恋する赤鬼 (鯉庵)
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餓鬼

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 しんしんと雨が降り注ぐ。

 空は分厚い灰色の雲に覆われて、雷の白光と豪音が雨音を掻き消す。

 散歩にはむかない悪天候だというのに、一人の女が、真っ赤な番傘をさしてゆらゆらと歩いていた。

 絹の様な黒く長い髪は、腰まで伸びていて、肌は雪の様に白く、瞳は黒耀石の如く、妖しく輝いている。

 赤と黒の着物には黒椿の花弁が咲き誇り、胸元が大きく肌蹴て白いサラシがそこから覗く。

 女の象徴たる膨らみは大きく、谷間から甘い香りを放っている。裾は酷く着崩れを起こし、白く長い足が露わになっていた。

 着物を汚さぬよう裾を摘まんで地面を一蹴りして飛ぶ。

 その表情は戯れる童と同じ。

 不意に女の歩みが止まる。

 真横に構える日本家屋の高く聳え立つ門前で、漆黒の外套を身に纏った男が女を待ち構えていた。

 覆面の上からでは表情を伺い見る事は出来ない。

女は口を歪めて哂った。

「ふふ、珍しいお客さんです事……狗が何の用です」

 男は、短く、抑揚のない声で一言。

「椿の魅姫とお見受けする。御命頂戴」

 外套が音を立て捲れ上がった。腰に差した小太刀の柄を握ったまま、水溜りを蹴って、一直線に突進。

 自分の命が狩られようとしているのに女は何を思ってか、手にした番傘を頭上へと放り投げた。

 其れと同じく、黒尽くめの男は飛翔し、その刃を女へと突き立てた。 その距離僅か一寸程度。という所で、女が口を歪めほくそ笑んだ。

 耳障りな音を立てながら赤黒い血が彼女に降り注いぐ。

 堕ちて来る傘を片手で受け取り、内刀をして深い溜息を漏らした。

「ふう、狗の血で大事な御着物に汚れが付いてしまいました……お気に入りでしたのに……」

 落胆も束の間、塀の上からぞろぞろと外套を身に纏った忍達が姿を現す。

「あら、あら、こんなに大勢の殿方に囲まれたのは初めて……ふふ、困ってしまいましたね」

 言葉とは裏腹に、その貌は嬉々としていて、瞳の奥底から狂気を露わにさせている。鎌、鎖、刀、鉤爪。

 多種多様な刃が彼女に襲い掛かる。

 しかし、その全てが女に届く前に忍達の身体は、無残にも刻まれ、肉塊となり地面へと落ち。口の端を釣り上げ、声を上げて嗤う。

 周りには殺気を放つ敵だけ。正に四面楚歌、それでも彼女は余裕の態度を崩さない。四方から鎖が女目掛けて放たれる。地面を一蹴にして高く飛翔し柱へと着地。忍達は一斉に上を向くがその姿はもう其処には無かった。

 困惑する忍達。一人の頸が天高く舞った。その表情には驚愕も苦痛の色もない。斬られた事に気付きもしなかったのだ。

「キヒ」

 短い哂い声の後、けたたましい流血の音と肉塊が辺りに散らばった。 命ある者は立ちすくみ、恐怖でたじろぐ。

 女は虫でも見下ろすかの様な侮蔑に満ちた視線を浴びせた。

「あら、どうしたのですか? そんなに震えて……もっと私と遊んで下さいな」

 言うのが早いか忍の視界を紅い番傘が覆う。一瞬の呆気。次の瞬間には眼球に刃が突き刺さる。

 刀を抜くと嫌な音を立てて血が吹き荒れた。顔面に血飛沫を浴びて尚、狂気に満ちた貌で哂う。突如、女の左腕に鎖が巻き付けられた。

 飛んできた方向に視線を向けると、ほくそ笑んで女とは思えぬ力で忍びを引き寄せる。眼前に迫った敵の眉間に刃を突き立てて、頭を串刺しにする。

「あっは! キヒッ! ヒヒヒ……」

 腹を抱え、身を捩り哂う。狂った様に。

「ぐっ」

 横に倒れていた忍が最後の力を振り絞り、女の足首に刀を突き刺した。

 苦悶に歪む美しい顔。見下ろした後、忍の頸に刀を突き刺すと、虫の様にもがき、やがて力尽きる。

「大したものですね」

 女の視界が急激に霞み、よろめく。其れを忍達は見逃さない。女の両腕に鎖鎌が巻きついてゆく。

三日月の刃が腕に突き刺さり血が滲む。仕込刀が女の手から落ちた。二人の忍が天高く飛翔し、襲い掛かる。絶対絶命。しかし、彼女の顔から笑みは消えない。

 腕は拘束されても、まだ足がある。地面に落ちた刀をを蹴り上げて柄を口で噛む。頭を大きく振ると、着地する前に忍の身体は真っ二つに裂けた。鎖が音を立て垂れ落ちる。

激痛に歯を食い縛って耐えながら肩に刺さったままの鎌を乱雑に抜き取って放った。

「ふふ、自分の血を見るのは久々ね……腕も使い物にならなくなってしまったわ」

 彼女の言う通り肩からは大量の血が流れ、血溜まりを作り出している。それでも、女は哂っていた。だが……。

「毒か……ああ、もう駄目ね」

そう言って力なく崩れ落ちた。感じるのは生暖かい感触。視界が紅く染まっていく。

「短い生涯でしたね……口惜しいのは、そう、恋も知らずに死ぬ事かしら」

 女は己の死期がすぐ其処まで迫っていると悟っていた。自らの生涯を振り返り嘲笑した。ゆっくりと瞳を閉じる。最後に瞼の裏に浮かんだのは、母の笑顔であった。

 

◆◆◆

 

 

 

「――んっ」

 水滴が女の頬を叩く。瞼を開くと、其処は冷たい岩盤の上だった。視界を覆うのは氷柱のように鋭く尖った岩。

 漂う悪臭。

 嘔吐物や糞塵が混ざった様な酷い臭いだった。

「此処……は……」

『ようやくお目覚めかい? ベッピンさん』

――声。

 視線を動かすと、其処には小さな鬼が立っていた。赤黒い身体には、夥しい数の吹き出物が浮かんでいる。

酷くやせ細って、肋骨が浮き彫りになっているが、その腹部は水風船の様に大きく膨れ上がっていた。

 頭には産毛と小さな角が生えており、腰には虎島模様のボロ布が巻かれている。

 眼球は大きく、丸い金色をしていて、瞳孔は細く鋭い猫の様な瞳。

見る者を不快にさせる醜い小鬼は女の身体を舐めまわす様に見た後、黄ばんだ牙を覗かせて涎を垂らして、下卑た声で哂った。

『ヒヒヒ、アンタみたいな良い女が堕ちて来るのは久々だ……人の容を保ったままとは、余程業が深いと見える』

 女は立ち上がり、鬼に向かって軽く頭を下げた。

「初めまして、小鬼さん。此処は一体どこですか」

彼女の問いに鬼は、こう応えた。

『地獄さ。アンタ、餓鬼道に堕ちたんだよ。自分の髪を見てみな』

言われて気付く。長く、黒かった髪は見事な紅色をしていた。

「まぁ、こんなに紅く……」

『へへ、今日からアンタも立派な鬼だよ? どうだい? 酷く飢えているだろう』

 そう、飢え。先程から酷く飢えを感じている。喉は渇き切って今にも発狂してしまいそうになる程の飢えを。

「本当に酷く渇きますね」

『だろう? 実は俺もなんだ……さっきから喰いたくて喰いたくて仕方がないんだよ。其処で提案なんだが』

小鬼はにんまりと哂い。

『アンタを喰うってのはどうだい』

 言うや否や人一人を丸呑み出来る程の大口を開けて襲い掛かる。が、空を斬る音と共に鬼の口は裂けて女の身体に赤黒い血がべっとりとこびり付いた。

鼻が曲がりそうなほどの腐臭が彼女の嗅覚を刺激する。口の中に広がる鉄の味に酷い不快感を覚え吐き捨てた。

「不味い」

 岩山から小鬼が此方を覗き見ている。女に焦点を合わせ、一瞬の時を待つ。奇声と共に岩山から飛び出し鋭い爪を付き立てた。

 女は、口の端を歪めほくそ笑む。番傘を広げ鬼の視界を塞ぐのとほぼ同時に頸が飛ぶ。

「フフフ、どうしましょう? これっぽちも満たされませんね」

 女は、刀身に紅い舌を這わせた。身の毛もよだつ艶笑を浮かべながらゆっくりと歌い出す。

「鬼さん、此方。手の鳴る方へ」

 暗闇の奥深くから金色の瞳が彼女を睨みつける。その数、ざっと百は下らないだろう。か細い腕には刃の欠けた日本刀が握られている。

『キエエエエッ』

 耳を塞ぎたくなる様な甲高い奇声を発し、女に襲い掛かる。鬼の大群を目の前にしても、女は哂っていた。

「フフ。アッハ……アハハハハハハ! 鬼さん此方、手の鳴る方へ」

 地獄という檻の中で、美しく妖しい鬼は己の業に蝕まれ、飢え狂う。満たされぬまま、彷徨い歩く。

 

◆◆◆

 

 

『はっ……はっ! ――チクショウ、チクショウめ! あり得ない、あり得ない! 堕ちたばかりの小娘が、あんな、あんな』

 

 冷たい岩盤の上を汗を滲ませながら赤い鬼が走っている。その表情は恐怖で塗り潰され、絶望に満ち溢れていた。すぐ其処まで迫った死の恐怖。

 息を切らしてただ必死に逃げた。

『此処は"餓鬼道"だぞ! なのに、なのに! どうして"阿修羅"みてぇに強え鬼が居やがるんだ』

 足元が疎かであった為か、小石に躓いて勢い良く倒れ込んでしまう。痛みに顔を歪めている暇は無い。早く、早く、あの死臭漂う鬼から逃げなければ。

 立ちあがろうとしたその時、鬼の頸筋に銀色の刃が添えられた。背筋に寒気が駆け抜ける。大量の唾を飲み込むと喉が大きく音を鳴らした。

「あら、あら、そんなに逃げる事ないじゃありませんか。私と一緒に遊びましょう」

 声。

 女の声。とても透き通っていて暗闇によく響いた。しかし、其れは余りに冷たい。

本能が告げる。この声の主は危険だと、一刻も早くこの場を離れなければ、死が訪れると鬼は悟って居た。

だが、動かない。まるで金縛りの様に、走り去るどころか指先一つ動かす事は出来なかった。

「良かった。まだ、一匹残っていたのね」

 愉快そうに、新しい遊具を見つけたかの様な無邪気な声で女は言った。

「本当に、良かった。殺し過ぎて、誰も居なくなってしまったから」

小鬼が全身を震わせながら振り返る。

 其処に立っていたのは、一人の女。背筋が凍る程の妖艶な笑みを浮かべ、侮蔑に塗れた視線を浴びせて来る。

 怒りなど、到底沸いてこない。"恐い"という感情が止めどなく溢れる。

 動け。と必死に震える身体に命令するが全く言う事を聞かない。

『助けて! 助けてくれ! もうアンタを喰おうなんて思ってない! 何でも、何でもするから助けてくれ』

 顔を歪めて哀願する。紅い髪の女は切れ長の瞳を細めて哂った。

「ねえ、赤鬼さん。貴方に聞きたい事があるの。答えて頂けるかしら?」

『何でも教える! だから、だから! 命だけは』

 女は、童の様に涙を流し命乞いをする小鬼の姿を酷く可笑しそうに見つめる。

「ふふ、良かった。ねえ、赤鬼さん。私(わたくし)喉が渇いて、渇いて仕方がないの……其れはもう狂ってしまいそうなくらいに……

 けれど、もう此処には貴方と私しかいない……もっと沢山の糧が欲しいの。何処に行けば、貴方みたいな鬼が居るか、教えて下さらないかしら」

 狂気を孕んだ瞳で真っすぐ見つめる。下顎を小刻みに震わせながら小鬼は答えた。

『そ、それなら、修羅の青鬼が居る場所へ行けばいい! この先にある赤い門を潜れば、別の"六道"へ行ける! 俺達、餓鬼よりももっともっと強い鬼が沢山いる! ア、アンタもきっと満足出来るさ』

「まぁ、それは本当?」

声を弾ませて女は笑う。まるで小さき童の様に愉しげにして。

『ほ、本当だとも! だから、いの――……』

言い終わる前に、鬼の頸が飛ぶ。断末魔を上げる事なく、天高く舞って、地面に叩きつけられ、ごろんと転がった。

 頸から下の肢体は力なく垂れ下がって、膝を付き其処へと倒れ込んだ。肉塊か鮮血が溢れ、血溜まりを広げて行く。

「ふふ、あは、あっはははは!」

 只一人の哂い声が灰色の檻に響き渡る。紅い髪をした美しい鬼は、ゆっくりと歩み出した。更なる糧を求めて……



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鬼狩り

“畜生道”——其処は人から獣へと堕ちた者達が支配する世界。

 岩盤の下からは紫色の光が差して、見渡せば、其処彼処に散らばった獣の残骸が転がっている。

 此処もまた腐臭が漂う地獄の一角。そんな場所には不釣り合いな、美しい女が一人、ゆっくりとした足取りで歩みを進めている。

 よおく見ればその女、全身に夥しい血がこべり付いているではないか。

 顔の半分は血にまみれ、肢体も其れに同じ。さぞ美しかったであろう着物は見るも無残にぼろ布と化している。

 一際眼を引く紅く長い髪も血を浴びて、黒く変色してしまっていた。 金色の瞳は濁り、酷く冷たい。それにしても解せないのは、これだけ血に塗れても平気な顔をしている事だ。足を引きずるでも無く、苦痛に悶え苦しんでいる訳でもない。その表情は、恍惚としていて何処か妖艶であった。

 そう、全身に纏った血は全て彼女が浴びた返り血だった。一体、どれ程の命を狩ればこんな姿になるのだろうか。正に修羅の如き強さ。女の周りには何人も寄りつきはしない。

 唐突に、女の歩みが止まる。腰を屈めて口を開いた。

「……可哀そうに」

 其れは一匹の子猫。銀色の毛並みに、紅い虎縞模様が浮かんだ小さな小さな猫であった。片耳は失われ、右前足には何かに喰い千切られた痕が残っていた。血に塗れた掌でそっと頭を撫でてやる。すると、残った耳が微かに動いた。

「まぁ、まだ生きているのね……ねえ、小さな猫さん。私、貴方みたいな綺麗で可愛い子は大好きよ。私と一緒に貴方を苛めた悪い悪い鬼を退治しに行きましょう」

 猫は、必死に顔を上げて女の指先を舌で舐めた。もう、鳴き声を発する事も困難なのだろう。

 女は満足そうに微笑んで、仕込刀を抜き、あろうことか自分の指先を刃に押し当てた。

 刀身から紅い滴が落ちる。其れを猫の口に垂らしてやった。すると、淡い光が子猫を包み込んゆく。

 奇想天外、猫を瀕死に追い込んだ傷が癒えて、足も耳も元に戻ってしまった。

 瞼が開く。大きく美しい銀色の瞳。きっと、一番驚いて居るのは、他ならぬ猫であろう。

 立ちあがって、女にすり寄り掌を舐めている。彼女は瞳を細めて微笑んだ。下顎を撫でてやると、気持ちよさそうにして、小さく愛らしい鳴き声が漏れる。

「可愛い子。貴方、お名前は?」

子猫は上目遣いで女を見つめている。

「そう、名前がないのね……そうだ、私が貴方に名前を付けてあげるわ。そうね"雪那"(せつな)というのはどうかしら? 貴方にぴったりよ」

 まるで、親が子に名を贈る様に女は子猫を雪那と名付けた。

 

 

◆◆◆

 

 

『貴様、其処で何をしている』

 

 

 

◆◆◆

 

 

 声。背後から耳に届く。

 大凡、人ではない事は姿を見ずともそう直感した。殺気と共に惜しげもなく注がれる敵意。

 先程、雪那と名付けられた猫又の子猫は怯えきって身体を震わせていた。女の顔は、一転して目つきが鋭くなり、見るからに不機嫌そうである。

「無粋な輩ですこと……せっかくこんなに可愛い子とお話して居たのに」

 立ちあがって振り返る。其処に立っていたのは見上げるほどの巨人。

  いや、人ではない化け物だった。漆黒の鎧を身に纏い、その手には巨大な斧を持ち、腰にはこれまた巨大な日本刀を帯びている。

 その頭部は、獅子の其れだった。百獣の王に相応しい鬣に爛々とした獣の瞳。その覇気は見る者を圧倒する。

『もう一度、問おう。貴様、其処で何をしている』

 獣人の問いに背筋が震え上がるほどの艶笑を浮かべてぽつりと一言。

「……——鬼退治」

 

 鋭利な風が獅子の鬣を靡かせた。視界に紅い液体が映る。

 其れが己の鮮血であることを理解するのに数秒かかった。

 恐る恐る視線を動かすと、右肩は見事に消し飛んでいるではないか。

とめどなく溢れる鮮血は耳鳴りのような不快な音を鳴らす。

その光景を目の当たりにし、初めて痛みを認識した。

 咆哮。そう、咆哮だ。岩盤を揺さぶるほどの野太い叫び。

残った片腕で傷口を抑えてもまるで収まる気配はない。

 巨木の幹ほどに太い腕は、重力に逆らうことなく落下して地響きを上げ、砂塵が舞う。

 獣人は痛みを怒りに変えて瞳孔を細め残った片腕で巨大な刃を高く振り上げて叩き付けた。

 激しい縦揺れのあと、砂煙は徐々に薄らいでゆく。

『はぁ……はぁ』

 この様子なら女も灰燼と化しているだろう。

 岩盤にめり込んだ刀を抜き、ざまあみろと獣の貌が歪む。

 しかし、そう思ったのも束の間、獅子の頸から滝の様に紅い血が滴り落ちた。

 そのまま巨大な頭部が転げ落ちた。

 ふわりと地面に降り立つ女。胸元から雪那が顔を出す。

「良かった。さぁ、雪那。鬼退治に行きましょう」

 視線を落とし、優しく微笑んで修羅道を目指さんと歩み出した。しかし……。

「まぁ、困りました。雪那、そう簡単には通してくれないみたいだわ」

 暗闇に浮かぶ幾つもの赤い瞳。

 その全てが敵意を剥き出しにして女を射抜く。

女は、腰を屈めて刀の柄に握り締めた。

 獣達は爪を立て、女の首を刈り取るその一瞬に備えた。

 咆哮と共に一斉に飛びかかって、その牙で、その爪で女を引き裂こうと襲いかかった。

「アッハ」

 実に愉快そうに女は嗤い鞘から勢い良く刀を引き抜く。目には見えない刃が獣達を一瞬で肉塊へと変えた。

怯み、後退してゆく獣達。女は身の毛もよだつ笑みを浮かべながら口を開く。

「貴方たちも此処に退屈でしょう? 私が遊び相手になってさしあげるわ」

 言った瞬間、獣たちの視界から女が消えた。

狼の姿をした獣が甲高い鳴き声を発し倒れ込んだ。足は、見事骨まで断ち切られている。

 女の姿は見えない。狂気に酔う笑い声だけが獣たちの耳に残った。

 肉塊と血溜まりの中心で紅い雨に打たれながら女は笑っていた。

 番傘に刀を納めるとチンっと小さな音が木霊した。

「あら?」

 四方から聞こえてくる足音に女の長い耳が上下した。

『動くな!』

其れは、警告。

 指先一つでも動かせば、彼女を取り囲む無数の刃が白い肌に突き刺さるだろう。漆黒の鎧を身に纏った獣人兵。その全てが女に敵意を向けていた。瞳は赤く充血し、金色の眼球は瞳孔が閉じて、鋭く女を睨みつけている。

「まだ、こんなにも鬼が居たのね」

 己の身体を両腕で抱きしめながら喜びに打ち震える女の姿に獣兵たちは生唾を飲み込んだ。

 数では此方が圧倒的に有利なはず。その気になればいつでも頸を刎ねる事は造作もないはずなのに、何故自分たちは怯えているのだろうか。

 痺れを切らした虎の頭をした獣兵は、身の丈ほどある槍を頭上で回転させた後、獣の脚力をもって一蹴りで距離を縮めて来た。

 一撃必殺の突き。女は避ける事も飛翔する事もなく、鞘に収めた刀を勢いよく引き抜いた。

 すると、鼻先まで迫っていた槍が破裂音を立て粉微塵に砕けた。

驚愕に染まる虎の顔。瞬きする間に虎の頸は刎ねられ、岩盤に赤黒い雨が降り注ぐ。

 牛頭の獣兵は雄叫びを上げて日本刀を振り上げ襲いかかった。

 刃が交じれて、火花を散らし、牛頭の身の丈程ある太刀は、真っ二つに折れた。丸太のように太い腕は、肘上から刎ね飛び、鮮血を撒き散らす。

「あはははははははっ! ヒッ! キヒッ」

 無慈悲に、残酷に、辛辣に冷徹に、瞳に映る命を狩って行く。その業は深く、決して満たされぬ飢えとなる。

 その身に幾百、幾千もの血を浴びて一匹の赤鬼は踊り狂った。

『ばっ……化け物め!』

獣兵たちは恐怖した。此処は業深き者が堕ちる場所。獣の鬼達は、嘗て これほどまでに罪深き鬼を見た事は無かった。地獄へ堕ちて尚、己の赴くままにその刃で斬って、斬って、斬り捨てる。悦楽に溺れ、快感に酔い痴れる鬼。自分達とは"格"が違うのだと、その惨劇を目の当たりにして実感した。

「あぁ、あぁ、なんて美しいのかしら……肉を断つ感触。耳に残る血潮が吹き荒れる音、悶え苦しむその姿、素敵よ。とっても素敵だわ。さぁ、もっと私に見せて下さいな」

 

◆◆◆

 

「餓鬼界と畜生界が殲滅されただと?」

 赤。壁一面が赤色で統一された部屋で不機嫌そうに紫煙を燻らせる男が一人。

 真新しい畳の香りが心を落ち着かせるそんな一室。

 木製の卓上には書類が文字通り山積みになっている。

 丸窓の障子には桜の木が映し出されて居た。

 胡坐を掻き不遜な態度で片肘を立てる男。黒い着流しには赤く燃え滾った炎が刺繍され、藍色の羽織には一匹の黒豹が大きく描かれていた。

 黒く美しい髪は、男の左目を覆い隠す。その眼は深い赤色をしていた。

 髪や耳には気品漂う装飾品を身に付け、女が見れば忽ちその色香に酔い痴れるであろう程の伊達男だ。

「うん、そうだよ。零(ゼロ)義兄さん。ここ四百年くらいで、"餓鬼"、"畜生"の鬼が斬殺されまくってるんだってさ。人の"容(かたち)"をした鬼にね……肢体や頸はバラバラ、そりゃもう阿鼻叫喚の嵐って話だよ? キシシ」

 無邪気な表情を浮かべている少年は零と呼ばれた男に対面して正座しながら、湯呑みを傾ける。

 銀髪に彩度の高い青い瞳。

 額には、蒼角が一つ。天に向かって伸びている。

 白を基調された着物の襟元や袖口には青い炎が燃え盛っている。漆黒の羽織の背には"修羅"の文字が刻まれていた。

「てめぇ、何呑気な事言ってやがる。クソったれが……餓鬼っていやぁ"三悪趣"じゃねえかよ」

 零は拳を硬く握り、卓上へと振り下ろした。

 横に置かれた湯呑みは倒れ、遠慮なく茶をぶちまける。

「まっ! そんなにカリカリしないでよ。義兄さん。多分、僕の所まで来ると思うからその時捕まえればいいでしょ? ふふん、楽しみだなぁ、どんな奴だろ? こんなにわくわくするのは"天釈帝"に喧嘩売る以来だね」

 少年は、童の様な無垢な笑みを浮かべて想いを馳せていた。

 零は紫煙をゆっくりと吐いて少年に忠告した。

「羅毘。お前、遊ぶんじゃねえぞ……最弱とは言え"三悪趣"の鬼だ。しかも、人の容を保ったままと来てやがる。是が非でもてめぇで片付けろ。"此処"へは通すなよ。厄介な事になるからな」

 少年はにんまりと口の端を釣り上げてこう言った。

「僕を誰だと思ってるのさ、義兄さん。"闘神阿修羅"だよ? 餓鬼程度に手負うヘマはしないさ」

「…………だといいがな」



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修羅の青

「アハハハハッ! キヒッ! ヒヒヒヒヒ」

 おぞましい哂い声が灰色の世界に響き渡る。

 其処に広がるのは死屍累々。

美しい女は今もまだ己の業に踊り狂っている。

血飛沫吹き荒れる阿鼻叫喚の中、銀色の刃が妖しく美しく舞う。

ごろりと転げ落ちる鬼の首。椿がその美しい花を散らすが如く、辺り一面に散らばっていた。

『くっ! 我ら"阿修羅衆"が手も足も出ないとは! 椿の鬼姫め』

 銀色の髪をした青鬼が憎々しげに言った。其れは女を指す"あざ名"であった。

 首を刈り取るその様は椿の名に相応しい。瞳に映る命を狩って、狩って、狩りつくすまで女は止まらない。

 仕込刀を逆手に持ち全て断ち切る。向かってくる敵も泣き喚き命乞いをする鬼も全て、そう全て斬って捨てた。

 咆哮が岩盤を揺らす。巨大な化け猫。銀色の毛並みに赤い虎縞模様の美しい猫又の妖はその鋭い牙で、爪で女と共に鬼を狩る。

「雪那、あまり喰い散らかすのはお行儀が良くないわ。それに、そんな不味い肉を口にしてはお腹を壊してしまうでしょう?」

女の言葉に、鬼達は激情しる。有りっ丈の気迫と殺意を以て上段の構えから一気に踏み込んで刀を振り下ろす。

女は、片足を軸にして弧を描く様に回転し重い一撃を受け止めた。

 刃と刃は甲高い金属音を鳴らし火花が散って、青鬼の刀が天高く舞い、頸が飛ぶ。

 そのまま力なく倒れ込んで血の池を広げてゆく。

『畜生、畜生! 何なんだ貴様は! 何者なんだ。只の"餓鬼"がどうして人の容を保って居られる? どうして俺達の刃が届かない』

 青鬼は歯を食い縛りその瞳から涙が零れ落ちた。鬼の問いに答える事なく、女はほくそ笑んで脳天から真っ二つに引き裂いた。

「ふう、貴方で最後ね」

 そう言って、尻餅を付き怯えている鬼の鼻先に切っ先を突き立てた。下顎を震わせて歯が音を立てている。

眼と鼻からは止めどなく体液が流れ落ち、恐怖に塗れた表情で女を見つめる。

 震える鬼を見下ろしながら、すぅ――っと瞳を細め問いかけた。

「ねえ、青鬼さん。見て、私の刀、ボロボロになってしまったわ……何処かに腕のいい刀匠はいらっしゃいませんか」

 問いかけに静かに首を縦に振る。

 確かに女の刀は、刃が欠けて皹が目立つ。後一人斬り殺せば折れてしまいそうであった。

 生き残った青鬼は喉を震わせながら必死に言葉を紡いだ。

『し、時雨。そいつが地獄一の刀匠だ……俺達阿修羅衆の刀を打ってる』

「――……そうですか。感謝いたしますわ」

 口の端を歪めて女は哂って鬼の頸を刎ねた。雪那は子猫の姿へと戻り女の肩へ飛び乗った。薄暗い闇に下駄の音が響き渡った。

 

 

◆◆◆

 

 

 赤い、赤い湖。其れは血の色を髣髴とさせた。

 女は一糸纏わぬ姿で水浴びをしていた。白く艶のある肌は見る者を虜にしてしまうだろう。

 紅く長い髪は濡れて一層、色気を引き立たせる。

 この時ばかりは、彼女も穏やかな表情を浮かべていた。

腰を下ろし、胸が隠れる程度に浸かる。その艶めかしい足を伸ばして身体にこべり付いた血を洗い流す。

 突如、女の瞳が鋭い物へと変わった。油断を狙って鬼達が彼女へ襲い掛かったのだ。

獲物はもうない。が、動揺した様子は見られなかった。

 徐に立ち上がり、女の爪が鋭く尖って不意を突いた鬼達を文字通り解体した。

 肉塊は湖に波紋を立て沈んでゆく。

「せっかく、綺麗になったばかりなのに」

 溜息を漏らして再び腰を下ろし、湖に浸かると、何処からともなく拍手が聞こえて来た。

 音のする方へ視線を動かすと、其処には彼女と同じく一糸纏わぬ姿をさらした一人の女性がいた。

 紫色の長い髪に病的なまでに白い肌。瞳は赤く、左目の辺りには黒い刺青が彫られている。

「はは、アンタ凄いね。今の羅毘の所の兵隊だろう? 其れを片手で一掃たぁ……流石、噂に名高い椿の鬼姫さんだ」

 女にしては少々荒い言葉遣いであった。彼女も鬼なのだろうか。しかし、自分に襲い掛かって来る気配はない。

「あら、お褒めに預かり光栄だわ……貴方は私を襲わないのですか」

柔らかな口調だが、その瞳は殺気を孕んでいた。

「そんな怖い顔しなさんな。オレはアンタの敵じゃねえよ。味方でも無いがな」

「そうですか……此処で会ったのも何かの縁です。お名前をお聞かせ願いますか」

 すると、刺青の女はにやりと笑ってこう答えた。

「オレは時雨。刀匠時雨さ」

 地獄には似合わない日本家屋。女が捜し歩いた刀匠は意外や意外、あっさりと刀を譲ってやると言って自分の家へ招待した。

仕事場である石造りの部屋には工具が散りばめられて、壁には何本もの 太刀や日本刀がが掛けられている。その一振り一振りが芸術品と言えるほどに美しかった。

「さぁ、椿の、どれでも好きな奴を持ってくといい」

時雨は椅子へ腰掛けて煙管を咥えながら哂っていた。男物の着流しを身に纏ってどっしりと構えていた。

「はあ、けれど、宜しいのですか? そんなにあっさりと刀をお譲り頂いても」

 女は怪訝そうな眼差しで時雨を見つめるが、飄々としてこう答えた。

「ん? ああ、構わんさ。なぁに簡単な事だよ。さっきのアンタを見てたら是非ともオレの刀を振るっている所が見たくなってね」

そう言って口を歪めて哂った。その瞳には狂気が宿っている。類は友を呼ぶとは良く言ったものだ。

「そうですか……では、遠慮なく頂いていきます」

 一振りの日本刀が女の目に止まった。紅。鞘から柄に掛けて紅色をしたその刀は、鍔が無く金色の装飾が施されている。

吸い寄せられるように歩み寄り手にとって少しだけ鞘から引き抜いた。驚くべき事にその刀身は漆黒に染まっており、波紋は妖しく紫色を帯びていた。

「へえ、そいつに眼を掛けたか」

時雨は感心した様に呟いた。

「この刀、お譲り下さいますか」

「ああ、持っていきな。その刀の名は『紫焔(しえん)』手前が気に食わなきゃ、手に取った瞬間炎に焼かれてお陀仏ってな気性の荒い奴さ。気に入られたみたいだぞ」

 時雨はほくそ笑みを浮かべて紫煙を燻らせた。

 

 

◆◆◆

 

 

「何から何までありがとうございます。時雨さん。お着物まで用意して頂いて」

 女は、恭しく時雨に向かいお辞儀をした。八重歯を覗かせながら笑って彼女の肩を叩く時雨。

「気にすんな。オレもコイツの扱いには困ってたんだ。羅毘にくれてやろうと思ってたが、まぁ、アンタがお気に召した様だからな……ところで、アンタ、名前は?」

 女は口元に手を添えて微笑むとこう言った。

「魅姫(みき)。其れが生前の私の名前です」

「ほう、良い名だな。アンタにぴったりだ……っと、お客さんが来たようだぞ」

 振り向けば、其処には青鬼が立っていた。数にして二十弱。いずれも美しい貌をした銀髪に青い角を生やした鬼であった。

「時雨様、その女を此方に引き渡して頂こう。それにその刀、羅毘様にお贈りするべき一振りだった筈だ」

けだるそうに頭の後ろを掻いて、煙管をぱきりと折った。漆黒の羽織が揺れて、時雨の身体に闘気が纏わり付く。

「あぁ? 手前等にコイツが握れるかよ。コイツが欲しけりゃ、あの生簀かねえガキを連れて来な……それに、『紫焔』は魅姫を"選んだ"からな」

 鬼達はどよめき、腰に差した刀を抜き臨戦態勢を取った。

魅姫は口の端を釣り上げて牙を覗かせる。今まで姿を見せて居なかった 雪那が化け猫の姿で彼女の背後に現れた。

時雨は一瞬呆気にとられたが、八重歯を覗かせて哂った。

「あっはは! そんな隠し玉まであるのかよ」

 鬼達の怒号が直ぐそこまで迫っている。先程まで瞳に映って居た筈の魅姫の姿がない。

 突風が吹き銀髪の髪が靡いた。耳に届いたのは、小さく鋭い風切り音。

 次の瞬間、襲い掛かった鬼達の身体は流血の音と共に崩れ去った。

「あら、良い切れ味だ事」

「だろ? さて、魅姫よぉ。オレも混ぜてくれや」

 時雨は疼きを抑える事が出来なかった。

 剥き出しになった闘気はそれだけで鬼達を怯ませる。両腰に差した刀を引き抜いて鬼を斬る。

 其れは、余りに一方的だった。二匹の鬼が、一度刀を振るえば血潮が吹き荒れ一瞬にして敵は肉塊へと姿を変えた。

常に赤い雨が降り注ぎ、狂気を孕んだ嗤い声が響き渡る。残酷と形容するには生温い光景。悪鬼羅刹も裸足で逃げ出す程の鬼が二匹。

「はは、は……これだけ暴れたのは久々だったな。楽しかったぜ。あのガキの所へ行くんならこの先にある石段を上って鳥居を潜りな」

「ふふ、ありがとうございます。時雨さん」

 

 

◆◆◆

 

 

 目の前に聳え立つのは見上げるほどに巨大な赤き門。

 『蜘蛛の糸』の絵図が描かれたその門は、畏怖さえ感じる。雪那が身を震わせて怯えている。

「大丈夫よ、貴方は私が護ってあげる。さぁ、行きましょう」

 赤き門が軋みをあげ、開かれた。視界を覆う白い光、その眩さに瞳を細めた。

 無限とも思える空間には、紅く太い柱が幾つもそそり立っていた。

 其れと同じく、壁一面は赤色で統一されて、冷たい大理石の床には其処彼処に刀傷の様な物が刻まれていた。

 薄暗い闇の向こう側から靴音が響いて来る。

 確かに感じる鬼の気配。しかし、其れは今までとは明らかに"格"が違った。

 背筋が震えるほどに強い闘気。

 まるで、首筋に刃を添えられているかのような鋭利な物だった。

「へぇ、君がうちの兵隊を皆殺しにしたのか。イメージと大分違うなぁ。もっとゴツイ奴かと思ったのに」

 暗闇の中から現れたのは一人の少年。耳が隠れる程度に伸びた銀髪に青い瞳。その白い額には鋭い角が一本生えている。

白を基調とした着流しと漆黒の羽織。その腰には日本刀と脇差を携えていた。

 顎に手を添えて視線を上下に動かし、品定めするかのような眼差しで魅姫を見つめた。

「ご期待に添えず申し訳ございませんわ。羅毘様、けれど、戯れに手合わせ願います」

 言うなり魅姫の姿が少年の視界から消え失せた。

 火花が散りけたたましい金属音が耳に届いた。

 二人の顔は鼻先が擦れるほどに近づく。

 両者共にこれ以上ない程の笑みを浮かべ刃を交えていた。

 拮抗の末、後ろへ飛ぶ。先に動いたのは羅毘であった。

 地面を蹴って距離を一瞬で詰めて魅姫の頭上から刀を振り下ろした。

 当然の如く刀で其れを受ける。強い衝撃は波紋を立て突風を巻き起こし、円柱に亀裂が走る。

 その驚異的な力に彼女の顔が少し歪む。

 羅毘は腰から鞘を抜き取って、無防備な魅姫の脇腹に打ち付けた。

「ぐっ」

 そのまま横へ吹き飛ばされ、何本もの柱を貫通しようやく止まった。

 砂煙が立ち込めて魅姫の姿を覆い隠す。その数秒後灰色の煙は斬り裂かれ、尋常ならざる速さで羅毘に襲い掛かった。

 まるで遊戯を楽しむかのように闘う二人。甲高い金属音だけが響き渡る。

「キシシ、強いね君。想像以上だよ。もっと遊んでたいんだけど、そうもいかないや」

 腕を高く上げて指を鳴らす。すると、青い炎が燃え上がり二人を囲んだ。さながら炎の檻と言ったところか。

 もう一度指を鳴らすと、炎が龍の容を成して魅姫に襲い掛かった。灼 熱の牙が彼女に届くその僅か、魅姫がほくそ笑むのが見えた。

 羅毘が勝利を確信し背を向けた時、其れは起こった。燃え滾った炎が一か所に集まってゆくではないか。

 まるで、何かに吸い寄せられるように。

 驚愕の表情を浮かべ、その一点を見つめる。

 視線の先に立っていたのは、漆黒の角を生やした鬼だった。

「は、はは……そうか、そう言う事だったんだね……僕の"畏れ"を喰らったんだね。道理で雑魚じゃ相手にならない筈だよ。——ねぇ、"鬼喰らいの夜叉"さん」

 




夜叉には様々な説がありますが、女性、男性両方存在します。
男はヤクシャ。女はヤクシ—と呼ぶそうです。


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追放

 聳え立つ赤き門が軋みを上げて、ゆっくりと開く。視界が眩い白い光で染まっていった。一人の少年が息を荒げ佇んでいる。その身なりから気品と高貴さが伺えた。

 銀髪に硝子細工の様な青い瞳をしている。

「"天釈帝"様」

 少年の叫びが響き渡る。

 豪華絢爛と形容するに相応しい一室。

 まるで王朝の宮廷の如きその部屋には、金や銀で造られた装飾品で彩られている。

 中央には紅く長い絨毯が敷かれ、その先には玉座があった。其処に腰を下ろして居るのは、部屋の造りに負けぬほど豪華ないでたちの男だった。白銀の髪に赤い瞳をした男。

 その両脇には美しい天女が控えている。

 金の円卓に盛られた果実を手にし被り付いた。

 瑞々しい音と共に甘い香りが鼻を掠める。

 天女は、男の胸板に猫の様に擦り寄って妖艶な笑みを浮かべている。

 それも一人や二人ではない。何人もの女がその男に媚びていた。

 少年は、王の前のに傅き憎々しげに告げた。

「天釈帝様、何故私の姉を……貴方様の妃を、むざむざと賊に差しだしたのですか」

 男は態とらしく肩を竦め溜息を漏らした。

「おお、戻ったか羅毘よ。仕方ないであろう。"天部"を危険に晒すわけにはゆかぬではないか。“あの女”も、『私の身一つで天界が救えるのなら』と申しておった」

 少年の顔が歪む。食い縛った歯が軋む音を立て、口の端から血が滴り落ちる。立ち上がって玉座に腰かける男を睨みつけた後、声を荒げ叱咤する。

「何故、止めなかったのです! 天部軍総出で討てば良かったでしょう! 何故、私の留守中貴方様は姉上を護って下さらなかったのか」

少年の激情は止まらなかった。

「女一人の犠牲でこの天部が救われたのじゃ、安い物であろう。――それに……」

 

――薄い唇に笑みが点って。

――侍らせた女たちを抱き寄せた。

 

「――……女ならば、この両腕に余る程おるではないか」

 その時羅毘の中で“何か”が音を立てて崩れ去った。

 それは天部への忠誠か。

 それは義兄への信頼か。

 わからない。

 慟哭が響きわたる。

――それから。

――それから。

 

――青い煌きが迸る――

 

――青い炎。

――それは“修羅”の証。

――白い額に蒼角一つ。

――それは“鬼”の証。

 

 青く煌く、灼熱の炎は“蛇”へと容(かたち)を変える。

 声が聞こえた。

 それは、悲鳴。

 それは、絶望。

 青い炎はただ無慈悲に啖うだけで。

「――貴様は殺す。一切の慈悲もなく。惨たらしく殺す」

 赤い瞳が炯々と光を放っている。

 唇には笑みが点って。

「“修羅”に堕ちたか。羅毘よ」

 無貌の蛇が、首を擡げて帝釈天を見下ろしていた。

 牙が妖しく揺らめいている。

 蛇の頭上で青い鬼が、鋒を突き立てていた。

「よいぞ、よいぞ。羅毘よ。実に心地よい殺意じゃ……」

 帝釈天が頬杖を突いて酔いしれた。

「黙れ」

「――さぁ、さぁ、はよ我を殺しに来い」

「黙れ」

鬼が首を振り乱した。

垂れた髪の隙間から青く光る瞳が覗く。

「退屈じゃ。退屈じゃ。はよ我を楽しませよ」

「黙れ!」

 轟音が弾けた。

 青い炎が迸る。

 

◆◆◆

 

 

 耳に甲高い金属音が届く。一振りの刀が天を待ってやがて大理石の床へ突き刺さった。

煉獄の青き炎の直中で、闘神羅毘が膝を付いた。

 両腕を失い滝の様に紅い鮮血が流れ堕ちている。

 彼の鼻先に漆黒の刃が突き立てられた。

 羅毘を見下ろす金色の瞳。その表情は猟奇的で獲物を前にした猛獣そのものだった。

「ふふ、楽しませて頂きました。感謝いたします」

 鈴の鳴った様な声。美しいその声色は酷く冷たかった。紅く煌びやかな髪の色。漆黒に尖った角は女が鬼である証だった。

「ま、さか……キミが夜叉だったなんて気付かなかったよ」

 羅毘の言葉に魅姫は口を歪めて哂った。

「私(わたくし)も驚きました。こんなに立派な角が生えているんですもの……」

「は、はは、そう言えば聞いたことがあるよ。"餓鬼"、"畜生"、"修羅"全ての鬼を喰らい尽くせば黒い鬼になるって……夜叉は、僕らの天敵。神にだってその牙を突き立てる悪鬼だそうだよ。零義兄さんが、僕に言ったのはこういう事だったんだ……ああ、怒られちゃうや。まぁ、義兄さんが怒った顔も久々に見たいし、いいや。キシシ」

 無邪気な笑みを浮かべ、力なく倒れ込み瞳を閉じた。その命の灯が消えたかと思えば安らかな寝息を立てているではないか。

青い炎の檻は消え失せ、静寂が訪れた。女は、身を捩り腹を抱えて哂う。

「ぷっ……くはっ。あはははははは!あっははははは」

 一頻り嗤った後、魅気は肩に掛けた羽織を揺らして歩み"閻魔"と刻印された門の前に立つ。子猫の姿をした雪那は彼女の肩に乗り心配そうに見つめていた。視線に気付いたのか、下顎を優しく撫でて朗らかな笑みを浮かべるた。

 愛刀紫焔を構える。中腰の状態で柄から手を少し離し、一閃を繰り出さんと意識を集中させ鞘から放つ。空を斬る音が耳に残った。

 一瞬の静寂の後、轟音を響かせ門が崩れ去った。

 

 

 

◆◆◆

 

「——ったく、人の部屋の扉を粉々にしやがって、殺すぞ」

 

◆◆◆

 

 鋭い眼光で睨みつけ強い言葉で脅しを掛ける黒髪赤眼の男。

 弩(ど)派手な羽織が、巻き起こった風に靡いた。

 腰には一振りの刀をおびている。

 身に付けている装飾品からは気品が感じられた。

 男は眉間に皺を寄せ乱雑に頭を掻き毟った。

「あの阿呆め、死んでも止めろつったろうが……案の定"黒鬼"になってんじゃねえか。っとに七面倒臭せえ」

 女は血に濡れた手を口元に添え微笑すした。

「あら、そんなにつれない事仰らないで下さいな」

「ボケが。てめえの“なり”を見てからぬかせ、乱痴気女」

 男が抜刀すると、空を裂き轟音を響かせて目には見えない刃が魅姫を襲う。

 豪風が彼女の髪を靡かせた。咄嗟に横へ跳ぶも着物が裂け皮膚が破れる。白い腕から紅い滴が流れ落ちた。

 赤眼の男は走り魅姫との距離を詰める。羽織を投げつけると、彼女の視界が一瞬塞がった。長い耳が反応し、寸での所で斬撃を躱す。

魅姫は辺りを取り囲む野太く赤い円柱を、切り裂いて瓦礫に姿を隠した。

「ちっ」

 男はその場で立ち止まり、瞳を閉じて神経を研ぎ澄ます。只、彼女の秘めた殺気を感じとるために。

「上!」

 見上げると天井に足を付け腰を屈め刀身を覗かせる魅姫の姿がそこにあった。

 畜勢した力を一気に解き放ち弓矢のように襲いかかる。

 刃が交わると共にに大気が震え波紋が立った。突風が吹き荒れ瓦礫の山が吹き飛び、円柱には亀裂が走る。

 男の頭上を一回転し着地し、地面を蹴って距離を取った。

「ふふ、流石閻魔大王様。一筋縄では有りません」

 男は、苦虫を噛み潰したかのような表情を浮かべて口を開く。

「俺をあの糞野郎と一緒にするんじゃねえ。不服だが、ソイツは"親父"だ」

「之はとんだ御無礼を……では、貴方様のお名前をお聞かせ下さい」

 彼は、円柱に背を預け懐に忍ばせた煙管を取りだして紫煙を燻らせた。形の無い煙は独特の香りを発し消えてゆく。

「零(ゼロ)」

「素敵な響きです事……ますます貴方様の血が見たくなりました」

「——……はっ、ありがたくて涙が出てきそうだな。おい」

 

 両者共に刀を鞘へ収め腰を屈めて抜刀の構え、静寂が場を支配する。正に"剣抜弩張"。緊張の一瞬、早さは凡そ互角である。刀身が擦れ合い、甲高い音と火花を散らした。

達人同士の剣戟の応酬。その音だけが響き渡った。

拮抗の末、力で押し負けた魅姫が後ろへ吹き飛び、円柱に強く身体を打ち付け吐血する。その期を逃さず、零は印を結び経を唱え始めた。其れは梵字となって彼の身体に纏わり付き、やがて魅姫の両腕を拘束し、紫がその手から離れた。

「手こずらせやがって」

 溜息を漏らし、安堵する。が、次の瞬間、魅姫がほくそ笑み強引に鎖を引き千切った。

 そして、二人の刃が交差した。けたたましい流血音が魅姫の耳に届く。

 零は夥しい血を垂れ流しながらよろめき片膝をつく。

「て、てめえ……」

「ヒヒッ! 流石、ですね……私の負けです」

 右肩から噴水のように鮮血が舞い上がり力なく倒れ込んだ。どうやら魅姫も先の一瞬で深い傷を負ったようだ。

 覚束ない足取りで円柱へ寄りかかり、そのまま倒れ込む懐を弄り煙管と取り出したが、真っ二つに切り裂かれてしまっている。

「くそ……おい、羅毘! 出て来い」

「ばれちった」

 声と共に羅毘が姿を現す。驚くべき事に魅姫との死闘で負った傷は癒えて、刎ねられた腕は元へ戻っていた。腰を屈め愉快そうに笑って義兄を見つめている。

「あと三秒数える間に、そのイケ好かねえ薄ら笑いをやめろ。たたっ斬るぞ。糞ガキ」

「義兄さん、こわーい」

 わざとらしく、人を小馬鹿にしたような顔で哂った。青筋を浮き彫りにして怒りを露わにするその瞳に虚偽は無い。

「怒った? ねえ、ねえ、義兄さん、怒った」

「うぜえ……」

 

◆◆◆

 

「で? この娘どうするの」

 親指で背後に眠る魅姫に指を差し尋ねた。半壊した一室に辛うじて残った長卓に肘を付き煙管を吹かす零。

さも当然という顔をして言った。

「あ? 記憶消して人間界に追放するに決まってんだろうが、阿呆。"此処"に居れば、また暴れ出すからな……其れが一番手っ取り早い」

「なあんだ。残念、せっかく遊べる玩具が手に入ったと思ったのに」

 唇を尖らせ不服そうに拗ねる羅毘に思わず蟀谷(こめかみ)を抑えた。

「あれだけ派手に斬られてよくもまあそんな言葉が出てくるな……お前」

「ふふん」

「褒めてねえ」

 呆れ果てて溜息しか出てこない様子の零だった。

「ぬらりひょんの爺に引き渡す。文句言うようだったら組を潰せ。文は俺が出すからてめえはその乱痴気女の記憶消しておけ。具体的には堕ちてからの一切合財全てだ」

「えー……面倒だよ。何でそんな事するのさ? 魂だけにして封印しちゃえばいいのに」

「阿呆。さっき言っただろうが……地獄にコイツを封印したとしても、此処は奴にとって“餌場”だ……」

「しょうがない。やってきてあげるから頭下げてお願いしてよ」

「――死ね」

 




阿修羅神は元々"善神"だったそうです。天釈帝との関係は私が妄想して考えました。
もし宜しければ感想を頂けると嬉しいです。
厳しい感想も糧にして頑張りますのでお願い致します。


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一目惚れ

 嘗て妖怪世界に一躍名を馳せた妖しがいた。百鬼夜行を率いて闇夜を闊歩するその姿は妖怪、人共に畏れられた。名をぬらりひょん。

 その伝説は今も尚色褪せる事なく語り継がれている。

 

◆◆◆

 

 

 浮世絵町には化け屋敷があるという。夜な夜な不気味な呻き声が聞こえ、人魂が浮遊し、顔のない女が啜り泣いているなど様々な噂が飛び交った。

 人の口に戸は立てられない。噂には尾ひれが付き、滅多に人を寄せ付けなくなった。

 聳え立つ門の表札には『奴良』とある。

趣があると言えば、聞こえはいいが御世辞にもそんな言葉は出て来ない。

 化け屋敷と囁かれるのも無理もない佇まいだった。が、中を覗けば外観とは打って変わって手入れが行き届いた日本庭園が広がっている。

一目すれば溜息が漏れるほどに見事である。風に枝垂れ桜の枝が靡き心地よい音を奏でる。小鳥たちは自由に飛びまわり心を和ませた。

「——全く、閻魔の倅もまた無茶を言いおって」

 胡坐を掻き紫煙を燻らせる老人。黒い着流しに紺の羽織を纏った出で立ちはその小柄な体格とは対照的で貫禄を感じさせる。

 しかし、最も注目すべきはその頭部だった。古く、中国の古典に出て来るような長い頭。其処に寂しげに生える産毛。

 そう、彼こそこの屋敷の主にして妖怪任侠集団奴良一家初代総大将『ぬらりひょん』である。

 ぬらりひょんは頭を抱えていた。その原因は、彼の手にした添え文にある。

「烏天狗。烏天狗や」

 名を呼ぶと、何処からともなく現れた小烏が宙に浮いたまま傅いた。面妖な事に僧侶の格好をしており、その手には錫杖が握られている。

「総大将、お呼びでございますか」

 これまた奇想天外にも人語を流暢に話しているではないか。

 戦国時代、ぬらりひょんと共に奴良組を築き上げ、彼を支えた戦友である。

 現在の珍妙な姿からは想像も出来ぬ程の屈強な妖怪であったという。

「おう、ちと今から苔姫の祠へ行って来る。リクオの面倒、頼んだぞ」

「はぁ、承りましたが一体どのような赴きで」

 ぬらりひょんが口の端を釣り上げ歯を見せて笑う。長年付き添った烏 天狗の勘が告げる。碌でもない事だと、不幸なことに其れは的中した。

「"椿の鬼姫"を迎えに、な」

 烏天狗の背筋に冷たいモノが駆け巡った。

"椿の鬼姫"。妖怪世界において、彼女の名を知らぬ者は皆無である。餓鬼道へ堕ち地獄に巣食う鬼共を片っ端から狩ったとされる妖。鬼の頸を狩り取る様から"椿"のあざ名が付いた最悪の鬼だ。

「ななな、なんですと! 地獄から蘇って来たのでございますか」

「おお、そうじゃよ。ほれ、閻魔の倅からの文じゃ」

懐に仕舞った文を烏天狗へと手渡した。文字を追って眼球が上下に動いている。顔からは滝の如く汗を流し、小刻みに手が震え、叫ぶ。

「何ですか! 之は! いくら何でも横暴過ますぞ! 自分たちの不始末を棚に上げて引き取らなければ組を潰すなど」

 ぬらりひょんは脇息に持たれかけ煙管を吹かしてけらけらと笑った。

「ふっははは。まぁ、そう言ってやるな。彼奴にも考えがあっての事だろうよ」

 納得できないという顔の烏天狗を余所に、ぬらりひょんは立ち上がって障子の戸を開けた。其れと同時に甲高い女の悲鳴が上がる。

 松の枝に片足を荒縄で縛られ吊るされている白い着物の女。肌の色は雪の様で長く青み掛った黒髪は重力に逆らわず垂れ落ちている。

「ほほう、今日の標的は雪女か」

 ぬらりひょんは顎を撫でながらほくそ笑んだ。宙吊りになって眼を回して居る女を指で指して身を捩りながら笑う少年がいた。

 ぬらりひょんの姿を見つけると、一層笑顔になり一目散に駆けよった。

「爺ちゃん、爺ちゃん! 見てよ! 雪女ったら今日も引っかかってやんの」

 大きな瞳は輝きに満ちて楽しげに言う少年。ぬらりひょんは頭に手を乗せて乱暴に撫でてやる。その表情は大侠客としてでなく、孫を溺愛する祖父その物であった。

「おお、そうか、そうか。ようやったのう、リクオ」

「うん」

 鼻の下を指で擦って照れ笑いを浮かべながら喜びを露わにする。

「総大将ぉ。御助けをぉ……」

 蚊の鳴くような声で、雪女が言った。

 彼の名は『奴良リクオ』ぬらりひょんの孫にして、奴良組の跡取り候補である。祖父と同じ黒い着物に袖を通し、紅い羽織を肩に掛けている。

 側近妖怪達は、幾度となくリクオの悪戯に弄ばれていた。気を遣ってワザと引っかかる者も居るが、其処は暗黙の了解という事である。

「リクオ、今からちと、出掛けて来るからの。若菜さんに伝えておいてくれ」

「ずるいよ爺ちゃん。僕も一緒に行きたい」

 ぬらりひょんの身体に腕を回し上目遣いでねだる。孫にこんな顔をされて頬を緩ませない者はいないだろうが、此処で折れる訳にはいかない。

「ダメじゃ、お前さんは宇佐美屋の飴玉を買って来てやるから其れでせい」

「えー、宇佐美ん家の飴美味しくないよう」

 なんとも失礼な物言いだが事実なのだから仕方がない。頬を膨らませ、唇を尖らせるリクオに苦笑していると縁側から一人の女性が声を掛けて来た。

「リクオ、あんまり氷麗(つらら)ちゃんを苛めちゃ駄目じゃない」

 山吹色の着物に身を包み、朗らかな笑みを浮かべてリクオを嗜める。背は低く、顔立ちにも未だ幼さが残っている。

「母さん」

 リクオが声を弾ませる。驚くべき事に彼女は正真正銘リクオの母であった。

 未だ十代でも通用するであろう容姿とは裏腹に人の身でありながら妖怪任侠の世界に足を踏み入れた肝っ玉母さんである。

「おお、若菜さん。すまんが少し出掛けるでの、昼飯は適当に食べて来るわい」

「はい、分かりました。ほら、いい加減氷麗ちゃんを下ろしてあげなさい」

「……はーい」

 

 

◆◆◆

 

「ふう、やはり歳には勝てんのう」

 石段を登りながらぬらりひょんがぽつりと呟いた。流れる汗を拭いながら上を見上げ、遥か遠くの鳥居を睨みつけた。

「総大将、あまりご無理はなさらないで下さい。貴方様は奴良組一家の大黒柱なのですから」

 ぬらりひょんの頭上で小さな翼を羽ばたかせ、心配そうに見つめる烏天狗。一度は隠居した身とは言えど、彼は未だに奴良組の代紋を背負っているのだ。

 この身に変えても守りきるという決意がその瞳から伺える。

「む。この妖気は」

 突如鋭くなる眼光。木々はざわめき、枝で羽を休めていた鳥たちは一斉に飛び立った。地面を蹴って一目散に頂上を目指す。

「そ、総大将! この妖気、尋常ではありません! 莫迦息子共に伝え、応援を呼びましょう」

 烏天狗は顔中汗まみれになりながら必死にぬらりひょんを止めようとするが。

「莫迦もんが! こんな奴、誰が来たって同じじゃ」

 烏天狗の視界が涙で霞む。彼の覚悟に胸打たれたのだった。

 やがて、最後の石段を登り切り、鳥居を潜る。その先に立っていたのは……。

 

◆◆◆

 

 

 紅い髪をした少女だった。

 

 

◆◆◆

 

 一人の少女が漫然と空を見上げている。まず目に飛び込んで来たのは腰まで伸びた紅い髪だった。

雲一つなく、陽の光を遮る物は何もない。燦々と降り注ぐ日差しを浴びて燃えているかの様に輝いていた。

 長い耳は人でない証。漆黒の着物には赤椿の花弁が咲き誇っている。 見る者が見ればその価値が分かるだろう。

手には一振りの刀が握られていた。気品ある装飾で彩られた刀は素人が見ても一級品であると判断できる程の業物であった。

 突如、少女がぬらりひょん達の方へ振り返った。紅い髪はふわりと揺れる。息を切らし、膝に手を置く彼の姿が可笑しかったのか、口元に手を添えて上品に哂った。思わず息を飲む。

 金色の瞳に染み一つない色白の肌に不気味な程、整った美しい貌(かお)。童でとは思えぬほどの妖艶さに呆気に取られた。

 少女の隣で一匹の子猫が銀色の毛を逆立てて牙をむいている。紅い虎縞模様が浮かんだ猫又の妖だった。

「そんなに息を切らしてどうなさったのですか」

 もう一度、背筋が震えるほどの艶笑を浮かべ少女が尋ねた。

「ああ、悪いな……譲ちゃん、見ねえ顔だ。一体、何処から来たんだい」

 少女の顔が一転、憂いを帯びて視線が下を向く。男が見れば忽ち虜になってしまうであろうそんな表情だった。

「それが、私(わたくし)にも分からないのです……気付けば、其処の祠の中で眠っていました。この子猫、雪那という名前らしいのですが、それ以外何も思い出せなくて……自分の名すら忘れてしまった様で」

 ぬらりひょんは、顎を指で撫でながら暫し考え込んだ。烏天狗が近付き耳打つする。

「どういう事でしょう? この女が椿の鬼姫というのは間違いなさそうですが……」

「ふむ。そうじゃな」

 どうやら記憶を失っているらしいと安堵するのも束の間。

「——ねえ、御爺様。貴方、強い?」

 ぞくりとする声が耳に届くと、少女の顔が鼻先まで迫っていた。その瞳に狂気を孕み爛々としている。空を切り裂く音と共にぬらりひょんの 頸が天高く舞った。

烏天狗は呆気に取られ、言葉を発する事が出来なかった。一拍遅れ、悲鳴にも似た叫びが空に溶ける

「——うっさいわい烏天狗」

 少女が刎ねた頸は黒い影となって消えうせる。一転して立場は逆転し、地面を蹴ってぬらりひょんとの距離を取った。

 懐に手を入れドスを抜く。少女が臨戦態勢を取る事は叶わず、脇腹に鈍い痛みが走った。斬ると見せかけての蹴り、地に手を付き倒れ込む彼女の鼻先に鋒が突き立てられる。

「やるな、譲ちゃん。でもよ。まだまだ儂の相手じゃねえな。ふっははは」

 ドスを肩に担ぎ大口を開けて笑う。

「そ、総大将ぉ」

 烏天狗が情けない声を上げながら滝の様に涙を流して居る。当のぬらりひょんは、あっけらかんとして、小指で耳の穴を穿って其処吹く風という様子だった。

「不思議な力でございますね」

 少女は口の端を歪め嗤った。

「まだやるってのかい」

「いいえ、今の私では到底敵いませんもの。さあ、煮るなり焼くなりして下さい」

 そう言って、瞳を閉じる。

「ふっはは。最初からお前さんを殺す気なんてありゃせんわ。さ、立ちなさい」

 そう言って、優しい笑みを浮かべ、手を差し伸べる。少女は素直に従って立ち上がった。

 立ち上がって笑みを浮かべる姿には気品が漂っていた。ぬらりひょんは、下から上までじっくりと少女を見た後、唐突に言った。

 

◆◆◆

 

「お主、孫の嫁にならんか」

 

◆◆◆

 

 仏間に妙な空気が流れる。線香の煙がゆらゆらと容を変えて溶けてゆく。奴良リクオは正座しながら落ち着かない様子で祖父の顔色を伺っていた。

 普段、飄々とした祖父が真剣な面持ちで話があると言い、仏間に通された。その表情は、時より見せる総大将としての顔だった。

 膝の上に置かれた握り拳に汗が滲む。対極にぬらりひょんは湯呑みを傾けて茶を啜る。満足げに溜息を漏らした後、唐突に言った。

「お前の嫁を連れて来た」

「―——はい?」

 余りに頓狂な話に間の抜けた声を上げるリクオ。嫁。嫁を連れて来た。八歳のリクオにもその単語が理解出来たが思考が追いつかない。

「だ、誰のですか」

思わず敬語になってしまう。

「お前さんのに決まっておるじゃろうが」

脇息に寄りかかり扇子を煽るぬらりひょん。リクオが勢いよく立ち上がった。

「じ、じじじ爺ちゃん! 嫁って、嫁ってどういう事さ」

「そのままじゃが? お前さんの嫁を連れて来た。ほれ、土産を持って来いとせがんだじゃろう? 喜べリクオ。そりゃ、ベッピン中のベッピンを用意したぞ」

 扇子で口元は隠れているが、その向こう側でうすら笑いを浮かべているに違いない。事実眼が笑っている。

「そりゃ、お土産は買って来て欲しかったけど、僕が言ったのは」

「あー……五月蠅いやっちゃのう、良いからほれ、座らんかい」

 ぐぬぅと悔しそうにして座り込む。ぬらりひょんはほくそ笑んで名を呼んだ。

「魅琉鬼出て来なさい」

 

◆◆◆

 

 

―——……はい

 

 

◆◆◆

 

 凛とした声の後、少女は天から舞い降りた。存在感ある紅い髪に人とは異なる長い耳。金色の瞳に長い紅い睫。

 リクオは少女を見た瞬間、言葉を失った。動悸が激しい。顔が熱くあるのが分かる。言葉を紡ごうとするが、喉に詰まって声にならなかった。

「お初にお目に掛ります。奴良リクオ様。私、只今ご紹介に預かりました。魅琉鬼と申します。今日から貴方様の許嫁として、この奴良組本家でお世話になる事になりました。このように若輩でございますが、貴方様に恥じぬよう、努力致しますので、どうぞ、お見知り置きの程を」

 歳にそぐわない言葉使いに落ち着いた物腰。

 恭しく頭を下げるその姿に、何と声を掛けて良い物かと戸惑い僅かな望みを掛けて祖父へと視線を向けるが、案の定愉快そうに笑っているだけだった。

 しどろもどろしていると、魅琉鬼と名乗る少女は頭を上げて朗らかに微笑んだ。

 白い頬にはほんのりと赤みが差して少々気恥ずかしい様子であった。

瞬間、リクオの胸に勢い良く矢が刺さる。

それは“恋の矢”

 目まぐるしい程身体中が熱くなり、羞恥やら驚きやら混乱でかき乱され心拍数は上昇し、鼓動が耳鳴りの様に五月蠅かった。

 必死に言葉を探す。真っ赤になった顔を俯かせ、蚊の鳴くような声で言った。

「——……よ、よろしく」

 

 

◆◆◆

 

 

 魑魅魍魎の主となる少年が初めて恋に落ちた瞬間である。

 

 

◆◆◆



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逢瀬

挿絵があります。
イメージを壊したくない方は非表示推奨


「お主、孫の嫁にならんか」

 私の前で白い歯を見せて屈託のない顔で御爺様が仰いました。唐突かつ余りに頓狂な話に呆気に取られていると、まるで悪戯が成功した時の様な無邪気な童男の御顔をして私を見ておられました。隣で翼を羽ばたかせる小烏さんは深い溜息を漏らします。会って間もないですが、お二人の関係は何となく察しが付きました。

「総大将、またそんな突拍子もない事を! 何を考えておられるのです! 二代目の事をお忘れか! この女は妖怪ですぞ」

「んなこたぁ言われんでも分かっとるわい」

 指で耳に栓をしてあっけらかんとする爺様。本当に童の様なお人ね……。

「大丈夫じゃて、鯉伴の二の舞にはさせんよ」

「その根拠は一体どこにあるのですか! 総大将」

 フフ、何だか見ていると頬が緩んでしまう光景ね。少し、羨ましいわ。

「ところで、お主。名前を忘れとったんじゃな。良し、良し。儂が名をやろう」

 隣で口うるさく喚く烏さんを余所に爺様が顎を撫でながら視線を上に向け、考え耽って居られました。無視されたのが堪えたのかしら? 大きな瞳に涙を浮かべて爺様を睨みつけているわね。心中お察ししますわ。 名も知らぬ小烏さん。

「お、良いのが浮かんだぞ」

ぽんっと手を叩き私を見てこう仰いました。

「魅琉鬼ってのはどうじゃ? 我ながらいい"せんすぅ"をしとるの」

 満足げに笑い私の頭に乗せて来ました。イヤだわ、恥ずかしい。

「魅琉鬼……」

「ふっはは。いい名じゃろ」

「フフ、そうでございますね。御爺様」

 めげずに小言を言い続けていた烏さんが肩で息をしながら此方を伺っておりました。私の顔に何か可笑しなものでも付いているのかしら。

「もう、諦めます。しかし、幹部連は黙って居りませんぞ」

「分かった。分かった。ったく、ひち面倒なやっちゃのう」

 どうやら説得することは諦めた様で、深い深い溜息を漏らし、項垂れてしまいました。相当落ち込んでいらっしゃるわね。

「素敵なお名前をありがとうございます。爺様、貴方のお名前をお伺いしても宜しいですか」

「おお、そう言えば名乗って無かったな。儂の名はぬらりひょんってんだ。これでも名の知れた侠客だよ。こ奴は下僕の一匹でな。烏天狗じゃ」

"ぬらりひょん"何処かその名に引っ掛かりを覚えます。やはり記憶が曖昧ね。まるで霧にでも覆われている様……。

「にぃ」

 足元に雪那がすり寄り小さな身体を私に擦り付けます。可愛い子……不思議とこの娘の意思は自然と流れ込んで来ます。けれど、ごめんなさい。どうしても思い出せないの。

「ほほう、よう懐いておるな」

 腰を折り指で手招きする爺様、多少警戒した様子だけれど直ぐに歩み寄って舌先で指を舐めました。爺様の頬も緩み、顎を優しく撫でては赤子をあやすかのように頬笑みます。余程気持ちが良いのか可愛い声を漏らして擽ったそうな顔をする雪那。

「フフ、随分と人見知りする娘のようですけれど、爺様とは仲良くしたいみたい」

「おお、そうかそうか。確か雪那だったかの? 愛い奴じゃのう」

「はぁ、和むのは宜しいですが、肝心の返事をまだ聞いておりませんぞ。総大将」

 溜息を漏らし、あきれ果てる烏天狗様、そう言われれば、すっかり忘れてしまっていたわ。

「そうじゃった。そうじゃった。で、どうだい? 魅琉鬼よ。悪い話ではあるまい」

「あの……大事なお孫さまを私の様な素性も知れぬ女と結ばせようなどと、本気でお思いなのですか」

 聞かずには居られません。だってそうでしょう? 自分の素姓すら思い出せぬ輩と婚儀を結ばせようだなんて、とてもではないけれど正気とは思えません。けれど、ぬらりひょん様は笑って仰いました。

「なぁに気にするこたぁねぇさ。お前さんを見た時、ビビっと来たからのう……儂の勘に間違いはない」

「その勘とやらに我々がどれだけ翻弄されて来た事か」

 烏天狗様は頭を抱え天を仰ぎます。爺様ったらそっぽを向いて耳掻きだなんて。フフ可笑しい。

「ぬらりひょん様、そのお話ありがたき幸せでございます。貴方様から頂いた御恩に報えるよう努力致しますわ」

「そうか」

 私の返事に口の端を釣り上げてほくそ笑み静かにそう仰いました。

 

◆◆◆

 

 化け猫となり大きくなった雪那の背に乗って、爺様の御屋敷まで悠々と空と飛びあっという間に到着してしまいました。それにしても、烏天狗様の動揺ぶりときたら今思い出しても声を出して笑ってしまいそう。

 溜息が出るほどの立派な御庭には石造りの池や松の木が生えて思わず惚けてしまいました。中でも一際美しい枝垂れ桜は春風にその桃色の花が舞う光景に心奪われました。

「此処で暫く待っていなさい」

 そう言われて、広々とした和室に通されます。中はとても手入れが行き届いて、畳の香りが緊張を解してくれました。障子からは燦々と陽の光が差し込み部屋の中を明るく照らして物静かな時が過ぎてゆきます。

 部屋の中を見渡すと大層立派な仏壇が置かれ、其処には美しい黒髪の女性と同じく黒く長い髪の伊達男の遺影がありました。私は、自然とそちらに足を運び、蝋燭に火を灯して線香を上げました。鈴(りん)の音が鳴り響くと、私はそっと手を合せます。

 縁側から二つの足音が聞こえ障子に影が映し出されます。爺様と同じ背格好の方でした。私の心臓が大きく跳ねます。きっと、このお方が、リクオ様……。

 障子の戸が開くと、緊張した様子で部屋へ足を踏み入れた私よりも少しだけ幼い男児。栗色の大きな瞳に其れと同じ色をした短い髪。一目見た瞬間、驚くほど顔が熱くなりました。

 どうして? 胸の鼓動は高まる一方で息を飲みその方に魅入ってしまう。答えの出ない問答が私の胸の内で繰り返されます。気付けば気配を 消し姿を隠して様子を伺っておりました。ああ、私はなんて莫迦な真似をしているの。もっと他にするべき事があるでしょう? けれど、今このお方の前に姿を現わせば、失態を晒すのは目に見えております。落ち着いて、失礼のない様にしないと。

「魅琉鬼、出て来なさい」

 心の臓が大きく跳ね緊張は最高潮に達します。さあ、笑うのですよ。愛嬌がないと思われたくはありませんもの。全身全霊をもって最高の笑顔を向けるのです。

「お初にお目に掛ります。奴良リクオ様。私、只今ご紹介に預かりました。魅琉鬼と申します。今日から貴方様の許嫁として、この奴良組本家でお世話になる事になりました。このように若輩でございますが、貴方様に恥じぬよう、努力致しますので、どうぞ、お見知り置きの程を」

 早口ではなかったかしら? しっかりと笑えたのかしら? 今、私は貴方の瞳にどう映っていますか。

様々な不安が私の頭の中を駆け巡ります。下げた頭をゆっくりと上げて 再度、微笑んで、リクオ様の反応を伺います。とても可愛らしいお顔をしていらっしゃって、其れを見るだけで張り詰めていたモノが和らいでゆくのが分かりました。

 けれど、鯉の様に口を開け閉めするだけで、言葉を発する事なく、私を見つめておられます。嘘、なにか可笑しなものでも付いているのかしら? 其れとも笑みが不気味であったりとか。どうしましょう。堪らんなく怖い。

「——……よろしく」

 そう言って顔を俯かせてしまいました。やはり、私が何か粗相を仕出かしたんだわ……。

「これ、リクオ。お前がそんなじゃから魅琉鬼が困り果てておるぞ」

「え」

 今まで黙って居られたぬらりひょん様が口を開きます。慌てた様子で顔を上げると、茹で蛸の様に真っ赤に染まった表情が見てとれました。

「ったく、不甲斐ないのう。ま、後は若い物同士好き勝手やんな」

 そう言って、爺様は部屋を後にします。当然の様に重い沈黙が部屋を支配し、私もどうしていいか分からず黙り込んで居ると、上ずった声が耳に届きました。

「あ、あの……! どうして、僕の名前、知ってるの」

 その質問に私は、一呼吸置いて答えます。

「此処へ来る途中、御爺様からお聞きしました。勝手な事をして、申し訳ございません」

「ううん! 別に気にしなくていいんだ。気になっただけだから」

 再び室内に沈黙が訪れます。雰囲気に耐えられなくなったのか。リクオ様が徐に立ち上がって私の手を引きます。案外力は強く上手く立ち上がれずにリクオ様の胸元へ倒れ込んでしまいました。

「っとと、大丈夫?」

「……はい」

 見上げると頬を染めているリクオ様のお姿が目に飛び込んで来ます。 大きな瞳の中には私が映し出されて居りました。それが分かる程の近い距離でした。

「ご、ごめん」

 両肩に手を置かれ、勢い良く引き離されます。少し胸が痛みました。 もう少し、あのままで居たかった。けれど、そんな事は言える筈もありません。

「いえ、私の方こそ」

「え、えっとね、魅琉鬼ちゃん。ずっと、此処に居るのも退屈でしょう? よ、良かったら之から一緒に遊ばない?」

 照れくさそうに頭を掻いて笑顔を向けて下さいました。リクオ様も私と同じだったんだわ……なのに、私ったら。

「ど、どうしたの! ぼ、ぼぼぼく、何か変な事言った?」

「……え」

「だって、泣いてるから」

 言われて初めて気付きます。頬に触れると、確かに涙が流れていました。

「申し訳ありません。お気を遣わせてしまって」

「う、ううん! 大丈夫ならいいんだ! 早く行こう」

 

◆◆◆

 

 それから私はリクオ様に連れられ色々な場所を歩きまわりました。行きつけの駄菓子屋によく友人と"さっかー"という球戯をする空き地。夏になれば、必ず行くという川。

蹴鞠は得意な様で、"りふてぃんぐ"という技を披露して下さいました。

「どう? 学校でも僕より上手い奴は居ないんだよ」

 瞳を輝かせ、屈託のない笑顔を向けて下さるリクオ様に時を忘れ魅入ってしまいます。

「とても素敵でございます。リクオ様」

「へへ」

 幸せです。確かにそう感じます。何もない虚ろな心が満たされていくようで、私の初めての思い出。それを噛みしめます。

「ごめんね……僕ばっかりはしゃいじゃって……魅琉鬼ちゃん、女の子なのに」

「いえ、とても楽しゅうございます。もっと色々な御話をお聞かせ下さいな」

 一層、花が咲いた様な笑顔を浮かべて私の手を引きます。私の頬は緩んでいるのでしょうね。裾がめくれぬ様、衽を抑え走ります。気が付けば陽も傾き、空は橙色に染まって居りました。

「そうだ。今日は神社でお祭りがあるんだった! ねえ、一緒行かない?」

この先の居ある神社で縁日があるそうで、私をお誘い下さいました。

「でも、もう屋敷に戻らないと……」

「大丈夫! 烏達ー!そう言う事だから母さんに伝えておいてね—」

 空を飛ぶ烏達が一斉に鳴き声を上げ屋敷の方へと向かって行きました。

「ね?」

 悪戯っ子の笑みを浮かべそう言います。本当に、可愛い人。

 

◆◆◆

 

 陽は沈み空には星が燦然と輝きを放ち虫達の鳴き声が何処からともなく聞こえて来ます。リクオ様は、私の手を引いて下さいました。

「魅琉鬼ちゃん、大丈夫?」

 私の方に顔を向けて心配そうに尋ねて来られました。

「お気遣い、ありがとうございます。私は平気ですので、どうか、気になさらず」

「そ、そっか」

 良く見れば、リクオ様の額からは汗が滲んでいます。男児の意地なのか、休みたいとは言えなかったのでしょう。失敗しました。

「あの、やはり休憩させて頂けますか?」

「う、うん! いいよ」

 石段の踊り場に座ったリクオ様の隣に私も腰をおろします。

「ねえ、魅琉鬼ちゃん。お祭りに行ったら何がしたい?」

「お恥ずかしながら、私は縁日という物に行った事がないのです……いえ、正しくは覚えていないでしょうか」

 リクオ様の瞳が大きく開きます。

「覚えてないって」

「はい、私は記憶を失ってしまっていて、自分が何者なのか、何処から来たのか覚えていなくて」

「そうなんだ……」

 気まずそうに顔を逸らした後、両手で膝を叩き立ち上がると、私にこう言って下さいました。

「良し! じゃ、僕と一杯回ろうよ。出店も一杯あるからきっと楽しいよ。さ、行こ」

差しのべられた小さな手のひらと、温かみのある笑顔。胸に熱い物を感じながら私は手を取ります。しっかりと包まれた手は汗ばんで頬には赤みが差しておりました。

 

 鳥居を潜ると、提灯の淡い光と楽しげな人々の声が目の前で広がっておりました。独特の笛の音が耳に流れ込んで来ます。リクオ様の顔も明るくなり、感嘆の声を上げあちこちに顔を向けていらっしゃいました。

握られたままの手には力が込められ先程までの疲れなどどこ吹く風と言わんばかりにはしゃぎまわります。出店を出して居るのは、屋敷で見た妖たちが殆どで、リクオ様の顔を見るなり食べ物を渡されたりと大喜びしていらっしゃいます。

「良し、此処だ」

そう叫んで、玩具の銃口を狙い目の品に向けます。ぽんっという音を立て弾が勢いよく飛び出します。惜しくも軌道は外れ紅白の布を揺らすだけに終わってしまいました。

「あー……また駄目だった」

肩を落とし落ち込むリクオ様にどう声を掛けていいか分からず戸惑っていると。

 綿菓子を片手にリクオ様が言います。

「ごめんね。失敗しちゃった。せっかく魅琉鬼ちゃんにあの人形あげようと思ったのに」

「……え」

息を飲みました。まさか私の為に。

「あ、そうだ! 魅琉鬼ちゃん。ちょっと待ってて」

そう言って繋いでいた手は解けてしまいます。咄嗟に着物の裾を握りしめて居りました。私ったら何をやっているの? けれど、この手を離してしまえば、リクオ様は何処かへ行ってしまう。

 

【挿絵表示】

 

 

「……嫌」

 我ながら子供じみたことをしているのは百承知。それでも、離れるのが嫌で堪りませんでした。リクオ様は照れ笑いをしながら困った様に指で頬を掻いて。

「約束。直ぐ戻ってくるから、祠の所でまってて」

そう言って差しだされる小指。顔が熱くなるのが分かります。今更自分のした事の愚かさに気付くだなんて。おずぞずと小指を絡めました。

「指きり減満嘘付いたら針千本のーます。指切った」

そして、一目散に何処かへ向かって行きました。

 

◆◆◆

 

 人気の少ない祠の前に立ってリクオ様が来るのを待ちます。

遠くの方から笛の音が聞こえてくるも先程とは違う静けさが場を支配していました。

 私は手にした巾着の紐を握りしめて不安を振り払っていました。

すると、砂利を蹴る音が聞こえ、視線を向けるとリクオ様が息を切らして此方へ向かって来るのがわかります。

「リクオ様」

 私は、思わず叫びました。相当走っていたらしく顔中汗に塗れ膝に手を置き肩で息をしていらっしゃいます。

 莫迦! 私の莫迦! あんな約束をしてしまったばっかりに。手拭を取り出し汗を拭いて差し上げます。ああ、こんなにお顔を真っ赤にして……申し訳ございません。

「ごめんね、待たせちゃって」

「いいえ、悪いのは私です! あんな我儘を言ったせいでこんなに汗を」

 リクオ様は、笑って許して下さいました。そして……。

「これ、君に似合うと思って」

懐に手を忍ばせたかと思うと、勢い良く私の前に握り拳が突き出されました。

「手、出して」

紅くなったままリクオ様が言います。その通り両手を出すと、一本の簪が掌に置かれました。白椿に藤の花が添えられたとても綺麗な簪でした。

「これは」

「へへ、人形は無理だったけど」

 鼻の下を人差し指で擦って照れ笑いを浮かべるリクオ様。私の視界が霞みます。ああ、此処で泣いてはリクオ様が心配してしまう。

けれど、一度込み上げたモノは抑える事は出来ずに涙となって私の頬を伝います。

「ありがとう……ございます。リクオ様、こんなに素敵な贈り物を貴方様から頂けて私は幸せです」

「よ、喜んで貰えて嬉しいよ」

「……はい」

 突如、けたたましい音が耳に届き顔を上げると、花火が空を彩っておりました。星の輝きに負けぬ美しさに感嘆の声が漏れます。

「綺麗」

「うん、そうだね。綺麗だ」

私がリクオ様に視線を向けると、慌てた様子で顔を背けてしまいました。



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やんちゃ

 早朝。空には美しい朝焼けが広がっていた。

 小鳥達が囀り始めるその頃、奴良屋敷の台所から俎板を叩く耳心地良い音が聞こえて来た。土鍋からは湯気が立ち込み、味噌の香りが食欲をそそる。

 鼻歌交じりに葱を刻みしらすの盛られた小皿に振りかけ味噌汁のを確かめると向日葵の様な笑顔を浮かべ手際よく朝食を作る女性。リクオの母である奴良若菜であった。

 彼女の作る食事は屋敷のぬらりひょんやリクオは勿論、妖怪達にもすこぶる評判だ。

「おはようございます若菜様」

 凛とした声。若菜が振り返ると、会釈をして微笑む。

 ただこれだけの動作が雅であった。

 背格好こそ童であるが、少女と形容するのが躊躇われるほどの艶めかしさを漂わせている。

「おはよう。魅琉鬼ちゃん」

 若菜の笑顔がより一層明るい物になった。

 魅琉鬼がこの屋敷に来て数日、彼女が食事の手伝いをするのは日常となりつつあった。

 袖を赤い襷で捲くり上げ、白くしなやかな腕を覗かせて、腰まで伸びた紅い髪は頭の後ろで三つ編み団子状に結われ、リクオが贈った簪が挿されている。

「若菜様、何かお手伝いできる事はありますか」

「んー、じゃ、切り身の鮭焼いてくれる?」

 人差し指を下唇に押し当て悩んだ後、そう言った。

「はい」

 滞りなく朝餉の支度は終わり、暫くすると毛倡妓や氷麗たちが台所へ顔を出し配膳を済ませると、若菜が魅琉鬼に声を掛ける。

「魅琉鬼ちゃん、リクオ起こして来てくれるかしら」

 無意識なのだろうが、傍から見ても頬が綻ぶのが分かった。氷麗の眼光が鋭いモノへと変わる。今までリクオを起こすのは側近である彼女の役目であった。

 其処へ突然現れたよそ者に其れを奪われれば、面白くないと思うのは至極当然だ。魅琉鬼は頬笑みを浮かべたまま動じない。両者の間で静かに火花が散る。

 

◆◆◆

 

 障子から陽の光が差し込み、この部屋の主、リクオの頬を照らす。

布団は見事に捲れ上がり白い長襦袢は肌蹴て臍が見えている。

 あどけない顔で眠る彼の横で魅琉鬼が正座しながら愛おしげな眼差しでリクオを見つめていた。

「可愛い……」

 口元に手を添えて上品に微笑む。リクオの寝顔が彼女の悪戯心を刺激したのか彼の頬を人差し指で小突く。

「うー……」

 小さく唸るリクオの姿に微笑ましく思いながら彼の方を優しく揺らす。

「リクオ様、リクオ様。朝でございますよ、 起きて下さいな」

「あと少しー……むにゃ」

 なんともお約束な台詞である。込み上げる笑いを噛み殺しながら魅琉鬼が続けた。

「御爺様に朝食のおかずを取られてしまいますよ」

 次の瞬間、冷や水を浴びたかの様に飛び起きるリクオ。

「爺ちゃんには渡すもんか」

辺りを警戒し、首を左右に動かす。

「あれ? ご飯は」

「おはようございます。リクオ様」

「み、魅琉鬼ちゃん!?」

 驚きを隠せない様子で、声を上げる。肩を露出させた状態で顔を赤らめて口を開け惚けていた。恥ずかしかったのだろうか。

「ふふ、大丈夫ですよ。まだ、御爺様も起きて来られていません。リクオ様のおかずは無事です」

少し、からかう様な瞳をしてリクオに言う。

「ひ、酷いよ。魅琉鬼ちゃん」

「申し訳ありません、けれど、リクオ様が可愛らしくて……つい」

 リクオは唇を尖らせて不貞腐れる。無理もない。幼いなりにも男児としての矜持はある。そして、"可愛らしい"と形容されることは屈辱的なのだ。

「僕は、可愛くなんかない」

「……」

魅琉鬼は無言のまま膝の上で拳を握った。

——―可愛い

 そうやら彼女には、逆効果だったらしい。

「き、今日も"ソレ"付けてくれてるんだね」

そう言って、照れくさそうに笑みを浮かべて簪を指さす。リクオが初めて魅琉鬼に贈った品。あの日から片時も離す事なく、大事に扱っている。

「リクオ様が初めて私へ贈ってくださった物ですもの。宝物ですわ」

「そ、そっか……嬉しいよ」

 頬を染めて照れくさそうに頬を掻く。

 彼女の言動に一喜一憂するリクオの姿は屋敷にいる妖達全員の知るところとなった。

 最も両手を挙げて歓迎、とはいかないのが現状である。"椿の鬼姫"とその名を聞けば、震え上がり恐れる妖怪が殆どだ。

「なぁにを朝っぱらからイチャついとるんじゃ、お前さんらは」

 桃色の空気を払拭するかのように二人の間にずいっと顔を出すぬらりひょん。案の定、驚きの声を上げて魅琉鬼がリクオに覆いかぶさる様にしがみ付いた。

「きゃっ」

「うわっ」

 リクオは顔からやかんが沸騰したかのような甲高い音を立て赤面する。悪戯が成功して満足したのか、顎を撫でてほくそ笑むぬらりひょん。

「どっから出て来たのさ! 爺ちゃん」

「やかましいのう。儂はさっきからずっと見とったわ。朝っぱらから乳繰り合いしおってからに」

乳繰り合うの意味は分からずとも、その言葉から何となく想像は付く。 リクオは紅い顔を更に真っ赤にして怒鳴り散らした。

ぬらりひょんは素知らぬ顔で部屋を出ていき、沈黙が訪れる。先に口を開いたのは魅琉鬼だった。

「御召し物は、其処に用意させて頂きましたから早く来て下さいね」

 気のせいか、彼女の頬も桃色に染まっているように見える。リクオは取り繕う様にして返事をし、障子の戸が閉まる音が聞こえると、深い溜息を漏らした。

 

 リクオが広間の戸を開くと、そこでは何時もの様に小妖怪達がおかずの争奪戦を繰り広げている。上座に腰かけるぬらりひょんがリクオを手招きする。

 木製の長い食卓を大勢で囲み和気藹藹と朝食に舌鼓を打つ。リクオの隣で正座をし、茶碗にご飯を盛って頬笑みを浮かべながら手渡した。

 頬を染め見とれる彼に斜め向かいに座っている氷麗が悔しそうに布を噛んで居た。

「(ポッとでの女のくせに〜! この前まで私の定位置だったのに! 若も若でデレデレしちゃって! 何よ! もう)」

 大きな瞳の端に涙を浮かべながら行きどころの無い感情が冷気となって彼女に纏わり付く。近くに居た妖怪達はその冷気とは別の恐怖で身体を震わせていた。

 

 ふと、魅琉鬼と氷麗の視線が合わさる。口元に手を添えて瞳を細めくすりと笑う。其れは勝ち誇った様なそんな貌(かお)だった。氷麗は甲高い声を上げて憤る。

そんな女の闘いが繰り広げられているとは知る由もないリクオは、無邪気な笑顔を浮かべ平らげて空になった茶碗を魅琉鬼に手渡す。

「おかわり!」

「ふふ、リクオ様、口の端に"お弁当"がついておりますよ」

 人差し指で米粒を取り自らの口で咥えた。リクオは羞恥心で一杯になり下を向いてしまう。その光景を見ていた若菜が嬉しそうに口を開く。

「実はね、今日のリクオのおかずは魅琉鬼ちゃんが作ったのよ。早くリクオの味の好みが知りたいって。御台所のモノの置き場所もあっという間に覚えちゃって驚いちゃったわ」

 魅琉鬼は恥ずかしそうに視線を逸らしながら……。

「……その、夫婦になるのですし、リクオ様の味の好みが知りたくて……お口に合いますか」

「う、うん。とっても美味しいよ」

 二人してぎこちなく顔を逸らす。何とも初々しい雰囲気である。顔を綻ばせる者が多い中、味噌汁を啜りながら鋭い眼差しで魅琉鬼を見つめる者が居た。

「(拙僧の記憶違いでなければ、あの女……)」

奴良組特攻隊長を務める黒田坊だった。

笠帽子に黒い長髪が特徴の伊達男である。

 彼の表情に只ならぬものを感じ取ったのは、黒田坊と同じもう一人の特攻隊長、破壊僧青田坊だった。

「黒、どうかしたか」

「いや、何でもない。拙僧のはやとちりだ」

「……はんっ! そうかよ。ま、安心しろ黒。万が一若に害をなす様な事があれば椿の鬼姫だろうと俺が叩き潰す」

握った拳が軋む音を立てる。その眼光は飢えた獣の様に爛々としていた。

 

◆◆◆

 

「ただいまー」

 玄関からリクオの声が聞こえ、台所で夕飯の仕込をしていた魅琉鬼の耳がぴくりと動く。はやる気持ちを抑えながら暖簾(のれん)を潜り早歩きで出迎えに向かう。

「ただいま。魅琉鬼ちゃん」

 待ちわびた人の笑顔。魅琉鬼の顔が自然と綻ぶ。

「お帰りなさいませ。リクオ様、お待ちしておりました」

「うん! あー、お腹減った! 魅琉鬼ちゃん、今日の晩御飯なに?」

 期待に満ちた表情で魅琉鬼を見つめる。

「今日は豚の冷やしゃぶですよ」

 晩御飯の献立を聞いてリクオは飛び跳ねる。そのまま部屋へ向かうリクオの手首を魅琉鬼ががっちりと握る。

「お待ちください。先にお風呂へ入って下さいな」

「えー! 後で良いよ! それより見たいアニメが……」

 魅琉鬼は満面の笑みを浮かべると……。

「駄目です」

 その笑顔に一瞬ひやりとした。リクオは力なく返事をするしかなかった。

 

◆◆◆

 

 檜の香りが心を落ち着かせる。浴槽に溜まった湯船からは白い湯煙が立ち込めて視界を覆う。

 リクオは木製の腰掛けに座り、魅琉鬼に背中を現れていた。白い長襦袢姿に紅い襷で袖を捲りあげてしっかりと泡立てた垢擦りを優しく彼の背中に滑らせる。

鼻歌を奏でながらリクオに奉仕するその表情は幸せに満ち溢れている。

「かゆい所はございませんか」

「う、うん!」

 緊張で上ずった声が良く響く。頬が紅いのは熱気だけのせいではないだろう。

「泡をお流し致しますね」

 そう言って桶に湯を汲んで肩からそっと流す。

「はい、終わりました。次は髪ですね」

「い、いいよ! 僕自分で出来るもん」

 背中越しに悲壮感が伝わって来る。魅琉鬼があからさまに肩を落として居るのは、姿を見ずとも察する事が出来た。

「……わかったよ、魅琉鬼ちゃん。お願い」

「はい」

彼女の弾んだ声を聞くと心の中で苦笑しするリクオであった。



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雪華と椿

「ち、ちょっと! 押さないでよ! 青田坊」

「んなこと、言われても俺だって押されてんだからしょうがねえだろ! うお、首無し押すんじゃねえ」

 ああっ! もう! 若が気付いちゃうじゃない。総大将が突然連れて来た女の妖、しかも若の許嫁として来たって話じゃない!

 産まれた時から側近として御側に仕えていた身として、気にならない筈がないわ。肝心の若は女を目の前にして顔を真っ赤にしながら俯いてしまっている。"椿の鬼姫"と言えば、私達の世界で知らない者はいない。母様からその恐ろしい伝説は幾度となく聞かされた。地獄の鬼を全て斬り殺し、閻魔大王に喧嘩を売った恐ろしい悪鬼。

 でも、今見ているこの光景からはとてもそんな風には思えない。若と同じように顔紅くして俯いて何度か視線だけを動かし、様子を伺いながら目が合うと直ぐに逸らしてしまっている。

うん、これはアレね、若にホの字のレの字のタの字ね。同じ女としての直感だけれど、間違いない。若を見る目がそう言ってるもの。

「あ、あの……! どうして、僕の名前、知ってるの」

 無言の空気に耐えられなくなったのか、若が顔を上げて声を掛ける。緊張で裏返ってしまっていますよ若。

「此処へ来る途中、御爺様からお聞きしました。勝手な事をして、申し訳ございません」

 

 そう言って答える女の瞳は何処か不安げに見えた。不覚にも少し可愛いと思っちゃったじゃない。

 後ろで私と一緒になって覗きこんで居る男連中の顔が紅い。はっとなって若に視線を戻した。

 案の定、顔を紅く、ううん。頭から沸騰したやかんみたいに湯気を立てながら鯉の様に口をぱくぱくさせて固まっていらっしゃる。

離れた場所から覗いている納豆小僧や青田坊がこの調子だもの。そりゃ目の前で見てる若は一たまりもないでしょうとも。ええ、完全に落ちましたね? 若。

「ううん! 別に気にしなくていいんだ。気になっただけだから」

 そう言って両手を突き出し、否定すると、また室内が無音の状態に。ああ、見ているこっちまで緊張しちゃうじゃない。喉が渇き、唾を飲み込む。先に沈黙を破ったのは若で女の手を取って引っ張り上げ……って、そんなに乱暴に引っ張ってしまったら……。

「っとと、大丈夫?」

「……はい」

何? 何なのよ。この空気! 完全に二人の世界に入っちゃってるじゃない。あ、あれ、何だ背中が重く……。なっ! 青ったら前のめりになり過ぎよ。た、耐えられない。

「う、ううん! 大丈夫ならいいんだ! 早く行こう」

 

 若、待ってください。今、こっち来ないで下さい。も、もう、ダメ……。

い、イタタタ、それに、重い……苦しい……助けて若〜。

「お、お前達!」

 若が大きな声をだして驚いていらっしゃるわ。私達が覗き見していた事には気付かなかったみたい。ッヒ……! 若の私達を見下ろす視線が冷たい。私の雪化粧より冷たい!

「わ、若。こ、これには訳がございまして……」

「ふーん」

「若の大切なお見合いを暖かく見守ろうと……」

「で?」

 ッヒ! こ、恐い、めちゃくちゃ怒ってる! 青も黒も首無しも何か助け舟出しなさいよ!

 

……あああッ! いつの間にか逃げてる! 恨むわよ、青に首無しぃぃ!

「っは〜……夕飯までには帰って帰ってくるけど、絶対付いてこないでね? 雪女、もし付いて来たら……」

「了解であります! 若! 若菜様にも伝えておきます」

 背筋に悪寒が駆け抜けるのを感じて、自分でもびっくりするぐらい即座に敬礼してしまいました。だって若。目が本気だもの。今朝の宙吊りなんて可愛げがあるわ……。私は障子を頭から被ったまま若に手を振った。

 

◆◆◆

 

「記憶がない?」

「そう、どういう訳か、地獄へ堕ちてからの記憶が無いんだってさ、自分が一度死んだって事は覚えてるらしいんだけどね。魅琉鬼って名前も総大将から頂いたんだってさ」

 昼、若達がデ、デートを楽しんでいるだろう頃、食器の片付けをしていると、隣で一緒に皿を洗う毛倡妓がそんな事を言います。どういことだろう。あれだけの事を仕出かしてそれを全て忘れて居るなんて……けれど、私が見た感じ、噂で聞く程の恐ろしい鬼では無く、若にぞっこんの乙女って感じだった。其れを聞けばさっきの違和感も納得できるわ。

「それよりアンタ、どうなの? いきなり現れた好敵手(ライバル)に気が気じゃないって感じ?」

 ちょっ……にやにやしながら肘で突くのはやめなさいよ。

「べべべべ、別に? 私は、若の側近としてお嫁に来るっていう女がどんな奴なのか気になっただけだし? 許嫁が来たからって私が若の隣にいるのは変わらないし、全然、これっぽちも気に何かしてません」

「皿、凍ってるよ……」

 ああぁぁ! 私とした事が! ごめんなさい〜。

 若菜様に必死に謝って何とか許して頂いたけれど……自分のドジさ加減に溜息が出そう、それもこれも、毛倡妓が可笑しなことを言うからよ! 確かに若の事は可愛らしいと思ってるし、大きくなったら良い男になってるのは間違いないだろうけど、私は側近として……そう姉みたいなものよ。別にねんごろな関係になりたいとかそういうじゃ……ごにょごにょ。

 部屋で悶々としてる内に気が付けば、空には星が広がって居た。

っは! 私ったら何やってるのよ。早く夕御飯の支度を手伝わなきゃ。

 御台所の暖簾(のれん)を潜ると、其処には既に若菜様の姿が無かった。急いで広間に走って障子の戸を開いたら、何時もの様に小妖怪達がどんちゃん騒いでいた。総大将は胡坐をかいて上座に腰を降ろして居る。

「申し訳ありません!」

「あら、氷麗ちゃん。そんなに慌ててどうしたの」

 若菜様が花の咲いた笑顔を向けてくれえる。うう、何だろうこのいいようのない罪悪感は……。

 

 ふと、周りに視線を配ってみると若の姿が見当たらなかった。ついでにあの魅琉鬼とか言う娘(こ)も。

「若菜様、若達は」

 私の問いに両手を叩いて嬉しそうな顔で浮かれながらこう仰いました。

「それがねぇ、聞いてよ氷麗ちゃん! リクオったら今日は晩御飯食べずに縁日に行ったんですって! なんでも、魅琉鬼ちゃんと良い雰囲気だったらしいわぁ」

 い、良い雰囲気!? 良い雰囲気ってそんな!? 若はまだ小学生ですよ! そんな……そんな……。

「なぁにを顔紅くしとんじゃい雪女」

 総大将の言葉で我に返る。わ、私ったらなんてイケナイ想像を……。

「な、何でもありません」

 私は顔が熱くなるのを感じながら、黙って定位置に座った。

 

◆◆◆

 

「ただいまー」

 夜遅く、聞きなれた若の声が屋敷に響く。私が急いで出迎えに行くと、玄関先で仲良く手を繋いだ二人の姿が目に映る。照れくさそうにしていてもしっかりと繋がれた手と手。魅琉鬼の紅い髪に目を向けると、朝には無かった白椿の簪が差さっていた。其れを目にした瞬間、湧き上がって来たのは怒りでも悲しみでも無く、すとんと何か憑き物が落ちた様な、そんな納得だった。

 若達が帰って来て数時間。屋敷の大広間では宴会が開かれた。大勢の妖怪達に囲まれ困惑する二人。魅琉鬼は忙しく動き回っている私達に気を遣ってか、給仕に回って居た。奴良組で開かれる宴会は、いつも夜が明けるまで開かれる。この日も其れは変わらなかった。

「ふう、やっと終わった……」

 私は台所に溜まった洗い物を片付け額に滲んだ汗を拭う。陽は高く、 燦々と容赦なく私に降り注ぐ。あ、熱い……雪女にこの暑さは地獄だわ。

「大丈夫ですか? 氷麗さん」

 声が聞こえて私は振り向く。両袖を襷で捲り上げ其処から私に負けないくらい白い腕が覗く。う、うわぁ……綺麗。

「平気よ。そっちは片付いた?」

「はい、滞りなく」

「そう、ありがとう」

「……」

「……」

私達の間を無言が支配する。き、気まずい……。

「それにしても、凄いお酒の量でしたね。皆様、何時もあんなにお飲みになるのですか?」

 魅琉鬼も同じ事を思ったのか、口を開く。

「そうね。大体こんな感じ。まぁ、お酒をたくさん飲むのは、総大将や青田坊と黒田坊が殆どなんだけど、皆浮かれてたみたいね」

「そうですか」

 会話終了。また無言が訪れる。

 私は意を決して聞いてみる事にした。

「ねぇ、あなたはさ総大将に連れて来られたって言ったけど、良かったの? その……若と許嫁になんてさ……嫌じゃなかったの?」

 私の問いかけに魅琉鬼は頬を染めて言う。

「……ええ、ちっとも」

 瞳を細め幸せそうに笑うこの娘を目にして、胸がチクリと痛む。私は若をどう思っているのだろう? この娘の様に恋焦がれているのかな……。胸に刺さったままの小さな針は今も私の中で疼いている。

「そ、そうなんだ」

「はい……私(わたくし)はあの御方をお慕い申しております」

 もう一度笑って見せる。けれど、直ぐに陰りがさした。

「ですから、私は貴方が羨ましいです……氷麗さんは私の知らないリクオ様を沢山知っていて私より近くに居る。それが少し悔しいです」

……私も貴方が羨ましいわよ。だって、若にあんな表情(かお)に出来るのはきっと貴方だけだもの。



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可愛い人

 夏のカラっとした日差しが容赦なく照りつける。蝉の合唱が耳に届く。物干し竿に白い布団を干して両端を摘みパンパンと伸ばす。

 満足げに微笑み、額に伝わる汗を拭う着物姿の少女。魅琉鬼である。

 家事に勤しむその姿はしっかりと板に付き初めは怯えるばかりであった妖怪達からも良妻賢母と称されるようになった。

「魅琉鬼ちゃーん」

 遠くの方から彼女を呼ぶ声が聞こえて来る。長い耳がぴくりと小さく上下した。

 其方へ視線を動かすと、屈託のない笑顔を向け紺の羽織を肩で揺らしながらリクオが一直線に走って来る。

 魅琉鬼は思わず袖で口元を隠しくすりと微笑んだ。

「そんなに走っては転んでしまいますよー」

 言うや否や、リクオはプロ野球選手も裸足で逃げ出す様な見事なヘッドスライディングを決めてしまった。

 魅琉鬼は瞳を丸くして、リクオの元へと駆け寄った。

「リクオ様!」

「〜っ! ……いたた」

 リクオは両端に涙を浮かべながら身体を起こす。顔面を強打し、砂利道であったがために鼻から一筋の血が伝う。

 魅琉鬼は慌てて腰を屈め袖に仕舞っ純白の布で鼻血を拭う。

「もう、だから言いましたのに……」

「えへへ、ごめん……」

 

 リクオは頭の後ろを掻きながら笑って謝る。魅琉鬼も『仕方がない』という苦笑を浮かべて微笑んだ。

「わぁ! せっかくいっぱい取ったのに」

 和やかな雰囲気を払拭する驚きの声に魅琉鬼は一瞬肩を震わせた。何事かと思えばリクオの周囲に大量の蝉の抜け殻が転がっているではないか。

 苦手な者が見れば、悲鳴を上げてしまう様な光景が広がる。

「まぁ、こんなに沢山……」

 感嘆の呟き。リクオは胡坐をかいてつまらなそうに唇を尖らせる。

「ちぇ……これで魅琉鬼ちゃんを驚かせようと思ったのに」

 リクオが漏らした一言にくすりと一笑してしまう。相変わらず悪戯好きなのは少々困ってしまうが、魅琉鬼は咎めようとはしなかった。

目の前で拗ねるリクオの顔をみて、彼女の中で愛おしさが膨らんでゆく。

「何やってんだリクオ」

背後から呆れた様子の少年が溜息を漏らす。短い鶯色(うぐいすいろ)の髪に空色の着流しを着崩した目つきの悪い男童であった。

「あ、鴆(ぜん)君」

リクオが振り返り声を上げる。薬師寺一派の跡取り息子である彼は、リクオと歳が近しい事もあり、よく山でかっけこや缶蹴りをして遊ぶ仲である。

 しかし、その身に猛毒の羽を宿している為、身体は弱く短命であるとされている。

「あら、お出ででいらしたのですね。余りに生気を感じないので気づきませんでした」

「居るわ! というか、少し前に挨拶しただろうが!」

 魅琉鬼は笑顔を崩さぬまま瞳を細めて言った。

「まぁ、それは申し訳ございませんでした。私(わたくし)リクオ様以外の殿方は全て風景と化してしまいますの。矮小で愚鈍な畜生風情がリクオ様にそんな舐めた口を叩いて一体どういう御つもりですか?」

 その舐め腐った態度に鴆は青筋を立てる。

「んだとぉ。上等だてめぇ! おもてに……——ごふっ」

 啖呵の途中で盛大に吐血し、片膝を付く。魅琉鬼はその事態を無視し、リクオに笑顔を向け手を差し伸べた。

「さ、リクオ様。今日のお昼は素麺ですよ? 沢山作りましたから一緒に食べましょう」

「う、うん。それはいいんだけど、鴆君は……?」

「烏天狗様が回収なされますわ」

リクオの手を引きながら屋敷へと戻って行った。

「ま、待ちやがれ」

 

◆◆◆

 

 風鈴の音が涼しげに鳴り響く。リクオと鴆は素麺を勢いよく啜りがっついていた。何処か張り合っている様にも見てとれた。

「ごちそうさま!」

 二人同時にガラスの小皿を置く。卓の中心に置かれていた山盛の素麺は見事に無くなってしまった。

 流石、成長期といったところか。

「ふう、お腹いっぱいだー。もう動けない」

「あー……オレも食いすぎた」

 二人とも大の字になって転がる。その様子を見て若菜が驚いた様子で笑みを浮かべる。

「あんなにあったのに、もう全部食べちゃったのね」

 嬉しそうに言いながら空いた皿を台所へと運んでゆく。

「リクオ、オレちょっと寝て来るわ……また後で遊ぼうぜ」

「うん、そうだね……ボクも休憩するよ」

 そういって鴆は重い足取りで居間を後にした。

「大丈夫ですか? リクオ様」

 苦しそうに唸り声を上げる彼が心配になったのか魅琉鬼が正座をしてリクオの顔を覗きこむ。眼前に迫った美しい少女の貌(かお)。甘い香りが鼻を掠める。少し視線を下へ向けると薄桃色の艶やかな唇が目に映る。リクオの顔は瞬く間に紅く染まり慌てて起き上がると、お互いに凸をぶつけてしまう。

「ご、ごめん」

「いえ、お気になさらず……リクオ様? もし宜しければ縁側でお休みになりますか」

「うん。そうしようかな」

「はい……」

 魅琉鬼は嬉しそうに柔らかく微笑んだ。

「頭の位置は高くはありませんか?」

「平気だよ」

 のどかな風が吹き風鈴を揺らす。

 魅琉鬼は正座をして、リクオの頭を膝に乗せて団扇をゆっくりと仰ぐ。彼女は愛おしそうに彼を見つめると瞼を 閉じて子守唄を歌い始める。二人の間には、優しい空気が漂う。リクオの意識がまどろみに溶けるのに、そう時間は掛らなかった。

 魅琉鬼は、リクオのあどけない寝顔を見つめながら前髪を撫でる。

 擽ったそうに小さな声を漏らすリクオ。彼女の胸の内に陽だまりの様な暖かな感情がこみあげてくる。

「かわいい……」

 それから、数時間してリクオの瞼がゆっくりと開く、其処にあったのはリクオの頭を膝に乗せながら幸せそうな表情を浮かべ眠る魅琉鬼の寝顔であった。

 普段の大人びた表情とはまるで違う。無防備な寝顔。リクオは、無意識の内に彼女の頬に手を伸した。

「ねてる……」

人形の様に整った貌に息を飲む。

「……んっ……リクオ様……」

呟きが漏れる。リクオの思考は瞬時に沸騰して顔は紅くなり、心臓が飛び跳ねた。

「……ッ」

自分の名を呟いた魅琉鬼の表情はとても優しく、幸せに満ち足りた表情であった。

長いまつ毛が微かに動く。どうやら目を覚ました様だ。金色の美しい瞳にリクオの顔が写り込んでいる。

「リクオ……さま?」

 魅琉鬼のまどろむ意識は一瞬で覚醒し、瞬く間に紅くなる。

言葉を紡ごうにも声が出ない。鯉の様に口をぱく付かせ、急激に押し寄せて来る。

「やっ……私ったらいつの間に」

「おはよう。魅琉鬼ちゃん」

リクオは彼女にその日一番の笑顔を贈った。

「お、はよう……ございます……リクオ様」

 

◆◆◆

 

「は、入りずれぇ……」

 襖の向こう鴆が気まずそうに溜息を漏らしていた。

 

◆◆◆

 

 陽も沈み、空には星空に広がり蛍の淡い求愛の光が庭園を彩る。大広間で妖怪達が何時もの様に騒がしく夕食のおかずを取り合っていた。

「はい、どうぞ。リクオ様」

 釜から温かいご飯をよそいながら花の咲いた様な笑顔を向けリクオに手渡す。何時もと変わらぬ光景だが、少し違うのは、リクオは何やら魅琉鬼の横顔を何度も盗み見ては恥ずかしそうに視線を逸らして居る事だろうか。

「? どうかなさいましたか? リクオ様」

 彼女の問いかけにしどろもどろしながら、蚊の鳴くような声で『何でもない』と答えたがどうみても『何も』ではない。

 氷麗の隣でご飯を掻き込んで居る鴆が声を顰めて聞く。

「おい、雪女。リクオは鬼姫に対していつも"ああ"なのか」

「え? まあ、大体はそうでございますね。全くもって腹立たしい……」

 氷麗の身体の周りに黒い“オーラ”がまとわりつく。

「あ、けど今日の若はちょっと変ですね。いつもならもっと元気な筈なのに、今日に限っては妙に静かというか」

 鴆はもう一度リクオ達の方へ視線を向けて、じっと見つめていた。

 

◆◆◆

 

「リクオ、義兄弟として言わせて貰う! お前は椿の鬼姫に対して甘い!」

 リクオの自室で神妙な顔つきをして彼に言葉をぶつける。

 言われた当人は何とも素っ頓狂な顔をして正座している。

 静まり返る室内。鴆は乱雑に腰をおろし腕を組んで語り始めた。

「お前はあの鬼姫の伴侶になるんだろう? なのに、なんだぁ? あの軟弱とした態度は!? 男ならもっとどしっと構えろ 」

「え?」

 何を言われて居るか、理解出来ないという顔でリクオは見つめていた。鴆は再度溜息を漏らす。

「いいか? リクオ。男ってのはな? 女に舐められちゃいけねえんだ。なのにお前はあの鬼姫にいっつも下手じゃねえか!」

「そ、そんな事ないよ……」

 思わず言葉尻が弱くなってしまう。鴆は苛立った様子でリクオを叱咤する。

「いいか!? 男が女房に掛ける言葉なんて"飯"、"風呂"、"寝る"の三言で充分だ! 飯をよそわれれて礼を言う必要もなければ、後片付けを一緒にする必要もない! 家の仕事は女房が! 外でのシノギは男が! 之が基本だ」

 あまりの覇気にたじろぐリクオ。

「でも……」

「でももへったくれもねえ! いいか! リクオ!今日から魅琉鬼“ちゃん”なんて呼ぶなよ!? 呼び捨てでイケ! そして“飯”“風呂”“寝る”だ! さんはい!」

ぱんっと両手を叩き。

「“飯”“風呂”“寝る”!」

「もうイッチョ」

「“飯”“風呂”“寝る”」

「腹から声出せー」

「“飯”“風呂”“寝る”!」

 こうして、二人の亭主関白特訓は続いた。

 

◆◆◆

 

 朝、大広間では妙な空気が流れていた。騒がしい朝食が一転、妖怪達が固唾を呑んで見守っていた。

「はい」

 魅琉鬼がそっと茶碗を手渡す。いつもならここでお礼を言うリクオであるが今日は険しい顔つきのまま黙って受け取っていた。

美味しいの一言もなしに食事は淡々と進んでゆく。

「ん」

 そういって茶碗を突き出す。意図を汲み取った魅琉鬼は黙ってご飯をよそい手渡した。曽野表情はどこか笑いを堪えているように見えた。

 食事を終え、学校へ行く準備が整ったリクオは玄関先で靴を履き、手渡されたランドセルを背負って一言。

「行ってくる」

「はい。行ってらっしゃいませ。リクオ様」

 リクオは魅琉鬼の方へ振り返ることなく、学校へと向かっていった。

「ふふ、可愛い人……」

 彼女は誰にも気づかれぬようにくすりと笑った。

 

◆◆◆

 

「ただいまー……」

 陽が傾き、烏が鳴き始めた頃、しょぼくれた様子のリクオが帰ってきた。

「おかえりなさいませ、リクオ様」

「うん、ただいま」

 どこか気まずそうに視線を落として言う。

さすがに様子が可笑しいと魅琉鬼が尋ねた。

「どうなされたのですか? リクオ様」

すると、大きな瞳に涙が溢れているではないか。

「……――ないで」

「え?」

よく聞き取れずもう一度、耳を傾けた。

「嫌いにならないで!」

 リクオが魅琉鬼の背中に手を回して抱き寄せたではないか、混乱し、目を白黒させる魅琉鬼にリクオは言った。

「学校で、今日の話をしたらカナちゃんにしかられたんだ……女の子に冷たい男の子は最低だって、わたしだったら嫌いになるって」

リクオは、濡れた瞳で魅琉鬼を見つめる。彼女は優しく微笑んで……

「私が貴方様を嫌うはずなどございませんわ……今朝の事だって、気にしてなどおりません。それに、名前を呼び捨てて下さったときは堪らなく嬉しゅうございました」

「ほんと?」

「はい……」

「じゃ……ただいま、魅琉鬼」

 彼女はにっこりと微笑んで……

「お帰りなさいませ、リクオ様」



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恋敵

 烏の鳴き声が茜色の空に溶けてる。浮世絵町商店街をゆっくりとした 足取りで歩む少女が一人。

 絹の様な艶やかな黒髪は腰まで伸びて、風に揺れるたび甘い香りを放つ。肌は黒 髪と対をなして染み一つない雪肌であった。

 瞳は透き通った黒。切れ長の眼元は少女だというのに何処か妖艶さを纏う。形のいい唇が彼女の色香を一層に引き立てる。純白の着物には赤 椿の花弁が咲き誇っている。

 両手に買い物かごを引き下げて只歩く。それだけで人の視線をかき集めるには充分であった。それほどまでに彼女は美しい。

「へい、らっしゃい! 魅姫ちゃん! 今日も綺麗だね」

 八百屋の大将が帽子の鍔(つば)を指で摘み、微笑んで会釈する。魅姫と呼ばれた少女は袖で口元を隠し、可笑しそうに笑った。

「こんにちは。大将、相変わらずお上手です事」

「へっ! 何言ってんだい魅姫ちゃん! 俺りゃ別嬪(べっぴん)に嘘はつかねえぜ?」

「まぁ、嬉しい。ありがとうございます」

 そう言ってもう一度微笑む。その笑顔はとても可愛らしく、年相応のモノであった。

「たっく、何デレデレしてんだい? アンタ」

 低くドスの利いた声が聞こえたかと思うと、大将の耳が引っ張り上げられる。

「あ″あでで、い、痛いって母ちゃん」

「まったく、こんな歳はも行かない娘に色目使うんじゃないよ」

 何を心外な、とういう顔をして女将を見る大将。その光景に思わず噴き出しそうになるのをぐっと堪える。

「ごめんねえ、魅姫ちゃん。うちの馬鹿亭主が」

 大将の耳を引っ張りながら愛想よく笑って頭を下げる女将。

「いえ、それよりも大将さんを御放しになった方が……」

「千切れる! 千切れるって! 母ちゃん」

 手をひらつかせ首を振るう女将。どうやらお灸を据え足りないらしい。夫婦漫才とでも言えばいいのだろうか、其れは微笑ましい光景であった。少女の胸の内に羨ましいという気持ちが芽生える。

「相変わらず、仲が宜しいですね」

「あら、ヤダ。みっともない所見せちまったね」

 指で頬を掻きながら苦笑いする女将。未だその手には、亭主の耳が握られている。

「いいえ、とても素敵な事だと思いますわ」

 魅姫は視線を落とし、少し寂しげに笑った。

「なんだい? 奴良ん所の坊っちゃんと上手く行ってないのかい?」

  魅姫がはっとして慌てて手を振るう。

「……そういう訳ではないのですが、最近リクオ様に避けられている様な気がして……」

 

 美しい貌に陰りが差す。憂いを帯びた表情は、大将の頬をいとも容易く緩ませた。

「そりゃ、あれだな。魅姫ちゃんが日に日に綺麗になって行くもんだから」

 大将の言葉に少女は白い頬を桃色に染める。

「え」

 女将もその事に異論は無いらしく感心したように頷いている。少女の照れた様子に大将はにこりと笑って続ける。

「男ってもんは、心底惚れた女にゃ奥手になっちまうもんさ」

「そうさね、父ちゃんだって若い頃は私と手を繋ぐのだって躊躇ってたからね」

 其れを言うなよ。という顔をして苦笑いする八百屋の大将。照れくさそうに頭の後ろを掻いている。どうやら図星の様だ。

「坊っちゃんだってお年頃なのさ。心配しなくたって大丈夫さ」

 女将は腰を折り笑って見せる。皺だらけだがとても優しい顔をしていた。

「……はい、ありがとうございます」

 

◆◆◆

 

「ただいま戻りました」

 奴良組屋敷の玄関先で先程の少女が大きな声を上げると、暖簾を潜り、一人の女性が少女の元へ歩み寄る。

「お帰り魅琉鬼ちゃん」

「はい。若菜様。大根とお醤油買って参りました。これで宜しかったでしょうか」

買い物かごから品を出して若菜に見せる。

「ええ、ありがとう魅琉鬼ちゃん」

「いえ、リクオ様はもう戻られましたか」

 若菜は困った様に顎に指を添えて言う。

「それがまだ帰って来てないのよ。まぁ、今日も友達とサッカーやってるんでしょ。」

「そうですか……では、私は着替えてまいりますので」

 そういうと、先程までの美しい黒髪はみるみる内に紅く染まってゆく。耳は鋭く長く伸びて漆黒の瞳は金色に変化する。

「いつ見ても魅琉鬼ちゃんの変化は綺麗ねぇ……」

 感嘆の溜息を漏らし、彼女の変化を漫然と見つめる。魅琉鬼は少し照れた表情を浮かべ自室へと足を向けた。

 

◆◆◆

 

 陽も暮れて、虫達が騒ぎだす頃、玄関から溌剌とした声で帰りを知らせる少年の声が響く。

 魅琉鬼の両耳はピクリと動いて、はやる気持ちを抑えながら少年の元へ駆ける。

「ただいま。魅琉鬼」

 鼻の下を指で擦り天真爛漫な笑みを浮かべるリクオ。身体中土で汚れ肘や膝には無数の切り傷があった。碌に傷口を手当てしていないのか滲んだ血が変色している。

「リクオ様!? そのお怪我は」

「あ、これ? サッカーやってたらいつの間にか……でも、これくらい舐めとけば――……」

 言い終える前にリクオの手首を掴み、そのまま広間の襖を開け戸棚から救急箱を取り出して手当てを始める。

「多少染みますが、我慢なさってください」

「いっつ」

 皮膚に染みる消毒液の痛みに顔が歪む。

「御顔を良く見せて下さい」

そういってリクオの両頬に手を添える

「!」

リクオの顔が上気する。両頬に伝わるひんやりと柔らかな感触。迫る唇。潤んで濡れた瞳。彼の喉が大きく鳴った。耳の中で反響する心音。

「あ、ああの! 後は自分で出来るから!」

「なりません」

「いいったら!」

 瞳をぎゅっと閉じて叫ぶ。その拍子に魅琉鬼の肩を強く押しのけてしまったらしく、彼女は突き離され、尻餅を付いてしまう。

「……あ」

 しまった。と思っても、もう遅い。魅琉鬼はリクオを見つめながら唖然とした様子で固まっている。

「あ、――ごめ」

「いえ、私の方こそ、少々出しゃばりすぎました。お薬は此処へ置いて置きますから、処置が終わったらそのままにしておいて頂いて構いません」

 素早く立ち上がり背を向けて、障子の戸を閉めてしまった。

リクオは茫然と立ち尽くすしかなかった。

 大広間になんとも形容しがたい気まずい沈黙が支配する。其処に居るのは、リクオと魅琉鬼だけ。会話もなく、只淡々と食事をするだけだった。

 箸の先を咥えながら隣で正座をする魅琉鬼を横目で伺う。その表情は憂いに満ち、時々深い溜息を漏らす。どう考えても先程の出来事のせいだろう。

「(やっぱり、怒ってるのかな?)」

「? どうかなさいましたか」

 魅琉鬼がリクオの視線に気付きふわりと微笑む。言葉に詰まったリクオは即座に顔を背けてしまう。

「な、何でもない」

 言って直ぐに後悔する。

「(せっかく話掛けてくれたのに……)」

一度、暗い方向へ思考が傾くと底なし沼に浸かった様に抜けだせなくなる。あの時どうして彼女を突っぱねてしまったのか。

「お口に……合いませんか?」

 突如、魅琉鬼の不安げな声が耳に届く。視線の先には、先程より遥かに辛そうな魅琉鬼の顔があった。

「え……」

「先程から、お箸が止まっている様でしたので……」

思わずはっとなる。確かに食事が進んでいない。皿には手つかずの海老フライが残っており、茶碗に盛られた飯は少しも減って居ない。

「ち、違うよ! すごく美味しいよ!」

 そう言ってご飯を掻き込み、海老フライにがっつく。

 魅琉鬼はその光景に目を丸くする。

「リ、リクオ様……そんなに慌てては喉に」

 案の定、喉に詰まらせてしまうリクオ。魅琉鬼は慌てて台所へ走りコップに水を入れ走って戻る。

「リクオ様、これを」

「ぷっは……ありがとう魅琉鬼、助かったよ」

「いえ、それよりも大丈夫ですか」

「うん、もう平気だよ」

 リクオが笑顔で応える。

 ホッと胸を撫で下ろす魅琉鬼。

 しかし、安堵するのも束の間再び気まづい空気が流れ、無言になる二人。

 リクオはそのまま夕食を平らげる。

「ごちそうさまでした」

「お粗末さまです」

 魅琉鬼は、空になった器をお盆に乗せて台所へ足を向けた時……。

「待って、魅琉鬼。僕が持ってくよ」

「え……で、ですが……」

「いいから、いいから、魅琉鬼はテレビでも見てなよ」

 そう言って半ば強引に片付けに向かう。

「……」

 魅琉鬼は台所へ向かうリクオの背に手を伸ばすが、触れる直前で思いとどまった。

また拒絶されたらどうしよう……そんな事が頭を過った。

 

◆◆◆

 

 薄気味悪い梟の鳴き声が闇夜に響く。奴良屋敷の灯りは殆ど消えていて物静かであった。

 とある一室の障子に淡い橙色の灯りが映る。中を覗くと良く整理された和室の姿見の前で長く紅い髪に櫛を通す魅琉鬼の姿があった。鏡に映るその表情は決して晴れやかでは無い。

「はぁ……」

 憂いを帯びた表情が長襦袢と相まって彼女の艶気が一層に増す。

「結局、あれから一言も口を聞いて下さらなかったわ……」

 魅琉鬼の視界に靄が掛る。目尻に指を這わせると、涙が伝う。

「いやだ……これくらいの事で」

 つくづく涙もろいものだと呆れてしまう。みっとも無いと思っても感情を抑制する事が出来ず次々と涙が頬を伝う。

「きゅう……」

 腰掛けに爪を立てながら音を立て鳴き声を上げる雪那。

「雪那……ごめんなさい。貴方にはみっともない所ばかり見せてしまって」

 雪那は、素早く魅琉鬼の肩に飛び乗って頬に頭を擦り付ける。彼女なりに魅琉鬼を励まそうとしているのだろう。

「大丈夫よ。心配してくれてありがとう」

 そう言って微笑む魅琉鬼。雪那が肩から飛び降りると彼女の身体を白い光が包み込む。やがてその光は人の姿へと容を変える。

「雪那……貴方何時の間に変化の術を?」

 銀色にの長い髪には癖があり、紅い色が混じっている。頬には虎縞が浮かび上がって、髪と同じ色の瞳は銀色に輝き、瞳孔は細く紅い色をしている。

 白い着物に身を包んだ少女は、愛らしい猫耳を上下に動かしながら、魅琉鬼の前で大きく手を広げ、魅琉鬼に抱きついた。

「凄いわね……上手よ。雪那、今度読み書きを教えてあげるわ」

 優しく雪那の髪を撫でて、魅琉鬼は彼女の背に腕を回す。

「ふふ、ありがとう。貴方のお陰で少し元気が出たわ」

 雪那は、嬉しそうに魅琉鬼の胸に顔を埋めた。

 

◆◆◆

 

 昼。

 陽が一番高く昇っている頃、屋敷の台所では魅琉鬼に若菜、毛倡妓が忙しなく動き回っていた。

「すいませーん、若の部屋に掃除に行ったらこれが」

 暖簾を潜り顔を出したのは首無しであった。その手には給食袋が握られている。

「あの子ったら、忘れて言っちゃたのね。うーん、けど、困ったわ……今は手が離せないし……」

 頬に手を当てて唸る若菜に魅琉鬼が声を掛ける。

「それでしたら、私が雪那に乗ってお届けします」

「あら、行ってくれるの? 魅琉鬼ちゃん」

「じゃ、お願いしちゃおうかしら」

「はい! 畏まりました」

返事とほぼ同時に、給食袋を受け取り自室へと走った。

「……」

「……」

「……」

三人は顔を突き合わせ一言。

「わかりやすい」

「わかりやすいわねぇ」

「わかりやすいな」

 

◆◆◆◆◆◆ 

 

 魅琉鬼の自室。姿見の前で身だしなみを整えて『訪問着』に袖を通し人間へと変化して、最後に髪を結い、リクオから贈られた簪を挿す。

 障子を開くと、陽の光が容赦なく照りつける。魅琉鬼は手で其れを遮って刹那の名を呼ぶ。縁側の下から姿を現すと、雪那の身体に突風が纏わり付き巨大な化け猫へと変貌する。

彼女が飛び立つと強烈な豪風が吹き荒れ、屋敷を揺らす。

小妖怪達が慌てふためく中、自室で湯呑みを傾けるぬらりひょんは、しみじみと言った。

「愛されてるのぉ。リクオの奴、はっは。ぬ、狒々、その手――……」

「待ったなしですぞ。総大将」

「ぬぅ」

 

◆◆◆

 

 教室に授業の終わりを告げるチャイムが響き渡る。教壇に立つ教師は号令の合図を学級委員に促した。教師がいなくなると生徒同士が机を突き合わせ、給食袋から箸やコップ布巾を取り出して給食の準備に取り掛かる。

 当然、リクオは困った顔でランドセルの中身を漁っていた。其れを見た一人の少女が腰を折って声を掛ける。茶色い短めの髪に大きな瞳。可愛らしい顔立ちは如何にも男子に受けが良さそうである。私服の着こなしも他の女子とは一線を画している。

「カナちゃん」

 彼女の名は家長カナ。俗に言うリクオの幼馴染である。

「それが、給食袋を忘れちゃったみたいで」

「え、それじゃ給食食べれないじゃない! 待ってて、先生に言って割り箸貰ってきてあげる」

「え? いいよ。自分で行ってくるから」

 そう言って立ち上がった時、担任の女教師が教室のドアを開けてリクオを呼ぶ。

「奴良くーん! お客さんが来てるわよー」

 お客? と首を傾げたリクオは次の瞬間息を飲む。

「み、魅琉鬼??」

 そう、教室に入って来た少女は魅琉鬼だった。紅い髪が黒く染まり金色の瞳が漆黒へと変わってはいたが、リクオはその少女が魅琉鬼であると直ぐに分かった。先程の喧騒が嘘の様に教室は静まり返っていた。着物という普段見慣れぬ服装で目立っている事を差し引いても、クラスメイトは全員彼女に釘付けとなった。

「リクオ様、"これ"をお忘れになっていましたので、お届けに参りました」

「あ、うん……ありがとう」

 呆然としたまま給食袋を受け取る。

「リクオ様?」

 惚けているリクオに声を掛けても反応は鈍い。

 リクオの隣に立っていたカナが肩を揺らす。

「リクオ君! リクオ君!」

「へ?」

 我に返ると、頓狂な声が漏れる。カナは怪訝そうな顔をしながらリクオに耳打ちする。

「誰? この娘」

「あ、えっと、この娘は……」

 魅琉鬼はすぅっと瞳を細めカナを見る。蛇に睨まれた蛙の様に一瞬肩をビクリとさせて息を飲む。

 魅琉鬼は恭しく頭を下げてこう名乗った。

「いつもリクオ様がお世話になって居ります。私(わたくし)、椿と申します。リクオ様のお屋敷でご厄介になっている"許嫁"です」

 許嫁の部分を強調し、袖で口元を隠しくすりと微笑んだ。

「リクオ様から毎日の様にお話は伺っておりますわ……大変、"仲良く"されているそうで……私からもお礼申し上げます」

 言葉の裏に隠された敵意を読み取ったカナは、負けじと返した。

「そうね、"何時も一緒に"帰るくらいは仲がいいわ」

二人の間を激しい火花が飛び交った。

「ふふふ」

「あはは」

 男子達は背筋に冷たい物を感じ、女子達は拳を握りしめて熱い視線を送り見守っていた。

 間に挟まれたリクオはどうする事も出来ず只時間が過ぎるのを待った。

「若ー!!! 一緒に給食――……って、何でアンタが此処にいるのよぉぉ」

 氷麗の叫びが学校中に響き渡るのであった。

 

◆◆◆

 

「それにしても、驚いたな―。いきなり来るんだもん」

 夕日を背にリクオと魅琉鬼がゆっくりと歩く。烏の鳴き声が良く響いていた。

「申し訳ありません」

「ううん、いいよ。それよりごめんね。バスじゃなくて」

 浮世絵小学校から屋敷まではかなりの距離があり、普段であれば通学バスを利用するのだが、今日は歩きで帰ろうと魅琉鬼を誘ったのだ。

「いえ、私も貴方様と同じですから」

 そう言って微笑む魅琉鬼の顔が紅いのは夕日のせいではないだろう。 リクオも何処か照れた様子で笑っていた。

「それにしても、参っちゃうよ。皆して僕をマークしてさぁ」

 昼休みにサッカーに参加したリクオは男子生徒から執拗にマークされ、そこら中に擦り傷を負うっていた。

「素敵でございましたよ」

「そ、そう? そう言ってくれると僕もムキになったかいがあるよ」

「ええ、とっても」

 少しの沈黙の後リクオが口を開く。

「昨日はごめんね……」

「え」

 突然の謝罪に目を丸くする魅琉鬼。

「せっかく手当てしてくれようとしてたのに……」

「御気になさらずとも良いのですよ」

魅琉鬼の言葉に、リクオは首を振った。

「ううん、あれは僕が悪いんだ。あんなことするつもりじゃなくて、ただ恥ずかしくて其れに……」

 言い終える前に顔を紅くて俯いてしまう。

「ちゅーしちゃいそうだったし」

 再び目を丸くした後、瞳を細め幸せそうに微笑むとリクオの頬に柔らかな感触が伝わる。口を鯉のようにぱく付かせ唖然としていると魅琉鬼はもう一度優しく微笑んだ。

 夕日が写す二つの影は、ぴったりと隙間なく寄り添ったのであった。



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初々

 鹿脅しの音が鳴り響く。

 清らか水音と、小鳥の囀りが心地よい陽気と相まって、奴良家はとても清々しい朝を迎える。

 障子から漏れる明るい光を燦々と浴びて、畳が輝いていた。

 春眠暁を覚えず。其れは誰しもがこの時期になれば経験することであり、奴良リクオもその例外ではない。

 障子の戸が微かに開く。彼が寝ている事を確認すると、静かに枕元へ歩み寄って、衽にさっと手を通して正座する。簪が鈴の音を鳴らした。

 リクオのあどけない寝顔を前に少女の眼元が綻び、頬が緩む。彼の前 髪を細く、白い指で撫でてやる。

 擽ったかったのか、形のいい眉毛が微かに動いた。

「うーん……」

 小さく唸りを上げた後、瞼がゆっくりと開く。

「あれ、朝……」

 そう呟いて、身体を起こす。

 相当寝返りを繰り返したらしく、白い襦袢が肩からずり落ちてしまっている。

「ふあ、あー!」

 欠伸を掻いて、腕を伸ばす。眠気覚ましに目を擦ってみるが、どうもまだすっきりしないようだ。

「おはようございます」

 横から聞こえた声に、一瞬肩を竦ませる。どうやら彼女の存在に気付かなかったらしい。

「お、おはよう……魅琉鬼」

「ええ、おはようございます」

もう一度、繰り返される言葉に花の咲いた様な笑顔。

 彼を目覚めさせるには充分な効果だった。

急激に顔が熱くなるのを感じ取って、視線を逸らす。くすくすと笑う彼女を横目で盗み見て、形容しがたい恥ずかしさが込み上げた。

「昨日も遅くまでゲームをして遊ばれていたのですね? 休みだからと言って余り夜更かしは、身体によくありませんよ」

 そんな台詞を母親以外から特に魅琉鬼から聞くのは、面白くない。三つしか変わらない筈なのに彼女との距離を酷く感じてしまう。男の矜持もあって、子供扱いされるのが気に入らないらしい。

 視線を逸らし、拗ねるリクオ。そんな姿を目の当たりにし、湧き上がる欲求を抑え込む魅琉鬼。今日も彼らは平常運転だった。

 いつも通りに騒がしい朝餉を終え広間で寛ぐリクオ。台所に意識を傾けながら、畳の上に寝転がる。テレビから流れる特撮ヒーロー物を漫然と見つめる。

 丁度、物語も佳境へ入り、悪の組織からヒロインの救出したのも束の間、悪役の怪人と対峙する場面であった。

 主役の背に隠れ、怯えるヒロインを強い意志で守り抜こうとするヒーロー、その姿に自分を重ねる。

 もしも、自分がそんな場面に遭遇したら魅琉鬼は自分を頼ってくれるだろうか? と自問したが、想像の中でさえ、立場が逆になっていた。 何とも情けない光景に思わず溜息が漏れる。

「どうか、なさいましたか?」

 後ろから聞こえた声にすぐさま振り返った。

 視線の先に映ったのは、襷で着物の袖を捲くりあげた魅琉鬼の姿だった。

「朝食、お口に合いませんでしたか?」

 どうやら勘違いをさせてしまったらしい。リクオは慌てて腕を振って否定する。

「ち、違うよ! ちょっと考え事をしてただけだから」

「そう……ですか……何か不手際があれば、仰ってくださいね」

 そう言って広間を後にする魅琉鬼。

「はぁぁ……」

 少年の悩みは尽きない。

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 掛け時計の音が鳴り響く。祖父、ぬらりひょんに呼び出しを受けたリクオが正座した膝の上で拳を握って、緊張した面持ちでじっと待つ。何やら怒っていたという話を氷麗の口から聞き、少々怖気づいているのだ。

 引き戸が乱暴に開けられた。そのままリクオと対面するように腰を降ろす。懐に手を伸ばし、祖母の形見である煙管を取りだして、紫煙を燻らせた。

 肘掛けに体重を預けながら、ぬらりひよんの重々しい声が耳に届く。

「お前さん、あれから魅琉鬼とはどうじゃ」

「へ?」

 予想に反した問いかけに間抜けな声が漏れた。ぬらりひょんは痺れを切らしたのか、声を荒げた。

「じゃから、魅琉鬼とはどこまで行ったんじゃ! 接吻の一つや二つしたのか」

 小学三年生の孫に向けられた問いかけではないが、彼の感覚は一般と違うらしい。

「ちょ、じ、爺ちゃん! いきなり何言いだすんだよ!」

 思わず、赤面し声を張り上げた。脳裏に浮かぶのは、先の帰り道での事。

 その反応を見逃すぬらりひょんではなかった。

 口角を釣り上げて、歯を笑う。

 しまった! と慌てるがもう遅い。

「なんじゃい、よろしくやっておるようじゃのう……。まぁ、儂に言わせればまだまだじゃ。儂の若い頃は……――」

 年寄りの昔話は長い。こと自分の自慢話となれば其れは尾鰭が付くものである。リクオは祖父と祖母の何度目になるか分からぬ話を右から左へ受け流す。

「……――という訳で儂と婆さんはめでたく……おい、リクオ」

「ひゃい!」

 意識を向こう側へ飛ばしていたリクオが、頓狂な声を上げる。

「……ふぅ、まぁ、ええわい。リクオ、今日はアイツに洋服を見繕ってやれ」

「え……洋服?」

 吐き出した煙が宙を舞う。ぬらりひょんは再び歯を見せて笑った。リクオはこの顔に苦い思い出しかない。

「軍資金をたんまりやるから、でぇーとに誘ってやれ! アイツもそろそろお前と同じ学校に通わせるからな……和服だけでは心元ないじゃろう」

 言われてみればと、手を叩く。屋敷へやって来てから随分経つが、魅琉鬼が洋服を着ている姿を目にすることは無かった。

 彼女の立ち居ふるまいから、相当着なれしているのだろうとは予想できたが、そういえば、学校へ来た時のクラスメイトの反応も物珍しいものであった。

 あれでは学校で浮いてしまう。

 リクオは洋服姿の魅琉鬼を想像する。

 自然と頬が緩み、顔が熱くなる。

 その姿は、まことしやかに美しいものであった。祖父の厭らしい視線に気付き、妄想を振り払う。

「今日はしっかりえすこぉーとするんじゃぞ」

 余計な御世話だと、赤い舌を出してそそくさと部屋を後にしたリクオであった。

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 襖の向こうから歌声が漏れて来る。声にならない旋律がリクオの緊張を和らげた。ぬらりひょんから受け取った軍資金を握りしめて、深呼吸する。

「ぼ、僕とデートしよう!」

 襖が開くと同時に叫んだ。

 洗濯物を畳んでいた魅琉鬼の動きが硬直する。

 数秒の沈黙がひどく長く感じられる。

 魅琉鬼は黙ったまま畳んだ服を箪笥に仕舞い振り向かずに、応えた。

「は……い……、支度に少々時間が掛るので、少々お待ちになってください……」

 両目を硬く閉じていたリクオが、薄眼で彼女の背中を見つめる。

どうやら拒否されずに済んだ。

「うん! 待ってるよ。待ってる! い、急がなくても大丈夫だから」

「はい……」

 リクオの足音が遠ざかってゆく。

 魅琉鬼の身体が、糸の切れた人形の様に崩れ落ちた。

 両頬に手を当てると確かに熱い。

 綻んだ貌は恋する乙女その物だ。

「早く、したくしないと」

 火照りは冷めぬまま、広間を後にする。

 

 姿見の前で簪を抜き取ると、絹糸の様なかみがさらり、と落ちる。陽の光を浴びて紅い髪が燦然と輝いた。

 総桐の箪笥からお気に入りの着物を出して、軽く化粧を施す。

秀麗な貌に磨きが掛った。

 最後に髪に簪を通して、変化をする。

「ふう、これで良し」

「にー」

 足元に仔猫の姿をした雪那がすり寄った。

「あら、雪那。お昼寝はもういいの」

 魅琉鬼が腰を折ると、肩に飛び乗って頬を擦り付けた。

 首輪の鈴が耳心地良い音を奏でた。

「ふふ、擽ったいわ……」

「にぃ?」

「そ、そうかしら? そんなに浮かれてるように見える?」

 魅琉鬼の問いに雪那は、首を縦に振った。

 自覚はしていたが、こう真正面から言われてしまうと、流石に恥ずかしさが込み上げて来る。

「そう、ね……とても浮かれているのかもしれないわ……」

 遠くからリクオの声が聞こえて来た。

 どうやら痺れを切らしたらしい。女の身支度とはさも時間が掛る物である。

「はーい、今行きます」

 

 

 腕を組みながら、落ち着きのない様子で、広い玄関を歩きまわるリクオ。その様はまるで出産に駆け付けた夫である。

「お待たせしました。リクオ様」

 声に反応し、すぐさま振り返った。

「…………」

丸い瞳を更に丸くして息を飲む。

 白を基調とし、桃色の桜が艶やかに咲き誇る着物。

黄色の胡蝶柄帯。

 蒲葡色の訪問着に袖を通し、両手に巾着をぶら下げ、赤色だった髪は黒く染まっている。

「リクオ様? どこか可笑しな所でもありましたか?」

 不安げな瞳で見つめる彼女にようやっと気付いたリクオが、慌てて首を振る。

「あ、あ、ごめん! そうじゃないんだ」

 顔を紅くして頬を掻いては言葉に詰まる。

 十歳にも満たない少年には、表現しがたい美しさっであった。喉元まで出掛けた言葉を飲みこんで、渇いた笑い声を発するのがやっとだった。

「行こう! 魅琉鬼」

 顔を逸らし、玄関を飛び出した。

「あ、リクオ様!」

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 道中、リクオの心情は穏やかでなかった。

 魅琉鬼との歩幅を合せる事も忘れ、俯いて只管歩く。握った拳は湿り気を帯びている。

「――……クオ……――クオ様! リクオ様!」

「へ?」

 聞こえる声に、顔を上げる。視界に飛び込んで来たのは、電柱。気付いた時にはもう遅かった。

 一拍遅れて、リクオの凸に鈍痛が走る。

「いったー」

「リクオ様!」

 後ろを歩いていた魅琉鬼が衽を抑え走って来る。蹲って悶えるリクオを心配そうに見つめる。

「大丈夫ですか!」

「う、うん……」

 形のいい唇が迫る。リクオの心臓が大きく脈打って、身体は硬直したまま微動だに出来ずにいる。

「良かった。血は出ていませんね……」

胸を撫で下ろす魅琉鬼に居たたまれなくなったリクオが、呟いた。

「……ごめん」

痛みと、羞恥心で目の前の視界が霞む。目尻には涙が浮かんだ。

「いえ、それよりも、これを」

差し出されたハンカチで涙を拭う。

「うー……カッコ悪い」

「ふふ、慌てなくても大丈夫ですわ……ゆっくり歩きましょう」

「うん、そうだね。ね、魅琉鬼。手繋ごうよ」

 はにかんだ笑顔に今度は魅琉鬼の顔が紅葉するのであった。

「はい……」

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

「うわぁ……」

 リクオは、思わず声を上げる。

 忙しない足取りで行き来する人々。見渡せば、サラリーマンから人目を憚らずイチャつくカップル。俯いて携帯電話の操作をする若者。

 そんな中でも、リクオ達の出で立ちは、異彩を放っていた。すれ違う人々の視線が二人に突き刺さる。

「凄い人だね……」

「はい、そうでございますね」

 リクオが人の群れを漫然と見つめていると、不意に左の袖が引っ張られた。

 視線を其処へ動かすと、魅琉鬼が不安げにリクオを見つめていた。

「ど、どうしたの?」

 魅琉鬼は恥ずかしそうに視線を外しながら袖で口元を覆って、呟いた。

「あの、お手を……繋いでも宜しいですか?」

 思考が鈍る。

 動悸が耳鳴りの様に響いた。

「も、モチロンダヨ」

 緊張で片言な返事をしてしまった。が、今はそんな事どうでもいい。

 少年の全神経は繋がれた左手に集中する。

「爺ちゃんからいっぱいお小遣い貰ってるから、沢山遊ぼう」

「……はい」

 呟きは、喧騒に掻き消される。

 リクオは、手を離さぬように、しっかりと手を握り、人の群れの中へと歩みを進めた。

 繁華街ともなれば、飲食系の露店が数多く出店している。中でも人気の高い甘味処は平日でもごった返す事もざらだ。

「美味しいね」

「はい……とても」

 顔を向き合わせて笑い合う。

 何とも微笑ましい光景である。

 リクオは欲張って三段重ねのアイスを舐めながらほくそ笑んでいる。

『そんなに食べて、お腹を壊しても知りませんよ?』という言葉もアイスを受け取った時の彼の顔を見てしまっては、とても言い出せなかった。

 魅琉鬼にはさぞ可愛く映ったのであろう。

 一番天辺のストロベリーチーズケーキを食べ終えた所で、リクオの肩に衝撃が走る。勢いそのままに尻餅をついてアイスが宙を舞う。

重力に逆らう事なく、無残にも潰れてしまった。

「ってーな! 気お付けろよ! うおっ! べとべとじゃねーか」

 大きく開いた胸元には金色のクロスネックレス。目に訴えかける派手な柄シャツに白いスラックス。頭はオールバックの“如何にも”な風体の男が舌打ちをして、罵声を浴びせた。

 平成の世においてこんな光景を目にすることは、まず無いだろうが、世代に取り残されたチンピラが唾を吐く。

「ぶつかって来たのはそっちじゃないか!」

 リクオが威勢よく啖呵を切った。

握った拳を震わせている。

「んだとぉ! このガキ」

 直後、リクオの鳩尾につま先がめり込む。

 子供相手に大人気ない男であった。

「リクオ様!」

 倒れ込んで咳き込むリクオを抱き起こす魅琉鬼。

「殿方の喧嘩に、女が口を出すのはと、黙って見ていれば……」

 魅琉鬼の眼光が男を射抜く。

“目は口ほどに物を言う”とは良く言ったものだ。

 男は年端もいかぬ少女が睨みを利かせただけで、一歩退いた。

「ひ、ひええええ!」

 情けない悲鳴を上げながら一目散に逃げていくチンピラ。魅琉鬼は溜息を漏らしてリクオを見つめた。

「リクオ様、大丈夫ですか?」

「うん、大丈夫だよ……ごめんね」

 リクオはバツの悪そうな顔をして頬を掻く。

『情けなくて』とは続けなかった。魅琉鬼は微笑む。

「余り無茶はしないでくださいね……気が気ではありませんでしたから」

「……うん」

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 本来の目的を忘れ、時間も忘れて二人は歩きまわった。繋がれた手は離れないまま幸福な時間は過ぎてゆく。

「よし、位置も角度も完璧! よーし、そのまま、そのまま」

アームが、丸猫のぬいぐるみを挟み込んで引き上げる。祈るような眼差しで一点を見つめ、唾を飲み込んだ。

あと、少しという所で惜しくもぬいぐるみの群れの中に落ちてしまった。

「あー……もう少しだったのに」

「ふふ、惜しかったですね。私も思わず拳を握ってしまいました」

肩を落とすリクオを励ます魅琉鬼。

 しぶっていても仕方がない。土台からぴょんととび下りて、笑った後、再び彼女の手を取るリクオだった。

 

 腹ごしらえを済ませた二人は、ショッピングモールへと足を向けた。

リクオもぬらりひょんに連れられて何度か来た事があるのだが、眼を離した隙に祖父がふらりと消えてしまい、迷子センターに幾度も世話になるという、屈辱的な黒歴史を有していた。

「あら、リクオ君。今日はお爺ちゃんと一緒じゃないのね? もしかして其処に居る綺麗な子とデート?」

 インフォメーションに立つ女性に生暖かい視線を贈られ、どもるリクオ。

「そ、そうだよ」

 赤面しながら応える様子は、可愛い弟の様に思えたのだろうか? 頭を撫でられてしまった。

「あの子に洋服を買ってあげたいんだけど、何処の階に行けばいいですか?」

「それなら、三回が子供服売り場ですよ。エレベーターを降りたら、すぐ目に入ると思います」

「ありがとう!」

 そういうと、一目散に魅琉鬼の元へ駆けるリクオ。ベンチに腰を掛けて、不安そうにしていた彼女の顔が晴れやかになった。

「可愛いわねぇ」

 しみじみと呟きが漏れるのであった。

 

 所狭しとショウウィンドウが立ち並ぶ。ライトに照らされた洋服は煌びやかで、二人は感嘆の溜息を漏らした。

「洋服には疎いですけれど、とても種類があるのですね……」

「今日は、魅琉鬼の洋服を買いに来たんだよ」

「えっ」

 そんな事は寝耳に水だと、慌てふためく魅琉鬼。こんな彼女を見るのは初めてでその様子が可愛らしかったのか、頬が綻んでしまう。

「私は、そんな……」

「良いから! 行こう!」

 半ば強引に手を取って走りだした。

 

 試着室の前で、落ち着きのないリクオが当たりを伺っていた。

 女性ばかりの店内で一人待つのは何だか心もとなかった。

「可愛い彼女さんね」

 突然、声を掛けられて、肩を竦めてしまう。

「驚かせちゃったわね。ごめんなさい」

「い、いえ」

 店員は、優しく笑って続けた。

「あの子可愛いから絶対似合うわよ。楽しみにしてて」

 不意にカーテンが開く。視線の先に映ったのは、桃色のワンピースに身をつつだ魅琉鬼であった。

「……あの」

 足をもじもじと動かしながら、着なれない洋服に戸惑う魅琉鬼。

「似合いますか?」

 白い頬をに赤みが差してぎこちなく笑顔を浮かべる。

それを見たリクオは……。

「…………」

棒立ちであった。

 店員がリクオの脇腹を肘で小突く。我に返ったリクオが大声で言った。

「と、とっても似合ってるよ!」

 店内の視線がリクオに集中した。

「……ありがとう、ございます」

 礼を言う彼女は、普段の大人びた表情とは違う、可愛らしい笑顔をリクオに贈ったのであった。

 

 



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覚醒

 分厚い雲の隙間から月が顔を覗かせる。

 僅かな隙間から白光が照らすのは、腐り果てた小屋であった。

 一陣の風は巨木の枝を揺らすと共に、雲を彼方へと吹き飛ばす。

 満月の妖しい光に照らされて、ボロ小屋がそのみすぼらしい全容を曝け出す。

 雨水を吸って腐った床が、今にも軋みを上げて崩れ去ってしまうかもしれない。

 不思議な事に、ぽつんと蝋燭の火が灯っている。

 淡く、弱々しい灯りが照らすのは、異形、人ならざるものであった。

爬虫類を思わせる緑色の肌。

 口は大きく裂けて、長く黄ばんだ牙を覗かせる。

 漏れる吐息は、異臭を放って、紫色の長い舌べらから、唾液が滴る

「しのぎはどうなっている?」

 不意に、異形の男が低い声で言う。

『はい』

 声と共に、黒い外套に身を包んだ何者かが、姿を見せた。

『我ら“ガゴゼ会”が最も多く、畏れを集めましてございます』

「そうか」

 満足げにほくそ笑む異形の男。

 次々に姿を見せる異形共、彼らはそう、奴良組系「ガゴゼ会」の構成員達。

 蝋燭を囲みながら、下卑た笑い声が響く。

『三代目は、ガゴゼ様で決まりですな』

「おい、おい、気が早いじゃないか」

 盃を傾けながらいうガゴゼ顔は、言葉とは裏腹であった。

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 仏間に鈴の音が鳴り響く。

 線香の煙が立ち上り、やがて溶けるように消えてゆく。

 正座して、両手を合わせるのは奴良良組総大将ぬらりひょんであった。

「御爺様、魅琉鬼でございます」

 障子の向こうから声が届く。

 鈴の鳴った様な美しい声だ。

「入れ」

 短く応えると、戸が開き、魅琉鬼がぬらりひょんと対面する様に正座した。

 お盆を間に置き、湯気の立った湯呑みにぬらりひょんが、手を伸ばす。

「お熱いので、お気を付け下さい」

 忠告するのが遅いか、彼が手を出すのが早かったのか、「あちっ」と言って手を引っ込めた。

「ふふ」

 可笑しそうに袖元で口を隠し微笑んだ。

恥ずかしかったのか、ぬらりひょんは煙管を袖から取り出して火を灯す。

「ふう、リクオの奴は学校かい」

「はい、つい先程、お出になられました」

「フン、そうかい」

 面白くないと言わんばかりに鼻を鳴らす。

 カッっと大きな音を立たせて灰を落とす。

 鹿脅しの音が無言の室内にまで届いた。

「今日、幹部連との会合で跡目について奴らに話すつもりだ」

 魅琉鬼の貌が一転、真剣な眼差しでぬらりひょんを見つめる。

「お前さんも知っての通り、あ奴は四分の一しか儂の血を継いでおらん。中にはリクオに跡目を継がせることを、よく思わん連中も出て来るじゃろう」

 魅琉鬼の眉が微かに動いた。

「リクオを殺そうとする輩もおるやもしれん」

 その言葉で、完全に部屋の空気が凍った。いや、この部屋だけでは無い。

 枝垂れ桜の枝が揺らめき、烏達は一斉に枝から飛び立つ。

力弱き妖怪は蹲り、身を寄せて震え、ある者は武者ぶるいを起こし、殺気立つ。

 ぬらりひょんは、肘掛けに持たれながらほくそ笑んだ。

頬には一滴の汗が伝う。

「落ち付け、仮定の話じゃ」

「あら、私は冷静でしてよ? 御爺様」

 冷たく嗤う彼女の貌は何処までも妖しく、艶やかで怖気が身体中を駆け回る程に美しい。

 

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「そんな貌、久しく見て居なかったな……初めてお前さんと会って以来じゃ」

「ふふ、あの時はとんだ御無礼を働いてしまいましたわ……」

「ぬはは、良い良い」

 

 用事を済ませ、庭で洗濯物を干す魅琉鬼の姿があった。

 真っ白な布団が風に揺れる。

 陽も高く、天日干しにはもってこいの陽気だった。

 愛おしそうにリクオのTシャツを干しながら、額に滲んだ汗を拭う。まだ四月に差しかかったばかりだというのに、今日の気温は例年よりも高い。

 これが地球温暖化の影響なのだろうか。

 

「椿の鬼姫ともあろう者が呑気なものだ……」

 背後から聞こえる声に眉を顰めて、振り返った。

 仔猫姿の雪那が銀色の毛を逆立てて、威嚇するが、声の主には無意味だった。

 視線の先には、全身を黒い外套で包んだ妖怪だった。

 耳元まで裂けた口から悪臭を放ち、蛇の様な瞳が彼女を不快にさせる。

「あら、私に何か御用ですか?」

 努めて、冷静に応じる魅琉鬼。

「ふん、用という程の事もない。ただ、一つ忠告をな」

 目元を細めながら、下卑た貌をして言った。

「若にご執心なのは結構だが、盲目になり過ぎて、足元を掬われぬ様にな……気付いた時には大切な物を失っているかもしれぬぞ」

 急にガゴゼの背筋に悪寒が走る。

 目の前に立っていた筈の魅琉鬼の姿がない。

“消えた”と表現すべきか。

 左右を見渡しても、何処にも居ない。

「私も、貴方にご忠告致しましょう……」

耳元から聞こえる囁きは、酷く妖艶だった。

同時に、戦慄する。

 腰に押し付けられた小刀の柄。

 鞘から覗く白銀の刃が、陽の光を反射させて輝く。

「リクオ様以外の殿方に、声を掛けられるのは酷く不快なのです……特に、箸にも棒にも掛らない矮小な男を目にすると、堪らなく切り捨てたくなってしまいますの……次からは私の視界に入らぬ様、お気を付け下さいまし……」

 張り詰めた空気が氷解してゆく。

 紅い髪を風に靡かせながら、再び洗濯物を干す魅琉鬼。

「……ちっ」

 舌打ちには、どこか安堵の色が混じる。

 ガゴゼは垣間見たのだ。

 妖怪世界で名を馳せた鬼の貌を……美しき赤鬼の真の姿を……。

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 陽も沈んで、夕餉の時間。

 広間では、何時もの様にわんやわんやの騒がしい食卓であった。

 ただ、少し違うのはリクオの顔が優れない事だった。

「どうか、なさいましたか?」

 心配そうに見つめる魅琉鬼を余所にリクオは生返事を繰り返す。

 可笑しい。

 どう考えても、可笑しかった。

 いつもの彼ならもっと元気よく、豪快に作り手が喜ぶ顔をして食べるというのに、今日は枯れた花の様にしおらしいのだ。

 料理が口に合わなかったのかとも思ったが、そうでもない。

 一体、彼の身に何があったというのだろう。

 魅琉鬼は一抹の不安を抱えながら台所へ向かった。

 

 和紙から漏れる淡い光が、魅琉鬼の白い肢体を照らした。

 姿見の前に腰かけ、髪に櫛を通す。

 上から下へ滑る様に櫛が落ちた。

 薄桃色の長襦袢に、袖を通したその姿は、童とは思えぬ程に艶めかしい。

「リクオ様……何かお辛い事でもあったのかしら」

 そう呟いた彼女の顔もまた憂いを帯びている。

「魅琉鬼……」

 聞こえて来た声に彼女は息を飲んだ。

 心臓が鐘の音の様に身体中に響き渡る。

「は、はい……」

 慌てて返事をして、しまったと思い直す。

 視線を落とせば、其処には乱れた襟元から小さな膨らみが覗いていた。

「しょ、少々お待ち頂けますか?」

「うん……」

 何とか自分のはしたない格好を見られずに済んだ。

 急いで、部屋着用の着物に袖を通し、五月蠅い心音を静める。

「どうぞ……」

 一拍遅れ、障子の戸が開く。

 魅琉鬼の前に正座したリクオは膝の上で拳を握った。

 手の甲に落ちた滴を目にして、魅琉鬼が目を丸くする。

「……妖怪って悪い奴等しかいないのかな?」

 絞り出すように出た声は震えている。

「……え」

「今日、皆に妖怪の事……話したんだ……そしたら、皆して僕を笑って」

 声から悔しさが滲む。

 霞んだ視界のまま、魅琉鬼を見上げた顔は真っ赤になっていて、鼻水や涙が滝の様に流れている。

「さっきも、爺ちゃん達が怖い顔して人間共をおどかせ、悪の道を進めって……」

 堪らなく、込み上げる衝動は抑えが利かず、力一杯リクオを抱き寄せる魅琉鬼。

 驚いた顔が直ぐに崩れて泣きながら語った。

 男である事も忘れて、ただ、縋る様に。

「僕は、爺ちゃんみたいに皆が尊敬する格好いい大将になりたかったんだ……」

「はい……」

 リクオの髪を撫でながら魅琉鬼が相槌を打つ。

「僕は……妖怪の大将になんてないたくない」

「……はい」

 抱きしめる手に力が篭る。

「僕は……いい人間になりたいよ」

「貴方様なら、きっと……そうなれます」

 リクオの潤んだ瞳を真っすぐ見つめ、微笑む。

 冷たい掌が、リクオの頬を包んだ。

「私が御手伝いいたします」

「……魅琉鬼は、僕が総大将じゃなくても結婚してくれる?」

 リクオの問いに晴れやかな笑顔で。

「勿論、どんな貴方様でも私は一緒になりたいです」

 リクオは、安堵の溜息を漏らして彼女の胸に顔を埋める。

 寝息が魅琉鬼の胸を擽った。

 リクオの髪を撫でながら、寝顔を盗み見て微笑む。

「可愛い人……」

 呟きが彼の耳に届く事はなかった。

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 リクオを布団へ寝かしつけて部屋を出る。

 壁に凭れかかったぬらりひょんが紫煙を燻らせながら言った。

「あまり甘やかさんでくれ……」

「ふふ、御爺様には敵いませえんわ」

 目を丸くして、嗤う。

「予定はちと狂ったが、まぁ、ええ……支度が済んだら広間に来なさい」

「畏まりました」

 恭しく腰を折って、ぬらりひょんに頭を下げる。

 ぬらりひょんが肩に掛けた羽織を夜風に靡かせながら、闇の中へと溶けていった。

 どよめきたった室内も、ぬらりひょんが姿を現すと同時に、糸が張った様な緊張感が漂い場を支配する。

 これが大侠客としての威厳か。

 孫に見せる飄々とした雰囲気は見る影もない。

「騒がせてすまんかったのう……まぁ、あ奴にはおいおい立ち場を理解させる」

 沈黙を切ったのは、奴良組相談役木魚達磨である。

「おいおい、とはまた随分と呑気でいらっしゃいますねぇ。総大将。失礼ながら苦言を呈させて頂けるのであれば、若はちと、人間側に偏り過ぎではありませんかな?」

 それを皮切りに、野次が飛ぶ。

 カッっと煙管を叩きつけて、灰を落とす。

 肩を竦ませた妖怪達が、一斉に押し黙る。

 広がった波紋は、溶けて再び静けさを取り戻した。

「あまり、リクオを舐めるなよ? 木魚達磨……儂の血が流れておるのじゃぞ?」

「……!」

 老いても尚、彼の風格、威厳は衰えない。

 歯を見せて邪悪に嗤う、その貌は、若かりし日のままだ。

「ふはは、妖怪がびびっちゃいかんぜ? まぁ、ええわい……今日集まってもらったのはリクオの事だけでは、ないのじゃ……出てきなさい」

 ぱん、ぱんと手を叩く。

「――……はい」

 声。

 何処からともなく聞こえる声は、濁りなく美しかった。

 天から舞い降りた少女に一往にして息を呑む。

 宙を舞う紅い髪は、すべるように落ちて甘い香りを漂わせた。

 赤と黒の振袖は、少女の象徴たる椿の花が咲き誇る。

 皆のあっけに取られた顔に満足したのか、口の端を吊り上げて笑った。

「皆も既に知っておるとは思うが、紹介しておこう……リクオの許婚として本家で預かる事にした。名を“魅琉鬼”という」

 少女は恭しく頭を下げた後、にっこりと微笑んで名乗った。

「只今ご紹介に預かりました。手前、魅琉鬼と申します。この度、奴良組三代目候補、奴良リクオ様と婚約を結ばせて頂きました。何かと不出来な女ですが、奴良組の名に恥じぬよう、粉骨砕身努力致して参ります故、どうぞ、お見知りおきの程を……」 

 沈黙を破ったのは、木魚達磨だった。

 禿頭に滲む汗が灯りに照らされて輝く。

 腕を振り乱しながら、荒々しく言い放った。

「お戯れも程々にして頂きたい! 若に続いて今度は“椿の鬼姫”ですと!? 総大将は奴良組を潰されるおつもりか」

 捲くし立てる木魚達磨に、魅琉鬼の侮蔑の視線が突き刺さる。

 まるで蛇に睨まれた蛙の如く、固まってしまう。

 彼女の黄金が、すぅっと細くなる。

「何を……そんなに怯えておいでなのです?」

「!」

 ぬらりひょんが手にした扇子を開き、仰ぎながら言った。

「そう苛めてやるな、魅琉鬼よ」

「ふふ、申し訳ありません」

 金縛りから解き放たれたかのように、全身から力が抜けて膝を付く。

食いしばった歯が軋んだ。

「魑魅魍魎の主になるんじゃ……これくらいの女の手綱を握れにゃ、話にならん」

 ほくそ笑む貌は、生きる伝説。

 妖怪、ぬらりひょんの真の姿が其処にあった。

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 奴良リクオは混乱していた。

 自分の置かれている状況に。

 目を覚ましたばかりで頭が働かないというのも、ある。

 幻ではないかと、何度も目を擦った。

 けれど、目の前にある現実が変わるはずもなく……。

「……んっ」

 漏れた声に肩を竦ませる。

 赤い髪が、さらりと口元に。

 閉じた瞼には、髪と同じ色をした睫。

 規則正しい寝息は、リクオの心を掻き乱す。

「なんで、魅琉鬼が僕と一緒に?」

 その問いに答える者が居るはずもない。

『男女、七歳にして同衾せず』

 その言葉の通り、リクオは魅琉鬼を異性として意識し始めている。

 幾ばくか、発育が良いらしく、女の象徴たる膨らみが既に目立ち始めていた。

 喉の渇きを感じながら、剥き出しになった肢体を凝視する。

「そんなに見つめられては、照れてしまいますわ」

「うひゃい」

 文字通り、跳んだ。

 余りの事に、心臓どころか、身体ごと跳び上がった。

「お、お、起きてたの!?」

 茹であがった蛸の様に顔を赤らめ、手で覆う。

 彼女も存外、人が悪い。

 いや、この場合妖しが悪いだろうか。

 慌てふためくリクオをクスクスと笑う。

「あの、あの、あの」

 要領を得ないリクオの唇に魅琉鬼のひんやりとした人差し指が優しく押し当てられる。

「あまり大声を出されては、皆が起きてしまいます」

 そういえば、まだ起床するには早い時間帯だ。

外を見ればまだ、山の間から陽が顔を出したばかりであるし、何より妖怪達が騒いで居ない。

「何で魅琉鬼が僕の隣で寝てるの?」

 魅琉鬼の顔に陰が落ちる。

 明らかに悲しそうな顔をしてリクオを見つめる。

「覚えて……いらっしゃいませんか? 昨日あれだけ求めて下さったのに」

「……魅琉鬼、僕をからかってるでしょ」

 リクオはジト眼で魅琉鬼を問いただす。

 彼女の悪ふざけは性質が悪いのだ。

「申し訳ございません」

 潮らしくなり、耳が垂れ下がる。

「けれど、あの後そのまま寝てしまったのはリクオ様ですよ?」

「……言わないで、今思い出したから……」

 頭を抱えて赤面する。

 蘇るのは、昨晩の出来事。

「お気になさずとも良いのですよ」

「……うがぁぁぁ! 恥ずかしい」

 リクオの叫びが屋敷中に轟いた。

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 皿の割れる甲高い音が響く。

 顔面蒼白の魅琉鬼がテレビの前で膝を付き、崩れ落ちた。

 液晶から流れるのは、リクオが通う小学校の通学バスが、トンネルを 走行中に土砂崩れに巻き込まれたという内容だった。

 アナウンサーの淡々とした声が、耳鳴りの様に流れ込む。

 視界には、何も映らず、絶望が彼女を塗り潰した。

「若が、若が御戻りに!」

 氷麗の声に長い耳が上下した。

 生きてる! 彼女は泣き濡れた顔を空に向けた。

 其処には、不貞腐れた表情で烏天狗に宙吊りにされたリクオの姿が。

 地面に降り立ったと同時に、衝動のまま彼にしがみ付いて泣きじゃくる魅琉鬼。

「良かった! 御無事で! 本当に! 本当に!」

 我を忘れて、涙を流す彼女に困惑しながらも、背中に腕を回し、髪を撫でてやる。

「御顔を良く見せて下さい……」

 リクオの両頬を魅琉鬼の掌が包み込む。

 濡れた金色の瞳は、夕日に負けぬ程に美しく輝いていた。

「うぉっほん!」

 氷麗の咳払いが、二人を現実世界へと押し戻した。

 周りから突き刺さる生暖かい視線に、顔を赤らめた。

「お前、悪運強いやっちゃのう」

 煙管を吹かすぬらりひょんが、あっけらかんと言う。

「どういう事?」

 頭の上に幾つも疑問符を浮かべながら、ぬらりひょんの指さす方向へ視線を動かすと……。

「な、なんだよ! これ! どういう事だよ」

 リクオの動揺も無理はない。

 見知ったトンネルの凄惨なあり様を目の当たりにしたのだから。

「助けに行かなきゃ」

 羽織を手にし、縁側から飛び降りる。

 青田坊、黒田坊は久々の出入りに口角を上げてほくそ笑んだ。

「待たれい!」

 背中に叩きつけられた覇気と制止の言葉。

 視線の先には木魚達磨が立っていた。

「人間を助け出すだと! ふざけるな! 我らは妖怪任侠集団奴良組なのだぞ!」

 青田坊が口を挟もうとしたその時、辺りの空気が凍てつく。

 それは、恐怖という名の魔物。

 紅い鬼の逆鱗に触れた証。

「黙りなさい……」

 胸に突き刺さる刃。

 恐る恐る視線を動かす。

 血濡れた鋒は、確かに自分の胸を貫いていた。

「な、何を……」

 金色の瞳は爛々と輝き、口元が大きく歪む。

 冷徹で、残忍な鬼の姿が其処にあった。

「魅琉鬼!」

 強い制止の声に目を剥く魅琉鬼。

 木魚達磨が、自分の胸に手を這わせる。

 可笑しい。

 確かに、この胸を貫かれた筈なのに、血の一滴すら流れて居なかった。

「よぉ、木魚達磨……テメェの御託なんざ、どうでもいいんだよ……“今”の俺じゃ不満かい?」

 黄昏時は過ぎ、赤い陽が沈む。

 風が枝垂れ桜の枝を叩く。

 ぬらりひょんは口を歪めて、ほくそ笑んだ。

「ジジイ、アンタが背負ってる代紋。貰ってやるぜ? 年寄りには荷が重いだろう?」

「ふはは、言うじゃねえか、鼻たれ」

 紫煙を燻らせるぬらりひょんは、孫の背中をただ見つめる。

 自信に満ちた声と、白髪の長い髪。

 真紅の瞳は、闇夜の中で妖しく輝く。

 烏天狗は涙を流し、青や黒は戦慄する。

 首無しは亡き先代の面影をその背中に見た。

「魅琉鬼、支度しな。俺の晴れ姿、一番近くで見せてやるよ」

 愛刀、祢々切丸を肩に担ぎ不敵な笑みを浮かべる。

 その姿は人、妖怪共に畏怖されて来た闇の主に相違なかった。

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 其処は、阿鼻叫喚の嵐だった。

 赤色回転灯が闇の中で一際輝く。

「行かせてぇ! まだあの子がぁ……!」

 絶叫しながら警官に押さえつけられる母親に携帯電話を片手に怒鳴るサラリーマン。

 積み上がった瓦礫のせいで、中の様子を伺う事は出来なかった。

「ママ―。あれ、なあに?」

 母親の服の裾を引っ張っる子供。

 その指差す先には、赤い小鬼がいた。

 気が触れて幻覚を目にしているに違いない。

 涙を拭い、もう一度見る。

 やはり消えなかった。

「きゅう……」

 そのまま、か細い声を上げて倒れ込んだ。

 薄暗い闇の中で、子供たちは泣いていた。

成す術も無く、足を擦りむいた子供が絹を裂いたように泣きわめく。

 其れを皮切りに、決壊したダムの様に感情を溢れさせ思うままに泣く。

 そんな中、一人の少女が気丈にも仲間達を励まして居た。

家長カナである。

 蹲る子達一人一人に声を掛けていった。

「大丈夫! きっと助けが来るよ」

 確証など無い。

 希望的観測だった。

 けれど、目の前の現実は余りにも残酷だった。

「おい、何だよ……あれ……」

 少年の声が震える。

 全身を痙攣させながら、暗闇を指す。

 その先には無数の紅い瞳が蠢いていた。

 やがて、独りでに炎が灯る。

 辺りの気温が急激に下がるのを感じ取った。

 白煙が立ち込める。

 蒼い炎が照らし出すのは、異形の者共。

 黄ばんだ牙を覗かせて、その間に銀の糸が伸びる。

 滴り降りた其れは、鉄筋コンクリートを溶した。

「ぬはは……これだけの子供を喰えば、更なる畏れを手に出来る」

 喰う。

 確かに異形はそう言った。

 カナの背筋を怖気が駆けまわる。

「きゃぁぁぁぁぁ!」

 悲鳴が反響する。

 

 突如起こる縦揺れ。

 轟音と共に、瓦礫の山が吹き飛んだ。

 現れたのは、魑魅魍魎の群れ。

 月を背に白髪が怪しく光る。

「何やってんだ? ガゴゼよぉ」

 巨大百足の頭に胡座を掻き、魅琉鬼を胸に抱いて、ガゴゼを見下ろす。

「リクオ……――貴様、リクオか!」

 地面に降り立ったリクオは睨みを利かせて言い放った。

「随分と狡い真似してんじゃねぇか」

「何を……俺はただ畏れを集めているだけのこと」

 嘲笑うガゴゼに舌打ちして、歩を進める。

「情けねえな……子供をビビらせて悦に浸るなんざ、底がしれる」

 ガゴゼの自尊心は、酷く傷ついた。

 成り立ての、しかも四分の一しか妖怪の血が流れていない餓鬼に。

「ええい! ぶち殺してくれる!」

 咆哮と共にガゴゼの配下が扇状に散らばった。

 爪、斧、鎌、刀、牙、明確な敵意と殺意。

 人間を遥かに超越した速さでリクオに襲いかかる。

 唐突に視界を塞ぐ赤。

 次に目にしたのは、己の血潮。

『ぎゃぁぁぁ!』

 鋭く長い爪を持った腕が宙を舞う。

 重力に逆らわず落ちた其れは、赤黒い血を辺にまき散らした。

『仕込……刀……』

 血塗れた鋒から滴る紅い液体。

 黄金の瞳が、異形を睨む。

「三下が、リクオ様に牙を剥く? あっはは! お笑い種ね……その不敬、死を持って償いなさい」

『調子に乗るなぁぁ』

 腕を失った怪しがその牙を喉元へ突き刺さんと突進。

 魅琉鬼の貌は、冷徹で不敵なままだった。

 天高く、番傘を放り投げ、逆手に握った仕込み刀を振り上げた。

 一閃の後、真二つに裂けた肉塊は、けたたましい音を鳴らして崩れさる。

「不味い血ね……ちっとも満たされないわ」

 敵はおろか味方さえ怖気ずく艶笑を浮かべながら、刀身に舌を這わせる。

 背後から襲いかかる鋭い爪。

 振り返ることなく傘の先で眼球を抉った。

 鮮血が広がった傘に固着する。

  そのまま弧を描くように回転して首を跳ねた。

 刀を勢いよく振って血を払う。

 嫌な音が暗闇に響いた。

「俺たちも鬼姫に続くぞ!」

 青田坊の咆哮が、静寂を破った。

 岩をも砕く拳は、それだけで凶器だ。

 遠慮なく放たれた一撃は、敵の顔面を捉えめり込んで、向こう側に壁に激突した。

 砕けた肉片が拡散。

 それは最早一方的な蹂躙だった。

 奴良組本家の妖怪達はいわずと知れた武闘派が多い。

 結果は火を見るより明らかだ。

 瞬く間に戦力を失ったガゴゼ勢は、戦意を失い蹲る。

 羽織を肩で靡かせ、闇の中を闊歩するリクオ。

「テメェの“器”じゃ、爺の大紋は背負えねえ……今日から俺が、魑魅魍魎の主になる」

 引き抜かれた祢々切丸から繰り出される鋭い一閃。

 一拍遅れて、ガゴゼの躯が“ずれた”。

 断末魔が漆黒に溶ける。

 地を叩く雨は、どこまでも黝(かぐろ)い。

 煌びやかな白髪が、風に靡いた。

 刀身に和紙を滑らせて放る。

 愛刀の峰で肩を叩いた。

 

「惚れ直したかよ? 魅琉鬼」



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猫の憂い

 踵の音が、暗闇の中を反響する。

 部屋というよりは“空間”と言うべきだろうか。

 白銀の髪をした少年が、赤い髪をした女を抱きかかえながら歩みを進めていた。

 やがて、踵の音が鳴り止んだ。

 少年は、八重歯を覗かせてほくそ笑んだかと思うと、巨大な円陣が刻まれている地面に赤い髪をした女を、そっと仰向けに寝かせた。

「これでよし――……イテッ」

 少年の薄ら笑みが消えて、眉間に皺が寄る。

 鋭利な針で刺されたかの様な痛みが、奥の方からじわりと滲んだ。

 視線を下げると、美しい毛並みの虎縞模様が浮かんだ仔猫が少年の足首に噛みついているではないか。

 足袋の上から遠慮なく鋭い牙が刺さって血が滲んでいた。

「ふーん、僕に噛みつけるなんて、流石鬼姫ちゃんの愛玩動物(ペット)だね」

 少年はまるで毬を蹴るかのように軽く足を振った。

「中々やるね。君」

 仔猫はまるで離れる気配がない。

 先程とは比べ物にならない程に足を大きく振りかぶって、柱目掛けて虚空を蹴った。

 鈍い風音と共に仔猫は飛んで行ってしまう。

 柱に激突する前に体制を立て直した。

 爪が床にに突き刺さり甲高い音を鳴らした。

 仔猫は低く唸りを上げると、少年に飛び掛る。

 旋風がその小さな身体を包み込んだかと思えば、愛らしかった仔猫が 巨大な化けに猫へと変貌していた。

 少年の瞳が細く絞られて口角が釣り上がる。

 腰に差した刀を抜いて、鋭利で巨大な牙を受け止めると、耳を塞ぎたくなるようなけたたましい音が響いた。

「キシ、上々、上々。まさか僕の刀に触れて無事で居られるなんて、大したものだよ? 雪那ちゃん――……けど」

 そう言って、雪那の下顎を爪先で蹴り上げた。

 巨大な身体が天高くに舞い上がる。

 しかし、雪那は宙返りをして地面に降り立った。

「わーお、君、本当に畜生道の鬼なの? 結構強めに蹴ったから、首が飛ぶかと思ったのになぁ……」

 雪那の紅く、鋭い瞳孔の中に口を歪めて哂う鬼の姿が映り込む。

 警戒の色は踵の音が響く度に、濃くなってゆく。

 銀色の切っ先が雪那の鼻先に突き立てられた。

「義兄からは君の処分、命令されてないんだよなぁ……」

 そう言いながら、己の肩を峰で叩いている。

「そうだ……!」

 熟考の末、彼が出した答えは、雪那の予想に大きく反するものであった。

「君って、鬼姫ちゃんと思考を共有できるんだよね? ……なら、君に中に鬼姫ちゃんの記憶を移植してあげるよ」

 文字通り、眼を丸くする雪那に少年は楽しげに語り始めた。

「この娘は只の“鬼”に成り下がっちゃうけど、本当はそんな陳腐な存在じゃないんだ」

 少年は自らの両腕で肩を抱き身を捩りながら続ける。

「君のご主人様はね? 僕と肩を並べる存在なんだよ……信じられるかい? “闘神阿修羅”と同じぐらいイカレてて、同じぐらい残忍で、最悪で、最凶で、どうしようもない存在なんだよ……」

 少年の狂気に満ち溢れた黝(かぐろ)い嗤い声が響き渡った。

“恐怖”という重圧が雪那に重くのしかかる。

 肢体の自由は失われ、思考が塗り潰される感覚。

 目の前に居る青い鬼は一頻り嗤った後、彼女の眼前に手を翳した。

「鬼姫ちゃんが、力を求めた時、“記憶(かぎ)”である君が“地獄(ここ)”へ導いてあげるんだ。三悪趣の鬼を喰い尽くして、もう一度、僕と“夜叉”として闘えるように……ね」

 突如、雪那を青い炎が包み込んだ。

「怯えなくて大丈夫だよ……燃やしたりなんかしないさ、期待してるからね」

 灼熱の炎の中で、雪那は魅琉鬼を見つめた。

 霞む意識の中で、パンっと渇いた音が響く。

 轟音と激しい縦揺れが加速する。

 円陣に梵字が浮かび上がった。

 赤みを帯びた白光が、雪那達を包み込む。

 まるで子守唄の様に、透き通った声で唱えられる経が耳に酷く残った。

 

 

 紅い門が重々しく軋みを上げて、視界一杯に白い光が広がった。

「ご命令通り、“椿の鬼姫”の記憶の消去と、地上界への追放は済ませて来たよ」

“閻魔”の文字を背にした玉座に腰を据える黒髪赤眼の男が、紫煙を燻らせている。

 独特の香りを霧散させながら、酷く面倒くさそうにいった。

「御苦労さん……」

「えー……労いの言葉がそれだけなのぉ? 冷たいんじゃな―い? 零義兄さん」

 少年は猫なで声で男にすり寄った。

“苦虫を潰した様な顔”とは正にこの顔の事だろう。

 零と呼ばれた黒髪の男はこめかみに青筋を浮かばせて言う。

「黙れ、弩阿呆。テメェがしくじらなきゃ、俺はこの散らばった書類を整理せずに済んだんだ」

 少年は、頭の後ろで両手を組んで嗤った。

 無駄に輝く、八重歯は零の神経を逆撫でする。

「餓鬼にやらせてるだけじゃないかー」

 眉間の皺が深まった。

 血管の色、形がはっきりと分かる程に浮かび上がる。

 確かに半壊した部屋の修復やら散らばった書類などを掻き集めようと、赤い小鬼が忙しなく動き回っていた。

「そういう問題じゃねぇよ。タコ……俺の仕事を増やしたのが問題なんだ」

「頑張れ! 一生懸命働く義兄さんって素敵だよ」

「殺すぞ、テメェ……」

 親指を立てて、歯を見せて嗤う少年を睨んで言い放った。

「義兄さんのそういう表情(かお)って僕、大好き」

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 縁側の下で、身体を丸めながら眠っていた雪那の耳がピクリと動いた。

 ゆっくりと瞼が開いた。

 空はすっかり茜色に染まって、烏の物悲しい鳴き声が夕日に溶け込む。

 のそのそとした足取りで縁の下から顔を出して、大きく身体を反らし、首を振った。

 縁側に易々と飛び乗って、障子の前で尻を付けた。

 毛並みのいい二又の尻尾をゆらゆらと遊ばせながら、主人が姿を見せるのをじっと待つ。

『もう、そんなに動いては駄目ですよ?』

 片方の耳が小さく動いた。

 彼女の主人、魅琉鬼の声である。

『だ、だって息が掛ってくすぐったいんだよ』

『我慢して下さい……あれほど溜めこんでは駄目だと申し上げましたのに』

『恥ずかしいじゃないか!』

 もう一人の声の主はリクオであろう。

『だからって、こんなに硬くなるまで溜めこむだなんて……』

『そ、そんな事言ったって……うあう』

リクオの悩ましげな声に気のせいか、雪那の顔が赤らんでいる様に見えた。

『大丈夫です……痛くなんてしませんから、ほら、力を抜いて下さい』

と、此処で絹を裂いた様な甲高い女の声が割り込んだ。

『いい加減にしなさーい! 日も沈んで居ないうちからそんな、は……れん……ち……な……』

 身を刺す様なこの冷気は間違いなく、氷麗の物だ。

 中を伺う事は出来ない雪那だが、その光景は容易く頭の中で想像できた。

『いだー! いだい! 痛い! 綿棒が、綿棒が耳に刺さったー!』

 次いで聞こえたのは魅琉鬼の悲鳴。

『きゃぁぁ! リクオ様! 耳から血が!』

『ま、紛らわしいのよ! アンタ達ー!』

 部屋の中で悶絶し、のた打ち回るリクオに慌てふためく魅琉鬼、やり場のない羞恥心を絶叫に替えた氷麗。

 混沌とした状況はもはや疑う余地も無く、喜劇であった。

 雪那は、髭を蠢かせ溜息を漏らした。

 

 行く宛てが無くなった雪那は、屋敷内をうろついていた。

 思えば、ぬらりひょんに魅琉鬼と共に拾われて以来、こうして一人いや、一匹と言うべきか。

 ともかく、雪那は初めて一匹で過ごす事になったのだ。

 台所から食欲をそそるいい香りが漂って来た。

 雪那の愛らしく、小さな鼻がひくついて、そのまま誘われるままに香りの元へと足を向ける。

 どうやら匂いに釣られたのは、彼女だけでは無いらしい。

 ぬらりひょんと、お付きの納豆小僧が、お得意の摘み食いを目論んでいる様だ。

『にゃー』

「うひゃー!」

 雪那の声に、納豆小僧が文字通り飛び跳ねた。

 尋常ではない驚きように、彼女の毛が逆立った。

「そ、そ、そ、総大将――あ、あ、魅琉鬼の下僕が」

「なんじゃい、納豆小僧そんなでかい声を出しては若菜さんにバレてしまうじゃろうが」

 慌てた様子で両手を交差させて、口をふさいだ。

「おお、雪那。珍しいのう……お前があ奴と一緒におらんとは」

「にぃ……」

「ほうほう。それで、リクオ共が騒いでおったんじゃな?」

「総大将、何言ってるかわかるんですかい?」

 納豆小僧の疑問も最もな話だ。

 ぬらりよんは、白い歯を覗かせて、笑いながら自信たっぷりに言った。

「勘じゃよ、勘」

 ぬらりひょんが言うと、妙に説得力があると思えてしまう。

「お爺ちゃん……」

 肩に手を置かれ、錆び付いた機械人形の如き音を鳴らしながら後ろを振り返った。

「摘み食いはダメっていつも言ってるじゃ、ありませんか」

 右手に握られた包丁の刃が、鈍く光った。

笑顔だ。

 其れは、見た者が幸せな気持ちになれるような――ただし……。

 背後に滾る黒い覇気と、眉の引き攣りがなければの話だが。

 

 ぬらりひょんと納豆小僧の断末魔を背に雪那は、化け猫の姿に変化して空へと高く飛翔した。

 烏たちは、一斉に拡散して、空の道を譲る。

 やはり、この姿では怯えさせてしまうのだろうか。

 屋敷の妖怪たちも彼女に怯えるだけで、まるで腫れ物を扱う様に接してくる。

 致し方ないとは、思っていてもやはり孤立するというのは淋しいものである。

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 月の青白い光が障子から差し込む。

 夜風に靡いた枝垂れ桜の花弁がぬらりくらりと空に舞った。

 縁側で盃を片手に夜空に浮か蒼月を見上げるぬらりひょん。

 一枚の桜の花弁が、盃に浮かぶ。

 誠絵に成る光景だった。

 遠くの方で、聞こえて来るどんちゃん騒ぎ。

「お、珍しい客じゃ……お前さんも飲むかい?」

 ぬらりひょんは頬肉を釣り上げ、盃を傾ける。

『にゃー』

 客の正体は雪那だった。

「そうかい……」

 其れ以上、なにも言わず御猪口に手を伸ばした。

 突如、雪那の小さな身体が白い光に包まれる。

 光は人の容へと成り、やがて少女の姿へと変貌した。

 白銀の長い髪には所々紅い色が混じり、白い頬には紅い文様が浮かんでいる。

 純白の着物には色とりどりの花々が咲き誇る。

「こりゃ、たまげた」

 目を丸くするぬらりひょんが可笑しかったのか、口元を袖で覆って微笑んだ。

 御猪口を手に取って手慣れた様子で御酌をする。

「っとと」

 ぬらりひょんは嬉しそうに其れを飲みほした。

「若い女子に注いでもらう酒はうまいのぉ……」

 雪那は、何処からともなく取りだしたスケッチブックとマジックで流れるように文字を書いてぬらりひょんに見せる。

【おじいちゃんははロリコン?】

 一瞬呆気に取られたぬらりひょんが大口を開けて盛大に笑った。

「ぬっははは! そんな言葉、よう知っておるのう……」

【おねえさまにおしえてもらった】

 魅琉鬼も案外、俗世に順応している様だ。

「そうかい、そうかい……ところで魅琉鬼はどうしたんじゃ」

【リクオさまとイチャイチャしてた】

 ぬらりひょんが、もう一度歯を見せて笑う。

「くくく、そうかそうか」

【ふたりともなかよしさん】

「そうじゃなぁ……」

 ぬらりひょんが再び月を見上げた。

 その視線は、何処か寂しげである。

【おじいちゃんは、ふたりがなかよしだと、イヤ?】

「そんなことはありゃせんわい……ただ、あの二人を見ていると鯉伴を思い出すんじゃよ」

 自嘲気味に笑って、首を振った。

「儂は“あ奴ら”救えなんだ……鯉伴が立ち直ったのも若菜さんのおかげじゃしな」

【?】

 小首をかしげる雪那の頭にぽんっと手を乗せて優しく撫でてやる。

 気が緩んだのか、雪那の頬から髭が伸びていた。

「儂もまだまだがんばらんとな! てめぇの尻も拭けねぇようじゃ、妖怪の大将たぁ言えねぇ……リクオの隣には魅琉鬼が似合う」

 けらけらと笑うぬらりひょん。

 雪那も嬉しそうに、微笑を返す。

だが、その笑顔が不意に消えて、影が落ちた。

 猫耳が垂れ下がっている。

【お姉さま、きっと、また、じごくへ行っちゃう……リクオ様、きっとかなしむ】

 懐に忍ばせた煙管を取り出し火を灯す。

 ジジっと小さな音を上げ、一泊遅れて紫煙がたゆたう。

「――……大丈夫じゃよ。あの女、魅琉鬼なら閻魔も返り討ちにして帰って来るじゃろうて」

 呟きは煙と共に夜空に溶けた。



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嫉妬

 妖怪世界は夜が本番。

 奴良組本家は今日も今日とて、自由気ままに大騒ぎだ。

 箸で酒瓶を叩いては景気の良い音を鳴らし、裸踊りはお手の物だ。

 人間社会にありながら妖怪達は柵に囚われることなく夜を謳歌する。

 とはいえ、こんな真夜中に飲めや歌えやの大宴会を開いていてはご近所様に迷惑なのは明白である。

 事実、此処にも一人、甚大な被害を受けている少年の姿があった。

「五月蠅いなぁ……こんなんじゃ、勉強に集中できないよ」

 茶色い髪を掻き毟りながら、奴良リクオがぼやく。

 背の低い長卓の前に胡坐をかいて、小さく淡い橙色の灯りを頼りに教科書を開く。

 身長も幾ばくか伸びて、顔つきも少し大人びて見えた。

 悪戯ばかりして、氷麗を困らせていた頃が嘘の様である。

 白い長襦袢の襟元はしっかりと整っている。

 眼鏡のズレを正す仕草は正に“優等生”そのものだ。

 数式をを一つ一つ丁寧に大学ノートに書いては解き、書いては解きの繰り返し。

 脇に置かれた複数のノートにはリクオの名は無い。

 全て性別も名前も違う物だ。

 そう、これはリクオが“都合のいい奴”として扱われている証拠。

 魅琉鬼を悩ませる要因の一つである。

「リクオ様、まだ起きていらっしゃるのですか?」

 障子の向こう側から聞こえて来る声にリクオの心音が高鳴る。

 慌てて長卓に置かれた教科書とノートを閉じる。

「う、うん! ちょっと寝れなくて本を読んでたんだ。でも、もう寝るから」

 言いながら鞄に教科書とノートを押し込んで、手近にあった文庫本を開く。

「失礼いたします」

 彼女が了承も無しに部屋へ入って来るのはとても珍しい。

 初の覚醒から早くも五年の月日が経ち、魅琉鬼の体つきも成長を遂げている。

 主に思春期真っ盛りのリクオを悩ませる方向に。

 まだ、冬が終わりを告げて間もないというのに、彼女の格好はとても 簡易的で風通しの良さそうな浴衣であった。

 襟元を繋ぎとめるのは、なんとも頼りない腰紐一つ。

 藍色の朝顔の柄は涼しさを演出する。

 普段は“さらし”によって抑圧されているたわわに実った二つの果実が、その重量感と柔軟さをアピールしていた。

 気のせいか、赤い髪から甘い香りが漂ってくる。

「リクオ様、先程鞄の中に仕舞った物を私に見せて下さい」

 リクオの前に正座する魅琉鬼が笑顔で言った。

「な、何のこと? 僕は本を読んでただけだよ」

 彼女の黄金の瞳がすぅっと細くなった。

 蛇に睨まれた蛙の心境を味わう羽目になったリクオ。

「お忘れですか? 私は“耳”がとてもいいのですよ? 嘘はいけません……先程から心音がどんどん高まっておりますよ?」

 ここで、『君に見つめられているから』と洒落た台詞が吐けるリクオではない。

 有無を言わせぬ笑顔のまま魅琉鬼の顔が迫った。

 駄目だ。

 この貌をしている時の彼女に逆らってはいけない。

 リクオの勘がそう告げている。

 ここに“妻の尻に敷かれる夫”の絵図が完成した。

「――はい」

 観念したのか、鞄からノートを取りだして魅琉鬼に渡した。

 紙が捲られる音だけが木霊する。

 一通り目を通し、ぱたりと閉じられるノート。

 あからさまな溜息がリクオの胸を締め付けた。

「全くもう……あれほど、不正に加担してはいけませんと申したではありませんか……」

「で、でも……」

「でも、じゃありません」

 リクオの言い訳は即座に叩きおとされ、此処から非の打ち所のない正論攻撃が始まる。

 気のせいか、段々とリクオの身体がしぼんで行くように見えた。

「――……ですから、宿題は自分でやらなければ意味がないのです! いいですか? 今後、このような不正には手を貸してはいけません!」

 言いたい事は全て言い終えたのか、もう一度深い溜息を漏らす魅琉鬼。

「ごめんなさい」

 そう言って、肩を落とし、魅琉鬼を見つめる眼差しは捨てられた子犬を髣髴とさせえる。

 其れが彼女の嗜虐心に火を灯した。

 魅琉鬼は鳥肌が立つ程の艶笑を浮かべる。

 齢十五歳でこれほどの妖美さを秘める女はそう易々と御目にかかれまい。

 猫が擦り寄る様に、魅琉鬼は己の身体を押し付ける。

リクオの理性を根こそぎ奪ってしまう程に“柔らかな肉”が大きく歪んだ。

 仰け反りながら視線を落とす。

 少し顔を出し始めた喉仏が大きな音を鳴らす。

 二つの膨らみが鬩ぎ合って出来た“谷間”に汗が伝う。

 甘美な香りがリクオの鼻孔を掠めた。

「み、魅琉鬼……? ちょーっとこれは近すぎないかな? 其れにほら、あたってるし」

「当てているのです……それに何か問題でも?」

 形のいい薄桃色の唇が鼻先三寸まで迫って来る。

 甘い吐息が、熱を帯びる。

「リクオ様が、何度言っても聞き分けがないのがイケないのですよ?」

 耳元から聞こえる囁きはひどく蠱惑的で、リクオの背中を震わせる。

「ほ、本当に拙い事になってますよ? 魅琉鬼さん」

 敬語に変るのは彼が本当に混乱しているようだ。

「何も拙い事に事などありはしません……リクオ様も十と二つ……私も十五になりましたわ……そろそろよろしいのではなっくって?」

 言いながら、魅琉鬼の白い指先が襟元へ伸びる。

「よろしいって何が……うぅ」

 ひんやりと冷たい指がリクオの肌を滑る。

 語尾は弱くなり、防戦一方だった。

「女の口から“其れ”を言わせたいだなんて……少々野暮ではありませんこと?」

 魅琉鬼の瞳は獲物を前にした獣の其れだ。

 標的は舌舐めずりをしたくなる程の可愛い兎。

 小刻みに震えてされるがまま。

 こんなにも容易い狩りはない。

「かぷ……ぢゅる」

 濁音交じりに耳たぶを甘噛みして、啜る。

 溝をなぞる度、肩を強張らせるリクオ。

 紅くねっとりした感触の舌が首筋を滑る。

 滴り落ちる水滴が、橙色の灯りに照らされて光る。

 あっけなく肩から落ちた長襦袢はリクオの肢体を露わにする。

「魅琉鬼、本当に駄目だったら! 反省したから! 本当にもうしないから許してくれ!」

 夜中だということも忘れ、リクオは叫んだ。

 魅琉鬼の両肩を掴んで、無理矢理に引き剥がした。

「いけず……」

 魅琉鬼はそれだけ呟いて裾の乱れを整えた。

「はぁ……ぜぇ」

 リクオは二百メートル走を全力で駆け抜けた時並みに汗を垂らしながら、呼吸を整える。

「まぁ、すごい汗……これでは風邪をこじらせてしまいますわ。御背中をお流し……――」

「いいから! 一人で大丈夫だから」

 魅琉鬼の背中を押して、半ば追い出す様に彼女を部屋の障子を締めた。

 凭れながら、力なく落ちてゆく。

 両手で顔を隠しながら、深い溜息を漏らした。

「わぁぁ! 寝れないよぉー!」

 悩める性……いや、青少年の叫びが夜空に溶け込んだ。

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 空は雲一つない快晴。

 日差しが容赦なく照りつける。

「太陽が黄色いや……ははっ……あははは」

 リクオの渇いた笑い声が青い空に響いた。

 学蘭の下に赤いパーカーを着こんで、第二ボタンまで開いている。

 浮世絵中学校は比較的、校則が緩い。

 それというのも学生会長である魅琉鬼が校則緩和に尽力したからである。

「リクオ様、どうなさったのですか? 笑い声に悲壮感が漂っていますよ」

 その原因の一端である魅琉鬼の声が横から聞こえて来た。

 セーラー服に学校指定のセーターを着込んでいる。

 白く長い脚を覆うのは黒いパンツストッキング。

 人間へと変化し、黒く染まった髪は両脇を編み込んで後ろで一括りにしている。

 其処には、幼き日にリクオが贈った簪が挿されている。

 彼女が歩く度、リクオの鼻孔を甘い香りが擽った。

「な、なんでもないよ! それより、魅琉鬼は上機嫌だね」

「ええ、だって……久々にリクオ様と一緒に登校できるんですもの……こんなに嬉しいことはありません」

 頬を染める魅琉鬼。

リクオの背中をむず痒さが襲った。

 今日は、全校集会がある。

 学生会長である魅琉鬼は一般の生徒よりも早く学校へ登校せねばならない。

 普段ならば、朝食の片づけやら何やらでリクオと登校時間がズレてしまうのだが、先も言ったに今日は違う。

 時間が早いせいもあってか、周りに人は居ない。

 桃色の空気を撒き散らしながら、二人は歩く。

 遥か後方で、嫉妬にも似た視線を送られていることにも気づかずに……。

「なんなのよぉ~! 私は若に隠れて護衛しなくちゃいけないのに、どうしてあの女は公然と若の隣に居れるわけぇ~!」

 野太い電柱を齧りながら、冷気を纏う氷麗。

 青み掛かった黒髪が宙に浮かぶ。

 それを、見下ろす一人の男。

 特執すべきは、その屈強な、まるで岩を思わせるその肉体と“顎”。

 生きる伝説のプロレスラーにも見劣りしないその顎は、消して砕けることはないであろう。

 腕まくりした学欄に、全開釦という“いかにも”な風袋の彼は、奴組特攻隊長を務める青田坊である。

「そりゃ、お前、あの女が“化ける”のが上手いんだろう」

「私たちだって、ちゃんと化けてるじゃないのよぉ~!」

 悔しげに言う氷麗にため息を漏らす青田坊。

「俺が言ってるのは、そういうことじゃねぇ……あの女、“椿の鬼姫”はもっとトンでもねぇ“化けの皮”を被ってんのさ」

「何、カッコつけて浸ってるのよ……青ったら」

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 規則正しく、電車が揺れる。

 朝方の通勤ラッシュと重なって、席に座る事ができずに居た二人は吊革を手に対面しながら揺れていた。

 リクオは、無言のまま魅琉鬼を見上げて漫然と見つめる。小説を片手に佇んでいるだけだが、それでも彼女に見ほれてしまう。

リクオの視線に気づいた魅琉鬼がやわらかく微笑んだ。

顔が熱くなる。

 込み上げる羞恥心のせいか、視線を逸らすことしか出来なかった。

 絶妙な頃合で電車が大きく揺れた。

「きゃ」

「わぷ」

 小さな悲鳴とくぐもった呻き声。

 予定調和だと言わんばかりに起こった出来事。

 サラリーマンとやわらかい“饅頭”との板ばさみにありながら、リクオの心境は穏やかであった。

 この柔らかい肉に埋もれながら死ねるならと思いながら、意識は彼方へと飛びそうになる。

「やっ……あまり激しく動かないでください……んっ」

 漏れる嬌声は、周りの男共を遍く前かがみにするほどの魔力を秘める。

「ん~! ん~!」

リクオはそれに加え、直接的に弾力と、重圧を味わっているのだ。

その衝撃は、他の比ではない。

 

 車掌のアナウンスが車内に流れる。

 どうやら目的の駅へ辿りついたようだ。

 空気が抜ける様な音が鳴ったかと思うと、津波の様に人が押し寄せた。

 惚けるリクオの頭からは、蒸気が上がっている。

 天国の様な、地獄の様な時間は、瞬く間に過ぎてゆくのであった。

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 形式的な行事というのは、ひどく退屈なものだ。

 事実、全校生徒が収容できる程のだだっ広い体育館で、校長の話を真面目に聞く者など殆ど居ない。

 念仏にも等しい持論と形式的な式の挨拶。

 そんなモノよりも彼らにとっては、連休中何処へ行っただの、新しいゲームを買った。

 宿題をやっていないなどの話の方が、重要な様だ。

『続きまして、生徒会長からの――……』

 その瞬間、館内の喧騒がピタリと鳴り止む。

 一瞬にして空気が変わった。

 皆の視線が壇上へ移る。

 息を飲む程の美少女に一往にして口を噤んだ。

 響き渡るのは、鈴の鳴った様な美声だ。

 絹の様な黒髪に、其れと対をなす白い肌。

 見る者を虜にする魔性黒い瞳。

 少女の一礼と共に拍手喝采。

 指笛まで跳びそうな勢いだった。

「やっぱ、椿会長はいいよなぁ……」

 一人の男子生徒が頬を緩めながら呟いた。

「そうだなぁ……」

 隣に立つ生徒も賛同する。

「はぁ……あんな人が嫁だったらなぁ」

「お前知らねえの? 会長にはもう“そういう相手”がいるって話だぜ」

「なん……だと」

 顔が真っ青になり、砂の粒子が風に舞うが如く、少年の心は儚く散った。

「おーい……だめだなこりゃ」

 放心状態の友人に手を振りかざしても、反応は無かった。

 

「リクオくん。鼻の下、伸びてるよ」

 そう言って、リクオの脇腹を突きながらジト目で睨みを利かせる少女はクラスメイトで幼馴染の家長カナである。

 まだ幼さは残るが、顔立ちは整っていて間違いなく“美少女”に分類されるだろう。

 魅琉鬼には劣るが、胸の成長具合も目を見張るものがある。

「そ、そんなことないったら」

 一瞬、怒鳴りそうに鳴ったのを必死で踏みとどまって、声を殺し耳打ちする。

 彼女は訝しげな顔で、リクオを見つめ言った。

「ほんとうにぃ? 誰が見たってデレデレしてたけど」

「ほんとだったら! ほら、先生にも睨まれてるよ! 前向こう」

「はい、はい」

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 昼休憩のチャイムが校内に響き渡る。

 教室の扉が一斉に開かれた。

 轟音とも言える地響き。

“購買組”が一階を目指し、直走る。

 その中には、奴良リクオの姿もあった。

 可笑しい。

 彼が購買部へ走る理由はないはずだ。

 魅琉鬼手製の弁当は、しっかりと鞄の中に詰められている。

 なのに、誰よりも早く廊下を駆け抜けている。

「奴良~! やきそばパン頼むぞー」

 背後から届くなげやりな声援に手を掲げて応えた。

「まかせといてくれよ!」

 笑顔だ。

 とびきりの笑顔。

 使いっぱしりにとして扱われて居る事など微塵も気に掛けていないのだろう。

 いや、寧ろ進んで使われて居ると言ってもいい。

 階段を降りて、滑らかに角を曲がり最後の直線を駆け抜けて、突きあたりで急停止。

 乱れた息を整える。

 そして、彼は驚愕した。

 視線の先にあったのは、人、人、人の群れ。

 男も女も関係ない。

 成長期真っ只中の彼ら若人は宛ら檻から放たれた猛獣の如く、獲物に手を伸ばす。

 リクオは目を閉じて、深呼吸した後、ゆっくりと瞼を開き、頬を叩く。

「あんまり使いたくなかったけど……」

 そう呟いて、人混みの中に飛び込んだ。

 

 両手一杯に“戦利品”を抱えて階段を上がる。

見ていて危なっかしいが、どうにか躓く事なく、踊り場まで辿りついた。

「ふぅ……昔みたいに爺ちゃんの技は使いたくなかったんだけど」

どうやら、祖父直伝の食い逃げ技術を応用したらしい。

「でも、これも“いい人間”に成る為の一歩だ」

 拳を握り鼻を鳴らす。

 完全に目指すべき道から足を踏み外していた。

「リクオ様!」

 背後から聞き慣れた声が、届く。

 声の主は、魅琉鬼であった。

 何故だか分からないが、黒い瞳の端に涙が浮かんでいる。

「ど、どうしたの? 魅琉鬼」

「お弁当に不満があるなら、何故そう仰ってくださらないのですか……」

「うえ!?」

 予想外の言葉に、素っ頓狂な声を上げる。

「お味が御気に召さなかったのですか? それえとも嫌いな食材でも?」

 魅琉鬼の秀麗な貌がずいっと迫る。

 其れはもう、吐息が感じられるほどに。

「ち、ち、違うよ! これは……その……」

 言葉に詰まり、言い淀む。

「それは……」

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

「はい、あーん……」

「あ、あーん」

 リクオは頬を赤らめながら、差し出された卵焼きを食べる。

 隣では満面の笑みを浮かべた魅琉鬼が、瞳を輝かせている。

「お口にあいますか?」

「うん、文句無し! 美味しいよ」

 いっそう笑顔の花が咲く。

 誰も居ない空き部屋で二人きりの食事。

 彼女にとっては至福の時だ。

 いち早く昼食を済ませた学生たちが校庭でドッジボールやサッカーに勤しむ。

 結局、あの後観念したリクオが、事の事情を話昨晩と同じ説教を受け、苦し紛れに魅琉鬼を食事へ誘った。

 普段は照れもあってかなかなか、学校内で顔を合わせないようにしている。

 勿論、其れだけではないのだが、今は割愛しよう。

「ところで、魅琉鬼……斎藤君達に何かしたの? 物凄い怯えて居たけど」

「ふふ、只の“厳重注意”ですわ……ふふ、ふふふふふ」

 魅琉鬼の笑い声に、背筋を凍らせるリクオ。

 余り深く追求するべきではないと思ったリクオは咄嗟に話題を逸らす。

「そういえば、今日、清継君達が“旧校舎”に妖怪探しに行くって息巻いてたよ」

 魅琉鬼の眉が微かに動いた。

「全く、妖怪探索なんて危なっかしいたらありゃしない」

 リクオは、不満げに言いながら、差し出されたおかずを口に入れる。

「だから、僕も一緒に行くことにしたよ」

「……そうですか。では、私も」

 リクオは、その言葉に笑って返した。

「魅琉鬼が一緒に来なくたって大丈夫さ……どうせ家の小妖怪達が悪戯してるだけだろうし」

 魅琉鬼は不安げな表情でリクオを見つめた。

 漆黒の瞳に自分の頓狂な顔が映り込む。

「そ、そんな顔しなくたって平気だよ……魅琉鬼は美味しいご飯作って待っててよ」

「ですが……」

 リクオは、少々困った様に指で頬を掻く。

「うーん、あ、そうだ! 魅琉鬼、手出して」

 徐に差し出された小指。

 魅琉鬼は、瞳を丸くしたがすぐ笑顔に変わった。

「約束! 怪我もしないし、危ない事もしない!」

 歯を見せて、笑うリクオ。

 魅琉鬼は口元に手をやり、上品に微笑む。

「指きり、げんまん嘘付いたら針千本の―ます指切った」

 二人の声が木霊する。

 ぴとり、と額を合せて笑いあった。

 

 夜、リクオの自室には緊張の糸が張り巡らされていた。

 お互い対面するように正座をして無言の時が悪戯に過ぎる。

 口火を切ったのは魅琉鬼の方だった。

「リクオ様、申し訳ありません……急にお呼び立てしてしまって」

「ううん! 大丈夫! 大丈夫! それで話って」

 顔中に汗を滲ませながら言う。

 リクオも年頃の男児である。

 まだ陽も沈んで間も無いが、リクオを緊張させるには充分な局面だ。

「実は……」

 魅琉鬼の視線が下がる。

 其れと同様に長く、紅い睫が落ちた。

 憂いに帯びた女の貌とはこうも美しいものか。

 心音が加速する。

「どうしても、雪那がお供に付いていきたいと聞かなくて……」

「へ?」

 その間の抜けた声で、硬い空気が一気に和らいだ。

 リクオは、湧き上がる羞恥心を咳払いで誤魔化した。

「雪那って、いつも一緒にいるあの猫の事?」

「はい、あの娘がこんな事を言うのは初めてで……」

 魅琉鬼の表情から戸惑いが消えない。

 リクオは上を向いて少し考えてから言った。

「仔猫の姿なら皆も驚かないだろうし、いいよ」

「よろしいのですか!」

 リクオの両手を握りしめて顔を近づける。

 反射的に身を仰け反らせてしまった。

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 リクオが屋敷を発って数時間が経過した。

 いつものように騒ぎはしゃぎ回っているはずの小妖怪達の姿が見当たらない。

 気のせいか、其処彼処からカタカタと小刻みに震える音が聞こえて来る。

「リクオの奴、何やらかしおったんじゃい」

 そう言いながら、広間で湯呑みを傾けるぬらりひょん。

 お付きの納豆小僧の姿がない。

 片目を開き、台所の方へ視線を送る。

 絶え間なく聞こえて来る俎板を叩く音と、薄気味の悪い女の笑い声。

「魅琉鬼ちゃん。どうしたのかしら? 私に声を掛けられても全然気付かないし」

 ぬらりひょんの隣に正座する若菜は首を傾げるばかりだった。

 

『ただいまー』

 玄関先からリクオの草臥れた声が聞こえて来る。

 魅琉鬼の長い耳が、上下に動いた。

 何時もなら此処で、すかさず玄関へ走るが今日は違った。

 リクオもその違和感に気付き、出迎えた黒田坊に問うが、返ってきた返答は……。

「若、ご武運を……」

 肩に手を置かれ、青ざめた顔でそういうと艶やかな黒髪を翻し立ち去ってゆく。

「若、私もちょっと気分がすぐれないので、失礼します!」

 其れは正に脱兎の如く。

 氷麗は白い顔を更に真っ青にして走り去った。

 どうも、おかしい。

 屋敷に帰ってから数分。

 違和感が拭えない。

 耳を塞ぎたくなるような乱痴気騒ぎも聞こえて来ないし、何より屋敷の妖怪達が何処か余所余所しいのだ。

 頭に疑問符を浮かべながら、リクオは台所の暖簾を潜った。

――ぞくり。

 と、背筋に悪寒が走る。

 思わず歩を止める。

 聞こえて来るのは、俎板を叩く規則正しい音だけ。

 魅琉鬼は振り返る事も無く、ただただ俎板を叩く。

 何かに取りつかれた様に。

 キャベツの千切りが文字通り山の様に積み上がっている。

 酷く喉が渇いて、堪らず唾を飲み込んだ。

「あの……魅琉鬼、その、ただいま」

 尖った耳が蠢き、俎板を叩く音が鳴り止む。

 一拍間を置いて、魅琉鬼が振り返った。

「おかえりなさいませ……リクオ様」

 笑顔。

一点の曇りもない、完璧な笑顔だった。

 しかし、リクオは知っている。

 この眩い笑顔の奥に滾る感情を。

“怒りを覆い隠す”為の笑顔だと。

「うん、ただいま……あの、僕……魅琉鬼を怒らせるような事したかな」

「ふふ、どうなやさったというのです? お顔が汗でびっしょり」

 怖い。

 リクオは、ただそう感じた。

 不意に裾を引っ張られる。

 視線を動かすと、其処にはスケッチブックを片手に頬を膨らませる雪那の姿があった。

【にぶちん】

 白い紙にはそうあった。

 鈍った頭を何とか回転させえも、答えは出ない。

「それにしても、驚きましたわ……リクオ様にあんな甲斐性があっただなんて」

 リクオの身体が石の様に硬直した。

「私とは手を握ることさえ躊躇う貴方が、家長さんとはああも簡単に出来てしまうのですね」

 石像と化したリクオに小さな亀裂が走る。

 魅琉鬼は構わず続けた。

「怯える彼女に身を寄せながら、優しい言葉を囁くリクオ様……ああ、なんて素敵なんでしょう。ええ、構いませんとも……“浮気は男の甲斐性”ですもの。私の事など放って、別の女に感けて頂いて結構ですよ? 私は貴方様が御戻りになると“信じて”おりますもの」

 それはある種の警告だった。

“裏切ったら許さない”という意味が込められた言葉である。

「あら? どうしたのですか? そんなに震えて……」

 魅琉鬼は、硬直しているリクオの顎を指でなぞって。

「きっと、忘れないでくださいな……私の“かわいいあなた”」

 




ヒステリックに泣き喚いたり、暴力を振るうヒドインよりも、作者はこういう女が一番怖いと思います。


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逆鱗

今年最後の更新。
挿絵があります


 暗闇に青い炎が独りでに灯る。

 石畳の回廊を突き進む男が一人。

 黒外套を揺らしながら闊歩するのは、地獄の王にして管理者。

 冥府を統べる十王が一柱。

 黒髪赤眼の男。

 親しい者もそうでない者も今の彼に易々と近づく愚か者はいまい。

 そう、彼は今非常に虫の居所が悪いのだ。

「零様! お待ちくださいませ! 零様」

 門兵の一人が慌てた様子で駆け寄って、男の前に傅いた。

 短い舌打ちを兵士は聞き逃すはずもなく。

 額から滴る汗は、疲労から来るものではない。

「御気を静め下さいませ! 先代は、ただいまお取り込み中でございます」

 零と呼ばれた男は、先程まで紫煙を燻らせていた煙管をへし折った。

門兵が一瞬肩を竦めた。

 漆黒の鎧を身に纏った屈強な鬼兵が、零の前では蟻同然である。

「黙れ、どうせ淫売共の相手だろう」

 見下ろす双眸は、その色とは逆に酷く冷たい。

「貴方様が先代の御子息であろうと、我々はご命令に背く事は出来ませぬ」

 カチカチと渇いた音が響く。

「黙れ」

 刀の鋒が門兵の鼻先に突き立てられた。

「私の頸を刎ねて、お気が済むのでしたら――……」

 言い終わる前に首が宙を舞った。

 鮮血は無遠慮に石畳を濡らし、無残に骸が転がった。

 刀を振って血を払った。

「阿呆が……テメェなんぞの頸で俺の気が済む訳がねぇだろう」

 真紅の双眸で、転がる頭蓋を見下ろす。

 黒外套を翻し、踵を返して零は闇の中に溶けた。

 

 眼前に聳える鉄の門を見上げて零は溜息を漏らした。

 この先にいる者こそが、彼の機嫌を曲げに曲げた元凶だ。

 軋みを上げて重厚な扉が開く。

 まず耳にしたのは女の甲高い嬌声だった。

 鼻孔に纏わり付く甘ったるい匂いは理性を麻痺させる。

 簾向こう側で交わる幾つもの影。

 緞帳の灯りが照らす女のしなやかな曲線が激しく揺れる。

「なんだぁ! 今いい所なんだよ! 後にしろ後に」

 女達の中心に構える男の声には苛立ちと、興奮が混じる。

「糞親父が……何時までも猿同然に盛りやがって」

 簾に一閃が走る。

 小さな悲鳴の後、一糸纏わぬ女達は筋骨隆々の男に群がった。

 襟元は乱れ切って、凹凸が浮かび上がる腹を晒す。

 零と同じ黒髪と赤眼を持つ壮年の男。

 顔を顰めて、蓄えた顎鬚を撫でながら不機嫌に言う。

「何しやがる莫迦息子……」

 零は、無言のまま切っ先を男の鼻先に突き立てる。

「ったく、使えねぇ狗共だ……で、俺の“お楽しみ”を邪魔しに入ってまで何の用だ? 混ぜて欲しいのか」

 口の端を釣り上げて、厭らしい笑みを浮かべて見せる。

「殺すぞ」

「言うじゃねぇか糞餓鬼」

 二人の間で火花が散る。

 同時に黒炎が渦を巻き、一帯を飲む込んでゆく。

 肌を晒していた妾の鬼女達の断末魔と耳を劈く金属音が響く。

 鍔迫り合いの末に両者とも弾けるように後方へ。

踵の音が加速する。

 剥き出しになった白刃が幾度も交わり、波紋を広げた。

「あーあ……お前の所為で今晩の相手が居なくなっちまっただろうが」

 真剣の刃が眼前に迫っているというのに、覇気のない声で男が言う。

「昼も夜もねえだろうが、猿野郎。女と見りゃ食い散らかしやがって……テメェにご執心の女共から苦情が絶えねぇよ……終いには“毘沙門天”の妹にまで手を出しやがる。畜生が」

 男は瞳を細め、口角を釣り上げて嗤う。

「いい男にはいい女が惚れるもんなんだよ。いい加減鬱陶しいぞ零。離れろ」

 腹に衝撃が走る。

 零の足が地面から浮きあがったかと思えば、身体ごと後方に吹き飛ばされた。

「く、そが……」

 真紅の石壁に亀裂が走る。

 激突の衝撃で激しい縦揺れが起きた。

 零の顔が苦悶に歪む。

 屈辱が腹の底から湧き上がるのを自覚した。

 壮年の男は、首を左右に傾けて音を鳴らす。

「ったく、野郎の相手なんぞ、疲れるだけで何の得にもなりゃしねぇ」

 抜き身の刀は黒炎に包まれ、消え去った。

 片膝を付き、歯を食いしばる零を見下ろしながら嘲笑を贈る。

「無様……餓鬼の頃か成長してねぇなぁ。お前」

「黙れ……」

「おう、おう、威勢がいいねぇ」

 顎髭を撫でながら、けらけらと嗤う。

 零は尻を付き、片膝を立てて舌打ちする。

 袖に隠した予備の煙管を取りだして、紫煙を燻らせ息を吐く。

「……親父、あんた俺に跡目を継がせる前、何をやらかしやがった? “十王”の爺どもは何を隠していやがる」

 飄々とした表情から一転、剃刀の様に眼光が鋭く研ぎ澄まされる。

「その話か」

 腰を降ろし、胡坐をかいて頭を掻き毟る。

 頭垢が飛び散り零が顔を顰めた。

「あー……お前も知っての通り“六道輪廻”ってのは絶対だ。だがな、極稀にその輪廻の“外側”に堕ちる莫迦が居るんだよ……」

「何だと」

 零の眉間の皺が深くなる。

「“魔縁”つってな。“十王”の裁きを受けず、魔界で好き勝手やる阿呆共だ」

「おい、そんなもんがあるなんて聞いてねぇぞ」

「あん? そりゃ、言ってねぇからな」

 あっけらかんという父に言いようのない憤りを感じつつ押し黙った。

「俺が“閻魔”を降りたのは“超弩級の禁忌”ってのを食い止められなかったからだ」

 零はあからさまに嫌な予感を感じ取り溜息を漏らす。

 其れを余所に男は笑みを浮かべ、続けた。

「魔界でおとなしくしてる分にはまだ良かったんだがな……“ある阿呆”が“そのまま”現世へ蘇ろうと企みやがった」

 零は戦慄する。

 頬からは汗が伝い、喉が急速に渇いてゆく。

「そんな強大な魂を持った奴が人間に居やがったのか」

「ああ、お前がおっ返した“夜叉”より性質が悪い」

 いよいよもって眩暈を感じ、天を仰ぐ。

「ま、今までは“奴良組”の二代目が見張ってたおかげで復活まではいかなかったがな」

「勘弁しろよ……」

 零の頭痛の種は増える一方であった。

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 校庭に鐘の音が響き渡る。

 空は茜色に染まり、数匹の烏の鳴き声が聞こえて来る。

『下校時刻となりました。用事も無く教室に残っている生徒は戸締りをして、気をつけて帰りましょう』

 教室の音響から女子生徒の声が聞こえて来る。

 廊下かでは、部活動へ送れぬ様走る生徒や友人同士で寄り道の相談をしたりと賑やかであった。

「……ふぅ、これで終わりっと」

 夕陽に照らされた黒板を拭き終えたリクオが溜息を漏らす。

 今日も今日とて“都合のいい奴”を間違った方向に解釈しているのである。

「今日は沢山“良い事”したぞ! 柴山君達喜んでくれたし」

 帰り際に見せた嘲笑をまたも善意的に受け取っているのだろう。

 掃除当番を押し付けて早々に帰ったとは夢にも思うまい。

 バケツを手に手洗い場まで歩いてゆく。

 人気のない廊下というのは然も不気味な物だ。

 しかし、其処は妖怪任侠集団の跡取り最有力候補。

物おじせず廊下を歩む。

「リクオ様?」

 雑巾を硬く絞った所で、一人の少女がリクオの名を呼んだ。

 リクオは一瞬、肩を竦めた。

 声の主へ顔を向ける。

 視線の先には、見目麗しい黒髪の美少女が佇んでいた。

 滑らかな黒色の髪を揺らし、此方へと歩み寄る。

 リクオは反射的に握った雑巾を背中に隠す。

 少女がリクオの前に立ち止まると、セーターに包まれた豊満な乳房が弛む。

 思わず頭を後ろに下げてしまったリクオ。

「もう、また掃除を押し付けられてしまったのですね?」

 怒りというより呆れを含んだ声にリクオは苦笑するしかない。

「……うん、でも皆忙しいみたいだったから」

 頬を指で書きながら、困った様子で視線を逸らす。

「はは、ごめん。魅琉鬼」

 魅琉鬼はもう一度溜息を漏らし、優しげな瞳でリクオを見つめた。

「わかりました。では、私も御手伝いさせて頂きます」

「い、いいよ! 後は、机を元に戻して水拭きとから拭きするだけだから」

 両手を翳し、慌てふためくリクオ。

 魅琉鬼の瞳がすぅっと細まった。

「リクオ様、クラスメイト全員分の机を御一人で戻す御つもりですか? 其れこそ陽が暮れてしまうではありませんか」

至極尤もである。

「若菜様には私から連絡を入れておきますから、早く片付けてしまいましょう」

 もう一度朗らかに微笑んで見せる。

 リクオは頬を染め、視線を逸らし小さく呟いた。

「ありがとう……」

「……いえ、貴方のためですもの」

 

 なんとか陽が暮れる前に戸締りを終えた二人は、静寂に包まれた廊下を歩く。

 上履きが擦れる音だけが聞こえて来た。

 リクオの少し後ろに控えた魅琉鬼は彼の歩幅に合わせて歩く。

「あのッ」

 沈黙に耐えかねたリクオが一段声を高くして言った。

「今日は生徒会の仕事だったの?」

「いえ、近々転校してくる生徒が下見にいらしたので、校内の案内を仰せつかりまして」

「ふーん、どんな人だったの」

 何気なく沸いた疑問をそのまま口にする。

「とても可愛らしい方でしたよ?」

「そ、そうなんだ……」

「気になりますか?」

 少し意地悪な問いかけに心臓が跳ね上がった。

 気の所為か、周りの温度が少し下がった様に思える。

「べ、別にそんな事ないけど」

 背中から感じる静かな重圧。

「そうですか」

「う、うん! はは」

 渇いた笑いが虚しく響く。

 不意に袖を引っ張られ、足をとめた。

 振り向くと、視線を逸らしながら白い頬を染める魅琉鬼の姿があった。

「その、誰も見ていませんから……手を」

 言い終える前にリクオの手が触れた。

「行こっか」

 照れた笑みを浮かべ、魅琉鬼の手を引く。

凸凹の影が、隙間なく寄り添った。

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 淡い光に包まれながらぬらりひょんは盃を傾ける。

 その横に控えた魅琉鬼が、徳利を傾け酌をした。

「別嬪に酌をしてもらうとやはり酒が美味いのぉ」

「ありがとうございます」

 袖で口元を覆い、上品に微笑む。

 橙色の灯りに導かれ一匹の蛾が揺蕩う。

 盃に浮かぶ蒼月に桜の花弁が舞い降りて波紋を広げた。

「ほれ、お前さんも呑め」

「ありがとうございます」

 小さな盃を傾けて、酒を呑み乾す。

「しかし、魅琉鬼よ。相変わらずの“ざる”じゃなぁ」

「それが私の“業”でございますから」

 彼女の言葉にぬらりひょんは目を見開いた。

「お前さん、思い出したんかい」

 自嘲の笑みを浮かべ、月へと視線を移す。

「いえ、記憶は戻りません……けれど、理解出来てしまうのですよ」

「そうか」

暫し、無言になり虫達の奏でる音だけが流れる。

「可笑しなものでございますね」

 沈黙を破ったのは魅琉鬼だった。

「ん?」

 ぬらりひょんは片目を開けて魅琉鬼に視線を向ける。

「そんな事はあるはず無いのに、あの御方の傍にいると只の恋焦がれる女で居られる気がしてしまうのです……リクオ様の嫌う“人に仇なす妖”であるというのに」

「何を今更……じゃが、忘れるなよ魅琉鬼。あ奴にも“悪垂れ”の血が混じっておるのじゃからな」

 歯を見せて笑うぬらりひょんに魅琉鬼もまた頬笑みを返すのだった。

 

「御爺様、“開花院”の者が浮世絵町へ参りました」

「そりゃまた、厄介な連中が来おったもんじゃ」

 その名を耳にしても動揺することなく、只笑みを浮かべるだけのぬらりひょんに魅琉鬼は安堵する。

「お前さんがいりゃ、充分だろう……まぁ、必要以上に干渉しなければそれでええじゃろうて」

「承知いたしました」

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 浮世絵町有楽街。

 ネオン街灯が星の輝きを陰らせ、欲が渦巻く夜の街を華々しく演出する。

 そんな喧騒とは裏腹に、人気のない路地裏を息を切らせて走る女の姿があった。

 肌の露出が高い装いの女は、必死に路地を駆け抜ける。

 薄出のドレスが足に纏わりついて走りにくい。

 加えて、底の高いヒール靴だ。

 真珠のネックレスが忙しく揺れた。

 踵に走る痛みを無視して駆ける、駆ける。

「――痛ッ」

 ヒールが無残にも折れて、彼女はそのまま倒れ込んだ。

 ジン、ジンと痛む踵を摩りながら、瞳の端に大粒の涙を浮かべた。

「何なのよ! 私が何したって言うのよ! 信じられない! あんなモノ居る訳ない! あんな“化け物”!」

 女は、気が触れたかの様に叫ぶ。

 暗闇のから踵の音が響いて来る。

 女は小さな悲鳴を上げ、血の気が引いていく。

 震えを抑えようと両腕を摩るが全く意味はない。

「――……化け物って、酷いんじゃない? 夏帆ちゃーん」

 漆黒に浮かぶ二つの紅い瞳。

 白いスーツに胸元が肌蹴た紫色のYシャツ。

 一目見ただけで高価な物だと分かる装飾品を身に付けた男。

 女を虜にするであろう美声は、今や彼女を怯えさせるだけ。

「こ、来ないで!」

 精一杯の威嚇も、男の加虐心を満たすに終わった。

 やがて、男の全容を青白い月が照らし出す。

 其れは、正に化け物と呼ぶに相応しい姿だった。

 獣の毛に覆われた頭部は鼠を思わせる。

 剥き出しになった牙は、人の肉など容易に噛みちぎられるだろう。

 肩まで伸びた金髪が風に靡く。

「夜はまだまだ長いんだから、“俺達”と遊ぼうよ……」

 金色の眼球が、女を捉える。

 「あ、あ、あ……――あ」

 言葉にならない声を発しながら喉を震わせる。

 余りの恐怖に失禁して、コンクリートに染みを広げた。

 下卑た笑い声が四方から聞こえ、視線を動かす。

 目の前の男と“同じ”化け物が彼女を見下ろして嗤っている。

 甲高い叫び声を聞いた“人”は居なかった。

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 一羽の烏が鳴き声を上げて飛び立つ。

 濃霧が立ち込める森の外れに朧げに佇む洋館。

 趣があると言えば聞こえがいいがその異様な雰囲気は、家長カナを怯えさせるには充分だった。

「カナちゃん大丈夫だよ。だからそんなに袖引っ張らないでくれるかな?」

「だ、だって」

足を八の字に曲げて及び腰でリクオに縋りつくカナ。

 男なら両手を上げて喜ぶ状況の筈だ

 其れを証拠に、恨めしそうにリクオを見つめる島 二郎の姿があった。

「良いではありませんか。女に頼られるのは、男の甲斐性ですよ? 大手を振って喜ばれては如何ですか? リクオ様」

 魅琉鬼が、袖元で口を覆い微笑む。

 一筋の汗がリクオの顎から滴って砂利を濡らした。

「魅琉鬼、そう思うなら腕の力緩めて欲しいんだけど……爪が食いこんで、イタ、イタタタ」

 頬笑みを崩さぬまま、力は徐々に徐々に強まって行くのだった。

「なぁ、会長はん達っていつも“ああなん”?」

 独特の発音で巻 沙織に耳打ちする少女は、“開花院 ゆら”。

 本日付で浮世絵中学校へ転入して来た女子生徒だ。

 何を思ってか清十字怪奇探偵団の活動に興味を示したのだ。

「そだよ……分かりやすいぐらい何時もラブコメしてる」

「昨日、案内してくれた時はホンマお淑やかな人やと思ってたんやけどなぁ」

「奴良が絡むと、そうなるんだよ。“恋する乙女”って奴だよ」

 ゆらは感心したように手を打つとまじまじとリクオを見つめた。

「何? あんたもああいうのが好み?」

 厭らしい笑みを浮かべて脇腹を小突く。

 ゆらは、笑顔を浮かべて言いきった。

「“いい人”そうやけど、それだけやね」

 彼女の言葉に、巻も、鳥居も腹を抱えて笑った。

 

 軋みを上げて、扉が開く。

 視界に広がるのは、古文書や人形、武器や壺などの骨董品の数々。

 硝子で覆われた展示台には、学者が唾を飲み込むであろう貴重な物まで並んでいる。

 リクオが魅琉鬼に耳打ちする。

 視線の先には不気味な程、状態の良い日本人形があった。

「ねぇ、あれって……」

「はい、恐らく九十九神の類いかと」

 リクオが唾を飲み込むと、同時に清継が日記を読み始めた。

 戦慄し、叫ぶも時既に遅し。

 漆黒の髪は蠢き、カナ達に襲い掛かった。

 魅琉鬼の瞳が鋭さを増す。

「やはり、この女が……」

 呟きは爆音に掻き消された。

 そう、開花院 ゆらは、リクオ達妖怪の宿敵、陰陽師であった。

 皆がゆらに群がる最中、魅琉鬼は溢れ出る殺気を抑え拳を硬く握った。

「(あの程度なら“今の”私でも楽に排除出来るわね……少し骨が折れるかもしれないけれど、開花院は早めに潰しておきましょう……御爺様の旧知の血筋を絶やすのは忍びないわね……フフ)」

 赤い鬼がその牙を剥く時はそう遠くなかろう。

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 渇いた音が広間に響く。

 リクオは痛みの走る頬を抑えた。

 飛び交っていた怒号の雨がぴたりと止んで、静寂がその場を支配した。

 呆気に取られていたリクオが一拍遅れてぬらりひょんを睨みつける。

「おう、おう。いっちょう前に、睨めるじゃねえかリクオ」

「馬鹿にするなよ!」

 腕を振って憤慨する。

 ぬらりひょんの眼光が鋭くなり、リクオは肩を竦ませる。

 上座に腰を降ろし、紫煙を燻らせる。

「簡単にビビりおって……おい、リクオ。お前さん、まさか儂の代紋と引き換えに小娘たちを助けるって魂胆かい? ええ?」

 ドスを利かせた声に恐怖して、拳を握る。

 蝋燭の火が揺らめいた。

「魅琉鬼、ちと甘やかしすぎやしないかい?」

「申し訳ございません」

 リクオはかっと目を見開き叫んだ。

「魅琉鬼は関係ないだろ!」

 ぬらりひょんは煙管を遊ばせながら煙を吐いた。

「無様にも鼠の良い様にされおって……いいか、絶対に代紋を明け渡すことは許さん。青、氷麗、首無し。この馬鹿たれを部屋へ閉じ込めておけ! 儂がよしとするまで、決して外へ出すな」

 リクオの側に控えた側近は一往にして短く返答する。

 ぬらりひょんは、後ろを振り向かぬまま障子の戸を閉めた。

 

「御爺様、少々よろしいですか」

 魅琉鬼はぬらりひょんの部屋の前に座して返答を待つ。

「何じゃい」

 その声には、些か苛立ちが覗いて見える。

 少々意地の悪い問いが飛んでくる。

「慰めてやらんでもいいのかい」

 少しの間が空き、静かに応えた。

「女に見られたくない顔の一つや二つ。殿方にはありますでしょう?」

 鼻を鳴らして寝返りを打つ。

「好きにせい……破門した小悪党どもの始末はお前に任せる」

 一陣の風が吹き荒れ木々を揺らした。

「……ありがとうございます」

 障子に映る黒い影が闇夜に溶けた。

「赤鬼の逆鱗に触れたか……」

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 青い月の光が簀板に映り込む。

 その灯りが人の容(かたち)をした赤い鬼を照らしている。

 袴の腰紐を固く絞ると、着物袖から白い腕を引き抜いた。

 雪肌が冷たい月光の下に晒されている。

 女の象徴たる乳房には“さらし”が巻かれていた。

 金色(こんじき)の双眸が闇夜に炯々と光を放つ。

 掛け台に掲げられたひと振りの刀を手にして柄を引く。

 半分ほど露わになった刀身が青白い光を浴びててらてらと輝いている。

 漆黒の羽織を纏って障子の戸を開け放った。

 満月が赤い鬼を見下ろしている。

 吹き込んだ風に羽織が煽られて、虎の刺繡が覗き見えた。

 縁側から足を足を下ろして瞳を閉じる。

 雪駄が砂利を踏む音だけが聞こえる。

 一歩。

 二歩。

 三歩。

 音が止まった。

 腰に帯びた刀を抜き、歩幅を広げるとざっと音がして砂利がはじけた。

 中腰にかがんで右手を柄の前へ。

 しだれ桜の枝がざわつく。

 一匹の梟が羽ばたいた。

――その刹那。

 銀色の一閃が闇に奔る。

 白刃が鞘を滑って。

 鯉口が音を立てた。

 赤い鬼の唇に笑みが点った。

 梟の頭蓋が地に沈む。

「――殺すつもりは、なかったのだけれど……雪那」

 白銀の化け猫が主人の前に姿を現す。

 月光を背にして、梟の躯(むくろ)を見下ろしている。

「喜びなさい。“食事”の時間よ」

 

――赤い唇に舌が這う。

――人の“容”をした鬼が一匹。

――腹の底で燻ぶる“業”に酔いしれて嗤う。

 

 

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鼠狩り

注意:残酷な描写を多分に含んでおります。


 耳を劈く少女の声が闇夜に響く。その声を聞く“人”の姿は何処にもない。

 白い狩衣が裂けて、少女の瑞々しい肌が月光の下に晒された。小さな膨らみを腕で隠して石畳の上に尻を付く。少女は闇に広がる赤い瞳を睨み叫ぶ。

「あんたら、覚悟しとき! 必ず滅してやる」

 それは虚勢か。いいや、違う。

 陰陽師としての矜持が今の彼女を支えている。

 異形の鼠がゆらの腹を蹴り上げた。胃が持ち上がる感覚に嗚咽し、胃酸が石畳を濡らす。

「おぐえ」

 仰向けになった彼女の腹に革靴がめり込んだ。

 一つ。

 二つ。

 三つ。

「がっ! うげ! おえ」

 吹き上がった鮮血が狩衣を赤く染める。

「おい、お前ら“オイタ”はその辺にしとけ」

 踵の音が響く。黒服の鼠達は列を成して道を空けた。

 白いスーツの男。

 襟の大きな紫色のシャツは胸元から肌蹴ている。金色の鎖が音を立てて揺れていた。男はゆらの前でしゃがみこんで、黒髪を鷲掴む。

「あーあ、かわいそうに……こんなに真っ赤になっちゃって」

 ゆらの唇に笑みが点った。

「ぺっ!」

 鼻の頭に唾が飛ぶ。男の蟀谷(こめかみ)に青筋が浮かぶ。

「がきだと思って優しくしてりゃ、調子くれやがって……てめぇをこれから輪姦(まわし)たっていいんだぜ?」

 金色の前髪を掻き上げて嗤う。

――赤い瞳に加虐の火が点って。

――異形の鼠が牙を剥く。

 大きく裂けた口には隙間なく牙が並んでいた。銀色の糸が伸びて、赤い舌がゆらの頬をすべる。生ぬるい熱が嫌悪を呼び、屈辱が腹の底から湧き上がってくる。己の無力さに唇を噛むと、その端から赤い血が流れて落ちた。

「おい、この女(あま)牢屋にぶち込んどけ! そこでねんねしてるかわいい子ちゃんと一緒にな」

 牢獄に放り込まれ、鉄柵に頭をぶつけて視界が歪む。眼球を横へ向けると両手両足を荒縄で縛られ、猿轡を咥えたカナが寝息を立てていた。

「ごめんな……家長さん、うちが弱いばっかりに……」

 力なく呟いた。

 瞼が重い。

 意識が闇に包まれた。

 男は、少女二人を見下ろしながら懐に手を潜らせてシガレットケースを取り出すと煙草を一本咥えた。

 脇に控えた黒服が銀製のライターで火をともす。紫煙がゆらりゆらりと闇に溶けてゆく。

 金の装飾が施された玉座に腰を降ろし、頬杖を付く。左手で赤い葡萄酒が注がれたグラスを遊ばせている。鼻腔を通り抜ける香りを楽しみ、鮮血を彷彿させる酒に舌鼓をうった。

 

 

 

 

――ひどい臭いね。

 

 

 

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 声が聞こえる。

 ひどく、扇情的で。

 ひどく、妖艶な。

 女の声だった。

 漆黒の闇にぼうっと浮かぶ灯りが四つ。

 ひとつは、金色(こんじき)。

 ひとつは、赤色。

 それは瞳。

 赤い鬼と銀の化け猫であった。

 黒い羽織が夜風に煽られてはためいている。腰に一振りの刀を帯びている。

 逃げろ。

 逃げろ。

 逃げろ。

 頭蓋の中で、甲高く警報音が響いている。

 なんだ。

 なんだ。

 足が竦む。

 背筋が凍る。

 鋭く尖った牙がかちりかちりと音を立てた。

 喉元が大きく盛り上がった。

「これは、これは……誰かと思えば“半端者”にご執心の赤鬼様じゃありませんか」

 大げさに方を竦めて白い背広の男がいった。

 組んだ足が震えている。

 黒服の鼠達が爪を立て、牙を軋ませる。

 その爪は容易に肉を裂くだろう。

 その牙は容易に骨を砕くだろう。

――けれど。

――けれど。

 赤い鬼を前にその爪と牙は意味を失う。

「あら、いけない……傘を忘れてしまったわ」

「あ? そんなもん、何に使うってんだ。雲ひとつありゃしねぇのによ」

――女の赤い唇が横に伸びた。

 

 

 

 

――雨が降りますから。

 

 

 

 漆黒の闇に銀色の一閃が奔る。

 白刃が鞘を這いずる。

 鯉口が静かに音を立てた。

――それと同時に。

――血潮が舞い上がって。

 けたたましく赤色が迸る。

 白い背広が赤く染まった。

 ぽつり、ぽつり。

 石畳を叩く赤い雫。

 はじめは弱く。

 徐々に、強く。

 石畳を濡らしてゆく。

 ごちり、と鈍い音が耳に届いた。

 眼球を左へ。

 黒い塊が玉座の横に転がっている。

 それは頭蓋。

 それはつい数瞬前まで同胞だったはずの者。物言わぬ躯が崩れ落ちて石畳を赤く染めてゆく。

「――ほら、ねぇ降ったでしょう?」

 赤い鬼が牙を覗かせて嗤った。

 また音がした。

 白い男の頬が赤く染まる。

「――え」

 視線を右へ。

 やはり頭蓋が転がっている。

「ひっ」

 雪駄の擦れる音が聞こえてくる。

 鬼の美しい貌が目の前にあった。

「鬼ごっこをしましょう」

「へ」

 突拍子のない提案に間の抜けた声が漏れる。

「此処にいる鼠を一匹ずつゆっくり殺していくからその間、貴方は逃げなさい。けれど、覚えておきなさい。私(わたくし)、鬼ごっこは得意なの……追いかけるのは特に」

 喉が震える。

「な、何言ってんだい? アンタ。こっちには人質がいる。この女どもがどうなってもいいのかよ」

 鉄柵を指さした。

「ひ、ひ、ひ」

 声。

 女の嘲笑。

 さらしの巻かれた腹を抱えて、鬼が嗤っている。

「ひひひひひひ、あはははは! あっははははは!」

 狂ったように赤い髪を揺らして嗤い続ける。

 天を仰ぐと枝垂れた髪が金色の瞳を覆い隠した。

「そう、この娘達は人質なの? あっは! あっははは!」

「何がおかしい!」

 男は叫ぶ。けれど、赤鬼は気がふれたように嗤うだけで。

「だって、この娘達は私(わたくし)にとって“邪魔者”でしかありませんもの。けれど、リクオ様はきっと泣いてしまうわね……そうだわ。きっとそう。だから私が慰めてさしあげるの……ああ、素敵だわ! とっても! そうよ。リクオ様の瞳には私だけが映っていればそれでいいのよ。だから、こんな小娘達さっさと殺せばいいのに、貴方たちときたら」

 白いスーツの股から染みが広がっていった。男は発狂し、叫び声を上げて背を向けて走り出す。

 踵の音を掻き消すその声は、徐々に闇に溶け込んでゆく。

 一拍の間をおいて。

「雪那、“食べ残し”はお行儀が良くないからだめよ」

 猫の咆哮が轟く。右前足で鼠の頭蓋を踏み潰した拉げた骨から飛び出した脳髄と眼球を啜り、虫のように蠢く躯を加えて頭上へ放る。肉界が天高く舞って、落下してくる。

 鋭く巨大な牙が肉と骨を砕いた。

 骨をすり潰す音が聞こえる。

 腸(はらわた)を引きちぎる音がする。

 悲鳴もない。

 嘆きもない。

 ただ銀色の猫が赤い瞳を炯々と輝かせるだけ。

 蜘蛛の子が散るように鼠達が逃げだした。

 月明かりに照らされた巨大な影が鼠を覆う。頭上から齧り付いて腰から上を食い千切る。 赤い血が滴り落ちて石畳を濡らした。

 猫の下顎が数度動いた。そのまま肉の塊を吐き捨てる。

 唐突に烈風が吹き荒れる。螺旋を描く風の刃が鼠の身体を粉微塵へ変えてゆく。

 絶望と悲鳴が跋扈する。轟音が鳴り止んだ。場を静寂が支配する。鼠の視線が一点に集まっていた。そこには白い着物に身を包んだ少女が佇んでいる。

 赤い虎縞が浮かんだ耳が上下する。白い頬には赤い文様が浮かんでいた。

「あら」

 赤鬼は、瞳を見開く。くすりと微笑を浮かべた。

「そう“まずい”のね……よかったわね……あなた達どうやらちゃあんと“地獄”へ逝けそうよ」

「何言ってやがんだ! 糞! 糞! くそったれが! こうなりゃ殺される前にやってやる」

 乾いた音が響いた。それは鞘が石畳の上を転がる音。

 月光を浴びて怪しく光る鋒(きっさき)は等しく赤い鬼に向けられていた。

 数にして百。いいや、二百か。

 どちらにせよ関係ない。

“やるべきこと”はすでに決まっているのだから。

 腰に帯びた刀を抜いて、歩幅を広げる。足元に広がる血の赤が白い足袋を染め上げる。

 銀の一閃が空を切り、石畳に亀裂が奔る。舞い上がった残骸が四方に散った。

 白刃が鞘をすべる音が一つ。

 赤鬼が血を蹴って、鼠の群れの中へ飛び込んだ。

 ひい ふう みい よお いつ むう なあ やあ こお とお。

 頭蓋が飛んだ。悲鳴は上がらない。その前に頸が飛ぶ。

 吹き荒れる血潮の中を赤鬼が踊る。

 袴の襞(ひだ)が円を描いて赤い髪がはらりと舞って、銀の白刃が赤色に染まる。

 金色の瞳が横へ流れた。突進してくる鼠を往なして、逆手に持った刀を背中へと突き刺した。鋒から赤い血が滴る。そのまま引き抜くと、けたたましい音を立てて鮮血が漆黒の羽織を汚した。其れを目の前に放って、鼠の視界を塞ぎ、大きく開いた口に刀の鋒を通す。刃を返して峯に手を添え、突き上げた。

 脳髄が刃に纏わりつく事を厭わずに斬る。

 黒くうねる其れを振って払った。

 踵を返す。赤い髪が揺れた。赤鬼の手が鼠の蟀谷を捉える。

「が」

 めきり、めきりと音がする。

 軋む、軋む、軋む。

 音、音、音。

「がががががが」

 意味を持たない音の羅列が漏れている。

――頭蓋がその形を失った。

 赤く染まった手首に舌を這わせて嗤う。

 「あら、もうおしまい?」

 金色の瞳が鼠達を見据えている。そのすべてが絶望に満ちていた。

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 

 猫の娘と赤い鬼が背中合わせに佇んでいる。其れを取り囲む無数の赤い瞳。異形の鼠達であった。遍くすべての殺意を一身に浴びてなお、赤い鬼の唇には笑みが点っている。

「きりがないわ」

 猫娘の耳が動いた。腕を高く振り上げて交差させて振り下ろす。

 

 

――少女の腕からひどく無骨な刃が生えている。

――“それ”には洗礼された輝きも優美さもありはしない。

――それでいい。

――必要なのは、肉を裂いて骨を砕き、臓物を抉る形だけ。

 

 

 瞬きひとつ。

 それだけあれば、少女には充分だった。

 鼠との距離が一蹴りで縮む。石畳を深く抉った刃が、頸を刎ねた。歪な断面から覗く肉と骨。そこから滴る赤色が鼠の骸を塗りつぶす。

 奇妙にくねった躯(からだ)が地に沈む。猫の娘は天高く飛翔すると満月を描くように宙でくるりと回ってそのまま直線的に降下。

 鼠の脳天に鈍い衝撃が走る。黒い躯が浮き上がって、石畳に叩きつけられた。頭蓋は拉げる。

 元の形はわからない。

 逆立ちして大きく開脚した足が螺旋を描く。

 踵から生えた三日月状の刃が鼠の心臓を抉った。

 鋒で力弱く脈打つそれは、やがて動かなくなった。

「まぁ、雪那ったら……裾が捲れてみっともないわ」

 少女は答えない。

 代わりに、鼠を狩ってゆく。純白であったはずの着物が赤く染まっていた。

 女は、ほくそ笑みを浮かべて踵を返す。

 鼠達の赤い瞳がひどく怯えていた。

「情けのない……たかが女と猫一匹、少しは殿方の甲斐性をお見せなさいな」

「ちょ、調子に乗るんじゃねぇよ! 糞女(あま)が」

 鼠が吼えながら赤鬼に襲い掛かった。天高く振り上げた日本刀が赤鬼の頭上から縦に一文字の軌道を描く。

 

――けれど、赤鬼の唇には笑みが浮かんでいる。

――耳を劈く音がひとつ。

――砕けた刀身が宙で螺旋を描いた。

 

 鋒が石畳の上に突き刺さった。

 一拍の間をおいて、鼠の腕が横に“ずれる”。

 鮮やかな断面から赤い鮮血が迸る。膝を付いて蹲り、呻き声をあげる。金色の双眸がそれを見下ろしていた。脳天から鋒を振り下ろす。美しい鬼の貌が赤く染まって。

 身の毛もよだつ嘲笑ひとつ。

――赤い舌が、唇をなぞって。

――漆黒に赤色が迸る。

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 丑三つ時の街頭に踵の音が響いている。

 それ以外の音はない。

 満月が照らす影が一つ。

 ひどく珍妙な男が闇の中を駆けてている。

 男は“人”ではなかった。

 人の容をしていても。

 人の言葉が紡げても。

 彼は人ではない。

 異形。

 人の容をした獣(けだもの)。

 その爪は、容易く人の肉を裂く。

 その牙は、容易く人の骨を砕く。

 けれども、その獣は逃げている。

 涙を浮かべて。

 息を切らせて。

 逃げるのだ。

 血塗れた赤い鬼から。

 

 

 

――みーつけた。

 

 

 

 足が止まった。

 顎から流れ落ちた汗の音がぽつり、ぽつりと聞こえてくる。

 踵を返して振り返る。

 視線の先に赤と金の瞳が四つ、ぼうっと浮かんでいた。

 街灯に照らされて、赤い鬼がその全容を晒す。

「ひっ」

 悲鳴と同時に後方に倒れこんで、冷たい鉄筋コンクリートの上に尻をついた。

 雪駄の擦れる音が迫っている。

「いやだ! いやだ!」

 倒れこんだまま手と足を引きずって後方へ。

 垣根に背を預て震える。

「だから、言ったでしょう? 鬼ごっこは得意だって……」

 赤く染まった頬肉を吊り上げて鬼が嗤った。

「え、え、え」

 意味を持たない声が漏れている。

 赤鬼が腰に帯びた刀を抜いて構えを取る。

 歩幅を広げ、腰を折り右手を柄の前へ。

「待って、待って!」

 鼠は顔の前に手を翳して叫ぶ。

 鬼の唇には笑みが点ったままだ。

 ひゅん、と空を切る音がして。

 鼠の膝から下の足が飛ぶ。赤い血がコンクリートを染め上げた。

「いてえ! いてぇよ!」

 情けなく泣き喚いた。

 恥も外聞もなく。

 横に倒れこんで、身体を引きずって必死に逃げようとする。

 けれど、赤鬼がその行く手を阻んだ。鼠を見下ろす金色の双眸はひどく冷徹であった。

 手の甲に刀の鋒が突き刺さる。

「いぎっ」

 赤鬼がその血塗れた手で金髪をつかんで、引き上げた。刀身に血が這いずる。

 黄金の瞳と視線が重なった。

「――とてもお腹が空いているのよ」

「え」 

 鼠の頓狂な声が漏れた。

「一度“箍(たが)”が外れてしまうと、この子も私も歯止めが利かなくなるものだから今まで口にはしなかったのだけれど」

 

――鬼の口が大きく開いて。

――鼠の頸筋に牙が突き刺さる。

「あ、がががが」

 分厚い肉が横へと伸びて。

 鈍い音を立てた。

 けたたましく血飛沫が上がって、鬼の貌をさらに赤く塗りつぶしてゆく。下顎が蠢くのと同時に赤いしずくが足元に広がる血の池に溶けてゆく。

「ぷっ」

 赤黒い肉片を吐き捨てる。

 一段大きな音がして其れが赤い池に沈んだ。

「まずい……雪那、途中でやめて正解だわ。こんなまずい肉を口にしたらお腹を下してしまうもの」

 

 

 

 

 

――けれどね、食べ残しははしたないでしょう?

 

 

 

 

 だらんと垂れた腕を横に伸して捻った。肉の繊維が嫌な音を立てて、骨の付け根が砕け散る。

 骨と肉を音を立てて啖(くら)う。

 頭蓋がめきり、めきりと軋みをあげて骨が拉げる。飛んできた眼球が赤い頬を叩いた。

 どろり、とうねる脳髄を下品に音立てて啜る。

 足の付け根からでろりと赤い肉が垂れ下がっている。

 頭上に持ち上げた其れを大口を開けて頬張った。

 ごくりと喉が鳴る。

 糞の詰まった腸(はらわた)を牙で食い破る。

 口の中に広がるひどい臭いと強烈な嫌悪に嗚咽した。

「ひ、ひ、ひ」

 鬼は嗤う。

 腹の底がひどく熱い。

――赤い炎が天高く舞い上がった。

――赤く濡れた身体を抱いて天を仰ぐ。

――悲鳴はない。

――嘆きもない。

――ただ、美しい鬼は嗤うだけ

 

 




理想郷にすでに掲載してある『鼠狩り』の改訂版です


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――何故。何故。

 頭蓋の中が螺旋を描く。

 その問いに応える者はいない。

 少年はただ、唖然としていた。

 瞳に映るのは、美しい女だ。

 椿の鬼姫と畏怖される女だ。

 彼が焦がれてやまない唯一。

 陽光に照らされた赤い髪が、枝垂れて落ちる。

 鼻孔を擽る香りは思考を蝕んだ。

 畳の上に散らばった氷が形を失ってゆく。

 黄金の双眸が少年を見下ろしていた。

 淀みだとか。

 陰りだとか。

“これ”を表す言葉を彼は持たない。

「み、るき……」

 震える唇で名前を呼んだ。

 けれど、女は応えない。

 かわりに、襦袢の腰紐がほどけて――……

 緩やかに、肩からすべり落ちた。

 細く、しなやかな女の裸体に少年は息を呑む。

 白い柔肌に赤い髪が纏わり付く。

 女は、薄い唇に舌を這わせて、ほくそ笑みを一つ。

 

 

 

 

――おいしそう――

 

 

 

 ぞわり。

 身体が震えた。

 恐怖を抱いた。

 四肢が強ばる。

 汗が吹き出す。

 瞳に映るのは、人の容(かたち)をした鬼だ。

「むぐ」

 唐突に、其れは襲いかかった。

 確かなぬめりとした感覚が口蓋に広がる。

 彼の意を得ずに。

 彼の言葉を無視して。

 無遠慮に侵入してきた舌が、舐り、嬲り、犯し、啜り、絡む。

下品な音が跋扈する。

 其れは劣情の音。

 其れは色欲の音だ。

 人の貌をして。

 人の容をした。

 赤い鬼の本性。

 互いの舌先から伸びた糸が帆を張った。

 てらてらと光るその糸は、酷く淫美である。

 ひゅう、ひぃうと息が洩れる。

 赤くなった頬は、息苦しさの所為ではない。

 女の貌は、ひどく蠱惑的であった。

 黄金色の瞳に、加虐の火が灯る。

 赤い舌が上から下へ。

 少年の体が、小さく跳ねた。

 指の腹で鎖骨をなぞる。

 熱を帯びた掌が、彼の薄い胸板を這い回る。

 次いで、女の舌が追う。

 汗と唾が混ざり合う。

 臍に溜まった其れを啜り上げた。

 空気を含んだ卑猥な音だけが響く。

 女は満足そうな貌をして。

 その劣悪な性が牙を剥く。

 

――するり、と。

――頸へ絡みつく。

――白い指。

 

 真綿を締めるように。

 徐々に。

 徐々に。

 軋む。

 軋む。

 声にならない音の羅列が響く。

 あまりにも、容易く。

 あまりにも、呆気なく。

――その頸が、鈍い音を鳴らした。

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 音を立てて、布団が翻った。

 ひゅうひゅう、と息は荒い。

 汗に濡れた赤い髪が胸元へ枝垂れる。

 金色の双眸からは、一筋の涙がこぼれ落ちた。

 頬に白い指が触れる。

「わ、わたし……は……」

 顔を右へ、左へ動かして辺を見渡す。

 誰もいない。

 音も聞こえない。

「……夢」

 声に出すと、ようやく悪夢から醒めたと自覚した。

 布団の脇に置かれた桶の水面(みなも)には、小さな布が浮かんでいる。

 漫然と障子の向こうを見つめる。

 しだれ桜の影が、風に揺れていた。

『若! お待ちください! 看病ならワタシと毛倡妓がしますから』

『そういう訳にはいかないよ。僕のせいでもあるんだから』

 二つの影が映り込む。

 一つは、影を追う様に。

 一つは、影を無視する様に。

『私が言ってるのはそういう事ではなくてですね! 今は――』

 少女の声を無視して、障子の戸が開かれた。

 少年、奴良リクオの表情が固まった。

 魅琉鬼は、其れを見て目を丸くする。

 一。

 二。

 三。

 固まったまま動かない。

 氷麗はといえば、頭に手を当てて天を仰いでいる。

“やっちまったな”という貌をして。

 けたたましい音を上げて赤色が舞った。

「だから言ったのに……アンタも早くその“無駄に”でかい乳を仕舞いなさい! はしたない」

 無駄にという部分をやけに強調されているのは彼女の持つ劣等感故か。

「え……きゃっ」

 小さな悲鳴を上げて、襟の乱れを整えた。

 

 

「まったく、アンタって奴は……どこまで大きくすれば気が済むのよ! ワタシへの当て付けなの?」

 頬を可愛らしく、膨らませてタオルをきつく絞る。

 魅琉鬼は掛け布団で口元を隠しながら、恥じらう。

「苦労も多いのですよ? “さらし”は毎度、きつく締めないといけないけませんし……お腹には厚手の布を巻く手間が掛かりますから……」

 彼女の言葉に、氷麗の青筋が濃くなった。

「嫌味? 嫌味を言ってるのかしら?」

「そんなつもりは……」

 氷麗が溜息を漏らして、魅琉鬼の額へ布を置く。

 すると、あまりの熱に湯気がたったではないか。

「魅琉鬼! アンタ、風邪にしたって熱すぎるわよ!? 私を溶かす気なの?」

「すみません……どうも体温が異常に上がっているらしくて」

「バカ! なんでもっと早く言わないのよ! 待ってなさい! 今、超特大の氷作ってきてあげるから」

 早々に立ち上がって、台所へ足を向ける。

 静けさだけを残して、魅琉鬼は天井を見つめた。

「ありがとう……氷麗さん」

 呟いた声は誰にも届かない。

 

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 掛け時計の厳かな音が響き渡る。

 時刻は正午。

「“椿の鬼姫”がなんとも無様だな」

 布団に横たわった魅琉鬼を見下ろして、男が言う。

 そのまま腰を落として、胡坐をかいた。

 着物の袖を弄り、薄い和紙に包まれた薬をひょいと投げる。

「睡眠薬だ。気休めだが、ないよか、ましだろう」

「ありがとうございます。畜生の分際にしては、気が利きますね」

「てめぇは相変わらずで、俺は嬉しいね」

 唇の端を釣り上げて嗤う。

 蟀谷に青筋がくっきりと浮かび上がった。

 顔色の優れないこの男は、薬師寺一派統領の毒鶴妖怪【鴆】その人である。

 魅琉鬼とはご覧の通り、犬猿の仲だ。

「お前、何しやがった? こりゃ、風邪なんて生温いもんじゃねぇだろう……」

「あら、女の秘密を探ろうだなんて……無粋ね」

 赤み掛った貌で頬笑みを浮かべた。

 額には、夥しい汗が滲んでいる。

「貴方なんかに心配されるなんて……どうしましょう? 最大の汚点だわ」

「ああ、そうかよ! さっさと寝ちまいやがれ! この弩腐れのあばずれめ」

 肩に掛けた羽織を揺らしながら足音を立てて襖の方へ向かう。

ぴたり、と音が止む。

 魅琉鬼に背を向けたまま鴆が呟いた。

「……若にあんまり心配かけるんじゃねぇぞ」

「……承知しました」

 

 

 ぴしゃり、と水音がする。

 少し厚みのある布を片手に、リクオは生唾を飲み込んだ。

 額から滴る汗が畳を濡らす。

 悪戯に時が過ぎてゆく。

――何故。何故。

 頭蓋を反芻する問いは意味を持たない。

 唇は渇き、潤いを失う。

 ただ、其処にある現実に魅入られていた。

「リクオ様?」

「ひゃい!?」

 舌を噛んだ。

 その痛みが、理性を呼び戻す。

 さて、どうしたものか。

「み、魅琉鬼? こ、こういう事は……その……氷麗とかに頼んだ方が良いんじゃないかな?」

「あら、先程は私(わたくし)の為に出来る事は何でもして下さると仰ったではありませんか」

 その声は、明らかに落胆の色が。

 リクオが言葉に詰まると、魅琉鬼はさらに続けた。

「其れに、今この部屋に来たら氷麗さんが溶けてしまいます」

「た、確かに……」

 部屋の中は、異様な熱気に包まれている。

 その証拠に氷麗が作りだした特大の氷塊は形を失いつつあった。

 熱源地である魅琉鬼も背中が汗でぐっしょりと濡れている。

 しかし。

 しかしである。

 健康な青少年の前に、汗に濡れた女の背中があるのだ。

 手を伸ばせば其処に、浮世絵中学校全生徒の憧れである美女の背中が。

 之を前に、平静を装える男がいるだろうか?

 いいや、いいや。

 否である。

 視界が霞む。

 息は荒くなる一方だ。

 震える手で、その柔肌に触れる。

「んっ」

 小さく漏れた声は、リクオを動揺させるのには充分過ぎた.

「ごごごご、ごめん! 魅琉鬼!」

「いえ、少し擽っただけですから……」

 お互いに黙り込むこと数分。

 リクオが意を決したように。

「いくよ」

「……はい」

 上から下へ。

 布を優しく滑らせる。

 始めは覚束なかった手の動きも、段々と落ち付いて来た。

 魅琉鬼の悩ましげな声に苦悶しながらも、心の中で念仏を唱え続けた。

「ふぃ……とりあえず拭き終わったよ」

「ありがとうございます……次は“前”を――」

「自分で出来るでしょ」

「……いけず」

 すかさず言ったリクオに少しばかりの不満を漏らす。

 けれど、その表情は楽しげで穏やかな物であった。

 襦袢に袖を通し、襟元をしっかりと閉じて腰紐を縛る。

 リクオは正座したまま、背中を向けて、頬を掻いた。

「そろそろ夕飯の支度だね……後でお粥を持ってくるから食べてね」

 そう言って、立ち上がろうとしたリクオの袖を魅琉鬼がきゅっと掴んだ。

「もう少し、一緒に……」

 そう言って、視線を逸らす彼女にリクオの胸が高鳴った。

 頬の赤みはきっと、熱の齎す物ではない。

「う、うん! そうだね! まだ時間はあるからもう少しだけ……」

 魅琉鬼は嬉しそうに微笑んだ。

 

 その光景を、障子の隙間から覗き見る六つの瞳があった。

「何なの、何なの! 何なのよ! あの桃色空間は! 只でさえ熱帯空 間なのに更に熱くしてどういうつもり!?」

「そう思うんなら何で覗きに来てるんだよ……って、おい! 氷麗! お前溶けてるぞ」

「青! 静かにしろ!? 若達が気付くだろう」

「ふふ、心配ないわよ首無し。ああなったら私達の事なんか完全に忘れてるわ」

 三つの声は確かに二人には届いていない。

 物理的に溶けそうな熱帯空間が氷麗の身体を蝕む。

 螺旋を描く彼女の瞳は、高速で回転しながら地に伏せて枝垂れ落ちた。

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 蒼い月が、盃に映り込む。

 桜の花弁がたゆたう水面を覗きこんで、ぬらりひょんがほくそ笑んだ。

 縁側で手酌酒を楽しむその隣には人に化けた雪那の姿があった。

 二人は、無言で時を過ごす。

 虫の鳴き声に耳を傾けるだけで酒は旨くなる。

 隣にいい女がいれば、其れは格別だ。

「どうだい? 魅琉鬼の様子は」

『もう大丈夫だって』

「おお、そうかい? そいつぁ良かった」

 白い紙に筆を走らせた雪那の頭にぬらりひょんが手を置いてやる。

 嬉しそうに、笑って返す。

「“餓鬼の業”というのも難儀なもんじゃな」

 頸を振って言うぬらりひょんに雪那は、瞳を伏せた。

 陰が落ちる程に長い睫が、月の光を浴びて輝いた。

『かわってあげたい』

「ほほ、お前さんは相変わらず優しいのう」

『そんなことない。ちくしょうにおちた悪い鬼』

 そう言って両手の人差し指で角を作って頬を膨らませた。

「ぬはは、そうかそうか」

 空になった徳利を脇へ置いて、懐から煙管を取りだした。

 漆黒に、橙色の灯りが灯る。

 紫煙が儚げに夜に溶け込む。

「リクオに言うつもりはないのかい?」

 煙管を揺らしながら、ぬらりひょんが言う。

 真新しい紙にまた筆を走らせる。

『心配かけたくないんだって』

「……なるほど、しかし相変わらず魅琉鬼もリクオには甘いのう」

 雪那が袖元で唇を隠してくすりと笑った。

『おじいちゃんだって、リクオさまには優しい』

「くくく、こいつぁ一本取られたなぁ」

 

 

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

 

 

 青い閃光に遅れて、雷鳴が轟く。

 曇天の空の下、大木の影で蹲る若人(わこうど)が一人。

 足を放り出して、落ち葉の上に尻をつけている。

 どうやら足を挫いたらしく、其処から動かない。

 上着の衣嚢(いのう)から煙草を取り出して、火を灯す。

「くっそ、ついてねぇな……アイツ等まさか俺を置いて帰ったんじゃ ねぇだろうな……雨も降ってきそうだし、最悪だぜ」

 男が一人毒づく。

 それに応える者など居らず、ただ、救助が来ることを祈るしかない。

 こんな山の中で、飲まず食わず、一夜を過ごすなど真っ平御免だが、 それも仕方がない。

「お兄さん、こんなところでなにやってんだい?」

 不意に、声が聞こえた。

 顔を上げると、其処には十五六ほどの少年が佇んでいた。

 男は、この幸運に感謝した。

 けれど、すぐに訝しげな貌をして尋ねる。

「何それ? コスプレ?」

 彼がそう言ってしまうのも無理はない。

 今時珍しい、髷に袴姿の少年。

 その腰には日本刀と脇差を携えて。

 艶やかな黒髪は右目を覆い隠す。

 純白の襟巻きが風にたなびく。

「――お兄さん、早く逃げなきゃ駄目だよ」

「へ?」

 

 

 

 

――喰っちまうぜ?――

 

 

 

 

 ぞわり。

 全身を這い回るのは、恐怖。

 思考を蝕むのは、狂気。

 軋む。

 軋む。

 音。

 音。

――何だ。

――何だ。

――あの悍ましく、黒い。

――あの“爪”は一体何だ。

 鋭く、硬いその“爪”は、巨木の幹さえ抉ってみせた。

 カチカチと乾いた音が響く。

「あぎ、ぎ」

 意味を持たない音の羅列。

「ん?」

 少年が眉を顰めた。

 よぉく目を凝らしてみれば。

 男の頸に、細い糸が絡みついている。

「チッ」

「あぎ、あがが」

 男の五本の指が蠢く。

 男の躯が。

 徐々に。

 徐々に。

 上へ。

 上へ。

「あえ、え……」

 男の口から泡が溢れた。

 ぴんっと糸が弾けた。

 全身の力が抜けてだらしなく垂れ下がる。

「ったく、おい馬頭(めず)! 獲物を横取りするんじゃねぇよ」

『へっへん! 鈍間なのが悪いんだぜ?』

――声。

 それは、男の背後から。

 馬の頭蓋骨が顔を覗かせる。

 現れたのは、もう一人の少年。

 長い髪と、馬の頭蓋で貌が隠れている。

 総髪の男児だ。

 馬の尾を思わせる髪を揺らしながら、高く手を振り上げて指を鳴らす。

 若者の躯が、地に落ちた。

「チッ……行くぞ。“牛鬼様”がお待ちだ」

 舌打ちをして、襟巻きを翻す。

 そのまま闇に溶けてゆく。

――悲鳴はない。

――嘆きもない。

――其処にあるのは、男の骸ただ一つ。




明けましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いします。


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謀反

一.

 

 闇の中で、蝋燭の火が揺れている。その灯りが照らすのは、厳かな貌をした一人の男。袖なし羽織を纏い女のごとく長い髪をした男だ。

 書見台で開かれた書の頁を捲る。両の手を袖に潜らせて、眼球を上から下へ滑らせながら文字を追う。

 一匹の蛾が、光を求めひらひらと舞う。暗雲の中で、燻っていた雷が弾ける。青い閃光がほんの数瞬ばかり闇を照らした。

 ふと、男の顔が横へ動く。簀子が軋む音がした。障子の先に人影一つ。長い襟巻きがたなびいて。

 轟音が迸る。障子戸に差した青い光で、その影の形がくっきりと浮かぶ。

「……牛頭丸か」

 静かな声だった。けれど、よく通る低い声。

 傅く影が応える。

「……はい。牛鬼様。手筈通り、リクオ様が捻目山(こちら)へ向かっております。ただ……」

「何だ」

「はい。余計な人間どもまでついて来ているようでして……」

「よい。捨て置け」

「……本当によろしいので?」

 影が聞く。

「問題ない。全て私の目論見通りだ」

「はっ」

 それきり声は途絶えた。障子に映り込むもない。

――遠くの方で音がする。

――空を裂く青い閃光と轟く雷鳴。

――男は静かに頁を捲る。

 

二.

 

 列車が規則正しく揺れている。線路を走るその音は、さながら子守唄だ。奴良リクオが静かに寝息を立てて眠っている。

 其れを上から見下ろす少女が一人。

 車窓から注ぐ陽光を一手に浴びて、黒く艶やかな髪が煌いている。

 少年を見下ろす眼差しはどこまでも優しげであった。

 前髪を指の腹でなぞってやる。眉間に皺がより少し擽ったそうに声を漏らす。

ああ、なんて可愛らしいのだろう。

少女は思った。

「……んっ……魅琉鬼?」

 リクオの瞼が上がる微睡む意識の中、瞳に映るのは美しい一人の少女。

 影が落ちるほどに長い睫毛に整った顔。黒い髪が肌の白さを引き立たせている。

 甘い香りが鼻腔を掠めた。リクオは漫然と少女を見つめる。数秒の間を置いて、彼の瞳が大きく見開かれた。

「み、魅琉鬼!? ななな、何で」

 ひどく狼狽したリクオを見て、魅琉鬼は薄い唇に手を添えてくすりと微笑んだ。まるでささやかな悪戯に成功したときの童のような貌をして。

「あ、あっ、あのっ………えっと」

 後頭部に伝わる柔らかな感触を楽しむ暇もなくリクオは身体を起こした。

「ご、ごめん!」

 リクオは頭の中で状況を把握するより前に謝罪を口にする。

 魅琉鬼はもう一度柔らかく微笑んで人差し指の腹を彼の唇に当てた。

「リクオ様? 車内ではもう少しお静かに……」

 言われてから周りを見渡し、乗客の視線を独り占めしていることに気づく。

 ある乗客は、嫉妬の眼差し、ある乗客は頬を染めて咳払いをし、ある乗客は後期心旺盛な瞳でこちらを見つめていた。

 眼鏡のズレを直して頭の後ろを掻く。膝の上に握った拳を置き、背筋を伸ばして俯いた。

 顔は茹で蛸のように赤くなっている。

「し、失礼しました」

 消えそうな顔で言って押し黙った。そのまま視線だけを隣で座る魅琉鬼へと移す。普段の和装とは違い洋装に身を包んだ彼女に息を呑む。

 裾の長い黒いシャツに赤いネクタイを少し緩めてしめている。襟から覗く鎖骨がひどく扇情的で、リクオの心拍数を乱すには十分であった。

 下は股のVラインが際立つデニムのホットパンツに白い足を包むツートーンカラーのハイソックス。

 芸術的とも言える絶対領域は、リクオのみならず数多の男を惑わす魔力を秘めている。

 普段、和装の上からでは見ることのできない魅琉鬼のたおやかなボディーラインがくっきりと浮かんでいる。

「――クオ……――様――リクオ様?」

 声に気付いて、我に還る。顔を上げると、心配そうにリクオを見つめていた。

「はっ! ……ごめん、ちょっとぼーっとしてて」

 恥ずかしそうに、指の先で頬を掻く。

 リクオは、両膝の上に乗せた拳を固く握った。手の中は汗で濡れている。

「………洋服、似合ってるね」

 言えた! と心の中で叫ぶ。魅琉鬼は一瞬目を丸くした後、頬を綻ばせて微笑んだ。気のせいか少し顔が赤くなっていた。

 元来人目を憚らず睦み合う男女というのは“目の毒”でしかない。これみよがしに甘い空間を作り出す二人を斜め向かいから歯を軋ませて睨みつける少女が一人。もうすでに暖かくなってきているというのに、首に長い襟巻きを巻いている。青みがかった黒髪が特徴的な少女。人間の姿に化けた氷麗だった。

彼女の隣に座っている少年、島 次郎は、両肩を抱いて震えていた。

「及川さん、なんか此処。異様に寒くないっすか?」

 彼の言う通り、氷麗の周りは極端に低かった。白い息が見える。

 車窓が凍っていた。しかし、そんな事は関係ない。

 島の言葉に耳を傾けることなく、定席の端を歯で齧りながら睨み続けるのであった。

 

三.

 

 一羽のカラスが漆黒の翼を羽ばたかせて茜色の空へと飛び立つ。鳴き声は、家長カナを怯えさせるには充分過ぎる程に無気味であった。落ち葉を踏む無数の足跡と枝が折れる音さえ鮮明に聞きとれる静寂の中、カナはリクオの服を摘み視線を左右へと配る。

 リクオはげっそりとした様子で歩みを進めていた。

 リクオの右隣で笑顔を絶やす事のない魅琉鬼。両手に花と言えば聞こえはいいが、リクオの心中は決して穏やかではない。一言も発することなく、仮面の様に貼り付いた笑顔はリクオの精神削ってゆく。毎度のこととはいえど慣れるものではない。

 先頭を行く清継は彼の心中など知った事かという風に上機嫌で山を登っている。

「清継ー! 足疲れたー! やすみたーい」

 そう言ったのは清十字怪奇探偵団のメンバー。巻 沙織長いブロンドヘアを枝垂れさせて、両膝に手を付き 肩で息をしている。

「そうよー。こんな山道もう歩きたくなーい」

 隣で座り込んでしまった鳥居 夏実が片手で頬を仰いだ。

「何を言ってるんだ! もう少しで“妖怪博士”との待ち合わせ場所の岩場に……」

 言いかけたその時、遠くの方から声が聞こえてきた。文字通り目の色を変えて清継が走る。それを尻目にだるそうな唸り声を上げて、渋々顔を上げる。座り込んでしまった鳥居に手を差し伸べる巻。

 

  ようやく約束の待ち合わせ場所にたどり着いた清継一行は落ち葉の上にブルーシートを敷き水筒のお茶で一息をつく。清継はといえば、サラリーマンの部下が上司に酌をするかのように“妖怪博士”に茶を注ぐ。

 リクオ達に対面して正座する壮年の男。髪と髭は伸びに伸びている。清潔とは程遠い人物であった。

 頭を掻き毟れば頭垢が飛び、その度に鳥居と巻が顔を顰める。

「ところで、博士例の件は……」

「おっと、そうだったね。お茶も頂いたことだし、案内しよう」

「あの、清継君。さっきから思ってたんすけどこのおっさん誰ですか?」

 島が訝しげな表情をして聞く。それは他の面々も同様であった。

「何を言っているんだい島君。この方は僕たち清十字怪奇探偵団のHPに特大の情報をお寄せくださった妖怪博士だ! SNSで知り合ったんだが僕の研究レポートを大いに評価してくださってね……―――」

高らかと語りだす清継を他所に魅琉鬼がリクオの左裾を指で摘み耳打ちをする。

「……リクオ様、どうやらあの男傀儡のようです」

「傀儡?」

「しっ! 視線を動かさないでください。そのまま話を聞いてください」

「う、うん分かった」

静止の声に一瞬肩を竦ませるが、顔を作って清継の話に適当な相槌を打った。

「恐らく、山に住む妖怪の仕業でしょう。この男の後について行くのは危険です」

「う、うん。そうだね」

「このままでは日が暮れてしまいますその前に何とか宿に全員を連れて行きましょう」

 言葉を飲み込んで頷くリクオ。今なお夢中で話を続ける清継を遮るようにして声を上げた。

「あのさ! 清継くん! 今日は皆疲れてるし! 明日にしようよ! 山の天気は崩れやすいっていうし危ないからさ!」

「何を言うんだ奴良君! これからが」

 此処でリクオと魅琉鬼の話を真後ろで聞いていた氷麗が助け舟を出した。

「賛成でーす! 私疲れちゃいました。清継君の自慢の別荘で休みたいでーす」

 待っていましたとばかりに鳥居と巻がこれに援護を送り、清継は半ば強制的に折れるしかなかった。

「ありがとう。氷麗」

 横へ並んだ氷麗にそっと耳打ちをした。心なしか彼女の頬に赤みがさしたのは夕日のせいだけではない。

「リクオ様………あとでお話があります」

声がした瞬間、リクオの心臓が大きく跳ねた。関節が錆びた人形のような軋みを上げながら後ろを振り返る。そこでは、大輪の花が咲いたような笑顔を浮かべた魅琉鬼の美しい貌があった。

 

四.

 

 ベッドのスプリングが軋みを上げる。

 掛け時計の秒針が、淡々と時を刻む。

 リクオは目の前に迫る“果実”に喉を鳴らした。ネクタイが襟をすべる音が少年の心を惑わせる。大きく開いたシャツから覗くのは、窮屈そうに拉げた柔肉だ。

「みみみみ魅琉鬼! 落ち着こう! 取り合えず落ち着こう」

「ふふ、可笑しな事を申されますわね? 私は充分落ち着いておりますよ」

 ひどく、蠱惑的で。

 ひどく、扇情的で。

 ひどく、加虐的な。

 妖艶な女の貌がリクオへと迫り来る。形のいい唇が言葉を紡ぐ。

「女は皆嫉妬の鬼なのですよ? 私を妬かせて楽しむだなんて、ひどい人」

 白い手が、すらりと伸びて。

 白いシャツの釦をぷつり、ぷつりと外していった。鎖骨をなぞる指はひどく冷たい。リクオの身体が熱を帯び、吐息が荒くなる。首筋に這う汗を魅琉鬼の舌が掬う。吸血鬼が生き血を啜るが如く、強く強く唇で吸い上げた。

「ふふ、可愛い」

 魅琉鬼の黒い髪が、赤く染まる。耳の形が徐々に変わって――

 金色の双眸が、リクオを見下ろした。垂れた髪がリクオの躰に纏わり突く。甘く官能的な香りは毒のように浸透して自由を蝕んだ。

「ま、まずいよ……もう少しで夕飯なんだから」

「あら、でしたら私の手を振りほどけばいいではありませんか? 女一人の力など、殿方ならばたわいもないでしょう? それに――」

 魅琉鬼の唇に薄く笑が点った。美しい貌が再び近づいた。

 けれど、軌道は逸れて耳の横へ。

 囁く声とともに吐息が掛かる。背筋に甘い痺れが奔った。

「扉の鍵は締めておきました」

――声と同時に。

『奴良君。ちょっといいかい?』

 突如、響いたノックの音に彼の心臓がどくんっと大きく跳ねた。声の主は清継だった。予期せぬ事態に思考が追いつかない。二度、三度とノックがつづく。

 魅琉鬼は艶笑を浮かべたまま動じない。そして、リクオの唇に人差し指を立てる。

『おかしいな。寝てしまっているのか?』

『きっとそうっすよ。アイツ女子の荷物全員分部屋へ運んで疲れたんっすよきっと』

 清継の呟きに島が応える。どうやら二人一緒らしい。

『仕方がない……夕食が終わったらまた誘うとするか』

 二つの足音が遠ざかった。リクオはそれと同時に、大量の息を吐き出す。

「危なかったぁぁ……」

 心底安心した様子のリクオに、少しへそを曲げた魅琉鬼が意地悪く言った。

「……意気地なし」

 声を無視してボタンをかけなおし、シャツの乱れを整える。シーツも綺麗に敷き直してベットへ腰掛けた。二人の距離は近い。

掛け時計の針がちょうど頂点を差して、厳かな音が鳴り響く。妙に気まずい空気の中、リクオは足の上で 指を絡ませながら言葉を探す。

「リクオ様」

 沈黙を破ったのは魅琉鬼だった。彼女の纏う空気が変わる。リクオは肩を強ばらせて頷いた。

「この山は危険です。くれぐれもあの者たちと山へ出てはなりません。決してこの別荘からは出ないようにしてください」

「う、うん………分かったよ」

 すうっと魅琉鬼の貌が綻び、リクオの緊張が緩んだ。

「約束ですよ」

 そう言って、リクオの前に小指を差し出す。少し戸惑った貌になった後、リクオも笑顔で応える。

「約束だ」

 

五.

 

 鹿脅しの音が夜空に響く。岩造りの露天温泉に浸かる乙女三人が星を見上げて声を漏らした。目の前に広がる竹林が夜風に揺れて、癒しの空間を演出する。

 すだれ天井に映る水面が、ゆるゆると揺蕩っている。巻は囲いに寄りかかって足を伸ばす。ぴしゃりと音がして、白い足が露出する。

 瑞々しいふくらはぎに水滴がすべる。彼女も魅琉鬼に負けず劣らずの美しいプロポーションの持ち主だ。カナと鳥居がバスタオルに包まれた慎ましやかな膨らみを掌で包み込んで視線を下へ。

「いいなぁ沙織は……」

「いいなぁ……巻ちゃんは」

 二人が口を揃えていう。しかし、当の本人は女性らしいとはお世辞にも言えぬ仕草と声を出して“オヤジ臭い”を地で行く少女であった。

「胸なんて、でかくていいことなんてないったら! 重いし、邪魔だし、男子はエロい目で見てくるし、下っ腹にお肉付きやすいんだからね」

「持つべきものは、傲慢ね」

「……そうね」

 どんよりとした空気が二人の間で、渦巻いていた。此処で彼女たちを谷底へ突き落とす“最終兵器”が現れる。

「あら、皆さんもご一緒でしたか」

白いバスタオルでその豊満な膨らみを隠した魅琉鬼が、ゆっくりと歩み寄った。黒く長い髪が、白い柔肌に吸い付いている。

 鳥居やカナだけでえなく、巻までもがその姿に見惚れる。岩場に腰を下ろし、踝までお湯につかり、耳にかかった髪を指で払う。

「……ふぅ、気持ちがいいですね」

「……会長胸おっきー」

 巻の一言に、二人もこくり、こくりと頷いた。

 ばしゃり、と一段水が跳ねた一糸纏わぬ巻の裸体が露出し、鳥居とカナが唖然とした。そして、巻は徐に魅琉鬼の乳房を鷲掴む。

「ひゃん」

 余りに突拍子もない出来事に、魅琉鬼が甲高く可愛らしい矯正が上がる。それと同時に、二つの乳房が弛む。ぐねりぐねりと掌の中で自由に形を変えて、余った柔肉が指の間からはみ出した。

 巻は、何かに取り付かれたかのように揉みしだく。

「ちょっ、ちょっと巻さん! やめっ……やっ……ひう」

「おお、おおぉぉ…………やわらけぇ! めちゃくちゃやわらけぇ……」

「や、やだっ! 本当にやめっ! あんっ! ひぐぅ」

 瞳の端から涙を浮かべて悶える。白い頬に赤みがさして、唇で指を噛む。

「助けっ……ひっ」

 魅琉鬼の哀願虚しく。

「カナ! 私たちもご利益あるかもしれない!」

「う、うん!」

 四つの手にひらが蠢き、迫る。

「ふ、二人とも…………イ、イヤーーー」

 

「リクオ様……私は汚されてしまいました」

 ふらりと倒れ込んで、口惜しそうに呟く。横で気まずそうに頬を掻いて、両の掌を合わせ何度も謝る巻。悪乗りが過ぎたと、鳥居とカナも肩を竦ませて頭を垂れる。

「いやぁ、余りにもいいモノ持ってたもんでつい……もうしないから許してよ、会長」

「まったくもう、悪ふざけが過ぎますよ……」

「ほんっとごめん!」

「ごめんなさい」

「ごめんなさい」

「次はありませんからね」

魅琉鬼も徐々に怒りが収まったのか、唇に指を添えて微笑んだ。

 

――おい、“人”がおるぞ。

――本当だ。“人”がおるぞ。

――啖うてしまえ。

――啖うてしまえ。

――おれは“腕”がよい。

――おれは“足”がよい。

――わしは“腸”がよい。

――妾は“目玉”がよい。

――啖うてしまえ。

――啖うてしまえ。

 

 声がする。

 それは、人ならざる異形の声。

 それは、人ならざる悪鬼の声。

 黒い雲が空を覆う。

 何だ。

 何だ。

 漆黒に浮かぶあの赤色は。

――それは、瞳。

――炯々と、獲物を見下ろしている。

 めきり、めきり、塀が軋む。岩をが砕ける音がして。

 ぐらり、ぐらり、大地が歪む。少女の悲鳴を咆吼が飲み込んだ。

「ちっ」

 魅琉鬼の手刀が三人頸を打つ。悲鳴が途絶えて、数瞬の静寂が訪れた。

「雪那」

――声と同時に。

――白銀の猫が、姿を見せる。

「この娘達をどこか安全な所へ。邪魔する者がいれば食べておしまいなさい」

 刹那が鋭い牙を剥き出しながら吼える。銀色の爪が石畳を抉った。空へ飛翔しそのまま闇に溶ける。

 魅琉鬼の黒い髪が赤く染まり、金色の双眸が、異形の鬼を睨みつける。

 くるりと回って着物を纏う。左手には、赤い番傘が握られていた。

「若い女の肌を覗き見るのがご趣味? 牛鬼組も堕ちたものね」

 異形の腕が伸びる。

 太く、無骨な腕は、岩さえも砕くだろう。

――けれど。

――けれど。

――無意味。

――無価値。

 赤い鬼を前には全て意味をなさない。鋭い一閃が、鬼の腕を捉える。二つに分断された塊が地に転がった。平らな断面からは、肉も骨も赤い血も、悲鳴さえ上がらずに。

「……傀儡か」

 短く舌打ちして、高く飛翔した。袴の襞(ひだ)がたなびく。異形の頸落ちる。

 それは、椿の花が散る様に似ていた。

 

『へへ、莫迦な女だ……いくら斬った所で、意味なんてないのに』

 太い木の枝からくすくすと嘲笑が聞こえる。一人の男童が腰をかがめて、鬼を狩る魅琉鬼を見下ろしている。馬の頭蓋が貌を隠していた。

「……随分と生意気な畜生ね」

 ぞわり、背中に怖気が奔る。頬に汗が伝い、口の中がひどく乾いた。固唾を無理やりに飲み込んだ。

――なぜ。

――どうして。

 頭蓋を反響する。目を離すことも、瞬きをすることもありはしなかった。つい数瞬前まで、傀儡を狩っていたではないか。

 喉が震えて、声が出ない。

「私の質問にだけ答えなさい。動いたら腕を飛ばす。喋れば、舌を抜く。瞬きすれば、目を抉る。けれど、安心なさい。殺しはしない。殺す時は貴方の大事な主の前で殺してあげる……牛鬼は何処?」

『もう、遅いよ……俺を殺したって、牛頭がリクオを殺してるはずさ……ぎっ』

 ごきり、と肩が外れた。

「余計な事は喋るな……次は、腕をねじ切る」

『へへ、動揺したな……』

 瞬間、男童の姿が消えた。

「……リクオ様」

 

六.

 

 青い閃光が弾けた。一拍遅れて、轟音が迸る。

 闇を駆ける鬼が一匹。

 赤く、長い髪が横へ靡いている。金色の瞳が闇夜に映える。袴の襞が、激しく揺れていた。赤い唇の端に、血が伝う。鬼の牙が、音を立てて軋みを上げた。

 木々の群れが流れてゆく。一層高い木の枝に飛翔し、とん、とん、とん、と飛び移った。

 視界の端に、一人の女が映り込む。長い黒髪に白い着物を纏った女だ。赤い血が、女の辿ってきた道を示すかのように草を濡らしている。

「氷麗さん!」

 声に気付いて、女が顔を上げた。

「魅琉鬼……」

 氷麗が、名を呟いて力尽きた。魅琉鬼は、腰を下ろし、氷麗を抱き起こす。

「ごめん……魅琉鬼、アタシ若を守れなかった」

「リクオ様は……」

「大……丈夫、生きて……おられるわ……けれど、足に怪我を」

「わかりました。私が必ず助けに行きます……雪那を呼びますから、休んでいなさい」

「若のこと……お願いね」

 そう言って、氷麗は意識を失った。

 

 松明の炎が、ばちりと弾けた。聳え立つ門の両脇には鎧に身を包んだ鬼が矛を片手に佇んでいる。

 一陣の風が、炎を揺らす。ひゅっと短い音がして、異形の頭蓋が地に転がった。平らな断面から重く滴る赤い血。松明の炎が、其れをてらてらと照らしている。

 門が軋みを上げながら徐々に開く。その先に、異形の群れ、群れ、群れ。その手には、刀、槍、斧、鎌、鎖、礫、弓。その全てが一匹の赤い鬼に向いている。

「邪魔ね」

 音を立てて番傘が開く。

『誰だ!』

『誰だ!』

『でやえ』

『でやえ』

『殺せ!』

『殺せ!』

 有象無象が、吼える。

 白刃を這う音がして。

 赤色が迸る。

 

七.

 

 青い雷電が弾けて、轟音が轟く。

 闇の中で、二人の男が対峙していた。

 一方は、不敵な笑みを浮かべ、鋒を突き立てている。

 一方は、目を閉じ、動かない。

 青い、閃光が二人を照らす。白刃が妖しく煌めいた。

「牛鬼。貴様、部下の躾がなっちゃいないな……俺の側近に手を出すとは、どういう了見だい?」

 男は、沈黙したまま答えない。

――かわりに。

――かわりに。

――鞘を滑る白刃の音一つ。

――銀の刃が妖しく光って。

「リクオ、貴様を殺して、私も死ぬ」

 轟音が響く。

 白銀の髪が揺れた。伊達男の貌に再び笑みが点った。

「――へぇ、そいつはいいや……やれるもんなら、やって、みな!」

 耳を劈く音が響く。

 一、

 二、

 三、

 交わり弾けた、両者の足が簀子の上を滑る。

 互の鋒を鼻先に突き立てた。

「せぇい」

「ふんっ」

 刃がせめぎ合う。リクオの貌には、変わらず笑みが浮かんでいる。真紅の瞳が、牛鬼の顔を見つめた。

「流石、爺の片腕だった男だ」

「若造が……知ったふうな口を聞く」

 

八.

 

「リクオ様……どうか、どうかご無事で」

 扉に一閃が奔る。数瞬の間を置いて、音を立てて崩れ去った。暗闇を橙色の明かりが照らす。

 雷が、轟々と音を響かせた。白光に包まれるリクオと牛鬼。魅琉鬼は金色の瞳を見開いて、瞬間彼女は胸を撫で下ろす。

――魅琉鬼の左頬が、赤く染まって。

――けたたましい音が響く。

「え」

白い指で、頬をなぞる。

“ぬめり”とした感触が確かにあった。

 金色の瞳をゆっくりと横へ。

――血。

――なんの。

――だれの。

「――いやぁぁぁぁぁぁぁぁ」

 絶叫が、闇夜に溶けた。



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失恋

一.

 

 暗雲の中で燻っていた雷が弾ける。青い閃光に遅れて、轟音が響き渡った。その煌めきが、闇をほんの数瞬照らす。

 ほつり、ぽつりと音がする。

 白い指から滴る“それ”は、赤い色をしていた。

――垂れた髪の隙間から。

――黄金色の瞳が覗く。

「ひっ」

 女の声だった。雷鳴迸る闇の中でもよく通る声。それは、徐々に狂気を孕む。

「あひっひひ」

 鮮血を吸った赤い髪がゆらり、ゆらりと揺れ動く。

「あっひひ、ひひ、ひひひひひ」

――気狂い鬼の声が響く。

――人の“容(かたち)”をした鬼だ。

――美しい貌がひどく歪んで。

――白く光る牙が覗く。

 鞘を滑る白刃の音が一つ。

 空を斬る。

 青い閃光を浴びて、銀の刃がてらてらと妖しく輝く。

「死に晒せぇぇぇぇ!」

 女の絶叫が、弾けた。

 狙うは頸。鋒は、逸れることなく一筋に。

 白刃が、喉笛を穿つその刹那。けたたましい音が鳴り響く。無骨な体躯から大きく“ノ”の字に鮮血が迸る。男の眼球がぐるり、と上を向く。白い歯の隙間から赤い血が滴って。

 刀の鋒が、簀子へ突き刺さる。男が、片膝を付いて荒い息を吐いた。滝のように流れ落ちた血が簀子に赤い花を咲かせる。

 生きている。まだ、息をしている。

 殺そう。刀を振り下ろせば、頸が落ちてそれで終いだ。男の視線が、魅琉鬼へと移る。

「どうした。早く頸を落とせ」

「黙れ。リクオ様の仇――死ね」

 刀が天高く上がった。袖が垂れ落ちる。金色の双眸は、ひどく冷たい。

 

――そいつは随分と薄情じゃねぇか。

 

 魅琉鬼の瞳が大きく見開かれた。その声は背中から聞こえてくる。唇が震える。耳に届くのは、男の声。彼女が愛してやまない唯一。

「勝手に殺すんじゃねぇよ。俺はまだ生きてるぜ?」

「――リクオ、様……」

 金色の瞳が濡れる。頬に流れる涙の粒が赤い血と混ざり合った。くるりと回って、リクオの胸に頬を埋める。まだ暖かい血が、リクオを生きていると実感させた。

「リクオ……」

 牛鬼がリクオを見つめる。

「牛鬼、てめぇ……わざと急所外しやがったな」

 リクオの問いに牛鬼は答えない。目を閉じて無言を貫く。

「俺も舐められたもんだな……まぁしかたねぇか……こんな様じゃよぉ」

「リクオ、私を斬れ」

 リクオは、溜息を漏らして“寧々切り丸”を方へ担いだ。

「嫌なこった。てめぇは殺さねぇ」

「何故だ! 何故私を斬らない!? かくなる上は……」

 両膝を付いて、刀の鋒を腹に突き立てる。両手で柄を握り、刀を突き刺すその寸前で、耳を劈くような金属音が響く。折れた刀身が宙で旋回して柱に突き刺さる。

「莫迦。だから、死なせねぇよ」

 魅琉鬼は顔を見上げて、リクオを見つめた。

「愚か者め。裏切り者は生かしておけば碌な事にならんぞ」

「その時は、俺に見る目がなかったんだと諦める」

「リクオ様!」

 今まで無言だった魅琉鬼が咎めるようにして叫ぶ。ぎゅっと固く握った拳が震えている。頭の後ろに掌をやって髪を撫でた。

「お前が組を想う気持ちはしかと受け取った。俺が魑魅魍魎の主に相応しくないと思ったときはまた斬りに来な……ま、返り討ちにするがな」

 そう言って、不敵な笑みを浮かべ闇に消えた。魅琉鬼がさっと振り返ると、祢々切り丸を鞘に収めるリクオの姿がそこにあった。

 鯉口が小さな音を立てる。リクオが、肩に掛けた羽織を揺らしながら、扉へと歩む。

「……敵わんな、流石に総大将の血を引くだけはある」

 リクオが、ぴたりと足を止める。

 唇の端を釣り上げて、にたりと笑った。

「爺には黙っておけよ魅琉鬼」

 

 

二.

 

 空の上を自由に形を変えながら、白い雲が流れてゆく。優しく吹いた風が、しだれ桜の枝を揺らす。桃色の花びらが、耳心地の良い音を奏でた。鹿威しの乾いた音が響く。

 無骨な岩に囲われた池には、澄み切った水が照りつける光を揺らしている。河童が顔を出した。皿から水がこぼれて、音を立てている。視線を左右へと配り、再び池に沈んでいった。

 掛け時計の厳かな音が、奴良組本家の屋敷に響きわたる。時刻は正午。リクオが安らかな寝息を立てて眠っている。

 ぴしゃり、と音がした。固く絞った布をリクオの額へ乗せてやる。もうこれで何度目になるだろうか。牛鬼の一件から二晩がたった今も、目覚める気配はない。華奢な体躯に巻かれた包帯が戦いの壮絶さを物語っている。魅琉鬼は、リクオの横に正座しながら、膝の上に置いた両拳を握る。金色の双眸に影が落ちる。目尻に浮かんだ涙が煌めいている。

「リクオ様……」

 魅琉鬼声に応えてはくれない。白い手が、リクオの頬へと伸びてそっと触れた。二人の顔が近づく。彼女の涙が、リクオの鼻の頭に落ちた。

 ほつり。

 ほつり。

「――う、うっ」

 細い眉が、微かに動いて、眉間に皺が寄る。瞼が徐々に上へと上がる。茶色の瞳に魅琉鬼の顔が映り込んだ。リクオの手を掌で包み込んで胸元へ引き寄せる。

「魅、琉鬼……」

「リクオ様! わかりますか! 私はここにおります」

 強く、強く手を握る。その両手は震えている。リクオは唇を釣り上げて笑って見せる。

「痛いよ、魅琉鬼」

 そう言って身体を起こす。

「いてて」

「お身体に障ります!」

 そう言ったあと、堰を切ったように魅琉鬼が泣いた。リクオはただ、“困ったな”という顔をして。

 一頻り泣いたかと思えば、今度はリクオを睨みつけた。

――そして。

――乾いた音が部屋に響いく。

 リクオは、唖然とした表情で、魅琉鬼を見つめた。遅れて、頬がひりひりと痛む。掌で触れると微かに熱を帯びていた。

「馬鹿! どうして……どうして!」

 力なく、リクオの胸を拳で叩く、蹲り叫ぶ彼女の姿に心が軋む。

「ごめん、ごめんよ……」

 リクオは呟いて。

 魅琉鬼を強く抱きしめた。

 

 時計の秒針が、沈黙の中音を刻む。それ以外の音はない。魅琉鬼は、リクオに背を向けたまま動かなかった。怒っている。それも、かなり。リクオは頬を指で掻きながら時が過ぎるのを待つ。下手に言葉を紡いでも今の彼女には、届かない。

 故に、沈黙。

 一秒がとても長く感じられる。

「……頬、痛みますか」

「う、ううん! 平気だよ」

「あら、もっと強くひっぱたいておくべきだったかしら?」

「……え゛」

 リクオが引きつった声を上げると、顔を横へ向けてくすり、と微笑んだ。きゅっと締まった血管が緩む。

「冗談です」

 彼女が今日初めて見せる笑顔であった。

 

三.

 

 白線で簡易的に描かれたサッカーフィールドの土を蹴り、砂の粒子が飛ぶ。蹴り上げられたボールは、見事ゴールネットを揺らした。ホイッスルの甲高い音が鳴り響く。それをかき消すように、黄色い声援が飛び交った。

 背の高い男子生徒が、赤いゼッケンの襟を掴み、汗を拭う。一緒に持ち上げられた白いTシャツの裾から、鍛え上げられた腹筋がのぞき見える。

 ゴールを決めた選手の周りにチームメイトが駆け寄り、笑顔で彼を褒め称える。首の後ろに腕を回し胸元へ頭を寄せ頭をくしゃりと撫で回す者、背中を叩いて喜ぶ者、憧れの視線を彼へ向ける者。それらを一身に受け止めた彼は、頭上で燦々と輝く太陽のような笑顔を浮かべた。

「やっぱお前スゲーよ! 越前! ハットトリックなんて」

「だよなー。お前に助っ人頼んで正解だったわ」

 照れくさそうに頭の後ろを掻いて、苦笑した。健康的な小麦色の肌が越前涼介のトレードマークであった。端正な顔立ちも相まって女子生徒の間でも人気は高い。それはフェンス越しに声援を送る者たちを見れば一目瞭然だった。

 試合終了のホイッスルが鳴り響きフィールドの中心に選手達が整列した。黄色いゼッケンを着た選手たちは、皆悔しそうにしていた。

 その一番端で奴良リクオが気まずそうな貌をして立っている。

 今日は、クラス対抗の球技大会であった。相手チームのエース、越前涼介は運動部には所属していないものの、その類まれない運動神経で、各運動部から助っ人として引っ張りだこの生徒であった。

 運悪く、島が病欠。主力を失ったチームは成すすべもなく敗戦したのであった。午前のプログラム終了を告げるチャイムが、校庭に鳴り響いた。

 

 木陰に敷いたアウトドア専用シートの上で、魅琉鬼が水筒を傾け茶を注ぐ。コップに落ちた氷がかちりと音を立てた。

「ありがとう、魅琉鬼」

「いえ」

 そう言ってリクオが乾いた喉を冷たい茶で潤した。

 魅琉鬼の体操着姿に息を呑む。白と黒のコントラストが彼女の美しさを引き立たせている。黒のハーフパンツから伸びる白い足を木漏れ日が照らしていた。健康美溢れる太腿は、肉付きがよくすらりと引き締まっている。

「残念でしたね……試合」

 突然の声に吹き出しそうになる。魅琉鬼の顔には陰りが浮かんでいた。

「あはは……そう、だね。頑張ったけど、負けちゃったよ」

「でも、あの越前くんからボールをカットするなんて凄いじゃないです……とても素敵でした」

「はは、ありがとう」

 乾いた笑いを漏らし、耳頬を指で掻く。膝の上に置かれた包を解くと中から青い弁当箱が顔を出す。はやる気持ちを抑えずに蓋を開けると、中にはびっしりとおかずが詰められていた。

 ただ詰めるのではなく、綺麗に彩りよく並べられたそれは、栄養が偏らぬように詰められていた。

 感嘆の溜息を漏らすリクオに気を良くした魅琉鬼が箸で美しくカットされた“たこさんウィンナー”を摘み、口元へ運ぶ。

「リクオ様、どうぞ」

「う、ん」

 多少は躊躇したものの、すぐに貌がゆるみほお張った。嬉しそうに味わうリクオを見て、魅琉鬼が微笑む。誰にも邪魔されない至福の時を噛み締めながら、魅琉鬼はお弁当をリクオの口へ運ぶ。

 

――“僕と付き合ってください!”

 

 突如、聞こえてきた声に二人が、顔を付き合わせて目を丸くした。

 足音を殺し、声のする方へ近づいてゆく。リクオの蟀谷(こめかみ)に滲んだ汗が、頬へ流れて顎の先から乾いた土に落ちた。魅琉鬼と顔を合わせる。アイコンタクトのあとに静かに頷きあって、そっと物陰から顔を出した。

 二人の男女が、少し距離を保ったまま対峙していた。男は腰を折って、女に手を突き出している。一方の女は、ひどく困惑した様子で、瞳を泳がせていた。典型的な告白の場面を目撃したリクオは気まずそうにして魅琉鬼へと視線を移す。

 リクオが“ぎょ”っとした貌になった。

 興奮状態の魅琉鬼が、その漆黒の瞳を輝かせ、握り拳を固くしていた。しかし、状況に変化はなかった。長い沈黙を破ったのは、女の方であった。

『ごめんなさい』

 玉砕の瞬間である。腰を追っていた男が顔を上げた。

 端正な顔立ちに小麦色の肌。身体を起こすと、相手の頭三つ分ほどに背の高い男子生徒であった。先ほどリクオのクラスを破ったチームのエース“越前涼介”が、頭の後ろを掻いて、俯いた。

『……えっと、理由聞いてもいいかな? カナちゃん』

 越前涼介の告白の相手は、リクオのクラスメイトでもあり、幼馴染でもある“家長カナ”。ショートヘアの髪の先を指に巻きつけながら、気恥かしそうに言った。

『……私、好きな人がいるんです』

『そ、そっか……』

『はい、だからごめんなさい』

 深々と腰を折って叫んだ。そのあとすぐに踵を返してさってゆく。

 涼介は、虚しく腕を伸ばして空を掴んだ。

 リクオ達に向かって、カナが走ってくる。瞬く間に彼方へ走り去るカナを、リクオは呆然と見つめるだけだった。

「気になるんですか? リクオ様……家長さんの意中の人」

「そ、そそそそそそんなわけないだろ!」

 心臓の血管が、きゅっと音を立てて締まる感覚をリクオは覚えて、慌てて否定する。

 ジト目で見つめる魅琉鬼に思わず苦笑を漏らした。

 

 

四.

 

ネオンの光が、漆黒の空に広がる星達の輝きを霞ませる。鉄筋コンクリートの上を踵の音が行き交っていた。雑踏のなか帰路へと急ぐ、家長カナの姿が。前方に注意を払い腕時計に視線を落とす。時刻は午後七時を指している。左腕に掛けたサイドバッグが、忙しく揺れている。

 と、少女に鈍い衝撃が走った。

 勢い良く後方に倒れ込んでしまって、尻餅を付きバックの中身がコンクリートの上にばらまかれた。

「ってーな、どこ見て歩いてんだよ」

気だるそうな声が上から降りかかる。顔を上げると金髪の髪を逆立たせ、チェーンピアスを揺らしながらカナを睨みつけていた。

「ひっ」

 小さい悲鳴を上げ、肩を竦ませる。男がいやらしく目を細めて口笛を鳴らした。

「ひゅー、君可愛いじゃん。今から俺とデートしてくれたら許してやってもいいぜ」

 無骨な男の手がカナの細い手首を鷲掴む。

「っや、離してください!」

 必死に抵抗するも、男の力は強く振りほどくことはできない。

 周りに助けてと必死で目を配るが視線が重なった瞬間に俯かれてしまう。

 絶望し、叫ぼうとしたその時、男のくぐもった声が聞こえた。

 固く閉じた瞳を開けると、ナンパ男が仰向けになって腹を抑え倒れ込んでいた。

「大丈夫?」

 聞こえてくる声は、凛々しく美しかった。黒いスーツに身を包んだ女性が優しい眼差しでカナを見つめていた。耳にかかった黒髪を指で弾く。その仕草にカナの鼓動が高鳴った。

赤いルージュの唇がすうっと横へ伸びている。

「さ、警察を呼んでおいたから今のうちに行きましょう」

 そう言って、彼女の手首を掴みヒールの音を響かせて走った。

 

 カウンター席に腰を下ろした二人の前には、ブレンドコーヒーが注がれた純白のカップが並んで置かれて居いる。ブラックが苦手なカナは少々恥ずかしそうに脇に置かれたミルクピッチャーを手にとって、コーヒーへ。白いミルクが螺旋を描きながら混ざり合った。

 店内に流れるジャズのBGMが店の雰囲気を確立させていた。カウンターに並べられた椅子はどれも背が高く、カナのつま先が申し訳程度に触れるほどであった。カップに触れさせて傾ける。視線だけを横へ。

 カナを助けた黒髪の女性は、銀の灰皿に煙草の灰を落とした。

「あの、先ほどはどうもありがとうございました」

 おずおずと言うカナに、妖艶な笑みを浮かべた女が言った。

「気にしないで、私も特に予定があるわけじゃないから」

「あの、これ以上遅くなるとお母さんが心配しますから、失礼します。お礼はまた後日必ずしますから」

 席を立つカナの手に、女性の白い手が重なった。その手は、ぞくりとするほどに冷たかった。

「――待って」

「……え」

「貴方私の名前と連絡先聞いてないじゃない」

 言われて“そういえば”と気づく。

 女は煙草をもみ消して、隣の席に置かれたバッグに手を入れる。紫煙がゆらゆらと立ち上り溶けて消えた。吸い口には、赤いルージュの跡が残っていた。

「私の連絡先はここよ」

差し出された名刺には明朝体の文字でこう書かれていた。

“ノザワ芸能事務所”と。

「実はねカナちゃん。私、モデルの娘を探してたのよ……ねぇ、貴方読モやってくれない?」

 突拍子もない話に目を丸くする。

「実は、事務所がすぐそこなの」

「で、でも」

 

――不意に、女と視線が重なる。

――その双眸がが赤く染まって。

――カナの瞳から光が消える。

 

 

五.

 

 長卓の前で座布団に星座をして白いノートにペンを走らせるリクオの姿があった。障子に淡い橙色の明かりが映る。リクオは今日も、クラスメイトの宿題をせっせと片付けていく。最近では、一人一人の筆跡を完璧にコピーして教師陣にそのことがバレることもなくなった。

 魅琉鬼が知れば、卒倒しかねない。リクオは順調に人の道を外れつつあった。

 長卓に小さな振動が奔る。充電器に置きっぱなしにしてあった携帯電話のサブディスプレイが断続的に点滅していた。

 慣れた手つきで携帯を開くと、メインディスプレイに見慣れぬ文字が映っていた。“巻 沙織”。リクオのクラスメイトで清十字怪奇探偵団のメンバーである。

 珍しい相手からの着信に、訝しげな貌をして、通話ボタンを押した。

「もしもし?」

『あ、奴良? 良かった! 出てくれて! あんたカナから電話かメール来なかった?』

 電話越しに聞こえる声は、ひどく焦っているように思えた。車のクラクションの音。足音。人の声。様々な音が遠くの方から聞こえてくる。

「え? カナちゃんから? いや、僕のところに連絡は来てないよ?」

『……そっか』

「どうかしたの?」

『実は、カナの奴、まだ家に帰ってないみたいなのよ。携帯に連絡入れても連絡取れなくて』

「え」

 長卓に置かれた時計に視線を移す。時刻は午後七時を指していた。まだ遅すぎるという時間帯では無いが、連絡が付かないのはおかしい。

「ちょっと変だね……」

『でしょ? だからアンタも探すの手伝って頂戴』

「分かった」

 一旦、通話を終了して、溜息を漏らした。

 

『リクオ様、夕飯の準備が出来ましたよ』

 障子に映る人影一つ。

魅琉鬼が正座しているのが見て取れた。リクオは罪悪感を感じながら障子の戸を開ける。

「……ごめん、魅琉鬼。ちょっと急用が出来ちゃって……」

 彼女を見つめるその瞳は、どこまでも真っ直ぐであった。

「……私にお手伝いできることはありますか?」

 リクオは静かに首を振った。

「大丈夫だよ……それより早く用事を終わらせて来るから待っててよ」

 魅琉鬼は、柔らかく微笑んで。

「――畏まりました。いってらっしゃいませ、リクオ様」

 

――リクオの姿かたちが変貌する。

――長い白銀の髪がたなびいて。

――真紅の瞳が、漆黒に煌く。

 

「大百足、出てきな」

 声と同時に、長い首を擡げてリクオを見下ろす赤色の瞳が二つ。

 その長い首をリクオの方へ。

 百足の頭蓋に飛び乗った。両肩に掛けた羽織が、音を立てて翻る。頭上で胡座をかいて、愛刀“祢々切り丸”を方へ担いだ。

「行ってくる」

 

 

六.

 

 音が聞こえる。

 それは、何かを擦る音だった。

 しゃっ

 しゃっ

 しゃっ

 断続的に、音は続く。

「……んっ」

 家長カナの瞳が開いた。

 けれど、視界には何も映らない。

「うぐっ」

 声を出そうとしてもくぐもってしまう。

 身体が動かない。

 何かで固定されて、口には猿轡をくわえ込んでいた。

 僅かな隙間から唾液が滴り落ちる。

 しゃっ

 しゃっ

 しゃっ

 音が響く。何処かで聞いたことのある音だった。

 それは、包丁を研ぐ音。

 石の上を、白刃が滑る音。

 その音は、自分のすぐ近くから聞こえてくる。

――ぞわり。

――背中に怖気が奔る。

『あら、起きたのね』

 女の声だった。

 それはつい先ほど自分を助けてくれた女の声。

「んぐっ! ぐぅ……ぐ」

『もう仕方ないわね』

 ヒールの靴音が、近づいてくる。やがて闇に覆われた景色に一つの色が浮かんでいた。

 赤い色だ。

 それは、瞳だった。

 蛇のような目。

 闇に炯々と光を放っている。

 その僅かな灯りが女の肌を照らす。

――異形。

――それが、人の“容”をしていても。

――それが、人の言葉を紡いでも。

――それは、人ではない。

――にたりと口が大きく裂けて。

――鋭い牙の先から涎が滴っている。

「ひっ」

 身体が強ばった。異形の鬼は加虐に満ちた瞳で怯える少女を見つめていた。出刃包丁の刃に長く、赤い舌が這いずる。

『私はね? カナちゃん。貴方みたいな可愛い娘を見ると、憎くて、憎くて堪らない気持ちになるの』

 包丁がカナのセイラー服を切り裂いた。白い肌が、震えている。

『綺麗な肌ね……憎たらしい』

 鋒が白い肌を滑ってゆく。目尻から流れ落ちた涙が包丁を濡らした。

『この白い肌を赤く染めてあげる……きっと綺麗よ』

 胸元で止まった包丁の鋒が、皮膚を破る。

 痛みは小さかった。けれど。

 赤い血が臍へと流れ落ちた。

 『ほら、綺麗』

 ひどく、扇情的で。

 ひどく、妖艶な声。

『もっと綺麗にしてあげる』

 

――その辺にしときな腐れ外道。

 

 声が聞こえた。

 涼やかな男の声だ。

 姿は見えない。

『誰だ! 誰だ!』

 鬼の貌が醜く歪んだ。

「てめぇのような妖怪に名乗る名はねぇな……」

 長い耳が動く。素早く振り返ると、黒い髪が円を描いた。

 姿は見えない。

 

――ここだよ。阿呆。

 

声が、耳元を掠めた。

――それと同時に。

――けたたましい音がして。

――赤色が迸る。

 

 懐から白い布を取り出して、白刃に付いた血を拭う。リクオは物言わぬ骸を見下ろして、踵を返した。

 雪駄の擦れる音がカナに近づいた。既に気を失っている。

 羽織で彼女の身体をくるんでやると、両腕で抱き上げ、そのまま闇に溶けていった。

 

 

七.

 

 

 青白い月の中心に、黒い影一つ。白銀の髪が、月光を浴びてたなびいている。高く聳え立つ摩天楼へひと蹴りで飛び移っていた。

「ん」

 カナの薄い瞼が開く。茶色い瞳に伊達男の顔が写りこんだ。

「よう、目が覚めたかい?」

 唇の端を釣り上げて嗤う姿に、時を忘れて見惚れた。

「……あなた、だれ?」

 男は応えない。

――かわりに。

――赤い唇に笑が点った。

 不意に、襲ってきた浮遊感が意識を覚醒させる。

「って、空!? ななな、なんで私、空飛んでる!?」

「今頃気づいたのかい?」

 意地悪く言うと、貌を赤くして、それきり黙り込んでしまった。

「見てみなよ。月が綺麗だぜ」

 間近で見る月の美しさに息を飲んだ。

 空の旅を満喫したカナは、窓から自分の部屋へ降り立つ。

「じゃあな、風邪ひくなよ。カナちゃん」

「え」

 視線を下に。殆ど裸同然の格好に言葉を飲み込んで驚愕する。茹でた蛸のように顔を赤くしてその場へ座り込んでしまった。伊達男がからかう様な笑みを浮かべて、飛び立とうとした時、カナが袖を引っ張った。

「待って、もう少し一緒にいてください」

 男を見つめる瞳は潤んでいる。袖を掴む手も微かに震えていた。

「悪いな、大事な女を待たせてるんだ」

 それだけ言って夜の闇に溶け込んでいった。

 

 

八.

 

 掛け時計の厳かな音が鳴り響く。大広間の食卓で正座をしながら魅琉鬼がリクオの帰りを待っていた。立ち上がり、暖簾を潜って台所へ。味噌汁の入った鍋をもう一度温めなおす。もうこれで何度目になるだろうか。あれから二時間あまり過ぎている。

――もしや。

 先日の光景が脳裏を過ぎる。

 頭を振って、払い除けた。

「待たせちまったな……」

 背後からリクオの声が聞こえた。振り返るまもなく、後ろから腕を回し抱きしめられる。

「腹減った。何か食わせろ」

 魅琉鬼は、唇に手を添えてくすりと微笑んだ。

「おかえりなさい。リクオ様」

「ああ、ただいま」

 

 遅めの夕食を平らげたあと、リクオ達は広間で晩酌を楽しんでいた。少し大きめの羽織を二人寄り添って纏っている。赤い盃に、酒が満たされて、それを傾ける。魅琉鬼は幸せそうに頬を染めて、リクオの胸に顔を埋めている。

「酔ったのかい?」

「もう、意地悪……」

 やんわりと言ってまた寄り添った。

 ぬらりひょんの声が聞こえてくる。どうやら晩酌の相手を所望らしい。

「はーい」

 そう言って立ち上がった魅琉鬼の手をとってぐいっと引き寄せた。

「きゃ」

 小さな悲鳴の後にリクオが魅琉鬼を抱きとめた。

「お前は俺の隣で酌してな」

「――困った人」

 言葉とは裏腹に彼女の貌は幸福に満ちていた。



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弔い

 一.

 

 青い空を白い雲がすべるように流れてゆく。

 風に煽られた木々がざわめいた。木漏れ日に映し出された影が踊る。

 奴良組本家の庭園は赤や黄で彩られていた。縁側から将棋盤を叩く音が響いてくる。

「王手」

 これ以上ない一手にぬらりひょんが唸りを上げる。煙管の吸い口を噛んで達磨の如く小さな体躯を揺らしていた。両の腕を潜らせた袖が蠢いている。

「ぬぅぅ……なぁ、狒々よ」

「なんですかな。総大将」

「待ったなしか」

「待ったなしです」

「ぐぬう」

 将棋盤を挟んでぬらりひょんと対峙した狒々がにべもなく言った。能面の奥できたりと唇を伸ばしているに違いない。ぬらりひょんは悔しそうに頭を垂れる。

「まいった」

「結構、結構」

 狩衣の袖に腕を潜らせてからからと笑う狒々。能面を上にずらして煙管の吸い口を唇で噛む。火皿から小さな白い輪が昇る。

「狒々には勝てんなぁ」

「総大将が弱すぎるのよ」

 かっ。

 かっ。

 簀子(すのこ)淵で羅宇(らう)を叩いて、灰を落とす。空に円を描きながら飛ぶ鳶の鳴き声が遠くの方から聞こえてくる。燦々と降り注ぐ陽光を浴びて、ぬらりひょんの禿頭がてらてらと光る。

「ところで、大将よ」

「なんじゃい」

「リクオの奴、お前さんにそっくりじゃなぁ。一つ目をあんだけびびらすたぁ、大したもんじゃないか」

「はん! あの鼻垂れがか? 冗談言っちゃいけねぇやい。わしの若い頃はもっと」

 口ではそう言うぬらりひょんの貌は綻んでいる。

 足袋が簀子の上を滑る音が聞こえる。視線を横へ流すと、お盆に湯呑を乗せて歩く魅琉鬼の姿があった。赤い髪が、揺れている。

「お二人ともお茶が入りましたよ。今日は佐藤さんのお宅からお裾分け頂いた羊羹があります」

 魅琉鬼はさっと腰を下ろし、狒々とぬらりひょんの間に羊羹の盛られた皿を置く。好物だけあって、ぬらりひょんは嬉しそうに竹の楊枝でひょいと口へ運んだ。それを見た狒々がけらけらと笑う。湯呑を傾けながら茶を啜り満足げに一息ついた。

「別嬪(べっぴん)が入れた茶は美味いのぅ」

「あら、狒々様ったらお上手ですね」

 口元に指を添えてくすりと微笑む。

 和気藹々とした空気を断ち切るように奥の障子が開く。

「親父」

 そう呼ぶ声は、何処か苛立ちを孕んでいる。陽光を嫌うように黒い頭巾を深く被っている。なめらかな銀髪には所々赤色が混じっている。

黒い体躯が、魅琉鬼の影を覆った。

「これは気づきませんで……ようこそお出で下さいました。猩影様」

 恭しく頭を下げる。簪の藤が涼やかな音を立てた。猩影は魅琉鬼を無言のまま見下ろして。

「先に行ってるぜ。親父」

 黒外套を翻して静々と簀子の上を歩む。狒々はしばらく猩影の背中を見つめたのち魅琉鬼へと向き直る。

「すまねぇな魅琉鬼よ」

「いえ、狒々様がお気を病む事では御座いません……」

「お前さんは本当に出来た女じゃなぁ」

「勿体無いお言葉ですわ」

 能面の奥からでも伝わってくる優しい声に魅琉鬼は微笑んで返した。

「よっこらせ……では、総大将。また直ぐにでも顔を出させてもらうよ」

「おう、いつでも来な……そうじゃ、狒々よ。今度駅前に新しく出来た喫茶店で“ぱふぇ”でも食うかの? ほれあのでっかい“あいすくりーむ”の乗った美味そうな甘味じゃ」

 少し調子の外れた発音でぬらりひょんが言う。狒々は背を向けたまま手を掲げてひらひらと振った白い狩衣の袖がひらめく。

「魅琉鬼や」

「はい」

「狒々の残した羊羹……食ってもええかの」

「どうぞ」

 ぬらりひょんはにかりと歯を見せて笑う。嬉しそうに竹楊枝で羊羹を刺して口元へ運んだ。

 

 

二.

 

 

 菊灯に刺さった蝋燭の火が揺れている。障子から差し込む蒼月の灯りが簀子板に映り込む。狒々は月に背を向けながら、円座の上に坐して白い和紙に筆を走らせている。

 壁に掲げられた掛け軸の下にはひと振りの太刀が据えられている。

「む」

 蝋燭の火が風に撫でられてふっと消えた。辺を静寂と闇が支配する。聞こえてくるのは虫の声だけ。

「誰だい。お前さん」

 狒々は背を丸くしたまま振り返らずに問うた。

 

――月明かりに照らされた細い影。

――返答はない。

――かわりに。

 

 

――黒い風が叫びを上げて。

――黒い男の嘲笑一つ。

 

 黒い風が、障子を引き裂いた。

 其れは形なき刃。

 暴れ狂う死神の風。

「近頃の若い連中は礼儀を知らないねぇ……」

 狩衣の袖がひらりと闇に舞う。簀子の上を滑るようにして後方へ下がる。太刀に手を掛けて腰に帯びる。能面のしたから垂れた汗が簀子を濡らす。

『へぇ、俺の風を躱したのかい』

 黒い男が蒼い唇を曲げて笑う。

 襤褸が風に靡いていた。長い黒髪が月明かりに照らされて妖しく輝く。蛇のような舌が唇を這う。眼鏡の奥で赤い瞳が炯々と光を放つ。

 狒々が腰に帯びた太刀の柄を握った。鯉口を切る。対峙する男の唇には笑みが点ったままだ。狒々は体勢を低くして、簀子を蹴った。みしりと軋みを上げて、板にくっきりと足跡が刻まれた。距離が縮まる。太刀は鞘から抜かれていた。狒々の力をもってすれば一刀両断など容易くやってのけよう。

 

――けれど。

――けれど。

――黒い刃が視界を覆って。

――赤色が迸る。

 悲鳴はない。

 嘆きはない。

 白き仮面がただ一つ。

 赤色に染まって。

 

三.

 

 血の香りが鼻腔に突き刺さる。人の容(かたち)をした烏が三羽、眼前に広がる惨状に堪らず視線を逸らした。鎧の重々しい音が響く。足元には血の池が広がっていた。足音の変わりに赤い血が跳ねる。弩派手な髪の色をした烏が膝を付き、血の池に沈む能面を手に取った。純白だった仮面は赤く濡れている。烏は悔しそうに舌打ちをした。

「酷い有様ね」

 背後から聞こえる声に緊張が奔る。三羽烏が振り返ると、視線の先に魅琉鬼が立っていた。

 困惑する烏を無視して、血の池に足を進める。純白の足袋が血で汚れようとも。

 物言わぬ骸を金色の双眸が見下ろした。

「お爺さまが悲しむわね」

 ぽつりと呟いた言葉に返答はなかった。代りに悲鳴にも似た叫びが響く。

「――親父! 親父! どけよ! 邪魔だ!」

 猩影だった。

 変わり果てた父の姿に息を呑む。そのまま膝から崩れ落ちて骸へ縋る。恥も外聞もなく猩影は泣いた。 天を仰いで叫ぶ。垂れた髪の隙間から涙が落ちて赤い血と混ざり合う。

「――……れ、だよ」

 呟きが絶叫へ。

「誰だよ! 親父を“こんな”にした奴は! お前か! 椿の!」

 魅琉鬼の両肩を掴み激しく揺らす。彼女は何も答えずにただ冷たい視線を猩影に向けるだけ。

「猩影!」

 駆け寄った烏が猩影の両脇を抱えて引き離す。

「離しやがれ!」

「落ち着け莫迦! 殺されるぞ!」

 我に返った猩影の視線が下へ。

 魅琉鬼が膝の前で番傘を握っていた。鯉口から微かに銀色が覗く。鯉口を切っていた。あと数瞬遅れていたら猩影の首が飛んでいた。

「――あら、残念。もう少しでお父様の元へ行けましたのに」

「てめぇ!」

「黙りなさい。本当に首を刎ねるわよ」

 赤い唇に笑みが点った。

――ぞわり。

 怖気が奔る。

 身体は硬直して動かない。

「私はこれからお爺さまへ報告を」

「ああ、そうしてくれ」

 踵を返し、魅琉鬼は漆黒の闇へ溶けていった。

 

 

四.

 

 

 紫煙が天に向かって登ってゆく。皺が深く刻まれた口元から白い煙が吐き出された。ぬらりひょんが円座に胡座をかいて座している。肘掛に体を預け、明け透けになった障子戸に目をやって空に浮かぶ白い雲を見つめていた。ぬらりひょんの前には将棋盤が置かれている。駒がずらりと並んでいる。対峙する狒々の姿はなかった。

「儂より早く死におって……」

 呟きに応える者はいない。

 深く溜息を吐いて、手を叩く。

「おい、納豆小僧」

「へい、総大将」

 せっせとぬらりひょんの前に現れた納豆小僧が傅いて頭を垂れる。

「“ぱふぇ”食いに行くぞい」

「は? しかし、よいので?」

 歯切れが悪い納豆小僧にぬらりひょんが歯を見せて笑った。

「ええんじゃ、ええんじゃ、狒々の奴めが地獄で悔しがってる顔が浮かぶのう……安心せい儂のおごりじゃ」

「総大将がお勘定を払うところを見た事がありやせんぜ」

「ぬはは、それもそうじゃな」

 ぬらりひょんは膝を叩いて笑う。

「納豆小僧よ。わしゃちと支度があるから玄関で待っておれ」

「へい」

 いそいそと部屋を出た納豆小僧の姿が見えなくなると、ぬらりひょんは障子戸を締めて再び円座に腰を下ろした。

「魅琉鬼」

 

――はい

 

 将棋盤を挟んで魅琉鬼がぬらりひょんろ対峙する。煙管の火皿に火を灯して紫煙が昇る。唇の端から白煙が抜けた。

「魅琉鬼よ……狒々を殺った野郎はまだこの街にいるかい?」

「ええ、わざとらしく痕跡を残しておりました」

「そうかい」

 ぬらりひょんが片眼を開き“王将”を指で掴む。

 飛車が弾け飛んだ。

 乾いた唇に笑みが浮かんで。

「それじゃ、儂が引導を渡してくらぁ」

 魅琉鬼は口元を袖で隠しくすり、と微笑む。

「ええ、いってらっしゃいませ。ぬらりひょん様」

 

 

五.

 

 校庭に下校の合図のチャイムが響き渡る。空は茜色に染まって、紫の雲が空に浮かぶ。窓から差し込んだ赤色の日差しが、教室に並ぶ机を照らしている。ドアの向こうでは、上履きの足音が響いている。教員が声を荒げて廊下を走る生徒たちを注意していた。

 リクオは日直日誌に必要事項を記入している。ペンが紙の上をすべる音だけが聞こえてくる。日誌を閉じて息を吐き、椅子の背もたれに体を預けて伸びをする。黒板の横にある担任教師の机に飾られた花に目をやって水を代えて黒板の落書きを消す。

 せっせと机を移動し箒で床を履いて、素早く机を元の位置に戻しす。その間僅か一五分程度であった。

「リクオ君!」

 声に肩を竦ませて、恐る恐る振り返った。視線の先には腰に手を当てて仁王立ちしている家永カナの姿があった。

「ど、どうしたの? カナちゃん」

「どうしたの? じゃないでしょ! またパシリみたいな事して」

 カナはずんずんと足音を立ててリクオに迫ってくる。リクオの鼻の頭を小突きながら前へ前へと。窓際まで追い込められたリクオが観念したかのように両手を上げる。

「いいんだよ。好きでやってるんだから」

「はぁ、そういう態度が良くないんだよ。みんなリクオくんに押し付けちゃうんだから」

 以前魅琉鬼にも全く同じ説教をされた事が頭を過ぎる。そういえば、今日は生徒会の仕事で帰りが遅くなると言っていたっけ。カナから視線を外し、そんな事を考えていると、教室のドアからまたも声が聞こえた。

「リクオ……様?」

 

 しんと静まり返った廊下を歩く男女の姿があった。廊下に長い三つの影が伸びている。右手に魅琉鬼。左手にカナ。その間に挟まれるような形でリクオが小さくなっていた。会話が弾む訳もなく、重苦しい空気だけが場を支配している。聞こえてくるのは三つの足音だけ。

「そういえば、魅琉鬼! 生徒会の仕事案外早く終わったんだね」

 通常時の二倍の音量で声を出している。上履きに汗が落ちた。魅琉鬼はリクオの方を向いて微笑みを返した。

「ええ、早く終わらせてリクオ様にお会いしたくて」

 リクオの右腕に自分の腕を潜らせて引き寄せる。“ふにゅん”とした柔らかな物体に挟まれて顔が赤くなる。物言いたげな視線がリクオへと突き刺さった。

「私ってお邪魔かしら」

 カナが引きつった笑顔を魅琉鬼に向けて言い放った。

「ええ、本当に」

 笑顔だ。それもとびきりの。

 二人の視線がぶつかり合い火花を散らす。間に挟まれたリクオは成すすべもなく、時間が過ぎてゆくのを待つばかり。

 階段を降りて、下駄箱を通り、グラウンドに出て、校門を潜って、バス停へ向かう。

 相も変わらず、夕日に照らされた三つの影が鉄筋コンクリートに伸びている。けれど、その影の間隔は少し狭まっていた。魅琉鬼もカナも引く気はないようで、リクオにこの場を丸く収める甲斐性もあるはずもない。

「――いつまで付いてこられるのですか」

「私、帰る方向こっちだから」

 

――リクオ様がこの場にいなければ、こんな人間一人。

 

 突如、烈風が吹きすさぶ。垣根から顔を出した椿の木がざわめく。視界を椛の赤色が埋め尽した。

 螺旋を描くそれは、やがて四方に拡散してゆく。その中心に佇む黒い人影が一つ。

「奴良リクオくん、だよね」

 男の声。けれど、ひどく中性的な声だった。線の細い体躯。リクオより頭二つ分ほど背の高い学生。白いYシャツの襟から赤いネクタイが伸びている。ブレザーの裾が風に煽られてはためく。

「え」

踵の音が響く。

 一歩。

 二歩。

 三歩。

 迫る。

 迫る。

 迫る。

 リクオはただ、その男を漫然と見上げていた。

 魅琉鬼の背中が彼の視界を遮った。

「――寄るな」

 冷徹な声で静止を促す。男の薄い唇に笑みが浮かぶ。

「おや、君も一緒だったのか」

 顎に手を添えて、足を止めた。男の眼球が上から下へ。

 纏わり付くような視線が魅琉鬼の苛立ちを加速させる。

「本当に君は美しいね」

 ――不意に、男の細い指が魅琉鬼の顎に触れた。

 そっと顎が持ち上がる。

――触れられた。

――リクオ以外の男に。

 戦慄が殺意へ変貌する。

 殺そう。

 今すぐに。

 今ここで。

 爪を固く、鋭く変質させる。・

 喉を裂けばいい。

 それだけで死ぬ。

――けれど。

――動かない。

――動かない。

――なぜ。

――なぜ。

 頭蓋の中が螺旋を描く。

 背中は汗で濡れていた。

 リクオが魅琉鬼の手を取り後ろへ引いた。

 前へ出ようとする魅琉鬼を腕を突き出して止めた。

「――僕に、何の用件ですか」

 リクオの纏う空気が変わる。眼鏡の奥から洩れる鋭い殺気。男はさらに唇を曲げて嗤う。

「へぇ」

「悪いですけど、僕たち急いでるんです。何もないなら其処を退いてください」

「そう怒らないでくれよ。今日はほんの挨拶さ」

「挨拶?」

「そうだよ」

 男が高く手を振り上げて指を鳴らした。

 木ノ葉が男を覆って溶けるように消えていった。

 気配が消えるのを待ってリクオが息を吐いた。

「大丈夫? 魅琉鬼」

「……ええ、大事ありません」

「そか。良かった」

 リクオが安堵した様子で笑った。

「なんだったんだろうね。あの人」

「さぁ」

 カナの問いにリクオは肩を竦めて答えた。

 

 

六.

 

 

 同じ頃、デパートの屋上に佇む人影が二つ。夕日に照らされた遊具がさみしそうに揺れている。風に煽られた羽織と黒い襤褸が横へたなびいている。

「――……ふぅ、お前さんかい? 狒々を殺ったってのは」

「狒々? あのデカイだけの猿のことかい?」

 黒い男が帽子の頭を抑えて、小さく嗤った。空に昇った白煙が風に運ばれて消え失せる。

「――お前、下品じゃなぁ……妖怪として」

「何」

 黒い男の眉が動く。眉間に深く皺が寄る。

「あんた、奴良組の大将だろう?」

「いかにも」

「じゃ、あんたを殺しちまえば俺が魑魅魍魎の主だ!」

黒い襤褸が音を立てて捲れる。体躯はない。黒い風がぬらりひょんに牙をむく。

「あひゃ、ひゃひゃひゃひゃ!」

 耳を劈く笑い声を上げて発狂する。口の端からよだれを垂らしている。

 鋭利な風が鉄筋コンクリートを抉り遊具を吹き飛ばす。白い壁に蜘蛛の巣状の亀裂が走った。羽織が激しく揺れて音を立てる。

「全く、風情がないねぇ」

 ぬらりひょんが足を踏み出した。

 一歩。

 二歩。

 三歩。

――莫迦な。

――風が“避けて”いる?

「妖怪が、妖怪にびびっちゃいかんぜ?」

 ドスの柄を握って鯉口を切った。

 銀色の刃が輝く。

「さて、若造。冥途の土産に一つ、儂の技を見せてやろう」

「なんだと!?」

 視界からぬらりひょんが“消えた”

 視線を右へ。

 いない。

 視線を左へ。

 いない。

「無駄じゃよ」

 声は、耳元から。

「明鏡止水」

 白刃が黒い男を一の字に切り捨てた。

 断末魔が空に溶ける。

 峰で肩を叩く。

「さて、落とし前も付けたし。“ぱふぇ”でも食うかの」




これでストックがなくなりました。
亀更新にジョブチェンジします。


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悪の華※挿絵挿入※

 一.

 

 天蓋に覆われた夜具の上で、一人の少女と一人の女が睦み合っていた。少女の無垢な掌と女の白い掌が重なって、細い指が絡み合う。

 嫣然と微笑を浮かべる女の肌は、ひどく冷たかった。死人のそれとなんら変わりない。純白の肌と対をなす黒い髪が、嫋(たお)やかな身体を包む。

 女の唇が、少女の瑞々しい肌に吸い付いた。

「――や」

 弱々しい声で少女がいい、女は妖艶な笑みを浮かべて、処女(おとめ)の肌を唇で嬲り続けた。

「――あっ」

“ぬめり”と女の舌が、少女の首筋を這う。

 少女が身体を震わせて、下唇を嚙む。女はゆるりと瞳を細め、妖艶に嗤った。

「――ほんに嫌かえ?」

 黒く、美しい瞳の奥で、嗜虐の火が点る。

 少女は応えず、視線を逸らした。

「――愛い奴」

 女は、唇に笑みを点して、少女の裸身に舌を這わせてゆく。

「ひっ……お姉さまぁ」

 女はひどくいじわるそうな貌で言った。

「やめぬよ」

 唇と唇が重なる。

 赤い舌と赤い舌が絡み合い、下品な音を立てていた。

 鼻先がこすれ合い、吐息に熱が籠る。少女は瞳を潤ませて、譫言(うわごと)のように女を呼び続けた。

「――うぐ」

 それは、唐突であった。

 少女が眦を裂く。

 少女の喉が、“もこり”と盛り上がっていた。

――何かが、蠢いている。

――何かに、侵されている。

 得体のしれない“何か”が身体の奥へ、奥へと。

「――あぇ」

 少女の眼球が“ぐるり”と上を向いた。

 何かが、少女の中で脈打つそれを締め上げる。蜷局(とぐろ)を巻き、きつく、きつく。

「――」

――ひどく、美しく。

――ひどく、冷たい。

 女が、妖艶に嗤う。

 赤く濡れた舌は、蜷局を巻いて、脈打つ心の臓を包むように締め上げていた。舌の中で弱々しく脈打つそれを愛おしそうに見つめて、己の口へ。噛み砕きもせずに、飲み込んだ。白い首筋に伝うのは、処女(乙女)の血。

 白く、冷たい唇が紅を挿したかのように染まる。

「生き肝は、やはり若い処女(おとめ)の物が美味いのぉ」

 恍惚と女は言う。

 白く、嫋やかな身体が赤く染まる。けれど、女は美しい。

 横たわる少女は、すでに息絶えていた。

 白く、しなやかな指で、頬を撫ぜる。

 まだ温もりを失わぬ、屍(かばね)は魚のように跳ねていた。

「――羽衣狐さま」

 天蓋の外から声がした。

 翁の声。

「なんじゃ」

 冷淡な声で応える。

「ご朝食の用意が出来てございます」

 血濡れた布を身体に纏わせ、女が姿を見せた。

 窓から洩れる陽光に、貌を歪ませる。

 杖をつく翁が腐った息を口から吐きながら、奇妙な声で笑う。

 面を張り付けたような笑みの奥で、狂気を孕んでいる。

 武骨な禿頭に亀裂が奔る。

――“異形”。

 赤い瞳が、目を剥いた。

 金の眼球が上下左右に動いて、やがて女を見据える。

「“前菜”はいかがでしたかな?」

 口元を緩め、翁が嗤う。

「ふむ。そちにしては、なかなかの者を用意したの。悪くない」

 女は、微笑を浮かべた。

「それは、それは、ようございました」

 翁は満足げに言って、一礼する。それから、音もなく姿を消した。

 女は静まり返った室内で一人、姿見の前に立って再び裸身となった。

 耳に掛かった髪を救い、指で払う。

 絹の如き、その黒髪が、はらはらと舞う。

「血で汚れてしまった」

 女は、脇にある鐘(ベル)を鳴らした。一寸遅れて、扉が開き、侍女が恭しく頭を下げた。それから、眦を裂いて息を呑んだ。一糸纏わぬ純白の身体に、不自然な赤色。一見して、おぞましくはあるが、美しさを損なうことはない。

「汚れてしまったの。悪いのだけど、タオルをもってきて頂戴」

「――……はい」

 震えた声で侍女が応え、一礼して退室した。それから少しして、扉が開く。しかし、その先に立っていたのは、先ほどの侍女ではなかった。

「お姉さま」

 年端もいかぬ少女の声が、耳に届いた。

「狂骨の娘か……」

 ゆるりと瞳を細め、唇に笑みを点した。

「侍女の人と代わってもらいました。タオルです」

少女はにこり、と微笑んでタオルを手渡した。女は、やさしく少女の髪を撫ぜてやる。

「ありがとう」

「いえ、お姉さまのお手伝いが出来て光栄です」

「ほんに愛い奴」

 

 

二.

 

 セーラー服姿で、女は朝食をとる。そこは朝だというのに、薄暗い闇に包まれていた。フォークとナイフと食器が音を奏でるだけで、会話なぞ皆無。傍で控える翁と少女は、薄く笑みを浮かべている。

「ところで、羽衣狐様……この“山ン本の目玉”が面白い話を耳にしましてな」

「――ほう、それは、食事を邪魔する程に面白いのかえ?」

「ええ、はい」

 翁は、くつくつと嗤いながら続けた。

「“ぬらりひょんの孫”めに、妖の嫁が嫁いできたそうな」

「――なに?」

 女の動きが止まる。

「しかも、その女子というのが“椿の鬼姫”だと」

――ふつふつと笑いが込み上げてくる。

――それは、侮蔑、軽蔑、汚辱、屈辱、苛烈、怒り、憎しみ、様々な感情(もの)を綯い交ぜた負の微笑。

「――哀れ、哀れじゃのぉ……その女子も」

「――誠にございますなぁ」

「“山ン本”よ、妾はその女子に逢うてみたい」

 

 

 

三.

 

「――どうぞ」

「ありがとう、魅琉鬼」

 碗を受け取り、リクオが微笑んだ。静まり返った広間で魅琉鬼と二人。ゆったりと時間が過ぎてゆく。 腰障子から洩れる月の灯りが、穏やかな夜を演出する。けれど、魅琉鬼の貌は翳りを帯びていた。

「――リクオ様?」

「ん?」

 箸の先を唇で咥えたまま、視線だけを魅琉鬼に向けた。

「少し、お疲れではありませぬか? 昨日も遅くまで、部屋に灯りが点いていました……ちゃんと寝ておられますか?」

 彼女のいうように、リクオは疲労困憊であった。目の下に色濃く隈が浮かんでいたし、食も細くなっている。けれど、リクオは、誤魔化すように笑うだけで。

 はがゆい。

 想いばかりが膨れてゆく。

「――明日は、学校をお休みなさいますか?」

「いや、大丈夫さ。そんなにやわじゃないさ」

 リクオはゆるく笑って碗に盛られた飯をくらい、めかぶ汁を啜った。

「――ごちそうさまでした。今日も美味しかったよ。魅琉鬼。あんまり食べられなくてごめんね」

「――いえ」

 リクオがいつものように、食器を手に立ち上がったところで異変は起きた。

 視界が揺れる。ひどく歪んで、平衡感覚が保てない。

「――あっ」

 碗が畳に落ちて、破片が散らばった。

――まずい。

 瞬間、魅琉鬼がふらつく彼の身体を支えた。

「後は私が片づけておきますから、リクオ様はお部屋でお休みください。いいですね?」

「まいったな……これくらい――」

「駄目です」

「――はい」

 それから、リクオは青田坊に担ぎ上げられ、強制的に床へ着いた。やはり、というべきか、リクオはものの数分で眠りについた。

 静かに寝息を立てるリクオの横で魅琉鬼が正座しながら、彼を見つめる金色の双眸に影が落ちる。握った拳が小さく震えている。

「――魅琉鬼よ」

 小さな影が一つ、腰障子に映っていた。

「ちと話がある……少ししたら、儂の部屋へ来なさい」

「――はい」

 それから、少しして。

「――魅琉鬼にございます」

「入れ」

 許しを得て、部屋に入る。ぬらりひょんは既に上座に坐して、煙管を咥え、紫煙を燻らせている。

 魅琉鬼は下座に坐した。

「リクオの様子はどうだい?」

「今は、お部屋でお休みになられております」

「ふぅん。まぁ、アレはアレなりに考えてるってこったな。いい傾向じゃねぇか」

 ぬらりひょんは、からからと笑い、火皿に溜まった灰を落とす。

「――魅琉鬼よ」

 ぬらりひょんの纏う空気が、激変した。

“悪たれ”の貌。あの牛鬼が惚れ込んだ“大侠客ぬらりひょん”の姿が、其処に在った。

「“四国”の後ろには、“狐”がいる」

「――狐?」

「おう」

 煙管を咥え、息を吐く。たゆたう紫煙が薄闇に溶ける。

「儂の息子、つまりリクオの父親を殺した女狐だ」

 魅琉鬼の眦が裂けた。

「――それは」

 戸惑いを隠しきれない。けれど、すぐに思考を切り替える。

「それは、まぁ、今は置いておく。が、――一つお前さんに詫びねばならんことがある」

 ぬらりひょんが、一拍の間を置いて言った。

「リクオは、お前との……いや、“妖”との間に“子”を生せない」

――なんと、言った。

――今、何を聞かされている。

――おかしい。

――おかしい。

――どうして。

――どうして。

 視界が歪む。

 思考が塗りつぶされてゆく。

「それが、“儂ら”に掛けられた“呪い”じゃ。その元凶がその女狐なのよ」

 ぬらりひょんが胡坐をかいたまま頭を下げた。

「お前さんにゃ、申し訳ないと思ってる。この通りだ」 

 芋のように長く、武骨な形をした禿頭に汗が浮かんでいる。

「――ひっ」

 嗤っていた。

「――ひ、ひ、ひ」

 ひどく、おかしい。

 堪らなく、おかしい。

「おかしなぬらりひょん様……お詫びなど、必要ありませんのに」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――だって、その“狐”を、殺してしまえば、いいだけじゃありませんか――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 赤い鬼が、嗤っている。

 ひどく、美しくくて。

 ひどく、おそろしい。

「こりゃ、早まったかな……鬼を焚き付けちまった」

 ぬらりひょんは、吸い口を嚙んで、苦笑した。

「おじい様……私、しばらくの間、京都へ行ってまいります。お許しくださいますか?」

「構わんよ……しかし、リクオにもことわっておきな。今日はいい月だ。“でぇーとに”でも行ってきな」

「――ありがとうございます」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

四.

 

  

 其処は闇に包まれていた。灯りは、腰障子から洩れる月明かりと、菊灯に刺さった蝋燭一本。それを囲うように三人の男が、胡坐をかき、円座に坐していた。

 一人は、女の如き、長い髪を遊ばせている厳かな貌をした男。

 一人は、強面ではあるが、見るからに貧弱そうな身体つきの男。

 一人は、まだ顔に幼さが残る小さな体躯の少年。

「おい、寝てなくていいのかよ」

「うん、平気、少し仮眠できたから」

「そうかよ」

 男はふて腐れたように舌打ちをする。

 対し、壮年の男は目を閉じ、沈黙を保ったままだ。

「おりゃしらねぇからな! あの女に問い詰められても、俺の名前は出すなよ」

「出さないよ。ホント、案外魅琉鬼と仲良いよね。鴆君って」

 鴆は蟀谷に青筋を立てて憤慨した。

「馬鹿野郎! 俺が何時! 何処で! 何時何分何秒に! あの乱痴気女と仲良くしたって!」

 ずい、と顔を近づけて捲し立てる。堪らずリクオは手を翳して苦笑を漏らした。

「――黙りなさい、畜生」

 腰障子の戸が少し開いて、隙間から“針”が一つ飛んで来て、鴆の頭に突き刺さった。

 それから、音を立てて赤い血が迸る。

 簀子が赤色に染まった。

「まったく、心外ですわ、リクオ様。私(わたくし)とこんな畜生風情が仲が良い、などと」

「魅琉鬼……」

 腰障子の戸が開き、魅琉鬼が恭しく頭を下げた。血の池に沈む鴆の事を、その場にいる者は、はがにも掛けなかった。

 なんともはやである。

「はいはーい、鴆様ー。退場しますよ」

 其処へ氷麗がやって来て、ずるり、ずるりと鴆の襟首を掴み、引きずってゆく。

「――俺の、扱い……」

「――リクオ様」

「ひゃい」

 舌を嚙んだ。

 魅琉鬼は袖口で口元を覆ってくすり、と微笑を浮かべた。

「リクオ様、私の“お散歩”にお付き合い頂けませんか?」

「え、でも……」

 横目で牛鬼の様子を伺う。

 目を閉じ、口を固く結んだまま動かない。

 ややあって、右目が開き、言う。

「行って来い。こちらは問題ない」

「――けど」

「今、お前にもう一度倒れられては元も子もない。一度、頭を冷やせ」

 ぴしゃりと言われて、言葉に詰まる。

「私と夜の散歩をするのは、お嫌でございますか」

――困った。

 好いた女にこんな貌をされては断れずとも、已む無し。

 リクオは、指で頬を掻いて苦笑を洩らした。

 それから、それから。

 牛鬼は、静まり返った室内で、書見台に置かれた書の頁をめくる。灯りは、菊灯に刺さった蝋燭一本と、腰障子から洩れる月明かりのみ。

「――牛鬼よ」

 声は、戸の向こうから。

「月を肴に一杯付き合わんか」

「構いませぬよ」

 縁側で胡坐をかいて、二人が坐していた。

 その間の盆には、徳利二本と、漆塗りの盃が二つ。

 月を見上げて、酒をかっ喰らう。

 酒は、旨い。

 けれど、どこか寥々(りょうりょう)としている。

「――なぁ、牛鬼よ」

「――何ですかな、大将」

「お互い、老いたのぉ」

「老いましたな」

 再び、盃を酒で満たす。

 枝垂れ桜の花弁が、水面に舞い降りて、波紋が立った。

「昔に比べて、静かになっちまった」

「確かに、ひどく静かだ」

「雪麗がいりゃ、きっと背中をひっ叩かれちまいそうだ」

 しばし、無言。

「大将、四国妖怪の軍勢に“京者”が混じっておりました」

「おう」

 酒を喰らって、言う。

「老体に鞭打つことになるが、付き合ってくれるかい?」

「承知」

 ぬらりひょんが、にかっと嗤って、牛鬼の肩を叩いた。

 

 

 

五.

 

 

 満月の中心に黒い影が一つ。ひどく大きな影であった。

 その影が、闇を滑るように駈けている。

 影の正体は、一匹の化け猫。その背で、白髪を持つ鋭い眼光の青年と、赤い髪を持つ美しい女が、寄り添っていた。女は、青年に甘えたように、身体を預けている。言葉はない。けれど、確かに二人は“つがい”であった。

「今日は随分と素直じゃねぇか」

 青年が言い、女が嫣然と微笑を浮かべた。

「あら、それじゃ、普段がひねくれ者みたいじゃありませんか」

「違うのかい?」

 意地の悪い笑みを浮かべる。

「まぁ、ひどい」

 くすり、と袖で口元を覆って笑った。

「お前がこうして、素直に甘えてくるのは、珍しいだろう。まぁ、俺も、最近構ってやれなかったからな……丁度いい」

 そういって、女の肩を抱いた。

「うれしい」

 魅琉鬼はうっとりとした貌で、青年を見つめる。

「京都へ、行くんだろう?」

「――え」

 魅琉鬼の眦が裂けた。

「さっき、爺の部屋の前を通ってな。詳しくは聞こえなかったが」

「そう、でしたか……」

「ああ」

 しばし、無言。

「止めては、くれぬのですか?」

「止めてほしいのかい?」

「――いじわる」

 魅琉鬼が、拗ねるのを見て、ふっと笑った。

「本音を言やぁ、まっぴら御免だがよ――俺も、いつまで経ってもお前におんぶに抱っこじゃ、かっこがつかねぇだろう」

「――そんな」

 魅琉鬼の言葉を遮る。

「行って来いよ。お前が戻ってくる前までに、一人前の“大将”になっておくからよ」

「リクオ様……」

 女が目を伏せる。

――青年、リクオが女の顎を持ち上げた。

「心配するな。俺が信じられないかい?」

「――ずるい人」

「男はみんなずるいもんさ」

 

 

六.

 

 

 蝋燭の火が、揺れている。其処は月の光も届かぬ、闇に包まれていた。菊灯に刺さった蝋燭が、横に並んでいる。その蝋燭に対面する女は、胴着を片肌で纏い、膝を折って坐していた。

 その横には一振りの刀。鍔も、拵えも、柄巻もない簡素な造りの刀。敢えて外装を語るのなら、その色。血のような赤色をしていた。

 じじっと小さく、火が音を立てた。

 それと同時に、一閃が闇に奔る。蝋燭の火がひとつ残らずかき消されていた。

――鞘を這う白刃の音が一つ。

 それ以外の音は、ない。

 女が軽く息を吐いた。

――“奴良屋敷地下道場”。そこで、魅琉鬼が一人鍛錬していた。

 彼女の貌は、憂いに満ちている。

 汗を拭い、乱れを整えて、浴室へ。

 身を清め、外へ出た。雪駄が庭の砂利を擦る音だけが響く。真紅の着物を纏う魅琉鬼はかくも美しい。

 不意に足が止まる。

 視線の先に人影一つ。

「――アンタ、本当に行っちゃうの?」

「ええ」

 氷麗である。憮然とした貌で魅琉鬼を見つめていた。

「奴良組が大変だって時に! 若だって、本当はアンタの傍に居たいって思ってるはずよ」

「氷麗さんがいるじゃありませんか」

 彼女の怒りが、沸点を超えて爆ぜた。乾いた音が、闇に響く。

 魅琉鬼は白い掌で右頬に触れた。微かに熱を持ち、じんっとした痛みが広がる。

「――本気で言ってるの? 馬鹿にしないで! ワタシはアンタの代わりじゃない! 若が――」

 氷麗が眦を裂いた。

 月明かりに照らされた貌は、涙で濡れている。

 

【挿絵表示】

 

「ホント、馬鹿みたい……二人して強がっちゃってさ。“離れたくない”って言えばいいじゃない! まったく」

「――ありがとう」

「べべべ、別にアンタのためじゃないんだからね!」

 照れて、顔を逸らす氷麗の姿に魅琉鬼はくすりと笑った。

「留守の間、リクオ様のこと、よろしくお願いします」

「仕方ないわね……ちゃんと無事に帰ってくるのよ」

「いってきます」

「いってらっしゃい」

 蒼月の下で二人は笑い合って、踵を返した。

 

 

七.

 

 

 深い森の中で、“それ”は異彩を放っていた。まさか、夢幻の類ではあるまいか。けれど、確かに“それ”は在る。悍ましげに聳え立つ洋館は、決して人を寄せ付けることなく、ひっそりと、けれど朽ちることはない。

 生ぬるい風に煽られて、紅い髪が横へ流れた。

 ひどく美しい女だった。

 赤い着物に、紅い番傘を差して、女は佇んでいる。

 紅を挿した唇に、薄く笑みが点る。扉が軋みを上げて開かれた。

「ようこそ、おいでくださいました。奥で、お嬢様がお待ちです」

 出迎えた侍女が淡々と、しかし、恭しく腰を折り、例をする。

「――傘は此方でお預かりいたします」

「――ああ、これはいいの。だって――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――雨が降りますから―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 はじめは、弱く。

 徐々に、強く。

 赤い雨が降り注ぐ。

 ぽてり、と落ちたのは、頭蓋。

 それは、椿の散り様によく似ている。

『やるねぇ、御嬢さん』

 声は、背後から。

 振り下ろされる鉄拳は、重く強い。

 苛烈な威力を持つそれは、大理石さえ“抉って”みせる。砂塵が立ち込めていた。女の影はない。巌の如き男は、乾いた唇に舌を這わせた。

『こりゃ、驚いた――』

 黒スーツに浮かぶ凹凸は、宛ら肉の壁。

『まさか本当に、“椿の鬼姫”が来るなだなんて』

「――あら私をご存じで?」

『ああ、そうとも、よく知ってるよ。あんたは“覚えていないかもしれないが”俺たち妖怪はよおく知っているとも』

「――そう」

「ねえ、あなた? “狐”を知らない?」

『ああ、“主”なら、そこの扉の向こうさ』

 言って、男は上の扉を指差した。

『一応聞くが、“主”に一体何のご用向きで?』

 赤を纏う鬼が嫣然と微笑を浮かべて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――殺しに……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




長らく更新を停止させてしまい、申し訳ありませんでした。
活動報告にも載せましたが、ただいま【live maker】というフリーソフトを使用し恋する赤鬼のノベライズゲームを作成しております。

今年中には【序章】部分を完成させ、公開できるようにしたいと思っております。
そのため、此方の本編に関しては更新が不定期になります事をお詫びいたします。


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“覚醒”ノ一

恐らく、今年最後の投稿


 一.

 

 玄関広間(エントランスホール)で、一人の女と一人の男が対峙していた。赤い番傘を差した女。紅い髪に、尖った耳。黄金の双眸を持つ、大そう美しい女である。

 その女がひどく妖艶な笑みを浮かべている。磨き上げられた大理石の床が、紅く染まって、女の美麗な貌が水面に映し出されていた。

「――まさか、本当に“椿の鬼姫”がカチコミ掛けてくるなんてよぉ」

 男は、分厚い唇に舌を這わせ喉を震わせて、低く嗤った。

 男の武骨で隆々とした肉の凹凸が黒スーツに浮かび上がっている。男は拳をこきり、こきりと鳴らして、それから首を左右に傾けた。小気味の良い骨の音が響く。

 拳を軽く握って構えた。

 足場は鮮血で濡れているが、問題にはならない。一蹴りで間合いを詰めることも容易い。

 男は皓歯を覗かせて、もう一度笑って見せた。

“――ぴしゃり”と音がした。

 男の視界が赤色に染まっている。

――傘。

 鮮血を吸った赤い番傘が、眼前で広がっている。

 おかしい。

 瞬き一つ、儘ならない程の“間”であったはずなのに。

 何故、どうして。己の前に女がいるのか。

 女が傘の奥で、紅い唇に笑みを点した。仕込み刀が、男の頸に觸(ふれる)寸前。

 男も皓歯を覗かせて嗤っていた。

 甲高い音が玄関広間(エントランス)に響いた。

「――残念でした」

 男は赤い舌を垂らして嘲笑を一つ。

 その顔が、異形へと変貌していた。

――岩。

 男の筋骨隆々とした体躯を岩が覆っている。

 拳を振り下ろした。

「チッ」

 女が後ろに飛んだ。

 岩の拳が、大理石を抉ってみせる。それから、砕けた石が鋭く尖って、女に襲い掛かる。刀を旋回させて、之を弾く。

「ああ、使い物にならなくなってしまったではありませんか」

 女が、ため息を漏らして、白刃を見つめる。

 洗練された美が失われ、刃が欠けている。女が刀を放った。

「仕方がないわ。――雪那」

――声と同時に。

――白銀の毛並に覆われた美しき化け猫が姿を現す。

 赫い眼(まなこ)で男を睨み、低く唸った。

「申し訳ないのだけれど、“アレ”を使うわ……」

 雪那と呼ばれた猫が、瞠目して、それから大きく口蓋を開いた。

 女は何を思うてか、その口蓋に腕をするりと入れて、何かを手繰り寄せている。

――取り出したるは、一振りの刀であった。

 鍔も柄巻もない簡素な造りの刀。敢えて外装を語るのなら、その色。

 紅い色をしている。

「今更、刀を変えた所で、どうするってんだ。鬼姫さんよ」

 男が唇を釣り上げてせせら嗤う。

――刹那。

“ぴしゃり”と音がする。

「――え」

 呆けた声が漏れていた。

 何故、何故、何故。

 頭蓋の中で、問いを繰り返す。

――何故、己の躯を見上げているのだと。

 男の足元に、頭蓋が転がっていた。

 その様は、椿の散り際にひどく似ている。

 刀の鋒から、紅い雫が滴っていた。

 漆の如き、艶のある黒い刀身が、鮮血を浴びて鈍く耀いていた。

――鞘を這う白刃の音一つ。

 男の躯が炎に包まれた。

「この程度の相手に“この子”を使うだなんて……やはり今のままではリクオ様を護れない」

 黄金の瞳に陰に陰を落とす。

 憂いを帯びた女の貌は、かくも美しい。

 雪那の顎下を軽く撫でてやる。気持ちよさそうに喉を鳴らして、女に頭をこすり付ける。

「こら」

 柔らかく微笑んで咎める。

 不意に、雪那の瞳孔が細く尖る。銀色の毛を逆立てて、低く唸った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――噂に名高き“椿の鬼姫”がこの程度とは――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 荘厳と傲慢が混じる声が、響いた。

 その声は、女の頭上から聞こえてくる。視線を上へ向けた。階(きざはし)の先に構える扉の前に一人の男が、粛然と立っている。腰に帯びた刀の柄に手を乗せ、ぶらりと遊ばせている。

 白髪白髭の翁。

 顔に刻まれた皺は深い。

 とん、と軽く鉄柵の上に乗り、舞い降りる。羽織の袖が宙でひらめく。

「その刀、刀匠“時雨”の“紫焔”か。――今の貴様にはすぎた刀だな」

 女が唇に笑みを点す。それから、一際甲高い音が鳴り、波紋が生じる。屋敷全体が重く揺れる。二人は、鼻先が擦れ合う程近くで、睨みあった。

「――何方かは存知あげませんけれど、私と刀を切り結んむだないて、珍しい」

 刃と刃が弾けて、互いに距離を取った。

 翁が、女を穿たんと、地を蹴った。瞬く間に間合いが縮む。女が突きを往なして、身体を反転させ、勢いのままに翁の頸を刎ねようと、横薙ぎの一閃を放つ。倏忽(しゅっこつ)として、体躯を屈ませ之を回避。女の刀が空を裂く。

 細い白髪が、数本宙ではらはらと舞った。屈んだまま体躯を翻し、下から突き上げる。刀の鋒が、女の眼前に迫った。けれど、女の貌には、笑みが浮かんでいる。刃が擦れ合う音が響く。鍔が鳴り、翁が刀を返す。そのまま横薙ぎの一撃に転換し、女の身体ごと払う。

 壁に衝突して、砂塵が立ち込める。

「む」

 翁が、小さく唸って頭上を見上げた。

 雪那が、爪を尖らせ翁に重い一撃を見舞う。

 頭の上に刀を翳して、受け止める。足元に蜘蛛の巣の如き亀裂が奔った。

「ちぃ」

 翁が歯を食い縛って耐える。

「――なんじゃ、騒々しい」

 女の声がした。

 ひどく、透き通る冷たい声だった。苛烈な戦いの中にあって尚、その声が呑まれることは、なかった。

 漆黒の髪を指で弾く。

 死人の如き、白い貌をした女である。夜よりも深い黒い瞳が、すうっと細くなった。

「客人かえ?」

 血の通わぬ唇に笑みを点して、女が言う。

 纏う衣は薄く、白い肌が透けていた。嫋やかな身体は悉くを魅了する魔性。

「主! お下がりください!」

――叫びと同時に。

 砂塵が切り裂かれ、赤い鬼が鋒を突き立てて飛翔する。軌道は逸れることなく一筋に、白い女の頸筋へ。

「ふむ」

 白い女は感嘆して間もなく、金の尾が、背後に顕現した。

「――が」

 鋭く尖った尾が、赤い女の腹に突き刺さる。

「おお、すまぬ。勝手に殺してしもうたわ。許せ、鬼童丸」

「っか……ごふ」

 赤い女の唇から血が滴り落ちた。

「ほう、まだ息があるか……大した女子(おなご)じゃ――ん?」

 主と呼ばれた女が、宙で串刺しになった女をじくと見つめた。

「紅い髪に尖った耳……それから黄金の瞳――ふむ。そちが“魅琉鬼”とやらかえ?」

 女は応えない。

――代わりに、唇に笑みを点して、女の白い貌に血を吹く。

 貌の半分が赤く染まった。

「気概も良いな」

 女は、嫣然と微笑み、掌で血を拭った。

 それから、手を叩く。

「そうじゃった。そうじゃった。そちに逢(お)うたら、聞いてみようと思っていたことがあるのじゃ」

 宙に浮いた尾を、己の許へ誘い、魅琉鬼の耳元でこう囁いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――愛しい男の稚児(ややこ)を孕めぬとは、どういう気分なのじゃ――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――ヒッ」

 嗤う。

「――ひひひ、ひ」

 嗤う。

「――あっは、ひ、ひひひ」

 嗤う赤い鬼。

 黄金の瞳が炯々と耀いた。

「――啖(く)うてやる。肉も骨も、皮も剥いで、目玉をくり抜いて、腑も引き裂いて、脳髄を啜って、最後にはその汚らしい魂まで啖(く)うてやる」

――赤い鬼の背後から、灼熱が迸る。

「――なに」

 背筋に奔る感情(これ)は、なんだ。

 忘れて久しい感情(これ)は、なんだ。

 京の主たる己を慄かせるこの女は、一体なんだ。

 女は、魅琉鬼を勢いよく放った。

 轟々と音が響く。

「――末恐ろしい女よ。鬼童丸。止めを刺してやれ。生かしておけば、必ずや、“妾の悲願”を邪魔する者に化けるぞ」

「御意、この猫を斃し次第すぐに」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――はいはい、そこまでにしてね――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 声が、響いた。

 童、少年の声。

 鬼童丸が瞠目する。声の主は、今尚、対峙する化け猫であった。

 紅い双眸には、青い炎が点っていた。

『いやぁ……予想はしてたけど、相当弱くなってるねぇ……魅琉鬼ちゃん』

「貴様、何者」

『んー? 僕の事かな? えーっと“闘神阿修羅”って言えば通じる?』

 鬼童丸とその主が戦慄していた。

『キシシ、その貌傑作だよー』

 せせら笑う声が、玄関広間(エントランスホール)に響く。

『因みに、気配を探っても無駄だからね? 僕、今地獄にいるもの』

「なんだと? ではどうやって――」

『君、案外鈍いね。君の目の前にいる猫だよ。この娘の瞳を通して、現世を覗いてるのだ』

 誇らしげに鼻を鳴らして言う。

『あ、そうそう。魅琉鬼ちゃんは殺させないよ? 僕の大事な大事な遊び相手なんだ。“今”は弱っちいけど』

 一呼吸置いて。

『――本来なら、君らなんて相手にもならない』

 息を呑んだ。

 地獄の闘神にここまで言わしめるとは。

「ならば、尚の事――」

――刹那。

――青き灼熱が、迸る。

『だーかーらー。駄目だって、言ってるでしょ? 心配しなくても、君らの“悲願”は邪魔しないよ。むしろそっちの方が、“闘神(ぼく)”的に楽しいことになるし』

 雪那が、気絶している魅琉鬼を咥えて空へ飛翔した。

『それじゃ、魅琉鬼ちゃんはもらってくねー。まぁ、精々楽しみにしてて』

 

 

二.

 

 

 薄闇の中で鎖の音が響いていた。それ以外に響くのは、鞭の音。ひゅん、と鋭い音の後に続いて、鎖が揺れる。赤い炎が点っている。その炎が照らすのは、肌を晒す美麗な貌の男であった。

 辺りに広がる闇より深く暗い黒髪に、鉄を打つ炎の如き、“赫眼”の男。

 枝垂れた髪が、左目を覆い隠す。

 四方を囲う石造りの“間”。

 そこから伸びている鎖に、男の四肢は繋がれていた。

「クソッたれめ……何度味わおうがなれるもんじゃねぇな。こりゃ」

 男は、一人ごちる。

 両脇で鞭を振るうのは異形の鬼であった。

 浅黒い肌に、骨が浮かび上がる程の痩躯。頭蓋は馬のように長い。唇は剥げて、歯茎から黄ばんだ牙が生えている。漏れる息は、腐敗しきって、悪臭をまき散らしていた。

 瞼のない緑色の瞳が、じくと男を見つめている。

 ひゅん、と鋭い鞭の音。男の体躯を“抉る”かのような痛みが奔って、熱を帯びる。

 皮膚は破れ、少し焦げた臭いがしている。

 けれど、その傷はすぐに癒えてなくなった。

『当然ですぜ。零様。痛くなけりゃ、意味がねぇです。地獄の亡者達は、この痛みを何千、何万、繰り返すのですから。あなた様の方がまだましだ』

「っせーよ。おら、さっさと済ませろ。あと何度だ」

『あと壱千弐百五拾八(せんにひゃくごじゅうはち)回ですだ。このあと、釜に丸一日浸かって、その後には快楽拷問で性を絞り切って、“八熱”“八寒”を順に廻ってもらいます』

 零と呼ばれた男は、眉を顰めてため息を漏らした。

「――なげぇ」

 男の背後に聳える門の方から声が響いた。

『零様!! ただ今伝令が! 闘神阿修羅“羅毘”様が!』

「弩阿呆が! 今俺はそれどころじゃねぇよ! あの糞ガキがなんだ! 心して言えよ? くだらねぇ要件なら、そくテメェを俺と同じ目に合わせる」

『そ、それが――あの』

 声が震えていた。

「さっさとしろ」

『はっ。先刻、羅毘様が“椿の鬼姫”を地獄へ連れ戻したとのことです』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――あの糞ガキがぁぁぁぁ!――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 零の怒号が闇に響き渡る。責苦を与えていた獄卒は黒い炎に焼かれ、灰燼と化していた。

 叫び終えると、零は荒く息を吐いて、呼吸を整える。

「――おい」

『はっ』

「獄卒が燃えちまった……すぐ代わりをよこせ」

『――ですが』

「でもも、糞もねぇ……俺はどうあってもここから出れないんだよ。阿呆が。あの忌々しいガキめ! それ見越して連れ戻しやがったな。あのガキ戻ったら、殺す殺す殺す! ぶっ殺す!」

 その声には、呪詛にも劣らぬ“怨み”が籠っている。扉の向こうで傅く兵は、股の間から小便を垂れ流していた。

「俺が戻る間、審判は予定通り“夜壬(やみ)”に任せる。乱痴気女はテメェら全員で何とかしろ! 獄卒も守備隊も使える奴はすべて使え。“十王”の爺どもは黙らせる」

『御意!』

 それから、声と気配が消えた。

 零は胸の内で燻る憤怒の炎を持て余していた。

「――ああ、煙管が吸いてぇな……」

 

 

 

三.

 

 

“ぴしゃり”と音がする。武骨な棘の先から、赤い雫が滴り落ちている。

 雫が、女の白い頬を叩く。

 冷たい岩盤の上に横たわる女は、ひどく美しい。形の良い眉が動いて、眉間に皺が刻まれた。薄い瞼が、ゆっくりと開いてゆく。視界に豁然(かつぜん)と広がるのは岩肌の棘。女は、微睡む意識のそのままに、細いく嫋やかな身体を起こした。

「――此処は……っ」

 頭に、鋭い痛みが奔った。

 辺りは深い闇に包まれている。それを茫(ぼう)っとした光が照らしていた。眼が慣れてくると、その惨憺たる風景に女が、ふっと紅い唇に笑みを点した。

 漂う腐臭は、この世ならざる地獄の薫り。糞尿と躯の山。耳を塞ぎたくなる嘆き、叫び。それら全てが綯い混ざって、女に圧し掛かった。

――けれど。

――けれど。

――赤き美しい鬼は嗤っていた。

「――なるほど。“戻って”来たのね」

『にぃ』

 小さき銀色の猫が鳴いて、女の手を舐める。

「――雪那」

 猫又の愛らしい眼がじくと女を見つめている。

「大丈夫。怒ってなんか居ないわ。記憶も蘇った」

 雪那が、眼を瞠って、魅琉鬼の肩に飛び乗る。

「さぁ、行きましょう“羅毘”様がお待ちかねよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――女がいるぞ。

――ほんとうだ、女がいるぞ。

――大そう美味そうだ。

――ほんとうだ、美味そうだ。

――啖うてしまおう。

――そうだ、そうだ。啖うてしまおう。

――いや、待て。

――いや、いや待て待て。

――なんだ。なんだ。

――あの女、識っているぞ。

――そうだ、識っているぞ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――“椿の鬼姫”だ!――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――鬼さん、此方、手の鳴る方へ――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 闇に美しい声が溶ける。

――それから。

――それから。

――醜悪な鬼の咆哮が、地を揺らした。

 ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ。

 視界で影を捉える。

 そのどれもこれもが。

――人間以下。

――いいや。

――いいや。

――畜生にも劣る。

 一閃が闇に奔った。

 鬼の頭蓋が、ごとりごとりと鈍い音を立てて転がる。

 その様は、椿の散り際にひどく似ている。

 魅琉鬼は、赤い血が滴る刀の刃に舌を這わせた。

「相も変わらず、酷い味ね。舌が腐ってしまいそう」

 鬼たちの黄金色の双眸が、赤色を纏う女を睨む。

 襤褸と変わらぬ刀を構えていた。

『啖われる前に、啖ってやる! その猫も一緒になぁ』 

 それから、息を合わせて一斉に鬼が飛翔した。

 鋭い爪と、牙が迫っている。

――魅琉鬼は紅い唇に、笑みを点す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――いただきます――




“夜壬(やみ)”とは、インド神話の“ヤミー”が元ネタ。
閻魔様の双子の妹。たぶん本編では出てこないモブ。
閻魔様は年に一度釜茹でされないといけない日があったはず……。




活動報告にも書きましたが、何とかゲームデータを復旧させることが出来ました。

恐らく今年最後の投稿になりそうですが、これからもよろし鵜お願いします


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"覚醒"ノ二

 超久々の投稿な上、かなり短いです。
 ノベルゲーム【鬼哭廻牢修羅体験版】公開中です。
 無料で遊べるので、是非。

 https://freegame-mugen.jp/adventure/game_8887.html

 感想とか実況とかお待ちしてます。


ーーーー青鬼の頭蓋が血沼へ沈む。

 それは、椿の散り様によく似ていた。

 切り口は見事なほどに平らで、切断された骨と桃色の肉が覗いて見える。だんだんと赤黒い血が滲み湧いて頸からどろりと垂れ落ちてゆく。

 青い肌と白い着物を血染めしたかと思えば、糸の切れた絡繰りの如く力を失って倒れこんだ。

 とくとくと血の沼が際限なく広がる。その水面に映る女の貌は、ひどく美しく、そして恐ろしい。

 蝋燭の如く白い肌は青鬼の血によって赤く汚され、優美であるはずの着物の柄も黒く変色した血によって塗りつぶされた。

 繊月を思わせる細く伸びた唇に舌を這わせて喉が鳴る。

「相変わらずひどい味……」

 点した笑みは、実に加虐的であった。

「これで、粗方狩りつくしたかしら……」

「にい」

 愛猫が愛らしい声で主を呼ぶ。

 女の足元で鳴く猫ーーーー雪那は主である女を見上げ、咥えた臓物を差し出す。

「……本当に貴女は優しい娘ね。ありがとう。けれどソレは貴女にあげるわ。私(わたし)の分は、これがあるのだし」

 物言わぬ骸を軽く蹴り上げ上向かせる。

「ね? だから貴女は私に気を使わないでいいわ」

 主人の許可を得て、猫は臓物を喰らう。

 血振い、納刀。

 凛とした音が鳴る。

「本当に、ひどい地獄(ところ)」

 吐き捨てるように言ってーーーー。

「行くわよ。雪那」

 闇に吞まれていった。

 

 ニ

 

 ずっと、呼ばれている。

 地獄(ここ)に戻ってきてから、ずっと。

 誰であるかはわかっている。

 鬼だ。質の悪い、諧謔じみた青い鬼。修羅。

 地獄に連れ戻した元凶。

 駄々をこねる童の如く喧しくせがまれている。

 

 早く来いと。

 

 覚悟は疾うにしている。故より餓鬼(わたし)には道が残されていない。

 修羅と闘って喰わねばならない。

 愛しい愛しいあの人を守らねばならぬし、憎らしい憎らしい女狐を喰ってやらねばならない。

 そうしなければ、忌まわしい呪いは解けず、愛しいあの人の子を孕めない。

 だから、絶対に殺して喰う。何があろうとも。

 

――――儼乎(げんこ)たる門が赤鬼の進行を阻んでいた。

 あまりの高さ故、全長を知ることはかなわない。

 その威風堂々たる鉄門に門番は不要。ただ在るだけで良しと定められている。

 赤鬼は、愛刀を強く握りこんだ。

 門を睨め付ける瞳には、強い決意と幾ばくかの不安が綯い混ざっている。

 この先に居る鬼の気配は、今の今まで啖ってきた鬼とはまるで別次元の存在である。

「にい」

 肩上で雪那が煩慮たる面持ちで赤鬼の顔を覗き込む。

 そっと唇に笑みを点して、指で顎の下を撫ぜてやる。

 それから少しして、鉄門が重々しく、緩慢と開く。石畳を削る音とともに隙間風が生じて羽織を揺らす。

 門の先は、渺々と闇が在るだけであった。

 赤鬼は、その闇を睨みつけながら歩を進め、呑まれるように消えていった。

 

 門扉が完全に閉じる。

――――一泊遅れて、指を弾く音が響いた。

 篝から青い炎が瞬く。

 そこは、広く寂々としていた。太い円柱が幾つも在って、刀傷が無数に刻まれている。

「久しぶりぃ」

 暢気な声が響く。剣呑としたこの場には、あまりに不釣り合いな声だった。

――――階の頂上で、青い鬼がひどく質の悪い笑みを浮かべながら玉座に鎮座していた。

 元服をまだ迎えていない、童鬼。

 小柄で愛らしいとすら思えてくる顔立ち。青い瞳と白銀の髪は幻想的で、大凡人ならざる美しさを有していた。

 白い額から生え伸びている青い角には、漆のような艶があった。

 着物の袖を揺らしながら手を振る様は、如何にも無邪気である。

 赤鬼は、全身が粟立つ感覚に震えた。愛刀を握る拳に力が籠る。瞬き一つ許されない。もしも許せば、その一瞬にも満たないうちに頸が飛ぶ。

「なぁにびびってんの?」

 鼻先が擦れ合うほど近くに青鬼の美貌があった。揶揄うような声で問う。硝子細工のように繊細な青い瞳の中に、恐れ戦く己の貌が映りこんでいる。

 反射的に後ろへ跳ぶ。 

「―――—」

 息を呑んだ。堪らず頸に触れたい衝動を堪える。

「うーん、やっぱ駄目だね。よわっちくて話にならない」

 落胆し、盛大な溜息をもらす。頭の後ろで手を組んで、視線を逸らしながら足を組み、つま先で床を軽くたたいている。

 あからさまな誘いだった。しかし、挑発には乗らない。

 肩の上で雪那が全身の毛をそそり立たせて牙を剥く。

「今のでキミ、何回死んだと思う? もう少しさ、やる気だそうよぉ」

 赤鬼は固く唇を結んだまま無言を貫いた。

「ビビったら負け。油断厳禁、闘争の基本でしょ。刀はなくて殺す方法なんていくらでもあるんだから」

「油断、なんてひと時もした覚えはないわ」

「ふーん、あっそ。まぁどうでもいいや。修羅(ぼく)と対面したなら有無を言わさず闘争。逃げたらダメだよ? わかってるよね」

「どうせ泣いたって逃がしてはくれないくせに……」

「とーぜん」

 音もなく赤鬼が間を詰める。

 逆手で居合。

 空を切る。

「どーん」

 脇腹に衝撃、蹴りがめり込む。骨が軋み、亀裂が走り砕ける音が耳の中で響いた。

「――—ず」

 呻く。

 円柱を三度突貫したところでようやく止まり、あたり一面を砂塵の帳が覆う。

「う……ぇ」

 血の塊が泥となって降り注ぐ。激しい痛みでまともに身を捩ることも叶わなかった。

 長耳が踵を踏む音が近づいてくる。

 雪那が化け猫の姿になって、修羅へ向かって飛び掛かる。

――――頸の骨が、折れる耳障りな音を聞いた。

 己の倍ある化け猫の首をへし折り、そのまま投げ捨てる。

 愛猫を気にかけている余裕はない。立ち上がってあらがわなければ死ぬ。

「お、少しはやる気になったかな」

 赤鬼の眼前に立ち腰を折って問いかける。

「怒った? キミの猫殺しちゃったけど、まぁ安心しなよ地獄(ここ)なら何度だって元に戻るから。そういう仕掛けなの」

 徐に髪を掴んで持ち上げる。赤い髪が枝垂れて貌は見えない。

「……―――――—」

 赤鬼の唇が微かに動く。

 それから、少しして――――。

 炎が赤鬼の肉体を包む。

「おっと」

 修羅はとっさに手を放して、邪悪な笑みを点す。

 ゆらり、と緩慢に立ち上がった。変わらず貌は見えない。しかし、枝垂れた髪の狭間から金色の瞳が射貫くように修羅を捉えていた。

「キシシ、やっとお目覚めかな」

――――闇の帳が、降りた……。



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