ご主人さま、お薬くださいっ! (宇宮 祐樹)
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プロローグ:春色と少女

よろしくお願いします


 

 

「あなたって、とても優しいのね」

 

 穏やかな春の日差しが、ベッドに横たわる彼女を照らす。

 

「どういう意味だ」

「分からないの?」

「……ああ。分からない。優しくしているつもりもない」

「でも、ずっと私の傍にいてくれる」

「君が望んだからだ。そして俺は、その望みにできる限り応える。そういうことしかしていない。……いや、それしかできないんだ」

「……そういうところ、なんだけどな」

 

 だから分からない。俺は俺が出来ることしかしていない。それなのに、彼女は俺に優しさを見出した。その意味が真に理解できなかった。俺は彼女を救えなかったのに。

 緑色の病衣に身を包んだ、二十代の半ばの女性。くすんだ藍色の瞳は、じっとこちらを見つめ続けている。そこに後悔はなかった。どうしてか、暖かな色が灯っていた。

 まるで、俺を許しているような、優しい瞳をしていたことを憶えている。

 

「……私、これからどうなるんだろう?」

「分からない。今までもこれからも、俺のできることをする」

「助かるって言ってくれないんだ」

「助かるかもしれないし、助からないかもしれない。……俺は神ではない」

「……助からないかもしれないのに、私の面倒をしてくれるのはどうして?」

「それは……」

 

 今こうして目の前に居る人が、どこか手の届かない遠くへと行ってしまうのが、とても悲しく思えるから。こうして生きて、話をして、笑ってくれる人と離れてしまうのを恐れているから。人が死んでしまうのが、何よりも怖く感じるから。

 思いつく言葉は数あるけれど、本心は上手く言葉にできなかった。

 

「……やっぱり優しいんだよ、あなたは」

「君が言うのなら、そうなのだろう」

「それにとっても弱い。こっちが守ってあげたくなっちゃうくらいね」

 

 それは体のことか。それとも、心のことか。

 少なくとも、自分が強い人間だという自覚はなかった。

 

「でもね、強くなくてもいいんだよ」

「……そうなのか?」

 

 それでは、何もできない。

 

「そうじゃないよ。力がないからこそ、心から守りたいものに気づけるんだ。全てを守れる力がないから、本当に大切なものを見つけることが出来る。それが全てにおいて正しい、っていうわけじゃないけど……だから、あなたはどこまでも優しくなれるんだと思う」

 

 彼女と出会って二週間ほど。俺は、彼女のほんの一部しか知っていない。

 けれど彼女は俺のことを俺以上に理解して、その上でそんな言葉を投げてくる。

 十七年生きていて、初めてのことだった。

 

「ねえ」

「なんだ?」

「あなたにとって、一番大切なものってなあに?」

 

 問いかけに、答えることはできなかった。俺はその答えを持っていなかった。

 大切なもの――考えればいくらでも出てくるけれど、その中に一番はない。どれも全て大切に思えるし、守りたくも思えるし、なくてはならないとも思える。

 傲慢なのだろうか。それとも貪欲か。全てを守りたいと、そう思えてしまう。

 けれど、俺にそんな力などあるはずもなくて。

 目の前の彼女を救うことすらも、今の俺にはできなかった。

 

「……今は、まだ……見えない」

「そっか」

 

 歯切れの悪い言葉に、けれど彼女は笑ってくれる。

 

「なら、これから見つけてみようよ」

 

 その言葉は、吹き抜けるそよ風と共に、窓の外へと抜けてゆく。

 柔らかい風は、彼女の透き通るような髪を、優しく揺らした。

 

 

 



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夜闇に啼く

 

「おい、そこのお前」

 

 路地裏へと続く壁に背を預け、夜空をぼんやりと眺めていると、そんな言葉をかけられる。視線だけを声のする方へ向けると、そこに立っていたのは甲冑を身に着けた一人の人間だった。腰には一本の剣を吊っているがそこに手はかけていない。

 

「こんなところで何をしている? 返答によっては捕らえさせてもらうぞ」

 

 くぐもった声はかろうじて女性と判別できるものだった。そしてまた聴き慣れたものでもあった。無論、こうした殺伐とした場ではないが。

 

「……貴様、聴いているのか」

 

 静かにそう呟いて、彼女がはじめて腰の剣へと手をかける。

 それと同時にこちらもため息を一つ吐いて、彼女へと言葉を投げた。

 

「……リーシャ」

「む? その声は……」

 

 それでようやく気が付いたらしく、彼女は剣の柄から手を放すと、被っている冑を持ち上げる。そうして首を振ると、長い黒髪が背中のほうへと流れていった。赤色の瞳がこちらに向けられる。

 

「クラークか。すまない、これを被っているとどうしても見づらくてな」

「……それは問題じゃないのか?」

「なに、大したことではないさ。一回斬れば大抵は気づく」

「それを問題だと言っているんだ」

 

 あと数秒遅ければ斬られていたのだろうか。というよりも一番の問題は知り合いを何の心配もなく手にかけようとしている、彼女の方ではないだろうか。

 そうして俺が疑問に苛まれていることなぞ知らず、彼女はまた口を開く。

 

「してクラーク、本当にこんなところで何をしている? もうこんな時間なのに」

「客を待ってる。お前こそどうしてここにいるんだ?」

「私は騎士団の団長として夜間警備をしているだけだぞ。最近はスリや盗難の被害が多いからな。それに明日は重要な護衛任務もある。だから、今からこうして警備の目を光らせている、というわけだ」

「……それで明日まで持てばいいが」

 

 鎧の上から胸を叩くリーシャに、そう返す。

 

「しかしクラーク、君も気を付けるんだぞ。なんでも、最近のスリや盗難は女性を狙ったものだけとは限らないからな。特に君は体が強いわけではない。何かあったらすぐに助けを呼ぶんだぞ。私も君が呼んでくれたらすぐに助けに行こう」

「……頼もしいな」

「なに、君の魔法薬には団員の皆も世話になっている。それくらいは頼ってくれ」

 

 リーシャはそう親指を立てながら、強く笑みを浮かべた。

 

「それは感謝するが、今回の仕事はすぐに終わる。お前も俺に構わず、別の場所を見回ると良い。俺のほかにも困ってる奴は大勢いるだろうから」

「む、そうなのか? 何なら今晩は君の護衛を務めても構わないのだが……」

「客が困る」

 

 薬を取りに来て甲冑姿の女が居たらさすがに困るだろう。それに勝手に敵と判断されて剣を抜かれたらたまったものではない。俺では彼女を止められない。

 端的に説明すると彼女も納得してくれたのか、大きく頷いた。

 

「しかし、クラークはいつも人を助けているな」

「……医者には、それしかできないからな」

 

 それ以上でもそれ以下でもない。そうした存在にしかなり得ない。

 だから、誰かを助けているのではなく、誰かを助けることしかできない。

 

「ははは、そうか。けれどそれは大切なことだぞ? 誰かの助けになるというのは、誰にでもできることじゃない。それこそ、君だからこそできることなのかもしれないな」

「……そうか」

「ああ。だから自分のできることはしっかり見極めるんだ。でなければ、本当に助けたい人を助けることができなくなってしまう……っと、少し説教臭くなってしまったな」

 

 放たれた彼女の言葉は、心のどこかへと落ち着いた。

 

「さてクラーク、私はもう行ってしまうが、本当に気を付けるんだぞ。私は仕事仲間としてでなく、君という個人としても心配しているんだ。これだけはどうか知ってほしい」

「ありがとう。感謝している」

「それでいい。では、また次の機会に」

 

 そう言って冑を被り直し、リーシャがまた夜の街へと歩き始める。鎧の擦れる金属音もだんだんと遠くなってゆき、やがて二度目の静寂が訪れた。壁の隙間から望む夜空には、小さな星々が淡い光を瞬かせている。

 

 俺は、誰かの助けになることしかできなかった。

 導くでも、守るでもない。暗闇へと落ちそうになった人々を、何とかして落ちないようにしているだけ。そこから先は何もできない。つくづく、自分勝手な仕事なのだと思う。

 魔力の扱いについては才能があった。それを人の為に使うことへの抵抗もなかった。それが俺にできることなら、選ばない理由はなかった。だから白衣へと袖を通すことを決めた。

 けれど俺はどこまで行っても、助けることしかできない人間だった。誰かを助けたとして、そこから先は何ができるだろうか。たとえ助けたとしても、苦しみと恐怖だけが待つこともある。殺してくれと俺へ懇願する人間を、何人も見てきた。

 俺は助けることしかできない。救いを与えることなど、できるはずもない。

 

 けれど――それは、目の前の人間を見捨てる理由にはならなかった。

 

「あんた、ほんとに面倒な性格してるわよね」

 

 夜風に混じって聞こえた声に、俺は二度目のため息を吐いた。

 

「……仕事柄だ。それに対価もある。一概に損とは言えない」

「でも、(あたし)みたいなガキにも手を出してるじゃない」

「その言い方はやめろ」

「なによ、何か間違ったこと言った?」

 

 間違いというか、意図が違うというか。

 頭を押さえながら声のする方へと目を向けるが、そこには何もなかった。音もなければ影もない。見えるのは冷たい暗闇へと続く道のみ。

 けれど彼女の声がまた、耳元へ囁くように聞こえてくる。

 

「それより、いつもの」

「他人にモノを頼むなら、まずは姿を見せてからにしたらどうだ。ローレン」

「…………ふん」

 

 言うと彼女はすぐに口を閉ざし、それと同時に目の前の空間が揺れる。

 まるで陽炎のようだった。空間の一片だけが歪み、何度か像が揺れ動く。次に視界を覆ったのは、白い閃光。小さな一瞬の輝きは、濁った残滓となって虚空へと消えていく。

 果たして、次の瞬間に姿を現したのは、一人の少女だった。

 

「騙したら、承知しないからね」

 

 厚手のコートを深く着込んだ、十四歳ほどの少女。背中までに伸びる黒髪にはうっすらと青色がかかっていて、その上にはやつれたキャスケットが載せられている。

 こちらを睨む瞳はくすんだ藍色。体の線は歳のわりに細く、それこそ触れれば折れてしまいそうな、危なげな脆さを感じさせた。

 

「騙すつもりはないと何度も言っているが」

「ふん、どうだか。さっきのアイツは?」

「……ただの友人だ。お前を売ろうってわけじゃない」

「あっそ。勝手にすればいいわ」

 

 そう言って、彼女が対面の壁へと背中を預け、ずるずると腰を下ろす。そのままコートの懐をまさぐったかと思うと、そこから取り出したのは小さな革袋だった。

 

「またスリか?」

「別にいいでしょ。そうしないと稼げないんだから」

「……お前のせいで、街の警備が厳重になっていることは」

「あー、知ってる知ってる。でも無駄よ。私を捕まえられるはずないもん」

 

 そう、ローレンは俺のことを見上げて、

 

「それは、あんたが一番知ってることでしょ?」

 

 肩をすくめていう彼女に、何も言い返すことはできなかった。

 魔術的な疾患だった。簡単に言えば体が透明になってしまうもの。彼女はその疾患を治すために、それを利用していた。俺の薬で疾患の発生を抑制し、自分の意思で制御することを可能にしたのだった。

 

「ま、そんなこと今更どうでもいいの。それよりほら、今日のぶん」

 

 口をつぐんだ俺へ、彼女は手にした革袋を投げつける。けれどそれは俺の胸元でぶつかって、地面へと落ちていった。

 袋が倒れて、何枚かの薄汚れた銅貨が散らばっていく。転がったそれを拾い上げながら、彼女はまた俺のことを睨みつける。

 

「……ちょっと、ちゃんと受け取りなさいよ」

「受け取ることはできない」

「はぁ?」

 

 告げると、ローレンは立ち上がって俺へ言葉を吐いた。

 

「どういうつもりよ? 今までさんざん巻き上げといて、受け取れないって」

「……受け取れないものは受け取れない。それだけだ」

「何よ、そんな……こんなはした金じゃ受け取れないってこと? 言っとくけど、要求したのはあんたの方だからね? そもそも私みたいな奴に金を要求したら、そんなものしか返ってこないことくらい……」

「落ち着け、ローレン。そうではなく」

 

 見せつけるように両手を上げながら、

 

「ここにあの薬はない」

「…………は?」

「だから、お前の金を受け取っても俺は何も渡せない。だから、受け取れない――」 

 

 俺が言葉を続ける前に、立ち上がった彼女は俺の胸倉を強く掴む。

 

「ちょっと、どういうことよ!? 約束が違うじゃない! 私はアレがないと駄目なのに! それこそ、あんたが一番分かってんじゃないの!? なのに、どうして……!」

「……たとえ薬があったとしても、お前は駄目なままだろう」

「っ……! 何よ! 何なのよ! せっかく助けてくれると思ったのに! 信じてたのに!」

 

 細い腕で、彼女が俺の事を突き飛ばす。

 向けられる藍色の瞳には、ひどく濁った涙が浮かんでいた。

 

「お前は、いつまでこんな生活を続けるつもりだ?」

「……なに?」

「毎日誰かから金を盗んで、それで俺から薬を買って……いつ死ぬかも分からない。捕まって処罰されるかもしれない。そんな擦り減るような毎日で、お前はいいのか」

「うるっさい! なんであんたにそんな事言われなきゃいけないのよ! あんたは私の何なのよ! 私はあんたにとっての何なのよ!? 私がどう生きてどう死ぬかなんて勝手でしょ!? あんたに説教される筋合いなんて……!」

 そうやって振りかぶった手を、右手で受け止める。

 

「死ぬのはお前の勝手じゃない」

「……なによ……なによ、それ……!」

 

 目を見開いた彼女へ、うまく言葉を伝えられなくて、心から思ったことがそのまま口から洩れていく。どろどろとした、汚物のようなものを吐き出しているようだった。

 

「……恐れているのだと、思う。目の前まで……昨日まで話していた人間と、もう二度と会えないというのが。こうして触れ合えて、温もりを感じられるひとが、もう二度と戻ることのできない、冷たいところへと行ってしまうのが……ひどく悲しく、思える」

 

 悲しいのは嫌だ。もう会えなくなる寂しさも、助けることが出来なかった後悔も、味わいたくない。それは既に知ったものだった。そして二度と感じたくない、大きな感情だった。

 

「俺には力がある。人を繋ぎとめることができる……いや、それしかできないんだ。だから、目の前で消えてしまいそうな人を見捨てることなんて、できない。できるはずがない」

 

 だから俺はここにいる。彼女の前で、その腕を放さないように握り続ける。

 

「誰かが消えるのは……いなくなるのは、もう……嫌なんだ」

 

 そうして繋ぎとめることしか、俺にはできなかった。

 

「ほんと……何なのよ、あんた。口説いてるつもりなの?」

「そういうつもりはない。けれど、そうすることでお前が死なないのなら」

「……悪趣味」

 

 俺の言葉を最後まで聞くことなく、彼女は俺の手を振り払う。けれど体はどこかふらついていて、しばらく後ずさった後に、再び路地裏の壁へと身を寄せた。

 

「あんた……もしかして、助けてくれって言った全員助けようとしてるの?」

「それが俺にできることなら。たとえ声が聞こえなくとも、助けを求めているのなら」

 

 しばらくの静寂。夜の染みるような寒さが彼女との間を流れてゆく。吹き抜けた風は彼女の涙を拭い去って、代わりに消え去りそうな言葉を運んできた。

 

「……私を助ける理由なんて、ない」

「お前を助けない理由がない」

 

 誰かが助けを求めていて、それに応えられる力を持っているのなら、俺はどこまでも応えるのだろう。いま彼女にしているように、助けられる全ての人間に手を伸ばすのだろう。

 たとえそれで後悔をしたとしても、目の前の人間を見捨てることはできなかった。

 

「部屋は用意してある」

「……何の?」

「お前が入院するためのだ」

 

 そう答えると、彼女は驚いたようにして立ち上がり、声を張り上げた。

 

「入院って……つまり、あんたの所に行くってこと?」

「今までは薬で何とか抑制していたが、それも限界が近い。それにお前、ここに居たらまた魔法を使うだろう。その使用を控えさせるためでもある。まあ半年も安静にしていれば、後遺症も残らずになんとかなるだろう」

「だからって、そんな急に……い、嫌よ! 私、絶対行かないから!」

 

 葛藤は少しあったが、けれど彼女は否定を選んだ。

 

「どうしてだ」

「どうしてって……私にはまだやることがあるの! それなのに半年だなんて、そんな……! そんなの間に合わないわよ! 私には時間がないの! 行かないと……!」

「それは……」

 

 言葉は続かなくて、そんな俺の胸倉を、彼女が掴む。縋るようでもあった。

 

「お願い、だから……私にはもう、それしかないの……!」

 

 啼き叫ぶ声は、夜の闇の中へ消えていく。

 彼女の声が、心のどこかに深く刻み込まれた気がした。

 初めてだった。彼女がこんなに弱々しい姿を見せるのも、震えた声を上げるのも、涙を見せるのも、全て。彼女と出会ってから一か月。顔を合わせる時間は少なかったけれど、今の彼女が異常だということが分かるくらいには、長い付き合いだった。

 

「……今のままでは死ぬぞ」

「それでもいい! それでもいいから! だから早く、薬! お薬、ちょうだいよっ!」

 

 そのまま何かに追われるようにして、彼女が俺の白衣をまさぐり始める。その手は乱雑で強くて、けれど強く腕を掴めば、それは簡単に止まってしまった。

 

「な、何よ……!」

「こうなるとは思っていた。想定はしていた……俺の覚悟が足りなかった」

 

 ため息と共に、思わずそんな言葉が漏れる。手を突き放すと、彼女は一瞬だけ寂しそうな顔を浮かべて、けれどまた俺のことを睨みつけた。

 

「どういうことよ」

「いつもの薬は持ってきてないが、代用品がないというわけではない」

 

 言い放つと同時、腰に吊った鞄から一本の瓶を取り出した。いつもの緑色とは違う、青色の薬品。今俺が所持している、唯一の薬でもあった。

 

「それ……!」

「試作品だ。今までのものよりも効力を長くしている。その分、反動というか副作用も大きくなる。お前の体にかかる負担も大きく……」

「それでもいい! それでもいいから! お金も、あとで払うからっ! 早く!」

「…………そう、か」

 

 最早俺へ縋るように手を伸ばす彼女に、青い液体で満たされた小瓶を渡す。

 奪い取る手は強く、乱暴だった。

 

「これで……これでまた、私は……」

 

 瞳に光はなかった。ひとりごちる彼女は瓶の蓋を開けて、中にある液体を一気に煽る。喉を鳴らす音が二、三回。飲み切ったあと、彼女は空になった瓶をこちらへ投げ渡しながら、口元を手の甲で拭った。

 

「……お金は、あとでちゃんと払うから」

「いらん。お前のためにしか作ってない。売り物にならん」

 

 他の人間に効力があるとも思えない。真の意味で彼女を救うために作ったものだった。それだけ、彼女のことを気にかけていた。

 彼女だけはどうしてか、決して死なせてはならないと、そう確信できた。

 

「……いろいろ言ったけど、あんたには本当に感謝してるから」

 

 視線をこちらから逸らして、彼女がそう呟く。

 

「別にいい。お前が救われるのなら、それで」

「……無理言って、ごめん」

 

 萎んだ花のようだった。うつむきながら呟く彼女の声は、かすかにしか聞こえない。けれど口元にはうっすらと、本当にうっすらとだけ笑みが浮かんでいた。

 それを隠すように振り向きながら、彼女が後ろに手を上げる。

 

「じゃあ……私、もう行く――」

 

 そう、ローレンが歩き出そうとした、その瞬間だった。

 とさり、とあまりにも軽い音を立てて、彼女の体が地面へと横たわる。手の先は震えているようだった。倒れ込んだ彼女の傍へと近寄ると、唇から何か言葉が漏れているのが見えた。眼球だけがぎろりと動いて、俺の方を見上げている。

 

「が……っ、ぐ……! から、だ……! うご、か……!」

「麻痺毒だ。じきに眠りにつく」

「あん、た……! これ……どういう……!?」

「……どうせ、こうなることは分かってたんだ。命に別状はないから安心しろ」

 

 口の端から涎を垂らしながら、彼女がかみ合わない口で告げる。

 

「だ、ましたのね……! こ、の……!」

「騙してない」

 

 地面に転がる空の小瓶を拾い上げながら、

 

「俺は、お前を救おうとしている」

 

 続く言葉は聞こえなかった。

 

 



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焦燥

 

 果たして彼女が眼を覚ましたのは、翌日の昼前になってからだった。

 

「……ぁ」

 

 診療所の小さな病室だった。あるのは壁に密接するベッドと、小さな机と、反対側の壁に建てられたクローゼットだけ。一つしかない窓からは、優しい風が吹いてくる。それに揺れる前髪を、彼女のおぼろげな瞳が追っていた。ぼんやりとした、藍色の瞳だった。

 

「気が付いたか」

 

 そう声をかけると、虚ろな瞳がこちらへと向けられる。

 そしてその瞬間、彼女は勢いよく体を起こし、そのまま傍の椅子に座っている俺へと飛び掛かった。床に強く押し倒されて、ローレンが俺の胸倉を掴み上げる。

 

「あんた! よくも私を……!」

「おい、落ち着け。まだ体が万全じゃないだろう」

「落ち着いてられるかっての! ここはどこ!? 今すぐ私を街に返しなさい!」

「……それよりも、血を止める方が先だ」

 

 俺が掴んだ彼女の左腕からは、赤い筋が床へと滴り落ちていた。ベッドを挟んだ背後には、青い袋を吊った点滴が一本。そこから伸びる管が、ベッドの上へ赤い染みをつけていた。

 それに気づいたらしいローレンは、すぐに左腕を抑えて立ち上がる。

 

「……何よ、これ」

「魔力の結合を留める……いや、説明しても意味がないか。昨日のような麻痺成分はないとだけ」

「じゃああんた、結局私のこと騙したんじゃない!」

「だから何度も言うように、俺はお前を騙したつもりはない。助けようとした」

 

 立ちすくむ彼女を押しのけて、針を摘まみ取る。

 

「机の」

「……なによ」

「机の上に、替えの針があるから、それを」

 

 しばらくの間をおいて、彼女は銀のトレイをこちらへと突き付けてきた。その中から未使用の針を付け替えて、使い終えたものはガーゼの中へ。一連の動作を終えると、彼女は手に持ったそれを強く机の上へと置いた。

 

「あまり乱暴に扱うな。お前のために用意したものだ」

「いらないわよ、そんなの」

 

 そのまま歩き出した彼女の腕を、急いで掴む。

 

「待て、どこに行く?」

「決まってるでしょ、あの街に戻るのよ。あんたに誘拐されたせいで全部台無しになったの。今からでも行かないと……私には時間がないから」

「だからと言って、見逃すわけにもいかない」

「ああ、もうっ! いい加減鬱陶しいのよ、あんたは!」

 

 勢いよく彼女が手を振り払い、俺のことを睨みつける。掲げたのは右腕だった。手のひらをこちらへと見せながら、彼女がまた強く言葉を吐く。

 

「いい? 私はね、逃げようと思えば私はいつでも逃げられるのよ。乱暴なやり方だってできる。あんたも知ってるでしょ?」

「……ああ、そうだな」

「本当はちゃんと感謝してるし、礼も言いたかったけど……でも、私は行かなくちゃならないの。悪いとは思ってるわ。恨むんなら好きなだけ恨むといい」

「お前は悪くない。恨みを抱くことも、ない」

「はん、本当にお人よしなのね、あんた。いつか後悔するわよ」

 

 後悔。後に悔いるものは、何もない。

 悔しさというのは、もう充分すぎるほどに味わった感情だった。

 

「じゃあね、クラーク。さよなら」

 

 そうして、彼女は右の手のひらを強く握りしめる。それが魔術の発動の合図らしかった。ルーティーンなのか、魔術的な要素なのかは分からない。

 けれど確かなのは、それで彼女が消える――はずだった、ということだけ。

 次に彼女の言葉を聴いたのは、しばらくの間が経ってからだった。

 

「……は? ちょっと、何よ! どうしてよ! なんで消えないのよ!」

 

 困惑しながら何度も右手を握るけれど、彼女の体には何の変化も起きなかった。魔力の流れも感じられない。必死になって右手を見つめる彼女は、しかし途中で何か気づいたように俺のことを見て、また胸元へと手を伸ばした。

 

「あんた、私の体に何したの!?」

「……もともと、俺はお前のその病気を治そうとしたんだぞ。それくらい分かってるだろ」

「説明になってないわよ! また私の体に何か細工したんでしょ!」

 

 叫び続ける彼女に、こちらも諦めて言葉をつづけた。

 

「簡単に言えば、その薬でお前の体の中にある魔力の動きを止めた」

「……は?」

「今までの薬は、お前の魔力の流れを抑制していたに過ぎない。魔力の暴発を防ぐためにな。だからお前も自分で魔法を使うことができた。だが……そうしたのはお前にとって悪影響だった」

 

 そうすれば普段通りの生活を送れると思っていた。けれど彼女は、その魔法を使うことを選んだ。

 自分から破滅へと近づいていった。それでも、手放すことはできなかった。

 

「話す機会がなかったから今言っておくがな、お前の体には魔術式が存在しているんだ」

 

 魔術式。様々な紋様の配列によって組み立てられた式であり、解としてこの世へ魔術を現象させるもの。小さなものでは魔道具に、大きな物では都市全体が魔術式の形をしているものもある、というのを聞いた。だが確かなことは、人体に魔術式が、しかも先天的なものとして構築されていることは、極めて珍しいということだった。

 

「血管や内臓の配置が奇跡的に魔術式の形を創り上げた。だから、体に魔力が流れれば、その魔術式にも魔力が浸透し、自動的に魔法が発動する……お前がいつも姿を消すことができるのも、その魔術式が発動しているから」

「それが私の病気ってこと?」

「抑制しなければならない。だから、魔力の動きを無理やり止めることにした。そうすればお前も魔法を発動することができないし……ここから、逃げ出せないと思ったから」

「…………どこまでも、余計なことを……!」

 

 歯を食い縛って、ローレンが俺の胸倉をつかみ上げた。

 

「治しなさい」

「無理だ」

「無理なわけないでしょ! たかが魔力の流れを操作するくらい、私の薬を作るあんたができないはずがない! だから今すぐ、この体を――…………!?」

 

 倒れ込む彼女の体は、やはりとても軽かった。

 

「……な……によ、これ……あんた、また……!」

「単純にお前が疲労しているだけだ。ここ最近まともなものを口にしてないだろう。だからどうせ、魔法で逃げたとしても、誰にも見つからないところで死んで終わりだ」

「そんな……! こんなところで……!」

「……悪いことは言わない。すぐに横になれ」

 

 返事はなかった。けれど体は預けてくれた。

 ベッドへと体を横たわらせて、その上から薄手のブランケットをかける。額にはじんわりと汗が浮かんでいて、彼女はそれを隠すようにして腕で顔を隠す。呼吸は荒くなっていて、息の音だけが俺とローレンの間で響いていた。

 やがてそれは静まり、そして無音になったあとで、ローレンはまた静かに語り始める。

 

「……怒らないの?」

「何故だ」

「こんな私なんか手に負えないとか言って、捨ててくれればよかった」

「そんなことは決してしない」

 

 点滴の針を彼女の腕へと当てながら、そう答える。薄い肌を貫くと、彼女は一瞬だけ体をこわばらせた後、すぐに力が抜けるようにして息を吐いた。

 

「私よりも、他の奴を助ければいいのに」

「お前も他の奴も同じだ。たとえそれで他の人間が救われたとしても、お前が救われない。それでは意味がないんだ。お前も救えないと……意味が、ないんだ」

「……ほんと、訳わかんないわよ」

 

 そんな小さな呟きだけを残して、ローレンがブランケットを頭に被る。それ以上の言葉は続かなかった。けれど、拒絶だけは感じなかった。どうやら彼女はここに居てくれるようだった。

 

「起きたら、昼食にしよう」

 

 それだけ伝えて椅子から立ち上がり、部屋を後にする。

 久方ぶりの料理になる。口に入って、飲み込めるものが作れればいいが。

 

 

「味うっす」

 

 …………。

 

「健康のためだ。仕方ないだろう」

「いやこれ、煮込みすぎなんだって。具もぐずぐずに崩れてるし、あと下ごしらえちゃんとした? ギリギリ食えるって感じなんだけど」

「……そこまでか?」

「疑うんなら食ってみなさいよ」

 

 言われるがまま、自分の皿へと手を付ける。人参と鶏肉と、その他諸々を煮込んだだけのもの。確かに粗末な料理ではあるが、食えないというわけではないはず。

 いくつか具を救って、口の中へ。

 

「ほら。別に、食えないわけじゃないだろう」

「……なるほど。味音痴が作れば、そりゃこんなことになるわけよ」

 

 呆れながらも、彼女はスプーンを口へと運ぶ。

 会話は一度そこで途切れた。しばらく食器のこすれる音だけが聞こえて、俺が先に食い終えた後、彼女も食器をこちらへ渡す。何だかんだ文句は多かったが、全部食い終えたようだった。

 

「会いたい人が、いるの」

 

 前触れはない。唐突に語り始めた彼女に、食器を置いて問い返す。

 

「……どうしてだ?」

「もう会えないと思うから。別れるのは受け入れられる。それぞれの道を行くことも。だけど……言葉が足りなかった。だからちゃんと、さよならを言いたいの」

 

 小さな拳を握りしめる。うつむいた彼女は思い詰めるようで、瞳には後悔の色が映っている。けれどまだ、諦めの意思はないように見えた。

 

「私とは住む世界が全然違う人なんだけどさ……たった一人の友達なんだ。今はわけあって、こうなっちゃったけど……こうなる前までは、本当に仲良しだった。親友、って言ってもいいのかな。私がそう思ってるだけかもしれないけどね」

 

 おかしそうに笑う彼女の笑みには、少しだけ影が差している気がした。

 

「私ね、本当はメイドさんだったの」

「……メイド? お前が?」

「そ、笑っちゃうでしょ? でも本当のこと。こんなボロボロの服じゃなくて、ちゃんとした服も着てた。作法とかもいろいろ学んで、家事もこなせる一流だったんだから」

「ということは……その、お前の友人というのは、仕事仲間か?」

「……それだったら、良かったんだろうけどね」

 

 ベッドの上で膝を抱え込みながら、ローレンが顔を俯かせる。

 

「私の友達、お姫様だったんだ」

 

 告げられたその言葉に、少しだけ間をおいて問い返す。

 

「姫?」

「うん。ここからずっと遠くにある国のね。とっても綺麗な子でさ、洋服の着替えとかもメイドにさせるような、本当のお姫様。私はその子の身の回りを管理する、お世話係だったの」

 

 天井を見上げながら、ローレンがひとつずつ語っていく。藍色の瞳は、ここではないもっとずっと遠くを見つめているようだった。

 

「でもね、私みたいなメイドにも優しくしてくれてさ、たまに内緒で遊んだりもした。本も一緒に読んだ。メイド長に悪戯とかして、二人で怒られたこともある……って、関係ないか。とにかく、私たちはどんどん仲良くなっていって……でも、それがダメだったみたい」

「駄目だった、って」

「追い出されたのよ。姫様と個人的な関係を持ちすぎだ、って。そりゃそうよね。ただの使用人が、その主人と仲良くするなんて間違ってる。別に、あの子を責めるわけじゃないけど」

 

 自嘲気味に笑いながら、ローレンが続ける。

 

「それに、その時から病気が発症してたのも追い出された原因かな。その子の側近には魔女がいてね。そいつに私が病気だってことバレちゃって。そこからはもう、あの子と会話をする暇もなくて……気がついたら、身ぐるみはがされて、捨てられてた」

「……そこから、今の生活になったのか」

「どこで間違えたんだろうね。まだ私には分かんないや」

 

 間違いなどない。あれだけ楽しそうに語る彼女の思い出が、間違いであるはずなどない。

 けれど、今にも崩れてしまいそうな表情をするローレンに、それを伝えることはできなかった。俺からの言葉は全て、彼女に届かないように思えた。

 

「……長くなっちゃったわね」

「いや、むしろ感謝している。お前がここまで語ってくれることはなかったから」

「そうね、私も意外。まともに聞いてくれるとも思ってなかったから」

 

 驚きはしたが、嘘を吐いているようには見えなかった。思い出を大切に語る彼女の表情を見れば、それは難なく理解できた。

 

「その友人はいつまでこの国にいるんだ?」

「今日の昼過ぎにはもう出ていくのよ。だから、あんたが止めなければ会えたかもね」

「会えないだろう。その前に力尽きるのが落ちだ」

「……悔しいのよ。何もできない自分が。このまま会えないんだったら、死んでもいいって」

「いいか」

 

 

「死んでもいいなどと、二度と俺の前でそんな言葉を吐くな」

 

 

 

 見開かれた彼女の瞳で、初めて自分がローレンの胸倉をつかみ上げていることに気が付いた。

 思わず手を放すと、彼女の体がベッドに落ちる。苦しんではいないようだった。だけど驚愕は消えていないらしく、俺のことを少し怯えたような目で見上げながら、口を開く。

 

「……あんた、そんな顔もできたのね」

「す、すまない。その、つい、ええと……感情的になって、しまって」

「あなたが謝ることじゃないでしょ。それに、あんたがどういう人間か分かってきたし」

 

 それは、どういう意味だろうか。

 問いかける前に、彼女はうん、と体を伸ばした後、壁に掛けられた時計へと目をやった。

 

「今頃は出立の準備でもしてるのかしら」

「友人のことか?」

「そ。遠いからたぶん列車。実はお金が貯まらなかったときの、最後の賭けとして載りそうな便は確認してたの。それに間に合うようにするなら、今は準備してるのかも」

「なるほど」

 

 納得のいく考えだった。その列車と同じ便に乗れれば、その姫と会うことができるかもしれない。ましてや、今は俺が封じてしまったが、彼女にはその魔法がある。それがあれば、列車の中に侵入することなど容易いだろう。

 しかし、そう簡単に行くはずもない。公共機関を使うのなら、それ相応の危険も伴う――

 

「……一つ質問になるが、その姫が駅まで移動する際に、護衛はつくと思うか?」

「え? そりゃまあ、一人や二人はつくんじゃない? なんたってお姫様なんだし」

「そうか……」

 

 昨日の会話を思い出す。

 

「どうしたのよ」

「いや……ちょっと、昨日のことを思い出していて」

 

 問いかける彼女の瞳を見つめながら、

 

「まだ、諦めるのには早いのかもしれない」

 

 

 



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喪失

 

「……なるほど。それで、私のところにか」

 

 半ば呆れた様子で、冑を被ったままのリーシャは俺たちへと口を開いた。

 友人が発つという駅は王国の中心部にあった。通りには人がにぎわっており、その中にはリーシャと同じように甲冑を纏った騎士団の団員達が目を光らせている。それに慣れていない、あるいはまだ警戒をしているのか、ローレンは少しだけこちらに身を寄せていた。

 

「昨日言っていた護衛任務、もしかしてこのことじゃないのか」

「ああ、君の言う通りだ。今の私は、かのアルヴヘイム王国の第一王女――リコリス様の護衛任務に就いている。そしてリコリス様がこの先の駅から自国へと発つことも、そちらのお嬢さんの言う通りだ」

「……お嬢さんはやめてよ」

 

 ローレンが口を尖らせて、キャスケットを深く被る。病衣の上から来ているのは、薄汚れた茶色のコートだけだった。それを深く着込む彼女を見て、リーシャはふむ、と一つ置いてから声をかける。

 

「君がリコリス様の友人か」

「悪い? 私みたいなガキが友達で」

「とんでもない。むしろ、あり得る話だと思うさ」

 

 返ってくる笑顔に、ローレンが眉を顰める。

 

「どういうことよ」

「私もリコリス様と何度か話す機会をもらったが、あのお方は誰にでも分け隔てなく接するようなお方だったからな。そんな人柄を見れば、誰が友人でもおかしくない」

「……ふーん」

「それに、君も自分を下にするような発言はしない方がいいぞ。君はとてもかわいらしいし、魅力もある。とくにその黒髪なんかは綺麗で……」

「誰がそこまで言えって頼んだのよ! やめてくれる!?」

「そ、そんな……クラークだってそう思うだろ?」

 

 リーシャの悪い癖だった。困ったら俺へ話を振るところについても。

 しかし自分を卑下するような発言については、俺も彼女と同じ意見だった。

 

「……とにかく。リコ……いや、リコリスはこの駅から出るってことね?」

「ああ、そうだ……そうなんだが……」

 

 するとリーシャは先程とはうってかわって、言いにくそうに口を閉じてしまう。

 

「どうした?」

「いや、君たちの言うことは正しいんだ。けれど、これを言うのは……騎士団の中でも秘密だからな。少し考えさせてほしいというか、その……」

「悩むくらいなら早く答えなさいよ! こっちには時間がないの!」

「うう……そうだな……」

 

 怒鳴るローレンの気迫に押されたのか、リーシャは重たい口を開いた。

 

「リコリス様は、既に列車に乗車されている」

「……はぁ!?」

 

 一瞬だけ理解が追い付かなかったのか、ローレンは少しだけ間を置いた後に、またそんな叫び声をあげた。目元には焦りの色が浮かんでいた。

 

「なんでよ!? この後の便に乗るんじゃなかったの!?」

「そこがひとつの相違点だ。まだ若いリコリス様を狙う輩は多い。だからこうして、彼女を守るため様々な対策が取られている。嘘の情報を流すのも、その一つだった」

「そんな……やっと見つけた手がかりだったのに……!」

「……君のような一般人でも掴める情報だった」

 

 つまり、そういうことだった。

 

「列車が出るまでどれくらいある?」

「あと四……いや、三分といったところか。今から行けば、あるいは……」

「……っ!」

 

 駆けだした彼女の手を掴むことはできなかった。人込みをすり抜けるように走る彼女は、すぐに俺の視界から消える。呼び止めようと叫んだ声も、人々の喧噪にかき消された。既に手は届かなかった。

 

「……悪かった。もっと早く言っていれば」

「お前のせいじゃない。それよりも、そいつはどの線に?」

「西へ行く線に乗っているはずだ。そこは嘘でないから、彼女も知っているはず」

 

 そうリーシャと顔を見合わせて、同時に足を踏み出した。困惑する人込みをかき分けながら、先へ行く彼女の後を追う。

 

「次に助けるのはあの子なのか?」

 

 走りながらの問いかけだった。

 

「ああ、そうだ。救わなければならない。何としても」

「それは患者だからか? それとも――二度と同じ過ちを繰り返さないためか?」

 

 それは。

 

「どちらもだ。たとえどちらかが欠けていたとしても、見捨てていいはずがない」

 

 上手く答えることはできなかった。けれど、見捨ててはいけないということだけは確信できた。心のどこかに重く、沈み込んでしまうような黒い何かがあった。

 

「彼女を救うことができるのは、俺だけなのだと思う」

 

 果たして、駅のホームは既にまばらな人数しか残っていなかった。どうやら乗客は全員搭乗しているらしく、発車も間近ということらしい。だからこそ、彼女の叫び声はすぐに耳に入ってきた。

 

「ちょっと、離してよ! あと少し……あと少しなんだから!」

 

 ずっと先の先頭車両の方だった。数人の鎧を間負った団員が集まっていて、その隙間から覗いているのは、必死にそれを退けようとする彼女の表情だった。気づいたときには二人で駆けだしていて、それと同時に彼等の声も聞こえてくる。

 

「大人しくしろ! おい、誰かリーシャ団長に連絡を! どこかに仲間がいるかもしれん!」

「だから、そいつに言われてここに来たの! わかったらとっとと離しなさい!」

「黙れ! 身分も明かさないような人間を信用できるか! ほら、こっちに来い! 誰の刺客か分からんが、吐くことはきっちり吐いてもらうからな!」

「ああもう、なんで通じないのよ!? 私はただの、あいつの友達だって……!」

「友達だと!? 笑わせるな!」

 

「貴様のような人間が、リコリス様のご友人なわけがないだろう!」

 

 その言葉が発端だと思う。

 彼女はそこで言葉を途切れさせた。打ち砕かれたような表情だった。ようやく彼女の元へたどり着いたとき、既に瞳はうつろで、口はぽかんと空いたままじっと虚空を見つめている。

 

「貴様ら、早くその手を放せ!」

「リーシャ団長!? しかし、こいつは……」

「いいから放せと言っているんだ! リコリス様に会わせてやれ!」

「ですが団長、もう列車が出ます!」

 

 隣で響いているはずの汽笛も、どこか遠くのものに聞こえていた。

 

「ローレン」

「…………もう、いい」

 

 地面へ座り込むローレンの肩へ手を添えると、ぽつりと彼女が呟いた。

 そしてそのまま、彼女は右腕をゆっくりと掲げ――

 

「もう、いいわよっ!」

 

 閃光。白い残滓が周囲へと飛散し、衝撃が迸る。

 

「……っ、クラーク! 伏せろ!」

 

 爆発だった。彼女を取り囲んでいた団員は吹き飛ばされ、その地面にはスプーンで抉り取られたような、集束したような跡だけが残っている。俺の前に立つリーシャは、地面に突き立てた剣を引き抜いて、すぐに俺へと問いかけた。

 

「今のは!?」

「魔力の過浸透だ! 説明してる暇はない! あいつを止めないと!」

 

 視線を動かした先では、飛散した白い残滓が収束し、やがて走るローレンの形を作り出す。それと同時に列車が動き始め、彼女が隣でそれを追う。

 

「待ってて……! 今いくからね、リコ……!」

 

 駄目だ。行くな。頼むからどうか、その先へは。

 力の限りで叫んでも、それが届くことはなかった。彼女の輪郭は点滅を繰り返していて、そのたびに白い残滓が空中へと漂っていく。けれど自分では気づいていないらしく、ローレンは列車の中の、一つの窓だけを追っていた。

 藍色の瞳は、その向こうにある誰かの瞳と交錯しているようで。

 

「――っ、リコ! やっと……やっと、会えた!」

 

 そうして彼女は口元に笑みを浮かべ、何かを語ろうとして――

 

「い”っ”!? いぎっ、い”、や”、ああ”あ”あぁぁぁああっ!」

 

 絹を無理やり引き千切るような叫びだった。それと共に、ローレンが再び残滓へと姿を変える。それはすぐにその場に倒れ込む彼女の姿へと変容し、しかし膝から下は煙のような形状を保ったまま。伸ばした左手の先も、そこにはなかった。

 確かに言えることは、彼女がそれ以上動かないということ。

 動き始めた列車は、既に遠くへと発っていた。

 

「ローレン! おい、ローレンっ!」

「…………」

 

 駆け寄って声をかけるけれど、彼女がそれに応えることはなかった。否、答えることが出来なかったのだろう。顔の半分だけが白い残滓と化していて、口は既に消滅していた。

 内部の魔術式の暴走、それによる存在確率への干渉。ひどく不安定な状態だった。

 

「く、クラーク……? これは……?」

「急いで周囲の人間を避難させろ! ここは俺だけに! いいな!」

 

 叫ぶと、リーシャはすぐに俺の言葉を飲み込んで、団員たちへ指示を出してくれる。

 

「ローレン、しっかりしろ! おい!」

「…………ぁ」

 

 体の輪郭は水に溶けるようにぼやけていて、手足も点滅する電灯のように、出現と喪失を繰り返している。既に体の六割ほどが消えかかっていた。それでも彼女は俺の顔を、最後に残った一つの目で見つめて、

 

「く、らーく」

 

 ノイズの走る声で、そう俺の名前を呼んだ。

 

「ローレン!」

「……やっぱり、ダメだっ――かな」

「何がだ!? おい、しっかりしろ!」

「私、なんか――、リコ――だちなん――て、なれ――っ、――」

 

 その先は聞き取ることができなかった。

 意識はある。けれど危険なことに変わりはない。

 

「いいか、しっかり俺を見てろ! まだ消えるな! ここで消えたら……全部、終わりなんだぞ!」

「……そう、――のかな」

「頼む……頼むから、俺はもう二度と……!」

 

 懐から取り出したのは、一本の注射だった。それが彼女を救う最後の手段でもあった。

 魔力の静止剤。それも、先日彼女に投与したものより遥かに効能の強いもの。

 

「……痛むぞ。覚悟しろよ」

 

 かろうじて残っている首元に針を突き立てると、彼女の体がびくんと跳ねた。

 

「ゔあっ!? あ、あ゙あ゙あ゙ !?」

「耐えろ、ローレン!」

「い゙っ……い゙だい゙っ゙! あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙っ゙っ゙!!」

 

 引き裂かれるような悲鳴は、けれどノイズに妨害されることはなかった。生のままの叫びが駅のホームの中へと響き渡る。それと同時に彼女を包んでいた残滓はだんだんと薄れて行き、彼女の体も形を取り戻していった。

 

「……くらー、く」

「もう大丈夫だ。一時的なものではあるが」

「そっか……」

 

 今度は両目で俺のことを見上げながら、ローレンが手を伸ばす。

 

「……会えたよ。リコに……ちゃんと、目も合って……」

「みたいだな」

「でもやっぱり言えなかった……さよなら、できなかった」

「……そうか」

「だから、まだ消えたくないって……死にたく、ないって……」

「……死なせない。俺は、お前を救うと言ったはずだ」

「そっか……やっぱりあんた、そう言ってくれるんだ」

 

 ローレンはそれだけ言葉を残して、ゆっくりと瞳を閉じる。

 握りしめた彼女の手には、確かな温もりがあった。 

 

 

 机の上の蝋燭が、灯を揺らしている。

 

「体内魔力の一次的な喪失、それによる魔力の過浸透……つまり、暴走だ」

 

 ベッドの上の彼女にそう伝えると、彼女は一瞬だけこちらへ視線を向けて、すぐに寝返りを打ってしまう。伝わるとは思っていないけれど、俺は言葉を吐くことしかできなかった。

 

「……お前の力を見誤っていた。あの程度なら魔力の流動を抑えられると思っていたんだが……状況も状況だった。抑えていた魔力が無理やり動かされて、一回だけ魔術を発動することができた。最初の爆発は、その急な魔力の流れによるものだろう」

「怪我人は?」

「幸いにも負傷者はいない。多少の混乱はあるようだが」

 

 もっとも全員がリーシャの率いる騎士団員で、なおかつ完全装備だったからだろうが。あれが生身の一般人だったら何人か死人が出ていただろう。それだけ、彼女の魔力は強力なものだった。

 

「一度魔法を使って、お前の体内にある魔力は空になった。すると、そこにまた新しい魔力が流れ込む。完全に魔力を放出したぶん、勢いも増す。だから、過剰に魔力を流された魔術式が暴走し、制御が利かなくなった」

「……暴走すると、ああなるの?」

「存在確率の制御が利かなくなる。お前の体のあちこちが、出現と喪失を繰り返すんだ。俺が魔術を使いすぎるな、という理由が分かったか」

 

 返答はない。けれど、首をゆっくりと縦に振るのが見えた。

 

「この際だから説明しておく。お前のその魔術は、単に体を消すものではない」

 

 俺の言葉に、ようやくローレンがその瞳を向ける。

 

「どういうこと?」

「存在確率の変動だ。お前が体を消していのは、自分の存在確率を極限まで低下させているからに過ぎない。非常に危険な使い方だ」

「……何言ってるか、分かんないわよ」

「つまり、お前が姿を消しているとき、お前という存在は本当に消えかかっている」

 

 たとえば、姿を見えない人間をどうやって認識できるだろうか。誰からも気づかれない存在というのは、果たしてこの世界に存在していると言えるのだろうか。

 存在確率というのは、つまりそういうものだった。

 

「……危険なの?」

「ああ。お前の体内の魔術式を解析したが、それは自分だけではなく、他の物質にも干渉することが出来るようになっている。それが自分で制御できるものだったらまだいい。だが、今回のように暴走したら……わかるな?」

 

 下手をすればこの国の全てが消失しかねない。もっともそれは最悪の展開だが、決して起こらないとも言えなかった。特に、今回のような事例を見れば。

 ローレンは何も答えない。体に掛かっているブランケットを顔まで引きずりあげて、そのまま俺から視線を外してしまう。それは、怯えているようでもあった。

 

「……私が危険だったから、あんたは目をつけたってこと?」

「そうではない。たとえお前が別の疾患だったとしても、同じようにした」

 

 震えた声だった。それは、間違いでもあった。

 

「とにかく今日は安静にしていろ。明日には動いてもいいが、運動は控えるように。調子が整うまでに一週間はかかるだろう。それまで無茶はするな。いいな?」

「…………あの、さ」

 

 すると、彼女は虚ろな瞳のでこちらを見つめたまま、薄い唇を開いて、

 

「これから、どうしよう」

 

 そう、問いかけたのだった。

 

「……どうしよう、とは?」

「だって……無くなっちゃった。せっかくリコに会えたのに……なんにも伝えられなかった。それが、それだけが私の生きる理由だったのに……もう、何もかも無くなった」

 

 握る拳には、けれど上手く力が入っていない。それだけ衰弱している証拠だった。

 吐き出す息は薄く、言葉はどこかふわふわと漂うように紡がれる。

 

「まだお金がいるの。今までよりも、もっと多く。そうじゃないとリコリスに会えない」

「退院すれば自由になれる。そうしたら働いて稼げばいい」

「それが出来たら、私はここにいない……あんたとも出会ってない」

「……それも、そうか」

 

 現実はいつだって残酷だった。こうして言葉を交わすことが、彼女が真っ当に生きることを否定していた。ひどく、自分を殴りたくなった。

 

「…………ねえ」

 

 そして何を思ったのか、彼女は俺の手を、自身の胸元へと押し付けた。

 

「何のつもりだ」

「……ダメ?」

「だから、何が」

「私の体じゃ、ダメ?」

 

 ――――。

 

「お前」

「一回、金貨八枚……いや、六枚でもいい。ちゃんとお金くれるんだったら、どんな事でもするから。満足いくまで命令すればいい。壊れるまで使っていいから……」

「だからって、こんな」

「もう時間がないのよ! あいつに会えるんなら私、何でもする! こんな体どうなったっていい! お金さえあれば、私はそれで救われるのよ……!」

 

 それはとても、救済を望んでいるようではなかった。ただ、迫る終焉を受け入れるだけにも思えた。決して突き放してはならない、孤独にさせてはいけないものだった。

 ましてやその先に、彼女の望むものがあるとは思えなかった。

 

「……お前の仕事は娼婦だったのか?」

 

 手を振り払うと、彼女が微かな悲鳴を上げる。

 

「それは救いではなく……結末だ。お前が望んでいるのは救済でなく、終焉だろう」

「……どっちでもいい」

「良くはない。少なくとも、お前が救われずに終わってしまうのは」

 

 そのために俺はここにいる。彼女が二度戻って来れない所へ行かないように、俺が繋ぎとめる。それしかできない。いや……そうすることが、できる。

 壁に着けられた棚、それの上から三段目――ちょうど、ベッドから手の届くところを空ける。そこにあったのは一束の書類だった。

 

「……それは?」

「ある魔術式について、俺の研究結果をまとめたものだ。然るべき場所へ持て行けば、いくらかの金にはなる。もしかすると、お前の友人と会えるための」

「…………」

「まだ、やるとは言っていない」

 

 伸ばされた手を交わしながら、言葉を続ける。

 

「お前は友人に会いたいと言ったな。別れを告げたい、とも」

「うん」

「なら……その先は? それぞれの道を行くのは分かる。その覚悟も理解している。だが、お前はどんな道を進むつもりだ? その道の先には何が待っているんだ? 果たして待ちうけるそれは、お前にとっての救いなのか?」

「……それ、は」

 

 答えはなかった。否、答えることができないようにも思えた。

 それこそが、彼女が終焉を望んでいることの証明だった。

 

「今のお前にこの先を生きる意志があるとは思えない」

「……それの何が悪いのよ」

「俺が最後なのだと思う。ここでお前を見放したら……お前は、もう二度と戻ってこない。顔を合わせることもできない。こうして、会話をすることすらも。だから……俺が繋ぎとめなければならない。俺には、その責任がある」

 

 我儘なのだろうか。それとも傲慢か。けれど、そうしないと、彼女はこのままどこかへいなくなりそうだったから。それこそ、跡形もなくこの世から存在が消えそうだったから。

 

「……なんで」

 

 やがてそんな静かな呟きが聞こえると、ローレンは顔を上げてこちらを見つめ、

 

「なんであんたは、そんなことが言えるのよ……! さっさと見捨てればいいじゃない! 私みたいな奴なんか放っておいてさぁ! もっと価値のある人間を救えばいいのに! こんな面倒な奴、放っておけばいいのよ! それなのに、なんで……なんで、私なんかを……!」

 

 濁り切った涙だった。頬を伝う雫を腕で乱暴に拭いながら、けれど静かに彼女が俺のことを見つめる。瞳の奥にはかすかな光が灯っていた。

 

「……信じていいの?」

 

 問いかけに、頷いて返す。それ以外を知らなかった。

 

「信じてくれるのなら、俺は全てを賭けてお前を救うと誓う」

 

 心からの言葉だった。そして、彼女に伝えられる最大限の言葉でもあった。

 静寂。彼女の指が紙の上を走り、擦れる音を立てる。

 

「……これ」

「お前にやる。もし、どうしても俺のことが信じられなくなったら……これをもって抜け出せばいい。そうすればお前の友人に会える」

「あんたはそうして欲しくないんじゃないの?」

「そうだ。縛り付けているのは分かる。だが……そうしないと、お前は」

 

 語りたくなかった。語りつくしたことだった。語られるべきではないことだった。

 もう二度と、目の前で誰かが居なくなってしまうのを、見たくなかった。

 

「……お前の仕事は、メイドだったな」

 

 問いかけると、ローレンが顔を上げる。

 

「明日の八時」

「うん」

「書類整理を行おうと思う。だが俺は苦手で……手伝いが欲しいと思っていた。そこまで力のいる仕事でもない。それこそ、病人でもできるような仕事だ」

「……お金は出るの?」

「無論、相応に働いてくれるのなら」

 

 答えると、彼女は小さく頷いた。

 

「一晩」

「……ああ」

「一晩だけ、考えさせて」

 

 それを最後にして、彼女との会話が終わる。

 蝋燭の灯が消えると同時に、暗闇が彼女を包み込んだ。

 

 



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