真・恋姫†外史 ~二人の姦雄~ (当在千里)
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序 覇王転生

訂正:兵は拙速を尊ぶ→兵は拙速をなるを聞くも、いまだ巧久なるを睹ず

   たけのこさんの指摘より。訂正させていただきました。
   孫子への知識不足と資料の読み込みの甘さを痛感いたしました。善処いたします。


 天は、人の世の乱れるとき、英雄を欲する。故に、人の世をまとめるため、英雄が台頭する。

 天は、英雄を欲するが故に人の世を乱す。故に、世が乱れるときには多くの群雄が割拠する。英雄たるものが平らげる時を待つ。

 天命とは、世を正しく治めるのみを欲しているわけではない。全ては自然という大道に沿うた要求をなすのである。

 そして一人の英雄が死すとき、一つの時代が終わる。

 今、一人の英雄が死なんとしていた。

 彼はただ、自分に迫る死を静かに待っていた。

 周りには、彼の配下や親族が居並び、男が逝くであろうすぐ先を思い、涙にくれていた。

 

「皆案ずるな、死んだとて、俺の志は千里にある」

 

 男の口癖である。志千里に在り。その思いを以て、彼はその人生を駆け抜けたのである。

 いよいよかと思うとき、彼は深く息をついた。

 

(遺書を書くときに考えたのは、天下のことではなかった。むしろ、遺していく女の行く末ばかりが頭をよぎる)

 

 彼らしい。というべきか。天下を伺う覇者でありながら、彼は家庭に気を配る男であった。

 

(ああ、麗玉の尻をもっと撫でたかった。萌芽などは一回しか相手にしていないのに……桃美あの身体、まだまだ堪能しておらなかったのになあ。愛鈴の胸にまた挟まれたい。あ奴らは手に職がないから、卞に頼んで縫い物などを教えさせるようにしたが…むぅ、心配だ。 ……そういえば環珠はまだ閨に呼んでおらなんだ。外でならいくらか――)

 

 ……実に彼らしい。

と、男がいよいよ意識の遠のく折、思い出したことがあった。

 

(……そういえば、西国から来たという浮屠の教えでは、人は新たに生まれ変わるのであったな。浮屠を信ずるわけではないが、もし、生まれ変われるなら、また英雄豪傑とオナゴに囲まれた生活を送りたいものだ)

 

 思った刹那、彼は深い眠りへと入っていった。この世とのつながりを失う深い眠り。

 周りの者たちはそれに気づいたのだろう、みるみるうちに大騒ぎとなり、方方で「魏王様」と叫ぶものが現れてきた。

 

 建安25年(西暦220年)、漢丞相であり魏の王。乱世の姦雄曹操の将星が落ちたのであった……

 

 ……のだが。

 

「孟徳や、起きなさい。孟徳…」

「ん~……あと五分」

「いいから起きなさい! 曹孟徳!」

「ぬわお!」

 

 曹操が目を覚ますと、そこは自分のいた洛陽の邸宅ではなかった。

 直前までのことを考えると、自分は「あの世」に来たに違いない。とすると、目の前にいる見目麗しき女性はおそらく、この世界の天子であろうか。陰陽に照らし合わせれば、死は陰に属す。また、男女を陰陽で表せば、陰は女である。死の世界の主が女性であると言うことは、なるほど頷ける話であった。

 

「誰なのだ、お前は」

「え? ああ、私? 私はそうねえ、まああの世の主かな?」

「やはりな」

「あら、わかってたの? さすがねぇ」

「名は?」

「そうねえ、たくさんあるのだけど、あなたたちの価値観に合わせて、西王母とでもしておくわ。」

 

 死を司る仙女、それが西王母である。古くは山海経、准南子や荘子にその名がある。(後世においては、仙女を統べる仙女で不老不死を司り、崑崙山の主とされた)

 

「俺は死んだのか」

「ええ、まあ死にました」

「やはりか。いざ死ぬとあっけないものだ。しかしまあ、あの世の主にしてはお前は随分とサバサバとしたしゃべり口だな」

「そりゃもう、こっちの世にはそう言う格式張ったもの必要ありませんので。そういうあなただって漢の丞相、魏の王にしては権威を誇るようなことはないわね」

「俺も格式張ったのは嫌いでな。して、何用なのだ。俺の前世の罪でも問うのか?」

 

 曹操がそう言うと、西王母はカラカラと笑った。

 

「そんなことはしないわ。あなたは英雄。ただの亡者とはワケが違いますからね」

「フッ、そう言われれば俺の人生も報われる。では、なぜ俺はここにいるんだ」

「ちょっと手伝って欲しいことがあるの。あなたと異なるあなたを助けるために」

「俺とは違う俺を助ける?」

 

 西王母は優しい笑顔を浮かべて頷いた。良い女には笑顔が似合う。曹操は思った。もはや死んだ身であるのだから、自分にやるべきことはない。そうであるなら、この美しい女の話を受けてやっても良いと思った。

 

「まず、外史という世界があるの」

「外史?」

「ええ、外史。貴方たちの生きた時代は後世に痛く気に入られてね。様々に虚構を交えた物語として「三国志」という名を与えられたの。あなたの建国し、曹丕が漢の帝から禅譲をうけた魏、劉備がそれに反抗し蜀に再び建国した漢、それにやや遅れて後ろ盾もなく僭称した呉。これら三つの王朝が揃って覇を競ったという物語。その物語があまりにも人の心を集めすぎたために、人々の願望と欲望が膨れ上がり、やがてそれ自体が世界として形を為すようになったの。それを私たちは外史と呼んでいるわ。と言っても、貴方の住んでた世界も外史の一つね、正史に似せて作られているようだけど」

「ほう、俺は虚構より生まれたと?」

「そういうこと。外史は物語として世界を紡ぐの。正史がつづる物語の始まりと共に生まれ、正史がその筆を置くとき、外史も道を失う。私たちはそのうえで動かされる人形ってわけ」

「それを聞くと、俺の俺としての存在を疑いたくなるな」

「でもね、私たちはそれに抗うことはできないの。正史は私たちの行動、言動、心情すべてに影響を及ぼすからね」

「どおりで。看過できん話であるのに、俺はそれを受け入れようとしている」

「そういうこと。で、貴方には、貴方がいた外史とは別の外史に行ってほしいの」

「それが、もう一人の俺がいる外史であると?」

「端的に言えばそうね。その外史には、あなたやあなたの配下だった人たちと同じ名前の者が幾人かいるわ。あなたには、その世界の曹操を補佐して、天下を一つにまとめて欲しいの」

「ほほう、これまた奇異なことをやらせるものだ」

「ええ、そりゃもう。で? 引き受けるの? 引き受けないの?」

「むぅ……引き受けるとして、俺が俺と共にいるというのがな。俺とて人の子、違和感を拭えなくなるだろうに。そこに対して、正史とやらは何か配慮してくれるのか?」

「あ、その点は全く問題ないわ」

「ほう」

「名前は同じだけど、性別は反対。つまり曹操という名の女の子を補佐して欲しいのよ」

「……まことか」

「ええ。欲望の最たるものは性欲だからね。武将が女性になるなんてわけないわ」

「……ところで、そのオナゴの俺というのは、美しいのか」

「ええ、美少女よ」

「よかろう、俺が責任を持って天下へ導くとしよう」

「ちなみにほかの将士も皆美女、美少女になってるわ」

「ますます気に入った。俄然やる気が出るというものだ。英雄で美女。大変結構。俺の求めるものが全てそこにあるではないか」

「うまくいけばその全員と肉体関係も築けるかも」

「こらこら、あまり期待させないでくれ。兵は拙速を聞くも未だいまだ巧久なるを睹ずとは言え、そこまで俺をはやらせる言葉は失敗を招きかねんぞ」

「ちなみに関羽も美少女になっているのよ」

「妻として迎え入れてやらんとな」

「正直な人ね」

「たとえ俺が他人に偽るとしても、俺が俺自身を偽ることはない」

 

 彼は意外に単純である。そして一度決断をすればその行動力は凄まじい。早くも自らのやるべきことを聴き始めた。西王母はそれに応える。

 

「外史に赴く前に、多少、その世界の常識を覚えてもらわないといけないかしら。それから…曹操という名前。そのままで行くというのもまずいわね。名前を考えないと」

「ふむ」

「ある程度名前に関しては融通できるわ。曹操以外なら、ある程度どんな名前でも許される」

「ならば、あやつの名前にしよう」

「誰かしら?」

「無二の友だ。俺の身代わりになって死に、且つ、俺を始めて英雄と認めてくれた者がいた。いずれは覇業を助ける股肱として共に天下を論じたかった」

 

 曹操は自らの友の顔を思い出した。涼やかで知勇を備えた君子であった。自分の身代わりとなって討ち死にしたとき、彼の亡骸を見つけられず、涙にくれた。

 

「その人の名前は?」

「……――だ。」

 

 かくして、姦雄は姦雄と出会うために、新たな外史の扉を開けた。

 



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【一】誕生、そして邂逅

 少し遅くなりました。当在千里です。書きたいものを書こうとするとなかなか頭に思い描くものとは違うものが出てくるものですな。頑張って書きましたがいかなるものやら。それではどうぞ。


 外史へ降り立った曹操は赤子であった。

 

「若君がお生まれになりました!」

 

 声を出してみようにも、泣き声にしかならない。彼は産婆らしき老女に抱かれていたが、やがて母なのであろう女性が彼を抱きかかえた。

 周りの侍女や召使たちが口々に祝いの言葉を述べる。

 

「鮑丹様、まことに喜ばしゅうございますな」

「この元気な泣きっぷり、お嬢様のお生まれなった時にそっくりですじゃ」

「きっと、立派な鮑家の跡取りとなりましょうな」

 

 曹操は、母になる女性を見つめる。美しかった。自らの記憶では彼女は友の父のはずだったが、そんなことは気にならない。思うようにならない身体であったが、彼は鮑丹に向かって精一杯笑って見せた。

 

「おお、若君が笑っておられますよ!」

「これもお嬢様の御徳のなせるわざじゃな」

 

 鮑丹は、笑い掛けた曹操に笑顔を返した。そして愛おしげに優しく抱きすくめると、彼を見つめ口を開いた。

 

「名前を生まれる前から決めてありました。お前の名は信。誠実な心で、人を思い、民を思うということです。そして真名は志遥(しよう)。志を遥かに持ち、天下を見据える者になってほしい」

 

――鮑信。彼のこの外史での名であった。

 

 鮑信として曹操が生まれてより、十数年がたった。彼は黒い髪に、琥珀色の目をした、凛々しく整った顔立ちの少年となっていた。ただし背は低い。この世界では、きっと前よりも身長が伸びるだろうと思ったが、前世の自分と変わらぬ背丈にやや落胆した。前世の因縁はついて回るようだ。ご愁傷様である。

 彼は今、洛陽の都にいる。母の鮑丹が侍中となり、宮廷に赴任したためだ。彼もそれについていき、都の塾にて学ぶことになった。

鮑家は名門と呼ばれて差支えのない家柄だ。先祖は三代にわたり司隷校尉(現代で言う警視総監のような職)となっており、近しい親族も太守となるものや、学問で名を成しているものが数多くいた。曹操もとい鮑信も、前世での記憶が役に立ち、「鮑家の奇才」と、はやくも名を知られるようになっていた。

 

「ここか」

 

 彼は塾へと到着した。建物は非常に真新しい。この塾だけでなく、洛陽全体がそういった風である。古風で落ち着いた雰囲気の都だったと彼の記憶にはあったが、この街の装飾は皆華美で色彩が豊かだった。良いとは思うが、あの控えめな雰囲気が懐かしくも思える。

 

「ちょっとあなた?」

 

 と、後ろから声をかけられた。鮑信が振り返ると、そこには、金髪縦ロールの少女がいた。年は彼と同じくらいか。それなのにやたらと胸は成長している。顔は整っており、高貴な顔と形容するのが似つかわしいが、ゴテゴテした髪型といい、態度といい、どことなく高慢さを醸し出していた。

 

「あなた、聞いていますの? そんなところに突っ立てられては通行の邪魔ですわよ」

「おお、これはすまない」

 

 と、言いつつ、曹操は彼女の顔をまじまじと見つめる。気になる女だ。と鮑信は思った。それはなぜかと言えば、どことなく懐かしさを覚える雰囲気を持っているのである。あと少しで分かりそうだが、それをわかってはならないと彼の理性は囁いているようにも思えた。友であり、宿敵であったあの男が、こんな見るからにおだてりゃ木に登る女になっているとは思いたくなかったからだ。

 

「なんですの? わたくしの顔に何かついてます?」

「ああ、いや、貴殿があまりに優雅でお美しいので見とれておりました」

 

 決して嘘ではないと、彼は自分に言い聞かせた。美しいのは確かだ。そう、美しいのは。優雅な気風があるのも認める。ただこういう高慢な手合いはあまり好きではない。しかし、こういう手合いが世辞に弱いのは確実だ。拱手して、道をゆずる。

 

「あらまあ、正直ですのね! 確かにこの漢随一の名門、袁家の娘であるわたくし、袁本初の威光には我を忘れてしまうのも無理ありませんわ! おーほっほっほっほっほっほっ!」

 

 この反応で大方のことは理解した。彼の想定しうる最悪の展開である。彼女は袁紹であった。かつて官渡にて雌雄を決したあの袁紹なのだ。それが、このざまである。鮑信は言葉を失った。だが、すぐに考え直した。

 

(天よ、私は認めぬぞ)

 

 もうひとりの自分より、まずはこの娘だ。いずれ相対するとしても、このザマでは手応えのない戦いしか期待できないだろう。どうにかして、人並みの英雄してやらねば、袁家を引っ張っていくものとして立つ瀬がなくなってしまう。と、よくわからぬ使命感に鮑信は燃えた。彼は意外とお節介を焼くのが好きなのだ。

 

「そういえば、あなたのお名前は?」

「はい、鮑信と申します。今日からこちらで学ばせていただくことになりました」

「あら、鮑信さんとは、あなたでしたの」

「私を知っていらっしゃるので?」

「ええもちろんですわ! 官位ではわたくしの家より低いとは言え、鮑家は袁家よりも歴史ある名門。覚えていないわけがありせん。特にあなたは最近、方方で名声を耳にいたしますもの。鮑信さん、どうぞよろしくお願いいたしますわ」

「はい、こちらこそ、袁家のご息女と誼を結べるとは光栄の極み。どうぞお見知りおきを」

 

 袁紹の言葉ににこやかに返す鮑信。こちらの袁紹も性根が腐っているわけではなさそうだ。調教は難しそうだが、その分、育て甲斐があるというものだと、鮑信は道すがらひっそりとそう感じていたのだった。

 

 教室には一人の少女がいた。机に蔡倫紙を起き、筆で書の気になる箇所を紙に書き写している。どうやら、それだけではないらしく、自分なりの解釈をさらに書き加えてもいるようである。髪は左右に結われ、云われた髪は袁紹と同じく螺旋を描いている。瞳は蒼天を思わせる深い青で、その奥には、理知の輝きを灯している。それに合わせてか、青い服、ドクロをあしらった髪飾りをつけ、静かに書に親しみつつ、顎をしゃくっては思索にふけっていた。

 

「失礼いたしますわ!」

 

 その時である、彼女は思考を乱す不埒な声を聞いた。声のした方を見れば、案の定あまり仲の良くない「親友」がおり、また、見知らぬ男がその側に立っていた。

 ひと目で、その男がただものでないと感じた。一見物腰の柔らかい、穏やかな者に見えるが、全身から発せられる「威風」は隠しようもなかった。

 

「あら、まだ華琳さんしかいらっしゃいませんの? 残念ですわ」

「あら、随分な言い方ね、麗羽……そちらは?」

「今日からわたくしたちの学友になる鮑信さんですわ」

「貴方があの……」

 

 彼女も噂に聞いたことがあった。平陽の鮑信は若くして節義あり、沈勇豪毅にして知略に秀でると。それがこの男かと彼女はその顔を見た。ブ男ではない。これならば自分の建てる国の一員にしても良さそうだ。優秀であるという噂が本当であればの話だが。

 

「私を知っていらっしゃるようですが、あなたは?」

「これは失礼したわ。私は曹操、字を孟徳。よろしくね、鮑家の奇才さん?」

 

 鮑信は一瞬飛び上がるかと思った。自分であった。今や十数年の時を経てこちらの生活や違和感にもなれたと思っていたが、やはり、自分自身に会うのは驚くものである。あまりジロジロ見るのも無作法だからそうするわけにはいかないが、しかし、彼女の顔はしっかりと見ておきたかった。いずれは自らの主となる少女である。それが決まってるとは言え、才や、容姿は気になる。誠に自分と同じ地平に立つものなのかどうか……彼はそれが知りたかったのである。

 

「奇才など滅相もない。私はただ、自らに正直に生きたまでです」

「そうであっても、ここまで名声が広がっているのだから、才があるのは嘘ではないでしょ? 謙遜はいらないわ」

「ははは……まあ、多少才に自信がなくば行動は起こせませんからな。自分に正直に生きているというのは誠ですが、確かに才がないとは思ってはおりません」

「結構言うわね。その言葉が嘘じゃないことを確かめたいものね」

 

 しかし、英雄は英雄を知る。というが、二人はこの時、目の前に相対す者が英雄たるものだと確信していた。言葉ではない何かが、二人のあいだにあったといえよう。

 と、鮑信は曹操の手にあった書に目をやる。

 

「その竹簡は孫子ですな」

「あら、なんでわかったの?」

「机に置いてある紙ですよ。注釈を付けていらっしゃるようだ」

「……驚いたわね。そのとおりよ」

「なに、それくらいなら私とてわかります。軍事は国家の大事との箇所ですな。民衆と情報について、考えがお有りのようだ。将と民とが苦楽を共にするということを、情報の共有をすると言い換えれば、民が情報を知らぬがゆえに無闇にあれこれと不安がることを防ぐことが出来る。といったところでしょうか」

「そうね。ただ、気をつけなければならないのは、すべての情報を共有しなくても良いということ。無闇に情報を流して混乱させるということあっても、本末転倒だから」

「うむ、あくまで必要になるのは正確さだ。つまりは将によって正確で且つこちらに「都合のいい」情報を民衆に提供しなければうまくいかない」

「そのためには「将」自体も正確な情報を取捨選択出来る体制を築かねばならないわ。間諜の充実と伝達系統の効率化も求められるわね……」

「ちょ、ちょっとお二人共? 何の話をしてらっしゃいますの? わたくしをないがしろにしないでくださいませんこと!?」

 

 結局、塾の先生が来るまで、二人は孫子について熱く語り合うこととなったのである。二人の姦雄はやはり、互いに深く結びつくものなのだろう。二人の談話に入れぬ袁紹の嘆きだけが、今はただこだましているのであった。

 




 


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【ニ】英雄教化

 前回の投稿から随分時をおいてしまいました。いやはや、麗羽様をいかに料理しようかと頭を悩ませたので、かなりの難産となってしまいました。ともすれば、矛盾謎も見つかるやもしれませんが、目をつぶってくださいますよう。


 洛陽の邸宅。その中でもひときわ華美なものがここにある。洛陽に住む者で、その邸宅の持ち主が誰であったか知らぬものはいない。袁家、その栄華の最高峰いた男、袁湯である。彼は「跋扈将軍」と呼ばれた大外戚・梁冀(りょうき)の下で官の最高位である三公全てに就任していた男であり、梁冀の専横のもと、むしろ袁家の全盛を築いた一世の怪物である。

 袁湯は息子の袁成にこの邸宅を譲った。しかし、その袁成は袁湯より先に他界し、今は誰の物になっているのか。

 

「志遥さん、華琳さん、ご覧なさい、これがお祖父さま、お父様の残されたわたくしの洛陽での家ですわ!」

「やっぱり袁湯様も、あなたと趣味が似てるわね」

「……俺は嫌いじゃないぞ」

 

 袁成の娘であった袁紹、真名を麗羽。その人である。

 彼女が伴っているのは、鮑信(曹操)、真名を志遥。曹操、真名を華琳。彼らはここ最近、よく行動を共にしていた。ただ単に麗羽が取り巻きとして従わせているだけなのだが、志遥にしろ、華琳にしろ、彼女に連れ回されることが悪いわけではないと思っている。それは、彼女が袁家の娘であるからだ。世間の目は袁紹の友達ということをすなわち、袁家の縁故と見る。それは彼らの評判を上げることにもなるのだ。袁家の名はそこまで大きい。――まあ、志遥の場合は麗羽を一端(いっぱし)の英雄にしたいという考えもあるのだが――しかし、彼らは決して上辺だけの友情ごっこを演じているというわけでもなかった。どことなく、三人一緒だと余計な重圧を感じないといったところが正直な感想であろう。故に、真名も教え合っているのだ。

 

「では、麗羽、この世が乱れているのはなぜかわかるか」

 

 そんな麗羽の家で、今日は勉強会である。志遥はこれを機会にと、麗羽を教化してみようと考えた。麗羽に宿るある感覚が、彼女を暗愚たらしめていると考えていたからだ。その感覚とは、

 

「世の中は乱れていますの?」

 

 世を見る目。である。

 

「……そこからか」

「志遥、わかってたでしょ」

「だとしてもだ、これは骨が折れる」

 

 わかっていたとは言え、無自覚なものというのは、これほどまでに愚かしいのかと、志遥は目の前の鈍物に頭を痛めた。彼女は、世の情勢を全く知らないのである。恐らくは、袁家において大切に育てられたためだろう。花も日が当たらぬよう袋で覆えば、いくら栄養も水も十分であれ、綺麗に育つはずがない。かつて志遥の戦った「袁紹」は、名族とは言え妾の子だと蔑まれ、そんなものは得られなかった。袁術にしろ、幼少の頃は、梁冀の失脚に伴って袁湯も一時的に失脚し、袁家の勢力も一時的に衰えていたので、彼の代で強くなるようにと育てられた。共にただ安穏と暮らしてはいなかったのだ。しかし、この麗羽どうであろう。全くの逆である。幸いにも、まだ取り返しのつく時期に志遥と出会った、というのがせめてもの救いであった。そうして志遥は、今日こそ彼女を変える日だ、と思ったのである。そして、その後は、華琳の存在も上手く絡めたほうがいいだろうとも考えた。二人は、対照的でありながら、性質を同じくする人間だと見えたのだ。逆を返せば、決して相容れぬ関係だとも言える。二人が互いの存在を英雄として意識し合えば、きっと良き友、良き敵として才を磨き合えるだろうと考えたのである。そのためにまず、志遥は麗羽に、才を芽吹かせるべきだと考えた。

 

「単刀直入に言おう、お前は、世間知らずだ」

「なんですって」

 

 麗羽は眉を吊り上げた。怒っている。が、志遥は構わず続ける。華琳は、気づかれぬよう小さく笑った。

 

「怒るな、事実を言っている」

「そんなことありませんわ!」

「では聞くが、お前は今朝廷を牛耳っている者たちの名前を知っているか?」

「じゅ、十常侍ですわ」

 

 この答えに、志遥は半ば落胆し、半ば納得した。

 

「それは総称であって、名前ではない。その十常侍を全員言えるかと言ってるんだ」

「それは……名門袁家にとっては瑣末な問題ですわ!」

「瑣末でも何でもない。敵を知らずして、もし、お前が今後朝廷の(まつりごと)に参加して、どうやって、その権力の頂点を敵と争うんだ?」

「それは……袁家の威光で」

「宦官というのは、皇帝の威光をためらいなく振りかざす、袁家の威光は確かに偉大だ。だが、それが通用するのは、民衆と士人らの間だけなのだ。いくら篝火の明かりが眩くとも、日輪はすべてを消してしまうからな」

「……」

 

 珍しく、麗羽が黙った。いや、今日は黙らせると、志遥はそう決めていた。華琳はその様子を見つつ、何やら思案顔となっていた。と、志遥は華琳に顔を向ける。

 

「華琳よ、お前は十常侍の名前が言えるか?」

「……張讓、趙忠、そして夏惲、郭勝、孫璋、畢嵐、栗嵩、段珪、高望、張恭、韓悝、宋典の十二人。その筆頭は張譲と趙忠ね。双方とも陛下の幼い頃から側で仕えていたから、信頼も厚い。悪知恵は働くし、朝廷工作が生きがいみたいな奴らよ」

「ふむ、麗羽、どうだ」

「な、なにがですの?」

「悔しくないか?」

「え?」

 

 麗羽は突然の言葉に一瞬驚いた。そこに間髪入れず、志遥が言葉を継ぐ。

 

「華琳に分かることをお前がわからなかったという事実にだ。華琳が知っていることの十分の一も、お前は知らない。もし、お前が華琳と戦いにおいて相対せば、兵の差が五倍していたとしても勝てるかどうか怪しいぞ」

 

 それを聞いて華琳は黙して語らず、麗羽は強く反発した。

 

「情報と戦いなんて関係ないじゃないですの!」

「大アリだ。敵の数を正確に測るには何が必要だ? 情報だ。自陣営の糧秣の量、兵士達の状況、それに伴う糧秣の消費を計るには何が必要か。情報だ。さらに言えば、兵を率いる敵の将、兵科、相手の糧秣、それに伴う消費とそれに合わせた作戦。それらは何を元手に想定する? 情報だ。こうして考えれば、情報が如何に戦を左右するかわからんでもあるまい?」

 

 志遥は静かに、しかし容赦なく言葉を紡ぐ。いつも彼は、麗羽に対し、優しく指摘することが多かった。というのは、麗羽の突飛な発言や行動に対し特に批判を加えるわけでなく、それとなく、自分の意にするところを麗羽の考えに肯定的に修正することで促し、麗羽への名声や、袁家への信頼を底上げしていたのだ。それが、ここに来てのこの辛辣な言葉である。麗羽はひどくその自尊心を傷つけられた。 

 

「そんな……私は」

 

 答えに窮する麗羽、戸惑いの表情も伺えた。悔しさも、悲しみもあった。今日浴びせられた言葉は、普段全く言われることない言葉だからだ。しかも、いつも自分を肯定し、笑顔で答えてくれるいわば「都合の良い」友人、志遥に言われたのだからなおさらである。それが、いまなんの前触れもなく自分に牙をむいてきた。そこに、刃を突き立てられたような感覚を覚えたのである。

対して、志遥のそれまでの動きの訳とは、いわば土台作りであった。麗羽がもし、教化され向上する方へ向かう時には、その成長を袁家の名が助けてくれるようにと、先のようなことを行っていたのである。そして、志遥はまた、こうも続けた。

 

「麗羽よ、お前は無知だが、聡明だ。それは俺が知っている」

 

 声色優しく、そして力強く言葉を紡ぐ。辛辣な指摘で固まった麗羽をほぐすように言葉を継いでいく。華琳は未だ黙したまま、志遥の為さんとするところを見届けんとする。

 

「よいか、俺は決して、お前が華琳に劣っていると言いたいのではない。お前は常日頃、その才のあるところを知らずにただ名家という名に流されるがまま生きてきた。それがお前の才を曇らせたのだ。俺は常にそれを心配し、いつかそれに気づいてくれるよう、それとない言葉をかけていたのだ。事実、お前の行動は俺に応じる形になっていった。気付かなかったか? お前を見る目が段々と良いものになっていったのを」

 

 麗羽とて、無知ではあれど頭がないわけではない。確かにここ最近の都の人々の自分に対する見方が変わったのは、薄々ながら感じていた。そうなった原因ついてさして考えたことはなかったが、よくよく考えれば、志遥の言葉に従ったところが大きいのだろうと思った。

 

「貴方のおかげでしたの?」

「ああ……だが、俺は、そういった行動を自分で考えて為して欲しいと思っている」

「自分で?」

「そうだ。自ら情報を判断し、それを絡めて自らの利するところに持っていく。何に基づくか、何を判断するかそれはお前が全て決めるべきなのだ」

「……」

「英雄となれ。麗羽。お前の一族が今まで、士人の頂点に立っていたのは、世を図り、人を知り、その声の応ずるところに動いたからなのだ。それは例えば先代当主の袁湯様、現当主の袁逢様とて同じこと。その志をお前や、従妹の袁術が継がねば、袁家は簡単に十常侍どもに潰されるぞ?」

 

 麗羽は黙ったままだった。しかし、先ほどと、目の色が違うのが見て取れる。力強く、意思のこもった目である。それを悟った志遥は、さらに言葉を紡いだ。

 

「少なくともだ。華琳すでに、英雄としての資質を十分に持っている」

「あら、当然じゃない」

 志遥の言葉に、ようやく華琳が反応した。しかも、その顔は自信のこもった笑顔である。そこには、麗羽何するものぞと言わんばかりの気概があるのではと、麗羽にそう思わせるだけのものがあった。

 

「まあ、麗羽のためだ、言わせてくれ。経書はもとより、兵家、法家の思想にも通じ、なにより、すでに自らの情報網を作り上げているぞ。郷里にて兵を鍛え、変事に精鋭として機能するようと準備も整えている。そしてなにより、すでに上奏文において朝廷での実績も上げているぞ」

「とは言っても、十常侍によって冤罪を課せられた士人の救済を上書しただけ。それが効果のあるものだったかは疑わしかったわ。それに……」

 

  続けようとして、しかし、華琳は口をつぐみ、顔はやや曇った。

 

「……いえ、いいわ」

 

それが何を意味するかは、今は語らないでおく。

 麗羽は愕然とした。

 

「知りませんでしたわ……華琳さんが、そんな……」

「それは知らなかったのではない。お前が知ろうとしなかったんだ」

「けれど、わたくしは……」

 

 もはや、完全に彼女の自尊心は砕けたといえよう。

 そんな打ちひしがれた麗羽に志遥は優しく語りかけた。

 

「麗羽、今から共に知れば良い。まずは、お前の頭に、情報を叩き込め。そうすれば、いずれは英雄になれる。お前には、俺にも華琳にもない利点がある」

「え?」

「四世三公という血統だ。自らの血筋に踊らされず、それを利用すれば、お前は簡単に英雄となれるのだ。家柄とは、それを傘に奢るものではない。それを元手に雄飛させるものだ」

 

 志遥は心に、かつて曹操であったころの袁紹を思い浮かべていた。少なくとも、袁紹はそうであった。死力を尽くして勝ち得たからこそ、彼の真価を測れる。

 語りかける志遥に、麗羽はか弱い声で小さく聞いた。

 

「わたくしにそれができますの?」

「できるさ。いや、できるできないではない。やるのだ」

 

 麗羽の顔がみるみる崩れていく。志遥の肩にすがり、抱きしめ。大泣きに泣き出したのだ。

 志遥はそれにただ応じ、麗羽の金髪で螺旋状の髪を、優しく撫でているのであった。

 

――外史を律す――

 

 その鳴き声が、英雄袁紹の産声となったのだった。

 

(ほほう、見ただけでもわかったが、やはり良い乳をもっておる。胸に触れる感触はまこと心地よきものだ)

「……顔に出てるわよ」

 

 ……様子を見ていた華琳に、後頭部を叩かれたのは、麗羽には秘密である。

 




次回休憩がてらコラム的な番外話を入れるかもしれません。麗羽さまの次は、華琳さまのお話になるでしょうかね。


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【三】姦雄開花

 随分久しぶりなので、お忘れの方もいると思います当在千里です。
 ようやっと重い筆が進んだので、投稿致します。



  ややときは過ぎ、夜。志遥の手厳しい指摘を受け入れ、大泣きに泣き、その後、志遥と共に勉学に励んだ麗羽は可愛い寝息を立てて眠っている。そんな麗羽とは対照的に、華琳は、夜の肌寒い廊下へとでて、ぼんやりとその中庭を眺めていた。白熱した勉強会に、月の訪れにも気付かなかったので、結局、志遥と華琳も麗羽の家にお泊まりすることになったのだ。

手元には、酒瓶と杯、彼女の目は中庭の池に映る月を見ている。しばらくすると、少し悲しげな面持ちで歌を紡ぎ始めた。

 

――酒を前にして理想を歌う 

  

  税の取立てに役人は呼ばれず

 

  王は賢くさらに聡明

 

  宰相股肱は皆忠良で

 

  礼儀を知って譲り合う。

 

  民は訴訟に走ることなく

  

  三年耕し九年の貯え

 

  倉に穀物満ち満ちて

 

  老人は仕事をせずに済む

 

  雨もかくの如く降るならば

 

  百もの種が豊かに実り

 

  馬もいくさにでることはなく、田畑でのんびり糞をする

 

  爵位は公侯伯子男

 

  皆すべからく民を愛し

 

  人材は賢愚で選別されて

 

  民を養うに父や兄のよう

 

  礼法犯した者たちには

 

  その軽重で罪が決められるので

 

  落し物を盗る輩は現れない

  

  牢屋は年中空っぽで

 

  冬にも裁判の判決はなく   ※後漢代、裁判の判決は十二月に行われていた。

 

  老いては天寿を全うし

 

  天子の恩徳、草や虫にも行き渡る――

 

 

「随分としおらしい詩を歌うものだな」

「……私だって花も恥じらう乙女よ。当然でしょ」

「世を憂うくらいなら、世を変える気持ちを持たねば」

「わかってるわよそれくらい。言われなくても……」

「今日はやや、言葉が弱い」

「……うるさい」

 

 詩を歌い終えた華琳に、話しかける影。月明かりに照らされた顔を見れば、それは志遥であった。

 月光に照らされた華琳は、さながら嫦娥(じょうが)のように見える。しかし、ただ、凛として美しいだけでないことを志遥は見逃さなかった。その双眸(そうぼう)は、微かに、湿り気を帯びていたのだ。

 

「忍んで泣いた涙を隠さないのは、女の特権だ」

「なによそれ」

「泣きはらした顔で凄んでも、ひとつも怖くない」

 

 そう言われ、華琳は志遥を睨みつける。それに対して、志遥は余裕綽々といった風に笑うだけであった。

 

「最近のお前は暗い」

「……否定はしないわ」

「そうなったのはいつからだったかな。陳耽殿が誅殺された時からか」

 

 物言わず、睨みつけた視線は徐々に下がり、華琳は結局俯いた。

 陳耽とは、人臣の頂点である三公のうちの一つ、司徒に就任していた人物である。そして、元は志遥ら三人の塾の師でもあった。宦官の孫であると後ろ指を指されることも少なくなかった華琳の、その才能を高く評価していた一人であった。そしてなにより、華琳に上奏をするよう勧めた人物でもある。

 

「宦官はお前を殺せはしない。曹騰様が怖いからな」

 

 志遥は華琳の反応を見つつ、さらに言葉を続ける。

 

「陳耽殿も、それを承知の上だっただろう。たとえ罪に問われたとしても、犠牲なるのは指示をした自分だと考えた。だからこそ、お前に上奏文を書かせたのだ」

 

「わかってるわよ、そのくらい!」

 

 華琳が声を荒らげた。その叫びは夜の庭に虚しく響く。

 

「……それでも、あんまりじゃない」

「宦官の孫という因縁に助けられたことか? それとも、敬愛していた陳耽殿が自分のために犠牲になったことか?」

「どっちもよ……結局私、何も出来なかった」

「そうだとしても、お前が自責の念に駆られる必要はない」

「だってあんまりじゃない! 勇んで上奏した言葉は黙殺され、代わりに大切な人がいなくなった。私にいくら才があっても、力がないなら意味がないわ……」

 

 その言葉に、志遥の心は揺れた。若かりし頃、自らが理想に燃えていた頃も、こうであったと。才など、大きな力の前ではなんの役にも立たない。力と才能を同列に見るべきではないのだ。才とは手に入れた力を自由に使いこなすためのもの。ならば、才を活かすには、持つべき力というものが必要なのだ。大きな力を持って初めて、才あるものはそのつぼみを花とすることができる。袁紹、袁術には、家柄という大きな力があった。董卓や公孫瓚には軍事力が。自分や劉備にはそれがなかった。しかし、才だけはあった。では、力がなかった彼はどうしたのか?

 

「だったら、自分で力を掴み取れ。世は乱れているのだ。そのほころびに、お前が付け入る隙はある。なければ、作れば良い」

「そんな…」

「そんなこと、どうしてわかるのか、とでも言いたいのか」

「!」

「わからんさ。だが、俺はこうも思う。お前の才を見捨てる天下なぞ、俺が認めん」

 

 志遥の眼差しはまっすぐ華琳を見ている。思わず、視線を逸らしそうになるのを華琳は抑えた。ここで彼の眼差しを避けるようなら、自分は、彼の期待する華琳ではないと、そう思ったからだろう。より強い眼差しで、志遥を見返した。

 

「……あなたに認めてもらえなくても、私がそれを許さないわ。だって、私は曹孟徳なんですもの」

「だろうさ」

「だけど、こうも思うわ。あなたが傍にいない天下なんて、私が認めない」

 

 二人の間に不敵な笑みが交差する。

 

「お前が認めなくとも、俺はお前の傍にいる。才が統べる天下を、この目で見たいからな」

 

――俺は、曹孟徳なのだから。

 

 月夜の下に、二人の姦雄はまことの邂逅を果たした。

 




 次はいつになるかわかりませんが、オリジナル武将登場です。

 ついでに詩の解説。
 曹操の「対酒」という詩です。若い頃の作品で、自分の国家に対する理想が語られています。天子の恩徳が、草や虫にも行き渡るってところが、曹操の繊細さを垣間見られる作品ですね。


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【四】暴走特急・惇

 今回は日常回と本筋の間ぐらいの密度の話になった気がします。しかし、容量は今までより多い……そして主人公以外の初のオリキャラ登場です。二人。しかし、ちゃんと名前が出てくるのは一人。多分、もうひとりの紹介は次回ですね。

5/21 誤字修正しました。 


 無人の野のごとく、洛陽の街道を疾走する影があった。黒い長髪は風になびき、それを目にしたものからは、黒い火の玉のようにうつる。

 

「秋蘭、あかんわ。馬でもおいつけへん」

「まさか、こんなことになるとは」

「とりあえず、ねーやんが先回りすると言っとったさかい、あっちに任せるしかないやろう」

「逆に、心配になってくるが…」

「ワイはあいつが壊したもんの修理費用が心配や」

 

 それを追いかけるふたりの少女。しかし、その黒い弾丸に追いつけるはずもなく、立ち尽くす結果となってしまった。

 

「春蘭に話すんじゃなかったわ。死なないでね、志遥」

 

 こちらでもまた、馬を駆る華琳が祈りの言葉とともに疾走していた。

 奇しくも、目指す先は志遥の家であった。

 

のどかな庭の陽の下で、志遥は書を嗜んでいた。正直なところ、巷間に出回っている書物に関して、志遥はほぼ頭の中に収めているため、書を読むことは必要ではなかった。しかし、自らの思索を巡らすには、文字を見ながらの方がやりやすい。それが、志遥の前世からの癖である。頭の中を文字で埋め尽くし、その中から、答えを言葉にしていく。そんな風にするのが、心地よいのだった。

 

「たまにはこういう日もいいものだ」

 

 今日は華琳も麗羽も、郷里からの親類縁者が来るというので、志遥が一人、優雅に時を過ごしている。母の鮑丹は侍中として、皇帝の側で働いているため忙しく、中々家に帰って来ない。召使たちにも今日は休暇を取らせているので、家にいるのは彼と、

 

「お兄様、お食事の用意ができましたよ」

「おお、想遥(そうよう)。すまないな」

「いえ、むしろお口に合うか不安です」

 

 妹である、鮑韜(ほうとう)、真名を想遥だけであった。

 彼女は志遥と父親の違う妹で、性格はおとなしく、いつも笑顔を絶やさぬ少女である。志遥と同じく、黒い髪に、志遥とやや異なる柘榴石の瞳。幼い頃から志遥とともに勉学や、武芸を嗜んだため、本人が思っている以上に、その能力は高い。特に武術に関しては、志遥も舌を巻くほどの冴えを見せていた。

 

「腕を上げたな。この韮饅頭、うまいぞ」

「お気に召したようでわたくしも嬉しいです」

 

 最近は料理や裁縫に興味を持っているようで、志遥や母鮑丹、給仕達の指導のもと、めきめきと腕を上げている。なぜ急に興味を持ったのかと、志遥は思ったが、きっと繊細な、女心の成せる技かと、聞かないでおいた。その女心の向いている先は誰かも知らずに。

 二人は、食事を楽しみながら、談笑していた。他愛のない日々の出来事から、天下国家に至るまでその話題は様々である。志遥の次から次へと変化する話題に、想遥はしっかりとついていった。どこからどう見ても仲の良い、微笑ましい兄妹の姿。幸せな時間が、その場には流れていた。のだが……

 

「鮑信はどこだあああああああああああ!」

 

 そんな静寂な風景に突如、暴風のような影が飛び込んだ。ギロリと光る双眸が、突然の出来事に驚きを隠せぬ志遥を認め、手に持つ愛刀、七世餓狼が言葉よりも早く、振り下ろされんとした。

 

「お兄様危ない!」

 

 言うが早いか、想遥は志遥を突き飛ばし、自らはひらりと宙返りを打つと、食事をしていた卓を蹴り上げ、侵入者の視界を塞いだ。ちなみに志遥の目に、妹の下半身を守る、桜色の布地が見えたことは秘密である。

 

「無駄だ!」

 

 影は横へ一閃、瞬時に卓は真っ二つとなり、そのまま横へと吹き飛んだ。が、

 

「ム、いない!?」

 

 その間に、二人は屋敷の中へと退避していた。

 

「どこに消えた!」

 

 立ち止まった件の影を見れば、それは、華琳の従姉妹である夏侯惇、真名を春蘭であった。

 

 退避した兄妹は、召使たちが休憩に使っている部屋を目指した。そこには、護身と防犯のための武器が用意されている。おそらく逃げることには限界がある、ならば、騒ぎを聞いて執金吾(官職の一つ、主に、都の警備を担当する。ちなみにイケメンじゃないと入隊できない)の兵が到着するまで時間を稼ぐべきだと考えた。幸い、どちらも武芸の心得はある。それに、鮑家は帝に仕える侍中の家だ。兵士の到着も、そう遅くはないだろう。二人は剣を手に、互いに目で合図した。

 

「そこか!」

 

 春蘭が扉を打ち破り、侵入する。二人は剣を構えて相対した。志遥は、どこか既視感がしてならない目の前の女に声をかける。

 

「この屋敷に何様だ。鮑侍中の屋敷と知っての狼藉か」

「貴様が鮑信か。我が主に無礼を働いた罪は重いぞ」

「ほう、私がお前の主人に無礼を。お前の名は」

「我が名は夏侯惇! 曹孟徳に仕えし大剣なり!」

「……」

 

 志遥は名を聞いた瞬間、これが九割九部九厘、誤解であることを確信した。そして、前世でしこたま夏侯惇に学問をさせ、分別をつけさせた自分を褒めた。そしてまた、心の中で叫んだ。惇のバカちんがあああああああああああああ!!!!!!! 

 

『すまない、孟徳。俺、やっぱ後世じゃ猛将扱いなんだぜ(グッ』

『わざわざ、頭の中に出てくるなむさくるしい! 眼帯パッチンしてやるぞ!』

 

あくまで心の中で完結しているが、志遥は心底狼狽えていた。それを春蘭は見逃さず、すかさず斬りかかる。志遥も咄嗟に剣で防ごうとするが、間に合わぬと思った瞬間

 

「どんな理由があるにしろ、お兄様には指一本触れさせません」

「む、邪魔をするな」

「邪魔をさせていただきます!」

 

 激しい金属音とともに、七星餓狼が弾かれる。見れば、春蘭の前には想遥が立ちはだかっていた。しかし、尚も斬りかかる春蘭、その刃を、その都度想遥が受け止め、受け流し、反撃している。打ち合いは激しさを増していき、常人では、可視できぬ程であった。流石の志遥も、息を呑む戦いである。

 春蘭は岩のようである。対する想遥は水のようだ。打ちかかる相手の剣を無理に受けることなく、あるいはいなし、あるいは躱し、隙あらば懐へ潜って差し貫かんとする。打ち合いながらも、互いに睨み合いのような空気が流れていた。

 

「むぅ、やるな」

「其方も中々」

 

 刃を交えて、二人は互いに互いの武勇を認め合った。故に、双方とも、次の一撃が最後になると確信した。

 ジリジリと、空気が張り詰めている。陰陽が交わり、太極へと向かうかのような雰囲気である。見つめる志遥の額にも、汗が浮かんでいた。それは徐々に大きくなり、頬を伝って、落ちる。

 

「せええええええええええい!」

「はぁああああああああああ!」

 

 それと時を同じくして、決着を付けるため、掛け声とともに二人が互いに飛びかからんとしていた。と、

 

「春蘭、やめなさい!!」

 

 一喝が、春蘭を止めた。見れば、華琳である。目は怒りに燃え、春蘭を見つめている。振り向いた春蘭は驚愕とも、おそれとも取れない顔になっていた。華琳はすぐさま視線を志遥に移すと、申し訳なさそうな顔で口を開いた。想遥は華琳の登場によって志遥への危険はなくなったと感じ、おとなしく剣を引く。

 

「志遥、ごめんなさい。謝って済むことではないけれど、できる限りのことをさせてもらうわ」

「華琳様! そんなこと言う必要は……」

「黙りなさい春蘭! 話も聞かずに飛び出して、あまつさえ、鮑信殿の命を奪おうなんて。貴女のしたことは、私の名誉も傷つけることよ!」

「そんな……」

「第一、 志遥が私に何をしたと思ったのよ」

「か、華琳様がこやつに、夜に不遜なことをされたと……」

「私は「志遥は月夜に不遜な言葉を私に言ったけれど、それが私を奮い立たせた」と言ったはずなんだけど。どう解釈したらそうなるのかしら」

「うぅ……」

「春蘭、貴方は人? それとも獣? 犬だってもう少し利口な判断ができるはずなのだけれど」

「華琳、それぐらいにしてやれ」

「志遥は黙ってて」

「お兄様、この者の無礼を許してはなりません。今日のお兄様は少しお優しすぎます」

 

 いつもは果断な志遥も、今回ばかりは、悩む。襲撃の相手はあの夏侯惇だ。仕方ないと、妙に納得してしまう節がある。

 

『ごめん孟徳、漢中で迷子になったから敵の砦潰してきた』

『お前一応前将軍だよな!?』

 

 頭の中で、在りし日の夏侯惇を思い出す。そしてやはり改めて考えても、目の前の彼女を憎めなかった。

 

「曹操様、この責任はどう取るおつもりですか。屋敷の一部は壊され、鮑家の次期当主が殺されかけたんですよ」

「返す言葉もないわ」

「夏侯惇殿? ですか。たとえ自らの主君が辱められたにしろ、このやり方はいかがなものでしょう。これでもし、貴方がお兄様を殺したのなら、曹家そのものが消えかねない事件です。お兄様と曹操様は、真名を交わされた仲。貴方は二人の強い絆すら否定したことになります」

 

 春蘭は華琳と想遥の両者に責められ、小さく縮こまってしまった。髪の生え際、その真ん中より生えるアホ毛は、力をなくしてしなびている。あ、可愛い。と志遥が思ったことは、この場では口が裂けても言えない。これ以上弱った姿を見るのも忍びないので、志遥は助け舟を出した。

 

「それまでだ。華琳も想遥もそれ以上はいけない。このとおり、俺は無傷だ。夏侯惇殿も、反省しているのだ。今回は、不問としようではないか」

 

 もちろん、壊した家屋の代金は支払ってもらうが。と、結んで、志遥は二人を見渡す。二人は納得いかない風ではあったが、本人がこう言っているので、それ以上は言わなかった。そして志遥は、春蘭に向かう。

 

「夏侯惇殿、貴殿の忠心は俺の心を打った。しかしな、過ぎたるは猶及ばざるが如しだ。主を慕うのはいいが、それで周りを見えなくなるのは、良くない。真に主に忠を誓うのなら、主が求める行動を鑑みるのだ。今回は、いい勉強になったな」

「ほ、鮑信どの……」

 

 春蘭の目はうるみ、子犬のようにプルプル震えていた。無礼を働いた自分を、これほどまでに優しく許してくれたのである。一種の感動が、春蘭に舞い降りた。ちょうど番犬が、その人を家人と認めることに似ている。

 

「あなたらしくもない。春蘭に対して甘すぎよ」

「なぜかわからんがな、俺は夏侯惇殿を憎めんのだ」

「鮑信どの!」

 

 意を決した風で、春蘭が志遥に向かって叫ぶ。彼が振り向くと、彼女は額を地面に付けて言った。

 

「どうか、私の真名を預けさせていただきたい!」

「春蘭!?」

「ほう、俺は一向に構わないが、理由を教えていただきたい」

「私の無礼を許してもらった上、それを責めるどころか、むしろ、私を諭してくださった! 私はその恩に報いたい! しかし、今の私には何もできない! だからこそ、私のせめてもの気持ちを込めて、私の真名、春蘭をあずけたいのです!」

 

 驚くべきことである。華琳以外に目もくれない春蘭が、志遥に対し、敬意を払ったのである。そのことに一番驚いたのは、華琳であった。

 

「春蘭、貴女……」

「お許しください、華琳様。当然、私の心は華琳様のものです。しかし、どうしても、私はこの方にそうしないといけない気がするのです」

 

 真っ直ぐな瞳であった。華琳を一心に慕う時の瞳と同じ類のものである。そんな春蘭に、華琳は何も言えなかった。この瞳こそが、春蘭を春蘭たらしめるものであり、その類まれな武勇よりも、最も愛すべき点であると思っているからだ。けれど、志遥に対して、どこか、鏡を見たときのような、違和感を感じずにはいられなかった。

 

「それでは、俺もまた、貴殿に真名を託そう。そうまで言ってくれるのだ。俺もそれに答えなければ。よろしく頼む、春蘭」

 

 志遥もまた、華琳が見たのと同じものを、春蘭の中に見た。そして、自らが最も信頼したかつての夏侯惇の姿を思い描いた。彼もまた、真っ直ぐで飾り立てない男であった。自らではなく、曹孟徳を見て生きていた。その姿を春蘭を通して、思い返したのだ。そしてまた、改めて、外史の世に生まれたことに喜びを覚えた。

 

「……」

 

 そして、その様子を静かに見ていた想遥には、複雑な思いが駆け巡っていた。自らが慕う兄は、どうしてこのように広く大きいのだろう。自分は正直なところ、この夏侯惇という女性を許しきれていない。許されるなら、ひざまずく彼女に対し、剣を振るうことすら考えてしまう。それだけ、兄を傷つけようとしたという事実は、想遥にとって大きなものであった。心を圧迫するしこりが、彼女の中に残ってしまった。

 

 三者三様の思いが、春蘭を中心にして、その場に渦をまく。その姿は見えず、表面上は、ただ穏やかな終局へと行き着くことになりそうだった。このままの雰囲気であったならだったが……

 

「あらあら、みんなで仲良く遊んでたのね、で、これはどういうことなのかしら」

 

 ――声のする先を見ると、そこに鬼がいた。

 

「「母上……」」「おばさま」「誰だ?」

 

 ぶち壊された扉や、そこかしこにできたヒビを見て、志遥の母である鮑丹は笑いながら小刻みに震えていた。笑顔だが、笑っていない。

 

「志遥、説明してくれるかしら?」

 

 その矛先は無論、志遥に向けられる。戦場でも中々感じない恐怖を、志遥は覚えた。

――その後、みんなこってりしぼられたのは、言うまでもない。

 




 真の春蘭のばかわいい感じは好きです。
 妄想夏侯惇はカバー裏的な感じで度々出てくると思います。

 ちなみに執金吾がイケメンオンリーって話はガチのようです。


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【五】暗中金煌

 算盤を弾く音がする。それは、卓上で少女が弾いているものであった。彼女の髪は華琳と同じ金髪で、春蘭と同じくオールバックにアホ毛で、その長い髪を後ろで一本結びにしている。算盤を弾く彼女の目は真剣そのもので、一銭のムダも出すまいと細心の注意を払って計算をしているようである。その卓の向かい側では、華琳が手をつき、真剣な眼差しでそれを見つめていた。

 

「鮑信はん家の修理代と、鮑信はん自身への賠償金、ほいからもみ消しのための執金吾への付け届けを含めて……ざっとこんなもんやろか」

 

 計算をし終えた少女は、華琳に算盤を見せる。華琳はそこに示された金額をみて、ホッと胸をなでおろす。

 

「曹家の倉から出せるかしら」

「まぁ、大丈夫やと思うで。春蘭が暴れて壊したー! やったら、みんな納得するやろし。ただ……」

 

 少女は眉をひそめ、やや沈黙の後、口を開いた。

 

「師匠がごっつぅ怒るやろな……」

「金華には、私から言っておくわ」

「おぉ! さすがねーやん、ほんまありがとう」

 

 華琳の言葉を聞いて、彼女は満面の笑みで感謝を述べる。

 

「華月、いつもごめんなさいね」

「いまさらやで、ねーやん。春蘭の暴走なんていつものことやし、いちいち気にしとったらこっちが持たへんで」

「それもそうね」

 

 華琳がそう言うと、共に小さく笑った。華琳と話す彼女は、春蘭や秋蘭と同じく華琳の従姉妹である、曹洪、字を子廉、真名を華月と言った。商人肌な少女で、その口調も、師と仰ぐ人物を真似て、少し変わった風にしゃべる。数字の計算、特に、金銭の計算を得意としており、曹家の財政を預かっていた。

 

「しっかし、あれやな。ねーやん。女のケツばっかし追いかけとったねーやんに、ねんごろの若い衆がいるとは思わんかったで」

 

 華月はやや意地悪そうな笑みを浮かべて、華琳に言った。対して華琳は平然としたまま返す。

 

「あら、志遥はまだ、心許しあう「友人」よ」

「「まだ」ってところがねーやんらしいわ」

 

 また小さく笑う。挙動が同じところを見れば、流石、親族といえた。春蘭、秋蘭よりも遠慮がない。主君ではなく、親族として、華琳と接する数少ない一人である。二人の笑いはほどなくぴたりと止み、代わりに、二人の顔は主と臣のものとなる。

 

「あなたから見てどう? 洛陽は」

「どうもこうも、商売の張りが悪なっとる。一部の金なし専用御用商店は繁盛しとるみたいやけど、民衆寄りの店になるにつれ、げっそりしょげかえってしもとるで」

 

 金なしとは、金銭のことではない。趣味の悪い、華月の言い換えである。つまりは、去勢された宦官が使用してる商店のことを指している。

 

「やっぱり、そう思う?」

「せや。原因は確実に、これやな」

 

 華月は親指と人差し指で輪っかを作る。

 

「五銖銭……」

「ご名答。流通しとる五銖の質が明らかに落ちとる。……銅の流通が滞り始めとる証拠や」

 

 貨幣の質は、そのまま経済に影響を与える。貨幣の価値がその質で決まってしまうのだ。貨幣の質がしっかりしたものならば、その対価として物は提供される。そのため、良質な貨幣を作るための銅は、必要不可欠なものである。銅は、その多くが南方から来ている。

 

「最近、益州牧と、荊州刺史が変わったわ益州は劉焉、荊州は劉表のようね」

「江夏に、漢中のお山さんか。劉姓っちゅう目玉商品もおまけに付いとる」

「嫌ね、簡単に名乗られたら」

「……せやな」

 

 華月が商品と形容した劉姓とは、文字通り、劉邦から連なる劉氏一族、つまりは皇族であるということを指していた。後漢の創始者である光武帝は、劉氏という姓をもとに、自らを正統とし、冀州という一大人口集積地を背景に天下を再び統一した。もしかすると、この二つの州の劉氏は、第二の光武帝にならんとしているかもしれないのだ。特に、益州及び漢中は漢の高祖・劉邦ゆかりの地。一族の起源の地、ということから正統を称することは十分考えられたのだ。事実、史実における劉備は、そうした。今、二人の劉氏が、銅山のある地を抑えたことで、銅の流通を滞らせている。

 

「急がんとあかんな。色々と」

 

 為政者たるものが、己の権益のために経済を乱しているのである。民の余裕はなくなり、最低限の仕事もできなくなる。民に余裕がなくなればどうなるのか。人々が言うところの「災異」の発端となる。

 華琳はその言葉に物言わず頷く。華月はその様子を見て取ると、懐から折りたたんだ書状を取り出し、華琳に差し出した。

 

「あ、そ〜やった……これ、師匠からねーやんに。先行投資の御免状って言うとったんやけど、わかる?」

「あら、随分早かったわね」

「なんや。やっぱ知っとるんか。ワイには内緒の話なん?」

「いずれわかるわ」

 

 華琳はそう言いながら、その書状を読んだ。そして満足気な笑みを浮かべ、卓に置かれた茶をすする。その様子に、華月はやや不満げであった。

 

 

「やりましたわね、あの性悪女」

 

 麗羽は目の前の竹簡に対してそう呟いた。顔には、悔しげな表情を浮かべ、唇を噛み締めた。竹簡に書かれていたこととは、曰く、「袁本初を渤海太守に任ず」と。

 無官である麗羽にとっては一見、栄転のようにも思える。しかし、蓋を開ければ、中央から切り離され、袁家の本拠がある汝南からも遠ざけられた形となっている。これでは、袁家の影響力を封じ込められたと言っていい。

 都での彼女の名声は日に日に高くなっていった。志遥と共に学を身に付け、武を収め、互いに議論を重ねることで智を磨き、才あると目された人物、これと目をつけた人物には自ら会い交友を広げ、自他共に認める袁家の実力者となったのである。しかし、それをよく思わぬものがいる。彼女の従妹であり、現在の袁家嫡流である袁逢の愛娘、袁術の一派である。袁術自身は麗羽に対してさほど敵対心を燃やしているわけではない。むしろ、自分より目立つ従姉妹の姉が羨ましい、恨めしいといった程度の気持ちである。親族としての親愛の情も当然あると言って良い。故に、麗羽の言葉の向かう先も、袁術自身には、向いていない。そのそばに仕える傅役。張勲に向けられていた。袁術のそばに長らく仕えている彼女は、都での麗羽の名声が、袁家嫡流としての袁術の立場を危うくするものと判断し、都から遠ざけ、且つ、表向き利であるようにみせて、麗羽を貶めた。雄飛をせんとした麗羽の羽を、むしり取ったのだ。

 

「姫~、会いたいってひとが来てるよ~」

 

 と、不意に声をかけられ、麗羽は顔を向ける。見れば、文醜、真名を猪々子がそこにはいた。来客は珍しくないので、いつものように、猪々子に通すよう伝える。しばらくすると、深い灰色の髪をした少女が入ってきた。ややツリ目がちで、鼻筋に、ちょこんと小さなメガネを乗せ、物腰は柔らかだが、どことなく、油断ならない。麗羽の眼前に立つと、礼をとり、その場に跪いた。

 

「お目通り感謝致します。袁本初様」

「かまわなくてよ。家に訪ねたる士を迎えるのは、当然のこと。それで、わたくしになんの御用ですの?」

 

 麗羽は早く先を言えと暗に促す。その様子を少女はチラと見て、口の端をニマリと歪ませた。

 

「袁家の檻から抜け出された、袁本初様のご栄転を祝しに参りました」

「……なんですって?」

 

 一瞬の怒りをどうにか抑えた。どうやら目の前の少女は、どうやって仕入れたかは分からないが、麗羽の渤海太守就任を知っているようであった。そして、おそらく、その意味するところも知っている。その上で祝しに来た。と言ったのだ。

 

「お聞き逃しになりましたか。袁本初様。袁家の檻を抜け出された、貴殿の栄転を祝しに参ったのです」

 

 麗羽は思わず立ち上がった。怒りからである。そして目の前の少女を睨む。しかし、少女の顔は以前不敵で、睨みつけた麗羽を歪な笑顔のまま見つめ返す。

 

「あまりお怒りになられますな。少し、考えて見てくだされ。確かに渤海に行くということは、袁家の勢力下である洛陽や汝南から離れることにはなりましょう。しかし、逆にこうであるとも言えます。名声はあれど、袁家では下風に立たされている貴殿が、自らの力を手に入れる機会であると」

 

 その言葉に、麗羽の怒りが下がっていく、この少女は、自分に何を話すつもりなのか、その興味が、怒りに勝ったのである。

 

「……お続けなさい」

「ありがとうございます」

 

 少女は歪んだ笑みをさらに歪め、今一度拝礼してから、話を続けた。

 

「そもそも、渤海は冀州に属す土地。冀州は光武帝の時代より都のある司隷と並んで、人口の集積地として栄えております。事実、光武の覇業はその根拠地を冀州として始まっており、覇者の地、と言ってもいいでしょう。つまり、冀州を勢力地盤として押さえれば、今の袁家など比べるべくもない力になる。袁家の袁本初、ではなく、袁本初の袁家を手に入れられるということです」

「けれど、わたくしが任ぜられたのは、一郡の太守。冀州の牧には、韓馥殿がすでに着任しているはずですわ」

「わたくしは韓馥の為人を存じておりますが……庸人です。どっちつかずな凡愚と言えます。配下には有為の人材が幾人かいるようですが、それを見出し、使いこなす器量を持ち合わせてはいない。わたくしの案ずる策を講じれば、有為の人材を切り離し、孤立させ、ほどなく貴殿が冀州牧となりましょう」

 

 少女の顔は歪な笑顔に歪みながら、その自信を隠すことなく表に出している。麗羽はそんな彼女に一種の嫌悪を感じながらも、話に引き込まれずにはいられなかった。

 

「あなたはそれが出来るおっしゃるのですね」

「無論」

「それが果たされたとき、あなたは何を望みますの」

「……貴殿の闇になりとうございます」

 

 不可思議な言葉である。地位や、褒賞ではなく、闇になりたいと、彼女は言った。

 

「闇とは、どういうことですの?」

 

 単純な疑問。麗羽の口からこぼれた言葉に、少女はやはり、ニヤリと歪めて答える。

 

「貴殿の欲すもの、消したいものを言葉にし、実現する。貴殿が言葉にできないものを、包み隠さず。私が言う。そういうことです」

 

――外史を律す。

 

 麗羽は少女の側に歩み寄る。その顔は、およそ彼女らしからぬ、仮面のような冷ややかさが宿っている。

 

「名乗りなさい。あなたの名を」

 

 麗羽が紡いだ言葉に応え、少女は、こうべを垂れて返した。

 

「――逢紀、字を元図。真名を暗思と申します。我が君」

 



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【六】大河流流

 


 志遥はその日、母の呼び出しを受けた。先日の春蘭襲撃事件で鮑丹から大目玉を食らった彼は、その後しばらく外へ遊びに出かけることを控えた。屋敷に戻ってきた召使などに事情を説明したり、修理の要請に行ったりと、それどころではなかったことも理由である。そうして幾日か後の呼び出しである。まだ怒り足りないのかと、訝しみつつも、黙って母に会うことにした。

 

「志遥です」

「入りなさい」

 

 鮑丹に促され、志遥は彼女の書斎へと足を踏み入れる。書や竹簡が整然と並べられ、綺麗に整頓をしてある部屋で、鮑丹は座して待っていた。志遥は彼女の前に膝まづき、礼を取る。

 

「母上、なんのご用でしょうか」

「よく来たわ。長くなるから、とりあえず座りなさい」

 

そう言って鮑丹は、あらかじめ設けていた座へと、志遥を促す。志遥は促されるままそこに座った。

 

「とりあえず、この前の騒動の弁償、先ほど曹家から正式に謝罪が入りました。この件はお互いに大事にならないようこれ以上は問題にしないことにします」

「それは、なにより」

「華琳ちゃんとの仲が気まずくなるのも嫌ですものね」

「ええ、まことに」

「それとね、志遥。前から気になってたのだけど……麗羽ちゃんと華琳ちゃん、どっちが本命なの」

「はっ、麗羽は家柄もさる事ながら、最近はめきめきと才を高めております。華琳はもともと天賦の才あり、それを自覚し、さらに高めようと努力しており、すでに気風備えた傑物です。しかし、どちらもまだまだ成長途上。今明確にどちらか、とは、言えませんな」

「志遥」

「なんでしょう」

「違うわ」

「は」

「どっちに仕えたいかじゃなくて、どっちが女の子として魅力的なのかを聞いているの」

「そっちですか」

「ええ」

 

 鮑丹の顔は真剣である。嘘は吐かせない。そういった意志がこもっていたと言って良い。志遥はその顔に真っ向から、向かっていく。

 

「……華琳は、共に歩みたくなります。あいつはいつも孤高であらんとし、故に孤独です。だからこそ愛おしい。麗羽は、行方分からぬ身を、支えてやりたくなります。心はまだ汚れなく、それ故に危い。だからこそ、愛したい……」

「どちらも甲乙つけがたいと」

「はい」

「欲張りね」

「英雄は色を好みます」

「泣かせるわよ」

「泣かせる前に涙を掬いましょう」

 

 無理なことをやるとも言った。両雄並び立たぬところを立たせたいと、言っているのだ。相変わらず、鮑丹の目は厳しいが、志遥の目も嘘を言わない。

 

「……ほんとに貴方は鮑家の子かしら」

「母上の子ですから。鮑家の子です」

「ふふ、私が母でないなら、貴方は私の夫だったわ」

「ふっ、お戯れを」

 

 おそらくあの子も、と言いかけ。鮑丹はやめた。想遥は私のように、戯れでの言葉では済まされないかもしれないと、思ったのだ。

 志遥もまた、この人が母でなければ、俺は隣に居てほしかった。と思う。強く、美しい彼女に、自らの正室だった卞の面影を感じた。

静謐な時間が流れる。共に、微笑した。

 少しして、鮑丹はおもむろに書簡を渡した。志遥はそれを受け取り、一瞥する。鮑丹には、先程までの微笑は消え、鮑家当主としての顔があった。

 

「貴方への招聘状よ。大将軍の何進から」

「……私を騎都尉にですか」

「ええ。陛下の近辺を警護して欲しいそうよ」

「宦官、というより陛下自身の監視ですね。ついでに鮑家をこちら側に取り込みたいと……想遥も伴いたいのですが」

「本人に聞いてみなさい。断る道理もないでしょうけど」

「分かりました」

「最近の朝廷はきな臭い噂ばかり聞くわ。行くなら心しなさい」

「無論。それで、母上は」

「引退するわ。貴方が独り立ちしたからね……郷里で、根回しはしておくわ。変事には募兵しに来なさい」

「……ありがとうございます」

 

 志遥は鮑丹に拱手する。頼りになる根拠地ができた。と、言って良い。何進も、実力のある豪族の私兵や名声を頼りにして、その子息達を取り込んでいるのだろう。であれば、あちらにとっても、好都合だ。

 時代が、動き始めている。そう、志遥は実感している。しかも、この世界は性急である。そう思えるほど、様々なことが動き始めていた。

 

――華琳や麗羽に会っておきたい)

 

 時代が進むのならば、歴史は彼女らをほうっておくはずがないだろう。と、志遥は確信に近い思いに至る。かならず、彼女らは渦中の人物となっていく。もしかすれば、会えなくなることもありえた。

 志遥の思いのとおり、時代は急速に、しかし、確実に乱れていくことになる。それも、彼の前世とは大きく離れた形で。

歴史は、水である。常に形を変え、消して同じ形になることはない。ゆえに、人々はその水の中でもがき、新たな形を与えていく。その形を変えたものこそ、外史、と呼ばれるものだろう。

 志遥はようやく、外史の門前に立ったと言って良い。

 



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【七】饗宴至極

 遅れて大変申し訳ない。これ以外、もはや言葉はありません。


【七】饗宴至極

 

 その日、華琳、麗羽、志遥の三人は正式に日時を決めて会うこととなった。それぞれが、官に叙せられ、一時の別れとなったからである。場所は、袁紹の屋敷。相変わらずゴテゴテとした外観であったが、しかし、一時のところかまわぬ過度な粉飾は消え。やや、落ち着きのある佇まいを手に入れていた。それが、むしろ威を備えさせている。身を慎みて、むしろ飾らるといったところであろうか。また、そのように心境の変わった麗羽の立ち振舞いも、落ち着きが芽生え、それに加えて、彼女の生まれながらの気品が王者の気風を与えていた。

気風といえば、他の二人も負けてはいない。常に覇者の如くあれと自分に言い聞かせているのであろう華琳は、すでに覇者のそれを手にしていると言ってもいい。しかし、それは麗羽と華琳が、近しくも対極に位置していることを、むしろはっきりとさせているようにみえる。そして、志遥。彼のそれは形容が難しい。王と覇の間にあって、なお、その威に抑えられることのない異様な威容を備えているのである。覇道が陰、王道が陽とすれば、その陰陽両者を内包している、太極。であると言えるのかもしれない。言葉を借りるならば、前漢の武帝に仕えた司馬相如の、その賦に題された、帝王の仙意を知る、超越的な王「大人」と呼ぶのがふさわしいであろう。

三人が顔を合わせる。気勢の昂まりが、部屋に満ち満ちている。彼らが、まだ着任してもおらぬ若輩の見習い官吏や将校だと誰が思うだろう。三人の王がそこにはいた。

 

「中央に召されたのは俺だけか。大将軍も見る目がない」

「わたくしにも招聘の話は来ていたのですけれど……途中で唐突に美羽さんが招かれましたので」

「あら、袁術が? 袁家とは言え、その嫡流にはかなわないってことね。」

「ええ。そういうことですわ……華琳さんには、招聘は無かったと聞きましたけれど?」

「どうせ宦官の孫だからってあいつらとの結託を怪しんだんでしょ」

「そうでなくても何か企んでそうですものね」

「言ってなさい。麗羽も胸中の野心がこぼれないように気をつけたら」

「ご忠告ありがたく受け取りますわ。華琳さんも……ああ、そうでしたわね、華琳さんにはこぼれるほど胸はございませんでしたわ。」

「……胸の話はしてないでしょ」

「狭い器が、その胸に現れていると言いたいんですの」

 

 いつもながら軽い口調で、華琳と麗羽の口論が始まる。以前なら華琳が麗羽をいいくるめて終わることが多かったが、ここのところは、互いに拮抗していると言っていい。口が回るようになったのか、はたまた余裕が出来たのか。どちらにせよ、互いに良き好敵手に育ちつつあると、志遥は思う。

たしかに華琳の胸は小さいと思いつつ、志遥は止めに入った。

 

「まぁ、互いにじゃれあうのもそこまでだ二人共」

「別にじゃれあってなんて」

「そうですわ。わたくしは華琳さんに正直なことを……」

「わかったわかった。仲が良いのは大変結構。今日は祝いの席だ。そう突っかからず、互いの栄進を祈ろうではないか。ともに盃を交わすことも、これが最後やもしれんのだ」

 

 きっと「ただの友」としては。と、志遥は心でつぶやく。この日を境にして、骨肉相食む政敵になるやもしれない。それでなくとも、宦官との対立の中であらぬ過失をなすりつけられ、誅殺の憂き目に会わないとも限らない。死は驚く程そばに居る。だからこそ、今だけでも別れを爽やかなものにしたい。この世界では、性別がまるっきり変わっているくらいなのだから、後の歴史がまったく同じであるとは限らない。

 思いが伝わったか否かそれは定かではなかったが。志遥の言葉を機に、二人共おとなしくなった。軽口は相変わらずだが、棘はない。そこに志遥も加わり、和やかに会は進む。机に料理が並べられ、酒もなみなみと注がれている。

 

「旨い酒だ」

「我が家の特製よ」

「随分と発酵を重ねているな。苦労しただろう」

「我が家の蔵の中でもとっておき中のとっておきよ。奮発したんだから」

「袁家にも、これほどのものはそうそうありませんわね」

 

 華琳の持ってきた酒は、普段飲むものよりも幾分も強い酒であった。すでに搾り取った酒に、にさらに穀物を足し、それを再発酵させることを繰り返す「(うん)」という方式によって作られたものである。これを三度繰り返すことによって「(ちゅう)」という酒が出来上がる。火によるアルコール分強化を行った酒を「焼酎」と呼ぶようになったのは、この酎が所以なのだろう。ちなみに、曹操は史実でも、この醞を九度行って作った酒の作り方を上奏している。世に名の通る所の「九醞春酒法」である。

 志遥はこの美酒に陶然とした気持ちとなった。それは、他の二人も同様であろう。美食美酒を堪能するとき、人は、どのような気持ちになるだろう。答えは言わずもがな。歌を歌いたくなるのである。酒が回れば歌声も滑らかに、どこからか、琴も取り出された。それを爪弾くのは、華琳である。その一つ一つ旋律は、その場の二人の琴線をも弾き、場は厳かな雰囲気が流れ始める。歌うのは、古く詩経にある歌。鄭風の調べに乗せて、心を詩に託す。

 

青々たる子が衿 悠々たる我が心

 

縦え我れ往かずとも 子(なん)ぞ音を嗣がざらんや

 

青々たる子が(おび) 悠々たる我が思い

 

縦え我れ往かずとも 子寧ぞ来たらざらんや

 

挑たり達たり 城闕に在り

 

一日見ざれば 三月の如し

 

 歌を歌う華琳の声は、水晶の透明さと、牡丹の荘厳さを併せ持っていた。酒のために少し紅潮した頬と、感極まった心がうるませた瞳が、堪えようもないほどに艶っぽい。志遥は彼女が、洛水のほとりにいるという女神なのではないかと思った。かつて息子の曹植が言葉にした洛神の姿は、およそこのようなものであっただろうと、酒気を帯びた嘆息をはく。歌は、恋の歌だ。青衿という詩である。女が男を待ち詫びる心を歌った詩だ。若々しい男女の青春。だが、会えずに悶々とする女の心。どうして便りをよこさないのか。どうして逢いに来ないのか、女にとって一日逢えないことは、三ヶ月会えないことと同じだと、そう恨めしく男に歌っているのだ。志遥が華琳に目を向ける。少し拗ねたような、伏し目がちな表情でこちらを見つめていた。酒で紅潮していた頬が、さらに赤みを帯びている。志遥もその華琳のいじらしい様子に、愛おしさを覚える。いつものような不敵な笑みを返した。詩は心を歌う。だからこそ、伝えるものも、受け取るものも、偽りのない気持ちで感じなければならないのだ。その点で、二人の心は通じ合っていたと言える。恋の歌として青衿を読んだ華琳。それを詩に出てくる、男の気持ちで笑みを返した志遥。この濃密な情交は、燃えたぎる火のように、二人の心身を火照らせた。

 しかし、この場にいるのは、二人だけではない。今や天下の一雄たる麗羽が、二人の空気を感じぬはずもない。しかし、彼女もまた、態度を崩さず、涼しげな表情にうっすら笑みを浮かべながら華琳に言った。

 

「華琳さんも、味なことを致しますわね。学友を思う歌なんて」

 

 華琳は。やっぱりと言った風に呆れ顔になり、志遥は、その一言に、ニヤリとした。酒宴の場において、士人達が必死になって唱和する、訓詁の解釈を持ち出されたのだ。

後漢の時代とは、前漢後期より重視され始めた儒教が、過剰に奉られ始めた時代でもある。新しい思想や、学問の出現を拒み、むしろ、経書解釈におけるひたすらな神聖化、清純化が進められた。言葉一つ一つの些細な字句表現にも、聖人の意図を慮り、本来の意味を歪めてまで、経書を神聖なるものとして扱うようになったのである。易、書、詩、礼、春秋の五経の中でも、詩経はその歪み具合がわかりやすい。恋歌は、恋歌として読まれず、もっぱら、しきたりや為政に対しての言葉として受け止められた。純朴な感情が、格式張った聖人の言葉や、社会への風刺として受け取られたのである。麗羽はその訓詁による詩の解釈を持ち出したのだ。ある意味で、華琳が仕掛けた、目くらましとも言える。この場にふさわしい詩を吟じているように見せて麗羽をたばかり、その実、志遥への自らの思いを伝えんとしたのだから。

しかし、麗羽の次の言葉は予想外であったようである。

 

「……と、少し前のわたくしでしたら、きっとそのように言ったでしょうね。華琳さん?」

 

 麗羽はそう言うと、華琳に意地悪く笑いかける。詩の真意を悟られたと気づいた華琳は、苦々しげに、そして恥ずかしそうに、麗羽を睨みつけた。

 

「あれほど熱っぽく言葉を紡いでいるのに、気づかないと思いまして? わたくしをあまり見くびらない方が良いですわよ?」

「……いいわ。認めてあげる。あなたは私の宿敵よ」

 

 二人は志遥をはさんで、火花を散らすように互いににらみ合う。

 

「しかしまぁ、華琳さんも大胆ですわね。志遥さんへ直接思いを告げるなんて」

「あら、少し前までの詩を解さない誰かさんなら、あっさり学友を思う歌だと、騙されてたんじゃないかしら」

「どちらにしても、おこがましいですわね。戦いは平等にするべきじゃありませんの?」

「あら、兵は詭道よ。相手の意表を突くことこそが大切じゃないかしら?」

「孫子にかぶれるのはいいですけれど、戦においても堂々とした威風を備えなければ、王とは言えませんわ」

「威に頼って、実をおろそかにした戦なんて浪費が激しいだけじゃない。威なんて後から身についていくわ。大切なのは、何もないところから何かを生み出せる力よ。実の伴う威こそ、王にとって必要なものよ」

「然るべき威は、こちらが整えておかなければ身につきませんわ。それに、威を示してこそ、それを実にせんとする力が生まれるのではなくて?」

 

 平凡な恋模様から、王の対話へと舞台は変わっていた。

 志遥はその変化に感心しつつ見つめている。麗羽の成長は目覚しい。備える威は王者のそれである。華琳の元々磨かれていた覇者の資質も、麗羽の成長を敏感に感じて、さらにその輝きを磨いているようだ。そして、なによりその二人の中心に自分が鎮座しているという事実。それは志遥を大いに興奮させた。

もはや曹操であった時からの性癖とも言っていいが、彼は人材を愛す。そして人材が育つこともまた愛している。いま彼は、これ以上ないほどの強大な人傑が目の前で育つ様を見守っているのだ。興奮せぬはずもない。

 

「志遥さん!」「志遥!」

 

と、志遥は不意に二人に呼び止められた。座った目でこちらを恨めしそうに見つめてる。おそらくは先ほどの口論の答えを本人に求めているのであろう。

 

「あなたはどちらを選ぶ(んです)の!?」

「今の段階では、華琳だ」

 

 そんな二人の問いに使用は間髪入れず答えた。ふたりの反応はその答えに沿って正反対のものが生まれている。しかし、志遥の回答は止まらない。

 

「ただし、麗羽、お前が完全に劣っているわけではない。その差は驚くほど近いといっていい。俺は、華琳も麗羽も愛している。そしていずれ、どちらか一方とは答えられなくなるだろう。美しく気高く、その容貌を飽くことなく見つめ続けられるほどに、お前たちは俺の心を掴んで離さない。お前たちは、俺の心を照らす太陽と月だ」

 

 志遥はよどみなく答えた。曇りない言葉に、二人は顔を火照てるのを感じる。

 

「そこでだ。俺はこう考えた。もしお前たちのお互いが独立し、群雄となったとき、俺もまた独立する。まずは先に俺と接触があった方に俺はつく。一方はそれに納得できないだろう。そのときは、もう一方に戦を仕掛ければいい。そしてそれに勝った方に、俺は寄り添う」

 

心は決まった。闘争心が、互いの体を大きく撫ぜる。

 

「志遥さん、どちらにしろわたくしがあなたの身も心もいただきますわ」

「あら、麗羽。すこし賢くなったくらいで私に敵うなんて本気で思ってるのかしら。だったらその驕り、たたきつぶしてあげるわ。志遥、あなたは私のものよ」

「華琳さんこそ、才覚が常にあなたを助けるとは思わないことね。あなたにないものをわたくしは持っているのですから……」

 

 両雄並び立たず。その争いの中心である志遥はただ笑うだけであった。

 




詩の解説

詩経の鄭風にある青衿と言う詩です。曹操の短歌行で「青々たる君が衿、 悠々たる我が心」とあるのは、この詩からの本歌取りと言えるでしょう。曹操の詩にはこれ以外にも、そういった引用があります。まぁ、曹操に限った話ではありませんが……

ちなみに鄭風というのは、鄭の国の詩を集めているという意味。
鄭風というのは古くから淫蕩の詩が多いなどと呼ばれてひどい扱いを受けてるのですが、実際に覗いてみれば非常に素直な男女の恋模様が描かれていて非常にキャハハウフフとしています。ちなみに朱子学でお馴染みの朱熹はこの鄭風が大嫌いなんだろうなってくらい注釈の解説がひどいです。


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