Quatro XX ~スパイ未満のオレの胃はもう限界かもしれない~ (滑落車博士)
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Case:S  Breakfast at Stephanie

原作2話より前の時制です。つまり本編開始前

プリンセスプリンシパル GAME OF MISSIONのキャラが出てきますが、
アプリ版の設定を網羅できていないため、半分以上オリキャラになります。
ステファニーさんに後ろから撃たれて死にたい。


 ・・・どの町にも光があり、闇がある。

 

 ロンドンの光は煌びやかで眼が眩むほどであり、同時に、その背後にある闇は漆黒である。

 

「―――それでは、シャーロット王女からの祝電を代読させて頂きます」

 

 大勢の人間が談笑し、音楽に耳を傾け、男女が手をとり舞踏を踊る。

 そこは舞踏会の会場であった。アルビオン王国における、上流階級の社交の場。

 

 王立科学協会(ロイヤル・ソサエティ)の最新の研究成果に対する労い…という今回の建前の都合上、

 普段の堅苦しい貴族階級のものより大衆的な集まりとなっていた。

 

「・・・『王国の技術力は世に比類なく、それを生みだす科学者もまた世界一の水準であることに疑いは無い。中でも、ロッジ卿が発明した『検波器』は、数年来における王国の無線技術を飛躍的に向上させる画期的な機器である。またロッジ卿は、エーテル研究における第一人者でもあり、当代においてこのような多方面に活躍する技術者を抱えていることはまさに王国の誉であり、アルビオンの栄光は王立科学協会の学術研究なくして成立しえないと信ずるものである。ボース氏によるクレスコグラフの改良、ストロージャー氏の磁気式交換機など、数多くの発明・改良が成し遂げられておりそれら全てを書き連ねるならば、紙面を幾枚費やせばよいものか』・・・」

 

 明るい光を投げかけられた壇上で、朗々と王家からの電文を代読するのは、若い男である。

 短く清潔感のある金髪。まだ頬に若干の少年らしさを残す、柔和な笑み。

 

 特徴的なのは、声だ。

 とりわけ大柄な体格では無いが、舞踏会の会場にあって隅々までよく通る声。

 メリハリのついた抑揚。言祝ぐという式の趣旨に沿った声色の微妙な変化。

 

 年齢からは不相応なほどに、完璧なスピーチの技術である。

 

 会場のどこかで、こそこそと囁き声がする。

 

 ―――あれが、クロフォード伯爵だよ。

 『あの』? 亡くなられた父君から伯爵位を継いで、昨年、正式に叙任されたという…。

 ―――まだお若いのに、ご立派なことだねぇ。

 

 

 スピーチの際に、幽かなざわめきが出る辺りが、今回集められた人々の性質を表している。

 正式な王室主催の舞踏会であり、正式に執り行われているとしても、

 基本的に研究者という人種は、社交というモノに貴族ほどの関心が無い。

 

 

 もちろん、貴族としての地位を持つ者や、社交に長けた研究者もいるのだが―――

 ―――スピーチに名が挙がるような高名な研究者ですら『体調不良により欠席』という者が数名居る始末だ。

 

 こういった会合と科学者の噛み合わせが必ずしも良くないのは、古今東西において不変である。

 

 科学者にとっては、面倒なパトロンのご意見伺いであり(舞踏会に嬉々として参加する科学者は稀である)、貴族にとっては、より上流階級の社交と比べると『一段落ちる』集まりなのである。

 名目上の出資者である王家からも、継承権四位のシャーロット王女からの電文一枚しか寄こされていない…。それくらい規模の『舞踏会』である。

 

 ・・・なお、極秘の研究分野…ケイバーライト研究や軍事造船関連…は、この王立科学協会の参加者に数え上げられていない。

 

 かつて王立科学協会に籍を置いていた者の多くは、名前だけを残したまま消えている。

 それが軍主導の研究に従事していることを意味するのか、なんらかの事情で『消えた』のかは、

 誰も知ることのない情報である。

 

 本当の『最先端の研究(機密情報)』がどこにあるのかは、闇の中だ。

 

「―――以上。 シャーロット王女からの祝電を代読させて頂きました」

 

 壇上で、クロフォード伯爵が読み終え、微笑む。

 拍手と光を浴びながら、クロフォードは退席する。

 

 ・・・このスピーチの間に、裏で何が行われていたのかを、彼は知らない。

 

 ―――知らないのだ。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

 アルビオンには、数多くのジョークがある。

 

 有名なモノに、『アルビオンで最も美味しい食事は朝食である。三食が朝食なら言うことがないのに』・・・というジョークがある。

 言うまでもなく、他国から見たアルビオンの食料事情を皮肉ったものである。

 

 『アルビオンが仮に世界を支配しても、決して手を出せない場所がある。―――調理場だ』

 『大規模空中艦隊が必要だったのは、あの島国から大陸へ美味しい食事を取りに行くため』

 

 そんなジョークが囁かれ、それをまたアルビオン人も否定しない。

 

 

 レスター・リンジー=クロフォードは思う。

 ちゃんと美味しく作れば美味しいのだけれど、と。

 

 蒸気機関を整備するには、専門の教育を受けた技術者が必要だ。

 造船を行うには、造船のプロが。紡績工場を運営するには、経営のノウハウを持つ人間が。

 つまるところ、この世の中は分業制である。

 

 料理を作るには、料理を作るプロが必要なのだ。

 

 目の前に置かれた卵料理は、まさにプロの腕が振るわれた一品だった。

 

「ああ・・・。ありがとう、ステファニー。今日も美味しそうなスクランブルエッグだね」

 

 しっかりとしたフル・ブレックファスト。

 

 トーストとベーコン、ソーセージは全てカリカリに焼き上げられ。

 スクランブルエッグは柔らかく、フォートナム・アンド・メイソンで買ってきたベイクドビーンズは値段に見合う味がする。素晴らしい朝食である。

 

 『新しく雇ったメイド』である『彼女』の料理の腕には、何の不足も無い。

 

 好みの焼き加減をたった一度伝えただけだというのに、一週間のうちに最高の焼き加減で提供してくれる細やかな気遣いが、特に素晴らしい。

 

 ロンドンで、腕の良い料理人を抱えるのは、それだけで大事なことである。

 うっかり手放すと、次の代わりを探すのに苦労するからだ。

 

「・・・ステファニー、『学園の暮らし』はどうだい? もう慣れたのかな?」

 

「ええ、学園のみなさんも良くしてくださって、なんとかやっています」

 

 ニコリ、と笑みを浮かべるのは、ステファニーと名乗る少女だ。

 蘇芳色(バーガンディ)の髪に、榛色(ヘイゼル)の瞳。可愛らしくも控えめな笑顔。

 

 伝統と格式ある名門、クイーンズ・メイフェア校に通う学生の身でありながら、学費を稼ぐためにメイドとして時折働きに来てくれる少女。

 父上…先代のクロフォード伯爵が死んでから、自分ひとりしか住んでいない広い屋敷を管理するために、時々、掃除や料理をしてもらっている。

 

 ―――それ以上の情報を、レスターは知らない。

 

 知っているのは、ステファニーという少女には『秘密』があるということだ。

 深入りすれば死ぬ秘密が。

 

 

「ご主人様は、お仕事ですね」

 

「うん。『新大陸』絡みの仕事でね。夜遅くまでは帰られないから、仕事を終えて帰るのであれば、じいやに一言かけてくれ」

 

「そうですね。最近は、『寮内は落ち着いてきました』から、寮でゆっくりしようと思います。

 …そういえば『ベイカー街の辺りを歩きたいな』って友達が言っていたので、来週あたりに出かけるかもしれません」

 

「はは、そうか。いいなぁ、学生生活が懐かしい…。 知ってるかい?『人気探偵小説家のジョセフ・マーロウ氏は、ベイカー街に住んでいるらしい』 私も『彼』のファンでね。ひょっとしたら、ベイカー街を散歩しているときにすれ違うかもしれないね―――」

 

 食事をしながら、軽いおしゃべりをする。

 

 他愛のない、内容の無い会話だ。

 レスターが朝食を食べている間、彼女は薄い笑顔を浮かべたまま、傍で控えている。

 

 ・・・食事が美味しいのは、良いことだ。

 少なくとも、彼女の作る料理は美味しい。

 

 だから、厨房も任せている。―――いつか、ステファニーが小さな瓶を食事の上に振りかける時の為に。その機会は、できるなら当分先であって欲しいものだけれど―――。

 

「さて。―――そろそろ出かける準備をしないとな。キンシーを呼んで、馬車の用意をさせてくれ。 一息ついたら、出るとしよう」

 

「かしこまりました―――ご主人様」

 

 

 ステファニーが、メイド服の裾を摘まんで、一礼する。

 ・・・本当に、ただのメイドならば良かったのだけれど。

 

 スパイを雇うというのは、思っていたよりも気分が疲れる。

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

「ゴールディング家は、随分と新大陸向けの輸出で儲けているようですな。いや実に素晴らしい」

 

 広い会議室で、深い声が響き渡る。

 決して大声ではない。深く低い、男性の声。

 

 末席にて。紙にペンを揮いながら、レスターは思う。

 自分も発声の技術に通じ、時と場合によって声を変化させられるが故に、思う。

 

 いったいどのような人生を歩めば、こんな声が出せるようになるのだろうか―――。

 

 会議室の上座に座るのは、一人の初老の男だ。

 

 ノルマンディー公。

 王族の一員であり、老齢の女王の代行として辣腕を振るう男。

 

 事実上、実務における権力のトップは、彼である。

 警察や軍事、経済に外交。かなりの分野の政治的判断が、彼に集約されている。

 …といって過言ではない。

 

「しかし……欧州向けの輸出については、随分と落ち込んでいるようですなぁ…。

 

 これについて説明を求めたいのですが、宜しいですかな…?」

 

 ノルマンディー公が、目を細めて笑う。

 ヒッ、と息を呑んで、貿易を担当する部門が縮み上がるのがわかる。

 笑顔のノルマンディー公は怖い。

 

 むしろ、いつもの厳しい表情の方がマシなのかな…とレスターは考えながらペンを走らせる。

 

 レスターの仕事は、端的に言えば議事録の作成である。

 

 クロフォード伯爵家は、代々王家に仕えている。

 王家に仕えると言っても様々な役割があるが、クロフォード家は主に侍従や尚書といった『王族の身の周りの事務仕事』を補佐することを家業としている。祐筆として仕えた先祖がおり、印章の管理をしていた先祖もおり、近侍や侍女として仕えた者がいる。

 

 レスターが、若いにも関わらず王家にお仕えできているのは、優秀だから―――では無い。

 これまでの伯爵家としての忠勤を買われたから―――でも、無い。

 語弊を恐れずにいえば、人間の数が足りないのである。

 

 ―――ロンドン革命。

 

 十年前から今に至るまで、アルビオンを二つに分裂させた、そもそもの原因。

 

 王ですら処刑されるという前代未聞の事態に、当時王宮に居た貴族の何割が無事であったか。

 生き残った者は少なくないが、それ以上に多くの者が混乱の中で殺されている。

 

 クロフォード伯爵家も、先代当主とその奥方…つまり、王家の傍仕えをしていたレスターの父と母…も、ロンドン革命の際に死んでいる。

 

 ・・・王政とは、貴族制とは、血縁に拠る血族の連綿たる繋がりを基本とする。

 例えば、ロンドンの街から有力商人を連れてきて、いきなり死んだ貴族の後釜に据えるワケにはいかない。

 

(それを許せば、ロンドン革命の再来になる―――)

 

 耳から入ってきた音声を、ペンに落とす。

 万年筆を走らせ、速記で一言一句を残さずに議事録を走らせる。

 手を動かしながら、考える。

 

 死んだ人間の代わりを務めるのはその血族である、という価値観だ。

 女王がもし不予となられても、次に王家を継ぐ正統な方が居る。

 それこそが、王家というシステムの正しい挙動なのである。

 

 貴族についても同様。一口に貴族と言っても様々な様態があるが、一代貴族以外は基本的に同じシステムで動いている。

 土地や財産、あるいは職業。そういったものは個人に帰属するのではなく、家に帰属している。

 

 貴族の子こそが貴族だ、という秩序である。

 

 つまり、大勢の貴族が死んだ後で、王宮の執務を継続しようとした場合―――

 『その仕事をやる上で適格な身分を持っている人間』が足りないのである。

 

 今、議題に上っている貿易といった分野は、商人の協力を得ることができる。

 科学研究や学術的な分野…これも必ずしも身分を伴わないから、在野の人間の登用で足りる。

 

 しかし、『王宮内部に入って、細々とした仕事をする』というような、『大した仕事では無いが、出自の判らない在野の人間には任せられない』という微妙なポストの多くが、革命により空白になってしまったのである。

 

 その点、クロフォード伯爵家は恵まれていた。

 1 家督を継ぐ男子が生き残ったこと。

 2 家格が十分であり、任じられている仕事が内向きであったこと。

 3 革命当時のレスターはまだ幼く、疑心暗鬼が広がる王宮内でも問題なく動かせたこと。

 

 そういった複数の要因が重なることによって、『若くして伯爵位を継承した文官』という立ち位置に座れたのである。座らされてしまった、とも言う。

 

「―――では、新大陸利権への共和国の接近を慎重に『観察』するとしよう…。 これにて、本日の会議を終了する」

 

 ノルマンディー公の凄みのある終了の声で、今日の会議は終了となった。

 

 

 財務官僚などが疲れた顔をしているが、それもむべなるかな。

 ノルマンディー公に笑顔で追及されれば、誰でも疲れる。

 

(―――『悪い人』ではないんだよなぁ…)

 

 少なくとも、彼は国家の為に働いている人物である。

 絶大な権力を動かしているのも、決して私心ではない。

 敵対者にとっては恐ろしい存在だが、善良なる国民に対しては笑顔を見せることのできる人物だ。

 

 レスターは、頭の片隅でぼんやり思いながら、速記で書いた紙を最後まで書き上げる。

 もちろん後で清書して、しかるべき過程を踏んで議事録にするのだが、

 会議が終わったので部屋を一端退出する必要があるのだ。

 

 

 ガタリ、と音を立てて、席を立つ。

 

―――――

 

 

「クロフォード卿、元気にしているかね?」

 

「・・・!? で、殿下っ!?」

 

 大部屋を退出するときに、突然声をかけられた。

 

 し、心臓に悪い―――などとは表情に出さず、身を正して直立する。

 

 見上げるように、長身のノルマンディー公に向き合う。

 背の高い人だ。そして、有無を言わさぬ迫力がある。

 身が竦む、とはまさしくこの事だろう。

 

 目を細めた笑顔が、何よりも恐ろしい…というのは、此方に『疚しい部分』があるからだが。

 

「なに、楽にしてくれていい…。久しぶりに、君と話がしたくてね。

 ……午後のお茶でもいかがかな?」

 

「―――はっ! お供させて頂きます!」

 

 

 

 嫌だ、と言えたら、どれだけ楽だろうか。

 

 本音では、断りたい。

 しかし断れば、追及されるだろう。それは避けたい。

 ―――そも、この『お誘い』が来た時点で王手詰み(チェックメイト)の可能性もある。

 

 ・・・落ち着け。表情筋を制御しろ。

 視線の一つ、声帯の動きまで完璧に動かせ。

 

 疑われても、『灰色(グレー)』のままの評価を維持できればいい。

 白昼堂々、この場で暗殺される訳ではない―――少なくとも夕方までは生きていられるだろう。

 

「---、---」

 

 ・・・多分。

 生きてはいられるだろう。

 生きていられるといいな。

 

 ああ、しかし、お茶か。

 ステファニーも紅茶を淹れるのが上手だった。

 

 ノルマンディー公が用意させるお茶も、美味しいに違いない。

 美味しい紅茶は、良い物だ。・・・毒さえ入っていなければ。

 

 

 

 レスターは、曖昧な笑顔を浮かべて歩き出した。

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 

「しかし、共和国にも困ったものだ…。手を変え、品を変え、我が国を脅かしている。

 …そうは思わんかね」

 

「ーーーはっ。若輩の身ではありますが、殿下のご心労、お察しいたします」

 

 勧められるがまま、紅茶を口にした。

 

 とりあえず、一口飲んで死ぬ毒ではなかったようだ。

 良い茶葉を使っているのであろう、芳醇な味わいが口に広がる。

 

 

 王宮内の、とある一室。

 そこは、ノルマンディー公が執務で使っている区画の一室であった。

 

 レスターは思う。

 もしかしたら、全て筒抜けで、もう明日の陽を拝むこともできないかもしれない、と。

 本来なら、自分が呼ばれる場所でもないし、表向きに呼ばれる要件も無いからだ。

 

 切り出された話題は、先ほどの『新大陸利権に対する共和国の動向』である。

 アルビオン王国と、アルビオン共和国。

 二つに分かたれた国家に対して、欧州諸国の対応は分かれている。

 

 ―――果たして、どちらにつくのが自国の利益となるのか。

 それを見極めるために、全世界の視線がアルビオンに注がれていると言ってもいい。

 

 ・・・外交の世界とは、血も涙もない冷たい理屈で動く世界だ。

 『自国の利益を獲得できるか、否か』という、その一点だけを全ての国が狙っているのだ。

 

 他国でどれだけの血が流されようが、他国の王族が処刑されようが。

 それが自国の権益に繋がるならば、どうだっていい。

 

 外交とは、そういう論理で動いている。

 

「・・・この国が再び統一される時こそ、アルビオンが再び欧州の覇者となると信じております。

 いまだ非才の身ではありますが、王家を側支えすることことが我が家の務め。

 このペンを握る手を以って、王家をお助けできればと思っております…」

 

「まだ小さい子供だと思っていたが、随分と立派に育ったものだ。

 十年とは早いものだな。お父上が今の言葉を聞けば、さぞ喜んだことだろう」

 

「はっ…。身に余るお褒めの言葉、ありがとうございます」

 

 父母が無くなった後、レスターを今の地位につけたのは、他ならぬノルマンディー公である。

 

 幼い頃は、何もわからずに翻弄されるだけの日々であったが…。

 今になってわかる。

 

 十年前から手を回されていたのだ、と。

 

「ーーーそれで、本題だが」

 

「! はいっ!」

 

 ティーカップを置いて、ノルマンディー公の眼の色が変わる。

 鷹のような眼。鉄色をした瞳が、こちらを射抜く。

 

 レスターは、最後に一口、紅茶を口に含んで、飲み干した。

 ・・・毒が入っていないなら。死ぬとしたら、刺殺か、射殺か。

 

 居住まいを正すレスターを見て、ノルマンディー公は笑みを浮かべ、事も無げに伝えた。

 

「君に、クイーンズ・メイフェア校への潜入任務を頼みたい」

 

・・・。

 

・・・、・・・。

 

「せ、潜入…!? ―――殿下。 それは、どういう…?」

 

「クイーンズ・メイフェア校にて『共和国スパイ』が活動している、という報告を受けている」

 

「す、スパイ、ですか…?」

 

 驚愕と、冷や汗。

 声が、自然と震える。

 

 …いや、震えていい。『スパイ』と聞いて動揺しない人間は異常だ。

 

 落ち着け。まだ自分は死んでない。生きている。

 生きているなら、まだ喋れる。対応を考えられる。

 

「それは―――学園内に、共和国の手の者が居る、と?」

 

「信頼できる部下からの情報だとも。

 ……最も、このロンドンに共和国のスパイが入り込んでいない場所などない。

 

 ―――そう、王宮ですら」

 

 ノルマンディー公の眼が、鋭さを増した。

 レスターは、絶句しながら思う。

 

 落ち着け、落ち着け、落ち着け。

 あらゆる言葉を、こちらが勝手に疑心暗鬼に陥ってしまっているだけだ。

 そういう言葉を、あえて使っているだけだ。

 

 レスター・リンジー=クロフォードが疑われている訳ではない―――。

 

「しかし、私はただの文官です。殿下のお力になれるような、スパイ探し? といった任務は…」

 

「ああ、それは心配いらない。そういった荒事はすべて部下に任せればいい。

 

 君に任せたいのは、メイフェア校に潜入してもらいーーー

 何か怪しいと感じたことを報告して欲しいだけだ」

 

「―――クロフォード家は、尚書や祐筆といった役割を与えられておりました。

 

 委員会や会議の書記をさせていただいているのも、そういった先祖の役割を継がせて頂いていたものと…。しかし、メイフェア校へ行くとなれば。先ほどの議事録作成のような業務も、こなすことができなくなってしまいます。

 

 …殿下…なぜ、私に、そのようなお話を…?」

 

 

 レスターの問いに、ノルマンディー公は深く頷いた。

 

「君は、まだ若い。若いというのは、年寄りから見れば、この上ない才能の一つだとも。

 

 若いが故に、学園内で生徒たちに馴染んで活動できるという点が一つ。

 若いうちに、様々な経験をし、これからも成長してもらいたいという点で二つ。

 三つ目は―――君が信頼に足る貴族だからだとも」

 

 ニコリ、と張り付いたノルマンディー公の笑顔は、読めない。

 読めないが、判ることがある。

 

「そうーーークロフォード卿、君に『共和国スパイ』を割り出す手伝いをしてもらいたい。

 頼めるかね?」

 

 

 この頼み(命令)は、断れない。

 

 

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Case:C Can't be your painkiller

ノルマンディー公が倒せない。

ので、お見合いセッティングおじさんになってもらいました。




 午後の茶会(アフタヌーンティー)に相応しい、暖かな陽射しが窓から注いでいた。硝子越しに王宮の庭園を眺めながら、極上の茶を嗜む…。成程、庶民の思い描く優雅な宮廷生活とはこのようなイメージなのだろう、とレスターは頭の片隅で考えた。

 

 実態は、言葉尻一つで殺し合う騙し合いの舞台だ。

 適当な言葉を吐けば、どうなることやら判らない。

 

 

「しかし、学園への潜入といいますと…

 えー、どのように実施すれば宜しいので…?」

 

偽装(カバー)はこちらで用意する。

 

 メイフェア校には大きな図書館がある。そこの人員が足りないという話は聞いている。

 男性教員にも、ちょうど『空き』が出ていた筈だ……『さる貴族の子女に手を出して、二人駆け落ちして居なくなった』という話でね。はは、君も気をつけてくれたまえ」

 

「は、はぁ…」

 

 それは、『消えた』のか『消された』のか。

 深く訊ねると恐ろしいので、レスターは追求するのを止めた。

 世の中には、知らない方がいい事が沢山ある。

 

 ノルマンディー公は表情を緩めると、片手を僅かに上げた。

 側に控えていた女性…褐色肌(ブルネット)の、どこか剣呑な雰囲気の女…が、ティーポットに湯を差した。こちらに目礼をして、また下がっていく。

 

「君は…今年で二十四だったね?」

 

「はっ。この春に、ちょうど二十四歳になりました」

 

「では、君も気をつけたほうがいい。

 

 学園に新しく赴任してきた男性が、実は爵位持ちだなどと知れれば、学生たちの噂の的となるだろう。若い子供の好奇心とは、我々大人からすれば驚くべきものだ…『玉の輿に乗ろう』などと、接近してくる娘も居るかもしれん。

 

 面倒事に巻き込まれぬようにな」

 

 色じかけ(ハニートラップ)に気をつけろ、と言う意味だろう。

 黙って頷く。『駆け落ちした』男性教員と女学生が居たというのならば、既に先例があったのだろう。

 

 ノルマンディー公は、不意に表情を緩めると、言葉を継いだ。

 

「だが、もう二十四か…。時が過ぎるのは早いものだ。

  そろそろ、身を固めてもよいのではないかね?」

 

「殿下…」

 

「相応の家格の娘を紹介しよう。

 クロフォード家も、屋敷に君一人というのでは寂しかろう。

 男児がいなくなった侯爵家や、まだ縁談のまとまっていない伯爵令嬢など、私のところには話も多く入ってくるものでね。

 

 ーーーどうかな?」

 

 ノルマンディー公は、笑顔で提案してくる。

 レスターが見たことのない種類の笑顔であった。

 

(一体、何を考えてらっしゃるのかーーー?)

 

 レスターは、動揺を隠しながら思考する。

 

 一番可能性が高そうなのは、自分に『首輪』をつけたい、というような思惑だろう。

 仮に思惑が無かったとて、嫁を他家から迎え入れ、屋敷の中に侍女や執事が大勢やってくる…という状況は、マズい。

 情報が漏れるのは、いつだって人間からである。

 

「殿下…。その、お気持ちは非常にありがたいのですが。私にも、少々思うところがございまして…」

 

「ほう…」

 

「…その、恥ずかしながら。私の身分からすれば不相応なほど、美しく高貴なるお方をお慕い申し上げているのです…。そのお方の名前は申し上げることはできません。……報われることは無いと頭では理解しております。ですが、この恋慕が夢破れるまでの間は、どうかお察しいただけませんか…?」

 

 苦しい、その場凌ぎ(アドリブ)の言い訳だ。

 だが、この場は言い逃れなくてはならない。

 

 嘘を見破られる可能性は十二分にあるが、確信に至る可能性も大きくはないだろうーーー誰が、誰を好きなのかなど、誰も本当の意味で理解などできないのだからーーー。

 何度か舞踏会に足を運び、「ひょっとしたらコイツは恋心を抱いているのかな?」と僅かでも思わせれば、後から誤魔化せる。

 

「ふむーーー」

 

 ノルマンディー公が、眉を寄せる。

 

「それは、私にも言えないことかね?」

 

「殿下と、さる高貴なるお方のお立場を考えますれば、我が心の内に秘めたままとするのが最良かと…」

 

 内心の冷や汗を、謝罪の表情で隠す。

 追求されれば、誰の名を挙げれば良いだろうか。

 

 脳内で、以前舞踏会で会った女性を思い浮かべる。

 社交界で出会う女性は、みな着飾っていて、レスターの目から見て魅力的に映る。誰もが己を美しくする方法を心得ている。貴族と貴族の婚姻は必ずしも愛情で決定されるものではないが、魅力的な相手を求めるのも当然である。

 

 ラグラン男爵のお孫さんは、自分より一回り下で器量も良さそうな女の子だった。僅かながら話した際の印象では、利発で聡明でもある…。…が、「さる高貴なる方」と表現した以上、より身分の高い方が適切になってしまう。

 そうなると侯爵家か、伯爵家か…。

 

 ここまで考え、不意にある女の子の姿を思い出す。

 

 金糸の如き、艷やかな御髪。

 お優しい表情。柔らかな声。

 しかし、その裏側に秘められたる熱情は、身を灼き焦がしてしまう危うさを持つ。小柄なお姿からは想像もできぬほど、凛とした佇まい。ああ、その姿を見るたびに、どれほどーーー。

 

 レスターは、己の思考を中断した。

 

 その思考は不敬であるし、するべきでは無い。

 その小さな少女の()()()()()()()()()己が、していい思考では無い。

 役に立てぬ同情に、価値など無いのだから。

 

「ーーーっ、殿下とその方のお立場を慮ればこそ、御名をお伝えする事こそ我が不忠の極みとなってしまうのです。どうか、ご寛恕をいただきたく…」

 

 貴方の姪である姫様を慕っております、とは言えない。

 伯爵が片恋慕したところで、決して叶うことのない想いだ。

 ()()()()()()()()()()()()()

 これ以上の追求もされまい。

 話を蒸し返されることもない。

 この感傷は恋でも愛でもないのだから、全て偽りでしかない嘘であるべきだ。

 

「! ーーー成る程」

 

 頭を下げたレスターに、ノルマンディー公は今日聞いた中で一番の感情の動きを見せた。

 

「ーーー成る程。ならば、これ以上は聞くまい。

 

 だが、クロフォード伯爵家のためにも、君は結婚せねばならないという事を忘れないでくれ給え。

 私も、君のお父上に申し訳が立たなくなるからね」

 

「はっ! …お気遣い、痛み入ります」

 

 ノルマンディー公は席を立ち、レスターも続く。

 

「しかし、よもや君がそのような懸想をしていると知っていれば、私もこのような話を向けはしなかったものを。

 はは、子供だ子供だと思っている間に、いつの間にやら色気がついたようだなぁ?」

 

「殿下! お戯れはお止しくださいませ…!」

 

 ノルマンディー公の揶揄う声色に、レスターは赤くなりながら否定する。

 嘘で騙せているのか、本心を見抜かれているのかは判らないがーーー。

 

 

 少なくとも、レスター・リンジー=クロフォードは恋を知らない。

 

 今は、まだ。

 

 

 

 




先代のクロフォード伯爵が王家に縁深く
ノルマンディー公とも仲が良かったため、
好感度ボーナスで心配してもらっています。

今はまだそこまで疑われてないので主人公はチート。


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Case:P my back Pages

短いです。たぶん改稿します。




 ・・・最初に彼女を見た時の表情は、泣き顔だった。

 王宮の片隅、殆どの者が寄り付かない裏庭の、井戸の側。

 

 当時のレスターは一四歳でまだ子供ではあったが、大人の世界がまるで理解らぬほどには幼くはなかった。だから、教育係を仰せつかっていた母が血相を変えているのも、王宮中を侍女たちが探し回っているのも、理解していた。

 

 その少女を見つけることができたのは、ただの偶然だろう。あるいは、まだ大人たちよりも多少なり歳の近かった彼の動きが、少女がとった行動と結果的に近かっただけかもしれない。

 いずれにせよ、第一発見者はレスターだった。

 

 レスターは、その少女の姿をよく覚えている。

 短い金色の髪に、小さな背丈。当時既に成長期を迎えていたレスターからすれば、とても小さなその姿。華奢な身体を掻き抱くようにして、庭の片隅に蹲ってた。

 顔は伏せられていたが、震える肩と漏れる嗚咽から、目蓋を濡らしていることは見て取れた。

 

『ーーー姫様っ!』

 

 おそらく、自分は駆け寄ったのだろう。

 逸る心のまま隣に座り、お戻りくださいだとか、皆が心配しておりますだとか、そんな言葉を言ってしまったに違いない。

 

 レスターは思う。

 当時の自分は、碌な台詞(うそ)を吐けるほど器用ではなかったのだから、と。

 

 そして……自分は何を言ったのだろう。

 何かしら、言葉をかけた筈だ。

 

 記憶とは曖昧で、常に美化される物だ。

 

 だからレスターは、断言できる。

 自分はーーー絶対に価値のある言葉を紡いではいない。

 

 その時に、少女の心の支えになれたのなら、どれほど光栄な事だったろう。少しばかり年上の少年が、年下の少女に優しい言葉をかけてあげられたのなら、それはどんなに誇らしい思い出になっただろう。

 

 だから、自分は立派な人間ではない。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 顔を上げた少女の瞳の色を、よく覚えている。

 

 涙に濡れた瑠璃青(ラピスラズリ)の瞳。

 泣きはらした目の周りが赤くなっていて、透けるような白い肌に痛々しかった。

 

 瞳に浮かんでいる表情は、諦念。そして絶望。

 およそ、十歳にも満たない少女がする表情ではなかった。

 宮中の大人たちでさえ浮かべぬような、恐ろしく疲れ切ったような精彩のなさ。

 

 蹲った少女から、その瞳で見上げられて…。

 少年であったレスターは、恐ろしくなった。

 

 少女が、ではない。

 

 少女にこんな表情をさせてしまうのは、一体何なのであろうか、と恐ろしくなったのだ。

 

 

『ーーーなんでわたしは王女なんだろう』

 

 

 蚊の泣くような、細い声。

 その声は、レスターの耳にも届いていた。

 

 なんで。どうして。

 

 その問いに、レスターは答えた記憶がない。

 

 だから大勢の大人たちが集まってきて、口々に心配の言葉を述べ、少女を王宮に連れ帰ってしまってもーーーその問いが胸に突き刺さったままだった。

 

 

 これが、小さな少女との最初の記憶。

 

 失われた過去の、最初の一頁だった。

 

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

 扉を叩き、返事を確認して恭しく入室する。

 

「ーーー失礼いたします」

 

 王宮からは、落ちていく夕陽とロンドン市街がよく見える。王宮が所在するのは、『アルビオン』という名の由来とも言える白灰岩層の丘の上である。宮殿からの眺めは、ロンドンの他の何処よりも遠くを見渡すことができる。そして今まさに、遠くの稜線に太陽の下端が差し掛かり、空は茜色から藍色へと色の濃淡を移り変わらせていた。

 

「レスター・リンジー=クロフォード。

 

 ・・・シャーロット王女の求めに応じ、参上仕りました」

 

 入ってきた扉を閉め、最大限の敬意を持って立礼する。

 

 呼ばれればいかなるときでも馳せ参じ、そのペンを以て王家に奉じよ…。

 …とは、クロフォード伯爵家の家訓である。

 しかしそれが無くとも、レスターは王女に対し無二の敬意を以て仕えている。

 

「こちらへお座りください」

 

 レスターに声をかけるのは、王女ではなく側使えの侍女である。

 当然、部屋にはその他にも侍女が多くおり、扉の外には衛兵が付いている。

 

 机と椅子の横に立ち、懐に抱えた仕事道具…ペンに印章、紙といったもの…を捧げ持ち、

 

「それでは、失礼いたします」

 

 断りをつけてから座る。慇懃にも思えるが、王宮内における儀礼とは煩雑なものである。今回は急ぎの仕事であり、これでも諸々を省略しているのだ。

 

 

「急に呼びたててごめんなさい。

 

 実は、今晩ロンドンで開催される舞踏会に祝賀文を送らなくてはいけなくなったの」

 

 声の主は、シャーロット姫。

 アルビオン王国の王女である。

 

 流れる髪は金糸、瞳の輝きは青金石(ラズライト)、肌は白磁の人形よりもなお白い。

 その声は凛と響き、されど紡ぐ言の葉は慈愛に満ちている。

 

「承知しております、プリンセス。

 間に合うよう書き上げてみせます」

 

 レスターは筆記具を準備しつつ、プリンセスを安心させるように頷いてみせる。

 

 王族とは、多忙だ。

 本来予定していた都合が折り合わなくなり、別の集まりに出席しなくてはいけないことも。他の公務を優先して、先約に代わりの人間を手配しなくてはならないことも、ままある。

 

 今回の仕事は、本来であれば王位継承権第二位の兄君が送るべき祝賀文を、急遽シャーロット姫が送らねばならなくなった、という物だ。

 

 その政治的な事情については、レスターは知らない。

 

 王宮内の政治力学についてそれほど深く知り得る立場にないし、若干の推測はできたとしても口に出せば不忠となる。

 

 故にーーーできる事は、求められるがままにペンを揮うだけである。

 

「姫様、この度は時間がありませぬ。口述筆記をしますので、どのようなお祝いの言葉を述べられるのか、大意をお伝えいただければと思うのですが」

 

「ええ。頼むわね」

 

 王立科学協会(ロイヤル・ソサエティ)の活動に対する称揚と労いの言葉。

 王家を代表して、王国科学者の忠勤を称え、更なる科学の発展を願う激励の文章。

 

 しかしーーーと、レスターは思う。

 シャーロット王女に仕事が回ってきたということは、いよいよ王立科学協会の権威にも陰りが見えているのかも知れないな、と。

 

 王立科学協会。

 

 その名の通り、アルビオン王家が設立し、今も出資している『科学研究を振興し、科学者による研究を後押しし、その研究を広く世に広める為の組織』である。

 

 その構成員は、ロンドン革命以来減り続けている。

 

 何故か。

 共和国と争っている時に、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 既に、多くの科学者は軍での研究に取り組んでおり、極秘とされた研究については成果はおろか研究者の所在すら判らない。

 

 協会の会員は、最盛期の四分の一ほど。

 残っているのは、学術を広く世に広めんとする学者の鑑か、秘匿されなかった分野の研究者か、あるいは派閥や政治を嫌って黙々と開発や発明を行う職人気質の人間だけである。

 

「とは言え、彼らの研究が無駄になる訳ではないものね…」

 

 シャーロット王女は、僅かに声色へ憂いを滲ませながら、祝辞の言葉を紡ぐ。

 レスターは、それを黙して筆記し、文にしたためる。

 

 ーーープリンセスは、科学技術や学問といったものに対して興味がお有りのようで、それは傍から聞いていて驚くほどに造詣が深い。

 

 それはいつであったか。王立博物館に展示されていた、御伽話に登場する竜種(ドラゴン)の骨…『恐竜』と名付けられた太古の生物の骨だと姫様自ら周りにお話になっていた…をご覧になった時には随分と楽しげなご様子であった。アルビオンの植民地であるインコグニアで流星雨が観測された折には、その数なんと百にも及ぶ隕石を王立博物館に収蔵するよう取り計らわれていた。

 

 今、この祝賀文においても、そうだ。

 此方が例示をするまでもなく、研究者の直近の研究成果を諳んじ、それがいかなる面で賞賛に値するのかを、姫様自身のお言葉でお伝えになられている。

 

 

 

 

「ーーーと、こんな感じでどうかしら?」

 

「完璧です。姫様がこれだけご歓心を示されていることが伝われば、各分野の研究者は一層奮励努力することでしょう」

 

 口述であるため、若干の修辞で文章を飾る必要はあるだろうが…内容には非の打ちどころがない。それこそ、これだけ多方面の学問について語ることができるものは、王宮内においても多くはないだろう。

 

 

「ーーー、ーーー」

 

 

 兄君よりも姫様の方が適任でしたな、という言葉を呑み込む。

 たとえ冗談だとしても、王家の一員を蔑する言葉は口の端にも上せてはならぬ。

 

 レスター・リンジー=クロフォードがプリンセスの能力を素晴らしいと感じていても。

 今回の仕事は、忙しい兄君の代わりに『空気姫』が儀礼的に、事務的に行う仕事だからである。

 

「ーーーでは、急ぎ文にしたため、送らせていただきます。…内容の確認はなさいますか」

 

「いえ…。もう時間がないわ。私もこれから晩餐会へ出席するため着替えます。そちらで良いように取り計らってくださる?」

 

「はっ、心得ました!」

 

 着替えるとあれば、男であるレスターは急ぎ退出せねばならない。

 席を辞する為に、彼は筆記具をまとめ始めーーー。

 

 

 

「―――クロフォード卿」

 

 呼び止められた。

 

 時間が無いと伝えた姫君が、不意に自分を呼んだ事にレスターは困惑しながらも、身を正してプリンセスに正対する。

 

 彼女の顔に一瞬浮かんだのは、何の色だったか。

 見て取ることも困難な、僅かな躊躇いがそこにはあった。

 

 次の瞬間、ニコリと笑った表情は、いつもの優しい姫で。

 

「ーーー何でもないわ。どうか、お願いね?」

 

 

 

 十年の歳月。

 それは、『一人の小さな女の子』を『美しく聡明な姫君(プリンセス)』にしていた。

 素晴らしいことだ。喜ばしいことだ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 一国の姫君と、ただの若い伯爵。

 交わされる言葉など、無い。

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

 



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Case:C Catch me if you kill

 今更ですが、ステファニーさんはプリGOM(プリンセス・プリンシパル GAME OF MISSION)出典なので、この世界はアニメ本編+アプリ時空のオリジナル展開となります。

 ステファニーさん、所持武装が
・拳銃がM1911(コルトガバメント)
・小銃がリー・エンフィールド(多分 イラストから推測)

 ―――なので、登場キャラの中では銃器ガチ勢なんですよね。
 アンジェさんが持ってるのはウェブリー=フォスベリー・オートマチック・リボルバーなのにな…。いや、あの独特な機構は映えるので好きですが。



 ステファニーは、厨房で働いていた。

 

 『牧場(ファーム)』では、様々な知識・技術を習得させられた。

 銃の撃ち方、格闘術、爆発物の扱い、毒殺の方法、死体の隠し方。

 時と場所、相手の身分に応じた話し方。

 女として魅力的に振る舞う方法、誘惑の仕方。

 上流階級に合わせる知識、労働者層に紛れる演技。

 スパイに要求される技能は多岐に渡り、必要となればあらゆる技術が使える必要がある。

 

 その中には、一般人として役立つ技能もある。

 例えば、料理だ。

 

「こんなものかしらね…」

 

 私は、シチューを煮ながら独りごちる。

 羊肉と玉葱を煮たそれは、我ながら良い出来だと思う。

 スパイ仕事としては甚だ疑問な業務だが、この屋敷に働きに来ているメイドとすれば正規の役割。

 

 ここの屋敷の伯爵は、私の作る料理を気に入ったようで、時折、何が食べたいとリクエストまで来る。

 正直、本業(スパイ)とは関係ないのだが…断る訳にもいかず、ズルズルと屋敷に通うのが継続している。

 

(それで情報が貰えるのなら、ある意味安い物だけれどーーー)

 

 …と、思っていると、表の通りから音がした。

 路面を車輪が転がる音、馬の足音と嘶き。

 

「キンシー、直ぐに戻る! 準備して待っていてくれ!」

 

 館の主人であるクロフォード伯爵の声。

 どことなく慌てた様子に、私は厨房を出て出迎えた。

 

「おかえりなさいませ、ご主人様。……何か、ありましたか?」

 

「ああ、すまない。ステファニー。 今日は、これから舞踏会に出席しなくてはならなくなった。それで…」

 

「では、夕食はそちらで?」

 

「すまない! せっかく来てもらったのに、明日、朝に食べることにするから、取っておいてくれるかな」

 

 慌てながらも、申し訳なさそうにする様子に、私は微笑んで応える。この若い伯爵は、あまり貴族らしさが無い。それは殆ど使用人も持たずに一人で暮らしていることもそうだし、馬車を操る御者のキンシーや、古くから家に仕えている老執事と話している時にも表れる。メイドとして働いている偽装(カバー)の私にも、偉ぶったりせずにいる。たぶん、それが彼の素なのだろう。…王宮では、随分と堅苦しい話し言葉になるようだが。

 

「急な仕事でね、なるべく早く終わらせたいんだが」

 

 言いつつ、彼は外套を脱いで、私に渡す。

 受け取った手に、紙の感触がした。

 

「ーーー少なくとも、二、三時間くらいでボクは屋敷に戻ってくる筈だ。

 …学校の寮の門限はどうなっていたかな。

 帰るか、待つかは、キミの判断に任せるよ」

 

 それだけを言って、彼は自室に着替えに行った。

 

 後には、私だけが残される。

 手には彼が脱いだ外套と、その下に覆うようにして渡された、一枚の紙がある。

 

(彼の方からの接触は、滅多に無いのにーーー!?)

 

 誰にも見られていないことを確認して、紙切れに書かれた文章を読む。

 

 そこに書かれていたのはーーー。

 

 

 

---------------------

 

 

「・・・来てくれたんだね」

 

 部屋は灯り一つなく、窓から僅かに射しこむ月明かりだけが青白かった。

 

「一人で来い、と言ったのは、貴方でしょう」

 

 紙は、読んですぐ燃やした。

 

 クロフォード伯爵とノルマンディー公の密談。

 共和国スパイに取って大きな情報。

 しかし、彼はこう書いていたのだ。

 今夜、二人きりで話がしたい、と。

 

 部屋の窓を背にして、一つの影がある。

 クロフォード伯爵は、部屋の入口に向き合うようにして、椅子に座っていた。

 

 舞踏会に出かけた時と同じ、フロックコートにシルクハットという服装。

 彼は右手で困ったように頬を掻くと、本当に困ったような口調で言った。

 

「―――先に言っておくと、ボクは懐に拳銃を隠し持っている。

 

 だから、キミはボクのことが信用できなければ、先に銃を抜いて撃ち殺してくれ。

 

 ・・・正直、二重スパイなんてやったことが無いからね。

 プロの眼から見て、ボクの価値が無いなら、ここで始末しておくことをお勧めするよ」

 

 困ったような口調で、まるで他人事のように話す。

 

 私は、彼の言葉で、メイド服の下に隠し持った拳銃を意識する。

 

 自動式拳銃(ガバメント)、.45弾、装弾数は8発。

 彼我の距離は5ヤード強、自分の射撃技術なら脳天でも心臓でも当てられる距離―――

 ―――だが。

 

・・・まさか、折角の協力者を殺さないわよ(場所が悪いし、殺すなら無力化してからかな)

 

 困った表情の伯爵に、ステファニーは安心させるような微笑を浮かべる。

 

 相手は素人だ。

 仮に伯爵が先に拳銃を抜いたとしても、此方が先に射殺できる…そう、冷静に思考する。

 

 だが、ここで殺せば、面倒なことになる。

 

 ノルマンディー公から内偵の話があった夜に、不審死した伯爵。

 部屋には血痕と射殺死体が一つ。

 外出着のままの服装で、撃たれたのは部屋の入口から…となると。

 ―――偽装工作が非常に面倒なことになる。

 消すにしても、別の手段の方が良い。

 

「それで、伯爵様? お話って何かしら?」

 

「ああ、改めて現状を説明しておこうと思ってね。

 

 今回、ボクはノルマンディー公の命令によってメイフェア校に潜入することになった。目的は、学園に浸透していると思料される共和国スパイの調査・・・だが同時に、引き続き共和国のスパイであるキミを屋敷(ウチ)のメイドとして継続雇用していきたいと思うんだ」

 

「・・・驚いたわ。伯爵様が、まさかこんなに厚かましい方だったなんて」

 

 随分と酷い言い草だ。

 自分の声に、少なからず苛立ちが混じるのを感じる。

 

 共和国のメイフェア校への関与は、前々から行われていた。

 ステファニーを始め、何人もの生徒が様々な形で潜入しているのだ。

 様々な偽装工作が実施され、ごく一般の生徒のフリをして活動をしている。

 中には、年齢すら誤魔化して入学している者だっている。

 

 だから、ノルマンディー公がそれを察知し一層の対策を打ってくるのであれば、ステファニーの上司にあたる共和国諜報機関(コントロール)の作戦計画にも変更をきたすのは間違いない。

 共和国スパイはロンドン中に潜伏しているが、メイフェア校はロンドンの上層区画における重要拠点の一つなのだ。伯爵から入手した情報が確かならば、学校中のスパイが炙り出され、捕まることも想定される。

 

 だが、それは情報が真実の場合だ。

 

「伯爵様? 貴方が既にノルマンディー公から二重スパイを疑われていて、わざと共和国に流すための情報(ダミー)を渡された可能性だって排除できないんですよ? あるいは、この情報を元に共和国スパイが動いたとして、そこを叩くために王国公安部が罠を張って待ちかまえてる可能性だってあります。貴方がどういう心算(つもり)で情報を持ってきたかは知りませんが、無条件に信じられる情報ではありません」

 

 現場で真偽を判定するのは不可能だ。

 

 だから、共和国大使館文化事業局(コントロール)案件になるだろうし、現場のスパイであるステファニーでは判断しかねるのである。クロフォード伯爵が明確にノルマンディー公側につくのであれば、有無を言わずに『消せ』ばいいのであるが、伯爵が共和国の内通者(モグラ)を継続する意志を見せているのが厄介さに拍車をかけている。

 

 無能な味方は、時として強敵よりも厄介になる。

 この若い伯爵を味方に抱えた所為で、共和国スパイが一網打尽にされる可能性だって…無いとは言えない。今までこの伯爵とは緩やかな協力関係を形成していたが、これから要求されるのはそれこそ一蓮托生、裏切られるくらいなら先に殺しておかねばならないという、鉄火場での協力関係である。

 

「なぜ、そうまでして共和国に協力を?

 伯爵家という立場を考えれば、王国側に与するのが妥当かと思いますが」

 

 問題となるのは、そこだ。

 レスター・リンジー=クロフォードという男の動機が読めない。

 

 両親がロンドン革命で死んでいる―――という過去を考えれば、むしろ王国側の尖兵となるのが妥当ですらある。

 しかし、『コントロール』の『(セブン)』から聞いた話では、共和国へ接触してきたのはクロフォード伯爵からであり、当時はノルマンディー公からの罠ではないかと入念な調査が実施されたという話である。結局、クロフォード伯爵から渡されたという幾つかの情報…詳細については知らないが…が、全て真実であったため、暫定的に協力体制を結んでいた、というのが経緯である。

 

 理由も動機も不明な協力者。

 王宮に入ることができ、王室の内部情報をも横流し(リーク)する王国貴族。

 金も要求せず、亡命も希望せず、ただただ協力関係の維持をのみ要求する―――。

 

 なんだコイツは―――と、素直に思う。

 話が出来すぎていて、罠であった方がよほどマシな気がする。

 

「何故? 理由かい? その理由は話せない…と言ったら?」

 

「その場合、私から『コントロール』に報告する際に、『伯爵は本心を話さないため信用できず、ノルマンディー公の息がかかった欺瞞作戦である可能性が濃厚』と報告させてもらいますけれど」

 

「それは困るなぁ。力の無いボクにできるのは、キミたちに協力するくらいなんだ。それができないとなると、それこそ逆にノルマンディー公に全部今までの経緯も説明もしたうえで、これまで共和国のスパイと接触してきた一切合切を吐き出さなくちゃいけなくなる」

 

「それはどういう―――」

 

「『壁を壊したい』」

 

 クロフォード伯爵は、さらっと何でもないかのように私に言った。

 

「ボクにとっては、理由はそれだけだ。

 

 『ロンドン(この国)を分断している壁を壊したい』 …だから、協力している。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ・・・これじゃ理由にならないかな?」

 

 それは。

 

「伯爵様、それ、私がそのまま上層部に伝えたら、たぶん死にますよ?」

 

「だよねぇ…。だから、言いたくなかったんだけど」

 

 クロフォード伯爵は、苦い顔をして言った。

 

 どちらが勝っても良いなんて言動は、つまるところ自分は裏切る可能性がありますと宣言するのと同義に近い。例えるならば、船員は船が沈めば全員死ぬから死力で櫂を漕ぐのであって、途中で別の船に乗ろうなんてする人間は最初から乗船させてはいけないのだ。

 

「でもさ、ボクも手段は選べなくてね―――もし断るなら、ボクは今すぐにでもノルマンディー公の館に馬車を飛ばす」

 

「それは脅迫?」

 

「できるのなら、その前にいっそキミに殺してもらった方が良い気もするんだけどね。うっかり、ノルマンディー公に自首したら、拷問されて全部吐き出したあとに消されるかもだし…。…ああ、共和国に勝ってもらっても良い、というのは本心だよ。ただ、ロンドン革命の再来みたいな形になって欲しくないとは思っているけれど」

 

「もし、貴方がノルマンディー公に…王国側に明確につくと言うのなら、この場で私が殺すわ」

 

「実は、もし今日ボクが死んだら、公安側に連絡が行く手筈になっている…としたら?」

 

「嘘ね。それなら、私がこの部屋に来る前に公安警察を配置してもよかったでしょう。私に紙を手渡して、先んじて情報を与える必要もなかったはず。…つまり、どちらかと言えば、貴方は王国よりも共和国側として協力したがっている。違うかしら?」

 

「否定はしないでおくよ」

 

 困ったような顔―――それすらも、演技なのか素なのか判りかねる。

 厄介だな、と私は思う。

 だから、交渉のカードを一枚伏せ札にしておく。

 

 壁を壊したいのだと、今聞いた。

 だが、『なぜ』壊したいかを彼は言っていない。

 

「今更ですけど、自分が殺されるとは思っていないの?」

 

「まさか。()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「死を覚悟してでも、壁を壊したい。その一心で、王国を裏切ると」

 

「ああ」

 

「―――信用できません」

 

 信用も信頼もできない。

 利はあるかもしれないが、リスクが大きい。

 だが、だからこそ。

 

「ですが、この場では貴方を殺しません。本部の判断に委ねます。

 結果、貴方が死ぬことになるかもしれませんが」

 

「ああ、それでいい。信頼なんかされても、ボクも困ってしまう。

 共和国が不要だと判断した時点で、ボクを切り捨ててくれれば、それでいい」

 

 にこり、と。

 私が部屋に入ってから、初めて彼が笑った。

 

 それはまるで、少年のような笑顔だった。

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

「しかし―――対価も無しに裏切るんですね」

 

「対価は既に受け取っている。…美味しい食事を作ってくれるメイドを継続雇用できた…というのでは、駄目かな?」

 

「それは、どう考えても釣り合わないと思いますけど」

 

 冗談めかすような言い回しに、こちらも軽口で返す。

 命を賭けて、得られるモノが食事だなんて、対価としては安すぎるだろう。

 

 共和国に内通する人物に多い理由が、『分断された壁の向こうに家族がいる』というものだ。

 

 その理由を、ステファニーは複雑な思いで眺めている。

 ・・・ああ、この人にとっては、家族は大切なものなのだな、と。

 

 あるいは、金で裏切る人間もいる。

 こちらは理解しやすい。

 商人が大金を出せば、爵位すら購える時代である。

 金で買えないものは無い。人も物も、愛ですら金で買える。

 

 だから、人は裏切る。

 裏切って、何かを得ようとする。

 待っている結末が、地獄への片道切符でしかなかったとしても―――。

 

「・・・私の料理、そんなに美味しかったですか?」

 

「ああ、叶うなら毎日食べたいくらいだとも」

 

「まあ」

 

 褒められて、悪い気持ちはしない。牧場(ファーム)で習得した技術も、無駄ではなかったということだ。

 世辞(うそ)だとしても、さらりと歯の浮くような台詞(セリフ)を言われれば、愛想笑いの一つも出る。

 

「しかし、上層部(コントロール)が今回の一件にどのようなスタンスをとるかは、分かりません。

 大した理由なしに協力する人間は、正直、信用できないですから…」

 

「最初に接触した時も、それで散々だったからね…。…一回、銃を突きつけられたし」

 

 ああ、前科持ちでしたか、と内心で納得する。

 道理で、妙に肝が据わった会話をしていたはずだ。

 

「―――そういう時に、スパイに信用してもらえる方法、あるといえばあるんですけれど…知りたいですか? まぁ、ちょっと特殊な方法なんですが」

 

「そんな魔法があるなら、是非とも教授して欲しいものだね」

 

 クロフォード伯爵は、椅子から少し身を乗り出すようにした。

 

「まず、椅子から立ち上がってください」

 

「うん」

 

「そして、後ろを向いて、カーテンを閉めてください」

 

「うん。―――うん?」

 

「どうしたんですか。スパイに信用される方法、知りたいですよね?」

 

「キミを視界から外して、背を向けた瞬間に、後ろからズドン…ということは」

 

「ありませんよ。何でしたら、銃を床に置いて見せましょうか?」

 

 スカートを摘まんで持ち上げ、右脚に固定していたホルスターを晒す。

 私は、伯爵に微笑んで、スカート下に隠し持っていた拳銃を一丁抜き、そっと床に置いた。

 

 その動きを彼は見て、それから後ろを向いた。

 その際に、少し頬が赤くなっていたのは、決して目の錯覚ではないだろう。

 ストッキングを履いていたとはいえ、メイド服の下を見そうになったのだから。

 さっと慌てて目線を逸らしている辺りが、紳士的というか何というか。

 

 月明かりの差し込む窓際で、彼は訊ねる。

 

「それで、このカーテンを閉めれば、信用されると」

 

「ええ」

 

「理由は」

 

「スパイは、暗い所が好きなんですよ」

 

 カーテンが閉まる。唯一の光源が遮られ、部屋は真暗の闇に落ちる。

 

 瞬間、私は弾かれるように前方に駆けた。

 数歩で距離を詰め、

 

「―――動かないで」

 

 左脚の後ろに、もう一丁の拳銃を隠し持っていないとは言っていなかった。

 後ろ手で抜いて、彼の背に突き付ける。

 動きを止めて、カーテンに手をかけたままの体勢で硬直した彼に、私は呟いた。

 

「スパイは嘘を吐く生き物なの」

 

 

 

「ねぇ、銃はどこ? 動けば撃つわ」

 

「・・・背中のズボンのベルトに、リボルバーを一丁差している。それだけだ」

 

 フロックコートに手をかけて、彼の腰にあるソレを抜き取る。

 SAA(ピースメイカー)とは、貴族らしからぬ銃を持っていたものだ。

 少し意外だ。

 

「武装している相手を信用できる訳ないでしょう?」

 

「なら、丸腰なら信用できると?」

 

「まさか。丸腰で交渉できると思ってる人間なんて信用できないわ」

 

 スパイは相手を信用しない。身内だって信用しない。

 

「じゃあ、ボクはこの体勢からどうすればいいのかな」

 

「―――教えてあげましょうか」

 

 右手にSAA、左手にガバメント。

 両方を彼に突き付け、完全に生殺与奪を握った状態。私は笑ってみせる。

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

 彼の背中に、身を寄せる。

 決して背が高くはないが、思っていたより大きく感じる背中だ。

 男性の背中。

 

「・・・ステファニー」

 

「動かないで、動けば殺すわ」

 

 私はスパイだ。だから彼を殺せる。

 彼は素人だ。だからいつでも撃てる。始末できる。

 

 それでなお、この期に及んでも、相手を信用できないのがスパイだ。

 

 だから。

 

「私は貴方を信用できない。嘘を吐こうが、真実を話そうが、全てを疑うわ。

 だから―――貴方を、私を裏切れない存在にするしかない」

 

 それは、呪いにかけてしまうということだ。

 決して裏切れない呪い。

 彼が言ったように、王国と共和国のどちらが勝っても良いなんて戯言を、決して言わせなくするための呪い。絶対に私個人に彼を従属させるという呪い。酷く醜い呪い。

 

「ねぇ、人間が裏切る理由って、なんだと思います?」

 

 返ってくるのは、無言。

 私はそれを意に返さずに、言葉を継ぐ。

 

「亡命をする人の理由は、人だったり、お金だったりするんです。

 私には、それがどれくらい大事なのか判らないんですけど。

 

 裏切る人も同じです。お金で裏切ったり、大切な人が脅されて、それを守るために仕方なく…とか。

 危ない薬を使われて、無理矢理に裏切らされるヒトもいますね」

 

 暗い部屋、沈黙の中で、二つの影が寄り添っている。

 

「あとは…そうね。こう言えばいいかしら。

 

 なんで私たちみたいな女スパイが、大勢いるのか

 その意味が判る?」

 

「っ、それは」

 

 理解できない年齢(とし)では無いだろう。

 彼だって、さっき顔を赤くして目を逸した。

 今だって、近くに感じる彼の呼吸や心拍は、暗い静かな部屋で大きく感じられる。

 

 この状況を客観的に表現すれば、深夜の部屋に二人きり、だ。

 

 

「ーーーお料理、毎日作ってあげられるかも」

 

 呪う。

 

「伯爵夫人、っていうのも良いかもしれませんね」

 

 嘘で呪う。

 

「壁を崩したいんですよね。私ならきっと協力できます」

 

 信じていない嘘で呪う。

 

「貴方の心一つで、すぐ手に入るんです」

 

 彼はスパイじゃない。だから呪う。

 

 私は、笑って告白(うそ)を吐く。

 

「ーーー遠慮はいらないんですよ?」

 

 



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Case:L Loopy lovery-dovey

初めて来た感想が「わっふるわっふる」でした。

だが私のエロゲ脳からすると、あそこでイベントCGを回収するとバッドエンドに直行するとゴーストが叫んでいるのでキングクリムゾンします。




 リリ・ギャビストンの朝は早い。

 

 王国主席判事の娘として、その地位に相応しい行いをせねばならない。朝が早いからといって、眠そうなだらしのない表情を晒すなどという無様は許されないのだ。

 

 そう、許されないのである。

 だから、学園に通う前には、身嗜みのチェックは欠かせない。

 自慢の黒葡萄(ボルドー)色の髪も、染みや雀斑(そばかす)の無い玉の肌も、日々の手入れの成果だ。自分自身が見目麗しく生まれついたのは当然だとしても、その価値を高めていくのは己自身の努力である。

 

「ーーーうん! 今日も完璧ね!」

 

 お気に入りの白薔薇の髪留めを留めて、リリは自分の表情を確認する。自信に満ちた表情。ややもすれば高飛車とも受けとられる彼女の態度ではあるが、それは彼女自身の矜持と自負に裏打ちされている。自分がクイーンズ・メイフェア校の中でも上位に属する人間であることに疑いなどなく、ゆえに自分はその地位に相応しく、美しく聡明な人間であるように評価されねばならないのだ。リリ・ギャビストンは己の価値を確信している。

 

 リリの周囲で追従している女学生の誰よりも、リリ自身が優れているのだと確信している。それは容姿だけではない。淑女としての振る舞い、学業の成績、あらゆる面で己は優れているのだと。

 リリ・ギャビストンは負けないのではない、彼らに勝っているのだ。メイフェア校へ特別に通うことを許されているような、平民の出自を持つ学生たちとは違うのだ。決して彼らの能力を認めぬのではない。このリリ・ギャビストンは生まれの身分でも、学業でも彼らに勝っている。それは単なる根拠のない優越感などではなく、事実として彼らの上に立っているのだ。

 

 リリは、鏡の前で花のような笑顔を浮かべてみる。

 彼女は、今年で十七。

 彼女の父からも、学校を卒業する前に良縁を探すと言い含められている。昨今の風潮…自由恋愛だとか、身分違いの恋物語だとか…に胸をときめかせる同級生も多いが、彼女は違う。

 下賤な身分の者と恋に落ちるだなど、リリには考えられない。狙うならば、少なくともギャビストン家と同じくらいの家格の相手、もしくは家格が上の相手だ。一代騎士や準男爵では駄目だ、この自分が嫁ぐのであれば、それに値する家でなくては。舞踏会に出席すれば、その容姿を褒められ、貴族の男たちの視線を惹きつける自分が、その辺りの凡骨風情に靡くなど有り得ない。

 

 リリの笑顔は、野心を隠してなお、年頃の娘らしい柔らかさを保っている。

 ・・・これで、今日も自分は完璧に美しい。

 鏡に映る自分の表情を眺めて、リリは自信を一層深めるのだった。

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

 

「先生! おっはよーございます!」

 

「うん、おはよう」

 

 朝霧の煙る道を、多くの学生が登校していく。

 そんな中、幾人もの学生に声をかけられては、微笑んで挨拶を返している教師の姿がある。

 クロフォード伯爵だ。

 

 彼がこの学校に赴任して来る前に、リリは彼のことを父の口から聞いたことがあった。先代のクロフォード卿が亡くなられてから、十年で立派な青年となって伯爵家を継ぎ、王宮でも若き伯爵として勤勉に務めをはたしているのだと。

 それから、舞踏会で何度か姿を見たことがあった。彼の周りには何人も人がいたので、結局言葉を交わすこともなかったのだけれど。

 その時から、リリは彼のことをよく覚えていた。

 

「―――おはようございます。先生」

 

 リリは、はしゃぐなどという真似はせず、自分が完璧だと信じる表情で挨拶をした。

 明るい印象を与える笑顔を、しかし、品を失わぬように。さりげなく、しかし礼を失せぬように。…もし彼女をよく知る人物がその表情をみれば、少なからず驚いただろう。普段のツンと澄ましたような険は無く、淑やかに愛らしいとさえいえる雰囲気を振りまいているのだから。

 

「おはよう。リリ君は今日も元気そうだね」

 

 ニコリ、と笑んで彼が挨拶を返すと、リリは内心で「やった!」と歓声が出そうになるのを抑える。もちろん、そんなはしたない真似はしない。あくまで、毅然と、優雅に振る舞うのが、リリ・ギャビストンの流儀なのだから―――。

 端から見ていれば、喜色溢れる表情をしているので、全く隠せていないわかりやすさなのだが。

 

「せんせー。今度、図書館にジョセフ・マーロウの本が入るってホントー?」

 

「うん。利用者が少ないのは『高尚な』本ばかりで、君たちが読みたくなるような本が無いからだ…って、学長を説得したからね。これからは、当世風の娯楽本も、いくつかは入って来ると思うよ」

 

「やったぁ!」「先生やるぅ!」

 

「―――本当は、私もマーロウ先生の作品が好きでね。それから、ヴェルヌ先生の作品も。だから、自分が読みたかったから図書館に揃えるんだ…なんて、これは他の先生に言っちゃダメだからね?」

 

「えー?」「どーしよっかなー?」

 

 周囲の女学生たちが、黄色い声で騒ぐ。

 

 クロフォード伯爵は、今年で二十四。

 自分たちと歳が近いからか、生徒たちの中にはまるで親戚の従兄弟であるかのように親しげに話す者までいる。それを、伯爵は嫌がるような顔もせず、むしろ楽しむかのように話に花を咲かせるのだ。

 正真正銘の伯爵様でありながら、不思議と他の教師陣よりもはるかに親しみやすい存在…。というのが、クロフォード伯爵が学園に赴任し、短期間で生徒たちと築きあげた関係である。

 

「クロフォード先生っ! この間の『相談』なんだけど―――」

 

「こらっ。そういう話は、放課後にしなさい。…登校している他の生徒に聞かれても良いのかな?」

 

「あははっ! せんせー、また『相談』受けたんだー。モテモテだねぇ」

 

「あはは…。まさか、学校に来てこんな『相談』を受けるなんて、思わなかったんだけどね…」

 

 彼は、周りの女子生徒に囲まれながら、苦笑する。

 『相談』というのは、学業だとか将来についての相談―――というのは建前(うそ)で、端的に言えば恋愛相談である。

 誰が好き、誰が嫌い。そういった話題は、いつの時代も学生時代の華である。

 切欠(きっかけ)は知らないが、とある悩める学生の恋の相談に乗り、見事その恋を的確なアドバイスで成就させたとのことで―――真偽はともかく、クロフォード伯爵は『校内の恋愛相談窓口』なる綽名までつけられているのだ。賑やかな女学生だけでなく、時には屈強な体格の男子生徒まで、こっそりと彼の居る図書司書室まで訪れるという。

 

 しかし、彼の周りにいる生徒の全てが、恋愛相談を持ち込むのではない。

 

 何割かは、純粋に『面白い書籍を図書館に持ち込んでくれる、親しみやすい先生』として好いていて。また何割かは、『他人には笑われるような相談でも、親身になって聞いてくれる先生』として好いている。

 そして、その残りの数割は―――クロフォード伯爵個人を狙っている生徒たちである。

 

 『恋愛相談』と建前を掲げて図書司書室を訪れた者のうち、何割が真正の相談を持ち込んでいるのだろうか。

 新しい本が欲しい!と図書館に要望する生徒のうち、何割が元々本を読みもしないのに、先生と話をするためだけに適当なリクエストを申請したのだろうか。

 今、彼の周りに集まっている生徒とて、数人は好奇と打算とで近づいているのだろう。

 

 それには、学生たちの間でまことしやかに語られる、ある噂が関係している。

 

『クロフォード伯爵は、将来の嫁探しの為に学校で働き始めた』…という、噂だ。

 

 リリは、思うーーーなんて下世話な、下々の者らしい発想でしょう、と。

 仮にそれが真実だとて、淑女が群れなして殿方に近づくなど、とても上品な行いとは言えない。

 

 彼の年齢を考えれば、嫁探しは不思議な話ではない。むしろ、伯爵家という立場を思えば、許嫁だとか浮いた話の一つでもあっておかしくはない。

 しかし、彼は未だに独身であり、結婚する予定も、お付き合いのある女性もいないらしい(これは、『恋愛相談』に行った女生徒が貴重な情報として持ち帰り、噂話として校内を駆け巡っている)。そうして、あわよくば玉の輿に乗ろうかと、野心的に近づく生徒もいるのだという。

 

 仮に彼の心を射止めれば、伯爵夫人の座が手に入るかも―――と表現すれば俗っぽくなるか。

 

  下世話な話である……が、『真実』を知るリリからすれば、クラスメイトたちが噂話に盛り上がり、『ひょっとしたら自分が伯爵様に見初められるかも!?』などと想像を膨らませるのを、呆れを通り越して微笑ましく思うのだ。

 

 そう、リリは知っている。

 家の事情で、彼が今に至るまで恋や愛といった世界に関われなかったことも。

 

 この学校に来た、本当の理由もーーー。

 

「はいはい、そろそろ急がないと遅刻してしまうよ。用事は、また放課後に、ね?」

 

「ちぇーっ」「またねー、せんせー!」

 

 予鈴を聞きながら、多くの生徒が蜘蛛の子を散らすように動き出す。

 途中までちゃんと登校しているのに、立ち話で遅刻するなど馬鹿らしい。

 みな、笑いながらも駆け足でそれぞれの教室に歩き出していて―――。

 

「―――リリ君」

 

 決して大きくない、呼び止められる声。

 目線を向けると、クロフォード伯爵…レスターが、穏やかに微笑んでいた。

 

「また、放課後に、ね?」

 

 リリは、無言で首肯した。そして、教室へと向かう。

 

 そう私は、リリ・ギャビストンは、彼の秘密を知っているのだ。

 同時に、彼もリリの秘密を共有している。

 

 それを考えると、リリは口元から喜色を隠せなくなりそうで、早く放課後にならないかしら、なんてことを思うのだった。

 

 

 

ーーーーーーーーーー

 

「―――失礼します、先生」

 

 

 リリは、放課後に図書司書室を訪れていた。

 借りていた書籍を返却するため…というのは、仮初の口実だ。

 

 本当の理由は別にある―――。

 

「やあ、よく来てくれたね」

 

 レスターが手元で開いていたのは、『バズカヴィル家の猫』 今朝がた生徒との話題に上っていた本だろう。

 彼はリリを見遣って、教室で見たのと同じ微笑みを浮かべる。

 

 リリは、それを不思議な笑顔だと思う。

 

 リリと同じくらいの男子学生は、事あるごとに誰其れがが好きだの、とある年頃の異性を狙っているだのといった、品位の無い会話を大声でするものだ。そういう時、男がどういう目つきをするのかを、リリはよく知っている。

 

 好奇の視線、期待の表情、ある種の欲望に身を焦がす熱情といった物…リリは、それらを知っている。学校内でも相応に美しいという自負のある彼女は、告白だのといったモノを少なからず受けていたからだ。それら全てを、リリはすげなく振っている。

 

 たしかに、純粋なる憧れや好意で近寄ってきた者もいる…一つ下の男子生徒が、なけなしの勇気を振り絞って正面からリリに告白してきたときには、彼女だって無碍にするのが心苦しく感じたし、告白を拒絶した後もその少年には好感さえ抱いてさえいる。

 

 だが、ほとんどの男は、駄目だ。

 

 下卑た欲望が隠せていない爛々とした目つき、まるで自分が断られるとさえ思っていない幼稚な思考、身分違いという事実を考慮に入れない盲目さ、相手の心情を斟酌さえできない自分勝手さ―――つまるところ、リリは同級生の男に辟易していたのだ。

 

 まるで、(じぶん)をトロフィーにしか思っていないような視線。リリの顔だけを見て近づいてくる男たちは、それこそ猿と同じなのではとさえ思う。

 

 その点、『彼』は違っていた。

 決して自分を子供扱いしない視線、女性として扱ってくれる配慮。

 けれど、そこに下卑た物は感じられない。大人の世界の一員として、淑女(レディ)として、リリを尊重してくれる優しさがある。

 これがしっかりとした大人の貴族というものか、とリリは嬉しく思うのだ。そして、彼の信頼に応えられる自分自身を、誇らしくも思うのである。……本心の奥底のリリ自身も自覚していない淡い想いが、期待に応えたい、もっと彼の役に立てたら、などと憧れに似た感情で揺らされるのである。

 

 

「ごめんね。教職員が動き回るよりも、ここの生徒が動いた方が怪しまれないから…」

 

「いいえ、先生。それが私の【任務】ですもの」

 

 すまなそうに言うレスターに、リリは微笑んで返す。

 そう、リリはこの伯爵が急に学園に来た本当の理由を知っているのである。

 そして、単なる先生と生徒ではない、特別な秘密を共有しているのだ。

 

 

「それで、シャーロット姫の周辺だけれど…」

「ええ、こちらを見ていただきたいのですけれど」

 

 リリが、現像した複数の写真を手渡す。

 

「・・・ベアトリス。男爵家の娘で、プリンセスのおそらく唯一の『友人』です

 …顔は、ご存じなのですよね?」

 

「うん、校舎ですれ違ったことは何度かあったよ。授業は受け持っていないのだけれど。

 でも、―――驚いたな」

 

 リリが見せたのは、ここ数日で撮影した放課後のプリンセスを隠し撮りした写真である。

 その中に、プリンセスと一緒に映っているのは、胡桃色(ユグランス)の髪をした小柄な少女だ。

 

 彼女はベアトリス。

 『空気姫』と呼ばれ、学内でも誰を連れる訳でも無く一人で過ごしているシャーロット姫に、唯一近づける人物。

 その存在はリリが表現した『友人』というものよりも深いようで、まるで傍仕えしている忠実なメイドのようでさえある。

 リリが撮影した写真の中には、甲斐甲斐しく献身的に姫の身辺に控え、紅茶を淹れて談笑する姿も映されている。男爵家の娘としての振る舞いというよりも、小動物めいた少女が姫君の傍で可愛らしく働いているといった風情だ。

 

「え、と。―――驚いた、とは?」

 

「ああ、ごめん。シャーロット姫が、随分とお優しく微笑まれていたものだから。

 この娘は、ずいぶんと姫から信頼されているようだな、と思ってね」

 

 リリも、もう一度、写真を眺める。

 放課後の中庭で、微笑まれているプリンセスと、その横で嬉しそうにしているベアトリス。

 なるほど、これまで王宮でプリンセスと話されていた伯爵でも、見たことの無い表情だったのか、と。

 

「そうですね…。プリンセスも、あの子にだけは心を開かれているようです。

 学校でも、他の者たちを連れて歩いている姿は、見たことがありませんね」

 

「成程・・・」

 

 レスターは、天井を見上げて、しばし瞑目した。

 

「率直に言ってほしい。リリ君の眼から見て、彼女は『黒』かい?」

 

「それは、無いと思いますわ」

 

「根拠を教えて欲しいかな」

 

 まず、とリリは説明する。

 

「ベアトリスさんがこちらの学校に来られたのは、随分と前のことです。

 もちろん壁が崩れた後のことではありますが…それでも、潜伏の仕込みをするには幼すぎる年齢で入学しています。

 その頃から学校に共和国が入り込み、プリンセスに近づいていたとは考えにくいかと」

 

「だが、それほどに昔からスパイとして潜入していた可能性は否定できないんじゃないかな」

 

「二番目の理由ですが、彼女はスパイが潜入してると仮定するには、少々目立ちすぎています。

 

 …この学校に通う者であれば、プリンセスがベアトリスさんを連れて歩いているのを見たことがあるはずです。プリンセスが他にも大勢のご友人を連れているならともかく、ここまで親しくしているのはベアトリスさん一人だけ。

 

 たしかに、プリンセスに何かがあれば怪しいのは彼女ですが、逆に言えば一番疑われてしまうのが彼女の立ち位置です。

 隠れようとしているスパイが、あれほど近くに居るのは考えずらいかと」

 

 たとえば、プリンセスが仮に毒殺でもされたら、容疑者の中にベアトリスは入ってしまう。

 なぜなら、毒見役も通さずに紅茶を淹れ、共に午後の紅茶を嗜んでいるのを複数人が何度も見ているからである。

 

 プリンセスの私物が盗まれたとしたら、毎日私室に出入りして身の回りの世話をしているベアトリスも疑われる。プリンセスが狙われる事件が発生したのなら、ベアトリスがその時に何処に居たのかが確認されるだろう―――それくらいに、普段から側に控えている少女なのだ。逆に言えば、疑われたくない人間が存在するには、姫の横という立ち位置はあまりに目立つ。

 

 それこそ、ベアトリスがスパイであるという推論を成立させるには、当事者であるプリンセスが実は口裏合わせをしている…というくらいに無理のある論理の飛躍をしなければならないだろう。

 

「第三に―――これは、証拠としては弱いのですけれど…」

 

「言ってみてくれ。どんな意見でも、多い方が良い物だよ」

 

「・・・これは友人から聞いた話なのですけれど。彼女、あまり運動も得意ではないとの話で。…小柄な体格で、運動も苦手…少し、スパイというイメージにそぐわないのかな、と思いますの。それに、彼女の性格も、聞くところでは、控えめで気弱な性格だそうです。…姫様と過ごされている時間の全てが演技だとすると、とんでもない大女優になってしまいますわ」

 

 だから、リリは、調査対象であったベアトリスを、あまり疑ってはいない。

 

 男爵家の娘にしてはプリンセスに近すぎるとも思うが、その在り方にしても友人と呼ぶよりは専属の侍女といった方が近い。それも、この上なくプリンセスに対して憧憬の念を持っているように見えるのだ。そうでなくては、人をあまり近づけないプリンセスが何年も側に置かないだろう。二人の関係性は、積み重ねた時間を感じさせるところがある。

 

 レスターが自身で言ったように、『プリンセスがこんなにも優しく微笑まれている』のだ。もし万が一、それが虚構であるのならば、嘘ならば。

 それこそ世に友情など無いのではと思わせるほど…二人の距離は近いものであるように見えた。

 

 それに、

 

「男爵家の娘が、わざわざプリンセスを狙う理由が無い気がいたしますの。彼女は『白』では?」

 

「うーん…」

 

 リリの答えに、レスターは眉間に皺を寄せて答えた。

 

「・・・それでも、『灰色(グレー)』だね。事実、最もシャーロット姫に近いのは、このベアトリス嬢だ」

 

「それは―――」

 

「それに彼女がスパイじゃなくても、スパイに利用される可能性がある。

 

 ―――脅迫だとか、暴力とか。手段は色々と、ね」

 

「・・・っ!?」

 

 レスターは、机に腕を組んで続ける。

 教室で授業をする先生とも、登下校時の優しい先生とも違う。少し厳しい視線をした表情。

 

「共和国スパイは、こう思うかもしれない。

 

 なるほど、あのベアトリスという少女を操り人形にすれば、自分たちは隠れたまま情報を盗めるかもしれないぞ、と」

 

「そ、その手段というのは」

 

「……『知り合い』から、聞いたんだが、人間の多くは『人』と『金』で裏切るそうだよ。

 他にも、暴力で脅され命を狙われれば、多くの人間は無理矢理従わされるだろうね。

 

 だから、ベアトリス嬢が『限りなく白に近い灰』だとしても、注意しないわけにはいかない」

 

 それは、学生の身であるリリには実感の湧かない、暗闇の世界の論理だった。

 リリは考えた、この子は怪しくないと。

 クロフォードは考えるのだ、全ては怪しいし、仮に『白』でも利用されうるのだ、と。

 

「・・・これは、仮定の話だが。

 

 例えば、リリ君がお父上を人質に取られたとしよう。

 そして、共和国スパイに脅迫される。―――『王国の情報を盗み出さなければ、父親の命はないぞ』、と」

 

「そんな…」

 

「拒絶すれば、スパイは宣言通りにリリ君のお父上を害するだろう。

 だが、情報を手に入れられていない以上、スパイは決して諦めないだろう。

 

 次は、こう来る―――『これで判っただろう。次は母親、最後はお前だ』、と」

 

 想像を巡らし、顔を青くするリリに、レスターは「例え話だよ」と、笑って見せた。机の上に置かれた、茶菓子を勧め、食べるようにと促す。

 

「・・・スパイは、手段を選ばない。

 あるいは、こう来るかもしれない。

 

 『父上が死後、ギャビストン家は共和国と内通していた、という噂を立ててやるぞ』…とね」

 

「…っ! なんて、卑劣な…!」

 

 想定を超える卑怯卑劣に、リリの眼が義憤に燃える。ギャビストン家は、代々法服貴族として由緒のある家柄である。それの誇りを、共和国に傷つけられることなどあってはならない。そして、スパイはその貴族の誇りまでも利用するというのだ。それは決して許されざるものであった。

 

「ベアトリス君個人はシャーロット姫の味方かもしれない。…だが、その周囲は判らない。

 

 これは、秘密にしておいて欲しいんだが―――彼女は、実家である男爵家に問題を抱えていてね。そういった『隙』を、スパイが狙い撃ちにする可能性だって、ある」

 

 レスターは、真剣な口調で呟くと、ふっと表情を緩めた。

 

「・・・一応、今は学校の先生だからね。生徒が共和国のスパイなんかに利用される危険があるなら、守ってやらなくちゃって思うんだよ」

 

「先生―――」

 

 照れたように鼻を掻く姿を見て、リリは思う。自分よりも大人で、『スパイ探し』なんて秘密の仕事をしているとしても…この人は、優しい人なのだ。伯爵という家柄を感じさせず、どの生徒にも分け隔てなく接する姿勢。ベアトリスという男爵家の娘を、本当に慮っているのが伝わってくる。ベアトリスを『灰色』と表現するのだって、きっと本心からのものでなく、レスターが自身で言及したように、一人の少女が卑劣にも利用されうるという危険性を考慮に入れたものなのだろう。

 

「―――大丈夫です、先生っ。このリリ・ギャビストンもお手伝いさせて頂きますからっ」

 

「・・・でも、無理はしないでくれよ。リリ君も、同じく大切な生徒の一人であることに変わりはないんだからね」

 

 優しく笑みを交わして、リリは心の片隅で想う。

 

 たしかに、秘密を共有して隠れて任務を行う仲間ではあるのだけれど。

 嗚呼、『大切な生徒の一人』ではなく、リリ・ギャビストンを見てくれるのならば―――。

 

 そんな淡い想いを抱えるリリの表情は、可愛らしい十七歳の少女だった。

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

「随分と非道いのね、『先生』? 大切な生徒を利用するだなんて」

 

「否定はできないのが辛いところだね」

 

 リリが退室して、しばらくの時間が経った。

 

 相談に来る学生もいなくなり、夕闇が迫ってくる時間帯。

 部屋には、レスターしかいない…その筈であった。

 

 突然、部屋の片隅から声が生じて、レスターに語り掛けてくる。

 彼は一瞥すらせずに、その声に応じた。

 

 数瞬の後、姿を表したのはステファニーである。

 無論、スパイといえど、虚空から現れるという芸当はできない。

 種を明かせば、この図書司書室には閉架となっている小部屋が接続しており、彼女はそこに潜んでいたのだ。

 レスターが屋敷で見慣れているメイド服姿ではなく、ちゃんとした学生服を着た姿である。

 

 

「それで、知っているかもしれないが、彼女がリリ・ギャビストン。

 ノルマンディー公の息がかかっていて、目下校内の共和国スパイを捜索中というわけだ」

 

「クロフォード先生は『校内の恋愛相談窓口』でしたね。成程、それも隠れ蓑、と」

 

「相談の数割は、真正の恋愛相談だよ。それについては、口を割る気は毛頭ないかな」

 

「では、残りの数割は?」

 

「どちらのスパイも居るよ。キミと同じようにね」

 

 ステファニーは作り笑顔を返しながら思う。

 ―――この男の笑顔は、基本的に虚実というものが無い。

 嘘を吐いているときも、真実を語るときも、同じ笑顔を浮かべている。

 まるで同じだ。私のようなスパイと同じ。

 そうでなければ詐欺師の笑顔。

 

「まさか、伯爵様にここまで詐欺師の才能があるとは思いませんでした」

 

「無能よりは万倍良いだろう?

 ボクだって死にたくはないからね。全力で動いているだけさ」

 

 大した訓練もなしに両陣営を騙し、同時に信用させようというのだ。

 多少レスターの演技に才能があったところで、正気の沙汰ではない。

 

 彼は、あの晩に自身で語ったように、己の命すら捨てた保身無き『蝙蝠』だ。

 死ぬことを恐れていないから、生きて騙すことに躊躇が無い。

 最悪―――と、ステファニーは笑顔で思う。

 

「―――私は、貴方をまだ信じていないわよ。怪しかったら、つい撃ってしまうかも」

 

「できれば、ボクの背中を撃つ瞬間まで判断を保留してくれると嬉しいんだけどね。

 

 大丈夫、こちらから裏切ることは無いさ」

 

「だといいんだけどね」

 

 ステファニーの声色に、甘い色は無い。

 

 『あの晩』に、ステファニーは彼を籠絡しようとして…失敗した。

 それは、彼女の中に思い出したくもない記憶として存在する。

 彼女の人生の中でも、最大級の汚点となるだろう失敗を、忘れることは無いだろう。

 

 

『どうして、抱かなかったの』

 ・・・そう、暗闇で問うステファニーの言葉に、

『キミが、ステキな淑女だからさ』…と彼、レスターは返した。

 

 ―――なんだ、その答えは。

 抱けばよかったではないか、私たちと同じように騙し騙され、そして死ぬ人間なのだから。

 安易な同情でもしているのか。大切にすれば情が沸くとでも思っているのか。

 くだらない。

 

 それでも、ほんの少しだけは。肌を晒さず、女の武器を使わずに済んだことへの安堵もあって…ステファニーは、やはりこの男は信じられないな、と思いを強くするのだった。

 

「ともかく―――この一月で、王国側の学園内の体制は確立したといっていい。

 

 キミも、気を付けるように。無関係の場所でキミたちが掴まっても、ボクは無関係の一教師だ」

 

「あら? では、私たちは貴方を『共和国に内通していたモグラだ!』と叫びますよ?」

 

「なら、ボクは『相手を油断させ、尻尾を出させるための策だった』と強弁するよ。

 信じてもらえるかはともかく、共和国(キミたち)を牽制はさせてもらわないと、ね」

 

 笑い合って、紅茶を飲んで、茶菓子を食べる。

 笑顔の下に何を潜ませているのかを探りながら、机の下で銃把を握る。

 情報を売って、買って。敵を売って、仲間を売って。

 その先に何を手に入れるのかも知らぬまま、水面下で探り合う。

 

 

「―――では、私はこれで。…次の金曜には、お屋敷に伺いますから」

 

「お願いするね。学食も悪くはないんだけれど…毎食というと、少しばかり飽きてきたところだ。

 学長に改善要求でも出すかなぁ…」

 

 辟易としたように呟くレスターに、ステファニーは微笑する。

 アルビオン人にしては、レスターは美食家だ。それこそ、伯爵家の財力を使ってでも食堂の改善を計ってしまうかもしれない…。長くはない付き合いとはいえ、彼の食事に対する並々ならぬ関心は知っている。そのうち、この若き伯爵は『校内の食事の質向上』なる題目を掲げて、学長室に突撃してしまうかもしれない。スパイとしてはともかく、そういった気取らなさという部分は、彼の微笑ましい美徳に思えるのだった。

 

「では、次の金曜に、屋敷で」

 

「ええ、さようなら、『先生』」

 

 別離(わかれ)の挨拶に、レスターは跪いてステファニーの手を取った。

 そして、軽く口付ける。

 まるで貴婦人にするかのように。物語の(ミンネ)のように。

 それは憧憬であって、愛欲ではないと証するような、軽い口付けであった。

 

 ステファニーは、無言で部屋を後にした。

 

 彼が口付けた手…手袋をつけていて、彼は素肌にさえ触れていなかった…を一瞥して、思う。

 廊下を振り返っても、もはや生徒の影は一つもない。誰もいない、がらんとした図書館。

 ―――彼は、何を考えているのだろう。

 二重スパイをするには、謎めいた行動原理。

 自分を抱きすらしなかった、それならば信用も信頼もいらないと、自分を押しとどめた。

 

 やはり、よくわからない男だ。信用はできない。

 自分は情になど流されない、いつか、きっと殺すことになるだろう―――。

 

 そう、ステファニーは何度目かの確認をして、寮へ戻った。

 …自分が、どんな表情をしているのかも、知らぬままで。

 

 

 



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◆Dead enD 1 : Sink in to the Sin

デッドエンドIFです。
Case:C Catch me if you killでステファニーさんに手を出していたらルート。
有り得たかもしれない結末のカタチ。

*18禁描写があります!





.

 

 ―――どこで選択肢を間違えたのだろうか。

 

 背後から銃撃され、惨めにも床を這うレスター・リンジー=クロフォードは、失血で冷えていく思考で考える。答えは、分かり切っていた。最初から間違っていたのだ。

 

 何に背後から撃たれたのかは理解している。

 拳銃はコルト・ガバメント。.45弾を8発。全弾が胴体を貫通した。

 

 誰に撃たれたのかも、理解っている。

 ステファニー。彼が、この世で一番愛してしまった少女。

 蘇芳色(バーガンディ)の髪に、榛色(ヘイゼル)の瞳。

 まさに、彼女はレスターにとっての運命の女(ファムファタール)だった。愛して、そして殺される。

 

 撃たれる覚悟はしていたが、まさか全弾を撃ち込んでくるとは思わなかった。

 それが『実行できる』女だとは知っていた―――が、流石にその容赦の無さには苦笑する。

 苦笑しようとして、口から血を吐いた。ごぼり、と聞いたこともない音が喉から鳴る。

 

「・・・、・・・。」

 

 レスターは、もはや振り返ることすらできない。

 だから、自分を拳銃で撃った『彼女』の表情(かお)を見ることができない。

 見えるのは、ただ己の体から流れている血と、それが床に零れていく光景だけだ。

 

 死ぬ。

 純然たる現実が、恐ろしい形相をして追いついてくる。

 床を這おうとする腕が上がらない。足は鉛に置換されたかのように役立たずだ。

 痛みを通り越して、胸に空いた風穴は命という熱量を垂れ流すだけになっている。凍えてしまいそうな悪寒が、絶え絶えの呼吸を乱していく。目を閉じればおそらく二度と目覚めぬと、冷たい理解だけが脳髄に染み通っていく。

 

「―――っ、は…ッ」

 

 それでも、と。

 レスターは文字通りの死力で、後ろを振り向く。

 

 ステファニー。

 彼女は、両手を前に突き出し、拳銃を保持していた。

 理想的な構え(フォーム)だ。自分が教官ならば、百点満点を与えるだろう。銃口は揺らぐこともなく、手も震えない。それが証拠に、その銃から放たれた弾丸は、全て完璧にレスターの胴体を穿っている。肺、心臓、肝臓。素敵だ。冷たい弾丸は、感情などとは無縁にレスターを完璧に殺している。これでは万が一にも助かることはない。

 

 彼女は、良い女だった。嘘偽りなく、レスターは思う。

 かつて王女であった少女への憧憬も、王女となった一人の少女への崇敬の念も・・・結局、たった一つの恋に破れてしまった。積み重ねてきた十年という歳月すら、彼女と触れ合う一瞬には燃え尽きた。二重スパイという使命を己に課していたレスターにとって、その触れ合いは毒薬のようだった。ステファニーという少女に触れたい。ステファニーという少女を、己の物にしてしまいたい―――そんな欲望が、積もるほどに大きくなっていったのだ。そして、その愛慕こそが、レスターを殺すことになった。

 

 目線を上げれば、彼女の表情が見える。

 それに、死にかけのレスターは安堵する。

 ・・・最後に見ている光景が、ただの血濡れた床ではなく、自分が愛した女の顔であるということに。致命傷を負ってなお、彼は微笑もうとした。微笑おうとして、失敗した。強張った顔はうまく動かず、喉からは、ひゅー、ひゅーと今際の息しか通らない。

 

 それでも、

 

「す、ステファニー…。          」

 

 伝えなければ、という感情は、失血死という回答に阻まれる。

 現実は、御伽噺のようにできていない。台詞を言い終わらずとも、無残に死ぬのだ。

 

 だから、ステファニーは物言わぬ亡骸となった男を、じっと眺めていた。

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

 最初に抱いた夜。抱く前には、愛していなかった。

 

 無論、ステファニーという少女の容姿に、全く思うところが無かったわけではない。

 彼女が通う学園の中でも、その外見が指折りなのは確実だろう。教室で一番目立つ美女、ではない。だが、校内から見目麗しい淑女を指の数だけ集めたとしたら、その中には必ず入っているだろう。華やかさとは趣を異にする、どことなく落ち着いた可憐さだ。

 彼女は、野に咲いた生命力あふれる向日葵ではない。硝子の温室で栽培される蘭でもない。例えるなら、高山を歩いているときに目に留まった菫のような美しさだ。目を惹き、傍まで歩み寄って手折りたい欲望に駆られるが、その実、菫が咲いているのは山道からは手の届かぬ断崖であるのだ。色や香りの尊きに手が届かぬのではなく、その在る場所こそが遠く感じさせる花。

 

 それは、おそらく、彼女の表情に起因していただろう。常日頃から浮かべている、優しげな笑み。正面から見るといかにも自然な笑顔だが、様々な角度から観察すると理解できる、楽しさも嬉しさも感じられない笑顔。

 その笑顔の裏を覗き込めば、恐ろしく裏腹な表情を垣間見ることになる。誰も信じていない瞳に射すくめられ、浮かべた笑みは形だけをなぞって空虚だ。

 

 彼女は、スパイだ。

 年齢を考えれば空恐ろしいほどに、『騙す』人間として完成されていた。

 

 

「―――私を抱いてください」

 

 月明かりの下、彼女の呟いた言葉には、温かみの一つもなかった。

 それが、媚びや誘惑であったなら、あるいは振り払って拒絶することもできたかもしれない。

 だが、その言葉は蠱惑的な響きではあっても、甘さを全く感じさせなかった。

 

「馬鹿を言うな。そんなことをして、何になる。それで信じられるとでもいうのか」

 

「信じられないわ。ちっとも」

 

 銃を持ったままの両腕で、ステファニーは背後から抱きしめてくる。

 密着した姿勢。囁きや鼓動すら脳髄に響く。背中に柔らかな膨らみが押し当てられるが、逃れることすら許されない。

 

「信じられないから―――なおさら。貴方が裏切れないようにするの。

 

 逃げられないように、(わたし)で縛ってしまうの」

 

 それは、切実な響きだった。

 

 信じて欲しいなどという言葉は、彼女にとって戯言以下だ。

 仮に裏切らないと誓ったとしても、そこには何の意味も無いと知っている。

 

 だから、縛る。言葉で呪う。女の体で、鎖に繋ぐ。

 

「悪い話では、ないでしょ? どうせ貴方は二重スパイをするのだから、そこで得た役得だと思ってくれれば。無料(ただ)で、女を抱けると思えば―――」

 

「無料より高い物はない、と言うだろう。それに、そんなことをしても意味はないだろう。ボクは、いずれ裏切る人間だ。だからこんな手段で身を売るなんて、馬鹿な真似はやめた方が良い」

 

 彼女に抱きしめられながら、言葉を継ぐ。

 裏切る相手だと承知で身を捧げるなど、レスターには意味のないことに思えた。

 

「ふふ」

 

 顔も見えない背後で、ステファニーが笑う。

 明るさの感じられない、昏い声だった。

 

「やっぱり、優しいんですね」

 

 それは、軽蔑の響きにも似ていた。

 

「その優しさを、利用します。その同情を、利用します。

 ―――結局、貴方はスパイに向いていないんです」

 

 

 

 

 彼女が、レスターの腰へ手を回す。

 その手には、拳銃が握られたままだ。

 

 銃口の先で、ズボンをなぞっていく。股内に触れた銃口から、金属の冷たい感触がゾクリとした鳥肌となって伝わる。戯れに撃鉄を落とせば、間違いなく太腿の血管が撃ち抜かれる位置だ。スパイスとして楽しむには、あまりにも実感の湧きすぎる恐怖。

 だが、銃口が布地の上を滑り股座に狙いを定めると、彼女は、へぇと揶揄うように言った。

 

「それでも、ちゃんと興奮してくれるんですね」

 

 ズボンの内側では、はちきれんばかりに男性器が固くなっていた。

 命の危険と、少女に密着されているという背徳が、否が応にも己を昂らせている。

 

「よかった。これで無反応だったら、どうしようかと」

 

「キミはステキだよ…。だから、手を出してしまうのが怖くなる」

 

 どれだけ自制しても、手玉に取られてしまいそうになる。

 

 ―――否。

 今この瞬間にも、レスター・リンジー=クロフォードという個人は掌握されつつある。

 

 銃身で、膨らんだ男根を刺激される。冷たい鉄で撫でられる感覚は、背を這うような快感だった。だが、それは絶頂にまで昇り詰めさせるものではなく、より強い刺激を求めさせる性質のものだ。触れられた部分が、もどかしさを覚えて震える。

 

「これでも、手を出さない心算(つもり)ですか?」

 

「―――対価が釣り合わないだろう。ボクは、キミに何も差し出せない。キミにとっては、自分の体を差し出しても何の利益もないんだぞ」

 

 だから、どうか。

 ここで止めて欲しい―――その言葉は、密着した彼女が不意に離れることで中断された。

 

「私、そんなに魅力がありませんか…?」

 

 言葉尻に、急に媚態が入る。

 艶めいた声、本能に訴えかける演技。

 

 堪らず、振り返る。

 

 ステファニーは、自分のメイド服に手をかけていた。服装が、軽く乱れる。

 両の手に握っていた拳銃は、床に置かれている。距離は6フィート。銃を拾って突き付けるには、あまりに遠い距離。なによりも、その煽情的な姿に目が奪われて、冷静な判断ができなくなる。交渉する余地が、話すための理性が、削られていく。

 彼女は、身に着けているメイド服の上から、自分の肢体に手を這わせていた。左手で胸を、右手で、スカートの上から内股を。肌が露出している部分など皆無だというのに、恐ろしく艶めかしい。

 

 その姿が、娼婦のようなら納得できた。男を喰い物にする姿をしていれば、理解できた。

 けれど、ステファニーは少女の姿のままで、これまで見たこともないような婀娜っぽい笑みを形作っていた。今までメイドとして仕えていた服装で、食事を作ってくれた時の彼女のままで、男を誘惑しようと媚態を浮かべた。

 それは演技だと理性が悲鳴を上げ、本能が構いやしないと歓声を上げる。

 

「―――止めよう。まだ、引き返せる。まだ―――」

 

「まだ、じゃないんです。もう、だめなんです」

 

 身動き一つできないままに、退路が崩れ落ちていく感覚。

 踏み外せば奈落と知ってるのに、目線の一つも制御できなくなる。

 

「二重スパイになるのなら、堕ちてください。

 裏切るというのなら、踏み外してください。

 ―――もう、後戻りなんてできないんです」

 

 その言葉だけは、きっと嘘ではなかった。

 もはや真っ当に生きることなど望むべくもないという事実は、優しい嘘になってくれなかった。

 

 一歩、近づく。此処に至るまで残してた最後の可能性を…SAA(ピースメイカー)を拾い直すという行動を、レスターは終に放棄した。近づくのは、抵抗のためではない。ふらふらと瓦斯灯に引き寄せられる蛾のように、甘い蜜に吸い寄せられる蟻のように、彼女に近づく。

 

「・・・ごめん」

 

 何故か、謝罪が口を吐いた。抱き寄せる。

 両腕で抱きしめたステファニーは、驚くほど華奢だった。先ほどまで、あれほど丁々発止に軽口を交わしていた相手とは思えぬほどに、ただの年下の少女でしかなかった。

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

 

「ところで―――伯爵様は、女性を抱いたことは」

 

「無いよ。そんな機会は無くてね」

 

 寝台まで、ステファニーを抱えて運んだ。彼女は軽い。膝の下に右腕を回し、左手で背中を支えるようにして持ち上げた。わぁ…とステファニーは妙に気の抜けたような声を出していたが。

 …閨の作法に通じている訳でもないが、なにか不作法だっただろうか。そもそも、淑女(レディ)に触れて抱えるなど初めての経験であるから、何が正しいのかも判らない。

 ただ、優しくはしようと漠然と思い、そっと寝台に彼女の身体を横たえた。

 

「ずいぶんと紳士的なんですね、伯爵様は」

 

「揶揄うのは止してくれ。とても紳士的でいられなくなる。それに、その『伯爵様』と呼ぶのも」

 

「では、旦那様? それとも、ご主人様?」

 

 メイド姿を見せつけるようにして、彼女が呼ばう。

 その言葉の響きに、少しだけドキリとする。

 

「そう呼んだほうが、殿方は喜ぶと聞いたんですけど」

 

「どこの三流雑誌の情報だ…。そんなもの、別に」

 

「あら。では、どう呼べば?」

 

 寝台の上で、ステファニーは目を細める。猫のように身を寄せて、擦り寄ってくる。

 

「レスターさん」

 

 呼ばわう声は、それ自体が麻薬のようだ。

 この瞬間を嘘偽りだと心に言い聞かせなければ、深みに沈んで戻れなくなる予感がする声。

 同時に、この上なく男を漲らせる声だ。抗う心を、蕩かしていく。

 

「レスターさん、と呼びましょうか」

 

「では、ボクは」

 

「・・・ステフ、と。そう呼んでください」

 

 それだけで、どこか距離が縮まったように思ってしまう。錯覚だ。

 鼓動が聞こえる距離にいるというのに、互いの本心が何処にあるのかも判らず。

 ただ、これから女を抱くのだという興奮だけがある。

 

「触れても、いいんですよ」

 

 手を、優しく握られた。彼女の胸へと導かれる。

 メイド服の上から触れた膨らみは、けっして大きいと表現されるものではなかったが、慎まやかながらも女性を感じさせるその双丘は指で触れるだけで柔らかな弾力を返してくる。

 暖かくて、柔らかい。触れているのは服の上からだというのに、既に呼吸は荒くなり理性をジリジリと削られていく。

 

 揉みしだけば、息遣いが荒くなる。まるで熱に浮かされるようだ。

 

 

「いやらしい女だと、軽蔑しますか…?」

 

 呼気に熱を帯びながら、ステファニーが訊ねてくる。

 つまらない問いを紡いだ唇を、強引に奪った。

 

 抱き寄せた躰から伝わってくる鼓動は、早鐘のように打っているのが判る。

 女の体とは柔らかいモノなのだな、という実感が痺れた脳髄に伝わる。奪った唇の柔らかさは、いつも他愛のない雑談を話していた唇と同じであるのに、一度触れてしまえば言葉を紡ぐというよりも口付ける為の器官としか見られなくなりそうだ。

 

「ふぁ…ん…っ…」

 

 舌が絡む。唇を食む。伸ばした舌で、彼女の前列の歯に触れる。それは、本能的な交歓だった。触れている、この上なく密着しているという快感。粘膜が接触し、人体の中で最も弱く薄い部分の一つを触れ合わせている。

 いつしか、接吻は貪り合うようなものになっていた。舌を吸ったところで無為だというのに、その単純な熱が思考の全てになる。己が蕩かされていく。

 

「……キスだけで、いいんですか」

 

 潤んだ瞳でステファニーが問うてくる。もはや、それが演技か否かは問題でなくなっていた。

 彼女は、メイド服のスカートを捲り上げて、その下に隠された両脚を剥き出しにした。

 と言っても、彼女は顔以外の殆どの皮膚を布で覆っている。手には白の手袋を嵌めているし、両足だって白絹のストッキングを纏っているのだ。だから、その肌色が見えたというわけでもない。

 

 スカートに隠されていた脚は、ほっそりとしていた。白いストッキングに包まれて、まるで人形の足であるかのように作り物めいていて現実感が無い。いや、経験の無いレスターにとっては、まさに女の体そのものが現実感の無い代物だった。だが、それに触れれば柔らかく、撫でれば心地よい弾力を返すのだ。

 

 すらりと長い脚を軽く撫でると、ステファニーはこそばゆいかのように身を捩った。その媚態は、男の自制心を消し去っていく。

 

「ここです…わかりますよね…?」

 

 ステファニーは、くすぐったさに声を甘く震わせながら、そっと己の指で指し示した。厚めのストッキング地に隠されているとはいえ、スカートという防壁を持ち上げられた状態では酷く無防備な場所が晒されていた。

 細い二本の脚の間、その奥に隠された秘奥がある。薄絹一枚の布地に遮られているだけの場所。女である場所。

 

 不意に、鼻が匂いを感じた。唾液の匂い、汗の匂い、女の匂い。

 一度自覚してしまえば、その匂いは脳髄を焼く強烈な実感だった。

 男と女が交わうときの、生物的な匂い。

 

「もし知らなくても、判る筈ですよね。貴方は男で、私は女なんですから」

 

 彼女は手袋をしたままの手で、内股に手を這わせた。その様子に、目が釘付けとなる。

 それは、肌の一つも見せていないのに、この上なく蠱惑的な手つきだった。

 

「此処に、殿方の物が、入るんですよ」

 

 態々、手袋で秘所を開くかのように撫でつけながら、ステファニーは怪しく微笑する。

 薄衣一枚で覆われているだけの股の間に、視線が釘付けになる。幾ら視線を投げかけても、ストッキングの一枚も破れる訳がないというのに、見詰める視線に熱が籠ってしまう。

 

「ふふっ。息が荒くなっています…。気付いていますか? 今、とても、いやらしい表情をしていますよ…」

 

 その言葉は、蠱惑的だった。言葉と共に、彼女の手が秘所を弄って、より淫靡に色香が撒き散らされる。ストッキングの上をなぞる手の動きに、僅かに粘着質な音が混じっているのが聞こえた。熱視線を受けて、甘い蜜が染み出しているようだった。その匂いに、脳が惚けていく。

 

 

「―――もう、こんなに大きくしているなんて」

 

 ズボンの釦に手が伸ばされ、僅かな指の動きで外されてしまった。

 既に股間のモノははち切れんばかりに存在を主張しており、彼女が手袋越しに触れるだけでビクビクと情けなくも震えてしまう。

 

「女を抱いた事が無いのなら…。

 じゃあ、他人(ヒト)にされるのも初めてなんですね…」

 

 手袋の絹の肌触りが、熱くなった肉棒にひんやり冷たい感覚を与える。

 そのまま、絹で擦るように指に力がかけられる。ひんやりとした触感の摩擦だというのに、むしろ触れられるほどに血流は熱く波打つばかり。

 棒の先からは、既に吐精を予感させる先走りが潤み、それを指先で弄ぶステファニーの手袋を汚してしまっている。

 

「どうですか? 私、気持ち良くできていますか?」

 

 胸元に寄りかかりながら、ステファニーは問うてくる。返答は、快感のあまり呻きに似た息しか出せない。

 思考が、快楽に染められていく。

 

「いいんですよ。もっと、気持ちよくなってください」

 

「す、ステフ…」

 

 手袋から与えられる力が、より強くなった。撫でるという力加減から、握るといった具合に。

 上下に擦られる運動は、抗えぬほど直截に快楽を流し込んでくる。

 

「あは。ビクビクって、してますよ。

 レスターさん、気持ちいいですか? 気持ちいいですよね?」

 

 揶揄うように伝える口調は、男を悦ばせるように熱を帯びる。

 それは、どう言葉を紡げば相手が喜ぶのかを知った口調。

 

 先ほどから、少女の口からは出ているのは、相手を籠絡するための言葉だ。

 そう、それは技術。それは全て演技で―――。

 本心など、判らなくて―――。

 

 

 ―――その時、気付いた。気付いてしまった。

 密着したステファニーの体が、僅かに震えていることに。

 

 

「―――まさか」

 

 至近距離で、瞳を覗き込む。

 

 榛色(ヘイゼル)の瞳が、揺れている。それは声にならない悲鳴を隠すようで、動揺を殺しているようで。

 レスターは、躊躇いながら、問いを形にした。

 

「ステフ…。キミは、初めてなのか」

 

「・・・スパイになる時に、男性を籠絡する手管も教えられています。

 上手にできていたでしょう?」

 

「そういう話じゃないだろ…!」

 

 失念していた。この少女は、どうしようもなく嘘吐きだ。

 土壇場に来てまで、己の震えすら隠そうとする。

 

「どうせ、いつか死ぬんです、お互い。ひょっとしたら、明日にも。

 

 だから、罪悪感なんて感じなくてもいいんですよ」

 

 その口調は、諦めを帯びていた。自棄、というのでもない。

 ただ純然と、『そういうものだ』という事実を受け容れてしまっている。

 

 

「ここで抱かれなくても、結局、他の好きでもない男に純潔なんて奪われるんです。

 

 想像できます? 酷く醜い男でも、とんでもない卑劣漢にも、任務なら抱かれてしまうんです。

 

 あは、優しくなんてしてくれる人は、きっと稀でしょうね。

 泣き叫んでも、乱暴にされてしまうのかも。

 無理矢理に手籠めにされて、抵抗できないまま従わされてしまうかも…」

 

「止めろ…」

 

「いいえ、止めません。私は、そういう場所に居るんです。

 

 今まで『そういう』任務に就かなかったのは―――」

 

 ステファニーは、微笑を浮かべたままでメイド服に手をかけた。

 

 今まで、殆ど晒していなかった肌が、剥き出しになる。

 

 

「―――あ、…」

 

 レスターは、愕然として目の前の裸体を見た。

 

 そこにあったのは、傷痕だった。

 

 おそらく、古い傷だ。血が滲んでいるわけでもない、とうに塞がっている傷。

 

 だが、その傷はステファニーの華奢な体のあらゆる場所に刻まれていた。二の腕、胸、腹、おそらく見えない背にも刻まれているのだろう。時が経てもなお、残酷にも生々しく残された、過去の傷痕。手袋とストッキングを身に着けて、常に肌の一つも晒さぬようにしていた理由が、この傷痕なのだ。

 

「こんな、体ですから。…殿方を誘惑するには、向いてなかったんです」

 

「ステフ、キミは」

 

「同情してくれますか? 可哀そうだと思ってくれます?

 それとも、この肌を見て気分が萎えましたか? もう要らないって思いました?」

 

 ステファニーの言葉には、自虐的な響きがあった。

 任務なら体も差し出す。なぜならスパイだからだ。

 けれども、その内側の女の子は震えていて、傷ついた肌を晒すだけで心が悲鳴を上げる。

 それは自傷のようだった。平気だ当然だと嘯きながら、心を殺している。

 

「ごめんなさい。こんな醜い肌の女、抱けないですよね。

 

 あは、ダメだなぁ、私。結局、誘惑の一つもできなくて―――」

 

 ・・・耐えられなくて、口を強引に塞いだ。

 無理矢理に舌を入れて、彼女の口腔内を蹂躙する。軽い抵抗を感じたが、無視した。

 胸から溢れてきた名前の無い感情のままに、押し倒す。

 

 メイド服と手袋を脱がせて、脇に放り投げる。

 それから、彼女の腰に手をかけて、白絹のストッキングを脱がしにかかる。

 

「え、ちょ、ダメっ…!」

 

 ジタバタと動いて抵抗した脚を、無視する。この期に及んで、紳士的になどなれなかった。

 ストッキングを爪で引っ掛けて断線させながら、無理矢理に彼女を裸にする。

 

 暗い寝室に、ステファニーの一糸纏わぬ裸体が浮かび上がる。

 ほぼ全身に刻まれた、陰惨な傷痕。

 それから目を逸らさず、正面から見据えてレスターは呟く。

 

「・・・キミは、ステキだ。綺麗だよ」

 

「嘘、嘘です。そんなの」

 

「本当だ」

 

 そうでなければ、こんなにも昂るものか。

 こんなにも、腰に炎が灯ったように熱くなるものか。

 

 今まで弱みの一つも見せたことの無かった少女が、恥じらいに顔を染めている。華奢な身体を眺められて、視線から逃れようと身を捩る。

 

 逃したくはないと、唇を執拗に重ねた。

 唇だけではない。首筋に舌を這わせる。胸を揉みしだいて、その先にある蕾を啄む。肌につけられた傷も、その上の汗も舐めてしまう。唾液で傷が治る筈もないのに、それでも『過去』を慰められればいい、などと勝手に願って口付ける。

 

「そんなとこ、舐めなくたって…っ!」

 

 抗議を黙殺して、全身をくまなく舐る。

 腹部につけられた痣の痕を撫でて、その下の、口にするのも憚られる場所にさえキスをした。

 

「ん…っ。ふ、ぁ…っ!」

 

 彼女の股の間に顔を埋めるようにして、キスを繰り返す。

 口付けた場所は、秘めやかに蜜を垂らす泉になっていた。そこを、獣の如くに舐める。

 初めて見る秘所と、その潤んだ熱に夢中になる。

 吸う。啜る。舐める。

 

「―――キミは、ステキだよ。可愛い女の子で、こんなにも欲しくなる」

 

「っ…そんな。さっきまで、あんなに及び腰だったのに」

 

「もう、我慢しないから」

 

 宣言するように、自分も全ての衣服を脱ぎ棄ててしまう。

 寝台の上で、遮る物など無く触れる。組み伏せて、脚を開かせる。手を握って、顔を近づけた。

 

「もう一度訊くけれど…初めて、なんだね」

 

「・・・ん」

 

「わかった。優しくするから…」

 

 ほんの少しだけ素直になった言葉に、答えるように接吻する。

 

 逸る心を押さえつけて、そっと愛撫を続けた。

 この心を何と表現しよう。同情? 憐憫? どれも近くて、どこか遠い気がした。

 ただ、触れ合った皮膚の温もりだけが伝わる。

 

「・・・こんなに、大きいのが入るんですね」

 

「その、たぶん、痛いと思う」

 

「痛いのは慣れてますから」

 

「いや…、そうじゃなくて…」

 

「ふふ、判ってます。大丈夫です…たぶん」

 

 そして、互いの性器を触れ合わせる。

 

 興奮で経験したことが無いほど固く張り詰めた男性器を、しとどに濡れそぼった女性器に擦りつける。それだけで、ヌルヌルとした愛液に滑り、快感を感じる。

 ―――もし、挿れてしまえば、それはどれほど気持ち良いのだろう。身体は期待に震えて、腰をそのまま打ち下ろしてしまいたい欲求が脳を灼く。

 

 それでも、

 

「―――挿れるからね」

 

 頬にキスを。唇にキスを。優しく髪を撫でて、その匂いを嗅いで。

 言葉にならない想いを、できるだけ優しくしようと振る舞う。

 組み伏せた体の下で、ステファニーが僅かに頷いた。

 

 腰の位置を狙い定めるようにして、深く押し込んでいく。

 

「んっ…。く、挿って、きて…っ!」

 

 侵入を拒む様に狭まった箇所を、無理矢理に貫いていく感覚。

 半ばまで挿ったところで、それ以上は入れないと拒絶する抵抗がある。

 それは、処女の証だ。

 

「・・・んっ」

 

 言葉もなく、キスをした。

 痛みを予期して目を閉じた顔を眺めて、睫毛が長いな、なんて些細な感想が浮かんだ。

 もう一度、キスをする。

 

 

 そして、ゆっくりと、強引に処女を奪った。

 一番深い場所まで辿り着くと、深い息を吐く。

 与えられる刺激はまるで未知の快楽で、気を抜けば果ててしまいそうな恍惚だ。

 

「ん、んぅっ…。痛…っ」

 

「ごめん。痛いよね…」

 

 最奥まで貫いて、動きを止める。

 目に涙を浮かべているステファニーを見ていると、無茶苦茶に動いてしまいたいなんて欲望は躊躇われて、それよりも大事にしたいだなんて気持ちが溢れてくる。

 根元まで咥え込まれて、彼女が息をするたびに肉襞が収縮する。その動きは敏感な場所を撫で擦り、締め付けていく。粘ついた体液が絡みつき、堪らなくなる。

 

「もう少し、このままでいるから」

 

「うん…」

 

 深い息を吐く。

 

「本当に、挿ってるんですね…」

 

 声色は、戸惑っているようだった。

 未体験の感覚。知識はともかく、初めての経験。

 気の利いた言葉なんて思い浮かばなくて、見つめ合った。

 

「痛みは、平気?」

 

「・・・もうちょっと、このままで」

 

 否やは無かった。荒くなった呼吸が落ち着くまで待とう。

 手を握って、その掌を撫ぜて、指を搦めて。

 安心させる方法なんて判らないまま、ただ肌で触れる。

 

 不思議な時間だった。

 

 昨日までの自分からは非現実的としか思えない状態なのに、繋がっている実感が心地いい。動いていないのに、何か満たされている。もっともっと快楽を求めたい情動はあるけれど、それを押しとどめてステファニーの顔を眺めているだけで、胸の空虚な部分が埋められる心持がする。

 触れた肌の温度だけが、真実だった。

 

 

 ―――どれだけの時間が経過しただろう。

 長いこと動きを止めていた気もするし、息が落ち着くまでの数瞬であった気もする。

 

「ーーー動いて、大丈夫ですよ」

 

「いいのか。辛いのなら、まだ…」

 

 労るように問返せば、ステファニーは首を横に振った。

 

「痛いのは、たぶん痛いままなので…。

 だったら、せめて気持ち良くなってください」

 

「…わかった」

 

 キスをする。

 今日だけで何度キスをしただろうか。

 それでも、少しでも痛みが紛れてくれればと思う。

 

 ゆっくりと、動き始めた。

 奥を突く動き。引き抜く動き。

 稚拙にその動きを繰り返していくだけだというのに、膣内を往復する度に快楽の波が訪れる。

 

 ただ、時折ステファニーが痛みに耐えるように顔を顰める。

 男には理解できない痛みだ。

 耐えてくれ、なんて酷い言葉は口に出せなくて、せめて紛らわせればと胸に手を伸ばす。

 掌で乳房を揉む。秘部に手を遣って、その小さな雌蕊を指の腹で撫でる。

 稚拙な愛撫であったが、多少の効果はあったのか、口から洩れる息は痛みの中に甘い色を含む様になっていた。

 

 だが、そこまでだった。

 処女血を流す秘部が快楽を覚えるよりも先に、精液を吐き出そうという欲求が高まる。

 気遣っていた筈が、次第に動きは荒々しくなり、身勝手に快楽を求めて粘膜を擦らせる。

 

 息が、荒くなっていく。目蓋の裏に、恍惚の光が明滅する。

 限界など判らなくなって、ただ昇り詰めたいと腰の動きが早くなっていく。

 

「・・・っ、ステフ…ステフ…っ」

 

 打ち付け合う腰からは、ぐちゅぐちゅと湿った水音が大きく響く。

 互いの体温の熱に浮かされるようにして、まだ足りぬと快楽を貪る。

 

「だ、めぇっ…! こんなの、こんなの…っ」

 

 奥を突いた時に、ステファニーが嬌声をあげる。

 痛みではなく、何か別の感覚に戸惑うような声だった。

 反応を見ながら繰り返し突くと、そのまま耐えるようにしがみついてくる。

 

「っ… …痛くは、無いよね…?」

 

「うん…でも…っ!」

 

 水音が響くほどに、深く奥まで求めてしまう。

 痛みが薄れてきたのをいいことに、精を吐き出すことしか考えない動きで、膣内を蹂躙する。もはや遠慮など欠片もできなくなって、押しつぶすかのように肉襞を掻き分ける。

 繋がった場所が擦れるたびに、ステファニーは艶めかしく喘ぐ。

 

 ―――限界は、すぐに訪れた。

 

 体の奥底から達していく感覚を前に、彼女の唇に吸い付いた。

 それを呼び水にして、ドクドクと膣奥に精を吐き出す。

 

「―――ッ! ふ、ぁ―――」

 

 接吻で息を塞がれたステファニーは、肢体を強張らせていた。

 呼吸を奪いながらも、射精は止まらず、彼女の中に精液が撒かれていく。

 唇を離せば、荒い息が漏れた。

 

「―――はっ、はぁっ…」

 

 息が切れる。全てを吐き出して、心臓の鼓動が痛いくらいだ。

 

「…ん…っ。 終わった…んですよね」

 

「うん…」

 

 交わす言葉は、たどたどしくなってしまう。

 今更、妙な気恥ずかしさを覚えて、誤魔化すようにキスをする。

 

 まだ自分のモノは、彼女の中に収まったままで、精液と愛液に包まれる生暖かい気持ちよさに漂っている。昂りの後の余韻は、倦怠感にも似ていたが、どこか気持ち良い脱力となっている。

 

 ステファニーは、額に汗しながら、抱きしめてくれた。

 僅かな笑み。ただ、その笑みは、今ひと時だけ仮面を外した女の子のように思えて―――

 

 ―――繋がったままの姿勢で、そのまま、しばらくの間、余韻だけを感じていた。

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

 いつの間にか、眠っていたようだった。

 慌てて飛び起きようとして、右横に温もりを感じる。

 

「あ、起きました?」

 

 耳朶を叩く囁き声。先ほどの熱情と色欲の残り香を漂わせたまま、ステファニーはこちらを見詰めていた。彼女は右腕を枕にしながら、一糸まとわぬ姿のままで微笑んだ。

 

 その笑みは、どこか自然なものに感じられて。ぼんやりとした頭のまま唇に口付けた。

 軽く触れ合うだけの、ささやかなキス。

 

「・・・、・・・」

 

 何を言っても嘘になってしまう気がして、無言でキスをした。

 唇と、額に。それが何か物悲しくて、右手で彼女の髪に触れてみる。

 

 蘇芳色の髪を指で櫛梳れば、先ほどの乱れ様を思い出す。

 それが演技なのか、なんてことは些末事にしか思えなかった。

 

 ただ、自分は確かに十字架を背負ったのだろう。あるいは、首輪と鉄枷を己自身で嵌めたのだ。

 

「寝ないのかい」

 

「貴方の寝顔を見ていたんです」

 

 呼称が戻っている―――それだけだというのに、少し胸を突かれる。

 たった一晩の逢瀬、一度肌を重ねただけだというのに。驚くほどの愛惜の念が押し寄せる。

 男とは酷いモノだ、と自嘲的に思う。

 まるで女が手に入ったかのように錯覚し、独占欲めいた情欲さえ覚えるなどとは。

 

「・・・一つ、酷いコトを言っていいかい」

 

 許可を得る前に、言葉だけが喉から勝手に出ていく。

 

「ボクはキミが好きだ」

 

 無責任な、勝手な告白だった。

 意味など無くて、伝えたところで詮の無い言葉だった。

 

 何も守れない、空虚な響きの味がした。

 

「ごめん。―――ただ、今の本心だった」

 

「・・・ふふっ」

 

 寝台の上で寄り添っていても、互いの心なんて微塵も理解らない。

 それでも、ステファニーは困ったように微笑んでいた。

 呆れていたのだろうと、そう思った。

 

「今晩は、泊っていくのかい」

 

「ええ。どうせ、明日も朝からこちらのお屋敷に来る予定でしたから…。

 

 このままでも、いいのかな、って…」

 

 普段の姿からは想像もつかないような、ふにゃりとした声。

 眠いのだろうか。それとも、男の身では判らないが、女の体というものには大きな負担がかかっていたのだろうか。微睡みに落ちる前、純潔を散らしていた肢体を思い浮かべ、そっと背を撫でた。

 

「じゃあ―――明日の朝もいるんだね」

 

「ええ・・・」

 

 その返答に、安心してしまう自分がいる。

 このまま夢に落ちて、朝になって自分一人しかいない寝台を想像すると、胸がチクリと痛んだ。

 別に、彼女が手に入った訳でもないのに。

 

 

 ただ、明日起きた時には、彼女が側にいて。

 とても美味しい朝食を用意してくれるのだろうと。

 

 それを無条件に信じてしまう自分が居た。

 

 

 ―――そう、思ってしまった。

 

 

 

 

 

 to be continued…?

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーー

 





_(:3」∠)_



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Case:D Dangerous Dinner Dealer

短いです。
ドロシーさん顔出し回。
次くらいでアニメ本編に入れるといいなぁ…。





.

 

 

 最近、学食が美味くなった。

 

 と言っても、別に出てくる料理が豪華になったワケじゃない。

 ただ、なんというか…。料理が丁寧になった、気がする。

 

 日曜のご馳走(サンデーロースト)はともかく、普段の学食で出てくるのは殊更に豪勢なモンでもない。クイーンズ・メイフェア校が上流階級のお坊っちゃんお嬢ちゃんが多く通う学校でも、いつも晩餐会みたいな贅沢な食事を食べてるワケじゃないんだ。そりゃ、ロンドン下層に比べりゃはるかに上等なモンを食べてるんだけど…、…あそこと比較したら天国みたいだからね。

 

 それでも食堂のメニューは、基本的に似たようなモノの繰り返し、あるいは組合わせが変わるだけ。それが、普通だった。

 

 ところが最近、食堂で働いている人間が変わった。

 そうしたら、味が変わった。

 

 どこが、と聞かれると難しいんだけど、例えばグレイビーソース。付け合せの野菜。ベイクドビーンズ。そういった部分が良くなった。単純に肉の量が増えたとかじゃなくて、料理に手間暇をかけるようになったカンジだ。

 

 それから、今までお目にかからなかったようなメニューが出てくるようになった。ケジャリーだとかエッグロールとか…つまり、植民地由来の料理も時々出てくる。海外のメニューも時々出てきた。この間の夕食には『ブイヤベース』とかいう海産物のスープもあった。レパートリーが増えたから、出てくる料理の組み合わせも増えている。

 

 飯が美味くなるのに文句はない。胃に入れば一緒だとしても、マズいよりは美味い方がいいのは確かだ。

 

 問題は、校内で働く人間が増えた、ってこと。

 ーーー食堂に王国のスパイが入り込んだ、それは確かだ。

 

 

「人の動きが多いよなぁ…」

 

 屋上は、あたしのテリトリーだ。

 

 それは『タバコを吸うため』…という理由で、他の学生が近づくことがあれば睨みを利かせている。偽装(カバー)の一環で『不良』を演じているあたしに、わざわざ近づこうってお嬢さんは少ない。クイーンズ・メイフェア校に通うような子ってのは、基本的に中流階級以上の身分だ。ちょっと蓮っ葉で粗雑な商人の娘…というカバーストーリーは、人を遠ざけるのに便利なこともある。

 

 さておき、タバコの話だ。

 

 校内にも、喫煙者はいる。女学生には少ないが…男子学生の中にも、吸っているヤツは少なくない。そういうヤツは、匂いで判る。

 他にも、校内で働いている大人たちにも、喫煙者は少なくない。

 

 だが、最近、タバコを吸う人間が一人減った。

 

「・・・『爺さん』、どうしたんだろうな…。」

 

 学校の庭師をしていた男だ。庭以外にも清掃から何から…校内の雑用で使われていたような男で、白髪と髭がもじゃもじゃの爺さんだった。

 中々の愛煙家(ヘビースモーカー)で、校内でタバコを吸ってるところをよく見せていた。

 

 問題は、その爺さんが共和国側の連絡員だったって事だ。

 その爺さんが、ある日からパッタリと姿を見せなくなった。

 

 理由は推測がつく。急に増えだした王国の連中の所為だろう。

 クイーンズ・メイフェア校内は、既に共和国と王国の対立の縮図になってる。誰が味方で、誰が敵なのか、混沌とした情勢だ。

 

 『爺さん』も敵に感づかれて雲隠れしたのか、あるいは逃げ損ねて『消された』のか、それは判らない。けれど、王国側は一月ほどかけて着実に人員を増やしてきている。

 

 元々、メイフェア校は王国側の警戒が薄い拠点だったのだ。学長が内応者(モグラ)だから学校の生徒という形で容易に人員を投入できたし、立地が良いから亡命ルートとしても機能していた。

 それが、あっという間に他と同じ騙し合いの舞台になってしまった。

 

 もっとも、()()他と同じくらいの警戒レベルだ。今までの校内がザルだっただけ。

 連絡員は数を減らしたが、中に潜入している共和国スパイが捕まったワケじゃあない…。

 そういう意味では、状況はイーブンに戻っただけなのだ。

 

「つっても、コレはキッツイなぁ…」

 

 食堂で料理をしている人間、寮で清掃をしている人間、校舎に出入りしている商人。

 そういった連中が、いつどこで見張っているかも判らない。

 気の休まる時間は、確実に削られている。寮の自室以外では、常に気を張っている。

 

 …面倒なのは、入ってきた人員の全てが敵ではないことだ。

 

 『爺さん』と入れ替わるように庭師になった男…冴えない中年の男だった…は、一週間ほど観察したが怪しいところは見つからなかった。

 もちろん演技の可能性もある…が、今のところ、ただ後任になっただけの庭師だ。不審な点も、特に見えない。

 

 そういった「コイツが敵なのか、そうでないのか」の判定を、増えた人間一人ひとりにしないといけない。

 だから、問題は―――近頃、増えた人間が多すぎる、ということに尽きるのだ。

 全てを疑わねばならず、それには時間も手間もかかりすぎる。

 

 あたしは、一人虚空に向かって溜息を吐きーーー。

 

 

「・・・おっと、失礼。まさか先客が居るとは思わなかったな」

 

 突然かけられた声に、バッと振り向く。

 そこには、一人の男が立っていた。

 

 クロフォード卿。

 短く清潔感のある黄梔子色(ガーデニア)の髪、瞳の色は晴天青(ブルースカイブルー)。背は高くないが、それがどこか柔和な雰囲気を漂わせている男。学校内でも女学生に人気の高い、少し前に学校に来た先生である。

 

「ん…? あれ、先生も吸うんです?」

 

 あたしは、擬装用のタバコを手にして、近づいてきたクロフォード卿に悪びれた笑顔で話しかける。同時に、嫌な汗が背を伝った。

 

 屋上だから、と気を抜いていた自覚は無い。学生が無邪気に屋上へ近づいてくれば、タバコをふかして『不良』の演技を先んじて出来ていただろう。

 

 一手、遅れをとった。その嫌な予感を、『不良の女学生』というカバーで隠す。

 

「葉巻を、少しだけね。付き合いで吸っていたんだが、いつの間にか癖になってしまった」

 

 クロフォード卿はシガーケースを懐から取り出すと、葉巻を口に咥えた。火を点けて、煙を吹きだす。銘柄は…『巌窟王(モンテクリスト)』か。甘い香りが、こちらにまで漂ってくる。

 それを見て、あたしも自分の紙巻きに火を点ける。

 

「へぇ…。その割には、あんまり吸ってるの見た覚えがないけど」

 

「先生だからね、あまり生徒の前で堂々とは吸えないだろう?」

 

 ニコリ、とこちらに微笑むクロフォード卿。

 その笑みはごく自然なもので…だからこそ、怪しく見える。

 

 そう、この男は怪しい。

 どこが、というか全部が怪しい。

 

 伯爵なのに急に学校へ教師としてやってきたのも怪しいし、図書館に自分の部屋を持ってコソコソと活動しているのも怪しい。・・・少し考えれば、怪しさの塊である。

 

 その癖、本職のスパイには見えない。立ち居振る舞いは訓練されたスパイの物ではないし、スパイの偽装(カバー)にしては派手に目立ちすぎている…『伯爵様の我儘』で、図書館の蔵書は増えたし、食堂も改善されたともっぱらの噂である。

 

「・・・そういえば、食堂が美味しくなったって評判だけど」

 

「ああ、学長を説得してね。伝手を頼って、腕の良い料理人を何人か斡旋してもらったんだ」

 

 それが、何か?とでもいうような、平然とした声。軽く微笑んだままの顔。

 

 正直、あたしはこの先生が苦手だ。これ以上なく疑われるような挙動をしながら、これっぽっちも怪しくありませんよーと主張するように平然と笑うのだ。

 

 これで本当にスパイだったら「あー、やっぱりなー」と納得できるのだが、いくら観察しても彼がやったのは蔵書を増やしたことと、食堂の改善くらいである。食堂の人員にスパイが紛れ込んだのは間違いないのだが、それがこの伯爵の差し金なのか、これが判らない。単に、美味しい料理が食べたかった、とかそんな理由で踊らされた可能性もある。

 

 つまり、ものすごーく疑わしいのだが、残念ながらクロフォード卿は現時点で『灰色(グレー)』だ。

 黒と言い切りたいのだが、まだ尻尾を出していない。

 

 曖昧に笑いながら、あたしは吸いたくもないタバコを口に咥えた。

 

 

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

 ボクは、煙草をあまり吸わない。

 食事の味が判らなくなるからだ。

 

 何度も吸ったことはある。王宮内には愛煙家が多い。葉巻(シガー)にパイプ、嗅ぎ煙草(スナッフ)。そういった物の愛好家との社交として、付き合いとして用いる分には、便利な小道具なのだ。

 王宮内では、ボクは若輩者だ。基本的に相手は年上、社交といっても顔を覚えてもらう所から始まり、『まだ若いがそれなりの青年』くらいの立ち位置を確保しなくてはならない。個人としては酒に拘りは無いが、相手がワイン好きならどういったワインが好みなのかを知っていた方が便利だし、葉巻を吸う相手ならご相伴に預かるのも社交の一つだ。

 社交とは、相手に合わせるものだ。

 

 だから、ボクが七つも年下の子と煙草を吸うのは、初めての経験だった。

 

 今、ボクの隣で紙巻き煙草に火を点けたのは、ドロシーという娘だ。

 

 彼女はいわゆる『不良』という生徒らしい。教頭や寮監が頭を悩ませているという話も聞こえてきていたし、こうして屋上で煙草を咥えている様子を見ると、『あんまりに跳ねっ返りなので、商家の旦那が嫁入り前に礼儀作法を習わせるため、無理矢理にクイーンズ・メイフェア校に入学させた』という話も分かるというものだ。

 

「他の先生は、屋上に吸いに来たりはするのかな?」

 

「ん? …いや、来たのは先生が初めてかな。他の先生は、他所で吸ってるんじゃないか?」

 

 貴族の子弟が多い学校にあって、彼女の話し方は少し砕けている。大人びた顔立ちに、恵まれた体格。切れ上がった凛々しい目つきに、数歳は年上といっても通じそうな女性らしさ。不良のレッテルを張られてはいるが、その実、男女問わず人気があるらしい。(これは『校内の恋愛相談窓口』で聞いたから間違いない)ルパート卿のご子息からは、どうやって恋文を書けばいいのだろうか…なんてナイーブに過ぎる相談までされてしまった。

 

 鳶色(オーバーン)の腰上まで届く長髪に、煙紫色(ヘイジーパープル)の瞳。上背のある美人といった雰囲気で、なるほど、横でエスコートするなら彼女より背の高い落ち着いた紳士でなくては、と思わせる容姿。少なくともボクだと背丈の関係でバランスがよくない。

 これでまだ学生だというのだから、父親である商家の旦那さんの危惧もむべなるかな。下手な貴婦人よりも大人びていて、着飾れば社交界の華間違いなしだろう。

 

(最近の若い子は大人びていているんだなぁ…)

 

 葉巻をふかしながら、七つほど年下の彼女を観察する。

 あまり生徒をそういう目で見るのは良くないが、近頃の子は栄養状態がいいのだろうか。こちらが気後れしてしまうくらい、肉付きの良い体格をしている。

 

「・・・なに? あたしの顔になんか付いてる?」

 

 視線を不審に思われたのか、むっとした表情で訊ねられた。

 苦笑して、思ったことを口に出す。

 

「いや、吸っている姿が様になってると思ってね…。

 なるほど、他の娘たちが遠巻きにするわけだと納得したのさ」

 

「はぁ…?」

 

 疑問符を浮かべる彼女だが、その疑問に応えるには『恋愛相談窓口』で聞いた話を喋らなくてはならない。

 

 『ドロシー先輩って、ちょっと怖いけど、そこが孤高っぽくてカッコいいんですよね…!』『そーそー! 背も高くて美人で、胸も大きくて包容力ーってカンジだし!』『あの方は不良と呼ばれておりますけれど、お話しますと気さくな方で、その気風の良さが「お姉さま」って感じですの…教師や大人の評価を気にもとめない、磊落なところなんて、ああ、なんて凛々しい方なんでしょう…!』……などと、褒めそやす声が幾つもあったのである。しかも、ドロシーより年少の下級生の女学生から、である。

 

 もっとも、当人には伝わっていないようだが。

 ボクも相談内容を無碍にしたいとは思わない。わざわざ下級生の憧れを伝えてしまうのも無粋なので、黙って紫煙を口から吐き出す。

 

 容姿から判断すれば男性の目を惹くのは判る。

 だが、年下の同性から陰で「お姉さま」と呼ばれるのは、中々に珍しい。

 それで、少し興味が湧いて、屋上(ここ)まで来てみた訳だけれど…。

 

(たしかに、「お姉さま」だな。これは)

 

 内心で独りごちる。

 校内の男子生徒では、とても彼女と釣り合いが取れまい。それこそ、ノルマンディー公のような老紳士の横に立っているほうが様になるだろう。

 

 

「ーーーあまり授業はサボらないように。教頭が、また反省文を書かせるぞーって言ってたからね」

 

「げっ。こないだ書いたばっかりなんだけどなぁ…」

 

 先生らしく小言を言ってみせると、ドロシーは渋面を作って嫌そうにする。

 それから、少し笑い合って、束の間の喫煙を共にした。

 

 

 ーーーそれが、ボクとドロシーの初対面(ファーストコンタクト)

 ロンドンには珍しいくらいの快晴の、気持ちのいい日のこと。

 

 数日後、互いに思いもよらない場所で鉢合わせすることになるのを、まだ知らない時のことだった。

 

 

 

 

ーーーーーーーーーー

 

(余談)

 

 

レスター『学長! 食堂を改善しようと思うのですが…』

 

学長『また君か…今度はなんだね?』

 

レスター『いやあ、この学園は優秀であれば身分を問わずに学生を受け入れているじゃないですか。

     だから学期途中の転校生も多いですし、植民地出身の学生もいる訳で」

 

学長『(ギクッ!)』

 

レスター『ですから、植民地出身のメニューを時々提供するとか、そういう変化があってもいいと思うんですよ。その他にも、海外のメニューを部分的に取り入れるとかしてですね、世界に羽ばたく人材を育てるために食の多様性を生徒たちに伝えられたらな、と。

 

 学長も、我が国が大陸諸国から『アルビオンの料理はマズい』と馬鹿にされてるのをご存じでしょう? そのイメージを払拭するには、まずは学校の食堂から改善していかなくちゃと思うんですよ!(熱弁)』

 

 

 

学長(頑なに拒めば疑いの目が向く。…あまりに多くの学生を転校生として入学させたのを感づかれたか…)

 

学長「ええで」

 

レスター「やったあ!」

 

 

ノルマンディー公「よし、王国のスパイを増員するぞ。これで校内の監視網が確立するな」

 

L「事前連絡を受けていたので、連絡員は一端撤退済み。問題はない。

  先回りして料理人のスパイ(ニキ from プリGOM)を食堂内に紛れ込ませておくぞ」

 

 

 

 

レスター「やったぜ」(美味しい食事が出てくるようになったため)

 

ドロシー「この先生、めっちゃ怪しいんだけど」

 

ステフ「このケジャリー今度お屋敷で作ってみよう」

 

 

 

 

・・・というワケで、この時空ではニキさんが食堂に潜入しています。たぶん出番は無い。

やったねニキちゃん! 悪徳富豪の厨房から脱出できたよ!(周りの料理人は王国スパイな模様)

 

 王国の介入が強まるのは確定事項なので、共和国視点でも捕まりそうな連絡員は逃がせたし、食堂にも共和国スパイを追加で潜り込ませたから次善策として悪くない。

 

 王国側からすると、ちょっと怪しい学長を押し切って王国スパイの配置数を純増している形。学長にも圧力をかけて、このまま学内の統治に口を出していく下準備になる。

 

 ・・・めんどくさいな二重スパイ…。

 

 

 

 



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Case:A Ain't no sunshine , when Angel's gone

アニメ本編の2話に入ります。

アンジェさんとプリンセスを動かすの難しいですね…。




「―――シャーロット様。今、何と…?」

 

 舞踏会の喧騒が、レスターの耳には聞こえなくなる。

 頭上で輝くシャンデリアの煌々とした明かりも、人々の囁き声も、全てが遠く感じられた。

 

 口の中が乾く。心臓が早鐘のように打つ。思考だけが冴えていき、目の前のただ一人しか見えなくなる。

 

「もう一度だけ言うわ、クロフォード卿。……黙って見ていて頂戴」

 

 その声色は、優しい口調にも関わらず、どこか冷たく響いた。

 

 流れる金糸の如き長髪、誰もが目を奪われる白皙の微笑み。ただ、瑠璃青(ラピスラズリ)の瞳だけが覚悟の光を宿していた。恐ろしいまでに、心と魂の全てを賭けてしまったような、決意の色。

 

「ただ、この場で黙っていれば。何も言わずにいれば。それで良いの」

 

 眩暈がした。

 許されるならば、この場で叫んでしまいたかった。

 しかし、それはできないのだ。何よりも、己の主からの命令である故に。

 

「―――はっ。それが、主命であれば、仰せのままに」

 

 レスター・リンジー=クロフォードは、それ以上何も言わず、沈黙のみを答えとした。

 

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

 クイーンズ・メイフェア校に、転校生がやってきた。

 

 アンジェ・ル・カレと名乗る少女は、インコグニア出身でありながら抜群の成績を修め、晴れてこの学校に特待生としての入学を認められた―――というのが、共和国スパイであるアンジェの偽装(カバー)である。

 

「それで、プリンセスの周囲で気を付けるのは、まず衛兵。次に、ベアトリス」

 

 アンジェは、指を折って障害を数え上げていく。

 ドロシーと共にメイフェア校に潜入した彼女は、『チェンジリング作戦』と呼称される秘密作戦の要員である。否、チェンジリング作戦の核心そのもの、と言って過言ではない。

 

 王国の継承権第四位の王女と、共和国のスパイを入れ替える(チェンジリング)という荒唐無稽な作戦は、しかし防衛委員会に承認され、実施されることになったのだ。

 その『入れ替わり』という密命を帯びるのが、アンジェという少女である。

 

「プリンセスの傍にいる衛兵は近衛歩兵連隊(グレナディアガーズ)の連中だな。叩き上げの連中だが、政治色は薄い…。護衛としては優秀、腕っぷしは強いだろうが、諜報とかに特化した人員はいない筈だ」

 

 ドロシーは、横で思考するアンジェに補足をする。先に潜入していたドロシーの方が、校内の事情については詳しい。この場面だけを切り取れば、転入生に学校のことを教えてやっている先輩学生…に見えなくもない。衛兵の配置、プリンセスが茶会を開く庭園とその時刻。衛兵の編成と交代の頻度、警護が手薄になるタイミング、そういった情報を伝えていく。

 

「・・・校内でいきなり接触するのは、厳しいわね」

 

「ああ。衛兵がべったり張り付いていない時は、あのベアトリスって子がぴったりと側に控えてる。両方が離れて、周囲にも誰も居ないなんて時間は…登校から下校まで、ほぼ皆無だ」

 

 王国とて無能ではない。王女の警備は、昼も夜も隙というものが無い。

 ・・・その割には学園全体の警備体制は若干ザルなのだが。共和国のスパイが複数名入り込んでいる現状を見るに、あえて弱い部分を晒しているようにさえ思える。

 

「隙を見せて、共和国の強硬派が『暴走』するのを誘っている―――のかしら」

 

 プリンセスは、王女とはいえ王位継承権は第四位だ。

 仮に暗殺されたとしても―――王家の屋台骨が揺らぐわけではない。むしろ、卑怯卑劣な手段を採った共和国を糾弾し、王国民に結束と打倒を呼びかけ、愛らしく優しかったプリンセスの無念を晴らせ、ヤツらに復讐をせよ―――と、盛んに世論戦(プロパガンダ)が行われるだろう。

 その点で、プリンセスの周囲に最低限の衛兵しか配置されいない状況は、そのものが悪辣な罠とも言えた。

 

 

「王女と接触するなら、学校外ね。校内で『荒事』をすれば感づかれる」

 

「同意だよ…。全く、少し前まではもっと警備もザルだったんだが、最近は校内の警備も厳しくなってきた」

 

 うんざりとした表情で、ドロシーが首肯する。

 タイミングを考えると、どこかでチェンジリング作戦が漏れてるのでは?と疑いたくなるくらいに的確に警戒の輪が広げられている。

 

 

「―――っと、来たぞ。アレがクロフォード卿だ」

 

 ドロシーが呟く。視線の先には、女学生と歩きながら談笑している青年の姿がある。

 

 女学生に囲まれて少し困ったように微笑む姿は、教壇や図書館で見せる姿と変わらない。ややもすれば、無邪気さにも似た表情で、生徒の言葉に笑ったり困ったり、ちょっと怒って見せたりしている。遠目に眺める限りは、育ちの良さが滲み出る好青年という印象しか与えない、そんな男だ。

 

「レスター・リンジー=クロフォード伯爵。王宮内に出入りしている伯爵で、この学校の教師であり図書館の主でもある。・・・正直、コイツは読めない。状況証拠から言えば『黒』 だけど尻尾の一つも出しゃしない。裏でノルマンディー公とも繋がってる…と思うんだが…」

 

 ドロシーの言葉は、歯切れが悪い。

 共和国諜報部(コントロール)でも、二重スパイについての情報は秘匿事項だ。現場のスパイには、常に必要最低限の情報しか与えられない。

 ドロシーはレスターをスパイではないかと疑っている…が、充分な証拠がない。コントロールもドロシーに情報を与えていない。コントロールはレスターが二重スパイであることを承知しているが、必要な要員以外にはその情報は伏せている。レスターについての正確な秘匿情報(プロファイル)を知っている学生スパイは、現時点では連絡役であるステファニーだけである。

 

「ーーー教師としては優秀、生徒からも好かれてる…が、アイツが来てから学内の警備体制が厳重になった」

 

 げんなりとした声で呟くドロシーの心配は実のところ杞憂なのだが、現場では全てが『灰色』である。要警戒対象に分類される以上、この時点でのドロシーの警戒は正しい判断であった。

 

「あの年で、伯爵家の当主?」

 

「ああ…。先代はロンドン革命の時に殺されてる。両親とも王宮付きだったとかで、最後まで国王陛下を守ろうとしてた…ってさ。その親の忠勤が認められて、あの年で若い貴族の中では出世頭になってる」

 

「・・・そう」

 

 アンジェは、感情の無い声で呟いた。

 クロフォード伯爵夫人は王室子息の教育係、伯爵も文官として国王の側仕えをしていた筈だ。ロンドン革命のあの日も、二人とも王宮内にいたのだろう。そして、革命を叫び雪崩れ込む人々に殺されたのだろう。―――それは、アンジェにとって予想のできることだった。

 

「現時点では不確定要素の塊。チェンジリング作戦を進めるなら、こいつについては裏をとらなくちゃならないな…

 

 ―――って、おい!」

 

 突然、アンジェは立ち上がると、一人で歩き始めてしまった。

 その先には、並木道を歩くクロフォードと生徒の姿がある。

 

「なら、確認すればいい。それだけよ」

 

「確認するって…ああ、もう!」

 

 アンジェは言葉少なに言い捨てると、そのまま歩いて行ってしまった。『牧場(ファーム)』以来の腐れ縁とはいえ、ドロシーはアンジェに振り回されっぱなしだ。それでいて優秀だからタチが悪い。ぶっきら棒に説明もしないくせ、成果だけは十二分に上げるのがアンジェという女なのだ。

 

 まったくあいつは…! と内心でボヤきつつ、ドロシーもその後を追うのだった。

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

 その日は、日差しが眩しかった。

 

 午後のお茶(アフタヌーンティー)には最適の日。風もなく、動いていれば軽く汗ばむような陽気だった。

 

「じゃーねー、せんせー! また明日ーっ!」

 

「うん、また明日」

 

 軽い雑談をしていた女生徒と、並木道の途中で別れた。

 レスターは図書館へ、女生徒は寮へと向かっていく。

 

 メイフェア校は上流階級の子女が多いとはいっても、全ての子がお淑やかで大人しい気質という訳ではない。当然だが、元気いっぱいの子もいれば、友達とお喋りして笑い合うのが好きな子もいる。今しがた別れた子はまさにそういったタイプの子だった。帰り道で少し一緒に歩いていただけなのに、くるくると回って見せたり、鈴のように笑って表情をコロコロと変えたり、快活な娘だった。

 

 お嬢様と呼ぶには少々お転婆めいているが、裏表の無い明るさというのは話していても気持ちの良いものだ。―――裏の世界に関わるようになって、そう強く思う。

 ―――あの子もひょっとしたらスパイじゃないか…などと益体のない思考が脳裏をよぎってしまう。そんな物騒な思考をしてしまう臆病な自分を自嘲して、顔には出さずに歩く。

 日差しにあてられたか、若い学生と話して疲れたか。妙に頭がぼんやりとしていた。

 

「っ…。ーーーあ、あのっ!」

 

 後ろから、急に大声で呼び止められた。

 レスターは、何の気なしに振り返ってーーー。

 

 

 眩暈がした。

 

「あのっ・・・あ、アンジェですっ!」

 

 並木道を追いかけてきたと思しき少女は、開口一番に名乗った。

 灰色(アッシュ)の髪色。もじもじと恥じらっている姿は、気弱そうな印象を与える。発音はどこか訛りを感じさせて、それを無理に矯正しているような響きがあった。

 眼鏡の奥の瞳は澄んだ青色で、綺麗な色をしている。

 

「ーーーーキミは」

 

 一瞬、眩暈がしたような気がした。

 

 日差しの所為ではない。なにか強烈な既視感(デジャブ)

 今まで出会ったことのない人間だというのに、無意識のどこかが活発に警鐘を鳴らしている。恐ろしく大切な情報が目に入っている筈なのに、それが何を意味しているのかが理解らない違和感。

 

 同時に、記憶に深く刻まれた情報が混濁していく未視感(ジャメビュ)

 背丈、顔の輪郭、瞳の色。既に情報は出揃っていて常日頃からそれが『誰か』を判別しているのに、その『答え』を見失う。完全に同じモノを認識していたはずなのに、目の前にいる人物の名前を呼ぼうとして混乱する。

 

 レスターは、自分自身に混乱していた。

 …自分は、目の前の少女を何と呼ぼうとしたのだろう?

 アンジェ、と。聞き覚えのある名前を名乗ったというのに。

 

「―――。―――もしかして、キミが転校生かな?」

 

 無理矢理に継いだ言葉は、そんな問いとなった。

 

 学内では見たことがない顔だ。登下校時に生徒を一通り観察してきたが、その中に少女が存在していた記憶がない。もし少女が存在していたのなら、レスターもこれほどまでに強烈な違和を感じていないだろう。

 ……たしか、職員会議で話が出ていたな。インコグニアから成績優秀な生徒が転校してくる、と。頭の中の冷静な部分が、半ば無意識に推論を導き出す。

 

「はいっ。昨日、転校してきて、今日が初登校でしたっ」

 

 アンジェと名乗った少女のはにかんだ笑顔は可愛らしく、表情は純朴そのもの。都会(ロンドン)育ちがあまり見せない、素直さというか純粋さというか…「私、今少し緊張しています」と表情に出しながら、愛想笑いを浮かべている。

 

「レスター。レスター・リンジー=クロフォードだ。

 ……一応、『校内の相談窓口』なんて呼ばれているよ」

 

「知ってます! クラスメイトが、『困ったら相談に行くといい』って言ってました!」

 

 明るい声だ。都会人が聞けば「可愛い子ぶってる」と思ってしまうような、邪気の無い声色。

 田舎と都会の違いを感じさせるように、どこか初対面だというのに距離感の近い話し方。

 そんな近しい話し方をする人間を知らないのに、未知の既視感で思考がざわめいていく。

 

()()()()()―――で良いかな。たしか、授業では会っていなかったね」

 

「はい…。まだ先生の授業は受けてなかったです。修辞学と外国語の授業は時間割に入ってたと思うんですけど」

 

 話しながら、図書館への道を連れ立って歩く。

 

 メイフェア校の図書館は立派だが、学生寮とは校舎を挟んで反対側の敷地にある。先程まで同道していた女生徒のように、並木道の途中までは学生と同じ道を歩くのだが、寮に帰る生徒とは途中で道が分かれるのだ。ゆえに、放課後は学生寮までの道は帰路につく生徒で賑やかになるが、反面、図書館までの小道は人もまばらで静かなものだ。

 

「図書館に用事かい? それとも、何か相談でも?」

 

「両方…でしょうか。あたし、まだ校内のこととかわかってなくて…」

 

 些細な会話で間を継ぎながら、図書館の前まで歩いていく。

 …レスターの脳内は、平静を装うだけで精一杯だった。

 ありえない予感。あってはならない現実。

 

 けれど、それが唯一解であるのなら…どれほど心の中で願っていた答えだろう。同時に、そんな事実は絶対に認められない、あってはならない妄想だと反論する己もいる。

 

(確認を、しなくては…)

 

 恐ろしい難題だ。自分が二重スパイであることがバレたら死ぬ―――()()()()()()()()()

 敬愛する姫の生死に直結する予感、自分の過失によって主君に累が及ぶ、という恐怖だ。

 

 レスター・リンジー=クロフォードは自分自身の命を理想に(なげう)っているが、それは己の意志による行動であって、誰に命じられた訳ではない。失敗したらレスター自身は犬死だが、その失敗では誰も責任を問われない。馬鹿な伯爵が、勝手にやった行動だからだ。

 だが、今、レスターの横を歩いている少女―――アンジェの正体が、レスターの『妄想』と寸分違わず一致してしまったら…。少なからず、プリンセスに影響が出る。

 この少女と、プリンセスと、どちらもが無事の未来は、レスターには見えなかった。

 

「―――見えてきたね。あの建物が、学校の図書館だ…立派な物だろう? ロンドン革命でも火に焼かれなかったから、古い蔵書も無事に守られた。王国で最も古い図書館の一つだよ」

 

「わぁ…っ!」

 

 『学校の図書館』という名前よりも重厚な建物が、木々の間から見えてくる。

 三百年の歴史と数万を超える蔵書。五様式の塔に翼廊までを備えた豪奢な建物は、あのロンドン革命の災禍からも所蔵品を守り抜いた。多くの書物が焼かれ、芸術品や歴史的な文物が失われた時代にあって、この建物は傷一つつくことなく変わらぬ姿を保っていた。

 

「キミは―――どんな本を読むのかな」

 

 レスターは、恐る恐る探りを入れる。

 

「いや、どことなく本が好きそうな印象がしたからね。・・・最近は、ここの学生にはジョセフ・マーロウ氏の推理小説が人気でね。知っているかい? 『藍色の研究』とか…巷で人気の名探偵が活躍するシリーズで、ボクも好きなんだ。最新刊は『空き家の冒険』…という題名(タイトル)だったのだけれど…知っているかな?」

 

「うーん…。読書は好きなんですけど…」

 

 アンジェは、言葉を濁しながら苦笑する。

 

「・・・やっぱり、インコグニアの実家だとロンドンの流行とかにはあんまり縁が無くて…。

 …面白い小説なんですか?」

 

「勿論。当代一だと太鼓判を押せるとも。興味があったら、借りていくといい。・・・そうだね。推理小説(ミステリ)だから、あんまり作品内容に言及できないけれど…面白いのは保証できるよ」

 

 レスターは、言葉を継いだ。

 

「キミが作品のトリックや秘密を口外するのを気にする人でなければ、どういう話なのかを説明してもいいのだけれど…。ほら、熱心な推理小説の愛好家には、作品の核心となる謎が暴かれるのを嫌うというか、秘密を秘密のままにしたい人も多いからね…。密室トリックの中身だとか、誰が真犯人だとか、事件の黒幕は誰だ、とか…」

 

「・・・()()()()()()()()()()()()()()()()?」 

 

「―――そうだね、その通り。『まだらの帯』事件では、密室と双子のトリックが秀逸だった…。…って、ごめんね、未読者の前で種を話してはダメだよね」

 

 レスターは苦笑して謝り、アンジェは大丈夫ですよ、と優しく微笑む。

 

「この間の最新刊は、久しぶりの新刊でね。…その前には、『名探偵最後の事件』があったんだけど…そこで、主役の名探偵が、なんと敵役の悪者と相打ちになって、滝壺に落ちて死んでしまっていたんだよ」

 

「し、死んじゃったんですか…? でも、じゃあ、続編は出せないですよね…?」

 

「うん。助手役の人物による過去回想という形式で、何編かの短編は出ていたのだけれど―――

 新作長編は、主人公が死んでしまったから、出ていなかったんだよ」

 

 だけど、と。

 

「今回の最新刊で、なんと『()()()()()()()()()()()

 

 死んだと思っていたのはトリックで、実は生きていて戻ってきたんだ。新聞(タイムス)にも載って、ロンドンはちょっとしたお祭り騒ぎになったんだよ」

 

「そんなことが、あったんですね…」

 

「うん。ボクも、名探偵の復活は嬉しかったよ―――作中では、何年もの時間が経っていたのだけれど…あれ、滝壺の事件からは何年後だったかな…」

 

「―――。きっと、十年ぶりじゃないですか」

 

「そうだったかな。いや、そうだった。十年だ。名探偵がいなくなって、寂しく思っていたボクみたいな読者は、久しぶりに生きて戻ってきた名探偵を歓迎して出迎えた訳だよ」

 

 

 そんな雑談の遣り取りで、疑惑を確信へと変えていく。

 レスターはギリギリの精神で図書館に辿り着くと、自らの図書司書室へアンジェを招き入れた。

 

「ここがボクの部屋…というか、司書室だね。

 今は『相談室』なんて呼ぶ生徒もいて、時々悩みを持った子が相談に来たりしているんだ」

 

 問われもしない事項を、口が勝手に喋りだす。

 誤魔化すように、言い訳をするように。

 当たり障りの無い話題で時間を稼ぐ。

 

 図書司書室は広くない。今、この部屋にいるのは二人だけだ。

 

 隣の小部屋には、今日はステファニーは来ていない…筈だ。

 レスターは無言で小部屋に繋がる扉を開ける。閉架には誰もいない。

 

 共和国側のスパイで此処に出入りしているのはステファニーだけだ。彼女がいなければ、おそらく共和国側のスパイには話が漏れることはない。

 

 次、窓の外を見る。監視の有無は判らない。目視範囲では誰もいないように見える…カーテンを閉めるか、否か。

 

 王国側のスパイは、学校内のあらゆる場所に潜んでいる。そうしたのはレスター本人だ。どこの高台から遠見で監視されているかも判らない。

 ・・・今日は日差しが強い。手で眩しさを堪えるようにしつつ、レスターはカーテンを閉めた。

 

 その様子を、アンジェは戸惑うように眺めていた。

 眼鏡の奥で、瑠璃青(ラピスラズリ)の瞳が揺れている。

 

 

「それで、相談は何かな…。この部屋の中で聞いた内容については、生徒からの相談ならボクは誰にも言わないから安心してくれ。

 

 少なくとも、ボクはキミにどんな相談をされても、それを言い触らしたりはしない。

 ―――信じてくれるかな?」

 

「はいっ! …といっても、大した話じゃないんですけど…」 

 

 アンジェの言葉は、レスターの動きに中断させられた。

 

 レスターが、アンジェの前で跪いていたからだ。

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

「ーーー転校してきて、やっぱり、困ったことも多いのかな」

 

 目の前で、その男は喋り続けた。

 跪いたままで、だ。

 

 それは、酷く奇妙な光景だった。

 

 左脚を前に出し、右膝を床につける。

 頭を垂れて、顔を伏せる。騎士の礼だ。

 田舎出身の女学生の前に、伯爵が傅いている。

 

 逡巡は一瞬。

 『インコグニア出身のアンジェ・ル・カレ』ならば、慌てふためいて動揺し、『えっ、ど、どうしたんですか!?』と叫んでしまうだろう。

 

 …けれど。

 

「そう…ですね。ちょっと、アルビオン()()では、慣れないこともたくさんあって…。それで、相談できたらなって」

 

「うん。…この学校にも色々な生徒がいるからね。門戸を広げているから、世界各地の出身の子がいるけれど…。どうしても王国民の子が多いから、少し()()()()()()()にはキツくあたる生徒もいるからね…」

 

 歪な会話だ。

 まるで何もなかったかのように、男は喋る。

 

「ーーー最近は、少しづつ変えようとしているんだけどね。ボクが相談室を開いているのも、学食に新しくコックを雇ったのも…自慢じゃないけど、ボクがやってみたことだ」

 

「それは、学校のため…ですか?

 それとも先生自身のため?」

 

「いや…。強いて言うなら、みんなのためだった。

 

 けど、今日キミに会って思ったよ。

 きっと、()()()()()()()()()()()やっていたんだ、ってね」

 

 どこかチグハグな会話。

 一聴すると意味が通るのに、どこか噛み合っていない。

 

「先生は、()()()()()()()()()の味方になってくれますか…?

 クラスでも、わたしを快く思わない人も多いみたいで…」

 

 偽装(カバー)の演技のままで、アンジェは目の前で礼を捧げている男に問いかける。

 

「…勿論。教師に着任したのは少し前…()()()()()に言われるままに始めた仕事だったけど、今はやりがいを感じていてね。できるなら、()()()()()()()()()()、と思っているよ」

 

「それが、本当なら…少し、()()()()()()()()()んですけど」

 

 いいですか…? と、しゃがみこんで、伯爵と目を合わせる。

 

 ・・・彼は、泣いていた。

 声に出さず、平静を装いながら。僅かに震えて泣いている。

 

「ーーー先生にしか、相談できないことがあるんです」

 

 スパイ(アンジェ)は、笑顔のまま告げる。

 互いに何も伝えないまま、意図だけを渡していく。

 

 

「実は今夜、舞踏会に行かなくちゃいけないんですけど…」

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 





・・・色々書いていて考えているんですが、プリンセス周辺の警備の薄さとか第五話の一件とかを考えていると、プリンセスがうっかり殺されたら『諸君らが愛してくれたプリンセス・シャーロットは死んだ!何故だ!』とノルマンディー公が国葬の会場で演説するんじゃないかなーみたいな妄想をします。プリンセス周辺、殺意がちょっと高すぎる。


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Case:B stand By you

祝! プリンセス・プリンシパル全十二話再放送決定!




.

 

 ―――その夜。外務卿主催の舞踏会には、各国の外交官や大使が集まっていた。

 

 欧州のみならず、東はロシアから西は新大陸まで。呼ばれている人間も上流階級の人間ばかりだ。今、この会場内は世界の社交の中心と言える状態だった。ここで交わされる会話一つで、どこかの国の外交施策が左右され、海の向こうで巨額の投資が動き、時には陰謀の糸が張り巡らされる。

 

 アルビオンの東西対立だけではない、世界の動向の縮図。

 それが、この舞踏会の裏側で繰り広げられているのだ。

 

 顔見知りの外交官は、ブルグント王国の官僚と別室に入っていった。聞こえてくる言葉はアルビオン語だけではない。左耳に入ってくるのはイベリア語だし、右耳に入ってくるのは東カロリング語だ。欧州で話されている言語の大半は、この会場内で交わされているのではないか。アルビオン語でさえ、ウェールズからインコグニア訛りまで様々な発音が聞こえてくる。

 

 華やかな音楽を流しているのは、この会場に設置された自動音楽演奏機械(オーケストリオン)。鍵盤、弦楽、打楽器に至るまで全てを自動で演奏するができるそれは、精巧な絡繰細工の極致といえる代物だ。記録紙に打穴された楽譜を読み取り、演奏者なしであらゆる楽曲をひとりでに演奏する機会である。これほど大型のものになれば、下手な屋敷と同じくらいの値段がつくだろう。

 

 各国から客を招待しているだけあり、贅の凝らされた華やかな舞踏会である。

 

「―――ああ、すまないが、ワインを貰えるかな?」

 

 レスターは、舞踏会の片隅でグラスワインを受け取っていた。

 それから、別室に行くと、葉巻を取り出して火を点けた。

 

(もう慣れたとはいえ、あまり人が多いのは好きではないんだよなぁ…)

 

 愛想笑いも、社交辞令も、咄嗟の冗句も、全て身につけてきた。海千山千の政治家を幼い時から見てきたレスターにとって、社交という戦場での振る舞いの重要性は身に染みている。誰もが笑顔で本音を隠し、握手をしている逆の手で弱みを握っているのだ。

 場の華やかさとは裏腹に、ここは互いに抜身の剣を突きつけ合うような修羅場である。

 ―――端的に言って、疲れるのだ。本音を言えば、ゆっくり屋敷で夕食(ディナー)を食べていたかった。

 

 だが。

 

 今のレスターには『生徒からのお願い』を果たす、という理由があるのだった。ワインを飲み干し、葉巻を吸い、震えそうな手と強張る表情を何とかする。……まだ何も動いていないというのに、心臓が張り裂けそうだ。

 

『ーーーシャーロット様が、生きていた』

 

 その事実を目の前で見たときから、本音を言えば大声で泣き叫んでしまいたかった。まさか、と思った。信じられない、と思った。それでも、あの瑠璃青の瞳は、紛れもなく十年前の姫様のものだった。

 

 それを、レスターは言葉では確認していない。

 ただ、確信しただけだ。

 

 具体的な話は何もしていない…お互いに、それとなく雑談という形で伝えただけだ。アンジェという名前を名乗って転校してきた理由も、この舞踏会に来るという話も、「不審ではあるが不自然ではない会話」の中で遣り取りしただけだ。

 

 ーーー協力してほしい。

 強いて言うならば、それだけの会話。

 

 レスターは大広間に戻ると、会場内をざっと眺めた。

 

 会場内に、目立つ場所が幾つかある。

 

 まずは演奏機械の周辺。ここには物珍しさから男女問わず人が集まっている…が、その性質は流動的だ。単に目を惹く機械であるから人が集まるだけであって、そこに集まる人々に理由はない。興味本位で近づいて、すぐに離れていく集団だ。

 

 次に、外務卿とアルビオンの官僚の一群。ここは今回の主催(ホスト)だ。各国の大使たちが訪れ、外交という名の仕事(戦争)を繰り広げている。ある意味で、この舞踏会の中核を為す集団である。ーーーが、ここの集団は強い。アルビオン王国は世界各地との友誼を深めます…という建前を全面に掲げた、表の見せ札である。どの国の人間も、大規模空中艦隊に爆撃されたくはない。内心はどうあれ、みなニコニコして国家間の良好な関係を確認するという儀式を行っている。

 

 この集団に「何か」をするということは、世界大戦の導火線を点火するようなものだ…「お願い」が、そういった性質のものではないと信じたい。

 

 弦楽を鳴らす一団、貴族の男女が踊りの相手を互いに品定めしている集団。舞踏会の参加者にも、様々な意図がある。レスターは、壁に寄りかかりながら各集団の性質を観察する。

 

(ーーーシャーロット様は、壁の向こうで生きていた)

 

 つまり、西側で生き延びていた。

 名を変え、今は東側に潜入している。

 

 震える体とは裏腹に、脳髄は血が巡って冴えていく。

 

 レスターの目は、一人の女性を捉えていた。

 褐色(ブルネット)の肌、どこか剣呑な雰囲気を持った女性……ガゼル、と呼ばれていただろうか。

 ノルマンディー公の横に控えていた秘書だ。

 その女性が、共和国の大使団の中にいる。

 

「ーーー。ーーー」

 

 一瞬、ガゼルと目が合った。

 互いに社交用の仮面を顔に貼り付けて、軽く会釈するだけだったが…なるほど、何かノルマンディー公が動いているのは間違いない。それも、王国と共和国の調略合戦は今まさに進行中…という訳だ。

 

 …お願いとは、これか…?

 

 レスターは、王国からも共和国からも、深い情報を与えられていない。今夜の舞踏会についても、ノルマンディー公は何一つ言及していなかった。

 にも関わらず、懐刀であるガゼルが共和国に接近している…ということは。

 

(何か、見えない場所で動いている…筈だ)

 

 レスターはプロ(スパイ)ではない。

 素人にしては深入りしすぎているが、本職ではない。

 下手に接近すれば死ぬのが判っている。

 

 ガゼルが居る、という事実を認識して、別所に移動する。

 

 

 他の集団…と周囲を見渡して、一ヶ所に人が集まっていることに気づく。

 

 ああ、そうだ、と。レスターはその集団に近づいていく。

 

 ーーーここは舞踏会だ。

 一番の華は、アルビオンの誇る美しき姫君に決まっている。

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

 姫様は、いつだってお優しい方です。

 でも、延々と続く社交辞令の挨拶に、少しお疲れのようでした。

 

「姫様っ、お水をお持ちしましたっ」

 

「ありがとう、ベアト。丁度、喉が乾いていたの」

 

 お水を手渡すと微笑み返してくださる姫様ですが、その声には少し元気がありません。王族って面倒なものね…なんて、普段はおっしゃらないことまで口に出されます。

 そんな姫様の姿を見ていると、さっきからずーっと挨拶に並んでいる男の人たちに文句も言いたくなっちゃいます。…貴方たちは一回の挨拶ですけど、姫様は五十回も百回も同じようにニコニコしなくちゃいけないんですよ! …なんて、言えたらどんなにいいでしょう。

 

「ベアト」

 

 でも、姫様はお水を一口飲んだだけで、微笑んでくれます。

 疲れを外に出さないように、嫌な顔の一つもしないで。

 

 そんな姫様を見ていると、わたしは何も言えなくなります。

 …だって、そんな姫様の優しい笑顔が好きだからです。

 

 そんな時に、その人はやってきました。

 

「失礼。ーーープリンセスにご挨拶申し上げたいが、宜しいかな」

 

 上等な生地の燕尾服を着て、にこやかな笑顔で話しかけてきたのはクロフォード伯爵でした。

 

「はいっ、先生…じゃなかった! えっと、姫様っ、クロフォード伯爵がお見えです」

 

 姫様にはクスクスと笑われてしまったけれど、わたしは挨拶の取り次ぎをします。身分の高い方に直接お声をかけるのは不敬ですから、側に控えている人間を介するのが礼儀なのだそうです。

 

「こんばんわ、クロフォード卿。……いえ、クロフォード先生とお呼びした方が良いかしら?」

 

「姫様、お戯れを…。クイーンズ・メイフェア校の授業中であればともかく、この場でそのような呼び方をされては…私も、どのように返せばよいか困ってしまいます」

 

「あら、先日の授業では難しいラテン語の文法問題を私に回答させたりしたのに?」

 

「それは…。姫様は優秀でおられますから、他の生徒では答えられない問題であっても、必ずや正解されると確信していたからにございます。姫様ならば、他の生徒の模範として間違いなどなさらないだろう、と」

 

「それは、姫だからと随分と贔屓目に評価して貰えてるのかしら」

 

「とんでもございません。教師として、客観的に評価しておりますとも」

 

 クロフォード卿とお話ししている時の姫様は、少しだけ楽しそうです。クロフォード卿のお母様が姫様の養育係であったとのことで、ご幼少の頃から知己であり、他の貴族よりも距離感が近いように見えます。

 

 ―――姫様は、王宮や貴族内では『空気姫』と綽名されています。

 

 それは政治的な後ろ盾を何一つお持ちにならないという事情に拠るものですが…、…それでも強いて言うならば『シャーロット姫派』という派閥が無いこともないのです。筆頭は、姫様のおばあさま…現女王であらせられるクイーンです。姫様を形容する際には、必ずと言っていいほど「女王陛下のお気に入り」という呼び方がされています。まぁ、女王陛下は表立って姫様支持をしているわけではないのですが、姫様の今のお立場を一番守っているのは女王陛下の御意向と、それを周囲が忖度しているからなのです。

 

 それから、国内穏健派の非主流派……権力闘争からは遠い貴族の一群です。クロフォード卿も、ここの派閥の一員です。いわゆる中間層、というのでしょうか。強硬的なタカ派であるノルマンディー公の閥には入っていないけれども、王位継承権の争いなどには巻き込まれたくはない…そういう理由で、第三軸として姫様を支持すると表明している貴族たちがいるのです。もちろん、王宮内の権力を握ってはいませんが『次の王位が誰に渡ったとしても、何一つ変わることなくアルビオン王家を支える』という…貴族の中では穏健な派閥ですね。

 

 そういった派閥が姫様の周りにいる貴族、ということになります。

 ・・・正直、軍や政治には直接の権力を持っている貴族は、ほぼ皆無です。そもそも姫様自身が農耕義勇騎兵(ヨーマンリー)という……田舎のおじいさんとおじさんで構成された部隊しか持ってませんし…それも名目上のことで、姫様は直接の指揮権は持っていません。派閥としては、武力はほぼゼロです。

 それこそ、クロフォード卿が『シャーロット姫派』の若手有力貴族…ということになってしまうのですが…。クロフォード卿個人は穏健派の中ではノルマンディー公に近しいという噂もあります。それが、少し気がかりです。

 

「―――…リス君、…ベアトリス君?」

 

「ひぇっ! は、はいっ!」

 

 突然、クロフォード卿はわたしに話しかけてきました。

 ヘンな声が出てしまったわたしに、困ったように苦笑しながらクロフォード卿は話を続けます。

 

「いや…すまないね。もし私が女の身に生まれついていたのならば、姫様に側仕えをすることもできたのだが…。…知っての通り、貴族の社会も厄介な事が多くてね。政治的な意図も悪意も持たない侍女を探すというのも、これも中々難しいんだ。

 正式な王宮付きの侍女でもないベアトリス君に、学校内から社交場まで姫様の側仕えをさせてしまっていることは、心苦しく思っているんだよ」

 

「いえ――わたしが好きでお仕えしているだけですから…」

 

 わたしの立ち位置が、政治的には微妙なことは知っています。

 大人の論理でいえば、ただの男爵家の娘が無給で『侍女の真似事』をしているのが宜しくないことも…それを、姫様の御意向であるから、と多少の無理を通していることも。

 

「・・・現状は、『クイーンズ・メイフェア校内においては、王家の一員といえども侍女を大勢引き連れて学生寮に入るわけにはいかない』…と、そういう理屈で他の侍女たちを弾いているところだ。姫様が卒業されてしまえば、ただの御学友でしかないベアトリス君は姫様にお仕えする大義名分を失う…ここまではいいね?」

 

「はい…」

 

 それが、ベアトリス(わたし)という人間が抱える矛盾だった。

 姫様の近くに居たいのはわたしなのに、姫様の力を頼らなければ近くでお仕えすることもできない。今、傍でお仕えしているのは、姫様が『ベアトリスがいい』と言ってくださっているからという理由しかないのだ。ある種、学生の間ならば…と周囲が姫様の滅多に言わない我儘を呑んで、無言の譲歩をしてもらっているだけ。

 

 こほん、と。クロフォード卿がわざとらしく咳払いをします。

 

「それで―――姫様? 宜しいのですね?」

 

「ええ。…今後は、卒業後も見据えて動かねばなりませんから。ベアトならば信頼できます」

 

「―――御意に」

 

 クロフォード卿と姫様がしたり顔で目配せするのを、わたしは戸惑いの視線で見ていました。

 

「それが主命なれば…。…侍女の一人くらいならば、潜り込ませてみせますとも」

 

「お願いね、クロフォード卿。・・・私は表立って動かない方が拗れないでしょうから」

 

「えっと…ひ、姫様…?」

 

 話の流れが見えないわたしに、姫様が耳打ちします。

 

 

「学校を卒業しても、私はベアトに居て欲しいわ」

 

「・・・っ!?」

 

 普段よりも悪戯っぽい姫様の笑みと、いつにも増して困り笑顔のクロフォード卿の顔を、わたしは交互に見遣ります。それは、えっと、つまり…。

 

「これから、王宮内での根回しを本格的に進めます。卒業までの二年間、今よりは成績は上げてもらわねばならないでしょうね。あと、下準備としてベアトリス君にも社交界に顔を出す機会も増やしてもらいますし、…ご実家の事情も清算する必要があるでしょう…。…ですが、それが叶えば」

 

「私個人に仕える侍女として、一緒に居られるようになるわ」

 

「問題は山のようにあります。…あまり、簡単でも無いのですが」

 

 ―――最終的には、どこかの派閥に頭を下げないとなりません。

 ですが、いずれ直面するべき問題でしたし…と、クロフォード卿は呟いた。

 

「姫様にとって唯一の友人を引き離すというのは、些か臣下としても肯んじえませんので」

 

 

 姫様と、一緒に居られる。これからも、卒業してからも…!

 それは、わたしにとってこの上なく嬉しいお話でした。

 

「クロフォード卿。えっと、ありがとうございます…っ!」

 

「いえ、姫様がお望みとなっただけです。それに、まだ確約はできませんので…。

 姫様のご意志であれば、私としては可能な限り沿うようにはいたしますが」

 

 謙遜するようにして、クロフォード卿はあえて『姫様が』『姫様の』と強調していた。

 

 彼の視線を追えば、どこだったかの侯爵様がいる。今話している声の届く範囲なら、伯爵家から子爵まで。踊っている夫人は、どこの貴族の奥方だろう…? そういった中で、既に言外の交渉は始まっているのでしょうか。

 きっと、今この場所で話があったことも、偶然では無くて、きっと姫様との打ち合わせが前々からあったのでしょう。できるだけ、多くの耳目がある場所で話ができるように…とか、たぶんそんな理由で。

 

 

「では、私は一度下がりますが―――」

 

「ええ、どうかよろしく頼むわね。クロフォード卿」

 

 あまり長い時間、一人の伯爵と姫様が話し込む…というわけにはいきません。

 ただでさえ社交の席は忙しく、姫様が誰と親しく近しいか、などという話題が政治の槍玉にもあがってしまうのです。醜聞めいたゴシップも含め、政敵に弱みを見せれば根も葉もない噂が流布されることでしょう。クロフォード卿は、周囲を気にしつつ退席の伺いを立てて…。

 

 そこで、すっと顔色を変えました。いつも見せている笑顔が消えて、一瞬だけ、怖い表情になります。目が細められて、鋭く光っていました。

 

 クロフォード卿は、下がっていくときに、小さく一言呟きました。

 それはわたしと、きっと姫様にしか届かないほど微かな呟きでした。

 

「・・・姫様、今宵は別件で吉報がございます。仔細は、後ほど…。

 

 ……私めは、シャーロット姫の忠実な部下でありますれば」

 

「・・・そう。では、レスター、後でお願いね」

 

 姫様は、伏し目がちの笑顔でクロフォード卿が退がっていく姿を見送られました。

 

 

 

「珍しいわ。―――クロフォード卿が、あんな言い方をするなんて」

 

 その背を見送って、姫様は少し驚いたように口にしました。

 

 『あんな言い方』というのが、わたしには判らなくて。

 姫様が、『レスター』なんて呼び方をした意図も、わたしには判らなくて。

 

 

 ・・・けれど、このあとで姫様のドレスにワインを零してしまった女性のせいで、何を疑問に思っていたのかも頭から吹き飛んでしまったのでした。

 

 

ーーーーーーーーーー




.


・・・アニメ本編の第二話、脚本が偉大なので
付け加えるの無理無理の無理でござるよな。

おおよそ、この後は本編準拠でアンジェさん接触シーンになります。

次は少し時間が飛んで第三話冒頭になるかな…。(まだ考えてない)


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◆Route B IF : Blue moon in your eyes

一年くらい前に、ピクシブさんに投稿してたエチ短編の改稿です。
(ピクシブ側は既に非公開にしてます)

おおよそプロトタイプ版なので、若干文体が違ったりしますが
ご了承ください。

ベアトさんルートのエチシーンです。
時制は未来の任意地点です。

(今後もエチシーンは時系列とか前後すると思います
 オムニバス形式というか、各ルート入ったif展開的な)





 ベアトリスには、時折、「ちょっとした、私用です」と言って出かける日がある。

 

 その事情については、彼女の主であるプリンセスと、

 一度尾行して詳細を把握しているアンジェ以外、知らない。

 

 屈託なく、明るく振る舞うベアトリスがチーム白鳩の面々にも隠す秘密、それは―――。

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

 ・・・神様は何もしてくれない。

 

 大人は、誰も助けてくれない。

 姫様の周りにいる人たちは、優しい姫様を守ってくれるわけじゃない。

 ただ、姫様を利用するか、不利益になるのならば害してしまおうと思ってるんです。

 

 

 わたしは、長い間、そう考えて、悩んできました。

 

 それは、わたしの生い立ちと、わたしの主人であり、「友達になりましょう」と言ってくれた姫様…その姫様が、複雑な政治的立場におかれていたことが原因だと思います。

 

 

 けれど―――。

 

 チーム白鳩のみんなは、スパイですけれど

 基本的に優しい人たちなのは、すでに知っています。

 

 

 ドロシーさんは、大人っぽくて、そして可愛らしくて、みんなのお姉さんみたいな人です。

 きっと、わたしにお姉ちゃんがいたら、あんな風に優しくしてくれるのかな…って思っちゃいます。ただ、お酒が大好きで、飲みすぎてしまうところは、ちょっとだらしがないのかなぁ…。

 

 

 ちせさんは、ちょっと変わったところもあるけれど、素直な良い人です。

 全く文化の違う国に来ているのに、へこたれずに立ち向かっていきます。

 それは、剣術の腕というだけでなく、彼女の「強さ」なのだと思います。

 

 

 アンジェさんは…最初は、よくわからない人でした。

 うそつきで、姫様と同じ顔をしたスパイ。

 本当のコトを言ってくれなくて、いつも話をはぐらかして

 最初は、姫様の敵だと、すごく警戒していました。

 

 でも、今は違います。

 

 アンジェさんは、姫様が大好きで。

 本当は、嘘を吐くのがあまり上手じゃなくて。

 きっと否定するけれど、すごく優しい人。

 みんなに迷惑をかけたくないから、一人で頑張っちゃう人なんです。

 

 それを知ることができてから、わたしは、チーム白鳩のみんなが、大好きになりました。

 

 

 そして、もう一人。

 

 わたしには、信頼できる、大好きな人がいます。

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

 わたしは、こほんと息をして、お屋敷の玄関の呼び鈴を鳴らしました。

 

 ちりん、ちりんと、機械仕掛けの鈴が鳴って、しばらくして執事のおじいさんが出てきます。

 

「あのっ、クイーンズ・メイフェア校より、シャーロット王女の代参として

 クロフォード伯爵への手紙をお持ちいたしましたっ。…お取次ぎを、頂けますでしょうか?」

 

 この瞬間は、いつも恥ずかしいです。きっと、顔も真っ赤になっている筈です。

 

 執事のおじいさんは、にっこりと笑って、玄関に招き入れてくれます。

 しばしお待ちを、と玄関で待つ間、このお屋敷と、その主人のことについて思います。

 

 クロフォード伯爵。

 一応は男爵家の娘であるわたしからみても、大きく、立派なお屋敷。

 代々の侍従、式部、尚書などで王家にお仕えしている古い貴族。

 

 彼の母は、ロンドン革命の前に姫様の教育係ををされていました。

 そのため、姫様を幼いころから知っていて、数少ない姫様の味方といえる貴族の一人です。

 

 ・・・そして、チェンジリング作戦に秘密裏に協力してくれています。

 

 

「やあ、ベアトリス。わざわざ来てくれて、ありがとう。―――外は、寒くなかったかい?」

 

 出てきたのは、いつもの優しい笑顔のクロフォード伯爵です。

 

「はいっ。最近は寒くなってきましたから、ちょっと厚着をしてきちゃいました」

 

 わたしが、少しばかりおめかししてきたコートを見せると、彼はくすり、と笑って。

 

「・・・じいや、熱い紅茶を、ボクの部屋に用意してくれるかい?

 淑女(レディ)を玄関先で待たせて、長話という訳にはいかないからね…」

 

 そして、目配せ。

 

 わたしの顔が熱いのは、外が寒かったからじゃなくて。

 きっと、期待してしまっているから。

 

 ―――わたしは、ドキドキする胸を抑えて、彼に連れられて中へと入ります。

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

 部屋の扉を後ろ手で閉めて、ボクはベアトの唇を奪った。

 

「っ!? クロフォードさま…っ!?」

 

 驚きの声を上げる彼女の口を、強引に塞ぐ。

 身を寄せて、抱きしめる。

 

 中々、口実を付けなければ会うこともできない彼女が、

 ただただ愛おしくて、止めることができない。

 

 ぷは、と強引な接吻から息を吐き、彼女の瞳を覗き込む。

 

 琥珀色(アンバー)の瞳、ボクよりも一回り小さい体躯、愛らしい声。

 小動物に向けるような保護欲と、この少女が欲しいという劣情が、綯い交ぜになる。

 

「あ、あの! わたしはクロフォード様に、姫様からのお手紙を渡しに…っ」

「知ってる」

 

 ぎゅ、と強く掻き抱く。

 

 …どさり、と足元で音がしたのは、彼女が革鞄を取り落としたからだ。

 

 

 ―――そう、これは逢瀬。

 

 ベアトとプリンセス、そして共和国スパイの活動が始まってから、

 クロフォードとベアトリスの仲は、急速に縮まった。

 

 共にプリンセスを敬愛し、深い感情を向けている同志であり、

 チェンジリング作戦という、王国に仇なす秘密の共犯者である。

 

 淡かった恋心が、いつしか燃えだすまでに時間はかからなかった。

 

 ロンドンの夜闇の中、いくつかの任務を一緒に乗り越えた。

 スパイの任務は、危険だ。まして、年端も行かぬ優しい少女に、させたくはない。

 

 ・・・ある時、ベアトが用事で訪ねてきた夜、クロフォードは彼女を抱いた。

 愛している、と。もう失いたくない、ボクのものになってくれ、と。

 

 思い返せば、身勝手な言葉であった。

 けれども、ベアトリスは困ったような笑顔で、それを受け入れ―――

 ―――逢瀬は、今も続いている。

 

 

 コン、コン、コン、コンと。

 

 扉を、4回ノックする音が、部屋に響いた。

 

「・・・じいやか。少し待ってくれ」

 

 

 ボクは、赤くなっているベアトから身を離すと、足元の鞄を拾い上げて机の上に置いた。

 ベアトは慌てた様子で、少し乱れてしまった服を整え直している。

 

「入れ」

 

 ややあって、熱い紅茶が用意され、カップから湯気が立つ。

 

 ……じいやは察してはいるのだろうが、特に何も言うことなく、紅茶を注ぎ、

 ニコニコとしながら部屋を辞した。

 

 …自分とベアトの様子から、おおむね気づいてはいるのだろうが。

 

 

「・・・その。 紅茶、飲みましょうか」

「ああ…」

 

 

 ラプサンスーチョン(正山小種)の芳醇な香りが、部屋を満たしていく。

 体が、どうにも熱く感じるのは、飲み干した紅茶のせいか。

 

 ……もどかしい。

 

 クロフォード伯爵家がスパイ活動に本格的に関与していると疑われないためにも、ベアトと夜に会えるのは月に一、二度ほど。

 我が身可愛さの保身ではないが、自分が捕まればプリンセスに累が及ぶ以上、ベアトに会いたい一心だけで危ない橋は渡れない。それはベアトも同じで、頻繁に屋敷に訪ねる訳にはいかないのであった。

 

 

「っ、先に、姫様からのお手紙を渡しますねっ。 …ちょっと、お渡しするの遅れちゃうところでしたけれど」

 

 ベアトは、はにかみながら鞄から封筒を取り出す。

 プリンセスからの手紙である。

 

 公的な手紙であれば、王家の紋章の封蝋が押されるはずであるが、これにはそれが無い。私的な手紙だ。

 もちろん、スパイに関わる内容は書かれていない。情報漏洩を防ぐためだ。

 必要な内容があれば、基本、ベアトが口頭で伝える。そういう手筈になっている。

 

「それで、今回は? ボクは、何を支援すればいい?」

「それが…」

 

 封筒を手にして訊ねるボクに、言い淀むベアト。

 

「姫様からは、ただ手紙を渡してきて欲しい、読めばわかるわ、と言われただけで…。

 何も、言伝をおっしゃらなかったんです」

 

「ふむ・・・?」

 

 ペーパーナイフを取り出して、封を開ける。

 

 

「・・・、・・・・」

 

 

 

 

「あの、クロフォード様…?」

 

 難しい顔をしていたであろうボクに、ベアトがおずおずと訊ねてくる。

 

「ああ…。いや、心配するような内容じゃない」

 

 そう、ベアトが心配するような内容は、何一つない。

 むしろ―――。

 

 

 少し、昔を思い出す。

 思い返せば、『シャーロット』も『アンジェ』も、あれで結構な悪戯好きだった。

 

 きっとこれは、スパイだとか国とかは関係なく、幼馴染の女の子たちの悪戯で。

 

 ベアトリスという女の子を、ちゃんと幸せにしなさい、という無茶ぶりなのだ。

 

 

 こほん、と一息。

 

 

「あのさ」

 

 きょとんとしているベアトに、ボクが大好きな女の子に、手紙の内容を要約して伝える。

 

「・・・プリンセスが、『今日は戻ってこないで泊ってきなさい』って」

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

「こんな、ことになるなんて…」

 

 寝台に座ったベアトは、いつも以上に恥ずかしそうに、小さく呟いた。

 

 今回の手紙は…彼女の主であるプリンセスから、直截的に「存分にいちゃいちゃしてきなさい」という命令であった。

 ボクに向けては、「責任を取って、幸せにしてあげなさい」と。

 

 この手紙を書いているとき、プリンセスはどんな表情をしていたのだろう。

 王女としてではなく、幼い頃の天真爛漫な彼女が、茶目っ気にペンを握っていたのではないだろうか。

 

 

 ・・・二人の仲はプリンセスに知られていたし、手紙を口実にして逢瀬を重ねていることも把握されていた。

 が、こうも直截に、プリンセスが言及したのは初めてで。

 それがベアトを戸惑わせているようだった。

 

 

「・・・姫様に、こういうことで気を遣わせたのが、嫌かい?」

 

「だって…、わたしは姫様の侍女なのに。姫様に、こんなことをして貰うなんて…」

 

 それに、と。ベアトは言葉を継ぐ。

 

「姫様に、わたしがいやらしいことをしてるのを知られちゃうんですよ?

 

 もちろん姫様にはちゃんとお伝えしてますし、だからこそ『私用です』とお暇を頂いているわけですけど…。…それと、直々にお膳立ていただいて、密会するなんて、話が別ですっ…!

 

 ああ、明日、姫様にどんな顔をしてお会いすれば…っ」

 

 

 落ち着かない様子のベアトを、ボクは抱きしめる。

 小さくて、柔らかい体。ボクの好きな女の子。

 

 心臓の鼓動が、密着した体から伝わってきて、彼女の気持ちが判るような気がした。

 ボクの気持ちも、彼女に伝われば、良いのだけれど。

 

「ベアト」

 

 細い首筋に手を這わせて、顔をこちらに向けさせる。

 潤んだ瞳に、拒絶の色は無く、ただ混乱してどうしたらわからないようだった。

 

「ボクは、ベアトのことが、好きだ。………愛してる」

 

 本心から告げて、軽く口付ける。

 

 先ほどの衝動めいた強引なキスではなく、優しく、いたわるようなキス。

 

「確かに、プリンセスに知られて恥ずかしい気持ちもあるけどね…。

 

 ボクは、今夜、ベアトとずっといっしょに居られることが、すごく嬉しいんだ。

 キミを、めちゃくちゃに愛してしまいたいと思ってしまう」

 

 

 正直に言えば、今だって我慢できないくらいなのだけれど、

 それは少し抑えて、彼女を落ち着かせる。

 ベアトの頭を、ゆっくり撫でる。肩口にかかる濃い亜麻色の髪を、梳くように指でなぞる。

 

「・・・ベアトは、ボクといっしょにいたくない?」

「そんなこと!」

 

 大きな声を出してしまった後で、はっと口に手をあてるベアト。

 

「そんなこと、ないです。わたしだって、クロフォード様といっしょにいたいです。

 

 ―――でも、わたしだけ特別にこんなことしてもらって、幸せになっちゃったら

 姫様やチームのみんなに、悪いんじゃないかな、って…」

 

 

 危険な任務に身をやつして、失敗すれば殺される。

 そんなチームのメンバーに対して、ベアトは引け目を感じていた。

 

 ……今、ベアトがチームから距離をとり、クロフォード伯爵家と関係を持てば

 王国貴族としての生活と安全は十分保障される。

 男爵家の娘が、王家の信も厚い伯爵家へと仮に嫁いだとすれば…客観的に見れば、玉の輿だろう。

 

 しかし。

 死と裏切りが隣り合わせになっている、アンジェやドロシーは、自分のことをどう思うだろう。

 ベアトは機械に強い、大したものじゃ、と評してくれたちせは、友人でいてくれるだろうか。

 なにより、敬愛するプリンセスの、お側で仕え続けることが、できなくなるのではないか―――?

 

 

 逡巡するベアトに、ボクは寝台横のチェストに置いてあった、プリンセスからの手紙を見せる。

 

「大丈夫」

 

 そう、ベアトの心配は、杞憂だ。

 

 ・・・ボクも含めて、みんなベアトの幸せを願っているのだから。

 だから、いっしょにいられるし、何が変わるわけでもない。

 

 「読めばわかる」―――そう、プリンセスが言った通り。

 手紙の文面には、ボクとベアトの関係を、祝福し、後押しする言葉が綴られていた。

 

 

「大丈夫だよ、ベアト。好きとか愛しているとか、そういう気持ちは、悪いものじゃあ無いんだから」

「クロフォード様…。姫様…っ」

 

 流麗なプリンセスの筆跡を読んで、ベアトは目を潤ませて、

 そして、手紙を折りたたむと、ゆっくりと言った。

 

「わたしは―――姫様が好き。

 クロフォード様も、もちろん好きです。

 

 だから・・・その、こんなわたしでよろしければ。

 幸せにしてくれますか…?」

 

 答えは、言うまでもない。

 

 ボクは、ベアトを寝台に押し倒した。

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

 肌寒い季節とはいえ、屋敷は裸でいても寒くないくらいには暖かくしてある。

 身にまとっていた服をすべて脱がせて、ボクはベアトの体を愛撫した。

 

「ん…っ。クロフォード、さまぁ…っ」

 

 甘い声。

 一つ年下の少女を喘がせているという事実に、胸が熱くなる。

 

 体を重ねたのは片手に満たないほどの数ではあるが、

 ボクにとってベアトの体は最高だった。―――愛おしく、離れがたい。

 

 口つける箇所を、唇から耳、首筋に降ろしていく。

 啄むように、なぞるように、優しくキスの雨を降らしていく。

 そして、さらに下へ。

 

 可愛らしい小ぶりの胸と、その先にある蕾に、口を這わせる。

 

「そこ、ダメっ…! 赤ちゃんじゃないんですから、あんまり吸わないでぇっ…!」

 

 嬌声が、思考力を鈍らせていく。

 

 双丘を揉みしだけば、ベアトは恥じらい、身をよじらせる。

 先の小さな蕾を口に含めば、いやいやと首を振り、感じてくれる。

 

 ・・・彼女の反応は、脳を痺れさせる麻薬のようだった。

 

 普段から目にしている、純粋無垢で明るいベアトリス。

 どこか幼い印象が強くて、プリンセスの侍女として、妹のように思っていた少女。

 

 彼女が、組み敷かれ、快楽を堪えている姿は―――どうしようもなく、煽情的だった。

 

「・・・ベアト、もっと感じて…」

「そ、んなぁ…っ」

 

 興奮のままに。歯で、固くなった乳首を軽く噛む。

 痛みに近い刺激が、細い体を震わせる。

 

 幾度かの逢瀬で、彼女は胸が非常に弱いことを知った。

 小さい胸だとコンプレックスのように気にしているが、

 それと裏腹に、感じやすくなっているらしい。

 胸だけの愛撫で、軽く感じ入ってしまうほどに、彼女の胸は敏感なのだ。

 

 

「はぁ…。はぁ…!」

 

 昂る劣情のままに、彼女の腰を引き寄せる。

 自分の股間にある怒張は、堪えられないくらいに張りつめている。

 

「ベアト…」

 

 互いに、貪るようなキス。

 

 二人の間に、もはや隔てるものは何もないと。一つになりたいと体を密着させる。

 舌を絡め、手と手を握り・・・深いキスをしたまま、彼女の秘所を貫いた。

 

 

「っ―――!」

 

 ベアトが、ピンと爪先を伸ばして、軽く絶頂する。

 繋いだ手の平が、ぎゅっと力をこめて握りしめられる。

 

 挿れたボクも、すでに余裕はない。

 ベアトの体は小さいが、名器としか表現できないほど、気持ちいいのだ。

 

 彼女の胸が、男を誘惑し、彼女自身を濡れさせる果実だとすれば。

 彼女の中は、引き寄せられた男を果てさせ、精を一滴残らず搾り取る雌蕊だ。

 

 小さい体だというのに、男根を包み込むように吞み込んでいき、

 絞るように、ひくひくと不規則に蠕動し、内側へと男を受け入れてくれる。

 

 我慢なんて、できるわけもない…!

 

 

「ベアト…。ベアトっ…!」

 

 彼女の名前を呼びながら、猿のように腰を振り続ける。

 華奢で、いつもなら守ってあげたくなるその矮躯を、

 今は上から押さえつけ、一心に獣欲をぶつける。

 

「くろふぉーど様っ、ダメっ、激し…っ」

 

 抗議の声を、再び口で塞ぐ。

 舌で、口腔を蹂躙する。

 

 

 酸欠めいた息苦しさのままに、ベアトの体すべてで気持ちよくなる。

 

 腰と腰がぶつかり合う音。粘膜が擦れあい、愛液がぐちゃぐちゃとなる音。

 

 お互いの唾液と、性交による獣めいた匂い。彼女の髪の香り、薄い化粧の香り。

 

 握りしめた手の感触、互いの性器が触れ合う快感。

 

 ―――すべてが、何も考えられなくなるほど、気持ちいい。

 

 

 そんな快楽の時間も、やがて絶頂を迎える。

 むずがゆいような射精感が、一突きごとに昇ってくる。

 急き立てられるかのように、自然と呼吸は乱れ、もう果てることしか考えられない。

 

「あ、ああ…」

 

 もはや、理性で彼女の名を呼ぶことすらできずに、薄く開いた口で呻く。

 目の前がチカチカして、目の前の女の子しか見えなくなる。

 

 ただ、腰を振り続ける獣欲と、この子を守りたい、愛おしいという想いが

 最後に残った。

 

 

「くろふぉーど、さまぁ…!」

 

 ベアトは、快楽に蕩けきった顔で、ボクの頭に手を伸ばして、ぎゅっと掻き抱いた。

 

「すき、すき…っ。だいすきれす…くろふぉーどさまっ…―――!」

 

 

 体が快楽に震え、果てたのは同時。

 吸いついてくる膣内に、精魂のすべてを吐き出した。

 あまりに気持ち良すぎて、痺れて動けなくなるような射精。

 ぎゅ、ぎゅ、と狭い膣が男根を搾り取り、内襞が精液を奥へと呑み込んでいく。

 

 は、と荒い息を吐き出して、ベアトに覆いかぶさる。

 陶酔感と多幸感、虚脱感。

 幸せすぎて死んでしまいそうな、快楽だった。

 

 

「・・・ん…っ」

 

 引き寄せられるように、優しくキスをする。

 二人で繋がったまま、好きという気持ちだけが確かだった。

 

 

ーーーーーーーーーー

 

 

「ん…」

 

 ふわふわと、気持ちの良い眠気。

 天気の良い日曜日の午睡のような、暖かな気持ち。

 

 わたしは、いつの間にか、少し眠ってしまっていたようでした。

 

「・・・ベアト?」

 

 すぐ横から声が聞こえて、わたしは目を開けます。

 

 彼は、わたしに腕枕をする形で、ベッドに横になっていました。

 

「無理をさせて、すまなかったね」

「いえ…。その、わたし、眠ってしまったみたいで…」

 

 気にしないでいいよ、と優しく囁いてくれる彼は、

 そのまま、わたしの首後ろに回した手で、抱きしめてくれました。

 

 

「ベアト。その、順番が違っちゃってるようだけれど…。

 ボクの妻に、伴侶になってくれないか?」

 

 優しく、真剣な声でした。

 

 目を見れば、今まで見たことがないくらい、本気の表情をしています。

 

 

「スパイを辞めろとは、言わない。

 姫様の侍女として、必死にお仕えするキミの姿に、ボクは惹かれたから。

 

 でも、同じくらい、ボクの横で、妻として立っていてほしいんだ」

 

 

 ・・・それは、きっと。すごく難しくて、簡単なこと。

 わたしが、イエスといえば、それで叶ってしまう甘い夢。

 

 王国と共和国、その壁を崩すことに比べたら、とても簡単で。

 

 けれども、二人で姫様をずっと支え続けるということは、

 いつスパイ活動が明るみに出て、破滅するかもしれないということ。

 

 ―――答えは、決まっていた。

 

「わたしは・・・貴方のことが、大好きです」

 

 

 壁に隔てられたロンドン。

 スパイの暗躍する、権謀術数が張り巡らされた街。

 けれども、今だけは―――愛おしい気持ちのまま、優しい夢を見ていたい。

 

 

 ・・・夜空に輝く月だけが、窓からわたしたちを見守っていました。

 

 

 

to be continued…?

 

 

ーーーーーーーーー



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