蒼の彼方のフォーリズム EXTRA0 (蒼崎れい)
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プロローグ
おれも空を飛びたい


 今思い返してみれば、あれは運命だったのかもしれない。『近くで面白いものがやっているから、一緒に見に行かないか?』父親のそんな一言に誘われ、俺はあの日、あの場所で、あの人に、あのスポーツに出会ったのだ。

 会場は俺の住んでいた久奈島ではなく隣の福留島。会場まではフェリーを使わなければならず、当時小学生だった俺からすれば気軽に行けるような場所ではない。宿題があるから、見たいアニメがあるから、暑いからクーラーの効いた部屋でゴロゴロしたいから。断る理由はいくらでもあったはず。

 それでも父親に着いて行ったのは、たぶん……。自分だけの何かを見つけたかったのだと思う。それが本当に面白いものかどうなのか、自分の目で確かめたかったのだろう。

 

 

 

 友達が誰もやっていない、夢中になれる何かを。

 懸命に取り組んで、誰よりも強くなれる何かを。

 誰も行ったことのない場所へ行くために…………。

 

 

 

 衝撃的だった。鮮やかな光のラインを空に引きながら、自由に空を駆け回る選手達の姿がそこにはあった。鮮やかに相手を躱し、あるいは振り切り、背後を取り合ってバチバチと光跡を散らす。得点が入る度、歓声が上がる。初めて見る技に、拍手が沸き起こる。

 その競技──フライングサーカス──はまさしく俺の求めていた、必死に食らいついてでも自分だけのものにしたい何かだった。

 今でも、あの時の感覚は覚えている。全身の血が沸騰したように熱くなって、気付けば手が赤くなるほどこぶしを強く握りしめていた。時が経つのも忘れ、父親の声も耳に入らないほど、夢中になって空を見上げていた。

 そんな中で、一際強い印象を残す選手がいた。紅いフライングスーツとグラシュ、そして一直線に伸びる黄色いコントレイル。他のどの選手よりも自由に縦横無尽に空を駆け巡り得点を積み重ねる様は、まるでサーカスのよう。行く手を遮られればその脇をするりと躱し、背中を取られたと思えばいつの間にか立場が入れ替わっている。

 見ているだけでワクワクが止まらない。もっと近くで、もっと長く、あの人が飛んでいる姿を見ていたい。そしてできることなら、俺もあんな風に飛びたい。

 あんな風に、まだ誰も行ったことのない────あの青い空のずっと向こうまで空を飛んで行きたい。

 いや違う、俺もあの人みたいに飛べるようになって、絶対にあの場所まで行くんだ。

 圧倒的な強さで地区大会を優勝した選手に、憧れを抱かずにはいられなかった。

 

 

 

 それが、フライングサーカスというスポーツと、俺と葵さんの、最初の出会いだった。




こういう文章を書くためにワードを起動するのは1年ぶりくらいなので、書き上げることを目標にがんばります。


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第1話:おねえちゃん、おれに飛び方教えてよ
Chapter 1


時間軸がガバッてたのでちょっと修正しました。
勢いで書くからこういうことになる……。


 いよいよ、待ちに待った日がやってきた。小学校から帰ってきた俺は靴を脱ぎ捨て、台所までダッシュする。なぜかって、そりゃ母さんと一緒に福留島のスカイスポーツ店に行くためだ。

「母さん!」

 台所へ駆け込んだけど、そこに母さんの姿はなかった。

「昌也、靴はちゃんと揃えなさいって、いつも言ってるでしょ? ほら、部屋にランドセル置いてきなさい。母さん、もう準備は出来てるから」

 と、リビングへ続くドアから母さんが顔を出す。言うことを聞かなくて、一緒に行ってくれないってなったら大変だ。ダッシュで玄関まで戻ると、ひっくり返っていた靴を綺麗に揃え部屋まで駆け上がる。いつもなら早く宿題をやりなさいと言われるところだけど、今日だけは違った。

 やっぱり夢じゃない、ようやく俺もあそこに行けるようになるんだ。それが嬉しくてたまらない。ランドセルを机の上に置くと、ゼフィリオンのファイルを持って一階へ急いだ。

 いつもよりおしゃれな服装なのがちょっと面白い。ファイルを落とさないようにカバンに入れてきなさいと言われたけど、絶対に落としたりするもんか。

 早く早くと急かす俺に根負けして、やれやれと呆れる母さんと一緒に家を出た。バスに揺られ、港から福留島行きの高速フェリーに乗り込む。こんなに時間が長いと感じるのは、今までで初めてかもしれない。

 待ちきれずに、家を出てからもう十回は見たそれをゼフィリオンのファイルから一枚のプリントを取り出す。『受取証』『MIZUKI』『飛燕』三つの文字列が俺の目と心の中で飛び跳ねている。

 父さんとフライングサーカスの地区大会を見た後、俺はどうしてもグラシュが欲しいと言ってせがんだ。すぐには無理だったけど、来年には誕生日がくるので年齢制限もどうにかなる。

 大会が終わったその足で連れて行ってもらったスカイスポーツ店は、まるで夢のような世界だった。空を飛ぶためのグラシュが、こんなにいっぱいあるなんて。

 でも、俺の欲しいグラシュはもう決まっている。目に焼き付いて離れない、あの選手と同じグラシュが欲しい。父さんから店員さんに頼んでもらって、グラシュの説明を色々としてくれた。

 地区大会で優勝した選手と同じグラシュが欲しい。そう言って案内された『MIZUKI』という日本メーカーの商品棚。その一番上に俺を魅了して止まなかった、あの選手の履いていたのと同じグラシュが、燦然(さんぜん)と輝いていた。

 でも、さすが優勝選手の履いているグラシュ。展示用でここにあるもの以外は、『MIZUKI』のグラシュはほとんど在庫を切らしているとのこと。全国的にも品薄で、次に入ってくるのはいつになるのかわからないのだという。

 がっくりと肩を落とる俺に、店員さんはある提案をしてくれた。それが『MIZUKI』のテストユーザーに登録するというものだった。もし正式にテストユーザーに登録されれば、『MIZUKI』からグラシュが送られてくる。もちろん、落選する可能性だってある、むしろそっちの方が大きかっただろう。もし受かったとしても、飛行データの提出義務があったりで大変なのは間違いない。

 でも俺にとって、何にも代えがたい朗報だった。さっそく父さんに頼んで、テストユーザーの登録書類を作ってもらった。ちなみにモデルはあの選手と同じものが良かったけど、あれはトップ選手じゃないと扱えないから絶対にこっちにしてくださいという店員さんの必死の説得で、ハイエンドモデルの『紅燕』ではなく、一般モデルの『飛燕』になった。

 それでも、同じシリーズのグラシュだと思うと胸の奥が熱くなる。だから、テストユーザーに受かったと通知を受けたときは、飛び上がるほど嬉しかった。これで誕生日がくれば、あのグラシュを履くことができる、空を飛ぶための翼が、自分のものになるんだ。

 この1年の間のことが、頭の中で何度も再生される。期待と待ち遠しさがぐちゃぐちゃになって、家では毎日グラシュとFCの話ばかりしていた。

『乗船中の皆様にご連絡します。当船は間もなく、福留島港に到着します。お荷物のお忘れ物のないよう、ご注意ください』

 もうすぐ到着を知らせるアナウンスが流れる。俺はグラシュの受取証をファイルに仕舞い席を立った。

「もう、昌也ったら。港につくまではもうちょっとかかるんだから、落ち着きなさい」

「だって、ずっと待ってたんだぜ! もう待ちきれないよ。あぁ~、早く着かないかなぁ」

 結局港につくまで、俺は立ったまま福留島を見続けていた。

 

 

 

 スカイスポーツのお店に到着した俺は、母さんを置いて一目散にレジまで突っ走った。

「日向昌也です! グラシュを受け取りに来ました!」

 ファイルから取り出した受取証を、バンッ! と台に叩きつけた。店員さんは、最初はびっくりしていたようだったけど、別の店員さんが近寄って耳打ちをすると、優しげにふっと笑って店の奥に消えていった。

「テストユーザーの認定、おめでとう。今だから言っちゃうけど、受かるだなんて全然思っていなかったからびっくりしたよ。やったな、ぼく?」

「うん! これもお兄ちゃんおかげだよ!」

 耳打ちしたのは、テストユーザーの登録を提案してくれた店員さんだった。俺のこと、覚えてくれてたみたい。なんかちょっと嬉しい。

「もう、昌也ったら。すいません、うちの息子が」

「いえいえ、元気があっていいですね。お子さんが欲しがってるモデル、まだ在庫確保している最中なんで、普通ならまだ手に入らないんですよ。テストユーザーに認定されて、本当に運が良かったです」

「あら、そうなんですか。よかったわね、昌也」

「早く早く! グラシュ早く履きたいよ!」

 すいません、いえいえかまいませんよと、母さんと店員さんが何度か言い合っていると、お店の裏に行っていた店員さんが両手に箱を抱えて出てきた。

「えっと、これですよね? 『MIZUKI』からテストユーザー向けに届いてた 『飛燕』です」

「そうそう、ありがと。ここはいいから、別のお客さんの対応をお願いね」

「わかりました、それでは」

 箱を渡すと、グラシュをとってきてくれた店員さんは軽く手を振って別の場所へと向かう。そして顔見知りの店員さんはカウンターから出てくると、中腰になって箱を俺に渡してくれた。

「はい、こちら『MIZUKI』の『飛燕』になります」

「やった! ありがとう!」

 テストユーザーの認定証が届いてから半年、あの日の予選大会から9ヶ月、ついにこのときがやってきたのだ。ずっしりとした箱の重さに、全身が総毛立った。

「じゃあ、早速試し履きだな。箱から出して履いてみて。色々と調整しないといけないから」

「はい、お願いします!」

 俺は早速箱のテープを剥がし、グラシュを取り出す。白を基調とし、わずかに緑がかったライトブルーの鋭角的なラインがかっこいいデザインだ。

 店員さんはグラシュのかかと部分を引っ張り上げると、そこに現れた端子と手元の端末をUSBケーブルに繋ぐ。一体何をしているんだろう?

「君、名前はなんていうんだっけ?」

「俺は昌也、日向昌也っていうんだ」

「昌也くんか。これはね、バランサーっていうのを調整しているんだ」

「バランサー?」

 店員さんの端末のモニターには色々な数値が現れると、色々な数値を目一杯まで上げていく。

「そう、バランサー。昌也くん、年齢制限が解除されたばかりってことは、まだ飛んだことはないんだよね?」

「うん、だから今日まで頑張って我慢してたんだもん」

「だから怪我をしないよう、グラシュの感度を落としているんだ。その方が、最初は飛びやすいからね。あと、お店の中で高く飛ばれたら頭も打っちゃうし……。よし、これでOKだ。履いてみて」

「うん」

 USBケーブルを抜き、引っ張り上げたかかとの底をもとに戻して店員さんはグラシュを俺に渡してくれた。俺はすぐに履いてきた靴を脱ぐと、グラシュに足を通す。ぴっちりとした長靴を履いているみたいで、足にぴったりフィットする。なんかこのガチャガチャした感じ、ゼフィリオンみたいでかっこいいかも……。

「ねぇねぇ、どう? 似合う?」

 俺はグラシュを履くと、母さんと店員さんの前で仁王立ちする。普通の靴と比べると、重くてちょっと違和感があるな。でも、だからこそやっとグラシュを手に入れたんだという実感が湧いてくる。

「あぁ、かっこいいぞ」

「なかなか素敵じゃないの。よかったわね、昌也」

 店員さんにも母さんにも褒められて、嬉しさが止まらない。思わずその場でくるくる回って、シャキーンとポーズまで決めてしまった。

「で、これってどうやったら飛べるの?」

「電源を入れて起動ワードを言えばいいんだけど、その前に基本姿勢を教えておかなきゃね」

「きほんしせい?」

 店員さんは靴の踵に触れて立ち上がると、両手と両足を大きく広げて大の字になった。

「これが基本姿勢。この状態が一番安定するんだ。まずは、浮くのに慣れるところからスタートだね」

「こう?」

 店員さんの姿勢に習って、俺も両手と両足を広げてみる。

「そうそう、そんな感じ。じゃあ、ちょっと飛んでみようか。踵のところに、スイッチがあるから、まずはそれを押してみて」

「えっとぉぉ、あ、これか」

 踵の部分をペタペタ触ってみると、丸いスイッチみたいなものの感触がある。それを押すと、ピコーンッと軽い音が鳴って靴の両側からラインと同じ色──わずかに緑がかったライトブルーをした光の羽がちょこんと横から現れた。

 それから、ブブブブブッと足元から振動が伝わってくる。背筋がぞくぞくするこの感じ、生まれて初めてだ。むず痒いけど、知らない世界に触れているんだという感触に、俺は感激していた。

「じゃあ、さっきのポーズになって、踵を少し浮かせて」

「はい!」

「そして、起動ワードを言うんだ。『FLY』」

「ふ、『FLY!』」

 店員さんに少し遅れて、俺の体もふわりと宙に浮かび上がる。体験したことのない浮遊感に、思わずのけぞりそうになった。

「落ち着いて、シューズの電源が入っている内は落ちることはないから。まずは背筋を真っすぐ伸ばして、基本姿勢」

「は、はいっ!」

 ほとんど反射的に直前に習った姿勢に戻す。始めは振り子みたいに揺れていた下半身も、3秒もすれば収まった。

「そうそう、いい感じだ」

「こ……これ、すごい、難しいっ!? ですね!」

 ちょっとでも足を閉じようとしたり、腕を下ろそうとするとバランスを崩してひっくり返ってしまいそうになる。ただ浮いているだけなのに、グラシュで飛ぶのってこんなに難しいんだ。

「感度を下げているとは言っても、やっぱり競技用のグラシュだからね。普通のグラシュと比べたら、やっぱり飛ぶのは難しいよ。それでどう? 初めて飛んでみた感想は」

「す、すっごい、ワクワクします!」

「そうかそれはよかった。解除キーも同じだからね。『FLY』」

 店員さんは解除キーを言って、ゆっくりと床に着地する。俺もそれに習って、解除キーを口にした。ふわふわとゆっくり降下を始め、両足が完全につくとそのまま尻もちをついてしまった。でもこんな状態で、本当にあの選手みたいに飛ぶことができるようになるのかな?

 そんな不安を読み取ってか、店員さんはポンポンと俺の頭を撫でてくれた。

「初めてならそんなもんさ。むしろ、上出来なくらいだよ。中には基本姿勢ができなくて、くるくる回っちゃうような人だっているんだ。だから、そんなに落ち込むことはない」

 それじゃ、靴を脱いでくれるかな、と店員さんに促される。バランサーの設定を終えたグラシュを箱にしまい、持ちやすいように梱包して袋に入れてくれた。

「グラシュの講習は、久奈島でも受けられる。そこでちゃんと飛べるようになれば、飛行可能区域では自由に飛べるようになるよ」

 店員さんは最後に案内の書かれたプリントを、ゼフィリオンのファイルに入れてくれた。正真正銘、これでこの『飛燕』は俺のものになったんだなぁ…………。

「グラシュのことや、FCのことで聞きたいことがあったら、また来るといい。いつでも相談にのるよ。もっとも、久奈島に住んでいるならその必要もないかもしれないけどね」

 久奈島にはこんな大きなスカイスポーツのお店はないから、そんなことはないと思うんだけどなぁ。ばいばーい! と大声で返事する俺に母さんは苦笑しながら、一緒に福留島のフェリー乗り場へと向かう。

 定員さんは俺と母さんの姿が見えなくなるまで、ずっと手を振っていてくれた。

 

 

 

 店員さんの言葉の意味を俺が知ることになるのは、もう少し先の話だ。



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Chapter 2

 福留島のスカイスポーツ店でグラシュを受け取ってから2週間、俺は小学校の授業が終わると友達の誘いもそっちのけで急いで家へ帰っていた。ただいまと言いながら部屋へ駆け上がると、ランドセルとグラシュの入ったバッグを持ち替えて行ってきますと家から飛び出す。

 向かうのは久奈島役場。そこで毎日1~2時間、グラシュの講習を受けているのだ。役場の人の都合もあるので、飛べる日もあれば座学しかない日もあったりする。でも、安全に空を飛ぶためにはグラシュのことを理解したり、空を飛ぶためのルールを学ぶことも大事なこと。学校の授業以上に、一生懸命になって講師をしてくれる人の話を聞いていた。

 ちなみに、昨日はようやく安定して浮けるようになったところだ。まだ50センチくらいだけど。でも、ようやく体が浮く感覚にも慣れてきし、今は大の字のポーズにならなくても安定して浮くことができる。なんなら、水平にちょっと移動するくらいなら全然余裕だ。

 今日はどうにか頼み倒して、もっと高いところまで飛べるように設定してもらうんだ。早く、あの日見た空まで飛んでいかなきゃいけないんだから。そうして意気込んで家に帰ると、知らない靴が玄関にあった。お客さんかなでも来てるのかな?

「ただいま~?」

 靴をそろえて上がると、ゆっくり廊下を歩いてリビングに顔を出す。

 予想通り、着崩したスーツ姿のおじさんがリビングでくつろいでいた。

「あ、昌也くん。久しぶりだね」

 知らない人ではなかった。それどころか、俺にも見覚えがある。父さんの同級生で、家にもよく遊びに来ているおじさんだ。今年もお年玉もらったんだから、忘れるはずがない。

「お久しぶりです。おじさん、こんな時間からなんで家にいるの?」

「あら昌也、おかえりなさい。おじさん、ちょっとお話があるそうだから、ランドセルを置いてきなさい」

 台所へ続くドアから、母さんがでてくる。お盆には四島名物の和菓子とほうじ茶が3人分載せられていた。俺はおじさんにお辞儀をすると、ランドセルを自分の部屋に置いてリビングへ戻ってきた。

 よくわからないけど、促されてソファーに座った俺は用意された和菓子に手を伸ばす。

「父さんがおじさんに色々頼んでくれてね。昌也にちょっとしたプレゼント? があるそうなのよ」

「プレゼント?」

「そう。ヒントは、おじさんのお仕事は久奈浜学院の先生」

「久奈浜学院の?」

 高校の先生がヒント? 高校に行くのなんてまだしばらく先なのに?

 父さんと母さんの意図がまだよくわからない。

「そんな意地悪しないで、教えてあげましょうよ」

 おじさんはコホンとわざとらしく咳払いすると、改めて俺の方に向き直った。

「私はね、昌也くん。今、久奈浜学院でFC部の顧問をしているんだ」

 まるで金槌で頭を打たれたかのような衝撃だった。久奈浜学院FC部、そこには俺が憧れて止まないあの人がいるのだから。

 各務葵選手、父さんに頼んで取り寄せてもらっているフライングサーカスの雑誌に、何度となく出てきた選手だ。仇州だけでなく、日本全国で名を轟かせる高校生最強の選手──スカイウォーカー。その人が所属している部の顧問の先生が、なんで家に来ているのだろう。全然話が見えてこない。

 え? もしかしてそういうことなの? でも、それは流石にないだろう。だってまだ、ちょっと浮くことができるようになったくらいなんだし。

「昌也くん、フライングサーカスにすごく興味があるんだってね。お父さんから聞いたよ」

「は、はい! この前、やっとグラシュを送ってもらって、今日もこれから練習に行こうとしていたところで」

「そうかそうか、それなら丁度いい」

 顧問の先生は和菓子を一口で食べてほうじ茶で流し込むと、立ち上がって含みのある笑いを浮かべた。

「すぐにグラシュを準備してくるといい。連れて行ってあげたい場所があるんだ」

「わ、わかりました」

 これはもしかして、もしかしたりするのではないか? 俺は期待に胸を膨らまさずにはいられなかった。

 

 

 

 顧問の先生の車の後部座席に乗って揺られることしばらく。山の影から大きな校舎が姿を現す。県立久奈浜学院高校。先生が務めている学校、そして各務葵選手が在籍している学校だ。

「ふふふ。どこに連れて行かれるか、わかってきたかな?」

「久奈浜の高校、ですよね?」

「あぁ、そこのFC部をちょっと案内してあげようと思ってね」

 自分でも顔がにやけてしまっているのがわかる。それと同時に心臓が痛いくらいに鼓動を始め、背中や手のひらからじっとりと汗が染み出してきた。

「もっとも、私自身はフライングサーカスの経験はなくてね。形だけ顧問をやらせてもらっている。だから、私にできるのはFC部に案内してあげるところまでだけなんだけど」

 山の(ふもと)までくると車は長い坂道を登り始める。会える、もうすぐ会える。憧れの各務葵選手に会える!

 予感はほぼ確信へと変わっていた。無意識の内にシューズバッグを抱く腕に力が入る。やばい、口の中が急に乾いてきた。嬉しさと同じくらい、相手にされなかった時の不安も大きくなる。坂道を登っている途中も先生が色々話しかけてくれたけど、全然耳に入ってこなかった。

 校門を通り、校舎の裏側へと車を停めるといよいよ運動場の方へ移動する。その途中、海の上の方に見覚えのあるものが浮かんでいた。

 4つのブイから伸びる光のライン、1辺の長さが300メートルある正方形のフィールド。フライングサーカスの舞台だ。この1年、雑誌の中で飽きるほど見てきたそれが、今目の前に浮かんでいる。

 海辺に行けば飛んでる人を見かけることはあるけど、小学校の通学路や家の近くは飛行規制がされている。なので、フライングサーカスを実際に見る機会というのはあまりない。

 あとそれに……。実際に飛んでるのを見ちゃうと、我慢できなくなっちゃいそうだったし。

「よう、白瀬。休憩中か? 各務は……見当たらないようだが?」

 先生はグランドの端に座り込んでいる体操服姿の男子生徒に先生が話しかけた。先生の影に隠れながら、俺もそっと男子生徒の足元に目を向ける。あれは、インベイドのオールラウンダー向けのハイエンドモデルの一つ、ティルヴィング。オールラウンダー向けではあるものの、スピーダーにも負けない速度も出せるモデルだ。

「あぁ、先生。葵なら、ちょっと飛んでくるって言って」

 と、白瀬と呼ばれた男子生徒はブイの方に視線を向ける。俺も誘われるように同じ方を向いた。

 あぁ、あれは……。あの一直線に伸びる力強いコントレイルは、間違いない。

「各務、葵さんだ……」

 各務葵さんのグラシュ、紅燕はオールラウンダー向けのものだけど、スタート直後からまるでスピーダーのような速度で飛び出した。いや、並のスピーダーでは置いてけぼりにされてしまうほどに速い。そこから下向きに緩やかな弧を描いたかと思えば、更に加速して上昇しながらブイをタッチ。そこからブイの反発も利用して次のブイに向かいながら上昇、そしてちょうどラインの真ん中まできたところで、次のブイに向かって一直線に降下する。

 すごい。スタートの時も速かったけど、ファーストブイにタッチする時にはもっと速く、セカンドブイにタッチする時にはもっともっと速くなっている。いったいどこまで速くなるんだろう。

 しかしそう思った次の瞬間には、一気に半分以下まで減速していた。いや、違う。減速なんてしていない。一直線に伸びていたコントレイルは、鋭角的な角度でジグザグの光跡に変わっていたのいだ。更に今度は上へ、その次は下へ。左右の動きに加えてほぼ垂直な上下の動きまで加わる。

 こんな動きができるようになったら、背中へのタッチだけでどれだけ得点が取れるだろう。去年見た秋の地区大会よりも更に磨きがかかっているのが、ついこの前グラシュを履き始めた俺にもわかった。

 憧れていた各務葵さんが、目の前で飛んでいる。言葉すらでてこない。俺はただただ空に、そして各務葵という選手に見とれていた。

「ん? 先生、その子は? 先生の子供……ってのはないですよね。確か独身だって言ってましたし」

「あぁ、この子か。ちょっと高校時代の友人に頼まれてね。白瀬、各務を呼んでくれないか?」

「えぇ、いいですよ」

 白瀬さんは脇に置いていたヘッドセットを取ると、マイクに向かって話しかける。

「葵、先生が呼んでるぞ」

 そして、俺の方に向かってにっこりと微笑んだ。

「たぶん、お前にお客さんだ」

 黄色いコントレイルは上昇しながら少しづつ減速し、そしてこちらに向かって緩やかに降下してきた。



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Chapter 3

 すたっと、まるで重力など感じさせない動きで各務葵さんは降りてきた。

「どうしたんですか、先生。あ、もしかして隼人が小テストで赤点でも取ったんですか?」

「お前と一緒にするな。そっちこそ、空を飛ぶこと以外頭に入ってないじゃないか」

「失敬な。さすがに赤点取ったりはしないさ。……たまにヤバいことはあるけど」

 先生の前で軽口をたたき合う二人に、俺はただただ圧倒される。この白瀬って人も、各務葵さんと似たような感じがする。何かを超越したような、オーラ? みたいな。

「で、他の連中はどうした?」

「先輩は1年生を連れて、浜辺でランニングしてますよ。もう少したら、帰ってくると思いますけど」

 と、先生の質問に答える白瀬さん。そうだよな、FC部なんだから2人なわけはないもんな。

「そうなのか。まあいい。各務、ちょっといいか?」

「はい、私に何か用事でもあるんですか?」

「あぁ。私ではなく、この子なんだがね」

 先生に背中を押されて、俺は各務葵さんの前に立つ。今日はフライングスーツではなく、学校指定の体操服姿をしている。それでも、その存在感が霞むことはない。

 まるで夢を見てるみたいだ。俺が、こうして葵さんと会うことができるなんて。

「この子は、日向昌也くん。私の高校時代の友人の子供だ。つまり、君達にとっての先輩のお子さんでもあるわけだな」

「日向、昌也ねぇ……」

「去年の秋の地区大会で君を見て、どうしても空を飛びたくなってしまったそうだ」

「ほほー。そうかそうか。いや、女子からはよくモテるんですがね……」

 各務葵さんは中腰になって俺の顔をのぞきつつ、

「まさか、こんな小学生までとは思いませんでしたよ」

 にかっと爽やかな笑みを浮かべた。男の俺でもドキッとするほどかっこいい。

 い、いや、そんなこと、今はどうだっていい。せっかく話しかけてくれたんだ、お、俺も何か言わないと。でも、目の前には本物の各務葵さんがいるんだ。頭の中は真っ白になって、何も話題が思いつかない。おかしい、話してみたいことや聞いてみたいことなんていくらでもあったはずなのに、なんで出てこないんだよもう!

 意味もなく口をぱくぱくさせることしかできない俺を見て、各務葵さんはケラケラと笑う。

「そんなに緊張しなくても、取って食ったりはしないさ。まぁ? 私は有名人だからな。無理もないかな?」

 冗談めかして言っているのは、俺の緊張を解くためだったのだろうか。ずいぶん後になってからわかったが、この時の俺にはそこまで考えている余裕なんて全くなかった。

「昌也、だったな。そのバッグの中身はグラシュだろ? 私にも見せてくれないか?」

「は、はい!」

 各務葵さんにお願いされて、俺は慌ててバッグからグラシュを取り出す。『MIZUKI』の『飛燕』シリーズの一般モデル。まさかこんな形で見られることになるなんて。

「ほう、『飛燕』とはなかなか渋いのを選んだな。もっとかっこいいデザインのグラシュはあったと思うが、どうして飛燕(こいつ)にしたんだ?」

「…………か」

「『か?』」

「か、各務さんのと同じ『飛燕』シリーズのグラシュが欲しかったからです!」

 い、言っちゃった。全然頭が回んなくて、本当のことをそのまま言っちゃった。

 どうしよう、いや、憧れてるのは本当なんだけど、それを本人に面と向かって言っちゃうなんて。穴があったら入りたい。

「ぷっ、ぷっはははははははははっは」

 我慢できなかったらしい各務葵さんは、腹を抱えて笑いだした。それに釣られたように、白瀬さんと先生も笑い出す。

 うぅぅ、やっぱりこうなっちゃうよなぁ。でもまだ、最初は『紅燕』を欲しがっていたって知られてないからセーフ。うん、セーフってことにしておこう。そうじゃないと恥ずかしすぎて各務葵さんのことをちゃんと見れない。いや、今もちゃんと見れてないんだけど、顔を上げられなくなっちゃう。

「はははは、はは、わ、わるかった。悪気があったわけじゃないんだ。まさか、そんなことを言われるなんて、思ってもみなかったから」

 各務葵さんは息を整えると、もう一度俺と視線の高さを合わせて、

「そんなによかったか? 私の試合は」

 一言、語りかけた。その問に、俺は無言で頷く。

「そっか」

 各務葵さんはちょっと恥ずかしそうにしながら、くしゃっと笑って俺の頭を撫でてくれた。この人、こんな顔もするんだ。

 雑誌で見てきた各務葵選手はいつも超然としていて、他の選手を寄せ付けない強者のオーラがあって、どの角度からの写真もかっこよかった。でも、今この瞬間の各務葵さんはなんか、不安? それともホッとしている? そんな印象を受けてしまう。

 でも、そんな気弱な表情を見せたのも一瞬。立ち上がると、ぐいっと両腕を伸ばして伸びをする。

「よしっ、じゃあ一緒に飛ぶか、昌也。そのためにグラシュを持ってきたんだろ?」

「は、はい! あ、でも俺、まだ浮けるようになったくらいで……」

「大丈夫。空中でバランスが取れるようになったら、あとは慣れだ。私もついてる、心配するな」

 俺の頭に乗せてある手が、わしゃわしゃと髪をかきあげる。

 あぁ、もう幸せすぎてヤバい。てか、え? 俺、葵さんと飛べるの? さっき言ってたよね? 一緒に飛ぶかって。

「それに、まだ50センチくらいまでしか」

「あぁ、高度制限もか。隼人」

「わかった。昌也くん、ちょっとグラシュを貸してもらっていいかな?」

「あ、はい」

 俺からグラシュを受け取った白瀬さんは、踵の部分をくいっと引っ張って手元の端末とUSBケーブルで繋ぐ。

「そういえば、昌也くんはグラシュはこれが初めてなんだっけ」

「はい、そうですけど」

「感度も目一杯下げてあるな。とりあえず……初心者向けくらいの感度にして……高度制限もっとぉ。よし、はい、どうぞ」

 白瀬さんは手早く設定を終えると、俺にグラシュを返してくれる。店員さんが間違って怪我をしないよう、感度を最低まで下げていてくれたみたい。それが普通の競技用グラシュレベルにまで戻ったとなれば、またバランスをとるのが難しくなりそうだ。

 普通の靴からグラシュに履き替え、踵のスイッチを入れると靴の両側から光の羽が現れる。

 いよいよ、緊張の瞬間だ。

「『FLY』」

 ふわりと体が浮き上がる。重力から開放された体はしっかりとバランスを保ったまま、上昇を続けた。50センチが1メートルに、5メートルに、10メートルに、未だ体験したことのない高度までどんどん上がっていく。

「いいぞー、昌也。その調子だ」

 にぃっとイタズラっぽく笑った各務葵さんは、俺を安心させるように高さを合わせてゆっくり上昇してくれる。

「どうだ? 思ってたよりも簡単だろ?」

「そんな、簡単じゃないですよ。う、うわっと!?」

 両手両足を広げて大の字になり、必死にバランスをとる。この2周間の練習のおかげもあって、基本姿勢はしっかり体に染み付いていた。もう少しすれば、基本姿勢でなくてもバランスが取れそう……取れると思う。

「いやいや、一気にこれだけ感度を上げてもバランスが取れているんだ。うまいもんさ。それじゃあ次は、ちょっと上半身を前に倒してみようか?」

「こ、こうですかって、うわぁああああっ!?」

 わずかに体を前に傾けると、自転車くらいの速度で前に進み始めた。

「慌てず、冷静に。地上と違って、ぶつかる物なんてないんだ。それに、いざとなれば私がなんとかしてやる。今は、姿勢を保つことだけを考えろ」

「は、はい。頑張ります」

 基本姿勢を崩さない。前傾姿勢を維持。慌てず冷静に……。

 まだフラフラするけど、体は真っ直ぐに進んでいる。しかも地上から50センチみたいなお世辞にも飛んでるとは言えないような高さではなく、久奈浜学院の校舎よりも高い場所を、だ。

「いいぞいいぞ~。なかなか上手いじゃないか。なら今度は、右肩をちょっと下げてみろ」

「はいっ!」

 水平に広げた腕を右側だけ少し下げる。すると体はゆっくりと弧を描き、右側に旋回を始めた。

「よーし、じゃあ次は反対側だ」

「はいっ!」

 今度は右腕を水平に戻し、左腕をわずかに下げる。

「すげぇ、すげぇすげぇすげぇ!!」

 右旋回していた体は、今度は左に旋回し始めた。すごい、自分が思った通りに飛んでいる。

 直進、右旋回、左旋回を何度も繰り返し、それに慣れてくれば更に前傾姿勢になって速度を出す。フライングサーカスのそれと比べたらまだヨチヨチ歩きみたいなものだけど、今日はじめて地上から解き放たれた俺にとって、思った通りに飛べるというのは大きな一歩だった。

「どうだ? 初めて空を飛んだ感想は?」

「すっげぇ楽しい!」

 各務葵さんの方を向こうとしてくるくると回りそうになるも、基本姿勢をとって安定させる。よしよし、なんか今日だけでもうだいぶ慣れてきた。

「それに、グラシュがあれば行きたいとこにどこでも行けそうで、今からワクワクする! まだ全然速くは飛べないけど、練習すれば飛べるようになるんだよね?」

「あぁ、それくらいならすぐさ。どうする昌也? もうちょっと飛んでみるか?」

 それはとっても魅力的な提案だ。夢にまで見るほど憧れていた各務葵選手と一緒に、しかもこうしておしゃべりしながら飛び方まで教えてもらえるなんて。正直、本人を目の前にしても未だに信じられない。

 でもこの場所に来たからこそ、もう一度確かめたいことがあった。あの時は下からただ眺めるだけだったけど、今はこうして同じ空にいる。

「……じゃあ、その。ちょっと、お願いが……えっと。あるんです、けど」

 体中の勇気をかき集め、俺は各務葵さんを正面からじっと見つめる。

「ほほぅ。なんだ? 言ってみろ。私にできることだったら、考えてやってもいいぞ」

「…………………………………………各務さんの、飛んでるところが見たい、です」

 やっとの思いで、その言葉を口にした。そう、同じ空、同じフィールド、この肌で感じられるこの距離感で、各務葵選手のフライングサーカスが見たい。

 各務葵さんは意味がわからずぽかーんとしていて、やっぱり俺のお願いの意味がわからないみたいでずっと首をかしげている。

 でも、

「そんなお願いでいいなら、いつでも聞いてやる」

 二つ返事で了承してくれた。頭を撫でようと手を伸ばしたみたいだけど、途中で引っ込めた。そしてフィールドのラインから少し離れるよう指示される。

 そういえば、グラシュを起動中に触れると、反重力が反発しあって弾かれるんだっけ。

「しっかり見ておくんだぞ」

 各務葵さんはスタートラインまで移動し、そして、

「今日は、昌也のためにだけに飛んでやる」

 一筋の光となって駆け出した。まるで音を置き去りにするかのような凄まじい加速に、目が釘付けになる。地上からでも力強かったコントレイルの光が、10倍にも100倍にもなって眼の前を通り過ぎた。最早、ただ速いという言葉だけでは言い表せないくらい速い。このまま加速し続ければ、光さえも追い抜いてしまいそうに思える。

 各務葵さんはブイにタッチすると、今度はファーストラインを逆走し始める。きっと、一番近くで俺に飛ぶところを見せてくれるためなのだろう。これ以上ない、最高の特等席だ。

 直線の急加速の次は、ブイにタッチした反動で斜め上に上昇。この動き、さっき下から見たやつと同じだ。ファーストラインの中間地点まで上昇すると、重力による落下エネルギーを使って更に加速しながらブイへと突っ込む。

 あぁ、やっぱり楽しそうだ。それに、背筋がゾクゾクするほど興奮する、体中の血が熱くたぎる。あの日感じたのは、間違いなんかじゃない。俺は飛びたい、フライングサーカスがやりたい。

 そんな風に自分の中の思いを再確認していたせいなのだろう。ファーストラインを飛んでいた各務葵さんが、いつの間にか俺の方に向かって飛んできていたのに気付かなかった。

「わっ、あわわわッ!?」

 ダメだ、ぶつかる。思わずガードするように両腕を目の前で交差する。しかし、いつまで経っても覚悟していた衝撃はやってこなかった。

「ふふふっ、こういう飛び方もあるんだぞ?」

 それもそのはず。各務葵さんはぶつかる直前、最低限の旋回だけで俺の横を通り過ぎていったのだから。

「どうだった? 満足したか?」

 俺を抜き去った後、大きく上にループして各務葵さんが戻ってきた。

「はい、めっちゃすごかったです……」

 本当に目の前を通り過ぎていった姿があまりにも鮮烈すぎて、茫然自失してしまっている。あんな飛び方もあるんだ。とにかく、もう自分の中の思いを表現できる言葉が全く浮かんでこなかった。

 俺が期待通りの反応をしているからなのか、各務葵さんはちょっと嬉しそうだ。

「私も、昌也と飛ぶのは楽しかったぞ。よかったら、飛び方を教えてやろう」

「ほ、本当ですか!?」

 まさかすぎる申し出に、急速に現実に引き戻される。いや、本当に現実なのかこれ? 今日、こうして一緒に飛べただけでもすごいのに、これからも空の飛び方を教えてくれるって……。

「こんなことで嘘ついてもしょうがないだろ。本当だよ。まあ、私も自分の練習があるから、ずっとという訳にもいかないんだがな」

 それはもちろん、俺だって憧れの選手の練習の邪魔だけはしたくない。空いた時間にちょこっと教えていただけるだけで、十分すぎるくらいである。もちろん、俺はそのお誘いを二つ返事で受け入れた。

「よかった。断られたらどうしようかと思った」

「そんな、断るなんてあるわけないじゃないですか。ぜひ、お願いします!」

「あぁ、よろしく。それじゃあ早速なんだが、さっき私のこと『各務さん』って呼んだよな? これから楽しく練習する仲として、それは他人行儀すぎると思うんだ」

「それじゃあ、なんて呼べばいいんですか?」

 と、そこで今日何度目かのいたずらっぽい笑みを口元に浮かべて、各務葵さんはこう答えた。

「私のことは、練習中は『お姉ちゃん』と呼ぶように」

 名前を呼ぶのも緊張するのに、それはさすがにハードルが高すぎるのではないでしょうか。自分が各務葵さんのことをお姉ちゃんと呼ぶところを想像して、急に顔が熱くなってきた。やばい、これ絶対耳まで赤くなってるやつだ。

 だって、葵さんめっちゃこっち見て笑ってんだもん!

「返事は?」

 こっちが黙っていると、容赦なく攻め立ててくる。逃げ場はない。それに、憧れの各務選手から直接飛び方を教えてもらえるチャンスなんだ。

 恥ずかしいのを我慢して、呼ぶしかない。いや、ぜひ呼ばせてください。

「は、はぃ。お姉ちゃん」

「ん? 声が小さいぞー。風の音でよく聞こえないなー」

「わかりました! お姉ちゃん!」

 各務さ……お姉ちゃんは自分の両肩を抱いてぶるぶると震えていた。

「隼人を見てると、こういうのも悪くないなーとは思っていたが、かなりいいな」

 海風が通り過ぎたせいでなんて言ってたのかよくは聞こえなかったが、とりあえず満足してくれたようだ。

「お姉ちゃんのこと、私から言い出したのは隼人にはナイショにしておいてくれ。二人だけの約束だぞ。わかったな?」

「わかった!」

 思わず指切りをしようとして触れたせいで、俺の体があらぬ方向へと飛んでゆく。各務さ……お姉ちゃんが基本姿勢、と叫んでいるのが聞こえる。

 くるくるとコマみたいに回りながら降下していく中、夢のような時間の始まりにオレの心は躍っていた。



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Chapter 4

 葵さんと一緒に空を飛んだ次の日から、俺の生活は本当に一変した。休みの日は久奈浜FC部の練習後の2時間、平日も部活の後に1時間、葵さんは付きっきりで俺に飛び方を教えてくれた。自分でも日に日に上手くなっていくのがわかるくらいで、それが楽しくて仕方なかった。

 一緒に飛び始めてから2週間、グラシュを手に入れてからもう1ヶ月も経った。ううん、まだ1ヶ月しか経ってないと言うべきか。充実しすぎていて、もう3ヶ月くらいはグラシュを履いているような気分である。

 今日は土曜日。久奈浜学院FC部は午前の練習で終了なので、午後から練習を見てもらえる。

「行ってきまーっす!」

 お昼ご飯を済ませると、俺はグラシュを履いて停留場まで全力でダッシュした。もう、普通の靴よりグラシュの方がずっと足に馴染んでいる。

 停留場までつくと、空の状況を確認する。飛行規制も出てないし、近くを飛んでる人もいない。久奈島役場や葵さんから習ったルールをしっかり実践して安全確認をしたとことで、グラシュのスイッチをオンにする。

「『FLY!』」

 起動ワードを口にすると、重力から解き放たれた体がふわりと浮き上がった。続けて地面を蹴り、高く空へと飛び上がる。反重力の膜──メンブレン──が全身を覆うこの感じ、首のあたりがぞわぞわして癖になりそうだ。

 海上まで出ると、久奈浜学院に向けて進路を取る。今日はどんなことを教えてもらえるんだろう。もう普通に飛ぶのは何の問題もないほどになった。というよりも、使っているのが競技用のグラシュというのもあるので、通学途中の中高生くらいなら簡単に追い抜いてしまえるほどには速くなった。上下左右の移動もスムーズにできるようになったし、基本的な動作はもう完璧なのでは?

 まあそれでも、俺が理想とする飛び方にはほど遠いんだけど。8月の強烈な日差しに、全身から汗が吹き出す。それなりの速度で飛んではいるけど、メンブレンが全身を覆っているのもあって風はそれほど感じない。

 もっと前傾で飛べばメンブレンの薄くなったところから風を感じることができるけど、その姿勢を維持するのは体力的にちょっとキツイ。それに、そんなに早く久奈浜学院に着いてしまってが、早めに家を出た意味までなくなってしまう。

 せっかく空を飛べるんだから、もっと自由に飛び回りたい。

「よぉし」

 思い切り前傾姿勢になって加速する。そこから徐々に角度を上げて前進から上昇に転ずる。体の向きがだんだんと真上を向いていき、ついには背中が下を向く。大きな円を描ききるまでもう少し、というところで……、

「おっ、おわぁぁあああああッ!?」

 急に体が空中で止まったと思ったら、頭が下を向いて落下し始めた。でも、そこまで慌てるような高度じゃない。海面まではまだ距離がある。落下の速度を生かして加速を続け、十分に速度が乗ったところで水平飛行に移行した。

「うーん、宙返りをやるにはまだもうちょっと速度が足りなかったかぁ……。でも、今の俺だとあれ以上速度は出せないし。葵さ……お姉ちゃんに聞いてみるか」

 とはいえ、約束の時間まではまだ少しある。あちこち寄り道して空の旅を満喫しながら、ゆっくりと久奈浜学院に向かった。

 

 

 

 久奈浜学院からほど近い砂浜、葵さんは防波堤の日陰で涼んでいた。横には飲みかけのスポーツドリンクと、食べ終わったサンドイッチの袋が転がっている。

「葵さ……お姉ちゃん! 来たよー!」

 解除キーを口にして砂浜に着地。数十分ぶりの重力に、思わずつんのめってしまった。

「あぁ、昌也。今日も元気だな」

「だって、教えてもらえるの、すっごい楽しみにしてたんだから」

 居ても立ってもいられない俺を見て、葵さんは苦笑しながら立ち上がる。そしてもはや定位置となっている俺の頭に、ポンと手を載せた。

「教えてもらえるって、平日だってほとんど毎日教えてやってるだろ?」

「だって、平日だと部活が終わってからだから、時間短いじゃん。それに……」

「それに?」

「部活終わってからだと、時間も遅いから。お姉ちゃんに迷惑かけたくない」

 一瞬きょとんとなった葵さんだったけど、すぐにゲラゲラと笑って俺の頭をくしゃくしゃと乱暴に撫でた。

「こいつめぇ。生意気に私に気なんか使って。そんな小難しいことなんか考えてないで、楽しそうに飛んればいいんだよ」

 そして中腰になって俺と目線の高さを合わせてくれて、

「楽しそうな昌也が見れたら、私も元気が出るから」

 な? と優しくニカッと笑った。あぁ、もう。なんなんだよ、すごい、かっこいいじゃんか。なんだか恥ずかしくてうつむきながらも、こくんと頷く。

 葵さんが難しいこと考えずに飛べって言ってくれてるんだから、今日はとにかく好きにとぼう、そうしよう。俺にはよくわからないけど、それで葵さんがちょっとでも元気になってくれるんなら。

「じゃあ、飛ぶぞ。昌也」

「うん!」

 二人で起動ワードを口にして、空へ上がった。葵さんの飛行姿勢を見ながら、俺もなんとなくそれに合わせて飛ぶ。

 葵さんの飛行姿勢は、初心者の俺から見てもやっぱりきれいだ。たまに早く着いて久奈浜FC部の練習をちょこっとだけ見せてもらったこともあるけど、葵さんの飛行姿勢はその中でもやっぱり一番きれいだと思った。

 で、きれいだと思って真似してみたら、今までより速度も出るし、安定して飛べるようになった……気がする。いや、飛行中にふらつくことは確かに少なくなったから安定してるはず!

「そうそう。お姉ちゃん、ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いい?」

「どうせ飛び方のことなんだろ? 昌也はそれしか聞かないからな。いいぞ、なんでも聞いてみな」

 葵さんは半ば呆れるみたいな口調だ。それもそもはずで、葵さんと一緒に練習を始めてからずっと、俺はグラシュの使い方のことしか質問していないからである。

 でもなんかこう、プライベートのことを聞くのは気後れすると言うか、はばかられると言うか。それで機嫌を損ねちゃうのも嫌だし。

 いや、葵さんがこんなことを聞かれたくらいで不機嫌になんてなるわけないのはわかってるんだけど、それでもやっぱり聞き辛いのだ。

「えっと、これ、もっと速く飛ぶためにはどうしたらいいの?」

「これ以上か? 今でも十分に速いと思うぞ?」

「えっと、笑わないで聞いてよ?」

 俺はここに来る前、試しに宙返りをしてみようとして失敗したことを伝えた。

 それを聞いた葵さんはやっぱり予想通りの反応で、

「っははは、そうか。失敗しちまったのか」

 小さくクスクスと笑った。でも、バカにしたような感じじゃない。懐かしむように目を細めながら、まるで本当のお姉ちゃんみたいに優しく俺の言葉を受け止めてくれた。

 もしかしたら、むかし俺と同じようなことをして失敗したことがあったのかもしれない。

「じゃあよく見てろよ? 私が特大の宙返りを見せてやる」

 そう言うと、葵さんはいきなり速度を上げた。俺の2倍? 3倍? いや、それ以上のスピードだ。前傾姿勢というよりもほとんど海と水平な状態で加速を続ける。そして十分以上にスピードが乗ったところで、戦闘機の航空ショーさながらにコントレイルの光を引きながら葵さんは上昇を始めた。すごい、俺のときと違って上昇中もほとんど速度が落ちていない。

 体の角度はだんだんと急になっていき、水平だった体は垂直に、そこからやがて背中を海面に向けながら更に上昇していく。

「わあぁぁぁ…………」

 黄色いコントレイルが空に大きな円を描く。言葉も出ないくらいに、それは美しかった。

「どうだった昌也?」

「めっっっちゃすごかった!」

 特大の宙返りを見せてくれた葵さんは、ちょっぴり自慢げに鼻を鳴らしながら俺のところまで帰ってきた。鼻息荒く興奮している俺に、葵さんはそうだろうそうだろうと腰に手を当てて応える。

「ねぇ、どうやったら俺にもあれできる?」

「そうだな、昌也がさっき自分でも言ってたみたいに、速度が足りなかったのも理由の1つだろうな」

「1つってことは、他にもあるの?」

「実際に見てないからなんとも言えないが、心当たりならな」

 ここでいきなり答えを教えてくれないのは、この2週間の練習でわかっている。葵さんの指導はまず自分がやって手本を見せて、それから俺に実際に飛ばせて経験させて、ということの繰り返しだ。うまくいかなければコツも教えてくれるし、できるようになるまでずっと付き合ってくれる。

 だから2つ目の理由も今はわからないけど、この練習が終わる頃には実体験を伴ってわかるようになっているはず。

「じゃあ、まずは、もっと速く飛んで試してみよう。さっきの私の動きを見てたのなら、どうすればもっと速く飛べるかわかるよな?」

「うん!」

 俺は上半身をだんだん前に倒していき、加速を始める。普段ならある程度倒したところで止まるけど、今日は違う。普段は海面との角度が30度になるくらいで止めるけど、まだまだ倒す。

 そしてさっきの葵さんと同じくらい、海面とほぼ平行になるような角度にまで上体を倒した。今まで感じたこともないような速度に、少し寒気がした。

 メンブレンが薄くなった頭の方では、周囲の音が聞こえなくなるほどの勢いで風が通り過ぎてゆく。この角度になると、ここまで風を感じるんだ。まるでブレーキのない自転車で、急な坂を下っているような気分だ。

 速度は間違いなく今までで一番速い。よし、今度こそ! 速度が落ちないよう、上体を起こしながら緩やかに上昇を開始する。さっきと違ってあまり速度が落ちていない、いい感じだ。

 海面を映していた視界は次第に水平線を捉え、ついには青い空で埋め尽くされる。と、その時だった。青い空に見入っていたのは間違いないが、気を張っていなかったわけでもない。

 なのに宙返りの頂点を目前にした時、急に失速して落下し始めてしまった。おっかしぃなぁ……。スピードは十分足りてたと思ったのに、なんで急に?

 お腹の海面側に向け、両手足を広げてメンブレンを安定させる。するとそこへ、葵さんがやってきた。

「あ~あ、残念。あともう少しだったのにな」

「うん、途中までは良かったんだけど、最後にいきなりうスピードが落ちちゃって」

「なんだ、原因がわかってるんじゃないか。それじゃあ、一緒に考えてみようか」

 放り投げられたスポーツドリンクを受け取って一口飲み込むと、それに大きく頷く。実践の後の考える時間だ。今日までに何度も繰り返してきたけど、この考える時間はけっこう好きだ。

 こんがらがったロープがほどけていくみたいな感じで、わからなかったことが経験を伴って『わかる』のがすごく面白い。

「まず、初速は十分だった。私から見てもよく飛べていたと思う」

「そうだよね。俺、あんなに速く飛んだの初めてだったもん」

「つまり、原因は他にあるってことだ。じゃあ質問を変えるが……。昌也、速く飛ぶために大切なことは何だ?」

「飛行姿勢!」

 この質問の答えはすぐに出てきた。実際、葵さんの飛行姿勢を意識して飛んでたら良くなってるんだから間違いない。空を飛ぶ上で、基本中の基本と言っていいだろう。

「そうだ、飛行姿勢が悪いと左右にふらついてしまう。それにグラシュは急な方向転換が苦手だから、速度も落ちる」

「うん、お姉ちゃんに何回も教えてもらった」

「そうだな。じゃあ、宙返りをしている最中の飛行姿勢をもう一度思い出してみようか?」

「宙返り中の、飛行姿勢……」

 というわけで、今日の2回の宙返りについて思い返してみる。

 宙返りの最初の方は問題なかったはずだ。普通に飛んでいる時も飛行姿勢は意識しているし、きれいな飛行姿勢じゃないとそもそもスピードが出ない。

 次に海面と垂直になったタイミング。この時もまだちゃんとしていたはず、現にスピードはほとんど落ちていなかった。じゃあ失速した直前はどうだろう?

「……あれ、どうなってるんだろ」

「気付いたみたいだな」

 俺の考えに気付いたらしい葵さんは、ニっと口角を持ち上げた。

「宙返りの頂点付近の飛行姿勢、自分でもわからないだろ。普段と逆の姿勢で飛んでるから、まだ頭と体がついてきてないんだ」

「そうなんだ……」

「でも、わかってしまえば簡単だ。上下が逆になった時にもいつもの飛行姿勢を意識すれば、できるはずさ。じゃあ、原因がわかったところでもう1回トライしてみよう」

「はいっ!」

 やっぱり葵さんと飛ぶのは楽しい。俺はさっそく教わったことを実践すべく、思い切り前傾姿勢になって加速した。

 

 

 

 葵さんのアドバイス──体が上下逆になってからの飛行姿勢を意識しただけで、宙返りは簡単に成功した。それが楽しくって3回も4回も繰り返していたらさすがに疲れちゃったので、今日はこれで終わり。

 今は体をクールダウン? させる目的で、フライングサーカスで使うフィールドの回りを周回している。

「それにしても、この2週間でかなり上手くなったな」

「え? ほんとに?」

「あぁ、びっくりするぐらいの上達ぶりだ」

「よっしぁああ!」

 葵さんに太鼓判を押してもらった。それが無性に嬉しくて思わずガッツポーズをしてしまった。そしてそのまま調子に乗って葵さんの回りをくるくる回る。学校のテストで100点を取るより嬉しい。

「それだけ飛べれば、もうどこへだって行けるぞ。空には道なんてない、昌也が飛んだ場所が道になるんだからな」

「うん。そう……だね」

 認められたことは素直に嬉しい。でも、それと同じくらいの寂しさも浮かんできた。だって葵さんに認められるってことは、この時間が──一緒に飛んでいるこの時間が終わってしまうことを意味しているんだから。

 その事実を認識してしまった瞬間、心の中の飛びたいと言う思いがもっとはっきりした形になっていくのを感じた。

 空を飛びたいと思った。空を飛ぶことを一番楽しむために、フライングサーカスをしたいと思った。一年前に地区大会で葵さんの勇姿を見た時から、あんな風に飛べたらいいなと思っていた。

 でも、今はもうちょっとだけ違う。葵さんのように飛びたい、葵さんのように飛んで、フライングサーカスがしたい。スピードを競い合ったり、背中を取り合ったりする真剣勝負がしてみたい。

 今のように飛ぶことも決してつまらなくなんてない、むしろ今まで感じたことのないくらい、刺激的で楽しい。でも、間近で葵さんや他の人がフライングサーカスという競技に打ち込む姿を見て、思ってしまったのだ。

 俺も、あの場所に行きたい。単なる空への憧れだけでなく、あの正方形のフィールドで火花をちらしてみたいと。

「お姉ちゃん、お願いがあるんだけど……」

 俺は空中で停止して、葵さんへと向き直る。この感じ、初めて久奈浜FC部に来て、葵さんの飛んでるところを見たいとお願いした時みたいだ。夏の熱気も合わさって、のどがひりつくほどに乾いている。

「なんだ? 言ってみろ」

 葵さんも俺の真剣な雰囲気を察してか、いつもの半分茶化すような感じはない。真剣な表情で俺のことを見てくれている。もっとも、今はそれも葵さんなりの照れ隠しだってことは俺にもわかっている。

 だから、こうしてちゃんと聞こうとしてくれるのは、本当に嬉しい。だから、俺も……。

「お姉ちゃん、俺に飛び方を教えてよ」

「教えてるじゃないか、こうやって」

 そんなことはわかっている。この2週間、自分の練習の前後にずっと親身になって教えてくれた。空を飛ぶための方法を、空が楽しいと思える飛び方を。

 だから……、

「そうじゃなくて、その……。フライングサーカス、教えて欲しいんだ」

「へぇ……それはまた。どうして、私なんだ?」

 そんなの、ずっと前から決まっている。

 だって……、

「だって、お姉ちゃんは、俺が飛ぶきっかけになった人だから」

 地区大会で見たあの日から、俺は各務葵という選手に夢中になっていたのだから。

 各務葵という選手のように飛びたいのだから、あなたじゃないとダメなんだ。

「……ぷっ」

 どうにか堪らえようとしたけど、無理だったらしい。破顔したと思ったら、葵さんはお腹を抱えて大声で笑いだした。

「あはははっ、ははははっ……」

「な、なんで笑うのっ……!」

「ごめんごめん、昌也がいくなり真面目ぶった顔で言うから、おかしくてな」

「もう……本気なんだよ、俺」

「……わかってる。すまなかった」

 呼吸を整えた葵さんは、澄んだ瞳で俺のことを見つめてくる。

 確かに言った。『わかってる』って。俺の本気のこの気持、俺が口にする前から『わかってる』って。

「えっ、それじゃ……」

「あぁ、飛び方を教えてやるよ。どこまでも楽しく、飛び回れる方法を、な」

 まるで、新しい世界の扉が開かれたようだった。俺がいま一番言って欲しい言葉を、一番言って欲しい人が言ってくれた。全部の感情が消えて、心の中が真っ白になって……。そしてようやくぽつりと嬉しさが浮かび上がり、波紋のように一気に広がる。

 両手でも抱えきれないほどの嬉しさに、胸がいっぱいになった。

「あっ、ありがとう、お姉ちゃん!」

 あぁ、と応える葵さんも、本当に嬉しそうにしていた。やった、これでまだ、葵さんと一緒に飛べる。それだけじゃない、葵さんにフライングサーカスを教えてもらえる。

 あの日、見上げた空で誰よりも力強く飛んでいた、憧れの人に。感情が爆発して、自分でも抑えられない。

「じゃあ、教えるにあたって、まずはとっておきの言葉を教えてやろう」

「言葉……?」

「あぁ。辛いことがあっても、悲しいことがあっても、力が湧いてくる言葉だ」

「すごーい、教えてっ!」

「よーく聞くんだぞ……」

 その言葉は自分でも信じられないくらい、すっと胸の中に落ちた。これから先、どんな事があっても、その言葉は俺に力を与えてくれるに違いない。

 葵さんから渡された言葉を胸に、俺のフライングサーカスは静かに幕を上げた。




これにて第1話終了です。
ここまで使って、まだ昌也くんがフライングサーカスを始めてないという。
次話も同じくらいのボリュームで初の大会参加あたりまで書けたらいいなぁと思ってます。
次は少し別のもの書いてるので間が開くかもしれませんが、よろしくお願いします。


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第2話:飛翔姫のサーカス
Chapter 1


 俺が葵さんにフライングサーカスを習い始めて早くも一週間が経った。小学校の終業式は3日前に終わっている。つまり、待ちに待った夏休みの始まりだ。

 もちろん、宿題の方も順調に終わらせている。というよりも、毎日宿題をちゃんとするというのも、葵さんがフライングサーカスを教えてくれる条件に含まれていたからである。じゃないと多分、一日中飛んでいたかもしれない。いや、間違いなく飛んでいただろう。

 まあそんなこともあって、夏休みの宿題は今までで一番順調に消化中。そっちはいいんだよ、うん。問題は、本題のフライングサーカスの方。

「とぉりゃぁぁぁあああああああっ!」

 なぜか俺はグラシュを履いたまま、久奈浜の海岸を全力でダッシュしていた。

「ふんがぁぁぁああああああああっ!」

 葵さんがホイッスルを吹いたら止まって休憩、でも10秒ほどしたら一度吹かれてまたダッシュを10秒、それからまた休憩を10秒……。

「んんにゃぁあああああああああっ!」

 辛くてちょっとでも速度を落とそうとしたら、

「昌也―! それがお前の全力かー! そんなんだとあと5本追加するぞー!」

「葵さんのおにぃいいいいいいいっ!」

 俺は最後の力を振り絞って足を上げ、腕を振り、思いっきり砂浜を踏みしめて走った。

「よぅし、休憩にしよう」

 ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ、よ、ようやく……終わった。肩で息をしながら、俺はいったん葵さんのところまで戻る。防波堤の日陰で一息ついていると、冷たいスポーツドリンクを渡してくれた。

「んん、ん、っぷはぁああ」

 カラカラに乾いた体に、冷たい水分が染み込んでゆく。スポーツドリンクって、こんなにうまかったんだ。それにしても、納得いかないことがある。

「ねぇ、葵さん」

「なんだ昌也。もしかして、宿題でわからないところでもあったのか?」

「違う、別にわかんないとことかないし。って、そうじゃなくて!」

 と、俺は葵さんの前に回り込んで声を大にして抗議した。

「俺、フライングサーカスを教えて欲しいって言ったよね! なのにどうして空を飛ばずに、走らなきゃいけないんだよ!」

 そう、夏休みに入ってから時間に余裕ができたのはいい。でも、俺はフライングサーカスを教わりたいのであって、陸上選手になりたいわけじゃない。準備運動のあとは、だいたい5分~10分くらいだとうか。一度へとへとになるまで、短距離ダッシュを繰り返すという練習をしているのだ。

「そのことなら、昨日も説明したと思うんだが?」

「うん、聞いた……。聞いたけど、なんか思ってたのと違う」

「そうは言っても、これは基礎の基礎みたいなものだぞ?」

 っと、葵さんはこの数日で耳にタコができるくらい聞いた説明をまた繰り返す。

「スポーツ全般に言えることだが、体力がないと最後まで力を出しきれない。そうは言っても、フライングサーカスはマラソンみたいな持久力が必要なスポーツじゃない、瞬間的な力を継続的に出す類の体力が必要になる。例えば、昌也が文句を言ってる短距離ダッシュみたいな、な?」

 『な?』じゃないんだよ、『な?』じゃ。それくらい、俺だって頭ではわかってるんだっての……。

「それに、スタートも重要な要素だ。ホーンの音にどれだけ早く反応できるか。この2つを同時に鍛えるのに、この練習はちょうどいいんだよ」

 うん、それも聞いた。もちろん、理屈ではわかってる。動画サイトで葵さんの試合を何度も見てきたけど、どれもホーンが先なのか葵さんが先なのかわからないくらい完璧なスタートだっていつも思ってた。

「この2つを重点的にやっとくと、もっと実践的な練習になった時に役に立つ。簡単にへばらなくなったり、相手の動きに反応したり」

 でも、だから思う。こんなダッシュを繰り返すだけの練習で、本当に葵さんみたいに飛べるようになるのかなって。なんかもっとこう、誰にも秘密のすごいトレーニングがあるんじゃないかって思ってた。

 それが蓋を開けてみたらなんか陸上部みたいな練習を毎日繰り返して。すげー地味だし、期待してたのと違ったと思っても仕方のないことだろう。

「でもまぁ、地味でつまらないのは、私も昌也の言う通りだと思うけどな」

 でも、今日はいつもとちょっとだけ違った。肩に置かれた葵さんの手が、ぷにぷにと俺の頬を突っついた。

「よっし。じゃあ休憩が終わったら、今度は空だ。希望通り、たっぷり指導してやるから覚悟しろよ?」

「よっしゃあっ! やっと飛べる!」

 今すぐにでも飛び出そうとする俺の首根っこを掴まえて、その場に座らせる葵さん。休憩も練習の内だから今はしっかり休むようにと、きつくお叱りを受けるのであった。

 

 

 

 たっぷり水分と塩分と休憩をとったあと、俺と葵さんは空へ上がった。今はファーストブイの横で葵さんから説明を受けている。しかもなんと、今回は基本とはいえ、ついにフライングサーカスの技を教えてくれるそうだ。

「昌也もかなり飛ぶのに慣れてきたようだし、そろそろ教えてもいいタイミングだと思ってな」

「それで、何を教えてくれるの?」

「基本的な加速技術、ローヨーヨーだ」

「ローヨーヨー?」

 英語なんだろうけど…………全然意味がわからん。

「スーパーヨーヨーなら、父さんが持ってるけど?」

「いや、そのヨーヨーは違うな」

 てかよくそんなオモチャ知ってるな、と葵さんは苦笑している。

 まあ、俺も遊んだことはないんだけど。父さんが言うには、紐で引っ張ってくるくる回すオモチャらしい。

「ローヨーヨーは、重力の力を使った加速技術の1つ。斜め下に飛ぶことで重力の力を使って加速して、十分に速度が乗ったところで上昇する。ただ単にまっすぐ飛ぶより、この方が速く飛べるんだ。遠回りのような気もするが、グラシュの力だけだで加速するよりずっと早く最高速まで持っていける」

「へぇぇ。なんか真っ直ぐ飛ぶほうが短いから速い気がするけど、そうじゃないんだ」

「まあ、グラシュを履いてないんだったら違うのかもしれないが、フライングサーカスに関して言えば、重力を利用したほうが加速しやすいのは確かだ。じゃあ、私の姿勢を真似しながら飛んでみよう」

 説明もそこそこに、俺は葵さんに倣って飛行準備に入る。陸上のクラウチングスタートの要領で構え、隣の葵さんの一挙手一投足を見逃さないよ目を凝らす。

「じゃあ、いくぞ……!」

 まるで呼吸でもするような自然な所作で葵さんは飛び出した。あまりに自然すぎる動きに、思わず見入ってしまう。それに少し遅れて、俺もスタートした。

 安定してきたとはいえ、それはただ空を飛ぶだけに関して。フライングサーカスという競技レベルで見ればまだまだ。特にスタート直後のスピードが乗り切ってない状態は、バランスをとるのが難しいのである。

「大丈夫だ昌也、ゆっくりついてこい。姿勢に注意してな」

「は、はい!」

 葵さんは最高速を出さず、あくまで俺がついていけるギリギリの速度で少し前を飛んでいる。とはいえ、普段の移動中に比べたら倍以上の速さだ。

 胸をやや下に向け、葵さんを追って緩やかな下降曲戦を描く。身体はほとんど一直線、まるで頭から落下しているみたいな速度で顔の横を風が通り過ぎてゆく。この速度で下に向かって飛ぶのは、まだちょっと怖い。

 でも、ちょっとでも加減すれば葵さんに置いていかれる。せっかく新しいことを教えてくれてるんだ、置いていかれてたまるか!

 少しでも追いつけるように、必死になって葵さんを凝視する。腕の角度は? 指先はどこにある? 足の向きは? 視線の位置は?

 少しでも違うところがあれば、自分でも分かる範囲で少しずつ修正。そうする内に、ほんのちょっとだけど葵さんとの距離が近づいてゆく。

「よし昌也、スピードが乗ってきたところで、次は上昇だ。姿勢を崩さないように注意しろ」

「は、はいッ!」

 確かにこれは、今まで経験したことのない速度だ。重力を利用した加速って、ここまですごいのか。

 葵さんが声を張ってくれているおかげで、辛うじて指示が聞き取れる。今は進行方向──頭の方のメンブレンが薄い影響で、これまで経験したことのないレベルで風が通り過ぎていく。車の窓を開けて走ったって、ここまでの音はしない。

 そんな中、自分の姿勢を把握するのは思っていた以上に難しい。胸を少しそらし、下向きから水平に、そして上向きへとゆっくり姿勢を変えてゆく……つもりだったのだけれど。

「ん、んんぁああッ!!」

 下降から水平飛行へ移る途中、葵さんとの距離がまた開き始めた。理由は簡単で、俺が飛行姿勢を保てなかったから。堪え切れずにいきなり水平飛行の姿勢に移ったせいでメンブレンが乱れ、減速してしまったのである。

 でも、速度はまだ十分に残っている。ここから取り返してやるぞ。水平飛行に入ったところで、今度はゆっくりと胸を上側へとわずかにそらす。よしよし、今度はスムーズに姿勢が変更できた。目に見えた減速をすることなく、頭は斜め上の方向へ。視線の先には、既に上昇を始めた葵さんの姿があった。

「おぉぉ……」

 これがローヨーヨーか。その効果を、俺はしっかりと肌で感じとっていた。下降速度もそうだったが、上昇速度も今までに経験したことのないレベルだ。というより、真っ直ぐ飛ぶより断然速い。後ろに流れていく浜辺の景色が、いつもと全然違う。

 重力の力、恐るべし。といったところかな。そして、

「まぁ、初めてにしては……まずまずってとこかな」

「はぁ、はぁ、あ……ありがとう、ございます」

 上昇仕切ったところでセカンドブイにタッチ、ゆっくり減速しながらサードブイで待っている葵さんの元へと向かう。

「まだ始めたばかりってのもあるが、姿勢を維持し続ける体力が足りないな。まあ、筋トレをするほどでもないから、繰り返し練習していけばその内できるようになるさ」

「お、思ってたより、体力、使いますね……」

「そのためのダッシュの練習なのさ。腕と足をしっかりと振ってやれば、飛行に必要な筋肉もついてくる。とまぁ、練習の意義がこれできっちりわかっただろうから、これからは文句を言わずしっかり励むように」

「わ、わかりました」

 今以上に腕や足をしっかり振ってダッシュか……。俺、死ぬかもしれない。いや、ホントに死んだりするわけじゃないけどさ、それ終わったら手と足が棒になってそう。そんなんで本当に飛べるの、俺?

「じゃあ、さっきの要領でローヨーヨーをあと10本。さっきよりちょっと速度を落とすから、私の姿勢を見ながらキッチリ着いて来いよ?」

「ぜ、善処します」

 結局10本以上ローヨーヨーを繰り返した俺は、へとへとになって家へと帰る。

 ちなみに練習後に真っ直ぐ飛んだ時間とローヨーヨーで飛んだ時間を測ったら、疲れ過ぎたせいで真っすぐ飛んだほうが速いタイムになってしまい、葵さんがちょっと焦ってたりした。



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Chapter 2

 宿題とフライングサーカス三昧の夏休みも、気付けば半分が過ぎようとしていた。つまり、もうすぐお盆がやってくる。朝起きれば小学校へ行ってラジオ体操、朝ごはんを食べたらお昼まで宿題、それからフライングサーカスの練習というサイクルにもすっかり慣れた。

 なんというか、うん、間違いなく俺は今までで一番充実した夏休みを過ごしていた。文武両道的な意味で。

 そして今日も……、

「ッタッチィ!」

 俺はフライングサーカスの練習に打ち込んでいた。

「はぁぁ、はぁぁ、葵さん、ローヨーヨーとハイヨーヨー、4本ずつ、終わったよ」

「おつかれ、昌也。まぁ、ちょっとは様になってきたかな」

 ダッシュ練習の割合は少しずつ減っていって、今は練習の開始5分弱で終わり。それからフライングサーカスのブイに沿って飛ぶフィールドフライを、葵さんが良いと言うまで続ける。それもブイを1周する時間が決まっていて時間経過と共にだんだん短くなるという、シャトルランのフライングサーカス版的なもの。

 体力のきつくなる後半ほど1周の時間が短くなり、焦って無理な加速をしようとして姿勢が崩れて、その度に葵さんに注意されて姿勢を直す。それが終わればローヨーヨーとハイヨーヨーを4本ずつ、つまりフィールド2周分。それから休憩を挟んでまたフィールドフライにローヨーヨーとハイヨーヨーのセットを俺がくたびれるまで繰り返す。

 まさに、地獄の特訓メニューだ。

「も、もう無理……」

「ははは、これだけ飛べばそうなっても仕方ないか。じゃあ、今日はこれで終わりにしよう。クールダウンに、ゆっくりフィールドを飛んできな」

「はーい」

 フライングサーカスは、四方のブイにタッチして獲得する得点以外にも、相手選手の背中をタッチして獲得する得点もある。その背中を取り合って飛行するのを戦闘機になぞらえてドッグファイトっていうんだけど、今の所そっちの練習はさっぱり。

 今はとにかく飛行姿勢を徹底することと、加速の基本技術であるローヨーヨーとハイヨーヨーの練習をひたすら繰り返している。まあ、それも嫌ってわけではない。

 フィールドフライは1周の時間が決まっていてその時間内に周回しているわけだけど、1周するのにかかる時間は少しずつ短くなってきている。これも葵さんのご指導の賜物だ。

 まあ、あれだけ飛行姿勢を矯正されてタイムが良くならなかったら、静かなお顔して雷が10発くらい落ちてきてもおかしくはないんだけどさ。

「ふぅぅ、これくらいかな」

 ゆったりとしたフィールドフライで乱れた息も整ってきたし、そろそろ降りよう。葵さんは既に降りていて防波堤の影で一息ついている。

「あ、白瀬さんだ」

 葵さんの隣に、よく一緒にいる久奈浜FC部の男子選手──白瀬さんがいた。最近は俺と葵さんの練習もちょくちょく見に来ている。

「こんにちは、白瀬さん」

「やぁ、昌也くん。今日も頑張ってるね。はい、これ差し入れ」

「ありがとうございます」

 解除キーを口にして砂浜に降りると、白瀬さんからマグボトルを受け取って一口飲む。

「マスカット味だ、さっぱりしてて飲みやすい」

「この炎天下で、ココア味はちょっときついと思ってね。今日はマスカット味のプロテインを作ってきたんだけど、どうかな?」

「ココア味もいいですけど、練習の後はこっちのほうが飲みやすいです。ん?」

 するとそこで俺は、白瀬さんの後ろにもうひとり誰かが隠れているのに気付いた。

「ほら、みなも」

 白瀬さんに背中を押されて出てきたのは、白いワンピースの女の子だった。背は俺より一回り小さいくらいかな、大きなトートバッグを両手でぎゅっと抱えている。麦わら帽子を目深にかぶっているから顔はよく見えないけど、この子はいったい?

「あ、あの……。白瀬、みなも…です」

 緊張のせいで声はひどく震えていた。自己紹介の時は頑張ってこっちをみてくれたけど、終わった途端にトートバッグに顔をうずめてしまった。それでも耳まで真っ赤になっているのがわかる。

「ちょっと歳は離れてるかもしれないけど、俺の妹。たぶん、昌也くんの1つ下になるかな。まぁ、仲良くしてやってくれると、嬉しいかな」

 頭をわしゃわしゃされてる? みなもちゃんは、『もぉ、お兄ちゃん……』と口をとがらせながら白瀬さんを見上げて抗議。でも俺に視線を戻すと……そのまま白瀬さんの背後に。

 ものすごい恥ずかしがり屋さんみたいだ。さっき白瀬さんが心配そうにしてたのはこれが理由か。

「えっと、みなも……ちゃん?」

「ッ!?」

 白瀬さんの後ろで、ビクってみなもちゃんの肩がはねた。

 それから、じぃぃぃぃ……白瀬さんの横からちょこんと顔をのぞかせてこっちの様子をうかがっている。

「俺は、久奈島小4年生の日向昌也。よろしく」

「よ、よろしく……お願いしま、す」

 みなもちゃんと仲良くするには、まだまだ時間が必要そうだ。

「隼人、みなもちゃんが持ってるのは例の?」

「あぁ、昨日やっと届いたんだ。はやく見せてやりたいだろ?」

 俺とみなもちゃんが異種接近遭遇的なコミュニケーションの手段を模索している最中、頭の上の方では葵さんと白瀬さんがなにやら不穏な会話をしている。見せてやりたいって、一体何のことだ?

 そう思っていると、白瀬さんはみなもちゃんの手を引いて、防波堤の向こう側へ行ってしまう。そして何か耳打ちをしているようだが。

 ちょっと気になって葵さんを見上げてみると、ちょっと待ってなさいとウィンクしてきた。まあ、俺も日陰でもうちょっと涼みたいし、終わるまで静かに待ってよっと。

 それにしても、このプロテイン飲みやすいな。今度、白瀬さんのところに行ってみようかな。お父さんがスポーツショップをしているみたいだし。

「そうだ昌也。次の練習なんだが、盆明けまで休みだから再来週の月曜になる。もし明日間違って来ても、私はいないからな?」

 そうそう、夏休みも半分ということは、もうすぐお盆の時期だ。うちは父さんも母さんも四島の出身だから自宅でゆっくりしてるけど、クラスの半分くらいは親戚の集まりとかで本土の方へ出かるらしい。

 葵さんも四島の出身だからお盆も島にはいるけど、親戚が帰ってくるってので家の手伝いで忙しいのだそうだ。

「わかってるよそれくらい。葵さんこそ、再来週の月曜日にはちゃんと来てよ?」

「もちろん、この私が忘れるわけ無いだろ。もっとも、昌也がちゃんと夏休みの宿題を済ませなかったら、どうなるかわかったもんじゃないんだが?」

「へっ、それこそ問題ないもんね。もうほとんど終わってるしぃ」

 ほんと、葵さんとの約束がなかったらどうなっていたことか。去年までのことを思い出して、ちょっと寒気が……。今までは夏休みのはじめにちょこっと手を付けたら、お盆が開けるまでずっと遊んでたもんなぁ。

「そうかそうか、それなら安心だな。いやー、昌也のご両親からも色々頼まれてるからなぁ。フライングサーカスをやるのはいいが、勉強のほうが疎かになったりしないかって」

 い、いつの間にそんな密約を……。そ、それでか! 葵さんがフライングサーカスを教える条件に夏休みの宿題をやるように言ってきたのは! は、ハメられた……。これが大人のやり方か! 汚い! 大人って汚い!

「新学期に入ってからはともかく、夏休み中はその手の心配はしなくても良さそうで、私もホッとしたよ」

「それに関しては……俺もホッとしてます」

 と、一言ぼそり。今までの俺の夏休みの宿題事情を聞かされたのか、葵さん苦笑いしている。うぅぅ 、なんかわからんけど、葵さんには知られたくなかった。

「お待たせ、二人共」

 と、次の練習日の話をしてたら防波堤の向こうから白瀬さんとみなもちゃんが戻ってきた。

「ほら、みなも。大丈夫だから」

 頑張ってきな、と白瀬さんはみなもちゃんの頭を優しく撫でた。それに勇気をもらったのか、みなもちゃんも大きくうなずいて白瀬さんの後ろから出て俺の目の前までとことこと歩いてきた。

「あ、あの!」

「はい」

 力強い声に、思わず敬語になってしまった。

 さっきと違って、うるませた目でじぃぃっとこっちを見上げている。

「これ、受け取って……ください!」

 ありったけの勇気を振り絞って、抱いていたトートバックを俺へと差し出す。

 あ、これ俺にだったんだ。

「あ、ありがと。えっと、これって?」

 持った感触は、大きさの割にかなり軽い。普段背負っているランドセルのほうが重いくらいである。

「ふ……ふらいんぐ、すーつ」

「ふらいんぐ、すーつ………………フライングスーツッ!?」

 みなもちゃんの言葉がちゃんとした意味になるまでしばらく時間がかかってしまったが、え? マジで? マジマジのマジでそうなの?

 慌ててトートバッグの中に手を突っ込み、中の物を取り出す。

「うおぉぉ……」

 言葉が出なくなるって、こういうことを言うんだな。

 黒のインナー、白地にグラシュと同じわずかに緑がかったライトブルーの縁取りが鮮やかなフライングスーツが入っていた。

「昌也のお父さんから頼まれてな。その内、試合もやることになるだろうから、ユニフォームは必要だろ?」

「ははは。これじゃあ昌也くん、今からお盆明けの練習が待ち遠しくなっちゃうかな」

 もう、父さんもわざわざ秘密にすることなんてないのに。豪快に笑う白瀬さんの声を聞きながら、ここ最近の父さんの様子を思い出す。

 そういえば、最近口数が少なかったような気がする。きっと話始めちゃうと口が滑っちゃうと思ったんだろうな。葵さんに教えてもらい始めてから、フライングサーカスの話しかしてないし。

「でも、こういうのは早く着てみたいと思ってね」

「ありがとう、白瀬さん! それに、みなもちゃんも!」

 あぁもう、嬉しい気持ちが抑えられない。改めて白瀬さんとみなもちゃんの方に向き直ってお礼を言った。

「わ、わたしは持ってきただけ、だから……」

 でも、直接渡してくれたのはやっぱりみなもちゃんなんだから、ちゃんとお礼は言わないとね。くそ、ここに更衣室があれば今すぐ着替えられるのに。

 とりあえず、帰ったらすぐ着てみよう、必ず着よう、絶対着ようそうしよう。

「おっとすまん。親父から電話だ」

 白瀬さんのポケットから軽快な着信音が。急用らしく、白瀬さん電話のためにこの場を離れる。すると当然、みなもちゃんが隠れる場所もなくなってしまうわけで。

 唯一の防御手段だったトートバッグも今は俺の手の中なので、見ているこっちが心配になるくらい、みなもちゃんはオロオロとし始めてしまった。

 葵さんもどうすればいいかわからないようで、珍しく困っているようである。

 と、とにかくなにか話をしないと。話題、何か話題は……、そうだ。

「そ、そういえば、みなもちゃんは空って飛んだことあるの?」

 俺的な無難な質問を1つしてみる。しかし、これが最初から破綻していることに気付けなかった。

「えっと、まだ……年齢制限、が」

 開幕でいきなりつまづいた。って、そうだよ俺! 俺だって今年ようやく年齢制限が解除されたばかりなんだから、学年が下のみなもちゃんが飛んだことあるわけ無いじゃん!

「で、でも……」

 俺と葵さんが頭を抱えないように悩みながらなにか話題をひねり出そうとしていると、以外にもみなもちゃんの方から声をかけてくれた。

「興味は、ある。あります」

 それっきりまた下を向いてうつむいちゃったけど、うん。そうか、興味はあるのか。

 だったら、こんなのはどうかな。

「ねぇねぇ、葵さん」

「ん? どうした昌也」

「あのね……」

 ちょいちょいと葵さんを手招きすると、中腰になってもらって耳元でごにょごにょと内緒話。とっさに浮かんだ考えを葵さんに相談する。

 いい考えだと思うんだけど、ルール的にはグレーというかブラックな気もしちゃうし。でも、できれば賛成してくれると嬉しいんだけど。

「まあ、いざとなったら私がいるし、大丈夫だろ」

「じゃあ……」

「あぁ、行ってきな」

 よっしゃ、葵さんからOKが出た。

「こんなに大きいんだ。私達だけじゃ、もったいないもんな」

「ありがとう! 葵さん!」

 フライングスーツをトートバッグに戻して葵さんに渡すと、俺はみなもちゃんの近くまで駆け寄って手をのばした。

「じゃあさ、行こう」

「行くって、どこに……?」

「空に!」

 言うが早いか、俺はみなもちゃんの手を取る。

「え? あの、ま、まさや…さん!?」

「絶対に離さないでね。『FLY』!」

 強く手を握ったまま、俺は『起動キー』を口にする。グラシュから発生した反重力子がメンブレンを形成し、二人の体を重力から解き放った。速すぎず、しかし遅すぎず。浮遊感と潮風を全身で感じながら、俺達は徐々に高度を上げてゆく。

 初めて空を飛んだ時、どんな気持ちだったっけ。ワクワクしていて、ドキドキしていて、グラシュを履いた瞬間から待ち遠しくて仕方なくて、そして期待を遥かに超えていった。

 初めて味わった浮遊感も、そして葵さんに導かれて飛んだ空も、忘れられない大事な思い出だ。ちょっと強引すぎたかもしれないけど、興味があるって知っちゃったからには、連れてこずにいれなかった。

 なぜなら、

 

 

 

──────────空はこんなにも大きいんだから──────。

 

 

 

 俺は視線を空から誰かを導く手に、そしてみなもちゃんへと移す。そして、やっぱりよかったと確信した。なぜならその目は、星を散りばめたみたいにキラキラと輝いていたんだから。

 真夏の風が運ぶ潮の香り、その向こうには四島列島を形成する島々の作る美しい景色が広がっている。遮るものはなにもない、蒼と白のキャンバスいっぱいに描かれたこの景色は、この場所(蒼い空)からしか見ることができない絶景だ。

「…………きれい」

 その一言が聞けただけでも連れてきた甲斐があったというもの。でも、空の楽しさは景色だけじゃない。

 もっと色んなものを見せてあげたい、風を感じてもらいたい。

 そのための翼だって、今の俺にはあるんだから。

「じゃあ、ちょっと飛ぶよ」

「うん!」

 俺の問いかけに、みなもちゃんは元気に答えてくれた。それに合わせて、俺も再び体を傾けて加速する。まるで風そのものになったかのように、コントレイルを引きながら俺達は縦横無尽に空を駆け抜ける。

 電話を終えて戻ってきた白瀬さんが葵さんと言い争いを始めるまで、俺はみなもちゃと空を飛び続けていた。



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Chapter 3

 お盆休みに入り、フライングサーカスの練習は一旦休止。俺も父さんと母さんのおじいちゃんとおばあちゃんの家に顔を出して、ご飯を食べて、お墓参りをして、教会でお祈りをして、そんな感じでお盆の用事はだいたい終わり。あとは宿題をして、夏休みスペシャルのアニメを見ながら満喫……って、去年までならなってたんだろうな。

 自主練……ってほどじゃないけど、飛行規制のされてない浜辺でスッキリするまで飛んでいた。毎日飛んでないと感覚を忘れちゃいそうだし、なんだか落ち着かないんだよな。炎天下ってのもあって、飛んでる時間は30分くらいだけど。

 でも、今日は夜にもちょっとしたイベントがある。

「昌也、行くぞー」

「はーい!」

 財布と、そしてグラシュを突っ込んだかばんを背負って父さんと一緒に家を出た。日は既に沈んでいて、周囲は少ない街灯がうっすらと道路を照らすだけ。正直、やや心もとない。

 でも遠くの方──海岸沿いにある公園からは朱色の明かりと賑やかな祭り囃子(ばやし)が聞こえてくる。

「それにしても昌也、かなり焼けたな」

「毎日フライングサーカスの練習で飛んでるから」

 今までだって日焼けをしていなかったわけではないのだが、今年は間違いなく過去最高に焼けていると思う。日光を遮るもののないフライングサーカスを真夏の仇州でやってればそりゃそうなんだろうけど。

「それに、今年は宿題の心配もしなくて良さそうだしなぁ。父さんも安心だ」

「あぁっ!」

 父さんの何気ない一言で、めちゃくちゃ大事なことを思い出してしまった。

「父さんだよね、フライングサーカスの条件に夏休みの宿題するようにって言ったの!」

「はっはっはー。毎年最後の一週間になって困ってる昌也のために、心を鬼にして各務さんに頼んだんだぞ?」

「っとにもぅ。それがなかったらもっとフライングサーカスの練習ができたのに……」

 なにが『心を鬼にして』だよ、顔がめっちゃにやけてんじゃん。まあ、夏休みの終わり頃まで宿題サボってたのは悪いなぁとは思ってたけどさぁ。でも、今は一秒でも長く飛んでいたいんだから、俺がどれだけもどかしかったことか、父さんに教えてやりたい。具体的には、四〇〇字詰め原稿用紙一枚にびっしり書き込んでも足りないくらい。

「まあ、頼んだのは事実なんだけど。父さんが頼まなくても各務さんはもともと勉強をちゃんとするのを条件にしようとしてたみたいだから、結果は変わらなかったと思うぞ」

「…………マジで?」

「あぁ、大マジだ。だから昌也、各務さんに教えてもらうなら、夏休みが終わっても小学校の勉強を頑張るんだぞ」

 やばいやばい、一瞬目の前が真っ暗になるかと思った。まあ、日は沈んでるから真っ暗なんですけどね、ってそうじゃなくて!

 今はまだ夏休み、午前中は勉強としても午後からは好きなだけ飛べる。けど休みが終わって授業が始まったら、それこそ練習時間が限られてしまう。でも、今から一人で練習したり、葵さん以外の人に教えてもらうなんて考えられない。

 だって俺は他の誰でもない、各務葵その人にフライングサーカスを教えて欲しいのだから。こうなれば、俺も腹をくくろう。

「あぁもう! わかったよ! 葵さんに教えてもらえるなら、何だってやってやらぁ!」

 勉強がなんぼのもんじゃ! テストで百点とって、堂々と葵さんに教えてもらってやる。俺のやけくそ気味の決意を聞いて、父さんは楽しそうに笑っていた。

 

 

 

 友達とよく遊んでいる浜辺の公園も、今日は全く雰囲気が違っていた。中央には大きな(やぐら)が組まれ、その上では太鼓と笛が四拍子の軽快なリズムを奏でている。櫓から四方に伸びたロープには赤提灯が吊るされ、周囲では近所のばあちゃん達が元気そうに踊っていた。

 とはいえ、俺の興味はもちろん地味な盆踊りなんかではなく……、

「父さん、かき氷!」

 みんな大好き、出店の方だ。食べ物、くじ、射的、お面によくわからない光るグッズまで、色々出ている。

「暑いし、買ってくか。昌也、何味にする?」

「ブルーハワイ!」

「よし。すいませーん、ブルーハワイとメロンを1つずつお願いします」

 父さんの注文に店員のお兄さんは景気良さげに応えると、かき氷機でシャカシャカと氷を擦り始める。目の前でどんどんと山になっていくかき氷は、見ているだけでも楽しくなってくる。そして30秒もしないうちに、青と緑のシロップのかかったかき氷が完成した。 

「はい、どうぞ」

「ありがとうございます!」

 お兄さんからブルーハワイのかき氷を受け取って、さっそく一口パクリ。んん~!! 頭の奥の方でキーンって鋭い痛みが! でも夏の暑さなんてふっとぶくらい冷たくて甘くて美味しい。

「っははは、がっつきすぎだぞ? 昌也」

 と、聞き覚えのある声が、って葵さんじゃん!?

「5日ぶりくらいか。元気にしてたか? 宿題は進んでるか? んん?」

 腰に手を当てて仁王立ちする葵さんは、グラシュと同じ深紅の浴衣を着ていた。黄色いラインで蝶の模様が描かれていて、とても葵さんに似合っていると思う。

 あまりのかっこよさに、思わず見とれてしまった。

「んぐんぐ……。ちゃんとしてるって。じゃないと練習教えてもらえないんだし」

「うむ、それならよろしい」

 葵さんは満足そうに頷くと、姿勢を正して父さんに向き直った。

「ご無沙汰してます、日向さん」

「いえいえ、それはこちらの方です。昌也が大変世話になっているのに、なかなかご挨拶できず申し訳ない」

 家ではあまり見られない、真面目な方の父さんだ。半分くらいお仕事モードが入ってる感じがする。ちなみに半分くらいになってる理由は、手元のかき氷のせいだったりする。

「とんでもないです。とても素直で、教えたことはどんどん覚えていって。楽しくやらせてもらってますよ」

 かき氷を堪能しているふりをしつつ、葵さんの言葉に意識を傾ける。葵さん、俺のことをどう思ってるんだろう、めっちゃ気になる。父さんの前だから多少話を盛ってくれるかもぉ……いや、葵さんに限ってそれはないか。

「でも、各務さんって全国区の選手なんですよね? まさかフライングサーカスまで教わることになるとは思っていなかったもので。あの、練習のお邪魔になったりなんかは……」

「好きでやってることなので、気になさらないでください。私の方も、初心を思い出すいい機会になっています」

「そう言っていただけると、ありがたい限りです」

 えぇっと、これは……褒められたってことでいいのかな? まあ、あの飛翔姫の葵さんに指導してもらってるんだから、伸びないほうがおかしいってもんなんだけどね。

 うん、でもなんか、いざ葵さんから褒められると、なんか照れくさいな。

「これからもご迷惑をおかけすると思いますが、昌也のこと、よろしくお願いします」

「はい、ビシビシ指導させて頂きます。あと、日向さんとの約束の勉強の方も」

 最後になんかよろしくない密約が交わされた気もするけど、聞かなかったことにしておいてあげよう。なんせ、今日の俺は機嫌がいいもんね!

「ねぇ、父さん。葵さんとお店まわってきていい?」

「私は構いませんよ。あ、すいません。宇治金時を1つ」

 どうしたものかと悩んでる父さんに先んじて、葵さんがにっこり笑ってOKを出した。それならばと、

「じゃあ、昌也のこと、お願いします。私はそこのベンチで休んでいますんで」

 葵さんに頭を下げ、休憩所兼喫煙所となっているベンチの方へ。先客らしきお父さん達もいっぱいで座るスペースはなさそうだけど。

「あ、昌也、これお小遣いな」

「ありがと、父さん。じゃあ、行ってくるね!」

 そんなわけで父さんを見送りつつ、俺と葵さんはかき氷を片手に出店巡りを始めた。

 

 

 

 かき氷を食べながら出店を眺めていると、最近よく会う二人の姿をみつけた。

「よう、隼人。そっちも来てたんだな」

「葵こそ。親戚の人達ほったらかして大丈夫なのか?」

 白瀬隼人さん。左手首に水風船をぶら下げながら焼きそばをほおばっていた。その大柄な白瀬さんの背後からは、みなもちゃんの姿がちょっとだけ見えている。恥ずかしがっているのか、目があったとたんに隠れられてしまったけど。

「そっちは今、坊さんか神父のとこに行ってる。さっきやっと開放されたところさ」

「はははは、お疲れ様。まあ、有名税だと思って諦めるんだな」

 葵さんと白瀬さんが世間話をしているみたいだし、こっちはみなもちゃんと……。というわけで、ぐるっと白瀬さんの背後に回り込んで、

「こんばんは、みなもちゃん」

「こ……こんばんは、です。まさやさん」

 まずは挨拶から……と思ったんだけど。や、やばい。いつもとは違う、浴衣姿のみなもちゃんが、ばり可愛い。スカイブルーを基調とし、赤青黄白の水風船があしらわれていて、うん、とても似合っている。

「あ、まさやさんも、かき氷」

「うん、暑かったから」

 わっと、浴衣ばかりに目がいってたけど、みなもちゃんの手にもかき氷がある。イチゴ味の練乳トッピングだ。あぁ、イチゴ味も美味しそうだな。

「あの、ちょっと……食べ、ますか?」

「え? いいの?」

 俺の視線に気付いたのか、ストローをくわえたまま、どうぞ、と容器を差し出してくれるみなもちゃん。ほ、ほんとにもらっちゃって、いいのかな? ちょっと気がひけるけど、せっかくみなもちゃんが勇気を出してくれたんだし、一口だけもらっちゃおうか。定番のイチゴ味もやっぱり食べたいし。

 それじゃあ、と俺がストローを伸ばそうとしたその時、

「悪いね、みなもちゃん。それじゃあ、一口いただいていくよ」

 と、いきなり脇から葵さんがでてきて、みなもちゃんのかき氷をひとすくいしていった。

「ん~、やっぱりかき氷といえばイチゴ味は外せないな」

「ちょ、葵さん!」

「どうしたんだ昌也? あ、私の宇治金時が食べたいのか? しょうがないヤツだなぁ」

「違うって! そうじゃなくって……」

 せっかく恥ずかしがり屋のみなもちゃんが頑張ってくれたのに、と抗議しようとした俺の目の前に、ひょいと抹茶のシロップとあんこが乗ったストローが差し出される。

「ほい、あーん」

 ん? え? これはいったい、どういう状況なんだ……。

 宇治金時のかき氷を一口分のせたストロー、それを葵さんが、俺に?

「もしかして、昌也は抹茶はダメだったか? まぁ、まだ小学生の昌也には早かったかもしれないな。この大人の味は」

「ん、んなことねぇって! あむっ!」

 葵さんの計略に乗せられて、口が勝手に食べてしまっていた。

 って待て待て! これって、葵さんのストローだよな? それじゃあこれは、かかかか……間接なんちゃらってやつになってしまうのでないだろか。

「どうだ? お子様な口の昌也には、やっぱりまだ早かったか?」

「こ、これくらいなんともねぇよ! 抹茶味くらい食べられるっての!」

 正直なところ、頭の中がこんがらがって味なんてわかったものじゃないんだけど。

 こんなんで甘いも苦いもわかるか!

「っとに、葵さんのバカ……」

「ん? なにか言ったか? 昌也」

「何も言ってない。行こ、みなもちゃん」

 空いている方の手で、みなもちゃんの浴衣の袖を引いて歩き出す。

「あっ。う、うん。行ってくるね、お兄ちゃん」

「お、おう。足元に気をつけるんだぞ」

 誰にも聞こえないように葵さんへ文句をぶつけ、俺はそそくさとその場から離れた。今はちょっと、葵さんと顔を合わせたくない。さっきのことを思い出して、無性に恥ずかしくなってしまいそうだから。

「葵、やりすぎ」

「いやぁ、なんか可愛くてつい。な?」

「『な?』じゃねぇよ。まあ、気持ちはわからなくもないが。いたいけな少年の心を弄ぶのも、たいがいにしとけよ」

「わかってるって。次からは気をつけるさ」

 よし、気分を切り替えていこう。せっかくの盆踊りだし、楽しまないと。

 幸い、父さんから軍資金はもらってる。お小遣いも多少はある。さっき勇気を出してくれたみなもちゃんのためにも、楽しんでもらえるよう頑張らないと。俺はそうやって、心の中で固く決意するのであった。




はい、相変わらず全然空を飛んでいません。
しかも盆踊り回はこの1回でまとめようとしたけど、色々書いてたらまとまりきりませんでした。
やりたい出店のイベントとか、基調な空を飛ぶシーンとか書いてたら1万字超えそうだったのでchapter3と4に分けることにしました。
仕事でなかなか時間とモチベが取れませんが、できるだけ早めに次を投稿します……。


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