ハリーポッターとハルキ・ムラカミ (磯野 光輝)
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風の歌を聴け

「完璧な魔法などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」

 僕がホグワーツに入学するとき、ある魔法使いが僕に向かってそう言った。僕がその本当の意味を理解できたのはずっと後の事だったが、所謂「マグル」の世界から魔法界へと歩みを進めようとする僕にとって、少なくともそれをある種の慰めとして取ることも可能であった。完璧な魔法なんて存在しない、と。

 

       〇

 

「お前さんは・魔法使い・なんだ」

 部屋の中まで入り込んでくる潮風の香りを鬱陶しそうに払いながら、ルビウス・ハグリットは僕に向かってそう言った。あるいはその奥にある暖炉に向かってなのかもしれなかった。僕よりも、この海の上にある小屋の唯一の燈火とでも言うべき暖炉の方が、少なくとも僕よりは魔法使いという名を冠するに相応しいような気がした。

「何だって?」と僕は聞き返した。

 きっとそうした方が良いような気がした。誰かがそれを確かめる必要がある。と、僕はそう思った。しかし(当然のことだが)部屋の隅で震えているダドリーがその役目を果たしてくれるとは思えなかったし、わなわなと震えるダーズリー夫妻はまるで言葉を発しようとはしなかった。もしかしたら、彼らはすでに何らかの事情を知っていて、質問をする必要性を覚えなかったのかもしれない。

「ハリー」と彼は僕の方を見つめながら言った。「お前さんは魔法使いだ」

 やれやれ。僕は肩をすくめた。

「僕が魔法使いだって?」

「ああ、そうだ。お前さんの両親もまた、魔法使いだった」

 井戸の奥底へ投げかけるように放たれたその言葉は、部屋のあちらこちらを反響した後に、ピタリと一つの像を結んだ。

「サッパリ訳が分からないな」と僕は言った。「僕の両親が魔法使いなのだとしたら、何故彼らは交通事故なんかで死んだのだろう」

 僕は額の傷に手を当てた。

「交通事故で死んだ?」

 ハグリットは驚嘆の声を上げると、睨むような鋭い視線をダーズリー夫妻に向けた。ハグリットのその視線は、暖炉の光を受けてチラチラとその色を変えた。恨み、悲しみ、あるいはその奥底には、また別の感情が隠れているのかもしれない。しかし、そこに含まれている全ての感情を読み解こうとするには、この部屋はあまりにも暗すぎたし、暖炉の明かりは瞳の奥底に届くほど鮮明なものではなかった。

 薪が音を立てて弾けた。それはまるで、この世界に生まれ堕とされた赤ん坊が初めて上げる産声のような音だった。

 ハグリットは僕の方へ視線を戻すと、「まったく」と言いながら肩をすくませた。

「どうやらお前さんは、説明を必要としているらしい」

 



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ヴォル・デ・モート。あるいは名前を言ってはいけないあの人。

僕は漏れ鍋で、ハグリットから僕の両親を殺した男の名を聞いた。
しかしそれが正しかったのか、あるいはほかに別の方法があったのか、僕には分からない。


 時々、僕は「そのとき」のことを思い出す。しかし僕にはそれが本当に起きたことなのか、その判別が付かない。

 その前後の記憶はまるで不鮮明であるにもかかわらず、「そのとき」の瞬間だけは、まるで虚空の中に浮かぶ泡状の宇宙のように、パッと、頭の奥底から湧き出ては弾けるように消えて行く。そうして後には、瞼の裏に焼き付く「緑色の閃光」だけが残される。

 

       〇

 

「お前さんの両親は、ある奴に殺されたんだ」

 ハグリットは僕の耳に口を寄せながら、吐息交じりのか細い声でそう言った。耳を澄ませて集中していないと辺りの喧騒にまかれて聞き取ることができないほどの声だった。漏れ鍋はマクドナルドやゲームセンターほど音に満ちていないにせよ、イタリアンレストランよりは僅かに騒がしい。聞き取ることができなかった声、つまり死んでしまった声は、もう二度と帰っては来ない。

「ハグリット。君はもしかしたら疑うかもしれないけれど、僕は前々からそんな気がしていたんだ」

「そんな気がしていた?」とハグリットは聞き返してきた。

「そう。上手く説明はできないんだけれど、僕の頭の中には根源的なイメージみたいなものがあるんだ。そう、それはつまり……」

「最初の記憶」

「そう、最初の記憶だ」と僕は言った。「あるいはそれは、正確に正しいものではないのかもしれない。だけど少なくとも、僕の無意識はそれを事実として認めているし、それに、その『記憶』は僕が今まで体験して来た如何なる記憶よりもずっと鮮明なんだ。上手く説明できないんだけど」

「分かる気がするよ」

 ハグリットはそう言ってバタービールを飲み干した。僕もそれに続いて一口バタービールを啜った。漏れ鍋の空気とバタービールの味が混ざり合って、口の中で煮込み過ぎた「生ける屍の水薬」のような味が広がった。魔法界にはどうも、ニガヨモギの匂いが漂っている。

「ハグリット。それで、僕の両親を殺したのは一体誰なんだ?」

 ハグリットは首を横に振った。「俺はそれを言うことができない」

「だったら書けば良い」と僕は言った。「紙ならばここにある」

「それも無理なんだ」と彼は言った。「俺は、奴のスペルを知らない」

 ハグリットは右手で強くテーブルを叩いた。激しい音が鳴り、彼の空のグラスが失神したように倒れた。

 握りこぶしをテーブルの上に叩きつけた姿勢のまま、ハグリットはピクリとも動かなくなってしまった。目を固く閉じ、歯を食いしばり、深刻な表情を浮かべるハグリット。その姿はまるで大切な人を失い喪に服しているような老人を思わせた。あるいは、人と同じように会話にも生き死にが存在するのであれば、彼は失われた言葉を惜しんでいるのかもしれない。

「ごめんハグリット。だけどどうしても知らなければならない事なんだよ。少なくとも僕はそう思っている」

 僕はそう言うと、グラスの底に残っていたバタービールの泡を噛み締めるように飲み込んだ。口の中で気泡が弾けると、忘れられた何かのように甘い香りが口の中を抜けて行った。

「お前さんは」とハグリットは重い口を開いた。「お前さんは、知ってどうするつもりなんだ」

「分からない」と僕は答えた。「確かに分からない。けれど、きっとそれを知るという事が大切なんだ。意味というのはその後について来るはずだ。つまり、鶏と卵、どちらかが先にこの世界に現れない限り、鶏も卵も存在することはできない」

 鶏が存在する理由が、進化論の下のナチュラル・セレクションなのか、それとも何者かの意志によるインテリジェント・デザインなのか、その議論をするにも、まず何より「鶏が存在」しなければならない。我々が望もうとも望まないとも、それは事実だ。

「ああ、分かってる。いや、分かっていたんだ。だけど俺にも、心の準備ってものが要る」

 ハグリットはそう言って、目をつむり深呼吸を何度か繰り返した。大きく息を吸って、そして吐く。字面にしてしまえば簡単だ。しかし、実際にその行動をとる彼の心情を、(悲しいことに)僕は二十クヌートほども理解することができない。そしてそれは本当に悲しい事だった。

「よし、言うぞ」と彼は目を見開いて言った。「ヴォル・デ・モートだ」

「ヴォル・デ・モート?」

 僕が言葉を繰り返すと、彼はすぐにそれを妨げようとした。

「ダメだ」ハグリットは語気を荒げてそう言った。「良いか。その名前をみだりに口にしちゃあならない。物事には常に、『適切なとき』というものが用意されている。つまりそれ以外――例えばこういった漏れ鍋の片隅など――は、適切じゃないという事だ」

「分かった」

 僕はそう言って頷いた。

 

 ヴォル・デ・モート。聞きなれない響きだ。綴りから想像するに、フランス語を由来としているのだろうか。しかしどちらにせよ、フランス語を話すことができない僕にとって、その言葉はただの音の羅列に過ぎない。もっとも、固有名詞というのは元来そういう物なのかもしれない。

 ヴォル・デ・モート。僕は声に出さず、口の動きだけで何度かその名前をつぶやいた。ヴォル・デ・モート。それが僕の両親を殺した奴の名だ。

 突然、額の傷跡が痛みを放ち、僕は思わずそこに手を当てた。それはまるで、ナチス軍によって空襲されたロンドンの夕闇を行き交うサイレンのような痛みだった。目をつむると、誰かの叫び声と共に「緑の閃光」が目の前を走った。

 



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マジック・リアリズム。あるいはスリップストリームのようなもの。

 オリヴァンダーの店を訪れたとき、最初に鼻についたのは埃の臭いだった。それも生半可なものではなかった。仮に歴史の重みという物が臭いで表されるのであれば、オリヴァンダーの店はまさに文化財ともいうべき代物だった。

「杖は所有者を選びます」とオリヴァンダーは言った。「つまり、我々がどのような杖を選びたいか、そのような選択肢はそもそも存在しないのです」

「杖に選ばれる」と僕は繰り返した。「そのためにはどうすれば良いのだろう」

「会話をすれば良いのです。それはちょうど、バーで女の子に声をかけるのと同じような事です」

「なるほど」

 僕がそう言うと、彼は満足気に頷いて見せた。

 彼はそれから僕の身長や腕の長さを測り(それは宙を浮く自動巻き尺によって行われた)、「ふむふむ」と何やら呟いてから、店の奥へと姿を消した。やがて彼が戻ってくると、その手には杖の箱が三つばかり抱えられていた。

「ではポッターさん」とオリヴァンダーは言った。「最初にこの杖と話してみてください」

 僕は頷いた。そして杖を受け取ると、僕は杖に声をかけてみた。

「やあ」

 すると杖はそれに返事をした。

「はあい」

 綺麗な声だ。と、僕は思った。その声は、木漏れ日の下で、近づいて来た小鳥に対して「はあい」と声をかけているような、不可侵の神聖さを持ち合わせていた。しかし、僕の相手としては気品が良すぎるようなきらいもある。彼女のような育ちの良い女の子は、僕のようにジョッキ一杯のバタービールを就寝前に啜らなければ寝られないような男と、そもそも吊り合う訳がない。

 それでも彼女は、そんなことまるで気にも止めていないような口ぶりで話を続けた。

「ねえ、質問しても良い?」

「ああ、良いよ」

「ねえ、私の事好き?」

「もちろん」

「杖の主人になりたい?」

「今、すぐに?」

「あなたが望めばね。でも、いつかもっと先でも構わないわ」

「だとしたら、主人になりたい」

「でも、あなたそんな事一度だって口にしてないわ」

「言い忘れていたんだ」

「魔法はどのくらい使えるようになりたいの?」

「沢山。それもできるだけ」

「失神の呪文は? 武装解除の呪文は?」

「使えたら良いね」

 彼女は一瞬の沈黙の後に、突如として大きな声を出した。

 

「嘘つき!」

 

 しかし彼女は間違っている。僕は一つしか嘘をつかなかった。けれども彼女はそれきり僕と会話をしてくれなかった。

「やれやれ」僕は首を横に振りながら、その杖をオリヴァンダーに手渡した。「ダメみたいです」

「それも仕方がない」と彼は薄い笑みを浮かべて言った。「運命というのは、目に見えないからこそ、存在価値があるというものなのです。つまり、そこで知り合った男女がどのような結末を迎えるのかも、それを知らないうちは、何にも代えがたい価値があるのです。例えそれが、この店のように埃がまみれた場所で行われているにしても」

「なるほど」

「では、次を試してみましょうか」

 と言って、彼は今度は違う杖を手渡してきた。僕はそれを受け取った瞬間、一目で彼女の事を気に入った。彼女は美人と言えないまでも、好感を持てる顔立ちをしていた。特に彼女の柄の部分は、未だかつて感じたことがない情欲をかきたてた。僕が彼女の柄をそっと撫でると、笑い声の混じった声で彼女は話し出した。

「ねえ、くすぐったいって」

「ごめん」と僕はすぐに謝った。「綺麗な柄だなって思ったんだ」

 すると彼女は首を傾げた。

「ねえ、あなたってどの子にもそう言ってるんじゃないの?」

「まさか」

 僕がそう言うと、彼女は「ふーん」とどこか不服そうな声を出す。

「ねえ、どのくらい私の事が好き?」

「世界中のジャングルの虎が皆溶けてバターになってしまうくらい好きだ」と僕は言った。

「凄く素敵」と彼女は言った。「ねえ、あなたってとても良い魔法使いになれると思うわ」

 

 その日、僕は彼女と一夜を共に過ごした。

 



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