイツのレーダー運用に大きな影を落とす事となる。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

147 第2次世界大戦-14





+

 能動的に動き出した日本。

 逐次投入になる危険性を承知の上で、早期に投入できる戦力をヨーロッパに放り込み始めた。

 その影響は劇的なものとなった。

 特にフランス方面は、日本の梃入れがひと際大きかった事もあって、戦局が一気に動く事となった。

 ドイツ西部域の防空レーダー網消滅は、それ程の影響力を発揮したのだ。

 フランスは好機到来とばかりに、爆装した攻撃機を前線に放り込んで、ドイツ陸軍部隊を溶かしていった。

 ドイツはレーダーの目を失った事で、航空攻撃に対する抵抗力が劇的に低下していたのだ。

 本来なら、レーダーによってフランスの攻撃部隊の情報を把握し、それに合わせた迎撃部隊を、必要とする場所、数、時間に合わせて派遣する事が出来た。

 レーダーと言う目あればこそであった。

 その目が潰えてしまえば、部隊の効果的な運用は不可能にならざるを得ない。

 地上部隊が目だけで把握する情報は常に不正確 ―― 把握しきれないのだから。

 その不正確な情報を元に小規模な迎撃部隊を充てれば、仮にフランス側が戦闘機部隊を含んだ大規模な攻撃部隊であった場合、蹴散らされるだけに終わるのだ。

 故に、ドイツ空軍部隊はフランスの航空部隊発見の報を受けるや、常に全力迎撃を強いられる事になったのだ。

 ドイツ空軍部隊の人的物資的な消耗は、1週間で耐えられる限度を超える事となる。

 人の疲労に因る事故率の上昇と機材の消耗による故障率の上昇は、気位の高いドイツ空軍パイロットをして絶望的との表現を使う程であった。

 そもそも、そのドイツ空軍の基地も、基地に繋がる補給路もすべからくB-2爆撃機によって損害を受け続けているのだ。

 1発1発の被害はそう大きく無く、致命傷と言う訳では無いのだが、常に、それも恐ろしい程の正確さを以って致命的(クリティカル)な場所に、修繕が終わった頃(タイムリー)に落とされるのだ。

 修繕に当たる工兵部隊も心が折れると言うものであった。

 工兵部隊の(ストレス)が深まると共に、修繕工事は遅れていく事になる。

 そもそも、修繕用の部材が届かなくなっていくのだ。

 そしてドイツ空軍部隊の活性が低下するのと反比例してフランス空軍部隊は活発化していく。

 爆撃機がドイツ領内の物流インフラを無差別に破壊し、攻撃機は前線のドイツ陸軍部隊をしらみつぶしに攻撃していく。

 ドイツ空軍が必死に温存していた戦闘機で迎撃を図ろうとも、フランスの戦闘機部隊は日本がブリテン島に送り込んでいた早期警戒管制機(AEW&C)E-30*1に誘われ、的確に、そして容赦なくドイツ空軍戦闘機を狩っていくのだ。

 1週間もドイツ空軍はよく耐えたと評するべきなのかもしれなかった。

 

 

――フランス/政治状況

 日本からの要請(叱責)は、G4に於けるフランスの面子を著しく傷つけるものであった。

 民族(フランス至上主義)派の新聞は、傍若無人な日本! と声を大にして非難する程であった。

 だが、フランスの冷静な人々は、これを自業自得であったと受け入れていた。

 先制的にドイツ領内に殴り込んだのに、叩き出され、それどころか逆侵攻を受ける羽目になっていたのだ。

 それを救ってくれた事を感謝こそすれども、恨むのは筋違いだと言うのが共通の認識となるからである。

 ()()()()()、フランスの面子を傷つける原因となったドイツへの怒りが更に燃え上がる事となる。

 ドイツが無駄な抵抗をした結果、フランスは傷つけられたのだ ―― そうフランスの支配者層は恥辱を憤怒へと入れ替えていた。

 口には出せぬ、G4筆頭(日本)と己の差を理解するが故の、自己防衛反応とも言えた。

 かくしてフランスはドイツへの()()に煮えたぎる事となる。

 ドイツを消滅させよう。

 ドイツと言う国家がヨーロッパから消え去る事が、ヨーロッパに平和を齎す。

 そう公然とフランス国内で議論される様になっていく。

 

 

――フランス/軍事的反応

 日本の爆撃開始に伴って、ドイツ西方域の航空優勢を握る事となったフランスは、それまで温存していた攻撃機部隊を前線に投入していく事となる。

 とは言えジェットエンジン機では無い。

 戦闘機としての役割を解かれたレシプロ戦闘機の転用機であった。

 フランスはジェットエンジンの生産能力の兼ね合いで、その投入先を制空戦闘機と戦略爆撃機に限定しているからである。

 旧式化著しい機体は無人飛行爆弾(プアマンズ・クルーズボマー)に改造されていたが、比較的新しい機体は、エンジンを2000馬力級のモノへと強化し、或いは通信装備なども適切に改良(マイナーチェンジ)した上で、補助戦闘機を兼ねた攻撃機として運用されていたのだ。

 翼下に30mm砲や対地ロケットを懸架して暴れまわったのだ。

 狙ったのは、日本(B-2)以上に、ドイツの国内インフラであった。

 前線部隊への攻撃を行わない理由は簡単だった。

 フランスは必要十分以上に支援火力 ―― 39口径155㎜砲を筆頭にした野砲や対地ロケットなどを揃えている為、ドイツの様に急降下爆撃機に頼る必要がなかったのだ。

 制空権を奪うまでは、空襲を恐れて隠蔽しつつ活動していたのだが、航空優勢を握ったとなれば話は違う。

 ドイツ砲兵は貧弱極まりなく、反撃(カウンターバッテリー)など出来る様な状況では無い為に堂々と平野に布陣して、腰を据えての砲撃を行う様になったのだ。

 陽ざしを浴びた霜のように、とまでは言わないが、ドイツ軍前線部隊は日々、無視できないだけの被害を被っていく事となる。

 慌てたドイツ側は、20年以上も前の記憶を思い出したかのように、慌てて塹壕を掘り、陣地を構築しようとする事となる。

 ドイツのフランス侵攻作戦(赤作戦第二段階)は、衝突力を喪失したのだ。

 偵察機による敵情報告から、本格的な防空陣地構築にドイツが動き出したと言う事を知ったフランスの参謀本部は祝杯を挙げた。

 久方ぶりの美酒であった。

 戦争は、フランスの意図通りに動き出す事となる。

 フランス参謀本部は、自軍に対して無理な攻撃を全面的に戒めた。

 本格的な攻撃は戦力が揃ってから。

 フランス海外県(植民地)やブリテン、日本(エチオピア)からの増援を待ってから行うものとした。

 アメリカも10万人規模での陸軍部隊の派遣を約束してくれている。

 それを待つ積りであった。

 フランス独力でドイツを叩き、権益を独占する事よりも、戦後を睨んでのフランス成人男性の血が流れる事を忌避したのだ。

 塹壕の記憶が、フランスに冷静さを取り戻させたと言える。

 否、それ以上に()()の事があった。

 名誉は大事であるが、名誉のみに拘って力押しの攻撃を仕掛けて国力(人口)を消費した場合、ドイツ戦争終結後に起きるG4内部での主導権争いで劣勢になってしまうのではないかと危惧したのだ。

 日本が序列第1位であるのは当然だ。

 アメリカが序列第2位であるのも仕方がない。

 だが、ブリテンを上に見る羽目になるのだけは真っ平御免であった。

 その為には出来るだけ少ない(流血)でドイツを打倒し、併合せねばならないのだ。*2

 フランス空軍攻撃機部隊は、ドイツの流通インフラの徹底的な破壊に乗り出した。

 日本のB-2爆撃機が、要所要所を破壊するマヒ化爆撃(スマートボミン)であるとするならば、フランスの攻撃は、丁重に全てを均すが如き掃討攻撃(スィープアタック)であった。

 その酷さは、路上を走るモノであれば何でも撃破し、川を渡る船や橋は小さなものまで目に付けば破壊した。

 鉄道に至っては、駅は当然として気晴らしのように線路にまで攻撃を行う始末であった。

 全て、()()()()()使()()()()()()()()()()()()()()()()()()()と公言しての事であった。

 勿論、移動中のドイツ軍部隊を見つければ撃滅を図って居た。

 ドイツ西方総軍はやせ細っていく事となる。

 

 

――ドイツ

 レーダー網の消滅と、それが齎した航空優勢の喪失は、フランスとの戦争を失わせかねない危機である ―― ドイツもその状況は把握していた。

 ヒトラーは激怒し、空軍に事態の改善を厳命する事となった。

 だが、厳命されたドイツ空軍で、簡単に行える改善策と言うものは存在していなかった。

 レーダー網の再建は、レーダー自体は再建は容易と言う見込みであった。

 メーカーに発注し、出来るだけ早く作ってこいと命令し、後は設置するだけであるのだから。

 問題は、操作員(オペレーター)だ。

 破壊されたレーダー施設は、その要員ごと()()しているのだ。

 しかもレーダーへの攻撃は現在も続いており、失われた要員は1000名を超える勢いになりつつあった。

 レーダーの要員は高等教育を受けた希少な人材なのだ。

 日本製の高度化したレーダーと違う、ドイツのレーダーは表示される情報を読み解く為のスキルが要求されるからだ。

 しかも、レーダー設備が不調ともなれば、その調整や整備なども担当する。

 それが簡単に溶かされてしまうのは、たまったものではなかった。

 この危機的な状況に対応する為、当座は、ドイツ中央部のレーダー施設からの人員の転用で乗り切る事とした。

 泥縄の対応であった。

 だがそれでも、対応せねばならぬのだ。

 尚、この対応を聞いた現場の人間は、移動するレーダー要員が無事に現地に着けるのだろうか、との深刻な疑念を抱いていたが。

 又、西部前線への再建するレーダー機材の移動も、簡単に出来るものでは無かった。

 既に移動は、日中を徹底して避ける様に厳命する程に、ドイツの空はフランスに握られつつあった。

 憂鬱な、喪われたレーダー網の再建は兎も角、ドイツ空軍上層部は明るい事(新しい玩具)も考えていた。

 地上配置のレーダーがアブナイならば、空中配置のレーダーを用意すれば良いのだ、と。

 日本のAWACS機を真似てしまえば良いのだ、と。

 自らの権限拡大に余念のないドイツ空軍は、新たな予算を欲したのだ。

 子どもの様な素直さで権限拡大だけを見ているドイツ空軍上層部であったが、彼らは気づいていなかった。

 日本に近い国、経済力もあるG4諸国が何故、現時点でAWACS機の実用化と配備が出来ていないのかを。

 強力な、地上配置のレーダー並みの能力を持った機体を空に浮かべると言うのは、簡単では無いと言う事を。

 又、残されたレーダー網を維持する為、防空部隊の展開や、近所への防空戦闘機部隊の配置も行う事とされた。

 これはドイツが、日本が如何なる手段を以ってレーダー施設を破壊していたかを知らぬが故の事であった。

 レーダーの範囲外 ―― ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 そんな遠距離から放たれた、超音速で突入してくる対レーダー誘導弾(ARM-1C)を防ぐどころか発見するなど現時点のドイツが出来る事では無かったのだから。

 もしドイツがARM-1Cを理解していたならば、現実的な抵抗手段としてレーダー本体から要員の籠る制御室を数百メートルは離していたかもしれないが、気付いていなければ出来る筈も無かった。

 こうして、ドイツのレーダー関連要員は、日本のレーダー攻撃手段を把握するまでに半壊する事となる。

 

 

――ポーランド戦線

 日本の支援はポーランドにも及んでいた。

 但し、此方は戦場がポーランド領内で行われている為、補給網を破壊すると言う行為がそのままポーランドへのダメージに繋がる為、フランス戦線と同じ対応が出来る訳では無かった。

 この為、日本は制空戦闘機部隊をポーランド戦線に投入する事となる。

 本来は陸戦部隊の投入や、ポーランドが買い込んだ日本製装備の配達まで行いたい所であったが、ポーランドまでの海洋交易路の安全確保(ドイツ海軍の無力化)が未達成である為、陸の戦いはポーランドやフィンランドに任せる事となっていた。

 とは言え両軍共に精強であり、十分に抵抗出来ていた。

 世界はポーランドを見捨てていない。

 その事を示すように、日本とフィンランドの国籍マークを入れた戦闘機が空を飛ぶ。

 その様を映したニュース映画はポーランド国民を大いに奮い立たせる事となる。*3

 

 

――ソ連

 戦争の勃発から2ヶ月が経過し、それまではドイツに好意的中立の姿勢を維持していたソ連であったが、国際連盟とドイツの戦争が本格化すると共に、態度を変えていく事となる。

 ドイツはソ連の伝統的友好国であり恩義もあるが、今現在のソ連の利益も大事であると言う認識である。

 特に、ドイツ戦争の裏側 ―― 裏庭部分と言って良いバルカン半島での戦いは、ソ連の下腹部にも近い割にG4のどの国とも利益がぶつからない()()()()()なのだ。

 この為、ソ連は国際連盟の親G4派筆頭(G4の腰ぎんちゃく国家)にして、バルカン半島での作戦を行っているイタリアに交渉を掛けて、ソ連参戦の準備を始める事となる。

 接触したイタリアは、イタリアの旧領回復以外に領土的野心は存在しないとソ連外交官に明言。

 戦後、バルカン半島域(イタリアの近所)に過度な戦力の配置を行わないと約束するのであれば、ソ連に協力する用意があると告げた。

 ムッソリーニは、国力に相応しくない過大な領土欲求は国を亡ぼす事になると理解していた。

 そう、ドイツやフランスの状況*4を見て学んでいたのだった。

 

 

 

 

 

 

*1

 E-30は、TAI(トヨタ・エアクラフト・インダストリー)社が日本連邦航空路向けに開発製造している30座席級RJ(コミューター)機C30を基に開発された小型のAEW&C機である。

 E-767やE-302と言った、日本の主力早期警戒管制機(AWACS)に比べると、機体規模に端を発した能力的限界はあった。

 レーダーの出力(捜索範囲)や管制能力はかなり劣っている。

 だが同時にAWACS機には無い特性を持っていた。

 運用インフラへの負担の軽さである。

 元々、E-30の母体となったC30が日本連邦諸国の貧弱な航空機運用インフラでも運用できると言う事を重視して設計された機体であった。

 その特性を引き継ぐ形でE-30は、日本連邦外の国々の航空機運用インフラであっても十分に運用する事が出来るのだ。

 

 

*2

 ドイツ戦争が勃発した時点でのフランスのアフリカ海外県(植民地)は、決して安定していた訳では無かった。

 独立運動と()()する暴動は治まる気配は無かった。

 この状況でフランスは兵力を移動させる為にアフリカの主要部分、統治機構のある海外県都や産業地帯、本国系フランス人が居住する場所以外での治安維持活動を停止したのだ。

 その上で、幾ばくかでも暴動が治まればと言う視点から、交渉を行う事となったのだ。

 フランスは独立を認める積りなど無かったが、ある程度の権利要求であれば聞く事もやぶさかでない ―― 少なくとも、ドイツとの戦争中は。

 そう考えたのだった。

 尤も、独立派と自称する組織との接触自体が困難である為、交渉の戸につくまでが先ずもって大変であったが。

 

*3

 ポーランドに展開していた日本のF-3やF-9と言った戦闘機は、基本的に低視認迷彩が施されており、国籍標識まで視認しにくく記載されていた。

 この為、ニュース映画を撮る際などには態々水性塗料で色味が出る様にしていた。

 白黒フィルムでの映画撮影が主流の、ポーランドならではの苦労とも言えた。

 この低視認迷彩に色鮮やかな国籍標識と言う組み合わせは、後に()()()()()()()()()と言う俗称で知られる事となり、その派手さがウケて模型作りの場合などで盛んに用いられる事になる。

 

 

*4

 国力の問題もあるが、統治する上で被支配者側が戦意に溢れて抵抗する意思を示していた場合、その統治コストは信じられない程に跳ね上がる事になるのだ。

 一時的な収奪対象にするのであれば、それでも良いが、そうでない場合、割に合わない。

 フランスのアフリカ植民地統治の事実上の失敗を見ての分析であった。

 この為、イタリアは自身の大切な資源地帯(金づる)であるリビアの統治には心を砕いていく事となる。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

148 第2次世界大戦-15

+

 文字通り、世界対自分となったドイツであったが、その指導者であるアドルフ・ヒトラーにせよ指導者層にせよ、まだまだ諦めていなかった。

 少なくとも戦線は開戦前よりも外側にあり、航空戦も互角 ―― 少なくともフランス軍機やポーランド軍機とは互角である事が、その自信の根拠となっていた。

 日本連邦統合軍機(ミートボール・ファイター)を相手にする事は不可能であるが、逆に言えば、日本がヨーロッパに全力で仕掛けて来るまでに戦争を終わらせれば良いと言う事なのだ。

 少なくともヒトラーはそう考えていた。

 現場の人間は日本が本腰を入れてきている事を肌感覚で理解していたし、その報告を上げていたのだが、その情報が現場から上に上がると共に少しずつ希望的観測によって着色されていった。

 結果、ヒトラーやその周辺の人間には、事実ではあるが全く違う解釈となった情報のみが上がる結果となっていた。

 普通であれば、外交その他のルートでの情報が入って来て認識の誤りも修正されるものであったが、日本の場合、完全に没交渉であり、接触するルートすら殆ど無いが為、不可能であったのだ。

 フランスやブリテン、或いはアメリカであればそれなりの交渉の窓口()があったが、日本とは全くなかった。

 これは日本の態度にも問題があった。

 日本はドイツ戦争をフランスやポーランド、国際連盟とドイツの戦争であると認識しており、そこで日本が積極的に外交で動く必要性を認識出来なかったと言うのが大きい。

 日本の外務省も、国際連盟加盟国との折衝 ―― エチオピアなどのドイツ戦争への陸戦部隊の派遣を含めた協力を約束している国家との折衝で外交力を消費しており、又、その活躍が日本国内でのニュースなどで扱われる為、ドイツの事は二の次としていたのだ。

 それを日本国民(有権者)も支持していた。

 そもそも日本人にとって国家総力戦であたる戦争とは、国家が解体されるまで行われるものだと認識していたのだ。

 誇り高いドイツ人であればベルリン炎上(ラグナロク)まで抵抗するんだろうな、と何となく認識してもいたのだ。

 コレでは外交などが惹起する筈も無かった。

 結果、ドイツの指導者層は軍の情報に頼って日本との距離を測る事となっていたのだ。

 これでは真っ当な対応が出来る筈も無かった。

 そんなドイツ指導者層に、誤解の余地のない日本の本気を伝える出来事が発生した。

 海だった。

 

 

――大西洋の嵐

 アメリカ、ブリテンの両国が空母を含んだ機動部隊を展開させて追っているドイツ艦隊(タイフーン戦隊)

 2国だけでは無い。

 フランスも小規模ながらも、高速戦艦を含む艦隊を派遣している。

 当然、日本も戦艦(護衛艦)を含め、遣欧総軍隷下の部隊が第44.2任務部隊(TF-44.2)として展開している。

 その他、大西洋に面している国際連盟加盟国も捜索に艦船を派遣していた。

 日本が消費した燃料その他の諸経費を持つと宣言し、その上で発見した艦には金一封を出すと国際連盟安全保障理事会で宣言した結果だった。

 どの国の艦艇や船であれ、目の色を変えて探していた。

 だがそれでもドイツの通商破壊艦の行方はまだつかみ切れて居なかった。

 当然であろう。

 公式には通商破壊任務に就いたモンスーン戦隊であったが、襲った船舶は開戦から1月で10隻を超えていなかった。

 別に獲物に接触できなかった訳では無い。

 敢て、存在のアピールの為に適度に襲い、船舶を拿捕し船舶を処分させるなどもした。

 だが無理な戦果拡大は狙わなかったのだ。

 これはモンスーン戦隊司令部が、自らの置かれた状況を冷静に把握し、現状に於いては戦力の維持こそが最大の貢献になると認識した結果であった。

 正しい認識としか言いようがない。

 G4から戦艦が6隻、空母5隻*1が出張ってきているのだ。

 装甲艦2隻、仮設巡洋艦1隻と言う()()()で出来る事などある筈も無かった。

 だが、モンスーン戦隊を小規模であると言い切れるのも、G4が本格的な戦力を派遣していればこそでもあった。

 それ故に、中米南米諸国の派遣戦力は必死になってモンスーン戦隊を探す事になる。

 

 

――ソ連

 国際連盟加盟国の中で唯一と言ってよい、ドイツに対して好意的中立を守っていたのがソ連である。

 その態度は別段に、ドイツへの友誼と義侠心に基づいたものでは無かった。

 ドイツ戦争が大規模化したとしても、先の世界大戦(Word War Ⅰ)の如く、国境線が動く程度で終わると踏んだ事が理由であった。

 100兆円を提供する用意があると宣言した日本であったが、ソ連は戦意を疑っていたのだ。

 ドイツに対する威嚇(ブラフ)であると判断していたのだ。

 国際連盟の主要国とは言いづらいソ連は、G4の動きを正確に把握できていなかったのだ。

 だからこその好意的中立。

 最終的に和睦が結ばれる際、ドイツは好意的中立を維持したソ連を頼るだろう。

 そうなれば国際連盟とドイツとの交渉を仲介する国家として、ソ連は世界で存在を誇示できる ―― そう皮算用をしていたのだ。

 だがそれは水泡に帰す。

 1つは、フランスとポーランドと言うドイツ戦争に於いて最前線に立つ(戦線が国境線を越えて押し込まれている)国家が、国際連盟安全保障理事会にてドイツとの和睦を禁止する議案を提出、コレが全会一致で採択されたのだ。

 そしてもう1つ、日本の本格的な戦争参加である。

 最初に派遣された航空戦力だけで、ドイツの空を麻痺させてみせた。

 その上で、陸軍も海軍も派遣する準備を本格的に進めていると言う。

 1930年代からの影響で、ソ連と隔意はあっても比較的に好意的な外交スタンスを維持していたイタリアを介して国際連盟安全保障理事会での議事等でソレを確認したソ連は自らの行動を決めた。*2

 ドイツとの戦争 ―― 陸軍の出兵である。

 但し、歴史的背景からポーランドは、ソ連の紳士集団が入国する事を好まないだろう。

 だからソ連はそれ以外のドイツを打破する。

 ドイツ連邦帝国(サードライヒ)の柔らかな下腹部、バルカン半島を中心とした東欧領域の掌握を図る事としたのだ。

 幸い、戦力は、日本との合意によってシベリア方面から下げた200万を超える優良装備を誇る軍勢がいる。

 コンゴの掌握と治安維持に大規模な陸軍を派遣してはいるが、()()()()()()()の派遣であれば別腹と言って良い。

 少なくともスターリンはそう考えた。

 そしてソ連陸軍も、昨今で傷つけられた名誉の回復の機会であると、その指示を嬉々として受け入れる事となる。

 南征(ヴィトゲンシュテイン)作戦として、1月の戦争準備を行った後、本格的な戦争を行う事とした。

 

 

――装甲艦ヴォストーク

 鄭和(ヴォストーク)は、南大西洋でのモンスーン戦隊捜索任務に当たっていた。

 本来はソ連とコンゴを往復する船団護衛の為に、ソ連に貸し出された鄭和。

 だが、ドイツ戦争の勃発によってドイツ近海の安全確保が1万t級の装甲艦程度でどうにかなる状況を越えた為、この様な任務に転用される事となったのだ。

 ソ連の旗によって安全に南大西洋まで出て来れた鄭和は、これならばいっそ祖国(チャイナ)への旅に就きたいと言うのが艦長から一般水夫までの共通認識であった。

 だが残念ながらチャイナとソ連とで交わされた鄭和の貸出期間 ―― 契約期間がまだ残っていた為、その様な事は夢想の物語でしかなかった。

 寒いソ連から暑すぎるアフリカに来た。

 鄭和の乗組員たちは祖国チャイナを発って既に4年近い月日が流れ、鄭和で寝食をする事3年近い日々を過ごし、ほとほとに疲れ果てて居た。

 もういい加減、帰りたいと言うのが本音であった。

 だが帰れない。

 艦長は捜索任務を、将来の大航海(チャイナへの帰路)への訓練であると発破を掛けたが、乗組員の士気と言うものは決して高いものにはならなかった。

 尚、鄭和に乗船していたソ連軍連絡将校も、この鄭和の乗組員の身の上には同情していた為、多少の風紀の乱れに文句を付ける事は無かった。

 そんな鄭和がモンスーン戦隊を発見したのは、本当に()()であった。

 戦意に不足の無いG4などの主要艦隊が船舶の往来が激しい海洋交易路を中心に探していたのに対し、鄭和は、それを管理するソ連にせよチャイナにせよお付き合い感覚であったが為に船舶の往来が少ない場所を捜索と称して航海していた。

 それが功を奏した(アンラッキーとなった)のだ。

 後に、第1次南大西洋海戦と呼ばれる海戦は、無駄な戦闘は避けたいモンスーン戦隊にせよやる気のない鄭和にせよ、関わる誰もが予想しえない形で発生する。

 

 

――第1次南大西洋海戦

 仮設巡洋艦の索敵を掻い潜って忽然と現れた戦闘艦(装甲艦) ―― 2万mもの近距離から接近を図ってくる艦は、モンスーン戦隊司令部をある種のパニックに陥れた。

 モンスーン戦隊は、電波情報などでG4の捜索艦隊などの動きを把握した上で、避難航路を取り続けていたのだ。

 にも拘わらず、有力な戦闘艦が艦隊に接近してくると言う事は、モンスーン戦隊が包囲されつつあるのではと認識したのも当然の話であった。

 急ぎ回避航路を取りつつ戦闘準備を下命すると共に、貴重な艦載機を飛ばして情報の収集に当たる事となる。

 周辺の捜索と、戦闘艦の情報を集めねばならないのだ。

 戦うのであれば相手の情報も必要だからだ。

 結果は、この近海100㎞四方には、有力な敵性艦艇は無く、そして敵は1万t級のソ連海軍旗を掲げた装甲艦1隻と言う事だった。

 この時点でモンスーン戦隊司令部は実力を以って打ち払う事を決断する。

 最大戦速で突入し、最大火力で相手を沈黙せしめて離脱しようと言うのだった。

 対して鄭和。

 此方は、モンスーン戦隊を敵と認識するまでが遅かった。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、そう思い込んでいたからだ。

 モンスーン戦隊の2隻を、何処かの国の捜索艦隊と認識していたのだ。

 呑気に、航海の安全を祈ると言う信号旗すら掲げていた。

 結果、先手を取られる事となった鄭和は、プロイセン級2隻からの猛烈な射撃を受ける事となる。

 慌てて避難行動を取る鄭和。

 戦意の低さが幸いし、抵抗するよりも先に逃げる事を選択。

 猛烈な水柱の間を抜ける様にして退避行動を実行。

 その上で、電信にて非常事態と、モンスーン戦隊発見を報告するのだった。

 最終的に鄭和は逃げ切る事に成功する。

 逃げ足が鈍ろうとも転舵を繰り返した結果、被弾は最小限度に抑える事が出来たのだ。

 艦橋その他、構造物は軒並みスクラップな有様になったが、船体への被弾が少なく、浸水が発生しなかった事が、この幸運に繋がっていた。

 その上で、モンスーン戦隊発見との報告を暗号化せずに発信した為、モンスーン戦隊側も状況を把握したのだ。

 そもそも、モンスーン戦隊側は通信妨害を仕掛けて居たのだが、鄭和に搭載されている通信機の出力が大きかった為、十分に妨害しきれなかったのだ。

 こうなってしまえば話は変わる。

 近隣の戦力が支援に来る ―― モンスーン戦隊の危険性が跳ね上がる事となった為、鄭和を撃沈する事よりも逃走する方が大事であると、戦果よりも存続であると戦隊司令部は判断し、退避を選択したのだった。

 

 

 

 

 

 

*1

 ブリテンが2隻、アメリカとフランスが1隻ずつ派遣しているのは正規空母であったが、日本が派遣しているのは純然たる空母ではなくUAV母艦(CVU)であった。

 艦名はわかさ(若狭)であった。

 基準排水量20,000tを超える堂々たる大型艦であったが、当初は東京軍縮条約との兼ね合いもあって、護衛艦ではなく特別補助艦と言う枠で整備されていた。

 当然、その頃は空母然とした全通甲板は有していなかった。

 垂直離着陸可能なヘリとUAVの運用が可能な護衛艦。

 この様な歪な艦が整備された理由は経済対策であった。

 タイムスリップ時の造船所で良くある話、とも言えた。

 タイムスリップ時に民間の造船所でフェリーとして建造が行われていたわかさは、タイムスリップによって納入先が消滅。

 それに伴い建造は凍結され、造船所は資金繰りに困って政府に泣きついた ―― その結果であった。

 日本の大型貨客船/油槽船船団と同じ流れとも言える。

 違っていたのは、わかさの元となった船は船体上部構造(ウワモノ)の建造が未着手であったと言う事である。

 この為、押し付けられる海上自衛隊が、ならせめてと要望を述べてUAV母艦として就役する様に設計を改めたのだった。

 その後、東京軍縮条約が失効すると共に巨大な艦橋や格納庫その他が撤去されて飛行甲板を拡大させ、広域哨戒任務に当たるヘリ/UAV母艦としての効率性を高める事となった。

 その経緯から諸外国では、改装軽空母と認識されている。

 尚、この改装の際にMLシリーズに採用される事となる各種の技術が実験的に採用されており、運用試験なども行っている。

 

 艦名 わかさ(わかさ型UAV母艦)

 建造数   1隻

 基準排水量 23,300t

 機銃    62口径40㎜単装砲   1基

 他     近距離防空ミサイル 1基

 艦載機   ヘリコプター/垂直離着陸型UAV他 最大12機/30機

 速力    26ノット

 主機    ディーゼル

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

*2

 イタリアによるソ連への情報漏洩 ―― 伝達であるが、イタリアの独断による行動では無かった。

 ソ連からの接触を受けた際に、G4に対して連絡を行い、了解を得ていたのだ。

 この動きに、イタリア政府内では国家の独自性を傷つける行為であり、イタリアと言う国家がまるで属国の様であると言う批判をする人間も出る事となるが、ムッソリーニはそれを説得し、黙らせる。

 国家の独自性等と言うものは、国家国民の繁栄と言うものの前ではちり芥であると判断するが故にであった。

 極端に言ってしまえばムッソリーニのファシスト党とは、イタリアの繁栄を望む集団なのだ。

 繁栄の為であると言えば、そして実際に繁栄してしまえば、ムッソリーニに反論する事は難しかった。

 イタリアに於いて、ファシスト党とムッソリーニによる独裁体制は、ある種、完全な域に到達しつつあった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

149 第2次世界大戦-16

+

 至近距離での砲撃戦となったお陰で、喫水線下への被害が出なかった鄭和(ヴォストーク)は無事に逃げ出す事に成功した。

 ドイツ・モンスーン戦隊発見での殊勲艦となった。

 世界はその功績を称えた。

 だが関心は直ぐ様に薄れた。

 (どの国)が、沈めるのかが、重大関心事となったからだ。

 ブリテンではブックメーカー(賭博屋)が宣伝し、国際連盟に来ていた外交官たちに格好の話題を提供していた。

 とは言え、実際に鎮圧可能な戦力を用意しているのはG4のみである為、中南米の国名が挙がる事は無かったが。

 特にヤル気に溢れているのは、ドイツへの憎悪を滾らせているフランスと、ドイツの通商破壊戦に対応した戦備に活躍の場(議会と国民へのアピール)を欲したアメリカであった。

 陸戦で苦杯を舐めているフランスも活躍の場(スカッとストレス発散)を求めていた。

 G4で余りヤル気が無かったのは、取り合えず、沈められれば良いと思っていた日本とブリテンであった。

 ブリテンが積極的で無いのは、諜報部門がドイツ国内の動き ―― ドイツ海軍出撃の兆候を捉えていた事が理由であった。

 総合面で言って世界第3位の海軍力*1を誇るブリテンであったが、その戦力は世界中に展開させねばならぬ為、安易に集中させ難いのだ。

 

 

――ドイツ海軍

 タイフーン戦隊の苦境を理解したヒトラーは、ドイツ海軍に支援を検討する様に命じた。

 国民は、営々と作り上げられた大ドイツ艦隊(ホーホゼーフロッテ)に期待しているのだと告げた。

 国民にせよヒトラーにせよ、期待すると言う事は簡単である。

 願うだけだからだ。

 だが、告げられた側としては簡単な話では無い。

 既に北海へとドイツが艦隊を進出させる事は自殺行為に類される様になっていた。

 エルベ川河口域は機雷によって完全に封鎖されていた。

 デンマーク等の北欧3国が接するカテガット - スカゲラック海峡域に機雷が敷設される事は無い ―― 公式に国際連盟安全保障理事会がその旨を宣言しているのだが、では簡単に通過できるかと言えば、そうはならない。

 そもそも、北欧3国自体が国際連盟の加盟国であり、国連総会の決議に従って、対ドイツ宣戦布告を行っているのだ。

 その鼻先を安全に抜けられるなど考えられる筈も無かった。*2

 万が一に、海峡を無事に抜ける事が出来たとしても、出口にはブリテンとフランスの艦隊が控えているのだ。

 ドイツが投入可能な戦艦戦力は最大でも4隻であり、これに装甲艦や重巡洋艦を付けたとしても10隻を超える事は難しい。

 対してブリテンとフランスは、戦艦だけでも常に10隻は用意しているのだ。

 コレで、簡単に何かが出来ると思う程にドイツ海軍上層部は気楽では無かった。

 ()()()()()、逆転の発想に至る。

 戦艦等の水上砲戦部隊を主役と考えるのではなく囮と考えた作戦を行い、ドイツ海軍で数的意味で主力を成している潜水艦部隊を大西洋へと解き放つのだ、と。

 ブリテンやフランスの耳目をビスマルク級を筆頭とした水上砲戦部隊に惹きつけ、その隙を突いて潜水艦部隊に北海を突破させようと言うのだ。

 情報戦の一環として()()()()()作戦と命名される事となる。

 

 

――エルベ演習作戦/スカゲラック海戦 - 章前

 エルベ演習作戦は、奇襲的効果を狙って短期間に準備されたドイツ海軍の乾坤一擲となる大作戦であった。

 投入可能な大型艦の全てを懸けた、ヒトラーの大博打とすら呼ばれた大作戦。

 ドイツの新聞が、キール軍港を出航する艨艟の群れの写真を載せ、大ドイツここにあり! そう宣伝していた。

 そして30隻を超える潜水艦が、水上艦に守られる様に進むのだった。

 だが、残念ながら潜水艦迄が同時に出航した事は、即座に知られる事となる。

 何故なら、キール軍港沖の海域で息を潜めていた大型潜水艦(SSn)くろしお*3が、察知したのだ。

 事態の緊急性を把握したくろしおの艦長は、危険を冒して通信可能深度まで艦を上昇させ報告を行ったのだ。

 通信 ―― 電波発信に、敵性潜水艦(くろしお)の存在を把握したドイツ艦隊は即座に駆逐艦を派遣したが、その痕跡を捉える事すら出来なかった。

 水中速力30ノット(公称最大速力30ノット)を遥かに超えるくろしおは電波発信後に即座に沈降しており、何よりもその粛音性能の高さがモノを言ったのだ。

 結果、くろしお艦長が危惧した()()()()()と言う事が発生する事は無かった。

 

 

――G4

 艦隊の詳細が判明した事を理解したドイツ艦隊であったが、彼らに今更下がると言う選択肢は無かった。

 そもそも、下がれば正体不明の高性能潜水艦が潜む海域を通る事になるのだ。

 何もせずに艦隊が傷つけられる可能性を考えれば、せめてなにがしかの戦果を挙げたいと艦隊首脳陣が思うのも当然の話とも言えた。

 対するブリテン海軍は、ポーツマス海軍基地に待機させていた戦艦部隊に全力出撃を命じていた。

 大規模近代化改修を終えていた高速戦艦フッドを旗艦とした5隻の戦艦と直衛としての空母1隻を基幹とする打撃艦隊、S部隊である。

 竜を殺したシグルドに準え、ドイツの海洋戦力(リヴァイアサン)をブチ殺すと言う殺意溢れる命名が成された部隊であった。

 ブリテン海軍最後の水上砲戦との思いが籠っていた。

 これにフランスも参加する。

 此方もガスコーニュを旗艦とする戦艦2隻と空母1隻を基幹とする有力な水上打撃部隊であった。

 合計7隻もの戦艦 ―― では無い。

 ()()()()()()

 更に5隻もの戦艦が参加する事となっていた。

 日本の戦艦(護衛艦)やまととむさしの姉妹もブリテン島に到着しており、同じようにアメリカのミズーリ(アイオワ級高速戦艦)を旗艦とした3隻の戦艦も居たのだ。

 奇しくもG4全ての戦艦が揃っていたのだ。

 12隻に達した史上最強、そして恐らくは最後の砲戦部隊(ビックガン・クラブ)であった。

 12隻の戦艦群(Majestic Twelves)は、スカゲラック海峡の出口約200㎞で出迎える事となる。

 日本のP-1哨戒機によってドイツ海軍部隊の位置を把握し、それに併せて航路を修正していた為、理想的と言って良い形での洋上包囲が完成する事となった。*4

 

 

――ドイツ海軍/エルベ演習作戦部隊

 ブリテンとフランスが迎撃に出て来る事は想定内であったが、部隊司令部では政治的理由から簡単に後退すると言う選択肢が選べなかった。

 一当たり(火砲の応酬)もせずに退いてしまえば、弱腰と批判される事になる。

 特に政治工作に長けたドイツ空軍は、海軍の予算や人材を奪う為に様々な事をするだろう。

 そうなってしまえば、ドイツ海軍の伝統は失われる。

 政治的、或いは内輪向けの議論 ―― 思考であった。

 結果、彼らは地獄へと進軍し続ける事となる。

 

 

――スカゲラック海戦

 ドイツ海軍部隊を真正面から受け止めたのはブリテン戦艦部隊であった。

 ほぼ同数の戦艦が相対する事で戦闘に引きずり込ませるのだ。

 ドイツ海軍部隊の目である、空母グラーフ・ツェッペリンの艦載機部隊は哨戒の為に出撃していたが、その悉くは日本の空中警戒管制機(AWACS)に把握され、誘導された各国海軍機の手で叩き落とされていた。

 そもそも、電子戦によって通信を潰している。

 ドイツは厳重な電波管制をしているから気付けなかった。

 スカゲラック海峡北部、クリスチャンサン市沖で潜水艦部隊と分離したドイツ水上艦部隊は緩い左旋回を行った。

 ドイツ海軍部隊は、自分たちこそが挑発するのだと思っていた。

 攻撃を行うのだ、イニシアティブを握っているのだと思っていた。

 だからこそ、ブリテン海軍旗を掲げた戦艦を見つけた時、自分たちの成功を確信していたのだ。

 その幻想がブチ殺される。

 彼我の距離30,000mから始まった砲戦は、遠距離での砲撃戦を志向したと言う訳では無く、ドイツ海軍部隊が戦っていると言う写真と動画を安全に撮る事こそが目的であった。

 故に、ドイツ海軍部隊の指揮官は6度の斉射後に艦隊を後退させる事を決めていた。

 撮影の時間、失敗した場合の予備時間も含めての計算であった。

 だが、4度目の斉射を行った時に進路方向 ―― 南方から接近するフランス戦艦群を発見する事となる。

 彼我の兵力差が7対4となる。

 幸い、正面から航路を邪魔する様に動くフランス戦艦は2隻、ドイツの半分であった為に慌てる事はなかった。

 最大速力で回避しさえすれば、交戦する時間は減らせるからだ。

 そもそもドイツ人は、雨霰と大口径砲を叩き込めばフランス人は、必ず戦艦を退避させるだろうと踏んでいた。

 G4等と括られていても、フランスがブリテンの為に血を流す事は無い。

 そう理解していたのだ。

 だがそれも更なる艦影を見る迄の話だった。

 転舵によって速度が鈍ったドイツ艦隊を丸呑みする様に、二重包囲をする様にスカゲラック海峡北側から飛び込んでくる日本とアメリカの戦艦群5隻を見るまでの短い時間の話であった。

 罠にはめられた事を理解し、慌てるドイツ海軍部隊。

 何とか突破せんとフランス戦艦群に襲い掛かるが、既に後方から迫りくるブリテン戦艦群の射程に捉えられていた。

 その様な状況で冷静に対処できる筈も無かった。

 そもそもドイツ人が侮ったフランス戦艦 ―― フランスが持ち込んでいた戦艦2隻はガスコーニュ級、基準排水量が40,000tを超える大型戦艦(ビスマルク級ブッコロスマン)なのだ。

 排水量(防御力)では劣り、主砲口径(攻撃力)では同格。

 額面だけを見ればその通りであるが、洗練された装甲配置はガスコーニュ級に装甲厚の額面以上の防御力を与えていた。

 そして火力。

 同じ38㎝砲であっても1938年型正38㎝45口径砲は、やまと型戦艦を見聞し日本の支援も受けながらフランスが独自開発した完全自動化砲であり、その発砲速度はビスマルク級の2倍に迫る勢いがあった。

 これでは簡単に圧倒できる筈も無かった。

 フランス戦艦群と交戦を開始して10分後、進路を妨害され続けて速度の鈍ったドイツ海軍部隊の背に、日本とアメリカの戦艦群が追い付く。

 フランスを更に超える勢いで砲弾を叩き込んでくる5隻の戦艦群。

 その様は正しく殴殺、或いは処刑であった。

 ドイツの戦艦、装甲艦、重巡洋艦は悉くスカゲラック海峡にて海葬される事となる。

 この海戦で生き残る事が出来たのは、艦隊の後方に配置されていたグラーフ・ツェッペリンと、その直衛部隊だけと言う有様であった。

 駆逐艦群ですら、戦艦部隊の交戦を縫って突進したブリテンとアメリカの水雷部隊によって食い散らかされたのだ。

 

 この日、ドイツ水上艦部隊は終焉を迎えた。

 

 

――ドイツ潜水艦部隊

 ドイツ水上艦部隊を生贄に、一路大西洋へと向かった30隻ものドイツ潜水艦部隊。

 だがその何れもが、北海を抜ける事は叶わなかった。

 日本が用意した対潜哨戒網と、その指揮システムによって縦横に動く日本とブリテンの対潜部隊が、その悉くを喰らいきったからであった。

 特に凶悪であったのは、コレが本業と嬉々として対潜ヘリを飛ばしていたいせとひゅうがのペアであった。

 そして駆逐艦群。

 ブリテンの駆逐艦は先進的な対潜迫撃砲(ヘッジホッグ)を持ち、有力な聴音システムを持っていた。

 そして何より、潜水艦に対する絶対的優位性(特効)を持った銀の弾丸(日本製対潜魚雷)が配備されていたのだ。

 日本に至っては言うまでも無いだろう。

 ドイツの水上艦部隊が終焉した日から1週間後、国際連盟安全保障理事会は、北海以西の海域の安全宣言を出す事となる。

 その一報を聞いたヒトラーは痛飲しようとしてDrに止められ、不貞寝をする事となる。

 尚、ドイツ空軍は、海軍が余りにも不甲斐ないからと称して、その接収に取り掛かる事となる。

 特に狙ったのはグラーフ・ツェッペリンを筆頭とする空母部隊であった。

 戦に敗北しても政治が、政治闘争が止まる事は無かった。

 

 

 

 

 

 

*1

 1940年代に於いて純粋な戦艦 ―― 洋上砲撃戦力だけを比較した場合、ブリテン海軍はアメリカ海軍と同規模を誇り、1位タイとなっている。

 1920年代からの、日本との交易と技術交流はブリテンにそれだけの力を与えていた。

 にも拘わらず3位と述べるのは日本が居るからであった。

 数字の上では戦艦4隻と空母6隻(※公称している分)しかない日本海軍であったが、ブリテンにせよアメリカにせよ、自分たちの海軍が優越しているとはとてもでは無いが思えないと言うのが正直な話であった。

 そしてブリテンとして残念な話として、戦艦の建造数こそ新世代艦(ポスト・ヤマト級)で7隻を建造し、アメリカと同規模となっていたが、ジェット艦戦対応大型空母(Over40,000t級CV)の建造数では倍近い差を付けられていたのだ。

 嘗ての大海軍(グランドフリート)時代と比較し、少しばかり寂しい現実であったが、ブリテンはそれを受け入れていた。

 世界を管理する上で、日本とアメリカを利用し効率的に(ローコストで)行える。

 そう認識して居た。

 

*2

 現段階で戦力の衝突が発生している訳では無いが、何時、そうなるのか判らぬと言うのが本音であった。

 ドイツが全力を振り向ければ北欧3国を纏めて叩き潰す事は不可能では無いが、それは航空戦力を極度に集中すれば出来ると言う話であった。

 北欧侵攻作戦(ケース・ホワイト)が発動する場合、危ういバランスを保っている東西の主戦線が崩壊しかねない程の戦力を抽出派遣せねばならないのだ。

 ドイツも、その計算が出来ぬ程に血迷っては居なかった。

 この為、北部方面は膠着状態(フォウニー・ウォー)が続く事となる。

 

*3

 SSn くろしおは、原子力潜水艦くろしお型の1番艦であり、タイムスリップ後の海上自衛隊が空母機動部隊の世界展開が要求されるであろう事を睨んで建造した原子力潜水艦の始まりのフネであった。

 SSNでは無くSSnと表記されている理由は、コンパクトパッケージ化された潜水艦用の原子炉を採用しているからである。

 日本人は、SSNと言うのであれば米海軍の原子力潜水艦に匹敵する様なものでないと、名前負けすると考えている、その結果であった。

 尚、この話を聞いたグアム共和国の退役軍人は少し呆れた様に笑ったとされる。

 

 計画時には純然たる攻撃型潜水艦であったくろしおであるが、現在は広域海中哨戒任務母艦としての改造を受けている。

 これは複数の自律型情報収集用の無人潜水機(UUV)の運用能力の付与である。

 これによってくろしおは、より攻撃的(アクティブ)な情報収集を可能としていた。

 

*4

 尚、全くの余談ではあるが、日本はこの海戦に先立つ形で3桁単位でのASM攻撃を()()()として行う事を提案していた。

 ブリテン島には20機を超えるP-1が揃っていた為、通常哨戒と並行して、予備機による攻撃が可能になっていたからだ。

 だが、その善意に対してブリテンもアメリカもフランスも一斉に気持ちは感謝します(ノー・サンキュー)と返していた。

 建前としても本音としても、露払いの打撃にドイツ海軍部隊が恐れをなして撤退されては困るから、と言うものであった。

 日本人としては()()()1()0()0()()()A()S()M()、破壊力も250㎏爆弾程度のものではないかと思っていた。

 さもありなん。

 脳裏にあったのが日本帝国海軍最後の艦隊決戦、レイテ沖海戦に於ける第1遊撃部隊の進撃(クリタ・ラン)であったのだから。

 だが常識的な海軍軍人たちは、確実に命中してくる100発ものASMを喰らって戦意が折れぬ筈が無いと判断していた。

 ASMの、爆撃の雨霰の中を突進し続けるのは、正気を何処かへ追い出した様な人間にしか出来ぬ所業である、と。

 結果、爆装したP-1は予備戦力として運用される事となる。

 

 




2023.05.17 文章修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

150 第2次世界大戦-17







+

 ドイツ海軍の終焉。

 ドイツの人々に衝撃を与え、ドイツと戦争の最中にある国家の人々に喝采を上げさせた。

 だがドイツ海軍水上艦部隊の全てが喪われた訳ではなかった。

 南大西洋にはまだ戦力が残っていた。

 モンスーン戦隊。

 南大西洋に嵐を齎している戦力集団である。

 尤も、誰もが ―― 例えドイツ人であっても、モンスーン戦隊の存在が有力な存在であり続けるとは思っても居なかったが。

 

 

――モンスーン戦隊討伐艦隊群

 スカゲラック海戦が、史上最大規模の水上砲戦によって決した結果、このモンスーン戦隊を追撃しているG4の各艦隊は1つの事を思う様になった。

 それは、航空攻撃による1万t級を超える大型水上艦の撃沈である。

 特に、空母部隊の指揮官(空母マフィア)は、悲願めいて思っていた。

 或いは恐怖とも言えた。

 何故なら、本大戦に於ける主要な海戦は、政治的な要求もあって悉くが水上砲戦によって決していたが故の事である。

 空母は、各海戦の中で大きな役割を果たせずにいた。

 偵察力としては有用であるが、攻撃力としては今一つ ―― そう言う状況であった。

 コレでは新しい海洋戦力を象徴する存在としての空母を印象付けられない。

 実際、マスコミはその様な報道を行っていた。

 軍事に詳しい人間であれば偵察の重要性も理解できるが、ごく普通の人間にとっては華々しい戦果こそが全てであった。

 有権者に、そして有権者に阿る政治家に空母と言う存在の意義を伝えられない。

 それはある種の恐怖であった。

 日本海軍(海上自衛隊)との技術交流で得た知見で空母は更なる巨大化、高価格化を遂げる事が判っているからである。

 現在開発中の次世代艦載型ジェット戦闘機は誘導弾(ミサイル)を搭載し、電探(レーダー)を装備する完全な全天候型性能を持つ機体と定義されていた。

 第3世代型戦闘機である。

 当然ながらも、今現在の機体より更なる巨大化をする事が見えていた。

 この為、将来的な空母は最低でも基準排水量で5万t規模でなければならないと言うのがアメリカとフランスの結論であった。

 であれば空母は、戦艦よりも値段の張る装備になる。

 特に艦載機の値段まで含めれば戦艦など比較にならぬ値段になるだろう。

 ブリテンも、その結論に同意していた。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 このドイツ戦争終結後に確実に行われであろう軍事予算の劇的な削減、軍事予算の平時体制への移行の中で次世代の空母(戦艦に代わる洋上の象徴)への道を残さねばならぬのだから。

 政治家と有権者が判る形で、空母は戦果を挙げねばならぬのだ。

 結果、各国艦隊の空母は艦載機の結構な数を偵察に回す事となる。

 

 

――第1次ギニア湾海戦

 日本、アメリカ、ブリテン、そしてフランスが追いかけているモンスーン戦隊。

 それを最初に発見したのは、無人機(UAV)による24時間哨戒を行っている日本でも無ければ、空母のみならずキティホーク級哨戒巡洋艦(航空巡洋艦)まで持ち込んで航空機の数の多かったアメリカでも無かった。

 空母は少ないが巡洋艦を大量に投入していたブリテンでも無かった。

 神仏の加護、或いは意地なのか。

 フランスの艦載攻撃機が、雲に隠れて南下していたモンスーン戦隊の3隻を発見したのだ。

 尤も、残念ながらも発見したのが夕暮れであった為、その日のうちに本格的な航空攻撃を実施する事は叶わなかったが。

 それが、アメリカに先手を奪われる結果に繋がる。

 フランスの報告を傍受したアメリカ海軍部隊は、高速戦艦アイオワを旗艦とした水上砲戦部隊に対して全力で突っ込む様に命令したのだ。

 空母による撃沈をアメリカ海軍部隊でも希求してはいたが、同時に、モンスーン戦隊の撃滅の功績も欲していた。

 それ故にであった。

 そもそも、アメリカ海軍部隊の指揮官は戦艦艦長経験者(大砲屋上がり)なのだ。

 将来性が残っている空母よりも、ドイツ戦争が時代の最終幕になるであろう戦艦に、有終の美を飾らせたいと思うのも、ある意味で当然の話であった。

 かくして駆逐艦の様な戦艦突撃(31ノット・チャージ)が行われる事となる。

 ドイツ・モンスーン戦隊側も警戒はしていた。

 発見されたのちには全力で避難しようとしていた。

 燃料の消費を恐れぬ最大速力で、夜を徹しての全力で回避を図る。

 だが、それが果たされる事は無かった。

 運命はアメリカに微笑んだのだ。

 朝焼けの中に浮かび上がるアメリカの水上砲戦部隊。

 高速戦艦アイオワを先頭に、大型巡洋艦グアム(28,000t級の巡洋戦艦 アラスカ級2番艦)哨戒巡洋艦オーガスタ(18,000t級の航空巡洋艦 キティホーク級3番艦)が続いている。

 これに、別働隊からデ・モイン級重巡洋艦も2隻が合流予定となっていた。

 20,000t級の大型とは言え装甲艦2隻、それに仮設巡洋艦1隻が相手と考えれば、もはや過剰と言う言葉すら生温い対応であった。

 この余りに苛烈な対応に、モンスーン戦隊司令官の戦意は正面からの抗戦は蟷螂の斧であると自覚した。

 その上で、自らの乗る旗艦を囮として、隷下の2隻を退避させる事を即断した。

 悲愴なる決断であった、勇躍、突進を図った。

 問題は、アメリカ側がその意図を見誤ったと言う事であろうか。

 アメリカの3隻は正面から殴り合う事を狙わず、モンスーン戦隊の退路を断つ事を狙っての航路を選んだのだ。

 即ち、後退を図った2隻が真っ先に狙われる形となったのだ。

 装甲の薄い仮設巡洋艦は、オーガスタの全自動化された8in.砲9門によって一方的に殴殺された。

 そして装甲艦ヘッセンは、悲運な事にアイオワが最初に放った16in.砲が艦橋を直撃、その指揮系統を完全に奪ってしまったのだ。

 しかも艦尾に発生した至近弾が舵及びスクリューを破壊。

 こうなっては出来る事など無かった。

 只、1つだけ幸運もあった。

 降り続く16in.砲弾によって20,000tを超える船体が木の葉の様に揺れる中、ヘッセンの指揮権を臨時に継承した海軍中尉が()()()()()を下したのだ。

 白旗(降伏)である。

 又、もう1つ幸運であったのは、アイオワの主砲 ―― 2番砲塔がこの時不調であった為、射撃を加えて来たのが1番砲塔の3門だけであったと言う事だろう。

 万全な、高い発射速度(ハイ・レート)で9門からの16in.砲弾が降り注いでしまっては、白旗を視認してもらうどころか掲げる間も無かったであろうから。

 誠にもってヘッセンは幸運艦であった。

 結果としてヘッセンと仮設巡洋艦を盾とする形となった旗艦、装甲艦ブランデンブルクは逃亡に成功する事となる。

 グアムの12in.砲弾を6発も浴びながらも、煙突や機関部周りに被害が出なかったお陰で逃亡に成功する事となる。

 

 

――フランス海軍部隊

 アメリカの交戦結果を知って、フランスの空母乗組員は上は艦長から下は水兵に至るまで、最初に相手を見つけたのはわが国であったのにと切歯扼腕といった有様になった。

 故に必死になって発艦準備を進め、モンスーン戦隊で残るブランデンブルクが居ると想定される海域へと必殺の艦載機部隊を派遣する事となる。

 とは言え、正確な海域は判明していない為、10機程のグループを作っての捜索攻撃作戦(サーチ・アンド・デストロイ)となる。

 何とも荒っぽく、そして攻撃力が低下しかねない作戦であるが、時間が掛かればアメリカやブリテンに先を越されかねないのだ。

 他にやりようが無かった。

 

 

――ブリテン海軍部隊

 一定の戦果を挙げたアメリカや、血を滾らせているフランスと比較して、ブリテンは比較的冷静であった。

 これは、戦後の展望と言うモノをブリテン海軍が有していた事が理由であった。

 軍縮は行われたとしても、ブリテン連邦の守護者としての役割から、過度な軍備削減は要求されないとの見通しがあったのだ。

 この点に関して、ブリテン政府との間でもある程度の話は成されていた。

 そもそも、広大な連邦領(植民地)を持つブリテンにとって、主力艦とは巡洋艦であった。

 戦艦や空母は敵対国を殴る為の道具ではあったが、ブリテン海軍にとって重要な海洋交易路の安全を守る上で優先されるモノは違う。

 そう言う認識がブリテン海軍にはあったのだ。

 又、ドイツ戦争が終われば当座、戦争の相手になりそうな国家は無いと言う判断も大きかった。

 G4体制(パクス・ジャパンアングロ)が確立する。

 敵対的に動きそうな強国は、ソ連程度であろう。

 だがソ連は陸軍国であり、対峙するのは国境を接している日本か、精々がフランスと言った程度なのだ。

 これでは戦艦は勿論、大規模な空母とて必要性は極めて低いものとなる。

 であれば国家国力を象徴させる為の戦艦と空母を残して後は削減する必要が出て来るだろう。

 恐らくは空母と戦艦は、共にローテーションを考えても各2乃至4隻程度の保有に留まるだろう。

 それよりは世界を管理する国家として、広域を巡る巡洋艦や、地方に配置する警備艦(フリゲート)の整備の必要性が益々に高まるだろう。

 そう判断しているが故にであった。

 既に本戦争に於ける海軍の名誉は、北海にて十分に稼いでいるのだ。

 であれば陸で大いに名誉を失ったフランスや、参戦したばかりで戦功を挙げていないアメリカに機会を譲ってやっても良い。

 そんな鷹揚な気分でいたのだった。

 尤も、鷹揚ではあっても、目の前に戦功の機会があれば確実に喰う積りでもあったが。

 

 

――アメリカ海軍部隊

 水上砲戦による戦果はアメリカ海軍の士気を大いに高める事となった。

 この上で空母艦載機による攻撃が成功すれば、この上の無い話である。

 水上砲戦によって相手の位置も大体、把握しているのだ。

 であれば捕捉し、撃沈するのは一番容易であろうと自認していた。

 空母艦長は、世界初の戦果を挙げて来いと激を飛ばして、パイロット達を送り出した。

 

 

――日本海軍部隊

 最終的にドイツが死ねば良いし、そもそも、この戦争の主役は自分たちでは無いとの認識で動いていた日本であった。

 そもそも、傷ついた装甲艦を沈めた所で名誉などが得られるものかとの思いもあった。

 だが、艦載型UAVによる水上艦撃沈と言う成果は、いまだ発生していない世界初であり、良い戦訓になるのではと認識してからの動きは早かった。

 滞空時間を重視した為、プロペラ推進の機体が殆どであったが、UAVは昼夜を問わぬ作戦行動を可能としているのだ。

 日本は深夜から爆装可能なUAVをありったけ、空に飛ばす事となる。

 

 

――装甲艦ブランデンブルク

 近距離からの撃ち合いに終始したお陰で、機関部や喫水線下への深刻な被害を受ける事無く離脱に成功したブランデンブルクであったが、その運命を明るいモノだと認識して居る人間は誰も居なかった。

 状況を理解しにくい一水兵であっても、ブランデンブルクの命運は尽きていると理解していた。

 とは言え、色の無い旗を掲げる事(白旗を挙げて降伏する事)は出来ない。

 特に将校はその思いが強かった。

 運命が決まっているとしても、まだ致命的な被害の出て居ない艦で降伏などしてしまえば、祖国に残っている家族は肩身の狭い思いをする ―― それどころか迫害されかねないと考えていた。

 ドイツ連邦帝国(サード・ライヒ)は戦争を失いつつある国家だ。

 であれば、そのストレスが不名誉な事をした軍人の家族に向かわないと誰が言えるのか。

 特に、将校の多くは軍人貴族(ユンカー)も多い。

 名誉に対する意識は極めて高いのだから。

 低下する士気を補う為、艦長はヤケクソめいてアルコールの特配を行わせた。

 同じころ、モンスーン戦隊司令部は1つの決断を下した。

 ブランデンブルクをアフリカ大陸の沿岸に座礁させ、乗組員を上陸させようと言うのだ。

 圧倒的な劣勢の洋上での戦いを捨て、祖国への献身を陸上で示そうというのだ。

 無論、建前である。

 艦を座礁させて陸へ逃れれば、少なくとも、無為に洋上で撃破されるよりは生き残れる将兵も出るだろう。

 陸上で接敵すれば、拳銃なりで形ばかりの交戦(抗戦)をして降伏すればよい。

 極めて後ろ向きな判断とも言えた。

 だが他に選択肢が無かった。

 又、現在のブランデンブルクの居る場所から座礁できそうな浅瀬までは優に200㎞からの距離がある為、その行動案自体を考える事が1つの逃避であった。

 そして、G4が放った航空攻撃は無慈悲に迫って来ていた。

 

 

――第2次ギニア湾海戦

 歴史書に於いては、第1次ギニア湾海戦との時間的、距離的に近い為、纏めて語られる事の多い第2次ギニア湾海戦。

 だが航空攻撃による大型水上艦撃沈と言う、海戦史に於ける時代の変換点(エポックメーキング)めいた出来事である為、特に海との造詣が深い歴史家からは別の海戦として扱われている。

 特に、一部の人間からは叙事詩(神話)的にも語られる事が多いが、海戦自体の内容は、極めてシンプルであり、同時に容赦の無いモノであった。

 フランスもアメリカもブリテンも、捜索からの攻撃となっている為に一度の空襲で襲い掛かる航空機は10機程度であった。

 一度の攻撃力は低くても、それが五月雨的に続くのだ。

 ブランデンブルクからすればたまったモノでは無かった。

 しかも攻撃力自体は比較的低い為、いっそ白旗を挙げると言う事も出来ない有様であった。

 この攻撃力の低さは、ある意味で時代性であった。

 空母艦載機として第2世代型ジェット艦載攻撃機を運用しているG4各国であったが、兵装の進歩が艦載攻撃機の進化に追随出来ていない事が理由だ。

 5年前までならば魚雷や急降下爆撃、或いは水平爆撃が予定されていた。

 だが、艦載攻撃機のジェット化に伴った高速化によって、魚雷の運用が困難になった。

 余りにも高速な状況から投下しては、魚雷が着水時の衝撃で損壊するからだ。

 爆弾に関しても一緒だ。

 従来的な手段での急降下爆撃を行うには、ジェット艦載攻撃機は余りにも高速であり過ぎていた。

 どの国も航空機のジェットエンジン機化には国力の傾注を行ったが、その攻撃手段の発展には左程の意識を回していなかったのだ。

 日本を真似ての空対艦誘導弾(ASM)の開発は行われていたが、その実用化に必要な(コア)となる半導体の開発と製造を果たせておらず、いまだ画餅と言う有様であった。

 この為、代替案が開発されてはいた。

 速度が問題であるならば、攻撃機からの分離後にグライダーで滑空減速させて着水、その後は音響誘導式の魚雷が自律的に攻撃すると言う、滑空投下魚雷(パラ・トーピード)だ。

 元から複雑で高価格な魚雷を、更に複雑に、そして高価格に押し上げる兵器であったが、対艦誘導弾が完成するまでの繋ぎであれば仕方がないと各国は開発の努力をしていた。

 だが、此方も現時点では完成していなかった。*1

 結果、どの国も主要な攻撃手段が全長4m級の大型対艦ロケット弾と言う奇想兵器(イカモノ)となっていたのだ。

 ブランデンブルクの防空火器の射程外から放つ、無誘導の大型ロケット弾。

 そんなモノが簡単に命中する事も無く、又、命中したとしても致命傷となる場所に簡単に届く筈も無かった。

 被弾時の被害よりも、被弾後の、燃え残った推進剤によって発生した火災の方が厄介と言う有様であった。

 結果として、ブランデンブルクは4度の空襲を大きな被害も無く乗り越える事となる。

 アフリカ大陸の姿が見える所まで進む事の出来たブランデンブルク。

 だが5度目の空襲、日本の放ったUAVによってその進路は阻まれる事となる。

 日本はUAVによる哨戒と攻撃任務時向けの装備として中型の対戦車ミサイル《ATM-8》と、この時代の潜水艦を前提とした低価格コンパクト化した軽対潜魚雷(31式魚雷)を用意していた。

 31式魚雷は対潜、1000tにも満たないこの時代の潜水艦を撃破出来れば良いと言う事で、従来とは別次元のコンパクト化が追求された、重量が100㎏にも満たないミニ魚雷であった。

 だが、その成形炸薬弾頭は簡単にブランデンブルクの垂直防御を食い破り、船体に内部に様々な被害を与えた。

 無論、コンパクト化されている為、1発の威力は低い。

 機関室にまで被害は殆ど出なかった。

 だがそれが()舷に二桁単位で襲ってくるとなれば話は別となる。

 2000tを超える(エグイ量の)浸水は、船体から浮力を急速に奪っていった。

 更には、艦橋や煙突などを精密に狙ってくる対戦車ミサイルが降り注ぐのだ。

 ブランデンブルクに出来る事など無かった。

 最早浮いているだけと言う有様になったブランデンブルク。

 そこに、止めを刺さんと襲い掛かったのはブリテンの航空隊であった。

 既に抵抗力を喪失していたブランデンブルクは、白旗を掲げ、国際無線にて降伏を宣言する事となる。

 こうして史上初の航空機による水上艦撃破作戦(チャレンジ)は、ある種の失敗として歴史に名を遺す事となった。

 そしてその事が、各国に対艦兵器の開発を加速させる事に繋がる。

 

 

 

 

 

 

*1

 この問題に関して、日本製の対艦誘導弾の導入を主張する人間も居たし、日本政府としても売却自体は受け入れる旨を公表してはいた。

 だが、日本製の対艦誘導弾なりを導入するには、艦載機の火器管制システム周りを日本製にせざる得なくなる。

 その点が問題視されたのだった。

 G4各国から見ても日本は大切な友好国であったが、独立国家としての気概を持っており、国防の根幹部分にまで預けようとする程に日本に寄りかかる積りは無かった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

151 第2次世界大戦-18

+

 モンスーン戦隊の消滅をもって、ドイツ水上艦戦闘部隊は歴史的存在へと姿を変えた。

 だが、その事に世界の耳目が集まる事は無かった。

 前後する形で、ドイツ戦争西部戦線に日本連邦統合軍が本格的に投入されたのだから。

 守勢的な北部(オランダ)戦線とは異なり攻撃的な任務を、それも邦国軍ではなく最精鋭(陸上自衛隊)第19機械化旅団(JGDF-19th Mechanized Infantry Brigade)*1が実戦参加するのだ。

 日本の戦争に観戦武官を大規模に派遣した事の無かったG4(ジャパンアングロ)以外の国々にとっては、神秘の(ベール)の向こうにあった天皇陛下の日本軍(Imperial Army)が実力を見せつけようと言うのだ。

 意識が集中するのも当然と言うモノであった。

 又、第19機械化歩兵旅団と共に第11施設科旅団(JGDF-11th Combat Engineer Brigade)*2参加していた。

 だが逆に言えば、日本(陸上自衛隊)基準で2個旅団でしかないのだ。

 総兵力で言えば1万人にも満たない事を世界(非G4)は危惧し、同時にドイツには安堵を与えていた。

 ドイツの安心材料は他にもあった。

 多くの犠牲を払いながら継続されている航空偵察によって、日本の2個旅団への支援部隊の動きも把握していたが、此方も大規模では無かったのだ。

 支援部隊は、多数の戦車や装甲車を装備するとおぼしき優良なフランス陸軍(機甲)部隊であるが、上を見ても3個師団規模であった。

 日本にせよフランスにせよ、早急な解囲を狙わねばならぬ関係で、かき集められた戦力がどうしても不足気味になっている。

 そうドイツは考えていた。

 であるならば、とフランスの第1次攻勢を下したのと同じ手法で撃退出来るとも考えたのだ。

 領土内に引き込んでの迎撃だ。

 それも真っ向勝負では無い。

 己の優秀さに対して強烈な自負を持ったドイツ人であったが、シベリア戦争での戦訓もあって、日本の戦車にドイツの戦車で対抗できるなどと一切考えてはいなかった。

 故の、非対称的な戦いだ。

 隠蔽した塹壕から一撃を加えた後に撤退するという遅滞戦闘。

 引き込みながら、道路その他のインフラの破壊を行って補給路を砕く。

 如何に日本と言えどもこれを踏破するのは困難であろう。

 そう、ドイツは考えていた。

 

 

――日本フランス第1統合軍

 マインツ市解放作戦に投入される戦力は、効率的な運用の必要性から統合部隊とされた。

 フランスの配慮から、指揮は日本人が執る事とされた。

 とは言え日本本土から派遣する時間的余裕は無く、又、第19機械化歩兵旅団の上位組織である遣欧総軍は部隊の移動管理に集中する必要があった為、第19機械化歩兵旅団の旅団長を臨時昇進として大将配置とし、日本フランス第1統合軍(Japan-France 1St Joint Army)の指揮官に配置する事となった。

 少将からの2階級昇進であるが、管理下にフランス陸軍部隊 ―― 第7戦車軍集団第77軍の2個機械化歩兵師団と4個戦車師団が入る為、必要な措置であった。

 政治的なバランスを取る必要性から、その幕僚(参謀)団にはフランスの将校が配置されている。

 急造部隊と評価される部分もある。

 とは言え、派遣されている将校は常日頃から第19機械化歩兵旅団に派遣されていた人間が充てられている為、意思疎通に問題は発生しなかった。

 又、目的が明確であった事も重要であった。

 マインツ市までわき目もふらずに突進し、包囲下にある部隊を救出する。

 只それだけであるのだから。

 尚、作戦名はユリシーズ(第31号合同作戦ユリシーズ)とされた。

 

 

――マインツ市解囲作戦

 航空輸送によってある程度の食料や武器弾薬の輸送、或いは重傷者の後送は行っては居た。

 だが、ドイツ側が彼我の被害を無視した本格的制圧作戦を何時開始してもおかしくない状況である為、出来る限りの早急な解放が望まれていた。

 この為、日本フランス第1統合軍は、取り合えずの戦力が攻勢発起点に集積すると同時に行動を開始する事となる。

 日本は偵察機で念入りに侵攻ルートを確認し、第19偵察大隊を基幹とした第19偵察戦闘団(大隊戦闘団)を前衛に立てて攻勢を開始した。

 同戦闘団には、第11施設科旅団から地雷や敷設爆弾(IED)対処を専門とする戦闘工兵部隊が派遣されていた。

 更には、フランスの機甲師団の連隊戦闘団が脇を固める形で配置されている。

 第19偵察戦闘団が単独で撃破が困難なドイツ軍部隊 ―― 部隊規模が大きく、対処に時間が掛かりそうな場合に、代行する部隊であった。

 側面を気にせず突進せよ。

 極論すれば、第19偵察戦闘団に下された命令は、その一言(シンプルさ)であった。

 突進を開始した第19偵察戦闘団は、センサーを山盛りに装備している24式装軌戦闘偵察車*3と、空中にある守護天使(戦闘偵察ヘリ)AH-64D.M3*4が集める情報を元に、怪しげな場所に片っ端から火力をぶち込んで前進していく。

 或いは電波(通信)を傍受しても、容赦なく40㎜砲や105㎜砲、或いはロケット弾を叩き込んでいく。

 一般市民が巻き込まれる可能性を一切考慮していない誠にもって無慈悲な進軍であるが、これは事前に一般市民向けにビラ(空中投下宣伝)で作戦日時とルートを伝達したが故の事であった。

 居ないで下さいと伝えた。

 であるので、作戦エリアに居る(センサーに映った)人間はドイツ軍人以外には無い。

 だから火力を投射しても問題は無い。

 日本は作戦開始前に(悪知恵を働かせ)、国際連合安全保障理事会戦争補完委員会法務小委員会でこの旨を確認し、戦争補完委員会の公式文章さえ発行させていた。

 (ルール)とは、それを作り守らせるモノが一番強いのだと言う事を示す好例とも言えた。

 一切の容赦なく、大地を均す勢い(ロードローラーめいて)で進軍する日本フランス第1統合軍に、ドイツ側は大いに慌てる事となる。

 どれ程厳重に隠蔽していた陣地であっても、簡単に発見されて潰される。

 大量に埋めた筈の地雷も、簡単に発見されて処理されていく。

 状況を把握するために派遣した偵察部隊は、どの規模であれ先ず生還しない。

 被害覚悟でレーダーに把握され辛い低空からレシプロ偵察機を投入したら、ヘリコプター(AH-64D.M3)に撃墜された。

 後方の指揮所も安全ではない。

 通信をしたら即座にミサイルが降ってくるのだ。

 ドイツ参謀本部では、通信途絶が日本の進軍速度を現していると自嘲的に言う始末であった。

 

 

――ドイツ

 時間稼ぎの為の、複数の陣地を用いた遅滞戦闘が実質的に無力化された事で、ドイツは方針を変える事となる。

 小規模な部隊で対処しようとすれば、一方的に蹂躙される。

 だがドイツとて状況を座視し、手をこまねいている訳では無かった。

 であるならば、小規模な日本の戦力では対処不能な大軍勢をもって包囲撃滅しようではないかと気炎を上げていた。

 幸い、マインツ市の近くでは第3軍集団が配置されており、W軍集団も再編途上ではあったが支援的であれば戦闘行動が可能であるのだ。

 歩兵師団が主体とは言え30個師団を超える戦力であり、日本フランスの合同部隊が3個師団2個旅団規模(※現実は6個師団2個旅団)である事を考えれば、不可能では無いと判断していた。

 1桁上の戦力をぶつける。

 日本の対応力よりも多い戦力で飽和攻撃を仕掛ければ、勝てる。

 そう思っていた。

 確かにその通りではある。

 敵の数が持っている弾数よりも多ければ、打ち倒す事は出来ないのだから。

 だが、その数の優位を生かすのに絶対的に必要なものがある。

 情報だ。

 敵が何処に居るのか、どれくらい居るのか。

 それらが無いままに動く事は出来ない。

 所謂、戦場の霧だ。

 敵軍(日本フランス連合部隊)の情報無くしてやみくもに動けば、それは只の遊兵にしかならないのだ。

 そして、その情報が致命的に不足していた。

 西方総軍は、ドイツ参謀本部を介してドイツ空軍に対して全力での情報収集と一時的で良いのでフランスの航空優勢をかき乱す事を要請した。

 戦力温存に務めていたドイツ空軍も、ここがある種の決戦であると説得され本腰を入れる事となる。

 始まった大航空戦。

 問題は、ドイツ空軍が想定していたのはフランスと、精々がブリテンであったのだが、日本が全力で殴りに来たと言う事であった。

 それも空中撃破では無く基地破壊を狙ってきたのだ(水漏れは元栓を〆るのが大正義)

 無論、空中戦闘でも可能な限り撃墜を図った。

 その上で、レーダーや偵察機を用いてドイツ空軍機の帰還を追跡し、そこで見つけた航空基地に爆撃機を回したのだ。

 元より、日本爆撃機部隊はドイツの航空基地狩りを行っていた。

 その為の誘導弾なども備蓄していたのだ。

 ある意味で、ドイツ空軍の積極的行動は自殺的行動(カモネギ)であった。

 既に、ドイツ西部のレーダー網は消滅していた為、この偵察を察知する事も出来なけば、爆撃を探知して迎撃する事も出来なかったのだから。

 結果、それまで温存していた航空基地の尽くを焼かれ、たったの2日でドイツ空軍は西部戦線に於ける能動的作戦能力を完全に喪失する事となる。

 この為、偵察情報は極短距離で離着陸が可能な陸軍管理の機材(Fi156)に頼る事となる。

 日本が運用している戦域偵察用無人機(大型UAV)にも劣る速度や航続距離しか持たず、発見されるや生還など望めぬ機体であったが、無線封鎖したこの機体のみが生還する可能性を持った偵察手段であった。

 そもそも、極東における日本の主力攻撃ヘリAH-64D.M3よりも遅く、そして非武装なのだ。

 この様な機体で出来る事は、神に祈る程度であった。

 余りにも悲惨な状況であったが、ドイツ人は全力を尽くしていた。

 問題は、相手と、その全力など歯牙にもかけない水準で技術力の格差があると言う事であった。

 必死になって努力するドイツ陸軍。

 その努力をあざ笑うかの様に、日本フランス第1統合軍と接触する前に日本とフランスの航空部隊に徹底的に叩かれていく。

 戦車の敵が戦車と誰が決めたのだ?(戦場で相手を叩く手段にアンフェアは無い) ―― そう言わんばかりの戦い方であった。

 空襲によって、各師団1日毎に1個大隊が消滅していく。

 そう手記に残したドイツ人指揮官が居る程であった。

 これは戦闘では無い。

 処理である。

 ドイツ人への敵愾心に燃えたフランス人ですら、幾ばくかの憐憫を感じる程に、一方的にドイツ西方総軍第3軍集団もW軍集団も溶けて行くのだった。

 かくしてユリシーズ作戦は、作戦開始から10日目にてマインツ市近郊に到達。*5

 包囲されていたフランス軍アルザス・ロレーヌ総軍の残余の解放に成功する事となる。

 それは同時に、ドイツ西部に巨大な楔が打ち込まれた事を意味していた。

 ドイツ戦争西部戦線の動きが大きくなっていく。

 

 

 

 

 

 

*1

 日本連邦統合軍 日本陸上自衛隊 遣欧総軍 欧州方面隊 第19機械化歩兵旅団

 陸上自衛隊に属する機械化歩兵旅団は、軍事的要求では無く政治的要求に基づいて編制された部隊であった。

 特に第19機械化歩兵旅団に関しては、フランスからの対ドイツを前提とした強い派遣要請あればこその部隊であった。

 陸上自衛隊からすれば、大規模な陸軍を保有するフランスが何故に日本に頼るのかという気分であったが、フランスからすれば話は違う。

 ドイツとの戦争を有利に進める為に、確実に勝つ為に日本を巻き込まねばならぬからであった。

 この目的の為、フランスは日本に対して結構な融通を利かせていた。

 日本が必要とする資源や食料の提供。

 或いは、フランスの権益が関わらぬ場所での日本の権益拡大に対する政治的支援等である。

 これはフランスに駐屯する第19機械化歩兵旅団への配慮も含まれていた。

 結果、第19機械化歩兵旅団でのフランスへの感情は良好であり、この実戦参加に関しても大多数の将兵は好意的に捉えていた。

 

>>旅団司令部 - 司令部管理中隊

 第191普通科(機械化歩兵)連隊

  3個中隊編成 /24式装軌装甲車装備

 第192普通科(機械化歩兵)連隊

 第19戦車大隊

  3個中隊編成 /32式戦車完全充足

 第19偵察大隊

 第19特科大隊

  1個ロケット中隊 /28式装輪自走多連装ロケットシステム

  2個自走特科中隊 /34式155㎜自走榴弾砲

 

 

 

*2

 日本連邦統合軍 日本陸上自衛隊 遣欧総軍 欧州方面隊 第11施設科旅団

 元は1920年代に日本とフランスとの間で結ばれたフランス戦災復興支援協定に基づいて派遣された部隊である。

 戦災復興支援協定とは、第1次世界大戦に於いて毒ガスなどの散布が行われたフランス本土の古戦場の復旧作業を定めた条約である。

 この条約に基づいて日本はフランスの国土復興を支え、その対価としてタイムスリップ直後の食料や資源を輸入する事が出来ていた。

 従来の施設科は団が最大単位であったが、フランスや諸外国が理解しやすいと言う事で旅団と言う呼称が採用されている。

 この第11施設科旅団の新編に合わせて、他の施設化部隊も旅団呼称が採用されている。

 

 

*3

 24式装軌戦闘偵察車とは、タイムスリップ前に陸上自衛隊が開発を進めていた戦術装軌装甲車 ―― 24式装軌装甲車のファミリーであり、歩兵戦闘車(IFV型)とは別の、センサーと通信端末を大量に積んだ車両である。

 日本陸上自衛隊の機械化部隊は、全て、この24式装軌装甲車のファミリーを配備している。

 尚、邦国向けとしては、低価格で整備の容易な和製M113とでも言うべき38式装軌装甲車が用意されている。

 此方は、多少の性能向上よりも整備性や防護性能が優先されており、愛想のないデザインとなっている。

 

 

*4

 AH-64D戦闘ヘリは、タイムスリップ前(2010年代)の日本が悪化した中国と韓国への備えとして行った抜本的防衛力強化政策の一環として大規模に導入した機材であった。

 一度は整備を中止していたAH-64Dだが、戦争が近すぎると判断された為に米国に掛け合ってFMS(対外有償軍事援助)として一気に100機以上が導入されていた。

 正しく時間を金で買う行為である。

 他の国向けの生産枠すらも金で叩いて、生産ラインを占拠していた。

 日本国内には、AH-64Dの性能的な問題を指摘する声はあり、財務省も一度性能の不足を理由に調達中止したものを再開するのは問題であると声を上げたが、戦争が近いと言う政治の判断が、それらを潰した。

 高性能でも戦争に間に合わぬ兵器では意味がない。

 金庫番は蔵の金を数える以外は口を挟むな。

 戦争モードに入った日本人は、戦争に向き合う為、実際的な事以外のあらゆる主張を粛々とブチ殺したのだった。

 尚、タイムスリップ後、予備部品などの問題や電子機器などの更新の為、F-35Bと同様の処置 ―― 在日米軍の許可と立ち合いの下で分解解析による、国内メーカーによる社外交換部品の製造が行われている。

 この為、現在、前線に配置されているAH-64DはM3型、UAVの管制機能も付与された多機能化第3形態(Multiple 3)となっている。

 現在、日本本土の部隊には、より強力で純国産の複合(コンパウンド)戦闘ヘリであるAH-2の配備が始まっているが、今現在の欧州の空にあるのはAH-64D.M3であった。

 3度の近代化改装を越えて、禍々しい外見となったAH-64D.M3は、その禍々しさを裏切らない活躍を見せる事となる。

 

 

*5

 10日も作戦に掛かった理由は、日本フランス第1統合軍が移動インフラの整備も同時進行で行っていたからであった。

 アルザス・ロレーヌ総軍の撤退をスムーズに行う為の、道路の補強や橋の整備を進めていたのだ。

 第11施設科旅団が丸ごと派遣されていた理由でもある。

 当初は、遮二無二突進する予定であったが、ドイツの抵抗が()()であった為、トータルでの効率が優先されたのだった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

152 第2次世界大戦-19

+

 マインツ市が占領され第3軍集団とW軍集団が壊滅的打撃を受けた事はドイツ西方総軍の危機に直結した。

 補給路が扼される事になるからだ。

 フランスからの侵略軍を撃退する為とは言え、自らの手で物流インフラを破壊したツケが回ったとも言える。

 その上、南方から大規模では無いにしても押し込んでくるイタリアの存在がある。

 北方のオランダ戦線も攻勢は完全に頓挫しており、日本とブリテン軍の規模が小さいが為に()()()()()()()()()()()と言うだけの状況であった。

 即ち、ドイツの西部戦線は崩壊の危機に面する事となった。

 更には、ドイツ西方総軍のみならず、ドイツ経済にとっても深刻な事態が想定される事になる。

 ルール地方 ―― ドイツ最大の重工業地帯が、日本/フランス側陸上部隊の攻撃圏内に入る事となったからだ。

 ここが失われる事ともなれば、ドイツの戦争計画は大きく狂う事となる。

 そもそも、ドイツ経済に尋常では無い影響が出る事となる。

 ドイツの経済界は、ドイツ政府に対してルール工業地帯の安全確保を強く訴える事となる。

 或いは工場群の疎開を要求する事となる。

 問題は、日本とフランスの航空機による麻痺爆撃(オペレーション・スタン)が行われだしている事であった。

 麻痺爆撃とは、ドイツ国内のインフラ網(道路、橋、鉄道)に対する爆撃であった。

 世界大戦(World War)でドイツが行っていた内線作戦を前提から破綻させると言うのが目的であった。

 文字通りドイツの軍事活動、部隊の機動を麻痺させようというのだ。

 フランスは、これを手ぬるいとして都市部への絨毯(無差別)爆撃も主張していたが、日本は絨毯爆撃をやった所で効果が薄いとして反対した。

 そもそも、無駄に爆弾をばら撒くのは戦費の無駄遣いだと言うのも理由であった。

 攻撃と言うものは効果的かつ効率的(スマート)に行うべきだと言うのが日本の考えであった。

 又、一般市民への爆撃は戦時国際法違反になるとも考えていた。

 空港や港湾施設。

 駅や操車場に物流拠点、果ては変電所を破壊はするが、別段にドイツの一般市民に対する被害を狙う必要は無いのだ。*1

 言ってしまえば、ドイツが自爆的に戦争を始めたお陰で労も無く手元に来た錦の御旗に、好んで泥を付ける必要は無いと言う話であった。

 

 兎も角。

 国際連盟による攻撃が齎す経済的混乱を、ドイツの資本家たちは簡単に受け入れる積りは無かった。

 ドイツ政府に対して、ルール工業地帯防衛に総力を挙げる様に要請する。

 これによってドイツは損切 ―― 遅滞戦闘による時間稼ぎと、戦力の再構築を断念する事となる。

 ヒトラーの独裁国家であるドイツであるが、そうであっても財界(民意)と言うモノを無視できる訳では無いのだから。

 否、独裁と言うものが民意による支持あればこそ成り立っていると言う事を考えれば、政府与党と対立する野党(ガス抜き)と言うモノが存在しない独裁国家の方が余程に民意と言うものに阿らざるを得ないと言う側面があると言えるだろう。

 かくしてドイツは、更なる徴兵 ―― 主要な労働人口()()の人々を根こそぎに動員していく事となる。

 定年退職者、ヒトラーユーゲントで未就労の少年少女による軍補助組織、国民突撃隊(Volks Sturm)の編成だ。

 又、女性たちも動員され、村や町の石造りの建物を、べトンなどで補強してトーチカを作った。

 涙ぐましいまでの国家総力戦。

 ヒトラーは此れを指して、ゲルマン民族への試練であると盛んに連呼していった。

 民族の試練、ドイツは自ら苦難への道を突き進む事となる。

 それも又、ドイツ人の選択であった。

 

 

――国際連盟

 フランス政府は、マインツ市解放が想定よりも遥かに短い時間で、極めて少ない損害で行えた事に自信を持つ事となる。

 そして、その自信を背景にして国際連盟安全保障理事会にて大規模な対ドイツ攻勢を主張した。

 電撃的にルール工業地帯を支配し、そのままドイツの心臓であるベルリン市へ向けて突進し、戦争を簡単に終わらせてしまおうと言うのだ。

 この時点で日本の遣欧総軍主力である第10機甲師団がフランス本土に到着。

 併せて第4航空団も展開を完了しつつあった。

 これがフランスの対ドイツ戦争への強気な姿勢を支えていた。

 日本連邦統合軍の正規機甲師団は、4個戦車連隊と1個歩兵(機械化歩兵)連隊を基幹としている部隊であり、先のマインツ市解放戦で活躍した機械化旅団は2個の歩兵(機械化歩兵)連隊と1個戦車大隊を基幹としていた。

 比べ物にならない打撃力と言えるだろう。

 この戦力を、フランス陸軍が側面支援すれば、ベルリンへの打通とて容易である。

 そうフランスの代表が声を上げたのだ。

 その声にポーランド代表が賛同した。

 ポーランドが正面に立っているドイツ戦争東部戦線は、ドイツ軍の攻勢自体は頓挫せしめているものの、いまだ前線はポーランド国内にあるのだ。

 早期にドイツを国内から追い出したいポーランドとしては、西部戦線が活発化する事は願ったり叶ったりなのだ。

 だがそれを日本の代表が止めた。

 早期のドイツ戦争終結は宜しくないと言った。

 それは戦後を見据えた主張であった。

 ヒトラーのドイツを潰す事は難しい事では無い。

 だが、その潰した後の統治を考えた場合、簡単に潰してしまうと弊害が出ると言うのだ。

 日本代表は言う。

 ドイツ戦争で狙うべき相手、真に心を折るべき相手はドイツ人、ドイツの一般大衆に他ならないのだ、と。

 世界大戦(1914 - 1918)の如く、ドイツは負けていないが背後からの一撃で負けた等と寝言を言わせない様にせねばならぬのだ。

 ドイツ戦争を、ドイツが負けたのではない。

 ナチスとヒトラーが負けたのだ等と言わせてはならぬのだ。

 ドイツと言う国家と民族に誉は無い ―― 世界(G4)に劣るが故に負けたのだと教え込まねばならぬのだ、と。

 その為には、一撃でベルリンを落とすのではなく、一歩一歩ドイツ領内を侵攻して全ての領土を塗り絵の様に塗り替えて、ベルリンを炎上(ヴァルハラ炎上)させねばならぬのだと言う。

 淡々と紡がれた、だが余りにも苛烈な主張に国際連盟安全保障理事会の会議室は誰もが言葉を失っていた。

 この後、国際連盟による対ドイツ戦争の戦争計画は日本が主導していく事となる。

 

 

――ポーランド

 ドイツ戦争自体の長期化を国際連盟(ジャパンアングロ)の都合で決められたポーランドであったが、それを受け入れた背景には、戦後のドイツ国土の割譲 ―― ベルリン以東で、ポーランドが掌握出来た土地の無条件割譲が密約されたと言うのが大きい。

 又、その為の戦力、戦車その他を最優先で供給する約束を日本と()()()()が行ったと言うのもあった。

 本土は安全であり、海洋交易路も安定しているブリテンは、ドイツとの戦争も大事であるが、それ以上に戦後を睨んだ動きを見せているのだった。

 ポーランドとの関係強化、即ち、ヨーロッパ亜大陸でのフランスの一強体制を阻止すると言うのが目的だ。*2

 その意図を理解しつつ、ポーランドはブリテンの支援を受け入れて行く事となる。

 ポーランドとて、常に誰かの風下に居たい訳では無いのだ。

 特にそれが鼻持ちならない相手(スノッブめいたフランス)であるならば。

 二枚舌(ブリテン)田舎者(アメリカ)理解の外側(日本)などの方がまだマシと言うものであった。

 少なくとも、綺麗事を押し付けようとはしてこないだけ。

 そして国の距離が離れているだけ、マシであった。

 日本とブリテンからの支援、そしてフィンランドからの派兵を受けてドイツを国土から叩き出す為に死力を尽くしていく事となる。

 

 

――フランス

 様々な思惑の入り乱れる中、フランスは年明けからの一大攻勢に向けて物資や部隊の蓄積を行っていく事となる。

 フランス本土にはフランス軍のみならずブリテン軍、日本軍(日本連邦統合軍とエチオピア軍)、そしてアメリカ軍が轡を並べて行く事となる。

 又、南アメリカ大陸の諸国からも、最大でも師団規模程度ではあるが陸軍が派遣されてきていた。

 その事にフランスは、世界が後ろに居ると確信する事となる。

 名誉と言う意味に於いて、ある種の絶頂を感じていた。

 その総兵力は、予想されている範囲で優に300万近い規模を超える事となる。

 300万を超える人間の住居や食料を賄う事は大変な事ではあったが、無尽蔵と言って良い日本の支援もあって、問題無く遂行できていた。

 この300万を超える軍を指して、フランスは大陸軍(SDN-グランダルメ)と称していた。

 日本が手を回して総司令官をフランス人とした結果であった。

 名誉はフランスに。

 実権は諸国に。

 尚、その指揮権は総司令部参謀団が握る事となり、構成要員は部隊派遣国から派遣される事とした。

 参謀団での発言権は、日本は別格として、それ以外は派遣してきた兵員の規模に応じたものとなっていた。

 

 フランスの戦争準備の1つにはマインツ市の維持があった。

 当初はアルザス・ロレーヌ総軍回収後は速やかに撤退する積りであったのだが、度重なる空爆によってドイツ側の抵抗力(ドイツ西方総軍)が弱体化しているが為、この保持は可能であると判断した結果であった。

 その背景には日本第11施設科旅団によるマインツ市の()()()()()があった。

 フランスの要望を受ける形で大量の物資を用いて塹壕を掘り、トーチカを作り、地雷原まで構築したのだ。

 通称はマインツ要塞(マインツバルジ)

 この拠点に対応する為、ドイツ側は周辺に多重防衛ラインを構築していく事となり、少なくない物資を大量に消費していく事となる。

 

 

――ドイツ

 失いつつある西部戦線に対して、東部戦線はいまだ攻勢の余地を残していた。

 その東部戦線で勝利する事で、国民に対して一定の面子を立てつつ国際連盟との講和を図る。

 それがヒトラーの考えた政治的戦略(絵図面)であった。

 制圧したポーランドの解放を政治的な対価とし、その上でフランス、オランダ、イタリアに対しては国土を割譲する。

 国際連盟への復帰(恭順)もする。

 こうすれば正義の御旗を掲げている国際連盟(ジャパンアングロ)は、平和の為として和平に乗って来ざるを得ない。

 そう言う認識であった。

 ドイツに対する敵意を隠そうともしないフランスは、断固拒否するだろうがブリテンは違うだろう。

 ドイツを下したフランスが覇権国家化する事を望まないであろうから、ブリテンは必ずや協力してくれる。

 政治的センスと言う意味に於いて、ヒトラーの頭脳は鈍っては居なかった。

 問題は、得ている国際情勢の情報が()()()()と言う事であろう。

 既にブリテンは、ドイツ戦争後のフランスの強大化をけん制する為にポーランドと協力関係を強化しており、イタリアにも支援を開始している。

 その意味に於いて()()()()のだ。

 だがドイツの首脳陣で、その事に気付けた人間は殆ど居なかった。

 居たとしても、ヒトラーの癇癪を恐れて口にする事が無かった。

 この為、ヒトラーはドイツ滅亡回避の為に、東部戦線に対する()()を強化していった。

 その上で、西部戦線に関しては軍に対して現在保持している領域を死守する様に厳命するのだった。

 余りにも攻め込まれると、講和の際に割譲せねばならぬ領域が増えるからである。

 又、バルカン半島で孤立している部隊に対しては()()()()()()ソ連軍部隊への降伏を認める命令を発した。

 同時に、ソ連に対して密使を送る事となる。

 バルカン半島を含むドイツ連邦帝国(サードライヒ)の東欧領の平和的割譲を対価として国際連盟との外交(講和)の窓口となる様に依頼する事としていた。

 ヒトラーの政治的外交的センスは、追い詰められつつある状況に於いても決して悪いものでは無かった。

 問題は、この密使がドイツに帰ってくる事が無かったと言う事である。*3

 ヒトラーも、その側近も忘れていた。

 世界はドイツの都合では無く世界の都合で動いていると言う事を。

 

 

――日本

 日本はドイツとの戦争自体は楽観視していた。

 だが、その戦後統治に関しては楽観視していなかった。

 タイムスリップ前の世界での米国が陥った伊拉克(イラク)統治の混迷が念頭にあったからである。

 だからこそ、ドイツとの戦争が確実視される状況になると直ぐに日本政府は、国内に戦後を見据えた研究チームを立ち上げたのだ。

 グアム共和国(旧在日米軍)に残されていた資料なども使用して行われた研究の結果は、国民が敗戦に納得しない限りは安定した統治は不可能であると言う結論であった。

 かつての第二次世界大戦の終結後、日本や独国が米国に強く反発しなかったのは国土の殆どが焼き尽くされ、負けたのだと誤解の余地も無く納得できたと言うのが大きい。

 そう結論付けられたのだ。

 統治者 ―― 支配者層の交代が魂に刻み込まれるレベルで敗北させねばならない。

 そこまでして初めて、大衆は受け入れるだろう。

 

 平和の為の暴力理論(ピースメイカー・ロジック)

 

 日本は、その理論を受け入れた。

 矢尽き刀折れれば人は受け入れるモノだと言うのは、皮膚感覚で理解出来たからだ。

 だからこそ、日本は念入りにドイツを潰す事を選んでいた。

 その潰す選択肢に、レーザー融合弾(純粋水爆)の実戦投入すら検討された点に於いて、日本は本気であった。

 尤も、大威力兵器の投入をしたとしても、軍を焼くだけ(民間人に被害の出ない場所での投入)ではドイツ人の心を折れないだろうと判断され、であれば値の張るモノを投入する甲斐は無いとして中止された。

 一般ドイツ人の眼前で、健気に戦うドイツ軍をぼろ雑巾の様に無情に無慈悲に潰えさせる事が肝要なのだから。

 かくして日本はフランスに戦力の集積を行い、併せてポーランドに対しては大規模な航空戦力を展開させていく事となる。

 フランスが航空戦力に於いてドイツに優越していると言うのも大きいが、陸上戦力の大規模なポーランド派遣が難しい事も大きかった。

 爆撃機や攻撃機、戦闘ヘリや武装UAVまで投入されていく事となる。

 この運用が行えるのは、ドイツ海軍の消滅によるバルト海が完全に国際連盟の管理下に入ったお陰であった。

 その上で日本はドイツの主要港湾(軍港等)を機雷にて封鎖し、又、小さな港湾であっても見逃さず、ドイツが魚雷艇や武装漁船などでの行動が出来ぬ様にと片っ端から焼いていったのだった。

 尚、漁船をも焼くと言う行為は、法務官の一部から戦時国際法を厳密に運用すれば抵触する恐れありとの意見が出されたが、日本は無視する事とした。

 正確に言えば無視では無い。

 国際連盟安全保障理事会隷下の軍事法務委員会を動かしていたのだから。

 ドイツの漁船はドイツ政府/軍の管理下に容易に入り兵器として転用される恐れが大である為、コレを破壊する事は戦時国際法に抵触しないと言う報告書を出させていた。

 正に、法の正しい運用であった。

 とは言え、元々ドイツ自身が偽装商船での通商破壊戦を行っていたのだ。

 因果応報と言うべきであろう。

 かくして、日本だけでは無く国際連盟加盟国の各艦艇が()()()()()()()()()()()()()()()()

 尚、ドイツ海軍最後の大型艦、空母グラーフ・ツェッペリンなどが狙われる事は無かった。

 軍港の最深部で、厳重な偽装が行われていたから ―― では無い。

 イタリアや自前で空母を建造できない国家が欲した事が理由であった。

 最早、脅威とは言えぬ艦艇であるのだから、放置していても問題は無い。

 沈めても良いが欲しいと言う国があるならば攻撃をしなくても良い。

 ()()()()()()()であった。

 海の戦争は終わりを迎えていた。

 

 

 

 

 

 

*1

 そもそもとして、一般市民に被害を出さないからこそドイツの余力を削って行けると言う事も日本は考えていた。

 鉄道や道路を破壊しても、一般市民は元気に生きている。

 生きているのであれば、ドイツは国の面子に懸けても支えねばならないのだから。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()便()()()()()

 

 それが日本やブリテンの本音であった。

 

 

*2

 ブリテンの方針として、無駄にコストの掛かる旧世界(ヨーロッパ)は見捨てて、世界を管理する事で名誉と金を得ると言うモノがあった。

 ブリテン連邦として、日本やアメリカと商売する事で利益を生み出そうというのだ。

 その為には、ヨーロッパが()()()()()()()()()()()()()()事が重要となる。

 ヨーロッパ亜大陸に、ブリテンの本土に強い影響力のある強大な国家(スーパーパワー)が存在していては困るのだから。

 それ故のポーランド支援であった。

 又、同じ理屈でイタリアも支援していた。

 このブリテンの動きをフランスは、ドイツ領土の掌握 ―― 戦後に備えたアレコレの動きに忙殺されて気づく事は無かった。

 否、気づく人間も居はしたが、ドイツを併合しヨーロッパ亜大陸に巨大なフランス帝国を作り上げれば、ブリテンは自ずと跪いてくると判断していたのだ。

 ブリテンもフランスも、実に仲が良かった。

 

 

*3

 このヒトラーの密使事件は、後に1990年代に入って起きた東欧諸国の民主化(ソヴィエトからの離脱)に伴って真相が究明される事となる。

 密使は、ソ連軍との平和的接触には成功していた。

 只、スターリンに合う為にソ連本土に向かう途中で()()()()()()()()()()()()()()()()()、死亡していたのだ。

 尚、その事故が偶発的なものなのか、それとも()()()()()()()()()であるかは歴史の闇の中にある。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

153 第2次世界大戦-20





+

 国際連盟側の戦争方針に基づいて、攻勢が緩慢なものとなったドイツ戦争西部戦線。

 その様を指して、欧州の新聞紙(クオリティーペーパー)などは冬季自然休戦(ウィンター・ファニー)などと読んでいた。

 だが、対峙するドイツ側からすれば、どこが休戦なのかと言う状況であった。

 確かに、フランス軍や日本軍(日本連邦統合軍)を主力とする国際連盟軍はドイツ領内での積極的な占領域の拡大を図ってはいない。

 だが、空爆は継続され続けていた。

 戦略爆撃から戦術爆撃まで。

 戦略爆撃機がドイツの軍需工場から基地から、事前に分かっていた重要施設の悉くに爆弾の雨を降らせ続けた。

 戦術爆撃は、前線部隊のみならず日中は道路上を動くトラックや鉄道を狙い撃ちにし続けた。

 否、日中だけでは無い。

 日本が常に空に遊弋させている無人攻撃機QA-3*1が、夜間であっても攻撃を継続していた。

 これらの攻撃に際しては、民間向けと思しきモノを除くように配慮する事とされていたが、残念ながらも一定数の誤射は発生していた。

 尚、夜間に関しては、道路を走って居るモノは軍用であると判断し、コレを攻撃する旨を宣言していた。

 ドイツ軍もドイツの人々も、奪われた空を恨めし気に見上げ続ける事となる。

 ここまで一方的な情勢となった理由は、日本の投入したE-302(早期警戒管制機)*2E-50(地上監視管制機)*3の猛威があった。

 2種類の機体が持つ高精度なレーダーがドイツの航空機運用基盤を、それこそ仮設された野戦基地まで丸裸にし、そこを徹底的に爆撃してみせたのである。

 ドイツ空軍とて抵抗しなかった訳では無い。

 航空基地の分散、レーダーによる早期警戒と管制された迎撃の実施。

 対空火器の増設による自衛力の強化。

 果ては航空機を地上輸送する事までした。

 だが、そこまでの努力も、科学力の差が無慈悲に蹂躙する。

 航空基地も燃料集積所も、果ては航空機の製造工場までも無慈悲に焼かれていった。

 当然、レーダーサイトも含まれている。

 その上で日本は、軍事的必要性に因るとして、国際連盟安全保障理事会戦争補完委員会法務小委員会の了解の下、ドイツ各地の送電網を丁寧に焼いていた。

 ドイツは空に続いて夜も奪われつつあった。

 文明の終焉であり、闇夜の復権である。

 冬の寒さが厳しくなる中で陥った塗炭の苦しみは、ドイツ人のヒトラー/ナチス政権に対する急速な支持の低下を呼ぶ事となる。

 

 

――ポーランド

 西部戦線で行われている、インフラ破壊によるドイツ軍の活動低下処置は、この東部戦線で簡単に行えるものでは無かった。

 何故なら、戦場はポーランドの国内にあるからだ。

 インフラ破壊によって苦労するのは、ドイツ人では無くポーランド人となる。

 それはとても受け入れられるものでは無かった。

 故に、日本とブリテン、そしてアメリカはポーランドに潤沢な支援を行う事とした。

 日本は政治的な意味合いすら持つ有人航空機部隊、戦闘機に加えて地上攻撃機部隊をポーランドに配置した。

 併せて、地上誘導隊を派遣した。

 ポーランド陸軍部隊に同行し、地上攻撃部隊に対して詳細な目標伝達を伝達する事を仕事とする部隊だ。

 これにより戦力が入り乱れている状況であっても、効果的な(フレンドリーファイアを恐れぬ)攻撃が可能となった。

 ブリテンは、装備の融通に関して担っていた。

 国際連盟(G4)最大の重工業国家である日本がMLシリーズの増産と手配に忙殺されている事と、フランスが自国の陸軍装備拡張に工業力を消費していた事が理由であった。

 表向きの。

 ブリテンとしては、ここでポーランドと大規模な協力関係を構築する事で、戦後のヨーロッパ亜大陸での政治的影響力の確保を狙ったのだ。

 それは、ポーランドとて()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()を読み切ったブリテンの冷静な判断があった。*4

時に戦車は凄い勢いでポーランドに送られる事となる。

クロムウェル巡航戦車やチャレンジャー重巡航戦車を筆頭に、ドイツのⅣ号以降の重戦車の相手は辛くとも、それ以前の戦車であれば一方的に殴殺可能な戦車群が4桁単位で送りつけられる事となる。

これは、この時点でブリテンが52t級の車体に20lb.砲を搭載した超ド級戦車、主力戦車としての第1世代型となるチャレンジャーⅡ戦車を開発し配備を進めていたが為であった。

主力戦車による統一(All MBT doctrine)をブリテン陸軍が採用した結果とも言えた。

結果として、ポーランド陸軍は1944年の時点でフランスやドイツには劣るものの、イタリア等とは比べ物にならない戦車の装備率を誇る事となる。

 特に各種の巡航戦車は、その快速ぶりもあって偵察部隊で大いに活躍する事と成る。

 これ程の物量をポーランドに届ける事が出来たのも、バルト海の制海権を国際連盟側が掌握したと言う事が大きかった。

 洋上戦力が消滅し、航空優勢も奪われたドイツは、バルト海を往く国際連盟の船団に対して出来る事などなにも無かった。

 当初は、潜水艦部隊による襲撃も実行されていたのだが、この輸送船団に随伴する日本の護衛艦(潜水艦ブッコロスマン)部隊のキルスコアになる以外の成果を挙げる(意味を示す)事は出来なかった。

 この状況にドイツ海軍では次善の策として、チャイナめいた魚雷艇や武装漁船による襲撃、或いは無制限機雷戦 ―― 浮遊機雷の放出によるバルト海の無力化(利用不可能化)が検討された。

 実行には様々な制約や努力が必要となるが、行えば必ずや大なる成果が得られると考えられていた。

 低コスト高パフォーマンスな作戦。

 ドイツ海軍、そしてどこからか嗅ぎ付けて参加してきた武装親衛隊(Waffen-SS)は大いに乗り気になり、ドイツ陸軍も好意的に捉えて予算や物資の融通も約束していた。

 だが懸かる回天の策(貧者の戦略)は、検討段階で終了する事になる。

 理由は、諜報活動によってドイツでの動きを察知した国際連盟安全保障理事会が行った宣言(通達)であった。

 1907年ハーグ陸戦協定(陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約)に於ける、商船の軍事転用に関する第7項と機雷運用に関する第8項に違反した場合、()()()()()()沿()()()()()()()()()()()()()()()と言う苛烈極まりない内容であった。

 要するに、偽装漁船による攻撃や機雷の放流などを行った場合にはドイツを非文明国家として扱う ―― チャイナの様に沿岸部を焼き尽くすぞと言う、明確な脅しであった。

 コレにドイツは屈したのだ。

 ()()()()()()()()()()()()チャイナの前例(日本が実際にやってみせた実例)が国際連盟の宣言に力を与えたと言えた。

 兎も角。

 バルト海を通って与えられる補給(支援)がポーランド軍を強大にし、1日毎にドイツ軍との戦力差を縮めつつあった。

 そもそも、補給も途絶しがちなドイツ東方総軍に対して、ポーランド軍は十分な装備、潤沢な燃料弾薬、豊富な糧食と共に立ち向かっているのだ。

 両者が戦意(モラール)と言う意味で比較にならぬのも当然であり、ポーランド軍は少しずつ戦線を押し上げる事に成功しつつあるのも必然であった。

 

 

――オランダ

 ブリテンの3個機械化師団を中心とした大規模なテコ入れによって、オランダの戦局は決着が付く形となった。

 これは、ブリテンがマスコミに戦力の上陸を隠す事無く公開し、オランダ王家による歓迎セレモニーまでやってアピールをした事が発端であった。

 その質と量とは、衰弱したドイツオランダ侵攻部隊(ネーデルランド軍団)が対抗できるものでは無かった。

 この為、ドイツはオランダ戦線の完全な放棄を決定、それまでの方針 ―― 停戦交渉時まで現有地帯を保持する事による交渉材料の確保を断念する事となる。

 戦後よりも今を重視する事となる。

 後退しながらオランダのインフラを徹底的に破壊する事で、オランダ方面からの侵攻を阻止すると言う事が作戦目標に設定される事となった。

 尚、後退に際しては()()()()()()()()が最優先とされ、装備に関しては現場放棄も認められる事とされた。

 これは、装甲師団などにとっては自殺的命令とも言えたが、装甲車両の後退速度や、空から狙われた場合に於ける生存性の低さが問題視された結果であった。

 1両の戦車が無事に後退出来るよりも、10両の戦車を動かす将兵が生き残った方が良いと言う判断である。

 戦車は生産すれば何とかなるが、熟練の将兵を補充する事は簡単では無いのだから。

 1944年、ドイツ戦争開戦から1年も経ずしてドイツ軍の機甲化将兵の消耗は決して軽視出来ない水準(手酷い所)にまで到達しつつあったのだ。

 兎も角、戦車自体を囮とする様なドイツ側の行動に、ブリテン側は完全に対応する事は不可能であった。

 高速発揮可能な巡航戦車部隊によってドイツ軍部隊の迂回突破を図り、その拘束を試みようとしたが、ドイツ側も、持ち込んでいた重戦車を縦横に走らせて抵抗していた。

 オランダ戦線の最終盤は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()と呼ばれる事となる。

 そしてその結果は、オランダ戦線の作戦領域に無慈悲なまでの爪痕を残す事となる。

 国土(生活基盤)を破壊されたオランダ人のドイツに対する憎悪は、フランス並みに燃え上がる事と成り、それは回りまわってドイツ戦争の終結後に重大な影響を与える事となる。

 

 

 

 

 

 

*1

 QA-3は航空優勢獲得後に投入される事を予定して開発された、非ステルスの単発ジェット型の廉価な戦術攻撃機である。

 1940年代に入り、航空機開発技術者の育成が進んだお陰で、日本は各種航空機の開発に余裕をもって取り組む事が出来る様になった。

 その成果と呼べる機体である。

 エンジンは、邦国向け防空軽戦闘機であるF-9用のモノを採用している。

 2tを超えるペイロードを持っており、この配分によって滞空時間を優先したり、或いは地上攻撃力を強化したりする柔軟な運用が可能である。

 又、センサーポッドを搭載する事で、地上監視機としての運用も可能としている。

 

 

*2

 E-302は、E-767の後継機として三菱製の大型民間向け航空機であるM302LRをベースに開発された機体である。

 機体が大規模である為、本来は運用インフラの問題から日本連邦の領域外で運用するのは難しいとされているが、日本はブリテンに()()()()()()()()()()()()()()()()()()()を建設し対応した。

 

 

*3

 E-50は、TAI(トヨタ・エアクラフト・インダストリー)社製の双発中型ターボプロップ機、C-50を基に開発された対地監視機である。

 前線配置型の電子情報収集機/電子戦機としての能力も併せ持っている。

 E-50はQA-3と投入される機体である為、この指揮管制も可能としている。

 広大なシベリアの大地で、数百万もの将兵で構成された数百もの戦術単位(師団/旅団)を持つであろう()()()()()()()()()()()()()と戦う事を前提に開発された装備である。

 ある意味で日本が持っている悪夢 ―― 蘇国の大陸軍(スチームローラー)に対する解答、或いは日本解釈によって再現しようとしたALB(エアランド・バトル)ドクトリンの申し子とも言えた。

 尚、余談であるが現実のソ連軍は、予備役を含めても50万を揃えるので青色吐息と言う有様である。

 

 

*4

 尚、日本に次ぐ工業力を誇るアメリカは、ドイツ戦争に関して積極的に関わり合おうとはしていなかった。

 物資の融通もする。

 戦力も派遣する。

 だが国を挙げて軍事物資を生産するなど、そんなコストの割に利益を生みださない行為に手を染める積りはなかった。

 ドイツ戦争は旧世界(ヨーロッパ)の戦争なのだから。

 ブリテンとフランス頑張れ、日本はG4筆頭なんだからご苦労様、アメリカはチャイナ相手に外交その他で忙しいから楽する為に超頑張れと、そんな気分であった。

 




2022.02.16 題名修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

154 第2次世界大戦-21





+

 南部戦線、ドイツとイタリアとの戦局はイタリアの優位で展開していた。

 リビアの油田と日本との貿易が齎した外貨が、その原動力であった。

 だがしかし、自国の限界を正しく理解していたムッソリーニは本戦争に於いて無理をする積りは無かった。

 旧領(失われたイタリア)の回復、イタリアの下腹部でもあるエーゲ海の掌握、そして国際連盟(G4)に対する義理立てとしてのドイツ本土への侵攻。

 バランスよく果たす積りであった。

 それは、南部戦線がほぼほぼイタリア軍のみで行っている事も理由にあった。

 開戦前から駐屯していた日本の第13機械化旅団は今もイタリアに存在し続けているが、指揮系統の1本化と言う問題もあって、ドイツ本土への侵攻はイタリア軍のみで行われていた。

 だからこそなのだ。

 ムッソリーニは、この戦争に於いて近代国家が果てしなく獣性を発揮していると理解していた。

 或いは、国威とは軍事力であると。

 常日頃は温厚な(外交)しか見せない日本も、いざ戦争と成れば悪魔(悪鬼羅刹)の如く暴れまわる。

 そこに慈悲は無い。

 ()()()()()なのだ。

 今ある戦力を出来るだけ傷つけずに、戦後を迎えたいと思っているのだ。

 戦力こそが国際社会での発言力であると深く認識すればこそであった。

 そこには、かつて友邦国であるドイツへの感情など寸毫たりとも存在しなかった。

 イタリアはイタリアの都合、イタリアの国益が最優先なのだから。

 だが、状況が変わる。

 国際連盟安全保障理事会で策定された対ドイツ戦争方針(Finish dyeing Plan)が原因である。

 ドイツの国土、その津々浦々までも国際連盟加盟国の軍勢が軍靴で踏みにじらねばならぬ事となったのだ。

 無論、踏みにじるとは言っても戦時国際法を遵守した上での行動が要求されるのだ。

 慌て、困り果てるイタリア。

 イタリアにはドイツ南部域の掌握が要求されていた。

 兵員の規模だけで言えば不可能では無いのだが重装備、戦車や装甲車が致命的に不足していたのだ。

 更に言えば、地続きとは言え国外で大規模な戦力を運用し続けるには、兵站部門の貧弱さは致命的であった。

 戦車や装甲車を多用する現代戦に於いて燃料弾薬の補給と言うものの役割は極めて重い。

 そして、一言で補給と言っても、物資の調達もだが、必要な場所へ輸送する手段の確保も大問題であるのだ。

 船、汽車、自動車、或いは()()

 この1940年代に於いて日本は別格としても、前線や後方を問わない完全な自動車化を実現できていたのはアメリカしか無いのだ。

 現状のイタリアが大軍(陸軍の大多数)をドイツ国内へと展開させた場合、早晩に破綻するであろうと言うのが陸軍参謀本部の判断であった。

 補給能力が弱いのには理由があった。

 ドイツと袂を分かって以降、本格的な戦争を想定した軍の整備を行っていたイタリアであったが、その作戦計画はイタリア国内での防衛戦が主であったのだ。

 防衛している間に国際連盟(G4、特にフランス)がドイツを殴り殺す ―― そう言う想定で整備されていたのだから。

 国際連盟(G4)への恭順によって国家が安定(繁栄)している事を理解するムッソリーニであるが、国を傾けて(軍を壊滅させて)まで忠誠を示そうとは考えて居なかった。

 故にムッソリーニは国際連盟へと派遣している全権大使に対して、イタリアは可能な限り前進を試みるが国際連盟安全保障理事会が望む水準での前進は難しいと主張させた。

 それで合理的な国際連盟は折れるだろうと考えたのだ。

 ()()()()

 イタリアが侵攻できない理由を確認した日本がであるならば是非も無いとして大小輸送車両(MLシリーズ)*1年内(3ヵ月間)だけで5万両、送りつけると告げたのだ。

 無慈悲な日本の宣言に、慌てて周りを見たイタリアの全権大使。

 誰かが助け舟を出す事を期待しての事であったが、他の代表たちがそっと目を逸らしただけであった。

 否、ソ連の代表が少しだけ羨ましそうに見て来ていた。*2

 結果、イタリアに出来たのは、頑張りますと言う返事、そして送り付けられてくる5万両の車両に手配する運転手の早急な育成だけであった。

 

 

――ソ連

 国際連盟加盟国としてドイツに対して宣戦布告を行ったソ連。

 その矛先は隣接するドイツ、ドイツ連邦帝国(サード・ライヒ)東方領となったバルカン半島であった。

 実利の為である。

 国際連盟安全保障理事会が参戦国に対し、内密で示した領土割譲許可(ドイツ領切り取り御免状)に基づいての事であった。

 国土の東半分、資源地帯でもあるシベリアを失ったソ連は、それに代わる領土を欲したのだ。

 日本の要請を受けてシベリア前線から引っこ抜いた戦力をヤケクソめいて投入していた。

 猜疑心と言う意味で他人を信用していないスターリンからすれば、心底からの博打であった。

 あの国際法に五月蠅い日本がソ連侵攻をした場合、いっそ全世界に日本に偽善性を嘲笑しながら死んでやる! そう言う覚悟の博打であった。

 ソ連の首脳陣一同を集め、覚悟の水杯ならぬウォトカでジョッキを満たし、それを一気に干してから全軍にドイツ侵攻を命じた程だった。

 それから1月以上が経過しても、日本は不可侵条約を破る事は無かった。

 そしてバルカン半島のドイツ軍は脆弱の一言であった。

 元よりドイツ軍は治安維持が目的で投入された部隊 ―― 東方領となった旧東欧諸国の反ドイツな人、或いは組織を潰す(弱いモノ虐めをする)為の部隊だった。

 過半数は戦闘訓練も不十分な、武装親衛隊(Waffen-SS)に無理矢理に組み込んだ()()()()()なのだ。

 酷いモノともなれば、刑務所からかき集めた模範囚の部隊すらあった。

 その為、装備や練度と言う点に於いて、とてもでは無いがソ連の正規軍を相手に戦える様なものでは無かったのだ。

 その他、現地住民を徴発した辺境警備師団なども促成されては居たが、こちらは国を奪われた民の部隊故に戦意など無いに等しく、ソ連軍を見れば我先にと逃げ出す始末であった。

 こうしてソ連軍は、破竹の勢いでバルカン半島をわが物へと変えていった。

 その勢いが止まるのは、アドリア海に近づいた時であった。

 具体的には、旧ユーゴスラヴィア王国の領土に入る時までであった。

 元より戦意に溢れ、ドイツへの武力を用いた抵抗運動を繰り広げていた土地なのだ。

 熾烈な抵抗運動が勃発する事となる。

 ソ連の国境線を超える時点では50を数えていた師団数も、抵抗するドイツ軍部隊が少なかったが為、治安維持任務に置いてきた結果、旧ユーゴスラヴィア王国領に入ったソ連軍部隊は11個師団に留まっていたのだ。

 ソ連本国との補給線の長さも相まって、旧ユーゴスラヴィア王国領での戦いは、ドイツ戦争とは別種の段階(ステージ)に突入する事となる。

 

 

 

 

 

 

*1

 MLシリーズの車両でイタリアに緊急的に提供される事となったのは、2t級トラック級のML-01と小回りの効く軽トラック級のML-03であった。

 日本の車両メーカーが量産性と堅牢さ、そして破損時の修復の容易さだけに焦点を絞って規格化したこの2つは、衝突安全性その他の問題で、日本国内での使用は不可能な日本製車両であった。

 とは言え腐っても日本車。

 オートマチックトランスミッションやパワーステアリングは採用している為、その操作性は諸外国のソレとは比較にならぬ水準であった。

 尚、MLシリーズは自動車メーカーからすると旨味(利益)は少なく技術的面白み(新規性)も無い車両であったが、何しろ台数が多く工場が全力発揮できた為、最終的な利益は相応に上がる事となる。

 この為、戦後に於いては日本の軍産複合体(戦争利益に関する陰謀論)に繋がる事となる。

 

 

*2

 ドイツとの戦争に参陣した国家に対しては無条件と言って良い程に適当に配られるMLシリーズであったが、その貴重な例外がソ連であった。

 MLシリーズを購入できない訳では無い。

 だが、その発注書の優先順位は限りなく後回しにされるのであった。

 日本連邦 ―― シベリア共和国と日本の関係安定化の為、日本にとってソ連は敵性国家として健在であって欲しいと言う側面があるが故の事であった。

 敵性国家である為、戦闘用の機材、或いは無線機などは機密保持の観点から禁止されていた。

 とは言え、他の加盟国からの融通を受ける(迂回購入する)事は可能であった辺り、単純に嫌がらせでしかなかったが。

 順番待ちに泣くソ連からすれば、順番を蹴飛ばして優遇されたイタリアは誠に以って羨ましい事であった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

155 第2次世界大戦-22






+

 国際連盟での公式名称はドイツ戦争とされている、国際連盟加盟国とドイツの戦争。

 だが好むと好まざるとに拘わらず戦場は世界規模となっており、遠くは極東アジアの山東半島および周辺海域。

 南北の大西洋。

 そしてヨーロッパ亜大陸全域である。

 故に、戦争の趨勢に影響を受けない国々などはドイツ戦争の事を第2次世界大戦(グレート・ウォー・セカンド)等と呼ぶ様になっていた。

 戦争の影響を大きく受けないが故の、遊びだったのかもしれない。

 或いは、歴史の変わり目に立ち会ったと物事を大きく捉えたいが故の感情であったのかもしれない。

 人間は誰しも、己はナニガシの特別な何か(天命)を持っている等と思い込みたい癖があるのだから仕方の無い話なのかもしれない。

 だが戦争はロマンチストが望むような劇的さ、或いは歴史に残る特別な何かなどないままに、散文的に進んでいった。

 1944年に始まった戦争でドイツは、開戦劈頭から時計の針が進む様に終焉に向けて転がり落ちてゆくだけであった。

 特別を願う人々を無視し、戦争は終焉へ向かってまっしぐらに動き続けていた。

 

 

――チャイナ民国

 アメリカとの戦争が終わり、国土の再建に勤しむ事となっているチャイナ民国であったが、その広大な国土を繁栄させるにはチャイナ民国の国力は余りにも貧弱であった。

 特に、アメリカ空軍が盛大にぶっ壊して回ったチャイナ民国領内の各種物流インフラは、復興どころか、その計画すら立てる事が出来ないでいた。

 結果、長江流域を主体とする、水運の恩恵が受けられる狭い範囲での経済活動が生命線となる有様であった。

 この状況を打破する特効薬として、チャイナ民国が考えたのは、ドイツ戦争への参戦であった。

 正確に言えば日本だ。

 国際連盟の参戦国に対する支援として日本が用意した100兆円の予算、そしてMLシリーズ*1だ。

 それを大量に得る事が出来ればチャイナの再建は容易となる。

 そう考えられたのだ。

 チャイナの願望、或いは大望。

 だがそれは、残念ながらも初手から頓挫した。

 先ず、国際連盟への加盟が断られたのだ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()と言う事でアメリカの反対は勿論、国際連盟総会でも反対を受けたのだ。

 正式加盟は当然ながらも、発言権付の準加盟(オブザーバー参加)すらも許されなかった。

 当然の話であった。

 国際連盟は現在、加盟国の相互安全保障を主軸とする同盟組織へと変貌している為、先に加盟した国家の利益に反する事(に敵対する国家が加盟)が出来る筈も無かった。

 この点に関しては、日本が元の世界での経験(国連の無力化状態と言う前例)を基に政治工作を行っていたと言うのが大きかった。

 利益共同体であり有志連合としての国際組織と成る様に、誘導していたのだから。

 チャイナ民国に与えられたのは、総会の見学だけが許された列席権(ゲスト枠)でしか無かった。

 それでもドイツ戦争前のドイツに比べれば、まだマシな扱いであった。

 本部施設に入る事が許されており、加盟国との個別の外交なども可能となっているのだから。

 ドイツは国際連盟脱退後、本部施設への立ち入りすらも禁じる特定監視対象国(ノン・グラータ)として扱われていたのだから。*2

 国際連盟の場が駄目であるならば、とチャイナ民国は、フランスに対してチャイナ人義勇兵100万の派遣用意があると伝える事とした。

 戦争の終結(G4との関係が固定化)した事で、余剰となった軍人たちの口減らしも目的とした様な、非情な決断であった。

 フランスはチャイナ民国の提案を受け入れる事も考えたが計算した所、フランスの持つ船団規模では、この100万の軍勢がフランスの地で戦争準備を終える前にドイツ戦争が終わるとなった為、この参戦意思に関しては断る事とした。

 その代わり、ドイツ戦争後に行うアフリカでの治安維持戦に協力してもらうと言う事で決着する。

 そして、その対価としてフランスはチャイナ民国のインフラ再建に協力する事となる。

 

 

――トルコ

 国際連盟加盟国ではありその義務に従って(G4からの圧力に折れる形で)ドイツに対する宣戦布告に参加したトルコであったが、ドイツとの国境を接していない事からトルコ軍の派遣先には苦慮する事となる。

 トルコ本土から距離が近いのはバルカン半島のドイツ領であったが、バルカン半島とトルコの間には友好的関係とは言い難いギリシャが存在している為、現実的では無かった。

 とは言えフランスに集結しつつある国際連盟軍、フランスがいう所の国際連盟大陸軍(SDN-グランダルメ)は遠かった。

 又、トルコ政府としてはトルコ軍が国際連盟軍の指揮下に入る事でフランスなどの自由に使われ、消耗する事も忌避したかった。

 結果、トルコはイタリアに接近する事となる。

 ドイツ戦争南部戦線である。

 トルコから遠すぎず、ギリシャとは関係が無い場所として選ばれる形となった。

 観戦武官の報告から、イタリアは無理な攻勢をかける事も無く、被害を抑えつつ戦争を遂行していると言う情報が得られたと言うのも大きかった。

 このトルコの参陣希望を聞いたイタリアは大いに喜ぶ事となる。

 これで、時間が稼げると。

 トルコ軍の装備は、決して劣っているとは言い難いが、同時に、正面からドイツ軍と殴り合いをするには()()()()水準であった。

 特に戦車の不足は重大であった。

 1940年代に於いて、戦車とは航空機以上に高価で貴重な存在なのだ。

 イタリア軍でも不足気味であったが、それでもドイツ軍の中型戦車であれば正面から殴り合える水準に達している戦車は3桁単位で保有していた。

 だがトルコ軍は、あらゆる戦車を合算しても100両を越えて保有して居なかった。

 国力の涵養こそが大事であるとの判断の結果、軍事装備の更新は後回しにされていたからである。

 イタリアはトルコと結託し、日本に戦車の融通を依頼する事となる。

 流石の日本も戦車を融通する事は難しかった。

 問題は生産では無い。

 この時点でMLシリーズにラインナップされていた戦車はM型(ML向けモデル)38式戦車(Type-38.M)となっている。

 現行の正規販売モデルであるC型に比べ、主砲や装甲、エンジンなど以外の各部を徹底的に簡素化したM型はハバロフスクの統合軍工廠にて大規模な生産体制を構築しているお陰で、1000両程であれば、即座に増産する事が可能であった。

 問題は生産では無く輸送力。

 日本の海運業界(マル・フリート)が持っている輸送力が限界に達しつつあると言う事であった。

 先に決めた、イタリアへの5万両分もの追加輸送によって、年内分の余剰輸送力をほぼほぼ使い果たしていたのだ。

 だがここに、救いの神(イタリアにとっての疫病神)が居た。

 アメリカである。

 国際連盟安全保障理事会戦争補完委員会で、日本とイタリアトルコが話し合っていた所に、善意で余剰になっている輸送船の提供を申し出たのだ。

 それも、日本を真似て整備したRO-RO船である。

 流石に40t近い38式戦車M型(ML-38)を輸送する事は難しいが、日本の輸送船の代わりにトラックなどの車両を輸送する事は簡単であった。

 かくして、イタリアの小さな策謀は潰され、年が明けてからの対ドイツ攻勢から逃げる事は出来なくなるのだった。

 尚、戦争への意欲と言う意味で避戦意欲に乏しかった(諦めていた)トルコは、別段に何かを感じる事は無かったが。

 

 

――ユーゴスラヴィア

 支配者であったドイツ軍が、イタリアの参戦によって補給路を断たれ、弱体化した事により、ユーゴスラヴィアの抵抗運動は激化する事となる。

 特に各民族各組織間を取り持てる人材が出て来ていた事から、ユーゴスラヴィアは急速に統一された反ドイツ活動が組織されていった。

 この事が、後にソ連による全土掌握に問題を及ぼす事となる。

 ユーゴスラヴィア人からすればソ連は、自らの手で国家を回復させようとしていた所に横からやって来た侵略者でしかないのだ。

 これがせめて、圧政中のドイツ軍と手を携えて対峙したとか、以前より抵抗運動を支援していたならば話は違っていただろう。

 だが、今回は違う。

 ユーゴスラヴィア人からすれば、戦うしかないと言う状況であった。

 幸いな事は、ソ連と同様に国際連盟の加盟国でありながらも、ソ連の勢力圏拡張を好意的に捉えない地中海国家群(ギリシャやイタリア、トルコ)が支援してくれていると言う事があった。

 反ロシアと言う気分から、無条件に手を差し伸べているトルコ。

 隣国と言う事でユーゴスラヴィアの安定は死活問題でもあるので、人道的支援を行うギリシャ。

 そしてイタリアはG4、特に日本(反ソ連国家)の歓心を買う為に、軍事装備の提供も含めた強力な支援を申し出たのだった。

 それも、ドイツ占領時代の様にこっそりと送るのではなく、反ドイツ活動を支援すると言う名目で堂々と送り付けていた。

 そして、そんなユーゴスラヴィアの奮闘は、反ソ連の波としてバルカン半島全域に広がっていく事となる。

 ソ連は自らの手で泥沼にハマろうとしていた。

 

 

 

 

 

 

*1

 輸送力としてのトラックなども有望であったが、それ以上にチャイナ民国が欲しがったのは工兵部隊向けとしてラインナップされている油圧ショベル(ML-41)ショベルカー(ML-43)であった。

 故障率が極めて低く、運転の容易なソレらは破壊されたチャイナのインフラを蘇らせる為に大きな力を発揮すると見られていた。

 元々はシベリア開拓で入植者向けに廉価に提供できる様にと日本政府の要請を受けて開発されたモノであった。

 開発に補助金を出す事で、メーカーを問わない各種部品や消耗品の規格化が成されたため、僻地であっても高い稼働率を見せつけた良品であった。

 又、ブリテンがアフリカ向けに、アメリカがフロンティア共和国向けに積極的に導入もしていた。

 MLシリーズに加えられたソレは、エアコンなどの快適装備こそ削除されていたが、基本機能はそのままであり、後方部隊向けの非装甲型と装甲化されたB型の2種類がカタログに載せられていた。

 尚、装甲部隊に随伴可能な機動力と装甲とを兼ね備えた装甲施設車(ML-45)も存在している。

 こちらは38式装軌装甲車をベースに開発されたモノである為、戦車並みの単価となっていたが、機甲部隊に随伴し作戦行動が可能と言う事で、フランスやイタリアなどの経済力に余裕のある国家は競って購入していた。

 尚、陸戦部隊の整備に余力のあるブリテンは自前での開発に挑むのだった。

 

 

*2

 ドイツに対する処遇に関しては、外交の道を封じる事であり本来であれば禁じ手に類される行為であった。

 だが、国際連盟脱退に前後する形で、ドイツがアフリカでの民族(独立)運動を焚きつけた疑惑が持ち上がった為、ブリテンとフランスとが緊急避難的措置(嫌がらせ行為)として行ったのだった。

 当初は単純な嫌がらせであったのだが、後にこれは致命的な影響を与える事となる。

 ドイツと日本が接触する事が困難になったからである。

 タイムスリップ後の日本は、余りドイツ(ヒトラー政権下のドイツ)との外交に積極的では無かった。

 国家生存が最優先で在り、その為に外交力を資源を抱えた列強(アメリカ・ブリテン・フランス)に優先分配していたのだから仕方がない。

 その後は日本連邦が成立し、()()()()としてユーラシア大陸で振舞う事を強いられ、チャイナ問題などで外交力を消費していた為、ドイツとの外交は等閑にされていたのだ。

 仕方の無い話である。

 日本の生存、或いは発展に対してドイツが良好な影響を与える事は不可能なのだから仕方がない。

 とは言え、ドイツから外交をしてくるのであれば、交渉の門は閉める積りは無かった。

 悪名高いナチス・ドイツ(タイムスリップ前の歴史感覚)とは言え、今の歴史では、まだそんな事をしていないかもしれないのだ。

 自覚の無い、自国の優越を確信した国家の態度とも言えた。

 そして、この日本の気分を敏感に感じたドイツは、日本との外交に積極的にはなれなかった。

 此方は、国家のプライドが邪魔した結果であった。

 劣等民族と見ていた相手が、隔絶した上位種族であるなど、とてもでは無いが認められる話では無かったのだ。

 その結果、ドイツは日本との積極的窓口を持たない状況に繋がっていた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

A.D.1945
156 第2次世界大戦-23


+

 ヒトラーは激怒していた。

 東部(ポーランド)戦線での国防軍(ドイツ陸軍)の体たらくに。

 国際連盟(ジャパンアングロ)との講和の為、出来る限り速やかにポーランドを攻略せよと厳命したにも拘わらず、戦線は一進一退となっていたのだ。

 伝統ある国防軍(ヴェアマハト)と自ら誇っていたドイツ陸軍が、国力でも劣る2流陸軍でしかないポーランド陸軍と互角の戦いをしているのだ。

 激怒するなと言うのが難しい話であった。

 フィンランドなどによる支援がポーランドに入ってはいるが、ヒトラーとて配慮はしていた。

 早期攻略の為、国内でも不足しがちな食料燃料その他の物資の優先配分を行っていたのだ。

 各種企業からは不満の声が上がり、国民生活の困窮はヒトラー政権に対する支持率の低下に直結した。

 政治的に危ない橋をヒトラーとしては渡った積りであったのだ。

 にも拘わらず、この体たらくである。

 ヒトラーが激怒したのも仕方のない話であった。

 国防軍側としてはたまったものでは無かったが。

 戦争は自分の都合だけで出来るモノでは無く、相手の都合もあって結果が生まれるのだから。

 そして、ポーランド軍は決して戦意希薄な弱兵でも無ければ装備劣悪でも無いのだから。

 凶悪無比な日本製装備(MLシリーズ他)こそ少ないが、ブリテンやフランスの戦車を筆頭にした重装備群が充実していた。*1

 そして数。

 ポーランドにとっては祖国衰亡の瀬戸際(本土決戦)と言う事もあって老年若年男女の見境なき動員が掛けられており、最前線でぶつかり合う部隊に限って言えばポーランド側がやや優勢と言う状況であった。

 その上で航空優勢に於いては、日本が全面的に介入しているポーランド側が握る形となっていたのだ。

 将校下士官の数と質と言う意味ではドイツ軍が優位であったが、逆に言えば、その優位あればこそ空を失っているドイツが戦えている、とも言えた。

 高度に訓練され自分の果たすべき役割を判断できる将校下士官は、上位組織からの連絡が途絶しようとも簡単には瓦解せずに居たのだから。

 ()()()()()()()()()()、とも言えたが。

 兎も角、ドイツ軍はヒトラーの命令を守らんが為に、必死になって行動を継続していた。

 

 

――ドイツ

 ポーランド国内での作戦が能動的である事が困難になりつつある状況に於いて、ドイツは全くの無為無策であった訳では無かった。

 正規戦闘が困難であるのであれば、それ以外の手段を用いる。

 不正規戦争。

 それは武装親衛隊(Waffen-SS)が得意とする手段でもあった。

 小規模な特殊戦部隊を投入し、ポーランド国内の橋を破壊し、道路に地雷を埋めるなどしてインフラにダメージを与える。

 或いは、ポーランド軍の後方部隊に襲撃を行う事で補給を混乱せしめる。

 通常であればここにポーランドの親ドイツ派住人を扇動する事も含まれるものであったが、そこはポーランド政府が一枚上手であった。

 著名な親ドイツ派ポーランド人の悉くを、ドイツ軍のポーランド侵攻時に治安維持活動の一環として予防拘禁していたのだ。

 又、扇動を図るであろうマスコミに対しても躊躇の無い抑圧を実施していた。*2

 結果、ドイツ人の不正規戦争部隊は人民の海に隠れる事も出来ず、その任務に当たっていく事となる。

 尚、この作戦行動に関してはフランスで派手な事をやってみせた後方かく乱部隊(コマンド・ユニット)の戦訓が活かされる事となる。

 任務/戦闘部隊の後方に展開する、民間車両(トラック)に偽装した支援部隊を用意したのだ。

 とは言え通信(電波の発信)は不可能である為、事前に補給支援地点を指定しておき、そこに補給などに寄ると言う形式を取る事となった。

 又、ドイツ領内からのみ、電波を発信する事となった。

 この厳重な情報管理によって、特に初期はポーランドは大きく振り回される事となる。

 結果として、ポーランド領東部域の電波施設や発電施設で破壊工作を許す事となり、ポーランドの戦争計画に少なくない影響を与える事となった。

 

 

――ポーランド

 ドイツ後方かく乱部隊(コマンド・ユニット)の暗躍は、ポーランドにとって無視しえない影響を与える事となった。

 特に問題となったのは、対応に人手を奪われると言う事であった。

 破壊された設備などに関して言えば、総じて投入される火力が少な目である為に大規模な被害 ―― 復旧不可能なレベルでの被害は出ていないのだから。

 又、橋や操車場などの鉄道拠点などには警備部隊を配置させていたお陰で、大きな被害は出て居なかった。

 小癪な被害とも言えた。

 問題は、その小癪な部隊を見つけ出す為には、大規模な部隊を捜索に回さねばならないと言う事であった。

 後方かく乱部隊(コマンド・ユニット)は、大きい部隊でも20名程度の小隊規模以下であり、小さい部隊となれば5~6名ともなる為、極めて身軽であった。

 何食わぬ顔でポーランドの一般店舗で食料品を買い込むなどもする程であったのだ。

 後になって、使われた紙幣が偽造通貨であった事が発覚した。

 それ程に違和感なくポーランドの人々に溶け込んで動いていた。

 無差別な一般ポーランド人への被害を与えないが故に、市民の間に緊張が生まれていない事が理由とも言えた。

 結果、ポーランド軍は、この対応は警察が行う類のモノではないかという(匙を投げる)程であった。

 無論、言われた警察としては勘弁してほしいと言うのが本音であった。

 軍部隊としては軽装備であっても、一般的な警察から見れば重武装であり、並みの警察部隊では太刀打ちできない。

 そもそも日常業務に加えて国内の避難民誘導と保護を行っているのだ。

 誠に以って、無理を言うなと言うのが本音であった。

 この様な場合に泣きつき先として確たる地位を築く事になった日本(ジャパエモン)であったが、さしもの日本とて出来る事と出来ない事があると言うのが実情であった。

 無論、出来ないとは言う話ではない。

 だが簡単では無いのだ。

 そんな日本の反応に全力で喰いついた(出来るって言ったよね!)ポーランド政府は、何でもいいから助けてくれと国際連盟安全保障理事会の個別会議で泣き付く事となる。

 結果、日本はポーランドの治安維持方面にも協力する事となる。

 とは言え治安維持協力に於いて重要な、基幹と成る戦力の抽出と言う部分は日本としても困難である為*3、日本はポーランド政府と協議の上で、比較的戦力に余裕のあるブリテンに協力を仰ぐこととなる。

 この要請に対してブリテン政府は、比較的安全である事と()()()()()()()、そして戦後のポーランド市場への優先的アクセス権を対価とする形で受け入れる事とした。

 

 

――ブリテン

 ポーランドでの治安維持活動に向けて、3個師団程を派遣する事としたブリテン。

 その政治的狙いとしては、戦争後半戦でのブリテンの存在を示すと言うのがあった。

 特に東欧に於いての存在感である。

 戦争前半においてブリテン海軍は活躍したが、後半は陸戦である為にフランス(陸軍国家)アメリカ(物量チート)日本(存在自体反則)に埋没してしまう事が見えていた。

 無論、派遣する陸軍の被害が抑えられると言うのは大きいのだが、それはそれとして、政治的な視点からしては埋没するのは認めがたいのであった。

 戦後の国際影響力の問題もある。

 ドイツとの戦争で相応の被害と戦果とを出した結果、そして日本やアメリカが関心を示していない結果、フランスがヨーロッパ亜大陸の盟主めいて動いている。

 それをブリテンとしては許容しえないのだ。

 ヨーロッパ亜大陸が大団結した存在となる事は、ブリテンの安全保障に於いて重要な懸案事項となるからであった。

 無論、ブリテンとフランスの関係は、日本と言う存在があるお陰もあって1900年以前(世界大戦前)と比べると極めて良好であったが、であるから全てが良いと言う訳では無いのだ。

 故に、今回の事はポーランドとの関係強化と言う意味では最適の機会であったのだ。

 この為、フランス領内に送る予定であった部隊から、トラックと装軌装甲車を主力とした機械化歩兵師団を3個抽出派遣する事としたのだ。

 支援部隊を含めれば約10万人の派遣であった。

 尚、フランス(対ドイツ西部戦線)への派遣戦力の減少に関して、フランスは控えめな抗議を行う事に留まっていた。

 

 

――ポーランド治安維持戦

 ドイツの不正規戦争部隊を掃討する為には、幾ばくかの準備期間が必要となった。

 日本が航空戦力(対地偵察用無人機)をポーランドに集約し、ブリテンの3個師団がポーランドに展開するまでの時間だ。

 それは1945年の冬の終わり、つまりは年を跨いだ1945年の頭にまで掛かった。

 ドイツとの戦争は気象条件の悪さも相まって、国際連盟側にせよドイツにせよ戦争は不活発化 ―― 冬季自然休戦期となっていた。

 無論、それは戦争をやめる事でも、止めると言う事でもない。

 前線で小競り合いを続けながら消耗した戦力や装備の補充、物資の備蓄を行っていたのだ。

 そして同時に、ポーランド政府は後方かく乱部隊(コマンド・ユニット)を撃滅する為の準備を進めて行った。

 国民に対する夜間外出の全面禁止、それは無思慮に不用意な場所で行った場合には拘束だけでは済まないという警告文を添えた強いモノが発報されていた。

 その上で、市町村から離れる事も当座は禁止される事となる。

 此方も前述同様に厳しい警告文が添えられる事となった。

 結果、ポーランド市民に強い負担を強いる事となった。

 出歩くなと言う事は山野での狩猟などの活動を禁じる事を意味し、それはポーランド人の食糧事情に強い影響を与える事となる。

 即ち、食料不足の強制である。

 それはポーランド政府の支持率に悪い影響を与えかねない行動であったが、十分な対価を用意する事で乗り切る事に成功した。

 日本が供給する大量の食糧である。

 シベリア共和国で作られた穀物も多いが、それ以外にもアメリカやオーストラリアから買い込んだ大量の肉や小麦、或いはタイ王国からの米などである。

 バリエーション自体は豊かとは言えなかったが、特筆するべきはその量であった。

 その様は正しく、飽満と言って良い規模で振舞われたのだ。

 この辺り、日本が嘗ての世界の戦争(第2次世界大戦)での米国の振る舞いを研究した結果とも言えた。

 取り敢えず、不足よりは過剰を。

 それは何とも金満国家らしい戦争のやり方(バブリーズ・スタイル)であった。

 金で殴れ(ジャスティス・イズ・マネー)

 無論、この場合に殴られるのはドイツである。

 結果として短期間のうちに、特に夜間に市町村以外に存在する人間は全てがポーランド人では無いと言う状況を作り上げたのだ。

 そして、冬の終わりが見えだした頃、作戦が始まる。 

 先ずは日本の対地偵察機(UAV)が、無人機故の24時間の隙間の無い偵察活動によって、市町村外の人間の位置情報を丸裸にしたのだ。

 そして、その情報を元にしてブリテンの連隊戦闘団が派遣され、その正体の誰何や捕縛を担ったのだ。

 大多数の人間は所謂まつろわぬ民、移動型民族(ロマ人)の集団であった。

 国家に属さぬ彼彼女らは、戦争時であって尚、好き勝手に移動していたのだ。

 ポーランド政府は、非常時であるとして()()()()()()()した。

 次に多かったのは犯罪者だ。

 戦争中であろうとも、自らの利益に基づいて蠢く者たちは、政府の要請に従う筈も無かった。

 彼らの内で幸運な者たちは、ブリテン軍部隊に同伴していたポーランド警察によって捕縛され、法の裁きを受ける事となった。

 又、少数ではあったが、酔っぱらった人間や、或いはポーランド政府の公布が理解出来ない人間も居た。

 これまたポーランド警察の手で厳重な注意を受ける事となった。

 そして最も少なかった人間、今回の作戦の目標となったドイツ人グループ(ドイツ不正規戦部隊)は、発見されるや否や、ブリテン軍部隊に包囲撃滅される事となる。

 ブリテン軍が持ち込んだ装軌装甲車の火力や、それで不足な場合には日本が提供する航空戦力 ―― 攻撃ヘリであるAH-64Dと、実戦試験として持ち込まれたAH-2*4が追い立てて撃滅する事となる。

 それは、()()()()()()()()とも評される無慈悲さであった。

 その悲惨さは、確認に動いたブリテン軍の将兵が口々に、攻撃ヘリとは相対したくないという程であった。

 かくして、作戦開始から3週間ほどでポーランド国内のドイツ後方かく乱部隊(コマンド・ユニット)の処理は終了する事となる。

 

 尚、全くの余談であるが、この処理の終了を一般のポーランド人も悲しむ事となる。

 溢れんばかりの ―― 実際に食糧庫にあふれた小麦や米、肉の供給が終わるからである。

 その悲しみはドイツ人に向かい、根性無しのドイツ人(キャベツ・オンリー・マン)等と言う悪口が生まれる程であった。

 

 

 

 

 

 

*1

 ドイツ側が把握できなかった、日本によるポーランド軍の戦力底上げとしては、大量のトラックや自動車の提供と食料燃料の融通。

 そして何よりも日本製の通信機の配備があった。

 ポーランドが欲し、日本が特例として期限貸与という形で許可したソフトウェア無線機体系、簡易型野外通信システム(Simplification Field Communication System)がポーランド軍から戦場の霧を吹き払っていたのだ。

 前線と後方(中央指揮系統)とが直結に近い形で連携し、その上で時間差無し(タイムレス)に日本が収集した情報が流し込まれて来るのだ。

 戦車や野砲などこそ列強(G4)級とは言えないが、事、情報通信システムと言う部分ではポーランド軍は世界の先(日本に準ずる場所)に居るとも言えた。

 

 

*2

 基本的人権や表現の自由などに抵触する政策であり、特に人権意識の高まった1970年代などでは強い政府批判と民事賠償訴訟に繋がる事となる。

 とは言えそれが大きなムーブメントに繋がる事は無かった。

 そもそも、親ドイツ派の抑圧に関しては法的な根拠が準備されていた。

 ポーランド政府が1930年代に成立させた戦争関連法案が存在しており、その中で戦争(非常)時に於ける戦争遂行に必要な非常権限と定めていたのだ。

 これでは()()()と自称する人間に活躍する余地など与えられる筈も無かった。

 この為、人権派弁護士は活躍の場を西ポーランド新領 ―― ドイツ系ポーランド人の問題に移していく事となる。

 

 

*3

 日本連邦統合軍のヨーロッパ派遣軍は後方部隊も含めれば20万人規模に達する予定である為、数字の上であれば無理では無い話であった。

 只、日本政府が日本連邦統合軍を治安維持戦と言う泥沼に投入する事を嫌がったと言うのが理由であった。

 無論、地元ポーランド人の支援を得られるとは言え、出来る限りは関与したくない ―― 人的被害の発生確率の高い、それでいて日本の国家戦略的な部分に資する事の少ない作戦は行いたくないのだ。

 当然、善意での参加となったエチオピア軍に被害は出したくなかった。

 ヨーロッパに派遣される日本連邦統合軍は日系日本人で構成されている訳は無い。

 ロシア系日本人を主として、日本連邦の各国からも人が参加している。

 それらの同胞が無駄に喪われる事も、日本政府は忌避するのだ。

 タイムスリップし、そして日本連邦が成立して約20年。

 日本も又、この世界に馴染んでいるのだった。

 

 

*4

 

 

 攻撃ヘリAH-2は、老朽化の著しいヘリ群 ―― 機体寿命の限界を通り越しているAH-1や改良の余地(発展余裕)を食い尽くしたAH-64D、機体規模の小ささから使い勝手が悪くなったOH-1、それらを一括して更新する為に開発された機体であった。

 この為、計画名は前線経空攻撃偵察ユニット計画(スーパーチョッパー・プロジェクト)とされていた。

 シベリアの広大な大地で戦闘機部隊を補いつつ戦わねばならぬ為、大出力双発エンジンを持った有翼型コンパウンドヘリと言う贅沢な大型機として生み出される事となった。

 高いステルス性や、前線でのUAV等への指揮能力も与えられた高級機であった。

 問題は、余りにも高度(Super)な機体になってしまった為、前線で整備を行うには聊かばかり段列への負担が大きい機体に成ったと言う事である。

 又、値段も高額化する事となった。

 この為、主力汎用機であるUH-2シリーズを基にした軽武装偵察機 ―― 多目的軽量ヘリMH-2が開発される事となる。

 尚、UH-2とMH-2の外見上の大きな相違点はキャビンのスライド扉を潰して設けられた武装搭載用のスタブウィング程度であったが、中身は別物であった。

 航空機用電子機器(アビオニクス)は最新のモノへと更新され、機体構造は強化されエンジンもより大出力のものへと換装されていた。

 その大改造ぶりは、その詳細な予定が公開されると共に外部有識者などから、いっそ高価格ではあるが高性能なUH-60系で行うべきではないかとの意見が出る程であった。

 だが陸上自衛隊としては、消耗部品などが数的主力ヘリであるUH-2と共通化できる低価格機体が重要であるという認識があった為、この意見に惑わされる事は無かった。

 余談ではあるが、財務省はこの陸上自衛隊の判断に諸手を挙げて賛成していた。

 

 ドイツ戦争に際して、ヨーロッパ亜大陸に試験目的で派遣されたのはAH-2のみであった。

 MH-2に関しては完全な新造機と言う訳では無い為、派遣する必要性が乏しいとの意見があった為、見送られる事となったのだ。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

157 第2次世界大戦-24







+

 国際連盟加盟国としてドイツ戦争に参戦した国家は数あれども、その中で最も1944年の冬をプレッシャーと共に過ごした国家はイタリアであっただろう。

 ドイツ領内への本格的侵攻、最低でもマインツ市及びプファルツ地方への侵出が()()される事となったのだから。

 その上で、可能であればと言う但し書き付きでバイエルン地方の掌握も要求されていた。

 ドイツ本土の南部域を握り、ドイツ東方新領域との往来を遮断する事が狙いであった。

 ドイツはオーストリアやチェコスロバキアなどより重装備を持った有力部隊を既に抽出済みではあった。

 だが、軽装備ではあっても増援が来られては面倒くさいし、或いは軍用の物資が送り込まれて来ても鬱陶しい。

 そういう事であった。

 誠に以って面倒くさい話であった。

 褒美代わりと言う訳では無いが、掌握したドイツ領を併合する権利が認められていた。

 フランスの国際連盟大使等は善意めいた笑顔を張り付けて、イタリアが偉大と呼ばれる(ローマ帝国が現代に復権する)機会であるなどと言った程であった。

 だが、正直な話として全く以って迷惑な話であった。

 イタリアの首魁(ドゥーチェ)ムッソリーニとしては、奪われた場所と言う意識の強い()()()()()()()()こそは欲すれども、併合したとしても民族の違いから高い統治コストを払う事になるのが見えている、ドイツ南部の併合などごめん被ると言う話であった。

 要らぬからしたくない。

 そう述べる事が出来れば、どれ程に幸せであっただろうか。

 だが、現実は非情だ。

 国際連盟安全保障理事会で正式に決まった事であり、更には日本などから作戦遂行の為の莫大な支援 ―― 万を超える車両等の提供などを受けてしまえば、出来ませんは勿論、したくありません等とも、口が裂けても言えぬのが実情であった。

 国家繁栄の為に覇権国家群(ジャパンアングロ)の靴を舐める覚悟のイタリアであったが、同時に、G4以外の国家に舐められる様な隙を与える積りもないのだ。

 相応の、古参の列強国の一角としての矜持をイタリアは持っていたのだから。

 故にイタリアは1944年の冬を、全力で戦争準備に傾ける事となった。

 

 

――イタリア陸軍

 戦争勃発時のイタリア陸軍の主力戦車は、40t級のP40/42戦車であった。

 正式にはCarro Armato P40/42(42年型40t級主力戦車)である。

 105㎜という大口径砲を持ち、避弾経始に配慮された装甲を身に纏い、主力戦車と言う新しいカテゴリーに相応しい機動力を持った戦車。

 恐竜的進化を遂げつつあるヨーロッパ亜大陸の同胞に比べれば、やや控えめと言って良い部分もあったが、1930年代の体たらく(戦車発展途上国ぶり)を思えば隔世の感を感じるというものである。

 特に、イタリアの戦車乗りにとっては。

 国民にもイタリアの誇りなどと称して盛んに宣伝され、ガリバルディと言う愛称も与えられていた。

 だが、このP40/42戦車が純イタリア製の戦車であるかと言えば、違うと言えた。

 主砲こそは、日本の汎用戦車砲である105㎜砲を手本としつつも独自に開発した50口径105㎜であった。

 だが、それを支えるベアリング類は日本からの全量輸入を行っており、その他に変速機や通信機器、暗視装置なども同じであった。

 又、装甲材やエンジン回りはブリテンとの()()()()であった。

 開発だけではなく、開発採用された400馬力級ディーゼルエンジンは全量がブリテンの工場で製造される事となっている。

 結果、P40/42戦車はイタリア国内のインフラ事情もあって40t級として生み出されたが、その戦闘力は50t級の戦車に決して引けを取るものでは無かった。

 G4の戦車群に対抗できる性能を得る為、車体規模を肥大化させざるを得ないドイツやソ連からすれば、腹立たしい現実とも言えた。

 それはG4に阿る事で得た政治力、或いは金の力(オイルマネー)のお陰であった。

 1944年冬の時点でP40/42戦車は初期量産型のα型と正規量産型のβ型、そして装甲配置などの改善と増加装甲を採用して防御力を強化した44年式γ型の3タイプが採用されており、併せて700両を超えて生産され実戦部隊に配備されていた。

 其処に、ドイツ戦争の勃発に従って発注した38式戦車M型の400両が加わるのだ。

 ドイツからすれば、柔らかい下腹部の正面にトンでもないモノが居ると言う心境であった。

 その上で、豊富な石油を背景にして大規模な演習などを繰り返してきたお陰で、操る将兵の練度も決して侮れない。

 それが、ドイツ戦争勃発時に行われたイタリア-ドイツの国境線地帯での交戦で、イタリアがドイツや周辺諸国の想像を超えた善戦をしてみせた理由であった。

 とは言え、その対価と言う訳では無いが現代の機甲部隊で戦車と並んで重視されている装軌装甲車(IFV)などは研究こそされていても、開発と生産は殆ど行われておらず、又、軍用自動車の装備率も高いとは言えなかった。

 野砲部隊の移動も、まだ大多数が馬匹に頼っていると言うのが実情であった。

 補給線は鉄道に頼っていた。

 原油産出国となっても、それがイタリアの限界であり。それこそが、イタリアがドイツ領内への侵攻を渋った理由でもあった。

 戦争は戦車だけで、前線部隊だけで行うものではないのだから。

 だがそれを日本からの支援が解決した。

 解決してしまった。

 結果、イタリア陸軍は大馬力で運転技術習得者の養成に努め、春に備える事となる。

 幸いにして、日本から齎された車両は、その悉くがトランスミッションが自動化(AT化)されていた為、動かす事自体は困難ではなかったのが救いであった。

 日本で作られたイタリア語の、可愛らしい女の子のポンチ絵(漫画挿絵)付きマニュアルの威力もあって、習熟自体は簡単に進んでいった。*1

 

 

――イタリア空軍

 正直な話として、イタリアは空軍力の強化に力を入れていなかった。

 ヨーロッパの空軍力として最先端にいるブリテンやフランス、或いは可能な限り対抗しようとするドイツ等に伍していこう等と言う高望みは最初っから諦めていた。

 世界帝国として経済的余力があり、日本からの支援もふんだんに受けられるブリテンやフランスに立ち向かうのは論外であり、そもそもブリテンやフランスなどのG4に与する積りなのだから、対抗しようとして目を付けられては堪らないというのが本音であった。

 ドイツに関してはもっと簡単であった。

 かつては準同盟国であり、その伝手でドイツの航空機の開発情報(四苦八苦の内幕)をある程度は知っていたからだ。

 イタリアよりも技術力と経済力に優れたドイツですら苦戦しているのだ、技術開発をせぬと言う選択肢は選ばないが、注力したとして、それに見合う成果が得られるか、甚だ疑問と言うモノであったのだ。

 結果、イタリア空軍は己の役割を国際連盟の中に於けるG4の補完戦力と定める事とした。

 ドイツとの本土防空能力の他は、G4が戦争をする際に参陣し、無視されない程度の活躍をする戦力を用意すれば良いと言う割り切りである。

 結果、爆撃機や攻撃機といった装備の部隊はかなり小さな規模となり、空軍の主力は制空戦闘機部隊で占められる事となる。

 主力戦闘機は、フランスで開発されたものが採用されている。

 イタリアはG4の中ではブリテン寄りの政治的立場(スタンス)であったが、近隣の圧倒的格上国家(世界的帝国)を無視できる筈もないのだ。

 幸いにしてフランスは、ヨーロッパ亜大陸の盟主と言う自意識と、戦闘機開発を継続し続ける為の出資者(パトロン)としてイタリアを認識した為、割と気前よく新戦闘機をイタリアに提供し続けていた。

 その破格ぶりは、機体そのものは完成品の売却に限られたが、保守部品などの製造に関しては技術を提供し認めたと言う所に現れていた。

 結果、イタリア空軍は規模こそ小所帯であったが質の面ではG4に準じる戦力を揃える事に成功していた。

 ただ問題は、ドイツ本土への侵攻を考えた場合、対地攻撃能力の乏しさであった。

 ドイツ空軍は東西の戦線に戦力を集中させており、イタリアが航空優勢を得る事は、そう難しい事では無いと想定されていた。

 だが、その航空優勢を握って何が出来るか? となった際に、問題となったのがイタリア空軍の対攻撃部隊の貧弱さであった。

 この為、慌てて旧式化して退役寸前であった制空用のレシプロ戦闘機を改造し、対地攻撃能力を付与する事となった。

 爆撃機や対地攻撃機の早急な増産は、現実的ではないというのが理由の1つ。

 だがそれ以上に、ドイツとの戦争は早晩終わるのだから、そんなモノに備えてすぐさま陳腐化する爆撃機や地上攻撃機を揃えるのは効率的ではないとの判断からであった。

 既にイタリアでもジェット化された地上攻撃機は実験機として幾つも開発されている。

 終わりの見えている今の戦争に備えるよりも、将来に備えるべきだと考えていたのだ。

 イタリア空軍は冷静であった。

 

 

――イタリア海軍

 相応の苦労が想定される陸軍。

 面倒はあっても問題は無さそうな空軍。

 一番気楽なのは海軍であった。

 既にドイツ海軍は書類上の存在に成り果てており、後はアドリア海での作戦 ―― バルカン半島に残留しているドイツ軍対応と、国際連盟の各国海軍と合同で行う北海での示威活動程度なのだ。

 危険は少なく名誉は得られる。

 とは言え、アドリア海での作戦行動には、空母でのバルカン半島内陸部への航空支援も含まれている為、全く楽と言う訳では無かった。

 バルカン半島は、ユーゴスラビア独立派とドイツ占領軍との戦争であった。

 国際連盟は、戦争終結と独立後の国際連盟復帰(ユーゴスラビア王国の継承国家宣言)を条件とする形で支援を行っていた。*2

 主に偵察、そして時には対地支援。

 或いは支援物資の空中投下。

 それは決して安全な作戦では無いのだから。

 

 

――1945南部戦線春季攻勢

 併せて1000両を超える主力戦車を前面におし立てた大攻勢は、ドイツに対して予想された衝撃を与えた。

 或いは腹立たしさであった。

 イタリアの宣伝するP40/42戦車は、ドイツ陸軍戦車部隊にとって、厄介であっても極端に恐ろしい相手ではないのだから。

 ()()()()()()

 いまだ数の上での主力であるⅢ号戦車系列では対抗できないが、質的な意味での主力であるⅤ号戦車(主力戦車)であれば十分に対抗可能であり、或いはⅣ号戦車やⅥ号戦車と言った重戦車系列であれば、そこまで極端に恐ろしい相手では無いのだから。

 主砲の105㎜砲が強力であるが、十分な装甲を与えられている重戦車系列であれば正面からの殴り合いであれば打ち勝てるのだから。

 問題は、その戦車が手元に無いと言う事であろう。

 状態の良い戦車は片っ端から西部戦線(対フランス部隊)に引き抜かれており、野砲や対戦車砲すらも事欠く有様になっているのだから。

 その様な有様でもドイツ軍は折れる事無く抵抗を続けていた。

 1944年の冬と言う時期を活用し、入念な防護陣地を構築し、大量生産されていた対戦車砲を備え付け、遅滞戦闘を遂行していた。

 イタリア陸軍は、その防護陣地に正面から突撃する様な愚は侵さず、迂回突破その他の戦術を駆使して対抗した。

 自動車化された野砲部隊のみならずトラックの荷台に仮設した対地ロケット弾による支援、或いは戦闘攻撃機(レシプロ多目的機)による対地支援は、戦車を中心とした諸兵科連合部隊の突破を大いに助けた。

 その様はドイツ陸軍、装甲部隊が行おうとしていた電撃作戦(ブリッツクリーク)の様であった。

 ドイツ側は、イタリア陸軍を二流の軍隊と下に見ていた為、この状況に大いに慌てる事となる。

 故に、対策として徹底した焦土作戦を選択した。

 後退する際に食料燃料、道路インフラなどの徹底的な破壊を行い、イタリア軍の侵攻を少しでも遅らせる様に指示したのだ。

 ドイツの知る、段列の貧弱なイタリア軍であれば、それが効果を発揮する筈であった。

 だが、その願いは儚く消える事となる。

 燃料は溢れんばかりに持っていた。

 食料もアメリカが大量に融通していた。

 運ぶ車は腐る程に日本が与えていた。

 1945年のイタリアの段列は、その質及び量に於いてドイツなど比較に成らぬレベルへと到達していたのだから。

 結果、攻勢開始から2週間でバーデン及びヴュルテンベルクの2州を掌握する事に成功する事となる。

 イタリアの大勝利であった。

 マインツ市にて日本やフランス、アメリカなどの西部戦線部隊と邂逅したイタリア軍指揮官は、作戦第1段階勝利の電報(来た、見た、勝った)をイタリア本国に発したのだった。

 

 

 

 

 

 

*1

 イタリアの庶民のモータリゼーションに関しては、この日本製の車両群の影響が極めて大きかった。

 同時に、日本製の簡素化された廉価車両(安物)と言うMLシリーズであっても、エンジンやトランスミッションを筆頭に、その性能と信頼性、或いは整備性は当時のイタリアの標準的車両はおろか、高級車をも分野によっては凌駕しており、イタリアの自動車業界に莫大な影響を与える事となる。

 とは言え、イタリア車の需要も特に日本などでは消滅した訳でも無い為、イタリアの自動車業界がバイク業界ともども壊滅する事は無かったが。

 

 

*2

 国際連盟の本旨的には、非独立国家非加盟国への干渉は宜しくないと言うのが事実であったが、ドイツとの戦争を遂行する上で必要であると言う事から、フランスが強く主張した結果、実現する事となった。

 これに関しては旧ユーゴスラビア王国だけでは無く、バルカン半島の属するドイツ支配下の領域全てが含まれる宣言であったが、旧ユーゴスラビア王国以外では住人による大きな抵抗運動は発生していない為、実質、旧ユーゴスラビア王国向けの宣言となっていた。

 旧ユーゴスラビア王国以外のバルカン半島領域に関しては、ソ連が担当する形となっていた。

 この件に関して日本は、ソ連の国力消耗と戦後の東側(ソ連を首魁とする)陣営の成立を見据えて協力的であった。

 即ち、()()()()()作りである。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

158 第2次世界大戦-25








+

 ソ連による東欧領域(ドイツ連邦帝国東方領)侵攻は破竹の勢いであった。

 当然の話と言えるだろう。

 ドイツが配置していた部隊は治安維持任務を主目的とする軽装備部隊でしかなく、一般市民による暴動や反ドイツ(パルチザン)活動を制圧するのには向いていたが、ソ連が投入した戦車を主力とした機甲戦力と戦うのは無理を通り越しているのだから。

 結果としてウクライナを起点として行われた侵攻は2ヶ月を経ずして旧ルーマニア、旧ブルガリアの両国を掌握する事に成功した。

 この勝利の背景には、この両国国民による反ドイツ感情の強さがあった。

 ドイツ側のインフラ破壊への妨害(サボタージュ)を行い、又、積極的にソ連軍への協力をしていると言う事もあった。

 特にソ連にとってありがたかったのは、親ソ連派による輸送支援であった。

 流石にトラック類の供出は無いが、鉄道による輸送支援は大きな力となっていた。

 逆に言えば、この鉄道による補給支援が無ければソ連の大攻勢は成功しなかったであろうと云う話でもあった。

 これは、ソ連政府が、国際連盟とドイツとの戦争が不可避であると判断すると共に全ての車両生産力を戦車量産に振り向けた結果であった。*1

 結果。トラックなどの車両は極めて不足気味となっていたのだ。

 コレは、工業力的な限界が理由であった。

 或いは日本の転移前世界に存在した、旧シベリア領域(日本連邦シベリア共和国)が手中にあり、アメリカやフランスなどからの経済支援を受けていた蘇連であれば話は別であったかもしれないが、国土国民の3割以上を喪失した今のソ連では、出来る事に限りがあった。

 無論、自国の現状を理解しているソ連は、大穀倉地帯であるウクライナを絞り上げた(飢餓輸出で得た)予算で重工業の発展を図りはした。

 だが、その程度の努力でどうにか出来る程にソ連の国力は強く無かった。

 厳しい表現をするならば、脆弱とも言えた。

 資源地帯の喪失と人口の流失 ―― 特に知識層(頭脳労働者)の国外逃亡は深刻な影響を与えていた。

 にも拘わらずソ連は、日本への恐怖から国力を軍事に傾斜配分をしていたのだ。

 この様な状況で、どれ程に国力増進の掛け声(スローガン)を挙げても、それが結果を伴う事は無かった。

 それが、トラックの不足にも現れていた。*2

 結果、ソ連は自国の進出に協力的な地元住民に対して極めて紳士的な態度を取るようになって行った。

 この点は、部隊に随伴している政治将校が部隊の規律維持に腐心し、規律を維持する対価(命令に従った事への飴)を手配する事に奔走していた辺りにも現れていた。

 野蛮にして粗暴なソ連軍と言うモノは、事、この旧ルーマニア、旧ブルガリアでは存在していないのだった。

 余談ではあるが、この行儀のよさの反動が、旧ユーゴスラビア王国に入った時に爆発し、大きな波紋を広げる事となる。

 

 

――トルコ

 ソ連の南進に対して、極めて冷静で居られなかったのはトルコであった。

 ソ連/ロシアとの歴史的因縁もあって、その勢力圏の拡大を座視する訳にはいかなかった。

 国際連盟安全保障理事会で、ソ連が本格的なドイツ戦争への参戦を表明すると共に、その行動に注視していた。

 その際、特にトルコの行動を決定づけたのは、ドイツとの戦争を最優先としていたフランスの大使が行った、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 フランスからすれば、欧州の辺境域(ヨーロッパ東方域)がソ連の管理下に陥ったとしても、ドイツを併呑すれば脅威とは成りえないとの判断からの発言であった。

 だからこそトルコは、隣国であった旧ブルガリアへの干渉を開始した。

 トルコとしては、ブルガリアには独立国家(緩衝地帯)として存続して貰わねば困るからである。

 ブルガリアの反ドイツ組織と接触し武器弾薬食糧などの支援を行い、併せて、10万人規模の部隊によるブルガリア解放作戦を準備したのだ。

 ドイツによる捕縛を免れていた旧ブルガリア政府関係者を確保し、トルコ国内向けに正統ブルガリア政府との協力関係に基づいてと言うスタンスすら用意しての事であった。

 ここで問題となったのは、重装備関係であった。

 列強水準(ジャパンアングロ)やソ連から見て貧弱なドイツ軍東方領駐屯軍であったが、近代化の遅れていたトルコ軍からすれば、そう簡単な相手では無かった。

 大軍をもって仕掛ければ、勝つ事は出来るだろうが、大きな被害が出る事は避けられない。

 そして、軍が弱体化してしまった場合、ソ連の脅威と向き合う際に問題となる。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()

 MLシリーズの大規模な導入を検討したのだ。

 だが、日本には、この要請に応じる余力が無かった。

 輸送力の限界もあったが、そもそも、戦車などに関して言えば製造ラインの製造余力を食い尽くされていたのだ。

 フランスやイタリア、ポーランドなどの先に参戦した国家が、それらを奪い合っていたのだ。

 別に生産力の限界と言う訳では無い。

 極東で最大規模を誇るハバロフスク工廠*3は、戦車の生産ラインなどの増設は容易であり、要求されれば現状の月産3桁台の更に1桁上の生産も可能な施設が用意されていたが、流石に戦争の終結も見えている現状でその投資は如何なものかと財務省がやんわりと指摘し、日本政府もそれを受け入れた為だ。

 結果、日本はトルコに対してアメリカ製の戦車群の融通を主とした軍事支援を提案する事とした。

 アメリカには、チャイナとの戦争時に製造して保管状態にあった(何時もの、作り過ぎた)戦車があった。

 1943年頃に用意された戦車と言えば、この開発競争著しい時代では、時代遅れと言われかねない部分があった。

 実際、トルコ政府は、この点に最初、難色を示していた。

 だがアメリカを交えての交渉で出されたのは、アメリカの最新(最後)の中戦車であるM4戦車であった事から態度を変えた。

 M4戦車が、アメリカや日本などからすれば型落ちであっても、少なくともそれ以外の国家の最新鋭戦車 ―― ポーランドの35PT戦車やイタリアのP40/42戦車と同等かそれ以上の能力を持つ為であった。

 問題としては、30t級としてはやや車体が大柄である(被発見率が高い)事があったが、故障が少なく整備がしやすいと言うアメリカ製の利点が評価され、導入を決断するのだった。

 アメリカは先ずはM4戦車1000両の提供を申し出た。

 これは、アメリカが既に主力戦車をM4戦車から次世代のM5戦車へと切り替えていたと言うのが大きかった。*4

 取り敢えず、M4戦車で戦車を充足させたトルコ。

 その上で日本からは歩兵移動用にMLシリーズのトラック(ML-01 )乗用車(ML-02)を購入し、5個自動車化師団と2個戦車旅団を充足させると旧ブルガリア領への侵攻(解放戦)を開始するのであった。

 

 

――ギリシャ

 ソ連の南進を心穏やかに迎える事が出来なかったのは、トルコと同様にギリシャもであった。

 警戒の割合としては、古くからの敵国であるトルコの勢力拡大への警戒であった。

 1940年代のギリシャの政治体制は様々な派閥が入り乱れ、安定した政治状況にあるとは言えなかった。

 この事が逆に、外部との戦争 ―― ドイツ戦争への参戦に繋がったのだ。

 様々な思惑を持った人間であっても、この戦争がドイツの敗北で終わると言う事に疑念を持つ事は無かった。

 ()()()()()()、政府は国家の統合の為に外敵との戦争を選びやすい状況にあった。

 とは言え、開戦当時は、仇敵とも言えるトルコの動向が不鮮明であったので、出来る事は少なかった。

 国境を接したドイツ領である旧ユーゴスラビア王国への侵攻は具体的に立案されはしたが、万が一にもトルコが血迷った場合を考えると、安易な戦争参加は出来なかったのだ。

 故に、当初は将来的な侵攻に備えての、旧ユーゴスラビア王国領内の武装反ドイツ派(パルチザン)への支援に留まっていた。

 その状況が変わったのは、ソ連の南進であった。

 トルコが、旧ブルガリアの解放作戦を行う上での問題点、ギリシャと同様に腹背を突かれる事(非友好的隣国の乱心)を恐れ、外交交渉を仕掛けて来たのだ。

 それも、知恵を回し、国際連盟安全保障理事会を間に挟んでの事であった。

 目的はドイツ戦争の期間中での協力(不可侵)協定であった。

 監査役(ケツモチ)に国際連盟安全保障理事会を充てる事で、互いに協定破りを出来なくしようとしたのだ。

 このトルコ政府の行動に、ギリシャ政府も乗った。

 幾度かの協議を行った上で、対ドイツ戦争の協力協定と共に、ギリシャ政府とトルコ政府は両国の友好関係を宣言する文書に署名するのであった。

 それ程にトルコはソ連を警戒し、警戒するが故にギリシャとの妥協を選んでいたのだ。

 ギリシャ政府は、トルコの妥協(伸ばしてきた手)を跳ねのける事無く掴んだのであった。

 尚、ギリシャ軍の状況は、トルコ軍に比べると聊かばかり良好であった。

 これは、ドイツへの反発(殺意)に基づいて、フランスが支援 ―― 旧式化した戦車などの装備を安価に売却していた結果だった。

 尚、フランスがトルコに対しても同じ水準での支援を行わなかった理由は、単純に宗教の問題であった。

 トルコはイスラム教を国政から排除する政策を続けてはいたが、それでもイスラム教の国であった為、フランスは感情的な理由から支援を後回しにしがちであったのだ。

 尤も、そうであるが故に、ドイツ戦争時にトルコは大規模な軍拡(ジャパンアングロの支援を受ける事)が出来たし、ギリシャは出来なかったのだった。

 一通りの新しい装備を持ち、自動車化もされていた為、国民世論が国庫からの不要不急の支出を認めなかったのだ。

 ギリシャ軍は、日本とアメリカの装備を大量に装備する事となったトルコ軍に切歯扼腕する事となる。

 人間万事塞翁が馬、であった。

 

 

 

 

 

 

*1

 ソ連の行動はドイツを敵視しての事では無く、それどころか、ソ連政府としては可能な限りに於いて、ドイツの存続を目的として行動していた。

 これは独裁者同士の個人的関係(ヒトラーとスターリンの友誼)が理由では、全く無かった。

 冷徹な、国際環境への認識であった。

 ソ連政府としては国際連盟、正確に言えばG4(ジャパンアングロ)の敵役としてドイツ・ヒトラー政権には存続して欲しかったからである。

 ソ連は、その東方領域で国境線を接するG4筆頭の日本と極めて友好的では無い関係となっている。

 この状況下で、ブリテンやフランスからも睨まれる(世界で唯一の敵役になる)と言うのはごめん被ると云うのが本音であった。

 ()()()()()()()()()()()()()()

 国際連盟加盟国として、ドイツの暴発を阻止する戦力を揃えようとしたのだ。

 だが、残念ながらも国際情勢はソ連の願いもむなしく、国際連盟とドイツの全面衝突に向かう事になった。

 

 

*2

 余談ではあるが、ソ連はドイツとの戦争突入後に開き直って、日本に対してMLシリーズの購入を持ち掛けていた。

 無論、()()()()()()()を考慮して軍事性の低い物資、要するにトラックや無線機が中心であった。

 日本では、()()()()()()などが技術漏洩のリスクがあると反対の声を挙げていたが、日本政府は技術の流出に関しては問題は少ない ―― 少なくとも、日本が高度技術に指定している類の水準のモノはMLシリーズには使用していない事を理由に許可を出していた。

 無論、それでもソ連からすれば先進的な技術の塊ではあったが、例えばトラックを分解し技術解析と再現を図ろうとしたとしても、不可能であると言うのも大きかった。

 例えばトラック。

 運転を遥かに楽にする先進的トランスミッションであるが、これを実現しているのは設計の問題では無く、鋼材などの素材の品質と部品の製造精度が背景にあるのだ。

 アインシュタインの方程式(E=mc^2)を知っていても、誰もが簡単に核兵器を製造できない事と、ある意味で同じであった。

 そもそも、ソ連に直接売却せずとも、転売や三角輸出などによってソ連がMLシリーズを得るであろう事は想定される為、であれば直接売りつけて金や資源を巻き上げる方が良いと考えていたのだった。

 とは言え、ソ連が欲する量を、欲する時間に与えない程度の嫌がらせは行っていたが。

 

 

*3

 ハバロフスク工廠は、日本連邦へシベリア共和国が加盟すると共に計画が立案された、航空及び陸上戦力向けの大規模工廠であった。

 技術漏洩対策などもあって、日本国自衛隊向けの先進装備の開発/生産は担当していないが、それ以外の邦国軍向けの装備や、大多数のMLシリーズはここで製造されていた。

 その大規模さは、工廠施設内に専用の空港が用意され、また、専用の鉄道がウラジオストク市まで複線で用意されている辺りにも現れていた。

 運用試験場も併設されており、更には専用の大規模発電施設まで検討される程であった。

 流石に発電所は、贅沢であるとして予備発電装置として超小型原子炉(マイクロリアクター)が用意されるに留まったが。

 兎も角。

 友好度の低い相手国との軍事的交流をする場として、日本の本土外に於いて日本の国力を見せつける施設と言う側面もあってハバロフスク工廠はとんでも(少しばかり趣味に走った)施設として建設されていた。

 それは、意図の理解出来ない半地下式の航空機掩体壕(バンカー)や、大規模地下発令所施設などにも現れていた。

 建前としては非常時のシベリア共和国防衛の中枢任務であったが、現実としては日本国の技術の誇示、そしてゼネコンへの仕事の斡旋(日本国の経済喚起策としての意味づけ)があった。

 最終的には博物館も併設され、テーマパークめいた要素を兼ね備える事となる。

 

 

*4

 M5戦車は、主力戦車の号を与えてはいるがM24戦車の設計と戦訓を重視して開発された重戦車級の主力戦車であり、戦闘重量は準50t級(49t級)にも達する超()戦車であった。

 新開発の120㎜砲を持ち、避弾経始を考え尽くした装甲配置は十分な防御力を与えていた。

 只、コンパクトかつ高出力なディーゼルエンジンの開発は間に合わなかった為、次善の策として大出力のガソリンエンジンを搭載している。

 一部には日本との技術協力を主張する意見もあったが、技術自己開発派が反対して潰えていた。

 同時期にイタリアのP42/40戦車が日本やブリテンからの大量の支援を得て開発される様を見ていた為、アメリカはイタリアと同列では無い(工業力は貧弱ではない)と示す必要があると主張した結果であった。

 結果、機動力こそ想定に足らぬ事とはなったが、M5戦車は列強(G4)が有する戦車として恥ずかしくない化け物として誕生したのだった。

 

 余談ではあるが、このM5戦車であったが、戦場で派手な活躍をする(歴史に残る様な勝利を収める)事はなかった。

 これは、西部(フランス-ドイツ)戦線では、国際連盟側が数的にも質的にも圧倒的優位に立っており、更には徹底した航空支援が行われている為、ドイツ軍との交戦(戦車戦)自体が少なかったと言うのが大きかった。

 いまだロマンチズムを抱えていたある非列強(先進)国の将校は家族への手紙で、「自分たちがやっているのは作業であり、戦争では無かった」と述べていた。

 無慈悲な戦争をするのは、日本だけでは無くなっていたのだ。

 それは、20年余りの時間を得て世界が日本の位置へと近づいた(近代化した) ―― そう呼ぶべき話であった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

159 第2次世界大戦-26






+

 日本国民と日本政府とがドイツ戦争に対して思う気持ちは、損切りであり世界秩序に於ける不良債権の処理であった。

 マスコミや一部の有識者などは、日本がタイムスリップ直後にナチス(国民社会主義ドイツ労働者党)やアドルフ・ヒトラーの排除を行わなかった事が、この事態を招いたのだと政府を攻撃していたが、それが大きな支持を得る事は無かった。

 未来情報(過去の歴史)に基づいた人の選別は行うべきでは無いと言う結論が、政府諮問機関や国民投票の末に1920年代末には出ており、これを失敗であったと口にする程に日本国の有権者は恥知らずでは無かった。

 そもそも、世界に対して100年程度の情報的アドバンテージに基づいて干渉したとして、最初の数年数十年は良いだろうが、その影響で未来は確実に不確定化するのだ。

 又、未来情報などと言うものに頼って世界に管理者面して干渉した場合、最終的には世界のヘイトを集める事(覇権国家米国の苦労の二の舞)になるのが明白であると言う判断もあった。

 世界の為と行動し、恨まれるのではやってられない。

 世界を管理すると言う仕事は列強と言う自負の強い国々(アメリカ、ブリテン、フランス)に委ね、日本は金とアドバイスを出すにとどめるべきと言う割り切りでもあった。

 日本は金を稼ぎ、呑気に暮らせれば十分であり、名誉は欲しがる連中に与えれば良いと言う何とも身も蓋も無い話とも言えた。

 この方針が定められる際、グアム共和国代表(在日米軍将官)は、米国の苦労を思い出し、日本の気持ちは判ると語っていた。*1

 兎も角として、損切りと言う作業として日本政府はドイツ戦争を考えていた。

 だが、日本連邦加盟国は、そうでは無かった。

 

 

――シベリア共和国

 日本連邦への最後発加盟国としての意識、特にソ連(怨敵国家)と対峙する上で日本の庇護を求めた関係から、シベリア共和国の政府関係者は自らを()()()()()()()と認識していた。

 その選択を悔いる事は無かった。

 日本政府主導の投資 ―― 国土開発政策によって、10年で一般庶民の生活水準が劇的と言う言葉すらも生温い勢いで向上する事となった。

 大きな産業のなかったシベリアの大地、その津々浦々にまで電気が通り、通信網が作り上げられ、そして教育システムが完備されていった。

 無論、それらはシベリア人(ロシア民族)の感性にのみ則ったモノでは無く、日本の影響が極めて大きなものであり、当然の様に第2言語としての日本語教育が含まれていた。

 又、隣人に日本人(日本連邦諸民族)が入ってきて生活は変わっていった。

 その事を保守的な人間は否定的に捉える事もあった。

 ソ連(スターリン)を肯定する事は出来ないが、でも我々はロシア人であると言う主張である。

 だが、それらの主張(気分)は向上する生活、有体にいって豊かになった食卓の前では無力であった。

 ()()()()()

 子どもたちが飢える事が無くなり、子どもの為に老人が飢えに耐えなくてよいと言う事の前には全くの無力であった。

 特に、ソ連からの艱難辛苦を越えて逃げて来た人々、絶望からの自暴自棄めいてソ連に独立戦争に身を投じた人々は。

 尚、若い世代は素直に、日本から流入してくる文化(ソフトパワー)を楽しんでいた。

 兎も角。

 信じられない支援を日本から受けているとの認識は、程度の差こそあれどもシベリア共和国の人々で共有されていた。

 ()()()()()()()()、それらの支援の対価としてシベリア共和国は何かがあれば血の貢献(いざ鎌倉)を日本から求められると認識していた。

 ドイツ戦争の勃発で、日本が日本連邦統合軍をヨーロッパへ派遣する事を決定した際、その時が来たのだと感じていた。

 気の早いシベリア共和国軍の将校等は、永久の訣別を覚悟した(ウォトカ)杯を交わした程の事であった。

 内々で、第一派として30万人規模であれば予備役兵の動員によって即座に高練度(前線配置)部隊を派遣する事が可能と計算し、その準備を進めていた。

 だが、その悲愴な覚悟は裏切られる。

 日本政府 ―― 日本連邦統合軍幕僚(参謀)本部が決定したヨーロッパ派遣部隊は、日本連邦域から派遣される部隊の数的主力こそシベリア共和国軍であったが、それ以上の将兵が現地に参陣する事となっていた。

 日本連邦統合軍外郭(傭兵)組織とでも言うべきエチオピア帝国軍だ。

 シベリア共和国軍人からすれば、何とも肩透かしめいた話であった。

 その気分を、率直に、日本連邦統合軍連絡部会で口にした将校も居た程であった。

 血の貢献を要求されると思っていた、と。

 対する自衛隊やグアム共和国軍(旧在日米軍)の将校は笑って、今どきそんな戦争はしない。

 そもそも、()()に一方的に負担を強いる積りは無いと返していた。

 この話が伝わるや、元より親日感情の強かったシベリア共和国軍の日本に対する傾注は益々もって強化される事となる。*2

 

 

――日本連邦統合軍統合部隊

 日本連邦加盟国は日本を除いて7つの国が加盟しており、その中で、戦争を経験していない国家は3つであった。

 オホーツク共和国、南洋(ミクロネシア)邦国、台湾(タイワン)民国である。

 その事が、各邦国の関係に微妙な影を落とす事となる。

 ジャパン帝国の末裔と言う意識の強く、ある種のライバル関係にある樺太(ノース・ジャパン)邦国と朝鮮(コリア)共和国、それに台湾(タイワン)民国の関係には強い影響を与えていた。

 共に戦争に参加し、一定以上の評価を得た朝鮮(コリア)共和国と樺太(ノース・ジャパン)邦国。

 敢闘精神を見せつけた樺太(ノース・ジャパン)邦国軍。

 劣勢下で粘り強い戦を続けた朝鮮(コリア)共和国軍。

 共に、精強さを誇ったジャパン帝国軍の末裔たるに相応しさであった。

 であるが故に、実証(戦争処女の卒業を)していない台湾(タイワン)民国は下に見られていたのだ。

 正確に言うならば、台湾(タイワン)民国の将校は()()()()()()()()()()()()のだ。

 日本連邦統合軍の内部でそんな事実は無かった。

 連邦議会でも、その様な話が出た訳でも無かった。

 だが、事実は関係なかった。

 何故なら台湾(タイワン)民国の将兵がそう感じている(引け目を感じている)からだった。

 有り体に言って、樺太(ノース・ジャパン)邦国と朝鮮(コリア)共和国の将兵が自信あふれる態度を見せているのが羨ましかったのだ。

 同じ事はオホーツク共和国でも言えた。

 此方も、シベリア共和国との関係性から()()()()()()()()()()()()()()を欲したのだ。

 軍の不満を受けて両国政府は、協力して日本政府に対して自国部隊の派遣を強く要求する事となった。

 要求を受けた日本政府からすれば、何を好き好んで戦争(苦界めく大運動会)に加わりたいのかと呆れる話であった。*3

 とは言え、好んで派遣してくれるのであれば大歓迎と言うのが日本連邦統合軍参謀本部の本音でもあった。

 戦意がある部隊と言うのは有難いものであったからだ。

 台湾(タイワン)民国であれば、その最大の脅威であるチャイナは四分五裂しており、どの国家も当座は外征する(外へのスケベ心を出す)余裕など無いので、師団単位での派遣が可能であった。

 戦力の規模が小さいオホーツク共和国は、旅団規模での戦力派遣を検討していた。

 さて、この状況で黙っていられなかったのが南洋(ミクロネシア)邦国である。

 血の気が多いとは言えぬ、小規模で呑気な国家ではあったが、国家である様にと日本が育成してきた結果として国の体面(メンツ)を気にする余裕が生まれていた。

 とは言え、保有する部隊は極めて小規模であった。

 戦車や野砲などの重装備が無いのは当然として、最大でも連隊編成であった。

 そもそもとして戦争なり紛争なりという、()()()()()()をしていない国家なのだから当然の話と言えるだろう。

 只、練度が低いと言う訳では無かった。

 先進国の一員(日本連邦の構成国)としてテロ等に狙われる可能性を考慮して、日本が部隊育成に関して手を抜かなかったからである。

 特に、隊員の名簿どころか存在自体も公表されていない特殊戦部隊は、自衛隊の特殊作戦群を筆頭にした各邦国軍の特殊部隊と積極的に交流し、訓練でも実力を示し信用されている隊であった。*4

 南洋(ミクロネシア)邦国は、この特殊作戦部隊を派遣する事を主張した。

 それを受けて日本連邦統合軍幕僚本部は、特殊作戦部隊が提供されるのであれば、それに相応しい場所を提供するべきであると判断した。

 旧ユーゴスラビア王国である。

 高い練度を誇れども、重装備を持たない(本質的には)軽歩兵である特殊作戦部隊にとっては、現地の武装抵抗部隊(パルチザン)を支え、或いは指揮してドイツ軍を相手にすると言うのはピッタリの任務であるのだ。

 だが、ここだけでは話は終わらなかった。

 国家同士の大規模な戦争では光の当たり辛い各邦国軍の特殊作戦部隊が、活躍の場があるのであればと我も我もと手を挙げたのだ。

 それを名誉乞食だと断じるのは簡単である。

 だが、民主主義国家の軍隊として、税金で禄を食む身として、投じられた税金は無駄では無かったと実証せねばならぬと言う気分は、日本連邦統合軍参謀本部でも理解できていた。

 結果、各邦国軍の特殊部隊や自衛隊からも人員を供出した部隊が新設され派遣される事となった。

 最終的には日本連邦統合軍の特設部隊として第111特務団として纏められ、バルカン半島及びヨーロッパ亜大陸での特殊作戦を統括する事となる。*5

 こうして日本はバルカン半島の戦いに関わっていく事となる。

 

 

 

 

 

 

*1

 尤も本心は別であり、グアム共和国代表は随員との意見交換会に於いて、日本の希望どおりになると思うのは難しいであろうとの感想を漏らしていた。

 或いは、何時もの病気(己を子猫と思いこんだ虎病)が出たと。

 世界経済に於いて、100年の先進性と経済規模を持った国家は、その自重だけで世界に影響を与えるのだから。

 日本政府はユーラシア大陸から足を抜く事を考え、実際にジャパン帝国から継承する形となった大陸利権を諸外国へと売り飛ばしている。

 地域強国への指向である。

 だが、それが上手くゆくとは思えなかった。

 特に、日本に与する事を希望した(見捨てないでくれと泣き付いた)朝鮮半島や台湾島を、切り捨てられなかった事からもそう考えていた。

 実際、その認識が正しかった事は、歴史が実証した。

 1928年の日本ソ連戦争は、日本が内包する(スーパーパワー)を世界に示す事になった。

 世界の耳目を集め、そして列強からは新しい参加者(グレートゲーム・プレイヤー)であると認められる事となった。

 そして、経済的な理由からソ連-シベリア地方に進出した後のシベリア独立戦争が全てを変えた。

 世界は日本によるシベリアの切り取り(ユーラシア大陸再進出)であると認識した。

 同時に、日本はソ連と言う強国を一方的に踏みにじれる力を持つと示したとも。

 気が付けば日本は、日本連邦は世界有数の国土と人口、そして経済力に裏打ちされた帝国になりあがっていた。

 正直、日本政府関係者は頭を抱える事態(どうしてこうなった)であった。

 その事を素直に口にした自衛隊関係者に、在日米軍将官はアルカイックスマイル(常識的に考えて残当と言う気分)を浮かべるだけであった。

 

 

*2

 日本とシベリア共和国の友好に関する良い話として知られる本エピソードであるが、日本政府と日本連邦統合軍上層部の本音としては、聊かばかり生臭い部分もあった。

 面倒くさい、である。

 30万人規模の兵を日本連邦の領域からヨーロッパに装備込で運び込むのも大変だし、運用する為の補給を行うのも面倒くさい。

 そもそも、ドイツとの戦争など交戦自体は2年も必要としない、短い戦争で終わる予定だ。

 下手すると、部隊の集合と移動だけで派遣期間の半分が消費される勢いになると考えていた。

 そんな事に日本の船腹(マル・フリート)を消費するのは勿体ない。

 馬鹿げた勢いで発注の入っているMLシリーズ、その輸送だけでも相当な量の輸送船を必要とするのだ。

 この様な状況に、口の悪い政治家は、内々の会議でヨーロッパ()()に出す船は無いと言い切る程であった。

 現実とは、誠に以って散文的な側面を有していた。

 

 

*3

 日本は、正直な話としてドイツとの戦争を作業(ドイツの片づけ)と認識していたが、それでも戦争自体は容易なモノ(素晴らしきグレートゲーム)であると考えてはいなかった。

 どれ程に高度な技術を持っていても、どれ程に強大な装備を持っていても、戦争であれば死傷者は出るのだから。

 実際、タイムスリップ後に行った戦争 ―― ソ連との戦争やドイツとの戦争で日本は、軽傷者を含めた死傷者が累計で200名を超えて出していたのだ。

 慎重に、そして容赦の無い戦争を行っていたにも関わらずである。

 交戦、不幸な事故、或いは油断。

 如何に注意をしていても、様々な理由で負傷者や死者が出る事を止められなかった。

 だからこそ、戦争自体歓迎する気は一切なかった。

 

 

*4

 テロを最大の脅威とし、或いは周辺国家からの不正規戦争(破壊工作)を警戒した日本連邦統合軍では、日本政府に対して各国軍に特殊戦部隊の創設を提案していた。

 これは、米国政府と言う前例を見ていた日本国自衛隊が、日本が似た立場になるのに従い米国特殊部隊と同じように特殊作戦群などの部隊を便利屋扱いされたくないと言う事からの思いであった。

 最終的な出動(ケツモチ)を否定する気は無いが、初動から呼び出されるのは堪らない。

 特に、広大な日本の領域で飛び回るのは、洒落にならないと言う本音あればこそであった。

 2020年代に、漸くの事で(旅団)規模の特殊作戦部隊を錬成出来たのに、コレを政治家の思いつきなどで使いつぶされては堪らないとも考えていた。

 この判断が出た頃は、自衛隊の規模拡張や大規模な予算措置が、まだ政府と財務省内での検討段階であった為、この警戒は当然の事でもあった。

 結果、日本連邦統合軍は総数で師団規模の特殊作戦部員(オペレーター)を養成していた。

 

 

*5

 第111特務団としてまとめられているが、本質的には日本連邦構成国からの出向部隊の連絡の場と言う役割が大きく、装備などの管理や補給、或いは休暇などの手配などの事務/裏方業務を担当しており、各国部隊は独立性が高かった。

 各国の部隊が派遣される際に、便宜上、管理下に入る部隊(組織)とも言えた。

 この点が使いやすかったからか、ドイツ戦争後には、戦功があった事もあり常設部隊と言う形に改められ、第111統合特殊戦師団(トリプル・ワン)となった。

 

 




2022.05.20 文章修整


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

160 第2次世界大戦-27





+

 多くの国々が何らかの形で関わり、ある意味でドイツ戦争の縮図めいた格好となったバルカン半島の戦い。

 一部の軍事研究家は、ドイツ軍駐留部隊の装備が乏しい事や覇権国家群(G4)の戦車などの最新装備が投入されていない事から裏庭の戦い(マイナーリーグ)等と揶揄していたが、戦車や装甲車の類が大規模に投入されていないだけであり、それ以外の面では極めて熱い戦闘が繰り広げられていた。

 主要国家(プレイヤー)だけでも、ドイツ、旧ユーゴスラビア王国(反ドイツ抵抗組織)、イタリア、トルコ、ギリシャ、ソ連、そして日本が居た。

 その上で、ルーマニアやブルガリアで独自に武力蜂起と抵抗運動をする組織も居た。

 混沌(カオス)と言う言葉こそ似つかわしいだろう。

 

 

――ドイツ/ルーマニア地方

 開戦当初のヒトラーは、ソ連との協力関係(ファニー・ウォー)の道を模索していた。

 戦争中はバルカン半島の権益をソ連に預けておき、戦後は適当な時期に返還を図る。

 無論、その対価は用意する。

 そう言ったムシの良い話を考えてはいた。

 だが、ソ連の考えは異なっており、行動がそれを示していた。

 ヒトラーが送った密使は帰らず、ソ連軍のバルカン半島進出は穏当に行われるとの政治レベル(ヒトラー)の指示を受けて準備していたドイツ軍現地将兵は、ソ連軍の手によって手酷い被害を受ける事となった。

 ソ連は国際連盟側に立った。

 その情報をヒトラーは素直に受け取る事が出来なかった。

 永年の友好国であるソ連が裏切った等と言う話は偽電の類であり、悪辣な国際連盟(ジャパンアングロ)による陰謀に思えたのだ。

 ソ連の駐ドイツ大使を呼んで情報を確認し、或いは現地情報を再確認する事に3日を消費し、漸くの事でヒトラーは現実を受け入れるのだった。

 初動の貴重な3日を失ったドイツ軍 ―― だが、例え当初からソ連軍に対抗していたとしても出来る事に差はなかっただろうと言うのが、ドイツ軍上層部の一般的な評価であった。

 バルカン半島各地に展開しているドイツ軍部隊に、装甲車両は極めて少なく、又、あったとしてもⅢ号戦車以前の旧式が殆どであったからだ。

 ドイツがバルカン半島の統治を軽く見ており、軽装備の治安維持部隊でも可能だと判断していたからだけではない。

 近隣の強国がソ連であり、伝統的友好国(準同盟国)だからという訳でもない。

 唯々、機甲装備の不足にあった。

 大量に作った戦車や対戦車砲の類の大多数を、ドイツ軍がフランスとの決戦の為にドイツ西部部隊にかき集めた対価であった。

 勝てぬ戦い。

 ドイツ軍参謀本部は先ず、旧ルーマニア地域の軍に対して退却を許可した。

 ヒトラーは抵抗を命じようとしたが、物理的に不可能であるとドイツ軍参謀団がヒトラーを説得した。

 この時点で軍人軍属が数万人は残っていたが、全てが撤収する事となる。

 だが同時に、それを素直に行う程にドイツ国家と言うモノは純朴では無かった。

 自分の手に残らぬモノであるならば、全てを無に帰すのが妥当として、撤退の最中に旧ルーマニア国内のインフラを徹底的に破壊する様に指示を出したのだ。

 ソ連軍の侵攻を少しでも遅らせようと言う考えもあったが、それ以上に、気分の問題として出された命令であった。

 とは言え、それが簡単に出来た訳ではない。

 目の前にソ連軍が迫る中での命令であり、簡単に遂行できる筈も無かった。

 とは言えドイツ人である。

 命令が出れば粛々と、機械的に処理しようとはした。

 問題は少なくも小さくもなかった。

 インフラを破壊する為の爆薬すら不足気味であったと言う事が苦労の大本とも言えたが、それ以上に問題であったのが、地元のドイツ連邦帝国東方2級市民(旧ルーマニア人)による抵抗活動があった事だ。

 それまでは無抵抗にドイツ人を受け入れていた人々が、銃器を持ち出し、或いは無武装での抵抗活動を行い出したのだ。

 それは、素朴な故郷への愛情があったのかもしれない。

 だがドイツ人は受け入れなかった。

 自らの命が懸かっている状況で抵抗(邪魔)しようとした人間を受け入れる筈が無かった。

 軽装備とは言っても、腐っても正規軍。

 訓練も受けていない一般市民を蹴散らす程度は余裕であったからだ。

 それどころか頭に血を上らせた一部のドイツ人将兵は、撤退する最中で、旧ルーマニア領内のインフラ破壊命令を拡大解釈する形で、技術者や医者、或いはその可能性があるとして子供にすら銃弾を浴びせながら撤退していた。

 その事が益々、旧ルーマニア人にソ連軍を受け入れさせる流れと成り、或いはソ連軍を支える動機ともなるのだった。

 この流れに乗る形で旧ルーマニア人はソ連軍に対して志願し、ソ連側も受け入れる事でソ連ルーマニア人義勇部隊が構成され、ドイツに対する血の報復が行われる事となる。*1

 後に、ドイツ戦争期の事をルーマニアでは惨劇期とも言う様になる。

 

 

――ブルガリア地方

 隣国であったルーマニアでの惨状を知ったブルガリア人は、自分たちの未来を見た。

 ソ連軍は恐らくは勢いに乗ってブルガリアへなだれ込んでくるだろう。

 そして、ドイツ軍はそれに抵抗出来ない。

 聡明な人間であればだれもが思う未来予想図、但し、その未来予想図(確定した未来の惨劇)への反応は3つであった。

 1つは逃げると言うもの。

 比率で言えば一番多く、トルコなどの隣国へ逃げた人間も居れば、家族を連れて山に逃れた人も居た。

 だがそれとは別に、外国に頼る者も居た。

 ソ連であり、トルコである。

 ソ連に与する事を決めた人々は密かにソ連と連絡を取り、ドイツ軍の動きを監視し、或いはソ連から齎された武器で武装して、その時を待つ事となる。*2

 トルコに与した人間の動きは、ある意味で一番最後であった。

 これは、トルコがブルガリア領内侵攻を開始した事で動き出したからである。

 そもそも、宗教的問題でブルガリアはトルコを友好国と見るのが歴史的に難しかったと言う部分がある。

 即ち、イスラム教徒国家を手引きした、キリスト教の裏切りモノと言われるのを恐れたのだ。

 ある意味で、当然であり、仕方のない話であった。

 だが、国際連盟による議決、それにトルコが侵攻前に行った政治的行動が大きな影響を出す事となる。

 即ち、トルコ大統領とローマ教皇の歴史的会談である。*3

 この会談によってトルコは、イスラム教国による侵攻軍では無く、キリスト教国の友人が国際社会の要求に従って行動していると言う大義名分を揃える事が出来たのだ。

 この結果、ブルガリアの南部域に住む人間はこぞってトルコに靡く事となる。

 尤も、その代償は少なくは無かったが。

 ドイツ、ソ連軍と親ソ派、トルコ軍と親ト派の三つ巴めいた戦いに繋がるからである。

 大義名分が国際連盟の決議である為、ソ連軍とトルコ軍が表立って戦う事は無かったが、親ソ派と親ト派は政治的な立場の強化を狙って抗争する事となる。

 

 

――旧ユーゴスラビア王国

 流血の度合いと言う意味で最も陰惨とも言えるのが、この旧ユーゴスラビアであった。

 それはドイツ戦争以前からドイツ軍に対する抵抗運動が活発であったと言うのが実に大きかった。

 だが同時に、政治的意味においては旧ユーゴスラビア王国人は1つであった。

 これはブルガリア等とは大きな差であった。

 最大の理由はユーゴスラビア人に闘争力と交渉力に長けた抵抗運動の代表、チトーが居たと言う事だろう。

 そして同時に、イタリアやブリテン、そして日本がチトーへの支援を行っていた事だ。

 豊富な国外からの支援を享受するにはチトーの配下に入る必要があり、それを受け入れた ―― 受け入れるだけの能力を、他の抵抗組織に対してチトーが示したと言うのが大きかった。

 だからこそドイツは、特にドイツ戦争勃発後にはチトー個人を狙った暗殺計画を幾度も立案実行し、そして阻止され続けて来た。

 これはチトーの才覚や幸運が原因ではない。

 イタリアの空挺部隊と日本のPMSC、政府外注軍事機関(アンダーグランドユニット)であるSMS社の警備部隊(オメガ・ユニット)が投入されていた結果だった。*4 

 そして1944年に入ると共に、そこにギリシャ軍が参加する事となった。

 先進国からみれば旧式な装備であっても、戦車や野砲を持ち込んできたのだ。

 その衝撃は大きかった。

 無論、それで全てが片付く訳もなく、軍属やドイツ系住民を軍に強制編入した事で最終的には20万人規模に達したドイツ軍の規模的な力は大きかった。

 この時点で何とか維持されていたドイツ本国からの補給線によって、食料は兎も角として弾薬その他を補充できていたと言う事も軽視出来る事では無かった。

 流石に主力戦車と呼べるモノを持ち込む事は困難であったが、代わりにドイツ連邦帝国に加盟している各国軍も抽出派遣されていた。

 この補給路は、軍事的合理性に基づけば破壊するべきであったが、航空戦力の限界もあって徹底的に行われ無かった為、維持されていたのだ。

 日本やブリテンなどの先進国(ジャパンアングロ)の爆撃機戦力は、ドイツ本国とポーランド戦線に集中的に投入されており、バルカン半島に投入出来る余力が無かったのだ。*5

 又、ギリシャやトルコの様に、爆撃機を保有していない国家にソレを求めるのは困難であった。

 では、イタリアやソ連はどうかと言えば、その両国とも現実に対応するため航空行政に歪みを抱えていた為に、実行不可能であったのだ。

 日本の影響を受けて発生した航空機の爆発的進歩。

 G4(ジャパンアングロ)、そして対抗するために進化を進めたドイツ。

 このドイツの進歩は、日本や、日本からの影響を強く受けて進化したブリテンやフランス、アメリカに比べると哀しい程に小さな進歩であったが、それ以外の国にとっては恐るべき進歩であったのだから。

 並の爆撃機では、只、標的になるしかないジェット戦闘機を大量に用意しているドイツ。

 ()()()()()、イタリアは高価なだけの爆撃機を揃える事を諦めて、防空戦闘機の整備に務めていたのだ。

 イタリアはドイツとの戦争に於いて、防御的なモノしか想定していなかったのだ。

 対してソ連。

 此方も事情は同じであった。

 脅威となる対象が、ドイツでは無く日本であったが、であるが故に迎撃用の航空機整備に注力してきたのだ。

 故に、両国の爆撃戦力は貧弱極まりなかった。

 この点に於いて、爆撃機の近代化まで手を付けているアメリカ、ブリテン、フランスは覇権国家群の一角として格が違ったと言えるだろう。

 結果、ドイツの補給路はドイツ戦争後半まで生き続ける事となる。

 そして、補給を受けられるドイツ軍の厄介さは、非覇権国家群(ジャパンアングロ)の軍にとっては極めて大きかったのだ。

 この状況を変える為、アメリカのジェット式の新鋭爆撃機部隊が出て来る事となる。*6

 

 

 

 

 

 

*1

 ソ連軍が手間のかかるルーマニア人義勇部隊を作った理由は、ドイツ戦争後にこの部隊を母体としてルーマニア赤軍を構築し、ルーマニアを統治する際の強力な親ソ連組織にする予定としたからであった。

 結果、ルーマニア人義勇部隊は一般のソ連軍部隊よりも装備面で優遇された。

 とは言え、最初のルーマニア人義勇部隊は各志願兵が着て来た服に赤い腕章を付けただけの格好であり、武器だけが与えられたと言う様であったが。

 だがそれが、格好のアピールともなり、ソ連の手を介して盛んにアピールされる事となった。

 結果、戦果以上に存在(意気)が政治的にも賞賛される事となり、後にスターリンの閲兵を受ける栄誉も賜る事となった。

 又、一般ルーマニア人からも、対ドイツ抵抗の象徴としても見られる事となる。

 それら光の面を持つと同時に、軍民を問わぬドイツ(民族)に対する暴力性を発揮した為、ドイツ人からはルーマニア吸血部隊と恐れられる事となり、国際連盟安全保障理事会でも問題となった。

 

 

*2

 ブルガリアの親ソ派が簡単に組織化されていった理由は、ソ連との接触窓口 ―― 旧ブルガリアソ連大使館であり、後の駐ドイツソ連ブルガリア領事館が存在していたと言うのが大きかった。

 スターリンがドイツとの戦争を決断すると共に、旧ブルガリア国内のソ連外交スタッフは、戦争を見据えた動きを行っていた、その結果とも言えるだろう。

 尚、旧ルーマニアで同じことをしていなかった理由は、旧ルーマニアがソ連陸軍の戦争だったからである。

 旧ルーマニア侵攻に際して、ソ連外務省は大きな役割を担う事が出来なかったのだ。

 その対価として、旧ブルガリアでは、ソ連外務省/情報機関が主と成る事が、スターリンの裁定によって定められていた。

 ある意味で、政治であった。

 

 

*3

 この会談の背景には、南欧の雄(ローマ復興、大イタリア)としての地位を確立したイタリアによる、戦後を見据えて行った外交工作があった。

 ドイツ戦争後の南欧を安定させる事は、イタリアの利益であるからだ。

 そして、イタリアの外交工作を熱心に支援していたのは日本であった。

 イタリアの南欧での覇権には正直、関心は無いのだがブリテンが背中を押したのだ。

 ドイツ戦争後の、ヨーロッパ亜大陸に於ける一強体制は問題を生じさせやすいと言う形でだ。

 このブリテンの動きは、同時に日本国内の欧系日本人が齎したモノでもあった。

 即ち、EU体制へ苦い思いを抱いていた英系日本人が独系仏系伊系の目を盗んで行った行動の結果であった。

 英系日本人はブリテン外務省とのパイプを活用して秘密裏に接触し、日本の背中を押すように仕向けたのだ。

 米系や露系と違い邦国的な集団としての基盤を持たない英系は、その存続の為に帰化した日本への忠誠を誓い、それを曇らせてはいなかったが、同時に、女王陛下への忠義も忘れた訳では無かったのだ。

 日本の利益にブリテンの利益が乗る様に、細心の注意を払って行動していた。

 その事を理解しているブリテン人も又、英系日本人に対しては協力的であった。

 

 余談ではあるが、日本国内に於いて政治勢力としての影響力を持っているのは、米系と露系そして英系のみである。

 その上で邦国と言う背景(バックボーン)を持たない英系は極めて特殊な存在であった。

 尚、人口としては多い中系と韓系であったが、タイムスリップ前の諸々を歴史的背景としている為、政治的影響力は持っていない。

 中系日本人も韓系日本人も、日本社会で物理的な意味で生きていく為に集団化は絶対の禁忌(タブー)として行動していた。

 判りやすい所では、中系日本人代議士は存在しているが、その後援団体に中系日本人が居ないと言う事だろう。

 英系が、英系日本人を教育する学校を持っているのに対し、中系にも韓系にも許されていないのも分かりやすい。

 朝鮮学校なども組織として完全に解体され、建物は勿論、土地すらも形を偲ばせるものすら残っていない。

 そこまで徹底していた。

 個人として参政権も被選挙権もある。

 就職の差別等は絶対に許さない。

 だが、集団となろうとすれば別。

 それらが、日本人の潜在的感情(いまだ赦しを与えていない事)を示していると言えた。

 

 

*4

 SMS社警備部隊はドイツ戦争前から戦乱の地であるユーゴスラビア地方に情報(戦訓)収集の為に投入されており、コレは日本連邦統合軍(第111特務団)が参陣するまで任務を継続していた。

 尚、第111特務団の投入後は、公式にはSMS社警備部隊は国外退去した事となっている。

 民間企業である為だ。

 代わりに、第111特務団特務警備隊(オメガ・チーム)と看板を変えて護衛任務を継続した。

 

 

*5

 日本の物理的限界で言うならば、戦略爆撃機もそうであるが、有人無人を問わない偵察機や偵察衛星による偵察行動も十分に行いきれていなかった。

 無論、それは日本視点として(米国基準を見て)の話であり、この時代の国々からすれば圧倒的な内容ではあった。

 だが、日本が限界を理解する通り、現実として日本の戦略爆撃隊は十分な効果を発揮しきれずに居た。

 

 

*6

 ドイツが本格的なジェット式の迎撃戦闘機の配備を開始するとの情報に接したアメリカ空軍は、国内のメーカーに対して超爆撃機(Over Free air Bomber)構想に基づいた 高高度侵入爆撃機(40,000ft.bomber)の開発を指示していた。

 ボーイング社やロッキード社は未来を夢見て参加していたが、大多数のアメリカ航空機企業のオーナーはその未来の乏しさから業務撤退を考えていた。

 その中で異色だったのはノースロップ社であった。

 大の全翼機ファンであった社長は、未来の自社が全翼機を生み出すと知って興奮し、撤退を図る企業を買収して技術を蓄積し、名乗りを上げたのだ。

 とは言え、現時点での技術でジェット式の全翼機を自前で開発できると自惚れてはいなかった。

 だからこそ、ノースロップ社は同じアメリカ企業であるエンタープライズ社に技術協力を要請したのだ。

 標準的な爆撃機を欲していたアメリカ空軍関係者は海軍の前例(F/VP-1哨戒戦闘機)を思い出して微妙な顔をしたが、世界初のステルス爆撃機を開発出来る! と言う主張に政治側が折れて、開発計画に予算を付ける事となった。

 こうして開発された爆撃機B-35は、世界初のステルス爆撃機として世に生み出される事となる。

 尚、愛称であるブーメラン・ボンバーは、一般にその外見に基づいて命名されたと思われがちであるが、現実は()()()()()()()()()()()()としての命名であった。

 とは言え、エンタープライズ社の協力によって一定の電子制御を導入していたB-35は、極めて高価であった為、アメリカ空軍主力爆撃機の座は伝統的デザインのボーイング社製B-39(ウルトラ・フォートレス)が担っていた。

 余談ではあるが、B-39に対して当初は29のナンバーを振る事が考えられていたが、グアム特別自治州出身で日本通の将校が、それは日本を刺激するから止めておけと助言し、流れていた。

 

 




2023.1.19 文章修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

161 第2次世界大戦-28





+

 1945年初春。

 ドイツ戦争西部戦線で遂にフランス軍を中心とした国際連盟総軍、フランス政府がいう所の大陸軍(SDN-グランダルメ)が動き出した。

 冬の間、ドイツが必死で用意した防衛ライン ―― 世界大戦(World War 1914-1918)を思わせる塹壕、或いは拠点群。

 そのほぼ全てに、大地を掘り返す勢いで砲撃が行われた。

 初手は、簡単に数を用意する事の出来る自走ロケット砲群だ。

 平均誤差半径(CEP)と言う意味では手荒い無誘導のロケットであるが、その分に安く作れるので数を揃える事が出来る。

 日本製、フランス製、ブリテン製、アメリカ製など雑多なトラックを臨時に各部隊から徴発し、改造して作り出された特設の自走ロケット砲は、その数が5桁近くに達していた。

 大量の車両が、各部隊毎に時間を置いて発射した為、1時間近くロケット弾は降り注いだ。

 防護施設を出る所か、頭を上げる事すらも危険であり、只々神に祈るほかない時間。

 絶望的なまでの攻撃を受け、生き延びる事が出来たドイツ軍将兵は、この世の終わりを見た(アポカリプス・ナウ)と後述していた。

 文字通りの鋼鉄の雨。

 爆炎、煙、焔、巻きあがった土煙は昼を夜に変える勢いであった。

 だが、それが齎した破壊は、致命的にはならなかった。

 十分に検討されて作られた塹壕や防衛拠点(トーチカ類)は、運の悪い場所へと直撃を受けた場合を除いて甚大な被害から人々や装備を守り抜いていた。

 それどころか、よく訓練されたドイツ人将兵は反撃を試みていた。

 それは野砲 ―― 後方に隠蔽温存されていた貴重な重カノン砲による反撃射撃(カウンター・バッテリー)だ。

 砲部隊指揮官の中には、砲撃する事で存在を暴露する事の危険性を指摘する者も居たが、ここで反撃を試みなければ前線の将兵の戦意が折れる(モラールブレイク)との前線の歩兵将校が上げる(要請)に勝つ事は出来なかった。

 とは言え、ドイツ側も勝算が無い訳では無かった。

 国際連盟側が持ち込んだロケット弾は射程距離が10㎞程である為、20㎞を超える重カノン砲で後方から反撃を行えば大丈夫だろうと言う()()であった。

 そもそも、国際連盟側が常軌を逸した勢いでロケット弾を降り注がせているのだ。

 こんな状況で反撃を受けても、どこから受けたかなど把握は出来ないだろうとの()()()()()もあった。

 だが残念。

 現実はそうそう甘くはなかった。

 日本がMLシリーズで大量に、簡易的ながらも必要十分な能力を持った対砲レーダーをばら撒いていたからだ。*1

 ML-012が探知したドイツ軍重カノン砲部隊の位置に対して、国際連盟側は容赦の無い報復射撃(カウンター・カウンター・バッテリー)を実行した。

 大規模な砲合戦。

 戦車や対戦車砲に砲生産の枠を奪われ、数の少ない()()()と言えるドイツ軍砲兵部隊は、この戦いで半壊する事となった。

 だが、その対価は余りにも乏しかった。

 ドイツ側も狙いをロケット弾部隊から砲部隊に変え、反撃を図ったのだが十分には達成できなかった。

 1つは、国際連盟側の野砲部隊の位置を把握すること自体が困難だったと言うのが大きかった。

 互いに20㎞を超える距離で撃ち合っているのだ、レーダーなどの手段を持たない以上は仕方のない話であった。

 一部の部隊では、危険を覚悟しての航空機による偵察も図られたが、有意な情報を得る前に掃討されていた。

 空は、ドイツのモノではなくなっていた。

 そしてもう1つの理由。

 それは、国際連盟側の各国砲兵部隊は、射撃後に手間を惜しまずに撤収と再配置、そして射撃と言うサイクルを徹底していたと言うのが大きかった。

 それが出来たのは、砲兵部隊の徹底的な自動車化を推し進めていたお陰であった。

 全ての砲に1台ずつトラック等が用意されているのだ。

 或いは不整地向けに旧式戦車等を流用した、装軌砲兵支援車が用意されていた。

 ドイツが馬乃至はロバを牽引に用いているのとは隔世の感があり、そして同時に、それが残酷なまでに生存性に差を与える事となったのだ。

 それらは、言うまでも無く日本の影響であった。

 砲自体の改良も含めて、国際連盟の主要国家(ジャパンアングロ)が持つ砲兵部隊はドイツの遥か先にあった。

 戦車と言う、宣伝されやすく目立つ存在にドイツは幻惑されていたとも言えた。

 兎も角、攻勢開始から半日で、ドイツ軍西方総軍が前線部隊に張り付けていた砲兵部隊は紙の上にその存在を移したのだった。

 

 

――ドイツ西方総軍

 ヒトラーが関心をポーランドとバルカン半島に集中させていたお陰で、事実上のフリーハンドを得ていたドイツ西方総軍。

 だが、その内情は1944年の攻防による被害から回復できずに居た。

 頭数と言う意味では、師団数も含めて回復どころかドイツ戦争開戦前よりも大規模な戦力とはなっていた。*2

 無論、その内情は悲惨であったが。

 国民擲弾兵(Volkssturm)師団は、壊滅した部隊を核として老人や若者、或いは兵役不適格とされていた人間をかき集めて作られた部隊であり、正規師団に比べて重装備が乏しく小規模部隊(拡大旅団規模)でしかなかった。

 だが、国民擲弾兵師団は()()()()であった。

 まがりなりにも正規の軍事教育を受けた人材が多く在籍していたし、小規模ではあっても標準的な軍事組織として編成されていたのだから。

 ドイツ西部総軍司令部でも、装備不足ではあるが、限定的であれば反転攻勢任務にも投入可能と評価していた。

 問題は、数の上で主力となる国民突撃隊(Deutscher Volkssturm)であった。

 地域住民を強制徴発し頭数だけを揃えて師団、国民突撃師団と言い張っているのだ。

 攻撃を受け止めて弾薬を消費させ時間を稼ぐだけの肉壁 ―― 或いは、攻撃を察知する為の(センサー)程度にしか使えないと言うのが、ドイツ西方総軍の認識であった。

 老若男()、歩けない老人や乳幼児以外は荷運びなどの仕事もあるとばかりに徴発して作られたと言う無茶苦茶さであった。*3

 その様な部隊(軍組織)とは言えない部隊など、可能であれば前線に出したくないと言うのが本音であった。

 だが、その国民突撃師団をも頼らざるを得ないと言うのがドイツ西方総軍の実情であった。

 それでも尚、ドイツ西方総軍司令部は国際連盟と闘い、時間を稼ぎ、生き残る道を探していた。

 だが、それは容赦の無い鋼鉄の雨によって砂糖菓子の様に溶けていくのであった。

 

 

――フランス

 1944年の戦いをフランスとして評するのであれば、不本意と言う一言こそが似つかわしかった。

 圧倒的な戦力を用意していたにも関わらず、最初の攻勢は頓挫し、ごく一部とは言えフランス領内にまでドイツ軍の軍靴に荒らされるのを許したのだ。

 1930年代より営々と戦争準備をしていたにも関わらず、である。

 故にフランス政府や国民は、ドイツへの憎しみを燃やすと共に、軍の不甲斐なさを批判した。

 そうであるが故に、フランス軍はドイツ人の血で畑の畝を赤く染めんが為に、不断の決意をもって進軍を開始するのだった。

 地雷原を耕し、砲兵を潰し、戦車を前面におし立てて塹壕へと進む。

 最前線で配置されていたドイツ軍部隊はW軍集団であったが、十分な再編が行えなかった ―― フランス空軍機などによる空爆が自由で大規模な部隊の移動を許さなかった為、塹壕などの拠点によって頑強に抵抗する事が出来る事の精一杯であった。

 フランス軍の先鋒を確認するや、ドイツ軍部隊はそれまで必死になって隠蔽し温存してきた戦車や対戦車砲その他による火力のありったけを叩き込む。

 だが正面に立つフランス戦車、55t級の重戦車であるARL40を止める事は出来なかった。

 足回りを破壊し、或いは側面などの脆弱な場所を狙う事で少なくないARL40を擱座せしめる事は出来ていたが、攻勢を頓挫せしめる事は不可能であった。

 装甲の差、火力の差、そもそもとして偵察能力の差があっては、先ず攻撃を行う事が難しいと言う有様であった。

 そもそも航空優勢はフランス、国際連盟側が握って揺らいでいないのだ。

 それ以前の問題として、ドイツ空軍の航空基地は、存在が察知されている場所に対しては悉くに日本製のステルス巡航ミサイルが降り注いでいるのだ。

 空の騎士を自認していたドイツ空軍(ルフトバッフェ)も、空を駆ける事も出来ずじまいであった。

 その様な状況で、ドイツ軍陸上部隊に出来る事は無いとすら言えた。

 フランス空軍の攻撃機が訓練の様な気楽さで、爆弾やロケット弾を叩きつけていくのだから。

 それを本来や抑止するべき陸上の防空戦力群 ―― ドイツが必死になって前線に持ち込んでいた対空砲や、それを運用する為のレーダー網は、国際連盟による全面攻勢に際して行われた日本連邦統合軍(航空自衛隊)のステルス戦闘機 ―― F-35Aによる精密誘導弾攻撃で悉くが灰燼に帰していたのだ。

 偵察衛星や高高度偵察機、なにより対地監視機(E-1 STARS)が前線のドイツ軍部隊を丸裸にしていた結果だった。

 いまだ偵察の主力は銀塩カメラ、或いは日本から導入したデジタルカメラが精々な航空偵察は、偵察による発見から識別と判断、そして攻撃までのタイムラグが最低でも1日は必要であるのに対し、日本の偵察と情報収集はネットワークによって攻撃とシームレスに繋がっている為、ドイツ側に対応する様な時間を一切与えなかったのだ。*4

 ドイツ西方総軍司令部は、国境に構築した第1防衛地帯(要塞化塹壕線)が数日で突破される事を覚悟した。

 だが、そうはならなかった。

 徹底的に攻撃を受け、ゆっくりと玉ねぎの皮を剥くように前線を押し込まれていたが、それは部隊が壊乱し後退た場所ですらも同じであった。

 ドイツ軍の罠、或いは作戦をフランス軍司令部が恐れた ―― そんな訳では無かった。

 只々、国際連盟安全保障理事会の議決に従って、ドイツ人の精神(抵抗心)をへし折る為であった。

 ()()()()()()()()()()()、フランス軍はそれを合言葉に、攻撃を行うのであった。

 

 

 

 

 

 

*1

 対砲レーダーとして配られてたML-012は、日本基準から見れば民間向けの低価格で限定された機能しか持っていない、簡易レーダーであった。

 ML-012の構成は2tトラックであるML-01にレーダーと、レーダーを高く伸ばす事の出来るクレーンにアウトリガーと電源ユニット(ディーゼル発電機)、そしてレーダー管制室を乗せたものであった。

 管制室は3人も入れば一杯になる程に手狭ではあったが、システムを1台にまとめ上げる事が優先された為、このような仕様となっていた。

 この為、余裕のある状況であれば、ML-012の傍に別個で天幕を張って観測任務(オペレーション)を遂行する事もあった。

 尚、ML-012は割合に高額装備であった為、これを大量に発注出来たのはアメリカを筆頭にしたG4位であった。

 それ以外はイタリアが買えた位であった。

 尚、ソ連も声を挙げたが、黙殺された。

 

 

*2

 オランダ戦線とイタリア戦線も統括する事となったドイツ西方総軍の戦力は5個の軍集団と1個の装甲軍集団、それと1個の軍団で構成されていた。

 31個歩兵師団

 20個自動車化師団

 11個機械化師団

 23個国民擲弾兵師団

 52個国民突撃師団

 15個戦車師団

 

 

A軍集団

 航空優勢を奪われている中でも、不断の努力によって再編成を終えた西方総軍最大の予備戦力。

  7個歩兵師団

  2個自動車化師団

  1個戦車師団

 

W軍集団

 壊滅していた第3軍集団をW軍集団へと合流させ、その上で国民擲弾兵師団を編入した戦力。

 とは言え、集結と再編成が遅れ気味である。

  15個歩兵師団

  12個国民擲弾兵師団

  1個戦車師団

 

Q軍集団

 国民突撃師団を中心に編成され、マインツ市近郊で、国際連盟と対峙している。

 数字的には有力である。

  1個自動車化師団

  20個国民突撃師団

  6個国民擲弾兵師団

 

ルール要塞軍集団

 ヒトラーが戦争継続に於いて絶対に防衛するべきであると断言した為に、ルール工業地帯の要塞化の為として編成されている。

 とは言え、国民突撃師団が防衛戦力の中心である為、その内実は寂しい限りとなっている。

  3個自動車化師団

  32個国民突撃師団

  2個戦車師団

 

第1装甲軍集団

 ドイツ西方総軍の総予備として再編成された装甲戦力。

  7個機械化師団

  5個戦車師団

 

第2装甲軍集団

 偵察によってフランスに集結しつつある国際連盟の兵力を認識した西方総軍司令部が、ヒトラーに増援を要請し、用意させた戦力。

 移動に注意を払っている結果、いまだ西方総軍司令部の管理下には全戦力が揃ってはいない。

  14個自動車化師団

  3個機械化師団

  5個戦車師団

 

C軍集団

 イタリア戦線(対イタリア)部隊。戦線がドイツ国内に至った為、ドイツ西方総軍の管理下に入った。

  7個歩兵師団

  5個国民擲弾兵師団

  1個戦車師団

 

ドイツネーデルランド軍団 

 ネーデルランド戦線(対オランダ)部隊。国際連盟側がこの方面での攻勢を指向していない為、比較的安定している。

  2個歩兵師団

  1個機械化師団

  1個戦車師団

 

 

*3

 ナチス党幹部の肝いりで作られた国民突撃師団を、宣伝省の撮影部隊(国営マスコミ)と共に閲兵したドイツ西方総軍の幹部は深い絶望を手記に残していた。

 何故なら、閲兵に際して一番前に立っていた()は、国民突撃隊に所属を示す腕章を付けただけの私服(厚手のコート等の)姿で立つ、厳しい顔をした赤毛を三つ編みにした少女だったのだから。

 閲兵を案内するナチス党の党員は、その少女を示して誇らしげにドイツ女子同盟に所属していたのですと説明する始末であった。

 その様なモノを見せられて絶望以外の何を感じろと言うのか、と言う話であった。

 軍は銃後を護るモノではないのか。

 その護るべきモノで守られる職業軍人と言う構図に吐き気を覚えると共に、自慢げに(ドヤァ顔で)閲兵を案内するナチス党党員を殴り飛ばさなかった自分を褒めたい等と、現実逃避をする程であった。

 

 尚、この幹部はドイツ西方総軍司令部に戻って以降、この国民突撃隊の実相(悲惨さ)を隠す事無く報告し、その運用に関して強く1つの事を主張していった。

 特に女子が多くいる部隊には、()()()()()()()に通信偵察部隊に限定させ、接敵した場合には位置情報の報告後は即座に降伏させるべきとの事であった。

 降伏すれば、敵にジュネーブ条約に基づく保護義務が発生する為、下手に交戦するよりも負担を強いれるとの理論武装であった。

 その本音が何処にあるかを理解しつつ、ドイツ西方総軍司令部は、その主張を受け入れていた。

 それは、数少ないドイツ軍の理性の証明とも言えた。

 

 

*4

 機械的に行われた、血も涙もないとすら言える航空自衛隊による攻撃は、ドイツ側にとって悪夢そのものであった。

 この為、日本の国籍識別標を指して血染めの円標(ブラッディ・ミートボール)などと現場のドイツ空軍将兵は呼んでいたとされている。

 都市伝説の類であった。

 実際問題として、航空自衛隊機/日本連邦統合軍航空機をドイツ空軍が視認する事は先ず無かったからである。

 それはシベリア独立戦争でもそうであり、日本が関わった航空戦闘の全てで、そうであった。

 特に、ドイツ空軍パイロットの手記などで、日本の国際識別標(ミートボールマーク)を間近に見て、叙事詩的に「死神の目を見た」と言う事はあり得ない話であった。

 だが、日本政府にせよ航空自衛隊にせよ、その手の商業出版に対する反応(ツッコミ)をする事は無かった。

 大人げないから(武士の情け(誤用版)、であった。

 

 




2022.06.28 文章修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

162 第2次世界大戦-29

+

 フランス軍を基幹とするドイツ戦争西部戦線大陸軍(SDN-グランダルメ)は、時計の針の如く確実に、そして正確にドイツ領内へと進軍していた。

 対するドイツ軍。

 その歩みを阻む為にありとあらゆる手段を選択した。

 無差別なまでの地雷原の設置。

 遅滞戦闘の実施。

 様々な抵抗を行った。

 其処には、ドイツ領内のインフラを自らの手で破壊し、或いは民間企業などが備蓄していた物資の回収 ―― 不可能であれば焼き払う事すら含まれていたのだ。

 そこに民間人(一般ドイツ人)が居たとしても、である。

 非道の焦土戦とでも言うべき行動と言えるだろう。

 だがドイツ軍参謀本部、何よりヒトラーはコレを国防の為の最善の選択肢であると意識していた。

 ドイツ軍の補給線は基幹を鉄道に頼り末節、各部隊への分配は馬車に頼っているのが実状であった。

 又、食料その他の結構な割合を現地で購入してもいた。

 それは、かつての友好国であるイタリアやソ連も同様であった。

 だからこそドイツは、フランスも同様であると思いこんで居たのだ。

 シベリア独立戦争(Siberia War - 1936)に参陣していた将兵、その貴重な生き残り(戦争捕虜として日本を見た人間)の報告書では、あの恐るべき黄禍(日本自衛隊)は完全な自動車化を達成していたと書かれていた。

 それから約10年、ドイツが戦うべき世界支配級国家群(ワールドオーダー)は日本に追い付こうと努力はしていたが、実現してはいなかった。

 少なくとも国際連盟陸軍(リーグ・フォース)の数的主力であるフランス陸軍は、ドイツ戦争(国際連盟による侵略戦争)開戦前の時点では達成できていなかったのは情報収集で把握していた。

 G4で最も陸軍の近代化に努力していたフランス陸軍ですら、ドイツ陸軍と大差は無いのだ。

 であればブリテンもアメリカも、そうであるとドイツが思うのも当然であった。

 だからこそのインフラ破壊、焦土戦術であった。

 尚、大多数の住人(主に高齢者)を現地に残して撤退するのは最悪の合理性(チュートン的生真面目さ)、その発露であった。

 軍人が保護すべき民間人(非戦闘員)、その義務は国や国籍を問わない。

 そこに目を付けた政府高官、乃至はNazis党の人間がヒトラーに提言し、実行させていたのだ。

 文字通りの棄民政策であった。

 ドイツ(アーリア)人として、祖国に最後の奉仕をすべし、そう言っての事であった。

 これに少なからぬ数の、正規の軍人教育を受けていたドイツ軍人の心が折れるのだった。

 

 

――フランス

 確実に、ドイツ軍を排除してドイツの地に自らの領域を広げていくフランス軍。

 前線指揮官などは、後退するドイツ軍に更なる攻撃を仕掛ける事を禁止され、或いは機動突破戦術などでドイツ軍の指揮系統を破砕する事も認められていない事に不満(フラストレーション)を溜めていた。

 戦果の拡大を止める、いわば利敵行為に値すると政府や軍上層部を非難していた。

 それを高級将校たちが窘める。

 戦争であったのならば、前線指揮官たちが正しい。

 だがコレは戦争では無いのだ、と。

 ドイツと言う存在を歴史上の存在へと変える、只の作業なのだから問題は無いのだと告げた。

 実に傲慢(フランス的)な物言いであり、前年(1944)の戦いを思えば増長が過ぎると言われても仕方のない話であった。

 だが、その自信(傲慢)が事実であると思う程には、ドイツ戦争西部戦線は圧倒的であった。

 数で圧倒的なフランス軍。

 完全に機械化されたアメリカ軍。

 数と質とを揃えている日本軍。

 G4(ジャパンアングロ)のうち3つが居るのだ。

 苦戦しろと言うのが難しいと言うべき話であった。

 これに、オランダに部隊を集めているブリテン軍も加わるのだ。

 過剰(Over Kill)と言うのも当然であった。

 故に、大事な事は戦闘では無く部隊への補給であり進軍の為のインフラ整備であり、そして占領地の統治であった。

 物資の補給、特に食料品に関して日本はフランス本土に大規模な(天幕とプレハブで構成された)工場を作って、そこで面倒な下処理などを行い、前線部隊に届けると言う形をとっていた。*1

 結果、ドイツによる焦土戦術は、全くの意味を持たなかった。

 ドイツ人住人の怨嗟の声は別にして。

 食料も燃料も奪われたドイツ人住人をフランスの統治部隊は見捨てなかった。

 大量の芋と米とを振舞ったのだ。

 但し、その際に一切のドイツ語を認めなかったが。

 統治する際の統治公用語をフランスとブリテン、そして日本語だけと定めたのだ。

 ドイツ人住人がドイツ語を使う事は止めないが、食料配布日の告知などの致命的な全てを統治公用語以外では一切認めなかったのだ。*2

 統治する村、町などの名前すら、ドイツ風には呼ばない。

 酷い場合は個人名すらも呼ばない。

 ドイツの全てを否定する勢いであった。

 支配と言う意味で反感を買う行為であったが、フランスは占領したドイツ領をフランスに()()()()()として編入するとしていた為、特に大きな問題では無かった。

 フランス人としての権利が欲しいのであれば、フランス人である事を学べ ―― そういう話であった。

 この苛烈な態度に反感を募らせるドイツ人住人であったが、暴動などを起こせば即座に鎮圧された。

 それも、フランスが海外県から動員してきた黒人やアジア(フランス領インドシナ)人によってだ。

 ブリテンの勧めで行われたソレは、極めて効果的な影響を与えた。

 ドイツ人住人の心を折ったのだ。

 ドイツ()人が、非白人によって動物の様に扱われた。

 その衝撃たるや相当なモノがあった。

 扱いに反発し暴動を起こし、そして虫けらの様に蹴散らされていった。

 そこに慈悲は無かった。*3

 余りの待遇の悪さに、知識層(パワーエリート)のドイツ人住人は業務のボイコットなどを行い、抗議に出た。

 普通に解雇された。

 解雇される段になって、村や町の統治に問題が出ると脅せば、苦労するのは被統治下の人間でありフランスでは無いと返される始末であった。

 実際、様々な混乱が発生したが、フランスは一切気にする事は無かった。

 事、この態度を見た時に、フランスの統治下に入ったドイツ人は心底から理解する事となる。

 フランスは、ドイツを消す積りなのだと。

 村や町の統治システムが止まろうとも、工場その他が休業しようとも、フランスにとってどうでも良いのだ。

 統治して利益を得る事が目的なのではない。

 ドイツを消す事が目的なのだから。

 結果、その事を理解したドイツ人から()()()が出て来るのも当然の話であった。

 

 

――ブリテン

 順調にドイツ領の西方域を侵食していく国際連盟軍。

 その中にあってブリテンはあまり積極的とは言えなかった。

 これはドイツの解体、分割統治が前提となって来ている為、間違ってもヨーロッパ亜大陸に領土など持ちたくないと言う気持ち故にであった。

 資源や人口で発展性が乏しく、その上で国家がひしめき政治的な対立や連帯を繰り返している旧世界(ヨーロッパ)はお荷物でしかないからだ。

 それよりは、世界中の国々(主に日本とアメリカ)と連帯し世界帝国として生存し続ける事を国家戦略としているブリテンにとって、戦後のヨーロッパでのアレコレに巻き込まれかねないヨーロッパ亜大陸の領土は不要だからだ。

 害悪(邪魔)とすら言えた。

 だからこそ、オランダを軍が発して以降の土地は、オランダに近い場所はオランダに統治する様に要請し、それ以降は共に進軍する日本を共同統治者として必ず巻き込む様にしていた。

 その上で細心の注意を払って、ドイツ人の憎悪がブリテンに向かない様に配慮していた。

 ドイツ人による民族国家の解体が予定されている以上、ドイツ国家との戦争は将来的に発生する可能性は乏しいが、()()と言う可能性は捨てきれないからだ。

 陸路でブリテン本島とヨーロッパ亜大陸とを繋ぐ予定が無いとは言え、近隣なのだ。

 ヤケクソになったドイツ人が何を仕出かすかと思えば、ブリテンが警戒するのも当然の話であった。

 そんなブリテン陸軍に対して、ブリテン海軍は活躍の場をアドリア海に求める事となる。

 ドイツ海軍が事実上、消滅している為、北海 ―― バルト海に渡る海域で出来る事など何もないからだ。

 地上攻撃任務もあるにはあったが、その場合、ブリテン空軍その他との調整と連携が行われる為、正直な話としてブリテン海軍の戦争とは言えなかった。

 だからこそのアドリア海なのだ。

 ユーゴスラビアでの戦争に、航空支援と言う形で加わろうというのだ。

 ブリテンは、最小限度の労力で最大の利益を得られる場所を良く理解していた。

 

 

――オランダ

 国民に充満する反ドイツ感情を発散する為、日本とブリテンの支援を得てドイツ領内へと侵攻したオランダ軍。

 その統治方針は、フランス並みに情け容赦の無いモノであった。

 否、ある意味でそれ以上であった。

 戦災避難民などへの支援は一切行わず、目につく建物の悉くを、ドイツ軍が抵抗の拠点にしかねないと言う理由で粉砕し続けたのだ。

 官民を問わずに、である。

 一般住宅すら、戦車で踏みつぶしていた。

 抗議する住人すらも踏みつぶしていた。

 流石に日本やブリテンが余りの(非人道的)行為では無いかとやんわりと抗議したが、オランダ軍関係者はドイツ軍に利する行為を行った為であるとして、取り合わなかった。

 実際問題として、ドイツ自身がオランダ領内で同種の行為を行っていたのだ。

 非公開での日本とブリテンとの折衝の際、オランダ代表は自国に報復する権利があると断言しており、その事に関して日本すらも反論できない部分があった。

 ハーグ陸戦条約を見ても、厳密に言えば条約違反的な部分もあったが、ドイツ軍との戦争行動の一環であると言われれば、全くの条約違反であると言えない点が、誠にもって悪質と言えた。

 その上で、食料等に関しては()()()()()()()()()を行っていた。

 無論、オランダが定めた、占領地に於ける適切な価格(ボッタクリ)である。

 ドイツ軍の焦土作戦と相まって、オランダ領内に近い地域は地獄の様な飢餓が発生する事となる。

 飢餓が治安を悪化させ、悪化した治安を治める為に、容赦の無い暴力が振るわれた。

 控えめに言っても地獄めいた情景が生まれる事となる。

 ドイツ人であるから、と行われたオランダの報復は、実際にオランダの地を荒らしたドイツ人将兵に対しては、更に容赦が無かった。

 ドイツ人捕虜は、オランダの捕虜収容所で更なる凄惨な状況に直面する事となる。

 尚、それらをオランダ人は国際連盟からの制止が入らぬ様に、細心の注意を払い、法に基づいて実行していた。

 ブリテンは見て見ぬフリをした。

 そして日本は、頭を抱えた。

 

 

――日本

 オランダの蛮行(非人道的行動)、その影響を最も受けたのは日本であった。

 日本はそれまで、ドイツの状況を他人事の様に捉えていた。

 戦争は金を出すし、戦争遂行自体はやる気のあるフランスに任せれば良い程度にしか考えていなかった。

 だがここに来て、ドイツ人自身の行いが返ってくる形で、凄惨な事態が発生しているのだ。

 一般的な現代教育を受けた日本人の感性では、座視する事は難しい出来事であった。

 更には、独系日本人が声を挙げたと言うのも大きい。

 ドイツ語が理解できると言う事で、自衛隊に参加しヨーロッパに派遣されていた人たちが、ナチスドイツの自業自得とは言え、余りにも凄惨すぎると日本政府に泣き付いたのだ。

 結果、当座の解決策として日本連邦統合軍によるドイツ領内の掌握、統治に注力する事としていた。

 オランダが占領する前に、日本で占領統治する。

 特に日本政府関係者は泥沼に足を入れるかの如き感覚(おぞ気)を抱いたが、座視するのは余りにも寝覚めが悪くなるとして、その決断を行うのであった。*4

 尚、日本の行動に対してオランダは不満を募らせる事になり、益々、自らが管理する領域でのドイツ人への行動を悪化させるのであった。

 

 

 

 

 

 

*1

 食の道(メガロード)と綽名された計画、それは優に100万を超える将兵の胃袋を満たす工場 ―― 基点である為、その規模は非常識の一言であった。

 規模もそうであるが、食材を管理する為の冷蔵庫は勿論、皮を剥いたりカットする為の機材、水洗いをする為の大規模な浄水システムと排水の管理システム。

 施設を維持する為の大規模な発電システム。

 食材の管理のみならず、各部隊への輸送ルートの策定を行う部隊。

 それはさながら移動する大都市の様であった。

 そう、移動するのだ、前線部隊の前進に伴いこの大規模食糧工場は。

 丸ごと一度に動くのではなく、4つのグループに分かれて動くのだ。

 前線部隊向けのグループと、前線部隊に付随するが比較的ゆっくりと動く後方部隊向けのグループ。

 或いは展開する地方に合わせて部隊を派遣する事ともなっていた。

 尚、この部隊には食糧物資輸送部隊の運用を助ける為の、専用の工兵部隊も用意されていた。

 下手な部隊よりも大規模な、この支援部隊は、後に調理軍(アーミー・シェフ)と敬われ、配慮される事になる。

 誰にとっても、食事は最大の娯楽だからだ。

 将兵からの尊敬を集める事となった同部隊は、兵科徽章は無いが、参加した将兵に終戦後、兵科徽章の様な(スプーンとフォーク、箸と皿からなる)バッジを記念として配布していた。

 

 余談ではあるが、配給される食材の調理は各部隊が行うが、その際には調理レシピも調味料と一緒に併せて与えられていた。

 食事のメニューに関しては、かなりバラエティーに富む形となる。

 フランス料理や日本料理、或いは肉と言う綽名のあったアメリカ料理。

 G4以外の国から来た将兵にとって、それは文化の香りであった。

 尚、G4で唯一ブリテン料理のレシピ(兎に角煮ろ)だけは歓迎される事は無く、気の利いた部隊では、同じ食材を使った別の料理を提供する有様であった。

 

 全くの余談であるが、連邦国家である日本の料理は、純日本式から露系日本式、米系日本式などなどと多岐に渡る為、将兵が持つ日本のイメージは極めて混乱したものになっていた。

 

 

*2

 フランスの占領統治部隊側に非のある問題が発生した場合でも、フランスは徹底してフランス語のみで対応していた。

 交通事故、あるいは不心得ものによる暴力沙汰、婦女暴行。

 ソレらが発生しない様にと努力はしていたが、所詮はフランス人も人間であり、人間である以上は一定数の問題を抱えた人間が含まれるのは仕方がない事なのだから。

 只、その弔問や賠償の交渉ですらもフランス語(統治公用語)のみで行い、一切のドイツ語を許さなかった辺り、フランスは徹底していると言える。

 

 

*3

 非白人によるドイツ占領治安維持部隊であるが、それらが略奪や暴行、或いは婦女への搾取などの蛮族的な行いをしていれば、或いはドイツ人住人にとって救いがあった。

 フランス人が蛮族を集めて攻め入ってきた。

 何時かは報復してやろう、そう言う風に思う事が出来ただろう。

 だが、占領治安維持部隊は高い規律を持っていた。

 当然だ。

 彼らは選抜され、統治する為の専門部隊であり、高度な教育と高い給与が与えられているのだ。

 ブリテンが提案し、フランスが乗り、日本が適当に支援している占領治安維持部隊の将兵は、その意味でエリート部隊であった。

 

 尚、規律的である事が温和と言う事は意味しない。

 占領軍に歯向かった人間、法を破った人間には、容赦の無い暴力を振るう事を辞さなかった。

 それまでニコニコとしていた将兵が、ドイツ人住人が腕を振り上げた途端に、表情を一変させて野犬や畜獣にするかの如く()()するのだ。

 ドイツ人住人の心が折れるのも仕方のない話であった。

 

 

*4

 事実上、フランスの指揮下に入っていた日本連邦統合軍の部隊を引っこ抜く事に関して、日本とフランスの折衝は難航、しなかった。

 占領と管理する為であり、航空部隊などの支援は継続される事が約束されていた為である。

 そして何より、戦争自体が順調であり、フランスとしては予備戦力が多少減った程度であり、特に問題とならない為であった。

 そもそも、日本はフランスに対して折衝 ―― 依頼して来たのだ。

 G4として1括りにされる4ヵ国であったが、そこには明確な格差、或いは序列があった。

 日本に与した事で繁栄した国家と言う認識とも言えた。

 その日本が、頭を下げて来たのだ。

 フランスの自負心が満たされ、鷹揚になるのも当然と言う話であった。

 

 尚、ブリテンはオランダ問題に関して徹頭徹尾、知らんぷりを続けていた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

163 第2次世界大戦-30

+

 1945年に入り、ポーランドは戦争の潮目が変わったと明確に感じていた。

 冬という過酷な環境ゆえに、共に塹壕を掘って殴り合いをしていた正面のドイツからの圧力が低下しだしたのだ。

 戦車が顔を出さなくなってきた事や挨拶の頻度(野砲の撃ちあい)が減った事、何よりドイツが攻撃を図らなくなったのだ。

 物資不足の可能性を感じたポーランド軍参謀本部は、温存していた機甲部隊の集中投入による威力偵察を敢行する。

 攻撃によって反応を探るだけが目的であったにも拘わらず、ドイツ軍の塹壕及び幾つかの陣地の攻略に成功していた。

 威力偵察の対象としていたのが主戦線では無い部分であったとは言え、ポーランド軍参謀本部も威力偵察部隊も誰もが驚くほど簡単に攻略に成功したのだ。

 ドイツ側の罠、そして反撃を警戒して短時間で退却したが、その短時間の間でも、十分な情報の収集に成功した。

 それは塹壕や陣地などに用いられた物資の規模、機能、そして備蓄されている物資の量だ。

 結果は事前の予想通りだった。

 防御力自体は、良く計算された構造や、手間暇を惜しまずに作られたお陰で、堅牢と言う他なかったが、その構造その他は、一言で言えば貧相であった。

 そして何より武器弾薬、燃料や食料などが殆ど備蓄されていなかった。

 炊事用と思しき場所はあり、そして補給などが定期的に行われていない場所であるにも関わらずである。

 そして何より、遺棄されていた車両のガソリンタンクがおしなべて空であった事が、それを裏付けていた。

 ドイツ軍は物資不足に陥りつつある。

 西部(フランス)戦線の影響が出た、それがポーランド軍の参謀本部の結論であった。

 東部(ポーランド)戦線では、ポーランド国内の戦いと言う事で補給路(物流インフラ)破壊戦は仕掛けていないのだ。

 ドイツ本国からの補給線は攻撃されていない。

 ポーランド国内に入った物資は、かなりの確率で前線部隊まで届くのだ。

 にも拘わらず前線に備蓄されている物資が乏しい理由は、1つしかない。

 少ないのだ。

 そもそも、ドイツ本国から送ってくる物資の量が。

 この時点で既に西部戦線はドイツ西部のマインツ市近郊まで解放しており、現在、ドイツの工業力の源泉の1つであるルール工業地帯が圧迫されつつあった。

 ドイツ側も必死になって抵抗しているが、十分な効果を発揮できているとは言い難かった。*1

 この状況にポーランド政府は積極的な反攻、大攻勢を決断する。

 この時点で東部戦線の国際連盟軍部隊は、十分な戦力と物資の備蓄を終えていなかった。

 日本やアメリカ、北欧各国からの部隊がポーランドで戦争準備を終えるのは初夏を予定しており、それに伴った作戦が立案されていたのだ。

 故に、今回の攻勢はポーランド軍が主体とならざるを得ない。

 だが、やらねばならなかった。

 総体としてポーランド国民は戦意を維持してはいる。

 だが同時に、国土の半分近くがドイツの手に落ち、窮屈な生活を強いられる中で疲弊しつつあった。

 ドイツとの講和も止む無しとの民意も小さくはあったが出ていた。*2

 故に、民意を鼓舞し、戦争継続の意思を強くする為に敢えて行う政治的作戦行動であった。

 先の完全な勝利ではなく、小さくとも目の前で見る勝利をポーランドは必要としたのだ。

 

 

――ポーランド春季大攻勢

 政治的な理由はあった。

 それ故に、新聞やラジオを介して大々的な宣伝も行った。

 1945年春季大攻勢(グラズモット)である。

 とは言え、それを聞かされた国連加盟国の駐ポーランド部隊の指揮官たちは非常に微妙な顔になっていた。

 安全に勝てる未来が見えているのにと言う思いと、同時に、政治的な理由を理解するが故であった。

 本来であれば、もう少し航空攻撃でドイツ軍部隊を疲弊させた上で、大規模な陸上戦力で反撃不可能な攻勢を行い、2ヶ月でポーランドの国内からドイツ軍を叩き出す予定であったからだ。

 立案責任者(参謀長)の母国語から粉砕作戦(アイアン・ハンマー)と名づけられた作戦は、大規模であると共に緻密であり、そうであるが故に前倒しは難しく、攻勢に出るポーランド軍への大規模な加勢は難しかった。

 特に、弾薬に関しては致命的ですらあった。

 当座の戦闘に必要な分の備蓄は行えていたが、2ヶ月に渡っての攻勢を支える水準には、物資自体は勿論、補給線を維持する為の準備が全く終わって居なかったのだから。

 無論、その事をポーランド側も理解しているし、そうであるが故にポーランド軍単独による攻勢を決意していたとも言える。

 兎も角。

 貴重な完全充足と練度良好な戦車師団3個を基幹とした12個師団による雷鳴(グラズモット)作戦は、発端が政治的理由であっても、その基本コンセプトに於いては戦争の基本を守っていた。

 シンプルであったのだ。

 正面から攻勢を仕掛け、ドイツ側が支配しているポーランドの中央部の都市を奪還し、その維持を行う。

 問題は、その攻勢をかけるドイツの部隊が、いまだ元気一杯だと言う事だろう。

 どれ程の損害が出るのか、ドイツ側がどう対応してくるのか想定しきれなかった。

 中小国からの派遣部隊は共に演習して汗を流した仲間たるポーランド軍部隊の勝利を祈るだけであった。

 だが日本とアメリカは違う。

 共に、自国政府に掛け合って、何らかの支援が出来ないか相談したのだ。

 この動きに真っ先に反応したのはバルト海にて無聊をかこっていたアメリカ海軍であった。

 正確に言えば、アメリカ海軍航空隊である。

 既に海洋は国際連盟側が支配した為、今現在は念のために対潜哨戒を行っているだけの日々を送っていたのだ。

 活躍の場が得られるとなれば色めき立つのも当然であった。

 そして都合の良い事に1945年のバルト海には、訓練や戦訓習得の為に3隻の空母を中心とした機動部隊が投入されていたのだ。

 集中投入が可能な、200機を超える戦闘機と攻撃機の群れだ。

 アメリカ政府としても、海軍空母部隊の将来性を考える上で戦訓は必要であると判断し、この希望を受け入れる事となった。

 対して日本側は同じ行動は出来なかった。

 航空戦力に関して言えば主力(航空自衛隊)は西部戦線に投入されており、空母機動部隊(海上自衛隊航空戦力群)はブリテン海軍と並んでアドリア海にあって旧ユーゴスラビア方面に投入されているのだ。

 どの部隊も、3週間後に実施と云うかなりタイトなスケジュールが組まれている雷鳴作戦に間に合うペースで簡単に転用できるものでは無かった。

 とは言え、共に訓練をしたポーランド軍将兵が死傷し、悪戦するのを黙って見ていると言うのは寝覚めが悪い。

 感情的な面と同時に、理屈の面でもポーランド軍への支援は必要であった。

 ここで万が一にもポーランド軍の精鋭機甲部隊が大損害を被ってしまっては、この先の戦争計画にも影響が出る。

 建前として、東部戦線はポーランドの戦争でもあるからだ。

 一時的なドイツの支配下に置かれたポーランドの回復、その上でのドイツ本土への侵攻を実施する。

 目的は、ドイツ東部の掌握(割譲)である。

 国際連盟安全保障理事会の秘密会合では、ドイツ東部域はポーランドが管理、運営すると言う事で話が纏まりつつあるのだ。

 その際に、ドイツ人住民の前でドイツ軍を打ち滅ぼす役割をポーランド軍が行わねば、その後の安定した統治計画に問題が出ると言うものであった。

 筋金入りめいた支配者(覇権国家群)の理屈と言える。

 その為に日本として支援をする必要があるとの認識であった。

 この時点でアメリカ海軍航空隊による全面支援が決定していたのだが、日本(航空自衛隊)の水準から見て()()()()()()()()()()()()による対地攻撃が効果を発揮するのは難しいとの判断が、その背景にあった。

 又、空母艦載機の限界と言う視点もあった。

 空母は航空戦力の自由で集中的な投入を可能とするが、艦自体が持つ弾薬備蓄量の問題や狭い艦上での作業と言う側面もあって、腰を据えての継続的な作戦は苦手とする部分があるからである。

 その点は、アメリカ海軍もチャイナとの戦争の際に戦訓として理解し、補給艦や航空機整備支援艦などの検討を開始していたが、1945年現在に於いては紙上の存在でしか無かった。

 故に、現実的な対応としてアメリカはブリテンと協定を結び、ブリテン島からの支援を受ける手筈としていた。

 だが、バルト海からブリテン島の距離を考えれば、空母艦載機による対地攻撃支援が断続的に行える保証は無かった。

 だからこそ日本も支援を検討する事としたのだ。

 特科部隊の投入。

 施設(戦闘工兵)部隊の投入。

 そして戦闘部隊。

 切れる手札から何れを投入するべきかを迷った際、声を挙げた部隊があった。

 シベリア共和国軍部隊である。

 正確に言うならば、戦闘態勢を整えていた702機械化師団だ。

 欧州への派遣に際して戦車連隊と新設した対戦車連隊を編入した事によって事実上の重機甲師団化された部隊であった。

 第7機甲師団と並んで、東部戦線(ポーランド方面)に於いて有数の重火力部隊である。

 投入を希望した理由は戦功稼ぎ(名誉乞食)などではなく、本格的な攻勢作戦の前に対戦車連隊によるトーチカなどの堡塁や火点との戦闘情報の蓄積であった。

 第702機械化師団に編入された対戦車連隊は、ドイツが血道を上げているトーチカ群への対応、正確に言うならば将来のソ連本土進攻を想定してシベリア共和国軍が新設した部隊であった。*3

 新装備を持った新設された部隊なのだ。

 その構想段階に想定されていた通の運用ができるのか、本格的攻勢の前に確認したいと言うのも道理であった。

 かくして、第702機械化師団が雷鳴作戦に参加する事となった。

 

 

――ドイツ

 政治的に行われたポーランド軍の攻勢であったが、ドイツ軍の対応に迷いはなかった。

 ポーランド側の攻勢を柔らかく受け止め、幾重にも準備した防衛ラインで突進力を削ぎつつ絡めとる。

 そして包囲を行う事で、ポーランド側に解囲救援作戦を強いようと言うのだ。

 ドイツ側の事前計画であった。

 前年に西部戦線(対フランス戦)で失敗した作戦(計画)でもあったが、ドイツ側はアレは相手が悪過ぎた(日本が敵だった為)と分析し、今度こそ成功させようと狙っていた。

 最終目標はポーランド軍だ。 

 会戦でポーランドの野戦軍を撃滅し、一気にポーランド政府に講和交渉を持ちかける積りであった。

 ヒトラーは、参謀本部が出してきた方針に、漸く参謀本部も政治が理解できる様になったと満悦していた。

 只、それらの目論見は粉砕される事となる。

 雷鳴作戦の目標となったのは、ドイツが占領後の整備拠点として運用していたポーランド第3の都市であるウッチ市だ。

 その地理的条件からもポーランド側が反攻する際、第1の目標となる事が明白であったし、或いは標的とされなかった場合にはドイツ側の反攻の拠点と出来るとドイツ側が判断し、防衛体制の構築と物資の備蓄が行われていた都市だ。

 防衛体制の構築はドイツ人が暇潰しを兼ねたかの如くウッチ市のみならず、周辺の50㎞四方にまで及んでおり、出城めいた存在や支援用の秘匿航空基地などまで整備されていた。

 一種の要塞地帯と化していた。

 ポーランドによる攻勢が政治的アピールが第1であるにしても、中々に刺激的な目標であると言えた。

 少なくともドイツ側からは、余りにも冒険的であると見られていた。

 同時に、航空偵察などで凡その状況を掴んでいた国際連盟でも同じことを考えていた。

 だがポーランド政府の決意は変わらなかった。

 逆に、ウッチ市の防御態勢が判れば判る程に()()()()()()()()()()()()()()()()と判断していた。

 雷鳴作戦は、誠に以って政治が生み出した作戦であった。

 とは言え、対するドイツ側も政治によって行われている戦争と言う側面はあった。

 ヒトラーの戦争終結計画にとって、ポーランド戦線の意味は途轍もなく大きく、重いからである。

 政治によって強いられる戦いは両国将兵を大量に飲み込んでいく ―― そんな訳は無かった。

 ポーランド軍にはアメリカ海軍航空隊による対地攻撃支援と、何よりも日本の支援があったからである。

 攻撃の精度的な問題は残っているが、十分に連携の取れた、数のある航空攻撃は圧倒的であった。*4

 そして何よりも凶悪だったのは、日本の第702機械化師団である。

 基本的に攻勢の矢面に立ったのはポーランド軍部隊であったが、陣地やトーチカを前にした場合は違う。

 対戦車連隊、43式機動砲車を前に出して常に木端微塵に粉砕していたのだ。

 水平に叩き込まれる203㎜砲弾に耐えられるモノなど無かった。

 とは言えドイツ側もありとあらゆる火砲を持ち込んで抵抗を図るのだが、車体も砲塔も、日本基準での主力戦車並みの正面装甲を持っているのだ。

 撃破出来るモノでは無かった。

 尚且つ、火力を用いて来た戦車や火点などの情報を43式機動砲車はネットワークを介して随伴の戦車、38式B型戦車などと共有し、コレに撃破をさせてもいた。

 43式機動砲車は、凶悪と言う言葉ですらも表現として足りない陸の魔獣(ベヒーモス)であった。

 結果、ドイツが半年は持久可能であると判断していたウッチ市は、半月を経ずしてポーランド軍に戻る事となった。

 ドイツの東方戦争計画は、完全に崩壊する事となる。

 

 

 

 

 

 

*1

 ドイツの経済界は、ヒトラーに対してルール工業地帯が陥落した場合、ドイツの戦争活動に対して尋常ではない影響が出る事になる。

 必ずや死守して頂きたい ―― その様な()()を出す程であった。

 無論、現実は非情であるが。

 その事を理解している企業は、人員その他の疎開を行おうとする動きをみせていた。

 対して一部の政府関係者(ナチス党幹部)はルール工業地帯の死守の為、企業から労働者の供出命令を出し、それを阻止していた。

 企業と政府の対立。

 それを脇目に、軍は防衛体制の構築に邁進する。

 とは言え他人事にはならない。

 鉄道やトラックの奪い合いめいた状況すら発生しているのだから。

 後方へと、戦争協力の為に(戦後を考えて)社員を動かしたい企業と、動員すべき兵の源泉として見るが故に阻止したい政府関係者。

 そこに軍の需要が乗るのだ。

 建前として()()()使()()()()()()為に国際連盟側はドイツの鉄道インフラの殲滅は行わなかった。

 トラック等は軍用の装いをしているいないを問わず、3両以上の集団であれば必ず攻撃を受けているにも拘わらず、である。

 故に、まるで地獄の亡者が蜘蛛の糸に集うかの如く、その使用権は奪い合いとなった。

 混乱が発生しない筈が無かった。 

 ルール地方の秩序は戦火が及ぶ前から失われつつあった。

 

 

*2

 1944年後半から、ドイツは公式にポーランド政府に対して停戦と講和に関しての提案を行っていた。

 無論、その内容はヒトラーの戦争戦略に則っており、形式的ではあるがポーランドの降伏が前提とされている。

 但し、高度な自治と自衛が許されており、ポーランド政府に対して非公式にドイツは戦争に勝利したと言うお題目さえあれば良いのだからと説明すらしていた。

 無論、ポーランド政府は全てを拒否していた。

 勝利で終われる戦争を、途中で投げ出すバカは居ない。

 政府閣僚の1人は、ポーランドの新聞のインタビューにそう嘯いた程であった。

 

 

*3

 対戦車連隊はオホーツク共和国軍から得た、タイムスリップ前の大戦争(大祖国戦争)の戦訓が生み出した部隊と言えた。

 大口径砲で直接、障害物を叩き壊す役目を負った部隊だ。

 陸上自衛隊などでは、戦車砲やミサイルなどによる破砕、無力化を考えていたのだが、シベリア系日本人たちは、それでは不足と考えていたのだ。

 鉄筋入りの、べトンを大量に使用した陣地を一撃で粉砕する大口径砲があり、それを自在に投入可能な車体もある。

 無論、それらの技術はシベリア共和国には無く、持っているのは日本だ。

 いや日本は日本連邦であり、それはシベリア共和国を内包する概念であり国家だ。

 であれば作るべきだ。

 作るしかない。

 作って欲しい。

 そう判断し、シベリア共和国軍首脳は日本の防衛省や防衛装備庁に日参し、演説し、或いは泣き付いて開発をしてもらったのだ。

 ある意味で、日本と言う存在の使い方を良く判っていたと言うべきだろう。

 シベリア共和国の人々も、段々と日本人化し(遠慮と言うものが消え)つつある。

 そう評するべきかもしれない。

 

 兎も角、紆余曲折を経て生み出されたのは、43式機動砲車である。

 37口径203㎜砲を主砲とし戦闘重量58tに達する、怪物的駆逐戦車(モンスター)であった。

 最初は203㎜重自走榴弾砲なる名目(体裁)で開発予算を取って開発されたが、試作車が完成する頃には誰も、そんな事を覚えては居なかった。

 車体は当初、38式戦車や38式装軌装甲車を流用する事が考えられていたが、開発が進む中で、その場合では十分な装甲を施す事が困難であると判明。

 結果、同時期に開発が進んで居た次期主力戦車、42式戦車の車体(フレーム)が流用される事となった。

 無論、そのままではなく重量バランスの問題からフロントエンジン配置に改められ、後方には広い戦闘室を持った砲塔が搭載される形となっている。

 無論、砲塔(戦闘室)の正面にはセラミックス系の複合装甲が採用されている。

 砲塔である。

 流石に360度の旋回は不可能であるが、左右45度までであれば射撃も可能である。

 日本人的に言えば正気を疑う(ゲテモノ)装備であったが、完成した43式機動砲車を見たシベリア共和国軍人は大いに喜んだ。

 何であれ粉砕可能な地上の戦艦が生まれたのだと。

 しかも1940年代の車両で見れば、43式機動砲車の60tにも達しようかと言う戦闘重量は過大であり、足回りに不安を持つ事となるが、日本の場合には話が違う。

 流石に主力戦車(10式戦車)並みの機動は不可能だが、それでも1500馬力エンジンを搭載したお陰で並みの国家は勿論、G4の新鋭戦車よりも快活かつ安定した機動力を有する事となっていた。

 尚、203㎜砲は完全自動化された装填システムが搭載されており、砲弾は7発装填されている。

 

*4

 アメリカ海軍航空隊とポーランド陸軍の雷鳴作戦部隊との連携が十分に取れた理由は、言うまでも無く日本であった。

 ある意味で、情け容赦なく各国に売りさばいて(押し付けている)いるMLシリーズ。

 その通信機によるネットワークのお陰であった。

 前線と後方、そして後方から指揮系統を介して国を越え構築されているネットワーク網は、日本が打ち上げた通信衛星によって支えられ、恐ろしい程の力を発揮していた。

 但し、慎重に、政治と前線が直結される事の無い様にシステムは構築されていたが。

 兎も角。

 戦場の霧を晴らすと言う意味において、この日本によるサービス(情報網の提供)は圧倒的な意味を持っていた。

 少なくとも、何処に誰が居るかは判るのだ。

 どこで何が得られるのかも判る。

 空恐ろしいレベルでの戦力倍増要素であった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

164 第2次世界大戦-31





+

 要塞化を施し、対ポーランド戦争で重要な位置にあったウッチ市が半月も経ずしてポーランド軍に取り戻された事は、ドイツに大きな衝撃を与えた。

 ヒトラーは国防軍の不甲斐なさに激怒し、参謀本部の関係者を総統官邸に呼びつけて叱責した程であった。

 だが、参謀本部の英才は、これを奇貨としてポーランド軍精鋭部隊の撃滅を図るべきだと反論した。

 否、説得した。

 ウッチ市の現状は、ドイツの支配領域に打ち込まれた楔の如く見えるが、同時にドイツの支配領域に浮かぶ島として孤立しているとも見えた。

 ある意味で正論であった。

 そうであるが故に、己を稀代の戦略家と自認するヒトラーはその説得を受け入れていた。

 幸い、ウッチ市に居た部隊こそ全滅していたが(※文字通りの意味で消滅)、それ以外の部隊の被害は最小限度に抑えられている為に反攻自体は不可能ではない。

 故にヒトラーは激昂を収めて、満面の笑みで英才を称え、ポーランド侵攻軍に対して反攻を厳命する事とした。

 ウッチ市の補給路に対して全力で攻撃を敢行してこれを孤立させるべしと、滔々と演説を行ったのだ。

 このヒトラーの要求を受けたドイツ参謀本部は喜ぶ事となる。

 フランスとの戦争で失敗した芸術的戦術機動、後手からの報復戦術(バックハンドブロウ)を成功させれば、名誉の回復が為されるとの意識があればこそであった。

 但し、その為には現場に全権を預けねばならないとヒトラーに要求した。

 建前としては、部隊の高い機械化が成されているポーランド軍に対抗するには、早い判断と対応が必要であり、ヒトラーの的確ではあっても時間の掛かる後方からの指示では対抗しきれないと言うのが理由であった。

 勿論、本音としては純軍事的な判断の邪魔をするなである。

 その参謀本部の本音に気付く事無くヒトラーは、G4の先進性に対抗する為に必要だとの弁を受け入れる形で、本作戦に対して限定的ながらも東部戦線の指揮官に対して作戦指導の全権を預けたのだった。

 回天作戦(フリードリヒ)である。

 

 

――ドイツ東部戦線部隊

 降って湧いたかの如き好機、ヒトラーからの軍事的指揮権の奪回を果たしたドイツ参謀本部は東部戦線部隊の指揮系統を大胆に整理した。

 ヒトラーの思いつきで色々と任務を与えられ、部隊を細分化していた事への反発でもあった。

 問題は、それが2週間程の時間を必要としたと言う事である。

 それ程の時間を掛け、東部方面の戦力の管理体制の刷新を行った理由は政治的、或いは感情的なモノではなく、現実的な必要性に要求されての事であった。

 元より、西部戦線と同様に東方総軍と言う組織の看板自体は存在していたが、その隷下にある3個の軍集団には個別にヒトラーの指示が出されており、看板の下に仕事をするべき東方総軍司令部は存在していなかったのだ。

 東部戦線が()()()()()()()などと揶揄される原因でもあった。

 兎も角、東部戦線の戦力を1つの戦力として連動して動かす為に必要な時間ではあった。

 東方総軍の主力である中央軍集団、その司令官と参謀団を暫定的に回天作戦(フリードリヒ)時には東方総軍司令部を兼任させる事ともなった。

 この組織改編によって、東方総軍はドイツ参謀本部の管理下に復帰する事となる。

 戦争を遂行する準備ができたとドイツ参謀本部の人間は嘯く程であった。

 これによって有機的に動き出すドイツ東方総軍。

 主力は中央軍集団。

 それに、冬の間に得た増援を基に戦力の低下していた北部軍集団から機動運用に向いた部隊を抽出編入して新設されたα装甲軍集団が機動投入を行い、助攻として南方に展開していた第4軍集団が加わる。

 新設されたα装甲軍集団は7万人規模の、軍集団と言うよりは軍と言うべき陣容であり全ての部隊が完全充足状態とはとても言えない部隊であったが、それでも、精鋭と呼べる将兵や装甲戦力の多くが西方総軍に引き抜かれている現状では、宝石よりも貴重な装甲戦力であった。

 戦意も良好であった。

 日本やフランス(ジャパンアングロ)に負けるならば仕方がない。

 だがポーランドに負けるのは、ドイツ軍人(チュートン騎士の伝統継承者)として受け入れられぬとの思いであった。

 ドイツ人の矜持、あるいはドイツ人の都合。

 だが残念。

 世の中と言うものは一方の都合だけで動くものでは無かった。

 

 

――国際連盟ポーランド駐留軍

 ポーランド軍によるウッチ市の解放成功は、国際連盟軍東部戦線部隊の動きにも影響を与える事となった。

 敵中に刺した鋭い針。

 それを如何に効率的に用いるのかが焦点となっていた。

 だがそれも、ドイツ軍の反攻(守勢攻撃)作戦の兆候を把握する迄の話であった。

 ポーランド領内に存在する全てのドイツ軍部隊が動くような大規模な準備行動は、当然ながら日本の偵察衛星によって丸裸状態になっていた。

 ドイツも、偵察機には注意を払っていた。

 偵察衛星と言う概念も理解はしていた。

 だが、光学手段はまだしも合成開口レーダーによる偵察衛星までは十分に理解してはいなかった。

 ドイツは、不断の努力をもって危険な夜の無灯下で、或いは曇りの日を選んで部隊や物資を動かしていたが、天候すらものともしない電子の目がその悉くを見ており、その努力は全く報われる事は無かった。

 結果、当初予定されていた大攻勢(アイアン・ハンマー)作戦計画は破棄される事となった。

 将来的な作戦よりも目の前の敵に対応する作戦が必要だからだ。

 流用は出来ない。

 何故なら新しく作り上げる作戦が、積み上げた作戦計画(アイアン・ハンマー)の前提を破壊するのだから。

 新しい作戦は、防御と言いつつもドイツ軍の撃滅を図る攻勢防御(デンプシー・ロール)作戦であった。

 既に単純な兵力だけで言えば国際連盟側が3倍以上に優越している。

 アメリカからの派遣部隊が東部戦線に送られているのだ、当然の話と言えた。

 その上で日本連邦統合軍の数的主力が最精鋭の陸上自衛隊と質と量のバランスに優れたシベリア共和国軍で構成されているのだ。

 質の上でも絶対的な格差があった。

 である以上、攻勢に出るのであればそのまま一気呵成にドイツ本土まで侵略者を叩き返そうと言う話になった。

 故に、攻勢防御M(デンプシー・ロール)作戦とは、全領域での同時攻勢となった。

 ドイツ側が攻勢を始める、その時までは物資の蓄積に勤しみ、全てが始まれば全戦線で一気に前進しドイツ側の対応を飽和させ、包囲し、撃滅しようと言うのだ。

 強い側の戦略としか言いようが無かった。

 この決定に従い、航空部隊は休息と整備のローテーションを定めた。

 それは補給部隊でもそうであり、或いは各部隊でも装備の点検を行った。

 これらの動きは、通常であれば航空偵察なりによって把握されてしまうものだったが、日本が用意した戦域防空網 ―― 移動式レーダーサイトと管制ユニットに管理された各国の戦闘機部隊がドイツの航空偵察を許さなかった。

 そもそも、足の短いドイツの航空機、特に生存性が重視されて東部戦線で良く運用されていた単発単座型の偵察機(戦闘機転用偵察機)では、航空基地が前線よりに成る為、日本連邦統合軍がその気になると、最早出来る事が消滅するのだ。

 地上レーダー乃至は早期警戒管制機(AWACS)のレーダーが発進した位置を捉えるや否や、その指揮管理下にある高速滑空弾(中距離地対地ミサイル)か、巡航ミサイルが発射されるのだから。

 基地はその時点で消滅。

 そして偵察機も、戦闘空中哨戒任務中の戦闘機によって処理されるのだ。

 低空で低速な、それこそ地上の車両と速度の差が無い簡易偵察機であれば、その探知網と迎撃システムに察知されるリスクは少ないが、此方の場合、地上部隊からの迎撃 ―― 日本が情け容赦なくばら撒いた個人レベルで行える対空手段たる携帯SAM(ML-40)によって情報を得るが、イコールで死となっていた。*1

 結果、ドイツはポーランド及び国際連盟側の動きを把握する事が出来なかった。

 これによってドイツは、夏に向けた攻勢準備自体はポーランド国内向けにも公表されていた為、先のウッチ市攻略戦で消費した物資の回復や部隊の再配置に絡む行動であろうと判断し、よもやの攻勢防御を仕掛けられるとは、夢想する事すら無かった。

 尚、一部の実戦経験豊富な前線将校は、この動きにきな臭さを感じて警告を上申していたが、東方総軍参謀団などは自前の戦争準備が忙し過ぎた為、これを無視していた。*2

 

 

――大帝(フリードリヒ)vs拳闘士(デンプシー)

 2個の軍集団都合30個師団、関連部隊を含めれば100万人にも達する大兵力による攻勢開始の様は、ドイツのニュース映画にも撮影される程であった。

 特に、威風堂々と出撃する新鋭のⅥ号戦車の群れは、見るモノの心を掻き立てる暴力であった。*3

 作戦開始との報告と共に、そのニュース映画を見たヒトラーは深く満足していた。

 これならば勝利も間違いない。

 そう思っていたのだ。

 だが、その満足は1週間と維持されなかった。

 ウッチ市とポーランド西方域の補給線を叩こうとした攻撃が、呆れる程の簡単さで頓挫したのだ。

 それまで航空基地攻撃に限定して使用されていた高速滑空弾(中距離地対地ミサイル)がドイツ軍の兵站、物資集積所を片っ端から焼き始めたのだ。

 如何に戦意があろうとも糧秣や弾薬は勿論、燃料や保守部品まで燃やされてしまえば出来る事など無かった。

 否、それどころか無線による指揮系統が西部戦線と同様に叩かれ始めたのだ。

 それは、文字通りの効率的戦争(スマート・ウォー)であった。

 ドイツ領内では無いので、民衆の目の前でドイツ軍の面子を叩き潰す必要も無い為、そしてポーランド領内のインフラを破壊させない為にも、効率最優先で戦争を行っていくのだ。

 それは、正に無慈悲であった。

 ドイツの象徴とも言えたⅥ号戦車は、その機動力の低さ故に殿軍(しんがり)に配置されポーランド軍の35TP戦車とは互角以上に戦ったが、即座に投入された日本連邦統合軍(シベリア共和国軍)の戦車部隊によって一方的に狩られていった。

 31式戦車の120mm砲や43式機動砲車の203mm砲の前では、Ⅵ号戦車の装甲など紙も同然でしかないのだから。

 そして足の止まったドイツ軍をポーランド軍、日本連邦統合軍、そしてアメリカ軍を中核とした3つの戦力集団が、津波めいて押しつぶしていった。

 その最前線に立つのは、日本連邦統合軍(陸上自衛隊)最精鋭機甲部隊(フルスケール・アーマード・ユニット)である第7機甲師団(ノーザン・ブル)だ。

 タイムスリップ前から陸上自衛隊の中核的機甲戦力であった10式戦車、その退役前の最後のご奉公の場所が欲しいと志願し、ポーランドに派遣されてきていたのだ。

 10式戦車を最前線に配置し、偵察と攻撃を有機的に統合させて行う第7機甲師団の攻勢を前にしたドイツ軍部隊に出来る事など何も無かった。

 元より第7機甲師団は陸上自衛隊の戦略予備(伝家の宝刀)であり、100年先の露国軍や中国軍が装備する先進的な機甲化両用戦部隊を正面から殴り飛ばして海水を腹いっぱいに飲ませる為の部隊だったのだ。

 ある意味で、当然すぎる結果であった。

 只、以前に投入された(抜かれた)場所が世界の辺境(シベリア)であった為、世界の関心がそれ程に集まって居なかった。

 少なくとも、民間の耳目(マスコミ)は。

 ポーランド軍は勿論、アメリカ軍とすらも段違いの進軍速度を発揮し、最後には東方総軍司令部の喉元を引き裂いたのだ。

 第7機甲師団に付いていた従軍記者はその様を牡牛の突進(スタンピード)と呼び、新聞に載せる際にはドイツ人を蹂躙する角を持った牡牛の挿絵を付けた程であった。

 司令部が消滅した東方総軍は、完全に総崩れとなった。

 ドイツ軍の回天(フリードリヒ)作戦は作戦開始から1週間で頓挫し、1月でドイツ軍部隊はポーランド領内から叩き返される事となる。

 攻撃の主力であった中央軍集団はポーランド軍と北欧その他からの派遣軍によって打ち払われた。

 α装甲軍集団は日本連邦統合軍(シベリア共和国軍)の手で歴史上の存在とされた。

 北部軍集団は後退中にアメリカ軍に捕捉され包囲された結果、1週間ほどの抵抗の果てに集団で投降していた。

 救援部隊はあり得ない状況であり、自力で脱出するには糧秣や燃料の不足が致命的であった為の事であった。

 唯一、南方の第4軍集団だけが、ある程度の組織を維持したままに後退に成功していた。

 これは航空支援その他が北部に集中していた事、ドイツが最大戦力を揃えていた中央軍集団の撃滅に集中していたからであった。

 又、燃料喰らいの重装備が少なかったからとも言えた。

 兎も角、ポーランドを荒らしていたドイツと言う暴風は1945年の夏を前に消滅したのだった。

 

 

 

 

 

 

*1

 携帯SAMであるML-40は、新規開発された簡易的な個人携帯型のコンパクトなSAM(地対空ミサイル)であり、その開発に際しては、米国の失敗の轍を踏まぬ様に細心の注意が払われていた。

 提供日から1年ごとに、個体ロット番号と併せた日本発行の電子キーでライセンス更新をせねば自壊する様にされていた。

 又、敵味方識別装置(IFF)が装備されており、日本の信号を発信する機体への攻撃は不可能とされていた。

 偽装(ダミー)としての照準(ロックオン)は可能だが、トリガーを引いた瞬間、回路が自壊する様にされていた。

 

 尚、日本としては安価に提供しているML-40であるが、普通の国家にとっては高額装備である為、コレを装備出来るのは精鋭と認識されている部隊に限られていた。

 

 

*2

 戦後、東方総軍参謀団勤務であった中佐の手記に依れば、当時の参謀団での空気は実に楽観的なものであったとされている。

 即ち、攻勢をかけるのはドイツである為、日本やアメリカが何を準備していたとしても、それが動く前に、ドイツが動く。

 ドイツが動けば対応して動くので、事前準備など無意味になる。

 そう考えていたのだと言う。

 実に甘い考えであった。

 そのツケはドイツ東方総軍に重くのしかかる事になる。

 

 

*3

 Ⅵ号戦車は避弾経始を重視して傾斜装甲を採用した70t級の巨躯に、長砲身化された8.8㎝砲を持つ。その様は家が動くと言う表現こそ似つかわしい存在であった。

 準列強国家(ポーランドやイタリア)の主力戦車は勿論、列強群(ブリテンやフランス、アメリカ)の主力戦車すらも凌駕する化け物だ。

 少なくとも、数値の上(カタログスペック)では。

 問題は余りに高額で貴重な資源を馬鹿食いする車両である為、数を揃える事が難しいと言う事である。

 現時点で東部戦線に存在するⅥ号戦車は100両を超えていなかったのだ。

 又、足回りの整備性は最悪であり、エンジンは500馬力級と車両を支えるには過少気味であった。

 正直に言えば非力。

 計画立案時には700馬力級のエンジンが予定されていたのだが、コンパクトな大馬力ガソリンエンジンの開発に難航した為、次善の策として量産の進んで居たⅤ号戦車のモノが採用された結果であった。

 機甲科の将校たちは、移動トーチカめいたⅥ号戦車よりも機動性能の良好な中戦車 ―― 44t級のⅤ号戦車系列が充足する事を望んでいた。

 現実には、30t級以下の古臭いⅢ号戦車系列が精々であったが。

 主砲は7.5㎝級であり、ポーランドの35TP戦車の90㎜砲にも劣る戦車を揃えるのが精一杯(完全充足は無理)と言うのが実情であった。

 イタリアのP40/42戦車系列の105㎜砲と比べるのは絶望的とすら言えた。

 それがドイツの内情であった。

 

 




2022.8.3 文章修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

165 第2次世界大戦-32

+

 ドイツとの戦争に於いて、侵攻が成功している事に驚いている国家は、先ずイタリアであった。

 かつては準同盟国であった為、ドイツ軍の精強さと装備とを間近で見て、その差を理解していたが故の事であった。

 とは言え親密であったのは8年以上も昔の事であり、困惑している者は8年以上も昔の当時に現場でドイツ軍将兵の精強さを見聞きした将校たちであった。

 8年の時代の流れで昇進し、責任ある立場に立っていたが故に警鐘を鳴らしていたのだ。

 ドイツ軍を侮る事なかれ、と部下に対して口酸っぱく油断せぬ様にと告げていた。

 ムッソリーニや軍首脳部は保有する戦車や対戦車車両の数や質をもってドイツとの戦争を楽観視していたが、現場上がりの将校たちは戦争が兵器の数と質だけで片が付くならば苦労はないと断じていたのだ。

 それ程の質をドイツ人将兵は持っていた。

 それが、蓋を開ければ快進撃である。

 困惑するのも当然であった。

 だがG4(ジャパンアングロ)に与して以降の、イタリアと言う国家の繁栄*1と軌を一にする形で軍歴を重ねてきた若手将校たちの反応は違う。

 当然の結果であると鷹揚に受け入れていた。

 当然であろう。

 進歩した工業によって生み出された新装備群や、日本やブリテンから導入した新鋭の戦車群、対戦車装備その他。

 豊富な石油を背景にして、機械化された部隊も十分に訓練を積んでおり、其処に更に追加の戦車や、トラックなどが来るのだ。

 侵攻前より、ドイツに負けるなどあり得ないと自負を持つのも当然の話であった。

 そして蓋を開けれ(戦闘が始まれ)ば、若手将校たちの想像通りとなった。

 元よりドイツ側(C軍集団)は、その後背とも補給路とも言うべき地域がフランスを発した部隊によって押しつぶされつつあるのだ。

 如何に、裏切ったイタリアに対する戦意に溢れたドイツ将兵とは言えその能力を十分に発揮するのは難しかった。

 だが、南部戦線は意外な展開を迎える事となる。

 

 

――ドイツ/C軍集団

 イタリアと交戦を開始した時点で、C軍集団の戦力は19個師団から成っていた。

 40万を超える将兵を抱擁しており、軍集団として見れば十分な戦力を持っていると言えた。*2

 イタリアのドイツ侵攻部隊が30万に届かない規模である事を考えれば、戦力の衝突前は抵抗も可能であると考えられていた。*3

 ()()()()()、である。

 航空機などによる偵察を諦めていたC軍集団司令部は、偵察部隊をイタリアに浸透させる形で集積されていくイタリア軍(ガイウス総軍)の情報を集めており、故に、自軍を上回る数の戦車や装甲車、野砲などが用意されている事を理解していたのだ。

 C軍集団の将兵、その大半が予備兵部隊(国民擲弾兵師団)即席兵部隊(国民突撃師団)と言う事を考えれば絶望的とすら言えた。

 防御に適したアルプス山脈地帯は、既に突破されつつある事も勘案すれば、名誉を守れる抵抗(時間稼ぎ)すら不可能ではないかとC軍集団司令部は考えていた。

 だがそれでも尚、命令は命令である。

 C軍集団はドイツ(チュートン騎士団)的生真面目さをもってカエサルの末裔(イタリア軍ガイウス総軍)に立ち向かうのだった。

 

 

――ガイウス総軍

 C軍集団との闘い自体は、ガイウス総軍にとって重荷になる事は無かった。

 戦車の数も野砲の数も圧倒しているのだ。

 それらを自由自在に動かし、好き勝手に乱射できるだけの砲弾も揃えているのだ。

 その上で航空攻撃まで自由に出来るのだ。

 数の不利等と言うものが存在する余地など無かった。

 問題は戦闘では無い。

 だが、数の差が齎す問題がガイウス総軍に圧し掛かっていた。

 捕虜の問題である。

 そして地域の難民問題である。

 ドイツ側がヒトラーの命令として行っている焦土戦術、その汚泥めいた側面であった。

 働ける人間は老若男女を問わず等しく国民突撃隊に徴発し、働けない高齢者や赤子などは現地に残す事でイタリアに負担(人道的対応)を強いると言う行為だ。

 余りにも非道な行いに真っ当な軍将兵では拒否する人間が多数発生した為、ナチス党高官はヒトラーに、武装親衛隊(Waffen-SS)内部に専門の祖国防衛特別行動隊を結成させるべきだと提言し、実現させていた。*4

 人が、人の手で地上に生み出した地獄。

 そう言うべきかもしれない。

 現地に食料や燃料などを一切残さない様にするという命令を、文字通りにやってのけた国防特別行動隊。

 結果、イタリア軍の進軍速度は大きく低下する事となった。

 豊かな時代に育ってきたイタリア軍将兵は、文明国の流儀を身に着けている(豊かさは人を優しくする)からであった。

 この事は頭の痛い問題であったが、同時に、イタリア軍首脳部は歓迎していた。

 ドイツとの戦争に積極的では無かった為、人道的行動によって積極的に動けないと言うのは良い理由となるからである。

 尤も、一部の参謀は、補給物資の輸送力が足りないならもっとトラックを融通しようと日本が言い出さないか、戦々恐々としていたが。

 

 

 

 

 

 

*1

 友好国(与してくる国家)には飴を与えると言う日本の方針に基づいた、G4程ではないにせよ最先端以外の高度な日本製品の輸出許可は、イタリアの産業の強化を大きく進める事となった。

 同時に、市場として解放された日本本土の旺盛な購買欲は、イタリアが生み出すものを無尽蔵と思える勢いで飲み干していった。

 少なくとも、イタリアにとっては。

 家具や服飾、オートバイクに自動車など。

 様々なモノが日本に飛ぶように売れて行った。

 無論、それらの商品は日本企業の紐付き ―― 合弁企業の設立によって、日本の商品基準に準じたものが、日本製の部品なども採用して生み出されていると言うのも大きかった。

 そしてそれが、イタリアの工業を更に進歩させるのだ。

 良好なサイクルが出来ていると言えるだろう。

 流石に重工業を発達させるのは簡単では無かったが、日本やブリテンから自由に輸入出来る高品位鋼材などはイタリアの工業製品の質を大きく向上させる事となった。

 それらは、リビアが生み出す豊満な石油あればこそとも言えた。

 兎も角。

 今のイタリアはかつての、世界大戦時代(ワールド・ウォー 1914-1918)からの混乱や景気の低迷など存在し無かったが如き繁栄っぷりであった。

 その様は新聞などで黄金期、大イタリア(第2ローマ帝国)の文字が躍ると言う時点で判ると言うものである。

 

 

*2

 西方総軍の管理下にあるC軍集団は、1944年の冬に人的な補充(徴兵)によって規模だけは巨大化していた。

 この為、指揮統制の整理を目的として南方総軍として独立させてまとめる事も検討されていたのだが、これに西方総軍司令部が反対した。

 対フランス戦争に於ける予備兵力としての位置づけをC軍集団に行っていた為、これを取り上げられては堪らないと言う事が理由であった。

 1944年冬の時点で、ドイツも又、イタリアとの戦争に関しては楽観視していた。

 イタリアのドイツとの戦争に対する戦意、或いはやる気と言うモノを正確に見ていたのだ。

 現実が想定通りに成らなかったのは、偏にフランスのドイツへの憎悪を見誤ったからであった。

 とは言えコレは、未来にして過去(タイムスリップ前)の独国と仏国の戦争が原因である為に、ドイツが悪いと一概に言えるモノでは無かったが。

 

C軍集団

 1個戦車師団

 7個歩兵師団

 5個国民擲弾兵師団

 6個国民突撃師団

 

 

*3

 イタリアによるドイツ侵攻部隊は10個師団と7個旅団を基幹とした総軍であり、イタリアは此れにガイウス総軍(ガリア討伐軍)と命名していた。

 ムッソリーニやその周辺は兎も角、軍の中堅からのクラスの人間は、それなりにヤル気であった。

 

ガイウス総軍

 3個機械化歩兵師団

 5個自動車化歩兵師団

 2個歩兵師団

 4個機甲旅団

 3個山岳歩兵旅団

 

 大量の自動車/トラックが供与されて尚、歩兵(非自動車化)師団が含まれている理由は該当する2個の歩兵師団が実質、占領後の治安維持部隊だからであった。

 その分、憲兵部隊や法務士官が増員されていた。

 尚、山岳歩兵旅団に関して言えば、山岳地帯での戦闘を前提としている為、重装備の類は乏しいが、移動用の自動車/トラックは十分に手配されていた。

 既にドイツとの戦線はアルプス山脈を越えつつあったが、この峻厳な山脈を利用したゲリラ戦術 ―― 補給路への攻撃を行われては堪らないと言う事であった。

 故に、ガイウス総軍で攻勢任務が可能なのは8個師団と4個旅団のみである。

 但しその装甲化と自動車化率は遥かにドイツを上回っており、又、装備の質自体も隔絶していた。

 

*4

 1944年も暮れに祖国防衛特別行動隊の結成がヒトラーの決済を受けたにも拘わらず、1945年の初夏には既に複数の連隊規模部隊がドイツの南部で活動していた。

 これは人員をドイツ軍や武装親衛隊(Waffen-SS)から徴募するのではなく、軽犯罪などで服役していた人間を、減刑を対価として動員したからであった。

 正気の所在を真剣に疑う行為であったが、ナチス党高官は至って冷静であった。

 合理的でもあった。

 荒っぽい仕事をするのであれば、それに向いた人間を用いれば良い ―― そう考えていたのだから。

 悲劇の種は冗談のような手軽さでまき散らされた。

 それでも、元からのドイツ領内であれば祖国防衛特別行動隊もまだ大人しかった。

 軽犯罪で留まっていた連中なのだ。

 紳士的にふるまう()()程度は出来たとも言える。

 問題は、ドイツの本領外でである。

 イタリアの進軍に応じて、オーストリアその他まで活動を広げた後である。

 

 賊を野に放ったが如し。

 

 イタリアの法務士官は、ドイツ国家防衛特別行動隊の被害を纏めた際、そう手記に残す程であった。

 実態を言えば、文字通りであったが。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

166 第2次世界大戦-33

+

 四方全ての戦場で圧倒されると言う立場となったドイツ。

 その現実は、如何にナチス党及び宣伝省が糊塗(情報操作)しようとしても消せるものでは無かった。

 重装備は勿論、手持ちの武器すらも放棄して後退(敗走)する国防軍。

 熱心に抗戦しようとした結果、幽鬼めいた有様になった武装親衛隊(Waffen-SS)

 それら敗残の兵に守られる人々。

 家財を持たず、着の身着のままで下がっていく難民たち。

 それが明日の我が身である事を、ごく普通の人々であっても理解出来ない筈も無かった。

 そして、目端の利く人間は、難民たちに高齢者や子ども ―― 乳幼児から5~6歳頃までの幼児が居ない事に気付くのだ。

 徒歩による過酷な撤退に参加できない人間は、労働力として期待できない人間は、国家から切り捨てられたと言う現実を直視する事となる。

 その現実を噛みしめる前に、人々の家の扉は叩かれる事となる。

 扉の先には糊の利いた、汚れの無い綺麗な制服を着たナチス党親衛隊(SS)の人間が居る。

 笑顔で言うのだ。

 

『善良なるアーリア人。あなた方には戦争の惨禍を避ける為に、安全な後方に下がって貰います』

 

 そこに拒否権が無い事は、親衛隊が引き連れた()()の目を見れば判るのだ。

 思い思いの服を汚れ果てさせた男たちの目は、疲れ果て絶望した人間特有の、何の感情も浮かんでいないガラス玉の様な鈍い色が浮かんでいた。

 腕章で国民突撃隊(Volks Sturm)とかろうじて判る敗残兵たちは、機械的に人々を家々から連れ出し、難民の群れへと加えさせていくのだ。

 ドイツと言う国家は末端から消えつつあった。

 終末の情景。

 それはヒトラーナチス政権のおひざ元、帝都ベルリンですら同じであった。

 親衛隊と警察は流入の阻止を図ったが、家財の全てを失ったような人間はまだしも、地方の郷士(ユンカー)の様な資産を持ったまま避難して来た人間を止める術を持っている筈もなかった。

 特に、ルール工業地帯の喪失は、ドイツ経済に痛打などと言う表現ですら生ぬるい被害を与える事となった。

 大人口地帯、一大消費地であるベルリンへの物資流入が止まりつつあるのだ。

 国際連盟は戦争に関与しない民間人の生活に痛打を与える積りはないと表明していたし、実際、赤十字マークの書かれた車両や民間用と見て判る車両に被害は出ていなかったが、移動する難民などによって道路が埋められつつあるのだ。

 物流が予定通り出来る筈も無く、食料などは大多数が路上で腐っていく有様であった。

 一部の機転が利くトラックドライバーなどは、無理を悟れば会社に了解を得て周りの難民たちに食料を配るなどしていたが、殆どはドイツ人らしく(チュートン的生真面目さによって)無駄にしていた。

 悲惨すぎるドイツの現状を把握する組織は数あれど、その中で最も悲惨な未来図を見ているのはドイツ軍であった。

 当然だろう。

 国際連盟(ジャパンアングロ)に正面から向き合っているのだ。

 ドイツに対する憎悪を隠そうともしないフランス。

 陰湿さに於いて比肩する事の出来ないブリテン。

 圧倒的な物量で踏みつぶして来るアメリカ。

 そして言葉に出来ぬ(名状し難い)日本。

 ドイツは負ける。

 皮膚感覚でそれを理解していた。

 その上で情報部と秘密偵察部隊とが調べて来た、フランスの支配下に落ちたドイツ領の状況は、フランスがドイツと言う国家ではなく存在の消滅を図っていると理解させるものであった。

 それが決定打となる。

 ヒトラー/ナチス政権下のドイツが消滅するのは別に良い。

 ドイツ軍人の大半は、主義者(ナチス思想)とは無縁の職業軍人(プロフェッショナル)だと言う自負があったからだ。

 だが、ヒトラーとナチズム()ドイツから消えるのではなく、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()となれば話は別なのだ。

 だからこそドイツ軍上層部は独自に、国際連盟との和平の道を探る事となる。

 

 

――国際連盟

 ドイツ軍上層部 ―― ドイツ軍参謀本部が主導する国際連盟との和平工作は、国際連盟(ジャパンアングロ)にとって極々普通の事であった。

 只、既に戦争が始まって半年以上が経過しているのだ。

 西部戦線ではフランスに叩き返され、東部戦線では格下と見ていたポーランドを圧倒しきれなかった現実を見て来たにも拘わらず、交渉を開始したのが今となっているのだ。

 国際連盟の安全保障理事会の常任理事国会の場でブリテン代表は、判断が遅いと笑う程であった。

 誠に以って事実であった。

 勝てるかもしれない。

 もう少しマシな形での負け方があるかもしれない。

 そんな()()()()()()()()と言えた。

 兎も角、交渉自体は受け入れる事となった。

 ドイツと言う民族国家を消滅させると言う結論こそ変わらないのであれば問題は無いと、フランスが同意した結果であった。

 尚、他の3国のうちブリテンは、飽きた(消化試合化した)のでどうでも良いと言う感情であった。

 アメリカは、チャイナの地で名誉欲を充足させたので兵士たち(アメリカンボーイズ)を故郷へ返して経済を回したかった。

 そして日本。

 日本は戦後の支配地域(旧ドイツ領)での自給問題があるので、インフラなどを破壊せずに掌握出来るのであれば便利だからと言う理由で賛同したのだった。

 正直な話として、国際連盟側にはドイツ国防軍側が希望する、ドイツと言う形を残しての降伏など認める気は一切なかったのだ。

 その事をドイツ国防軍の交渉担当が思い知ったのは、外交交渉の席であった。

 

 

――護衛艦やまと/外交交渉

 国際連盟(ジャパンアングロ)とドイツ国防軍との交渉の場となったのは、バルト海に展開している護衛艦やまとであった。

 これは異例の事態とも言える。

 ドイツ国防軍はドイツの代表ではなく、ドイツの命運を左右する力を持っている訳では無いのだから。

 にも拘わらずこの交渉、接触を認めた理由は、主にドイツ内部の感情を把握したいと言う情報機関サイドからの要請であった。

 佐官級将校を中心にしたごく少数の交渉団は、先ず、比較的安定した北部戦線の前線で、捕虜と言う形で接触する。

 その上で身元確認の上でヘリでやまとに移動した。

 やまと、未来の戦艦。

 船体規模こそドイツの誇ったビスマルク級に近いが、その雰囲気は異質であり、その事も交渉団の緊張を呼ぶ事となる。

 そもそも、ヘリ自体がドイツでは実用化されていないのだ。

 日本のソレを見て概念研究自体は行われているが、航空機開発に関わる技術者は軒並みジェットエンジン搭載機の開発に投入された結果であった。

 全てのモノが真新しく、恐ろしく感じる交渉団。

 そのおっかなびっくりの様を、やまとに派遣されていたブリテンなどの連絡将校が見て笑うのだった。

 尚、それは初めてやまとに、日本の護衛艦に乗船した時に同じような挙動をしていた事を忘れた仕草であった。

 さて、交渉の場となったのはやまとの士官室、では無く科員食堂であった。

 別段に他意があっての事ではない。

 単純にやまとの士官室が狭い事が理由であった。

 これは、やまとは基準排水量で35,000tに迫ろうかと言う巨艦であったが、その乗員数は恐ろしく少なく、諸外国の同規模艦(戦艦)に比べると1桁少ない乗員で動かしている事が理由であった。

 乗員(幹部将校)が少なければ、専用の空間も狭くなる。

 そう言う事であった。

 シーツなどで装飾はしていたが元が実用最優先の科員食堂、それも被弾上等で被害対応最優先として整備されている海上自衛隊のフネなのだ。

 初めて部屋に入ったドイツ国防軍の交渉団は、その雰囲気に尋問室めいたモノを感じていた。

 尚、やまとには会議等にも使える多目的大部屋も存在していたのだが、大型ディスプレイやPCといった機密性の高い設備が整い過ぎ(備え付けされ)ている為、敵国の将校を案内するには不適切と判断されていたのだ。

 結果、色気の欠片も無い部屋での交渉となった。

 そして交渉内容は、その部屋の内装同様に味気の無いものとなった。

 少なくともドイツ国防軍の交渉団にとっては。

 対話自体は成立した。

 フランス代表すら、言葉を交わす事を厭う事は無かった。

 だが、その成果は皆目なかった。

 先ず交渉にはならないと言う事が、フランス代表から宣言されていたのだ。

 国家代表では無いのだ、ドイツ国防軍の代表も厳しい顔で受け入れた。

 只、ドイツ国防軍の代表団にとって無駄ではなかったのは、虚心坦懐に国際連盟(ジャパンアングロ)のドイツへの方針を知る事が出来たことだ。

 それは一切の甘さの無い、()()()()()の方針であった。

 救いがあったのは、一般のドイツ人であれドイツ軍人であれ、犯罪者で無ければ過度な処罰対象にはならぬと言う事だった。

 報復は無いのかと驚いたドイツ国防軍の代表に対してブリテン代表はとても楽し気に、報復される様な事をドイツが出来たとでも? と返した。

 事実であった。

 少なくともG4(ジャパンアングロ)にとっては、誠にその通りであった。

 尚、国土を荒らされたオランダやポーランドのソレは()()()()()()()であれば認める方針であるとも言い添えられていたが。

 その事はドイツ国防軍の代表にとって一筋の光明であった。

 だが同時に、光明の外側は暗黒であった。

 戦争はドイツの完全占領まで継続し、ヒトラー/ナチス政権の消滅まで行う。

 その上で、ドイツ人の民族国家としての再興(独立)は許さないとフランス代表は良い笑顔で言い切ったのだ。

 その言葉に、ドイツ国防軍の代表は反論する。

 国際連盟の根幹をなす、民族独立の原則を定めたベルサイユ体制に反すると言うのが内容であった。

 だが、アメリカ代表が心底興味なさげに否定した。

 ベルサイユ体制を崩壊させたのは、ドイツ自身であると。

 オーストリアその他の国家を次々と併合した国家が、民族独立を口にされても困るとブリテン代表は嘲笑した。

 そしてフランス代表は言う。

 今のドイツ人は安心して欲しい、と。

 旧ドイツ系として差別させる積りは無く、各国で各国の一部として平等な権利を与える事になるのだ、と。

 事実上のドイツへの死刑宣告であった。

 

 尚、余り口を開く事のない日本の代表は、フランスやブリテンの代表を見て、実に楽しそうだと呆れていた。

 

 

――ドイツ

 ドイツ国防軍の独自の策謀、それをヒトラーは気付いていなかった。

 自らを大ドイツの父であるとして国家も軍も、その完全に掌握しているとの思いあればこそであった。

 だからこそ、ドイツ国防軍にクーデターの兆候があると言う親衛隊(SS)の報告は寝耳に水であった。

 衝撃。

 だが同時にヒトラーは納得していた。

 精強であったはずのドイツの軍が余りにも不甲斐なく敗走を繰り返す理由として、ドイツ国防軍参謀本部によるドイツ掌握の陰謀であったと言うのは理屈の合う話であるとなったのだ。

 不合理な現実を理解できる形へと変える理屈の合う話(陰謀論)は、ヒトラーの胸にそっと入り込んだのだ。

 満面の笑みを浮かべ、ヒトラーは断言した。

 裏切り者を粛清する。

 併せて、破滅的な怠慢(サボタージュ)を行った外務省も粛清する。

 この2つの革命をもって大ドイツは生まれ変わり、真に偉大な大ドイツを生み出すのだと宣言した。

 尚、ドイツ国防軍のクーデター計画は全くのデタラメであった。

 証拠として提出されたモノは全てが親衛隊によって捏造されたモノであった。

 それ程の事を親衛隊が行った理由は、ヒトラーと同様に不甲斐ない戦争を行っているドイツ軍参謀本部に対する不満と言う実に救いの無い(政治的)理由であった。

 同時に、国を守りたいと言う意思あればこそであった。

 国際連盟との戦争に血道を上げているドイツ国防軍を抑え、その上でヒトラーを説得する事で戦争を終わらせようと考えたのだ。

 善意であった。

 正に、善意こそが地獄への道を舗装していたのだった。

 政治の季節(地獄)が始まる。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

167 第2次世界大戦-34

+

 ドイツ国防軍の粛清を決断したドイツ総統ヒトラーであったが、その実行は簡単な事では無かった。

 今現在、ドイツは全力で国際連盟(ジャパンアングロ)との戦争を遂行中なのだ。

 にも拘らず、ドイツ軍と言う組織の機能を低下させると言った行為は自殺行為と同義だからである。

 故にヒトラーは大規模な粛清では無く、ドイツ軍内部でヒトラーとナチス党への反感を隠さない将官を捕らえる事で綱紀粛正を図る積りであった。

 少なくともヒトラーとしては。

 実際、ドイツ軍に於ける反ヒトラー・ナチス政権派は多勢では無かった。

 国際連盟との講和と言う惰弱な行為は許されざると心底から思っている人間も居たし、或いはヒトラーのナチズムに心酔している人間も居たからだ。

 だからこそ、国際連盟に接触したドイツ軍将校は、反ヒトラーの組織を大きくしようともしていなかった。

 クーデター(軍事力による政権奪取)と言うものは、関わる人間が増える毎に指数関数的に露呈するリスクが上昇する事を認識しての事だった。

 にも拘わらずドイツ軍中枢が行った国際連盟との交渉が露呈したのは、それだけ伝統主義めいたドイツ軍内部にあっても変革者としてのヒトラーを信奉する人間が一定数は居た結果と言えるだろう。

 ある意味で穏便に済ませようと考えていたヒトラーに対し、SSはそうでは無かった。

 教条的な所のあるドイツ人にあって、最も過激(チュートン的)な人間の集まりがSSであったのだ。

 ある種の、宗教的情熱を持っているとも言えた。

 そうであるが故にSS(親衛隊)であるとも言えるだろう。

 故に、前線での戦いが常軌を逸するレベルで敗走しているにも関わらず、その情熱が揺らぐことはなかったのだ。

 兎も角。

 己の理想を邪魔する者としてドイツ軍を認識したSSは、その排除と純化を考えた。

 無論、SS内部でもその発想の危険性 ―― 前線ドイツ軍部隊の壊乱に繋がりかねないとの危惧を持つ人間も居たが、それが大勢を得る事は無かった。

 そもそも国際連盟、否、G4(ジャパンアングロ)に対するドイツの劣勢は、G4が強大だからではなく、ドイツ軍のサボタージュが原因であると思い込んでいる人間が多かったのだ。

 伝統的な海軍国であるブリテンやアメリカを相手にした海軍が負けたのは判る話である。

 先ず、保有する戦艦の数が違い過ぎるのだから。

 空軍も、ジェット戦闘機の保有数の差で劣勢になってしまうのは仕方がない。

 ポーランド戦線は敵国であるし、西部戦線は一度、フランス領内に誘い込まれているので様々な要素が絡み合い、十分な能力を発揮できない事は想像可能だ。

 だが陸軍は違う。

 あれ程に強大な、強敵フランスは勿論ながらもブリテンやアメリカだって持っていない重戦車があり、世界有数の将兵を誇っていた。*1

 宣伝省が上映していたニュースフィルムでは、その強大さが盛んに宣伝されていた。

 にも拘らず、一方的に敗走していると言うのだ。

 簡単に認める気になれる筈も無かった。

 しかも、重装備は失っても人的被害は少なく、撤退は容易だと言う。

 ドイツ市民の、難民としての後退すらも簡単に出来ていたのだ。

 疑い出せばきりがない、そういう状況であった。

 ある意味で状況証拠が揃い過ぎていた為、ある種の人としての純粋さを持っていたSSの人間の心にスルリと入ってきたのだ。

 ドイツ軍が謀略で、ヒトラーとナチスによって作り上げられた栄えあるドイツを簒奪しようとしているのだと言う(陰謀論)が。

 

 

――ドイツ軍

 国際連盟中核メンバー国(ジャパンアングロ)代表と接触した事で、1つの希望と1つの絶望を得た。

 希望は、国際連盟はドイツの民族を地上から抹殺(ジェノサイド)しようと言う訳では無いと言う事。

 絶望は、ドイツ連邦帝国(ナチスドイツ/サード・ライヒ)の消滅後にドイツ人の民族国家を望む事は不可能と言う事であった。

 外交の場に出たドイツ人は、4ヵ国の代表が2度も大戦争を引き起こしたドイツを禁治産者として見ていた事を理解した。

 ドイツ人として果てしない恥辱であった。

 だが同時に、2度も勝てぬ戦争を始める羽目になっていたのだ。

 1度目はまだ良い。

 帝政国家であり、大衆によって選ばれた政府ではないと言う言い訳は出来るのだから。

 だが2度目、今回は選挙によってヒトラーとナチス党をドイツ人自身が選んでいるのだ。

 例え選挙自体に疑念があったとしても。

 ヒトラーとその一党に騙されたにしても。

 それでも、独立した成人(大人)として、ドイツ人が無辜であると言うのは決して主張できるモノでは無かった。

 口にする事の容易いソレを、一度でも口にしてしまえば、禁治産者(大人未満)と言う評価が確定してしまうからである。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 そう言われかねないのだから。

 フランスの代表などは、何度もドイツ人がそう口にする(暴発する)様に水を向けている程であった。

 だからこそ、ドイツ軍代表は必死で反論する事を耐えたのだった。

 兎も角。

 ドイツ軍高級将校たちが考えていた、ヒトラーとナチス党を排除して新生させたドイツ人国家で国際連盟と和睦を行い、ドイツの民族国家を存続させると言う目標は不可能であると言う事が判明した。

 ここから、どうやってドイツ人を救うのか。

 救うべきは命なのか、名誉はどう守られるべきなのか。

 有能であるが故の苦悩とも言えた。

 無能であれば、先ず、国際連盟と接触すること自体が不可能であるからだ。

 だが、苦悩をしている時間は極めて短かった。

 SSの国家保安本部が、ドイツ軍の著名な反ナチス派の将官の逮捕に乗り出したのだ。

 それも複数。

 前線や後方を問わぬ動きであった。

 標的とされた将官たちは国際連盟との接触に関与した人々では無かったが、国家反逆罪と言うものを前面におし立てたその様から、狙いは明白であった。

 この動きに慌てたドイツ軍高級将校たちであったが、事態は更に急変する。

 前線で苦心惨憺していた将兵が、訳の分からぬ理屈をもって部隊の指揮官を逮捕に来たSSを迎撃したのだ。

 衝撃が走った。

 場所は西部戦線。

 重装備を失い、トラックの類すらない徒歩でボロボロの歩兵や戦車兵たち。

 その指揮官は伝統的な軍人貴族(ユンカー)出身であり、悪戦苦闘しつつも可能な限り兵卒を守り、市民を守る為に手を尽くしていた。

 足りない物資 ―― 燃料や食料の確保にも尽力し、フランス軍部隊などと接触した際には指揮官先頭で応戦してみせた。

 才能と人望とを兼ね備えた将校の鑑、そういう人物であった。

 反ナチスであった事は、その出自故の事であり、又、政権奪取に関わる手法の法的曖昧さからの批判でもあった。

 ある意味で、ごく普通の、良識を持った人間であるが故の、常識的で控えめな反発の範疇であったと言える。

 兎も角。

 将校、下士官、兵卒から我らの指揮官と仰ぎ見られていた人間を、後方から来た、アイロンの効いた染み一つない制服を着たSSが捕らえようと言うのだ。

 激発するのも当然の流れであった。

 又、SSの態度も悪かった。

 ドイツ軍による政権奪取(クーデター)と言う先入観(陰謀論)に凝り固まっていたが為、最初から銃器を突き付けて下士官や兵卒を罵倒し、指揮官を連れて行こうとしたのだ。

 暴発するのも当然の結果とも言えた。

 交戦に至る事は無かったが、それでも状況は深刻の一言であった。

 そして同時に、この暴発が軍の横の連携で一気に広がった。

 燎原の火のごとくである。

 SSは国家の徒であり、ヒトラーの走狗である。

 であれば、前線で国の為に命を懸けている人間を、国は後ろから刺すのかと言う話となったのだ。

 事態が深刻化するのも当然であった。

 同時に、ドイツ軍の規律が限界を迎えつつある証拠でもあった。

 連戦連敗と言う状況は、どれ程に規律を守る癖(チュートン的性癖)を持った人間であろうとも限界を超えさせるのだ。

 

 

――西部戦線/国際連盟

 ドイツが季節外れな政治の季節に突入するのと前後する形で、フランス軍はドイツ領内侵攻を停止させた。

 戦争の被害などが原因ではない。

 損耗は軽微であり、戦闘部隊に問題など無かった。

 では、何故に停止させるかと言えば、物資の補給網を支える拠点作りと同時に、ドイツ人自身が破壊していったドイツ領内のインフラの応急修理の為であった。

 道路が荒れているのは鉄板の類でも敷けば問題は無いのだが、橋ともなれば話が違う。

 又、鉄道の再建も重視されていた。

 水運も軽視されてはいない。

 燃料の輸送に関して言えば、鉄道や船舶の輸送力がとても大きな意味を持つからである。

 これらの整備に関しては、捕虜となったドイツ軍将兵が用いられた。

 医療や食事の類だけは満足に与えられたが、被服に関してはボロボロの、階級章を奪われたドイツ軍の軍服のままであった。

 宣伝戦(イメージ戦略)であった。

 占領下のドイツ領内で、誇りを奪われた哀れなドイツ軍の将兵がボロボロの姿で強制労働をさせられる。

 フランス人の将兵は、綺麗な格好で銃を手に只、監視している。

 その様は、勝者と敗者を鮮烈に印象づけるものであり、それを一般のドイツ人が見るのだ。

 正に、ドイツの終焉を理解させる光景であった。

 尚、ドイツ人捕虜の強制労働で、監視するフランス人であったが、逃亡する人間に対して銃を発砲する事は無かった。

 銃を向ける事すら滅多になかった。

 ドイツを憎むフランス人であったが、歯向かって来さえしなければ実に鷹揚であった。

 逃げるも良いだろう。

 どうせ又、敗北して捕虜になるだけである ―― ある種の傲慢さであった。

 或いは余裕。

 その余裕すら、ドイツ人は間近で見るのだ。

 何故なら、撤退するドイツ軍によって燃料や食料迄奪われたフランス支配下のドイツ人が、それらを得る為に、()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 食事の提供や、洗濯やその他。

 ドイツ軍捕虜収容所の運営に、フランスはドイツの市民を組み込んだのだ。

 ドイツ軍への幻想を叩き壊すと言う目的もあったが、同時に、食料や燃料を奪われた哀れな身であるとは言え、ドイツ人に無料でそれらを配る事が嫌だったというのもあった。

 何とも性格の悪い統治であった。

 そして、そうであるが故に、ドイツ人の反抗心は折られていくのだった。

 そんな最中に発生した、ドイツ軍とSSとの衝突である。

 フランス人は闘鶏を見るかの如き態度で、それに向き合うのであった。

 そして、入念に部隊再編と侵攻準備を進めるのであった。

 

 

――ヒトラー

 SSとドイツ軍が衝突した。

 その一報を聞いたヒトラーは卒倒した。

 椅子に座り込んで、それから気付けにブランデーを持って来させ、並々と琥珀色の液体が注がれたグラスを一気に干すと、SSとドイツ軍の代表を同時に総統官邸へと呼びつけるのであった。

 だが、既に事態は物理的衝突を前提とした状況になっており、それが上手く為される事は無かった。

 先攻したのはSS側だ。

 反逆を図るドイツ軍からヒトラーを守る為、護衛と称して信用できる武装親衛隊(Waffen-SS)の1個連隊を総統官邸周囲に配置させたのだ。

 これを見てドイツ軍の代表側は粛清されるのだと判断、此方も信用の出来る部隊を首都ベルリンへと急行させた。

 併せて、己の城たる参謀本部で、急いでバリケードの構築などを行わせていた。

 脱出を選ばなかった理由は、戦力の均衡による対話の状況を作ろうとしての事であった。

 職務に忠実であり、祖国への忠誠に曇りの無いドイツ軍の代表は、強大な国際連盟(ジャパンアングロ)との戦争のさなかに、ドイツ人同士が干戈を交えるのは正気の沙汰では無いとの思いからであった。

 だが、SS側はそうでなかった。

 それが混迷を深める事に繋がる。

 ヒトラーは激怒した。

 SSにも激怒したし、ドイツ軍にも激怒した。

 だが、感情の儘に振る舞う事は状況が許さなかった。

 SSはヒトラーの統治力の源泉であるのだから。

 ドイツ軍はドイツの柱であるのだから。

 それが相食む状況は、ドイツの自滅であるのだから。

 状況を打破する為にチョコレートを貪りながら、ヒトラーは政治的に動き出す。

 そしてドイツ軍の司令部(頭脳)の機能停止と、この状況を打破する為にヒトラーが掛かりっきりになった事は、戦争に絶望的な影響を与える事となる。

 東部方面と、南部方面である。

 ドイツ軍の統制の消失は、苦心惨憺ながらも維持されていた東部戦線への補給を完全に止める事に繋がったのだ。

 ポーランド軍は、それを見逃す程に甘くは無かった。

 ヒトラーの政治的影響力の低下は、南部方面の旧独立国家群に、独立の機運を与える事となった。

 治安維持に投入されていたSSとWaffen-SSとが、活動を低下させた事もソレを助けた。

 そして、旧独立国家群の反ドイツ活動家たちは国際連盟軍に支援を訴える事とした。

 一番近いイタリア軍に。

 ムッソリーニは、一切深入りする積りの無かった東欧方面に関わって行く予感に頭を掻きむしるのであった。

 

 

 

 

 

 

*1

 1945年時点での、日本を除く主要参戦国の戦車を見た場合、ドイツの誇るⅦ号戦車は70t近い重量と随一と呼べる巨大さを誇っていた。

 フランス軍の国産最強であるARL40戦車が90mm砲を主砲とし、55tと言う重量であった。

 アメリカ軍の主力戦車であるM5戦車は105mm砲を主砲とし、49tと言う重量であった。

 ブリテン軍が主力とするのはチャレンジャーⅡ戦車は105㎜砲を主砲とし、52tと言う重量であった。

 この様に見た時に、ドイツ人がⅦ号戦車に自負を持つと言うのも判らぬ話では無いのだ。

 とは言え性能は重量や車体規模、或いは主砲口径に比例しない。

 例えばフランスのARL40戦車。

 3ヶ国の中で主砲が90mmと小口径に抑えられているARL40であるが、その理由は、この砲用に日本と共同開発した高価な90mm向け装弾筒付翼安定徹甲弾(APFSDS)が用意されているからであった。

 文字通りの重戦車殺し(シルバー・ブレット)であり、その威力はⅦ号戦車とはいえ確実に撃破出来るだけの威力を誇っていた。

 同時に、重戦車以外を相手にするのであればフランス製の90mm徹甲弾(AP)で必要十分であるのだ。

 であれば安く、数を乗せられる90mm砲を採用する事がフランスの合理性であった。

 又、最軽量と言えるアメリカのM5戦車であるが、装甲材の品質の高さと避弾経始を十二分に計算した装甲配置を採用しており、その防御力は決してⅦ号戦車に劣るものでは無かった。

 尤も、その対価としてアメリカ製の兵器としては珍しく、居住性が良好と言い難いものとなっていた。

 これは軽量化による戦略的展開力の維持が重視された結果であった。

 フランスとアメリカの戦車と比べ、ブリテンのチャレンジャーⅡ戦車は特筆するべき部分は無かった。

 Ⅶ号戦車の装甲を打ち抜く普通に強力な主砲を持ち、初歩的ながらも複合装甲を採用する事で正面であればⅦ号戦車の10.5㎝砲をも防御可能。

 大出力のエンジンを採用した事で必要十分な機動力も併せ持つ。

 正に、主力戦車であった。

 欠点はARL40戦車やM5戦車に比べれば高価だと言う事だろう。

 とは言えブリテンとて列強(ジャパンアングロ)の一角であり、世界帝国なのだ。

 必要十分な数のチャレンジャーⅡ戦車を揃えるなど容易な事であった。

 

 尚、主要参戦国(ジャパンアングロ)で最も軽量な戦車は日本の10式戦車であった。

 尤も、10式戦車を見て生還したドイツ軍将兵がほぼ居ない為、ドイツ軍以外での10式戦車の知名度は低かった。

 この点を陸上自衛隊戦車兵は素晴らしく小さな戦車(Splendid little Tank)と呼び、小さいから見つからないのだと、従軍記者などに対しては笑っていた。

 尚、同行するフランスなどの将兵は、直截的な言葉(評価)を残している。

 皆殺し戦車(見た敵は必ず死ぬ戦車)、と。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

168 第2次世界大戦-35

+

 ドイツ国内で発生した、戦争中の国家で発生するには余りにも致命的なドイツ軍とSS(親衛隊)の対立は、ドイツの戦争遂行に対して甚大な影響を与える事となった。

 戦争の前面に立つドイツ軍。

 その補給路の維持、交通整理や民間の物流網の管制をSSが担っているのだ。

 ドイツと言う国家の戦争行動にとって、両輪と呼べる関係にあったのだ。

 それが対立したのだ。

 戦争の継続が簡単に出来る筈も無かった。

 まだドイツ本土であれば状況は極端に悪くなった訳では無い。

 民間市民(地元有力者)が両者の間に立つ事も出来たし、或いは、戦況的な意味で余裕があったのだから。*1

 だがドイツ連邦帝国(サードライヒ)東方新領と呼ばれる(東欧の新規併合)領域、そして国外であるポーランド領内に於いては致命的な影響が発生する事となる。

 ポーランドは言うまでもないだろう。

 戦争中の相手国領土であり、その住人はドイツの()のままなのだから。

 問題は、東方新領であった。 

 もとよりドイツ連邦帝国(サードライヒ)に編入された東欧の人々は、心から望んでドイツの体制下に入った訳では無かった。

 一部のドイツ系住人と、声と(暴力)を持った親ドイツ派によって世論を左右された結果と言う部分も大きかったのだ。

 故に併合後、自治権を奪われた事に、ドイツ人の風下に立つと言う事に不満は燻り続けたのだ。

 ドイツ系住人と親ドイツ派は、その不満を誤魔化す為にドイツとの一体化による利益を盛んに宣伝していた。

 だが、ドイツが飴を与える事は無かった。

 当然と言えるだろう。

 東欧諸国の併合を推し進めていた頃のドイツは覇権国家群(ジャパンアングロ)との対立、特にフランスからの圧力を常に受け続けている状況であったのだ。

 その状況で東欧の新領は、国力涵養の養分として収奪の対象にこそなっても、利益が与えられる様な状況になる事は無かった。

 一応、欧州最大の領域を持ったドイツ連邦帝国(サードライヒ)を市場とする権利は与えられてはいたが、税制的な面ではドイツ民族資本企業が優遇されており、簡単に対抗できる筈も無かった。

 更に言えば、ドイツを市場にする対価として、国際連盟に加盟する国々との貿易が低調化したのだ。

 ドイツ系住人や親ドイツ派以外からすれば、踏んだり蹴ったりと言う有様であった。

 この状況下で、ドイツに対する感情が好転する筈もなかった。

 そもそも、ドイツ系住人は兎も角として、親ドイツ派は利益を得たいが故にドイツに与する事を選んだ人々なのだ。

 利益が得られないとなれば、旗幟を変える事に躊躇する筈も無かった。

 無論、ドイツ側としても自らの行いと状況は理解しているが故に、ドイツ軍なりSSなりの治安維持部隊を派遣した。

 その事が益々もって住人の反ドイツ感情を沸き立たせる事に繋がっていた。

 とは言え、その派遣された圧倒的な軍事力が、その沸き立った感情の噴出を許さなかったのだ。

 更にはドイツ戦争にソ連が参戦して以降は、挙国一致だの大欧州防衛(エウロパガード)だのと言う宣伝を盛んに行った上で若い人間を片っ端から動員し、武装親衛隊(Waffen-SS)に組み込んで行ったのだ。

 対するソ連。

 国際連盟の決議に従ってドイツ領(サードライヒ東方新領)に進軍したソ連軍であるが、勿論、その本音は国際連盟加盟国としての義務は勿論、世界秩序云々などにも興味はなかった。

 ドイツ打倒などよりも、ソ連の利益の極限化 ―― ドイツ領となっている東欧諸国の切り取り(火事場泥棒)が目的であった。

 勿論、その点はG4(ジャパンアングロ)も理解していたが、そのG4(ジャパンアングロ)自身も国際社会の良識、或いは正義などと言うものが存在する事が無いと認識していた為、問題にする事は無かった。

 旺盛な国力を得たフランスやブリテンにとって世界は遊戯盤(グレートゲームの場)であり、今もまだ帝国主義(パワーオブジャスティス)は健在であった。

 残る2ヵ国、日本とアメリカは更に酷かった。

 利権も無く、関係も乏しい東欧(世界の片隅)がどうなろうとも自己責任の結果と考えていたのだから(全くの無関心であった)

 兎も角。 

 ソ連軍の進軍はウクライナを起点として、先ずはルーマニア地方へと行われた。

 これは日本の脅威 ―― 国境を接するシベリア共和国(日本連邦)への根深い憎悪と恐怖を抱いているスターリンの裁定によって、重工業が戦車などに偏重した事が原因であった。

 日本ソ連戦争(War1928)シベリア独立戦争(War1936)で日本は帝国的覇権主義に基づいてソ連を食い物にした。

 そう認識すればこそ、国防に手は抜けぬとの判断であった。*2

 戦車や野砲、その他に国力(重工業生産力)が傾斜投入された結果、乗用車やトラックが大きく割を喰う羽目になっていたのだ。

 致命的なほどに数が少なく、貧弱なソ連経済を支えるのにも不足している。

 ブリテンの研究機関などでは、そう言う結論が出る程の惨状であった。

 しかも、一般経済が不調となる事が重工業の足を引っ張る事に繋がる為、益々、ソ連の国力は低下傾向になってスターリンは重工業の軍事偏重を指示すると言う悪循環に陥っているのだ。

 何とも大変な状況と言えた。

 かつてのソ連、シベリアを含む東方領土と共に資源と人口(人材)を有していた頃であれば、市場としての魅力から諸外国からの投資も期待出来たであろう。

 だが、シベリア共和国と言う形で国の3割以上が分離独立し、更には日本と対立する(G4筆頭に睨まれる)様になった現状では、大規模な投資など発生する筈も無かった。

 特に、ソ連が望む重工業やインフラ整備などはあり得なかった。

 完成して数年で日本に吹き飛ばされ兼ねないモノに投資(ギャンブル)したいと言う奇特な人間は、そう居ないのだ。

 結果、ソ連は物資の輸送を鉄道が基幹としながら、末端では馬車などに頼る事が常態化したのだ。

 民間も軍事も問わずに、であった。

 だからこそ、主たる侵攻の軸は黒海に面したルーマニアが選ばれたのだ。

 鉄道網に加えて、海運も期待できるからであった。

 ルーマニア地方から始まるドイツとソ連の衝突。

 だが、ルーマニア地方での衝突は最初、接触とも呼べる平穏なモノであった。

 ヒトラーがスターリンとの個人的友誼を以って、東欧領域をソ連へ一時的に預けようと考えていた為である。

 秘密裏の外交交渉。

 だが、ソ連に送った秘密の外交員はドイツとソ連の戦力の接触(開戦)から3ヵ月が経過しても1人として帰ってこなかった。

 連絡すら無かった。

 だがそれでもヒトラーはスターリンを信じていた。

 それが、ルーマニアの奇妙な3ヵ月(ルーマニア・ファニーデイズ)であった。

 だが3ヵ月目、遂にはヒトラーも事実を理解し、激怒し、痛飲し、そしてドイツ軍に対して徹底抗戦を命じていた。

 そして、ドイツ本国で行うよりも先に、より徹底した焦土戦術の実行を命じるのだった。

 作戦名は灰色(アッシェ)、全てを燃やし尽くした後の灰しか渡すなとの過酷な命令であった。

 其処から先、ドイツとソ連の戦いは地獄の様相を態していった。

 だからこそ住人はソ連を歓迎したとも言えた。

 たとえ侵略者であっても、圧政者よりはマシと言う風に。

 そしてソ連もソレに乗った。

 現地住人を補給線(現地鉄道網)の維持にかり出さねばならぬ関係上、良好な関係を維持せねばならぬからである。

 だが、その前提が崩れたのだ。

 戦争によって停滞していた物流 ―― 補給路に、ドイツ軍とSSの対立による混乱が止めを刺す形となったのだ。

 ドイツ本土からの補給が止まったドイツ軍部隊は、呆れるほどの勢いで活性を失っていく。

 それは、東欧の人々の蜂起を呼ぶ事となる。

 地獄の窯が吹きこぼれた。

 

 

――ポーランド

 ドイツ軍とSSの対立が決定的になった頃、まだドイツ軍はポーランドの戦線で抵抗し続けていた。

 ヒトラーの厳命もあって、再度の攻勢を前提とした戦力の再構築にも努めていた。

 戦車などの補給も十分ではないにせよ受けられており、食料燃料弾薬の全ても、必要十分ではないものの届けられていた。

 勝てぬかもしれない。

 だがせめて、ドイツ軍の意地をみせてやろう。

 ドイツの伝統を歴史に刻み込んでやる。

 そんな合言葉の下で成されていた再度の攻撃作戦準備。

 だが、それらの全てをドイツ軍とSSの対立は変える事になる。

 ポーランドでも避難しなかった住人がSSの手で強制的に動員され、空爆で叩かれ、穴だらけとなった道路などのインフラ整備を担っていた。

 その多くはドイツ系であったが、様々な事情で残っていた人たちも居た。

 言わば、ドイツとポーランドの中間に居た様な人たちだ。

 その様な人達すら銃を突き付けて動員していたのがSSであり、そういう人たちの手でドイツ軍のポーランド侵攻部隊たる東方総軍は支えられていたのだ。

 その柱が一気に傾ぐ事となったのだ。

 東方総軍司令部では、SSに対する不信感を高めた。

 SSの現場側は、自分たちにその様な命令は出されていないと抗弁したが、それが事実であると証明できるものは一切なかったのだ。

 故に、東方総軍司令部では、SSから後方管理の実権を一時的に召し上げる事が提案された。

 ある意味で合理的判断であった。

 問題は、SSは同じドイツと言う国家に属する組織であるとは言え、別の組織だと言う事だろう。

 実権の召し上げ、そして実務部隊の東方総軍管理下への編入など受け入れられる筈も無かった。

 それどころかSSは、この東方総軍司令部の動きを、ドイツへと弓引く行為(反逆の意志の表明)だと捉えた。

 此方も、ある意味で当然であり合理的な判断であった。

 現在、SSはドイツに於いて警察すらも支配下におさめ、治安維持を担っているのだ。

 そのSSを一部とは言え支配しようとするのは、現在のドイツの治安体制に対する明確な挑戦であると捉えるのが当然と言えるからだ。

 ほんの数日、或いは1週間。

 ドイツ本国にあるドイツ軍やSSの司令部が事態を把握した時には、既にドイツ軍とSSとの間で火力の応酬が始まっていた。

 共に、自らの司令部には相手の不法を報告しながら。

 眼前のポーランド軍や国際連盟を忘れ、戦闘(バカ騒ぎ)をおっぱじめたのだった。

 実にドイツ的な行動であると言えた。

 この状況を前にしたポーランド軍と国際連盟の選択は、静観であった。

 敵が、敵同士で戦力の消耗を勝手に始めたのだ。

 疲れ切るまで、自分は戦力を揃えながら様子を見るのが妥当と言うものであった。

 それに、下手に手を出してしまいドイツ軍とSSとか団結され(抗争を止められ)ては面白くないと言うのもあった。

 無論、全く干渉しない訳では無く、ドイツ側の支配下にある領域からの自国避難民などの保護は積極的に行っていた。

 

 

――フランス

 万全なドイツ軍に対してすら勝利し続けている軍を持つフランスにとって、今のドイツの混乱は好機であった。

 但しソレは、攻勢強化を意味しない。

 支配下におさめた領域の管理の強化、そして更に侵攻するための補給路の整備に充てられた。

 インフラの補強や、物資の集積。

 そして部隊の休養である。

 勝てる戦争に於いて無理をする意味はない。

 兵に無理を強いる必要も無い。

 否、それどころか害悪とすら言えた。

 何故ならば、兵とは即ちフランスの有権者でもあるからだ。

 フランス政府は、既に戦後を見据えていた。

 それも、政治であった。

 慢心とも言える態度ではあったが、既にドイツの主要工業地帯であるルール地方の掌握に成功していた為、ドイツの国力(生産力)は時間と共に減衰すると判断されての事であった。

 オランダから侵攻していた日本とブリテン軍部隊によって後方を潰される形でもあった為、ルール地方のドイツ企業群は疎開に失敗していたのだ。

 無論、占領作業中であってもフランスも国際連盟安全保障理事会の決定に従って一般市民の後退は認めるとなっていたし、その中には多数の熟練労働者が含まれていた。

 無人の、設備がある家屋を支配しただけとも言えた。

 その意味でルール地方の生産力をフランスが活用するのは当分先となるだろう。

 だが、それをフランスは気にする事は無かった。

 ドイツの工業力を潰せた、と言う事が大事であるからだ。

 如何に熟練の技術者(マイスター)であっても、ルール地方から切り離され、作る為の道具が無ければ只の人でしかないのだから。

 否、今では貴重となっているドイツ国内の食料などを消費させると言う意味では、実に効果的であるとすらフランス政府としては思っていた。

 難民攻撃(ツナミ・ボム)と非公式にフランス政府内では称していた。

 居留地を離れた難民の群れが、津波めいてドイツ国内の食料や物資を飲み込みながら終点たるベルリンに向かう事を指しての事であった。

 合理性とは人道とはかけ離れているのだ。

 とは言え偵察と航空攻撃は続行されてはいたが。

 

 

――イタリア

 呑気な態度が許されるフランスに対して、イタリアにはその余裕はなかった。

 北上した部隊がフランス軍部隊と接触、歴史的な握手(打通作戦)に成功した形となり、イタリア政府としては一息つきたいところであったが、東欧の不安定化がそれを許さなかった。

 正確には、国際連盟安全保障理事会が、である。

 フランス代表が気取った顔でイタリアには東欧を安定させる義務がある、そんな事を言ってきたからである。

 無論、フランス代表の顔には了承(ウィ)以外の返事は許さないとの意思が込められていたが。

 イタリアはドイツへの憎悪を重ねつつ、その指示に従うのであった。

 

 

 

 

 

 

*1

 まだ戦野に呑まれていないドイツ東部域は勿論、国際連盟軍(ジャパンアングロ)による強い圧力 ―― 攻勢を受けているフランス、イタリア、オランダの3方面でも同じであった。

 これは、それぞれの主軸となるフランス軍、イタリア軍、そして日本/ブリテン軍による圧倒的と呼べる攻勢の前では、政治的対立などで遊んでいる余裕など無い事が理由であった。

 過酷な現実を乗り越える為には、理屈屋揃い(理論優先趣味者)のドイツ人であっても現実的にならざるを得なかった。

 そう評するべきだろう。

 どの組織にも愚か者は居るが、概ね、ドイツ軍とSSは良好な関係を維持できていた。

 少なくとも、前線に限った話であれば。

 そして、この馬鹿馬鹿しい状況(政治的乱痴気騒ぎ)の発端となった、SSによるドイツ軍指揮官の拘束騒動はフランス戦線での一幕であったが、それを行おうとしたSS部隊はベルリンの党中央部から派遣された特務部隊(エリート集団)であったのだ。

 現実と向き合うよりも党内、そして政府内での駆け引きこそが現場(現実)であると思えばこそとも言えた。

 

 

*2

 日本に対する憎悪と恐怖が染み付いている(トラウマを抱いている)スターリン本人は兎も角として、ソ連の上層部は日本との2つの戦争を冷静に記憶していた。

 勿論それは、ソ連が日本に喧嘩を売った、と言う事である。

 そしてもう1つ。

 シベリア共和国の日本連邦編入後の体制が固まって以降の日本は、その強大な国力を背景にしたソ連に対する領土的野心の表明を行っていないと言う事も理解していた。

 平和条約の締結や、文化交流に関しては低調(塩対応)であったが、敵対的では無いのだ。

 故に、ソ連上層部の一部の人間は、スターリンによる対日軍備整備方針は、現時点でのソ連の国力を見れば過大な、負担の大きなモノと考える様になっていくのだった。

 尚、ドイツとの戦争に参戦した事で日本からのMLシリーズの購入権を得たソ連であったが、購入権限(国家信用度/Tier)が低い為に買えるモノは限られていた。

 とは言えその中にはソ連の欲するトラック等も含まれてはいた。

 だが、信用度の低さ(下位Tier国家)故に購入価格も値引きなしの定価であり、そもそも、先に参戦した信用度の高い諸国(上位Tier国家群)によって日本の売却可能枠が埋まっていたり、或いは、突発的なイタリアへの大量供給によって儘ならぬ状態にあった。

 最悪、纏まった数がソ連の領内に届くのは早くても1947年ではないかとすら言われていた。

 ソ連政府は、足元を見られているのではないかと憤ってはいたが、同時に、買えるだけマシであると考え、MLシリーズの購入契約を締結するのであった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

169 第2次世界大戦-36

+

 地獄と親戚の地(地獄を代名詞とする事)となったドイツ。

 戦争中に、その遂行に必要なドイツ軍とSS(親衛隊)とが()()()()()()()()()()状況となっているのだ、当然の状況であった。

 無論、全面衝突にまでは至っていない。

 ポーランド領内を筆頭にドイツ本土以外は破滅的であったが、ドイツ国内でヒトラーや両組織のトップの統制によって、まだ政治的衝突(暗闘)の範疇に収まっていた。

 とは言え、ドイツ軍もSSも相手の非難を声高に叫び、解決策として相手組織の自組織への吸収、乃至は統制下に置く事を強く主張していた。

 全てを軍が握るべき(先軍政治)を主張するドイツ軍。

 SSと党による完全なドイツ国家の統括を主張するSS。

 妥協点など見えなかった。

 尚、そんな中にあって武装親衛隊(Waffen-SS)は、情勢に対する局外不参加を宣言していた。

 理性からでは無い。

 感情であった。

 ドイツを侵食せんとする憎むべき敵が目の前にいるのに、遊んでいる暇はないとの事であった。

 同時に、自分たちこそがドイツを守る精鋭(エリート)であると言う気位でもあった。

 兎も角。

 ドイツ国内の状況は宜しく無かったが、それでも()()()()()()()()()()()()()()と言う有様であった。

 特に酷いのは、ポーランドであろう。

 侵略者が戦争に負けて叩き出されようと言う状況なのだ。

 悲惨な事になるのも当然と言うものだ。

 だがそれ以上に、ある意味で悲劇的状況に陥っているのはドイツの国内 ―― 日本とブリテンの軍によって掌握され、そしてオランダの管理下に入った、ドイツ西部の北側であった。

 

 

――ドイツ/オランダ管理領域

 日本にせよブリテンにせよ、国際連盟安全保障理事会の決議に基づいてドイツ打倒の為に動いてはいるが、正直な所としてドイツを支配しようと言う気は皆無であった。

 とは言え、それは地政学的な意味での島嶼(海洋)国家が大陸に土地を得てしまう事のリスクを考えたからと言う訳では無かった。

 簡単に言えば旨味が無いからである。

 面倒臭いとも言えた。

 両国は共に広大な領域を影響下に置いており、ドイツとは比較に成らぬ水準に科学なり工業なりが達しているのだ。

 ドイツは自ら技術強国と主張してはいるが日本は別格にしても、日本の影響で長足の進化を遂げていたブリテンから見ても旧世界(古い国家)でしか無いのだ。

 文化、民芸品や芸術品などは兎も角として工業製品に於いてドイツに見るべきモノはなかった。

 だからこそ、補給路の維持を対価としてオランダに管理を委託する形としたのだ。

 前年に行われたドイツによるオランダ侵攻、その損害に対する対価としてのドイツ領土の割譲は国際連盟総会に於いても承諾されていた。*1

 そしてオランダは、捕虜となったドイツ軍将兵や占領地に残っていた住人を動員し、荒廃したオランダの農地の復旧や、ドイツ支配領域のインフラ等の整備に酷使したのだ。

 オランダの農地の復旧に関しては、道具なども優先的に与え、効率的に行っていたのだが、ドイツのインフラに関しては別であった。

 道路や橋などと云った軍の補給路に関しては最優先とされたが、そうでないモノに関しては効率を無視した作業が行われていた。

 それは、ドイツ人に可能な限り苦役を与えたいと言うオランダの報復心あればこその話であった。

 ロクな道具も与える事無く地雷除去をさせ、或いは人力だけで擱座した戦車や野砲などの撤去を行わせた。

 食料も、(カロリー)は兎も角として味は致命的なモノが意図的に振る舞われていた。

 酷い時には、ブリテン軍の携帯糧食(レーション)などが用いられた。

 無論、紅茶は無い。

 せいぜいが水。

 それも十分とは言い難い量でだけであった。

 過酷過ぎる現場。

 だが、監視は緩かった。

 移動中は勿論、作業中でも手錠などが用いられる事も無かった。

 逃げたいなら逃げれば良い。

 但し、生きて逃げられると思うなかれ。

 そう言う事であった。

 又、些細な法律違反であっても、即決で裁判が行われ、その場で刑が執行された。

 無論、大概は死刑だ。

 私刑めいた軽さ(スナック感覚)で行われる死刑は、正に地獄の光景であった。

 それだけの事をドイツ人はオランダでしてしまっていた。

 又、オランダ人による横暴な態度は、一般の住人にも向けられていた。

 暴行、略奪、婦女暴行。

 それらの痛ましい事件に対して地元の警察のみならず、()()()()()()()()も捜査を行ってはいたが、犯人が捕まる事は稀であった。

 抵抗できる気骨ある人間は、いつの間にか行方不明になっていた。

 逃げる事の出来る人間も、いつの間にか行方不明になっていた。

 残っているのは抵抗も、逃げる事も出来ない弱い人々だけであった。 

 結果、困り果てた地元住人は日本やブリテンに泣きついた。

 だがブリテンは容赦なく見捨てるのであった。

 ヨーロッパ亜大陸が不安定化するのであれば、それはブリテンの利益だからだ。

 正に、血も涙もない決断(ブリカス仕草)であった。

 だが日本は違う。

 ドイツに対する関心、なによりも好意と言うものは皆無であったが、1つだけ問題があったのだ。

 日本に在住する独国系日本人である。

 

 

――日本

 独国系日本人はそう大きな人数では無かった。

 我らは独国系日本人であると言う意識は高くとも、正直な話として影響力は乏しかった。

 日本の外様3大()族とも称される米系、英系、露系*2に劣るのは当然としても、それ以外の人々(タイムスリップの被害者仲間)と比べても、目立ってはいなかった。

 その独国系日本人が、余りのドイツの惨状に動いたのだ。

 大規模な政治勢力となれる程の集団では無いのだが、彼ら彼女らは日本政府に対して人道的配慮を嘆願した(泣きついた)のだ。

 ドイツの行いは悪である。

 ナチスは極悪非道である。

 だが、一般のドイツ人が無辜であると言うのが、その主張であった。

 日本政府は一蹴した。

 日本社会も、ヒトラー・ナチス政権は民主主義の手法に則って誕生したのであり、である以上はドイツ人有権者が無辜(無関係)であるとの主張は成り立たない。

 そういう世論が大勢を占めていた。

 ヒトラーとナチス党による政権掌握は、厳密に言えば民主主義的な手法によってのみ行われたとは言い辛い部分もあったが、それらの理性的な声が日本の世論の耳に届く事は無かった。

 日本の世論は、既に感情(ヒステリー)の段階に達していたからだ。

 安寧と繁栄を邪魔するドイツ。

 そもそもナチスとは、歴史的に見ても人類で稀に見る邪悪だとタイムスリップ前の独国人すら言っていたではないか、と。

 ドイツ人が戦争を始めなければ良かった。

 でなければ日本は臨時予算で100兆円からの出費をする必要も無かった。

 因果応報である。

 正に感情であった。

 マスコミによる悪趣味な扇動番組(ワイドショー)ですら、そういう雰囲気で放送されていた。

 その状況を変えたのは、1つの事件であった。

 場所は前線からはるか後方、オランダ管理下に編入されたあるドイツの都市での事だった。

 真昼間から(勤務時間中に)酒を飲んで酔っぱらっていたオランダ人憲兵が、通りがかったドイツ人女子(ティーンエージャー)に絡んで、路地裏に連れ込んで婦女暴行に及ぼうとした事があったのだ。

 そこに、偶々休暇として後方に下がって来ていた自衛官の集団(日本軍部隊)が出くわしたのだ。

 それも、部隊に張り付いて取材する従軍報道官(マスコミ)が居た時に。

 最初は窘める程度で対応した自衛官であったが、酔っぱらっていたオランダ人憲兵が邪魔された事に激昂して不適切言語(エスニックでレイシズム)な言葉を乱発して挑発。

 それに、前線帰りと言う事で血の気が多かった自衛官がガチギレして乱闘騒ぎとなったのだ。

 ドイツ人の女の子が可愛らしかったので、その前で良い恰好をしようとしたというのも大きいかもしれない。

 最初に殴り掛かったのが伊国系日本人自衛官だったと言う辺り、その気配は濃厚であった。

 兎も角。

 最終的にはオランダの憲兵部隊と日本軍(陸上自衛隊)中隊がもみ合う大騒動となるのであった。

 オランダの現地部隊と日本の現地部隊の指揮官たちは困った事になったと頭を抱え、両国の政府は面倒な外交事案になると現地部隊を呪った。

 とは言えオランダからすれば日本の機嫌は損ねたくないし、そもそも、内容的に問題を抱えているのはオランダ側だ。

 穏当な解決(事件自体のもみ消し)を狙った。

 対する日本も、戦争中に友好国とのトラブルは勘弁して欲しいし、そもそもオランダは日本にとって補給路を担っているのだ。

 オランダ側と同様に、日本も相手の機嫌を損ねたくないというのが本音であった。

 幸い、場所は日本からすれば世界の向こう側の事である為、物事が大きくなる事を止めるのは簡単 ―― そう思っていたのだ。

 後に、被害に遭いそうになった女の子の髪色とオランダに因んで、赤花事件(レッドチューリップ)と呼ばれる事となる一部始終をマスコミが報道しなければ。

 今度は日本政府の一部が、自衛隊による造反(クーデター)だ! 等と吹き上がったが、日本連邦軍遣欧総軍の報道管制部門からすれば、軍事機密に関わらぬ部分である為に検閲する理由も権限も無いと言うのが本音であった。*3

 かくして、日本の国内には可憐なドイツ人少女を守る自衛官と悪漢であるオランダ人憲兵と言う、余りにも分かりやすいニュースが、大量の写真と動画を伴って流通する事となったのだ。

 そして独国系日本人の組織は、その流れに全力で乗って行くのだった。

 

 かくして、日本の欧州に対する方針が大きく変わる事となる。

 

 

 

 

 

 

*1

 オランダに対するドイツの領土拡張に関しては、ソ連が国際連盟の総会の場において、民族自決と言う国際連盟の精神的基点となるベルサイユ条約の精神に反する事に成るのではないかと控えめに主張していた。

 民族自決と無併合の原則は死守されるべきとの主張である。

 ソ連からすれば当然であった。

 強大な日本(日本連邦)との戦争を警戒しているソ連としては、戦勝による利益と言うものが否定される状況が有難いからである。

 だが、この点に関してはフランスが強く反発した。

 民族自決と言うモノは、生活に直結した地方自治の権限に類されるものであると認識しているのだと。

 世界には様々な民族が存在している。

 どの国にも少数民族と言うものは存在する。

 にも拘わらず理念優先で、民族自決と自決の為の独立が正しいとした場合、世界は秩序を失うだろう。

 そういう主張であった。

 実際問題として、ソ連も又、その領内には少なからぬ少数民族が存在している。

 ユダヤ人やロマ人(ジプシー)も居るのだ。

 ソ連は正式にはソヴィエト社会主義共和国連邦であり、その連邦の中にはウクライナを筆頭に様々な民族が共和国と云う形で参加している。

 それと同じであると、フランスの代表は堂々と反論した。

 実に理論的意見(上等な屁理屈)であった。

 故に、フランスの反論にソ連は主張を下げる事となる。

 G4(ジャパンアングロ)を牽制する為にドイツを維持しようとして、ソ連が民族自決の建前で分割されてはたまらない。

 そう言う話であった。

 ドイツの運命は、この総会の場で決したとも言えたのだった。

 

*2

 日本とアメリカとの仲立ちを行い、強大な軍事力をある程度維持している独立国家(グアム共和国)を持った、別格の米国系日本人の様には成れず。

 過去の同胞(オホーツク共和国とシベリア共和国)との一体化を図り、存在感を示している露系日本人のようには成れず。

 或いは、国家は無くとも政治集団として高い影響力を持った英国系日本人にも成れなかった。

 尚、数の上では中国系日本人と韓国系日本人も多いのだが、()()()()()()()から日本連邦の社会に於いて存在感を出そうとは一切する事は無かった。

 特に中国系日本人は、純粋な日本人化を生存の為に推進していた。

 韓国系日本人も同じであった。

 過激な人間がタイムスリップ後の朝鮮(コリア)共和国の建国に纏わるアレコレで消滅した事も相まって、日本に帰化し、そして集団としては消えつつあった。

 

 

*3

 勿論、人間的な意味で、現地の遣欧総軍関係者(自衛官たちが)オランダ人によるドイツ人に対する行動に対する反感を覚えていたという事は否定されない。

 その意味において、合法的に状況を変えられる機会(チャンス)を見逃さなかったと評するのが妥当であるかもしれない。

 尚、この件に関して遣欧総軍司令部の法務部門の長は、問題になれば自分が腹を切るからと言って全力で見逃せ(見て見ぬフリをしろ)と命令していた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

170 第2次世界大戦-37

+

 オランダに近い北ドイツ平原西端部にある国際連盟管理(ドイツ占領)地域の都市で発生したオランダの憲兵部隊と日本連邦軍(陸上自衛隊)部隊との衝突(乱闘騒ぎ)

 それ自体の処理は簡単であった。

 幸いな事に死者や重傷者の居ない純然たる騒乱(喧嘩沙汰)であり、当然ながらも銃器などが用いられていないのだ。

 であれば、正に喧嘩両成敗で終わる話となる。

 少なくとも同盟関係にある国家同士の軍としては、である。

 オランダ人憲兵とその同僚も、伊国系日本人自衛官とその同僚も、等しく同盟国軍と騒動を起こしたと言う責で上長からの叱責と反省文の提出で終わるのだ。

 軍としては、である。

 それとは別の理屈が動くのはオランダ人憲兵だ。

 軍秩序の問題とは別に、未遂とは言え婦女暴行を試みたのだ。

 それで終わる程に世の中は甘くない。

 法秩序の守り手たるべき職務に相応しからざると言う評価と共にオランダの法に則った罰則(ペナルティー)が適用される事となる。

 ()()()()()

 ここに補助線が1つ入る。

 突如として侵攻して来たドイツの被害者としてのオランダ人の一般意識である。

 もっと言えば、ドイツ人への報復欲求だ。

 オランダの国土を滅茶苦茶にしたドイツ人が滅茶苦茶な目に遭う事に何の問題があると言うのか、と言う感情だ。

 この世論に、オランダ政府は苦慮する事となる。

 無論、女性や人権を重視する弁護士は批判の声を上げたが、大半のオランダ国民が国土を荒らし家財を奪ったドイツ軍を、家族を殺したドイツを憎悪し尽くしていた。

 そして、件のオランダ人憲兵は兄弟を、ドイツ軍によって殺されていた(オランダ陸軍将校としてドイツと戦っていた)のだ。

 この状況での政治は、簡単なモノでは無かった(事実上の政治的爆弾であった)

 

 

――日本

 国力の差と言う意味では、日本とオランダは比べ物にならなかった。

 だが、だからと言って日本の要求を一方的に突き付けられる程に外交、国家間の関係は単純なものでは無かった。

 1つには、オランダが日本にとって軽視できぬ資源貿易相手国だというのがある。

 口の悪い人間(英国系日本人&ブリテン人)に言わせれば、オランダの本体などとも揶揄されるオランダ領東インド(インドネシア)だ。

 日本に近く、そして格安で石油やゴム資源などを輸出してくれる国家なのだ。

 その機嫌を損ねたくないと日本政府が思うのも当然であった。

 とは言え、オランダの行為を無視する事は政治的に難しかった。

 それは国外(国際)的な理由でもあり、同時に国内に由来する理由でもあった。

 国外と言う意味においては、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()と言う戦後の秩序体制を見据えた宣伝(政治的物語)にミソを付ける事になるというモノであった。

 建前であっても正義なり秩序なりと言うモノは重要であるとの認識あればこそであり、だからこそフランスも、ドイツ人に対する感情的報復は抑制する様にしていたのだ。

 無論、宣伝や情報工作その他で短期的には誤魔化す事が出来るが、長期的には必ず露呈するモノだと言うのが日本政府と、そのシンクタンクの歴史観であった。

 この点に関して、雑な所のあるグアム共和国軍(在日米軍)情報分析部門も全く同意していた。

 そして同時に、一般大衆と言う存在は自分にとって都合の良い歴史観(妄想とファンタジーの混合物)が事実として認識し、定着する事があるとも理解していた。

 この1年の憂さ晴らしで、10年100年と恨まれては面倒くさい。

 何より、今はまだ欠片しか見えない人権を重視するリベラル(リベラルと自称するナニカ)な人達の飯のタネを作るなんて鬱陶しい。

 有り体に言えば、そういう話であった。

 最近の日本政府は、日本と言う国家が嘗ての米国の国際的立場(国際秩序の管理役)に近い事を渋々とは認めて(受け入れて)いた。

 国際連盟の常任理事国であり、覇権国家群(ジャパンアングロ)の筆頭。

 恨まれる立場である、と。

 自分よりも裕福と言うだけで、人は他人を恨めるのだ。

 そして恨んだ人間は、その発散としてテロなどを行うだろうと判断していた。

 だからこそ日本は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 そして、()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 何かをしても恨まれるし、何をしなくても恨まれるのであれば、何もしない方がマシだ。

 諸外国から請われれば協力もするし、予算面でも政府開発援助(ODA)を用意はしているのだが、それは現地政府と住人との合意(コンセンサス)があればこそと言う形にしていた。

 又、そもそもとしてODAの予算は日本連邦では無く日本が用意している為、諸外国の前に日本の忠良なる日本連邦構成国が優先されるべきだとの意見が日本連邦議会で出ており、日本政府としてはその声を無視する事は出来なかった。

 結果、ODAは朝鮮(コリア)共和国を含めた日本連邦加盟国で奪い合い、残余が他所の国に回る形となっていた。*1

 総額として見れば決して座視できる額では無いのだが、纏まった()にはなりえなかった。

 無論、この状況を変える為にはODAの額と枠そのものを増やすと言う選択肢もありはしたが、財務省が必死になって反対し、同時に、将来的に日本連邦構成国が発展すれば予算枠に余力が出ると判断された結果、予算の拡充と言う処方はなおざりになっていた。

 兎も角。

 日本連邦としては、よその国の為に日本は無為な労力を割く必要はない。

 先ずは広大な日本国内(日本連邦)の開発と発展が最優先であるという訳であった。

 シベリア共和国を筆頭に、同胞として育てるべき場所は幾らでもあるのだから。*2

 その意味において、国際連盟の掲げる内政不干渉は実に便利であった。

 だが、内政不干渉とは国内で全てが完結するのであれば認められるべき話であり、今回のオランダ人憲兵がやらかした場所は日本とブリテンが占領したドイツの領土であり、オランダの国内では無いのだ。

 将来はオランダに割譲されると言う含みを持ってはいたが、今のオランダは治安維持を委託されていただけなのだ。

 内政不干渉と言う言葉(マジックワード)で処理しきれる範疇では無かった。

 しかも、この問題が国際連盟の安全保障理事会に上げられる否や、ソ連がポーランド国内で発生している捕虜やドイツ系ポーランド人への虐待問題の報告書(レポート)を上げて来たのだ。

 最早、問題は日本とオランダだけの話では無くなっていくのだ。*3

 国際連盟安全保障理事会では、現在遂行中のドイツ戦争に於ける戦争犯罪が議題として上がるのであった。

 そして、もう1つ。

 日本がこの事件に関わらざるを得ないのは内政(世論)であった。

 検閲を通過してしまった、オランダのドイツでの横暴。

 本事件の詳細 ―― 自衛官相手にも横柄な態度を隠さないオランダ人憲兵と暴言、怯えるドイツ人少女と言う生々しい動画の衝撃力は途方もなく大きかったのだ。

 戦争が悲惨な事は、戦争なのだから仕方がない。

 しかし、戦場で無いのであれば戦争当事国間であっても守られるべきルールがある筈だと、野党が国会で与党を追及したのだ。

 戦争が始まり(生臭い現実を前に)存在感を示せなかった(空疎な理想論をTVなどで述べるだけの)野党が元気を取り戻したとも言える。

 とは言え、政党支持率が1%未満の木っ端野党の言う事の影響力はそう大きく無かった。

 では何が国民世論を動かしたかと言えば、2つの感情であった。

 1つは義憤(同情心)

 震えるドイツ人少女と言う姿が、子を持つ(有権者)に他人事ではないとの感情を与えたのだ。

 そしてもう1つは憤怒である。

 ()()()()()()()()()()()()()()()? と言う怒りである。

 戦争の発端ともなったまつ型汎用哨戒艦さくらへの砲撃も含めて、オランダは日本を侮っているのではないのか? との感情である。

 日頃であれば冷静な識者(世論に迎合せぬ人間)も、調子は抑え気味ではあってもオランダを批判していた事も大きい。

 日本は、国際連盟を通じて戦時国際法を遵守したドイツとの戦争を呼び掛けていた。

 だがオランダ人の、それも法秩序を守らねばならぬ憲兵が事件を起こしたと言う事は、甘く見られているのではないか、と。

 この流れに慌てたのは駐日オランダ大使であった。

 日本への入国と限定的ながらも活動が認められていた少数のスタッフで情報収集をし、阿国系日本人(元駐日阿大使館員)とも相談して慌ててオランダ本国へと報告するのであった。

 

 

――オランダ

 オランダ政府にとって本事件は、酔っぱらったバカが莫迦をやった。

 それだけの事であった。

 相手が日本と言う事もあったが、粛々と法に基づいた処分 ―― 未遂ではあるが憲兵と言う職務から見て許されざると言う事で懲戒免職処分を実施し、相手となった日本軍将兵(自衛官たち)には適当な勲章を配って誤魔化せば良い。

 その程度の腹積もりであった。

 最悪、憲兵部隊の指揮官まで累が及ぶ可能性はあったが、そこは管理不行き届きと言う事で処分を飲ませれば良い。

 それだけの話であった。

 日本は素直に頭を下げれば許してくれる。

 名誉こそ重んじるが、謝罪に対して無法な対価(誠意とは金額)を要求する事が無いと言う事を、前年の汎用哨戒艦さくらへの砲撃事件を処理する際に学んでいたのだ。

 だからこそ、高を括っていた。

 楽観していたのだ。

 だが、オランダの国内世論が冷や水を掛ける事となる。

 一部の鬱屈したオランダ人の感情が、反日と言う形で吹き上がったのだ。

 技能が無いとして、オランダ領東インド(インドネシア)で現地住人よりも下に扱われた経験を持つ若いオランダ人が先頭に立ち、非文明国人である(コーカソイドを優遇しない)日本による陰謀だと声を上げたのだ。

 コレに一部の大人が乗った。

 馴染みの店で、礼儀を守って金払いの良い日本人(日本連邦統合軍)将兵が優先される事に腹を立てた人々である。

 飲み屋でも花街でも、オランダ人が後回しにされていたのだ。

 その感情の爆発であった。

 無論、中心となったのは男性であり、女性たちは巻き込まれまいと口を噤んでいた。

 そこに日本の世論が沸騰していると言う話が来たのだ。

 オランダ政府の要人たちは、取り合えず痛飲して問題解決に向けた思案を翌日に回したのだった。

 飲めば良い考えが浮かぶかもしれないと言う人間も居た。

 単純に現実逃避であった。

 そして翌日には、二日酔いが現実と共にやってくるのであった。

 

 

 

 

 

 

*1
 

 ODAの対象に朝鮮(コリア)共和国が入ったのは、朝鮮(コリア)共和国の建国と日本連邦の成立から既に20年近くの月日が経過して漸くの事であった。

 かつての在日本韓国人と朝鮮人が完全に影響力を喪失し、又、日本連邦構成国としての節度を持った態度が認められた結果でもあった。

 シベリア総軍への戦力抽出を厭わず、アメリカ-チャイナ戦争(チャイナ騒乱)では日本連邦の名を汚す事の無い戦果を掲げてみせた事が、ある意味で未来にして過去となる韓国(タイムスリップ前の朝鮮半島国家)の行為の禊となっていたのだ。

 朝鮮(コリア)共和国政府は日本連邦議会小委員会に出していた代表から、ODAの検討対象に出していた朝鮮半島の開発案複数が再検討の朱印が打たれずに第1次選考を通った(突っ返されなかった)との報告を受け、滂沱の涙を流したと言う。

 そしてジャパン系日本人の朝鮮(コリア)共和国政治顧問は、日記にただ一言書き残していた。

 至誠、天に通じる。

 

*2

 日本のこの姿勢を指してブリテンなどは、まんぷく状態に陥った肉食獣が午睡に微睡んでいる様なものであると評していた。

 ()()()()()、文字通りの日の沈まぬ大帝国たるブリテン連邦を維持する努力をしているとも言えた。

 日本に対し、たとえ劣位であっても同格(ジャパンアングロ)として対峙していける為の努力であった。

 そして、その努力の一環としてアメリカに、過度では無い形での接近をしてもいたのだ。

 ブリテンが1国で日本を牽制出来ないのであれば、アメリカを巻き込んでバランスを取ろうというのだ。

 尚、ここにフランスが入って居ない理由は、ブリテンの都合であった。

 誰が自国(ブリテン本国)の直ぐ傍に超大国(スーパーパワー)が生まれる事を歓迎するかと言う事である。

 ヨーロッパは適度に混乱している事こそがブリテンの利益なのだから。

 イタリアとポーランドに対して、少なからぬ支援を行っているのは、そういう理由と言えるだろう。

 

 

*3

 占領地での問題行動と言う意味では、東欧におけるソ連軍現地部隊の行動も問題を抱えており、褒められたモノでないと言う所では無い。

 だが、ソ連は現地住人との関係が割合に上手くいっているルーマニアには諸外国からのマスコミが入る事を認め、ルーマニア以外への入国を禁止すると言う形で情報管理を行っており、それが世間に広がる事は無かった。

 少なくともこの時点では。

 尚、ヨーロッパ亜大陸が混乱するネタの欲しいブリテンは秘密情報ユニットを投入していた事で現地の情報を得ていたが、それが出される事は無かった。

 効果的タイミングを見計らって行われるべきと判断していた為であった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

171 第2次世界大戦-38

+

 オランダ人憲兵の婦女暴行未遂と言う事件は、ドイツ戦争に参戦した全ての国際連盟加盟国に波及していた。

 その原因は、言うまでも無く日本であった。

 日本人にとってドイツ戦争は他人事であった。

 地球の向こう側(世界の片隅)の戦争であり、又、かつてと違い欧州が追い付き追い越す相手(切磋琢磨するライヴァル)では無いと言うのが大きかった。

 自国(日本連邦)を絶対と思う保守界隈から見れば、安定した国家繁栄の協力者たる3国(アングロ・フランク)以外はどうでも良い相手であったから。

 図らずとも()()()に位置する事となったリベラル界隈から見れば、かつての最先端も今はまだ帝国主義に溺れる発展途上国であり、その趨勢を追う事は無かった。

 マスコミは、戦争による物流の混乱や消費の拡大と言う部分を削除し、只、物価高騰(低率のインフレ)と物資不足だけを口にしているのだ。*1

 ある意味で当然の話であった。

 無論、欧州の戦場に送られた将兵の家族などは話は別であったが、日本連邦の総人口から見れば少数派であり、大きなムーブメントとは成らなかった。

 大多数の日本人にとってはTV画面の向こう側の戦争であり、政府が行う兆単位の出資も増税に繋がる事は無く、出征した自衛隊にせよ日本連邦統合軍にせよ大きな人的被害が発生していないのだ。

 それで、ドイツ戦争を我が事の様に理解しろと言うのは中々に無茶な話とも言えた。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 戦争で悲惨な事が起こるのは仕方がない。

 家が焼かれたのは辛い。

 民間人まで巻き込まれるのは過酷だ。

 でも、戦争だ。

 戦争だから仕方がない。

 だが、占領下での婦女暴行は話が別だ。

 取り敢えずはそういう事であった。

 

 

――日本政府

 オランダ人憲兵がドイツの支配領域で起こした問題は、日本政府にとっては法治を真面目にやれと言う話でしかなかった。

 オランダ人の反日感情に関して言えば、他人の国の内面なんて知らないし、どうでも良い。

 日本政府も日本も心底から興味を持っていなかった。

 オランダ領東インドでの日本の経済活動(日本への物資輸出)を邪魔しなければ、現地住人(オランダ人)の感情などどうでも良かった。

 治安さえ維持していれば、ODAなどでの相応の協力も惜しまない。

 邪魔をするのであれば道義的解決を()()する。

 それだけの話であった。

 実際問題として、法的根拠のない要求を行うなどしたオランダ領東インドの高官など複数が、過去には日本側の遺憾の意を受けて罷免されていたのだ。

 適切な取引(ビジネス)さえ出来れば問題は無いと言う態度。

 内心の自由に関与したり(反日感情の抑制や)、現地政府を直接コントロールするなどの面倒事は嫌だ。

 金にならないのに、金ばかり掛かる。

 手間もかかる。

 そんな面倒事はごめん被る。

 日本は日本人が幸せであれば良い。

 何とも日本式覇権国家の態度(金満国家の流儀)とも言えた。

 だからこそ日本国内で、オランダの中にある反日感情に対する反発(日本が舐められているのではないかとの疑念)が上がった際、日本政府は困る事となる。

 表に出されない日本とオランダの折衝の場では、オランダ代表は平身低頭の態であり、実際、法的に適切な処罰を当該のオランダ人憲兵に与え、その上司に関しても教育責任を取る形での引責が約束されているのだ。

 この上で何を要求しろと言うのか、と言うのが政府の正直な困惑であった。

 だが国民世論を無視する事は出来ない。

 特に、この流れに乗った野党が、政府批判に利用する様になったのだ。

 又、社会的意味で死亡寸前であった女性権利運動家(フェミニスト)も、これぞ活躍の場とばかりに街頭に出てシュプレヒコールを上げていた。*2

 この様な状況で、対処しないと言う選択肢は無かった。

 とは言え法に基づかない、感情的充足の為の対応を日本は選べない。

 この為、迂遠な方向であったが、TV番組での野党などとの討論会に与党の重鎮や弁舌の得意な人間を出して議論を行わせ、同時に、マスコミとも折衝を行って国内世論の慰撫を図った。

 同時に、抜本的な問題解決こそが重要であると持ち出し、ドイツ戦争に於ける戦場以外での民間人被害の把握と、その抑制を国際連盟安全保障理事会に議題として出す事とした。

 

 

――ソ連

 国際連盟安全保障理事会の場で提示された日本の主張。

 悪逆非道を働いたドイツの国民であっても、国際連盟は法治国家の集団として、法の擁護者として動くべきである ―― 法的な保護はドイツ人に対しても与えられるべきであるとの主張は概ね、国際連盟加盟国の賛意を集める事には成功した。

 もとよりハーグ陸戦条約を筆頭とした戦時国際条約自体は存在し、国際連盟加盟国も締結していたのだ。

 その遵守を要求されて、否定する国家は居ないとも言えた。

 問題は、日本が実効的な遵守の為の国際連盟安全保障理事会隷下に常設の監視小委員会設置を提案したと言う事だろう。

 少しばかり、現場部隊のお行儀の良さに自信の無い国家は、少しばかり背筋を伸ばす事となった。

 又、オランダやポーランドと言った自国内でドイツ軍との戦闘を経験した国家は、内心で面白く無いモノを感じた。

 だが困り果てたのはソ連であった。

 前線部隊が東欧 ―― 基幹補給路として重視されたルーマニア以外の地で、何時もの行動(蛮族仕草)をやってしまっていたからである。

 相手はドイツ軍およびドイツ人のみならず、現地住民をも武器で脅し、乱暴狼藉に及んでいたのだ。

 国力の低迷しているソ連は列強諸国、特にG4(ジャパンアングロ)と比べて将兵の待遇を良くする事が難しいが為、それらの行為(将兵の私的利益の確保)をある程度黙認する事で戦意を保っている面があったのだ。

 簡単に禁止すればよいと言う訳では無かった。

 そもそも、既にやってしまった分があるのだ。

 隠そうとしても隠しきれるものでは無かった。

 少なくとも、ソ連軍上層部は()()()()()()()を図る程に判断力を喪失しては居なかった。

 取り敢えず、収奪をせずとも良い様に食料燃料を自前で補給しようとする事とした。

 結果、ソ連軍はその攻勢が鈍化する事となる。

 

 

――オランダ

 オランダ内にあるドイツ人への感情(復讐心)を理解した日本は、日本とブリテンの部隊が掌握したドイツ領の治安維持任務のオランダへの委託を取りやめる事を国際連盟安全保障理事会に提案した。

 これは、オランダ人のプライドを大きく傷付ける事に繋がった。

 治安維持任務を受けていた場所は新しいオランダの領土、と言う認識で居たのだから、ある意味で仕方のない話であった。

 オランダ政府は、その決定を無批判で受け入れたが、オランダの野党は声高に批判する事となる。

 ()()()()()()()()()

 ブレーメンやハンブルクと言った都市を含む、北ドイツ平野の大半は戦争の賠償としてオランダに割譲されるべきであると言う主張である。

 剛毅、或いは豪快極まりない主張と言えた。

 当然ながらもオランダ人の大半は、その主張に迎合した訳では無かった。

 特に、オランダ領東インドで日本と直接接触した経験を持った若い世代ほど、G4体制(パクス・ジャパンアングロ)に逆らう事の愚を理解していた。

 又、戦前の、ドイツとの良好な関係で利益を得たりもしていた高齢者層も、極端なドイツへの復讐心は抱いていなかったからだ。

 だが、どんな国家にも、どんな集団にも跳ねっかえりと言う奴は存在する。

 過激な愚か者はオランダ国内の火種となり、そしてオランダと日本との関係にも影を落とす事となる。

 

 

 

 

 

 

*1

 MLシリーズで最も欧州の戦場に供給されているのは自動車類や保存食類であり、この供給の為に民需が大きく喰われていたのだ。

 武器弾薬が中心で無い理由は、前線にあるブリテンやフランスが武器弾薬の類であれば自前で必要量を十分に生産出来ると言う事が大きかった。

 軍服などの衣料品もそうであるし、医療関連もそうである。

 自前で用意出来るものは自前で行う。

 それは、戦争と言う最悪の大消費状況に於いても、国内の経済を少しでも回しておこうと言う蟷螂の斧めいた努力とも言えた。

 尚、保存食の類に関して言えば、100年の差は余りにも圧倒的であり、加温だけでそれなりの飯が喰えると言う戦闘糧食Ⅳ型 ―― 日本連邦統合軍健軍後に日系日本人以外の諸民族日本人の趣味や嗜好にも対応できる様に開発されたソレは、アメリカ軍めいてベジタリアンやハラールにも対応した逸品となっていた。

 米食のみならずパン食へも対応し、甘味や粉末珈琲まで用意されている。

 食事をするのに中々に余裕の少ない前線部隊でも、食事を(補給)ではなく楽しみに出来ると言う意味では素晴らしい存在であった。

 特に、後方段列の弱い国家の軍にとっては、トラックなどに並ぶ戦略的物資として補給を要求するモノとなっていった。

 戦後、ある国の将校はマスコミに応えて言った。

「我々はトラックに乗り、カレー(代表的日本食扱い)を喰ってドイツを踏みつぶした」

 

 この戦闘糧食Ⅳ型が世界的にばら撒かれた結果、日本食と言うものが世界に知られる事となった。

 特に、適当な量の水に適当な材料を入れ、最後にカレー粉(ルーの元)を入れれば出来上がるカレーは、戦争で物資不足になった場所では貧困救難食として扱われる程であった。

 それらの地域の農産物の特徴を受けたご当地カレーが、ドイツ戦争後に大量に生まれる程であった。

 ソーセージの入ったジャーマンカレーや、ジャガイモしか野菜の入って居ないポーランドカレーなどだ。

 尚、()()

 観光客向けにイワシを使ったスターゲイジーカレーと言うモノをご当地カレーとして開発しようとして、ご意見係として呼ばれた日本の大使館関係者(料理担当官)に本気で止められ、最終的にはビクトリーカレーと称してカツカレーを提供する様に成ったと言う一幕があったりもした。

 

 

*2

 尚、この女性であった人達によるシュプレヒコールは街頭を歩く人間は勿論ながらも、マスコミからも礼儀正しく無視されていた。

 1930年代からの日本は、開拓地(フロンティア)としてのシベリアを得た事からの経済的拡張期を迎えていた為、現実的な女性差別問題を相手としない遊びを相手にする時間は無かったのだ。

 重機やトラックドライバー、鉱山労働や大規模農業。

 天然資源の豊富で広大なシベリアの大地は、男だの女だのとの細かい事を相手にせず、その欲望や希望ごと人を飲み込んで行ったのだから。

 そして、シベリアのみならず日本連邦加盟国で使用する機械その他の為に、日本国内の工場も大規模に稼働する様になっていたのだ。

 又、労働現場では重労働を軽減する為の道具(パワーアシスト)が普及した事によって、男女での極端な能力の格差が見えなくなったと言う事も大きな意味があった。

 現場での、男女の不均衡が少なくなっていたと言う事が、古典的な女性権利主義(フェミニスト)の声を無効化していたのだ。

 尚、それ以外にも意識の高い欧州系日本人などが中心となった人々が、先進国家である日本が世界を善導するべきとの主張しても居たが、それらの思想(ビッグブラザー=ジャパン)は機会主義ではあっても現世利益を重視する現実主義的な大多数の日本人 ―― 非日系日本人ですらも現実的ではない(カルト的である)と忌避し、大きな集団になる事は無かった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

172 第2次世界大戦-39

+

 オランダの一個人によるやらかし(婦女暴行未遂)が日本の世論を動かし、世論におされた日本政府が国際連盟を動かす事となった。

 その余波を受けたフランスは、自らの占領地に対する法治の徹底を強化する事となる。

 社会的正義や、義侠心などからではない。

 フランスからすれば、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()なのだ。

 自国民を意味も無く踏みにじる国家は存在しない。

 そういう事であった。

 だが同時に、保護されるのはフランス人とフランス人予定者であると言う事を明確に宣言したのだ。

 それは即ち、占領下にあるドイツの住人に対して服従(フランス人になる)か否かを強いる事でもあった。

 曖昧は赦さぬとの強い態度であった。

 ドイツ人である事を選ぶのであれば、一切の庇護は無い ―― 当然だろう。

 フランス政府にフランス人以外の人を保護する義務はないのだから。

 友好条約を結んだ相手であれば話は別であるが、ドイツは敵国である。

 そして将来的には、歴史上の存在となる(地上から消滅する)国家なのだ。

 保護する義理も義務も都合も無いと言うのが実情と言えるだろう。

 ある意味で新しいロマ族(ジプシー)やユダヤ人が生まれると言えばわかりやすいかもしれない。

 尚、立場としては前者が近い。

 ユダヤ人の様に、フランスの中にドイツ人と言う異物として残る事をフランス政府は許さないからである。

 将来の火種(民族運動の種火)を残さない、と言う意味であった。

 その態度は同じ欧州国家、同じ列強国家、文明国家(先進国)に行う態度では無かった。

 植民地(発展途上国)への振る舞いであった。

 フランスの占領地となった地域に住むドイツ人知識層は、フランスの態度に潜む本音を見て、衝撃を覚えた。

 恥辱に血を流す程に歯を噛みしめた。

 だが、出来る事は無かった。

 悲惨と言えるフランス占領下のドイツ人の待遇に対し、声を上げるべき場所も、相手も居ないのだから。

 正確に言うならば、フランス占領下のドイツ人が上げた声を拾う相手が居ないと言う事だ。

 否、一応は居る。

 ドイツ政府だ。

 ドイツ人の保護は、その民族国家であるドイツの政府が行うべきであるが、そのドイツはフランスの戦争相手国であったのだ。

 しかも、戦争と同時に内戦めいた紛争状態にも突入しているのだ。

 そんなドイツ政府に出来る事などある筈も無かった。

 国家と言う巨大な暴力装置を前に、貧弱な個人が出来る事など何も無いと言えるだろう。

 人権。

 自由であり平等である、人が持っている権利。

 だがそれらは、天なり神なりが与えてくれるモノでも、保障してくれるモノでも無い。

 ひとえに、その人間が属する国家が裏書するが故の権利でしかないのだから。

 その、悲しむべき現実を理解するが故に、ドイツ人知識層は口を閉ざすのだった。

 フランス政府を批判するのは簡単だ。

 だが、その意味は殆ど無い。

 何故なら、フランス政府は強権(銃口)を以って占領地のドイツ人にフランスへ帰化する事を要求していないのだから。

 只、フランス政府の管理下で行われる各種サービスが与えられないというだけであり、同時に、フランス企業などへの就職、及び取引も不審人物(国籍不明者)は不可能であると明示しただけであった。

 ドイツ人がドイツ人としてフランスの領土で生きる事は出来る。

 但し、文明国の人間として生きる事は不可能。

 誠にもってフランス政府の態度は悪辣であった。

 フランスの法曹界などでは、余りにも苛烈であり、法的にどうなのかと言う議論も発生したが、フランス政府はその声を無視した。

 フランスの政界が、反与党を隠さない野党ですらもドイツと言う国家を歴史上の存在にする為であると言う事で政府与党の政策を支持すると言う挙国一致の状態なのだ。

 同時に、それは法曹界も同じであった。

 法の問題はありえども、先ずフランス人としてドイツ滅ぶべし。

 そう言う人間が多数いたのだ。

 そもそも、フランス人の多数が、この10年以上もの間に渡って行われていたフランス政府による反ドイツ宣伝に染まって居たのだ。

 一部の、人権意識の高い弁護士などで対応できるものでは無かった。

 

 尚、言うまでもない話であるが、フランスに帰化したドイツ人に対する差別、或いは犯罪は徹底的に取り締まられた事は言うまでもない。

 又、フランス政府による生活支援 ―― 食料などの支給や、家が損壊していた場合の建て替え費用の補助や、医療サービスの提供は手厚く行われた。

 その事実が広く伝わると共に、ドイツ人のフランス帰化は加速する事となった。

 

 

――ポーランド

 ポーランド国内での戦争であり、一般のドイツ人(ドイツ国籍者)が殆ど居ないポーランドにとって問題は、ドイツ人捕虜の扱いに関してであった。

 とは言え簡単な話では無い。

 不発弾処理や地雷撤去、撃破され路上や農地に放棄されている戦車などの撤去と言った危険な重労働をドイツ人捕虜に労役として課していたのだ。

 又、手頃な労働力として危険物撤去作業後には、こちらも戦争で破壊された橋や道路、鉄道などのインフラ再建にも投入されていた。

 食料や被服、医療などの対価をポーランド政府がケチる事は無かったが、それでも()()のだ。

 又、危険物の撤去作業からインフラの再建作業を行う事は1つのメリットがあった。

 ドイツ人俘虜労働者の労働、その質的な向上である。

 捕虜として強いられる危険作業。

 作業に投入された当初、賢いドイツ人は危険作業に対して本気は出さない ―― 特に、不発弾の発見や地雷の除去等は。

 等と気取っていた。

 監視役のポーランド人はドイツ語など理解出来まいと侮り、類似の内容を放言するモノすら居た。

 だが、そんな傲岸不遜と言ってよいドイツ人捕虜の態度も、地雷を撤去した筈の地雷原での道路整備作業が告げられた瞬間、霧散した。

 ドイツ人俘虜の誰もが顔を真っ青にして理解した。

 危険作業を監視していたポーランド人将兵が、ドイツ人俘虜労働者の手抜き的な動きを指摘し、或いは罰しようとしなかった理由を知ったのだ。

 ドイツ人俘虜は、自らの死刑執行装置を作り出したと言う事を。

 慌ててポーランド人監督に、作業のやり直しを要求した人間も居たが、その要求が通る事は無かった。

 何故なら当のドイツ人が口にしていたのだ。

 完璧主義のドイツ人が作業したのだ。

 もはや問題は無い、と。

 正しく自業自得であった。

 否、そこまで見通した上でポーランド人は対応していた。

 当然、その作業はドイツ人俘虜作業チームでも特に態度の悪い(あからさまに手を抜く)人間が選ばれての事であった。

 勿論、翌日に五体満足無傷で俘虜収容施設に帰れた人間は居なかった。

 そしてポーランド人は、この()()()()()()()の再発防止を目指して注意喚起するとして、全ての俘虜収容施設に公布したのだ。

 見事な一罰百戒であった。

 尚、このポーランドの対応(ブリテンの入れ知恵)に憤慨したドイツ人高級将校の一部俘虜が抗議活動(ハンガーストライキ)を実行したが、ポーランド政府は対応する事は無かった。

 個人の自由、個人の権利は認められている。

 故に、個人の選択を邪魔する積りは無い(死にたければ死ね)としての事であった。

 ポーランド政府の対応に、余りにも()が無いと憤慨するドイツ人俘虜も出たが、ポーランド政府が対応する事は無かった。

 言ってしまえば、無法なドイツによるポーランド侵攻によって生じた無辜のポーランド人被害者 ―― ドイツ軍占領下で行われたポーランド一般市民の被害に比べれば如何ほどの事は無いからであった。

 そもそもの話だ。

 命を懸けた抗議行動(ハンガーストライキと言うもの)は、ある意味で相手との信用(ある種のプロレス関係)があってこそであり、そんなモノはドイツ軍がポーランドの国境を蹂躙した時点で消滅していたのだから。

 ある意味で、ドイツ人はようやく自分たちの置かれた状況を理解するに至ったとも言えた。

 

 

――ソ連

 取り敢えず軍の行動を停止させ、軍紀の粛正を図る事となった。

 勝手な行動をした将兵の処罰も厳格化した。

 日本を筆頭にした国際連盟安全保障理事会(ジャパンアングロ)が本気で行動していたのだ。

 ドイツ人と並んで敵扱いされては困ると言うのがソ連政府の本音であった。

 只、転んでもただでは起きぬとばかりに、日本に対して支援を要請するのだった。

 軍の食糧事情を詳らかにし、安全保障理事会が求める水準(綱紀粛正)を達成する為、国際連盟には食料や燃料などの支援が必要だと訴えたのだ。

 ソ連軍の食料や燃料事情を知った日本代表は、そんな状況でドイツとの戦争をするべきでは無いのでは? と言う善意率の高い質問をした程であった。

 コレに対してソ連代表は、ドイツは国際連盟の敵である。

 そしてソ連は国際連盟の誠意ある加盟国である。

 故に、ソ連は軍が十分な余裕がなくとも国際連盟の敵を討つ為の協力を惜しむ積りは無いと断言した。

 大した態度(タヌキ振り)であった。

 無論、日本代表がソ連の本音を見抜けぬ筈も無かったが。

 とは言え、ドイツ戦争に於ける戦場外での被害の低下が日本(日本の世論)の意志である為、そこを攻める様な事は無かった。

 食料や燃料、それに被服などの提供を日本は約束するのであった。

 

 

――イタリア

 ソ連軍の侵攻が止まった事による()()を一番に被ったのはイタリア軍であった。

 フランスはドイツの東欧領解放を強く要求し続けており、イタリア軍が担当する領域は当初のソ連と折半が想定されていた頃の、単純に二倍になったのだ。

 イタリアの軍と政府の補給担当は顔を真っ青にしていた。

 とは言え、日本から届いた車両と物資によって不可能では無いと言うのが、ある意味で絶望であった。

 逃げ場は無いのだ。

 国際連盟に於いてG4に準じた大国(列強)と言う地位を持った対価とも言えた。

 尚、ソ連軍部隊が進出した結果、ドイツ軍とソ連軍、それに武装した現地住人(ユーゴスラヴィア人独立派)と言う三つ巴で滅茶苦茶な事になった旧ユーゴスラヴィアの安定化もイタリアは要求されているのだ。

 ムッソリーニの飲酒量が増えていくのも仕方のない話であった。

 世界に冠たるイタリアと言う名誉の対価、失われたイタリアの回復として、この過労状態は適切であろうか? と愚痴り続けていた。

 とは言え痛飲で無いだけマシだと、かつての同盟国指導者(ヒトラーとスターリン)であれば答えただろうが。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

173 第2次世界大戦-40

+

 ドイツ戦争西部戦線。

 フランス陸軍を主力とする戦力集団に於いて、ある意味で助攻的な役割を背負ってドイツ沿海部を担当していたのが日本の遣欧総軍欧州方面第1軍である。*1

 ブリテン軍と協調し、沿岸域からフランス軍の侵出を支えるのが主任務とされていた。

 その前提が崩れる事となりうる。

 無論、原因はドイツ戦争に於ける()()()()()()()である。

 正確に言えば、オランダに対する日本の信用であった。

 一部のオランダ人が有する反日感情に対する対応は、内政不干渉の原則により不可能である。

 だが、日本の本音として、反日感情を唯々諾々と受け入れる積りは無かった。

 日本政府と政府機関に日本連邦統合軍、それに()()()()が、不快感の表明に動いた(しっぺ返しを図った)のだ。

 具体的には、例えば戦災にあったオランダに対する復興支援(ODA)

 それまでは申請すれば通る緩さがあったのが、急に環境アセスメントや地域住民の賛成などと言った21世紀基準での手間(ハラスメント)を要求するようになった。

 民間企業に関して言えば、オランダ領インドシナで行う商業活動に於ける雇用で、現地住人とオランダ人の雇用比率を大きく変える方向に舵を切った。

 現地住人の方が現地情勢に詳しいと言う事が理由とされていた。

 又、雇用する際の思想チェックも重視される事となった。

 そして日本連邦統合軍である。

 遣欧軍第1軍に対して早期にエルベ川流域まで進出し、|北ドイツ平原一帯《ブレーメルハーフェン-ハンブルク-ホルシュタイン》を掌握する様に命じる事となった。

 目的は、大規模港湾の確保であった。

 現在の、オランダの港湾施設使用(使用料と言う特需)を打ち切ろうというのだ。

 この方針にオランダ政府は大きく慌てるが、日本政府から反日的オランダ人によるサボタージュとテロへの対策と言われてしまえば、強く拒否できなかった。

 実際、悪質なテロ行為は発生していないが、反日的オランダ人によるサボタージュ(作業内容の遅延等)が発生していたからだ。

 新しいオランダ領(ドイツ領土の割譲予定)が消えて以降、特に()()()()()()が出ていた。*2

 法に触れない嫌がらせ(不満の表明)

 日本が内政不干渉の原則に基づいて、それらの一部オランダ人に対応する事は無いと思っての行動でもあった。

 そして、だからこそ日本は一律に対応したとも言えた。

 

 

――ドイツ

 政治が四分五裂状態であり、まともな戦争が出来る状態にないドイツ。

 この状況下でヒトラーはハンブルク市及びエルベ川以西での積極的防衛を断念、戦力の再配置と徹底した要塞化防衛ラインの構築を図る事としていた。

 度重なる敗走によって重装備の喪失は深刻な水準に陥りつつあり、その補充はドイツでも随一の重工業地帯であるルール地域が失われた現在、ほぼ不可能と言うのが現実であった。

 戦争が始まれば、国境を接するフランスからの攻撃を受ける恐れありと考えていたドイツ政府は、重要な軍需関連企業のドイツ東部域への疎開を検討していたのだが、戦争の推移が余りにも早過ぎた為に対応できなかったのだ。

 又、日本連邦統合軍やフランス軍、ブリテン軍による徹底した物流インフラの破壊、乃至は混乱を目的とした爆撃も、それを助長する事となった。

 人は兎も角として、生産用の機材を持ち出す事は出来なかったのだ。

 その上で人員の枯渇(将兵の無許可離隊、投降)も大きな影響を与えていた。

 圧倒的な軍事力を誇る敵であるが、降伏すれば命は助かるのだ。

 そもそも政治的混乱によって、まともな軍事作戦すら立たないのが現状なのだ。

 そんな状況で戦意を維持して戦い続けられる程にドイツ軍将兵は人間を捨ててはいなかった(バーサーカーでは無かった)のだ。

 結果、ドイツ政府は守るべき国民 ―― 避難民を老若男女問わず国民突撃隊(Volks Sturm)へと徴兵する事となる。

 1000万と号する、ドイツ民族の試練への最終抵抗部隊(letzte Bataillon)であるとヒトラーは叫んでいた。

 だがそれは狂気では無かった。

 国民の血肉をもって時間を稼ぎ、ドイツ国内の統合を図りドイツの軍事力を再編し、そして抵抗力を示す事で国際連盟との講和を図る積りであった。

 ヒトラーは冷静であった。

 実際、ドイツ軍と親衛隊との対立は決定的であっても血はまだ流れ出していないのだ。

 和解(国内統合)の余地はあった。

 計算外であったのは、ドイツ戦争に於いて主導権を握っているフランスとポーランドは冷静では無いと言う事だろう。

 ドイツの滅亡無くして安堵無し。

 両国はそう、腹を決めているのだった。

 

 

――日本遣欧軍欧州方面第1軍

 本気となった日本の機械化部隊の攻勢は、ドイツ側の抵抗を許さなかった。

 先頭に立つのは勿論ながらクウェートから移動して来たばかりの第10機甲師団。

 金鯱(きんこ)師団と呼ばれた嘗ての姿を思わせるのは、砂塵に汚れた部隊章(しゃちほこ)だけと言う有様であるが、その様は日本連邦統合軍にあって別格である精鋭 ―― 陸上自衛隊正規部隊(JGF-ナンバーデビジョン)らしい、正に蹂躙であった。

 地上を往く戦闘機とすら評された10式戦車、その有終の美を飾るに相応しい機甲突破であった。

 側面をエチオピア帝国軍に預け、突破後の壊乱したドイツ軍の処理(捕縛と捕虜化)をブリテン軍に任せ、一気にハンブルクまで打通してみせたのだ。

 そして第1目的地たるブレーメルハーフェン市を降伏させた。

 第10機甲師団の進軍が余りにも早かったが為、住人の避難すら出来ない状態であった。

 ブレーメルハーフェン市市長は、ドイツ軍守備隊とよく協議し無血開城を決断する。

 この決断の背景には、海に展開していた、やまとを中心とした日本海上自衛隊の水上砲撃戦部隊の存在が大きかった。

 抵抗すれば処理される(焼かれる)だけ、と誰もが理解していたのだ。

 唯一、武装親衛隊(Waffen-SS)だけは降伏を拒否すると述べていたが、その意見が通る事は無かった。

 多勢に無勢、当然の話であった。

 だがあきらめの悪い武装親衛隊(Waffen-SS)指揮官は姦計を図った。

 ブレーメルハーフェン市とドイツ軍部隊が降伏宣言をするよりも先に、市郊外に展開した第10機甲師団に攻撃を行えば、なし崩しに戦闘状態に入る。

 戦闘状態に入れば、腑抜けたドイツ軍やブレーメルハーフェン市の人間も大ドイツ防衛の為に戦うであろうと考えたのだ。

 幸いな事に、それが為される事は無かったが。

 ドイツ軍部隊が先手を取って武装親衛隊(Waffen-SS)部隊を包囲拘束していたからである。

 ある意味で、ドイツの分断が生んだ幸運(ファインプレー)であった。

 ブレーメルハーフェン市の掌握によって、日本は港を得る事となった。

 補給路を再設定し、その上でゆっくりとハンブルク市及びキール市の制圧 ―― ドイツの海を奪う為に動いていくのだった、

 

 

――オランダ

 日本がオランダと距離を取る動きを示したと言う事は、オランダ経済に非情なまでの被害を与える事となった。

 特に海運(港湾)と物流面での事は甚大であった。

 日本が民心慰撫を兼ねてばら撒いていた高額な港湾使用料や倉庫代、物流に関わる雇用が消滅する事となったからである。

 生鮮食料品などの買い付けは行われていたし、安全な後方と言う事で部隊の休息などで歓楽街などは潤い続けたが、それ以外は一気に景気が悪化する事となる。

 日本と言う巨人の余波、それを存分に思い知ったオランダ人は、愚かな反日的オランダ人に対する強い反発をする人間が生まれたのと同時に、同じように強い反発を日本に向ける人間が生まれ、オランダ政治の強い対立軸となっていくのだった。

 それは、ハンブルク市の陥落に前後して、北ドイツ平原西部域が日本の国際連盟戦時特別信託統治地域となる事で決定的となった。*3

 

 

 

 

 

 

*1

 遣欧総軍欧州方面第1軍は、本ドイツ戦争に於いて日本が動員した20万人近い陸上戦力に於いて3割近い兵力を持った部隊であった。

 司令部(HQ)をオランダの首都アムステルダムに置いてブリテン軍との合同指揮連絡所を開設し、その指揮下には3個師団2個旅団を収めている。

 とは言え、その主任務は助攻 ―― フランス軍の側面支援である為、欧州総軍の数的な中核戦力と言えるシベリア共和国装甲旅団は配置されておらず、エチオピア軍部隊が編入されていた。

 エチオピア帝国から派遣されてきた将兵は現時点で10万人3個師団規模であった。

 これにMLシリーズを含む装備を提供(無償供与)し、装備を整えていた。

 1個が機械化師団。

 2個が自動化師団となっている。

 

 第10機甲師団

 第801機械化師団(義勇エチオピア第1師団)

 第802自動化師団(義勇エチオピア第2師団)

 第2海兵旅団

 第19機械化旅団

 

 

 尚、ポーランド方面に配置されている第2軍はシベリア共和国軍1個師団4個旅団と台湾(タイワン)民国軍1個師団で編成されているが、その悉くが完全充足の機械化部隊であり、ドイツ戦争東部戦線に於いて最も突破力を誇る戦力集団であった。

 とは言え、問題も抱えている。

 重装備部隊である為、燃料などの消費が莫大であり、その燃料の手配で連続した作戦の実施が難しいのだ。

 これは、補給段列の細さが原因では無い。

 整備部隊は勿論、トラックやタンクローリー車もふんだんに用意されていたが、ドイツ軍によるインフラ破壊が酷い為、通常の装輪車での行動に制限が掛かっている為であった。

 又、一部のドイツ軍部隊による後方かく乱作戦も実施されていた事も、その状況に拍車を掛けていた。

 

 第702機械化師団

 第711装甲旅団

 第713装甲旅団

 第715装甲旅団

 第717装甲旅団

 第301機械化師団

 

 

 余談ではあるが、第3軍も編成されており、ユーゴスラヴィア方面での作戦が行われていた。

 主力となるのはイタリア軍であるが、情報収集やかく乱、現地武装組織への支援などを担っている。

 イタリアから進出した第13機械化旅団は、予備的戦力の扱いとなっている。

 

 第1空挺団

 第13機械化旅団

 第111特務団

 第101ヘリコプター旅団

 

 

 解体され増派された部隊を基に3個軍として再編成された欧州方面隊とは別に、中東方面隊が維持されている。

 クウェート政府と折衝し臨時に広大な土地を借り受け、訓練や休息を目的とした役割を担っていた。

 第2空挺団

 第712装甲旅団

 第714装甲旅団

 第716装甲旅団

 第718装甲旅団

 第803機械化師団(義勇エチオピア第3師団)

 

 

*2

 日本政府はブリテン政府と相談し、国連安全保障理事会に対して両国軍が占拠したドイツ領の管理に関し、オランダへの委託を打ち切り、日本が行う事と変更していた。

 日本は当初、ブリテンとの共同統治を考えていたのだが、ブリテンが辞退した為に日本単独で行う事となっていた。

 

 ブリテンは余力が無いと言う事を理由として説明していたが、本音としては、これを足がかりに日本にヨーロッパ亜大陸での領土を持たせ、フランスを牽制しようと言う狙いがあった。

 自国(ブリテン本土)に近い場所に、巨大な存在が生まれるのはブリテンにとって不快極まりない ―― そういう話であった。

 無論、イタリアやポーランドへの様々な支援も、この国家戦略に基づくものである。

 G4(ジャパンアングロ)と言う括りに於いてブリテンはフランスを友好国と捉えてはいた。

 貿易相手として、そして世界中のブリテン連邦加盟国として隣国(フランス海外県)が安定している事は重要であるからだ。

 だが、その利益とは別の所にブリテンが持つ理屈(国防戦略)であった。

 

 

*3

 通常の軍政が敷かれない理由は、建前としては多数の戦争難民を保護する為に権限が必要であると言う事であり、フランス軍やイタリア軍による占領下のドイツ地域のモデルケースであると言うものであった。

 実際、余りにも多い戦争難民や、戦場に遺棄されていた高齢の現地住民などの保護と言う意味では、強大な権限が必要というのも事実であった。

 占領軍としての、日本連邦統合軍の武威を以て命令する事は簡単である。

 だが、日本は法治国家であるのだ。

 この為、法的な体裁を整える事は決して軽視するべき事ではないのだ。

 国際連盟安全保障理事会でこの事が決定した際、日本代表は重荷(面倒)を背負う事に非常にげんなりとした表情をしていた。

 尚、日本に苦労させられているイタリアとソ連の代表は、満面の笑み(ザマーみろの気分)を隠す事にかなりの労力を使う事となっていた。

 

 余談ではあるが、この事の真相としては、ブリテンによる政治工作であった。

 そして、後に真相を知った日本は、戦時特別信託統治領で必要とする生鮮物資などの政府購入に関してブリテン企業を外すと言う、小さな(手痛い)しっぺ返しを敢行するのであった。

 慌てたブリテン政府関係者に、日本の外交代表はシレッとした顔で「Jellied eelsが口に合わなかったのです(ブリテンの加工食品ノーサンキュー)」と答えたのだった。

 とは言え、日本はそれ以上の追撃は行わず、ブリテンも日本の反撃(しっぺ返し)を受け入れた為、それ以上の大事になる事は無かった。

 正に魔獣のじゃれ合い(リヴァイアサン・ゲーム)であった。

 尚、この際に動いた金額を見たイタリア ―― ブリテンに代わる仕入先となって棚ぼた的に得た利益(商取引額)を知ったムッソリーニは、G4(ジャパンアングロ)に与して正解であったとしみじみ思って酒を飲むのであった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

174 第2次世界大戦-41

+

 内憂外患と言う言葉を国家としたならば、ドイツ連邦帝国(サードライヒ)が正に似つかわしいと言うモノであった。

 とは言え、より現状を理解している人間であれば、ドイツを選択肢から外しただろう。

 最早、ドイツと言う民族国家は歴史上(過去形)の存在となる定めであると言うのがその論拠であった。

 実際、ドイツ戦争と言う名が国際連盟安全保障理事会の場で与えられた、国際連盟加盟国とドイツとの戦争は、もはや戦争の態を成していなかった。

 日本を筆頭としたG4(ジャパンアングロ)は勿論であるが、ポーランドやイタリアとの闘いでも、一方的な戦いになっていた。

 これは無慈悲なまでに徹底して行われている、G4(ジャパンアングロ)連合空軍部隊による戦略爆撃の影響であった。

 日本の偵察衛星を頂点とした戦略偵察機や高高度無人偵察機などによって収集された情報に基づいて効率的にドイツの戦争インフラを破壊し、ドイツ軍自体の無力化を図っていたのだ。*1

 鉄道に関しては線路は勿論ながらも操車場まで丁寧に爆破し、道路や橋も徹底的に空爆する。

 同時に、民間人への被害を低減する為、事前に爆撃予告を行っていた。

 チラシの配布や電子戦 ―― ドイツのラジオ電波をジャックして放送すらしていた。

 戦後を睨んでと言う部分もあったが、それ以上にドイツ国民に対してドイツ空軍は無力であり、ドイツ軍はもうドイツを守る力は無いと宣言する行為であった。

 これに、ヒトラーは激怒し、当初はドイツ空軍に抵抗を厳命していた。

 だが、その命令を果たす事は出来なかった。

 厳重な隠ぺい工作などによって、戦闘機自体は一定数は温存されていたが、如何せん、燃料が絶望的に不足していたし、そもそも飛び立った瞬間から捕捉され、爆撃部隊に随伴する護衛戦闘機に効果的に迎撃されるのだ。

 ドイツ側が用意出来るレベルのジェット戦闘機は、所謂ジェット戦闘機第1世代級が中心である為、既に第2世代どころか第3世代も見えているG4(ジャパンアングロ)の戦闘機に太刀打ちできるものでは無かった。 

 使用している航空機の差は絶対的であった。

 そもそも護衛戦闘機を何とか出来たとしても、完全にジェット化されたG4(ジャパンアングロ)の爆撃機を撃墜する事は勿論、妨害(ミッションキル)すら不可能であった。

 絶望的と言う言葉のみが相応しい状況。

 更には、どれ程に厳重に隠蔽されていた航空基地であっても、一度、戦闘機部隊を出撃させれば徹底的な爆撃 ―― 通常型爆弾に焼夷弾、果ては気化爆弾まで雨霰と降り注ぎ、文字通り()()するのだ。

 ドイツの空は、ドイツのモノではないのだ。

 ドイツの一般市民の心をへし折る事にも繋がっていた。

 

 

――イタリア

 戦略爆撃によるインフラ破壊は、イタリア軍の進軍を遅らせる効果があった。

 だがそれは、事前に国際連盟安全保障理事会から要求されていた進軍速度よりも遅くなる事は無かった。

 橋が破壊されていたとしても、事前に日本から提供されている仮設橋セットがあった。

 道路が破壊されていたとしても、事前に日本から提供されている大量の土木作業機械があった。

 食料は十分に補給されていた。

 燃料も十分であった。

 進軍を止められる要素は殆ど無かった。

 健気なドイツ軍が立ち塞がる事もあったが、圧倒的な航空支援があり、そもそもイタリア製の質と数に優れた装甲部隊と砲兵部隊が存在するのだ。

 機械化率と言う意味でイタリアはドイツを圧倒していた。

 イタリアは精鋭部隊を投入していたし、ドイツが東欧に配置していたのが二線級部隊であったとは言え、1930年代後半(イタリアの独ソ離反)の頃の両国軍の状況を思えば、何とも時代の移り変わりを示していた。

 その結果、イタリアに解放されていった東欧諸国は、重工業先進国としてイタリアを認識する様に成る。*2

 結果としてイタリアはバルカン半島を除く東欧を安定して掌握する事に成功する。

 だがバルカン半島だけはどうにもならなかった。

 ドイツ本国と分断されヤケクソになったドイツ軍部隊と、綱紀が乱れ本国からも半ば見捨てられているソ連軍部隊、そして各民族や組織ごとに乱立する武装抵抗組織や独立派と言う有様なのだ。

 ドイツ戦争の後半、イタリアの政治力と外交資産はバルカン半島の安定化に消費される事となる。

 

 

――ポーランド

 ドイツの混乱に最も乗じた国家はポーランドであった。

 既にポーランド領内に侵攻していたドイツ軍とSSの闘いは年を跨いで佳境を迎えており、混乱と戦力の消耗は手酷い事になっていた。

 ドイツ本国からの統制も失われており、ヒトラーが仲介をしようとするが現地部隊は自己の安全確保が為され無ければ、総統閣下の命令にも従いかねると宣言し、戦闘を継続していた。

 何ともドイツ的であった。

 交渉の為の安全確保は大事であるし、相互不信の酷さも仕方がない。

 だが、(ポーランド軍)を無視してする事では無かった。

 だが行ってしまっていた。

 それは、ある意味で逃避行動であった。

 ドイツと言う民族国家が消滅しつつあると言う現実を直視したくないが為の、ある意味で暴走(ヤケクソ)であった。

 そんな中にあって武装親衛隊(Waffen-SS)だけは局外中立を保ち、ポーランド軍との戦闘(抵抗)を真面目に行っていた。

 そして同時に、ドイツ軍部隊とSSに対する物資の補給を担っていた。

 何とも馬鹿馬鹿しい話であったが、ある意味でソレが武装親衛隊(Waffen-SS)の現実逃避であった。

 だが、それも年が明ける迄であった。

 ドイツ軍もSSも武装親衛隊(Waffen-SS)も、等しく現実を叩きつけられる事となる。

 ポーランド軍の本格的反攻作戦である。

 最終目標はベルリン。

 作戦名はTUNAMI。

 作戦会議に参加していた自衛官が、作戦規模を見て津波の如きと言い、それが採用されたのだった。

 ポーランド領内から全てのドイツを叩き潰し、押し流し、押しつぶす作戦であった。

 それはさながら、ドイツ終焉の始まりを告げるラッパ(ギャラルホルン)の如き響きであった。

 ドイツ崩壊(ラグナロック)の始まりである。

 

 

 

 

 

 

*1

 連合空軍部隊の運用、情報の提供と攻撃目標の指示は1945年に入って設置された国際連盟戦略空軍司令部が一元管理していた。

 司令部が設置されていたのはブリテン島である。

 ドイツの国内状況の把握や、ドイツ軍の情報を分析するなどの手間がある為に前線に近いフランスでは無くブリテンに設置されたのだった。

 建前としては。

 事実としては、日本が情報の収集と分析の為に自衛隊(日本列島防衛)向けの高度先進的な情報ネットワークの端末と情報処理システムを提供しているので、その機密保護を日本が強く要求した結果であった。

 フランスとしては、戦争指導の全てをフランスが握るべきだと述べ、その設置費用その他を全て提供するのでフランス国内に設置する事を要求したが、日本が拒否していた。

 政治的な理由では無い。

 軍事的な理由であった。

 フランス国内であった場合、ドイツの破壊工作部隊(フリーデンタール特殊戦隊)による侵入工作が警戒されたのだ。

 戦争中に、戦争相手国の特殊部隊に首都のど真ん中で洒落た事(エッフェル塔花束事件)をされたと言う前例が警戒された結果とも言えた。

 又、誰も公言しない理由として最新鋭のネットワークシステムである為、フランスやブリテンなどの非合法的な情報収集を警戒したと言うのもあった。

 日本は、自国の優位性を維持する為、情報の提供は行っても根幹となる部分の開示は決して行おうとはしないのだ。

 故に、ブリテン島の日本連邦統合軍施設が望ましいと日本が要求した結果であった。

 

 尚、国際連盟戦略空軍司令部はシステム周りこそ日本が完全に掌握していたが、その司令官はブリテン空軍の将官が務めており、参謀長はアメリカ人であり、幕僚及び情報分析スタッフとしてG4各国空軍の将校や情報技術者、博士号持ちの軍属が大量に入っていた。

 総数で1000名にも達すると言う大所帯である。

 これは、各国からの不満が出ないように細心の注意が払われた結果とも言えた。

 

 

*2

 東欧の解放者としてのイタリアと言う評価は、後にイタリアを盟主とした(祀り上げた)欧州の第3軸 ―― 欧州の覇者たるフランス、ブリテンを後ろ盾(ケツモチ)にしたポーランドによる中/北欧連合、と政治的に対立可能な国家連合成立の動きに繋がる事となる。

 欧州の盟主としてデカい面をして、欧州諸国に彼是と指図したがるフランス。

 フランスの邪魔をするのに全力投球なブリテンとポーランド。

 そんな地獄の真っただ中でバランスを取れと言われるのだ。

 ムッソリーニは、何が悲しくてフランスやブリテンと真っ向から対峙する羽目になりたいのかと嘆く事になるが、残念ながらソレを口に出す事は出来なかった。

 油田発見からの親G4路線、その結果としてムッソリーニが成功し過ぎていた結果だった。

 G4(世界的覇権国家群)に準じた列強、国際連盟の場で決して侮られることの無い強国にまでイタリアを成長させたが故の事であった。

 偉大なる我らがドゥーチェ(イタリアを束ねたる大立者)であれば、東欧の国々からの協力要請には応えるだろうと、ムッソリーニが対応を公表する前に勝手に国民が支持をしたのだ。

 国民世論を知ったムッソリーニは、その夜、痛飲した。

 そして、日本に泣きついた。

 日本連邦以外では、アメリカと並ぶ先進的な市場である欧州は日本にとっても重要であると判断し、その安定に協力して欲しいと述べたのだ。

 日本の世界戦略にイタリアと東欧を組み込んで欲しいと丸投げしたとも言う。

 ムッソリーニに煽てられた日本政府が協力を約束し、結果、実務を立案し担当する日本外務省職員は、その夜、痛飲する事となった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

175 第2次世界大戦-42

+

 ドイツ戦争東部(ポーランド)戦線がドイツ国内に入り込んだ時点で、事実上、戦争は終わっていた。

 歩調を合わせる様に西部(フランス)戦線が一気に東進を開始したからである。

 ドイツと言う国家の全てをつぶさに塗りつぶして進軍する両戦線の部隊。

 その速度は指数関数的に加速していく。

 ドイツ軍も武装親衛隊(Waffen-SS)も、武器弾薬も十分とは言えないが為に抵抗力を喪失していったからである。

 戦略爆撃の標的が、前線からドイツ全域へと変更された結果、どこの部隊であろうとも平等に物資不足に陥った結果であった。

 食料や燃料、その他。

 軍隊と言うモノは、存在するだけで物資を消耗していく。

 その消耗した物資の補給を全て潰されたのだから、部隊が戦わずして消耗していくのも当然の話であった。

 部隊の配置されていた場所によっては、食料はおろか水すらも満足に得られない事もあった。

 そんな状況で戦意を維持できる将兵は多くない。

 有り体に言えば士気崩壊(モラール・ブレイク)に陥っていっており、日々、脱走兵が発生する有様であった。

 戦争に勝利するどころか、戦闘にすらならない現状への絶望からの行動であった。

 取り締まるべき憲兵ですら日頃の(チュートン的)態度を捨て、ここで死ぬか他所で死ぬかの差でしかないなどと嘯いて見逃す有様となっていた。

 敗北主義と言う言葉は、誰も口にしなかった。

 ()()()()()()()

 個人の脱走と投降。

 小規模な単位での脱走と投降。

 そして、最終的には部隊単位での組織的降伏が行われる様になった。

 部下の為、或いは保護していたドイツ人難民の為に佐官級以上の将校たちも積極的に降伏する様になっていった。

 願ったのが安全。

 水、そして食料の支給であった。

 或いは医療サービス。

 それは同時に、国際連盟加盟国軍に対する信用であった。

 ドイツに対して感情的になっているフランスやポーランドも、最低限には人道的対応をしてくれると言う信用。

 それは、口酸っぱく日本が国際連盟安全保障理事会で主張した結果であった。

 無慈悲にドイツと言う民族国家を消す事と、ドイツ人の扱いは別にするべきと言う話の結果だ。

 それは慈悲や人道主義ではなく合理性であった。

 即ち、ドイツ軍や武装親衛隊(Waffen-SS)の残党に戦後、テロ等を起こさせない様にするべきと言う話であった。

 当初はドイツの政府や軍の人間を人民裁判にかける事(感情的報復の実施)を考えていたポーランド等の国々 ―― ドイツによって手酷い被害を受けた国家群であったが、その後の統治コストに関する日本の資料(試算)を見せられて考えを改めていた。

 又、日本が復興支援 ―― 低利融資や政府開発援助(ODA)、物資の低価格での売却を約束していた事も、人道的処置を受け入れる事に繋がっていた。*1

 慈悲深い、或いは無慈悲な国際連盟の態度を前にしては、ドイツ人たちのドイツと言う国家への愛情、或いは総統たるヒトラーへの信奉も無力であった。

 軍人も官僚も民間人も、その多くは心が折れて降伏した。

 だが、そうでない人間も居た。

 ヒトラーとその取り巻きと狂信者、そして諦めた人間たちは何かに誘われる様にベルリンに集まり、残った。

 それが、最後の闘いであるベルリン攻防戦に繋がる事となる。

 

 

――ベルリン攻防戦

 ドイツの消滅に抵抗する人間は、結局1万人近い数に上っていた。

 ヒトラーや党中枢の人間。

 武装親衛隊(Waffen-SS)やSS。

 国家社会主義(ナチズム)に心酔した人間や、G4(ジャパンアングロ)への拒否感を覚えている人間。

 最後に、ポーランドや東欧などの戦場で略奪や暴行などを行った戦争犯罪者たちである。

 大帝都などとも号していた華やかなりしベルリンは、今や行き場の無い人間の吹き溜まりと化していた。

 いまだ終わり(ラグナロク)を迎えていない理由は、単純にドイツの自壊速度に対して国際連盟側の進軍速度が負けていたからに他ならなかった。

 又、ベルリンを脱出した一般の難民対応が手間取っていたと言うのもあるかもしれない。

 とは言え物流は勿論、電気や水道までも止められている今のベルリンにとって、攻められないと言う事が果たして幸運であるかは議論を必要としていたが。

 路地を掘って作られた塹壕、廃材をかき集めて作られたバリケード。

 薄暗い其処で、焚火を焚いて過ごす人々。

 幾人ものカメラマンがこの時期のベルリンに潜入し、写真を残していた。

 暖を取る老若男女。

 高そうな、だが薄汚れた格好で銃を抱え込むようにして眠る男たち。

 女性も少なからず居た。

 スカート姿のままに弾帯などを身に着け、男どもに交じってバリケードに身を寄せている。

 炊き出しの、何が浮いているか判らないシチュー(ベルリン・シチュー)を啜っている写真もあった。

 その様は、正しく大ドイツ終焉の情景(アポカリプス・ナウ)であった。

 カメラマンたちはありのままの姿を写して回った。

 奇妙なほどにベルリンのドイツ人はカメラマンに対して友好的であった。

 酒や珈琲、或いは煙草といったお土産が効いたのかもしれないし、そうでないのかもしれない。

 少なくとも、見ただけで日本人と判るカメラマンですら、好意的に扱われていた。

 SSの腕章を付けたドイツ人ですら、掴まえようなどとはせずに見て見ぬフリをする有様であった。

 極々一部、今だ業務に誠実な(チュートン的価値観で動く)SSの人員も居たが、それでも日本人カメラマンを人目の付かない脇道に呼び出し、せめて帽子を被るなりフードを掛けるなりして誤魔化すべきであると()()をする程度であった。

 潜入工作員の類でないと見ていたのも大きいかもしれない。

 今のドイツとベルリンで、情報収集をされたとして何があるかと言う事であった。

 兎も角、何とも奇妙な空気と言えるだろう。

 脱出をしないのか? と問いかけたカメラマンも居た。

 国際連盟は脱出者を阻止しようとはしておらず、それどころか軍民を問わずにベルリンを出る事を促すビラを空から配り続けていたし、或いは空中散布された日本製の鉱石ラジオが街路の何処其処からドイツ語で降伏を促す音声が流れているのだ。

 しかも、その待遇は破格とさえ言えた。

 無条件で拘束されない。

 その後も、戦争犯罪その他をしていないなら放免されると宣言されていた。

 だが、残っていたドイツ人たちは疲れた顔で笑い、口々に意味が無い等と応えていた。

 ドイツは終わる。

 終わるドイツと共に消える積りだとも言っていた。*2

 そして終わりがベルリンに到達する。

 フランスやポーランドの国旗を掲げた戦車がベルリンのビルから見える所まで到達したのだ。

 最後の降伏勧告。

 24時間と期限の定められたソレを突き付けられたベルリンのドイツ人たちは、最後とばかりに銃を突き付けるなどして婦女子を無理矢理に退避させていた。

 託されたのはカメラマンたちだ。

 最後のベルリンを写し、そして婦女子を預かっていた。

 その数は100人を超えていた。

 トラックに分乗し、ベルリンを離れる。

 誰もが涙を流してベルリンを、残っている大人たちを見ていた。

 カメラマンたちも涙を流していた。

 そして終わりが始まる。

 爆撃と砲撃、そしてロケット。

 ベルリンを全て更地にする勢いで放たれるソレは無慈悲であり、合理的であった。

 科学と物量の前に、人の抵抗は儚いモノでしかなかった。

 だが、進軍は更に無慈悲であった。

 全ての建物が爆破され、火が放たれていた。

 瓦礫などに隠れ潜んで一矢報いようとする人間も居たが、日本が用意していた市街戦用のセンサーを搭載した無人車両(UGV)短距離偵察機(UAV)の群れによって発見され、無慈悲に狩られていった。

 それはベルリンを支配する為の闘いでは無かった。

 ベルリンを地上から消し去る為の作業でしか無かった。

 ベルリンに国際連盟軍部隊が侵入して6日目。

 ヒトラーの自決によって残存していた人員が降伏を選択。

 ベルリン攻防戦は終結する事となる。

 尚、終結時に生存していた人間は1000名を切っていた。

 そして、ベルリン陥落をもってドイツ戦争の終戦が宣言される事となった。

 無論、バルカン半島などで終戦宣言を受け入れないドイツ軍残党部隊も存在していたが、公式には戦争は終わる事となった。

 

 

 

 

 

 

*1

 日本がドイツ戦争で費やした戦費は余裕で3桁の兆単位を越えていたが、それが日本にとって大きな負担となる事は無かった。

 日本連邦の経済規模が巨大と言うのも大きかったが、同時に、爆発的な経済規模(税収)の拡大が発生していたと言うのが大きい。

 日本は戦争参加国に対して莫大な物資、機材の提供を行っていたが、それらは日本政府が民間企業に発注し、各国に売りさばく形であった。

 即ち、形としては()()()()()()()であったが、その金は派手に民間を回り、それが税収の拡大に繋がっていたのだ。

 又、余剰生産力を日本が抱えていたというのもその一助となった。

 シベリアを筆頭に、広大な日本連邦の領域の近代化の為の物資を生産する能力を転用出来た事が、戦後を睨んだ大きな投資を不要とした為、経済界への負担 ―― 戦後の黒字倒産(戦時対応生産力問題)を恐れずに日本政府の発注に応える事が出来たのも大きかった。

 そもそも、低利融資にせよ政府開発援助(ODA)にせよ、金は日本国内に還流するのだ。

 問題となるとは財務省官僚は考えていなかった。

 

 

*2

 いまだ戦意旺盛なSS、或いは憲兵などは、ベルリンを脱しようとする人々を敗北主義者と称して街路から吊るすと言う行為に及んでいたが、それが成功したのはごく一部だった。

 そして大半は、加害者では無く被害者となっていた。

 首からDummkopf(愚か者)と書かれた看板を下げて街路から吊るされるか、或いは街路の片隅で血を流して捨てられていた。

 誰もが終わりを前にして、素直になっていたと言えた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

176 新秩序への道-01

+

 ベルリンの掌握によって、事実上終結したドイツ戦争。

 とは言うが、簡単には終わらない。

 ヒトラーを筆頭としたドイツの政府首脳陣が軒並み死亡している為、降伏の手続きが出来なかったのだ。

 この為、既に捕虜になっていたドイツ軍高級将校(将官級将校)をドイツ臨時代表とする事となった。

 とは言えドイツ臨時代表の仕事は、降伏文書に調印する事と、戦後のドイツ処理に於ける責任を背負うと言うものであり、その不名誉さ故に伝統的ドイツ軍将官は軒並み固辞をする有様であった。

 結果、ベルリン陥落から2週間もの間、公式にはドイツ戦争は継続した事となる。

 最終的には、イタリア(南部)戦線で降伏した西方総軍C軍集団の司令官が総統代行に就任し、降伏文書に調印する事となる。

 元は歩兵(山岳)師団の師団長であったが、C軍集団の司令部が壊滅後にヒトラーとの親密さ故に昇格した人物であり、イタリア軍の攻勢に対して最後まで組織的抵抗を図った戦術家であった。

 その功績ゆえの国民的知名度*1と、非主流派(ユンカー)ながらもドイツ軍将兵の間では人気のある人物故に選ばれた事であった。

 残骸だらけのベルリンで行われた調印式の様子は、日本の手でスイスの国際連盟に生中継された。

 感慨深く、降伏調印式を見る国際連盟加盟国代表。

 ソ連代表は、次なるドイツ(国際連盟の敵)と自国が成らぬようにと決意を改めていた。

 イタリア代表は、かつての盟友国の末路に感慨深いモノを抱いていた。

 戦争に距離を取っていた中南米の国々の代表は、この中継自体に国際連盟筆頭国家群(ジャパンアングロ)との差を改めて感じていた。

 そして、それ以外の国家 ―― ドイツ戦争に関わった全ての国家にとっては、本番が始まると言う意識があった。

 外交(戦争)が始まるのだ。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

――ドイツ解体協議

 国際連盟の総会の場で改めてドイツの解体が宣言された。

 民族の自治と言う概念はあれども、世界大戦(WW 1914-1918)と今次戦争の惨禍を基に見た場合に、無条件でその理想を述べるのは如何なものであるか、と言う事である。

 G4(ジャパンアングロ)に対して臣従している訳では無いソ連が、控えめな反論を行いはした。

 だが、そのソ連とて民族国家と言う訳では無く、その支配下にウクライナを筆頭とした様々な民族国家の集合体である為、強い調子で批判する事は出来なかった。*2

 余り強く主張した結果、ではソ連も連邦に参加している国家の独立を認めるのですかと返されては堪らないからである。

 シベリアと言う領土規模と人口以上に重要な、豊富な資源地帯を喪失しているソ連に、G4への嫌がらせ程度の為に国土を失うと言う事は耐えられる事では無かった。

 仮想敵国と言う表現も生易しい関係にある日本(シベリア共和国)とフィンランドは勿論、ドイツ戦争を通して日本やブリテンからの豊富な支援を受けていたポーランドもソ連にとっては脅威的な国家であるのだ。

 この状況下で、国土が減る危険な行為(外交)など出来る筈も無かった。

 そもそもの話として、ソ連は国際連盟の主要国(常任理事国)では無いのだ。

 この為、その発言力も弱く、賛同する国家も居なかった。

 とは言え、その聞こえの良い主張は世界中の理想趣味者に届く事となり、その手の人間にとっての理想国家としてソ連の名前は広がる事となる。

 雑事は別にして、現状、ドイツの国土は4つに分割されていた。

 最大領域を掌握しているフランス管理域。

 東側のポーランド管理域。

 南部のイタリア管理域。

 そして北部の国際連盟(日本・ブリテン)管理域である。

 フランスとポーランドは共に、自国軍で掌握した領土の自国領編入を要求していた。

 対して日本とイタリアは、フランスかポーランドへの管理権の移管を主張していた。

 前者は兎も角、後者は灰燼と化したドイツ領の管理などと言う無駄金は払いたくないと言うのが本音であった。

 勝者が権利を放棄する。

 受け取る別の勝者が居る。

 であれば問題は簡単に解決する ―― それ程に問題は簡単で無かった。

 ドイツからの戦争賠償の問題に直結するからである。

 フランスとポーランドが強く反対していた。

 戦争に深く係わった国家が賠償請求権を放棄すれば、そのまま放棄しない国家への反発に繋がるからである。

 ドイツの国土分割は、戦災への賠償と言う側面もあったからである。

 戦勝国が賠償請求権を放棄した結果、ドイツと言う国家が生き残り、この先、又、ドイツ戦争の様な惨禍が発生しては問題であると主張したのだ。

 フランスにせよポーランドにせよ、ドイツから賠償を得る事が目的では無い。

 危険極まりない隣国を排除しよう(消滅させよう)と言うのが戦争目的なのだ。

 である以上、賠償を要求しないと言う態度は認められるものでは無かった。

 日本は面倒くさい事に巻き込まれたと顔を真っ青にしていた。

 そして事、この時点となってブリテンの全力で逃げに入った姿勢の意味 ―― 奸智に気付いた日本代表は、国際連盟の会議の最中にブリテン代表と食事会を行い、その席で遠回しに後で覚えておけ(意趣返しを覚悟しておけ)と告げるのであった。*3

 結果、取り合えずはドイツであった中欧地帯は4分割される事が決定した。*4

 この決定まで既に終戦から1週間が経過していた。

 ドイツ()()の再出発、その第一歩とされた記事が日本国内で発表されるや否や、日本国内の独系日本人が日本政府に対して旧ドイツへの人道的配慮を求めて動き出すのだった。

 

 

――日本/独系日本人

 日本国内に在住していた独系日本人で、かつての祖国 ―― 独国連邦共和国の事を覚えている人間は少数派であった。

 タイムスリップ時に日本に居た独国人の大多数は仕事などよりも旅行で日本に来ていた人間が大多数だったのだから、ある意味で当然であった。

 大人として見ていた人間は少数であり、タイムスリップから20年余りが経過しているのだ。

 血統的には純粋な独国人であっても日本で育ち、或いは生まれた人間なのだ。

 であればこそ、ドイツに対して強い同胞意識は無かった。

 タイムスリップ前の歴史での事とは言え、ヒトラーとナチズムによって国家がどの様な事をしたのかを知っていたのだ。

 ある意味で当然であった。

 我々はこの世界のドイツとは違うと言う意識、それは中系日本人や韓系日本人にも似たモノであった。

 だが、流石にドイツ戦争でのドイツ人の処遇に関しては思う所が出ていた。

 陥落前のベルリンのフォトレポートや、フランスやポーランドの支配下での過酷な扱い、そして一部オランダ人によるドイツ人への暴行問題が、その切っ掛けであった。

 人道的対応の()()である。

 要求では無い。

 意識の高い、言ってしまえば木で鼻を括った様な人間が多いと知られている独系日本人であったが、日本社会に於ける自分たちの立場と言うモノは理解していた。

 圧倒的少数派であると言う自覚。

 そして過度な要求をする愚、タイムスリップ直後の在日韓国人処分を忘れている人間は居なかったのが大きい。

 そもそも、大多数の独系日本人は日本の教育システムで育った、言わばメンタル的な意味で日本人そのものなのだ。

 国に、理想主義に基づいた過大な要求をすると言う意識は乏しかった。

 そして、()()()()()日本の世論を動かす事に成功した。

 ドイツと言う国家は自業自得であるが、人道的配慮は大事であると言う認識が生まれたのだ。

 最終的に、この国内の世論あればこそ日本政府はドイツの信託統治領としての管理を積極的に行う事に同意したとも言えた。

 

 

――イタリア

 日本と同様に旧ドイツ人に対して人道的対応を行っていたのはイタリアであった。

 当然ながらも、ドイツに対する親近感などが理由では無い。

 圧政を敷くだけの利益が無いからである。

 イタリアにとって、ドイツの領土は文字通りの不良債権であった。

 戦争の際、そのインフラの悉くを潰す戦争をしているのだから当然の話であった。

 水や食料その他、悉くが枯渇しており、それを運ぶ手段すらも十分では無かったのだ。

 戦時中に日本から潤沢に与えられていた支援が、戦争終結に伴って途絶えたと言うのも大きいが、それ以上にイタリアが支援するべき対象が、東欧(旧ドイツ領)も含まれていたからであった。

 馬鹿げた量のトラック群(MLシリーズ)を与えられてはいたし、その燃料と言う意味ではイタリア領リビアによって不足は無いのだが、それでも管理するべき領域が広すぎていた。

 そして何よりも、今だ戦火の止まぬバルカン半島があるのだ。

 イタリア人は、ドイツ人に対して注意を割く余力が無いと言うのが本音であった。

 関心が無いからこそ、イタリアの管理下に入ったドイツ人は被害を受けなかったのだ。

 

 

 

 

 

 

*1

 劣勢であったドイツ軍にあって、格下に見ていたイタリア軍相手であっても、一方的に敗北していないと言うだけでヒトラーは称賛し、その功績を国民啓蒙・宣伝省が盛んに宣伝していたが故の知名度であった。

 尚、賞賛された当人は、回顧録で負け戦だから必要とされたと、不本意であったと述べていた。

 

 

*2

 そもそもソ連には、ウクライナなどの近隣の国家だけではなくアフリカの信託統治領コンゴと言う民族的にも遠い国家(地域)が存在するのだ。

 大規模な派兵を行い、少なからぬ血を流している土地を、G4への嫌がらせの為に手放すなど論外であった。

 特に、金銀銅にプラチナやダイヤモンドなど豊富な地下資源の数々は、シベリアを失った痛手を癒すモノと期待されており、ソ連にとって経済的発展の為に必要な()()()()()であった。

 

 

*3

 余談ではあるが、後の意趣返しの際に述べられた「Jellied eelsが口に合わなかったのです(ブリテンの加工食品ノーサンキュー)」と言う言葉から、Jellied eels事件等と笑いと共に語られる日本とブリテンの何とも言い難い外交の一幕に繋がる事となる。

 それ以上に日本とブリテンの関係がこじれなかったのは、ブリテンが日本に詫び入れとして中東産原油の売却価格の大幅な改定等を行った事が大きかった。

 又、日本にしてもブリテンとブリテン連邦は重要な外交相手国であった為、それ以上の事を行わなかったと言うのも大きい。

 

 

*4

 バルカン半島の安定化が要求されているイタリアは、これ以上の負担は負えないとばかりに本気で抵抗していたのだが、フランスと日本がイタリアを非公式折衝で呼び出して、笑顔(ガチギレ笑顔)で拒否権は存在しないと言えば、抵抗できる筈も無かった。

 イタリア代表は全てを飲み込んだような顔、鈍い瞳でSi(アッハイ)とだけ返していた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

177 新秩序への道-02

+

 戦後の中欧(旧ドイツ)が4分割と為る事が決まったが、何処に分割線を設定するのかに関しては未だ具体的では無かった。

 新しい国境線となるのだ。

 判りやすい分割線が大事であると言うのがその理由である。

 後、日本とイタリアは少しでも自分の負担が減る様に画策(外交)していた。

 何とも喜劇的色彩を帯びている分割協議であったが、そこに手を挙げる国家があった。

 オランダである。

 旧ドイツからの賠償としての領土割譲を要求してきたのだ。

 とは言え強行的な態度ではない。

 ある種の自業自得と言う形で、旧ドイツ領(日本の管理区域)の一部割譲を受ける権利を喪失したとの自覚がオランダ政府にはあるからだ。

 だが、国内世論(感情)がドイツ戦争によって荒廃した国土への賠償を強く要求したのだ。

 賠償その他、ドイツ戦争での戦災問題を担う国際連盟安全保障理事会ドイツ戦争処理委員会としては、オランダには旧ドイツ海軍艦艇の提供その他を行う積りとしていたが、それに納得しなかったのだ。

 仕方のない話である。

 国際連盟としては、ドイツ戦争を終結させる事に大なる影響を担ったG4(ジャパンアングロ)に比べてオランダは役割を果たしたとは言い難い為、軽視する所があった。

 だが、オランダからすれば話は別である。

 国際連盟加盟国としての役割を果たした ―― 国内を戦場として、戦争初期にはドイツ軍の攻勢の一端を受け止めたのだ。

 その功績には報いて貰わねばならぬと言うモノであった。

 実に、オランダの国内世論(感情)であった。

 同時に、安全保障理事会のみならずG4でも、オランダの気持ちは判ると言う部分もあった。

 感情と言うのは合理ではないのだから。

 とは言え、なら旧ドイツ領の割譲を、と簡単にはいかないのは、人道問題があった。

 オランダ人憲兵の引き起こした問題もあったが、同時に、オランダ国内のドイツ系国民に対する排斥行動が散見されたのだ。

 運動と言う程に大きな流れ(ムーブメント)とはなってはいないが、それでも座視すれば深刻な問題を引き起こし兼ねないと危惧される程度には、危険な状況であった。

 その状況は、ドイツ嫌いのフランスをして、その儘の割譲には危惧を覚える程であった。

 負担を減らしたいだけの日本は言うまでも無いだろう。

 楽になりたい。

 だが、楽をする為に不幸を生むのは御免被ると言うものであった。*1

 とは言え、ドイツ戦争で国際連盟加盟国として役割を果たした(血を流した)と言えるオランダが、その義務(槍働き)への対価が欲しい言えば、それを全否定するのも難しいのだ。

 その果たした役割がG4(ジャパンアングロ)は当然として、イタリアやポーランドにも劣るとは言え、血を流したと言う事実は重い。

 結果、話し合いは紛糾する事となる。

 それでも拗れなかったのは、オランダ政府が自国民のやらかしを理解していたからであった。

 だが、それ故に解決に至るまで時間を消費する事となる。

 

 

――ポーランド

 旧ドイツの領土分割に関してやる気の無い日本とイタリアとは違い、ポーランドは本気であった。

 欧州の雄として飛躍する為、ドイツの人や産業を可能な限り吸収する積りであった。

 別段フランスその他、G4と対立しようと言う訳では無い。

 だが隣国にして伝統的敵国たるソ連は健在なのだ。

 ソ連から国を守るためには、ポーランドは国力を更に高めねばならないのだから。

 とは言え、過度過大な要求を出す積りは無い。

 ドイツを切り取り合う国家は、フランスであるからだ。

 G4(ジャパンアングロ)の一角であり、ヨーロッパ亜大陸の雄国であるのだ。

 その機嫌を損ねる事は些か以上に悪手であった。

 それ程の国力差をポーランドもフランスに対して感じていた。

 だからこそ、()()()()()となるのだ。

 その為にポーランドはブリテンに接近していた。

 ブリテンがヨーロッパ亜大陸にフランスの1強体制が出来上がる事は望んで居ないと言う事を、ドイツ戦争以前からのブリテンとの外交で理解しての事であった。

 対価としてポーランドは、海軍の整備に関してブリテンの影響下に入る事を約束していた。

 駆逐艦以上の大型艦はブリテン製を購入するし、その作戦行動に関しても()()()()()()()()()()()()

 そして、ポーランドの港湾の優先的使用権も得られるとしていた。

 ポーランドとしては大きな譲歩であった。*2

 これ程の努力をしているポーランド。

 とは言え、G4並みの覇権国家になりたいと思っている訳では無い。

 だが、G4から一方的に下に見られるのは国家の矜持として受け入れがたい。

 そう言う話であった。

 故にイタリアの様な、準G4と言える位置にまで国家を育てる積りであり、であればこそ、バルト3国や北欧諸国との間で連帯を強化しようとしていたのだ。

 

 

――アメリカ

 ドイツ戦争に関して、誠に積極的では無かったG4はアメリカであった。

 1943年にチャイナとの戦争を終えたばかりであり、名誉も利益も得ていたのだ。

 である以上は、旧世界(ヨーロッパ亜大陸)と言う過去 ―― 経済的市場としても旨味の少ない場所で血を流す必要性を感じないのも当然であった。

 アメリカはG4の一角と言う認識は抱いていたし、世界の主導的地位に居ると言う自覚もあったが、その先とも言えるアメリカによる世界秩序(パクスアメリカーナ)等は面倒極まりないと欠片も関心を抱いていないのだから当然であった。*3

 取り敢えずアメリカは、フロンティア共和国の経営と開拓に満足していた。

 そしてフロンティア共和国を介してのシベリア開発に自由に投資できる事も、アメリカの経済界を満足させる状況であった。

 最先端、或いは大規模機械化と言う意味では日本に対して勝ち目のないアメリカであるが、そんなアメリカでも戦える部分はある。

 そして、その利益もかなりのモノであるのだ。

 である以上、既得権益体制が組みあがっているヨーロッパ亜大陸に旨味を感じないのも当然の話であった。

 只一つ、ドイツ人問題を除いて。

 人権問題に対する意識では無い。

 難民となったドイツ人、それを発展に伴う人手不足な面のあるフロンティア共和国やアメリカ本土で受け入れても良いと言う話であった。

 フランスやポーランドの下に入りたくない。

 裏切り者であるイタリアの下に入りたくない。

 異教にして異民族(非コーカソイド)である日本の下に入りたくない。

 だからこそ、故郷を離れる事にも躊躇は無い。

 そう言う人間は一定数居た。

 それらの人間はアメリカの声掛けに喜んで手を挙げるのであった。

 

 

 

 

 

 

*1

 日本の国内世論も、独系日本人による希望(泣きつき)もあってドイツと言う国家は兎も角として、無辜のドイツ人に対しては同情的である事も、この日本政府の気分と言うモノを後押しした。

 国会では、野党が旧ドイツ国民に対する政府の姿勢を問う事となり、外務大臣から旧ドイツ国民へ最大限に配慮すると言う文言を引き出す事に成功していた。

 

 

*2

 大陸国家であるポーランドにとって、海軍はそう大きな存在では無いにも拘わらず、ブリテンが対価として受け入れたのは、ポーランドを介して北欧の6ヶ国を影響下に置けると言う事を評価(査定)しての事であった。

 ヨーロッパ亜大陸(フランス1強体制)に打ち込む楔として、イタリアとは別のモノを求めての事であった。

 そもそも、イタリアがフランスに転ぶリスクもあるのだ。

 分散と言うのは大事であった。

 又、形としては反共連合的関係にする事で日本の支援も引き込む事も考慮されていた。

 ブリテンと言う国家は誠に攻勢的(アクティブ)なプレイヤーであった。

 

 

*3

 国際連盟安全保障理事会などの場での態度から、アメリカが()()()()()()()()()()を抱いていない事に日本政府は納得と安堵をしてはいたが、同時に疑問をいだいていた。

 その為、内閣府の諮問委員会や、グアム共和国軍(在日米軍)に設けられている分析研究機関(シンクタンク)に確認を依頼した。

 外交などで、相手の意図を理解しないと言う事の危険性を把握すればこそであった。

 日本は広大なシベリアを得た結果、強大と言って良い国家へと拡大する事となっている。

 だが、その日本をしても、タイムスリップ前のアメリカの成長余力は脅威であり、本気で覇権国家への脱皮を図られた場合、時間は掛かっても対等な場所に駆け上がってくるだろうと認識していた。

 日本の知る米国とはかくも恐ろしいものなのだから。

 今の日本の要職に居る人間は、嘗ての日米間で行われた政治的対立と暗闘めいた応酬を直接見聞きしていた最後の世代なのだ。

 故に、米国/アメリカに対して強い親しみを覚えていても、同時に、心の底での警戒感は拭い去る事の出来ない部分があった。

 その点では、グアム共和国軍(在日米軍)の退役した元高官ですら同意する部分があった。

 情報漏洩に対する細心の注意を払って行われた、だが、出来る限り急いで行われた研究。

 そして検討会。

 得られた結論、それは、アメリカが大きく血を流していないからと言うモノであった。

 戦争被害が少ない為、アメリカの本土も日本と同様に平和であり、経済的影響すらも乏しかった。

 だからこそ、有権者たちは戦争の対価を求めなかったのだ。

 死んだはずの親兄弟子ども。

 その対価、或いは死ぬに値する大義と言うものが必要とされなかったのだ。

 だからこそアメリカと言う国家は、超大国へと進もうとはしなかったと説明されていた。

 又、グアム共和国軍(在日米軍)を介して米国の戦後の苦労と、白人国家としての米国の終焉を知らされていたのも大きい。

 如何に開明的(リベラル)な人間であっても、(アメリカ)と余りにも違う未来(米国)になりたいかと言われては、簡単に頷けるものでは無かった。

 黒人差別その他、アメリカに改めていくべき部分はあったが、ではその果てとしての米国の姿は理想であるかと言われて、諸手を挙げて同意できなかった。

 そう言う事であった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

178 新秩序への道-03

+

 旧ドイツの資産分割による、国際連盟加盟国の参戦国に対する戦費支払いに関して、問題となったのは余りにもドイツが貧しいと言う事であった。

 工業力で言えば日本は勿論、アメリカにも遠く及ばず。

 科学力も言うに及ばず。

 又、ブリテンやフランスの様な海外領土も殆ど無いのだ。

 だからこそ、ドイツ人の王道楽土(レーベンスラウム)を望み、国家拡大政策に奔走したとも言えるだろう。

 兎も角として、戦費などの賠償に回せる資産は少なかった。

 それが旧ドイツ領の分割、その正当化にも繋がるのだからフランスなどからすれば痛し痒しと言う所であった。

 そんなドイツにとって、唯一と言って良いレベルで換金性が高いのがチャイナ資産であった。

 青島を含んでの山東半島。

 そして中国から買い取った資源権益である。

 チャイナ民国は、それらの権益の返還を要求した。

 だが、戦争への貢献も無い国家のたわごとであるとばかりに無視される事となった。

 当初は鉱山などだけでも武力にて解放しようとも画策したのだが、それはアメリカが国際連盟安全保障理事会の要請を受けると言う形で抑止する事となった。

 アメリカ海兵隊が展開していた。

 展開力に優れ、同時に組織の役割と言う意味で存続の危機に瀕していたアメリカ海兵隊は、二つ返事の勢いでチャイナの各地に展開し勇名をはせる事となっていく。

 ユーラシア安全の守護者。

 後にアメリカが担う、綽名の始まりでもあった。*1

 最終的に、それらの資源権益は適切な価格で売却され、或いは賠償金代わりとして主要参戦国に分配される事となる。

 問題は、山東半島であった。

 突如として中系日本人が、山東半島は日本が占領したものであるので、そのまま日本が掌握し、日本連邦の邦国として再発進するべきであると主張を開始したのだ。

 より詳しく言えば、中系日本人が移住し、その自治国が欲しいと言う要求であった。

 

 

――日本/内政問題

 タイムスリップに巻き込まれた結果、中系日本人となった人は現在で80万人規模となっていた。

 若い世代を中心に、タイムスリップの原因もあって差別を受けない為の日本人化を強く進めていた。

 その努力は、コリア系日本人と並んで、日本人よりも日本人らしいと言う評価が為されている辺り、実っているとも言えた。*2

 だが、今、唐突に山東半島と言う故郷に近い土地を得られるかもしれないと言う可能性は、その中系日本人に大きなインパクトを与える事になったのだ。

 永久に眠るのであれば曾祖父の地が良い。

 ある種、当然の感情であった。

 とは言え、大きな感情を動かす事となったのは60代以上の、嘗ての中華人民共和国を覚えている世代の一部だけであったが。

 それ以下の世代は、日本人化を熱心に続けた結果、かつての祖国を忘れる様になっていた。

 又、政治的な問題もあった。

 中系日本人がチャイナと近い場所で自治権を得た国家を作る事の政治的なリスク ―― 情報漏洩の窓口に成り兼ねないと言う問題である。

 日本政府は、このリスクに対してかなり神経質になっていた。

 タイムスリップ前の時代での被害、中華人民共和国が行っていた情報戦の威力を正しく認識していたし、又、今の日本の力の源泉である技術力の漏洩に対して警戒していたと言う事も大きかった。

 とは言え総体としての中系日本人は()()()()()()()()()であり、日本への高い帰属意識と忠誠心を示しているが為、このリスクを公言する事のリスクも日本政府は認識していた。

 結果として日本政府は、内々で中系日本人の互助会に対し、事態が不快化しない為の協力を要請する事となった。

 結果、中系日本人互助会は内部の山東邦国主義(仮名)の内偵を実施し、その内情を把握した。

 状況の緊迫度合から手段を選ばぬ事となり警察、及び情報機関の協力の下で強引なモノも使われた。

 一部の、かつて韓系日本人が夢見た極彩色な欲望を持った人間は、様々な手段で排除された。*3

 只、故郷の地に帰りたいと言う願望を持った古老に関しては、別途、山東半島を得た国家と交渉し、特別墓地を作ると言う事で解決する事となった。

 

 

――オランダ

 誰が手にするのか、と言う点で国際的な紛争のネタとなった山東半島。

 本来であれば、正しく支配権を得られる日本、或いはアメリカが居るのだが、その両国が共に面倒くさいと言う態度であった事が混乱を深めていた。

 さもありなん。

 日本はチャイナと国境を接する事を面倒だと思った。

 アメリカは、飛び地になって物流網と言う意味では管理が面倒くさくなるにもかかわらず、旨味が少ないと言う事を重視していた。

 フロンティア共和国や、その入り口となるアメリカ合衆国準州として管理する遼東半島の経営で満足していたのだ。

 莫大な工業力を持ったアメリカにしても、広大なフロンティア共和国は飲み込むには余りにも巨大な獲物であったのだ。

 その上、チャイナ人民共和国と言う場所(準傀儡国家)もあるのだ。

 山東半島と言った僻地を欲する必要は乏しかった。

 対してそれ以外の国家にとっては利益の大きい場所(ドイツの最新式工業設備)であったが、少しばかり遠すぎる場所であった。

 ブリテンやフランスは流石に別格の海洋戦力と輸送船団を有していたが、それ以外の国家にとっては管理するのも一苦労と言う()()であった。

 利益はある。

 だが、経費もデカい。

 中々に分配先が決まらぬのも当然であった。

 結果、そこに手を上げたのがオランダだった。

 オランダ領東インドを所有している事が、ある意味で決め手となった。

 東南アジアから極東アジアまでは、欧州からの距離と比較すれば至近距離と言えるからだ。

 その上で、オランダは日本との相互安全保障条約の締結を持ち出した。

 別段に仮想敵国が居る訳では無い。

 只、オランダの都合 ―― 国内に親日本の空気を作る為の動機付けであった。

 大抵のオランダ人は日本を強大な(格上の)国家であると認識していたが、そうでない人間も居る。

 そう言う人間への対処の為であった。

 日本とオランダの秘密外交の場で、土下座する勢いで述べた結果、オランダは日本から満額回答を引き出す事に成功した。

 素直に泣きつかれると弱いと言う、日本人の特性が突かれた形とも言えた。

 とは言え日本にとっては持ち出しは無いし、親日国に自分からなりたいと言う国家が来るのだ。

 特に不利益と言う事は無い為、オランダへの配慮*4も行われる事となった。

 かくして、3つのオランダが出来上がる事となる。

 ヨーロッパ亜大陸、故郷としてのオランダ。

 東南アジア、本体としてのオランダ。

 極東アジア、先端となるオランダ。

 本体で資源を生み出し、先端で加工して売る。

 日本までの極ハイエンドでも無く、他のG4(アングロ)程のハイエンドでも無い、そこそこの国家が買いやすい武器や設備を製造する事で生きる道を見つけたのだ。

 オランダは機を間違えなかった。

 結果、新しい黄金時代に突入していく事となる。

 

 

 

 

 

 

*1

 なし崩しな形でアメリカがユーラシア大陸東部域の治安維持を担う事になり、アメリカの政府関係者は、その手間に頭を抱える事となる。

 G4統治体制(パクス・ジャパンアングロ)の確立によって戦争が遠くなる事を夢見ていたのに、と言う事である。

 軍事費を削減し、平和を謳歌する未来をアメリカの政治家たちは夢見ていたのだ。

 とは言え、アメリカの軍関係者は胸をなでおろすのであったが。

 酷い軍縮となる危険性を脱し、国家の守護者としての軍と言う存在を確立させたからである。

 特にアメリカ海兵隊は、規模縮小と言う危機を乗り越える事となっていた。

 その分、大統領の指示で何処であろうとも簡単に投入される立場となった為、苦労は絶えない模様であったが。

 

 

*2

 本質的な所で純粋な日本人は、食い物と安全が脅かされない限りに於いて鷹揚 ―― 或いは雑な所が強い為、強面なアジアな日本人のイメージは中系日本人やコリア系日本人が作ったとも言える。

 尚、食い物が絡んだ、或いは面子が潰された場合に、火力が一番大きく執念深いのは日系日本人であったが。

 

 

*3

 日本の治安維持組織と中系日本人互助会、対する欲望を抱いた一部の中系日本人の暗闘は、後に娯楽作品の大きな題材となる事となる。

 日本列島や、山東半島。

 果てはフロンティア共和国までが舞台となったが為、国際色豊かな配役が可能となり、任侠や武侠的な映画で使われる事となる。

 又、悪役としてチャイナ民国も良く登場していた。

 逆に、チャイナ民国で作られる映画では、悪辣な日本連邦に対して祖国回復運動が行われたと言う体の内容となっていた。

 尚、消費される火薬の量では、ノリノリで間に割って入って来たアメリカ映画(ハリウッド)が一番であったが。

 

 

*4

 安全保障関係に関して言えば共同訓練の実施と、日本製の武器の売却があったが、主となるのはオランダ領極東アジア(山東半島)の開発への支援(ODA)、そして高度技術産物の一部開放であった。

 オランダは、日本の恩恵を大きく受ける形で、G4(ジャパンアングロ)に準じる高度科学を手にしていく事となる。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

179 新秩序への道-04

+

 紆余曲折はあれども粛々と進むドイツの解体作業。

 その最中、ドイツの高等教育を受けた人材は、その去就を迷っていた。

 ドイツは、世界最先端国家群(ジャパンアングロ陣営)に比べれば劣るとは言え、それ以外の国家に比べれば格上と言ってよい科学技術を持っていたのだ。

 科学を信仰すると言って良いドイツに於いて、一角の地位にあると遇されていた人々。

 だが、ドイツの敗戦が全てを変えた。

 事実上4分割されるドイツ。

 新しい支配者である日本、フランス、イタリア、ポーランド。

 高等教育を受けた人間として遇される可能性があるのは、ドイツの遺産を最大限に活用する気満々のフランスとポーランドだけであった。

 対して日本とイタリア。

 共に、義理で管理する羽目になったと言う態度を隠していなかった。

 日本の場合で言えば、ドイツにとって重要な拠点であったキール軍港を管理下に収めているにも関わらず、その再建をしようと言う気が一切ない所にも現れていた。

 様々な支援の中には雇用も含まれては居たが、人足としてのソレであり、高等教育の類を受けた人間が行う仕事ではなかった。

 名誉も無く、地位も無い。

 只の人間としてしか扱われないのだった。

 イタリアはより酷く、管理区域での自治体に対して自給自足で行う事を要求していた。治安維持目的の軍駐屯もする気は無いと言う酷さであった。

 外交軍事の権限を制限するが、それ以外は自由にして構わないと言う扱いであった。

 良いことの様にも見えるが一切の配慮は行わないし、食糧支援なども有償で行う。

 公文書に関してもイタリア語のみで行い、ドイツ語訳を付ける手間(コスト)は掛けないと言う有様であった。

 ある意味で自由な管理。

 だがそれは、特別に保護しないと言う事をも意味していた。

 ドイツによって甚大な被害を被った東欧諸国民による報復から、イタリア管理ドイツ領域民の保護は行わないと言う事を意味していたからだ。

 尚且つ、治安維持を自分たちでせよとは言っていたが、支給される武器は精々が木の警棒であり、重装備は勿論、拳銃すらも与えられていなかった。

 結果、正体不明の武装した強盗団などの被害が頻発する事となった。

 警察は無力であり、治安は乱れていった。

 そも、ドイツ人同士での紛争すら頻発し、そこにドイツへの個人的憎悪を拗らせたフランス人やポーランド人、果てはオランダ人までが流入し、暴れていた。

 暴力、略奪、殺人、婦女暴行。

 何とも悲惨な状況としか言えなかった。*1

 コレでは高等教育を受けた人間として遇される以前に、人間としての尊厳すら維持されるかすら判らない状況であった。

 そも、移転可能な企業はフランス領乃至はポーランド領への移動を図っていたのだ。

 受けた高等教育を活かせる仕事が残るとは思えなかった。

 絶望的な状況。

 それが頭脳流出を生み出す事となった。

 ドイツ政府やナチス党と関係の浅い人間にとっては、アメリカやフロンティア共和国などの比較的ドイツ系に穏当な先進国があった。

 アメリカは移民の受け入れに関して、非白人系に対する門戸を狭めていたが、生粋のドイツ人であれば問題は無い。

 それどころか、日本の居る高みを目指して高等教育の充実を図っているのだ。

 手を挙げさえすれば、アメリカ政府関係者が即座に移民の手伝いに来る有様であった。

 だが、ドイツ政府やナチス党と関係が深い人間は別であった。

 とは言え、ドイツの領域で仕事を探すのも難しかった。

 何故なら一般的なドイツ人にとって、ドイツ政府やナチス党と近かったと言う事は、いわば()()とでも言うべき立場なのだ。

 どこにも生きるべき場所の無い人々。

 だが、そんな人々に手を差し伸べた国もあった。

 1つは南米諸国。

 国際連盟加盟国であり、親G4(ジャパンアングロ)であるが、隷属している訳では無いと言う意思を持った国家群だ。

 だが協力してと言う訳では無い。

 逆に、南米に存在する各国は対立関係を持っている側面があるが為、競ってドイツの頭脳を欲していたのだ。

 だが、ドイツ側からすれば十分では無かった。

 確かに良い待遇を受ける事は出来るだろうが、それでは不十分であった。

 ドイツ政府やナチス党に近かったと言う事は強い選良(エリート)意識をもっており、それが強い反G4(ジャパンアングロ)意識に繋がっていたからだ。

 日本に追いつくのは難しいかもしれない。

 だが、何時かはフランスやブリテン程度は打倒したい。

 そういう意識があったのだ。

 故に、残された選択肢は1つであった。

 ソ連である。

 ドイツの敵国の1つであり、ナチス党が言う所の劣等民族(ウンターメンシュ)であったが、G4(ジャパンアングロ)に対抗できる意志と国力を残した、言わば残された希望であった。

 少なくとも、ドイツ人側からすれば。

 無論、正直な話としてソ連側からすれば、一方的な反G4(ジャパンアングロ)の希望の押し付けは論外*2であったが、シベリア共和国の分離独立によって頭脳労働者の減少に悩んでいたが為、背に腹は代えられないとばかりに、思想的なアレコレを無視する事にしていた。

 

 

――ソ連

 ドイツ消滅によってソ連の主要仮想敵国(脅威国)となったのはポーランドであった。

 戦争は相手国の意志よりも能力に備えるものである。

 それ程の技術的な進歩と軍備拡張をポーランドは果たしているのだ。

 ブリテンの政策(反フランス主義)による産業支援と、戦争の刺激 ―― 戦争中に大量に入手できた日本製工業製品(MLシリーズ)を丹念に学ぶ事が出来たお陰で、ポーランドの産業界は長足の進歩を遂げようとしていたのだ。

 産業基盤の強化は、国土の半数が荒らされた状況であるにもかかわらずであった。

 これは、日本の戦災復興支援(特別枠ODA)によって道路や鉄道インフラ、そして発電所などの大規模整備が予定されている事も大きかった。

 特に、エチオピアと同様に、貸与される事となった核融合発電所(洋上型核融合発電所)が齎す良質で大量の電気は、ポーランドの国土の大多数を支えられるモノであった。

 国力と言う意味で、ポーランドの未来は果てしなく明るいのだ。

 その国力を背景とした軍事力の整備計画は、ソ連を明確に仮想敵国と指定していた。

 ソ連は、国際連盟の場で非友好的行為であるとして非難の声を上げたが、ポーランドが相手をする事は無かった。

 そもそも国際連盟自体、戦争行為自体は厳しく戒める所があったが、軍事力の行使は兎も角として整備に関しては内政不干渉の原則に基づいて関与しようとはしないのだから当然であった。*3

 加えて、ドイツ領の東部域を併合し欧州北部の国々を反ソ連と言う形でまとめ上げているのだ。

 ソ連がポーランドを深刻な脅威と捉えるのも当然の話であった。

 だからこそ、主義主張の問題を無視する形で、ドイツの頭脳労働者を好待遇で迎える事としたのだ。

 軍事面でもだが、国家の基盤的な工業などの振興に活躍していく事となる。

 問題は、ソ連の発展以上に欧州諸国の発展具合が著しいと言う事だろう。

 G4であるブリテンとフランスは元より別格であったが、ポーランドや北欧の国々、或いはイタリアと東欧諸国に日本の戦災復興支援(特別ODA)としての予算と物資が投下されているのだ。

 比較してのソ連の立ち位置は低下の一途をたどる事となる。

 この、余りにも酷い状況にスターリンは東欧の戦災復興を鎹として、イタリアへの接近を試みるのであった。

 後には東欧平和イニシアティブとして確立する協力体制であった。

 尤も、イタリアは明確に親G4(ジャパンアングロ)路線であり、その軸をブレさせる積りが無かった為、ソ連が望むほどの結果を得る事は出来なかったが。

 とは言え、ソ連とイタリアの連携が混乱した東欧諸国の安定に寄与したのは事実であった。

 但し、ユーゴスラヴィアを除いて。

 ある意味で東欧諸国の安定にはユーゴスラヴィアの安定が必要不可欠であり、であるからこそソ連とイタリアは同床異夢でありながらも、ある程度の関係を構築できたとも言えた。

 

 

 

 

 

 

*1

 日本の管理下では当然であったが、フランスやポーランドの管理下の地域でも永続的統治を目的として治安維持は積極的に行われていた。

 無論、陰に隠れての私的制裁や敗戦国民(2等国民)扱いは行われていた。

 平然とフランス人価格と、新フランス人価格と言う二重構造すら採用されていた。

 建前として、新しいフランス同胞への対応に必要なコストの付与としていた。

 フランス人も、ブリテン人のやり口を真似る事もあるのだった。

 

 

*2

 ソ連は、その国家戦略として日本は勿論として、G4(ジャパンアングロ)とすら積極的対立は望むところでは無かった。

 精々が、非友好的中立であった。

 国力の低下したソ連としては、武力による対峙はあっても積極的な敵意を見せる事の無い日本連邦(シベリア共和国)よりも、反ソ連を明確に打ち出しているポーランドの方が脅威度が高いが故の事であった。

 非合理的に、感情的かつ突発的には戦争を仕掛けて来る事は無い。

 そう日本を認識するが故であった。

 他人を信用しない事に於いて定評のあるスターリンであったが、毎夜毎夜と痛飲して恐怖を紛らわせ、日本は攻めてはこないと自分に言い聞かせて、ソレを国家方針に組み込んでいるのだった。

 

 

*3

 軍事力整備に於いて加盟国不干渉を基本とする国際連盟が、その基本を踏み越えて加盟国に対して枠を設けているモノが1つだけあった。

 核兵器技術体系(ニュークリアウェポン)である。

 核兵器とはコストパフォーマンスの良い大威力兵器であった。

 開発と製造に掛かるコストは膨大であるが、同規模の破壊力を通常兵器で達成しようとすれば此方も莫大なコストを必要とするのだから。

 ただ1発の原子爆弾と同等の破壊力を通常の爆弾で達成するには、何万tもの物量を必要とするのだ。

 ある意味で核兵器とは、()()()()()()()()()()()()()()()

 特に防衛目的であれば効果的であった。

 だが同時に、使用すれば地球環境 ―― 人類の生存域に甚大な影響が出る事となる。

 日本列島の様な自然の回復力が莫大な土地であれば、その悪い影響が長期間に渡る事は無いが、例えば降雨の少ない土地であれば地表に残った汚染が自然の力で除去される事は無いのだ。

 大威力兵器故の惨禍と言うモノはあったし、日本政府もその点をアピールもしていた。

 だが、戦争の惨禍と言う意味では、通常兵器のソレと過程は違っていても結果は同じ ―― 核兵器で一瞬で焼かれる事と、焼夷弾などで普通に焼かれる事の差は、被害者にとってみれば誠に意味は無いのだ。

 無慈悲に殺されると言う意味に於いて、全くの同一であるのだから。

 兎も角。

 日本は核技術の軍事利用に関しては、国際連盟での厳重な制限をするべきであると主張し、安全保障理事会で認めさせていた。

 尚、その核兵器の軍事利用を自粛する対価として日本は、国際連盟加盟国に対して核融合弾(純粋水爆)による無条件報復攻撃代行に関する協定を安全保障理事会と締結していた。

 コレは、国際連盟加盟国が核兵器による攻撃を受けた場合、ソレを安全保障理事会による監査と判定を経れば日本が核攻撃被害国の要請に基づいて全面核融合弾攻撃を実行すると言う、ある意味で狂気めいた協定であった。

 通称、核融合弾報復(ピースキーパー)協定である。

 この目的の為、日本は水中排水量40,000t級の核融合炉搭載潜水艦(SSBN)を就役させる事となる。

 機密保持の為、はりま型と言う名前以外は全てが非公開とされている。

 協定の名からピースキーパー級とも呼ばれる本潜水艦は、建造と運用は日本が担うが、乗員は日本人だけでは無い。

 その指揮系統に安全保障理事会から指名された特別監査官が加わっており、その護衛役としての武官も乗り込んでいた。

 

 尚、核関連技術の平和利用に関しては、日本は制限するべき等の主張はしていなかった。

 核融合炉に比べれば安価な原子力発電の開発と普及に関しては、地球環境の保全に資するとの判断あればこそであった。

 又、手頃な日本製の原子炉の提供(売却)も積極的であった。

 提供されるのは所謂第4世代原子炉。

 タイムスリップ前より開発され、営々と重ねてきた運用経験の結晶であるソレの提供は、ある意味で後発となる世界各国の原子炉開発意欲をへし折るモノであった。

 日本は、核の平和利用に関する研究を自由に行わせる事で、逆に、日本製原子炉の売却を成功させていた。

 この点を指して、反日本主義の人々は日本による核独占(ニューク・ルーラー)体制と呼んだ。

 尤も、技術的な意味での国産至上主義以外の面では、極めて安全性が高く、コストパフォーマンスにも優れ、何より管理に関しての透明性確保に日本が腐心していた為、反日本主義者(跳ねっかえり)以外で反発するモノは居なかったが。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

180 新秩序への道-05

+

 ドイツの消滅によってヨーロッパ亜大陸の殆どで戦火は途絶える事となった。

 ()()、である。

 ドイツの敗北と消滅後であっても戦火が止まらない数少ない場所。

 それがバルカン半島 ―― ユーゴスラヴィアであった。

 ドイツ軍の残党

 ソ連軍からの離脱者集団

 現地住人の民族毎の抵抗組織

 だが三者三様、と言う程には甘くない。

 ドイツ軍残党もソ連軍からの離脱者集団もひとまとまりな存在では無いし、抵抗組織も組織母体が各民族毎に行われているが為に抵抗運動と称する民族間での武力闘争も頻発しているのだ。

 地獄めいた紛争地となり果てていた。

 その入り混じり具合から、混乱の紛争(ザ・パッチワーク)等とも国際連盟安全保障理事会では言われる始末であった。

 幸いな事は、戦車や野砲といった重武装は補給物資や交換部品の枯渇によって早々に使用不能になっていた位だろう。

 大規模な殺戮などは発生していない。

 だが、だからこそダラダラとした武力行使の応酬が続いていると言えた。

 国際連盟が、ユーゴスラヴィア問題に積極的でない理由は、第一にはユーゴスラヴィアが国際連盟加盟国では無く、そもそも先ず一個の国家として確立していないと言う事があった。

 基本的に国際連盟とは独立した国家による集まりであり、国家の安全と繁栄の為の互助会であるから、未加入どころか国家ですらない地域の問題が主題とはなり辛かったのだ。

 そしてもう一つ。

 ドイツ戦争の一端として見た場合、ユーゴスラヴィアはイタリアの管轄であると言う事もあった。

 イタリアは国際連盟安全保障理事会の常任理事国であり、覇権国家の連合体たるG4(ジャパンアングロ)に次ぐ大国なのだ。

 その大国の専管事項に嘴を挟むのは、一般の国家にとって虎の尾を踏みに行く行為めいて居ると言うのが大きかった。*1 

 当のイタリアからすれば、勘弁してください。

 誰か助けて下さいと言うのが本音であったが。

 特に、戦時中よりも飲酒量の増え気味なムッソリーニからすれば、リビアの油を少し融通するから誰か手伝えと言うのが本音であった。

 特に深刻なのは、治安維持に入るべきイタリア軍の戦意だ。

 戦争中もそう高い訳では無かったが、それが戦後ともなれば極めて低かった。

 イタリア人の戦争は終わっているのに、何でこんなことをせねばならぬのかと不平不満を漏らす兵も少なからず存在していた。

 何とも当然の話であった。

 そもそも、ムッソリーニからして、何でイタリアがこういう責任を背負わねばならぬのかと不平不満を抱いていたから、公言するなとの口頭での叱責はあっても処罰される事も無かった。

 かつてはイタリアの繁栄の為に環地中海大帝国の建国、大ローマ=イタリアを夢見ていたムッソリーニであったが、リビアの油田を得てからの大博打(イタリアン・ダイナミック) ―― ドイツ・ソ連陣営への手切りと日本への身売りの対価が余りにも大きかったが為、その様な昔の事などすっかり忘れ果てていた。

 石油の売却益と、日本との優遇待遇での貿易は覇権主義が馬鹿馬鹿しくなる勢いで国を豊かにしていったのだから。

 そして、そうであるが故にイタリアの外での活動に魅力を見いだせないのだ。

 ユーゴスラヴィアで頑張ったと言ったイタリア軍の男たちが、イタリアの女たちにモテるとはとても言えない。

 それよりは、リビアへの出稼ぎ帰りか、日本が勢いよく買ってくれる自動車やバイク、或いはファッション関連の方が金もある事でモテるのだから。

 そしてイタリアの活動意欲の低さが、ユーゴスラヴィアの現状にも繋がっていた。

 他の、ドイツ戦争の後片付けとしてイタリアの管理下に入っている東欧諸国からすれば、内政不干渉めいて現地国家に委ねる(丸投げする)イタリアの姿勢は極めて有難いものであったが、このユーゴスラヴィアだけは逆効果となっていた。

 この状況に腹を立てたのはフランスだった。

 イタリアの管理地となったドイツ南方域での治安維持も含めて、国際連盟の代表での2国間会談にて叱責する事態となる。

 何故なら、ユーゴスラヴィアで発生した難民が流出し、それに玉つきされる様に東欧やドイツ南方域で難民が増えてフランスに流れ込みだしたからだ。

 難民は、最終的にはドイツ戦争の惨禍が限定的なフランス国内へ流入する様になっていたが、それ以外にもフランス領となるドイツ西方域でフランスによる現地支援物資を大量に消費する有様であったのだ。

 フランスからすればとてもでは無いが看過出来る話では無かった。

 フランス本土が荒れるのは我慢できないし、これから先はフランスに成って金の卵を産む鶏にせねばならないドイツ西方域が荒れて治安維持の為の追加投資が出る事も我慢できなかった。

 これから先のフランスは、アフリカのフランス海外県(植民地)の治安回復に予算を必要とするのだ。

 無駄な出費など受け入れられるものでは無かった。

 このフランスの行動が、ユーゴスラヴィアの状況を動かす最初の一歩となる。

 

 

――イタリア

 フランスの真面目にやれとの叱責に、重い腰を上げる事になったムッソリーニ。

 とは言え問題は軍、将兵の数でありやる気であった。

 ドイツ戦争終結に伴って動員令は解除しており、祖国の危機を乗り切ったのでとばかりに軍を辞める人間が大量に出ていたのだ。

 装備面だけならば、日本から大量に導入したアレコレ(MLシリーズ)によって現時点では世界有数の地位にはあるのだが、将兵がやる気が無いとなれば難しかった。

 そもそも兵卒は勿論、将校も結構な数の人間が軍を除隊している為、その再編成と言う問題もあった。

 そこでムッソリーニは知恵を絞った。

 結果、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、と結論付けた。

 イタリア領リビア(植民地兵からの動員)では無い。

 訓練を受けた、そして暇を持て余している将兵が大量に居る、と。

 旧ドイツ軍の将兵である。

 イタリアは、ドイツ軍将兵収容所にて人員の大々的な募集を行った。

 募集時には、作戦行動区域は旧ドイツ南方域、及びその周辺と言う形で行った。

 主要派遣先がユーゴスラヴィアとは欠片も書いていない、詐欺めいた募集内容であった。

 その事を募集後、部隊編成と訓練完結後に知らされたドイツ人傭兵部隊 ―― 特別治安維持隊は大いに文句を言う事となる。

 とは言え、装備自体は優良なモノが与えられ、弾薬や食料などの潤滑な補給と豊富な給与(危険地勤務手当)が約束された為、脱走する人間は少なかった。

 ユーゴスラヴィアの安定後に、除隊する際にはイタリア人に準じる待遇として扱われる事が約束された事も大きかった。

 再就職に有利となる、と言う事だ。

 特に好景気に沸くイタリア本土やイタリア領リビアなどで仕事を探すのであれば、大きな意味を持つ事であった。

 結果、最終的には旧ドイツ軍人以外にもドイツ南方域の若い男性などが志願してくる事となり、ドイツ人傭兵部隊は最盛期には40万もの数に達する事となった。

 又、投入される場所は紛争地ではあっても戦争では無いと言う事も心理的影響として大きかった。

 他人を殺せと言われる訳では無いのだから。

 無論、無法なドイツ軍残党やソ連軍の離脱者集団などを相手にする場合、交戦する可能性は高かったが、その場合、与えられている装備の差でかなり有利に戦えると言う算段であった。

 装備の差である。

 ドイツ人傭兵部隊にも、イタリアは最新装備 ―― MLシリーズを分け隔てなく装備させていた。

 とは言えそれによって別の意味で、士気は下がる事になったが。

 MLシリーズ、日本製の自動車や通信機などに触れたドイツ人傭兵部隊の将兵が、改めて日本製兵器と、かつて自分たちに与えられていたドイツ製装備との差を思い知らされての事であった。

 治安維持作戦に於いて重要となる兵隊を揃える事に成功したイタリアは、続いてユーゴスラヴィア人の各組織に接触し、このユーゴスラヴィアを纏める事の出来る人物を探す事とした。

 旧政府関係者、王室関係者は現地のユーゴスラヴィア人に否定され、最終的には抵抗運動の指導者が選ばれる事となった。

 その人物は、既に自分から各ユーゴスラヴィア人抵抗運動組織と連携を作っていた人物であった為、イタリアはそこに乗る事を選んだだけとも言えた。

 やる気を出したイタリア人の仕事は早かった。

 その様は、割と局外に居たアメリカ(ワーカホリック系ピューリタン)などからは、日頃から真面目にやれば良いのにと思う程の仕事ぶりであった。

 

 

――フランス

 治安維持戦にドイツ人を動員したイタリアを見て、フランスも自分でも行う事を考えた。

 投入先は勿論、アフリカである。

 ドイツ人が火を点けた場所なのだから、その責任はドイツ人が果たすべきであるという理屈でもあった。

 この為、待遇その他に関してイタリア程には優遇する事は無かった。

 それどころか無法めいた(でっち上げめいた内容の)軍事裁判を行い、収監していたドイツ人将兵に対して刑罰として、フランス海外県(アフリカ植民地)での治安維持活動を言い渡すと言う形にして戦後の保証その他をケチる有様であった。

 フランスとしては、ドイツが付けた火によってフランスの財政に大なる被害を出しているのだ。

 だから仕方がないと言う話であったが、刑罰として動員される旧ドイツ軍将兵からすればたまったものでは無かった。

 結果、フランス軍管理下のドイツ人部隊の士気の低さに繋がり、ユーゴスラヴィアとは違い、抵抗運動などの鎮圧の長期化を呼ぶ事となるのだった。

 尚、ブリテンはソレを見て、手を叩いて喜んでいた。

 

 

 

 

 

 

*1

 ユーゴスラヴィアに近いトルコなどは、この問題に対してかなり神経質になっており、国際連盟の場で、ドイツ戦争の処理の一環として優先して解決するべき問題だと主張した程であった。

 とは言え日本としても関与するべき法的根拠が乏しいが為、人道支援を行うのが精々であると返事をするに留まっていた。

 この為、トルコはユーゴスラヴィアの混乱がトルコへ波及する事への予防措置として、軍の近代化を選択する事となる。

 その為として、トルコの重工業育成と世俗主義(宗教と政治の分離)の徹底を推し進める事となる。

 口の悪い人間は、トルコ指導者の酒好きの本性が出たとも言っていたが、大戦争を間近で見て国力涵養の重要性を痛感していたトルコ人は、その政策に反対する事は無かった。

 又、医療分野も重視されていた。

 酒好きとして、命にかかわる経験をした事で、トルコの指導者は医療の重要性を身に染みていたとも言えるだろう。

 

 




2023.05.20 文章修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

181 新秩序への道-06

+

 アフリカ大陸。

 ドイツ戦争(World War 1944)の余波としての戦乱が収まって居ない唯一の大地であった。

 ドイツ、そしてNazis(親衛隊)関連施設を掌握した事で、1940年代を通してドイツが行ってきた不安定化工作の詳細を把握したフランスは激怒した。

 とは言え、報復するべきドイツはすでに無く、Nazisの関係者は別件で処罰していたので、拳を振り上げるどころでは無かった。

 そもそも、その様な事を考えている余裕などフランス政府には無かった。

 未だ戦火の絶えないフランス海外県(植民地)たるアフリカを安定化させる方が遥かに優先順位が高かった。

 国威、或いは威信と言う意味で、であった。

 同じアフリカであっても、ブリテンの支配下にある地域がある程度安定しているが為、国際連盟内でも比較されてしまうのだ。

 G4(ジャパンアングロ)

 世界を統率する帝国群の一角であり、国際連盟の敵であるドイツを打倒した最大の原動力たる大帝国。

 それがフランスにとっての自己の姿(理想像)であったのだから、アフリカ大陸の状況は不本意であり腹立たしい限りであった。

 更には、国際連盟の場でドイツ戦争終結式典が雑談の場などで各国代表団が、未だ国内(植民地)の安定化を図れないフランスの状況(konoza)事を揶揄する事も実に腹立たしい事であった。*1

 

 故に、躊躇と容赦のない武力鎮圧が選択される事となる。

 とは言え、ソレを成すには圧倒的な物量 ―― 人員が必要となる。

 フランスの支配領域(植民地)は、広大なアフリカの大地をブリテンと二分する広さがあるのだ、100万だの200万だのと言う程度の治安維持部隊で出来る事では無かった。

 アフリカの治安回復に、どれだけの労力(コスト)を消費する事になるのか。

 フランス政府は早急に検討を、日本(未来の知見)ブリテン(治安維持の成功者)の有識者を招聘して秘密裏に行った。

 時間が無い為、手早く、そして数値などに関しては粗いモノであって構わないと言うフランス政府の割り切りによって、その分析結果(レポート)はドイツの降伏から3週間も経ぬうちに出される事となった。

 そっけなく、フランスの未来図(Rapport.100ans)と題された内容 ―― 分析結果は、フランス政府関係者を青ざめさせるものであった。

 治安維持活動自体は成功する可能性が高い。

 だが、その対価として確実に、治安維持活動の成否を問わずに発生するのはフランスと言う国家の衰退であった。

 鉄道など(交通インフラ)も十分では無いアフリカで治安維持活動(独立運動の武力鎮圧)を実行する負担は、余りにも大きいと計算されていた。

 しかもドイツ戦争時の様に、例えば日本から格安で物資や装備が購入できない。

 装備はまだ良い。

 フランス製も必要十分な性能を誇っているし、生産で言えば併合した東フランス(旧ドイツ)の工業力も期待できるからだ。

 問題は、大量に消費する事になる食料や燃料などだ。

 食料はまだ良い。

 日本の技術協力(支援)によって生産力が格段に向上したアメリカやオーストラリアが、笑顔で売ってくれるだろう。

 問題は燃料だ。

 ヨーロッパ亜大陸に近い石油資源地帯の多くを支配しているのはブリテンなのだ。

 フランスからすれば、余り(全く以って)頭を下げたい相手では無い。

 否。

 この程度の不快感などは、問題では無かった。

 重要なのは、フランスと言う帝国内での東フランス人(旧ドイツ人)の影響拡大であった。

 そこには()()()()()()()()()()()()すら含まれていた。

 アフリカの治安維持活動にフランス人成人男性を投入する事でフランスの産業界から労働人口が奪われ、フランスの産業界は衰退する。

 その穴埋めに、フランスに編入した旧ドイツ領が活用される事となる。

 役目を果たしたのであれば、人は対価を要求する。

 フランス人としての立場の強化を東フランス人(旧ドイツ人)が言えば、却下する事は難しい。

 最短30年で、東フランス人(旧ドイツ人)のフランス大統領の誕生があるとすら書かれていた。

 この内容が、かつてのフランス領インドシナ同様の武断的処置に傾いていたフランス政府を冷静にさせたのだった。

 

 

――汎アフリカ警察連携機構

 武力蜂起に対しては、断固とした対応を取ると言う選択肢を手放す積りはないフランス。

 だが同時に、武力蜂起に必要な武器や資金などの流れを潰す事も大事であるとの判断から、アフリカ全域をカバーする警察の連携網構築を目指す事とした。

 独立運動に火を点けたのはドイツであり、最初の武器を提供したのもドイツであった。

 だが、それから後も、武力蜂起が継続している理由は、どこからか資金なり、或いは武器なりが流入しているからである。

 そう考えたのだ。

 アフリカは資源地帯であり、ダイヤモンドなどの換金力が高い地下資源などを密売すれば資金調達は容易である ―― そう日本が教えた(未来情報を伝達した)結果でもあった。

 そこまで来た時、フランスの理想主義の側面が出た。

 即ち、()()()()()()()()()()と言う目標が設定されたのである。

 この目標に沿ってフランス政府は、国際連盟安全保障理事会の場でアフリカに関係のある国家を招集し、小委員会を開催する事とした。

 フランス、ブリテン、イタリア、ソ連、エチオピア。

 そして日本である。*2

 巻き込まれた日本。

 特に外務省は、払う労力の対価 ―― せめての目標としてアフリカの脱暗黒大陸化の為、治安維持/警察機構の協力関係のみならぬアフリカの発展計画(Roadmap-AfricaCentury)をぶち上げるのだった。*3

 日本の反応に、関係諸国はアフリカが発展するのであれば利益であるとし、好評をもって受け入れるのであった。*4

 

 

――フランス装備開発

 治安回復に向けた硬軟の手段、その軟に関しては自治権の拡大その他も約束する事で独立運動予備軍を取り込む方針としていた。

 だがフランスは、覇権国家の1つ(ジャパンアングロの一角)として武断(武力行使)と言う選択肢を消す積りは無かった。

 それ故に、元ドイツ軍人やフランス領インドシナなどからの人員を動員しての大部隊を維持する積りであった。

 だが、その装備に関してフランスは満足していなかった。

 偵察力の低さである。

 ドイツ戦争で日本連邦軍と轡を並べて戦ったが為、日本が持つ機械的情報収集手段(各種センサー群)の性能を理解していた。

 だからこそフランスは、建軍予定の治安維持部隊たる大アフリカ軍(La Grande Afrique)向けの新装備を日本と共同開発する事を提案していた。

 16MCVなどを筆頭とした、装輪機動車両の開発である。

 重装備 ―― 戦車や装軌装甲車などを全廃する積りは無いが、アフリカの大地で要求されるのは高い戦略的機動力であるとの判断の結果であった。

 この要望に日本は、技術提供は出来ないものの各種先進装備(ミリ波レーダーやIRセンサー)の売却を約束する事となった。*5

 車両などはフランスが開発し、そこに日本製の機器取付とセッティングをすると言う役割分担である。

 戦闘偵察車両の開発がスタートする事となる。

 又、同種の偵察設備を搭載した哨戒/偵察用軽航空機の開発もスタートする事となる。

 

 

 

 

 

 

*1
 

 国際連盟の加盟国にとって、G4(ジャパンアングロ)は恐るべき国家群であり、世界の支配者面して好きに差配する鼻持ちならない覇権国家群(great powers)であった。

 その一角が、隙を見せているのだ。

 それはもう揶揄されるのも当然と言う話であった。

 

「世界は平和を取り戻し、秩序を取り戻しつつあるのに、かの偉大なG4の一角が遅れを取っているらしいぞ?」

 

「いやいや、そんな馬鹿な」

 

「我らが国際連盟加盟国、その筆頭にある安全保障理事会の常任理事国ですぞ! その能力を疑うなど、冒涜的ですな!」

 

 国際連盟の本部建物の何処其処で笑われたりもするのだ。

 ドイツを下し、ナポレオン時代以来の大欧州の盟主となったフランス! と調子に乗ってたフランス人にとってとてもでは無いが耐えられる状況では無かった。

 かといって、文句を付けようにも各国代表もさるもの。

 直接的な文言は選ばず、しかもフランスに伍する他のG4の傍で言うなどしていたのだ。

 個人的感情に基づいた態度が取れる筈も無かった。

 

 

*2

 最初の国々は当然であったが、最後に名前を挙げられた日本代表は本気で理解しかねると言う顔をしたのだ。

 アドバイザーとしてなら兎も角、そういう風に述べた日本代表に対して、フランス代表はエチオピアは日本の準保護国ではないかと返していた。

 実際、ドイツ戦争に投入された日本連邦軍の数的な意味で主力となった人員はエチオピア人(エチオピア軍)であったのだ。

 エチオピアは日本連邦の外郭国家(準加盟国)であった。

 とは言え、安全保障条約や貿易協定の締結などは行っていても、エチオピアは独立国家であると日本は認識していた。

 が、日本の抵抗むなしく、フランスとソ連以外の全ての国家から参加を懇願される事となる。

 特にイタリアは、フランスの強すぎる影響力(干渉)を抑える為には日本が必要であると熱弁していた。

 イタリア領ソマリランドなどは兎も角、繁栄の礎たるイタリア領リビアが混乱するのはイタリアと言う国家の繁栄を左右する事態となる。

 だからこそ、日本の参加を欲したのだ。

 G4であるフランスとブリテン以外が汎アフリカ警察連携機構で主導権を握る事は出来ない。

 だからこそ、両国が対立して洒落にならない事態とせぬ為であった。

 対して、エチオピアが深刻で無かったのは、最後の最後には日本を頼れる(ケツモチに出来る)と考えているからであった。

 かくして参加する事となった日本。

 その手間の対価として、日本は()()()()に対してアフリカの希少資源の国際取引に関する組織の設置に関する協力を要請していた。

 積極的に動いたのはイタリアであったが、思惑があり止めなかったのはブリテンと見ての事であった。

 今回に関して言えば、殆ど八つ当たりめいた日本の行動であったが、ブリテンは資源の安定した売買が可能になるのは利益であると判断し、協力を約束するのであった。

 様々な思惑と共に参加した国々。

 尚、ソ連。

 この国が気楽にしていた理由は、ソ連にとって不都合な状態ともなれば無視してしまえば良いと割り切っての事(ゴーイング・ソ連ウェイ)であった。

 

 

*3

 日本国外務省による、ヤケクソとも暴走とも言える大計画(Roadmap-AfricaCentury)は、当初は外務省内部でのうっぷん晴らし的な側面を持った計画であった。

 大規模な海外投資(ODA)を行う事で国内企業に恩を売り、利権(天下り先)を確保すると言う生臭い側面もあった。

 だがこの妄想的な議論に政治、そして総務省と経済産業省が乗って来た為に話が変わった。

 理由は、日本連邦の各邦国への支援がひと段落 ―― 最低限度の文化的生活を保証できる目途が見えて来た事によって、日本の経済発展を支えた消費が低迷する未来の回避である。

 即ち、日本国の莫大な余剰生産力の消費先としてのアフリカの有望性であった。

 尚、話を聞いた財務省、その古株(事務次官)などは顔を真っ青にした。

 かつて(タイムスリップ前)と違い、融資向けの財布たる外貨準備高(円換の困難なドル債)が無い状況で、積極的な海外融資は国の財政に悪い影響を与えると考えたからである。

 政治家への面談(ご注進)によって状況を変えようとする財務省であったが、残念ながらその努力が実る事は無かった。

 そもそも、意味が無かった。

 シベリアを支配下に入れた事で資源国となった日本。

 そして、ドイツ戦争でのMLシリーズの売却などを通して本格化した日本の先端技術製品の輸出が、日本を変えたのだ。

 或いは、1つ巨大な輸出品を得たとも言える。

 ()である。

 絶大な影響力を得た日本の通貨たる円は、基軸通貨(ハードカレンシー)の地位を獲得しており、世界は円を買う時代になっていたのだ。

 刷れば刷っただけ売れる円。

 かつての米国のドルの立場に、円はなっていたのだ。

 その事に気付いた財務省官僚たちは、安堵の息を漏らすと共に、財務省設置法の改正による役割の変更を考えていくようになる。

 余談ではあるが、財務省と同様に顔を真っ青にして、真っ青にしたままに成っている省もある。

 防衛省である。

 何か有ったら呼び出される(便利使いされる)事が目に見えていたからである。

 慌ててグアム共和国軍(在日米軍)関係者と協議し、米国海兵隊などの運用/投入状況などの情報収集に勤しむ事となる。

 

 

*4

 ブリテンだけは、このアフリカの発展計画(Roadmap-AfricaCentury)の未来 ―― 経済発展したアフリカが、真っ当にして穏当な手段での独立運動を行う可能性に気付いていた。

 その為、ブリテン連邦各国の連携強化に着手する事となる。

 又、反フランス仲間でもあるイタリアにも、この情報を提供し、イタリア領リビアの内地化を進める様に提案していた。

 尚、フランスは勿論、ソ連に対しては、それらの情報と分析の提供を行う事は無かった。

 

 

*5

 日本政府は、今後の世界の見通しとして、ドイツ戦争の終結後の世界は大規模紛争の勃発が余り無い平穏な時代となると見ていた。

 それ故に、軍需生産力を大規模に維持する事は考えていなかった。

 敵と呼べるのはソ連だけなのだから、当然の話であった。

 だからこそ、フランスへの装備の売却と言う形となったのだ。

 当初、フランスは日本製の装輪装甲車の導入も視野に入れていた。

 それを日本は断ったのだ。

 外需を前提とした軍需生産力の維持は不健全であると言う判断からである。

 又、日本の軍需産業界からしても、MLシリーズの様な形での売却は余りにも薄利多売過ぎていて旨味が少なかった。

 その上、海外への輸出となれば、ドイツ戦争時の様な売りっぱなしは出来なくなり、現地での運用支援(カスタマーサポート)が要求されるのが目に見えていた。

 それ故に、装備の売り切りで終わる技術協力(B to B)が望まれた部分があった。

 

 




2023.05.20 文章修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

A.D.1946
182 新秩序への道-07


+

 1944年に勃発し、1年近く続いたドイツ戦争。

 故に別名としてドイツ解体戦争や1年戦争などの別名が付けられていた。

 その中で、戦争に関わった領域の広さが世界大戦(World War 1914-1918)に匹敵する事もあり、国際連盟総会で正式に第2次世界大戦(World War Ⅱ)の名前が付けられる事となった。

 戦場となったヨーロッパ亜大陸、大西洋、太平洋、そして極東。

 関連してアフリカ大陸での戦乱もあったのだ。

 世界大戦の冠を付ける事に不足は無いと言うのが、国際連盟安全保障理事会での総意となる。

 誰もが、自分の参加した、そして勝利した戦争を輝かしい金の文字で飾りたいと言う事であった。

 そもそもドイツ戦争。

 ドイツ以外の被害が、特に民間人が被った被害が少ないと言うのも、この気楽な態度を後押ししていると言えた。

 それが、年を跨いだ1946年に大規模な戦争終結の祝賀式典を行いたいとの流れに繋がった。

 戦乱が治まり切って居ないバルカン半島や、今から鎮圧に取り掛かるアフリカ大陸(フランス海外県アフリカ群)の問題もあるが、正直な話として世界中はイタリアでも無ければフランスでも無いのだ。

 取り敢えず、自国に関わる部分が平穏となったのであれば無問題(世は全て事もなし)となるのも仕方のない話であった。

 又、フランスやイタリアも、一区切りと言う事は政治的に重要であったが為、反対する事は無かった。*1

 廃墟となったベルリンで盛大に行われる事となった陸と空の戦勝記念式典としての国際閲兵式。

 そして海は北海にて戦勝国際観艦式として開催される事となった。

 

 

――日本

 閲兵式への参加自体は問題はない。

 エチオピア軍などの撤兵は行われていたが、もとより万単位での将兵が遣欧総軍には所属していたのだからだ。

 重装備も十分であった。

 退役の始まっている10式戦車などは最後の花道だとばかりに、現場将兵から参加希望が出されてしまえば、上層部として受け入れざるを得なかった。

 そもそも10式戦車は実戦に投入されており、フランス軍を筆頭とした諸国の将兵もその姿と活躍を見ているのだ。

 機密保持の為、と言う隠す理由は流石に通らないと言うものであった。

 現場の声を遣欧総軍総監部が受け入れ、日本国連邦統合軍幕僚本部が受け入れ、そして日本政府が受け入れる事となった。

 であればとばかりに、陸上自衛隊はこの時ばかりはとヨーロッパ亜大陸に持ち込んでいた重装備の悉くを開陳する騒ぎへとなった。

 ある意味で日本も戦争が終わった事に浮かれていると言えた。

 そして連邦統合軍と自衛隊のみならず、この国際閲兵式には特別な要人が参加する事となる。

 日本国皇太子夫妻である。

 皇室関係者が日本連邦領域外に出るのは、これが初めての事であった。

 日本政府が発表した際、世界は衝撃を受けた。

 竹の御簾の向こうに隠されてきた日本の君臨者(エンペラー)が世界史に登場する、と。

 正式には天皇(エンペラー)ではなく名代としての皇太子(プリンス)であったが、世界から見れば同じ事であった。

 日本政府と皇室による歴史的、そして政治決断の結果であった。

 だが同時に、ブリテン王室を筆頭としたヨーロッパの貴族階級の人々による政治活動の結果でもあった。

 世界帝国群(ジャパンアングロ)の一角たる日本の象徴(皇室)を繋ぐ事の重要性を重視しての事であった。

 後の歴史家は、この皇太子の国際社会への登場(デビュー)をもって、日本が極東の異邦人から世界史の中央に迎え入れられたのだと表現するのであった。

 閲兵式が10式戦車や皇太子夫妻の参加で盛り上がった事で不満を覚えたのは、勿論、海上自衛隊と日本連邦統合軍海軍部隊である。

 此方も目玉が欲しいと言う話になった。

 皇太子夫妻は観艦式にも参加されるのだが、開催日は観艦式よりも閲兵式の方が先なのだ。

 目立たないではないかと関係者が立腹するのも仕方が無い話であった。

 この為、日本近海を離れる事の無かった秘蔵っ子たるグアム共和国軍(在日米軍)の総旗艦。満載排水量10万t級の超ド級原子力空母ロナルド・レーガンの派遣を決定した。

 実に大人げない態度と言えるだろう。

 ブリテンに置かれていた、国際観艦式調整委員会は頭を抱えた。

 既に派遣されていたしょうかく(68.000t級空母)でお腹一杯であった為、これ以上の参加は勘弁してほしいと言うのが本音であった。

 だが、それは中小海軍などの気分であった。

 海洋戦力に於いて不足の無いアメリカとブリテンは、手持ちの空母と戦艦とを総ざらいする勢いで参加させると元気になっていた(ハッスルしていた)

 面子と言う意味では決して負けられないフランスと、イタリアも大型艦艇を揃える事となった。

 南米諸国も青息吐息で大型艦の派遣を決定した。

 そしてソ連。

 他の大型艦を持っていなかったが為、修理の終わって居ないヴォストーク(鄭和)の派遣を決定した。

 甲板上の構造物は滅多矢鱈に叩かれていたヴォストーク(鄭和)であったが、至近距離からの戦闘であったので喫水線下の船体被害は大きく無かった事が、コレ(無茶)を可能としたのだった。

 とは言え現実として構造物は半壊状態である為、薄い鋼板だの合板だので加工した化粧(ハリボテ)めいた姿ではあったが。

 尚、ヴォストーク(鄭和)の正体が看破されぬ為、観艦式で甲板に出す将兵の半分をソ連(スラブ)人すると言う念の入った工作をソ連海軍は行っていた。

 尤も、その正体はG4(ジャパンアングロ)には知られていたが。

 アフリカ沖でドイツ海軍(モンスーン戦隊)に袋叩きにされたヴォストーク(鄭和)を善意でソ連のサンクトペテルブルクまで運んだのは日本連邦統合軍の傭船(重量物運搬船)であったからである。

 その際に至近距離でヴォストーク(鄭和)を見て、そして乗組員とも交流したが為、その正体を把握したのだった。

 そして勿論、アメリカとブリテンには伝達していたのだ。

 とは言え、今更にアメリカもヴォストーク(鄭和)をどうこうと思う所は無かった。

 既にチャイナとの戦争も終わっているからである。

 それどころか、同じ船乗りとして祖国では無い国の旗の下で戦って被害を出した事に哀悼の意を覚え、そして見事な戦果を挙げた事を評価していた。

 只、アメリカ海軍は少しだけ、そう、意趣返しと言う訳ではないのだが、国際観艦式の際の配置で、ヴォストーク(鄭和)の隣に、その捜索を行っていたキティホーク級哨戒巡洋艦(航空巡洋艦)を配置する事を要求していた。

 兎も角として、世界はこの2つの式典をもって一区切りとする積りであった。

 

 

 

 

 

 

*1

 フランスにせよイタリアにせよ治めるべき面倒事は極めて厄介であり、まだまだ時間を要すると言うのが正直な話であったが、戦勝記念式典に関しては実に積極的であった。 

 戦争終結後も続く厄介事があればこそ、()()()()()()()()()()()()()

 政府への支持率と言う事である。

 ドイツが生み出した面倒事は残っているが、それでも現政権は勝利者であり、上手くやったのだと宣伝しなければならないのだから。

 民主国家(フランス)にせよ独裁国家(イタリア)にせよ、国民の支持こそが国家運営の基盤だからだ。

 フランスは20年から続いた対ドイツ政策の堅持方針によって準戦時体制 ―― 挙国一致常態であり、政権交代が事実上行われて居なかったが為、国民の不満が蓄積していた。

 イタリアは言うまでも無い。

 独裁体制にとって、国民の支持を失う事は政治的権限どころか命すら脅かされる事を意味するのだから。

 ある意味、華美な戦勝記念式典は両国にとって望むところであった。

 

 




2023.05.20 文章修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

183 新秩序への道-08

+

 第2次世界大戦(ドイツ戦争)の終結、その区切りとして定められた陸海空による戦勝記念式典。

 併せて、陸の戦勝記念閲兵式の会場であるベルリンで平和条約を締結する事が決定した。

 国際連盟加盟国とドイツ(ドイツ臨時政府)との間で行われる正式な戦争終結と、ドイツと言う国家解体に関する条約である。

 既に日本、フランス、イタリア、ポーランドの4ヵ国による分割統治下にあるドイツにとっては事実の追認にしか過ぎない部分はあったが、それでも公式に国家消滅と言う事態を迎える事にはある種、判っていた衝撃とでも言うモノを与えていた。

 それに向けて旧ドイツ国内での人々の移動が本格化する事となる。

 国籍が完全に別れてしまう前に、家族の下へ移動するなどの動きであった。

 人口が労働力と言う側面がある為、フランスはかなりの難色を示す事となったが、その反応に好意的中立を表明したのはポーランドだけであり、日本とイタリアは無関心(局外中立)と言う態度を崩さなかった為、フランスの反応が通る事は無かった。

 結果、結構な旧ドイツ人がドイツ戦争での積極的な敵国では無かったアメリカへの渡洋を希望する事となる。

 アメリカは今後の国家運営 ―― 白人国家としてのアメリカの維持と言う潜在的な目標がある為、コレ(コーカソイドの移民者)を積極的に受け入れる事となる。

 尚、ブリテンであるが、この状況はフランスの国力低下を狙うチャンスであるが為に積極的な関与をしていた。

 大型貨客船の船腹に余裕のある日本にも声掛けをし、国際連盟による人道的行動として移住船を用意したのだ。

 この行動は、フランスの癇気に触れる部分があったが、同時に、アメリカ移住者の旧ドイツ国内の資産を合法的に安く買いたたく機会ともなった為、公式に否定的反応を示す事は無かった。

 結果、特に農業に於いて東フランス(旧ドイツ領)は大規模化が一気に進む事となり、フランスの農業生産力を押し上げる事となる。

 兎も角。

 政府レベルでは無く、一般人も又、戦後に向けた動きをする事となる。

 尚、このドイツの完全消滅に伴う混乱抑制の為、国際連盟総会では1年後を目途に戦勝記念式典の開催スケジュールは修正し、決定する事となる。

 

 

――日本/遣欧総軍

 完全な平時体制への移行とドイツ消滅と言う新しい状態に迎合する形で、遣欧総軍の組織改編が決定された。

 ドイツ戦争の勃発前、日本は4ヵ国に部隊を配置していた。

 ブリテン、フランス、イタリア、クウェートだ。

 主要敵国と言えたドイツの消滅に伴って、役割を終えたとして整理統廃合が決定した。

 いつの間にか世界帝国の一角となった日本であったが、だからと言って野放図な自衛隊()の展開を行う積りは無かった。

 嘗て(タイムスリップ前)の米国の如き、名誉と利益はあれども負担の大きい世界秩序の維持を1国で担う気は無かった。*1

 遣欧総軍の総司令部を兼ね、陸海空の整備拠点として充実した設備が整えられているクウェート基地は整理統廃合の議題に上がる事は無かった。

 日本信託統治領ドイツ(北ドイツ)に一定の部隊を駐屯させる必要が発生した事や、軍事的な関係 ―― 嚮導を担当する事となっているエチオピア軍との関係性がある為である。

 ブリテンの基地も同様であった。

 クウェート基地の補完施設、日本連邦統合軍のヨーロッパに於ける航空機整備と物資の集積拠点として整備されている為、とてもでは無いが基地の撤収と言う事は出来ないでいた。

 又、ヨーロッパ向けの工業製品の整備拠点としての役割も持っている事も、重要な点であった。

 対して恒常的な基地では無く駐屯地(臨時拠点)としてのみ整備されていたフランスとイタリアに関しては、物理的な意味での早期の部隊の退去は余裕であった。

 特にイタリアは、施設自体も既存のモノを提供されている形であった為に部隊の退去は簡単であった。

 問題はフランスである。

 実用的な意味で自衛隊のフランス駐屯の意味はない。

 だが政治的となれば話は別であった。

 G4(ジャパンアングロ)と言う意味で、ブリテンの駐屯は継続し、アメリカの場合は鎹たるグアム共和国軍(在日米軍)がある状況下で、フランスとは関係が疎遠化すると見られかねないと言うのは中々に厄介な問題を内包していた。

 特にアフリカと言う泥沼で国力を浪費せざるを得ない状況下なのだ。

 そこで、あからさまにG4(ジャパンアングロ)の中で立場が落ちると思われる事はフランスにとって受け入れ難い事態であった。

 日本としても、アフリカからの資源輸入と言う意味ではフランスとの関係の維持は大事である為、日本とフランスの外交折衝の場ではフランスの主張に同意する面はあった。

 又、日本政府としてもフランスと契約していた第1次世界大戦の古戦場の除染に関わる拠点は大事であった為、陸上自衛隊のフランスからの完全な退去は行わないと明言する事となる。

 とは言え、戦前の体制を維持すると言うのは難しい。

 結果、数ヶ月に及ぶ交渉の果てに、日本連邦統合軍のフランス駐屯地は維持。

 但し駐屯地に駐留するのは機甲部隊などでは無く化学戦部隊であり、フランスの古戦場の浄化の実務と除染技術の開発。

 そして日本とフランスによる装備共同開発の研究施設として再編成される事となる。*2

 尚、古戦場の除染に関する技術開発であるが、ここはフランスのみならず国際連盟加盟国の全てに門戸を開き、NBCのみならず地雷や不発弾その他の()()()()()を目的とした国際連盟安全保障理事会隷下の技術開発/教育機関(Peace Maker Institutes)として発足する事となる。

 

 

――ブリテン

 治安と言う意味ではフランス植民地(海外県)とは比べ物にならないブリテンであったが、仮想敵国(ライバル)たるフランスが優良な装備を導入すると言う事に冷静で居る事は難しかった。

 とは言え、緊急的にその手の車両を必要とする訳ではない為、AML装甲偵察車を研究し、独自技術での装輪偵察車の開発に取り掛かるのであった。

 将来的な、ブリテン連邦加盟国に配る(売りつける)為であった。

 特にアフリカの国々である。

 コレは、戦争の危険性が乏しいと考えられている現在、一番の脅威と言えるのがフランス海外県(植民地)から流れ出て来る難民であるからだった。

 特に武装した難民は危険度が高かった。

 一応の独立国としての体裁を整えているブリテン連邦加盟国であったが、経済的基盤が乏しい為に軽装備警察が治安維持部隊の主力であると言う国も多かったのだから。

 この為、ブリテン軍は現地治安維持部隊と連携して機動し、火力支援などの打撃を担当する緊急展開部隊の整備に力を入れる事となるのであった。

 

 

 

 

 

 

*1

 G4覇権体制(パクス・ジャパンアングロ)が支える国際秩序と貿易規範の維持は日本の利益であり、その運営費から逃げる積りは無いが、何が哀しくて極東の島国(小国)が、と言う訳である。

 日本連邦の大多数を占める日本人の意識はその様なモノであった。

 とは言え意識は変わりつつもある。

 日本が現体制となって(タイムスリップしてから)既に20年以上が経過しており、日本連邦のみならず、日本本体の内側でもロシア系日本人やアメリカ系日本人等がそれなりの政治的役割を果たし、影響力を持ち始めたからである。

 彼ら彼女らは、自らは日本人であると言う自意識(アイデンティティ)を強固に持ちつつも、同時に民族的教育(歴史)に基づいた感覚と言うモノも併せ持っていたのだ。

 そこにはジャパン系日本人やコリア系日本人も含まれていた。

 又、数の少ないが稀人系等とも言われるタイムスリップに巻き込まれ、日本に定住した旧外人(特別日本国籍者)も、それなりの日本社会での生き方と、政治的主張の表明方法を覚え、情報を発信するなどしていた。

 ある意味で日本も国際化したと言えるだろう。

 某欧州系日本人の社会学者は、米国が人種のサラダボウルであった事になぞらえて()()()()()()()()()状態と言っていた。

 主要なのは(日本系日本人)であるが、その味付けは多人種日本人の影響を受けると言う意味で。

 日本人歴20と余年。

 欧州系日本人もいつの間にか日本に染まって(食い意地の張った日本人になって)いたのだった。

 

 

*2

 対人センサーや通信機器(MLシリーズ)といった日本製の部品を大量に導入して製造される事となる装輪偵察車両はAML装甲偵察車と命名され、量産される事となった。

 当初、日本は装備の提供とセッティングが主業務であったが、担当する技術者が雑談の際に様々な知見を与え、フランスの技術者がそれを吸収し、研究し、開発する車体に反映させた事で日とフランスの合作めいた車両として完成する事となる。

 空間装甲の多用や、居住性の向上その他。

 そして車内空調設備(クーラー)など、予定外の日本製部品も大量に導入されていた。

 結果としてAML装甲偵察車は、一般向け自動車よりも快適との評判を得る事となる。

 尤も、日本製部品を大量に導入した結果、生産コストは当初予定の倍を優に超える事となってしまった為、日本製部品を制限した安価な量産型も平行して整備される事となった。

 特に火力支援型であるAML-60シリーズは60㎜迫撃砲を主砲として搭載する為のスペース確保として、センサーその他は撤去されている。

 コレは、運用思想がネットワーク戦を前提とし、AML装甲偵察車などの情報を基に運用される為で出来た処置であった。

 本来はAML装甲偵察車が主であり、AML-60などは従の立場にある。

 だがAML装甲偵察車シリーズを導入した国家の中には、予算不足からAML-60型ベースの車両のみとする国も少なく無かった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

184 新秩序への道-09

+

 ドイツ戦争(World War Ⅱ)の終結は、後の歴史家によってG4(ジャパンアングロ)統治体制が確立した出来事であったとされた。

 実際、1946年以降は100年に渡って小規模な紛争、或いは内戦は兎も角として大規模、世界規模で影響を出す様な戦争は発生しなかった。

 とは言えそれは、世界がG4(ジャパンアングロ)に恭順する事を選んだ結果と言う訳では無かった。

 ソ連やチャイナなどを筆頭としたG4(ジャパンアングロ)を敵視する国家も存続していたし、それらの国々においては明確な反G4(アンチ・ジャパンアングロ)を鮮明にしている国家群も一定数は存在しているのだから。

 圧倒的な国力差から言えば、それらの国々を導く政治家なり、或いは政党なりをG4(ジャパンアングロ)が叩き潰す事自体は簡単であった。

 正道(経済的圧力)を用いるにせよ邪道(謀略暗殺等)を用いるにせよ、世界経済の殆どを掌握している様な国家連合(ジャパンアングロ)に出来ない事など無いのだから。

 だが、その筆頭である日本には、そんな面倒事をする気など一切なかった。

 日本に反発するなり、恨むなりするのもその国の自由であり、それぞれが自由にすれば良い。

 日本が欲しいと思ったモノを()()()()()で販売し、或いは商売の邪魔をしないのであれば問題はない。

 覇権国家群筆頭とは思えぬ、極めて鷹揚な態度であったからだ。

 無論、日本人が犯罪に巻き込まれた場合などは別であるが、それは、犯罪行為に対する対処でしかないのだ。

 そもそも日本人。

 ある程度の水準次第であるが日本人が現地で犯罪に巻き込まれたとしても、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()と考えている部分があった。

 国家による国民の保護と、国民の自由と言うバランス感覚は、割と独特な所があった。

 日本に次ぐ国力を誇っているアメリカ。

 此方も、伝統的孤立思想(モンロー主義)と言う訳ではないが、本質的には世界に対する関心は薄かった。

 世界観が極めて狭い事が理由だった。

 自国(アメリカ)自国影響下領域(ユーラシア大陸東領域と中米、そして南米)

 日本とG4(ブリテンとフランス)

 それにヨーロッパとそれ以外 ―― アメリカと言う大地が豊かであり、国家が存続する上で余り他国を必要としない事が理由とも言えたが、兎も角として一般的なアメリカ人(アメリカの資本家と有権者)の認識は雑極まりなかった。

 特に資本家はその傾向が強かった。

 資本主義に基づいた余剰生産力の消費先としてフロンティア共和国とチャイナ各国、それに日本(シベリア共和国)の市場開放が為されているのだ。

 アメリカ本土の開発も同時進行の状況下で、他所に目を向けている暇はないと言うのが正直な所であった。

 資源に関しても、G4(ジャパンアングロ)の支配領域でほぼすべての資源が得られる事が非G4(ジャパンアングロ)に興味を持たない理由にも繋がっていた。

 一部の善意に溢れた人間、或いは好奇心や名誉欲に溢れた人たちは非G4領域(ロスト・ワールド)の発展にも関心を寄せてはいたのだが、それらの人間による活動が政治的な意味(ムーブメント)を生む事は無かった。

 アメリカの普通の人々は、見知らぬ不幸せな人々に思いを馳せるよりも、明日には得られるだろう己の資産を夢見ていたからである。

 誠にもって資本主義であった。

 日本とアメリカと違い、世界に対する高貴なる責任を持っている ―― そんな自意識が強いのがブリテンであった。

 ブリテンはブリテン連邦の主催国であり、世界中に加盟国(半植民地)を持った大帝国である。

 経済力と言う意味では日本は勿論、アメリカにも後れを取っているが支配領域の広さだけを見れば堂々たる大帝国(the empire on which the sun never sets)であるのだから。

 だが、それらはブリテンと言う国家の繁栄存続の為の事であった。

 世界中に存在するブリテン連邦が、安全に経済活動を継続し、繁栄する為に世界の安定が必要と言うだけであった。

 即ち、世界を利用するブリテンが安全であれば、その他はどうでも良い。

 繁栄していても良いし、衰退していても良い。

 究極的に言えば、内戦なりの状況であったとしても、ブリテンがそこから被害を受けないのであれば、或いは利益を得られるならば問題はない。

 誠にもって合理的(自国利益優先主義)であった。

 無論、G4(ジャパンアングロ)の一角であり国際連盟の常任理事国としての責任を有している事を忘れてはいないが、世界の為にブリテンが無償奉仕する必要は無いとも考えているのであった。

 誠にもって無慈悲なる3国。

 対して、理想主義めいたモノを強く持つフランス。

 自由平等博愛を旗印とする国家であったが、今現在、世界に目を向けている余裕など無かった。

 漸くに果たせた、宿敵たるドイツの消滅。

 そのドイツの領土を自国内に取り込む作業に政治力を消費していると言う事が1つ。

 ヨーロッパで覇権的地位を持つに至った()フランス。

 だが現実はフランスの夢(一強多弱)ではなく、ブリテン系の影響下にあるポーランドや北欧、そしてイタリアとイタリアを盟主とする東欧諸国なのだ。

 フランスが剛腕を振るえる(他国を顎で使える)程の状況には無いのだ。

 そしてもう1つ、こちらが重大であった。

 巨大極まりないアフリカのフランス海外県(植民地)の独立運動への対応である。

 武力蜂起した連中を鎮圧し、同時に、政治的(平和裏)に要求してくる人々をなだめすかさねばならない。

 この2つの事態が同時進行しているフランスに、世界に理想主義を訴える暇などある筈も無かった。

 ある意味で世界は秩序の下にあると同時に、自由(混沌)と共に存在していた。

 

 

――南米

 南北アメリカ大陸に於いて圧倒的な地位を持つ国家はアメリカである。

 中米を自国の裏庭と認識し、南米も又、己の領域であると認識する覇権国家(独善的国家)

 だが、そのアメリカの目がチャイナ経営に向かう事によって、干渉を受ける機会が減り、南米の諸国は自由を得たと言えるだろう。

 その状況下で、それぞれの国は国力増進に努める事になる。

 とは言え一足飛びに民主主義国家としての熟成を得る事も、国力の増進が果たされる事も無い為、各国は地味に不満を募らせていく事となる。

 又、その一助となったのが旧ドイツからの避難民 ―― ドイツ軍人やドイツ人技術者の影響であった。

 戦争に負けた事、そして強いドイツへの自負があったが故に、卑怯な手段を使った反G4 (アンチ・ジャパンアングロ)と言う意識が強かったのだ。

 未来技術(タイムスリップ)とか言う卑怯極まりない日本。

 国土が強大過ぎて卑怯極まりないアメリカ。

 日本とアメリカの背中に隠れた卑怯極まりないブリテン。

 フランスの癖に戦争に勝とうとして来る卑怯極まりないフランス。

 悪いのは全てがG4(ジャパンアングロ)だと方々で言い続けたのだ。

 だがそれは単純な反G4(アンチ・ジャパンアングロ)と言う訳では無かった。

 実利に基づいた行動であった。

 ドイツは悪く無い。

 ドイツの技術も悪く無い。

 そう言い続ける事で、自分たちの技術なり情報なりの価値を吊り上げようと言うのだから。

 その影響もあったと言う訳ではないが、南米の諸国では軍事装備の近代化が強く意識される事となった。

 ドイツ戦争での圧倒的かつ無慈悲なまでのG4(ジャパンアングロ)の軍備を見ていた為、その力が自分たちに振るわれる事を恐れたのだ。

 戦車。

 ジェット戦闘機。

 空母。

 陸海空の軍に於ける三種の神器であった。

 とは言え、空母の装備は予算的な意味で現実的で無かった。

 本来であれば。

 ブラジルがドイツ戦争に参戦したご褒美とばかりに日本から格安でML-039(MLシリーズ)、17,000t級護衛空母*1を1隻購入していたのだ。

 ブラジル海軍の手に届いたのはドイツ戦争後であったが、それでも南米の海洋戦力均衡(パワーバランス)を破壊する力を持っていた。

 その影響力は、特に政治的な意味で顕著であった。

 特に隣国アルゼンチンは慌てて航空母艦の入手に走る程であった。

 とは言え、戦争終結に伴って安価な日本の武器供与(MLシリーズの提供)は終了していたのだ。

 故に別の国、アメリカやブリテンなどからの購入を図っていたが、結果は芳しく無かった。

 予算的問題から、当初は中古空母の導入を検討していたのだが両国は共に余剰となった空母が存在していなかったのだから仕方が無い。

 ドイツ戦争に際して、共に戦時消耗を前提とした空母や旧ドイツの潜水艦部隊を警戒した対潜護衛空母の建造などをしていなかったのだ。

 国際連盟加盟国 ―― G4(ジャパンアングロ)の洋上戦力が圧倒的であったが故の事だった。

 実際、旧ドイツ海軍潜水艦部隊は開戦後に北海を越える艦は1隻とて存在しなかったのだ。

 如何にドイツ戦争が一方的な戦争であったかの証拠とも言えた。

 尚、アメリカ海軍の一部からは、ドイツ戦争に際して予算拡大を用いて装備の更新を行うべきだとの主張も出ていた。

 だが、どうせならドイツ戦争の戦訓と日本の空母運用を研究した上での次世代艦を整備するべきだと言う常識的な声に打ち勝つ事は出来なかった。

 対してブリテン海軍は、戦後には確実に予算縮小が来るので無理な海軍拡大は自滅行為だと判断していたのだった。

 兎も角。

 中古空母を入手する事が不可能となったアルゼンチンであったが、新造に関しては二の足を踏んでいた。

 予算を大きく超えるからである。

 又、見積もりを確認した際に得た情報から、アメリカにせよブリテンにせよ空母の運用コストが余りにも莫大であると知った事も躊躇する原因であった。

 頭を抱えたアルゼンチン。

 ドイツ戦争に参戦していれば、或いは旧ドイツ海軍の空母を得る事が出来たかもしれないが、それは空想の話でしかなかった。

 未竣工も含めて2隻が生き残っていた旧ドイツ海軍空母であったが、既に戦時賠償として移管先が決定していた。

 グラーフ・ツェッペリンはオランダが譲渡先であった。

 問題は2番艦のペーター・シュトラッサーだ。

 何と同じ南米のチリの手に譲渡される事が決定していたのだ。

 ブラジルと同様にドイツ戦争に参戦していたチリは、実際に戦争で果たした役割は大きく無かったが為、未完成であったペーター・シュトラッサーが賠償艦(ご褒美)名目で押し付けられたとも言えた。

 1万tを超える大型艦と言うモノは、実利は無くとも面子には大きく影響を与えるのだ。

 実際、チリ政府は微妙な顔をしたが、チリ国民は1等国の証だと大歓迎していた。

 その情報を知ったアルゼンチンは頭を抱えた。

 ブラジルに続いてチリまで空母装備である。

 ここで空母を保有しないと言う選択肢はアルゼンチンには存在しなかった。

 だが、政治的な選択肢と同様に、予算も無いのがアルゼンチンであり、アルゼンチン海軍であった。

 海軍と政府関係者での連日連夜の激論が交わされた。

 結論は出ない。

 出る筈もない。

 そこに、そっと接近した国家があった。

 ソ連である。

 友好国と外貨、そしてソ連領アフリカ(コンゴ)での治安維持部隊向けに回す安価な食料を欲していた為、比較的良心的価格での空母建造を提案したのだ。

 アルゼンチンはこの提案に飛びつく事となる。

 

 

――ソ連

 1万t以上の大型艦の設計と建造経験の乏しいソ連にとって、他国の金で大型艦を建造すると言うのは良い経験となる話であった。

 だからこそアルゼンチンに声を掛けたのだった。

 造船技術に関して言えば旧ドイツ人造船技術者の存在が大きかった。

 ドイツと言う国家消滅の機に、移住を積極的に促した成果であった。

 旧ドイツの造船技術は二流海軍に相応しい二流艦船を生み出した等と揶揄されており、その悔しさが旧ドイツ人造船技術者のソ連への移住に繋がっていたのだ。

 とは言え、如何に技術的なあてが出来たとしても、予算としてはソ連も大型艦を作る事は厳しかった。

 経済的理由だけでは無く、政治的な問題もあった。

 G4(ジャパンアングロ)、特に日本と対立している(日本から敵視されている)と言う事が大きな問題であった。

 とは言え海洋戦力、その領域と言う意味でソ連は日本には接していない。

 黒海がトルコと言う門番が居る(モントルー条約がある)が故に完全に守勢的である為、バルト海とバレンツ海に置かれた2つの艦隊が世界展開可能なソ連の海洋戦力であるのだが、現代的な(最新鋭と呼べる)大型艦は所属していない。

 ロシア帝国時代の遺産は残されていたが、それらを戦力に数えるのは聊か、流石のソ連人でも恥と思う程の状態であった。

 だからこそ、海洋戦力の近代化はソ連海軍軍人にとって悲願であり、スターリンにとってはソ連の国威を示す大型艦の整備は重要な目的であった。

 だが、下手に動いて日本から睨まれては困る。

 だからこそ、軍事的取引としてアルゼンチンに建造を持ちかけたのだった。

 即ち、技術の実証実験である。

 実験目的であるからこそ、ソ連の予算も出せるし、だからこそ廉価な価格をアルゼンチンに提案できたのであった。

 両者にとって利益のみ(Win-Win)の関係であった。

 かくして締結されたソ連とアルゼンチンの空母建造計画。

 それは最終的に、基準排水量32,000t級大型空母建造計画として形になる。

 

 

 

 

 

 

*1

 ML-039はポーランドの要求で開発設計され建造された航空母艦であり、その原設計は海上自衛隊がタイムスリップ直後の時代に計画した両用戦指揮/UAV母艦じゅんよう型であった。

 その船体は商船規格(基準)で設計されている。

 これは船体価格の低減を狙っての事では無く、元々が民間の造船所が受注と建造可能な護衛艦として企画されていたが為の事だった。

 タイムスリップによって世界経済と分断されたが為に受注が激減してしまった民間造船所に仕事を用意すると言う主旨であったのだ。

 それ故の商船規格であった。

 尚、政治の要求による艦艇の整備を受け入れる事となった海上自衛隊側は、であるならば是非も無しとして、その運用人員に関しても極端に割り切る事となった。

 省力化である。

 被弾時などの対応を自動化で相当規模で割り切り、即座に沈没しない事を目的に限定。

 そして、その浮いている時間で乗員は直ちに艦から退避する事にしたのだ。

 海上自衛隊は伝統的に(太平洋戦争の戦訓で)、艦艇を消耗品と見る癖があったが、それを1万t級の艦にまで適用しようと言うのは、矢張り、割り切りであった。

 付け加えるならば、政治の要求で整備する事になったのだ。

 であれば、喪われた時のケツモチも政治にしてもらおう。

 そういう話であった。

 かくして生まれる予定となった基準排水量13,000t級のじゅんよう型護衛艦であったが、

実際に建造される事は無かった。

 当初予定と違って、民間側が旺盛な大型船舶の発注に乗り出したからである。

 特にタンカーの需要は大きく、又、貨物船も大量に建造する事となったからである。

 かくして建造計画が流産する事となったじゅんよう型護衛艦であったが、その設計の知見は後に、やましろ型ヘリコプター搭載護衛艦として利用される事となる。

 やましろ型護衛艦はじゅんよう型護衛艦の設計を踏襲した結果、広い船体に少ない乗員が乗り込むが為に全ての乗員に小さくとも個室が割り当てられる事となっていた。

 又、操船に関しても自動化を進めていた為、極めて楽であった。

 被弾時の事を考えると良いことばかりでは無いが、もとよりやましろ型も戦時対応の急造艦指定であるので、と割り切られる事となったのだ。

 そして、本17,000t級護衛空母はやましろ型の遠い姉妹と言うべき艦として完成する事となった。

 やましろ型と同様に、じゅんよう型に比べて大型化している。

 これは一般的なレシプロ戦闘機も運用ができる上で、将来的にはG2レベルのジェット戦闘機まで限定的には運用できる様に格納庫を拡大したからであった。

 

 艦名 17,000t級護衛空母

 建造数   3隻

 基準排水量 19,100t

 兵装    60口径40㎜単装砲 4基

 航空    39機

 速力    31ノット

 主機    ディーゼル

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

185 新秩序への道-10

+

 ドイツ戦争(World War Ⅱ)は国際秩序体制を変える事となった。

 それまで明文化されていなかった習慣、或いは国際協調に関する法整理が進められる事となる。

 1つには、ドイツ戦争(World War Ⅱ)の最中でも随所で見られた非人道(文明)的事件への対応であった。

 被害の発生した地域は旧ドイツ領内(国際連盟側参戦国軍)ポーランド領内(旧ドイツ軍)、それにバルカン半島を含んだ東欧(ソ連軍)である。

 有り体に言って、戦火の及んだ全ての地域と言えた。

 大多数の国家、特に戦火の及ばない地域にある国家の政府にとっては()()()()()()()()()()()()()()()()()()でしかなった。

 だが、そうは成らなかった。

 何故ならば、それらの事件での詳細な写真が撮影されていたからである。

 日本が従軍申請をした記者たちに対し、申請を行いさえすれば誰にでも小型で頑丈なカメラをばら撒いた(有償レンタルした)結果だった。

 当然、デジタルカメラである。*1

 戦車が踏んでも壊れない(タフネス・ジャパン)

 記者たちは、そんな綽名をカメラに付けて持ち歩いていた。

 日本からすればごく普通の、それこそスマートフォンで使うような程度の性能しかないデジタルカメラであったが、1940年代の一般的なフィルムカメラとは比較にならない精緻な写真を提供する事となり()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のだ。

 大問題になったのも当然の話であった。

 とは言え戦争中の場合、()()()()()()()と言う形で統制する事も出来たが、戦後ともなればそう簡単にできる事では無かった。

 特に軍事機密に繋がる訳ではないのだから。

 故に戦後となった今、対応が要求される事となった。

 主体となったのは当然ながらも国際連盟である。

 多国間の安全保障に関する枠組み作りと同時に戦時犯罪への対策を行う事となった。

 とは言え、G4(ジャパンアングロ)としての反応は芳しいモノでは無かった。

 戦争と言う怪物によって悲嘆を味わう人間を減らしたいと言う意思、或いは世論自体に反対する事は無かった。

 だが同時に、法治と言う意味で先進国の基準に達していない国々で行われる裁判と言うモノをどうしても好意的に捉えきれなかったのだ。

 又、それは同時に先進国間でも同じ事が言えた。

 法律と言うモノは、それぞれの国家や民族の歴史が作り上げたモノであり、そうであるがゆえに別の国、別の民族からすれば奇異に見える内容となる事がある。

 それが罰則に及べば、感情的にも同意し辛いと言うモノであった。

 人間、罪を犯した者に罰を与える事には同意できても、それが同意し辛い罰であれば納得し辛いと言うモノであった。

 その点を過去の経験(在日米軍との折衝)から日本は良く理解していた。

 であれば、犯罪者を国籍国の法によって罰するとすれば、それも難しい。

 被害者の国の側からすれば、犯罪者を罪を犯した国では無くその国籍国で行うと言うのは信用し辛い、或いは被害者や被害者家族 ―― 犯罪被害者の同胞(同国民)の感情的納得に繋がる結果が期待し辛いと言うのも問題であった。

 この法の非共通性に起因する問題は、先進国の間ですら存在していた事が問題を複雑化させていた。

 とは言え、難しいからと座視できる程に各国の世論は緩く無かった(温度が高かった)

 国際連盟はドイツ戦争(World War Ⅱ)で邪悪な独裁国家に対して圧倒的勝利を収めた正義の国家群である。

 国際連盟加盟国の多くで、その様な世論(気分)があるのだ。

 民主主義を標榜する国家に於いて、その様な気分を無視出来る筈も無かった。

 国際連盟安全保障理事会の場で、各国代表団や国際法の専門家などの集まった小委員会が開かれ、対処が検討されていく。

 各国代表団の多くはこの状況(クソ面倒臭い事態)を明らかに嫌がって居たし、G4(ジャパンアングロ)の各代表も結論の出難い時間と予算の無駄遣いめいた話であると最初から乗り気では無かった。

 にも拘らず、積極的と言って良い勢いで戦争時における国際法問題を取り扱う小委員会が開催されているのは、単純に、どの(政権)も世論に喧嘩を売りたい等とは欠片も思って居ないが故の事だった。

 特に先進国はマスコミ(扇動商売従事者)が強く世論を喚起するが為、その傾向が強かった。

 著しくやる気のない各国代表と同様に、国際法の専門家も正直な話として熱意は抱けなかった。

 法秩序、或いは正義(弱者保護)と言う意味に於いて重要ではあったが、同時に、呼ばれた専門家の多くは良識を有しており、()()と言うモノが立場によって幾らでも変わってしまう融通の利く(いい加減無比な)シロモノであると理解していたからであった。

 絶対的な、普遍的な、正しいと言う事はない。

 だからこそ法に基づいての裁定を出すしかないと言う認識である。

 ()()()()()()()()()()()()()、とも言えた。

 熱意のある、そして理想主義に酔っている専門家は召集の段階で慎重に排除されていたのだ。

 かくして、誰もが積極的では無いが手を抜けぬ事として軍、軍人の身分で海外に出た際に行った諸犯罪に対する法秩序体制の構築が進められる事となる。

 尚、この事態の1つの発端となったオランダ代表は、針の筵めいた身の境遇を嘆きながら参加していた。

 さもありなん。

 旧ドイツ西方域(国際連盟信託統治領ドイツ-ジャパン)に於いて発生した、オランダ人憲兵による婦女暴行未遂と、日本連邦統合軍との喧嘩沙汰までやらかした事が、改めて国際社会へと戦場/戦争に於いて著しい人権問題が存在する事を示したのだから。

 犯罪の当事者と、責任者には処罰を与え、被害者への公式な謝罪も実行した。

 その様な真摯な態度を示した事によって、国際世論はオランダへの反発は余り生まれなかった。

 だが、政府関係者は別だった。

 この面倒くさい事態の発端であるのだから白い目で見るのは当然であった。

 無論、国際的に何かの(ペナルティ)を受ける訳では無い。

 だからこそ当分の間、白い目で見られる事になるとはオランダの政府関係者も受け入れているのだった。

 

 

――フランス

 軍組織の国外展開に伴う非人道的な犯罪行為への対応。

 併せて、フランスは強い調子で武器の輸出入に関する制限を主張していた。

 主目的としては、フランス海外県(植民地)で発生している武力事態(武装独立運動)に対する武器弾薬の供給遮断であった。

 かつて大々的に着火して回ったドイツは既に存在しない。

 だが火はまだ燃え続けているのだ。

 その対策の一環として、フランスは武器の流通を阻止しようと考えていた。

 アフリカのみならずアジア、特に沈静化に成功したとは言え、大規模な武力蜂起の発生したフランス海外県インドシナ(ベトナム)の問題であった。

 特に警戒していたのはチャイナ、蒋介石率いるチャイナ民国の動向だ。

 アメリカとの戦争が終結し、軍の規模も縮小したチャイナ民国の余剰となった兵器の存在である。

 一応、南チャイナとは一定の緊張感を持ってはいたのだが、南チャイナも国際連盟への加盟をしようとしている現状で、戦争は現実的でなかった。*2

 だからこそ、余剰となった武器が流出しているのだ。

 政府が戦争に対して真剣でないが為、(現場)の人間が自分の利益拡大を図ったのだ。

 チャイナ ―― 旧ドイツ系の装備が少なからずフランス海外県インドシナ(ベトナム)の港で押収される騒ぎとなっていた。

 だからこそ武器の管理、そして取引に関する条約の必要性をフランスは訴えているのだった。

 アフリカに本腰を入れなければならない現状で、アジアに構っている暇はない。

 そう言う話であった。

 

 

――国際連盟安全保障理事会

 フランスの、自国の都合最優先の提案であったが、武器の売買や管理の強化と言う主張は、概ね好評をもって受け入れられる事となる。

 連邦加盟国(植民地)の多いブリテンにとっても武器の管理は諸手を挙げて歓迎するべき話であるし、広大にして混沌の大地(ユーラシア大陸)での治安維持に面倒を感じているアメリカも同じであった。

 そして日本。

 日本も世界が安定していた方がコストを抑えて商売ができるというのは利益であった。

 それは、G4(ジャパンアングロ)以外でも同じであった。

 問題は武器の売買や管理の範疇であった。

 民間の売買はどこまで認められるのか、と言う点でかなり紛糾する事となった。

 又、武器の管理に関して言えば、それは1級の軍事情報であり、ソ連の様な全方位に対する被害妄想(日本による侵略恐怖症)を持った独裁国家にとっては国防にも直結する重大な話であるのだ。

 総論賛成各論反対となるのも仕方のない話であった。

 又、貴重な非G4(ジャパンアングロ)系で国力を持った南米の国家群との商売を邪魔されても困ると言う部分もあった。

 この為、ソ連はせめて空母に関するアルゼンチンとの商売が終了するまではと抵抗する積りであった。

 かくして、踊る会議が始まる。

 

 

 

 

 

 

*1

 デジタルカメラを提供した理由は、基本的に安く作れると言う事と同時に、情報管理が容易と言うモノがあった。

 現像 ―― 写真とする為には日本の管理する記者センターに来て印刷する必要があり、その際にデータを秘密裏に収集する事が出来るからであった。

 尚、当然ながらも要請次第では各国軍に貸し出しが行われた。

 一般的なデジタルカメラも、偵察任務も可能な望遠レンズ付きのモノも貸し出されていた。

 尚、この日本による情報管理は薄々とながらもG4(ジャパンアングロ)諸国は察しており、フランスですら大量に導入しようとはしなかった。

 

 

*2

 国際連盟は連盟加盟国間で戦争が勃発した場合、侵略した側 ―― 国境線を最初に超えた側を先ず叩くべきであると言う議論が為されているのだ。

 大きな戦争になる前に、一切合切を決着させるべきだとの考えである。

 国際連盟安全保障理事会の議決によって、国際連盟加盟国は平和の回復の為に軍事力を振るうと言う方針である。

 そして、チャイナ民国の周囲には国際連盟安全保障理事国(ジャパンアングロ)が群れを成していた。

 北にはアメリカ軍の駐屯するチャイナ人民共和国がある。

 南には香港と言うブリテン軍の駐屯する場所がある。

 少し離れていればフランスも居る。

 何より、海を隔てたとは言え隣には悪魔めいた航空戦力(世界を焼ける爆撃機フリート)を揃えている日本が居るのだ。

 間違っても火遊びをしたい状況では無かった。

 チャイナ民国にせよ、南チャイナにせよ。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

186 リストラクチュアリング/アフリカ-01

+

 ドイツ戦争の終結に伴い、様々なモノが変化を始めた。

 かつての世界経済に於けるドイツの地位、或いは影響力と言うものは小さくはないが大きくもないと言うモノであったが、それでもG4(覇権国家群)に続く列強の一角に座していた国家なのだ。

 その影響が全くでないと言う事は無かった。

 特に、非G4(ジャパンアングロ)派とも言うべき、覇権国家群と距離を取らねば取り込まれると警戒していた国々からすれば、その影響は大きかった。

 ドイツはG4に与したくない国家にとって、ある意味で1つの(シンボル)であったのだ。

 列強クラスの国家としては他にソ連も存在してはいる。

 だが、国際連盟の総会などでG4(ジャパンアングロ)の提言に対して強い反論を行わない代表の姿(ミスター・ダー)があった為、期待されていなかったのだ。

 だが、そのドイツの敗戦と消滅によって情勢が変わる。

 特に南米諸国にとって、ドイツと言う貿易相手国が消えると言う事は決して小さい話ではなかった。

 常にアメリカの政治的圧力を感じている地域(アメリカの裏庭)である為、アメリカ製は勿論、ブリテンやフランスなどの導入にも躊躇する所があった。

 アメリカと関係悪化した場合、保守部品の売却などで邪魔をされるリスクを考えての事である。

 尚、G4筆頭である日本はその点で割と中立的(プレーン)と言うか商売と政治は切り分けた所があると見られていたが、そもそも日本製の兵器は高すぎるのだ。

 1930年代に入って以降、日本は請われれば出来る範疇で兵器の国外売却を行う様になっていた。

 内閣府と防衛省、それに外務省が加わった軍事支援枠組み(ミリタリー・アシスタント・フレーム)である。

 情報の機密管理や国家間の信頼性などを鑑みて、4つのクラス分けを行っている。

 先ずは第1分類(グレードⅠ)

 これは日本の邦国 ―― 連邦加盟国が対象である。

 邦国の日本連邦統合軍への供出部隊以外向けとしての売却であるが、最先端の日本軍(自衛隊)向けに準じた水準の武器が供与されている。*1

 又、各邦国の要請に応じた技術開発や装備の開発も行われるモノとされていた。

 次が第2分類(グレードⅡ)

 これはG4(ジャパンアングロ)及び、イタリアなどの限定された国家である。

 日本製兵器の海外最大顧客たるフランスや、共同技術開発を行っているブリテンなどは当然の話であるが、ここにイタリアが含まれている理由は、東欧諸国安定と言う大仕事を担うが故の、ある種の()であった。

 飴と言う意味に於いてはオランダも同じであった。

 旧ドイツ領で()()()()をし、そして国際社会で白い目で見られているオランダ。

 そのオランダを日本は、自国の友好国である事を示す第2分類(グレードⅡ)に含ませているのだ。

 日本本土(列島)の直ぐ傍に国土(山東半島)を持ち、又、日本が管理する旧ドイツ沿岸域に接する場所にオランダの本土はあるのだ。

 それをあからさまに非友好国と言う形に見せる訳にはいかない。

 正に政治であった。

 とは言え、オランダ政府からすれば爆弾を与えられた様なモノであった。

 友好国としてオランダを見ている日本。

 その日本相手に跳ねっかえりのオランダ人が何かを仕出かしたら、こんどこそオランダは終わる ―― そういう脅迫めいた(マフィアの贈り物めいた)ナニカがあると理解していた。

 オランダの政界は政府野党を問わず、秘密の会合を幾度も重ね国家存続の為の合意を作り上げていた。

 VVJと後に略称され、オランダ政府で堅持された親しき友人(Vrienden van Japan)方針である。

 取り合えず反日はしない。

 特に暴力的反日活動は行わない。

 そして、民族的な意味で他所の国を揶揄しない教育を国民に施していく。

 ブリテンなどは、その様を指して文明化(コスモポリタン)などと言っていた。

 とは言え、多くの日本人は善意を見せられると素直に喜ぶという、ある意味でシンプルな国民性である為、このオランダの方針は大当たりをする事となる。

 尚、第2分類(グレードⅡ)の特別枠と言う意味ではもう1つの国があった。

 アメリカである。

 独自性のある諸州の連邦によって成り立つアメリカと言う国家。

 その諸州の中にグアム、グアム特別州(グアム共和国)が含まれているのだ。

 建前として第2分類(グレードⅡ)に含まれているが、実際には第1分類(グレードⅠ)に準じた位置にアメリカは位置していたのだ。

 軍事支援枠組み(ミリタリー・アシスタント・フレーム)に関する法案が成立してしばらくする迄、日本政府ですらすっかり忘れていた(バグ)であった。

 何とも汚いと、フランスなどは怨嗟の目を向ける程であった。

 汚い事は日本にせよアメリカにせよ何もしていないが、第1分類(グレードⅠ)第2分類(グレードⅡ)では経費の計算が異なっており、同じ武器を輸入しても2割から値段が変わってくるのだから当然の反応と言えるだろう。

 とは言え、第2分類(グレードⅡ)に含まれない国家からすれば、フランスも嫉妬されるべき立ち位置ではあったのだが。

 そして第3分類(グレードⅢ)

 此方は、一般的な国際連盟加盟国であった。

 機密保護その他の手続きも煩雑であれば、提供される装備や技術レベルも限定されていた。

 そして第4分類(グレードⅣ)

 国際連盟未加盟国、そして一部の国際連盟加盟国が入っていた。

 軍事兵器、及び兵器開発に繋がる技術の提供が著しく規制、そして監視されている国家群であった。

 認められているのは、人道的な装備類だけとされている。

 医療キットその他、何とも厳しい措置であるが、国際連盟がある種の軍事同盟である以上は、その同盟に入って居ない国家への当たりが強くなるのも仕方のない話と言えた。

 尚、国際連盟加盟国で第4分類(グレードⅣ)に分類されているのは勿論ながら、ソ連が筆頭であった。

 日本が公式に()()と呼んでいる国家なのだから、ある種、当然の話であった。

 尚、政情不安定と言う理由でチャイナの各国も含まれている。

 この日本の兵器売却に関する枠組みにブリテンもアメリカも乗っていた。

 当然と言えるだろう。

 覇権国家群として、秩序を維持する事で利益を得る体制となっているのだ。

 その秩序を乱す要素など認められる筈も無かった。

 只、G4(ジャパンアングロ)で唯一、フランスだけは歩調を合わせる事は無かった。

 武器の輸出が、フランスにとって貴重な外貨獲得手段となっていたからである。

 正確に言うならば、()()調()()()()であるからだった。

 ドイツ戦争が終結しても尚、戦火が途絶えない広大なアフリカ大陸での治安維持戦であった。

 

 

――フランス

 アフリカ海外県(植民地)で群発する独立運動、武力蜂起は規模は小規模であったが広域に渡っており、その全てをフランス一国で鎮圧するのは難しかった。

 ブリテン等は維持が不可能であるならば手放せば良いと評していたが、G4(ジャパンアングロ)の一角と言う意地が、その選択を許さずにいた。

 そもそも、フランスの世論がそれを認めていなかった。

 宿敵たるドイツを討ち滅ぼした栄光あるフランスが、一部の海外県住人が謀反をした程度の事でおたつくなど赦し難いとの事である。

 又、フランスの政界も本格的な混乱期に突入してしまっていた。

 今まで、自己主張の強い人々をまとめ上げていた箍の如き決意(ドイツ滅ぼすべし!)が果たされてしまったが為、めいめいがそれぞれの政治的な信条に伴って活動を開始してしまったのだ。

 百家争鳴と言えば聞こえは良いが、その実、フランスの外から見れば支離滅裂と言う塩梅であった。

 それが破局的な段階に達していないのは、現政権がドイツ国家の消滅と言う大成果を上げた遺産 ―― 高い国民支持率から政治的主導権(イニシアティブ)を喪失せずに済んでいたと言うのが大きい。

 その点を自覚するフランス政府は、旧ドイツ領の絞り上げと、利益の再分配に注力し、国民の支持を喪わない様に注意する事となる。

 それが、逆に東フランス人(旧ドイツ人)の地位を確かなものへと変えていった。

 搾取はする。

 だが、その搾取する為に支援を惜しまずに行う事となったのだ。

 工場や炭鉱などで過酷な労働が強いられても相応の対価、給与は勿論として食料その他を自由に買う事が出来るのだ。

 それは人道ではなかった。

 労働の効率、労働生産性を考えた事、それと同時に人権と言うモノを考えた結果であった。

 もはやドイツ人は居ない。

 彼ら彼女らは東フランス人である。

 である以上は、相応の待遇をせねばならない。

 フランスの理想主義的な部分、その善性が発揮された形だった。

 かくして、かつてのドイツ人たちは労働こそ全て(Arbeit macht frei)を合言葉に、過酷な労働に立ち向かう事となる。

 尤も、それで全てが解決する程に、フランスが直面したアフリカの現実(暗黒大陸アフリカ面)はヌルいものではなかったが。

 取り合えず100万の治安維持軍を編成し、アフリカの各地に展開する事とした。

 その活動を支える食料や燃料を用意する為、フランスは旧式化した武器、鹵獲したドイツ製の装備、そして欲しいと声を上げた国が望むモノを大量に売りさばいていくのだった。

 その中には、ソ連や南米の国々が含まれていた。

 新しい火種が世界に与えられていた。

 

 

――ソ連

 ベルギーよりコンゴ自由国を得たソ連は、この大地をコンゴ人民共和国と改名し、ソ連 ―― ソヴィエト人民共和国連邦の連邦加盟国とした。

 その上で、コンゴ民族の共産主義や民主主義に対する()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()と宣言していた。

 実態として、モスクワ(スターリン)による直接支配であった。

 別の表現をするならば植民地である。

 人民の守護者、帝国主義との対峙者を標榜するソ連であったが、国土の半分近いシベリアを喪失し、その嘗てのソ連領にシベリア共和国(日本連邦)と言う明確な敵が居る現状に於いては、理想を一時的に降ろすだけの柔軟さを発揮するのであった。

 尤も、スターリンの意志を受けた理論家(御用学者)達は、()()()()()()()()()()であるとの理論武装をソ連に与えてはいた。

 兎も角。

 ソ連の経済的発展の基礎(捨て石)として、スターリンは徹底してコンゴを使う積りであった。

 労働力として、将兵としてのコンゴ人。

 ソ連発展の為の資源供出拠点としてのコンゴ。

 スターリンの下へは、コンゴによってシベリアを失った分以上に発展するソ連と言うバラ色の未来予想図が提出されていた。

 実際問題として、シベリアは天然資源が豊富であったが余りにも広大であり、そして自然環境が過酷である為、ソ連の現段階の国力では有効活用が難しかったのだ。

 だがコンゴは違う。

 ()()()()が、365日の活動が可能であるのだ。

 ある学者は奇禍、或いは天佑神助(マルクスレーニンの助け)とすら口にしたほどであった。

 問題は、フランスの植民地(海外県)と同様の独立運動、武力蜂起であろう。

 ベルギーが、コンゴをソ連に売却するのに合わせて、統治/治安維持に掛かる費用をケチった結果、当時のドイツが行っていた火付けの余波を受ける形で武器が流入してしまい、盛大に燃え上がっていたのだ。

 常のスターリンであれば容赦のない武力鎮圧を指示する所であり、コンゴの人民が半減した所でそれが最短の手段であったのだが、今回はそれを自重していたのだ。 

 殺してしまった叛徒や叛徒被疑者は肥料にしかならず、ソ連の為の資源開発や兵士にする事が出来ないからであった。

 最低限度(最低)合理性(科学的思考)であった。

 とは言え、疑わしきは罰せよ(被疑者は皆殺し)から、取り調べ(拷問)はしますと言うのだから、一般のコンゴ人からすれば差の感じる事の無い話であった。

 アフリカは混乱、混沌、その他が綯交ぜとなった坩堝となっていく。

 

 

――ブリテン

 アフリカにブリテン連邦加盟国を抱えているブリテンは、この手荒い(クソの様な)フランスとソ連による治安維持活動を知り、恐怖した。

 別段、人道的な理由などではない。

 それらの国々から避難民が発生する事を恐れたのだ。

 難民爆弾。

 たとえ1000人であっても、労働生産性に何も寄与しない人々が1000人。

 それも何時まで支えれば良いのか全く分からないのだ。

 国庫への負担がどれ程のモノになるか、想像もしたくないと言うものであった。

 しかも、避難民が1000人程度で収まるなどとてもではないがあり得ない。

 ブリテン連邦アフリカ諸国にとって、始まって以来の大ピンチと言えた。

 ブリテン政府は、難民が流入した際の事の検討を始めると共に、イタリアとエチオピア、そして日本を巻き込んで対応を検討する為の場を立てる事とした。*2

 尤も、アフリカ情勢はブリテンや日本が積極的かつ効果的対応を行うよりも先に、いとも容易く悪化してくのであった。

 

 

 

 

 

 

*1

 悪い冗談めいた話であったが、この邦国待遇に関して日本と世界各国との間で政治的な悶着が1つ発生していた。

 それは、ドイツ戦争終結後、なし崩し的に日本連邦の加盟国となったシベリア共和国や、公式に準邦国となったエチオピアと言った国々の繁栄その他の経緯を見た諸外国が、国家の安泰と発展の為に日本連邦への加盟を打診すると言う騒ぎである。

 日本政府が外交と国防の2点以外では日本連邦加盟国に対して殆ど、束縛らしい事をやっていないと言う事が可視化した結果であった。

 特にエチオピアの例は大きな政治的影響力があった。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 この1940年代の非白人(コーカソイド)国家群にとって、それはとてつもない政治的意味があった。

 とは言え、日本側からすれば縁も所縁も薄いどころか、国土が地球の反対側の水準で離れている国家から日本連邦に加盟したいと言われても、それは困ると言う話であった。

 結果、日本連邦への加盟への申請は受け付けないと日本政府が公式の発表を行う事となった。

 

 

 

*2

 ブリテン代表からアフリカ問題対応で国際連盟安全保障理事会の下にアフリカ問題小委員会を設置すると聞いた日本代表は、他人事の様に頑張れと声を掛けた所、参加を要請(お前も関係者だとガンギマリ目)された為、慌てる事となる。

 日本はアフリカに権益は無い。

 資源などは現地政府から購入する様にしており、慎重に独立運動などに巻き込まれない様にしていたからである。

 だが、ブリテンはそれを許さない。

 日本はエチオピアの盟主(ケツモチ)であり、である以上は無関係ではないと言い放ったのだ。

 それを言われては日本も辛い所があった。

 エチオピアは先のドイツ戦争で軍を日本連邦軍に派兵しており、日本連邦の準加盟国扱いであったからだ。

 そして、エチオピアの代表が申し訳なさそうに日本代表を見ていたのだ。

 である以上は、この難問から逃げると言う選択肢を取れるはずも無かった。

 それでも即答はせず、本国に確認します(持ち帰って検討します)との対応をした日本代表は流石の外交官であった。

 とは言え日本政府の判断は、逃げる事は国際的道義に於いて不可能と言うものであり、結果、小さな時間稼ぎになっただけであったが。

 国際連盟安全保障理事会アフリカ問題小委員会への参加命令を見た日本代表は天を仰いで呟く(ファッキンジーザス、ブッダシット)のであった。

 

 

 




2023.08.24 文章修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

187 リストラクチュアリング/アフリカ-02

+

 アフリカ情勢は今、2つに分類されていた。

 1つはブリテンやイタリア、そしてエチオピア-日本による「独立運動/武力蜂起の余波なんて勘弁しろ」と言う集団だ。

 ブリテン、ブリテン連邦の加盟国(元植民地群)にとってみれば、ブリテン連邦と言うひも付きではあっても(連邦盟主としてのブリテンが居るとは言え)、安全かつ平和裏に独立を果たし、それなりの民族自決権を得て、独立国家としての体裁を整えて行こうと言う所だ。

 混乱など迷惑極まりない話だった。

 イタリア、イタリア領リビアに関してはもっと切実であった。

 イタリアの発展の礎が、イタリア領リビアが産出する石油資源であるのだから、その安定を揺るがされてしまっては堪ったものでは無かった。

 国境の多くをフランス海外県(植民地)と接している為、警戒するのも当然であろう。

 現在、かつてのジャパン帝国(ジャパン帝国時代の同化政策)を見習ってイタリア領リビアの内地化 ―― 飴を与え、教育を与え、民族は異なって居ても地中海帝国たるイタリアの一員と言う教育を施している途中なのだ。

 キリスト教徒ではないかもしれない。

 伝統的なイタリア人ではないかもしれない。

 だが、名誉ある新しい地中海帝国の一員として豊かな生活を送ろうではないか! と言う事である。

 イタリアは注意深く、アフリカでのブリテンとフランスの統治政策を見比べ、そしてジャパン帝国の朝鮮半島統治も確認し、安定して利益の得られる統治手段を採用したのだ。

 面倒臭い事を引き起こす、イタリア領リビアの人々の差別は行うな。

 区別は仕方が無いが、最低限度に留めろ。

 その分、イタリア領リビアにも話を通す。

 剛腕とも言えた。

 それは、国民の信頼と支持を圧倒的に得ているムッソリーニの、絶頂期とも言える権威が可能にした事であった。

 そこに火を点けられてしまっては、黄金のイタリア時代(ドゥーチェによるイタリア)は終焉を迎えてしまうだろう。

 その恐れを感じていた。

 そしてエチオピアだ。

 幸いな事にも周辺の大半にフランスの植民地(海外県)が含まれていない為、当座は安定しているのだが、安穏としては居られなかった。

 現在、日本連邦の準加盟国として日本からのODA(政府開発援助)を受けて、大規模な国土開発、産業の育成、教育の普及と言うエチオピア近代化計画(next millennium of Ethiopia)と言う大計画をぶち上げているのだ。

 別名はエチオピア維新。

 皇帝を頂きつつ国を近代化させ、安定して次の1000年も国家を繁栄させていこうと言う大計画だ。

 正に、そんな暇はないと言うのが本音であった。

 エチオピアの大地には地下資源もそれなりにあり、何よりも水資源があった。

 だからこそ、日本から供与(貸与)された核融合発電所によって無尽蔵めいた電気資源を得た事で、国家の大規模な近代化に踏み切れたのだった。

 電気、()()()()()()()()()()と言う圧倒的な権威が、国家の大改革を邪魔する保守派を粉砕する事を可能としていたのだ。

 又、日本連邦の準加盟国と言うものが、G4(ジャパンアングロ)筆頭たる日本との君主国連合めいた感覚をエチオピア国民に与えており、それが自負に繋がり、そうであるが故に国際社会で名誉ある地位を得る為に努力しようと言う気分に繋がってもいた。

 これには、先のドイツ戦争で日本連邦統合軍に軍を派遣し、そしてドイツ軍と闘い、ヨーロッパの大地を一部なれども支配したという経験も良い影響を与えていた。

 アフリカの1等国エチオピア。

 そう言う国民意識が醸成される、いわば近代国家の勃興期にあるエチオピアにとって、外的要素による混乱など看過出来るモノでは無かった。

 それぞれ事情は異なっているが、取り合えず混乱を波及させるなと言う事で一致していた。

 混乱を拒否すると言う意味に於いては、対する集団 ―― フランスもソ連も全くもって同意する所であった。

 ヨーロッパの盟主を気取りたいフランスからすれば、それを裏付けるG4(ジャパンアングロ)の一角としての世界帝国(覇権国家)群としての()として、世界中の植民地を手放すなど論外であった。

 資源や市場として、或いは人的資源として手放せないのではない。

 国家の尊厳として手放せないのだ。

 たとえ、植民地経営(治安維持活動)が膨大な赤字を生み出す事になるとしても、認められる事では無かった。

 そもそも、伝統的なライバル国であるブリテンが、曲がりなりにも世界帝国を維持し続けようとしているのだ。

 にも拘らず、フランスが世界帝国の座から降り、ヨーロッパの強国(地域大国)へと凋落するなど認められるモノでは無かった。

 百家争鳴とも言えるフランスの政治状況であったが、各派共に()()()()()()()()()()と言う称号を失いたくはないと言う点でだけは全く同意が可能であったのだ。

 名誉的な意味でアフリカの損切が出来ないのがフランスであれば、経済的な理由で損切が出来ないのがソ連であった。

 只、フランスとは違うのは、アフリカ ―― コンゴの大地が独立運動などによってベルギーが管理できなくなった物件と言うのを前提条件として理解していると言う事があった。

 即ち、火中の栗を拾う決意のもとで、コンゴをソヴィエトにすると言う選択肢を選んでいるのだ。

 その意味に於いて、フランスとは覚悟が違っていた。

 同時に、手段を択ばないと言う意味でも格が違っていた。

 その事が世界に知れ渡るまで、いくばくかの時間が必要となる。

 

 

――ブリテン連邦

 ブリテン王室を頂くとは言え、公式には独立国となっているブリテン連邦加盟国。

 ある程度の自治権は与えられているし外交権も持ってはいても、実態として言えば、ブリテン経済界の市場であり、同時に資源の安価な獲得先であった。

 とは言えブリテンは日本との高いレベルでの経済協力協定を結んでおり、その恩恵を受けられると言うのは決して馬鹿に出来るモノでは無かった。

 少なくとも、諸外国に比べて日本の投資先として優先的に扱われ、投資のみならずODA(政府開発援助)も受けられるのだ。

 ブリテンの王室を建前として崇めたり、英語を第1公用語(主要言語にするとは言ってない)にする程度の()()など安いものであった。

 少なくとも、ブリテン連邦の構成国として独立したばかりの頃は。

 だが、ドイツ戦争に前後して吹き荒れる様になったアフリカでの武力蜂起問題は、その気楽さに影を落とす事となる。

 既に小規模ながらも難民が発生し、ブリテン連邦加盟国に流入する様になっていた。

 それは国家としての基盤がまだ弱い、独立したばかりのブリテン連邦加盟国にとって大きな負担であった。

 更に言えば、民族自決と言う美句も、毒めいた効果を発揮していた。

 我らの誇りの為、ブリテン人の頸木を破壊するべきであると言う主張である。

 これは、特に組織化されたばかりの軍、その一部で広まる事となる。

 ブリテン人指揮官を減らし、各国の独自な軍として組織する際、指揮官などに地元の有力者の血縁関係者などが多く採用されていた事が理由であった。

 この状況に気付いたブリテン政府は大いに慌てる事となる。

 各ブリテン連邦加盟国の軍が、民族自決に基づいた要求を行うという事は、即ち、軍事革命(クーデター)を意味するからである。

 慌てるな、と言うのが難しい話であった。

 幸い、それ以前への対応能力 ―― ドイツによるアフリカ独立運動(炊き付け騒ぎ)への対応時に作っていた情報網が存続しており、蜂起などが起きる前に察知する事が出来たので大事にはなって居ないが、洒落にならぬ事態となっていた。

 出来れば一度、軍を解体した方が楽と言うレベルの問題であったが、アフリカのブリテン連邦加盟国の状況は、そう言う余裕などを許さない部分があった。

 即ち、フランスの海外県(植民地)の情勢悪化である。

 フランスが伝達した訳ではない。

 フランスは国の恥だとばかりに、絶対に情報を伝えようとはしなかったが、伝統的なブリテンの情報網と、今や20を超える規模へと達した日本の偵察衛星による情報が補っていた。

 示されたのは難民の群れが、フランスの海外県(植民地)で少なからず発生していると言う事。

 幸い、フランスによる支援 ―― 食糧支援や移動支援、仮設住居などの設置が()()効果を発揮して大事にはなっていなかったが、とは言え油断は出来ぬと言う状態であった。

 この、僅かばかりに存在する猶予を有効に利用する為、ブリテン政府はブリテン連邦加盟国の軍の再建に着手していた。

 過度な民族独立思想の強い人間は軍から追放し、その上で若い世代の人間に士官教育と並行しての親ブリテン教育を実施する事としたのだ。

 とは言え、それは簡単な話では無かった。

 教育内容(カリキュラム)の策定もあったが、何よりも物理的問題が大きかった。

 アフリカのブリテン連邦加盟国の軍人を纏めて教育する場所、と言う意味でだ。

 結果、全く新しい士官学校が建設される事となった。

 陸軍士官としての教育のみならず文明人、ブリテン連邦人(コスモポリタン)としての教育も、そのカリキュラムには含まれる事となった。

 尚、余談ではあるが同じ内容をブリテン人自身も受ける事となった為、結果としてある種の強固なブリテン人感(階級社会仕草)が薄れる事にも繋がる事となる。

 

 

――日本

 ブリテンが音頭を取り、日本(エチオピア)とイタリアが参加する形で組み上げられた国際連盟安全保障理事会隷下の小委員会、アフリカ安全機構(Africa-SecurityFrame)

 情報の共有その他が主たる業務であったが、その中で問題として挙げられたのは広域哨戒であった。

 ()()()()()()を早期に発見し、確保する手段だ。

 アフリカの大地が余りにも広すぎる事が問題視されていた。

 これは、一つには一般的な1940年代の自動車と言うものの信頼性が今一つと言うのが問題であったのだ。

 性能そのものもだが、故障の問題や部品交換の問題などなど。

 何故、それが目についたかと言えば、ドイツ戦争に際して日本が大量にばら撒いたMLシリーズ、01(2tトラック)02(軽量4人乗り4駆)、或いは03(四駆軽トラ)と言う比較対象があった為であった。

 自国産兵器に対して忠誠心の強いブリテン陸軍士官ですら、部隊には愛国心の詰まったブリテン製トラックよりも、色気も愛想も無い直線主体の簡素なデザインのML-01(日本製トラック)の充足を望むのだ。

 100年の差と言うものは、見よう見まねで努力した程度で補えるモノでは無かった。

 そもそも電子化によるエンジンのインジェクション化、或いはオートマチック化されたトランスミッションと言うモノを真似る事は出来る筈も無かった。

 だからこそ、日本には要求される事となる。

 広域哨戒用の自動車、その開発と提供である。

 ブリテンにせよイタリアにせよ、先進国としてのプライドがある為に自国軍向けの自動車だけは自国で賄う積りであったが、これから自動車の操作まで教育するとなると、その習熟まで手間が掛かり過ぎるのだ。

 だからこそ、扱いやすい日本製が熱望される事となるのだ。

 日本の国際連盟代表は、肉食獣に狙われる気分が判ったなどと、後に国際連盟日本代表団に語る程であった。

 結果、日本は汎用アフリカ車両(Panafrica-Peacekeeper-Platform)、通称P3車両の開発による協力を約束する事となる。

 後に、実際に開発する段になって集められた要望、そして戦訓などを勘案し、先ずは3つの車両が開発される事となった。

 ML-01(6輪式2tトラック)を基にした中型哨戒拠点車。

 ML-02(4輪駆動車)を基にした小型哨戒車。

 そして特殊部隊向けとしてML-03B、高機動車両が量産される事となった。

 特に大きく期待されているのが、自動車による広域哨戒に於いて中核となる事が想定されている、大型通信機を搭載した中型哨戒拠点車であった。

 運転手や指揮官役を含めて最大、10名を乗せる大型な車体に、一般的な歩兵火器であれば抵抗可能な装甲を持ち、強力なエアコンとセンサーを持つ様にする事が予定されていた。

 暑く広大なアフリカの大地に於いて陸上からの哨戒任務を行う上で重要な車両となる予定であった。

 この開発話が出た途端に、アフリカ安全機構(Africa-SecurityFrame)と距離を取っていたフランスが喰いつく事となる。

 実際に治安維持活動を担うフランスに最優先で購入する権利が譲与されるべきだと言い出したのだ。

 だが、流石にご都合主義が過ぎるとして日本にせよブリテンにせよ深く受け止める事は無かった。*1

 

 

――フランス

 MLシリーズの流れを汲む日本製哨戒車両の早期収得に失敗したフランスは、であるならば是非も無しとの形でフランス製の偵察車両に頼る事となる。

 とは言え、全てが悪い話では無かった。

 フランスの政府や軍上層部は兎も角として中堅の士官や官僚、或いは民間軍事企業などの間からは、先端技術に関する日本信仰とも言える状況に対する危機感があった為、この状況を歓迎する向きがあった。

 既にフランス陸軍はドイツ戦争の終結に伴い、明確な敵国が無い(伝統的にソ連との関係は比較的良好)が為に機甲部隊の大規模な縮小と治安維持部隊化を決定していた ―― 本土駐屯の5個師団程度のみを機甲(戦車)師団と機械化師団の重装備部隊として残し、それ以外は軽装の広域機動展開部隊に組織改編をする事としていたのだ。

 その主要装備に日本製を導入してしまうのは大問題であると言う意識である。

 多少、性能は悪くとも、フランスも自分の力で装備を開発し、配備し、運用して経験を積まねばブリテンやアメリカに技術開発で後塵を拝する事に成ると言う危機感であった。

 特に、戦車などの重装備開発に於いてフランスは、ブリテンやアメリカよりも日本の協力を必要とする度合が重かったのだ。

 技術開発に関わる部署の人間が危機感を強く持っているのも当然の話であった。

 又、それ以外にも東フランス(旧ドイツ領)のルール工業地帯の為の仕事量を用意せねばならぬと言う生臭い理由もあった。

 戦争でインフラその他が荒れ果てているとは言え、そこから立ち直る為の資金が補助金漬けとなるのは困ると言う話である。

 ルール工業地帯の企業に企業活動を本格化させ、税金を納めさせねばならぬと言う事である。

 結果、装輪偵察車、装輪人員輸送車、装輪戦闘車と言う形で、様々な車両の開発に邁進する事となる。

 尚、その開発に際して日本との技術協力、技術開発に関しては決して拒否するものではないと言い添えるモノであった。

 日本の方針である、戦車などの完成品の売却よりも通信機その他の備品(コンポーネント)単位での売却を重視したいとの方針に合致していた為、日本も好意的に受け入れるのであった。

 

 

 

 

 

 

*1

 日本にせよブリテンにせよ、他のアフリカ安全機構(Africa-SecurityFrame)参加国の手前として強い口調でフランスに反発を見せる事は無かったが、その内心として言えば強く苛立っていた。

 当然であろう。

 ドイツが独立運動に着火したとは言え、その火を大きくしてしまったのはフランスの対応の失敗であるからだ。

 内密に行われている国際連盟安全保障理事会に付随して行われているG4(ジャパンアングロ)の定例会で、だから言ったではないかとブリテン代表が呆れた様に言い、日本代表も手は貸すにせよ()は通す事は大事であると言う有様であった。

 フランス代表は、アフリカ安全機構(Africa-SecurityFrame)への参加と、その支援を受ける為、少なからぬ政治的/外交的資産を消費する(日本とブリテンに大きな借りを作る)事となった。

 尚、全くの対岸の火事であったアメリカの代表は、お菓子として用意されていたフランス菓子(エクレア)ウメェとの太平楽な態度(ポーズ)を見せるのであった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

188 リストラクチュアリング/アフリカ-03

+

 国際連盟安全保障理事会隷下の小委員会として発足したアフリカ安全機構(Africa-SecurityFrame)

 最重要課題は()()()()()()であった。

 民族の独立を求めたアフリカの独立運動は、事、国際連盟の公式の場では武力による蜂起を行った不逞の徒 ―― 叛徒であった。

 国際連盟が独立した国家の同盟である以上、主権を持った国家が優先されるからである。

 人権その他が軽視される訳ではないが帝国主義時代の残滓、即ち内政干渉による国際連盟加盟国間での紛争抑止と言う意味で、国家間での内政不干渉原則が国際連盟加盟国に強く求められている結果とも言えた。

 21世紀(未来)を知る日本や、現在の国際秩序体制(パクス・ジャパンアングロ)で利益を得ているアメリカやブリテン、フランスと言ったG4(覇権国家群)が、これ以上の混乱を望まないと言うのが大きかった。

 かくして、アフリカの武装反乱勢力は独立運動として国際連盟で扱われる事は無かったのだ。

 だがそれは覇権国家群(ジャパンアングロ)の傲慢であると同時に、武装反乱勢力の身から出た錆でもあった。

 武装反乱勢力は民族独立、民族自決を声高に主張してはいるのだが、その実として同胞たちの扱いが余りにも悪すぎ、支配下の領域に於ける搾取 ―― 奴隷としての連れ去りや資産や食料品などの収奪、勝手な税の設置やら富裕層に対する喜捨の強要を行っていたのだ。

 間違っても独立運動等と呼べるモノでは無かった。

 確かにフランス本国に対するフランス海外県(植民地)の反発は根強い。

 最近になって、植民地の看板を海外県(フランスの同胞)と架け替えたが、その実態としてはそこまで差は無かった。

 コレは、一つには火を点けたドイツ親衛隊が、戦後の事を睨み、処分されやすい(支持が集まりにくい)人間や組織を狙って武器を配ったと言うのが大きかった。

 気位の高いドイツ人でも特に意識の高かった(エリート意識に凝り固まった)親衛隊にとってアフリカは、将来支配するべき資源地帯(植民地)であった事が理由であった。

 フランスとブリテンの基盤を揺るがすと言うのが第一目標ではあったが、将来的にはドイツが支配するべき土地として認識していたのだ。

 又、武装蜂起した独立運動の人達が大衆から支持されないのは、そもそも、永きに渡った植民地支配(支配の歴史)によって反抗心を潰され続けていた結果、現地住人による独立の機運が盛り上がって居なかったというのも大きかった。

 ドイツ戦争で支配者たるフランスがドイツに戦争で負けていたならば話も違うのだが、残念ながらもドイツが一方的に惨敗する結果となっていた。

 恐ろしい大国、覇権国家フランスと言う意識がアフリカの多くの人々から反抗心を奪っていた側面があった。

 その状況下で、フランスが植民地を同胞であると宣言し、その扱いの改善を約束したのだ。

 一般大衆の気持ちが、民族独立を口にしながらも強盗の群れめいている独立運動の人々と、世界に冠たる大帝国フランスから同胞扱いされると言う事の間で揺れ動くのも当然の話であった。

 閑話休題。

 兎も角として始まった国際連盟安全保障理事会隷下のアフリカ安全機構(Africa-SecurityFrame)であったが、主要関係国でフランスとソ連は参加に積極的では無かった。

 フランスは、自国内の問題である以上、フランス単独で解決せねば国家の威信に関わると認識しての事であった。

 対してソ連は、手段を問わない国内安定化政策を取る事を既に決定していた為、アフリカ安全機構(Africa-SecurityFrame)に積極的に関与する事でブリテンや、何より日本(仮想敵国-青)に口出しをされる事を恐れての事だった。

 既にドイツ戦争時にあったソ連と日本(シベリア共和国)との緊張緩和(デタント)の空気は霧散しており、日本は国境線付近で象徴的な航空哨戒(コンバット・パトロール)を再開しているのだから。

 シベリアの青い空に染みの様に加わっている黒い機影 ―― B-52は日本の持つ爆撃機戦力の中では旧式に類される装備であったが、その航続性能は容易にモスクワを焼く事が出来る為、ソ連空軍にとって最重要警戒対象であった。

 ソ連を明確に敵として見ているのだ。

 そんな日本が、ソ連の未来が懸かっているコンゴへと手を突っ込まれては困る。

 許せない。

 そうソ連が思うのも当然の事であった。

 だからこそ、ソ連はアフリカ安全機構(Africa-SecurityFrame)への積極的参加も、そしてコンゴへの非ソ連人の入国も制限していた。

 とは言え、ソレは大義名分がない訳ではない。

 実際、フランス海外県(植民地)とは比較にならない次元で不安定化しているのがコンゴ-ソヴィエト(ソ連の植民地コンゴ)であるのだ。

 危険の為(責任が取れないので)、国外からの入国拒否と言うのも残念ながらも妥当な側面があった。

 実際、日本政府(外務省)は余程の事情が無い場合、入国を回避するべきとの情報(警告)を出している程であった。

 世界の目が向けられていないコンゴ。

 故に、ソ連による()()()が始まる。

 

 

――コンゴ

 苛烈なベルギーによるコンゴ統治の反動で、熱く盛り上がっている独立運動。

 この鎮圧の為、大規模な将兵を暑いコンゴの大地に派遣する事となった。

 その総数、実に100万人規模である。

 とは言え全てが戦闘要員と言う訳ではない。

 コンゴの大地の情報収集や、資源情報の獲得、或いは支配の為のインフラ作りなども含まれていた。

 ある意味でフランスはナポレオンによるエジプト遠征が似ているといえるだろう。

 そして勿論、そこには秘密警察(NKVD)も含まれていた。

 ソ連は容赦のないこん棒でコンゴを平伏させる積りであった。

 同時に、ソ連に従順な人民に関しては、ソ連本土での教育や仕事の斡旋を行うとされていた。

 ソ連式の飴と鞭であった。*1

 このソ連の与えた飴は、コンゴの大地に住む人々にとっては大きな意味を持った。

 同胞であると言う事、即ち、人間扱いをされると言う事が大きかったのだ。

 かつての支配者、ベルギー(コーカソイド人)による横暴は、正に人を人と思わぬ人畜扱いであったのだから。

 一般的なコンゴの民は、ソ連の示した(慈悲)に感謝する事となる。

 とは言え、独立運動に身を投じた人々が武器を捨てる事は無かったが。

 コンゴがコンゴとして独立する事が出来れば、独立運動に身を投じた人々は新国家建設の英雄であり、様々な栄達が得られるのだ。

 即ち、他人を支配する立場に昇れるのだ。

 そんな未来(極彩色の夢)を見た人間が、人間扱いされると言う程度で折れる筈など無かった。

 それどころか、ソ連に加わる事に喜びを感じた人々を明確に()と認識し、行動する様になっていく。

 ゲリラ戦をする側が人民を敵と見るのは余りにも下策であったが、その事に気が回る様な人間であれば、ソ連の飴を無視する筈も無かった。

 更に言えば、コンゴ人の敵であると宣言すれば好きなだけ蹂躙出来ると短絡的に考え、動いていく事になる。

 コンゴの状況は、加速度的に悪化していく事となるのであった。

 

 

――リベリア

 アフリカにある独立国、その中でも小国と言ってよいリベリアにとって、このアフリカ各地での独立運動と言う名の戦乱は対処し切れる限度を超えるものであった。

 特に、ブリテン連邦加盟国として安定しているシエラレオネ共和国は兎も角、半世紀前までは独立国家が乱立していたギニアやコートジボワールでは旧支配者や支配者層の末裔らが民族国家建国(特権階級への復帰)を言い出していて、大騒動になっていたのだ。

 もう少し時間が経過していれば話は違ったかもしれないが、1940年代は、まだ独立国家時代を覚えている人間が多く居たのだ。

 そこにドイツ人が火を点け、油を注いだのだ。

 燃え上がらぬ筈が無かった。

 ()()()()()、リベリアは最も関係の深いアメリカに助けを求めたのだ。

 とは言え頼られたアメリカの反応は芳しいモノでは無かった。

 アメリカの駐リベリア大使は、リベリアの大統領に対して滔々と述べた。

 国家の安寧と独立は、国家自身の手によって行われねばならぬのだ、と。

 正論ではあった。*2

 かくして、リベリア政府要人が要求した様な大規模なアメリカ陸軍の派遣が行われる事は無かったが、代わりにアメリカ海兵隊が戦車を含む増強1個連隊規模で配置される事となった。

 その上でリベリア人が自らの手で国家を守る事を約束する事となる。

 即ち国民皆兵、徴兵制度の導入と常備軍の設立である。

 軍とは言っても独立国家であるリベリアで独立運動などと言う様な素っ頓狂な事が起きる筈もなく、難民(武装難民)などを主要な相手と定めた国境警備部隊の構築であったが。

 総人口が1000万どころか500万にも遥かに届かないリベリアで、リベリア政府は男女を問わぬ動員を行って50万の軍勢を作り出し、国境警備を行う事としていた。

 尚、その作戦に必要な装備は全てがアメリカの無償援助で賄われる事となった。*3

 アフリカの争乱は少しずつ、だが確実に影響を広げていっていた。

 

 

 

 

 

 

*1

 ソ連国内での仕事と言うものは、高等教育未修者であっても幾らでも欲しいと言うのが実状であった。

 実際、ソ連 ―― ソヴィエトへの参加を人民の全会一致で決めたルーマニアなどからも大勢の出稼ぎ労働者や移民が発生していた。

 志願者が余りにも多すぎる為、希望を口にした人民の家は勿論、胸に秘めた希望をまだ口に出来なかった善良な人たちの家に警察(NKVDの行動部隊)がトラックを派遣したりもしていたのだ。

 この原因は全て、反革命主義者によるシベリア(シベリア共和国)の薄汚い分離独立にあると言うのがソ連政府の公式見解であった。

 事実、ソ連と言う国家にとってシベリア共和国の分離独立は、喪われた国土としての影響よりも人民の多くが流出したと言うのが問題として大きかった。

 頭脳労働者、技術労働者、単純労働者。

 取り敢えずもって、ソ連政府(スターリンとベリヤ)が怪しいと思ったらナニガシの事態となる様な国家から逃げたいと言う人間はそれなりに居た。

 その上で、逃げる先が同胞(旧ソ連人)の国家であり、更に言えば、ソ連よりも()()()()()

 給与の遅配も、食料が買えない事も無い。

 ウォトカの名前がショーチューとか言う不思議な名前で、少し違う味になっているが、アルコールである事には変わりがないし、金さえあれば自由に買える。

 天国かな? と言える国が隣にあるのだ。

 それはもう、ヤヴァイと思った人間であれば逃げない筈が無かった。

 後、モスクワ市在住であれば、美少女が家族に生まれた人間も全力で逃げていた。

 かくして、ソ連は往時の総人口の3割以上が東に向かって流出する事態となっていたのだ。

 そんな状況下で、国境を接している列強序列第1位にしてG4(ジャパンアングロ)筆頭の日本に敵視されているのだ。

 十分な抵抗が出来る訳ではないが、それでも国家の威信の為に国境線付近に機甲部隊を中核とする戦力を配置せねばならないのだ。

 ソ連にとって余りにも負担の大きすぎる話であった。

 だからこそコンゴの民、新しきソ連の同胞に飴を与えようとも考えていたのだった。

 とは言え外部、特に日本などからすれば、ソ連本土で労働させられる事の何処に飴としての要素があるのかと疑念を覚える話であったが、ソ連としては本気であった。

 未開の大地から文明に迎え入れるのだ。

 心の底から飴であると認識していた。

 

 

 

*2

 建前は別として、アメリカの本音は開拓地たるフロンティア共和国とチャイナ北部の経営が楽しいから、他の所の面倒事には余り関わりたくないと言うモノであった。

 後、チャイナ戦争によって荒廃したチャイナの大地、そのアメリカが責任を担う形となった長江以北の領域の安定化に結構な軍事力(マンパワー)を消費していると言うのもあった。

 軍閥と言うモノは物理的ではない意味で皆殺しにはしていたが、戦争の最中に遺棄された兵器を持っての重武装強盗、賊働きをする人間は後を絶たなかったのだ。

 それはもう、アメリカ陸軍の余裕を削るのも当然の話であった。

 

 

 

*3

 リベリアの自主防衛を焚き付けたアメリカであったが、国境警備目的の軽装備部隊とは言え総人口の1割を超える軍勢を作るとしたリベリア政府の決断に、正直、ドン引きしていた。

 ドン引きし、焚き付けた責任を取る形で、被服から銃器、車両から食料迄の全てをアメリカが提供する約束をしたのだ。

 コレは、ある意味でリベリア政府の戦略であった。

 相手の要求に対して、相手が想像した以上のモノをぶつける事でイニシアティブを握ろうとしたのだ。

 その賭けに、リベリア政府は勝ったのだった。

 尚、この50万と号する大部隊は、延べの人員であり、その全てを同時に国境線に張り付ける訳ではない。

 少なくとも今時点では。

 と言う話であった。

 大部分を訓練配置として、日常を優先させる(パートタイム・ソルダート)としていた。

 大多数の動員されたとされる兵は、週に1回、半日の軍事訓練を受けるだけと言う有様であった。

 この時点では、まだ平和だったし、リベリアに侵入して来ようとする小規模な賊程度であればアメリカ海兵隊部隊の支援を受けていれば十分に対処可能だろう。

 そう考えられていたのだった。

 アメリカ人は、まだこの時点で珈琲を優雅に飲む余裕があった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

A.D.1947
189 新秩序体制の始まり


+

 ドイツ処分が漸く終わる事となった。

 ドイツの国土分割と、正式なドイツの消滅。

 ドイツによる戦争犯罪及び、東欧諸国の併合やバルカン半島への侵略その他の裁判の終結である。

 国土の分割については概ね、国際連盟軍への参加各国の支配地域がそのまま採用される形となっていた。

 その上で文化的、或いは民族的なモノに由来する形で調整が図られていた。

 この文化的分割 ―― 旧ドイツの各州の境界線が主となったが為、出来る限り負担を減らしたかったイタリアも大きな領域を所有する羽目に陥っていた。

 イタリアとしては占領地の全てを東欧ごとフランスに譲渡する事を交渉していたのだが、フランスの良識(空気を読まない善意)が発動し、高貴なる勝利者の名誉を奪う事は無いと言う形でイタリア領に編入される事となっていた。

 戦争で荒廃した旧ドイツ南部域を背負う事となったイタリア。

 だからこそイタリアは最後の抵抗として、日本に倣って国際連盟信託統治領として受け入れたのだった。

 イタリアが預かるドイツ人の自治州と言う体裁であった。

 尚、ポーランドは素直にポーランド領として編入していた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 又、フランスはベルリンを除くブランデンブルク州の大半をポーランドに譲渡していた。

 これは、ベルリンを廃都として、ドイツ戦争の戦争終結記念碑(モニュメント)として管理する為の処置であった。

 フランスはドイツを象徴するベルリンを再建する積りも、させる積りも無かった。

 特別管理地域として旅行/観光としての滞在は兎も角、一般市民が定住する事を許さぬとしていた。

 ナチス党の建物を爆破などはしないが、他の建物と同様に10年と100年と掛けて消失させる積りであった。

 何とも恨み深い話であった。

 

 裁判に関して言えば、主となったのはドイツ軍が侵攻し、支配した領域での不法行為全般であった。

 フランスなどはドイツの()()()()を、人道などに基づいて裁くべきだと声高に主張していたが、日本がそれに強く反対したのだ。

 裁くのであれば法に基づく。

 そして、人道を主とした法と言うものは存在しないし、国際的 ―― 多国間で締結された法も勿論ながら無い。

 この様な状況で戦争犯罪を罪に問うと言うのは、余りにも不法であると言う主張であった。

 ドイツ戦争の処理に関して極めて消極的であった日本だが、この点に関してだけは自らの歴史(ニュンベルク/東京裁判)の再誕と言う醜悪な事態を許す積りは無かったのだ。

 結果、ドイツ政府や軍、企業、民間人が犯した罪に関して、それぞれの犯行場所で裁判が行われ、常識的な量刑で裁判は結審していく事となる。

 この為、ナチス党の高官であっても死刑宣告を受ける人間は限られていた。*1

 コレは、様々な犯罪などを犯していたナチス党の親衛隊(SS)武装親衛隊(Waffen-SS)なども同様であった。

 捕まれば殺されるだろうから、とばかりにベルリンと運命を共にしていたのだ。

 そして、意外な話であるが、死刑と言う意味では一般ドイツ人の方が多かった。

 これは一般ドイツ人の有志が戦争中、特にドイツ領内へと国際連盟軍の侵攻を受ける様に成って以来、戦争に反対する人間を民族と国家への叛逆者として片っ端から私刑にしていた(街路樹などに吊るしていた)と言うのが大きい。

 言うまでも無く()()()であるのだ。

 情状を酌量する余地が無ければ、片っ端から捕まえ、罪に問うというのも当然の話であった。

 しかもこの私刑、その大半が暗黒時代(魔女裁判)めいた私的憤慨や憎悪、或いは資産なりの収奪を目的としたモノがあったのだ。

 それはもう陰惨なモノであった。

 そして、陰惨な私刑であればこそ、生き残った家族関係者による実行犯への報復も苛烈なモノとなっていた。

 勿論、フランスですら私刑実行犯であっても法で裁くべきとの態度を崩さなかったが、捕まえる為の情報の提供や、私刑実行犯の捕縛時に抵抗された際の()()()()()()()()()()使()を一切戒める事は無かった辺り、この報復合戦を支配後の統治に向けたガス抜きとして活用していた。

 だからこそドイツの割譲、ドイツ戦争の後片付けが終わるまで時間が掛かったとも言えていた。

 尚、この私刑を行った一般ドイツ人の裁判に関して言えば、フランスだけが過酷だったと言う訳でも無く、日本やポーランドの管理地域でも同様であった。

 只、イタリアだけが違っていた。

 裁判が面倒くさいし、裁判までの間、捕らえておくコストも勿体ないと考え、フランス以上に私刑実行犯捕縛時の実力行使を抑止しなかったのだ。

 又、支配下に入るドイツ人のガス抜き、その後の私刑の応酬に対応する警察コストの削減を考えての事だった。

 文字通り、私刑実行犯への私刑を推奨したのだ。

 この実に荒っぽい処置を平然と行えるのは、ある意味でマフィアを撲滅する所まで追い詰めたドゥーチェらしい手腕であった。

 兎も角。

 かくして戦争終結からおおよそ2年が経過し、ようやく、ドイツ戦争終結の宣言と相成ったのだった。

 

 

――ドイツ戦争終結式典

 ドイツ戦争の終結、そして解体、その他の全ての条約が結ばれた場所はフランスのベルサイユ宮殿であった。

 式典の内容は、まるで先の世界大戦(World War Ⅰ)を思わせるモノであった。

 日本とブリテンの代表は、フランスの性格の悪さに呆れていた。

 そしてベルリンで行われた閲兵式は、日本が撮影機材を用意する事で記録は高画質で残される事となる。

 そして世界中に衛星中継される事となった。

 G4(ジャパンアングロ)、そして国際連盟加盟国安全保障理事会に参加する各国には日本が衛星通信用の機材を貸し与えて映画館での中継上映を行った。

 それ以外の国々にもラジオ中継が行われ、後日には映画フィルムとして用意されたモノが提供される事とされていた。

 又、映像フィルムは国際連盟の非加盟国にも提供された。

 正にG4(ジャパンアングロ)、日本の国力の一端を世界中に見せつけるが如き行為であった。

 行進する将兵、戦車などの重装備。

 空を飛ぶ戦闘機と爆撃機。

 その下で、フランスの首相が得意満面の笑みで戦争の勝利、終結を宣言する。

 この世の春が来たとばかりの姿であった。

 ドイツ戦争参戦国はそれなりの部隊を派遣してはいたし、その中には精鋭部隊に最新戦車などを持たせたソ連軍の姿も含まれては居たが、多くの観衆の記憶に残る事は無かった。

 今、フランスはG4(ジャパンアングロ)の一角らしく、世界の最先端にあったのだから。

 フランス軍のみならず、世界最先端である日本製装備で充足されたエチオピア軍(日本連邦統合軍)の姿があったのだ。

 ソ連軍がかすむのも仕方のない話であった。

 かくして、陸の主役はフランスとなる。

 だが海の主役は違っていた。

 ドイツ戦争終戦記念観艦式には、他のG4(ジャパンアングロ)諸国も大型艦を大量に派遣していたのだ。

 50,000tクラブなどとも揶揄される大型戦艦群が勢ぞろいしていた。

 日本のきい型。

 アメリカのアイオワ級。

 ブリテンのヴァンガード。

 フランスのアルザス級。

 正確に言えばアルザス級は50,000tの大台に乗っては居ないのだが、それ以外の国々からすれば誤差の範疇と言える大戦艦であった。

 4隻の16in.砲戦艦群が舳先を揃えて並んで疾駆する姿を捉えた写真は、後に海の魔獣(レヴィアタン)の戯れ等と言う名前が付けられる事となる。

 それは終焉を迎えつつある戦艦の時代、その最後の煌きであった。*2

 だが、人々を恐れさせたのは戦艦だけでは無かった。

 次なる海洋戦力の中心となる存在、空母が居た。

 とは言え50,000tを超える大型艦は、まだ空母では生まれていなかった。

 発展途上の艦種であるからだ。

 日本を除いて、であったが。

 約70,000tのしょうかく(しょうかく型護衛艦)と、満載排水量で100,000tを超えるロナルド・レーガンである。

 この2隻を前にして、他の空母はオモチャも同然であった。

 唯一、対抗できそうなのは50,000t超級の空母として国家の名前を与えた空母(ユナイテッドステーツ級)の整備計画を進めていたアメリカであったが、如何せん、艦載機(ジェットエンジン機)開発が難航しており、未だ構想段階に留まっていた。*3

 とは言え、20,000tを超える正規空母を保有する国家は片手にも足らず、更に言えば正規空母を複数運用する国家などG4(ジャパンアングロ)程度なのだ。

 多くの国家にとって、それらの集まりを見て海の支配者と感じるのも当然の事であった。

 尚、ドイツ戦争終結記念の国際観艦式には、参戦した全ての国家に招待状が送られており、盛大に開催された。

 陸の閲兵式と同様に、此方も世界規模で生中継が行われていた。

 だが、国際観艦式で一番に注目を集めたのは、艨艟達の姿ではなく、初めて国際的な舞台に出る事となった日本の皇室 ―― 皇太子の姿であった。

 日本領(国際連盟信託統治領)となったドイツに真っ先に建設された国際空港に降り立った姿は、ヨーロッパの耳目を大きく集め、そして国際観艦式までの間、大いに皇室外交に務めていたのだ。*4

 余談ではあるがソ連海軍の誇る大型艦ヴォストーク(鄭和)は、隣に何故かアメリカのキティホーク級ミルウォーキーが配置されてしまい、乗組員一同は何とも言えない顔をして敬礼をする羽目になっていた。

 尚、国際観艦式の翌日、国際観艦式を主催する形となったブリテン海軍が開催した参加各国の艦艇指揮官を集めた懇親会が開催され、大型艦ヴォストーク(鄭和)のチャイナ人艦長はアジア系ソ連人のフリをして参加。

 アメリカ人やブリテン人から生温かい歓待(判ってるけど、絶対に言わない対応)を受ける事となった。

 アメリカの海軍関係者からすれば、ある種、揶揄われる(大きく空振りをする)羽目になった相手であるが、同時に、ドイツ・モンスーン戦隊発見と言う功績を挙げた連中であるのだ。

 であるからこそ評価し、チャイナ人艦長を丁重に遇していた。

 尤も、チャイナ人艦長からすれば、虎が目の前で笑顔を見せている様なものなので落ち着ける様な話では無かった。

 兎も角。

 この、国際観艦式終了に伴って大型艦ヴォストーク(鄭和)は、チャイナの旗を掲げ、鄭和として祖国に向けて旅立つ事となった。

 

 

 

 

 

 

*1

 そもそもの話として、一般的な法に於いて死刑宣告を受ける様な人間は軒並み、ヒトラーらと共に、ベルリンで燃え尽きていたのだ。

 当然の話であった。

 とは言え、罪を赦された人間にとって、その後の人生が幸福なものであったかと言えば別だろう。

 公職追放や有罪判決に伴う年金/恩給の停止、不法に得ていた利益などの国庫返納もあって生活は苦しいものであり、その上で、街を歩けばドイツの敗因だとばかりに石を投げられるのだ。

 或る、ドイツ空軍の元国家元帥などは、戦争犯罪で銃殺された方がマシだったとの日記を残す程であった。

 

 

 

*2

 4隻もの大戦艦が大海原を疾駆する姿を捉えた、迫力のある写真は一人の独裁者の心をも捉えてしまっていた。

 言うまでもなくスターリンである。

 ソ連人民の象徴としての戦艦を整備する必要性を痛感したのだ。

 だが、流石に現状の国力でソ連が50,000t以上の巨大な16in.砲戦艦を整備する事は現実的では無かった。

 そもそもとしてソ連。

 鋼材が対日防衛戦備に取られて不足気味であり、そこにコンゴの文明化需要も乗って来ていた為、鋼材不足で十分な民間用船舶も建造できなくなっているのが現状なのだ。

 側近たちがこぞって、困難さを叫んだ為、流石のスターリンも断念する事とし、夜に深酒をして気持ちを紛らわせたのであった。

 

 

 

*3

 既に陸上機の主力はジェットエンジン式となっていたが、空母向けの機材開発は難航していた事が理由であった。

 着艦速度が従来(レシプロ機時代)よりも速過ぎる為、今まで採用されていた艦載機向け技術では安全な運用が困難となっていたのだ。

 この点に関しては、日本も当てにならない ―― チート(米国海軍の遺産)チート(垂直離着陸機)しか技術を持っていないのだ。

 グアム共和国軍(在日米軍)も、流石に黎明期のジェットエンジン式艦載機の問題を解決した件の情報は持っていなかった。

 この為、グアム共和国軍(在日米軍)を中心にG4(ジャパンアングロ)の4ヵ国が勢ぞろいしての次世代空母システムの開発が行われているのだった。

 

 

 

*4

 日本の信託統治領の首都として運用される事となったハンブルク市。

 その郊外に新しく建設された国際空港は、日本からの大型航空機が着陸できる様に4000m級滑走路を4つも備えた軍民共用の大空港であった。

 名前はハンブルグ国際空港。

 とは言え、今現在完成しているのは、滑走路の舗装程度であり、管制塔その他の設備は航空自衛隊の移動管制隊が保有していたモノの流用が殆どであった。

 乗客の待機所などはプレハブ造りと言う有様であった。

 だが日本、外交と民間関係者にとってハンブルク国際空港の存在は値千金であった。

 人員の移動に於いて、大きく負担を減らすモノであるからだ。

 日本基準で見た時、この時代の空港の殆どは不整地と同様であり、軍用機は兎も角として民間機として製造された高性能ではあるが繊細な旅客機を利用できるモノでは無かった。

 その為、自衛隊機/日本連邦統合軍の定期便に相乗りをさせて貰う形での移動となっていた。

 有り体に言って、体を鍛えていない人間にとって、ソレは、常用するには少しばかり過酷であったのだ。

 故に、船舶などでの移動が選ばれる事も多かったが、此方は時間が掛かり過ぎていた。

 日本外務省にとって、ヨーロッパへの派遣は栄誉であり栄達の道であったが、同時に長期出張の単身赴任と言う事で、離婚の危機でもあったのだ。

 ハンブルク国際空港の建設を諸手を挙げて歓迎し、現地の地権者その他への根回し等を全力で行ったのも当然の話とも言えた。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

190 南米ラプソディー -1

+

 ドイツ戦争の終結と共に、正式に確立した国際連盟による国際秩序体制。

 多くの国家にとって、ソレはある意味で福音であった。

 その実態がG4(ジャパンアングロ)に権限が寡占されているとは言え、その目的は集団安全保障による国際秩序の維持であったからだ。

 修正された国際連盟規約は、改めて国家の独立性の相互保証と内政不干渉を宣言していた。

 その内容には、実行力のある戦争と紛争の抑止力として国際連盟安全保障理事会の下部組織として国際連盟軍総本部を常設する事も含まれていた。

 元をただせばドイツ戦争時に設置されていた参戦国の統括調整機関であり、その能力を拡張したものであった。

 有事に際しては編制される国際連盟軍 ―― 国際連盟参加各国から派遣されてきた軍部隊を統括し、戦略を策定する組織であったが、同時に平時から軍同士が交流し、或いは演習をする場合などの調整をする事を目的としていた。

 安全保障理事会が阻止するべしと定めた戦争や紛争、それらを抑止する為の実行力を涵養していく為の組織であった。

 平時から軍同士が交流する事で有事に容易に連携できる事が目的であり、同時に、軍同士に交流部門(チャンネル)を設定する事で、紛争の芽を抑止しようと言う狙いがあったのだ。

 それは同時にある程度の軍の情報が他国、国際連盟に加盟している非友好国に流出する事にも繋がる。

 それが気に入らない国家もあった。

 チャイナやソ連、そして南米の国々である。

 G4(ジャパンアングロ)と戦火を交えたチャイナ(チャイナ民国/蒋介石政権)は勿論、敵対的な立場にあるソ連は兎も角として南米が其処に居る理由はG4、アメリカが理由であった。

 南北アメリカ大陸を自らの領域としているアメリカは、折に触れて南米に干渉してきていたのだ。

 とは言えアメリカは、チャイナの地(フロンティア共和国)で遊ぶ様になってからは干渉の頻度は下がっては居た。

 だがそれもアメリカ政府に限った話であり、アメリカの企業群は南米の御主人様面をして政府に意見(下知)をする為、アメリカへの反感(ヘイト)自体が減る事は無かったのだ。

 この背景の1つにはそれなりの貿易を日本と行っていた影響もあった。*1

 結果としてロシアやチャイナ民国、南米諸国の多くが国際連盟軍総本部への参加を停止するとの宣言をする事となっていた。

 軍、軍事は独立国家の専権事項である為、その行為が大きな問題となる事は無かった。

 だが、明確に国際連盟の中に1つのヒビが入ったと言う事は確かであった。

 

 

――アルゼンチン

 気の早い事にインディペンデンシア(独立)と名づけられた基準排水量32,000t級の大型空母建造計画、ソ連との共同軍事整備計画を鎹として、アルゼンチンは軍の近代化を推し進める事としていた。

 独立国家としての尊厳の為の選択であった。

 その原資となったのはドイツ戦争を筆頭とした1940年代の戦時に稼いだ外貨である。

 豊かな農地を持ち、食料生産能力 ―― 特に牛肉の輸出は、大軍を動かす日本やアメリカ、そしてフランスにとって極めて有難い存在であり、盛大に買い込んでいたのだ。*2

 又、フランスはアフリカのドイツ戦争終結後も、治安回復戦向けとしても買い続けていた。

 その総額は、莫大と言っても良かった。

 だからこそソ連と共同で戦車と戦闘機の開発と配備を進める事が出来たのだ。

 国内への投資を主張する閣僚、或いは市民などもそれなりには居たが、アメリカへの根深い反発が政府の選択を許していた。*3

 目的は勿論、G4(ジャパンアングロ)の持つ戦闘機や戦車と戦える事であり、その力を背景に傲慢な干渉を拒否する事であった。

 とは言え、それは簡単な話では無かった。

 ソ連自体の技術力も、日本やアメリカは勿論、ブリテンやフランスにも劣っているのだから。

 だが、そこに慈雨めいた話が舞い込む事になる。

 ドイツ戦争で活躍した戦車や戦闘機の売却話である。

 言い出したのはフランス。

 アフリカでの治安回復戦で必要な食料類の膨大さと、その値段に音を上げた結果であった。

 本来、フランス自体も農業大国であるのだが、その生産物はドイツ戦争で荒廃した東フランス(旧ドイツ)に注ぎ込まねばならぬ為、余力が少なかったのだ。

 アルゼンチンは軍備を欲しがっていた。

 そして、フランスにはドイツ戦争で使っていた戦車や戦闘機が余剰となって余っている。

 コレを対価にしてはどうだろうかと考えるのは、儘、フランスらしい合理性(何時もの後先を考えないフランス仕草)であった。*4

 アルゼンチンからすれば、ソ連との共同開発装備群が完成するまでの時間稼ぎとなる話であった。

 そして、ソ連からすれば技術的な方向性の確認と言う意味で、先進国の装備を調査出来ると言うのは大きな話であった。

 とは言えソ連。

 この降って湧いた好機を逃すまいと、内心の喜びを隠す為にソ連-アルゼンチン間の協力関係に水を差す行為だと国際連盟の総会で、フランスの行動を非難する芸の細かい事をしていた。

 

 

――ブラジル

 アルゼンチンの軍備拡充に穏やかで居る事が出来ないのは、南米の盟主(地域大国)を自認するブラジルであった。

 アルゼンチンとの関係性は、そこまで劣悪と言う訳では無かったが、国の沽券というものがあるのだ。

 この為にブラジルは関係の良好なG4(ジャパンアングロ)、アメリカに泣きつく事となる。

 アメリカから技術提供を受けたブラジル国産戦闘機開発計画である。

 とは言え、アメリカは首を縦に振る事は無かった。

 ブラジルも国際連盟軍総本部への積極的参加をしていなかった為、軍事技術の提供に問題を抱えると言うのがアメリカの言い分であった。

 国際連盟の安全保障体制に深く関与していないと言う事は、潜在的な反国際連盟国と言う認識が、国際連盟安全保障理事会に存在するが為の事だった。

 その拒否にブラジルは悩む事となる。

 ブラジルにとって国連軍総本部への本格的参加の停止は、それ程に大きな理由では無かった。

 それ程に強い反G4(ジャパンアングロ)的な感情があった訳では無く、歴史的に対立関係にあるアルゼンチンが独立国であるからとの理由で参加しなかった事への対抗であった。

 アルゼンチンからブラジルは独立国では無い等と煽られては我慢ならぬと言う話である。

 何とも政治であり、国民感情であった。

 かくしてアメリカ頼り(画餅以前の他力本願)であったブラジルの国産戦闘機開発計画は頓挫する事となる。

 その代わり、アメリカは第2世代戦闘機の提供(FMS)を提案する事となる。

 ブラジルとの国際関係が悪化しない様にと、アメリカが提示したのはそう多くは無い数であったが、値段が比較的手頃であった為、ブラジルは受け入れる事としたのだった。

 尚、戦車に関してはドイツ戦争参戦時に38式装甲車のシリーズ ―― 38式火力支援車と言った一般的な(非G4国)戦車であれば正面から殴り殺せる装備をそれなりに購入する事に成功していた為、問題視される事は無かった。

 

 

 

 

 

 

*1

 鉱物資源や食料品の輸入などの貿易を日本と行っていた為、南北米大陸の支配者たるアメリカなどと気取って居てもG4(ジャパンアングロ)では日本の下、序列2位じゃないかと言う話である。

 覇権国家群(ジャパンアングロ)と言うクソデカい覇権国家連合体を相手に良くも言えるモノだと言う所があったが、感情的な反発と言うものは理屈を超える部分があった。

 又、貿易相手となった日本企業の腰が低かった事の影響もあった。

 日本企業のビジネスマンは、札束で殴る行為は普通にするが、あからさまに下に見下す事は無く、事によっては持ち上げて来る(ジャパニーズオセジ=ジュツ)為、誤解していたという側面もあった。

 

 

 

*2

 この頃、日本は既にオーストラリアでの牛肉(オージービーフ)生産に大規模な投資していたのだが、如何せんにも1940年代後半では日本向けの分の生産が精一杯と言う有様であり、ヨーロッパ亜大陸に回すだけの余力は無かった。

 日本のオーストラリア投資は牧場自体への投資に終わらず、電力その他のインフラに始まって冷蔵庫その他の企業の進出まで行われていたのだ。

 その大規模さ故に、結果が出るまで少しだけ時間を必要としているのだった。

 

 

*3

 勿論、軍事力の整備には重工業も必須である為、ソ連の支援を受ける形で国内産業の涵養は行われていた。

 又、その事を、ある種、実態よりも大げさに宣伝した事も、アルゼンチン国民の反発を招かなかった理由ともなっていた。

 

 

 

*4

 勿論ながらも、フランスにも最先端と言える戦車や戦闘機の売却に関しての理屈(言い訳)は存在している。

 アルゼンチンは国際連盟加盟国であり、その正規軍が相手であれば不法な取引では無い。

 又、アルゼンチン国内で大規模な内紛の兆し、国民の弾圧目的でも無いのだ。

 そして何より、売却リストに上げられているモノは、ドイツ戦争終結でも止まらぬ技術革新によって既に旧式化した物であるのだ。

 戦闘機で言えばレシプロ戦闘機の最終型から第1世代型戦闘機。

 既にアメリカやブリテンも含めてG4(ジャパンアングロ)空軍は、超音速発揮可能な第2世代型戦闘機の実戦配備に進んでいるのだ。

 脅威では無い。

 そうフランスが考えるのもやむを得ない話と言えた。

 少なくとも、フランスからすれば。

 

 

 




2024.03.02 文章修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

191 南米ラプソディー -2

+

 ドイツ戦争終結後、チリは南米は平穏になると思って居た。

 もはや世界にG4(ジャパンアングロ)の覇権体制に挑戦できる国家が居るとは思えないのだから当然の話であった。

 そこに降って湧いたアルゼンチンの軍事力強化計画。

 そして、アルゼンチンに対抗する為としてブラジルも軍備拡張を宣言する事になったのだ。

 勘弁して欲しいと言うのが本音であった。

 だが国家として、近隣の国々が軍備拡張に走っている状況で無対応と言うのは、出来る筈も無かった。

 だが、協力を要請するにしても選択肢は多く無かった。

 文化的に近いフランスはアルゼンチンに近かった。

 南米の親分顔をしているアメリカはブラジルに近かった。

 どちらも、協力を要請すれば対応してくれるだろうが、それぞれの支援先国から下に見られる可能性を孕んでいた。

 それは国家の威信的な意味で絶対に許容できる話では無かった。

 チリとて南米の雄国の1つと言う矜持は持っていたのだから。

 この結果、国際連盟で外交に勤しむ事となる。

 支援要請の先として、最初に選ばれたのはイタリアだった。

 親G4(ジャパンアングロ)であるが、同時に非G4(ジャパンアングロ)としては最有力国家であり、地中海東部-東欧の盟主となっているのだ。

 5番目の覇権国家等とも言われているイタリアだ。

 であれば、南米にも影響圏が作れると言う謳い文句を付ければ、支援が得られるのではとチリが考えるのも道理であった。

 だが、国際連盟の場でチリ代表と面会したイタリア代表は心底からの不快気な顔での拒否であった。

 そこには一切の交渉の余地は無かった。*1

 取り付く島もないイタリアの態度に悄然としたチリ。

 であったが、捨てる神あれば拾う神あり。

 声を掛けて来る国家があった。

 ブリテンである。

 ()()()()である。

 ()()でブリテンがチリの国際連盟の執務室を訪れたのだった。

 

 

――ブリテン

 ドイツ戦争での実戦経験を基に装備の更新を図っていたブリテンは、そうであるが故に旧式化した装備を大量に抱えていた。

 小銃などの歩兵装備やトラック等は汎用性も高い為、ブリテン連邦(旧ブリテン植民地)軍での需要があったが、戦車や戦闘機などは別であった。

 バンク機動砲車などの車両はまだ二線級部隊の歩兵支援火力として使い道があったが、チャレンジャー重巡航戦車などの旧型は別だった。

 走攻防のバランスを取った主力戦車(MBT)と言う概念は、チャレンジャー重巡航戦車の段階でも導入されてはいたが、技術的な問題から十分とは言えなかったのだ。

 特に問題であったのは、コンパクトで大出力のエンジンであった。

 50t級に準じた車体を機敏に動かすに足るエンジン、それも出来る限りコンパクトなモノと言う要求は、簡単では無かったのだ。

 その問題をある程度解決できたのが、今の主力であるチャレンジャーⅡ戦車である。

 主砲に105㎜砲を採用し、重量52tに達する重戦車であったが、その最高時速は50㎞/hに達すると言う堂々たる主力戦車だ。

 だからこそ、チャレンジャー巡航戦車は安価で放出する事が出来る様になっていた。

 とは言え下手な所に売れば紛争の際に使用され、国際連盟安全保障理事会で追及される羽目になる。

 だからこそ、チリは旧式化した装備を売りつける上で良い相手であった。

 ブリテンは戦車のみならず第1世代ジェット戦闘機や駆逐艦、果ては巡洋艦までも売却する話を持ち掛けたのだった。

 巡洋艦は防空艦であった。

 これはチリは旧ドイツの未完成空母(ペーター・シュトラッサー)を入手していたが、直衛の防空艦が不足している事を見ての提案であった。

 最新型と言う訳では当然ながらない。

 とは言え、旧式と言う訳でも無い。

 ダイドー級軽巡洋艦だ。

 対空攻撃手段が砲に限られているが火器管制レーダーに連動しており、又、広域の哨戒に関しては日本製の汎用対空レーダーを導入している為、防空統制艦としての機能を有していた。

 レーダー周りだけで言えば最新鋭と言っても過言では無い。

 それをブリテンが手放す理由は、その船体規模からくる発展余裕の乏しさだった。

 基準排水量6000t級という軽巡洋艦として建造されている為、今後の発展余裕が乏しいのだ。

 ダイドー級巡洋艦は、言わばドイツ戦争に向けて整備された艦でしかなったのだ。

 そして実際、北海やバルト海などと言ったドイツ空軍の跳梁する海域ではそれなり以上の価値を示してはいた。

 だがブリテン海軍にとっては、間に合わせる為の艦でしかなかった。

 基準排水量が控えめなのも、価格を安く抑える為であったのだから。*2

 ブリテンにとっては最新の、そして武勲ある二流巡洋艦であったが、チリにとっては話が違っていた。

 日本とブリテンと言う先端国家のレーダーを有する、最新鋭軽巡洋艦となるのだ。

 これ程の対空哨戒能力を備えた艦は、現時点では南米の何処にも存在していなかった。

 結果、チリ政府は色めき立ってブリテンとの軍事協力関係を締結する事となる。

 

 

――アルゼンチン

 南米の軍拡競争の火付け役となったアルゼンチンであったが、それで軍事的なアクションを起こす気など何も無かった。

 只、国威の為の整備であったのだ。

 だが、そんなアルゼンチンの気分など意にも介さぬとばかりにブラジルとチリが軍拡を始めたのだ。

 何とも自分勝手な話であるが、アルゼンチン政府は南米の同胞に裏切られた気分を味わっていた。

 だが、裏切られた気分というだけで終わらないのは、チリ政府が導入を決定したチャレンジャー巡航戦車が問題となるからである。

 チャレンジャー巡航戦車は50tに準じる重量を持った堂々たる重戦車であり、今現在のアルゼンチン陸軍に対抗できる戦車などは存在しない超戦車であったのだ。

 アルゼンチン世論が、対抗できる戦車整備計画を訴える様になるのも当然の話であった。

 とは言え簡単な話では無い。

 50t級の17lb.砲を持った戦車に対抗しうる戦車であるからだ。

 巡航戦車と名付けられていても、非力なエンジンに起因する速度の遅さと言う問題はあっても、それ以外は最新鋭の、言わば()()()()に準じた能力を持っているのだから。

 非G4(ジャパンアングロ)の戦車開発力を持った国々、イタリアやポーランドは勿論、ソ連ですら未だ十分に勝算のある戦車を大量配備出来ていないのが実状であった。

 とは言え、これが万能である訳では無い。

 重量が50t級と余りにも重い為、インフラの脆弱なチリでは十分な活動が出来ないと言う弱点があった。

 その点は、アルゼンチンに侵攻された場合でも同じである。

 アルゼンチンとチリの国境周辺は、いまだ開発が十分にされているとは言い難いが為、侵攻を受ける可能性は乏しかった。

 純軍事的には、脅威とは言いづらい存在。

 それがチャレンジャー巡航戦車であった。

 問題は、国民世論がその判断に従わないと言う事であった。

 マスコミは売文(商売)の好機であるとばかりに、このチャレンジャー巡航戦車が脅威であると盛んに宣伝して政府に対応を要求。

 国民はその声に乗せられて政府への批判、デモ活動を行う有様となっていたのだ。

 結果、アルゼンチン政府は国産戦車の共同開発と並行して、ソ連戦車の導入を図る事となる。

 主力となるのはT-34戦車だ。

 30t級で85㎜砲を搭載すると言う、スペック的な意味ではチャレンジャー巡航戦車に対抗が難しいが、インフラへの負担が少ない軽量さと、そして軽快な機動が可能と言う点を評価しての決定であった。

 又、中古品である為、導入が安く済むと言う点も大事な評価点であった。

 ソ連では性能限界の見えていたT-34ではなく、より大型の新戦車(主力戦車)の開発に軸足を移していた為、保守部品も含めて格安での提供を約束したのだ。

 結果、T-34/Ar型として導入が図られる事となる。

 取り敢えずは200両。

 それなりに纏まった数であり、チリに対する抑止力としては十分以上。

 そう考えられていた。

 問題は、アルゼンチンが国境を接する国はチリだけでは無いと言う事である。

 ブラジルは、アルゼンチンが導入したT-34/Ar戦車の衝撃を正面から受ける事となった。

 

 

――ブラジル

 玉突き事故の様な有様で、ブラジルの陸上装備の問題が露呈する事となった。

 現在のブラジル陸軍で主力となっているのは、事、対機甲戦力として数える事が出来るのは日本製の38式戦闘装甲車(Type-38CAPC)だけと言う有様であったからだ。*3

 結果、ブラジルはアメリカに泣きつく事となる。

 混乱は少しずつ拡大していく。

 

 

 

 

 

 

*1

 ドイツ戦争の結果としてイタリアはバルカン半島の安定化と戦火に荒れた旧ドイツ南部域、そしてドイツに収奪された東欧の管理を背負う羽目になっているのだ。

 これ以上の面倒などごめん被ると言うのがイタリアの政府関係者の、心底からの本音であった。

 1940年代以前なら、或いは親G4(ジャパンアングロ)路線に切り替わる前のイタリアであったなら話は別だったかもしれないが、今はイタリア本土及びイタリア領リビアでイタリアは幸せとなっているのだ。

 偉大なるドゥーチェによる大イタリアと言う黄金期は為されたのだ。

 にも拘らず、不採算な仕事 ―― ドイツのクソ野郎の後片付けをヤル羽目になっているのだ。

 である以上、これ以上の面倒事は寄越すなとなるのも当然だった。

 しかも場所は南米である。

 アメリカが自分の裏庭と公言し、ソ連が其処に手を突っ込んでいるという場所だ。

 フランスが何も考えずにモノを売っているが、どうみても厄介事に育つのは目に見えていた。

 イタリアは覇権国家群(ジャパンアングロ)の様な大帝国ではない。

 国力もそこまで大きくない。

 その自覚あればこそ、黄金の時代を迎えたイタリアが陰らぬ様に注意した立ち回りをしていたのだ。

 裏庭に手を突っ込んで来たとアメリカに睨まれるのは困る。

 商売の邪魔をしたとフランスに難癖を付けられても困る。

 何より困るのは、間違ってソ連と距離が近くなったように見えたら日本(G4筆頭)に睨まれる。

 南米への干渉は、イタリアをして即死しかねない厄ネタであった。

 故に、チリの要請を一言で切り捨てたのだった。

 

 

 

*2

 ダイドー級に繋がる戦時対応防空巡洋艦整備計画が立ち上がった際、たたき台となったのは5000t級()船体型と9000t級()船体型の2つの案であった。

 当初、優勢であったのは9000t級の船体型である。

 これは将来的な発展余裕、開発中の防空ミサイルを搭載する事が念頭にあっての事であった。

 長く使えるメリットが考えられていたのだ。

 建造コストの差も、試算によれば1.3倍程度に抑えられそうだという事も、この考え方を後押ししていた。

 その状況を変えたのは、オブザーバー参加していた内閣府官僚であった。

 産業と技術維持の観点から、内閣府としては大型艦の長期運用は好ましくないとの意向を伝えた事であった。

 定期的な建造によって造船業界へと仕事を斡旋し、ブリテン本土の造船能力を維持したいとの意向だ。

 又、技術的な意味から、現段階で想定される技術革新と、現実で発生する技術革新の差を考えた場合、()()()()と言うものが無駄になる可能性が高いとの指摘であった。

 言ってしまえば、日本が建造配備している様な装備をブリテンも開発出来たとして、9000t級の船体でも適応できるのか? と言う話である。

 日本の艦艇が備えている艦内の情報ネットワークや発電力その他。

 そう言うモノが必要になった場合に掛かる改装コストと、新規の建造コストの差。

 又、その後の艦の余命などを考えるべきと述べたのだ。

 9000t級の船体で整備すれば短期的には安上がりになるかもしれないが、その先となれば5000t級と技術進歩対応船体型の組み合わせの方が安くなるだろう。

 そう言う話であった。

 この、ある意味で至極真っ当な提案の結果、ダイドー級軽巡洋艦は5000t型軽巡洋艦として建造される事となり、設計途中で様々な修正が加わった結果、6000t級として生み出される事となったのだった。

 

 

 

*3

 38式戦闘装甲車(Type-38CAPC)表面(スペックシート)上では20t級で6lb.砲を有しているそれなりの戦闘車両と見えるが、実態としては通常の装軌式の装甲車である38式装軌装甲車(Type-38APC)の上部に適当に砲塔を乗せただけの戦闘車両であるのだ。

 勿論、開発元である日本では対装甲戦闘を想定していなかった。

 歩兵支援の為のお手軽大口径砲として、6lb.砲を積んだ車両でしかなかった。

 或いは、機動力があるので偵察部隊に回す車両として考えられていた車両であった。

 日本としては余り深く考えていなかった。

 当然である。

 38式装軌装甲車(Type-38APC)が完成した際、欲しいと言った国々からの()()()()()()()()()()()()()と言う声に応じて作っただけの車両なのだ。

 通常の自衛隊/日本連邦統合軍向けと違って、綿密な運用コンセプトの組み上げなどをやっていない。

 その意味に於いて、38式戦闘装甲車(Type-38CAPC)は欲しいと言う声に応じただけの徹頭徹尾、商品でしか無かった。

 尚、後には38式戦闘装甲車(Type-38CAPC)とは別の中口径砲を搭載した戦闘車両も開発されている。

 38式火力支援車(Type-38FSV)である。

 これは38式装軌装甲車(Type-38APC)が安くて使い勝手が良かった為に日本連邦統合軍の主力装軌装甲車として採用された際、シベリア共和国軍などから真っ当な支援戦闘型が欲しいとの声を受け、開発されたモノであった。

 被発見率低下の為に車高を低くし、アメリカ製の75㎜砲を搭載すると言う、主力戦車以外は全ての地上車両をブチ殺せる低価格車両であった。

 尚、砲塔正面装甲も厚くされており軽戦車クラスであれば正面戦闘も可能と言う殺意の高い車両として完成していた為、諸外国からは最初からコレ(Type-38FSV)を売れと言われていた。

 フランスも植民地警備(治安維持戦)向けに欲しがったが、数を揃える必要があった為、断念し、より安い、自前の装輪戦闘車両を採用していた。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

【挿絵表示】

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

A.D.1948
192 南米ラプソディー -3


+

 一寸した事から始まってしまった南米での軍拡競争。

 発端となったアルゼンチンも、対抗したブラジルもチリも、どの国も戦争をしたい訳では無かった。

 政治家も軍人も、各国の要人たちは誰もが流血を望んではいなかった。

 同時に、各国の軍部の冷静な人間たちは、他の2国もそうであると認識していた。

 言わばゲームであるとの認識である。

 理性的と言って良いだろう。

 だが、それら南米の雄国群(ABC諸国)以外の国家からすれば話は別であった。

 例えばボリビア。

 チリとアルゼンチンの関係緊張化は、太平洋戦争(1879 チリ-ボリビア戦争)で奪われてしまった喪われたボリビア(太平洋への出口)の回復、そのチャンスではないかと思ったのだ。

 ボリビアは経済的には豊かと言えない国であった。

 だからこそ海を奪った怨敵たるチリとアルゼンチンが対立を深める今の国際情勢が奇貨と見えたのだ。

 ボリビア政府は秘密裏にアルゼンチン政府に接触し、軍事支援を含めた2ヵ国条約の提案を行うのであった。

 例えばペルー。

 隣国エクアドルとの間で領土問題を抱えていたペルーにとって、この南米に吹き込んだ軍拡と言う風は好機であった。

 特にペルー軍部は自らの価値を示す機会が迫っていると盛り上がっていた。

 1930年代以降、G4(ジャパンアングロ)によって支配される国際連盟は戦争をかなり抑止する事に成功しており、そこにはペルーによるエクアドル侵攻も含まれていたのだから。

 南米の雄国群(ABC諸国)が戦争を始めてしまえば、エクアドルを一方的に殴る様な小さな戦争は目立たないだろう。

 そう考えていたのだ。

 そこにはペルーも参戦し、そして屈辱的敗北を喫した太平洋戦争(1978 チリ-ボリビア戦争)の敵国、チリへの備えと言う態で新しい装備を揃える事も可能になると言う皮算用が存在していた。

 南米の、特に中小の国々はある意味でドイツ戦争その他、世界の潮流から少しばかり離れた場所にあるが故の事とも言えた。

 兎も角。

 政治的な意味でも本流に近い場所には居なかった。

 独立独歩めいて地位を保っていたが故に世界を、国際連盟を、何よりも覇権国家群(ジャパンアングロ)理解していない(舐めている)のだった。

 

 

――ブラジル

 対機甲戦力の不足、そしてそもそも機甲戦力の訓練不足と言う問題はかなり深刻な話であった。

 南米と言う広大な大陸の、それも随一と言って良い領土を誇るブラジルの陸軍が小規模と言って良いのは、これまでの南米が如何に平穏であったかを示していた。

 治安維持が主任務であり、外敵の恐れは小さい。

 だからこそブラジルの軍はその護るべき領域に比べて小規模で良かったと言える。

 そこに降って湧いたが如き軍拡競争である。

 チリがチャレンジャー巡航戦車を導入した事でアルゼンチンがT-34/Ar戦車を導入した。

 チリと国境を接していないブラジルにとってチリのチャレンジャー巡航戦車は脅威では無い。

 万が一にも戦争になったとしても、正直、インフラへの負荷が大きすぎるチャレンジャー巡航戦車は脅威とは言い難かった。

 だからこそ、アルゼンチンのT-34/Ar戦車が脅威となるのだ。

 ブラジル軍が見る所、50t近いチャレンジャー巡航戦車は守勢が精々であり、国境線に張り付けて置いて移動トーチカめいた運用をするのが精々と言うモノであった。

 だがアルゼンチンのT-34/Ar戦車は違う。

 コンパクトで、40tにも満たないT-34/Ar戦車であれば、貧弱なインフラであってもそれなりの機動力発揮が可能になる。

 更に言えば、アルゼンチン国内には世界有数規模の鉄道網が存在し、アルゼンチンの首都たるブエノスアイレスからブラジルとの国境地帯のポサーダスにまで伸びているのだ。

 当然ながらも比較的軽量なT-34/Ar戦車は鉄道輸送も簡単である。

 ブラジルからすれば穏やかならざる気分になるのも当然の話であろう。

 ブラジルが保有する対装甲火力は、牽引式の対戦車砲とごく少数の38式戦闘装甲車(Type-38CAPC)が持つ6lb.砲しか無かったのだ。

 元はイギリス製の6lb.(57㎜)砲はそれなりの火力ではあったが、85㎜砲を持っているT-34/Ar戦車に優越出来るモノでは無かった。

 そもそも、本質的に38式戦闘装甲車(Type-38CAPC)は歩兵部隊の支援用車両でしかないのだ。

 歩兵を、その籠った塹壕ごと蹂躙する火力。

 歩兵の雑多な火力から身を守れる装甲。

 適切な機動力を発揮できる足回り。

 その全ては、戦車との交戦を前提としたモノでは無かった。

 故にブラジルは、G4(ジャパンアングロ)で一番の友好国であるアメリカに泣きついたのだった。

 

 

――アメリカ

 南北アメリカ大陸の守護者を自認するアメリカは、ブラジルから頼られた(泣きつかれた)事に気を良くしていた。

 とは言え、提供できる戦車には問題を抱えていた。

 T-34を一方的に撃破可能な戦車と言う意味では、保管状態になっているM3戦車と現在の主力中戦車であるM4戦車であれば余裕で可能となっているが、それぞれに問題を抱えていた。

 M3戦車に関して言えば、余剰となっているM3A2Eが即時提供が可能であった。

 34tの、8.8㎝対応として装甲を強化したモデルだ。

 30t台前半と言う事で、インフラの脆弱な地方でも十分に活躍可能ではあった。

 主砲は90mm砲を採用しており、攻防に於いてT-34/Ar戦車と十分に戦う事が出来るだろう。

 とは言え問題もあった。

 強化された装甲が正面装甲が主体であった為、極端なフロントヘビーとなっており、その運用には細心の注意を払う必要があったのだ。

 試作段階で、重量バランスの問題は判明していた為にエンジンの変更、重量のある大型エンジンを搭載する事でバランスを取る事が考えられていた。

 尚、重量増への対応は、変更されるエンジンが大出力である事で補えると考えていた。

 実にアメリカ(パワーサイツヨ主義)であった。

 残念ながらも、上手くは行かなかったが。

 M3戦車の足回り、特に変速機周辺がエンジン出力の上昇に耐えられず、整備の手間が上昇してしまったのだ。

 アメリカは保守部品を定数の倍以上揃える事で対応していた。

 部隊に配備する際、予備車両を用意もしていた。

 実にアメリカ(金満軍隊の流儀)であった。

 だが、そんなアメリカ式解決手段がブラジル軍に出来る筈が無かった。

 尚、M3戦車にはB1型もあった。

 此方はM3戦車の量産性の高さから、補助戦車としての役割を期待して開発された車両であり、Ⅲ号戦車及びⅤ号戦車であれば充分に撃破を期待できる76㎜砲を搭載していた。

 問題は、一種の歩兵支援型(対戦車自走砲)である為、防御力は貧弱であり、そして76mm砲はT-34/Ar戦車の装甲に対して十分以上に威力を発揮する事が難しい点であった。

 T-34/Ar戦車に限らずT-34戦車は、34t級と1940年代中盤の戦車としては比較的軽量であったが、車体自体を小型化する事と避弾経始を重視しているお陰で、クラス随一と言える防御力を有しているのだ。

 そして、主砲は85mm砲となっており、装甲を強化しているM3A2E戦車以外の場合には一撃で撃破可能となっているのだ。

 M3B1戦車をブラジル軍として採用出来る筈も無かった。

 保管兵器となっているM3戦車が駄目であれば、現在の主力であるM4戦車があった。

 此方はM3戦車の運用実績や、諸外国(ジャパンアングロ)の戦車を参考に開発された事実上の主力戦車であった。

 36tと言う比較的軽量であるが、傾斜装甲と空間装甲を採用して必要十分な防御力を持つにいたっていた。

 火力はブリテンからパテントを購入して導入した76.2mm(17lb.)砲。

 足回りその他は、M3戦車で培った実績を基に余裕を持ったモノが採用されていた。

 額面の数値(カタログスペック)で言えばM3A2E戦車と差は無いが、実用性と言う意味では別物であった。

 問題は、現在のアメリカ陸軍の主力戦車*1であると言う事だった。

 ブラジルが望んだ、お手頃(中古)戦車では無いと言う事。

 チャイナ戦争もドイツ戦争も終結しているが為に予算の削られていた(戦時の予算措置が終了した)アメリカ陸軍では、まだ十分に配備が進んで居ない最新装備なのだから当然の話であった。

 当然、低価格での提供と言う話もあり得なかった。

 アメリカの目はユーラシア大陸に向けられている為、ブラジルに温情を掛けるべき気分にならなかったという面があったのだ。

 同時に、アメリカはまだ事態を甘く(コップの中の嵐と)見ていた証拠でもあった。

 最終的に、アメリカはフロンティア共和国内に予備装備として保管されていたM2戦車の提供(友好国価格での売却)を提案する事となった。

 1930年代(シベリア独立戦争)に活躍した戦車である。

 既に10年以上も昔の基本設計の、それも初期型であるA2型であり完全に旧式と言っても間違いのない戦車であった。

 フロンティア共和国に残されていた理由も、チャイナ戦争参戦国に参戦のご褒美としての提供を打診しても旧式過ぎて不要と言われた、正に余り物であった。

 主砲も75mmとT-34/Arに対して劣位であったが、ブラジルは飛びつく事となった。

 旧式の余剰管理兵器と言う事で安いと言う事も大きな理由であったが、先ずは24t級と言う軽さが重要であったのだ。

 車体の軽さはインフラへの負担の軽さであるからだ。

 しかも、古いとは言えアメリカ製であり、同時に古いが故に機械的信頼性も確か(枯れた戦車)であった。

 又、予備部品も豊富である事も重視していた。

 かくしてブラジルは格安でM2A2戦車を200両から導入する事に成功したのだった。

 

 

――アルゼンチン

 新年を祝う場で行われた、ブラジルの新戦車配備計画の発表。

 ご丁寧に塗装しなおしてピカピカになったM2A2戦車を脇に置いてブラジル大統領が、宣言したのだ。

 ブラジル政府は、国家の安全の為の努力を止める事はない、と。

 大統領の宣言に続いて、満面の笑みを浮かべた駐ブラジルアメリカ大使が言う。

 アメリカはブラジルの安全保障に協力を続ける、と。

 アルゼンチン政府にしてみれば、新年早々に頭から氷水を掛けられた様なモノであった。

 当然である。

 アルゼンチンが当初整備しようとしていたT-34/Ar戦車は、対チリを主目的にして抑制的に200両に抑えていたのだ。

 奇しくもブラジルが整備する戦車と同数であった。

 戦車単体の性能だけを見ればT-34/Ar戦車はM2A2戦車に優越している。

 だが、アルゼンチンの戦車はチリとの国境線にも張り付けねばならぬのだ。

 単純に言えば2正面であり、半分ずつの戦車しか配備出来ない。

 その意味でアルゼンチンは数的劣勢である事が運命づけられているのだ。

 断じて受け入れられる話では無かった。

 対応の1つとして、アルゼンチンはフランス製戦車の導入数を増やす事とした。

 当初は10両程度の導入が予定されていたAMX39快速戦車を、その4倍以上の50両としたのだ。

 1個戦車連隊を充足させようと言うのだった。

 AMX39快速戦車は30tと言う軽量な戦車であり、装甲防御力に関しては脆弱であったのだが主砲は90mmとM2A2戦車を相手と見た場合は必要十分であった。

 又、戦力の均衡が目的であったので、アルゼンチンとしては十分でもあった。

 そしてもう1つの対応が、ボリビアとの接近であった。

 ブラジルと国境を接しており、過去の紛争の結果としてボリビア領であったアクレ地方を割譲させていたのだ。

 まだ40年も経ていない話である。

 和平条約も締結はしている。

 だが、ボリビアがブラジルに対して報復に出る可能性が無いとは言えない ―― 少なくともブラジルに()()()()()()を抱かせる事が出来そうな話であった。

 アルゼンチンは、ブラジルにも二正面と言う面倒を味わわせようと動くのであった。

 ボリビアとの相互安全保障条約の締結。

 そして、アルゼンチンは少なからぬ予算を用意してソ連のT-34戦車、その初期型(旧式)を斡旋するのであった。

 だがアルゼンチンは忘れていた。

 アルゼンチン-ボリビア関係は、アルゼンチンの都合で深められる関係であった。

 だが、アルゼンチンに比較して小国とは言えボリビアも独立した国家である。

 独立した国家であるが故に、ボリビアは自国の都合で動くと言う事を。

 その事をアルゼンチンが痛感するのは、事態が更なる混迷を迎えた時であった。

 

 

 

 

 

 

*1

 アメリカ陸軍は、ブリテンやフランスの陸軍とは異なり、現時点で保有する戦車を40t級以上の主力戦車(MBT)に統一する積りは無かった。

 これは予想される戦場がユーラシア大陸である為、40t級以上の重量級戦車で揃えてしまえば輸送が大変な手間であると言う事が重視された結果であった。

 又、コストの問題もあった。

 広大なユーラシア大陸、チャイナとの戦争を考えた場合、数が重視されると言う部分もあった。

 そして何より反アメリカ的な態度を完全に捨てていないチャイナ民国(蒋介石政権)であるが、その保有する戦力は貧弱の一言であり、40t級以上の主力戦車が要求される部分が少なかったのだ。

 軍備とは相手に応じる。

 そういう話であった。

 

 

 




2024.02.03 文章修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

193 エウロペア・ニューオーダー -1

+

 ドイツ戦争の終結後、大きな火は消えはしたが、潜熱と言う形で戦火の火種がくすぶっている世界。

 だが、今の所はG4(ジャパンアングロ)日常(平常運転)を送っていた。

 勿論ながらも平穏無事と言う訳では無い。

 ドイツと言うヨーロッパ亜大陸の中央に存在していた国家の消滅は、多くの国々がひしめいているヨーロッパの態勢が大きく変わっていく事を示していた。

 特に主要プレイヤーである5ヶ国の動向には、多くの国々が注意を払っていた。

 ヨーロッパ最大勢力となるフランス。

 南欧の雄にして東欧の守護者たるイタリア。

 北欧を纏めた反ソ連の盟主であるポーランド。

 旧大陸(ヨーロッパ亜大陸)は知らないとばかりに関与しないブリテン。

 そして最後に、巻き込み事故を喰らったようなモノだと不平不満顔を崩さない日本。

 5ヶ国中3ヶ国(日本、ブリテン、イタリア)は内側指向を隠さないが、その国力故に警戒され、注目されているのであった。

 とは言え、警戒はされても戦争的な、或いは対立的なモノは其処に無かった。

 それだけが中小国にとっての救いであった。

 

 

――日本/北ドイツ平原州

 日本は新しく支配下に入った(押し付けられた)北ドイツ平原州の治安と統治機構の再建に少なくない労力を払っていた。

 先ずは内閣府の下に、新たに北ドイツ平原州庁を創設していた。

 人員は各省庁からの派遣、そして民間の独系日本人を雇用するなどして体裁を整えていたが、実際には極めて小規模なモノであった。

 最近は独立国(邦国)として日本連邦に正式加盟を言い出している南洋(ミクロネシア)邦国を統括していた南洋庁よりも小規模な辺りに、日本政府のヤル気と言うものが見て取れていた。

 北ドイツ平原州は国際連盟からの委託と言う事で管理(ケツモチ)はするけども、元はドイツも先進国であったのだ。

 であれば早々に自治させてしまえば良い。

 日本からヨーロッパを管理するなんて面倒事は勘弁して欲しい。

 周辺は()()()だし、戦争の危険も少ないのだから。

 そう言う感じであった。

 だが、状況はそう日本が思う程に甘くは無かった。

 日本の管理下となった地域は、日本連邦軍によって掌握されて早々から比較的に治安が良かった為、戦乱を逃れる為として戦時中から民間人が避難民として流入していたのだ。

 その難民の多くが、ドイツ解体後にも故郷へと戻る事を選択しなかった事が、単なる行政システムの再建では無い苦労に繋がっていた。

 これは一つには国境を接しているフランスやポーランドの統治下に編入された旧ドイツ領では、ドイツ的なモノが言葉から文化から抹消される流れになっているというのがあった。

 公用語はフランス語、乃至はポーランド語のみと限定され、市区町村などの地方公共団体で取り扱う言語にドイツ語は含まれないと言う有様。

 学校カリキュラムなども変更され、歴史はフランスやポーランドのモノが国家の歴史として教育される事となっていた。

 建築物の再建に際しては、従来のドイツ様式は否定され、フランスやポーランドの様式、乃至は愛想の無いコンクリート建屋として行われていた。

 宗教施設ですらも、そうであった。

 又、文化的な行事も()()()()()()として、全面禁止とされている有様であったのだ。

 ドイツ人である事が徹底的に否定されていったのだ。

 正しくドイツ消滅。

 ドイツ的なモノの地上から消し去ろうと言うフランスとポーランドの熱意は、ドイツ戦争終結から2年近く経過し、それは誰の目にも判る形となっていた。

 その対価として、フランスとポーランドに編入された地域の旧ドイツ人は、その政府に従順な限りに於いて、()()()として保護もされていたが。

 だが、日本の管理下は違っていた。

 良くも悪くも日本的な対応、いい加減さと言っても良いが、ドイツ的な伝統や文化を壊す積りは無く、それどころか早期の住民(ドイツ人)による自治を指向していたのだ。

 市区町村の役場はドイツ語での書類が使えた。

 ドイツ通貨(ライヒス・マルク)すら流通し、将来的な切り替えすら検討はされても実際の実行に関しての予定は立てられぬ有様であった。

 治安こそ日本連邦統合軍が担っていたが、占領下のドイツ人が殊更に暴動的な行動に出る事が無かった為に重武装部隊は撤退しており、主役となるのは日本連邦統合軍管理下のドイツ人による武装警察隊であった。*1

 そして大多数の現地(ドイツ)人に日本が行ったのは難民保護(炊き出しなど)ではなく、生活基盤の再建支援であった。

 即ち就労である。

 莫大な金額を北ドイツ平原州自治政府に貸し出し、その自治政府が発注したと言う態で日本本土から当座の住居としてプレハブ住宅を持ち込んだのだ。

 ある程度の基礎工事さえ行えば、後は組み立て玩具(プラモデル)の様に作れるのが工場で規格化され製造されたプレハブ住宅の利点である。

 要するには、技術の無い人間であってもそれなりに作れると言う特徴があった。

 目的は勿論、仕事の無い人間に対する仕事の斡旋であった。

 住民の一部からは伝統的住宅では無い事への批判も出ては居たが、その様な意見を自治政府は一切無視していた。

 文化的伝統は大事であるが、非常時には非常時の対応がある(非常時にゴタゴタ抜かすな)、との日本内閣府ドイツ平原州庁 ―― 日本政府の意向を呑んでの事であった。

 実際、ドイツ戦争の最中に軍民を問わぬ焦土作戦めいた行為によって、北ドイツ平原州の住宅は、絶望的に住人の数に対して不足していたのだ。

 非常時に理屈(寝言)を言うなと言うのは、実に日本的態度であった。

 そこに一切の妥協、乃至は交渉の余地は無かった。

 理屈の前に先ずは生活再建と言うのは、日本にとってある種の基本(ドグマ)であるからだ。

 宗教家や哲学者、或いは高学歴の人間が様々な理屈を滔々と述べても、頑として受け入れず無視していた。

 何故なら、一般の人々は3年先の伝統住宅よりも1週間後の仮設住宅を選択し、日本への感謝を述べていたからである。

 即ち民意が北ドイツ平原州自治政府と日本の選択を支持していたのだ。

 こうなってしまっては旧来の権威構造層(ドイツ的な伝統)に出来る事は無かった。

 日本に対する非暴力不服従を唱えた所で、それで困るのは一般大衆であるのだからだ。

 ある意味で日本は、旧ドイツを管理下にした4つの国で最もドイツ的なモノを破壊する無慈悲な支配者であった。

 尤も、その事に日本にせよ北ドイツ平原州にせよ、人々が気付くのはかなり後になっての事であった。*2

 

 

 

 

 

 

*1

 警察組織とは別に武装警察隊が創設された理由の一つは、軍務時に法律違反などをしておらず無罪放免として世に出た旧ドイツ軍軍人の処遇問題だった。

 年若い人間ばかりであれば、破壊されたインフラなどの再建の現場などで生活の糧を得る事が出来るが、そうでない人間も多い。

 又、そもそも、フランス軍やポーランド軍は論外であるからとばかりに日本連邦統合軍に投降したドイツ軍も多かったのだ。

 それがそのまま残っているのだ。

 軍人としての生き方しか知らない人間が、である。

 この人々に職を与える為であるのだ。

 尚、この武装警察隊の主たる()となるのは、大量に残されている旧ドイツ軍の銃火器類を持った強盗、そしてオランダその他の周辺国やらやってくる夜盗の類であった。

 或いは旧ドイツ軍/武装親衛隊(Waffen-SS)残党というのも一定数は存在していた。

 それなりに武装をし、それなりの集団でやってくる為、一般の警察では対応が難しかったのだった。

 尚、当初は警察予備隊 ―― 警察の予備戦力と言う意識から命名されそうになり、日本人が微妙な顔で再考を促し、現在の武装警察隊と言う看板に落ち着いたのだった。

 

 

 

*2

 それは未来、フランスやポーランドに睨まれ、オランダからの悪意に晒されつつも、日本の庇護によって国家としての基盤を再建し、経済的にも自立できる様になった頃の事であった。

 北ドイツ平原州での帰属に関する選挙が行われた際、7割の人間が()()()()()()()として本土(日本連邦)への参加を求めると言う選択肢を選んでいたのだ。

 日本政府からすれば独立し、自立し、ドイツの伝統を継ぐ国家としての道を何故歩まないかと言う話であった。

 その疑問を北ドイツ平原州自治政府の人間に対して率直に口にした日本政府の高官も居た。

 ある意味でソレは北ドイツ平原州自治政府を焚き付ける言葉であった。

 だが、その返答は何とも言い難いモノであった。

 感情的な反発や、激昂などでは無かった。

 只、哀しげな顔で本土人は、我々ドイツ系日本人を見捨てるのかと言ったのだから。

 1940年代に比べればマシになったとは言え、経済的にも遥かに格上と言えるフランスとポーランドからは睨まれ続けているのだ。

 しかも、経済的には日本連邦各国との交易 ―― 日本製製品のヨーロッパ亜大陸への窓口としての仕事がかなりの割合を担っており、進出した日本企業の大規模な現地工場なりが重要な役割を担っているのだ。

 この状況下で、ある程度の自立力が得られたからと日本から離れれば、早晩にフランス乃至はポーランドの影響下に入るのは目に見えていた。

 だからこそ日本からは離れられないのだ。

 北ドイツ平原州自治政府は自らが伝統的なドイツ人の様式を維持しているとは思わなかった。

 色々な意味で日本の影響を受けていた。

 第1言語はドイツ語だが、街には第2言語(日本連邦公用語)である日本語が溢れているのだ。

 だが、それは北ドイツ平原州の人々の努力でもあった。

 ある意味で北ドイツ平原州自治政府は、自らの存続の為に日本化の道を選んでいたのだ。

 少なくともドイツ語が自由に使える。

 ドイツの伝統が否定されない。

 それは日本の保護下にあればこそである。

 その自覚があったのだ。

 そこまで言われてしまえば、日本に拒否権は存在しなかった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

194 エウロペア・ニューオーダー -2

+

 イタリアにとってドイツ戦争の終結は福音であった。

 国際連盟に於いてG4(ジャパンアングロ)に準じる列強国家群としての責任(面倒)が要求されていた事態の終了を意味するからである。

 とは言え、それで全てが終わった訳では無かった。

 ドイツのやらかした事、ドイツ戦争の片づけが残っていたからであった。

 ドイツ連邦帝国(サード・ライヒ)に加盟していた国々の処置である。

 オーストリア、ハンガリー、チェコスロバキアと言う国々は、比較的楽であった。

 様々な結果としてドイツ連邦帝国(サード・ライヒ)に組み込まれドイツの支配下に置かれていたが、民意はナチズム(ドイツ・ヒトラー体制)に心服していた訳ではないからである。

 とは言え、ドイツ連邦帝国(サード・ライヒ)に支配され資産()や資源を収奪され、重税を掛けられていた日々は国家を疲弊させており、更にはイタリア軍とドイツ軍の間での戦争状態も国土を()()()()に荒廃させているのだ。

 今日、戦争が終わりました。

 明日から普通の日常になります。

 その様な単純な話にはならないのだから。

 何よりも人の問題があった。

 国家が消滅し国土を疲弊させる原因となった親ドイツ派(ナチズム支持者)狩りが発生していたのだから。

 親ドイツ派は、ドイツの代理人として利益を貪っていた部分があった。

 そして、そうであるが故にドイツの消滅によって多くの人間の怨嗟を受ける事となったのだ。

 とは言え、一方的に狩られる事になった訳ではない。

 そも、ドイツ支配下の時代に金と権限を持っていた人間たちであるのだ、ドイツ軍や武装親衛隊(Waffen-SS)残党を雇い自衛するのも当然の選択肢であった。

 街路で銃撃戦が勃発するのも度々と言う有様であった。

 何とも地獄(末法)めいた光景だ。

 イタリア人の殆どは、東欧諸国は元は独立国であるので圧政者たるドイツ人とドイツ軍部隊さえ排除すれば後は自律的に平穏を取り戻すと考えていた。

 それが幻想であったと思い知らされる羽目に陥っていた。

 とは言え当初は静観する構えであった。

 それが、現地の人間の選択であるのだからだ。

 だがそれを許さぬ国家があった。

 フランスである。

 ドイツの終焉を与えた事で、名実ともに大欧州の盟主となったと言う自意識からの行動であった。

 ヨーロッパの全てに責任を背負う大フランスとしては、非人道的な混乱が継続する事を座視できない。

 そう言う話であった。

 ムッソリーニは、国際連盟代表を通じてフランスからの要請(命令)を聞いて、黙ってワインをがぶ飲みするのだった。

 

 

――イタリア

 東欧3ヶ国の治安回復に際して選んだイタリアの選択は、分離であった。

 親ドイツ派を取りつぶすと言う選択は簡単であるが、同時に、実行は面倒となるだろう。

 出来ない事は無い。

 だが、成し遂げるまでに必要な時間と予算、そして付帯被害と言うものが大きくなる事が予想されていた。

 だからこその分離政策であった。

 但し、イタリアが提案する分離先は国内では無くイタリア信託統治領であるバイエルン=バーデン地方だ。

 即ち、旧ドイツ領への移動となる。

 しかも、資産を保証した上での移住、その提案であった。

 反親ドイツ派に対しては、インフラの破壊された旧ドイツ領(バイエルン=バーデン)への追放と言う形式を取る事でガス抜きにもなると言う、一石二鳥の政策であった。

 これに、親ドイツ派は乗った。

 自身や家族の安全の保護と資産の保証が約束されているのだ。

 もはや、祖国での安全な生活は図れぬ以上、選択の余地は無いと言う部分があった。

 又、護衛として雇われていた()()()()にも、イタリアは安全な移動を約束する大盤振る舞いであった。

 高価な資産を抱えて夜逃げする親ドイツ派と、その護衛達。

 一般の人々は、その惨めな姿と追放と言う刑を以て溜飲を下げていた。

 唯一、この政策に反発したのは親ドイツ派狩りを行っていた人間であったが、正直な話としてイタリアには、自国民では無い暴力による私刑(リンチ)に勤しむような平和の破壊者 ―― 犯罪者に阿るべき理由は皆無であるのだ。

 公衆面前で文句を述べる様な、自らの犯罪(私刑)歴を開陳した人間は、片っ端から警察によって逮捕させていた。

 無論、法に則ってである。

 この点に於いてイタリアに抜かりは無かった。

 無論、全てが上手く行った訳ではない。

 祖国から追放(移住)させられて生活が出来る自信が無く、乗らない親ドイツ派も居て、その人々が()()()()()へと変貌すると言う痛ましい事件もあった。

 或いは、退去の準備中に資産を狙われて、暴徒などに襲われると言う恐るべき事件もあった。

 だが、イタリアにとっては痛ましくも些末な被害に収まっていた。

 それどころか、程よいガス抜きになったと思う人間も居た程であった。

 その上で、暴力を振るった暴徒などを一切の躊躇なく武力鎮圧する事で、支配者としてのイタリアの武を示し、反抗の目を叩き潰して行ったのだ。

 その容赦の無さは、治安維持として投入されていたイタリア国家警察隊(カラビニエリ)の制服が東欧3ヶ国で恐怖の象徴めいて(Waffen-SSに重ねて)見られた程であった。

 兎も角。

 イタリアが掌握して1年ほどで、東欧の3ヶ国は治安に関しては回復する事に成功するのであった。

 暴力の応酬が止まれば、後は経済の回復である。

 衣食住足りて礼節を知るとは言うが、正にその通りにイタリアは動いていた。

 とは言え、問題は簡単ではない。

 イタリアの景気自体は良好であるが、イタリアの経済によって東欧3ヶ国を支えたいと思う程にムッソリーニはお人よしでは無かった。

 一般のイタリア人とて、自らが楽しむパスタとワインを余っても居ないのに赤の他人に分け与えたいと思う筈も無いのだ。

 とは言え、経済が安定しなければ東欧3ヶ国は何時までもイタリアの管理下にある事になるだろう。

 現地政府が力を取り戻さねば、イタリア人官僚やイタリア軍、イタリア国家警察隊(カラビニエリ)の派遣を継続せねばならないし、食糧その他の物資も提供し続けねばならないのだ。

 それは本当に迷惑な話であった。

 又、正直な話として資金的な問題(リビアオイルパワー)は兎も角として、イタリアの経済力は東欧3ヶ国の市場として必要十分に豊かであるとは言えなかった事も、理由であった。

 覇権国家群に含まれているとは言え末席側であり、発展途上の国家でもあるのだから。

 悩めるイタリア。

 その状況を救ったのは、日本による戦災復興支援(特別ODA)であった。*1

 日本の積極的関与は、イタリアにとって実に福音であった。

 問題は、東欧3ヶ国は日本が関与を始めたのはイタリアの功績であると認識したし、日本は東欧への関与の窓口の一本化としてイタリアを認識したと言う事であった。

 そして、イタリアで行われた5ヶ国協力会議(ファイブスター・パートナーシップ)の記者会見の場で、共にイタリアの功績を褒め称えたのだ。

 褒められれば調子に乗ってしまうのがイタリア。

 イタリア人は、イタリアの有権者はムッソリーニの政治的手腕を称賛し、イタリアが東欧の盟主である事を望む事となったのだ。

 イタリアに、人気稼業の独裁者たるムッソリーニに逃げ場は無かった。

 その夜、ムッソリーニは医者に怒られない範囲で痛飲するのであった。

 

 

――バルカン半島

 治安と言う意味では比較的に回復の早かった東欧3ヶ国に対して、バルカン半島の治安は未だ、十分では無かった。

 七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家。

 そう呼ばれる地域であるのだ。

 一度、火が点いてしまえば消えるのは簡単な話では無かった。

 しかも血の気の多い人間揃いとなれば特に。

 更には侵略者たるドイツ人と、裏切り者(親ドイツ派)まで入り混じっているのだから仕方が無い。

 だが、仕方が無いと燃え尽きるまで放置と言う事が出来ないイタリアは、腰を据えて交渉に乗り出していた。

 幸いな事には、パルチザン勢力の指導者が有能であったお陰で、ユーゴスラビアの各勢力や各民族と言った様々な個性の強い集団に対して粘り強い交渉を繰り返し、そして成功させていた。

 イタリアも、ドイツ戦争時に最初に接触した頃は、共産主義者と言う事で警戒していたのだが、ソ連との関係が薄く、又、現実主義者であった事から、これ幸いとばかりに支援に出ていたのだ。

 とは言え、有能な指導者やイタリアの全面支援があって尚、バルカン半島 ―― 旧ユーゴスラヴィア領域の安定化には時間が掛かっていた。

 理由の一つは、強引な統合を目指さないと言う事があった。

 元は1つの国家であったと言う意識、そして今後は1つの国家になるのだと言う連帯であった。

 そしてもう1つは野盗、重武装強盗の如く身を落とした旧ドイツ軍残党と言う問題があったのだ。

 これはユーゴスラヴィアに侵攻していたドイツ軍部隊は、G4(ジャパンアングロ)等の国際連盟軍による本格的攻撃を受ける事は無く、抵抗運動とドイツ本土からの補給によって壊乱した事が原因であった。

 物理的な意味で壊滅していなかった為、それなりの重装備を持った人員が残されていたのだ。

 良識的な人間は投降して故郷なりに帰還していたが、そうでない(暴力と血の味を覚えてしまった)人間も多かったのだ。

 この為、イタリアは国際連盟安全保障理事会に掛け合って、バルカン半島全域での軍事行動の自由を得ていた。

 とは言え、動員令は解除していた為、常時展開するのは1個師団と航空隊程度の話であった。*2

 

 

 

 

 

 

*1

 有能な(仕事を探した)日本外務省が、ヨーロッパの現状 ―― ドイツ戦争の影響をつぶさに調べあげ、今後のヨーロッパの安定化に日本は積極的に関与するべきであるとのレポートを纏めた結果であった。

 このレポート作成には財務省も関与していた。

 何故なら、日本の管理下に入った北ドイツ平原州が安定的に経済活動を出来る様にしなければ永続的に日本の予算が喰われる事態となるのだ。

 金庫番として、そんな()()()()()を赦すなど出来る筈も無かった。

 財務省として本音を言えば、切り捨て、即ち日本の看板だけは残すが完全なドイツ人による自治を図るべきだと思って居たが、政治的にそういう事も出来ないと政治家サイドから釘を刺されていた為、出来る話では無かった。

 故に北ドイツ平原州は早期に再建して納税してくる場所に育てねばならなかった。

 その為の投資が戦災復興支援(特別ODA)であったのだ。

 旧ドイツを中心に、戦災で荒れたヨーロッパの復興計画であった。

 非経済分野に言えば、ソ連対策の側面もあった。

 荒廃した状態を放置していた結果、ソ連が東欧の国々を取り込んだ場合、深刻では無いにせよ面倒であると言う認識である。

 即ち、タイムスリップ前の世界の記録。

 冷戦と強大なソ連軍(ワルシャワ条約機構)の悪夢である。

 そんな馬鹿馬鹿しい軍事への経済の浪費など、財務省は勿論、防衛省(自衛隊)とてしたい筈も無かった。

 故に、日本の官僚機構の中では両面圧力(サンドイッチ)計画などと、ヨーロッパの再興計画は揶揄される事となる。

 尚、何故に日本がヨーロッパの面倒を見なければならぬのかとの声も上がっていたが、アメリカは関与する余地が一切なく、ブリテンは愉悦勢(旧大陸の苦労は蜜の味)

 唯一として残っているG4(ジャパンアングロ)たるフランスは、関与する態度を見せては居たが、その実としてアフリカの治安回復に政治力と外交資源を消費し続けており、実際的な面倒が見られる状態では無かった。

 何ともやりきれない話であった。

 とは言え、外務省としては予算規模の拡大に繋がる話と言う事で、面倒と言うだけでは無かったが。

 防衛省(自衛隊)としても、ソ連の圧力を低下させられる(ソ連へと圧力を掛けられる)と言う事で悪い話では無かった。

 唯一、関係省庁の中で財務省だけが予算が必要になるし、予算措置に必要な人員を動員させられるし、と大変な目にあってはいた。

 只、財務省である為、他の省庁の誰もが同情する事は無かったが。

 

 尚、余談ではあるがタイムスリップ前の世界史に詳しい人間は一言、この計画を米国代行業(ジャパニーズ・マーシャルプラン)と言っていた。

 

 

*2

 このバルカン半島での特殊軍事作戦許可に基づいて投入されているのはイタリア軍だけでは無かった。

 ドイツ戦争時代から情報収集その他で展開していた日本連邦統合軍も部隊を残して居た。

 ドイツ戦争終結後に組織改編され第111統合特殊戦(トリプル・ワン)師団となった第111特務団であった。

 比較的安全で、日本連邦統合軍航空部隊やイタリア軍の支援を容易に得られる環境と言う事が勘案され、特殊作戦のノウハウ取得と言う意味で部隊派遣が継続されていたのだ。

 建前としては。

 本音は、イタリアから泣きつかれたと言う部分があった。

 現地への潜入、情報収集、破壊工作その他。

 特殊作戦と言う意味で、この時代に置いて日本以外の国家の軍部隊に、この手のノウハウを持った組織は無かったが故の事であった。

 尚、コマンド部隊と言う類似の組織を有していたブリテンがノウハウ習得を目的に部隊を派遣していた。

 陸上自衛隊の特殊部隊員は特殊作戦部隊の御先祖と言える部隊が参加した事に、何とも言えない表情をするのだった。

 日本-ブリテン合同部隊の詳細を聞いて、アメリカやフランスも同種の部隊を編成してユーゴスラヴィアに部隊を派遣してノウハウ習得に走るのであった。

 コレは、アメリカにせよフランスにせよ特殊作戦の必要性を感じての事であった。

 アメリカはチャイナの大地で。

 フランスはアフリカなどの海外県(植民地)で。

 共に、少数部隊によってコストパフォーマンスの良い形で情報の収集その他が出来ると言うのは大きいと判断しての事であった。

 これは後にイタリアも含めた特殊部隊の連帯、国家枠を超えた戦友関係(ユーゴスラヴィア・ブラザーズ)に繋がる事となる。

 同じ釜の飯を食い、兄弟として危険を乗り越えていった事は、強い絆となっているのだ。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

195 NEXT-SeaPower-01

+

 ドイツ戦争の終結は日本連邦統合軍、と言うよりも日本の海洋戦力の根幹を為す海上自衛隊にとって待ちに待った時であった。

 当然の話である。

 海上自衛隊は、海外からは超巨大空母群ややまと型護衛艦を筆頭とする水上砲戦部隊が主役の戦力集団と見られていた。

 だが真に主力(SeaPower)と言えるのは駆逐艦部隊であると認識していた。

 対艦、対空、対地。

 そして対潜。

 あらゆる環境に於いて生き残り、そして任務を果たす戦闘艦。

 それが海上自衛隊にとっての駆逐艦(汎用護衛艦)であった。

 だが、1930年代後半から、その更新が事実上、ストップしていたのだ。

 数的な意味で主力であったのはむらさめ型とたかなみ型であったが、同時に主要護衛艦(甲種警備艦)にあっては40年選手どころか就役から50年目が見えている艦であったのだ。

 海上自衛隊が切に更新を望むのも当然の話と言える。

 当初は、あさひ型の拡大改良型である基準排水量6,200t級の汎用護衛艦ゆきかぜ型で更新する予定であったのだが、ドイツ戦争が現実的なタイムスケジュールになった1930年代後半から艦艇整備に於ける優先順位が変更されてしまい、3隻で調達が打ち切りとなっていた。

 所謂、1939年度艦隊整備計画が成立した為であった。

 戦争となれば駆逐艦は消耗品であり、竈にくべる薪の如く燃え尽きていく事になるだろう。

 だが、それでも火を絶やす訳にはいかない。

 その為には数が必要となる。

 ゆきかぜ型は、高い汎用性と性能を誇るが故に整備に手間がかかる。

 戦時に要求される数を揃える事は出来ないとは言わないが、その手間を省けばもっと数が作れると判断される事となった。

 結果、ゆきかぜ型に代わって5,500t級のあやなみ型汎用護衛艦と3,300t級のちくご型対潜哨戒艦が整備される事となった。

 とは言えあやなみ型、汎用護衛艦として整備される事となっているが、むらさめ型より始まった従来の汎用護衛艦船体の延長にある艦ではなく、もがみ型多目的護衛艦(FFM)の基本設計を踏襲した、少人数で操れる護衛艦であった。

 海上自衛隊としては不満足であった。

 むらさめ型とたかなみ型の後継として欲したのは単艦としても、艦隊構成艦としも運用可能な汎用駆逐艦であったのだから。

 あやなみ型は性能が決して低い訳では無い。

 だが、探知や脅威判定、指揮管制能力に於いて十分とは言えない部分があり、高脅威環境下での運用は、上位高性能艦や多数の僚艦があってこそなし得る艦であったのだ。

 あやなみ型ですらそうなのだ。

 ちくご型に至っては言うまでも無いだろう。

 そんなあやなみ型やちくご型の整備計画は、1943年度に整備目的達成前に中止される事となった。

 とは言え、ゆきかぜ型の整備が再開される事は無かった。

 予算はドイツ戦争で消費される弾薬や、予備部品の備蓄に振り分けられたからである。

 そして今、1948年。

 漸く、海上自衛隊は主力駆逐艦(ワークホース)を更新する機会を得られる事となったのだった。

 

 

――7,000t型汎用護衛艦

 むらさめ型の単なる性能向上型に過ぎなかったゆきかぜ型に対して、新しく整備される事となった7,000t型は、全く異なった船体その他を採用した新世代の汎用護衛艦として建造される事となった。

 その主要コンセプトは()()()()()()()()()()()()()()()()()()と言う事であった。

 やまと型護衛艦を筆頭に、この時代(現実)に適応した護衛艦の整備が怠られる事は無かったが、同時に元の時代に戻った際を恐れていたのだ。

 海上自衛隊が装備する潜水艦よりも粛音性に優れた潜水艦が、長距離から高速の魚雷で襲撃する時代を。

 超音速長射程の対艦誘導弾が飛び交っている時代を。

 対艦誘導弾を容易に撃墜可能な防空手段が成立している時代を。

 或いは光学兵器が実用化される事すら危惧していた。

 その全てに対応する事は難しかった。

 又、専門の各護衛艦の問題もあった。

 防空を言えば和製イージスシステム搭載艦(艦隊中枢防空指揮統制艦)であるやまと型があり、或いはあそ型対地護衛艦があるのだ。

 あそ型は連装8in.砲搭載が目立っているが、14,650tと言う船体規模から汎用護衛艦よりも上位のレーダーその他が搭載されており、VLSも更に32セル(1セット)が追加装備出来る余力を持っており、並みの汎用護衛艦よりも防空能力では上位に位置されていた。

 又、あたご型とまや型の本来のイージスシステム搭載の護衛艦もあり、それらの近代化改修は手抜かりなく続いているのだ。

 である以上、この新型汎用護衛艦に求められる水準と言うモノも見えて来る所があった。

 又、従来の汎用護衛艦よりも重視されている点として居住性があった。

 完全な乗員の個室化である。

 とは言え、簡単な話にはならない。

 200名からの乗員の全てを個室化した場合、従来のむらさめ型の様な5,000t級の船体では艦内空間が圧倒的に不足する事が予想されていた。

 大型化が解となる。

 だがそれだけが全てとはならなかった。

 十分な個室化を進めた場合、10,000tの船体が必要となる為である。

 結果、省力化も進められる事とされた。

 とは言え省力化は、被弾時の対応力の低下 ―― 継戦能力の低下に繋がるのだ。

 この問題を海上自衛隊は力技、技術力と割り切りで対処する事とした。

 その上で自動化を進める事で被弾時に対応に回せる人間を多く出来る様にしたのだ。

 又、補修その他に関して根拠地などに高い整備能力を与え、対応部隊を用意する事で対応する事とした。

 ある意味で護衛艦、海軍艦艇としては珍しい自己完結しない艦として計画される事となっていた。

 これは元よりあさかぜ型多機能護衛艦(FFM)でも導入された概念であったが、7,000t型では更に推し進められる事となっていたのだ。

 最終的に纏められた諸元は以下となる。

 高速発揮可能な7,000t級の船体。

 最大速力は30ノット。

 主砲は海上自衛隊艦艇として初の採用となる40㎜レールガンが1門。

 副砲としてコンパクト化された76mm砲が2門。

 近接防空システムとしてレーザー砲が1門。

 性能向上型SeaRAMが1基。

 VLSは64セル。

 艦載機はヘリコプターが2機まで搭載可能。

 乗員は102名(航空関連要員を除く)を予定していた。

 正に汎用の護衛艦(駆逐艦)である。

 コンパクト化された76mm砲が2門も採用されている理由は、新機軸装備であるレールガンとレーザー砲が共に故障した場合に備えての事であった。

 2門搭載となった理由は、主砲としてではなく拡大CIWS的な運用が予定されているお陰で弾薬庫などの船体内部のシステムも軽量で済んだ事、そして艦の船体中央の直線上に配置した場合、船体が長くなってしまう事を忌避した結果であった。

 艦橋の真下、前部甲板に並列して2門搭載する事となっている。

 7,000t型汎用護衛艦(DD)はその名の通り、実に駆逐艦(護衛艦)であった。

 1947年度予算で建造がスタートしたのだった。*1

 

 

――海洋戦略

 世界規模で展開する事となった日本連邦統合軍と海上自衛隊。

 とは言え、その全てで何を為すのかと言う点が再検討される事となった。

 様々な(貰い事故めいた)理由で、遠くヨーロッパまで陸上戦力を配置する羽目になった日本。

 その補給路(祖国への道)を守る事が主任務とも言えるが、では、その護衛はどうするべきなのか。

 敵は何となるのか。

 そこが議論となっていた。

 尚、主敵である所のソ連であったが、極東には領土も友好国も、そして根拠地の類も無いので意識される事は無かった。

 有事に成ればシベリアから西征をすれば良いと言うのも大きな理由と言えるだろう。

 現時点でソ連との戦力比は質は勿論ながらも数に於いてすら、陸も空も隔絶しているのだ。

 戦争と言う意味に於いて、()()()()()()()

 そもそも日本は平和主義国家であり、戦争をしたいとは思っても居なかった。

 憲法第9条は堅持されており、自衛 ―― 国家と国民の生命と権利、そして財産保護を除く紛争解決手段としての戦争は放棄したままであるのだ。*2

 世界秩序の維持と言う意味に於いてであれば、日本では無く国際連盟。

 或いはG4(ジャパンアングロ)が共同で行うモノであり、間違っても日本単独はあり得ないのだ。

 結果、国際秩序維持任務に投入可能な戦力の維持。

 日本近海、南洋、インド洋、北大西洋の4つの大海域において、治安維持と国防を担う方面部隊だ。*3

 そして最後には、海難等の災害対応である。

 海上保安庁も、この流れに乗る形でインド洋及び北大西洋に常時展開する事となる。

 尚、この流れの中で海上保安庁は海上における海難事故対応その他に於ける協力関係の構築が政府サイドから要求される事となり、大いに慌てる事となる。

 政府からすれば東アジア、東シナ海-南シナ海での海洋安全協力体制に繋がるものだと認識していたが、流石に海上保安庁側からすれば無理を言うなであった。

 人的組織的規模にも予算的にも簡単な話では無いからだ。

 結果、財務省と頭を突き合わせて政治から要求された内容に対応できる組織規模を勘案し、その上で予算を作り上げていく事となった。

 尚、主張した政治側であったが、その発端は外務省にあった。

 国際連盟に於ける安全保障分野に近い所での影響力拡大と言う狙いからであった。

 その事を知った海上保安庁は外務省を呪った。

 呪った上で、多国間での交渉の現場にオブザーバーとして外務官僚の出張を要求していた。

 そして財務省は、少しだけ外務省の予算案に文句(ケチ)を多く付ける様になるのだった。

 

 

 

 

 

 

*1

 日本の海上艦艇の非常識さ的な部分に大分なれてきた所のあった世界であったが、流石に7,000tで駆逐艦と呼称するのはどうだろうか?

 と悩む事となる。

 尚、某軍事誌では、日本の艦艇は「FutureShipS’(未来艦艇)」として別の枠に放り込んで心の平坦を得ている有様であった。

 そして主武装にレールガンがあり、レーザー砲が搭載される事を知った科学者とSF小説家は色めき立つ事となる。

 ある意味で1940年代中盤に於ける最大の話題、それが最終的にはふぶき型汎用護衛艦となる7,000t型護衛艦(駆逐艦)であった。

 

 艦名 ふぶき(ふぶき型汎用護衛艦)

 建造数   16隻(ふぶき 以下艦名未定)

 基準排水量 7,650t

 主砲    70口径40mmレールガン 1門

 VLS     Mk41 64セル(船体中央部64セル)

 他     64口径76mm砲 2門

       近接防空レーザー 1門

       SeaRAM 1基

       3連装短魚雷 2基

 航空    格納庫(ヘリ 2機  観測用UAV 3機)

 

 

 

*2

 タイムスリップ後の同盟関係、特にG4(ジャパンアングロ)との軍事防衛関係に於いても、この点は堅持されていた。

 無論、日本国内では絶滅寸前の態となっている古式ゆかしい平和主義者と憲法第9条保護者は、今の日本の態度を欺瞞であり、帝国主義であると批判し続けては居た。

 だが、その声が大きくなる事は無かった。

 タイムスリップ前の出来事も大きかったし、そもそも、この世界では日本は日本連邦は従来的な意味での日本人だけの社会ではなくなっていたのだから。

 又、日本連邦に参加している邦国の人間からも、軍備放棄とか言い出すのは問題であると正面から批判されるようになっているのだ。

 ある意味でタイムスリップ前の1945年の決定的な敗北が生み、そして冷戦崩壊と共に滅べなかった亡霊は、漸く墓穴へと埋葬される事となっていた。

 

 

 

*3

 広域に展開する事を受け入れた海上自衛隊であったが、とは言え大西洋やインド洋の主役はブリテン海軍と言う意識があった為、ここでブリテンの面子を潰さない様には細心の注意が払われていた。

 ブリテンとの関係悪化は勘弁して欲しいし、そもそもG4(ジャパンアングロ)の海軍関係は極めて良好であるのだ。

 そこに波風など立てたくないと言うのが心底からの本音であった。

 尚、日本は南洋の問題や資源関係からオーストラリアに接近 ―― 資源開発と農地開発に莫大な投資を行っており、一時はブリテン側が日本による切り取り(邦国化)政策かと疑われた事があった。

 日本がエチオピアに次いで、オーストラリアに核融合炉を提供(貸与)までしているからである。

 最終的に、日本の目的が鉄と小麦と言う事が判り、緊張関係が育つ事は無かったが、それまでの間、微妙な緊張感があったと言う。

 余談ではあるが、日本の進出意図が判明後、逆にブリテンはオーストラリアの日本への接近を図らせる事となる。

 これは日本とアメリカの関係の良好さはグアム共和国(グアム特別州)グアム共和国軍(在日米軍)があればこそと思っての事であった。

 ブリテンは日本との関係安定化の鎹として、オーストラリアを使おうとしていた。

 因みにオーストラリア。

 日本からの投資によって経済が活性化し、そして日本への輸出の本格化で経済が潤っていた為、普通に親日化していた。

 

 

 




2023.10.23 文章修正


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

196 NEXT-SeaPower-02

+

 グアム共和国(グアム特別自治州)にて、G4共同で行われている次世代の空母着艦技術の研究と開発は比較的順調に推移していた。

 それは、技術こそ有してはいないが、それでも技術進歩の方向性は把握できるからである。

 又、最終的な解としての21世紀(米海軍)の集大成が現物として存在しているのだ。

 手探りめいて技術開発をする様な事態では無かったお陰であった。

 ジェット戦闘機と言うモノが日本と言う手本を得た事で長足の進歩を遂げてしまった弊害が、日本と共に努力する事で乗り越える事が出来る様になったのだ。

 又、日本が制御システムなどに関しての先端技術(スマート・デバイス)を提供していた事も大きかった。

 コクピットで簡単に後付け出来るソレは、最良の侵入速度や角度その他をパイロットに教えてくれると共に、詳しい情報を収集しているのだ。

 研究も良く進むと言うモノであった。

 又、携帯端末(スマート・デバイス)であるが、軍用とは言え基本が汎用品を転用していた為にGPS機能も有していた。

 これが洋上に於ける位置確認に大きな助けとなった。

 特に夜間での着艦試験をした際、自機の位置を簡単に把握出来た事が大きく評価されていた。

 滞空1000時間を超えるベテランのテストパイロットは、着艦技術の開発と共にこの携帯端末(スマート・デバイス)の導入を強く上申していた。

 上申を受けたアメリカ海軍上層部も悩む事となる。

 道具としての利便性は理解しているが、事、携帯端末(スマート・デバイス)提供(売却)をしても良いが完全なブラックボックスであると日本が宣言していたからである。

 同時に、携帯端末(スマート・デバイス)の機能ネットワークに接続されてこその道具である為に軍の情報、特に位置情報その他が丸ごとに筒抜けになる恐れがあるのだ。

 GPS機能、そしてGPS機能と紐づけされた地図情報は便利極まりないが、リスクが高いのではないかと考えられていた。

 アメリカは日本と深い同盟関係を築いているが、流石にそこまで知られるのは如何なモノか。

 そう言う話であった。

 実に悩ましい話であり、この悩みに関してはブリテンも同様であった。

 唯一、フランスだけは即答(シンキングタイムレス)で、ブラックボックスで良いから売れと言っていた。

 さもありなん。

 広大なアフリカで治安維持作戦を行っているフランスにとっては、どの様な場所であっても自分の位置を知れると言う点は何事にも代えがたい機能であったのだ。

 しかも、フランスがアフリカに投入している兵力、その数的な主力は傭兵(元ドイツ兵)インドシナ連邦軍(フランス海外県インドネシア人)なのだ。

 士気(モラール)や練度と言う意味で期待し辛いと言うのが実情であり、そんな大部隊であるが故に指揮するフランス人も十分な教育を受けた人間ばかりと言う訳では無かったのだ。

 故に、広大なアフリカの大地で行方不明になってしまう部隊が結構な頻度で発生しており、フランス軍内部で問題化していたのだ。

 勿論、フランス陸軍だけではなく、空軍でも問題は共有していた。

 土地勘の無い場所に、不十分な地図を片手に飛んで来いと命令されるのだ。

 任務遂行も帰還も、問題が頻発すると言うものであった。

 どんなベテランであっても土地勘が無ければ十分な能力を発揮できないと言うものである。

 故に、フランスにとっては多少の軍事機密が漏れたとしても問題ではなかったのだ。

 逆に日本がドン引きするレベルで大量発注を(俺の金を持って行けと)言い出していた。

 但し、整備拠点()をフランス領は無理でも日本領(北ドイツ平原州)に設置する事を要求していた。

 当然の要求と言えた。

 このフランスの要求を日本は飲む事となる。

 元より日本信託統治領(北ドイツ平原州)にも軍事拠点を設置する予定であった為、日本は遣欧部隊の整備拠点(デポ)として大規模な施設を建設する事となった。

 場所は元ドイツ軍の軍事拠点が複数残っていた為、コレを流用する事となる。*1

 併せてフランスは、日本が整備を進めていた衛星通信網(ジャパン・スターリンク)の定期使用契約を結ぶ事を選んでいた。

 ドイツ戦争時に、その効果を実感し、それが無くなって以降のアフリカでの治安維持戦で必要性を痛感していたのだ。

 無論、フランス国内では反対する人間もいた。

 フランスは大国として自前での通信衛星を開発するべきだと言うのだ。

 それは1つの意見であったし、科学者が声を上げるのも当然の話であった。

 だがフランス政府とフランス軍が欲しいのは今すぐの衛星通信網なのだ。

 通信衛星は勿論ながらも通信衛星を打ち上げる為のロケットすら影も形も無く、出来上がるとしても何時になるかは判らないのだ。

 コレでは比較対象になる筈も無かった。

 情報網と言う意味でフランスは日本との一体化を選ぶ事となる。

 それ程に、アフリカでの治安維持戦の負担は大きかったのだった。

 

 

――トライデント計画

 ジェット艦載機と空母の運用に関する知見が溜まると共にフランスは、アメリカとブリテンとに1つの提案をする事となる。

 ジェット艦載機の運用を前提とした全くの新設計空母を共同で開発しようと言う計画である。

 3国共同開発計画(トライデント)である。

 フランス、アメリカ、ブリテンと言う3国が協力すると言う意味での命名だ。

 元よりフランスはアメリカと共同で空母の開発研究をしていたのだから、躊躇は無かった。

 又、ジェット戦闘機対応空母と言う新世代兵器の開発に関して、投入コストを少しでも小さくしたいと言う気分(スケベ心)もあった。

 この提案にアメリカは二つ返事で乗っていた。

 既に50,000t級の大型空母建造計画を進めていたアメリカであったが、違う知見からの空母の研究開発と言うモノの意義は決して小さくはないからである。

 故にアメリカはフランスと共に自らもブリテンに参加を呼び掛ける事とした。

 この時点でのブリテン海軍は、海洋交易路の安全確保が主任務であると自らの役割を定義づけし、それに基づいた戦力整備を考えていた為、現時点で大型空母に対する欲求は低かった。

 何故なら、()と呼べる国家が少ないからである。

 敵対的な国家はあっても、G4や国際連盟に正面から喧嘩を売れる国家など、そうそうには無いと言う現実があればこそであった。

 だが、最終的にはブリテンも計画に参加する事となる。

 アメリカとフランスが空母整備計画に於いて先に行かれる事に対する不快感からであった。

 とは言え、ブリテンにとって50,000t級超過の大型空母を現時点で整備する意義は乏しい。

 結果、トライデント計画で空母を実際に建造するのはフランス。

 アメリカとブリテンは技術の研究と開発を協力する事となる。

 尚、日本が声を掛けられなかった理由は、技術的な先進性は持っているのだが、先進的過ぎてアメリカもブリテンもフランスも口を挟める余地がないからである。

 それでは、技術を開発するのではなく、技術を与えられると言う立場になってしまうのだ。

 電子装備その他、日本が先端(未来)に居る事はどの国も否定しないが、そこに近づく為の努力を怠る気はない。

 それが同格(ジャパンアングロ)と言う、覇権国家群に名を連ねる意地でもあった。

 尚、フランスが50,000t級の大型空母建造を欲する理由は、アフリカの治安維持戦であった。

 空母とは、航空機を大量に抱えて自由に移動できる航空基地であるのだ。

 即ち、アフリカの広大な大地で展開する陸上戦力部隊に適切な火力を提供する事が出来るのだ。

 フランスは、偵察と対攻撃手段としての空母を欲しているのだった。

 大型の理由もそこにある。

 安全な発着艦も大事であるが、大型の空母故に大量の航空機を運用できると言う点が重視されたのだった。

 故にフランス海軍は、フランス陸軍からの予算協力も受ける形で3隻の50,000t級空母建造を予定する事となるのだった。

 そして、この3隻もの大型空母建造計画がアメリカを刺激し、今の50,000t級空母の建造計画に続いて、更なる大型の空母を建造しようと考える事となる。

 最終的には両洋空母計画(2*2 Project)としてフランスを超える4隻の建造計画となる。

 尚、ブリテンは、この競争に付き合いきれぬと言う態であった。

 今現在のブリテンにとっては、30,000t級空母こそが使い勝手の良いサイズであったからだ。

 辺境の、設備の乏しい港でも運用可能な空母。

 ブリテン海軍は冷静であった。

 少なくとも、ブリテンの世論が沸騰するまでの間は。

 世界にアメリカとフランスの大型空母が出揃った頃の事だ。

 世界に冠たる覇権国家群(ジャパンアングロ)の一角たるブリテンが、何故、他の国の様な大型空母を保有しないのだと、国民は政府と王立海軍を批判したのだ。

 民意とは、民主主義国家にとって神であり、神の意志であるのだ。

 平凡な人間からなるブリテンの政府や海軍に抵抗する力などある筈も無いのだった。

 そんな大変な未来に気付く事無くブリテンは、大型空母の建造に鼻息を荒くするフランスを呑気に見守るのであった。

 

 

 

 

 

 

*1

 日本が本格的に北ドイツ平原 ―― ブレーメルハーフェン市近郊に設営を決定した整備拠点は、諸外国に売却した装備などの重整備(アフターサービス)も行う為もあってかなり大規模なモノとされていた。

 対象にドイツ戦争中にばら撒いた各MLシリーズも含んだからである。

 そして同時に、このブレーメルハーフェン基地(整備廠)で働く人間の為の仕事、即ち食堂や洗濯などの業務を外注と言う形で現地の雇用に繋げようとしていた。

 戦災未亡人や戦災孤児、男性や大人では無いが故に仕事の少ない人々にも生活の糧を得る手段を用意しようと言う事であった。

 ドイツ戦争に於いて、日本は民間人への被害が出来るだけ発生しない様に配慮はしていた。

 だが戦争である。

 どうしても発生してしまうものであった。

 又、被雇用者の家族であれば、医療などの福利厚生も提供する様にしていた。

 これは正に治安維持であった。

 とは言え問題が無かった訳ではない。

 ブリテンである。

 何故なら、ブリテン本島には日本連邦統合軍の基地と兼ねた共同での技術開発拠点が設けられていたのだ。

 自動化された16in.砲の開発などを行った整備研究拠点である。

 ブリテンの王族が音頭を取った縁もあり、オーガスタ基地等とも言われている。

 この基地が撤去される可能性に慌てたのだ。

 フランスとイタリアの軍事拠点は対ドイツを睨んだ日本連邦統合軍陸軍部隊の基地であったが為、ドイツ戦争終結後は部隊は基地に帰らず、事実上の撤退をしていたのだ。

 ブリテンが危惧を抱くのも当然であった。

 特にイタリアの領内にあった基地は、返還の具体的な計画(タイムスケジュール)が作られる所まで話が進んでいる程であった。

 フランスの基地に関して言えば、世界大戦(World War 1914-1918)時代の古戦場の化学汚染の除染拠点でもあったので完全な撤去は無いのだが、それでも実戦部隊の駐屯は終了する方向で話が進んでいた。

 日本連邦統合軍、と言うか陸上自衛隊にとって世界中に派遣されている戦力の減少は悲願ですらあったのだ。

 ドイツ戦争終結と言う新時代(デタント)をチャンスと見て積極的に動いているのだった。

 この動きを財務省も歓迎していた。

 海外に部隊を配置すると言う事は、当然の流れとして海外派遣手当と言うものが発生するのだ。

 財務省も全力で歓迎し、支えると言うモノであった。

 だが、ブリテンの危惧は杞憂に終わる事となる。

 何故ならば、ブリテンに配置されていた基地と整備研究拠点は航空分野も含んでいたのだ。

 F-6やF-7と言った輸出用の機体は勿論だが、日本の正規戦闘機であるF-3やF-35Bや、ヘリコプターの重整備拠点として大規模に作られていたのだ。

 逆に、日本が維持させてくださいと言う話であった。

 信託統治領(北ドイツ平原州)は、まだまだ治安も経済も安定していない為、ブリテンに置かれている基地は予備(バックアップ)としての役割も担えるからである。

 1940年代後半からはドイツ(北ドイツ平原州)の陸上部隊の整備拠点、ブリテンの航空部隊の整備拠点、そしてフランスの民需向け研究拠点と言う形となる。

 又、この流れの中で日本は、信託統治領(北ドイツ平原州)の経済的安定の為、ヨーロッパに進出する企業の実務(整備/補給)などの部門は北ドイツ平原州に設置する様に誘導する事となるのだった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

A.D.1949
197 エウロペア・ニューオーダー -3


+

 ドイツ戦争終結は、ポーランドにとって福音と呼べる部分と呼べない部分とがあった。

 1つはフランスである。

 ポーランドとフランスは、対ドイツと言う面に於いて深い協力関係にあり、ポーランド軍の近代化と精強化に於いては大きな役割を果たしていた。

 特に、日本から入手した産業機械や技術によって余剰となった古い諸々を格安で提供してくれていたのだ。

 フランスから見て古い機械などであっても、最先端の列強国家の機材であるのだ。

 ポーランドからすれば値千金の機材であった。

 1930年代から40年代にかけての時代、ドイツと言う()によってポーランドとフランスの蜜月の時代と言えるだろう。

 だからこそドイツ戦争終結(ドイツと言う国家の滅亡)は大きな転機となるのだ。

 既にフランスからの積極的な支援は細くなりつつあった。

 フランスの目はアフリカに集中しており、フランスの生産力も又、アフリカに集中しつつあるのだ。

 そこにポーランドが割り込む余地は乏しかった。

 だが、ポーランドはまだまだ発展せねばならないのだ。

 ドイツと言う脅威は消えこそしても、ソ連と言う脅威はいまだ健在であるからだ。

 否、脅威は強大化しつつあると言って良い。

 コンゴと言うアフリカの資源地帯を手中に収め、更には人的資源も得ているのだ。

 又、重工業的な意味ではアルゼンチンとの貿易を強化しつつあるのだ。

 成長をせねば死ぬ事となる。

 正直な話として、ポーランドが製造出来ている戦車や戦闘機などは一流、一級品と言うには聊かばかり寂しい。

 日本の持つ超一流の装備は別にしても、他のG4(ジャパンアングロ)諸国のソレらから見ても2世代は遅れていると言うのが実際であった。

 対して仮想敵国であるソ連。

 ソ連が開発し配備している戦車などは、一流と言うのは無理であっても、それに次ぐ水準には達しているのだ。

 又、アルゼンチンと共同での技術開発も行っているのだ。

 ポーランド政府が危機感を抱くのも当然の話であった。

 産業の近代化。

 そして段階的な軍備の近代化。

 ドイツとの戦争が終わったと言う程度で呑気で居られる程にポーランドの状況は甘く無かった。

 無論、加盟している国際連盟がある。

 万が一にソ連が狂を発して戦争を仕掛けてきた場合、国際連盟加盟国の全力 ―― フランスは兎も角としても他のG4(日本やブリテン)から全力で支援が得られるとは確信できていた。*1

 だがそれでも、ポーランドは独立国家の矜持故に、可能な限り独力で有事(ソ連の侵攻)に対抗せねばならぬと考えているのであった。

 とは言え、国力の涵養は簡単では無い。

 紆余曲折に四苦八苦を重ねているポーランド。

 そんなポーランドに救いの手を差し伸べる国があった。

 ブリテンだ。

 最先端の技術は含まれない限定的ではあっても、産業技術と軍事技術の供与を提案してきたのだ。

 そこにはブリテン装備の格安での売却も含まれていた。

 

 

――ブリテン

 ブリテンにとってポーランドとの協力は幾つかの意味で重要な意味を持っていた。

 一つは対フランス。

 ヨーロッパ亜大陸で主導的地位を占めているフランスの権勢に楔を打ち込む事であった。

 尚、当初はイタリアにも期待してはいたのだが、イタリアは良くても中立であり、親G4(ジャパンアングロ)を堅守しつつも、同時に、G4(ジャパンアングロ)の4ヵ国に対しては等距離を維持していた。

 実に賢い、国家防衛戦略(弱者の戦略)と言えた。

 一つは対ソ連。

 ヨーロッパの盟主を自称しつつアフリカ対策に奔走しているフランスと、ソ連を明確に仮想敵国としている日本。

 その両国に対ソ連戦力を涵養すると言うのは恩が売れると言う計算があった。

 そして最後の一つ。

 ブリテンの都合として一番重要な事は、ソ連との軍拡(技術開発)競争をしているポーランドと協力する事で軍備開発に於ける最先端の情報を収集すると言う事であった。

 真の最先端と言えるのは日本であり、ブリテンは日本との共同技術開発なども行っている。

 だが、日本は先を行き過ぎてしまっており、結果を得る事は出来ても、日本の居る場所へと至る道を探すのは難しいのだ。

 だからこそ、ブリテンは地に足のついた技術開発の為、ポーランドをパートナーとして選んだのであった。

 中心となるのは陸軍、戦車を代表とした機甲戦力である。

 ブリテン単独での技術開発と言う選択肢が無いわけでは無いのだが、ブリテン陸軍の軸足がフランスと同様に治安維持が中心となっている為、どうしても戦車などの機甲戦力の開発に掛かる予算は重視されづらかった。*2

 ここに危機感を抱いていたブリテン政府が、ポーランドの状況を奇貨としたのだ。

 又、ポーランドとの共同技術開発、そして新装備の生産に際してはブリテン製の様々なモノを売り込める ―― ポーランド陸軍が装備した戦車などはフィンランドなどでも採用される事が期待できると言う部分もあった。

 幸い、ブリテンとポーランドの関係は極めて良好であり、特に()の面ではある種の同盟関係にあったが為、陸上分野でのブリテンとポーランドの関係強化も、すんなりと進む事となった。

 尚、フランスの政界、その一部からはフランスの領域(ヨーロッパ亜大陸)でブリテンの影響力が強まる事に対する否定的感情の表明が為される事となったが、フランス政府が動く事は無かった。

 フランスにとって重要度が高いのはアフリカである以上、ポーランドのソ連との対峙に対してブリテンが()()してくれるのは良い。

 そう言う認識であった。

 ブリテンがポーランドと関係を深めると言う問題に関して言えば、アフリカ問題が解決後にひっくり返せると思って居ればこその余裕とも言えた。

 

 

――ソ連

 ブリテンとポーランドの接近、そして共同での装甲車両の開発と言うモノは、ソ連に多大な影響を与える事となる。

 ソ連にとってポーランドは北欧との間でソ連を睨んだ軍事同盟 ―― ワルシャワ反共協定の主催国であり、明確な敵国であった。

 とは言え、その脅威度は低いと言うのが一般的な認識であった。

 経済力、特に重工業の分野で圧倒的と言える差がある為、如何に軍事力の充実を図ろうとしても、ソ連から見れば旧式、或いは二流の装備しか開発配備しか出来ないと言う評価だ。*3

 だが、そんなポーランドに性格の悪い事で言えばG4(ジャパンアングロ)筆頭に居るブリテンが絡んでくると言う。

 ソ連が落ち着いていられる筈も無かった。

 ブリテンは日本とも技術の開発協定を結んでいるのだ。

 である以上は、日本がブリテンを仲介役にポーランド軍の強化、そしてソ連の挟撃に出たのではと被害妄想に陥るのも仕方のない話であった。

 最初、ソ連は国際連盟に対して軍事技術の拡散、そして装備の売却の抑制を目的とした協議を提案した。

 却下された。

 そもそも、ソ連はアルゼンチンとの軍事技術の開発協定を結んでいるのだ。

 ソ連の都合(アルゼンチンとの関係)は別であるとして、軍事技術の拡散と武器売却は良くないなどと言い出されては、失笑以外の何が出るのかと言う話であった。

 結果、ソ連は経済への投資の主軸を軍需とし、民需向けの発展が遅れていく事となる。*4

 結果として、ソ連はポーランドとの戦車開発競争を行っていく事となる。

 そして日本(シベリア共和国)からの侵略を前提としたシベリア防衛計画案とは別に、ポーランドと戦争になった際の、短期間でポーランドを沈める為の電撃作戦の立案も行われる事となった。

 その際、ソ連軍内部で極大攻撃手段として核兵器の開発と装備を極秘裏に行う事も検討されていたが、それを知ったスターリンの鶴の一声で停止させられていた。

 日本による懲罰行動、核兵器を遥かに上回る核融合弾(純粋水爆)の躊躇なき使用を恐れての事であった。

 その威力は、ドイツ戦争後、国際連盟の加盟各国から代表を募って行われた爆破試験で実証されていた。

 南太平洋の小さな無人島で行われたソレは、文字通り、島を消し飛ばしていたのだ。

 それは正に国際連盟安全保障理事会の、G4(ジャパンアングロ)の、日本の横暴であった。

 だが、その対価として、電力源としての原子力の民間使用に関しては日本が技術公開を行い、又、独自に開発する余力の無い国家に対しては日本が全面的に協力する事(低利融資と原子炉の提供)を約束しているお陰で、国際連盟加盟国の間に大きな批判が持ち上がる事は無かった。

 実際、1940年代後半にはG4(ジャパンアングロ)を筆頭に、世界に40基以上の原発の建設計画が持ち上がっていた。

 そこにはソ連すらも含まれていたのだ。

 事、核の平和利用と言う面で日本は本気であった。

 ()()()()()、スターリンは核兵器を実際に使用した際の日本の行動に恐怖していたと言えた。

 ソ連内部では、特に軍の強硬な反日本主義者の間では、スターリンを批判する声を上げていたが、大きな動きになる事は無く、スターリンが病気によって死亡するまで権力の座から引きずり降ろされる事は無かった。

 又、ソ連軍内部の別の一派からは、核兵器開発と配備に掛かるコストが試算された結果、真っ当に戦車部隊を涵養してポーランドをひき殺した方が安いし、国際連盟を敵にせず安全であるとの結論が出され、ソ連の核兵器保有計画が実働する事は無かった。

 

 

 

 

 

 

*1

 フランスに期待出来ない理由は政治的な理由などではなく物理的な理由、1949年の時点で、ドイツを殴殺しきったフランスの強大な大陸軍(グランダルメ)が消滅していたが故の話であった。

 フランスは植民地帝国としての地位を維持する為、アフリカでの治安維持戦(対独立運動鎮圧)にのめり込んでおり、重装備の無い武装蜂起集団に対抗する為、重厚な戦車を中心とした機甲戦力から、装輪装甲車を主体とした高機動戦力へと組織を改編していたのだ。

 ドイツ戦争で活躍した重装備群の大半は諸外国に売り払われ、代わりになったのは日本の16式機動戦闘車(Type-16MCV)の様な大口径砲を持った装輪装甲車であった。

 大口径砲とは言えども低圧化した90mmに過ぎず、装甲も20tに満たないと言う事で期待できない。

 その様な偵察戦闘車たるEBR-90がフランス陸軍の装甲戦闘車の数的主力であったのだ。

 これでは期待できないと言われるのも仕方のない話であった。

 アフリカの大地で偵察と火力支援を担う車両としてはEBR-90は極めて優秀であったが、本格的な機甲戦闘を行うのには不十分であった。

 

 

 

*2

 正直な話として、G4(ジャパンアングロ)による国際連盟を下部組織とした世界覇権体制は確立しており、コレに積極的に敵対しようと言う国家は存在していないというのがブリテン政府の認識であった。

 木っ端な国々が、多少の()()()()をしでかしたとしても、それが強い影響を持つ筈が無いとの考えである。

 それ程にG4(ジャパンアングロ)と、それ以外の国家との経済力の差は圧倒的であった。

 

 

 

*3

 ドイツ戦争時にはフランスを筆頭としたG4(ジャパンアングロ)による支援によって長足の進歩を遂げたポーランド軍であったが、それも戦争期間中だけの事であり、戦争が終わって以降、装備の更新は停滞気味であった。

 旧ドイツの東側を支配下に収めはしたが、戦争によって産業基盤や物流インフラなどが荒廃しており、ドイツの力を手にした強大なポーランドと言うのは画餅の有様であった。

 それどころか、その復興に掛かるコストがポーランド経済に大きくのし掛かってきている有様なのだ。

 無論、高度な教育を受けた労働者自体は消えた訳ではないので、今後の10年から先は期待出来るが、現状では全くのお荷物状態であった。

 又、ポーランド国内も侵攻してきたドイツ軍によって荒らされており、その復興コストも馬鹿に出来ない規模となっていた。

 又、戦争の舞台となり荒れ果てた農地が齎す食糧危機問題も深刻であった。

 幸い、国際連盟による緊急食糧供給プログラムによってオーストラリアからの小麦や肉、タイからの米の輸入によって飢餓状態に陥る事は免れていたが、何年も輸入で凌ごうとすれば外貨の消費は劇的な事となり、又、農家の労働意欲にも悪い影響を与える為、早急な農地の被害回復が図られていた。

 日本などによる復興支援もありはするが、基本は支援(サポート)であって主体はポーランドが予定を組み立て、予算を組むのだ。

 ポーランドは戦勝国であると言っても、呑気で居られる筈も無かった。

 

 

 

*4

 ソ連の民間の発展の遅れは、オビ川を挟んでシベリア共和国(日本)と接するノヴォシビルスク市であからさまな事となる。

 宣伝目的もあってソ連も西ノヴォシビルスク市に投資し、ビルの建設なども行っているのだが、シベリア共和国(日本)の摩天楼ぶりに敵うモノでは無かった。

 日本政府はソ連との戦争が始まれば、ソ連との戦争の趨勢は別にして東ノヴォシビルスク市は()()()()と判断していた。

 一応は東西共にノヴォシビルスク市は非武装地帯と停戦協定で定められているが、ソ連がそんなモノを真面目に守る国では無いと思って居るのだから当然の話であった。

 建国当初はシベリア共和国政府でもそう思って居たのだが、経済発展が進むと共に西シベリア低地最大の都市である東ノヴォシビルスク市は民間の投資対象となり、大いに経済発展する事となって話が変わったのだった。

 又、東西ノヴォシビルスク市はソ連とシベリア共和国(日本)の貿易が行われる場所でもあった事もあり、有事には切り捨てられる都市であると定めた上で、ソ連に対する宣伝(嫌がらせ)目的での投資を行う様になったのだ。

 貿易は民需主体であり、同時に資源などの交易も行われていた。

 特にシベリア共和国の西部域では、距離の問題(陸送コスト)からソ連(ウクライナ)産の小麦などの食料品も出回っていた。

 対してシベリア共和国は、日本政府の人道的判断によって許可されている医療品や、たばこや酒と言った嗜好品。

 そして良質な子供向けのオモチャや遊具、アニメや漫画などの輸出を行っていた。

 娯楽の少ない西ノヴォシビルスク市やその周辺では、日本製の漫画やアニメなどが政治的な要素など欠片も無いからこそ普及(蔓延)する事となり、後にソ連の思想家などからは悪質な文化侵略だとの批判の声が上がる事に繋がる。

 尤も、その頃には日本製のアニメが公共電波で放送される有様になっており、子どもが黙ってTVを見ていると親が助かっていると言う母親たちの強い反論によって、思想家の主張が大きな影響力を持つ事は無かったが。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

198 エウロペア・ニューオーダー -4

+

 ヨーロッパ亜大陸の盟主を自認するフランスは、そうであるが故に国際連盟とは別のヨーロッパの経済軍事協力体制の構築を考える事となる。

 一つはアフリカでの治安維持戦で消費している戦費を、少しでも取り戻したいが為に諸外国との経済協力 ―― 有り体にいえばフランス製品の()()を欲したのだ。

 本来、フランス本土の余剰生産力を売りつける先として海外県(植民地)があったのだが、独立運動などによって治安が悪化し、経済情勢が停滞し、購買力が下がり続けているのだ。

 フランス製品、特に不要不急となりがちな高付加価値商品を購入する余力が少なかったのだ。

 ブリテン連邦加盟国の様な経済発展を促そうにも、治安もだが高等教育システムの未整備による識字率の低さなども相まって上手く出来て居なかった。

 フランスは、フランス本土を頂点とする学歴秩序(階層構造)を構築しており、優秀な人間のフランス本土の学校への留学制度は整備していても、海外県(植民地)での人間の育成を重視していなかったのだ。

 その結果であった。

 だからこそ、市場としてのヨーロッパ亜大陸が必要となるのだ。

 既にドイツ戦争終結から3年以上の月日が経過しており、戦乱に荒らされた国々であってもそれなりの購買力は有する様になってきている筈である。

 であれば、フランス製品を買うべきである。

 それは一つの曇りもないフランスの都合であった。

 とは言えフランス以外の国家にも都合と言うモノがあった。

 特に東欧の併合されていた国々は、ドイツによって国庫を荒らされ、そこにドイツ戦争の被害 ―― ドイツ軍による遅滞戦闘(嫌がらせ)を目的としたインフラ破壊が乗っているのだ。

 とてもでは無いが、ドイツ戦争前の水準までの経済復興など夢のまた夢と言う有様であった。

 イタリアからの友好国価格での石油輸入や、日本による戦災復興支援(特別ODA)もあったが、それでは十分とは言い難いのが現実であった。

 当然の話である。

 イタリアは、先ず、自国経済を最優先としていた。

 日本は、戦災からの復興()()であり、主体となるのは東欧の国々であったからだ。

 戦争と言う、戦災と同時に、平時に蓄えていた全てが奪われる様な大惨事を受けて、数年で復興しろと言うのは、普通の国家にとっては中々に無茶な話であったと言える。

 当然の話とも言えた。

 故に、東欧諸国は10年単位での国家の再興を考えていた。

 だがフランスは、自国の都合最優先で、東欧や北欧諸国との貿易拡大を要求するのであった。

 東欧諸国は、フランスを覇権国家群(ジャパンアングロ)の一角として、ヨーロッパ亜大陸の主導的国家であるとは認めていた。

 だが、流石にこの要求は無体であるとして動き出す。

 

 

――国際連盟 経済協議

 東欧諸国が頼ったのはイタリアだった。

 だが如何なイタリアとて、フランスと対峙すると言う選択肢は無理であった。

 G4(ジャパンアングロ)と準列強とでは余りにも格が違い過ぎているのだから。

 だからこそイタリアは、国際連盟を使う事とした。

 ヨーロッパの復興に向けた経済活動の活性化をお題目として、常設されてはいたが有効活用されていたとは言い難い、国際連盟経済金融機関である。

 主体となるのは、出来るだけ自由な貿易関係の構築である。

 貿易に関する条約を締結する際のルール作りもあった。

 又、ブロック経済等を抑止する事で諸国家の経済対立を緩和すると言う狙いも挙げられていた。

 ドイツ戦争の原因はドイツ ―― ヒトラーとNazis党に帰する部分が殆どであったが、その遠因と言う部分に焦点を当てると世界、特にG4(ジャパンアングロ)が無関係で無かった事が大きかった。

 世界大戦や世界恐慌によるドイツの経済的混乱、苦境に日本やアメリカ、ブリテンは無関心であり、フランスは敵視していたのだ。

 G4(ジャパンアングロ)は世界経済の大多数を押さえた大規模な経済協力関係体でもあったのだ。

 そのG4(ジャパンアングロ)に睨まれては、ドイツ経済が困窮するのも当然と言う理屈である。

 故に、ヒトラーとNazis党によるドイツ掌握に繋がり、そして世界に挑んだと言うのだ。

 G4(ジャパンアングロ)、特に自分の領域で満足している日本やアメリカからすれば、バカ(ドイツ)が自爆したと言う話に過ぎないが、同時に、今後にバカ(跳ねっかえり)が出て来るリスクを下げたいと言われれば、頷かざるを得ない話であった。

 だが、ここで話は終わらない。

 ブリテンが日本を巻き込んで、貿易の前に経済に関する公平性と持続性の問題を述べたからであった。

 即ち、この時点で既に萌芽している公害問題と、そして40年ほど後から問題が顕在化するフロンガスによるオゾンホール問題や、二酸化炭素排出による地球温暖化の問題である。

 貿易は重要であり、貿易 ―― 交易による経済発展は大事である。

 だが、地球環境に破滅的な影響を与え、或いは人間の生命活動に重大な問題を及ぼす事は宜しくない。

 そういう主張であった。

 ブリテンの主張を裏打ちする資料を、日本が用意したのだ。

 日本はタイムスリップ前の歴史で起きた諸々を国際連盟総会の場で一挙に公開し、その上で、各国の科学者に対して検証する様に促したのだ。

 その衝撃たるや甚大なモノとなった。

 フルカラーの写真、動画、精緻な資料であるのだ。

 世界がひっくり返る様な大騒ぎとなるのも当然であった。*1

 ブリテンと日本の主張にフランスは諸手を挙げて賛成した(流石ブリカスの声を上げた)

 東欧が国際連盟の場で主張した公平な貿易と言うのは、フランスの市場開放にも繋がる事であったが為であった。

 食い物にする積りが、食い物にされては堪らない。

 だが、このブリテンの主張となれば話が変わる。

 そう言う話である。

 話が違うと慌てたのは東欧諸国とイタリアである。

 自由と平等、公平な経済発展をお題目としていたが為、ブリテンによる()()()()()()()()()()()()()()に有意な反論を思い付けなかったのだ。

 特にイタリアは大変であった。

 現在、イタリアの主要貿易相手は日本であり、日本との貿易は日本が民生分野での輸出は絞り気味な事もあって輸出過多と言う状態であったのだ。

 自動車やバイクと言った一部工業製品、革製品、服飾製品、果てはワインなどの食料関連品。

 実に良い商売であったのが一気に凍結されかねない事態であったのだ。

 ムッソリーニが深夜、G4と対立時代以来の痛飲する(東欧の願いを聞いたらこの様だ! と叫ぶ)事態となっていた。

 慌てて対処に走る事となる。

 中心となったのは実物のムッソリーニに惚れ込み、日本から移住して(馳せ参じて)いた伊系日本人であった。*2

 それなり以上に日本を理解していたお陰で、解決策は出た。

 日本に泣きつく事(いつも通りのイタリア仕草)である。

 とは言え、コレは日本にとっても利益の出る話であった。

 円借款としてG4と貿易をしたい国家に投資が出来、そして投資対象が日本であるので堅い利益(リターン)が約束されるからである。

 又、環境対策技術がヨーロッパの東半分(イタリアと東欧)で日本が基準となる事で、ひいては将来的に日本の技術が世界基準として普及する(日本の飯の種になる)事が約束されるからである。

 このメリットを主張する為、ムッソリーニは北欧諸国も日本の環境対策技術の導入に関して賛成する様に外交を行う(酷使される)のであった。

 イタリアの動きに対して日本も歓迎の意向を示すのであった。

 但し、技術の提供(売却)に付帯して特許や著作権に関する特別協定を結ぶ事を条件としていたが。

 違法コピーなどがされた場合、該当国が責任をもって処罰すると言う事である。

 技術のコピーと言う意味で違法意識の薄いこの時代で、国内の統制を厳重に行わねばならない話である為、重い荷物を背負う話ではあった。

 だが、長期的に見た場合、イタリアその他の国家にとっても悪い話では無かった。

 各国が独自に開発した技術も保護される話であるからだ。

 故に、ムッソリーニは東欧や北欧の諸国を説得して回る事となる。

 今、イタリアは統治側が一番忙しい(痛飲する暇もない)国家となっていた。

 

 

――フランス・ブリテン

 環境対策技術と言う意味で、日本を除く世界の先に居ると思っていた両国であったが、環境対策技術に関する議論が深まると共に大いに慌てる事となる。

 日本が提示した対策、その水準が余りにも高すぎたのだ。

 特に資源主体の対日貿易を行っているフランスは、資源の採掘に際して環境破壊が酷過ぎるのでは? と言われる有様であった。

 採掘がフランス本土では無く海外県(植民地)が主体である為、対策が余り重視されて来なかったのだ。

 対してブリテンはまだマシであった。

 植民地であった国々は、一応は独立国となっていた為、それなりに進められていたのだから。

 とは言えブリテンの連邦加盟国もまだ独立して長くはない為、環境対策と言った分野での官僚機構の育成は進んでおらず、規制に関する法整備などもブリテンが担っているのが実状であったが。

 この為、慌てて議論の方向性を抑制する事となった。

 

 

――アメリカ

 日本と並んで自国と領域で経済が完結しているアメリカは、当初、この環境対策に関する議論を他人事の様に感じていた。

 自由を重視する国風である為、経済活動の自由を阻害するモノであると認識していたからである。

 特に、フロンティア共和国やチャイナ人民共和国と言った、自国の領域ではあっても自国では無い(アメリカの法に保護されない領域)と言うメリットを活かしたアメリカ国内では違法な操業をしていた企業群による強い反発があったのだ。

 アメリカ政府が環境対策に対して積極的になれないのも当然の話であった。

 将来的に問題になりそうだとは判っているが、政治家も己の今(選挙)を考えれば中々に動きづらいと言うのが実状であった。

 その流れに一石を投じたのは、チャイナ人民共和国であった。

 アメリカの半植民地めいたチャイナ人民共和国であったが、その貿易相手国はアメリカとフロンティア共和国だけではなく、日本連邦 ―― 近隣の朝鮮(コリア)共和国や台湾(タイワン)民国のみらず北日本(ジャパン)邦国、そして日本までが含まれていたのだ。

 特に日本は、タングステンを含んだ地下資源の有望な売却先であり、同時に、日本製の農機具などの人民の生活に直結した民生分野の輸入はチャイナ人民共和国にとって重要であったのだ。

 民心慰撫が重要な(人民がキレると手に負えない)のだ。

 更に言えば、日本製の信頼性が高く使い勝手の良い土木建機などは特に重要であった。

 チャイナ戦争で荒廃したチャイナの大地を復興させるのに大きく尽力してくれており、更には農地の拡大や道路の新しい造成などで、チャイナ人民共和国の経済発展を大きく支えてくれていた。*3

 それらがアメリカ(宗主国)の都合で手に入らないと言うのは、気位の高いチャイナ人にとって認められる話ではない。

 そう考えられていたのだ。

 指導者たる周恩来も必死になると言うものであった。

 そしてアメリカ政府も、その周恩来の必死さに触れ、対応せざるを得なかったのだった。

 環境対策に対応する事となったアメリカは、そうであるが故に本気になった。

 参加するのであればアメリカにとって都合の良い内容でなければ困るからである。

 結果、国際連盟の経済関連機関の場はG4(ジャパンアングロ)の本気の激論の場へとなるのであった。

 戦争よりも本気の闘争。

 その熾烈さを、小国の代表団は恐怖に慄きながら見るのであった。

 

 

 

 

 

 

*1

 勿論、主導したのはブリテンであるのだから善意などでは無いし、地球環境に対する良識に基づいての事では絶対に無かった。

 目的は一つ。

 ブリテンの繁栄。

 永続的な、特権的地位の確保(先行者利益の維持)であった。

 後発の経済発展を始めた国家群の野放図な企業活動を抑制し、或いは経済発展するには環境対策技術をG4(ジャパンアングロ) ―― ブリテンから購入するしかない状況に追い込もうと言うのだ。

 それはG4(ジャパンアングロ)に技術的な優位性と同時に、市場(GDP)規模の絶対的な優位性があればこその話であった。

 G4(ジャパンアングロ)相手に商売、貿易でモノを売りたいのであれば、地球環境に配慮した経済活動をしておらねばならない。

 そういう構造作りであった。

 実にブリテンらしい邪悪さであり、G4(ジャパンアングロ)奸智(ブリカス)担当等と呼ばれるのも当然であった。

 尚、フランスはズッコケ担当(やらかし大杉)であり、日本はお財布担当(無償出費するとは言ってない)であり、アメリカは田舎者(空気の読めない俺様発言)担当であった。

 誰が言い出したかは知らないが、多分にブリテン人だろうと言われているG4(ジャパンアングロ)の各国担当分野であった。

 勿論、非G4(ジャパンアングロ)国家群から見ての話である。

 ある意味で世界支配者層(覇権国家群)に対するガス抜き的な部分があった。

 

 

 

*2

 イタリアのG4への陣営移籍(イタリアンダイナミック)以来と言う事で10年からムッソリーニの腹心、無任補佐官として重用(便利使い)されていた人間だ。

 日本政府が国民の海外への移動を自由化する前の移住であった事から、日本との外交案件になる事を警戒し、公式には()()()()()()()と言う偽名で呼ばれていたが、ある意味で余りにも分かりやすい為、日本の情報機関からはマークされていた。

 イタリアでルイージは家名として普通に存在するが、その2つを並べてしまってはどうにもならない。

 この偽名選択からも判る通りやや軽率な所もある人間であったが、日本を脱してイタリアに行く程のバイタリティを持った有能な人間であったが為、未来情報の全てを吐きだした後でもムッソリーニに重用され、厚遇されていた。

 ローマ市内にそれなりの家を与えられ、ファシスト党有力者の娘を嫁を貰っていたのだから。

 地中海東側と東欧を押さえた大ローマ=イタリア帝国となり、過労死するイタリア人が出る程に大変な状態となったイタリアで、苦労しつつもそれなりに幸せな人生を送っていると言えるだろう。

 尚、日本からは、その体格からMrグリーン(緑の奴)と呼ばれていた。

 

 

 

*3

 アメリカの土木建機メーカーはチャイナ人民共和国の動きを俊敏に察すると、自社製の土木建機を強烈に売り込んでいた。

 アメリカ製の機材も、この時代としては優秀ではあった。

 又、日本製のソレらを見て、進歩を続けていた。

 だがそれでも、日本製の土木建機と比較すると、性能差は歴然であった。

 何よりも始動性や操作性と言った、本来の能力以外の部分での差が余りにも大きすぎ、比較にはならなかったのだ。

 

 尚、チャイナ人民共和国が日本製の土木建機を導入出来ている理由は、日本とアメリカの協定が理由であった。

 チャイナ人民共和国と周恩来への支援だ。

 嘗て外敵と口汚く罵っていたアメリカの強い影響下に入っている現状で人民(国民)の不満が溜まらない為の飴と言えるだろう。

 チャイナ人民共和国に売却された土木建機には星条旗や日章旗が鮮やかに記されており、住民感情の改善に役立っていた。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

199 日本国信託統治領北ドイツ平原州-1

+

 1945年のドイツ戦争終戦と言うゲルマン民族の決定的敗北から4年の月日が流れようとしている昨今、北ドイツ平原州は着実な復興が進んでいた。

 破壊されたインフラの再建、一般住宅の再建、そして経済の再建である。

 衣食足りて礼節を知る。

 毛筆で書かれたソレが、額縁に入れられ信託統治領たる北ドイツ平原州を治める中央庁舎の大会議室に掲げられていた。

 真理であった。

 そしてドイツ人 ―― 1940年代後半にはゲルマン人と呼称する事の多くなった日本統治下の人々にとっても判りやすい話であった。

 とは言え、この看板を掲げてしまったが故に、日本は自覚せぬままにドイツ経営にドップリと浸かる羽目になってはいたが。

 不足する食料は、信託統治領債を発行して輸入した。

 農業大国たるフランス、或いは日本の支援で莫大な生産力を確保しつつあるオーストラリア。

 果ては日本の支援もあってアフリカ随一の農業大国に育ちつつあるエチオピアからである。

 とは言え輸入と言うのは輸送コストも掛かるので、早急に北ドイツ平原州の自給率60%と言う目標が設定される事となった。

 ジャガイモを主体として、生産性の高い品種の種/種芋が日本から導入され、同時に肥料や農機具も貸与される事となる。

 北ドイツ平原州の管理庁から要請を受けた全国農業協同組合(Japan Agricultural Cooperatives)、所謂JAがドイツ支部を作り、先端の農機具や肥料、農薬を使った農業を全力で指導したのだ。

 又、日本国内の独系日本人(独国在住経験者)などのアドバイスなども行われた。

 これが北ドイツ平原州の農業事情を劇的に向上させていく事になる。

 更にはJAの進出に伴って、日本の銀行もドイツに本格的に進出を開始した。

 貸与される農機具よりもより巨大で高性能な機材の導入を提案してまわったりもしたのだ。

 JAはシベリア共和国に進出しJAシベリアを作り上げた成功体験を、この北ドイツ平原州でも再現する積りであったのだ。

 このJAの動きに連動する形で、日本の農機具メーカーなどがドイツへと進出したのだ。

 支社を作り、新製品の売却や整備などのアフターサービス拠点を構築していった。

 ある種、手慣れた仕草であったが当然の話である。

 日本企業には、シベリア共和国と言う()()があったのだから。

 とは言えシベリアと比べて北ドイツ平原州の場合、差し出せる対価 ―― 資源も無ければ、農産物も無い。

 差し出せるのは人間だけと言う有様であった。

 とは言え、人を差し出せば今度は北ドイツ平原州を立て直す人間不足に陥るだろう。

 何とも因果な状況であった。

 そこを救ったのが、日本の北ドイツ平原州管理庁であった。

 基本的に現地住人の自治に任せる積りだったのが、状況の余りの酷さ故に人道から日本の財務省に掛け合い、予算を確保したのだ。

 更には状況に同情した朝鮮(コリア)共和国や台湾(タイワン)民国も寸志ながらも出資した。

 それは古き(未来の)SF小説の題材からの言葉、闇よ落ちるなかれ(Lest Darkness Fall)を合言葉とした、混じりけの無い善意であった。

 そして、そうであるが故に真っ当なドイツ(ゲルマン)人の心に響く事となる。

 ある意味でコレが、北ドイツ平原州とそれ以外の旧ドイツ領との分断に繋がっていく事となる。*1

 農業と言う生活の柱が立てば、他の部分も好転しだす。

 特に資本をもって北ドイツ平原州へと移住してきた地方貴族(ユンカー)などの富裕層も動き出す。

 だが、この好転が悪い動きを呼ぶ事となる。

 不逞な人間の活発化である。

 飲む()打つ(賭博)買う()の三拍子が鳴り響きだす事となる。

 そこに付け込む周辺諸国の人々。

 当然、日本人も悪どい人間が少なからず出た。

 当初は自治政府にせよ北ドイツ平原州管理庁にせよ、ある程度は目こぼしをする積りであった。

 何れも、人間にとって必要悪な部分もあったからである。

 憂さ晴らしの酒や賭博は過度で無ければ問題にはならない。

 売春とて生活の糧を得る手段が無ければそうせざるを得ない部分はあったし、更に言えば売春をせざるを得ない女性たちを纏めて救うだけの余力も北ドイツ平原州には無いと言うのが実状であったからだ。

 だが、食い物にされるとなれば話は変わる。

 日本の監視下にあって汚職とは無縁であった北ドイツ平原州の警察機構は、本気を出す事になる。

 日本も又、腹を立てていた。

 日本の管理下(信託統治領)である北ドイツ平原州に手を突っ込んで、舐めているのかとなったのだ。

 不逞な人間の捜査と逮捕と言った実働に関しては北ドイツ平原州警察機構が、周辺諸国との折衝は日本の外務省が出て調整し、撲滅を図る事となった。

 その動きの最中、判明したのはドイツ人に対する深い反感を隠そうともしないオランダ人組織の暗躍であった。

 

 

――オランダ

 北ドイツ平原州と長い国境線を接したオランダは、麻薬の密輸から人身売買まで、様々な事をやらかしていた。

 特に人身売買は酷い事になっていた。

 周辺の旧ドイツ領からの流入や、未だ北ドイツ平原州で戸籍が完全に整備されていない事から、問題が表に出にくかったというのが理由であった。

 とは言え許せる話では無い。

 激怒した日本政府は秘密裏に代表をオランダに送る事となる。

 日本政府から証拠と共に詰められたオランダ政府は、顔面蒼白となって至急対応すると約束するのであった。

 かつてのドイツ人婦女暴行未遂も酷いが、此方も相当に酷い。

 オランダの政府関係者は日本政府代表が帰るや否や、自国の警察機構幹部を呼び出して怒鳴りつける事になる。

 現オランダ政府は、自国の所業によって関係が悪化してしまった日本や旧ドイツ(北ドイツ平原州)との和解を政治命題としていた。

 日本との関係が齎す影響(両国関係の悪化による経済不調)は、それ程に大きかった。

 そうであるが故にオランダ国民も、政府の方針を支持していた。

 そして現政権による関係改善方針によって、オランダも又、北ドイツ平原州の復興需要にありつけていた。

 又、オランダ領内の戦災復興にも日本の大きな支援を受けられていたのだ。

 それが、一部の不逞なオランダ人によって破断する危機となったのだ。

 オランダ政府関係者が激怒、怒髪天を衝く(あ”あ”あ”あ”あ”あ”)となるのも当然の話であった。

 このオランダ政府のマヂ切れに慌てた警察関係者は憲兵や軍に対しても協力を要請し、全力での対応に出る事となる。

 オランダ国内には一定の反日本反ドイツと言う政治勢力があったが、麻薬と人身売買は、その手の政治的遊びで許される範疇を遥かに超えていた。

 空気の読めない識者(自称インテリ)が、オランダ人の感情の問題を主張したりもしたが、一般のオランダ人がその意見に流される事は無かった。

 又、麻薬問題はオランダの国内問題でもあった為、オランダ政府はこの外圧(日本からのオハナシ)を奇貨として、国内での反麻薬に強権を振るうのであった。

 それは後にオランダ-1949麻薬戦争と言われる程の流血を呼ぶ事となる。

 

 

――北ドイツ平原州武装警察隊

 オランダとの積極的協力関係の構築は、この麻薬と人身売買を中心とした問題への対応の難易度を下げる事となった。

 とは言えオランダ国内の綱紀粛正には時間も掛かる事が予想される為、同時進行でオランダとの国境線の安定化と、北ドイツ平原州内部での不逞者の捕縛が強力に行われる事となった。

 その中で武装警察隊に要求されたのは、国境線の警戒であった。

 オランダからの不法越境者の逮捕、乃至は鎮圧(退治)が主任務である。

 この目的の為、北ドイツ平原州管理庁は余剰となってシベリアで保管されていたMLシリーズのトラックや装甲車などの供与を日本政府から勝ち取るのだった。

 又、武装も対人と言う意味では十分なモノが与えられた。

 コレはドイツ戦争終結、否、ドイツの滅亡によって余剰となり裏社会に大量の武器が流出した事が理由であった。

 オランダからの越境犯罪者は、並みの警察組織では対抗できないだけの重武装 ―― 小銃や拳銃、手榴弾と言ったモノではなく、重機関銃や対戦車擲弾砲などまで保有しており、随分な数の殉職者を北ドイツ平原州の警察機構は出す羽目になっていた。

 だからこそ、ならばこそ本気(戦争をしようじゃないか)となったのだ。

 武装警察隊は元軍人(ドイツ国防軍経験者)が多く在籍しており、武器の扱いに関しては手慣れている事もあって、運用に問題は無かった。

 只、多くの武装警察隊隊員(将兵)は、日本製の装甲車や火器、そして通信機などに触れてあの戦争(ドイツ戦争)の時に欲しかったと言う思いを抱いてはいたが。

 兎も角。

 十分な武装と装甲、何よりもセンサー群を得た武装警察隊はオランダ方面からの武装不逞集団を一方的に潰して回る事となった。

 これが後には日本連邦軍随一の治安維持戦対応力で知られる特別自治邦国ハンブルク(ハンブルク共和国)軍の初陣であった。*2

 又、洋上からの不逞者流入阻止の為、北ドイツ平原州にも海軍 ―― 沿岸警備隊が新たに設立される事となった。

 数の上で主力となったのはさくら型哨戒艦*3だ。

 5隻のさくら型哨戒艦と1隻のリバティ型対潜護衛艦で北ドイツ平原州の水上戦力は発足するのであった。

 尚、余剰装備としてウラジオストクで保管されていたリバティ型対潜護衛艦が入っている理由は、さくら型哨戒艦の指揮統制用である。

 かつてのドイツ高海艦隊(Hochseeflotte)を知る人間からすれば寂しい陣容であったが、それがドイツでは無い北ドイツ平原州の海洋戦力としての新生である。

 

 

 

 

 

 

*1

 1940年代、ドイツ戦争終結して早々で言えば、裕福さと言う意味ではフランス領になったドイツ地方が圧倒的であった。

 ルール工業地帯を筆頭とした産業があった為、フランスも投資を積極的に行い、又、金があるから様々な資材がフランスから流入していた。

 何より、フランス領になった旧ドイツの領域は4分割された中で最も広大でもあったのだ。

 フランス領となったドイツの住人達が、自分達は勝ち組であるとの心理に至るのも仕方のない話であった。

 だからこそ混乱の続くイタリア領や奴隷扱いめいているポーランド領、或いは黄色人種に支配された日本領のドイツ人を下に見ていたのだ。

 ある意味でドイツの分断は、一部の陰謀論者が言う様な悪辣なG4(ジャパンアングロ)がドイツを恐れての謀略などではなく、当然の帰結と言えた。

 

 

*2

 北ドイツ平原州 ―― 特別自治邦国ハンブルク(ハンブルク共和国)での実戦経験のみならず、旧ドイツ軍上がりの人間の結構な数が朝鮮(コリア)共和国軍上がりに誘われて、フロンティア共和国の国境警備部門に参加していた事も、この経験値に繋がっていた。

 とは言え、特別自治邦国ハンブルク(ハンブルク共和国)軍は軽装歩兵が主体と言う訳では無い。

 それどころか常設の5個旅団で構成されている特別自治邦国ハンブルク(ハンブルク共和国)軍であったが、3個旅団は装甲旅団(重機械化旅団)であり、シベリア共和国軍と並ぶ重量編成部隊であった。

 ドイツ人(ドイツ系日本人)らしいと言う部分と、ポーランドとの対ソ戦力の予備としての役割もあっての事であった。

 又、ドイツ戦争の汚名(ゲルマン人は戦争下手と言う噂)返上の為、日本が日本連邦統合軍を投入する際には、かならず参加を希望するのであった。

 残る2個旅団の内、片側は特殊戦旅団(空中機動旅団)

 最後の1つだけが軽歩兵旅団であった。

 

 

 

*3

 日本連邦統合軍、その邦国軍の海洋戦力に於ける数的主力を担っている警備向け護衛艦であり、海上保安庁と共に海の守護を担っている多目的艦である。

 正式名称は、2000t型哨戒護衛艦である。

 武装は54口径5in.砲1門と言う、トン数と比較すると極めて貧弱と言えるのだが、本艦の本質は艦隊に於ける触覚(センサーノード)であり、極論すれば非武装でも問題は無いと言える。

 それでも、非常時には船体各部に無人銃座(RWS)を搭載する事が可能であり、正規の海軍以外の存在にとって侮れない艦となっている。

 又、本艦は基本的に戦闘が発生しうる海域に単独で投入される事は無く、常に海上自衛隊などの大火力艦と任務に共同で当たる為、火力と言う意味での問題は存在しない。

 尚、格納庫は有しているが、有人ヘリの搭載は予定されておらず、UAVが艦載機となる。

 

 

【挿絵表示】

 

 艦名 さくら型哨戒艦

 建造数   - 隻

 基準排水量 2,120t

 主砲    54口径5in.単装砲 1基1門

 装甲    -

 速力    25ノット

 主機    ディーゼル

 

 

 




新年あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

令和ジャポン
着地点が見えていますけど、そこまでの筋道がマジで迷走状態ですので、気楽くお付き合いいただければ幸いです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

200 日本国信託統治領北ドイツ平原州-02

+

 1949年は北ドイツ平原州にとって、一つの大きな転換点となる年であった。

 オランダと共同での麻薬と人身売買対策 ―― では無い。

 国際連盟で行われている経済と環境問題に関わる事であった。

 日本が公開した、今後100年に渡る人類の経済発展が地球に与える被害の情報、或いは化学物質や石綿などによる公害情報。

 それらを研究し、或いは対処法を開発する拠点として、日本の国立大学が北ドイツ平原州の州都とされたハンブルク市に開校される事となったのだ。

 ソ連などの一部の国家からは日本本土の大学への留学を望む声もあったが、或いは4桁単位となる留学生を管理し、そして機密保全をするなど予算が掛かり過ぎる(クソ面倒くさい)と言う理由で却下されていた。

 又、日本国内からは大学ではなく、研究所を設置してはどうかとの声も上がった。

 此方は主に財務省系であり、予算の削減が狙いであった。

 だが、北ドイツ平原州管理庁の長官が剛腕を振るい、大学設立を通す事となる。

 一つは文部科学省が進めていた、全邦国への国立大学設立を目指した一国一校政策の利用である。

 各邦国での高等教育の頂点として、同時に、各邦国の文化や地理その他の情報の収集と保全が目的であった。

 そして、日本教育を行う事で相互理解 ―― 親日派(ジャパン・マフィア)を育てると言う目的もあった。

 この後者が、今の北ドイツ平原州に於いても重要であると主張し、それが通った形であった。

 又、現状で北ドイツの高等教育システムは壊滅的な状況に陥っている為、日本が大学を設置し、運営すれば教育界のイニシアティブを握れると言うのも大きかった。

 この主張に、タイムスリップ前の日本の教育界の彼是とした(反日的教員)問題を覚えていた政治家たちは反応した。

 是非やろうと文部科学省と財務省に働きかけたのだ。

 政治が強い意志を持って動けば官僚は弱い。

 とは言え官僚側も一方的に負けた訳では無かった。

 財務省は、大学設立を推進した政治家や総理大臣に対して、北ドイツ平原州は信託統治領で将来的な独立が決まっているのだから、そんな外国に莫大な投資を必要とする大学の開校は金の無駄であると説明(説得)して回っていた。*1

 だが、その気になった政治を官僚が止める事など出来る筈も無かった。

 又、外務省と経済産業省が、研究所でも大学でもどちらでも良いから早期の拠点を欲したと言うのも大きい。

 地球規模の環境対策で、日本は主導権を獲らねばならぬと固く決意しての事であった。

 結果、最終的に特別措置法が臨時国会で可決され、日本連邦の各邦国に準じる形でハンブルク市郊外にハンブルク国立国際大学が開校が決定された。

 話が出て、3ヵ月のスピードであった。

 ハンブルク国立国際大学の影響は極めて大きかった。

 資料、即ち本である。

 英語や仏語などの原書もかなり持ち込まれていたが、その大多数は日本語の資料なのだ。

 又、それ以外の国の資料、論文、その他も多くが日本語訳されて揃っていた。

 故に、本大学に入学し、或いは留学や派遣されて研究をするのであれば()()()()()()()()()()()()()()()

 又、様々な国から高等教育履修者が集まる為、共通語としての日本語と言う部分もあった。

 フランス語取得者は頑なにブリテン語を使おうとはしないが、日本語であれば渋々受け入れる ―― そう言う類の話であった。

 G4(ジャパンアングロ)に於いてある意味で中庸と言う立ち位置にある日本の特性が出たとも言えた。

 北ドイツ平原州の高等教育の中心で、日本語の履修が標準化した結果、日本語は上から大きく広がっていく事となったのだ。*2

 又、北ドイツ平原州側では無い話として、世界中の国際連盟加盟国から留学生や研究生が来る事になった。

 それが北ドイツ平原州の人々の持つ意識を変える事となった。

 同時に、世界中の側も実際のドイツ人を見て、知り、知人友人とした事で、悪しきドイツ連邦帝国(サード・ライヒ)と北ドイツ平原州の人々を切り分ける事が出来る様になったのだ。

 それが、ある意味で北ドイツ平原州の独立、特別自治邦国ハンブルク(ハンブルク共和国)の真の発端と言えた。

 

 

――北ドイツ平原州治安回復作戦

 日本国信託統治領北ドイツ平原州が国境線を接している国家は3つ。

 オランダとポーランド、そしてフランスである。

 麻薬の密輸や人身売買と言う意味で問題となっているのはオランダであるが、ポーランドやフランスとの国境線も無問題と言う訳では無かった。

 物資の密輸、密売が行われていたからである。

 或いは盗難だ。

 北ドイツ平原州は日本の統治下と言う事で比較的容易に日本製の様々なモノが流入している為、その窃盗と密輸が社会問題になりつつあった。

 流石に自動車などの大物が盗まれる事は少ないが、文房具その他、コンパクトな家電製品といった小物類は窃盗も楽だし、密輸に際して隠すのも楽だし、となっていたのだ。

 小物とは言え日本製である為、諸外国では飛ぶように売れた。

 特に電機関連のモノはソ連関係者が高値を付けて買っていった。

 良い稼ぎ(シノギ)となっており、愚連隊めいた、旧ドイツ軍武器を持った武装強盗団 ―― 密輸団になる集団すらも居た。

 それが国際問題にまで発展しないでいたのは、殺人などの大事に発展した例は少なかった為である。

 治安活動の一環として、北ドイツ平原州警察組織で対応出来ると判断されていたのだ。

 ある意味で治安関係者の意地であった。

 だが、それを日本政府が表に出て、オランダと協力して麻薬と人身売買へ対処すると言う状況が吹き飛ばす。

 即ち、日本が仲介(ケツモチ)してくれるのであるならば、厄介なフランスやポーランドとも話を付けて対処が出来るのではないか、となったのだ。

 尚、北ドイツ平原州警察組織の人間の一部、高齢の上級者からは面子が立たぬなどの反論も出たが、若い世代が戦争に負けた国家の残骸にメンツもクソもあるかと反論し、北ドイツ平原州管理庁に話を上げたのだった。

 とは言え、其処から先が簡単になったかと言えば、それ程に世の中は甘くない。

 日本を介して行われたフランスやポーランドの警察組織との折衝時、対応がかなり悪かったのだ。

 曰く、敗戦国の人間による不手際(国内の取り締まり失敗)で、何故、戦勝国の人間が動いてやらねばならぬのか、と来たのだ。

 とは言え、その様な態度がとれたのも、日本が協議の場に出る迄であったが。*3

 日本は、北ドイツ平原州の治安回復に掛かる部分を進めると同時に、フランスとポーランドに対して、タイムスリップ前のEUが直面していた広域犯罪の問題を念頭に国境での犯罪摘発強化と、国際刑事警察機構(ICPO)の権限強化 ―― 情報連携機能の強化、そして加盟国間での捜査要請と協力に関する強化を打ち出したのだ。

 国際連盟の場では無く、最初にこの場を選んだと言う事がフランスの自尊心に繋がった。

 日本がフランスをヨーロッパ亜大陸の盟主と認めていると言う証拠となるからである。

 同時に実利もあった。

 この国際犯罪の阻止と言う流れは、フランスにとってはアフリカの海外県(植民地)などでの武装蜂起に繋がる、武器や金の流れを調べ、阻止すると言う事に繋がるからである。*4

 

 

――イタリア

 北ドイツ平原州の治安回復に向けた動きによる余波は、旧ドイツ領にあって統治の事実上の放棄状態にあったイタリア管理区域(ベー・ヴェー・バイエルン特別管理区)に及んだ。

 北ドイツ平原州で暴れている人間の多くがオランダ、そしてフランスを素通りしてイタリアへと流れていたからである。

 イタリアは、イタリア管理区域(ベー・ヴェー・バイエルン特別管理区)もあるが、今だ安定しないバルカン半島も管理下に収めている為、如何にムッソリーニとファシスト党が治安維持に努力をしていても、十分とは言えないのが実状であった。

 そこに、それまで関与をして来なかったフランスが苦言を述べたのだ。*5

 治安の回復。

 麻薬密売と人身売買の阻止。

 戸籍管理。

 そのいずれもイタリアも重要であるとは理解していたし、麻薬密売と人身売買が栄光ある大イタリアを汚す存在であるとも認識していたのだが、如何せんにも人的(マンパワー)問題が大きかった。

 戦時体制を解除して規模の小さくなった軍は、バルカン半島での治安維持戦に現地自治政府との協力の下で投入されているのだ。

 出来る事は少ない(無い袖は振れない)と言うのが実情であった。

 だが、日本を背中に置いたフランスから対応を要請されてしまっては、やるしかないという事となる。

 幸い、原資としては油田(イタリア領リビア)があるのだ。

 であれば人手は外注してしまえば良いと割り切り、イタリア管理区域(ベー・ヴェー・バイエルン特別管理区)と北ドイツ平原州で旧ドイツ軍軍人の雇用を始めたのだ。

 尚、フランスで行わない理由は、既にフランス領内の旧ドイツ軍軍人はフランス軍外人部隊に志願(※半強制)し、アフリカでの治安維持戦に参加していたからであった。

 ポーランドで行わない理由は、ポーランド領内での扱いの悪さから、多くの旧ドイツ軍軍人は北ドイツ平原州や東フランスへと移住していたからである。

 かくしてイタリアは10万人規模のドイツ人の治安維持部隊を創設するのであった。*6

 

 

 

 

 

 

*1

 財務省による北ドイツ平原州の独立に関する話は、全くの嘘では無いが事実の全てを示していた訳では無かった。

 即ち、この1949年の時点で決まっていたのは、信託統治領としての北ドイツ平原州の行政は出来るだけ早期にドイツ(ゲルマン)人自身の手に戻すと言う事だけであり、完全な独立は定まっていなかった。

 それどころか、フランスやポーランドの旧ドイツ領での統治を見て、何も考えずに北ドイツ平原州を独立させては、下手をすれば血が流れかねないと危惧していた。

 結果、財務省の目論見は大きく外れる事となる。

 

 

 

*2

 学問として上から広がる日本語としては、この高等教育が大きな役割を果たしたが、文化と言う意味に於いては日本が娯楽用として持ち込んだ映画やアニメ、漫画などの影響が甚大であった。

 戦後復興期と言う事で子どもの保護や教育が軽視されている時代、北ドイツ平原州管理庁は公助として児童福祉施設を用意したのだ。

 その遊具は日本製のモノが大量に含まれており、有り体に言えば()()()()のだ。

 そして児童福祉施設を介して大人たちにも、文字通り下から日本語が広がっていく。

 それに気づいた大人も居た。

 ドイツの伝統的文化、遊具などを重視するべきと声を上げる大人も居た。

 だが大多数の大人は耳を閉ざした((∩゚Д゚) アーアー キコエナーイ)

 さもありなん。

 ()なのだ。

 子育てと言う難事に於いて、楽と言う事は余りにも重大な事であり過ぎた。

 特に、戦争で負け、国が焼かれ、社会が壊れた国家にとっては。

 そしてもう一つ。

 子どもを持った若い世代からすれば、素晴らしいドイツの伝統と言われても、その素晴らしいドイツの伝統の中で生み出されたNazis党とアドルフ・ヒトラー、ドイツ連邦帝国(サード・ライヒ)滅亡した(Anozamaを晒した)のだ。

 その程度の伝統、文化に拘る必要などあるのか? と言う実に容赦の無い、合理的評価を下しているのだった。

 

 

 

*3

 旧ドイツ領関連の広域犯罪対応会議へと日本から出席した警察官僚はコーカソイドの色が濃い日本人(独系日本人スタッフ)であった。

 そして日本人らしい笑み(アルカイックスマイル)を浮かべながら、会議の最中の雑談で口にしたのだ。

 珈琲を手に友好的な雰囲気の中、そう言えばと前置きをして、以前の戦争と今現在の犯罪責任との関係性で実にユニークな主張があったとの事ですので、ええ。それを学べる様な論文(エビテンス)はありますか、と述べたのだ。

 会議の、休憩の場は凍った。

 特に、ユニークな主張(レイシズムの発露)をした若手官僚は顔面蒼白となった。

 とは言え、別段に独系日本人警察官僚は血縁的な意味での祖国の報復をしようと言う様な訳では無かった。

 元より、日本人だと言う意識の強い世代であり、旧ドイツに対しての感情も、迷惑な事をしやがった遠縁程度の意識しか持っていなかったのだから。

 要するには民族(チュートン)的合理性からの欲求、自らの仕事 ―― 北ドイツ平原州の治安回復に関わる事を邪魔するなと釘を刺した訳であった。

 

 闘い(外交)に際して、煙草の火を押し付けられても悲鳴を上げては駄目だと言う。

 だからこそ、煙草を押し付けられぬ様に脛を蹴り飛ばしてやらねばならぬのだ。

 尚、独系日本人の上司は、出来の良いジョークを聞いたとばかりにニコニコとしていた。

 タイムスリップして20年あまりが経過し、日本も実に列強の仕草を学んだと言えた。

 そして同時にこれは、G4(ジャパンアングロ)と並び称される日本とフランスの差でもあった。

 日本はフランスを敵にする積りは無い。

 だが、日本の庇護下にあるモノ(北ドイツ平原州)への舐めた真似は許さない。

 そう言う話でもあった。

 

 

 

*4

 この国境線での検問機能の強化と言う流れ、それをフランスでも海外県(植民地)に導入してはどうかと言う意見を渋い顔をして見ているフランス人も居た。

 密輸密貿易で利益を得ているから、では無い。

 理想主義による理由であった。

 海外県は世界中にあるフランスであり。

 フランスは一つである。

 そのフランスの間で検問、国境線と言う形で区分けがされるのは宜しくないとの考えである。

 フランスは、宿敵たるドイツとの戦争を終え、ドイツを下した結果、それまで存在していたフランスの政治を一つにまとめる箍が外れた状態となってしまい、この政治的主張の総意が大きくなりつつあった。

 又、別の一派は、そもそも海外県(植民地)と言う存在を否定的に見ていた。

 フランスの国是(自由・平等・博愛)に基づき、植民地人の独立を容認しようと言うのだ。

 又、武力蜂起(独立戦争)の鎮圧に掛かっている人やモノ、金の消費を問題視する向きがあった。

 この混乱を深めつつある政治状況に危機感を覚えているフランス政府関係者も居たが、同時に、これがフランスであると胸を張る政府関係者も居るのだ。

 何とも難しい話であった。

 

 

 

*5

 フランスにとってイタリアによる旧ドイツ南部域(ベー・ヴェー・バイエルン特別管理区)の軽視政策は歓迎するべきモノであった。

 何故なら統治、治安回復をイタリアが放置した結果として、その領域にあった企業群がフランスなどに移住してきていたからである。

 バイエルン州にあった自動車会社などは、社員や関連企業もろともに東フランス(旧ドイツ)に移住してきていたのだ。

 無論、全てが東フランスに移動した訳では無く、ポーランドに請われてポーランド西部外沿領に移った企業、或いは日本との技術交流を求めて北ドイツ平原州へと移動した企業も多かった。

 とは言え、フランスにとって実に良い話であった。

 

 

 

*6

 尚、当初は同じ旧ドイツ軍軍人として、北ドイツ平原州在籍者とイタリア管理区域(ベー・ヴェー・バイエルン特別管理区)在籍者を区別なく扱っていた。

 だが、ドイツ戦争後の境遇の違いに起因しての、感情的対立からの様々なトラブルが発生してしまった為、部隊を分けて運用する事となった。

 比較的環境の良い、ドイツである事を否定されない北ドイツ平原州在籍者に対し、戦後、塗炭の苦しみを味わってきたイタリア管理区域(ベー・ヴェー・バイエルン特別管理区)在籍者が感情的なしこりを抱えるのも当然の話であった。

 又、北ドイツ平原州在籍者からすれば、イタリア管理区域(ベー・ヴェー・バイエルン特別管理区)在籍者は4年近い月日が経っても自分たちで治安を安定化させられなかった愚か者、と言う扱いであった。

 そもそもイタリア管理区域(ベー・ヴェー・バイエルン特別管理区)在籍者は、日本の様な先進国軍では無くイタリアに負けた旧ドイツ軍(ヴェーアマハト)の面汚しと蔑視していたのだ。

 言わば、北ドイツ人(アジア人の靴舐め)南ドイツ人(無能of無能)と言う対立だ。

 何とも救われない話であったが、これも又、戦争による惨禍とも言えた。

 尚、この感情的な対立も、イタリア管理区域(ベー・ヴェー・バイエルン特別管理区)の治安の安定後に投入されたバルカン半島での日々(地獄めいた日常)で解消される事となる。

 ビール片手に合言葉(ドゥーチェのバカ)を言い合う仲にはなったのだ。

 戦友(Kamerad)

 共に背中を預けて戦場を駆け抜けると言うのは、矢張り、大きな影響を持っていると言えるだろう。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

201 南米ラプソディー -4

+

 南米で始まった軍拡競争に対し、国際連盟は勿論ながらもG4(ジャパンアングロ)すらも余り深い関心を示す事は無かった。

 侵略戦争をすればぶん殴る。

 ドイツ戦争でソレ(国際連盟の共同防衛)を実証してまだ5年と経ていないのだ。

 しかも戦争は、ドイツが哀れになる程に一方的に行われ、そしてドイツと言う民族国家は消滅したのだ。

 この様な侵略国家の末路を見て、どこのバカが戦争をするというのか。

 楽観的な所の強い日本やアメリカは勿論、我が道を往く(よそ様の所では無い)フランス、果ては猜疑心の強いブリテンすらもそう考えているのだ。

 国際連盟が能動的に事態に関わろうとしないのも当然であった。

 そもそも、戦車を導入しましたと言っても、所詮は3桁(100両)単位なのだ。

 G4(ジャパンアングロ)などからすれば、戦争を本気でする積りならば1桁、勝つ積りならば2桁足りない数字なのだ。

 コップの中の嵐(政治的なガス抜き)以上の事にはならぬだろうと考えるのも当然と言えるだろう。

 無論、大きな戦争の火種にしない為の協議は、国際連盟安全保障理事会で行ってはいたし、G4(ジャパンアングロ)の協議会でも地域の軍事バランスを崩す様な武器の売却は行わない様に示し合わせてはいた。

 だが、極論として言えば、その程度の反応であったのだ。

 それよりもG4(ジャパンアングロ)には、それぞれに優先するべき課題があった。

 言うまでもなく海外県(植民地)の火種の消えない、涙目の治安維持活動に邁進しているフランス。

 自国だけで十分(ヒキコモリたい)と思っているが、何の因果か極東から東ユーラシア大陸は仕方ないにしてもアフリカとヨーロッパ亜大陸まで領域が広がってしまい、その安全と繁栄の為に周辺国との折衝に外交力を奪われている日本。

 チャイナの地を支配下に収めたが、簡単に感情を爆発させる(スナック感覚で暴動を繰り返す)チャイナ人をあやす羽目になって少し後悔している(モンロー主義リターンな気分の)アメリカ。

 G4(ジャパンアングロ)で比較的余力を残して居るのはブリテンであるのだが、此方は此方で中東開発 ―― イスラム教の現代的な着地点の模索*1に苦労しており、正直、利益関係の薄い南米に構っている暇は無かったのだ。

 

 

 

 

 

――ボリビア/アルゼンチン 軍事協定

 アルゼンチンへの接近は太平洋戦争(1879 チリ-ボリビア戦争)奪われたボリビア(太平洋への道)の回復が主目的であったが、同時に、現実的選択肢として戦争を想定はしていなかった。

 ボリビア政府にとって重要な事は国家の主敵の設定、即ち()()()()()だ。

 これは現在、ボリビアを統治している軍事政権が国民の信任を失いつつある事が原因であった。

 鉱山労働者などとの労働争議が小規模ながらも武力行使に繋がるなどしており、この沈静化(誤魔化し)を狙ったのだ。

 ある意味で徹頭徹尾、国内向けの話であった。

 又、軍事政権であるが故に、軍事力の拡大は好む所もあった。

 太平洋戦争(1879 チリ-ボリビア戦争)の敗北もであるが、1930年代のチャコ戦争の敗北もボリビア軍にとって恥辱であり、ソレを癒せるのは大砲を持った戦車の列だけと言えた。

 パラグアイ軍よりも大兵力を集めたのに敗北したチャコ戦争。

 ()()()()()()()()()()()()()

 ボリビア政府はアルゼンチンがチリと戦争をする際、自動参戦をする事を対価として戦車を無償供与、乃至は安価に提供する様に要求するのであった。

 否、戦車だけではない。

 歩兵に機動力を与える為、装甲車両やトラック、そして航空機の提供まで提供希望一覧(おねだり帳)に載せるのであった。

 チリの側面に圧力を掛ける事の出来る位置にあるボリビアが友好国(準同盟国)となるのは、アルゼンチンにとっては極めて有難い話であった。

 だからこそ、ボリビアが接触して来た時、喜色を浮かべてアルゼンチンは受け入れた。

 だが、基本的な交渉は成立しても、その先 ―― 具体的な装備の売却となった時、ボリビアの要求を見たアルゼンチン政府は頭を抱える事になったのだ。

 特に航空機はジェット戦闘機の提供要求が載っていたのだ。

 アルゼンチン軍でもまだ、装備の行われていない世界最先端であるのだ。*2

 ボリビアとの交渉の席に臨席していたアルゼンチン軍関係者が、ボリビアの正気を疑うのも当然の話と言える。

 故に、アルゼンチンはライセンス生産しているレシプロ戦闘機の提供を申し出るのであった。

 格安で保守部品まで含めると言う大盤振る舞いであったが、此方はボリビアが反発した。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、そう言う事であった。

 理屈としては判るが、現実的ではない話であり、アルゼンチン軍関係者はゲンナリとした気分を味わうのであった。

 とは言え、ジェット戦闘機を運用する上で必要な経費、用意するインフラを説明した所、ボリビア側の経理担当が顔を真っ青にして軍上層部を説得。

 ジェット戦闘機導入の話は流れる事となるのだった。

 

 

 

 

――ペルー

 ペルーは南米が軍拡競争の時代に入った事を好機として理解していた。

 国境問題に起因した緊張状態にあるエクアドルとの関係を清算する機会であるとの認識である。

 無論、何も無い状況に於いて拳を上げると言う事は国際連盟とG4(ジャパンアングロ)に睨まれる事になるので動くべきではないのだ。

 だからこそ注意深く、準備を進めるのであった。

 その準備の一つとして、ボリビアのアルゼンチンとの関係強化に協力を申し出たのだ。

 戦争とならない為の政策として、ペルーにとっても関係に問題を抱えているチリをアルゼンチン、ボリビア、そしてペルーで包囲してしまえば良い。

 そう言う話であった。

 実際に戦争状態に入る事を好まないアルゼンチン政府/軍はペルーの提案に好意的反応を示す事となる。

 アルゼンチンの反応に気を良くしたペルー政府はそこで本題となる戦力、チリに圧力を掛ける為の力を要求する事となる。

 戦車だ。

 南米でも上位側に居る国力を持ったペルーは既に戦車自体は保有しているが、チリとエクアドルの両方と対峙する為、より戦力を拡大せねばならないと言うのがその主張理由であった。

 判る話ではあった。

 問題は、ペルーが要求したのが30t級以下の使い勝手の良い、だがチリが主力とするチャレンジャー巡航戦車を撃破可能な戦車であった事だろう。*3

 この点に関してアルゼンチンは主力戦車に関しては将来的な供給と言う事とし、現時点での話としては、ソ連で保管状態にあった軽戦車の売却話とする事で誤魔化していた。

 10t級の車体に45mm砲を搭載した軽戦車は偵察部隊向けであり、ペルー政府からすればとてもでは無いが必要十分と言えない車両であった。

 不満の強い軽戦車であったが、インフラに負担を与えないと言う意味では実に優秀であり、後方での輸送と言う意味でも、戦場での機動と言う意味でも、必要十分以上の能力を発揮し、訓練も行いやすく、維持コストも手軽い為、ペルー軍は高い評価を与える事となる。

 

 

 

 

 

――パラグアイ

 南米に吹き荒れる軍拡の嵐の中にあって、局外中立と言う事が出来ないのが多くの国に囲まれたパラグアイと言う国家の状況であった。

 但し、問題があった。

 国内の治安悪化である。

 社会主義/国家社会主義的な政策を掲げていた軍事政権に対し、国民は民主主義を求めて活動を繰り広げていた事が理由であった。

 国家に安定と繁栄をもたらす国家社会主義と政府が主張し国民の権利権限の抑制を図っていたが、世界で主導的なG4(ジャパンアングロ)は全てが民主主義国家であるのだから国民が素直に従う筈も無かった。

 特に、知識層はその傾向が強かった。

 又、経済的に結びつきの強いアルゼンチンが、パラグアイと敵対的なボリビアと軍事的関係を深めると言うのは誠にもって厄介な問題であった。

 正直、混迷と言う言葉が余りにも相応しい状況と言えるだろう。

 だからこそパラグアイは、動けないでいた。

 現実的な脅威であるボリビアへの対応として軍備を整えようとすれば、国内の政治状況が赦さない ―― 国内の治安維持に軍隊を使用すると批判されかねない状態なのだ。

 国民の支持が離れつつあるパラグアイの軍事政権にとってそれは余りにも悪手であり過ぎていた。

 この為、具体的な対応として出来たのは、大陸の盟主(管理人)たるアメリカに泣きつく事だけであった。*4

 南米の混乱は、少しずつ加速していく。

 

 

 

 

 

 

*1

 日本からの技術協力もあって行われたブリテン本島の再開発 ―― 再編成と重工業の再興によって、石油を産出する中東の価値はブリテンにとってかなり大きなモノとなっていた。

 だからこそ、日本からの未来情報によって知った将来的なイスラム教問題、原理主義の勃興その他による不安定化を許容する事は出来ないのだ。

 目的としては政治と宗教の分離であり、ある種、キリスト教の様な姿が目標となった。

 とは言え、宗教的権威がその権威を手放す事に否定的であり、そしてイスラム教の教えが生活に根付いている為に簡単に出来る事では無かったが。

 結果、ブリテンの外交資本がかなり中東に消費される羽目になるのだった。

 

 

*2

 G4(ジャパンアングロ)は当然として、イタリアやソ連などの列強とも比較するレベルでは無いとは言えアルゼンチンは自前での航空機産業を保有していた。

 アメリカが開発したレシプロ戦闘機をライセンス生産し、3桁単位で配備をする程であるのだ。

 立派なモノではあった。

 とは言え、ジェット戦闘機となると話は違う。

 アメリカは勿論、他の国々もジェットエンジンの技術公開に関しては拒否しており、完成機の輸入のみを認めると言う態度であった。

 しかも導入価格はかなり高額であった。

 当初、交渉相手と考えていたアメリカやブリテンはそれぞれ護るべき領域の広さから必要数が莫大であり、余剰となる機体は無かった。

 日本は言うまでもない。

 この為、アルゼンチン政府は食料供給と言う面で関係の深いフランスに泣きつく事となる。

 フランスは農業大国でもあるのだが、アフリカその他で軍を動かし続けているが故に安価で大量の食糧を欲していたのだ。

 又、背負う事となった東フランス(旧ドイツ領)の問題もあった。

 ドイツ戦争でインフラを破壊しつくされた為、食料の生産が十分に行えていなかったのだ。

 それでも穀物やイモ類といった主食類は十分に供給できている(飢餓/栄養失調状態は無い)のだが、肉類や果物などの供給は十分とは言えないのが現実であった。

 だからこそ、農業大国でもあるアルゼンチンが重要になるのだ。

 フランス政府には義務があった。

 旧ドイツ人をフランス人(東フランス民族)とする為、フランス人となった事を喜べる状況を与えねばならないと言う。

 だからこそ、アルゼンチンにとって交渉できる相手であるのだ。

 又、状況も良かった。

 フランスはドイツ戦争の終結の余力(部隊規模の縮小)のお陰もあって第2世代ジェット戦闘機で主要部隊の統一を図っていた為、第1世代ジェット戦闘機が訓練部隊からも退役を始めていたのだ。

 結果としてアルゼンチンは、フランスから余剰となっていた第1世代ジェット戦闘機の安価な売却の契約を結ぶ事に成功するのであった。

 とは言えボリビアとの交渉を行っている時点では、まだアルゼンチン軍の手にフランス製第1世代ジェット戦闘機は届いておらず、ごく一部のパイロットがフランス本土で訓練を受け始めた状況であった。

 

 

 

*3

 ペルーの要望書を読んだアルゼンチン軍関係者は、素で、そんなモノは無いと吐き捨てていた。

 当然と言えるだろう。

 そういう戦車が欲しいけど無いからこそ、アルゼンチンもT-34系列の戦車導入で誤魔化していたのだから。

 ソ連と共同で開発(アルゼンチンは財布を担当)している30t級主力戦車の開発は、それなりに進んではいたが、それでもまだ量産は見えておらず、アルゼンチン国民からは批判を浴びている状況であるのだ。

 余りにもお気楽なペルーの態度に腹を立てるのも当然であった。

 だがアルゼンチンの財務関係者は、これは幸いであると言い出した。

 ソ連と行っている新型30t級戦車の開発に、ペルーからも金を出させようと言うのだ。

 予算が増えれば作れる試作車両が増え、より素晴らしい戦車が作れる。

 そう言う話であった。

 この財務関係者の声にアルゼンチン政府も乗って、30t級の戦車は開発中なので、欲しければ金を出せとの書類を出す事となる。

 これが、最終的には南米標準戦車とも言われる100mm砲搭載の35t級戦車S-35戦車(ソ連名:T-49)であった。

 この話を後から聞いたソ連は、情報保全とか漏洩とかなんだろうと呆れ(哲学し)ながらも増えた開発予算を大量に飲み込んで、汎用戦車としてのT-49(S-35)戦車の開発に邁進するのであった。

 又、ソ連軍以外の採用先が多くなった事で、より数を作れる事にも繋がり、1両当たりの単価を下げる事も可能になる為、ソ連側は文句を付ける事は無かった。

 尚、ソ連は本戦車開発に並行し、西側の標準的50t級重戦車(主力戦車)の撃破が可能な重戦車開発も進めるのだった。

 

 

 

*4

 群雄割拠なチャイナの地で面倒事を背負っているアメリカであったが、同時に、他のG4(ジャパンアングロ)からすればアメリカはチャイナだけを背負っているのだ。

 美味しい空気を吸ってやがると思われていた為、G4(ジャパンアングロ)の連絡会で南米の話題を出した際、他の3国は笑顔で拍手するのだった。

 面倒事(世界の管理)にようこそ!

 そう言う事である。

 尚、日本の代表は拍手した後で、がっくりと肩を落として溜息をついていたが。

 極東と言う僻地でのんびりと繁栄するだけで良かったのに、何の因果で世界覇権たるG4(ジャパンアングロ)の一角に座り、世界の面倒を見なければならないのか、と。

 どうしてこうなった、と。

 日本とアメリカが面倒事へ嘆息する様に、過労気味のフランスは血走った目で親指を立てていた(逃がしやしないと笑っていた)

 そして、ブリテン。

 楽しいだろ? と笑っていた(ブリカスフェイス)

 陰謀論者にとって世界を支配する邪悪なG4(ジャパンアングロ)協議会であったが、その中身はこの程度の、労働者の集まりでしかないのだった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 ~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。