熊野と世界の果てで 優しさの場所 (あーふぁ)
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小さな世界の始まり

 俺は提督として大きな失敗をした。

 今まで多くの時間を共にし、楽しい時も悲しい時も一緒にやってきた艦娘たちを1度に13人も沈めてしまった。

 深海棲艦と戦争をし、段々と生存権を奪われ追い詰められている近頃は軍からの要求も苛烈になっていた。

 貿易航路を切り開くための海域奪還作戦は成功したが、その犠牲は現実から目を背けたいほどに大きい

 戦争だから怪我や死ぬことがあるのはわかっていた。でも今まで誰も死なせてこなかっただけに、その衝撃は大きいものだ。

 夜、目をつむって寝れば、夢の中で戦場に行かせた艦娘たちが俺のことを恨み、ひどく失望した目を向けられる。

 それで夜中に叫び声をあげては飛び起き、そばにいてくれた艦娘に心配されるという日々が続いた。

 夢を見ていくたびに罪悪感が段々と強くなっていき、俺を心配する艦娘の目や視線ですら怖くなっていく。

 俺は軍上層部と連絡をして仕事を続けられないと言い、代わりの提督が来ると逃げるように本土へと戻った。

 与えられた宿舎で1年ほど引きこもるようにして暮らしていたが軍は俺が28歳と若くもあり、実績のある軍人を放っておけないということで、あらたに配属任務を出された。

 それは時々やってくる深海棲艦の監視だ。

 配属先の場所は以前深海棲艦に攻撃をされたために、人は海岸から離れたところへ暮らしていた。

 その海岸線での監視が俺の新しい任務だ。

 提督とあらたに配属される艦娘とたった2人で。それはただのやっかい払いにしか感じなかったが、今の俺にとってはありがたかった。

 静かな場所にいることができると思って。そして、今度は艦娘を大事にして何が大切かを考えながら生きていこうと。

 来たときは日本特有のじめじめとした梅雨の季節だったが、ここに来てから今日で3週間が経った。

 7月を少し過ぎた今は海から吹き付ける風が心地よく、少し体を動かすだけで汗が出るほどの暑さは今まで北方にいたからか、生きているという実感がある。

 そう感じる季節の、朝食を食べ終わって少したった時間に俺は仕事をしていた。

 仕事をする場所は木造2階建ての監視所兼住居の建物で、広さは16畳ほど。

 その1階部分は窓を開けていて、明るい太陽の光と共に網戸越しに海の匂いが爽やかな風と共に運ばれてくる。

 その過ごしやすい空気の中で、涼しくて様々な作業がしやすく、でもそこそこ使っていたために薄汚れた白色の事業服。ツナギのような雰囲気の服を着た俺は机に向かって作業をしている。

 だが、これは提督としての仕事ではない。ここでの仕事は沿岸監視で、深海棲艦が現れたら電話をすることと艦娘を使っての時間稼ぎだ。

 今やっている作業は新しく部下となった、目が見えない視覚障害の熊野のためだ。

 小さな執務机の上にあるのはパーキンスブレイラーと呼ばれる点字用タイプライターと点字の本、それに国語辞典だ。俺はそれらの本をにらみつけるように読みながら、ゆっくりとタイプライターのキーを打ち込んでいく。

 カシャン、カシャンと断続的に音を鳴らしながら間違いのないようにしっかりとキーを打ち込んでいると、集中のあまりに頭がぐつぐつと沸騰してきそうだ。

 この打ち込んで出した紙は、切り分けたあとにテープやノリで張り付けて本のタイトルや書類を挟むファイルの表紙へと張って使いやすいようにする。

 今までこういう仕事は経験がなく、以前やっていた書類仕事とは違う頭の使い方は中々に苦労する。

 だが、その苦労は俺がしたくてやっている苦労だ。

 これは新しく部下となって3週間が経つ、艦娘である熊野のためだ。

 熊野は深海棲艦との戦闘の結果、視力を失った。だけれど、かろうじて光があるかないかは感じ取れるとのことだ。

 前線で使えないがまだ戦闘能力があり、ここに配属された熊野は俺にとってありがたい。

 熊野は普段から目を閉じているため、俺と目が合うことがない。

 そう、今までは艦娘と目が合うことや複数の視線を感じたりするのはとても怖かった。1対1なら多少は耐えられるが。

 でも今の目が見えない熊野なら、俺は安心して一緒にいられる。

 彼女は目が見えないために普通の艦娘のような戦いはできないものの、今の俺にとっては嬉しい存在だ。

 その熊野が、よりよく過ごしているために俺はこうして自腹で道具や資料を揃えて頑張っている。

 タイプライターを叩く手を止め、大きく息をついてから熊野の方を見る。

 熊野は軍から支給された制服をきっちりと着こなし、窓辺にある椅子へと静かに座り、窓の外へ目をつむった顔を向けている。

 時々、肩のあたりまである淡い栗色のポニーテールが風でふんわりと揺れる姿は目を奪われてしまう。

 10代後半の幼さと大人っぽさがある横顔を見ていると、心が落ち着く。

 こんな田舎へ配属が決まったときは人生の終わりかとも悲観したが、実際に来てみると悪くはなかった。

 建物はこの監視所兼家だけだが、建物が小さくて古くとも電気やプロパンガスに上下水道がある。

 人員は28歳のおっさんである俺と目が見えない熊野の2人だけだ。

 仕事がそうあるわけじゃないから、これで充分だが。不満があるとすれば、物資配給が少ないために自分たちで野菜を育て、魚を捕る必要があるぐらいだろうか。

 なにもかもが足りないが、それでも深海棲艦にあげるほどに余っているものがある。

 それは時間と自然豊かで人工物の音が一切しない静かな環境だ。こんな環境に深海棲艦も暮らしてみれば、もしかしたら戦争をしなくなるんじゃないかとバカな考えをしてしまうほどに。

 そうやって熊野を見ながら様々なことを思い出し、考えたあとに仕事に戻ろうとタイプライターに手を伸ばす。

 だが、そのときに俺の心を惹く軽やかな声で言葉をかけられた。

 

「提督。真面目に頑張るあなたは好きですけど、そろそろ休憩なさってはどうです?」

 

 窓の方に体を向けていた熊野は、俺がいる方向へと体を向けて優雅さを感じさせる微笑みを浮かべている。

 熊野と出会い、一緒に暮らすようになってからは、俺を心配してくれている彼女のためなら多少の苦労など苦労ではないと思うようになってしまった。

 俺と違い、熊野は出会ったときから気分が良かった。戦いで視力を失い、それでも艦娘としての仕事をやれと言われているのに。

 少しぐらいは"提督"という存在を恨んでもよさそうだが、そんな様子は全く感じられない。

 軍から渡された書類では、熊野は疲労が溜まったまま連続の戦闘をさせられ大怪我をした。修復する順番も後回しになり、そのせいかわからないが目だけがどうしても治らずに当時の提督から捨てられたと書いてあった。

 だから、会う前までは仲良くなれないかと思っていたんだが。

 

「美人な熊野に言われては休むしかないな」

 

 俺は椅子からゆっくりと立ち上がると、固まっていた筋肉を背伸びして伸ばしながら部屋を見渡す。

 熊野と暮らすようになってからは、普段の生活にも気を遣うようになった。

 1人で暮らしていたら、床には物が散乱し歩きづらくなっていただろう。だが今は床は綺麗にし、机や椅子はいつもの位置からずれてしまったら直すようにしている。

 我ながら掃除をした自分はすごいと満足しつつ、熊野がいる場所までゆっくりと歩いていく。

 足音に合わせ、熊野は顔の向きを常に俺へと変えてくれる。その熊野のところまでやってくると「肩をさわるぞ」と驚かせないように小さく言ってから、両肩に優しく手を置いて顔を近づけるとフローラルな髪の香りを嗅いでいく。

 

「それ、セクハラになりますわよ?」

「俺の精神安定には必要なことなんだ」

 

 苦笑する熊野に返事をする俺の手を、熊野はそっと掴んではずしてくる。

 熊野は今まで出会ってきた艦娘と違い、ついこういうふうにちょっかいを出してしまう。それはこの静かな場所と熊野の落ち着いた雰囲気、目と目が合わないことだと思う。

 心の栄養を補給した俺は熊野から離れ、机へと戻る。その途中、部屋の色々なところに張り付けている点字紙の確認をしていく。

 電気のスイッチ、本棚の中にある本の背表紙、書類を入れるキャビネット。点字によって物を区別できるのは熊野と俺のためでもある。熊野がこの建物の中で生活しやすくなるし、俺の仕事も手伝ってもらえる。

 本棚の前に立っていると熊野が椅子から立ち上がり、壁に手を這わせながら隣まで来て俺が買ってきた点字本を探しはじめる。

 

「熊野お嬢様は優雅な読書時間に入りますか?」

「ええ。そうさせてもらいますわ。その代わり、お昼にはきっと私に感謝すると思いますわ」

 

 本の背表紙に指を置き、はじっこからなぞって本を探していくのを見ながら言うと、熊野は笑みを浮かべて『旬の野菜料理』という点字本を手に取り、読書好きの熊野はウキウキとした様子で椅子に戻っていく。

 俺は熊野が本を読み始めたのを見届けたあと、机に戻ってタイプライターとの格闘を再開した。

 ―――長い時間ととてつもない集中力を使ったタイプライターの作業は終え、視覚障害を知るための本を読んでいると熊野が本を閉じる音が聞こえた。

 机に置いてある時計を見ると時刻は12時少し前だ。

 

「そろそろご飯の準備をしてもいいかしら」

「時間もちょうどいいからな。やってくれ」

 

 熊野は本を持って立ち上がると、壁に手を這わせながら壁伝いに台所へと歩いていく。

 今日の昼飯はいったい何を作ってくれるんだろうと期待しながら、そのうち視覚障害者用の時計を買わないとなぁと思う。

 軍からは必要最低限な予算しかくれないため、次もタイプライターのように自腹で買うことになりそうだが。

 ……しかし、こうも女性のためにお金を使うことが以前の俺には考えれなかった。熊野の生活をよくしてやりたいという気持ちと、熊野のためならお金をたくさん使ってもいいと思うから大きく気にはしないが。

 熊野がご飯を作ってくれいる間、変わっていく自分に喜ぶべきか悩みながら本を読んでいると、料理ができあがり熊野に呼ばれる。

 部屋の真ん中に置いてあるテーブルには皿が置かれ、お米と野菜炒め、サラダが置かれている。

 目が見えないと料理はどうするかなんて思い、何度か料理をする姿を見せてもらった。

 それを見たら考えていたよりは危なくなくて安心した。

 野菜を切るときは刃先をさわりながらで、皮を剥くときはピーラーを使っていた。ボトルに入った油も手に垂らしては量を調節。

 フライパンの温度調節は、はじめのうちは直接さわっても熱くはない。火の通り具合は匂いや菜箸でさわったときの感触でわかるとのことだ

 目が見える人よりちょっと手間がかかるだけで、見えなくても1人でできる工夫があるもんだなと感心したものだ。

 熊野が頑張って作ってくれた料理に感謝しつつ、でも肉がないことを寂しく思いながらおいしい食事を食べていく。

 そうして2人で昼ご飯の料理についてや午後何をするかを話しながら食事が終わった。

 30分ほど休んで腹を落ち着かせたあと、俺は首にタオルを巻きつけてから麦わら帽子をかぶって外へと出る。

 監視所の裏手には俺が汗水流して肥料を混ぜて種を蒔いて作った畑と、以前誰かが作っていた物置小屋がある。

 その物置小屋からジョウロを持っていき、監視所の表側、そこから少し行ったとこにある井戸から水を汲んでいく。井戸のそばにはバケツが草むらへと隠れるようにして置いてあり、昨日から行方不明だったバケツはここにいたのかと安堵のため息をつく。

 水をいっぱいに入れたジョウロを持って畑へ行くと、まだ涼しいうちに水を撒いていく。そのときに一瞬だけ強い風が吹き付けてきて、慌ててジョウロを持っていない手で押さえつける。風が吹いたからちょっとは涼しく感じたが、日差しの下で水をかけているだけでも、じんわりと汗が出てくる。

 井戸へと3往復してジョウロを使い終わったあとは、しゃがみ込んで畑から野菜の芽が出始めているのは感動するものだ。自分が始めから手をかけ、自分自身で食べるものを育てる喜びを感じ取ることができたのは、この場所に飛ばされてからだ。

 ジョウロを物置小屋からしまい、目の前に広がっている、だけれど小さい畑を見るのは充実した気分だ。これからは雑草を刈り、石を取り除き、土作りをして畑を作っていこうと思う。

 畑を見ながら、これからどうしようか予定を考えていると足音が聞こえてくる。

 

「もう水撒きは終わってしまいましたか?」

 

 少し遠くから声をかけられて振り向くと、そこには左手で視覚障害者用の木製である白杖を地面の上で左右に滑らせつつ、右手には水が入ったバケツを持って歩いてくる熊野がいた。 

 だが、頭には何もかぶっていない。普段から外に出るときはしっかり帽子をかぶっておけと言っているのに。

 

「頭の帽子はどうしたんだ」

「あぁ、それはついさっき、いたずら心を持った夏風さんに遊ばれましたの」

「そこで待っていろ」

 

 おでこから大粒の汗を流し、少し荒い息をしている熊野に駆け寄ると、俺はかぶっている麦わら帽子を外して熊野の頭へとかぶせる。

 そうしてから水で重くなっているバケツを、熊野のバランスを崩さないように慎重に、でも急いで取り上げる。そのバケツに、俺が首に巻いていたタオルを冷たい水の中へと突っ込んで水をしみ込ませると、その冷たくなったタオルの余分な水をしぼってから熊野の汗を拭いていく。

 

「ひゃっ! ……提督、先に声をかけて欲しかったのですけど?」

「悪い。忘れていた」

 

 機嫌悪そうな熊野の声を聞き、大事なことを忘れてしまった。すぐに汗を拭かないといけない。そんな考えが先に行きすぎ、見えない状態から突然冷たいものを当てられたときのことまでは考えていなかった。

 普段は体をさわるときは声をかけるようにしていたのだが。慌てるとどうにも忘れてしまう。

 熊野の汗を拭き続けていると、熊野は俺の手を押さえてタオルを取ってしまう。手に持ったタオルは1度俺の胸へと当ててから、体伝いに手を移動して顔を丁寧に拭いてきた。

 

「少しは自分を大事にしてください。私は艦娘なのですから、すぐにどうにかはなりませんわ」

「でも熊野のほうがずっと大事だ。そう、豪華で綺麗なドレスを着せて多くの人に美しい姿を見せびらかせたいほどに」

「あら、くどいていますの?」」

「まさか。大事な労働力に倒られては困るからな。それに女は20代後半がいい。高校生みたいな熊野よりずっと大人の女性をな。水やりはもう終わったから、休んだあとは海に行くぞ」

 

 そう言うと、俺に文句があるらしく、がしがしと痛いぐらいに力を入れて顔を拭いてくる熊野の手を掴んで遠ざけたあとに背を向けて歩き出す。

 

「私みたいな良い女に気づかないだなんて、物凄く人生を損しているかと思いますけど?」

 

 俺の背中へとかける楽しそうな声が響き、俺の後をついてくる足音が聞こえてくる。

 こういう何気ない会話が楽しめるのは熊野のおかげだ。

 こんな静かすぎる場所でもきちんと生きていけることに感謝する。

 少しのあいだ、監視所で一休みして水分補給をたっぷりしてからは海岸へと行く。

 何か変わりがないか見るのは仕事のひとつだが、それだけでは物足りない。だからか、ここに配属されてからはすぐに海岸に何か落ちてないかを探すようになった。

 今日も俺はバケツを片手に持ち、後ろにはきちんと麦わら帽子をかぶせて白杖を持った熊野を連れていく。

 監視所そばの防砂林がぐるりとめぐらされている周囲5kmほどには民間人は住んでいなく、深海棲艦が現れることもあるから人がいるところを見ることは滅多にない。

 所々ゴミが漂着している白い砂浜。そこに艦娘が出撃するための桟橋とモーターボートが係留してある。

 熊野を桟橋手前に残し、船や桟橋が傷んでないかを確認したあとは散歩の時間だ。

 熊野が歩きやすいようにと俺の腕を掴ませると、その掴まれた腕をまっすぐ伸ばして動かさないように強く意識し、海とは反対の側の砂浜を歩かせる。

 波打ち際辺りは漂流物があるため、そこからはだいぶ距離を取って気をつける。

 砂浜は気が向いたらゴミ拾いをしているために、それほどゴミは多くない。漂着している中には海藻や魚。時々深海棲艦と思われる体の一部や艦娘が着ている服装の切れ端などが流れ着くこともある。

 

「今日は面白いものが何かありまして?」

「面白いものか……」

 

 熊野に気と使いながら、ゆっくりと立ち止まると、首をぐるりと見渡したあとに歩いていく方向の遠くを見る。

 空を飛んでいくウミネコの姿や遠くの海面に魚が飛び跳ねたのを見かけるが、さして面白いものにはならない。

 そんな"何もない"と言える地の果てへと来てしまった俺と熊野。

 何もなく静かに過ごせるのは悪いことではない。俺と熊野だけでは監視と深海棲艦が現れたら報告するぐらいがせいぜいだ。来たら、逃げきれずに死んでしまうことだろう。

 軍の支給も満足になく、これから先はずっとこのまま静かすぎる場所で人生を終えてしまうのだろうかと思う。

 前線から離れた理由としては情けないものだし、俺はもう以前のように多くの艦娘を指揮できないだろう。いや、そもそも普通の艦娘と会うことすら怖い。

 隣にいる熊野は目が見えないからこそ俺は安心しているわけだから。

 だから、こんなところからはもう離れられないんじゃないかと思う。

 1度そう思ってしまうと、これからの人生に希望などなくなってしまう。この場所と風景を言葉にするのなら―――。

 

「……人生の終着点だな」

 

 ため息をつき、静かに言うと、すぐに元気な熊野の言葉が返ってくる。

 

「世の中のものは何でも我慢できる。幸福な日の連続だけは我慢できない」

 

 その言葉の意味はなんなのか。気になって熊野の顔を見ると、彼女は正面に顔を向けたままだ。

 

「どういう意味なんだ、それは」

「ずっとおいしい物だけを食べるのは飽きるし、体にも悪い。ゲーテの言葉を簡単に言うなら、こういうことになりますわ」

 

 熊野は白杖と俺の腕を手放し、地面を1歩ずつ確かめるように歩き始めていく。

 俺はすぐに落ちた白杖を拾うと、いつ転んでしまうかと不安になりなから後ろをついていく。

 

「提督がここに配属された理由は存じ上げませんが、私は望んでここに来ました。目が見えなくても歩くことができ、文字もわかる。そして、世界を見ることができなくても、耳や肌で素敵なことを感じ取れますもの!」

 

 明るい声でそう言い放つ熊野は立ち止まると海へと体を向けて歩いていき、波が靴へとわずかにかかる位置まで歩いていく。

 

「あまり海に近づかないでくれ。危な―――」

 

 熊野に1歩近づいて声をかけている途中、熊野は突然両手を勢いよく広げ、強く吹いた風に麦わら帽子を取られてバランスを崩しながらも俺の方へと体を向けて微笑んだ。

 

「ここに来てから私は幸せです。誰にも怒られもせず、悲しまれず、変に同情されることもない。気分よく過ごすことができていますわ。提督である貴方は私に優しくしてくれるし、艦娘だからと強引な指示も出してこない。私の目が見えていたのなら、きっとあなたは素敵な顔立ちをしているのでしょうね。いえ、もしそうでなくても素敵な人に違いありません。……提督はここでの生活をどう思っているのかしら」

 

 初めて聞く、ここでの暮らしのこと。その言葉にひどく俺は安心する。熊野がここで快適に暮らしていることがわかって。それに俺のことも素敵と言ってくれるのは嬉しいことだ。

 だが、時々髪の匂いを嗅ぐというセクハラなことはどう思っているんだろうかと怖くて聞けない。だが、それを含めての評価だと思う。

 重巡洋艦の艦娘、熊野。彼女は目が見えないというのに、実に楽しそうに生きている。

 麦わら帽子をかぶり、支給されている制服。風になびくポニーテールとスカート。俺へと優しく向けてくる微笑み。

 多くの艦娘を自分の欲のために殺してしまい、恨まれた。今でも彼女たちの冷たい視線が思い出せてしまう。

 自然と息が荒くなり、呼吸が苦しくなってくる。流れてくる汗は暑さによるものか、ストレスなのか。

 

「俺には息苦しい。艦娘であるお前の提督としてやっていける自信がない」

 

 そう、今はまだなんとかできている。だが、俺は以前の自分と変わっていけるだろうか。自分のこと以外を考えれるか?

 悩んでいると、熊野は後ろ向きで海の中へと入っていき、膝あたりまで海の中へと入ってしまう。

 

「……熊野?」

 

 その姿はまるで熊野が自殺をしてしまうように見えた。でもそれはないはずだ。さっき、幸せだと言っていた。だから、そんなことはありえない。

 "お願いだから、その足を止めて戻ってきてくれ!"

 俺は熊野へ言葉をかけようとしても口を開いただけで終わってしまう。

 熊野はバランスを崩し、海の中へと倒れ込んでしまう。

 それを見た瞬間、俺はすぐに白杖とバケツを放り投げると急いで熊野の元へと駆け寄り、体を抱き上げる。

 海の中から顔を出した熊野は咳込み、無事な様子に一安心した俺はそのまま引きずるようにして砂浜へと歩いていく。

 そして熊野を波打ち際から離れたところで地面へそっと降ろしていく。

 

「危ないことをするな、バカかお前は! いくら艦娘が丈夫な体でも小さなことで―――」

 

 熊野のすぐそばで膝をつき、顔を覗き込みながら文句を言っていたが熊野は両手で俺の顔をさぐりあてると、俺の顔をなぞり、壊れ物でも扱うかのように優しくさわってくる。

 

「泣いていますのね。そんな優しいあなたなら素晴らしい提督になれます。他の誰が否定したとしても、私はあなたを信頼しますわ」

 

 いつの間にか俺の目から出ていた涙を、熊野は海に濡れた指でぬぐってくれた。

 それだけのことに俺はひどく安心する。

 それは熊野が海の中へ沈まなかったことを。俺自身の手で救えたことを。熊野に感謝されたことを。

 声も出せないでいると、熊野は俺の涙を拭った手を俺の首に回すと、体を起こしながら胸元へと抱き着いてくる。

 

「あなたの苦しみ、この熊野にわけてもらえるかしら」

 

 心配する優しい声を聞いて、なにもかもを吐き出したくなる気持ちを強く抑える。

 これは俺の苦しみだ。熊野に負担をかけたくはない。そして俺は提督で、熊野の上司だ。上司たるもの部下に弱みを見せるときは限られる。そして、それは今じゃない。

 今の空気を壊したいと思い、そのための手段がすぐに思い浮かぶ。その考えをすぐに実行して熊野の腰と膝の裏を持ち上げると、お姫様抱っこの体勢で持ち上げて勢いよく立ち上がった。

 

「おらぁ!!」

「きゃっ!」

「お前はな、自分のことを1番に考えていればいいんだ。色々悩むのは提督である俺の仕事だ!」

 

 熊野を抱き上げたままでぐるぐると体を回転させ、難しいことを考えている熊野の頭の中をすっきりさせてやろうとする。

 強くしがみついてくる熊野の感触がなんだか気持ちよく、ちょっとだけ嬉しくなって回り続けていたくなるが、目が回る前に俺が先に地面へ倒れてから腕の中にいる熊野を雑に転がした。

 乱れた呼吸のまま、仰向けの体勢になって夏になっていく雲がまったくない透き通るような7月の青空を見上げる。

 

「提督」

 

 と、横に転がしていた熊野は仰向けになると俺へと片手を伸ばし、体に当てた手からなぞりながら頬まで動かしていく。

 

「この熊野、目は見えなくとも耳があります。耳で聴いて、耳で呼んで、耳であなたを感じ取ります。だから、あなたが不安になったときは望むままに―――」

 

 熊野へと素早く手を伸ばして口をふさぎ、その続きの言葉を言わせない。

 そんなのは俺が望んでいない。ただ、隣にいてくれればいいと思っているんだ。そして、一緒にこの平穏で退屈な日常を過ごしていきたい。

 ここに配属される時、同僚からは『お前、提督としての人生が終わったな』と言われた。

 心に傷を負った俺と目が見えない熊野。何もと言える場所で、たった二人だけの監視任務。

 どう良く見ようとしても、確かに出世の道はなくなり、未来は暗い。

 だが、こんな何もない場所で俺たちは楽しく生きようとしている。

 

「さっきも言ったとおり、そういうのはいらない。お前がやりたいことをやればいいんだ」

「……本当にやっていいんですの?」

 

 小さく、ちょっとだけ不安で揺れた声と共に熊野の目が開く。

 宝石を連想するような薄い青色の瞳は焦点があってないものの、俺の顔へと向けられている。

 熊野の目を見ていると怖い気持ちを思い出す。だが、この目は違う。俺の過去を知らないとか見えていないというだけでなく、俺の何かを許すような。

 

「ああ。好きにしてくれ」

 

 今まで一緒に暮らしてきての不満や罵倒が飛んでくるかもしれない。そんな心構えで俺は言葉を出した。

 でも違った。

 熊野は俺の頭を両手で掴むと、俺の頭を抱きしめてきた。海で濡れた冷たい服越しに感じる胸は小さくとも柔らかく、なんだか安心する。

 

「この3週間、一緒に暮らしてきましたがあなたは私のことを考えてくれる人です。そこにどんな考えがあろうとも、提督、あなたに優しくしてあげたいと思うのは当然のことだと思いますわ」

 

 ここに来てからは今までやってしまったことの罪滅ぼしをしようと思い、熊野に優しくしていただけのこと。

 でも熊野と接しているうちに義務感ではなく、心から大切にしたいと思えてきた。

 それは熊野が今のように俺を受け入れてくれたから。

 熊野に抱きしめられ、心はひどく落ち着いてくる。だからこそ、心の底から思う。ここに来れてよかったと。

 誰からも見捨てられたと思うような、この世界の果てで。



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ふたりの関係

 自然の音しかない静かな海、海水浴の時期なのに人がやってこない海岸。夜にはひとつひとつがはっきりと視認できるような星の空。

 深海棲艦に攻撃され、人がいなくなった場所。そんな誰かからも見捨てられたと思うような世界の果てと思えるところに俺と熊野が来て一か月。

 涼しかったここにも暑い夏がやってきた。

 先週までは海からの風や最高気温が控えめな日々が続いて涼しくあったが、もう太陽の光は体に痛みを与えるだけのものとしか感じられない。

 動くのも面倒になってきた暑い日々を、誰からの監視の目もないため気楽に生活をしている。

 提督である俺はきちんとした制服を着ることはなくなり、熊野は―――熊野だけは服装が乱れないように気を付けて制服を着てはいるが。

 汗を肌に浮かべる熊野に、上着を脱いでワイシャツ姿になればいいと言ったがそれは断られた。

 理由は艦娘として立派でいたいからと言っていたが、なおも追及すると汗で透けたワイシャツの下にある下着姿を見せたくないことも理由のひとつだそうだ。

 見ても欲情して襲ったりはしないと言おうとしたが少し考えると、薄着になったら俺の精神が落ち着かないことに気づいて何も言わないことにした。

 目が見えない熊野は自分で服の身だしなみを確認できないから、常日頃から意識して手で確認していないとすぐに乱れてしまいそうだと気づいた。

 日頃から手で確認するのはずいぶんと真面目だと感心する。だらけていたって注意するのは誰もいないというのに。

 仕事上で人と会う事なんて補給の時に来る人ぐらいだ。普段はすぐに書き終わってしまう業務日報と見回り、それと非常時に電話をかけるという3つの仕事しかないのに。

 楽なのはいいことだが、あまりにも仕事がないと精神がダメになってしまいそうだ。

 軍の仕事が少ない代わりとして、ここで生きていくための仕事はある。

 それは今の生活環境を良くするということだ。

 軍からの給料や補給物資は常に遅れてくるし、きても俺たちに与えられる予算はとても少ない。自腹で買っているのも多々あるが、だとしても限度がある。

 色々なものを大事にして自分たちでできることは全部やっていかないといけない。そうでないと深海棲艦に殺されるまえに死んでしまいそうだ。

 だから俺は晴れていても涼しい朝の5時から草取りのために家兼監視所の裏にある畑へと来ている。服はジャージで、手袋を身に着けて草刈り鎌を持って作業をしていく。

 畑の手入れはサボっているとすぐに雑草がもこもこと出てきて、あっという間に伸びてしまう。だから毎日のように雑草を抜くのは面倒で、耕さず雑草も取らず肥料もやらないという自然農法をやろうとした時期があった。そのやり方だと野菜の形は悪く、量も採れないが育成は楽だというのが魅力的だ。

 だが、それは熊野が『野菜はたくさん食べたいのですけど?』の怒りがこもった一言に屈してあきらめた。

 だから地道にないも同然の予算で畑をやっていかないといけない。畑一面を防草シートで覆いたくなるぐらいの雑草取りは面倒だがやっていかないといけない。

 畑の雑草取りの他に、その周辺の草刈りも手でやる必要がある。刈り払い機があれば草刈りは楽になるのだが。

 こんなふうに以前はなかった農業知識は必要に迫られて増えていったが、読書好きの熊野はさらに詳しくなった。

 段々と食事に関しての主導権を取られていくことを悲しく思いながらも、熊野が生き生きとして料理をしていくのが嬉しいという気持ちを持ちながら、草を取っていく。

 涼しい今のうちにできるだけ多く終わらせないといけない。急ぎながらも、雑草は表面だけでなく根っこまできちんと取って。

 そうして涼しくなるために肘部分まで腕まくりをしてから、息をついて集中しようとしたときに監視所から扉が開く音が聞こえる。

 その音に意識を集中していると歩いていく音が近づいてきて、振り向くと熊野の姿があった

 いつもならまだ寝ている時間なのに制服をしっかりと着ていて、でもポニーテールの髪は俺が結っていないためにぼさぼさになっている。

 

「こんな朝早くからどうしたんだ」

 

 位置を知らせるために声を出すと、熊野は俺がいる方向へと前方確認のため、右手に持っている白い杖を地面へと向けて横へと振りながらやってくる。

 

「まだ寝ていてよかったんだぞ」

「なんとなく目が覚めましたの」

 

 その言葉に俺は作業する手を止め、立ち上がって熊野の顔を見るも体調が悪いようには見えない。

 単に暑かったからとか、気まぐれで起きてきたようだ。

 そんな熊野の様子を見ると俺の視線から逃れるように顔をそらし、1歩後ろへと下がる。

 

「なにか手伝えることはありませんか?」

 

 雑草取りなら手の感触で探して取ることはできるが、そういうことはやらせたくない。土で汚れ、肌を日で焼き、しゃがみすぎて腰や色々なところが痛くなるということを味合わせたくない。

 だから俺は考えるふりをして、ちょっと間を取ったあとに冷たく言う。

 

「ない。戻って休んでいろ」

「では、あなたのそばにいさせてくださいな?」

 

 甘える声を出しながら、俺へと顔を向けて首を傾げながらかわいい笑顔を浮かべる熊野。いつもなら、そういうふうにされれば大体のことは言うことを聞いてしまうが今日は違う。

 熊野にあまり日焼けをせずに綺麗でいてほしいという、俺のわがままを叶えるためにその申し出は理性を思い切り動員して熊野の提案を受け入れない。

 かといって、単に断っただけでは熊野はここから離れる様子ではない。

 

「少し待っていてくれ」

 

 ふとひらめいた俺はすぐに監視所へ行き、麦わら帽子とタオルに背もたれ付きの椅子を持って戻ってくる。

 持ってきた椅子は大きな木の木陰に置いてから熊野の左隣へと小走りで走って行く。

 

「隣にいるから腕を掴んでくれ。移動する」

「あら、どこへ連れていってくれるのかしら」

 

 楽しそうに微笑んだ熊野は、まっすぐに下ろしている俺の指先にふれる。

 汗ばんだ手に熊野の柔らかく、くすぐったい手の感触を感じる。そんな熊野の手は俺の肌をさわりながらヒジの部分まで上がっていく。

 そうしてジャージのヒジ部分を掴んでくると、俺は「歩くぞ」と言って椅子に向かってゆっくり歩いていく。

 椅子の前までくると、俺のヒジを掴んでいる熊野の手を取って椅子の背もたれを触らせた途端に熊野は不満そうな表情を浮かべる。

 持っていた杖で俺の足をコツコツと軽く2回叩いてから椅子へと深く腰掛けてくれた。

 そうして座った熊野に持っていた麦わら帽子をかぶせ、タオルを膝の上へと置く。

 

「静かな夏の朝を楽しんでくれ」

「……思い切り働いてくるといいですわ」

 

 静かに言うと、不機嫌に低い声で返事を返された。

 その反応をかわいく思った俺は麦わら帽子の上から頭をぐりぐり撫でると、その手をぺしぺしと何度も軽く叩いてくる熊野の姿がさらにかわいくて笑みを浮かべてしまう。

 熊野は撫でられてずれた麦わら帽子の位置を細かく直すと、俺を追い払うような手の仕草をしてくる。どんな仕草もかわいいなぁと思ったあとに俺は疲れる雑草取りを再開する。

 ―――そうして雑草をひたすら取っていて思うことがある。

 自分が食べるために畑の世話をすること。人間関係を気にすることなく好きなことができること。

 そして熊野とふたりっきりで静かだけど楽しい時間を過ごすことは、もしかしたら贅沢なことなんじゃないかと。

 ここに来てから給料は下がり、最新の軍事情報はわからなくなり、買い物に行くことが面倒になった。でも、その不便さがいいかもしれない。

 出世の道は閉ざされたから上司や他の軍人を気にせず気楽に生きられるし、戦果に焦ることもない。特に大きいのが艦娘の怪我や死ぬかもしれないと考えるストレスも減った。

 考え事をしながら黙々とやっていると汗がだらだらと流れていることに気付き、日陰の下にいる涼しそうな熊野のところへ行って隣に座り込む。

 

「暑いな……」

「お疲れさまです」

 

 熊野が俺の体を探り当てると、タオルを顔へと押し付けて汗を拭ってくれる。顔や首、その丁寧で優しい拭き方は疲れた心を癒してくれる。

 体を拭かれながら、わずかずつ体から汗が収まりながら畑をぼぅっと眺めるとタオルで拭くのを止めた熊野はその匂いを嗅ぎながら嬉しそうな声を出す。

 

「働いた男の人の汗というのはいいものですね」

「変態か、お前は」

「失礼ですわ。何も見えないからこそ、こうして匂いで状況を判断しなくてはいけませんの。こうしないとあなたがどれくらい汗をかいたか分からなくて」

 

 言われてみれば、料理をするときも熊野はよく匂いに注意していた。見えないから、他の感覚を使うのは当然だということに考えがいたらなかった。

 すぐに変態扱いしてしまった自分に反省をする。発言をするときはもう少しだけ考えようかと思うぐらいに。

 

「で、俺の汗はどうだった」

「とても良いものです。特に私のために流したというのが」

「おい、匂いじゃなかったのか」

 

 小さく声をあげて楽しそうに笑う熊野に釣られ、俺も声を出して笑ってしまう。

 

「それに提督だからこそいいんですわ」

 

 そんな意味深なことを言い、熊野は椅子から立ち上がると監視所へと向かって歩いていく。

 言葉の意味がよくわからないまま、俺は椅子を持つと後をついていく。

 その後は井戸から汲んだ冷たい水で体を洗い、熊野が作ってくれた朝食を一緒に食べた。

 

 ◇

 

 熊野の手料理を味わって食べたあとは風がよく通る家の中で1歩も外を出ず、点字や視覚障害に関する本を机にたくさん積んではバイオリンの音を聞きながら読書をして静かな時間を過ごす。

 その優雅なバイオリンの音は熊野が奏でている。

 目が見える頃から趣味としていた楽器演奏。以前から使っていた愛用のバイオリンをここへと持ち込んでおり、自由に楽しんでいる。

 鎮守府にいる頃は人に気を遣って弾ける時間が少なく、屋内と屋外のどちらでも好きなようには弾けなかったらしい。だから、好きに弾けるのはここにやってきて嬉しいことの一つだと言った。

 俺たち2人はバイオリン、読書、昼飯を食べるというどれかをやって過ごしていく。

 バイオリン演奏のあと、昼食後は共に4、5時間ほど会話もほとんどなく読書をしていた熊野は本棚へ本を置くと、そこに置いてあった文字盤がさわれる時計で時間を確認している。

 以前時計を付けたら便利なのに、と言ったら縛られる感触が嫌いだと言っていた。だからいつも本棚に置いたままにされている。

 時間を見るといつも夕食を作り始める時間だ。

 

「熊野、俺は肉が食いたい。いつもの健康的な野菜中心ではなく、肉と米だけでいい」

「それはダメですわ。今までは軍の食堂で栄養が考えられた食事でしたけれど、ここではきちんと考えて作らないといけません」

「肉だって必要な栄養だろう?」

「計算して野菜を取れば肉なしでもやっていけます。それにお肉は時々入れていたと思っていましたけど」

 

 確かに肉は入っている。でもそれは栄養価が高いと言われる鳥の胸肉ばかり。もう鳥の胸肉のぼそぼそとした触感には飽きた。

 油や香辛料をどばどば使った、体に悪そうな食事がしたい。肉がダメならカップ麺でもいい。でも、それすら熊野に止められているののが悲しい。

 これが尻に敷かれる……とは違うが台所を任せきりにしてしまった結果、俺はここに来てから健康的な食事と睡眠、低ストレスな生活を送ってとても健康的になってしまっている。

 食べないなら自分で作れればいいが料理はできないし、作ろうとすれば熊野に止められる。町でこっそり食べて来た時には匂いチェックをされ、その日の食事はとても質素だったのをよく覚えている。

 

「わかった。熊野に任せる。今まで栄養不足にはなっていないからな」

 

 にっこりと笑みを浮かべ、台所へ向かう熊野に対して大きなため息をつく。

 いつか客人がここへやってきたときには食事に招いて豪華な肉料理を作らせてやる。

 そんな密かな野望を抱いたあとの夕食後、俺が食器洗いを終えると窓のそばにある椅子に座っていた熊野のところへ何をしようかと聞きに行く。

 陽が落ちて暗くなっていく外へと顔を向けて夜の音を聞いていた熊野は俺が近づくと、俺が何か言うより先に体ごと顔を向けてきた。

 

「今日は月がみたい気分ですの」

「月か? ……わずかしか雲はないから見えるだろうが、もう少し暗くなってからだな」

 

 物が何も見えない目であっても、熊野は明るさだけはなんとかわかる視力だ。だとしても月が見えないのにどうするんだ、なんてつまらないことは考えない。

 考えるのはなんで見たいのかだ。こういう時は時々あり、だいたいは気分転換をしたいという意味だ。

 俺が怒らせた、料理で大失敗をした時には毎度一緒に景色を見に行ったりする。

 2階に行き、ジャージからチノパンと長袖のシャツに着替えてきたあとは外が暗くなるまでのあいだ、俺は窓枠の背中を預けて熊野と今日の音楽や本の内容について話す。

 そうして暗くなり、三日月の形をした月が輝く午後7時過ぎ。

 杖を持った熊野は監視所を出て、砂浜へと向かって歩いていく。その熊野の後ろを、ふたつの毛布を持ってついていく俺。

 熊野は月明かりしかない夜でも日中と同じように歩いているが、視覚頼りな俺は薄暗い夜だと普段はつまずかない場所に足を引っかけてしまう。

 砂浜に着くと、熊野はあたりをぐるぐると歩き回っては気に入る場所を探している。

 その熊野の風になびき、月明かりが当たると栗色のポニーテールは淡く輝いていて見惚れてしまう。

 ぼぅっと髪を眺めていると、熊野は立ち止まる。

 少し待っても動く様子はなく、決まったのだと分かった俺は左隣へと歩いていく。

 

「決まったか?」

「はい、ここに座りましょう」

「ああ、毛布を渡すぞ」

 

 杖を置き、先に座った熊野へと毛布を渡した俺は人ひとり分の距離を取って座る。

 お互い毛布に包まり、夜の冷える海の風を感じながら見るのは月だ。

 昼間よりも波や風の音がよく聞こえる気がし、自然しか感じないからか心が落ち着いてくる。

 そんな時に熊野が座りながら近づいてくる、砂が動く音が聞こえた。

 毛布をまとったままの熊野は、俺と肩をふれあうほどに密着してくる。

 

「なんだ、寒いのか?」

「提督、こういう時は何も言わずに優しくするのが男のたしなみというものですわよ?」

 

 小さなため息をつき、残念そうに言ってくる。だが、俺としては言い訳がしたい。俺と熊野は恋人ではない関係だから、優しくしすぎるのは嫌われると思って遠慮していたというのに。

 そもそも、この場合の"優しくする"というのはどうすればいいのだろうか。

 暗い、どこまでも暗い海を見つめながら考えても何も思いつかないでいると、ふと熊野が静かになったのが気になって隣を見る。

 熊野は顔をうつむかせ、寒さに震えていた。

 そんな寒いのに、帰ろうと言わないことに疑問を覚えるが、その瞬間に優しい行動というのが思いつく。

 

「熊野、俺の前に来い。足の間に入れば毛布でくるんでやる」

 

 足を広げて静かにそう言うと熊野は体に毛布を巻き付けたまま、俺の足をさわって場所を確認しながら足の間へと入ってくる。

 でもそこから動くことはなくて、じれったく思う。そこから動かないでいると、どんどん寒くなるだけだ。

 

「寄り掛かっていいぞ」

 

 それを聞いて熊野は、俺の足に手を当てながら恐る恐る背中を預けてくる。 

 俺は自分を包んでいた毛布を外し、熊野ごと俺自身を毛布で包む。

 はじめは強張っていた熊野の体だが、次第に緊張が解けてきて熊野の重みを感じる。

 くっついた俺は毛布の中で熊野の腰に手を回して抱きしめる形になり、段々と体が暖まり始めた俺たちは静かに海や空を眺めていく。

 近づいたために、ほんのりと熊野の髪からいい匂いを感じてきたときに気づいたことがある。

 今の熊野はずいぶんと甘えてくるということに。

 今日はそうなるぐらいのことがあったかと考え事をしていると、か細い声で熊野が声をかけてくる。

 

「怖くなりましたの」

「ここは敵も来ないし、静かなところなのに?」

「だからこそ怖いのです。以前のように敵と殺し合いをしなくていいことに安心しますが、このままここに居れるのかと。目が見えない私は、艦娘としては邪魔な存在かと思っていまして。戦況が圧迫してなければ、処分されていたかもしれません」

 

 熊野を抱きしめる形になっている今、その表情はどんなふうになっているかを見ることはできない。

 でも落ち込んで、寂しがっているのはわかる。そんな熊野に言葉をかけたいがどう言えばいいのだろう。

 ドラマなら良くありそうな言葉で『いらないと言われたら俺が養ってやる』とか『俺がお前をもらってやる』とも言えない。

 それらの言葉に責任が持てないから。

 

「今日の月は気分転換にならないか?」

「少しなりますけど、こうして提督とくっついているともっと良い気分転換になりますわ」

 

 堂々と恥ずかし気もなく言われると女の子と密着していることを意識し、逆にこっちが恥ずかしくなってしまう。

 今まではそんな女性というより、守るべき対象として見ていたから反応に困る。

 何も言えなくなっていると、熊野は俺へと顔を向けてくる。それは月明かりでわかるぐらい、恥ずかしさで赤くなっている。

 熊野は俺にとって守るべき存在であり大事にしてきたい子だ。今では艦娘の前に1人の女の子として見ていて、ここに来てからの俺は対等の関係を望んでいる。

 熊野は今の生活がなくなっていることを怖がっているが、それは俺も同じだ。

 1度強く甘えられてしまうと、精神があまり強くない俺はもう戻れなくなりそうだ。受けいれてしまったら、この関係が崩れてしまいそうで怖い。

 俺はこの友人のような、あまり遠慮せず話し合える今が気に入っている。それゆえに、近づきすぎること嫌われることはとても嫌だ。

 一緒に暮らして1カ月。お互いに大事な存在となりつつあると思っている。相手を頼り、自分が生きている意味を相手に見出す。

 

「俺は熊野と仲良くしたいと思っている。でもそれは対等な関係だ。甘えすぎて依存しないでくれよ」

「提督のほうこそ、私に依存しそうじゃありませんこと? たとえ見えなくとも、よく視線が私の髪や顔を見ていることがわかりますの」

 

 思い当たることがたくさんあるだけに、熊野のからかう口調で言われたことに何も言い返すことができない。

 

「……もう見ないと落ち着かなくなっているな」

「私もあなたがいない生活はきっと息苦しくてつまらなく、あまりの退屈さに死にたくなるでしょうね」

「仲のいい友達の関係でありたいよ、俺は」

 

 今は軍という組織で、上司と部下な関係だ。でも友達になってしまえば話は簡単になる。

 たとえ転属でお互いが離れることになっても友達なら会いにいけるし、堂々と触れあうこともできる。

 もしかしたら艦娘を辞めたとしても、俺がわがままを言って引き取ることができるかもしれない。

 それに艦娘と友達になるとはっきり言えば、物珍しさに協力してくれる人が出てくるだろう。

 大部分は楽観的希望。嘘に近い。だけれど熊野は俺の言葉を信じてくれる。

 俺の胸に感じる熊野の柔らかな体と顔を撫でるくすぐったい髪の感触に暖かい体温。さらには熊野の腰に回した手を、大事な物を扱うかのように撫でてくれる。

 それらが、すぐそばにあるというのが俺の言葉に対する熊野の答えなのだろう。



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町に住む女の子

 小ぶりな雨が降り、肌にまとわりつくジメジメした湿気と我慢ができる程度の暑さがある日の午前10時。

 外で農作業ができない今日は、畑で育てているニンジンや芽キャベツ、小松菜の野菜が順調に成長している姿を想像しながら俺はチノパンに半袖シャツの私服を着ていて、熊野はいつも通りの制服姿で1階にて静かに同じ時間を過ごしている。

 開け放っている窓の向こう側にある景色は、ぱらぱらと雨が当たって濃い緑色の木々がよく映えて綺麗だ。

 雨が木々や地面にある水たまりに当たる澄んだ音に耳を澄ませながら、俺と熊野は部屋のまんなかに置いてあるテーブルに、向かい合って座っている。

 俺と熊野はいつもの穏やかな空気ではなく、お互いにテーブルの上の物をにらみあって緊張している。

 それは昨日届いた大回転オセロというおもちゃだ。

 普通のオセロと違うのは盤面の上に石が内蔵されており、その石を手でさわって回転させると白や黒の色に変わる。黒石の面には凹凸があり、目が見えない熊野と一緒に遊ぶことができる数少ないおもちゃのひとつだ。

 現在の戦況は俺が角1つを取り、盤面の約半分を俺が担当する黒で取れている。

 隣にいる熊野は盤面の石をさわり、状況を理解していくうちに顔がこわばっていく。

 熊野が次の1手を打つまで、俺はなんとなく部屋をぐるりと見渡す。

 はじめの頃は手荷物しかなく、古い冷蔵庫や洗濯機、棚しかなかった部屋。今では1階、2階共に私物が増えてきた。

 熊野が生活しやすいよう配置に気をつけ、木製の壁はささくれがないように注意深く見ては直している。明かりのスイッチがある場所に作った点字を張り付けているし、暮らしやすくなっているはずだ。

 そんな熊野とはよい関係であり、静かな場所で野菜を育てていくのも楽しい。

 時々、2人しかいないことに寂しさを感じることもあるが、段々とその感覚は少なくなっていくだろう。

 

「提督。……提督?」

「なんだ?」

「次は提督の番ですわよ」

 

 熊野に呼ばれ、視線を盤面へ移すと、そこは熊野が多くの石を白色でひっくりかえしていた。

 角を取ることを優先するあまりに、おいしいポイントを持っていかれたらしい。

 オセロ初心者である俺は角さえ取ればどうにかなると思っていたが、負けそうな気配がやってきている。

 以前は仕事ばかりで艦娘と話や食事をすることはあっても遊ぶことなんてなかったら、こういうのは熊野のほうが強いかもしれない。

 盤面をにらみつけ、無い知恵をしぼって先の展開まで予想し、石をひっくり返す場所を考えていると熊野が耳を開いている窓へと向けた。

 

「あら? 小さな足音が水たまりを踏んで歩いていくる音が聞こえますね」

「音?」

 

 そう言われ、俺も同じ方向に耳を澄ますが雨の音ばかり。

 そのまま音を聞き続けていると、確かに熊野が聞いたのと同じ音が聞こえてくる。

 1人分の足音だ。

 でも今日は来客の予定はなく、軍や民間からの荷物が届く日でもない。

 窓の外を見ると、ここに向かってくるのが見える。やってくるのは小さい女の子だ。

 その子は雨だというのに汚れるのが心配するほど白いワンピースを着ていて、小さな長靴を履いていた。

 傘を揺らしながら歩いていたのか、心配したとおりに頭ごと服は雨に濡れている。手にはピンク色の傘を差し、もう片方の手には野菜が入ったビニール袋を重そうに持っている。

 女の子がやってくるのを待っていると、熊野は立ち上がって壁に手をあてながら入り口の扉前へと行き、その子を待つようだ。

 熊野の後ろ姿からは早く来ないかとそわそわして落ち着かないのが見え、嬉しそうなのがわかる。

 それから少ししてノックの音が聞こえると、待ち構えていた熊野がゆっくりと扉を開けた。

 

「おはようです、熊野お姉ちゃん、おじさん! 今日は遊びに来ました!」

「おはようございます、麻衣ちゃん」

「はい! お母さんに持っていけって言われて野菜持ってきました!!」

「おーう」

 

 部屋の奥にいる俺にも声をかけてくれる礼儀正しい麻衣に、俺は片手をあげて軽く返事をする。

 俺たちが麻衣と呼び、親しくしている女の子は町で八百屋をしている1人娘だ。

 初めて熊野を連れて買い物に行った時に視覚障害者用の白杖が珍しく、よく見てきたためにそれがきっかけで話すようになった。

 それから熊野を連れて買い物に行くときは話をするようになり、目が見えないことも理解をし、子供だけれど1人の人とし丁寧に扱ってくれる熊野に懐いた。俺はというと、どうも熊野を振り回している人という印象で好かれてないらしく、あまり懐いていない。

 そんな麻衣という少女は明るく元気な声の持ち主で小学五年生だ。

 140cmほどの身長で小柄な体ながらも、黒髪は肩までまっすぐ伸びていて日に焼けた健康的な体をしている。

 いつ見ても明るく元気なのは若さなのだろうか。小さなわんこみたいに熊野にじゃれつく姿を見ると、艦娘の時津風を思い出して似ているなと思うことがよくある。

 麻衣は熊野のことを"お姉ちゃん"と呼んで慕っているが、俺のことは"おじさんと"呼んでくるのが少し悲しい。……30歳になったんだから、そういう呼ばれ方を受け入れないといけないのは理解できるが。

 熊野は麻衣から傘を受け取ると、麻衣は初めて来たこの場所に興味津々で部屋の中をぐるぐると歩いて回っている。

 その様子を見ながら俺は熊野に近づいて傘を受け取り、邪魔な場所にならないところへ置く。その後は2階へ行ってタオルを持ってくると、麻衣は熊野と一緒にソファーへ並んで座っていた。

 俺はその背後から麻衣を抑え込んで髪をタオルでわしゃわしゃと拭きまわす。

 

「うきゃー!」

「黙って拭かれてろ」

「お姉ちゃん、おじさんにセクハラされてる!」

「このおじさんは大丈夫なおじさんですよ」

 

 子供特有の甲高い声を聞き、顔をしかめつつも髪はきちんと拭いてやる。

 熊野もフォローするなら、まずおじさんというところから否定して欲しいものだ。

 まぁ、熊野に抱き着いて助けを求める顔は笑っているから、本気で嫌がっているわけではないと思う。熊野もくすくすと小さな笑い声をあげているし。

 おじさん呼びやセクハラ発言に落ち込みながらも髪を拭いていくのが終わると、それを熊野に渡す。

 タオルを受け取った熊野は彼女の服をさわりながら濡れているところをタオルで拭いていく。俺はそれをやりはじめた時、すぐに背を向けて姿を見ないように気をつける。また叫ばれるのは嫌だから。

 

「それで今日来た要件はなんだ?」

「お母さんから、これをおじさんにって!」

 

 その返事と共にビニール袋が揺れる音が聞こえ、熊野が制止する声を振り切って俺の前へと回り込んで渡してくる。

 受け取ったビニール袋の中には野菜が詰められており、水菜とニンニクにバジルと種類様々だ。

 

「確かに受け取った。お母さんに喜んでいたと言っておいてくれ」

 

 俺に渡したことで仕事を無事に終えた麻衣は安心したように一息つくと、熊野がいるソファーへと行き、熊野の胸に顔をうずめていた。

 それをちょっとだけ羨ましく思いつつ、今度会ったときに感謝の言葉を忘れないようにしたい。そして、今受け取ったこれらの野菜はまさしく肉料理を作ってもらえと言われているに違いないと確信する。

 今日か明日に、この野菜で熊野を説得して肉料理を作ってもらおう。もう油たっぷりの牛肉料理を!!

 静かに、でも強く胸に思いを秘めながら台所へと野菜が入ったビニール袋を置く。

 そうして戻ると、麻衣は普通のと違うオセロに興味を持ち、色々とさわっていた。

 

「遊んでいいぞ」

「いいの!? お姉ちゃん、遊ぼっ!」

「はい、いいですよ」

 

 と熊野も楽しそうにしながらオセロの盤面にある石を回転させ、緑色へと戻していく。

 2人はこれから遊ぶようだが、俺は何をすればいいかと外を見るも、まだ雨は降っている。だから外では何もできず、中で時間を潰すしかない。

 急ぐ仕事はなく、暇をつぶすのは読書ぐらいだろうか。

 ずっと熊野といたせいか、熊野が誰かと遊んでいるのは寂しく思ってしまう。

 ……決して嫉妬なんかではない。嫉妬だとしたら、俺は小学生の女の子にそういう感情を持つことになってしまっている。

 

「提督も寂しいなら一緒に混ざりますか?」

 

 熊野をじっと見つめていた俺の視線に気づいたのか、そう気遣ってくれるもその言葉にうなずくことはできない。男の小さなプライドとして。

 近づいて熊野の髪を乱暴にかきまわし、寂しさを誤魔化すと麻衣が慌てて立ち上がって俺の足を全力で蹴っ飛ばしてくる。

 子供といえど、意外と痛いその蹴りから追われるように逃げ、冷蔵庫から2人分の麦茶を出してから俺は机を安住の地を定めた。

 俺へと勝ち誇った笑みを浮かべた麻衣は熊野の隣に戻ると、楽しく話をしながらオセロを始めていく。

 何も持たないまま机へと来てしまったが、今から立ち上がって本を取りにいくのも面倒だ。なら、趣味でやっている仕事をやってしまうとしよう。

 その仕事は目が見えない熊野専用の艤装改修案だ。

 採用されるされないかはともかく、怪我をした艦娘を使い始めた今の状況なら実際に運用している者の意見を聞いて参考ぐらいにはするかもしれない。

 軍内部での派閥や出世とは縁遠くなった俺なら、採用の可能性もわずかにはあるという希望もあるが。

 そんな考えを持って考え始める。

 俺が熊野と出会ってから、ぼんやりと考えていたがはっきりと形にまではしてなかった。

 熊野の場合は目が見えない。そのため砲撃では命中を期待できず、偵察や周辺警戒も難しい。乱戦になった場合は行動することさえ危ない。

 1つ目の案としては魚雷を外して主砲だけを装備し、対空砲弾の三式弾で対空、対地の支援専門。

 問題は自分で目標を決められず、誰かに指示してもらわないといけない。

 2つ目は8cm高角砲を大量装備して防空の面制圧。空母に随伴しての対空護衛専門。

 対空時以外は役に立たず、対艦戦闘では8cm砲が当たったとしても深海棲艦を倒すのはとても難しいだろう。

 3つ目は重雷装艦の真似で魚雷発射管を多数装備。

 最後の案が最も有用性が高いだろうか。魚雷装備なら指示どおり撃ち、目が見える艦娘と一緒に帰るだけだ。

 でもこんな案なら軍上層部でなくとも前線で簡単に考えられる。熊野は目が見えない以外は普通の艦娘なのだから、このままでは能力がもったいなく思う。

 電探が使えても射撃のおおざっぱな補助か探索だけ。そもそも数が少ない電探をまわしてはくれないだろう。

 熊野が前線で戦える良い案が思い浮かばず、机の引き出しから何度も読んでしわしわになってしまった艦娘艤装カタログを取り出す。

 それをぺらぺらとめくりながら自分の頭の悪さに落ち込んでいると、机の前に熊野と麻衣がやってくる。

 

「どうした?」

「麻衣ちゃんが私たちの暮らしている2階を見たいと言っていまして」

 

 少し困った顔をする熊野の隣には、目を輝かせて期待している麻衣の姿が。その向こう側にあるテーブルの上はオセロでの戦いが終わったよだ。

 わざわざ見たがるほどに面白いのはないと思うんだが。他人の生活空間を見て楽しいものだろうか。

 それでもいいなら構わないが、許可を出すまえに問題になるものはなかったかと思いを巡らす。

 軍関係の資料は1階にあるし、そもそも重要な情報は俺のところにまで回ってこない。

 2階の部屋は熊野がつまずかないように、普段から綺麗に片付けているし、さわって危ないものはない。

 

「熊野がついているなら見てもいい」

「さすがおじさん、いい人だね!」

 

 俺の返事を聞くと、熊野の手を引っ張って気遣いながらゆっくりと2階への階段を登っていく。連れられていく熊野は「あらあら」と困った声をあげるが、一緒に何かするのが楽しいといった表情をしている。

 普段は俺としか一緒にいないから、女の子の麻衣と一緒にいるのは新鮮で楽しいんだろうな。

 階段を登っていく2人の後ろ姿を見送り、麻衣は急かすことなく熊野が上がっていくのをきちんと待っている。

 子供なら早く早くと自分の都合を優先するかと思っていたが、気遣いができているのに感心する。

 俺が同じ歳の頃はそこまで考えられなかった。

 階段を上がりきった2人は2階から楽しそうな声が聞こえ、ばたばたと走り回る麻衣の足音が。

 暑いっていうのによく体を動かせるなと上から響いてくる音を聞いて、ふと思いつく。

 音だ。音なら目が見えなくてもわかる。熊野の艤装にそれを使えるはずだ。

 艤装に空中の音がわかる装備はあったかと思い、カタログをめくるが見当たらない。

 なければ代用として駆逐艦用の水中聴音機を改造して取り付ければいいと思ったが、それだと空気中の音を聞くのはまた別じゃないかと気づく。

 音をうまく利用すれば、単独でも敵の位置がある程度分かるようになるのは間違っていないと思う。

 だがそれはどうすればいい?

 そこで考えに行き詰まり、じっと天井を眺めて上にいる2人が動く音を聴き続ける。

 ……空中だ。

 頭にひらめいたのは陸軍が昔使っていた空中聴音機。今は電探が実用化され安定生産できるようになったために使われなくなったが、そういう変わった物があるのをどこかで聞いた覚えがある。

 その設計を元に艦娘用として作れば熊野のような目が見えない艦娘でも使えるはずだ。

 電探と違い、構造は単純で量産がしやすい。見た目はラッパを大きくしたもので、艦娘が艤装に着けて使うには身動きが取りづらそうになるだろうけど。

 艦娘用空中聴音機ならコストは安くできる。気になる点は、聞くのは空中に伝わる音を聞くものだから、気象条件で大きく左右されるだろう。

 他にも問題があるかもしれないが、ひとまず空中聴音機の資料を申請するか。理由は艦娘の追加艤装研究のために。

 ひとまず問題解決の見通しができ、悩みがなくなるのはずいぶんと気分がいい。

 疲れた頭を休めるために、角砂糖4つほど入れたコーヒーを飲むかと思い、ふと視界に入った時計は午前11時。

 昼も近いため、たまには熊野の代わりにメシを作ってやろうかと思って台所へ。

 冷蔵庫には野菜が多く、魚は少し。肉はまったくなかった。

 焼く料理しかできない俺だが、まぁ少し考えれば熊野並みのうまいメニューは思いつけるだろう。

 ―――そう思ったのが間違いだった。

 普段できないことをなぜできると考えてしまったのか。包丁を持ち、野菜を洗って切ろうとしたことで過ちに気づけた。

 単なる野菜炒めぐらいしかできず、味付けは以前の鎮守府で艦娘たちに味が濃すぎる脂っこすぎるしょっぱいと、逆に褒められるほどの大不評だった。

 そのなかで評判が悪くなかったのはサンドウィッチだ。

 でも冷蔵庫にある材料で俺がサンドウィッチを作るには高難度で組み合わせが難しい。

 だが幸いにも今は麻衣が持って来てくれた材料がある。

 そう、水菜とニンニクにバジルだ。この材料の選択に麻衣の母親に対して感謝の心をささげる。

 これらの材料を使うことで熊野に肉料理を要求する機会を失ってしまうことに一瞬悩んだが、俺自身のことよりも今ここで3人分のメシを作ったほうがいいと判断する。

 それに久しぶりに料理をするのは楽しみだ。3つのものを使えるように処理したあと、ニンニクはすりおろしてから溶かしたバターと混ぜ、パンに塗る。その後はオーブンで焼き、刻んだバジルと適度な長さに切り分けた水菜を乗せるともう1枚のパンで挟む。

 するとそれだけでおしゃれ感があるサンドウィッチのできあがりだ! 食べやすいようにカットして半分にするのも忘れていない。

 我ながら惚れ惚れするほどの出来具合。これを名づけるなら、ガーリックトーストの刻みバジル水菜載せだ。それが3人分できるころには上から2人が降りてくる。

 

「熊野、麻衣、メシにするぞ」

「あら、作ってくれましたの? とても楽しみですわ」

「えっと、麻衣も食べていいの?」

 

 来たときから元気いっぱいな麻衣が熊野の袖を握り、遠慮がちに聞いてくる。

 今までの俺に対する遠慮ない態度はどこへ行ったのか。人の家で飯を食うというのは緊張するものか? するかもしれない。

 

「これはお前が持ってきたもので作ったからな。量が足りないと思うが、そこは我慢してくれ」

 

 テーブルへとサンドウィッチと牛乳が入ったコップを置いていくが、椅子が2つしかないために俺は机へ行って1人離れて食べる。

 ここに来て初日あたりに4回料理を作って以降は熊野任せで、今日は久々に作った。それゆえに2人の感想が気になりすぎてしまう。

 気にしないふりをしつつ、ちらちらとテーブルのほうを見ては2人の表情をこっそりと観察する。

 熊野は口に入れてから感心するように頷きながら食べ、麻衣は珍しいものを食べた的な表情をしている。

 結果として悪くはない感じで安心した俺はようやく自分の分を食べていく。

 全員が食べ終わり、お腹が落ち着いた頃に麻衣は帰ると言った。

 本当はもう少しいたかったけど、夏休みの宿題が終わってないから1日の自由時間は決まっているの、と言って。

 熊野は麻衣を心配して家まで送ると言ったが、目が見えないと雨の日は危ないと言われて遠慮されたことに落ち込んでいる。

 かわいらしく落ち込む熊野は新鮮でずっと見ていたかったが、おみやげを渡さないといけないことに気づいて慌てて用意したのは軍支給の缶詰だ。それらをビニール袋に入れて渡した。

 俺と熊野は監視所の中から傘を差してまっすぐ歩いていく麻衣を見送り、角を曲がって姿が見えなくなったときに俺は思っていたことを言う。

 

「ああいう子供を守るために俺たちは戦っていたんだな」

「あら、それは違いましてよ?」

 

 何か間違っていることを言ったかと不思議に思う俺に対し、熊野は自信たっぷりに言う。

 

「今も守っています。そのために私たちがここにいるのです」

 

 その自信に満ち溢れている言葉を聞き、ここに配属された理由はただの監視だけでそれほど熱心にやるつもりはなかった。

 たった2人しかいなく、熊野の艤装は以前使っていたのとなんら変わらないものということもあって。

 俺は無意識のうちに、こんな田舎すぎる場所では誰かを守ることなんてできないと思っていた。

 でも熊野は違った。目が見えなくなり、戦うことが困難になってもなお戦おうとする。

 俺はどうだ? もう嫌な目に合いたくなく、艦娘を指揮したくない気持ちが強く残っている。

 はじめは人々を守るためという理想のために軍人になり、やがては艦娘たちを率いる提督として作戦を指揮し、鎮守府を運営してきた。

 あの頃の情熱はどこへ行ったのだろう? 今の俺は残りカスぐらいの価値しかない。いや、それより悪い。いまだ艦娘たちを指揮して戦いたいという未練があり、提督という役職を辞めないのだから。

 でも段々と今の俺はここで一生を終えてもいいという気にさえなっていた。

 ひどく強い、深いため息をついて俺は自分の机へと戻る。

 

「提督、自分を責めないでください。私だってすぐにこんな考えができたわけではありませんの」

 

 俺の背中に熊野の心配する声がかけられ、俺は椅子に座って一呼吸置いたあとに熊野へと体を向ける。

 熊野は俺へと顔を向け、不安そうにしている。

 

「目が見えなくなってから、自分が何のために戦っていたかを考えることができました。自分に失望するのはまだ早すぎますし、私の考えがただしいというわけではありません」

 

 熊野は壁から離れ、不安定な歩きながらもゆっくりと近づいてくる。

 俺は杖も使わず、壁をさわらずに歩いてくる熊野が心配でたまらない。すぐにでも手助けしたくなる。

 でもその気持ちを抑え、熊野が何を伝えたいのかを待つ。

 熊野は俺のところまで来て、体を机にぶつけてから手を伸ばして俺の腕を手でさわる。そして、その手を俺の頬へと移動させ、優しく撫でてくる。

 

「あなたはあなたの答えを見つければいいんです」

「……そうだな」

 

 その言葉に自然と頭がすっきりし、心が落ち着いてくる。

 自分を決められるのは自分だけということか。

 けれど、俺のほうが年上で人生経験もあるのに、熊野のような若い女の子に言われるとちょっとだけ恥ずかしくなる。

 恥ずかしさを抑えるために、熊野の頭に手を伸ばして髪をぐしゃぐしゃと撫でまわしてぼさぼさにしたことに満足し手を離す。

 手で髪をなおしながら、俺を恨む言葉を楽しげにいう熊野の声が聞こえてくる。

 熊野と一緒なら人生をやりなおしていけると思いながら、俺は熊野へ雑にさわったことを丁寧に謝った。



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思い出と幸せ

 半分の月が昇る夜空を時々見上げ、懐中電灯で足元を照らしながら遠くの海を見つつ1人で砂浜を歩いていく。

 そうしている今、俺がやっているのは深海棲艦がいないかの見回りだ。

 ジャージの上にジャンバーを着ているが夜の海は夏でも寒いものだ。

 俺は砂浜を歩きながら端から端まで歩いていく。途中、流木やゴミにつまずきながらも敵がいる気配もなく仕事を終え、監視所兼家へと戻る。

 砂浜から離れると波の音から虫の声へと音が変わり、段々と明かりがついている建物に近づくと持っていた懐中電灯の明かりを消して扉を開けた。

 部屋の中には制服姿の熊野がソファーに座っていて、膝の上に点字の本を広げながら俺へと顔を向けていた。

 

「おかえりなさい、提督」

「ただいま、熊野」

 

 ジャンバーを脱ぎ、普段仕事をしている机にジャンバーと懐中電灯を置いて椅子に座ると大きな息をつく。

 仕事の時にこういう挨拶のやりとりをするたびに、今日も仕事が終わったという充実感がある。

 信頼できる人がいて、帰りを待っていてくれるというのはとても落ち着くものだ。

 

「今日もお疲れさまでした。温かいコーヒーを飲みますか?」

「角砂糖をひとつ」

 

 と、俺の返事を聞いた熊野はソファーに本を置いて立ち上がり、台所へと歩いていく。

 ポニーテールの髪を揺らしながら歩く熊野の後ろ姿を眺め、あとはシャワーを浴びて寝るだけだ。

 でもこんな見回りだけでいいのかと今の仕事に少しの疑問を持つ。最も他に何ができるかと聞かれても困るが。

 ここに電探を設置して電波を飛ばしても艦娘の逆探にひっかかって近海にいる艦娘たちの邪魔になるし、何かができる設備も戦力もないから仕方がない。

 まぁ直接見て回るのは大事な仕事だ。ここでは近くに来た敵や上陸した敵の報告や熊野での時間稼ぎという役割があるから。

 でも、それがどれだけ防衛の役に立つかは疑問に覚えるが。ないよりはいいぐらいか。

 勝手に落ち込み始める思考は頭を振ることで止め、熊野の後ろ姿を心配しながら眺める。

 熊野はヤカンの音を聞きながら適量の水を入れると、ガス台に乗せて火をつける。

 そうしてから熊野は俺専用の大きなマグカップを棚から探して手に取ると、ガス台のそばに置く。

 次にコーヒーバッグが入っている箱を手に取る。

 その箱には点字でコーヒーの淹れ方が書いてあり、その中からティーバッグ形式のコーヒーバージョンであるコーヒーバッグを取り出してマグカップの中に。

 問題なくやっている姿に、ちょっとだけ心配してしまう。

 以前、同じように頼んだときに火傷をしたからだ。ヤカンからマグカップへお湯を入れるときに勢いが強く、カップを持つ手にお湯がかかって。

 その時はすぐに駆け付けると熊野の手を掴んで水で冷やし、そういうのは俺がやると言った。

 でも熊野は『ただの不注意だから私のできる仕事を取らないでください』と強く言ってきたために、そのまま任せている。

 だからと言って、こうして待つことしかない場合は心配でたまらない。

 もし火傷や怪我をしたときのために、いつでも心構えはできている。

 不安になりながらも待っているあいだ、俺の視線に気づいたのか振り向いた熊野は困った様子で微笑んでくる。

 

「そんなに心配しなくても私は大丈夫ですわ」

「火傷をしないかと思ってな」

「ふふっ、心配してもらえるなんて熊野は幸せものです」

 

 そう機嫌よく言ってはガス台に向かって、ヤカンの音を聞くのに戻る熊野。

 そんなまっすぐなセリフを聞いた俺は、熊野が目の前からいなくなっても恥ずかしい気持ちのままだ。

 普通はこんな心配せず、やりたいなら放っておくはずだ。でも熊野に関しては台所作業の全てを気にしてしまう。

 単に目が見えないというだけでなく、いつもおっとりしている性格だからだろう。

 もし何かの拍子にガラスを割り、怪我をしても平気に話をしてきそうだ。……艦娘だから、ちょっとの怪我なんて平気なのはわかるんだが。

 心配しすぎてしまう俺は、苦しい思いで熊野から目をはがし、目をつむる。

 そうして聞こえてくるのはヤカンの音と虫の声。

 外の見回りから帰ってくるときには虫の声がよく聞こえていたのに、ここに戻ってからはそんな音が聞こえないほどに熊野を心配していたことに気づく。

 その音を聞きながら心を落ち着けていると台所から熊野がマグカップにお湯をそそぐ音が聞こえて、目を開ける。

 熊野が集中した様子で慎重にヤカンを持ち、マグカップを手でしっかりと抑えている。お湯を注ぐ準備ができるとゆっくりお湯を入れていき、お湯が入る音とマグカップに手を当てて温まっていくのを確認している。

 マグカップの上のほうまでお湯が入ったのを温かくなったことで確認したあと、ヤカンをシンクの中へと置く。

 ガス台に戻すと、ちょっとバランスが崩れたらヤカンのお湯がこぼれて危ないから。

 安全をなによりも、と強く言った俺の言葉が守られているのにひどく安心する。

 お湯が満たされ、コーヒーバッグが入ったマグカップを熊野は片手で持つと反対の手で壁や机を探るようにしながら歩いてやってくる。

 

「ありがとう、熊野。そのままで―――」

「いいえ、私が最後までやります」

 

 力強く言って、俺が受け取ろうとするのを拒否して机の上へと置いてくる。置いたあとも俺が言った言葉の場所から正面を推測し、斜め前に置いたところから目の前へと置いてくれた。

 

「ええと、その、私はちゃんとできましたか?」

「ああ。ちゃんと俺の前に置けているし、お湯の量もいい」

 

 熊野を褒めるように明るく返事をすると、小さくガッツポーズをする熊野。

 普段しない仕草がとてもかわいい。褒められて気分がいい熊野はまた台所へ行くと小さな小皿を持ってくる。

 その皿の役割はコーヒーバッグを取り出したあとに置く場所だ。

 俺はマグカップに入っているコーヒーバッグの紐を持つと、マグカップの中で10回ほど揺らして小皿へと置く。

 そうして一口飲み、苦いコーヒーの感触がはっきりとわかる。そういえば角砂糖を入れていなかったな、と飲んでから思い出した。

 

「角砂糖は?」

「あっ」

 

 小さく声をあげると熊野は急ぎ足で台所へと行き、角砂糖が入っている瓶からスプーンで1個を取り出してスプーンに乗せたまま持ってくる。 

 

「提督、私が持つスプーンの下にマグカップを移動していただけませんか?」

「構わないが……移動したぞ」

 

 そう言うと熊野は角砂糖をスプーンごと中に入れ、ゆっくりとかき混ぜていく。少しのあいだ混ぜ続けるとそのスプーンをポケットの中に入れ、マグカップを俺の前へと机の上をすべらせながら置いてくる。

 

「熊野の淹れたコーヒーをどうぞ味わってくださいな」

「……あぁ」

 

 何も問題はありません、という堂々とした雰囲気に俺は何も言わず、ただ少しおかしくて笑い声が小さく出てしまう。

 熊野があらためて完成させたコーヒーを一口、二口と飲む。コーヒーバッグの味は安定しているが、角砂糖が溶け切っておらず甘味が混ざりきっていない。

 

「うん、まずまずだな」

「そこは『とてもおいしいよ』とか『さすが熊野だな』という場面ではありませんか?」

「お前は正直な男が嫌いなのか」

 

 そう返事をしてマグカップを机に置くと、熊野は俺の横へやってくると肩を軽くパシパシと何度も拗ねたように叩いきた。

 俺は苦笑いをしつつ、その叩いてくる手を押さえる。

 

「次もまたコーヒーを淹れて欲しい。次は砂糖を忘れずにな」

「……そんなに私のがダメなら自分でやればいいんです」

「俺は熊野のコーヒーを飲みたいんだ」」

 

 熊野は一瞬固まったあとに俺の手を振り払うと、背中を向けてしまう。

 恥ずかしがっているのか、それとも最初から素直に褒めろと拗ねているかはわからない。

 俺はコーヒーを味わいながら飲み干すと、まだ背中を向ける熊野に声をかけて手には空になったマグカップを持たせる。

 寝る前に体が温まるコーヒーを飲んでリラックスをし、今日はよく寝れるだろうなと思う。

 熊野が台所へ行く姿を見ながら、そういえば今日はよく行く古書店のおじいさんから銃をもらったことを思い出す。

 銃というけれども、撃てないように銃身に鉄が流し込まれた美術品で、無可動実銃と呼ばれるものだ。

 それを持ってくるために2階へと行き、その銃が入った袋と手入れをするサビ取りスプレーやメンテナンス用の油、タオルを持って1階へと戻る。

 机に銃と道具を置いて椅子に座ると、いまだになぜ自分にもらえたのかの理由がわからない。

 あのおじいさんは俺を気に入ったと言っていたが、それ以外にも理由がありそうな気がした。

 袋から銃と、くすんだ色をした8発の銃弾が入っていた。

 銃弾は弾頭と薬きょうがセットであり、緩んでいた弾頭を薬きょうから外すと中は火薬も雷管もない鑑賞用の弾というのがわかる。

 

「提督は今、何をしていますの?」

「今日おじいさんからもらった銃の手入れだ」

 

 マグカップを洗い終わり、台所を軽く掃除した熊野が机へとやってくる。

 俺は熊野も一緒にいたい雰囲気を察して立ち上がると、テーブルが置いてある場所から椅子をひとつ持ってくる。

 それを机の隣へと置き、熊野の手をさわって誘導する。

 俺は元の場所へ戻ると、その銃身がある先端部分が重くなって銃身が悪い銃を天井へと掲げて全体を見る。

 この銃はもらったとき、おじいさんに説明を受けた。

 これは13年式村田銃という単発式ボルトアクションライフルを猟銃に改造した、30番(11mm)の弾薬仕様のものという説明を受けた。

 家で代々使われていたようで、使われなくなったあとは無可動式に改造してもらって大事にしていたとのこと。

 俺はその銃を机の上に置くと閉まったままのボルトを動かそうとするが溶接されていて動くことはない。引き金は動きはするが、それだけだ。他に動くのは銃身下にあるクリーニングロッドが取りはずせることだろうか。

 これはもう実銃として復活することもなく、見るためだけの美しい美術品となっている。

 そう、美術品だ。木製ストック部分はひび割れが少なくてニスの深い色合いがいい味を出し、金属部分は黒さびがあるために光に当てるとツヤツヤとした輝きが美しい。

 感心のため息をつきながら眺めていると、隣にいる熊野がそわそわとした様子に気づく。

 

「熊野もさわってみるか?」

「ええ。お願いしますわ」

 

 両手を差し出した熊野の手にライフルをそっと置き、ちょっとずつ俺が持つ手の力を緩めて重さを渡していく。

 熊野は渡されたライフルを受け取ると、胸元で抱えるようにして持ちながら各部を手でさわっていく。

 そのあいだ、俺は銃弾の手入れをする。

 真鍮の薬きょうがくすんで色が暗くなっているが、これは綺麗にしないままの色合いがいいだろう。だが、このまま色が悪くなるのも嫌だ。

 だから持ってきた油をタオルに付けると、酸化防止として弾丸に油を塗りつけていく。

 それを3発目まで塗り終わると、満足した熊野が机の上へ銃を置く重い音がする。

 

「なんでこれを俺なんかにくれたんだろうな。結構手入れされていたから、いらないわけでもなさそうなのに」

 

 銃を置いて手が空いた熊野をそっと掴むと、まだ油を塗っていない弾丸の1発を渡す。

 熊野はそれの匂いを嗅ぎ、指でさわり、手のひらで転がす。

 

「あのおじいさまは1人で暮らしていましたよね」

「あー……そうだったはずだ。87歳なのに良く働いて、頑固で義理人情に厚いって八百屋のおっちゃんが言っていたな」

「私は食堂のおばさまたちから話を聞かされました。その方は50年ほど前に妻がなくなり、遠くで暮らしている子供や孫とも疎遠だと」

 

 俺たちが聞いた話を合わせてもどうにも納得できない。

 こんなに手入れしている銃をなぜ俺にくれたんだろうか。いらないなら売ってお金にしたほうがいいだろうに。

 他に何か理由があるはずだと、おじいさんに関することを思い出していくと銃に関する話を思い出した。

 

「これは父親が使っていたと言っていたな。で、おじいさんも少しのあいだ使っていたとか。狩猟をするために新しい銃に変えてからは整備だけはして、歳をとってからは無可動化してもらったと」

「この銃には人の想いがたくさん込められているものなのですね」

 

 親子で使い続けた銃。それを俺にくれた理由をまた考える。

 売るのが面倒だから軍人の俺にあげたというのもあるが、その可能性は低い気がする。それに俺が受け取ったときは、とても晴れやかな顔をしていた。

 あの人と出会ってまだ1カ月ほどだが、昼間は話をし、将棋を教えてもらい、時々店で本を買うぐらいだ。他には家の柵が壊れたときは俺が直したこともある。

 それなら今までの感謝の気持ちということだろうか。

 

「提督」

「なんだ?」

「提督の考えていることはきっと間違っていると思います」

 

 口に出していないのに、熊野は俺の考えを違うとはっきり言ってくる。

 俺の考えが違うのなら、他に何があるんだ?

 続きの言葉を待つように俺は静かに待っていると、熊野は俺に銃弾を返してくる。

 それを受け取り、机に置くと熊野は静かに喋り始める。

 

「提督はあのおじいさまと仲がよろしかったですわよね?」

「ああ、バカ話をするぐらいには仲がいいと思っているし、楽しいな。行くたびに歓迎されて茶を出してくれるし」

「ではそういう仲の良い人に物を送るときは、どのような感情がつくのでしょうか?」

 

 それは自分を気に入ってもらいたい、自分と同じ物を持って欲しい、同じものを好きになって欲しい、理解してもらいたい。すぐに思いつくのはこのあたりだが、熊野が言うのとは違う気がする。

 思い出せ。俺に渡したとき、どんな表情を浮かべていた? どんな声の色をしていた?

 ……あれは過去を懐かしみ、孫を見るような優しい目。俺に銃をくれたのは喜ぶ姿を見たかったのだろうか?

 唸り声をあげて必死に悩んでいると、熊野があきれたように息をついてくる。

 

「あなたはいつも難しく考えすぎです。あのおじいさまは自分という存在を覚えてもらいたかったのだと思います。私にはそれしか感じられません」

「そこまで断言できるのか?」

「はい。おじいさまも、その父親も使っていた大事なものです。銃という物や金銭的価値よりも重要なのは意思です。代々使ってきて大事にした物を渡すというのはどういう意味があるものでしょうか?」

 

 それは家族の絆、または信頼。おじいさんは俺を信頼してくれたのだ。

 まだこの場所に来てから1カ月ちょっとした経ってない俺のことを。

 

「言葉よりも、時にはそこに在るだけで何百何千の言葉の代わりになることもあります」

 

 そういう考え方があるか。今度会ったときに、なんでくれたのかと聞こうとしていたが、それはやらないほうがいいかもしれない。

 しかし熊野はいつだってよく考えている。

 目が見える時から読書好きでゲーテや哲学書を好んで読んでいたということがあるからだろうか。

 俺がずれている考えをしているときにはこうやって助言をしてくれる。熊野の存在は言葉がなくてもそこにいるだけで俺は心が落ち着く。

 ……ついさっき熊野が言っていたことを思い出す。

 物がそこにあるだけで言葉の代わりになるというのなら、すぐ隣に大事な人がいるというのはどういうことになるのだろうか。

 でもそれをちょっと考えただけでやめる。

 すべての行動、意味を理解しようとするのはつまらない。

 考え続けるということが大切なのではと思い、隣に熊野がいることはもしかしなくても幸せなのかと感じる。

 こんな女の子は外見も性格も素敵すぎて俺にはもったいないぐらいだ。



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摩耶が来た日

 2階の開けた窓から朝日が入り込み、セミの声がじりじりとうるさいぐらいに響き始めた朝の7時。

 今日から8月の第3週となり、カレンダーの上では少しずつ秋が近づいていく。時々夜でも涼しくなることもあるが、まだ夜も蒸し暑い。夏はまだ終わらない。

 ベッドの上で目を覚ました俺は喉の渇きを感じて体を起こす。

 短パンとTシャツ姿の状態から普段着ているラフな格好に着替えようとしたが、今日は制服を着る必要があったのを思い出す。

 小さなチェストを間に置いて、隣にあるベッドには熊野の姿はない。

 耳を澄ますと1階からはフライパンを使った、じゅぅっという何かを焼く耳に心地のいい音が聞こえる。

 その音で起きたばかりでもすぐに腹が減り、着替えるのは後でいいかと思って下へと降りていく。

 1階では熊野は髪を降ろしたままの制服姿で、ピンク色のエプロンを付けて料理をしていた。

 

「おはよう、熊野」

「あ、おはようございます、提督」

 

 返事をする一瞬だけ俺に顔を向けた熊野だが、すぐにまた料理へと集中する。

 何を作っているのか気になった俺はそっと近づいていく。

 フライパンの上で焼かれているのは目玉焼きだ。

 熊野はその音に集中しながら持っている箸で撫でるようにさわりながら固さを確認している。

 その様子を確かめたあと、邪魔しないよう静かにあとずさり、髭剃りをしに行く。

 洗面台にて顔をさっぱりさせると、テーブルの上にはできあがった料理が皿に乗せられて並べられていた。

 今日の朝食は野菜サラダに焼鮭と目玉焼き。あと白いご飯だ。

 朝は手軽なトーストでいいとよく言っているが、熊野は朝こそ米を食べなきゃいけませんと譲らなかった。

 そんな熊野と朝食をテーブルで向かい合って一緒に食べ、歯磨きをした後に俺は海軍の真っ白な第二種軍装を着る。ただし、暑いために帽子はなしで。もちろん熊野の承諾済だ。

 俺が自分の身だしなみを整えたあとは、椅子に座ってもらった熊野のポニーテールを結う。そのあとは待つだけだ。

 こんな正装をする必要があるのは今日の昼に補給が来るため、来たときにラフな格好は相手に印象が悪くなってしまうために仕方のないことだ。

 用意が終わったあとは、それぞれ好きなことをするが髪を結い終わった瞬間に熊野は窓の方へと顔を向けた。

 

「車のエンジン音が聞こえますわ」

「補給の予定なんてのは大体適当なものだからな」

 

 時間はいい加減だが、物資の補給がやってくるだけマシというものだろうか。最もここは内地だから日が合うぐらいは当然か。

 

「白杖だ。あとは腕を取ってくれ」

「あら、今日は紳士的ですのね」

「俺はいつでも紳士的じゃないか」

 

 熊野は俺の言葉に返事をせず、熊野は『そういうことにしてあげます』というような笑みを浮かべ、俺から白杖を受け取って立ちあがると俺のヒジを掴んで一緒に外へと歩いていく。

 軍のトラックが来るときはいつも一緒に迎えをしている。

 最初にどっちからやろうと言ったかは覚えていない。自然と一緒に行くのがいつのまにか当たり前となっていた。

 雲が少なく、空から痛いほどに太陽の光が降り注ぐ外に出た俺と熊野は監視所の扉前で一緒に並んで車が来るのを待つ。

 ちょっと時間が経ってからやってきたのは乗用車のジープを改造したオリーブ色の小型トラック。車体はフロントの窓枠から黒っぽい布の幌で覆われている。

 運転席にはいつも来ている迷彩服を着た白髪混じりのおっちゃんと、助手席には普段見たことがない女性の姿があった。

 今日はいつもと違う様子を不思議に思っていると、小型トラックが俺たちのそばで止まった途端、助手席のドアが開いて女性が笑顔で出てきた。

 

「よっ! 新しい戦い方を考えてこいって言われたから教育担当の重巡洋艦、摩耶さまがやってきたぜ! あ、住むところはテント持ってきたから安心してくれよな。そんなわけで2週間か3週間はよろしく!」

 

 元気がいい摩耶は高校生のような顔をしている。熊野よりも身長が高く、俺よりほんのちょっとだけ背が低い。

 首筋まであるまっすぐな髪で、髪留めがひとつだけついていて、ノースリーブの制服で首元には赤いスカーフが巻かれ、ミニスカートと小さな靴を履いている。

 摩耶が言う新しい戦い方とはいったいなんだろうか。

 2週間前に熊野が戦える方法を考えようとして、空中聴音機の書類を頼んだのは覚えている。

 だけど摩耶を呼ぼうとしたことはなく、来るのも今初めて知った。

 軍に送った手紙には要求の他に『目が見えない艦娘用のために新しい装備を考えたい』ということを書きはした。

 それがわざわざ人をよこしてくれるのだから、軍も障害を持つ艦娘について気にはしているらしい。

 まぁ、突然来てしまったのは仕方がない。なるようになるか。

 

「こちらこそよろしくお願いするよ。熊野、俺は荷物を受け取るから摩耶の相手をしてくれ」

「はい、この場所の素晴らしさをとくと語ってあげますわ!」

 

 とても楽しそうに言っては俺から離れ、熊野に挨拶の声をかけている摩耶の前へと歩いていった。

 こんな何もない場所に素晴らしいところなんて自然ぐらいしかないものだが、それを語られた摩耶の気分が悪くならないといいが。

 もし悪くなったとしても、そこはあとで謝って許してもらおう。ここに来てから、熊野は若い女性と話す機会がない。そのために今回はなんでもない会話でもきっと楽しく感じるだろう。

 熊野が摩耶と会話を始めたのを見届けてから、俺は小型トラックの後ろに行って荷物を取りに行く。

 車に積まれていたのは米や缶詰といった食料に紙やペンなどの消耗品、それと俺が頼んだ空中聴音機の資料が詰まっている小さな段ボール箱だ。

 その荷物に混じって摩耶の荷物が入っているバッグと、私物らしい大きなテントが入った袋が1つある。

 それらを運転手であるおっちゃんと一緒に監視所の中まで運んでいく。ただし、扱いがわからない摩耶の荷物は監視所の入り口に置いた。

 荷物を運び終わると、熊野と摩耶は炎天下の中でも汗を流しながら続けていた。

 中に入ればいいのにと思いつつも声をかけて邪魔をするのもよくないと思い、声をかけると熊野は『気にしなくてもいい』と手を振ってそのまま話を続けていく。

 熊野と違って体が弱い俺はおっちゃんと一緒に小型トラックの影に入ってしゃがみ込むと、近頃の国内や軍の情勢についての話をする。

 公式の発表では海外の艦娘が応援にやってきて戦線も順調に拡大しているということだ。海外艦娘が来た理由は自分たちの国が安定したから日本に援軍としてきてくれたということらしい。

 だが、おっちゃんが言うには軍の公式発表の割には海外からの輸入が安定せず、輸入がなくなった国もあるとのことだ。

 民間への物資配給制限も強まり、一般家庭でもプランター栽培の推奨が強くなったとのこと。

 以前から農業には力を入れていたが、それでも足りなくなってきたらしい。

 まぁ、農業に力を入れていたといっても使える油が限られていて機械はあまり動かせず、薬品も限定されたのしか使用できないために収穫量は少ない。

 明るいニュースといえば、深海棲艦の動きが鈍ったということだ。おっちゃんも詳しくはないが、太平洋海域では占領されていた島を奪還してインドネシアあたりまで進出して一進一退といった様子らしい。

 そんな話をしている途中、何かを思い出したおっちゃんは小型トラックの中に戻ると、封筒に入った手紙を4つ渡してくる。

 そのうち3つは俺がいた鎮守府から出された艦娘たちで、もう1つは差出人が鈴谷と書かれた熊野宛ての手紙だ。

 もう忘れたい場所からの手紙に表情をゆがませ、見たくない気持ちでいっぱいだ。まぁ、それは後で読むことにし、自分宛ての手紙をポケットにねじ込んだあと鈴谷からの手紙を持ち、話を続けている熊野のそばへ行く。

 話している内容はさきほどから聞こえてきたのも合わせると、この場所の過ごしやすさと自由という素晴らしさ。あとはなぜか俺が健康的な食事をしないとか子供を持つ親のような愚痴に展開してしまっている。

 

「暑いのに外で話し込まなくてもいいだろうに。中で話してくるといい。摩耶も言いたいことがあったら言っていいからな」

「確かに私が悪かったですわ。提督と違って華のある会話ができたことに嬉しくて……」

「おい」

 

 俺の恥ずかしいことを吹きこまれる前に話を止めたが、熊野はそんなに俺をからかいたいのか。

 でも熊野は楽しそうに笑うし、摩耶は俺たちの会話を感心した様子で眺めているから悪印象は持たれていないはずだ。

 2人の会話を止めたあと、俺たち3人はおっちゃんが運転して帰るのを曲がり角で見えなくなるまで見送った。

 

「熊野、鈴谷から手紙が来てるぞ」

「鈴谷からですの!?」

 

 興奮する熊野の手を取り、手紙を握らせる。だが、この手紙は読めるのだろうかと気になる。誰もが点字を勉強しているわけではないだろうし。

 

「読めるか?」

「鈴谷のことですから、きっと点字の手紙にしてくれていますわ! そうでなかったら提督を呼びます!!」

 

 そう元気よく叫ぶようにして言うと普段よりも急ぎ足で中へと入っていく。あんなに元気な熊野を見るのは新鮮で、ああいう姿もかわいいなと思いながら後ろ姿を見送る。

 

「暑いから俺たちも中に入ろうか」

「あー、あたしは朝飯がまだなんだ。ここで作るから中で待っていてくれよ」

「外で食うのか?」

「おう。キャンプ道具を持ってきているからな!」

 

 そう言って摩耶は親指を立てて笑顔になると、自分の荷物の中から料理に必要な道具や食材を出し始める。

 その時間がかかりそうな様子を見て、俺は中へと戻る。

 摩耶の食事が終わるあいだ、小型トラックから運んできた荷物を片付けることにしたが、外で摩耶がどんな料理をするのか気になって耳を澄ませてしまう。

 

「見に行っても構いませんよ?」

 

 ソファに座り、点字の手紙に指を置いていた熊野が俺に気づき、窓の外に顔を向けてから声をかけてくる。

 手紙に集中していたはずなのに、俺を気遣ってくれることに嬉しくなりながらも今の仕事を投げ出すのに戸惑いがある。

 

「……片付けに集中しろって言わないのか」

「何度も手を止めて気にしている提督にそんな辛いことを言いませんわ。片付けは後でもできますし。それに摩耶さん1人だとなにか困ることもがあるかもしれません」

 

 そわそわして落ち着かない様子を熊野に感じられて少し恥ずかしいが、好奇心を満たすために後で片付けをすることにして任せて外へと行く。

 摩耶は建物の影に行き、地面の上に座って料理を始めていた。

 地面の上にはコンパクトストーブが置いてあった。それは小さいカセットコンロのようなもので、燃料もカセットコンロに使うガスボンベのタイプだ。

 コンパクトストーブの上にある小さめのフライパンには、コンビニのおにぎりを3つ入れて箸で崩し、その中身である梅干しとツナの缶詰も入れている最中だ。

 

「お、どうした。あたしに用事か?」

「摩耶がどうしているかと思ったんだ」

「どうって言われても、ただ飯を作っているだけなんだけど」

「見てもいいか?」

「楽しいとは思わないけどなぁ」

 

 首を傾げて不思議そうに返事をする摩耶の前へコンパクトストーブを挟んで座ると、料理を始める姿を見ていく。

 フライパンの中でツナと一緒に混ぜられた米に塩コショウを振りかけ、コンビニおにぎりについてきたノリを手でちぎっていれ、少し炒めたあとに料理は完成した。

 摩耶はバッグから紙皿をふたつ取り出すと、そのうちのひとつにスプーンと料理を乗せて俺に差し出してくれる。

 

「これは料理名があるのか?」

「名前? あー……ツナ缶のおにぎりチャーハンだな」

「わかりやすくていいな。じゃあ、それをありがたく食べさせてもらうよ」

「あぁ、食べてくれ。引っ越しそばみたいな扱いかな、これって」

 

 差し出してきた皿を受け取ってスプーンを持つと、そのチャーハンを口に入れる。

 その味は梅の酸味とツナ缶の油とツナが絶妙に絡み合い、さっぱりとした味で感激する。

 いつも熊野の作る健康的すぎる料理とは違い、このジャンクフード的とまではいかないものの、コンビニの味とツナ缶の組み合わせにはつい涙が出てしまう。

 

「おい、なんで涙流すんだよ。あたしが変なことしたか?」

「いや、熊野と暮らしていると、体にいい料理しか出してくれなくて。肉すら自由に食えないんだ」

 

 思い切り感情を込めて言うと、「うわぁ……」というあきれと恐れおののく摩耶の声が聞こえてくる。

 この油を直接感じる料理はとてもいい。あぁ、摩耶が来てくれたことにとても感謝する。全部食べてしまいたいが、熊野にもこういうのを作って欲しいと訴えるために少しだけ残しておく。

 

「……あたしはテント張って住むから、時々メシを食いに来てもいいからな?」

「熊野に野菜責めされたら行くよ。お礼として返せるものはないが……」

「いいって。気にすんなよ」

 

 爽やかな笑顔を浮かべ、肩をばしばしと叩いてくる摩耶。

 そんな人のいい摩耶と一緒にお互い料理を食べながら話をする。

 摩耶はアウトドアが趣味で、キャンプ料理を作るのが特に好きだということ。俺がここに来てから、いかにして熊野の尻に敷かれているかなどを。

 そうして楽しく話をしていると、白杖を振りながら穏やかな微笑みを浮かべた熊野がやってくる。

「あら、賑やかですわね」

「摩耶にメシを作ってもらってたんだ。熊野も摩耶手作りのチャーハンを食べるといい。ほら、口開けて」

 

 俺のすぐ隣に座ってきた熊野にそう声をかけると、口を開けた熊野へとスプーン1杯分の量を運んでいく。

 

「あー……んっ」

 熊野は舌にスプーンの感触を感じると口を閉じ、俺はスプーンをゆっくりと引き抜いていく。そうしたあとは熊野が食べていく様子を見て、不健康度が少しある食事を気に入って作ってくれると嬉しいという期待をする。

 

「うまいだろ?」

 何も言わず、ゆっくりと味わった熊野はおいしいともまずいとも取れない微妙な表情を向けてくる。

 

「摩耶さんには悪いですけど、少々不健康な味がいたしますわね」

 

 微妙な表情をしたことに、俺はひどく落ち込んでしまう。ここで一言でもいい味と言ってくれれば、交渉の余地はあったのだが。

 もう体に悪そうな食事は町でこっそり食べたいとこだ。でも、実際に食べると町の人たちから熊野へ伝わってしまい怒られることになるだろう。そうなったら、きっと俺の食事を減らすとか、話をしてくれなくなるかもしれない。

 熊野は俺にとって癒しであり、生きる理由でもある。嫌われたらと思うと、どうしても強引に肉やジャンクフードを食べるという選択肢はなくなってしまう。

 

「材料は米に海苔、ツナと梅だぞ? ほら、もう1度」

 

 熊野が気にいってない味だが、この味を覚えてもらっていつの日か似たような料理を作ってもらいたくて熊野の口へとまた入れていく。

 親鳥が雛鳥にエサをあげるような気分で楽しく思っていると、ふと摩耶から視線を感じて振り向く。

 

「お前ら、いつもそんな恥ずかしいことやってんのか?」

「仲が良ければ普通だろ」

「そのとおりですわ。それにこうしないと、私は味見をするのも苦労しますので。提督、あなたもあーんをしてくださいな」

 

 話をしながら俺の手をさわり、俺が持つ皿とスプーンを取った熊野は楽しそうにチャーハンをすくっては俺へとスプーンを向けてくるので、熊野の手をそっと掴んで自分の口元に誘導して食べさせてもらう。

 摩耶があきれたような、それでいてうらやましいような、なんともいえない表情で「提督と艦娘がこんな仲がいい関係でいいのかよ」と呟くように小さく言った。

 それから料理を食べ終えて腹が膨れた俺たちは建物に背を預け、夏の空を見上げて静かな時間を過ごす。

 それが10分か続いたあとに、ふと熊野が力強くはっきりと声を出す。

 

「先ほど摩耶さんがおっしゃったことですが、こんな関係だからこそできるものがあります。私はもう誰かを守ることができないのかと落ち込んでいましたが、今の提督と出会ってから変わりました。そしてこの場所です。ここの人たちは優しくしてくれました。だからわたくしは信頼してくれる、信頼している人のために戦うのです」

「なぁ熊野、艦娘ってーのは人類を守るために戦うって教わらなかったか?」

「確かにそう教わりました。ですが、わたくしの短い人生でもわかったことがあります。そういう希薄な意識で戦う艦娘は総じて早く死にます。ですが、個人的な理由で戦う子たちは長く生きています」

「そういうことを言ってると減給や階級を下げられるとか、もっとひどい目になるぞ。国は国家のために戦わせたいんだからな」

「別にひどくなっても何も問題ありませんわ。なぜならわたくしと提督は一蓮托生ですもの。楽しいときも苦しいときも一緒です」

 

 気分よく、堂々と摩耶に言ってくれたがそんなことは初耳だ。いったい、いつからそういう事になったんだ。

 そういうのは俺だけでよく、もしそんなことになったら身体障害に理解がある友人の提督へと無理やり熊野を送り付けてやる。

 

「あー……お前ら恋人、いや結婚してんのか」 

「してないが」

「していませんわ」

 

 摩耶の疑問に対し、同時に答える俺たち。

 俺と熊野が同時に言った言葉に摩耶はきょとんとし、深く大きな息をつくと、摩耶は立ちあって食器や道具を片付けはじめる。

 

「特別な関係でもないのに、そんな仲がいいのは珍しいな」

 

 その言葉を聞いてから熊野の顔を見るとおだやかな表情があり、それを見て思ったことを摩耶へと言う。

 

「わがままな妹だからな」

「手のかかる兄ですわね」

 

 俺がそう言うと、熊野も続けて言うがどうやらお互いに同じような認識を持っていたらしい。

 

「まぁ、今では妹の熊野のために提督をやっているだけだからな、俺は」

「私を褒めても料理とコーヒーしか出ませんよ?」

「……あたしが世界平和のために戦ってることが正しいのか疑問に思ってきたよ」

 

 あきれた声を出し、ひどく大きなため息をつきながら摩耶は道具をバッグへしまっていく。

 そうしたあとは立ち上がると、監視所の壁へもたれかかり、俺たちにうらやましいという感情がこもった視線を向けられる。

 

「俺も以前は世界平和のために頑張っていたが疲れたんだ。今では大事な熊野のために仕事をしているな」

 

 どれだけ頑張っても部下である艦娘は怪我をするし、死ぬこともある。個人で頑張れる範囲にも限界があり、その頑張りは上からの指示で簡単に消えてしまうことも。

 あとで手紙を読む必要があるのは気が重くなってしまう。読まないが最も精神安定につながるが、鎮守府を離れたあとも部下だった艦娘からの手紙は読む必要があるだろう。

 その時は精神安定のために熊野のそばへいき、髪をさわりながら読むことにしよう。

 心の中は暗くなっていると、熊野が口持ちに手を当て、上品に笑い声を出す。

 

「ふふっ、提督は口がお上手ですのね」

「2人にはそういう関係があっているかもな。さて、あたしはテント作りを始めるとするか

「いえ、その前に少しわたくしの用事につき合ってください」

 

 立ちあがる熊野に近づこうとすると、俺へ手の平を向けて来るなと伝えてくる。

 杖を使い、摩耶の声がしている場所へと熊野が歩いていく。

 

「少し顔を触らせていただきたいのです。これから同じ時間を一緒に過ごすわけですから」

「あー、そっか。顔がわかってないと落ち着かないもんな」

 

 納得と言った声を出す摩耶だが、その考えていることは違う。熊野にとって、相手の顔を知りたいというのは『信頼したい』ということだ。

 相手が触らせてくれるなら『良い人』、ダメなら……どうだったか聞いたことはない。俺も初めて会った2日後には同じことを言われた。

 熊野が摩耶へと手を伸ばすと摩耶はじっと黙ったままで、熊野に顔をなでられ始めた。それから少しのあいだ、摩耶の顔をさわって理解したのか手をそっと離していく。

 摩耶から一歩後ろに下がると、熊野は自分の頬や顎に手をあてて考え込む。

 

「私のほうが美人ですわね」

「……あん?」

「顔の形は私のほうが―――」

「いやいやいや、肌のツヤならあたしのほうが綺麗だから、形だけで美人とかって」

「綺麗なのは重要ですが、やはり形こそが1番だと思います。提督も私のほうが美人と思いますわよね?」

「肌ってのは大事じゃないか。あたしみたいな女でもきちんと手入れはしてるんだぜ? 形だけが美人じゃないよなぁ!?」

 

 熊野の肯定を求める声と、摩耶の助けを求める視線を受けるが、俺は無言で目をそらす。

 今までは熊野とふたりきりで静かな日を過ごしてきたが、今日からしばらくはとても賑やかになりそうだ。

 熊野も生き生きと摩耶と会話しているし、からかうことができる関係が気にいったらしい。

 ふたりの言い合いを聞きながら俺は摩耶のテントを作り始める。

 楽しく過ごし、お互いに自分のためになる生活を過ごしていけたらいいとそう思った。




誤字報告ありがとうございます。


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熊野の艤装案と肩車

 夏の象徴ともいえる大きな入道雲が青い絵具のように深く澄み切った青空に浮かび、真夏のまぶしい太陽が降り注いだ穏やかな海からは波音と海からのひんやりとした冷たい風がやってくる。

 そんな清々しい朝の空気を感じている俺はジャージ姿で、制服姿の熊野と一緒に人が誰もいない砂浜の波打ち際から少し離れたところを2人でゆっくりと歩いていた。

 熊野は右手で杖を持ち、左手でまっすぐに伸ばした俺のヒジをそっと優しく握っている。

 熊野に握られている腕をしっかりと体にくっつけ、あまり揺れないようにしていた。砂浜をふたりで歩くのはよくあることだけれど、今日はいつもと違って俺の気分が良くない。熊野は朝の散歩を楽しんでいるが。

 俺の気分が良くない理由は熊野の艤装についてだ。

 ここ1週間ほど、俺と熊野、摩耶を入れた3人で熊野用の艤装について考えていた。

 そのために目が見えない今の状態でどれほどの能力があるのか、軍から演習用の物を摩耶経由で届けてもらって砲撃や魚雷の攻撃と回避行動の試験をした。

 多くの艦娘の教育を担当していた摩耶によって確認をしたが、やはり成績はどれも今ひとつ。

 たとえ艤装に空中聴音機をつけて音を聞こえやすくしても、目が見えないのを補うほどじゃないと判断された。

 耳で把握する音だけでは相手の動きを予測しづらく、距離が遠いほど波や空気の状態に影響され、音を聞いてから考えるのではすぐに行動ができないからだ。

 音で相手がわかるようになっても、もう普通の艦娘のように海の上で自由な戦闘はできない。

 これが俺にとって物凄く不満だった。

 俺は目が見えていたときのように水上を自由に駆け回る熊野の姿を期待していたが、もうそれは見ることができないようだ。

 結果を見て、摩耶は艦娘用空中聴音機と水上機だけを使う艤装改修案を考えた。航空巡洋艦と違い、命中を期待できないために砲は持たない。

 俺は他に有効な案を思いつくこともなく、それが最善と思うものの改修案に納得ができない。摩耶から軍上層部に提案されても採用されない可能性はあるが、ないに近いだろう。

 熊野が海の上で自由になれないことは心の隅でわかっていたこととはいえ、落ち込んでしまう。

 このことを部屋の中でずっと考え続け、ため息がたくさん出ていた俺を心配した熊野に散歩へと誘われて今にいたっている。

 でも海へ来ても気分は変わらない。

 どこまでも続く水平線を見てもその向こうを想像してワクワクと心躍ることもなく、砂浜に打ち寄せる心落ち着く波音や優雅に空を飛ぶウミネコの声で気持ちが安らぐこともない。

 

「こんな美少女が隣にいるのに考え事ですか?」

「そうだな、熊野みたいな素敵な子を放っておいたら人生の1割は損する」

「あら、1割だけですの?」

 

 熊野のからいがある穏やかな声を聞き、不満しか感じていなかった心が少しやわらぐ。

 だが、この穏やかな熊野の声を聞くと今度は別の悩みがやってくる。

 それは熊野が戦闘に出るということ。

 今までは意識して考えないようにしていた。熊野を戦えるようにしていた俺の行動と矛盾するから。

 もし、目が見える時よりも能力が下がっていようとも、戦える状態なら戦局がよくない軍に召集されるだろう。

 その場合は俺の手元からいなくなり、前線で戦うようになる。戦い始めたら熊野の苦しみも悲しみもわかることなく、俺は陸の上で待つことしかできない。

 死ぬこともある。遠くの海で部下である艦娘、妹のように思える子がいなくなってしまうのは嫌だ。死に際を見ることもなく、遺骨さえもこない。

 それが俺はとてつもなく怖い。

 

「提督、悪いことばかり考えますと本当になってしまいますわよ?」

「大事なお前のことを考えすぎて何が悪い!」

 

 いらついた声を出してしまい、すぐに後悔をする。熊野は俺を心配してくれただけだというのに。

 いつも穏やかな顔をしている熊野が、もし怯えたり嫌悪感を出していたらと考えると怖く、すぐ隣にいる熊野の顔を見ることができない。

 

「雨にも負けず、風にも負けず。雪にも夏の暑さにも負けず。丈夫な体を持ち、欲はなく決して怒らずいつも静かに笑っている」

 

 立ち止まった熊野が、ふと静かに喋り始めた。

 その言葉は俺に向かって言うわけでもなく、ただ言葉を空へ向けて発している。

 それは宮沢賢治の『雨ニモ負ケズ』という詩。熊野が何かを伝えたいのかと考え、静かに聞く。

 

「東に病気の子供あれば行って看病してやり、西に疲れた母あれば行ってその稲の束を負い」

 

 言葉は言い続け、宮沢賢治が書いた詩の言葉ははじまりから最後まで続く。

 それを聞いた俺は熊野が言い始めた理由を考える。

 言い続ける言葉は、まるで祈りのようにも聞こえる。俺に向けて、謙虚で自己犠牲な人と言っているような。

 

「褒められもせず苦にもされず、そういうものにわたしはなりたい」

 

 最後にあるこの言葉を持って『雨ニモ負ケズ』は終わる。

 俺はゆっくりと立ち止まって熊野へ顔を向けると彼女は俺の顔を見上げて晴れやかな表情をしていた。

 

 「宮沢賢治の言葉は、誰かのために行動するという人間の理想像のひとつとわたくしは思うのです」

 

 そう言われるも、俺はそんな立派なことをしていない。自己満足のためにやっているだけだ。

 俺は熊野が元気に動ける姿が見たかった。だが、それは今の熊野を否定することになるのだろうか?

 目が見えずとも、たくましく生きている熊野の人生を。

 

「私が戦うことを心配してくれる提督は、前線に戻っても良い働きができますわ。艦娘を気遣える提督はとても信頼できるものでしてよ?」

「そう言われると嬉しいものだね」

「過去を反省し、前へ進もうというあなたをいじめる人がいたら、遠慮なく私が叱りつけてあげます」

 

 握りこぶしを目の前に持ってきて笑顔を向ける熊野を見ていると、過去の記憶が俺を責めてこようとしていたが熊野のおかげで心が軽くなった。

 そんな嬉しい言葉を聞き、笑顔を浮かべる熊野の頭を空いている手で普段よりもずっと優しく撫でる。

 熊野の言葉は2日前にようやく見た手紙のことを思い出す。内容は『提督でなくてもいいから、帰ってきて欲しい』とのことだ。

 俺を信頼してくれていた艦娘からの言葉だったが、返信は書かない。あの場所にはもう悪い思い出が頭の中にこびりついて行きたくはないからだ。

 それになんて書けばいいんだ。罪悪感のために逃げるようにしていなくなった俺が、あの子たちにかける言葉なんてない。

 今は熊野がそばにいてくれれば、俺はそれでいい。もしかしたら、近いうちにいなくなろうとも。

 大きくため息をつき、熊野を見る。

 熊野を見たおかげで心が落ち着き、摩耶提案の艤装改修案を不満ながらも妥当と認めることにして、監視所へと戻っていく。

 歩いていくにつれて波の音が遠くなり、代わりにセミの声が強く鳴り響くなかで監視所に戻ってくると、そこで見た光景はにぎやかなものだった。

 制服を着た摩耶が、前と同じように白のワンピースを着た麻衣を肩車し、監視所前の場所にある木を1本ずつ見ながら楽しげに歩いている。

 麻衣が手に持っているのは虫取り網と虫かごを肩から下げている。中にはカブトムシが2匹が入っているようだ。

 高校生の見た目をしている摩耶と小学生の麻衣との組み合わせは、こうして見ていると仲のいい姉妹だと思うほどだ。

 そんなふたりはあちこちにある木に近寄り、摩耶は頭の上から指示してくる麻衣と仲良くカブトムシを探しているようだ。

 摩耶と麻衣は初対面だったはずだが、俺たちがいない間に仲良くなってるのは相性が結構いいらしい。

 微笑ましい光景を遠くから立ち止まって見ていると、熊野がヒジを軽く引っ張ってきて、今の状況を説明してくれと文句を言う顔で見上げてくる。

 

「麻衣が摩耶に肩車されて、カブトムシを捕まえようとしているな」

「どちらも楽しそうな声をあげているのが聞こえますね」

 

 熊野はふたりの声を微笑ましげに聞き、俺も同じようにはしゃいでいる2人の声を聞く。

 少し距離があるからか、または夢中になっているのか俺たちに気付く様子はなく、しっかりと観察することができる。

 ふと熊野の表情を見ると何か物欲しげになっており、顔が向いている方向はふたりへと向けたままだ。

 その姿は肩車というものを、摩耶と麻衣の楽しそうな声を聞いてうらやましがっていると予想した。それと俺に遠慮していることも。

 たとえ目は見えなくても高い位置にある感覚はわかるし、風や音の感じ方も変わるから熊野も肩車なら楽しめると思う。

 

「肩車をしてやろうか?」

「私はそんな子供っぽいことはしません」

「子供っぽいとか、そういう理由で機会を逃すともうないかもしれないぞ。俺だって摩耶たちを見なければ肩車なんて言い出さなかったさ。だから、やってみないか?」

「……そこまで言うなら、乗ってあげてもいいですわ」

 

 俺に強く言われて渋々と言った様子だが、一瞬だけ嬉しさで笑みを浮かべたことを俺は見逃さなかった。

 それについて指摘すると怒るから言わないが、そんな仕草がかわいい。

 そして乗ってもいいと言った熊野は俺から手を離し、杖を地面へと置く。

 

「後ろから体を持ち上げるから、足をちょっと広げてくれ。……そう、それでいい。行くぞ、熊野」

「よろしくてよ?」

「足をさわるぞ」

 

 熊野の後ろにまわった俺は片膝をついてから熊野の足の間に頭を通し、太ももを掴むとゆっくりと体を持ち上げる。

 首に熊野の重さと太ももの温かさを感じながら立ち上がると、熊野は怖々と俺の頭を両手で掴み、俺の首を挟む太ももに力を入れてくれた。

 それで体勢は安定し、きちんとした肩車ができた。

 そのまま熊野に慣れてもらおうと立ったままでいると、俺たちに気付いた摩耶が麻衣を肩車したままであきれた顔をしてやってくる。

 

「なにしてんだ、お前ら」

「わー! 熊野お姉ちゃん、わたしと一緒だね!」

「え、ええ。ですけど、こう、男性に乗るという肩車は結構恥ずかしいものですわね」

 

 表情と同じく、あきれた声の摩耶とかなり嬉しそうな麻衣。

 恥ずかしがる熊野の顔はきっとかわいいはずだけど、肩車をしていると見えないのが残念でならない。

 声を聞いた感じだと怖がったり嫌がったりしてないから、この肩車は楽しめてもらえていると思う。

 

「お前たちはいつのまに仲良くなったんだ?」

「んー? さっきだな。このちっこいのが来たから、代わりに相手してやったってわけだ。接客対応の良さにあたしはあたしを褒めるぜ!」

 

 摩耶が麻衣を楽しませるために、話をしながら俺の周りをぐるりと一周しているときに、熊野と砂浜で決めたことを言わなきゃいけないことに気付く。

 

「摩耶」

「なんだ、今度はあたしを肩車しようってか?」

「摩耶がされたいなら、やってもいいが。突然だが、艤装のあれは摩耶が言ったのにしようと思う」

「おう、わかった。あとで申請書類持っていくからな」

 

 と、真面目な話をすぐに終えると頭上から困惑した熊野の声が降ってくる。

 

「あの、肩車というのが大体わかったので降ろして欲しいのですけど」

 

 わかったと返事をしてから腰をかがめ、割れものを扱うかのように丁寧に熊野を地面へと降ろす。

 体重がそれほど重くない熊野とはいえ、人ひとりを持ち上げたから腰や肩が少しばかり痛んだ。

 

「肩車をされた感想はどうだった?」

 

 地面に置いた白杖を取って熊野に返しながら言うと熊野は俺の横へやってきて、さっきと同じようにヒジを掴んでくる。

 まるで、そこが定位置とでもいうかのように安心した息をつく。

 

「提督の肩の上はいつもより風をよく感じ、音は綺麗に聞こえました。肩車ということでも世界は変わるということが実感できましたわ。……それと、私は重くなかったですか?」

「熊野の重みならいつでも感じていたいほどさ」

 

 俺を心配してくれる熊野に冗談めかしてそう答える。

 

「ん、なんだぁ? えっちな意味でか、おい」

 

 熊野と話をしているあいだに素早くワンコを降ろした摩耶は、熊野とは反対側の隣へとやって来てニヤニヤとした表情で俺の頬を人差し指でつついてくる。

 人差し指を払い、またつつかれるといったじゃれあいをしていると麻衣が熊野の前にやってきた。

 足音を聞いた熊野はおだやかな顔をワンコに向け、麻衣はまるで犬のようにしっぽや耳があってピコピコと激しく揺れ動いているような錯覚をしてしまう。

 

「熊野おねーちゃん、一緒に遊ぼ!」

「いいですよ、なにをして遊びま―――」

「カブトムシ!」

 

 熊野に会えてテンションが高い麻衣は、カブトムシと聞いて一瞬で引きつった熊野の笑顔を気にすることなくキラキラとした輝いた笑みを向けている。

 虫がそれほど好きでない熊野は数秒間固まったあと、助けを求めるかのような顔を俺に向けてくるが、俺の表情がわかるはずはないのに熊野からつい顔をそむけてしまう。

 それは俺の後に顔を向けられた摩耶も俺と同じようにしたことで、今の熊野を救うことは誰もできないことがわかる。

 こんな楽しそうな少女が遊びたがっているのに止めるのは大人としてやっちゃいけないことだからな。……本音としては俺も虫は嫌だ。小さい頃はさわれていたんだが、不思議と大人になると虫はさわれなくなってしまう。

 俺達の突き放す気配を察した熊野は俺のヒジからから力なく手を離し、麻衣に手を引かれて木のところへと連れて行かれた。

 その後ろ姿は恨みがずいぶんとこもっているようにも感じたが、滅多に見ることのない姿は新鮮でたまにはこういうのもいいと思う。

 

「助けなくてよかったのかよ」

「2人が仲良くなるのはいいことだろう?

「いじわるな奴だなぁ、おい」

 

 熊野の困る姿を見て爽やかな笑みを浮かべる俺に、摩耶はにんまりしてヒジで俺の脇腹を強くつついてくる。

 あとで熊野から『私に対する優しさが足りませんわ!』とすっごく怒られるだろうけど、いつも穏やかな熊野に、たまにはこういういじわるもしたくなる。

 なにか仕返しが来るだろうけど、なにをしてくれるか楽しみにしている俺はまったくおかしくはない。

 

「なぁ、あのちっこい子、名前はなんていうんだ?」

「知らないで遊んでいたのか。あの子は麻衣という名前だ」

「麻衣、麻衣か。あたしと呼び方が似ていて、親近感が湧くな」

 

 何度もうなずき、麻衣に対する好感度が上がっていく摩耶。

 名前も知らず、あれほど互いが楽しく遊べるのはすごいことだ。

 俺なら名前がわからない人とああやって遊ぶなんてことは怖くてできない。何かあったら、軍人である俺への不祥事に発展して訴えられるかもしれないと怯えて。

 摩耶に感心する目を向けると、恥ずかしそうに顔をそらして背中を向ける。

 

「世界平和のために戦ってるあたしが、子供に優しくできないとダメじゃんか。そういうことができないと世界のために戦うなんてのはおかしいとあたしは信じているからな」

 

 立派な心がけだから別に恥ずかしがる必要はないし、俺は素直に感心しているというのに摩耶は背中を見せたままだ。

 ここで俺のいたずら心が芽生え、気持ちを抑えつつ摩耶の後ろに近づいていく。

 

「肩車をするぞ」

「え、おい! ちょっと待てよ!!」

 

 強引に足のあいだへ頭を突っ込み、一気に摩耶の体を持ち上げる。

 熊野より筋肉があってハリがある足をしっかりと掴み、俺の頭をバシバシと強めで叩いてくる摩耶の攻撃に耐えてしっかりと立つ。

 

「さっき肩車がどうのと言っていたじゃないか」

「確かにそう言ったけどな、あたしの気持ちを考えてみないか? ほら、年頃の乙女がこういうことをされるのは恥ずかしいだろ」

「摩耶も楽しませてあげようという親切心じゃないか。それに年頃の乙女なら恥ずかしがってくれ。ほら、気をつけないと落ちるぞ」

「や、待て。あたしは肩車されるよりするほうが―――うおぉぉぉぉぉ!?」

 摩耶がしっかりと手足で捕まってきたのを確認すると、あたりをぐるりと早足で歩き出す。

 

 頭の上から響き渡る怒りの叫び声が段々と楽しげな声に変わっていき、その様子に安心する。

 摩耶への行動はいたずら心から。

 けれど誰かのために行動するということ、それは自分よりも他の人のことを多く考えるということだ。

 自分よりも相手を優先して相手が喜ぶ姿を見れたなら、それは幸せかもしれない。

 最も俺がしている今の場合は、摩耶に楽しんでもらいたい気持ちがあるが俺自身も楽しみたいだけなんだが。



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ずっと穏やかな時間を

 忙しくも平和である8月は暑い暑いと言っているあいだに終わり、でも夏の暑さはまだ続く9月が始まっていく。

 昼間から気温がほとんど変わらない今は、夕陽の日差しが強くまぶしい午後の6時。

 監視所の1階に入ってくる夕日の光は肌をちりちりと焼くかのように痛くて暑い。それに外から聞こえてくるセミの鳴き声のおかげで暑さが加算された気がし、やる気を出すのはなかなかに精神力が必要だ。

 窓を全開にして入ってくる空気は弱くて生ぬるく、肌に汗が湧き出てくるのを止めることができない。

 履いているのはチノパンで、上は黒のTシャツに汗拭き用のタオルを首に巻いている。そんな恰好で暑さに耐えつつ、俺が机に向かってやっているのは熊野に関する書類だ。

 艦娘用空中聴音機に求める能力、熊野専用艤装に関連するもの、視覚障害の戦闘運用についての意見、視覚障害者である艦娘と暮らしての日々に関連する意見、感想などの書くことが多くて苦労している。

 4日前に摩耶から渡されたたくさんの書類を書きつづけ、あともうちょっとで終わりそうだ。

 俺の手伝いができないからとひとりで町へ遊びにいった摩耶には多少の恨みがある。

 ひとり黙々と多くの書類を続けるのは前にいた鎮守府以来で、ちょっとだけ忙しいということに懐かしさを感じる。嫌なことがあってここにきたが、あの頃の楽しかった日々を時々思い出すことがある。嫌なことも一緒にだが。

 はじめはこんな田舎よりも田舎な場所でどうなるかと思ったが、熊野がいたおかげで自暴自棄にもならずに生きていれる。

 書類を書き続け、固まった筋肉を伸ばすために、両腕を思いきり上げながら腰をひねっていると、開いた窓から制服姿の熊野が楽しそうに畑へ水やりをしている姿が見える。

 熊野を目にするだけで心が落ち着くのは楽しそうに水やりをしていのもあるけれど、今まで会話をしてきて信頼できることがわかっているからだと思う。

 文字ばかり書いていた心が癒えたところで視線を書類へと戻し、熊野と暮らしての感想をいかに素晴らしい女性かということを書き始める。軍が求めるのとは違うのはわかっているが、書かずにはいられない。

 一部の、熊野の生活に関するところだけ小説のような文章で熱心に書いていると、水やりを終えた熊野が扉を開けて戻ってくる音が聞こえた。

 

「水やりはどうだった?」

「私の耳を持ってすれば、適量な水は簡単でしたわ」

 

 壁に手を這わせながら俺に向かって歩いてくる熊野の顔からは、額から顎へと汗が流れ、ポタポタと制服へと落ちていく。

 俺はすぐに立ちあがり、暑さで疲れている熊野の汗を拭おうと自分の首に巻いてあるタオルに手をかけた。

 だが、すぐにそれは汚すぎると気付き、暑さで鈍っている自分の思考に少し腹が立つ。

 拭くものはないかとあたりを見回すも、綺麗な布はないために大急ぎで2階へ行って綺麗なタオルを取ってくる。

 まだ机の前に立っている熊野の後ろに来て、荒い息を整えていく。その音で熊野は俺に振り向き、不思議そうに首をかしげた。

 

「どうかしましたの?」

「急いでタオルを取ってきただけだ。汗を拭いてやる、そのまま立っていろ」

「渡していただければ自分でできますけれど」

「俺がやりたいんだ」

「そこまでおっしゃるなら、提督に拭いてもらいましょうか」

 

 仕方ないなぁというふうに困った微笑みを浮かべた熊野の顔にそっとタオルを宛て、優しく顔全体をタオルで拭いていく。

 汗から花のような匂いがした気がして、気になって鼻を顔へと近づける。

 

「あの、顔が近くありませんか?」

「悪い。熊野からいい匂いがしたものだから」

「汗臭い私を喜ばせようとしなくても、提督のことは好きですから機嫌を取らなくてもいいですわ」

 

 本当なんだが、と言っても信じてもらえないのでこの言葉は心の中にしまいながら顔の汗を丁寧に拭き終わり、次に首筋と両手を拭いて終わる。

 そうして全部が終わり、俺が1歩下がると熊野が服をまくりあげた。

 服の下には汗ばんでいるけれど綺麗な白い肌のお腹と、おしゃれな白いブラが見えてしまったので急いで熊野の手を掴み、まくりあげた服を勢いよく降ろす。

 

「なにやってんだ。そこは自分でやってくれ」

「あら、拭いてくれるのではありませんの?」

 

 服を勢いよく降ろしたことにも驚かず、淡々と疑問を投げかけてくる。その警戒心の無さに頭が痛くなった俺は低い声で熊野を脅す。

 

「……襲ってしまうぞ?」

「提督になら、私は何をされても文句は言いませんよ?」

 

 その言葉についマジマジと熊野の顔やお腹、胸を見てしまう。だが、熊野が声をあげて小さく笑ったのを見て、からかわれたのだと気づいた。

 熊野の手にタオルを握らせると、俺は椅子へと勢いよく座って精神を落ち着けるために深呼吸をする。

 

「2階で汗を拭いてきます。こっそりとなら覗いてもいいですわよ?」

「もっと胸が大きかったなら覗くさ」

 

 熊野は「残念です」とつまらなそうに言って階段を上がり、2階へといった。

 自分ひとりだけになり、慌ただしかった時間に深く息をついて緊張した気分を落ち着ける。

 距離が近いのはいいけれど、近すぎると熊野はもはや性別を気にしなくなるのかと悩む。

 熊野に手を出す気はまったくないが、あれだけ無防備な姿を普段からしていると俺以外の男がいたときに危ない目にあってしまうかもしれない。

 どうやって肌を見せつけるとか、そういう方向性のからかいをやめてくれるのを納得してもらえるかをあとで考えることにし、熊野の書類を書き続ける。

 ―――それから熱心に書き続け、夕日が落ちてなくなり月が昇ろうとするころに熊野は戻ってきた。

 先ほどとは違って予備の制服を着ていて、肌はもう汗ばんではいなかった。

 

「提督、コーヒーを飲みますか?」

「ホットで。角砂糖は―――」

「1つですよね、わかっています」

 

 そう先回りして言った熊野はヤカンに水を入れて沸かし始めると、コーヒーバッグが置いてある場所から1つ取り出して準備を始めていく。

 その様子を見たあと、怪我無くやってくれればいいと思い、書いた書類の見直しを始める。

 けれど、すぐにコーヒーを入れたマグカップが俺の前へと置かれる。熊野に感謝の言葉を言って飲むと、それは普段よりも丁寧に砂糖を溶かしていて甘みにかたよりがない。

 

「いい味だ」

「その言葉を聞いて安心しました」

 

 今までお湯が多かったり、少なかったり。温度が熱すぎることやぬるすぎることもあったが、今回は適量適温だ。それに砂糖の溶かし具合もいい。

 熊野の成長具合を実感しつつ、俺好みの味になっているコーヒーを嬉しく感じながら飲んでいく。

 コーヒーを飲むと様々な考え事に対しての欲求不満が満たされ、熊野が淹れてくれた想いを感じながらコーヒーを飲んでいく。

 苦い味と甘さが混ざり合ったコーヒーは疲れた意識を刺激してくれる。

 

「それでお仕事のほうは終わりましたか?」

「もう1度書類全部を確認して終わりだ」

「お疲れさまです」

 

 腰を深く曲げてお礼をする姿に動揺するが、顔をあげた熊野は俺を気にすることなく台所へと戻っていった。

 初めてあそこまでされて驚くのも無理はないと自分の乱れた心を落ち着かせていく。

 俺がやっている書類はすべて熊野ひとりのためのものだ。だからああやって礼をしてくれたんだろう。

 そう考えておかないと、熊野がここからずっといなくなってしまうじゃないかと思ってしまう。いずれかは俺と熊野が離れるときが来るだろうけど、まだそれほどすぐではない。

 障害を持ち、戦えなくなった艦娘たちを再戦力化しようとしている軍の動きはまだ鈍いはずだ。

 戦線は止まっていて、戦闘も散発的らしい。ある意味で戦線は安定している。

 だから、これからもきっと一緒にやっていける。

 自分でも根拠に乏しいことを信じたくなるほど、俺はこの場所での熊野との生活をずっとやっていきたいと思っている。

 

「摩耶さんにもコーヒーを持っていきますわ」

 

 暗くなってきた室内に照明のスイッチを入れ、そう言った熊野はマグカップに入ったコーヒーを持って白杖を使いながら外へと出ていった。

 摩耶は昼飯を一緒に食べてからは会ってなく、テントのなかでなにかをやっているようだ。

 コーヒーを摩耶に持っていくとか気遣うことは一切考えていなく、 自分は熊野に頼りすぎなんじゃないか、と弱気になるがそんなことを考えるよりも今は書類を片付けるべきだ。

 終わった書類をじっくりと1枚1枚確認し始めて間違った部分を直していると、部屋に熊野とジャージ姿の摩耶が入ってくる。

 摩耶は湯気の立っているマグカップを持ちながら、俺の机の前へとやってきて確認している書類を後ろから覗き込んでくる。

 

「提督がやっている書類は確認だけで終わるって熊野から聞いたんだけど?」

「ああ、これほど真面目に軍人している気分になったのは久しぶりだ」

「そっか。もうすぐ終わりそうだし、あたしは荷物をまとめてくるか!」

 

 その言葉が理解できず、意味を聞こうとして書類から顔を上げると摩耶は熱いコーヒーを一気に飲み干してマグカップを机の上に置く。

 そうしてから早足で外に出て行った。

 

「熊野、あれはどう解釈すればいい?」

 

 摩耶が置いたカップを探し当て、手に持って片付けようとした熊野に聞くが熊野は首を横に振る。

 

「書類が終わるなら、出番はもうすぐだって言っていましたけど」

 

 自分なりに言葉を理解するなら、できあがった書類を自分の手で持っていき、報告も上司にするということだろうか。

 だからといって、今から準備して出ていくのは相当に慌ただしい。

 

「だとしてもメシぐらい食ってから行くだろうな。熊野、夕食を作ってくれるか?」

「はい、いますぐに」

 

 今の幸せが一気に崩れていく気配がしながらも、熊野の笑顔に俺は心から安心した。

 日が落ちて夜になった頃には3人ぶんの料理ができあがり、1人ぼぅっと椅子に座ったまま静かな時間を過ごしていた俺のところに摩耶がやってくる。

 さっきまでとは違い、きちんと制服を着て手にはカバンを持っている。

 

「書類をもらいに来たぞ」

「今から行くのか?」

「明日でもいいし、ここにいるのも楽しいんだけどな。ちょっと寂しくなったんだよ。それに仕事が早いのはあたしの提督が喜ぶし」

 

 すっかり出かける準備が出来ている摩耶に聞くと、摩耶の顔はどことなくにやけている。向こうにいる自分の提督に会えるのがよっぽど嬉しいらしい。

 

「できあがったら戻って来いって、うちの提督に言われてたからな。今は大変な時期だからって。だから早いほうがいいだろ?」

 

 俺がさっきまで使っていた机に置いてある書類を手に持ち、一通り確認するとカバンに入れていく。

 テーブルに置いてある料理、焼いたサンマを箸で素早く解体して骨を外すと、手でひょいっと持ち上げて1尾まるごとを口に入れていく。

 それをもぐもぐと口の中で噛みながら、監視所兼住居であるこの建物をじっくりと見てまわっている。

 

「摩耶さんはどうかしたのですか?」

「俺の書類が終わったから、帰るみたいだ。今すぐに」

「私の艤装改修案だけでそんな忙しそうにするなんて。……戦争の足音が聞こえてきますわね」

 

 こんな辺境の場所でも、軍人として関わっているからずっと平和に過ごすなんことはできない。

 予想より早いとか遅いなんて感情はなく、ただ受け止めるだけだ。戦力として前線から外された熊野が、必要となる状況になりつつある。

 俺が空中聴音機に関する書類を頼んだときに、摩耶も一緒にやってきた時点で戦うことがある可能性は高まっていた。

 そして、今。

 できあがったら戻ってこい、と前もって指示されていたことは視覚障害を持っている艦娘向けの艤装案に急いでいることがわかる。

 そんなに急ぐのは大規模攻勢をするか、または劣勢な状況のどちらかだ。

 俺のところへ戻ってきた摩耶は、口の中のサンマを食べ終えていて、自分の手を服で拭いてから俺に手を差し出してくる。

 

「世話になったな、熊野の提督」

「お前は来るときもいなくなるときも急だな」

 

 手を差し出すと、思っていた以上に強い力で手を握ってきて摩耶の目からは寂しさを感じる。

 続いて熊野にも同じように握手をし、何も言わずに外へ出ていく。俺は熊野を連れ、一緒に摩耶を見送った。

 暗くなった外は中からの明かりでテントが片付けられているのがわかり、テントと他の荷物はブルーシートをかぶせて固定されており、建物の壁に寄せられていた。

 

「すぐに戻ってくるから、荷物はそのままにしておいてくれよ。それじゃあな!」

 

 歩いて遠ざかっていく摩耶は明るい言葉でそう言い、電灯片手に暗闇の中を歩いて去っていく。

 その後ろ姿に向けて、熊野は悲しげに手を振っている。

 摩耶といた時間は短いものだったが、2度と会えないわけではない。楽しく穏やかな日がずっと続けばいいと思う。

 でも変わらなければいけない時が、少しずつ音も出さずに俺たちに近寄ってくるのを感じた



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1人になる日

 摩耶がこの何もない場所からいなくなって1週間と2日が経った。

 そこにいるだけで雰囲気がにぎやかになる人がいなくなってしまうと寂しく感じる。以前は俺と熊野の2人だけで静かに過ごしていたから、それは余計に強く。

 今日の昼前からぱらぱらと降り始めた雨は、午後2時である今でも半分ほど開けた窓から雨音が歌声のように建物の屋根や地面をリズムよく水滴の音を鳴らしている。

 そんな雨のおかげで気温は下がり、湿度があがって少し空気がべたつく感じがするも汗があまり出なくて過ごしやすい。

 こういう日はだいたい暇になる。摩耶が来るまでは熊野の艤装や戦い方について考えることもあったが、今はそれをする必要もなくなった。

 仕事である見回りはもう済ませたし、夕方と夜にまた行くぐらいだ。

 雨のなか、農作業もできず暇を持て余している俺は、ソファーに座っている熊野に膝枕をしてもらいつつ頭を優しく撫でてもらう無為な時間を過ごしているだけ。

 制服姿である熊野のスカートで隠しきれていない太ももはすべすべしていて気持ちがいい。こんな太ももで膝枕というのは自然と気分が落ち着き、とても幸せな気持ちになる。 

 雨音しか聞こえない静かな世界。退屈な日常。優しい幸せ。お互いの感覚がわかるほどに親密な今。

 それらはまるで俺自身が違う世界に行ってしまったんじゃないかと錯覚してしまうほどだ。

 優しすぎる今に、意識が睡魔に誘われて目を閉じていくほど。

 そんなとき、熊野が俺の頭を撫でる手を止め、顔を窓に向けた。

 

「……どうした?」

「車のエンジン音がかすかに聞こえます。軍のトラックがここに来るようですわ」

 

 頭に置かれている熊野の手を優しくどけ、体を起こして外へと耳を傾ける。

 聞こえてくる雨音に混じり、エンジン音と水たまりを跳ねる音が段々と近づいてくるのがわかる。

 今日は補給が来る予定はなく、もしかしたら摩耶が帰ってきたかもしれない。

 嬉しくなる気持ちと共に俺が立ちあがると熊野も白杖を持って立ちあがり、一緒に外へ行く。

 監視所の軒下から道路の奥を見ると、オリーブ色の小型トラックがやってくる。

 その車は俺たちのすぐ前へとゆっくり減速して止まった。そんな車の助手席から勢いよく出てきたのは摩耶だ。

 

「しばらくぶりだな、ふたりとも。いやぁ、ずいぶんと懐かしく感じるな! そんなわけだから抱きついてもいいか、熊野!」

「ええと、優しくしてくだ―――」

「うりゃ!」

 

 摩耶は熊野の返事も聞かず、そっと抱き着いてから両手を熊野の背中に回して強く抱きしめた。

 熊野と摩耶が嬉しそうな顔をしているのを見て、俺はまたにぎやかな日々が戻ってきたと実感する。

 2人のじゃれあいを眺めていると車から扉が開く音がし、目を向けるといつも来ているおっちゃんが小型トラックの後ろから摩耶のカバンを持ってきた。

 手を上げ、軽い挨拶をすると向こうも同じように手をあげて返事をしてくれる。

 摩耶は10秒ぐらい熊野に抱きついたあとにおっちゃんからカバンを受け取り、「ただいまー」と言って俺たちより先に部屋へと入っていく。

 かなり元気がいい摩耶に苦笑し、おっちゃんと話をしようとしたが、おっちゃんはブルーシートがかけられた摩耶の荷物を車へと積み込んでいる。

 なんで積むのか、ということを聞こうと口を開くと、中から俺たちを呼ぶ声がしたので俺は摩耶に事情を聞くことにして熊野を連れて中へと入っていった。

 中に入った摩耶はソファーの端に座ると、テーブルの上にカバンを置いて次々にお菓子と缶コーヒー3本を出してくる。

 カバンの半分ほどのお菓子が出てきたことにあきれつつ、熊野を先に座らせてからソファーの真ん中である摩耶の横へと座る。

 

「来る途中にそこらの店で買ったやつだ。適当に食ってくれよ」

「お土産は名産品じゃないのか」

 

 気遣いはできるけど見栄を気にしないお土産に、摩耶らしさを感じて1週間やそこらで摩耶が変わってないことに安心する。

 無糖とラベルに書かれた冷たい缶コーヒーをひとつ手に取ってプルタブを開け、熊野の手を取って握らせる。

 

「ブラックな缶コーヒーだ。たまにはこういう缶のもいいもんだぞ?」

「そうですね。提督がそう言うのなら味わって飲むことにしますわ」

 

 熊野が缶コーヒーを飲み始めるのを見たあと、俺は微糖の缶コーヒーをひとつ手に取って飲み始める。

 久々に飲んだ缶コーヒーの味は懐かしく、そこそこおいしく感じる。

 飲んでいると摩耶が俺たちふたりを見て微笑ましげに、でもどこか悲しげに見てくる。

 

「おまえら、ほんと仲がいいな」

「提督は私がいないと何もできないので、いつでもそばにいないといけませんの」

「1人で生活はできる」

「良質の睡眠、健康的な食生活、部屋の掃除に洗濯。どれも毎日ちゃんとできますか?」

 

 そう問われるとできるとは言いづらい。

 男の独り暮らしと言えば、夜中まで起きてジャンクフードを食べたり、掃除や洗濯は週にまとめて1回が当たり前だ。

 そんな生活を考えていた俺は、熊野のなんでもおみとおしという勝ち誇った笑顔に何も言うことができず、缶コーヒーを静かに飲む。

 

「さて、落ち着いたところであたしの用事だ」

 

 テーブルにあるお菓子の山を隅にどけると、カバンから文字と点字の書類がそれぞれ出される。

 摩耶は枚数を確認したあと、俺に両方の書類を手渡してくる。それらを渡されたあと、すぐに熊野へ点字で書かれた書類を渡す。

 

「熊野、点字の書類が来たぞ。雑っぽい摩耶が細かいとこまで気が利くのに驚いたよ」

「あら、本当に点字の書類ですね」

「お前たち、あたしの評価はそんなんだったのかっ!?」

 

 小さく笑う俺らに摩耶は天井に向けて両手を突き上げて、ちょっとだけ不満そうにしながら威嚇してくる。

 その姿に笑みが浮かんだ俺は渡された書類を読んでいく。

 内容は俺が送った書類の返事だ。

 艤装関連はすべて許可を出され、無事に熊野用の艤装改修案が通ったことに安堵する。砲撃を捨て、空中聴音機と水上機のみという戦闘案は高く評価され、おおざっぱだった俺の艤装設計案や艦娘運用案の細部は軍の方で修正するとあった。

 あとは視覚障害者と暮らしてわかったことについて書いたものは好評価だ。

 機嫌良く書類を読み進めていくと、気分が悪くなり見なかったことにしたくなるものと出会ってしまった。

 それは熊野の異動指示。艤装改修で戦力として使えるようになる熊野を戦闘に出すというものだ。

 じっくりと読み進めていくと、この書類を持ってきた者とすぐに移動をしろと書いてある。

 そう、熊野は前線へと転属することになった。

 

「摩耶」

「ん、なんだ?」

 

 声が低く、固くなってしまった俺の声に摩耶も低い声で返事をしてくれた。

 俺がこれから言う話の内容をわかっているらしく、その表情は感情を失ったように無表情でいつもバカ話をしている摩耶とは違う。

 そのまま摩耶とにらみあい、熊野が読み終わるのを待つ。

 わずかな時間が数分にも感じ、熊野が書類を読み終わったときには一層空気が重くなった気がした。

 

「読んだな? 熊野はあたしんとこの提督の指揮下に入って新しい艤装の調整と訓練に入る。その後は実戦だ。なに、前線からちょいと後ろのところだから危険はそれほどないぞ?」

 

 真面目な話でこれからの予定を言ったあと、空気を軽くしようと笑い声をあげる。

 軍が決めたのだから俺はその指示に従うしかない。

 艦娘は戦うことが当然だ。

 熊野が俺の手から離れることが寂しいとか、戦わせるのが嫌だとか言うのは間違っている。

 戦うことで誰かを守ることができる。このことをいらだった意識にねじ込み、深く深呼吸して気を落ち着ける。

 

「内容は大規模攻勢をする時の戦線後方を安定させる役割だ。障害持ちの艦娘を健常者な艦娘が指揮するって聞いたぞ」

 

 熊野の顔を見るとおだやかに摩耶の話を聞いているが、そっと俺の手を強く握ってくる。

 熊野も俺と同じように素直に受け入れられないことを知ると安心し、冷静な思考が戻ってくる。

 そして摩耶に言われたことを考えると、単に戦力が足りないから手当たり次第に突っ込むわけじゃないらしい。

 きちんと戦力として扱い、捨て駒にはならないと聞いて安心する。

 軍上層部が艦娘たちを安心させるための嘘とも思ったが、上の人間がまともな頭を持っているなら現実的な案だから信用しても大丈夫なはずだ。

 

「提督、私は行きますわ」

「……そうか」

 

 他に言葉はなく、誰も何も言わない時間が、雨音だけが部屋の音を満たす時間が過ぎて行く。

 摩耶は俺と熊野の様子を交互に見たあと、目をつぶってひとりうなずく。そうしてからカバンから新しい書類を1枚出して俺に渡してくる。

 その内容は今までのとは違い、摩耶の提督から俺への個人的なものだった。

 前線に戻りたいのなら、部隊の指揮官として熊野を指揮下に置けるようにしてもいいと書いてある。

 1度も会ったこともなく、俺との関係性なんて摩耶を通じてだ。俺は無力な存在であり、艦娘を捨てて逃げた男。こんな場所に転属された出世の見込みもない提督だ。

 俺に対してここまでよくしてくれるのはよっぽどのお人よしだ。こんなことをされても俺は何も返せるものがない。……摩耶がこんないい子なのも納得できる。

 申し出はとてもありがたく、熊野のそばにいたいという欲求を満たすことができる。だが、俺は書類をそのまま摩耶へと返す。

 

「……いいのかよ、お前」

「もう艦娘を沈めたくはないんだ。今の俺では感情で動くのが強すぎて、冷静に指揮をできない。怪我や戦死する艦娘が増えるだけだ」

 

 ここで言葉を区切り、熊野の顔を見る。

 柔らかくて暖かい光のように穏やかな熊野の顔は俺を見てくれていて、さっきまで強く握ってきた手は柔らかさだけを感じる。

 

「俺はここで熊野と暮らせれば、それで幸せだったんだ」

 

 自分でも驚くほどの静かで平坦な声を摩耶に向けて言う。

 摩耶の提督からの命令に近しいものを物凄く個人的な理由で拒否したことで、すぐに提督という地位を外されるほどに今の俺はなっている。

 もう言ってしまったから発言は戻せない。言わなかったほうが戦場から帰ってきた熊野と暮らせる可能性もあった。

 でももう遅い。摩耶がこのことを伝えれば、俺の人生は大きく変わってしまう。

 拒否した俺に対し、摩耶は目を見開いて驚きのあまりに言葉を失っている

 

「熊野、荷造りしようか」

「わかりましたわ、私だけの提督」

 

 固まった摩耶を放置し、俺は暗い気分のまま熊野を連れて2階へと行く。

 ―――熊野と暮らして2カ月。

 もう何年も一緒に暮らしていた気がしたけれど、実際には短い時間だった。

 一緒にいて、やってきたことはよく思い出せる。

 2階の部屋はふたりで使うスペースを決めて半分ずつ使うようにしたこと。

 家具もカーテンも熊野の意見をよく聞いて買ったこと。

 熊野が快適な生活を送るために、電灯のスイッチのすぐ下に点字でわかるように加工もしたし、歩きやすいように頻繁に掃除と片付けをして物の位置を変えるときには熊野に必ず相談をした。

 なにかをするにも熊野と一緒。それは息苦しいとはじめのうちは思った。相手に気を遣う生活はすぐに嫌になり、俺か熊野のどちらかが文句を言って終わるだろうって。

 でもそうはならずに今まで良い関係が続いている。

 この2階は俺達の信頼関係を形として表現しているんじゃないかって、おおげさなことを思ってしまう。

 過去の記憶を楽しみながら、熊野の荷物を整理していく。

 服に靴、化粧品やハンカチ。

 ここにいるあいだにずいぶんと物が増えたのに、熊野は来た時に持ってきたバッグに入る分だけを持って他を残していく。

 

「俺のバッグを貸そうか?」

「これで充分です。また戻ってくるのですから、そんなに持っていかなくていいんです。それとも私を追い出したいんですの?」

「いや、熊野の言うとおりだ」

 

 俺の言葉を聞いておかしそうに笑う熊野に、その言葉を聞いて安心する。

 用意を終え、俺はバッグを持つと後ろに杖をついた熊野を連れて1階に戻ってくる。その時には、摩耶は自分のバッグを手に持って入り口の扉前で待っていた。

 さっきまでの固まった様子はなく、俺の顔を見てはため息をつき、疲れた様子になっていた。

 

「お前っていう男は変わってるな。男って名誉やプライドがなによりも大事だと思ってたよ。唯一の部下である熊野がいなくなるのに、代わりとして何も要求しないし」

「成長したんだ」

 

 ここに来てから考え方が柔軟になり、心に余裕を持てるようになった。1度、心が折れたことで俺にとって大切なのは、大事にしたいのは何かと考える機会も得た。

 つい少しでは多くの艦娘たちを従えて、艦娘である彼女たちを使って多くの戦果をあげることばかり気にしていた。

 今ではたった1人の艦娘である熊野のことだけを考えている。他のことは熊野の次だ。

 

「あたしは初めてお前と会った時から、提督と艦娘の関係はどうあるべきかって考えてたんだが……」

「参考になっただろ?」

「そんな考え方が参考になったら、すべての提督は艦娘と結婚しちまうよ」

 

 そう言われて俺は苦笑する。別に熊野と結婚する気もなく、ただ一緒に暮らしたいだけなのに。結婚とは考えが先すぎる。

 摩耶はやれやれと言った様子で先に外へ出て行き、小型トラックのエンジンがかかる音を聞きながら俺と熊野はあとをついていく。

 外に出ると雨音はいつの間にかなくなり、雲の隙間から光が差し込んできている。

「荷物はあたしが積んでやるよ」

 両手を伸ばした摩耶にバッグふたつを渡す。

 それから摩耶は俺の隣にいる熊野の前に近づき、耳元へ唇を近づけた。

 

「―――愛しい提督といちゃついておけよ」

「そんなのじゃありません!」

 

 俺にも聞こえる摩耶の言葉で、そう思われていることに俺と熊野は恥ずかしくなり、お互いに頬が赤くなる。

 摩耶は俺たちを無視し、あっはっはと大きな笑い声と共に、小走りで小型トラックに近づいて荷物を積み込むと、同じ場所に乗り込んでいった。

 どうやら助手席は熊野に譲ってくれるらしい。

 

「あの、提督?」

「俺はきちんと独り暮らしをするからな?」

「はい、その心配もしていますけど」

「麻衣にも伝えておくからな。あとは熊野と仲良かった八百屋のおっちゃんに、食堂のおばちゃんたちと―――」

 

 その言葉をさえぎり、熊野は白杖を投げ捨てて俺の胸の中に強く飛び込んで抱きしめてくる。

 寂しげな顔の熊野の背中に手を回して抱きしめたくなるが、それは恋人関係のように思えてしまう。だからそこを我慢して頭を撫でることにした。

 俺と熊野は友達で兄と妹のような関係。恋人は俺と熊野が望むものではない。

 頭を今までで1番優しく撫で続け、30秒ほど経ってから熊野は笑顔になって俺から1歩距離を取る。

 

「行ってきますわ」

「行ってこい」

 

 白杖を拾って渡すが、気の利いた言葉が頭に出てこずに普通の返事しか言うことができない。

 俺が思っている以上に、熊野がここからいなくなって戦場へ行くことにひどく動揺しているみたいだ。

 返事をしたあと、熊野はまっすぐに小型トラックに乗り込んでいって、出発していく。

 俺は映画のように手を振ることも大声をあげることもなく、静かに見送る。

 そうして、この場所には自分1人だけとなった。

 熊野が帰ってくる時期はわからず、もしかしたら帰ってこないかもしれない。

 嫌なことを考えてしまい、もっと明るいことを考えようとする。

 そう、熊野が喜ぶようなことだ。それは何かと考えると、すぐに思い浮かぶのは野菜で、畑だ。

 今は規模も小さく、種類も収穫量も少ない。幸いにも、この監視所周辺は軍の土地だ。まわりにはやたらと伸びている草や木々がある。

 詳しく確かめないとわからないが、結構広い範囲が使えたと思う。農業は軍も推進しているし、そのためのお金は出してくれるだろう。農業の講習、機械の資格や免許の取得をする必要がある。しっかりとした物置小屋も作る必要も。

 そうして、いつか熊野が帰ってきたときに驚かせて喜んでもらいたい。

 これからのやることが決まってテンションが上がった俺は勢いよく監視所の中へ戻ると、ペンと紙を手に持って計画を考え始めた。

 熊野が帰ってきたら、収穫したばかりの新鮮な野菜で野菜だらけの料理を作ってもらおう。あぁ、野菜だけの畑だけじゃ物足りないから、花畑も作らないと。ラベンダーやヒマワリを。きっと喜んでくれるに違いない。

 だから熊野。

 無事に帰ってきてくれ、と俺は熊野がいなくなった方向を見て強く願う。



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優しさの場所

 摩耶と一緒に熊野が戦いに行き、俺ひとりでの生活が始まった。

 1人ということを寂しく感じながらも、その日のうちにこれからの大まかな計画を建てた。

 翌日には麻衣の親が仕事をしている八百屋へ行ってお願いをしに。内容は農業に関する知識を教えてくれ、と。

 麻衣のお母さんは世話になっているお礼だと言って、遊んでと言ってからんでくる麻衣とじゃれあいながら麻衣の家で勉強をするようになった。

 他にも軍へ手紙を出して土地を開発していいかの確認や追加資金の要請。返事が来るまでは農機具や種を扱う店で予算と目的に合うものを考えていく。

 監視所にあるもので農作業や草刈りをしていると4日で軍から返事の返事があり、どのあたりまでなら軍の土地かを明示してくれて開発も許可された。

 その範囲を見てから、俺は麻衣の父親経由でベテランの人に教えてもらいながら刈り払い機とチェーンソーの勉強を始めていく。

 そして、これから買っていく予定の農具をしまう物置小屋も1人で作っていく。

 以前いた鎮守府では暇つぶしとして建物の補修をしていたために、多少はその知識と経験を生かせる。

 だが、そううまくもいかず、結局は町の人たちに手伝ってもらった。

 お礼を出せるわけじゃないのに、なぜ手伝ってくれるかと聞くと「偉そうにしないし、軍人さんは俺たちを守ってくれるからな!」と好意的に言ってくれるのが嬉しかった。

 様々な人たちの力を借り、監視所周辺はわずかずつ農地として使える場所が広がっていた。

 畑を作って雑草を防ぐための防草シートやマルチシートを張り、花を植えるための花壇を作る。そんなことを続け、充実した生活を送っていく。

 そうした日々を送りながら1人で海岸を見回り、時々は何もしない時間を過ごす。

 テレビやラジオのニュースで艦娘たちが出撃した大規模攻勢の話があって勝った時には喜び、被害が出たときには熊野の名前がないか緊張して聞いた。

 やることは多くあって楽しいものの……自分だけしかいないこの場所は、ひどく寂しいものだ。

 

 ◇

 

 熊野がいなくなり、1年が経った。

 季節は一巡りし、8月の今日はいつも通りに暑い。

 雲ひとつない青空は畑仕事をしている俺へと強く降り注いできて、実にうっとおしい。

 農作業のために着ている上下のツナギと長ズボンに手袋がとても暑い。頭は麦わら帽子のために風通しのいいことが救いか。

 こうやって汗で苦労しながらも1人で1年ものあいだ、野菜や花のために頑張ってきた。

 そのおかげで以前は草ばかり生い茂っていた場所が、野菜畑と花畑になった。畑の前に立って見回すと自分がやった成果が目に見えるのは気分がいいものだ。

 広さをテニスコートで換算するなら、5面が野菜で12面が花とハーブ畑だ。

 この時期の野菜はトウモロコシ、きゅうり、なす、トマト、青じそ、ししとう、ピーマンを育てている。

 できている実の形は良くないが、味はまぁまぁいける。そして、この野菜たちを料理するために俺の料理技術も上がった。

 ……遊びに来た、小学6年生の麻衣のほうが圧倒的に料理上手だったことは心の奥底にしまっておく。小学生に負けたのを覚えていると、小さなプライドが痛んでしまう。

 畑にあるハーブはオレガノ、タイム、バジル、セージだ。青じそもハーブ畑に植えようかと思ったが、ハーブという見た目じゃないよなと思い、悩んだ末に野菜畑のすみっこに植えている。

 ハーブ畑で一緒に植えている花は、2本の背が高いヒマワリと紫色が鮮やかなラベンダーだ。その2つの花でテニスコート半面分は使っている。

 野菜もハーブも花も量を増やし過ぎたかと思ったものの、町にいる人たちが色々な物と交換してくれるから無駄にはならずに安心した。もし1人で全部食べるとなったら、確実に腐らせてしまうだろうから。

 自分で育てて収穫するというのは心躍る、という予定だったがどうにも憂鬱になってしまう。本当なら熊野と野菜の出来について話をしながら収穫ができたはずなのに。

 寝ても起きても頭から熊野のことが離れず、こんなにも女々しい男だったかとため息をつく。

 自分に情けなさを感じつつ、しゃがんでバジルを収穫してカゴに入れていく。

 ヒマワリの種はどんな料理にできるんだったかと聞いたことを思い出しながら考えていると、後ろの方から砂利を踏みしめる足跡が聞こえる。

 熊野のことばかり考えていたから、都合良く熊野が帰ってきたのかと思ってしまう。

 でもそれは単なる想像。熊野の性格だときっと電話や手紙で帰ってくる連絡をするに違いないからと。

 誰が来たのかと思って振り向くと、そこには杖を使いながら監視所へ向けて歩いていく熊野の姿があった。

 声をかけることも忘れ、制服を着て片手にバッグを持っている熊野の姿は夏の暑さが生み出した妄想かと思う。

 そもそも帰ってくるのが急すぎてどう反応すればいいか。怪我はしてなさそうに見えるから、それを喜んで声をかけるべきか。

 どうしようか頭で必死にかっこいい言葉を言おうと考えていたが、熊野が俺に気付かず監視所への扉の前に立ったところで声をかける決心がついた。

 

「熊野!」

 

 大声で声をかけると熊野が俺へと振り向き、その顔はまぶしいほどの笑顔を俺へと向けてくれる。

 それを見て、俺は手袋を脱ぎ捨てて熊野の方に歩いて行く。

 熊野はバッグ杖を降ろし、俺に向かってゆっくりと歩いてくる。

 その速度は遅いとはいえ、今まで走るのを見たのは滅多になく、さらには杖も使わずに来るものだから転びそうなのが心配で慌てて走っていく。

 熊野との距離はすぐに縮まったが熊野は減速する気配もなく、俺は段々と速度を落として熊野の前へと移動する。

 そして、熊野は速度そのままで俺の胸元に頭突きをするかのように突っ込んできてバランスを崩したが、俺の背中に手をまわして抱きしめることで耐えきった。

 熊野は俺の胸から顔を上げると、まぶしいほどの明るい笑みを浮かべている。

 

「私はあなたを驚かせることができましたか?」

「すごく心臓に悪かった。来るなら来るって連絡してくれ。それと走るな。転ぶかと心配したじゃないか」

「すみません。でも鈴谷が――あ、昔からの親友なのですけど、提督の話をしたら驚かせたほうが喜ぶと言われましたので。……それで、その、どうでした?」

 

 熊野は俺を見上げ、叱られるのを怖がる子供のような表情だ。俺は返事として抱き着いている熊野の背中に手を回し、強く抱きしめる。

 それと同時に片手で雑に頭をぐりぐりと撫でまわす。

 

「せっかく提督のためにと時間をかけてセットしてきたのですけど?」

 

 不満と嬉しいという感情が入り交じった複表情の熊野がかわいく見える。

 ひととおりじゃれたところで、熊野に言いたいことがあったのを言う。

 

「少しやせたか?」

「そこは健康的になったと言ってください。提督のほうは不健康な生活で太ったかと思いましたが、筋肉が増えましたね」

「お前のために頑張ったからな」

「私のため、ですか?」

「そうだ。この場所は前にいたときと匂いが変わったと思わないか?」

 

 そう言うと熊野は2歩ほど俺から離れ、周囲の音や匂いを感じていく。

 そのことに俺は黙ったまま見続け、疑うような顔で調べていた熊野が穏やかな笑顔になっていく。

 

「草木の葉がこすれる音が聞こえませんわ。それに花の香り……ラベンダーでしょうか?」

「ああ。熊野が好きかはわからないが、ラベンダーは熊野を待つ俺に、いい花だって薦められて。その理由がいまだによくわからないが」

 

 熊野が「ラベンダー……」と小さくつぶやくと、花の香りがする方向へ1歩1歩、確かめるように歩いていく。

 俺は地面に落ちている白杖を拾うと、その後ろをついていく。

 やがて熊野はラベンダーがある畑へたどりつき、足が膝までの高さにある柵を蹴っ飛ばしてしまう。

 

「あ、すみません提督」

「壊れたわけじゃないから構わないさ。それでどうだ、ラベンダーは結構植えたんだが。熊野の、お前のためにと思って植えたんだが……」

 

 いまだ、ラベンダーが好きとも言わない熊野の反応が怖く、恐る恐る聞くと。熊野は深呼吸をしたあとに俺へと体を向けてくる。

 

「この香りは好きですわ。私のために用意してくれた提督はもっと好きです」

 

 好きと言ってくる言葉が嬉しすぎて、反応に困ってしまう。1年ぶりの再会のせいか、熊野が言う言葉のひとつひとつが俺の心によく響いてくる。

 今になって熊野と会えたこと、褒められたことで安心した俺は目に涙が浮かんでしまう。

 それを気付かれないように静かに目元を指で拭う。

 

「どうかしましたか?」

「熊野は口が上手になったと思って、俺は嬉しさのあまりに感激したんだ。ほら、中に入ろうか。向こうにいた時の話を聞かせてくれ」

 

 男が涙を流すのは恥ずかしいと思い、涙を流したことは隠しつつ返事をする。

 

「今夜は寝かせませんわよ?」

 

 そう微笑みながら俺の隣へやってきて、ヒジを掴んでくる熊野に白杖を渡して地面に置いていたカゴを持って一緒に中へと入っていく。

 熊野をソファーに座らせると、熊野は持っていたバッグと白杖を床へと置く。

 俺はカゴを机の上に置いたあとは熊野を待たせて、ドリップ式の冷たいコーヒーが入ったガラスのコップをふたつ用意する。その自分のだけに角砂糖とスプーンを入れ、まとめてコップを持っていく。

 それを持って熊野の隣に座り、1つを手渡す。俺の分のはテーブルに置き、スプーンでかき混ぜて角砂糖を溶かしていく。

 

「聞きたいことはたくさんあるんだが、どうするか……」

「では、わたくしが自由に喋らせていただきますわ」

「頼む」

 

 コーヒーを少し飲んだあと、熊野の話を聞いていく。

 話したくてたまらないという熊野は頬に手を当てて考えたあと、ゆっくりと喋り始める。

 その内容は様々だった。

 久々の戦闘訓練は楽しかったけれど、水上機しか飛ばせない装備だから砲撃の快感がなかったこと。

 親友の鈴谷と同じ部隊で会えたのがとても嬉しく、でも耳が聞こえなくなっていたので驚いたこと。

 それでも鈴谷の提督という人を介して会話をし、お互いが無事で艦娘としてやっていることに安心したことを。

 戦いはあっさりするほど終わり、時間がかかったのは戦闘前の索敵と戦闘後の処理。そのあとは俺に早く会いたいために1人で先に帰ってきたと言ってくれた。

 今後も重要な戦闘があれば、上から借り出されることもあるとのことだ。つまりは予備役扱いになるらしい。

 そんなことを熊野は嬉しく、時には悲しく。ころころと変わる表情で話をしてくれた。

 1、2時間ほど会話をした頃だろうか。

 突然、熊野が口を閉じて黙ったままになる。

 たくさんの会話のあいだに、俺と熊野のコーヒーはすっかりなくなっていた。

 コーヒーのおかわりでも持ってこようか、と言おうとしたときに熊野の雰囲気が重苦しいものに変わったことに気付く。

 ソファーから浮かしかけた腰をおろし、じっと熊野の言葉を待つ。なにか重大なことがあるのかと緊張する。

 そして熊野が動き始めた。

 勢いよく立ちあがり、俺がいる方へやってくると身を投げ出すようにして乱暴に俺の体へと抱き着いてくる。

 そうしたあとに熊野は俺の肩へと頭を置き、優しく抱きしめてくる。

 

「……提督と一緒にいるのが1番安心しますわね」

「俺も同じ気持ちだよ」

 

 同じように俺も熊野を抱きしめ、穏やかな声で言う。

 すぐ前にいる熊野の髪の匂いは懐かしく、今まであった寂しさがなくなって心が満たされていく。

 もう熊野がいないと俺はダメになるんじゃないかなんて思えてきた。

 夫婦でも恋人でもない不思議な関係。それはとても落ち着くもの。

 他のなにかで補うなんてことはできないと思っていると熊野が恥ずかしそうに微笑む。

 大事なことをまだ言ってなかった俺は、熊野に微笑みを返して口を開く。

 

「おかえり、熊野」

「ただいまですわ、提督」

 

 今、この瞬間から退屈な日常がなくなり、いつもの日常が戻ってきた。

 俺と熊野しかいない、この世界の果てに。




終わり。


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