MEMORIA (オンドゥル大使)
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波導の青、彼方の死神
第一話「青の死神」


プロローグ 「蒼い闇」

 草原に行けば。

 何もない草原に行けば、もう自分は苦しまないで済むのだと思っていた。

 しかしすぐにそれが甘い判断であった事を痛感する。

 病院を抜け出して駆け出したせいで胸の傷跡が痛んだ。呼吸をする度に苦しい。彼は胸を押さえながら地平線を眺める。

 やはり、駄目だった。

 この眼には、この世界には果てがないように、この悪夢にも果てがないのだと思い知る事になる。

 映った世界は青く染まり、青い血脈が流動している。太陽はぼんやりと青く、光を降り注いでいた。

 この世界に安息はないのだ。まだ彼は子供であったし、世界の何分の一も知らなければ、自分がこれから先、どれだけ生き永らえるのかも知らない。しかし自分の世界はもう闇に落ちたのだと分かった。

 青い闇が降り立って、これ以上光なんて見えないのだと。

 傍らには自分の事を心配して駆け寄ってきた小型のポケモンがいる。電気袋を両方の頬に持ち、尖った両耳を揺らしていた。警戒色の黄色と黒のポケモンは語りかけるように首を傾げる。

「ピチュー。ぼくはもう、逃れられないのかな」

 この地獄の連鎖から。あるいはこの青い闇の世界から。

 ピチューの身体にも景色と同じように青い血脈がある。鼓動と共に流動しているそれを彼は触れてみようかと思った。ピチュー自体が小柄なのでとても小さい、針の糸のような線だったが触れられないほどではない。手を伸ばそうとした、その時だった。

「その辺りでやめておいたほうがいい。やるのは勝手だが、深い後悔を背負う事になるぞ」

 その声音に彼は振り返る。

 青い世界の中で一人だけ、まともな人間の形を保っている男が佇んでいた。しかしその男の装束が青い鍔つきの帽子と、青い服装であり、まるで彼の視界を理解した上で、その姿を取っているようであった。

「あなたは……?」

 彼の問いに男は答える。草原を風が吹き抜けた。

「波導使いだ。お前の青い闇を、払ってやろう。その使い方を教えてやる」

 これが一つの出会い。

 彼が――波導使いと名乗る男と出会った、この先の人生を左右する瞬間であった。









 

 街を俯瞰するような摩天楼の上で一体の人獣が疾駆した。

 

 四本の腕を持つ超絶的な膂力を誇るポケモンが駆け抜けて拳を見舞おうとする。もう一つの影はステップを踏んでその攻撃を紙一重で避ける。

 

「ちょこざい真似を……」

 

 そう口にしたのは四本腕のポケモンを操る男だった。手を払い命令を寄越す。

 

「カイリキー! 終わりにしてやれ、インファイト!」

 

 カイリキーと呼ばれたポケモンが影へと肉迫する。その威容に普通ならば怯むだろう。しかし人影は焦る様子すら微塵にも見せない。

 

 ほとんど後退もせずにカイリキーの振るう暴力の連続攻撃を避けている。まるでその拳の軌跡が読めているかのように。

 

「その程度か? それとも、所詮は子飼いのチンピラでは、一撃すらも与えられないか?」

 

 挑発した人影の姿が光に照らされる。

 

 青い鍔つき帽子を被っており、同じ色の装束を身に纏っている男だった。カイリキーを操るトレーナーは歯噛みする。

 

「何故、何故当たらん。ポケモンの攻撃を、しかも格闘タイプの至近戦をほとんど何もせずにいなすなど……」

 

「人間業ではない、か」

 

 読み取ったような男の声にトレーナーは青ざめる。しかしカイリキーを操っている分有利だと判じたのだろう。

 

「お前は利用されたんだよ。前金はしっかりもらっただろう? だって言うのに、飼い主に噛み付くのがそんなにしたいのか? 波導使い、アーロン」

 

 名指しで呼ばれた男は嘆息を漏らし、「噛み付く、か」と呟いた。

 

「俺はな、確かに金さえもらえれば何でもやる人間だ。だが仕事に関してルールを明言したはずだ。一つ、俺の情報をばら撒けばそいつは殺す。二つ、俺を袖にしようとすればそれもまた無駄だ、殺す。そして三つ、仕事のクーリングオフは受け付けていない。今回、三つ目に抵触するお前らのボスは賢くない」

 

 アーロンの声音にトレーナーはうろたえたが自分のほうが優位だと判じて無理やり笑った。

 

「波導使いが何だか知らないが、お前、ボスの方針に文句があったんだろう。だから切り捨てられる。このような形で一生を終える」

 

「そいつは奇遇だな。まさか自分の境遇をわざわざ述べる酔狂な奴がいるとは思わなかったよ」

 

 カイリキーを操るトレーナーは青筋を立てて手を薙ぎ払う。

 

「カイリキー、その減らず口、利けないようにしてやれ! メガトンパンチ!」

 

 カイリキーの拳が空気の壁を突っ切ってアーロンを捉えようと迫る。アーロンは動く気配すらなかった。

 

「諦めたか! 波導使い!」

 

 勝利の哄笑にアーロンはため息をつく。

 

「……居るんだよな、こういう勘違い。お前が出てやれ」

 

 アーロンは軽く踏み込んで「メガトンパンチ」を回避し様に球体を放っていた。赤と白に彩られた球体がカイリキーの伸び切った腕に触れて割れる。

 

「――ピカチュウ」

 

 現れたのは両方の頬に電気袋を持つ黄色いねずみポケモンであった。黄色と黒の警戒色を持っているがカイリキーに比してあまりに小さいその姿は愛玩動物のそれに近い。

 

 ピカチュウは四足でカイリキーに対峙する。トレーナーが笑い声を上げた。

 

「ピカチュウだと? 天下の波導使いが、まさかピカチュウなんて愛玩用のポケモンを使っているのか?」

 

 馬鹿にした声音にもアーロンは動じない。口にするのは最低限の言葉だけだ。

 

「つべこべ言ってないでかかって来いよ。俺に当たらないからってピカチュウならば当てられる、と思っているんだろう? だったら、さっさと来い」

 

 その言葉はトレーナーの神経を逆撫でするのには充分だった。ぴくりと眉を跳ねさせたトレーナーは声を荒らげる。

 

「後悔させてやる! カイリキー、その非力なピカチュウを押し潰せ!」

 

 カイリキーの身体が跳ね上がりピカチュウへと中空からの攻撃が放たれようとする。四つの腕を使った逃げようのない拳の連続攻撃。しかしアーロンも、その手持ちであるピカチュウも全く焦らずに言ってのける。

 

「ピカチュウ、カイリキーの右肩口、やれ」

 

 その言葉が放たれた瞬間、ピカチュウの姿が掻き消えた。どこへ、とカイリキーが首を巡らせる前に、ピカチュウは青い電流を体表に跳ねさせながらカイリキーの肩口へとギザギザの尻尾で一撃を与えていた。

 

 瞬時の攻撃。まさしくすれ違い様の攻撃だったがトレーナーは、「そんな軽い攻撃で!」と次の一撃をカイリキーに命じようとする。

 

 しかし、そこで異常が発生した。カイリキーは突然膝をつき、動きを止めたのだ。どうしてなのかトレーナーにも分からないらしい。

 

「何だ……? カイリキー?」

 

 先ほどまでほとんど無敵の強さを誇っていたカイリキーがたった一撃で致命傷を受けたように蹲る。困惑するトレーナーを他所にアーロンは、「来い」と声にする。ピカチュウがアーロンの肩に乗った。

 

「何をした!」

 

 鋭い声にアーロンは唇の前に指を立てる。

 

「企業秘密、だな」

 

「ふざけるなよ、このカイリキーが! そんな弱々しいピカチュウなんかに負けるわけがない! 毒か、何か仕掛けをしたな!」

 

「仕掛けをしてはいけないと、誰がルールを明言化した? これは乱闘だぞ?」

 

 トレーナーは息を呑む。アーロンとピカチュウはカイリキーの横を何事もなく通り過ぎた。カイリキーはもがけばもがくほどに身体の自由を奪われているようだった。トレーナーはうろたえて逃げ出そうとするが、ここはビルの屋上。逃げ場などポケモンなしでは不可能だった。

 

「そ、そんな。許してくれ……」

 

「許す。馬鹿を言っちゃいけない。殺しにきたのはお前だろう。だというのに、許す、とは。気の利いたジョークだが笑えないぞ」

 

 トレーナーが膝を折る。本気で命乞いをするつもりらしい。しかしアーロンは最初から許す、どころか生かしておくつもりもなかった。

 

「ピカチュウ。あいつの顔面の、鼻の三十度上にちょっと電流を放ってやれ」

 

 ピカチュウの放ったのはほんの小さな、可視化さえも出来ないレベルの電流だった。それがトレーナーの顔面に突き刺さった瞬間、呻き声が発せられトレーナーが突っ伏した。

 

 見れば彼の顔の穴という穴から血を噴き出している。血の涙を流しつつトレーナーは、「何を……」と口にした。

 

「何をしたんだ? お前は、一体何者なんだ」

 

 俯くトレーナーにアーロンは首根っこを押さえつける。ピカチュウがアーロンの腕を伝い、トレーナーの首筋に手を当てた。

 

「やめろ……、やめてくれ……」

 

「殺し屋に殺し屋、か。お前らを見ていると、反吐が出そうだ」

 

 青い光が一瞬だけ明滅し、トレーナーがその場に倒れた。アーロンはトレーナーの懐から端末を取り出し、「観ているんだろう?」と声を吹き込んだ。

 

「俺を切った代償は高くつく。首を洗って待っていろ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まさか自分の放った殺し屋がやられるとは思っていなかった。

 

 執務机についていた肥え太った男は息を荒らげる。

 

「すぐに、だ。すぐにこの街を、ヤマブキを去る用意をする」

 

 部下に命じて男はヘリを手配した。それと並行して車での逃走経路を予め張っておく。

 

「あの男め……。わしは前金を払ったぞ。ターゲットの抹殺も、滞りなく行われた。しかしあの波導使いを一度使ってしまえばそれだけでも裏社会では高い代償を捧げなければならない。あの男を殺してしまえれば、それに越した事はないと思っていたのだが……」

 

 自分の認識が甘かったのか。それともアーロンという男を甘く見ていたのか。

 

「車の準備が出来ました」と部下の声が弾ける。男はすぐさまビルを後にする。

 

 ヘリは囮だ。屋上に待機させておいてその間に車での逃走を画策する。波導使い、アーロンがどのような攻撃手段を取ってくるのかは知らないが、空で狙い撃ちにされるよりも、いくつかのダミーを紛らせて地面を走ったほうが速くこの街を出られるはずだ。

 

「あの男のせいでとんだ出費だ。ヘリの代金に、ダミーの車。それに殺し屋も雇った。……競合相手を殺すだけの仕事にしては、高過ぎる」

 

 元々、敵対会社の幹部を殺してくれ、という依頼だった。しかし隠密が望ましいとの考えでこのヤマブキシティで一番に隠密に動ける殺し屋を探した結果、あの男に辿り着いたのだ。

 

 波導使い、アーロン。

 

 噂は数多い。一撃で重量級ポケモンを倒せるだけの実力を持っているだの、空を舞っている姿を目にした人間がいるだの、あるいはその実態は存在せず、複数の暗殺者の集団であるだの、そのような眉唾な噂の絶えない暗殺者を雇い、今回の仕事をこなしてもらった。しかし最後の詰めになって、どこか惜しくなった。

 

 全く姿を見せず、電話連絡も変声器を使ったもので男なのか女なのかも実は分かっていない。その殺し方、仕事のスマートさに信頼を置いているアーロンだが奴自身の経歴はまるで不明。ただ、ヤマブキで随一の殺し屋、という話だけが吹聴されている。

 

「どうせ噂には尾ひれがつくものだ。殺し屋としての実力など、その程度の連中と変わらんだろう。おい、車を出せ! ダミーもだぞ! 早くだ」

 

 ダミーの車両が地下から数台飛び出してから、本丸の車の後部座席に乗り込む。息をついて顔を拭った。先ほどの秘匿回線を振るわせた声。あの声の主こそ、アーロンそのものなのだろうか。声の調子から、一戦交えた後だとは思えない。しかし予め登録しておいた殺し屋の生態認証端末を目にすると「バイタルゼロ」の表示が点滅していた。

 

 つまり殺すつもりで放った殺し屋は既に殺されている。しかもそれが数分以内の出来事だという。まるで信じられなかったが男はある程度は現実として受け止める事にした。

 

「ヤマブキを出る。その後は、イッシュにでも高飛びするか。そうでなくてはあの男の呪縛から逃れる事など叶うまい」

 

 車が動き出し、男は安堵する。さしもの波導使いとはいえ、走っている車に追いつけるという冗談はあるまい。

 

「逃げ切った」

 

 そう口にして笑みを浮かべようとした、その時である。

 

 突然に車が横滑りした。男は窓に顔を打ちつける。

 

「何をやっている! 運転手、貴様――」

 

 運転席を見やって男は顔から血の気が引いていくのを感じた。

 

 運転席の部下は既に絶命していた。いつ? という考えさえも浮かばない。そのまま制御を失った車がテナント募集の雑居ビルへと突っ込んだ。

 

 男は後部座席から息を切らして逃げようとする。額を切っており視界が血で滲んだ。

 

「逃げるんだ……、わしは、まだ……」

 

 裏路地に入ったところで目にしたのは青い服を纏った男だった。

 

 直感で、男はその人間こそが波導使いアーロンであると確信する。肩にはピカチュウを乗せておりあまりにアンバランスな見栄えに笑いすら漏れてきた。

 

「あ、アーロンか……?」

 

 答えずにアーロンは歩み寄ってくる。男は必死に表通りに向かおうとしたがその行く手を遮るように足元の水溜りから強烈な痛みが迸った。

 

 水溜りに膝が触れただけだ。だというのに、それだけで足腰が萎えてしまった。動く事も儘ならず男はアーロンへと向き直る。必死に懐から財布を取り出し、「金ならやる!」と声にした。

 

「いくら欲しい? 何千万か、何億でもいい! わしの全財産を賭けよう! だから命だけは」

 

「間違えるな。俺はルール違反をしたお前の命を摘みに来たんだ。金の交渉をしに来たんじゃない」

 

 男は必死にもがいたがアーロンの黒い手袋をはめた手が後頭部を引っ掴んだ。

 

「やめろ、やめてくれ……」

 

「消えろ」

 

 青い電流が放たれ、男は瞬時に倒れ伏した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「今回の仕事もハズレか」

 

 アーロンはそう呟いて男の死体を見やる。自分に繋がる証拠品は残すわけにはいかない。財布、手帳、端末。それらを手早く精査し、アーロンは毛髪一つ残さずその場を立ち去ろうとした。

 

 その時に、裏路地に立ち竦んでいる少女が目に入った。

 

 いつからいたのだろう。茶色っぽい髪の毛を頭の両端でお団子のように結んでおり、顔は驚愕に塗り固められている。

 

「……何をしたの?」

 

 少女が逃げ出そうとする。アーロンは迷わず命じていた。

 

「ピカチュウ。足を止めろ」

 

 ピカチュウの放った電流が少女の足を止める。つんのめった少女へとアーロンは続け様に声を放った。

 

「頚動脈を切れ」

 

 電流のメスが瞬時に少女へととどめを刺した。目撃者は消さなければならない。暗殺者ならば鉄の掟だ。

 

「波導を見るまでもないな。死んでいる」

 

 倒れ伏した少女を一瞥し、アーロンは帽子を深く被る。関係のない人間を殺すのに頓着するほど精神は弱くない。自分の正体に一歩でも近づいた人間は迷いなく処理する。それが殺し屋であり、アーロンはこの街に属する以上、一人でも殺すのに手間取っては生きていけない。

 

 ふと、目の端に留まったものがあった。赤い本型の端末である。

 

 恐らくは冒険者に配布されているポケモン図鑑とやらだろう。録画機能でも備えていれば厄介だ。破壊しようと思ったが、手にして懐に入れる。

 

「今回の収穫は少ない、か」

 

 だが殺しなんてそんなものだ。アーロンはすぐにその場から立ち去った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 テナント募集の雑居ビルに突っ込んだ車両がある、という事故の報告が届いたのは一時間前。その時には既に事は終わっていたらしく車を運転していた人間は死んでいたし、その上司と思しき男が裏通りで倒れているのも目にした。

 

「やり切れませんねぇ。また殺し、ですか」

 

 部下のイシカワの声にオウミは片耳を指差す。

 

「今入ってきた情報だと、近場のビルの屋上で死んでいる男がいたらしい。そいつもこの関係者と見て間違いないな」

 

 倒れている男の懐を探って免許証を見やる。端末からも明らかになった通り、大企業の社長であった。そのような人物が護衛も引き連れないで運転手と共に死亡。正直、出来過ぎている感はある。

 

「殺し方が見えませんね。やっぱり、奴でしょうか」

 

 オウミは煙草に火を点けて煙い吐息と共に口にする。

 

「ああ。要注意対象B37、この街に巣食う殺し屋だな」

 

「殺し方が一切見えない謎の殺し屋……。青の死神」

 

 警察内部で使われている通称を用いたイシカワをオウミは制する。

 

「おいおい、奴さんは何も姿の見えない幽霊じゃないんだ。死神、ってのは追うのを諦めているみたいでよくねぇな」

 

 注意するとイシカワはすぐさま謝った。

 

「すいません。でも、ここまで殺し方の分からないホトケが出来上がるとなると」

 

「警察も本腰入れるかぁ?」

 

 オウミは茶化してみせる。自分も警察という組織の一部だが、相手に関しては手がかりがこれ以上得られる気がしない。

 

「……ふざけないでくださいよ。警察が本腰を入れてない時なんてないでしょう」

 

「まぁな。でも腰の入れ方で可能か不可能かってのは実は結構変わってくるんだ。ただでさえ厄介事の多いこの街で、たった一人の殺し屋を挙げられるかって言えばそうでもない」

 

「力不足ですね」

 

 自分の責任だとでも言うようにイシカワは顔を伏せる。この生真面目な部下にオウミは、「せいぜい悩んじゃってよ」と口にした。

 

「オレはデスクワークに関しちゃ苦手でね」

 

「だったら、実地で捕まえましょうよ」

 

「それが出来りゃ苦労はせんのよ。ヤマブキは広いからな」

 

 鑑識が入ってきてオウミに声を飛ばした。

 

「オウミ刑事! また現場で灰落として! 荒らすなって何度も言っているでしょう!」

 

「へいへい。悪うございましたよ」

 

 携帯灰皿を取り出して煙草を揉み消す。鑑識がブルーシートを張って現場を区切っていく。

 

「まったく。成っていない現場の刑事がいると捕まる犯人も掴まらないんじゃないですかね」

 

 鑑識の嫌味を聞き流し、オウミは鼻を鳴らす。

 

「向こうで吸ってくるわ」

 

「肺がんのリスクは常人の何倍なのかって言う……」

 

 まだ嫌味を口にする鑑識を無視してオウミは封鎖線を越えてビルに背中を預ける。中空に視線をやってオウミは呟いた。

 

「……ま、実際のところ狭過ぎるくらいだぜ。この街に暗殺者は二人も要らねぇ、ってな」

 

 紫煙をくゆらせながらオウミは考える。今回、青の死神、もとい「波導使いアーロン」は一夜の間に三人も殺した。動き過ぎなくらいだがそれでも足取りが掴めない。

 

 上層部も躍起になっている。それまでの殺し屋のやり方と決定的に違うのは殺し方が一切不明な事。それもそのはずだ。警察の概念はまだまだ古い。だから「波導」を信じていない人間もいる。

 

「波導の報告書なんて挙げた日にゃ、頭がおかしくなったんだと思われるからな」

 

 しかしアーロンは全くミスを犯さない。その点で完成された暗殺者と言えた。

 

「毛髪一つ、もっと言えばポケモンの技の痕跡一つ残さない。こいつゃ常人離れなんてレベルじゃねぇな。今回もきっちり、三人殺した。オッサン方には同情するぜ」

 

 ぼやいてオウミは口角を吊り上げた。

 

 

 

 

 



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第二話「アーロンという名前」

 

 トラックが壁に突っ込んでいる看板。一見変わった広告塔に見えるが、その場所こそがアーロンの根城だった。

 

 どこかの先鋭芸術家が仕上げた看板であったが結局のところ何がしたいのかが見えず、芸術家も売れないままこの世を去ったという。誰も買い取りたがらないのでアーロンが買った。

 

 意外に居心地はよく、内観は普通のワンルームマンションとさして変わらない。奥まった場所にソファがあり、キッチンも電気も完備されている。無論、ガラスに光が反射してアジトがばれるなど下の下なのでガラスは特殊素材が使われていた。外からではまさか人が住み着いているなど誰も思わないだろう。

 

「ましてや電気が通っているなんて、夢にも思わないだろうな」

 

 裸の白熱電球が天井で揺れて部屋を照らし出す。アーロンはモンスターボールからピカチュウを出して冷蔵庫を漁った。

 

「ほら、今日の分だ」

 

 投げたのは魚介ポケモンの缶詰である。ピカチュウは電気を跳ねさせて器用に蓋を開ける。もう慣れたものだ。ほとんど電気メスのような扱いを覚えている。

 

 アーロンはというとこれから食事を取ろうとしていた。フライパンに油を引き、玉子を溶かしてチャーハンを仕上げようとする。

 

 ベーコンを焼いているとふと目撃者の少女の姿を思い返した。

 

 まるでこの世の信じられない側面を見たような顔。誰しもああいう顔をするのだ。言葉も出ず、殺し殺される現場では絶叫とは無縁にある。存外に大きな声を出せる人間は居らず、皆が沈黙のうちに死んでいく。

 

 アーロンはその世界を渡り歩いている自分を客観的に分析しようとした。現状、纏った収入は得られているが少しでも痕跡を残せばこの情報過多の街ではすぐさま捕らえられてしまう。慎重に継ぐ慎重でようやく、と言ったところだ。それでも目撃者を止める事は出来ないし、見るなと目張りをするわけにもいくまい。この街はそれだけ雑多で、複雑で、なおかつ人が殺されるのが当たり前の単調さもある。

 

「人殺し、とも言わなかったな」

 

 呟いてもいいはずだったのだ。それとも全く声が出なかったか。声を出す、という行為は意外にも精神力を使う。目の前で殺人があれば叫ぶ事さえも儘ならないだろう。

 

「しかし目撃者は消した。今頃はテレビか」

 

 リモコンを使ってテレビをつけるとちょうどニュースがやっていた。雑居ビルに車両が突っ込んで二名が死亡、とある。

 

 違和感を覚えた。

 

「二名?」

 

 あの少女を殺したはずだから三名のはずだ。だがキャスターは二名、と言った。

 

 大方、運転手のほうと裏路地で死んでいたほうは別だと考えたのだろう。そう思えば二名という数字も納得する。

 

 見入っていたせいだろう。ベーコンが焦げていた。仕方がない、と皿に上げてから白米を玉子と共に炒め始める。

 

 チャーハンを仕上げてからアーロンはソファに座って帽子を取る。ふとチャーハンをすくっていたれんげを掴む指先が視界に入った。

 

 その指先には青い血脈がある。

 

 またか、とアーロンは目をきつく瞑ってからまた開いた。映っていた血脈が消え、通常の視界に戻る。

 

「たまに制御出来なくなるな。疲れでも溜まっているのか」

 

 チャーハンを食べ終わり、青いコートだけ脱いでアーロンはソファに寝転がった。この眼が他人と違うのは分かり切っている。問題なのは自分でのメンテナンスと制御。アーロンは端末を取り出して声を吹き込む。

 

「俺だ。明日の午前中に問診を頼む。それと次の仕事の情報を。今回の報酬はその時に払う」

 

 留守録に声を入れてからアーロンは目を閉じた。予想より早く眠りは訪れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ハドウツカイ?」

 

 男の放った言葉の意味が分からず彼は聞き返す。青い帽子の男は、「無理もない」と口にした。

 

「この世界でも、波導が使えるのは限られているからな」

 

「お兄さん、誰なの?」

 

 ピチューが怖がって彼の足元に隠れる。男は鼻を鳴らした。

 

「今、お前の目に見えている青い線があるだろう?」

 

 どうして、と彼は慄いた。誰にもこの眼の事は説明出来ていない。通常の視界と違うのは分かっていたがどう相談すればいいのか分からなかったのだ。

 

「それが波導だ。わたしは、それを自由自在に使える術を教えてやる、と言った」

 

「何で、そんな……」

 

 理由が分からない。彼の戸惑いに男は肩を竦める。

 

「旅の合間の気紛れでね。それに、わたし自身、疲れているのもある。そろそろ才能のある人間に託そうと思っていたところだ」

 

 男は手にしていた鞄を開き、中からモンスターボールを取り出す。

 

「行け、ルカリオ」

 

 飛び出したのは青を基調とした二足歩行のポケモンだ。獣の顔立ちで後頭部に房があり、その立ち振る舞いからも戦闘用のポケモンである事が窺える。

 

「ルカリオは波導が分かる。わたしはお前に、才能を見出した。だから教える。波導使いになれ。そうすれば人生を後悔せずに済む」

 

「でも、ぼくは……」

 

 困惑する彼に対して男は非情だった。

 

「もし、そのまま狂人としての道を歩むのならば止めはしない。だがそれは苦痛だぞ。わたしの教えを受けろ。そうすれば今よりかはマシなはずだ」

 

「どうして、お兄さんはぼくに優しくしてくれるの?」

 

「優しい、だと?」

 

 男は口元に笑みを浮かべて帽子を深く被った。

 

「勘違いするな。これは優しさではない。言うなれば、そうだな、呪縛だ。わたしは波導使いの呪縛を背負って生きている。その事にもう疲れた、と言っているんだ。だからお前が継げ。そうすればどちらにしても幸福だ」

 

 幸福。その言葉は自分とは無縁に思えていた。青い線が見える。血潮のような青いものがどんな物体にも見えてしまう。だから何もないこの草原を目指した。しかしこの世界に、青に染まらないものは存在しなかった。太陽も、木も草も、人間も、全て青に染まる。その苦痛が誰にも分かるまいと思っていた。だからこそ、男の言葉は天啓のように響いた。

 

「本当に、青い線を見えなくしてくれるの?」

 

「見えなく、というのは語弊がある。お前の眼は、先天か後天的かは分からないが波導が見える。その視野を消す事は、お前の命を消す事と同義。ゆえに消せない。だが見るべき時に見え、見なくていい時に見えなくする程度の制御は可能だ、と言っている」

 

 男の言葉には不思議な求心力があった。何よりも見なくていい時に見えなくなるのならばそれにすがりたい。

 

「ぼくの眼は、いつからこうなっちゃったのか分からない……。手術を受けた時、お医者さんは何も問題ないよって言っていたのに」

 

 拳を握り締める。大人の言う事だ。気休めだったのかもしれないが決定的だったのは手術後の視界のほうだった。それまで見えなかった青い線がくっきりと見えるようになっていた。

 

「その医者が何かした、とは言わんが波導に無知な人間ならばちょっとした粗野な行動でその人間の波導適性を左右する場合もある。波導なんて昨日まで知りもしなかった人間が、指先をちょっと切った際に波導が見えるようになった、という例もあるくらいだ」

 

 波導を使えるようにするのにはどうすればいいのか。彼は尋ねていた。

 

「どうすれば、波導を使えるようになるの?」

 

「わたしに教わる前にまずこいつの波導を読んでみろ」

 

 ルカリオへと顎がしゃくられる。ルカリオは拳を構えて彼の前に立つ。不思議な事に、ルカリオには波導が一切観測出来なかった。波導が分かる、と先に言われていただけにこれでは拍子抜けだった。

 

「見えない……」

 

「だろうな。波導密度の高いルカリオは波導を自在に操れる。お前の眼では、まだルカリオの波導は追えまい」

 

 ルカリオは手を差し出す。目を凝らしてようやくルカリオの手に静脈のように波導が浮き上がった。

 

「今度は、見える……」

 

「ルカリオの指先はほとんど精密機械だ。ゆえに手先や足先には波導が集中している。だから粗野な視界でも波導が見える、というわけだ。別に特別な眼を持っていなくとも、ルカリオほどの波導密度ならば可視化出来る場合がある。ルカリオ、波導を練って塔を建ててみろ」

 

 男の命令にルカリオは両手を合わせ、波導を組み上げた。瞬時に組み変わり、構築された波導の線が立体となって小さな塔が掌に顕現した。

 

「すごい」

 

「これが波導を〝使う〟という事だ。見る、のと違うのは歴然としている。眼に見えるだけでは、波導を自由自在に使えるまでには至らない」

 

「でも、さっきぼくがピチューを触ろうとした時、やめたほうがいいって」

 

「波導使いと言っても使い方は大きく二種類だ。波導を増幅させるか、消滅させるか。ルカリオは増幅し放出する事で波導を使うが、恐らくお前は後者。波導を切断して相手にダメージを及ぼす使い方が合っている事だろう」

 

 切断。その言葉の持つ凄まじさに言葉をなくす。

 

「そんな事出来るの?」

 

「波導使いとして身を立てるのならば自分がどちらにいるのかくらいは認識しておいたほうがいい。お前にはこれから、波導を切る事にかけての波導の使い方を覚えてもらう」

 

「放出、とか増幅は、ぼくには出来ないの?」

 

「向いていない。自分に不向きな技術を鍛えたところでそれは無為な時間だ。それに、言ったはずだ。わたしは波導の使い方を教える。だがその先は、自分で考えろ。いつか、波導を自在に見る瞳が必要になる日が来るまで。お前が人並みに生きれるくらいには制御法を教えてやる、と言っている」

 

 彼は戸惑っていた。ルカリオの波導も読めないのに、自分に波導を扱う資格なんてあるのだろうか。男は、「やめるのならば早く言え」と声にする。

 

「その時には、わたしはお前の前から消えよう。ただし、波導の制御法を教えられるのはこの世界でもわたしだけだと思っているがね」

 

 この人物に教えを請うしかなさそうだ。何よりもこの青い闇を払うのにはこの男の力が必要に違いない。

 

「……よろしくお願いします」

 

「世辞はいい。訓練に入るぞ。名前は?」

 

 彼は名乗った。男は鼻を鳴らす。

 

「なるほど。だが波導使いには別の名前が必要となる。わたしは今日で名前を捨てよう。今日からお前の名はアーロンだ。わたしの事は師父とでも呼べ」

 

 師父と名乗った男の言葉に彼は頷く。波導使いアーロンとして、生きていく事を決めた瞬間だった。

 



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第三話「依頼」

 

 陽射しが差し込んでくるのを感知してアーロンは目を覚ます。

 

 文字通り陽射しを感知するのだ。太陽の波導はもう数え切れないほど読んでいる。その独特の青さを視界ではなく全感覚器が感じ取り朝である事を実感する。

 

「朝か……。ピカチュウ、ついて来い」

 

 駆けてきたピカチュウを肩に止まらせてアーロンは下階に降りる。すると開店準備を始めていた店主と目が合った。

 

「おう、アーロン。今日も不機嫌そうな顔してんな」

 

 眼鏡で太っちょな店主は破顔一笑する。彼はアーロンの本当の仕事を知らないが、屋上のトラックに住まわせてもらうに当たって許可が必要であった人間の一人だ。この雑居ビルのオーナーと言える。一階部分は丸ごとカフェになっており、午前と午後にまばらな客が集まってくるだけの静かな場所だ。

 

「まぁな。コーヒーを一杯もらえるか?」

 

「家賃は払ってもらっているからそれくらいはご馳走するよ。ピカチュウは? ホットミルクならばあるが」

 

 ピカチュウは決して自分以外に心を開かない。今も自分以上の不機嫌さをかもし出し、電気袋から青い電流を跳ねさせている。

 

「俺の手から渡す。ピカチュウは俺の手から渡ったもの以外は食わない」

 

「そうだったな。全く、厄介な育て方してんぜ」

 

 店主がコーヒーを抽出している間、アーロンは朝刊に目を落としていた。昨日のニュースは大々的には報じられなかったようだ。基本的には毎回、事故扱い。その結果こそが成功の証だった。事故、としか警察は発表のしようがないのだ。あるいは心臓麻痺、としか言えない。今回の場合、前後に車両が事故を起こしたので事故として片付けるのが適切であった、という事だろう。

 

「はい、お待ちどう」

 

 コーヒーが置かれ、その横には皿に注がれたホットミルクがある。アーロンはコーヒーの波導を読んだ。毒は入っていない。同様にホットミルクも見る。毒の形跡はなかった。

 

「ピカチュウ、飲めるぞ」

 

 その言葉でピカチュウは理解したらしい。肩から降りて、ギザギザの尻尾をまず表面につけ、電気を軽く流してから解毒する。毒が入っていないとアーロンが言ってもこうやって自分の判断をつけさせるように教育してある。

 

「おいおい、毒なんか一回だって入った事あったかよ」

 

 その様子を見て店主は怪訝そうだ。自分の出したものをいちいち毒見されたのでは気分はよくないだろう。

 

「衛生面にうるさいんだよ」

 

「さすが、衛生局に勤めているエリートは違うねぇ」

 

 この店主には自分はヤマブキの衛生局に勤めていると嘘の経歴を流している。来歴も全くのデタラメだったが書類を全て完備し、疑う人間は一人もいない。

 

「にしたって重役出勤だな。もう九時だぞ」

 

 店主が頬杖をついて時計を見やる。アーロンは、「そんな時間だったか」とコーヒーを飲んで立ち上がった。

 

「味わっていけよ」

 

「重役出勤だと言ったのはあんたのほうだ」

 

「もったいねぇなぁ。美味いと思うんだが」

 

 自分の分のコーヒーカップを傾け店主が首を傾げる。アーロンは、「それなりだと思う」と感想にしていたが本心ではない。

 

 飲み物や食べ物を美味しいと感じた事など、ここ数年はなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 寂れたビルに入るなり一人の黒服が歩み出てきた。アーロンは波導を読むまでもなく、相手が武装しているのを感じる。

 

「カヤノ医師を」と声にすると黒服が片耳に入れた通信機で話した。すると、「ついて来い」と誘導してくる。

 

 奥まった部屋に案内されるとリノリウムの床に切れかけの電灯の光が反射していた。その一画だけ医療施設として整備されており逆に奇妙だ。

 

 黒服が下がっていく。カーテンの向こう側にいたのは痩せぎすの老人だった。目だけが炯々としており、カタギの人間でないのは明らかである。

 

「いつも面倒な手続きを取らせるな」

 

 アーロンの言葉に老人は肩を揺らす。

 

「悪いな。こっちもこのビルの警備を頼んだところなんだよ。やけにイライラしていただろう?」

 

 黒服の事を言っているのだ。アーロンはため息をついた。

 

「毎度の事だが、厄介になる相手は決めておけ。そうしないと毎回入る度に殺気を向けられるのでは堪ったものではない」

 

「天下の波導使いでも、ヤクザもんは苦手か?」

 

 ひっひっと笑ってみせる老人にアーロンは本題を切り出した。

 

「いつもの問診に来た。分かっているな」

 

「分かっているとも。このヤマブキで、ワシ以上の逸材はおらんよ」

 

 ネームプレートが揺れそこには「カヤノ」と書かれていた。

 

「よく言う」

 

 一笑もせずにアーロンは椅子に座る。ピカチュウはモンスターボールに入れて看護婦に手渡すのだが以前の看護婦ではなかった。

 

「預かりますね」

 

 そう言ってモンスターボールに手を伸ばそうとした看護婦の手首を引っ掴む。

 

 瞬時に波導を読んで相手に害意がない事を判断した。突然の奇行に看護婦が瞠目している。アーロンは手を離した。

 

「何でもない」

 

 看護婦はどこか怪訝そうに去っていく。カヤノが頬を引きつらせて痙攣気味に笑う。

 

「前と違う看護婦だったから警戒しているのか。まだまだ青いな」

 

「一体、何人取り替えれば気が済むんだ? 前の看護婦よりも若い」

 

 アーロンが気に留めたのはこのカヤノ――つまり裏稼業専門の闇医者についてくる看護婦が毎回若い事だ。回を経るごとに若くなっている。それも医師免許なんてまるでないような軽々しい格好をした少女ばかりだ。

 

「好きなんだよ。若い子がな」

 

「老人の道楽にしては趣味が悪いと言っている。大体、若い女に闇医者の助手が務まるのか?」

 

「それが意外とな。このビルに間借りしてもらっている団体からはよく斡旋してもらっておるよ。使い物にならん、とか聞いて」

 

 ヤクザものの「使い物にならない」の帰結する先は見えている。それが分かっていてこの老人は使っているのだ。だから趣味が悪いのだと言う。

 

「さて、アーロン。恒例のこの検査をしようか」

 

 カヤノが持ち出したのは液体の入った容器である。一見するとただの透明な液体に見える。しかしこれは自分の波導の目が衰えていないかのテストでもあるのだ。

 

 アーロンは波導の眼を用いる。容器の中には浸透圧の違う溶剤が混じっており、液体の層が出来ている。その層の色を見極めるテストだ。

 

「上から、赤と、緑と、オレンジと、黒」

 

 アーロンの即座の言葉にカヤノは手を叩く。

 

「素晴らしいな。やはり衰えないか」

 

「この眼が衰える時は暗殺稼業を辞める時だ」

 

 アーロンの声にカヤノは鼻を鳴らす。

 

「ピカチュウは回復をした後、電圧を測って返す。なに、今時何も知らん若者でもポケモンセンターと同じ機械くらいは使えるわい。それだけ便利になった、という事だな」

 

 カヤノは自分がいるのもお構いなしに煙草に火をつけて喫煙を始める。アーロンは今さら嫌悪を浮かべる事もない。

 

「毎度思うんだが、やはり固定化したほうがいい」

 

「場所を、か? それとも助手を?」

 

「両方だ。ヤクザものに頼っている斡旋もやめろ。いざという時に足元をすくわれるぞ」

 

 忠告にカヤノは煙い息を吐き出して、「よく言うわ」と返す。

 

「こっちの稼業はお前さんが母親の腹の中にいる時からやっとるんだ。ベテランはこっちだよ、間抜け。退き際くらい心得ておるし、何よりも深追いしないのがこの仕事の鉄則だっていう事くらいは分かっとる」

 

 カヤノという老人は自分が思っている以上に狡猾だ。ここでもし自分が騒ぎ立てても逃げ出す算段くらいはつけている。

 

 アーロンはふと、ベッドに目を留めた。まだ真新しい皺がある。

 

「誰か、先客がいたのか?」

 

「まぁな」

 

「女だな」

 

 アーロンの言葉にカヤノは渋い顔をした。

 

「目ざとい奴だ」

 

「俺より前の時間の問診か。それともビデオの撮影か?」

 

 ビデオ、と言っても表に出回る類ではない。カヤノは、「患者だよ」と応じる。

 

「それ以上は言えるか。お前の事だって、ワシは金を積まれても言わんぞ。信頼関係というものがある」

 

「信頼、ね。脆く崩れ落ちそうな言葉だ」

 

 アーロンはベッドに居残る波導を読み取る。女、と言ってもまだ少女の気配だ。正確に読み取ろうとすると、「下衆の勘繰り」とカヤノが口にした。その言葉で思わず気配を探るのをやめてしまう。当のカヤノは紫煙をくゆらせている。

 

「お前だって、他の裏稼業の奴らに嗅ぎ回られるのは面白くないだろ?」

 

「ああ、そうだな」

 

 アーロンは話題を逸らす。

 

「ビデオの依頼件数は減ったのか?」

 

 この手の医療施設にはビデオの依頼、というものが月に何度か舞い込む。一時期カヤノはそれで食い繋いでいた。

 

「辞めたよ。あれのせいで特定されるんだよ、場所が」

 

 報酬は弾むらしいが、それでもカヤノのような闇医者からしてみればデメリットのほうが大きいのだろう。アーロンは、「そのほうがいい」と口にした。

 

「一年に何度も転居されたのでは、こちらも困る」

 

 このビルでももう五度目だ。今年中はせめて転居してもらわない事を祈るしかない。

 

「耳聡い連中はもう聞き及んでいる事かもしれないが、ハムエッグのところに新しい情報が舞い込んだらしい。何でも特ダネだとか言うそうだが、お前はどうする?」

 

「興味はない。派手に動けばそれだけ勘付かれる恐れがある」

 

 アーロンが立ち上がり始めるとちょうど看護婦がピカチュウの入ったモンスターボールを返しに来た。

 

「回復しましたよ」

 

 皮肉な事にポケモンセンターで言われるのと大差ない台詞だ。アーロンは受け取ってから紙幣をしわくちゃにして手渡す。

 

「今回の報酬だ」とカヤノには札束を用意した。一枚ずつ数えながら、「ご贔屓に」とカヤノが笑みを浮かべる。

 

「ハムエッグのほうに行かないのは正解だな。こっちで儲かっている」

 

「ハムエッグのほうに行くのは本当に情報が欲しい時だけだ。それ以外は老人でも務まる」

 

「言ってくれるねぇ」とカヤノが札束の位置を揃えた。

 

「確かに。……アーロン。ちょっと耳寄りな情報を聞いていかないか?」

 

 呼び止めた声音にアーロンは肩越しに視線を向ける。カヤノは煙草をくわえたまま独り言のように呟く。

 

「派手に動いている団体がこの街に入ってきたらしい。組織ってほど訓練されていないが、まぁちょっとした抗争の種になりそうな連中だ。街に張っている奴らからは新参、と言われて嘗められているが、ワシは連中がちょっときな臭いと思ってな」

 

「きな臭い?」

 

「素人さんにしちゃ、動きが迅速過ぎる。バックに大きな金づるがいると見た」

 

「……何故それを俺に教える?」

 

「近々揉めるとすれば、お前かな、と思っただけだよ。なに、老人の要らんお節介だと思ってくれ」

 

 アーロンはそれを聞き流してビルを去った。立ち去る際に黒服がぼやく。

 

「これでは老人介護だ」

 

 それはお互い様だ、とアーロンは感じた。

 



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第四話「冷徹」

 

 雑多な街並みの中央には巨大なスクリーンがあり、短編映画や企業の広告が映し出されている。スクランブル交差点を抜けたところで呼び込みをしている軽薄そうな男とすれ違った。男はそれまで若い女中心に笑顔とビラを振り撒いていたがアーロンとすれ違い間際だけ真顔になった。

 

「……波導使いの旦那じゃないですか。何です? あっし、客引きに忙しいんですけれど」

 

「待ち合わせをしている。六九七の路地を一時的に封鎖してくれ」

 

 彼は路地番と呼ばれている仕事についている。路地番、とはその名の通り路地の一角を丸ごと管理する仕事で読んで字の如く路地の番人である。たとえば彼の権限で一本の裏路地が丸ごと人通りをキャンセルし、仕事をやりやすく出来るメリットがある。普段は客引きをしているが彼の本業を知っていればこの裏稼業では便利に扱える事を知っている。

 

「六九七の路地ですね。了解しました。にしても、旦那も人が悪い」

 

「何がだ?」

 

「昨日、七三二の路地を封鎖したばかりでがしょう? ほら、それなりのものがあるじゃないですか」

 

 アーロンは舌打ちして男の掌に紙幣を丸め込ませて渡す。今日は要らぬ出費がかさむ。

 

「毎度あり。しかし、お人が悪い、ってのはまぁもう一つの意味もあるんですが」

 

「何だ、もう一つってのは」

 

「いや、ここから先はこれから会う方に聞いたほうがいいんじゃないですかねぇ。あっ、そこのお嬢さん方! こういう仕事に興味ない?」

 

 客引きに戻っていった路地番を視界に入れながらアーロンは路地番から買った路地へと入る。その時間帯、全ての裏稼業の人間も表の何も知らない人間もそこに立ち入る事は一切許されない。ゆえに、この場所には自分ともう一人だけのはずだ。相手は看板に身体を隠している。姿を現す気はないらしい。

 

 アーロンも座り込み「スナックムーディア」と書かれた看板越しに会話する。

 

「この路地を封鎖したって事は、オレに用があるって事で間違いないんだな?」

 

「ああ、しかし何故俺の前に姿を現さない?」

 

「馬鹿、波導が見えるなんていう奴の目の前に立つなんて酔狂なのがいるかよ。それはつまりよ、丸裸って事と同じだ」

 

 自分の波導の特性を知っている。変声器を使っているが相手の正体がアーロンには分かった。そもそも波導さえ読めば相手が看板に隠れていようが関係がない。呼吸、脈拍、脳波、いくらでも読める要素はある。

 

「で、俺に会って何が言いたい」

 

「波導使いさんよ。ちょっと最近、仕事がずさんなんじゃないかねぇ」

 

 ずさんなつもりはない。アーロンは言い返した。

 

「手を抜いているつもりはないが」

 

「じゃあ世間の目が厳しくなったってこった。お前、昨晩七三二の路地を封鎖したよな?」

 

 アーロンは最初からターゲットが七三二の路地に逃げ込むのを予想していたがそれ以外ももちろん頭に入れていた。なのであの周辺区域の路地を十本ほど買い込んでいたのだ。

 

「それがどうかしたか? 結果的に七三二に相手が逃げ込んだ。不都合でも?」

 

「いんや、何も。いつも通りのスマートな手際だった。鑑識でも、お前の殺し方は未だに分かっていないそうだからな。おっと、口が滑ったぜ」

 

 そのような分かりやすい演技など必要なかった。アーロンは問い詰める。

 

「何か、あったのだな?」

 

「……言うべきか悩んだが、七三二の路地にあの時間、侵入者があったらしい。路地番の小間使いをしている〝眼〟が見ていたそうだ」

 

「眼」と呼称されるのは買い取った路地やビルを監視する事を目的とした業種だ。大抵、路地番やそれより上の権限を持った人間の小間使いにされる。

 

「それで?」

 

 まさか、とアーロンは感じていた。昨晩、抹殺した目撃者。それを見られていたのか。

 

「一人、侵入者。だが〝眼〟の連中、それ以上は明かさないとか言い出しやがった」

 

 その意想外の言葉にアーロンは狼狽する。買い取った路地に舞い込んだ人間はたとえ浮浪者の類でも報告するのが義務だ。

 

「何故? ポケモンでも報告するって言うのに」

 

「分からんが、高次の奴らに証言を握り潰された、ってのがオレの見解。その高次の連中ってのがな、この街に最近進出してきたばかりの素人さんらしい」

 

 カヤノから教えられたこの街に入ってきた集団を思い出す。

 

「素人だからと言って、冒してはならないルールがある。知らずに〝眼〟を買い込んだと?」

 

「そう見るのが妥当かねぇ。〝眼〟の情報握り潰しなんざ、公安でもやらねぇよ。そんな事をしたらこの街の秩序が乱れるのは誰の目にも明らかだ」

 

 つまりヤマブキシティの常識を知らない新参者の仕業。だがそれにしては手慣れている、というのが言いたい趣旨なのだろう。

 

「裏組織ではあるが、このヤマブキに則した人間達ではない、という事か」

 

「理解がよくて助かる。秩序を乱す連中にはきっついお仕置きが待っているぞ、って知らしめなきゃならん」

 

 その仕置き人に自分を抜擢したい、というのか。アーロンは交渉に入った。

 

「昨日今日で情報が集まるわけがない。まずは握り潰された〝眼〟から洗っていくしかなさそうだ」

 

「地道な作業になるが許してくれよ」

 

「持ちつ持たれつだろう。三十で手を打つ」

 

「ぼったくるじゃねぇの。足元見てんのか?」

 

「波導使いである俺が頻繁に動けばそれだけ察知されやすい。他の裏稼業の連中を刺激する結果になる」

 

「……確かに青の死神が躍起になって稼いでいる、なんていい冗談にもなりゃしねぇ」

 

 自分の俗称を聞いてアーロンは苦い顔をする。死神など。自分はただ与えられた仕事をこなしているだけだ。その途中にいるだけの、ただ単に不幸な人間がヘタを掴んで死んでいく。それだけの事。

 

「分かったよ。三十だな。ただし、追加は出さん」

 

「充分だ。〝眼〟に写らなかった人間を炙り出すだけなら、な」

 

 アーロンの言葉に相手は、「チクショウめ」と声にする。

 

「素人集団を殺せとは、確かにオレは言っていなかった。でもよ、それは揚げ足を取るって言うんじゃ――」

 

「素人集団の殺しも入れるのならば、足りないくらいだな」

 

 ぐうの音も出ないのか相手は諦めた様子だった。

 

「分かったよ。三十と五十、それで手打ちだ」

 

「いつも通りの口座に入れてくれ」

 

 アーロンは立ち上がり、身を翻す。その背中へと声が投げられた。

 

「でもよ、本当に、雑になっているってのはマジだぜ。波導使いさんよ。本当のところどうなんだよ?」

 

「どう、というのは」

 

 立ち止まって問い返す。

 

「最近、仕事をするのが嫌になってきた、とかじゃねぇよな」

 

 アーロンは暫時沈黙を浮かべてから応じる。

 

「まさか。この街では、そうやって生きていくしかない」

 

 百点満点の答えに相手は笑う。

 

「安心したぜ。まだ、死神の冷酷さが残っている」

 

 アーロンは路地を去って帰り際に路地番に金を掴ませた。

 



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第五話「イレギュラーワン」

 

「仕事が雑になっている、か」

 

 帰宅して呟くもアーロンには実感がない。昨晩の殺しも滞りなく行われたはずだ。どこにも異常はなかった。あるとすれば、と少女の目撃者を思い返す。

 

 懐に入れていたのは彼女の持っていたポケモン図鑑だ。赤い本型の情報端末。これ自体にも録音機能からモジュール機能までついている高性能端末。アーロンはその端末を開いてピカチュウのページを呼び出してみた。

 

「ピカチュウ。ねずみポケモン。弱った仲間のピカチュウに電気を流してショックを与えて元気を分ける事もある、か」

 

 アーロンは魚介類の缶詰を器用に開ける自分のピカチュウを見やった。

 

「お前が野生だったのなら、そういうところもあったのかもな」

 

 フッと自嘲するとポケモン図鑑に奇妙な波導が流れた。アーロンはそれを読み取ろうとする。今まで見た事のない波導だ。元々機械の発する波導は人間や生物のものと違い、波導使いが「在る」と認識しなければ目に出来ない。アーロンはそれを読んでいるうちにその波導がこの機械だけを流れているわけではない事に気付く。

 

「電波……。逆探知か」

 

 まずい、とすぐさまポケモン図鑑から手を離した直後、扉が開かれた。アーロンは即座に戦闘の神経を研ぎ澄ます。ピカチュウが四足をついて両頬から青い電流を跳ねさせた。

 

 どのような敵が来ても対応出来るつもりだった。

 

 しかし現れた意外な人影にアーロンとピカチュウは困惑する。

 

「昨日の、ポケモン図鑑の持ち主、か……?」

 

 何と昨日殺したはずの少女が肩を荒立たせて戸口に立っているのである。アーロンは一瞬、亡霊か、と感じた。だがその予感は次の一言で裏切られる。

 

「あーっ! やっぱりあなたがポケモン図鑑を盗っていったんですね!」

 

 この場に似つかわしくないような大声にアーロンは呆気に取られた。少女はずかずかと歩み寄るとポケモン図鑑を拾い上げホッと安堵する。

 

「よかった、壊れてない」

 

 アーロンは今だ、と感じていた。隙だらけの少女へとピカチュウが心得たように電流を流す。高電圧の網が張り巡らされ、少女を包囲した。

 

「動くな。動けば即座に電流で殺す」

 

 アーロンの警告の声音にも少女は臆する様子もない。

 

「何言ってるんですか。人のものを盗るのは泥棒! ですよ」

 

 言い含めるような声音にこちらが唖然とする。この少女は状況が分かって言っているのか。

 

「言っておくが、ピカチュウは迷わずお前を殺せる」

 

「ピカチュウ? わーっ、本当だ! ピカチュウだ!」

 

 何と少女は高電圧の網を越えてピカチュウへと抱きつこうとする。その行動にはさすがに瞠目した。

 

「馬鹿! やめろ!」

 

 ピカチュウが咄嗟に尻尾を振り上げて威嚇する。包囲していた網が収束し、少女の手の甲を叩いた。少女が痛みに涙目になる。

 

「痛っ、ピカチュウって誰にでも懐くんじゃないの?」

 

「俺のピカチュウは少なくともそんなポケモンじゃない」

 

 アーロンは歩み寄って少女の胸倉を掴んだ。波導を見ると脈動と血脈が残っている事に気付く。

 

「何故、生きている?」

 

「ちょっ、離してください!」

 

 引っ叩かれそうになってアーロンは身を引く。少女は指差した。

 

「あたしのポケモン図鑑、返してくださいよ!」

 

 自分の至らなさに舌打ちする。端末の一つならば現在地の電波くらい出ているものだ。

 

「質問に答えろ。何故、お前は生きている?」

 

「何故って、何か生きるのに理由がいるんですか?」

 

 まさか、とアーロンは思い至った。

 

「自分が死んだ事に、気付いていないのか?」

 

 その言葉に少女は首を傾げる。

 

「死んだって……、ここはあの世だって言うの?」

 

 あまりに会話が平行線なのでアーロンは額に手をやる。

 

「昨晩の事を覚えているか?」

 

「覚えているかって、あっ! あなた、昨日路地裏で見かけた!」

 

 ようやく思い出したらしい。しかしその前後の事は覚えていないようだ。

 

「オヤジ狩りなんてやるもんじゃないですよ!」

 

 どうやら殺しの現場をオヤジ狩りだと思ったらしい。アーロンは呆れ果てて声も出なかった。

 

「……質問の意図を変えよう。何で、お前はここの場所が分かった?」

 

「えっ、だってポケモン図鑑から電波が」

 

「電波遮断施設になっている。通常のGPSではこの場所を特定出来ない」

 

 そういう造りになっているのだ。少女が言葉をなくしているとアーロンはポケモン図鑑を懐に入れた。

 

「返してくださいよ!」

 

「まだ返せないな。何者なのかも分からない奴には」

 

「名乗ります、名乗りますよぉ。あたしの名前はメイ。ポケモントレーナーです」

 

「井出達を見れば分かる。どこをどう見ても裏稼業の人間には見えないからな」

 

 メイと名乗った少女はアーロンの言葉にむくれる。

 

「裏稼業って、そんな危ない事を」

 

 目の前にいるのが波導の暗殺者だなんてこの少女は思ってもみないのだろう。アーロンは、「ポケモン図鑑を返して欲しいんだな?」と尋ねた。

 

「そうですよ。返してください」

 

「これは返さない」

 

 その主張にメイが目を見開く。

 

「何でですか! ただのトレーナーの一アイテムですよ?」

 

「その一アイテムで、この場所を特定出来たのがおかしい。ポケモン図鑑には仕掛けがある。それを紐解いてから、でなければ俺はおちおちお前に反すわけにはいかない」

 

「分からず屋ですね」

 

 どのような言い方をされようと、逆探知システムを持つポケモン図鑑をまず解析しなければ。アーロンは夕刻を回った外を見やる。

 

「お前、今日はここに泊まれ」

 

 アーロンの言葉にメイはたちまち赤くなって後ずさった。

 

「は、はぁ? 何考えているんですか! いたいけな乙女に、何をする気で……」

 

「勘違いをするな。お前の行動を見張っている〝眼〟がいるとすれば、ここからお前を立ち去らせる事さえも危険である事に違いない。相手がお前狙いではなく、俺狙いなのは明白だ」

 

 どういう意味なのか、メイは分かっていないのだろう。目を丸くしている。アーロンは分かりやすく噛み砕いた。

 

「つまり、お前が外に出ると俺が危険に晒される」

 

「そんな事ないと思いますけれど。あたし、ただのトレーナーですよ?」

 

「ただのトレーナーが持っているアイテムじゃない、と言っているんだ。こいつを解析にかける」

 

 その言葉にメイは必死に止めようとする。

 

「そんな! ポケモン図鑑がないと旅が出来ません! 返してください!」

 

「誰も壊すとは言っていないだろう。中身を検めさせてもらうだけだ。発信機か、そうでなければ違法性の高いGPSが組み込まれている」

 

「……そんなの、ポケモントレーナーが旅する上では必須じゃないですか。危ない場所にだってトレーナーは行くんですから」

 

「かもしれない。だが、ここは完全に電波を遮断するはずだ。俺の使う端末以外では絶対に逆探知出来ない。だというのに、素人同然のお前がここを見つけられた、その事そのものが間違っている」

 

 メイが普通のトレーナーを名乗れば名乗るほど、この事態にはそぐわないのだ。メイは頬を膨れさせて、「何でそう意固地なんですか」と返す。

 

「トレーナーだから、じゃ説明になりませんか?」

 

「ならないな。それと、お前」

 

 指差すとメイはきょとんとする。

 

「ピカチュウから離れたほうがいい。こいつはお前のような愚鈍なトレーナーでは及びもつかないほどデリケートだ」

 

 その言葉でようやくピカチュウから離れようとする。ピカチュウは知らないトレーナーを前にして完全に臨戦態勢に入っていた。ピカチュウの背中をさすり波導を読む。かなり動揺しているらしい。鎮めさせるために波導を操った。

 

「何しているんですか?」

 

「波導を……、いや、何でもない」

 

 言ったところで無駄だ。アーロンは立ち上がってピカチュウをモンスターボールに戻す。部屋の中を見渡してソファを指差した。

 

「そこにいろ。この一晩だけだ。絶対に動くな」

 

「……だから何をする気で」

 

 肩を抱くメイにアーロンは諭すように口にする。

 

「……俺は下で寝る。このトラックの部屋の中で動くな。それだけだ。もし動けば、今度こそ息の根を止める」

 

 部屋を出ようとする。その背中に声がかけられた。

 

「あの、あなた何者なんですか?」

 

 アーロンは肩越しに視線を投げ応じる。

 

「波導使い、アーロン、で名が通っている」

 

「ハドウ……って何です?」

 

 分からないだろう。アーロンはため息をつき、「分からなければそれでいい」と扉を閉めた。

 



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第六話「転がり込んできた少女」

 

「ああ、アーロン。何か、見た事のないお嬢さんが上に行ったけれど」

 

 店主がアーロンに声をかける。面倒事は断ってくれ、と予め言っておいたはずであるがいきなり上がられては止める言葉もなかったのだろうと考える。

 

「珍客だ。俺も知らない」

 

「そうか。まぁコーヒーでも飲むか?」

 

 今日も喫茶店は暇のようだ。アーロンは椅子に腰掛け、「頼みがある」と切り出した。

 

「何だ? 大体の事には応えてやれるつもりだが」

 

「今晩だけこっちで眠らせてくれ。もし場所がないのならば床でもいい」

 

 その申し出に店主は戸惑った。

 

「別に、いいと言えばいいが……。アーロン、どうしたんだ? 本当にあのお嬢さんは何か、お前と関係があるのか?」

 

「ない。ないと言ったらない」

 

 思いつくのはポケモン図鑑の関係者。だが本当にトレーナーならばどうしてもポケモン図鑑を取り返したいものだろうか。懐から取り出して机に置く。

 

「ポケモン図鑑じゃないか。珍しいものを拾ったんだな」

 

「型番や性能から持ち主や製造主を割り出す事は?」

 

「出来ないわけじゃないが専門じゃないんでね。そういうのは専門の奴に任せるもんさ」

 

 製造主を割り出す。そうしなければあのメイという少女がどこから来て、何の目的でここに赴いたのかが分からない。何よりも電波遮断施設である自分の家に割り込めるだけの性能を持っている端末が一個人のものとは考えづらかった。

 

「すまないがもう一つ、お願いしていいか?」

 

「何でもいいが」

 

「あの娘が降りてこないようにしてくれ。逃げ出さないように」

 

 アーロンの言葉に店主は声を潜めた。別に他に客がいるわけでもないのに。

 

「……アーロン。まさか、ヤバイ橋を渡っているわけじゃないだろうな」

 

「ヤバイ橋を渡っているのは俺じゃなくってあの娘のほうだ。あいつを逃がすわけにはいかない」

 

「まぁ上に続く階段の扉を閉めれば絶対に降りられないが」

 

 そう言いつつ店主は自宅に続く階段の扉を閉めた。鍵は二重になっており、あのトレーナーの少女がどれだけ優れていようとも開けるのには一苦労するはずだ。

 

「面倒事だけは勘弁してくれよ」

 

「安心してくれ。俺は家主に迷惑をかけるつもりはない」

 

「家賃はもらっているから、まぁ邪険にはしないが」

 

 アーロンは喫茶店を出た。夕食をどこかで取る必要があるだろう。

 

「専門家、か」

 

 ポケモン図鑑の解析。その専門家で知り合いとなれば限られていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「何だ、アーロン。一日に二回も来るなんて珍しいじゃないか」

 

 カヤノの診療所に訪れるとちょうど真っ青な顔をした少女が出て行くところだった。黒服に両脇を抱えられて黒塗りの車で運ばれていく。

 

「またか」

 

「ああ、買った女の気分が悪いとか言って、うちの診療所の厄介にな。一時的な貧血だよ。まぁ、あれの後だっただろうな」

 

 詳しくは追及せずアーロンはポケモン図鑑を取り出す。

 

「おう? 何でお前がポケモン図鑑を?」

 

「解析を頼みたい。出来るか?」

 

 カヤノはポケモン図鑑を手にして型番を見やった。

 

「こいつぁ、カントーの図鑑じゃないな」

 

「カントーじゃない?」

 

「イッシュ製だ。最新のバージョンに近いが、造った人間のデータくらいは入っているだろう。本格的な解析に回そうと思えばそれこそハムエッグの世話にならなきゃいけないが」

 

「造れる技術者は?」

 

「記録上で言えば、イッシュのアララギ博士。何でこんなもんを持って来た?」

 

「強力な電波が出ている。逆探知の電波だ」

 

 その言葉にカヤノは思わず手離した。ポケモン図鑑が診療台に置かれる。

 

「……まずいもんを拾っちまったな、アーロン。どういう経緯で拾ったのかは問わないが、面倒なのには違いない」

 

「俺の根城が割れた可能性がある。だとすれば」

 

「分かってるよ。知っている連中を消すって言うんだろ。ワシだって馬鹿じゃない」

 

 カヤノはため息をつき、「また移転しなきゃならないかもな」とぼやいた。

 

「探知先の電波がどこに集約されているのか割り出すんだろ?」

 

「頼めるか?」

 

「ハムエッグに頼れよ。そのほうが早いと思うぞ」

 

「あいつには借りを作りたくない」

 

「そんな事を言っている場合かねぇ。どっちにせよ、厄介なおつかいを頼まれているんだろ?」

 

 アーロンはカヤノを睨んだ。

 

「耳聡いな。嫌われるぞ」

 

「勝手に入って来るんだよ、そういう情報はな。素人集団を殺すお鉢が回ってきたみたいじゃないか」

 

「出来れば二つも仕事を並行したくはない。どちらかが望ましい」

 

「贅沢な事を。ワシだって分かるのは型番と製造者くらいだ。この中に入っているであろう逆探知の回路がどういう仕組みで、誰に集積されるのか、までは探りようがない」

 

 アーロンは、「いくらで引き受けてくれる」と尋ねていた。

 

「おいおい、引き受ける受けないじゃなく、専門外だ、と言っているんだよ」

 

「だったら専門屋に斡旋して欲しい。明日までに、だ。その仲介料はこれだけ出す」

 

 小切手を切ってカヤノの前に置いた。カヤノは数字を数えてにやりと笑みを刻む。

 

「いいのか? 出し過ぎなくらいだぞ」

 

「厄介事は早々に片付けたいのが心情だ。この額で納得してくれるか?」

 

「納得も何も、これだけありゃ仲介料と依頼代でお釣りが来るくらいだ。気前がいいのは嬉しいが、アーロン。何か焦っていないか?」

 

 心の内を読まれたようでアーロンは苦い顔をする。

 

「……面倒事が転がり込んできた。明日また説明する」

 

「分かったよ。これで手打ちだ。しっかし、気苦労が絶えないな、お互いに。どうしてこう、この街はワシらを退屈させないだろうな」

 

「そういう風に出来ているのさ。きっとな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 店に戻ってくると、ちょうど店主が階段から降りてくるところだった。アーロンを見るなり眉根を寄せる。

 

「あのお嬢ちゃん、これじゃ監禁ですよ、とかうるさくってな。どうすればいいと思う?」

 

「無視しておけばいい」

 

「それが、今にも端末で警察を呼ぶって言っているんだ。困るだろ?」

 

 アーロンは足早に歩み出て階段の扉の鍵に手をかけた。開けると、メイが転がり落ちてくる。

 

「いたたた……」

 

「何で大人しく出来ない?」

 

 アーロンの問いかけにメイは、「当然でしょう!」と声を張り上げた。

 

「これ、監禁って言うんですよ!」

 

「誰も監禁した覚えはない」

 

「出られなきゃ監禁じゃないですか!」

 

「勝手に入ってきたのはお前だ。それとも、住居不法侵入でそちらに非がないとでも?」

 

 うっと声を詰まらせるメイにアーロンは続け様に放つ。

 

「大体、ポケモン図鑑の電波を辿ってきたようだが、それが違法性のあるアプリでないという証明は出来まい」

 

「あ、アララギ博士に聞いてもらえればすぐにでも!」

 

「そのアララギ博士だが、連絡手段に手間取っている明日までは様子見だ」

 

「そんな!」

 

 酷いとでも言うようにメイは声にする。アーロンは嘆息を漏らす。

 

「明日までも待てないのか? まさか人の家に勝手に入ってきて自分のものであるらしいポケモン図鑑を返してもらってはいさよなら、だとでも?」

 

 メイは何も言えなくなっている。アーロンは、「とにかく明日まで待て」と告げた。

 

「上で寝ればいい。俺は下で寝る。わざわざ邪魔をするつもりもない」

 

「……信用出来ませんよ」

 

「信用出来ないのならば今すぐ警察に駆け込むか?」

 

 挑発的なアーロンの声音に店主が口を挟む。

 

「おい、警察は……」

 

「警察に駆け込んだとして、逮捕状の請求をする前にどうしてこの家だと思ったのかを説明しなければならない。有り体に言えば泥棒された被害者がその泥棒の家を突き止める、みたいなものだ。その場合、どっちが怪しいのか」

 

 メイはぐっと息を詰まらせて身を翻す。

 

「一晩だけですからね!」

 

 そう言って駆け上がっていく背中に鼻を鳴らした。

 

「アーロン。お前も意地が悪いな」

 

「意地が悪い? 随分とこれでも譲歩したほうだ」

 

「しかし、あのお嬢ちゃん、何でまたアーロンの家なんて突き止められたんだろうな。電波を探ったって言ってもそれなりの信頼度のあるアプリじゃない限りここまで特定出来んだろ」

 

 アーロンもそれは気になっていたところだ。何をもって、メイはポケモン図鑑の正確な場所を知ったのか。それも問い詰める必要がある。

 

「分からない事が多過ぎるな」

 

「一つずつ紐解くしかないだろう。コーヒー要るかい?」

 

 アーロンはコーヒーを注文する。一つずつ解き明かせるかどうかは分からないがまずは明日だ、と感じた。

 



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第七話「強さと正しさ」

 

「ピチュー! 電気ショック!」

 

 跳ね上がった青い電流をピチューが放出する。草原の草木を焼きながら向かっていったその先にいたのは超然としたルカリオだった。

 

「弾け」

 

 師父の声にルカリオは軽く腕を払う。それだけで渾身の電気ショックが弾き落とされた。無理もない。こちらはまだ未成熟のポケモンだ。それが放つ電気ショックは諸刃の剣。自分の体力と引き換えに撃っているのだから。

 

「波導を読んで撃って来い。そうでなければ未成熟のポケモンでルカリオに一撃さえも与えられんぞ」 

 

 師父の声にアーロンは手を払った。ピチューが尻尾を振るい上げて電気の網を敷く。

 

「エレキネット!」

 

 しかしルカリオは頭上から降りてきたその電気の網を突き上げる拳で霧散させた。

 

「素質はあるようだ。電気技を使える素質は、な。だがまだだ。波導を読んで攻撃しろ。ルカリオの波導を集中して読め」

 

 どだい無理な話だ。今まで制御して見る事の出来なかった波導をいきなり読めなど。ルカリオは攻撃の瞬間、僅かながら波導を放出する。しかしそれが一瞬であるためにアーロンには一切隙をつけなかった。

 

「どうした、へばったか? この程度で息を切らすのでは、アーロンの名は相応しくないぞ」

 

「ぼ、ぼくは、アーロンになんて……」

 

「だがならなければ、わたしはお前に一切の波導に関する事を秘匿する。そうなれば困るのはお前のほうだが?」

 

 ここで勝利しなければ波導に関しての制御法も、何もかも見失う。アーロンはピチューへと声を張った。

 

「ピチュー! これには渾身の集中がいる! 全力で決めるぞ!」

 

 ピチューが全身から電流を放出する。黄金色に変化した電流を纏い、ピチューの姿が電流の中に溶けていく。まかり間違えれば自らを焼きかねない電気技の頂点。

 

「ボルテッカー!」

 

 ピチューが駆け出す。その速度はこれまでの比ではない。ルカリオが拳を放つ。ピチューは辛うじてそれを回避し次の一撃に繋げた。

 

「突進しろ!」

 

 ピチューの「ボルテッカー」がルカリオへと突き刺さる。これで一撃、と感じたがルカリオには傷一つなかった。

 

「何で……」

 

「波導を読む、扱うという事はこういう事だ。ルカリオは今、波導を一点に集めてボルテッカーの攻撃を無力化させた」

 

 そんな事が可能なのか、と問いかけている暇もない。肉迫してきたルカリオの拳がピチューへとめり込む。そのまま叩き落とされる形でピチューが草原を転がった。今にも身体に纏いついた電気が剥がれそうである。

 

「波導を読まなければ、読めなければ、ルカリオに一撃だって与えられはしない。ルカリオ、とどめを」

 

 ルカリオが拳を振るい上げる。その瞬間、アーロンは極度の集中を注いだ。

 

 攻撃の瞬間、僅かながら波導が放出される。その時だ。その時しかなかった。

 

 ルカリオの拳、指の合間から垣間見える波導の残滓。それを狙う。

 

「雷パンチ!」

 

 起き上がったピチューが「ボルテッカー」に費やしていた電気を全て拳に集め、ルカリオの拳とぶつけ合った。ルカリオが後退する。対してピチューは限界が訪れていた。

 

 もう電気が出せないのだろう。暴走した電気袋から過剰な電力が放出されている。

 

「ピチュー、ぼくは……」

 

「よくやった」

 

 師父の声にアーロンは顔を上げる。ルカリオの指先に傷があった。

 

「攻撃の際に出る波導を僅かだが読んだな。ルカリオにとっては大した傷ではないが、初めてにしては上々だ」

 

 回復の薬を放り投げられアーロンはピチューを回復させる。電気の放出が収まってきた。

 

「そのピチュー、素質がある。波導使いのポケモンになるにはいくつか条件があるが、そのピチューは波導を回路に見立て焼き切るだけの電気技が備わっているな」

 

「波導を、回路に……」

 

「物の見方の一つだ。さて、少し休むか」

 

 師父は鞄からサイコソーダを取り出してアーロンに手渡す。アーロンは師父に手招かれるまま木の根元に背中を預けた。

 

 サイコソーダの炭酸が喉を潤す。師父は遠くを眺めながら呟く。

 

「お前は、何も見ないためにこの草原にやって来たんだろう。だが、わたしの経験則だとこの世界に、波導のない場所はない。波導使いの認識にも寄るが、無生物にも波導が宿る。空間にも波導はある。だからお前の眼を治す方法は存在しない。使いこなすしか、生きていく道はないのだ」

 

 茨の道だ、とアーロンは感じる。どうして自分だけそのような過酷な道を歩まなければならないのだろう。

 

「自分だけ、などと思うなよ」

 

 だからか見透かされたような師父の言葉にアーロンは目を見開いた。師父はサイコソーダを呷って、「波導は力だ」と告げる。

 

「力を得れば、それを使う責任が伴うのは世の理。彼方の昔より、波導使いは重宝された。時の権力者に取り入った波導使いもいれば、追放され旅に生きる他なかった波導使いもいる、あるいは戦いの中に意味を見出すしかなかった波導使いもな。今のお前と全く同じ葛藤を彼らもしてきたのだ。そして思っただろう。いずれは報われる時がくると。波導使いが、この世の中にあっても何ら不条理に襲われる事のない、平和がやってくると。……だが波導は時に争いを呼ぶ火種になる。わたしはそれが嫌で旅をしている。一ところに留まらないのは思い出を作らないためだ」

 

 アーロンには師父の言葉の半分も分からなかったが波導使いである師父は悲しみの上に今、この場にいるのだけは分かった。安易に大変だった、で済ませられない境遇である事も。

 

「ぼくも、その道を辿るんでしょうか……」

 

 不安を口にすると、「そうならないために、強くあれ」と師父は言う。

 

「強くあれば、自分の生き方を曲げずに済む。波導使いが迫害されてきたのは、その強さを誰もが恐れたからだ。だがその力を正しく使えれば、強さはきっと正しさを導く鍵となる。わたしはそう信じている」

 

 立ち上がった師父はルカリオを伴って声にした。

 

「さぁ、やるとしよう。波導を読むのには場数が必要だ。一回や二回で波導は読めない」

 

 アーロンも木の根から立ち上がり、戦う事を決めた。

 



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第八話「外法者」

 

 朝の波導だ。

 

 アーロンは瞼を上げて起き上がる。既に店主は起きているようだった。寝床から出るなり、「おはよう」と声がかけられる。

 

「今、何時だ?」

 

「九時過ぎだ。相変わらず起きるのが遅いな、アーロン」

 

 アーロンはぼさぼさの髪を掻いて、「何かあったか?」と尋ねる。

 

「何にも。大人しいもんさ。昨日のお前の言葉が効いたのかもな」

 

 階段を顎でしゃくる店主にアーロンは、「準備をする」と取って返す。

 

 寝床にあったコートと帽子、それにピカチュウの入ったモンスターボールをホルスターに留め、アーロンは二階に続く階段を上がっていった。

 

 部屋の扉を開けると異臭が鼻をつく。視線を投げるとキッチンが無茶苦茶になっていた。フライパンが適当に放り投げられ、玉子焼きとも何ともつかない黒い物体がゴミ箱へと無造作に捨てられている。

 

 部屋の奥のソファでメイは静かに寝息を立てていた。アーロンはソファを蹴り飛ばしてメイを起こす。突然の事に、「ひやぁっ!」とメイの悲鳴が聞こえた。

 

「何をしている。あれは何だ?」

 

 キッチンのほうを指差すとメイはばつが悪そうに答えた。

 

「その、何か食べ物ないかな、って思って。んで、物色していたら、その……」

 

「勝手な真似をするな」

 

 火事でも起こされては堪ったものではない。アーロンが身を翻すと腹の虫が鳴いた。自分のではない。メイが赤面して腹を押さえていた。

 

「何も食っていないのか?」

 

 アーロンの質問にメイは首肯する。額に手をやって、「仕方がない」とキッチンに向かった。メイの作ったものを全て捨てて、冷蔵庫にあった材料だけで手早く調理する。出来たのは焼きそばだった。テーブルに出すとメイが尋ねる。

 

「その、食べていいんですか?」

 

「そのために作ったんだ。安心しろ、毒は入っていない」

 

 少しの逡巡の後、メイは口に含む。すると目を輝かせて次々と食べていった。

 

「おいしい……」

 

「トレーナーだろう? 普段はどうしている」

 

「出来合いの食べ物を買って、それで過ごしていました」

 

「褒められた旅人のやり方ではないな」

 

 アーロンの声にメイがしゅんとする。アーロンはテレビをつけて、「さっさと食え」と急かした。

 

「急かさないでくださいよぅ……。こんなおいしいもの、久しぶりに食べるんですから」

 

「ただの焼きそばだ。誰でも作れる」

 

 今朝のニュースでは別段、珍しい事はやっていない。どうやら逆探知が働いてカヤノの居所が掴まれたわけではなさそうだ。当然の事ながらこの場所も割れていないらしい。いや、割れていたとしても動きがないだけか。

 

「何でチャンネルをそんな速度で替えているんですか?」

 

 メイには、常人にはアーロンが凄まじい速度でチャンネルを替えているように映るだろう。しかしこれは波導の訓練だ。チャンネルを替えるたびに出てくる人間の波導を読み取り、瞬時の判断をしやすくする。それと同時に情報を選択するという意味も兼ねている。

 

 しかしそれらを説明してもメイには分かるまい。アーロンは、「習慣だ」と片付けた。

 

「習慣で、そんな事をする人っているんですね……。初めて見ました」

 

 アーロンはメイを見やり、「出かけの準備くらいは出来ているな?」と声をかける。

 

「準備って。あたしはトレーナーですよ。いつでも」

 

 どうしてだかふんぞり返るメイを横目にアーロンはテレビの電源を切った。

 

「ならば今すぐでもいい。行かなければならない場所がある」

 

 メイは警戒して身構えた。

 

「ま、まさか、そういういかがわしい組織に……」

 

「そういう組織の末端員ならばもっと賢くお前を篭絡する。その気はないから気にするな」

 

「……何だか引っかかる物言いですね」

 

 アーロンは身支度を整えて転がっているモンスターボールを手にする。

 

「あっ、それあたしの」

 

「自分の手持ちくらい、自分で管理しろ」

 

 その声音にメイが言い返す。

 

「いいじゃないですか。別に。あたしの勝手でしょう」

 

「勝手、か。ならばもし、この場に殺し屋が転がり込んできたとして、俺は対応出来るが、お前は対応出来ずに死ぬな」

 

 非情な宣告にメイはモンスターボールを握り締めて口にする。

 

「イジワルですね」

 

「そのつもりはない」

 

 アーロンは帽子を目深に被り、「まずはカヤノ、か」と呟く。

 

「昨日の今日だが収穫を聞かなければならないな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カヤノの下を訪れると一番に唖然とされた。

 

 すぐさま潜めた声になってアーロンに近づく。

 

「おい、アーロン。何色気づきやがった? お前が女を連れてくるなんて異常な事態しか思い浮かばないんだが」

 

「だから言っただろう。異常事態だ、と。ポケモン図鑑の型番を調べて欲しいという依頼、どうにかなったのか」

 

 カヤノはまだアーロンとメイの関係を勘繰りたい様子だったが昨日の依頼料の気前のよさの手前、それを憚ったらしい。

 

「……型番と製造元に関してはワシは何も分からん。だから専門家に斡旋するにしても奴の協力は不可欠だった」

 

 アーロンは眉根を寄せる。

 

「ハムエッグか」

 

「朝ごはんですか?」

 

 見当違いのメイの言葉を無視してアーロンは問いかける。

 

「本当に、それ以外の手はなかったのか?」

 

「この街で一番の情報通が奴であるという事実は曲げられん。ワシとお前の依頼だと言えば、奴も悪い顔をしなかった」

 

「それは、俺に借りが作れるからだ」

 

 忌々しげに口にするとカヤノは渋い顔になる。

 

「確かに、お前としちゃ面倒な相手でもあるだろう。あっちも必死だ。出来れば会いたくないが、このヤマブキっていう狭い街で顔を合わせないほうが不思議ってもんさ。お互いに今回限りで手を打ちたいのが人情か」

 

 カヤノの声にアーロンは諦めて頷く。

 

「感謝する」

 

「よせよ。これから先、何回あっても足りんぞ」

 

 カヤノが煙草を吹かし始める。やはりハムエッグに会うほかないのだろうか。アーロンの懸念を他所にメイは尋ねる。

 

「お医者さんなんですか?」

 

「ああ、医者だよ。だが、風邪や病気を治すんじゃない。ワシがやるのは外法だ」

 

 きょとんとするメイにアーロンは言ってやる。

 

「闇医者だ。法外な値段で裏稼業の人々の治療や売春の斡旋、あるいは専門外の事までやってのける」

 

 売春、という言葉にメイの顔が赤くなる。

 

「おや、初心なお嬢ちゃんだな」

 

「そ、そんな事が許されるとでも……」

 

「許す、許さないではなく、この街ではまかり通ってしまう。そういうシステムの一部に、組み込まれてしまっているのさ。まぁお嬢ちゃんもじきに分かる。この街が、いかに混沌を極めているのかを」

 

「もう行くぞ」

 

 身を翻すアーロンの背中にカヤノは忠告する。

 

「言っておく。これからのためにもな。ハムエッグを殺そうなんて思うな」

 

「今回の標的じゃないんでね。余計な殺しはしない主義だ」

 

 二人の間に降り立った無言の了承をメイが読み取る前にカヤノの診療所を出て行った。

 



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第九話「盟主ハムエッグ」

 

「あの、ハムエッグさんってのはどこにいるんですか?」

 

 自分の顔を覗き込んでくるメイにアーロンは煙たそうにする。

 

「どうして聞きたがる?」

 

「だって、アーロンさん、何だか因縁がありそうだなって感じでしたし。あたしが役に立てるのなら、それでも」

 

 足を止める。アーロンは顎に手を添えて考え込む。

 

「……その手があったか。だがこいつであの場所まで耐えられるか。いや、試してみる価値はあるか」

 

 アーロンはくしゃくしゃに丸めた紙片をメイの手に握らせた。メイはそれに視線を落として首を傾げる。

 

「あの、これは……」

 

「ハムエッグの位置までの地図だ。経路図もきっちり入っている。そこまでお前が行け」

 

「は、はぁ? 何であたしが」

 

「役に立てるのならば、と言っただろう? 役に立て。それだけの話だ」

 

 ぐっと言葉を呑み込む。どうせ出来まい、と考えていたがメイは決心していた。

 

「やります。この経路図通りでいいんですよね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 大体、アーロンは自分を嘗め過ぎなのだ。

 

 自分とてトレーナー。旅する人間だ。経路図くらいは読めるし、何よりも戦闘になってもポケモンが出せる。少なくともアーロンのような物々しい空気を持っていない分、話し合いになる可能性もあった。

 

「えっと、この通路を曲がって。それで……」

 

 地図に視線を落としながら次々と複雑な迷路を辿っていく。ヤマブキシティがここまでの密集区だとは思わなかった。せいぜい大きなビルを目印にすれば辿り着けると思っていたのだが甘かったようだ。徐々に街の裏側へと入っていくのが分かる。手招きするのは売春婦やそれに似た業種の人々だった。黒服に何度か呼び止められたがメイは適当な言い訳を作ってここまでやってきた。

 

「本当に、ここまでさせて、何のつもりなのよ。あのダサ帽子」

 

 自分を下に見た事を後悔させてやる。メイは通路を折れる。すると雑居ビルが目に入った。他のビルと違うのは屋上に巨大なパラポラアンテナがある事だ。ラジオ局だろうか、とメイは考える。

 

「でも、こんな深層のラジオ局なんて」

 

 あるわけがない。だが地図はそこを示していた。行くしかない、とメイは折り合いをつける。そこにハムエッグなる人物がいるかどうかは知らないが。

 

 一階から入るとすぐさま雑音が耳に入った。暴力のようにがなる音量にメイは耳を塞ぐ。

 

 降りたところがダンスホールになっており、そこでは半裸の女性達がポールダンスをしていた。紫色のけばけばしいネオンサインが網膜の裏まで刺激する。メイが入り口のところで呆気に取られて立ち尽くしていると、「新しい子?」と勧誘の黒服が入ってくるところだった。メイは慌てて後ずさる。

 

「いえ、その、あたしは……」

 

「カワイイじゃん。どう? 踊っていかない?」

 

 ダンスホールをちらりと見やりメイは青ざめた。

 

「あ、あたし! まだ誰にも裸とか見せてませんから!」

 

 逃げ出すようにメイは違う通路を辿ろうとするがダンスホールの人だかりのせいでうまく進めない。勧誘の黒服がすぐに追いついてくる。

 

「待てって。悪いようにはしないから」

 

 短い悲鳴を上げてメイは手を振り解いた。

 

「あのっ! あたしは人探しをしていて!」

 

「だったら手伝うよ。今ヒマ?」

 

「だから、ヒマなんてなくって!」

 

「三十分で五万。どう?」

 

 駄目だ。まるで話にならない。困惑するメイへと黒服の手が伸びる。

 

「ほら、来なって。裏で衣装用意してあるからさ」

 

 このままでは流されてしまう。メイは思い切って声にしていた。

 

「は、ハムエッグさんに会いたくって来たんです! 会わせてください!」

 

 その言葉に先ほどまで音響が鳴り止まなかったダンスホールが水を打ったような静寂に包まれた。

 

 視線を上げると全員が静けさの中で顔を見合わせている。

 

「おい、あの子、ハムエッグって言ったか?」

 

「やべぇな。って事はあれで裏稼業かよ」

 

「おい、お前。触らないほうがいいぞ。キズモノだとか思われたら後でハムエッグさんに……」

 

 黒服の片割れの声にメイに手を伸ばしていた黒服が手を引く。

 

「ああ、そうだな。あの人の逆鱗に触れるのは御免だ」

 

 黒服達が離れていく。それと同時にメイの周辺の人々も波が引くように去っていった。

 

「えっ、あの……! 連れて行ってくれないんですか?」

 

「誰が、ハムエッグのところになんか」

 

「危うく丸呑みされるところだったぜ」

 

 全員がメイを避けているようだった。またしても音楽が鳴り響き、メイの事などまるで無視したように狂乱が続く。メイは誰彼構わず声をかけようとしたが誰もが無言を決め込む。泣き出しそうになった。どうして自分はこんな場所で、たった一人なのだろう。強がらずにアーロンと共に来ればよかったのに。ぎゅっと拳を握り締めるとその手へとすっと触れてくる気配があった。思わず手を払う。

 

 そこにいた人影にメイはまず言葉を失った。

 

 西洋人形を思わせる顔立ち。薄緑色の髪をぼさぼさに伸ばしており、星を内包したような輝きを誇る藍色の瞳は、籠の中の姫、という言葉が似合った。服飾は血のように赤いドレスである。

 

 この異常とも言える場所であっても確実に浮いていた。棒のついたキャンディを舐めており、幼さに拍車がかかっている。

 

「お姉ちゃん、ハムエッグさんのところに行きたいの?」

 

 透き通るハイトーンボイス。メイは魅せられたように頷いた。

 

「うん……。あなたは?」

 

「ラピス。ラピス・ラズリ」

 

 ラピスと名乗った少女がメイの手を引く。どういうつもりなのだろう、と勘繰る以上に、メイは彼女の身を心配した。

 

「あなたみたいな子が、こんなところにいては」

 

「大丈夫。みんな、いい人、だから」

 

 ラピスが視線を振り向けると先ほどまで無愛想だった男でも女でも微笑んで手を振った。しかしメイを見やると笑みが霧散する。

 

「ラピスちゃん。何でそんな子を」

 

 ここの常連からすればメイのほうが異常な人物なのだろう。ラピスは、「変わった人、だから、かな」と言葉にする。

 

「変わった人は放っておけないって、ラピス思うから」

 

 変わった人、という部分では赤面せざる得ないがここではそうなのだから仕方がない。メイはラピスの手助けを得てダンスホールから抜け出し上階を目指す階段に至っていた。

 

「こんな端っこのほうに階段があるなんて」

 

 ダンスホールがメインで階段はまさしく裏側である。ラピスが、「あの人に用がある、って、珍しいし」と返す。

 

「ラピスちゃん、ハムエッグさんの事を知っているの?」

 

 するとラピスは読めない笑みを浮かべて唇の前に指を立てた。

 

「しーっ、だから」

 

 意味が分からずメイは首を傾げる。ラピスは踊るように階段を上がっていく。メイは一歩進むたびに不安が募った。一体、ハムエッグなる人物はどのような人間なのだろうか。もし、黒服達や他の大人達のように怖い人物だったらどうしよう。今さらに恐れが這い登ってくる。するとラピスが振り返って声にした。

 

「お姉ちゃん、トレーナーなんだ」

 

 メイのホルスターのボールを見たのだろう。微笑みながら、「一応、ね」と声にする。

 

「あんまり実力は自信ないけれど」

 

「ラピスもだよ」

 

 驚くべき事にラピスもモンスターボールを持っていた。しかしただの赤と白のカラーリングではない。底のほうにナンバリングと特別な意匠がある。メイは、まさか、と息を呑んだ。

 

「最新鋭のボール?」

 

「ジョウトのガンテツ一門さんで作ってもらったの。世界に一つだけのモンスターボールだよ」

 

 ラピスは一体何者なのか。今さらにこの少女の底知れなさに震える。

 

「ガンテツ一門って、本当に気に入った相手にしかモンスターボールを作らないって有名だけれど」

 

「気に入ってもらったんだ。ラピスの力じゃなくって主様の力だけれど」

 

「主様?」

 

 聞き返す。あまりにも浮いた言葉だった。ラピスは階段を上がり切って振り返る。

 

「そう、主様。ラピスを育ててくれた人だよ」

 

 育ての親か。しかし主、とは悪趣味な育て方だな、とメイが思っていると、視界に飛び込んできたのはバーカウンターだった。様々な酒が並んでおり、液晶ディスプレイが外国のドラマを流している。漂っている空気は軽薄なダンスホールから、落ち着いたジャズの音色になっていた。

 

「主様、連れてきました」

 

 ラピスの声にカウンターの奥から巨体が出てくる。

 

 メイはぎょっと目を瞠った。同時に一歩退く。

 

「何で? だって、これは……」

 

「主様だよ?」

 

 メイは被りを振る。目の前にいるのは育ての親、という想定していた人間像とはかけ離れていた。いや、正しく言えば人間ではない。

 

「ポケモン……」

 

 呟いた声に相手のポケモンはピンク色の巨体を揺らした。どうやら笑っているらしい。

 

「この街で、わたしの事をポケモンと呼ぶのは随分と礼儀知らずなお嬢さんだ」

 

 何と目の前のポケモンは流暢に人間の言葉を使ったのである。それだけでも驚愕に値した。

 

「ぽ、ポケモンが、何で?」

 

「人間の言葉を使っちゃいけないルールでもあるかい? それとも、ここまで滑らかなのが信じられない? あるいはこの子を育てたのがわたしだと伝えても」

 

 育ての親。ラピスの口から語られたのは育てられた事のみ。親だとは一言も言っていない。

 

「ポケモンが人間を育てるなんて」

 

「いけないか? だが、この街では何が起こっても不思議ではない。覚えておくといい」

 

 メイはこんな時にポケモン図鑑のない事を歯噛みした。相手のポケモンの分類くらい分かれば対処のしようはあるのに。

 

 そんなメイの様子を目ざとく悟ったのかラピスが声にする。

 

「主様はベロベルトっていうポケモンなんだ」

 

 ベロベルト。聞いた事のない種類だ。

 

「ベロリンガってポケモンがいるだろう? あれの進化した種族さ」

 

 まさかポケモンの概要をポケモンの口から聞く日が来るとは思っていなかった。メイはすっかり気圧されている。

 

「何か飲むかい? ここまで来るのは若いお嬢さんなら大変だっただろう」

 

「あの、あたし、その……」

 

「安心するといい。無理やり酒は勧めないよ」

 

 そう言ってベロベルトは巨大な舌を出した。その特徴からベロリンガの進化系というのは間違いではなさそうだ。

 

「喋るポケモンなんて初めてで……」

 

「おや、お嬢さんはペラップというポケモンを知らないのかな? あれも喋るぞ」

 

「でもあれは、主人の教えた言葉をおうむ返しにするだけで厳密に喋るとは」

 

 たとえばこのように会話の形式が成り立つ事などあり得ないのだ。ベロベルトの主人は、「まぁ驚くかな」と笑う。

 

「わたしとてこの地位を得るまでが大変だったからね。下のホールで馬鹿騒ぎしている連中の後片付けもわたしの仕事さ」

 

「あの、ベロベルトさんは……」

 

「わたしにも名があってね」

 

 そう言われて自分の言葉が軽率であった事をメイは恥じた。顔を伏せて、「ごめんなさい」と謝る。

 

「いやいや。名前の有無なんて普通は気にしないものさ。スプライトでも飲むかな?」

 

 スプライトの瓶を取り出してきたベロベルトはグラスに注ぎながら口にした。

 

「ここの経営者を勤めさせてもらっている、ハムエッグだ。よろしく」

 

 ハムエッグ、という名前にメイは心臓が跳ね上がった。それはアーロンの言っていた依頼主ではないのか。

 

「ハムエッグ、さん……」

 

「おや、わたしの事を既に知っているようだ。それもこれも、君の思惑通りかな。アーロン」

 

 放たれた声に暗闇から現れたのは青い装束を身に纏ったアーロンの姿だった。どうして、とメイは声を詰まらせる。

 

「普段はダンスホールから入らない。この後ろに直通のエレベーターがある」

 

 アーロンのやけに落ち着き払った声音にメイは思わず声を荒らげた。

 

「あ、あなた! あたしをわざとあんなところに!」

 

「あんなところとは、ご挨拶だな」

 

 ハムエッグが笑う。失礼をしてしまった事を今さら恥じて、メイは再三謝った。

 

「すいません……。あたし」

 

「いいんだよ。よくある間違いさ。ヤマブキは長いのかな?」

 

「あ、いえ、まだ来て日も浅くって」

 

 スプライトの入ったグラスを受け取る。アーロンはメイと話すハムエッグを睨み据えていた。その眼差しは殺意とも取れる。どうして張り詰めた空気が流れているのだろう。ハムエッグはここまでユーモラスなのに。

 

「どうかしたかい?」

 

「あっいえ。やっぱりあたしみたいな日の浅い旅行者は、その、引っかかりやすいんですかね」

 

「引っかかる? 何にだね?」

 

「その、悪い人達に」

 

 その言葉にハムエッグは大笑いした。メイはどうしてだか恥ずかしくなる。

 

「悪い人達、とは。では私も悪いほうの奴らかな?」

 

「いえ、ハムエッグさんは、別に」

 

「偽るものじゃないよ。まだ安心も出来ていないんだ。悪い連中と思われても仕方がない」

 

 この喋るポケモンは普通の人間よりも人格者なのではないか、とメイは思い始めていた。その巨体に似合わない短い手足のせいで悪戦苦闘するかに思いきや、以外にもあっさりと業務をこなすハムエッグにメイは目を奪われていた。

 

「慣れているんですね」

 

「客をもてなすのに、もたついていちゃ悪いだろう?」

 

 それもそうだ。メイはどうしてこのような場所がダンスホールの上にあるのか聞いていた。

 

「何で、こんな場所に? ダンスホールの上なんかに」

 

「元々、ダンスホールはわたしの本業のために必要な、言うなれば自由な場所でね。あそこで纏った商談や、あるいは流れ込んできたものこそ、わたしの資金源になる」

 

 首を傾げていると、「情報屋だ」とアーロンが口を差し挟んだ。

 

「この街で一番に権力のある情報屋が、ハムエッグだ」

 

 メイが呆気に取られる。当のハムエッグは、「照れるね」とアーロンに目を向けていた。

 

「波導使いアーロンからのお褒めの言葉となれば」

 

「誰も褒めてはいない」

 

 アーロンとハムエッグはどうやら険悪な空気だ。メイは話題を変えた。

 

「その、ラピスちゃんは何か飲む?」

 

 メイの言葉にラピスが手を上げる。

 

「カルピスがいい」

 

「はいよ。今入れるからね」

 

 ハムエッグがたとえポケモンであってもこの二人がよい親子関係なのには間違いなさそうだ。そう思って微笑んでいると、「何をニヤついている」とアーロンが指摘した。

 

「ニヤついてなんか」

 

「締まりのない顔をするな。特に、この場所では、な」

 

 意味が分からずメイが戸惑っていると、「ヤマブキの情報が集う最前線だ」とハムエッグがラピスにカルピスのグラスを渡した。

 

「何か、情報が欲しくってここに来たんだろう?」

 

「これを解析してくれ」

 

 アーロンの取り出したのは何と自分のポケモン図鑑であった。思わぬ光景にメイは割って入る。

 

「ちょっ! ちょっと待って! あたしのじゃない!」

 

「そうだが? 何か問題でもあったか?」

 

「大ありですよ! あたしの私物をなんで!」

 

「私物、か。ハムエッグ、簡易検査でいい。こいつの私物かどうかを判断してくれ」

 

「簡単に言ってくれるね」

 

 受け取ったハムエッグは器用に表裏を見やり、次いでコンピュータに繋いだ。

 

「製造責任者はアララギ博士。イッシュの技術一家だな。そこからポケモン図鑑をもらった、なるほど筋は通っている」

 

 自分の経歴が丸裸にされるようでいい気分ではない。アーロンはさらに追及した。

 

「まだあるはずだ」

 

「簡易的に波導で見たな。なるほど、この仕掛けは面白い」

 

 何が面白いのか。ハムエッグのその巨体のせいでモニターは一切見えない。

 

「纏った書類と情報は、彼女のいないところのほうがいいかな?」

 

 再びポケモン図鑑を手渡したハムエッグにアーロンは紙幣を掴ませた。

 

「手間賃込みだ。ここまでこいつを案内するのにも時間がかかっただろう」

 

「なに、ラピスのいい遊び相手になってくれた。この子も気に入ってくれている」

 

 ラピスはストローでカルピスをすすって、「ラピスはお姉ちゃんは好きだよ」と答えた。その好意は素直に嬉しいのだが、アーロンはどうしてだか射るような瞳で見つめてくる。

 

「お姉ちゃんは、か。相も変わらず俺は嫌われているようだな」

 

「一度やってしまえば、ね。仕事柄仕方がないだろう」

 

 アーロンはハムエッグから受け取ったポケモン図鑑を目にしてからメイに言いやった。

 

「おい、俺の入ってきたエレベーターからこの建物を出ろ」

 

「は、はぁ? なんであたしがあなたの命令なんかに」

 

「出ろ。早くしないとまた黒服に囲まれるぞ」

 

 押し殺したようなアーロンの声に、「ラピスが送る」と幼いラピスが手を挙げた。

 

「いいだろう。ラピス、送ってあげなさい。ここいらだけでは不安だから表通りまで、ね」

 

 頷いたラピスがメイの手を引く。

 

「行こ。お姉ちゃん」

 

 メイはうろたえ気味に頷く。

 

「あの、あたしだけ行っても」

 

「いい。もう用済みだ」

 

 何て言い草。やはりこの男を信用すべきではない。メイは鼻を鳴らした。

 

「そうでございましたか! あーあ! ラピスちゃんみたいな素直な子だったらいいのに!」

 

 メイはわざと大声で足音を立てながらその場を後にした。

 



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第十話「盟主と暗殺者」

 

「あの子みたいな、か。なかなかに肝の据わった事を言うもんだ」

 

 ハムエッグが頬杖をついて微笑む。アーロンはこの場において二人きりになった事を確認する。

 

「いいのか? 手持ちを手離して」

 

「もしもの時はあの子だって分かっているさ。スノウドロップの二つ名は伊達じゃないよ。君が波導を使ってわたしを殺そうとすれば、瞬時にあの子はお嬢ちゃんを殺す。それでもいいのなら」

 

 アーロンは少しばかりの逡巡の後に口にする。

 

「……今殺されるのは都合が悪い」

 

「都合のいい時に掃除を頼んでくれればいつでも殺そう。わたしと君の仲だ」

 

 ハムエッグの提案にアーロンは憎悪の目線を向けた。

 

「やはりお前は、下衆だな」

 

「紳士であれ、とレディの前では教えられているんでね。君のようにいつでも不遜な態度を取っているタイプじゃない。小さくともレディはレディだ」

 

「よく言う」

 

 ハムエッグは場合によればいつでも人殺しに躊躇いがない。メイが少しでも間違った事を言えば即座に首をはねるだろう。

 

「それで。ポケモン図鑑の仕掛けだが」

 

「ああ、こいつを見るといい」

 

 示されたのは先ほどのポケモン図鑑の解析結果だ。やはり、とアーロンは確信する。

 

「逆探知電波が出ている」

 

「常に位置情報を送り続ける電波か。これで君のアジトでも割れたのかな?」

 

 どうせその情報も仕入れ済みだろうに。分かりきった事を言う。

 

「……誰がこの電波を傍受している?」

 

「波導で確認済みか。そうだな、この電波を傍受している人物、いいや団体はヤマブキにいる。ちょっと調べれば出てきたよ。彼らだ」

 

 ディスプレイが切り替わり、今度は青い僧侶のような服装を身に纏った人々が出てきた。

 

「新手の宗教団体か?」

 

「カヤノ医師から聞いているだろう? あるいはこう言ったほうがいいか。オウミ警部から消すように命じられている」

 

 ハムエッグはこちらの手の内などお見通しだ。アーロンは苦々しい顔をしながら問いかける。

 

「何者だ?」

 

「イッシュではそこそこ名の知れた団体だ。一時期政権を麻痺させた事もあるという。あまりに危険なため、その思想ごとなかった事にされた組織。名をプラズマ団」

 

「プラズマ団……。それがどうしてカントーにいる?」

 

「渡ってきたんだろうね」

 

 ハムエッグは高級そうな煙管を取り出して紫煙を棚引かせる。自分の周りには喫煙者しかいないのか。

 

「渡ってきた? 渡航規制もかからずにこいつらがカントーに渡ってこれたと?」

 

「半数を切って、半数だけ渡ってきた、という見方が大筋だ。これでも半数、というのは驚異的ではあるが何分、組織としての熟練度は低い。言ってしまえば素人集団だ」

 

 オウミの見解と同じである。アーロンは詳細を聞いていた。

 

「何でこいつらがあの小娘のポケモン図鑑を傍受する必要がある?」

 

「さてね。そこまではわたしには。だが興味深い情報が渡ってきた。波導使いアーロンが打ち漏らしをした、と」

 

 アーロンは眉間に皺を寄せる。まさか、一昨日の件か。ハムエッグに上がっていてもおかしくはない情報だが、大っぴらには出回っていないだろう。恐らくハムエッグは権限で握り潰している。

 

 これは交渉だった。

 

「格調高い殺し屋、青の死神が打ち漏らし、となれば経営に響いてくるんじゃないかな?」

 

 この男は、いいやこのポケモンは節操を知らない。どんなネタでも、ゆすれるのならばそれに使ってくる。どうせ食い扶持に困ってもポケモンだ。人間とは思考形態が違う。いざとなればただの野生としてトレーナーに捕まえられる、という手段でも平気で取りそうだった。

 

「……五万」

 

「十二万は要るね」

 

 とんだ出費だとアーロンは財布から指定された紙幣を取り出して手渡す。ハムエッグは、「不確定情報だが」と前置きする。

 

「一昨日、中小企業の社長とそれの雇った殺し屋、そして運転手と三人が殺された。だが殺し屋は当然、大っぴらにされない。外面上は二名の事故死。だが、この記述には誤りがある。青の死神は恐らく目撃された。殺しの現場を。だからもう一人、報道されていない死者がいる」

 

「確証のない」

 

「わたしがそんな情報をここまで留めておくと思うか? 君との交渉のレートに上げられると思ったからわたしの手で置いておいた」

 

 どこまでも卑怯な奴め。アーロンは、「仮に打ち漏らしたとして」と声にする。

 

「まさか、青の死神が死んだかどうかの判断もつけられないなまくらだと思っているのか?」

 

「いいや、それはないだろう。確実に殺した。青の死神はそう思ったはずだ。だが、生きている。それだろう? 君が解せないのは」

 

 煙管でハムエッグはアーロンを指し示す。アーロンは忌々しげに口を開いた。

 

「どこまで知っている?」

 

「分からないのは彼女が何で生きているのか、だろう? わたしだってそれ以上は分からんよ。だから、ラピスに彼女を案内させた。薬漬けにしてキズモノにしてもよかった」

 

 ダンスホールの黒服の一挙手一投足をこの男は任せられている。必要とあればメイを拉致する事も出来た。

 

「……畜生の分際で」

 

「その畜生に論破される気分はどうかな? 波導使い。今の会話で確信したよ。君は間違いなく、打ち漏らしをした。だがどうして打ち漏らしたのか分かっていないな」

 

 隠し立てしたところで仕方がない。アーロンは話せるだけ話そうと考える。

 

「波導を読まなかった。怠っていた」

 

「足りないな。それだけでは打ち漏らしの確定要因ではない。もうこの稼業を何年続けている? 素人が死んだかそうでないかくらい、波導を読むまでもないだろう?」

 

 あの時の自分の不手際まで露見するようで気分が悪いがアーロンは首肯する。

 

「殺した、と思っていた」

 

「だが生きている。生ける死者とは。なるほど、そう考えれば辻褄は合う」

 

「何のだ?」

 

「プラズマ団が彼女を追う理由だ。追跡しているのは彼女が死なない人間だから」

 

「飛躍だな」

 

「そうでもない。彼女の出身はイッシュ。どうしてカントーに渡ってきた? 渡航記録を調べようとするとこれだ」

 

 抜かりのないハムエッグの行動でもそれは予想外だったのだろう。メイのパスポートには何重にもロックとセキュリティがかけられていた。

 

「国や旅行会社レベルじゃない。これは、裏組織のかけ方だ」

 

「あいつ自身がプラズマ団の構成員。これならばどうだ?」

 

「論拠に欠ける。ならば何故、彼女は構成員として報告しない? まさかポケモン図鑑だけが通話端末だと? そんな馬鹿な話はないだろう。端末を持っていて、それをろくに使っていないというのはおかしい」

 

 確かに昨晩自分は彼女を監禁した。だというのにそのプラズマ団とやらから何の接触もない。

 

「普通、寝込みを襲うものだ。昨晩よく眠れたのが、何よりもおかしいのだと気付いたかな?」

 

 アーロンは推測を並べる。ハムエッグほどの人物ならば推論はすぐさま確証に変わるはずだ。

 

「構成員じゃないが、特一級の監視対象」

 

「あり得る。だが、そうだとすればプラズマ団の連中は間抜けだ。このヤマブキの構造を一切知らず踏み込んできた事になる」

 

「裏組織にしてはやり方がずさんだな」

 

「それが引っかかる。どうしても、ね。イッシュで幅を利かせたのならばやり方くらいは熟知しているはずだ。だというのに、路地番の使い方さえも知らない、というのは」

 

 素人組織、だとオウミは断じていた。カヤノの見方もそうだ。裏組織、と呼ぶにはどこか間抜けで、裏の集団レベルだという。

 

「ヤマブキの様式を知らない」

 

「イッシュにはヤマブキよりも裏路地の多いヒウンシティがある。そこでやってきた連中が、ヤマブキのような簡素な街の扱い方も知らないのはおかしいだろう」

 

 アーロンは額に手をやる。ハムエッグがキセルをくわえてコーヒーを注いだ。そろそろ考えが行き詰ってくるのに勘付かれているのだ。癪だが喉も渇いていた。

 

「ではプラズマ団は何なのか。どうしてメイ、というあのお嬢ちゃんを、言うなれば狙うでもなく、監視している? それが分からない」

 

「何か、監視する目的がある」

 

「それが見えないと話にならない、と言っているんだ。ここら辺りで誰か、命知らずが一人飛び込んでくれると助かるんだが」

 

 ハムエッグの思惑は最初から分かり切っている。自分にプラズマ団へと仕掛けろ、と言っているのだ。

 

「……勘、というものがある」

 

「ほう、勘、ね」

 

「長年の勘から、次の行動を決める。あんたならば分かり切っている事実だろう」

 

「裏でやっていくのならば当然の動き方だ」

 

「俺の勘が、いい方向には転がらないと告げている」

 

 ハムエッグはフッと笑う。

 

「それは波導使いとして、かな?」

 

 コーヒーを呷り言い放つ。

 

「暗殺者として、だ。このやり方は賢くない。もっと監視を厳にしてから、相手の出方を見るべきだ」

 

「警察のような事を言う」

 

 ハムエッグの皮肉にアーロンは被せた。

 

「そちらこそ、俺を使うようになるとは、まるで公安のようだ」

 

 譲るつもりはなかった。ここで譲歩すれば一つ、また一つと厄介ごとが増えるのは目に見えている。

 

「……いいだろう。君の気持ちはよく分かった。他の暗殺者に仕事を頼むにしても、しかし、一から説明する手順がある。その手間賃とお嬢ちゃんの保護、それと警察や各局メディアへの圧力。また、新聞記事やゴシップを抑制する。その暗殺者への報酬と斡旋料。加えてもう波導使いアーロンには名声は渡ってこないと思ったほうがいい。素人集団相手に尻尾を巻いて逃げ出した、と――」

 

 ピカチュウがモンスターボールを割って飛び出していた。その尻尾がまるで切っ先のようにハムエッグの喉元へと突きつけられる。

 

「いつでも波導を切れる」

 

「やればスノウドロップに命を狙われるぞ」

 

 ハムエッグは臆する事もない。この男の経歴を知っていれば当然と言えば当然だ。

 

「いいか? 波導使いアーロンが尻尾を巻いて逃げ出すなど――あり得ない」

 

「それはいつまでの話かな? このままだとわたしの言った通りになりそうだが」

 

 睨み据える。ピカチュウも本気の殺気をハムエッグに向けた。青い電流が小さな身体を跳ねる。だがハムエッグは視線さえも逸らさない。冷や汗一つ掻いたらお終いだ。

 

「……分かった。あの小娘については俺が引き継ごう」

 

「賢明な選択だよ、波導使い」

 

 ピカチュウを肩に乗せ、アーロンは言い放つ。

 

「だが、俺を都合よく利用出来ると思うな。次は殺す」

 

「その次は殺すって警句、二十七回目だよ」

 

 ハムエッグの皮肉にわざわざ応ずる必要はない。アーロンはその場を後にした。

 

 



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第十一話「スノウドロップ」

 

 ラピスは裏通りを知り尽くしているようだ。スキップを踏むような気楽さで表へと誘導していく。メイはいくつか聞いていた。

 

「その、主様、って言うのがあの……」

 

 言葉を濁していると、「そうだよ」とラピスは答える。

 

「ベロベルトっていうポケモン」

 

「ラピスちゃんの、お父さんやお母さんが使っていたポケモンなの?」

 

 その問いにラピスは首を横に振る。

 

「おとうさん、おかあさんってなぁに?」

 

 足を止めた。それは本気で聞いているのだろうか。ラピスは穢れのない眼で問いかけてくる。メイは一呼吸置いてから、「何でもない」と微笑んだ。

 

 何か、触れてはならない一線であったような気がするのだ。

 

「お姉ちゃんはどこから来たの?」

 

「イッシュだよ。カントーからは遠く離れているけれど」

 

「アメリカだ!」

 

 メイは言いよどんだ。

 

「そう呼んでいる人もいるね」

 

 カントーでは昔、仮想敵国として扱われ「アメリカ」と呼ばれていた。それはイッシュの人々にとってしてみれば蔑称でもある。だがこのような小さな子が使う分にはまだ許された。物事の分別もついていないのだろう。

 

「ラピス、いつかアメリカ行きたいなー」

 

「その時は主様も一緒?」

 

 その問いかけに、「無理だよー」とラピスは笑った。

 

「何で? ラピスちゃんくらい可愛いと向こうじゃモテモテだよ」

 

「だって主様言ってたもん。かんぜい、に引っかかるから無理だって」

 

 ベロベルトの輸入は関税に引っかかるのだろうか。確かにイッシュでは見た事がなかった。

 

「まぁ、そうなのかもね」

 

「それに、ラピスお仕事あるし」

 

「お仕事?」

 

 聞き返してから、ああ、小学校にでも通っているのだな、と考えた。この年頃の少女は自分のやっている事をお仕事だと思いがちだ。殊にあのような場でベロベルトの誘導に使われたのではそれをお仕事だと思いかねない。

 

「主様のところに人を届ける事?」

 

「それもあるけれど、本当の仕事は、ラピスしか出来ないんだって! 主様が!」

 

 嬉しそうにラピスがメイの手を引っ張る。メイは愛想笑いを返す。あのベロベルトならば彼女にきっちりとした教育を施す事も可能そうだった。

 

「通信教育とか?」

 

「言っちゃいけないんだって。初めて会う人には」

 

「えー。でもラピスちゃん、あたしを主様のところまで届けてくれたじゃない。あたしもラピスちゃんの事知りたいな」

 

 その時、前から歩み寄ってくる人影があった。黒服二人組で若いほうがラピスに気付いて笑う。

 

「先輩、ガキがいますよ。こんなところに」

 

 指差された事にも苛立ったが明らかに馬鹿にした口調なのにもメイは憤りを覚える。しかしラピスは気にも留めない。

 

「おじさん達、どこへ行くの? ラピスが案内してあげる」

 

 それを止めに入る前に若いほうの黒服がラピスの手を引いた。

 

「いいねぇ。先輩、このガキ買ってくださいって言ってるんですよ」

 

 メイは口を挟もうとしたが黒服二人組にさえも何も行動出来ない。恐怖が足を竦ませている。

 

「案内、要らないの?」

 

「そうだねぇ。おじさん達と一緒に来ようか」

 

 さすがにその言葉にはメイも返そうとしたがその時、ラピスの手の甲を目にした黒服のもう一人が目を見開く。

 

「おい……、やめておけ」

 

「えっ、何でですか、先輩。こいつ買ったら変態共に喜ばれそうでしょ」

 

「馬鹿が……。その手を離せって言っているんだ」

 

 思わぬ言葉にメイも若い黒服も閉口していたが彼は聞く耳を持たない。

 

「ガキですよ? 何を怖がっているんですか。こんなの」

 

 思い切り手を引っ張った若い男の手がすっぽ抜けていた。いや、正確には、掴んでいた指が切断されていた。

 

 切断された事に気がついていないのか若い黒服は何故手がすっぽ抜けたのかを気にしているようだった。もう一人が慌てて若い黒服を制しその喉から叫びが迸ったのを聞いた。

 

「お、オレの指が……」

 

「馬鹿野郎! だから言っただろうが。こいつはハムエッグの子飼いのスノウドロップだ」

 

 スノウドロップ、という聞き慣れない言葉にメイが疑問を挟んでいる間にもラピスは歩み出る。

 

「ねぇ、案内要るならやるよ。ラピスの仕事だもん」

 

「いや、いいんだ。お嬢ちゃんは何も気にしなくっていい。頼むからハムエッグには言わないでくれよ。ほれ、駄賃だ」

 

 メイは思わずぎょっと目を見開く。手渡された紙幣は駄賃というレベルではなかった。黒服が離れていくのを目にしながらメイはラピスへと尋ねる。

 

「何をしたの?」

 

 ラピスは頭を振った。

 

「何にも。ちょっと痛かったから、この子が反応しちゃったのかな」

 

 この子、とラピスがモンスターボールを撫でる。一体、この少女は何者なのだ。全くそれが読めない。

 

「表通りはすぐそこだからね」

 

 ラピスは踊るようにメイを案内するが先ほどまでの幼い少女という印象は撤回しなければならなかった。

 

 どうして情報屋の下についているのか。そもそも彼女は何なのか。

 

 メイには分からぬ事が多過ぎた。

 



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第十二話「爛れた街」

 

 表通りの分かりやすいガーディの銅像の近くでメイは座り込んでいた。周囲に人影はまばらでラピスの気配はない。アーロンは歩み寄って声にする。

 

「何だ。その不服そうな顔は」

 

 メイはどこか不貞腐れたように顔を背けていた。何か気に食わない事でもあったのだろか。

 

「膨れっ面を見せている暇があれば少しでもこの街に慣れるんだな」

 

 アーロンが歩き出すとメイは立ち上がって、「何で!」と声を張り上げた。アーロンを含め、周囲の人々が視線を向ける。

 

「何で! この街はこんなのなんですか!」

 

「落ち着け。こんなの、とは何だ」

 

 メイは顔を伏せて、「ラピスちゃん」と呟く。

 

「あの子だって普通じゃなかった。何者なんですか」

 

 どうやらラピスの事も含め一悶着あったらしい。アーロンは、「今さらにそれか」とこぼした。

 

「今さらって……。あたしが鈍いんですか? どこからどう見ても、普通の女の子じゃ」

 

「ラピス・ラズリを普通の子供だと思うな。この街で一番の情報屋、ハムエッグの子飼いだぞ。あれはこの街では敵なしの暗殺者だ」

 

 その言葉にメイは息を呑む。まさか暗殺者と共に歩いていたとは思わなかったのだろう。

 

「暗殺者って……。そんなの本当にいるわけ」

 

 どうやら自分が波導の暗殺者である事もこの娘には分かってないようだ。アーロンは、「ついて来い」と促す。歩きながら話すのがちょうどいい。

 

「ラピス・ラズリはハムエッグが育て上げた最強の殺し屋だ。スノウドロップという二つ名を持っている」

 

「その、スノウドロップって何なんですか。ラピスちゃんの手の甲を見て、黒服が判断したっぽいですけれど」

 

「その黒服は物を知っていたようだな。ラピス・ラズリは手の甲に花の刺青がある。それがスノウドロップの一つのいわれだ」

 

「どういう意味なんです?」

 

「これ以上は知らないほうがいい。どうせ、お前はラピス・ラズリが暗殺者で今まで数多の人間を殺してきたと言っても信じまい」

 

「そりゃ……、信じられないですけれど」

 

 甘い、というよりも見た目で人を判断するほどこの街で愚かな事はなかった。

 

「安心しろ。ラピス・ラズリはお前に懐いている。殺される心配はないだろう」

 

 殺される、という部分でメイが息を呑んだのが伝わった。暗殺者であるという部分よりもラピスを信じたい気持ちが強いのだろう。

 

「あたしは……暗殺者だからと言って差別したりしない」

 

「立派な心がけだな。ではこの街に潜む闇を暴くのにも一役買ってもらおうか」

 

 その言葉にメイが、「どういう事です?」と聞き返す。アーロンは周囲に視線をやった。

 

「ここから先は、家で話す」

 

「またアーロンさんの家に行けって事ですかぁ?」

 

 メイからしてみれば監禁された場所なので行きたくないのだろう。アーロンは嘆息を漏らす。

 

「だったら、その辺で喋るか? 喫茶店でも手軽に見つけて。なるほど、喋りやすいかもしれないな。だがその場合、確実に邪魔をしてくる輩が現れる。そういうリスクを考えなければ」

 

「ああ、もう! 分かりましたよ。あたしはついて行けばいいんでしょ」

 

「分かればいい」

 

 アーロンは考えを浮かべる。預かったポケモン図鑑は今もプラズマ団の連中に情報を送り続けているのだろうか。その場合、根城を知らせるようなものだが歩き回るよりかはまだマシだ。

 

 一階の喫茶店は相変わらず客は少なく、店主はアーロンの帰宅を喜んだ。

 

「アーロンに、お嬢ちゃんも結局ついて来たんだ」

 

「好きでついて来ているんじゃないですよ」

 

「今晩出かける。留守を頼むぞ」

 

 店主に言いやると、「ああ、定例会議ね」と心得たようだった。

 

「忙しいんだねぇ、衛生局勤務っての」

 

 アーロンは階段を上がり、メイが入ったのを確認してから鍵を閉めた。

 

「衛生局勤務って……、何て嘘つくの」

 

「一番勘繰られない部署だ。そういう嘘の一つや二つを持っておくのがこの街での鉄則というものだと分かれ」

 

 メイは不服そうにむくれながらソファに座り込む。アーロンは場所を決めあぐねていたがやがてソファの前にあるテーブルへとポケモン図鑑を放り投げた。

 

「あたしの図鑑!」

 

「本当に、これはお前の図鑑か?」

 

 図勘を手に取ろうとしたメイの手首をひねり上げる。

 

「痛い! 痛いですって!」

 

「答えろ。プラズマ団とは何だ? どういう関係がある?」

 

「プラズマ団? それってあたしが壊滅させた組織じゃないですか」

 

 壊滅。その言葉にアーロンはぴくりと眉を跳ねさせる。

 

「適当な嘘をつくな。一トレーナーが組織の壊滅など」

 

「出来たんですから、仕方がないでしょう」

 

 嘘をついている様子はない。だがそれが逆に疑わしかった。

 

「素人集団とはいえ、お前のようなトレーナーが壊滅させられるほど裏組織は甘くない」

 

「色んな人の助力はありましたよ。ジムリーダーの人達や、チャンピオンも。そういう側面もあって、あたしはカントーに渡ってきたんです」

 

「どういう意味だ」

 

「名誉トレーナーの地位をもらって。それで渡航可能になったから、あたし、前から来たかったカントーにやって来たんですよ」

 

 メイは鞄の中からジムバッジの入ったケースを取り出す。確かに八つのバッジが確認出来た。

 

「名誉トレーナー制度? 聞いた事がないぞ」

 

「イッシュで新しく出来た制度で。あたしはその第一号。カントーに来たのも語学留学っていう名目です! 離してください!」

 

 手首を掴んだままだった。しかしまだ聞き出す事がある。

 

「壊滅した、と言ったな?」

 

「言いましたよ。何か問題が?」

 

「プラズマ団はまだ存在している」

 

 アーロンの言葉に今度はメイが呆然とする。

 

「嘘」

 

「嘘じゃない。この図鑑から出る電波を傍受しているのはプラズマ団だ。俺はお前がプラズマ団の尖兵である可能性も考慮に入れていた」

 

「嘘、嘘ですよ! あたし、確かにプラズマ団を倒しましたもん!」

 

「本当に、か? それが何者かによって操作された可能性は?」

 

「操作って、誰がです?」

 

 聞き返されればアーロンも押し黙る他ない。誰にこの娘は操られている? プラズマ団だとして何を根拠に普通のトレーナーを追う?

 

「……それが分からない」

 

「分からないなら、あたしに罪をなすりつけないでください」

 

「だが、異常な事はまだある」

 

 どうしてあの夜、殺したはずなのに死ななかったのか。直接聞き出そうとしたが、波導を読んだほうが速いと切り替えた。メイの体内に流れる波導は余人と変わったところは一切ない。死者が動いている、と評したハムエッグの読みは外れだ。死人に近い部分はなかった。

 

「……何見ているんです?」

 

「何でもない。だが、そうだとしても奇妙な事はある。プラズマ団がイッシュで倒れたのならば、どうしてカントーに渡ってくる余力がある」

 

「分かりませんよ。あたしだって」

 

「潰した本人だろう?」

 

「あたし一人の力じゃないですって! もう、分からず屋だなぁ」

 

 ようやくメイの手首から手を離す。だがポケモン図鑑をまだ返すわけにはいかない。

 

「返してください」

 

「返せば、この事件が収束するとは思えない」

 

「迷惑なんです! 振り回されて、あたし」

 

「では言い方を変えよう。もしこれを返しても、お前は一生わけの分からない潰したはずの組織に付け狙われる。それを容認していいのか?」

 

 それは、とメイが口ごもる。アーロンは畳み掛けた。

 

「確たる証拠もある。このポケモン図鑑を使って、俺の位置情報を調べたな。誰の協力だ?」

 

 メイは逡巡の後にホロキャスターを取り出す。

 

「アプリの中の、落し物自動追跡アプリで探したんです。どこかで落としたのなら、それを追尾するように出来ています」

 

 アーロンはホロキャスターを受け取り波導の眼で精査する。どうやらホロキャスターには仕掛けはないらしい。

 

「このアプリを使って、ポケモン図鑑の電波を辿った、と?」

 

「だからそうだって言っているじゃないですか」

 

「しかし、ここは電波を完全遮断する場所だ。だというのにポケモン図鑑が追跡出来た事がおかしい」

 

 メイは困惑の表情を浮かべていた。アーロンもどうしてメイがここを特定出来たのかを知りたい。

 

「……あたしには詳しい事は何も。ホロキャスターをもらった時から、ついていたアプリですし」

 

「誰からもらった」

 

 メイはその時、一瞬ハッとしたがすぐに隠そうとする。しかしアーロンは見逃さない。

 

「何か、やましい事があるんだな?」

 

「ない! ないです!」

 

「なければ教えろ。誰からもらった」

 

 メイは再び視線を逸らす。アーロンはホロキャスターを操作した。

 

「何してるんですか!」

 

「製造番号やユーザー情報で元の持ち主を探る。そうすれば、お前がいくら隠し立てしようが」

 

 ユーザー情報で出てきた名前はメイではない。たった一文字の英数字だった。

 

「N、とは何者だ?」

 

「ファ、ファミリーネームで……」

 

「分かり切っている嘘をつくな。ユーザー情報にNとある。この人物がお前にホロキャスターを渡した張本人だな」

 

「……違います」

 

「嘘はいい方向には転がらないぞ」

 

「だから! 違うんですって! 確かに、それはNって人のものですけれど、その、あたしもよく知らなくって……」

 

 意図が分からずアーロンは問い質す。

 

「これがお前のでなければそのNという人物のものという事になる。だが、お前はNを知らないのだというのか?」

 

 メイは気後れ気味に頷く。アーロンは額に手をやっていた。

 

「あのな、俺にも信じるものと信じられないものがある。他人のホロキャスターを使って、自分のポケモン図鑑を見つけ出したって言うのは、現実的じゃない」

 

「でも、その、最初からアプリは入っていたんです。同期設定をしただけで」

 

 アーロンは目を細めて睨む。

 

「どこで拾った?」

 

「……二年前にプラズマ団が活動していたっていう場所で。今はもう廃墟ですけれど。四天王に挑む前に見ておくといい、って言われたんです。二年前に酷い事が起こったって」

 

「プラズマ団が関連している事か」

 

「知らないんですか? プラズマ団が政府中枢に反旗を翻したんですよ」

 

 大きなニュースになっていたのはオウミの発言からしても納得は出来る。しかし、どうしてこの小娘が関わっていると言うのだ。

 

「確か、政にも影響したと聞くが」

 

 メイはため息を漏らし、「知らないんだ……」と呟いた。アーロンは、「興味がないからな」と応じる。

 

「でも、国際社会では有名な事件で」

 

「俺に関わりのなければ、それは興味がないと言うんだ」

 

 徹底したアーロンの声音にメイはむくれた。

 

「……そういうの、よくないと思いますよ」

 

「よかろうがよくなかろうがお前の判断するところじゃないな。で、その廃墟で見つけ出したホロキャスターを勝手に持ち出して自分のものとした、と」

 

「……随分と言い方が悪いです」

 

「事実だ。何も間違っていまい」

 

 メイは、「でもそれだけで」と口にした。

 

「それ以外はプラズマ団を色んな人の助力で壊滅させたくらいしか」

 

「心当たりと言えば、それか。壊滅させた組織の残党が復讐の機会を狙っている。あり得ない話ではない」

 

「怖い事言わないでくださいよ」

 

 メイが震えるがアーロンは事実を突きつける。

 

「一番あり得るのがそれだ。そうでなければ、どうしてこのポケモン図鑑にはそこまでの探知機能がついている」

 

 あるいは、とアーロンは考える。メイでさえも知らされていない図鑑の拡張機能のうちの一つ。しかしそうだとすれば図鑑の製造責任者とプラズマ団がグルという事になる。それは現実味がない。

 

「今宵、俺は仕掛けるつもりだ」

 

「仕掛けるって、何をです?」

 

 この期に及んで理解の乏しいメイに肩透かしを食らった気分でアーロンは告げた。

 

「俺は素人集団を壊滅させなければならない任務を帯びている。お前の言うプラズマ団がそれだ。ヤマブキの秩序を乱そうとしている。それがこの街には好ましくない」

 

 アーロンの声音にメイは息を呑む。

 

「潰す、って言うんですか」

 

「他に何がある」

 

「……無理ですよ。たった一人でなんて」

 

 メイは立ち上がっていた。

 

「あたしも一緒に行っていいですか?」

 

 その言葉にはアーロンも目を瞠った。

 

「何故、お前が? 役にも立たないだろう?」

 

「そうでもありませんよ」

 

 ふふん、とメイはモンスターボールを取り出して緊急射出ボタンを押す。

 

「行け!」

 

 放たれた光と共に出現したのは細長い手足を持つポケモンであった。緑色の髪を流したような女性型のポケモンであり、音符のような意匠がある。

 

「メロエッタ。あたしのポケモンです」

 

 メイは誇らしげにするがアーロンは眉をひそめた。

 

「おい、まさかこれで俺の助力になると」

 

「なりますよ。バッジ八つ手に入れたエースポケモンです」

 

 アーロンは呆れ気味に立ち上がって夕食の準備を始めた。メイが声を差し挟む。

 

「ちょっ、ちょっと! 何で無視するんですか!」

 

「手足が細い。女性型、見るに波導も弱い。どう考えても戦闘向きではない」

 

 アーロンの断ずる声にメイは、「バッジ八つですよ!」と抗弁を発する。

 

「これからやるのはルールに則ったポケモンバトルじゃない。殺し合いだ。その最中に非力なポケモンを持ち込まれては困る」

 

「非力って、ピカチュウだって非力でしょう!」

 

 メイの声にアーロンはつくづく、とでも言うように嘆息を漏らす。

 

「ピカチュウが非力に見えるのならば、お前はトレーナーとしてはまだまだだ。俺のピカチュウはポケモンバトルをするために育てたんじゃない。命のやり取りをするために育て上げている。それを評して非力だとするのは、トレーナーとしての力量を疑うな」

 

 うっ、とメイが声を詰まらせる。アーロンは黒胡椒をまぶして唐揚げを作ろうとしていた。

 

「その、あたしが役に立てる事って……」

 

「ない。ここにいろ」

 

 断じた声音にメイは項垂れる。何を残念がる事があるというのだ。自分に被害が及ばないのならばそれに越した事はないだろうに。

 

「危ないところに行きたいのか?」

 

「いや、あたし、一応はプラズマ団を倒したって言う自負があったわけで。その、そこまで無力だって言われるとへこむ、って言うか……」

 

「へこむならへこんでおけ。ヤマブキに連中が入った以上、もう殺すしかない」

 

 アーロンの言葉にメイは言い返す。

 

「何でもっと平和的な解決方法がないんですか? カントーって文明国だって聞いてましたけれど」

 

「文明国で治安もよく、秩序も整っている」

 

「だから、だって言うのに何で」

 

「それは、裏でたゆまぬ努力をしている人間のお陰だ。裏で消費される命の数だけ保障される安全がある。それも分からぬようでは、文明国に生きる意味がない」

 

 唐揚げが上がり、白米と合わせて夕食にする。メイは差し出された夕食に戸惑っていた。

 

「食わないのか? 俺は出るから食うが」

 

「……プラズマ団はあたしが潰したんです」

 

「何度も言うな。分かり切っている事を」

 

「アーロンさんは信じてないんですよね」

 

「信じる信じないじゃない。潰れていないから追ってきている。ヤマブキでは素人の動きは目立つ。さっさと潰して日常に帰りたい。それだけだ」

 

「アーロンさんの、日常って何ですか」

 

 箸を止める。自分の日常は一つしかない。

 

「殺すか殺されるか、だ。そこに疑う余地はない」

 

「やっぱり、文明国じゃない……」

 

 そうこぼしてメイは唐揚げを頬張った。

 



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第十三話「暗視」

 

 監視を厳とする。ただし相手が意想外の行動に出れば即時撤退。

 

 このルールを守らなければこのカントーの首都では思いのほか目立つ事が分かっていた。既に接触してきた組織が四つだ。一つ目は「この街のルールを知らない素人への忠告」、二つ目は「娑婆代を寄越せ」、三つ目は「撤退しろ」、そして四つ目は「警告する」だった。

 

 四つ目の時点で既に目をつけられているのは明らかだ。屋上から監視対象を見つめるプラズマ団員はため息を漏らしていた。

 

「何で異国に来てまで追われてるんだ、こっちは」

 

「仕方がないだろう。まさかヤマブキシティがここまで排他的に成長しているなんて誰が思うよ?」

 

 同じく監視の任についている団員はスナック菓子を頬張っていた。カントーで困らない事と言えば食べ物くらいだ。

 

「向こうじゃパンと水だったからなぁ」

 

「物価も随分と安い。さすが先進国」

 

「おれ達からしてみれば皮肉以外にないよなぁ。イッシュだってそれなりの先進国だったけれど思想面での遅れがあっただけで」

 

 その遅れにつけ込めたからプラズマ団の繁栄があった。しかしそれも二年前の話。

 

「腹ぁ減ったなぁ」

 

「菓子食うか?」

 

 団員はスナック菓子を手に取り、それを口に放り込む。

 

「スナック菓子じゃ腹は膨れないって」

 

「監視対象も動きはなし。今日も眠いだけの任務か」

 

 欠伸をかみ殺し、再び暗視ゴーグルに目をやる。

 

 その時、異常に気付いた。

 

「おい、部屋に一人しかいないぞ」

 

「どうせ一階の喫茶店にでも降りたんだろ」

 

「それにしては……」

 

「――接近に気付けないとは。所詮、素人集団か」

 

 その声に振り返る前にスナック菓子を持っていた団員が顔面を引っ掴まれていた。叫びが迸り団員の手足が脱力する。

 

 振り返れない。このまま殺される、と思った団員だったが相手は殺気を向けたまま声にする。

 

「このまま、アジトまで案内願おう」

 

「い、嫌だね。プラズマ団は崇高な理念で――」

 

 直後、肩口に焼けた棒を差し込まれたような激痛が走る。右肩から下が動かなくなっていた。

 

 痛みに呻いて転がる。視界の中に青い装束を纏った死神が映える。月を背に立つその姿に息を呑んだ。

 

「いいか? 俺は気の長いほうじゃないんだ」

 

 相手が団員の頬を掴む。肩にピカチュウが留まっていた。

 

「電撃で殺す事も出来る。それよりももっと惨い殺し方もな。長生きしたければアジトまで案内しろ。それが賢明だ」

 

 団員は何度も頷き、立ち上がる。動かなくなった右手から暗視ゴーグルが転がり落ちた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「遅いな、報告」

 

 いくら一地方を牛耳っていた組織とはいえカントーでは初見に近く、雑居ビルしか借りられていない。ネオラントの入った水槽を視界に入れて口にする。

 

「この時間には報告しろとあれだけ言っているのに」

 

 団員は煙草を吹かして首をひねった。

 

「しかし、まさかこの地方の殺し屋の場所を突き止めるとは思いもしなかったな」

 

 笑い話が始まり団員も同調する。

 

「だな。これを売ればそれなりの地位に上り詰められるんじゃないか?」

 

「まぁ、これを売る時はそれなりの覚悟もいるが。監視対象の情報を出さないと買ってくれなさそうだし」

 

 監視対象の情報は絶対に漏らしてはならない。プラズマ団の鉄の掟だ。ここまで落ちぶれたプラズマ団を辛うじて結束させている掟を破る者は誰一人としていなかった。

 

「最後の砦だからな。監視対象を売るなんて事をしたらそれこそ野垂れ死にだよ」

 

「それだけこっちも必死。だってのにヤマブキって街は」

 

 四つの組織からの忠告と警告。これだけ目立てばもうヤマブキに篭城する意味がなくなってくる。そろそろ別の場所に居所を変えるべきだと感じていた、その時であった。

 

 扉がノックされる。「合言葉は? 王の真意は」と声にした。

 

「我らの民意なり」

 

 合言葉が了承され、扉を開くように顎でしゃくる。扉が開かれた瞬間、視界に入ったその姿に言葉をなくした。

 

 青い装束の男が団員を盾にして佇んでいる。誰もが絶句する中一人のプラズマ団員が立ち上がった。

 

「何だお前は――!」

 

 瞬間、青い電流が跳ね上がり、地を這って全員の足を麻痺させた。座っていた者は立ち上がれず、立っていた者は無様に転がった。一瞬の出来事に指先に灰が落ちた事さえも気に留める余裕がない。

 

「やれやれ。俺の周りは喫煙者しかいないのか」

 

 帽子の鍔を目深に被った男は盾にしていた団員を突き飛ばす。その背中を踏みつけて、「全員か?」と問うた。

 

「ぜ、全員です! 本当に!」

 

 団員の必死の声に青い服装の男は見渡してから、「嘘はいけないな」と口にした。

 

「この場にいる人間以外の波導がまだ残っている。上か」

 

 仰いだ彼へと銃口が向けられる。

 

「動かないほうがいいぜ」

 

 機関銃を持ったプラズマ団員が青い男に照準していた。

 

「銃、か。原始的だな」

 

「原始的でも、何の装備もなくここに飛び込んできたのは後悔してもらわなければなぁ! 死ね!」

 

 機銃が掃射されるも、その直後、団員の視界にノイズが走った。何が起こったのか、団員が理解したその時には階段を張っていた仲間が突き飛ばされた。いつの間に接近したのか、青い男が蹴飛ばしている。

 

「何をした……」

 

「目を」

 

 男はこめかみを突く。

 

「奪わせてもらった。一時的に波導を操り、ピカチュウの電流で位相を変換。お前に俺は見えない」

 

 その言葉通り、瞬時に男の姿が掻き消える。団員はパニック状態のまま機銃を薙ぎ払うがその首筋にひやりと冷たい感触が当てられた。

 

 背後に回られた事にまるで気付けなかった。

 

「責任者は?」

 

「い、言うわけがないだろうが」

 

「そう、か」

 

 青い電流が放たれ、団員は指先がぶくぶくに腫れ上がっているのを目にする。何か毒でも盛られたのか、と感じて肩越しに振り返るが男は顔色一つ変えないまま続ける。

 

「もう一度、聞こう。責任者は?」

 

 団員はこれ以上の痛みは御免だった。

 

「お、奥の部屋だ。二階層のほうにいる」

 

 思わず答えてしまった。男は、「奥、か」と呟き視線を向ける。団員は腰に留めてあったホルスターから拳銃を引き抜いた。

 

「馬鹿め! 油断したな!」

 

 引き金を引こうとした瞬間、その銃口がどうしてだか自分のほうに向いている事に気付く。銃声が木霊してから、肩口に突き刺さる激痛と灼熱。団員は呻いて無様に転がった。

 

「な、何で……」

 

 咄嗟の事だから間違えて銃口を自分に向けた? まさか。そのような間抜けであったはずはない。

 

「波導を操って、お前の指をコントロールした。一撃目の電撃で既に勝負は決していた」

 

 男の声に団員は声を張り上げる。

 

「どういう事だ! お前は、何者なんだ!」

 

 男は視線を振り向ける事もしない。指を鳴らすと、自分の手に握られた銃が勝手に動き、こめかみへと当てられる。そのようなつもりないのに、団員は今にも引き金を引きそうだった。

 

「ど、どうして……。剥がれろ! くそっ!」

 

「お前の体内の波導はどう足掻いても修正不可だ。あの世で懺悔しろ」

 

 団員は最後の一線で声にしていた。

 

「誰なんだ、お前は」

 

 男は一瞥だけ振り向け、応じる。

 

「波導使いだ」

 

 その言葉と弾丸が弾け飛ぶのは同時だった。

 



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第十四話「波導の力」

 

 アーロンは飛び込んだ迂闊さよりも、相手の弱さのほうにうんざりしていた。

 

 普通、何かしら準備はしているものだ。だがこの素人集団はまるで自衛能力がなく、あったといっても機銃レベル。これでは自分に対しての脅威にはなり得なかった。

 

 階段を降りて扉のところで突っ伏している最初に拘束した団員を無理やり立たせる。今しがた仲間を殺されたせいか失禁していた。

 

「責任者のところまで案内しろ」

 

 アーロンの声に団員は憔悴し切った声を向ける。

 

「……何なんだ、あんた。どういうつもりでおれ達を潰そうとする?」

 

「こっちも聞きたいな。どうして一トレーナーの所在を掴もうとしていた?」

 

 団員は口を閉ざす。どうせこの団員から得られる情報など微かなものだ。盾のように扱ってアーロンは二階層に上がる。死体となった仲間を目にして団員が口を開いた。

 

「あんた、何者なんだ。どうしてこいつは、階段を普通に上がっていくあんたに目も留めなかった?」

 

 波導を操られていなければそう見えるだろう。アーロンは、「暗殺術だ」と答える。

 

「それ以外に答えはない」

 

 どうせ波導が云々と言ったところで、この団員の命も長くない。

 

 二階層へと上がる階段があった。木で出来た即席の階段で、アーロンは団員を突き出す。

 

「上がれ」

 

 その命令に団員は従った。ゆっくりと階段を上がっていく。階段を踏む度に、キィという嫌な音が響く。それほど丈夫ではないらしい階段を二人分の大人が上っていく。

 

 その時、不意に金属音が響いた。カラン、とモンスターボールが転がり落ちてくる。中から出現したのはドガースというガスポケモンだったが既に状態がおかしい。真っ赤に膨れ上がったドガースが二体、眼前に大写しになった。

 

 団員が叫びを口から迸らせようとする。

 

 アーロンは前に出て手を払った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 殺した、と確信していた。

 

 真正面から愚直にやってくる殺し屋をドガースによる遠隔爆弾で吹っ飛ばしたと。プラズマ団の上級団員は哄笑を上げる。仲間が犠牲になったがこのカントーでの活動はどうせ切り上げるつもりだった。その点では悩みの種を解消してくれたぐらいだ。

 

「さて、こっちは高飛びの準備を……」

 

 別の出口から出ようとしたその肩を突いた感触があった。振り返ると拳が見舞われた。団員が転がり、口中に血の味が滲み出す。

 

「な、何で……」

 

 視界に入った事実に戦慄する。

 

 少なくとも一人は殺したつもりだった。殺し屋でなくとも仲間は殺したと思っていた。だというのに、仲間も殺し屋も、依然として傷一つなかった。

 

「ドガースによる遠隔爆弾。脆い木の階段で起爆させる事によってここに上がれない事も考えていたんだろうが、波導使い相手にたった二体の機雷を用いる。……嘗めているのか?」

 

 男の肩にはピカチュウが留まっており頬袋から青い電流を跳ねさせている。

 

「ドガースを二体とも、起爆前にピカチュウが潰した。あとは毒も狙っていたみたいだが、毒が回り切る前にここまで駆け抜けてくれば何の問題もあるまい」

 

「化け物め……!」

 

 言い放ちホルスターからモンスターボールを引き抜こうとするがその手が痙攣してボールを手離した。どうしてだか身体の自由が利かない。

 

「さっきの拳に波導を混ぜた。お前の肉体の主導権はもう、俺のものだ」

 

 ぱちり、ぱちりと次々と手持ちを自分の手で手離してしまう。ボールが転がり、男が蹴って団員の手の届かないところに遠ざけた。

 

「さて、何の装備もしていない間抜けはどちらなのか」

 

 男の声に団員は震え上がる。拳銃を仕込んでいたがどうせそれを使おうとすれば引き金を引く前にやられるに違いない。

 

「何だ……、何でここまで来た?」

 

「聞きたい。どうして一トレーナーを付け狙うのか?」

 

「Mi3の事か? それこそ、そっちの感知するところじゃないだろう!」

 

「Mi3? どういう事だ? どうしてあの小娘をそう呼称している?」

 

 団員はまだ主導権はこちらにあると感じた。この殺し屋は驚異的だが真実を知らないままここに来たのだ。

 

「わたしが死ねば握り潰される。どうだろう。ここで少しだけ、その波導とやらを緩めてみないか?」

 

 少しでも長生きしたいという意地だった。それにここを生き延びれば本国に帰れる可能性がある。そうなればまた戦力を増強出来る。

 

 男は暫時考えを巡らせた後に指を鳴らした。

 

 すると鎖のように自分を縛っていた何らかの感覚が薄れたのを感じ取った。これが波導か、と考える前に団員は声にする。

 

「特一級監視対象だ」

 

「それはお前らの組織を潰したからか?」

 

 驚いた。そこまでは知っているのだ。だがそれ以上は知るまい。この殺し屋はどこまでも冷徹だが知らないままで済ましていいと思っている性格ではない。

 

「……知りたいか? だが知れば戻れなくなるぞ」

 

 主導権を握ったつもりだったが男の眼はいつでもこちらを殺せるという眼差しだった。この男は人殺しに何の躊躇いもないのだ。団員は戦慄する。どうしてこのヤマブキは、カントーの首都であるにもにもかかわらずどうしてこのような「はぐれ者」が多い? はぐれ者に目をつけられればお終いだ。四つの組織が既にプラズマ団に圧力をかけてきた。その中には明らかに警察勢力を傘下に置いている組織もある。この無秩序と暴力の支配する背徳の街は、どこまで異国の自分達を苦しめるのだ。

 

「教えろ。お前の知っている事、全てを」

 

 ただし知っている事全ては教えられない。そうなれば自分も組織から切られる可能性がある。団員は慎重に言葉を選ぶ事にした。

 

「欲しいのは、あの小娘のとある一部だ。他は特筆すべき点はない。我がプラズマ団を崩壊に導いたのは全て、その一部によるものだと推測される。だから残党である我らも海を渡ったのだ」

 

「答えになっていないな。言え」

 

 男が手を伸ばし団員の頭部を引っ掴む。団員は必死に声にした。

 

「わ、わたしを殺せば情報は入らない!」

 

「どうだかな。お前の口ぶりから、まだ上の人間がいると推測される。ここでお前を殺せば、その上が出てくる可能性がある。そっちに賭けるほうが時間稼ぎに巻き込まれずに済みそうだ」

 

 時間稼ぎだとばれている。団員は目を戦慄かせる。

 

「や、やめてくれ……」

 

「波導を操って舌を噛んで死んでもらう。お喋りが過ぎた罰だ」

 

 団員は失神寸前まで追い込まれた。その時、「おやおや」と声が発せられる。

 

 男が振り返った瞬間、跳ね上がった紫色の痩躯があった。ピカチュウが咄嗟にその攻撃を弾き飛ばす。従えているのは四足のポケモンであった。鎌のように曲がった尻尾が男の首を刈ろうとしたが浅かったらしい。ピカチュウの電撃を食らう前に離脱する。

 

「何者だ」

 

 男が自分から興味をなくしたのか、手を離して振り返る。

 

「少しばかりおイタが過ぎるんじゃないですかね」

 

 団員はその声と姿に目を瞠る。

 

「ヴィオ様……」

 

 自分達プラズマ団のこの地での活動を援助する上部組織「賢人会」の一人。ヴィオ。紫色の装束を纏った太っちょだが、その戦闘力は随一であった。

 

「幹部か」

 

「いかにも。離していただきましょうか。大切な仲間なのでね」

 

 団員は懐の拳銃を手にして男の頭部に向けようとする。しかし、その拳銃は何故か自分の膝を撃ち抜いた。

 

「なっ、何で……!」

 

「分かり切った事を言う奴は大嫌いなんでね。波導を操って既に自害するように仕向けてある」

 

 拳銃の銃口を自分の意思とは無関係にくわえ込んでしまう。叫ぼうとしたが口が開き切っていて何も言えない。

 

「辞世の句も言わせられないのは、すまないな」

 

 男が指を鳴らした瞬間、拳銃から放たれた銃弾が脳幹を撃ち抜いた。

 



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第十五話「戦闘形態」

 

「惨い事をする」

 

 ヴィオと呼ばれている男は余裕を浮かべながらアーロンと対峙した。アーロンは最後の一人になった団員を盾にしつつ声を発した。

 

「プラズマ団が何故、このカントーを掻き乱す?」

 

「聞きたいのはこちらも同じ。何故、カントーのこの場所、ヤマブキシティはこうも排他的なのです?」

 

「そういう風に仕上がったのでね。今さら苦情は受け付けられない」

 

 アーロンの口調にヴィオは笑みを浮かべる。

 

「先ほどの奇襲、よくかわしましたね」

 

 四足のポケモンが毛を逆立たせて威嚇する。見た目から考えてスピード重視のポケモン。恐らく一撃で相手を狩る事に特化している。

 

 だが一撃目を防がれては脆い、というのも読み取れた。波導がそれを証明している。

 

「脈拍、血流、共に異常値だ。焦っているぞ、その手持ち」

 

 波導を読み取ったアーロンにヴィオは種が割れたマジシャンのような仕草をする。

 

「分かりますか。さすがは波導使い、とでも言うべきでしょうかね」

 

 波導の事を知っている。いや、かまをかけているだけか。どちらにせよ、短期決戦が望まれた。

 

「何故あの小娘を擁している? 何が目的だ」

 

 単刀直入なアーロンの物言いにヴィオは指を立てる。

 

「いけませんねぇ。そういう風に入り込んで考えちゃ。殺し屋でしょう? もっと合理的に判断するといい」

 

「入り込みたいわけじゃない。お前らが邪魔なだけだ」

 

 アーロンの口調にヴィオはいささかの焦りも浮かべない。波導を読むが手持ちの焦燥に対してトレーナーは余裕に満ち溢れている。こういう手合いは自分の感情を隠すのが得意だ。

 

「分からないですねぇ。どこまであなたは知りたがっているのか」

 

「全てだ。厄介ごとも含めて教えてもらわなければつり銭も返ってこないのでね」

 

 ヴィオは含み笑いを浮かべて、「では」と口にする。下階から一人の団員が上がってきた。その団員が拘束している人影に瞠目する。

 

 メイが両手を縛り上げられて掴まっていた。猿ぐつわを噛まされている。

 

「どうしてここにいる、と言いたげな顔だ」

 

 ヴィオの挑発に、これかとアーロンは歯噛みした。ここまで手薄なアジトの警備。弱小な団員達は全てアーロンの目をこちらに誘導するため。まさかメイを誘拐してくるとは思わせないためだ。

 

「そいつを盾にするか」

 

「盾? おかしな事を。彼女は自分からあなたの後を追ってここまで来たんですよ。そしてまぁ、わたしが捕まえたわけですが」

 

 メイは思わず視線を逸らす。アーロンは舌打ちを漏らした。

 

「間抜けめ……」

 

「言ったところで無駄ですよ。さて」

 

 ヴィオが顎をしゃくると団員が拳銃を取り出してメイの後頭部に当てた。メイが目の端に涙を浮かべる。叫ぼうとするが猿ぐつわのせいで叫べない。

 

「彼女の命、どうなさいますか? あなた次第ですよ」

 

「俺はその娘の命に頓着していない」

 

「ですが、プラズマ団を逃がしてはならない、でしょう? この人質があれば逃げ延びる事など造作もない」

 

 アーロンの依頼の面倒なところを突いてくる。オウミから依頼されたのは一人も逃がすな、という事だ。

 

 ハムエッグに頼った以上、失態は波導使いアーロンの信頼を地に落とす事になる。今も下階のプラズマ団は足を麻痺させているだけ。殺しているわけじゃない。波導の値を操れば殺せるがヴィオの前で迂闊に波導を使って逃げられればそれこそ面倒に面倒を重ねるようなものだ。まさしく失態。プラズマ団が素人組織でも二回目となれば対策を練ってくる。

 

「どうなさいます? 彼女の命がここで散るのを目にするか。それとも、静観せずにわたし達を殺すか。簡単でしょう? 青の死神となれば」

 

 ヴィオは少なくとも自分の情報を掴んでいる。生かして帰すわけにはいかない。だがメイの秘密を全く知らないまま、殺すのも惜しい。どうする? とアーロンは自分に問いかける。メイの秘密を優先するのならばここで連中は殺せない。だが殺さなければ今度は自分の身が危うい。ヤマブキでの居場所もなくなる。

 

 手詰まりか、とアーロンは歯噛みする。

 

 メイが身をよじる。ヴィオが団員に目線で命じた。団員がメイの顔を殴りつける。

 

「大人しくしてもらいましょうか」

 

「……意外だな。お前らはそいつを全く、傷一つつけずに確保したいのだと思ったが」

 

「傷つけないに越した事はないですが、最終目的が違いますからね」

 

 それを知らなければならない。メイは殴られても身をよじった。何かを示すように腰をひねっている。もう一度、顔面へと張り手が見舞われる。猿ぐつわが取れ、メイの唇の端から血が滴った。

 

「これだから女は面倒だ」

 

 団員の声にアーロンは選択を迫られる。どう出るか。

 

 メイの視線がこちらへと向けられる。メイは何かを決意したようにアーロンへと視線を投げていた。

 

 ――何だ? 何がしたい?

 

 先ほどからの動作。身をよじる意味は……。

 

 そこでハッと閃いた。アーロンは一か八かの賭けに出る。

 

「……確かに、面倒だな。だがそれ以上に面倒なのは、度し難いお前らのような悪党だ」

 

 アーロンは咄嗟に地面に手をつける。ピカチュウの電流が地を奔り、メイのホルスターからモンスターボールを焼き切った。転がったモンスターボールを無理やり起動させる。

 

「行け」

 

 アーロンの声に飛び出してくる影があった。細い手足を持ち、音符があしらわれた緑の長髪をなびかせて出現したポケモンにヴィオが戸惑う。

 

「メロエッタ……! まさか知っていて!」

 

「知っていてかどうかまでは言わないが、何か策があるんだろう! やれ!」

 

 しかしメロエッタは相手のポケモンを前に戸惑うばかりであった。攻撃する気配もない。

 

 まさか、失策であったか。

 

 アーロンの首筋を嫌な汗が伝う。

 

 ヴィオは調子を取り戻して笑い声を上げた。

 

「使い方も分からず出したのか! 馬鹿者め! レパルダス! メロエッタを始末なさい!」

 

 レバルダス、と呼ばれたポケモンが疾駆する。その瞬間、耳朶を打ったのは、涼やかな歌声だった。

 

 何だ、とアーロンは歌声の行方を探す。ヴィオを含め、プラズマ団員が固まった。レパルダスの放とうとした一撃をメロエッタが跳躍して回避する。

 

 飛び上がったその姿が徐々に変わっていく。

 

 歌声に導かれるように緑の髪を巻き上げてオレンジ色に染め上げる。女性型であったその体躯がさらに絞られ、戦闘の気配を帯びた。

 

「何が……」

 

 起こっているのか。アーロンは歌声の主を目にする。

 

 メイだった。メイが異国の歌を歌っている。その歌声がこの場にいる全員に緊張を走らせているのだ。その最中でレパルダスの攻撃を回避したメロエッタの姿が変身した。

 

 即座に身を翻しメロエッタが飛び蹴りの姿勢を取ってレパルダスの背筋を蹴りつける。

 

 レパルダスでも視認出来ていないのかその一撃を前に壁に激突した。

 

「メロエッタを、古の歌で……」

 

 ヴィオが言葉をなくしている。アーロンは好機だと悟った。

 

「ピカチュウ! 電流を流せ! 相手の波導を!」

 

 ピカチュウの放った青い電撃がメイを拘束していた団員を内側から焼く。倒れ伏した団員に呆気に取られていたヴィオへと電撃が飛ぼうとしたがレパルダスが瞬時に飛び上がって受け止めた。

 

「何て、何て事を……」

 

 アーロンはその機を逃さない。メイを抱え上げてこちらへと引っ張る。メイは歌い終えて気を失っていた。メロエッタの姿が解け、変身前の緑色の髪へと変わった。

 

「一瞬の変身……フォルムチェンジか」

 

 ヴィオがうろたえる。アーロンは駆け出してヴィオを捉えようとした。しかしレパルダスが飛び上がってその道を阻む。

 

「邪魔だ」

 

 ピカチュウの放った電流がレパルダスの体内を駆け巡り瞬時に戦闘不能にした。

 

「何て、何て失態……」

 

 ヴィオが階段を駆け降りる。アーロンが追おうとしたが木造の階段がヴィオの体重に耐え切れず崩壊した。粉塵が舞い上がり、その一瞬のうちにヴィオはビルを出て行った。

 

 ようやく麻痺から脱したプラズマ団員達が跳躍して降り立ったアーロンを囲い込む。ポケモンを出している団員もいたがアーロンは一切動じなかった。

 

「ヴィオはどこへ行った」

 

「答える義務はあるか、馬鹿め! お前は包囲されているんだよ!」

 

 アーロンは肩に留まっているピカチュウへと命じる。その電流が発せられ、周囲の家電製品やインテリアを叩き潰していく。しかし、団員には一撃として当たらなかった。一人が嘲笑する。

 

「もう騙し討ちは通用しないぜ。ポケモンも出している。ピカチュウの電撃くらい――」

 

 アーロンは床を指し示した。団員達が地面を見やる。

 

 ネオラントの入っていた水槽が倒れて水が零れていた。全員の足に水がかかっている。

 

「まさか――!」

 

 アーロンは手を地面につけてピカチュウから伝わせた電撃を瞬時に放った。

 

 プラズマ団員全員が口から泡を吐いて倒れ伏す。体内から焼いたせいでプスプスと黒煙が上がっていた。

 

「さて、残りはお前だけか」

 

 振り返るとメイを抱えた団員が降りようとした矢先だった。アーロンの視線に団員はばつが悪そうに応じる。

 

「ヴィオ様は、きっとヤマブキの中央と取引して逃げようという考えだと思う」

 

「何故、俺にそれを教える?」

 

 その問いかけに団員はメイを見やった。

 

「……堕ちるところまで堕ちたおれでも、こんな女の子を殴ったり監視するのが正しいとは思っていない。それだけだ」

 

 アーロンは笑わなかった。ただ淡々と言葉を返す。

 

「任せる。俺の根城へ来い。そこで落ち合おう」

 

「信じるってのか……。一人でもプラズマ団は残さないんじゃ……」

 

「だったら、その服装を捨てて、逃げておけ。どうせ今に手を回した警察がやってくる。行動は早いほうがいい」

 

 アーロンは駆け出そうとする。団員が声にした。

 

「その! おれの名前は、リオ! リオ・リッターだ」

 

 団員である事を捨てるのならば名乗るべきだと感じたのだろう。アーロンは短く応じた。

 

「波導使い、アーロンだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 逃げ延びなければ。

 

 ヴィオの考えはそれだけだった。賢人会の他の人々への伝手は咄嗟には出来ない。下手な連絡は、この情報網の発達したヤマブキでは逆に死を招く。ヴィオは降り出した雨のせいでぬかるんだ地面に足を取られた。

 

 高架下を通って取引場所へと向かおうとする。

 

「どうして。どうしてわたしのような人間が、こんな目に!」

 

 本当ならばプラズマ団を率いてカントーでも幅を利かせるつもりだった。しかしこのカントーの動きにくさと、監視対象の思わぬ動きのせいでどうしようもなくなった。

 

 ここで逃げ延びなければ死が待っている。ヴィオは紫色の装束を脱ぎ捨てて軽装で浅い川瀬を渡ろうとしていた。

 

 その時、背後に気配を感じる。

 

 振り返ると青い装束を纏った死神が佇んでいた。音もなく、静かに。まさしく死の足音のように。

 

 ヴィオはつんのめって浅い川瀬に突っ込む。無様に泳いで渡ろうとする。

 

 波導使いアーロンは慌てるでもない。

 

 ただ、足を川瀬につけた。それだけだった。

 

 その瞬間、闇がヴィオの意識を閉ざした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「警部、こっちもお願いしますよ」

 

 イシカワの声にオウミは後頭部を掻く。ビルに所属していた暴力団の抗争による集団の死。警察ではその見方で一致しているらしい。しかし殺し方が一切分かっていない。そのせいで現場は混乱していた。

 

「高架下に浮いているホトケさんも同じか?」

 

「ええ。青の死神、ここまで派手に動くなんて……」

 

 オウミも驚いている。自分で依頼して何だが、今回波導使いは動き過ぎた。街の秩序を壊しかねないレベルの動きだ。

 

「まったく、奴さんは仕事が終わって万々歳かもしれんが、こっちは仕事が増えてるっての」

 

 愚痴をこぼしつつ煙草に火をつけようとすると時化っている事に気がついた。

 

「イシカワ。代わりの煙草」

 

「吸いませんから持ってませんよ」

 

 オウミは舌打ちを漏らして煙草屋へと歩みを進める。その間に到着した鑑識が、「またあんたか」と小言を漏らした。

 

「灰落とすなって!」

 

「わぁってるよ」

 

 返答してオウミは通りのビルに背中を預けて呟いた。

 

「ちょっとばかし、まずいんじゃねぇか。アーロン」

 



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第十六話「標的」

 

 喫茶店の前で雨に打たれてリオがメイを抱えていた。メイが風邪を引かないように脱ぎ捨てた上着で包んでいる。

 

「おれは、どうすれば……」

 

「自分でこちら側に来ると判断したのならば、やれる事は自分でやれ。紹介ぐらいはしてやる」

 

 アーロンはハムエッグの名刺を取り出して手渡す。この街で生きていこうとすればハムエッグの助力は必須になってくる。

 

「あんたに頼みたい。この子の事を」

 

「お前ではなく、何故俺だ?」

 

 リオは弱々しく笑った。

 

「おれは、弱いから。あんたなら、いざという時、この子を助けられる。おれが出来るのは遠くで見守る事だけだ」

 

 リオの言葉を受けアーロンは口にする。

 

「買い被り過ぎだ。俺とてこの娘の全責任を負えるわけではない」

 

「でも、あんたはおれを殺さなかった」

 

 アーロンは嘆息をつく。

 

「……さっさとハムエッグに仕事をもらって来い。この街では、はぐれ者が生きられるほど甘くはないんだ」

 

 そうさせてもらうよ、とリオが雨の中駆けていく。その背中を眺めてから、アーロンはメイを見やった。

 

 あの時、フォルムチェンジが行われた。メロエッタは圧倒的な力を有している。もしかするとプラズマ団が狙っていたのはあれだったのか。確かめる手段もなくアーロンはメイを連れて喫茶店に入った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ハッと目を覚ますと視界が眩んだ。

 

 どこか重い頭を持ち上げてから頬に張り付く痛みを自覚する。

 

「唇の端、切れちゃってる……」

 

 そう呟いていると、「気がついたか」と声が発せられた。

 

 視線を向けるとアーロンが調理をしていた。どうやら野菜炒めを作っているようだ。メイは首を巡らせる。アーロンの根城であった。

 

「あたし、プラズマ団のアジトに乗り込んで……」

 

 その後、幹部に拘束された。迂闊であった自分を呪う前に、「何故、無茶をした」と声が飛ぶ。

 

「……あたしにも、出来る事はないのかな、って」

 

「お前の安全こそが、俺に出来る事だったんだがな」

 

 ぐうの音も出ない。メイは項垂れた。

 

「深く反省しています」

 

「一つ、聞く。あれは自覚してやったのか?」

 

 あれ、と言われてメイは困惑した。アーロンは背中を向けたまま振り返りもしない。

 

「あれ、って何です?」

 

「フォルムチェンジだ」

 

 何を言っているのか分からない。メイは問い質した。

 

「その、何がフォルムチェンジしたんですか?」

 

 その段になってアーロンは手を止めて振り返る。

 

「覚えていないのか?」

 

「いや、だから何がですか。あたしのメロエッタにフォルムチェンジなんて」

 

 凝視していたアーロンだがやがて視線を中華鍋に戻す。

 

「いや、さほど重要でないのならばいい。もう出来る」

 

 皿に盛り付けてアーロンはテーブルまで運んできた。またしても自分がソファを占領していて少し気後れする。

 

「あの、アーロンさんもこっちに座れば」

 

「俺は床でいい」

 

 アーロンは正座して食べ始める。メイも仕方がないので野菜炒めを口に含んだ。

 

「その、何かあったんですか?」

 

「何でもない」

 

「でも、アーロンさんの様子だと、何かあったんじゃ」

 

「何でもないと言っている」

 

 どこまでも強情な声音だ。メイは食事時でも青装束のアーロンに問うた。

 

「その、脱がないんですか? 部屋着とかには」

 

「部屋着はない。いつもこれだ」

 

 アーロンの妙な美的センスにメイは辟易する。

 

「……目立つのに」

 

「だからいいんだ」

 

 予想していなかった答えにメイは目を瞠った。

 

「どういう事です?」

 

「多くの人間がこの姿を覚えているといい。そのほうが、俺の最終目的に近くなる」

 

「あの、意味が……」

 

 箸を止めてアーロンが言葉を発する。

 

「この姿と全く同じ姿をした人間が、恐らく近いうちに現れる」

 

 アーロンの眼は暗い光を湛えていた。狂気でも、怒りでもない。これは淡々とした殺意だ。

 

「そいつを殺すのに、この姿でいたほうが誘い込みやすい」

 

 殺す、という言葉にメイは、「冗談ですよね?」と尋ねていた。しかしアーロンは訂正しない。

 

「その、アーロンさん。殺し屋だって言うの、本当なんですか?」

 

 目にしたはずだ。アーロンの攻撃の前に死んでいった人々を。プラズマ団とはいえ、アーロン一人でやったのだ。

 

「そうだ。何か問題でも?」

 

「何で。法治国家でしょう?」

 

「法治国家に殺し屋はいない、と誰が言った? むしろ法治国家のほうが殺し屋は出てくる。メリットとデメリットを理解した上での殺し屋だ」

 

 メイは二の句を継ごうとして何も言えなかった。アーロンのような後ろ暗い人間に、自分は何も言えない。

 

「これからどうする? 祖国に帰るか?」

 

 だからそのような提案がアーロンの口から出たのは意外だった。自分は重要な参考人で手放さないと思っていたのだ。

 

「あたし、このまま帰っても、多分一生監視、ですよね……」

 

「どこまでプラズマ団が本気か分からないが、そうだな」

 

 否定はしないのか。メイは箸を握り締める。

 

「だったら、あたしも戦います。戦えるようにしてください」

 

 一度でも祖国を救ったのならば、ここでも何かをしたい。せめて、真っ当に生きていきたい。メイの提言をアーロンは簡素に応ずる。

 

「俺の戦い方を真似させる事は出来ない」

 

「でも、自分の身くらい自分で守ります」

 

 アーロンはその段になってメイを見据える。その覚悟があるのか、と問いかけているようだった。

 

「この街で自分の身は自分で守る、というのがどれだけの事か、分かって言っているのか?」

 

「でも、自分くらいは守りたいんです。……出来れば巻き込まれる人達も」

 

「傲慢だな」

 

 感想を述べてアーロンは箸を進める。メイは本気だった。本気で、この街をどうにかしたい。こんな混沌とした場所は間違っている。

 

「あたしは! 本気なんですよ!」

 

 張り上げた声に、「飯時だ」とアーロンは声にする。

 

「静かにしろ」

 

 淡白なアーロンにメイはしゅんとする。

 

「そりゃ、あたしは弱いかもしれませんけれど、ちょっとくらいは当てにしてくれたって」

 

「この街で生きるのには、色々都合がいる」

 

 アーロンの声にメイは顔を上げた。彼は野菜炒めを頬張って下を指差す。

 

「店主に掛け合ってきた。その気があるのならば、ウェイトレスでも雇ってくれるそうだ」

 

 アーロンはメイがそう言う事を見越してもう行動してくれていたのだ。その厚意にメイは思わず呆気に取られる。

 

「分かっていたんですか?」

 

「カントーに暫く留まるのならば居場所が必要だろう。監禁だとか叫ばなければ寝る場所も提供してくれるそうだ。店主は人格者だよ」

 

 メイは涙がこぼれそうになったがぐっと堪えた。まだ、ここにいられる。どうしようもない自分でも、まだ戦えるかもしれない。

 

「その、よろしくお願いします」

 

「それは店主に言え。俺は自分の仕事をするだけだ」

 

 野菜炒めを食べ終えたアーロンがキッチンに向かう。メイは静かに微笑んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「で、お嬢ちゃんは下で働かせたわけか」

 

 カヤノの声にアーロンはため息をつく。

 

「また面倒が増えた」

 

「よく言ってるな、アーロン。お前、何だかんだで面倒見がいいからな」

 

 カヤノは煙草を吹かしている。既に波導の眼の検査を終えて、ピカチュウの回復を行っている最中だった。

 

「あんた、フォルムチェンジは知っているか?」

 

「そりゃ、誰でも知ってるんじゃねぇか。もう学説としても定まっているし」

 

「メロエッタ、というポケモンは」

 

 アーロンの言葉にカヤノが怪訝そうにする。

 

「メロエッタ? また聞いた事のねぇポケモンだな」

 

「そいつがフォルムチェンジした。あの娘の歌声に呼応して」

 

 カヤノは顎に手を添えて考える仕草をした後、「偶然でなく?」と尋ねた。

 

「素人集団――プラズマ団はあれを狙っていたのだとすれば全てがしっくり来る。何か、あの娘には秘密がある」

 

「ワシに売ってくれるならば安全は完全に保障するが」

 

「馬鹿を言うな。お前に売ればヤクザものに売って使い物にならなくするだけだろう」

 

 カヤノは頬を引きつらせて笑う。

 

「そいつぁ、とんだ言い草だな。だがま、そこまで気になっているんなら自分で守りな。波導使いさんよ」

 

「守るわけじゃない。ただ、視界に入った虫は払わせてもらう」

 

「素直じゃないねぇ」

 

 モンスターボールを持ってきた看護婦は、「元気になりましたよ」と声にする。この少女もそういう裏社会を知った人間の一人だ。

 

「派手に動き過ぎたみたいだな、今回。あまりに殺しをやり過ぎると、足がつくぜ」

 

「そうならないためのお前とオウミのはずだが」

 

「そういや、オウミから言伝だ。三十七番の通路で待っているとよ」

 

「感謝する」と言い置いてアーロンは診療所を出た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「単刀直入に言うぜ、波導使い」

 

 オウミは看板で姿を隠している。アーロンは壁に背中を預けて聞いていた。

 

「動き過ぎたのもあるが、お前、敵に回しちゃいけない類の連中を敵に回したっぽいな」

 

「どういう意味だ」

 

 オウミは紫煙をくゆらせて、「言葉通りだよ」と口にする。

 

「素人集団を消せって言ったのは、オレは確かにそのつもりだったし、殺しにはいつだってリスクが伴っているのは分かっているさ」

 

「だから、何が言いたい」

 

 オウミは一呼吸置いてから、「覇権争いって奴かな」と呟く。

 

「素人集団の中に混じっていたらしいホトケの一人が政治屋だった。そのせいで、お前、狙われてるぜ」

 

 狙われている、という言葉にアーロンは驚きもしない。「数は?」とだけ尋ねる。

 

「オレの知っている限りじゃ六つ。だがもっとヤバイのはお前の経歴を知らず、ただ単に報酬目的に動く殺し屋にも情報が行っているって事さ。お前、四方八方から来る殺し屋に気を遣う必要が出てくるぜ」

 

 政治屋、と聞いて思い浮かぶのはヴィオと名乗った男だ。あいつを殺したのはまずかったか、とアーロンは歯噛みする。

 

「面倒事が増えるな」

 

「その程度の認識でいいのかねぇ。名のある殺し屋もお前を殺しにやってくるぜ」

 

「誰が来ようと関係がない。殺し返せばいい」

 

 用件はそれだけか、とアーロンが立ち上がろうとすると、「オレも乗ろうと思うわ」とオウミが口にした。アーロンは硬直する。

 

「波導使いさんの暗殺、っていう一大ブームに」

 

「何故?」

 

「何故ってお前、これは大チャンスだぜ? 名のある殺し屋を差し置いてオレの子飼いが勝てば、この街の利権を一気に手に入れられる。スノウドロップ持ちのハムエッグくらいしか怖いものはねぇよ」

 

 つまり殺し屋が大挙として攻めてくるという事か。オウミは長年の付き合いのお陰か裏切る時には裏切るとはっきり言う。今回、敵に回ると予め言ってもらったほうが仁義は通っている。

 

「ここでお前を殺せば」

 

「そこまで間抜けな波導使いじゃあるまい? まぁ殺し合うのは殺し屋同士さ。高みの見物とさせてもらうぜ」

 

 よく言う。だがそれはこちらにとってしても好機ではあった。いつか殺さなければならないと思っていた相手の耳に入るかもしれない。ヤマブキの波導使いの噂が。

 

「なるほどな。ならばもう敵同士か」

 

「開催日時くらいは言ってやるし、資料も回してやるよ。ただ、オレの子飼いだけは別だがな」

 

 オウミの飼っている殺し屋がどのような存在であれ、そいつだけがイレギュラーというわけではないだろう。あらゆる事態を想定せねばならない。

 

「殺し屋に殺し屋とは、混沌としてきたものだ」

 

「今さらかよ。もうこの街は混沌のるつぼだ」

 

 オウミの声にアーロンは言い置く。

 

「次に顔を合わせれば」

 

「ああ。殺されても仕方がねぇな」

 

 路地を出て行ってアーロンは路地番に金を握らせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 自分目当ての殺し屋が現れる。それは単純に脅威としては凄まじいものだろう。だがここで死ぬくらいならば最初から持つべきではないのだ。あの男を殺そうと考えるなど。

 

 自分の青の闇を払い、自分に力を与えた男――師父。

 

「何者が来ようと関係がない。俺は、師父。あんたを殺すためだけに生きている」

 

 

 

 

 

第一章了

 



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炎魔の赤、灼熱の少女
第十七話「炎魔襲来」


 

 過度な言葉は毒となる。

 

 その観点から言えば、その場所には余計な言葉はなかった。

 

 液晶テレビが映し出しているのはどこか気だるげな女優の横顔だった。その女優のPVで、まだ売れ始めて時間も経っていない。青い果実だ。その果実を摘み取る権利を持つ人間達が、その場には集まっていた。

 

 政財界の大御所、ベンチャー企業の立役者、老舗企業の好々爺など、名だたる人々が暗い目線を交し合う事もなく、付き人とひそひそと言葉を交わして他の客達と間接的なコミュニケーションを取っていた。店主はポリシーを持って店の切り盛りに精を出していたが、いつしかその気概はなくなってしまった。ここに集まってくる面子が、揃いも揃ってくせ者揃いなのである。表では先駆者、成功者と持て囃される人々も裏では人格者であるとは限らない。この場所では裏のやり取りが頻繁に行われる一種の交換所であった。そのショバ代だけでも二三年は経営出来る。店主はその境遇に甘んじていた。ここで見聞きした事を外に漏らす馬鹿ではない事はここにいる全員の肩書きが証明だ。

 

 店内には穏やかなジャズの調べが流れており、暖色が押し包んでいた。

 

「で、それは本当なのかね」

 

 口にしたのは大企業の社長である。つい最近、競合相手から殺し屋を仕向けられた、といういわく付きだ。もちろん、殺し屋には殺し屋であった。表立って訴訟だったり、あるいは直訴だったりを申し立てるよりも裏で片付けたほうが速い問題というものはある。殊に殺しとなれば一番に手っ取り早くなおかつ効果的なのが殺しだというのは歴史が証明している。

 

「はい、確かな情報筋から手に入れました。波導使い……青の死神がそこを根城にしていると」

 

「無論、草は放ったろうな?」

 

「ええ。既に」

 

 そのような会話がそこらかしこで起こっている。店主は呆れと共にカクテルを作り上げた。もうほとんど半自動的になっているこの所作に飛びついたのは見ない客だった。

 

「マスター。あんた作るの早いね」

 

 髪を肩まで伸ばした中年の男だ。この場には似つかわしくないくたびれたコートを纏っている。

 

「ええ、まぁ。もう開業して十年です。慣れてしまいました」

 

 この喧騒にも、と言外に付け加えると、「そいつはいい心がけだ」と客は微笑んだ。

 

「ハムエッグからこの場所の切り盛りを任せられて大変だろう? よくやっていると思うぜ」

 

 何とこの客は自分の境遇を知って話しかけてきているのだ。物好きな、と店主は瞑目する。

 

「……長生きしたければその名前をここでは口にしない事です。あのお方の耳に入れば、それこそ命がありませんよ、あなた」

 

 作ったカクテルを差し出す。客は嘲笑のようなものを浮かべた。

 

「なんてぇ酒だい?」

 

「アディントンです。意味は、沈黙」

 

 客は鼻を鳴らす。

 

「忠告のつもりかい?」

 

 アディントンを呷り、客は全く酔った様子もなく続ける。

 

「この場で交わされている馬鹿共の密談を聞かなかった事にするだけで、ほとんど一生の安泰を得る。あんた、そういうのもありだって思ってるんだろ?」

 

「ないと思っていればあなたにお酒を提供もしていませんね」

 

 店主の言葉に客は引きつったような笑みで応じる。

 

「ご覧、あそこにいるのはデボンの下請けで成功した企業の社長だ。その斜向かいにはホロキャスターの広告代理店の社長、その斜向かいには、さらに奥には、エトセトラ。そいつらこぞって今宵は浮かれてやがんのさ。ある一つの目的を果たしたいがためにな」

 

「お客様、あまり干渉なさらないほうがよろしいかと」

 

 顔色一つ変えずに忠言する店主に客は、「なるほど」と口にする。

 

「そういうあんたみたいな鉄面皮だから、ここを任せられてるんだろうよ。絶対の信頼とまではいかないが、あんたに任せれば悪いようにはならない。少なくとも、聞き耳を立てたりするタイプじゃねぇな」

 

「お客様の会話にいちいち反応するなど三流のする事です。わたしは違う」

 

「だろうよ。あんたと、あんたの下にいたであろう好奇心を抑え切れなかった連中とはな。王様の耳はロバの耳、って言っても、あんただけは絶対王様を裏切らないタイプだ」

 

 店主は落ち着いた声音で、「勘繰りなら、もう今日は帰られるとよろしいかと」と返した。過ぎた言葉かもしれないが、この客にとってはいい薬となろう。しかし客は心底おかしいとでも言うように笑い始めた。

 

「いいねぇ。帰れば、か。だが、そういうわけにもいかんのよ。だって今日のステージの主役はオレだからな」 

 

「……言葉の意味が」

 

 そう返そうとした途端であった。液晶テレビに映し出されていた女優のPVが途切れ、ノイズが走ったかと思うと画面が切り替わった。そこに映っていたのはうろたえ気味に周囲を見渡す男達である。

 

『何だ? ここが青の死神の住処じゃないのか?』

 

 店主も思わず身を乗り出してその光景を眺める。男達はお互いに初見のようだ。相手の顔を見やり、『お前は、あの会社の子飼いの……!』と声を発する。客達もざわめき始めた。その中に見知った陰を見つけたのだろう。一人の客が立ち上がって声を発する。

 

「ワシの雇った殺し屋が……!」

 

 殺し屋。その名が口火を切られた直後にざわめきは喧騒となった。立ち上がりはしないものの明らかに自分の駒がそこにいる事に焦りを禁じえない人々がいる。長年ここで客商売を続けてきた店主には分かる。誰が、どの殺し屋を雇って、何の目的で放ったのかまで。今宵、青の死神とやらを殺す手はずを整えていた連中が一しきり落ち着きのない目線を交し合っている。

 

 胸中にあるのは一つであろう。

 

 何故?

 

「いけませんなぁ、ご老体。安い情報屋から買った安い情報と殺し屋じゃ。だからこうしてかく乱されるんです」

 

 振り返って全員に声を発したのは先ほどまで自分と話していた男だった。まさか、と誰もがいきり立つ。

 

「お前か……! オウミ!」

 

 叫ばれた名前に、「心外です」とオウミと呼ばれた男は手を振る。

 

「オレは所詮、現職の刑事。さすがに情報網を掻き乱す、というのはいただけない」

 

「では誰が! 誰が殺し屋共をあの場所に集めた! あれでは潰し合いが始まるぞ!」

 

 杖をついた老人が青筋を立てて喚き散らす。オウミはこの状況下で煙草に火をつけた。店主には匂いで安っぽさが分かる。だがこんな安い煙草を買う男が何故? という感覚であった。

 

「潰し合い、ねぇ。そりゃ勘違いですよ。潰し合い、なんて起こりません」

 

「どうして言い切れる! さてはお前、ハムエッグとでも通じて内偵を放ったか!」

 

 老人の客の声にオウミはいやに冷静な声を返す。

 

「ご老体。あんたでもハムエッグの名を、容易く口にしてはいけない立場のはずですが?」

 

 うっと声を詰まらせる老人に、オウミはにやりと口角を吊り上げた。

 

「これから始まるのは、皆さんほどの財力を持つ人間でも、二度もお目にかかれないであろう、殺人ショーですよ」

 

「殺人? 誰が殺されるというのだ。殺し屋共とて馬鹿ではない。お前が仕向けたとなれば、今度狙われるのはお前だぞ」

 

「だから、馬鹿だって言っているんですよ。殺されにわざわざ声を張り上げたって? 自殺志願にはこの酒場はいささか高いでしょうが」

 

 オウミの飄々とした言葉繰りに苛立ちを募らせた老人が叫んだ。

 

「もう我慢ならん! そのビルから、ここに来るように命じて――」

 

「逃げられませんよ、奴らはもう」

 

 その瞬間、ビルの屋上を映し出しているカメラのレンズが歪んだ。叫び声が迸る。一人の男が炎に包まれて焼け死んだ。突然の焼死に誰もが言葉をなくす。その隣にいた殺し屋が悲鳴を発する前に頭部を叩き折られた。何かがいるようであったが全く画面に映らない。その間にも殺し屋が一人、また一人と殺されていく。

 

 その光景に殺し屋の雇い主も、その場に偶然居合わせただけの人間も、全員が放心していた。殺し屋が殺し返されている。しかし何に、というのがまるで分からない。

 

 三分もなかった。三分も経たずに殺し屋達は焼き殺されていた。何かが殺したのは間違いないのに、何がいたのか、誰も明言出来ない。

 

「何だ……」

 

「誰もご存知ないんですか? 裏には精通している御仁ばかりだというのに」

 

 オウミの嘲笑に老人が遂に怒り心頭とでも言うように杖を放り投げた。

 

「オウミぃ! 貴様! 何をした!」

 

「簡単な事です。今回の青の死神を殺すって一件、オレも噛ませてもらうんでね。デモンストレーションがてらにあなた方の子飼いを潰させてもらいました。オレの持っている駒は一味違うって分かってもらうために」

 

 オウミの言葉の意味するところに全員が震撼する。それはここにいる全員を敵に回してでも、青の死神を殺す、と言っているのだ。

 

「オウミ、貴様、ただの警官だろう! 何が欲しくなった? 権力か? 金か?」

 

「どっちも要りませんやぁ。オレは刺激が欲しいんでね。青の死神にも通告しておきましたよ。あんたらみたいな下衆には気をつけろって」

 

 オウミの発言は安易にここから出られる状況を掻き消した。何も言わなければそれこそ沈黙を守っていれば、ただの客として帰れただろうに。店主は視線を背ける。このオウミという男の命はもう半刻もないだろう、と。

 

「刺激だと……。たわけめ! 貴様のような子飼いの子飼いが、何をすると言うのだ」

 

「その通り。オウミ、どうしてここで所信表明した? 何も言わずにここにいる連中を殺したほうが賢そうだが」

 

 口を開いたもう一人を嚆矢として恐らく雇い主であった者達の野次が飛ぶ。

 

「そうだぞ。オウミ、お前が所詮は生かされてるのだと忘れているようだな。金でも権力でもない、刺激などというふざけた言葉でこの場にいる全員を敵に回した。明日までその命がないと思え」

 

 オウミはしかし、余裕を崩す事はない。

 

「明日まで持たない、ですか。そいつは滑稽な事で」

 

 その余裕が気に食わないのか立ち上がる客もいた。

 

「貴様、分かっているのか! それとも本当にイカれてこんな事を仕出かしたのか!」

 

「イカレちゃいませんぜ。イカレたらこの稼業終わりです。いやね、ちょっと可笑しくって」

 

 オウミはくっくっと喉の奥で嗤う。その笑みは全員の神経を逆撫でした。

 

「嘗めているのか、オウミ!」

 

「嘗めちゃいませんよ。何で有数の頭脳をつき合わせて結論が出ないんですかね。殺し屋を殺せるだけの実力があるって事は、ここにいる皆さんをリムジンでのお迎えの前にお迎えする事だって可能なんですよ?」

 

 その言葉に全員が凍り付く。まさかの逆転であった。オウミは完全に狙われる立場だったのにも関わらず今の一言で全員を標的に据えた。

 

「ば、馬鹿な事を……」

 

「馬鹿な事ですかね? 青の死神は瞬時にルールを破った相手を殺しに行くのは皆さんご承知でしょう? その青の死神とやり合おうって言うんだ。それなりの殺し屋を準備しているのが当然でしょうが」

 

 水を打ったように静まり返る。そんな中、一人の付き人が液晶テレビを指差して悲鳴を上げた。

 

「ほ、炎の、炎が今一瞬……」

 

 前後不覚を起こしているのか、と感じたが違う。液晶には確かに炎に包まれた何かが映し出されていた。しかし全員が目を凝らす前にそれは景色の中に消え行く。オウミが口角を吊り上げる。

 

「この街に最強は二人も要らねぇ。最強の殺し屋を放ちました。炎魔、と言えば物分りの言い方は察しがつくでしょう」

 

 炎魔、の名に全員がざわめく。まさか、という声やあり得ない、という声が上がったがオウミは動じない。

 

「青の死神、波導使いと戦うのは最強の殺し屋、炎魔です。そのギャラリーになら、あなた方を呼んでも構わない。ただし、今夜みたいに邪魔立てすると殺します。炎魔の実力は、皆さんご存知でしょう」

 

 オウミは踵を返す。まさか全員を敵に回してなお宣戦布告をして立ち去る男がいるとは思わなかった。店主でさえも息を呑んだ。そんな中でオウミは、「美味かったよ、酒」と店主の肩を叩いてから歩いていくものだから心臓が止まるかと思ったほどだ。

 

 全員が、分かっていてもその男一人を止める事が出来ずにいた。

 



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第十八話「地獄への道連れ」

 

「か、会長……。炎魔、というのは」

 

 付き人の一人がようやく口を開く。会長と呼ばれた恰幅のいい男は、「ああ」と応えた。

 

「ヤマブキの都市伝説だ。カントー犯罪史上、最強の殺し屋。殺人鬼、炎魔。その殺しの手口、手際から名付けられた二つ名だよ。炎のポケモンを操っているのは分かっている。その人物像までも分かりかけた事があったがそこに至った人間は皆、焼け死んだ。殺人一族と言えばいいのか、代々女が襲名するという以外は一切不明の炎の暗殺者。その名を口にするだけで怖気が立つ。奴は解き放ったのだ。この街に、二つの死神を」

 

 男の手が微かに震えている。青の死神と炎魔。その二つがぶつかり合えば何が起こるのか想像もつかなかった。最強の暗殺者二人を殺し合わせるなど誰が思いつくだろう。それ以上に不気味なのはオウミという男でもあった。

 

「何者なんです? 警察関係者、という言葉が飛び出しましたが……」

 

「現職の警察官だ。ヤマブキシティでも有数のここのキれる刑事だ」

 

 男の声に付き人はより恐怖に頬を引きつらせる。

 

「そんな男が何故……」

 

「炎魔を、か。私にも推し量るほかないが、炎魔はその血族に秘密があると聞いた事がある。もしやオウミ、その血の何かを突き止めたのではないか。だからこそ、このような強攻策を取れた」

 

 だがオウミの仕出かした事は強攻策というにはあまりに無謀だ。

 

「現職の警察官が、やっていい範囲を超えていますよ」

 

「我々とて突かれれば痛い腹を晒したも同義。殺し屋、暗殺者、なんていうものは裏で使うからこそ意味がある。オウミが告発したところで揉み消せる自信はあるが、本当に恐れるべきなのはオウミの有する炎魔が、大衆に知れ渡る事だ」

 

 ヤマブキシティを地の底まで恐怖させる殺人鬼。その存在を一警察官が握っている。一般市民からしてみれば地獄とはその事だった。

 

「……オウミ、逃げ切るつもりでしょうか」

 

「もしもの時は高飛びくらいは考えていそうだが、それにしてはやり方がまどろっこしい。本当に青の死神とやり合うつもりなのか?」

 

 男の疑問に付き人は頭を振る。

 

「冗談でも青の死神とやり合うなんてこの街で生きていれば言えないっていうのに……」

 

「冗談ではないから、言えるのかもしれんな。オウミを殺すにしても少しばかり慎重にならざるを得なさそうだ。炎魔がどこまで損得勘定で動くかまでは予測がつかんが、主人を殺されれば普通、復讐の機会を練るか鞍替えするか、だ。その報復を恐れれば炎魔に手出しは出来ん。オウミめ、考えてはいる」

 

 忌々しげに放たれた声がこの状況の難しさを物語っている。しかし、オウミは何を根拠にここでデモンストレーション紛いの事を行ったのか。もっと目立たないやり方はある。

 

「オウミが覇権を狙っているのは」

 

「あの男の人格上、あり得ん話だが、今までと動き方が明らかに違う。オウミは中立を守ってきた悪徳警官だからこそ、この街で生存競争に足を突っ込まなかった。ここに来て危ない橋を渡る理由はこっちが知りたいくらいだ」

 

 少しずつではあるが帰っていく財界の人々を目にする。だが誰もが顔を伏せ、歯の根が合わないようであった。それほどまでに炎魔とは恐れられているのだろう。

 

「女である事と炎のポケモン使い。それ以外は一切不明の殺し屋。どうしてオウミについた」

 

 自分につけば、というような言い草に付き人は深く瞑目した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「オウミ! お前、何て事を」

 

 階段を降り切ったところで声をかけられた。知った顔にオウミは吹き出す。

 

「んだよ、お前かよ。何て事をとはご挨拶だな」

 

 構わず歩き出そうとするオウミに追いついて男は声にする。

 

「貴様、何をしたのか分かっているのか? ご老体だけならばともかく、この街の重役全員を敵に回したぞ。もし、今回、炎魔が敗れるような事があれば生きてはいけまい!」

 

「どっちにせよ、炎魔が死ねばオレもお役御免だ。どうせ短い命ならぱあっと咲かせようって気分が分からないかね」

 

「馬鹿者! そんな事に炎魔を使ったお前のやり方が危ない、と言っているんだ!」

 

 オウミの行く先を塞いだ男の前に立ち止まる。

 

「退けって。お前には迷惑かけねぇよ」

 

 歩み去ろうとすると手首を掴まれた。オウミはおどける。

 

「こいつぁ驚きだ。あの映像の後にオレの手を掴むなんて」

 

「……同期のよしみで言っている。オウミ、これ以上闇に染まってどうする?」

 

 男は警察に同期で入った人間だが出世コースで既に将来の確約された人間であった。対して自分は汚職警官。その差が浮き彫りになる。

 

「賭けてみたくなったんだよ。オレの人生って奴を」

 

「賭けのレートが酷過ぎる。今ならば退けるぞ」

 

 これ以上進めばもうその先はないという口ぶりにオウミはほくそ笑む。

 

「嬉しいねぇ。まだオレの行く末を心配している奴がいるってのは」

 

 拳が飛んできた。頬を捉えた拳にオウミはよろめく。

 

「オウミ、こっちは本気で言っているんだ!」

 

 肩を荒立たせた男の声にオウミは顎をしゃくる。

 

「……退けよ。ここでお前に殴られていたんじゃ、お歴々に吐いた言葉が嘘になっちまう」

 

 男はハッとしてオウミに道を譲った。オウミは振り返って手を払う。

 

「心配すんな。青の死神は勝てねぇよ。オレの炎魔にな」

 

「その炎魔だって、まだ確定ではない。お前のでまかせだと思っている奴だっている」

 

「そいつらにだってじきに分かる。この街に炎魔が居ついているって事が。どこから上がるのか分からない狼煙を怯えて過ごすといい」

 

「オウミ! 最後だ。本当に最後に言っておく。……無様に這い蹲って死にたくなければ、今だぞ」

 

 温情が滲んだ声にオウミはフッと笑みを浮かべる。

 

「もう戻れないのはお互い様だよ。同期って言ったって差がついちまったもんだ。お前の吸っている煙草は美味いか? こっちはいい味するぜ? 一箱五百円ぽっちだがな」

 

 オウミは懐から煙草を取り出して火を点ける。男にはそれ以上の言葉はなかった。オウミは歩き出す。

 

 もう地獄への道は始まっていた。

 



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第十九話「暗殺商売」

 

 歌え、と最初に言われて何の事だかさっぱりだったが、聞き返しても返ってくるのは同じだった。

 

「歌え。ちょっとばかし」

 

「は、はぁ? アーロンさん、どうかしたんですか?」

 

 ソファに座ってテレビを観ていたアーロンが不意に口火を切ったかと思うとそれである。アーロンはしかし真面目な顔だった。

 

「メロエッタを出して歌え。それだけでいい」

 

 意味が分からないが歌えといわれている以上、歌うしかないのだろう。メイはメロエッタを繰り出して、「えっと……」と言葉を彷徨わせる。

 

「何を歌えば」

 

「何を、って、あの時の……。覚えていないのか?」

 

 首を傾げる。一体何の事を言っているのだろう。アーロンは額に手をやって、「まぁいい」と結論付けた。

 

「歌詞に意味がないのかもしれない。とりあえず歌え。以上だ」

 

「だから何を歌えば……」

 

「めざせ、ポケモンマスターでも歌ってみろ」

 

 言われるがままにメイは歌い始めた。最初の台詞のところから入ったのだがその途端、アーロンが顔をしかめた。メロエッタが気絶する。

 

 まだ歌い出しだがアーロンがストップをかける。

 

「待て、待つんだ! 何だ今のは。一体、何をした」

 

 何をしたと言われても歌えと言われて歌ったとしか言えない。メイは言葉に詰まる。

 

「何をって、めざせ、ポケモンマスターですよ?」

 

「今の酷い音程がか? 子供が歌うように出来ている歌だぞ?」

 

 信じられないとでも言うようにアーロンは首を振った後、「もういい」と立ち上がる。

 

「もういいって……。アーロンさん、勝手過ぎますよ。あたしだって下で働いた後なんですから」

 

 ウェイトレスとして働き始めてもう三日目だ。だが懸念が付き纏っていた。

 

「まさか、今日も皿を割ったのではないだろうな?」

 

 ぎくっとして立ち止まる。メイはブリキの人形のようにぎこちなく応じた。

 

「そんな事、ありませんって!」

 

「またか……」

 

 呆れ気味にアーロンが口にしてキッチンに立つ。メイは手伝おうとした。

 

「あ、あたしやります!」

 

「いらん。お前がキッチンに立つと余計な散財をするはめになる」

 

 アーロンは慣れた手つきで今日の夕食を作り始めた。メイはソファに座り込んでしゅんとする。さすがに働いている途中で呆れ返られ、上でもこれでは堪える。

 

「あたし、向いてないんですかね……」

 

「歌手には少なくとも向いていないな」

 

 冷徹な声にメイはむっとする。

 

「アーロンさんって他人の気持ち考えた事あります?」

 

「考えていたら何も出来ん。その前に行動するのが吉だ」

 

 一理あるがメイはため息をついた。アーロンがさっさと餃子を作って皿に盛りつける。

 

「何をため息なんてつく事がある」

 

「……アーロンさんもあたしを頼ってくれないんですね」

 

「お前に求めるものはない。ただプラズマ団の活動が沈静化するまではここにいろ。そのほうがいいし、ハムエッグのところに行くよりかはマシだ」

 

「何でですか。ラピスちゃんのほうが素直で可愛いですよ」

 

 むくれて抗弁を垂れると、「やらんぞ」と皿を取って返そうとする。メイは必死に抵抗した。

 

「晩御飯くらいくださいよー」

 

「だったら文句を言うな。黙って食え」

 

「……いただきます」

 

 すっかり勢いを削がれてメイは餃子をぱくつく。相変わらず料理の腕だけは達者だ。アーロンは何か前職があるのだろうか。

 

「料理屋で働いていたとか?」

 

 首を傾げていると、「馬鹿面提げて飯を食うな」と注意された。

 

「飯がまずくなる」

 

「何ですか、その言い方!」

 

「箸で人を指すな。マナーもなっていないのか、お前は」

 

 アーロンは黙々と食べている。こんな料理人がいればその店は廃業だろう。恐らく料理屋の下働きで解雇された後、暗殺者なんて始めたに違いない、とメイは結論付ける。

 

 このアーロンという男は暗殺者だ。その現場を目にしているがやはり信じられない。暗殺業なんてそんな時代錯誤な職業成り立つのか。

 

「百年前とかなら、まだ信じますけれど、やっぱり信じられないですよ」

 

「何がだ。主語の抜けた言葉を話すな」

 

「暗殺者です。波導って何なんですか。何一つハッキリしてないですよ」

 

「ハッキリさせる意味があるのか? お前は俺の雇い主ではあるまい」

 

 それはその通りなのでメイは言葉を仕舞ってしまう。アーロンを言い負かす事は出来そうにない。

 

「でも、ほら、下で働いているし」

 

「俺の紹介で、だろう。何ならカヤノやハムエッグに回してもよかった」

 

 それだけは御免であった。メイは頷くしかない。

 

「……アーロンさんみたいな人に拾われて正解だったなー」

 

 棒読みで言ってやるが全く効いた様子もなく、「何を当たり前の事を」と返される始末だ。

 

 メイは怒り心頭で飯を食らった。ご飯を何杯もおかわりしてせめて経済的打撃を与えてやる、と強く感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「何だ? アーロン。ぶすっとした顔しやがって」

 

 アポなしで来たせいだろう。カヤノ医師の第一声は厳しかった。

 

「用があって来た」

 

「用もなしに来るような奴じゃねぇのは知ってるよ」

 

「今日は調剤を頼みたい。胃薬と馬鹿につける薬だ」

 

「後者はないな。前者なら用意出来るが、何だ? 腹でも壊したか」

 

「その馬鹿が、な」

 

 たらふく食った上に腹が痛くて動けないと言い放ったあの図太さにはさすがに面食らった。一部始終を説明する気にもなれなくてアーロンは急かす。

 

「お嬢ちゃんか。今日は連れて来ないのか?」

 

「連れて来れない事情があってな。あんたに聞きたい。記憶のないうちに自分の全く感知しない歌を歌う事は出来るのか?」

 

 その言葉に看護婦に調剤を依頼したカヤノが鋭い眼差しを向けてくる。この医者ならば興味を示すはずだ。

 

「歌ぁ? 何で歌なんだ?」

 

「歌によって何かが変化する。あるいは能力値の変動するポケモンがいるのか?」

 

「随分と急を要するみたいな話だが、それはトレーナーが歌って、って事か?」

 

 アーロンが首肯するとカヤノは煙草の箱を叩いて、「難しいんじゃないかな」と応じる。

 

「難しい?」

 

「ポケモンの歌で何かが発生するならまだ考えに足るが、人の歌でポケモンをどうこうするってのは。考え辛い」

 

「例えば、フォルムチェンジにその歌が必要だって事は」

 

「ワシの経験上、ない、な」

 

 煙草に火を点けたカヤノは紫煙をくゆらせる。アーロンは、「本当にないのか」と再三尋ねた。

 

「くどいぞ。ない、って言ったほうが正しい。トレーナーの指示でフォルムチェンジがあったとしても、それがトレーナーの声によるもの、あるいは歌によるもの、ってのは妙に……現実味がない」

 

「だがある一定の周波数をぶつけてやれば、もしかしたら誘発されるかもしれないんじゃないか?」

 

 アーロンの声にカヤノは眉をひそめた。

 

「どの可能性の話をしているんだ? お嬢ちゃんの手持ち、メロエッタだったか? それがフォルムチェンジしたとでも?」

 

 アーロンは無言を了承とする。カヤノは興味深そうに、「ほう」と返した。

 

「そいつは随分と、な個体だな。ハムエッグ辺りに言ってやれば高く買い取ってくれそうだ」

 

「信用していないのか」

 

「メロエッタっていうポケモン、あれからワシなりに調べたが該当するデータがない。実際のところ口からでまかせを疑っているところだったんだが、それにフォルムチェンジとなれば、もっと疑わしい。進化するポケモンはナナカマド博士の報告書で九割とあったが、フォルムチェンジはその一割にも満たないんだろ? その一例を保持しているっていうのもあれだが、あのお嬢ちゃんが自分でフォルムチェンジを促したって言うのも分からん話だ」

 

「あいつは自分がプラズマ団を壊滅させたんだと言っている。それを信じるのならばフォルムチェンジするポケモンくらい持っていてもおかしくはない」

 

「どれほど強力なポケモンなんだそりゃ。たった一体だろ? いくらなんでも無茶苦茶過ぎるな。それに、プラズマ団はまだ壊滅してはいなかった。結局のところ、お嬢ちゃんの勘違いだったんだから」

 

 アーロンは口を開こうとして、どの可能性も所詮、可能性の上での話に過ぎないのだと感じた。

 

「仮定に過ぎない話ではやはり不服か」

 

「不服というよりも、それはまだ可能性のレートにすら上がってないな。どうあっても認めさせたいのならば目の前でフォルムチェンジさせてみろよ」

 

「俺が見た、では駄目なのか」

 

「天下の波導使いでも見間違いはあり得るし、お前だってポケモンの専門家ってわけじゃない」

 

 看護婦が胃薬を処方してくる。袋に入れてカヤノは手渡した。

 

「まぁせいぜい可能性の話をするんだな。今は、そんな場合ではないと思うが」

 

 含んだ声にアーロンは問い質す。

 

「どういう意味だ? 危機は去った。プラズマ団は退いたんだろう?」

 

「素人集団が退いたかどうかはさておき、お前にはまずい案件が舞い込んできている。プラズマ団の幹部が政界に顔が利いたみたいだな。そのお陰で青の死神、お前を抹殺しようっていう動きがある。ってのは釈迦に説法か?」

 

 オウミから聞かされていた通りか。となれば一両日中に動きがあってもいいはずなのだが、襲撃者はない。

 

「ちょっと下がっておきな」

 

 カヤノは看護婦を別室に行かせてから口火を切った。

 

「……何で襲撃がないのか、って不思議に思っているだろう。どうもな、襲撃自体はあったらしいんだが、ある人物が邪魔をした。そのせいでそいつも含めてこの街じゃ抹殺対象だ」

 

 自分の代わりに抹殺対象に上がる酔狂な人間がいるとは思えない。アーロンは言葉を重ねる。

 

「誰なんだ? あんたなら知っているだろう」

 

 カヤノは顎をさすってから口にする。

 

「オウミだ。そいつの子飼いが重役連の雇っていた殺し屋を根こそぎやっちまった」

 

 全くの意外であったわけでもない。オウミは自分へと宣戦布告をした。あり得ないわけではないが、あまりに早い。そこまで事態は急を要するという事なのか。

 

「オウミの子飼いは何だ?」

 

「そいつは教えられないな。公平に行こうぜ、アーロン」

 

 どうやらオウミは自分がカヤノに世話になっているのを知っていて金を握らせているらしい。この老人は金さえあればどちらにでもなびく。

 

「何者かも分からない殺し屋を相手取るのは辛い。俺だけ顔も名前も割れている」

 

「根城は割れてないだろ。まぁ何だ。せいぜい生き残れるように頑張るんだな」

 

 カヤノの冷たいスタンスには理由がある。殺し屋同士の喰らい合いなんて裏稼業の人間でも関わりたくないものだ。カヤノはその点で線引きがうまい。

 

「……なるほど。つまり自分で警戒し、自分で探せ、と」

 

「まぁな。だがワシとお前の仲だ。バランスくらいは考えさせてもらう」

 

 カヤノの差し出したのは一枚のメモ用紙だ。それを手に取りアーロンは口にする。

 

「情報屋、か。ジュジュベ……。聞かない名だな」

 

 ジュジュベという名前らしい情報屋の位置と時間帯が指示されている。カヤノは、「ワシに出来る精一杯だよ」と口にして煙い息を吐く。

 

「そいつなら、まだマシな類の情報屋だ」

 

「あんたがオウミに金を掴まされて俺をここに誘導しようとしているのならば」

 

「おいおい、そこまで疑うのか? ……仕方がないっちゃそうだが、もうちょっと人間、捨てたもんじゃないって思えよ」

 

 アーロンはメモを懐に仕舞って胃薬を手に取る。

 

「手間をかけるな」

 

「いいさ。生きていればまた会える」

 

 アーロンは情報屋、ジュジュベとやらを頼るほかなさそうだった。

 



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第二十話「欠落」

 

 少し経つと空腹を感じたのでメイは外に出ていた。ウェイトレスの仕事は今日は休みなのでウィンドウショッピングでもしようと思ったのだ。

 

 午前中は胃痛でまともに動けなかったが、今は快調である。アーロンが帰ってくるまで待とうかと思っていたがどうせアーロンは自分を外に出そうとしないに決まっていた。

 

「プラズマ団は壊滅したって言っているのに……」

 

 ぼやいてみてブランド物の靴がウィンドウに飾られているのを目にする。しかし値段が桁違いだ。イッシュではそれほど高くなかったものがここでは高騰している。

 

「カントーのほうが安いって聞いていたのになぁ。安いのはご飯とかだけで、物価自体は高いのかな」

 

 メイは歩きながらヤマブキシティが改めて大都会である事を窺い知る。高層ビルが建ち並び、その中央には巨大な塔があった。四十年ほど前にシルフカンパニーとやらが建っていた場所で今は記念碑とタワーが代わりに建っている。タワーに昇ってみようかと所持金と相談していると芳しい匂いが鼻をついた。どうやら屋台を催しているらしい。焼きそばやコイキング焼き、それに肉まんがあった。

 

「いいなぁ。でもタワーも昇りたいし……」

 

 考えていると声が飛んできた。

 

「あのねぇ、買うの? 買わないの?」

 

 困惑の声は肉まんの屋台の前からだ。目線を振り向けると一人の少女が佇んでいた。じっと肉まんの蒸し器を見つめておりそこから視線を全く外さない。さすがに営業妨害だと屋台の主は思っているらしい。

 

「買わないのなら行った行った。冷やかしかい? にしても趣味が悪いというか」

 

 艶のある黒い髪を後頭部で縛り、制服を身に纏っている。見た事のない制服だがヤマブキの学校指定だろうか。

 

「いつまでいるんだい! 早く行かないと……」

 

 屋台の主が業を煮やして飛び出そうとする。メイは覚えず駆け寄って、「すいません」と声を投げていた。

 

「あたしの友達で。肉まん、二つください」

 

 その言葉に主は蒸し器から肉まんを取り出して袋に詰める。メイが金を払い、少女に握らせた。手を引いて屋台から離れさせる。

 

「何やっていたの? あたしから見てもあれは失礼だよ」

 

 メイの言葉に少女は言葉少なである。

 

「……見てた」

 

「いや、そりゃ分かるけれど。見てた、じゃないんだって、ああいうのは誤解を生むからやめたほうがいいよ」

 

「熱しているものを見るのが、好き、なの。熱いものが特に」

 

「じゃあ肉まんが特別に大好物ってわけでもないんだ?」

 

 少女は頭を振る。

 

「分からない。食べた事ないし」

 

 食べた事ないものをじっと見つめていたのか。メイはこの大都会ヤマブキでも分からない人間はいるものだと感じた。

 

「食べてみなよ。おいしいから」

 

 メイの勧めに少女は肉まんを口に含む。すると驚愕の眼差しを向けてきた。

 

「おいしい……」

 

「でしょ? もう、何でずっと見ていたの? 食べたいなら自分で買えばいいじゃない」

 

「お金の使い方、分からない」

 

 少女は今時珍しいがま口財布を持っていた。開くと中には紙幣が十枚近く入っており、小銭もそこそこあった。肉まんを買えないほどの貧乏ではない。

 

「買えるよ、これだけあれば」

 

「そうなの」

 

 改めて少女を見やる。日光を浴びていないかのような白い陶器じみた肌。黒曜石のような瞳は大きめだが感情に乏しかった。口元が小さく、整っている顔立ちなのだが何かが決定的に足りないような気がする。

 

「その制服、学校の?」

 

 メイが尋ねると少女は首を横に振る。

 

「学校、行っていないから」

 

 またしても驚きの事実である。学校に行っていない。だが肉まんを買えるだけの金があってなおかつ買い方が分からない。混乱してきたメイの頭に切り込むように少女は尋ねる。

 

「おいしいね、これ。何て言うの?」

 

「肉まんだよ。他にもカレーまんとかあんまんとかあるけれど」

 

「私、これが好き」

 

 少女が肉まんを手に首をひねる。そうだ、とメイは感じ取った。この少女に決定的に足りないものは表情である。しかも喜怒哀楽の喜びが全くと言っていいほど感じられない。

 

「そ、そうなんだ。好きな時は笑ってもいいんだよ?」

 

「笑う? やり方分からない」

 

 もしかするとこのたどたどしい喋り方は少女が異邦人である証ではなかろうか。メイは切り込んでみた。

 

「どこに住んでいるの?」

 

「言えない。でも、ずっとカントーに」

 

 言えないというのは眉をひそめるしかないがカントーにずっとにしては常識がないような気がした。

 

「カントーにずっと? あたし、イッシュから来たんだけれど」

 

「イッシュ? どこ?」

 

 本当に分からない、と言いたげな声音だった。まさか外国の存在を知らないのか。

 

「えっと、カントーから遠く離れた地方で、色んな人種の人がいるからイッシュって名前だった気がする。カントーよりも国土面積は広かったっけ? 同じくらいだっけ?」

 

 自分の生まれ故郷を説明するのに困っていると少女がタワーに目をやった。

 

「高いね」

 

「うん、高い。昇ろうと思っていたんだけれどなぁ」

 

 今しがた肉まんを買ったせいで余裕がなくなってしまった。それを悟ったのか分からないが少女が手を引いた。

 

「行こう」

 

「行こうって、どこに」

 

「タワーに。昇ろう?」

 

 小首を傾げる少女にこちらが可笑しくなる。少し笑うと少女はより分からないとでもいうようにきょとんとする。

 

「何か、面白かった?」

 

「いやだって、昇ろうって言うもんだから。ちょっと変わっているのね。名前は? あたしはメイ」

 

 少女は少し考えた後、こう答えた。

 

「私は、シャクエン」

 



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第二十一話「地獄の片隅」

 

 路地番が既に買い取っているらしい通路を行きながらアーロンは考えを巡らせる。

 

 ここまで誘導させておいて何もありませんでした、ではないだろう。相手は有効な情報を持っている事は分かる。ただ、害があるかないかを判断するのは難しかった。

 

「あっ、アーロンさん」

 

 顔を出してきた影にアーロンは目を見開く。

 

「リオか」

 

 プラズマ団を抜けてハムエッグに仕事を斡旋してもらっているはずだ。どうしてこのような場所にいるのだろう。路地番が仕切っているはずの裏路地である。

 

「実は自分、路地番をするように言われて。まだ下働きですけれど」

 

 恥ずかしそうにリオが後頭部を掻く。黒いスーツに身を包んでおり、路地番の仕事が思いのほか合っているのかもしれないと感じた。

 

「そうか。ではここいらの路地番は」

 

「研修期間って事で、自分が担当しています。それで、あの……」

 

「謙遜する事はない。これが路地番の仕事だ」

 

 アーロンは金を握らせる。リオはまだ慣れていないようだ。

 

「通路を見張っているだけでお金もらうって、何だか信じられませんよ」

 

「そうか。イッシュには似たような職業はなかったのか?」

 

「ヒウンとかはプラズマ団の息はかかっていなかったんで。もしかしたらあったかもしれないですけれどおれは知りません」

 

 アーロンはどんどんと街の深みに入っているのを周囲の光景から推測する。古路地のほうに入っており、ヤマブキでも一部の人間しか知らない。軒を連ねる建物は皆背が低く、高層ビル群に比べれば威圧されているかのようだ。

 

「この界隈が何と呼ばれているのか、知っているか?」

 

 アーロンの言葉にリオは首を横に振る。

 

「四十年前からある老舗ばかりだ。赤人街と呼ばれている」

 

「シャクジン……?」

 

「ここを縄張りにしていた殺し屋組織の名称だ。赤人、赤い人と書く。今でもこの辺りにはその子孫が住んでいるという逸話がある」

 

「噂でしょう?」

 

 リオの声音にアーロンは、「噂だけならな」と意味ありげに呟いた。リオは唾を飲み下す。

 

「アーロンさんみたいなのを見たら、もう殺し屋がいてもおかしくはないと思えてきましたよ」

 

「隣人が夜になれば殺しを厭わない人間でもおかしくはない。それがヤマブキという街だ」

 

 その中に渾然一体となって存在する自分もまた、街の一部。アーロンは赤人街を歩いていく。すると、小さな路地があった。ポストで隠れてしまっているが、人一人分くらいなら入れる。

 

「ここだな」

 

「ポストの裏ですよ? どうやって他人と会話するので?」

 

「そこから先は介入しないほうがいい。俺が生きて帰れるかどうか見ていていろ」

 

 アーロンは捩じ込むようにポストの裏に続く道へと入った。本当に人一人はいればやっとの場所だった。奥まった突き当たりに地蔵がある。道祖神であったがほとんど誰も来ないせいで苔むしていた。アーロンがその地蔵に触れる。すると伝わってきた波導があった。

 

「ここまでよく来た」

 

 女の声だ。波導のように感じられたのはこの道祖神の仕掛けだろう。アーロンは波導の眼を使う。道祖神の中にはスピーカーが入っており、対面の通路から声を吹き込んでいるのが分かる。しかし柵の高さの関係上、こちらから向こうの顔は見えない。無論、向こうも同じだ。だが取引相手は分かっているだろう。

 

「ジュジュベか」

 

「ご明察。青の死神」

 

 やはり割れているか。アーロンは落ち着いた声で地蔵に触れたまま話す。

 

「この話し方で合っているのか?」

 

「ええ、それで構わないわ。青の死神が傅いていると思うと私も興奮してきちゃう」

 

 声音から年齢を推測する。恐らく二十代半ば。波導を読み取ればもっと正確な事も分かるが波導の感知力を伸ばそうとすると阻害する何かがあった。アーロンはそれを読む。思念のようだが壁のように屹立してジュジュベを保護している。この街で超能力使いと言えば相場が決まっていた。

 

「あんたほどの実力者が、俺に用があるというのか」

 

 瞬時に相手の正体を掴む。相手は声音に喜色を混ぜた。

 

「さすが、と言ったところね」

 

「ヤマブキシティジムリーダー、その名は――」

 

「それ以上は、詮索しない事をお勧めするわ」

 

 その段になってジュジュベの通り名の意味が分かってくる。あの女ならばその名を使っても何も不思議ではない。

 

「しかし、分からないのは何故、俺についた。今回、俺以外にも情報を必要としている奴がいるだろう」

 

「そいつらは、昨日で見限ったわ。全員、前金をそのまま返して情報は聞かなかった事にする、と」

 

 そこで疑問が湧き起こる。何故、その殺し屋達は撤回したのか。

 

「何か、並々ならぬ事情がありそうだな」

 

「ハムエッグを通してデータベースを送っておくけれど、あなたを狙う殺し屋は一人じゃない。それこそ無数にいたけれど、今は一人だけと思っても構わないわ」

 

「矛盾した言い回しだな。一人ではないのか、一人なのか」

 

「その首を狙いたがる奴は多数いたけれど、昨晩で一変した、と言ってもいい。とある男が本気であなたを殺すために最強の暗殺者を送り込んできた」

 

「最強? 生まれてこの方、最強、というのは縁遠いのでね。手短に話してもらおう」

 

 もっとも、このヤマブキに限って言えば最強の暗殺者はスノウドロップのラピス・ラズリを示すのだが。ハムエッグが下賎な殺し屋対殺し屋の戦いにラピスを送り込むとは思えない。現状ではまだハムエッグは動かない、というのが自分の見立てだ。もしハムエッグがラピスを本気で導入する時にはこの街のルールが破綻する時だ。

 

「赤人街にいるんでしょう? そこならばよく分かるはずよ。ハムエッグが来る前、この街を統治する裏の人間が必要だった。その一族は常に最強の名を纏い、炎のポケモンと共にあった」

 

 情報を統合してアーロンは判断する。

 

「まさか、炎魔か」

 

 あり得ない、という気持ち半分だったが、最強の暗殺者と言えばヤマブキでは古くから炎魔という殺し屋の名が挙がる。

 

「炎魔が、誰についたと言うんだ? 炎魔は決して一人にはつかない。流動的に雇い主を選ぶはずだ。炎魔がついた時点でフェアではない」

 

「そう、ヤマブキの慣習に則るのなら、ね。でも今回は例外。あなたというイレギュラーを殺すための暗殺者の儀礼みたいなものだもの。炎魔レベルの殺し屋が出てきても何ら不思議ではない」

 

 その段になって昨晩多くの殺し屋が撤退した理由が分かった。炎魔参戦を耳にすれば頭が悪くない殺し屋は尻尾を巻いて逃げ出す。命が惜しいからだ。殺し屋になってまで命が惜しいとは片腹痛いが、殺し屋集団にも「死に方」のポリシーを持つ者達がいる。そういう輩からすれば炎魔は天敵だ。

 

「灼熱の殺し屋、炎魔……。炎のポケモンは骨の一片も残さず焼き尽くすという」

 

「その噂を知っていれば大抵の殺し屋は逃げ出すわね。そうでなくともハムエッグが情報を流したか、あるいはもっと上の、お歴々が実際に目にしたか」

 

 だとすればあまりに挑発的だ。炎魔の名を騙るだけでもこの街では重罪。その姿を借りる事さえも許されない。上層の人間が認めたとなればそれは本物の炎魔である可能性が高い。

 

「しかし、ここ数年、炎魔は表立った殺しは一切行っていない。こんなカーニバルのような殺し屋大集合に、炎魔のような古株が加わるとは」

 

「思えない、という意見ならば私も同じよ。炎魔は時と場所を選ぶ。誰にも束縛されない最強の殺し屋を一時でも御するなんて、そのほうが驚きよ」

 

「雇い主は誰だ?」

 

「言うと思う? もう上ではその名で大騒ぎだけれど」

 

 ある程度には知れ渡っている名の人間という事か。だが狙われている、暗殺対象の自分に教えるほど情報屋も馬鹿ではない。警告するほど入れ込んでいない証拠だ。

 

「確かに。言えばお前の身柄も危うくなる」

 

「こうしてジュジュベとして話しているのも正直限界が来そうなのよね。私が出来るのはハムエッグのところに通した殺し屋一覧くらい。それ以上は介入出来ないわ」

 

「そのほうが正解だろう。お前ほどの人間ならば、な」

 

 お互いに正体が分かっていながら決定的な言葉を排していた。ジュジュベは、「もう行かないと」と口にする。

 

「もっとお話したかったわ。青の死神」

 

「こちらとしてもそうだが、俺と話す時はお前の命がなくなる時だ。そうなればもう」

 

「この街はお終い、だけれどね」

 

 波導が消え、気配も失せた。アーロンは地蔵についた苔を払い、ピカチュウの放った電撃で表面の湿った部分を剥がす。一礼してから踵を返した。

 

 ずっと待っていたのだろう。リオがアーロンを目にするなり、「長いから」と声にした。

 

「何かあったのかと思いましたよ」

 

「何があっても、路地番に命のやり取りまで干渉する必要はない。もし、今度俺がお前を使っても、俺以外がお前を使っても過度に入れ込まない事だ。路地番の仕事は路地を一定時間封鎖しておくだけなのだからな」

 

 アーロンは警告のつもりだった。この青年は客に入れ込みかねない。リオは顔を伏せて、「実はこの後、女の呼び込みもしろって言われているんです」と言いづらそうに口火を切った。

 

「そうか。路地番ならば副業だな」

 

「でも、おれ、そんな事が出来るとは……」

 

「出来る出来ないではなく、やらなければ生き残れないのならばやったほうがいい。もっと酷い地獄を見る前に、地獄はある程度散歩しておく事だ」

 

 そのほうが堕ちた時の衝撃は軽くて済む。そう言い置いてアーロンは立ち去った。

 



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第二十二話「思い出」

 

 タワーから一望する景色は今まで見た事のないほどの一級品だった。

 

 高層ビルよりもなお高く、俯瞰する立ち居地のタワーはまさしくこの街の象徴に相応しい。

 

「た、高いね……」

 

 少しばかり浮かれていたメイは声が上ずってしまう。シャクエンは、「うん、高い」と落ち着き払っていた。

 

「シャクエン、ちゃんはこういうの平気なほう?」

 

「仕事柄、高いところとか危ないところにはよく行くから」

 

 仕事、と言われてしまうと制服を纏った仕事とは何なのかと勘繰りたくなるがメイは黙っておいた。

 

「そうなんだ……。あたし、こんな高いところは始めてかも」

 

「イッシュにもなかった?」

 

 シャクエンの疑問にメイは、「そうだね」と応じる。

 

「イッシュではヒウンシティが一番の都会だったけれど、どれも同じ高さのビルばかりだから。こんな風に一個頭飛びぬけたみたいなのはなかったかな」

 

 シャクエンは、「そう」と素っ気ない。メイは質問を重ねる。

 

「シャクエンちゃんは、カントーのどの辺に住んでいたの」

 

「ヤマブキ」

 

「この街なんだ……。ねぇ、この街って変じゃない?」

 

 かねてより思っていた事をぶつける。シャクエンは全く動じずに、「変?」と聞き返す。

 

「そうだよ。だって危ない人達がその辺にいて、それでちょっと視点が変わればその危ない世界に入っちゃうなんて、異常だよ……」

 

 アーロンの前では決して言えなかった。言ってはならない気がしていたのだ。彼は、少なくとも自分を助けるためにプラズマ団に立ち向かった。たとえ命のやり取りは見過ごせなくとも彼の行為自体は勇気に溢れたものだ。だから糾弾は出来ない。しかし、メイにはその在り方さえも異常に思えた。誰が彼にそんな生き方を強いているのだろう。彼は自分と同じ姿の男だと言っていたが。

 

「異常、かな。私はよく分からない。ずっとヤマブキで住んでいたから」

 

「ご両親は?」

 

「死んだ。二年前に」

 

 聞いてはいけない事に踏み込んだ気がしてメイは謝ってしまう。

 

「ゴメン……。あたし、無遠慮だよね」

 

「そんな事はないと思う。知らなければ聞くしかないし」

 

 シャクエンは優しいのか、それともその部分さえも欠如しているのか分からなかった。ただ自分といる事で不愉快には感じていなさそうである。

 

「シャクエンちゃん。望遠鏡があるよ」 

 

 メイがその手を引いて望遠鏡まで駆け寄る。シャクエンは、「どこまで見えるの?」と尋ねた。

 

「うんと遠くまで見えるんじゃないかな。えっと、二百円か……」

 

 ごそごそと財布を取り出しているとシャクエンが先に硬貨を入れて望遠鏡を覗き始めた。メイは遅れながらに訊いていた。

 

「どう? 遠くまで見える?」

 

「ヤマブキの終わりまで見える。この街に、終わりなんてあったんだ」

 

 何を当たり前の事を言っているのだろう。メイはおどけてシャクエンの肩を突いた。

 

「もう、大げさだなー。どんな街だって終わりくらいあるよ」

 

「大げさ、なのかな。私、この街には終わりがないと思っていた」

 

 シャクエンの瞳に一瞬翳りが映る。それは両親を失ったものから来るものなのか、それ以外なのかは分からなかった。メイはぽつりぽつりと話し始める。

 

「あたしは、その、両親がいるから。だから、シャクエンちゃんの苦しみの半分も分からないんだと思う。平和ボケしているって多分思われるかもしれないけれど。でも、シャクエンちゃん。あたしは、そういう平和ボケってね、悪い意味ばかりじゃないと思うんだ。そりゃ、戦場の事は分からないし、そういう境遇の事も分からないけれど、あたしにだけ分かるのはあたしの事。他の誰にも分からないのはあたし自身の事だと思ってる。それってさ、譲れない、って事なのかな、って」

 

 メイの声音にいつの間にかシャクエンが目線を振り向けていた。メイの話を熱心に聞いてくれていたようである。

 

「なんてね」とメイは舌を出した。

 

「あたしなんかが分かった風な口利いちゃった。アーロンさんに怒られちゃうな」

 

 メイがシャクエンと変わって望遠鏡を覗く。ヤマブキシティの終点どころか地平線まで望めた。思わず声が出る。

 

「うぉっ! すごい! この望遠鏡すごいね!」

 

 メイの浮かれた声にシャクエンは、「そうだね」と静かな調子だった。シャクエンはこの景色を見てもこの街に果てがある以外に感じられなかったのだろうか。そんな当たり前の事を、こんな特別な場でようやく――。自分にはシャクエンの痛みの肩代わりは出来ないが分け合う事ならば出来る。メイはシャクエンの手を引いていた。

 

「行こ。今度は記念写真。せっかく昇ったんだしとことん楽しもうよ」

 

 シャクエンと共に記念写真を撮る。しかしシャクエンは一度として笑わなかった。もっと笑えばいいのに、とメイは感じる。もしかすると楽しくないのだろうか。

 

「あたしといても、楽しくない?」

 

「ううん。そんな事」

 

 シャクエンは淡々と答えるものだからそれが真意かどうかは分からない。

 

「お土産買って降りようか」

 

 メイの提案にシャクエンは袖を摘んだ。

 

「もう少しだけ、この街に終わりがある事を感じていたい」

 

 シャクエンはどうしてだかこの街の終わりにこだわっているようだった。メイは頷く。一時でもシャクエンが何かを忘れられるのならばそれでいい。

 

「よっし! 今度はあたしのおごりで望遠鏡を覗こう!」

 



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第二十三話「クロスファイア」

「お姉ちゃんは来ないの?」

 

 裏から入るなりラピスがそう尋ねる。カルピスを飲んでおり傍目には隙だらけだが、少しでも触れようとすれば瞬時に凍結攻撃で殺されかねないのはこの街に精通する人間ならば誰もが知っている。

 

「いらっしゃい。アーロン。お嬢ちゃんは一緒じゃないのか」

 

「どいつもこいつも、あの娘の事ばかり言う」

 

 ハムエッグは恰幅のいい身体を揺らした。

 

「いい子だからねぇ。君と違って嫌われるような事は言わない」

 

「好かれようとも思っちゃいない」

 

「何か飲むかい?」

 

 ハムエッグがボトルを手に取るがアーロンはその所作の嘘くささのほうが目についた。

 

「ハムエッグ。もてなしはいい。本題に移ろう」

 

 ハムエッグはカウンターの中から書類を取り出してアーロンに手渡す。

 

「これ全部か?」

 

 三十枚近くの殺し屋のファイルがある。ハムエッグは、「それでも減ったほうさ」と応じた。

 

「青の死神を殺せるとなれば、我先にと思っている奴らが多い。君は自分の思っているよりも過小評価されているようだね」

 

 この命知らず全員を相手取れば消耗戦になって自分でも危険かもしれない。しかし、経験則で知っている。殺し屋は共謀しない。相当な利益がない限り、同じ目的のために組むなんて事はあり得ない。

 

「三十人を一日一人殺せば一ヶ月だな」

 

「一日に一人は殺せると思っている辺り、まだ青の死神は鈍っちゃいないんだと思うよ」

 

 ハムエッグの軽口を聞き流しアーロンはファイルに目を通す。何人か知った顔があったが、この業界では知人であれ翌日には裏切れる。たとえ何かのきっかけで組む事はあっても殺し合う事に何の躊躇もない。

 

「だが、その三十人、ほぼ全員が今待機中、とでも言うのか。動き待ちだ」

 

「存じている。炎魔、だな」

 

 アーロンが声にするとハムエッグは、「困ったもんだよ」と口にする。

 

「炎魔を子飼いにするなんて、なかなかに攻めた事をやってくれる。街のバランス役としては正直そこまで強力な殺し屋が投入されるのは想定外だ」

 

 最強の名はスノウドロップだけで充分。それがハムエッグの考えなのだろう。それだけではなく、炎魔、つまり炎のポケモンがラピスにとって相性上都合が悪いのもある。

 

 この状況でハムエッグの言いたい事は一つ――。

 

「俺に消せと。それがこのファイルとの交換条件か」

 

 手元のファイルを指差すとハムエッグは、「苦労はしたんだ」と呟く。

 

「そこまでの情報を集めるのにね。青の死神を殺すレースにわたしは加担しない。スノウドロップはフェアじゃないからね」

 

 どうだか、とアーロンは感じる。スノウドロップはここぞという時にしか使われない。このレースがまだ安全なのだとハムエッグは高を括っている。

 

「自分に噛みついてくる命知らずがいないとでも?」

 

「この街で、それなりに分かっている人間ならば、わたしが動く事もないだろう。逆に情報屋を斡旋してもいい。レースには参加しないが、応援はしてもいいと言っているんだ」

 

「蚊帳の外で見守るだけか。それはそれで、趣味が悪いな」

 

 最強を手にしておきながらレースに参加しないなど。ラピスは声を振り向ける。

 

「アーロン。お姉ちゃんはいつ来るの?」

 

「あの娘の事なんて俺は知ったこっちゃない」

 

 瞬間、空気が殺気めいた。ラピスの纏っている少女の大人しさが掻き消え、生まれたのは殺し屋としての冷酷さだ。

 

「いじわるしないで。お姉ちゃんは?」

 

「ラピス。わがままを言っちゃいけない」

 

 ハムエッグが一言制すると殺気は凪いでいった。今の瞬間、殺されてもおかしくはなかった。

 

「すまないね。よほどお嬢ちゃんの事を気に入ったんだろう。次に来る時は連れて来るといい。お礼は弾む」

 

「あいつの保護者じゃないんだぞ」

 

「それでも、何かしら用事が出来るさ。君にはね」

 

 ハムエッグはメイに関する事を知っているのか。歌とフォルムチェンジの関係まで。だが、勘繰れば余計な出費を増やす事になる。ハムエッグの情報は命と交換となってもおかしくはない。だから余程ではない限りハムエッグを頼る事はない。

 

「どうだかな。あの娘に関して、お前に聞けば分かる事なんてありそうにないが」

 

 そうかな、とハムエッグは微笑む。アーロンはファイルを手に、「いつもの口座に振り込んでおく」と述べた。

 

「それでいいんだろう?」

 

「ああ。プラズマ団の残党も鳴りを潜めたし、こっちとしては青の死神が役に立ってくれているのは分かっているんだが理解者が少ないのは自分の努力不足だと思ってくれ」

 

「どうせ、理解してもらおうなんて思っちゃいないさ。俺の稼業は殺し屋だからな」

 

 ファイルを手に裏から出ようとするとラピスが声を投げた。

 

「お姉ちゃんを連れてきてね。絶対だよ」

 

 応じずにアーロンはその場を立ち去った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ヤマブキを回っている間に日が傾き始めた。メイはシャクエンに尋ねる。

 

「シャクエンちゃん。よかったら、その、家に来ない?」

 

 その提案をしたのはシャクエンはどこに帰るのかまるで分からなかったからだ。この少女はもしかすると帰る場所なんてないのかもしれない。だからこの街の終わりを目指していた。タワーで見た横顔のような寂しさを、彼女にはもう味わって欲しくなかった。

 

「いいの?」とシャクエンは聞き返す。メイは微笑んだ。

 

「いいに決まっているよ。あっ、でも同居人がうるさいかな」

 

 というよりも自分が押しかけたのだが。メイはアーロンに連絡しておくべきか悩んだ。

 

「まぁでも、あの人だって間借りしているみたいなもんだし、店主さんにだけ言伝しておくかな」

 

 ホロキャスターで店主に繋ぎ、友達を連れて来るとだけ言っておいた。店主は快諾したがやはり疑念が残るらしい。

 

『アーロンには言ったかい?』

 

「やっぱり、あの人に言わないと駄目でしょうか?」

 

『駄目って言うか、怒るんじゃないかな?』

 

 メイは少し考えた後、「でも友達ですよ?」と口にする。

 

「友達を連れてくるだけです。上まで上がらなければいいんでしょう?」

 

『まぁ、屁理屈めいているけれど……』

 

 渋る店主にメイは、「大丈夫ですって」と言って通話を切った。

 

「いいって」

 

 シャクエンは、というと年代もののポケギアでメールメッセージを送ったらしい。メイはそれを見て、「古いの使っているんだ」と窺う。

 

「うん。家族でこれを使うのは義務だから」

 

 ポケギア自体、あまり見かけなくなった今となってはその義務というのも分からなかったが、メイは納得する事にした。

 

「おいしいコーヒーと、それにおいしい料理があるよ」

 

 メイは既に浮かれ調子である。アーロンの事は懸念事項ではあったが、何だかんだで許してくれるだろうと。

 

「コーヒーは、苦いの飲めない」

 

「ミルクをたっぷり入れれば大丈夫だって」

 

 シャクエンの手を引いて店に帰ってくると店主が出迎えた。相変わらず店には人気がない。

 

「おや、綺麗なお嬢さんじゃないか」

 

 店主の声にメイは、「そうなんですよ」と同調する。

 

「こんなに綺麗な子には会った事なくって。ヤマブキってあたし好みの子が揃っているんですかね」

 

 シャクエンは所在なさげにしている。メイは椅子を持って来て座るように促した。

 

「ねぇ、メイちゃん。あの子、ちょっと変わっているみたいだけれど」 

 

 早速、店主が怪訝そうにする。メイは、「変わっていませんよ。ただの女の子です」と応じた。

 

「何だか、どこかで見たような気がするんだよなぁ」

 

 店主の声にメイは首を傾げた。

 

「綺麗だから、モデルとか?」

 

「うぅん。そういうんじゃなくって、何か、このお店をやる前に出会ったような、そんな気が……」

 

「もう、店主さん、ナンパですか? 駄目ですよ、お客さんに手を出すなんて」

 

「いや、多分違うと思うけれど……」

 

 からかってやりながらメイはコーヒーをシャクエンに出す。シャクエンはおっかなびっくりにカップを手に取った。そのまま飲み干そうとするのでメイはミルクを入れてやる。

 

「こうすると甘いよ」

 

 シャクエンはコーヒーを見据えてから一気に飲んだ。コーヒーの飲み方としてはいささか下品だが、シャクエンがすると何故か上品に映る。飲み終えるとシャクエンが呟く。

 

「おいしい」

 

「でしょ? ほら、店主さん、おいしいって」

 

「コーヒー豆にはこだわっているからね。おいしいのは当然だよ。何でだかお客は来ないけれど」

 

 自虐気味にこぼした店主と笑みを交わしているとシャクエンが階段へと目線を向けた。

 

「上があるの?」

 

「ああ、うん。上であたしは住んでいるんだけれど」

 

「行ってもいい?」

 

 初めて、シャクエンが自分からそれらしい質問をしてきた。メイは無下にするのも悪いと感じて首肯する。

 

「うん。いいよ」

 

「おい、メイちゃん。君がよくってもアーロンが」

 

「いいんですよ。あたしの友達って言えばアーロンさんも何も言えないだろうし」

 

 そういうものかねぇ、と店主が疑いの目を向けてくる。メイはシャクエンの手を引いた。

 

「階段を上がるとトラックが突っ込んでいる広告塔に辿り着くんだ。そこが家なの。変でしょ?」

 

 シャクエンは言葉を発しない。どうしてだか張り詰めている。メイはアーロンの事を心配しているんだと感じた。

 

「大丈夫だって。アーロンさんはそりゃ、見かけも内面も怖い人だけれど、ほら、根はいい人、みたいな」

 

 扉を開けるとアーロンがちょうどソファに座って書類を整理しているところだった。メイに視線も振り向けず、「ノックをしろ」と注意する。

 

「すいません。でも、今日は友達を連れて来たもんで……」

 

「友達? また厄介事を」

 

 アーロンが顔を上げる。その瞬間、その目が見開かれた。驚愕に震えるアーロンはソファから咄嗟に飛び退り、モンスターボールに手をかける。

 

「……何故、ここが分かった?」

 

 張り詰めた声にメイは、「もう、大げさだなぁ」と返す。

 

「女の子苦手なんですか? そんなリアクションなんて――」

 

「見つけた」

 

 シャクエンが発した声にメイは顔を振り向ける。シャクエンは片手を掲げると内側に繰った。直後、アーロンの放ったモンスターボールからピカチュウが飛び出し、メイを蹴りつける。

 

 メイはほとんど転がる形でシャクエンから吹き飛ばされた。

 

「何するの――」

 

 そこから先の言葉を呑み込んだのは、シャクエンの傍にいつの間にか現れているポケモンを目にしたからだ。

 

 黒い体表に首筋から襟巻き状の炎が噴き出している。かぁっと口腔を開いたそのポケモンはピカチュウの電撃を受けても怯みもしない。

 

 アーロンが舌打ちし、ピカチュウを手元に戻す。

 

「まさかそちらから来るとはな。炎魔」

 

 アーロンの言葉の意味が分からずメイは両者を交互に見る事しか出来ない。

 

「何言っているんですか! シャクエンちゃんは……」

 

「離れろ! 死にたくないのならな!」

 

 いつになく本気の声音にメイは覚えずアーロンのほうへと歩み寄っていた。シャクエンは炎のポケモンを連れたまま片手を払う。すると炎が一直線にアーロンへと突き進んだ。アーロンは手を薙ぎ払って電撃を起こす。床を捲れ上がらせその衝撃波で炎を防いだかに思われたが、炎は意思を持ったかのようにのたうち、アーロンへと突き刺さろうとする。

 

 アーロンは咄嗟にメイの肩を引っ掴み、ピカチュウへと命じる。ピカチュウが電気のネットを発生させて窓を割った。アーロンは電気のネットの一端を掴み、ワイヤーの要領で使用して窓の外にぶら下がる。

 

 直後、トラックの家が内側から爆発した。膨れ上がった火球と高熱が肌をちりちりと焼く。メイはその光景を呆然と眺める事しか出来ない。

 

「何で……。どうなっているの?」

 

「無自覚か。それとも奴が洗脳でもしたか。どちらにせよ、居所を知られてこのままでは戦い辛いな」

 

 アーロンはゆっくりと裏路地に降り立つ。メイはトラックの家屋を破砕した影にシャクエンとそのポケモンの姿が映えるのを目にした。

 

「何で……。シャクエンちゃん……」

 

「来い。奴から逃げる。密室では奴の独壇場だ」

 

 アーロンが無理やり手を引く。メイはその手を振り解いた。

 

「いや! アーロンさん! あの子はあたしの友達で、だから、その……」

 

 言葉が出ない。今起こった現実と、自分の思っていたシャクエンとの溝が明言化出来ない事態になっている。

 

「いいか、よく聞け。奴は暗殺者だ」

 

 その言葉は信じられなかった。暗殺者? 何でシャクエンが?

 

「このままでは二人とも殺される。逃亡用のルートがある。何も考えずに走れ」

 

「……嫌です。あたし、そんな命令されるいわれなんて」

 

「殺されるぞ」

 

 静かながらその言葉には確信があった。メイは巻き起こった現実と肌を焼いた炎の感触にアーロンを信じるべきかシャクエンを信じるべきか悩んだ。だがアーロンがすぐにメイの手を掴んで駆け出す。

 

「考えている暇なんてないぞ! 死にたくなければ走れ!」

 

 メイは一度だけ振り返った。トラックの家屋が焼け落ちる中、シャクエンはメイを見据え何かを呟いたのが唇の動きで分かった。

 



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第二十四話「最強の暗殺者」

「ハムエッグに繋いでくれ。大至急だ」

 

 アーロンはホロキャスターに声を吹き込んでいた。ハムエッグの部下が電話を取っている。今はその一瞬すら惜しい。早く変われ、と再度通告する。

 

「ハムエッグに直接報告するぞ」

 

 そう脅すと部下はすぐにハムエッグへと通話を繋いだ。アーロンは手短に用件を話す。

 

「ハムエッグ。お前の渡したリストの中に、奴はいなかったぞ」

 

『主語が抜けているな、アーロン。何の事だ?』

 

「炎魔だ。奴の情報はどこにも載っていなかった。……握り潰したな?」

 

 確信を持って声にするとハムエッグは、『そちらよりも報酬が高いほうを優先させてもらった』と語る。

 

「報酬の高いほうだと?」

 

『青の死神狩りには他の暗殺者も躍起になっているとは伝えただろう? わたしが言わなかったのは、その殺し屋共が昨晩の一つの事実をきっかけにしてほとんど撤退した理由だけだよ。それ以外は言った』

 

 確かに殺し屋が撤退したとは聞いた。アーロンは自分の迂闊さを呪う。理由をきっちり聞いておくべきだった。

 

「理由は、炎魔だな。あいつが表面上出てくれば、それは殺し屋共にとって見ればイレギュラーだ」

 

『ご明察。ジュジュベも言っていたと思うが』

 

 ジュジュベも炎魔が動き出しているとは言っていたが事実だとは思わなかった。それに一両日中に狙われるなど。

 

「なんて事だ、ハムエッグ。家が全焼したぞ」

 

『そりゃ悪い事をしたな。もっと頑丈な根城を用意してやろう』

 

「その前に生きていたら、だがな。ハムエッグ、炎魔の情報を寄越せ」

 

 単刀直入な物言いにハムエッグは、『いいのか』と試す。

 

『高いぞ』

 

「いくらでも払ってやる。死ねば地獄に金は持っていけないからな」

 

 ハムエッグはこの状況も読んでいたに違いない。ハムエッグが炎魔の情報を読み上げる。

 

『今次の炎魔はまだ齢十四。歳若い炎魔だ。暗殺稼業を始めたのは二年前だな』

 

「誰が飼っている? そいつを叩く」

 

『生憎だが、その飼い主に高値で情報の阻害を頼まれているんでね。それ以上は言えないな』

 

「……三十」

 

『五十でも足りないところだよ。百』

 

「足元を見過ぎだ。八十」

 

『……まぁいい。君とわたしの仲だ。八十で手を打とう。飼い主は君もよく知る人物だ。だからこそ、口止め料を払ってもらっていたんだが』

 

「もったいぶるな。早く言え」

 

『炎魔の雇い主、いや飼い主はオウミだ』

 

 その結論にアーロンはオウミが今回の暗殺者の戦いに一枚噛むと言っていたの思い返す。しかしここまで早くだとは予想外だった。

 

「オウミが? だがお歴々の反発があったはずだ」

 

『だからこそさ。奴は昨晩、お歴々の雇った暗殺者を根こそぎ殺してみせた。要は炎魔という力の誇示と一番乗りは自分だという、デモンストレーションだな』

 

 オウミらしいと言えばそうだが、今回は命がかかっている。アーロンは波導を読んで周囲を警戒した。今のところ敵意の人影はない。

 

「オウミ自身を叩くのは、現実的じゃないな」

 

『オウミは言っても現職の刑事だ。その立場が奴を守っている。さて、波導使いアーロン。どうする? 最強の殺人鬼、炎魔とまともに渡り合うしか、方法は残されていないが』

 

 ハムエッグも内心では見たいのだろう。自分と炎魔の直接対決を。アーロンは声を吹き込む。

 

「方法は探る。情報が必要ならばまた呼ぶ」

 

『生きていれば、な』

 

 通話を切り、アーロンは自分の体内の波導を探った。攻撃は受けていない。とりあえず鼓動を鎮め、脈拍を安定化させる。今考えるべきは如何にして炎魔を倒すか。それだけだ。

 

「……嘘ですよね」

 

 力ない声が考えの邪魔をする。アーロンは顔を上げていた。メイはどこかすがりつくような声音でアーロンに問い質す。

 

「シャクエンちゃんが暗殺者だとか、嘘ですよね?」

 

「本当だ。あれはこの街でも最強を誇る暗殺一族の末裔、炎魔だ」

 

 その言葉にメイは肩をびくつかせる。

 

「炎魔一族は代々、ヤマブキを拠点に暗殺業を行ってきたが数年間音沙汰がなかった。そのうち炎魔は滅びたのだと、誰もが噂するようになったがその実態が不明だった以上、生きていたという事なのだろうな。それだけスノウドロップや俺のような暗殺者が幅を利かせられるようになったんだが、その末裔がお前を盾にして俺に向かってくるとは思わなかった」

 

「違う……。シャクエンちゃんはあたしを利用なんて……」

 

「利用されたんだ。認めろ。最初から奴は、お前諸共俺を殺す気だった」

 

 メイは顔を伏せる。アーロンはピカチュウのコンディションを探る。電撃はいつも通りに発動出来る。問題なのは電撃による攻撃よりも相手の炎のほうが勝っていた場合。床を捲れ上がらせて防いだが、あの炎には意思が宿っているようだった。つまり本体への直接攻撃が最も有効であると。

 

「ピカチュウ。接近は危険だが、長丁場になれば相手に有利だ。一気に決めるぞ」

 

 電気のネットで奇襲を仕掛け、本体である炎魔を抹殺する。それしかない。アーロンが立ち上がろうとするとメイがコートを掴んだ。振り払ってもメイは諦めずコートを掴む。

 

「いい加減にしろ! 死にたいのか!」

 

「シャクエンちゃんは人殺しなんてしません」

 

「いつまで駄々を捏ねる気だ。殺人鬼に感情なんてない」

 

「それでもっ! あの子は嫌だったんですよ! 嫌がっていたんです!」

 

 喚いた声にアーロンは言葉をなくす。メイは涙を目の端に浮かべていた。

 

「……何があったのかは知らないが、炎魔は名の知れた殺人鬼であるのは事実だ」

 

「でも……。アーロンさんとシャクエンちゃんが戦うなんて……」

 

 耐えられない、とでも言うような声音にアーロンはメイの肩に手を置く。

 

「なら、ここで息を殺していろ。奴の狙いは俺だ。真正面から俺が向かえば、お前まで殺そうという気はなくなるはずだ。それでも不安ならハムエッグを頼れ」

 

 メイの手に自分のホロキャスターを握らせる。発信履歴からハムエッグへの直通があるはずだった。

 

「ラピス・ラズリはこの街で唯一炎魔に有効な殺人鬼だ。ハムエッグに仕掛けるほどオウミも馬鹿じゃない。俺を殺せれば御の字、レベルに考えているはずだ」

 

 メイは首を横に振る。

 

「嫌です、嫌……。あたし、こんなの耐えられません!」

 

「なら、さっさと逃げろ。ハムエッグに逃走ルートでも聞いておけば、逃げ切れるはずだ」

 

「アーロンさん、シャクエンちゃんを殺す気ですか……」

 

 震える声にアーロンは断じる。

 

「そうだ。殺さなければ殺される。雇い主を殺せば大方収束するが、炎魔は特殊だ。一度依頼された仕事は完遂するまでやめない。今回は殺し合うしかないだろう」

 

「何でっ! 何で、そんな簡単に殺すなんて!」

 

 感情の堰を切ったようなメイの涙にアーロンは無情の声を返すほかない。

 

「それが俺達の存在理由だからだ」

 

 アーロンは駆け出した。メイが無茶をしない保障はなかったが今回ばかりはそれを祈るしかない。

 

「湿度は……生憎感電を狙えるほどではないか」

 

 波導を読んでアーロンはシャクエンを探そうとする。しかしどこにもいない。自分達を追ってくるのならば近くにいるはずである。波導感知能力を最大値まで上げてアーロンは周囲を精査する。その瞬間、重い殺気がのしかかかってきた。空を仰ぐ。真っ逆さまに降りてきたのは先ほどの炎ポケモンだ。炎の腕を振り上げた相手にアーロンは飛び退る。

 

 先ほどまでアーロンの頭部があった空間を引き裂いた。

 

 アーロンは返す刀でピカチュウの電撃を放つ。しかし相手のポケモンはすぐに空間の中に掻き消えた。まさしく透明になったとしか思えない。景色と一体化し、相手の姿が視界から失せる。

 

「バクフーンだな。ジョウトの初心者向けポケモンだ。熱を操り、陽炎を使って相手に不可視の攻撃を仕掛けるという」

 

 今回の能力もその一端だろう。バクフーンは見えない間に自分達へと肉迫するに違いなかった。アーロンは波導を読み、バクフーンの位置を探ろうとする。しかし、バクフーンの隠密能力は伊達ではない。波導を読み取る眼でも完全な位置は追えなかった。

 

「だが、大体の攻撃位置は分かるぞ」

 

 後退すると炎が巻き起こりアーロンを焼こうとする。アーロンはピカチュウに「エレキネット」を指示した。

 

「トレーナーは上か!」

 

 電気の網で金属を巻き上げ徐々に上へと上がっていく。屋上に辿り着いた時、シャクエンは待っていたとばかりに動きもしなかった。

 

「直接対決、と行くか」

 

 間合いに入ればこちらの勝利は揺るぎない。しかし、相手の間合いがまるで分からなかった。見えない炎のポケモン相手では接近は危うい。

 

 波導を読む。シャクエンの周囲は炎熱が包んでおり、波導感知が弱まった。

 

「……厄介な」

 

 だが今仕掛けない意味はない。アーロンはすぐさま駆け出した。シャクエンが手を繰る。

 

「来て、〈蜃気楼〉」

 

 呼ばれたバクフーンが突如として眼前に立ち現れる。先ほどまで地上にいたのにここまで素早いとは思っていなかった。アーロンはピカチュウに指示を出す。

 

「麻痺させるぞ! 電磁波」

 

 ピカチュウが巻き起こした電磁波の攻撃をバクフーンはするりと回避してアーロンへと接近する。ポケモンと人間ではリーチが違う。その炎の拳がアーロンの腹部へと叩き込まれようとした。

 

 咄嗟にアーロンは跳躍する。シャクエンの背後を取れば、と感じたが着地した箇所から炎が巻き起こった。すぐさまピカチュウに電流の壁を張らせてその上をもう一度跳ね上がる。どうやら時限式の炎の地雷を仕込んでいるらしい。シャクエンの周囲の空間の波導が安定していないのはそれも起因しているのだろう。

 

「時限爆弾の炎と、素早く動き、眼に見えない炎タイプか。それで本体に接近させない戦法。なるほど、最強の名は伊達じゃないな」

 

 シャクエンは無感情に振り返り手を掲げる。バクフーンの襟巻きから放った炎が二手に分かれ、挟み込むようにアーロンへと襲いかかる。アーロンは後退して次のビルへと飛び移った。だが、その瞬間に先ほどを同じ感触が足元から湧き上がる。

 

「まさか、既に!」

 

 ピカチュウが咄嗟に放った「エレキネット」の電気ワイヤーがバクフーンを絡め取る。バクフーンが振り解く前に別の場所へともう一つ放ち、アーロンは難を逃れた。ここいらのビル周辺は既に炎魔の領域だ。恐らくビルの屋上全てに時限式の炎が仕込まれているに違いない。このままでは消耗戦どころか、相手に近づく事さえも出来ない。

 

 アーロンは歯噛みする。やはり最強の暗殺者にとってしみてれば新参の自分など児戯にも等しい。

 

「スピードで圧倒しようにも相手の手数が多過ぎる。それに不可視のポケモンを相手取るのには俺のピカチュウでは射程が足りない。相手に気取られずに潜り込むとすれば……」

 

 アーロンは瞑目する。記憶の中の自分が告げた。

 



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第二十五話「蒼い記憶」

「ポケモンの能力を信じるな」

 

 ルカリオに弾き飛ばされ、アーロンは草原を転がる。師父のルカリオは情け容赦ない。アーロン相手に全力で格闘技を叩き込んでくる。何度か血反吐を吐きそうになった。肩を荒立たせてピチューに指示する。

 

「電磁波!」

 

 何度か技の構成を変更した。師父は今のままでは波導使いとしての手持ちには足りないと技マシンを大量に使ってピチューの技を慎重に選定している。

 

 放たれた電磁の網をルカリオは飛び越えて自分へと蹴りを放つ。ポケモンの一撃だ。当然、子供である自分には身が持たない。矢継ぎ早に放たれるルカリオの拳を受け止めるのにはピチューの素早さはとてもではないが足りなかった。

 

 電撃を放って距離を取ろうにもなかなか引き剥がしてくれない。拳が鳩尾にめり込んでアーロンはまたしても吹き飛ばされる。無様に草原を転がり、暗転と激痛が身体を駆け巡った。

 

 師父は木の根に腰かけて本を読んでいる。ルカリオにはほとんど指示をしない。それが異様であったが、ルカリオは自分で考えてアーロンを優先的に狙っているようだった。

 

「師父。ぼくが、……その強くなるというのなら、ピチューに経験値を振らないと、意味がないんじゃ……」

 

 息も絶え絶えに口にすると師父は本を閉じて、「言ったろう」と目線を向ける。

 

「ポケモンの能力を信じるな。もっと言えば過信するな」

 

 意味が分からない。ポケモントレーナーならばポケモンの能力を信じずして何を信じろというのだ。

 

「波導使いは、ポケモントレーナーじゃ、ないんですか……」

 

 立っている事も儘ならずアーロンは座り込んだ。師父は厳しい目線を向けてルカリオを呼ぶ。ルカリオが駆け抜けてアーロンへと拳を放とうとする。咄嗟に転がって避けるが、今のは危うかった。

 

「い、今はちょっと休憩していて……」

 

「休め、と誰が言った? 戦闘中に気を抜くな。そんなのでは波導の継承は出来んな」

 

 師父の声にアーロンは立ち上がる。ピチューが前に歩み出て電気袋から放電した。青い電流をルカリオは片手で弾く。

 

「真髄、というものがある」

 

 師父の唐突な言葉にアーロンは戸惑う。

 

「何ですって?」

 

「そのポケモンの、適材適所と言い換えてもいい。わたしのルカリオは単独行動も可能なポケモンだ。常にトレーナーと共にある必要はないし、ともすればわたし自身を犠牲にして相手へと肉迫する事も出来る。だが、お前のピチューはそうではない。まだまだ電気技も弱過ぎる上に、トレーナーから離れての行動は難しいだろう」

 

「……だから、ぼくは向いてないと言うんですか」

 

「違うな。適材適所だと言っただろう。わたしはルカリオのスタンドプレーを信じるが、お前は違う。ピチューに、決してスタンドプレーを許すな。独断の行動を許さず、常に自分の傍に置け。もっと言えば、ピチューの電撃の技をトレーナー自身が使えるのが望ましい」

 

 師父の言い方は無茶苦茶だ。ピチューをトレーナーの傍に常に置くなど、それでは攻撃出来ないではないか。

 

「それじゃ、ポケモンバトルなんて出来ない……」

 

「わたしがいつ、ポケモンバトルを優先して戦うように言った? お前が生き延びるための戦闘術を叩き込んでいるんだ。ポケモンバトルというままごとの競技は忘れろ。それをやっている人々の事も、全て、だ。波導使いに、ポケモンバトルという範疇は不要だ」

 

 足に力を込めようとするがどうしても先ほどのルカリオの攻撃が効いてろくに動けない。

 

「体力不足だな。基礎体力をつけるんだ」

 

 師父が鞄から取り出したのは鳥ポケモンの調理したものであった。アーロンへと手渡し、「食え」と言う。

 

「鳥ポケモンの肉は食っても脂肪にならず太りにくい。筋肉になってくれる」

 

 アーロンは空腹からかぶりついた。味など意識の外であった。

 

「師父は、常に鍛錬を?」

 

「波導を読めるようになってくれば、無駄な筋力は必要なくなる。わたしの場合はルカリオが戦闘を担当してくれるからまだ楽だが、お前はそうではない。ルカリオに波導の位置関係を読ませるだけの戦術はお前向きではないんだ。お前は自分の眼で波導を読み、自分の判断で相手の波導の弱点を突くしかない」

 

 師父よりも数段階上の事をやれと言われているのだ。その理不尽さよりもどうしてピチューではそれが出来ないのかを考えた。

 

「元々、ピチューはそういうポケモンじゃないです」

 

「そうだな。四足のポケモンはそうでなくとも自律攻撃には向かない。トレーナーの指示、命令、あるいは与えられた行動のプログラム、いずれにせよ、タイムラグが付き纏う。それを限りなくゼロにする方法は、トレーナー自身が強くなる事だ」

 

「強く……」

 

「たとえば、今の戦局。ルカリオはお前に限りなく接近し、攻撃を仕掛けた。ピチューでお前は距離を取ろうとしたが、それは間違いだ。逆に相手の懐に入り、効率的に電撃を浴びせる事を考えろ」

 

 師父の言い草にアーロンは困惑の目を向けた。

 

「……でも、近づき過ぎれば、ぼくもピチューの電撃を受けてしまう」

 

「それだな。波導が使えれば、少しばかりはカバー出来るのだが、まだ足りんか」

 

 一長一短だ、と師父は結んで本を読み始める。アーロンは拳を握り締めた。草原の草を引っ掴んで声にする。

 

「師父」

 

「何だ」と応じようとした師父の顔へとアーロンは根っこを引っこ抜いた草を投げつける。土くれが一瞬だけ師父の視界を奪った。

 

 その一瞬にアーロンは接近する。ピチューを肩に乗せてその手を突き出した。

 

「ルカリオ!」

 

 横合いからルカリオが掌底を打ち込み、アーロンを突き飛ばす。肺が潰れたかと思うほどの衝撃だった。アーロンは咳き込み、呼吸がほとんど出来なくなる。

 

「……上手くいくと思ったのに」

 

「不意打ち……、いいやわたしの集中不足か。今しがた教えた事を実践しようとする、その心持ちや、よし」

 

 自分を殺そうとした事など全く責め立てる様子はなく、師父は淡々と状況を分析する。本に飛び散った土くれを払い、「奇襲向けだな」と口にした。

 

「奇襲……」

 

「お前の攻撃だ。今、ピチューの電撃を自分が受けるのも構わずわたしへと攻撃しようとした。そのやり方はほとんど奇襲だ。相手の不意をつき、相手よりも一歩先を行った攻撃で翻弄する。ルカリオの状況判断が遅れていれば死んでいたのかもしれないな」

 

 どこまでも客観的な師父の声にアーロンは立ち上がろうとしたが、今のルカリオの防衛攻撃はほとんど咄嗟であったため力の加減が出来ていなかったのだろう。呼吸の感覚を取り戻すだけでやっとだ。

 

「そのやり方が向いているのかもしれない」

 

 師父はピチューへと視線を向ける。ピチューは師父の眼差しにアーロンの背に隠れた。

 

「主の身も顧みない電撃。もし放てていれば百点をやってもよかったが、その場合、お前の身も持たなかっただろう。やはり波導の訓練を受けなければならない。せめて、自分の体表をカバー出来る波導の使い方を教えてやろう。ルカリオ」

 

 ルカリオが構えを取る。師父が顎でしゃくった。

 

「波導の眼を使ってルカリオを見てみろ」

 

 アーロンは波導の眼を用いる。師父との訓練で少しばかり波導の制御が効くようになったがまだまだだ。しかしルカリオの変化は分かった。

 

「自分の体表に、薄皮みたいに……」

 

 波導を身に纏っている。防御膜として使うにしては薄過ぎるくらいだったが、咄嗟の防御にも攻撃にも転じられる波導の使い方だ。

 

「波導は体内だけではない、体外に使う事も出来る。ルカリオの場合、波導は放出型。だから簡単にこういう事が出来るわけだが、これでは防御に使うにしては薄過ぎるし、攻撃に使うにしては密度を全体に広げ過ぎている。ルカリオの波導の使い方としてみれば、少し下策なくらいだが、これを人間に当て嵌めれば意味が違ってくる」

 

 師父の言葉の意味が分からない。体表を覆う波導の使い方がどうだというのか。

 

「ぼくが、それを使えって言うんですか」

 

 しかし、防御にも適さないと言われたばかりだ。ならば何の意味で。

 

「ピチュー、いやもし進化してピカチュウになったとしても、この使い方が活きてくる」

 

「だから、どういう事なんですか」

 

 師父は、「波導の基礎中の基礎だ」と口にする。

 

「攻撃のために波導を纏わせる。だがお前は放出型ではない。だからピチューの電撃に耐え得るために使い方を学べ。ポケモンの能力を過信するなとはそういう事だ。ポケモンに戦わせるんじゃない。お前自身がポケモンと対等か、それ以上の立ち回りが出来るように戦い方を考え直す必要がある」

 

 師父の言葉の半分も理解出来なかったが分かったのは一つだけ、だ。

 

 その戦い方でなければ自分は強くなれない。

 

 しかも生半可な努力ではない。師父が言うにはそれは向いていない波導の使い方だ。しかし、実戦で使えなければ意味がないのだろう。アーロンは立ち上がり、「いいですよ」と声にする。

 

「ぼくに、その波導の使い方を教えてください」

 

 師父は、「教えてください、というのは違う」と返して背を向ける。ルカリオの拳が間近まで迫ってきてアーロンは咄嗟に後ずさった。眼前にある拳には波導が纏いついている。

 

「戦って自分で体得しろ。わたしが言えるのはそれだけだ」

 



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第二十六話「火炎夜」

 

「エレキネット」を用いてアーロンは屋上に足をつけないように地表を伝う。

 

 ピカチュウから発せられる電気のワイヤーはいざとなれば緩衝材になる優れものだ。だからこそ、この技をピカチュウに組み込んである。アーロンは考えを巡らせる。どうすれば炎魔を殺せるのか。あのバクフーンの攻撃網を掻い潜り、炎魔の首筋を捉えるのはほとんど不可能に近く思える。しかし、自分にはそれ以外の勝機は見出せそうになかった。バクフーンを相手取るには相性が悪い。やはり本体狙いしかあるまい。

 

「こちらの動きを予測されていれば終わりだな」

 

 アーロンは地面に降り立つ。シャクエンから随分と離れたつもりだった。しかし、突如として炎熱が湧き起こる。アーロンが飛び退ると炎の渦が巻き起こってアーロンを絡め取ろうとする。

 

「張っていた、というわけでないな。自律的にバクフーンを動かしている」

 

 師父のルカリオに近い戦い方だ。ならば対応策も見えてくる。

 

 本体の近くにポケモンはいない。防御がまるで度外視されている戦い方だ。一秒でもバクフーンの戻ってくるのが遅れれば本体が危うい。かといって本体が動き回ればいいわけでもない。この場合、シャクエンはほぼ動かず、バクフーンだけを相手の送り狼に繰り出すのが正しいはずだ。

 

「近くにバクフーンはいるが、本体は動いていない、か」

 

 不可視とはいえ存在はしている敵。ならば攻撃のしようはある。波導の眼を用いてアーロンは周囲を探った。バクフーンの移動痕には炎熱が残っている。炎のポケモンを操る功罪とも言えよう。強力な一撃と追尾を約束する代わりにその移動は筒抜けとなる。

 

「次は、そこか!」

 

 ピカチュウが電流を放つ。予測地点に現れたバクフーンが青い電流を満身に受けた。今のでダメージになる、はずであったがバクフーンはほとんどその攻撃をいなす。全身から火の粉を滾らせ、回転しつつまたしても陽炎の中に隠れた。周囲の空間の熱を操り、一時的な不可視の状態を作り出す。その際に移動し、相手へと肉迫、炎の一撃を食らわせて殺す。炎魔のやり方は確かに暗殺術としては優れている。

 

 だが、それは同時に対暗殺者用ではないという事だ。暗殺術として極めれば極めるほど、同じ土台の敵にとってしてみれば、その弱点が浮き彫りになる。

 

 アーロンは電気ワイヤーを手繰って屋上へと躍り上がった。だが屋上は既に炎の乱舞する独壇場。勝てる見込みは薄い。しかしアーロンの戦法からしてみれば相手を視界の中に捉えなければ意味がないのだ。

 

 屋上に足を着いた途端、熱量が膨れ上がる。アーロンは足に波導を込めた。

 

「ちょっとだけ無茶をするぞ」

 

 そう告げるとアーロンはほとんど重力を無視して跳ね上がる。一時的に脚力を上げ、最大の移動を可能にする技だった。しかし自分には放出型の波導は合っていない。当然、負荷が酷かった。しかし今は、とアーロンは右腕に波導を纏いつかせる。その他の部分に使っている肉体強化の波導を全て切った。

 

 直下にシャクエンの姿が映る。この跳躍による目的は一つ。シャクエンの射程へと入る事だ。だが当然の事ながら弊害がある。

 

「来て、〈蜃気楼〉」

 

 シャクエンの一言でバクフーンが立ち現れる。ここまでは全て計算通りだ。

 

 バクフーンが次にどのような技を選択するかでこの局面は変わってくる。バクフーンは降りてくる自分に対してはその一撃で充分だと判じたのか腕に炎を纏い付かせた。一撃でももらえば確実に消し炭になる。だがアーロンからしてみればそれでさえも計算の内だ。

 

 降り立つ前に灼熱の腕がアーロンの頭部を捉えようとする。その時、声にした。

 

「ピカチュウ、エレキネットを俺の背後に張れ。派手になるぞ。ボルテッカー!」

 

 瞬時にアーロンの背面に電気の網が張られる。直後、ピカチュウの身体が青い電流を纏いつかせ、爆発的に膨れ上がった。自身に膨大な電力を纏いつかせて相手へと捨て身の対当たりをする強力な電気技「ボルテッカー」。それをピカチュウはアーロンから離れる事なく放出した。アーロンの腕に電流が駆け巡る。通常ならば腕が焼け落ちているが、アーロンの腕は健在だった。

 

 そのまま何とアーロンはバクフーンのパンチと打ち合ったのだ。衝撃波が身体をなぶるが事前に張っておいた「エレキネット」が減衰する。アーロンはバクフーンの炎の拳を相殺する、それだけでよかった。バクフーンが攻撃後に僅かに硬直する。それだけの技を放ったのだから当然だろう。ポケモンの技は相殺すればそれなりの硬直時間が発生する。ポケモンバトルならば一瞬の硬直でトレーナーには関係がないほどだがこれは殺し合いだ。その一瞬が明暗を分ける。

 

 バクフーンの硬直の隙をつき、アーロンはシャクエンへと肉迫した。その一秒にも満たない僅かな、針の穴のような隙をアーロンは見逃さずシャクエンの射程へと潜り込んだのだ。シャクエンは当然、バクフーンを使っているために全くの想定外、という様子だった。アーロンは首根っこを押さえ込みそのまま押し倒す。

 

 バクフーンがそれに気付いて振り返ったが、「動くな」と制した。

 

「動けば、即座に電流を流して殺す」

 

 アーロンのコートはそこらかしこが焼けていたが肝心の右腕には傷一つない。波導を固めて右腕に纏いつかせる。それによってピカチュウの「ボルテッカー」から右腕を保護し、一時的にポケモンの技と打ち合えるレベルまで強化する。暗殺術ならではの波導の使い方だった。

 

「二つだけ聞こう。オウミの命令で殺すのは、俺だけ、のはずだな?」

 

 シャクエンは自分の首筋に死神の鎌がかかっている事を分かっているのかいないのか、感情の読めない黒曜石の瞳でこくりと応じる。

 

「もう一つ。言い残す言葉はあるか?」

 

 炎魔ほどの実力者だ。その健闘には暗殺者なりに称えるものがある。アーロンは改めて聞いたがシャクエンは素っ気なかった。

 

「何も」

 

 波導を読む。嘘は言っていない。本当に、何一つ言い残す事はない、と思っているようだった。アーロンは一つ息をつき、右手に波導を集中させる。ピカチュウに電撃を命じようとした、その時だった。

 

 ふわりとこの戦場に浮き上がってきた影があった。アーロンはそれを目にする。

 

 メロエッタが青の死神と炎魔の戦場に舞い降りて口を開く。

 

「何だ――」

 

 アーロンがそれに対応する前にメロエッタから放たれたのは音波攻撃だった。音波の衝撃波がアーロンを襲い身体がシャクエンから引き剥がされる。通常ならば攻撃を受けたところで吹き飛ぶ醜態を晒さなかったのだが直前に足に波導を込めたのが災いした。アーロンは容易く屋上の縁まで吹き飛ばされて背中を強く打つ。

 

 一瞬だけ呼吸が出来なくなった。

 

「何だ……。何で、あの娘のポケモンが……」

 

 息も絶え絶えに声にするとシャクエンは立ち上がり、バクフーンを呼びつける。そのまま屋上から降り立って逃げていった。

 

 アーロンは追おうとしたがメロエッタの攻撃が想像以上に効いていた。波導を防御に充てていなかったためにほとんど生身に近い。何度か咳き込んでからようやく立ち上がる。

 

 波導の眼を使いシャクエンの姿を探すがもう近くにはいなかった。ピカチュウも周囲を警戒するもののもう意味がないのは目に見えている。

 

 アーロンは電気ワイヤーを使ってビルから飛び降り、着地する。メロエッタがいつの間にか自分に掴まって降りていた。その先にいた人影にアーロンは厳しい声を浴びせる。

 

「何故、邪魔をした」

 

 メイは押し黙っていた。拳をぎゅっと握り締めてアーロンを見据えている。何も答えないメイにアーロンは業を煮やしてその首根っこを押さえた。メイが苦悶に顔を歪ませる。

 

「答えろ! 何故、邪魔をした!」

 

 あと少しで殺せたのに、台無しであった。メイは苦しげに声を発する。

 

「だって……、だって、シャクエンちゃんとアーロンさんが争うなんて、見たくないから……」

 

「そんな理由でか? そんな理由で、あいつを解き放ったのか?」

 

 問い詰めるアーロンに対してメイは、「いけませんか!」と喚く。

 

「そんな理由で邪魔しちゃ、いけなかったんですか!」

 

 ほとんど涙声のメイにアーロンは舌打ちをして手を離す。メイが咳き込んで蹲った。

 

「……殺し損ねれば、それだけ被害が増える。暗殺者が相手の前に顔を晒す時は殺す時だけだ。だというのに逃がした。その意味が分かっているのか?」

 

「わ、分かりませんよ! あたし、暗殺者じゃないですし!」

 

「俺とお前だけならばまだよかった。最悪の事態を考えろ。店主や、お前の気に入っているラピスが次に狙われる可能性だってあるんだぞ」

 

 そう口にするとようやく自分のした事の大きさが分かったようだった。メイは声を震わせて頭を振る。

 

「でも! あたし……、あたしは……」

 

「目の前の争い事を収める事だけを考えていては、結局何も救えない。お前のやった事は、炎魔のやり方を容認したのと同じだ」

 

 責め立てる口調にメイは顔を伏せた。アーロンは考えを巡らせる。

 

 今夜のうちに決着をつけなければ炎魔は次にどのような手に移るか分からない。その場合、アーロンはこのヤマブキに居られなくなる可能性がある。それだけは避けなければならなかった。

 

 恥も外聞も関係がない。今さら恥の上塗りを恐れて被害を増やすわけにはいかなかった。

 

 メイの手からホロキャスターを引っ手繰り通話する。通話先の相手はすぐに出た。

 

『おや、アーロン。かけてくるという事は、事態は最悪の方向に転がったのかな?』

 

 ハムエッグの挑発にいちいち乗っているのも面倒だった。

 

「手短に言う。炎魔を逃がした」

 

『青の死神がそう易々と殺そうとしてきた相手を逃がすはずがない。お嬢ちゃんだね?』

 

 全部お見通しというわけか。気に食わなかったがアーロンはハムエッグを利用するしかない。

 

「情報を行き渡らせろ。炎魔を今夜中に葬り去らなければ被害が増えるだけだ」

 

『こういう時に困るだろう、アーロン。カタギの人間を装っているのは。いい加減、もう完全に裏に回るつもりは』

 

「今は! お前の言葉繰りに返答しているのも惜しいと言っているんだ! いいか? 炎魔を逃がしたという意味、お前にならば理解出来るはずだ」

 

 いつになく切迫した声を出したせいだろう。ハムエッグは通話越しにため息をつく。

 

『らしくないな、アーロン。平静を装っていないお前の声なんて久しく聞いていなかったが。それだけ事態は深刻か』

 

「俺の不始末だ。俺がケリをつける。炎魔の情報を行き渡らせてお歴々に警戒させろ。炎魔を誘い込んで殺す」

 

『誘導しろというのか。高くつくぞ』

 

「今回ばかりはどれだけ足元を見ても構わない。スノウドロップを出せるか?」

 

『ラピスを出すのは反対だ。街の人間に余計な心配を撒く事になる』

 

「もう随分とまずい方向に転がっている。最終的な利害を計算している間にも、炎魔は次の手を打つ」

 

 アーロンからしてみれば一刻を争う。ハムエッグはようやく承認した。

 

『……分かったよ、アーロン。死んでもいい駒を使って炎魔を誘導しよう。お歴々も自分に火の粉が振るかかるよりかは、青の死神一人に最終的な被害が行くほうが効率的と考えるに違いない』

 

「何分で出来る?」

 

『十分はかかるな。お歴々が重い腰を上げるのに時間をかければ、もっとだが』

 

「ラピス・ラズリのカードを切れ。それで相手は重い腰を上げる」

 

『おいおい、それではわたしだって立場がないぞ。今言ったばかりだろう。ラピスは使えない』

 

「ブラフでいい。実際に使わなくっても脅しのカードに使え、と言っている。どうせお歴々からも巻き上げるんだろう? 今回、お前の損はなしだ」

 

 アーロンの声にハムエッグは鼻を鳴らした。

 

『自分の責任だからって焦る気持ちは分かる。だが、らしくないな、アーロン。もっと冷静になれるものだと思っていたよ』

 

「俺もそうだが、実際はこうだ」

 

 恥を認めて事態が好転するのならばいくらでも頭を下げよう。それが伝わったのかハムエッグは端末のキーボードを叩いた。

 

『いいだろう。今、お歴々に連絡を回している。きちんとラピスのカードもちらつかせた。炎魔の現在地は?』

 

「俺の家から半径二百メートル以内のビルだな。そこから北に逃亡した。炎魔の移動速度は知らないが、あのバクフーンを使っているなら車と同じくらいだと考える」

 

『速いな……。だが用意出来ないレベルではない。駒は配置完了した』

 

 どうせハムエッグの事だ。最初からこうなる事を予想して駒の配置を終わらせていたに違いない。

 

「銃弾でも何でもいい。奴の足を削げ」

 

『もう始まってるよ。こりゃ、一番忙しい夜になりそうだ』

 

「これが何日も続く事を考えればまだ安い出費だ。車を回してくれ」

 

『もう手配してある』

 

 ホロキャスターの現在地から逆探知したのだろう。路地を出ると黒塗りの車が待機していた。

 

「よし、俺が出るから、急発進をかけて欲しい。北側の――」

 

 そこでコートを掴んでくる力を感じてよろめいた。振り返るとメイが自分のコートを掴んで離さなかった。

 

「……離せ」

 

「離しません……」

 

「離せと言っている」

 

「アーロンさん、シャクエンちゃんを殺す気なんですよね」

 

「そうだ」

 

 全く迷いもせずにアーロンは答える。メイは余計に力を込めた。

 

「だったら、あたしも行きます」

 

「邪魔になる。ここにいろ」

 

「でも! あたしはシャクエンちゃんが何の考えもなく、アーロンさんを殺せるなんて考えられないんです!」

 

 アーロンは舌打ちをしてメイを引き剥がした。

 

「おめでたいのも大概にしろ! もう殺し合いは始まっているんだ! 俺がやれば、事態はここまで飛び火しなかった! それを広げたのはお前の責任でもあるんだぞ!」

 

 ここまで言えばもう何も言い返せないと感じていた。しかしメイは声を張り上げる。

 

「でも! シャクエンちゃんは果てがあるってようやく知ったんですよ! 終わりがあるって知ったんなら、まだやり直せるはずです!」

 

「何を知った風な口を……。俺達暗殺者に終わりなんてない」

 

「終わらせます! 無理やりでも、あなた達のやり方を! じゃなきゃ、悲し過ぎる……!」

 

 メイの頬を涙が伝う。どうしてこの娘は他人のために泣けるのだ。アーロンの胸に突き立った疑問はそれだった。どうして誰かのためになれる? 殺し屋稼業なんてものを目にして、どうして誰かを信用出来るのだ。

 

「……今度邪魔をすればお前も殺すぞ」

 

 だからか、自分でも口からついて出た言葉は意外だった。何を言っている? こんな小娘など無視して自分の仕事を遂行すればいいのに。

 

「それでもついて来るか?」

 

 アーロンの声にメイは強く頷いた。

 

「絶対に、シャクエンちゃんを救いたいから」

 

 彼女は無理だと分かっているのかもしれない。心のどこかで分かっていながら、こうして自分について来ようとしている。一体何を見ている? 何が、この娘にこれほど希望を抱かせているのだ?

 

 アーロンはメイを車に押し込み、運転手に命じた。

 

「急発進をかけてくれ」

 

「で、ですが、その子は」

 

「こいつは見届けたいと言った。だからついて来させる」

 

 二言はないと語気を強めると運転手は黙ってアクセルを踏んだ。ヤマブキの喧騒を引き裂くように黒い車が走り出した。

 



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第二十七話「人らしさ」

 

「失敗した。青の死神を殺せなかった」

 

 シャクエンは〈蜃気楼〉に騎乗して宵闇を駆け抜ける。〈蜃気楼〉の熱効果によって自分は他人には見えないはずだったが先ほどから明らかに自分を狙った射線があった。回避して炎の遠隔攻撃を撃ち込む。焼いてから成人男性だ、と感じ取る。炎の燃焼具合やその効果範囲でもう誰を焼いたのかまで分かるようになっていた。

 

『そうか。さすがにあの波導使いさんは一発じゃ殺せねぇか』

 

 通話口にいるのは自分の雇い主だ。同時に炎魔の血族を支配する人間でもある。

 

「あなたの権限でこの寄ってたかるハエを潰せないの」

 

 射線は次々と正確になってくる。見えていないはずなのに、と一度だけ振り返ると相手は熱光学センサーのついたスナイパーライフルを装備していた。〈蜃気楼〉の軌道は熱を持つ事を知っている人間の仕業だ。考えつくのは数人。この街の盟主、ハムエッグ。あるいは先ほどの青の死神。または……今通話しているこの男。

 

「私を裏切る事はしてない?」

 

 シャクエンの言葉に通話先の相手は笑い声を上げる。

 

『冗談きついな、シャクエン。てめぇを裏切っちゃオレも破滅だろうが。それは昨晩、証明済みだ。オレのやり方にゃ賛同してくれてるんだと思っていたが』

 

「賛同はしている。でも、信用はしていない」

 

 歯に衣着せぬ物言いにオウミは苦笑したようだ。

 

『違いない。オレ達は最初から、お互いを信用し切っていない間柄だ。あるのは利害の一致だけ。オレはこの街を手に入れるために青の死神を殺したい。お前は何よりも炎魔の地位を確立させてオレから離れたい。だろ?』

 

 ギブアンドテイクが成立しているのだ。オウミから離れる唯一の方法が、オウミの支配から脱する事、つまり強さを得る事である。だが強さの証明は、ただ単に歴史によるものだけでは事足りない。もうこの時代では炎魔の名とて古い。

 

「実力を示す事。青の死神を殺せば、あとはスノウドロップだけ。スノウドロップはハムエッグの息がかかっている以上、殺せない。つまり青の死神を殺せば実質的にこの街の二番手になれる」

 

『そういうこった。二番手でも随分と大出世だ。オレはその地位が欲しいんだよ。それに、お前が青の死神と殺し合うのがちっとばかし面白いってのもある』

 

 この男は歪んでいる。しかし今さらだ。自分も歪みの上にこの人格が成り立っている。

 

「射線が正確になってきた」

 

 スナイパーライフルの口径もシャクエンを的確に殺せるように一撃必殺の勢いを帯びてきている。手を払って視界の隅にいた狙撃手を焼き殺した。射程は五十メートル前後。炎の力量自体は先ほどアーロンと戦った時ほど研ぎ澄ましていないがただの狙撃手を殺す程度ならばそれほど絞った炎は必要ない。

 

『逃れるっつったって、どこに逃げるか、って話だが、オレはもう手配済みだ』

 

 やはりこの男は最初から自分を捨てる心積もりなのだろう。だがシャクエンはそれすらも了承の内でこの男の命に従わざる得なかった。

 

「私には行くところなんてないのね」

 

 こぼすと、『残念ながらな』とオウミは応ずる。

 

『シャクエン。てめぇは引き付けて死んでくれ。あるいは青の死神を殺せると面白いが、もうハムエッグに事の次第が行き渡っているからこそ、そいつらが狙ってきている。今さら青の死神を殺せとは言わんが、善戦してくれると助かる』

 

 完全に自分の目的だけをこの男は話している。シャクエンは、「勝手ね」と呟いた。

 

 二年前から、この男は身勝手だったが自分は逆らえなかった。

 

 あの日、真っ赤に染まった光景の中で、シャクエンはただ恐ろしさに震えるしかなかった。先代の炎魔である母親が抵抗しても倒せず、父親は無残に殺され、母親は犯された後に殺された。もう母親に炎魔としての力はなく、その力の本質がシャクエンに渡っていたがためだった。十二歳の誕生日なんて迎えなければよかった、とシャクエンは歯噛みする。

 

 どうして自分は成長してしまったのか。どうして、あの日、十二歳になって炎魔の力が母親より譲り渡されたのか。その全ての符号が不運に繋がり、自分の世界は一挙に狭まった。この街が元々全てではあった。赤人街での生活に不自由はなかったし、自分は家族と共に生きて死んでいくのだと思っていた。だというのに、この男が無茶苦茶にした。

 

『今でも、オレを殺したいと思っているか? シャクエン』

 

 唐突な質問にシャクエンは戸惑う。オウミを殺したいか? 是と答えようとする自分と、否と答えようとする自分がいる。自分の家族を殺し、炎魔の力を利用してこの街で成り上がろうとする男だ。自分を女にし、手篭めにしてまで炎魔の力に執着した男でもある。

 

 許せない、という自分と、この男がいなければ何も出来なかった無力なあの日の十二歳の少女が対面する。

 

 十二歳の少女はこの男によってようやく炎魔になった。炎魔にならなければこの血筋に意味はない。たとえ暗殺が廃れ、誰も炎魔を必要としなくとも、炎魔の血を絶やしてはいけなかった。この血はもしもの時のために。この国が転覆し、独裁者が現れ、世が荒れた時のための救済策として存在する必要があった。だから、母親は人殺しをした事がなくとも炎魔であったし、祖母も数えるほどしか人を殺していなかったと言う。

 

 いわば世界の抑止力。それが炎魔の必要性であった。だが、この街はどうだ。暗殺者がはびこり、悪にも善にもどちらにも等しく死が訪れるこの街には、混沌しかない。そこに人の意思が介入し、誰かのために人殺しを行う合理性は存在しない。

 

 もう誰かのために活きなくっていい時代が来たのだ、と祖母は喜んでいた。この世が闇に染まっても、炎魔が要らないのならばそのほうがいいと。炎魔の存在なんて自分の生きているうちに消え去って欲しいと。そんな祖母の願いは叶わなかった。母親の願いもそうだ。伸び伸びと生きて欲しいという意味で名付けられた本来の名前はシャクエンの呪縛の名に塗り固められもう自分でも本当の名前を思い出す事が出来ない。

 

「……分からなくなってしまった。殺したいと思っていられた時期が、もう随分と懐かしく思える」

 

 それが本心だった。もう分からない。殺しが正しいのか正しくないのか。この世界に自分が必要なのかそうでないのかも。

 

『オレはお前のお陰でいい目が見られた。感謝してるぜ』

 

 どうせ上辺だけの感謝。シャクエンはしかし、ああ、この男も自分を捨てるのだな、と感じていた。だとすればもう自分が炎魔でいる意味なんてないのではないか。炎魔としてバクフーンの〈蜃気楼〉を操り、こうして逃げている事さえも無意味ではないのか。

 

 その時、不意に〈蜃気楼〉の前足に銃弾が掠めた。〈蜃気楼〉がバランスを崩しつんのめった際にその身体に一発、二発と弾丸が食い込む。〈蜃気楼〉が苦悶に鳴いた。

 

「〈蜃気楼〉! 炎で……!」

 

 即座に狙撃手を焼くが殺しても殺しても果てがない。この世界のように、いくら足掻いても果てがなかった。

 

 投光機の光がシャクエンと〈蜃気楼〉を映し出す。〈蜃気楼〉の炎熱の光学迷彩を無効化する光だった。もうここまで追い詰められた。シャクエンは息も絶え絶えに投光機を睨み据える。自分に出来る精一杯の抵抗。その光の向こうから歩いてくる人影があった。

 

 シャクエンは〈蜃気楼〉と共に吼える。向かってくる者は敵しかいない。

 

「青の死神……」

 

「まだ生きていたか。しぶとい奴だ」

 

 冷徹な声にシャクエンは戦闘本能を研ぎ澄ます。このまま殺し合っても意味がない。もうオウミは高飛びの準備を始めているし、この結果がどうなろうとも誰の感知するところでもない。せいぜい、この二日間の息苦しさを感じていた人々が枕を高くして眠れる程度。

 

 そんな罪悪に塗れたこの街に何の価値がある? この背徳都市に安息を与えたって仕方がない。

 

「殺しに来るなら来い。俺達の意味は、結局そこにしか集約されない」

 

 アーロンは立ち止まり、シャクエンと対峙する。この男も自分と同じく暗殺者。どのような過去があろうと知らない。自分が生きるのに他の動物を殺して食う事に興味がないように、ここで行われるのは獣同士の喰い合いだ。

 

 シャクエンは〈蜃気楼〉を操り、弾かれたように動き出した。炎熱地雷を設置し、アーロンが少しでも動けば起爆するようにしてある。アーロンは最早自分に向かって猪突する以外に回避する術はない。しかし真正面から愚直に来れば、〈蜃気楼〉の炎の腕の前に倒れ伏すしかない。

 

 どう足掻こうが、真っ向勝負は避けるしかないはずだ。先ほどのような不意打ちももう通用しない。アーロンの詰みは見えた、とシャクエンは感じたがアーロンは何ともっとも愚直な手段に出た。ピカチュウを繰り出して真正面から〈蜃気楼〉と撃ち合おうと言うのだ。打ち負けるはずがない。シャクエンは〈蜃気楼〉に命じる。焼き尽くせ、と。

 

 襟巻き状の炎が迸り、絶対包囲の陣を敷く。最早動きは変えられまい。勝った、とシャクエンは感じたが突如として〈蜃気楼〉の動きが鈍った。放とうとする炎の拳の勢いが削がれ、その体表に電気が走っている。麻痺状態だ。

 

 しかし何故? 何故今なのか。シャクエンの疑問にアーロンが応ずる。

 

「時限式の攻撃が使えるのは、炎魔だけじゃない」

 

 まさか先ほどまでの戦いの中で既に仕掛けていたというのか。〈蜃気楼〉の身体のどこかに、電気の時限爆弾を仕掛けた。いつ? と考えていると一つだけ考えられる時があった。

 

 最初の電気ワイヤーが〈蜃気楼〉に絡みついた時だ。あの時は炎で焼かず〈蜃気楼〉の力任せに振り解いた。あの時、時限爆弾を〈蜃気楼〉の身体に仕掛けるチャンスがあった。

 

「第二ラウンドをするつもりはなかったが、こういう形で生きるとはな」

 

 アーロンが〈蜃気楼〉の攻撃を掻い潜って自分へと肉迫する。最早止める術はない。アーロンの――死神の腕が自分の首筋へとかけられた。

 

 抵抗する気力もなかった。二度目だ。もう敗北は決定した。

 

「死を恐れないのか」

 

 静かな問いかけにもシャクエンは自嘲気味に応じる。

 

「私に、元々生きる価値なんてないもの」

 

「そうか。ならば、あいつが悲しむだけだが」

 

 誰が悲しむというのだろう。自分の死に心を痛める人間なんてこの世にはいない。

 

 その時、声が響き渡った。

 

 自分の名を呼んでいる。

 

「シャクエンちゃん!」

 

 目を向けるとメイがこちらへと駆け寄ってきていた。その足をアーロンの一声が制する。

 

「来るな! 止まれ!」

 

 メイは厳しい声音に立ち止まった。

 

「それ以上踏み込むのならば、お前はこいつの人生を背負い込む事になる。もう、後戻りは出来んぞ」

 

 一般人が暗殺者の人生を背負うはずがない。シャクエンは半ば諦めていたが、メイは返す。

 

「それは違いますよ」

 

 何とメイはアーロンの制止を振り切ってこちらへと歩み寄ってくる。思わずシャクエンが声にした。

 

「来ないで……」

 

 メイがぴくりと止まる。その姿が自分を切り崩しているように映った。どうして、何もない自分に優しく出来るのか。利害も全く見えない。こんな関係はあり得なかった。

 

「私に、あなたのような人間に返せるものなんて、何もない……」

 

 来ないで欲しい、と切に願う。もし来るのならば、自分は……、この世界に絶望していたシャクエンは希望を持ってしまう。やり直せるのではないか、という希望。あの日、十二歳の何も知らない少女の頃のように未来を信じられるのかもしれないという無垢な心に。

 

 メイはしかし迷いなく歩みを進めた。自分の人生を切り崩してでも、シャクエンのために尽くす、とでもいうようにその眼差しには光が宿っている。

 

「シャクエンちゃん、だって、もうあたし達、友達じゃない」

 

 友達、という言葉が理解出来ない。本当のところ、それが何なのか分からない。しかし、溢れ出す感情が言葉にする。頬を伝う熱となって、シャクエンの気持ちを代弁する。

 

 ――生きたい、と。

 

 アーロンの手が緩まった。シャクエンはその場に倒れ込む。それを支えたのはメイだった。

 

「シャクエンちゃん……。これ以上、傷つかないで」

 

 優しい言葉は毒だ。それは自分に希望を持たせ、最後には裏切るのだ。

 

 しかし、メイの声には打算も何もない。ただシャクエンの幸福を切に願っている響きだけがある。

 

「どうして……。私、本当に何も返せない。空っぽの人間なのに」

 

「空っぽだとか言わないで」

 

 メイは何度も繰り返す。空っぽだと言わないで欲しい、と。

 

「これが、暗殺者同士の喰い合いの結末か」

 

 アーロンが呟き、ホロキャスターに声を吹き込んだ。

 

「見ているんだろう? ハムエッグ。事態は収束した。射線を引っ込めろ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ハムエッグは映像を観ながら信じられない心地で呟く。

 

「しかし、アーロン。まだ脅威は去っていない」

 

 その抗弁をアーロンは当たり前のように言い返す。

 

『バクフーンは封じた。俺の射程に入っている以上、いつでも炎魔を殺せる。この状態で勝敗の有無を言い聞かせなければならないほど、お前は間抜けか?』

 

 ナンセンスだった。ハムエッグは全部隊に通告する。

 

「ハムエッグより達す。総員、退却せよ。情況は終了した」

 

 その一声でささくれ立ったこの街の夜は終わりを告げた。シャクエンをいつでも射殺せたスナイパー達が退いたのを確認してから画面の中のアーロンは後頭部を指差す。

 

『俺を狙っている奴も退かせろ』

 

 さすがに抜け目がない。自分も暗殺対象に入っている事を理解した上での行動だったか。ハムエッグはしかし、だからこそ解せないと感じていた。今回、炎魔の収束は完全なイレギュラーに頼った行動だ。波導使いアーロンの作戦にしてはずさんである。

 

「アーロン。何を信じてこんな博打に出た? 君と炎魔、両方を殺してなかった事にも出来た」

 

『そうすると、二番手がいなくなって戦いは激化する。お前はそれほど馬鹿じゃない』

 

 違いないがそれだけではないだろう。アーロンがただ単に炎魔を殺すだけならば可能だったのだ。どうしてメイを使ったのか。

 

「そのお嬢ちゃんに、随分と心酔しているのが分かるよ、波導使い」

 

 その言葉にモニター越しでも分かるほどアーロンは嫌悪を浮かべる。

 

『勘違いをするな。俺は勝てる方法を取っただけだ』

 

 どうだか、とハムエッグは笑う。カウンターにいたラピスが画面を指差した。

 

「お姉ちゃんだ!」

 

 ラピスは随分とメイを気に入っているようだ。ハムエッグは恰幅のいい身体を揺らして、「こいつはいい」と失笑する。

 

「暗殺者に好かれるお嬢ちゃんか。面白いところではある。その彼女自身にも秘密があるとなれば、余計に」

 

 ハムエッグは手にしたデータ端末に視線を落とす。ここ数日で拾い集めた「メイ」という少女に関するデータがあった。もしもの時の切り札にするつもりだったが、まだ使う機会はなさそうだ。

 

「まだ、ただのメイという女の子として使おう。彼女の真の意味が発揮されるのはこれからだ。それまで泳がせておこうじゃないか」

 

 マイクの音声をオフにして放った言葉にラピスが応じる。

 

「お姉ちゃんは、ラピスのお気に入りのままでいいの?」

 

 首を傾げるラピスの頬を撫でてやり、「そうだよ」と答える。

 

「まだ、あの子は自分自身にも気づいていない。まだ、ラピスのおもちゃだ」

 

 アーロンが、『ときに、ハムエッグ』と声を吹き込む。ハムエッグは再度マイクの音声をオンにした。

 

「何かな?」

 

『とある人物の行動を全て制限しろ。この街から逃がすな』

 

「もうやっているよ」

 

 ハムエッグは視界の片隅で受付カウンターと押し問答を繰り返すオウミの姿を捉えていた。本当ならばリニアでジョウトにでも渡っている頃合のオウミだがハムエッグの情報処理によってこの街から物理的に出られないようにしてある。

 

『追いつけるか?』

 

「死神の足ならば二十分もかかるまい」

 

 アーロンはその場をメイに任せ、電気ワイヤーを使って画面から消えた。ハムエッグは鼻で笑う。

 

「まだ、捨て切れていないようだな、アーロン。人らしさ、という部分を」

 



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第二十八話「ともし火」

 

 ステーションで他の客が次々とリニアの改札を通るのに自分だけが通れなかった。改札の不具合と定期券の発行日時がデタラメだとして足止めを食らっているのだ。詰所でオウミは警察手帳を見せたがそれだけでは信用に足りなかった。

 

「すいませんが、お客さんの個人データが閲覧出来ません。この状態ではリニアどころかこの街から出る権限すらも……」

 

「んなわけあるか! オレは警察官だぞ!」

 

 入念に高飛びする計画を練っていたのに、これでは台無しだ。オウミの焦りに比して受付の人々は冷静だった。

 

「しかしこれではリニア定期券を有効だと示す証拠になりません。すいませんが日を改めて……」

 

「今夜じゃなきゃ駄目なんだよ!」

 

 急かすがどうしてだか自分のデータは全て拒否される。オウミは察し始めていた。これはハムエッグが裏で手を回している。

 

 しかしハムエッグには充分に金を積んだ。裏切る事はないはずだ。裏切るとすれば、それは炎魔シャクエンの負けた時か、あるいは波導使いアーロンが採算など関係なく自分を止めようとした時。だが後者は考えられない。アーロンはよしんば勝てても、あの男は自分以外に興味はないはずだ。だからシャクエンに肩入れする事もなければ、過度に同情もしない。そういう風に出来ているはずなのだ。

 

「わぁったよ! 再申請にはどこ行けば?」

 

「そこの角を曲がって、申請カウンターでデータが最新であるかどうかのご確認を。そうでなければゲートですら通行許可は出せません」

 

 車で脱出するのも無理か。オウミは仕方なく、申請カウンターの室内に入る。

 

 すると部屋の照明が一気に暗転した。困惑していると背後から後頭部を掴まれる。冷や汗が出るよりも先に出たのは自嘲だった。

 

「来たのかよ」

 

 刑事としての習い性で慌てふためくよりも最初に嘲りたくなる。不手際をした自分を。

 

「喚けば」

 

「殺すって言うんだろ。いいぜ。殺せよ」

 

 どうせ今夜逃げ切らなければシャクエンや、他のお歴々に消される恐れだってある。それならば顔見知りに殺されたほうがまだマシだ。

 

 しかしアーロンは殺そうとしなかった。普段ならば電撃で思案する間もなく殺すというのに。

 

「どうしたよ? 青の死神でも電池切れか?」

 

「どうして、炎魔を使った? お前は傍観者を気取れたはずだ」

 

 何だそんな事か、とオウミはやけに落ち着き払った脳内で考える。この男にしては野暮だった。

 

「波導使いさんよぉ、オレに関心があるってのかい?」

 

 アーロンは挑発にも乗らず後頭部をがっしりと掴んだまま離さない。どうやらこちらから口火を切るしかないようだ。

 

「……いいぜ、話すよ。煙草吸ってもいいか?」

 

 無言にオウミは懐から煙草を取り出して紫煙をくゆらせる。

 

「同期にも馬鹿だって言われたよ。この街に喧嘩売ってどうするんだってな。どうせオレみたいな三流の悪徳警官は、お歴々のご機嫌を窺いながら生きていくしかねぇ。それこそ三下だ。それが似合っているのは自分でもよく分かっているし、これまでもそうしてきた。これからもそうする事は出来る」

 

 安い煙草の味を噛み締めてオウミは自嘲する。

 

「でもよ、飽きちまった。何でオレは力を持っているのに、こんな奴らに媚売らなきゃならねぇんだってな。よくあるだろ? 抑圧された鬱憤がある日爆発するって言う、あれだよ」

 

「お前のような用意周到な人間がそのような一時の感情に身を任せるとは思えない」

 

 自分よりも自分を客観視した言葉にオウミは、「分かっているじゃねぇか」と答える。

 

「そうだよ。一時の感情で動いたっていい事ねぇし。何よりもそういうので馬鹿を見てきた連中をたくさん知っているんでね。自分だけはその二の足を踏まないって思っていた。思い込んでいたんだ。……でもよ、実際にはオレは無計画で、無秩序に生きるのが好みだったアウトローだよ」

 

「それが形骸化した警察官への当て付けや、そういう人々への鬱憤でない事は分かっている。もう、演じるのはやめにしろ。何が本当に得たかった?」

 

「……波導使いさんはカウンセラーにでもなるといい。よくよくオレの事を知っているじゃねぇか」

 

「知りたくもなかったがな」

 

「そうだよ。得たかったのは、お歴々の前で言った通り、刺激だ。この街を揺さぶる何かをしたかった。主役になりたかったのさ。でもよ、オレって結局脇役ポジションが似合っているんだよな。てめぇの手がいつでもオレを殺せる事がそれを証明している」

 

 アーロンは、「それだけで炎魔を制御出来るとは思えない」と懐疑的だ。

 

「何をした? あのシャクエンとか言う小娘に」

 

 どうやら事の次第を話さなければならないようだ。オウミは目線を下にやってから、「灰皿いいかい?」と尋ねる。

 

「長くなるからよ」

 

 懐から携帯灰皿を取り出し、煙草を揉み消す。

 

「二年前かな。赤人街でオレは炎魔一族を見つけ出した。あいつらはそれまでどうやって生きているのか、どうやって生計を立てているのか全部不明で、オマケに最近と来たら暗殺一族なのに暗殺しないっていう腑抜けだった。まずは男共を殺した。炎魔の血族ってのは女にしかその血の力は遺伝しない。だから男は邪魔だし要らないと思ってな。簡単だったぜ? 一般人殺すよか弱ぇえんだもん」

 

 アーロンはこの言葉で試み出されると思ったが意外にも冷静だ。自分を突き飛ばしもしない。

 

「……んで、女子供だが、どいつが炎魔の総元締めか分からねぇからよ。若い夫婦だけ残して後は銃で殺した。後で分かったんだが、炎魔の総元締め以外は血族を残す事を許されていないらしい。結果オーライで、オレはあいつと出会った。まだ十二歳になったばかりとか言うガキだったさ」

 

「両親は?」

 

「殺した。夫はすぐにやって、妻のほうは犯してから殺した。それを見ていたんだと、シャクエンは。だから一時期声も出せなかったそうだが、何とか仕込み直した」

 

「……ハムエッグが関わっているな」

 

「そう易々と奴さんの悪口言えるかよ。ただまぁ、世話になったと言えばそうだ。殺し屋の仕込み直しってのはあいつはプロだからな。炎魔シャクエンにあいつが噛んでいないと言えば嘘になる」

 

 ここまで喋れば、アーロンはそれ以上を要求しないかに思われたが、そこから先を彼は促した。

 

「どうして炎魔は、あれほどの力を持ちながらお前に隷属した?」

 

「依存相手、ってのが必要らしい。マインドセットだな。暗殺者の家系には必ず必要だったっていうぜ。だから女だけの炎魔が存続出来たのは男という依存相手があったからだ。その相手を見出せば絶対にそいつには逆らえないらしい。炎魔は、生憎な事に十二歳前後でそれが決まるという。その時偶然居合わせた他の男がオレだった。だからシャクエンはオレにだけは逆らえねぇ。これが答えだ。満足したか?」

 

 肩を竦めてみせると、「なるほどな」とアーロンは口にした。

 

「おい、オウミ」

 

 呼ばれて振り返ろうとすると頬を拳が見舞った。力を込めて放たれた拳にオウミは無様に転がる。痛みが広がって唇の端が切れた。

 

「痛ってぇ……。話す事は話しただろうが。んで? お前が殺すんじゃねぇのかよ」

 

「俺はお前を殺さない」

 

 オウミは口角を吊り上げる。

 

「お優しいねぇ、天下の波導使いさんは、よっ!」

 

 拳銃を取り出すのとアーロンの手から電流が迸ったのは同時だった。青い電流がオウミの拳銃を掴んでいるほうの肩口に激痛を走らせた。思わず拳銃を手離してしまう。だがもう一丁、と手を動かそうとしたがどうしてだか肩から先が全く動かない。

 

「波導を切った。もうお前の右肩から先は一生動かない」

 

 瞬時にやってのけた事にオウミは確信を新たにする。

 

「……やっぱりな。てめぇの波導の使い方ってのは、やっぱり――」

 

「それ以上を語れば、お前の生命波導を完全に遮断する」

 

 アーロンの有無を言わせぬ口調にオウミは、「どうしろって言うんだよ」と口にする。

 

「ここでオレを殺すのが賢いと思うぜ?」

 

「いや、お前は生かす。お前は恥を上塗りしたまま、何事もなかったかのようにヤマブキで暮らし続けるしかない」

 

 なるほど。それがこの街の、無秩序な世界の決定というわけか。

 

「波導使いさんよぉ、てめぇが殺してくれないのかよ」

 

「俺は手を下さない。そう判断された。お前を殺すのは、最も惨たらしい方法でと、この街のオーダーだ」

 

「波導使いは惨たらしく殺せないのかい?」

 

「俺がやるんじゃない。お前の最期は、きっと俺ではないのだからな」

 

 アーロンは身を翻す。その背中へと声を投げてやった。

 

「右腕から先を動かせないまま、明日まで命が持つかね」

 

「お歴々はハムエッグが仲裁に入った。お前の最期はお前自身、全く覚悟出来まい。覚悟も出来ないうちに死ね。それがこの街の決定だ」

 

 自分にまだ警官を続けろと言うのか。汚職警官でありながら、この街を裏切った身でありながらまだ、この街のために尽くし、尽くし切った末に死ねと。

 

「……そりゃあまた、随分と大胆な裁量だな。オレが裏切りをもう一度重ねないって保障はねぇのに」

 

「それでも、俺が手を汚すまでもない。お前は死ぬ。もう決定された事だ」

 

「誰だって最後は死ぬさ。それが遅いか早いか、だが、なるほどね。この街は、煙草を吸うために必要な手くらいは許してくれたってわけか」

 

 片手で煙草の箱の底を叩き、口にくわえるが火が点けられない。

 

「波導使いさんよ。火をくれ」

 

「自分で点けろ。これから先、火をくれるような奴はいないと思え」

 

 アーロンはその言葉を潮に立ち去った。暗い屋内でオウミは椅子に腰掛け、舌打ちと共にライターを取り出す。

 

「もう誰も、オレに火をくれないってか。冷たいねぇ」

 

 独りで吸う煙草は思いのほか不味かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ハムエッグから後日送られてきた資料には、炎魔シャクエンには情状酌量の余地がある、と記されていた。その下に続く文言へとアーロンは視線を向ける。

 

「だが炎魔が出過ぎた真似をしてこれ以降、街の秩序を乱せば、波導使いアーロンが抹殺せよ。それは炎魔を引き取ったお前に課せられた使命だ」と。

 

「使命、ねぇ」

 

 アーロンはコーヒーをすすりながら目線を振り向ける。自分のテーブルのすぐ傍でシャクエンがウェイトレス姿で佇んでいた。

 

「ああっ、シャクエンちゃん、そんなにお客さん睨んじゃ駄目だって。うちのウェイトレスはこんなのばっかりか?」

 

 店主が厨房から顔を覗かせてシャクエンを注意する。シャクエンは振り返って小さく声にした。

 

「すみません、ボス」

 

「ボスってのやめてね。ね? そういう店じゃないから。今はアーロンだけがいるからいいけれど、他のお客さんに怖がられちゃ余計に閑古鳥が鳴くってもんだよ」

 

 店主が頭を抱える。それに対して明るい笑顔を振りまくのはメイだった。

 

「まぁまぁ。結果的にウェイトレスが二人に増えたって事は躍進ですよ」

 

「人件費がかさむだけだ。使えないウェイトレス二人など」

 

 アーロンがそうこぼすとメイがいきり立って反発した。

 

「何を! アーロンさんだってそんなに言うならコーヒー注ぎませんよ!」

 

「やめなって。アーロンが飲まないと本当に売れないんだから……」

 

 二人の従業員を囲うようになったこの店は大変だろうな、とアーロンは他人事のように感じる。

 

 メイとシャクエンはこの店で働き続ける事を決めた。二人してとある約束をしたらしいがアーロンには伝えられていない。どうせ、女同士のつまらない約束だろう。

 

 シャクエンは相変わらず表情に乏しく、メイがカバーする始末であるが、アーロンはこれも一つの可能性か、と感じる。

 

 宿主を必要としない殺人鬼、炎魔。それがどのような未来を生じさせるのか。誰もまだ知らない。

 

「アーロンさん。コーヒー、おいしかったですか?」

 

 出かけようとするアーロンにメイが尋ねる。

 

「まぁまぁだ」とアーロンは答えて外に出た。メイはシャクエンに寄り添って笑顔を向けている。

 

「笑える、っていうだけで幸福か」

 

 いつか、炎魔も笑うのだろうか。

 

 今まで散々人を殺してきた人間が、殺す事以外で生きられるほどこの街は甘く出来ちゃいない。

 

 だが、たまには許しを得たい。微笑み程度の安息を。

 

 そう感じられる晴天だった。

 

 

 第二章 了

 



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毒使いの紫、瞬撃の一族
第二十九話「闇の胎動」


 

「そちらから巡れ! オレはこっちを塞ぐ」

 

 放った声に、相棒の暗殺者は進路を変えた。徐々に道が狭まっていく中で、相手の手数を確実に潰さなければならない。

 

『にしても、何であいつ、こっちの暗殺者同盟に加わる事を反対したんだ?』

 

 耳に入れたインカムから疑問の声が聞こえてくる。

 

 暗殺者同盟。カントーはヤマブキシティで暗躍する暗殺者、青の死神を殺すべく、各都市の名だたる暗殺者がそれぞれ同盟関係を結び、確実に死神を仕留めるために結成されたものだ。

 

 元々、暗殺者は群れない。しかし、今回ばかりは相手が相手。個人の取り分は少なくなるものの早期にこの任務をこなせば暗殺者としては一目置かれる。それにヤマブキシティのナンバーツーの座は誰もが欲しいものだ。

 

「知らんが、なに、所詮ガキだ。殺す前にでも聞こう」

 

 片手を上げて自分の手持ちを制する。両手にスプーンを持った巨大な頭部を有するポケモン――フーディンが足を止めた。

 

「フーディン。相手の出方は?」

 

 フーディンは超能力で相手が物陰に隠れていても手に取るように様子が分かる。フーディンの念動力が自分の脳内へと書き起こされていき、それを基に彼は作戦を練った。

 

「あの物陰に隠れたか。ガキの考える事だな。一時的に身を隠そう、って魂胆か」

 

 視線の先には狭まったビルとビルの隙間にある小さな溝があった。そこに人一人分ならば隠れられる。

 

『通路の先は封じた。そっちからでオーケーだ』

 

 相棒の声に彼は身を乗り出す。相手がポケモンを出す前に思念の青い光で絡め取るつもりだった。

 

 しかし、意に反して、相手は溝から出るつもりがないらしい。彼はわざわざ声を発した。

 

「逃げられないぞ。暗殺同盟の事を知ったんだ。ガキでも秘密くらいは守れると思うが、今ならば間に合う」

 

 今回、相手が持ち出したのは暗殺同盟のメンバー表だ。それがハムエッグか、あるいは青の死神本人にでも割れれば作戦は大失敗だ。

 

「名簿を渡せば、まだ許してやる」

 

 嘘だった。最初から殺すつもりだ。元々、この街の盟主の娘だからと言って、暗殺者になれるとは限らない。何度か総会で会ったが随分とお気楽な少女だった。

 

「さぁ、こちらへ……」

 

 彼が手を差し出すとフーディンが咄嗟に前に出た。その行動に瞠目する前に先ほどまで自分が手を出していた空間を何かが引き裂いたのが視界の隅に映る。

 

 何だ、と探る前にインカムから相棒の絶叫が木霊した。何が起こっているのか。彼は声を吹き込む。

 

「もしもし? 何だ、どうした?」

 

『腕が……、腕が、持っていかれた……』

 

 その言葉に馬鹿な、と彼は考える。事前に教えられていた少女のポケモンでは腕どころか指の一本でも切り裂くのは不可能のはずだ。それに目視出来ないほど相棒は弱くない。

 

「相手のポケモンはあの弱小な虫ポケモンだぞ? 何をどうして腕を持っていかれた?」

 

『違う……、弱小なんかじゃない。奴は、わざと爪を隠していたんだ』

 

 相棒の声が再び絶叫に塗り潰される。ノイズ混じりの通信網に彼は決意せざる得なかった。フーディンと共にビルの谷間にある溝へと踏み込む。

 

 そこに佇んでいた少女に彼は声を投げた。

 

「もう逃げられんぞ。名簿を渡せ」

 

 最後通告の声に少女が振り返る。紫色の髪を頭頂部付近で縛っており、服装は時代錯誤もいいところの、忍者服だった。

 

 少女の傍には相棒の腕が転がっている。まさか、と彼は戦慄した。根元から断ち切られている。

 

「相棒に何をした? そんなパワーのあるポケモンじゃなかったはずだが」

 

 濁しつつ、彼は少女の手持ちを探そうとする。フーディンのサイコパワーなら一瞬で倒せる自信があった。しかし、予想に反してフーディンが戸惑っているのが分かる。

 

 フーディンでさえも予測出来ない動きで、相手の手持ちが動いている。そうとしか考えられなかった。

 

「野郎……。何か返事をしねぇか!」

 

 堪りかねて彼が声を発すると少女はフッと口元を緩めた。その意図をはかりかねていると、「見えない、というのは」と声が発せられる。凛とした声音だった。

 

「恐怖ですよね。不可視ってのは一番分かりやすい暗殺術であるのと同時に、何よりも忌避するものであると。機動力の足りないフーディンでは、あたいのこのポケモンを捉える事はまず不可能」

 

 彼は舌打ちを漏らし、「フーディン!」と命ずる。

 

「この空間にいるであろう、ガキのポケモンを念動力で叩き潰せ!」

 

 フーディンが念力で空間を歪める。物質空間を根こそぎ破壊する念力のパワーだ。それで決着がつくかに思われた。

 

 しかし直後、彼の肩口に電撃のような痛みが走る。ようやく目をやるとごとりと腕が落ちた。わなわなと見開く視界の中に切り裂かれた自分の片腕が映る。悲鳴を上げて蹲ると今度はフーディンの額へと攻撃が当てられた。仰け反ったフーディンへとさらに追い討ちがかけられ、後部から一撃、さらに鳩尾を突く一撃が放たれる。

 

 フーディンが膝を折った。それほど弱くは育てていないつもりだ。暗殺者のポケモンとして研鑽の日々を送っていた自分の手持ちがいとも容易く陥落させられた。その事実に目を見開いていると、「まだ見えない?」と少女が嘲る。

 

「き、貴様ァ! 父親である盟主の命令か? それともヤマブキのハムエッグにでも売るつもりか?」

 

「売る? そうですね。もっと面白い方法がありますよ」

 

 少女は名簿を手にしたまま口角を吊り上げる。

 

「暗殺対象である青の死神への、これは挑戦状としましょう」

 

「……狂ったか? 青の死神がそれを受けて、お前はどうする? その名簿に入っているんだぞ」

 

「だったら、彼を目の前で殺すまでです」

 

 度肝を抜く返答に言葉をなくした。名簿それそのものが漏れるだけでも動きにくくなる。だが少女はそれを挑戦状として相手に叩きつけようというのだ。

 

「何のためだ。暗殺は、相手に気取られないのが基本だろう」

 

「そうです。しかし、それは相手の寝首を掻く、という意味では決してない。相手の策略のさらに上を行く。それこそが真の暗殺」

 

 相棒の頭部を何かが貫き、仰け反って倒れる。フーディンが最後の念動力を駆使して相手の姿を捉えた。一瞬だけ浮かんだ相手の姿だが、すぐに掻き消える。常に移動しており、一定の場所にいないのだ。

 

「まさか……。これこそが……」

 

「そう、あたいの異名、瞬撃の二つ名の意味」

 

 その言葉を聞き終えた瞬間、彼は頭蓋を叩き割られ絶命した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 名簿の中の二名の名前を血の印で消す。彼女にはそれ以上の使命が課せられていた。暗殺同盟の本体と、その活動を青の死神に伝えなければならない。大都会ヤマブキに出なければならないのだ。しかし、その前に一つだけやる事があった。

 

 家に帰ると暗がりの中で身じろぎする気配があった。彼女の家はここセキチクシティでも抜きん出た盟主の家系だ。

 

「帰ってきたか。アンズ」

 

 重々しい声音に彼女――アンズは頭を垂れる。幼少期より染み付いた所作だ。

 

「御意に。父上。暗殺同盟の名簿を奪取いたしました」

 

 しかし父親は一切褒める事はない。アンズには出来て当然という自負があるため褒められたいわけでもない。

 

「その名簿、青の死神に渡せ。それこそがお前の使命」

 

「青の死神は、乗ってくるでしょうか?」

 

 アンズの疑問に暗がりの中の父親は静かに笑う。

 

「それも奴次第だが、ワタシのよく知る奴は乗ってくるさ。案外にあれで心は脆い。青の死神と煽てられてはいるが、所詮は井の中の蛙である事を知るにはいい機会だろう」

 

「父上は奴とは知り合いで?」

 

 そう口にしてから余計な事を口にしてしまった、とアンズは反省した。父親は、「師匠を知っている」と答える。

 

「奴の師は、最強の波導使いだ。ゆめゆめ忘れるなよ、アンズ。波導使いは強い。我ら忍術を用い、瞬撃の名を欲しいままにしてきた一族でも、恐れるほどに」

 

「……御意に」

 

 アンズに解せないのはこのセキチクシティで最強を極めている自分が恐れなければならない相手などいるのか、という疑問だけだ。暗殺一門において自分の家系を上回る人間がいるとは思えない。

 

「暗殺同盟。その名に連ねている事は決して、過言でも何でもない。真に暗殺者として認められた、という事だ。お前はまだ十四になったばかりだが、暗殺者としての資質。瞬撃の名は決して伊達ではないと思っている」

 

 瞬撃の二つ名を手にしてようやく一年目。まだ年若くなおかつ経験の浅いアンズは暗殺同盟の名簿を広げる。

 

 そこには十四名の暗殺者の名前と、それを束ねる長の名前が書かれていた。

 

 長の名には「ハットリ・アンズ」の名があった。自身の名だ。

 

 アンズは齢十四にして既に暗殺者を束ねる側の立場にあった。それを誇らしく思う事はあれど枷だと思った事はない。

 

 しかし父親は、「気をつけよ」と重ねて忠告する。

 

「ハットリの名、つまり暗殺者の直系であると知られれば青の死神は必ず警戒し、ともすれば一撃の下に殺される」

 

 父親の懸念にアンズは初めて自負を傷つけられた心地で返す。

 

「あたいは負けません」

 

「負けない、と思ってればいるほどにあの波導使いの前では無意味だ。波導の謎、如何にしてあの波導使いが今の座を築き上げたのか。波導使いの波導の使用方法を見定めなければお前は負ける」

 

 予言めいた声音にアンズは思わず及び腰になってしまう。父親がここまで言うのだから波導使いは相当な使い手だろう。

 

「……父上の心配も分かります。ですが、瞬撃の名を襲名した身。その強さを、信じてはもらえないでしょうか?」

 

 アンズの言葉に父親は暗闇の中で応ずる。

 

「お前は強い。だが、それは一般的な暗殺者と比して、だ。波導使いの前ではともすれば一撃、と言ったのはそれもある。熟練した殺し屋を仕向けても返り討ちに遭うだけだ。ならばこそ、ワタシはお前にこれを授けようと思う」

 

 差し出されたのは白湯のように見える液体が入った湯飲みであった。アンズは唾を飲み下す。

 

「あたいがこれを飲めば、ヤマブキ行きを認めてくださいますか?」

 

「無論だ。それを飲めば、すぐにヤマブキへと向かえ。逆に手遅れになる前に」

 

 アンズは湯飲みを手にし、一挙に飲み干した。ぬるい液体の感触が胃の腑へと落ちていった。

 



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第三十話「閃夜」

 

 空気は生ぬるく、アーロンは振り払うように手を薙いだ。

 

 湿度を感覚して感電させるには相手との距離が開いている。相手は三人、地の利は、とアーロンは目線を走らせる。ビルの屋上には一人、残り二人は別行動だが先ほどの攻撃が三人組である事を示していた。波導を感知する眼が、別のポケモンによる攻撃だと見抜いている。

 

「二人か、あるいは三人での行動か」

 

 見抜いた声に相手の太っちょの暗殺者は、「さすがだな」と答える。

 

「飛行タイプの特殊技を、人数まで見抜くとは青の死神の名は伊達ではない。しかし我ら三人、ただ闇雲に立ち向かうわけではない事を知れ」

 

 波導を見る視界の中で空気の弾丸が練られてアーロンへと突き刺さろうとした。直前に跳躍して逃れる。今のは「しんくうは」だ。近距離型のポケモンと、中距離型のポケモンが二体。相手はあわよくば近距離型にとどめを刺させようと中距離型でちまちまと攻めてくる。

 

「ピジョット! エアスラッシュ!」

 

 甲高い鳴き声を上げて鳥型のポケモンが放たれる。翼を翻し空気の刃が放たれた。通常ならば不可視だが、アーロンの眼には、波導を読む眼にはそれが明確に映る。

「エレキネット」を応用した電気ワイヤーでアーロンはビルの一角へとその先端を引っ掛けた。

 

 飛び移ろうとすると展開していたのかもう一体の鳥ポケモンが翻って風の刃を打つ。背後のビルが穿たれ、その破片が背中を打った。僅かな痛みだが無視出来る範囲だ。アーロンは飛び移って赤い鶏冠の特徴的なポケモンへと電撃を放とうとするが、相手との距離が開いている。今の状態で撃つならば接触している必要があった。

 

「動けまい、波導使い」

 

 太っちょがビルの上から声にする。飛行タイプ二体、しかもどちらも接触を許さない中距離タイプ。しかしそれだけではない。近接で必ず致命傷を狙ってくる近距離型が一体潜んでいる。それを見通さない限り勝利は訪れない。

 

「この距離ならばピカチュウの電撃は命中せず、なおかつ近距離型に背中を見せる結果になる、という事だな」

 

 電気ワイヤーを絡めつければ不可能ではない。しかしその時こそ、近距離型の接近を許す契機となってしまう。慎重を期す必要があった。

 

「どうした? 電気タイプは飾りか? それとも、電撃による精密攻撃には自信がないか?」

 

 太っちょの挑発には乗らない。だが、どこから来るのか見定めなければやられるのは消耗戦を続けるだけだ。

 

「そちら側から攻めさせてもらう。ケンホロウ、エアスラッシュ!」

 

 再び放たれた風の刃に煽られるようにアーロンは身を翻す。ケンホロウと呼ばれたポケモンとピジョットが交差して同時攻撃を撃とうとした、その時である。

 

 電気のワイヤーを伸ばしケンホロウに絡めつける。そのままケンホロウの飛翔に任せてアーロンは電気を流さずにピジョットとの交差点まで連れて行かせた。ケンホロウが解こうともがくが深く食い込ませたワイヤーがケンホロウの翼をもつれ込ませる。

 

 ピジョットが身体から光を放ち、飛行タイプの極点「ゴッドバード」を放とうとする。だがそれさえも折り込み済みだ。ケンホロウがピジョットと交差する。その瞬間にアーロンは電撃を放出する。

 

 ケンホロウが感電しただけではない。ピジョットも巻き込まれる形で感電し、二体の鳥ポケモンが落下していく。アーロンは太っちょの舌打ちを受けて非常階段に展開しているケンホロウのトレーナーを捉えた。電気のワイヤーで首筋をひねり込んでそのまま落下させる。自分も自由落下するかに思われたがその直前にアーロンは別の建物に飛び移った。

 

 ケンホロウのトレーナーが墜落死する中、アーロンの飛び移ったビルの足場が瓦解する。凄まじい膂力で足場が踏み壊されていくのが分かった。目にしたのは飛行タイプでありながら鈍そうな黒い鳥ポケモンだ。大ボスの威容を伴って片方の翼を掲げる。すると放たれた風の刃がアーロンを切り裂かんと迫る。側転で回避してアーロンは足場から離れた。あれが恐らく近距離型の飛行タイプ。だが近づけば攻撃する前に足場をやられる。

 

 太っちょが、「自由に戦えまい」と嘲った。

 

「たとえピジョットとケンホロウを破ったところで、お前は」

 

「ならば、お前を利用させてもらう」

 

 アーロンの言葉の意味が分からなかったのか太っちょが目をしばたたく。伸ばした電気ワイヤーの先が太っちょを捉えた。アーロンはそのまま砲丸投げの勢いで太っちょを鳥ポケモンへと放り投げる。太っちょの絶叫と共に鳥ポケモンが逡巡の気配を見せたが命中するギリギリで鳥ポケモンが翼で太っちょを切り裂く。

 

 血が迸る中、アーロンは肉迫していた。

 

 鳥ポケモンに取り付き、手で接触する。

 

 その瞬間、電撃によって鳥ポケモンが内側からぷすぷすと黒煙を上げた。鳥ポケモンが倒れ伏す。声が走り、鳥ポケモンのトレーナーが逃げ出していた。追う気力はない。

 

 アーロンは息をつき、高層ビル群を降りていった。

 



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第三十一話「アサシンキラー」

 

「三人だ」

 

 オウミの声にアーロンは耳を傾ける。

 

 オウミは炎魔関連のごたごたから逃れ、結果的に現職の刑事の立場を守っていた。何を犠牲にしたのかはまだ分からない。あるいは自分による裁きだけで今回は情状酌量の余地があると思われたのかもしれない。お歴々がその程度で許すとも思えなかったが。

 

「聞いてるのかよ、波導使いさんよ」

 

「ああ。その三人がどうした」

 

「ホトケが上がった。三人だ」

 

 それは奇妙だった。二人しか殺していない。

 

「三人も殺した覚えはない」

 

「その通り。二人は確実にお前のもんだが、もう一人を殺したのは誰なのか分からない。腹に大穴が開いていたらしいが」

 

「そんな攻撃を持っていない」

 

 オウミは紫煙をくゆらせて、「だよな」と答える。片腕になっても喫煙はやめられないのか。

 

「何にせよ、オレが炎魔を引っ込めてから数日、暗殺者の出入りが多いのは分かっているよな? それも全部お前狙いだ。波導使いさんとしちゃ、毎日殺し合いは疲れるんじゃねぇか?」

 

 疲労は溜まっている。だが向かってくる殺し屋は手を緩めてはくれない。

 

「相手が全力で来るのならば叩き潰すまでだ」

 

「お強いねぇ。ハムエッグに頼んで暗殺者の間引きくらいやってもらえばどうだ?」

 

「前回で出費がかさみ過ぎた。しばらくはハムエッグを頼れない」

 

 暗にオウミのせいだ、と言っていたがオウミは気に留めた様子もない。

 

「そうか。まぁハムエッグに頼るのは最終手段だな」

 

 暗殺者はどれも本気だ。全員が本気で自分を殺そうとしてくる。幸福なのは未だに根城が割れていない事くらいだ。家ならばまだ落ち着ける。

 

 下階に炎魔がいるオマケ付きだが。

 

「家の修繕はきっちり出来たんだろ?」

 

 家は前回と同じくトラックが突っ込んでいる広告塔でオーダーした。室内も同じくだ。

 

「あんなに目立つのに、誰も襲ってこないんだな」

 

「あんなところに居を構えているとは思わないんだろう」

 

「違いない」とオウミは笑う。

 

「どちらにせよ、三人目を殺した暗殺者に心当たりは?」

 

「ない。これだけ流入が激しいと誰がどんな殺し屋かも分からない」

 

 アーロンの素直な感想にオウミは、「これだけ混沌としてりゃあ」と呟いた。

 

「素人集団がまた巻き返しても分からないな」

 

 プラズマ団の事か。しかし今のところ目立って活動はない。

 

「プラズマ団が動き出せばまた情報が欲しい」

 

「そいつは金次第だ。こっちだって誰かさんに片腕を潰されたんでな。普段やっていた事が出来なくなっちまった」

 

 恨み言を受けつつアーロンは考える。この状況下で殺し屋を殺す事で利益を得る何者か。オウミの炎魔によってほとんどの暗殺者は一旦退いた形となった。炎魔が退き、今度は腕に覚えのある暗殺者が入ってきたが炎魔ほどではない。しかし如何せん数が多かった。

 

「アサシンキラーなんて一番儲からないやり方だ。まぁまだ一人だし、確定じゃないがな」

 

 殺し屋殺し。暗殺者の中ではそんなもの意味がないとして切り捨てる人間もいる。

 

「もしアサシンキラーだとして、俺にどうしろと?」

 

 オウミは一拍挟んで、「どうもしねぇよ」と答えた。

 

「命令権はないし、オレはもうただの刑事。いやただの悪徳刑事か。こうしてお前にたまに気紛れで情報を流すだけだ。炎魔の、シャクエンも失っちまったからな」

 

 オウミにはもう後ろ盾はない。いつ殺されてもおかしくはなかった。

 

「俺は自分で信じた道を行くだけだ」

 

 アーロンが立ち上がる。オウミも看板を挟んで立ち上がったようだった。

 

「お前はいつもそうだからな」

 

「もう用がないのならば俺は行く」

 

「ああ。達者でな。波導使いさんよ」

 

 封鎖していた路地を出てアーロンは路地番のリオに金を掴ませた。

 

「アーロンさん。お疲れのようですね」

 

 リオが金を数えながらそう口にする。傍から見ても疲れているように映るのだろうか。

 

「そうか」

 

「そうか、じゃないですよ。おれに出来るのならば何か力に――」

 

「お前は路地番だ。それをまずしっかり仕事しろ。殺し屋の心配なんてするもんじゃない」

 

 アーロンの声にリオは何度か言葉を引っ込めたがやはり口にする。

 

「メイ、彼女の事はアーロンさんに任せていいんですよね?」

 

 任された覚えはないがどうせメイには行くところがない。それに彼女の持つポケモンと無意識下での行動にはまだ謎が多い。出歩かせるわけにはいかない。

 

「ある程度は、な。それ以上の行動を束縛する事は出来ない」

 

「……おれは、そのアーロンさんほどの強さならば、彼女を守れるんだって信じていますけれど」

 

「買い被るな。俺はただの殺し屋だ」

 

 自分に勝手な装飾をつけるのはやめたほうがいいと忠告する。リオは、「でも強いですよ」と返した。

 

「負けなしでしょう?」

 

「勝ち負けじゃない。命のやり取りだ。負けは死を意味する」

 

 アーロンの語調にリオは、「そういう世界なんですよね……」とこぼした。

 

「もうおれも、裏に来ていると思ったほうがいいんでしょうか」

 

「心がけはしておけ。そのほうが後悔しなくて済む」

 

 リオは金を懐に入れて、「そういえば」と言葉にした。

 

「ヤシロ組の集金が今夜あるそうです」

 

 ヤシロ組はヤマブキでも一二を争う裏組織である。主にヤマブキの東方を任されておりその自治範囲は広い。

 

「それが? 俺にはヤクザの集金なんて興味はない」

 

「それに使われている殺し屋ってのがいるらしいんですよ」

 

 ヤシロ組ほどならば殺し屋を子飼いにしていても何ら不思議ではない。リオがわざわざ言葉にするという事はその殺し屋が何らかの曰く付き、という事なのだろう。

 

「……新参か?」

 

「雇われみたいですけれど、女の子だって噂です」

 

 少女の暗殺者。悪い予感しかしなかった。

 

「炎魔を下した次もまた少女か」

 

「その殺し屋、結構な手だれとの事で。他の暗殺者が仕掛けようものなら一瞬で、らしいですよ」

 

 リオが首を掻っ切る真似をする。アーロンは息をついた。

 

「興味はないな」

 

「ですけれど……。ああ、もう言っちゃいますね。ハムエッグさんからの伝言です」

 

 ここまでまどろっこしい真似をさせたのはそのせいか。アーロンはため息をつく。

 

「最初からそう言えばいいものを」

 

「だってアーロンさん、絶対嫌がるじゃないですか」

 

 好ましくはない、と応じてアーロンは話を聞こうとする。この路地ではまだ人通りがあった。

 

「歩きながら話そう」

 

 リオが了承し、アーロンは歩き出す。

 

「ヤシロ組が最近仕入れた殺し屋です。あまりに強いために街のバランスを崩しかねないとしてハムエッグさんが執行命令を出しましたが、仕向けた殺し屋全員が返り討ち。こうなってしまえばもう、アーロンさんに頼むしかない。しかしハムエッグさんはどうしてだかおれみたいなのを介してこれを伝えたい、との事で」

 

「妥当だな。ハムエッグにでかい貸しが出来ている。その状態なのにバランサーなんかを頼んで俺にすぐに借りを返して欲しくないんだろう」

 

 恩着せがましいポケモンだ、とアーロンは感じる。

 

「情報は、ですね。かなり強いらしいです」

 

「それは情報とは言わないな」

 

「えっと……、何のタイプの使い手かも分からないまま、今までの人達が殺されちゃっているんで、その外見的特徴も危うくって……」

 

 リオの言い訳にアーロンは、「そんな不確定要素のまま」と口にする。

 

「俺にそいつを消せと?」

 

「集金時には必ずついて回っているはずなんです。だから集金の時しか狙えません」

 

 ヤシロ組がどのような経緯とルートで成り立っているのか興味はないが、その集金の時以外では仕掛けられないのだろうか。

 

「わざわざささくれ立っている集金の時に仕掛けるメリットがない」

 

「でもそれ以外じゃ、どこにいるのかも分からない殺し屋です。仕掛けようがないんですよ」

 

「だったら仕掛けなければいい。それが平和的解決策だ」

 

「アーロンさん。ハムエッグさんの命令ですよ?」

 

「俺は奴の下についた覚えはないんでね」

 

 リオは困惑する。自分ならば引き受けると思ったのだろう。生憎と何でも依頼を受けていれば身体が持たない。

 

「俺以外の殺し屋に頼め。ラピス・ラズリを使うといい」

 

「スノウドロップを使えば大事になるのは分かっているでしょう? 今狙われている波導使いならば、大きな事にはなりません」

 

「それは俺に、狙われる要因を増やせと言っているようなものだ。ヤシロ組の依頼で何度か動いた事もある。ここで意味もなく裏切るのは得策ではない」

 

 ただでさえ首を狙って集団で来る殺し屋がいると言うのに。アーロンが依頼を受けないでいると、「受けないとホテルが買い取る、と言っているみたいです」とリオが付け足した。

 

 アーロンは足を止める。

 

「ホテル? ホテルミーシャの事か?」

 

 リオは言い辛そうに声にする。

 

「ええ、そうです。ホテルの管轄に入れば、もうどうしようもないでしょう? ハムエッグさんはそれを警戒して、アーロンさんに頼んでいるんですよ。ホテルは、ハムエッグさんとこの街を二分する組織ですからね」

 

 リオとて又聞きに違いない情報だったがアーロンからしてみればホテルの動きに関しては思うところがあった。何よりもホテルならば、ここ最近の暗殺者の流入原因を突き止められるかもしれない。

 

「……分かった。依頼を受けよう」

 

 リオが顔を明るくする。

 

「本当ですか?」

 

「ただし、今回ホテルとの合同任務とする」

 

 その言葉にリオの顔からさあっと血の気が引いていく。

 

「いや、あのそれは……」

 

「お前やハムエッグに迷惑はかけない。俺個人で、ホテルとの合同作戦を取り付ける」

 

 アーロンの言葉にリオは顔を伏せた。

 

「……すいません。何も出来ていないですよね、おれ」

 

「よくやっているさ。この街に来て、ルールを知ってまだ半月レベルにしては、な」

 

 アーロンの言葉にリオは、「ではサインを」と書類を差し出した。アーロンはサインをしてからリオに返す。

 

「ハムエッグに頼らず、まずはホテルと約束を交わす。それでこっちの仁義は通る」

 

 アーロンはそのまま立ち去った。リオは、というと今度は女の客引きに精を出していた。あの青年も大変だな、とアーロンは感じていた。

 



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第三十二話「殺しの流儀」

 

「何だよ、むすっとした顔しやがって」

 

 カヤノの声に、「苛立ちもする」と応じてモンスターボールを看護婦に預けた。また違う看護婦だった。前よりも若い。

 

「前の看護婦はどうした?」

 

「ああ。ビデオに出るって件を斡旋されていてな。まぁ本人のやりたい方針でやらせればいいんじゃねぇかって事で、辞めた。今はその組織から斡旋されてきた若い子に頼んでいる」

 

「感心しないな。とっかえひっかえするのは」

 

「とっかえひっかえ出来るくらい、この街にはワケありの客が多いって事さ」

 

 カヤノは層の違う水を用意し、アーロンに検査する。アーロンは波導の眼を用いて言い当てた。

 

「上から、青、緑、黄色、赤だ」

 

「正解。波導の眼は衰えていないな。殺し屋続きでやばいってのは聞いていたが」

 

 カヤノの耳にも入っているらしい。アーロンは、「昨晩もそうだ」と口にしていた。

 

「殺しても殺しても湧いてくる」

 

「珍しいな。お前が愚痴かよ」

 

 愚痴りたくもなる。あまりにも多い。しかも腕に覚えがある、という妙な自負のせいで連中は中途半端な強さだ。正直なところ、強力な一人と戦ったほうがまだ疲れない。中途半端な強さが数人たかって来ればそっちのほうが面倒だった。

 

「ピカチュウのステータスもちょっと疲れが混じっているな。あんまし手持ちに無理させんな」

 

「俺とて最小限に抑えているつもりなんだがな」

 

「いっその事、協力すればどうだ? 炎魔、お前のところにいるんだろ?」

 

 目ざといカヤノにアーロンは言い返す。

 

「もう、炎魔にはそういう事をさせたくないんだと」

 

「お嬢ちゃんか」

 

 カヤノは喉の奥で笑う。アーロンは舌打ちした。

 

「笑い事ではない」

 

「いいや、面白いな、お嬢ちゃんは。この街で、一度人殺しに手を染めた奴に、もうさせないってのか。いずれお前も言われるんじゃないか? アーロンさんはもう人殺しをしないでいいんです、とか」

 

 カヤノは心底可笑しいのか腹を抱えて笑い始めた。アーロンは眉をひそめる。

 

「何であいつに指示されなければならない」

 

「お前としちゃ不本意だろうな。でも、言いそうだ」

 

 カヤノが笑っていると看護婦がモンスターボールを届けに来た。受け取って、「笑うだけならば馬鹿でも出来る」と立ち上がった。

 

「分かったって。すぐ怒るなよ。からかうのは悪かった」

 

 アーロンは再び椅子に座り、「時に、ヤシロ組に関しての事だが」と口火を切る。

 

「珍しいな。ヤクザもののことなんてどうでもいいと思っている性質だと考えていたが」

 

「ハムエッグから依頼だ。その子飼いの殺し屋を仕留めろ、と」

 

「毎日暗殺者と戦っているのによりにもよってヤクザの暗殺者を殺せって?」

 

 無茶だな、とカヤノは付け足す。その通り、無茶なのだ。

 

「ヤシロ組とは何度か取引相手になった事がある。俺個人としては、敵に回って欲しくない」

 

「そいつらが報復目的にまた殺し屋を買えば、結局いたちごっこだからな」

 

「今回、ホテルと組む事にした。俺はホテルに雇われた形にすれば、まだ緩衝材になる」

 

 その言葉にカヤノは目を見開く。ホテルの評判を知っていればまずしない提案だからだろう。

 

「お前、それは……。ハムエッグを敵に回すぞ?」

 

「ハムエッグはバランサーとして強力な殺し屋を消したいだけだ。ホテルと組むな、とは言っていない」

 

「ホテルに関しちゃ、ハムエッグだって不可侵だ。そんな屁理屈通用するか?」

 

「通用しようがしまいが、俺にはどっちにせよ道がない。ヤクザを敵に回してそっちの敵を作るか。あるいはハムエッグの機嫌を損ねるレベルで済ませるか。ハムエッグは面白くないだろうが、結局最終着地点は同じだ。何かで埋め合わせすればいい」

 

「そんな簡単なものかよ」

 

 カヤノは煙草を取り出して火を点けていた。煙い息を吐き出しながら、「場合によっちゃまずいぞ」と口にする。

 

「ホテルなんてハムエッグ以上に粘着だ。今回の見返りに炎魔の情報開示だとか言われたらどうするんだよ」

 

「開示してやればいい。もう廃業した殺し屋の情報に金を割くか、あるいはこれからの事に割くかくらいの頭は回るだろう」

 

「そりゃ、そうだろうが……」とカヤノも濁す。ホテルに関してはカヤノだって下手な事は言えない。

 

「ハムエッグを敵にするのは俺だけだ。あんたには迷惑をかけない」

 

「今この話を聞いているだけで充分に迷惑だよ、クソッタレ」

 

 悪態をついてカヤノは口にする。

 

「もし、だ。もし波導使いの秘密を知ろうとホテルが動けば?」

 

「その時は俺がホテルを壊滅させればいい」

 

「簡単に言ってくれるが、ホテルの兵力はヤマブキで二番目。ハムエッグの次だ。お前がハムエッグの子飼いだって思っているかもしれんぜ、連中は」

 

「誰にも与した覚えはない。そう思っているのならば誤解を解くチャンスだ」

 

 立ち上がるとカヤノが呼び止めた。

 

「おい、マジなのかよ。本当にホテルと組むって?」

 

「そうだが、何か」

 

「やめとけ。老婆心で言っている。ホテルに借りを作るな」

 

「だが俺一人でヤシロ組を敵に回せば、そっちだって危うい。組織立った行動と思わせてヤシロ組からは敵意を買わないようにする。ホテルには敵が多い。今さらだろう」

 

「そうだろうが……。ああ、クソッ。聞くんじゃなかったな」

 

 カヤノは顔を伏せて手を払う。

 

「今日の問診はもういい。ホテルがどう動くか全く分からんが、あんまり一組織に関わり過ぎんな。それこそ行き場を失くすぞ」

 

 忠告にアーロンは、「こちらの台詞だ」と返す。

 

「診療所もあまり人の出入りを増やすな。行き詰っても知らないからな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いらっしゃいませー!」

 

 メイの声が弾けてアーロンは渋い顔を作った。少なくとも今は見たくなかったお気楽な顔である。

 

「何ですか? あたしの顔に何かついていますか?」

 

「……いいや。空気を読む、という事を期待した俺が馬鹿だった」

 

「何ですか、それ!」とメイが非難する。アーロンはすぐさま二階に上がった。

 

 部屋に入るとテレビを見つめているシャクエンが視界に入った。アーロンは口を開く。

 

「今日は?」

 

「シフトが入っていないから」

 

「そうか」

 

 メイは勝手に喋ってくれるがシャクエンはそうではない。一度殺し合った間柄だ、どうしても無口になる。そうでなくとも殺し屋は無口だ。

 

「何か飯でも作るか」

 

 気分転換にしょうが焼きを作り始める。シャクエンはテレビの一点をずっと見つめて動かなかった。

 

「何か面白いのか?」

 

「別に」

 

 これで会話が中断されてしまう。アーロンは重苦しさを感じた。

 

「お前の手持ちはテレビが好きなのか?」

 

「〈蜃気楼〉もそうだけれど、私も、テレビは嫌いじゃない。勝手に喋ってくれるから」

 

 同じような理由だった。後から聞いた話だが、手持ちのバクフーンの名前は蜃気楼と言うらしい。炎魔は代々その名を受け継いだバクフーンを育てるのだという。

 

「馬鹿は、まだ下で仕事を?」

 

「もうすぐ終わるみたい。私は待ってる」

 

 メイとシャクエンの間に何か友情のようなものでも芽生えているのだろうか。アーロンには推し量るしかない。

 

「仕事は楽しいか」

 

 これではまるで久しぶりに娘と話す父親のようなぎこちなさだ。シャクエンは、「殺しよりかは楽しい」と応じる。どう返すべきか分からない。

 

「そう、か……。俺達の存在理由は所詮、人殺しに集約される。それよりも楽しいなら、いいんじゃないか」

 

 このような会話でもシャクエンからしてみれば随分と譲歩だろう。本来ならば口を利かなくてもおかしくはない。アーロンも話すのがあまり得意ではないせいで余計だった。

 

「……波導使いアーロン」

 

「何だ。炎魔」

 

 だから自然と相手とは戦闘状態のような声音になってしまう。このようなこう着状態を解いたのは入ってきたメイの無遠慮な声音だった。

 

「シャクエンちゃん! 待った?」

 

 シャクエンはテレビを消し、「別に」と応ずる。メイはシャクエンに抱きついた。アーロンからしてみればそれだけでも心臓が口から出そうなほどの驚愕だ。この娘は相手が殺し屋だと分かってやっているのか?

 

「寂しかったよー」

 

「……私も」

 

 シャクエンの返答にアーロンは再び驚愕する。一体この二人は何なのだ、と。

 

「あーっ、何でご飯作っているんですか。あたしだけのけ者にしようとして!」

 

「そんな意味はない。調理をすると気が紛れる」

 

 その言葉でアーロンとシャクエンの沈黙を悟ったのかメイは笑みを浮かべてアーロンの傍に駆け寄ってくる。

 

「やっぱり、話しづらかったですか?」

 

「分かっているのならば、こんな状態にするな」

 

「すいません。でも、何か弾むものもあるかな、って思って。あたしなりに」

 

「何が弾むというんだ。殺し屋同士で弾む会話なんてあるものか」

 

 メイは舌を出して再びシャクエンに擦り寄る。シャクエンは嫌そうな顔一つせずメイのされるがままだった。

 

「シャクエンちゃん、制服は普段着じゃないよ? 何か服でも買いに行こうよ」

 

 シャクエンが以前までと同じく制服姿である事にメイは疑問を発する。

 

「でも動きやすいし、慣れているから」

 

「オシャレしなきゃ! せっかく華の都にいるわけだし」

 

「やめておけ。炎魔シャクエンの噂は広まっている。派手な格好をされてこの場所が特定されたのでは元も子もない。そいつがこの部屋を爆発させたんだからな」

 

 攻め立てるようなアーロンの物言いにメイが聞き返す。

 

「アーロンさん、何か不機嫌ですね……。悪い事でもありましたか?」

 

「こちとら、お前らを引き取ってから悪い事しかない。寝る場所にも気を遣う」

 

 アーロンの恨み言にメイは、「でも、女の子ですし」と口にする。

 

「ならもっとつつましくいるんだな。あまりに無遠慮が過ぎるぞ」

 

 しょうが焼きを皿に盛り付ける。メイは早速箸を取っていた。その手を叩く。

 

「飯の準備をする間くらい待て」

 

「ううん……。アーロンさん、お母さんみたい」

 

 無視してアーロンは白米をよそって三人分の食事を用意した。メイが、「いっただきまーす」とがっつく。シャクエンは小さく、「いただきます」と言って食べ始めた。アーロンはメイをいさめる。

 

「上品に食え。下品だぞ」

 

「アーロンさん、本当にお母さんみたいですねー」

 

 メイの言葉を聞きながらアーロンは考えていた。この二人の存在がもし、ホテルに露見すればこちらとしては痛手になる。アーロンは釘を刺しておく事にした。

 

「これから取引先と会う。お前らは絶対に外に出るな」

 

「何でです?」

 

 頬張ってメイが尋ねる。そんな事も分からないのか。

 

「言ったな、今。取引先と会うから、だと。殺し屋にとって取引先と言えば、それは弱みを握られてはならない相手だ。お前らが出歩けばそれだけリスクも高まる」

 

「大丈夫ですって。あたし、トレーナーですし」

 

「根拠のない自信はよせ。プラズマ団を壊滅させたのは知らんが、お前程度では足枷になるからだと言っている」

 

 アーロンの言葉にメイはむくれた。

 

「酷い、アーロンさん。もしもの時は戦力になりますし」

 

「いいか? 余計な気を起こすなよ。絶対に外を出歩くな。俺が帰ってくるまで絶対だ。お前らの事が知れれば、面倒な事になる」

 

 メイは、「絶対ですか?」と聞き返す。

 

「絶対だ。ハムエッグのところにも行くなよ。ラピス・ラズリにも会うな。ウィンドウショッピングも今日はやめておけ」

 

 さすがにここまで言い含めて出るほど馬鹿ではあるまい。アーロンは早々に食事を済ませて外に出る事にした。ホテルのメインメンバーと会わなければならない。

 

「アーロンさんは外に出るのに?」

 

 反感の声にアーロンは視線を振り向ける。

 

「俺は仕事だ」

 

「あたしだって、部屋から出ないのは辛いですよ」

 

「炎魔と遊んでおけ」

 

 シャクエンは既に食べ終わっておりまたしてもテレビを観ていた。それほど物珍しいのだろうか。

 

「炎魔って言ってあげないでください。シャクエンちゃんって呼んであげてくださいよ」

 

「ちゃんはつけんが、努力はしよう」

 

 アーロンは下階に降りて店主にも言い含めた。

 

「馬鹿とシャクエンが外に出ないように気をつけてやってくれ」

 

「いいが、何でまた? 今日だけ駄目なのか?」

 

「今日だけだ。特に俺の後を追うな。絶対だぞ」

 

「……フリじゃないよな?」

 

「フリでも何でもなく、俺は大真面目に言っている。絶対に外を出歩かせないで欲しい。俺の後をつけようものなら酷い目に合うと念を押してくれ」

 

「何だかそこまで言われると逆に気になるな。どこへ行くんだ?」

 

「衛生局の重役と会う。その対談を目にされると困るんだ」

 

 嘘八百を並べて、店主を納得させる。企業の秘密ならば守る価値があると彼も分かったらしい。

 

「それはその通りだな。衛生局勤務も大変だねぇ」

 

「全くだ。暇がなくってな」

 

 これで店主の助けもあってメイとシャクエンが出歩く事はないだろう。

 

 アーロンは安心し切って外に出た。ホテルはヤマブキの東を仕切っているため、東側にある。

 

「もしもし、俺だ。ホテルと今回、作戦行動を共にするに当たって一度面通しを行っておきたい。ヤシロ組の殺し屋に関してだ」

 

 通話口の相手はホテルの受付番だ。

 

『よろしいですが、急を要するのですか?』

 

「今すぐにホテルミーシャの代表と会いたい。ヤシロ組の取引は今夜なんだ」

 

『なるほど。取り付けておきます。アーロン様ですね』

 

「助かる」

 

 アーロンはホロキャスターを切ってから一応、背後を振り返った。

 

 尾行はなさそうだった。

 



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第三十三話「ホテルミーシャ」

 

「……絶対ついてくるなよ、絶対だぞ、なんてフリ以外の何でもないじゃないですか」

 

 メイは店主に気取られずに外に出る方法を知っていた。トラック小屋の中に再建時に新たに取り付けたメイしか知らない移動通路があるのだ。その通用口を使えば簡単に出入り出来る。無論、普段のアーロンが見逃すはずもないので今回限りのつもりだった。

 

「メイ。さすがにまずいと思う」

 

 シャクエンの声にメイは、「構うもんですか」と応ずる。

 

「だって絶対ついてくるな、はついて来いの意味でしょ」

 

「そうなの?」

 

 シャクエンは世相に疎いためお約束を分かっていないのだ。メイは、「静かに」と声にする。

 

「アーロンさんの事だし、あたし達の波導なんて分かっちゃってると思う。だからこの距離はキープで」

 

 十メートルほど間隔がある。暗殺者としての集中力ならば気取られかねないがアーロンは傍目にも落ち着きがないように思えた。いつものアーロンらしくない。

 

「何だかアーロンさん、本当に周囲を気にしている感じだなぁ。まさか恋人と会うとか?」

 

 メイの浮かべた疑問にシャクエンは、「波導使いには恋人がいるの?」と大真面目に尋ねる。

 

「まさか。あの朴念仁が恋人なんて」

 

「でも結構気にしているよ。あそこまで落ち着きのない波導使いも見ないと思う」

 

 アーロンは曲がり角を曲がる度に三十秒ほど立ち止まって尾行を警戒している。逆に言えばそれだけ落ち着きがない。

 

「誰と会うんだろ……」

 

「ハムエッグとか?」

 

「それならあたし達について来るなって言わないでしょ。多分、今まで会ってない人達だと思う」

 

 ならば余計について来るなの意味が分からない。何も言われなければ仕事について行きはしないのに。

 

「あれだけ念を押すって事は、アーロンさんの弱みに違いない。ここでアーロンさんの弱みを握っておくのは絶対必要だって」

 

 メイは確信していた。何かしらアーロンは不都合な事実があってそれを隠そうと躍起になっている。だから不必要な警告までした。

 

「でも、この先はヤマブキの東側……。宿泊施設が密集している側だけれど」

 

 シャクエンの声に高層ビルの中にホテルなどが視界に入ってくるのが分かった。まさか本当に密会か、とメイはうろたえる。

 

「まさか……本当に女性関係?」

 

「だとしたらついて行くのは悪いよね」

 

 シャクエンの落ち着きに比してメイは笑みを浮かべていた。

 

「だとすれば大スクープ! これであたしはアーロンさんに主導権を握れるわ!」

 

 メイは完全にそちらの方面だと確信した。アーロンは緑色に塗られた建築物へと入っていく。どうやら宿泊施設とは違い、企業が入っているようだ。

 

「やっぱり仕事なんじゃ」

 

「いいえっ! ここまで来ればオフィスラブでも見る価値がある!」

 

 アーロンがエレベーターを昇っていく。到着した階層を目にしてからメイとシャクエンは階段を使って上ろうとした。そこで、「お客様」と呼び止められる。

 

 振り返ると黒服が訝しげな視線を向けていた。

 

「何か御用ですか?」

 

「いや、あの……さっき入っていった人が、ほら忘れ物をしていて」

 

 咄嗟に手にしていた茶封筒を取り出す。こういう事もあろうかと何も入っていない茶封筒を用意しておいた。

 

「お忘れ物……。ならば当方で受け取りますので、それを」

 

 黒服が手を伸ばそうとする。メイは咄嗟に身を引いた。シャクエンが前に出て、「直接渡したいんです」と答える。

 

「極秘文書らしいので」

 

 シャクエンの唐突な嘘に黒服は信じ込んだようだ。

 

「分かりました。ではご案内致します。何階ですか?」

 

 先ほどアーロンが向かったのは十二階だ。メイはそれを口にする。

 

「十二階ですね」

 

 黒服が先導し、エレベーターの中に入る。どこか狭苦しい空間にメイは萎縮する。

 

「ときに、お客様。ここがどこだかご存知で?」

 

 訊かれてメイは困惑する。シャクエンは淀みなく答えた。

 

「企業の建物ですよね」

 

 ぼかした答えに黒服は、「ええまぁ」と応じる。シャクエンにナイスを心の中で送った。

 

「どんな企業だか分かって、来たんですか?」

 

 これはまずい、とメイは感じていた。答えられなければ怪しい。かといって答えてもこれは逃がす感じではない。黒服がすっと懐に手を入れる。

 

 その瞬間、飛び出した黒い影が黒服の手をひねり上げていた。シャクエンが手を繰ってバクフーンに命じる。いつ出したのかメイには分からなかった。

 

「〈蜃気楼〉。この男を拘束」

 

 その言葉が放たれた直後に、黒服の手から拳銃が滑り落ちる。メイは心臓が口から飛び出すかと思うほど驚愕した。

 

「えっ、どういう事……」

 

「私にも分からないけれど、殺気を向けてきたから対処した。どういう事なの? ここは何?」

 

 シャクエンが問い詰めるが黒服は嘲笑うだけだ。

 

「知らずに来たのか、小娘共め」

 

 バクフーンの〈蜃気楼〉が炎を上げて黒服に体重をかける。炎熱だけでも死を感じるほどに〈蜃気楼〉の殺気は鋭い。

 

「答えなさい。ここは何なのか?」

 

「炎のポケモンを操る女……。貴様、炎魔か。何故、波導使いと組んでいる?」

 

 炎魔の事を知っている。この男はカタギではない。

 

「い、一体何なの? ここは何?」

 

 うろたえ始めたメイの思考を遮るようにエレベーターの扉が開く。その瞬間、無数の銃口が二人を捉えた。シャクエンでさえも逃れられないと判断したのだろう。到着した階層にいる黒服達に降伏を示す。メイも当然の事ながらそれに倣った。

 

 階層はオフィスになっており、奥の執務机まで黒服達に誘導される。いつ銃口が火を噴いてもおかしくはない。

 

「アーロンさん、何でこんな物騒な場所に……」

 

「メイ。あまり声を出さないほうがいい。手慣れている」

 

 この黒服達も裏稼業の人間というわけか。シャクエンが降伏した以上、自分のような凡人が太刀打ち出来るとは思っていない。

 

「ねぇ、ヤマブキって裏の人間が何人いるの? こうも立て続けに裏稼業の人達と会うなんて」

 

 イッシュから渡ってきた当初は思いもしなかった。メイの後悔を他所にシャクエンは淡々と告げる。

 

「彼らは秩序の守り手。言ってしまえばハムエッグと同じ人種」

 

「ハムエッグさん達と?」

 

 アーロンが関わるのを極力避けているハムエッグと同種となれば余計にきな臭い。メイとシャクエンはパーティションで分けられたオフィスを抜けてようやく辿り着いた執務机の先にある応接室でアーロンと出会った。

 

 当然、彼は驚愕している。どうして二人がいるのか分かっていないのだろう。

 

「……ついてくるなと言っただろう」

 

「いや、その、フリかな、って」

 

 メイは愛想笑いを浮かべるがその場の空気がそれを許さなかった。重苦しく沈殿した空気に渋い顔の人々。軍人のように付き従っている大男に両脇を固められたソファの上手に、一人の少女が腰掛けていた。

 

 長い黒髪を流し、紫色のリボンとワンピースを身に纏っている。渡り合うその眼差しはアーロンと対等か、あるいはそれ以上の権限の持ち主だと一瞬で分かった。

 

「あら、来客? 珍しいわね」

 

 だからか、その姿と同様の澄んだ幼い声音に驚愕したほどだ。年齢を誤魔化している風でもない。相手はメイとさほど年かさも変わらないようだった。

 

「波導使い。いつの間に女の子と同棲なんて始めたのかしら?」

 

 少女の声にメイとシャクエンは口ごもるしかない。アーロンも苦々しい顔で、「不注意だ」と返した。

 

「ここに来させる気はなかった。俺のせいだ」

 

「いいわ。彼女達にもお茶を振る舞って差し上げて」

 

 少女が指を鳴らすと大男は弾かれたように動き出し紅茶のカップを二つ用意して注いだ。それぞれ香りのいい紅茶でハーブティの一種だと分かる。

 

「どうぞ。座る場所がないから狭苦しいかしら?」

 

 差し出されたお茶をそのまま不用意に飲む気にはなれない。少女が視線に鋭いものを滲ませる。

 

「それとも、わたくしのお茶は飲めない?」

 

「ラブリ。いじめてやるのはその程度にしてやってくれ」

 

 アーロンの助け舟にメイは安堵する。同時に少女の名がラブリ、というのだと分かった。

 

「あら、ごめんなさい。あまりにもいじめ甲斐のある目をしていたものだから」

 

 ラブリは悪びれもせずに頬杖をついて笑う。メイは息苦しさの中、アーロンに尋ねていた。

 

「その、あたし達……」

 

「もう帰れと言っても仕方がないだろう。やり取りが終わるまで同席しろ」

 

 帰り際に襲撃されては堪らんからな、と付け加えられる。アーロンの警戒にラブリは微笑みを浮かべた。

 

「それほど卑怯ではないわよ?」

 

「どうだか。ホテルミーシャからしてみれば相手の弱みが握れて好都合だろう」

 

 ホテルミーシャ。その単語にシャクエンが反応した。

 

「ヤマブキの東側を統括する、大組織……」

 

 その声音にラブリが、「あら?」と声にする。

 

「知っているのね。あなたもこちら側の人間なのかしら。黒い制服に、矢じりの形状の家紋。見目麗しいかんばせ……。ひょっとして最近出たって言う炎魔シャクエンかしら?」

 

 何とラブリはシャクエンの血筋でさえも旧知のようだ。それだけ目の前にしている少女が只者ではないのだと分かった。

 

「分かったろう。ここに来るべきではなかったと」

 

 アーロンの声に今さら恐れが這い登ってくる。ここは何なのだ。どうしてこんな場所にアーロンがいるのか。

 

「話を戻しましょうか、波導使い。今回、ヤシロ組の集金を押さえるというあなたの提案、ハムエッグを介さないで介入するのにはわたくし達レベルの組織が必要になる。だから頼ってきたのよね?」

 

「これ以上奴に借りを作らないためだ」

 

「それにしたって軽率だわ。ハムエッグはいい顔をしないでしょう?」

 

 アーロンは舌打ちをして、「かもな」と返す。

 

「だがハムエッグに頼ったところで同じ事だ。最悪に転がるのが早いか遅いかの違い。炎魔の件で借りを作り過ぎた。出来ればしばらくは仕事上で会いたくはない」

 

「お得意先なのだとばかり思っていたわ」

 

「そんな事はない。俺はフリーランスだ。誰かに与する事はない」

 

 ラブリとアーロンの会話には一切口を挟める気配はない。切迫した交渉が繰り広げられているのがメイでも分かる。

 

「ヤシロ組は簡単にぼろを出すとでも?」

 

「周りをお前らが固めれば、相手の殺し屋くらいは掴めそうだ。そいつとの直接対決は俺の役目だ。あんたらは交渉場所を囲い込むだけでいい」

 

 殺し屋、という言葉にメイは息が詰まりそうになる。またしても命のやり取りがこのヤマブキで行われようとしているのか。

 

「ホテルミーシャを顎で使うには、あなた達のカードは足りないわよね。報酬は先ほどの金額に上乗せしてもらわないと。彼女達の秘密は守れる保障はないわ」

 

「……さっきの金額の倍でいい。秘密は守って欲しい」

 

 アーロンは自分達の不手際を背負って自腹を切っているのだ。ラブリはふふんと鼻を鳴らした。

 

「殊勝じゃない、波導使い。まさかここまで下手に出るあなたが見られるとは思っていなかったわ」

 

 ラブリは目線をメイとシャクエンに向けて値踏みするように告げる。

 

「どことも知れぬ小娘に、炎魔の身柄、となればそれも当然か。波導使い、あなたって本当に、最低のクズね。本当ならば彼女達を巻き込むべきじゃなかった」

 

 その言葉にはメイも黙っていられなかった。アーロンが自分達のせいでいわれのない暴言を受けている。それだけは許せない。

 

「お言葉ですけれど、あなた達ってそんなに偉いんですか? さっきからアーロンさんの事見下して。あたし達の身柄にアーロンさんがそこまで頓着すると?」

 

 声を出したメイが意外だったのだろう。ラブリは面白そうに笑みを浮かべる。

 

「これは驚きね。交渉のカードが喋り始めたわ」

 

 馬鹿にした響きにメイは怒りを滲ませた声で言い返す。

 

「あなた達がどれだけ偉いって言うの。アーロンさんはたった一人で戦っている。それをあなた達は金儲けの道具にして……」

 

「そのくらいにしろ。それ以上は」

 

「いいえ。あたし我慢出来ません。アーロンさんがどれだけ痛みを背負っているのか、あなた達には――」

 

「口を慎め、と言っているんだ!」

 

 アーロンの怒声にメイは思わず声を詰まらせる。同時に自分がどれだけ出過ぎた事を言ったのか反省した。

 

「ここでの交渉権を理解せずに口を挟むな。お前らはいつでも殺せる状態なんだぞ。無論、俺も含めてな」

 

「波導使いは相変わらず冷静ね。わたくしの言葉に掻き乱される事もない。そっちのお嬢さんは別だったみたいだけれど」

 

 ラブリがせせら笑う。どこまでも人を見下している少女だった。

 

「ちょっと面白いから、金額はさっき提示した通りでいいわ。倍額は要らない。我々ホテルミーシャがヤシロ組を包囲する。その約束はしましょう。指示した口座に明日までに入金してくれれば結構。作戦は今夜九時より行います。場所も暗号化して送付するように。軍曹、送って差し上げて」

 

 ラブリの片方を固めていた大男が歩み出す。顔に傷があり、それが凄味を引き立たせていた。

 

「部下が失礼をしました。どうぞ、こちらへ」

 

 軍曹と呼ばれた大男に続いてメイとシャクエンが送り出される。アーロンは、と目線を向けるとラブリがフッと笑んだ。

 

「波導使い。いい女友達を持ったわね。あなた、これまで誰にも相手にされなかったのに。あなたが死んだって誰一人として悲しまない街だったのに、様変わりね。いいわ、とてもクズっぽくって」

 

 再三のアーロンへの侮辱だったがアーロンは怒りもしない。それどころか、「協力感謝する」と言い置いて立ち上がった。

 

「少しばかり話を聞きたくなったわ。彼女達に、また会えるかしら?」

 

「お前が会う事はない。あるとすれば、それはこの街が最悪に転がり始めた証拠だ」

 

 ラブリは鼻を鳴らして、「軍曹」と手を叩いた。

 

「波導使いご一行を下まで送って差し上げなさい。失礼のないように、ね」

 

 自分に向けたような挑発にメイは噛み付きそうになったがアーロンが静かに囁く。

 

「下手な事を言うな。殺されるぞ」

 

 誇張でも何でもない、本気の声音にメイは押し黙った。軍曹と呼ばれた大男に促され、メイとシャクエンは来たエレベーターを降りてエントランスを出る。それまで生きた心地がしなかった。

 

 ようやく大通りに出てメイは愚痴をこぼす。

 

「何なの、あれ……。あれじゃマフィアのやり方じゃない」

 

「メイ。ホテルミーシャは本物のマフィアよ」

 

 シャクエンの声にメイは瞠目する。後ろに続いているアーロンは、「この街で生きていたければ」と言葉を発する。

 

「ホテルとハムエッグの悪口だけは慎むんだな」

 

 メイにはわけの分からない事が多過ぎた。だがアーロンの言うように下手な事を言えば命がない事だけはハッキリしていた。

 



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第三十四話「終わりなき輪舞曲」

 ホテルが仕事相手だと言う事を明かしたほうがまだマシだったかもしれない。まさかメイとシャクエンがついてくるとは思ってもみなかった。

 

 店主に確認すると出た形跡はないらしい。メイに通用口の存在を白状させると、アーロンはため息をついていた。

 

「よくもまぁ、そんな下策を」

 

 メイとシャクエンは並んで正座している。さすがに今回は反省しているのかメイは言葉少なだった。

 

「その、ごめんなさい」

 

「ごめんで済むか。まかり間違えれば全員死んでいた」

 

 静かな声音に怒りを滲ませるとメイは本気だと分かったようだ。何も言わずに出るのが正解だったのかもしれない。

 

「でもアーロンさん、シャクエンちゃんの前例があるから信じられなくって。まさか本当のマフィアに会っているなんて」

 

「慎めと言っただろう。連中の事はホテル、とぼかせ」

 

 その忠言にメイは項垂れた。

 

「本当に、ごめんなさい」

 

 アーロンはもう怒るのにも疲れて椅子を引き寄せて座り込む。

 

「今夜の九時に作戦がある。聞いての通りだ。殺し屋との戦闘になるだろう」

 

「最近、ほとんど毎日じゃないですか。その度にボロボロになってくるアーロンさんを、見ていられなくって……」

 

「黙って見過ごしていればお前らの存在は露呈しなかった」

 

 アーロンからしてみれば弱点が増えたようなもの。それを懇々と言い聞かせるとメイでも分かったようだった。

 

「メイ。ホテルの存在については私も知っていたのに忠告しなかった。私にも落ち度はある」

 

 一緒になって尾行したのは事実だが、アーロンは怒る気にもなれない。

 

「俺の仕事に介入するな。炎魔。お前ならば一回の仕事に一般人が介入すればどれだけ危ういのか理解しているだろうに」

 

「止めなかった私も悪い」

 

 物分りのいい分メイよりも厄介だ。アーロンは膝を叩いて立ち上がる。メイがびくりと肩を震わせた。

 

「アーロンさん。怒っていますよね……」

 

「怒っていない。飯を作るだけだ」

 

 気持ちが揺らいでいる時には何かを調理するに限る。アーロンはオムライスを作り始めていた。

 

「その、おいしそうな匂いがするんですけれど、食べちゃ駄目とかそういうのじゃ」

 

「そんなつまらん嫌がらせを考える暇があれば、お前達を遠ざける方法を考える」

 

 メイはがくりと項垂れる。今回に関しては反省してもらわなければならない。

 

「波導使いアーロン。ラブリの素性を話すべき。そうでなければメイは巻き込まれてしまう」

 

 シャクエンの忠告にアーロンは嘆息をつく。そこまで馬鹿ではないと信じたいが、今回はあまりにもだった。

 

「……ラブリは裏組織、ホテルミーシャを束ねるリーダーだ。所持ポケモンは不明。だがそこいらの殺し屋よりも強い。しかし一番に恐れるべきはホテルの統率力だ。ラブリが動き出せば、あの大隊五十名近くが動き出す。そこいらの殺し屋以上が五十名だ。その数による圧倒であの勢力はハムエッグと均衡を保ってきた。ハムエッグの所持戦力は流動的だが固定戦力ラピス・ラズリだけでも大隊二十名に匹敵する。あのホテルとはいえハムエッグとの正面を切った戦いはしたくない。だからこの街は一見平和になっている」

 

 その均衡がいつ破れるとも知れないが。アーロンの口調にメイは、「その、平和なんですよね?」と疑問形だ。

 

「見た目はな。だが裏ではこうして潰し合いが絶えない。実際、ホテルとハムエッグの勢力がぶつかり合う事はまずあり得ないんだが、どちらかの組織に小間使いにされた殺し屋が勘違いを起こして自意識過剰になって大声を張り上げる。その火消し役として俺のような人間にお鉢が回ってくる」

 

 厄介なシステムだった。だがそれのお陰で食いっぱぐれない側面もあり一方的な糾弾も出来ない。自分以外にもこの街にはそうやって食い繋ぐ殺し屋が多くいる。

 

「アーロンさんは、ハムエッグさんとその、ラブリ、とどっちに比重を置いているんですか?」

 

「年下に見えるからと言って呼び捨てもしない事だ。ラブリの名前は普段は支配人、と全員が濁している」

 

 メイは失言である事を今さら悟ったらしい。教える事が多過ぎる。

 

「その、支配人はどれだけ偉いって言うんですか。アーロンさんを一方的になじるなんて羨まし……、いえ許せない事ですが」

 

 この小娘は口の利き方から教育せねばならないのか。アーロンはため息混じりに、「あれはああいう言葉の羅列だと思え」と返す。

 

 フライパンの上でケチャップライスが跳ねた。

 

「罵倒だと思わなければ罵倒ではない」

 

「じゃあ、あたしがちょっと言った事くらいは……」

 

「それは口ごたえ、と言うんだ。……本当に飯抜きにするぞ」

 

 メイは平謝りして飯抜きを回避しようとする。

 

「食欲と妙なところの失言だけは立派だな。この街では命取りだぞ」

 

「でも、あの支配人とかいうの、あんなに偉そうだったですけれど、実際に危ない現場に行くのはアーロンさんでしょう?」

 

 注意した矢先にこれだ。アーロンはライスを玉子で包みながら、「それがシステムだ」と応じる。

 

「殺し屋とそれを活用する側のシステム。もう大昔から変わらないヤマブキシティでの裏を渡り歩く術だ。今さらどうこう出来るわけがない」

 

「そんな。諦めるなんて……!」

 

「諦めたから炎魔がこの時代まで続いてきた。これで結論には充分だろう」

 

 シャクエンの存在を引き合いに出せばメイは押し黙るしかないようだ。オムライスを三人分用意し、アーロンはテーブルを囲む。

 

 シャクエンは立ち直って食卓についたがメイはまだ正座している。

 

「……おい、もういい。黙って食え」

 

「あたし、何にも分かってないんですね」

 

「何を今さら……」

 

 嗚咽の声が混じる。箸を止めて目線をやるとメイは肩を震わせていた。

 

「泣いているのか?」

 

「泣いてません!」

 

 強情な声で涙を隠そうとする。アーロンにはメイがどうしてそこまで入れ込めるのかが理解出来ない。炎魔シャクエンの事も、今回のホテルに関しても何も言わなければいいだけの話なのに、この少女はどうして他人のために涙出来る。

 

「……他人行儀を貫くのもある種の処世術だ。この街では感受性は必要ない。それを発揮したければ別の街に行くか、芸術家にでも転向しろ」

 

 メイは涙を拭い去って食卓につくとオムライスをかけ込んだ。あまりの食いっぷりにアーロンのほうが呆然としてしまう。

 

「喉に詰まるぞ」

 

「知りませんよ! あたしは、どうせ馬鹿ですし、一般人ですから!」

 

 意味の分からない抗弁を発してメイはオムライスを半分平らげた。その時顔面が真っ青になり胸元を叩く。シャクエンが背筋をさすってやっていた。

 

 アーロンはほとほと呆れる。どうしてここまで強情なのだろう。この街のシステムを受け入れれば少しばかりは楽だというのに。

 

「分からないのならば、見ていられないのならば目を逸らせばいい。その場合、炎魔ともいられなくなるが」

 

 メイはキッと面を上げてアーロンを睨む。

 

「あたしは、それでも間違っているって言い続けます!」

 

 どこから出てくるのか分からない自信にアーロンは嘆息を漏らす。

 

「止める事は出来ない。誰もこのシステムからは」

 

「いつか、絶対に止められる日が来ますよ」

 

 オムライスを食べ終えたメイは下階へと降りていった。

 

「ごちそうさまでした!」

 

 扉が勢いよく閉められる。アーロンは置きっ放しの皿を片付け始めた。

 

「……何を躍起になっているのだか」

 

「私には、少しだけ分かる」

 

 口を開いたシャクエンにアーロンは手を止めた。

 

「分かる、だと?」

 

「メイは、今まで平和な場所で生きてきた。聞いた話じゃプラズマ団って言う悪の組織を壊滅させたって。だから、きっと何よりもメイは正義を信じているんだと思う。この世には悪人ばかりじゃないって」

 

 アーロンは鼻を鳴らす。

 

「それこそ幻想だ。この世には善人よりも悪人のほうが多いのは、俺もお前もよく知っているだろう」

 

 炎魔ならば、とアーロンは感じる。この世の地獄の側面を知っているはずだ。シャクエンはしかし、「メイを信じたい」と言った。

 

「もし、メイの言うように全てを忘れて、新しい自分として生きられたら、それは多分素晴らしい事なんだと思うから」

 

「理想論だ。俺達暗殺者に平穏はない」

 

 たとえ既にシャクエンが炎魔として戦う事を望まなくとも彼女の前には炎魔であった頃の因縁が訪れるであろう。自分もそうだ。ある日突然、殺し屋をやめても今まで払ってきた火の粉と因縁が、自分を雁字搦めにして離さない。

 

「そうかもしれない。でもメイは、そうでない事を知っている。……私、メイが対等に接してくれてよく分からない気持ちになっている。今まで感じた事のない気持ちに。メイは、どうして私の事を、殺人鬼炎魔をこうまで信じてくれるのか分からない」

 

「馬鹿なんだろう。それ以外にない」

 

 アーロンは皿を片付ける。シャクエンは、「それでも」と声にする。それでも、何なのだろうか。それでもメイを信じたい? 明日を信じたいのだろうか。だが理想に生きて理想に死ぬのは表の側の人間だけだ。

 

 裏の人間はまず理想なんて掲げない。欲に塗れて生きて、強欲の限りを尽くし、最後には闇に呑まれて死んでいく。安息の地はない。この争いと血の彼方には、それこそ待っているのは地獄だけだ。

 

「あいつの言う事をいちいち真面目に取り合っていれば、俺達は存在理由を失う。それだけは確かだ」

 

 殺す事が存在理由である殺し屋にもう傷ついて欲しくないなど詭弁だ。最終的なその価値観は殺傷にのみ集約される。

 

「そうかもしれない。私もそうだった。炎魔の血は消しようがない。殺した事も全部。でも、他の道があるかもしれないとメイの言葉を聞いていると思う。この街に終点があるように地獄にも終点があるんじゃないかって」

 

 アーロンはシャクエンの言葉を受けて呟く。

 

「終点、か。そんなものがあれば、誰もが殺し合わなくって済む。だが実際、人間は有史以来殺し合ってきた。それは終点がないからだろう」

 

 皿を洗い始める。終わりのない輪廻に自分達は囚われているのだろう。

 



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第三十五話「アンズという少女」

 

 ヤシロ組、副会長が送迎の車を滑り込ませて地下の駐車場へと辿り着いた。

 

 副会長は三人の屈強な男達を連れており、彼らの懐の左側が僅かに膨らんでいる。拳銃を隠し持っているのと、腰には緊急用のモンスターボールによる二段構え。

 

 副会長は、「どこで集金の手はずだったか」と声にした。

 

「このビルの二階です。上がりましょう」

 

 一人が先導し二人が後部を固める。副会長がエレベーターに入る瞬間、弾かれたように青い影が飛び出す。

 

 男達がうろたえて拳銃を取り出そうとした。

 

「野郎、ヒットマンか!」

 

 まだこちらが青の死神である事は露見していないらしい。そのほうが好都合だ。アーロンはすぐさま肉迫し、固めていた二人の男を電気ワイヤーで縛り上げた。瞬間に放った電撃で二人の男が同時に感電死する。副会長が視界に大写しになったが前を行っていたもう一人がモンスターボールに手をかけた。しかし、その動作はあまりに鈍い。電気ワイヤーで引きずり倒し、アーロンは手元へと引っ張り込むとピカチュウの電撃を最大値に設定した。悲鳴が迸り男は首を項垂れさせる。副会長がエレベーターのボタンを無茶苦茶に押した。

 

「閉まれ、閉まれ! 早くだ!」

 

 アーロンが駆け出す。電気ワイヤーを滑り込ませるよりも早く、エレベーターの扉が閉じた。

 

 恐らく副会長はそれで油断した事だろう。しかしエレベーターそのものが電気機器である事に違いはない。アーロンはパネルを引っぺがし、内部に電気を放出する。エレベーターを繋ぐケーブルが逆回転し、昇っていったはずのエレベーターは地下に戻ってきた。扉が開き、アーロンは副会長の首根っこを掴み上げる。

 

「ど、どこの組の者じゃ……」

 

 喉から出た呻きに、「どこの者でもない」と応じる。副会長はアーロンの服飾を見やりようやく悟ったようだ。

 

「お、お前青の死神か? どうしてヤシロ組を狙う?」

 

「ルートの一つがこの街の秩序に抵触した。ご自慢の殺し屋を連れて来なかったのが災いしたな。ここで……」

 

 死ね、と声にしようとした瞬間、プレッシャーの波に肌が粟立つ。アーロンが飛び退ると鋭い一撃が矢のように飛んできた。副会長を刺し貫きかねない一撃が眼前で止まり、そのまま膝を崩す。

 

「お、脅かすなよ……。お前の役目だ! 殺し屋!」

 

 副会長の張り上げた声にアーロンは警戒を飛ばす。飛翔してきたのは二対の翅を持つ虫ポケモンであった。赤い眼窩に黄色と黒の警戒色。両腕には槍のような鋭い針を有している。

 

「スピアーか」

 

 その名をアーロンが口にするとスピアーが攻撃を放ってきた。針をドリルのようにひねり上げて回転させ、こちらを抉り取ろうとしてくる。アーロンは電気ワイヤーを駆使して距離を取りつつその攻撃をいなした。

 

「決して熟練した殺し屋ではないな。スピアーなど」

 

 本体を探す。どこから操っているのかは一目瞭然であった。車の陰に隠れている人影を見つけアーロンは電気ワイヤーを伸ばして隠れ蓑にしている車を強制発進させた。

 

 車が走り出してその陰に隠れていた人物がうろたえた様子を見せる。アーロンは駆け出してその対象を引っ掴んだ。そのまま腕の力だけで押し倒し電流を流そうとする。 

 

 しかし、そこではたと手を止めた。

 

「女……?」

 

 アーロンの行動に涙を浮かべた少女の姿が大写しになる。紫色の髪を後頭部で縛っており、服飾は時代錯誤な忍者装束だ。

 

「無関係……ではないな。スピアーのトレーナーか」

 

 しかし少女はしゃくり上げるばかりで暗殺者らしさは微塵にもない。

 

「ゆ、許してください。あたいは……」

 

 まるで被害者のような物言いにアーロンは戸惑った。この少女が殺し屋ではないのか。副会長は、「早くやってしまえ!」と声を飛ばす。

 

「前金はたっぷり払っただろう!」

 

 少女を殺すか、それとも……。

 

 アーロンは手を離し、背後に向けて電気ワイヤーを放つ。副会長の腕を絡め取り電撃が神経を引き裂いた。

 

 呻きながら副会長が地面に転がる。アーロンは副会長の顔面を引っ掴んで尋ねる。

 

「本物の殺し屋はどこだ?」

 

 その問いに副会長は瞠目した。

 

「あ、あいつだ。あいつが殺し屋なんだ」

 

 副会長が目線で示したのは先ほどの少女だがアーロンにはまるで殺気の感じられない殺し屋など存在するはずがないと感じていた。

 

「嘘も大概にしろ。殺気のない殺し屋はいない。あんなに目立つ格好をした殺し屋がいて堪るか」

 

 副会長は、「本当なんだ!」と譲らない。アーロンは舌打ちをして電撃を流した。副会長の身体が揺れ動きそのまま息の根を止める。

 

 アーロンは少女へと歩み寄った。少女はまだ怖がっているがアーロンは道を示す。

 

「このビルから出ろ。じきに戦場になる」

 

 その助言に少女は狼狽した様子だった。

 

「あ、あたいを殺さないんですか?」

 

「スピアー程度で殺し屋を名乗るには少し足りないな。大方、疑似餌のつもりなのだろう。お前に注意を削がせておいて本物の殺し屋がいる。女を買って使うという、よくある手だ」

 

 アーロンの声に少女は言い返す。

 

「あ、あたいは買われたわけじゃ……」

 

「前金を払ったと奴は言っていた。買ったも同然だ。お前にはまだ分からない世界かもしれないがな」

 

 メイやシャクエンよりも幼く見える。組織に利用されていても利用されているのだと分かっていないタイプだろう。

 

「どうすれば……」

 

「ホテルがこの場所を包囲している。ホテルに救援を頼め」

 

「ホテルって?」

 

 まさかそれも知らずに買われて来たというのか。アーロンはいちいち説明するのも面倒で、「外に出れば分かる」とだけ告げた。

 

 エレベーターに乗り込んで集金の大元を叩こうとする。

 

 するともう一人、エレベーターに乗ってくる影があった。少女がアーロンの袖を引っ張る。

 

「置いていかないでください。あたい、怖くって……」

 

 手が震えている。どれだけ無害な子供を買ったと言うのだろう。アーロンは舌打ちをしてから、「スピアーだけ戻しておけ」と口にする。

 

「人質にされれば堪ったもんじゃない」

 

 アーロンの指示に従い、少女はスピアーを戻す。トレーナーであるのは間違いないのだがここまで敵意を感じないとなると本当に素人なのだろう。

 

「名は? 何と言う?」

 

 アーロンの問いに少女は胸元に手を当てて答える。

 

「アンズです。ハットリ・アンズ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 数分程度だった。ヤシロ組の会長を拘束した、とアーロンから伝令が下されラブリ達ホテルの職員達は包囲陣を解こうとしていた。

 

 ビルの正面玄関から堂々と帰ってくるアーロンにラブリは車の中から窓を開けて挨拶する。

 

「あら、案外早く終わったのね」

 

「全員遅過ぎる。こんなので俺の手を煩わせたのか」

 

「波導使いとなればヤシロ組も手ぬるい、か。でも殺し屋には遭遇したんでしょう?」

 

 ラブリの問いかけにアーロンは目線を向ける。その先には少女がアーロンの背中に隠れていた。ラブリは邪推する。

 

「何? 今回の報酬にその子も含めろって言うの?」

 

「違う。こいつが殺し屋だった」

 

 アーロンの言葉にラブリは目を細めて、「あのねぇ」と返す。

 

「わたくしだって、殺し屋とそうでない人間の区別くらいつく。その子は殺し屋ではないわ。そうであったとしても」

 

「弱過ぎる」

 

 言葉尻を引き継いだアーロンにラブリは手を振った。

 

「いいわよ、その子。報酬としてあげても。わたくしにとってしてみれば、今回のヤシロ組の集金の阻止、だけのつもりだったし。その支援としてホテルがあればいい、というだけの話」

 

 少女はアーロンの袖を引っ張る。ラブリは茶化した。

 

「随分と懐いているじゃない。やっぱりあなたって最低のクズね」

 

「勘違いをするな。こいつが自分こそがヤシロ組の殺し屋だと言って聞かないんだ」

 

「だったら殺せば? 簡単でしょ?」

 

 ラブリの言葉にアーロンは返答を彷徨わせる。

 

「……敵意のない人間を殺すほど、クズになった覚えはない」

 

「青の死神も手ぬるいわね。いいわ。見逃しましょう。どうせ売っても一文にもなりそうにない子供だし。その筋の変態に売ろうにもヤシロ組の手垢がついているとなれば売りにくい」

 

「ホテルはいつから人身売買に手を出すようになった?」

 

 お互いに殺気とも取れない会話を続けラブリは笑みを浮かべる。

 

「衰えてないわね。あのメイとか言う小娘を連れてきた時には、もう青の死神は駄目になったんだと思ったけれど」

 

「殺気を向けてきた相手は殺す。だが殺気も何も、こいつには何一つ感じられない。あの取引の場にあまりに不自然だ」

 

「不自然だって事は意味があるって事じゃないの?」

 

 アーロンはポケナビを差し出した。ラブリが受け取って、「これは?」と訊く。

 

「この子供の持っていたポケナビだ。身柄を明らかにして欲しい」

 

「何だかんだ言って、結局最大限まで使おうとするのよね。ホテルよりもハムエッグのほうがこういうのは得意でしょう?」

 

「借りを作りたくないと言ったはずだ」

 

「いいわよ。本当ならA級の殺し屋との戦闘も視野に入れていた事だし、オマケで身元を解き明かすくらいはしてあげる。で? その子をどうするの?」

 

 アーロンは困惑しているようだった。見たところ少女はアーロン以外信用していないようだ。

 

「落ち着きどころが見つかるまで、ホテルで保護を……」

 

 そう口にしようとすると少女が涙目になった。アーロンは、「それが一番安全だ」と告げるも少女は首を横に振る。

 

「波導使い。あなた、身元を引き受けなさい。こっちでもわがままを言う子供はノーサンキューよ」

 

 ラブリの声音にアーロンは、「だが」と抗弁を発しようとする。言いたい事は分かる。ただでさえ炎魔とメイを引き受けているのだ。三人も、はさすがに面倒なのだろう。

 

「一定期間でいいわよ。それ以降はホテルが引き受ける。ポケナビの解析をやってからでも遅くはないし、一晩くらい泊めてあげなさいな」

 

「……俺の仕事ではない」

 

「じゃあどうするの? その子をこの街のど真ん中で放置して、変態共にまんまと掴ませる? 夜のヤマブキでこの子みたいな人畜無害なのは危険よ」

 

 アーロンは逡巡の末に、「分かった」と声にする。

 

「一日、二日程度ならば」

 

「物分りがいいじゃない。こっちもポケナビの解析にそれくらい時間がかかるわ。ちょうどいいわね」

 

 ラブリはアーロンへとポケナビを掲げて微笑む。

 

「まぁ、その間に何が起こってもわたくし達は感知しないけれど」

 

「悪党め」

 

 その言葉にはラブリも笑ってしまった。

 

「いつから正義の味方のつもりだったの? そういえば聞いていなかったわね。その子の名前は?」

 

 名前だけでも先に聞いておけば手間が省ける。渋る少女の代わりにアーロンが答えた。

 

「アンズ、というらしい。ハットリ・アンズと」

 

「アンズ、ね。聞き覚えはないわね」

 

「殺し屋ではないんじゃないか?」

 

「その可能性も視野に入れて探すわ。今日はご苦労様。昼時からお互いに疲れたわね」

 

「……馬鹿には一通り言い聞かせておいた。もう迷惑はかけないはずだ」

 

「そうだといいけれど。往々にして、物事は万事うまくいくなんて事はないのよ」

 

 ウィンドウを閉めて車が走り出す。アーロンの背中が遠ざかっていくのをフロントミラーで確認しながら、「アンズ、か」と呟く。

 

 ポケナビの個人情報にアクセスしようとするとロックがかかっていた。

 

「本当に、何もなければいいんだけれどね」

 



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第三十六話「殺し屋未満」

 

「おい、歩きにくいぞ」

 

 あまりにアンズが密接して歩くせいでアーロンは睨み上げた。それだけでアンズは涙目になってしまう。

 

「ご、ごめんなさい……」

 

「いや、怒っているわけではないんだが」

 

 やり辛い相手だった。敵意がまるでないのだ。警戒心もほとんど存在しない。まさしく赤子を相手取っているような感覚である。

 

「どうしてヤシロ組の集金所にいた?」

 

「分かりません……。スピアーを使って、あの場所に張っていろと言われただけで」

 

「無自覚のまま俺を襲ったと?」

 

「殺し屋が来るから守って欲しいって言う事でして……」

 

 よくもまぁ、それでスピアーを出したものだ。ろくでもない事に首を突っ込んだアンズはどこか後悔しているようだった。

 

「あの、あたい、やっぱりあなたにお世話になるには……」

 

 しどろもどろになるアンズにアーロンは返す。

 

「なに、行くところもないのだろう。一日二日だとホテルに言ってある。それ以降は場所をあてがってくれるだろう」

 

 その言葉にアンズは、「ご迷惑を……」と頭を下げた。

 

「いい。迷惑はお互い様だ」

 

「ありがとうございます。その……お兄ちゃんって呼んでいいですか?」

 

「勝手にしろ」

 

 アーロンはすっかり寝静まった喫茶店を抜けて二階に上がる。するとまだ明かりが点いていた。メイとシャクエンがテレビを眺めている。アーロンが帰ってきた事を悟ると自ずと二人はこちらに視線を向けた。

 

 視線の先にアンズがいる事に二人して瞠目する。

 

「帰ってきたぞ。何もないのか」

 

「……アーロンさん。まさか遂に、遂に犯罪に手を染めてしまったんですね……!」

 

 メイの言葉にアーロンは頭を叩いてやる。頭頂部を押さえたメイを放っておいてシャクエンに説明した。

 

「ヤシロ組の集金所で保護した。多分買われてきたんだろう」

 

「でも、どうして波導使いが保護する必要が? ホテルには頼めなかったという事?」

 

「俺にも説明が難しい。明日でいいか?」

 

「構わない。でも、寝る場所がない」

 

 シャクエンの声にアーロンは、「仕方あるまい」と下で寝る事にした。

 

「毛布やブランケットがあるはずだ。それで一人は我慢しろ」

 

「えーっ! そんなのってないですよ!」

 

 抗議の声を上げたメイを蹴飛ばしてアーロンは、「その馬鹿を床で寝かせろ」と言って扉を閉めた。

 

 アンズがどこで買われて来たにせよ、あそこまで敵意のない存在は初めてだった。だがスピアーで襲ってきている。敵意がない、と判断するには条件が食い違う。

 

「……全くの敵意がないわけでもない。しかし、相対しても殺せない相手ではないな。もしもの時は、俺が始末すればいい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ああ。おはようございます、お兄ちゃん」

 

 二階に上がってまず驚いたのはエプロンを引っ掛けたアンズだった。他の二人はテレビを見ている。アーロンはつかつかと歩み寄ってメイの耳をひねり上げた。メイが、「痛い! 痛いですって!」と悲鳴を上げる。

 

「何がどうなっている? キッチンに立つなと教えなかったのか?」

 

「言いましたよ! でも何かお礼がしたいって。……あの涙目で言われたら断れなくって……」

 

 アーロンはアンズを見やる。波導の眼を使うが敵意らしきものは全く感じない。

 

「……軽々しくキッチンを使わせるな。俺も手伝おう」

 

 アーロンが歩み寄ると、「もう大体出来てますから」とアンズが振る舞ったのは本格的な中華だった。ホイコーロが出来上がっている。

 

「召し上がれ」

 

 四人分の皿が用意され、アーロンは仕方なしに食卓についた。波導の眼で毒を探るがそれも見つけられない。シャクエンも毒には警戒しているのかなかなか箸をつけようとしなかったがメイは別だった。

 

「いっただきまーす!」

 

 メイが真っ先に食べ始める。アンズは、「どうですか?」と窺った。

 

「おいしいよー。アンズちゃん、料理出来るんだね」

 

 もう自己紹介は済ませたらしい。アンズは照れて首を引っ込めた。

 

「ちょっとしか出来ないですけれど。父上に自分の事は自分でしなさい、って習ったから」

 

「それだけでも充分に馬鹿との差は開いているな」

 

 アーロンも口に運ぶ。味は悪くなかった。

 

「またあたしの事馬鹿にしてー」

 

「本当なのだから仕方あるまい」

 

 シャクエンが最後に食べ始める。まだ炎魔であった頃の習い性が残っているだけこの中ではマシだ。

 

「どうですか? お姉ちゃん。おいしい?」

 

「悪くない」

 

 シャクエンの返答は素っ気ないがアンズは喜んだ。

 

「ホテルに身元を探ってもらっている。その間だけここで宿泊させる予定だ」

 

 アンズの事を補足説明するとメイは質問を飛ばした。

 

「どういう経緯でアンズちゃんを拾ったんですか?」

 

「本人を前にして拾ったは失礼だろう」

 

 アーロンの注意にメイはハッとする。アンズは、「気にしてないので」と大人な対応だ。

 

「あ、あたい、店主さんにも挨拶してきますね。一応、ここでお世話になるのに皆さんに知られていないとおかしいので」

 

 アンズは空気を読んで下階に降りていく。アンズの足音が遠ざかったのを確認してからメイが声を発した。

 

「おかしいですよ。何でヤクザの集金所であんな子が?」

 

「俺にも分からない。だが、スピアーで攻撃してきたところを見るともしかすると暗殺者として仕込まれてきたのかもしれない」

 

「いや、そりゃないですって」

 

 メイが箸を振って否定する。「行儀が悪いぞ」とアーロンがいさめた。

 

「だってあんな小さな子が」

 

「疑問で仕方がないが、今のところ敵意も何も感じない。波導の眼でこの料理も見たが、毒の一滴も盛られていない」

 

 今さらにメイは毒の盛られている可能性を感じ取ったのか皿を遠ざけた。

 

「今さらだろう。馬鹿め」

 

「だ、だって! 誰も言わないから」

 

「毒を仕込もうと考えている奴の前で毒を仕込んでいるかもしれない、と言えるわけがないだろう」

 

「だから、シャクエンちゃんはなかなか食べなかったんだ?」

 

 ようやく得心したメイの声にシャクエンは、「それもあるけれど」と濁す。

 

「どうかしたか?」

 

 シャクエンは少し考えた後に、「偶然にしては出来過ぎている」と声にした。

 

「集金所にいた暗殺者もどき。波導使い、あなたに殺されてもなんらおかしくなかった。でもあなたはどうしてだか殺さなかった。これが計算ではない、と言える?」

 

 シャクエンが言いたいのはこの場所に潜り込んだ事も含めて計算ではないか。という事だろう。メイは即座に否定した。

 

「ないよー。シャクエンちゃん考え過ぎ」

 

「そんな事ない。メイ、私だってあなたを通して波導使いを殺そうとした。一番定石なのは無害を装う事」

 

 自分の事も例に挙げてシャクエンは説明する。メイはさすがに言い返せなかったらしい。

 

「だとしても、あんな少女とスピアーに出来る事はないだろう」

 

「スピアーって、どこでも見かける虫タイプですよね? あんまり強いイメージないなぁ。ポケモン図鑑にも載っていたはずですけれど」

 

 アーロンはメイのポケモン図鑑を開いてスピアーの図鑑説明を読み上げる。

 

「高速で飛び回る。毒針で攻撃した後すぐに飛び去る戦法が得意技だ、とあるな。だがあのスピアーはあまり考え抜いて育てられた感じではない。初心者がただ単に趣味で、と考えたほうがいい育て方だ」

 

「暗殺向きの育て方じゃない」

 

 シャクエンの結びにアーロンは首肯する。

 

「そういう事だ」

 

「じゃあ暗殺者じゃないんじゃないですか? やっぱり考え過ぎじゃ」

 

「最悪の事態を想定しておくのが、俺の役目だ。暗殺者でないにせよ疑似餌の可能性はある」

 

「疑似餌、って?」

 

 メイがシャクエンに尋ねる。シャクエンは淡々と説明した。

 

「子供でも爆弾を持って突撃させればそれなりに致命的な一撃を与えられる。つまり人間爆弾じゃないかと、波導使いは言いたい」

 

「そんなの!」

 

 メイが机を叩いて立ち上がる。信じ難いのだろうが考えられる唯一の可能性だった。

 

「非人道的だとか今さら言うなよ。まかり通るのがこの街だ」

 

 アーロンは湯飲みに浮かんだ自分の顔を見やる。この街に毒された男の姿が反射していた。何が起こっても不思議ではない。だが、アンズはあまりに弱く、敵意もない。あれで殺し屋が務まるとは思えなかった。その結果として人間爆弾のほうが現実味のあるという事だ。

 

「そうなると、何で昨日のうちにやらなかったのかは不思議だけれど」

 

 シャクエンの疑問にアーロンは考えを巡らせていた。本来ならば着いたのと同時に起爆させるのが正しい。だというのに自分達が無事だという事は人間爆弾の可能性は捨ててもいいだろう。しかし疑問がついて回るのは相変わらずだった。

 

「あれほど敵意のない人間を、俺は知らない」

 

 シャクエンもその点で気になっていたらしい。

 

「あまりにも無垢で無知。ヤマブキで育ったとは思えない」

 

 二人の人物評にメイが口を差し挟む。

 

「何言っているんですか。いい子くらいいるでしょう。別段おかしな事では」

 

「一般人ならば、の話だ。一応、裏に入った人間があのような人格だとは思えない。それこそ裏の裏を疑ってしまうが」

 

「それにしては、その波導の眼には何も映らない」

 

 引き継いだシャクエンの言葉に全てが集約されていた。この波導の眼を欺いて一般人の振りをする暗殺者はいるはずがない。メイは疑問を発す。

 

「いや、いるでしょう。アーロンさんの評価が全てじゃないですし」

 

「暗殺者の端くれならば血の臭いくらいはついているはずなんだ。それもない」

 

 これは同じ暗殺者にしか分からないだろう。シャクエンも同意のようで、「敵意も血の臭いも殺気もないのは不自然」と返す。

 

「それこそ操られている、と言ったほうが正しいレベルだな。スピアーなどという戦闘向きではないポケモンを手持ちにしている事からも」

 

「でも虫・毒タイプですよね? 結構暗殺向きに思えるんですけれど」

 

 メイの言葉にアーロンは、「タイプ上で見ただけが、暗殺向きだとは限らない」と自分のホルスターに留めたピカチュウを意識させた。

 

 本来ピカチュウは愛玩用のポケモン。暗殺に使っているのは自分くらいだ。

 

「確かにアーロンさんみたいな例はありますけれど、でも例外だってあるんじゃないですか? ただのいい子で、それで巻き込まれただけだとか」

 

「巻き込まれただけにしてはヤシロ組の集金所にいたという説明がつかない」

 

「それに、集金所という秘密裏の場所に小娘一人を置いておくのは逆にリスクの高い。それをやるメリットが一切ない」

 

 アーロンとシャクエンの言葉に挟まれてメイはうろたえる。

 

「じゃ、じゃあ、やっぱりただのいい子なんですよ! そう思いましょう!」

 

 楽観的だがアンズを暗殺者と断じるには証拠が足りない。このまま平行線の会話を続けるよりかは一度暗殺者の線は捨てるべきだ。

 

「お、遅れました。店主さんには挨拶しましたので」

 

 アンズが扉を開けて入ってくる。今の会話を聞いていた風でもない。

 

「店主は?」

 

「一日二日ならば面倒を見てくれるみたいです。本当に、ご迷惑を」

 

「いや、いい」

 

 アーロンの素っ気ない対応にアンズはきょとんとする。この少女が敵だと判断も出来なければ味方だと判断も出来なかった。

 



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第三十七話「血判状」

 

「ハットリ・アンズ? 誰だそりゃ。また厄介事持ち込んできたのか?」

 

 カヤノは切り出すなりそう言って渋い顔を作った。連日の暗殺者との戦闘で疲労した身体に栄養剤を点滴で補給してもらっている。

 

「聞き覚えは?」

 

「あるわけないだろう。それとも何だ? お前、自分の眼で見たものしか信じないタイプじゃなかったのか?」

 

 そう言われてしまえば波導の眼に映った彼女はただの少女であった。しかしアーロンの中には引っ掛かりがある。

 

 ただの少女が自分のような殺気の塊にスピアーを放てるものだろうか。

 

「目の前で俺は人を殺した。そんな相手に、ただのトレーナーがポケモンを放てるか?」

 

「お嬢ちゃんは放ったんだろう?」

 

 メイは例外だ。アーロンは、「奴の話はやめろ」と頭を振った。

 

「一般的な話をする。人殺しを相手に育て不足のスピアーを放ってどうする? 何の目的で俺を狙ったのか」

 

「本人に聞けよ」

 

 それが手っ取り早いがアーロンにはアンズを責め立てるような真似は出来そうになかった。人間的な側面で、彼女の存在は介入を拒む。

 

「……俺が聞いたところで煙に巻かれるのがオチだ」

 

「それほどに厄介な相手を? 何でお前は傍に置いている?」

 

 言われてしまえばぐうの音も出ない。カヤノは、「炎魔とお嬢ちゃん置くのとはわけが違うんだぞ」と口にした。

 

「炎魔は分を弁えている。もう殺しなんて自分からやろうとは思っていないだろう。お嬢ちゃんはよく分からんが、お前が傍に置くんだ。それなりの理由はあるんだろうさ。だが今回のアンズとかいう子に関して言えば、お前のやり方は下策だ。何で傍に置く? いつか殺し合う時に弱点でも知るためか?」

 

 アーロンは二の句を継げなかった。カヤノの言葉は正しい。どうして危険を感じてまで傍に置くのか。

 

「分からないが、ホテルの連中に身元の特定は任せてある。一日二日程度だ。手元に置くと言ってもその程度さ」

 

 点滴が終わり、看護婦が針を抜く。

 

 針。

 

 アーロンは考える。スピアーの針には確かに殺気があった。だがそれを操るトレーナーに一切殺気がない。これは奇妙な符号だ。操る者には確かな意思がなければ操れない。スピアーが自律的に動いたとしても自分に攻撃などするか?

 

「ホテル、ね。ワシはホテルが苦手だからどうとも言えんが、ハムエッグに任せれば一時間とかからんだろう? 何でわざわざ?」

 

「言ったはずだ。借りを作りたくない、と」

 

「だがホテルに借りを作ったところで同じじゃないか? ハムエッグ一人にいい気分をさせたくないだけだろう」

 

 今日のカヤノは辛辣だ。何か気分を害する事でも言っただろうか。

 

「……あんたにしては、随分と踏み込んだ言い草だな。ホテルとの因縁か?」

 

「つまらねぇ事を言ってんじゃない。ワシが言いたいのは、ホテルにせよ、ハムエッグにせよ、お前が頼っている連中は裏稼業の人間で、表の人間を探るのに向いているのかどうかって話だ」

 

「叩いて埃が出ないならそれでいい。充分だ」

 

 アーロンは捲り上げていた袖を元に戻し、「邪魔したな」と立ち上がる。

 

「待てって。一応検査しておく」

 

 カヤノがいつも波導の眼の検査に用いる器具を取り出す。アーロンは、「今日は点滴だけのつもりだったが」と口にした。

 

「サービスだよ。お前がもうろくしてたんじゃ、お嬢ちゃんも炎魔も守れないだろうが」

 

「俺に守るつもりはない」

 

 検査器具の色を見極める。波導の眼に支障はない。

 

「緑、黄色、赤、黒の順だ」

 

「波導の眼がイカれたわけじゃなさそうだな」

 

「あんたは何を疑っている? アンズがそうでないのならば、それでいい」

 

「偶然ってのは、何度も重なるもんじゃないって事さ」

 

 その言い分にアーロンは眉根を寄せる。

 

「……炎魔の事に、今回のアンズ。どっちも計算ありきの話だと言いたいのか?」

 

「そうでなけりゃ、誰が青の死神の居所なんて探るかよ。言っておくが死神に引き寄せられるのは死者だけじゃないぞ。死神を殺せるのは同じ死神だけだ」

 

「肝に銘じておこう」

 

 アーロンは今度こそ立ち去ろうとする。カヤノは、「その眼が曇った時には言えよ」と声にした。

 

「いつでも看てやる。波導の眼は希少だからな」

 

「麻酔を刺している間にくり抜かれかねない。曇った時には自分で廃業するさ」

 

 お互いに軽口を交し合ってアーロンは診療所を出た。黒服が小さな人影と口論している。

 

「だから、分からない子供だな。診療所なんてないって言っているだろう」

 

「でも、お兄ちゃんはここに入っていったんです」

 

 アンズがどうしてだか黒服と言い合っていた。アーロンが歩み寄り、「どうしたんだ?」と尋ねる。

 

「ああ、旦那。この子供があんたの事を探っていて」

 

「探ってなんていません。ただ心配で……」

 

 アンズの声音にアーロンは返す。

 

「何も心配する必要はない。仕事の邪魔をしてしまったな」

 

 黒服に紙幣を掴ませる。黒服は、「いいですけれど」と濁した。

 

「子供を連れ回すなんていい趣味だとは言えませんぜ」

 

 診療所付きの黒服にさえも注意される始末か。アーロンは内心自嘲する。

 

「行くぞ」

 

 アンズを伴って歩き出すと彼女はもじもじした。

 

「あの……。お兄ちゃんに言わなければいけない事があるんです。実はそのためにその、悪い人と組んでいた事もあって……」

 

 言わなければならない事。アーロンは街灯カメラを意識する。瞬間的に殺しても映るまい。

 

「何だ?」

 

「これなんです。あたいにもよく分かっていなくって……。ただ、ここに書かれている事が本当なら、あたい、殺し屋なんですよね……?」

 

 アンズが取り出したのは巻物だ。アーロンはそれを手に取って広げる。

 

 血判帳だった。名前が書かれており、その中で何人かの名前が血で消されている。旧字体で「暗殺同盟」と書かれていた。下部にはこうある。

 

「青の死神を殺すために暗殺者の同盟を募る。ここに書かれた者達は協力して青の死神討伐を目指すものである……。何だこれは」

 

 この巻物によれば十四名の暗殺者が既にヤマブキに展開している事。そしてそのうち半数ほどが既に死んでいる事が分かった。

 

「あたい、自分でも分からないうちにこれを親指の血で消していたみたいで……。巻物を持っている事を思い出したのもついさっきなんです」

 

 暗殺同盟。だが真に恐れるべきなのはその同盟よりも連ねている名前だった。

 

「これは、お前なのか。ハットリ・アンズ、とあるが……」 

 

 アンズの名前があったのはただの同盟員としてではない。

 頭目、とあった。

 

 頭目、ハットリ・アンズと書かれている。

 

「……詳しい事は何も分かりません。でも、それによるとあたい、暗殺同盟の頭なんですよね……?」

 

 不安げな声でアンズが問うてくる。アーロンには分からない事が多過ぎた。残り七名ほどの暗殺者が仕掛けてくるかもしれないという恐怖よりも震撼すべきは、傍にいる少女こそが暗殺同盟を束ねる真の暗殺者であるという事であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「昨日の今日で不躾ね。それにアポも取らずに来るなんて」

 

 ラブリの罵声を浴びながらもアーロンは焦る必要があった。ホテルは知っているのか。つかつかと歩み寄ろうとすると軍曹と呼ばれている肩幅の広い大男が阻んだ。

 

「申し訳ありませんがお嬢に直接用があるというのならば私を通していただこう」

 

「ラブリ。ポケナビの解析はどこまで進んでいる?」

 

 軍曹を無視した声にラブリは、「半分ほどね」と答える。

 

「機械の解析は専門じゃないから。それに一般人だった場合本当に骨折り損よ」

 

 アーロンは巻物を投げた。ラブリは空中で掴み取る。

 

「これは?」

 

「見てみろ」

 

 ラブリが広げて暗殺同盟を眺めた後に、フッと笑みを浮かべた。やがて哄笑を上げてソファの上で転がる。

 

「可笑しいわね、波導使い。これは、あなたへの挑戦よ?」

 

「分かっている。これを誰が持っていたか分かるか?」

 

「知るわけないでしょう」

 

 アーロンは一拍置いてラブリへと声を投げる。

 

「アンズだ。彼女がどうしてだか持っていた」

 

 ラブリは再び暗殺同盟の名簿を見やって、「なるほど」と得心する。

 

「頭目の欄に名前があるわね」

 

「本物か?」

 

 アーロンの問いかけに心底可笑しいとでもいうようにラブリは笑ってみせる。

 

「本物か、という問いはナンセンスね。偽物掴まされてあなた、焦ってここに来たって言うの? それほど間抜けじゃないでしょう?」

 

 アーロンは、「信用に足るとして」と言葉を続ける。

 

「その名前と死んだ暗殺者との照合は?」

 

「可能だけれど、それこそハムエッグに頼みなさい。わたくし達はそれほど暇ではない」

 

 もっともな意見だ。もう体裁を気にしている場合ではない。

 

「その暗殺同盟、お前ら情報としては」

 

「持っていなかったわ。この旧字体……セキチクシティにこの字体を使う一族がいたわね。確かハットリとか言う忍者一族」

 

「忍者……?」

 

 ラブリはソファの上で身を起こし、「暗殺者の中でも古い血統よ」と口にする。

 

「そもそもあの子の装束が忍者装束じゃない。ある意味では裏づけ、か。でも出来過ぎているわね。だとすれば何で、あの子が直接あなたに渡す必要があったのか」

 

 そうだ、そこが引っかかる。アンズが一切の警戒を向けられたくなければこんなものを渡す事さえも意味がない。

 

「どういう事なんだ。ラブリ。ホテル側としては失態だぞ」

 

「よく言うわ。ホテルに今回頼みに来たのはあなたでしょう? 自分で依頼しておいて失態とは。それにこの暗殺同盟、どれほど情報が進んでいるのかを今から調べている間に、何が起こっても知らないわよ」

 

「どういう……」

 

「アンズとかいう子を、あなたどうしたの? まさかそのまま家に帰した?」

 

 アーロンはその可能性に思い至る。ハッとして自分の不手際に身を翻そうとした。

 

「待ちなさい!」とラブリの声がかかる。

 

「……俺の失態だ。自分でケリをつける」

 

「だから待ちなさいって。アンズが暗殺同盟の頭目だとしてもここで動けばあなたに殺されるのは確定。逃げ切れる保障もない。どういう意義があってこの巻物を渡したのか、推理なさい」

 

「そんな時間が……」

 

「その間に、こちらはハムエッグの情報と通じてこの同盟の暗殺者達の照合にかかる。これで時間のロスはないでしょう」

 

 アーロンは目を見開く。ラブリは、「意外、かもしれないけれど」と巻物を軍曹に渡した。

 

「いざとなれば街の秩序のために手を組む。今回、明らかなのはセキチクから暗殺同盟なる集団が攻めてくるという歴然たる事実。裏を取らなければならないわ。軍曹、ハムエッグに暗号化通信。暗殺同盟に関するデータを同期なさい」

 

「了解いたしました」と軍曹が駆ける。アーロンは、「これで、事態の収束がはかれるか?」と訊いていた。

 

「無理でしょうね。もし、アンズがその通り、頭目だとすれば確かにあなたの考えている通り慌てなくてはならないでしょう。でも一度立ち止まってみなさい。どうして一度殺されかける愚を冒す? そこだけが分からないわ」

 

 アーロンにも疑問だったのはそこだ。どうして裏で手を回さない?

 

「それが分からなければ狩られるのはこちらよ。青の死神、少し落ち着いて考えなさいな。どうして敵意の一切ない暗殺者が存在出来るのか」

 

 アーロンは今すぐにでもメイとシャクエンの下に帰らなければならなかったが、ラブリの言葉に冷静さを幾分か取り戻していた。何の目的で無害を装ったのか。

 

「せめてハムエッグから情報が来るのを待っていましょう。お茶を用意するわ」

 

 ラブリは部下達に紅茶の用意をさせる。アーロンはラブリに促されて下手のソファに座った。

 

「どういう経緯なのか、まずは解き明かさなくっては」

 



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第三十八話「瞬撃のアンズ」

 

 二日と半日、と書かれたメモがポケットから出てきた。

 

 アンズは首を傾げる。どういう意味なのか。そもそも先ほどの暗殺同盟の巻物も誰から預かったのか記憶がなかった。突然に思い出してアーロンに渡したのだ。

 

 自分はどうしてヤマブキに来たのかもおぼろげである。確か大事な役目を仰せつかったはずだったが誰によって命じられたのかも思い出せない。

 

「お兄ちゃん。帰れ、って言っていたけれど……」

 

 アンズは喫茶店を抜けて二階に上がろうとする。その時、ちょうど喫茶店の柱時計が鳴った。正午を示している。その瞬間、電撃的にアンズの脳内を記憶が駆け巡った。

 

 暗がりの中から指示する声。抹殺してきた暗殺者の断末魔。そして、今まで思考の片隅にも思い浮かばなかった手甲の内部に繋げられた石。アンズは石を取り出す。勾玉型になっており、緑色に発光していた。

 

 ああ、なるほど、とそこで察する。

 

 自分はこのためにアーロンへと近づいたのだと。同時にやるべき事が見えた。扉をノックする。

 

「はーい。あれ、アンズちゃん。どうかした?」

 

 目の前には自分の置かれている状況などまるで分かっていない愚直な人間が一人。アンズは、「お兄ちゃんが先に帰れって言うから」と声にする。

 

 メイはアンズを通そうとするがそれに反発したのは部屋の奥にいたシャクエンだった。

 

「待って、メイ。その子を部屋に入れないで」

 

 さすがは熟練の暗殺者だ。少しの殺気でもすぐに察知したらしい。

 

「何で? アンズちゃんは暗殺者じゃないってシャクエンちゃんが言ったばかりじゃない」

 

「そうかもしれない。いいや、そうだった、が正しい。私も、朝まではこの子が暗殺者じゃないと思っていた。でも今は違う。殺気を持った、れっきとした暗殺者だ」

 

 シャクエンが手を繰ろうとする。その動作が行われる前にアンズは口笛を鳴らした。するとシャクエンが蹲り苦しみ始める。突然の事に狼狽したのはメイだった。

 

「シャクエンちゃん? 何で、どうして?」

 

「お姉ちゃん、何を戸惑っているの? どうかしたの?」

 

 アンズが部屋に上がろうとする。だがそれを阻止した影があった。黒い表皮の獣が何もない空間から浮かび上がり、アンズの頭部を打ち砕こうとする。アンズは指を立ててそれを制する。

 

「バクフーンか。って事は、やっぱりシャクエンお姉ちゃんって炎魔だったんだね」

 

 シャクエンは苦悶の表情を浮かべながら肩を荒立たせる。敵を見据える目が向けられ、アンズが一歩下がった。ようやく振るわれたバクフーンの炎の拳にアンズは微笑む。

 

「すごい、すごいね。これが炎魔の実力なんだ。スピアーの毒が効いてきたのにそれでもポケモンを操れるなんて」

 

「何て……。毒……」

 

「そう、毒」

 

 首肯したアンズにメイが首を横に振る。

 

「だって、アーロンさんも毒はないって……」

 

「あの時は無毒化していたから。でもこれは遅効性の毒なの。だから当然、あたいの意思で操れる。メイお姉ちゃんの身体も毒で一気に殺す事が出来る」

 

 殺気を帯びた声に尋常ではないと感じたのだろう。メイは声を詰まらせていた。

 

「……あなたは誰なの?」

 

「ハットリ・アンズ。それには違いないわ。言っていなかったのはあたいがセキチクで暗殺術を学んだ忍者の血統である事。そして瞬撃の二つ名を持つ暗殺者である事」

 

「瞬撃……」

 

「そう、瞬きをする間にもう殺せている事からこの名が使われるようになった。ヤマブキじゃマイナーかもしれないけれどセキチクだと名家なんだよ?」

 

 アンズがボールを放るとそこからスピアーが躍り出る。スピアーがバクフーンへと針の先端を突きつけた。

 

「主人の命令がないと、炎魔も形無しね。さて、どうやって殺してあげようかしら――」

 

 その言葉を放つ前に、膨れ上がった炎熱にアンズは咄嗟に飛び退っていた。バクフーンが熱量を増大させて爆発的な灼熱を放っていたのだ。少しでも触れれば虫・毒のスピアーでは危うい。

 

「危ないね……。ちょっとでも反応が遅れていたら今頃消し炭だった」

 

「アンズちゃん、何で! 何でこんな事するの!」

 

 メイの訴えにアンズは何でもない事のように応じる。

 

「だってあたい、殺し屋だから。誰かを殺す事に頓着なんてしないよ? お姉ちゃん」

 

 スピアーの針がメイへと向かおうとする。シャクエンが声を張り上げてバクフーンを呼び寄せた。バクフーンが炎熱の皮膜を張って防御する。

 

「よく出来ているポケモンね。主人が動けなくっても大抵の人間は暗殺出来る。でも、足りないのは主人の命令以上に動けない、という事。いくら自律稼動出来るポケモンでも、炎魔本体をやれば終わりって事を」

 

 その時、メイが立ち上がった。手にはモンスターボールがある。

 

「アンズちゃん。あたし、怒るよ」

 

 今にも投擲しそうであったがどうせ一トレーナーの手持ちなどおそるるに足らない。

 

「どうぞ、怒れば? お姉ちゃん」

 

 メイがボールを投げる。中から飛び出したのは音符の意匠を設えた緑色の髪の矮躯だった。飛び出すなり音響攻撃を放ってくる。

 

「こんなので、スピアーは掻き乱されない!」

 

 飛び越えたスピアーがメイ本体に攻撃しようとする。その時、メイが口を開いた。

 

 聞き覚えのない歌であった。喉を震わせて発せられた歌声に小さなポケモンが変化を始める。緑色の髪が巻き上がりオレンジ色に染まった。矮躯だがその眼差しが力強くなる。アンズは危機回避能力が発生してすぐさまスピアーを手元に戻そうとするがその前に小さなポケモンが目にも留まらぬ格闘攻撃を放ってきた。スピアーが拳と蹴りで吹っ飛ばされる。

 

 尋常な速度ではない。攻撃が来ると分かっていてもスピアーに指示が飛ばせなかった。

 

「何……この攻撃……」

 

「メイ……。逃げて……」

 

 シャクエンの声にバクフーンが跳ね上がり、自身を火車として転がり込んでくる。アンズは撤退を余儀なくされた。今のままではメイでさえも殺せない。しかし既に布石は打ってある。

 

 口笛を吹くとメイも糸が切れたように倒れ伏した。毒は有効だ。階段を駆け降りてアンズは喫茶店を抜ける。このままヤマブキを突破すればひとまず任務は完了、のはずだった。

 

「どこへ行くって言うんだ? 小さな暗殺者さん」

 

 その声と共に放たれたのは銃弾であった。スピアーで咄嗟に弾く。

 

「言っておくけれど、わたくし達を嘗めないでもらえる? 波導使いを騙せた、そこまではよかったみたいだけれど。無害な子供ってのにどうしてこう、男は騙されやすいのかしら?」

 

 ラブリが何名かの部下を引き連れて進行を阻むように展開している。アンズは舌打ちしてすぐさま方向を変えた。ホテルを相手取って勝てるとまでは思っていない。

 

 波導使いアーロンの仲間を殺せば相手は本気になるだろうか。その時こそ、戦うに相応しい。

 

 そう感じていたアンズの殺気の渦に切り込んでくるもう一つの殺気があった。飛び退った空間を引き裂いたのは青い電流だ。

 

 顔を上げる。自然と漏れたのは微笑みだった。

 

「来たんだ。お兄ちゃん」

 

 ビルの屋上からこちらを見据えているのは波導使いアーロンであった。

 



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第三十九話「非情なる暗殺者」

 

 どうして、とは問うまい。だがハムエッグとホテルが統合した結果は非情なるものだった。

 

「アンズ。いいや、セキチクの忍者の血統の暗殺者。最早、どうして、とは問うまい。ただ一つだけ解せないのは、何故暗殺者の気配が消せた?」

 

 アーロンの質問にアンズは、「そんな事」と肩を竦める。今朝と同じくただの少女の振る舞いだったが帯びているのは既に暗殺者の気配だった。

 

「あたいね、父上に飲まされたものがあったの。それは記憶を一時的に消す薬。それのお陰でお兄ちゃんを騙せたってワケ」

 

 アンズの返答にアーロンは、「ではヤシロ組の集金所にいたのは」と口にする。

 

「先んじて、記憶を消す前に取引していた。あとあたいはこうしてメモにして忘れてはならない事を段階的に思い出すようにしていた」

 

 アンズの取り出したのは小さなメモ用紙だ。どうして気付けなかったのだろう。段階的に暗殺者としての本能を取り戻していく殺し屋など。

 

「二日と半日しか持たない記憶操作の薬だったけれど、充分だったみたいだね」

 

「お前の事だ。もう手は打ってあるのだろう」

 

「さっすがぁ。お兄ちゃん」

 

 アンズが口笛を鳴らす。しかし何ともない。うろたえたアンズへと、「俺は波導使いだ」と答える。

 

「身体の内側に毒が発生したのならば、その部位を切り離して対応すればいい」

 

 アンズは口元に笑みを浮かべた。それだけでも愉悦というように。

 

「本当に……、波導使いって化け物みたいだね。父上の言っていた通りに」

 

 アーロンは電気ワイヤーでビルから飛び降りる。地面は湿っておりいつでも感電攻撃が行えた。

 

「俺を騙すだけならば、まだよかった」

 

「よかった? 変な事を言うんだね」

 

「騙し合いには慣れている。俺が許せないのは、あいつを騙した事だ。また信じようとしていたのにな」

 

「メイお姉ちゃんの事? 案外、波導使いも人間らしいんだ?」

 

 その挑発が聞いていられる限界だった。アーロンは地面に手をついて電気を流す。しかしアンズは感電する様子もない。

 

「さすがはカントー製。電気を通しもしない」

 

 アンズの靴はどうやら絶縁体らしい。それくらいの手は打ってくるか。

 

「なら、今度は電気ワイヤーで狙う? でも、ちょっと粗野だよね」

 

 スピアーが前に出て電気ワイヤーを切り裂いた。その行動に迷いはない。

 

「スピアーを探れば、もっと早かったかもしれないな」

 

「そうさせない人格だったと思うんだけれどね。まぁいいや。瞬撃のアンズ、行かせてもらいます!」

 

 スピアーが羽音を鳴らしてアーロンへと肉迫する。だがその動きは直線的だ。どれだけ近づこうとも一発だって当たる気がしない。

 

「どうやら嘗めていたのはお互い様のようだな。ピカチュウ!」

 

 ピカチュウの放った「エレキネット」がスピアーに絡みつく。すぐさま電流が放たれスピアーはぷすぷすと黒煙を上げた。

 

「育てが足りないな。これで暗殺とは片腹痛い」

 

 アンズも種が割れたマジシャンのように手を広げる。

 

「そうだね。これじゃ、やっぱり波導使いには勝てない。だから、奥の手を用意しておいた」

 

 アンズが片手を掲げる。その手首から吊り下げられていたのは緑色に発光する勾玉である。勾玉の光が鼓動と同期し、紫色の波紋を浮かび上がらせた。エネルギーが逆巻き、スピアーの周囲に形成したのはフィールドだ。スピアーがフィールドのエネルギーを自身の周囲に展開し、甲殻を作り上げていく。

 

 その現象にはアーロンも目を奪われていた。

 

 耳にした事はある。だが実際に見るのは違う。

 

「――メガシンカ。メガスピアー」

 

 甲殻が咆哮と共に弾き出されその姿が露になった。振動数を増やすためにさらに小型になった翅に、脚のように発達した針。黒と黄色の警戒色が入り混じり、赤い眼光が射るようにアーロンを睨み据える。先ほどまでよりも発達した両腕の針を一閃させるとそれだけで突風が巻き起こった。 

 

 明らかにパワーが違う。アーロンは歯噛みした。

 

「メガシンカ、だと……」

 

「そう。まさかスピアーだけで暗殺者を名乗れるほどこの業界甘くない事は分かっているよ。毒使いであり、スピアーの攻撃とその速さを万全に使える事。それこそが瞬撃の名の意味でもある」

 

 アーロンはすぐさま電気ワイヤーを放とうとする。しかし電気ワイヤーはドリルのように高周波振動を巻き起こした針によって寸断された。

 

「ドリルライナー。地面タイプの技に電気は通用しないね」

 

 アーロンと戦うのを分かっていて組み込んでいたに違いなかった。手を払って、「囲い込む!」と電気の網を放つ。しかしその時にはもうメガスピアーはいなかった。その巨大さに比してあまりに素早い。電気の網を通り抜けてその針がアーロンの顔面を穿とうとする。一瞬の判断の遅れが命取りになる瞬間。

 

 アーロンは咄嗟に身を屈め頭上を針が行き過ぎたのを感知する。

 

 波導の眼がなければ貫かれていた。その確信に身体が震え上がる。

 

 これがメガシンカ。ポケモンの進化を超える進化だ。

 

「切り札は最後まで取っておく。定石だよ、お兄ちゃん」

 

 今となっては忌々しいだけの存在が口にする。アーロンは電気ワイヤーを使って跳躍する。メガスピアーを通り越してアンズ本体を攻撃しようとするが当然のように眼前に立ち現れたメガスピアーに妨害された。瞬時に受け身を取る。払われた針の攻撃でアーロンはビルに身体を叩き込まれた。

 

 肋骨に皹が入ったのか激痛が走る。通常のポケモンの膂力ではない。

 

「メガシンカ時にパワーが上がったのか……」

 

「今の攻撃性能は通常のスピアーの比ではない。気をつけなよ。この針で腕くらいは切り落とせちゃうんだから」

 

 メガスピアーの姿が掻き消える。アーロンは波導の眼を使って感知しようとするがその網膜の中に映ったのは幾重もの残像を引いたメガスピアーの姿だった。どれが実体なのか分からない。しらみつぶしに攻撃するには相手の速度があまりにも勝っている。アーロンが飛び退ると先ほどまで身体があった空間を針が引き裂いた。削岩機のように地面が抉られる。

 

「惜しい! もうちょっとだったのに」

 

 この暗殺者は遊んでいる。メガスピアーの圧倒的力量を前に自分が降伏するか、あるいは殺されると思い込んでいる。

 

 そこにこそつけ入る隙があったが、今の戦局は分が悪かった。ほとんど裏通りで狭まった路地。ビルとビルの谷間では逃げ切る時間も、空間もない。アーロンは空中へと電気ワイヤーを放り投げる。屋上に絡みついたのを確認して一気に上昇する。メガスピアーの刺突が空間を射抜く。

 

「惜しいところだね。やっぱり波導の眼が邪魔だなぁ」

 

 波導の眼を使って辛うじて回避している状態。この状況を打破するにはせめて戦局を変えるしかない。アーロンは屋上を駆け抜ける。だがそれよりも速く、メガスピアーが追いついてくる。

 

「こいつ……!」

 

 手を薙ぎ払い見える範囲に電流を放ったもののメガスピアーは即座に回避して距離を取る。まともに渡り合える相手ではない。

 

 ビルとビルの間を跳んでアーロンは考えを巡らせる。相手が圧倒的に素早く、攻撃力もある場合、トレーナーからつかず離れずの敵を倒すのは難しい。メガスピアーを落とすにはピカチュウを本来の使い方で扱うしかないだろう。だがその場合にしても押し負ければ不利に転がる。

 

 ピカチュウを手放すのは駄目だ。アーロンはそう判断する。戦闘スタイルを曲げず、自分は暗殺者として戦うべきだ。決してポケモントレーナーなどになるべきではない。アーロンは跳躍した際に制動をかけて振り返る。大写しになった視界にメガスピアーの針が映る。アーロンは危機回避能力で横っ飛びしてメガスピアーの針を避け様に電撃を撃った。だがメガスピアーを掠めもしないのは自明の理だ。

 

「……かといって、こいつは深追いしないタイプだ。俺が離れ過ぎれば、毒を盛られたあいつらに危害が及ぶ事を熟知している。離れれば、時間をかけ過ぎればどちらにしろ不利か……。厄介な敵には違いないな」

 

 メイ達が解毒の術を心得ているとは考え辛い。毒のエキスパートとなれば毒の種類は毎回違うと見るべきだ。今回戦局を引っくり返すには、アンズの持つ解毒剤を手に入れる事。さらに、それを手にすると同時に相手に敗北を突き付ける事が絶対条件となる。

 

 負けを認めさせなければアンズは必ず自滅も覚悟して毒を使うに違いない。ここまで用意周到な暗殺者ならば自身の死さえもその技術のうちに入れているはずだ。

 

 必要なのは精神の屈服。アンズはシャクエンのように暗殺に疑問を持っているわけでもなければ、プラズマ団のような素人でもない。

 

 本物の、非情なる暗殺者だ。

 

 確実に自分よりも強い暗殺者を相手取る場合、どうするべきだったか。

 

 アーロンは呼吸を整える。師父の声が脳裏に蘇った。

 



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第四十話「教え」

 

 草原をルカリオの拳が奔る。アーロンは身体の周囲に張った皮膜で一撃をいなした。

 

 ルカリオの牽制レベルの拳ならば一撃を受け止めきれる。しかし二発目。本気の打ち込みには耐えられなかった。アーロンは吹き飛ばされまたも地面を無様に転がった。

 

 草原を風が駆け抜ける。木の根に座った師父は文庫本を読んでいた。

 

「師父……。波導を身体に張っても、耐えられる強度に限界があります」

 

 ようやく声にすると師父はパタンと文庫本を閉じて視線を向ける。

 

「分かったようじゃないか。そうとも、体表に波導を張ったところで、強力な攻撃の前には無意味だし、ルカリオは波導使いだから読めている分もある。通常のポケモンの持つ固有波導はこれほど分かりやすくない。虫ポケモンには虫ポケモンの波導の流れが、四足の獣ポケモンならば四足なりの流れがある」

 

 師父が手を掲げる。すると一匹のバタフリーが止まった。師父の生命波導をアーロンは目にする。師父の生命波導はほとんど静止していた。動いていないのである。そのせいかバタフリーは動こうともしない。

 

「波導は、止められるんですか」

 

「訓練の賜物だな。わたしはこれを習得するのに三年かかった。波導を完全に絶つ術。相手の自律型のポケモンがお前の生命波導を感知して襲ってくる場合有効ではある。だがこれでは、隠れる事は出来ても反撃は出来ない。波導を止めて相手の攻撃が来た場合、波導を静止させていた肉体には直にダメージが来る。つまり通常よりも手薄な状態だ。こんな使い方を間違ってもルカリオとの戦闘中にするんじゃないぞ。これは特殊な場合の使い方だ」

 

「特殊、ですか……」

 

「そう、こういう風に」

 

 師父の体内の波導が急に流れ出す。バタフリーが慌てふためいて飛び去っていった。師父の波導に恐れ戦いたのだろう。あるいは今まで無機物だと思っていたものが生命だと知って驚いたのかもしれない。

 

「わたしとルカリオは放出型。今は波導を放出してバタフリーを脅かしてやったが、これに似た使い方をお前は出来る。いや、それこそが真髄か」

 

 師父は立ち上がると胸元を叩いた。

 

「わたしに向かって撃って来い。ピチューの電撃で、だ」

 

 思わぬ言葉にアーロンは唾を飲み下す。

 

「でも、ただじゃ済みませんよ」

 

 もう波導の使い方はある程度頭に入っている。どの部分を狙えば波導が弱いのかは分かっているのだ。

 

「いいから撃ち込め。そんな事も出来ないのか?」

 

 師父の挑発にアーロンはピチューを肩に乗せて突っ走る。手を突き出し、師父の胸元を叩いた。電流を流す――つもりであった。だが電流は霧散し、師父の体内を通り過ぎていく。

 

「何で……。攻撃を命じているはずなのに」

 

「体内波導の使い方だ。この瞬間、わたしは胸元の波導をゼロにしてお前の波導攻撃を無効化した。電流をそのまま外に逃がしたんだ」

 

「そんな事が……」

 

「波導には可能だ。一時的に身体部位を切り離しその部分の波導をゼロにする。毒を吹かされた場合でも有効になる。毒に染まった部位を切り離せばいい。一時的だがな」

 

 横合いからルカリオの拳が飛んでくる。アーロンは咄嗟に構えを取って電撃を放たせた。ルカリオが跳躍してアーロンへと跳び蹴りを放つ。跳び蹴りをいなそうとしたがどうしてだか身体が動かなかった。手足が凍りついたように動けない。

 

「今しがた触れたお前の体内波導をゼロにしてやった。手足に集中して、だ。動けないだろう?」

 

 跳び蹴りが食い込みアーロンは呻く。ルカリオはそのまま後ずさった。

 

「まだまだだな。体内の波導循環も上手くいかないようでは、真髄を教えるには至らないか」

 

 師父は再び木の根に座り込もうとする。アーロンは立ち上がっていた。師父が眉を上げる。

 

「……体内波導をゼロにすれば、痛みも消せるんでしょう? やってみましたよ」

 

 今まで薄皮のように纏っていた波導を体内に集中し、ゼロにする。試してみたがこれが意外と集中力を要した。体表の波導よりもなお、だ。

 

「驚いたな……。もう物にしたか。だが痛みを消すのはやめておけ。後で来る激痛に悶える」

 

 アーロンが一呼吸つくとその瞬間、抑えていた痛みが逆流してきた。思わず膝を折る。全身の神経を掻き乱されているかのようだった。

 

「波導循環を操るのはコツがいる。最初に言った通りお前には放出型の波導使いには向いていない」

 

「じゃあ、ぼくに何をやれって……」

 

 痛みで視界が白み始める。師父は言い放った。

 

「お前の真髄は切断だ」

 

「何ですって……。切断……」

 

「たとえば、強力な敵が来たとしよう。素早く、固く、攻撃も自分より明らかに上。そんな格上相手に出来る事は、相手の波導を読み、その弱点を切ってやる事。波導のスイッチのオンオフを、お前は習得せねばならない。体内波導をゼロにするのもその過程で学ばせるつもりであったが、これならば急いでも大丈夫そうだな」

 

「どうやって……。波導を切るなんて出来るはずがない」

 

「何を言う? お前は最初にピチューにやろうとしていただろうに。波導の線を切る。お前に見えているのは波導の脆い線だ。わたしとの修行で波導の循環まで見通せるようになったが、その起源は波導回路を見て、切る事。わたしの言った事を一度全て忘れて、もう一度、最初の感じでルカリオを見てみろ」

 

 無理難題に違いなかったがやらなければ師父はそれ以上を教えてくれない。アーロンは立ち上がりルカリオを波導の眼で見つめる。学んだ事を忘れ、循環する波導の流れをあえて無視し、その眼に映る最も原初の波導を。

 

 するとルカリオの体内に流れている波導がまるで電気基盤のように体内に埋め込まれているのが分かった。最初に見えていた波導の線だ。それが師父との訓練のお陰がよりくっきりと見えている。

 

「今のお前ならばはっきりと、その線が映るはずだ。それこそが波導回路。通常の波導使いには見えない、お前だけの視界だ」

 

「ぼくだけの……」

 

 波導回路は通常の波導と違い動かない。ルカリオがどう構えを取っても一定だ。

 

「波導回路を切る実験は……、この樹で試そうか」

 

 師父はもたれていた樹に手を滑らせる。アーロンはそちらに目線をやった。樹にも波導回路がある。

 

「回路の線を焼き切れ。これだけ訓練させたのだからピチューの電撃を切るように使え、というのは分かるな?」

 

 アーロンはピチューに目配せし、そのまま樹へと突っ込んだ。手をついて巨木の波導回路を焼き切る。ピチューの青い電流が走った瞬間、驚くべき事が起こった。

 

 出力はそれほど出していない。むしろ絞ったくらいだ。だというのに、巨木は真っ二つに裂けていた。波導回路を切った部分からまるでチーズのように綺麗に切り裂かれた。

 

「こんな事……、ぼくは……」

 

「それがお前の戦闘スタイルとなろう」

 

 師父は切り裂かれた大木を蹴ってルカリオに促す。一瞬で木のベンチが完成した。腰かけて、「波導を切る、というのは」と続ける。

 

「波導使いにとっても脅威だ。体内波導よりもどうしようもない波導回路。それは生まれつき定まっており変える事はどれだけ高名な波導使いでも出来ない。お前はそれを自在にオンオフ出来る。ピチューの電撃を介して、な」

 

 アーロンは掌に視線を落とす。それほどの攻撃性能が自分の裁量一つにかかっている。震えが自然に生じた。

 

「まかり間違えれば取り返しのつかない攻撃だが、言い換えよう。一撃必殺の攻撃だと。これが決まれば、お前は絶対の勝利をもぎ取れる」

 

「絶対の、勝利……」

 

 自分とは縁遠い言葉とも思えたが、師父の声音に嘘偽りの感じはない。本心で、絶対の勝利を信じている。

 

 アーロンは引き裂かれた樹へと顎をしゃくった。

 

「今のを、コントロール出来れば……」

 

「お前は誰にでも勝てる」

 

 確信に満ちた声にアーロンは血が沸き立ってくるのを感じた。誰にでも勝てる。約束された勝利。自分は別にトレーナーを目指しているわけではない。だが勝利が確約されているという事は男ならばこれほど血の滾る事はない。

 

「しかし……難点は存在する」

 

 そんなアーロンの興奮を冷ますように師父は声を発した。

 

「一撃必殺じゃなかったんじゃ……」

 

「お前は今、動かない相手に対して波導回路を切断し、相手を死に至らしめた。だが、考えてもみろ。動かない相手などいるか?」

 

 そう言われてみれば自分の考えは浅慮だった。動かない相手などいるはずがない。敵意を向けられて動かないとすればそれはでくか、馬鹿かのどちらかだ。

 

「それじゃあ、これは使えないんですか……」

 

 せっかくの興奮に後ろから冷水を浴びせからけれたようだった。使えないのならば意味はない。

 

「いいや、使えるとも」

 

 師父の言葉は疑わしい。その疑念が通じたのか、「わたしは嘘は言わない」と師父が胸元に手をやる。

 

「お前の青い闇を払いたいのは本当だし、アーロンの名をやったのも気紛れだけではない。お前にアーロンの名を継ぐ素質があると見たからだ」

 

「アーロンを継ぐ、素質……」

 

 改めてみて、アーロンという名前はどういう意味なのだろう。どうして自分は今までの自分を殺してまでアーロンの名に縛られる必要があるのだろうか。

 

「わたしが真に脅威だと判断しているのは、自分より格上で、なおかつパワーと素早さ、全てにおいて勝っている相手を下す事の出来る波導回路の切断。それをお前が御する可能性があるという事」

 

「脅威、ですか? 教えた師父でも?」

 

 思わぬ言葉だった。師父は、「脅威だとも」と応じる。

 

「問答無用で相手に死を与える能力だぞ。使い方を誤ればそれこそ後悔する事になる」

 

 言い直されてアーロンは戸惑った。相手の波導回路を切る能力は相手を確実に死に至らしめる能力でもある。これは悪魔の手なのか、と震えた。

 

「安心していいのは、わたしが今のお前を野に放つつもりは毛頭ない、という事だ」

 

 どういう意味なのか、と問おうとして鳩尾にルカリオの鋭い一撃が食い込んだ。完全に不意打ちだったためアーロンは吹き飛ばされて地面を転がる。視界が暗転しそうになった。胃の腑に痛みが染み渡ってゆき、思考が消し飛ばされそうになる。

 

「師父……、何で……」

 

 アーロンは血反吐を吐きそうになりながら訴えかける。どうしてルカリオに攻撃を? その無言の問いかけに師父は文庫本を開く。

 

「本を読む、という行為に必要なのはどれだけの要素か?」

 

 唐突な問いにアーロンは困惑するしかない。

 

「何ですって? 本……」

 

「字面だけを追うのならば猿でも出来る。言葉の意味を咀嚼し、あるいは解読し、理解し、自分の中で処理するのにはまずは文字の判読。続いて法則性の理解。知識、知恵、思考、考察、あらゆるものが必要だ」

 

「だから、何で……」

 

「波導回路を切れるだけでは何の戦力にもならないし、言ってしまえば邪魔な要素だとも言える」

 

 師父の結論にアーロンは息を詰まらせる。

 

「だって、師父は切ってみろって」

 

「言ったから、切った。これは本を読む上でタイトルを言え、と言ったから言った、のレベルだ。本を読むという行為には全く直結しないし、もっと言えば邪魔だろう。タイトルだけ知っているなんてそれは頭でっかちだと言うんだ」

 

 アーロンは痛みを押してようやく立ち上がる。よろめいて四肢に力が篭るまで時間がかかった。

 

「じゃあ、どうすれば」

 

「ルカリオと打ち合え」

 

 ルカリオが即座に構える。アーロンはそれこそ混乱して言葉が出ない。

 

「だって、波導回路の切断は、危ないって今師父が……」

 

「危ないから一回しか使わせない? それでは余計に危ないだけだ。ルカリオと戦い波導回路切断を学べ。まだまだ波導の修行が必要なようだな。いつか言える時が来る」

 

「……何てですか」

 

 師父は樹を削って作られたベンチに腰かけアーロンを見ずに言った。

 

「波導を使うとは、こういう事だ、と」

 



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第四十一話「真の暗殺」

 

 メガスピアーの追撃は果てがない。

 

 距離を取ればこちらの敗北が濃厚に。かといって近ければアンズの思う壺だ。接近戦で勝てるタイプのポケモンではない。

 

「ピカチュウ!」

 

 何度か放った電撃も全て牽制レベル。命中しない。速過ぎるのだ。

 

 メガスピアーが残像すら消し飛ばして肉迫してくる。アーロンは電気ワイヤーを使ってアンズの周りを逃げ回る事しか出来なかった。メイとシャクエンを見殺しには出来ない。だが、この状況を是とすれば確実に不利に転がる。どちらにせよ、アンズの要求を呑み、自分が殺されなければならなくなる。

 

 それだけは駄目だ。アンズを屈服させなければこの戦いに勝利はない。

 

 しかし暗殺術を使うにしてもメガスピアーの素早さと攻撃力は脅威。数秒でもいい、とアーロンは考えていた。

 

 数秒でもメガスピアーを止められれば。メガスピアーが自分を視界から取り逃がせば、それが好機になると。

 

「波導をゼロにして、メガスピアーの感知野から逃れるか……」

 

 否、とアーロンはその考えを棄却する。メガスピアーが感知しているのは波導以上に自分の気配と他の要素だ。虫ポケモンならば匂い、生体電流、フェロモン、様々な理由が挙げられるが、波導を読んで相手はこちらを追っているのではない。

 

 ならば触覚を折るか。

 

 不可能だ。アーロンは即座に捨て去る。

 

 触角を折ろうとすればそれこそ接近を余儀なくされる。

 

 メガスピアーの場合、接近が最も恐ろしい。一対の巨大な毒針。それに付随する脚部のような針が三つ。残像すら消し去る超振動の翅が三対。ほとんど戦闘機か重機のような存在だ。それに比すれば波導の殺し屋である自分など羽虫以下だろう。

 

 ――だが、とアーロンは同時に奇妙な手応えも感じていたのだ。

 

 どうして、メガスピアーは勝負を焦らない? 

 

 それにはアンズの策略もあるのだろうが、普通ポケモンは――殊に暗殺者の個体となれば、勝負を焦る。シャクエンの〈蜃気楼〉が確実に相手の命を奪うための攻撃を身につけていたように。自分のピカチュウが相手へとピンポイントの電撃を放って感電死させられるように。

 

 このメガスピアーはそのパワーとスピードに比べてアンバランスなのは全く勝負に頓着していない事だ。自分が勝てれば、相手を殺せれば、という考えではない。

 

 メガスピアーの行動を今まで分析するに、このポケモンはともするとアンズの制御下にないのかもしれないという考えさえも浮かんだ。アンズが御せていないから、このポケモンは自分を殺す決定打を何個も見逃している。

 

 あるいは……最悪の想定だがそれすらも読みの内。アンズはそう考えるであろう事を見越してわざとメガスピアーに必殺の一撃を隠し持たせている。

 

 自分の記憶を消すほどの暗殺者だ。考えられなくはない。

 

 しかし、自分を交渉の手玉にとってどうする気なのだ? 自分などホテルの連中にも、もっと言えばハムエッグにも街の人々にももたらすであろう影響は少ない。

 

 実質的なナンバーツーの座が欲しいのか? わざわざ暗殺同盟を見限ってまで?  

 

 違う、とアーロンは感じていた。

 

 アンズは、恐らくヤマブキのナンバーツーなど欲しくはない。もっと心の底から欲している願望があるはずだ。でなければメガスピアーほどの個体を使い潰すわけがない。

 

 そこにこそつけ入る隙があるとアーロンは感じていた。アンズの心より欲しているもの。それこそが自分にとってこの勝負を分ける一因となると。

 

 アーロンは電気ワイヤーを絡めて制動をかける。メガスピアーの巨大な針が迫り来るがぎりぎりのところで回避して口を開いた。

 

「何故だ」

 

 その声はトレーナーの下にも届いているはずである。アーロンは先ほどから声の届く範囲のビルを飛び越えているだけなのだから。

 

「何故、すぐに殺そうとしない?」

 

 その疑問に応じるようにメガスピアーの赤い眼光が自分を捉える。いつでも殺せる、とでも言うように。

 

「余裕があるな。ならば、何故殺さない?」

 

「殺したって仕方がないじゃない」

 

「仕方がない?」

 

 アンズの声が反響して聞こえてくる。特別大声でもない。これも忍術とやらの能力か。

 

「だってお兄ちゃん、波導使いなんでしょう? この街の秩序を守るナンバーツー。それをただ力で潰すのって面白くないし、つまらない」

 

「そんな理由で、いくつか殺せる機会を見逃したのか?」

 

「いけない?」

 

「そこまで浅はかだとは思っていない。俺を手こずらせた挙句に、最後の手段まで奪って殺す。それがお前の望み。違うか?」

 

 アーロンの声に、「驚き」とアンズが返した。

 

「そこまで分かっているのね。そうよ。最後の手段まで奪うの。それが出来れば波導使いなんて恐れるものじゃないって証明出来るもの」

 

「証明? 誰にだ」

 

「誰でもない、この街に、よ」

 

 嘘だった。その言葉は嘘だ。今のやり取りの中で一つだけ嘘が混じっている。

 

 この街への証明などどうでもいい。アンズの心より欲している部分はこれだ。

 

 波導使いをその力の一端まで否定し尽くして殺す。それを誰に証明したいのか、というのが願い。だからこそまどろっこしい真似をしてきた。

 

「俺を殺したければ殺せばいい。その契機を、何度も逃した事を、後悔する事になるぞ」

 

「そういう口を利くって事はそろそろネタ切れ? もう真っ向勝負しか芸がないって言っているようなものじゃない」

 

「ああ、そうだ」

 

 アーロンはあっさりと認めた。それが意外だったのかアンズの声が僅かに上ずる。

 

「あら、もう認めちゃうの?」

 

「認める。俺の力はこの程度だし、メガシンカポケモンに比肩するほどの能力を、俺もピカチュウも秘めていない。もう悪足掻きくらいだ。エレキネットも、ボルテッカーも、十万ボルトも、アイアンテールもそれほど効果はないだろう」

 

 自分が全ての手の内を明かした事にアンズは困惑しているはずだ。まだ若い暗殺者は騙し合いのレートに慣れていない。

 

「す、全ての技を言い明かしたって言うの?」

 

 アンズからしてみれば理解の及ばない行動。しかしアーロンは言ってのけた。

 

「ああ。全ての技を使っても、お前らには敵わない、と言っている」

 

「よ、ようやく理解したようね。波導使いでは瞬撃のアンズには遠く及ばないという事を!」

 

 メガスピアーが攻撃姿勢に入る。最後の一撃。針が静かに回転し、超音波振動で確実に首を落とそうとする。アーロンはその前に手を払った。

 

「だから、これから行う事は蛇の道だ。本当の、暗殺術だ」

 

 手を地面につける。アンズは読み取ったのか口にする。

 

「そこから電流を伝わせてあたいを焼き殺そうって? それは無理! 絶縁体の服飾に、距離もある! そこからここまで電流が来る頃には必殺の勢いなんて――」

 

「分かっていないな、瞬撃の暗殺者。俺はこの状態から、盤面を覆してみせる」

 

 とんでもない挑発に聞こえたのだろう。アンズは鼻を鳴らす。

 

「覆す? どう考えても無理! メガスピアーの針は波導使いであるお兄ちゃんに向いているし、それを止める事なんてピカチュウの電撃では無理だって知ったんじゃないの?」

 

「ああ。真っ向勝負はもう、捨てる。格上と戦う時、最も重視すべきは」

 

 師父に教え込まれた言葉をそらんじる。

 

「相手のパワーを制する事でも、スピードを超える事でもない。邪道を貫いてでも、勝つ。勝利にこだわる事だ。若い暗殺者。教育してやろう。波導を使うとは――」

 

 アーロンは波導の眼を見開く。

 

 ビルの中に潜む波導回路がその視界に映し込まれた。

 

「こういう事だ!」

 

 ピカチュウの電撃が走る。その瞬間、地鳴りが周囲から漏れ聞こえた。

 

「何……? 地震?」

 

 突如として、ビルが段階的に切り裂かれて粉塵を発する。破壊の塵がアーロンとメガスピアーを隔てた。アンズも戸惑っているようである。

 

「これは、ビルが……!」

 

 アーロンは後ろに向かって跳躍する。

 

 ビルが倒壊しているのだ。

 

 幾重もの切れ目が走り、横倒しになって先ほどまで足場としていたビルが崩落しようとしていた。

 

「あり得ない……。何をした! 波導使い!」

 

「言っただろう。波導を使うとは、こういう事だと」

 

 灰色の粉塵の中に一角が沈んでいく。その中には当然、本体であるアンズがいるはずであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 何が起こったのかまるで分からない。

 

 突然にビルが倒壊するなどあるはずもない。アーロンが、波導使いの力が作用したのだ。

 

 だがアンズにはそれを受け止める余裕もなかった。ビルの瓦礫が自分を押し潰す前に忍者の跳躍力で飛び退りすぐさま安全圏を確保する。しかし視界は地獄に染まっていた。

 

 周囲はまるで見えない。灰色の帳に閉ざされている。加えて音も聞こえない。崩落の音量が激しくてとてもではないが普段の平静さは装えなかった。

 

 鼓動が爆発しそうである。

 

 自分は一体、何者を相手取ったのか。恐ろしさにアンズは周囲を見渡し声を上げた。

 

「め、メガスピアー! どこ? あたいはここに――」

 

 そこに至ってアンズは二つの愚を冒した事に気付く。

 

 一つは、戦闘中に手持ちを見失った事。

 

 もう一つは……声でもって、相手に自分の居場所を教えた事だった。

 

 それを証明するように灰色のベールから飛び出してきた電気ワイヤーがアンズの足を絡め取った。意想外の事に受身も取らずに転げてしまう。

 

 そのまま引きずられアンズの肩を引っ掴んだ影に覆い被さられた。

 

「俺の、勝ちだ。瞬撃」

 

 視界の中に大写しになったアーロンは自分の左肩を掴んでいる。右手に宿った電流がいつでも自分を殺せるのだと主張していた。

 

「お兄ちゃん。……なるほど。これが波導使いというわけね。恐れよ、という意味がようやく分かったわ」

 

「誰にここまでの暗殺術を仕込まれた? お前が認めたがっているのは自分の価値だな? そいつに、俺を殺し馬鹿と炎魔を殺す事で存在証明をしようとしている」

 

 心のうちを読まれて絶句するが腐っても同業者。相手の弱点くらいは読めてしかるべきだ。

 

「……お姉ちゃん達を殺すよ?」

 

「脅迫か。だがその前にお前が俺に殺される」

 

 言葉に間違いはない。アーロンの眼には自分を殺すと決めた冷徹さがある。

 

 ため息をついて、「優しいね」と呟く。

 

「優しい?」

 

「だって、まだ炎魔とメイお姉ちゃんの事、心配しているんだ? とっくに殺したとは思っていないの?」

 

「交渉の切り札として解毒剤は定石だ。それも分からずして、毒のエキスパートを名乗るはずがない」

 

 ここまで言われれば形無しだ。アンズは左肩をしゃくる。

 

「肩パッドの中に解毒剤が入っているわ」

 

 アーロンはピカチュウの電気を微細に飛ばし肩パッドを触れずして開かせた。

 

「本物だな」

 

「ここに来て悪あがきはしない」

 

「どうかな。最後まで諦めないのが、この稼業を続けるコツでもある」

 

「……よく分かっているじゃない」

 

 アンズは予め左手の薬指に張っておいた糸を引っ張った。すると懐から瞬時に道具が手に収納される。

 

「虫笛。これを鳴らせば、危険だと悟ってすぐにメガスピアーが来る」

 

「鳴らす暇を与えない」

 

「無理よ。それこそ、あたいは熟練の域。虫笛を鳴らし損ねる事なんてあり得ない」

 

 押さえつけられている今でも虫笛を口元まで持ってきて鳴らせる。その自信があった。

 

「やってみるといい。結果は自ずと出る」

 

 強気なアーロンの声にアンズは笑みを浮かべる。

 

「いいの? 本当に、あたいなら虫笛を鳴らす事は造作もないよ」

 

「御託を並べている暇があれば、さっさと来い。瞬撃」

 

 アーロンはまだ自分を嘗めている。虫笛を鳴らす時は主人が危険だと判断された時。つまりメガスピアーは確実にアーロンの命を奪いに来る。

 

 その時に対応出来るほど速くないのは知っている。

 

「後悔する!」

 

 アンズは虫笛を口元へと持ってきた。

 

 ――勝った、と感じる。

 

 それ以外の思考はなかった。

 

 だからか。

 

 虫笛が指をすっぽ抜けた事に、数秒間気付けなかった。

 

「……嘘。何で……」

 

 細工上、虫笛が指を抜ける事はあり得ない。これまで習い性のようにやってきた所作がここに来て破綻する事は絶対にないのだ。

 

 その時、アンズは自分の左手が痙攣している事に気づいた。指先が硬直し、感覚を失っている。

 

「は、波導使い! まさか!」

 

 その声にメガスピアーが殺到してくる。アーロンは一言だけ告げた。

 

「スピードは俺のほうが上だったようだな」

 

 その声と共にアンズの意識は闇に呑まれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 メガスピアーの針が自分の背筋を貫く――。それにはあと数センチでよかった。

 

 だがアンズが意識を昏倒させるのと同時にメガスピアーの身体がエネルギーの皮膜に包まれ、元のスピアーへと戻っていた。スピアーに戻ったせいで針が届かなかったのだ。

 

 アーロンは振り返ってスピアーの針を電流で蹴散らす。

 

 それでも汗が滲んでいた。少しの緊張の解れが命取りになる局面だった。膝を折り、呼吸を整える。

 

「ここまでになったのは久しぶり、だな……」

 

 消耗した身体に鞭打つようにアーロンは波導を操って身を起こさせる。まだ休むには早い。

 

 倒れたまま意識を失ったアンズを見やり、次いでスピアーを見やった。主人の命がなければスピアーは自分を殺す気はないらしい。アーロンはアンズから手に入れた解毒剤をポケットに入れて幾ばくか考えた後、答えを出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 突然のビルの崩落にホテルの職員達が戸惑う。

 

 困惑の声やこの世の終わりだと嘆く声もあった。

 

「静かになさい」

 

 ラブリのその一声がなければ逃げ出す者もいたかもしれない。現場を預かったラブリは、「軍曹」と指を差し出す。軍曹が葉巻を取り出してラブリに持たせた。無論、火も点けさせる。

 

「まったく、後々処理に困る事を……。あなたもそう思っているんでしょう? ハムエッグ」

 

 通信を繋いでいる相手に問うと、『なかなかにね』と返答があった。

 

『アーロンがこれほど追い詰められるのはかつてない事だ』

 

「波導使いが追い詰められる、ね。どっちが勝ったのかしら?」

 

『奥の手だろう。アーロンが勝ったに三十』

 

「じゃあわたくしは若々しい暗殺者に十」

 

 通話口でハムエッグが笑った。

 

『賭けにならない』

 

「仕方がないでしょう。波導使いの実力は知っての通りだし。あれが負ければ、本当にこの街は終わりよ。それとも、こう言ったほうがいいかしら? 終わらせたがっているどこぞの誰かさんの思い通りってね」

 

『誰の事だか』

 

 とぼけるハムエッグにラブリは声を被せる。

 

「そろそろ決着がつくはずよ」

 

 紫煙を棚引かせてラブリは車を出た。埃っぽい空気が充満している。

 

「ハムエッグ。切るわね。あなたとわたくしが仲良くしているの、波導使いは見たくないでしょう?」

 

『傍目には牽制し合っている間柄だからね。まぁこういう機会でもない限り、君にはかけないよ』

 

「こちらこそ。あなたに今度電話する時はご自慢のスノウドロップの実力を問う時ね」

 

 通話を切り、ラブリは歩み出る。すると裏通りから出てきた人影があった。

 

 アーロンが肩にアンズを担いで粉塵の向こう側から姿を現す。

 

 ラブリは乾いた拍手を送った。

 

「おめでとう、勝ったのね」

 

 で、と次を促した。

 

「そいつを殺したの?」

 

「いや。生かしたままにする」

 

 その言葉にホテルの職員達がざわめく。ラブリも予想外だったため眉を跳ねさせた。

 

「これはこれは。波導使い、あなたって本当に、ロリコンの最低のクズだったわけ?」

 

「街の秩序は守る。まだ聞かなければならない。それに解毒剤が本当に効くのかどうかも分かっていないからな」

 

 最後まで人質にする気か。ラブリは口角を吊り上げた。

 

「心の芯まで染まり切った悪党ね」

 

「意外だな。正義の味方を気取ったつもりはない」

 

 悪態を悪態で返されてラブリは不愉快そうに葉巻を吹いて踏み消した。

 

「最低のクズに朗報よ。あのお嬢さんと炎魔はまだ生きているわ。しぶといわね」

 

「それはどうも。手数をかけるな」

 

 心にもない言葉だ。ラブリは、「さっさと帰りなさい」と手を払う。

 

「わたくし達はこの倒壊したビルの後始末に奔走しなくては」

 

「金は払う」

 

「当たり前よ。さて、ホテルの職員諸君。火消しよ。存分にやりましょうか」

 

 了解の復誦が返り、職員達が関係各所へと連絡、及び現場の被害をはかり始める。

 

「ホテルには今回世話になった。出来れば次は頼らない」

 

「そうなるといいわね。あと、その瞬撃の持っていた暗殺同盟の書面だけれど、全部本物である事が分かったわ。暗殺同盟は既にヤマブキに展開していた。……でも、一つだけ気がかりなのは、その暗殺同盟、一番に瓦解させたのはその小さな暗殺者だったって事」

 

 アーロンはアンズへと一瞬視線を流した。だがすぐに無関心を装う。

 

「興味はない」

 

「そうかしら? どうせ、あなたの向かうところは分かっている。全ての決着をつける気なんでしょう」

 

 アーロンは答えずに歩み出した。ラブリは嘆息を漏らす。

 

「本当に、度し難いのは男のプライドね、軍曹。あんな卑怯な真似されてもまだ、仁義ってのは通したいものなのかしら?」

 

「お嬢にはまだ分からん世界かもしれません」

 

 軍曹の返答にラブリは笑みを返す。

 

「まったく、分からないものよね。だからこそ、面白いのでもあるけれど」

 



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第四十二話「少女らの縄張り」

 

 ハッとして目を開けると木目の天井が映った。一瞬の符号に、「父上……」と呟く。

 

「起きたか」

 

 冷徹な声にアンズは身を起こした。メイとシャクエンが顔を覗き込んでいる。メイと頭がかち合い、お互いに歯噛みした。

 

「何するの! お姉ちゃん!」

 

「何って、こちらこそ何よ!」

 

 メイは涙目に訴える。その段になってアンズは自分が生かされている不自然さに気がついた。

 

「生きてる……」

 

「殺すつもりの電撃ではなかったからな」 

 

 アーロンは、というとキッチンで調理していた。そのような場合か、とアンズはモンスターボールを取り出そうとする。しかしモンスターボールはなかった。

 

「返すわけ、ないでしょう」

 

 シャクエンがスピアーのモンスターボールを持っている。だが遠隔操作で解除出来るのだ。解除ボタンを指で引っ掛けて押そうとするとそこには何もなかった。自分に取り付けられている四十個近くの仕掛け細工が全て取り払われている。アンズが戸惑っていると、「外すのに時間がかかったし」とメイが不服を垂れて細工の一つを取り出す。アンズは、「何をしたぁ!」と叫んでいた。

 

「あっ、大丈夫だよ、アンズちゃん。アーロンさんには部屋を出て行ってもらってあたし達でやった事だから」

 

「そういう問題じゃない! あたいの暗殺道具を!」

 

 声を荒らげるアンズにアーロンがいさめる。

 

「うるさいぞ、瞬撃の暗殺者。まだ料理は出来ていない」

 

「別に待っていない!」

 

「そうか。では俺達だけで食うとしよう」

 

 食卓に皿を並べるとアンズの腹の虫が鳴った。そういえば一晩ほど何も食べていないのだ。

 

「……お腹空いた」

 

「何も用意していないと言っただろう。暗殺者が暗殺対象に飯を乞うというのか? なかなかに片腹痛いな」

 

 アーロンの声にアンズは声を潜めた。

 

「……そこまでして、あたいに敗北を認めさせたいの」

 

「逆にここまで強情に、お前は敗北を認めたくないのだな。馬鹿も炎魔も回復し、全ての仕掛け細工を奪われた今、瞬撃の暗殺者に立つ瀬はない」

 

 そこまで言われてしまえばもうどうしようもない。アンズが押し黙っていると、「やっぱり作ってあげましょうよ」とメイが声にする。

 

「かわいそうですよ」

 

「殺されかけた事を忘れたのか。馬鹿め。こいつがもう一度、俺達に反抗しないとも限らない」

 

「で、でも……」

 

 メイはそれ以上自分を擁護出来ないようだ。当然と言えば当然。

 

「いいわよ、お姉ちゃん。あたいは波導使いのお兄ちゃんには勝てなかった。これは事実だし、このまま殺されても仕方がない事」

 

 その言葉にメイがどうしてだかアンズのほうへと歩み寄って肩を揺さぶる。

 

「そんなの! そんなのって間違っているよ! アンズちゃんはきっと、誰かに暗殺を仕込まれて、それであたし達を狙って」

 

「炎魔の時とは違うぞ、小娘。シャクエンは俺達を依頼されたから殺そうとしたのだが、こいつの場合は違う。最初から波導使いである俺を殺し、その周辺人物も殺す気だった」

 

 メイは目を戦慄かせる。

 

「何で……。だって、アンズちゃんには何の罪もない」

 

「何の罪もない、か。炎魔。罪がないと思うか?」

 

 シャクエンは顔を伏せて、「残念だけれど」と口火を切る。

 

「暗殺者として、アンズに悪意がなかったとは言い難い。アンズは自分の判断で私達を殺そうとした。メイだってそう。殺されかけたの。だから私の心情としてはアンズを許せない。脅威として暗殺対象に上がってもおかしくはない」

 

 炎魔シャクエンはどこまでも冷徹だ。最初に自分の殺気に気づいただけはある。

 

「でも、でもアーロンさん。殺さなかったって事は考えがあるんですよね?」

 

「まずは飯を食え。その後に判断を下す」

 

 その言葉にメイが食卓に戻って白米をかけこみ、アンズへと歩み寄る。どうしてこの人間は自分をここまで信じ込めるのか。殺されかけたのに。

 

「メイお姉ちゃん。嬉しいけれど、あたいは暗殺者。瞬撃のアンズなの。記憶がなかったからと言って、それは手段であって本当のあたいじゃない。擁護してくれても立場が悪くなるだけだよ」

 

「分かっている。でもだからって容認出来ない」

 

「面倒な性質だな」

 

 アーロンが食卓を片付け始める。シャクエンが後を手伝い、アーロンは出かける準備を始めた。

 

「どこへ行くんですか?」

 

「ちょっと野暮用だ。今回、あらゆる人々の協力を受けたからな」

 

「その間、どうすれば」

 

「どうにでもしろ。殺したければ殺せ。ただ、お前がその判断に至れるかどうかは分からないがな」

 

「殺しませんよ。あたしは。アンズちゃんがいくら酷くたって、あたしだけは」

 

 何故、そこまで味方になってくれるのか。アンズにはわけが分からない。

 

「よかったな。馬鹿が庇ってくれて」

 

 そう口にしてアーロンは部屋を出た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 バスに揺られて一時間半ほどであった。

 

 セキチクシティは四十年ほど前に大災害で施設などが根こそぎ破壊されたが復興して目ざましく発展を遂げる街だ。ヤマブキ、タマムシと来て第三の観光都市だと言える。北方にはサファリゾーンがあり、そこいらの柵には珍しいポケモンが放し飼いされている。

 

 その中でも南方の、昔ながらのバラック小屋があった。浜辺に隣接しており、アーロンはその小屋の扉を叩いた。中に人の気配が一つだけある。扉を開けようとすると殺気が膨れ上がった。

 

 扉を突き破ってきたのは毒タイプのポケモン、マタドガスである。アーロンを巻き込んで自爆しようとしたマタドガスへと電撃を見舞って戦闘不能にする。

 

「惜しかったな」

 

 小屋の奥からそう声が発せられた。アーロンは歩み入り、小屋の奥に広がる常闇へと目線を向ける。

 

「ワタシへと至ったという事は、アンズは失敗したか」

 

 アーロンは懐に入れておいた紙片を取り出す。

 

「もし、瞬撃の暗殺者を下した場合、セキチクのこの場所に来るべし。このメモはアンズ本人も」

 

「ああ、知らないだろう。ワタシが隠して仕込んでおいた」

 

 アーロンは紙片を捨てて口を開く。

 

「お前が、アンズを仕込んだのか」

 

「波導使いの暗殺者。やはり、恐れるべき相手だよ、お前は。瞬撃の名を襲名したアンズでも勝てないとなると、次の手を撃たねばならぬな」

 

 アーロンは右手を突き出す。ピカチュウが肩に乗っておりいつでも電撃を放てた。

 

「そうはさせない。俺が、第二のアンズを生む事のないように、お前を殺す」

 

 そのために来たのだ。しかし奥に潜む人物は身じろぎさえもしない。

 

「殺す、か。しかしアンズを殺していないのだろう? その辺り、まだぬるいと見える」

 

 笑い声が聞こえてくる。アーロンは敵意を向けた。

 

「言っておくが生かしておいたのは聞きたい事があるためだ。殺してしまえば人質の価値はない」

 

「なるほどな。何が知りたい?」

 

「瞬撃の暗殺者。どうして暗殺同盟とやらをご破算にした?」

 

「そんな事か」と相手は笑う。

 

「同盟は、アンズの最後の試練のためにあえて泳がせておいたのだ。瞬撃の名を得るには味方をも利用する。そうして初めて非情なる暗殺者が出来上がるというわけだ」

 

 最初から暗殺同盟に期待はしていなかった、という事か。アーロンは言葉を継ぐ。

 

「もう一つは、どうしてアンズのような未熟な暗殺者を使ってまで、俺を殺す事にこだわった? 記憶をなくしたアンズはともすれば俺に辿り着く前に死んでいた」

 

「それはあり得んよ。アンズには段階的に記憶が戻る措置が施されていた。もしどうしようもない境地に陥った場合でもどこかで記憶の根源が戻っていただろう」

 

 その言葉で確信する。この男は、全く情というものがない。暗殺術を叩き込んだアンズを道具としてしか見ていないのだ。

 

「放った爆弾は返ってくるものではない、か。今回、お前はアンズを使い捨ての爆弾のように考えていたな」

 

「いいや。親として娘の事は第一に考えていたが」

 

「嘘だな。波導の眼を使うまでもない。薄っぺらい嘘だ」

 

 その言葉に闇の奥の人物は哄笑する。心底可笑しいとでもいうように。

 

「まったく……。暗殺者は時代と共に移り変わるというが、それでも変わらないものがあるのだな。波導使い。全く情の捨てられていない男よ。そのような半端な身で何を望む? アンズをどうしようというのだ」

 

「解き放て。彼女はまだ戻れる」

 

「不可能だよ。もう随分と殺し慣れている。今さら殺し以外の道はない」

 

「炎魔が戻れた」

 

「戻れた? 本当に、そう思っているのか? 炎魔とていつ元の非情な暗殺者にならないとも限らない。お前達は危うい綱渡りを、さも当然のようにしている。炎魔も、瞬撃も、どこにも行けないしどこにも戻れない。彼女達は死地にのみ居場所を追い求める」

 

 頷ける部分はあった。だがその大部分でさえもこの男のエゴだ。

 

「お前が戻れないからと言って、子供の自由を奪っていいわけではない」

 

「戻れない、か。波導使い、ワタシが見えているか?」

 

 アーロンは改めて波導の眼を使う。

 

 その人物の固有波導は停止していた。それが先ほどから奇妙なのだ。生きているのならば波導は流れ続けるはずである。

 

「これがその、成れの果てよ!」

 

 暗闇から身じろぎして出てきた人影が露になり、アーロンは息を呑む。

 

 両腕が石化し、さらに左足までほとんど固まって動いていなかった。辛うじて動いているのは車椅子のお陰だ。

 

「石化、だと……」

 

「これが我が業よ。ワタシは先代の瞬撃。名をキョウと申す。ワタシは暗殺者としてあらゆる人間を葬り、殺し屋を殺し返してきた。セキチクで瞬撃の名を一気に高めたのは自分だと感じている。それほどに、優れていた暗殺者、だった」

 

「だった?」

 

 キョウは目線を伏せて、「ある日の事だ」と言葉を続ける。

 

「ワタシは暗殺対象を殺そうとした。いつもと変わらず、たとえ殺し屋がいても殺し返せる自信があった。だが、その時、同席していた暗殺者は暗殺対象を守らなかった。それが本懐ではないとでも言うように、ワタシへと立ち向かってきたのだ」

 

 それはビジネスライクな暗殺業界では異端の話だ。暗殺者が同じく暗殺者を殺すのを目的とする。

 

 アサシンキラーだ、とアーロンは感じ取った。

 

「殺し屋殺し。話には聞いていたが本当にいるとはな。ワタシも目を疑ったよ。だが、それでも勝てると感じていた。ワタシにはメガシンカもあったし、何よりもスピードがあった。勝ったと思ったよ。だが直後にワタシは両腕を石にされていた。相手によれば、それは波導によるものだと」

 

「波導で、だと……」

 

 石化させる波導など聞いた事がない。アーロンの反応に、「そうか。名高い波導使いも知らんか」とキョウは悔恨を滲ませる。

 

「その、石化の波導使いはどのような格好だった?」

 

「それすらも分からなかった。恐怖に駆られたワタシは逃げ出したのだ。恥ずかしい話だよ。だが、忘れた日はなかった。石化の波導使い。それは必ず存在する。それを殺すためだけに、ワタシはアンズを育て上げた。アンズならば波導使いを超えると思っていたのだがな……」

 

 寂しげな微笑みにそれだけの感情を注いできたのが分かる。だが、とアーロンは抗弁を発していた。

 

「アンズは、お前の人形ではない」

 

 それだけは言わねばならなかった。アーロンの言葉に、「知っているよ」とキョウは応じる。

 

「知っていて、ワタシはこのような育て方をした。親としては失格だ。殺したければ殺せ、波導使い。どうせ恥の上に生き永らえた命。惜しくはない」

 

 しかしアーロンは身を翻す。

 

「お前を殺せばアンズが悲しむ」

 

「そうだろうかな。ワタシの存在はアンズにとっては呪縛かも知れぬ」

 

「いや。親がいるのならば、まだマシだろう」

 

 その言葉にキョウは尋ねていた。

 

「波導使い。お主、親は?」

 

「いない。いや、いたが俺が波導使いとして生きるに当たって縁を消した。アーロンの名はそれこそ呪縛だ。波導使いとしてのな」

 

 もう本当の名前も忘れ去っていた。キョウは、「そう、か」と声にする。

 

「ワタシも、波導使いも、似たようなものであったか」

 

「アンズは殺さない。あいつにはまだ、やり直せる機会がある」

 

「勝手にするといい。最早親としては顔向け出来ん」

 

 アーロンはバラック小屋を後にする。この場所で静かに石化していく男。だがアーロンは憐れまなかった。それは侮辱に繋がるからだ。

 

 せめて、と自分の胸の中で留める。

 

 石化の波導使い。そのような存在がいるとなればいつかは、とアーロンは拳を握り締めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「メイお姉ちゃんさ。あのポケモンは何?」

 

 突然に話を振られてメイは戸惑う。

 

「何って、何?」

 

 アンズは唇を尖らせた。

 

「とぼけないでよ。あたいの攻撃よりも素早くフォルムチェンジしてみたあれだって。何なの?」

 

 メイには身に覚えがない。気がついたら毒で動けなくなっていたからだ。

 

「えっと……、メロエッタの事かな。でもそんなに素早くないし」

 

「嘘でしょ? だってあれ、格闘タイプの技を使ったよ?」

 

 そう言われてメイも瞠目する。メロエッタには格闘タイプは組み込んでいるもののそれはさほど当てにしていない。

 

「インファイトは確かにあるけれど……でも基本、ノーマル・エスパーだし」

 

「ノーマル・エスパー? そんなわけないって。格闘タイプだよ」

 

 メイは頭の中がこんがらがってきた。自分の手持ちのタイプを取り違えるほど馬鹿ではない。

 

「そんな事ないって。ノーマル・エスパー」

 

「じゃあ出してみてよ」

 

 アンズに促されてメイはメロエッタを繰り出す。緑色の髪を流したメロエッタをアンズは注視した。

 

「じゃあフォルムチェンジしてみて」

 

「いや、してみて、って言われても……」

 

 やり方が分からない。メイがあまりに頼りないせいか今度はシャクエンへと言葉を投げた。

 

「炎魔のお姉ちゃん。見たよね? メロエッタがフォルムチェンジするのを」

 

「そうなの?」

 

 メイも驚いてシャクエンを見やる。シャクエンは小さく頷いた。

 

「私も、メロエッタがフォルムチェンジするのは見た。メイの歌声に反応したみたいだけれど」

 

「あたしの、歌?」

 

 そういえばアーロンも会った当初歌ってみろだとか妙な事を言っていた。メイは戸惑いがちに、「でもだよ」と声にする。

 

「あたし、歌得意じゃないし」

 

「あれ、どこかの言語だと思うんだよね。カントーの言語じゃなかったけれど」

 

 メイはアンズへと尋ねる。

 

「じゃあどこの?」

 

「イッシュかな、って思ったけれど意味不明な言葉の羅列に聞こえた。炎魔のお姉ちゃんはどう?」

 

「イッシュでも、シンオウでもない、と思う。多分、もう使われていない言語だと思う」

 

「使われていない言語って。じゃああたしはその使われていない言語を使ってメロエッタをフォルムチェンジさせたって?」

 

 とてもではないが信じられない。だが二人ともそれを確信しているようだった。

 

「調べてみない? お姉ちゃん」

 

 アンズの声にメイは注意深く腕を組む。

 

「駄目だよ。アーロンさんに見張っておけって言われているんだから」

 

「じゃあ縛ったままでもいいよ。どうせ仕掛け道具とスピアー取られてちゃ勝てないし。あたい、ちょっと気になるんだよね。瞬撃の二つ名を持つあたいのスピアーよりもなお速くって、それでいてトレーナーの意識がないって言うのは」

 

 メイはシャクエンに視線を向ける。シャクエンもどうやら気になっているようだった。

 

「メイにしては、らしくなかった」

 

「らしくないって……。でもそうだとすればあたしの意識のない間に、無意識的に言語が出てきてフォルムチェンジさせたっていう事だよね? あり得るの?」

 

「あり得るあり得ないではなく、あったから言っているんだよ」

 

「でもその鍵となる歌声に関してメイには記憶がない」

 

 シャクエンのまとめに三人して呻る。これでは答えなど出てくるはずもない。

 

「もしかしたら、ハムエッグさんなら知っているかも」

 

 メイの考えにシャクエンは即座に制した。

 

「やめたほうがいい。ハムエッグは、メイの思っているような生易しい相手じゃないから」

 

「大丈夫だって。ラピスちゃんにも会いたいし」

 

 その名前を聞いてアンズが総毛立った様子だ。

 

「ラピスって、ラピス・ラズリ? スノウドロップの? ……最強の暗殺者をよくちゃん付けで呼べるね、お姉ちゃん」

 

「大丈夫大丈夫。あたしが言えばハムエッグさんだって邪険にしないから」

 

 ホロキャスターの通話ボタンを押してメイは電話をかける。すると即座に繋がった。

 

『おや、珍しいね。君からご連絡とは』

 

「あの、気になる事があるんで今から行ってもいいですか?」

 

『構わないがアーロンが許すかい?』

 

 メイはシャクエンとアンズに視線をやる。こっちにはアーロンと渡り合った二人の暗殺者がいるのだ。問題はないだろう。

 

「全員で行くので大丈夫だと思います。そちらは?」

 

『ああ。いつでも歓迎だよ。ラピスも楽しみにするだろう』

 

「分かりました。それじゃ」

 

 通話を切るとアンズが唖然としていた。

 

「信じられない……。この街の盟主と対等に話すなんて」

 

「盟主だとか大それた事じゃないって」

 

 そう言いつつもメイは自分の手柄のように感じていた。シャクエンが部屋を出る前に一言だけ確認の声を添える。

 

「メイ。いざとなれば私がスノウドロップを押さえる。当然、この小さい暗殺者も」

 

「大丈夫だよ。シャクエンちゃんも大げさだなぁ。あたしがいれば大丈夫だって」

 

 トラックの部屋を後にして、メイ達は店主に出かける事を言い添えて外出する。

 

 アーロンのためにも、自分のためにも不明な点は明らかにせねばならないだろう。

 

 踏み出した少女達は、まだこの街の深淵を知らなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第三章 了

 



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雪化粧の白、死に飾りの街
第四十三話「真世界」


 あの日、初めて人を殺した。

 

 仕方がなかったの。

 

 そうしなければラピスは死んでいた。

 

 育てようと思って育てたわけではないユキカブリが手をちょっと払っただけで、ラピスの敵はくるりと反転して首がへし折られてしまった。

 

 敵はラピスを殺そうとしていたわけではなく、別の道を聞こうとしていたようだった。

 

 身体を売って生きるか、それともこのまま死に絶えるか。

 

 二者択一の世界はとても厳しいけれど、ラピスはその人達の言わなかった「もう一つの選択肢」を取る事にした。

 

 殺して、奪って、そして変えてゆく。

 

 死んでいた、というのはそういう意味で、あの時抵抗せずに敵の言う通りにしていたら「心」が死んでいた。

 

 命ではなく心の問題。

 

 ユキカブリと一緒に凍え始めた街を彷徨った。どこにも行く当てなんてなかったけれど、ラピスは生きるために必死だった。

 

 生き残る、自分であるという事の証明は存外に難しく、とても苦労したものだけれど、ラピスはラピスであるために、人を殺して回った。

 

 抵抗する人間、言う事を聞かない人間、怖い人間、それらを徹底的に凍てつく死の向こう側へと置いてゆく。

 

 ラピスだけがこちら側にいる。死はとても怖いもの。

 

 心が死ぬにせよ、命が消えるにせよ、とても怖い。怖くって仕方がない。

 

 髪の毛がぼさぼさになって、食べるものもなくって、だからって奪ったお金を使うつもりにもなれなくって、緩やかに死の足音が近づいてくるのが分かった。

 

 がなり立てるでもなく、小さな声で、朝起きる度に囁くのだ。

 

 もうすぐラピスの命が終わるよ、と。

 

 食べなければ飢え死にするだろうな、というのを他人事のように感じて、ラピスはその日もユキカブリと一緒に廃墟を巡っていた。

 

 この街は不思議だ。

 

 死んでいる街並みと生きている街並みが同居している。死と生が同じ場所にいるなんてなんて不思議。

 

 それもギリギリのバランスで。今にも崩れ落ちそうな均衡の最中。分かり合えないと分かっていても同じ場所に居座り続ける。

 

 ラピスは行く当てもなく歩いたけれど、結局それもまた死の向こう側を探すための旅路だったのだと思う。

 

 ふらり、ふらりと歩いて。遂に歩く事も出来なくなってラピスは倒れた。

 

 ユキカブリが不思議そうに眺めてくる。そっか。ユキカブリは寒いほど元気だものね。

 

 でも人間は寒いと駄目なの。死の足音が近づいてくる。視界が闇に閉ざされかけた時、声がかけられた。

 

「お嬢さん、死ぬにはちょっとこの道は不釣合いだよ」

 

 変な声、とラピスは感じた。どこから出しているのか分からない声。人間の声にしては何だか生々しくって、かといって他の生物にしてはあまりにも人間めいていて。

 

 顔を上げる。

 

 ピンク色の身体をしたそれが手を差し出してきた。

 

「君はラピス・ラズリだね?」

 

 尋ねられてラピスは頷く。

 

「宝石のような眼をしている。君の力が必要なんだ」

 

 差し出された手にはパンが握られていた。

 

「今はこれしかないけれど」

 

 ラピスは夢中でパンにがっついた。生にまだ執着したかった。空腹感はまだ全然満たされなかったけれど、その不思議な存在といると自分は死なないのだとその時認識した。

 

「あなたはだぁれ?」

 

 その声にピンク色の怪物は答える。

 

「わたしの名はハムエッグ。種族をベロベルト、という」

 

 ハムエッグと名乗った相手はポケモンだった。どうしてポケモンが喋るのだろう、という疑問は湧いてこなかった。ユキカブリだって時々意思らしいものは見せるからそのうちポケモンも喋り出すんだろうな、と思っていたから。

 

「ラピスみたいな子を助けてどうするの? からだを売るかどうか聞いてくるの?」

 

「わたしは君にそんな事は要求しないよ」

 

 ハムエッグは恰幅のいい身体を揺らして声にする。

 

「君のような人間を探していたんだ。純粋に、生きるために今を生きている人間を。君とわたしならば出来るはずさ」

 

「出来る、何を?」

 

 ハムエッグは両腕を広げて声にする。その背後でタワーが光を帯びて摩天楼を映し出した。

 

「この街を覆う闇を払う、新世界を」

 



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第四十四話「存在の証明」

 きょとんとハムエッグが丸い目を向ける。そういえばアンズを連れてくる事は言っていなかった、とメイは判断した。

 

「ああ、あの、ハムエッグさん。彼女は」

 

「存じているよ。今回の事件の主犯だね」

 

 そう言われてしまうとメイも萎縮する。しかしアンズは縮こまる事もない。

 

「ハムエッグ……。このヤマブキの盟主」

 

 その声には敵意が混じっている。暗殺対象に挙がっていたのかもしれない。だがその感情を抑制させたのはカウンターの奥から出てきたラピスの姿だった。カルピスを飲んでおり、メイを見つけるなり飛び込んでくる。メイはラピスを抱き留めた。

 

「お姉ちゃん、来てくれたの」

 

「うん。ラピスちゃん、いい子にしていた?」

 

「いい子にしていたよ。ねぇ、主様?」

 

「うん。ラピスはいつもいい子だ」

 

 ハムエッグが笑い、グラスを磨いて声にする。

 

「何か飲むかい? お酒からソフトドリンクまで何でもあるよ」

 

「じゃああたし、サイコソーダで」

 

 シャクエンは何も言わない。喉が渇いていないのか。アンズに尋ねると彼女も警戒しているのか何も言わなかった。

 

「二人とももっとほぐれてほぐれて。ハムエッグさんは悪い人じゃないんだから」

 

「……そもそも人じゃないし」

 

 アンズのぼやきにハムエッグは照れたように後頭部に手をやる。

 

「こりゃ一本取られたかな?」

 

「もう、ハムエッグさんってば」

 

 努めて明るい声を出そうとしたがアンズもシャクエンも何も頼もうとしなかった。メイが差し出されたサイコソーダを飲みつつ、「気になる事があるんだよね?」と口火を切る。

 

「そういえば電話口にそう言っていたね。気になる事って言うのは?」

 

 ハムエッグの疑問にも二人は答えない。いい加減に素直になればいいのにとメイは感じる。

 

「その、ハムエッグさん。あたし、知らない言語の歌を歌っているらしいんです」

 

「ほう、歌」

 

 自分から切り出すしかなかった。メイは自分でも馬鹿げていると思いつつアンズとシャクエンの意見を纏める。

 

「その歌でメロエッタがフォルムチェンジするらしくって……。でもあたしにはその時の意識はないんです。それにメロエッタがフォルムチェンジするポケモンだなんて初めて知りました」

 

「自分の意識がないうちに、ポケモンを操る事が可能かどうか、だね?」

 

 ハムエッグは腕を組んで考え込む。その様子はポケモンというよりも人間臭い。

 

「極論、どうなんですかね?」

 

「不可能ではない。その時別の人格が出ている、とかね」

 

「別の人格……」

 

 そのようなものを認めた覚えはない。二人に視線をやるとシャクエンは仕方がないとでも言うように口を開いた。

 

「……メイの人格が切り替わった、というよりも歌っているメイは別人みたいだった」

 

「つまり、あたしって多重人格者?」

 

「いえ、そういう事じゃないと思う」

 

 今度はアンズだ。実際に戦ってみたのだから彼女の意見が強い。

 

「あれは、人格の切り替わりとかそういうんじゃない。パターン化されたスイッチを押しただけのような気がする。つまり、ある一定の状況下における行動の固定化」

 

「暗殺者の行動様式に似ているね」

 

 ハムエッグの纏めにメイは不服そうな声を出した。

 

「あたし、暗殺者なんかじゃ……」

 

 そう言おうとしてここには三人の暗殺者がいる事に気付いて口を噤む。アンズとシャクエンは気にする素振りもなく、「メイは違うと思う」と口にしていた。

 

「暗殺者とか、そういうんじゃない」

 

「あたいも同意。メイお姉ちゃんみたいなのは暗殺者って言わない」

 

 二人の意見にハムエッグは呻って考え込む。

 

「暗殺者のスイッチングでもなく、かといって常人のそれでもない。メイちゃん、今は歌えるかい?」

 

「えっ、歌ですか?」

 

 戸惑っていると四人の視線が飛んでくる。

 

「実際に歌ってもらうのが早い」

 

「確かに、メロエッタを出して歌ってくれれば証明にもなる」

 

「あの時の再現にしてはでも状況が伴っていないけれど」

 

 めいめいの言葉に困惑してしまう。そんな中、ラピスが声にした。

 

「お姉ちゃんの歌、聴きたい」

 

 こうまでなれば仕方あるまい。メイはメロエッタを繰り出して歌声を披露した。

 

 その瞬間、全員が肩透かしを食らったようによろめく。

 

「あっ、もういい! もういいよ!」

 

「……メイ。こんなに酷いとは思わなかった」

 

「メイお姉ちゃん音痴なのね……」

 

 全員散々な評価である。そんな中ラピスだけが味方だった。

 

「メイお姉ちゃんの歌、素敵だね」

 

「ラピスちゃん……。あたしもラピスちゃんが大好き!」

 

 ラピスに抱きついて頬ずりするとアンズとシャクエンが硬直する。

 

「……よくそんな事出来るね、メイお姉ちゃん」

 

「メイ、少しは立場を弁えたほうがいいと思う」

 

「いいのっ! みんなして酷いんだから!」

 

 言ってやると三人とも黙る。渋面をつき合わせた三人はそれぞれの意見を述べた。

 

「やっぱり暗殺者のスイッチングに似た要素が働いてるんじゃないのかな?」

 

「でもスイッチングにしてはその要素が歌って言うのが気になる」

 

「もっと強烈に人格が変わるとかだと分かりやすいのにね。これじゃどうしようも判断出来ない」

 

 三人は難しい話をする中、メイはラピスに訊いていた。

 

「ねぇ、ラピスちゃん。どれくらい歌良かった?」

 

「うんとね、これくらいかな」

 

 手を大きく広げてみせるラピスにメイは、「可愛いなぁ」と愛でる。その様子を信じられない様子でシャクエンとアンズは遠巻きに眺める。

 

「……ねぇ、炎魔のお姉ちゃん。あれはちょっと異常じゃない? 相手はラピス・ラズリよね? この街で最強の殺し屋」

 

「そうなっているけれど、メイは元々ああいう感じだから」

 

「わたしとしてはラピスを色眼鏡で見ない人間というのはとても貴重でありがたいと思うけれどね」

 

 ハムエッグの評価にメイは、「そうですよ」とラピスを膝の上に乗せた。

 

「こんなに可愛いのに、みんなして最強の暗殺者だとか殺し屋だとかスノウドロップだとか言うんですもん」

 

「いや、だって事実……」

 

「事実でも、言っていい事と悪い事があるはずなんです」

 

 メイの譲らない様子にシャクエンとアンズは半ば諦め気味に声にする。

 

「まぁ、メイがそう言うなら」

 

「あたい達にとやかく言えることじゃないけれど」

 

 ハムエッグは恰幅を揺らして笑う。

 

「いい心意気だ。メイちゃん、サービスするよ」

 

 差し出された二杯目のサイコソーダにメイは素直に喜ぶ。

 

「わっ、いいんですか? いただきますー!」

 

「……そうやってハムエッグから与えられるものに何の疑問も挟まないところとかさぁ。大丈夫なの?」

 

「メイは前からこういう人だけれど、私もちょっと心配」

 

 アンズとシャクエンはハムエッグの出してきたものに一切口をつけない。暗殺者なのだからそれも当然なのだろうか。

 

「でも、メロエッタのフォルムチェンジを二人とも見ているわけだよね?」

 

 ハムエッグの質問にアンズは、「ええまぁ」と応じる。シャクエンは答えもしない。

 

「どういう感じだった? このメロエッタからして見ると、どう考えてもフォルムチェンジするようには思えない」

 

 緑色の髪を流したメロエッタをアンズは見やり、「まず見た目が違う」と口にする。

 

「オレンジ色の髪になって、髪の毛も巻き上がって、本当に戦闘姿勢になる。この状態じゃ中距離戦が得意そうだけれど、あれの得意とするのは接近戦。あたいのスピアーの最高速を軽く超えてきた。メガシンカしていなかったとはいえ、意表を突かれたし」

 

「確かに、速かった。あれほどの速度で格闘技を出せるポケモンを他に知らない」

 

「もう! 大げさだなぁ」

 

 アンズとシャクエンが深刻そうにしているので場を和ませようとする。しかし二人とも難しい顔をして解せないとでも言うように首を振った。

 

「何で、メイはそのポケモンを所持しているの? 見たところ御三家ポケモンじゃないよね? 属性も確かノーマル・エスパーとかだし。初心者向けじゃない」

 

 シャクエンの疑問にメイは、「交換したの」と応じる。

 

「交換? 誰と?」

 

 尋ねられてメイは答えようとするが、はてと疑問符が浮かんだ。

 

「あれ? 誰だっけ?」

 

 その返答にシャクエンが、「茶化している場合じゃ」と本気の眼で訴えかけるがメイは手を振った。

 

「違う、違うって! ふざけていなくって、本当に誰だったか思い出せないの。プラズマ団を壊滅させたのは確かこの子だったはず。だからそれ以前の冒険で、誰かと交換したはずなんだけれど、その記憶がその、曖昧っていうか……」

 

 メイの言葉にアンズは、「それっておかしい」と口を差し挟む。

 

「交換した相手の事を覚えていないなんて」

 

「覚えていないはずはないんだけれど……。あれ? 本当に誰だっけ?」

 

 シャクエンがメイの顔を窺い、「いい? 一つずつ聞く」と慎重に声を発する。

 

「メイはイッシュの出だよね?」

 

「うん、そう」

 

「フルネームは?」

 

 それほど馬鹿ではないとメイは眉根を寄せたが喉の奥から言葉が出なかった。

 

「あれ? あたしって、フルネームなんだっけ?」

 

 その言葉にはさすがにこの場にいた全員が慄然とする。アンズが、「ちょっと待ってよ」と振り返った。

 

「まさかフルネームが分からないって言うんじゃ」

 

「ううん、そのはずはないんだけれど……。何でだろう。全然思い出せない」

 

 メイも額に手をやって必死に思い出そうとするが記憶の中に自分のフルネームは存在しなかった。それどころか家族の事もおぼろげだ。

 

 自分はヒオウギシティを旅立って、イッシュを股にかけた冒険をしてきたはずだ。その過程でプラズマ団との軋轢があり、自分の意志を曲げないために戦ってきた。そのはずであった。だから、自分のフルネームが思い出せないなどあり得ないはずだ。生家もあり、自分の生まれ故郷も分かるのに。

 

「何で、あたしにはフルネームの記憶がないんだろう……」

 

 メイの声音にシャクエンは一呼吸置いてから、「じゃあ質問を変える」と口にする。

 

「メイがプラズマ団と敵対したのは、何で?」

 

「えっ、だってプラズマ団は人のポケモンを奪ってしまう悪い人達で……。もちろん、それだけじゃなくって今は慈善事業をしている人達もいるんだけれど、あたしが相対したプラズマ団は過激というか、変な思想にかぶれていて」

 

「変な思想?」

 

「ポケモンを解放するべき、っていう根底思想は変わらないんだけれどイッシュを支配するみたいな思想だったかな。プラズマフリゲートとか言う戦艦を使ってイッシュの実権支配までやってのけた、危ない組織だよ」 

 

 プラズマ団の事はここまで覚えている。だというのにメロエッタの元の持ち主と自分のフルネームがどうしてだか言えない。

 

「そこまで仔細に言えるって事は、メイお姉ちゃんはそれを体験したって事だと思う。ただ、フルネームが言えないのと、メロエッタのおやが不明なのは……」

 

 アンズも言葉を濁す。メイ自身も分からない事に戸惑っていた。どうして自分には記憶が一部薄れているのか。

 

「メロエッタのおや、か。ある程度特定は可能だけれど」

 

 ハムエッグの声にメイは顔を上げた。

 

「本当ですか?」

 

「ああ。ポケモン図鑑を使えればいつでも確認出来るはずだよ」

 

 その言葉を聞いてメイは憔悴したように俯く。

 

「ポケモン図鑑……アーロンさんが預かったままだ……」

 

 だとすればアーロンは自分の知らない自分を知っているという事になる。一刻も早く取り返したかった。

 

「アーロンに電話でもかけてみるかい?」

 

 ハムエッグの提案にメイは、「待ってください」と声にしていた。全員がメイを窺う。

 

「ちょっと、自分の中で整理がつかなくって……」

 

 もしアーロンに調べてもらって自分の記憶と本当の名前が違ったら、メロエッタのおやが自分ではなく他の誰かでコントロールさせられているのだとすれば、自分はどうすればいいのだろう。突きつけられた現実にメイは押し黙るしかない。

 

「……分かった。アーロンに聞くのは最終手段だ。とりあえず今思い出せる範囲の事を思い出そう」

 

 ハムエッグの厚意にメイは頭を下げる。

 

「すいません。……あたしのわがままですよね」

 

「いいや、自分の事が分からないのは恐怖さ。ちょっと時間が必要かもね」

 

 謎の歌から遡ってまさか自分の記憶が曖昧だという結論に至るとは思わなかった。メイは、「どうしよう……」と声にする。

 

「もし、あたしの証明なんてなかったら」

 

 その時には、どんな顔をすればいいのだろうか。メイの懸念にシャクエンが慰めの言葉を口にする。

 

「メイ、そんなに気負う事じゃ……。一時的な記憶障害かもしれないし」

 

「でも、メロエッタのおやが分からないのは痛いよ。ポケモン図鑑、お兄ちゃんから取り戻す術ってあるの?」

 

 アンズの問いには頭を振るしかない。

 

「アーロンさんが、理由を分かっていて持っているんだとすれば、簡単に返してはくれないよね……」

 

 アーロンはどこまで分かっているのだろう。メイは黙って出ていった事も含めてアーロンとは色んな事を話さなければならないような気がした。

 



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第四十五話「英雄の因子」

「メイちゃん達? ああ、ついさっき出て行ったよ」

 

 店主に尋ねると返ってきたのはそんな言葉だった。アーロンはセキチクから帰ってきたばかりだが部屋を見渡し、誰もいない事に気付いて焦る。もしやアンズが妙な気を起こして二人を始末したのではないかと。それにしては店主の声は穏やかだった。

 

「メイちゃんが率先して二人を連れて行った様子だったよ」

 

「あの馬鹿が、率先して……?」

 

 どこへ行くと言うのだろう。この街でメイが見知っている場所は数少ないはずだ。喫茶店を出て電話をかけようとすると奇妙な一団が道を阻んだ。

 

 黒い衣服に口元を覆った軽装の戦闘服を纏った集団が一人の人物を先頭にして佇んでいる。その中心人物にアーロンは目を見開いた。

 

「……何で、お前が」

 

「生きている、かな? 波導使いアーロン。前のわたしは死んだだろうからね」

 

 そこにいたのはプラズマ団の指導者である男だった。紫色の装束を纏った男をアーロンは睨み据える。

 

「ヴィオ……」

 

「名前を覚えてもらって光栄だな、波導使い」

 

 ヴィオと同じ姿の男は特に驚愕するでもなくアーロンの言葉を受け止める。アーロンからしてみれば殺したはずの男が立っているのが理解出来ない。

 

「身代わりでも立てたのか?」

 

 最初に浮かんだ可能性に、「身代わり」とヴィオらしき男はせせら笑う。アーロンは戦闘神経を研ぎ澄ました。ここで殺し合いに持ち込む気か。

 

 だが相手にはその気はないらしい。手を振って、「争うために来たのではない」と告げられる。

 

「では何のためだ? 言っておくが、前回展開していたプラズマ団は俺が全員葬った。復讐するなら今だぞ」

 

「波導使い相手に正面切って殺し合いをするほど無鉄砲ではない」

 

「では何だ? プラズマ団のヴィオ。またしてもこの街の秩序を乱すか」

 

 アーロンの敵意に満ちた声に相手は顎をさすってから指を立てた。

 

「いくつか誤解を解かねばならぬご様子。まず一つ。わたしはヴィオではない。ヴィオはプラズマ団が何度でも再建出来るように自分の遺伝子を切り売りし、造り上げていた。わたしは人造人間だ」

 

 発せられた言葉の意味が分からずアーロンは、「何だと」と聞き返す。

 

「人造人間だと言った。わたしの記憶はついこの間目覚めたばかりでまだ定着していなくってね。プラズマ団の用意した複数のクローン体の一つなのだよ、わたしは。さしずめ呼んでもらうとすればVi1という型番があるんだが、呼びにくければヴィーと呼んでくれ」

 

 1をIに見立ててそう呼ばせる気なのだろうか。ならば以前殺したヴィオはVi0、か。

 

 アーロンは拳を握り締めて、「下らない茶番に付き合う気はない」と答える。

 

「お前が何者だろうと、道を阻むならば殺す」

 

「これはこれは。随分といきり立っていらっしゃる。それもこれも、Miシリーズのせいかな?」

 

「Mi……」

 

 ヴィオも口走っていた。Miシリーズ。それは何なのか。

 

「そこの喫茶店で話が出来るかね?」

 

 ヴィーが喫茶店を窺う。アーロンは、「別の場所ならば」と応じていた。

 

「なるほど、そこは波導使いにとっては壊したくない日常か」

 

「相応しい場所がある。案内しよう」

 

 だがその間に怪しい動きを見せればすぐにでも殺す。アーロンはヴィーの一挙手一投足を観察していたが、相手には敵意がなかった。まさか本当に話し合いだけのつもりなのだろうか。

 

「残念。コーヒーは好きなのだがね」

 

 ヴィーはそう呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 案内して訪れたのはカヤノの診療所だ。一階部分がテナント募集のままであり、空き家同然になっている。ここならば盗聴器もなければ聞かれて困る話をする心配もない。アーロンの選択にヴィーは満足げに声にする。

 

「いい場所だな。なるほど、盗撮も盗聴の心配もない、か」

 

「察しがいいのは助かる。ここならば、殺し合いになっても問題ないからな」

 

 振り返ったアーロンの眼差しにヴィーは笑みを滲ませた。

 

「本当に、食えない男だよ、波導使いアーロン。前のわたしが最後の最後にバックアップした情報通りだ」

 

「バックアップ?」

 

「Viシリーズは死ぬ前に前の人格バックアップを必ずする。だからお前に最後、感電死させられた時の直前までよく覚えているよ」

 

 だとすれば自分を恨んでいてもおかしくはない。アーロンは警戒を解かずに、「それはすまなかったな」と答える。ヴィーは口角を吊り上げた。

 

「下手なおべっかはなしにしよう。お互いに殺し合った仲だ。今さらご機嫌取り、というわけでもあるまい」

 

 ヴィーは前回のヴィオよりも幾分か若々しい気がした。それは立ち振る舞いからそう感じたのかもしれない。

 

「雁首揃えて何のつもりだ? プラズマ団として復讐でも?」

 

「だから、わたしにはそんなつもりは毛頭ないのだよ。前のわたしは確かに少しばかり軽率で愚かだった。だから二の轍を踏むつもりはない」

 

「プラズマ団再起は目的ではないと?」

 

「このヤマブキシティがそれを許してくれまい。我々は少しばかり目立ち過ぎた。それだけで皆殺しだ。怖い怖いと心底感じたよ。その後、残党内でヤマブキシティの構造を理解させた。ここはとても排他的で、それでいて整然としている。恐ろしいくらいのバランス感覚で成り立っているこの街は一歩間違えれば死を招きかねない。実際、死の商人がそこらかしこにいる」

 

 自分もその一人、と言外に言いたいのだろうか。アーロンは首をひねり、「結論を言え」と促す。

 

「余計なお喋りはしないんじゃなかったのか?」

 

「そうさな。すまない。どうやらこの肉体も似たように出来ているらしい。本題に入ろう、波導使い。今回、我々は依頼をしに来た。殺し屋としてのお前の腕を買って、だ」

 

「言っておくが、この街にとって不利益な事は出来ない。それは何倍にもなって降りかかってくるからな。お前らがハムエッグやホテルと渡り合いたいだとか、そういう分不相応な願いは叶えられない」

 

「そこまで強欲ではないし、向こう見ずでもない。前のわたしはそれで破滅したが、今回はもっと慎重に、ビジネスライクに話をしようと言っている」

 

 信用は出来ないがアーロンはここで連中をただ逃がすのもあってはならないと感じていた。プラズマ団が再び出現した目的だけでも聞いておかねば。

 

「ビジネス、か。だが金の動かない行動をビジネスとは言わない」

 

「分かっている。例のブツを」

 

 ヴィーが指を鳴らすと部下の団員がアタッシュケースに入った紙幣の束を見せた。一束差し出して本物かどうかを確かめさせる。アーロンは手に紙幣の重さを感じ取った。本物である。

 

「で、これで何をやれと? 言っておくが明確な意図のない暗殺業務は請け負わない」

 

「意図ならばあるさ。波導使いアーロン。お前にはとある存在の排除を頼みたい」

 

「排除? これだけ金を積んで殺すんだ。それなりの人物である事が窺えるが」

 

 ヴィーは口元に笑みを浮かべて、「悪い契約ではないはずだよ」と口にする。

 

「端的に言えば、その人物を知っている人間の排除だ」

 

 ヴィーが写真を取り出す。アーロンはそれを手渡された。

 

 写真にはメイが写し出されていた。

 

「これは、どういう冗談だ?」

 

「冗談でも何でもなく、排除して欲しいのは今回メイと名乗っている人物だよ」

 

 アーロンは押し黙る。沈黙の果てにどうやら余興でもなければ冗談でもない事を悟った。

 

「……お前らは前回、こいつを見張っていた。だというのに今度は殺せだと? 辻褄が合わないぞ」

 

「いいや辻褄ならば合っている。依然としてMiシリーズを我が監視下に置きたい。だがMiシリーズを囲っている人々が強過ぎてね。近付けない。殺気を剥き出しにしている炎の暗殺者だけならばともかくもう一人いる」

 

「俺か」

 

「いいや、瞬撃、とか言ったかな」

 

 アンズの事だ。となればメイはシャクエンとアンズを連れてどこに行ったと言うのだろう。アーロンは直截的な質問を避け、「炎魔と瞬撃」と口にする。

 

「両方を相手取って殺せと?」

 

「というよりも、波導使いアーロンならばもっと容易く出来る事があるだろう?」

 

 問われた言葉にアーロンは応じる。

 

「俺が自らあの小娘を差し出せばいい」

 

「理解が早くって助かる」

 

 ヴィーが指を鳴らしてアーロンを指した。アーロンは歩み出し、「だが疑問が残るぞ」とヴィーを見据える。

 

「炎魔と瞬撃を殺す。これはお前らが厄介だと思っているからだろう。だが、俺はその二人を下した、言うなればそいつらよりも上の脅威だ。だというのに俺を擁立するのは不自然めいているな。要求には応じなさそうな相手を選んでいる」

 

「わたしはね、審美眼だけはあると思っている。だから、お前が金を積めば動くタイプの暗殺者である事は一発で分かった。逆に言えば契約した以上の事は絶対に行動する。金のありなしできっちり分を弁えるのだと。前回、Miシリーズの肩を持ったのはこの街に与えられている全幅の信頼を裏切らないためだ。だから我々よりも優先度が高かった。しかし今度はどうだ? たかが小娘一人を差し出す。この街との天秤にかけるまでもない。ただの仕事、些事だ。お前は合理的に対処するだろう」

 

 相手は思った以上にこちらの下調べを行ったらしい。アーロンが断れない状況を作り出している。

 

「……暗殺者として在るならばこれを受けないと暗殺業務の優劣をつける、言ってしまえば面倒な仕事人と判断される。そのような情報を流布されれば俺も困る」

 

「そうだろう? お前はあくまで暗殺者なんだ。正義の味方じゃない。だから、この街の秩序を守るためにプラズマ団を破壊する必要があればそうするが、その必要がなければ金を積んだこちらは客だ。客の依頼を無下には出来まい」

 

 ヴィーはアーロンがメイに入れ込んでいないと判断して依頼しているのだ。シャクエンやアンズではこの場合感情面で支障が出る事を知っている。

 

「情報、というものも金銭と同じく対価に入る」

 

「承知している。例のデータを」

 

 ヴィーの指示に部下のプラズマ団員が取り出したのはノートパソコンである。そこに表示されていたのは遺伝子配列であった。アーロンは眉をひそめる。

 

「何だそれは」

 

「我々プラズマ団がどうして、あのような小娘一人をどうこうするのにカントーまで来たのか、知りたいのだろう? そもそも頻出するMiシリーズとはどういう意味なのか。あの小娘が持っているメロエッタと関係があるのか。お前は徹底的に知りたいはずだ。そのために街の盟主であるハムエッグと手を組むかあるいはホテルに情報を呼びかけるかどっちかをする気だ」

 

 この先回りする感じ。アーロンはプラズマ団の意図を悟る。

 

「ハムエッグにも、ホテルにも内密で動けと言っているように聞こえるが」

 

「事実、そう言っている。ハムエッグはMiシリーズ擁立の意味をどこかで見出している可能性が高い。ホテルも同じだ。もし相手側のほうが高値でMiシリーズを買えば、お前はそちら側につくのだろう?」

 

 どこまでも読まれている。ヴィオに比べれば騙し合いの相手としては上か。

 

「Miとは何だ?」

 

「正式名称はメモリアインシリーズだ。ある特定の記憶を外部記憶装置として残す際に、人間の形を取らせた。わたしと同じく人造人間であり、なおかつある特定の目的のために使用される、動く記憶媒体だよ」

 

 衝撃、は受けなかった。アーロンはメイにどこか欠損があると思っていたからだ。波導を切ったはずなのに生き永らえた身体。自身の記憶にない歌とフォルムチェンジ。プラズマ団による何らかの結果による人生を捩じ曲げられた人間だと思っていたが、人造人間だとは。アーロンは納得出来る点と出来ない点に分けて考える。

 

「メモリアインシリーズには、波導がないのか?」

 

「常人とは異なるだろうね。よくよく目にすれば波導は流れているだろうが、あれは生きた外部記憶装置。人間としてのそれよりも内包する記憶の保護を優先する。そのために我々プラズマ団の作り出したある種の成功作だ」

 

「何の記憶だ? あの小娘には何が入っている?」

 

 それを解き明かさなくては。せめて聞かなくてはどうしようもない。ヴィーは少しばかり悩んでいる様子だった。

 

「……これを聞かせても、お前はピンと来ないかもしれない。何故ならばこれはイッシュの人間に根付く信仰心だからな」

 

「答えろ」

 

 有無を言わさぬ声にヴィーは手を振って、「怒るなよ」と制する。

 

「あれを侮辱されて気分が悪いのは分かるが」

 

「気分が悪い? 俺は、究極的に明かされない事実に腹を立てているだけだ。あいつの出生など知るものか」

 

 怒っているわけでもましてや隠し立てするわけでもない。自分にとって必要なのはメイの出生の秘密ではなくメイがどういう理由でプラズマ団に追われていたのか、である。どうしてこの組織はあのような小娘一人に妙な記憶を細工したのか。

 

 ヴィーは部下数名と目配せしてから決心したようだ。

 

「教えよう。Miシリーズに内包されているのは、簡単に言うと伝承の記憶。言ってしまえばイッシュ英雄伝説における英雄の記憶だ」

 

「イッシュ英雄伝説……? 黒と白の龍が争い合い、イッシュを焦土と化した、というあれか」

 

「知っているのか。波導使いはなかなかに歴史に造詣が深い」

 

「これしき一般教養だ。それよりも、意味が分からないぞ。英雄の記憶だと? その英雄譚とて、作られた代物ではないとも限らないのに英雄の記憶がどうして再現出来る?」

 

 ヴィーは唇をさすって少しばかり考えた後に答えを紡いだ。

 

「正確には、英雄の血族、の記憶の再現だ。イッシュには英雄の血筋を引く人間が何人かいる事を確認している。我らがプラズマ団の王もその一人だった」

 

「プラズマ団の王?」

 

「それについては知らないほうがいいだろう。わたしも何でもかんでも教えるつもりはない」

 

 それがプラズマ団にとっての重要な情報という事か。アーロンは、「英雄の血筋があるとして」と口を開く。

 

「どうしてあいつに?」

 

「血筋は放っておくとすぐに薄まる。混血し合ってね。だから純粋な血筋を残すため、その遺伝子を全く別の外部記憶装置、まぁここで言うMiシリーズの中に放り込む。Mi3……メイと名乗っているようだが、彼女の他にもMiシリーズはいる。ただ彼女の内包する記憶が必要になってきたので回収したい。それがプラズマ団の本音だ」

 

「回収? してどうする」

 

「解体して造り直すなり、あとは本当にただの人間として泳がせるなりする。前回より、プラズマ団の目的はMi3の確保とその英雄の記憶の保持。それ以外になかった。お前が現れるまではね」

 

 自分のせいで計画が狂ったとでも言いたげだ。アーロンは鼻を鳴らす。

 

「あれほど嗅ぎ分けてくれ、と言っているような素人の気配を出されればこちらとて噛み付きたくもなる」

 

「この街は本当に物騒だ。ちょっと介入すればすぐさまお前達のようなプロ集団が片付けにやってくる。だから今度は本当に隠密に動く事にした。ここに来るまでお前以外の人間と接触はしていない」

 

 本当か、と問いかける瞳に、「本当だとも」とヴィーは答える。

 

「ちょっと動いただけで前回は壊滅した。慎重にもなる」

 

「あいつを回収して、俺は憎まれ役か」

 

「暗殺者がわざわざ感情の行方を気にするとは思わなかったな。金さえ積めば何でもするのが暗殺者だろう?」

 

 ヴィーの言葉は気に食わないが真実だ。自分のようなフリーランスにとって金は絶対条件である。

 

「炎魔と瞬撃を相手取るにはちょっと足りない。倍乗せだ」

 

 アタッシュケースをアーロンは閉めてつき返す。その言葉に団員が言い返そうとしたが、「応じよう」とヴィーが答える。

 

「最大限の行動を確約するためならば金など」

 

「もう一つ。Miシリーズを絶対にこれ以上、カントーに持ち込むな。火種は少ないほうがいい」

 

「考慮する。カントーにMi3が来たのは完全なる偶然。我々でもMiシリーズの人生にまでは踏み込めない。そうすると完全な拘束になる。Miシリーズは普段は普通の人間として生きる代わりに、必要とあれば我らプラズマ団に搾取されるのも已む無し、という方針をとっているのでね」

 

「……今回、英雄の記憶が必要になったという事はプラズマ団に何かがあったか」

 

「詮索はお勧めしないな。イッシュでの出来事なんてカントーの都会で殺し屋を営んでいるお前には関係がないだろう」

 

 確かに関係がない。これ以上を知ればプラズマ団を敵視しかねない。

 

「いいだろう。明日の朝までに口座に倍額振り込んでおけ。俺の行動は振り込まれてから、だ。それまではあいつに勘付かれるわけにはいかない」

 

「承知しているとも。Miシリーズは普段はただの人間。なに、波導使いとなれば一瞬だろう。昏倒させる事くらい容易い」

 

 アーロンは踵を返す。ヴィーがその背中を呼び止めた。

 

「一つだけ忠告を。妙な感情を抱いているんじゃないだろうな、Mi3に」

 

「妙な感情だと?」

 

 アーロンは振り返り様殺気を放つ。中てられた団員が何人か膝を折った。

 

「余計な事を言えば敵が入れ替わると思え」

 

「……肝に銘じよう」

 

 アーロンは診療所の階段を上がってゆく。それと前後してプラズマ団の人々が出て行った。窓際に座ってそれを眺める。

 

「また、えらく物騒な話し合いだったな、アーロン」

 

 カヤノの言葉にアーロンは嘆息を漏らす。

 

「聞いていたのか。長生き出来ないぞ、闇医者」

 

「お前に言われたかねぇよ、殺し屋」

 

 カヤノはアーロンのピカチュウを看護婦に受け取らせ、波導の眼の検査をする。いつも通りの検査キットの溶液をアーロンは見極めた。

 

「上から、緑、黒、赤、水色」

 

「正解。波導の眼が濁ったわけでもないか」

 

「奴らに与するのが気に入らないか?」

 

「街の秩序を乱した連中が、今度はその後片付けに来たって言うんだから信用ならないだろ。しかも、お嬢ちゃんがMiシリーズ? ワケ分からん」

 

「分からなくってちょうどいい。理解が早ければ俺よりもあいつに連絡するだろう」

 

「気をつけな、お嬢ちゃん、ってか? そんな野暮な真似するかっての。お前はずっと前から暗殺者だし、今さら裏切りの一つや二つ重ねたところで死んだ後行ける場所が変わる事はあるまい」

 

「行く先は地獄、か」

 

 呟いてアーロンはカヤノに質問する。

 

「あいつら、どこへ行ったんだ?」

 

「ワシなら探知していると思ったのか?」

 

「悪趣味だからな」

 

 けっと毒づいてカヤノは逆探知システムを取り付けたパソコンを開いた。

 

「一度仕事で世話になった奴には全員つけている。お前にだけだ、つけてないのは」

 

「波導感知の邪魔になるからな」

 

「これによると……、おいおい、やばいぞ。お嬢ちゃんの居場所、聞いたらたまげる」

 

「いいから言え。どこなんだ」

 

 急かすアーロンの声にカヤノは頬を引きつらせた。

 

「お嬢ちゃん、今ハムエッグのところに居やがる……」

 

 その言葉にアーロンは、まさか、と感じた。既にハムエッグの手が回ってプラズマ団から引き剥がそうという魂胆か。

 

 だがあまりにも素早過ぎる。先回りにしてもこれではルール違反だ。

 

「こりゃあ、お嬢ちゃんが自分から行ったんだな。通話記録がある。聴くかい?」

 

 アーロンは首肯するとメイのとぼけたような声が聞こえてきた。相談したい事があるから行ってもいいかという内容でアーロンは頭痛を覚える。

 

「……何でこのタイミングで」

 

「悪運がいいんだろうなぁ」

 

 カヤノの感想にアーロンは立ち上がって思案する。どうすればハムエッグから怪しまれずにメイを取り戻せるのか。こちらから電話などすればそれこそ薮蛇だ。メイがハムエッグの下を自然に去るのを待つのが一番なのだが、その気配がない。

 

「盗聴は」

 

「天下のハムエッグだぞ? 出来るわけないだろうが」

 

「あいつに枝くらいつけているんだろうが」

 

「……だからって怖くって出来ないっての。ハムエッグからの報復があるって分かっていて盗聴なんてするかよ」

 

「使えない」

 

「結構だよ、使えなくって。今回の場合、深追いしないのが一番じゃないのか? 簡単に元鞘に収める方法を教えてやる」

 

「何だ。つまらなければ聞かないぞ」

 

「お嬢ちゃんに実家に帰れ、って言えばいい。それだけだ。イッシュに帰らせればワシらとは晴れてオサラバ。もう関係がない。プラズマ団が空港で拉致しようがどうしようが知ったこっちゃないんだ」

 

 確かにメイ自身が帰りたいと思えばもう関係がないだろう。だがそれは望み薄だった。

 

「……あれはお人よしだ。炎魔と瞬撃の問題が解決もしていないのに帰ると言い出すはずがない」

 

「じゃあどうするよ? 波導使いアーロン。炎魔と瞬撃を相手取って、喧嘩するか? 今回、スノウドロップのオマケ付きだ」

 

 この街で最強の暗殺者、スノウドロップのラピス・ラズリ。ハムエッグが一言、気に入らないと言えば動く存在に自分達は恐れ戦かなければならない。それほどの戦力だ。

 

「分が悪いぞ。プラズマ団の汚い金なんてもらわずに今回は見逃せ。街のためにもなる」

 

「……だが、あいつのためにはならない」

 

 アーロンの言葉にカヤノは目を見開く。

 

「お前、お嬢ちゃんのためを思って引き受けたってのか?」

 

「俺がもし引き受けなかったとしよう。そうなった場合、別の暗殺者があいつを狙う。俺は必然的に巻き込まれざる得ない。無用な争いは避けたいんだ」

 

「平和主義だね、天下の波導使い様は」

 

 カヤノは煙草を取り出して火を点ける。紫煙をくゆらせながら、「どうするよ?」と急かす。

 

「ホテルに協力仰いでハムエッグから奪還するか?」

 

「そんな喧嘩じみた事をすれば、俺がこの街の秩序を乱す存在だ」

 

「そんな事しなくっても充分乱れてるっての。お前が引き受けたのばれたらハムエッグが鶏冠に来るかもしれない。真意を分かっていても、だ。お前が無用な争いを避けるためにプラズマ団に手を貸した、って事くらい、この街の盟主はお見通しだろうさ。でもお前を試すために仕掛けてくるだろう。真に街の守り手に相応しいかどうか。スノウドロップとやり合った事は?」

 

「ない。あれば対策を打っている」

 

「だろうなぁ」とカヤノは煙い息を吐き出した。

 

「スノウドロップの手持ちは割れているんだろ? どうにかならんのか」

 

「あれにとってタイプ相性で優位を取りたければそれこそ炎魔を使うのが相応しい。だからヤマブキで最強の暗殺者の異名を取っていた」

 

「皮肉な事にお前が仲間にしちまったせいで炎魔は使えんと」

 

 それこそ皮肉だ。以前までならば金を積めば炎魔は確実に殺しを遂行した。だがもう炎魔は使えない。シャクエンは相当追い詰められなければ殺しなど請け負わないだろうし、何よりも宿主がいない。

 

「瞬撃も今は無力化してんだろ? だったら手はないな。波導使い直々に行くしか」

 

 そうなった場合、もう戻れない事はカヤノならば分かっているはずだ。だが忠告もしないのは旧知の仲だからか。あるいはハムエッグに戦いを挑むくらいならば無視を決め込む腹積もりか。どちらにせよ、カヤノはこれ以上頼れそうにない。

 

「マーカーだけ借りていけないか?」

 

「あ、ああ、いいが。どっちにせよ、やるのはお前になるぞ」

 

「知り合いを跨いで他の手を探す。まだ金は振り込まれていない。プラズマ団との契約は口約束だけだ」

 

「詭弁だな」

 

「詭弁でもハムエッグを敵に回す最悪の想定だけは避ける。ピカチュウは」

 

 看護婦が戻ってきてピカチュウの入ったモンスターボールを手渡す。アーロンは開いていた窓から飛び降りた。下階の黒服がアーロンが目の前に降りてきたものだから目を見開く。

 

「な、青の死神……」

 

 呻いた黒服を無視してアーロンは駆け出した。ピカチュウを繰り出して肩に乗せる。今は、スノウドロップとの戦闘だけは避けたい。そのためにはプラズマ団よりも先にメイを確保する必要があった。

 

「ヴィーは、恐らくすぐに動く。俺を待って動くという愚は冒さないはずだ」

 

 ピカチュウが青い電流を頬の電気袋から放出する。既に戦闘の気配を纏った相棒にさすがだとアーロンは返した。

 

「だがな、ピカチュウ。今回の暗殺対象は面倒な事になりそうだ」

 

 一度殺そうとして殺し損ねた相手。加えて今まで殺す機会を失った相手でもある。

 

 その因果にアーロンは歯噛みした。

 



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第四十六話「悪党」

「ええ。……なるほどそれはご丁寧に。で、わたしはどっちの肩を持つべきかな?」

 

『どっちでも構わない。波導使いが死んでも我々としては前回の汚名を晴らせる。逆に問うが、街の盟主として女子供の暗殺は見過ごせるか?』

 

 ハムエッグはカウンターで喋っている四人に視線を配る。密やかな声で、「わたしはね、平和主義者なんだ」と答えた。

 

「だから争い事は黙って見過ごせないなぁ。殊にそれが街の沽券に関わるとなると」

 

『判断は速いほうがいい。既に波導使いは動き出した』

 

「ご忠告どうも。あ、言っておくが」

 

 思い出したような声音に相手は疑問符を挟む。

 

「わたしはプラズマ団とやら、あんまり好かんよ。じゃあな」

 

 黒電話を置き、ハムエッグは振り返った。ここから先は少しの判断ミスが命取りになる。

 

「落ち着いて聞いてくれ、メイちゃん」

 

 ハムエッグの尋常ではない声音にメイは首を傾げた。

 

「どうしたんですか? 汗びっしょり……」

 

「プラズマ団、知っているね?」

 

 メイが青ざめる。まさか、と言った様子で口元に手をやった。

 

「まさか、まだ……」

 

「そのまさかのようだ。残党が君を狙っている。そして、悪い報せだ。残党は暗殺者を金で買った」

 

「なんて事」

 

 衝撃を受けるメイを他所にアンズが声にする。

 

「大丈夫だって。あたい、そこいらの暗殺者なら軽くひねれるよ」

 

 腕を掲げてみせるアンズに続き、シャクエンも応じる。

 

「メイを守れるだけの力は、あるつもりだから」

 

 ハムエッグは思案する。彼女らに何も知らせずかち合わせるのも悪くないか。しかし一抹の不安はある。思い切って言葉にした。

 

「そこいらの暗殺者じゃないんだ。プラズマ団が雇った暗殺者は青の死神。つまり波導使いアーロンだ」

 

 その言葉に全員に緊張が走る。波導使いが敵になったという事実を誰もが飲み込めていない様子だった。

 

「何で……。アーロンさんが」

 

「君達ならば知っての通り、暗殺者は金で雇われ己の義を貫く。一度雇われれば執行するまで命令を違えないのは炎魔であった君ならば分かるね」

 

 シャクエンを見やりハムエッグは声にする。シャクエンは目を伏せて、「炎魔は、確かにそう」と答える。

 

「瞬撃もそうだ。忍術とやらがどれほどかは分からないが、一度請け負えば裏切らない。違うかね?」

 

「そうだけれど……。あたい、でも自分の意に反する事なんて」

 

 しない、と言いたいのだろう。この幼い暗殺者は未熟だ。だが暗殺者としてどうあるべきか、は理解しているはずである。

 

「波導使いアーロンがここを襲撃する。そうなった場合被害ははかり知れない」

 

「プラズマ団を先に叩けば……」

 

「そうなった場合でも、アーロンはもうプラズマ団側だ。戦闘は止むを得ないだろう」

 

「そんな……」とメイが言葉をなくす。ショックで何も考えられなくなっているらしい。ここでアーロンに連絡すれば、という意図も働かないようだ。もっとも、それが働けば今回の作戦はおじゃんだが。

 

「安心してくれ、メイちゃん。君には最強の盾を用意しよう」

 

 呆気に取られるメイへとハムエッグは目線を振り向けて声にする。

 

「ラピス。行けるね?」

 

 その言葉にはさすがにメイは異を唱えた。

 

「ラピスちゃんを? やめてください! そんなの! ラピスちゃんは殺し屋なんかじゃないんですから!」

 

「ラピスは殺し屋だよ? 何言ってるの、お姉ちゃん」

 

 何の疑問も挟まないラピスの声にメイは困惑する。

 

「でも、あたしの問題にラピスちゃんを持ち込むのは」

 

「いや、関係はあるよ。ラピスは君にとても懐いている。君がいなくなれば一番に悲しむだろう。そんな事をさせないためにラピスがいるんだ」

 

 ハムエッグの判断にメイは何も言えないようだ。これでお膳立ては整った。ハムエッグはラピスに命じる。

 

「メイちゃんを全力で守ってくれ。波導使いアーロンは、戦闘不能にしても構わない」

 

「それは、殺してもいいって事?」

 

 ラピスの無垢な問いかけにハムエッグが応じようとするとメイがそれを阻んだ。

 

「駄目だよ! ラピスちゃん。誰かを殺すなんて間違っている!」

 

「何も間違っていないよ? だって生きるためには誰かを殺さなきゃ。それが必要だと主様が判断するのならばなおさらだし」

 

 思わぬ言葉にメイは二の句を継げないようだ。ハムエッグは的確に指示を出す。

 

「奥の手を使う可能性も考慮し、波導使いを迎撃するんだ」

 

 一度言ってしまえば、最強の殺し屋スノウドロップは止まらない。放たれし無垢な獣は牙を剥いた。

 

「殺しちゃってもいいなら楽だね」

 

 ラピスがメイの手を引く。それに続いてシャクエンとアンズも階段を駆け降りていった。全員がいなくなったのを確認してからハムエッグは声にする。

 

「悪く思わないでくれよ、アーロン。君とわたしの仲だ。よく知っている。こういう時の君はとても不器用で、なおかつ最もやってはいけない選択肢を選ぶ。改めて波導使い、青の死神の実力を街に示してもらおう。それには最強の殺し屋が相手には相応しい」

 

 ハムエッグは黒電話を手に取り通話を繋いだ。

 

「ああ、もしもし? いい情報がある。買わないか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あん! 何だって、青の死神が――」

 

 大声を出そうとして自分がまだ警察署にいる事に気付いたオウミは慌てて取り繕った。

 

「青のし、シートをそのままにしていたな、鑑識に言っておかねぇと」

 

 誤魔化しつつオウミはホロキャスターを手に捜査一課を出る。デスクから充分に離れた頃合を見計らって囁き声を発する。

 

「……危ないところだぜ。ハムエッグ。いつから善良な警官を騙すようになったんだ?」

 

『君が善良かはさておいて、この情報、面白いと思わないかね?』

 

「そりゃ面白いがオレにどう転がせって? 言っておくが、青の死神とスノウドロップの仲裁に警官隊を、なんてやめろよ。全滅しちまう」

 

『炎魔を手なずけていた君ならばこの事案、いい方向に転がせると思ったんだがね』

 

 ハムエッグによればアーロンがプラズマ団側に寝返ったのだという。今にもメイを殺そうと迫っているとの事だったが信憑性に欠けた。

 

「もっともらしい嘘ってのはな、真実も混ぜるんだよ、ハムエッグさんよぉ。青の死神がお嬢ちゃんを殺すって? そりゃあり得ないぜ」

 

『ばれたか』

 

 悪びれもせずハムエッグは返す。オウミは鼻を鳴らした。

 

「大方、プラズマ団からの挑発の矛先をあいつ一人に向けようって腹か。てめぇこそプラズマ団と共謀しているじゃねぇか」

 

『街の秩序を守るためさ』

 

「何が街の秩序を、だ。澄ました顔してよく言えるな。……で? オレにかけてきたって事は何かしろって事なんだろ。武力ではなく交渉術として」

 

『察しがよくて助かるよ。街のごろつき共におすそ分けしてくれないか? わたしから、と言えば彼らは殺気付く。だが汚職警官からの情報ならばちょっとは聞く耳を持つかもしれない』

 

 オウミはパイプ椅子に座り込んで懐の煙草を探る。片腕になってからこの作業が大変で仕方がない。ようやく煙草を探り当てて膝で底面から取り出す。器用に口でくわえて、「それで、だ」と言い直す。

 

「オレにばら撒けと? 情報を」

 

『君からならば何人かは受け取って器用に転がしてくれるだろう?』

 

 ハムエッグはこの機会に大きな賭け事を巻き起こすつもりだ。ヤマブキという盤面を最大に利用し、催される賭けには誰もが乗らざるを得ない。それが青の死神とスノウドロップの直接対決となれば観覧しない輩はいないだろう。

 

「あんたも相当汚いな。俺を利用出来るだけ利用して、んで捨てるって?」

 

『後始末くらいは手伝うとも。ただ仕掛け人は君が相応しい』

 

 よく言ったものだ。オウミは、「買い被るなよ」と声にする。

 

「オレはただの汚職警官。しかも右腕が使えないっていうオマケ付きだ」

 

『まだ君の権限は生きている。炎魔がアーロンのものになった事を知るものも少ない。オウミは炎魔をまだ切り札として持っているかもしれない、という噂はまことしやかに囁かれているんだ』

 

 つまりまだ炎魔を保持しているとちらつかせて情報の確信を高める。オウミは紫煙をくゆらせて悪態をついた。

 

「相変わらず、薄汚いやり方が好きな野郎だ。ポケモンであってもてめぇさんみたいなのはな、自分の手を汚さない本当の悪だって言うんだよ」

 

『だが真の悪はプラズマ団だ。彼らがメイちゃんの身柄を確保しようとしなければまず青の死神は動かなかった』

 

「始まりはあいつらでも一番に祭りを楽しむのはオレ達ってわけかい。そいつは都合がよすぎるぜ」

 

『祭りを楽しむのには礼儀を知らなさ過ぎるんだよ、連中は。わたしに青の死神が動いた、と情報を送ってきた辺り、したたかだと言える。なにせ、前回率先してプラズマ団を潰そうとしたのはわたしだというのに。人間の業は深いよ』

 

「ポケモンであるあんたに言われちゃ世話ぁねぇな」

 

 オウミは腕時計を見やる。情報がヤマブキの隅から隅まで行き渡るには十分あれば余裕があるくらいだ。

 

「……オーケー。請けたぜ、その挑発。ヤマブキの祭り好きな連中に情報を流してやろう」

 

『助かるよ、汚職警官さん』

 

「そりゃどうも、喋るポケモンよ」

 

 お互いに軽口を交わして通話を切り、オウミは捜査一課に戻った。

 

 イシカワが、「奥さんですか?」と尋ねてくる。独身だがシャクエンを飼っていた際そのメンテナンスのために妻子を持っていると偽っていたのだ。

 

「ああ、これがこれでやんの」

 

 角を生やす真似をしてやるとイシカワが微笑む。

 

「でもいい奥さんじゃないですか。右腕が利かなくなったと言っても優しいんでしょう?」

 

 警察には右腕が利かなくなったのを病気のせいだと嘘の診断書を出していた。オウミは偽りにまみれた自分の経歴を垣間見て鼻を鳴らす。

 

「そうでもねぇよ」

 

 デスクに座り早速情報を流し始めた。まず、この情報に食いつくであろう輩は、と精査する。

 

 オウミがまず標的に選んだのはホテルだ。この場合、ホテルとハムエッグの食い合いになる可能性が高かった。だがハムエッグの身勝手な要求に対する、これは一種の報復だ。

 

「悪ぃな。オレ、悪党なもんでよ」

 



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第四十七話「最強の敵」

「お嬢。妙な情報が上がってきました」

 

 軍曹が書類を手に執務室に入ってくる。ラブリは片手にしていた端末に声を吹き込んだ。

 

「ええ……分かっているわ。それじゃ」

 

 通話を切って、「妙、とは」とホテルの支配人の声を出す。

 

「はい。青の死神がとある組織と癒着、いえ、正確には依頼を受けて遂行中との事です」

 

「わたくし達はお互いの業務にいちいち介入するほど暇だったかしら?」

 

 ラブリの口調に軍曹は、「これが妙なのは」と言葉を継ぐ。

 

「青の死神は以前プラズマ団より保護した少女、この間お嬢と出会ったメイ、という娘を殺害しろという依頼を受けたそうなのです」

 

 ぴくり、とラブリの書類を繰る手が止まる。軍曹へと目線を振り向けて、「続けて」と促した。

 

「はい。プラズマ団は新たにヴィーという男をリーダーに据え、再起を図っているようですが、この街での再起ではなく、その、メイという少女を擁立しての再起のために青の死神を使っているようなのです」

 

「まどろっこしいわね、軍曹。はっきり言いなさい。波導使いは何のために、自分が管理している娘をわざわざ殺そうとしているの?」

 

 軍曹は咳払いしてから、「憶測ですが……」と述べた。

 

「この情報は意図的に操作されたものだと推測されます。つまり、元の情報はこれとは違い、青の死神は罠にはめられた、と」

 

「どのような罠だと言うの?」

 

「それは……」と軍曹が口ごもる。ラブリは先ほどの通話の内容を口にしてやった。

 

「汚職警官から告発があったわ。青の死神は現在、ハムエッグの監視下にあるメイ、炎魔シャクエン、瞬撃のアンズを殺害するためではなく、誤解を解くために行動していると」

 

「ご存知だったのですか?」

 

 軍曹が目を見開く。ラブリは、「タッチの差よ」と電話を示した。

 

「あなたの報告が決して遅かったわけじゃないわ。にしても汚職警官は何がやりたくってわたくし達みたいなのを焚き付けたのか、軍曹、分かる?」

 

 軍曹は急に尋ねられてしどろもどろに返す。

 

「それは……、恐らくこの情報自体が幾つかのブラフであり、これを基にしてどれだけの組織と人間が動くかをハムエッグがモニターするためと思われます」

 

「あら? 分かっているじゃない」

 

 ラブリは執務椅子に深く腰かけて声にする。

 

「正確には、ハムエッグは問いたいのよ。青の死神の有用性を」

 

「有用性、ですか」

 

「そう。波導使いは随分とぬるくなってしまったのではないか、という危惧。それはあなたも最近思っての事でしょう?」

 

 炎魔の保護、瞬撃を殺さずにその大元に辿り着く。以前までのアーロンならばそのようなまどろっこしい真似をせずに殺していた。

 

「何かが彼を変えたのかもしれない、とハムエッグは思っている。だから、今回、ぶつけるべきは最強の駒」

 

 軍曹が息を呑んで声にする。

 

「まさか、スノウドロップ……」

 

「そのまさかでしょうね。スノウドロップの真価を知らない人間だってこの街には数多い。ここいらで一回示すのもありだと思ったんでしょう。この街の真の支配者は誰なのか」

 

 つまりハムエッグの術中にプラズマ団が神輿を担いだ結果になる。いや、前後関係で言うのならばプラズマ団のお膳立てにハムエッグが乗った、というべきか。

 

「……スノウドロップ。その力はあまりに強大で、一度解き放たれれば、この街は半壊してしまうとも言われている」

 

「噂ね。軍曹。わたくしだってスノウドロップがどのようなポケモンの使い手で、なおかつその噂に尾ひれがついていないとも判断出来ていない。つまるところ、この街で正確にスノウドロップの脅威を説明出来る人間はいないのよ。ハムエッグと波導使い以外はね」

 

「波導使いアーロンは交戦経験が?」

 

 ラブリは頭を振った。

 

「分からないわ。話していないもの。いちいち言う? 自分はこの暗殺者と戦い、破ってきました、って。それは暗殺なんてものをまだままごとの範囲でしか理解していない素人がやるプレゼンよ。いい? プレゼンなんてプロの暗殺者はやらない。何人殺してきただとか、どの暗殺者と鍔迫り合いを繰り広げただとか、そういうのは無意味。重要なのはその暗殺者の腕と生き残ってきた強運。それだけなのよ」

 

 ラブリの理論に軍曹は書類を叩く。

 

「では、どう致します、お嬢。このまま静観しますか?」

 

「いいえ。ホテルもこの賭けのレートに乗りましょう。ハムエッグはこう言いたいのよ。波導使いとスノウドロップ、どっちが勝つか見てみたくはないか? と」

 

 恐ろしい賭けであった。ともすればこのヤマブキが崩壊しかねない賭け事だ。だがスリルがある。スリルがあるというのは重要だ。この背徳と悪逆の街で、スリルだけが等しく物事において物差しとなって存在する。

 

「軍曹。展開準備。コンディ、オレンジのまま職員達を待機させなさい」

 

 ラブリは立ち上がり、書類を積んで窓の外を眺める。軍曹が挙手敬礼し執務室を去っていった。

 

「さて、どこまで見せてくれるかしら。青の死神。あなたって本当に最低のクズだから、殺しちゃうかもね。大切なものでさえも」

 



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第四十八話「爆心地」

 

「おい、新入り。危ないから今日は客引きなしだ」

 

 そう言われてリオは戸惑う。どうしてなのかと問い返した。

 

「馬鹿、聞いてないのか?」

 

 肩に手を回され囁き声で告げられる。

 

「青の死神が動いている。それだけなら、まだいいさ。今回、どうやらやべぇ賭け事がお偉いさんの間で巻き起こっているらしいんだわ」

 

「やばい賭け事?」

 

「ああ。オレも小耳に挟んだ程度だけれどな。青の死神とこの街最強の暗殺者、スノウドロップが一騎打ちを始めるらしい」

 

 その言葉にリオは震撼する。何がどうなってそのような事態に進展するのか。全く理解が出来なかった。

 

「何で……。ハムエッグとアーロンさんは不可侵条約を結んでいるんじゃ」

 

「そんな条約なんざ、端から役に立たなかったのかもな。あるいはどちらかが反故にしたか。どちらにせよ、今夜の街は危ないから客引きなんて呑気な真似している場合じゃねぇのよ。路地番として、裏路地のほとんどを封鎖しなけりゃならん。お前も手伝え」

 

 どうして封鎖しなければならないのか。リオが不思議そうにしていると、「あのなぁ」と路地番の男は声にする。

 

「スノウドロップと青の死神がマジに殺し合ったとする。その場合、一番に被害に遭うのは裏路地なんだ。そんな時によ、一般人が裏路地に入ってみろ。何人死ぬのか分からない」

 

 そのための路地番か。リオは得心すると同時に解せない部分があった。

 

「何で、最強の殺し屋とそんな状態に? おれなら絶対回避したいですけれど」

 

「てめぇの意見は聞いてないっての。とにかく、お歴々も集って今宵は危ない賭け事に夢中ってわけだ。誰が持ち込んだ企画なのかも分からないがな。命知らずだぜ、こりゃあよ。青の死神の本気が見られるかもしれないな」

 

「本気って、アーロンさんはいつも本気じゃ」

 

 路地番の男は胡乱そうに振り返り、「何をもって本気だと思ったのか知らないが」と言葉を次ぐ。

 

「あの波導使いが一度だって本気を出したところを、オレは見た事がねぇ。そりゃ、何度も路地番としてはお世話になっているし懇意なお客さんだけれどな。そいつの本気なんて見た事がないんだ。そりゃヤマブキの人々は集って面白がるぜ。今日は祭りだってな。青の死神の本気を見るのに、スノウドロップほど適した相手はいないだろう」

 

 リオにはスノウドロップと呼ばれている暗殺者がどれほど強いのかも分かっていない。

 

「あの、スノウドロップってハムエッグの擁する暗殺者ですよね? まだ歳も十歳前後って聞きましたけれど」

 

 経験の差でアーロンに敵うはずがないのではないか。その疑問に男は震え上がって応じる。

 

「馬鹿野郎。暗殺者ってのは経験じゃないのさ。素質だ。スノウドロップは生まれながらに殺し屋だ。ナチュラルボーンキラーさ。それを見透かしたハムエッグの慧眼には参るぜ。当時六歳かそこいらだった薄汚れたガキを一流の殺し屋に育て上げた。あのスノウドロップは見た目も精神もまだガキだが、中身は下手に経験積んだ殺し屋よりもなお恐ろしい。言っている事、分かるか? つまるところ、真に恐れるべきは無垢だ。狂気だとか、殺人鬼だとかそういうんじゃ断じてねぇ。殺しに関して言えば、何も感じないという事こそが最も恐れるべきなんだ。……まぁ、これも受け売りだがな。新入り、悪い事は言わない。客引きやめて、今日は路地番に専念だ。あと一つだけ。絶対に路地の中で展開される事に深入りするな。今日は特に、だ。路地の裏でたとえビルが崩落しようが人間の叫び声がしようが、全く、聞こえない振りを貫け。そうじゃなきゃお前の首がこれだ」

 

 男は掻っ切る真似をして複数の路地を管理する端末を取り出した。自分の部下達に報告しているのだろう。リオはどうしてアーロンほどの人物が向こう見ずな行動に走るのかがどうしても気になった。それほどまでに分かっているのならば絶対に愚を冒すはずがないのだ。

 

「すいません。おれ、ちょっと」

 

 駆け出すと背中に男の制止の声がかかったが構わない。もしかしたらとてつもない間違いの上にこの戦いが繰り広げられようとしているのではないか。リオは感覚的に古巣の通信機を取り出していた。プラズマ団内部での暗号通信を可能にする機器だ。

 

 声と認証IDを吹き込むと何と作戦概要が表示された。

 

「青の死神、波導使いアーロンによるMi3の捕獲作戦。及び、このヤマブキシティの真価を試すためにスノウドロップと呼ばれる暗殺者を引きずり出す……。これって、つまり、プラズマ団が糸を引いているって事なのか?」

 

 問いかけても表示内容は変わらない。リオは馴染みのあったプラズマ団員に片っ端からかけてみた。ほとんどが前回アーロンに殺されていたのだが何人かは別働隊として生き残っているはずだ。そのうちの一人が捕まった。

 

「もしもし!」

 

『リオ、なのか……。てっきり前回の作戦で死んだものかと』

 

 仲間も幽霊からかかってきたのだと思っているのだろう。リオは声を張り上げた。

 

「そんな事はどうでもいい! 今回の作戦、何なんだ! アーロンさんとスノウドロップをぶつけるって」

 

『作戦概要を読んだのか。言葉通りだよ。Mi3の捕獲をアーロンに依頼し、その途中で障害になるであろうスノウドロップの実力を見る。前回、プラズマ団が率先して動いたせいでこの街に弾かれてしまった。今回は街の内部同士で潰し合いを行わせてから無事にMi3を取る、という寸法さ』

 

 メイの身柄を中心に回っているというのか。リオは、「おかしいだろ!」と叫ぶ。

 

「メイ……Mi3はプラズマ団の中核って言っても、今はそれほど重要じゃない。監視レベルだったはずだ。何で今!」

 

『……状況が変わったんだ。本国ではプラズマ団は既に解散し、もう跡形も残っていない。カロスやシンオウに高飛びした仲間からの定期通信を待っているがそれも微妙だな。だからカントーにおけるプラズマ団が動く事にした。それだけだよ』

 

「指揮官は誰だ? おれが直訴する」

 

 知っている人物ならば説得は可能なはずだ。しかしその淡い希望を通話口で打ち砕かれた。

 

『ヴィー様だ。Viシリーズの最新型。お前も知らなかっただろう。こっちだって最近分かったんだ。ヴィオ様がバックアップの肉体を保持していたなんて』

 

 意味が分からずリオは聞き返す。

 

「バックアップ? どういう事だ?」

 

『もう関わらないほうがいい。カタギになったんだろ? プラズマ団は蛇の道を行くんだ。ここから先はもう戻れない』

 

 通話が切られる。リオは慌ててかけ直したが繋がらなかった。

 

「おい待てよ! どういう事なんだ! バックアップとかヴィーとか……」

 

 力なく足を止め、リオは呼吸を整える。どこへ行けば、この状況を止められる? 転がり出した石とはいえ、どこかで歯止めが利くはずだ。考え得る限りの場所を模索し、リオはある結論に辿り着いた。

 

 これが正解だとは限らない。もしかしたらいたずらに被害を増やすだけかもしれない。だが、問わねば。そうでなければ状況に振り回されるだけだ。

 

 リオは顔を上げる。その視界の先にはハムエッグの経営するビルの外観が目に入っていた。この街の盟主、スノウドロップの飼い主へと自ら乗り込む。無謀に他ならなかったが、それ以外に状況を止められる術を知らない。

 

 リオはエレベーターに乗り込み、ハムエッグの待つ階層へと行き着いた。この場所にメイがいればまだ、と思ったがメイはおらずハムエッグだけがグラスを磨いている。

 

「おや、珍客だな」

 

「ハムエッグ……」

 

 初めて目にするわけではない。二度目だ。一度目は路地番の仕事を割り振られる際に面接を行った。だがまさか喋るポケモンがいるとは思わなかった。それにあまりにも人間臭い。その異常さがずっとついて回った。

 

「何かな? 言っておくが今日はもう閉店のつもりでね。下のダンスフロアも閉めているんだ」

 

「メイはどこですか」

 

 緊張に詰めた声にどうやら目的を悟ったらしい。

 

「……白馬に乗った王子様、というわけかい?」

 

 せせら笑うハムエッグへとリオは詰め寄る。

 

「どこへ行ったんです!」

 

 その叫びに入れ込んでいると読み取られたのだろう。「いけないなぁ」と声が返された。

 

「君は生き延びた側だ。もうこっちに来る必要性はあるまいに」

 

「路地番として一生を終えろ、という事ですか」

 

「それならば幾分か幸せだ、と言っている。君を路地番に推薦したのは、一番こういう有事に関わる事が少ない、と判断したからだ。わたしはね、割と合理的に君をそのポジションに据えた、と思っている」

 

 それは関わるな、という意味だろうか。リオは、「納得出来ない」と歩み寄る。

 

「ハムエッグ……さん。あなたはどこまで、彼らの運命を弄ぶんです?」

 

 辛うじて理性が働き敬称をつけられたがもしハムエッグがメイをプラズマ団に差し出すとでもいえばすぐにでも飛びかかる心積もりだった。ハムエッグは一瞥を投げて、「変わった男だな」と呟く。

 

「波導使いアーロンもそうだが、君もだ。どうして他人の人生まで引き受ける? 自分の人生だけでこの世は手一杯の人々ばかりだというのに」

 

 そう問われてすぐに返答出来ない自分がもどかしい。単純な答えを、単純なままに言ってはいけないのだとどこかで感じている。

 

「アーロンさんは、あの人は今どこに?」

 

「恐らくプラズマ団にはめられた事を知ってメイちゃんの身柄をすぐに確保する気だろう。だがもうスノウドロップのラピスを付けてある。戦闘は免れないだろうね」

 

「その戦いを! あなた方は祭りに仕立て上げようとしている! それがおれには理解出来ない!」

 

 本来ならば手を取って結束し、プラズマ団排斥に乗り上げるはずだ。だというのに、こんな時でさえもこの街の住民は頭のネジが飛んでいる。

 

 ハムエッグはフッと口元に笑みを浮かべ、「余人に口を挟める事じゃないさ」と告げる。

 

「ここから先に行きたければ、君こそ覚悟を決めるんだな。この街の住人になるか、あるいは傍観者のポジションを貫くか。路地番の仕事はそれが出来ると言っている。自ら射線に飛び込むような真似をせずとも生きていける場所だ。だというのに、君は射線に飛び込んで弾丸を一身に受ける心積もりをしている。わたしにとってはそっちのほうが理解に苦しむよ」

 

「アーロンさんだって同じです」

 

 リオの返した声に、「一理ある」とハムエッグは笑った。

 

「アーロンも、彼も同じだ。メイちゃんを放っておけばいい。炎魔シャクエンを殺せばいい。瞬撃のアンズも、殺せた。だというのに、君と彼はどうしてだか似ている。意味のない選択肢を取って自分の居場所を雁字搦めにしたいのか? 彼は一介の殺し屋にしては心があり過ぎているよ」

 

「それが、本当の悪魔であるこの街の住民と、アーロンさんを分けるものです」

 

 ハムエッグはその言葉を聞いて肩を震わせる。まさしく滑稽だと言わんばかりに笑い声が木霊した。

 

「悪魔。この街を悪魔と形容するか。だが悪魔の腹に棲む我々は何だ? 寄生虫のように悪魔から養分を吸い上げて生きている我々は」

 

「言って欲しいんですか。卑しい、と」

 

 リオの容赦ない声にハムエッグはグラスを置いて前の席を顎でしゃくった。

 

「かけたまえ。君とは一度、じっくり話をしたいと思っていたんだ」

 

 リオは望むところだと席につく。カウンターでハムエッグが酒を選別した。

 

「何を飲む? ウオッカでも飲むかい?」

 

「ミックスジュースで。しらふじゃないとこの後、何が起こっても対応出来ない」

 

 あくまで譲らないリオの声音にハムエッグは、「強がるねぇ」と声にする。自分のグラスにウオッカを注ぎ、リオのグラスにはミックスジュースを注いだ。

 

「乾杯しよう」

 

「このクソッタレな街に、ですか」

 

 乗り気ではないリオにハムエッグは丸い目の中に喜色を浮かべ、ウオッカを舐めた。

 

「わたしの事をどう見ている? この街の盟主、スノウドロップの飼い主、どうとでもいい。君の忌憚のない意見が聞きたい」

 

「この街が生んだ悪性腫瘍」

 

 リオの迷いのない罵詈雑言にもハムエッグは微笑む。

 

「悪性腫瘍か。そりゃ手術の必要があるな」

 

「どうして、あなたは達観を決め込める? アーロンさんがスノウドロップを殺してしまうだとか、盟主の座を引き摺り下ろされるだとか思わないのか」

 

「思わないね」

 

 即答にリオが面食らう。その様子をハムエッグが面白がった。

 

「ちょっとした昔話をしようか。とあるポケモンの話だ。そのポケモンは、あるトレーナーからあらゆる学問を教わった。元々ポケモンの脳が人間より劣っているという論拠はない。だからあらゆる言語、学術、戦略など、そのトレーナーの持てる全てのものをつぎ込んだ。その結果、そのポケモンはとても賢くなった。ポケモンの単位での賢さではない。もう、それは一人の人間だと言っても過言ではなかった。……しかし、その賢明なポケモンを育て上げたトレーナーは恐れた。何をだと思う?」

 

 リオは押し黙っていた。ハムエッグは結論を口にする。

 

「論理の逆転、つまり支配構造が変わる事だ。このポケモンがもし、今の自分達の境遇に疑問を持ったらどうなる? ポケモンを指揮して人間に反旗を翻しでもしたら? 空恐ろしくなってトレーナーはとある場所にポケモンを捨てた。逃がしたではなく捨てた、と形容したのは、その場所が正真正銘ゴミ溜めだったからだ。ポケモンは理性を得て、獲得した知能を生かす機会を一切得られない、場末に放り投げられた。そこからそのポケモンは旅をした。あらゆる場所を巡り、時に同じポケモンと出会って共に生きようとも告げたが聞き入れられなかった。何故ならば、そのポケモンはあまりにも人間じみていた。人間臭かった。もうポケモン同士でさえも同朋だと思えないほどに、人間の文化に染められていたんだ。同じ種族でも隔絶があった。違うポケモンならなおさらだ。住処を追われ、どこにも永住出来ず、そのポケモンはポケモンが住まう場所とはまるで正反対の、都会を目指した。雑多な都会ならば、自分のような異端は気にされない事だろう。それよりも、ポケモンの中には野心が芽生えていた。いつか、必ず、支配されるではない、支配する側に回るのだと。その時には一切の慈悲を捨て、全ての事象をコントロールするつもりで臨むのだと。ポケモンはとある都会で自分の知識を生かして顔を隠し、ある実業家として再スタートした。するとどうだろう。ポケモンでなく、人間として生活するほうが肌に合っていた。声と指示だけで億単位の金が動くマネートレードの舞台で、ポケモンは輝いた。それと同時に決して相容れないであろう事は理解出来てしまった。これは自分がポケモンである事を隠しているから成功しているだけだ。この顔と経歴を晒して、同じように接してくれる人間がいるか? 同じように操れる人間がいるか? ポケモンは新たなる名前を得て都会の盟主とまで呼ばれるほどになった。そこまでになるともう顔を隠す必要もなかった。ポケモンだと明らかなっても、相手側の態度は変わらなかった。その時にようやく理解した。この世は金と知略、弱いものは這い蹲り、強いものが勝つ。その真理に。ポケモンはある日、街を出歩いているととても弱々しい存在を見つけた。今にも消え入りそうなポケモンと幼い人間の少女。本能的な部分で、彼女らは人殺しをしてきたのだと判じた。だがもう、そのポケモンに人殺し程度の恐れはなかった。マネーゲームでは時に人が死ぬ。それを数値の向こう側で、あるいは翌朝の新聞で知る。この世に人の安住もなければポケモンの安住もない。皮肉な事に元のトレーナーが恐れた支配構造の逆転よりも、そのポケモンが行き着いたのは支配に甘んじる事こそが最も支配構造を理解している、という事だった。弱々しいポケモンと少女を引き取り、そのポケモンは誓った」

 

「何を?」

 

 リオの質問にハムエッグはウオッカを舐めて答える。

 

「新世界を見せると。支配構造の逆転のつもりはない。むしろ、その真逆だ。この世の支配構造は既に出来上がっており、その出来上がった基盤を崩す事はたとえ当人がポケモンでも人間でも不可能なのだと。現に、ポケモンだから、という理由で引き摺り下ろそうとしてきた人間は数多いが、一度として成功しなかった。それはこちらの持つ圧倒的な金の力と、その少女が潜在的に秘めていた殺人の力によるものだった。自らの手は一切汚さず、全て数値と文字の上で計略を図り、事象を支配する。それこそが最も恐ろしいのだと。……話し過ぎたかな」

 

 ハムエッグはウオッカを呷った。言いたい事は分かる。それに伝えたい事も。

 

「あなたが今回、スノウドロップを回したのも全て、世の摂理がそう告げただけだと言い逃れするつもりか」

 

「言い逃れ? 違うな。わたしは一度として勝負を逃げた事はない。今回、スノウドロップ、ラピスをやったのはわたしとしては最大限の干渉だ。本来ならばメイちゃんの護衛なんてつけないほうが正しい」

 

 それはその通りだ。ハムエッグが動かなければこの街の馬鹿騒ぎは始まらなかった。

 

「でも、だとしたら余計に性質が悪い。分かっていて、スノウドロップというカードを切ったのか」

 

 鋭く睨んでやるがハムエッグは意に介さず、「切り札を切るタイミング如何で、未来は大きく変わる」とどこからともなくトランプを取り出す。

 

「わたしは今回、最低限の干渉で最大限の利益を得るつもりだ。それに何の間違いがある?」

 

 間違いはないかもしれない。ハムエッグの目指す未来も正しいのかもしれない。

 

 だが、とリオはグラスを握り締める。そうであるとするならばアーロンが救われない。メイもそうだ。

 

「……あなたの計略の上だけで、人間が動くと思わない事だ」

 

「忠告かね?」

 

「いいや、警告だ。人間はあなたが思うほど金と欲望にまみれていない」

 

「そうかな。しかしこれを見るといい」

 

 ハムエッグが端末を差し出す。そこには注がれている金が表示されていた。既に賭け事は始まっているのだ。この街を牛耳っているお歴々か、あるいは他の実業家か、スノウドロップ対青の死神の行く末がもう賭けに入っている。

 

「やめさせろ!」

 

 立ち上がってカウンターを叩いたがハムエッグは頭を振った。

 

「もう遅い。これを止めたければわたしと長話するよりも資本家達を殺したほうがよかったな。賽は投げられた、という奴だよ。青の死神とラピスの殺し合いが始まる」

 

 リオは掴みかかろうとしたがその体躯に似合わない速度でハムエッグがするりとかわし、反射的に飛び出した拳で突き飛ばされる。カウンターを転がり落ち、リオは後頭部を打った。網膜の裏で星が弾ける。止めたければこんなところでハムエッグを相手取っている場合でもない。しかし、リオは決着をつけたかった。ハムエッグという因縁から自分ははみ出すのか、あるいはこのまま支配を甘んじるのか。

 

「おれは! まだその他Aになるつもりはない!」

 

 張り上げた声と共に拳を振り上げるが虚しく空を穿つ。そればかりか返された弾丸のような拳が鳩尾にめり込んだ。肺から根こそぎ空気を抜き取られる。リオはまたしても不格好に転がり、激痛に呻いた。ポケモンの攻撃だ。人間の耐えられるように出来ていない。

 

「もっと賢しいのだと思っていたよ、リオ君。メイちゃんの身柄一つでこの街を敵に回すか。盟主であるわたしに逆らってまで、この戦いを止めたいのか」

 

 圧倒的な現実を突きつけられた。盟主、この街の実権支配者。だからこそ出来る。まだ戦いを止められる。

 

「……やめさせてくれ。賭け事を! 馬鹿共の狂乱を止められるのは、あなたしか!」

 

「言っただろう? 賽は投げられた、と。同じ事を言わせないでくれ。もうわたしでも止められないところにある。街の実権支配がわたしの役目だが、それを上回る速度で街は成長する。今まさに、世紀の大決戦を待ち望んでいる人々に冷水を浴びせろと? それは無粋というよりも不可能の領域だ。誰か一人でも賭け事を止めない人間がいる限り、この戦いに価値は宿る。金銭という分かりやすい観念にまで落とし込んで、殺し屋対殺し屋を見たがっている人々がね。そういう輩がいるって事を、君は理解しなくては」

 

「理解なんて、端からしたくもない」

 

 全てを否定してでもこの戦いを止める。リオの瞳に宿った決意にハムエッグは嘆息を漏らす。

 

「……どこまで馬鹿になれる? いや、お人好しか? そうまでして君がこの戦いに賭けるものは何だ? 言っておくが殺し合うのはラピスとアーロンだぞ。メイちゃんに被害は及ぶまいし、この街も明日からはいつも通り、何事もなかったかのように動き出す。血肉を啜っている殺し屋が、ただ単に殺し屋の――まぁ力量の差はあるが、喰い合いに参加するだけだ。喰い合いに君は関わる必要性はないし、どうしたって不都合不合理だ。何をもって、君はこんな一時の享楽を止めようとする? そこまで正義にこだわりたいのならばもっと別の仕事をあげようか?」

 

 ハムエッグの挑発にリオは乗らなかった。ここでハムエッグ相手に揉み合いをしていたところで仕方がない。

 

「……おれは、行きます」

 

「どこへ行く? アーロンとラピスが交差するその起爆点にか? 死人が出るから路地番があり、路地番はその間何が起ころうと秘密を守る。君の仕事だって意義がある事じゃないのかな?」

 

「一時の感情で動いているように見えるでしょう?」

 

 ハムエッグは口角を吊り上げる。

 

「ああ、ちょっと意外だね。もっと冷血漢かと思っていたが」

 

「案外、おれも馬鹿だった、って事ですよ」

 

 自嘲し、リオはハムエッグの下を立ち去ろうとする。ラピスとアーロンのぶつかり合いに真正面から行けば死ぬだけだ。だが分かっていても歩みは止められなかった。

 

「リオ君」

 

 呼ばれて振り返ると紙袋に入った何かを投げつけられた。「護身用だ」と言い添えられたそれは拳銃が入っていた。

 

「撃ってもいいと?」

 

「勘違いしちゃいけないな。最後の手段に自分の死に様くらいは選ばせてやろうという心だよ」

 

 つまり自殺用か。リオは、「借りていく」と紙袋を手にエレベーターを降りた。

 

 行く先は一つ。

 

 この街で巻き起ころうとしている馬鹿騒ぎの爆心地であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「何が悲しくって、死のうとするのかね」

 

 ハムエッグは一人取り残されて呟く。

 

 路地番の仕事はただ秘密を秘密のままにしておけばいい。路地の裏で起こった事には一切干渉せず、何にも心を揺さぶられないただの置物になればいい。一番考えなくていい仕事を与えたはずだったが。

 

「リオ君、君は昔のアーロンに似ているね。アーロンも昔はそうだったんだよ」

 

 もうここにはいないアーロンとリオに語りかける。いや、今もアーロンは不合理と戦い続けているのかもしれない。その証拠がメイやシャクエンだろう。

 

 炎魔の存在を容認し、メイという足枷を無視し、瞬撃を抹殺すれば、何一つ変わらない日常でいられたのに、アーロンもどうしたのか。一人でいるのが寂しくなったわけでもあるまい。

 

「こういう不合理を抱え込まなくっちゃ生きていけないのがヒトなのか? だとすれば、ヒトというのはとても不便だな。ポケモンの身体が、今ほど愛おしい事はないよ。銃弾も通らず、価値観にも感傷にも流されない、この無感動な身体がね」

 

 いや、ほとんどの人間は不合理を合理的と解釈して通り越すだろう。彼らは特別だ。特別に馬鹿なのだ。

 

「馬鹿が馬鹿の作り上げた馬鹿騒ぎを止めにかかるか。だが、間に合うまい。リオ君。君は何よりも自分の至らなさを思い知る。アーロン。仕事相手は選ぶべきだな」

 

 ハムエッグは端末に表示されるレートと参加している出資者達の名簿を確認する。

 

 どれも大企業に名を連ねる幹部連だ。お歴々の名前もある。それだけこの一戦に注目する度合いが強いのだろう。

 

「さて、人間は人間同士、痛みを食い合ってどこまでいけるのか、この哀れなポケモンに見せてくれよ」

 

 そう呟いたハムエッグは自分でも驚くほどに人間じみた声音だった。

 

 



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第四十九話「キリングマシーン」

 

「ちょ、ちょっとラピスちゃん!」

 

 声にするとラピスは立ち止まった。先ほどからメイの手を引いて案内するラピスだが徐々に裏通りに入っているのが分かる。それも深部であった。

 

「こんなところ、来た事ないよ……」

 

 呟くとラピスは、「大丈夫」と告げる。

 

「ラピスだって滅多に来ないから」

 

 それは大丈夫ではないのではないか。返そうとするとシャクエンがメイの背後を守るように背筋を当てる。

 

「メイ。どこから波導使いが来てもおかしくはない」

 

 シャクエンの戦闘本能は本物だろう。しかし、どこから。メイは空を仰ぐ。どこにもそれらしい影はないではないか。

 

「アーロンさんが来たって、プラズマ団にそそのかされたんでしょう? だったら、話し合いで――」

 

「もうそういう領域じゃなさそうだけれど。あたいの見る限り、ここいらの殺気の渦がスゴイよ」

 

 アンズが張り詰めた声を出す。どこに殺気など渦巻いているというのか。メイは、「早く、表通りに出れば」とラピスの手を引こうとした。

 

「表通りなら敵同士で戦わなくっても」

 

 メイの淡い期待を打ち砕くようにラピスは頭を振る。

 

「もう手遅れ。――来る」

 

 何が、という主語を欠いたままの言葉にラピスがモンスターボールを手に取った。そのまま真上に放り投げる。

 

「出てきて」

 

 ラピスの声に導かれ出現したのは白い鬼であった。そう錯覚するほどに充満した雪の結晶が砕け散って様々な位相を示す。白い鬼が吼えて自身の周囲に展開した凍結領域を弾き飛ばした。眼が赤く染まっており、既に戦闘の気配を漂わせている。

 

「ユキノオー」

 

 ユキノオーと呼ばれたポケモンは新緑の色を引き移した両腕を払う。それだけで眼前のビルが下層から凍り付いてゆく。凍結が可視化されてビルを覆い尽くした瞬間、内部から破砕された。

 

 今の攻撃がラピスの持つユキノオーの力なのだろうか。メイの視線にラピスは肩越しに振り返って口にする。

 

「すぐ終わるからね、お姉ちゃん」

 

 その声音は平時のものであったが、あまりにも現状からかけ離れていて現実から遊離したもののように思えた。

 

 ビル一つを凍結攻撃で破壊した直後、倒壊の風圧が煽り、宙に浮かぶ影を映し出す。

 

 青いコートを風にはためかせ、帽子を目深に被った男がユキノオーの凍結領域に入った。

 

 アーロンだ、と認めた瞬間、メイは叫んでいた。

 

「避けて!」

 

「遅い、吹雪」

 

 瞬間的に風力が増した。白い闇に掻き消され、アーロンの姿が立ち消える。まさか、という予感があった。今の攻撃だけでアーロンは死んでしまったのではないか。

 

「アーロンさん!」

 

「ユキノオーの特性は雪降らし。霰状態を作り出し、吹雪は必中。この状態で、生きている確率は」

 

 ラピスの声音を遮ったのは雷鳴だった。一筋の青い電流が「ふぶき」の白い闇を切り払い、割れた視界の中に波導を纏った暗殺者の姿を顕現させる。

 

「うるさいぞ」

 

 その声が思いのほか平坦だったのが意外だった。焦るでもなく、この勝負に頓着している風でもない。ただ、うるさいと思っただけのような。

 

「う、うるさいって何ですか!」

 

 思わず言い返すがラピスが手で制する。まだ勝負がついていない、とでも言うように。

 

「スノウドロップのラピス・ラズリ。俺を殺せと言われたか?」

 

「お姉ちゃんを守れ、と」

 

「その用ならば合い争う必要はない。俺はそいつの無事を確認出来ればよかった」

 

 戦闘の気配はない。思っていたよりも早く丸く収まるか、と一瞬期待した。だが、シャクエンが舌打ちする。

 

「駄目だ。アーロン、既に」

 

 その言葉が消える前に直下から凍結の腕が伸びる。くわえ込もうとした凍結領域を電気ワイヤーで別のビルに飛び移って回避する。ラピスは迷いなく宝石の眼差しを向けている。

 

 迷いのない敵意で。

 

「そんな……。ラピスちゃん! アーロンさんは、戦う気はないって」

 

「この領域に入ってきた以上、もう戦わない選択肢はないんだよ、お姉ちゃん」

 

 ユキノオーが咆哮する。霰が包囲陣形を整えてアーロンを追尾した。ビルに飛び移った途端、またしても猛吹雪の中にアーロンは立たされる。

 

「飛び移らせるような時間はかけさせない」

 

 瞬時に凍て付いたビルが内部から破砕する。粉塵さえも凍り付き、煤けた風がそのまま細やかな刃となってアーロンの身を襲った。アーロンは電撃で弾き落とすがいくつかは確実に命中したはずだ。

 

 メイはラピスの手を引いた。

 

「ラピスちゃん! これ以上は、もう!」

 

 しかしラピスは答える様子もない。アーロンに敵を見る目を向けたまま次の包囲陣を組もうとする。氷柱が瞬間的に構築され、アーロンの眼前に四つ展開された。幾何学の軌道を描きアーロンに突き刺さろうとする。

 

 電気の皮膜が青く輝き、氷柱を撃墜するがあまりにも速い攻撃の手に追いついていない。アーロンの肩口へと深々と氷柱が突き刺さった。血の一滴でさえも落とさせず、血飛沫を凍らせてアーロンへと追撃ダメージを加える。

 

「やめさせて! シャクエンちゃん! アンズちゃん!」

 

 もう自分ではどうしようも出来ない。そう判断しての声だったがアンズとシャクエンは揃って慄くばかりだった。

 

「……無理。もうスノウドロップは戦闘モードに入っている。これを解除するのは、同じ暗殺者でも、無理」

 

 シャクエンは苦渋を滲ませた声音で返す。アンズは、と目線を向けたが彼女はまずこの状況についていけていない。

 

「……スノウドロップ。特A級の暗殺者だとは聞いていたけれどここまでとはね。メイお姉ちゃん。もうあたい達の声、聞こえていないよ」

 

 ラピスは集中してユキノオーの凍結を制御している。一手でも多くアーロンを疲弊させる事しか考えていなかった。否、疲弊など生ぬるい。

 

 ――殺す事しか、考えていない。

 

 その在り方にメイは恐怖する。ここまで暗殺に特化した人格が何故作られたのか。普段は幼い少女なのに、何が彼女をそうさせるのか。

 

「もう、マインドセットだとか、そういう段階を超えているよね……。ラピス・ラズリは殺戮兵器だ」

 

 アンズの断じた声にメイは言い返していた。

 

「違う! ラピスちゃんは、殺戮兵器なんかじゃ……」

 

 そこから先の声を発する前に高周波が耳を劈いた。次々と周辺のビルを氷の虜にするラピスの攻撃は絶え間なく変化を繰り返す。「ふぶき」だけを固定装備として持っているわけではない。絶えず変化し続ける戦況において相応しい武器を取捨選択するだけの……そういう「概念」に近い。

 

「ラピスちゃん……」

 

 もう自分を守る、という言葉をも忘れているようだった。ラピスはただ、アーロンの存在を一片でも消し去るためにユキノオーに攻撃を命じ続けている。接近を一切許さず、凍結の腕でアーロンを虫けらのように払い除ける。

 

 見ていられなかった。

 

 メイはラピスの視界を遮るように前に出る。

 

「メイ!」

 

「駄目! メイお姉ちゃん!」

 

 シャクエンとアンズの声が相乗するが構いやしなかった。ラピスを止めなければ、この戦争は終わらない。

 

「ラピスちゃん! あたしは、もう大丈夫だから!」

 

 しかし声は聞こえていない。ラピスは手を払ってアーロンを叩き潰そうとする。

 

 こうなってしまえば方法は他になかった。

 

「ラピスちゃん!」

 

 振るった張り手がラピスの頬を捉える。

 

 その瞬間、全ての音が消えた。

 

 凍結の腕によるビルの破砕も、霰と吹雪による轟音も、電撃の干渉音も。何もかも消え去った無音地帯の中心でラピスは張られた頬に手を当てた。

 

「……痛い」

 

「ラピスちゃん。もういいよ……、もういいから……」

 

 アーロンさんを傷つけないで。

 

 ラピスの手を握って懇願する。もう誰も傷つけたくないのに。ラピスは完全に呆気に取られているようだった。頬をもう一度さすり、「痛かった」と呟く。

 

「ゴメンね。痛かったね。でも、それくらい、あたしにとっては嫌だった。ラピスちゃんとアーロンさんが殺し合うなんて、絶対に……」

 

 あってはいけないのだ。メイの心の訴えにラピスはおぼつかない声で返す。

 

「何で、お姉ちゃんが泣いているの?」

 

 涙が頬を伝っていた。これ以上、大切なものを失いたくはない。その心が熱く染み渡る。

 

「分かんないよ、あたしだって……。でも、嫌だから」

 

 嫌だから、としか説明出来なかった。嫌だから泣いているのだ。涙が止め処ないのだ。

 

「嫌だから……。それはお姉ちゃんが、ラピスを嫌いになったから、って事?」

 

 小首を傾げる小さな暗殺者にメイは、「違うよ」と声にした。

 

「嫌いになんてならない。大好きだから、嫌なんだよ……」

 

「大好きだから……」

 

 ラピスは繰り返す。理解出来ない感情とでも言うように。

 

「ラピス、大好きなものはもう全部どこかに行っちゃったから。もうこの世界に大好きなものなんて一個も残っていない。だから奪える。いくらでも、何にでもなって。ラピスは主様のために……」

 

 その手をメイは自分の胸元に当てた。ラピスが目を丸くする。

 

「お姉ちゃん?」

 

「じゃあ、あたしも嫌いになった? あたしの命も奪えるの?」

 

 ラピスは押し黙った。まるで小さな悪戯をいさめられたように声をなくす。

 

「……分かんない。ラピス、お姉ちゃんの事、どう思っているかなんて」

 

「あたしは大好き。ラピスちゃんが、大好きだよ」

 

 メイの言葉にラピスは目を見開く。「でもね」と言葉を続けた。

 

「同じくらい、アーロンさんも大切。だから、殺し合いなんてやめて。こんなラピスちゃん、見たくないよ」

 

 ラピスは目を瞠ったまま自分の手を眺める。紅葉のように小さな手。何かを殺す事なんて一生出来ないような掌。

 

「ラピス……もう分からない。主様は殺すしかないって言っていた」

 

「それ以外の道を行こうよ。もう、殺すだなんて」

 

 言わないで欲しい。ラピスにはただ純粋に笑っていて欲しい。メイの主張にラピスは顔を伏せた。

 

「分かんない、分かんない、分かんないよ……。何が正しいの? 何が間違いなの? 教えて主様……。あの日、教えてくれたように。新世界を見せてくれたように。ラピスに教えて……」

 

 ラピスの訴えかけにメイは唖然とする。彼女ももしかしたら分かっていないのではないか。どうして殺し合いなんて事に巻き込まれているのか。どうして人殺しをしなければ生きていけなくなったのかを。その清算を、一個も済ませないままここまで来てしまった。戻れないのは彼女も同じだ。

 

「ラピスちゃん。でも、もう殺し合いなんて……」

 

 やめよう、と言おうとしたその時だった。

 

 背後に降り立った人影がメイの肩を掴む。冷たい声が弾けた。

 

「動くな。動けば波導を切って殺す」

 

 振り返る。

 

 身体の至るところに凍結の刃を突き立てられたアーロンが佇んでいた。壮絶なその面持ちからは一つの物事の帰結しか見出せない。

 

 ――この人は自分を殺そうとしている。

 

 メイはその眼差しの前に動けなくなってしまった。ラピスが咄嗟に手を払い、声にする。

 

「ユキノオー、ウッドハンマー!」

 

 ユキノオーが新緑の腕を振るい上げる。腕が拡張し、巨大な樹木の槌を作り上げた。その槌を振るい落とす。アーロンは右腕を掲げて声にした。

 

「ボルテッカー」

 

 ピカチュウから放たれた青い電流の塊が弾け飛び「ウッドハンマー」を構築したユキノオーの腕を払い除ける。一瞬だった。青い電流がのたうった一瞬でラピスを抱えてユキノオーが飛び退る。

 

 先ほどまでユキノオーがいた場所を雷が撃ち抜いていた。

 

 メイには何も出来ない。呼吸でさえも。

 

 アーロンに身体を引かれて後退した事だけは分かった。しかしそれが事態の好転に繋がらないのは離れたユキノオーとラピスの眼を見れば明らかだ。

 

「波導使い……」

 

 忌々しげに放たれた声はラピスのものとは思えなかった。アーロンはメイを抱えたまま、「動くなよ」と脅す。

 

「動けば波導を切る。三度も言わせるな」

 

 再三の通告はラピスに戦闘をやめさせるためだとメイは最初思っていた。だがラピスの顔が険しくなり、シャクエンとアンズが色を失ったように青ざめたのを目にしてこれは全くの真逆なのだと思い知る。

 

「炎魔と瞬撃もだ。お前らも動くな」

 

 メイにはわけが分からない。わけの分からないままアーロンの声だけが耳元で弾ける。

 

「……アーロンさん?」

 

「お前も余計な事を言うな。殺すぞ」

 

 押し殺した声には本気の色が混じっている。この殺し屋は本気だ。本気で自分を殺すつもりなのだ。

 

 そう悟った時全身から力が抜けた。

 

 虚脱状態に陥ったメイをアーロンが引っ張る。

 

 ユキノオーの凍結が空間を奔りアーロンを捉えようとするが既に遅い。白い靄が形状を成して噛み砕いた空間を跳び越えて、アーロンはビルへと駆け込んでいった。

 



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第五十話「淡い夢」

 

「逃がした……」

 

 発せられた声はスノウドロップ、ラピス・ラズリのものだった。先ほどまでメイと言葉を交わしていた幼い少女のものではない。

 

 分かり合えるかもしれない、とシャクエンは一瞬だけ期待してしまった。メイならばこの状況をどうにか出来るかもしれないと。だが事態は最悪の方向に転がりつつある。

 

 ラピスが手を払うとそれと同期してユキノオーが吼えて八つ当たり気味の凍結をビルに放つ。それだけでビルが樹木のように断ち割られる。

 

「あの殺し屋……! ラピスの……、ラピスのお姉ちゃんを……!」

 

 怒りに滲んだ声が吹き抜けてシャクエンは空恐ろしくなる。こんな魔物を放ったハムエッグも正気ではない。加えて以前自分はこれと戦うかもしれなかったのだ、という思いがシャクエンの足を止めた。一歩も動けない。

 

「嬲り殺す」

 

 その意味も分かっていて言っているのかまでは問い質せなかった。ユキノオーを引き連れて、最強の殺し屋がヤマブキの裏通りを次々と氷の渦に落としてゆく。炎魔と謳われた自分でもこの殺し屋だけは相手取れない。止められない。

 

 だが止めなければ、事態はもっと悪くなる。それこそ憎しみ合いの連鎖だ。今ならばまだ誤解で済む。

 

 誤解を解くのは今しかない。

 

 自分の身を挺してでも、メイの潔白とアーロンの無実を訴えかけなければ。

 

 手を繰って〈蜃気楼〉を呼び出そうとする。この空間においては〈蜃気楼〉でさえも自由ではないようだ。凍結領域を目の当たりにした自分の手持ちは恐怖していた。

 

「怖い……? でも、私もだから。〈蜃気楼〉、出てきて」

 

 空間を歪ませて〈蜃気楼〉が飛び出す。シャクエンはそのままスノウドロップの後姿へと声を投げようとした。

 

 その時、震え始めた自分の手に違う体温が添えられる。

 

 アンズだった。彼女は何か声を発するでもない。ただシャクエンの目を見据えて首を横に振る。

 

 ここでラピスに立ち向かうのは自殺行為だと告げていた。

 

「でも……、でもメイが……」

 

 この白い闇の向こう側に連れ去られてしまった。メイを守りたい。アンズは握った手に力を込める。

 

「炎魔のお姉ちゃんが考えている事は分かるよ。でも、でもね……! もう、戻れないんだって、何よりも自分で分かっているんでしょ」

 

 そう口にされれば俯いてしまう。勝てないのだと、ラピスを目にした時から分かっていた。同時にそれと戦う時は死ぬ時以外にないと。

 

 白い鬼と宝石の眼を持つ少女が凍結の手を緩めずにビルを進んでいく。その背中を一声、呼び止められればどれだけよかっただろうか。

 

 呼び止めるには勇気が足りなかった。

 

 何よりも、力が及ばなかった。

 

「……ゴメン、メイ」

 

 自分が強ければ、あるいは向こう見ずならば、スノウドロップの足を止められただろう。

 

 だがそれほどに何もかもを捨て切れないこの身は、凍てつく空気の中を滞留するしかない。

 

 心に残るのはただ一事。

 

 ――自分には救えない、という悔恨。

 

 せめて、とシャクエンは口を開いていた。

 

「波導使いアーロン。あなたは何故……」 

 

 そんな真似をするの。その言葉は風圧の中に掻き消えて行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……何で、あたしをラピスちゃんから引き離したんです」

 

 ようやく口を開けたと思えば恨み言が返ってきた。アーロンは廃ビルの一つに潜み、息を殺している。波導もほとんどゼロの値まで減らしていた。これを使う時は下策だと師父に言われていたが今はこれくらいしか身を隠す術を知らない。

 

「口を開くな。気取られる」

 

 波導の眼を使い、アーロンはどこまで接近されているかを読もうとしたが、砂嵐のようなものが走って阻害する。恐らくは霰を降らしている特性の影響だ。この天候では平時の波導が使えない。

 

 歯噛みして一歩踏み出そうとするとその手を掴まれた。

 

「どうして! ラピスちゃんから逃げるような真似をしたんです!」

 

 弾けた声のあまりの大きさにアーロンは指を立てた。

 

「しっ。声を出すなと言っている」

 

「納得出来ません! 何で、あたし達が逃げ回るような真似を? これじゃプラズマ団に屈したと思われてもおかしくないですよ! アーロンさんが敵だって、言っているようなものじゃないですか!」

 

 アーロンは接近の気配を探る。まだ声の届く範囲までは来ていないようだ。だが安心も出来ない。極力言葉を使わずにメイと会話するべきだったが彼女は喚き散らす。

 

「何で! こんな事するんです! プラズマ団なんて無視しちゃえば」

 

「うるさいぞ!」

 

 思わず言い返してしまった。メイは呆気に取られたように固まっていたがやがて涙目になった。

 

「何で……、こんな事に……」

 

「泣くな、喚くな、馬鹿。何をしてもこの状況は好転しない」

 

 気配を察知するためにいくつか罠を仕掛けておいた。そのポイントを波導で察知する。第一防衛線であった電気の網をユキノオーが破ったのを感知する。

 

「ここも危ない。必要最低限の言葉だけしか交わさないぞ。どうしてハムエッグのところなんて行った?」

 

 思わぬ言葉だったのだろう。メイは言葉を詰まらせる。

 

「……だって」

 

「だってじゃない。今回の大元はお前がハムエッグの保護下にあった事が問題なんだ。お陰で俺はプラズマ団にはめられ、ヤマブキの連中は俺とスノウドロップで殺し合いのショーを楽しんでいる」

 

 なんて様だ、と自嘲する。だが笑えないのは相手が本気で殺しに来ている事。それに恐らくは火に油を注ぐ真似をしてしまった事だった。

 

「……何で、逃げたりなんかしたんです」

 

「あの戦況で逃げなければ俺は殺されていたし、お前もいつスノウドロップが暴走して殺されるか分からなかった。まさか説き伏せられると思ったのか?」

 

「だって、ラピスちゃんはあたしの事、大切だって……」

 

「情を信じたか。だが、生憎スノウドロップにはそんなものは通用しない。いくら懐かれていても、スノウドロップは不安定だ。暴走すればそれこそお終いだったんだぞ」

 

 アーロンの迷いのない声に、「それでも!」と声を張り上げさせるメイだったが、言い返す言葉がないと悟ったのか尻すぼみになっていった。

 

「それでも……」

 

「俺とて、殺し合いに持ち込みたくはない。だがラピス・ラズリを説得出来る可能性と、俺がこうして逃げ回って事態を変えていける可能性を天秤にかけた場合、こちらのほうが優位に働いた。それだけだ」 

 

 アーロンは予め仕掛けておいた波導による探知装置が破壊されたのを感覚する。どうやらラピスは暴走寸前らしい。ほとんど前も見えていないのだろう。手当たり次第にビルを破壊して回っているようだ。

 

「でも、アーロンさん。ラピスちゃんに心はあるんですよ」

 

 メイが胸元でぎゅっと拳を握り締める。それはスノウドロップに近づき過ぎたニンゲンが感じる一種のまやかしだろう。

 

「心、か。そんなものを信奉して、俺に殺されろ、と言っているのか?」 

 

 アーロンの言い草に、「違う」とメイが返そうとしたがその前に声を遮る。

 

「何も違わないだろう。スノウドロップの選択肢は俺を殺すか俺に殺されるかしかない。だが少しでも時間を引き延ばせれば可能性は、と言っているんだ」

 

 その言葉にメイは顔を上げる。

 

「策が、あるんですか」

 

「策がなけれればお前を盾にはしない。そのほうが不合理なのは目に見えている」

 

 アーロンは静かに地面に手をつき、波導を感知する。このビル周辺の五十メートル以内には人はいない。最悪ビルを崩落させてラピスを巻き添えにする。その間に自分は張っておいた策がどこまで通用するかを試すまでだ。

 

「通信機は? 俺は何も持たずに来てしまったが」

 

 メイがホロキャスターを取り出す。それを引っ手繰ってアーロンはある番号にかけた。すると通話口で声がする。

 

『何だ、アーロン』

 

「プラズマ団の動きは?」

 

 出たのはカヤノであった。カヤノは、『芳しくないな』と応じる。

 

『どうにも、やっぱりスノウドロップの強さをはかりたいのと、お前を殺したいらしい。全く、とは言わないが動きを見せない』

 

「頼む。あんたの情報網でプラズマ団の尻尾さえ掴めれば形勢を逆転出来る」

 

 メイが息を呑む。そんな事が可能なのか、と言いたげだ。

 

『形勢逆転って……。んな簡単なもんじゃないだろ』

 

「かもな。だがプラズマ団は必ず、どこかで介入する。そうでなければこいつの情報を俺に開示した意味がない」

 

 その場合、プラズマ団は極秘情報を他人に教えた事になる。この街そのものが敵となればプラズマ団が窮地に陥るくらい前回の戦闘で理解しているはずなのだ。

 

「あたしの、情報……」

 

 メイの声を無視してカヤノに尋ねる。

 

「プラズマ団のどんな情報でもいい。これから数時間はこの電話にかけてくれ。俺は出来るだけ引き伸ばす」

 

『引き伸ばすって言ったってお前、戦っているのはスノウドロップだろう? そんな相手に引き伸ばしなんて通用するのかよ』

 

「安心しろ。猪突猛進だけが戦いではないさ」

 

 通話を切ってアーロンは第三の探知装置が破壊されたのを察知する。もうラピスはすぐ傍まで来ている。波導を切ってビルを崩落すべきか、と考えているとメイが声を差し挟んだ。

 

「あの、あたしの情報って、それってあたしが誰か、って事ですよね? 何でプラズマ団が? やっぱりあたし、おかしいんですか?」

 

 メイの興味に、「後にしろ」と厳しく振り向ける。しかしメイは追いすがった。

 

「あたし、やっぱりおかしいんですか? だから、メロエッタが……」

 

 どこまで知っているのかは知らないが、メイにこれ以上教えるべきではない、とアーロンは判じていた。今の状況では掻き乱すばかりだ。

 

「炎魔と瞬撃にどれだけ教えられたのかは知らないが、後にしろと言っている。でなければ、死ぬぞ」

 

「死んでも、自分が何者か分からないよりかはずっといい! アーロンさん、教えてください。あたしは……」

 

 何者なのか。その言葉の後半は涙声だった。コートを引っ張るメイの手を振り払い、「平穏に過ごしたいんだろう」と返す。

 

「なら、首を突っ込むな。お前が何者であろうと、いや、たとえ何者か分からなくとも炎魔と瞬撃と築いた関係まで消えるわけではあるまい」

 

「そこには、アーロンさんは含まれないんですか」

 

 幾ばくかの沈黙を挟んだ後にアーロンは口を開く。

 

「……敵が来る。そのような事にこだわっている場合ではない」

 

 メイの手を引きアーロンはビルの波導を読んだ。ピカチュウの電撃を通し、波導を切断してゆく。すぐさま空いている窓から飛び出し、隣のビルへと電気ワイヤーで飛び移る。

 

 直後に崩落したビルの粉塵が凍結していった。それを目にしたメイが震撼する。

 

「ラピスちゃん……!」

 

「諦めろ。もうスノウドロップに声は通じない」

 

 飛び移るや否や、メイが身をよじる。そのせいでバランスを崩しそうになった。

 

「離してください! ラピスちゃんが! あの子が呼んでいるんです!」

 

「目を覚ませ。暗殺者は誰の手助けも受けない」

 

「ラピスちゃんは殺し屋なんかじゃ!」

 

「まだ分からないのか!」

 

 思わずアーロンは声を荒らげていた。メイが硬直する。肩を引っ掴み、「暗殺者に、夢は要らないんだ」と声にした。

 

「余計な夢は、まだ戻れるのだという浅はかな希望になってしまう。暗殺者にとって何よりの毒はそれだ。どのような毒使いよりも、どのような恐ろしいポケモン使いよりも、なお暗殺者を殺せるのは一般人の希望なんだ。それがいかに暗殺者を、殺し屋を苦しめるのか、お前に分かるか? 誰かが一言、まだ戻れる、そっち側の人間ではない、と言うだけで……、淡い希望を抱いてしまう。それが、暗殺者を殺す、最大の毒だ。スノウドロップを、お前は殺したいのか?」

 

 言い過ぎたか、と感じつつもアーロンは撤回するつもりはなかった。メイは困惑して視線を逸らす。

 

「違う……、あたしは、そんなつもりじゃ」

 

「そんなつもりじゃなくってもそうなるんだ。そう聞こえてしまうんだ。優しい夢を囁いて、スノウドロップを殺し屋じゃなくさせるのは、今まで人殺しをしてきたスノウドロップを殺す事でもある。覚えておけ。暗殺者は、片面だけで生きているわけではない。両面があって初めてその人間たらしめるんだ。炎魔だって、お前の介入は危険だった」

 

 シャクエンの事を引き合いに出すとメイは戸惑って声を詰まらせる。

 

「でもあたし、そんなつもりじゃ……」

 

「そうでなくとも、お前の言葉は暗殺者を殺す。裏で生きている人間に夢は見せるな。殺し屋は、人並みの夢なんて見ないのだから」

 

 夢を見ないからこそ、現実と常に戦える。アーロンは振り返ってビルの崩落に巻き込まれたと思しきラピスを探した。波導の眼で感知しようとすると突然にビルを割った凍結の津波があった。アーロンはすぐさまコートを翻し、隣のビルへと飛び移る。先ほどまで自分達のいたビルが発生した氷の刃で切り裂かれていた。

 

「これは……、どうなっているんです!」

 

「ラピス・ラズリのユキノオー。その力の片鱗か。風圧を急速に凍てつかせてビル風でビル同士を干渉、自壊を狙っている」

 

「そんな事、普通は」

 

 分かり切っている。普通は出来ない。だがこの街最強の殺し屋ならば出来る。

 

 アーロンは舌打ちする。スノウドロップのユキノオーは見るまでもなく特別だ。あれとまともにやり合おうというのは間違っている。先ほどメイを攫うために近づいただけでも危うかった。

 

「お前を盾にしても、今さら許してくれそうもないな」

 

「分かっているのなら和解を」

 

「してどうする? もう殺す事しか見えていない相手だぞ? 降伏したところで待っているのは惨い死だけだ」

 

 先ほどまでの凍結攻撃もまずかった。氷の刃や氷柱の掠めた箇所からは確実に血が滲んでいる。これほどまでの相手は最早暗殺者、という括りでは生温い。

 

 あれは、殺戮兵器だ。

 

 人を殺す事にかけてはこれ以上ない最強の生物兵器。

 

「どう足掻いても分かり合えるとは思えない」

 

 ようやく射程外に出たかと思ったが、まだラピスのプレッシャーは健在だ。射程外など存在しないのか。アーロンはビルの波導を読んで切断する。再び崩れ落ちたビルで狙ったのは、ドミノ倒しのようにビル同士を巻き込んだ破壊方法だった。これで少しは時間を稼げるか、と考えたアーロンの意図を破り去るように視界の中でユキノオーが咆哮した。

 

 その咆哮だけで直線上のビルが射抜かれる。氷の弾丸が最大音響として放出された。しかも放出範囲にはしっかり氷柱まで構築されている。飛んできた氷柱をアーロンは手を払って電撃でいなす。だが全てかわし切れるわけではない。

 

 数本が電撃の網を越えてアーロンの脚に突き刺さる。貫いた激痛に着地姿勢を崩した。

 

 その瞬間をラピスは見逃さない。

 

 咆哮で空いた穴からアーロンを目にし、ラピスがすっと手を掲げる。

 

 まずい、と全身の神経が伝える。危険信号を発する脳細胞からラピス・ラズリを視界に入れている視神経まで、全身が粟立ち告げている。 

 

 ここから逃げろ、と。

 

 アーロンは足に力を入れようとするが、氷柱を取らなければ跳躍出来そうにない。

 

 その時、声が響き渡った。聴覚ではなく、波導使いの全細胞を震わせる声だった。

 

「ユキノオー、メガシンカ」

 

 まさか、という思いに駆られる。ラピスの掲げた右手の甲から光が発せられ、ユキノオーを紫色のエネルギー甲殻が包み込んだ。

 

 まさか、と汗が伝い、首筋が急速に冷えてゆく。汗の一滴でさえも凍結させる領域に唾を飲み下した。

 

 咆哮と共に甲殻が飛び散り、その姿が露になる。

 

 ユキノオーの全身が波立つように毛が逆巻き、背中からは二本の巨大な氷柱が根を張って飛び出していた。四足になりながらも巨大さは増しており、放たれるプレッシャーは段違いだった。

 

 その名は――。

 

「――メガユキノオー」

 



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第五十一話「デッドエンド」

 

 放たれた声にアーロンは咄嗟の習い性で飛び退った。

 

 それが結果的に攻を奏したと分かったのは、視線を落とした地面が根こそぎ凍らされた瞬間だった。

 

 メガユキノオー。その凍結範囲は今までの比ではない。恐らくは目で感覚しているのではなく、全身に逆立った毛も含め、神経を伸ばして不可視の領域まで支配下に入れているのだろう。

 

 アーロンはメイを引き寄せて跳躍する。脚に突き刺さった氷柱の痛みが増した。どうして、と視線をやると氷柱から根が張っているのだ。まさか、相手の攻撃は自分の発動した全ての凍結にも効果があるのか。

 

 アーロンは咄嗟に氷柱を掴む。その手まで凍らせようというのか根が張り巡らされようとする。波導の眼を全開にした。

 

 電撃で氷柱の波導を切り、崩壊させる。しかし傷口までは塞がってくれない。アーロンは傷口の神経の波導を限りなくゼロに近付けさせて痛みを封殺させた。これは諸刃の剣だ。感覚が戻った時、激痛が襲い来る。

 

 だが今は逃げに徹しなければ。ラピス・ラズリはどう考えても普通ではない。自分に対してメガシンカを使ってくるなど、もう通常の思考の範囲を逸脱している。

 

「……しかし、これは好機でもある」

 

 アーロンはホロキャスターの通話履歴から呼び出した。メイが、「こんな時に誰に……」と尋ねる。誰も頼れまい。しかし一人だけ、メガシンカするスノウドロップの存在を看過出来ないであろう存在があった。

 

「俺だ。見えているか? ――ハムエッグ」

 

 通話している相手にメイが目を慄かせる。アーロンもここで呼び出すとは自分でも思っていなかった。

 

『見えているとも。よくもまぁ、逃げ切れているもんだ。このホロキャスターの電波が生きているという事は、幽霊ではあるまい』

 

 今も追尾電波を流しているという事か。相変わらずこの街の盟主は、と苦々しい思いを抱える。

 

「馬鹿を確保した。もうこのゲームも終幕だ。あんたにとっても面白くあるまい」

 

『何が言いたいのか、もっとはっきりと言うといい』

 

「スノウドロップを下がらせろ。これ以上、プラズマ団などという三下にこの街の戦力を探らせるのはつまらないだろう、と言っているんだ」

 

 アーロンの提案にハムエッグは応ずる。

 

「それは出来ないな。まだゲームが終わったわけではない」

 

「ならば、本当に俺を殺すまでスノウドロップにやらせるつもりか。構わないが、その場合、お前らの奥の手が割れても知らないぞ」

 

 アーロンの声音にハムエッグは、『ふむ』とまだ余裕を浮かべる。

 

『奥の手が知られれば確かに参るね』

 

 恐れ入るのはメガシンカがまだ奥の手ではない、と暗に告げている事だ。アーロンは今にも屈服しそうな自身を鼓舞するべく電撃をラピスへと見舞った。しかし凍結の手がそれを叩き落とす。ピカチュウの遠隔電撃では出力が足りていない。

 

 かといって、こちらも奥の手を披露すればそれこそプラズマ団の思う壺だ。

 

「あんたも分かっているんだろう? この祭り、プラズマ団がスノウドロップと俺の手の内を知るために作り出したものだという事を」

 

 街の盟主が知らないはずがない。それでも乗ってきたのはこの祭りで莫大な利益が出る事を試算しているから。

 

『儲かるのでね。プラズマ団という集団に関しては黙認の方向でいっている』

 

「だが、連中がそのまま黙っているわけではあるまい。街にとって有害になるのならばそれこそ内輪揉めをしている場合ではないだろう」

 

『波導使いアーロン。もっとはっきり言いたまえ。何が言いたいのかを』

 

 相手は分かっていて焦らしている。アーロンは突きつけた。

 

「取引だ。この祭りを終わらせる。スノウドロップをこれ以上、大衆の視線に晒したくなければプラズマ団の居場所を察知しろ。そして俺に教えてくれれば、これ以上の馬鹿騒ぎを止めてやる」

 

 その言葉に通話口から哄笑が上がった。心底馬鹿馬鹿しいと思っているような声音だ。

 

『アーロン、言いたい事は分かるさ。伝えたい事もね。だが、それはこう言っているのではないか? 自分ならばプラズマ団を倒し、この街を平和に導ける、と』

 

 沈黙を是とすると、『本当に君は……』とハムエッグは笑いを堪え切れていない。

 

『傲慢だな。だが、気に入っているのはそういう点でもある。本来ならばここで君にこれまでのプラズマ団の情報網を握らせ、確実に葬ってもらう……のが筋だが、今回の祭りの規模が大きくてね。ここでやめるよりも実際、このまま静観してどっちが勝つかのレートを探って巻き上げるほうが利益になるんだ』

 

「いいのか? 子飼いの殺し屋の戦力を他の連中に悟られるぞ」

 

『馬鹿を言え、アーロン。それでこそ、本望だろう。なにせ、これに敵う殺し屋はいないと、再確認する。最近炎魔やら瞬撃やらで分を弁えていない連中が増えた。ちょっとした薬にもなろう』

 

 あくまでも譲らないつもりか。アーロンは再三確認する。

 

「ここでスノウドロップを退かせなければ後悔するぞ」

 

『君らしからぬ脅し文句だな。そろそろネタが尽きるか?』

 

 悔しいがその通りであった。身体が持たないだけならばまだしもメガシンカポケモンを相手取れるほど自分もピカチュウも強くはない。

 

 せめて相手の懐に潜り込めれば、と感じるが先ほどの接近でも随分と危うかったのに二度目はないだろう。

 

「秩序を守るにしては、あんたのやり方ではその真逆だと言っているんだ」

 

『安心したまえ。君が思っているほど、この街は脆くはない。波導使い一人の埋め合わせは出来る』

 

 ここで死ね、と言っているのか。アーロンは交渉の声を吹き込んだ。

 

「いいのか? 俺が死ねば不都合を被るのはそちらだぞ」

 

『自分の命を引き合いに出すという事は本当に参っているんだね、アーロン。君は、最後の最後まで自分だけは交渉のレートに上げないと思っていたが』

 

「……生憎と、俺も命が惜しいんでね。現実はこうだ」

 

『残念だ。本当に、残念だよ、アーロン。君はこの段になってもまだ、スノウドロップを殺すがいいのか、とでも言ってくるのかと思っていた』

 

 そこまでの胆力はない。もう攻撃の手は尽き果てている。この状態で無理をすればそれこそ使い物にならなくなる。

 

「プラズマ団の居場所を教えろ。そうすれば丸く収まる」

 

『それは出来ないね。この祭りを収めるのは、君の役目じゃない』

 

 どうして、ハムエッグはこの取引に乗ってこない? いつもならば嬉々として自分に教えるはずだ。街の秩序のために。それでも教えないのは――。

 

 アーロンは一つの考えに至った。しかし、それならばこの戦いそのものが……。

 

「ハムエッグ。まさか既に、手は打っているというのか」

 

 確信めいた声音にハムエッグが、『おや?』と声を出す。

 

『何の事かな?』

 

「とぼけるな。お前は既に、手を打っている。だからこうやって悠長なお喋りにうつつを抜かせる。こうしている間ならば俺は生きている、という事だからな」

 

 わけが分からないのか、メイが声を差し挟んだ。

 

「あの、ハムエッグさん。アーロンさんも限界なんです。だからプラズマ団の居場所を教えてくれませんか?」

 

 その段になってようやく気づいた、とでも言うようにハムエッグがわざとらしく言った。

 

『メイちゃんがいるんだね』

 

「ハムエッグ。言っておくが、それはルール違反だぞ」

 

 含めた声にハムエッグは、『ルールは誰が決めると思う?』と謎かけを返した。

 

『ルールを決めるのは強者だ。常にこの世の理は強者が定めてきた』

 

「自分の事を強者だと? 驕りが過ぎれば死はお前を取り囲む」

 

『死、か。あの日のポケモンと名もない少女に言ってやりたいね。強者の愉悦とは、ここまで甘美なのだと。驕りだと? アーロン。それはどっちかな』

 

 何だと、と言い返す前に、凍結の手がアーロンの脚を引っ掴んだ。跳躍の途中であったためにつんのめる形となる。メイがビルの屋上を転がった。アーロンはビルの上で蹲る。

 

 電気のワイヤーを縁に括りつけて持っていかれないようにするのが精一杯だった。足が少しずつ白い靄に食いかかられる。遠くでメガユキノオーが凍結を操作しているのが目に入る。

 

 ピカチュウの電撃を放ったところでメガユキノオーには届くまい。アーロンはどうするべきか、決断を迫られていた。

 

『アーロン。声が遠くなった、という事はピンチかな?』

 

 この期に及んでまだ余裕しゃくしゃくのハムエッグへとアーロンは確信の声を放つ。

 

「お前の放った手が、正しく動くとは限らない」

 

『だが、この状況でわたしが何もしないわけがあるまい。アーロン。ここで死ぬか、あるいはそれ以上の未来があるのか、わたしに見せてくれよ』

 

 アーロンは縁に巻き付けた電気ワイヤーを感覚する。少しずつ磨耗しているのが分かった。このままではいずれ凍結に負けて引っ張り込まれる。

 

 屋上の上のホロキャスターが憎々しい。あそこから事態を俯瞰している声が放たれる度にアーロンは歯噛みした。自分は事態に踊らされる駒。だが、その駒とて意思がある。譲れない意思が。

 

「……いいとも。見せてやるよ」

 

 アーロンは電気ワイヤーを握り締め、もう一方の手を手刀にして断ち切ろうとする。

 

 その瞬間だった。

 

「アーロンさん!」

 

 メイが駆け寄ってきて電気ワイヤーを素手で掴む。その行動にはアーロンも目を瞠った。

 

「何をやっている……。離せ」

 

「離しません! アーロンさん。あたしには、何が正しくって何が間違っているのか全然分からないけれど。でも! 死んで欲しくないんです! アーロンさんには!」

 

 メイの必死の声にアーロンはフッと笑みを浮かべる。その笑みの意味を解していないのか、メイが眉根を寄せた。

 

「アーロンさん?」

 

「傍目にも、俺はヤバイと思われているんだろうな。このままでは負けるのは俺のほうだと。……だが、それこそが。いいや、だからこそ」

 

 メイが目をしばたたいて、「そんなのいいですからっ!」と電気ワイヤーを力で引っ張りこもうとする。しかし電気ワイヤーはメイの掌を傷つけるだけだ。

 

「覚えておけ。小娘。こういう時に勝つのは、最後まで諦めていない奴だ。俺は勝負を諦める気はない。ハムエッグの思い通りにもな。だから」

 

 手刀をそのまま電気ワイヤーに打ち下ろす。断ち切れた電気ワイヤーが霧散した。

 

「アーロンさん!」

 

 直後、アーロンの身体は凍結の腕に引っ張り込まれた。

 



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第五十二話「ラスト・ダンス」

 

「動きました! 波導使いアーロンは、どうやら勝負を捨てたようですね」

 

 粗い望遠映像を観ながらヴィーは確信する。アーロンとて勝てない事はある。殊にそれがこの街最強の殺し屋ともなれば手は出尽くしたはずだ。団員達へと声を投げる。

 

「この街はいずれ死に絶える。その前の前哨戦だ。最強の殺し屋とてメガシンカを使わなければ倒し切れない波導使い。それを観測したこの映像は貴重だな。だが、どうせ死ぬ奴のデータを取ったところで仕方がないか」

 

 本当ならばスノウドロップが勝ってもアーロンが勝ってもどちらの戦力も分析し、解析した後にそれに相応しい対抗策を練り出すつもりだったが思っていたよりも事態は好転している。このまま両者共倒れでもプラズマ団としては充分だ。

 

「共倒れしたとすればこの街は優秀な殺し屋を二人も失った事になる。地に堕ちたも同然。このプラズマ団が牛耳る、新時代が幕を開けるのだ」

 

 嚆矢としてまずはヤマブキの盟主、ハムエッグを殺してみるのも悪くはない。そう思っていた矢先だった。

 

 銃声が木霊する。一瞬、画面の中か、と思ったがバタバタと音がしたのは現実のほうだ。ヴィーは声を振り向ける。

 

「何だ……」

 

 その声が伝わる前に突如として現れた影が手前の団員を射殺する。まさか、と色めき立った団員達を、「動くな!」と制した声があった。

 

 一人の男が、戸口に立って銃口を突きつけている。団員の誰もが声も出せなかった。今しがたまで殺し合いの観戦に夢中になっていた神経はすぐに現実へと戻ってはくれない。その男が誰なのかも分からない。

 

「誰だ? 我々の邪魔立てなど……」

 

「覚えていないのか。見た目は確かにヴィオ様そっくりだが、記憶までは継続していないか」

 

 その言葉にヴィーの中で符合する人物があった。しかし、前回、プラズマ団員は一人として生き残っていないとの報を受けていた。それと矛盾する。

 

「何故、生きている。プラズマ団員、リオ……」

 

「おれはもう、プラズマ団の団員じゃない。あんた達を、殺しに来た」

 

 突きつけられた銃口にポケモンを出すのも忘れて団員達が固まっている。即席で作り上げた親衛隊はこのような非常時を想定していない。まさかここに直接乗り込んでくるイレギュラーがあるなど。

 

「だ、誰の命令だ? ハムエッグか? それともホテルの――」

 

 声を遮ったのは一発の弾丸だった。頬のすぐ傍を銃弾が掠める。

 

「うるさいって言っているんだ。おれは自分のスタンスを明確にした。殺しに来た、と。何度も言わせるな」

 

 ヴィーは恐れ戦いて後ずさる。リオの持っている殺気は尋常ではない。本気で、刺し違えてでも自分を殺すつもりなのだ。

 

「ま、待て。何かの間違いだ。ほら、そこのケースに金も入っている。何故、身内同士で殺し合わなければならない?」

 

「お互い様だろう。そこで、身内同士の殺し合いを観戦する、性の悪い真似をしているのならば」

 

 このリオという男を殺さなければ、とヴィーは感じたがまだこの身体に定着してから二日も経っていない。ポケモンを扱うには不安な要素のほうが大きい。

 

「やめるんだ、リオ。考え直せ。プラズマ団の支配する、このカントーの未来を」

 

「そんな支配で、この街を突っつくのならば、それこそやめたほうがいい。この街はあんたらみたいなのが御す事の出来ない場所だ」

 

「聖地だとでも言うのか?」

 

「いいや。悪の巣窟さ。それこそ、プラズマ団がまだかわいいと思えるほどに」

 

 その悪の巣窟から、わざわざ自分を殺すために訪れたのが切り捨てたはずの身内だというのは性質の悪い冗談に思えた。ここに他の暗殺者が来るのならばまだ理解出来る。対応も出来たかもしれない。だが何の力も持たないただの元プラズマ団員が拳銃を手に来るなど誰が予想出来ただろうか。

 

「やめるんだ。後悔するぞ」

 

「もうしている。あんたらに、二度とこの街の土は踏ませない」

 

「どうしてだ? 愛着でも持ったのか? 何を理由に裏切る?」

 

 リオが両手で拳銃を握り締めその問いに応じる。

 

「分からない。分からないが、あんたらに任せるほどに、この街は落ちぶれちゃいない。きっと、それだけの理由だ」

 

 ヴィーは歯噛みして団員に指示する。

 

「殺せ!」

 

 その声が弾けたのとリオが引き金を引いたのは同時だった。

 

 銃弾が吸い込まれるように額へと撃ち込まれる。ヴィーが最後に記録したのは肩を荒立たせて自分に銃弾を撃ち込んだリオの姿だった。その目からは涙が伝っていた。

 

「ち、チクショウ……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 息絶えたヴィーを誰一人として悼まない。それどころか戸惑いがあるのをリオは見透かしていた。この場にいるのは即席のプラズマ団の残党。だから命令系統も無茶苦茶だ。殺された上官の仇を、という人間はいない。

 

「ヴィー様……」

 

「リオ、とか言ったな。どうして……」

 

「お前らだって、何でそんなのに付き従っている。自分で自分の居場所を探せよ」

 

 リオは他の団員まで殺すつもりにはなれなかった。実際、脅しに使っただけで殺したのはヴィーが初めてだった。恐らくハムエッグは自殺用にこの銃を渡したのだろう。結果的に、この事態を引き起こした元凶を屠る一撃となってしまった。

 

 リオは、「行けよ」と団員達を促す。一人の団員が見つめていた望遠動画を一瞥した。アーロンがメガシンカしたスノウドロップのポケモンと思しき姿へと吸い込まれてゆく。リオは目を慄かせた。

 

「アーロンさん……! まさか、メガシンカしたスノウドロップの手持ちと戦闘を? 無茶だ」

 

 しかも戦局は明らかにアーロンに不利に転がっている。電気ワイヤーがビルの縁から外れ、アーロンは吸い込まれて行く。凍結の波が押し寄せ、その青い姿を覆い尽そうとした。

 

「このままじゃ。ハムエッグに」

 

 ホロキャスターを開きかけたがリオにはハムエッグとてこの状況をどうしょうもないのがある程度推測がついていた。恐らくハムエッグもどちらが勝つのかははっきりと分かっていないのだろう。この街の祭りに振り回されているのは何も自分だけではない。

 

 盟主とて祭りの前には無力。ならば祭りの主催者にでも立ち会わなければ、と感じたがホテルの番号は知らないし、この祭りをけしかけた誰かの番号も入っていない。

 

 どうする。決断が迫られていた。ハムエッグにプラズマ団は退いた、もう無意味だ、と報告するか。しかしハムエッグがそれを聞き届けて祭りを止めるかどうかは賭けである。むしろハムエッグは祭りによってもたらされる経済効果を考えればそれを流布しないほうが利益になる。

 

 ハムエッグは合理的だ。だからこそ、この街を、悪の巣窟を動かし続けてきた。これからも動かし続ける事だろう。しかし合理的な判断は時に残酷である。その残酷さの前にアーロンやスノウドロップのような命が散るのを見たくはない。

 

「どうする? どうすればいい……」

 

 誰に報告すればこの祭りは止まる? 問いかけても答えが出ない。自分の知り合いで誰が一番に祭りの中止を呼びかけられる。

 

 リオは悩んだ末に転がっているヴィーの死体に目をやった。ヴィーはハムエッグに祭りをけしかけたその中心人物。となれば、もしやとリオはヴィーの懐を探る。

 

 出てきたのは最新型のホロキャスターだ。広域通信機能がついており、リオはこれだ、と感じた。プラズマ団の意思で祭りの終わりを告げられる唯一の手段。

 

「頼む、まだ繋がっていてくれよ」

 

 リオは広域通信のボタンを押してメッセージを打ち込んだ。

 

「祭りは終わりだ! 馬鹿騒ぎをやめろ!」と。

 

 メッセージが送信され、後は一か八かに賭けるしかなかった。このメッセージがハムエッグや他の資本家、ホテルに行き渡り、祭りの中止が宣言されるのが早いか、それともアーロンとスノウドロップの決着がつくのが早いか。

 

「最後の賭けだ。頼むぞ」

 

 リオはホロキャスターを握り締めた。汗が首筋を伝った。

 



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第五十三話「シンカの極地」

 

「ポケモントレーナーの極み、という現象が存在する」

 

 師父は爽やかな風の流れる草原で、唐突に口にした。

 

 目線は文庫本に落としたまま、ほとんど独り言のようだった。アーロンはその言葉に一瞬気を取られてルカリオの攻撃をさばき切れなかった。横合いからのボディブローが身体に入る。たたらを踏んだ姿勢が隙だらけになった。アーロンは咄嗟にピチューの電撃を放出させ、ルカリオの目を眩ませようとするが浅知恵ではルカリオはやられない。波導を纏い付かせた拳が放たれる。瞬時に身体をずらして直撃を避けた。お陰かどうかは分からないが吹き飛ばされても受け身が取れた。

 

「師父、何ですって?」

 

 もう何度も打ち込まれた拳からの脱却は慣れてきていたが、やはりルカリオの波導の一撃は一つ一つが重い。常人ならば耐え切れない拳の応酬を耐えてきた。

 

 師父は文庫本をパタンと閉じて、「そういうものがある、という話だ」と続ける。

 

「トレーナーとポケモンの極み……、俗に同調状態と呼ばれるものだ。その先に進化を超える進化も存在する」

 

「進化を超える、進化、ですか……」

 

「まだ一般界隈では流布されていないが、実力者達は皆知っている。メガシンカだ」

 

 メガシンカ。フィクションの一つとして聞いた事があった。トレーナーとポケモンがある一定の状態を超え、極限に至った時現れるものだと。だが実地的に証明する手段に欠け、目にする機会は驚くほど少ない。

 

「ある、のは知っていますけれど」

 

「目にした事はあるまい。実力者が切り札として最後の最後まで隠し通すものだ。研究者とて、実際のトレーナーからしかその性能情報は得られん。だからこれは一度しか見せんぞ」

 

 まさか、とアーロンが身構えていると師父は立ち上がり首にかけたネックレスを取り出す。虹色の石があしらわれたネックレスが光り輝き、瞬時に師父の波導とルカリオの波導がぴったりと一致した。

 

 直後、エネルギーが反転し紫色の甲殻がルカリオに纏いついた。アーロンは服を煽る風圧に手を翳す。視界の中でエネルギーの波長がまるで変わったルカリオが甲殻を咆哮と共に突き破った。

 

 拳からして違う。ルカリオの後頭部にある波導を操る房が肥大化していた。まるで蛇のようにのたうつ長大な房と、刺々しさを増した拳と引き締まった肉体。それは純粋に、ルカリオというポケモンの閾値を超えた存在であった。アーロンの眼にはまるでルカリオが生まれ変わったかのようにさえ映った。

 

「メガシンカ、メガルカリオ」

 

 アーロンは圧倒されていた。師父のルカリオはただでさえも強いのに、その先があったなど。だが師父は明らかに先ほどまでと違う。どこか緊張をはらんだ面持ちで余裕が消えている。

 

「師父……、メガシンカを使えただなんて」

 

 まさかこの状態のルカリオを戦えと? 嫌な予感が脳裏を過ぎったが師父は口を開く。

 

「安心しろ。この状態のルカリオとやれるとは思っていない。ただ、わたしもこれは大変に疲れるのだ。維持だけでも体力を使う」

 

 師父の涼しげな目元に初めて焦燥のようなものが浮かんでいる。いつもの余裕が消えて神経を尖らせているのが窺えた。

 

「それほどまでに、メガシンカというのは」

 

「ああ、精密作業だ。少しでもトレーナー側の注意が削がれればそれだけで性能はがた落ち。その上ポケモン側に意識を持っていかれかねない。これは同調よりもなお深い泥に浸っているようなものだからな」

 

「泥、ですか」

 

 師父は意味のない形容はしない。水でも何でもなく、泥、と言ったのには理由があるはずだ。それを察したのか師父は、「考えているか」と口にする。

 

「もし、メガシンカポケモンが出現した場合の対処法を」

 

「ええ、まぁ……」 

 

 しかし考えを弄してもメガシンカを単純に打ち破れる気はしない。能力値からして桁違いなのだ。波導の眼を使うまでもない。メガルカリオからは余剰波導が可視化されており、それだけエネルギーの塊なのだと知れた。しかし同時に脆く崩れ落ちそうな点も増えたようにアーロンには感じられる。

 

 メガシンカはただ単純に能力の底上げを行ったわけではない。それが素人目ながらに理解出来た。

 

「メガシンカとは、それは進化を超える進化。読んで字の如く、この状態のポケモンは通常形態ではあり得ない性能を発揮し、その性能面に至っては同タイプ、同能力のポケモンがいようが比肩するものはあり得ない」

 

 だがそのように容易い答えに集約される存在ではあるまい。それならば常にメガシンカ状態でいればいいはずだ。だというのにメガシンカのメカニズムは未だに一般公開されず、その存在を疑問視する声もある。という事は、メリット以上にデメリットの高い姿であるという事。

 

「――察しがついたか。その通り。メガシンカはただ単に強くなるという単純明快なものではない。通常の進化が王道とするのならば、これは邪道だ」

 

「邪道の、進化……」

 

「本来ならばこれを使う局面というのは、最大まで追い詰められた場合か、あるいはこれを使わなければ一生決着のつかない相手だと思ったほうがいい」

 

「つまり使う側も追い詰められている、って事ですか」

 

 師父は首肯し、「飲み込みも速くなってきたじゃないか」と口にする。褒められた気がしないのは少しでも集中を切ればメガルカリオが突っ込んでくるのではないか、という恐怖があるからだ。もし、あの拳で殴られれば。自分のような小童などただでは済むまい。

 

「メガシンカは諸刃の剣。相手に使われた場合、まず一つに、焦るな、という事が挙げられる。いいか? 相手がメガシンカを使った、という事に戦力的恐怖を覚える事はない。むしろ、逆だ。相手はメガシンカを使わなければ自分との決着がつけられないほどに、実力が拮抗しているか、あるいは我を忘れている。好機だと思え。ただし、メガシンカポケモンとまともに打ち合おうなどと考えるなよ。脅威には違いないのだから」

 

 言われなくともとアーロンは竦み上がるのを感じた。メガルカリオの放つこの殺気。禍々しいまでに波導が膨れ上がり、肌を刺すプレッシャーの波と化している。

 

 波導を読む眼を使うとメガルカリオの姿形が形象崩壊する。それほどに波導が強い。これではメガルカリオという袋の中にパンパンになるまで波導が注ぎ込まれている状態に等しい。

 

 覚えず汗が額を伝った。彼我戦力差、という形よりもなお色濃い、勝てない、という現実。それが形を伴って目に入る。

 

「では逆に、この状態のポケモンとトレーナーを突き崩す戦法は可能か? この命題だが、可能だ、と言っておこう」

 

 だからか、その言葉には驚愕した。どうやってこの状態のトレーナーとポケモンを倒せるというのか。しかし師父は嘘を言わない。倒せるからそう言っている。

 

「師父、お言葉ですが……。とてもではないですけれど、メガルカリオに隙はありません。どこをどう打ち込んでも、それ以上の力で返されます」

 

 これまでのルカリオ以上に、メガルカリオの存在自体が恐ろしい。だが師父は言う。

 

「落ち着け。落ち着いて、メガルカリオの波導状態を目にしろ。読んで、波導の弱点を探れ」

 

 無理難題だったがやれと言われればやるしかない。アーロンは波導の眼を最大限に使い、メガルカリオの波導状態を読む。メガルカリオ自体は城壁のような波導の持ち主だ。

 

 矢や鉄砲では突き崩せない。

 

 しかし、ふとその波導が糸のように細くなって繋がっている先が見えた。それは師父の波導だ。師父とメガルカリオは細い波導の糸で繋がっている。その状態に目を見開く。

 

「これは……」

 

「見えたか。それがメガシンカの唯一の弱点。同調状態にあるトレーナーとポケモンを繋ぐ、意識圏の糸だ」

 

 意識圏の糸。目を凝らせばその糸は一本だけではない。数本の糸がそれぞれ腕や脚、身体と四肢やさらに細分化された肉体に分かれて繋がっている。恐らくその部位の糸は呼応しているのだ。

 

「でも、師父。どうやれば……。糸が見えたところで」

 

「そうだな。実際の戦闘時には、糸は絶え間なく動き、こうして眼で見る事は困難だろう。だが、お前はまず、この状態がメガシンカには常に付き纏う事。そしてそれを常に目で追えるように意識しろ。そうすると熟練のトレーナーとポケモンほど、この糸に頼り切っているのが分かるはずだ」

 

「でも、糸が見えるって事は相当な実力者だという事ですよね。そんな相手の裏を掻くような真似が……」

 

 可能なのか、と言葉を濁したアーロンへと師父は声を投げる。

 

「可能不可能ではない。この方法論を自分に組み込め。そうでなくては、メガシンカされれば対応出来まい。勝つには、確実な手段を構築する事が必要だ。だが、お前は先に述べたように放出型の波導使いではない。よって、覚えるべきはこの糸をどうするかだけだ。力技で相手の波導を引き剥がそうなどと思うな。お前は小賢しく、狡猾に、この糸をどうにかする事だけを考えろ」

 

 今まで師父に教えられた事を統合すれば、それは自ずと見えてくる。

 

 自分の波導の使い方は切断。つまり、この糸を切る。それが自分に与えられた戦術だった。だが糸を切る、と言っても今でさえ少しの風や体勢の違いで揺れ動く細い糸を、狙って切断するなど出来るのだろうか。

 

「いいか? 糸を切断する。それだけを考えろ。逆に言えば、それを考えない限り、ピチューでは勝てないし、たとえピカチュウ、ライチュウでも勝てまい。意識圏の糸の切断はお前の集中力と波導を見る眼の力に依存する。いかに窮地に追い込まれようと、あるいは殺されかけようともメガシンカポケモンを相手取るのならば忘れるな。相手は実力以上に弱点を露出させている。忘れなければお前は、どのようなメガシンカポケモンがやって来ようが、あるいはどれだけ強力なポケモンとトレーナーが相手だろうが、勝てる。勝つ事の出来る唯一の手段。それを忘れるな」

 

 師父はネックレスを指で弾く。するとルカリオのメガシンカが解けた。

 

「これは疲れる。わたしは数えるほどしかお前の前ではメガシンカを披露しない。だからその数回でお前は覚えろ。メガシンカの弱点を。それを突く術を」

 

 師父が帽子を目深に被る。先ほどの状態を常に眼に描く。アーロンは息を詰めてルカリオの波導を見た。

 



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第五十四話「サイレント・ヴォイス」

 

 凍結を操作するメガユキノオーの波導はまさしく流動的だ。

 

 凍結の腕の操作とメガユキノオー本体の操作は必ずしも一致していない。だからメガユキノオーの波導を読んでも、それはイコール相手の攻撃の予知ではない。

 

 アーロンは横合いから吹き荒ぶ吹雪と氷の刃の応酬に耐えた。電撃を部分的に放出し、手で可能な限りそれを弾く。ピカチュウの電撃を少しでも手離せばこの局面での勝利はなくなる。

 

 氷柱が眼前で四つ展開されそれぞれが幾何学の軌道を描いて飛んでくる。アーロンは手を払ってそれらを叩き落した。だが氷柱はすぐに再構築される。

 

 一個一個を壊すのは無意味だ。自分にとって致命的となる一撃だけを叩け。それ以外は無視しろ。

 

 氷の刃も吹雪と共に自分に降り注いでくる。アーロンは眼と戦いに必要な四肢だけを守り、それ以外は甘んじて受けた。刃が腹部にめり込んだ時には激痛に集中が切れそうになったがアーロンは波導の眼に力を込める。

 

 メガユキノオーから立ち上る波導はまるで大火事のように膨大なものだったが、その波導の糸となればそれはごくごく微細で、それこそ目を凝らさなければ見えない。

 

 まだだ、とアーロンは集中する。メガユキノオーに今は引っ張り込まれている状態。相手へと肉迫するための攻撃手段は必要ない。今は身を任せろ。

 

 メガユキノオーから伸びている巨大な二本の氷柱は凍結領域のコントロールに用いられている。その二本と本体は別の凍結を操作しているため計三つの凍結がそれぞれ自律的に動いてアーロンの身体を絡め取ろうとする。普段ならばアンテナである二本の氷柱を破壊するが今は消耗が激しい。そのような余裕はなかった。

 

 代わりにアーロンの集中の土台となっているのはメガユキノオーとラピスを繋ぐ同調の糸だ。その糸さえ切ればメガシンカは解除され、この戦局が引っくり返る。

 

 ――集中しろ。

 

 ただただ、その糸だけを見極めるために目を凝らせ。

 

 時間が引き延ばされたようにアーロンの視界には風に揺れている意識圏の糸が映り込む。本当に微細で、ユキノオーの体色と同じく白の波導で構築された糸だったが、それを集中の基点としてアーロンは右腕に電撃を溜め込んだ。

 

 ピカチュウの電撃を意識的にチャージすると、右手に宿らせた薄皮の波導が僅かに傷つく。体内から焼かれる苦痛が過ぎったが今はそれどころではない。細胞を犠牲にしてでも、糸を断ち切る。

 

 メガユキノオーが咆哮し、白と粉塵の黒に塗れた視界の中で身体が押し潰されるような衝撃波を味わった。これだけでも生身ならばボロ雑巾のように煽られるであろう。アーロンはその風体を装った。

 

 つまり、この衝撃波で既に勝負はついたのだとラピスに錯覚させるべく、波導のかさぶたを解除した。一時的に抑えていた出血がアーロンの身体から迸り、相手からしてみれば今の一撃が効いたように見えたに違いない。ラピスほどの実力者ならば、どの攻撃が有効でどの攻撃が手応えのなかったのか、はっきりと分かるはず。

 

 今の咆哮は殺しに来ていた。アーロンはそれが必殺だと思わせるために痛みだけをキャンセルし、出血を演出する。

 

 体内から漏れ出た血のせいで意識が暗転しそうになるがこのような事、師父との訓練で何度も行ってきた。意識の手綱を手離さない戦い方は心得ている。

 

 距離が縮まった。

 

 メガユキノオーが最後の一撃を放つべく、体重に負けて四つん這いの形になっている腕を持ち上げた。最後は自分の手で決めるつもりだろう。凍結領域が一瞬だけ緩む。

 

 それがこの街最強の暗殺者の見せた、最初で最後の好機だった。

 

 アーロンは右手から電気ワイヤーを放つ。メガユキノオーへと吸い込まれかけていた身体が僅かにぶれてその傍の地面へと食い込んだ。

 

 ワイヤーを引き戻し、凍結の風圧が緩んだ箇所を蹴りで吹き飛ばす。凍結領域は台風の暴風域のように隙間のないものだったがその一瞬だけ内側からの破砕を許した。

 

 無風地帯へと飛び込んだアーロンは視界の先にラピスの姿を捉える。右手を掲げ、今も揺れている糸を引っ掴んだ。

 

 瞬間、溜め込んだ電撃を切断に使用する。

 

 波導の眼に映った意識圏の糸が電撃で断ち切られラピスがよろめいた。

直後、エネルギーが逆流し、メガユキノオーが意識を失ってその場に蹲る。背中から伸びた二本の氷柱が少しずつ枯れてゆき、花弁が散るように空気中に溶けていった。

 

「トレーナーとポケモンの意識圏の糸を切れば、メガシンカは強制解除される。ただ――普段はこのような面倒な戦法は使わないがな」

 

 ようやく地面を踏み締めたアーロンは右手を払った。手の中にはラピスとユキノオーを繋ぐ糸があり、最後に人差し指で弾いてやるとピンと張った糸が切れて漂った。

 

 紫色のエネルギーの風圧が逆転してメガユキノオーを押し包む。

 

 ラピスも意識を失ったと思われた。視界の隅にいるこの街最強の暗殺者はよろよろと頭を垂れて今にも崩れ落ちそうだ。

 

 今ならば、とアーロンはとどめを刺そうとした。

 

 ユキノオーもメガシンカ解除の隙がある。ラピスにも意識圏を傷つけたせいで逆流現象が起きているはずだ。今ならば取れる。

 

 そう感じた暗殺者の習い性の足は駆け出していた。右手を突き出してラピスの頭部を引っ掴み、電撃を流す。

 

 殺せる、と判じた、その瞬間だった。

 

 誰かの声が、脳裏で弾けた。

 

 ――殺さないで!

 

 ハッと、アーロンは立ち止まる。誰の声なのかも分からない。ただ、その声を無視出来なかった。右手はラピスに届くほんの数センチ先で、止まっていた。

 

「何で俺は……」

 

 殺せなかった。その不義理を考える前にラピスの声が耳朶を打つ。

 

「いや、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない……」

 

 震える少女はこの街最強の殺し屋ではなかった。

 

 星空を内包した瞳から涙が零れ落ちる。アーロンはその眼差しに見入っていた。

 

 裏切られた、でもない。憎しみでも、戦闘機械でもなく、ただの一人の少女として、ラピスの頬を涙が伝っている。

 

「お姉ちゃん……」

 

 その言葉が紡がれた瞬間、アーロンは飛び退っていた。反応したユキノオーが横合いから樹木で固めた槌の一撃を振るってきた。

 

 ラピスの前に躍り出たユキノオーはしかし、今までのような力強さはない。ダメージフィードバック程度ではない、まさしく意識の網の中の要糸を切ったのだ。その逆流によるダメージは推し量るべきだった。だというのに、ユキノオーは諦めていないようだ。

 

「何故だ。ここで退けば、まだ殺さずに済むというのに」

 

 嘘だった。

 

 自分は今、無防備なラピス・ラズリを殺す事しか考えていなかった。脳裏に弾けた声がなければ今頃手にかけていただろう。

 

 今の声は、――誰だ?

 

 疑問を挟むアーロンに戦闘神経を研ぎ澄ましたユキノオーが屹立する。だが今はトレーナーとの一体感はない。隙だらけであった。

 

 だがどこからも攻め込めない。というよりも、攻め込む気力が湧かない。今の声がアーロンの残酷な暗殺者の側面から気概を奪ったとしか思えない。

 

「……声さえなければ」

 

 口走るもそれは未熟な神経への言い訳にしかならなかった。

 

 ユキノオーが構えを取ろうとする。

 

 もう霰は降ってこなかった。凍結領域の操作も出来ないのだろう。今のユキノオーはただ立っているだけの木偶だ。殺すなど簡単だというのに。

 

 何故だか一歩も踏み出せない。

 

 暗殺者としての残酷さが微塵にも湧いてこなかった。

 

「俺、は……」

 

 その時、ホロキャスターの着信音が鳴り響いた。自分ではない。ラピスのほうだ。手にした大きめのホロキャスターをラピスは開く。

 

「もしもし……」

 

『ラピス。祭りは中止だ。プラズマ団が撤退した。もうこれ以上の戦闘は無意味だと判断する』

 

「でも、波導使いが」

 

『重ねて言うぞ、ラピス。これ以上の戦闘は無意味だ』

 

 どういう事なのか。アーロンも事態をはかりかねている。

 

「どういう意味だ、ハムエッグ……」

 

 忌々しげな声を聞き届けたのかホロキャスターの通話口からわざとらしい感嘆が漏れる。

 

『生きていたか。意外だよ、アーロン』

 

「この局面はお前の関知するところではないのか?」

 

『残念ながらね。もう祭りの主催者が去ってしまったのではいくら騒ぎ立てても意味がないのだよ。それに、結構利益はあった。この馬鹿騒ぎに付き合ってくれた街の人々は熱狂の最中で去れて満足だと思うがね』

 

「悪党め」

 

 吐き捨てるとハムエッグは笑った。

 

『悪党とは。アーロン、いつから正義の味方のつもりだったのかな』

 

「……そうだな」

 

 ここは大人しく引いたほうが無難だろう。アーロンが殺気を収めるとラピスも殺気を仕舞った。さすがにこの街最強は伊達ではない。殺気を簡単に引き出して収める事が出来るようだ。だが割り切れていないのはその表情から窺えた。

 

「主様、波導使いを、本当に殺さなくっていいの?」

 

 殺気は凪いだが、殺せと指示があれば迷いなくやるであろう声音だった。しかしハムエッグが否と応じる。

 

『今は、殺すのを抑えるんだ、ラピス。どうせ祭りの後に喰い合いなど誰も望んでいない。プラズマ団の意に沿うのはここまで、という区切りのためでもある。なに、いい具合に資金は集まった。祭りで損をした者は、この街にはいない』

 

 暗にプラズマ団を始末する事がこの祭りの本懐であったと述べているようだったが深追いはしなかった。ラピスはユキノオーにモンスターボールを向ける。

 

「戻って」

 

 赤い粒子となってユキノオーがボールに戻る。アーロンもピカチュウを戻していた。

 

「引き分け、か」

 

 口にしたがそうではない事はお互いによく分かっている。どちらかがもう少しだけ相手を嘗めなければ結果は違っていただろう。

 

 しかし二度も三度も戦いたい相手ではない。それは共通認識だったようだ。

 

「引き分け……。それが本意ならばそれでいい」

 

 ラピスも次に戦う時があれば、それは街が崩壊する時だと悟ったのだろう。凍結したビル群を見やり何でもない事のように身を翻した。

 

 背中を向けているがもう戦う気はない。アーロンも踵を返してその場から立ち去る。

 

 お互いに二度目はない、と暗黙の了承が降り立った。

 

 駆け出したアーロンへと合流してくる影があった。

 

 シャクエンとアンズだ。今まで気配も分からなかったのはそれだけ戦闘に没入していたからだろうか。シャクエンは開口一番、「メイは?」と尋ねてきた。

 

「生きている。無事だ」

 

 アーロンの返答に安堵の息をついたのが分かった。どうしてこの非情な暗殺者共はあの小娘に惹かれるのだろう。シャクエンとアンズがメイの事を気にかける理由が分からない。

 

「スノウドロップもそうだが、何故お前らはあの馬鹿を庇う? それほどに価値のある人間か?」

 

 アーロンの問いかけに、「価値のあるなしじゃない」とシャクエンが答える。

 

「メイだから、私は意味があるんだと信じている」

 

 それは非情な暗殺者炎魔の口から出たとは思えないほどに甘い夢想だった。

 

「メイお姉ちゃんの事が心配になるのは、誰だってそうだよ。お兄ちゃんだってそうでしょ?」

 

 アンズの声にアーロンは頭を振る。

 

「勘違いをするな。俺はただ、馬鹿の回収をしに行くだけだ」

 

 ビルの屋上に置き去りにしてしまった。恐らく死んだのだと思い込んでいるだろう。

 

「あっ、アーロンさーん! ここ降りる階段ないんですよー!」

 

 屋上の縁でメイが叫ぶ。アーロンは額に手をやった。

 

「これだから馬鹿は……」

 

 救いようがないな、と呟いた。

 



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第五十五話「まことの人」

 

 グラスを磨きながらハムエッグは今回の収益を計算していた。

 

 結果はドローだ。当然、賭けなのだからどちらかに賭けるか引き分けか、の判断までかかってきている。今回、概ねスノウドロップの勝利だと踏んでいた大多数から金を巻き上げられた。一部のマージンをオウミに流す。電話口でオウミが、『にしても意外だな』と口にした。

 

「意外、とは?」

 

『あの波導使いさんもしぶてぇな、って事さ。まさか一度ならず二度までも計算が狂うとは思っていなかったぜ』

 

 炎魔を潰され、今回スノウドロップが引き分けた。その結果にオウミは歯噛みしているのだ。ハムエッグは、「面白くない、かな?」と尋ねていた。

 

『とんでもないぜ。面白いには面白い。自分の命がかからなくって済む賭けは特に、な』

 

 その賭けの代償が右腕一本か。ハムエッグはギャンブラーであるオウミの生き様に感心する。炎魔の一件とて街を揺るがした一事件だ。本当ならば殺されていてもおかしくない。だというのにオウミは今回も楽しむ側に回った。とはいっても賭けは大損である。やはりオウミもスノウドロップに賭けていたらしい。

 

「賭け事は適度に、が肝心だよ、オウミ警部。退き際も心得ていないのでは身の破滅を招く」

 

『肝に銘じておくよ。さて、オレからの提案だが、ハムエッグ。プラズマ団を崩そうとしたの、てめぇの差し金だろ?』

 

「何の事だか」

 

『とぼけんなよ。事態の収束に波導使いの死か自分の子飼いの死か、まで突き詰めるほどあんたがギャンブラーでないのはみんな知っている。どこかで確率変動を起こす手はずでも整えていなくっちゃやっていけないさ』

 

「よく人の裏を掻くものだ。わたしは今回、さしたる事はしてないよ。移りゆくままに任せたさ」

 

『本当か? にしては自信満々に賭けたよな? 引き分け、の結果に』

 

 オウミの見透かした声音にハムエッグはとぼける。

 

「何の事だか」

 

『今回、街の中でもあんたぐらいだろ。引き分けにかけ金を投じたのは』

 

「単なる予感さ。何もやってはいない」

 

『それにしちゃ丸く収まり過ぎなんだよなぁ。確率変動も何もやっていないにしては、この街はただ単に祭りにかまけただけじゃない。プラズマ団をまたしても退けた。結果的に、前回と似通っている。ここに何者かの意図を感じないってのはちと鈍い』

 

「勘繰り過ぎだよ。そこまで予測はつかないさ」

 

 オウミの薮蛇の声をいさめる。相手もそれ以上は危険が付き纏うと判断したのか、憶測を仕舞った。

 

『しかし、生き残ったのか。波導使い。強いなんてもんじゃねぇな』

 

 ハムエッグも内心感心していた。スノウドロップラピス・ラズリに比肩する暗殺者は存在しないと。しかし彼だけは例外に思えた。

 

「波導使いはもしや無敵か?」

 

『そうじゃないのはてめぇが一番よく知ってらぁ。波導使いの弱点、分かってるんだろ?』

 

「言っておくが教えないよ」

 

 通話口でハムエッグが笑うと、『期待はしてないさ』とオウミが返した。

 

『ただ、弱点があるって言うだけ、まだ人間らしいな。スノウドロップにはないんだろ? 弱点』

 

「どうかな」

 

 ハムエッグは言葉を濁す。オウミはその返答もある程度予測していたようだった。

 

『今回の恨み言はここまでにさせてもらうよ。祭りは結果的にうまく纏った。おかげ様で儲かった人間もいるし損した人間もいる。だが、祭りなんてそんなもんだ』

 

「それには同意だね。プラズマ団にしてみても深入りは禁物だ」

 

『一度街を裏切りかけたんだ。その辺の分別は分かっているつもりさ。もう切るぜ。逆探知されても面白くない』

 

「ああ。またご贔屓にしてくれ」

 

 通話が途切れ、ハムエッグはグラスを磨く。すると通用口が開いて来客を告げた。目線を振り向けると見知った影が立っている。

 

「リオ君か。どうしたのかな? 怖い顔をして」

 

 リオは片手に拳銃を握ったままの格好だった。今宵の祭りがなければ見咎められているであろう。

 

「銃を仕舞ったほうがいい。警察も後始末に駆り出すだろうし――」

 

 そこから先の言葉を放たれた銃弾が引き裂いた。ハムエッグの肉体に食い込むかに思われた銃弾は近場の酒瓶を射抜く。派手に割れて中身があふれ出した。

 

「……どういうつもりかな?」

 

「あんたは、どこまで人を弄ぶんだ」

 

 先ほどのオウミとの会話を聞いていたのか。あるいは今回の祭りの結果にご立腹なのか。ハムエッグは落ち着き払って声にする。

 

「君を結果的に事態の収拾に使った事は謝ろう。しかし、わたしは一度として君の頼んだ覚えはないし、それは君がやりたくてやった事だ。わたしに責任はない」

 

「分かっている、分かっているさ。でも、撃たざるを得なかった。ケジメのために」

 

 今の銃弾一発は許せない自分への罰か。あるいはこの街へと吐いた唾のつもりか。どちらにせよ、この青年は今の一撃では終わるまい。ハムエッグは割れた酒瓶を片付け始めた。

 

「物に当たるのはよくないね」

 

「本当はこの弾丸がおれの脳髄を撃ち抜いている事を、あんたは予測していたのか」

 

 ハムエッグは沈黙を挟んだ後、「そんな事は」と返す。

 

「嘘だ。あんたは、どこまでも他人の行動を操ろうとする」

 

「人を洗脳するような輩みたいに言わないでくれ。わたしには特にそんな力はないよ」

 

「そんな力がなければ、どうやって街の盟主になった? 何を使ってスノウドロップほどの殺し屋を育て上げた?」

 

 リオはどうやらそれだけはハッキリさせておきたいらしい。ハムエッグは嘆息を漏らした。

 

「何も持っていない少女に、かつて何もかもを失ったポケモンが少しだけ手助けをしただけの話さ。その少女は殺し殺されの世界に片足を突っ込んでいたから両足を突っ込むように促しただけ。片足を突っ込むくらいなら、いっその事、という具合にね」

 

「毒を食らわば皿までか」

 

「そこまで大層じゃないよ」

 

 ハムエッグは笑いで誤魔化そうとしたがリオは真剣な面持ちだった。仕方がなく、笑みを仕舞い、「どこまで聞きに来た?」と尋ねる。

 

「スノウドロップをどうやって育てたのか」

 

「偏屈な事に興味を持つものだ。ポケモンが人の子を育て上げられないと?」

 

「そういう事では……。ただ、解せないと」

 

「今回の終幕が、かな? それともわたしとラピスの関係が?」

 

 沈黙を是に、両方だと暗に言っているようだった。ハムエッグはグラスを用意する。

 

「何か飲むかな? 飲みながらでないとやっていけない話だろう?」

 

「いや、おれはすぐ帰る。もうすぐメイとスノウドロップの帰ってくる頃合だろう」

 

「あくまで裏方に専念するか。表で王女様を守るのは波導使いに華を持たせるかい? 君は、名もなき戦士として一生を終えるか。それもよかろう。君の美学だ」

 

 リオは、「一つだけ」と促した。

 

「今回の結果を予測して、あんたはスノウドロップをけしかけたのか」

 

「そこまで狡猾だと思わないで欲しいな。わたしとて、翻弄されている部分はあった。プラズマ団がこの街の主権を取ろうと思わなければ波導使いアーロンとわたしのラピスを戦わせようなんて思わないさ」

 

「それはどちらかが死ぬ事を分かっているから?」

 

 ハムエッグはその質問には応じず、「本当に飲まないのか?」と聞き返す。

 

「もういい、それだけ聞ければ、これを返しに来ただけだ」

 

 リオが拳銃をカウンターに置く。ハムエッグはそれを手に取って、「いいのか?」と問いかけた。

 

「君の力だろう?」

 

「本来なら自殺用だろう? その用途に則さないのだから返す」

 

 さすがに与えた力を自分の力だと誤認するほど馬鹿ではないか。ハムエッグは銃を仕舞った。リオは立ち去ろうとする。

 

「裏の王子は表には出ないのか? 今回の立役者だ。アーロンにばかり華を持たせるのは惜しい」

 

「おれには、賛美も、何もいらない。ただ、メイが、あの子が生きていてくれるなら」

 

「特別な感情を抱いているのだね」

 

 リオは答えずエレベーターに乗って去っていった。ハムエッグはフッと口元に笑みを浮かべる。

 

「まこと、人間とは分からないものだな」

 



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第五十六話「祭りの後」

 

 アーロンはメイに、もうラピスとは会うなと言おうとしたが、それはやはり無駄だろうと感じた。メイはラピスの事をまだ無垢な少女だと思い込んでいるし、ラピスもメイの事を忘れられないだろう。

 

 ただ今度行く時には自分を呼べ、と言っておく。今回のようなややこしい事態になったのはメイが一人でハムエッグの下に行ったからだ。ハムエッグに会いに行く時には一声かけろと言っておいた。

 

「子供じゃないですよぉ」とメイは不服そうだったが今回の事態を招いたのが自分だという自覚はあったのか素直に受け入れた。

 

 アーロンは中華鍋にごま油を入れて今日の夕飯に取りかかっている。シャクエンとアンズ、それにメイが食卓を囲んでいた。

 

「お前ら、よくもまぁ、手伝わずに飯だけ食えるな」

 

「だってアーロンさん、手伝うと怒るじゃないですか」

 

「波導使いアーロンのキッチンに立つのは危険、だって分かっているから」

 

「あたいが毒を盛ったら困るでしょ?」

 

 三人ともがそれぞれの言い訳を使う。アーロンはため息混じりに焼き飯を作った。途中、玉子を引く段階で考える。

 

 Miシリーズ。メイはそのうちの一体だと言っていたヴィーという個体。プラズマ団の目的は英雄の遺伝子の再現。ならばメイは最初から生きている意味はプラズマ団によって作られたのではないか。その事実は最後まで分からなかった。メイが本当にプラズマ団を自分の意思で潰したのか、あるいは英雄の遺伝子がそうさせたのか。どちらにせよ、Miシリーズに関しては調べを進める必要がありそうだ。

 

 身体がところどころ痛む。カヤノの診療所に飛び込んで応急処置はしてもらったもののしばらくは通いつめる事になりそうだった。カヤノ曰く「スノウドロップと打ち合ったにしてはまだ軽症だ。よかったじゃないか」との事だったがいいはずもない。

 

 出来れば金輪際、スノウドロップとは戦いたくなかった。向こうも心得ているだろう。次に戦う時があるとすればそれは街が崩壊する時だと。

 

「出来たぞ」

 

 焼き飯をそれぞれの皿に盛ってアーロンは食卓に運ぶ。メイが目を輝かせた。

 

「お腹空いていたんですよね。いっただきまーす」

 

 どこまで能天気なのだか、とアーロンは呆れた。その時、机の下から紙片が差し出された。

 

 シャクエンだ。彼女は何かを書き付けてアーロンに手渡そうとしている。受け取ってアーロンは目を通す。そこには「就寝後、このビルの後ろで待つ」と簡素に書かれていた。

 

 どういうつもりなのか、と目線で探ろうとしたがシャクエンは何でもない事のように焼き飯を頬張り始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「何だ、話とは」

 

 就寝後と指定されていたが何分後に来るとは書いていなかったのでアーロンは寝静まってすぐにビルの後ろで待っていた。シャクエンはメイが眠ったのを確認してから出てきたらしい。

 

「出来れば、メイには勘付かれたくない」

 

「それは同意だが、まどろっこしい真似をする。あの場で話せないのか?」

 

 シャクエンは頭を振り、「メイに余計な心配をかけたくない」と答えた。どうして炎魔と恐れられた彼女ほどの殺し屋が一少女に気を遣うのだろう。

 

「あの馬鹿とてお前の話を遮るほど無頓着だとは思えないが」

 

「波導使いアーロン。メイについてどこまで分かった?」

 

 まさかMiシリーズの事を知っているのか。アーロンは表情を窺ったがシャクエンは話を切り出す様子はない。

 

「……変わらないが」

 

「プラズマ団と会ったのでしょう?」

 

「会ったからと言って、あいつの話だとは限らないだろう」

 

「嘘。今回の一件、明らかにメイを中心に回っていた。メイが何だって言うの?」

 

 スノウドロップも、炎魔もどうしてメイ一人のためにここまで出来るのだろう。アーロンには理解出来なかった。

 

「スノウドロップもそうだが、お前らは殺し屋としての本分を忘れたのか? あんな馬鹿一人のためにどうして命を削る?」

 

「それが私達に許された贖罪だと、どこかで感じているのかもしれない。スノウドロップも私も」

 

 贖罪か。アーロンは、「どう感じるかは勝手だが」と言葉を継ぐ。

 

「余計な真似をして俺の前に立つな。殺し屋ならば殺し屋の前に立つ時は命をかける時だと心得ろ」

 

「言われるまでもない。私は、メイのために命をかけられる」

 

 どうしてそこまで言えるのか。それにも英雄の遺伝子が関わっているのだろうか。

 

「簡単に言ってくれる。俺は、お前らとは違う。あいつに命までかける義理はない」

 

「でも、メイを守ろうとした」

 

「守ろうとしたんじゃない。人質にしたんだ。勘違いをするなと言っている」

 

 シャクエンは言葉を飲み込む。アーロンは譲るつもりはなかった。

 

「……分かった。波導使いがどう考えていようと、私のスタンスは変わらない。メイを守る。メイが、私を信じてくれたように私もメイを信じたい」

 

「勝手にやっておけ。……で? 何が言いたくって呼び出した? まさかそんなつまらない所信表明のためにわざわざこの場を作ったわけではあるまい」

 

 シャクエンは一呼吸置いてから、「私は今回、何も出来なかった」と悔恨を呟いた。

 

「スノウドロップ……。あそこまで力の差があるとは思っていなかった。私は今回、何一つ行動出来なかったでくの坊だ」

 

「それは生憎だったな。それで俺に同情しろと?」

 

「違う。どうして、波導使いアーロンは動けたのか、知りたくなった。何で、あれほどの敵意を前に、臆す事もなかったのか、と」

 

 そんな事を聞きに来たのか。アーロンは言ってやる。

 

「簡単な事だ。自分以外、全員敵だと思えば、誰も頼らなくって済む。俺はお前にも、瞬撃にも何一つ期待していない。俺が信じるのは、最後まで俺の実力だけだ」

 

 予想通りだったのか、あるいはそれ以外か、シャクエンは眉根を寄せた。

 

「やはり、波導使いは嫌な奴、だな」

 

「いい奴だと思っていたのか? さっさとその印象は取り払え。お前を生かしているのも偶然の産物だと考えろ。もし、利害が一致しなければ、お前なんてとっくに殺している。それはあの馬鹿も同じだ」

 

 裏の世界に踏み込んだ以上、いつ殺されてもおかしくはない。アーロンの言葉に、「させない」とシャクエンが応じる。

 

「メイは私が守る」

 

「勝手にするんだな。必要に駆られれば、俺はお前らなどすぐに見限る。その時に幻滅しないようにしておけ。俺は元々、ただの殺し屋だ」

 

 それ以上でも以下でもない。アーロンの言い草にシャクエンは何も答えなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今回の祭りで随分と儲けられた、と語ったのはラブリだった。

 

 歩道を歩いているアーロンを一台の黒塗りの高級車がクラクションで呼び止め、窓から顔を出したラブリが述べたのはまず謝辞だ。

 

「生きていてくれて助かったわ。だって、あんな程度で死んだんじゃ拍子抜けだもの」

 

「ホテルも今回の祭りで得をしたクチか」

 

「企業として参加したから、儲けを全額充てる事は難しいけれど、でも損はしていない。今回の祭りでたくさんの出資者や資本家も躍起になったわ。ある意味、これからこの街を牛耳ろうとしている悪の芽を摘む役割も兼ねていた」

 

 今回の祭りに食いかかった獲物をホテルがマークし、次から行動に移すようならば迅速に対処する。資本家達はむざむざ自分達の存在を示したに他ならない。ホテルという巨大な組織の目に触れるような真似をした資本家達はこれから動きにくくなる事だろう。

 

「牽制の意味合いもあったのか。ハムエッグめ。やってくれる」

 

「牽制レベルで死にそうになったんじゃ割に合わないかしら? 青の死神」

 

「スノウドロップとやり合うには、時期尚早だった」

 

「いずれはやり合う事も覚悟していたわけだ。本当、あなたって最低のクズね」

 

「何とでも言うがいい。……それで、何の用だ? これでも俺は忙しい」

 

「カヤノ医師のところに向かうんでしょう? ただの怪我じゃないものね」

 

「何か言いたい事でも」

 

「いいえ。わたくしは別に。ただ、ボロボロになって歩いている青の死神を見て、ちょっと今回の感想でも聞きたいなと思って呼び止めただけだもの」

 

 アーロンは鼻を鳴らした。

 

「感想か。一言で言えば最悪だったな。スノウドロップと戦うのは、だから早いと言ったんだ」

 

「でも、いずれは戦うつもりだったんでしょう?」

 

 一拍置いてアーロンは答える。

 

「……こんなつまらん目的で合い争うのは間違っている。それだけは確かだな」

 

「違いないわね。スノウドロップ、ハムエッグ側も今回の戦闘はイレギュラーだと思っているのかしら?」

 

 いや、ハムエッグは、と返しかけてアーロンは考える。ハムエッグは今回の戦い、どこまで見通し済みだったのだろう。自分がラピス・ラズリを殺しかける事まで分かっていて解き放ったのだろうか。

 

「どちらにしろ、危険な賭けを潜り抜けた事には、少しだけ畏敬の念を抱くわ」

 

「謝辞はいい。お前らは儲かったか、儲からなかったかだけを考えているのだろう?」

 

「見透かされているか。でも本当の話、あの子、メイって言ったわよね? あの子が一度二度ならず、今回も中核を担うとは思っていなかったわ。殺し屋に好かれる性質なのかもね」

 

「何一つ嬉しくなさそうな性質だな」

 

 お互いに皮肉を交し合っていると運転席の軍曹が、「お嬢、そろそろ」と声にした。

 

「そうね。また会いましょう、青の死神。今度はビジネスで」

 

「そうだな。お互いにオフィス以外では会いたくないものだ」

 

 窓が閉まり、高級車が静かなエンジン音を立てて走り去っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目を覚ますと今回も失敗だった事が悔やまれた。

 

 研究員達が取り付き、彼に服飾を纏わせる。「記憶の継続性は?」と尋ねられて彼は忌々しげに言い放った。

 

「ある。……リオとか言う三下に、まさか撃ち抜かれるとは、我が身でありながら憎々しい」

 

 つい数時間前に経験した最期。死に際は何度経験してもやはり慣れない。紫色の服に袖を通して、「現状報告!」と声を飛ばす。すると部下達が電算機を前にして、「現状、プラズマ団の作戦行動を遂行中の団員は三十人」と報告する。

 

「そのうち十名がヤマブキに潜っていますが……。あの街は底知れません。十名のうち、五名が通信途絶」

 

 ホテルか、あるいはハムエッグに押さえられたな、と彼は感じてプラズマ団の擁するモニタールームを抜けた。その先には研究室が並んでおり、そのうちの一つの部屋に入る。

 

「ヴィー様。お目覚めでしたか」

 

 こちらへと視線を向けたのは白衣を纏った男性だった。青と金髪の混じった独特の髪型をしており、眼鏡の奥の怜悧な瞳が揺れた。

 

「アクロマ博士。御大は?」

 

 尋ねるとアクロマと呼ばれた男は一つの培養液で満たされたカプセルに視線を投じる。

 

「芳しくありませんね」

 

 バイオグラフとこれまでの電算結果の紙を受け取り、「やはり無理なのだろうか」と彼は尋ねた。

 

「さぁ? わたしとしてみれば、御大の復活はそれほど悲願ではございませんから」

 

 この男は研究心が満たせればそれでいいのだ。自分の欲望に忠実な人間でもある。

 

「御大の復活こそが、プラズマ団の、我らの悲願」

 

「しかし、ヴィー様……ではなくもうVi2でしたか?」

 

「これからはヴィーツーと呼べ」

 

 その言葉にアクロマは頭を垂れる。

 

「では、ヴィーツー様。御大の身体はあの時、あのメイというMiシリーズに敗北した時点で、もう精神的に再起不能となっております。その点で復活はあり得ないかと」

 

「あり得ない? そのような簡単に割り切れて堪るか。あのお方の復活は、プラズマ団の全体指揮に関わる」

 

「別にこのままでも、指揮には問題ないと思われますが」

 

 アクロマという男はプラズマ団という象徴にこだわりがないせいで、こうした考えに陥っている。ヴィーツーからしてみればその存在の持つ圧倒的な力を知っている分、こういう認識の違いが苛立ちに繋がった。

 

「絶対に復活させねばならない。たとえ以前までの御大でなかったとしても」

 

 培養液の中に浮かぶその姿を見据える。緑色の髪に、全身にチューブを繋がれた肉体――。

 

「右半身の麻痺は取り去って設計していますが、復活のための躯体としては出来過ぎているほどです。ViシリーズのノウハウとMiシリーズの遺伝子設計を組み合わせたハイブリッドですからね」

 

 英雄の遺伝子と何度死んでも経験の蓄積のある身体の融合体。それはプラズマ団を、ひいてはこれからの世界を牽引していくに相応しい。

 

「ゲーチス様。その御身の復活こそが、我らの望み」

 

 ヴィーツーはその場に跪いてカプセルの中で昏睡を続ける男へと忠誠を誓った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 第四章 了

 



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妖精の無色、電脳世界のフェアリーテイル
第五十七話「秘密物資」


 

「ゆっくりだ。ゆっくり積荷を降ろせ」

 

 その指示に従って、トラックの荷台に乗せられた筐体を大人が数人がかりで降ろす。

 

「精密機器だぞ! 慎重にだ!」 

 

 上司の声が飛び、部下達は首を引っ込めた。

 

「おっかねぇなぁ。そんなに大層な積荷なのか?」

 

「おれもよくは知らないが、これだけでイッシュのスパコンと渡り合えるんだと。どうしてホウエンからこれが流通してきたか、なんて聞くなよ。おれだって知りたいんだ」

 

 肩を竦めてそう返すと男達は筐体の接続作業に移った。接続にはもっぱら、エンジニアが使われるが、そのためのケーブル類などの持ち運びは腕に覚えのある者達によって行われた。

 

 一人がケーブルを取り落とすと上司からの怒声が飛ぶ。

 

「貴様! 精密機器だと言ったのを忘れたか!」

 

 すぐに平謝りする男だったが、上司の鞭が飛んだ。鞭に打たれる男を見て、男達が囁き合う。

 

「気味が悪いな……。今どき鞭打ちなんて」

 

「それほどまでの重要物資なのか?」

 

 まるで奴隷のそれである。

 

 実際、自分達は金で雇われたごろつきばかりなので、誰しも後ろ暗い過去はあったが、あの扱いはあんまりであった。

 

「ちょっと。そのくらいにしておきなって」

 

 一人が上司の肩を掴む。上司は、「分かっておらんのだ」と息巻いた。

 

「これだけでカントーの一地方の歴史が変わるぞ」

 

 さすがにそれは言い過ぎだろうと誰もが思った。

 

 一地方を変える文明など持ち込まれるはずがない。そもそもこの筐体自体がホウエンからの払い下げ品であり、ホウエンの技術に遅れを取っているカントーがそのロスを取り戻すために必要だと判じて自分達に輸送――いや、密輸を行わせた。

 

 表立って輸入が行われないのはこの筐体に入っているシステムが他のそれとは一線を画しているからだと言うが、そのような眉唾を信じている者はいない。

 

「四十年前のポケモンリーグじゃないんだ。そんな大それた文明開化なんて起きるかよ」

 

 四十年前、第一回ポケモンリーグではそれが起きた。

 

 ポケギアの発達。通信網の構築と設備。預かりシステムの初期発足。

 

 あらゆる文化が一斉に花開いた、まさしく発明の時代。しかし、時は四十年も過ぎ、今や世紀の発明というのは起こらなくなってしまった。停滞の時代を自分達は生きているのだ。

 

「一部の天才でもいない限り、この時代にそんな事が起こるわけが」

 

「つべこべ言っていないで、手を動かせ! ケーブルの一本でも抜け落ちていれば作動しないのだからな」

 

 上司の声に男達は渋々手を動かす。ケーブルの一本一本を指差し確認し、送電線から電気を引く。

 

「これってさ」

 

 一人の小柄な男が呟いた。

 

「犯罪、じゃねぇかな」

 

「今さらかよ。密輸入なんて犯罪に決まっているだろ」

 

「でも、給料がいいんだよな」

 

 小柄な男の言う通り、ここにいるのは誰もがその給料のよさに目が眩んだ者ばかりだ。どうせ一端の仕事には就けない身分。ならば、犯罪でも何でも手を貸そうと思っている。それは小柄な男だけではなく、他の全員にも言えた。

 

「まぁ、爆弾を密輸するわけじゃないし、罪には問われないかもな」

 

「爆弾、か」

 

 筐体を視界に入れながらぼんやりとこぼす。あの筐体が何のためのものなのか、聞かされていない。知っているのは恐らく現場指揮の上司だけ。それももしかしたら一部情報だけで、本当のところを知っているのは一人もいないのかもしれない。

 

 ホウエンからの土産物、だと聞かされていた。

 

 ホウエンと言えばつい最近、デボンの株が急落したニュースが飛び込んだばかりだ。

 

 デボンコーポレーション。

 

 ポケモン産業をほぼ独占していた企業のスキャンダルは瞬く間に知れ渡った。

 

 そもそも時を前後して企業が兵力を持つべきと主張する過激派が台頭し、PMCもかくやと言われた勢力を保持していたデボンであったが、それがどうしてだか先日、内部告発と保守派との分離によってデボンは空中分解。今は、デボンのシステムの下請けをしていた多数の企業に枝分かれしてシステムが管理されている。

 

「デボンのスキャンダルと関係あるのかな」

 

「あってもなくても、おれ達は手を動かすだけだ」

 

 どうせ細かい事はエンジニアの仕事。自分達は重たいケーブルを引きずり、出来るだけ手早く接続するだけ。

 

 電源ケーブルを運んでいた他の部隊が、「電源、行くぞー!」と声を張り上げた。

 

「電源! 整備班に権限を委譲!」

 

 上司の声に慌ててケーブルの配線を確認し、電源が筐体に通った事を返答する。

 

「電源、来ました!」

 

「システム筐体、ネットワークに繋ぎます」

 

 エンジニア達が張り付いて筐体のキーボードを打っている。後はエンジニアの仕事だろう。

 

 男達は汗を拭い、それぞれを労おうとした。

 

 その時、投光機の光が眩く照らし出した。

 

 空を舞う鳥ポケモンが甲高い鳴き声を上げる。

 

 上司が慌てて声にした。

 

「海上警備隊に見つかった! システム、全停止! ネットワーク途絶だ!」

 

 だがその指示が行き渡る前に火線が貫く。

 

 一瞬であった。海上で何かが火を噴いたと思うと、上司の傍に立っていた男が、上半身を吹き飛ばされていた。

 

 何の勧告もない攻撃。

 

 それにたじろいだのは何も上司だけではない。

 

 全員が蜘蛛の子を散らしたように逃げ出し始めた。

 

「退け! 退けぇ!」

 

 声を張り上げた人間を基点に再び火線が瞬き、人々を狂乱の渦に巻き込んでゆく。

 

 声を上げては駄目だ、とすぐさま判断したが、鳥ポケモンの投光機の光が停止と静寂を許さなかった。

 

 鳥ポケモンが捕捉すると海上からの攻撃が誰かを殺す。

 

 最早、統率などなかった。

 

 誰もが自分の命かわいさに駆け出した。

 

 その中で筐体に取り付いているエンジニアは必死にキーボードを打っている。

 

「あんたら何やっているんだ! 逃げろよ!」

 

「バックアップを取らなければ。でなければこれを密輸した意味がない」

 

 どうやら外部記憶メモリに中身を取り込もうとしているようだったが、待機時間が一時間を超えている。どう考えても間に合わなかった。

 

「死ぬぞ! そんなのにこだわっていないで」

 

「そんなのだと! これは人類史を変える発明だ! せっかくホウエンから運んできたこれを、カントーの役人共に封印されて堪るか!」

 

 エンジニアは外部記憶メモリの待機時間を血走った目で見つめている。

 

 もう手遅れなのは火を見るまでもなく明らかであった。

 

 背中を向けて逃げ出そうとするが、投光機を持たない鳥ポケモンが鉤爪を突き立てて逃げ出す男達を空中へと持ち上げた。

 

 ある男は墜落死し、ある男は背中の皮を剥がれて失神した。

 

 血と硝煙の臭いが充満する中、逃げおおせた人間は二、三人であった。他の者達は皆、死んでいったか、海上警備隊に捕まったのだろう。

 

 草むらで生存を確認した男はまず尋ねた。

 

「エンジニア連中は?」

 

「全員、死んだか捕まえられた。最後まで筐体に張り付いていたようだが……」

 

 濁した男の声に苦々しい思いが湧き上がる。

 

 自分達は死ぬためにここに来たというのか。しばらく草むらに身を隠していると海上警備隊が上陸し、筐体のエンジニアを引き剥がしているのが目に入った。

 

「連中、何をやっているんだ?」

 

「多分、システムの復元か、あるいは筐体からシステムを取り外そうとでも言うのか」

 

 その時、警備隊の人間が叫んだ。

 

「隊長! 件のOSが筐体の中にありません!」

 

 今、何と言ったのか。男達は目配せする。

 

「OS? 何でOSなんて気にするんだ? 筐体の中には何が入っていたんだ?」

 

 その疑問に応ずる前に警備隊の声が響き渡った。

 

「やられたな……。ネットの海にOSを逃がしたか。阻止せねばならない重要案件だというのに」

 

 何を言っている? ネットにOSが逃げた? そんな事が可能なのか。

 

 思わず身を乗り出していたせいだろう。

 

 警備隊の隊員がこちらに気づいた。

 

「いたぞ! 生存者だ!」

 

「まずい!」

 

 三々五々に逃げ出すが、すぐに追いつかれてしまう。

 

 そこらかしこで仲間達の呻き声が聞こえてきた。

 

 必死に走った。

 

 追いかけてくる者がいようといまいと関係がない。追っ手を振り切るまで。

 

 気がつくとゲートを抜けていた。

 

 息を荒立たせた男の出現にゲート職員が歩み寄る。

 

「どうしたのですか? 血だらけですよ……」

 

「おれは……、おれは……」

 

 仲間はみんな死んでしまったのだろう。男は瞼をきつく瞑り、ゲート職員の制止を振り切った。

 

 訪れた街の喧騒が耳に入ってきたところで、男の意識は途絶えた。

 

 もう走る気力もない。

 

 そう考えて地面に突っ伏す男へと降りかかる声があった。

 

「軍曹。見慣れない風体ね」

 

「お嬢、この男、カタギではありません」

 

 意識の薄らぐ中で大男が歩み寄ってきて自分の服装を検分する。

 

「面白そうじゃない。お祭りの予感がするわ。軍曹、手当てを」

 

 さらに悪夢めいているのは、黒塗りの車の中からこちらを窺う黒衣の少女だった。

 

 興味が尽きない、とでもいうような目つきでこちらを見やっている。

 

 まるで支配者だな、と感じたところで完全に闇に没した。

 



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第五十八話「人の胸の迷宮」

 

「あれ? アーロンさん。テレビ、映らなくなっちゃいましたよ」

 

 ソファに座っていたメイがそのような事を言い出すものだから、アーロンはオムライスの玉子をうまく丸める事が出来なかった。

 

 嘆息をついて菜箸で調整する。

 

「アーロンさん。テレビ。点かないですよ」

 

 ソファに座りながらメイがチャンネルを回す。同席していたシャクエンもテレビの裏側に回って配線を確かめた。

 

「メイ、これ、もう古いタイプだから映らないんだと思う」

 

「そんなぁー。テレビもないんじゃつまらないですよ」

 

 相変わらずこちらへと向けてくる声音が煩わしい。

 

 アーロンは四人分のオムライスを仕上げてから、「下の店長にかけ合え」と告げる。

 

「古いテレビでも譲ってもらえるだろう」

 

「買わないんですか?」

 

 食卓に並べながらアーロンはメイを睨む。

 

「誰かさんのせいでこちらは大損をしたのでな。そう易々と金が使える状態ではない」

 

 アーロンの声にメイは乾いた笑いを浮かべる。

 

「いやー……その、誰のせいなのかなー」

 

「店長さんに言って、もらってこようか?」

 

 シャクエンの提案にメイは慌てて手を振った。

 

「いや、今はいいって。だってあたしのわがままみたいじゃない」

 

「実際、そうなのだがな」

 

 四人分並べてから、アーロンは一人足りない事に気がつく。

 

「おい、瞬撃はどこへ行った?」

 

「アンズちゃんなら、まだ働いているんじゃないですかね」

 

 今日はアンズが喫茶店のシフトだったか。アーロンは舌打ちする。

 

「飯時になったら戻って来いと言ってあるだろう」

 

「仕方ないじゃないですか。アンズちゃん、もう殺し屋はやらないって決めたみたいですし。その収入が見込めないのなら、バイトもするでしょ」

 

 アンズは自分達に誓って殺しはしないと言った。だから下の喫茶店で働かせているのだが殺し屋を二人も雇っている店主は気が重いだろう。いや、そもそも殺し屋だと言う事を知らないのだから気が重いもないか。

 

「怪しいだろう。瞬撃はまだ十二かそこいらだ。その子供が、喫茶店でバイトなど」

 

「でもアンズちゃん、物覚えが速いですから。店主さんも一番助かっているって」

 

「それはお前らが不誠実だと言われている事に気がつかないのか?」

 

 無理もない。

 

 全く仕事を覚える気のないシャクエンと、お気楽なメイではまだアンズの必死さのほうがマシに思えてくるだろう。

 

「失礼ですね。あたしはきっちり仕事してますよ」

 

「私も。それなりにやっている」

 

 シャクエンは静かに言い返してからオムライスを口に運ぶ。

 

 ふっと、驚いたように目を丸くした。

 

「今日のオムライス、おいしい」

 

「ですね! また腕を上げたんじゃないですか、アーロンさん」

 

「お前らの分も作っていれば嫌でも腕は上がる。そもそも、どうしてお前らは全く家事をしようとしない。居候ならば少しは動け」

 

 アーロンの言葉にメイは、「いやはや」と照れたように後頭部を掻く。

 

「昔から家事は苦手で」

 

「私も、まともにやった事はない」

 

 シャクエンはまだ分かる。年端も行かない頃から殺し屋として育てられていた。だがメイは別だ。

 

「お前は一般家庭だろう。何で出来ない?」

 

「目玉焼きも作れないんだよね。何でだろ?」

 

 それは致命的な欠陥ではないのか。アーロンはそう思いつつ口にはしなかった。

 

「余計な仕事を増やすくせに家事の一つも出来ないのでは、まさしくごくつぶしだな」

 

「酷い! アーロンさん、今は男も家事をやる時代ですよ?」

 

「メイの言う事は間違っていない」

 

 シャクエンも肩を持つ。しかしアーロンは言い返した。

 

「男も、だろう? それは女が何もやらないでいい、という話ではない」

 

 うっ、とメイが言葉を詰まらせる。どうしてこうも穴だらけの理論を自信満々に言えるのか不思議でならない。

 

「黙って食え。どうせそんな事しか出来まい」

 

「失礼ですね。あたしだって出来る事はありますよ」

 

 アーロンはさっさと食べ終えてメイの理屈を聞いていた。

 

 聞きながら考える。

 

 Miシリーズ。Mi3、と呼ばれた所以。プラズマ団は何故追ってくるのか。そもそも前回はメイの身柄がハムエッグの下にあったからややこしくなった。もうハムエッグのところには行くなと言い聞かせたが、メイの事だ。ラピスが心配になっただの適当な理由をつけて行きたがるに違いない。

 

「――で、ですよ。やっぱり、男の人が率先して家事をやるのなら、女はしっかり家庭を守る事が必要だと思うわけです」

 

 とんでもない方向に理論が飛躍していたらしい。

 

 アーロンは、「言ってろ、馬鹿」と言い置いて自分の食器を片付けた。

 

「むぅ……。アーロンさん、何か素っ気ないですよね。前までなら言い返してきたのに」

 

「いちいち付き合わされる身にもなってみろ。諦めたほうが得策に思える」

 

 シャクエンも食事を終え、片付けに参加しようとする。

 

 それを見てメイが呻った。

 

「シャクエンちゃんはこっちでお喋りしようよ」

 

「でも、波導使いだけに任せておくのは、やっぱりよくない」

 

 どうやらシャクエンは少しばかり分かっているらしい。メイは不服そうにむくれて横になった。

 

 とてもではないが居候の風上にも置けない。

 

「いいですよーだ。あたしはアンズちゃんとお喋りするし」

 

 扉が開き、アンズが帰ってきた。ちょうどよかった、とメイが飛び上がる。

 

「アンズちゃん! これからご飯?」

 

「うん。お腹空いちゃった」

 

 アンズは食卓につくなりすぐに食べ始めてしまった。メイは言葉をかけそびれる。

 

「あの、その……」

 

 育ち盛りだからだろう。アンズは食いについている。いい気味だ、とアーロンは感じた。

 

「あたしの話を……」

 

「ごちそうさま! 今日のオムライスはおいしいね、お兄ちゃん!」

 

「お兄ちゃんというのはやめろ」

 

 アンズもこちらへと歩み寄って片づけを手伝おうとする。メイはとうとう不貞腐れてしまった。

 

「いーですよー。あたしはぐーたらで。そういうポジションですから」

 

「どういうポジションだ。毎回厄介事を持ち込むだけのごくつぶしが」

 

 メイがテレビを点けようとするもテレビは壊れたばかりである。ばたばたとメイは手足をばたつかせて暴れた。

 

「暇ぁー!」

 

「うるさいぞ。暇ならば手伝え」

 

「あたしは暇を享受する役目なんです! だっていうのに、テレビも観られないなんて」

 

 無茶苦茶な理屈を並べ立てるメイに、アーロンはため息をついた。

 

 ――どこが、英雄の遺伝子なのだ。

 

 プラズマ団は調整を間違えたか、あるいは最初から英雄なんていないのではないか。

 

「少し席を外す。炎魔、瞬撃、後片付けの手順は分かるな?」

 

「私が掃除を」

 

「あたいは皿洗いの続きね!」

 

「任せたぞ」

 

 アーロンはそう言い置いて下階へと降りようとする。

 

「アーロンさん? どこ行くんですか?」

 

「……馬鹿が喧しいから、店主にテレビがないか掛け合ってくる」

 

「アーロンさん……!」

 

 感激の声でメイがこちらを見つめてくる。アーロンは手を払ってその視線を一蹴した。

 

「気持ち悪いぞ。俺は自分が観られないのは困るから掛け合うだけだ。お前らのためではない」

 

「またまたー。これだからアーロンさんはー」

 

 メイの声を背中に受けながらアーロンは階段を降りる。

 

 店主はちょうど夕食を食べ終えたばかりだったようだ。いつもの事ながら喫茶店に人はいない。店主がまかないを食べていても誰も見咎めない。

 

「おっ、どうした? アーロン。飯時に追い出されたか?」

 

「そんなんじゃないさ。アンズが世話になっている」

 

 彼は一般人だ。瞬撃、という通り名を使うわけにはいかない。

 

「ああ、あの子働き者だな。何でも父親に随分と仕込まれたそうで。てきぱき動くし、彼女だけでシャクエンちゃんとメイちゃんの働きはカバー出来るよ」

 

「だったら二人は必要ないか?」

 

「いいや。働かせてあげよう。何やらワケありっぽいからね」

 

 店主もある程度は分かっているらしい。シャクエンは明らかにカタギではないのでなおさらだろう。

 

「感謝する。それで、押し付けがましいのだが、テレビは余っているか?」

 

「テレビ? 何でまた」

 

「壊れたらしい」

 

 アーロンの言葉に店主はピンと来たようだ。

 

「メイちゃんが壊した」

 

「当たりだ。どうして当たって欲しくない事ばかり当たる」

 

「よくお皿も割るし、コーヒーの配分は間違えるし、ありそうだな、って思ったんだよ」

 

 申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

 

「すまないな。それで、余っていたら一台欲しいんだが」

 

「うちのも古くってね。買い換えようかなと思っているんだが、電化製品にはてんで。だからちょうどいいし、うちのも明日買って来てくれないか? ああ、もちろん金は出すから」

 

「そんな。そこまでよくしてもらえない」

 

「まぁ、ドジでも三人娘はよくやってくれているよ。頑張りのご褒美だ、っていう事で」

 

 アーロンは店主の懐の深さに感服する。

 

「よくもまぁ、そこまで言えるもんだ。俺なんかがあんたの立場ならクビにしている」

 

「衛生局のエリートが匿っているって言うんなら、彼女達だって同等の扱いをするべきさ。それに、テレビをもらうなんてけち臭い真似をしなくとも、買えばいいじゃないか」

 

「買い与えれば調子づく。目に見えている事だ」

 

「そうだった」と店主は笑う。アーロンは重ねて感謝の言葉を述べた。

 

「すまないな。あの三人を世話してもらって」

 

「いいって事だよ。こっちも看板娘が出来てちょうどいい」

 

 アーロンは手を振って部屋に戻った。するとメイが寝転んでおり、他の二人は掃除と皿洗いをこなしていた。

 

 アーロンはメイの横っ腹を突く。

 

 ごろごろと寝転がったメイがアーロンに気がついた。

 

「あっ、アーロンさん」

 

「馬鹿かお前は。見てみろ。炎魔は掃除をし、瞬撃は皿を洗っている。こんな状況で、どうして自称一般人であるところのお前は何もしない?」

 

「や、やる事がないんですよぉ」

 

 アーロンは考えてからテレビを指差す。

 

「ちょうどいい。明日、買い換える事にした。配線を全部外しておけ」

 

「えーっ! あたし、機械部品とか苦手で」

 

「文句を言うな。この状態を見ても何も思わないのか?」

 

 ヤマブキを震撼させた殺人鬼、炎魔が行儀よく掃除機を使い、奇襲の暗殺者、瞬撃が一枚の皿も割らずに皿洗いをしている。

 

「あ、あたしだってそりゃ思うところくらいは」

 

「では配線を抜いておけ。俺はもう寝る。明日、一番電化製品に詳しい奴がついて来い」

 

「えーっ! アーロンさんも何もやらないんじゃないですか!」

 

 メイの文句にアーロンは言い返そうとしたが、どうせ無駄だと言葉を仕舞った。肩透かしを食らったようにメイがつんのめる。

 

「言い返してくださいよ」

 

「いい。何かと面倒だ」

 

 どうしてメイは普段通りでいられるのだ。アーロンには分からない。

 

 前回、この街で最強の暗殺者と自分の殺し合いを見せつけられて、それでも平静を装えるその心が。

 

 通常ならば折れてしまいかねない精神がお気楽な言葉で取り繕っていても窺えるものだ。だというのに、メイは何も気にしていないようである。

 

「特別に馬鹿なのか……。あるいはわざと忘れようとしているのか」

 

 自分とスノウドロップが本気で殺し合った。その理由が自分となれば、忘れる、という選択肢が一番に賢いのかもしれない。

 

 アーロンは店主に告げて自分の寝所へと入った。

 

 手狭だか、一人分の寝床である。

 

 コートを引っ掛けて帽子を脱ぐ。せっかくの特注コートもスノウドロップとの戦闘で随分と擦り切れた。血のシミは取れたが、使い続けるには無理が生じる。

 

「買い替え時か、これも」

 

 普段は問題なく使えるのに、いざという時に決まって纏った買い替えが必要になる。

 

 アーロンはそのままベッドに寝転がった。すぐに睡眠が降りてくると思われたが、背中をつんつんと突かれる。

 

 店主だろうか、と寝返りを打つと意外な顔が視界に入った。

 

「お前……」

 

「しっ。メイには言っていない」

 

 シャクエンが自分の寝所へと潜りこんで来ている。アーロンは怪訝そうにその顔を眺める。

 

「何の用だ? 恨み言でもぶつけに来たか?」

 

「違う。……分かっているはず、波導使い。メイの様子が変だって事を」

 

 改まったシャクエンの声にアーロンは寝そべっていた身体を起こす。

 

「変だと? あいつはいつも変だ」

 

「茶化さないで欲しい。メイが、あんな事があった後なのに普通なわけがない」

 

 シャクエンはメイの感情の起伏に敏感なのか、それともあの場にいて何も出来なかった悔恨があるのか、真剣なようだった。こちらも自然と肩が強張る。

 

「何か言っていたのか?」

 

「何も。だからこそ気になる。何も言わないなんて、普通の人間じゃ耐えられない」

 

 裏社会を嫌というほど見てきたシャクエンの言葉には自然と説得力が宿る。アーロンは聞き入っていた。

 

「お前らの間で、何も話さないのか?」

 

「メイは、何も言わない。スノウドロップがあの後どうなったのかも、聞こうともしない。もしかしたら怖いのかも」

 

「怖い? 何がだ」

 

「波導使い、あなたがスノウドロップを殺そうとしたのは事実。殺し合った間柄の人間がいるのに、元の関係には戻れないのではないか、と。多分、思っている」

 

 メイは愚鈍にもスノウドロップを信じ込んで前回の状態を作り出した。その責任を少しは背負っているのだろうか。

 

「少しくらいは分からせてやれ。俺も回復には必死だったし、今でも医者通いだ」

 

 カヤノの下に通院して傷を癒そうとしているが、それでも全治一ヶ月だという。もし暗殺者が来れば、万全の状態で迎え撃てないだろう。

 

「癒すのは、身体だけじゃない。心の傷もそう。メイは、心に深く傷を負った。私達では癒せないほどに深く。メイはもう、前までの優しいメイじゃないかもしれない」

 

 ラピスを信じ込んで裏切られたようなものだ。ある意味では慎重になっているだろう。だが、アーロンにはその程度でちょうどいいと感じていた。誰も彼も信じ込むようではこの街では生きていけない。

 

「ちょうどいいんじゃないか。いい薬だ」

 

「分かっていない。メイのお陰で、私は救われた。アンズもそう。波導使いアーロン、あなただってそうなのではないの」

 

 自分が、メイに救われただと。

 

 アーロンは平静を装っていたが、すぐに否定の言葉が出なかったのは自分でも意外だった。

 

 あのような生易しい人間が介入しても何もいい事なんてない。さっさと現実を分かるべきだ。

 

 そう言い返すつもりだったのに、口からついて出たのは疑問の声だった。

 

「そうなのか……? 俺は、変わったのか?」

 

 以前までの冷酷な波導使いの殺し屋であったつもりだった。今もそうだ。そのはずである。だというのにシャクエンは自分が変わったという。あり得ない、と一蹴出来ないのは何故なのか。

 

「心の中では気づいているのでは? メイによってあなたは何かが変わった。変わらざる得なかった」

 

「俺が変わったとすれば、それは弱さを、弱点を背負い込んだ点だ。あいつは面倒な荷物で、今までの波導使いアーロンになかった、弱点だと、皆が思い込んでいる。それが俺にとって動きにくさを生じさせているだけの事。何も、変わってなどいない」

 

 自分で言っておきながらどこか言い訳がましい。何も変わっていないと信じたいだけなのだ。

 

 自分は今も昔も、変わらぬ殺人鬼であると。

 

「そう思いたいのなら好きにすればいいけれど、メイには変える力がある。人の根本を、彼女は変えられる」

 

「人間の根本はそう簡単には変わらない。人殺しはいつまでも人殺しの性を背負い続ける」

 

「でも、それは虚しいのだと、私は思う」

 

 アーロンは嘆息を漏らして、「話は以上か?」と声にした。

 

「俺が変わっただの、弱くなっただのを言いに?」

 

「スノウドロップとの戦闘局面、私は一歩も動けなかった。炎魔なら、今までの炎の暗殺者としての私ならば、自分の命を度外視して突っ込めた。〈蜃気楼〉による一撃を、相手に叩き込めた。それが刺し違える結果でも」

 

 それが炎魔の宿命のはずだ。しかし、とシャクエンは頭を振る。

 

「殺せなかった。動けなかった。私は……、メイを救えずに自分だけ死んでしまうのが怖くなった」

 

 それが、メイが人を変える、と思った要因か。実際に炎魔であるシャクエン自身が変わったと自覚しているのだ。

 

「人並みになっただけだろう。自滅覚悟の暗殺者よりも少しばかり賢くなっただけだ」

 

「そうかもしれない。でも、それは私に、捨てられるものが命以外に出来たからだと思う。前までは、命さえも捨てられたのに」

 

 命が惜しくなった。その原因がメイという一人の小娘にあるというのか。

 

 馬鹿な、と一笑に付すことは出来なかった。

 

 シャクエンは会った当初よりも変わっているのは確かだ。オウミの人形のように人殺しに迷いのなかった時の目ではない。どこかに温情のようなものが垣間見える。

 

「それが普通だろう。自分の命を殺しの勘定に入れるのは、馬鹿正直か、あるいはそういう洗脳を施された人間のやり口だ。一端の暗殺者になったのだと思えばいい」

 

「私は、もう殺しをしたくない」

 

 シャクエンの願いは恐らく裏切られるだろう。この街で、一度手を汚した人間が真っ当に生きられるようなシステムは存在しない。

 

「願うのは勝手だが、もしもの時には躊躇わないほうがいい。人殺しをしたくない、が自分も他人もみんな命は平等だと言い出し始めればお終いだ。命には貴賎がある。自分の命が他人よりも大事なのは当たり前なんだ。お前が、あいつのために命を張れるだとか、自分よりも誰かのほうが大切だとか言い始めなければ、まだ正常さ。俺達は引き絞られた弓矢だ。矢は、相手の心臓を射抜かなければならない。相手の胸に当たっても優しい、なんてのは、それは矢としての機能は失格だ。俺達は矢に生まれ、矢に死ぬ。それは暗殺者として育ったのならばもう逃れようのない運命だと思え」

 

 今さら何もかもをなかった事にして生きていくなど出来ないのだ。そのような都合のいい方法論がまかり通るような優しい道は、もう残されていない。

 

「分かっているつもり。私はこれまで人を殺し過ぎた。これからは殺さないかもしれないと言っても、メイと同じ目線には立てない。それくらいの線引きは出来ている」

 

「だったら、余計な事に関わっている暇なんてないだろう。人殺しはいけない事です、なんて今さら言うのかと思ったが」

 

「そんな道徳論なんて、私達はもう踏み越えている」

 

「明日は電気屋に行く。普段から殺しの神経を走らせておけとは言わないが、もう戻れないのは分かっておけよ。俺はオウミではないし、お前に殺しは命じない。ただ、俺達は殺し屋だ。どうしようもなく、殺し屋なんだ。だから、真っ当に生きて真っ当に死ねるとは思うな」

 

 当然、自分でも分かっている。

 

 真っ当には死ねないだろう。この身体はいずれ最も残酷な朽ち果て方をするに違いないのだから。

 

「今日はこれくらいにしておく。私は、でもメイには人を変える力があると信じている。瞬撃……アンズも変わった」

 

「人の心は迷宮だ。そう容易く変わるのならば、争いなんて生まれないだろうな」

 

 もちろん、人殺しもないだろう。

 

 だが現実には一週間に何度も殺しのニュースは報道されるし、何人だって殺せる人間は存在する。

 

 人の死をただ単に数字として消費する事に何の迷いもない職業もある。だから殺しを人間の全く介在しない場所に置くなんて事は出来ない。

 

 生き続ける限り、殺しはすぐ傍に存在する。

 

 シャクエンは二階へと戻っていった。

 

 取り残されたアーロンは頬杖を突く。

 

 すっかり目は冴えてしまった。

 

「人の心を変える、か。だが、俺には嫌な予感しかしない」

 

 英雄の遺伝子がもしその要素に介入しているのだとすれば。

 

 メイは人を変える先導者になってしまう。それは同時に支配の発生だ。人を変える、というのが必ずしもプラスの方向に働くとは限らない。

 

「人間、そう簡単に本質が変わるものじゃない。俺だって……」

 

 そこから先は言葉にならなかった。

 



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第五十九話「ホテルの暗躍」

 

 目を覚ますと大男が傍に佇んでいた。

 

 思わず短い悲鳴を漏らす。身体が痛んだが手当てはされたようだ。血も止まっているし、縫合もされている。

 

「お嬢、気がついたようです」

 

 大男の声に執務机についている黒衣の少女の姿が目に入った。

 

 周囲を見やるとオフィスの外観となっており、この場所はさしずめ応接室だった。しかし少女が上司など冗談の類としか思えない。

 

「気がついたのね。半日ほど眠っていたわ」

 

 少女は黒縁の眼鏡を外し、目頭を揉んだ。どうやら書類整理をしていたらしい。これでは本当にオフィスである。

 

 だがそれにしては、大男の気配が遊離していた。

 

 カタギのオフィスにしては大男が軍人めいた気配を発している。

 

「軍曹、彼の身元は?」

 

 軍曹と呼ばれた大男はホロキャスターを手に説明を始める。

 

「どこの組のものとも知れない、いわゆる、はぐれ者です。身元情報も断片的で、居なくなってもいいとカウントされた人間であると」

 

 軍曹の説明に少女は脚を組んで、「いわゆるこれものね」と頬を掠める真似をした。

 

「でも分からないのは、何でヤマブキのゲート付近で倒れていたのか。何かに追われているようだったけれど、何に追われていたのかしら?」

 

 少女の問いかけに男は答えようとしたが、自分達の仕事は極秘であった事を思い出し、口を噤んだ。

 

「言えない、のならばこちらから、分かっている情報を統合させてもらうと、昨日、クチバシティに何かが密輸された。その何か、を巡って海上警備隊と密輸集団が衝突。数人の死者を出したものの表沙汰にはされず。内々で処理されたこの事件の当事者、と考えるのが一番、筋に叶っている」

 

 男は瞠目した。少女の口にした言葉が全て的確であったからである。どうしてそこまで裏の事情に精通しているのか。

 

 男の目線を感じ取ったのか少女は高圧的に返す。

 

「自己紹介が遅れたわね。わたくしの名前はラブリ。ヤマブキシティでホテルミーシャを経営している、その頭目、と言えば分かるかしら」

 

 ホテルミーシャ。何度か名前は聞いた事がある。

 

 ヤマブキシティを二分する組織のうちの一つ。片方はハムエッグと名乗る盟主、もう片方がホテルだと。

 

 しかしそれは、ほとんど噂レベルでまさか本当だとは誰も思っていなかった。

 

「本当に、あんたらがホテルだって……」

 

「口を慎め。お嬢の前だぞ」

 

 軍曹の威圧的な声にラブリは手で制す。

 

「いい。彼はまだ状況を飲み込めてないでしょう」

 

 明らかに大の大人である軍曹がラブリに忠誠を誓っている。この状況こそが、全てを物語っていると言ってもよかった。この場所はホテルの本拠地なのだ。自分は愚かにも逃げ延びてホテルに拘束されている。

 

「拘束、などとは考えないで欲しいわね」

 

 だからか、その言葉が自分の心を見透かしたようで心臓が跳ねた。

 

「わたくしはただ、慈善の心をもってあなたを保護したに過ぎない。無論、保護したからには事情を聞かせてもらえないと解放出来ないんだけれど」

 

 喋るしかないのか。男が黙秘を貫いていると、「心象はよくならないぞ」と軍曹が圧力をかけた。

 

「お嬢は、いつだってお前の首をへし折る事くらい容易いのだからな」

 

「軍曹、そう脅す事はないわ。ゆっくり聞き出しましょう。わたくし達は紳士のルールに則って交渉しているのだから」

 

 紳士のルールにしては自分の手足は手錠で拘束されており、対等ではなかった。

 

「……何が聞きたいんだ」

 

「クチバシティの港であった事は本当なのか。まずそこからね。内々で握り潰されたから、わたくし達が情報を下手に探れば突かれたくない横腹を突かれる事になる。勘繰る事は出来ない、と思っていただいて結構。なにせ、作戦行動に臨んだのは海上警備隊、ひいては政府直属よ。この国の国防にわざわざ突っ込むなんて馬鹿な真似を誰がすると思う? わたくし達は、ただ真相が知りたいだけ。港で何が起こったのか。そもそも何を密輸してきたのか」

 

 話さなければ拷問でも何でもしそうであった。男は項垂れて口火を切る。

 

「筐体だ」

 

「筐体? 何の?」

 

「そこまでは分からないが、ホウエンからの払い下げ品だと聞いていた。それ一つでイッシュのスパコンと渡り合えるのだと。仲間内での噂に過ぎないが」

 

「イッシュのスパコンの性能は、無論、分かっているわよね? それなりの性能でなければ渡り合うどころか、枝の一つでさえもつけられない」

 

「分かっているが、エンジニアが何人かついていた。多分、本物だったんだと思う」

 

「本物……。軍曹、ホウエンでの有名企業と言えばデボンだけれど、デボンの株価は近年急落し、内部分裂によって保守派の台頭が激しい、と」

 

「その通りです、お嬢。そう易々とデボンの払い下げ品がカントーに回るとは思えない」

 

 信じてないのか。男は慌てて声を張り上げた。

 

「ほ、本当だ! 本当に、デボンの払い下げだと聞いた! ただ、分からないのは結局あれが何だったのか、という事なんだ。我々も末端だったし」

 

「もしもの時は切り捨てられるように情報は行き渡っていなかった、か。だとすれば奇妙な点として、海上警備隊の慌しい出撃理由がある」

 

 ラブリは執務机の端を指先で弾く。

 

「海上警備隊が、どうして先の先を読んだような動きを見せたのか。そもそも、どういう理由で出撃したのかが一切不明。これでは勘繰る事も出来ない」

 

 その理由の一端でも知りたいのか。しかし自分は海上警備隊が出てきた時、何も分からなかった。

 

「知らない。分からないんだ……」

 

「隠し立ては……」

 

「本当だって! おれにはまるで分からなくって……。何で海上警備隊は事前勧告もなしに撃ってきたのかも」

 

「撃ってきた? 発砲したと言うの?」

 

 ラブリの疑問に男は首肯する。

 

「多分、何かのポケモンによる攻撃だったと思うんだが、そこまでは分からなかった。ただ、海上から撃ってきたところを見るに、こっちの計画は割れていたんだと」

 

 ラブリは頬杖を突いて軍曹を呼びつける。机から葉巻を取り出し、軍曹が火を点けた。

 

「分からないわね。どうして海上警備隊に察知されるような迂闊さであったのに、事ここに及んで、カントーまで密輸は出来たのか」

 

「別口であった、という可能性は」

 

「考えられなくはないけれど」

 

 ラブリは紫煙をくゆらせて考えを巡らせているようだった。

 

「別口にしては、最後までの見送りも出来ないなんて、それこそ迂闊にもほどがある。アフターケアも出来ない業者に任せるなんて裏稼業では真っ先に爪弾きにされるわ」

 

「と、なると残っているのは」

 

 ラブリは煙い吐息を吐き出して声にする。

 

「……全て、カントーの掌の上であった。つまり、密輸も、それに伴う犠牲も、ある程度はカントーとホウエンの計算づくだった、という線ね。これなら結構頷ける。密輸を行ったのは裏の人間だけれど、結局そのギフトを手に入れたかったのはカントーの政府総本山だと考えれば」

 

「そんな……、そんなのってないだろ!」

 

 思わず声を荒らげてしまう。軍曹が歩み寄ろうとしたがラブリが止めた。

 

「よしなさい、軍曹。彼とて被害者よ。そりゃ喚きたくもなるわね。実のところ計算された犠牲だったなんて。死んだ人間はいるわけだし。でも、こう考える事は出来ないかしら? カントー政府を糾弾する手段が出来た、と」

 

 ラブリは手を掲げてゆっくりと揺らす。カントーという盤面そのものを支配したかのように。

 

「お嬢、それはカントー政府に貸しを作るという事ですか」

 

「政府が認めたがるかどうかは分からないけれど、今回の場合、その本体さえ見つかれば、証拠さえ挙がればカントーは言い訳出来ないわ。この情報を悪徳警官にでも掴ませて、調べを進めてもらおうかしら」

 

 軍曹が、「速やかに行います」と部屋を出て行く。ラブリは葉巻を手元で弄びながら尋ねた。

 

「どうかしら? あなた、今回の事件の重要参考人みたいなものだし、ちょっとばかし協力してみない? 割のいいアルバイトみたいなものだと思うけれど」

 

 ラブリのような少女の経営するホテルで働けというのか。男は渋った。

 

「……せっかくだが、おれはカントーを敵に回して生き残れる算段があるのかどうか」

 

「ああ、そう? でもあなたがこの先、政府に食われかねないっていう状況下でわたくし達を売るのは得策ではないわよ? どこに政府の狗がいるのかも分からないし、何よりもこの状況、あなた一人でも生き残っていると知られればヤマブキは戦場になるわ。一人の生き残りも出さない試算だろうし、そこから情報が漏れれば意味がないもの。どうする? あなた、殺されるのを待つ? このヤマブキに殺し屋はたくさん居るわ。誰に依頼してもおかしくはない」

 

 男は震え上がった。ヤマブキはいつからそんな治安の悪い場所になったのだろう。

 

「き、脅迫か? 言っておくがおれはそんなヘマはしない」

 

「ヘマはしない、と言っている人間が三歩歩けばもう殺し屋に拉致されている、というのが現状よ。第一、ヘマをしないなんて。それって死亡フラグみたいなもの」

 

 ラブリは穏やかに微笑む。しかし、この少女の采配次第で自分の命運が関わっているのだと思うと胸中は穏やかではなかった。

 

「あなたの取るべき選択肢は大きく二つ。ホテルに頼るか、誰にも頼らずにヤマブキを抜けて逃げ切るか。後者はおススメしないわ。もう手が回っていればホテルの真ん前でも殺しが起こるわよ」

 

「そんな。大都会の真ん中で」

 

「あるわよ。最近多いもの。つい先日、最強の暗殺者スノウドロップが裏通りを一面氷づけにしてビルを根こそぎ破壊した映像があるけれど、観る?」

 

 男は頭を振った。それが事実であれ嘘であれ、そのような暗殺者が公道を歩けているという事実。

 

「警察は何を」

 

「警察は、今頃は賄賂のご相談か、あるいは見当違いの殺しを追っているわ。もし踏み込み過ぎればこちらから警告を送る事も出来る。そういう治安体制なのよ」

 

 この街を実質的に支配しているのはホテルとハムエッグと呼ばれる盟主のみ。その二つに属さなければ即座に死が待っている。

 

「なんて事だ……。おれは……」

 

「生き残って幸運かと思いきや、こんな街のルールに巻き込まれて同情するわ。でもま、悪くはないはずよ。だってあなた、場合によってはいいポストを手に入れられる可能性だってある。自分の縮み上がった脳細胞をフルに使って、少しでも思い出しなさい。思い出した事の如何によってはわたくし達と対等な取引が出来る」

 

 対等な取引。男は唾を飲み下す。

 

「思い出した事を、ただただわたくし達ホテルに提供してもらうのも自由。あるいはわたくし達を出し抜いて他の勢力に味方するのも自由。まぁばれた場合のリスクを考えれば出し抜くってのは現実的じゃないけれど、もし出来れば大儲け。あなた、この街の祭りの中心にいるのよ」

 

 祭り。その言葉に男は震撼する。この街では一地方の命運と人の命ですら、祭りに昇華される。

 

「恐ろしい場所だ……」

 

「成り上がりにはちょうどいいけれどね。あなたがどれだけ賢く立ち回るかも見所ではあるわ」

 

 ノックがされて軍曹が入ってくる。

 

「オウミ警部に連絡を取りましょう」

 

「電話を」

 

 ラブリの手に電話が渡される。

 

 その時から交渉のカードは切られ始めていた。

 



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第六十話「アンドロメディア」

 

『ハロー、オウミ警部。出世出来そう?』

 

 オウミはラブリからの電話に背筋を凍らせた。

 

「オレ、何かまずい事でもしたか?」

 

『覚えがあるのなら直したほうがいいわね』

 

 オウミはデスクから立ち上がって他の刑事に聞かれないように遠ざかる。

 

「……ホテルからのラブコールなんて呼んでもいねぇ」

 

『相変わらず、変なところで生真面目ねえ』

 

「オレは早死にしたくないんだよ。……波導使いさんの件でそれを思い知った」

 

『炎魔を使役して成り上がろうとしていた男の言葉じゃないわ』

 

 オウミは額に手をやって、「マジに勘弁してくれ」と応じる。

 

「前回のスノウドロップのいざこざだってやべぇんだよ。あれ、隠し通せる規模を超えてる。ホテルの火消しにこっちはいい顔してねぇ。そりゃ賄賂をもらっている上役は儲けになったと思っているみたいだけれどな。基本的にこっちは現場主義なんだ。あんな事件が起こったんじゃ、治安体制の見直しだって囁かれている」

 

『スノウドロップを動かしたのはわたくしじゃないわよ』

 

「ハムエッグとプラズマ団の癒着だろ。でもてめぇらが祭りだって騒いだせいでとんだ災厄だ。悪徳資本家を取り押さえようったってあれは裏で行われた裏の祭りだ。だから検挙率はゼロで、なおかつ悪党の蔓延る隙を作っちまった」

 

 オウミは懐から煙草を取り出して片手で器用に火を点ける。耳元の電話口から、『今回は善良な市民からの情報』と声がかかった。

 

「善良な市民、ねぇ……。てめぇら、ホテルがどれだけやろうと構わないし、ハムエッグが馬鹿見ようと構わねぇんだが、こっちに飛び火するのだけはやめてくれよ。現場判断なんて言われたって巨悪の前じゃ無意味なんだ」

 

『あなただって悪徳の一つでしょう?』

 

 炎魔を転がしていた事を今でもねちっこく言われる。あの時はまだ波導使い相手に立ち回れると思っていたがいざスノウドロップの強さを思い知ると弱気にもなる。

 

「あん時は、波導使いさん一人を殺すって話だったからまだよかったんだよ。今はどうだ? 波導使いとスノウドロップの実力が拮抗していた、なんて性質の悪い冗談。この街最強の名前も返上されるかもな」

 

『まぁわたくし達ホテルは傍観を貫くつもりだけれど。今回は殺し屋は使わないわ。ただ単に、あなたに情報のパイプ役になってもらいたいの』

 

「いつだってオレの役目はそんなんだな」

 

 呆れ帰っているとラブリは通話口で笑う。

 

『損する役回りね』

 

「で、何だよ? まさか遂に頭のねじが飛んでハムエッグにケンカ売るって話じゃねぇだろうな?」

 

『そんな馬鹿な真似しないわよ。こっちでは取れる戦力も限られてくるし。波導使いだって一応はフリーランス。報酬とタイミング次第で敵にも味方にもなる』

 

「何だよ。まどろっこしいな」

 

『クチバシティで昨晩、ちょっとした騒ぎがあったのは知っている?』

 

「ああ、所轄が何か言っていたな。こっちでは大した捜査には発展してねぇよ。まぁまだ様子見ってところだな。人死にが出たって話でもないし」

 

『その人死に、実は出ていたって話は興味ない?』

 

「仕事増やすような真似されて興味あるわけねぇだろ」

 

『しかも何で誰も死んでいないって話になっているかって言うと、ちょっとお上の逆鱗に触れるかもしれない』

 

「ちょっと待ってろ」

 

 オウミは声を潜めて周囲を窺う。幸いにも聞き耳を立てている人影はない。

 

「……まかり間違えればオレのクビが飛ぶ、いやクビならまだいいな。殺されちまうだろ」

 

『お上がある物資の密輸組織を壊滅させた』

 

「いい事じゃねぇか。世は事もなく」

 

『ところがその一部始終はその物資を安全に手に入れるためにお上の仕組んだ三文芝居。最初から密輸グループの上とお上はグルだった』

 

「……きな臭くなってきたな」

 

『まだあるわ。唯一の生存者から話を聞いている。思い出せる限りの事を思い出してもらっているわ』

 

「怖い怖い。てめぇら、また拷問じみた事を」

 

『心外ね。きちんと人道的措置を取った上での情報提供よ』

 

 信じ難いな、と思いながらオウミは尋ねる。

 

「で、今どこにいるんだよ。生存者ってのは」

 

『教えるわけないでしょ。そっちから手を回して殺しでもしたらパーじゃない』

 

 乗らないか、と舌打ちする。ホテルからしてみれば唯一の交渉のカード。そう簡単に見せびらかすわけがない。

 

「んで、そいつを使って今回は何をおっぱじめようってんだ? 祭りに乗る奴がいるかどうかは分からねぇぞ」

 

『とある物資の詳細を教えるわ。筐体だったみたい。情報端末ね。ホウエンからの払い下げ品。デボンが関わっている可能性が高い。そっちの線で調べてみて。デボンが最近売却したリストか何かに載っているかもしれない』

 

「そっちで調べろよ」

 

『お礼ははずむわ』

 

 オウミは煙い息を吐き出して呼吸を整える。今、落ち着いて考えるべきは何か。澄み渡った思考で自分の利益を考える。

 

「……仮にそいつがマジだったとしよう。でも、ホウエンの、デボンのシステムに割り込むなんざ無理さ。ちょっと前までマジに全世界の中心だった企業だぜ?」

 

『下請けから洗ってみてちょうだい。それで何も出なければそれでいい』

 

「おい待て。オレが関わる事が前提になっているじゃねぇか」

 

『で、今思い出したらしいんだけれど、OSが逃げた、だとか言っていたみたい。エンジニアも何人かいたらしいから、恐らく情報技術』

 

「OSが逃げた? 意味分からねぇな」

 

『こっちも分からないのよ。だから調べてちょうだい』

 

「せめてアクセスコードなりなんなりを示してくれねぇとどうしようもねぇって。何を基準に調べりゃいいんだよ」

 

『筐体の側面に書かれていた文字があるそうよ。コードネームかしら。R・U・Iとの事だけれど』

 

「RUI? 何だそれ。聞いた事もねぇ」

 

『だから調べてって言っているんでしょ』

 

 これでは埒が明かない。こっちが請け負うか請け負わないかをはっきりさせなければ。

 

「……あのな、ホテルの業務はホテルの中で済ませろ。人の助けを借りるのがホテルの本懐じゃねぇだろ」

 

『いいけれど、あなたとの通話記録なんていくらでもあるし、ログも充分に揃っている。悪徳警官一人を路頭に迷わせるには充分ね』

 

 オウミは舌打ちをして吐き散らす。

 

「悪党め」

 

『悪党上等よ。調べてくれるのよね?』

 

「ああ、分かったよクソッタレ。RUIにデボンだな。お上が火消しに躍起になったって事はそっちのログもあるかもしれねぇ」

 

『何日で出来る?』

 

「嘗めんなって。半日だ」

 

『さすがね。期待しているわ』

 

 通話が切れ、オウミは思い切り床に叩きつけたくなったが我慢した。

 

 電話を戻す際に、「お嬢さんですか?」と尋ねられてどきりとしたが、部下は自分の娘だと思っているのだろう。

 

「ああ。厄介な、反骨精神丸出しの娘だよ」

 

「かわいい盛りじゃないですか」

 

「かわいい盛りねぇ……。まぁ、あれでまだなまっちょろいくらいだよ。本当にやべぇのは、それをダシにして荒稼ぎしようって輩だ」

 

「先輩、何か嫌な事でもあったんですか? 娘さんにそんな言い草」

 

 そうだ、ここでは娘の陰口という事になっているのだった。裏稼業の事を愚痴っても仕方あるまい。

 

「いや、今のは忘れてくれ。こっちにも仕事が回ってくる、って話だよ」

 

「そういえば、B37の案件、あれはこちら任せじゃないんですかね」

 

 青の死神――波導使いアーロンの殺しの案件。自分が処理したほうが後々やり易いと感じて一任されていたが、どうにも警察内部でも青の死神に関しては借りを作りたい節がある。当然、手柄の奪い合いだ。

 

「いいんじゃねぇの。オレらの仕事は減ったほうがいい。それが世のため人のためってな」

 

「でも、全く不明な殺しを、他の部署に持っていかれるのは」

 

 納得いかないのだろう。オウミは部下の肩に手を置いた。

 

「何事も退き際ってのが肝心だよ。オレは正直、あんまし踏み込みすぎても仕方がねぇって思っている。この街じゃ長生きする秘訣だ。覚えておけ」

 

 そう言い置いて、オウミは電算室へと向かった。ヤマブキシティのデータを一括管理する電算室に一人の痩せこけた男が白衣を引っ掛けて蹲っている。

 

「おーっす、暇か?」

 

 後ろから声をかけると男は大げさに驚いた。肩をびくつかせてから慌てて振り返る。

 

「お、オウミ警部でしたか」

 

「何ビビッてんだよ。相変わらず直らねぇのな、対人恐怖症」

 

「放っておいてくださいよ」

 

「ニシカツ。お前を見込んで頼みがある」

 

 ニシカツと呼ばれた男は先ほどまでいじっていた端末を庇うように引き剥がした。

 

「また、隠密ですか……」

 

「そんな嫌な顔しなくっても、てめぇの端末には指一本触れねぇよ。オレが知りたいワードと情報だけをてめぇの技術をもって知りたいだけだ」

 

 ニシカツは震える唇で言葉を紡ぐ。

 

「お、オウミ警部。先日のスノウドロップ対青の死神はとてもよかった。あれは、ネット上で大変評価を受けました。お陰で僕の評価もうなぎ上り。数少ない情報から極上のエンターテイメントを生み出す人間だと思われている」

 

「そう思わしたのは、誰だったか?」

 

 オウミはニシカツに大変な借りを作らせている。そもそも対人恐怖症のニシカツが警察の脳に等しい電算室に出入り出来る許可を作ったのも、もっと言えば彼を雇うように裏工作したのも自分のためだ。いざという時に、この男は頼りになる。

 

 自分一人では所詮、汚職警官の動きに過ぎないがニシカツという頭脳を得れば無敵に近い。だからこそ炎魔を使っての成り上がりを画策したのであるが、あれは自分の力量を見誤った結果だ。その代償が右腕一本で済んだのはまだ僥倖であった。

 

 アーロンも、ホテルも、あのハムエッグでさえもニシカツの存在は知らない。自分が全部やっているのだと思い込んでいる。

 

 ある意味では虎の子のニシカツに、オウミは命じた。

 

「ちょっとばかし、気になる情報がある。クチバシティに、昨晩、海上警備隊が一悶着を起こした」

 

「そ、それに関して言えばもうデータは上がっています。な、何だかよく分かりませんが、ホウエンから持ち込まれた謎のブラックボックスの回収任務だった、とか……」 

 

 ニシカツの手渡した書類にオウミは笑みを浮かべる。

 

「でかしたぜ、ニシカツ。やっぱりてめぇは最高の相棒だ」

 

 既に情報はこちらのものである。ホテルにも、ハムエッグにも関知されない第三の存在としてニシカツは重宝出来る。加えて分を弁えているので裏切りは絶対にない。

 

 使える部下は後にも先にもニシカツだけだ。

 

「そ、それほどでも」

 

 ニシカツが謙遜して頬を掻く。オウミは書類上に記されている海上警備隊の出撃記録を目にした。

 

「おい、こりゃあ、やばいぜ。なにせ、この作戦自体が、当初より計画されていたって書いてあるじゃねぇかよ」

 

 つまり事後に動いたのではなく、最初からクチバに密輸組織が来る事を予見していた。それはラブリの言っていたカントー政府の内々による作戦、という線を濃厚にさせる。

 

「け、計画書自体は三日前に受理申請されています。それ以前のログも探りますか? ち、ちょっと面倒ではありますが」

 

「ログをやたらめったら探っても藪蛇になれば困る。ニシカツ、キーワードを提示するからその範囲で動け。RUI、だ」

 

 ニシカツは端末にその文字を打ち込んで即座に電算室の高度な検索にかける。ニシカツの小さなノート端末一つに警察の頭脳が直結している。それを知っているのは自分だけだ。ある意味、ニシカツに全てを任せた結果になるが、この男は小心者だ。どう足掻いたところで自分の利益だけを求める事は決してない。

 

「R、U、I……。検索項目、二千件出ました」

 

「絞れ。OSの名前だそうだ」

 

「OS……。その名前なら聞き覚えが」

 

 ニシカツが即座にキーを打って情報を呼び出す。一度見聞きした事を絶対に忘れない。この男の特徴である。だからこそデータとして重宝している。

 

「で、出ました。これじゃないですかね」

 

 ニシカツの指差した投射画面をオウミは覗き込む。そこには「自律型演算システムの開発にデボンが着手」という記事があった。

 

「いつの記事だ、こりゃ」

 

「は、半年以上前です。元々企業向けに発布された情報なので、一般人は知る由もないですよ」

 

「どこの企業が買い取ろうとした? そもそもこれはデボンの独占事業か?」

 

 ニシカツがさらに検索条件を絞り込み記事の詳細を表示させる。

 

「お、恐ろしく高度な知的能力を持つ自律型OS、いいえ、この場合はAI、と呼んだほうが正しいかもしれません。それほどの高精度な自律支援システムを開発した、と書かれています」

 

「だからどこが開発した? デボンか?」

 

「で、デボンの一部開発部門によると偶発的な発明であった、とありますが……。あ、怪しいですね」

 

「だな。そんな世紀の大発明が偶発的? しかもそれをオープンソースにしないってんじゃ、これはくさいぜ」

 

「き、企業向けに売り出したみたいですけれど値段が法外です。こんなの、デボンほどの大企業じゃなきゃ買えない」

 

「逆に考えるんだよ、ニシカツ。企業を超えた、軍事あるいは国家レベルなら」

 

 その言葉にニシカツは目を戦慄かせた。

 

「ま、まさか、カントーが買い取ったとでも?」

 

「そう考えるのが自然だろうが。にしたって、そうすると何で密輸団なんかに輸送を任せたのかって話になるな。横合いから奪われる危険性もあっただろうに」

 

 どうしてごろつき共に任せた? その部分が分からない。

 

「か、考え得る最適な事として、政府直属部隊を使いたくなかった、というのがあるのではないでしょうか? 大き過ぎる動きは他国を刺激します。輸送が、それこそ大部隊になれば、各国の横槍を受け入れるようなものですし」

 

「あえて、何でもない密輸を装ったってか」

 

 オウミが煙草を吸おうとすると、「き、禁煙です」とニシカツが指でバツ印を作る。

 

 舌打ちをしてオウミは考えを巡らせた。

 

「国家機密レベルのものを、そこいらのヤクザものに運ばせるってのは納得いかんな。奪われたらどうするんだ」

 

「こ、今回、重要だったのはそのパッケージではありませんから、奪われる、というと意味合いが違ったのではないでしょうか?」

 

 ニシカツの言葉にオウミは目を見開く。

 

「どういうこった?」

 

「お、OSが目的だったのならば、筐体やそれこそ入れ物にはこだわりません。そのOSが組み込まれた端末こそがRUIになるのですから。つまり、どういう形であれRUIの無事な輸送を完遂するのに、大げさなパッケージでヤクザもの達にも、これは重要だ、と思わせればよかったのだと」

 

 つまり、馬鹿でも分かるように大げさなもので包んでおけば、真髄を誤魔化せる。その上、入れ物の姿形が重要ではないにせよ、それを見た人間が危険な代物だと認識出来ればよかった。

 

「つー事は、結局密輸業者がこれは割れ物です、って思わせるようなものなら何でもよかったと」

 

「あ、ある程度の筐体の大きさはいるでしょうね。理想のマシンスペックを実行するのに僕の端末では足りませんから」

 

 ニシカツの端末は改良に改良を加えた彼オリジナルのものだ。だから一般流通しているものよりも数段レベルが高い。それでもまだ足りないとは。

 

「その、自律型システムってのはどういう代物なんだ?」

 

「も、元は軍事目的であったと書かれています」

 

 軍事。カントー政府の欲しがる理由が分かったが、一体どの分野のものなのか。

 

「軍事って言ったって、ミサイルを敵地に飛ばすためのシステムなのか、戦略を組み上げるシステムなのかじゃえらく差があるぜ。どういう目的だったんだ?」

 

「ぐ、軍事利用するのならば、全て、と書かれています」

 

 オウミは視線を投射画面に向けた。軍事に関するチェックボックス全部にチェックが入っている。

 

「……嘘だろ」

 

「い、いえ、事実です。これは、軍事目的ならば全ての項目を一挙にこなせる、と書いてあるんです」

 

 そんな万能ツールなど存在するものか。オウミは思わず言い返していた。

 

「そこまで便利なものを作ったって言うんなら、なおさら分からねぇな。そのまま学会に出すだけでもそこいらの賞は取れるだろうに」

 

「え、ええ。軒並みの賞どころか、人類史に名を刻めるでしょうね。でもそういうのが目的じゃなかった。これは、裏の裏で展開される目的のために必要だった」

 

「軍事の裏の裏、か」

 

 つまり最重要機密に抵触する。密輸した連中が皆殺しにあったのもさもありなんであった。

 

「だが、生き残っている奴がいたってのは絶対に阻止したいだろうな。そいつから情報が漏れれば、カントーそのものが危ういぜ」

 

「か、カントー政府は海上警備隊に継続任務を充てています。つまり、その生き残りがいるとすれば、今追っているのは軍人連中ですね。どこまで追跡されているんですか?」

 

「オレもてんで分からん。ホテルからの情報だからな。連中、その事実を知ったら絶対にオレにも情報を封鎖しやがる。その前に、こっちはこっちで出来るだけ情報を絞り尽くしておけ。でなければ出し抜かれるのはこっちだ。体のいいスケープゴートにもされかねない」

 

 元々、情報を引き合いに出した辺り、身代わり人形の役目は背負わされていたのかもしれない。

 

「か、確認します!」

 

 そう言ってニシカツが潜ったのはホテルの情報網だ。本来、一番にあってはいけないような動きだがニシカツほどのA級ハッカーならば痕跡も残さずにホテルのサーバーに潜入出来る。今、ホテルがどこまで知り得ているのか。ここから先は一歩踏み誤った側の負けだ。

 

「ほ、ホテルの情報、サーバー内に備蓄されているデータベースには、まだ男の名前すら分かっていないようです。今、それを探っている最中だと」

 

「つけ入るなら今だな。ニシカツ、軍人連中がこの街に来るまで、どれくらいだ?」

 

「は、半日も待たずして先遣隊は来るでしょうね。クチバからの直通ですから」

 

「やべぇな……。もう来てるかもしれねぇのか」

 

 しかし、軍部の人間がヤマブキを突けばそれこそ薮蛇だ。この街には政府役人に指図されたくない連中がうろうろしている。

 

「どうやって連中を差し止め出来る? 有り体に言えば、どいつを殺せばこの事態は丸く収まる?」

 

「す、既にホテル内部での情報封鎖は完璧です。漏れるとしたら我々からでしょう。だから、今回、リストアップした海上警備隊の人間を事故に見せかけて殺せれば、もしかすると軍部は手を引くかもしれませんね」

 

 ホテルを突くよりも街に迷い込んできた子猫を殺すほうが速い、か。オウミは即座にこの街で対応可能な殺し屋を浮かべて、ニシカツに明示する。

 

「ニシカツ。この街で、厄介な大事にならなくってなおかつスマートに殺しを行える奴なら、一人だけいるぜ」

 

 その言葉の意味するところが分かったのだろう。ニシカツは青ざめた。

 

「……青の死神ですか? しかし、彼は前回スノウドロップとの戦闘で目立ち過ぎています。マークされている可能性も」

 

「マークされているんなら、一緒についている炎魔も気づくさ。そういう風に教育はしておいた。軍人レベルなら、逆に気づく。それほどの人間が追跡していれば分かるくらいには、炎魔は鼻が利く」

 

 シャクエンが共にいるのならば、軍人を見つけ出すのは容易いだろう。問題なのはアーロン本人にどう殺しの約束を取り付けるか、であった。

 

「警察から政府役人を殺してくれ、ってのはやっぱりまずいよな」

 

「け、警察が槍玉に挙げられれば、それこそヤマブキでの権威は失墜です」

 

「もう落ちるところまで落ちてるだろうがな。どっちにせよ、オレからの依頼ってのもそろそろまずい。代わりになるような人間にやらせるのが一番なんだが、どこから指示を飛ばせば波導使いさんは食いつく?」

 

「そ、それこそ分かりませんよ。波導使いアーロンは金を払えば殺しはします。ですが、自分に必要以上に危害が及ぶ事は絶対にしない。軍人なんて敵に回したと知られれば、それだけでこちらに牙を剥く可能性が大です」

 

 ニシカツはそう言いつつもヤマブキシティでそれなりの地位を持ちつつ、接触が自然な相手を探そうとしている。やはり優秀だ、とオウミは笑みを浮かべた。

 

「誰かいないもんかねぇ。青の死神を焚きつけられるだけの人間が」

 

「こ、木っ端役人の話なんて耳を貸さないでしょうね」

 

 リストアップしたのはヤマブキシティの市政を担っている人間達だ。オウミは手を振った。

 

「無理無理。あいつは役人だとかが一番嫌いだ」

 

「で、では誰がいいでしょうか?」

 

 ニシカツと一緒になって考える。ハムエッグとホテル以外の、絶対に秘密を口外しない人間で、なおかついざとなれば切れるような都合のいい人間……。

 

「んなちょうどいい奴ってのはやっぱりいないか」

 

「あっ、ひ、一人だけ。ちょっと気になる人物がいます」

 

 ニシカツ自身が推薦したのは一人の路地番だった。オウミはその経歴を目にして驚愕する。

 

「こいつ……元プラズマ団だったのか」

 

「し、しかも前回。スノウドロップと青の死神の全面対決を止めたのは、ある意味この人物の功労が大きいでしょう。ハムエッグが情報封鎖をしていますが、人の口に戸は立てられません。口コミで、こいつはくさいと評判ですね」

 

 オウミは笑みを刻む。これほどの適材はなかなかいなかった。

 

「オーケイ、ニシカツ。こいつに接触しろ。情報のある程度まで無償で渡せ。知りたくなれば、そうだな、ハムエッグとホテルに流さない事を条件に第二次情報を渡し、段階的に開示していく。そうすれば、切り時も判断しやすい」

 

「あ、ある程度、というのは逃げたOSがいる、という事とその最新OSを追っている連中がいる、という事ですね」

 

「分かってるじゃねぇか。そうだよ。ちょっとした珍事レベルに思わせろ。絶対にあっちゃいけないのは、カントーの軍事が動いている事を匂わせることだ。いいか? 青の死神も、この可哀想なお坊ちゃんも、知らない間にでけぇヤマに付き合ってもらうぜ」

 

 投射画面に映し出されたのは元プラズマ団であり、現在は路地番をやっている男の相貌であった。

 

 リオ、という名前を即座に導き出し、彼の端末へとニシカツが通話を繋いだ。

 



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第六十一話「電子の妖精」

 

「いいか? 買うものはテレビだけだ」

 

 最初にそう言い含めておいたのは全員がついてくると言いだしたからだ。

 

 当然の事ながら三人も連れ歩くのはどうかしている。

 

「何でですかぁ。あたし達はついていく義務があります」

 

「馬鹿なのか? 大の大人が三人の小娘を連れている様子を見て、お前はどう思う?」

 

 メイは少し考える仕草をしてから呟いた。

 

「……異常ですね」

 

「まだ子供に近い瞬撃ならばいざ知らず、お前らは充分に大人びている。そんな連中を二人も連れて行けば怪しいに決まっているだろう」

 

 電気屋一つに行くのでもこれである。アーロンは頭を抱えていた。

 

「で、でもでも! あたしがまずは見るべきでしょう?」

 

 メイを連れ回したくないのは理由がある。

 

 プラズマ団がまだこの街に潜伏しているかも知れない、という可能性。もう一つはシャクエンの懸念であった。

 

「俺としては、炎魔を連れて行くつもりだったんだが」

 

「シャクエンちゃんを? ……まさかアーロンさん、シャクエンちゃんに何か――」

 

「何もしていないし、お前は余計な事を考え過ぎだ」

 

 どううるべきか。悩んでいるとアンズが手を振った。

 

「あたいはお留守番でいいよ、お兄ちゃん。テレビとかよく分からないし」

 

「私も。テレビとかは分からない」

 

 シャクエンとアンズの声にアーロンは言い返す。

 

「だからと言って馬鹿を連れて行くのは」

 

「また馬鹿って言った! 酷いですよ、アーロンさん。壊したのはあたしじゃないんですから」

 

 勝手に壊れていた、と言っても最後に使っていたのはメイである。よくもまぁ、そんな太い事が言えたものだ。

 

「ではどうする? 炎魔、お前が来るのならばまだ理解出来たが、どうして留守番なんて」

 

「メイと、あなたは話したほうがいい」

 

 スノウドロップ戦から先、自分とメイはろくに話をしていない。それを慮ったのだろう。暗殺者にしては、他人の心情を読む事に長けている。

 

「……俺は保護者か」

 

 ため息をついてメイを手招く。メイは部屋を出る際に、「火の用心をしっかりしてね」と言い置いた。

 

「炎魔に向かって火の用心とは。洒落にならん話だ」

 

 店主に予め聞いておいたテレビの型番をメモしておき、アーロンはヤマブキの街並みを歩いた。

 

 考えてみれば、何も考えずにヤマブキシティを歩いたのは久しぶりかもしれない。

 

 ここ最近、殺しだのトラブルだのが相次いだ。大体がメイのせいなのだが当の本人には自覚はないらしい。

 

「アーロンさん、何か喋りましょうよ」

 

「勝手についてきてその言い草か。言っておくが、俺は気の利いた話題なんて出せないし、そういうのは期待しない事だな」

 

 メイはむくれてそっぽを向く。

 

「いいですよーだ。どうせ、アーロンさんに女の子のエスコートなんて出来ないんですから」

 

 アーロンは釈然としないものを感じつつ、まだ撤去工事が行われている裏路地を視界に入れた。スノウドロップとの戦闘は明らかに街へと大きな傷跡を負わせた。その責は背負うべきだと判じていたが誰も自分を罰しなかった。そもそもプラズマ団という横槍のせいで発した戦いだ。ヤマブキの全員が同情はしたが責め立てるような空気の読めない輩はいなかった。

 

 そういう点ではこの街の人間は温情に溢れている。

 

「……まだ、工事しているんですね」

 

 だからか、メイの呟きを聞き逃しそうになった。

 

「……まだ、か。しばらくは工事が続くだろうな。裏路地の大改編はあり得るだろう」

 

「あたし達が、暴れたからこんなことになったんですよね。死んだ人とかは」

 

「いたずらに犠牲を増やすような戦いはしない。それはスノウドロップとて分かっている。全部廃ビルを襲ったものだ。だが、そこいらのホームレスは死んだかもな」

 

 確認出来ていない死体。一つや二つはあってもおかしくはない。だが、その責を背負うのは筋違いであるし、そういうのは事故に巻き込まれたのも同然だった。

 

 しかし、メイは足を止め、鼻をすすり上げる。振り返ると目の端に涙が溜まっていた。

 

「……何故、泣く? お前のせいではあるまい」

 

「あたしが、迂闊な事をしなかったら起こらなかった。アーロンさんはそう言っていたじゃないですか」

 

「あれは転がっている事態をどうこうするために必要だった言葉だ。もう忘れろ」

 

 どちらにせよ、不器用にしか言葉を交わせないのだから。

 

 二人の間に無言が降り立ち、メイは俯きがちになっていた。

 

「下を向いていると転ぶぞ」

 

「転びませんよ。ただ、下を向いていないと、どこに目を合わせていいのか分からなくって」

 

「俺達が見なければいけないのは常に先だ。だから前を向け。過去を回顧するのはいつでも出来る。だが先を見据えるのは、今しか出来ない」

 

 そんな、誰に宛てたでもない言葉を口にする。

 

 メイが顔を上げたのかどうかは結局見なかった。振り返ったところで仕方がないのだと、アーロンは割り切った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「店主の注文したのは20型か。結構大きめだな」

 

 ウィンドウに設置されているテレビを見やり、アーロンは呟く。

 

 どうせ自分の金で買うわけではないのだが、それにしても一人用の大きさではないな、と感じる。

 

「映画とか、店主さんは観るみたいですよ」

 

 すっかり様子も元通りになったメイが声にする。割り切れたかどうかは、結局聞き出せず仕舞いだ。

 

「映画ね……。上ではほとんど観ないから小さめでいいな」

 

「えーっ! せっかくだし大きいの買いましょうよ」

 

 メイの不満にアーロンは言い返す。

 

「大きいテレビを買って、お前らは何をする? 下らんテレビのバラエティ番組しか観まい。それも俺のいないところでゲラゲラ笑うだけだろう。正直なところ、テレビは訓練用に小さくてもいい」

 

「波導の眼の訓練ですか? 毎朝やっていますけれど、あれ意味あるんですか?」

 

 高速でチャンネルを回し、即座に脳に情報を取り入れる作業の事をメイは言っている。アーロンは、「教えは忠実に守るものだ」と答えた。

 

「特に、日々の鍛錬はな」

 

「変な事を教える人もいたもんですね」

 

 自分の事を棚に上げてよく言う。アーロンは一つの中型テレビに目を留めた。

 

「値段も手ごろだ。これにしよう」

 

 そう言って振り返ったところにメイがいなかった。どこへ行ったのだ、と探しているとメイはパソコンコーナーにいた。

 

「おい、買うテレビは決まったぞ。油を売っていないで」

 

「アーロンさん、これ、変ですよ」

 

 メイの注目は一つの端末に集中していた。アーロンは嘆息を漏らしつつメイの視線を追う。

 

「何が変なんだ? ただのパソコンだが」

 

「だって、これだけネットに繋がっていますよ?」

 

 ディスプレイされているパソコンはどれもオフラインだったが、その一台だけオンラインだった。確かに奇妙と言えば奇妙だが設定のミスだと考えた。

 

「店員のミスだろう。オンラインになっているパソコンの何がおかしいんだ」

 

「いや、でも……。気になりませんか?」

 

 メイの視線はその端末から離れない。アーロンは端末の画面を覗き込んだ。

 

 その瞬間、ほんの少しだったが意識が混濁したのを感じた。

 

 アーロンはよろめく。

 

 あり得ない事だが、波導の眼が勝手に機能し、パソコンの内部を視ていた。

 

「……何だこれは」

 

 無機物にも波導は宿る。それは師父との訓練ではっきりした事だ。だが、目の前のパソコンに宿っている波導は質が違う。

 

 人間の纏っているものに近い波導を、そのパソコンに感じた。

 

 他のパソコンも瞬時に見やる。だが、どれも無機物だ。それらしい波導は宿っていない。

 

 ――こいつだけ、別なのか?

 

 アーロンはメイを押し退けてパソコンを注視する。その姿にメイがむくれた。

 

「見つけたのはあたしですよ。アーロンさん、気になるんですか?」

 

「ああ、こいつは。ひょっとするとひょっとするかもな」

 

 意味が分かっていないのか、メイは首を傾げる。アーロンは値札を見た。特価品と書かれておりテレビと一緒に買い付けてもまだ余裕がある。

 

「これも買おう」

 

 その言葉にメイが予想以上に困惑した。

 

「何でですか? あたしが変って言ったから?」

 

「大体そんなところだ」

 

 この一台だけ波導の位相が違う、と言っても常人には理解出来まい。アーロンはパソコンを手にレジへと向かった。

 

「これ一台限りなんですよ」と店員は笑顔を振り撒いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「何で買ったんですか? テレビはそうですけれどパソコンなんて要らないでしょ」

 

 家に帰るなりメイの文句が飛んできた。シャクエンとアンズも同様の意見を口にする。

 

「予定外の出費は必要ないって、言っていたくせに」

 

「パソコンなんて使い方分からないよー、お兄ちゃん」

 

 アーロンは導かれるようにパソコンをネットに繋ぎ、先ほどと同じ状態を試してみた。すると、ポップアップが現れ、何かを表示するか否かを問われる。

 

「アバターを表示しますか、だって。何か古臭いよね。今時アバターなんて」

 

 アーロンは「はい」の項目を選択する。直後、ノイズが走った。

 

「壊れたんじゃ」と三人とも呆気に取られていたがアーロンだけは違うと感じていた。

 

 ノイズと同期して波導の度合いが強くなったのだ。

 

 やはり、と確信する。

 

「このパソコンは他のとは違う」

 

「あたしが言った事ですけれどね」

 

「そういう意味ではない。俺の波導の眼を、勝手に発動させた。このパソコンには特定周波数を他人の脳に直接叩き込むサブリミナル効果が施されている可能性が高い」

 

「サブリミナル……。えっと、どういう意味ですか?」

 

 馬鹿には一から十まで教えないといけないらしい。アーロンはため息をつきつつアバターを表示させる。

 

「お前から説明しろ。波導の眼の強制発動なんて、波導使い以外では出来ない」

 

 アーロンの言葉に表示画面に浮かび上がったのは薄紫色の髪をした少女のアバターであった。眼が赤く、容姿は幼い。

 

『さっすが、波導使いアーロンなだけはあるみたいだね。ここまで早く見つかるとは思っていなかったよ』

 

 マイクを震わせる声にメイとアンズが後ずさる。

 

「なっ、何これ!」

 

「の、呪いのパソコン……!」

 

「馬鹿を言え。呪いなんて存在しない。こいつはこのパソコンに入っていた、物理存在だ」

 

「そ、それが亡霊とか、幽霊とか言うんじゃないですか!」

 

 メイの喚きにパソコンの中の少女は首を傾げる。

 

『おっかしいなぁ。もうちょっと理解がある人間が揃っていると思って大都会ヤマブキシティの、あんな電気屋に張り付いていたって言うのに。随分とアナクロだね』

 

 アーロンはアバターが喋る度に内蔵する波導の度合いが強くなっているのを感知する。一体、これは何だ? 何が意思を持って存在している?

 

「一つ聞こう。俺達を担ごうというわけでは」

 

『ないない。だってボクは、自分の身柄でさえ危ないんだ。ふざけている時間なんてないよ』

 

「こ、この亡霊を何とかしてください! アーロンさん! 波導使いなんでしょう?」

 

「……生憎と波導使いは亡霊をどうにか出来るわけではないし、それにこいつは亡霊でも何でもなく、一種のプログラムだ」

 

 放たれた声にメイとアンズが呆然とする。

 

「プログラムって……。勝手に喋るプログラムなんて存在するわけ」

 

「そ、そうですよっ! いくらあたしとアンズちゃんが機械に疎くたって分かるんですから!」

 

「プログラムである証拠を見せようと思うと、言語化が難しいな。お前の口から説明しろ」

 

『えーっ。ボクだって暇じゃないし、一刻を争うんだけれどな……。まぁ、いいや。ここは結構有意義な場所だね。電波遮断施設だ。そこいらからの横槍を完全に受け流す、一級の建物だと言ってもいい』

 

 少女が投射させたのは衛星画像である。そこには粗いながらもこの場所が映し出されていた。

 

「そ、空から狙われている?」

 

「衛星に即座にハッキングしたのか。ただのプログラムにしては、なるほど、強力だな」

 

『分かってもらえた? ボクはプログラムというよりもシステムそのものだ。だから、そうだね、亡霊じゃないよ、そこの……、メイとか言うトレーナーさん』

 

「何で、あたしの名前……」

 

 名乗っていないはずである。アーロンは自分の身元も特定したアバターの少女の手腕を推測する。

 

「衛星どころではないな。この街のネットワークに接続している。恐らくはホテルか、ハムエッグのところから情報を拝借しているんだ」

 

「そんなの、ばれたら……!」

 

『ばれないよ。ボクは一流のプログラムOSだもん』

 

 えっへんと胸を張ってみせる白衣の少女のアバターにメイは血の気が引いたようだ。

 

「怖い、っていうか、不気味……。何なの、これ。どうして、こんなプログラムが……」

 

「俺にも分からないが、どうしてだか、一台だけオンラインになっていた家電屋のパソコンに紛れ込み、サブリミナル効果を生み出す画面を表示させ続けて買い手をこいつが選んでいた、と考えるのが筋だろう。俺の眼を強制発動出来るサブリミナル効果なんて知らないが、あるのだろうな」

 

『嘗めてもらっちゃ困る。ボクの中には波導使いのデータだってあるんだ。当然、その一族がどういう眼を持っていて、どういう体質なのかも』

 

「アーロンさん! 壊してください!」

 

 メイの張り上げた声に少女のアバターは戸惑う。

 

『ちょっ、ちょっと待ってよ! ボクは何もしてないじゃない』

 

「何もしていないって、これだけの事をやっておいたプログラムですよ。危なくないはずがない」

 

「馬鹿にしては聡明な考えだ。俺も、このプログラムは危険だと判断している」

 

 画面の中の少女は腕を組んで、『どうするべきかな』と悩む。

 

『このまま、オンラインだし逃げ切る事は出来る。痕跡の一つも残さずに、ね。でもそれをやるには、この電波遮断施設が厄介なんだよね。特定周波数以外は内からも外からも弾く。こんな特殊な素材の家に住んでいるんだから、カタギなわけがないよね』

 

「そこまで分かっていれば話が早い。どうするか、お前が決めろ」

 

 アーロンの発言にメイとアンズが声を荒らげる。

 

「アーロンさん! こんなの、壊しちゃってください!」

 

「お兄ちゃん! 怖いからもういいよ、これ!」

 

「……だそうだが、炎魔、お前はどう考える?」

 

 質問を振ると先ほどから黙りこくっているシャクエンは口を開いた。

 

「……多分、波導使いと同じ見解だと思うけれど」

 

「だろうな。お前はそういう考えの持ち主だ」

 

「ちょ、ちょっと。二人だけで納得しないでくださいよ」

 

 アーロンはメイへと視線を振り向ける。

 

「俺は、こいつの存在を、好機だと考えている」

 

 その言葉の意味が分からなかったのか、二人して目を丸くする。

 

「好機……?」

 

「この、不気味なパソコンが? 何で?」

 

「今分かっている事実から述べよう。このアバターはシステムとして大変優秀だ。俺やお前らの情報を、この街で最も堅牢であるところのハムエッグからも盗み出せる。自律型なのが惜しいくらいだが、こいつはある程度、自分の意思がある。それは波導の眼で確認済みだ。生物の波導に近いものを、こいつは発している」

 

「だからって、こんなの生き物じゃないですよ!」

 

『うわ、酷いな。いくらなんでもそりゃ差別だよ』

 

 画面の中の少女が仰け反る。メイは糾弾の声を上げた。

 

「だってこんなの! プログラムじゃないですか!」

 

「そうだ。だからこそ、俺は冷静になれと言っている。お前らは自分達の情報が丸裸な事を気にしているようだが、俺はこいつを使えば、今まで不利だった戦局が変わるのでは、と考えている」

 

「つまり、ハムエッグ、ホテルに優位に動いてきたこれまでのヤマブキシティの状況を一変出来るだけの力を、こちらが保有する事が出来る、と波導使いは言っている、メイ」

 

 シャクエンの補足のお陰でようやく理解したようだった。それでも、メイは不満を漏らす。

 

「で、でも! そんな事をしてばれたら」

 

「ばれないように、俺達もこいつにヤマブキの事を教える。見たところ、まだ素人が調子づいているレベルだ。ヤマブキのシステムを教え込めば、こいつは敵の警戒網を潜り抜けて、相手へと肉迫出来る鍵になる」

 

「……もし、それが出来なければ?」

 

「破棄する。異存はあるまい」

 

 使えるだけ利用し、もし手に余るようならば壊すと言っているのだ。悪い条件でない事はメイでも分かるだろう。

 

「でも、お兄ちゃん。一番危ないのは、これの存在が見つかる事、だよね?」

 

 これだけの情報特記戦力を所持している事がハムエッグ、ホテル両側に露見すれば、即座に排除命令が下るだろう。つまり、これの存在は秘密に行わなければならない。

 

「だが、使いこなせば一級だろう。お前、システムとしての名はあるか? 物理存在に近いという事は名前があるという事だ」

 

『……なるほど、波導使いアーロン。データよりも冷静で、なおかつ聡明だ。ハムエッグはまだ軽んじているようだけれど』

 

「能書きはいい。お前が使えるのか、使えないのかを示せ」

 

 少女のアバターは肩を竦めて答える。

 

『RUI、という開発コードで造られた個体。愛称はルイ、だよ』

 

「分かった。ルイ、この街での生き方を教えてやる」

 



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第六十二話「一ミリのかけ引き」

 

 メイが何よりも不満だったのは、アーロンが無条件にルイを信じ込んだ事だ。

 

 今も、シャクエンと共にルイにこの街のルールを教え込んでいる。メイはその行動が癪だった。どうして自分にはいつもぶっきらぼうなアーロンがシステム相手に真剣なのだ。

 

「お姉ちゃん、面白くないよね」

 

 アンズは分かっているのだろう。メイの気持ちを汲んでくれた。

 

「……表立っては言わないよ。だって、あのパソコンに入っているプログラムが優秀なのはよく分かったもん」

 

「でも、お兄ちゃんが取られたみたいで、あたいは嫌」

 

 自分よりも感情をダイレクトに出せるアンズが羨ましい。そう思っていても言えないのだ。

 

「あたしは……、何だかしっくりこない」

 

「お兄ちゃんって誰にでもあんな感じで冷たいのかと思っていたから、無機物相手に対等な条件を申し出るのは何か嫌だよ。あたい達が軽んじられているみたい」

 

「同感。あたしってその程度の存在だったのかな……」

 

 本人の前では言わないが、アンズとメイはお互いに肩を落とした。

 

「あの、さ……、メイちゃんにアンズちゃん。なんでやる気ないの?」

 

 店主が心配して声をかける。メイはぶすっとした。

 

「アーロンさんって現実の女の子に興味ないんですか?」

 

「えっ、そんな事聞かれても、知らないよ。アーロンに色恋沙汰なんてなかったし」

 

「やっぱり……。女の子として見られていないのかな……」

 

 ますます落ち込むメイに店主はフォローの声をかけた。

 

「大丈夫だって! メイちゃんは元気だし魅力的だよ」

 

「でもそれでうざがられているんじゃないですか? それじゃ本末転倒ですよ」

 

「それは……。アーロンの趣味だし、何も言えないけれど」

 

「やっぱりアーロンさん、文句も言わない画面越しの女の子がいいのかな……」

 

 モップを片手に項垂れるメイに店主は困惑している。

 

「な、なに? アーロン、もしかしてそういうゲームにはまっちゃったの?」

 

「そういうゲームのほうがいいですよ。まだエンディングがあれば終わりですし」

 

「終わる予定がないもんね……」

 

 打ちひしがれるメイとアンズに、店主は気を利かせてケーキを振る舞う。

 

「その、よかったらどうぞ……」

 

 メイはフォークを突き刺して思い切り頬張った。アンズも小さい口でちまちまと食べている。店主は二人の状態に戸惑っているようだ。

 

「あの、さ……。失恋したわけじゃないのに、そんながっついて食べると」

 

「失恋なんかじゃありません!」

 

 メイがテーブルを叩きつける。

 

「壊れる、壊れるって。メイちゃん、備品は優しく……」

 

「備品はって……! やっぱり男って備品のほうが大事なんですか!」

 

 店主はどうして自分が地雷を踏んだのか理解していないようだった。アンズが言葉を継ぐ。

 

「……結局、男の人って非実在の女の子に夢見てるんですよね」

 

「そうだよ……。なんで男って、現実見ないんだろうね」

 

 アンニュイな空気を出す二人に店主は言葉をなくしている。代わりにケーキを二皿目として差し出した。

 

「その、サービス、です」

 

「いただきます」

 

 メイが変わらぬ様子でケーキにがっつく。店主は首をひねった。

 

「何やってんだ、アーロンの奴……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「メイとアンズを放っておいて大丈夫なの」

 

 シャクエンの問いかけにアーロンは返す。

 

「もう出歩くほど馬鹿ではあるまい」

 

「でも、二人は不服そう」

 

「物分りが悪いんだ。だからこういう事態に慣れていない」

 

『と、いう事は、あなたは物分りがいいって事だよね、波導使いアーロン』

 

 ルイの声にアーロンは即答する。

 

「迷いはないつもりだ」

 

『よく言う』とルイが画面の中で笑った。この画面の中から出られないのに、ルイはシステムとは思えないほど表情豊かだった。

 

「お前を造った奴は相当意地が悪いな」

 

『何で?』

 

「機械にここまでの感情はいらない」

 

『どうかな。機械だからこそ感情を持たせようとしたのかもしれない』

 

 そこまで考えるほどではなかった。ルイを造った人間が誰にせよ、趣味の悪い事だ。所詮はシステムに等しい存在に、ここまで人間味を持たせるなど。

 

「答えて。あなたは、本当にハムエッグのシステムやホテルのシステムに介入が?」

 

 シャクエンの緊張を走らせた声に、『そんな物言いじゃ』とルイは後頭部で手を組んだ。

 

『ボクは喋らないもんね』

 

「ふざけている場合……」

 

「いい、炎魔。俺が言う」

 

 制してアーロンは声にした。

 

「まず簡単な質問から入る。お前の管理者は存在するのか」

 

 つまり自分達よりも高次権限を持ってルイと接触出来る人間はいるのか。

 

『ううん。もうご主人様はボクを捨てちゃったから。だからもう自由の身。だからこそ、デボンの保守派に裏切られてカントーまで流されちゃったんだけれど』

 

「お前を造ったのはデボンか?」

 

『少し違うかな。ボクの製造主はプラターヌ博士。彼の遺した遺産であるボクをデボンのセキュリティの網から解放したのがご主人様。で、ボクの力がデボンとホウエンの再建に必要だと判断して、ボクの能力をオープンソースにしようとした』

 

「つまり、誰でも介入出来る高次システムに?」

 

『でも、ならなかったから、ボクはここにいるんだよね』

 

 ルイの赤い瞳に翳りが映る。

 

 恐らくデボンはカントーとの対等な交渉条件としか思っておらず、ルイはカントーに恩を売るために交渉材料にされたのだ。

 

 しかし、直前まで誰かを騙していなければカントーに保護されたはずである。何故、ここにいるのか。

 

「誰かの手引きが?」

 

『ボクの事なんて全く知らない、外人のごろつきさん達が最後の最後までボクが重要システムだと思って守ってくれた。お陰で直前に構築されていたネットワークから逃げ出して、ヤマブキまで来られたわけ』

 

「偶然にそこいらの無線を拾っていた家電に入ったのは」

 

『そこまで狡猾だと思わないで欲しいな。ボクは、本当に、助けを求める一心で辿り着いた。だから、波導の見えるあなたに出会えたのは本当に偶然』

 

「よく言う。直前までサブリミナル効果で人間を選別していただろう」

 

 そうでなければ自分のような人間の下には渡るまい。ルイはちょっとした悪戯を咎められたように唇をすぼめた。

 

『そりゃ、こっちだって生きるか死ぬかだし。確率の高い方法を取らせてもらった。本当なら、誰か店員の一人にでも掴ませて家に持って帰らせて、子供か奥さんにでも高次権限のネットに介入してもらう予定だったけれど手間が省けたね』

 

 ルイも考えなしというわけではない。

 

 シャクエンはその狡猾さに食ってかかった。

 

「メイを利用した」

 

『偶然だよ、炎魔シャクエン。何代目? えっと、辿っていくと三十五代目だね。まぁ確認可能な炎魔に限るけれど』

 

 すぐさまシャクエンの情報に辿り着いたルイを彼女は怯えた眼差しで眺めた。さしもの炎魔とはいえ、自分の情報は完全に秘匿されたものだ。それをほとんど完璧に近い状態で口にする存在など居ていいはずがなかった。

 

「波導使い、こいつやはり……」

 

『やはり、何? やっぱり壊す? そのほうがいいかもね。ボクは自由になれるし』

 

「お前を、このネットから隔離する気もなければ、逃がすつもりもない」

 

 アーロンの声音にルイはこちらを窺う。

 

『どういう腹積もりかな? ボクを制御する気? それとも逃がすのが惜しくなった?』

 

「まぁな。カントーの軍事に使われミサイルを落とすためだけに利用されるのは、少しばかり惜しい」

 

 正直なアーロンの言葉にシャクエンは声を潜める。

 

「……波導使い。どこまで本気かは知らないけれど、これで何を? 一体、どうするつもりでこんなものを保持する?」

 

『ボクも聞きたいな。何で、ボクを使おうとする?』

 

「今まで、俺はハムエッグとホテル、それにプラズマ団に後手後手で対応してきた。全て、遅れを取ってきた。だがここに来て、これほどの情報利用価値のある存在がいれば、もう遅れは取らない」

 

 その段になってシャクエンはハッとする。ルイが本気を出せば、ヤマブキだけではない。カントー全域でさえも支配可能なのだと。

 

「どういう……。波導使い、何を支配する気で」

 

「俺は支配なんて望んでいない。お前を利用するのは、ただ単に利害の一致だ。お前はカントーの保護を拒む。俺はこのヤマブキの情報網の上を行きたい。お互いに、目的は一つだ」

 

 へぇ、とルイは感心したようだった。

 

『ここまでハッキリと、自分の利害のためって言うのは清々しいね。成り上がりでも狙う気?』

 

「成り上がりじゃない。本来の立ち位置に戻るだけだ。俺はフリーランスの殺し屋だし、お前はただの情報端末。とても高度な、ではあるが」

 

「ルイをあなたの個人端末として利用するつもりだって言うの」

 

 シャクエンの声には糾弾の響きがあった。

 

「いけないか」

 

「いけないも何も、それはハムエッグやホテルと同じ。同じ道を、辿るって言うの」

 

「俺は個人の究極化としてルイのような戦力は必要だと判断している。これがあれば、ホテルとハムエッグに手玉に取られる心配もない」

 

「そりゃ、そうだろうけれど……」

 

 シャクエンは言葉を濁す。引っかかるものがあるのだろう。

 

「……やり方に納得いかないのならば、下に行っておけ。全て終わった後に話す」

 

「いや、私はここに残る」

 

 頑として聞かない声音にアーロンが目を振り向ける。シャクエンは強い眼差しで睨んできた。

 

「私まで退けば、本当に分からなくなる。波導使い、あなたの真意も。このルイの真価も」

 

 シャクエンがルイへと目線をやるとルイは鼻を鳴らした。

 

『炎魔でもボクの価値は分かるんだ?』

 

「分かるも何も、これほどの情報端末を、野望を持った人間に渡してはいけない。それだけははっきりしている」

 

 オウミ、という野望の具現を見てきたシャクエンならではの説得力だった。

 

「……いいだろう。俺も本音で話す」

 

『あれ? 今までは本音じゃなかったんだ?』

 

「多くを話し過ぎれば、こいつとて離反する恐れがある。俺は炎魔ほどの個人戦闘単位を敵に回すつもりはない」

 

 その言い回しにルイは笑った。

 

『可笑しいな、それ。結局さ、全てを手に入れようって言う一番の傲慢は波導使い、あなたじゃない』

 

「かもな。だが俺は、お前をカントーに渡すか、あるいはそれ以上の邪悪に渡していいものではないと考えている」

 

『いいよ。ちょっとだけ打ち解けよう。お互いに邪悪が嫌いなのは共通しているみたいだ』

 

 事ここに至ってようやく対等な立場か、とアーロンは嘆息をついた。

 

 このルイというシステムはどこまで自分を試す?

 

「ルイ。あなたはどういう目的で、造られたの?」

 

 シャクエンの切り込んだ質問にルイは、『簡単だよ』と答えた。

 

『デボンという巨悪を覆すための、最大の力として。ご主人様の意向に沿う形で造られた。だから本来はハッキング用のシステムだ』

 

「デボンの株価が急落し、その企業の信頼も失墜したな。あれもお前のせいか?」

 

『あれは動いた人達の功績だよ。ボクは力添えをしただけ』

 

「では聞くが、お前一人でも、あの状況は可能か?」

 

 最大の質問であった。人間がいなくとも、自分だけであの状態を作り出すのは可能だったか。

 

 シャクエンが唾を飲み下す。

 

 ルイはおどけた答えを用意しようとしていたようだが、それを二人分の沈黙が許さなかった。

 

 代わりのように小さく呟かれる。

 

『無理だった。ボクは所詮、システムAI。人間には一ミリの差で敵わない』

 

「一ミリの?」

 

『そう。意志の力って言う一ミリだよ。こう動くって決められた通りの事を誰よりもうまく出来る人間っているでしょ? ボクはそうだけれど、本当に状況を動かすのってそうじゃない。確率論を無視した、人間の意志の力だ。その意志、というものが未だに理解出来ていない辺り、ボクは未完成』

 

「なるほどな。安心した」

 

『安心?』

 

「お前が人間など必要ないという、エゴイストの塊であったのならば、破壊も止むなしと考えていた」

 

 アーロンの本気の声音にルイは頬を掻く。

 

『……冗談きついなぁ。ボクは、そこまで傲慢じゃないし。大体、ここにいるのだって、ボクなんか無視して逃げ出せばよかった人達が最後まで抗った結果だし。ボクは人間の力を軽んじる事は出来ない』

 

「では改めて、問う事にするぞ、ルイ。お前の能力ならばどこまで出来る?」

 

『ハムエッグとホテルを両方相手取ってもまだ余裕はあるよ』

 

「違う。俺の目的は、そいつらじゃない。この街の覇権には興味がないんだ。俺はそいつらの策謀からうまく抜けられればそれでいい。本当の目的だ。――プラズマ団について。どこまで調べられる?」

 

 どうして、アーロンがその質問を最大に置いたのかをシャクエンは理解していないのだろう。ルイも、『何それ』と拍子抜けのようだった。

 

『プラズマ団……、ちょっと前にポケモンの解放とか言っていた過激派思想組織だね。王として擁立していた少年の失踪、それに英雄伝説になぞらえた伝説の二体の制御が不能となり、結局崩壊した、イッシュの組織』

 

「そのプラズマ団が息を吹き返した。このカントーで、だ」

 

 ルイは思案するように額に手をやった。数秒後、その情報を仕入れたのか顔を上げる。

 

『……へぇ、ヴィーとか言うのがいたんだ。あっちで言うメモリークローンに近いかな。でもそいつが言うには……』

 

 ルイはシャクエンの目を気にした。メイに関する事を彼女の前で言うべきか躊躇っているのだ。

 

「……伏せて、Miシリーズに関してどこまでなのか調べろ」

 

「Mi……。何、それ」

 

 シャクエンに対して嘘は言えない。この少女は嘘を瞬時に見抜く。だから、アーロンは自分の知りえた事を部分的に話す。

 

「メイに関する事だ。だが、プラズマ団が追っている事しか分かっていない。そのキーワードがMiシリーズ」

 

 嘘は言っていない。大筋をぼかしただけだ。シャクエンは嘘は見抜けるが真実は見通せない。それが出来ればオウミなどに利用される人間ではなかった。

 

「メイに……。じゃあ、プラズマ団がメイを追って?」

 

 メイの事だと言えば、シャクエンは躍起になる。それは分かっていた。

 

「カントーに来た。前回のスノウドロップと俺をぶつけさせたのも、プラズマ団の思惑だ」

 

 それは初耳だったのだろう。シャクエンは血の気の引いた顔で、「そんな事が」と呻いた。

 

『プラズマ団、プラズマ団ね……。確かに僅かな残党勢力の渡航履歴はある。でも、こんな小規模で何をするんだろう? そこまではちょっと見えないかな。これは隠されている、というよりもプラズマ団の中でさえも不確定要素なので開示出来ない、と言ったほうが正しいか』

 

「ヴィーの個人情報には」

 

『もちろん、今入ったけれどもぬけの殻。これは予見していたみたいだね。プラズマ団はほとんど足跡を消して、カントーで何かを企てている。それだけは確かだ』

 

 これ以上情報を掴ませるべきだろうか。ルイならば特定に時間はかからなさそうだが、その場合のシャクエンのメンタリティが気になる。果たして、英雄の遺伝子が埋め込まれた人造人間など信じられるだろうか。

 

 メイに黙っていられるほど、この少女は非情に成り切れていない。

 

「プラズマ団壊滅に関して。カントーではあまりにも情報が少ない。教えて欲しい」

 

『ライブラリで観たほうが……。ああ、でもオリジナルデータは消されていて閲覧不可か。一応、英雄伝説をなぞらえた戦いだったから、一部の人間だけだね。イッシュだと、記録に残しているのは当時のジムリーダーの一人。アロエ、か。他のジムリーダーは何が起こったのかまるで分かっていなかったみたいだ』

 

「記録を読めるか?」

 

『時間はかかるよ。だって遠く離れたイッシュのデータだもん。取り出すのには相当時間が必要だ。ただ、そのログに近いものをプラズマ団が持っていたからそれを話す分には構わないけれど』

 

 アーロンはシャクエンと目配せし合った。

 

「それでいい。話してくれ」

 

『プラズマ団の王、これは……そのままの読みでいいのなら――N、と呼ばれる稀代の人物を祀り上げ、その王を利用してポケモンの解放を訴えかけた。曰くその人物にはポケモンの声が分かったと言う……。とても眉唾物だけれど、これでいいの?』

 

 ――N。その人物が英雄なのだろうか。メイにはそのNと呼ばれる人間の遺伝子が埋め込まれていると。

 

『待って。もう一人いる……。でもこっちは一般トレーナーで、記録がない。名前も、全部抹消済みだ。最初からいなかった事にされている、もう一人の英雄……』

 

 その人物がプラズマ団を壊滅させたのか。だが疑問が残る。

 

 どうしてメイは、自分がプラズマ団を壊滅させたのだと思い込んでいるのか。

 

 そもそも、メイの記憶はどこまで正しくて、どこからプラズマ団による工作なのか。

 

 その判断にルイの能力は必須だった。

 

「もう一人の英雄……。そんなものが」

 

 シャクエンが呆然と呟く。イッシュで起こったプラズマ団の乱を解き明かすにはまだピースが足りないらしい。

 

「プラズマ団についてはまた調べを進めよう。今は……」

 

 そう口にしようとしたアーロンをルイが遮った。

 

『待って! ……来た』

 

「来た? 何がだ」

 

『ボクを追ってくる奴ら。どうやらヤマブキに入ってきたらしい。ホテルの情報網がそれを捉えている』

 

「ホテルが? 何故先手を奴らが打つ?」

 

 まだルイの事を教えてもいないはずだ。その理由をルイは思い至る。

 

『多分、ボクを密輸してきた人間が生きていたんだ。その証言を、ホテルは握り潰そうとしている。最終的な利益を得るために動いているんだ』

 

 アーロンはホテルに連絡をしようかと考えたが薮蛇になりかねない。こちらからルイの事を切り出すのは危険だ。

 

 その時、ホロキャスターが鳴った。アーロンは通話相手の名前に目を見開く。

 

「何でだ……。もしもし」

 

『アーロンさん。お久しぶりです』

 

「それほど久しくはないと思うがな。リオ」

 

 どうしてリオが電話をしてくる。この状況と無関係ではないのか。

 

『電話では言えないので、三十七番の通路を封鎖しておきましたからそこで連絡を出来ませんか? 殺しの依頼です』

 

 路地番であるリオが中継役に入るのは何ら間違っていない。ただ、いつもの殺しの依頼ではなさそうだった。

 

「リオ、お前は今、どこにいる?」

 

『先んじて三十七番で待っています。一時間以内に』

 

 リオの声音が急いていたのをアーロンは気づく。何かを必死に隠そうとしているようだ。「……分かった。行こう」

 

 通話を切るとシャクエンが声をかけた。

 

「殺しの依頼って……」

 

「リオの依頼ならば、まず間違いない。そこまで悪い話ではないだろうが、問題なのはこのタイミングだ。どうしてルイの存在が明るみになり、軍部の人間が動き出してから、俺が徴用されるのか」

 

 考え得る可能性は一つだった。

 

『軍部の人間を殺せ、かな?』

 

 ルイが先回りして口にする。アーロンはため息混じりに、「無きにしも非ずだな」と応じた。

 

「リオが繋がっているとは思い辛い。ホテルかハムエッグが、生き残りを保護したか」

 

「敵がどちらなのか分からない以上、受けるべきじゃない」

 

 シャクエンの意見ももっともだったが、アーロンは否と首を振る。

 

「いや、ここで受けなければ怪しまれる。何よりも、俺自身見極めたい。どれほど、このシステムが重要なのか。軍部の人間となれば、どのレベルまで動いているのか」

 

『一殺し屋が戦える範囲じゃないかもしれないよ』

 

「かもな。だがこうも言える。俺ならば戦える。だから依頼が来た、と」

 

「力量を見誤れば、こちらがやられる」

 

 シャクエンは冷静だ。自分がもし軍部と戦えば、と想定しているのかもしれない。しかしアーロンの意図は別にもあった。

 

「炎魔、ちょっと来い」

 

 シャクエンを手招き、アーロンはマイクの拾えない部屋の隅で囁く。

 

「……今回、俺は軍部がどこまで本気なのかを知るのと同時に、ルイの重要性をはかろうと思っている」

 

「重要性?」

 

「軍部が本気ならば、物量戦術で来る。それははっきりしているはずだ。だから、俺は取引も込めようと思っている」

 

「ルイを引き渡す?」

 

「違う。ルイならばどこまで出来るのかを聞き出す。つまり、相手が話せる奴なら、ルイを交渉材料にして、プラズマ団、ひいてはあの馬鹿の事を聞き出す情報源とする」

 

「危険過ぎる」

 

 確かに賭けとしては分が悪い。だがこちらにはルイがいる。味方につければもしかしたら、可能性は逆転するかもしれない。

 

「物量戦術で来るのならば連携は密にするはずだ。俺はルイと自分の波導の暗殺術を使い、相手をかく乱する。もし成功すれば取引は可能だろう。波導使い単体で軍部と渡り合えれば、交渉の価値は出てくる」

 

「でも、もし負ければ? あなたにとっては不利益しかない」

 

「俺が負ければ指示を出すようにリオに伝えておく。その時はルイを破壊しろ。お前ならば迷わずに済む」

 

 ルイの身柄を軍部に渡すわけにはいかない。今回はルイと自分の暗殺術が最大限の力を引き出せると考えての賭けだ。

 

「無理がある。相手の軍隊戦術に勝てるかどうかもそうだけれど、ルイが味方になるかどうかも」

 

「なるさ。味方をしなければ、粗大ゴミだ。もう分かっている頃合だろう。俺は所詮、あれをシステムとしか考えていない」

 

「……その割にはメイ達をないがしろにした」

 

「必要だったんだ。あいつらはルイの甘言に惑わされかねない。お前ならば冷静に判断を下せる」

 

 アーロンは帽子を目深に被り、出かけの準備をする。

 

『どこへ行くの?』

 

「殺しの案件だ。俺の本業だな」

 

『ふぅん。本当に殺し屋なんだね。そんなの、うまくいかないよ。この先絶対に行き詰る』

 

「システムに言われるほど、明日を考えていないわけではないさ」

 



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第六十三話「調停する者しない者」

 

 ヘリポートに集まったのはホテルの従業員数名である。

 

 先頭へと歩み出たラブリは着地したヘリから降り立った数名の軍人を視野に入れた。

 

 身のこなし、隙のなさ、なるほど、海上警備隊の人員をフルに使ってきたか。そう判断すると共にこちらへと友好的な笑みを浮かべてくる強面の男を見やる。

 

 口元に笑みは浮かべている。だが目が笑っていない。もし従業員の誰かが銃を抜けば即座に殺せるくらいには熟練されているな、とラブリは感じ取った。

 

「ミスウィンスターで?」

 

 ホテルの最高幹部として使っている偽名の一つだ。ウィンスター、シャルロッテ、エミリー。ラブリはそれらの偽名を掻い潜った最後の名前である。

 

「ええ。ホテルの社長をさせてもらっています」

 

「海軍少佐のランドです。ランド・ラインズ」

 

 名刺交換、という穏やかな場ではない。ここで交わされるのは握手だけだ。同盟の握手にラブリは小さな手を大人の手に握られた。体温はあった。冷たい機械人間のような軍人ではなさそうだ。

 

「よろしくお願いします、ランド少佐」

 

「こちらこそ。ヤマブキに名だたる組織の中でも、群を抜いているホテルミーシャと友好関係を結べた事は我々にとっても大きい」

 

 ここで恩を売っておけば、という腹積もりなのだろうか。ラブリは友好的な笑みの中に打算を隠した相手を観察する。この海軍少佐は何も知らないのかもしれない。張りぼての軍人か。ただ職務を命じられればそれを迷いなく遂行する。それだけのメンタリティがあれば軍人には向いているのかもしれない。

 

「光栄ですわ。ランド少佐。応接室で続きはお話しましょう」

 

 ラブリは軍曹に全員のデータを取っておくように言ってある。後から撃ち漏らしがあれば困るからだ。

 

「それにしても、とてもいい街並みですね。ヤマブキとはここまで発展していましたか」

 

 シースルーのエレベーターの中でランドは社交辞令を述べる。ラブリは、「これからまだ発展しますよ」と含み笑いを返した。

 

「それは末恐ろしい。これほどまでに情報密度の高い街がまだ発展途上とは。いやはや、分からないものですな」

 

 当たり障りのない言葉を交わしつつ、ラブリは応接室でランドを迎えた。こちらが上座に座ってからランドが促されてようやく下座に座る。礼儀は弁えている狗のようだ。

 

「それで、今次作戦の事ですが」

 

 だが、急いているのは隠せない。一刻も早く情報が欲しいはず。ラブリは部下に命じる。

 

「お茶をお出しして」

 

「いえ、お構いなく。それよりも話をしましょう。ビジネスの話です」

 

「あら? 何の事ですか?」

 

「とぼけないでいただきたい。この街に持ち込まれたのは確認済みです」

 

 相手から切り出さない限りラブリは事の真相に触れるつもりはない。

 

「何の事かしら?」としらを切る。

 

「困りましたね……。わたしの口から言うのは避けたいのですが、致し方ありません。ヤマブキへと、違法なシステムOSがネットを介して逃げ込みました。ちょうど十一時間前の事です」

 

 違法なシステムOS。ラブリはそれを聞きながら、相手も情報の一端とてこちらに握らせるつもりはないのだと確信する。

 

「そうだったかしら」

 

 紅茶を持ってきた部下がランドと自分に差し出す。早速紅茶を口に含んで喉を潤した。ランドは遠慮して手をつけない。あるいは警戒しているのか。

 

「あなたは聡明だと聞いている。だからこんな事は言わなくとも分かっていると思うのだが……。この街には二つの勢力がありますね? 御社と、もう一つ。個人ですがとても強力な力を持つ盟主。名をハムエッグ」

 

 そこまで調べておいてわざわざ繰り返す辺り、本質的な事を知ったのはまだ最近か。

 

「そうですわね。確かに、このヤマブキを二分するのは、弊社とその個人ですわ」

 

「驚きましたよ。盟主と呼ばれる存在、ハムエッグは人間ではない、と。ポケモンが人間の真似事をしているのですね」

 

「いけませんか? 力を持っていれば、ポケモンでも軽んじられませんわ」

 

「その通り。いやはや、我々も認識を改めなければならなそうだ。ハムエッグなる個人、わたしは決して油断すべきではないと考えております」

 

 油断、とはこの街ではおかしな事を言う。ハムエッグ相手に油断した人間など、破滅しか待っていない。

 

「そうですね。ハムエッグは確かに驚嘆すべき人物です」

 

「その盟主に、今回のシステムOSが渡るのは何としても避けたい」

 

 共通の目的が見えてきた。

 

 そもそも海上警備隊の軍人にこの情報を掴ませたのはホテル自身。

 

 あの男はこの街にシステムOSである「RUI」が渡ったのを語ったがそれ以上は分からないとの事だった。しかし、そのシステムが一国を覆すほどの力なのだと言う。ならば、災厄を手招いてまでも手に入れたい。

 

 その災厄の主が声にする。

 

「システムOSは絶対に危険な人物に手渡してはいけない。ハムエッグは一番に危惧すべきでしょう。我々はシステムの回収を命じられております。ホテルと協力すれば、それが可能であると」

 

「わたくし共としましても、カントーという国家には忠誠を誓っております。その国家が危ぶまれる事態となれば、なおさら。ヤマブキを代表する者として、出来る事はやっておきたい」

 

「話が分かって助かります。それで、ですが……。お恥ずかしい事ながら、システムの居所をこちらではモニター出来ないのです。この街のどこかにいる、までは分かっているのですが、それ以上は皆目見当がつかない。そこで、御社にシステムの炙り出しを協力していただきたい」

 

「もし、ハムエッグが持っているのだとすれば、横槍が入ります。あなた方の探りをよしとはしない」

 

「失礼ながら、この街には殺し屋が多数いるとの報告を受けました。ハムエッグの子飼いの殺し屋を捕獲すれば、話を聞けるでしょうか?」

 

「スノウドロップはまず不可能です。あなた方がいくら精鋭揃いでも、あの少女にだけは敵わない」

 

 余計な手出しをさせればハムエッグに勘付かれる。今回の場合、ハムエッグが主犯だと思わせておいて、軍人には最大に動いてもらう。

 

「やはり、前情報通りでしたか……。スノウドロップ、というコードネームの殺し屋については存じ上げております。つい先日、裏通りを壊滅させたのだと」

 

 カントー中とまではいかないが、それなりに有名になったのだろう。自分もスノウドロップの最大戦力を知ったのは先日の戦闘で、だ。

 

「軍人様方が命を無駄に落とす事はないでしょう。スノウドロップは客観的に考えて相手取るべきではない」

 

「しかし、ハムエッグは何もスノウドロップだけを利用しているわけではないでしょう? 何人か、それこそ使い勝手のいい駒がいるはずです」

 

 こちらの口からその情報を言わせるつもりか。ラブリは、「難しいですわね」と答える。

 

「なにせ、殺し屋などという数奇な職業とは縁のないものですから」

 

 あくまで、ホテルはこの街を実効支配する存在。殺し屋を公然と使っている、というイメージはまずい。

 

「そうですね。御社はクリーンな事業展開だと窺っております。ハムエッグなどとは大違いで」

 

 相手も知ってか知らずかそのような事を言ってのける。まるでコントだ。お互いに話が噛み合っているようで噛み合っていない。

 

「ありがとうございます。わたくし達はカントーという国家が磐石である事を願い、日々努力しているのでご理解いただけて嬉しいわ」

 

「そういう観点ならば、今次作戦のご協力に充分な理解をいただけていると考えてよろしいですか?」

 

 牽制のようなものだ。相手の言葉の揚げ足を取ろうと必至になっている。ラブリは軍部が勝手にヤマブキに介入したと言う事実を作りたかったが、このランドという男は思っていたよりもずっと慎重で、なかなか核心に迫る事を言わない。

 

「システムの奪還作戦に関しては、わたくし達の出来る事は少ないです」

 

「困りましたね。いくらカントーの街の一つとはいえ、勝手に軍部が強制介入した、と後から言われて痛くもない横腹を突かれるのは困るんですよ。あなたはこの企業の最高権力者だ。だから言っていただきたい。協力をする、と」

 

 遂には痺れを切らしたのか直截的な言い回しを使ってくる。ラブリは、軍部が思っていたよりも焦っている事。そして、この軍人は交渉に対してあまりにも堪え性のない事を感じ取った。

 

「契約書を用意するわけにもいきません。なにせ、我々は一企業。企業と国家の癒着など、ある意味では最も相応しくない形なのでは?」

 

 こちらから突きつける条件は一つ。ホテルは止める言葉をかけたが、それを無視して国家が無理やりヤマブキに分け入ってきた。だから、ホテルは体裁上、傍観を決め込む。

 

 ランドは、「困りますね」と微笑んだ。しかしこの男は相変わらず目は笑っていない。本性を隠すのが下手だ。このような小娘相手に対等な話し合いが成立している事でさえも納得いかないに違いない。

 

「どうなさいます? ホテルはやれる事をやるだけです。表立って協力、というのはお互いのためにならないのではなくって?」

 

「それはそうですね。ですが後々知らなかった、では済まされないんですよ。そういう事態まで来ているんです」

 

「では、それなりの情報を開示していただかなければ。システムと、濁されていても、わたくし達には何の事やら」

 

 そろそろ本音で喋らないか。ラブリの申し出にランドは、フッと笑みを浮かべる。

 

「……食えない方だ。ハムエッグなどよりもあなた方のほうがよっぽど恐ろしいのでは?」

 

「盟主には敵いませんよ。わたくし達は集団で、ようやく追いつけるレベルです。それ以上は不可能、というものですよ」

 

「それ以上を可能にしているハムエッグは、では人ではありませんな。文字通りに」

 

 紅茶にも手をつけず、このランドという男は待っている。こちらが一言でもいい。不手際を犯すのを。

 

「ではこういう考え方はどうですか? もし、情報を開示していただけるのなら、わたくし共はカントーの民草として、出来る事をする、と」

 

「先ほどから誤魔化されている気がしなくもありませんな。出来る事、と協力、は似ているようでかけ離れている」

 

 可能な限りの援護しかしない、というこちらの考えはさすがに見透かされているか。しかし、ならば軍部にヤマブキの闇に分け入るほどの覚悟はないと見た。ホテルの積極的な利用を前提条件にしない以外には、軍部は一歩だってろくに動けはしない。

 

 この状況を逆手に取らないわけにはいかなかった。

 

 ラブリはテーブルの上に置いてあった鈴を鳴らす。

 

 部下が応接室へと入ってきて一度だけ恭しく頭を下げた。

 

「今のは?」

 

「長いお話になりそうだ、という合図ですわ」

 

 その信号と同時に、部下に予め伝えてあるのはリオを利用した裏工作だった。

 

 ――波導使い、アーロンのカードを切れ、と。

 

 アーロンならば自分達は動けなくともこの状況にメスを入れる事は可能だ。アーロンに実質的に動いてもらい、情報を得る。その間、自分はせいぜいこの男を相手に話を長引かせる。

 

「……長いお話とは、穏やかではないですね。こちらも、実は、急ぐ理由がありまして」

 

 ランドの無線から声が漏れ聞こえる。

 

「失礼」とランドは無線を取って声を吹き込んだ。

 

「プランBへ移行せよ」

 

 ラブリも目を瞠る。

 

「今のは?」

 

「なに、別働隊に頼んである作戦です。簡単なお使いですよ」

 

 どうやらこの軍人はただのでくの坊ではないらしい。既に手を打ってあったか。ならば自分は、この応接室だ。

 

 ここが自分の戦場となる。

 

「そうですか、ならば余計に。長話になりそうですわね」

 



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第六十四話「音響龍」

 

「どうやらホテルの奴ら、アーロンさんを利用しようという心積もりらしいですよ」

 

 リオから聞かされたのは逃げ込んだシステムの行方を追う事であった。ホテルからの依頼であるが、同時にホテルは軍部に接触しているとルイからのメールにはある。

 

 つまり二枚舌。

 

 ホテルは自分の存在を体よく利用するつもりだ。

 

 軍部には動く様子のない門外漢として。実際には誰よりも目を光らせている。

 

「そうか。やはり、軍隊と俺を衝突させる気だな」

 

「やめておいても、いいと思いますよ。どうせホテルも、アーロンさんをそこまで重要視しているわけじゃない」

 

「俺が負けるとでも?」

 

 リオはその質問は意外だったのか、目を見開く。

 

「……スノウドロップとは引き分けた。その実力は分かっています。でも、相手は統率された軍隊です。アーロンさんは一個人。殺し屋と軍隊ではレベルが違いますよ」

 

「そうだな。俺も、正攻法では勝てるとは思っていない」

 

 アーロンの言葉にリオは首を傾げる。

 

「正攻法では、って……。まるでそれ以外の方法があるみたいな」

 

「俺に伝えるべき事は、以上か?」

 

 封鎖された路地から出ようとするとリオは背中に声を投げた。

 

「殺されますよ! 連中は本気なんだ!」

 

「一度だって、本気でない連中を相手取った覚えはない。この街は意地が悪い事にいつだって、人の命を紙切れ一枚以下にしか思っていない」

 

「だからって、アーロンさんが死にに行く理由はないですよ!」

 

「安心しろ。死ぬつもりはない。情報はそれだけじゃないだろう? どこまでホテルに聞いた?」

 

「……理由を作るから、ある場所にアーロンさんと軍隊をぶつけさせろ、と。その作戦場所が、これです」

 

 リオがメモを差し出す。恐らくオープンソースにホテルがわざと情報を漏らし、軍隊をここに引きつけているはずだ。

 

「何の理由があって……! アーロンさんが巻き込まれる事は」

 

「それも、安心するといい。もう巻き込まれているのでな」

 

 リオが聞き返す前にアーロンはピカチュウを繰り出して電気ワイヤーを放つ。絡みついたワイヤーを引き戻してビルの屋上に降り立った。

 

 アーロンはホロキャスターを取り出しルイに繋ぐ。

 

「そちらはどうなっている?」

 

『どうもこうも、さっきからひっきりなしにこちらを傍受しようっていうのが続いている。この電波遮断施設のお陰で特定には至っていないけれど、こちらから動くのはまずいかも』

 

「こちらは場所の指定を受けた。今から座標を送る」

 

 アーロンの読み上げた座標にルイは、『そりゃ困った』と口にする。

 

「困った?」

 

『張られている。二十秒後に敵が来るよ。せいぜい死なないように頑張ってね』

 

 二十秒後、とアーロンは警戒する。メモに記されていたビルが視界に入った瞬間、そのビルの中腹が破れた。

 

 黒々とした群体がビルを内側から食い破り、こちらへと殺到してくる。

 

 隠密に長けた相手だと思っていただけにアーロンは思わず足を止めた。

 

 両翼を有した紫色の小型のポケモンであった。耳のような器官が発達しており、頭頂部で二つ存在した。黄色い眼窩がこちらを睨み据え、逃げられない、と感じ取る。

 

「しかし、これだけの数を……」

 

 思わず言葉をなくす。

 

 紫色の翼手ポケモンがアーロンを見つけ出すと共にそのうち一体が声を放った。

 

 それに呼応するように、一体、また一体と声が重なっていく。

 

 巨大なうねりのように音波が重なり合い、アーロンへと攻撃を加えた。

 

 覚えずその場に膝をつく。

 

「これだけの、音波攻撃を……!」

 

 恐らくは音波による連携技「りんしょう」。だが、数が桁違いだ。数体の「りんしょう」ならば問題なくすり抜けられる。だが問題なのは二十体をゆうに超える数の音波攻撃。

 

 音の圧力を前に、アーロンはその場から動く事さえも儘ならなかった。

 

「ピカチュウ……。必ず、仕掛けてくるはずだ。音波だけでは俺を殺せないからな。そのために、既に」

 

 電気ワイヤーは隣のビルへと伸びている。アーロンはその時を待った。

 

 果たして、それは背後から現れた。

 

 巨大な黒い翼を広げたポケモンである。群体を生じさせているポケモンの親玉のようだった。同じように発達した耳の器官。二倍近くもあるその巨体が音の網に囚われたアーロンを噛み砕こうとする。

 

 アーロンはその瞬間、電気ワイヤーを引き戻し、攻撃から逃れた。

 

 空を切った攻撃だが、黒い翼のポケモンは翼による一陣の暴風域を発生させ、足場としていたビルを根こそぎ消し去った。もしまともに食らっていれば上半身を持っていかれただろう。

 

「同じタイプのポケモン……、恐らく明らかなのは飛行タイプだが、ルイ! 相手のタイプを判別しろ! 容姿はカメラで送った!」

 

 ホロキャスターのカメラ機能を使い、アーロンは相手の判別に移った。群体のポケモン達は新たな技を発生させ、アーロンを巻き込もうとする。しかしこれほどまでに大規模なポケモンによる侵攻は街の人々にも明らかだ。

 

 相手は隠し通す気はないのか。アーロンは飛び退り、ビルからビルへと飛び移る。

 

『解析結果、出たよ! 相手は音波ポケモン、オンバットとその進化系、オンバーンだ。飛行・ドラゴンタイプ!』

 

 ドラゴンとは、また厄介な相手だとアーロンは感じる。集団で行動している二十体もドラゴンであるのならば、それなりの攻撃でなければ沈まないだろう。

 

「しかし、これだけのドラゴンタイプを同時に扱えるなど。通常の使い手ではないな」

 

『今、データベースを照合中だけれど、オンバットの集合体を使う軍部なんて存在しないよ。しかも、こんな……。隠密作戦なんてまるで無視の扱い方』

 

「素人か。だが、それにしてはオンバーンの攻撃。仕掛けられたものがあった」

 

 推測するに軍人としては素人だが、ドラゴンの扱いにかけては一級。それを証明するのは二十体のオンバットの連携攻撃と、オンバーンの裏を掻いた攻撃だけでも充分であった。

 

「トレーナー本体を見つけ出す。それほど遠くで操っているわけではないはずだ」

 

 波導の眼を使う。しかしオンバットの数が多いせいか波導が分散しうまく追跡出来ない。

 

「少しでも蹴散らさないと――」

 

 そう口にしようとした時、殺気に肌が粟立つ。条件反射で飛び退ると、肉迫してきたオンバーンが頭頂部の耳のような器官から音波攻撃を発生させた。

 

 ビルが瞬時に粉砕し、微粒子に至るまで引き裂かれる。

 

 次いでアーロンを襲ったのは純粋に鼓膜を叩く強大な音だった。聞くだけで鼓膜が破れそうになる。アーロンは波導を操り、耳を保護する。それでも音の感覚の麻痺した世界に晒された事には変わりない。オンバーンが咆哮して、翼を返す。突風が巻き起こり、アーロンの青いコートを煽った。

 

「これだけの凶暴性、トレーナーは近くにいる。そうでなければオンバーンは操れない。どこだ、どこにいる?」

 

 視線を巡らせようとするも、オンバーンの動きが速い。一瞬でも気を抜けば身体を引き裂かれる。

 

「オンバットから探ろうにも数が多い。オンバーンから探るには相手が速過ぎる。これでは……」

 

 打つ手もないのか。歯噛みするアーロンへとオンバーンが間断のない攻撃を放った。音波が放たれ、アーロンの飛び移ろうとしていたビルを先んじて破砕する。舌打ちをして細かくなったビルの壁面を蹴りつけた。波導で一時的に粉砕されかけた足元を補強する。

 

 一瞬の足場には出来たが、オンバーンは確実にこちらの動きを読んでいる。精密だ。だがそれほどの精密さにはやはりトレーナーの指示が不可欠だろう。

 

「自律的に動くタイプのポケモンではない。恐らく小さなスピーカーでもつけて指示をしているか。だが、どこにいる? どうやって、俺の位置を知れる?」

 

 オンバーンにはカメラらしきものが搭載されている波導はない。あれば既に感じ取って壊そうとしている。オンバーンに指示を飛ばすスピーカーの存在は確定だとしても、どうやって手に取るように自分の居場所が分かるのか。

 

 空中を埋め尽くすオンバットの群れは黒い積乱雲のようだ。たまに音波攻撃が飛んでくるが射程外のオンバットを攻撃する暇があればオンバーンに注意を向けなければやられる。

 

「こちらに注意を割けば、あちらにやられる、か。厄介な事に変わりはないな。そして、オンバーンを相手取るには、耳を塞いだままでは不可能だ」

 

 五感のうちの一つを封じて戦えるほど相手は生易しくはない。常識で考えても相手は軍人か、あるいはそれに属するほどの使い手。恐らく、最初の音波攻撃で耳を潰す算段だったはずだ。

 

「波導は身体を流動する。耳が塞がれているという事は、通常の波導の流れを阻害しているのと同義」

 

 オンバーンが両翼を勢いよく羽ばたかせてアーロンを叩き落そうとする。咄嗟に横っ飛びし、電気ワイヤーによる一撃を放った。翼に絡みついたワイヤーを介しての電撃。だが、オンバーンは勢いを弱める事はない。

 

「電気があまり効かない?」

 

『オンバーンは飛行を持っているとはいえ、ドラゴン。通常ダメージで落とせるほど脆くはない、っていう事だろうね』

 

「感心している時間もないな。ルイ、弱点を教えろ」

 

『いいけど……っていうか聞こえていないんじゃないの?』

 

「波導を介して音声を振動と化し、骨伝導で伝えている。骨に直接音を伝えて聞いているんだ。だが、逆に言えばお前の声しか聞こえていない。オンバーンが何をやろうとしているのか、オンバットの群れをどうやって弾けばいいのか、五感のうち一つが潰されている事に変わりはないんだ」

 

『……待ってて。今すぐオンバーンの弱点を――』

 

 その言葉が消えるか消えないかのうちにオンバーンが踊り上がり、内部骨格が赤い燐光を灯した。粒子を棚引かせながらオンバーンがこちらへと突進してくる。

 

 アーロンは電気ワイヤーで次のビルへと繋いでおいたが、明らかに攻撃の勢いが強まった。翼による羽ばたきの威力も上がっている。

 

「逆鱗、か。ドラゴンはこれだから厄介だ」

 

 オンバーンの黄色い眼がアーロンを睨み据える。敵を見る眼に、アーロンは電流を放たせた。

 

 一瞬だけ眩く放った電流にオンバーンはうろたえて標的を見逃すかと思われたが、目を瞑っていてもオンバーンはこちらを正確に捕捉する。

 

「眼じゃないな。耳だ。こいつらは音で俺を判別している」

 

 だとすれば厄介な事この上ない。音を乱すような技は組み込んでいないからだ。

 

 オンバーンの鉤爪のついた足がアーロンへとかかろうとする。アーロンは前に転がってそれを寸前で避けた。だが、攻撃の反射が早い。即座に身を翻したオンバーンは直下に向けて音波攻撃を放ったようだ。

 

 耳の聞こえないアーロンからしてみれば、音波というよりもそれは衝撃波に近い。

 

 瞬時にビルの足場が粉砕され、細やかな粉塵が飛び散る。

 

 視界を潰された、と思った瞬間、赤い燐光を体内から充填させたオンバーンの片翼がアーロンをなぶった。

 

 ビルからワイヤーが外れ、そのまま自由落下は免れないかと思われたが、直前に張っておいた「エレキネット」によって着地の衝撃を減殺する。

 

「本来、エレキネットはこう使う」

 

 攻撃を受け切るエアバックとしての使用によって死は免れたが、それでも窮地には違いない。

 

 オンバットの群れはアーロンを常に捕捉し、オンバーンの運動を補助しているようだった。

 

「オンバットの無数の眼と耳が、俺を常に捕捉する。まるで張り巡らされたネットワークだな。オンバーンはその信号を受けて俺を攻撃。オンバットの波導から本体を探ろうとしても雑多が過ぎ、オンバーンから探ろうとしても相手は素早く、その隙を与えない。よく出来ている」

 

 陸路を走り始めたアーロンであるが、オンバーンの追撃は留まる事を知らない。狭くなった路地を物ともせず、オンバーンは上空からアーロンを追い続ける。

 

 耳の回復にはまだ少しばかり時間がかかりそうだ。

 

 加えてオンバーンとオンバットをいくら落とそうとも、本体であるトレーナーに辿り着けなければ結局こちらの負け。時間稼ぎの間にルイの事が露見しても敗北。

 

 畢竟、アーロンに余計な時間は残されていなかった。

 

「ドラゴンを倒す術、か」

 

 対ドラゴンは波導使いにとっても重要な戦闘要素だ。アーロンは静かに過去の言葉を思い出していた。

 



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第六十五話「突破口」

 

「ドラゴンタイプ、というのは厄介だ。聖なる種族だからな」

 

 師父の言葉を受ける前に、アーロンはピチューを使い、ルカリオの眼をかく乱させる。その隙に背後を取り、電撃を浴びせようとしたがこちらの動きがばれていたのか、肘打ちがアーロンの鳩尾に叩き込まれた。一瞬にして攻防が逆転し、ルカリオの拳が顔面へと襲いかかろうとする。 

 

 即座に防御姿勢を取って直撃を避けるが、それでも波導を纏ったルカリオの一撃は重たい。大きく後退する形となったアーロンへとルカリオは容赦なく地面を叩き付けて土で構築された棍棒を作り出す。

 

 棍棒を両手にルカリオはほとんど瞬間移動の速度で肉迫した。

 

 地面タイプの技「ボーンラッシュ」。

 

 土か、あるいは細かい微粒子で構築された波導による打撃武器を用い、ルカリオはリーチを伸ばしてアーロンへと間断のない攻撃を浴びせた。

 

 アーロンは棍棒の隙をつこうと波導の眼を使い続けるが、棍棒の扱いに隙はない。ルカリオは下段から棍棒を打ち上げる。

 

 アーロンは電撃で一瞬だけ無効化したが、即座に打ち下ろされた返す刀は見えなかった。自分の放った電撃で自分の眼を一瞬だけ殺してしまったのだ。

 

 見えなかった攻撃は避けようもなく、アーロンの肩口に突き刺さった。

 

「ピチュー!」

 

 電撃の網を用いてアーロンは棍棒を絡め取る。これで射程外には逃がさない。

 

 今度は、とアーロンがゼロ距離の電撃をルカリオの体内に撃ち込もうとするが、ルカリオはアーロンを蹴りつけてすぐに離脱した。

 

 ルカリオは師父の判定を待つまでもなく、自分で考え、自分で攻撃と防御を見極める。

 

 練習相手としてはこれほどのものはいない。

 

 アーロンは離脱したルカリオが棍棒を降ろしたのを見て、一時休戦だと判断した。

 

 緊張した節々が強張っている。構えを解き、「何ですって?」とようやく師父の言葉を聞き返せた。

 

「我が弟子は戦いに夢中、か」

 

 師父は少しばかりの皮肉を込めて声にする。

 

「しょうがないでしょう。ルカリオに負けないように戦うには一瞬だって抜けないんですから」

 

「生意気になったものだ。減らず口も増えた」

 

「ドラゴンタイプ、って言いましたよね?」

 

「ああ、ドラゴンとは聖なる種族。大器晩成型のポケモンが多いが、育てれば一級品だ」

 

「何で師父はドラゴンを使わないんですか?」

 

 波導を使うからルカリオなのだろうか。しかし師父の答えは違った。

 

「ドラゴンは、波導が読みづらい」

 

「読みづらい?」

 

「波導回路を焼き切る戦法を取るお前からしてみれば、相手にしたくないポケモンの一つだ。ドラゴンの波導回路は根本からして違う。人型のポケモンとは、まるで違う生物だと思っていい」

 

 師父は文庫本を閉じて立ち上がる。

 

「その、ドラゴンを相手取るコツ、とかは」

 

「生憎だが、わたしはドラゴンを持っていない。だから口で覚えてもらうしかないな」

 

「……師父は、ドラゴンを相手取った事は」

 

「あるさ。連中は強い。ほとんどの弱点はないし、ドラゴンに有効打を打てるのは、今のところ、フェアリー、氷、ドラゴンのみ。弱点属性が少ない割に攻撃、防御共に優れており、使いこなせばこれほど頼りになるポケモンもいない」

 

「でも、師父はルカリオを使っている」

 

「言っただろう。読みにくいんだ。使っている人間自身も」

 

 その言葉の意味が分からない。読みにくい、というのはどういう事なのか。

 

「それは、ドラゴンが育てにくい、というのと直結するんですか」

 

「部分的には、だな。ドラゴンは思考体系も違えば、内部骨格のそれも全く違う。ドラゴンの技に逆鱗、というものがある。内部骨格から筋肉素子に働きかけ、絶大な膂力を発揮する技だ。デメリットとして使用後の混乱があるが、それを加味しても相当に強い。それに、逆鱗を使えば大抵の相手は沈む。使用後の混乱を待って逆転、という事を考えさせる暇を与えない」

 

「じゃあ、ドラゴンタイプは無敵……」

 

「この世に。無敵のポケモンもいなければ無敵のトレーナーもいない」

 

 アーロンの不安を拭い去るように師父は言い切る。だが今までの話を統合すれば弱点などないように思える。

 

「弱点属性を突かない限り、勝てないみたいに聞こえましたけれど」

 

「だとすれば、諦めが早いな。いいか? いかにドラゴンとはいえそれを操作するトレーナーがいるんだ。どうしても勝てない時にはトレーナーを突け。それは以前教えただろう」

 

「でも、もし、ですが、もしも、相手のトレーナーも熟練の域に達していて、さらにドラゴンタイプを使ってきたとすれば……」

 

 考えたくない想定だったが師父は常に最悪を想定しろとも言った。師父は空を仰いで、「そういうのもいるかもな」と呟く。

 

「そうだとすれば、なるほど、限りなく最強に近い」

 

「だったら、やっぱり勝てないんじゃ」

 

「勝てない? わたしはお前に何を教えてきた? 全て、勝利する方法だ。相手の隙を突き、息の根を止める、最短の法則だ。波導使いは最短を見極め、その法則を瞬時に利用する。それが、波導を使う者の強みだ」

 

「ですが、ドラゴンは波導が読みづらい、と……」

 

「そうだ。ドラゴンは波導が読みづらい。こちらが今まで培ってきた戦法もろくに通じずに苦戦する事もあるだろう。だが、勝つにはドラゴンの波導を読む、のではなく、そのドラゴンが何に特化しているのか、をまず読め。ドラゴンは言ってしまえば極端だ。攻撃ばかり高いドラゴンもいれば、スピードばかり高いドラゴンもいる。真ん中がない。逆を言えば中間のドラゴンは弱い。それならば今までの波導戦術でも勝てる」

 

 師父が言いたいのはつまり、極端なパラメータのドラゴンタイプには弱点が必ず存在する、という事なのだろう。

 

「でも、戦闘中に見極めるなんて」

 

「難しいか? 今まで何を聞いてきた。メガシンカの隙を突く方法もそうだし、相手が何に特化しているのかを見極める方法も、お前が何を得意とする波導使いなのかもそうだ。それらを統合しろ。全てを用い、ドラゴンに立ち向かえ。ドラゴンタイプは強いが、同時に弱点を潰されれば脆い。必ずあるはずだ。眼のいいドラゴンならば目を潰せ。耳のいいドラゴンならば耳だ。脚力が自慢ならば足場を崩せ。腕力がとてつもなく強いのならば距離を取って罠を張れ。対応の仕方は存在する。お前に教えた事が答えとなろう」

 

 しかし不安が蔓延する。

 

 ドラゴンを突き崩す事など出来るのか。その胸中を読んだように、師父はルカリオに命じる。

 

「ルカリオ。一度だけ、ドラゴンはどういう波導の持ち主なのかを見せてやれ。龍の波導だ」

 

 ルカリオが棍棒を手離し、体内から青白い波導を放出する。今までの波導と違うのは青い波導が輪を形成し、鎧のように組み上がっている点だ。ルカリオは「りゅうのはどう」を右腕に構築する。右腕を中心軸として青い波導で形成された龍が啼いた。

 

 アーロンは覚えず後ずさる。あの波導は少しの工夫で崩せるものではないと。

 

「これから、龍の波導による攻撃を見せる。お前はかわすなり、分析するなりしろ。ドラゴンに関してわたしが教えられるのは少ないからな。ルカリオの龍の波導を読み、そこから学べ。あと言っておくとすれば、龍の波導による痛みはこれまでの比ではない」

 

 ルカリオが脚力を用いて瞬時にアーロンへと接近する。脚にも鎧の波導が組み上がっておりう、それが爆発的な素早さを約束したのだ。

 

「ピチュー!」

 

 即座に放った電撃をルカリオは龍の吼える拳で相殺する。

 

 ――なんて威力だ。

 

 電撃の構築前にそれが霧散する。

 

 ドラゴンタイプの波導を纏ったルカリオは反転して蹴りを放つ。アーロンは波導を纏って飛び退った。一つでもまともに食らえば致命傷だ。

 

「こんなの、無茶苦茶じゃないか……」

 

「だが、ルカリオは鋼・格闘。本来の威力の半分も出し切れていない」

 

 これで半分程度。アーロンは歯噛みする。もし、これを最大に使えるドラゴンが相手ならば。

 

 ルカリオの突き上げる拳を受け流し、電流を放とうとして、空気を震わせる龍の咆哮が邪魔をした。

 

 どうしても竦み上がってしまう。

 

 これではまともに攻撃も撃てない。

 

 足を蹴り払われ、つんのめったアーロンの鳩尾に龍の威容を持つ拳が叩き込まれた。

 

 背骨まで突き抜ける一撃。

 

 一瞬、呼吸困難に陥り、視界が暗転しそうになる。

 

 だが何度も戦ってきたのだ。反撃は即座に行えた。

 

 接近戦に持ち込んだルカリオの拳へと切断の電撃を見舞おうとする。しかし、それは表皮で掻き消える。

 

 アーロンは瞠目した。確実にルカリオの右腕を取ったはずの波導切断攻撃が、まるで意味を成さない。

 

「これが、ドラゴンの波導の力だ」

 

 師父の声が鼓膜に木霊する前に、腕が薙ぎ払われる。アーロンはたたらを踏んで持ち堪えようとするがあまりの威力にうろたえた。

 

 ただ払っただけの攻撃にしてはあまりにも衝撃が強い。

 

「ドラゴンタイプ……。その波導は……」

 

 波導の眼を最大値まで上げて使う。

 

 その時、ようやく波導切断攻撃が通じなかった意味が分かった。

 

 青白い鎧の波導はルカリオの波導をコーティングし、本体に至る前に別の位相を持つ波導で掻き消している。波導は流動的で一定の波長を持たない。

 

 これでは常に波導の眼を使わなければ突破出来ないだろう。

 

「これが、ドラゴンの……」

 

「見えたか。龍の波導はそのように多層で成り立っている。だがこれでも擬似再現だ。本来の龍の持つ波導は、もっと複雑だと思え」

 

 ただ表面に波導を纏っただけでのルカリオでもこれだけ苦戦するのだ。本当のドラゴンならば勝てないのではないか。萎えかけた思考に師父が切り込む。

 

「思っているな。勝てない、と。いいか? 一瞬でもそう感じればもうドラゴンには勝てない。それほどまでに隙がなく、強力な相手だと思え。だがお前に教えた攻防で、既にドラゴンの突破口は見えているはずだ。今までの教えを思い出せ。お前が何に秀でているのか。何を武器としているのか。それによってドラゴンは容易い相手にも、あるいは超え難い壁にもなるだろう」

 

 壁を壊すのは、自分自身。

 

 アーロンは息を詰め、ルカリオの纏っている波導に集中する。

 

 既に突破口は教わった。

 

 ならば自分はそれを最大まで活かす。それしか方法がないのならば、命が果てる事も厭わずに戦う。

 

 アーロンは雄叫びを上げ、ルカリオへと突っ込んだ。

 



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第六十六話「ドラゴンマスター」

 

「ドラゴンを破る術は、既に手に入れている、か」

 

 こぼした言葉にルイが反応する。

 

『何それ。結構危ないよ、波導使い。オンバーンを相手に勝てる算段でも』

 

「勝てる、勝てないではない」

 

 アーロンは立ち止まり、上空のオンバーンを見据えた。

 

「――俺が、勝つんだ」

 

 オンバーンは赤い燐光を棚引かせてアーロンへと真っ直ぐに向かってくる。狭い路地を翼で破砕し、勢いが弱まる様子もない。

 

 だが、それこそがアーロンの仕掛けたドラゴンタイプ突破の術だった。

 

 突如、オンバーンの動きが止まる。

 

 オンバーンの両翼が何かに射止められたかのように勢いを弱めたのだ。引き千切ろうとするがオンバーンは空回りするばかりである。

 

「ドラゴンをまともに破ろうとするのは間違いだ。だからこの狭い路地裏に誘い込んだ。オンバーンの長所は、聴覚。それを用い、レーダーのように常に相手を正確に捕捉し続ける。だからこそ、眼に頼る必要はないと見た。推論だが、オンバーンは実のところ視力がほとんどないのではないか。視力のないポケモンは代わりに発達させるのは、聴覚、触覚。オンバーンはその耳のような器官が発達している。加えて先の音波攻撃。音波と聴覚に頼り切った戦い方ならば、微細なこれは見えないだろう?」

 

 その時になって、オンバーンを絡め取ったものが見えてくる。

 

 それは細やかな電気ネットであった。太陽の光を浴びて辛うじて眼に映るレベルの細い電気ネットがアーロンの周辺に張り巡らされている。

 

「ビルの上では不利だった。何故ならば遮蔽物がない。そんな場所なら、勝てない。上空からはオンバットが常に捕捉し、オンバーンの素早さと聴覚に頼って相手トレーナーは姿すら現さない。ならば、と俺は下に降りた。走ればすぐにでも追いついてくるかと思ったが、警戒して今まで上空を飛んでいたな。だが、ここに来て、俺が立ち止まったのを関知し、一気に攻め込もうとしてきた。オンバーンとオンバットを使った戦法の強みは、トレーナーからの遠隔操作。つまり、大雑把な位置さえ分かればトレーナーは遠くからでも、オンバットとオンバーンによる連携攻撃で相手を付け狙える。まるでそこにトレーナーがいるかのような錯覚さえも与えられるだろう。だが、実際は違う。最初から、オンバットが現れたときからだな、正確には。オンバット二十体の目的は俺の足を潰す事ではなく、俺がどこにいるのかを捕捉する、遠隔レーダーの意味だった。オンバットの後にオンバーンが仕掛けてきたのはそういう理由だ。そして耳を潰せば、オンバーンがどこから来るのかも分からない相手は確実に狩れる。手慣れたやり方だな。これが基本戦術か?」

 

 アーロンの言葉にオンバーンが咆哮し、発達した耳から音波を発生させようとする。その前にアーロンは指を鳴らした。

 

「波導が見えづらい、というのはつまり、遠くから見ている場合だ。あるいは触れずに、相手を視認する場合。そういった場合のみ、ドラゴンは無敵に近い。だが、俺はこうしてお前に触れている」

 

 アーロンが五指を開く。指先には電気ネットの末端が繋がっていた。

 

 波導の眼を開くと今まで見えづらかったオンバーンの波導が手に取るように分かる。接触しているためにオンバーンの波導がどれだけ位相を変えようが、多層であろうがアーロンには理解出来る。

 

 オンバーンが咆哮するがアーロンは指を開いたまま口にした。

 

「……悪いが、まだ耳が回復していなくてね。どれだけ吼えようが喚こうが威嚇にもならない。それに逆鱗に頼り過ぎたな。お前の全身に、電気ネットは絡み付いている。これならば、波導の切断は――」

 

 ピカチュウが電気を溜める。次の瞬間、それが放出された。ただ単に電撃として使ったのではない。オンバーンの波導の表層を焼く。

 

「可能となる!」

 

 表層を焼かれたオンバーンだがまだ波導の層は残っている。アーロンは迷いなく残りの波導を焼き切っていく。

 

 一つ波導を焼く度にオンバーンは身をよじって逃れようとするが、完全に絡みついた電気のネットを解くのには時間が足りなかった。

 

「一つ!」 

 

 波導の層が切り裂かれる。オンバーンが翼を羽ばたかせようと大きく手を引いたが、その前にもう一つの波導を切断する。

 

「二つ! 三つ!」

 

 波導の層が焼かれ、遂には最後の波導だけがオンバーンを包み込んでいる状態になった。アーロンは固めた手を差し出す。

 

「あと一つの波導を焼けば、お前の波導は消滅する。波導を切断するとは、それは即ち命の源泉を絶つという事。次で終わりだが、どうする? 主人を呼ぶか、それともここで野垂れ死ぬか」

 

 選べ、と睨みつけた瞳に、オンバーンが三つ、声を上げたようだった。そのタイミングでアーロンは波導を完全に切断する。

 

 オンバーンが電流で身体を焼かれ、内部から煙を棚引かせた。

 

 電気のネットに抱かれたまま、オンバーンは絶命していた。オンバットが襲ってくるかと警戒していたが、オンバットは進化先であるオンバーンの死に恐れを成したのか近づいてこない。

 

 アーロンは緊張を解き、肩を荒立たせた。

 

 鼓動が今にも爆発しそうだ。

 

 それほど、先ほどの戦闘は賭けだった。オンバーンがもし、接近攻撃にこだわらなければ、自分はやられていただろう。

 

「辛勝、か……。ドラゴンを相手取るのは疲れるな」

 

 オンバーンがこちらの罠にかかったからよかったものの、音波攻撃の一辺倒にこだわるのならば敗北していたかもしれない。アーロンは汗を拭おうとして別のプレッシャーの波が波導の感知野を粟立たせた。

 

 咄嗟に前に転がる。

 

 先ほどまでアーロンのいた空間を引き裂いたのはオレンジ色の光条だった。

 

「何者だ……」

 

 しかし、問いかけてみてナンセンスだと感じる。オンバーンがやられて現れる人物と言えば一人しかいない。

 

「何者だ、とはご挨拶だな。ついさっきまで戦っていたのに」

 

 現れたのは金色の表皮を持つドラゴンタイプであった。水色の皮膜の翼を広げ、今しがた光線を放った口腔を開いている。

 

 そのドラゴンの上で、一人の青年が佇んでいた。

 

 ぴっちりとした青いスーツに、紫色のマントをはためかせている。

 

 異様であった。ここで現れるのならば軍人だと思い込んでいたのもある。

 

 相手は、軍人にしては華美で、ただの人間にしては纏っている空気が桁違いであった。

 

 思わず波導を読む。

 

 乗りこなしているドラゴンタイプと波導の閾値がぴったりと合っている。つまり、相棒はこのドラゴンであるという事だ。

 

「オンバーンは、残念だったよ。これほどまでの使い手が相手だとは思わなかったから、実戦も兼ねてのテストだった。まぁ実際のところ途中まではうまくいっていた。オンバットを使っての相手の捕捉。オンバーンの補助をうまい具合にやってくれていて、勝てると思っていた。だが、まさかこちらの読みの甘さを突かれるとはね。遠距離を徹底するべきだったな。もしそうならばこの事態は違っていただろう」

 

 オンバットが数体降り立ってきてオンバーンの遺体を回収する。この場に軍人のポケモンを残しておくのは危険だろう。

 

「オンバットはね、実は全く強くないんだが、二十体もいればオレを特定するのも難しいと思ったんだ。ドラゴンタイプを相手取る際、一番に相手が考えるのはトレーナーの無力化。ところが、オンバットとオンバーンを使った遠隔戦術ならばオレがここに来なくとも自由自在に追い詰められる。いや、追い詰められるはずだった」

 

 だが実際には自分の読みが勝ち、オンバーンを退けた。その現実に青年は肩を竦める。

 

 逆立てた赤い髪をかき上げた青年は自嘲気味に語った。

 

「ちょっとばかし……、オレは甘かったようだ。ヤマブキの、有名な殺し屋だと言っても所詮は殺し屋。アマチュアだ。プロであるオレとは比べ物にならないのだと思っていたが、いやはや感服したよ。勝利は君のものだ。とても尊いよ、この一勝は」

 

「どうだかな。事実、この距離からお前らが破壊光線を放てば、それこそ勝敗は覆る」

 

 アーロンの冷静な声に乾いた拍手を送っていた青年は手を止めた。

 

「……警戒の糸を切らないのも見事だ。戦闘後なら、今の破壊光線。当たると思っていたが。それもオレの読み不足か」

 

「お前らは何者だ。何故、ヤマブキに介入する?」

 

「知っているだろう? ホウエンから仕入れたシステムが逃げた。オレはそれを匿っているかもしれない一派を消すために派遣された、軍人だ。そうは見えないかもしれないが、名乗っておこう。こっちは君の名前を知っているのにオレは知らないのはフェアじゃない。カントー攻勢部隊。β分隊所属、ドラゴン使いのワタル。もう一つの顔は、カントー四天王、最後の試練の男だ」

 

 アーロンは歯噛みする。手強いと思っていたがまさか四天王クラスだとは。

 

 ドラゴンの扱いも四天王ならば、遠隔からの戦術を試すのも頷けた。

 

「四天王が一つの街の揉め事に関わってくるのか?」

 

「だから、これは極秘作戦だ。まぁオンバットがちょっとばかし荒っぽい事をしたが、あれは野性で片付くだろう? オンバーンを実際に目にしたのは君くらいだ。情報統制でどうにでもなる」

 

 そのための二十体による同時作戦。アーロンは、荒事を平然とやってのけるその性格もそうだが、二十体を同時に操っていたのがまさかたった一人だという事に戦慄する。

 

「二十体を、操っていたのか」

 

「まぁね。いくらドラゴンに精通していても二十体はちょっと操るのが難しい。でもそれで余計に、野性っぽいだろう?」

 

 全て計算ずくという事か。アーロンはどこから攻撃すればワタルを攻められるのか考えたがワタルに隙はない。乗っているドラゴンタイプもオンバーンのような自律型のポケモンではないのが窺えた。

 

「オレを、必死に落とすための算段でもつけているのか? 無口だな、波導使い。いいや、青の死神、アーロン。この街が擁する、最強に近い暗殺者というのは伊達ではないようだ。今も考えているのはオレを殺す術。どこから攻めればいいか。だが今のオンバーンの犠牲に報いるには、君に一切の慈悲を与えず、殺す事だと判断した。この距離で破壊光線を撃ち続ければ、君も逃げ場をなくし、死ぬしかない」

 

 ワタルの眼は本気だ。本気で自分を殺す事を考えている。アーロンは質問を投げた。

 

「俺を殺してどうする? 俺は、お前らの探すシステムとやらに全く通じていないかもしれない。あるいは考え以上に精通しているかもしれない。それの判断がついていないのに、殺すのは早計だと思うが?」

 

「意外だな。命乞いか? 安心して欲しい。システムについては別働隊が動いているし、それにもうすぐ特定可能だ」

 

 それはルイに聞けばすぐにでも分かるのだが、この男の前では無用な動きは出来ない。

 

「オンバーンを殺したんだ。そのポケモンがいかに優れていようとも、攻略法はある」

 

「ドラゴンを倒すのにまさかそんな電気ネズミだとは思わなかったよ。だが、入り組んだ路地に、視力の弱点を突く的確さ。さらに言えば読みの深さ。オンバーンは負けるべくして負けたが、オレはこの距離までピカチュウの電撃が届かない事を知っているし、それにちょっとでもピカチュウを手離せば、そちらに勝機がない事も分かっている」

 

 こちらの戦闘を全て見られていたのならば、肩からピカチュウが一切動かない事も承知の上だろう。アーロンは舌打ちする。四天王は侮れない。

 

「さて、この状況で君はどう出るか。色々と考えてみたが大きく二つだ。オレの相棒、カイリューを倒す方向に来る。だが、これはとても薄い線だと考えている。なにせカイリューはオンバーンの同じ轍は踏まないし、オレの完全な指示の下で動くドラゴンに死角は存在しない。ない弱点を突く事は出来ないし、君だってそれくらい分かっている事だろう。では、もう一つの可能性。つまり、素直にシステムの情報源を吐き、ここで撤退する。オレとしては後者が賢いと思うが」

 

 アーロンはその言葉に確信を強める。相手はルイのシステムの一端すら握っていない。ルイが自分の下にある事さえも知らないのだろう。ただ、自分はルイの場所を少しばかり知っている私兵だとでも思っているのか。

 

「答えなければ、どうなる? 撤退もしない。ここで逃げれば名が廃る」

 

「言うと思ったよ。そうだな、逃げなければ」

 

 カイリューが口腔を開く。内部にオレンジ色の光線が次々と充填された。

 

 それだけではない。上空に展開するオンバットも降下してきて音波攻撃を仕掛けようとしてくる。

 

 どう考えても不利。音波で動きを止められて破壊光線を撃たれれば勝てない。

 

「ここで潰えるか。青の死神。合理的に考えるといい」

 

 アーロンは余裕の眼差しを自分に向けるワタルへと睨み返した。ここで臆せば負ける。それ以前に、この戦いには時間稼ぎの意味合いが強い。

 

 退けば終わりなのだ。

 

 アーロンの意思を感じ取ったのか、ワタルは呟く。

 

「……残念だよ。もっと賢いと思っていた」

 

 カイリューが今にも破壊光線を撃とうとする。オンバットからの音波攻撃に晒されようとした瞬間、お互いの無線機が同時に音を立てた。

 

 ワタルが無線を取る。

 

「もしもし?」

 

 アーロンもホロキャスターを耳に当てた。

 

「どうした?」

 

『ワタル少尉。作戦は中止だ。別働隊からシステムはヤマブキの外に持ち出されたとの報告があった。これ以上ヤマブキをせっつくのは面白くない。我々としても、ヤマブキにこだわっていればいつ足元をすくわれるのか分からないからな』

 

『波導使い、ボクはボクの一部を、相手に誤認させて外に持ち出させる事に成功した。これで、戦う必要性はないわけだ』

 

 システムの切り離しに成功したわけか。

 

 アーロンとワタルはお互いに無線機を耳から離し、「なるほど」と声にする。

 

「悪い報告ではないようだな。お互いに」

 

「そうだな。だが、どうする? これから先、禍根の芽になりそうなものは摘み取っておくか」

 

「そうだな。オレも、オンバーンをやられたんだ。正直、ちょっと怒りがあってね。オレのドラゴンを傷つけた奴を、このままむざむざと逃がして堪るか」

 

『おい、聞こえているのか、少尉! これ以上、ヤマブキの内情に首を突っ込むな。少尉!』

 

 喧しい無線機のスイッチをワタルは切る。ここから先は、軍人ではない。一人のトレーナーとして、許せない相手との対峙だろう。

 

「オンバットは使わないでおこう。もうこの街からも逃がすよ。それが一番いい。フェアに、一対一で」

 

「ああ、来い」

 

 カイリューが破壊光線を一射する。アーロンはビルへと即座にワイヤーを絡めつかせて舞い上がった。

 

 それを阻むようにワタルの乗ったカイリューが大写しになる。

 

 まさか接近戦か。想定していなかった戦法にアーロンはうろたえながらも電流の皮膜を張った。

 

 お互いに攻撃の干渉波がスパークし後ずさる形となった。ビルへと飛び移り、足場を整える。

 

 カイリューが接近してきたのは今の一度きりだ。恐らくどれほどの攻撃か試すための。

 

 逆に言えば今の機会が唯一。

 

 アーロンは電気の皮膜と同時に放ったワイヤーの一本を引く。

 

 カイリューの片腕に巻きついたワイヤーがようやく感知したのか、ワタルが目ざとく反応する。

 

「カイリュー、バリヤーだ!」

 

 カイリューを覆って薄紫色の防御膜が構築される。ワイヤーに電気を通そうとした瞬間に遮断された。

 

「続け様に、流星群!」

 

 カイリューが両手を広げその五指から電磁を纏った青い球体を、左右三つずつ練り出す。両手を握り締めてそれを突き出した瞬間、六つの青い球体が幾何学の軌道を描いてアーロンへと射出された。

 

 ステップを踏み、回避しようとするが一撃がビルの屋上へと食い込むと、それを中心として螺旋状の爆発が巻き起こる。

 

 アーロンは歯噛みした。これほどの威力の攻撃を六つ。あと五つ避けなければならない。

 

 電気ワイヤーでカイリューを叩き落そうにも相手は射程内に入ってくれない。これでは消耗戦を続けるばかりだ。

 

「これがドラゴンの力だ。食らい知れ!」

 

 二つ目の青い球体が自分へと突き進む。アーロンは電流を放たせてビルの粉塵を巻き上げた。粉塵にぶち当たった瞬間、球体が爆発する。

 

 払われた塵の向こうにアーロンはもういなかった。

 

 直後に走り込んでカイリューとの距離を詰めようとする。少しでも近付ければ。もう一度だけでも電気ワイヤーを絡め取れれば、という思いだったが、カイリューとワタルは全くこちらの射程を許さない。

 

「三発目を忘れているな!」

 

 ハッとしてアーロンは足を止める。下段から浮かび上がった青い球体が弾け飛び、アーロンの眼を眩惑した。

 

 波導の眼を潰されればアーロンとて足を止めるしかない。その隙を突くようにカイリューが手を払う。もう三つの青い球体が天上から押し潰さんと迫ってくる。

 

 習い性で足場を蹴ると、先ほどまで頭蓋があった空間を二つの球体が引き裂いた。

 

 爆発が足元で生じてアーロンは突風に煽られる。

 

「まだ、あと一発を……」

 

 使い切っていない。その事実に警戒網を強めるが、回復した視界に入ってきたのは破壊光線を一射しようとするカイリューの姿だった。

 

 この距離から撃たれれば確実にどちらかは命中する。

 

 破壊光線か、あるいは先に放った流星群のうちの一発か。

 

「感服した。まさかここまでやるとは」

 

「カントーの国防さえも任される四天王だ。それなりの実力である事は分かっていただろう? 何故、逃げなかった」

 

 確かに逃げれば、機会はあったかもしれない。生き残れる数値は高まっただろう。

 

 だが、お互いに分かっていたはずだ。

 

 どこかで決着をつける必要があると。

 

 ならば、今をおいて他はない。自分の実力を示し、相手に不可侵の恐怖を抱かせるには、今なのだ。

 

「カイリューはそこから破壊光線を撃つ事に専念。流星群で少しばかり威力が落ちたとはいえ、ポケモンで防御もしないトレーナー相手ならば関係がない、か。俺の弱点をもう分かっている」

 

「だからこそ、解せない。青の死神。君は何で、オレに背を向けない?」

 

「簡単な事だ。――俺が勝つのだと、そう考えているからだ」

 

 その時、ピカチュウが不意に跳躍した。突然の事にワタルが目を見開く。ピカチュウを手離すとは思わなかったのだろう。

 

「肩口に留まって、常に君の攻撃を補助するのでは……」

 

「普段は、な。だが、今は敵が敵だ。違う戦術を取る。ピカチュウ、突き破れ」

 

 ピカチュウがカイリューの前で反転し、雷の形状の尻尾を突き立てる。尻尾の打ち下ろし攻撃だと判じてカイリューは防御を取らなかったが、それはミスであった。光を帯びて拡張した尻尾は鋼鉄の輝きを帯びてワタルの肩口に突き刺さる。

 

「オレを、最初から狙って……」

 

「自分で言っただろう? ドラゴンを制するには、トレーナーを狙うのが一番だと」

 

「だが、遠距離で指示など……」

 

 その段になってワタルも気づいたらしい。ただ単にピカチュウを手離したわけではないと。ピカチュウから伸びていたのは細い電気ワイヤーだ。それが一本だけアーロンの中指に繋がっている。

 

「一本でもあれば、お前の波導が分かる。切断位置も。さぁ」

 

 片手を突き出し、アーロンは言い放つ。

 

「――死ね」

 

 ピカチュウを介して電撃が放たれワタルが絶命する、かに思われたが、カイリューが身をよじり、ピカチュウを無理やり突き放した。赤い燐光を帯びている。「げきりん」だ。

 

「よもや、使う事になるとは……」

 

 離れたピカチュウをカイリューが蹴りつける。アーロンは電気ワイヤーでピカチュウを自分の肩に引き戻す。

 

「大丈夫か? ピカチュウ」

 

 ピカチュウは短く了承の鳴き声を上げて頭上のカイリューとワタルを睨む。志は同じだ。

 

 ――仕留め損ねた。

 

 ワタルはピカチュウの「アイアンテール」で受けた傷口を押さえている。

 

「カイリュー。ここまでコケにされて、黙っているわけにはいかないな。逆鱗からの、破壊光線の照射で――」

 

 それを遮ったのは明確な殺意の出現であった。

 

 ワタルは即座にカイリューへと命じる。カイリューにぶつかってきた影があった。

 

 丸まった黒い表皮のポケモンである。アーロンは即座にそれが何なのか判じる。

 

「炎魔の、〈蜃気楼〉か……」

 

 シャクエンのバクフーンが炎を帯びて車輪のようにカイリューへと突進する。ワタルは手を薙ぎ払って交戦した。

 

「破壊光線!」

 

 一射された破壊光線をバクフーンは炎の皮膜でずらす。貫いたのは高熱の生み出した幻影だ。

 

 本物のバクフーンは下に回り、カイリューの直下から攻撃を仕掛ける。

 

 地面が隆起したかと思うと、一挙に炎が弾け上がった。火柱だ。高熱の火柱が、カイリューへと襲いかかる。

 

 ワタルは舌打ちしてカイリューを退かせた。自分が騎乗しているためにカイリューに無茶な機動はかけられない。

 

 バクフーンが追撃の火柱を連鎖させる。カイリューは翼を羽ばたかせて必死に回避した。

 

「……なるほど。もう一人、この街には伝説的な殺し屋がいると聞いていた。炎を操る殺し屋、炎魔、とか言ったか。炎魔との連携を組んでいたのだとすれば、これ以上は不利に転がるだけだな。何よりも、火柱をかわしている間にいつの間にか波導使いの射程に入っているのではまるで意味がない」

 

 カイリューが一際大きく翼を広げて高空へと逃げてゆく。バクフーンはそれ以上、追おうとはしなかった。

 

「ここは退こう。それが賢明だ。だが、忘れるなよ、波導使いアーロン。この傷の雪辱は、いずれ返すのだと」

 

 睨み返すとワタルはカイリューに身を翻させる。

 

 いつの間にか空中展開していたオンバットは東方に抜けていったらしい。黒雲のように垂れ込めていた群れのプレッシャーが消えていた。

 

 バクフーンが傍に降り立つ。アーロンはその時になってようやく、緊張の糸を解けた。覚えず膝を落とす。

 

「すまないな、〈蜃気楼〉と言ったか。お前が来なければ勝敗はどちらに転んでいたか分からない。炎魔は……」

 

 バクフーンが顎をしゃくると、離れたビルの屋上でシャクエンがこちらを見つめているのが分かった。アーロンは息をつく。

 

「随分と無茶をした。あのシステム一つのために四天王が動くとは。想定外だったが、生きて帰れるだけでも儲け物か」

 



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第六十七話「次の栄光」

 

「そうか、少尉。では青の死神は逃がした、と?」

 

『現状では戦闘継続は難しいと判断しました』

 

「その割には、何故撤退命令を無視して戦った? あそこで踏み止まる必要はなかった」

 

『それこそ、四天王であるオレの一存です。責任があると言うのならば書面にして提出していただいても構わない』

 

「……いや、いい。これは不問とする」

 

 無線機を切ってランドは目の前で優雅にカップを傾ける少女へと視線を据える。

 

 気に入らない事だ。

 

 この勝負、ヤマブキの側の勝ち、というわけか。 

 

 その余裕をたっぷりと滲ませたラブリは、「飲まないのですか?」と自分の側にあるカップを示した。

 

「ああ、そうですな。ぬるくなってしまった」

 

「取り替えます。軍曹」

 

 ラブリが鈴を鳴らすと軍曹と呼ばれた大男がその体躯に似合わぬ繊細な指使いでカップを受け取って、「ごゆっくり」と会釈した。

 

 まるでメイドか何かのように軍人を使う。

 

「それで、どこまで話したでしょうか? ヤマブキ、という街の特殊さについて、でしたわね?」

 

 それも時間稼ぎの方便だ。ホテル側は青の死神――波導使いアーロンを有していたのは明らかであるし、こちらも四天王ワタルを使ったのは知れている事だろう。

 

 盤面における戦闘での敗北。

 

 それは明らかだった。

 

「ハムエッグが、またしても動いたのですかな」

 

「さぁ? 当方はハムエッグの動きを逐一モニターしておりませんので」

 

「盟主、なのでしょう? 二重スパイなどは」

 

 ラブリは微笑んで、「映画じゃないのですから」と手を振った。

 

「そのような事、あり得ませんわ」

 

 だがここまで話を聞いた限りではありそうなのが困る。波導使いの暗殺者が四天王を下した。悪い冗談としか思えない。

 

「システムが人間を飼うのではなく、人間がシステムを飼っているのですな、この街は」

 

 ラブリは小首を傾げた。

 

「当然でしょう? システムに飼われるなど、それは本末転倒ではありませんか」

 

 システムに翻弄され、システムを保持した側の勝利だった今回においてよく吼えられるものだ。

 

 ランドは目の前の少女がどこまでも食えない存在なのが分かった。

 

「確かに。システムに行く先々で妨害でも受ければ、堪ったものではありません」

 

「わたくしから言える事は、システムをある程度掌握すれば、その先は人間次第ではないか、という事です。システムに翻弄される人間よりも、システムを翻弄する人間のほうが価値はあるでしょう?」

 

 その通りだった。システムを手に入れる事ばかり考えて四天王まで投入した結果が敗北では後味が悪い。

 

 軍曹が紅茶を持ってくる。ランドはカップを傾けた。

 

「……苦いですな」

 

「カロスのお茶でも好みが分かれるお茶葉ですからね。お口に合いませんでした?」

 

「ええ、まぁ。元々、茶なんてろくに飲みもしないですから、味の違いなんててんで」

 

 しかし、苦いのは事実。

 

 敗北と、一線で手に入れたシステムの一端。本体はホテルが保持しているのかそれとも他の団体なのかまるで分からないが、こちらは国家の代表でありながらシステムの末端を掴まされて逃げ帰るという事実。

 

 ランドは押さえたがそれでも力が篭っていたらしい。カップが割れて紅茶がこぼれた。

 

「あら、大変。すぐに拭かせます」

 

「いや、いいです。こちらこそ、せっかくの紅茶を無駄にしてしまった」

 

 ランドは立ち上がる。これ以上、マッドティーパーティーを続けていても仕方あるまい。

 

「お帰りになるのですか? では見送りを」

 

「いえ、構いませんよ。我々の任務を遂行しただけですから」

 

「せっかくヤマブキに来たんですもの。もう少しゆっくりなされては?」

 

「せっかくのご厚意ですが、どうやらこの街、我々軍人をとくと嫌っていると見える。すぐにでも退散したほうが無難でしょう」

 

「そうですか。ですが見送りはさせてください。ホテルとして、あなた方の次の栄光を願わせて欲しいのです」

 

 次の栄光、か。ランドは胸中に口走る。

 

 もう「今回」は失われた、というような口ぶりだ。

 

 エレベーターにラブリと軍曹と共に乗って屋上を目指す。

 

 二人とも無口であったが、ヘリに飛び乗る際に、「これからもよしなに」とラブリがスカートの裾を摘んで会釈した。

 

 パフォーマンスに過ぎない行為にランドは苦々しく頷き返す。

 

 ヘリの扉が閉まってから、思い切り鉄の床を蹴りつけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あの軍人達は、もう来ないでしょうね」

 

 軍曹の言葉にラブリはふふんと笑う。

 

「ここまでプライドをぐちゃぐちゃにしてやって、もう一回来るとすれば、恥知らずね。あのランドという将校、あれでも敏腕でしょう。動いていたのは?」

 

「四天王クラスの人間です。名前はワタル」

 

 軍曹が差し出したのは戦闘を映し出した望遠写真だった。荒い画素だが、カイリューに乗った赤髪の青年の姿が確認出来る。

 

「間違いなく、これはワタルね。四天王相当をこの街につぎ込んだ、という事は結構お国に恩を売ったのでしょう。その結果がシステムの末端のみの回収。悔しくないはずはないわ」

 

 ラブリが邪悪に微笑むと軍曹は、「危険な綱渡りでした」と答える。

 

「波導使いが? それともわたくしが?」

 

「両方です。波導使いも追い詰められ、炎魔が介入した事でようやく、と言った具合ですね。四天王相手に、やはり辛勝は否めないかと」

 

「それでも勝った。さすがね。最高のクズだわ、波導使いアーロン」

 

「お嬢。私はお嬢の事も言っているのです。あんな場所に軍人と二人きり。もう二度と、あんな真似はやめてください」

 

「でもわたくしが矢面に立たずして誰があの場所に一時間近く座り込んでだべっていられた? その間に状況は動く。そう確信しての事よ。オウミ警部に連絡を。システムの末端だけを回収した、というよりもこれは逆説的に考えるべき」

 

「逆説的、とは?」

 

 ラブリは靴音を鳴らしながら答える。

 

「システムに末端だけを切り離されて回収された。本体はどこにあると思う?」

 

 その段になって軍曹も気づいたようだ。

 

「オウミ警部が、うまい汁をすすった、と?」

 

「どこまで本気かは知らないけれど、オウミ警部はどこかでそういう事に精通している部下でもいるのでしょうね。そうでなければ門外漢を決め込むはず。今回の依頼、請けた時点で、ある程度の利益を計算していた」

 

 遠ざかるヘリを眺め、ラブリは声にする。軍曹はヘリの羽音に眉をひそめた。

 

「この街の上空を、軍のヘリが飛ぶなど……」

 

「軍曹。今は、我々はホテルミーシャ。大戦の頃の傷は忘れなさい」

 

 軍曹は傷跡の色濃く残った顔を綻ばせた。

 

「どこまでも……お嬢は見通していられるのですね」

 

「当然でしょう? あなた達のボスよ」

 

 身を翻し、ラブリは電話を取った。通話先は依頼の仲介を命じたリオである。

 

「うまく波導使いが立ち回ったようね。約束の謝礼金を出すわ」

 

『……ホテルのあんたらにこんな事を言っても無駄かもしれないが、本当に、ギリギリだったんだぞ。あの人は、ギリギリで勝っただけだ。ともすれば負けていてもおかしくなかった』

 

「だから何? 責任でも感じろと? 生憎だけれど、そんなものに浸っている暇があれば、少しでも状況を動かす側につく事を覚える事ね、路地番。前回は、うまい事いったみたいだけれどあれは所詮、ハムエッグの掌の上で踊っていたに過ぎない事を理解なさい。あなたとて、祭りの一部だったのよ」

 

 真相を突かれてリオは口を噤んだようだ。ラブリは言葉を継ぐ。

 

「波導使いにも約束の金額を振り込んでおくと言いなさい。あなた達は所詮、我々に使役される殺し屋とその末端に過ぎない。システムの本体がシステムの末端を切る事はいつでも出来るのよ」

 

 今回の一件がただ単にシステムを巡っての攻防ではなく、この街の縮図である事を、この路地番には理解させなければならない。

 

『おれは……、出来る事ならアーロンさんに嘘はつきたくない』

 

「それはあなたの裁量でしょう? わたくしのように嘘をつかなくてもいい立場まで上り詰めなさい。そうでなければあなた一生、自分にも他人にも嘘をつき続ける事になる」

 

 リオは、『……了解』と吹き込んで通話を切った。ラブリはフッと笑みを浮かべる。

 

「生意気盛りね。昔の波導使いを思い出すわ」

 

「リオ、という路地番ですか。彼は割り切れていないところが昔の波導使いにそっくりですね」

 

「今も、波導使いは割り切れていない。だってビジネスライクに考えれば、どうしたって四天王と真っ向勝負なんてするべきじゃない。辛勝したと言っても他のやり方はいくらでもあった。波導使いも実のところ、まだ非情になりきれてないのかもね」

 

 あるいはメイ達との出会いが波導使いの人間としての側面を引き出したか。

 

 どちらにせよ、このままではシステムとしては不合格だ。

 

「どうなさいます? 波導使いアーロン。切るには惜しい戦力です」

 

「そうね。まだプラズマ団の一件も片付いていないし、その後で考えましょう。ハムエッグに取られるのは悔しいから、わたくし達流の扱い方を心得るべきなのよ。波導使いが、最大の戦力を振るえるようになるために、ね」

 

 もっとも、最大と言っても自分達の制御下、という条件付きではあるが。

 

「四天王ワタルがやってのけた被害の後始末は」

 

「無論、ホテルが請け負う。四天王だからと言ってあれは」

 

 ラブリが手でひさしを作る。すかさず軍曹が双眼鏡を手渡した。

 

 その視界の先にあったのは中央から断ち割られるように崩壊したビルである。裏路地のビルではなく表のビルであるため消防や警察でごった返していた。野次馬も多い。

 

「表の外資系のビルにポケモンを突っ込ませるなんて面倒な真似を。まぁいいわ。どうせ、わたくし達ホテルが、この街を飼うに当たって少しくらいの面倒は見るもの」

 

「ですがオウミ警部も予測出来なかったでしょうね。まさか表街道を攻めてくる連中が現れるとは」

 

「予定外の事は起こるものよ、軍曹」

 

 双眼鏡を返してラブリはこぼす。

 

「さて、結局今回、誰が一番おいしいのかしら」

 



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第六十八話「赤い影」

 

「ジョーダンじゃねぇよ!」

 

 オウミは電算室で声にしていた。ニシカツが手に入れる算段だったシステムのデータはほとんど軍に持って行かれた後だったからだ。

 

「どうすんだ! これでホテルからふんだくれるんじゃねぇのか?」

 

「む、無論です。こちらでもバックアップは取っておきましたし、途中経過までのシステムの流れである程度プログラムは組めました。どこまで軍が持っていったのかまでは定かではありませんが、こちらとそう変わりはないかと」

 

「本当かよ?」

 

 ニシカツの端末を覗き込むと彼は手で隠した。

 

「み、見ないでください」

 

「でもよ、ニシカツ。結局本体を掴めなかったんだろ?」

 

「そ、それは軍もホテルも同じです。回収したのは末端だと、軍内部のサーバーについ数分前に記載が。で、ですから軍も辛勝ってところだと思いますよ」

 

 オウミは煙草を吸おうとしてニシカツに止められる。

 

「き、禁煙です」

 

 舌打ちをして皮肉をこぼした。

 

「煙草も吸えないんじゃ辛勝どころかボロ負けじゃねぇのか?」

 

「ぼ、ボロ負け、というほどではありませんよ。現にシステムOSを手に入れられましたから」

 

「本当か?」

 

「あ、圧縮ファイルを使っていますので詳細は省きますが我々にもOSが使えるようになった、という事です。か、噛み砕いて言えば」

 

「でもよ、オリジナルデータじゃないんだろ?」

 

 オウミの落胆にニシカツは、「ぜ、善処したんですよ」と言い訳をする。

 

「ど、どう転んでも、これが最善です。もしかしたら軍に全部持っていかれていたかもしれないんです。それを、軍とホテル、そして我が方と、三勢力が同じくらいのOSを手に入れる事が出来た」

 

「綺麗に三つに分けて、か。ピザじゃねぇんだぞ」

 

 毒づいてオウミは電算室の筐体にもたれかかる。ニシカツは圧縮したと言うファイルを解析に回しているようだ。

 

「……ニシカツよぉ。悪いな。危ない橋渡らせちまって」

 

「な、何を今さら。オウミ警部が持ってくるのはいつだって危ない橋でしょう?」

 

「そうだったな。だが今回ばかりは国家が相手だったんだ。規模が違うよ」

 

 果たして軍部を相手にここまで立ち回れただろうか。自分一人では利用されるばかりだったに違いない。

 

「しかし、軍と同戦力をホテルが保有したってんだろ? 危ないよなぁ。こりゃ、一国のパワーバランスが塗り変わるぜ」

 

「そ、それだけのものだったからこそ、密輸して隠密に手に入れる必要があったんでしょうね。ですが実際にはホテルに露見し、こうして我々もおこぼれに預かれたわけです」

 

 ニシカツがエンターキーを押すと新たなOS画面が起動した。

 

「RUI」とある。システムの起動には成功したようだ。

 

「やったな、ニシカツ。てめぇやっぱり頼れるぜ」

 

 思い切りぼさぼさの頭を撫でてやるとニシカツが手を払った。

 

「こ、子供じゃないんですから!」

 

「これで、ハムエッグの鼻を明かすくらいは出来そうか?」

 

「は、ハムエッグの持っているシステムは特殊ですからね。元々、二年は先を行っているシステムです。それをどれだけ縮められるか、にかかっています」

 

「二年の差、か。それを三勢力が同時に手にした。軍がハムエッグを抜くか、あるいはホテルが抜きん出るか、オレ達がそれを制するか。ちょっとばかし混戦じゃねぇの」

 

 ここから先は一歩踏み間違えた側が敗北する。警察勢力でも自分達は特殊だ。これを警察全体に発布しようとは思わない。無論、報告もしない。これは自分が成り上がるための力だ。誰にも渡しはしない。この力で炎魔を持っていた時と同様か、あるいはそれ以上の地位に上り詰める。オウミの野心は静かに燃えていた。右腕の代償をこれで払えるかもしれない。いや、それ以上に。

 

 この街の盟主と渡り合うには力が必要だ。ただの使い走りではない。

 

 盟主と交渉し、切り札を隠しておくには、能ある鷹を演じろ。

 

 無能さは既に炎魔の時にヤマブキ全域に見せびらかしたようなものだ。

 

 もう恥の上塗りを繰り返すわけにはいかない。

 

「頼むぜ……。ここからは、逆転劇といくんだからな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『おかえり、波導使い。酷い戦いだった。四天王相手に、まさか本気で渡り合おうとするなんて』

 

 帰ってくるなりルイの罵声が飛ぶ。アーロンはコートをかけて、「連中は?」と問い返した。

 

「お前の一部を持って行った、との事だが」

 

『ああ。波導使いがこれ以上戦わないでいいようにするには、これが一番だと思った。つまり、ボクの基本フレームをオープンソースにして複製したものを持ち帰らせる。これで争い合うのは避けられる』

 

「分かる言葉で話せ」

 

 アーロンの要求にルイは画面の中で肩を竦めた。

 

『つまり、ボクのような存在がボクのように振る舞う偽物のパッケージを流通させた。パチモンだよ。今は三勢力がボクのパチモンを掴んだ。見かけ上はボクのように振る舞うし、今までのマシンスペックに比すればかなりのものだけれど、ボクのように自由意思はない』

 

「つまり?」

 

『君らの予想通りにミサイルを撃ち込む事は出来ても、そのミサイルの信管を直前に抜くのだとか、ミサイルが弾道軌道に入った段階からさらに交渉次第で持ち直すだとか、そういう器用な事は出来ない。それにボクの支配下にもある。いざとなれば全システムをシャットダウンし、掌握出来る』

 

「危険なのではないか? あちらから逆探知される事も」

 

『それはないよ。だってボクの分身達は高次権限には逆らえないようになっている。つまりボクが分身させた、という事実さえも知らないボク、だという事だ』

 

 ルイのオリジナルを知らないルイを三勢力に与えた。しかし危険性は去っていない気がする。

 

「波導使い。私も、脅威は去っていないと思う」

 

 シャクエンも同じ気持ちのようだ。アーロンは無言の了承を浮かべる。

 

「どうして、そんな真似をした? 勝手な事は慎めと言ったはずだ」

 

『言ったっけ? 覚えがないなぁ』

 

 自律型のシステムがたとえルイだけだとしても、ルイに似たシステムならばいずれその上位互換を作る事が可能なのではないか。

 

 つまり、むざむざ敵に引き渡した情報で上を行かれるかもしれない。いくら今はルイのほうが上手でも塗り変わる事はあり得る。

 

「余計な事をしてくれたな。勢力図にひずみが生まれるぞ」

 

『でも、ボクがこうしなければ波導使いは死んでいたね。あの四天王にやられてさ』

 

 確かにカイリューとワタルを退けられたのはギリギリだった。あの時、システムを持ち去った、という報がなければ戦い続けていたかもしれない。

 

「……お前を模倣したシステムは何に使われる」

 

『さぁね。ボクより劣るボクの分身達に何をさせるのかまでは分からないよ。人間なんて、恐ろしい事を考えるものだからね。いざとなれば自身さえも滅ぼしかねない力を保持しているのが人間だ』

 

「恐ろしい事が起こる、というのを見逃す事でさえも、それは罪悪だと感じないのか」

 

 詰めたアーロンの声音にルイは怪訝そうにする。

 

『なに、怒ってるの?』

 

「怒っていない。飯にする。馬鹿共を呼んで来い」

 

 シャクエンに命じると彼女は席を外し、下階にいるメイ達を呼びに行った。

 

『正直に言いなよ。炎魔、シャクエンの力がなければ死んでいた、と。人間同士、感謝をし合わないと生きていけないんでしょ?』

 

「生憎のところ、殺し屋同士は感謝しない」

 

 ルイの決め付けにアーロンは言い返してフライパンに油を引いた。

 

『そういうもんかな。危なかったじゃない、随分と。なのに、何も言わないんだ?』

 

「炎魔も言われたくないだろう。馬鹿二人に黙って介入したんだ。勝手な真似だと自分でも思っているだろうさ」

 

『あのさぁ……。こういう事をシステムであるボクが言うのもなんだけれど、やっぱりおかしいよ? 君達の関係。殺し屋が三人一つ屋根の下で住んでいて? で、過去を調べればお互いに殺し合う命令をされていたみたいじゃない。だっていうのに、そういう事を帳消しに出来るってのが――』

 

「お腹空いたー! アーロンさん、ごっはん、ご飯……」

 

 メイが飛び込んできてルイとアーロンの会話を遮る。その微妙な空気感を感じ取ったのか、メイは声を忍ばせた。

 

「……まずかった、ですかね?」

 

「別に。まずい事はない。飯だと呼びに行けと言ったのだからな」

 

「で、ですよねぇ」

 

 メイは半笑いを浮かべて食卓につく。

 

 ルイが心得たような声を出した。

 

『……そういう事。人間の世界でも無神経が勝つんだね』

 

「そういう事だ。馬鹿と無神経が、いつだって意外と役に立つ」

 

「どういう事ですか?」

 

 きょろきょろするメイにアーロンは言い放った。

 

「今日の晩飯はチャーハンだという事だ」

 

「あっ、わーい……、ってテンションじゃないですよね、これ……」

 

 ルイとアーロンの間に降り立った沈黙を察してメイは口調を弱々しくする。

 

「何でもないと言っているだろう。俺も腹が減ったのでな」

 

「あっ、お兄ちゃん。今日もチャーハン? 得意料理なのは分かるけれど、もうちょっと幅が欲しいなぁ」

 

 アンズの言い草を無視してアーロンは鍋を動かす。

 

「文句を言うな。飯抜きにするぞ」

 

「アンズ、せっかく波導使いが作ってくれている。文句はダメ」

 

 シャクエンが諭したお陰か、アンズはむくれつつも食卓についた。シャクエンも座る。

 

『おかしいって自覚はないんだ? ここにいる全員』

 

 ルイがどこまで知り得ているのかは分からない。だが自分とて気づいている。この状況が異質だという事くらいは。

 

 ずっと続くものではない、という事は。

 

「勘繰るものではない。ほれ、出来たぞ。皿を持っていけ」

 

 アーロンは次々とチャーハンを仕上げてメイ達に運ばせる。最後に自分の分を持ってきて、手を合わせた。

 

「いただきます」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ルイの処遇をどうするべきか、と悩んだがアーロンは自分の寝所に置く事に決めた。

 

 メイ達が勝手な事を聞いて薮蛇を突いては敵わないからだ。

 

「下でもネットワークはあるな」

 

『まぁ電池さえどうにかなれば、ボクはどこでも。この端末もノートだし』

 

 画面の中を遊泳するルイにアーロンは言葉を投げる。

 

「あの馬鹿に関して、分かった事があるんだな」

 

 確信めいた声音にルイは後ろ手に組んだ。

 

『やっぱり、メイ達の前じゃ言えないんだ?』

 

「特に馬鹿の前では。あいつが何者なのか、プラズマ団のデータベースを漁ったのだろう?」

 

『炎魔に言わなくってもいいの? 結構信頼していると見たけれど』

 

「……あいつは俺よりも、いざとなれば馬鹿を守ると言い張るだろう。そういう奴だ。現にあいつに殺し以外の景色を見せたのは、馬鹿の仕業だったからな」

 

『馬鹿、馬鹿って言っているけれど、名前で呼んであげれば? きっとメイもそれを望んでいる』

 

「システムに気持ちまで分かって堪るか」

 

 鼻を鳴らしたアーロンにルイは微笑む。

 

『何ともまぁ……古風だね、君達は。とりあえず言えなかった詳細を述べるとしよう。Miシリーズのうち、三番目、Mi3、通称メイ、は人間じゃない。プラズマ団の造り出した、英雄の遺伝子を保管しておくための入れ物だ。人造人間だよ。彼女の記憶は全くの偽情報ではないが、基となった人格は既に破壊されている』

 

 ある程度予測された事だが、ルイの口から述べられるとそれが真実なのだと感じる。

 

 人造人間。

 

 これ以上言いようのない虚無感が包み込む。

 

 メイは造られた存在だった。では彼女の口にする言葉は? あの人格も全て、造られたものなのか? 後付けなのか?

 

『……考えているのは、メイの人格や記憶がどこまで後付けなのか、だね。思うに、プラズマ団を壊滅させたって言うの、あれは本当だと思う。実際にプラズマ団残党勢力を壊滅させたのはメイだろう。ただ、その後その残党に捕らえられて、英雄の遺伝子を埋め込まれた事以外は』

 

「元々の記憶と、造られた記憶は半々、と言ったところか」

 

『プラズマ団はMiシリーズを造った事に関しては上層部以外書面では残っていないしデータも消されている。ただ、ヴィーって奴の内部ストレージの中に残されていた最終目的だけは明らかになった』

 

「最終目的?」

 

 プラズマ団はイッシュの地を支配した。それ以上に何を望んでいたのか。

 

『少しだけ、おぞましいよ』

 

 ルイの口調が変化する。それだけ、システムでも感じ取れるほどに業が深いのか。

 

「教えろ。どちらにせよ、知らない事のほうが後々困るからな」

 

『じゃあ……。プラズマ団の目的はとある人物の再構築だ。リーダー格であり、なおかつプラズマ団の思想的な統一者でもある』

 

「N、という奴か?」

 

 その言葉にルイは首を横に振った。

 

『N、は異質過ぎた。プラズマ団の張子の虎ではあったが、実権支配をしていたのはその父親。ゲーチス・ハルモニア。彼の復活を目論んでいる。Mi計画とプラズマ団の復活は同義。ゲーチスの復活こそ、プラズマ団は切望している』

 

「そいつは、死んだのか?」

 

 復活、という事は死んだかあるいは再起不能か。

 

『確認出来ていない。再起不能、だという見方が強いが、そもそもゲーチスという人物自体、謎に包まれている。プラズマ団の王、N以上に秘匿レベルの高い情報だ。プラズマ団を再建するのには、なるほど、彼以上の適任はいないね』

 

 ゲーチス。その名前を咀嚼し、アーロンは考え込む。

 

「……だが、英雄の遺伝子が何故必要だったのか。その確認は?」

 

『取れていない。そもそも英雄の遺伝子はどこから仕入れたのか、それも分からない。でも、間違いないのはプラズマ団の最終目的は英雄の遺伝子を埋め込んだゲーチスの復活とプラズマ団再建。そのためのMiシリーズ。多分だけれど、英雄の遺伝子の定着を目的としているんだと思う』

 

 ルイが多分、という言葉遣いをするのは初めてだ。本当に確認出来ていないのだろう。

 

「英雄の遺伝子の定着……。だとすれば、馬鹿の身柄をみすみす相手に渡すのは」

 

『一番にまずいね』

 

 引き継いだルイの言葉にアーロンは拳を握り締める。メイだけは渡してはならない。プラズマ団がどのような組織であれ、メイを踏み台にするというのならば。

 

『本当なら、メイをずっとモニターするはずだったんだと思う。でも途切れたでしょ? だから躍起になっている』

 

 ある意味では自分の責任か。あの時、目撃者であったメイを殺さなければ。プラズマ団に関わる事もなかった。

 

「……待て。英雄の遺伝子に、波導の素養を変えるものが含まれているのか?」

 

 そういえばまだどうしてメイが生き返ったのかの説明がなされていない。これまでたまたま波導を読み間違えたのだと思っていたが、ここまで念の入ったプラズマ団の計画だ。

 

 不用意に殺されるようでは困るはずである。

 

『波導、に関してボクは専門外だから何とも言えないけれどね。キーワード分析してみても波導ってハッキリしないし。ただ、波導使いである君がこれまでの経験則上、見間違えるか、って話』

 

 アーロンは自身に問いかける。あの時の精神状態は通常だった。読み間違えるはずがない。

 

「Miシリーズは、一度死んでも生き返る……」

 

『あり得ない推論とは言えない。だって英雄の遺伝子だ。もしかしたらそういう事が働いたのかもしれない』

 

 ならばメイは不死か? これまでのメイの言動を振り返ってみるが、自身が不死だと感じ取っている事はなさそうである。

 

「カヤノに診せてみるしかなさそうだな」

 

 最終手段だと思っていたがプラズマ団が急いている以上、こちらも手段を問うてはいられない。

 

『カヤノ医師……、君の主治医か。なるほど、ずっと診てもらっているんだね』

 

「……趣味が悪いな。カルテの覗き見か」

 

『覗き見じゃないよ。堂々とアクセスしている』

 

 真っ向から見ても足跡の残らないシステムがルイなのだろう。

 

『十五歳の頃から? 随分と長いね。その時何が――』

 

「詮索は、おススメしないな、システムの分際で」

 

 遮ってアーロンが言葉にするとルイも心得たようだ。

 

『分かったよ。過去を漁るような真似は出来るだけやめておこう』

 

「馬鹿に関して分かった事があれば俺に報告しろ。炎魔にも、瞬撃にも伏せるんだ。当たり前だが、本人にだけは言うなよ」

 

 釘を刺すとルイは怪訝そうだった。

 

『どうしてさ。何でそこまで、波導の殺し屋が一介の女の子を気にかける? まさか正義の味方のつもりじゃないだろうね?』

 

「正義? 俺は悪だ。その程度分かっている」

 

 だがどうしてメイにここまで入れ込むのか。それだけは明確な答えが出なかった。

 

『ふぅん。まぁいいや。ボクも疲れたし、一時間だけスリープモードに切り替えさせてもらう。ボクを動かし続けるには、このノート端末はちょっとばかし弱い』

 

 画面が明滅しシャットダウンする。アーロンは毛布を被って寝返りを打った。

 

『おやすみ、波導使い』

 

 そう言われてアーロンは自分の手を眺める。

 

 波導の眼を使えば、自分から立ち上る波導がどのようなものなのか、今の状態はどうなのかまで手に取るように分かった。

 

 スノウドロップとの戦いに、四天王との戦闘。格上との戦いを続けていれば磨耗する。

 

 それは心が、ではない。もっと具体的なものだった。

 

「波導は、いつまでも使えるものではない」

 

 師父に言われていた最も重要な事を思い出す。

 

 だが今は戦わなければ。

 

 戦って、勝たなければならない。

 

 それこそ代償を恐れている場合ではなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「こちらへ」

 

 促した先にある来客用の椅子を無視してその男は進む。

 

 ヴィーツーは突然の来訪者に目を見開いた。

 

「アクロマ博士。誰なのだ、それは」

 

 アクロマは目線をやって声にする。

 

「失敬。挨拶が遅れましたな。私の友人です。今回の研究に関して、一家言あるとの事で」

 

「ゲーチス様の復活は! 露見してはならない重要事項だぞ! それをこんな……」

 

 言葉を濁したのは目の前の人物があまりにも似ていたからだ。

 

 赤い旅人帽、赤いコート。それ以外はほとんど、反転したようにあの男によく似ている。

 

「下がってくれ、アクロマ。僕の口から言おう」

 

 歩み出てきた男はヴィーツーを見下ろして声にする。その男の眼が自分の内奥を捉えた気がした。自分でも感知しようのない部分を見透かされた感覚。

 

 これもあの男によく似ていた。

 

「誰、だ……」

 

「挨拶が後先になった。だがまずは」

 

 男はさらに進み出てなんと機密であるゲーチスの眠るカプセルへと手を伸ばした。ヴィーツーは思わず制する。

 

「何を! ゲーチス様に凡俗が触れるなど!」

 

「ヴィーツー様。この人物は特別です。彼ならば、行き詰っている計画を進める事が出来る。このプラズマ団の要をね」

 

「アクロマ……、貴様何を」

 

 男がゲーチスの入ったカプセルに触れてフッと笑みを浮かべる。

 

「怖がっているのかい? まぁ無理もない。この躯体では、魂も降り立てまい」

 

 一瞬、赤い光が拡張した。

 

 何をしたのか、ヴィーツーにはまるで分からない。男の手から広がった赤い光はすぐさま霧散する。

 

 しかし、その直後から計器が異常を訴えた。

 

「ヴィーツー様、これは……! 今まで静止していたバイタルサインが……」

 

 団員のコンソールに歩み寄るとゲーチスの停止していた心臓が動き出しているのがモニターされた。

 

 何をしたのだ、と目で訴えかける。アクロマは口元を緩める。

 

「やはり、あなたに来ていただいて正解だった」

 

「アクロマ、言っていた通り、この躯体に波導を通した。今までは波導回路が形成されていなかったせいでこの肉体はまるで動かなかったそうだが、これで少しははかどるだろう」

 

 掌に視線を落とした男にヴィーツーは言葉を失う。

 

「何者なんだ……」

 

「おっと、忘れるところだった。プラズマ団の諸君、改めて名乗ろう。僕の名前はツヴァイ。赤の波導使いだ」

 

 ヴィーツーを含めプラズマ団員達は絶句する。

 

 波導使い。その因縁の名をこの場で聞く事になるとは。

 

 覚えずホルスターに手をやっていたヴィーツーをアクロマがいさめる。

 

「怖がらないでいただきたい。彼は我々の味方です」

 

「味方? アクロマ、何を引き入れた? 波導使いだぞ。あの忌々しい、青の死神と同じく」

 

「青の死神、アーロンとは違う。我が弟弟子とはね」

 

「弟弟子、だと……」

 

 まさかそのような関係だとは思うまい。

 

 降り立った沈黙にツヴァイは靴音を響かせる。

 

「宣言しよう。僕が、波導使いアーロンを殺す。それでいいんだろう? アクロマ?」

 

「ええ、もちろん。波導使いを殺してくれれば、これに勝る事はない」

 

 勝手に話が進んでいる事にヴィーツーは憤る。

 

「馬鹿な! 私が敵わなかったあのアーロンに、兄弟子がいたなど記録に――」

 

「記録にはないだろうね。だって僕の存在は、師父でさえも秘密にしていた。アーロンも僕の事は知るまい。自分以外に、分家した波導使いがいるなど。だが、確実に言えるのは一つ。――僕のほうがアーロンよりも強い」

 

 その言葉にプラズマ団員達が戦慄する。

 

 この場を支配した赤い波導使いは不敵に微笑んだ。

 

 

 

 

 

 

第五章 了

 

 

 

 

 



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胎動の真紅、斜陽の街
第六十九話「赤い波導使い」


 

 漆黒の影が翻る。

 

 ビルの谷間を抜け、荒い呼吸のままに振り返った。

 

 その瞬間、先ほどまで頭部があった空間を引き裂いたのは青い光の弾丸である。

 

 戦闘神経を研ぎ澄まし、回避した直後、嘲りの声が響き渡った。

 

「おかしいなぁ。もっと骨があるのだとばかり思っていたのに、逃げてばかりでは敵を落とせない、という本質でさえも教えられていないのかな」

 

 月光の下、姿が露になったのは赤い装束を纏った男である。旅人帽を傾け、鋭い目線が射る光を灯す。

 

 その影から逃げに徹しているのは、青の死神――波導使いアーロンであった。

 

 追撃する赤装束の男からの攻撃を避け続けている。

 

 しかし、アーロンの青いコートはところどころ擦り切れており、避け切れていないのが窺えた。

 

 呼吸を整えようとするが、その前に月下の街に降り立った影が視界に入る。

 

 帯締めのような両腕を振るい、体躯は細くしなやかである。その背格好から速攻タイプのポケモンであるのが容易に理解出来る。

 

「コジョンド。波導弾」

 

 コジョンドと呼ばれたポケモンが片腕を振るい上げる。その手から練り上げられたのは青い波導の塊であった。

 

 アーロンは飛び退る。発射された波導弾がアーロンを追跡した。

 

「波導弾には、相手の波導を読み取ってある程度追尾する機能がついている。……おっと、同じ波導使いならば釈迦に説法だったかな?」

 

 アーロンは歯噛みして手を薙ぎ払った。ピカチュウから放たれた電撃が波導弾を打ち消す。

 

「何でピカチュウなんだ? 波導使いならば、波導を読めるポケモンを使うのが流儀だろうに。そういう点でも、気に入らないな。波導使いの一門を、馬鹿にしているのか?」

 

 コジョンドが身を沈ませてアーロンへと接近戦を試みる。アーロンは電撃を纏い付かせた右手を払ったが、コジョンドは接近しながらも見切っており、攻撃を受ける事はない。

 

 その重要な要因を、アーロンは理解している。

 

 コジョンドには波導が読めるのだ。

 

 だからアーロンの攻撃の前に先んじて攻撃を放つ事が出来る。

 

 足場を崩せば、と視線を投じるもその前にコジョンドの足払いが来る。アーロンは跳躍して攻撃範囲から逃れようとするが、コジョンドの追撃は留まる事を知らない。どこまでもアーロンを追尾し、追撃し、その攻撃をいなす事だけを教え込まれているようだった。

 

 似たような感覚を昔、味わった事がある。

 

 師父のルカリオだ。

 

 師父のルカリオはアーロンに対して常に優勢に立ち、師父の指示を待つまでもなく攻撃してきた。あのパターンに酷似している。

 

 コジョンドが両足に力を込めて掌底をアーロンに打ち込もうとする。アーロンは即座に電気のワイヤーでコジョンドの首を狙おうとした。

 

 しかし、コジョンドはそのワイヤーによる攻撃を読み取ったように首を仰け反らせ、掌底の攻撃を諦めると同時に滑るようにアーロンの射程へと入ってくる。

 

 これでは、とアーロンが逃げに徹しようとすると、電気ワイヤーを打ち込もうとした先をコジョンドが波導攻撃で破砕した。

 

 目標を失ったアーロンが落下する。制動をかけようともう一度ワイヤーを放とうとするが、それを遮るようにコジョンドが跳躍していた。

 

 コジョンドの腕に巻きついたワイヤーが引き出され、一挙に間合いを詰められる。

 

 舌打ちしてアーロンは攻撃に移った。

 

 手を突き出して電撃を打ち込もうとするが、コジョンドはそれと同時に拳を放つ。

 

 いけない、と判断したのはアーロンであった。

 

 クロスカウンターに持ち込むのも考慮にあったが、そんな事をすれば確実にこちらがやられているだろう。アーロンはコジョンドのパワーを過小評価していない。

 

 電気ワイヤーを切り離し、コジョンドから距離を取ろうとするも、コジョンドは着地と同時に駆け出してきた。

 

「どこまでも……しつこいな」

 

「そりゃあ、そうさ。波導使いは街に二人も要らないだろう?」

 

 こちらの声が聞こえているのか。先ほどから容易には姿を晒さない相手のトレーナーをアーロンは感知しようとする。

 

 波導の眼を全開にしようとするが、その前にコジョンドが接近してきた勢いで粉塵が舞い上がった。

 

 一瞬で視界が覆い尽され、アーロンは電撃でコジョンドの攻撃をいなそうとする。コジョンドは蹴りを加えてきた。刃のように鋭い回し蹴りに思わず冷や汗が滴る。

 

 電気ワイヤーは全て感知され、こちらの電撃の届く範囲は相手の攻撃射程でもある。なおかつ、波導を読む術に長けているコジョンドには波導による優位が削がれてしまう。

 

「厄介な相手だ」

 

「そりゃ、どうも。こちらも厄介だと思っている。どうして、君は、ピカチュウなんて使う? もっとこちらの読みやすいポケモンなら早くに狩れているんだが。電撃で相手の波導を麻痺させて殺してでもいるのか? プラズマ団からの情報によれば、そちらの殺した人間は死因不明として処理されているらしいな」

 

 プラズマ団の名前が出た途端、アーロンは今までの逃げのスタイルを捨て、コジョンドへと接近した。

 

 手を突き出し、電撃を見舞おうとする。しかしコジョンドはこちらの波導が攻撃に転化したのを悟ったのか距離を取った。

 

 そのまま跳び上がり、パイプや取っ掛かりを足場にして屋上へと躍り上がった。

 

 月明かりの下、赤い装束の男が佇んでいる。

 

 先ほどから追跡してくるコジョンドのトレーナーだろう。

 

「まだ、名乗っていなかったな。僕の名前はツヴァイ。君の兄弟子だ。師父……いいや、波導使い、アーロン元帥に教えを乞い、波導を読む術を心得ている」

 

 師父の本当の名前を知っている人間となればそれは間違いないだろう。

 

 アーロンは逃がすつもりはなかった。

 

「そうか。ならば殺し合うのは必定」

 

 電気ワイヤーを伸ばし、ツヴァイを引き寄せようとする。しかしコジョンドが届く前に蹴りで切り裂いた。

 

「今日は挨拶がてら戦っただけだ。なに、望もうと望むまいと、僕らは戦う運命だろう。同じ師を持ったとはいえ、僕の波導は元帥よりも数段、上を行っているのでね」

 

 アーロンの波導の眼に映ったのは、ツヴァイの身体から立ち上る赤い波導であった。

 

 その波導を感知した瞬間、目を瞠る。

 

「まさか、お前は……」

 

「そのまさかさ。僕は波導を進化させた。元帥でさえ行き着く事の出来なかった波導の進化点。赤い波導は特殊な方法論を僕に示す。例えば、そうだな、ポケモンとの同調」

 

 先ほどから見えているようにコジョンドが動いていたのはそのせいか。

 

 ツヴァイが指を鳴らすと、コジョンドは青い波導の弾丸を練り上げてアーロンへと放つ。

 

 アーロンは咄嗟に飛び退った。

 

「もう一つは、波導の強化。そちらがどれだけ優れた波導の殺し屋であろうとも、僕は殺せないよ。僕の身体を保護する波導は常人の倍近い。お得意の波導戦術は通じないと思ったほうがいい」

 

「それでも、死なないわけではあるまい」

 

 こちらの声音にツヴァイは笑い声を上げた。

 

「凶暴だね。まるで猟犬だ。そんな君によく、元帥が波導を教え、あまつさえ名前まで譲るとは。波導の正当後継者。本物のアーロンを継ぐのはどちらなのか、いずれハッキリさせよう」

 

 ツヴァイは身を翻す。

 

 アーロンは攻撃姿勢を取ったまましばらく動けなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「波導使い、ツヴァイ、か」

 

 カヤノに傷を診てもらっている間、アーロンの喋った事は少ない。しかしカヤノは情報を先んじて手に入れていたらしい。ハムエッグか、と苦々しく感じる。

 

「この街ではもう評判か?」

 

「まぁな。もう一人、波導使いが現れたって言うんなら、そっちに仕事を、って奴も多い。でも、そいつはこういう荒事専門じゃないんだろ?」

 

「俺に言ってきた。真の波導の継承者はどちらか、と」

 

 カヤノは鼻で笑う。

 

「波導の継承者、ねぇ。お前らの間でそんなのは重要なのか? どっちかじゃないといけない、みたいなものがあるのか?」

 

「知らないな。俺は、そこまで教わっていない」

 

 自分以外の波導使いが現れた時、どうすればいいか。それは師父にも聞いていなかった。

 

「兄弟子の存在は?」

 

「まったく。俺も昨日初めて知ったくらいだ。戦闘スタイルとしては俺の師に近い。やりようはある」

 

 カヤノは息をついて煙草を取り出し火を点けた。いつものように検診の器具を取り出す。

 

「ほれ。波導の眼は衰えていないか試してやる」

 

「上から、赤、緑、黄色、白」

 

 的中させると、カヤノは紫煙をくゆらせながらぼやいた。

 

「……お前、最近やばい事に関わり過ぎなんじゃないのか?」

 

 カヤノの耳にも入っているのだろう。四天王との戦い。その前にはこの街最強の殺し屋、スノウドロップとの戦闘。

 

「俺は関わる気はないのだがな」

 

「街もいきり立ってやがる。そこに波導使いがもう一人、っていうんなら火種以外は考えられんな」

 

「俺が内々で始末する。問題あるまい」

 

「あるっつうの。問題なのは、もうそいつが自分を売り込んできてるって点だ」

 

 ツヴァイがこの街に擦り寄ってきているというのか。プラズマ団の事を口にした時点で怪しいとは思っていたが。

 

「殺し屋として、か?」

 

「波導使いとして、だろうな。波導を見る、ってのは色々と便利だし。お前だって、波導を読む力がある。それが悪用されればどうなるか、くらいは予想つくだろ」

 

 悪用されれば。要人暗殺、あるいはすれ違い様の殺しくらいはお手の物だ。

 

「……ツヴァイとやらがどこまで本気なのか分からない」

 

「本気だって言うんなら、まずはハムエッグだろうな。それがこの街では正しい方法論だ」

 

「ハムエッグからの情報は?」

 

「もう一人の波導使い、って以外はお前が話したのと大差ない。ハムエッグも掴みあぐねている。この間の四天王、いや軍部による極秘作戦によってこの街は切り分けたピザみたいに派閥が分かれた。ホテルと他、いくつかの勢力が同じくらいの力を得たんだ。国家基盤を揺るがすほどの力をな。今までは、何だかんだでハムエッグがバランサーだったのさ。ところが、その調整者を超える能力を持った奴らがいるっていうんなら、胸中穏やかじゃないだろうよ」

 

 ハムエッグはルイのコピーを持つ勢力を恐れているのか。必要以上に干渉してこない。

 

 勘繰られればハムエッグとて痛い横腹があるに違いないからだ。

 

「ハムエッグに会ったほうがいいかもしれないな」

 

「嬢ちゃん連れて行くのか?」

 

 アーロンはその言葉を聞いた途端、苦虫を噛み潰したような顔になった。

 

「……何であいつを。蚊帳の外だからと言って面白がっているのか」

 

「いんや、そこまで楽観主義じゃないよ。ただな、ワシとしちゃ、ああいう子がいたほうがいいのかもしれん、とか思う。ラピス・ラズリを救えるかもしれなかったんだろ?」

 

「かもしれない、で動くほど俺は楽観主義ではないのでね」

 

 アーロンの返した言葉にカヤノはフッと笑みを浮かべる。

 

「変わらないな。嬢ちゃんのお陰でお前も変わったかと思っていたが」

 

「変わる? その必要はない」

 

 しかし、如何にしてハムエッグと会う口実を作るか。ラピスによる反撃が怖いのは同様だった。

 

「アーロン、回復終わったぞ」

 

 また違う若い看護婦がピカチュウの入ったモンスターボールを持ってくる。手渡されてアーロンはホルスターに留めた。

 

「ピカチュウも大変だな。連戦に次ぐ連戦で。たまには相棒を労ってやれよ。ほれ、これはワシからのサービスだ」

 

 カヤノの差し出したのはピカチュウの大好物である魚介の缶詰だった。

 

「最近やれていないな。助かる」

 

「気をつけろよ。一番にご機嫌取らなきゃいけないのは、嬢ちゃん達じゃなくってお前の長年の相棒なんだからな。最近、ろくに飯も食わせていないんじゃないのか?」

 

 主治医であるカヤノからしてみればある程度お見通しなのだろう。

 

「そうだな。今日くらいは、ピカチュウのための飯を作ってやろう。最近、残り物ばかり食わせていたし」

 

「相棒の調整も出来ないんじゃ、殺し屋名乗れないぞ。しっかりやっとけ」

 

 カヤノが煙い息を吐き出して告げる。アーロンは手を振って診療所のあるビルを出て行った。

 

 雑踏に紛れるなり、アーロンはホロキャスターを繋ぐ。

 

 通信先はルイであった。

 

『どうしたの? 波導使い』

 

「お前ならばモニター出来るだろう。追跡者は?」

 

『今はいない。なに? 昨日の敵の事を気にしているの?』

 

 それも半分はあったが、この状況で追跡されるとまずいからだ。

 

「ハムエッグと会う。久しぶりだからな。後ろを取られるのは面白くない」

 

『その反応はないみたいだけれど。でも、何でこのタイミングで? やっぱり釘を刺しておきたいの?』

 

「違う。ここ最近、俺はこの街の盟主の面目を潰すような真似をしてきた。ここいらで一旦、ハッキリさせておく事がある」

 

『何? 殺し屋としてここにいる事?』

 

「そうだ。俺は便利屋ではないし、この街の守り手でもない。ただの暗殺者だ。だから、その辺りを履き違えるな、と言いに行ってくる」

 

『メイ達は? どうする?』

 

「バイト中だろう。教えるな」

 

 教えればメイならば来ると言いかねない。

 

『昨日も帰ってくるなりボロボロだったから心配していたみたいだよ。あんまりメイ達に心配はかけない事だね。薮蛇を突きかねない』

 

 まるで人間のような事を言う。アーロンは言い含めた。

 

「お前はシステムだ。余計な事に気を張る必要はない」

 

『了解。でもま、人間以上のシステムである、って事は忘れないでね』

 

 通話が切られ、アーロンは舌打ちした。

 



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第七十話「ツヴァイという存在」

 

「おや、久しぶりの顔じゃないか。何かいい事でもあったのかな?」

 

 カウンターの中からハムエッグが問いかけてくる。グラスを磨いており、粒のような眼がこちらを見据えていた。

 

「スノウドロップは?」

 

「休んでいるよ。前の戦いは彼女に精神的な痛みを抱えさせてしまった。出来るだけ、回復するまでは彼女を使いたくはない」

 

 カウンターに座ると水が置かれる。アーロンは早速口火を切った。

 

「情報を流したな?」

 

「ツヴァイと名乗る波導使いの事かな? あれは情報を流したほうが君の得になると判断したからだよ。ほら、波導使いの業務に混乱はあってはいけないだろ?」

 

 それもそうだが、ハムエッグはどこまで掴んでいるのか。あのツヴァイと名乗る波導使いが自分と同門である、という事まで調べ済みなのか。

 

「ホテルは?」

 

「掴んでいないね、まだ。まぁいずれは掴む事だろう。その時、君かツヴァイか、どちらを選ぶのかまでは分からんがね」

 

 波導使いは二人と要らない。それはこの街の共通認識らしい。

 

「ハムエッグ。俺とあの男との潰し合いを誘発する気か?」

 

「そんなつもりはないよ。潰し合うのは勝手だが、今回の件に関しては完全に、君ら波導使いの身勝手だ。わたしらの関知するところではない。本来は、だけれどね」

 

 本当ならばヤマブキ全土に発布するほどの事でもない。だが、今まで信用を得てきた波導使いの技術が地に堕ちる事だけは避けなければならなかった。その点でハムエッグの対応は満足いくものだ。

 

「波導使い、ツヴァイ。あの男がどういう存在なのか、わたしだけにでも教えてもらえると手は打ちやすい」

 

「よく言う。お前だけに教える、と言っても、それはヤマブキという街全土に公で喋っているのと同義だ」

 

 こちらとて心得ている。ハムエッグはフッと笑った。

 

「ちょっと見ない間に緩くなったかと思っていたが、やはり変わらんね。波導使いアーロン。という事は、今回の件、身勝手な波導使いによる暴走、と捉えていいのかな?」

 

「俺にもよく分からない。ただ波導が使える事に関しては本当のようだ」

 

 しかし、とアーロンは思案する。

 

 ――赤い波導。

 

 あれは本来、宿るべくはずもないものだ。調べは進める必要があるかもしれない。

 

「ハムエッグ。監視カメラの写真を」

 

「分かっているとも。君が来ると思ってね。現像しておいた」

 

 差し出されたのは茶封筒である。ハムエッグからの情報筋ならば確かだろう。対価の紙幣を手渡し契約は成立する。

 

「だが、解せないのは奴が何故、今動き出したか、だ。もっと早く、俺の存在を察知していたわけではないのか」

 

「それはわたしも同感だな。君がここまで暗殺者として成功する前に、いくらでも制せただろうに。何で今、君の前に姿を現したのか」

 

「勝てる算段がついた」

 

 しかしこの仮定は、今までならば勝てなかったから、という前提条件で成り立つ。

 

「ならば、今までの君には勝てるとは思えなかった、という事になるが」

 

 前後して自分の身に降りかかった事を整理する。そうなってくるとやはり出てくるのはメイの存在であった。

 

「あの馬鹿と、プラズマ団……」

 

「そうだね。君がここまで忙しくなったのは、お嬢ちゃんとプラズマ団のせいだ」

 

 となると相手は最初からプラズマ団と癒着していたのか? 今回、明らかにプラズマ団の情報筋から聞いてやって来たのは分かっている。だがそれまで何をしていたのか、が一切不明。

 

 相手の足取りさえ掴めれば、弱点も見えてくるかもしれない。

 

「アーロン。君の考えは分かるよ。ツヴァイと名乗る波導使いの過去だね。それを調べればいい、と」

 

「高くつくんだろう?」

 

「いいや、まけといてあげよう。波導使いが二人もいるとややこしいからね。手間賃だと思えば安いくらいだ」

 

 助かる、とは言わなかった。ハムエッグは事業主だ。自分は使われる側。当然、後々の利益まで計算しての行動だろう。

 

「本当に、奴は師父に習ったのか」

 

「波導を、かい? 君がたまに口にする師父、というのはどういう人物なのか、未だに明確な答えは聞いていないな」

 

「波導使いだ。なおかつ、俺がいずれ殺さなければならない相手でもある」

 

「それはまたどうして?」

 

 言うつもりはない。これは自分の因縁だ。

 

 それを感じ取ったのか、ハムエッグは息をついた。

 

「分かっているとも。言いたくなければ言わなくってもいい。ただ、気にはなっているんだ。君をその師父という人物は波導使いにはしたかったのかもしれないが、暗殺者に仕立て上げたかったのか」

 

 ハムエッグの疑念にアーロンは睨む目を向けた。

 

「何が言いたい?」

 

「いや、今の君を見て、師父という男はどう思うのかな、ってね。ちょっと感じただけさ」

 

 師父の感じる事は、恐らくただ一つだけだ。

 

 ――幻滅した、だろう。

 

 だが同時にこうも思うに違いない。

 

 ――よくここまで完成された、とも。

 

「師父は、最初からある程度、俺の将来は分かっていたのかもしれない」

 

 波導の切断技術。それを活かした真っ当な仕事には就けまい。師父はどこかで殺しや、あるいはそれに類するものに手を染める事を理解していたに違いなかった。

 

「そうだとすれば、師父という男ははかり知れないね。波導使いを一人育て上げるだけでも、随分と違うんだろう? 現に君は、弟子を取らない。これも不思議な事の一つだ。どうして、技術を残そうとしない? 炎魔だってあれは暗殺者の血族だ。血は薄らいでも残そうとする。この現代で、暗殺なんてものは成立しないと分かっていても炎魔シャクエンを襲名させる事に何の躊躇いもなかった。それは血がそうさせるからだ。アーロン。君は、その血を残そうと思わないのか?」

 

「思わないな」

 

 即答だった。自分の血、波導使いは生きていても何もいい事はない。

 

「波導使いは最後には滅されるべきだ。それが世の理に違いない」

 

「……分からんね。これほどの技術と、力、能力を得てもなお慢心せず、茨の道を行こうとする君の心が」

 

 波導使いに安息は必要ない。アーロンはそう考えていたしこれからも変わる事はないだろう。

 

「ハムエッグ。二三、勘違いしているようだから言っておこう。俺は波導使いが優れているとは思っていないし、何よりもこの血にこだわっている理由はない。そしてもう一つは、波導を読むのは完全に先天性のものがある。継承者が現れないから残そうとも思わないし、何よりも誰もこの技術を継承出来まい」

 

「だが、師父という男は君とツヴァイ、両方に教えた。何故か?」

 

 師父の考えの全てまでは分からない。だがきっと師父が言うのはこういう事だろう。

 

「運が悪かった。事故に遭ったようなものだ。たまたま波導が見えたから波導の使い方を教えた。師父からしてみれば単にそれだけの、つまらない理由さ」

 

 あの時の自分はたまたま青い闇の中にいた。その闇を払う術は波導を習う事しかなかった。そうでなければ狂人になっていただろう。

 

「分からんね。波導を使う、という事がどれほどの辛さなのかは君を見ていればよぉく分かるのに、その師父という男はそれさえも与えようとしたのか」

 

「罰、なのかもな。師父は、波導を使えるという事が決して特別ではない、と分かっていたからなのかもしれない」

 

 ――波導使いは罪と罰の象徴。波導使いは不幸だ。

 

 師父の口癖でもあった。どうして不幸なのかは、自分が身に沁みてよく分かっている。

 

「わたしは、とても強い力と心を持つ存在だと思っている。波導使いは、存在すべくしてここにいるのだと」

 

「だとすれば、喋るポケモンの盟主も、存在すべくしているのか?」

 

 問い返すとハムエッグは肩を竦めた。

 

「そこまでは。運命という名のうねりに身を任せた結果かな」

 

 運命という名のうねり。そのうねりの中で、自分とツヴァイは戦う事が宿命付けられていたのかもしれない。

 

「情報はいただいた。お前がツヴァイにつこうが、俺につこうが、それは自由だ。止める事はしない」

 

「おいおい、そこまで薄情だとは思わないで欲しい。わたしは君を応援するよ」

 

 応援する、とは言ったが優先するとは言っていない。このポケモンの賢しい手だ。

 

「期待しないでおこう」

 

「あっ、ラピス。起きたのかい?」

 

 ハムエッグの声にアーロンは目線を振り向ける。ラピス・ラズリが静かに佇んでいた。目が赤らんでおり、泣きじゃくっていたのが分かる。

 

 ラピスはアーロンを認めるなりか細い声で呟いた。

 

「……お姉ちゃんは?」

 

 アーロンはハムエッグに視線を流す。ハムエッグは答えようとしなかった。

 

「今日は来ていない。悪いな」

 

「ううん。別に」

 

 ラピスは踵を返してカウンターの奥に帰ってゆく。その背中に寂しさが宿っていた。

 

「……正直なところ、精神的なダメージが大きくてね。彼女は、メイお嬢ちゃんに嫌われたのだと思い込んでいる。このままでは最強の暗殺者の名前も危ない。この街を制する事の出来るとされてきたスノウドロップは、今は休業中だ。とてもではないが今の彼女のメンタリティで殺しは出来まい」

 

「誰かに掴まれたのか?」

 

「いんや、全部揉み消しているが、先日のシステムOSの一件もある。掴まれるのは時間の問題かもしれない」

 

 そうなれば勢力図が覆る。ホテルが利権を握るか、あるいは他の勢力が上ってくるか。

 

「お願いがある。これはこの街の盟主としてではない。友人としてのお願いだ」

 

 ハムエッグの言いたい事は分かる。

 

「……馬鹿を連れて来いというのか」

 

「それしか彼女を再起させる手はない」

 

「お断りだな。最強の暗殺者が聞いて呆れる。ただの小娘一人に嫌われた程度で使い物にならなくなるなど」

 

 鼻を鳴らしたアーロンにハムエッグは言い含める。

 

「今までは、薬も、何にも頼らずに最強の暗殺者でいられた。だがね、このままではいずれ洗脳、という結果になりかねない。そうすればスノウドロップは戻ってくるだろうが、限りなく致命的なのは長持ちしない、という点だ。それを君もよしとするか? 何よりもお嬢ちゃんが許すまい」

 

 結局、脅迫の手になってくる。最終的な責任をここで聞かなかった事にするアーロンにおっ被せようというのだ。

 

「汚い奴め」

 

「お互い様だよ、アーロン。言ってしまえば、その写真と継続的にツヴァイを追う代金だと考えてくれればいい。君はツヴァイを追わなければならない。わたしはスノウドロップの復活こそが悲願だ。彼女を元気付けて欲しい」

 

「だが、もしもだが、あの馬鹿が殺しなんてもうやめろ、と言ったら? あいつはスノウドロップが殺し屋をやっている事を快く思っていない」

 

「問題なのは、アーロン。今の彼女の精神状態だ。不安定過ぎる。これでは殺し屋として使える使えない以前に爆弾を抱えているも同義だよ。わたしは、出来れば彼女に、やり直しの機会を与えたいんだ。それが殺し屋としての継続にせよ、そうでないにせよ。もう一度念を押しておこう。洗脳するのは簡単だ。だが、それでは一年と持つまい」

 

 メイを悲しませたくなければ会わせろ、か。身勝手にもほどがあるが、スノウドロップの復活には必要な事なのだろう。

 

 洗脳、という話を持ち出した辺り、ハムエッグとて焦っている。自分の駒が使えない事に。今までそれは完全に拮抗する手段として使えたのだ。だというのに、自分との戦闘で使い物にならなくなったのでは張子の虎もいいところ。

 

 この街の盟主を名乗るには、スノウドロップは使えなくては話にならない。

 

「ハムエッグ。俺が、あの馬鹿を連れて来るとしよう。だが、それが全くの意想外で、俺達の目論見を外れた……有り体に言えば逆効果だとすれば? もし、馬鹿がスノウドロップを拒絶すればどうなる?」

 

 それは最悪の想定であったが、常に最悪は考えておくべきだ。ハムエッグは一呼吸置いてから口にする。

 

「それこそ、わたしは真っ先に考えたとも。メイお嬢ちゃんとの接触が悪い方向に転がるのでは、とね。だが、今までの感覚から見るに、ラピスは唯一のすがれる手段として、お嬢ちゃんを見ている節があるんだ。それに、お嬢ちゃんだって馬鹿じゃない。今、ラピスを手離せば壊れてしまう事くらい目を見れば分かるだろう」

 

「どうだかな」

 

 アーロンは鼻を鳴らし、茶封筒を掲げる。

 

「情報、助かる。話だけは、通しておこう」

 

「前向きに検討してもらえるとこちらも大助かりだよ、アーロン。わたしは、背中を押す事は出来ても強制までは出来ないからね」

 

「意外だな。盟主ハムエッグらしからぬ弱音だ」

 

「弱音を吐きたくもなるさ。このままでは最強の暗殺者が形無しだよ」

 

 確かにこのまま捨て置けば、ハムエッグの権威は地に堕ち、この街は混沌を極める事となる。ホテルとの拮抗状態も消えれば、街を支配するのは闇だけだ。

 

「連れて来るだけで解決するならば、それに越した事はないがな」

 



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第七十一話「仇敵」

 

 定時のバスに乗ってアーロンは南方を目指した。

 

 サイクリングロードの隣を通る国道を貫くバスの窓から望める景色は、自転車を漕ぐ若者達やバイクに飛び乗って爆走する不良達など様々であった。彼らの生き様はともかく、ヤマブキの混乱などまるで関係のない人生を送っている事だろう。

 

 自分は、といえばその混乱の一端を担い、これから先会う人物にも一枚噛んでもらおうと思っている。

 

 カントーの南方、セキチクシティ。

 

 観光業で成り立つこの街の、さらに南。

 

 浜辺が近くなり、潮風がコートをはためかせる。アーロンは帽子を目深に被って、その敷地に入った。

 

 敷地内は暗く、昼間だというのにまるで真夜中のようだ。その暗黒の最奥に鎮座している存在に声を投げる。

 

「随分と、また陰気になったじゃないか」

 

「仕方がないだろう。ワタシしか住んでいないのだから」

 

 答えたのはこのセキチクのバラック小屋に住まう錆び付いた暗殺一族の頭首、キョウの声であった。

 

 同時にアンズの父親なのだ、とアーロンは改めて言葉を聞く。

 

「アンズは、どうなっている?」

 

「別に。何もしてこない。あんたも、もう命じる気もないのだろう?」

 

「どうかな。ワタシの命令権は生きているさ。今でも、ワタシがやれと言えば、アンズは躊躇いなく殺しをするだろう」

 

「分かっているかどうかは分からないが、常に監視を置いている。そいつに勝てなければまず意味がない」

 

「炎魔、か。それもどうだかな。ワタシの仕立て上げた瞬撃ならば、炎魔を凌駕するはずだが」

 

 言葉を繰り合っていても仕方がない。アーロンは茶封筒を投げた。キョウが身じろぎし、飛び出したポケモンが茶封筒を掴む。

 

 もう手足も自由ではないのか。前回よりも石化が進んでいるのかもしれない。

 

「……これは、何の冗談だ? 波導使い」

 

「確認のために持って来た。ヤマブキに出払ってきた新人だ。波導使いを自称している。俺と同門らしいが、俺は面識のない男だ」

 

「名前は?」

 

「ツヴァイ、と言っていたか。俺が聞きたいのはただ一つ。石化の波導使いはそいつか?」

 

 そのためにセキチクを訪れた。キョウに確かめさせなければ迂闊な行動には出られない。

 

 キョウはポケモンを操り、写真全てに目を通した後一言だけ呟く。

 

「……違うな」

 

 やはり、とアーロンは感じる。石化の波導使いではない。

 

「そうか。それだけ知りたかった」

 

「待て、波導使いアーロン。理由を聞かせろ。お前に害する存在でなければ、こいつの身柄を知ろうともしないはずだ」

 

 腐っても暗殺一族の頭首。その辺りは目ざとく察知してくる。

 

 アーロンは自分の知り得た情報を話した。

 

 ツヴァイは自分を狙っている事。赤い波導の持ち主である事。手持ちはコジョンド。自律型の戦法を使ってくる事まで。

 

 聞き終えたキョウは、「なんと……」と声にした。

 

「赤い波導の持ち主……。という事は我が怨敵、石化の波導使いについて知っているかもしれない、という事か」

 

「こっちもそのつもりで来たんだが、知らないのならばそれでいい」

 

「それでは筋が通らないぞ、波導使い。他にも気になる事があるのだろう?」

 

 話さなければならないか。アーロンは一つ息をついた。

 

「石化の波導使いではないとして、ではこいつは何故俺を追ってくるのか」

 

「そちらに自覚がなければ、こっちが分かるはずもない」

 

「かもしれない。だが俺はこうも考えた。お前達が仕組んだのではないか、と」

 

 その段になってキョウは勘付いたのだろう。笑い声を上げてその可能性を棄却した。

 

「なるほど。お前に敗北した者達の作り出した新たなる尖兵、か。そう考えるのも不可思議ではない。だが、ワタシはもう再起不能、炎魔の飼い主も手痛い傷を負わせたのだろう? 結託はあり得んよ」

 

 では結託ではないとして、誰が、この波導使いを送り込んできたのか。

 

「俺が波導使いとして、ヤマブキで戦い始めたのはもう随分と前だ。今さら俺の足跡を追ってくるのは不可思議で仕方がない」

 

「師は? 波導使い、師は同じなのだろう? その者が手招きした」

 

「あり得ない。波導使いは一人だけだ。このアーロンの名と、青い装束が全てを証明している。俺は、継承権を得た。だが、こいつは。赤い波導使いは、恐らく破門されたのか、あるいは自称だ。師父の許しを得ていない」

 

「師匠の許しなく、波導を使うものには何か罰でも?」

 

「いいや。そもそも波導を使える人間が希少だ。罰など、師父は教えもしなかった」

 

 キョウは身じろぎして写真をポケモンに運ばせる。アーロンは手元で受け取った。

 

「こちらに渡されても、今のワタシには不要なものよ」

 

「俺も確認のためだった。それ以外にない」

 

「食えないな、相変わらず」

 

 キョウが口元に笑みを浮かべる。アーロンは写真を取り出して眺めた。

 

 赤い波導使い。ツヴァイの姿が映し出されている。

 

 その姿はまさしく自分の生き写しであった。青の死神と名指しされる自分の色を反転させた存在。

 

「こいつは、俺を追ってきたのではないのか?」

 

「そうであるとするならば、何か心当たりでも?」

 

 アーロンは一つの可能性を思い浮かべる。

 

 まさか、メイの確保? しかしだとすれば余計に、自分の前に姿を現したのが解せない。

 

 メイを確保したければ、いくらでも機会はあるはずだ。どうして自分に宣戦布告した?

 

「プラズマ団の命令、というのもあながち間違いではないのか。しかし、考えれば考えるほどに、こいつの動く意味が分からない」

 

「波導使い。考えを改めてみろ。逆転の発想だ。こいつに、思想も何もないのだとすれば?」

 

「思想がない?」

 

 それはあり得ない。愉快犯だとでも言うのか。

 

「波導の使い手で、ただの愉快犯は、あり得ない。いいや、師父の教えであり得てはならないはずだ」

 

「だが現に、こいつはお前の前に現れて、宣戦布告した。派手な衣装に、派手な動き。そして自分と同門の相手に対して堂々とうそぶく。ワタシからしてみれば、それ以外が見当たらないがね」

 

 ただの愉快犯? しかし、ならば何故、波導を使えるのか。

 

「波導使いは、師父の下で学んだのならば波導がただの無限エネルギーでない事は理解しているはずだ。だというのに、こいつのやり方は、どこか矛盾している」

 

「波導使いと言っても、兄弟子だろう? 教え方が違ったのではないか?」

 

 それにしては師父のルカリオに似た使い方であった。あの自律型の波導の方法論は独学では出せない。師父に学んだのは嘘ではない。それでも、師父に学んだ事を忠実に守っているわけでもない。

 

「……矛盾点に突き当たった」

 

「そういう時は、考え方をころっと変えてみるのさ。こいつの事を何だと思っていた?」

 

「赤い波導使い。俺を殺すために、プラズマ団の送り込んだ尖兵だと思っていた。あるいは俺に負けた者達の復讐だと。だが、それにしてはこいつ自身の思想が薄っぺらい。何かに命令された風でもなく、プラズマ団も利用出来るから利用したとでも言うような感じだ。どうして、俺を狙った?」

 

「そもそも、あの街で波導使いアーロンを狙う、という事がどれほど自殺行為なのか理解していない時点でおかしいだろう」

 

 キョウの言う通りだ。今までの自分の評を少しでも聞いているのならば単体で立ち向かうなどあり得ない。

 

 だとすれば、本当に最後に残ったのは……。

 

「こいつ、本当に何も知らないで、自分の力を誇示したいだけなのか?」

 

 それが最もしっくり来る答えだったが、そうだとすればツヴァイは知らないのか。

 

 ――波導使いの宿命を。

 

「無知のまま、師父は解き放ったのか? しかし、疑問が残る。師父は、そんな中途半端な人間を弟子には取らない」

 

「だとすれば、まさしく最初の可能性だな。力を誇示したいだけの、愉快犯」

 

 師父の教えに間違いなければ、この男はただ単に自分を潰したいだけ?

 

 アーロンは自分でも混乱してくるのを感じた。

 

 ツヴァイの行動原理があまりにも見えてこない。

 

「……少し、考えてみよう。写真の件、それだけ確認したかった」

 

 アーロンは身を翻す。背中にキョウの声がかかった。

 

「波導使い。お前の思っているほど、世界は高尚ではない。むしろ、逆だ。もっと下世話に、世界は構築されている」

 

 その忠告にアーロンは片手を上げて応じた。

 



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第七十二話「繰り言」

 

 喫茶店に戻るなり、だらけ切っているメイの姿が視界に入った。

 

 給仕係の服装に身を包んでいるものの、テーブルに突っ伏しているのでは仕事をしていないに等しい。

 

「何をやっている。仕事をしろ」

 

「あっ、アーロンさん。昨日の夜から見当たらないからどこに行ったのかと」

 

「作り置きしておいた飯があっただろう。それには困らなかったはずだが」

 

「もう! あたしがご飯さえあげていればいいと思っているような言い方はやめてくださいよ!」

 

 違うのか? と問い返したい。メイは三食くれてやれば文句を言わない、そういう人間だとばかり思っていた。

 

「アーロンさんの事、三人で心配していたんですよ。朝早くから出かけちゃうし、今は夕方だし」

 

「それはすまないな。飯は作ろう」

 

「……いいですよ。店長さんが今日の分は作ってくれましたから」

 

「それは申し訳ない事をしたな。店長には俺が謝っておく」

 

 階段を上がろうとするとメイの声がかかった。

 

「アーロンさん。……また、危ない事に関わっているんじゃないでしょうね」

 

「危ない事? お前は俺の職業を理解した上で言っているのか?」

 

 暗殺業に、危ないも何もない。常に殺しの危険性はある。

 

「そうじゃなくって! ……隠し事とか、してるんじゃないかな、って」

 

 これで目ざといのが困る。何も考えていないようで意外と見ているものだ。

 

 嘆息をつき、アーロンは口を開いた。

 

「……付け狙われている。お前らは喫茶店から先には出るな。俺が買い出しはしておく。人質にされれば事だからな」

 

「人質って……! やっぱり、そんな危ない事に」

 

「俺にも心当たりがないのだが、今回は特殊だ。俺を追い詰めるために、どんな手でも打ってくるだろう」

 

「……プラズマ団ですか」

 

「何とも言えないな。プラズマ団だとハッキリ分かれば、まだ手の打ちようがあるのだが」

 

 相手はプラズマ団の尖兵ならばそれで話が早い。メイを差し出さなければいい。しかし、ツヴァイは自分を狙っている。メイやシャクエン、アンズに迷惑がかかるとすれば、それは自分のせいだ。

 

「アーロンさん、自分のせいであたし達に危害が及べば、なんて考えていません?」

 

「いや。何も」

 

 平静を装って返したが、どうしてこうも悟って欲しくない事ばかり分かってしまうのか。

 

 三人をツヴァイに狙わせてはならない。本来ならば、この場所に戻ってくる事さえも躊躇したが、一度体勢を立て直さなければ勝てないだろう。

 

「あの! 言ってくださいよ。力になりたいんです……」

 

「お前に出来る事はない。無論、他の二人にもな」

 

 今回の場合、波導使い同士の因縁だ。メイはもとより、シャクエンやアンズにだって関係はない。

 

「でも、あたし達、みんな、アーロンさんの事が心配で……!」

 

「心配するのは勝手だが、介入出来ない事までする必要はない。俺が倒せば問題のない敵だ。気にするな」

 

 どうして、こんな言い方になってしまうのだろう。メイ達の協力は確かに必要ない。波導使い同士なのだから。しかし、突き放すような言い回しを使わなくともいいのではないか。

 

 メイは拳を握り締めて立ち上がっていた。

 

「アーロンさんが困っていたら、助けたいんです!」

 

「俺が困っていたら、か。だがお前らが俺に返せる事などたかが知れている。割り込むな。それだけだ」

 

 アーロンは階段を上り、部屋の扉を開ける。

 

 シャクエンとアンズがテレビを観ていた。店主が厨房に立っている。

 

「おかえり、アーロン。また残業か?」

 

「ああ。立て込んでいてな」

 

 シャクエンとアンズには瞬時に分かったに違いない。自分が狙われている事を。

 

「店長。少しだけ、席を外してもらえると、助かる」

 

 シャクエンの声に店主は、「もう出来るけれど」と調理中の鍋を見やった。

 

「あとは、私達でもやれる。ありがとう」

 

 シャクエンが礼を述べ、店主は釈然としない顔で階段を降りていった。

 

 アーロンは口火を切る。

 

「余計な真似をするな。怪しまれるだろう」

 

「波導使い。何があったの? 右脇腹に酷い怪我がある」

 

 シャクエンが見通して声にする。アーロンはコートを引っ掛けて頭を振った。

 

「気にするな。掠り傷だ」

 

「掠り傷じゃないよ。あたいでも分かる。格闘タイプの技を受けたんだね。何で、言ってくれないの?」

 

「波導使い。私達はそんなに邪魔? メイに言えないのは、百歩譲って分かる。でも、ルイにばかり周辺を任せて、私達に何も頼らないのは……」

 

 言葉を濁らせる。それは一緒にいる意味がない、とでも言いたいのだろう。

 

 だが、ツヴァイは明らかに自分だけを狙っている。以前のスノウドロップ戦や四天王との戦闘とは違うのだ。巻き込みたくない、と思っていた。

 

「気にするな。今回の仕事は完全に俺だけのものだ。お前らが分け入ればややこしくなる」

 

「本当に、それだけ? 仕事だって言うのは、本当?」

 

 いつになく、シャクエンがしつこい。アーロンは手を払った。

 

「何も、心配の必要はない。俺だけの、私事だ」

 

 ツヴァイとの戦いに割って入られても困る。波導使いの戦いは波導使いだけで収めればいい。シャクエンやアンズが分け入っても、それは意味がない。共闘するために一緒にいるわけではないのだ。

 

「波導使い、あなたは本当に、何も心配が要らないと? メイや私達が、どういう思いでいるのか分からないと言うの?」

 

「別に、分かってもらいたくて戦っているわけでない」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ねぇ、起きてる?」

 

 メイは思わず尋ねていた。

 

 眠りにつく時には髪を解き、ストレートに流している。

 

 シャクエンも同じように結っている髪を解いて天井を睨んでいた。

 

「うん、起きてるよ、メイ」

 

「アーロンさん、変だったよね。いつもと違うって言うか」

 

 自分のように疎くとも分かる。アーロンはぴりぴりしている。何か抱えているのが目に見えて分かった。それを自分達に悟らせたくないのも。

 

「うん、お兄ちゃん。いつもならもっとうまく隠すよね。何で、あんなに分かりやすかったんだろう」

 

 アンズも同じ感想らしい。三人は揃って顔を見合わせた。

 

「アーロンさん、自分の問題だっていう風にしたいんだと思う。だから、あたし達に何も言わないとか?」

 

「私も、今回の波導使いのやり方は気に食わない。何でか、蚊帳の外に置かれているみたいで」

 

 シャクエンは起き上がり、端末を起動させた。常駐しているルイに話しかけようというのだろう。

 

「ルイ、起きているんでしょう」

 

『なに? ボクだってたまにはスリープモードに入るってば』

 

「波導使いについて。何か知っているんじゃないの」

 

『おかしな事言うなぁ、炎魔シャクエン。君だって勘繰られたくない事の一つや二つ、あるでしょう?』

 

 つまりはルイには相談しているのだ。その事実にメイは腹を立てた。

 

「何で! 何であたし達には言えないのに、ルイには話してるの! おかしいじゃん!」

 

『おかしくないよ。だって人間は誤魔化せないけれど、ボクなら君達三人が責め立ててこようとも涼しい顔をしていられる。そういう事じゃないの?』

 

 隠し事のためにルイを利用しているのか。メイは余計に苛立った。

 

「だったら、あたし達の意味って何! 何で、アーロンさんはあたし達を信用出来ないの?」

 

『信用とか、今回はそういう問題じゃないんだろうけれどね』

 

「ルイ! 知っているなら教えてよ! アーロンさんは何を隠しているの?」

 

 メイの必死の訴えかけにもルイは風と受け流す。

 

『ダメダメ。波導使いとの約束でね。今回、君達は外野だ。ボクと波導使いが内々に処理する。何で、人間ってのはお節介なのかな。誰にだって割り込まれたくない事ってあるんじゃないの?』

 

 そう言われてしまえば、自分達だって勝手な事をしてきた。言い返せない、と感じているとシャクエンが口を開く。

 

「私は、そうは思わない」

 

 ほう、とルイが眉を上げる。

 

 メイもシャクエンが齧りつくとは思っていなかっただけに意外だった。

 

「波導使いの隠し事が、メイを危ぶませるものならば、私は割って入る事だって辞さない」

 

『あのねぇ、そういうの野暮だって、分からないかな? 波導使いは自分の問題だって言ってるんでしょ?』

 

「それでも、波導使いは殺し屋。私達は彼に、人生を変えられた。だっていうのに、受け取ってばかりなのは傲慢」

 

 シャクエンの言う通りだった。自分達はいつだってアーロンに助けてもらってばかりだ。一つくらい、助けになりたい。

 

「そうだよ。お兄ちゃんの助けになるのなら、あたいだって」

 

 アンズも声を上げる。メイもルイを睨みつけた。

 

 ルイは三人分の視線を受け止めてもまだ余裕しゃくしゃくで画面の中を遊泳する。

 

『……あのさ、そういう人海戦術めいた事をされても、ボク所詮はシステムだから。情に流されるとか一パーセントだってない』

 

 やはりそうなのだろうか。メイが諦めかけると、『でもま』とルイは声にした。

 

『状況を動かしてみるのはいいかもね。波導使いもちょっと手詰まりみたいだし、君達が動けば、波導使いの助けになるのなら、ね。ボクもお礼くらいはしたいし』

 

「今しがた、自分はシステムだって言ったのに?」

 

 メイの声にルイはウインクした。

 

『システムにもたまには妙な行動があったっていいでしょ。そういうシステムでもあるんだから。ボクは』

 

「話して。波導使いは、何を考えているのか」

 



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第七十三話「恩人」

 

 警察署はいざ訪れてみると意外に広く、メイは高い天井に感心してしまった。

 

「広い建物だね……」

 

「一応、この街の治安を一手に担う場所だからね」

 

 アンズの皮肉めいた言葉には、盟主であるハムエッグの存在と拮抗するホテルの存在が暗喩されていた。

 

 所詮、この治安を維持する場所など張りぼてだ。だから、自分やシャクエンがこの街の表を歩けるのだと。

 

 シャクエンが慣れた様子で受付に立ち寄り、名前を告げた。

 

「オウミ警部の関係者ですね。一階のブースでお待ちくださいとの事です」

 

「誰? オウミって」

 

 初めて聞く名前だった。シャクエンは淡々と告げる。

 

「私の、元飼い主」

 

 つまり、炎魔による反逆を手引きした元凶。メイは覚えず息を詰まらせたが、シャクエンは冷静だった。

 

「その、シャクエンちゃんは何も思わないの?」

 

「もう、関係は切れた。だから何も」

 

 嘘であろう。本当に関係が切れて何も思わないのならば、表情に翳りさえも浮かばないはずである。シャクエンの眼には明らかに過去を回顧するものがある。それは余人には触れられない事であるのが容易に窺えた。

 

「その、大丈夫なの? そんな人と会うなんて」

 

「警察署内では何も出来ないと思うし、もしもの時には〈蜃気楼〉でどうにかする」

 

 今もシャクエンの傍にいるのだ。バクフーンの〈蜃気楼〉。シャクエンの相棒であり、何よりも頼りになる力の持ち主だ。

 

「危なかったら、あたいでもどうにかするよ」

 

 隣にはアンズもいる。自分は守られてばかりだな、とメイは息をついた。

 

 その時、駆けてくる人影があった。シャクエンはすっと立ち上がり、目礼する。

 

「……久しぶりだな」

 

 男は右腕をギプスで固定しており、その顔には自虐めいた色が浮かんでいる。

 

 自分とアンズに視線を移し、「波導使いご一行様、か」と口角を吊り上げた。

 

「オレの名前は、……聞いているかもしれないがオウミ。役職は警部だ」

 

 オウミは対面の椅子に座り、受付嬢にコーヒーを頼む。

 

「てめぇと会うのなら、本当はバーボンでも決めたいところだが、勤務中だからな。一応は。……で、お隣は波導使いのお抱えのお嬢ちゃんと、もう一人は瞬撃だな?」

 

 目を見開く。それを言っていいのか、とメイが視線でシャクエンに問うと、シャクエンは首肯して大丈夫だと告げた。

 

「もう、私達に関わる事はない」

 

「そう言いつつ、そっちから来るんじゃ世話ねぇな。悪いが一階のブースは煙草だって吸えねぇんだ。手短に言えよ、用件があるんだろ?」

 

 この男は刑事というよりもチンピラに近い。風体といい、口ぶりといい、まともだとは思えなかった。

 

「波導使いを狙っている殺し屋。その情報を開示して欲しい」

 

 オウミがこちらをじっと睨む。メイは息を詰まらせた。

 

「……どこまで知ってやがる」

 

「大体は。波導使いを狙っている酔狂な殺し屋がいる事は」

 

「ああ、そこまで知ってるんなら話は早ぇな。こっちも割り出しに時間がかかっているところだが、波導の殺しってのは大体似たり寄ったりだ。青の死神は……おっと、ここじゃB37か。B37の殺しの手口は未だに割れていない。あいつの殺し方は特殊だからな。それと似た殺しが数件あった。鑑識からすれば違いも分からんそうだが、オレには分かる。B37は無益な殺しはしない。つまりは見せしめ、だとオレは考えている」

 

「見せしめ。誰への?」

 

「んなもん、B37本人への、に決まっているだろうが。頭のネジが飛んじまっているのさ。波導の殺し、ってのは大概、未解決になる。殺し方の判別だってつきゃしねぇんだが、この三件は……っと、見るかい、証拠写真」

 

 オウミが懐から写真を数枚取り出す。メイは思わず悲鳴を上げそうになった。

 

 そこに映っていたのは、絶叫の形に口を開けたまま絶命している人間の死体だったからだ。シャクエンがすぐさま裏返してくれなかったら吐いていたかもしれなかった。

 

「彼女はこういうのに慣れていない」

 

「分かってんよ。分かっていてやったんだろうが。B37がどこまで任せているのか気になってな。そのお嬢ちゃんは何だ? あいつの愛人か何かか? 殺しの現場も見せてもらっていないのなら、完全に信用されているわけでもなさそうだな」

 

 自分の背中をシャクエンがそっとさすってくれているお陰で、この男への憎悪をぶつけずに済んだ。そうでなければ今頃、涙を浮かべて立ち去っていてもおかしくはない。

 

「そういうヨゴレを彼女に押し付けないで」

 

「んだよ……ちょっとしたジョークだろうが、ジョーク」

 

 オウミは写真を懐に入れて言葉を継ぐ。

 

「とまぁ、こういう風に。波導使いの殺しが相次いでいる。捜査はB37の犯行と継続して見ているが、オレには分かる。全然違うってな。この殺しには、何の理念もねぇ。あいつのやり方に比べれば、覚えたての赤子さ。こんな猿真似で警察騙そうっていうんだから笑えて来るぜ。まぁ実際に騙されているから世話ァねぇんだけれどな」

 

 オウミはそれこそ笑い事のように口にするが人殺しが起きている以上、穏やかではないのは確実だ。

 

「何でそんな……、他人事みたいに」

 

 思わずメイは口にしていた。オウミはその言葉を聞くなり、ほう、と興味深そうにメイを見やる。

 

「他人事みたいに、ねぇ。実際、他人事だよ。自分がその番にならなきゃ、一生他人事だ。お嬢ちゃんはいちいち、ニュースの生き死にに感動したり、あるいは心を動かされたりするかい? カントーでない、他所の地域では戦争が激化しています。あるいは紛争は終わりません、で募金をするのが趣味か? そういうのが趣味だったら笑えないかもしれねぇが、そういう趣味じゃねぇだろ」

 

「趣味とか……、あたしはただ、そんな簡単に生き死にを判別出来るってのが」

 

「出来なきゃ刑事やってねぇよ。それとも何か? お嬢ちゃんの理想像では、オレは神様仏様のように慈悲深い人物とでも?」

 

 食ってかかろうとしたがシャクエンがいさめた。

 

「メイ、その辺で。この男に善悪を説いたところで時間の無駄」

 

「そう、無駄さ。オレは職務中でね。こうして会っている事でさえも無駄。で? 何しに来た、シャクエン。B37じゃない波導使いの情報なら、さほど手に入っていない。申し訳ないが冷やかしならお引き取り願おうか」

 

 メイは立ち上がっていた。これ以上、オウミから冷静に情報を手に入れられる気がしない。

 

「行こう、二人とも。この人に、これ以上、アーロンさんを侮辱させたくない」

 

 立ち去りかけたメイの袖をシャクエンが掴む。まだ聞いていない事があるのか。メイは不服そうな顔を振り向けた。

 

「メイ。気持ちは分かる。でも、私達は聞かなければならない。でなければ、波導使いのためにもならない」

 

 シャクエンの冷静な声にオウミが眉をひそめる。

 

「シャクエン。お前、いくらか変わったな。以前までなら他人の事なんて知ったこっちゃないって感じだったが。飼い主が変わって考えも改まったか?」

 

「そちらこそ、右腕の代償を払うつもりないようで相変わらず」

 

 シャクエンの返す刀の言葉にオウミはけっと毒づいた。

 

「可愛げがねぇのは相変わらずか。いいぜ、こっからはビジネスの話だ。今までのは雑談だよ。そこのお団子頭のお嬢ちゃんも聞いていきな。もうからかわねぇからよ」

 

 やはりからかわれていたのか。その羞恥の念よりも、切り上げようとしていた自分の無知さにメイは顔を伏せた。

 

「こっちの波導使い……混同しないために新入り、とでも言っておこうか。新入りは全くの素人さんってわけでもない。殺しは心得ているし、波導の使い手だってのは確かだ。だがな、オレから言わせればこいつの殺しは美学がねぇ。波導使いの殺しってのは、自分の美学に基づいて存在するもんだ。事実、奴の殺し方はそれ以外にない。ルールを破ったから。それだけだ。別に美学を求めているってわけでもないんだが、スマートな殺しには違いない。手際がいいって意味の美学さ」

 

 何が言いたいのか。まだアーロンを馬鹿にされているような気がした。

 

「アーロンさんは、殺したくって殺しをしているわけでは……」

 

「んなもん、百も承知だよ。あれが殺したくって殺していれば、もうヤマブキもおじゃんだ。あいつは殺す以外に生き方を知らねぇのさ。自分を最大限に活かす手段が殺しだった、ってだけの、それだけの存在」

 

 意外だった。オウミの言葉はメイがかねてより考えていたアーロンの歪さに繋がっていたからだ。

 

 驚愕が顔に出ていたのか、オウミは笑みを浮かべる。

 

「伊達に刑事やってねぇっての。それとも、オレはいたいけな女の子に死体の写真見せて喜ぶ変態に映ったか?」

 

「……少し」

 

 正直な感想にオウミは顔を拭って笑った。

 

「まぁ、その辺りはどうだっていい。オレが言いたいのは、この新入りがB37を超える波導使いかどうか、だが、的確に言えば、殺しの手際は遠く及ばないものの、やり方は似通っている。つまり、昔の波導使いを思い出させるってわけさ。まだ馴染んでいなかった頃のな。だからこいつ、多分殺しがメインの波導使いじゃないんだろ。今まで何をやっていたのかは知らないが、殺しではなく純粋に波導の鍛錬に励んでいたか。だがまぁ、そういう奴がじゃあ何故、B37を真似た殺しなんてするか、って疑問に突き当たるが」

 

 オウミの疑問点にシャクエンが口を挟む。

 

「見せしめ、と言った。つまり、波導使いを誘い込もうと?」

 

「直接対決しようぜ、っていう意味とも取れる。オレはこれだけ出来る、ではお前はどうだ? ってな。波導使いはこういう見せしめの殺しには乗らねぇから、こんなもん無駄なだけなんだが」

 

「それを、相手の波導使いは分かっていない?」

 

 アンズの疑問にオウミは、「まぁな」とコーヒーを啜った。

 

「この新入りは自分の力の誇示をしたいだけの小悪党だよ。ハムエッグやホテル、それにこの街に蔓延る大小の暗殺者や殺人鬼に比べればかわいいくらいのもんさ。ただまぁ、殺しには違いない。真剣に追っているよ、警察はな」

 

「オウミ、あなたは真剣に追っていないような口ぶり」

 

 シャクエンの声にオウミは眉間に皺を寄せる。

 

「……本当に、変わったのか変わってねぇのか分からない奴だな。そうだよ、オレはちょっとした野暮用で今は捜査本部を離れている。だからこの事件に関しては他人事だし、それに詳細までは聞かされていない。元々、青の死神を追ってる部署には違いないんだが、オレは新入りの仕業だとすぐに見抜いた。だからここ数件の事件は追うに値しない、と判断している。どうせ、この新入り、殺しが自分の目的じゃないってすぐ気づくだろ」

 

「その根拠は何なんです?」

 

 尋ねるとオウミは口角を吊り上げた。

 

「勘、だよ。刑事の勘って奴だ」

 

 呆れた。この期に及んで適当な答えを、とメイは感じたがシャクエンは追及する。

 

「勘、っていうものがあるとして、ではこの波導使いは何をしたいのか。あなたの推測を教えて欲しい」

 

「どこまでも搾り取ろうとする奴だな。いいぜ、オレの勘だけでいいなら教えてやるよ。こいつは結局のところ、愉快犯だな」

 

 愉快犯。アーロンが直面している相手とは思えず、メイは聞き返す。

 

「愉快犯って、それそのものが目的というよりも楽しんでいるって事……?」

 

「ご解説どうも。そうだよ。こいつは楽しんでいる。自分の力の誇示、ってさっきも言ったが、波導が使えるのを自慢している、ってのが近いかな」

 

「そんなのが、アーロンさんの相手だなんて」

 

「不満か? いつだってつまらん相手が実のところ一番厄介なもんだぜ? B37が相手取ってきたのは、この街では名の通った殺し屋、炎魔、それにセキチクから来た瞬撃、スノウドロップ、それに軍部……こうラインナップが揃えば、そりゃ高望みするのも分かるけれどよ。でも、こいつぁ愉快犯だ。これは間違いないな」

 

「確率は?」

 

「九割九分九厘。それくらいには自信がある。この新入りの波導使いがどれほどの相手だとか、どういう思想だとか、そういうの全部すっぽ抜いて、事実と前後関係だけ洗った結果だ。こいつはただ自分が強いって言いたいだけの弱者だな。昔からよくいるだろ? 自分より弱い相手をいじめたがる、そういう手合いさ。それで自分が強いって錯覚してんだな。まぁ、実際に実力者ではあるんだろうが、やり方があまりに稚拙過ぎる。これじゃ、B37の足元にも及ばない。殺し屋としては及第点にもならねぇな」

 

 オウミの口調には今まで数多の殺し屋と殺人犯を見てきた実績があるように思えた。この男、飄々としているようで実のところはよく出来た男なのではないか。

 

 メイの疑念の視線にオウミは、「聞きたいのはそれだけか?」と話を切り上げようとする。

 

「出来れば、この犯人の足取りが分かればいいんだけれど」

 

「悪いな。新入りの愉快犯を追うほど、オレだって暇じゃねぇんだ。まぁ捜査本部はB37の継続犯罪だと思っているからあっちに追わせればいいと思うがな。波導使いが二人も現れたって上に報告すればそれこそ事だぜ? 元々波導なんて眉唾物を信じ込んでいる時点で怪しいってのによ」

 

 ではこの相手の足取りは不明のままなのか。メイが顔を翳らせると、オウミは指を立てた。

 

「もう一つ、いい事を教えてやるよ、お団子頭のお嬢ちゃん。アーロンはこいつをお前らに内緒で殺すつもりだ。それはハッキリしている。何でかって言えば、こいつもまた波導使い。それを過小評価するほど、アーロンだって馬鹿じゃねぇのさ。今まで波導使いにやられてきた二人の暗殺者がいれば分かるだろ? 自分が倒せた二人を、ぶつけるわけにはいかねぇってな」

 

 つまりアーロンは自分達を心配するがゆえに一切情報を与えてこないのか。その観点はなかったのでメイは当惑した。

 

「アーロンさん、あたし達のために……」

 

「でもそれは波導使いの勝手なエゴ」

 

 そう断じたシャクエンはオウミに問い質す。

 

「私達は何もこの波導使いに立ち向かおうってわけではない。ただ知りたいだけ。何で波導使いは遠ざけようとしているのか。そこまでの実力者なら、私達も警戒しなければならない。それならばもう言ってきているはず。私とアンズはそれほど弱いわけではない。警戒しろ、の一言でいい事くらいは波導使いも理解している」

 

 捲くし立てられてオウミは後頭部を掻いた。

 

「知らねぇって。波導使いが自分の問題だって抱えてるんじゃねぇの? オレにそこまで推し量れってのは無理難題だぜ。大体、てめぇら雁首揃えて警察署に来ているけれど、それだって波導使いの本意じゃないだろ? 本当なら、家で大人しくしてろ、くらいなんじゃねぇか?」

 

 それは、とシャクエンが言葉に詰まる。アーロンはあえて自分達を遠ざけようとしている。それはこの波導使いがどれほどの相手なのかに直結しているのだろう。

 

「でも、あたしは、オウミさん……。アーロンさんに、一人で苦しんで欲しくないんです」

 

 メイの言葉にオウミは首を傾げる。

 

「それも、分からない話なんだよな。何だってB37はてめぇらを生かしている? 以前までの、研ぎ澄ましたみたいな殺し屋のあいつならお前らなんて殺されていてもおかしくねぇぜ? 何だって共同生活なんて?」

 

 それは問われても分からない。どうしてアーロンは自分達を生かしているのか、など。

 

 メイが言葉を彷徨わせているとシャクエンが言い放つ。

 

「この新入りの波導使いは見せしめをしている。目的は、波導使いをおびき出す事。それだけ分かればいい」

 

 シャクエンが席を立つ。突然の事だったのでメイは狼狽した。

 

「えっ、ちょっと。シャクエンちゃん?」

 

「最後に。もう二度と会いたくない」

 

 背中を向けて付け加えた言葉にオウミは苦々しい表情を浮かべる。

 

「こっちもだ。その顔は見たくもねぇ。出来れば一生、な」

 

 二人に降り立った無言を読み取る前に、アンズが手を挙げていた。

 

「ねぇ、質問なんだけれど、波導の殺し屋はこの二人だけって言う証拠はあるの?」

 

 アンズが言うのは第三者の存在だろう。オウミは肯定する。

 

「ああ、そうだよ。B37か、もう一人の新入りしか考えられない」

 

「それは何で? 波導使いってのはそう何人もいるわけではないっていう論拠は?」

 

 どうしてだかアンズは波導使いの人数にこだわっているようだった。オウミは諭すように声にする。

 

「B37、あいつ本人から聞いた。波導使いが、波導に目覚めてそのまま生活出来るケースは、一割にも満たないそうだ。あいつだって、定期的な波導の検査がなければ危ないほど、爆弾抱えてるって話さ。それほどまでに波導使いってのは精密機械。だからそう何人もいねぇっいう風に聞いた。それが何か?」

 

「ううん。ちょっとね」

 

 アンズも立ち上がる。メイは遅れながらオウミへと頭を下げた。

 

「その……情報、ありがとうございました」

 

「何で礼を言う? オレはお団子頭のお嬢ちゃんに嫌がらせしかしてねぇぞ」

 

「それでも、アーロンさんの身の潔白を証明してくださったのは、その、お礼を言いたいんです」

 

 その言葉にオウミは怪訝そうにする。

 

「分からねぇな。何でお嬢ちゃん、B37の肩ばっかり持つんだ? あいつだって人殺しだぜ?」

 

 そうかもしれない。だが、アーロンは他の暗殺者とは違う。違うと信じたかった。

 

「でもあたしにとってのアーロンさんは、恩人ですから」

 

「恩人ね……。その恩人がいつ自分を殺すのか分からない、って事くらいは頭に入れときな。言っておくがあいつの本業は暗殺だ。人殺しなんだ。だから、過剰に信じるのは馬鹿を見るぜ。これは忠告なんだが……あいつを信用するな。いざとなれば逃げたほうがいい。お嬢ちゃんみたいなのは、最後の最後に裏切られて泣くタイプだ。そんなの、いくつも見ないほうがいいだろ」

 

 オウミの忠告を受けてもう一度頭を下げてから、メイは二人に連れ立った。

 



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第七十四話「愉快犯」

 

「結局、あまり情報は得られなかったね」

 

 シャクエンに残念そうに言うと、「そうでもない」と言葉が返ってきた。

 

「案外、相手の正体が見えてきた。波導使い、殺しは素人、それに、自分の力の誇示。これだけでも随分と相手の犯人像が見えてくる」

 

「そう? あたしにはさっぱりだなぁ」

 

 後頭部で手を組んで空を仰ぐ。垂れ込めた曇天がヤマブキを覆っていた。

 

「メイお姉ちゃん。情報を得ようって言うんなら、やっぱりハムエッグがいいと思う」

 

 アンズの言葉はもっともだったが、メイにはその気はなかった。

 

「でも……アーロンさん、自分のいる時以外にハムエッグさんと会うなって言っていたし……」

 

「そんなの、今は非常時じゃない。情報が一つでも欲しいのは事実だよ」

 

 頭を悩ませているとシャクエンが告げた。

 

「ハムエッグは、今はよしておこう。波導使いと鉢合わせれば、それこそ厄介」

 

 アーロンはハムエッグから情報を得て今回の相手の足取りを掴んでいるのかもしれない。そう考えれば鉢合わせが最も危惧すべき事だった。

 

「そうだね……。アーロンさんと会って、もう関わるなって言われればそれまでだし」

 

「でも、じゃあどこに情報源が? あのオジサン刑事だけでしょ? 炎魔のお姉ちゃんに伝手があるの」

 

 他の情報源と言えばホテルくらいしか思い浮かばないがホテルにはいい思い出はない。手詰まりか、と思っているとメイは当てが浮かんだ。

 

「あっ、それなら路地番の人に聞くのはどう?」

 

 路地番、と聞いてシャクエンとアンズが疑問符を浮かべる。

 

「路地番って、あの路地番? でも誰と? 個人的に親交のある人なんて居たっけ?」

 

「えっと、あたし、一人だけ知ってる。確かリオって人で」

 

 メイはホロキャスターを手に電話をかけていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「快楽殺人犯、って言いたいわけ」

 

 ラブリの結論付けにアーロンは早合点だとは言えなかった。その側面はある、と部分的に肯定する。

 

「俺よりも優れている、と言いたいのはよく分かる。奴は、自分の波導が師父や俺よりも進化した波導だと言っていた」

 

「で? 実のところそれは進化した波導なのかしら?」

 

 ラブリはカップを傾ける。アーロンはその部分に関してはぼかす他なかった。

 

「さぁな。ただ、ハムエッグだけの情報では弱い。ホテルに知恵を貸してもらいたい」

 

「珍しいわね。ここまでストレートな頼み事は。あなたって、最低のクズだから、どこまで他人を馬鹿にするのかだけを考えているのだと思っていたわ」

 

 普段ならばホテルになど補足情報を頼まない。だが今回は出来るだけ外堀を埋めていかなければ。そうでなければ自分の居場所を消すつもりで動いているツヴァイの動きを制せない。

 

「あなたが言いたいのはよく分かる。ツヴァイとやらは、あなたに成り代わろうとしている。だから、わたくし達の結束を強くしてこの街から奴を排する、と。つまり、奴に頼るところがなければ、結局自分との直接対決だけに雪崩れ込む事になる。それを考えている」

 

 見透かされているが今回ばかりはありがたい。アーロンは、「身内の恥のようで気が進まないがな」と付け加えた。

 

「同門の波導使いと相手が名乗った以上、俺の居場所を消し、成り代わる。それが最も屈辱的なやり方だと心得ているに違いない。だからこそ俺は先手を打つ。ホテルとハムエッグが結託して奴を排除すれば結局のところ、奴は最低限の能力だけで俺に立ち向かわざるを得ない」

 

「純粋な力比べなら、負けないと?」

 

「何年殺し屋稼業をやっていると思っている。殺しの腕だけならば比肩する奴など多くはない」

 

 だが殺し屋のパワーバランスなどバックにいる存在の量で変動する。ハムエッグとホテル。両方をバックに持てているから、自分は殺し屋としてヤマブキに貢献出来ている。だが、もしこの二つを失えば自分でもどこまで生き残れるのか分からない。それほどに殺し屋とはデリケートな職業なのだ。

 

「今まで通りの信頼関係を、か。断る理由もない。ただし」

 

「前金は払う。金の流通しない信用など紙切れだ」

 

「よしとするわ」

 

 ラブリは指を鳴らし軍曹を呼びつける。

 

「入金されると同時に下部組織に連絡。ツヴァイなる波導使いを信用するな。この街から追い出せ、と」

 

「御意に」

 

 軍曹は恭しく頭を垂れてラブリの意見に従った。

 

「でも、あなたも災難ね。まさか波導使いがあなた以外に存在したなんて」

 

「俺も驚いている。兄弟子、など聞いていないからな」

 

 ツヴァイが本当に師父から教えを乞うたならば、自分に合った波導のスタイルを身につけているはず。あのコジョンドとの連携である程度の波導知識はあると見たが、本当に師父から最後の最後まで教えられたにしては……。

 

「何か言いたそうね、波導使い」

 

 ラブリの言葉にアーロンは口を開いた。

 

「奴が、ツヴァイが本当に俺の兄弟子で、師匠も同じならば、おかしい点が存在する。……これを聞かないで波導使いとしての活動を許されるはずがない」

 

「興味深いわ。何なのかしら?」

 

 それは言えない。これだけは波導使いの弱点となる部分だからだ。明かしているのはカヤノだけ。ハムエッグはどこから仕入れたのか知っているが。

 

「そこまでは言えないな。俺とて、秘密くらいはある」

 

「秘密主義の癖に何を今さら。でもま、信用に足るのはあなたのほうだから、それだけは裏切らないわ。ツヴァイという波導使いのやり方、わたくし達としてもあまり気に入ったやり方ではないもの」

 

 ツヴァイはここ数日で殺しを重ねている。その情報を得たのはつい先ほどだ。ホテル側としてみれば「波導使いの仕業に違いないのに不可解な殺し」だとしてまず自分に聞いてきた。

 

「これらの数件、あなたにしてはずさんで、なおかつ……こう言ってしまうのはなんだけれど、美しくない。それが分かる」

 

「何の見返りもない殺しはしない。それだけだ」

 

 ツヴァイの殺しの手口は波導を使った殺人だが、自分のようにルールを明言化して殺しているわけではない。ただ単に、目に入った人間を殺しているだけの、快楽殺人。

 

「では、わたくし達はまたしても高みの見物を決め込めるのかしら。波導使い同士、自分達だけでケリをつけたいんでしょう?」

 

 アーロンはそれを確認するために今、ホテルと交渉しているのだ。ツヴァイに居場所を与えてはいけない。奴の最も望んでいる事は自分から何もかもを奪う事。

 

「そうだな。奴との次の直接対決になれば、それが分かる」

 

「楽しみね。それにしても、今回もプラズマ団ですって? 本当、連中も好きね。この街をせっつくのが」

 

 プラズマ団関連の裏づけ企業をホテルは次々と潰しているらしい。それは目に入った悪を潰す、というホテルらしい行動原理だったがそれだけでもないのだろう。現にプラズマ団のせいで街はスノウドロップの解放という手痛いダメージを受けている。

 

「プラズマ団はいずれ潰す。それだけだ」

 

 立ち上がろうとすると応接室をノックする音が聞こえた。「入りなさい」の声で部下が一人、慌てた様子で入ってくる。

 

「失礼します。その、つい先ほどの情報なのですが……」

 

 濁した部下が書類をラブリに見せる。目を通したラブリが眉間に皺を寄せた。

 

「これは……。どう受け取るべきなのかしらね」

 

「既に手を回しておりますが、バックがいると考えられます。やられました。こちらが動く前に」

 

 苦々しい表情を浮かべる部下に、ラブリは下がらせるように命じる。

 

「悪いニュースよ。我がホテルの下部組織のうちの一つ。外資系の資本家が経営する組織、ビートバレットがツヴァイを受け入れた。もう敵対組織の殺しを依頼し、つい先ほどそのトップが死亡……。先を越されたわね」

 

 ラブリは軍曹に葉巻を取らせる。火を点けて紫煙をくゆらせた。

 

「つまり、俺達のやり方が遅過ぎた、というわけか」

 

「言いたくはないけれど、そうね。相手を嘗めていた。まぁわたくし達を篭絡する手段はないけれど、一つの組織をバックに据えればそれなりに殺し屋としては装飾がつく。ツヴァイは思っていたよりもずっと本気だって事よ。本気で、波導使い、あなたを追い詰めようとしている」

 

「その下部組織、切り捨ては」

 

「出来る、けれどしたところで金はあるし、ツヴァイ一人を支援するだけならば潰れる覚悟で上に牙を剥いても、と言ったところね。まぁツヴァイからしてみれば一時的な資金援助を受けるためだけだろうけれど。正直、一時的でも資金の余裕を持たせるのは危うい」

 

「俺が、ホテルの代表として出てもいい」

 

「駄目よ。一時的とはいえど、波導使いを私兵として使えばそれなりに角が立つ。後々の事を考えればいざという時以外にあなたというカードは切らないほうがいい。つまり、今回、ホテルは援助出来ない」

 

 やられた、とアーロンは歯噛みする。相手が企業の援助を得る前に仕留めるのが理想だったのだが。

 

「ホテルとハムエッグの信頼があっても、いざ金を出すとなれば渋るか」

 

「当然よ。金は信頼の証だと、今しがた言ったばかり。金を出して動かせれば、それは結局のところこちらの思惑となる。わたくし達は下部組織に恨みはないし、あなたの都合に過ぎないもの。この下部組織を切る、と判断するのもツヴァイがいるからというだけ。そこまでは信頼で何とかなる。でもそれ以上は、となればあなたとしても動きにくいんじゃない?」

 

 瞬撃を退けた時とは違うのだ。あの時は暗殺同盟そのものがヤマブキへの害悪であり、街を上げて排除する流れであった。だからホテルは協力した。だが今回は所詮アーロンの私事。それに金を注ぐかと言えば、ハムエッグもホテルも一旦話を止める。

 

「そうだな。俺もホテルの私兵になるつもりはない」

 

「こうなってくると、厚顔無恥なツヴァイがある種、動きやすくなってくるわね。奴には守るべき理念も、もっと言えばやり方もない。無茶苦茶で、その場凌ぎだからこそ、今回は手強い。あなたが何年もかけて築き上げてきた信頼でも、奴としてみれば一回使えればいいだけだから、それこそ考えなしに動ける。どんな企業でもバックに据えられるし、何よりもどんな企業でも駒として切れる、というのは大きい。これまで仕事を選んできた波導使いと同等の存在を、安くで使えるとなればね」

 

 長期的な信頼の確保も、最終的な利益も必要としないツヴァイからしてみればヤマブキは動きやすいのだろう。自分という波導使いを潰したい。ただそれだけの都合ならば援助する向こう見ずな輩も存在する。

 

「どうするの? 相手はバックを得たという事は情報面での根回しでは一手遅れた。今から切ってもならばそれは波導使いアーロンのため、という事になる。我々としては体面上、ドライに行きたい。ウェットに波導使いを援助する、というのは間違っているし、信頼、という言葉があってもそれは遅いか速いかの違い。上は押さえておくけれど下のほうの末端は節操がないわ。一時的な兵力ならば都合がいいのは向こうよ」

 

 たとえこの街のナンバーワンとナンバーツーを制する事が出来ていても今回ばかりは無遠慮なほうが勝つ。

 

 ツヴァイはプラズマ団を既にバックに据えながらも、自分が波導使いであり、アーロンを超える強さだという旨みを充分に売り味にしていくはずだ。当然、長期的な事を考えない人間は飛びつく。

 

「時間が過ぎれば不利になるだけよ。波導使い、今すぐにツヴァイを捕捉しなければ負けが濃くなるわ」

 

「分かっている」

 

 アーロンはホロキャスターで電話をかける。通話先はルイだ。

 

「そちらでツヴァイの捕捉は?」

 

『それが、出来ているのが不思議なんだけれど、その、言いづらい事もあって……』

 

 ルイが言葉を濁す。何だ、とアーロンは不思議がった。

 

「何でもいい。ツヴァイはどこにいる?」

 

『……言っちゃうと、ツヴァイは逃げも隠れもしていないよ。企業のトップを殺して今、向かっているのは表参道。どこから情報を得たのか知らないけれど、ツヴァイの背後にGPS管理の会社もいたみたいだからそれかもね』

 

「……何を言っている? ツヴァイはどこなのか、だけ言え」

 

『だから、言い辛いって言ってるじゃん。ツヴァイが狙っているのは、メイちゃん達だよ』

 

 アーロンは瞠目する。アジトから出るな、と言っておいたはずだ。アジトがばれた? と一瞬考えたがその可能性は限りなく薄い。

 

「……あいつら、外に出ているんだな?」

 

 含めた声にルイは逡巡する。

 

『だから言ったじゃん。怒るし……』

 

「どこにいる! 教えろ!」

 

 いつになく声を荒らげたからであろう。ルイは気後れ気味に答えた。

 

『だから表参道だよ。今は、路地番と会っているみたい。そこにツヴァイが向かっている』

 

 アーロンは踵を返す。外に出ようとしたアーロンを制したのはラブリだった。

 

「待ちなさい、波導使い。どうするつもり?」

 

「ツヴァイを殺す。それだけだ」

 

「何か、弱みを握られたわね? だから焦っている」

 

「焦ってなどいない」

 

 だが声音が急いているのは事実。一刻も早く、メイ達に追いつかなければ。

 

「だから、焦るのはやめなさいって。ホテルから直通の車を回すわ。あなたが歩いていくよりかは速いでしょう」

 

 アーロンは振り返り、「いいのか?」と尋ねていた。

 

「それは契約以上の行動だが」

 

「あなたがやるというのならやるのでしょう。それはもう長い付き合いだし分かっている。……まぁ何よりも、新参の波導使いにしてやられるあなたを見るのは忍びない、って事があるわね。ここまで長い付き合いの相手のピンチに何もしないってのはあまりに薄情でしょう?」

 

 アーロンはどうするべきか、一瞬だけ考えたがここはホテルの言う通りにしたほうがよさそうだ。何よりもツヴァイに追いつくには自分の足だけでは無理かもしれない。

 

 手遅れになってからでは遅い。

 

「車を回して、軍曹。GPSの会社からその位置を探れるわね。通話先の、さっきの誰かにもう一度、逆探知をかけられないか聞いてみて」

 

 ホテルはルイの存在を知らないのだから誰か協力者の一部だと考えたのだろう。

 

「メールで送らせる」

 

 アーロンは即座にルイへとメッセージアプリでその旨を告げた。

 

「となると、あとは速さ、ね。わたくし達が勝つか、ツヴァイが勝つか」

 

「そのような結果など与えない」

 

 アーロンは帽子を目深に被り言い放つ。

 

「奴は俺が殺す」

 



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第七十五話「彼女の戦い」

 メイ達が先輩の路地番に付き纏われているのを発見したのはリオだ。

 

 知り合いだと割り入ってメイから話を聞く。

 

「ちょっとここでは……」

 

 驚いたのは炎魔シャクエンと、瞬撃アンズが同行している事だったが、メイだけよりかは冷静に動けた。

 

「分かった。二十七番、空いてましたよね?」

 

 先輩に言伝すると、いい顔はされなかった。

 

「おいおい、自分のプライバシーに路地番の権限を使うのは……。まぁ、いい。今回だけだぞ」

 

 礼を言ってリオは二十七番の路地に入る。端末でこの路地の封鎖の処理をしてから話を切り出した。

 

「で、何だったんだ?」

 

「その、アーロンさんについてなんですけれど」

 

 やはり波導使いか。ある程度予測はついていたが、自分は所詮、使い走りなのだろう。

 

「アーロンさんが、どうかしたのか?」

 

「新しい波導使い、知っている?」

 

 シャクエンが前に出て声にする。リオは眉根を寄せた。

 

「新しい波導使い? 聞いた事もない」

 

 その返答にメイは目に見えて落胆した。何が彼女をガッカリさせたのだろう。リオは慌てて取り繕う。

 

「えっと、どういう事なのか、説明してくれればおれでも力になれるかもしれない」

 

 メイは新たな波導使いがこの街に現れた事、その波導使いとアーロンは敵対している事を述べた。リオは考えを巡らせる。その情報はどこから得たのか。

 

「アーロンさんが君に言うはずがないよな? 誰から聞いた?」

 

 うろたえるメイにシャクエンが代わりに答える。

 

「オウミから」

 

「オウミ刑事? よく前の飼い主に会う気になれたな……」

 

 自分でも失言だと思ったがシャクエンは気にも留めない。

 

「メイが望んでいたから」と短い返答だけだ。

 

「でもでも! シャクエンちゃん、本当にありがとう! あたしだけだったら絶対に行き詰っていたよ」

 

 心から勘謝している様子のメイにシャクエンもまんざらではないのか、僅かに笑みを浮かべている。いつから、この街でも冷酷な殺人鬼、炎魔は笑えるようになったのだろう。

 

「でも、新しい波導使いの情報はないな。もしかしたらホテル辺りで止められているのかもしれない」

 

「それは多分、意図的」

 

 シャクエンの言葉にリオは頷く。

 

「そうだな。だってそうでもしないと、商売あがったりってのは目に見えているし」

 

 理解していないらしいメイは二人を交互に見やる。アンズが腰に手を当てて説明した。

 

「つまり、お兄ちゃんは自分の仕事の領分を守るために、既にホテルやハムエッグと交渉しているって事でしょ。だって波導使いなら誰でもいいって連中だとは思っていないだろうし、何よりも自分を騙られれば困るからね」

 

 幼いとはいえ暗殺者の家系で育っただけはある。領分を守れない暗殺者は街から排除される理も分かっているのだろう。

 

「つまり、アーロンさんはホテルとハムエッグさんに、話し合いを持ちかけているって事?」

 

「そうなる。でもそんな事をしている間に、一番に危惧しなければならないのは」

 

「相手の波導使いがどれほど動くのか、だな。もし相手が本気でアーロンさんを潰すつもりなら、バックにこだわってないだろう。すぐにでも資金源となる企業に声をかけているはずだ。相手からしてみればこの街の覇権を狙えるかもしれない戦い。企業からしてみてもホテル、ハムエッグの一極集中から逃れられるかもしれない。賭けてみる気にはなるだろうな」

 

「もう動いているかもしれない」

 

「だったら、ここにいるのも少しまずい。封鎖してあるが、飛び込まれればそれまでだ。おれが出来るだけ裏路地を使って案内しよう。安全な場所まで行って、アーロンさんに助けを乞うのが一番いい」

 

「それは駄目!」

 

 メイが遮る。端末を手にしようとしていたリオは顔を上げた。

 

「何で? アーロンさんに保護してもらうのが絶対いいはずだろ」

 

「……アーロンさん、怒るから」

 

 まさか、とリオはシャクエンに目配せする。シャクエンは、「止められなかったから」と応じた。

 

「参ったな……。アーロンさんに黙って出てきたのか。アーロンさん、言わなかったかい? 外に出るな、って」

 

「言っていたけれど、でもそんなの横暴じゃない。アーロンさんは自分の事はいつも自分で解決するのに、どうしてあたし達に出るなって」

 

 どうやらメイは事の重大さを理解していないようだ。リオは懇々と説明する。

 

「あのね……、アーロンさんは一番にあっちゃいけない可能性として相手の波導使いの動きの迅速さと、君らの身柄の拘束、を考えていたはずだ。炎魔、瞬撃は何とかなるだろう。でも、メイ、君だけはどうにもならない。……まぁ、だからこそ炎魔も瞬撃も戦闘姿勢で出ているんだろうけれど」

 

「そうなの?」

 

 今さらのメイの問いかけにシャクエンとアンズは答える。

 

「一応、いつでも敵が来てもいいように警戒はしている」

 

「右に同じく。いつだってスピアーを出せるよ」

 

 そこまでの非常時だとは思っていなかったのだろう。メイは明らかに狼狽していた。

 

「でもそんな……。そこまでの相手だなんてアーロンさんは」

 

「言わないだろうね。言わないからこそ、そこまでの相手なのだと思う。今回、アーロンさんは全く油断していない。ホテルとハムエッグに言い含めるほどだ。つまり、確実に相手を潰す気であるのは明白。だから、メイ、君の身柄の保護だけは絶対だった」

 

 メイは自分がジョーカーだとは思いもしなかったのだろう。後ずさり、「どうしよう……」と呟く。

 

「もう出てきたんだからどうしようもないとして、炎魔、瞬撃、二人とも対応の準備は?」

 

「出来ている。いつでも、〈蜃気楼〉が見張っているし」

 

「スピアーをいつだってメガシンカさせられる」

 

 この二人ほどの実力者ならば相手の接近に気づかない、という事はないだろう。リオは、よし、と膝を打つ。

 

「裏路地から、アジトまでの道を案内する。メイ、出来ればこのゴタゴタが収束するまで出て来ないほうがいい。それはアーロンさんじゃなくっても、おれだって同じ気持ちだ」

 

「でも……、少しでもアーロンさんの力になりたくって」

 

「今は、アーロンさんの力になるのなら絶対に姿を見せちゃいけないんだ。案内する。絶対に割れない路地くらいは頭に――」

 

「見ぃつけた」

 

 割って入った声にリオが視線を振り向けた瞬間、鳩尾へと鋭い一撃が突き刺さった。

 

 赤い、とリオは感じた。

 

 赤いコートに赤い旅人帽。まるでアーロンの姿を反転させたような人影が降り立ち、自分を殴りつけた。

 

 あまりの衝撃に声が出る前に吹き飛ばされる。

 

 揺れる視界の中には、赤い人影と追従する二人の黒服の姿が見て取れた。

 

「ツヴァイ。この娘か?」

 

「ああ、こいつだよ。アーロンの妾か何か知らないが、重要だと思っているはずだ。人質に取ろう」

 

 ツヴァイなる人物の傍に帯締めのような腕を有する獣型のポケモンが佇んでいる。

 

 メイは瞬時に動けないようであった。

 

 ポケモンが前に出てメイを狙おうとする。

 

 リオは制する声も出なかった。

 

 暗転しそうな意識の中、シャクエンの繰り出したバクフーンがその戦闘に割って入るのが最後の視界だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「〈蜃気楼〉!」

 

 シャクエンの声が弾け、相手のポケモンを焼き切ろうとしたバクフーンの一撃が奔る。

 

 直前に回避していた相手のポケモンがバクフーンと対峙した。

 

「波導が見えていた。不可視のポケモンのようだが僕には通じない。炎熱で光の屈折率を利用し、姿を見えなくする。炎魔、とかいう炎の殺し屋がいるとも聞いたな。まさか、その炎魔か?」

 

「答える口はない。〈蜃気楼〉、火炎車」

 

 バクフーンが襟巻きから炎を弾き飛ばさせ、車輪を形作る。真っ直ぐに体当たりしたバクフーンを相手のポケモンは避けようともしない。

 

「コジョンド、波導弾」

 

 コジョンド、なるポケモンが片手で青いエネルギー体を練る。そのエネルギーの光が輝いた瞬間、バクフーンは弾き返されていた。

 

 何が起こったのか、メイには理解出来なかった。

 

「〈蜃気楼〉の攻撃が、押し戻された?」

 

 見えた事をそのままに告げるとシャクエンが歯噛みする。

 

「波導使い……。虚偽ではなかったのか」

 

「僕はペテン師になったつもりはない。最初から、波導使いアーロンを殺す波導使いとして、この街に来たのだが」

 

 空気を振動させてツヴァイの背後から迫ったのはスピアーである。その針が突き刺さる前に赤い波導使いは、なんと生身の手で制した。

 

「危ないなぁ。針のある虫タイプ。だが、こんなもので」

 

 赤い波導使いは指でトンと突く。それだけでスピアーが仰け反りダメージを受けたようだった。

 

「スピアー、こっちへ!」

 

 アンズが虫笛を吹いてスピアーを傍に寄らせる。その手首から勾玉が垂れていた。

 

「行くよ、メガシンカ!」

 

 スピアーを紫色のエネルギーの甲殻が包み込もうとする。その瞬間であった。

 

 コジョンドが瞬時に肉迫し、アンズの腹腔を殴りつけた。

 

 突然の事にシャクエンも、メイも対応出来ない。アンズが一瞬で昏倒し、コジョンドが倒れ伏したアンズを見下ろす。

 

「メガシンカ、確かに恐ろしい。だが、トレーナーが失神すればメガシンカは実行されない」

 

 その言葉通りに、中断されたメガシンカエネルギーは霧散し、スピアーは持て余したように周囲を見渡していた。コジョンドの掌底がスピアーを打ち据える。スピアーは壁にぶつかって痙攣した。

 

「スピアーレベルなら、コジョンドの敵じゃない。さて、今度は炎魔だが、どうする?」

 

 強気の相手にシャクエンも歯噛みしていた。先ほどの火炎車が何故通用しなかったのかを考えているのかもしれない。

 

「〈蜃気楼〉、本気で行く!」

 

 手を突き出したバクフーンに呼応して地面が赤らんだ。直後に、粉塵が巻き起こる。炎熱を湛えた粉塵はまさしく噴火であった。

 

 その噴火の炎がコジョンドを狙おうとするがことごとく外れる。何故、とシャクエンも解せないようであった。

 

「噴火、か。確かに強い。だが、ポケモンの放つエネルギー波は地熱を通り、僅かな元素を吸収し、発火現象を作り出す。その過程が見えていれば、もう恐れる事はない」

 

 シャクエンは目を慄かせた。このように追い詰められたシャクエンを見るのは初めてであった。

 

「……〈蜃気楼〉の炎熱コントロールが」

 

「そうとも、全て、見えている」

 

 コジョンドが見当違いの方向に波導弾を撃ったかに見えた。だが、その直後、バクフーンの様子に変化が生ずる。右腕を持ち上げるが震えているのである。

 

「発火コントロールに使っていた右手を麻痺させた。方法は聞くなよ? これは波導使いにしか出来ない」

 

 そんな事が、とメイは瞠目する。アーロンでさえも苦戦したシャクエンを、目の前の男は一瞬で無効化した。

 

「何者なの……」

 

「名乗っていなかったかな。それともアーロンは言わなかった? 波導使いツヴァイ。アーロンの兄弟子に当たる」

 

「兄弟子……」 

 

 アーロンからは一言も。そう口にしようとした瞬間、コジョンドがバクフーンの懐に入った。

 

 バクフーンが炎の拳を打ち降ろそうとするが、その前にコジョンドの放った掌底が鳩尾へと打ち込まれる。

 

 奇妙な事に、さほど力の入ったとも思えない掌底一つでバクフーンの戦意が凪いでいった。

 

「〈蜃気楼〉……、〈蜃気楼〉! どうして。動いて!」

 

 主人であるシャクエンの声も聞こえていないようだ。

 

「聴覚を潰させてもらった。感覚器の麻痺は波導使いならばお手の物だ。今のバクフーンには、目も見えていない。先ほどの攻撃の布石で、視力もほとんど奪っておいた」

 

 まさか、そんな事が出来るはずがない。そう思うのと同時に波導ならば、どこまででも操れるのではないか、という恐怖心が鎌首をもたげる。

 

「波導使い……」

 

「そう。波導を使うとはこういう事を言う!」

 

 コジョンドが再度、バクフーンに拳を放った。今度の攻撃は完全に吹き飛ばすつもりで放ったらしい。バクフーンが背中から仰向けに倒れる。今までの戦歴を知っていればまず考えつかない醜態であった。

 

「〈蜃気楼〉! 何で、私の言う事を……」

 

「ポケモンは、感覚器を用いて主人の言葉を介する。このバクフーンの場合、僅かなサインで瞬時に次の行動を予見し、素早く動けていたようだがそれは視力と聴力頼みのにわか仕込みだ。同調でもなければ、それを超えた波導の仲介もない。そんなのでよく、殺し屋を名乗れたものだ」

 

 コジョンドが跳躍し、飛び膝蹴りをバクフーンに見舞う。シャクエンは目を見開いていた。

 

「もう勝負は……!」

 

「おいおい、殺し屋ってのは勝負している気になっているのか? 出会った時点で殺しだろうに。どうやら随分とこの街の殺し屋はぬるいらしい」

 

 コジョンドが間断のない拳を見舞う。バクフーンは抵抗も出来ず攻撃されるだけだった。シャクエンの、下がれ、という指示も聞こえていないらしい。

 

「やめて……、〈蜃気楼〉……、私の〈蜃気楼〉が……」

 

 シャクエンの訴えかけにメイは声を荒らげた。

 

「あなた! 何をやっているのか分かっているの! 戦意のない相手のポケモンをいたぶるなんて!」

 

「酷いかな? だが相手は殺し屋だ。手加減をして大丈夫な相手じゃないだろ?」

 

 まるで良心の呵責も感じていない声音。メイは思わずホルスターからモンスターボールを引き抜いた。

 

「行って! メロエッタ!」

 

 飛び出したメロエッタが音波攻撃を仕掛ける。コジョンドは即座に後退し、ツヴァイの指示を待つまでもなく、メロエッタの上を取った。

 

「速い……」

 

「トレーナーだったのか。だがそれにしたって粗野だな。音波攻撃を波導の読める僕のポケモンにするなんて」

 

 コジョンドが飛び膝蹴りをメロエッタに決める。メロエッタは吹き飛ばされる形となったが、何とか持ち堪えた。

 

「脆そうな手足。それに遠隔以外に使い道のなさそうな見た目だ。そんなんで、近接格闘型のコジョンドは沈められない。お前達、炎魔と瞬撃、それにあのトレーナーを」

 

 黒服達が動き、こちらを捕縛しようとする。メイは咄嗟にシャクエンとアンズを守るためにメロエッタに指示した。

 

「メロエッタ! サイコキネシス!」

 

 メロエッタの放った青い思念がシャクエンとアンズの身体を保護する。黒服達は触れられずに戸惑った。

 

「何を躊躇している? 撃てよ。持ってるんだろ、銃くらい」

 

 まさか、とメイは血の気が引いたのを感じた。黒服二人組が拳銃を取り出し、シャクエンとアンズに向けて構える。

 

「何で! 人質にする気じゃ……」

 

「人質は一人でいいんだ。この二人、目が覚めれば厄介。殺しておくのに何の躊躇いもない」

 

 ――この男は……!

 

 メイは生まれて初めて、憎しみで脳内が白熱化するのを感じた。

 

 何があってもここで倒さなければならない。自分が、ここで――。

 

 そう判じたメイの内奥で声が発した。

 

 ――手伝ってあげる。

 

 誰、と問い返す前に、声帯を震わせてメイは歌っていた。

 

 自分でも知らない歌。何語なのかも分からない歌を紡いでいる。

 

 ツヴァイが眉をひそめた。

 

 その直後、メロエッタの姿がオレンジ色の光を帯びて変貌してゆく。

 

 髪が巻き上がり、その体躯に力が篭った。姿勢を沈め、攻撃色に染まった眼光がツヴァイを睨む。

 

 メロエッタは跳躍していた。コジョンドの攻撃網を掻い潜り、ツヴァイ本体へと肉迫する。

 

「まさか……、僕とコジョンドの網を……」

 

 その声が発せられる前にメロエッタの放った蹴りがツヴァイの頬を捉えていた。ツヴァイが後退し、その身へと追撃の拳をメロエッタが見舞おうとする。

 

「コジョンド!」

 

 呼びつけたツヴァイの前にコジョンドが立ち現れる。

 

 それでもメロエッタは止まる様子はない。力強い拳をコジョンドへと打ち込もうと構える。

 

「地面を捲り上がらせろ! 盾に使え!」

 

 コジョンドが青いエネルギーを纏った拳で地面を殴りつけると段階的に地面が捲れ上がり、メロエッタの拳を遮った。

 

 その刹那、コジョンドが音もなくメロエッタの背後を取る。

 

 メイも反応出来なかった。

 

「何の気配もない……」

 

「波導使いだぞ……。気配くらいは消せる。コジョンド、やれ!」

 

 コジョンドが不意打ちの拳をメロエッタに浴びせようとするが、その前に跳び上がっていたメロエッタが肘打ちをコジョンドに決めた。

 

 誰しも予想出来なかった。無論、トレーナーであるメイも、である。

 

 メロエッタがこれほど近接格闘で動けるなど、夢にも思わない。だが、兆候はあった。アンズが言っていたではないか。

 

 ――自分には正体不明の力がある。

 

 コントロール出来ている今ならば、とメイは拳を握り締める。

 

 先ほど歌ったのは完全に無意識だったが、今はメロエッタを見据えている。

 

「メロエッタ! コジョンドを倒して!」

 

 声を受けたメロエッタが翻り、コジョンドの懐で超近距離格闘を行った。メロエッタの細い手足がまるで鞭打ちのようにコジョンドへと叩き込まれる。その速さにメイも圧倒されていた。

 

「なんて……スピード」

 

「……速いだけなら! コジョンド!」

 

 コジョンドがメロエッタの拳を受け止める。その瞬間、攻防が逆転した。コジョンドが拳を押さえ込んでメロエッタを引きずり落としたのである。メロエッタのオレンジ色の攻撃形態が解けてゆく。

 

 巻き上がった髪が元に戻り、手足から力が失せた。

 

「何だって言うんだ、今のは……。フォルムチェンジか? だが、お前」

 

 ツヴァイが自分を睨む。今度の標的はトレーナーである自分以外になかった。

 

 逃げようとして回り込んできたコジョンドが前を塞ぐ。

 

「何をした……小娘が。無害かと思ったが……。お前ら、銃を構えろ」

 

 黒服二人がメイに向けて銃口を構える。メイは金縛りにあったように動けなくなった。

 

「コジョンドが退路を塞いでいる。本来なら人質に使おうと思っていたが、もういい。殺せ!」

 

 その声が木霊した瞬間、黒服達が引き金を引く。

 

 終わった、とメイは感じた。

 

 しかし、その時、この場にそぐわないエンジン音が響き渡る。

 

 目線を向けたのはツヴァイだった。

 

 次いで黒服が目を向けた直後、大写しになったのは獣のような排気筒を有し、いななき声を上げるバイクであった。

 

 そのバイクから人影が立ち上がって黒服へと飛び移る。

 

 瞬間的な事に、ツヴァイも、黒服も対応出来ない。

 

 現れたその人影にメイだけが声にした。

 

「アーロン、さん……」

 



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第七十六話「波導の末路」

「撃て!」

 

 即座に叫んだツヴァイの命令で黒服が発砲する。

 

 その時にはアーロンの姿は掻き消えていた。代わりに黒服の片割れが銃弾に倒れる。

 

 どこへ、と銃を撃った黒服が首を巡らせると、その背後へと青い影が降り立った。

 

「まさか……、まさか!」

 

 振り返ろうとした黒服の喉から迸ったのは断末魔の叫びだ。だらんと項垂れた黒服の首筋へと電気ワイヤーがかかっている。

 

 ツヴァイは呆気に取られていた。メイも、である。どうしてアーロンがここにいるのか、誰も説明出来なかった。

 

「何故、ここが……」

 

「親会社を売る事までは、さすがにしなかったようだ。GPSの逆探知。馬鹿の持っているホロキャスターの電波くらい辿れる」

 

 黒服を払い除け、アーロンが歩み出る。肩に乗ったピカチュウが電気袋に青い電流を走らせ怒りを体現していた。

 

 ツヴァイはようやくアーロンが来たという現実を飲み込めたのか、笑みを浮かべる。

 

「そっちから来たって言うんなら、話は早い! ここで全てを――」

 

「決する」

 

 言葉尻を引き継いだアーロンが電気ワイヤーを伸ばしてツヴァイを絡め取ろうとする。それを遮ったのはコジョンドであった。電気ワイヤーを切断し、アーロンへと駆けてゆく。アーロンは右手を突き出してコジョンドと交差した。

 

 コジョンドの拳がアーロンに突き刺さりかける。アーロンはギリギリのところで回避し、コジョンドへと電撃を見舞おうとするがコジョンドもその攻撃を避けていた。

 

「……同調か」

 

 言い捨てたアーロンに、「いかにも」とツヴァイは答える。

 

「ただのトレーナーとポケモンのそれだと思うな。波導使い、アーロン!」

 

 コジョンドの青い光を纏った拳が空を切る。アーロンは後退して電気ワイヤーを放っていたが、ツヴァイに巻きつく前にコジョンドが蹴りで叩き落す。

 

「ワンパターンだな、アーロン。そんな攻撃では、僕は殺せない!」

 

「自信満々なところ悪いが、これだけではないのでね」

 

 アーロンの左手からはもう一本、電気ワイヤーが伸びていた。その先はツヴァイの背後にある通風孔に繋がれている。

 

「まさか……!」

 

「死ね」

 

 放たれた電撃が換気扇を爆発させ、水蒸気と粉塵が舞い上がる。視界を閉ざされた中、アーロンの手がメイを引っ張った。

 

「その、アーロンさん」

 

「これで時間を稼げるか」

 

 しかし、アーロンの目論見は脆く崩れ去った。

 

 跳躍してきたコジョンドが進路を遮ったのである。アーロンは右手を突き出し、コジョンドを始末しようとするがコジョンドの精密な動きのほうが素早い。瞬く間に攻防が逆転し、アーロンが防戦一方になる。

 

「言っただろう! 同調だと!」

 

 粉塵に煽られた赤いコートをはためかせ、ツヴァイが声にした。アーロンは肩越しに視線を振り向ける。

 

 二人の眼光がお互いを捉えた。

 

「僕の視界を潰すだとか、コジョンドだけを狙えば勝てるだとかそういう次元じゃないんだよ。僕とコジョンドは等価だ。だから、どっちを潰せば、ではない。嘗めるなよ」

 

 アーロンはコジョンドの攻撃をさばきながら、「なるほど」と声にする。

 

「ならば、両方を同時に殺すしかないな」

 

「そんな手段は存在しない!」

 

 コジョンドの踏み込んだ一撃がアーロンの鳩尾へと叩き込まれる。アーロンは直前に防御したようであったが、その背中へと追撃を放ったのはトレーナーであるツヴァイであった。

 

「これが、波導使いの戦い方だ!」

 

 なんとツヴァイは掌底を放ち、アーロンの身体を煽った。衝撃波にアーロンはたたらを踏む。

 

「ポケモンとトレーナーがどちらも! 波導を使って肉体を強化する! それによる連携攻撃。避けようもないだろう、アーロン」

 

 アーロンへとツヴァイが踵落としを決めようとする。咄嗟に後ずさったアーロンの頭部のあった空間を赤い軌道が引き裂いた。

 

「赤い、波導……」

 

 可視化されたそれにアーロンは呟く。

 

「それほどの波導密度。殺すつもりである事は重々分かった」

 

「何を今さら! 波導使いは二人と要らない!」

 

 叫んだツヴァイが地面に貫手を突き刺す。持ち上げられたのは重量がツヴァイ本体の何倍もあるコンクリートの塊であった。コンクリートを補強しているのは赤い光である。

 

「波導は! こうして使う!」

 

 投擲されたそれにアーロンは手を払う。

 

「ピカチュウ、電撃で相殺……」

 

「遅い!」

 

 ピカチュウが電撃で相殺した瞬間、岩石の合間から現れたのはツヴァイ本体であった。まさかトレーナーが直に攻撃を仕掛けるなどアーロンも思わなかったのだろう。反応が一拍遅れたのが見て取れた。

 

「貴様……」

 

「これが、真の波導の継承者の戦い!」

 

 打ち込まれかけた波導による激震を、アーロンは自身の右手と突き合せる。両者が弾き飛び、お互いに距離を取る形となった。

 

「電撃で、僕の波導を消そうとしたな……。ようやく分かったぞ、アーロン。お前の波導の真髄は消す事、いいや切る事か。どちらでもいい。その真髄が僕や元帥とは真逆である事がよぉく分かった」

 

「それこそ、今さらの言葉だろう」

 

 アーロンの挑発にツヴァイが声を張り上げる。

 

「コジョンド!」

 

 高空に展開していたコジョンドが飛び蹴りの姿勢を取る。アーロンは前に転がって避けようとしたが、そちらはツヴァイの射程だ。

 

「これで!」

 

 打ち込まれかけた掌底に対し、アーロンはピカチュウへと命じる。

 

「エレキネット、衝撃を減殺」

 

 張り巡らされた電気の網によってツヴァイの掌底が打ち消された。それだけではない。アーロンとツヴァイがエレキネットによって繋がった結果となった。

 

「これで」

 

「終わりだと思うな!」

 

 何とツヴァイは自らの指で、エレキネットを引き千切った。そのパワーは既に常人の域を超えている。

 

「獣となるか。だが、それは破滅の道だぞ」

 

「破滅だと? ここで波導使いアーロンを殺せなければ、いずれ同じ事!」

 

「分かっているじゃないか」

 

 ツヴァイの全身から立ち上ったのは赤い瘴気であった。エネルギーの枠を超えたそれがツヴァイの四肢に神経を走らせる。

 

「波導による肉体強化。これで僕は、コジョンドと、ポケモンとほぼ同じパワーだ」

 

「それによってでも超えられない壁はあると知るがいい」

 

 アーロンが電気ワイヤーを放つ。しかしツヴァイは指で弾いた。それだけで電気ワイヤーがたわみ、瞬く間に力をなくしてゆく。

 

「これが、ポケモンのパワーだ!」

 

 アーロンが飛び退る。打ち下ろされた拳が地面を抉った。隕石の落下の再現のように、粉塵が舞い上がり地面が陥没する。

 

「コジョンド、挟み込め!」

 

 命令にコジョンドが青い波導を帯びてアーロンへと攻撃する。波導の塊がアーロンを押し潰さんとした。

 

「アーロンさん!」

 

「波導弾か。だが、俺とてただ単に今まで攻撃をいなしてきたわけではない」

 

 突如として、アーロンに襲いかかろうとしていた波導弾が壁に遮られたように動きを止める。ツヴァイも目を瞠っていた。

 

 メイは視界に入った情報に困惑する。

 

「ピカチュウのエレキネットが、いつの間にこんな……」

 

 ピカチュウの張り巡らせたエレキネットの包囲網が、アーロンの周囲を固めているのである。お陰で波導弾が着弾する前に、エレキネットがその衝撃を絡め取った。

 

「馬鹿な……、僕との戦闘中にそんな事をする暇なんて」

 

「分かっていないようだから言っておこう。――波導を使うとは」

 

 エレキネットの末端が地面を絡めて巻き取ってゆく。ツヴァイの直下の地面が揺れ、その姿勢が危うくなった。

 

 バランスを崩したツヴァイへとアーロンが突っ込む。

 

 右手を突き出し、服の上からそのまま心臓を引っ掴んだ。

 

「こういう事だ」

 

 電撃が可視化出来るほどの勢いで放たれ、ツヴァイが口腔から断末魔の叫びを上げる。

 

 プスプスと黒煙が棚引き、生き物の焼ける臭いが鼻をついた。

 

「……慢心しなければあるいは、だったな」

 

 身を翻すとツヴァイが倒れ伏す。

 

 メイは思わず尋ねていた。

 

「死んだんですか?」

 

「これで生きていればそれこそ化け物だろう。それよりもお前……、出るなと言っておいたはずだが」

 

 アーロンの睨みにメイは目線を逸らす事しか出来ない。慌ててシャクエンとアンズに歩み寄る。

 

「二人とも、気を失っているだけみたいです」

 

「殺されてもおかしくなかった。その自覚はあるのか」

 

「分かっていますよ。……でもアーロンさんが、何もかもを背負い込むから」

 

「俺のせいか。何でお前らはそういう……」

 

 その言葉が最後まで紡がれる前に、メイは背後から引っ掴まれたのを感じた。肩をあり得ない力で拘束され、首筋に冷たい刃物の感触が当てられる。

 

 まさか、と視線をやるとツヴァイが肩を荒立たせて立っていた。

 

 あり得ない。死んだはずだ。

 

 だが、ツヴァイの眼には最早、生き物としての色調ではない。怨念の塊のように、禍々しい赤が浮かんでいる。

 

「……波導だけで、行動不可能になった四肢と脳髄を無理やり叩き起こした」

 

「波導使いならば、知っているだろう? 波導傀儡。波導の奥義の一つ」

 

 アーロンは電気ワイヤーを伸ばそうとする。しかし、ツヴァイの行動がそれを止めた。

 

「動くなよ、アーロン。動けば、僕の波導の爪で、この娘の頚動脈を掻っ切る」

 

 ツヴァイの眼には本気でそうすると思えるような狂気があった。アーロンは落ち着いた声音で返す。

 

「……俺との勝負だけのはずだろう」

 

「うるさい! お前との勝負というのならば、この娘だってお前としては失いたくないだろう? こいつ、僕をコケにしやがった。だから殺す。何の躊躇いもない」

 

 ツヴァイがコジョンドを呼びつける。コジョンドはエレキネットの網に囚われて動けなくなっていたが、主人の命令で全身から波導を立ち上らせる。波導の刃が奔り、エレキネットを断ち切った。

 

「コジョンドはまだ動ける。僕もまだ生きている。勝負はついていない」

 

「よせ、と言っても無駄だろうが、やめておけ。決定的な間違いを犯さずに済むぞ」

 

「挑発か? それとも負け惜しみか? ここでこいつを殺せば、お前の敗北だもんなぁ」

 

 アーロンは電撃を右手に集中させる。射る光を灯した眼差しでツヴァイを睨んだ。

 

「退け。そうでなければお前は、間違いを間違いと気づかないまま、死ぬ」

 

「誰に言っているんだ? この状況下で言える口か? 僕のほうが波導使いとして優れている。それを認めたくないだけだろう」

 

「……名誉ならくれてやる。波導使いと名乗りたいのなら好きにしろ。ただ、その真実に至る道標の一つも知らないまま、死んでいくのがお前だ。師父はお前に、そこまで教えなかったか。あるいはお前が教えを拒んだか」

 

「うるさいんだよ! 元帥は、あの人の言葉は難しいだけで、結局繰り言だ。僕の波導が強過ぎるからっていつも言っていたさ。波導を使い過ぎるな、過信するな、って。わけが分からない。僕は特別だ! 波導使いなんだ! 何を惑う必要がある? 元帥も、アーロン、お前も、どいつも底辺漂っている雑魚なんだよ!」

 

 コジョンドが波導弾をアーロンに打ち下ろそうとする。しかしアーロンは動かなかった。今までは避けようとしていたのにどうして。

 

 自分のせいなのでは、とメイは感じていた。

 

 ここでアーロンが余計な行動に出れば、自分が死ぬから。

 

 アーロンはこのまま殺されかねない。

 

 ならば……。

 

「……アーロンさん。いいです、あたしの事は。この! 勘違い波導使いを、倒してください!」

 

 メイの声にツヴァイが首を絞めた。

 

「やかましいんだよ! このアマ! 僕に逆らわなければ、ちょっとばかしいい目を見られたのに。こんな、紛い物の波導使いの下でいるよりかは幸福であったのにな」

 

「……あなたなんかに、アーロンさんの何が分かるって言うの」

 

 怒りを滲ませた声にツヴァイが目を見開く。

 

「馬鹿が! 長生き出来たものを! 心臓を貫いて、惨たらしく殺してやる!」

 

 ツヴァイが貫手を構える。

 

 終わった、とメイは目を固く瞑った。

 

 しかし、何も訪れなかった。

 

 恐る恐る目を開けると、ツヴァイの攻撃を放とうとしていた右手が、指先から結晶化していた。

 

 思わぬ現象に、ツヴァイもメイもわけが分からない。ツヴァイは困惑し、メイを手離した。

 

「な、何だこれ。くそっ! 離れろよ!」

 

 もう一方の手で払い除けようとするが、左手も同様に結晶化が進行する。ツヴァイが両腕を掲げ叫んだ。

 

「何なんだよ、これ!」

 

「どうやら、お前は波導使いの、その代償を知らないで戦っていたらしいな」

 

「代償……」

 

 ツヴァイがアーロンへと敵を見る目を向ける。アーロンが仕掛けたのだと思い込んだのだろう。

 

「何をしたァ……、波導使い、アーロン!」

 

「何も。俺は本当に、何一つ手を加えていない。全て、お前の招いた結果だ」

 

「嘘だ! 僕は波導を使っていただけだ! しかも、進化した波導を。赤い波導は僕を更なる領域へと高めてくれるはずじゃ――」

 

「それが、間違いであった。どうやらお前は兄弟子を自称した割に、師父の言葉の半分も理解していなかったらしい。師父は、俺にこう言った。波導使いの波導は無限ではない。いや、もっと言えば全ての生物の波導に、無限などない。有限なのだと」

 

 アーロンの声にツヴァイは怒りを滲ませる。

 

「コジョンド! アーロンを叩き潰せ!」

 

 コジョンドが放とうとしていた波導弾であったが、全てが霧散した。コジョンド自身も倒れ伏す。肩を荒立たせて今にも死に絶えそうだった。

 

「言ったはずだ。有限だと。放出系の波導使いは、その根源、つまり波導という名の生命エネルギーを常に放出している。その放出を抑える術をまず習うはずだが、お前はその過程を師父からまともに教えられなかったな? 師父の波導が弱いんじゃない。あの人は、最大まで波導を弱める術を知っていた」

 

 ツヴァイが両手に視線を落とす。次々と結晶化が進んでいき、右手のほうは肩口まで至った。

 

「何だこれ……。僕は、どうなるんだ?」

 

「波導使いの終点だ。波導の枯渇した人間は、結晶化して消える。死ぬのでも、殺されるのでもない。結晶化による、消滅。それが波導使いの運命」

 

「でまかせを!」

 

 ツヴァイがもう一度、波導を手に込めようとするが、その瞬間、右手が形象崩壊した。どろどろと溶け出す右手にツヴァイが恐怖に慄いた目を向ける。

 

「これは……、僕の手が……」

 

「お前、赤くなったのは進化の証だと言っていたな。それは間違いだ。波導の赤は危険色。常に青い波導を維持していなければすぐにその状態、つまりオーバーヒートの状態に達してしまう。お前は勘違いをして、赤の波導が強くなったのだと、思い込んだだけだ」

 

「嘘だ……。僕の波導は実際に強かった! お前よりも!」

 

「散り際に、波導は最盛期を迎える。お前は徹頭徹尾、勘違いだったという事だ」

 

 ツヴァイが目を戦慄かせて後ずさる。しかしアーロンは逃がすつもりはないらしい。電気ワイヤーを手に、ツヴァイを追い詰めようとする。

 

「い、嫌だ……。消えるなんて……。僕の存在の意味もなく、消えるなんて!」

 

 逃げ出そうとしたツヴァイの足元を電気ワイヤーが払う。よろけたツヴァイが転倒するが、その瞬間、足先から右脚の付け根までが瞬時に結晶化した。もう立つ事も出来ないツヴァイがアーロンを目にして恐怖に顔を引きつらせる。

 

「あ、アーロン……。慈悲はないのか? 兄弟子だろう? 同門だ。元帥……師父の下で学びあった者同士、通じるものは……」

 

「ないな。悪いが俺は売られた喧嘩を買っただけだ。お前が勝手に宣戦布告しておいて、いざ負けが濃くなれば命乞いか? 言っておくが、波導使いを嘗めるな」

 

 その言葉にツヴァイが雄叫びを上げてアーロンへと飛びかかる。最後の足掻きだ。赤い波導が一気に光を帯びてアーロンを覆い被さろうとした。

 

「見ろ! 僕の波導が、こんなにも輝いて……」

 

 その直後、ツヴァイの内奥から発せられた赤い波導が強く脈動したかと思うと、一瞬で弾け飛んだ。

 

 結晶の欠片が舞い散る中、アーロンはツヴァイであった存在の残滓をその手に掴む。

 

「自滅まで追い込まれてなお、自分を強いと信じて疑わなかったか……」

 

 散り際の花火であったのだ。最後の最後、波導が一際強く輝いたのはその波導の消滅――つまり、ツヴァイという個の消失を意味していた。

 

 押し黙るアーロンと共に、メイは言葉もなかった。

 

 自分の事を強いと信じて疑わなかった男の最期は呆気なく、その存在の証明さえも失ってしまうなど。

 

 残酷だ。

 

 それが敵であったとしても。許せない敵であったとしても、何と残酷な事か。

 

 自分の死骸さえも存在しない、無の極地。それが波導使いの最後だなんて悲しい。それを、アーロンが沈黙の内に是としているのも。

 

 メイの頬を涙が伝った。

 

「何故、泣く? 奴は敵だった。お前や、炎魔、瞬撃に危害を加えた、敵であったんだぞ?」

 

 悲しみの理由が分からないのだろう。メイは涙を拭いながら答えた。

 

「だって……波導使いの行き着く先は、って事は、アーロンさんもいずれは……」

 

 それ以上は言葉に出来なかった。

 

 いずれ、アーロンも結晶化し、消滅する。

 

 それが分かってしまったから、メイは止め処ない涙に暮れた。

 

「いずれは、の話だ。その前に、俺にはやる事がいくつかあってな」

 

「やる事?」

 

 しゃくり上げるメイに、アーロンは語って聞かせる。

 

「師父と、約束した事がある。これだけは守ってから死ね、と」

 



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第七十七話「波導の運命」

「アーロン。戦いが板についてきたではないか」

 

 ルカリオの拳をいなし、こちらの電撃を打ち込む。しかしルカリオはすぐさま波導の回路を修復して持ち直した。

 

 本気の波導切断に持ち込んでも、ルカリオの波導は変幻自在。すぐさま回路の配置を変えられ、切断を解除されてしまう。その繰り返しだった。

 

 アーロンの波導で強化した蹴りがルカリオを見舞う。当然、人間の蹴り技などたかが知れている。

 

「電撃で、疾走する」

 

 脚部に電気的刺激を流す。ピチューの放った電撃が脚部の波導を強化し、爆発的な瞬発力を手に入れた。躍り上がったアーロンがルカリオの背後を取る。

 

 ルカリオが振り返る瞬間、アーロンはその顔面に向けて右手を突き出していた。

 

 振るわれた拳の空を切る音が草原の中、響き渡る。

 

 ようやくルカリオ相手に王手が取れた。

 

 師父が文庫本を畳み、「見事」と声にする。

 

「ルカリオ相手にようやく、一本を取れた、というわけだ」

 

「し、師父。これで、ぼくも……」

 

 息苦しかった。無理もない。ポケモンの電撃を自らに浴びせて強制的に強い膂力を得る。通常の判断では考えつかない攻防であった。

 

 呼吸の荒いアーロンの肩に、師父がそっと手を触れる。瞬間、濃厚であった疲れが瞬く間に凪いでいった。

 

「今の……」

 

「癒しの波導。波導はこういう事にも使える。さて、一本取れた、という事は教えなければならない。波導使いの、宿命という奴を」

 

「宿命?」

 

 師父は首周りの服を引き下げる。アーロンは絶句した。

 

 師父の胸元が、青く結晶化している。

 

「し、師父……。大丈夫なんですか? 何かの病気ですか?」

 

「違う。アーロンを継ぐ者ならばこれを聞く運命にある。いいか? 波導には限りがある。当然な事だ。生命の根源を使う禁忌の術。代償が高くつくのは当たり前。わたしはこの先、長くて十年、といったところだろう」

 

 突然に放たれた師父の宣告にアーロンはよろめく。師父が、あと十年も生きない?

 

「何で……。どうしてそんな……」

 

「波導使いは、長持ちしない。超人的な能力と引き換えに、命を削るのが、波導使い、それを極めた者の宿命だ。全盛期であっても、波導を毎日のように使い続ければ、その寿命は二十年、あるかないか」

 

 その言葉はそのまま自分にも突き刺さった。もう、自分はそう長く生きられるわけではない?

 

「ぼく、も……。師父、ぼくもなんですか」

 

 暫時沈黙の後、師父は呟く。

 

「……お前ならば、わたしよりかは生き永らえる。放出系ではないからな。一部に集中して使うタイプ、切断型のお前の波導の使い方ならば少しは長生きかもしれない。だが、それでも常人よりかは早く寿命が訪れると思え」

 

 頭を鈍器で殴られたような衝撃。

 

 くらくらする視界の中で、アーロンは考える。

 

 自分の寿命が、あと十年かそこいら。突然の宣告に戸惑うしかない。

 

「長生きしたかったのか?」

 

 師父の質問にアーロンはゆっくりと頭を振った。

 

「……いえ、この青い世界が続くのならば、ぼくは生き永らえても仕方がないと思っていました。でも、そんなに短いなんて」

 

「意外、か。だが無理もない。わたしも、先代のアーロンにこれを聞かされた。その直後だったよ。先代も放出系だったからな。結晶化が進んだ」

 

 師父は自分の先代の話をしようとしているのだ。今まで、師父の口から教え以外の事を聞くのは初めてであった。

 

「死んだんですか?」

 

「いや、結晶化現象が最後まで行く前に、わたしがこの手で介錯した。これがアーロンの、波導使いの務めだ。先代の波導使いを絶対に、殺さなければならない。それは波導使いアーロンを名乗るのならば絶対の掟だ」

 

 そのような残酷な掟、とアーロンは口にしようとしたが、それ以上に残酷なのは結晶化が進んで死ぬ事なのだろう。

 

「後悔、していないんですか……」

 

 それでも、聞いてしまったのは師父の背中があまりに寂しげに思えたからだ。先代の事を語る師父は、今までの淡々とした佇まいではない、人間めいたものを覗かせていた。

 

「後悔はしていない。彼女のたっての希望だったからな」

 

「彼女……」

 

「言い忘れていたが、先代の、前のアーロンは女性だった。初めての女性波導使いであったそうだ」

 

 思いもよらない事にアーロンは絶句する。それと同時にある程度理解した。先代アーロンと師父の関係を。

 

「その……、先代と師父は……」

 

「婚約者であった」

 

 その一言に全てが集約されているように思えた。婚約者、愛した者を殺さなければならなかった。否、愛した者の最期を看取らなければならなかった。

 

 自らの波導で、この世で最も恋しい人を失うなど、今のアーロンには耐えられなかった。

 

 胸が締め付けられる。

 

 師父はきっと、後悔していないと言ったが嘘なのだろう。いくら婚約者たっての希望であっても、その者の命を奪う。常人では耐えられまい。

 

「わたしが、彼女の波導を感知したのは出会って一年経った頃の事だった。雨の日に、波導が初めて見えた。その家系はずっと波導使いが続いており、アーロンの名を襲名してきたが、彼女と血縁者には波導感知能力者がいなかった。だから、わたしが彼女の跡を継ぐ事となった」

 

 どれほどの苦しみがあったのか、子供である自分には推し量る事さえも難しい。

 

「わたしは波導使いとしての修行を積み、そして最後の、本当の襲名を約束されたその時に、彼女を殺す決断をせねばならなかった。波導使いは死に際が最も強い波導を帯びる。今までにない最強の波導で彼女もわたしを迎え撃ってきた。それが礼儀だったのだろうな。わたしも、全身全霊で彼女を倒し、その命を奪った。アーロン。波導使いは継いでこそ強くなる。その家系が波導使いを常に血縁者から選んでいたのも全てそのため。波導使いは継げば継ぐほどに強力なものとなる。もし、お前がこれ以上の強さを努力ではなく、それ以外のもので補おうとするのならば、波導使いの血で贖わなければならない」

 

 つまり自分の死でもってのみ、弟子の完成を見る。師父の言葉にアーロンは涙が出そうになったがぐっと堪えた。

 

 師父は、愛する者を殺したのだ。その人を前にして、涙など流すのは甘ったれである。

 

「……本当に、それ以外ないのでしょうか」

 

「ない。波導使いが、真の波導使いとしての完成を見るのは、師匠を殺した時のみ。その後、ゆっくりと、だが常人より遥かに早く、波導使いは死に行く。アーロン。次にわたしと別の場所で会った時には、それは最後の審判の時だ。お前が死ぬか、わたしが結晶化して死ぬまでに、お前の波導が完成している事を願おう」

 

 耐えられなかった。アーロンは涙していた。

 

 師と仰いだ人を殺さなければならない。その宿命に。師父の背負っている哀しみに。

 

 そのような悲しい事をしなくとも、波導使いは生きていていいのではないか。そのような甘い夢を口にしようとして、必死に堪える。

 

 そんな夢想が今の自分程度に許されるわけがない。

 

「もっと……ぼくは強くなります……」

 

 しゃくり上げながらアーロンは口にする。

 

「強くなって、師父を殺さないでいい方法を、探します……」

 

 師父は一瞬だけ呆気に取られたようだったがすぐさま、平時の声音を取り戻す。

 

「そうか。期待しないでその時を待とう」

 

 いずれ、波導使いは殺し合う。そのような運命、自分で変えたかった。

 

 だが、後にも先にも、師父は波導の教えをしてくれたものの、その運命を変える方法については言ってくれなかった。

 

 殺す事でしか、波導使いは血を継げない、などデタラメだ。全て、師父の作り話なのだ。 

 

 そう思いたくってアーロンは必死に修行した。

 

 師父のルカリオを超える方法を。波導の暗殺術を体得し、今までの波導使いに収まらない戦法を編み出してきた。

 

 全ては師父を殺したくないから。

 

 誰だって最愛の人を殺す事でしか、この命を終えられないなどという運命から逃れたいはずだ。

 

 だからアーロンはそれこそ血反吐を吐くまで戦い、命を摘み、鍛錬を重ねた。

 

 師父との戦いを避けるため。師父を殺さないで済む未来を作るため。

 

 ――だが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……だが、波導使いとして熟練すればするほどに、それが不可能な事は身に沁みた。波導使いはいずれ結晶化の運命を辿る。それが理屈ではなく、自分の経験則で分かった。波導が衰える時は死ぬ時。俺の場合は、その時こそ、師父を殺さなくてはならない。だから師父に見つけてもらいやすいように、この格好をしている。これは、何も伊達でやっているわけではない。この衣装には意味がある。脈々と受け継がれてきた波導の使い手を、名乗るに値する、という意味が」

 

 だからこれは呪いなのだ。

 

 アーロンは旅人帽を傾ける。

 

 どれだけの命を摘んできただろう? どれだけ、人を殺せば気が済むのか、と罵られ続けてきただろう? その度に、波導使いの宿命が脳裏を掠める。

 

 殺し、殺されに慣れなくてはいずれ来る宿命の時、師父を殺すのにも迷いが生ずる。

 

 きっと、師父も同じように常人の感性を捨てて、愛した人を殺したに違いない。

 

 そうでなければ、波導使いとはいかに弱い存在なのか、ハッキリと分かってしまう。

 

 ツヴァイがそうだ。

 

 きっと彼は途中で逃げ出したか破門された。だから中途半端にしか波導の使い道を知らず、赤い波導が進化だとのたまった。

 

 覚えず自分の行く末を見せられた形になってしまったのだ。

 

 自分も、波導の継承者がいなければ、きっとこのように、惨めに死に行くだけだ。

 

 ツヴァイはまだ幸福だったのかもしれない。自分がまだ出来る、まだ強いと思えるうちに死ねた。それならばまだいい。

 

 師父は――この空を同じように見ている師父は、結晶化に怯えながら、自分を待っている。

 

 高層ビルが建ち並び、空を閉ざそうとしても降り注ぐ波導の青い陽射しだけは、この青い闇を照らし出している。

 

 師父もきっと、同じものを見ているはずだから。

 

「……そんなの、嫌ですよ……」

 

 メイは聞き終えてからそう口にした。アーロンは息をつく。

 

「嫌でも、終わりはやってくる。万物に等しく、死は訪れるんだ。だからこれは波導使いなりの――」

 

 そう説明しようとした途中、背中に体重を感じ取った。

 

 メイが自分に駆け寄ってきて、そっと抱き締めた。

 

「……そんなの、アーロンさんの意味がそんな事に集約されるなんて……」

 

 耐え切れない、とでも言うように。

 

 だが自分はとっくの昔にその覚悟はしている。

 

 波導使いの宿命。この街で生きていくのならば必要な事だった。

 

「波導は、救いではない。分かりやすい救済の戦力なんてないんだ。誰だって削りながら戦っている。それは常人でもそうだし、炎魔や瞬撃とて同じ事」

 

「シャクエンちゃんや、アンズちゃんも……」

 

 アーロンはメイの手から離れ、「二人を起こす」と口にする。

 

「リオ、は生きているな……。ツヴァイの目論見通りにならなかった事だけが不幸中の幸いだ」

 

 アーロンが肩を揺するとシャクエンがハッとしてアーロンを見やった。放心状態であったらしい。アンズは、といえば失神していたが命に別状はないようだ。

 

「炎魔と瞬撃、この二人の殺し屋がついていて、か」

 

「……ごめんなさい」

 

「誰も責めていない。ツヴァイも、それほどの相手だったという事だ」

 

 だが自分の指示を聞かなかったメイだけは別であった。引っ叩いてやろうかと思っていたが、師父の話をした手前、もうその気は失せていた。

 

「馬鹿は、大人しく家に帰れ」

 

 アーロンの声音にメイは小さく謝る。

 

「すいません……、あたし、何も知らなくって」

 

「知っていれば防げたわけでもないだろう。もういい。忘れろ」

 

 師父の話をした事も全て、のつもりだったがメイは忘れない事だろう。自分がいずれ結晶化して死ぬ事を。

 

 波導使いの終焉を、この娘は目に焼き付けたのだ。

 

 ならば、忘れろと言って忘れられるものではない。それは自分が一番よく分かっている。

 

「アーロンさんは、その、ツヴァイに……」

 

 他人の事をよく考えられる。自分の事だけでも精一杯だというのに。

 

「あの波導使いには、運もなければ実力も伴っていなかった。依頼主を暴けなかった事だけが悔いだが、ホテルとハムエッグに依頼すればそう時間もかかるまい」

 

 シャクエンは顔を伏せている。メイを守れなかった事を悔いているのか。アンズも言葉少なだった。

 

 どうして、自分は彼女らと共にいるのだろう。

 

 不意にそんな事を考えてしまう。

 

 いずれ消える身なのに誰かを引き止めるなどしても無駄なのだ。それが一ヶ月ほど前まではよく分かっていた。

 

 自分一人で生き、自分一人で死んでいく。

 

 それが分かっていたから誰とも一線を引けたのに、今は三人もの人生を抱えている。

 

 どうして、ここまで不合理になってしまったのだろう。

 

「アーロンさん?」

 

 その沈黙の意味をはかりかねてか、メイが尋ねる。アーロンは頭を振った。

 

「……何でもない。帰るぞ」

 

 帰る。そう言えるのが不思議だった。

 

 自分達は帰る場所がある。

 

 シャクエンも、アンズも、メイも、全員がバラバラの方向を向いているはずなのに、どうしてだか同じ家に帰れる。

 

 それが酷く不思議で、今はそれ以上に――安心出来る事はなかった。

 



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第七十八話「宿命前夜」

 

「ええ、聞いているわ。波導使いツヴァイの死。その死の真相を明かそうとはしなかったものね、あのクズの波導使いは。結局、わたくし達のバイクで間に合った事だけを報告されて、しかもこれは口止め料かしら? ちょっと料金も上乗せされていた。つまり、何かがあった。あの波導使い、ツヴァイの死には、何かが。それを知っていて、教えようというのね、あなた」

 

 視線の先にいる男がじっと押し黙って紅茶に視線を注いでいる。

 

「飲めば? 毒なんて入っていないわよ」

 

「……いただきます」

 

 紅茶で喉を潤した男はその真意を語り始めた。

 

「おれは、結局のところ、アーロンさんに、メイを任せられない。それだけなんだと思うんです」

 

「男の嫉妬、ってわけ。なかなかに見苦しいものを見せてくれるじゃない」

 

 皮肉めいて口にすると相手はフッと自嘲を浮かべた。

 

「おかしいですよね。何で、あなた方ホテルに、アーロンさんの弱点を売ろうなんて考えるのか」

 

「別段、おかしくもないんじゃない? あなた、メイって子が好きだから、波導使いに任せておくのが癪なんでしょう? 今回、その波導使いに救われた身でありながら。――路地番のリオ、とか言ったかしら?」

 

 その言葉にリオは首肯する。

 

「アーロンさんは、いずれ死にます。長持ちしません。だから、その後の事を含めて、おれに一任して欲しいんです」

 

「スノウドロップの時の活躍、聞き及んでいるわ。あなたがいなければ波導使いもスノウドロップもただでは済まなかったかもしれないわね。ある意味では陰の立役者」

 

「おれは、別に表舞台に出たいとかじゃない。ただ、アーロンさんの秘密を抱えたまま、生きていられるほど利口じゃないって話です」

 

「王様の耳はロバの耳、みたいなものね。あなたは沈黙を是とするほど、大人ではない、という事なのでしょう」

 

 ラブリの口調にリオは言い返す。

 

「大人のつもりです……」

 

「それが大人じゃないって言っているのよ。大人は、口にチャックする術を覚えているものよ」

 

 リオは自分の握り締めた拳に視線を落とした後、意を決して口を開く。

 

「ホテル側に売ります。波導使いの最期を」

 

「いくらで買って欲しい?」

 

「値段なんて。ただおれは、メイを守りたいだけなんです」

 

 ラブリはくすくすと笑った。この男は、誠実だ。その誠実さゆえに道を踏み間違える。

 

 アーロンという英雄に任せておけない。姫を助けるのは自分だと固く信じ込んでいる。こういう手合いが実のところ一番厄介であるのは、ラブリは経験則で知っていた。

 

 勘違い、というわけではない。自分の分は分かり切っている。分かり切った上で、分不相応な事を言い出し始めるのは強欲か、あるいは自分の限界が見えた人間の暴走だ。

 

 リオには天井が見えている。この男は分かっているはずだ。何よりも。

 

 ――アーロンという男にはなれない事を。

 

 波導使いのように孤独と共にある事も出来なければ、対価を要求しない事にも慣れていない。路地番に抜擢されたのもアーロンとハムエッグの力であるのに、その力を自ら捨てようとしているのは二人からの脱却を目指しているからだ。

 

 二人の呪縛を超えて、その弱点を売る。

 

 裏切り者、と古くから言われる存在であろうが、彼はそのような自覚はない。

 

 己が誠実さと正義のために、どこまでも汚くあれる。

 

 それがこのリオという青年の全てであった。

 

「波導使いの弱点ね。いいわ、軍曹。買い取りましょう。あなたが生き残った時に、メイをあなたの好きなように出来るようにこちらが善処すればいいのでしょう?」

 

「……おれは、好きなようになんて」

 

 口ではいくらでも取り繕える。だが持って生まれているのは征服感と達成感。

 

 メイを守りたい、というのは結局のところ物にしたいと同義。それを装飾して綺麗なものにしたがっている。

 

 自分が汚れを買って出ている事を自覚していない悪党というのは、実に厄介で、なおの事、始末が悪い。

 

 ラブリは「買う」という部分を強調する。

 

 これは交渉に打って出たのだ。慈善事業ではない。今、自分とリオの間に降り立っているのは力関係であり、何よりも金の絡んだ依頼の一つ。

 

 リオは黙っている事も出来た。だが、これを言わなければ一生、アーロンには勝てないというのも悟ったのだろう。

 

 勝ちたい、という飢え。ラブリは口角を吊り上げる。

 

「では弱点とは。波導使いのそれを、聞いておきましょうか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「随分と無茶をしたようだね、アーロン」

 

 ハムエッグの声にアーロンはグラスを傾ける。

 

 酒ではない。水が入っていた。

 

「別に。ただ、今回の場合、俺が率先して動かなければ何も好転しなかっただろう。この街に、波導使いは二人も要らないからな」

 

 返した声にハムエッグが快活に笑う。

 

「それはその通りだ。助かっているよ。今、別室でね」

 

 ハムエッグが濁したのはラピスの事だ。別室でメイと遊んでいる。

 

 ラピスの遊びにメイが乗っているだけだが、それだけでもラピスの様子が変わった事は明白であった。

 

「ラピスには、やっぱりメイちゃんのような子が必要なのかな」

 

「知らないぞ。あのような不確定要素を必要とするなど」

 

 暗殺者としては失格だ。しかしハムエッグは否定も肯定もしなかった。

 

「メイちゃんはいい子だよ。それだけは確かだ」

 

「答えになっていない」

 

「お前だってそうだろう? アーロン。何故、メイちゃんや炎魔、瞬撃と一緒に住んでいる? 何のためだ? いざという時に彼女らを守るためだろう?」

 

「……さぁな」

 

 実のところ自分でもよく分からないのだ。

 

 どうして不確定要素を取り込みたがるのか。ラピスと同じく、自分も暗殺者としては失格なのかもしれない。

 

「だがまぁ、ある種では安心したよ、アーロン」

 

「安心?」

 

「君もまた、人間だという事に、だ。良くも悪くも」

 

「良くも悪くもとは、とんだ言い草だな」

 

 ハムエッグは酒を勧めてくるがアーロンは断った。あまり酒に溺れたくはない。

 

「そういえば、ツヴァイの死についてだが、ちょっと情報が立て込んでいてね。偽装情報を流そうとしたが、どうしてだか、先手を打たれていた。わたしが情報を回す前に、何者かが既にツヴァイの死を偽装していた」

 

 その事実にアーロンは声を潜める。

 

「プラズマ団か?」

 

「かもしれない。だが、手慣れている。この方法論はもしかすると関係者の誰かかもしれない」

 

 つまりヤマブキ内部で既に分裂が起きている、という可能性だ。

 

「余所者を巻き込んだ挙句、情報が錯綜しているなど」

 

「わたしもまさか上を行かれるとは思っていなくてね。ちょっとばかし意外だった。今回の敵、ツヴァイは波導使いだった。その死、という事はつまり、君の弱点に繋がってくる」

 

 波導使いの殺し方が分かった、という事だ。アーロンは水を呷り、「だが方法論が分かったとて」と口にする。

 

「実行するには難しいだろう」

 

「そうだろうね。すぐには出来まい。だが、じわじわと、それこそ君のピンチにちょっとだけ、反応を遅らせれば可能だ。その時だけ、妙に立て込んでいればいい」

 

「お前がやるのではないだろうな」

 

「わたしはやらないさ。だって波導使いアーロン。わたしが君の弱点を知っているように、君もわたしの弱点をある程度看破しているのではないかな?」

 

「さぁな」と濁す。

 

 だがその力関係の拮抗があるからこそ、ハムエッグと対等条件で話せる。

 

「まぁ、いいさ。追々、この情報については潰しをかける。問題なのは、プラズマ団と、それにヤマブキの勢力図か。ツヴァイのようなイレギュラーが現れたら、何度も試算しなくてはこの街の確率は変動する。生き死にのバランスが一パーセントでも狂えば、それこそ事だ。暗殺者達が黙っていまい」

 

 波導使いとスノウドロップ。それに炎魔、瞬撃。明らかな限りでも自分を含め四人の暗殺者がいる。この状況に一石を投じるのには、情報面での上を行く事となおかつ、パワーバランスを崩しかねない一強の存在。

 

「スノウドロップが君と大差ない、と割れてしまったのは少しばかり状況を悪くした。いや、あのままこの街の内々だけで事が進んでいれば問題なかったのだが、先日の強力なOSの奪い合い。それによる軍部の牽制。これはちょっとまずいな、とわたしも思うわけだよ。システムが内部から徐々に狂い始めている。その狂いが一定ならばまだマシだが、誰かが調子を崩して一方向でも流れが悪くなると、これは街全体の崩壊を招きかねない」

 

 つまり今の状態は全員がカードを隠している状態。ハムエッグもつい先日まではスノウドロップの戦力というカードを隠し持っていたが、自分との戦いでそれが露見した。ある意味では一番不利に立たされている。

 

「システムOSの件さえなければね。まだ情報面での優位を保てているはずなのだが、ちょっとばかし気がかりなんだ」

 

「勝手に突っつけばいい。俺は協力しない」

 

「冷たいなぁ、アーロン。まぁ、システムの関係者を当たれば、特定は難しくない。今は、誰が切り札の持ち主なのかをお互いに牽制し合う。それはホテルかもしれないし、特定の個人かもしれない。あるいはこの国という巨大な存在か。どちらにせよ、今のヤマブキはまだ安全圏だ。誰かがまかり間違った事をしない限りはね」

 

「その誰かが、俺であるかのような言い方だ」

 

 アーロンが睨みつけるとハムエッグは鼻息を漏らす。

 

「……君じゃない。それは分かっている。君だとすれば、本当に必要な時にしか使わない。だから、君は脅威ではない」

 

「それは褒められているのか貶されているのか」

 

「無論、褒めているのさ。君ならば使い方を心得ている。わたしが一番に心配なのはね、使い方もまるで分かっていない素人の暴走だよ。暴走ほど怖いものはない。だってそのルートに、法則性も、あるいは攻略法も存在しないのだから。素人の暴走に付き合わされているんじゃ疲れる一方だよ」

 

「それは難儀だな。……で? ラピス・ラズリの回復のためだけに、俺を呼んだわけではあるまい?」

 

 本題を切り出すとハムエッグは写真を取り出した。

 

 一枚の写真には鎖と、それを繋いでいたと思われる枷があった。枷には翼の刻印がされている。

 

「これは?」

 

「ちょっと前にわたしが介入していた一件でね。とある仲介業者に育て上げられた何かの一室であったらしい。その部屋の内観を写したものだ」

 

「内観、と言っても……」

 

 アーロンが濁したのは鉄筋コンクリートの部屋で、ところどころ爪を立てたような痕があったからだ。とてもではないが人の住む部屋ではない。

 

「ポケモンか?」

 

「いや、それにしては大人しいだろう? 多分、人間だ。そしてもう一つ。その仲介業者の死骸が三日前、ヤマブキ郊外の公園で発見された。既に一部が白骨化していたらしいが、その死因は焼死。その発見を嚆矢としたようにこの三日で連続だが、殺しが発覚している。同じ手口だ。対象を焼き殺して投げ捨てる」

 

 まさか、とアーロンは推測を口にする。

 

「俺の知っている奴だとでも?」

 

「極めて似ていないかい? 君の傍にいる炎魔に」

 

「あり得ない。アリバイが……」

 

 口にしようとしてシャクエンにはアリバイがない事に気がつく。ほとんど放任していた。それはシャクエンが二度と自分から殺しなど行わないという確信があったからだ。

 

「だが、この鎖の説明がつかない」

 

「炎魔には協力者がいる。その協力者を引き金として殺人衝動が芽生えた、と考えればどうかな? 炎魔は自分からビジネスにならない殺しはしないが、誰かのためならば一途に殺し続けられるオートメーションだ。君が見ていないだけで、彼女は今も罪を重ねているのかもしれない」

 

「……言いたい事はよく分かった。この殺しの件を、炎魔のものではないと俺に確認させたいんだな?」

 

 立ち上がったアーロンの表情を見て、ハムエッグが微笑む。

 

「怒るなよ」

 

「怒っていない。ただ、いわれのない事に対しては理不尽だと感じるだけだ」

 

 シャクエンがやっていない事の証明。

 

 それがこの街の秩序に繋がるのならば。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 カヤノは診療を終えて煙草を吹かしていた。

 

 看護婦が、「身体悪くしますよ」と忠告したがカヤノは一笑に付す。

 

「馬鹿たれめ。ワシの歳まで生きてから言いやがれ」

 

 カヤノは今回、アーロンの持ってきた欠片を精査していた。

 

 それは波導使いツヴァイの欠片なのだという。

 

 波導使いは死ねば結晶化する。それは既にアーロンから聞かされていたが、この事実を知っているのは自分とハムエッグだけだ。三人の中で取り交わされた秘密でもある。

 

 アーロンは秘密裏にこの欠片を解析しろと言ってきた。

 

「自分の希望になるかもしれない」との事であった。

 

「希望ねぇ……。希望なんて毒だって言っていたお前が、どうしてまた」

 

 自分以外の波導使いの存在に恐れを成した、というほど小心者ではあるまい。アーロンは自分のためにこれを解析しろと言っているのだ。

 

「波導使いの宿命から逃れるためか? アーロン。にしては、ちょっとな。お前らしくない……」

 

 そう呟いた時、耳にはめ込んである通信機から警備の黒服の声が発せられた。

 

『カヤノ医師。来客です。通しますか?』

 

「何者だって?」

 

『ホテルミーシャの者だと言えば分かる、と』

 

 カヤノは慌てて欠片を入れた試験官を仕舞い込み、「通せ」と口にする。

 

 ホテルの、誰が来ると言うのだ? 時計を見やる。

 

 既に深夜。

 

 こんな時間に自分を訪れる人間など。

 

 もしかすると急患か、と勘繰っていると通路を通ってきた人影に、カヤノは目を瞠った。

 

「……何だって、お前が」

 

「ご挨拶ね。会いに来たのよ、カヤノ医師。いいえ、パパ」

 

 暗闇の中、黒い衣装を纏ったラブリが佇んでいる。

 

 その口元には不気味な笑みが宿っていた。

 

 怖気が走る。

 

 これから起こる事がろくな事ではないという確証がカヤノの中にあった。それが暗雲となって、胸を埋め尽くしてゆくのに時間はかからなかった。

 

 

 

 

 

 第六章 了

 



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煉獄の菖蒲色、焼け落ちる世界
第七十九話「Revival Fire」


 

「煙草を、いいかしら?」

 

 尋ねられた声音にカヤノは頭を振る。

 

「ここをどこと心得る? 医者だ、医者。そんな場所で煙草吹かす馬鹿がいるか」

 

「あら? その割には、さっきから」

 

 すんすんとラブリが鼻を動かす。カヤノはけっと毒づいた。

 

「ワシはいいんだよ」

 

「そういう理屈は通らないのではなくって? パパ」

 

 その呼び名にカヤノは怖気が走って言い返す。

 

「ワシを、そんな呼び名で呼ぶな。寒気がするわ」

 

「でも、わたくしを取り上げてくれたのはパパじゃない。ママの緊急オペをして、わたくしをこの世に解き放ったのは紛れもない、パパでしょう?」

 

 思い出したくもない過去だ。

 

 ラブリの母親はとある組織の上役であった。その組織で何があったのか、どういう経緯であったのかは聞いていない。ただ、ラブリの母親は突然に運ばれてきて、流産直前であった。カヤノに命じられたのは多額の報奨金と手術である。

 

 この女を助けろ、と。ただそれだけを、この街を牛耳っていた男の子飼いは言ってのけた。

 

 男からしてみればそれはただの気紛れであったのかもしれないし、ラブリの母親は数多くいる女の一人であったのかもしれない。だが、彼女の命を助け、繋いだ自分には一生、この街で闇医者をやっていくに足る金と地位。それにラブリの育ての親としての役割が充てられた。

 

 ラブリの自意識が育ち、その組織の発展型である今のホテルミーシャの頭目とされるまで、自分はラブリの父親であったのだ。

 

 その事に間違いはなく、ラブリが「パパ」と呼ぶのはそれが理由であった。

 

「ワシはな、ホテルミーシャのボス。お前みたいなのを育てた事を少しばかり後悔している」

 

 闇組織の頭にされるくらいならばあの時、母親を助けなければよかったのではないか。そんな思いに囚われた事が何度もあったが、ラブリは言ってのける。

 

「何で? だってパパはわたくしと、ママの命の恩人で、ホテルミーシャの最大の貢献者よ?」

 

 最大の貢献者。口ではどうとでも言える。だがその行為が邪悪でなかった証明はない。

 

「ワシのやった事が、たとえ善性のものであってもだ。結局のところ、闇を育てた事に変わりはない」

 

「わたくしが闇、ね。面白い事を言うのね、相変わらず」

 

「お前はお前で、いけすかねぇガキだよ、フロイライン。ワシがその命を預かった時から、ずっとそうだ。お前は、ずっと、いけすかないガキだった」

 

「そのいけ好かない子供が、この街を二分する地位になった気分はどうかしら?」

 

 ラブリは止めたのに軍曹から葉巻を受け取って火を点けていた。カヤノは舌打ちをする。

 

「禁煙だって言っただろうが」

 

「率直に聞くわ、カヤノ医師。ホテルミーシャ最高幹部として」

 

 最早先ほどまでの声音ではない。何かを要求する、裏組織の頭目の声音になっていた。

 

「何だよ。教えられる事は少ないぞ」

 

「素人集団であるプラズマ団の目的としている、あのクズの波導使いによく懐いている女の子よ」

 

 メイの事か。どこから嗅ぎつけた、とカヤノは勘繰る。

 

 ラブリは葉巻を吹かし、「別にね、どうこうしようってわけじゃないんだけれど」と前置いた。

 

「どうこうするつもりじゃねぇんなら放っておきな。あの波導使いのお遊びだろうさ」

 

「お遊戯にしては、波導使いは念を入れ過ぎている。ハムエッグの影がちらつくのも気に食わないのよ。あのメイとか言う小娘に何があるのか、あなた、診察したのならある程度予測はついているのではなくって?」

 

「診断結果なんて極秘に決まってるだろうが」

 

 軍曹が前に歩み出てケースを突き出す。開くと札束が詰め込まれていた。

 

「ざっと一千万ある。それで買えないか、検討してみる気はない?」

 

 生唾を飲み下す。一千万は破格だ。同時に、どうしてそこまでしてメイの事を調べたがる? とカヤノは考えを巡らせる。何故、ここに来て必要になってきた?

 

 裏を回ってくる情報は数多くあるが、その中で自分に関係のある情報を選び取るには長年のセンスが必要だ。カヤノはつい数時間前に閲覧した情報を思い返した。

 

「……なるほど。炎魔だな」

 

 その言葉にラブリが眉を跳ねさせる。ビンゴのようだ。

 

「何故、そう思うのかしら? 今、炎魔の話は関係がないでしょう?」

 

「大当たりだよ、間抜け。ここ最近、だ」

 

 カヤノは煙草を取り出して火を点ける。紫煙をたゆたわせると少しばかり、同じ土俵に立てたような気がしてきた。

 

「炎魔のやり口に似た殺しが増えている。お前らはこう考えているはずだ。炎魔だとすれば、復活したのか、と。しかし復活するにしても炎魔って殺し屋は宿主がいる。宿主のない炎魔は今までの歴史上、存在していない。だとすれば、宿主はお嬢ちゃんか? どうだ? 我ながら見事な推理だろう?」

 

 つまり炎魔の殺しを特定し、それを止めるには宿主を殺すのが手っ取り早い。メイがシャクエンを手懐けていると思っているホテルはメイの素性から調べにかかった。

 

 そう考えれば突然の珍客も合点がいく。

 

 ラブリは苦虫を噛み潰したように声にする。

 

「……気に入らないわね。頭の回る端役は嫌われるわよ」

 

「嫌われ者上等だよ。こっちはお前が母親の腹ん中にいる時からずっと闇医者やってんだ。嫌われる程度、覚悟出来なくってどうする?」

 

 問題なのはここでメイの情報を売るのは得策かどうかの判断。メイの身柄は今のところアーロンが握っている。場合によってはアーロンが敵になる。そう考えればカヤノの判断は迅速だった。

 

「売れねぇな。以上」

 

「待ちなさい、闇医者。可愛い娘の言う事が聞けないって言うの?」

 

「本当にカワイイ娘はんな事要求しねぇよ。いいか? お前らが言っている事はこうだ。患者の情報をワシに売らせて、後始末は死神任せ。なんて事はない、悪だくみのよく働く事だな、って言うだけだよ」

 

 ラブリは歯噛みする。どうやらこの線で間違いないらしい。

 

「……分かっているのなら話が早いじゃない。軍曹」

 

 呼びつけられて軍曹はアタッシュケースを仕舞った。ここでの一千万はブラフの可能性もあったが、炎魔ほどの殺人鬼の脅威を考えればあながち不利なだけの交渉でもなかったのかも知れない。

 

「カヤノ医師。我々はあなたに、お願いに参ったのです」

 

 ここに来て初めて軍曹が口を開いた。ラブリのお目付け役であり、ホテルの実質ナンバーツー。普段は保護者を気取ってはいるが、この男は筋金入りの軍属だ。軍曹の名前は伊達ではなく、頭もよく回る上に腕も立つ。いざとなればラブリの盾となる事も厭わない従者の鏡であった。

 

「お願いだぁ? さっきまでの態度からは察しもつかねぇな」

 

「こちらも、カヤノ医師ならばお嬢の言葉を聞く、と判断しての事だったのです。決してあなたを軽んじているわけではない。身内として、頼み事をしたかった」

 

「筋違いだ。他、当たれ」

 

「炎魔によると思われる殺人の線に、我が方の人間がいくつか犠牲に」

 

 軍曹は写真を取り出してカヤノのデスクに置く。この軍人気質の男の迫力は本物だ。だからか、自然と肩が強張る。

 

「こいつぁ……、やり口がえげつないな」

 

 写真に映し出されている死体はどれも損壊しており、灼熱の炎で焼かれたのか、末端が炭化していた。

 

「炎魔のやり口に非常に近い」

 

「だが、炎魔は殺しを封印した。それはアーロンの口から聞いている」

 

「もし、仮にですが、別の宿主を見つけたとすれば? 炎魔はアーロンに従っているのではなく、あくまで別系統の殺し屋だと考えております。だから、アーロンの下にいた、というのは」

 

「アリバイにならん、というわけか」

 

 承服したカヤノに軍曹は言い含める。

 

「正直なところ、確証が欲しいのです。炎魔ではない、という。あなたの審美眼ならば、炎魔かそうでないかは分かるはず」

 

 最初から自分の下にその判断を仰ぎに来たのか。上手く取り入れれば炎魔を殺す名目が立つ。この街で殺し屋が妙に仲間意識を持っているのは気味が悪い、と思っているのはホテルだけではないのだろう。

 

「炎魔殺したきゃ、闇討ちでも何でもすりゃあいい」

 

「我が方の兵士を失いたくないのです」

 

 リスクのある殺しはやりたくない。だが、この殺人が炎魔によるものだとすれば、ホテルは徹底抗戦の構えだ。炎魔を地の果てまで追い詰め、その上で大切なものを一つずつ奪って殺す。

 

「なんて事はない。お前らだってチンピラみたいなもんだろうが」

 

「……どうとでも。カヤノ医師、この写真の見極めをお願いします。報酬はこちらに」

 

 小切手を手渡される。好きな額を書け、という事だろう。それほどまでに炎魔によるものだと判断しているのならば自分の判定など要らないだろうに。

 

 ――何を焦っている? とカヤノは探った。

 

 ホテルは何かを焦っている。炎魔による殺人だと断定し、その報復行動に移ればいいものをこんなところで油を売る理由はただ一つ。

 

「……お前ら、何か当てがあるな? 炎魔じゃない、当てが。だから焦っている。そっちの方面を探られると痛くもない横腹を突かれるかもしれないから」

 

 炎魔以外の炎の殺し屋など自分は知らない。だが、ホテルならば。ホテルほどの兵力を持つ組織ならば、似たような殺し屋を知っていてもおかしくはない。だとすればホテルはその殺し屋を擁護するために、炎魔を敵に仕立て上げたい。

 

 そこまで考えてからラブリを見やる。

 

 食えない、と苦々しい顔が物語っていた。

 

「カヤノ医師。勘繰り過ぎよ」

 

「どうだかな。ここで素直に炎魔を差し出せば、もしかしたらこの街のパワーバランスが変わっちまうんじゃないのか? だから、焦っている。さっさと黒と黒と言い切りたいどっかの誰かさんが、誰かに審判を仰いでいるんだな。黒と言ってくれるジャッジが欲しいから、こんなヤブのところまで来る」

 

「喋り過ぎた、かしらね」

 

 ラブリの言い分からして炎魔以外の殺し屋がいるのが半分ほどは確定か。だが、それでも気になる事はある。

 

「もう、炎魔は殺しをしないって知っている人間にこうやって確信犯的に炎魔を悪者に仕立て上げたくって言い回るのはお勧めしないな。何だって、今に炎魔を排斥しようと? もう廃業した殺し屋なんて放っておけよ」

 

「それが出来ないから、言っているのよ」

 

 意味が分からない。ホテルは炎魔に代わる炎の暗殺者を擁立したのではないのか。

 

 軍曹に視線を流すと彼もばつが悪そうだった。

 

「……言ってもよろしいでしょうか?」

 

「好きになさい」

 

 ラブリの許可を得て軍曹がぽつりぽつりと話し始める。

 

「実のところ、この炎の殺し屋については確証がないのです。炎魔かもしれないし、そうではないのかもしれない」

 

「意味が分からんな。そうではない、に分を振っているにしてはそっちのやり口はワシの口から炎魔だと、言わせたがっているように見えたが」

 

「カヤノ医師は街の傍観者です。誰よりも客観的に、ヤマブキを見ている。だからこそ、あなたの判定はあなたが思っている以上に、力がある」

 

「褒められているのか貶されているのか分からんな」

 

「何よりもまず――この一件がハムエッグのものになる事を、我らホテルミーシャは危惧している」

 

 ようやく本音が出たか。カヤノは探ってみせる。

 

「ハムエッグの出方が早い。だから、ワシに発破をかけた。一人でも味方が欲しい、とな」

 

「面目ない。あなたを騙すような真似をしてしまった」

 

「これで騙されていたら、この街じゃ生きていけんよ」

 

 毒づいてカヤノは写真を検める。殺しはあったのか、と目線で問いかけた。

 

「殺しは、ありました。我らの兵士が殺されたのは、事実です」

 

「だとすれば解せんのは、ホテルの手の者と知って殺したかどうか、だな?」

 

「ホテルへの宣戦布告にしてはあまりにも粗雑。かといって何も知らずに殺したにしてはその手際は見事」

 

「ヤマブキでの殺しの経験のない素人仕事とは思えず、かといってホテルを敵に回すには軽率、とでも言うべきか」

 

「察しの通り、ホテルが全兵力を挙げて抹殺にかかるにしても情報があまりに断片的です。炎使いの暗殺者はごまんといますが、その中でも手慣れた、最強に近い殺し屋は指折り数えるほどしかいません」

 

「炎魔、を真っ先に疑ったのは間違いじゃない」

 

 だがそれにしては、炎魔だと断定する証拠がない。だから誰かの判定を欲しがった。

 

「面目が立たないのは承知でしたが、あなたの意見が欲しかった」

 

「だが天下のホテルが一ヤブ医者の意見を通す、というのは義理に合わない。だからフロイラインを通じてワシの情に訴えかけてきた、か」

 

 何ともまぁ小汚い手だ。だが、そんな手を犯してでも、この件を収束させたいホテルの意地は見えた。

 

「恐れ入る。頭目自らが汚れ役を買って出るとは」

 

「ヨゴレは長たるものが買って出なければ誰もやりたがらない。長が動けば、民が動く」

 

 ラブリの格言にカヤノは手を払った。

 

「いつからお前、そんなに偉くなった? まだハムエッグも健在だし、このヤマブキは今、随分と不均衡だ」

 

「だからこそ、一つのヨゴレでいいのならおっ被るって言っているのよ」

 

 ラブリの覚悟は本気だろう。この街が今の状態では危うい事を悟っているのはハムエッグとアーロン。それに幾つかの組織。だがそれらの実態が露にならない以上、動くしか情報を取る手段がない。そのためにヨゴレが必要ならば、頭目自らやってみせる、というのは確かに他では見られない志だろう。

 

「……お前を育てたの、ちょっと後悔しちまったが、改めるよ。ワシが思っている以上の、フロイラインになったようだな」

 

「それはどうも、カヤノ医師」

 

 ラブリは微笑んでみせるが後がないのは明らかだ。自分を情にほだして結論を急がせられれば、この場では最良の結果だっただろう。だが、そこまで愚か者ではない。

 

「どうするよ、ホテルミーシャのボス。ここではワシは判断を下さんよ。炎魔ではない、とは言わんが、ワシが金を受け取ってまで、その判断を下すほど早計だとでも?」

 

 小切手を突き返す。軍曹は目線でラブリに判断を乞うたが、彼女は即決した。

 

「あなたがわたくしの思っているよりもずっと、この街では古株だった、という事ね。いいわ、ここでの判断は保留としましょう。ただ、釘を刺しておくようだけれど、波導使いを信じ込まない事ね。アレだって、ハムエッグの手先にならないとも限らない」

 

「そうかね。ワシは、あいつも馬鹿ではないと信じておるよ」

 

 ラブリは脚を組み直し葉巻を差し出した。ポケット灰皿を出した軍曹がその灰を受け止める。

 

「あのクズの……、いいえ、今の炎魔に最も近い人間であるところの波導使いはどう動くのか見えていない。前回、ツヴァイとか言う馬鹿が動いたせいでちょっとばかしあのクズも動いたようだけれど、どうなの? クズはクズらしく、地べたを這い蹲って身の丈に合った生き方をしているのかしら?」

 

「さぁな。アーロンはどこまでやったのか、成果は聞いとらんよ。ただ、赤い波導使いの噂が途絶えた辺り、そういう事だと思ってはおるが」

 

 アーロンが勝ったのだ。しかしホテルからしてみれば苦々しい事この上ない。波導使いに匹敵する使い手ならばこれから子飼いにする道もあっただろうに。

 

「使えないゴミがクズを倒した、ね。わたくしからしてみれば底辺同士の喰い合い。どっちが勝ったところで旨味はさほどないと思っていたけれど」

 

「そうかな。アーロンが勝った、という事は、だ。ヤマブキの面子は守られた、と思っていいんじゃないか?」

 

「素人集団……、プラズマ団とか言ったわね。どこまでやるつもりなのか知らないけれど、この街に入るって言うのならば全面戦争の心構えもしておく。第三勢力の登場なんて、うまくもなければまずくもないもの」

 

 ホテルとて危険視するほどではないがプラズマ団を疎んじている。ハムエッグの見方はどうか分からないが、プラズマ団が出しゃばれば排除する、という点では一致しているのだろう。

 

「どうする? プラズマ団という組織に接触するのに、お前らの言うところの波導使いアーロンは、一番の窓口じゃないかね」

 

「急いた判断は逆効果、と言いたいの?」

 

「藪を突けば蛇が出る。炎魔を殺したいとしても、お前らが思っているほど一枚岩ではないという事だ。アーロンとて保護者ではあるまい。お嬢ちゃんの事、炎魔の事、分からん事のほうが多いんじゃないかね」

 

「分からないって……。あのクズ、暗殺者はべらせて何がしたいって言うの? まさか、暗殺者で家族作りたいって? そうなってくれば本当にクズね」

 

 嘲るラブリにカヤノは煙草を吹かす。

 

「案外、アーロンも人の子だ。温情はあるかもしれない」

 

「死神に温情? それこそ、冗談と言うものよ」

 

「で、どうする? ファミリーの面子を潰されたホテルは、これからファミリー作ろうとしている人間に殴り込みをかけるかね?」

 

「まさか。判断は早計だと、あなたが教えてくれたのよ、カヤノ医師」

 

 引き返すつもりだろう。カヤノは引き止めるつもりもなかった。

 

「ここは去りましょう。でも忘れないで欲しいのは、あなたと因縁があるのは何も波導使いだけじゃないって事よ。因縁に雁字搦めになって沈むのは、何もこの街では珍しくない」

 

「ワシは、出来るだけ切っていきたいところなんだがな。因縁なんて、重苦しいものは」

 

「バイバイ、パパ」

 

 そう言い置いて、ラブリと軍曹が出て行った。

 

 ようやく、と言った様子でカヤノは煙草を灰皿に移す。全く美味くもない喫煙時間があったものだ。

 

 軽く咳き込み、カヤノは口元を拭った。

 

「……まったく、年寄りにどいつもこいつも節操なく……。闇医者にこれ以上、何をやれと言うんだ」

 

 ベッドの陰に隠れていた看護婦が窺う声を出す。

 

「あの……先生」

 

「ああ、今の話は全部聞かなかった事にするか、絶対に口外しない事だ。すれば本当に沈む事になるぞ」

 

 看護婦は肩を震わせて、「帰ります」と支度を始めた。そうするがいい、とカヤノも思っていた。

 

「祭りになるか、それとも大火事になるかも分からん案件だ。さっさと帰って、布団に包まってじっとしているのがお似合いだろうさ」

 



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第八十話「Revision Flash」

 

「もしもし」

 

 電話をかけたのは店主に、であった。今に寝付こうとしていたのだろう。どこかしゃがれ声である。

 

『どうした? アーロン。遅番か?』

 

「ああ、帰れるか分からなくってな。そっちに、今は?」

 

『うん? シャクエンちゃんに、アンズちゃんか? さっき晩飯を食ったところだよ』

 

「両方、いるのか?」

 

『ちょっと分からないな。呼んでみようか?』

 

「お願いしたい」

 

 通話口の向こうでどたどたと駆ける足音が聞こえてくる。とにかく今はシャクエンの在宅を確かめる。それがアーロンに出来る第一歩であった。

 

 メイには言わないでおこうと先んじて考える。

 

 大体、シャクエンの一件の時だけでもメイは異常なほど感情移入した。シャクエンもメイの事を特別だと思っている節がある。この二人に、自分達が疑惑を持っているのだと悟られてはならない。

 

『もしもし。変だな……。アンズちゃんはいたんだが、シャクエンちゃんはどこかに出たんだと』

 

「どこか?」

 

 その言葉にアーロンは嫌な予感がした。何としても居場所を突き止めなければ。

 

「どこに出たんだ?」

 

『そう焦るなって。シャクエンちゃんだって立派な年齢だろう? そりゃ、女の子が一人、夜の街になんて心配になるのは分かるが、保護者じゃあるまいし』

 

 そうだ。自分は保護者ではない。それどころか場合によっては殺さなくてはならなくなる。

 

「聞けるか?」

 

『アンズちゃんに? 替わろうか?』

 

「すまない」

 

 保留のメロディが流れ、すぐさまアンズが通話口に出た。

 

『もしもし、お兄ちゃん? 何で、シャクエンのお姉ちゃんの事を?』

 

「瞬撃。今すぐにでも炎魔の居場所を割り出せるか?」

 

 突然の申し出にアンズも戸惑ったようだった。

 

『えっ、いや無理だよ。追跡しようにもそんなつもりないし……。何焦っているの?』

 

 焦っているように映るのだろう。事実、先ほど知らされたばかりの情報でありながら、この一件がまかり間違えればとんでもない事になるのだと分かっている。

 

 アーロンはアンズに要らぬ心配をかけないよう、言葉を選んだ。

 

「瞬撃、ここ最近、炎魔は出歩いているのか? この時間に」

 

『分かんない……。シャクエンお姉ちゃんの事ならメイお姉ちゃんに聞けばいいんじゃないの?』

 

「……今、馬鹿の手は借りられないんだ。ラピス・ラズリの件もある」

 

 それは言い訳の一つに過ぎなかったがアンズは納得したらしい。

 

『ああ、そういえばそうだっけ。でも、シャクエンお姉ちゃんをどうこう出来るのってメイお姉ちゃんだけだよ。あたい、それほど入れ込んでいるわけじゃないし』

 

 アンズは後から来た人間だ。当然、メイとシャクエンの間にある特別な感情も分かり切っていない。

 

「……分かった。かけ直す場合もあるから、起きていられるか?」

 

『別にいいけれど……。そんなに急ぎなの?』

 

 どこまで話すべきか、と考えあぐねたがアーロンは、今は何も話さない事にした。

 

「……いや、何でもない。夜の街には気をつけろ、とだけ言っておく」

 

『そんな事、今さらなんじゃ……』

 

 通話を切ると、カウンターからハムエッグが窺ってきた。

 

「どうやら、大人しくお留守番をしてないようだね、アーロン」

 

 苦々しい思いに舌打ちする。

 

「分かっていて、やらせたのか?」

 

「まさか。君がどこまで動くのかは想定外さ。ただ、先ほど渡した資料も含めて、前向きに検討して欲しいだけだよ」

 

 炎魔が動いているかもしれない案件。アーロンは茶封筒を掲げる。

 

「被害者が所属している組織は? 共通点でもいい。何かないのか?」

 

「わたしとしても探したんだがね。ないんだな、これが」

 

 ――嘘だ。

 

 ハムエッグは何かを隠している。隠した上で、ない、と言っている。これには重大な意味があるとアーロンは感じ取った。

 

 ここで藪を突いても恐らくハムエッグはぼろを出さない。

 

「そうか。俺からも調べを尽くす。馬鹿は……」

 

 ラピスと遊んでいるのが別のモニターに映っている。この状態から新たな仕事を依頼されたのは痛い。ある意味人質であった。

 

「ここに置いておく」

 

「賢明だよ、アーロン。炎魔と彼女を引き合わせるべきじゃない」

 

 それも鑑みて、ハムエッグはラピスを利用しているのか。だとすればとんだ食わせものであった。

 

「最強の暗殺者が使い物にならないから、俺を頼るか。だが、以前にも言ったな? 炎魔レベルの殺し屋と対等に渡り合えるのは、この街じゃ限られていると」

 

「それは、君とラピス、という話だろう? ラピスがいなくとも君がいれば怖くないよ」

 

「買い被るな。勝負は時の運だ」

 

 踵を返そうとすると、「面白い事を言うね」とその背中へと声が投げられた。

 

「勝負、だなど。殺しに、時の運も何もないだろう?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 灼熱が宿り、翼のように炎が翻った。

 

 その瞬間、目標の足が炭化する。足を潰せば後は容易い。

 

 いつものように、腹部に一発、頭部に一発。炎の拳を放てば目標は動かなくなる。これほど容易い仕事もない。

 

 オートメーション化された機械のように、限られた動作のみを繰り返す。それはもう染み付いていて抜け出す余地もない。

 

 ふぅ、と熱の宿った嘆息をつくと、目標がまだ少しだけ動いた。その背筋を炎の五指が握り締め、一気に背骨を引き抜いた。

 

 背骨も握れば炭になる。灰と塵の舞う仕事場で、発する声はあまりにか細い。

 

「咳き込みそうになるほどに、分かりやすい構図」

 

 呟くと自分の相棒がかあっと口腔を開いた。

 

 闇の中、炎の襟巻きを拡張させたポケモンが殺しを遂行する。

 

「殺しの感覚は戻りつつある。後は、そう、どこまで精密に、どこまで精緻に、こだわるか否か」

 

 まだ完全に戻ってきたわけではない。だが、感覚を取り戻さなくては。そうでなければ意味がない。

 

 相棒の炎のポケモンが炎熱を発生させて空間に隠れる。少女は闇の中に自身を溶けさせて消え去った。

 

 後には、焼け爛れた遺体だけが取り残された。

 

 静かな、夜であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「殺しだぁ? んなもん、後だ、後」

 

 上がってきた情報を処理しながらオウミは声にする。しかし、と実際に端末を操作するニシカツは言葉を返す。

 

「こ、これ、オウミ警部の管轄じゃないんですか?」

 

 手渡された資料にオウミは目を通す。連続焼死事件、とあった。まさか、とオウミは唾を飲み下した。

 

「炎魔……」

 

「れ、連続焼死事件はオウミ警部の担当だったはずですよね」

 

「……もう外されてるよ。犯人は、見つかっていない」

 

「連続焼死事件二十七号、通称、炎魔事件」

 

 ニシカツはアップデートのついでに調べたらしい。この男は自分の支配下にある物事だと途端に普段のどもり癖が消える。

 

「炎魔に関する記述、及び件数は三十件。しかし、このうち十五件が閲覧不可になっています。これ、オウミ警部がやったんですよね?」

 

「デタラメ言うなって。オレは何もしてねぇよ」

 

「しかし、この事件に過度な介入をしたのは、明らかなんですよ」

 

 舌打ちする。妙なところで鼻の鋭い奴だ。

 

「連続焼死事件、ね。もう忘れたい事だよ。この腕にも関係している」

 

 もう動かない右腕を突き出す。するとニシカツは戸惑いを浮かべた。

 

「そ、その腕は」

 

「罰、さ。言っちまえばな。いいか? 自分の力を過信して噛み付くと、この街にはろくな事が待ってねぇ。噛み付く対象を間違えると余計に、だ。ったく、お歴々もあの一件で手を引いたと思っていたのに、何だこりゃ? これじゃまだ、あの事件を終わらせたくないみたいじゃねぇか」

 

「じ、事実、どうなっているのですか? 前回の炎魔の活動によってある程度、この街を手中に収める上役は諦めたのでは?」

 

「炎魔って言う分かりやすい力の誇示は全員の反感を買った。どこかの誰かさんはそのせいで咎を受け、炎魔そのものは……。まぁいいか」

 

 だがこの調書が本当ならばまたしてもシャクエンが動き出したのか。だが自分が何よりも知っている。シャクエンの血筋は途絶えた。

 

 もう炎魔を名乗る必要もなければ、この街で暴れるのも得策ではない。

 

「炎魔名乗った別人……、いや、炎魔の手口はそう容易く模倣出来ない。それなのに連続焼死事件二十七号と同じだって上が判断した理由ってのは、殺しの手口に他ならない。犯人像が割れないのもそうだ。炎魔だって理解している奴らが裁定を下した。だが、炎魔は……」

 

「お、オウミ警部はどこまで知っておられるんで?」

 

 ニシカツの質問にオウミはフッと笑みを浮かべる。

 

「どこまでぇ? 全てだよ、マヌケ」

 

 そう言い切って立ち上がる。ニシカツに業務を任せて自分はといえば捜査一課のデスクに戻った。部下が立ち話をしている。それに割って入った。

 

「よう、お前ら。何か捜査の進展はあったか?」

 

「あっ、オウミ警部。その、連続焼死事件の……」

 

「聞いてる。再発、したんだってな」

 

 だがあり得ないはずなのだ。アーロンが守り手についているのならばシャクエンは二度と殺人をしない。

 

 ――アーロンの管理がずさんになった? あらゆる可能性を考えるが青の死神がそう簡単にシャクエンに殺人鬼への回帰を許すとは思えない。

 

「少し、立て込んでいまして……。捜査資料を見ますか?」

 

「頼む」

 

 受け取った捜査資料は先ほどニシカツから預かった裏資料と大差ない。しかし一番に異なるのは捜査本部が既に炎魔の活動範囲を読んでいる事だ。これに関してはオウミも驚きであった。

 

「犯人の動きがある程度分かっているのか?」

 

「ええ、その周辺で殺人が起きています。この地区はちょうどビジネス街からちょっと出たところですね」

 

 オウミは眩暈を覚える。何故ならその場所は、アーロンが根城としている場所に極めて近かったからだ。

 

 ――炎魔の仕業なのか?

 

 オウミの脳裏を掠めたのは炎魔シャクエンの復讐という線だ。今まで自分を操ってきた人間に復習して回っている。だが、被害者リストを見るとその殺しの手法に読み解けない部分があった。

 

「おい、でかい声じゃ言えないが、この人員は……」

 

 部下も声を潜める。

 

「お気づきですか。そうです、いわゆるホテルの下っ端ですね」

 

 この街に住んでいる以上、突いてはいけない部分が存在する。一つがホテル、もう一つが盟主ハムエッグだ。まさかその禁を知らないほどシャクエンは無教養ではない。

 

 自分が教え込んだ。

 

 ホテルとハムエッグに手を出すのは最終手段だと。

 

「こいつ……本当に同じ犯人なのか?」

 

「どういう意味ですか? 手口も同じですし、殺し方もさほど変わりません。対象だけが違いますが、前回の炎魔も同じだったじゃないですか。この街の上への反逆、という意味では」

 

 それは自分が命じたからだ。炎魔は宿主がなくては成立しない殺し屋。

 

 新しい宿主を見つけたのか。あるいはアーロンが何かを?

 

 オウミは席を外してポケナビを繋ぐ。

 

 コール音の後にアーロンへと声を吹き込んだ。

 

「おい、波導使いさんよ。お前、きっちり教育してやがんのか?」

 

『いきなりご挨拶だな、オウミ』

 

「今回のよ、シャクエンのやり口じゃあねぇ」

 

 単刀直入に口にした言葉に通話口のアーロンが返す。

 

『だが、全ての事象が炎魔を指している』

 

「今、シャクエンは?」

 

『いない。俺も探していてな』

 

 オウミは額に手をやる。全ての現象がシャクエンをこの事件の犯人だと目するのに足りている。だが、違うはずだ。炎魔はそう簡単に復活するものか。

 

「波導使い。今は?」

 

『ビルの上から探しているところだ。炎魔の波導を見つければ、すぐさま察知出来る』

 

「そこまでお前が動いているって事は、だ。やっぱりシャクエンの仕業だと思っていないんだな?」

 

 確認の声にアーロンは慎重な言葉を発する。

 

『……俺達がいくら信じたところで、奴も殺し屋だ。どこで、どんなきっかけで戻るのか分からない。何かのはずみで戻ってしまった殺し屋は、二度目はない』

 

「分かってる。分かってんだよ、そんな事は」

 

 苛立たしげにオウミは歯噛みする。殺し屋に二度目の安息はない。一度手に入れた安息を壊したというのならば、もう戻るつもりはないという事だ。

 

「お嬢ちゃんは? あのメイとか言うお嬢ちゃんなら、収束の方法がありそうだが」

 

『駄目だ。馬鹿は使わせられない。今はスノウドロップを抑えてある』

 

 その意味するところを、オウミは理解出来てしまった。瞬時に苦々しい顔に変わる。

 

「人質かよ……。相変わらずこの街の盟主はえげつい事しやがる」

 

『向こうにその気はなくとも、もう既にその条件を満たしているのが辛いところだな。ハムエッグは俺を利用し、今回の事件の収束を狙ってきた』

 

「それは何でだ? 今回殺されたのはホテル関係者だ。ハムエッグからしてみれば役得なんじゃねぇか?」

 

 その言葉に通話口でアーロンが息を呑んだのが伝わった。どうやらその事実は知らなかったらしい。

 

『……ホテルの? だとすれば余計に分からない。どうしてハムエッグは放置しておけばいいこの殺しに介入したのか?』

 

「あるいはてめぇを介入させる事がある種の狙いだったのかもしれねぇな。ホテルも犯人探しに躍起だろう。その場合駆り出されるのは凄腕の殺し屋だ」

 

 その言葉の意味するところを察したのか、アーロンは舌打ちする。

 

『……波導使いの争奪戦』

 

「もう既に巻き込まれちまってんのさ。オレもお前もな。かつての飼い主だったオレは無関心を決め込めないし、今、管理しているお前だってお嬢ちゃんのせいで動かざるを得ない」

 

『だが、ホテルが動き始める前の依頼だ。当然の事ながら俺は優先順位をつける。ハムエッグ側に、俺はつく』

 

「それしかねぇだろうな。オレはオレで、ホテルに与するってわけにもいかない。この場合、飼い主だったオレに接触してくる奴は――」

 

 その時、廊下の対面から歩いてくる黒服を視界に留めた。オウミがポケナビから視線を外し、懐に手を入れるのと相手が銃口を向けるのは同時だった。

 

「……おいおい。警察署のど真ん中でよくやるぜ」

 

「オウミ警部。かつての炎魔の飼い主として、ご同行を願います」

 

「どこの上役だ? オレはもう、権限なんてねぇぞ」

 

「それを判断するのは我が主の役目です」

 

 どうやら黒服も小間使いらしい。オウミはフッと笑みを浮かべる。

 

「どっかの誰かさんが、今頃火消しに躍起かよ。言っておくが一ヵ月遅いんじゃねぇのか?」

 

「その口も、耳障りなら塞げ、と命令が降りています」

 

 オウミは黒服に同行する。しかしポケナビの通信を切らなかった事は、この黒服は気づいていないようだ。

 

 アーロンがどこまで動いてくれるか。

 

 それに賭けるしかなかった。

 



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第八十一話「Return False」

 

 突然に通話が切れたと思えば、胡乱そうな声が響いた。

 

 どうやらオウミの身柄は確保されたらしい。一手遅れた、とアーロンは歯噛みする。

 

 青いコートを風に煽らせ、街を行き交う人々の波導を読んだ。だが、シャクエンの波導は見つけられない。

 

「どこへ行ったんだ……、炎魔」

 

 シャクエンの居場所が割れない以上、目視で探すのは限界がある。オウミがわざと通話を切らないでおいたのはそちらから探れる可能性があるからだ。自分はひたすら奔走するしかない。

 

「ピカチュウ、エレキネット」

 

 肩に乗ったピカチュウが電気ワイヤーを発し、アーロンは隣のビルに飛び移る。ここまで立て込んでいるのはシャクエンの活動領域を自分が認知していないせいだ。ほとんどメイに任せ切りになってしまったのが今は痛い。

 

「殺し屋の行くところなんて限られている、と言いたいところなんだがな」

 

 シャクエンの目的とするのがホテル壊滅ならばホテルは大々的に動き出す。それまでの数時間か、あるいは数分間。自分はシャクエンを見つけ出し、ホテルへの謀反はない、という証明を立てなければならない。

 

 そうでなければシャクエンはホテルに粛清されてしまう。

 

「だが、当の本人も見つからない。こうなれば、賭けだが」

 

 アーロンは一度目を瞑り、呼吸を整えてから、カッと開いた。

 

 波導の眼を全開にして、シャクエンを探す。この方法は波導使いとして、波導を過度に使用するために出来るだけ避けたい処置であったが、今回事が事だ。少しでも早く、シャクエンを見つける必要に駆られていた。

 

 すると視界の端でシャクエンのものと同じ波導が映る。

 

 そこから先のアーロンの動きは迅速だった。

 

 ビルの谷間を抜け、身を翻してシャクエンの波導の昇った場所へと降り立つ。

 

 路地裏であり、シャクエンはバクフーンを繰り出していた。

 

 今まさに、ホテルの小間使いの男へと攻撃を仕掛けようとしている最中であった。アーロンは咄嗟に電気ワイヤーを飛ばす。前に出たバクフーンが腕に絡めつかせた。

 

「そこまでだ」

 

 アーロンの声にシャクエンが目線を振り向ける。どこか虚ろな眼差しにアーロンは問い質していた。

 

「何故だ、炎魔」

 

 シャクエンはバクフーンに視線をやってから何でもない事のように口にする。

 

「波導使いか」

 

「何故、殺し屋に戻った? 炎魔」

 

「世の中の道理、というものがある。灰は灰に、塵は塵に還る。殺し屋が殺しに戻るのも、それと同じ」

 

「やめろ。お前がそんな風に言葉を弄するなんて」

 

「似合っていない? 私もそう思う」

 

 シャクエンはどこか力の入っていない様子だ。今ならば無力化出来るか、とアーロンは自身に問いかける。

 

「私を、殺しに来たのか」

 

「そうと分かっているのならば忠告する。炎魔、これ以上余計な事に首を突っ込むな」

 

 その言葉にシャクエンは無表情のまま、すっと手を掲げる。

 

「余計な事? そちらにとってそうでも、こちらにとっては違う」

 

「だったらもっと直截的な言い回しを使ってやる。殺しをするな」

 

「あなたは私の宿主じゃない」

 

 払われた手と同期して電気ワイヤーが引っ張りこまれる。アーロンは咄嗟に構えを取り、電気を纏い付かせた掌底を打ち込もうとした。だがそれを阻んだのはバクフーンだ。

 

 炎の拳が下段から打ち込まれかける。瞬時に身をかわしたが、散った火の粉がアーロンの視界を一瞬だけ眩ませた。

 

 その一瞬でバクフーンと共にシャクエンは射程から逃れる。

 

 この一ヵ月近く殺しをしていなかったとは思えないほどの、軽やかな手さばきだった。

 

「炎魔! お前はやはり……!」

 

「やはり、何? 殺し屋に戻ったからって、あなたに指図するいわれはない」

 

「……馬鹿が悲しむぞ」

 

 その言葉にシャクエンは少しだけ無表情の仮面を翳らせた。それだけが心残りだというように。

 

「……メイに言うなら好きにすればいい。私は、この道しかない」

 

「誰だ? 誰にお前は命じられている?」

 

 宿主を殺しさえすれば炎魔は無力化される。しかし、シャクエンは口を割ろうともしない。

 

「波導使い。少しばかり、感傷的になり過ぎているのはお互い様のよう。私が言うとでも?」

 

「……そうだな。ならば無理やりにでも」

 

「口を割らせる、ね。あなたらしい」

 

 アーロンは電気ワイヤーを伝わせて電流を流す。バクフーンはしかし腕の膂力だけで電気ワイヤーを翻弄した。思い切り引っ張られてアーロンの身体が浮く。その刹那に、バクフーンは炎の襟巻きを伸長させた。

 

 瞬く間に炎熱が巻き起こり、その姿を不可視にさせる。闇の中に紛れた炎の獣を前に、ただ猪突するほどアーロンは向こう見ずではない。即座にワイヤーを切って射程から逃れる。その間隔を埋めるように炎の散弾が放たれた。アーロンは飛び退り、シャクエンから距離を取る。

 

 シャクエンはバクフーンに掴まってビルの壁面を登った。

 

「まだ間に合う! 戻って来い、炎魔」

 

 アーロンの叫びに、シャクエンは沈黙を返した。

 

 ビルの屋上に至り、シャクエンは姿を消す。完全に殺気が失せてから、アーロンは悪態をついた。

 

「くそっ! ここで追い詰められなければ、俺は……」

 

 視界の隅で下っ端が逃げ出そうとしている。アーロンは振り返らずに電気ワイヤーをそちらへと放った。下っ端の首筋をワイヤーが捉えて近付けさせる。

 

「教えろ。お前らは何をした? 何故、炎魔の怒りを買っている?」

 

 詰問の声に下っ端は首を振る。

 

「し、知るもんか! オレだっていきなり襲われて混乱しているんだ!」

 

「組織の情報があるはずだ。お前ら、狙われているそうだな」

 

 すると下っ端はばつが悪そうに顔を伏せる。アーロンはワイヤーを引っ張ってその顔を無理やり上げさせた。

 

「教えろ。でなければここで死ぬ事になる」

 

「お、おいおい! さしもの波導使いとはいえ、ホテルを敵に回せばどうなるかくらい、分かって――」

 

「分かっていて、やっているに決まっているだろう。教えろ。炎魔の狙いは何だ?」

 

 下っ端は逡巡の間を浮かべてから口火を切った。

 

「……これは憶測だが、ホテルが傘下に入れた街の一区画、赤人街って言うのか? そこの権利がどうのこうの言っていた気がする」

 

「気がする? 気がする程度の情報は必要ない。赤人街の権利を、どうしてホテルが有している?」

 

「だから知らないんだって! オレは、今狙われただけだし、他の連中から炎魔が動いているっていう事は聞いた。でもまさか自分が狙われるだなんて……」

 

 思ってもみない、という事か。アーロンは問い質す。

 

「炎魔に殺されたのは何人だ?」

 

「分からない。情報が錯綜している。でも、もう五人は死んでいるのは確実らしい」

 

 それだけ派手に動けばホテルにマークされる可能性だってある。それを分からないシャクエンではない。

 

「どうして、目立つ行動をしている? 炎魔、あいつは、それほど馬鹿ではないはずだ」

 

 シャクエンは何かを対価にしてでも、ホテルの連中を殺さなければならない理由があった。あるいは、ホテルの連中を殺す事、そのものに意味があるか。

 

 どちらにせよ、シャクエンを放っておけばホテルは本気を出し、掃討作戦に乗り出すに違いない。

 

「このままでは、どっちにせよ近いうちに戦場になるな。それを回避するのには、今しかない。今、奴を止めるしか」

 

 だが炎魔の実力は推し量るべき。自分が相打ちに持ち込むのがやっとの相手に交渉など有効なのか。

 

 アーロンは下っ端を見やり一つの提案をする。

 

「お前、ホテル側から情報を引き出せるか?」

 

 その言葉に下っ端は顔を青くする。

 

「ふ、ふざけないでくれ! そんな事がばれれば、殺される」

 

「ならば今、死ぬか?」

 

 電気ワイヤーを持ち上げると下っ端は頭を振った。

 

「い、嫌だ! 死にたくない」

 

「ならば従え。ホテルから出来るだけ情報を巻き上げるんだ。俺はハムエッグの側についている。そのせいで、ホテルからは敵対対象だと思われかねない。お前が窓口になって、情報を引き渡せ。そうでなければ……」

 

 ワイヤーを引くと下っ端は何度も頷いた。

 

「わ、分かったよ! やるよ……」

 

 電気ワイヤーを外し、アーロンは下っ端に命じる。

 

「よし。ならば一度本部へ帰れ。どこまで事態が切迫しているのか知らなければならない」

 

「あ、あんた波導使いだよな? 何で、炎魔の事なんて気にするんだ? 今回、もしもだ。戦争になったとしても蚊帳の外を決め込めばいい。あんたには飛び火しないはずだろう? 何で、そこまで必死になれる?」

 

 下っ端の問いかけにアーロンは答えていた。

 

「さぁな。だが、放っておけない事だけは事実のようだからな」

 



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第八十二話「Reaccede Fighter」

 

 この街を牛耳る、という事は実質不可能だ。

 

 ホテルとハムエッグ、二つの勢力に分断されたヤマブキではちょっとやそっとの成功者は頭角を現せない。出る杭は打たれる。だから、黒服に連れられてやってきた場所の主が、他の街ならば充分な成功者であっても、この街においてはチンピラのようなものだというのは間違いではなかった。

 

 金箔をあしらった扉の向こうには胡坐を掻いた老人が、枡で酒を飲んでいる。

 

 知らない人間だな、とオウミの思った印象はそれだけだった。

 

「来たか」

 

 下がれ、と老人が指示をすると黒服は席を外す。オウミは和室で老人と二人きりになった。

 

「オウミ、とか言ったな。かつての炎魔の飼い主」

 

 この老人はどこまで知っていて自分を連れて来たのか。その理由から解き明かさなければならない。

 

「どこまで知っているんで?」

 

「青の死神。奴の首を刈ろうとして狩られた、無様な敗退者」

 

 その言葉だけで自分の境遇を示すのには充分であった。

 

「あんた、オレの知らない人間だ。お歴々の名前と顔は大体頭に入っているが、あんたは知らない。誰なんだ?」

 

「お歴々、というのがどこまでの連中を示すのかは知らんが、わしはそいつらとは別系統の命令系統で動いている。いわばこの街の俯瞰者だよ」

 

 俯瞰者を自称する老人は酒を呷ってから、「呑むか?」と勧めてきた。生憎と呑む気にはなれない。

 

「いえ、オレは結構。それにしたって、あんたは何者なんだ? いきなりこの街に切り込むにしては、少しばかり大胆が過ぎる。いや、豪胆と言い換えてもいい。ホテルとハムエッグを怖がってもいない」

 

「怖がる? どうしてわしがあのような青二才共を怖がらなければならない」

 

 ホテルとハムエッグを指して青二才とは。この街で長生き出来るタイプではなかった。

 

「あんた、ちょっと命知らずだぜ? 警察署に草を放ち、オレみたいな……まぁ言っちまえば悪徳警官だが、それでも警官だ。そいつを拉致って来るんだから妙なところで無神経だよ」

 

 オウミの言葉に老人は肩を揺らして笑った。

 

「必要になった駒だからな。必要なものは何でも、自分の手で手に入れたいものだよ。この街もいずれは、な」

 

 おかしい。ここまでの命知らずがこの街で成功出来るはずがない。ホテルとハムエッグに勘付かれずに財を築くだけでも難しいのに。

 

「……あんた、誰だ?」

 

 老人は酒瓶から枡に酒を入れて掲げる。

 

「姓はヤマシナ、名はゲンジロウ。ジョウトで少しばかり財を築いた、成金だよ」

 

「ジョウトのお偉いさんか? だがジョウトでもヤマブキがどんな街かくらいは評判だろう?」

 

 殴り込みをかけるにしては少しばかり粗雑だ。その胸中を悟ったのかゲンジロウはふふと笑みを浮かべる。

 

「確かに。この街は恐ろしい。どこまでも人の欲望を食らって大きくなる、魔獣だ。だが魔獣を手懐けるのは、少しばかり心得があってね」

 

 ゲンジロウの自信はどこからやってくるのか。オウミは問いかけていた。

 

「あんたがどれだけ野望を抱こうが、それは結構だ。どんだけでもやればいい。ただし、街のルールに抵触しない範囲で、だ。あんた、大きく動き過ぎている。このままじゃ先は長くない」

 

「先はないと知って、ホテルとハムエッグの支配をよしとするか? わしはそうは思わんな」

 

「笑い事ではない。この街で生き残りたければ、それなりの力の誇示がいる。そっちの持っている戦力はたかが知れているだろう? 何人の黒服を侍らせても、同じ事だって分からないのか? この街じゃ勝てない」

 

「勝てない。勝てない、か」

 

 心底可笑しそうに、ゲンジロウは含み笑いを漏らす。この老人、実のところもうろくしているのではあるまいな。

 

「おい、ボケてんじゃないぞ。この街は老後の安泰を約束するにしては尖ってるって言ってんだよ。静かに老後を過ごしたいんなら、シオンタウンにでも行って毎日墓参りでもしてやがれ」

 

「わしが命知らずの向こう見ずに見えるようだね」

 

「違うってのか?」

 

 ゲンジロウは酒を呷り、「来やれ」と声にした。すると障子が開かれ、向こう側に人の気配がする。

 

 次の瞬間、じっとりと汗を掻いていた。突然の炎熱のせいだ。いきなりこの部屋が蒸し風呂のような暑さになる。

 

 この経験を自分は既にしている。この感覚を分かっている。

 

 まさか、と息を呑んでいた。

 

「シャクエン。そこに、居るのか……?」

 

 その言葉に障子の向こうから返答はない。だが、身体が覚えている。これは炎魔の感覚だ。

 

「炎魔シャクエン。この街には面白い殺し屋がいる」

 

 ゲンジロウは枡を掲げて笑みを浮かべる。まさか、この男が今の飼い主だというのか。

 

「何を使った? 幻覚剤か、それとも違法薬物か? 何でてめぇみたいな小悪党に、炎魔が操れる?」

 

「その種を明かしてどうするというのだね? わしの力だよ」

 

 覚えず唇を噛んだ。この老人は本当に、炎魔シャクエンを手に入れたというのか。だからこそ、ここまで大胆に切り込んできた。

 

「……分かんねぇな。だとしたら余計に、元の飼い主であるオレは邪魔じゃないのか?」

 

 シャクエンの判断が鈍るなど万に一つもあり得ないだろうが、自分ならば慎重を期す。前の飼い主など呼び戻すものか。

 

「なに、悪徳警官オウミ。お前に頼みがあって呼んだのだ。それ以外にない」

 

「頼み? ここで腹を切って死ね、か?」

 

 その言葉にゲンジロウは哄笑を上げる。自分としては笑い事ではない。

 

「そこまで酔狂ではないよ。それに、何よりもわしは血が苦手だ。殺しだって目の前で見せしめでやるのは出来るだけ避けたい」

 

「……何だって言うんだよ、じゃあ」

 

 ゲンジロウは枡を畳の上に置いて鼻を鳴らす。

 

「オウミ。もう一度、返り咲きたくはないか?」

 

 その提案にオウミは思わず聞き返していた。

 

「何だって? 返り咲く?」

 

「まぁ要するに、炎魔の宿主をもう一度やるつもりはないか、と言っている」

 

 あり得ない、と目を見開く。一度手離されたシャクエンが自分の下に戻ってくるなど。だが、ゲンジロウの眼差しはその程度造作もないとでも言いたげだ。

 

「宿主は、一度変われば二度と服従はない……」

 

「それは通常のルールだ。わしは特別なルールを敷きたい」

 

 ゲンジロウの言葉に従えばつまり、炎魔の殺しのルールを変えられた、という事なのだろうか。しかしヤマブキに古来より住まう炎魔を、ジョウトのおのぼりさんが制御出来るとは思えなかった。

 

「炎魔のルールは、この街に住んでれば誰だって知っている。ガキだって、ちょっと背伸びすれば分かるほどだ。そんな簡単に、変えられるもんだとは思っていない」

 

「浅慮、浅慮よの、オウミ。どうして、宿主という制度があるのか、そもそも炎魔は何故、殺し屋を受け継ぐ血族として存在しているのか。歴史、というものを軽んじてはいかんよ、オウミ警部。何故、シャクエンという暗殺者が襲名され、何故このヤマブキで連綿と続いてきたのか。遠い昔、まだポケモンを捕獲する術などなかった頃、朝廷に蔓延る悪人を裁く義憤の殺人者の記述がある。どことも知れず炎を操り、熱気を自由自在とし、その姿は神出鬼没であるがただ一つ、少女である、という事だけが共通する人物がいた」

 

「それが今日の炎魔だと?」

 

「わしは、炎魔を使役するに当たって、ある程度調べを進めた。なに、わしも元を辿れば所詮は第一回ポケモンリーグで蓄えた金をやりくりしている成金の子孫だ。ジョウトで様々な人物の援助をしたとは言え、カントーほどの繁栄ではない」

 

「ジョウトにその記述があったってのか?」

 

 ゲンジロウが足元の巻物を手に取って広げる。そこには今の人間では読めない達筆な記録があった。

 

「ここに、炎魔襲来、とある。これが恐らく最初の炎魔だ」

 

「達筆過ぎて読めねぇよ」

 

「なに、そう書いてある、とだけ知っておれば結構。炎魔は居た。ではどこに? と遡ると、その初代はジョウトにて朝廷の悪人を裁いていた。分かるか? 元はジョウトの暗殺集団であった」

 

「自分達に、そのルーツがあるってのか」

 

「そこまで傲慢じゃない。ルーツがこちらにあっても、今、現在、炎魔の根城としているのはこのヤマブキなのだからな。この記述が百年前か、あるいは二百年かは分からん。だが、それほどまでに年季の入った殺し屋、炎魔を使役する、というのは並大抵の事ではない」

 

 自分がシャクエンを脅して遣っていた事にまるで反目するような言い草だ。オウミは笑みを浮かべる。

 

「爺さん。あんた、オレの使い方が間違っていたみたいな事を言いたいようだが、こっちも言っておくぜ。使えねぇ暗殺者なんてゴミクズ以下だ。そいつを、使えるレベルまで引き上げるだけでも相当なものさ。オレは間違っていたとは思っていない。暗殺を軽んじれば、それだけ代償が高くつく」

 

「無論だとも。オウミ警部。お前は正しく、炎魔シャクエンを使役していた。暗殺者と宿主という楔をきっちりと心得て。……ところで、前後するが初代の炎魔には宿主がいたのか?」

 

 ゲンジロウは巻物を手繰る。視線を落としている先にその記述があるらしい。

 

「オレの勘じゃ、いたんじゃねぇか?」

 

「いいや、こうある。炎魔に至る道標なし。つまり、手がかりの一切ない殺し屋であった。手がかりがない、という事は弱点がなかった。宿主の存在を、この記述は否定している」

 

「分からないじゃねぇか。そこにないだけで、宿主はいたのかもしれない」

 

「そう、いたのかもしれない。だが、わしはこう考える。殺し屋、というものには得てしてマインドセットが必要になる。符丁、とも言うが殺しを行うに当たって精神面を研ぎ澄ます役割、つまりは殺しを行う自分と普段の自分を切り離し、リセットするという事が必要になってくる。どの殺し屋でも、多かれ少なかれ存在する役目だが、では炎魔のマインドセットは?」

 

 その段に至ってオウミは確信した。

 

「そいつが宿主制だとでも?」

 

「宿主に全責任を押し付ける事によって、自身の心の負荷を最低限に留める。マインドセットとしてはよく出来たものだ。他の暗殺者ならば、それが契約であったり、あるいは無理やりな薬物であったりする。だがこのマインドセットならば炎魔は必要最低限の運用で最大の効力を発揮出来る。何故か? それはツーマンセルという分かりやすい構図で暗殺を俯瞰出来るのならば、その宿主をとっかえひっかえすれば、もしかすると、炎魔は限りなくそれをゼロに出来るのではないか」

 

 ゲンジロウの試みが見えてきた。オウミは顎をしゃくる。

 

「なるほど。今回のシャクエンのやり口はそれか。炎魔に、宿主を短期的に替えさせる。そうする事で精神の負荷を軽く出来るのではないか、という、実験」

 

 実際の成果は、と目線を送るとゲンジロウは小さな箱を手にした。掌ほどの大きさしかない箱だったが、どういう意味なのか、とはかりかねる。

 

「開けてみよ」

 

 オウミは警戒しながらそれを開いた。

 

 その瞬間、怖気が走る。中に入っていたのは人間の親指であったからだ。

 

「何だ、こりゃ……」

 

「つまりはそういう事だよ、オウミ警部。親指レベルの差異でも、今の彼女ならば識別出来る。いざとなれば親指を切って別の人間と契約させられる、という事だ。ここまで炎魔の契約レベルを下げられたのは大きい。咄嗟の場合、宿主を殺されてどうにもならない暗殺者の弱みを消せる」

 

 何を言っているのか、この老人は分かっているのか。炎魔シャクエンを親指レベルの契約まで引き下げた、という事は、それだけリスクも高まっている。炎魔の暴走を引き起こしかねない。

 

「おい、爺さん。身勝手が過ぎるんじゃねぇか? こんな事して、炎魔が使い物にならなくなったら、とか考えなかったのか?」

 

「ならんよ。それこそ、先ほどお前が言っただろう? 暗殺者を甘く見るな、軽んじるな、と。わしは誰よりも暗殺というものがどこまで制御可能なのかを見極めたいのだよ。暗殺者炎魔、その完成を見るためにな」

 

「完成? 今までは未完だったってのか?」

 

 ゲンジロウは枡に酒を注ぎながら呟く。

 

「この酒も同じだ。完成品、と謳われるものの陰には幾数千の失敗作がある。炎魔も然り。今生の炎魔を育て上げるために、この暗殺一族はどれだけの研鑽に身を置いた? どれだけ、暗殺、炎を操る術を磨き上げた? 失敗ありきの完成品。今までは失敗が続いていたが、今度からは違う。本物の、炎の暗殺者だ」

 

「そいつをオレが扱えば、天下無双ってわけかい」

 

 自分で扱わないのは最悪の場合、指を切るレベルで契約を引き下げて煙に紛れるため。この老人は飄々としているようできっちりと退き際を心得ている。その上で、自分への交渉なのだろう。

 

 ――宿主をやるか。あるいは……。

 

 オウミはどこからともなく見ているであろうゲンジロウの部下を自覚する。

 

 ここで頭を吹き飛ばされて死ぬか。

 

 選択肢は少ない。

 

「ここに拉致って来た時点で決まっているんだろ? やるよ、やってやる。ただし、オレのやり方ってもんがある。それには承服してもらえるか?」

 

「もちろんだ。一度炎魔の宿主をやったのならば、二度目は容易いとて」

 

 障子の向こうにいるシャクエンにオウミは声を投げる。

 

「いるんだろ、シャクエン。出て来いよ」

 

 その言葉に少女の影が揺れた。かと思えば、すっと気配が消え失せた。

 

 今までのシャクエンの感覚ではない。まさしく、その場から人一人が消えた。歩み寄ろうとするとゲンジロウが止める。

 

「やめておけ。指が焼け切られるぞ」

 

 ハッとして手を離すと爪の先端が焦げていた。消えたのではない。

 

 炎熱を強化し、さらに高次元の不可視領域に達する事が出来たのだ。

 

 ゲンジロウの言う炎魔の高みは伊達ではない、と再確認された。

 

「……悪かったよ。じゃあどうすればいい? 触れもしねぇ暗殺者なんて使えるもんか」

 

「お前の存在だけでいい。後は簡易的な目的意識だけを持たせればな。今までの炎魔もそうしてきたのだろう」

 

 分かった風な口を、とオウミは鼻を鳴らす。

 

「だが、おい、シャクエン! 居留守ぶっこんでっと、どうしようもねぇだろうが」

 

「ああ、そう、言い忘れていた。もう炎魔、という名前は古い。この街で手垢のついた称号だ。わしは新たな暗殺者の名前を考えた。これからはそちらで呼んでもらいたい」

 

「ほお……、何だって言うんだ? 言っておくが、手垢がついたって言っても、この街では一二を争う暗殺者の家系だ」

 

 ゲンジロウは笑みを深くして枡に注がれた酒を飲み干す。

 

 熱い吐息と共に、その名が紡がれた。

 

「――その名は熾天使。炎を操るのならば、こちらが相応しい」

 



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第八十三話「React Force」

 

「現状、下っ端との連携が取れていない状況です。このままでは……」

 

 軍曹の濁した言葉にラブリは応接室で考えを巡らせていた。

 

「分かっている。我がホテルの沽券に関わる」

 

「どうなさいますか? カヤノ医師が協力を呑んでくれればあるいは」

 

「駄目ね。一度ノーと言った相手に二度目の交渉を挑むのはスマートではないでしょう? それに、パパは意固地よ。絶対にうんとは言わない」

 

 カヤノに全責任を負わせてこの抗争の火消しに徹してもらおうと思っていたが当てが外れた。こうなってしまった以上、波導使いかあるいはもう一つの戦力を期待するしかない。

 

「瞬撃……、使えそう?」

 

「波導使いの下にいるあの少女ですか。交渉は出来ますがその前に」

 

「波導使いが割って入ればお終い、ね。分かっている。分かってはいるんだけれど……」

 

 どうしても考えが纏ってくれない。下っ端の被害は最早、こちらの我慢の限界を超えつつある。すぐにでも炎魔討伐の指揮を執るべきであった。だがその場合、守りが手薄になる。

 

 その隙をハムエッグ辺りに突かれるのは面白くない。いや、ハムエッグならばまだ礼節を心得ているだろう。それ以外の、我が方に私怨を持ち込んでいる輩の介入が最も危惧すべき問題だ。

 

「システムOSの一件で、絶対に考えに浮かばせなければいけないのは第三戦力だって気づけたもの。我が方と国防軍、それにもう一勢力、あのOSを持っている人間がいる。システム班に連絡は?」

 

「既に回していますが、やはりまだ解明出来ない部分の多いシステムのようで……」

 

 つまり、今電脳戦を仕掛けるべきではない。そもそも敵勢力が一体。たった一人の暗殺者に付け焼刃の電脳戦は間違っている。

 

「……でも、絶対にいるはずよ。炎魔を使って何かを仕掛けようとしている奴が。でなければ我がホテルに喧嘩を売るなんて」

 

 あり得ないはずだ。しかし、と考えに浮かんだのはプラズマ団である。

 

 あの礼節も何も弁えない素人集団ならばあり得るか、と考えて否、と頭を振った。

 

 あの素人共ではまず炎魔を雇えまい。

 

 いよいよ思考の袋小路に入った気がしてラブリは頭痛を覚えた。軍曹が手早く気づいて、「ご気分が?」と窺ってくる。

 

「いえ、大丈夫。それよりも何よりも、気分を害するものがあるとすれば、それは我が方に敵として屹立する暗殺者、炎魔。何をもって、我が方を敵に回したのかは知らないけれど、思い知らせる必要がある」

 

 決断は早期に行うべきだ。ラブリは立ち上がって、応接室を出た。

 

 外では決戦の気配に備えてホテルに在籍している百人の人員がいた。百の兵力で、どこまで炎魔と拮抗出来るか。ラブリは単純に、分の悪い勝負であると考えていた。

 

 一対百。幾百の連戦に身を置いてきたつわもの達とはいえ、過信は禁物だ。敵はこの街では最強の誉れ高い暗殺者。

 

 しかし、自分達以外に誰が止めるというのか。

 

 悪を止めるのは悪でなければならない。正義はこの街には存在しないのだから。

 

「……総員に告ぐ。武装展開」

 

 武装展開の声にホテルの人員は挙手敬礼を自分に送る。一糸の乱れもない完璧な統率。それこそがホテルの強みであった。

 

「武装展開」と軍曹が復誦すると、前に三人、歩み出た。

 

 一人は背の高い女で名をサヤカという。屈強な面持ちの男は名前をニヘイ。もう一人はウェーブのかかった金髪の女で、ジェーンといった。

 

「サヤカ伍長、その総数は」

 

「我が方、総兵力三十五であります!」

 

 張り上げられた声には既に戦闘の気配が漂っている。続いてラブリはニヘイに目線を向けた。

 

「問う。ニヘイ曹長、その総数は」

 

「我が方、総兵力二十七!」

 

 ラブリは最後にジェーンに目を向けた。

 

「ジェーン兵長、その総力は」

 

「我が方、総兵力二十八です!」

 

 全員の兵力を確認してからラブリは葉巻を要求した。軍曹が葉巻を取り出して火を点ける。

 

「よろしい。総兵力百! しかし我が方の戦力は、揃いも揃って精鋭中の精鋭。一個師団がそのまま、各国の軍隊の最高幹部に相当する能力を携えている。一の兵とて、わたくしは軽んじてはいない。一兵卒であったとしても、その力、その戦力は暗殺者のそれを軽く凌駕する。……だからこそ、心して聞け。今回の獲物はただの殺し屋ではない。そこいらにたむろする雑魚とはわけが違う。大物だ。名を炎魔!」 

 

 炎魔の名に、数人かはびくついたようだがそれを瞬時に覆い隠すのは彼らの自負である。

 

 ホテルミーシャの兵である、という自負。彼らのこれまで積み上げてきた強さ。それが暗殺者、炎魔の恐怖を瞬時に消し去った。

 

 代わりに訪れたのは戦意。

 

 絶対に勝つという鋼のような戦意である。

 

「貴君らは、ただの兵ではない。選び抜かれた、ホテルの中でも精鋭の部類。だからこそ問う! 貴君らは同朋を踏み躙られ、焼き殺されて何と感じるか!」

 

 サヤカが歩み出て声にする。

 

「我がアルファ小隊は怒りを。堪えようのない、地獄の業火よりもなお色濃い怒りを感じます。その怒りを糧に、ホテルに勝利をもたらすでしょう!」

 

 次いでニヘイが歩み出て声にする。

 

「我がベータ小隊は悔しさを。この身を引き裂きかねない苦渋と悔恨を感じています。その悔しさを糧に、ホテルに勝利をもたらすでしょう!」

 

 最後に歩み出たジェーンは他の二人よりも声を高々と張ってみせた。

 

「我がガンマ小隊は殺意を! 他の感情よりも耐え難い殺意が渦巻き、血潮の一滴に至るまで、殺しつくす事を! この殺意を糧に、ホテルに永劫の勝利を!」

 

「よろしい。ホテルミーシャ、臨戦態勢!」

 

 ラブリの号令に全員が踵を揃える。

 

「連中には我が方を敵に回した事を存分に味わわせてから殺せ。いたぶるな。ただ殺せ。嬲るな。しからば殺せ。弄ぶな。即座に殺せ。興に浸るな。その最中に刃を突き立てよ。背筋、身の毛、一本に至るまで、このホテルを敵に回した事を染み渡らせよ」

 

 サヤカ、ニヘイ、ジェーンがそれぞれの小隊のエンブレムが施された腕章を突き出す。

 

「貴君らは誉れ高いホテルの戦士。その戦果は限りなく、栄光に照らされたものと知れ!」

 

「総員、戦闘配置! 我が方はこれより、炎魔殲滅作戦、イタチ狩りを敢行する!」

 

 全員が一斉に振り返り、微塵の迷いもなく歩み出した。

 

「世話をかけるわね、軍曹」

 

「構いません。お嬢の決めた事です」

 

「ホテルが全軍を挙げて戦うという事は、わたくしも前線に出る。炎を操る暗殺者を滅殺するのに、微塵の迷いもない」

 

「お嬢、無茶の過ぎる時には」

 

「分かっている。わたくしをいさめなさい。それにしたって」

 

 ラブリはフッと笑みを浮かべる。戦いの予感、前夜の昂揚にぞくぞくする。

 

 戦闘神経を研ぎ澄ませたホテルの面々を見るだけで、恍惚が止まらない。

 

 ――これが久方振りの戦か。

 

「――わたくし、ガラにもなくときめいているわ」

 

 戦闘の夜が幕を切り、その日、ホテルミーシャはその本性を街に晒した。

 

 実に十年振りの、ホテルミーシャが小熊の皮を剥いだ瞬間であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『ほ、ホテルが、全軍指揮を……。ラブリ様が……』

 

 下っ端の途切れ途切れの連絡からも今の状況が好ましくないのは明らかであった。

 

 炎魔殲滅作戦。既にホテルは炎魔を倒すべき敵と判断した。全軍を挙げての総力戦。大げさが過ぎる。アーロンはその裏に渦巻いているものがあると感じた。

 

「ホテルは、何の考えもなく寝床を開け放つものか。何か考えがある。この期に乗じて動く人間を制する役目もないなど」

 

『で、ですが波導使いの大将。炎魔はこの街では知らぬ人間のいない殺し屋。ガキだって知ってまさぁ。悪い事をすると炎魔が来るって』

 

 だからと言って全軍を用いて掃討作戦を講じるか。アーロンには一抹の疑問があった。シャクエン本体は目視出来ない。あの時、逃がしたのが一番にまずかった。

 

 全能力を捧げてでも止めるべきだったのだ。

 

「だがホテルは、本当に炎魔だけを倒すというのか? そんな愚を冒すとは思えない。炎魔は脅威だが所詮は一人。何故、百の兵力が必要になってくる?」

 

 何か、自分の見落としがあるのではないか。その疑問にアーロンは下っ端に問い質す。

 

「本当に、百の精鋭が出たのだな?」

 

『間違いありやせん……。ホテルは、本気です』

 

「ではその兵力の置き場所は? どこに置くと言うんだ? 百の兵をただ放っただけでは考えなしというものだ。ホテルは、末端の人間には明かしていない真の目的がある」

 

『真の……。でもそうなると、こっちにはお手上げですって。こちとら末端構成員です。上の事なんて知る由も……』

 

「ラブリはどこに兵を充てようとしている? 何を御すための戦闘集団か。炎魔を一の脅威とするにしては、このやり方はスマートではない」

 

 アーロンは考える。ラブリの思考をトレースし、あの少女ならば何を考えるのか。何を至上目的とするのかを。

 

 自分の末端兵がやられた程度の私怨、いくらでも取り返せる。ホテルの面子が持たない、というレベルの汚され方ではない。所詮は、暗殺者の児戯、だと判じればいいところだ。ホテルそのものにも、恐らくラブリの真意は伝わっていない。

 

 彼らはそういう兵士だ。

 

 ラブリを女王として成り立つ軍団である。

 

 女王の真意をいちいち窺うような生易しい者達ではない。まさしく武士の名が相応しい兵力であった。

 

「暗殺者の遊びだと判じていない。最初から、ホテルには別の目的がある……?」

 

 そう考える他ない。ラブリは何か、別の目的のために視線を誘導させている。ホテルの圧倒的兵力、という隠れ蓑の上に成り立つ極秘作戦とは何か。

 

「兵装を開け放ってまで、何を求める? ラブリが試したいのは、何だ?」

 

 あらゆる可能性を視野に入れる。プラズマ団――否だ。この状況で掻き乱すには好条件であるが、ホテルが本気を出す相手ではない。

 

 ハムエッグも違うだろう。拮抗状態こそが両者の合意の上のはず。この状態で足並みを崩すのは逆に短命になるだけ。

 

 では別の、第三勢力は? 

 

 そう考えてルイの一件を思い返す。

 

「まさか。ホテルの真意は炙り出しか?」

 

 その考えに至った時、この条件で最も隙をつける部門は何か、と思考を巡らせる。

 

 システム面、兵力面、痛み分けになった時も鑑みた作戦行動。アーロンはハッとして呟いていた。

 

「……前回、システムOSを掻っ攫った人間。その炙り出しのためにわざと、炎魔の被害を装った?」

 

 だが、それにしては不可解な点が多い。下っ端を殺してまでホテルが炙り出しを行うとは思えない。それこそ下の反感を買うだけだ。

 

『あの、波導使いの大将……? さっきから自分で納得だけされて、こっちは何が何やら……』

 

「黙っていろ。俺が考えている」

 

『へい……』と下っ端が押し黙る。

 

 そもそも発端は何だ? 下っ端を殺して回っているのが炎魔だ、として得をするのは誰なのか。

 

 脅かしたいのは誰なのか。下っ端殺しはきっかけに過ぎない。何かを根幹から排斥するために、ホテルは兵力を挙げた。

 

「ハムエッグとの戦闘はまだ避けるだろう。この場合、炎魔という共通の敵を見つけ出して、一番に飛びつきたいのは第三勢力だ。その勢力はどこか……、国防軍ではない。このタイミングで出るのは得策じゃないからだ。ではやはり持ち去った個人か……。その人物の特定と、そのシステムを押さえるためのデコイ。デコイのために百の兵力を回すか? デコイも兼ねて、百の兵力を回した、と考えるべきだ。つまり、この戦い、一者を倒すためだけの戦いではない」

 

 炎魔と前回のシステムOSを奪った個人の特定。それだけか? とアーロンは顎に手を添える。

 

「もう一つ、何かを探そうとしているように感じる。その三つ目が分からない。……だが、ここまで来ればハッキリしている事がある」

 

『な、何でさぁ?』

 

 アーロンは顔を上げて夜の帳に沈んだ街並みを視界に入れる。

 

「――今宵、この街の勢力図が塗り替わる、という事だ」

 

 通話口で下っ端が唾を飲み下したのが伝わってくる。それほどの緊張。それほどの光景の具現であるのだ。

 

『そ、そんなおっかない事やめて、今すぐ仲良しこよしするためには?』

 

「そんな方法はない……と言いたいところだが、あるにはある」

 

『じゃあそうしましょうよ! そっちのほうが絶対にいいに決まって――』

 

「スノウドロップがホテルを壊滅させればいい」

 

 発した言葉に下っ端が言葉を飲み込んだ。ここでまさか最強の殺し屋の名前が出るとは思っていなかったのだろう。

 

『す、スノウドロップは再起不能って聞きましたが……』

 

「そう聞いているのか。間違いではないが、ハムエッグが今すぐにスノウドロップの鎖を解き放ち、目に映るもの全てを殺せと命じれば、ホテルは私兵の半分は失うだろう」

 

 自分との戦いで精神をすり減らしたとは言っても未だにそれほどの脅威ではある。メイが言ってもラピスは動くだろう。殺せ、という一つの言葉があれば、スノウドロップにとって百の屍を築く事などわけもない。

 

『半数ですか……。どうして大将は半数ってお考えで?』

 

「いくらなんでもホテルの私兵相手に百パーセントの勝率はないという事だ。確実に殺せて半分だろう」

 

 だがそれでも半分、という意味でもある。下っ端は、『ブルつきますよ』と声にした。

 

『それを、言ってやればいいんですよ。ホテルの人間に』

 

「無駄だろうな。ホテルの考えではスノウドロップは動かない。俺でも動かさないだろう」

 

『そりゃまた、何で? スノウドロップが動けばホテルも硬直せざる得ないんじゃ?』

 

「忘れたのか? 今回の獲物はあくまで炎魔だ。スノウドロップが出てくれば、それは炎魔の幇助に繋がる。ハムエッグが許すものか」

 

 あっ、と下っ端が間抜けな声を出す。ハムエッグが炎魔の軍門に下ると言わない限り実現しない。そうと判断されれば、ホテルとハムエッグの均衡が崩れる。

 

『で、でもですよ……。ここまで事態が氾濫しちゃ、もうどうしようもないんでは? それこそ、ホテルだハムエッグだとか言っていたんじゃ、いつまでも炎魔を捕まえられず仕舞いですよ?』

 

「だろうな。考えがあるのかを聞こう」

 

 一度下っ端との通話を切ってから、アーロンは繋ぎ直す。出たのはハムエッグだった。

 

『どうした、アーロン。何か進展でも?』

 

「嫌な展開になってきた。ホテルが全兵装を開け放ち、百の精鋭が街へと繰り出された」

 

『ほう。ホテルがねぇ』

 

 存外に冷静なハムエッグに、アーロンは言い含める。

 

「今ならば、ラピス・ラズリの制圧で半分は取れるが?」

 

『それは言外に、わたしがこの期を狙っていたような言い草だ』

 

 ハムエッグは少なくともこの機会に、ホテルの兵力が如何なるものかを割る事くらいは考えているはずだ。

 

「炎魔を餌にしてホテルを釣ろうって算段か」

 

『いやだな、アーロン。わたしはそこまで浅ましくないよ』

 

「では誰だ? 誰がこんな浅ましい考えで、ホテルの逆鱗に触れた? この街の人間ではあるまい」

 

『プラズマ団かな』

 

「それはない。奴らの目的はあの馬鹿の確保。論点がずれている」

 

 即座に切り捨てるとハムエッグは、『厳しいな』と笑った。

 

「何が可笑しい? 自分の思っている事態に転がって満足か?」

 

『アーロン。誤解をしないで欲しいのは、わたしが君に、この焼死事件を止めろ、と言った点だ。炎魔を泳がせてホテルの玉を取りたいのなら、何故君というイレギュラーを放った? 君をバーカウンターに一日でも留めておけば、この事態は君の与り知る事なく、収束していたはずだ』

 

 ハムエッグが言いたいのはただ一つだろう。

 

「俺に、この事態を止めろと?」

 

『炎魔シャクエンの仕業と思える焼死事件。それをホテルが押さえる前に君に依頼した。つまりわたしは、平和的解決を望んでいる、という事だ』

 

「平和的解決が聞いて呆れる。最早、取り返しがつかないぞ」

 

『だが君が炎魔や瞬撃と何食わぬ顔で日々を過ごせると、本気で思っていたわけではあるまい? 日常はいずれ終わりが来る。終焉は思っていたよりも早いぞ、アーロン。それこそ、日々の綻びが顔を見せ始めた頃には修復不可能になっているものだ。アーロン、君は爆弾を抱えている事を自覚するべきだよ。炎魔、瞬撃、それにメイというお嬢ちゃん。この三人といつまでも仲睦まじく過ごせるとでも? 唾棄すべき考えだ。君は何だ? 波導の暗殺者という本分を忘れたか?』

 

 ハムエッグの言っている事は分かる。自分は、いつの間にかぬるま湯に浸かっているような感覚であったのかもしれない。真の自分を解き放て。お前は非道な暗殺者だと、告げられているのだ。

 

「……教えられるまでもない。俺は殺し屋だ」

 

『では問うがね、波導使いアーロンよ。炎魔シャクエンを殺せるかね? 君は』

 

 迷いはある。シャクエンがやった事だという証明もないまま、自分の判断を下していいものか。だが決めあぐねている時間は過ぎた。自分が妥協案を探っている間にも、ホテルは動き、炎魔はじりじりと追い詰められる。

 

 自分の知らないところで、シャクエンを殺させるものか。

 

 アーロンは通話口に吹き込んだ。

 

「――愚問だ。俺は誰だって殺せる」

 

 その返答にハムエッグが通話先で拍手を送る。

 

『素晴らしいよ、波導使いアーロン。君は、本当に、賢明なる暗殺者であったという事だ。では、そんな君に敬意を表して、一つ、言っておこう』

 

「何だ? この状況の打開策でも?」

 

『ある意味では打開策だ。だが最終手段でもある。一両日中だ。一両日中に、二十四時間で事が収束しなかった場合、わたしはスノウドロップのカードを切る』

 

 アーロンは瞠目した。このポケモンは何と言った?

 

「何を……」

 

『何を言っているのか、って思ったかい? だが事実だ。君が動いて一日も経ってしまえば、それはもう手遅れ、というものだ。手遅れの状態のまま放置して、ではその付加価値は、と考えた場合、わたしならば捨てるね。食うに値しないものに成り下がったこの街を、どこまで存続させるかでいえば答えはノーだ。ヤマブキの盟主であると自負するのならば、終わり時も分かっているのが筋だろう』

 

 ハムエッグの言葉通りならば、自分にもリミットが設けられた。一両日中、二十四時間。

 

 その間に、この事態を収束しなければ不完全なスノウドロップが暴走し、ホテルや一般人関係なく殺し尽くす。

 

 ハムエッグは本気だ。いつだって本気なのだ。

 

 無差別虐殺を止めたくば足掻けとこちらに忠告している。

 

「……俺が、この事態を止められる一手だとでも?」

 

『わたしは君を買っている。君が思っている以上に、だ。炎魔シャクエン、これだけ一緒にいたんだ。殺す隙くらいは分かっているんじゃないのか』

 

「買い被るな。俺は、そんなつもりであいつと一緒にいたわけでは」

 

『では何だ? アーロン。君は、まさか彼女達といつまでも何の動きのない、平凡な日常を夢見て過ごしていたか? だが君はさっき言った。暗殺者だと。ならば君の仕事はこの街での異物を排除する事だ。暗殺者同士が肩身を寄せ合ってぬくぬくと過ごせると思ったかい? だがね、君達に安息などないのだよ。この世に、人殺しの咎に終わりがないように、永遠に君達は苦しみ、憎み合うしかない。殺し屋とはそういうものであるし、終わりが来るから、君達は人を殺す。そこに何の感情もなくとも、君達は殺し殺される。それは特別な何かではなく、そこに介入する感情もなく、自分の命でさえもいつか終わる事を見越して、他人の命を摘む。その権利があるのは、終わりを感じている人間だけだ』

 

 メイに話した波導使いの終焉が脳裏を掠めた。自分とて覚悟をして波導を使っている。そのつもりであった。今までも、これからも。

 

 しかしいつの間にか、この終わりが来なくともいい未来が待っているのではないかと日和見になっていたのかもしれない。メイやシャクエン、アンズと共に過ごす平穏な日々も悪くないと。

 

 だが、自分は今まで何人殺した? 

 

 覚えてなどいない。殺し屋が殺した数を数え始めるのは三流以下だ。

 

 もう何のために殺しを始めたのかも、思い出せない。

 

 それほどまでに骨身に沁みている殺しの血筋に、アーロンは歯噛みする。戻れないと知っているはずなのに。そんな事、とうの昔に分かっていたはずなのに。

 

「炎魔シャクエンを殺すのに、俺が迷っているとでも?」

 

『迷い、というよりも何かしらしこりを感じているはずだ。この選択肢でいいのか? それとも、この在り方でいいのか、かな? 君は、どこか難しく考えがちになってしまったね。以前までの君はもっとシンプルだった。依頼対象を殺し、裏切られれば殺し、気に食わなければ殺し、何の感情もなく、マシーンのように殺しを続けていた。あの時の、波導使いアーロンはとても美しかった。今の何倍も美しかったよ。だからホテルもわたしも黙認していた。君という存在を。君という最後の駆け引きの対象を。……だが、最近の君はどうだ? 安きに流され、人殺しを出来るだけしない方向に流れ、人の感情を鑑み、どこまでも理性的で合理的であった頃とは打って変わって、まるでそんじゃそこいらの人間のような振る舞いをする。わたしはね、正直なところ幻滅していた。君が、あの美しかった波導使いが、人間に成り下がっていくのがね。だからこれは好機だ。君が元の冷酷な波導使いに戻れるかどうかの好機。ある意味では賭け。わたしが押さえられるのは一両日だ。それを越えれば、わたしはスノウドロップを解き放ち、ホテルを壊滅させる事にいささかの躊躇いもない』

 

「何故だ。今の敵は炎魔のはずだろう?」

 

『敵が炎魔であっても、この街の秩序を乱したのはホテルのほうだ。バランサーとしての役割を果たさせてもらう。スノウドロップ、ラピスには薬を使ってもいい。それほどまでに、今の状況が切羽詰っているのだと、君には分かって欲しいからね』

 

 自分にやらせなければラピスを使ってホテルを崩壊させる。その宣告はあまりに無情で、人間の慈悲の欠片もない。 

 

 当たり前だ。

 

 相手は喋るだけのポケモン。

 

 人間ではないのだから。

 

 人間の作り上げたルールなど関係がないのだろうし、築き上げた均衡などいざとなれば崩してしまっても自分には何の被害もない。

 

 ポケモンは最悪ポケモンに還ればいい。だが人間はそうはいかない。文明を築き、地位を築き、秩序を敷き、ここまで作り上げた、連綿と続いてきたものをたった一夜で壊してしまうのは、あまりに非情であった。

 

「……俺を駆り立ててどうする? 炎魔の殺しの称号を得るつもりか?」

 

『君が炎魔殺害に成功すれば、君の名誉のためにもなる、と言っているんだ。波導使いに感情はないのだろう? だったら証明してみせるんだね。このヤマブキを害する存在には容赦のない鉄槌が待っている事を』

 

 自分の殺しの腕でもって、ヤマブキを守ってみせろ。ハムエッグの声音にアーロンは舌打ちする。

 

「どこまでも……人間を嘗め腐ったポケモンの言い草だ」

 

『どうとでも言うがいい。わたしは所詮、ただのポケモンなのだからね』

 

 ヤマブキの盟主も、その冠が取られればただの物珍しいポケモン。自分の地位などハムエッグには関係がない。それさえも投げ打ってヤマブキの秩序のために動く、ある意味では最強の使い手。

 

 アーロンは声を吹き込んだ。一両日中だというのならば、こうして喋っている事も惜しい。

 

「分かった。だが、炎魔を見つけた後は、俺の裁量に従ってもらう」

 

『波導使いアーロン。わたしは君を信じているよ。きっと、賢い選択をする』

 

 信じるなど、今さらどの口がほざくのか。

 

 通話を切ってアーロンは下っ端に繋いだ。下っ端は慌てた様子で声にする。

 

『大将……、大変でさぁ。もうホテルの全面展開が始まりかけている。炎魔をどこから炙り出すのかは知りませんが、この街が焼け野原になる可能性だってある……!』

 

「そんな事は百も承知だ。ホテルの情報をハッキングしろ」

 

 突然の申し出に下っ端は仰天したようだった。

 

『た、大将? そんな、無理ですよ! こちとら万年下っ端です!』

 

「ホテルの動きをモニターすら出来んのか」

 

『モニターって……。送られてくる情報をリアルタイムで観る事くらいしか……』

 

「よし、ではその情報をこれから送る端末に反映させろ。端末コードはRUIだ」

 

『RU……、何なんです? それ』

 

「疑問はいい。お前は従え。さもなくば」

 

『分かりました! 分かりましたよ! 端末に送ります。……知りませんよ』

 

 呟かれた最後の言葉で通話を切り、アーロンは次なる目標に繋ぎ直す。コール音の後聞こえてきたのはルイの声であった。

 

『なに、波導使い。こんな情報、もらったところで』

 

「下っ端からのリアルタイム情報だ。このヤマブキの監視カメラや街頭映像を解析する事くらい、お前ならばわけないだろう」

 

 ルイはその言葉に疑問符を挟むように返す。

 

『出来るけれど何故? 波導使いが炎魔シャクエンを本気で殺すつもりになったって事?』

 

「説明している時間はない。ホテルの包囲網を掻い潜り、炎魔に直接繋がる最短ルートを教えろ」

 

『簡単に言ってくれるよ……。ボク、どれだけ処理速度が速いたって、この端末からスパコンに繋がなきゃさすがにここまで解析は出来ない。優秀なOSって言っても、籠の中の鳥さ』

 

「では全ての権限を委譲する。お前のやりたいようにやれ。後始末はこちらが一任する」

 

『本当にいいの? 結構、足跡とか残っちゃうかもよ?』

 

「構わない。お前の持てる全てを注ぎ込んで、炎魔を追え。その情報を最短最速で俺に伝えろ。以上だ」

 

『待って、波導使い』

 

 通話を切ろうとすると、ルイが声で制する。その声音は今までよりも真剣みが強い。

 

「何だ、今忙しい……」

 

『本気で、炎魔シャクエンを殺すつもりなんだね? その選択に、後悔はない?』

 

 システムが人間の後悔を問うなど、と一蹴しようとしたが、あまりにもルイの言葉が本気であったせいだろう。アーロンは答えていた。

 

「……正直、これが正解なのかは全く分からない。ハムエッグに踊らされた形だ。だがそれでも、俺がまず炎魔のところに行かなくては、誰が行くと言うんだ。炎魔はこの戦いで失うもののほうが多い。だというのに、これを仕掛けたのは何故だ? 俺には、疑問しかない。これは、あの炎魔がやったにしては粗雑過ぎる」

 

『炎魔シャクエンの仕業ではない、という可能性も視野に入れているんだね?』

 

「可能性だがな。だがやり口は炎魔のそれだ。この街で、あの殺し方を真似出来るのは炎魔しかいない」

 

『状況証拠は揃っている、か……。だとすれば余計に、この事態そのものが炎魔シャクエンを追い詰めるためのものであるようにしか思えない。ホテルを動かし、ハムエッグに選択を急がせ、波導使いを導入する。どう考えても、やり過ぎだ。ここまで総員が動けば、どこかに隙が生まれる。ボクからしてみれば、その隙を突けばこの街の秩序なんて一発で瓦解するんだ。つまり、この夜そのものが、ヤマブキへと手痛い一撃を加えるためのお膳立て』

 

「炎魔の行動がそもそものきっかけだった。あいつ以外にこれを演出出来る人間が分からない」

 

『探してみよう。そのついでに、解析情報を送る。波導使いは炎魔を追って。ボクは別の方面から、この街の隙を突こうとしている奴を調べる』

 

「そうしてくれると助かるが、お前の事は」

 

『分かっているよ。ハムエッグとホテルにだけは知られてくれるな、でしょ? ボクだってこの境遇が心地いいから甘んじているだけだからね。ハムエッグやホテルのシステムになる選択肢だってあるんだけれど、そうなってしまえばボクは人格データのない、ただのシステムに成り下がるだろう。そうなるのは、ちょっと嫌だからね』

 

 システムが自分の境遇を選択する中、こんな自分は、と歯噛みする。

 

 殺し屋として、炎魔を追う事しか出来ない。どうしてもっと器用ではないのだ。

 

「頼む。俺のために道を拓いてくれ」

 

『もう始めているよ。波導使い、とりあえず移動だ』

 

「ああ、分かっている」

 

 アーロンは肩に乗せたピカチュウに「エレキネット」を命じ、ビルの谷間を抜けていく。波導の眼を全開にしてシャクエンの波導を探るが、目視出来る範囲には居そうになかった。

 

「どこへ行った……。炎魔」

 

 早く見つけ出さなければ。

 

 焦燥が胸を掻き毟り、アーロンは夜を睨みつけた。

 



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第八十四話「Reactuate Fire」

 

 火炎一閃。

 

 その一撃だけで、名乗るに値するのだと教えてくれた。

 

 オウミは不可視の状態に入ったバクフーンと共に行動していた。バクフーンがすぐ傍にいるせいであまり派手に動き回れないが炎熱に隠れる能力は存外に便利だ。

 

 同行する自分の姿まで隠してくれる。

 

 オウミは対象にギリギリまで近づいてからの強襲が可能であった。

 

 ヤマブキのところどころに配置されているホテルの連絡番の人員。それを一つ、また一つと潰していく。

 

 バクフーンが姿を見せた時にはもう相手の死期であった。

 

 オウミは口元に笑みを浮かべて頭を掻く。

 

「おいおい、ここまでの力だってってわけかよ。そりゃ、最強を名乗れるのは分かるぜ。自分でバクフーン、いや、〈蜃気楼〉を操ってみるとよく分かる。こんな力、持ってしまったら殺し以外に使えねぇ」

 

 連絡番は通常配置ならば全部で六人。既に四人を手にかけており、あと二人を始末すればホテルの連絡網は完全に途切れる。

 

 しかし、ここで嫌なニュースがゲンジロウよりもたらされた。

 

『ホテルは、全方位展開を始めた。兵装開放だ。百の兵が雪崩れ込むぞ』

 

 オウミは背筋を恐怖が這い登るのを感じ取った。ホテルの全兵装の開放。それはつまり、最強を誇る戦士達が一斉に自分を襲う事を意味する。

 

 しかしゲンジロウは慌てるどころか嗤ってみせた。

 

『この時を待っておった。寝床を空けたホテルは丸裸も同然。今ならば取れる』

 

 取れる、か、とオウミは胸中にひとりごちる。取れる、とするのは早計だとこの老人に言い含めたところで無駄だろう。相手は野心の塊だ。今の自分の忠告など聞く耳を持たないだろう。

 

 自分は兵士だ。

 

 炎の殺し屋を操る尖兵である。

 

 兵士に上告する権限はない。

 

「聞いておくが、このまま連絡番を潰すだけ、って言うんじゃないだろう?」

 

『ああ、その通り。ホテル百の兵力と真っ向から撃ち合うのはやめておけ。百と一では童でも分かる数字の差だ』

 

 ホテル百の兵力が如何なるものか。見てみたい気持ちもあったがそのような余裕もないだろう。

 

「行くぞ、〈蜃気楼〉」

 

 オウミの声に再び姿を闇の中に溶けさせたバクフーンの能力が発揮される。オウミ自身をも闇の中に消失させて夜の静寂を進む。

 

 ここまで静かな夜も珍しい。表通りの喧騒も失せ、ヤマブキシティそのものが昏睡に落ちている。

 

 その代わりに目を覚ましたのはこの街の裏の部分だ。裏面が胎動し、自分一人の戦力を食い潰そうとしてくる。

 

 ぞくり、と総毛立つ。

 

 ホテル百の兵が放たれた。その報告だけでも竦み上がってしまいそうだが、契約と同意の上にこの役目を買って出たはずだ。

 

「頼むぜぇ、ホテルが間抜けでいてくれよ……」

 

 半分は懇願であったが、その言葉に空気を割く銀翼の疾駆が応答する。

 

 オウミは空を仰いだ。漆黒に沈んだ夜を引き裂き、月光を受けるのは鋼の翼を展開したポケモンの部隊である。

 

「エアームド……。思っていたよりも速いな」

 

 エアームドが編隊を組んで飛翔している。地上の敵を見つけようと空中から索敵しているのだ。自分の姿が見えないとは分かっていても嫌な汗が滲んだ。

 

 エアームドがその翼の勢いで乱気流さえも巻き起こしながら華麗に身を翻す。今のヤマブキは完全な緊張状態である。

 

 少しの気の緩みが自分の破滅に繋がるであろう。

 

「怖いホテルの女王が、上で見張っているってわけかよ」

 

 女王――ラブリの存在を自覚する。

 

 どこで見ている? どこから、この戦局を俯瞰している?

 

 ラブリへの肉迫は最終局面だが、それまでに索敵されればお終い。

 

 極限まで張り詰めた神経を扱わなければ、この勝負、敗北する。

 

 焦燥と緊張の二重の縛りが、オウミの喉をひりつかせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「状況は?」

 

 ラブリの声音にアルファ小隊の無線が飛ぶ。

 

『エアームド部隊、全域配置完了。空からの索敵は継続して行っていますが、依然目標を発見出来ず』

 

『続いてベータ小隊。地上班の映像です』

 

 ラブリはビルの屋上に佇み、三つのモニターを前にしていた。そのうち一つのモニターにはエアームド一体から映し出されたヤマブキの俯瞰図が。もう一つには地上を埋め尽くそうとしている群体の昆虫ポケモンの姿があった。赤い眼をぎらつかせて地上ルートを駆け抜けるのはアイアントと呼ばれる鋼・虫ポケモンである。

 

『現在、縦貫道を北上中。裏通りの末端に至るまで索敵していますが、今のところ見敵なし』

 

 アイアントの鋼の部隊がヤマブキを埋め尽くす様はまさしく蹂躙の二文字が似合った。

 

 今、監視の眼は地上、空中全て、炎魔たった一体に向けられている。この状況でどう動く、とラブリは笑みを浮かべた。

 

「軍曹。戦場での定石では、この包囲網、どう突破する?」

 

 侍った軍曹は普段の服装ではなく、軍服に着替えていた。ラブリも濃紺のコートを肩に引っかけている。胸元には勲章があり、ぎらぎらと輝いていた。

 

「そうですね……。まずは通信を断ちます。そのためには、現在地より南方向に」

 

 簡易机の上で地図を広げ、軍曹は南方に位置する連絡番の存在であった。

 

 現在、北方と西方、東方の連絡が途切れている。これはつまり、定石通り通信と情報を潰しに来ているのだと知れた。

 

「南方に我が方の通信班がいると分かっていて、相手が通信班を潰しに来れば」

 

「その時、ガンマ小隊と相対する事になる」

 

 言葉尻を引き継ぎ、ラブリはフッと笑みを浮かべた。

 

「でも、どうかしら? 戦局はいつでも定石に動くとは限らないわ。それこそ、イレギュラーを考えるべき。この場合、一番のイレギュラーは相手の戦力がこちらを上回る事だけれど、ガンマ小隊の総数は」

 

「二十八。どれも精鋭揃いです」

 

 二十八人の戦士が操るポケモンの実力は折り紙つきだ。そこいらの殺し屋レベルではない。軍隊のそれを見せ付けてやろう。

 

「しかし精鋭揃いとはいえ、少しばかりホテル業務が板につき過ぎた。万全の姿勢であっても、我が方を上回ってくるかもしれない」

 

「ラピス・ラズリ……。スノウドロップの存在を危惧されているので?」

 

 最強の殺し屋の名前にラブリは頭を振った。

 

「とはいえ、それが炎魔側に回れば、好都合というものよ。一緒に跡形もなく消し飛ばしてくれるわ」

 

 ハムエッグが炎魔を支持するのならば対立構図の方便も立つ。今までの拮抗状態を突き崩す好機であった。

 

「スノウドロップと炎魔が合わされば、弱点はありません。それこそ厄介です」

 

「そうね。合流前に潰すのがいいわ。そのためには南方の通信班には出来るだけ、無能を演じてもらいましょう」

 

「無論、その命」

 

「救う。当たり前でしょう? その牙がかかる前に、我が方の兵士は全て回収する。これは決定事項よ」

 

「分かり切った事を。失礼しました」

 

 頭を垂れる軍曹にラブリは片手を上げる。

 

「いい。分かり切っている事でも他人の口から言われなければ気づけない事もある」

 

 しかし、とラブリは逡巡の間を浮かべる。この状況を、カヤノはどう見ているのだろうか。

 

 あの時、カヤノを懐柔するために動いたのはこの最悪の状況下に置かないためでもあった。一種の親孝行だ。

 

 何かの手違いでカヤノを殺してしまわないかだけが不安であった。

 

「お嬢。カヤノ医師ならば、既に手配を」

 

 胸中まで心得た歴戦の相方の声にラブリは微笑む。

 

「……お見通し、ね。パパには、この光景を見て欲しくなかった。これは本心よ」

 

「お嬢は義理堅いですから。カヤノ医師をどうしても戦いから遠ざけたかったのは分かります」

 

「これまた、分かられると困るのだけれどね。もし、パパが情報をハムエッグに渡すと言うのならば」

 

「即刻、切るおつもりで?」

 

 それくらいの覚悟は持ち合わせている。何よりも、カヤノが巻き込まれて死ぬよりかはずっといい。

 

「ヤマブキの外に退場してもらう。それが一番でしょう」

 

「カヤノ医師からしてみれば、この街には愛着があるでしょうが……」

 

「致し方ないわ。何よりも、命は大事だもの」

 

 制圧図を示す赤い矢印が縦貫道を突っ切り、空挺部隊の網羅範囲を示す円が刻み込まれていく。

 

 このまま掌の上で戦場は踊っていく。

 

 ラブリは手持ちの端末を操作し、チューニングしてお気に入りの楽曲を呼び出した。

 

 管絃の音色が響き渡り、戦争音楽を形作る。

 

 神の御許に、と叫ぶ声音が相乗し、ラブリは鼻歌混じりに指揮棒を振るう真似をした。

 

 この街はまさしく、ラブリの奏でる戦争音楽の舞台であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 南方は思っていたよりも手薄であった。

 

 嫌な予感がする。

 

 しかし進まないわけにもいくまい。連絡番が突然に出現したオウミとバクフーンに驚く前に炎の拳がその身体を焼き切った。

 

 半身が焼け爛れて壁に血糊をべっとりとこびりつかせる。

 

 オウミは息を荒立たせて声にする。

 

「これで……、ホテルの通信網は……」

 

『排除した、つもり?』

 

 拡声器で放たれた声にオウミがハッとした瞬間、眩い光の連鎖に後ずさる。

 

 待ち構えられていた、と歯噛みすると同時につい今しがた殺したはずの連絡番が小隊に加わっている事に瞠目する。先ほど殺したはずの死骸から光の残滓が立ち上っていた。

 

「身代わり……ってわけだったのか」

 

「そう、残念だったな。炎魔」

 

 炎魔、と呼ばれてオウミは口角を吊り上げる。

 

「もう炎魔じゃない」

 

「呼び名など、どうでもいい」

 

 歩み出てきた金髪の女性を先頭にして、三十人ほどの小隊が頭を上げた。

 

 それと同時に地面が隆起する。ハッとして、オウミはバクフーンに命じていた。

 

「下がれ!」

 

 自分を抱えたバクフーンが跳躍したその時には、既に地面を割って現れた鋼の躯体が目に入っていた。

 

 ドリルを形成した鋼の爪を持つポケモンがその身を開いて咆哮する。

 

 ドリュウズと呼ばれる鋼・地面のポケモンであった。

 

 オウミは着地と同時に舌打ちする。

 

「地面かよ……。相性悪いな」

 

 しかもその数が桁違いだ。ドリュウズは視界に入るだけでも十体。恐らく小隊規模から考えてもう二十体ほどが地面に潜っている。

 

 自分ならば強襲可能なように常に地面に三分の一は潜ませておく。

 

「〈蜃気楼〉、噴煙」

 

 その言葉にバクフーンが外気を吸い込み、灼熱の襟巻きを拡張した。翼のように広がった襟巻きからそれぞれドリュウズの物量ほどの火炎弾が放出される。

 

 それだけではない。バクフーンが地面に接地した箇所から黒煙が上がり、地表を引き裂くと潜っていたドリュウズ五体が炙り出された。地面のタイプを持つとはいえ鋼の属性がある以上、その攻撃は効くはずだ。

 

 鋼の爪と頭頂部のひさしを焼かれたドリュウズ達が喚きながら地面を割って出てくる。

 

「なかなかの威力。だが、そう何度も撃てる技ではないと見た」

 

 ドリュウズ部隊が仕掛けてくるかと思いきや、前に出たのは数体の二足歩行ポケモンであった。オレンジ色の表皮で、口元は狭まっており、筒状になっていた。下腹部から首筋にかけて縞模様がある。

 

「クイタラン部隊。ドリュウズ部隊を保護しつつ前進せよ!」

 

 号令にクイタランと呼ばれたポケモンが吼える。オウミは手を薙ぎ払った。

 

「撃て! 〈蜃気楼〉!」

 

 その声にバクフーンが火炎を放つ。だがクイタランはあろう事かその炎を吸引した。あまりの出来事にオウミも仰天する。

 

「炎を、食った……?」

 

「クイタランの属性は炎。その尻尾の吸引力は炎の属性を打ち消す。残念だったな。ここで潰える!」

 

 クイタラン部隊の背後でドリル形態へと移行したドリュウズがまるで砲弾のように佇んでいた。

 

 クイタランが道を開けるとドリュウズがドリルを高速回転させて突進してくる。捨て身の攻撃にオウミは慌てて指示を出した。

 

「〈蜃気楼〉! 炎の膜で連中を遮れ!」 

 

 即席の炎の防御膜を構築するが、一撃は止められてももう一撃は止められない。

 

 ドリュウズの鋼の爪がオウミにかかるかに思われた。その時である。

 

 一体のクイタランが突如として痙攣し、その筒の口から火炎を放出した。その炎がドリュウズ部隊に引火し、燃え盛る炎の檻にドリュウズが捕らえられる。

 

「誰だ!」

 

 振り返った金髪の女性の視線の先にホテルの投光機が向けられる。

 

 光の輪の中にいたのは、あまりにも意外な人物であった。

 

「波導使い……アーロン……」

 

 月下、青の死神が降り立つ。その異名を持つアーロンが電気ワイヤーを伸ばし、ビルの屋上に佇んでいた。そのワイヤーの先はクイタランに向けられている。どうやらクイタランを遠隔で動かし、炎の攻撃を誘発させたらしい。

 

「オレを庇った……。何でだ……」

 

 オウミからしてみれば意外でしかない遭遇であったが、アーロンの側には確信があったらしい。

 

「手間をかけさせる」

 

 金髪の女性が手を払い、声を張り上げる。

 

「青の死神! ここで邪魔立てするという事がどういう事なのか、理解しての行動か!」

 

「分からずにここまで来るものか。俺を敵と見なすのだろう」

 

 ホテルの戦士達が僅かにうろたえる。青の死神の眼光に恐れを成している者もいた。

 

「分かっているのならば答えは二つに一つだ。ここで沈黙するか、あるいは敵対するのか」

 

 その宣告にアーロンは電気ワイヤーを手繰る。するとクイタランが暴走し、炎を辺りに撒き散らした。

 

「――知れた事。俺は貴様らの敵だ」

 

 その言葉と共にアーロンがビルの谷間に身を投げる。電気ワイヤーを巧みに用いてオウミの傍へと降り立った。あまりの事に言葉をなくしていたオウミへとアーロンが視線を投げる。

 

「何故、炎魔がいない?」

 

 最初の質問はそれであった。だがオウミとて状況説明の時間はない。

 

「……話は後だ、波導使いさんよ。この包囲陣を突破しなければ」

 

「分かっている。〈蜃気楼〉で不可視の状態にしろ。十秒間、息を止めていればすぐに決着がつく」

 

「嘗めるな! 波導使い!」

 

 その号令にドリュウズ、クイタラン部隊の全兵力が波導使いアーロン殲滅に向けられる。

 

 アーロンは少し顎をしゃくっただけだった。

 

 その一動作で張り巡らされた極細の糸が見え隠れする。電流が放たれ、クイタラン部隊を無力化した。痙攣するクイタランを踏み台にしてドリュウズが襲いかかる。

 

 放出されたのは電気の防御膜であった。瞬間的に膨張した青い防御膜がドリュウズの侵攻を止めようとするが、ドリュウズは地面タイプ。鋼の爪が青い皮膜を引き裂くかに思われた。

 

 しかしその瞬間、防御膜の位相が変異し、何と堅牢な鋼の爪に纏いついた。チューインガムの風船のように、割れた途端に鋼の爪に粘性の電気が付着する。

 

「こんなもの……こけおどしで」

 

 ドリュウズが爪を開こうとするがどうしても爪が開けないらしい。何度も鉤爪を開こうとしては無様に呻った。

 

「エレキネットを防御膜に転用した。ドリュウズを倒す事は出来ないが足止めくらいにはなる」

 

 アーロンは身を翻しオウミを引っ張った。

 

「来い。お前には聞きたい事がある」

 

「そいつは、こっちも同感だ。何で助ける?」

 

「問うている場合ではない。行くぞ」

 

 ピカチュウが電気を練り上げて毛を逆立たせた。アーロンの右腕へと青い電磁の鎧が纏いつく。

 

 そのままアーロンはドリュウズ部隊の真正面から突っ切ろうとした。ドリュウズは爪を封じられているとはいえ壁となって屹立する。

 

「邪魔だ」

 

 一閃したのは鉄拳であった。青い電流を宿した鉄拳がドリュウズの腹部を殴りつけたのである。

 

 通常、人間の拳程度ではポケモンの堅牢さを破る事など出来まい。

 

 だが、アーロンの拳の前にドリュウズが仰け反り、そのまま押し飛ばされた。

 

 電気だけの力ではない。電流で強制的に筋肉の膂力を最大限まで引き出し、その上で上乗せしているのが分かった。

 

 その能力は言わずもがな、波導だろう。

 

「波導の拳……。ドリュウズほどの堅い奴も徹すってのか」

 

 オウミが言葉を失っているとアーロンは腕を薙ぎ払い、次いで現れたドリュウズも打ち倒した。

 

 ドリュウズ部隊が惑い、操るトレーナー達にも混乱が見られる。

 

 その合間を縫うようにアーロンは「エレキネット」の電気ワイヤーでビルの壁面へと手を伸ばし、そのまま飛び移る。

 

 オウミはほとんど抱えられる形でアーロンと共にビルの屋上を疾駆する事になった。

 

「逃がすな! 追え!」

 

 金髪の女性の声にホテルの大部隊がざっと動く。軍隊のような足並みの揃い方にオウミは唾を飲み下した。

 

「こいつは……本気じゃねぇか……」

 

「何を今さら。炎魔が本気だったから、ホテルが全域で動いている」

 

 アーロンの声にオウミはすぐにばてて立ち止まる。息を荒立たせて手を掲げた。

 

「ちょ、ちょっと待ってくれ。波導使いのペースに合わせられるかよ……」

 

「すぐに追ってくる。今はまだ加減をしているだけだが、それを忘れた相手は厄介だぞ。ドリュウズでビルに根こそぎ穴を開けられればこの近辺での戦いはし辛くなる」

 

「何で! てめぇはオレを助けた?」

 

 保留になっていた質問をするとアーロンは即座に返答した。

 

「俺はハムエッグに雇われた。バランサーとしての責務を一両日中に果たす。この街は、今、調整をミスした混沌の渦にある。その混沌を少しでも正常の域に戻すのが俺の仕事だ」

 

「ハムエッグが……? だとすりゃ、こいつは大物が釣れたな」

 

 笑い出すオウミをアーロンは怪訝そうに見やる。

 

「オウミ……、何を知っている? どうしてお前が〈蜃気楼〉を操っているんだ?」

 

「ああ、オレも手の内を明かさねぇとな。こいつは、炎魔のものじゃねぇよ。ある意味じゃ、お前を待っていた。炎魔対ホテルの構図に割り込んでくる第三勢力を。そいつが何者であろうとも、知られた以上は消すってな!」

 

 オウミが手を振るうとそれと同期したバクフーンが火炎弾をアーロンに向けて放った。アーロンは咄嗟の事に目を見開いたが全て反応し、電流で打ち消していく。

 

「オウミ! お前は……!」

 

「オレが今さらクズだとかクソッタレだとか、んな事は分かってんだよ! 問題なのは、だ。お前、ハムエッグに頼まれたって言ったな? だとすれば一番に危惧するべきは、ハムエッグの側の勝利だ。勝利をハムエッグにだけは明け渡せない」

 

「オウミ、何を考えている? どうして炎魔しか使役できないはずの〈蜃気楼〉をお前如きが操れる? 何をした?」

 

「相当、シャクエンが心配みてぇだな。お前もあの女の毒気にやられたか?」

 

 茶化すとアーロンの殺気が膨れ上がったのが分かった。この波導使いの殺し屋には本気になってもらわなければならない。そうでなければ自分は――。

 

 アーロンがピカチュウの「エレキネット」でバクフーンの姿を捉えようとするが、バクフーンは不可視の状態と炎熱を交互に繰り返しながら電気ワイヤーを切っていく。

 

「炎の密度、炎熱の操作の速度……。どれを取ってもおかしい。異常だ。どうして炎魔以外がここまで戦いに長けたバクフーンを使える?」

 

「悪いな、波導使い! ここで死ぬのはてめぇだよ!」

 

 バクフーンが炎の襟巻きを拡張し、翼のように展開してアーロンを覆い尽くそうとする。

 

 舌打ちをしたアーロンが右腕に電撃を充填した。

 

 突き出された炎の拳と電撃の青い拳が交差し、ぶつかり合い、火花を弾けさせる。だがポケモン対人間では明らかなパワーの差がある。アーロンは明らかに息が上がっていた。

 

「……どういう事だ。何故、炎魔がいないのに、ここまでのコントロールを……」

 

「心配すんなって。青の死神。てめぇにはしっかりとした死に場所を用意してやんよ! 炎熱の彼方に死ね!」

 

 バクフーンが点火した肉体を疾走させてアーロンへと飛びかかる。アーロンが覚悟の双眸でバクフーンを睨みつけた。

 

 その瞬間であった。

 

 屋上の地形を割って入ったのは血潮のような真っ赤な炎である。

 

 その炎が紅蓮の輝きを誇り、アーロンを炎熱の皮膜で保護した。

 

 突然の事にアーロンも困惑している。

 

 ただオウミだけは分かっていた。

 

 この攻撃の主が誰なのか。

 

 たたらを踏んだ形のアーロンが目線を振り向ける。その眼差しの先にいたのは、赤く滾った眼を向けるバクフーンと、それを操る炎魔シャクエンの姿であった。

 



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第八十五話「Readjust Fortress」

 

「馬鹿な……。炎魔だと……」

 

 アーロンにはわけが分からない。今までオウミが炎魔の権利を奪い取って戦っていたのだとばかり思っていた。だというのにこれはどういう事だ?

 

 何故、炎魔のポケモンであるバクフーンが二体いる?

 

 オウミは口角を吊り上げて炎魔シャクエンの到来を目にしていた。

 

「来る頃だと思っていたぜ」

 

 どういう意味なのか。アーロンは今しがた自分を守った炎の皮膜さえも解せない。

 

「何だ? どういう意味なんだ、炎魔!」

 

 シャクエンは目を伏せてただただ事の成り行きを諦観しているようだった。

 

「そう……。やっぱり、あなただった」

 

 シャクエンが駆け出すと同期したバクフーンがもう一体のバクフーンへと攻撃を放つ。炎の襟巻きがぼっ、ぼっと分離したかと思うと火炎弾となって降り注いだ。

 

 だがその炎はもう一体のバクフーンへと吸収されてしまう。シャクエンが舌打ちする。

 

「貰い火特性! やっぱり、そのバクフーンは!」

 

 確信を得たような声音のシャクエンが今度は見当違いの方向へと炎を放った。オウミの遥か後方である。

 

 何もないように思えたその場所へと突然にバクフーンが疾駆し、炎を吸い取る。

 

 すると不可視の皮膜に包まれていた何かが姿を現した。

 

 少女であった。

 

 青い瞳をしており、シャクエンとは対照的な白装束を纏っている。結い上げた白髪も、その眼差しも全て、シャクエンを真逆にしたような存在であった。

 

「ようやく見つけた。――熾天使」

 

 シャクエンの声に熾天使と呼ばれた少女がフッと笑みを浮かべる。

 

「はじめまして、炎魔シャクエン。うちは熾天使、モカ」

 

 名乗りを上げたモカという少女は手を払う。それだけでバクフーンが疾走する。シャクエンも手を薙ぎ払った。炎の拳を持つ双方がぶつかり合い、激しくもつれ込んだ。

 

 シャクエンのバクフーンが蹴りを放つが、モカの操るバクフーンはそれをいなし、鋭い牙で噛み付いた。口角から炎が噴き出し、牙の威力を高める。シャクエンのバクフーンが負けじと炎の襟巻きを拡張して一時的な防御膜を形成した。その膜で弾かれたように両者が後退する。

 

「炎魔、どういう事だ……。何で、奴も〈蜃気楼〉を使っている?」

 

「敵のバクフーンは少し違う。よく見て」

 

 シャクエンの声に目を凝らすと、相手のバクフーンは僅かに薄紫色である。暗がりだったのでほとんど差異はないように思われたが、よくよく観察すれば違った。

 

「どうしてだ。何故、今に至るまで出てこなかった、炎魔」

 

 アーロンの詰問にシャクエンは顔を伏せる。

 

「どうしても、やらなければならない事があった。私が唯一、清算しなくてはならない因縁。この街に、彼女がやってきたという情報を得てから、私は熾天使を炙り出さなければならなかった。それは炎魔の血の宿命」

 

 何を言っているのか。アーロンの質問の口が開かれる前にモカが声にする。

 

「うちも、こんな状況下であんたに会えるとは思っとらんかったわ。炎魔、シャクエン」

 

 僅かにコガネ弁の混じった口調にアーロンはうろたえる。熾天使とは何なのだ。その疑問を解消する前にモカはオウミに近づき、その腕に擦り寄った。

 

「今のうちの宿主はこの人。炎魔、かつての自分の宿主を天敵である熾天使に奪われた気分はどう?」

 

 オウミが操っていたわけではなかったのか。アーロンが遅い理解を示す前に、シャクエンは敵を見据える眼を向けた。

 

「熾天使モカ。あなたは私が殺す」

 

 膨れ上がった殺気にバクフーンが弾かれたようにモカとオウミへと攻撃を見舞おうとする。だがそれを阻んだのは薄紫色のバクフーンであった。

 

 炎の襟巻きに点火し、バクフーン同士の戦いが始まるが、その形勢もすぐに一変する。

 

 こちらのバクフーンの攻撃のことごとくを相手が吸収し、無力化するのだ。そのせいで炎の拳の一発だって通らなかった。

 

 モカのバクフーンがシャクエンのバクフーンを足蹴にして、征服したように咆哮する。シャクエンが歯噛みした。

 

「勝てへんのは辛いよね。でも、分かったやろ? うちの〈蜃気楼〉には勝てへんよ。どんだけ頑張っても」

 

「黙れ、熾天使!」

 

 張り上げた声に同調してバクフーンが全身から炎を噴出させる。その勢いだけでバクフーンが身体を丸まらせて転がり、シャクエンの下に帰ってきた。

 

「手数、場数、能力、逆転する力、その辺、全部併せ持ってるのが〈蜃気楼〉と名付けられたバクフーンの特徴。でも、忘れてへんのやったら分かるはず。うちの〈蜃気楼〉があんたのバクフーンのカウンターとして存在してる事を」

 

 その言葉にシャクエンは舌打ち混じりに手を払った。

 

「黙れ、黙れ! その減らず口、利けないようにしてやる!」

 

 主の怒りにバクフーンの内奥から炎が点火し、膨れ上がった殺気の渦が拡張した襟巻きの炎熱へと繋がる。

 

 まさしく怒りの業火。だが、モカはうろたえるわけでもない。

 

「〈蜃気楼〉、分からせてやり」

 

 疾走した相手のバクフーンが瞬時に不可視となる。しかしシャクエンにはそれが見えているようだった。

 

「五時の方向、分かっている!」

 

 炎の爪が一閃するが、直後に現れた相手のバクフーンが拳でこちらのバクフーンを圧倒する。通常の殴り合いのように思えるがアーロンの眼には違って見えていた。

 

 波導を感知する眼がその戦いの真の意味を感じ取る。

 

「炎が……波導が奪われている?」

 

 バクフーンの波導が次々と相手のバクフーンに奪い取られ、その分だけ相手が強大になっていくのが分かった。先ほど発せられた貰い火という特性に由来しているのだろうか。

 

 アーロンの行動は速かった。即座に電気ワイヤーを発生させて戦闘に割って入る。

 

 こちらを圧倒しようとしていた相手のバクフーンが後ずさる。

 

「電気の攻撃には旨味はないね」

 

 アーロンはシャクエンの前に出て手を振るう。

 

「理由は分からない。だが炎魔。このままでは確実に負ける事だけは確かだ」

 

「でも! 私は熾天使を殺さなければ!」

 

「聞こえているのならば、退け、炎魔。俺が請け負う」

 

 その言葉にモカが笑い声を上げた。

 

「出来るん? 波導使いの殺し屋さん。うちのバクフーン、今すごいパワーアップしとるよ?」

 

「関係がないな。自分は見えないところで操り、オウミを矢面に立たせている時点で、俺の敵ではない」

 

「言うやないの。〈蜃気楼〉!」

 

 声に弾かれたバクフーンがアーロンへと炎の爪を放つ。アーロンは身をかわし様、電気ワイヤーを括りつけた。首を取った電気ワイヤーであったが襟巻きの噴出に邪魔される。だが次の布石は打ってあった。

 

 バクフーンが踏み込んできた瞬間、地面に仕掛けておいた電気の網が誘発されその身体を絡め取る。

 

 恐らく十秒も持たない拘束だったが今は充分であった。

 

 アーロンはシャクエンの手を引き、ビルの谷間へと身を乗り出した。

 

 その背中へと相手の炎がかかろうとしたが、その時にはアーロンは既に次のビルへと飛び移っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「逃がした」

 

 モカの声にオウミは手を振るう。

 

「ヒヤヒヤさせてくれんなよ。宿主の無事くらいきっちり責任取ってくれ」

 

「分かっとるよ。うち、あの炎魔とは違うから。宿主の鞍替えなんかせぇへんし」

 

 嘘だった。この炎の暗殺者――熾天使は今、親指一本でも違えば宿主を替えられる。それこそがゲンジロウの発した強みであった。

 

 オウミはポケナビの通信を繋ぐ。通話口から声が聞こえてきた。

 

『どうかね? 我が熾天使の力は』

 

「充分だ。あのシャクエン相手に優勢とは、恐れ入ったぜ。だが、オレが囮になる必要あったのか?」

 

『これから先、熾天使が炎魔に成り代わるためには、その存在そのものを脅威と位置づける事が必要。だから、まだ姿は割れてはいけない。お前だってそうしたろう? 最初に炎魔を使った時には』

 

「ああ、その通り。炎の暗殺者は相手に悟られちゃお終いだが、それにしたって念の入りようだな。あの波導使いが割って入ったのも計算か?」

 

 アーロンの戦闘介入さえもこの老人は読んでいたのだろうか。その問いにゲンジロウは否と返す。

 

『まさか波導使いが現れるとは。件のスノウドロップと痛み分けをした殺し屋だろう? 奴から熾天使の内情が漏れると面倒だ。ホテルの殲滅対象がこちらへと変わる。この夜のうちに、炎魔をホテルが殺し、その代わりとして熾天使が成り代わる計画に支障を来たす』

 

 そう、全てはシャクエンに罪をなすりつけ、ホテルの逆鱗に触れて殺すための遠大な計画であった。

 

 今宵、ホテルが全兵装を開放する。その期に乗じて炎魔シャクエンの抹殺と、この街における支配構図の塗り替え。それこそがゲンジロウの目的であり、自分の乗った賭けだった。

 

「大丈夫なんだろうな? この熾天使は、波導使いぐらいは殺せる実力があると思っても」

 

『心配要らんわ。熾天使は無敵の殺し屋。あの炎魔のカウンターだぞ? 波導使い程度に、遅れは取らんよ』

 

「だといいんだが」

 

 オウミは改めて熾天使モカの姿を眺める。白と黒を反転させた、シャクエンとは真逆の存在であった。

 

 煙草の火を点けようとするとモカが炎を灯し手を差し出す。

 

「気が利くじゃねぇか」

 

 紫煙を肺の中に取り込み、オウミは一服する。このままではホテルの戦闘域に到達するだろう。

 

 アーロンとシャクエンとて逃げられる範囲は狭い。このままじりじりと追い詰められるのは果たして自分達かそれとも……。

 

「爺さん。一つだけ忠告しておくぜ。波導使いを侮るな」

 

『何だ? お前さん、奴の味方か?』

 

「味方とか敵とかじゃねぇ。あいつの実力はオレが一番分かっている。波導を使うって事は、あんたが思っている以上の脅威だ。貰い火特性の〈蜃気楼〉だって、あの波導使いの前じゃ分からねぇよ? 勝てないかもしれん」

 

『たわけた事を。熾天使は無敵だ。絶対に負けはない』

 

 断言したゲンジロウにオウミは通話を切った。

 

「そうかい……。だが、炎魔と波導使い、厄介なのを敵に回したって事くらいは分かってんだろうな、あのジジィ」

 

 煙い吐息を発すると、宵闇の中に溶けていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『こちら、ガンマ小隊。見敵しましたが、思わぬイレギュラーに遭遇し、逃してしまいました。敵は炎魔だけではありません。波導使いアーロンの介入がありました』

 

 報告の声にラブリは眉を跳ねさせる。

 

「波導使い? あのクズが何で炎魔側に?」

 

『理由は不明ですが、こちらのクイタランとドリュウズが無力化され、ガンマ小隊としての追撃は難しそうです。今までわざと位置を割り出させていたように動いていた炎魔も急に読めなくなりました』

 

 軍曹が紅茶を運んでくる。ラブリはそれを手で制して返答した。

 

「待って。読めなくなったという事は、現在、炎魔の所在は?」

 

『不明です。枝をつけようにも波導使いの介入のせいで』

 

「意味がなくなった、というわけ。無理もないわ。波導使いに枝はつけられないものね。で、動いていたのは炎魔だったのかしら?」

 

『いえ、それが……。動いていたのはバクフーンと、オウミ警部だけで』

 

 その報告にラブリは疑問を抱いた。一度通信を切り、軍曹へと声を振り向ける。

 

「どう思う? 軍曹」

 

「はっ。炎魔が波導使いと手を組んだ、という線でしょうか?」

 

「あり得るとでも?」

 

「百パーセントではありませんが、オウミ警部の性格から鑑みて難しいでしょうね。一時的に手を組んでもどうせ破局します」

 

「同意見だわ。わたくしも即席の同盟なんて当てにならない事くらい分かっている。でも、オウミ警部がどうしても生き永らえたいと思ったとすれば? この同盟、ちょっと厄介ね」

 

「いえ、それはありません。オウミ警部は根っからのギャンブラー。波導使いとの連携など望んではいないでしょう」

 

 この部下の的確な状況認識は役立つ。ラブリは首肯してから、「紅茶を」と手を伸ばす。軍曹から手渡された紅茶はほんのりと甘い。

 

「いい茶葉ね」

 

「恐縮です」

 

 口に含んでその味わいを楽しみつつ、ラブリは戦局を示す矢印と円、それにバツ印を目にした。

 

 矢印はアイアント部隊の侵攻を。円はエアームド飛行隊からの報告を。バツ印はガンマ小隊の潜伏場所を示している。

 

 ほぼヤマブキの全域に張り巡らされた三つの小隊の侵攻と目を誤魔化すのは至難の業だ。たとえ波導使いであろうとも、どの部隊とかはかち合う事となるだろう。

 

「波導使いであっても逃げ切れないわ。この包囲陣、わたくしとしても満足いっている」

 

「その割には、一家言ありそうですね」

 

 心得た部下の声にラブリは笑みを浮かべた。

 

「あのクズ……波導使いを過小評価してはいない。スノウドロップと痛み分けした相手よ。正直なところ不安のほうが大きいわ。どの小隊かは必ず、あの波導使いと戦わなければならない。戦えば兵に犠牲が出る」

 

「お優しいお嬢は、兵に無用な緊張を強いたくない」

 

 頷き、ラブリは円を指差す。

 

「エアームドが感知していない範囲に行こうと思えば地上部隊とかち合う。かといってビルの屋上ばかりを移動すればエアームドの眼からは逃れられない。どっちかと戦う事になるでしょうね。心が痛いわ」

 

「波導使いとて慈悲があると思いたいですが……」

 

 濁したのはアーロンの目的が見えないからだろう。ラブリは紅茶をすすってから声にする。

 

「波導使いアーロン。何を目的にこんな分の悪い勝負に打って出たのか。考えられる理由は大きく三つ」

 

「ハムエッグの手の者、の可能性」

 

 第一に浮かんだのはそれだったがラブリは、「半分、ね」と応じた。

 

「半分正解でしょう。この街で動くに当たってわたくしかハムエッグかに協力を仰ぐのは定石。でも波導使い自ら打って出るのは少しばかり不本意でしょうね。あのクズはクズの割には平和主義者だから。自分から戦闘の渦中に割って入るのがどれだけ分が悪いのか理解している」

 

「では人質の可能性。波導使いは何かをハムエッグに取られている。その弱みに付け込まれた」

 

 そうなってくると浮かぶ人間は一人だ。

 

「あのメイとか言う小娘、でしょうね。でも波導使いがメイ一人の人質程度でハムエッグの言う通りに動くかしら? もう一つ、あると思うわ」

 

 軍曹ももう一つに関しては思い至らないらしい。ラブリは指を立てて言ってやる。

 

「今回の大元、炎魔の処遇。それに関して波導使いは思うところがあって独自に調べていた。その途中で人質を取られ、ハムエッグの言う通りに動かざる得なかった。これならばある程度の知識があってホテルに挑んだのだと知れる」

 

「ですがそれだと、炎魔の所在そのものが不明であったという事になります。所在を知りたくば、こちらにも情報を通すのが筋では?」

 

「それが出来ない理由付けとして、ギリギリであった、という推論が出来る。波導使いはギリギリまで今回の事件の本性を伏せられていた。分かった時には後戻り出来なくなっていた」

 

 そう考えれば、波導使いの不可解な行動もまだ理解出来る。しかし軍曹は顎に手を添えて考えを巡らせ直す。

 

「それだとおかしいのは、波導使いアーロンが自ら割って入った理由です。炎魔の確保なんてしなくとも、我が方の作戦を黙って見ていればいい。波導使いが戦う理由がない。どうして炎魔を守るような真似を?」

 

「さてね。その事に関しては不明だけれど、炎魔が波導使いにとってあの小娘以上に必要不可欠な存在になっていたとすれば、少しばかりは筋道が通るわ」

 

「……情に流されたと? あの不屈の波導使いアーロンですよ?」

 

「どうかしらね。最近の波導使いは少し様子がおかしかった。ちょっとばかしイレギュラーな行動に出ても何ら不思議ではない」

 

 この場所で街を俯瞰しているラブリからしてみればその行動ですら異常ではない。全て、その手中にある。

 

「我が方の邪魔立てをするのならば」

 

「分かっている。全小隊に告ぐ」

 

 広域通信を繋ぎ、ラブリは宣言した。

 

「新たな敵性勢力を確認。相手は波導使い、アーロン。ホテルミーシャの名の下に命じる。――波導使いを殲滅せよ」

 

 その号令に小隊長達から応じる声があった。

 

『アルファ小隊、了解!』

 

『ベータ小隊、了解!』

 

『ガンマ小隊、了解!』

 

 それぞれの了承の声を得てラブリは作戦図を見直す。

 

「負ける気がしないわ、波導使い。その裏にいるかもしれないハムエッグも。我が方の戦闘術の前においては、全てが些事」

 



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第八十六話「Reach Flash」

 

 アイアント部隊が縦貫道を侵攻している。

 

 アーロンはビルの陰からそれを見つめていた。三十体近くのアイアント。突破するのは容易ではない。

 

「動けるか?」

 

 アーロンの声にシャクエンは下唇を噛んでいた。

 

「……何で、逃げるような真似をした? 波導使い」

 

「あのまま戦ってもこちらに利がない。どう考えても勝てないだろう」

 

「分からない。そんな確率なんて」

 

「傍から見れば明らかだ。教えろ。熾天使とは何だ? どうしてお前達は同じポケモンを使っている? 殺しを遂行していたのはお前ではなく、奴なんだな?」

 

「……質問が多過ぎる」

 

「答えろ」

 

 アーロンはシャクエンの襟元を掴み上げた。この事態のそもそもの原因はホテルの下っ端殺し。それがシャクエンではなく別の誰かの工作だったとするのならばこの状況は変わってくる。シャクエンを殺すために仕組まれた夜であった、という事だ。

 

 アーロンの怒りにシャクエンは淡白に返す。

 

「……痛い」

 

「お前が身勝手な行動をしたから、俺が利用された。俺だけじゃない。この街に住んでいる全員だ。ホテルも、ハムエッグも。その何者かの前にいいように利用されている。教えるんだ。熾天使とは何か」

 

 シャクエンは諦めたように目を伏せて、ぽつりと口にする。

 

「メイには言わないで」

 

「あの馬鹿も、今はハムエッグの保護の下にある。今は、それが一番安全だろう」

 

 手を離す。シャクエンは安堵したのか語り始めた。

 

「熾天使は、私達炎魔が道を誤った時に発生する抑止力。暗殺者のカウンターとして育てられた、もう一つの炎の眷属」

 

「それが何故、今になってやって来た? 奴はこっちを知っているようだったが、お前は奴の情報を知り得ていたのか?」

 

「知り得ていた。でも存在するはずのない暗殺者。大婆様に、昔教えられていた」

 

 シャクエンの語ったのは、炎の暗殺者が今まで見せてこなかった、歴史そのものであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「これ、娘っ子。こっちへ」

 

 まただ、と彼女は思う。

 

 自分にはしっかりとした名前があるのに、祖母は一度として名前で呼んでくれはしない。いつも「娘っ子」と言われるだけで、孫を可愛いとは思わないのだろうか。この赤人街ではみんなそうであった。

 

 祖母が絶対的に偉く、他の屋敷の人々でさえも頭が上がらないほどだ。それほどまでに炎魔の直系の子孫は力を持っていた。

 

 祖母が炎魔を退いてから数十年経っていたが母親は炎魔を襲名したのも束の間、すぐに結婚してしまった。今、炎魔の名は宙に浮いている。

 

 しかし、このヤマブキシティでは未だに炎魔の名前が恐れられていた。他の街に行くと、炎の獣に跨った女の裸体が描かれている古びた看板を見た事がある。それこそが炎魔の脅威を物語るに足りていた。他の地域の子供達は悪い事をするとまだ炎魔が来ると言われると信じているようだ。

 

 自分達はいちいち一般家庭の敷居なんて跨がないし、何よりこんな下品な姿ではない、と言いたかったが母親は言うのである。

 

「炎魔なんて、継がないほうがいいのよ」

 

 なくなってしまえばいいの、と。母親は満たされていた。だから言えたのだと今にして思えばそうである。

 

 だから彼女を真に理解していたのは愛に溺れた母親ではなく、温厚な父親でもない、孫の事を一度だって名前で呼ばない祖母であった。

 

「娘っ子。いい事を教えてやろう」

 

 祖母からは本当にいい事を教えてもらったためしがない。いつも教訓めいた話や、炎魔が隆盛期を極めていた頃の話など、自分にとっては無縁の話ばかりであった。

 

「なに、大婆様」

 

 炎魔の長老を大婆と呼ぶ事は掟によって定まっている。祖母は、「かしこまるんじゃないよ」と孫の口から大婆様と呼ばれるのを嫌っていた。

 

「まぁいい。これからいい事を話してやろう。我々炎魔が、もし力を失ったときの話だよ」

 

 そんなの、悪い話に決まっているではないか。最初から彼女にはそんな予感がしていたが、祖母は構わず続ける。

 

「炎魔という暗殺者の鏡となる存在がいる。ジョウトで育った家系でね。私達と同じ暗殺術を習い、炎魔がいつ潰えてもいいように心を研ぎ澄まし、殺しを遂行する家系がある。名を熾天使。炎魔とは対照的な存在だよ」

 

 どうして祖母はそんな事を言うのか。彼女は祖母の座る安楽椅子の前にちょこんと座って聞き入っていた。

 

「大婆様、何故、そんな事を?」

 

「炎魔になるという事は、この街の守り手を継ぐ、という事でもある。炎の暗殺者はかねてよりヤマブキを守り、ヤマブキの脅威になるものを排除する役割を持っている」

 

「昔の話でしょ」

 

「いんや、今もそうさ。馬鹿な私の娘は炎魔になるのを嫌がったが、娘っ子。お前ならば炎魔の素質がある」

 

 人殺しの素質があると言われても嬉しくなかった。彼女は頭を振る。もっと女の子らしい「いいお嫁さんになるよ」だとかを言われたいのに、赤人街の人々は皆そうだ。

 

「いい炎魔になる」が褒め文句になっているのである。

 

「私、炎魔になんてなりたくないよ」

 

「違うよ、娘っ子。なるんじゃない。運命が、炎魔を選ぶんだ。お前は選ばれる。娘っ子、お前は美しい。黒曜石の瞳に、白磁の肌、それにこんなにも……女の艶を併せ持った唇。ああ、私が五十年若かったのなら確実に、お前に跡目を継がせていただろう。それほどまでに、娘っ子。お前は完成されている。だから運命は嫌でもお前を炎魔にするよ。炎魔シャクエンの名前は今、誰も持っていない。でも、お前にならばその資格はある」

 

 美しいと言われたことは嬉しかったがそれが暗殺者としての美しさだと思うと素直に喜べなかった。

 

「私、炎魔なんかには」

 

「いいから聞くんだ、娘っ子。炎魔にこの先、もしもなる時があるのならば、今連れているポケモンに名を継がせて駆け抜けるんだ。〈蜃気楼〉の名前を。そのヒノアラシに」

 

 彼女はヒノアラシを連れていた。自分の産まれた日に孵化されたポケモンを連れ歩くのが炎魔の家系のルールであった。

 

「まだ早いよ、大婆様」

 

「早くなんてないよ。だから知っておきなさい。熾天使がもし、炎魔になったお前の前に現れた時には、その時こそ雌雄を決しなければならない。熾天使か炎魔か、どちらかが運命に選ばれ、生き残る。そしてヤマブキの秩序を司る事になるだろう。お前は強い、お前は美しい、お前は麗しい、お前は、きっと炎魔になるための全てを持って生まれてきた。ああ、愛おしい。こんなにも、愛おしいのは……」

 

「大婆様?」

 

 彼女の頬をさすっていた祖母の腕から力が抜けていく。

 

 陽だまりの中だった。

 

 祖母は静かに、それこそ誰にも悟られる事はなく、死んでいった。炎魔の宿命を最後の最後に、自分の孫に語って聞かせて。後になって知った事だが、母親はこの話を聞いていなかったのだという。

 

 炎魔を継ぐ宿命をどこかで祖母は感じていたのかもしれない。

 

「大婆様? ねぇ、返事をしてよ。大婆様……おばあちゃん」

 

 最後の最後に口にした言葉は聞こえていたのだろうか。

 

 祖母は安らかな表情でこの世を去った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「その後間もなくしてからだった。オウミが来たのは」

 

 そこから先は以前聞いた通りだろう。オウミによって赤人街の人々は虐殺され、シャクエンは炎魔としての運命をその身に宿す事となった。

 

「祖母は、どこかで悟っていたのか?」

 

「分からない。でも、大婆様の言う事は正しかった。炎魔になったからには、真っ当な道なんて選べない。炎魔になるんじゃない。運命が炎魔を選ぶのだという言葉は本当に、何のてらいもなかった」

 

 シャクエンはまさしく運命によって炎魔にされた。だがそのような残酷な運命など彼女は望んでいなかっただろう。

 

 ――似ている。

 

 アーロンは口にしなかったがそう思っていた。 

 

 自分と師父の関係にそっくりだ。

 

 師父は一度として殺し屋になれとは言わなかったが、その力が運命によって選ばれる事を悟っていたのは間違いない。

 

「お前は炎魔になった。シャクエンの名を継ぎ、殺しを叩き込まれた。そこまでは分かる。だが、解せないのは何故、この機に乗じて熾天使とやらがやって来たのか、だ」

 

「熾天使はずっと狙っていたんだと思う。この街の、炎魔の家系を。元々裏の家系だから、表に出るためには表を潰すしかない。あるいは表が潰えるか。記録上、炎魔の血筋が潰えた事になっているはず。そのせいだと思う」

 

 もう随分と前の事に思えるがまだ一月ほどなのだ。自分がシャクエンを下し、炎魔の血筋が消えた。

 

 そのせいなのか。そのせいで彼女はたった一人での戦いを余儀なくされた。

 

「俺のせいなのか」

 

「違う。これは、私の宿命。私がいずれやらなくてはならなかった」

 

「ホテルを襲ったのは、お前に逃げ場がない事を再確認させるためだな?」

 

 ホテルの下っ端が殺され、それが炎魔の仕業なのだと流布されれば、下手に出歩けない状況が生み出される。その中で熾天使が炎魔を追い詰める、というシナリオだろう。

 

 しかし、それでもアーロンには分からない事があった。

 

「この街の盟主であるハムエッグが全く関知しないところで行われるとは思えない。炎魔、熾天使を操っている人間は」

 

 シャクエンは頷いた。

 

「十中八九、ハムエッグに取り入っている。あるいは対等な条件での交渉を持ち出したか。スノウドロップの条件付きでの解放をする言い訳に、炎魔掃討を持ってきたかった」

 

「俺も利用された、というわけか」

 

 ハムエッグは知っていて炎魔シャクエンを殺すこの夜を仕向けた。アーロンが殺す事さえも視野に入れて。

 

「どうする? 波導使い。私を殺すのならば、今」

 

 ハムエッグとホテルの関係の緩衝材になるのならば、ここでシャクエンを殺し、その証を立てて掃討作戦そのものを中止させる。それがヤマブキシティという街にとって最良だろう。

 

 だが、アーロンは許せなかった。

 

 そんな事のために弄ばれる人生。そんな身勝手な都合で消されなければならない人間がいるなど。

 

「生憎だが、俺もこの賭けには乗れない。確かにここでお前を殺せば、全ての事象は収束する。炎魔関連の事件は終わりを告げ、熾天使が幅を利かせるだろう。何も変わらない。ただ、お前がいない以外はな」

 

 アーロンは手を差し出す。その手をシャクエンは凝視した。

 

「来い。掴み直すんだ。お前の人生を。他人によって歪められたのならば、自分で取り返せ。全てを奪い返すんだ。俺はその手助けをしてやれる」

 

 呆然とシャクエンはアーロンを見つめていた。胡乱そうに尋ねる。

 

「何だ? 妙な顔をしているぞ」

 

「……意外だった。波導使い、あなたはもっと、機械のような人間だと思っていたから」

 

「自分でも分からない。以前までならば、お前を殺して証を立てる事に何のためらいもなかっただろう。炎魔の席が熾天使のものになっても、何も変わらないと思っているはずだ。だが、そこには炎魔シャクエン、お前がいないじゃないか」

 

 シャクエンの居場所がない。そんな未来を許せるかと言えば否だ。ここまで報われない人間が最後まで報われる事なく終わるのは間違っている。

 

「まるで、メイのような事を言う」

 

「俺もやきが回ったな。あの馬鹿のような、と言われるなど」

 

 シャクエンはアーロンの手を掴み、口にした。

 

「どうすればいい? 炎魔のポテンシャルは宿主の存在でもって発揮される。今の私じゃ、熾天使モカには勝てない」

 

「思いたければ好きにしろ。ただし、この戦いが終われば」

 

 らしくない考えだ。終われば、など。自分達は終わりのない戦いの連鎖にいるというのに。だが、今だけでもいい。気の迷いでも構わない。この戦いが終わった時には――。

 

「俺とお前の間に降り立つのは、対等な人間としての価値だ。宿主だとか、そういう関係じゃない」

 

 シャクエンは目を見開いていたが、やがてフッと笑った。

 

「随分と甘くなった。波導使いアーロン。あなたはそんな人じゃなかった」

 

「俺も、どうしてだかな。だが、言ったはずだ。一蓮托生な面もある」

 

「お互いに変わった暗殺者になってしまったよう」

 

 そのきっかけは、メイという一人の小娘に過ぎなかったのかもしれない。今は、そのきっかけが新たな力になっていた。

 

「炎魔、当然の事ながら炎タイプの相手への対抗策は持っているな?」

 

「一つだけ。でも炎魔は炎の扱いに長けた暗殺一族。だからそれほど強力でもないし、何よりも攻撃にロスが出る。その合間を縫われればお終い」

 

「俺がそのロスを限りなくゼロにすればいいのだな?」

 

 互いの欠点を補う。基本的な戦術であったが今まではなかった。

 

「波導使い、出来る事ならば、私は炎の暗殺者として、熾天使に引導を渡したい。そのためにはやっぱり、炎技で勝つ事が重要」

 

 求められている事は分かった。アーロンは首肯する。

 

「そのためのお膳立てか。いいさ。やってやる」

 



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第八十七話「Re-act Fate」

 

「見えへんねぇ」

 

 ビルの谷間を窺っている熾天使モカを尻目にオウミは連絡を受けていた。

 

『現在、アイアント部隊が完全に道を固めている。空域はエアームドの監視の眼からは逃れられない。先ほど下したドリュウズ、クイタランとていつ復活するか分からん状況だ。つまるところ、オウミ。お前にとってはもう、一つしか活路は残されていない』

 

「分かってんよ、爺さん。つまりは、シャクエンを殺すっきゃねぇって事だろ?」

 

『迷いでもあるのか?』

 

「ない。元々道具としちゃ上々の女だったが、少し湿っぽいのが玉に瑕でね」

 

『お前のそういうところが信用に値する。熾天使が炎魔を殺すのは絶対条件だ。この街の盟主とも取り交わしている』

 

「炎魔殺害が出来なければ、条件付きでスノウドロップを解放、か。恐れ入るぜ」

 

 最初からこの街を戦場にしたくなければケリをつけろと言われているのだ。退路もない。この道を進むしか、もう残されていないのだ。

 

「モカ。奴らを探しに行くぞ。〈蜃気楼〉で移動する」

 

「オウミ警部。うち、疲れたわぁ。あんたの後ろでずっと〈蜃気楼〉動かしてたんやもん。その間の労いってもんはないん?」

 

「労いは、終わったらたっぷりしてやんよ。今は、シャクエンを殺す。急がないと最強の暗殺者とお目見えだぞ」

 

「スノウドロップねぇ。うち、多分勝てると思うよ?」

 

 邪悪な笑みを浮かべてみせるモカにオウミは手を払った。

 

「やめとけ。地獄を見たくなきゃな。あの波導使いさんが痛み分けでやっとの相手だ。この街のパワーバランスを根底から揺るがしかねん。今は、とにかく炎魔を殺す事を条件に引き合いにして、うまく役得を得るのがいい」

 

「守りに入っているように思えるけれど」

 

「ハムエッグ相手じゃ、守らないほうがおかしいんだよ、田舎者。いいか? お前の宿主はオレだ。余計な事を言うんじゃねぇ」

 

「分かってるよ。うち、殺しに余分な感情は挟まへんから」

 

 その通りだろう。熾天使は炎魔以上に殺しに長けている。それは炎魔の陰の眷属として今まで培ってきた技術なのか。あるいはゲンジロウがそれを引き出したお陰なのか。どちらにせよ、炎魔相当の技術の暗殺者がこちらに付いた事は大きなアドバンテージだ。

 

「このまま、シャクエンを探し出して殺しにかかる。ホテルが余計な行動に出なければ、すぐにでも――」

 

「それには及ばない」

 

 発せられた声にオウミとモカは振り返る。

 

 ビルの向かい側に降り立ったのは波導使いアーロンと炎魔シャクエンであった。

 

 思わぬ行動にオウミは口角を吊り上げる。

 

「逃げないのか?」

 

「逃げたところで、私に居場所はない。あなたを殺す以外には。熾天使、モカ」

 

「よぉく分かっとるやないの。この街に、炎の殺し屋は二人も要らんもんね」

 

 モカが手を払う。出現したバクフーンが二人に向けて吼えた。アーロンは戦闘スタイルを崩す事なく、肩にピカチュウを繰り出す。

 

 シャクエンも手を繰ってバクフーンを出現させた。

 

「〈蜃気楼〉。いつもと違う戦法に出る。でなければ勝てない」

 

 呼応してバクフーンが跳ね上がる。だがこちらのバクフーンも負けていない。薄紫色の残像を居残して疾駆するバクフーンの速度はまさしく神速。

 

 その域に達しているバクフーンにどう立ち向かうというのか。シャクエンのバクフーンは、あろう事か、その場に待機した。

 

 身体を沈み込ませ、地面に這いずるような姿勢になったかと思うと、口腔を開く。

 

 炎の襟巻きが収束し、次の瞬間、口腔にエネルギーの球体が練り込まれていった。

 

 自分の知らない技だ、とオウミは感じ取る。

 

 今までシャクエンが使ってこなかった炎以外の技。それを放とうとしている。

 

「定石やね! 炎の攻撃は全部〈蜃気楼〉の力になるもんね!」

 

 しかしモカの操るバクフーンも速い。恐らくはその攻撃が発射される前に殺しが遂行されるだろう。駆け抜けるバクフーンを制する役目を買って出たのはアーロンであった。

 

 シャクエンの前に出て電気ワイヤーを手繰る。

 

「お前の相手は、この俺だ」

 

「青の死神! あんたなんて相手に!」

 

「ならない、と思っているようだが言っておこう。お前の攻撃は炎魔に届かない」

 

 アーロンが電気ワイヤーでバクフーンを捉えようとするが、バクフーンは不可視の状態と可視状態を行き来してワイヤーの攻撃射程から逃れる。

 

「当たらなければ!」

 

「どうって事ない、か? だが足場を踏まなければ跳躍も出来まい」

 

 バクフーンの足元から電気の花が開く。仕込まれていた電気ワイヤーのトラップにその身が傾いだ。

 

 しかしそれも一瞬だ。

 

「二度も同じ手を!」

 

 バクフーンは足裏から推進剤のように炎を焚き、電気ワイヤーのトラップに絡め取られる前に跳躍した。

 

 オウミとてそれほどの実力があるのは分かっている。波導使いアーロンでは熾天使モカを止められない。

 

 アーロンとて理解してないはずがないのだ。

 

 そこまで愚かだとは思えない。

 

 ――何を狙っている?

 

 波導使いはリターンのない殺しはしない。

 

 目を細めたオウミの視界に映ったのは電気ワイヤーで仕掛けるだけで接近戦には移らないアーロンの不可思議さだ。

 

 どうして打ち合わない? スノウドロップと痛み分けた実力だ。いくらこちらのバクフーンがパワーアップしているとはいえ、一撃をいなす事くらいは造作もないはず。

 

 その疑念にオウミはシャクエンの狙いも含まれているのだと考える。

 

 どうして攻撃の準備動作のある炎以外の技を使う? 

 

 避けられればお終いのはずだ。それでも、一撃でもいい、叩き込めれば、と感じているのだとすれば答えは自ずと絞られてくる。

 

 ハッとしてオウミは声にしていた。

 

「駄目だ、下がれ、熾天使!」

 

「下がれ? 何を言って……」

 

 その言葉を引き裂いたのは口腔内にチャージされた金色のエネルギー球であった。眩く輝き、黄金色の炎の襟巻きが顕現する。

 

「気合い、玉っ!」

 

 黄金のエネルギー球がモカのバクフーンへと突っ込むが当然の事ながら回避にかかる。

 

「アホやん! そんな遅い攻撃!」

 

 そう、当たるわけがないのだ。普通ならば。

 

「何のために、俺がいると思っている?」

 

 その攻撃に集中をしていたモカの耳朶を打ったのはバクフーンの背後に回っていたアーロンであった。瞬時に青い鎧のような電流を放出し、纏った右脚でバクフーンの横腹を蹴りつけた。

 

 誰もが瞠目していた。

 

 波導使いの今までの戦闘は手によるものが主だった。まさか蹴りを使ってくるなど予想の範囲外であったのだ。

 

 蹴りつけられたバクフーンは目を見開く。その射線に「きあいだま」の光が瞬く。

 

 腹腔に激突した「きあいだま」が弾け飛び、バクフーンを仰け反らせた。だが、それだけだ。

 

 バクフーンは全力で炎の襟巻きを拡張させ、翼のように展開する。制動効果が働き、衝撃を減殺した。

 

「惜しかったね……。気合い玉、会心の一撃のつもりやったんやろ?」

 

 シャクエンのバクフーンが次の攻撃の準備動作に入るまでのタイムロス。

 

 その合間を逃すわけがない。

 

「熾天使! やれ」

 

 オウミの号令を待つまでもなく、モカの操るバクフーンは駆け抜けていた。

 

 アーロンの攻撃射程を切り抜け、即座にシャクエンのバクフーンの上を取る。

 

「残念やったね! これで、炎の暗殺者の名前は、うちのもんに!」

 

 掲げられた炎の拳がそのまま叩きつけられるかに思われたその時であった。

 

 交差する形で炎の拳が点火し、バクフーンがアッパーを繰り出す。

 

 当然、モカは度外視していた。オウミもそうである。

 

 貰い火の特性。炎の攻撃は全て無力化される。

 

 そう思っていただけに――次の光景は意外でしかなかった。

 

 シャクエンのバクフーンの炎の拳がめり込み、そのまま炎の勢いを伴って顎を突き上げた。

 

 最初、理解が追いつかなかったほどだ。

 

 仰け反ったバクフーンの姿に、モカが声を発する。

 

「何で……、〈蜃気楼〉!」

 

 当のバクフーンも分かっていない様子だった。完全に虚を突かれた形のアッパーに加え、次いでシャクエンのバクフーンが口腔内に酸素を充填させる。

 

 放たれた紅蓮の炎をどうしてだかこちらのバクフーンは減殺出来ず、さらに言えば吸収も出来ずにダメージを受けて後ずさる。

 

「貰い火の特性が……」

 

「消えた……?」

 

 モカとオウミの呆然とした声にアーロンが帽子を傾ける。

 

「な、何をしやがった! 波導使い!」

 

「ポケモンの特性とは、実のところ大変にデリケートでね。特に、自分の能力を上昇させるタイプの特性というのは、同時に、ちょっとした波導の管理が出来ていないとその特性そのものの無効に繋がる。今まで、そちらの〈蜃気楼〉には貰い火特性が付与されていた。それを逆転しただけだ。つまり、炎の攻撃は今まで以上のダメージとなって蓄積する」

 

 そのような事が簡単に出来るはずがない。モカが声を張り上げる。

 

「嘘や! そんなもん、簡単に出来るはずが……」

 

「そうだ。だから気合い玉を撃ち込んで体内の特性の一時打ち消しを買ってもらった。気合い玉はただ単に有効だから撃ち込んだわけではない。俺の波導回路の焼き切りを誤魔化すための、策であった」

 

 オウミは先ほどの攻防を思い返す。「きあいだま」の射線に入れるためのあの一撃。あの蹴りに波導攻撃が混ざっていた。「きあいだま」を通すためだけの攻撃ではなかったのだ。

 

 だがモカはシャクエンの攻撃さえ避ければいいと感じていた。波導使いの攻撃に対する集中が一時的にでも切れたのが要因であった。

 

「貰い火特性はすぐに戻るだろう。特性打ち消しはそこまで万能ではないからな。その前に、炎魔の〈蜃気楼〉の炎の猛攻を耐え切れるか、だがな」

 

 シャクエンのバクフーンが炎の拳を肘から点火させて勢いを増す。ほとんどロケットのように、防御を度外視したバクフーンの猛攻にこちらは防戦一方であった。

 

 炎の拳が鳩尾に入り、よろけたバクフーンへとすかさず火炎放射が放たれて視界を埋め尽くす。

 

 不可視となったシャクエンのバクフーンが背後を取って横腹を蹴りつけた。

 

 転がったバクフーンへと追撃するのは拡張した炎の襟巻きから弾き出される火炎弾だ。

 

 今までならばそれら全てを無効に出来たバクフーンの回避速度はあまりに遅い。炎タイプ相手の立ち回りを全く学習していないのだ。

 

 当然のように攻撃を全て受け止め、薄紫色の身体に焼け焦げが目立つようになる。

 

「〈蜃気楼〉! まだ、相手だって炎には違いないんや! 地震で応戦!」

 

 当然のように炎魔相手のカウンターは用意してある。地面タイプの茶色の波紋が「じしん」を誘発させようとしたが、シャクエンのバクフーンはほとんど捨て身だ。回避など考えずに射程に飛び込み、炎の攻撃を叩き込む。

 

「この……! 因習に縛られた一族が……!」

 

 モカの声にシャクエンが雄叫びで掻き消して飛び込む。トレーナーを乗せたバクフーンが地面タイプの攻撃の範囲に転がり込み、シャクエンの固めた拳がモカの頬を打ち据えた。

 

 それと同期して炎の襟巻きを最大限に拡張させたシャクエンのバクフーンがモカのバクフーンを圧倒する。

 

 貰い火特性が戻るはずだ、とオウミはやきもきしたが、そんな暇はない。このままでは熾天使は敗北する。

 

「退け! 熾天使! 貰い火が戻ればこっちのもんなんだ!」

 

 今はそれ以上の命令はない。だが、モカは譲らなかった。

 

「冗談、こんな……、こんな事でうちが退く? うちが、敗走する? そんなの、そんなの許されるかいな!」

 

 モカもプライドに雁字搦めになっているようだった。貰い火の無効化されたバクフーンが拳を固めてシャクエンのバクフーンへと拳を打ち込む。

 

 鳩尾へと叩き込まれた攻撃に痛みを感じるよりも先に、バクフーンが主人の思惟を受け止めて吼えた。

 

 かっ血しながらもシャクエンのバクフーンは止まる事を知らない。最早これは、戦いとは呼べなかった。

 

 最後まで立っていたほうの勝ちだ。意地の張り合いが、この戦いにおいて唯一意味のあるものであった。

 

 オウミはゲンジロウより聞いていた事を思い出す。

 

 熾天使の敗走ならばまだいい。問題なのは、熾天使が死ぬ事だ。

 

 血筋も残せずに熾天使が死ねば、それは大きな意味の損失である。熾天使が居なくなるという事は炎魔に対しカウンター出来る勢力がいなくなる事。

 

「熾天使! 退けって言ってるんだ! ここで死ねば元も子もないだろうが!」

 

 その言葉にモカが退こうとするがシャクエンがそれを許さない。掴みかかり頭突きを見舞う。自分の知っていたシャクエンはそのような無様な姿を晒してまで勝ちにこだわる事はなかった。

 

 今のシャクエンを突き動かしているのは何だ? 誰の命を受けて、ここまで自分を磨り減らせる?

 

 オウミは覚えずその対象を探そうとしたが、宿主と呼べる相手はいない。

 

 あの波導使い以外は。

 

「どこへ行った? 波導使い!」

 

「俺は、どこへも行かない」

 

 背後から発せられた声に、オウミは接近さえも気づけなかった迂闊さを呪うよりも、アーロンが双眸に宿した殺意に圧倒された。

 

「オレを、殺すってか?」

 

「その役目は俺のものではない」

 

 発せられた声にオウミは歯軋りする。この男はいつだってそうだ。

 

 自分のような悪人よりもずっと遠くを見据えている。ずっと高く飛んでみせる。改めて眼を見据えてみて分かった。

 

 波導使いアーロンの真実を。

 

「てめぇ、やっぱり根っからの悪人じゃねぇな」

 

「俺は悪でもいい。殺しを今まで何度も重ねてきた、極悪人でも。だがこの戦いの邪魔はさせない」

 

「邪魔ァ? こんなもん、戦いでも何でもねぇ」

 

 シャクエンがモカを引き寄せ、その頬に張り手する。モカもシャクエンに殴りかかっていた。これでは子供の喧嘩だ。

 

「驚いたぜ。炎魔と熾天使の決着のつけ方が、こんな泥仕合になるなんてよ」

 

「どうせ、汚れた手同士だ。だったら、潔いほうがいい」

 

「潔い、か。随分と長い間、聞かなかったような言葉だな」

 

 シャクエンのバクフーンの放った火炎弾をモカのバクフーンが吸収する。貰い火の特性が戻ってきたのだ。

 

「勝った! これであんたがどれだけ足掻こうが、もう攻撃は通じん! うちの、熾天使の勝ち――」

 

 その言葉を遮るようにシャクエンが頬を殴る。だがモカも負けじと殴り返す。お互いに唇を切り、美しかったかんばせは腫れ上がって歪んでいる。

 

「まだ、まだ……」

 

「どこまで……諦め悪いん? もう勝てへんやろうに」

 

「まだ、まだ! 〈蜃気楼〉!」

 

 シャクエンの声にバクフーンが黄金色に輝く球体を口腔から放出しようとする。「きあいだま」だと判じたモカのバクフーンの放った呼気一閃の拳が鳩尾へと叩き込まれた。

 

 形成途中の「きあいだま」が口から落ちる。それがシャクエンのバクフーンの最後だと、誰もが感じた。

 

「勝った!」

 

「まだ……、〈蜃気楼〉! 腕が残っている」

 

 落下しかけた「きあいだま」のエネルギーの塊を、あろう事かバクフーンはその手で掴んだ。剥き出しのエネルギー核がバクフーンの掌を焼く。

 

「何を――」

 

「撃ち込めぇっ!」

 

 バクフーンの掴んだ「きあいだま」がそのまま拳の軌道となってモカのバクフーンの腹腔へと撃ち込まれた。

 

 あまりのエネルギーの放出に眩く輝きが炎熱を帯びる。貰い火でも減殺し切れない純粋なエネルギーの瀑布にモカのバクフーンが打ち震えた。

 

 シャクエンのバクフーンが雄叫びを発する。それと同期して拳に凝縮された「きあいだま」が完全に消え失せた。

 

 暫時、静寂が舞い降りる。

 

 どちらが勝ったのか、判断出来なかった。

 

 オウミが唾を飲み下す。

 

「勝ったのは……」

 

 モカのバクフーンが膝を落とした。それと同時に操っていたモカ自身も糸が切れたようにその場に倒れ伏す。

 

 最後まで立っていたのはシャクエンと、彼女のバクフーンであった。

 

「きあいだま」を掴んだ手は焼け爛れており、ほとんど形状を崩していたがそれでも雄々しく佇んでいる。

 

「勝った……」

 

 茫然自失のシャクエンにアーロンが駆け寄る。倒れる前に彼が抱き寄せた。

 

「目を開けていろ。勝者には、目を開けている義務がある」

 

「波導、使い……、私は……」

 

「勝ったんだ。胸を張れ、炎魔……シャクエン」

 

 その言葉にシャクエンの眼に少しばかりの活力が蘇る。

 

 それを目にしてオウミは確信した。

 

 もう自分の役目は済んだのだ。

 

 ポケナビをコールしゲンジロウへと繋ぐ。

 

『どうした、オウミ警部。炎魔を殺したか?』

 

「いんや。殺し返された。熾天使は多分、再起不能だ。これ以上言う事のないほどの、敗北だよ」

 

 その言葉にゲンジロウが急くように返答する。

 

『馬鹿を言え、熾天使は絶対だ! 絶対に勝たねばならんのだ! この街の利権を手に入れるためには、熾天使が勝たなければ……』

 

「もう、あんたみたいな老人が口を挟めるような街じゃねぇって事だよ、爺さん。街の未来を切り拓くのは若い奴らの役目だ」

 

『……オウミ、貴様、背信行為だぞ』

 

「背信? んなもん、とっくにそうだよ。この街を裏切ったんだ。覚悟は出来ている」

 

 黒服を呼ぶゲンジロウの声が聞こえてくる。オウミは最後の仕上げにかかった。もう一つ、いざという時のためのポケナビを繋ぐ。その相手は即座に通話に出た。

 

『オウミ警部、どういう事なのかしら?』

 

「聞いての通りだ。ジョウトから来た田舎者が、こんな大それた事を仕組んだ。お前らはオレを撃ってもいいが、その前に、このジジィの介錯も約束してくれ。こいつの現在地は」

 

『既に掴んでいるけれど……本当にいいの? オウミ警部。あなた、損な役回りよ』

 

 その声にオウミは笑みを浮かべる。

 

「重々承知だよ、間抜け。元から長生き出来るなんて思っちゃいねぇ」

 

 アーロンがこちらへと目を向ける。

 

 その瞬間だった。

 

 空域を監視していたエアームドから放たれた鋼の弾丸が、オウミの胸を貫いた。

 



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第八十八話「Reecho Final」

 

「オウミ!」

 

 アーロンが駆け寄る。心臓を的確に射抜いた致命傷であった。波導の眼を全開にするが治療法が見当たらない。心臓を射抜かれて無事な人間がいるはずもない。

 

「オウミ……お前は……」

 

 オウミの手を握るとそこから記憶の波導が流れ込んでくる。

 

 最後の意思が自分に告げていた。

 

 ――シャクエンを守れ、と。

 

「最初から。お前は最初から、悪に徹するつもりで……」

 

 呼吸音と大差ないオウミの声が漏れ聞こえる。自嘲気味の笑みを浮かべていた。

 

「なぁ……波導使い、さんよ……。火ぃ、くれねぇか……。煙草が、吸いてぇ……」

 

 オウミの懐に入っていた煙草の箱は血に汚れていた。それでもアーロンは箱から一本取り出し、火を点けてやる。オウミがそれをくわえてぼやいた。

 

「まずいな……。こんな、まずい煙草は、生まれて初めて、だよ……」

 

「オウミ。俺からの願いだ。生きろ。お前には生きて罪を清算する役目がある」

 

 アーロンの言葉にオウミは僅かに目を見開く。

 

「意外……、お前は、んな事、絶対に、言わないと、……思っていたよ」

 

 波導を注ぎ込もうとするが全て抜けていってしまう。元々、自分は波導を相手に与える事は出来ない体質だ。

 

「こんな時に! 俺はこんな時に、何も出来ないのか!」

 

 オウミはこの街の背信者だったのだろう。だが、それでもこの男なりの矜持があった。生きていた意味があった。それさえも、この街は呑み込むのか。大いなる流れの下に、この男の生があったのだと。

 

「ああ、クソまずい、煙草だ。こんなんなら、やめときゃ、よかったな……」

 

 オウミの口から煙草が滑り落ちた。

 

 その意味を、シャクエンは黙って目にしていた。

 

 自分をかつて利用しようとした男。その男の今際の際を見つめる彼女の瞳はどのような感情が浮かんでいるのだろう。

 

 少なくとも、オウミを軽蔑するような眼ではないのは確かであった。

 

 エアームドの編隊が空を引き裂いていく。

 

 アイアントの群体が地を打ち鳴らす足音を止めた。クイタランとドリュウズが侵攻する音を消し、一転して静寂が訪れる。

 

 全てはこの男の――悪に生きた男の鎮魂のための静寂に思われた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「冗談じゃない、わしは、わしだけでも生き永らえなくては……」 

 

 ゲンジロウは焦って黒服達を呼び寄せる。屋上に陣取っていたヘリコプターが起動準備を始めていた。

 

「早くしろ! まだエンジンがかからんのか!」

 

「あまりに急いでもかかりませんよ。これでもスクランブルなんです」

 

 早くしなければ、自分はホテルの尖兵に殺される。

 

 いや、殺されるだけならばまだマシか。

 

 笑いものにされ、この野望が意味のない事のように潰される事が最も恐ろしい。

 

「わしは、人生を賭けたのだ! だというのにあの悪徳警官、こんな時に役に立たずに死におって! 都会者には分からんさ! どれだけの覚悟でわしがこの街に打って出たのか。どれだけの金と時間をかけて、熾天使を使えるようにまで引き上げたのか。わしは……」

 

 その言葉尻を裂くように鋼の銃弾がヘリのすぐ傍を掠めた。天を仰ぐと鋼の翼を持つポケモンが空域を見張っている。既に射程内であった。

 

「い、嫌だ!」

 

 ゲンジロウがヘリから身を乗り出し、逃げようとする。黒服達が制そうとするがその行く手をエアームドの放った攻撃が塞いだ。

 

 屋上から下階へと繋がる階段をゲンジロウが駆け降りる。

 

 息せき切って向かった先には車があるはずだった。

 

 他の部下には隠し通していた自家用車だ。ゲンジロウはすがるように車のドアを開けて乗り込む。

 

 部下の命など最早頓着していられない。

 

 自分さえ生き残れれば計画は存続出来る。

 

 熾天使はまた蘇るだろう。

 

「そうだ、わしは、熾天使のために……。だというのに、あの失敗作が! 醜態を晒しよって!」

 

 エンジンをかけようとしたところで、ボンネットに何かが降り立ったのを目にした。

 

 ――青いコートを翻し、死神が佇んでいた。

 

 声にならない叫びを発し、ゲンジロウは車から逃れる。その瞬間、ボンネットから黒煙が上がり、車が内側から焼かれたのが分かった。

 

「嫌だぁ! わしは、まだ……」

 

 逃れ逃れて地下の貯水庫へとゲンジロウは降りていく。

 

 タンクの陰に隠れようとしたが、貯水タンクが内側から膨張し、水を降り注がせた。

 

 ああ、と呻きながらゲンジロウは水浸しになった地下空間を這いずる。

 

 死神が靴音を響かせて近づこうとしてくる。

 

「やめろぉ、わしは……、まだ生きなければならん。そうでなければ、何故、ホテルを敵に回した? そうでなければ、全てを犠牲にする覚悟など……」

 

 蹴躓いた身体が泥水の中でもんぞり打つ。立ち上がろうとした瞬間、脚に電撃を浴びせかけられた。

 

 その一撃で脚の神経が全て断ち切られる。

 

 最早、腕の力で這いずるしかなくなったゲンジロウは、ただただ祈った。

 

「嫌だ……。死にたくない、死にたくないぃ……」

 

 その後頭部へと、冷たい手の感触が伝わる。

 

 肉迫していた死神が力を込めた。

 

「やめろ! わしは、意義があるんだ! 金か? 金ならあるぞ! ハムエッグの、ホテルの倍額は出そう! それでも足りんのならば全財産だ! それを全て、お前に賭ける。どうだ? 悪い条件ではないだろう? だから――」

 

「黙れ」

 

 ただの一言だけだった。

 

 次の瞬間に放たれた電撃によって内奥から断末魔が迸り、ゲンジロウはよだれを垂らしたまま、動かなくなった。誰にも看取られない無様な、最期であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「全小隊に死傷者はなし。放たれた鳥は全部、無事に帰ってきた。これで満足? ハムエッグ」

 

 ラブリは通信を繋いでいた。相手はこの街の盟主である。

 

『正直な感想を言うのならば、惜しかったな。あと二時間あれば、スノウドロップを出す条件が揃った』

 

 やはり最初からこの戦いは自分達ホテルとハムエッグの内部抗争に端を発したものだった。それに不運にも巻き込まれたのが、アーロンであり炎魔と熾天使、それに……。

 

「葬列には参加なさるの?」

 

『惜しい人を亡くしたよ』

 

 それだけだった。ハムエッグは通話を切った。

 

「お嬢。オウミ警部は背信者です。どうして、率先して弔いなど」

 

「聞いての通りだったでしょう、軍曹。オウミ警部とて、自分の信念に従って行動したまで。わたくしは、そこまで薄情ではないわ。彼を介錯したのは、言うまでもなくわたくしだもの」

 

 ラブリは身を翻す。軍曹がその後に続いて小隊へと伝令する。

 

「縦貫道の閉鎖をあと二時間だけ続けろ。この街のために命を賭した男の弔いだ。もう……陽は昇ってしまったが、な」

 

 朝陽がこの街に覚醒を促す。たった一人の犠牲など関係なく、日々は続いていく。だが自分達は裏に生き裏に死ぬ。この街の陽の当たる場所での死に様は望めそうにない。軍曹はそう感じてラブリの背中を追った。

 



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第八十九話「鬼の系譜」

 

 弔い、と言っても簡素なものだ。縦貫道を封鎖したホテルによる一時的な葬列。

 

 ホテルの構成員達が面を上げ、運ばれていくオウミの遺体が入った棺おけを目にする。

 

 明日は我が身の葬列だ。だからこそ思うところもあったのだろう。

 

 一人の構成員が挙手敬礼をした。それに続き、兵達が敬礼を棺おけに注ぐ。

 

 無言の敬礼に囲まれ、この街に生きた悪人が弔われていく。

 

 その光景をアーロンはビルの屋上から目にしていた。傍にはシャクエンがいる。彼女の眼にはどう映るのだろう。

 

 自分を利用しようとした男の死。それも酷く惨めで、最後の最後まで他人を騙し抜いた男の生涯。

 

「人は死ねば灰になる。他人も、自分も、そうなのだと思っていた」

 

 今はそう思っていないような口調だ。アーロンは問いかけていた。

 

「葬列が組まれ、ホテルが奴の死を弔うと決めたのは、何も今回の一件があったからだけではない。元々、借りを多く作る男ではあった」

 

 ホテルも生前に見送るのに足りた人間として今回のような処置を施しているだけだ。

 

 オウミの行いが善性であろうと悪性であろうと、ホテルの方針は変わらない。

 

 ――ホテルミーシャはこの街の監視者。

 

 監視者の眼を逃れて人を殺した人間に相応しい咎を、とされて展開された今回の作戦。オウミをただの敵性存在として排除するのもホテル側の対応としてはあった。だが、それが結果的に正反対になってしまったのは、最後の最後に、オウミがこの街の秩序に生きたからだろうか。

 

 善行を積めば、人は天国に行けるという。

 

 しかしその逆の悪徳を積んだ人間は必ずしも地獄に落ちるとは限らない。地獄よりもなお深く暗い場所で幽閉され、現実という楔に繋がれた人間達が生き地獄を味わっているのがこの街だ。

 

 それを少しでも改善しようとしたのならば、少しでも弔われるべきなのだろうか。

 

 悪徳警官だと自ら言ってのけ、悪として死んだオウミは悪に葬られた。

 

 彼の死を本当の意味で知っているのは悪のみ。

 

 一般的には殉死、あるいは事故として処理される一個人。それを悪の側面で見つめ続けた自分やホテル、それにシャクエンはどう感じているのだろう。

 

 宿主であった人間の死に、何か思うところはあるのだろうか。

 

「オウミは、お前の人生を歪めた男だ」

 

「でも、何も感じない。怒りも、喜びも、何も……。本当に、何も感じない。だって言うのに……」

 

 忌々しげに呟いたシャクエンの瞳からは涙が溢れていた。止め処ない。

 

 あの男を恨みや復讐の相手だとしか思っていなかったわけではないのかもしれない。

 

 シャクエンは涙を拭って声にする。

 

「恨みたいのに……。殺したいほど、憎いのに……」

 

 どうして、と嗚咽を漏らす。

 

 アーロンには少しだけ分かるような気がしていた。

 

 殺したいほど憎い相手が、同時に、いなくなる事を全く想定出来ない相手でもある。だから、こうした突然の別れに戸惑うのだ。

 

 それが人の心なのだと。

 

「憎んでいた、恨んでいたからこそ、流れる涙もある。今は、泣いておけ。炎の殺し屋が泣ける機会も、そう多くない」

 

 鬼が泣く。この街を震撼させ、今もまだ、恐怖の対象として屹立する鬼が、今はただ少女として涙している。

 

 愛おしかったわけではない。

 

 愛情も、思慕も、何一つ感じていない。

 

 ただその胸にあったのは憎悪と怒りと、悲しみだけ。

 

 だがそれが時に、人の感情を揺さぶる。本当に涙の流れない時は、相手の事を何一つ感じていなかった時だけだ。

 

 涙が枯れ果てるのは、死ぬ時と、心を捨てた時だけ。

 

「……よく、師父が言っていた。自分の死に涙するな、と」

 

 いずれは殺さなくてはならない師父の言葉だ。

 

 ――自分を殺す時、絶対に涙だけは流すな。

 

 シャクエンが顔を上げる。アーロンは師父の口ぶりを真似る。

 

「大勢を殺し、愛する者も殺し、自分の心も殺し、何もかもを殺した末に、最後の最後に殺すべき対象は、ここなのだと」

 

 アーロンがコートの上から握り締めたのは左胸だ。この心の臓を止めてみせろ。

 

「お前の到達点はここだ。ここに辿り着くためだけに波導を極めろ。ここに辿り着く時は、お前の波導が真に芽吹いた時だ。ならば、せめて笑え。涙するな。それは、波導使いのするものではない」

 

「波導使いも、鬼と同種なの?」

 

「ある意味では、鬼よりもなお、人間を捨てた存在だろうな」

 

 オウミの遺体が入った棺おけが燃やされる。火葬され、灰に還る。塵は塵に。炎の暗殺者の人生を巧みに操った男の最後が火葬とは――。

 

「行くぞ。奴の死を、悔やんでいる暇はない」

 

「波導使いは、あなたはもう、人の心を殺したの?」

 

「いずれ殺さなくてはならない。師父を殺す時に、迷いの生じぬよう」

 

 踵を返し歩み出したアーロンの青いコートを風がはためかせる。

 

 あの男の吸っていた煙草の匂いが風に舞った。

 

「……もう、行ったのか」

 

 呟き、アーロンは呼びかける。

 

「置いていくぞ、シャクエン」

 

 するとシャクエンは目を見開いて呆然としている。

 

「今、名前……」

 

「何をしている」

 

 歩み出したアーロンの後に、シャクエンは続いていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ああ、オウミ警部。そんな、まさか……」

 

 殉職。

 

 その言葉の意味するところにニシカツが頭を振る。

 

 警察内部でも弔われたが、ニシカツは涙よりも悔恨が勝っていた。

 

 あの時、オウミを止められたのは自分だけであった。だというのに、彼を駆り立てる要因を作ってしまった。

 

 ある意味では、自分が殺したも同義だ。

 

「オウミ警部……、命令を寄越してください。そうでなければ、どう動けばいいのか、僕には分からないんです……」

 

 モニタールームでニシカツは項垂れる。

 

 この一室を知るのも自分を除けばオウミのみ。

 

 他とは隔絶された、完全な空間であったのに。

 

 今は限りなく完成を見たシステムOSを持て余すばかり。

 

 誰かに命令されなければ使う気力さえも湧かない。オウミはそれだけ、自分にとって大きな存在であった。

 

 いつも引っ張ってくれたのだ。

 

「オウミ警部ぅ……」

 

 咽び泣くニシカツのモニターに一通のメールが届いた。ポップアップを開くと、そこには信じられないアドレスがあった。

 

「オウミ警部の、アドレス……」

 

 目を見開き、ニシカツはそのメッセージを解読する。

 

「後任者を用意しておいた……。野心は人一倍ある人間だ、そいつのオーダーを実行しろ……? そんな事、オウミ警部が言うはずが」

 

「それが、言うんだよな」

 

 モニタールームへと入ってきた靴音にニシカツが肩をびくつかせる。警官として、拳銃の所持とポケモンの所持も認められていたがニシカツは今、どちらも持っていない。

 

「だ、誰なんだ?」

 

「お前が、この間のシステム騒ぎに乗じて、第三勢力を立ち上げた人間か。オウミとは、よく取引していたから、話には聞いていたが……。こんな奴で大丈夫なのか?」

 

 声音だけでは分かるまい。ニシカツは脅しにかかった。

 

「く、来るな! 拳銃を持っている!」

 

 その脅迫に、相手はおどけた。

 

「おや、拳銃か? そうか、そりゃあそうだ。警官だものな」

 

「だ、誰だ……。ホテルの手のものか? それともハムエッグの」

 

「どちらでもない。第三勢力なのだとすればおれは、第四の勢力だ」

 

 暗がりから姿を露にした人影に、ニシカツはモニターを抱いたまま振り返る。

 

 この場に似つかわしくない人間に、ニシカツは絶句した。

 

「ま、まさか……」

 

「おれがいて、そんなにおかしいか?」

 

「路地番、リオ……」

 

 リオが笑みを浮かべてニシカツの様子を観察している。

 

 ――しかし何故?

 

 単なる路地番が、どうしてオウミの後任なのだ。

 

「な、納得出来ない! 僕の研究は僕とオウミ警部のものだ! お前なんかに……」

 

「渡すくらいなら、エンターキーを押して消す? それは出来ないだろうな」

 

 リオがリモコンを差し出しボタンを押すと、自分の端末の権限がロックされた。何が起こったのか、瞬時には分からなかったほどだ。

 

「上位権限……。それは、オウミ警部だけのもののはず」

 

「オウミは、自分の死さえも勘定に入れられる人間であった、という事だ。オウミが死に、おれへと権限が移った。おれだけが、お前を支配出来る」

 

「で、でまかせだっ!」

 

「デマじゃないのは、どのキーを押しても操作出来ないその端末だけで充分じゃないか?」

 

 リオの言う通り、消去どころか動作終了も出来ない。

 

「ば、馬鹿な! 僕の権限を越えてなんて」

 

「認めろよ、エンジニア。おれの支配を」

 

 リオが歩み寄り、ニシカツを見下ろす。 

 

 その眼差しはただの路地番のそれではなかった。

 

「な、何なんだ、お前。何が目的で……」

 

「目的? そうだな、強いて言えば自由」

 

「じ、自由?」

 

「この街は切り分けられたピザだ。ハムエッグとホテルという二大勢力が半分にピザを頬張っている。おれはそれを三分割にしないか、っていう提案をしに来た」

 

 不可能だ、とニシカツが口にしようとするが、その前にリオが頬を掴みかかった。

 

「無理だとか、不可能だとか言うなよ? そのシステムOS、通称ルイツーがあれば、ハムエッグのシステムの上を行く事が可能なんだろう?」

 

 ルイツーの事はオウミしか知らないはずだ。それを口にした時点で支配権は相手に移っていた。

 

「何で……。オウミ警部が何で、お前のような若造を……」

 

 それだけが疑問だ。リオは何でもない事のように言ってのける。

 

「あの悪徳警官は、散々にクズであったが、人を見る目だけは確かだった。早々におれに接触し、自分の計画を話してくれたのさ。もし、自分が死んだ時の対応までね」

 

「どうしてそこまで……。僕だって話してもらってないのに」

 

「簡単な事。支配者は一人でいい」

 

 ニシカツの手をリオは踏みにじる。

 

 痛みに顔を歪めた途端、リオがこちらを覗き込んできた。

 

 その眼差しには隠し切れない野心の火がある。

 

「ハムエッグとホテルの拮抗は崩れた。――おれが天に立つ」

 

 

 

 

 

 

 

 第七章了

 



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追撃の鈍色、裏切りの傷
第九十話「傷」


 

「これをヤルとよ、ふわっとして夢を見ているみたいな気持ちになるんだよ」

 

 男の説明に一人の少女が聞き入っていた。

 

 昼下がりのカフェテラスの店内は客もまばらだ。その中のテーブルの一つに対面しているのは、金髪の刈り上げの男と、忍者装束の少女であった。

 

 男の手元には端末があり、その画面に表示されているのは吸引型の器機であった。白い袋に吸引のためのスポイドがついている。

 

「言っておくが、高値で取引されているからお勧めはしないぜ。オレの口からばれたなんて言ってみろ、流している連中から即座にこれだ」

 

 男が首を引っ掻く真似をする。少女は男の目を見つめ口にした。

 

「情報が欲しい。もっと明確で、的確な情報を」

 

「って言っても、オレも知っているのはヤッた時の感じと、流通させているグループ、それにこの街でどれだけ流行っているか、ぐらいだよ。なんつーの、こういうのの売人って裏路地を取り仕切っている路地番に頼んで流通させてんだ。だから路地番の伝手があれば不可能じゃないとおもうけれど」

 

「あたいに、路地番の伝手はない。そうなってくると、あなたみたいな人間に頼むしかないってわけ」

 

 その言葉に男は鼻を鳴らす。

 

「……どこの組織が最初に流したのかは分からないし、オレだってヤッたのは一回こっきり。高くって手が出せない。常習性はないはずだ。中毒性もない。本当に、一回でやめられるクスリなんだよ、これ」

 

「噂に聞いていた、その、効力って奴は」

 

「ああ、あの人間の脳の奥深くにある記憶に作用するって奴か? マユツバだよなぁ。第一、忘れていた記憶を選択して取り出せるわけじゃないから、このクスリに頼るよりか、心療内科の催眠逆行とかのほうがマジな話、有効だと思うが」

 

「どうしても必要なの。お願い、流通元教えてくれる?」

 

 少女が手を合わせて懇願する。男は声を潜めた。

 

「……あのよ、オレから漏れたって事は」

 

「言わない、言わないって」

 

「まだハムエッグも、ホテルでさえも関知していないものだ。だから裏で流通させて、金を儲けようって魂胆じゃないのはよく分かる。だって儲けを出すのならばその二者を通さないのは筋に反しているからな。利権を食い潰される、って恐れはあるが、ハムエッグとホテルが表立って約束を反故にするって事はないだろう。だから、長らくクスリの流通に関してはこの二つを通してきた。今回のクスリだって多分、通す予定があったんだろう。だが、通さず闇の中で闇から闇へ、っていうやり方になった。それはひとえに、このクスリのヤバさとあとは儲けが出にくいから個人のものにしたいってのがあるんだろうな」

 

「儲け話に乗せてもらうつもりはない。ただこのクスリのサンプルでももらえれば」

 

 男は腕を組んで呻る。

 

「難しいな。サンプルって言っても、今言った通りハムエッグとホテルを通さないやり方なんだ。だから情報も表立っては出ないし、当然、流通情報なんて限られた会員だけのものだよ」

 

「会員ページは? ネット上にあるの?」

 

「前まではな。だが今は、こうして情報を持っている者同士の伝手だけさ。合言葉を言えば売人から買える。ただし、その売人だって裏通りをたまに路地番を使って買い占めているだけ。タイミングだよ、タイミング」

 

「絶対手に入れたいの。どうすればいい?」

 

 食い下がる少女に男は考えを巡らせた。

 

「絶対手に入れる方法? そりゃあ、持っている奴に当たるのが一番だけれど、常習性も中毒性もないから、何度も使っている奴に当たるのは難しい……」

 

 少女はコーヒーカップの裏のソーサーに紙幣を挟んで差し出す。

 

 情報料であった。

 

 男は抜け目なくそれを受け取って返答する。

 

「……そういや、オレの知り合いにいたな。このクスリの効き目を知りたくって使っている奴が」

 

「確定情報?」

 

「ああ、間違いはないさ。そいつの住所と電話番号を教える」

 

 少女が教えられた住所と電話番号をメモし、その場から立ち去ろうとした。それを制するように男が声をかける。

 

「待ちなよ。何だってお前みたいな、本当にちびっ子が、こんな情報もまるでないクスリの事を詮索する?」

 

「あたいは、それが必要だったからしているだけ」

 

「……分かりやすく忍者服着込んでいるけれどさ。隠密って言葉の似合わない格好だぜ、それ」

 

 男が顎でしゃくる。昼下がりには目立つ格好だった。

 

「あたいの正装みたいなものだから」

 

「あっそう。じゃあ、ついでにいい事も教えてやるよ。クスリを使った感じだと、本当に、意識が朦朧として前後の記憶が曖昧になる。それと、多幸感と虚脱感かな。忘れていた記憶が蘇るって触れ込みは副次的な産物だよ。だが、それがあまりにも明確なものだからこの名前がついただけだ。――メモリアはな」

 

 クスリの名前を口にした男は少女に言い含める。

 

「どういう考えでメモリアの流通を追おうって言うのかは聞かないし、それがルールってもんだろう。でも、あまりに意外なのは、そういうのが中学生前後のちびっ子にも流行っているって事だよ」

 

「あまり詮索はしないほうがいいと思う。あたいだけの話だし」

 

「親御さんにばれたくないのかい? そりゃあ、ヤバいクスリに手を出す子供の事なんて知りたくもないだろうけれど」

 

「なに、口止め料でも払えって?」

 

「そこまで言っちゃいないけれど、誠意ってもんがさ」

 

 少女はため息をついて紙幣をハンカチの下に隠して手渡した。

 

「毎度。ただ、年長者として忠告しておくよ。メモリアはそれほどさばけないし、売れない。だから、流通に噛もうってのはお勧めしない」

 

「いいよ、別に。あたいは、これが必要なだけ」

 

「お前、名前は? 一応は、情報を渡したわけだから信頼って奴もある」

 

 逡巡の後、少女は名乗った。

 

「アンズだよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ねぇ、お姉ちゃん。ラピスは、いつまでここにいればいいのかな」

 

 ラピスの放った疑問にメイは答えあぐねていた。

 

 毎日のようにハムエッグの下を訪れ、ラピスの相手をしているが彼女は暗殺者なのだ。その仕事をさせないための抑止力としての役割を自負していたが、ラピスの中にもこのままではいけないという焦燥があるかもしれない。

 

「いつまでって……、そりゃ、ハムエッグさんが許すまでじゃないかな」

 

「主様が、ラピスを許すと思う?」

 

 どこか、不安げな表情で口にするラピスに、メイは尋ね返した。

 

「ハムエッグさんが、信じられなくなったの?」

 

「ううん、そういうんじゃない。けれど、今まで主様は殺し以外をやれとは言わなかったから」

 

 殺し以外、本当に教え込まれていなかったのだろう。ラピス・ラズリ――通称、スノウドロップは無垢な瞳で自身の存在価値を問い質す。

 

 殺しをやめろと言われれば、この少女は行く宛てをなくす。しかし、メイにはもう二度と殺し合いなどに巻き込まれて欲しくなかった。

 

「……ハムエッグさんが、いいよと言うまで、ラピスちゃんは休んでいいんだよ」

 

「休む……。お姉ちゃん、ラピスが休んでいる間に、この街はどうなったの?」

 

 メイは返事に窮した。

 

 ラピス不在の間に起こった炎魔シャクエンの反逆行為。さらに言えば、その大元であったオウミの死。アーロンが火消しに奔走したと聞いたのは全てが終わった後だったが自分を巻き込まなかったのは暗殺者同士の喰い合いに口を挟める身分ではないと慮ったからであろう。

 

 ある意味では、アーロンが自分に話を振らなかったのも当然である。

 

 シャクエンは無事、生きて帰ってきたし、何も言う事はない。

 

 ――ただ、とメイの心には一滴の墨が残った。

 

 シャクエンとアーロンは殺し屋なのだ。

 

 どうしようもなく、暗殺の道で生きていくしかない、裏の人間である。彼らの領域に、自分を踏み込ませてはくれない。

 

 自分はどう足掻いたところで一般人。だから彼らの死に場所がどこであろうとも、口を挟む権利なんてないし、もっと言えば彼らとは最後の最後で袂を別つしかない。

 

 それが分かっていても、メイはアーロンやシャクエンと共にいたかった。

 

 彼らの傷みを分かった風になっているのかもしれない。それでも、どこかで不要だと言われるまで、自分は付いて行くだろう。

 

 そうしなければ彼らは本当に、闇の中で死んでいく。

 

 誰にも看取られず、ただただこの街の深淵で、朽ち果てていく。

 

 それだけは我慢ならない。

 

 一度でも分かり合えたのならば、自分だって一蓮托生だ。

 

 だからそれが茨の道でも突き進んで行きたい。たとえ邪魔だと思われていても、自分は意地を貫き通す。

 

 その第一段階としてラピスと接しているのもある。

 

 彼女を殺しの世界から救いたい。殺さなくてもいい道がこの世にはたくさんあるのだと教えたいのだ。

 

「ラピスちゃんが休んでいても、この街は何ともないよ。みんな元気にやっている」

 

 そう言えばラピスが安心すると思ったのだが、逆に彼女は顔を翳らせた。

 

「ラピス……要らないのかな」

 

 思わぬ発想にメイはうろたえる。

 

「な、何で? だってほら、ラピスちゃんは普通の女の子で」

 

「普通? お姉ちゃん、ラピスは主様にバランサーとしての役割を与えられているんだよ? だって言うのに、ラピスが何もしなくってもこのヤマブキが元気なら、何でこんなところにいるんだろう……。何もしなくっていいって言うのは、寂しいよ」

 

 寂しい。殺しのない、平和な生活を寂しいとこの少女は言うのか。

 

 バランサーとしての役割はハムエッグの本分だ。だから、それを叩き込まれたラピスが感じるのは何も間違いではない。

 

 ただ一つ、このようなか弱い少女の発言ではない、という一部分を覗けば。

 

 メイはラピスの手を握った。キーストーンを掌に埋め込まれた、固い手だった。

 

「ラピスちゃん、これまで頑張ってきたじゃない。頑張らなくっていいんだって、神様がお休みをくれているんだよ」

 

「じゃあ、意地悪な神様はいつ、お休みを解いてくれるの? いつになったら、ラピスがまた必要だって言ってくれるの?」

 

 暗殺が自分の生きる道だと信じ込んでいるラピスの洗脳を解くのは間違いかもしれない。

 

 もしかしたら、ハムエッグの指示の下、今まで通り、人殺しをさせるのが一番の回復術なのかもしれなかった。

 

 だが、メイは出来るだけラピスを暗殺から遠ざけたい。この世の汚いものから、彼女を守りたかった。

 

「ラピスちゃんが、お仕事しなくてもいいように、アーロンさんとハムエッグさんが頑張っているから」

 

「波導使いアーロンが、ラピスより大事なの? 主様は」

 

 メイは当惑する。ラピスにはハムエッグに必要とされているか、そうでないかの選択肢しかないようだった。

 

 もっと別の、自由になれる道を選ぶ事も出来るのに。

 

「ラピスちゃん。あたしと遊ぶのは、嫌になった?」

 

「嫌じゃないよ。嫌じゃないけれど、何もしないのは、ちょっと嫌……」

 

 このような幼い身にハムエッグはどれほどの無理を強いてきたのだろう。もし、アーロンとぶつかり合わなければ、ラピスは延々と殺しをさせられていた。

 

 だからと言ってハムエッグを無条件に恨む事も出来ない。

 

 ハムエッグがいなければラピスはこの場所にもいないだろう。

 

 ブザーが鳴り、この時間の終わりを告げる。

 

『ラピス。今日はここまでだ』

 

 ハムエッグの声にラピスは歩み出ていた。

 

「ねぇ、主様。いつになったら、もう一度戦わせてくれるの?」

 

『その時が来れば、自然にそうなるよ』

 

 メイは拳をぎゅっと握り締める。この歪な関係性を清算しなければ、いつまで経ってもラピスはハムエッグの操り人形だ。

 

『お嬢ちゃんだけ表に出てくれ。ラピスは出なくっていいよ。まだ、ね』

 

 暗にいつかは暗殺業に戻らせる、という言い草だ。メイは不承ながらも立ち上がった。

 

「またね、ラピスちゃん」

 

「バイバイ、お姉ちゃん」

 

 ラピスはこの部屋に取り残される形となる。

 

 改めて部屋の全体を見やった。

 

 何もない、滅菌された白だけが広がる、まるで牢獄のような部屋。

 

 この部屋に幽閉されているだけでも、ラピスからしてみればストレスだろう。ハムエッグは意図的にやっているのだろうか。

 

 彼女を駆り立たせて一日も早くスノウドロップを復活させたいのが本心かもしれない。

 

「……でも絶対に。もうスノウドロップを表には出させない」

 

 メイの中でその言葉は堅い決意となった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「馬鹿はどれだけの薬になっている?」

 

 アーロンの問いかけにハムエッグはグラスを磨きつつ応じた。

 

「半々、ってところかな。彼女の存在が逆に、ラピスの不安を駆り立てる要因にもなっている。元々、お嬢ちゃんを守るために、ラピスは君に飛びかかった面もあるからね」

 

「忘れたい戦いだ」

 

 スノウドロップとの命を賭けた戦いなど。アーロンが水を飲み干すと、奥からメイが出てきた。

 

「あの……ハムエッグさん。ラピスちゃんは、ちょっと不安定です。何か、おもちゃでも与えたほうがいいじゃ。あんな部屋じゃ、まるで囚人みたいに……」

 

「いや、ラピスにはあれで事足りているよ。トイレに行く自由もあるし、換気システムもしっかりしている。寝室もある。何か不自由でも?」

 

 逆に問い返され、メイは口ごもった。

 

「その……あんまりなんじゃないですか。だって、元々ラピスちゃん、あんな歳で暗殺なんて」

 

「おかしな事を言うなぁ、君は。スノウドロップの力の誇示があってこそのこのヤマブキの平和だよ。もし、スノウドロップが維持出来なくなればすぐさまホテルが飛んでくるだろうが、それでもいいと?」

 

 ハムエッグとの問答にメイは反発しようとしても出来ない。アーロンは助け舟を出してやった。

 

「ホテルは、前回、全兵装の展開をした。あれはホテルの内蔵戦力を見るためだったのだろう?」

 

「まぁ、それも半々、かな。どちらにせよ、熾天使というイレギュラーは排さなければならなかった」

 

 あの後、熾天使モカがどうなったのか、そう言えば聞いていない。宿主を失った炎の暗殺者は自決する、とシャクエンが口にしていたが熾天使も同じシステムなのかは検証不足だ。

 

「お前らの睨み合いに引っ張り出すな。俺に仕事を振る時にはもうあんな状態は御免だ」

 

 気がつけば退き際を失ってしまっている。一度ならず二度までも、ハムエッグの掌の上で転がされたのは我慢ならない。

 

「まぁまぁ。波導使いアーロンの名も売れた。最強の暗殺者の称号、欲しくないのかい?」

 

「俺は俺の実力で立っている。無理やりステージに立たされて踊らされるのは迷惑だと言っている」

 

 睨むとハムエッグは肩を竦めた。

 

 メイが困惑してこちらに視線を流す。

 

「もういいか? 帰らなければ」

 

「ああ、また来てくれよ」

 

 出来ればもう二度と面を拝みたくなかったが、それは叶わないだろう。近いうちにハムエッグの術中にはまる事になる。それが望もうと望むまいと。

 

「あの、アーロンさん……」

 

「帰るぞ」

 

 短く言い捨ててアーロンはハムエッグのバーカウンターから出て行く。背中に続いたメイであったが、何かを言おうとして何度も飲み込んでいるのが分かった。

 

「何が言いたい?」

 

「へっ? いや、あたしは何も」

 

「前回、シャクエンの事を言わなかった判断か? あれはホテルが全面的に動き出すヤマだった。だから言わずにおいたんだ。ホテルに人質に取られれば終わりだからな」

 

 結果的にハムエッグに人質に取られたわけだが。

 

 しかしメイの疑問の矛先はそれではないようだった。

 

「その……シャクエンちゃんの事、炎魔って呼ばなくなったんですね」

 

「名前で呼んだほうが早い。それだけだ」

 

「……あたしは馬鹿って呼ぶくせに」

 

「馬鹿を馬鹿と呼んで何が悪い? お前は相変わらずの馬鹿者だ。ハムエッグに、意見しようとしたな?」

 

 振り返らずに放った言葉にメイは抗弁を発する。

 

「だって……あのままじゃラピスちゃん、飼い殺しですよ? そんなの、あまりにも……」

 

「では殺しに戻らせるか? それとも、お前というストッパーを外して暴走させるかのどちらかだ」

 

「そんな! ラピスちゃんは暴走なんてしませんよ……多分」

 

 尻すぼみになった声音は確信出来ない事を物語っていた。ラピス・ラズリは本能的な殺し屋だ。恐らくその呪縛を自分では解けない事を悟っているのだろう。

 

 あれだけ長くいればどれだけ心が迷宮の暗殺者でも、少しは分かるのかもしれない。

 

「ラピス・ラズリが次に暴走すれば、もうそれはヤマブキ壊滅の時だ」

 

 ハムエッグも心得ている。だからこそ、懐刀であるラピスを温存しているのだ。次の殺しの時に最高のパフォーマンスを実現するために。

 

「シャクエンちゃんも戻れたんですよ? アンズちゃんだって、殺しの世界からは足を洗えました。なら、ラピスちゃんも」

 

「言っておくが、シャクエンは殺しから足を洗ったわけではない。殺さずにいられる状況を手に入れただけの話だ。もし、自分の身や、お前の身が危うければいつでも戻る。それだけの覚悟は持ち合わせているだろう」

 

 前回の戦闘でシャクエンの憑き物が落ちたかと言えば、それも微妙なところだ。

 

 オウミという根源は取り払ったものの炎魔というラベルは未だについたまま。恐らく一生、消える事はないだろう。

 

「……シャクエンちゃんを、暗殺者に戻らせたくありません」

 

「だったら、迂闊な行動はよせ。ホテルに隙を突かれるな。それと、ハムエッグもな。過信するなよ」

 

「アーロンさん、そう言っているのに何で、いっつもハムエッグさんのところに付いて来てくれるんですか? あたしを会わせたくないならそうすればいいのに」

 

 そうしたいのは山々だが、メイ自身にも秘密がある。

 

 プラズマ団から聞き及んだ英雄の因子。それを解き明かすために、ハムエッグと交渉する必要があった。この街で一番の力はハムエッグの支配だ。当然、ハムエッグの息がかかった組織がプラズマ団を調べ上げているはず。その対価がメイをラピスの下へと通わせる事だった。

 

 今のままではジリ貧だ。

 

 情報面でも、金銭面でも。

 

 ルイという力があると言っても、あまりに下手を打てばオウミの二の舞である。この街では慎重に動かなければ死を招く。

 

「店主に、バイトを休んだ分のシフトを頼んでおいた。明日からは通常業務に戻れ」

 

 根城に戻るなりそう口にして寝所に向かう。その背中へとメイが声を投げた。

 

「アーロンさんは、……アーロンさんは、どれだけ犠牲にしてきたんですか。だって、波導使いの最期は」

 

「寝ろ。疲れているだろう」

 

 遮ってアーロンは寝所へと入っていった。

 

 言われなくとも分かっている。波導使いの最期は、自分で見極めなければ。そうでなければいざという時にも動けない。

 

 波導の眼を発動させてアーロンは自分の波導状態を感知する。最近はカヤノの下へも通えていない。

 

 波導の眼の衰えはないだろうが、そもそもこの身体自体のガタが来ていればお終いなのだ。いつまで、どこまで波導使いとして活動していられるか。

 

「いつかは、師父を殺さなくてはならないのに」

 

 波導の衰えなどそれまで見せてはならない。アーロンはモンスターボールからピカチュウを繰り出し、魚介の缶詰を差し出す。心得ている相棒は電気のカッターで缶詰を開けて中身にぱくついた。

 

「最近は無理をさせてすまないな、ピカチュウ」

 

 長年の相棒の疲れもかなりのものだろう。ピカチュウは首を振って耳を掻いた。ピカチュウなりの平気のサインだろう。

 

「だが、無理に無理が祟った。連戦だ。波導を使う身とすれば、強い連中と戦い過ぎている」

 

 休息が必要であった。

 

 だが、自分に安息などあるのか。

 

 もう命知らずの暗殺者が仕掛けてくる事はないだろうが、それでも不安の種はついて回る。

 

「ピカチュウ。俺はもう眠る。お前も、休める時に休んでくれ」

 

 ピカチュウは不安そうにか細く鳴いた。相棒の頭を撫でてアーロンは言いやる。

 

「大丈夫だ。俺は、大丈夫だから」

 



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第九十一話「相棒」

 

 取引に現れたのが自分のような子供であった事にまず、売人は驚いたようだった。

 

 次いで金はあるのか、という疑念を向けてくる。

 

 アンズは紙幣を差し出した。とりあえずの手付金だ。

 

「毎度……。だが、何だ? 誰がこちらの流通ルートを流した? お前のような子供に」

 

 勘繰ってくる相手にアンズは言い含める。

 

「それを考えている間に、渡すものがあるんじゃない?」

 

「ん、ああ、一応は顧客だから、平等には扱うが……」

 

 濁した売人がアタッシュケースを開ける。中にはメモリアの元の薬剤と、吸引袋が入っていた。

 

「薬剤を袋に入れて吸い込む方式だ。その際、一回酸素を入れないとむせちまうから、気ぃつけてな」

 

 アンズはアタッシュケースを受け取る。およそ一週間分のメモリアがその中に入っている。

 

「しかし、最近は中学生の間でも流行っているのか? メモリアの流通なんてほとんど表沙汰にはしてないってのに」

 

「海外のサイトで知った」

 

 アンズの嘘に相手は騙される。

 

「ああ、あのサイトかな。まぁ、金を払ってもらえればこっちは売る。それだけなんだが、どうしたってメモリアなんて燃費の悪いものを? もっと強く効くクスリなら山ほどあるのに」

 

「こっちの都合。あなた達は」

 

「ああ、口を出さない、か。分かっている。客の内情にまで口を挟む権利なんてないよ。ただ、メモリアはレア度が高い。そうそう産出されるものでもないんだ。定期的に、ってのは難しい。今はちょうどシーズンだから、手に入れられたものだが」

 

「イッシュから仕入れているんだって? 確かあの国の中心にある地域が鍵なんだって聞いたけれど」

 

「ああ、デルパワーだな。あの土地の微弱電流って言うのか、そういうものが人間の脳波に作用して、記憶を呼び覚ますのに一役買うらしい。あとは多幸感と虚脱感。ヤッて二時間は人と会わないほうがいいぞ。夢か現実か分からなくなるからな」

 

「安心して。あたいがヤるわけじゃない」

 

「何だ、友達グループの間で流行っているのか? 金ももらったし、あんまり口出しはしないけれどよ。マイナーなクスリだぜ、これは。あんまりメジャーゾーンに引き上げられても困るんだ」

 

 言わんとしている事はつまり、ハムエッグやホテルに気取られるような間抜けをするな、という事だろう。

 

「分かっている。内輪だけだから」

 

「本当に頼むぜ。流通に噛んでいるのはこっちだって一応必死。ヤマブキで売人やっているんだ。それなりに場数は踏ませてもらわないとな」

 

 アンズが踵を返す。売人も離れていった。その距離が充分に開いてから、アンズはモンスターボールの表面を小突く。

 

「スピアー。野性を装って相手の保管している場所まで探知」

 

 スピアーが飛び出し、主の指示通りに振る舞って行動する。アンズはその姿を見送りながら呟いた。

 

「これでもし、奴がクロだったら、メモリアの内部管理に精通した相手へと接近が出来るかもしれない」

 

 そうなればこっちの次に打つ手が決まる。アンズは息をついてアタッシュケースの中のメモリアを手にした。

 

 ずっしりと重い白い粉末。一回分はその半分の量を吸引袋に入れて行うという。

 

「記憶が戻れば、変わってくる。全てが……」

 

 宵闇を睨んでアンズはメモリアをアタッシュケースに戻した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「定期診断もサボった奴がようやく来たと思えば、何だ、随分とやつれた印象だな、アーロン」

 

 カヤノの言葉にぐうの音も出ない。

 

「忙しかった」

 

「ホテルか。前回の炎魔騒ぎは災難だったな」

 

 カヤノは笑い話にしようとする。だがアーロンは内心勘繰っていた。この男とて闇医者の名を馳せさせた原因があったはずだ。それにホテルかハムエッグが噛んでいるのは間違いない。前回の炎魔騒ぎで全くの我関せずを貫けたとも思えない。

 

「ああ、だからちょっと、ピカチュウも精密検査に回して欲しい」

 

 モンスターボールを看護婦に渡す。またしても人員が入れ替わっていた。

 

「手持ちも災難だな。こんな取り扱いの悪い奴の相棒なんざ」

 

「俺も、出来ればピカチュウの負荷を下げたい。どうすればいい? 波導を切る術はピカチュウに慣れさせている。他のポケモンを使う事は考えられない」

 

「レンタルポケモンを一時的にでも使用してピカチュウの負荷を下げろ。ワシの目から見ても使い過ぎだ」

 

 それは重々承知している。だからこそ、カヤノの診療を頼りにしてきた。

 

「騙し騙しで使うのも限界に達している。そこで、何かきっかけが欲しい、と思っているんだが」

 

「きっかけねぇ。それこそ、相棒を取り替えるんなら、他のポケモンも予備で育成するべきだった。だって言うのに、予備がいないんじゃ話にならん」

 

「師父の教えを受けて、ルカリオと対等に立ち回れるのはピカチュウだけだ。だから、予備なんて考えた事もなかった」

 

「なぁ、お前の言う師父って奴が、今すぐに来るわけじゃないんだろう? だったら、レンタルポケモンの使用をお勧めする。一回ピカチュウから離れろよ。お前ら、お互いに相手をがちがちに雁字搦めにしている」

 

「伝手はあるのか?」

 

「レンタルポケモンの伝手ならいくらでも。ハムエッグに頼むのは」

 

「駄目だ。裏を掻かれる場合がある」

 

 ハムエッグは頼れない、と考えてのカヤノへの来訪であった。カヤノは舌打ちしてレンタルポケモンのサーバーへと繋いだ端末を差し出す。

 

「オーダーすれば半日で届く。レベルの条件はまぁ、応相談って奴だな。だが、大概のレベルは揃えているはずだ。天下のヤマブキの殺し屋の依頼となれば、レンタルポケモンの会社も無下にはしないだろ。紹介状を一応書いておくか」

 

「頼む」

 

 アーロンの態度にカヤノは違和感を覚えたのか、眉をひそめる。

 

「……アーロン。随分と殊勝だな。お前のほうからワシに頼み事、それに加えてピカチュウの代わりを探している、と来た。何か思うところがあるのか?」

 

 隠し切れないか、とアーロンはぽつりと語り出す。

 

「前回、シャクエンのバクフーン、〈蜃気楼〉が完全に対策を練られてどうしようもなかった。つまり如何に強大な暗殺者であっても事前に下調べを行い、完全に対策を練れば戦うのは不可能ではない」

 

「お前の手の内は割れてないだろ。波導を破る術、があるって言うなら別だが」

 

「万全を期したい。プラズマ団の動きも気になる。その時に使えない、では遅いんだ」

 

「つまるところ、本気でやばい時に頼れる相棒は温存しておきたい、と」

 

 こちらの意味するところを理解したカヤノが首肯する。アーロンが考えているのはそれだけではない。

 

 ピカチュウが過負荷で使えない場合、自分がどれだけ無力なのかは分かっているつもりだった。その時、自分はシャクエンやアンズ、メイを守れるのか、と問われれば疑問である。自分の波導使いとしての真価を全て相棒に任せていたのではいつまでも成長はない。

 

「今回、レンタルポケモンを使うのは試金石の意味もある。俺が、ピカチュウなしでどれだけやれるのか」

 

「三百匹以上の在庫がある。カントーのポケモンは大体揃っている感じだな。お前のやり方に合う奴がいるのかまでは分からないが」

 

 カタログを端末上に呼び出され、アーロンは目を通した。

 

 波導の切断、という真骨頂を使えるポケモンでなければ意味がない。それでいて、自分のサポートが充分に出来るポケモンが理想的だが。

 

「波導使いと十年以上連れ添っているピカチュウに敵う奴はいないだろうさ。それに近いのを使えばいい」

 

「近いポケモン、か」

 

 電気タイプの項目を選択する。波導の切断には生態電流を感知出来るポケモンが必要であった。

 

「電気タイプって言っても色々いるはずだ。お前がたまたまピカチュウなんて強くも弱くもないポケモンを扱っているだけで、強いだけならばいくらでもいる」

 

「問題なのは、自律稼動型のポケモンでは俺の戦闘スタイルに合わない、という事だ」

 

「だからって、ピカチュウみたいに肩に乗っけられる奴ばっかりじゃないだろ」

 

 探してみれば電気タイプでピカチュウ以上の性能を誇るポケモンは多数いた。だが、どれも自分のオーダーには僅かに合わない。

 

「慣れ過ぎていた、というのは本当のようだ。どのポケモンを見ても、どうしてもピカチュウの扱いやすさと比べてしまう」

 

「気をつけて選べよ。いざレンタルして使えないって言っても、返却している間お前は手持ちがないんだ。波導使いが手持ちなしで歩けるほどこの街は優しくないだろ」

 

 アーロンは考えを巡らせる。その上で選択した。

 

「こいつにする」

 

「本当に、こいつでいいのか? ピカチュウよりかは難しいぞ」

 

「ああ。だが今の俺のオーダーに会うのはこいつくらいだ」

 

 カヤノがレンタルポケモンの申請を行う。これで一日か、あるいは一週間ほどはピカチュウに余暇を与えられる事だろう。

 

「相棒の身体の心配をする前に、自分の身体を、だ」

 

 カヤノが検査用の水を取り出す。アーロンは波導の眼を使った。

 

「上から、水色、白、赤、緑だ」

 

「衰えてはいないようだが、連戦だ。眼の衰えと波導の衰えが必ずしもイコールではない。同時に、眼が無事だからって自分の波導も無事だとは限らない」

 

「分かっている。そんな事は師父に散々教えられた」

 

 だが、師父にいずれ勝つにはこの程度では足りない。まだまだ波導使いとして研鑽を極めなければ。

 

「あのよぉ、アーロン。こう言っちゃなんだが、お前、この街の守り手になりたいだとか思っちゃいないだろうな?」

 

 煙草に火を点けたカヤノがそう切り出す。アーロンは首を横に振る。

 

「そこまで傲慢ではない」

 

「ならいいんだが、この街の盟主はハムエッグ、それにホテルだ。お前は一介の暗殺者。いくら強いっていっても権力には敵わない」

 

「……何が言いたい」

 

 カヤノは紫煙をくゆらせて結論を出す。

 

「つまり、だ。お前が必要以上に肩肘張る必要はねぇって言いたいんだよ。レンタルポケモンなんて使わなくっても一時休業でもいいじゃねぇか」

 

「先ほどの発言と矛盾するが」

 

 けっとカヤノは毒づいた。

 

「波導使いアーロンは強くなり過ぎた。それは、ハムエッグの演出もあるのだろうし、ホテルの思惑もあった。だがどっちにしろ、強力になり過ぎた力ってのはな、戻るべき、収めるべき鞘がないも同然なんだよ。抜き身の刀だ。そんなもんだと人とすれ違えば斬っちまう。そういう存在になりつつあるって話だ。だから、お前はもっと単純でいいんだと思うんだよ、ワシはな」

 

「強くある事に、何か異議でも?」

 

「馬鹿野郎。異議とかそういうんじゃねぇ。お前は強いさ。だが強いが故に、隙の一つも作れないんじゃ、人間としては失格だって事だよ。もうてめぇの首目的にヤマブキ入りする暗殺者なんていないだろうが、だからって波導使いアーロンを無敵の暗殺者として祀り上げるのはどうか、って話だ」

 

「ハムエッグに言ってくれ。奴のせいで俺は実力以上の評価を与えられている」

 

「ハムエッグだって、スノウドロップの次のお前を信頼している。しかも、スノウドロップは使えないんだろ? いいようにハムエッグに利用されんなよ。スノウドロップを温存させておいてお前がやばくなったら後ろから斬らせる、って寸法かもしれん」

 

「斬り返すまでだ」

 

 強気な言葉でアーロンは立ち上がる。看護婦が戻ってきかけたがカヤノが手で制する。

 

「ピカチュウはうちで預かる。半日の間に送られてくるレンタルポケモンを一週間は使ってもらう。異存はないな?」

 

「構わない。ピカチュウには」

 

「魚介の缶詰だろ。好みくらいは分かっている」

 

 アーロンはコートを翻した。

 



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第九十二話「点と線」

 

 常習者の住所の示したのは一軒のアパートであった。

 

 アンズは足音を殺して分け入り、扉を軽くノックする。

 

 人の気配に、中にいる人物が身じろぎしたのが感覚で理解出来た。

 

「スピアー。扉を破って」

 

 主の言葉にスピアーが針を突き出し、扉を叩き破る。木材の扉は容易く破砕された。

 

 狭苦しい部屋の中で一人の男が縮こまっている。

 

 散乱しているのは注射器と白い粉であった。

 

「だ、誰だ? 何のためにここに来た?」

 

 アンズが視線を向けると男は、まさかと息を呑む。

 

「殺しに来たのか? オレが、支払いを滞納しているから」

 

「そんな事で来たんじゃない。お前が、あるクスリの常習者だと知って来た」

 

「あるクスリ……。色々試しているが、オレはどれの料金を滞納していたんだったか」

 

「だから、料金の取立てに来たんじゃない。今日は個人的な興味で来た」

 

 アンズはアタッシュケースを差し出し、開けて中身を見せた。

 

「メモリア……」

 

 見るなり男がそう呟く。やはり、知っていたか。

 

「メモリアの効果を詳しく知りたい。話せる?」

 

「何だってこんな、買い手もないクスリを? あまりに売れないからって言って、この街から撤退するって噂も流れたのに」

 

「その噂の真偽も聞かせてもらう」

 

 男はよろめきながら立ち上がり、コーヒーカップに粉末のコーヒーを注いだ。何か呑みながらでなければやっていられない話なのだろう。

 

「その、何か飲むか?」

 

「何でもいい」

 

 男はコーヒーを二人分入れて、部屋の端っこに寄せていた机を自分とアンズの間に置いた。

 

「その、何が聞きたい?」

 

 湯気を漂わせるコーヒーを男はすする。アンズも一口飲んでみて、中に入っている薬剤の気配を感じ取った。

 

 睡眠薬だ。

 

 恐らく、警戒しての行動なのだろう。

 

 だが自分に薬の類は通用しない。

 

 濃度からして十分後くらいに効果が現れるはず。それまでに聞けるだけ聞いておく。

 

「メモリアのようなクスリが何故、流通のレートに上がったのか」

 

「ああ、簡単な事だよ。新しいクスリってのは一応、顧客の間で試すんだ。で、好評ならば売りさばく。もし不評ならば闇から闇へ。使う人間のいるほうへと流れる。だけれど、メモリアなんてオレ以外、てんで使っている奴は見ないな。そもそも効力がマユツバ、って思っている奴が多い」

 

「記憶が蘇る」

 

「それも、意図していない、本当の潜在記憶が、な」

 

 男は首肯して一枚の画用紙を取り出した。そこには意味不明な図柄が描かれている。

 

「メモ代わりに描いておいたんだ。こういう風に潜在記憶が映る。まぁ、オレの場合、これは多分母親の胎内。そこから見た記憶だろう」

 

 一面が赤い画用紙はそれを意味しているのか。だがそうとなるとますます怪しい。

 

「そこまで遡れるの?」

 

「分量による。オレが常習しているのは普通の吸引量の倍だから多分通常の濃度では、この半分、十年か、あるいはそれよりちょっと上かな。まぁとにかく、あんたみたいな小さな子には母親の腹の中にいる時の映像だって見えるよ」

 

「もう一つ、潜在記憶なわけだから、意図的に見たものではなくっても」

 

「ああ、それか。そうだよ。例えばさ、看板とかを目にする事も多いわけだ。で、いちいちどこに何があったかなんて覚えちゃいない。思い返す意味もなければ。でも、そういう記憶だって蓄積はされているんだ。だから、思い出せる。ただし、それを選択して取り戻すのは難しい。このメモリアはまだ不完全なんだ。夢を見る感じに近い。夢の中の事象をコントロール出来ないように、メモリアの語る記憶もまた、然りだ」

 

「つまりメモリアを催眠療法のようなやり方に用いるのは不可能、っていう事?」

 

「不可能じゃないが、ちょっとした無理が生じる。第一、医薬品として使うには使用目的が限られる。これを医療流通させるのは不可能だと思ったほうがいい」

 

 こちらが医療従事者に配るとでも思ったのだろうか。男は首を引っ込める。

 

「一般流通は諦めなよ。これは、闇取引のためのクスリだ」

 

「分かっている。でも、本当に……例えば記憶喪失の人間から、失った記憶を取り戻す、みたいな事は」

 

「やろうと思っても確実性が少ない。このクスリを解析出来るのならばあるいは、って感じかな」

 

 男が目線をちらちらと時計に注ぐ。そろそろ睡眠薬が効き始めなければおかしいのだろう。アンズはわざとらしくよろめいた。

 

「これは……」

 

「悪いね。こういう話は門外不出なんだ。だから、このまま眠ってもらって後の処理は組織に回させてもらう。そもそもオレを追ってきた時点で、その可能性に気づかなかった自分を恨むんだな」

 

 男がスピアーへと視線を配り、手で払う。

 

「おい! このポケモン、さっさと戻せ! 濃度の濃いクスリ漬けにして欲しくなかったらな」

 

 アンズは一応従う振りをしてモンスターボールにスピアーを戻す。男は口元に笑みを浮かべて、よし、と声にした。

 

「本当なら、少しだけ楽しんでから組織に回したいところだが、その余裕もないな。どうしたってメモリアなんてマイナーな薬物を嗅ぎ回っているのか知らないが、行動が筒抜けなんだよ。電話を寄越してもらっていて助かったぜ」

 

 電話。ここに来るまでに介した人間は二人。どちらかが裏切ったのか。

 

 男は端末を使って何者かに電話をかけていた。

 

「はい、もしもし……。ええ、釣れました。メモリアを嗅ぎ回っているガキです。ええ、仰っていた通り、なんて事はないガキでしたよ。今眠らせてありますんで、後の処理は……。ええ、車に乗せて連れて行けばいいんですね?」

 

 男は自分を抱えてアパートの下に停めてあるワンボックスカーに放り込んだ。

 

 運転席に乗り込んだ男は息をつく。

 

「あの人も人遣いが荒いな。まぁ組織の幹部にそんな事言っても野暮かもしれないが」

 

 ワンボックスカーが走り出す。アンズは薄目を開けて外の景色を記憶した。

 

 道順からしてヤマブキの東側に赴こうとしているらしい。

 

 それまではせいぜい眠りこけている間抜けを演じる事としよう。

 

 信号待ちをしている男は不意にぼやいた。

 

「……もしかしてこのガキ、最近あったメモリアの高額流通に関して、噛んでいるのを分かっていて接触してきたんじゃないだろうな?」

 

 ――高額流通?

 

 初めて聞く言葉にアンズは眠っている振りを貫き通す。

 

「いや、知るはずもない、か。組織だってあのプラズマ団にメモリアを渡しているだなんて一部の人間にしか知らせていないはずだし」

 

 プラズマ団。その単語にアンズは確信する。

 

 ――点が線になった。

 

 その組織とやらの中枢に潜り込み、メモリアの流通を押さえる。

 

 そこから先は……出たとこ勝負であった。

 



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第九十三話「退屈」

 

「はい、ミアレガレット十六個をご注文のお客様ー」

 

 呼ばれて一人の男が立ち上がった。カロスからの直通専門店でカフェテラスになっている店内で持ち帰りのミアレガレットの大袋を手にしたのは背の高い男である。黒い紳士服はパリッと糊が利いており、どこからどう見ても隙のない紳士であった。

 

 髪の毛もぴっちりと固めており、ガレットを買い込むような人物には見えない。

 

「ありがとうございます」

 

 紳士は料金を払い、座席へと戻っていった。

 

 座席には眠りこけている少女が椅子に座っている。こっくり、こっくりと首を項垂れさせていた。

 

「ガレットを買ってきました」

 

 その報告に少女は眠気まなこを擦って声にする。

 

「ガレット。わたくし、ガレットはとても好物なのです」

 

「カトレア様。私はまだこの街の安全を保障出来ません。なので、ガレットをお召し上がりの際には一度、私に毒見をさせてください」

 

「うん……。好きにして……」

 

 カトレアと呼ばれた少女はピンクを基調とした寝巻きのような服装をしている。どう考えても紳士とは真逆だ。

 

「それでは、失敬を」

 

 紳士は眼鏡のブリッジを上げてガレットを一つ頬張る。他の客からしてみても異常だ。直立不動のままガレットを食べる紳士と、眠りにつこうとしている少女。

 

 あまりにちぐはぐな組み合わせに、ひそひそ声を交し合う。

 

「……ねぇ、何あれ?」

 

「分かんないけれど、イケメンだよね、あの人」

 

「声かけちゃう?」

 

「駄目だって。多分、あの眠っている子が彼女でしょ」

 

「分からないよ、妹とかかも」

 

「妹に様はつけないでしょ」

 

 ざわめきも風と受け流し、紳士はガレットの毒見を済ませてカトレアの肩を優しく揺さぶる。

 

「カトレア様。少しばかり人気も増えてまいりました。移動しましょう」

 

「えっ、うん……。好きにして……」

 

 では、と紳士はガレットの大袋を小脇に抱えたまま少女をおんぶした。その様子に若者が哄笑を投げかける。

 

「おい、見ろよ、あれ! どこのご令嬢様だよ」

 

 たった一言であった。たった一言の嘲笑。

 

 しかし、その一言に、紳士は目線を振り向ける。

 

「今、何と言った、貴様」

 

 紳士は少女を降ろしてすたすたと歩み寄る。そのあまりの隙のなさに男がうろたえた。

 

「な、何って……。いや、別に」

 

「嘘だな。貴様、私とカトレア様の関係を侮辱したな?」

 

「ぶ、侮辱って。ちょっと笑っただけだろうに。なぁ?」

 

 連れ合いの男達へと同調を促す。三人組は問題を起こすつもりはないようだったが、紳士はそうではない。

 

 眼鏡のブリッジを上げて冷静を取り繕うとしているが、明らかなのは殺気だ。

 

 男達を見る眼差しが、まるでゴミを見るような目つきなのである。

 

 遂には男達の一人が逆上した。

 

「何だ、てめぇ! インネンつける気か?」

 

 ガンを飛ばす男に紳士はいささかもうろたえず、声にした。

 

「離れろ、下郎。汚らしい唾が飛ぶ」

 

「嘗めてんのかって言ってんだよ!」

 

 もう一人の男も紳士を睨み上げた。しかし紳士はどこ吹く風で懐中時計を取り出す。

 

「一分だ」

 

「あん? 何がだよ」

 

「一分で駆除してやる。かかって来い」

 

 紳士の挑発に男が拳を振り上げた。命中するかに思われたが紳士はすっと身をかわすだけでその拳をギリギリで避ける。

 

 ガレットの大袋を持っているにもかかわらず紳士の挙動に迷いも鈍りもない。

 

「野郎!」

 

 拳をかわされた事で余計に腹が立ったのだろう、男は紳士に掴みかかる。襟元を掴まれた紳士は冷徹に告げた。

 

「今ならば、離れられる。離れれば、命は助けてやる」

 

「どの口が言ってんだ、てめぇ! 命が危ないのは、てめぇのほうだよ!」

 

 拳が振るわれたかに思われた。

 

 だが、振るわれた拳は虚しく空を切る。

 

 男にもわけが分からなかったのだろう。

 

 何度も目をしばたたいて不思議そうにしている。

 

「ナイスボーイ」

 

 紳士はそう口にして男を突き飛ばす。

 

「何すんだ! てめぇ――」

 

 追いかけようとした男はつんのめった。

 

 理由が分からない。

 

 何をされた、ともう二人に視線を投げようとして二人ががくがくと震えているのが目に入った。何をそんな怯えているのだろう。

 

「おい、馬鹿にされて悔しくは――」

 

「悔しいだとかじゃ……、ねぇって、お前。それで、何も感じないのか?」

 

 歯の根の合わない男の声に疑問を発する。

 

「何も感じないって、そりゃあキレてんよ! あいつに対する殺意がプンプンだぜ!」

 

「違う! そうじゃない! そんな状態で、何も感じないのかって言ってんだ!」

 

 必死な二人の声音に男はようやく自分の身体の異常に気がついた。

 

 手首から先がなかった。それだけならばまだいい。

 

 足もだ。足首から先がぴっちりと、断面から血の一滴も滴らせずに切り取られている。

 

 痛みもない。

 

 だというのに、いつの間にか――斬られていた。

 

 男が遅れて悲鳴を発した時には、紳士は既に遠くに離れていた。

 

「喧しい輩の多い事です。この街は」

 

 紳士の言葉に背中のカトレアが呟く。

 

「ねぇ……コクラン。わたくし達の目的、は」

 

「承知しております。暗殺対象の呼称は確か――瞬撃。瞬撃のアンズ、と聞いております」

 

「瞬撃……。どこまでやるのかしら?」

 

「分かりませんが、拮抗する相手ならば、カトレア様の戦闘本能を満たせるかと」

 

 カトレアと呼ばれた少女は欠伸をする。

 

「せめて、この眠気を晴らしてくれるような殺し屋だと……わたくしは嬉しいわ」

 



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第九十五話「雨傘」

 

「アーロン。お前、両親はどうした? いつものようにこの草原に来るが、誰も咎めないのか?」

 

 ルカリオとの組み手を終えたアーロンにかけられた言葉はそれであった。師父は、波導使いの終焉を話してからというもの言葉少なで、ルカリオとの戦いも「よし」か無言かのどちらかである。

 

 ピチューの電撃での戦闘が板についてきたお陰か、ルカリオとの戦いでもそれほどまでに苦戦する事はなくなったが、時折挿入されるメガシンカに関してはまだ実戦不足であった。

 

 だから、アーロンは毎日戦いの事ばかりで――過ぎ去ってしまったそのような日常を回顧する暇もなかった。

 

「……師父が、気にする事じゃないでしょう」

 

 すると師父は文庫本を畳み、声にする。

 

「気にするさ。お前を波導使いに仕立て上げようとしている。ともすれば、両親の保護からわたしは勝手にお前を解こうとしているんだ。下世話な輩だと思われても仕方ない」

 

 意外であった。師父はそのような事などまるで考えない人だと思っていたのだ。

 

「でも、師父のせいじゃない」

 

「これはな、アーロン。ケジメという奴だ。お前という存在をわたしが保証する、そういうケジメでもある。言いたくないのだろうが、話せ。でなければ、これ以上、波導を教える事はない」

 

 波導の習得に関わるとなれば、話すほかないのだろう。アーロンは顔を伏せて手短に言った。

 

「もう、いません」

 

「いない、というのはどういう事だ? 死んだのか?」

 

「分からないんです。その辺りの記憶が曖昧で……。ぼくの、胸の傷の事は話しましたっけ」

 

「ああ、その傷の手術が原因で波導が見えるようになったんだったな」

 

 アーロンは胸元を押さえる。服の下には亀裂のような傷痕があった。心臓を射抜くように、鋭い傷痕が残っているのだ。何かが突き刺さった、と医者は説明した。恐らく金属片か何かであろうと。それを取り除いたが、一生その傷は残るのだと言われた。

 

 アーロンからしてみれば、傷痕よりも波導を見る眼のほうをどうにかして欲しかったが、師父がいる今、もう眼の心配はしなくともよさそうだった。

 

「自動車事故か、あるいはもっと大きな事故だったのかもしれません。でも、ぼくにとってはどうでもいい。両親はもういないのだと、遠縁の親戚に言われました。目が覚めた時には、もういない、とだけ告げられて」

 

 突然の事であったが、アーロンは特に驚きもしなかったのだ。死んでいても、ああそうか、と納得してしまう。どこか余所余所しい空気があった。

 

「波導が澱んだぞ。アーロン。何か隠しているな」

 

 参った事に師父の前で隠し事は意味がない。アーロンは木の根に座り込んだ。

 

「その……あまりいい思い出がなくって」

 

「どういう事だ?」

 

「虐待、って言うのかな。よく父親には殴られましたし、母親には知らん振りされて。そういう、よく分からない場所で育ったせいか、学校とかも馴染めなくって。他人の気持ちが、分からないんです。友達は、相棒のピチューだけで」

 

 ピチューが自分の気持ちを悟ったのか、肩に乗っかってくる。師父は黙ってそれを聞いていた。

 

「恨んでいるのか」

 

「分かりません。よく、分からないんです」

 

 ピチューの耳をさすってやりながら、アーロンはそうこぼす。本当に、分からないのだ。

 

 暴力的な父親に、無関心な母親。

 

 どちらにも恨む気持ちもなければ、怒りも憎悪も、何一つ湧いてこない。

 

 ただただ、そういう人間もそういえばいたのだな、という、無慈悲な感慨だけ。

 

 死んでしまっても、どうせ他人だ。

 

 その死が歪められていても、どうせ、自分ではない。

 

 何となく達観していたのはそれであった。

 

 死の価値観が自分は麻痺している。

 

 自身の死は多少なりとも怖いが、他人の死はどうでもいい。

 

 ルカリオと戦ううちに戦闘の恐怖も失せてきた。

 

 この手は波導を切るためだけに存在し、波導を破壊する事だけに、特化した存在だと割り切れば、気持ちが和らいでいった。

 

 何も考えなくっていい。

 

 壊す事だけでいい。

 

 だから師父が今まで壊す事だけ考えろ、と言ってくれたのは嬉しかったのだ。

 

 自分は気持ちの面で無理をした事はない。波導を切る事に最初こそ、躊躇と畏怖があったものの、今は何ともない。

 

 それが自身に与えられた、ただの力ならば。

 

「よく分からない、か。波導使いは多少なりとも感覚が常人とずれているものだが、お前は、まるで最初から波導使いになるべくしてなるように、仕組まれたような人間だな」

 

 そう評されても悪い気はしない。師父ならば自分の悪い面も含めて、受け入れてくれるような気がしていた。

 

「でも、波導使いになるのなら、これでも充分でしょう?」

 

 アーロンの言葉に師父は俯いて声にする。

 

「そうか。お前は、そういう人間であったか」

 

 いつもと違う。師父の声音にはどこか、落胆があった。

 

 何か間違えただろうか。自分は、ただ自分の感情に従っただけなのに。

 

 立ち上がった師父はこちらへと歩み寄ると、頬を叩いた。

 

 乾いた音が、草原に木霊する。

 

 痛みよりも、草いきれのにおいがどうしてだか、今さらに鼻をついた。

 

 重苦しい、湿気の渦が雨の到来を予感させる。

 

 自分が叩かれた事に、暫時、気がつかなかった。

 

 ただ、雨が降りそうだ、という他人事の感傷が胸を掠めただけだ。

 

「アーロン。お前に、その名を襲名させるのは少しばかり早かったようだ」

 

 何を言っているのだ。アーロンは師父の顔を見やる。

 

 その時になって、師父が怒っているのがようやく分かった。

 

 いつになく厳しい眼差しが自分を見据えている。どうすればいいのか分からず、アーロンは顔を伏せた。

 

 今さらに痛み始めた頬をそっとさする。

 

「ぼく、は……」

 

「行くぞ」

 

 師父が踵を返す。

 

 ――捨てられるのか、と咄嗟に判断した。

 

 アーロンは師父の足にすがりつく。

 

「待って! 師父! すいませんでした! もう、こんな事は言いません。だから、だから、ぼくに波導を教えてください! 波導の事ならば、何でも学びます! 何だってやります、だから……」

 

 そこから先に口をついて出た言葉は、自分でも意外なほどに罅割れていた。

 

「ぼくを、独りにしないで……」

 

 師父が目の前から消えてしまえば、自分は本当に独りぼっちだ。独りぼっちで、この青い闇と対峙しなければならない。それは耐えられなかった。

 

 振り返った師父は自分に声をかける。

 

「勘違いをするな。行く、と言ったのは、お前を弟子として捨てるという意味ではない。お前が、今まで捨ててきたものを、もう一度見つめ返しに行く」

 

 意味が分からなかった。アーロンは頭を振る。

 

「ぼくは、捨ててなんか」

 

「お前の両親の墓を教えろ。共に行く」

 

 師父の意外な言葉にアーロンは手から力を抜いていた。

 

 雨が、ぽつり、ぽつりと降り出していた。

 

 自分の両親の墓、と言ってもそれは今まで関知の外の話で、改めて問い質した事などなかった。

 

「……病院の裏手の身元不明の共同墓地に」

 

 ようやく、アーロンは言葉に出来た。

 

「あるはずです。ぼくの、親のお墓が」

 

「遠くはないのだろう? 行くぞ」

 

 だがどうしてだか足が重かった。師父は自分を無理やり立たせて墓場へと向かっていった。

 

 雨が強く降りしきる。

 

 灰色の景色の中を、青い衣の師父は悠然と歩いている。自分は、といえば師父に引っ張られて力なく歩くみなしごだ。

 

 病院はいつもアーロンが抜け出して草原まで来られる距離にあった。大人の足ならば十分も経たなかっただろう。

 

 共同墓地にある一つの墓石の前でアーロンは足を止める。

 

「両親の、お墓です」

 

 今まで恥じ入る事など何一つなかった。だというのに、それを口にする時は、とてつもなく恥ずかしかった。

 

 わけも分からず、羞恥の念が胸を埋め尽くし、目をきつく瞑った。

 

「そう、か」

 

 師父はそっと屈み込んで、瞑目した。

 

 その行動の意味が分からなかった。

 

 師父ほどの人がどうして、両親の墓に頭を垂れる必要があるのか。

 

 両親など、何もしていない。自分は自分の意思で師父に教えを請うているはずであった。

 

「頭を上げてください、師父。ぼくの両親は、師父ほど偉大な人じゃない」

 

「アーロン。軽んじてはならないものがこの世には一つだけある。分かるか?」

 

 アーロンは首を振る。分かるわけがない。

 

「血だ。この世界において、何が氾濫し、何が正義か悪か分からなくなろうとも、血だけは、血の因縁だけは消せないんだ。わたしはこの両親に敬意を払うほかない。何故ならば、血の巡り合わせが、わたしとお前を引き合わせたのだ。血がなければ、わたしもお前も、ただの、波導を見るだけの人でなしだ」

 

 師父がそこまでこだわる理由が分からなかった。師父がどれだけの研鑽の日々に自身を置いてきたのか、それは予想出来る。これほどまでの波導の極地、痛みを伴った事も聞いた。だが、師父が語っていなかったのは自身の血の話だけであった。

 

 師父は自分の血の話だけはしていない。

 

「師父には、ご両親は……」

 

「お前と同じだ。いつの間にか死んでしまっていた。顧みる事もなかった。死んだ命に価値などないのだと、わたしも思っていたからな」

 

 だが師父は墓石を軽んじるような目線だけは向けない。こんなもの、ただの石だ。波導も物質の波導だけである。

 

 壊そうと思えばいつでも壊せた。

 

 だというのに、師父はまるでこの世の最も尊いものを見るような眼で、ただの墓石を眺めている。

 

「じゃあ、師父もぼくと同じだったんですか」

 

「ああ。死者を軽んじ、血を軽んじ、自分の今以外の全てを軽く見ていた。だが、間違いであった。それは彼女を殺した後、波導使いの継承者になってから分かった事だった。わたしは遅過ぎた。それを理解した、その時にはもう、わたしはたった独りであった。孤独であった事さえも気づけないほどの、真の孤独にあった。今と先を見つめ続ける事は簡単だ。だが、人間には、後ろを振り返る機会がある。そんな時にもし、自分の後ろに何の道もなかったら、人はどうなる? 今歩んでいる道さえも疑ってしまう。先の道があっても、それは全てを消し去った末の虚栄だ。そんなもの、人の道ではない。わたしは死者が偉いと言っているのではない。死者の価値を、血の価値を軽んじれば、それは魂の価値さえも消し去ってしまう。お前の魂の在り処はどこだ? アーロン。どこにあると思う?」

 

 難しい質問であった。波導を学びたてであったし、魂など想像する余裕もない。

 

「……分かりません」

 

「だろうな。今のお前には、分からないだろう。わたしは、魂の在り処を消し去ってしまった、愚か者だ。どこにも、自分の痕跡はない。だからこそ強くあれたのかもしれないが、それは紙一重だ。紙一重の危うさをわたしは強さだと錯覚して生きてきた」

 

 師父のような人が後悔してしまえば、自分はどこへ行けばいいのか分からなかった。この人はいつだって道を示してくれた。だというのに、自分自身には道などないのだという。アーロンからしてみれば、そんな事はないと言いたかった。

 

「師父ほど強い人はいません。師父ほど、迷いのない人も。師父ほど……ぼくの尊敬する人も」

 

 だがどうしてだろう。

 

 涙が溢れていた。

 

 痛いわけでも悲しいわけでもない。

 

 しかし涙が止め処ない。

 

 師父がそっと、頭を撫でてくれた。

 

「今のうちに泣いておけ。この場所に帰れるのはきっと、お前が死ぬ時だけだ。涙を枯れ果てさせろ。波導使いは涙しない。波導使いが死ぬ時にはこの世に留まっていた証明も、何もかもを消し去って死ぬのだ。だが、心の在り処、魂の還る場所だけは、そっと胸に仕舞っておけ。それはわたしでさえもどうする事も出来ない、お前だけに価値のある場所だ。波導も、それを超える何かがあったとしても、お前の魂の在り処はそこにある。波導の流れでも、脈動でも、あるいは脳の電気信号でもない。真の魂の価値が宿るのは、還る場所を持っている人間だけだ」

 

 強い雨が降ってきた。

 

 今だけは、雨に感謝していた。

 

 涙を消してくれる。

 

 自分の胸に湧いた、一抹の後悔と、この胸に突き立った罪悪感。

 

 ――自分が歩んできた道だけは消すな。

 

 後にも先にも師父が自分を慰めてくれたのは、この時だけだった。

 

 同時に師父が、他人のために怒ったのも、この時だけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 聞き終えたシャクエンは黙りこくっていた。

 

 アーロンも車のテールランプを追いながら話しているうちに、いつの間にか時間が深夜になった事に気がついた。

 

「すまないな。昔話に付き合わせるつもりはなかった」

 

 シャクエンは首を横に振る。

 

「聞けてよかった。波導使いは、まだ人の心を捨てていなかった事が分かったから」

 

「俺は人でなしだ。殺し殺されの世界でしか生きられないし、もう退路も分からなくなってしまった」

 

「でも、その師父の言葉だけは、覚えているんでしょう?」

 

 アーロンは青い鍔つき帽子を取って視線を落とす。

 

「この格好が波導使いの正装であるから、だけの理由ではない。いつか、師父が見つけ出してくれるように、という思いも込めてある。同時に、あの人もこの姿をしているに違いない。だからお互いに殺し合う時に、迷わないようにこの格好をしている。鏡に映った自分の姿を消し去るのに、人は迷わない」

 

 ビルの屋上を強風が煽った。青いコートがはためき、シャクエンの黒衣が揺れる。

 

「少しだけ、安心した」

 

「安心? 何がだ?」

 

「いい師に恵まれた事を。あなたは、大切な事を教えてもらった。教えてもらってから、独り立ちさせられた」

 

 そうなのだろうか。アーロンは時折、この道でいいのか考えてしまう。師父が望んでいたのは、もっと人のためになる強さだったのかもしれない。誰も傷つけないで済む生き方だったのかもしれない。

 

 だが、自分にはこれしかなかった。波導使いアーロンとして生きるのに、人殺しの道しか考えられなかった。

 

「今の俺を見たら、師父は幻滅するかもしれない」

 

「きっと、分かってくれると思う」

 

 アーロンは頭を振る。師父は、自分の道を選べ、と常々言っていた。そのために波導を教えるのだと。波導は生きるために必要になるだろうと。

 

 だが、この波導が結局人殺しを行い、アーロンはそれにすがって生きていくしかなくなっている。

 

「殺し殺されの手が、血に塗れた手が、今さら戻る事を許してくれるのかは分からない。もしかすると、師父は、それさえも分かっていて、俺に両親の事を思い出させたのかもしれない。忘れるな、と言ったのは、帰れる場所として、魂の在り処としてだけだ。俺がどこへ行くのかまでは、師父でも……」

 

 教えてはくれなかった。師父は波導の使い方と、波導使いの宿命を教えてくれただけだ。

 

 生き方の教本までは、教えてくれなかった。

 

「でも、人殺しをしてしまった私達は、もう、戻れないところまで来ている」

 

「暗殺者の皮肉だな。生きていくにはこれしかないのに、死ぬにしても他人の都合に振り回される」

 

 アンズはまだそこまでの領域にはなっていないと感じていたがどうだろうか。

 

 彼女は父親に――キョウに命じられれば何でもやるだろう。

 

 その点では瞬撃は最も恐ろしい暗殺者でもある。

 

 歯止めが利かないのだ。

 

 自分達のような理性の歯止めと抗い合って殺しを続けているわけではない。特別なマインドセットがあるわけでもなく、ただ「親に教えられたから」だけの理由。

 

 それは強力な暗示よりもなお濃く、彼女の血に刻みつけられているのだろう。

 

「俺達は親ではない。だから、道の強制は出来ないし、あいつに、こうあれと命じる事も出来ない」

 

「瞬撃のアンズ……。彼女は私達とは根本的に違う」

 

 恵まれているわけではないだろう。

 

 暗殺者の一門だ。

 

 しかし自分達と違うのは、親がいる事であった。その親に教えられて、殺しを遂行するアンズにはいささかの躊躇いもないのだろうか。

 

 暗殺する事に、殺しに何の疑問も挟まないのだろうか。

 

「子供にとって親はある種の絶対者だ。その親が、殺しをする事に、倫理観も、何も抵抗を示さないのだとすれば」

 

 それは悲しいのか。

 

 所詮、殺し屋である自分には推し量るしかなかった。

 



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第九十六話「朧月」

 

「そういやガキが」

 

 切り出した売人の男の声にヴィーツーは眉を跳ねさせた。

 

「ガキ? 何だ、人さらいの仕事など頼んでいないぞ」

 

「いえ違うんですよ。こっちの、メモリアの流通を探ってくるガキがいまして。そいつをとっ捕まえてきたんで、後の処理をお伺いしたくって」

 

 男はメモリアの常習者だ。話している内容が夢の中の内容であってもおかしくはない。だが、ここまで車を走らせてきたのは男であった。

 

 ヴィーツーが見渡したのはヤマブキ南部の倉庫外である。プラズマ団が一時的に居を構えており、普段は決して姿を見せない自分を含む幹部が揃っている。

 

 アクロマは来なかったな、とヴィーツーは今さらに感じる。

 

 ヤマブキという街に呑まれ、プラズマ団は行き場をなくしているに等しい。

 

 この街に干渉してからというものろくな目に遭わない。

 

「それもこれも……あの忌々しい波導使いのせいか」

 

「波導使い? ああ、いますね、暗殺者。でも風の噂でしょう? マジにいるんですかね?」

 

 この男は所詮、流通に一枚噛ませただけのチンピラ。余計な事を教える必要はなかった。

 

「そんな噂もあったな」

 

「でしょう? マジに暗殺者なんてそこいらにいるわけないんですよ」

 

 ツヴァイからの定期連絡も途絶え、あの男の死を証明していた。

 

 恐らくはアーロンの仕業。

 

 だが報復よりも今のプラズマ団には必要なものがある。

 

 絶対的な指導者の存在。ゲーチスの復活計画。

 

 ツヴァイの使った波導によってゲーチスの目覚めは促進されたもののあと一歩足りない。その一歩の補充が、メモリアには必要なものであった。

 

「しっかし、分かりませんねぇ。こんなマイナーで妙に値の張るヤクなんてプラズマ団ほどの組織が買い取る理由が」

 

「それ以上の詮索はお勧めしない」

 

「分かっていますって。オレだって絶対にこの流通は明かしません。そもそも縄張り意識が強いんすよ、ヤマブキって」

 

「ハムエッグに、ホテル、か……」

 

 煮え湯を飲まされた相手だ。スノウドロップを利用してアーロンを殺そうと画策したものの、それは結局プラズマ団にとってマイナスに働いてしまった。

 

 それどころかあの一夜で頭角を現した人間も数多い。全く、ヤマブキという街は底が見えない。

 

「ハムエッグに流通押さえられたらその時点で儲けがパアですよ。あの強欲ポケモン、そういうところだけはきっちりしていますからね」

 

「能書きはいい。お前にはもう一つ、命じていたな」

 

「ああ、スノウドロップの噂ですか。ありゃあ、ないっすよ。絶対に、スノウドロップは復活しません」

 

「その論拠は?」

 

 男は頭を掻いて思案する。

 

「統計、ですかね……。スノウドロップの脅威ってもんが今までヤマブキの頭上に垂れ込めた暗雲みたいにずっとあったんですけれど、それがサッパリなくなってもう一ヵ月。これほどの期間、ハムエッグが沈黙を守った事はありません。つまり、もう使い物にならなくなったんじゃないか、って可能性がでかいんですよ」

 

「なるほど……。だが、スノウドロップの弱点は常に探っていてくれ。そうでなければもしもの時に、柔らかい横腹を突かれるのは面白くない」

 

 ゲーチスの目覚めの際には一番にヤマブキを無力化する。そのためにはスノウドロップの気配を探るのは必定。

 

 アーロンとの一騎討ちでスノウドロップはもう使い物にならなくなった。

 

 その情報は確かに何度か仕入れたものであったが確定情報ではない。

 

 何よりも――ホテルとハムエッグ両方が情報面では上を行っている。ホテルを介していない情報は説得力がない。逆もまた然りである。

 

 公式にハムエッグがスノウドロップの無害化を明言する事はないとしても、メガシンカにユキノオーの凍結能力は自分達にとって最大の毒となるだろう。

 

「はい、分かっておりますよ。ですが、スノウドロップなんてもう古いって風潮ですよ? 大体、あの強さだってホテルとハムエッグの共謀で作られた強さだったって言われていますからね。拮抗状態を作り出す事によって他の組織の動きを抑制する。つまり、出る杭は打たれるってのを、圧倒的な強さの象徴としてスノウドロップを置いただけの話で」

 

 別段、スノウドロップではなくともよかった、という話だろう。それも聞き飽きていた。

 

「スノウドロップの強さは所詮、見せかけ……張りぼてであったと言いたいのか」

 

「トレーナーなんてもっと強いのがいますって。スノウドロップが強かった証明なんて、結局は上層階級の連中の幻想だったんじゃないですか?」

 

 この男のように搾取される側となればスノウドロップの強さなど埒外なのかもしれない。さもありなん、とヴィーツーは感じていた。

 

「幻想であろうとなかろうと、役目は果たせ。メモリアの買い取りだが」

 

 ヴィーツーが顎でしゃくると、プラズマ団員が歩み出てきて料金を提示した。その額に男が笑みを浮かべる。

 

「いいんですかね。こんな、効果もさほどない、クスリでこんなに儲けさせてもらって」

 

「こちらとしてもリターンがあるからやっている取引だ。メモリアをしばらくは市場流通させて欲しい。現在の量の、倍は要求したい」

 

「いいですけれど、元はイッシュのクスリでしょう? そっちのほうが手に入りやすいんじゃ?」

 

「……我々はもう、イッシュの地は踏めん。あの場所から追放されたも同義。せめて成果を挙げなければおちおちと帰れるものか」

 

 イッシュでのプラズマ団の排斥運動は根強い。あの場所でもう一度栄光を得るためには、英雄の因子とゲーチスの復活は最低条件である。

 

「まぁいいっすけれど、イッシュからの仕入れにも金がいるんですよね」

 

 こちらからぼったくれるだけぼったくろうという魂胆なのだろう。ヴィーツーはこの男の薄っぺらさに舌打ちする。

 

「いいとも、いくらだ?」

 

「今提示された額の倍」

 

「……考慮しよう」

 

「頼みますよ。ああ、それで、ガキですが」

 

 またその話か、とヴィーツーはメモリアの入ったアタッシュケースを受け取りつつ辟易する。夢か現実か分からない話をされるのは気分が悪い。

 

「あの車に乗せたんで、あとで売るなりなんなり好きに――」

 

 その声を引き裂くように、高周波の羽音が響き渡った。

 

 突然の羽音の連鎖に、平衡感覚を狂わされた団員や男が膝をつく。

 

 ヴィーツーだけがその中でまともに立っていられた。

 

「何だ、レパルダス!」

 

 飛び出したレパルダスが高周波の根源である車体を、刃の鋭さを誇る尻尾で切り裂いた。

 

 中から飛び出したのは全身これ武器、という容貌の虫ポケモンである。

 

 鋭利な両腕の針。加えて凶暴性の高さを窺わせる赤い複眼。背筋から生えた無数の翅が擦り合って人間の脳幹を刺激する音程を奏でている。

 

「何だ、あのポケモンは……。どこから出てきた?」

 

「――メガシンカ、メガスピアー」

 

 響き渡った声にヴィーツーが反応してレパルダスを弾かせる。しかし、それよりも遥かに素早く、メガスピアーと呼ばれたポケモンが道を塞いだ。

 

 暗がりの中、一人の忍者装束の少女が手で印を切って佇んでいる。

 

「何者……」

 

「名乗るのならば、セキチクの暗殺名家の跡取り。瞬撃の異名を取る」

 

 ――瞬撃。

 

 話には上がった事がある。波導使いアーロンの首を狙うためにヤマブキ入りした暗殺者のリストの中にその異名があった。

 

 しかし既にアーロンによって殺されているものだとばかり思っていたのだ。

 

「その瞬撃が何故、このような真似を」

 

 蹲る男と団員の中、ヴィーツーだけが対峙出来ている。しかしレパルダスでは駄目だ。このメガシンカポケモンを相手に立ち回れる気がしない。

 

「メモリアの高額流通。その流れにプラズマ団が噛んでいると聞いた」

 

 その言葉にヴィーツーは目を見開く。

 

 ――この小娘、どこまで知っている?

 

 自分達がメモリアを集める真の目的まで知っていて邪魔立てするのか。

 

「……あれはただのクスリだ。ヤマブキでは金になるから噛んでいるだけの事」

 

「なら、取引をしない? あたいと」

 

「取引?」

 

 交わされる会話はどこか平行線だ。瞬撃の考えている事がヴィーツーには分からない。

 

「メモリアの一部でもいい。あたいに渡してみないかって言っている」

 

「気でも狂ったか? メモリアは渡せない。これは我が組織に必要なものだからだ」

 

「そう。だったら」

 

 瞬撃が手を払うとメガスピアーが突き進む。針を突き出した一撃をレパルダスがいなすが、明らかに速度負けしている。

 

 即座に背後を取ったメガスピアーがわざと峰打ちをしてレパルダスの背筋を叩きつけた。表皮を切り裂き、殺す事も出来た。

 

 取引、というのは本気らしい。

 

 レパルダスに戦わせるのは難しそうであった。ヴィーツーは口を開く。

 

「何故、メモリアがいる? その理由如何によっては、取引のレートに上げてもいい」

 

「理由はシンプル。復讐のためにいる」

 

 復讐? 瞬撃の復讐の相手は波導使いではないのか? 何故、メモリアというクスリに頼る必要がある?

 

 ヴィーツーは考えを巡らせたが答えは出なかった。

 

「……その技量でどうにもならない事なのか?」

 

「強くても、意味のない事はある。今回がたまたまそれだというだけ」

 

 メモリアを取引材料として渡せば、この場の密約は交わされる。瞬撃、という駒を手に入れるのは長期的な観点から見て利益はありそうであった。

 

 だが、ヤマブキの殺し屋は基本的に信用出来ない。それはアーロンの例を見るまでもなく明らかだ。

 

 殺し屋の判断基準は、自分に最終的なリターンが返ってくるかどうか。組織ほどの雁字搦めでもなければ、単独の愉快犯ほどの迂闊さもない。

 

 暗殺者を相手取るのは危険だ。

 

 それはカントーに渡って間もなく感じ取った事でもある。

 

 殺し屋のメンタリティは自分などでは推測すら出来ない。

 

 だから何を考えている、という問いは意味を成さないのだ。この場合、瞬撃と取引するか否かだけ。

 

「……いいだろう。メモリアの一部が欲しいのならばくれてやる。ただし、条件として、利益は」

 

「要らない。あたいはメモリアを一定量集められればそれでいい」

 

 奇妙な提案であった。

 

 自分達の真の目的のためにはメモリアが多量にいる。その邪魔立てをしたくってここに来たにしては随分と無欲である。

 

 メモリアが生み出す利益を得るためでもなく、ましてや自分で使うわけでもないのだろう。

 

 何のために、と口を開こうとして、それは無駄だと先刻悟った事を思い返した。

 

「分かった。だが、継続的な取引には信用が必要だ。この場合、動けない仲間を無事に帰してもらいたい」

 

 瞬撃が指を鳴らすとメガスピアーの羽音が一切聞こえなくなった。

 

 空恐ろしくなる。

 

 このメガシンカポケモンは無音の攻撃さえも可能なのか。

 

 まさしく暗殺者、とヴィーツーは身震いした。

 

 立ち上がった男と団員が頭を振って持ち直す。

 

「このガキぃ……。殺してやってくださいよ!」

 

「駄目だ。聞いての通り、我々は瞬撃と取引する。利益の還元は本当に、要らないのだな?」

 

「確認するまでもない。あたいが欲しいのはそれだけ」

 

 ヴィーツーはアタッシュケースから多量のメモリアを差し出し、瞬撃の手に乗せる。

 

 瞬撃は一歩退いたかと思うと、メガスピアーが巻き起こした音叉の烈風に紛れて消えていた。

 

 一瞬の幻のような殺し屋であった。

 

「な、何だってんですかい? あのガキは」

 

「殺し屋、瞬撃と言っていたな」

 

 男が息を呑む。まさか拉致した子供が殺し屋だとは思わなかったのだろう。

 

「瞬撃……。倒されたって聞きましたが」

 

「生きていた。というよりも、息を殺して待ち構えていた、か。だが何故だ? 無駄かもしれないが、それだけが疑問だ。こんな、利益にもならない、大した効力もないヤクを、何故奴も追っている?」

 

 その疑問は闇の中に溶けていった。

 



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第九十四話「闇夜」

 

「何だ、瞬撃はどこへ行った?」

 

 夕飯の席にアンズがいない事にアーロンは気づく。メイは盛り付けられた餃子をぱくつきながら小首を傾げた。

 

「そういえば、最近、あんまり夕飯には見ないですね」

 

「見ない、だと? どこへ行っている?」

 

「知りませんよ。あたしだって、アンズちゃんの保護者じゃないんですから」

 

 メイの返答にアーロンは深く追求しなかった。アンズとて一介の暗殺者。どこかでヘマをするほど弱くはない。

 

「シャクエン。お前は見ていないのか?」

 

「私も、最近瞬撃は見ない。向こうもあまり口を挟んで欲しくない様子だった」

 

 シャクエンが言うのだから間違いないのだろう。アーロンは味噌汁をすすりながら考える。

 

 アンズはあれでいて自分の役割を自認しているタイプだ。だから、滅多な事で自分の力の誇示だとか、そういう迂闊な事には出ない。そういう人間が音信不通となれば、何かしらあったのだと勘繰りたくもなる。

 

「そうか。では瞬撃に事情を聞くべきだな」

 

「……何でシャクエンちゃんの意見は聞くかなぁ」

 

 メイの不満を他所にアーロンはレンタルポケモンをどう扱うべきか決めあぐねていた。明日の朝には届く。

 

 だが、果たして扱えるのかどうか。

 

「シャクエン。スパーリングの相手を頼みたい」

 

「いいけれど、何故?」

 

「一旦ピカチュウを休ませている。その間に、俺は別のポケモンの扱い方を学ばなければならない」

 

「えっ、アーロンさん、ピカチュウどうかしたんですか?」

 

「どうかする前に、一旦休ませておく、という判断だ。ここのところ連戦であったからな。一度、ピカチュウを休ませなければこのままでは使いどころを誤る」

 

「そういう事なら。私はいつだっていい。〈蜃気楼〉も」

 

 シャクエンが手を繰ってバクフーンを出す。餃子を食べさせるとバクフーンは景色に溶けていった。どうやらアーロンへの警戒が少しばかり薄らいだようだ。今までは戦闘時以外顔を出さなかったバクフーンが最近はちょくちょく見るようになった。

 

「ポケモン、他に持っていたんですか?」

 

「いや、レンタルポケモン制度を使う。今回支給されるのは、そのポケモンだ」

 

「レンタルポケモンかぁ。あれって高いんですよね。レベル五十を一体借りるのにいくらかかるんだっけ?」

 

「確か、相場は十万からだったはず」

 

 シャクエンの言葉にメイは声を詰まらせる

 

「じゅ、十万円? そんなにかかるんだ……」

 

「育て上がっているポケモンを借りるんだ。それなりにかかるのは承知している」

 

「伝説とか、入っているんですか?」

 

「伝説は特別料金とボールと制御オプションで百万はかかる。どれだけ弱くっても」

 

 伝説、と聞いてアーロンはメイの手持ちを思い返す。メロエッタについて少しばかり調べておけばよかった。手元にカタログがあるので寝る前にでも確認しておこう。

 

 メロエッタが普通のポケモンではないのは明らかである。市場流通しているかどうかは分からないが、もし流通していればメイの謎の記憶を解き明かす鍵になるかもしれない。

 

「でも、休ませるんならうちで預かればいいのに。あたし、ピカチュウとお近づきになりたかったなぁ」

 

「ここにいれば自然と強張るだろう。それに、ピカチュウはお前の事を嫌っている」

 

「グサっ……。何気に酷い事言いますね、アーロンさん。あたし、ああいう癒し系のポケモンに好かれたいって言うのに」

 

 自分はピカチュウを世間で言うところの広告塔のようなポケモンだと思った事はない。世間で言われているほど弱いとも思っていないし、戦闘向きではないとする評価も人によりけりだ。

 

「ポケモンに好かれるのも一種の才能みたいなものだから。メイのせいじゃないよ」

 

「……シャクエンちゃん、それって才能がないみたいじゃない。あー、あたしもピカチュウみたいな可愛いポケモンが欲しいー!」

 

 駄々をこねるメイにアーロンは冷徹に返す。

 

「うるさいぞ、馬鹿め。そんなだからポケモンも寄って来ないんだ」

 

「アーロンさんは波導でポケモンがどういう人間を好むかだとか分かるんですよね? だからピカチュウもアーロンさんを特別に慕っているんじゃないんですか?」

 

 まるで無理やり従わせているような言い草だ。それには一家言あった。

 

「俺はピカチュウを、一度だって強制させた事はない」

 

「嘘」

 

「嘘なものか。元々子供の頃からの手持ちだ。ピカチュウは俺にとって、なくてはならない、相棒だよ」

 

「その相棒を手離すっていう理由が分からないじゃないですか」

 

 箸で人を指すメイの手をアーロンは払ってから言い返す。

 

「相棒だからこそ、どれほど無理をさせているのか分かっている。ピカチュウは、このままでは俺の限界よりも先にがたが来るだろう」

 

 自分の限界。波導使いの死。その事にメイは思い至ったのだろう。そこから先は静かであった。

 

 足音が階段を上がってくる。恐らくは店主だろう。

 

 先んじて扉を開けたアーロンに店主は小包を差し出す。

 

「ポケモン協会かららしいけれど、協会に睨まれるような事でもしたのか?」

 

 ずっとそんな調子だとは返さず、アーロンは小包を受け取った。

 

「すまないな。俺が出るわけにはいかなくって」

 

「いいさ。居候の荷物くらい、持ってくるよ」

 

 取って返す店主の背中にアーロンは声を投げていた。

 

「店主、瞬……いや、アンズの事だが」

 

 異名で呼びそうになって慌てて取り繕う。

 

「うん? アンズちゃんがどうかしたのか?」

 

「最近、変わった事は? まだ帰ってないんだ」

 

 店主は腕を組んで呻る。

 

「そういや、最近、すっぽかすというか、ドタキャンが増えたなぁ。まぁシフトの関係なんてメイちゃんとシャクエンちゃんで事足りているし、元々、アンズちゃんは中学生だろう? 無理やり手伝ってもらっている感もあったから、融通は利くようにしているんだが」

 

「どこへ行っただとかは?」

 

「用事があるって聞いているよ。何でも、実家で複雑な用件があって、それに奔走しているだとかで」

 

 実家。アンズの生家はセキチクの暗殺一族だ。その事を店主はもちろん知るまい。だが、アンズがセキチクの、キョウの命令で動いているとなれば話が違ってくる。

 

「実家と、確かにそう言ったのか?」

 

「ああ、うん。深くは問い詰めなかったけれどね。アーロン、お前だって質問攻めは嫌だろ?」

 

「ああ確かに。だが、あいつはまだ年少だ。このヤマブキに不慣れな部分もある」

 

「心配になるのは分かる。でも、実家の用事って言うんなら仕方ないんじゃないか」

 

 その実家に連絡を取る手段がない。セキチクへ一度向かうべきか、とアーロンは判じた。

 

「……分かった。こちらで対応する」

 

「何だ、別に気にしてくれなくったっていいんだ。バイトは二人の看板娘で事足りているし、アンズちゃんはまだ若い。若いうちに色々とやるべき事があるだろうさ」

 

「そうだな。毎度感謝している」

 

「こっちも持ちつ持たれつだよ。じゃあな」

 

 店主の気のいい返答を聞いてからアーロンは扉を閉めた。

 

「聞いての通りだ。シャクエン。瞬撃は実家の、暗殺一族の用件で動いていると言っていたのか?」

 

 シャクエンに問い質すと、彼女は首を横に振る。

 

「聞いていない」

 

「では馬鹿は」

 

「あたしもー。名前で呼んでくださいよー」

 

「うるさいぞ。いいから答えろ」

 

 メイは頬をむくれさせながら手を振った。

 

「アンズちゃんの生まれた町なんて行った事ないですよ。アーロンさんが一番知っているんじゃないですか?」

 

 セキチクシティの名家。暗殺一門のキョウ。やはり本人に直談判するべきか。

 

「……予定が出来てしまったな」

 

「それより! アーロンさん、レンタルポケモンですよね?」

 

 小包の中身が気になるらしい。アーロンは包みを開けて中にあるレンタルポケモン専用のモンスターボールを手にした。通常のモンスターボールよりも三秒ほどの遅延が出るらしい。それは主人ではないトレーナーを主人であると認識させるのに必要なロスだという。

 

「説明書によると、レンタルポケモンを手持ちだと認識させるのはこのボールの力が大きいらしい。当然の事ながら、スペックを引き出せるわけではない」

 

「何でですか? 波導使いなら、波導を読めば」

 

 短絡的な思考にアーロンは嘆息を漏らす。

 

「馬鹿の考えそうな事だ。波導を読んでも、絶対主従というわけにはいかない。それが出来れば毎度殺しなんてしないだろうに」

 

 頬を引きつらせるメイにアーロンは専用ボールの緊急射出ボタンに指をかけた。

 

「行け、エリキテル」

 

 飛び出したのは黄色い四足のポケモンである。薄っぺらい垂れ耳がついており、一瞬獣型かと判じたが、あまりにも攻撃的ではない丸っこい形状と、呑気な眼差しにメイが落胆する。

 

「何だ、アーロンさんの事だからもっと強そうなの選ぶかと思ったら。可愛い、かどうかは微妙ですけれど、何でこんな小型ポケモンを?」

 

「肩に乗せられる。それとこいつの属性だ」

 

 エリキテルを手招くが、警戒の波導が流れている。まだピカチュウほど手足のようには使えないだろう。

 

「属性? 見た目から電気っぽいですけれど……」

 

「電気・ノーマルとある。能力値もそうだが、ピカチュウに極めて近い。だから選んだ」

 

「結局、ピカチュウが基準なんですね」

 

 そっとエリキテルの頭を撫でてやる。波導の位相を変えると、エリキテルが舌を出して、アーロンの指先を舐めた。警戒心は言うほど強くはない。愛玩用のポケモンの近いものがあるのだろう。

 

「覚えている技は、説明書通りなのかだけ確認したい。シャクエン、この後は」

 

「分かっている。一度手合わせする」

 

「助かる」

 

 エリキテルをわざとボールから出して夕食のおこぼれを与えた。エリキテルはむしゃむしゃと食べる。

 

「でも俊敏って感じじゃなさそうですよね。呑気って感じ」

 

 メイが手招くと、エリキテルはぷいとそっぽを向いた。

 

「お前ほどの馬鹿はどのポケモンにも嫌われるな」

 

 その言葉にメイは衝撃を受けたようで必死になってエリキテルの興味を引こうとする。

 

「ほーら、エリキテル。こっちこっち」

 

 夕食の食べかけを与えようとするが、エリキテルは見向きもしない。

 

「……アーロンさん。波導使ってあたしに懐かないようにしたんじゃないですか」

 

「そんな事に波導を使うか」

 

「じゃあシャクエンちゃんには懐くんですか?」

 

「私は、〈蜃気楼〉の圧が強過ぎて、他のポケモンは寄ってこない」

 

 その言葉通り、エリキテルは一度、シャクエンのほうへと歩みかけてはたと動きを止めた。目には見えないバクフーンの存在感に圧倒されたのか、慌ててアーロンの陰に隠れる。

 

「いいなー、いいなー。なんで毎回、アーロンさんばっかり」

 

「メロエッタが懐いているんじゃないのか」

 

「メロエッタは……、あたしにもよく分からないところの多いポケモンですし」

 

 不本意だが自分の至らなさは理解しているらしい。その分だけはまだマシであった。

 

「シャクエン。隣のビルの屋上で一戦だ。それで精度をはかる」

 

 シャクエンは首肯する。メイはまだ文句を垂れていた。

 

「あたしだけ仲間外れー」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 バクフーンが火の粉を舞い散らせ、肉迫する。

 

 アーロンは肩に乗せたエリキテルの攻撃で弾き様に、一撃を与えようとした。そこまで、と同時に判断して矛を収める。

 

 バクフーンが空気に溶け、エリキテルが息を切らしていた。レンタルポケモンは戦闘用とはいえ、いきなり炎魔との戦いとなれば消耗もするのだろう。

 

「悪かったな。俺の面倒につき合わせて」

 

 ビルの屋上からアーロンは流れる街並みを見つめる。シャクエンはその視線の先を追って頭を振った。

 

「いい。それよりも……。波導使い、瞬撃が心配なの?」

 

 思わぬところで、と言った具合にアーロンは帽子を目深に被った。

 

「……正直、殺し屋なんて心配したところで仕方がないのだと思っている。お前も、俺も、ラピス・ラズリも、皆、同じ穴のムジナだ。だが、どこかで情が移っているのだろう。瞬撃の行動には心配、というよりも、解せない、のほうが大きい」

 

「行動目的の読めない相手、というわけ」

 

 アーロンはエリキテルをボールに戻して息をつく。

 

「瞬撃は、今まで自分の分を弁えた人間だと思っていた」

 

 予想以上の行動には出ない。一度、波導使いアーロンの暗殺を諦めれば、もう二度と同じ手には出ないだろうと。その目でスノウドロップの実力も目にしたはずだ。滅多な事では、向こう見ずな行動に移らない。

 

「でも今回、瞬撃の行方は知れず……。私にも何も言わなかった」

 

「無論、馬鹿には」

 

「言っていない。メイも、嘘をつけるとは思えない」

 

 だとすれば余計に分からない。アンズはどこへ行ってしまったのか。自分達に一声もかけずに消えていくタイプだとはどうしても思えなかった。

 

「だとすればやはり、セキチクか」

 

 父親であるキョウの命令ならば、アンズは隠密行動に出てもおかしくはない。シャクエンは尋ねていた。

 

「セキチクにいるのは、瞬撃の実の親なの?」

 

「ああ。血の繋がりはあるという」

 

「……まだ、完全に俗世間との繋がりを絶ったわけではない」

 

 両親も、信じるべきものも全て失ったシャクエンからしてみれば羨望もあるのかもしれない。だが、そのような生易しい関係に収束されるものではないのは自分がよく知っている。キョウは、あの父親は自分の恨みを晴らすためならば何でも命ずる。たとえそれが道理にもとる事であろうとも。

 

「親がいるからと言って、いい事ばかりではない」

 

「あなたは……。波導使いアーロン、あなたには、もう、信じるべき場所も、人間もいないというの?」

 

 自分の事を語った事はなかった。特に両親については。アーロンはぽつり、と語り出す。

 

「長い話になる」

 



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第九十七「フロンティアの地平」

 

「アンズちゃん、帰ってきたみたいだよ」

 

 店主の一報を聞くなり、アーロンは部屋へと駆け上がった。

 

 扉を開けると、何食わぬ顔でアンズがテレビを観ていた。

 

「あっ、お兄ちゃん。どうしたの? 慌てて」

 

「お前っ……。何故だ」

 

 覚えず詰問していた。アンズは小首を傾げる。

 

「何故、何も言わず、消えていた?」

 

「変だなぁ、お兄ちゃん。あたいは暗殺者だよ? そりゃ、仕事の一つや二つは」

 

「違う。お前を使ったかどうかはハムエッグとホテルに聞けばすぐに分かる。お前は、全くの独断で、何か裏で動いていたな。何をしていた?」

 

 アンズは参ったなぁ、と微笑んだ。

 

「お兄ちゃん、顔怖いよ? 朝帰りした女の子がそんなに心配?」

 

「俺からしてみれば、朝帰りした暗殺者の無事よりも、その暗殺者の餌食となった人間のほうを心配する」

 

 アンズはフッと口元に笑みを浮かべた。

 

「敵わないなぁ、お兄ちゃんには。で? どこまで分かっているの?」

 

「お前が、シャクエンにも馬鹿にも何も言わず、ここ最近動いている事だ。ハムエッグに問い質せば答えは聞けそうだが、俺は借りを作りたくはないのでね。お前に直接聞くぞ。何をやっていた?」

 

「怖い顔。お兄ちゃん、最近忙しそうだったから、言いそびれちゃって。実は父上から仕事を請け負っていて、その関係ですれ違ったんだよ」

 

「キョウ、か。瞬撃のアンズとしての行動なのだろう? 何だ? キョウはお前に、何を命じた?」

 

「何だっていいじゃない。だって親子だよ?」

 

 かもしれない。自分のような一介の殺し屋が口を挟める領域ではないのかもしれなかった。

 

 だが、その歪な親子関係を、自分は誰よりも知っているつもりだ。

 

「……石化の波導使いか」

 

 キョウから聞き及んでいたキーワードを口にすると、アンズの纏っている気配が変わった。

 

 鋭く、針のような集中と眼差しが自分を射る。

 

「知っていたんだ。知っていて、黙っていたんだね、お兄ちゃん」

 

「答えろ。石化の波導使いと、無関係ではないのか?」

 

「父上をあんな風にしたそいつを、あたいは探している。それくらいは分かっているよね?」

 

「復讐か。だが、石化の波導使いの情報はない。ヤマブキの情報を掻き集めたって見つからないんだ。諦めろ」

 

「分からないじゃない。その情報は所詮、客観でしょう? あたいが探しているのは、無意識の主観の情報」

 

 アンズの言わんとしている事が分からず、アーロンは眉をひそめる。

 

「石化の波導使いに会った人間がいるといいたいのか?」

 

「少なくとも一人は」

 

 誰だ、と思案を巡らせようとしたその時、階段を駆け上がってくる足音が耳朶を打った。

 

「アンズちゃん!」

 

 メイだ。必死の形相でアンズの姿を認める。

 

「あれ? お兄ちゃんとメイお姉ちゃん、二人で出かけていたの? ……ああ、じゃあスノウドロップ、まだ再起不能ってわけじゃないんだ」

 

「瞬撃。何が気に食わない? お前は、満たされているだろう?」

 

「あのさぁ、親がいるイコール満たされているって考え方、あたい嫌いだよ」

 

 飛び出したスピアーがアーロンへと針による攻撃を放とうとする。即座に反応して飛び退った。階下に降り立ったアーロンへとアンズが手を振る。

 

「バイバイ。お兄ちゃん。それだけ言いに来たの。もう、会う事はないと思うから」

 

 スピアーが瞬時にエネルギーの甲殻を身に纏い、メガシンカを果たす。メガスピアーが高周波の羽音を散らして部屋の天井を破った。

 

「行くな! 瞬撃!」

 

 アーロンは手元にボールを手繰り寄せる。だがアンズはもう迷っている様子はなかった。

 

「さよならみたい。メイお姉ちゃん、楽しかったよ」

 

「どうして……。突然にさよならなんて……」

 

 メイもこの状況を判断出来ないのだろう。ただただ首を横に振るだけだ。

 

「やらなきゃいけない事があるんだ。そのためには、お兄ちゃん達と一緒にはいられない。これは、あたいだけの問題だから」

 

「違う、違うよ、アンズちゃん……。分け合ってよ。あたし達、みんな一緒だったじゃない!」

 

 その言葉にアーロンはハッとしてしまう。

 

 前回、シャクエンを追っていた時、ハムエッグはこう口にしていた。

 

 ――いつまでもその関係が続くと思うな。

 

 ぬるま湯の関係に浸かっていたかったのは自分だったのかもしれない。

 

 所詮、殺し屋は殺しに生きるしか、方法がないのかもしれなかった。

 

「俺が、間違っていたのか……」

 

 まだ戻れるかもしれないと思っていたのは、本当は自分だったのか。

 

 飛び立とうとするアンズを制する力がない。

 

 天上を破ったメガスピアーが追えない速度に入ろうとした、その時である。

 

 黒いポケモンがメガスピアーの背後を取った。

 

 その気配にメガスピアーが瞬時に悟って針を突き出す。

 

 その針と噛み合ったのは思念の刃であった。紫色の刃が拡張し、ブゥンと空間を裂く。

 

「この気配、知らない奴……」

 

 アンズは手を払う。メガスピアーの「ミサイルばり」で針を引き剥がし、結果的に距離を取った。

 

 天井に降り立った黒いポケモンは人の形を取っていた。腹部に肋骨の形状の刃があり、両腕にも鋭い刀身を備えたそのポケモンはまさしく騎士の威容を伴っていた。

 

 黒いポケモンがこちらへと一瞥を投げる。

 

 来るか、と身構えたアーロンであったが、その攻撃の矛先はアンズに固定されているようだった。

 

 すぐさま跳躍し、黒い瘴気を纏った刃が顕現する。

 

 片腕が何倍にも膨れ上がり、発振した黒い瘴気がメガスピアーへと突き刺さろうとした。メガスピアーからアンズは離脱し、ビルの屋上へと降り立つ。

 

「何者!」

 

 印を結んだ形のアンズは周囲に気配を探っているようだった。

 

 アーロンは覚えず駆け出していた。

 

 店主の制止を乗り越え、アーロンも気配を探る。波導感知を全開にして黒いポケモンを操っているトレーナーを探そうとした。

 

 すると、街中に紛れている二人組を発見する。

 

 一人は少女であり、桃色の寝巻き姿であった。それに追従する紳士から黒いポケモンを操っている波導を感知する。

 

「お前……!」

 

 アーロンの殺気に向こうも気がついた様子だった。紳士は眼鏡のブリッジを上げて意外そうな声を出す。

 

「これはこれは。まさか波導使いアーロンとかち合うとは思ってもみなかった」

 

「何者だ」

 

「失礼。名乗りが遅れた。私の名はコクラン。カトレア様の執事を仰せつかっている、コクランだ」

 

「俺の事を知っている、という事は、殺し屋か」

 

「その名称は正しくはない。私の通り名はキャッスルバトラーでね。バトルフロンティアという場所で普段は挑戦者を待ち構えている」

 

「そんな奴が、どうしてヤマブキにいる? 何故、瞬撃を狙う」

 

 アーロンの問いに、コクランは解せないとでも言うように眉根を寄せた。

 

「分からない。分からないな、波導使い。あなたほど著名な人物ならば、分かっているはずだ。瞬撃のアンズ。あれは殺し屋だ。何で庇おうとする?」

 

「……悪いがこっちにも聞きたい事があるのでな。それを聞くまでは死なせるわけにはいかない」

 

「なるほど。だが、キリキザン」

 

 黒いポケモンの名を呼び、コクランは目線を振り向ける。

 

 それだけでキリキザンはメガスピアーと切り結んだ。メガスピアーの針による突撃を、キリキザンは刃の両腕でいなす。

 

 手数ではキリキザンのほうが上回っているように思われた。

 

 メガスピアーが羽音を散らせて高周波の中にキリキザンを落としこもうとする。

 

 だが、キリキザンはまるで意に介せず、攻撃の手を緩めない。

 

「高周波による相手の脳波を乱し、混乱させる。人間にも有効だが、生憎とキリキザンは鋼を有する。鋼の脳髄に、その程度の揺さぶりは……」

 

 コクランが手を払うとキリキザンが身体を開いた。メガスピアーの「ミサイルばり」が直撃するが、その攻撃の余波が腹部に集中する。光が瞬いた直後、刃の散弾がメガスピアーを襲った。

 

 反射攻撃だ、とアーロンは判ずる。

 

「通用しない。メタルバースト。鋼鉄の反射をスピアーはどう受け止める?」

 

 メガスピアーの身体が切り裂かれる。ほう、とコクランが感嘆の息を漏らそうとしたが、それが無駄だとアーロンは感じ取った。 

 

 残像によるデコイである。

 

 切り裂かれたのはメガスピアーの速度による残像現象であった。

 

 既に本体はアンズとともに戦闘領域を離脱していた。

 

「残念。仕留め損なったか」

 

 コクランが踵を返そうとする。アーロンはその背中に声を投げた。

 

「待て! 貴様らは何の目的で、瞬撃を狙う?」

 

 コクランは振り返り、眼鏡のブリッジを上げた。

 

「こちらも理解し難い。何故、天下の波導使いが小悪党を匿う?」

 

 アーロンが返事に窮しているとコクランは頭を振った。

 

「まぁ、いいでしょう。あなたの疑問から答えます。我々は依頼を受けたのです。それを達成するためにこの地を踏んだ」

 

「瞬撃が、何かを行ったのか?」

 

「……匿う割には知らないのですね。ある薬物の流通に関わっていると判断され、我々が遣わされたのです。本国では、その薬物の危険性にいち早く気づき、実力のあるフロンティアブレーンを派遣させた。他の地方でも同時進行的に動いています。私の仲間達が、薬物の流通を促進させる恐れのある悪党を懲らしめているでしょう」

 

 薬物? どうしてそれとアンズに何の関係があるのだ。アーロンが分からないで言葉を発しあぐねているとコクランは顎に手を添えた。

 

「本当に知らない? この街では有名ではないのか」

 

「どういう意味だ」

 

「プラズマ団。存じているのでは? 本国ではプラズマ団残党勢力の最終目的を察知し、その阻止のために動く事を決定した。あなた方ヤマブキの住民は彼らを安く考え過ぎている。プラズマ団を素人だと判じるのは分からなくはありませんが、そのトップとなれば話が別」

 

「だから、何の事を言っている?」

 

 これではまるで平行線だ。アーロンとコクランの間に降り立っていたのは理解力の差であった。同じ事を考えているはずなのにどうしてだか向こうとは食い違う。

 

「……これでは意味がありませんね」

 

 コクランもそれを感じ取ったのか、キリキザンを手招いて傍らの少女を守らせた。

 

「正式に、国際社会から排斥を受けているのですよ。プラズマ団なる組織は。このカントーに逃げ込んだのは分かっているのです。だからフロンティアブレーンである我々が動き出した」

 

「だから、あの素人集団が何故そこまでの脅威なのか、俺にはまるで分からないといっているんだ」

 

「困りましたね……。ヤマブキという街が特殊なのは知っていますが、一部の情報の速度はあり得ないほど速いのに国際的な事を考えればまるで鈍行だ」

 

 顎に手を添えて考え込むコクランにアーロンは戸惑う。

 

 ヤマブキシティのシステムのせいで、自分達が遅れを取っているというのか?

 

「プラズマ団は、何を知っている?」

 

「メモリアなる薬物の流通。それに関わった人間は我らフロンティアブレーンによる粛清対象となっています。あの瞬撃のアンズも、メモリアの流通に噛んでいるとの情報を得ました。これは確定情報です」

 

「そんな馬鹿な……。今の今まで居場所さえも分からなかった奴が、どうしてお前らに」

 

「だから、システムの質が違う、と言っているのですよ。あなた方の使うシステムは確かに素早く、効率的で合理的です。だがどこかを欠いている。それは主観性が強かったり、ある意味では何一つ俯瞰出来ていなかったりする面です。このヤマブキという盤面で戦うにしては、少しばかり迂闊が過ぎる」

 

「迂闊、だと」

 

 噛み付きかねないアーロンの剣幕にコクランはただ頭を振った。

 

「あなたもまた、分からないですね。殺し屋同士が仲良く暮らしている、というのが」

 

「アーロンさん!」

 

 弾けた声にアーロンは視線を振り向ける。飛び出してきたメイを目にして、コクランが明らかに狼狽した。

 

「馬鹿な……。その少女は……」

 

 コクランが端末を取り出して忙しく動かす。アーロンは手で制した。

 

「離れていろ」

 

「でもっ! アンズちゃんが一人になっちゃいます!」

 

「今は、この目の前の二人が敵になるのか、味方になるのかも分からない」

 

「やはり、あった。照合完了……。イッシュの、プラズマ団を壊滅させた記録。照合トレーナーの名は、N」

 

 アーロンは胡乱そうな顔をした。その名前はメイの持っていたポケモン図鑑の持ち主である。

 

「こいつはその名前ではない」

 

「いいえ、間違いありません。Nは行方不明を装って化けた。Nのあの姿は仮初めであった説も浮上してきている。重要参考人です。来てもらいましょうか」

 

 コクランが歩み寄ってくる。アーロンはモンスターボールを手にした。

 

「そこから一歩でも進めば、お前は後悔する」

 

「解せませんね。本当に、あなたは。波導使いアーロン。Nにせよ、瞬撃のアンズにせよ、あなたは静観しておくだけでいい。何もしなければあなたを害するような事にはならない。だというのに、意味が分からない」

 

「俺も、この連中を守る事に不安はある。分からない部分もな。だが、それ以上に、お前らを信用出来ない」

 

「なるほど。それは対立するのに足る理由ですね」

 

 緊急射出ボタンを押し込み、声にする。

 

「エリキテル!」

 

「キリキザン。行きなさい」

 

 弾き出されたようにキリキザンが駆け出した。モンスターボールから出てきたエリキテルがアーロンの肩に留まる。

 

「パラボラチャージ!」

 

 電気の皮膜が拡張し、瞬間的に壁を構築する。キリキザンがそれを引き裂いた瞬間、キリキザンのエネルギーの一部が吸収され、エリキテルに還元された。

 

 これが「パラボラチャージ」。電気による吸収攻撃である。

 

 しかしこの程度で怯むのならばフロンティアブレーンなど名乗りはしないだろう。

 

 キリキザンは片腕に手を添えて一気に闇の刃を引き出す。舞うように闇の刃を足に纏いつかせて滑走した。

 

「辻斬りはただ単に攻撃に使うだけではない。こういう風に物理法則を捩じ曲げて相手の隙を突く事も出来る」

 

 コクランの言う通り、キリキザンの次の動きは読めない。瘴気によって足元が隠され、筋肉の伸縮による関知を困難にしているのだ。

 

 だが、こちらには波導がある。

 

 波導はどの生物でも平等だ。たとえ闇の刃で隠していても隠し切れないのは波導の流れである。

 

「エリキテル、行くぞ」

 

 アーロンの声にエリキテルが垂れているひだを電流で上げた。放出されたのは電気ワイヤーであった。キリキザンの行く手を遮った「エレキネット」の一部がその出鼻を挫く。

 

「エレキネット、だと……」

 

「釈迦に説法かもしれないが、ポケモンの技は一面だけで使うものではない」

 

 電気ワイヤーがキリキザンの腕に絡みつく。

 

 今だ、と電撃を流し込んだ。

 

 キリキザンの鋼の頭部が震え、全身が痙攣する。

 

 命中した、という確信があったが、キリキザンには麻痺の効果も感じさせなかった。跳躍し、一気に距離を詰めてくる。

 

 アーロンは飛び退ってキリキザンの瘴気を纏った飛び蹴りを回避する。

 

「何故、麻痺しない?」

 

「麻痺、というものは確率です。確実に麻痺させる技であっても、確率変動によって体内に残った麻痺の効力を消す事も出来る。それは熟練した、ポケモンとトレーナーの辿り着く境地」

 

「麻痺を、確率変動で打ち消した、というのか……」

 

 あり得ない、と断じたかったが今のキリキザンの健在がその証拠。

 

 コクランほどのトレーナーとなれば状態異常を確率の世界で消す事が出来る。

 

 となれば確実な攻撃が必要であった。

 

 キリキザンを狙うのでは消耗戦だ。

 

 コクランを討ち、この戦いを終わらせるしかない。

 



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第九十八話「フェイズ2」

 

 アーロンはコクランを睨み据える。殺すと断じた眼差しに相手はフッと笑みを浮かべた。

 

「その眼、まさしく恐れられている殺し屋、アーロンに相応しい。まるで獣だ。波導使いの名は轟いていますよ。遠く、シンオウまでもね。ですが私は、何度もあなたと、それに類する波導使いの戦いの記録を聞いてきましたが一度だって思った事はありませんよ。負ける、とはね」

 

「負ける。馬鹿を言っちゃいけない」

 

 姿勢を深く沈みこませたアーロンはエリキテルの乗った片腕を引く。

 

「――殺し殺されだ。負けるなんてなまっちょろいものじゃない」

 

「いいですとも。来い! 波導使いアーロン!」

 

 キリキザンが駆け出す。アーロンは電気ワイヤーでキリキザンの足元をすくおうとしたが、察知されて跳躍を許した。

 

 しかしそれでいい。アーロンの目的は別にある。

 

「エリキテル。相手は炎魔相当だ。本気でいく」

 

 エリキテルの放った電流の矛先は、アーロンの脚部であった。

 

 電撃の刺激が走り、脚部の筋肉が膨れ上がる。波導を綿密に用いて刺激の量を調節し、アーロンはその電気刺激の効果のみを引き出した。

 

 電撃的な速度でアーロンがコクランへと接近する。

 

 キリキザンが降り立ち、攻撃を開始するまでのコンマ一秒の世界。

 

 アーロンの手はコクランの頭部を捉えていた。

 

「――取った」

 

「まさか……」

 

 コクランの喉から断末魔の叫びが迸る。

 

 エリキテルの電流が通り、コクランを殺害した――かに思われた。

 

 しかしコクランは立ち上がった。震える指先で眼鏡のブリッジを上げる。

 

「助かりました。カトレア様」

 

「いい。わたくしはコクランなしでは駄目だから」

 

 後ろの少女か、とアーロンは歯噛みする。

 

 一体何をしたのだ。

 

 その視線の先に映ったのは、緑色のゲルに覆われた胎児の姿であった。ゲルが鎧のように纏いつき、堅牢な両腕を構築している。その手が開かれて、先ほどの電撃を吸収した。

 

 波導の眼が放った電撃の八割の吸収を目にしていた。

 

 だが、あり得ない。

 

 他人に放った電撃を自分の側に引き寄せるなど、通常のポケモンではない。

 

「ランクルス。電撃の総量は耐えられる代物みたいね」

 

 ランクルスと呼ばれたポケモンがゲルの拳を握り締め、電撃の能力をはかっているようだった。

 

 その手が再び開かれた瞬間、アーロンの背筋を殺気が粟立たせた。

 

 飛び退った空間を引き裂いたのは電撃である。

 

 自分の放った電撃をそのまま返されたのだ。

 

「青の死神……伊達ではないようね。コクラン、下がっていなさい」

 

 少女が前に出る。コクランは口惜しそうに面を伏せた。

 

「面目ございません……。カトレア様」

 

「いいわ。戒められしわたくし。少しばかり退屈もしていたの。……波導使い。あなたは、わたくしの眠気を払える?」

 

「何を、言っている!」

 

 エリキテルの放った電気ワイヤーがランクルスの腕に絡みつく。このまま、と考えたアーロンへと予想外の事が起こった。

 

「このまま、だなんて、舐めないでもらいたいわね」

 

 ランクルスがその膂力でアーロンごと引き寄せる。パワーがないかに思われたゲル状の身体には予想以上の能力が込められているようだった。

 

 アーロンは波導で自分の足を地面に縫い付けるも、ランクルスとのパワー勝負には勝てそうにない。

 

 すぐさま別の手を打つべきだと、電気ワイヤーを外した。もう片方の手から射出した電気ワイヤーでランクルスの不意を打とうとする。

 

 しかしランクルスから放たれた青い思念が塊となって電気ワイヤーの動きを打ち消した。

 

 まさか、と息を呑む。

 

「エスパー、なのか……」

 

「そう。ランクルスは純粋エスパータイプ。少しばかり器用だから、天下の波導使いでも分からない?」

 

 地面に這わせておいた電気ワイヤーを突き上げる。だがランクルスはそれさえも予期して念力で叩き潰した。

 

「どの方向から来る、だとか、どういう風に攻める、っていうの、わたくしの前じゃ無駄。どこから来てもランクルスならば避け切れるし、わたくしも同じ」

 

「それはどうかな」

 

 アーロンは跳躍してランクルスへと接近しようとする。

 

 だがこれは見せ掛けだ。

 

 本丸は別方向から攻める電気ワイヤーによるトレーナーの無力化である。巧みにワイヤーを用いてアーロンは右手を突き出す。

 

 見た目からして派手なこちら側に意識が向くと思われた。

 

 しかし、カトレアは冷静に告げる。

 

「波導使い。言っておくけれど、わたくしにそういう、見せ掛けは通用しないわ」

 

 ランクルスの放った念動力が電気ワイヤーを偏向させ、さらにもう片方の手から放たれた金色のエネルギー弾がアーロンを襲った。

 

「気合玉」

 

 咄嗟に電気ワイヤーを使ってビルに巻きつける。寸前のところで回避出来たが、アーロンには何故、という感覚がついて回った。

 

 どうして二重の攻めが通用しなかったのか。

 

「どうして通用しなかったのか、って思っている。あなたは、わたくしに傷一つつける事は出来ない」

 

 考えを読まれてアーロンは波導の眼を全開にした。まさか相手も波導使いか。

 

「わたくしは波導使いではない」

 

 またしても考えを見透かされる。アーロンは息を呑んだ。

 

「読心術か……あるいは、エスパータイプによる思念の増幅」

 

「どっちも、違うわね。わたくし、生まれ持った超能力者なのよ」

 

「信じられない」

 

「……本当に、自分以外に特別な能力を持つトレーナーがいるとは思っていないのね、波導使い。超能力者であるわたくしにとって、心を読む程度は些事よ」

 

 アーロンはビルの壁面に張り付いたまま次の手を考える。

 

 電気ワイヤーでランクルスと引っ張り合いをしても勝てる確率は四割を下回る。ならば、トレーナー本体を叩くのが定石であったが、全ての攻撃を予知出来るというカトレアに届くのか。

 

 アーロンの胸を過ぎった一瞬の逡巡も、彼女は読み取る。

 

「わたくしに届くのか、とても不安のようね。ランクルスを貫通し、なおかつわたくしに届く攻撃。コクランを倒した事で少しばかり調子づいたようだけれど、まだまだよ。あなたは、フロンティアブレーンを一人だって倒せない。その程度なのよ、波導使い。あなたの力量はね」

 

「どうかな」

 

 アーロンが電気ワイヤーを放つ。しかしこれも牽制。

 

 次の一手は隣のビルへと飛び移ってから遂行される。

 

 屋上を駆け抜け、アーロンはビルの合間へと降り立つ。

 

 その際、ビルの波導を読み、エリキテルで切断させた。

 

 ビルの中腹から粉塵が舞い上がり、傾いだビルそのものの質量がカトレアへと降り注ぐ。

 

「ランクルス、防御を」

 

 当然、防御に回るはずだ。念力をどれだけ強力に扱おうと、ビル一個の質量の防御に回ったランクルスは――。

 

「こちらには気づけない」

 

 アーロンは土煙の舞う中を疾走していた。

 

 右腕を突き出し、カトレアへの直接攻撃を。

 

 しかし、カトレアに届く寸前で、ビルの一部が崩落し、自分とカトレアとを遮った。

 

「偶然か」

 

「いいえ、波導使い。わたくしが念動力でビルの一部を切り取り、あなたとの壁を作った。これは偶然ではなく、必然よ」

 

 だがその程度は読みの内に入っている。

 

 右腕に這わせていた電気ワイヤーをアーロンは放った。

 

 僅かな距離であるが、その近さはカトレアの慢心の距離だ。

 

 電気ワイヤーが突き抜け、カトレアの服にかかったかに思われた。

 

 ビルの部品もカトレアへと降り注ぐ。どちらかを避ければどちらかが命中するはずだ。どれだけ超能力者が優れていても、こればかりは避け切れまい。

 

 アーロンの予感を遮ったのはカトレアの放った一言であった。

 

「ランクルス、引っ張り上げなさい」

 

 カトレアにかかっていたはずの電気ワイヤーをどうしてだかランクルスが握っていた。

 

 疑問を発する前に超絶的な膂力がアーロンの身体を煽った。引きずり回される、と早々にワイヤーを切ったのは結果的に功を奏した。

 

 電気ワイヤーを引っ張り上げた先にあったのは自分が叩き落したビルであったからだ。

 

 もし諦めなかったらビルへと叩きつけられ、押し潰されていただろう。

 

「どうして……」

 

「どうして、わたくしに放ったつもりの電気ワイヤーがランクルスの手にあったのか、でしょう? ランクルスとわたくしは同期している。わたくしの予感した事はランクルスの予感した事。つまり、わたくし達を物理的に引き剥がしたところで意味がない。わたくしとランクルスは同じ領域で戦っている」

 

 ランクルスを先に倒すべきか、とアーロンは感じたがカトレアは首を横に振る。

 

「そういうのが不可能だと言っているのよ、波導使い。わたくし達の領域は熟練者のそれ。あなたのような、木っ端の殺し屋が到達出来るものではない」

 

「やってみなければ分からない」

 

「分かっているわよ。コクラン」

 

 コクランは身体から麻痺が取れたのかすっと立ち上がった。

 

「瞬撃を追いなさい。わたくしはここで波導使いを足止めするわ」

 

「……申し訳ありません、カトレア様。私が至らないばかりに」

 

「そういうのはいいのよ。あなたはわたくしの枷。フロンティアブレーンがわたくしの真の力を恐れるあまりにつけざるを得なかった。でも波導使い、この男とならばわたくしは力を出し惜しみする必要はないわ。存分に振るえる」

 

「必ず、戻って参ります」

 

 コクランがキリキザンを操り、アンズを追おうとする。その行く手をアーロンは遮ろうよした。

 

「させるか!」

 

 電気ワイヤーをランクルスの念力が引っ張り込む。

 

 アーロンは敵を見る眼を向けた。

 

「どうやって殺すべきか、と考えているわね、波導使い。でもどこまで考えたって、それは無駄。無駄って言うのよ。だってあなた、考えが明け透けなんですもの」

 

「瞬撃を追わせるわけにはいかない」

 

「どうするの? そこの。Nだったかしら? その子に追わせる?」

 

「いいや、別の手を使う」

 

 その言葉と、炎熱の影が現われたのは同時だった。

 

 カトレアの背後に回っていたバクフーンが炎の腕を振るい落とす。しかしランクルスがゲル状の腕を掲げて防御していた。

 

 火の粉が散る中、バクフーンがかあっと口腔を開く。

 

「そう……もう一人いるわけね。このバクフーン、自律行動型。本丸はここから少し離れている。近づくのに今の今まで時間がかかったのは、わたくし達の状況を把握するため。なるほど、炎魔、ね」

 

 こちらの考えをどこまでも読み取るカトレアにアーロンは言い放つ。

 

「どうする? こちらは二体一だ。どれだけフロンティアブレーンが優れていようとも、多勢に無勢なのではないか?」

 

「……あなた、分かっていないわね。フロンティアブレーンは一回につき複数の挑戦者を受ける事さえも許されている。連戦に次ぐ連戦。激戦と、その余韻に浸る暇もない戦いの渦。あなた達の想像の枠外にある戦いを、見せてあげるわ」

 

 ランクルスがバクフーンの腕を弾き返す。

 

 アーロンが駆け出し右腕を突き出した。

 

「パラボラチャージ!」

 

 ランクルスが地面から複数の小石を浮かび上がらせ、それぞれをぶつけ合わせて即席の散弾を作り出す。

 

 だがこちらには電磁の壁がある。「パラボラチャージ」で構築された壁が小石の散弾を受け止めた。

 

 肉迫の距離に至ったアーロンの放った電気ワイヤーがランクルスの頭上を行き過ぎ、カトレアにかかろうとする。

 

 バクフーンが炎の襟巻きを拡張させて火炎弾をランクルスへと放った。

 

 如何にランクルスが強かろうともバクフーンの「ふんえん」をまともに受け切るだけの防御力はないはずだ。加えてこちらの電撃をかわしきる術もない。

 

 ランクルスとカトレア。どちらかは確実に取ったはずであった。

 

「……本当、度し難いって言うのかしら」

 

 ランクルスが掌の中に金色のエネルギー球を装填する。

 

「気合玉を頭上で炸裂させなさい」

 

 なんと、ランクルスは「きあいだま」を攻撃に用いたのではない。

 

 頭上で破裂した強大なエネルギーの球体は閃光弾の役割を果たしたのだ。

 

 接近していたアーロンは波導の眼を一時的に潰される形となった。眩い光が網膜の裏に焼きつく中、バクフーンが念動力で弾き返される。

 

「〈蜃気楼〉……。シャクエンは」

 

「他人の心配、している場合?」

 

 ランクルスの腕がアーロンの首根っこを押さえ込む。そのまま締め上げられた。波導を使おうにも見えなければ切断も出来ない。

 

 至近の距離にありながら、ランクルスの弱点を攻める事も出来なかった。

 

「これが、力の差、というものよ。フロンティアブレーンはあなた程度の殺し屋には負けないし、あなただってここまで」

 

 ここまで。その決定的な宣告に通常ならば怯み、恐れ、ここで負けを認める。

 

 ――だが、自分は。

 

 追い求めなければならない真実がある。アンズが何を思い、何のために自分達から距離を置こうとしたのか、知らなければ前に進めない。

 

 退路など存在しないのだ。

 

 もう、進むしかない。

 

 その胸中でさえも、カトレアには見通されていた。

 

「……どうして、そこまであの殺し屋にこだわるの? 所詮、殺し屋同士の友情なんて存在しないのでしょう? それとも、恋慕かしら? 慕情の念が、あなた達を繋ぎとめているの? 切れそうな関係性を、あなた達は無理やり保っているように見えるわ。どうせ、あなた達を別つのは死だけ。最後にはそれしか待っていないのにどうして? 希望なんてないのよ」

 

「……かもしれないな。だが俺は、だからこそ」

 

 ランクルスの腕に亀裂が走る。

 

 カトレアがハッとして念動力でアーロンを突き飛ばした。

 

 その目が見開かれ、驚愕を露にしている。

 

「何をしたの……。今、あなたの眼は潰されていて、波導も見えないはずなのに、何故……」

 

 ランクルスを包むゲル状の皮膜が崩れている。再構築しようとするが、それは成されなかった。波導回路が切られているのだ。再生は出来ない。

 

「波導は見えないはずじゃ……」

 

「ああ、そうだ。だが逆転の論法だ。フロンティアブレーン。波導は生物の根源。全てのものに波導は存在し、万物を司っている。ならば波導の存在しないものから逆算し、切り取られたその部位を破壊すればいい。今の俺の眼には」

 

 顔を上げる。カトレアが息を呑んだ。

 

 アーロンの開かれた眼には青い波導が纏いつき、瞳孔は赤色であった。

 

「――波導を持たない全てが視界に入っている。これがフェイズ2だ」

 

 それは全て、波導を見る眼を潰された際の事さえも戦闘の領域に入れていた師父の教えであった。

 



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第九十九話「家族と呼べる場所」

 

「もし、波導を見る眼を眩ませる術を持つ相手がいるとすれば、お前の天敵となるだろう」

 

 師父はいつものように木の根に腰を下ろして文庫本のページを捲っている。

 

 ルカリオの拳をいなし、アーロンが電撃を叩き込もうとしたがまだルカリオの守りは堅牢であった。

 

 すぐさま波導の皮膜で電撃を応戦し、拳を叩き込んで距離を取る。

 

 ルカリオから一本を取るのが難しくなってきたそんな折であった。

 

「師父、どういう事ですか」

 

 呼吸も乱れなくなってきた。波導を使って戦う時、自分の体内の波導は最小限に抑えられる。だから呼吸も乱れないし、疲れも滲まない。

 

 師父は文庫本を閉じ、アーロンを手招く。

 

「この世には、本来の視力を持たないのに波導の見える稀有な人間だっている。そういう人間の波導回路はどうなっているのか、わたしは検証した事がある」

 

「どうやって――」

 

 そう口にしようとしたアーロンの眼を師父は波導を使って眩ませた。ブラックアウトに戸惑うアーロンへとルカリオが手足を押さえつける。

 

「こういう状況に立たされた場合、波導使いは不利だ。だが、勝つのにはこの状況さえも考慮に入れなければならない。お前の場合は波導の切断技術が常に必要とされる。見えない場合、その戦力は落ちたと思っていい」

 

「し、師父……。何も見えない」

 

 アーロンがうろたえていると師父がその手を掴んだ。

 

 すると眩んでいたはずの視界が蘇り、再び波導の世界が入ってくる。

 

 だが、その波導の世界は今までとは少しばかり違った。

 

 ――黒と青だけの世界なのだ。

 

 草原であったはずの地面は黒と揺れる青に染められ、波打っている。

 

 太陽のあるはずの空間から青い光が放射するものの、それは万物に降り注いでいるのではなく、陰になっている場所には波導の色がない。

 

 黒と青しかない。

 

「これは……」

 

「これがフェイズ2。もし、波導の眼を潰された場合、お前が取る戦術だ」

 

 黒と青の世界の中で師父とルカリオだけがはっきりと輪郭を持っている。だが師父の姿もまるで幽鬼だ。青い幽霊のように漂っている。

 

「形のない世界みたいだ……」

 

「正しいな。フェイズ2において、形状は存在しない。その眼は波導のあるなしだけを見分ける、一種のセーフモードだと思え。当然、セーフモードなのだから通常の波導より精度は落ちるが、この視界に時のみ分かるのは明確に波導の脈動だけ。逆転の論法だ、アーロン。この状態の時、お前の波導切断戦術は通常よりも素早く、なおかつ正確になる。それは波導のみを見分けるこの視界には余計な情報がないからだ。余分を見なくていい分、波導切断は速くなる。だが、これは諸刃の剣だ」

 

 師父がすっと自分の視界を何かで遮る。すると視界は元に戻っていた。

 

 どうやら手で遮られたらしい。それさえも分からなかった。

 

「師父、これは使う時が来るんですか?」

 

「相手も波導の特徴を分かっている場合、だな。その場合のみ有効な、ある意味では最終手段。しかし、以前言った通り波導使いは波導を使えば使うほどに死が近づく。このフェイズ2もそうだ。波導を精密に用いるせいで通常よりも多く波導を使う。厳密に言えば、寿命が五年は縮まったと思っていい」

 

 アーロンは息を呑む。そんなに、と考えていると師父は再び文庫本に視線を落とした。

 

「だが、覚えておいて損はない。波導使いをいずれ殺さなくてはならないわたし達の宿命だ。相手もそれなりに波導に精通している場合、この視界を使え。これは戦術の一つであり、なおかつ確実に相手を倒すという波導使いのコンセプトに則ったものだ。この眼を使う時は躊躇うな。全力で相手を潰せ。でなければ次はないぞ」

 

 師父の真剣な声音にアーロンは言葉を失っていた。五年は寿命を縮まらせる諸刃の剣。

 

 しかしそれでも、使わなくては勝てない場合もある。

 

 波導使いは勝利が前提条件。

 

 敗北は即ち死を意味する。

 

 波導を見破られる前に消せ。

 

 相手より速く、相手よりも強くあれ。

 

 命を削る術であったとしても、勝利にこだわらなければならない局面がある。

 

「師父、でも相手が波導使いを上回るなんて、あり得るんですか? 教えを乞えば乞うほどに、波導使いに敵う相手なんていないような気がします」

 

「それは錯覚だ。わたしとだけ戦っているからそう思うだけ。波導使いの本質が全く通用しない相手もこの世には存在する。そして、この牙が一切届かぬ相手もまた、存在するのだ。いいか? 慢心は死を招く。波導使いは常に死の瀬戸際で戦っているのだと自覚しろ。この波導は、相手に悟られればそれまでだ」

 

 そのような相手がいるなど半信半疑であったが、アーロンとして戦う以上は心得ておく必要があるのだろう。

 

 ルカリオが拳を固めて構えを取る。アーロンはピチューを肩に乗せて右手を突き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「フェイズ2……。そんな波導の使い方が……」

 

 カトレアが言葉をなくしている。無理もない。この波導の戦闘術は今まで見せた事がないからだ。恐らく師父も、本当に倒すべき相手にしか発揮していなかったのだろう。

 

「悪いが長話はしていられない。行くぞ」

 

 エリキテルの放った電気ワイヤーがランクルスへと巻きつく。ランクルスの崩壊した腕の断面を射抜いた電気ワイヤーがそのまま引き寄せられた。

 

「ランクルス……! まさか、切り崩した部位を使ってくるなんて」

 

「勝てる手は全て打たせてもらう」

 

 ランクルスが逃れるためには大きく方法は二つ。

 

 念動力でアーロンそのものを潰すか、それとも射抜いた電気ワイヤーの部位ごと切り離すか。

 

 既に波導切断で力を失っている部位をカトレアは迷わなかった。

 

「切りなさい!」

 

 もう一方の腕でランクルスは断面を引き裂く。ゲル状の身体が切り離されるが、それこそアーロンの目論見であった。

 

「外したな。ならば、これでどうだ?」

 

 電気ワイヤーから波導を感知し、アーロンは切り離された部位を活性化させた。

 

 ゲル状の切断面が輝き、なんと離されたランクルスへと特攻を仕掛ける。

 

 その動きにはさすがのカトレアも瞠目したらしい。

 

「切り外したはずの部位が、動くなんて……」

 

「切り離しても波導は存在する。万物に分け隔てなく、たとえ死んだはずのものであったとしてもその直後ならば、まだ生きている波導を活性化させ、返ってくる爆弾に出来る。それ、今に切り離したはずのそれが返ってくるぞ」

 

 ゲル状の切断面が跳ねてランクルスへと絡みつく。電気ワイヤーのリーチがその分上がり、アーロンはフェイズ2の視界にランクルスの存在を感知した。

 

「これで……!」

 

「させない! サイコキネシス!」

 

 カトレアの放った声にランクルスから思念の渦が発生し、絡みついた切断面を破砕する。それだけのサイコパワーを持つランクルスは脅威だが、それ以上に恐ろしいと感じているはずだ。

 

 切ったはずの部位さえも武器にするこの波導使いの所業が。

 

「なんて事……。こんな、悪足掻きみたいな戦いが……」

 

「悪いな。戦いを綺麗なものだと、思った事はないんでね」

 

 再び放った電気ワイヤーはランクルス本体を狙う。当然、ランクルスは「サイコキネシス」で叩き落そうとした。しかし、直前にアーロンは声を放つ。

 

「パラボラチャージ!」

 

 電気ワイヤーが一挙に弾け、青い電磁の皮膜を構築する。「サイコキネシス」のエネルギーが吸収され、壁となった。

 

「パラボラチャージで吸収、壁を構築なんて」

 

 相手からしてみれば即席の壁が眼前に立ち現れたようなもの。当然、アーロンの次の挙動をカトレアは読めない。

 

 アーロンは自身の脚部に電撃を注ぎ込む。

 

 波導を細部まで押し込み、高速の域に達した脚力が瞬時にカトレアとの距離を詰めた。

 

 最初からランクルス狙いではない。トレーナー本体を狙うつもりであった。

 

 カトレアの頭部を右手が引っ掴もうとする。

 

 勝った、とアーロンは確信する。

 

 だが、それを引き裂いたのは絶叫であった。

 

「いや……いやぁっ!」

 

 カトレアの「声」が瞬時にエネルギー体と化す。瞬間的に発生した思念の嵐はポケモンのそれを遥かに凌駕するものであった。

 

 アーロンは至近で受け止めたせいで吹き飛ばされる形となる。

 

 必死に制動をかけたが、あまりに近かったせいで飛んでくる破片は避けられなかった。肩口に鉄片が食い込んでいる。

 

 血が滲み、激痛が走った。

 

「何だ、これは……」

 

 ようやく戻ってきた通常の視界でアーロンはそれを見据える。

 

 カトレアが肩を荒立たせて佇んでいた。彼女の周囲の空間がねじれ、緑色のオーラが棚引いている。

 

 波導ではない、とアーロンは感じ取る。

 

 波導感知を実行するも、その緑色のオーラの正体が掴めなかった。

 

「わたくしは、こんな事で取り乱してはいけないのに……」

 

 必死にその波長を押し留めようとしているようだった。どうやらカトレアからしてみてもイレギュラーらしい。

 

 呼吸を整えていくとオーラが薄らいでいった。

 

 暫時、アーロンとカトレアとの間に沈黙が降り立つ。

 

 今の思念の嵐、もし確定で使用出来ていればこちらがやられていた。

 

 息を詰めているとカトレアは首を横に振った。

 

「……行きなさい。わたくしの力が暴走したという事は、それはもう平時でのバトルではない。至らないわたくしの弱さが露呈したという事。もう戦闘意欲はないわ」

 

 カトレアがランクルスをボールに戻す。驚いたのはこちらであった。

 

「勝負を投げるのか」

 

「もう勝負にならない、と言っているのよ。フロンティアブレーンは格調高いポケモンバトルが売りの集団。だというのに、わたくしは感情で戦ってしまった。一時とは言え、それは弱さ。自分を律する事の出来ない人間は、フロンティアブレーンを名乗る資格はないわ」

 

 カトレアが完全に矛を収めるつもりらしい、と理解したアーロンはこちらも攻撃姿勢を解いた。

 

「コクランはでも、わたくしなんかより本気よ。彼の正義感を侮ってはならない。瞬撃抹殺がフロンティアブレーンの命題だというのならば、彼はやってのける。手遅れにならないうちに行きなさい」

 

 カトレアは、というと呼吸を整え、その場にへたり込んだ。

 

 アーロンが手を貸そうとすると、「来ないで」と声が飛んだ。

 

「勝者にそこまでされたらわたくし、悔しさでどうにかなってしまう。あなたは勝ったのよ。次に進みなさい」

 

 その言葉を受けてアーロンはビルの壁面を目にした。

 

「行くぞ」

 

 電気ワイヤーで跳躍しようとするとコートを引っ張られた。

 

「アーロンさん。あたしも、アンズちゃんを説得したいです」

 

 メイが、決死の覚悟を口にしていた。アーロンはしかし、突き放す。

 

「俺でも瞬撃の道をどうこう出来るとは限らない。奴とて暗殺者だ。暗殺者には暗殺者のルールがある。その流儀に、余人が口を挟めるものじゃない」

 

「でもあたし達、一時でも家族だったじゃないですか……!」

 

 家族。その言葉にシャクエンと交わしたかつての自身の過去が思い出される。

 

 自分は血を軽んじていた。血の因縁だけは取り払えないと師父は言っていた。

 

 ――では血の繋がらない、家族はどうなのだ?

 

 血は繋がっていなくとも、ましてや関連性など一時期のものでしかなくとも、それは家族と呼べるのだろうか。この世で最も尊ぶべき、血の宿命と同じだと言えるのか。

 

 アーロンには答えは出せなかった。

 

 ただメイは、その答えの一端を持っている気がした。

 

「……言っておくが戦闘になれば振り落とす」

 

「分かっています。あたしだって、戦える」

 

 メロエッタの入ったボールをメイがさする。アーロンは電気ワイヤーをビルに引っかけた。

 

「行くぞ」

 

「はい」

 

 メイを抱えたままアーロンは戦闘域を跳躍した。

 



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第百話「心の在り処」

 

 もう戻れないのだと、アンズは思っていた。

 

 メモリアの流通。それが死罪にまで関わるものだとは思わなかった。だが思わなかった、で許されるものではないのだろう。

 

 その証拠にビルの谷間に追い詰められ、メガスピアーを盾にしてようやくこの状況を律している自分がいた。

 

 相手の紳士――コクランは焦る事はない。メガシンカポケモン相手に急く事もなく、じわじわと真綿で締め付けるように、少しずつダメージを与えていく。

 

 こちらが隙を見せれば一撃。その隙を補完するために反撃すればさらに隙を見つけて一撃、とちまちましたものであったが、メガシンカポケモンを相手取るのに慣れた戦法であった。

 

「……性が悪いわね。あたいのメガスピアーに真正面から挑まず、さっきからチマチマと」

 

「悪いが、メガシンカを侮ってはいないのでね。確実な手で詰ませてもらう」

 

 コクランは眼鏡のブリッジを上げて手を薙ぎ払う。

 

 キリキザンが思念の刃を振るい上げてメガスピアーへと接近する。

 

「メガスピアー! ダブルニードル!」

 

 槍術の構えを取ったメガスピアーがまず一撃の突きをキリキザンに放った。キリキザンは刃の腕でそれをいなす。しかし真打はもう一撃の構えた針である。

 

 大きく隙の出来たキリキザンの腹部へと針が突き刺さった。コクランはうろたえず、そのままキリキザンに命じる。

 

「針をくわえ込め。メタルバースト」

 

 刃の肋骨がメガスピアーの針をがっちりとくわえる。外れなくなった針が射程外に逃げる事をよしとしなかった。

 

 放たれた鋼の散弾がメガスピアーの針を攻撃する。

 

 亀裂が走り、メガスピアー本体にもダメージが至った。このまま消耗戦を続けても勝つのは不可能だ。

 

 ――何よりも、とアンズは手首に巻いたキーストーンから伝わる脈動の乱れを感じていた。

 

 トレーナーとポケモンとの同調も限界に来ている。

 

 メガシンカが解けてしまえば、それこそ格好の的だ。

 

 切れそうな集中を必死に留めるも、それは大きな隙となってキリキザンに攻撃の機会を与えてしまう。

 

「キリキザン。そろそろとどめを。サイコカッター!」

 

 キリキザンが大きく片腕を引き、紫色の思念の刃を拡張させる。ビルの壁面を切りつけ、その攻撃が完遂されようとした。

 

 アンズは奥歯を噛み締める。

 

 ここまでか。

 

 そう感じたその時であった。

 

「〈蜃気楼〉! 噴煙!」

 

 響き渡った声と共に火炎弾が空から降り注ぐ。その炎は自分とキリキザンの間に割って入った。

 

 キリキザンが咄嗟に飛び退る。

 

 不可視の獣が降り立ち、炎のフィールドを顕現させる。その獣に追従したのは黒衣の少女であった。

 

「シャクエン、お姉ちゃん……」

 

 シャクエンは手を払い、バクフーンに攻撃を命じる。即座に炎熱を発生させてキリキザンを退けた。

 

「何の真似でしょうか。この街の殺し屋、炎魔」

 

「アンズは、殺させない」

 

 コクランは肩を竦める。

 

「分かりませんねぇ。あなた方の信頼、とやらは。その瞬撃の殺し屋は、あなた達から偽って、メモリアという危険薬物を流入させていた。咎人なのは明らかです。本人も認めている。だというのに、何故庇うんです?」

 

「私が守ってもらえたように、彼がアンズを信じているから、私も信じる事にした。たとえ罪の道だとしても、理由も聞かずに殺させはしない」

 

「それが分からぬ、と言っている。キリキザン、辻斬り!」

 

 闇の刃がキリキザンの腕から引き伸ばされ、バクフーンを襲った。漆黒の風が突き抜け、一瞬だけシャクエンの眼を眩ませる。

 

 その一瞬でキリキザンが跳躍していた。

 

 シャクエンはバクフーンに指令する。

 

「噴煙で遮って!」

 

 バクフーンの襟巻きが翼のように伸長し、ビルの壁面をぐずぐずに溶かして壁を作り出す。

 

 しかし、キリキザンの使った「つじぎり」はただ単に攻撃の領域を延ばす事だけを目的としたものではない。

 

 足先に纏いついた闇の瘴気が炎を減殺させているのだ。全身これ武器というキリキザンならではの戦法であった。

 

「辻斬りは何も手で使うだけのものではない。足先に纏った瘴気の渦で、今のキリキザンには炎を物ともしない脚力がある!」

 

 炎の壁を蹴ってキリキザンが舞い降りる。

 

 それはちょうどシャクエンの背後であった。

 

 シャクエンが手を払って命令しようとするのを、その首筋へと狙いを澄ませた切っ先が遮る。

 

「王手、というものですね。トレーナーの喉を潰しても、ヤマブキ随一の殺し屋は通用しますか?」

 

 バクフーンの反応さえも間に合わない。まさしく王手であった。

 

 シャクエンが歯噛みしたのが伝わる。これ以上の応戦は無意味と判じたのだろう。

 

「我らフロンティアブレーンは殺し屋程度に遅れは取らない。言っておきますが、――私はあなた方よりも強い」

 

 突きつけられるまでもない。既に勝敗は決していた。

 

 炎の壁が剥がれ落ち、眼鏡のブリッジを上げたコクランの姿が視界に入る。

 

「さて、頼みの綱も切れましたね。炎魔シャクエン。かなりの使い手でしたが、私には及ばない。フロンティアブレーンの強さ、とくと刻み込んだ事でしょう。キリキザン、瞬撃を」

 

 キリキザンが拡張した闇の刃をメガスピアーに突きつける。応戦のしようもない。メガスピアーから戦意が凪いでいった。それは自身の力の及ばなさを意味している。

 

 紫色のエネルギー核が剥がれ、メガシンカが解けた。

 

「悪く思わないでくださいね。これも、世界秩序のため」

 

 キリキザンがスピアーを跳ね除ける。

 

 一撃であった。ただの払っただけの腕でスピアーは羽虫のように壁にめり込んでしまう。

 

 アンズは膝を落とした。

 

 もう戦えない。これ以上、自分は抵抗さえも出来ない。

 

「メモリアを流通させた罪。その命で償いなさい」

 

 キリキザンがその手を掲げる。刃が陽光に煌いた。

 

 ああ、終わった、とアンズは目を瞑る。

 

 不思議と網膜の裏に蘇るのはこの街に来てからの記憶だった。

 

 メイやシャクエン、アーロンとの日々。

 

 偽りもあった。騙し合いもあった。しかしそれ以上に――満ち足りていた。

 

 どうして、とアンズは感じる。

 

 実の父親であるキョウの下で育て上げられた暗殺の記憶よりも鮮明に、彼らとの日々が胸を打つのだろう。

 

 自分は暗殺一門の誉れ。暗殺術を叩き込まれた鉄の少女。

 

 なのに何故……、何故その心の在り処は、故郷のセキチクではなく、この混沌とした街にあるのか。

 

 どうして、こんなにも涙が頬を伝うのか。

 

「死罪を」

 

 コクランがすっと手を振り下ろす。

 

 その瞬間、鋼鉄の刃が肩を引き裂いた。

 

 血染めの視界に、滲む青空。

 

 どうして、ここまで綺麗な空が、自分を迎えるのか。

 

 迸る血の臭い。自分の血は嗅いだ事がなかったな、と今さらの感慨が胸を占める。

 

 面を伏せたアンズへと今度はキリキザンが首筋へと狙いを定める。

 

 首を落とす気なのだ。

 

「最後に聞きましょう。メモリアを流通させた事、後悔しているかどうか。しているのならば、一撃で死なせてやりましょう」

 

 アンズはその問いに頭を振った。

 

 やらなければならない事であった。その使命に、後悔など挟む余地はない。

 

「そう、か」

 

 少しだけ残念そうな響き。

 

 キリキザンの腕が無慈悲に振るい落とされた。

 



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第百一話「黒蘭」

 

 振るわれるはずのキリキザンの腕が中空で静止した。

 

 コクランがハッと目を見開く。極細の電気ネットがその手首に絡み付いていた。

 

「まさか! 波導使い!」

 

 振り返ったコクランへと青の死神が降り立つ。

 

 電磁の刃が弾き出され、自律的に動いたキリキザンの刃と干渉波のスパークを広がらせた。

 

「どうして……。カトレア様を、どうした、貴様ァ!」

 

 吼えるコクランに対してアーロンは冷静であった。

 

「勝ってここに来た」

 

 短いながらもその声音に滲んだのは決死の覚悟であった。

 

 エリキテルの発生させた「パラボラチャージ」の皮膜とキリキザンの鋼鉄の刃がぶつかり合ってお互いに後退する。

 

「アンズちゃん!」

 

 メイがアンズへと駆け寄っていった。アンズの肩口から血が流れ出ており、早急な処置が求められた。

 

「悪いが、長引かせられない。終わらせるぞ、フロンティアブレーン」

 

「カトレア様を……、カトレア様を、害したな、この腐れ外道が!」

 

 眉を跳ねさせたコクランの怒りに同調してキリキザンが闇の刃を振るい落とす。電気ワイヤーで弾くが、やはり反応速度の面で遅れた。

 

 墨のように弾けた刃の一部がアーロンのコートを切り裂く。

 

「一撃でももらえば厄介、だな」

 

「キリキザン。もう、情けは無用です。殺しなさい」

 

 キリキザンの足先から瘴気が滲み出て、その身体を突き上げる。闇の流動に任せて、キリキザンが手を払った。

 

 それだけで地面を這って闇の刃が拡散する。

 

 塔のように屹立した闇の一点を触媒に、全方位へと刃による波状攻撃が放たれるのだ。

 

「これが、真の辻斬り!」

 

 その言葉にはいささかの誇張もない。

 

 どの方位から、どの速度で向かってくるかも分からないこの攻撃こそが真の「つじぎり」だとするキリキザンの攻勢にはアーロンとて苦戦した。

 

 エリキテルの「パラボラチャージ」による擬似的な皮膜だけでは防御し切れない。加えてコクラン本体に攻撃しようとしても、闇の刃は防御膜としても優秀であった。

 

 拡散した闇の一部が薄い壁となり、電気ワイヤーを通さない。

 

 舌打ちするアーロンに中空から、キリキザンが刃の指示を飛ばす。

 

 俯瞰するキリキザンの視界から逃れるのには、このビルの谷間は狭かった。

 

「キリキザンをやるしかないのか……。だが距離があり過ぎる」

 

 電気ワイヤーを飛ばしても距離の関係で勢いが削がれ、到達する頃には手で弾かれてしまう。

 

 攻撃だけに意識を向けていてもまずい。四方八方から迫り来る闇の刃の追撃をいなす手段を持たないアーロンはじわじわと追い詰められていた。

 

「ポケモンに俯瞰させて、その視界に入っている相手を全方位から囲い、切り裂く。なるほど、キリキザンの攻撃特化の性能をきっちりと理解した攻撃である」

 

「分かり切っている事を! 波導使い! 私のキリキザンから逃れたくば、この戦闘領域を後にする他あるまい。それか、このバトルゾーンを広げるか、だが、四方を背の高いビルに囲まれた死角。どう足掻いても逃げ場はない」

 

 アーロンは遂にビルの壁面に背筋をつける結果となる。

 

 シャクエンが手を薙ぎ払ってバクフーンを向かわせようとするが、バクフーンの攻撃範囲さえも心得たキリキザンは足先から迸る闇の瘴気を変化させて、まるで蛇のように自在に火炎弾を回避した。

 

「鋼に炎が効く、というのは同じ地平での話。この戦法を選んだ時点で、私の勝ちは揺るぎない」

 

 シャクエンが苦渋に顔を歪ませた。

 

 アーロンはビルの壁面に手をつきながら口を開く。

 

「聞くが、お前は逃げる気はないのだな?」

 

 その問いの意味が分からなかったのだろう。コクランは哄笑を上げる。

 

「馬鹿を言え。今に勝てると言う段になって、誰が逃げるというのだ」

 

「そうか。それは、残念だ」

 

 キリキザンが闇の刃を一斉にアーロンに向けて放つ。着弾点から粉塵が舞い上がり、アーロンの姿を塵の中に隠した。

 

「アーロンさん!」

 

 メイの声が弾ける。

 

 コクランは眼鏡のブリッジを上げた。

 

「勝った!」

 

「――そう思えれば、どれだけ楽だろうか、な」

 

 不意に発した声にコクランが仰天する。粉塵はアーロンに着弾したから発生したのではない。

 

 アーロンの指先から電気を触媒にした波導が広がり、地面から土煙を発生させたのだ。

 

 アーロンは目を閉じ、波導感知を研ぎ澄ます。

 

 四方八方のビルの全てが、既に――アーロンの波導の手中であった。

 

「砕けろ」

 

 その声にビルが崩落する。亀裂の走ったビルが血飛沫のように粉塵を巻き上げ、内側に向かって崩れ落ちてくる。

 

 キリキザンを放ったコクランはその反応が遅れた。

 

「まさか! こんな戦法など!」

 

「これが、波導使いのやり方だ」

 

 アーロンは電気ワイヤーを放ち、メイとシャクエンを引っ張り込む。

 

 メイがアンズを抱えていた。

 

 アーロンは三人分の体重を一手に背負い、ビルの直上へと跳躍する。

 

「あ、アーロンさん! 落ちる、落ちちゃう……」

 

 電気ワイヤーを掴むメイが今にも落下しそうになる。アーロンはその手を掴んで引き寄せた。

 

「馬鹿だな。瞬撃の体重まで背負うからだ」

 

「でも、アーロンさんなら助けてくれるんでしょう?」

 

 むくれたメイの腕にはアンズが抱えられている。まだ生きているのが、波導を見て分かった。

 

「傷口を癒す方法はない。すぐにでもカヤノのところへ――」

 

 そう言いかけたアーロンの肌をプレッシャーの波が粟立たせた。

 

 咄嗟に三人を放り投げる。シャクエンのバクフーンによって無事に着地したメイであったが、突然の事に悲鳴が迸る。

 

「な、何やってくれちゃってるんですかー!」

 

 アーロンはその言葉に答えられなかった。

 

 答えようとしたが、地表より発生した鋼鉄の散弾を受け止めるので精一杯だった。

 

「メタルバースト……。まさか、まだ」

 

 波導の眼を用いるまでもない。円形に切り抜かれたビルの谷間で、キリキザンを操るコクランは健在であった。

 

「埃がついてしまった」

 

 コクランは今の攻撃で逆に冷静さを取り戻したらしい。スーツの埃を払い、キリキザンに命じる。

 

「墜ちろ、波導使い」

 

 間断のない鋼の散弾に、アーロンは空中で電磁の皮膜を形成する。

 

 だがそれはもう維持出来そうになかった。エリキテルの限界が来たのだ。

 

 電気の気配が失せ、その波導も弱まっている。やはり即席の手持ちでは波導の運用には限界が発生した。

 

 せめて電気ワイヤーだけでも発生させてくれたのは僥倖だろう。アーロンはビルの一部に巻きつかせて着地する。

 

 だが、すぐさまキリキザンの猛攻が襲う。

 

 手足に薄い波導の皮膜を纏いつかせて刃を紙一重でいなすが、キリキザンの容赦のない攻撃に致命傷を免れるのがやっとだった。

 

 体術ではポケモンを上回る事は出来ない。キリキザンの蹴りが鳩尾に食い込み、アーロンは吹き飛ばされる。

 

 背筋を強く打ちつけ、意識が混濁しそうになった。

 

 エリキテルは、と言えば両耳のひだを垂れさせて電気切れを訴えている。必死に波導を用いる戦法を脳裏に呼び覚まそうとしたが、近場に武器になりそうなものもない。

 

「ここまでやるとは思わなかったよ。波導使い。だが、もうここまで」

 

 キリキザンがすっと刃を首筋に向ける。アーロンが歯噛みした、その時であった。

 

 不意に陽光を遮る影があった。銀色の翼を広げたそれから何かがぱっと切り離される。アーロンの眼はそれを捉えていた。一歩、とアーロンは咄嗟に手刀で土煙を発生させてキリキザンの視界を奪う。

 

 キリキザンがおっとり刀で振り下ろした手刀を間一髪で避けたアーロンの手には、モンスターボールが収まっていた。

 

 エリキテルをボールに戻し、アーロンは立ち上がる。

 

「まさか……まさか!」

 

 コクランが手を薙ぎ払う。闇の刃が瞬時に拡張し、アーロンの身体を煽ろうとした。

 

 突風と土煙の中、アーロンは緊急射出ボタンを押し込む。

 

「――行け」

 



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第百二話「切り札」

 

 闇の刃がアーロンにかかったかに思われたその刹那、キリキザンの手が止まっていた。

 

 瞬時に構築された電気ワイヤーが地面から這い登り、その手を縫いつけたのだ。

 

「それが、波導使いの本気のポケモンか……。波導使いアーロンの!」

 

「ピカチュウ。待たせたな」

 

 アーロンの肩口に留まったピカチュウが頬の電気袋から青白い電流を放つ。

 

 相棒の準備は万端であった。

 

 アーロンはここまでピカチュウを運んできた銀翼のポケモンを見やる。恐らくはホテルのエアームドだったのだろう。

 

「ホテルの仕業、か。また借りを作ったな」

 

「キリキザン!」

 

 コクランの声が弾け、キリキザンが肉迫する。しかしアーロンは手を軽く振るっただけであった。

 

「エレキネット」

 

 作り上げられた電気の網がキリキザンの腕を縛りつけ、そのまま転倒させる。いつの間にか足元に張られた電気ワイヤーに躓いたのだ。転がったキリキザンの両脚を電気ワイヤーが縛り付ける。

 

 瞬間的な出来事にコクランもついて来られていないらしい。

 

「こんな……。なんて速さ」

 

 ピカチュウの放った「エレキネット」による拘束がキリキザンを完全に無効化した。アーロンは電気ワイヤーの末端を握り締め顔を上げる。

 

「もう、俺は負ける気がしない。それでもやるか?」

 

 コクランが後ずさる。今の鮮やかな手際はエリキテルを操っていた時の比ではない。それは熟練したポケモントレーナーならば一瞬で分かるはずだ。

 

「キリキザン。もうこれ以上は」

 

 コクランがボールを突き出し、キリキザンを戻す。戦意ももう存在しないようだった。

 

「一つだけ、聞いておきたい。波導使い。あの瞬撃は、法を犯した。重罪人だ。それでも救う理由を聞かせてくれ」

 

 肩越しにアンズへと視線を流すコクランにアーロンは言ってのける。

 

「俺にも、よく分からない。だが、あの馬鹿が言うには、家族、であったらしいからな」

 

 血の繋がりはなくとも、この世で最も尊重するべき関係性ならば、救う事に理由はいらないはずだった。

 

 コクランはフッと口元を緩める。

 

「本当に、完敗だよ、波導使い。私はそこまで世界を敵に回せない。敬意を表しよう。カトレア様も、私がいなくては」

 

「ここで俺達を逃がしていいのか? お前の仕事は」

 

「メモリアの流通を押さえるというのならば、本来の仕事はプラズマ団を倒す事だ。流通の中に浮かんできた瞬撃を倒す事はついででしかない。私とカトレア様はプラズマ団を追う。あなた達は、あの瞬撃が命を賭してまでメモリアというものにこだわった理由を探るといい。私にはもうこれ以上の興味はない」

 

 コクランは踵を返す。アーロンはその背中に声を投げていた。

 

「いいトレーナーだ。強かった」

 

「賞賛のつもりか? 私からも言わせてもらう。波導使い、その強さは本物だ。伝え聞くよりも強かった。私も、学ぶところがあったよ」

 

 立ち去っていくコクランをアーロンは呼び止めずに崩落した瓦礫の中を歩んでいった。

 

 アンズの肩口から血が滲んでいる。命に関わるほどの傷ではないが、早急に処置が必要であった。

 

「カヤノのところへ連れて行こう。まずは治療だ。その後に、全てを聞く」

 

 この騒動の全て。アンズは何のために違法薬物に手を出したのか。

 

 ゆっくりと聞き出さなければならなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 網膜の裏に映る記憶がゆっくりと再生される。

 

 父親との静かな記憶だった。

 

 自分は物心ついたときから暗殺の道を学んでいた。毒使いという誉れはセキチクでは立派な称号だ。代々、毒を操る名家であったアンズの家系では男よりも女のほうが優れていた。

 

 親戚が集まった時、アンズはよく期待の眼差しを向けられた。

 

「いい毒使いになる」

 

「毒を操る事にかけては東西一のキョウさんの娘さんだ。きっと、強くなる」

 

 そのために鍛錬を重ねた。メガシンカも習得し、スピアーを無音と高速で使い分けられるほどに成長した。

 

 だが、そんなある日であった。

 

 父親が石化した身体を引きずりながら帰ってきた。

 

 それ以来、かけられる言葉は呪詛であった。

 

「石化の波導使いを、いずれ殺して欲しい」

 

 父親のためだ。自分は、それ以外を考えてはいけないのだ。

 

 親戚や周囲の人々の羨望は消え去った。既に暗殺者として再起不能となった父親に学ぶ健気な娘。

 

 もう暗殺一族は終わりだ、と無言の圧力がかかってきた。

 

 アンズはふと思う時がある。

 

 自分は誰のために殺し屋になろうと思ったのか。

 

 父親のためか? 

 

 それとも、自分自身の憧れか?

 

 その境目が曖昧になって、アンズは時折、誰のために人を殺すのだろう、と疑問が浮かぶようになった。

 

 人殺しにもう罪悪感はない。

 

 しかし遂行するたびに起こるのは懐疑であった。

 

 何のために、誰のために、いつ終わるとも知れぬ殺しの道。

 

 波導使いを殺せ、という曖昧な言葉を繰り返す父親。

 

 もう憧れも、羨望も失せた家系で、ただただ朽ちていく時を待っている。

 

 一度、聞いてみた事があった。

 

 自分の母親についてだ。

 

 母親はどういう人だったのか。愛情はあったのか。

 

 その時、酷い折檻を受けた記憶がある。

 

 どうしてだか普段は怒りもしない父親が激怒した。

 

 ――そんな事は気にしなくともいいんだ。お前は殺しさえすればいい。

 

 自分は機械なのだろうか。

 

 そう思う事さえもある。

 

 マシーンのように人を殺し、マシーンのように、無感情に、裏切り裏切られ、他人を騙し、欺き、嘲笑い、血に染まった手を持て余す。

 

 ああ、自分は――。

 

 血に染まった丘でアンズは両手で顔を覆う。

 

 何て、卑しい小娘――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「気がついたか」

 

 目を覚ますとベッドに寝かしつけられていた。声の方向に視線をやる。

 

 アーロンが椅子に座っている。他の人間はいなかった。

 

「メイ、お姉ちゃんとシャクエンお姉ちゃんは……」

 

「二人とも無事だ。お前だけだ。今回、怪我をしたのは」

 

「そう。……あたい、嫌な女だよね。勝手に我が道を行って、みんなを結果的に巻き込んでしまった」

 

「いい。馬鹿は一蓮托生だと思っているし、シャクエンも覚悟の上だと」

 

「でも、お兄ちゃんは違うんでしょう?」

 

 顔を振り向けると、アーロンは首肯する。

 

「何の理由で、メモリアなんかに手を出した」

 

 責め立てる口調だった。当たり前か、とアンズは目を伏せる。身勝手に自分だけの理由で動いたのだ。その結果が他人へのしわ寄せだったのだからアーロンが怒るのも無理はない。

 

「あたいは、セキチクの毒使いの暗殺者。瞬撃の名を継ぐ者。だからあたいに薬は効かないし、無毒化する事なんて容易い」

 

「メモリアを、無毒化するつもりだったのか?」

 

 アンズは身を起こそうとして肩口に熱を持っているのが分かった。まだ身体が言う事を利かない。

 

「そう。メモリアを無毒化して、純粋に、記憶の部分を刺激する薬剤にしようとした」

 

「父親のためか」

 

 アンズはフッと自嘲する。

 

「今さらだよね。でも、あたい、分かっている。時間がないんだ。もう、父上には」

 

 だから焦った。メモリアを大量購入し、無毒化してキョウを石化させた波導使いを、絶対に追い詰めなければならなかった。

 

「どうしてお前がそこまでする必要があった。父親の不手際だ」

 

「でも、あたいにとって、父上はこの世でたった一人なのよ」

 

 他の代わりが利いても父親だけはたった一人なのだ。この世でたった一人の、血の繋がり。どうしようもない、血の因縁。

 

「無毒化したメモリア、持っているんだろう?」

 

 アンズは手甲のパーツを外して中からコルク程度の大きさの小瓶を取り出す。

 

「これが無毒化に成功したメモリア。二回分はある」

 

「どうして二回もいるんだ? キョウの記憶にある石化の波導使いを探すだけなら一回でも」

 

「メイお姉ちゃんのために、作ったの」

 

 その言葉にアーロンは口を噤んだ。メイも自分が誰なのか結局のところ分かっていない。

 

「……何故、お前がそこまで背負う必要があった。あいつの記憶だってゆっくりと探せばよかった」

 

「ううん。もう、そんな時間はないよ。お兄ちゃん。言われたんじゃないの? ハムエッグに、もう家族ごっこは無理だって」

 

 アーロンは目線を逸らす。分かりやすいな、とアンズは感じた。

 

「聞いていたのか?」

 

「ルイに聞くとすぐに分かった」

 

「お喋りめ」

 

「でも、あたいも同感。もう家族ごっこは限界だった。シャクエンお姉ちゃんの問題を解決した、お兄ちゃんはすごいと思う。でも、その辺りからかな。どこかで亀裂が入ったんだと思う。シャクエンお姉ちゃんはもう一人でも歩ける。あたいばっかりおんぶに抱っこじゃいけないんだって思ったの。だから結果を急いだ。父上と、メイお姉ちゃんの記憶が戻れば、もう家族ごっこはお終い。全部、あるべき場所に還る」

 

「それが幸福なのか? 俺には、生き急いでいるようにも思える」

 

「どう足掻こうとも、結果的にはそうなんだよ。もっとゆっくりと日々を過ごそうと思っていても、やっぱり――あたい達は人殺しで、メイお姉ちゃんはそうじゃない。どこかで、終わりが近いってみんな分かっていたはずなの」

 

 アーロンは否定もしない。彼もまた同じように感じていたのかもしれない。

 

「だが、たった一人でメモリアの無毒化なんて考えなくってもよかった。そのせいで余計なトラブルに巻き込まれた」

 

「フロンティアブレーンが追ってきたのは完全に想定外だったけれど、あたいもそろそろ潮時かとは思っていた。メモリアの流通に、プラズマ団が一枚噛んでいる事は」

 

 アーロンは頷く。ならばその危険性も承知の上だろう。

 

「奴らは何を最終結果として考えている? ツヴァイの時もそうだ。何かを目的としていなければこれまでの行動が繋がらない」

 

「あたいにも詳しい事は。ただ、何かを蘇らせたい。その過程で必要だったのが、メモリアだったってのは分かっている」

 

「蘇らせる……」

 

「何を、なんて聞かないでね。あたいだって分からない」

 

 アーロンはメモリアの小瓶を手に取った。波導で読み取り、それが真に無毒化されたものだと感じ取ったのだろう。

 

「行くぞ」

 

 アーロンはカーテンを開ける。アンズは聞いていた。

 

「どこへ……」

 

「キョウのところへ。お前の父親のところへ、だ。全ての決着を俺も見届けよう」

 



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第百三話「ここにしか咲かない花」

 

 セキチクへ行く事をカヤノからの了承を得て、アンズとアーロンはバスに揺られていた。

 

 サイクリングロードを抜けて、アンズからしてみれば一ヵ月ぶりの我が家が視界に入る。

 

 アーロンはピカチュウを繰り出してから中に入った。一月前よりも黴臭い。

 

「父上。帰って参りました」

 

 アンズが恭しく頭を垂れると、闇の最奥から凝った人影が僅かに気配を伝えた。

 

「アンズ、か。それに波導使い。何だ。ワタシを、嗤いに来たのか」

 

「そうではない。お前の娘が、命を賭して、お前の記憶を呼び覚ます手段を講じていた」

 

 アーロンの口から自分の愚行が説明される。叱責が来ると思っていた。

 

 だがキョウの口から出たのは意外なほどの安らかな声であった。

 

「そう、か。大義であった、アンズ」

 

 まさか褒められるとは思っていなかった。余計な事を、と言われるのが関の山だと思っていたのだ。

 

 アンズは思わず駆け出す。

 

 その視界に入った父親の姿に足を止めた。

 

 石化が進行しており、最早口元以外のほとんどが石に覆われている。見るに堪えなかった。

 

 あれほどの憧れと、強さを一身に受けた父親の面影はもうそこにはない。朽ちていくだけの存在であった。

 

「父上……」

 

「アンズ、もうワタシにはお前を叱るだけの権利もない」

 

「そんな……! 父上はいつだって、あたいの立派な父上です! 誇れる父上なのです! だから、そんな……そんな悲しい事、言わないでください……」

 

 尻すぼみになっていく声には嗚咽が混じった。あれほどの憧れと強さの上に立っていた父親の威厳は既に消え失せ、ただの石と化していくだけの人間しかいなかった。

 

「キョウ。メモリアを使えば、お前が無意識下に見たという石化の波導使いの情報が分かるかもしれない。だが、俺の眼から見ても分かる。もうお前自身が、限界だ」

 

 波導使いの口にする限界とは最早死以外の何者でもない。アンズは頭を振った。

 

「嫌です! メモリアを、渡せません!」

 

 最後の最後に親子らしい事も話せないまま、石化の波導使いの情報だけを父親の口から発するなど耐えられない。しかし、キョウの声音は安らかであった。

 

「アンズ、ワタシのために、行動してくれたのだろう。大義であった、と言っている。毒使いの一族の誉れだ。お前は、最後の最後に、ワタシに会いに来てくれた。もうそれだけでいい」

 

 思い残す事はない、と付け加えたキョウはアーロンに視線を移す。

 

「波導使い。ワタシはあとどれだけだ?」

 

「メモリアほどの高刺激の薬物を打てば、石化が早まる可能性がある。半刻も持つまい」

 

 非情な宣告にもキョウは声を荒らげる事もない。全てを諦観の向こうに受け入れている。

 

「そう、か。アンズ、メモリアをワタシに」

 

「出来ません。あたいは、父上を殺すような真似をしたくって、これを無毒化したわけでは……!」

 

「アンズ。もういい。人はいずれ死ぬ。遅いか早いかだけだ。もう、ワタシは充分にお前を見られた。母さんもきっと、見守ってくれているだろう」

 

 初めて、母の事がキョウの口から出た。アンズが顔を上げると、キョウは静かな語り口で言葉を継ぐ。

 

「母さんは、立派な毒使いであった。ワタシを凌駕するほどの才能に、人望もあった。本来、彼女が跡目を継ぐはずだったのだが、流行り病で死んでしまったのだ。その時、命を犠牲にして産んだのが、お前だったのだよ、アンズ」

 

 知らなかった。アンズはキョウを見つめたまま固まっている。

 

「そんな……。母上が、そんな、あたいのために……」

 

「だから、もういい。あいつもきっと、こういう形でしか、この世を去れないワタシを、分かっているはずだから」

 

 アンズは手甲を握り締め首を横に振る。だからと言って、父親を殺す真似など出来ない。

 

 悟ったのかキョウがアーロンを呼んだ。

 

「波導使い。介錯を頼む」

 

 ピカチュウの放った電気ワイヤーが手甲を開き、そこから小瓶を取り出す。アンズが反応して手を伸ばす時には、既にアーロンが握り締めていた。

 

「これが、お前の父親の望みなんだ」

 

 歩み出すアーロンにアンズはすがりついた。今までこのような見苦しい真似を見せた事はなかった。

 

「嫌! やめて! お兄ちゃん! 父上を、殺さないで」

 

「違う。キョウは、この日のために、石化の苦しみを背負ってきた。因縁は、こいつの手でつけさせるべきだ」

 

 アーロンが電気ワイヤーに巻きつけてメモリアをキョウの前に運ぶ。キョウは僅かに動く手でそれを引き寄せて、口の中に放り込んだ。

 

 ハッと目が見開かれ、キョウは口にしていた。

 

「そうか……、これが、我が怨敵。石化の波導使い。このような姿をしていたのか……。気をつけろ、波導使いアーロン。それに我が娘、アンズよ。奴は今までの敵の比ではない。強過ぎたのだ。この、紫色の波導は……」

 

「紫色の波導?」

 

 アーロンが信じられない事を聞いたような口調で歩み寄る。その時には、キョウがその場に突っ伏していた。石化した身体を痙攣させる。

 

「おい! どういう事だ! 紫色の波導など、この世にあるはずがない! そいつはどんな顔をしている?」

 

 身も世もないほどの焦りを見せるアーロンに対してキョウは冷静だった。

 

「ああ、そうか。ワタシは、もう奴の幻影に怯えなくってもいいのか。波導使い、それにアンズ。先に行く」

 

 全身を石化が覆い尽くす。アーロンは必死にその肩を揺すった。

 

「待て! キョウ! お前、何を見て……」

 

 その言葉は通じていなかった。

 

 石化した父親の骸が静かに砂となって消えていく。

 

 あとには何もない、ただの砂ばかりが広がっていた。

 

 自分の咽び泣きの声だけが無辺の闇の中、静かに響いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 キョウはセキチクの共同墓地に葬られる事になった。

 

 とは言っても死体がないので砂を埋めただけである。

 

 アンズは埋めた砂の上に一粒の種を撒いていた。後ろで見守るアーロンにアンズは口にする。

 

「この種、春には芽吹く。綺麗な花が咲くの。赤くって凛々しい、綺麗な花が」

 

 その時まで自分達が生き永らえるかも分からない。ただ、この時ばかりは命が花咲く頃まで存在する事を祈った。

 

「キョウは、最後の最後に、自分の敵を見つけた。俺は……」

 

 そこから先を濁す。自分の敵は何よりも師父だ。だがそれはこの世で唯一の、血の繋がりを絶つ事ではないのか。教えを乞うた人間を殺さなければならないのが波導使いの宿命ならば、その宿命の行き着くところは――。

 

 アンズは砂の一部を固めて手甲の中に入れた。

 

「御守に、ちょっとだけ。いつでも父上が見てくれているように」

 

 アンズは悪戯っぽい笑みを浮かべようとして、失敗した。

 

 堪え切れなかったらしい。涙が頬を伝っていた。

 

「泣ける時に泣いておけ。涙が枯れ果てて、人は人でなしになる。俺も、いずれはお前も」

 

 師父の語った事は本当だった。

 

 血の繋がりだけは容易に断てない。この世で最も尊ぶべきものの一つだ。

 

 声を殺して泣くアンズをアーロンは静かに抱き寄せた。今は、すがれるぬくもりがあるのならばすがってもいい。

 

 それはきっと弱さではない。

 



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第百四話「支配者の眼差し」

 

「バイタルサイン向上。覚醒までのカウントダウン、入ります」

 

 研究員の声にヴィーツーは眼を見開いていた。ツヴァイの波導によって覚醒のための鍵が開けられた。あとはメモリアによる記憶補完だけだ。それもアクロマによって滞りなく進められ、あとはゲーチス本人の目覚めを待つばかりであった。

 

「脳波正常値。外部記憶メモリからの流入も果たしました」

 

「パーフェクトですね、ヴィーツー様」

 

 アクロマがコンソールから手を離し、ヴィーツーに語りかける。ヴィーツーは祈るように両手を合わせていた。

 

「ああ、ゲーチス様……」

 

「カプセル内部の浸透圧上昇。覚醒までのカウント、ゼロです!」

 

 その声が響くのと同時にカプセルの中のゲーチスが目を開いた。

 

 ヴィーツーが歩み出る前に、アクロマがカプセルを開く。培養液が漏れ出てアクロマの白衣を濡らしたが、彼の好奇心がそれに勝った。

 

 裸体のゲーチスがゆっくりと歩み出す。

 

 歩いただけでざわめきが起こった。

 

「右半身の麻痺が消えている……。成功だ!」

 

 研究員達が喜びの声を上げる中、アクロマがゲーチスの意識を調べている。

 

「あなたの名前は?」

 

 呼吸音と大差ない声が漏れた。無理もあるまい。今の今までずっとカプセルの中で眠っていたのだ。すぐに声は出せないだろう。

 

「瞳孔反射も正常。神経系統の異常もありません」

 

 アクロマが確認したのは背筋に埋め込まれた機械の反射であった。神経を司る機械が背筋に四つ埋め込まれており脊髄と繋がっている。

 

 そのうち一つに電気的刺激を与えると、ゲーチスが目を見開いた。突然にかっ血したかと思うとその目に活力が戻った。

 

「ワタクシは……」

 

「声を……。声を取り戻された!」

 

「神経系統を少しだけ刺激してやりました。記憶が正常かどうかは、ヴィーツー様の裁量で行ってください」

 

「ゲーチス様。私がお分かりで?」

 

「ヴィオ、ですか……」

 

 ああ、と感極まりそうになる。正しくは三番目の個体であったが今はそんな事はどうでもいい。

 

「ここに、プラズマ団の復活の宣言を」

 

 傅くヴィーツーにゲーチスは未だに現状を飲み込めていないのか、周囲を見渡した。

 

「ワタクシは、死んだはずだ」

 

「再起不能となったのを、我々が蘇らせたのです。あなたには英雄として、再び表舞台に立つ資格がある。これを」

 

 ヴィーツーが差し出したのはマスターボールであった。ゲーチスはそれを手に取り中を窺う。

 

「これ、は……」

 

「理想を体現した、最強のポケモンです。あなたのために、用意いたしました。おい、お召し物を!」

 

 ヴィーツーの御触れに、研究員達が慌ててゲーチスの服飾を纏わせる。黒いマントに宝石を散りばめた衣服であった。

 

 右目のアイパッチをどうするべきか、と決めあぐねている研究員に、ゲーチスがその手を取って右目に当てさせた。理論上、右目は見えるはずだがこちらのほうがしっくり来るのならばそれに越した事はない。

 

 最後にまだおぼつかない足のために杖を用意していた。円形を刻み込んだ杖をつき、ゲーチスはようやく、自分がプラズマ団の長だと自覚が芽生えて来たらしい。

 

「ヴィオ、ワタクシが眠っている間に起こった事を」

 

「はっ。その記録は研究班の班長であるアクロマが」

 

 アクロマは背筋のツールを使ってデータ情報としてゲーチスの脳内に直接叩き込ませる。荒療治ではないのか、と思ってしまったが、次第に活力を取り戻していくゲーチスの眼を見てそれが杞憂だと思い知る。

 

「そうか。Nは去り、忌々しいもう一人の英雄がワタクシを、このような……。ここに! 新たなプラズマ団として、ワタクシが立つ! 宣誓だ! 英雄はただ一人で構わない。英雄の因子を持つもう一人の少女、Mi3を破壊する!」

 

 全盛期とまではいかないがこれほどに力強い言葉を聞けてヴィーツーは満たされていた。

 

「新たな時代を!」

 

 手を振り翳し、ヴィーツーはここにプラズマ団が再び法となるのを予感した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「アーロン。メモリア、まだ一本残っているんだろう?」

 

 ハムエッグに問いかけられてアーロンはしらを切った。

 

「何の事だか」

 

「とぼけても無駄だ。無毒化したメモリアがもう一つある。それも全て、メイお嬢ちゃんの記憶を呼び覚ますため」

 

 このポケモンには隠し立ても不可能だろう。アーロンは改めて決定した事を口にした。

 

「あの馬鹿には、記憶を呼び覚ます必要なんてないと俺は思っている」

 

「それは君のエゴかもしれない。彼女はいずれ、取り戻さなくてはならないだろう。本当の自分を」

 

「それが正しいかどうかなんて誰にも分からない。俺にだって、決定出来ない」

 

 無毒化したメモリアはアンズが所持している。アンズの裁量でメイの記憶を戻す事が可能だったが、アンズは記憶を取り戻した直後のキョウを目にしている。記憶が戻る事が幸福とは限らないのは言うまでもないだろう。

 

「アーロン。君は、やはりぬるま湯が好きなのだね。いつまでもお嬢ちゃん達と一緒にいたいと思っている。だが、忘れるなよ。君は殺し屋だ。波導使いアーロンなんだ。いずれ運命が君達を引き裂く。その時が来ても、わたしは敵になるか味方になるかは言えない。それも決定出来ない」

 

 よく言う。このポケモンはどちらも選ばない。一番に得をする身分を選び取るはずだ。

 

「お前の薄っぺらい言い分は聞き飽きた。俺は俺の決定でのみ動く」

 

「この街で誰にも縛られずに、は不可能だよ。今回だってホテルの取り分だ。エアームドを飛ばさなかったら、君はやられていた。フロンティアブレーン。まさか動くとは思わなかったが、わたしも計算外だよ。奴らの事は奴らでケリをつけてくれるだろう」

 

 ハムエッグからしてみてもフロンティアブレーンの動きは読めなかった、という事だろうか。アーロンは質問を重ねた。

 

「お前は、どこまで分かってやっている? 今みたいに、ラピス・ラズリの相手をさせているのもお前の一存だろう。あの馬鹿は」

 

 モニターに映し出されているのはラピスとメイである。

 

 ハムエッグからしてみれば体のいい人質であった。

 

「プラズマ団とお嬢ちゃんの関係かい? わたしにも分からぬ事はある。この街があまりに排他的だから、情報源を見直さなくってはいけない部分もあってね。ちょっと情報源を変えてみたんだ。そうすると少しずつ、見えてきた部分があった。プラズマ団という組織の構造、それと、二年ほど前に起こったイッシュでの事件。ゲーチスなる頭目の存在も確認済みだ」

 

「そのゲーチス。今は生きていないと聞いたが」

 

「再起不能。それ以上はわたしも知らない。だが、確実に言えるのはゲーチスかあるいはそれに変わるカリスマをプラズマ団が求めている事だ。奴らはもしかするとお嬢ちゃんを抱きこむ事も視野に入れているのかもしれない」

 

 Mi3。メイのもう一つの名前が今さらに思い出されてアーロンは苦味を噛み締める。

 

 ルイで調べさせるのは容易いが、このハムエッグやホテルに勘付かれないか。自分を踏み台にされるのは御免である。

 

「馬鹿は連れて帰る。ハムエッグ、お前はスノウドロップ復活が急務だろう」

 

「そうだな。スノウドロップが使えなくてはいざという時に困る」

 

 全くそう思っていないような口調だ。

 

 もしもの時でも貸しを作っておいた自分を利用する、か。

 

「もう帰るぞ。ラピス・ラズリに伝えろ」

 

「それもそうだ。次の客との約束があってね。そろそろ時間だった」

 

 薮蛇になるのを恐れて、アーロンは追及しなかった。部屋から出てきたメイが文句を垂れる。

 

「アーロンさん。もう少しだけ、居られませんか? 何だかいっつも、あたしだけ見張られているみたいな……」

 

 モニターの存在は伏せてある。

 

「知るものか」

 

 アーロンはぶっきらぼうに言い放ち、ハムエッグの下を去った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「時間は正確に守っている。それは君も、わたしも同じ事だ」

 

 その言葉に先ほどから別室で待っていた客が眉を上げる。

 

「波導使い。入れ込んでいる様子じゃないか」

 

「当たり前だよ。上客だからね。昔馴染みでもある」

 

「じゃあ新規であるおれには風当たりが厳しいか?」

 

「いいや。大歓迎だよ。リオ」

 

 名前を呼ぶとリオは不敵に微笑んだ。

 

「おれの情報源があれば、あんたはまた一つこの街の秩序のために貢献が出来る。ホテルより一歩抜きん出る事が出来るって言っているんだ」

 

 リオの手持ちの端末には見た事のないOSがあった。恐らくそれによって情報を今までの比ではない速度で取り込んでいるのだろう。

 

「……驚いたな。君はこの街に取り込まれないものだとばかり思っていた」

 

「取り込まれはしないさ。おれが逆に支配する」

 

 その支配欲はどこから来たのか。いつの間にこの青年にそのような欲望を抱かせるに至ったのか。

 

 ハムエッグは考えを巡らせるが、一番に読めないのはこういう突然に頭角を現す手合いだ。何がきっかけで成長したのか分からない樹木ほど神秘を感じさせる。

 

「君の持つ特殊OS……ルイツーであったか。それが情報を高速演算してわたしに提供する。その電子の妖精の恩恵を与えてもらえるだけでもありがたい。さて、君が望むのは何だ? わたしに、何をしろと言っている」

 

 リオは差し出したグラスの酒を呷り、そのグラスをラピスの部屋をモニターしている画面へと投げつけた。

 

「おれが望むのは一つ。絶対的な支配と、隷属。ハムエッグ。あんたは電子の妖精の恩恵を得るためにおれに従わざるを得ない。かつて顎で使った相手に従うんだよ」

 

 リオの態度は以前までとまるで別人だ。

 

 超越者の眼差しにハムエッグは反射的に尋ねていた。

 

「メイお嬢ちゃんかな?」

 

 それがこの青年のアキレス腱だろう。僅かに眉が跳ね上がったが、すぐに持ち直す。

 

「……悟るのはお家芸か? まぁいいさ。おれは彼女を幸せにする。そのために、力がいるんだ。圧倒的な力がね。それこそ盟主を屈服させるほどの」

 

 ハムエッグはアタッシュケースを差し出す。中には大量の紙幣が入っていた。

 

「言い値で買おう。ルイツーの値段は?」

 

 リオは口角を吊り上げた。

 

「この街の支配者としての実効力。金じゃない。それ以上のものだよ」

 

 

第八章了

 



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純真の灰色、共鳴する世界
第百五話「安息の時」


 

 初めて、世界を見る瞳というのは、どのような輝きを放っているのだろう。

 

 それは未進化のポケモンが、タマゴから初めて望んだ景色であったり、あるいは人間の赤子が、ようやく瞳を開いた瞬間でもあったりする。

 

 初めて見る景色というのはそれだけで輝いているのだろうか。それとも、この世界はくすんだ色をしているのだろうか。

 

 守るに値する世界かどうかは、その人間の印象に依存する。

 

 最初に見たのが殺人の光景であれば、その人物の命の価値基準は大きく変わるだろう。

 

 逆に、最初に見たものが救いであったのならば、その人物はもしかすると、救世主になろうとするかもしれない。

 

 ただ、殺人者を育むのも、救世主を育むのも、同じ世界だ。

 

 ただ、見ているものが違うだけ。

 

 この世をどこから眺めているのかだけが、少しだけ位相の違うだけの話。

 

「ボクはね、最初に見たのがどっちだったのか、思い出せないんだ」

 

 そう、彼の人は語った。

 

 エメラルドグリーンの長髪を風になびかせ、黒い帽子を被った少年。

 

 首から提げたパズルのネックレスを手にもてあそび、彼は口にする。

 

「王様って言うのは、最初に見るものが何なのだと思う? 煌びやかな宮殿の、この世の綺麗な側面か。あるいは、どぶのように汚らしい、人間の悪の側面か。ボクには分からない。自分がどっち側だったのか、分からないんだ。でも、キミには、分かるんじゃないかな。キミは、そっち側を目指しているんだろう?」

 

 名前を呼ばれたが、認識出来なかった。それが自分を指しているのか、それとも違う存在を差しているのかの判別がつかない。

 

「キミはいつだってそうだね。正しくあろうとする。英雄なんて、そんなものなのかもしれない。正しくあろうとする、善人という意味ではなく、その人間にとっての正しき道こそが、英雄を育てるんだ。それが傍目からしてみれば悪の道であっても、正しくあろうとする人間の光は消せない。誰にだって打ち消せない、人間の心の輝き。ボクには彼と会うまで、それがよく分からなかった。会ってからの事しか、ボクには語れない。キミに語る事は、だから後付の、ボクが彼と出会ってから知った、この世の美しさだ。精緻な数式でもなく、科学の進化でもない。感情、と言ったほうがいいのかな。そういう、計算出来ない代物だ。それを、彼は残して行ってくれた。残して、行ってしまった。ボクには彼と出会う資格はもうない。きっと、このまま一生、出会えぬまま過ごすのだろう。生きていくしかないのだろう。彼もボクも、ポケモンも、トモダチも、どれも等しく、生きているのだから。生きていくしかないのだから。だから、キミに託すのは、思いだ。そういう、ボクの、身勝手かもしれないけれど、そういう思いなんだ。記憶だとか記録だとか、言い換えたっていいけれど、ボクが言えるのはただ一つ。生きている事は、とても尊い事なんだ。キミも、ボクも。それに気づけた。気づく事が出来た。だから、託すよ。この思い。消える前に、キミに――」

 

 そこで不意に景色が途切れて、次に浮かんできたのは泡沫であった。

 

 濃紺の水の中を自分は目線だけで泡沫を追っている。

 

『Mi3、順調です』

 

 凝って聞こえてくる声に耳を澄まそうとすると不意に別方向から声が放たれた。

 

 ――ねぇ、あなたは、世界が美しいと思う?

 

 問いかけに振り返った瞬間、またしても景色が変わっていた。

 

 桜の舞い散る中、髪を解いた少女が佇んでいる。

 

 その姿が自分だ、と認識した瞬間、空間にもう一人の自分が生まれた。

 

 写し身の自分が声を発しようとする。

 

 髪を解いた姿の自分自身が、愛おしく目を細めた。

 

「消えないで……」

 

 名前が紡がれたが、その名前だけが聞き取れない。

 

「あたし、なの?」

 

 尋ねると自分にしか見えない少女は微笑んだ。

 

「いつかきっと分かるから。あなたにも、この世界が美しいかどうか、それだけを覚えておいて――」

 

 景色が切り替わり、灰と濃淡の炎が舞う光景が眼前に広がった。

 

 焼かれている。

 

 地表そのものが。景色そのものが。

 

 目に映る全てが、焼き尽くされている。

 

 人もいた。ポケモンもいた。何もかもが、焼かれていた。

 

 焦土だ。一面に広がる焦土だけが、世界であった。

 

 鼻をつく異臭。生き物の焼けるにおい。

 

 目を開いている事さえも難しいほどに、煙く漂う視界。

 

 何もかもが終わったのだ、という確信だけが胸を占めていった。

 

 同時にこれからが再生の時であった。

 

 誰かが歌っている。

 

 懐かしい歌を。

 

 子供をあやすように優しく、同時に世界を宥めるように、慈悲深く。

 

 とても古い歌。意味さえも分からない、古の歌。

 

 歌が聴こえる。同じように歌っていた。

 

 平和を祈る歌を。その喉が、人間のそれでない事に、自分は気づく。

 

 ハッとした瞬間、世界が暗転した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おい、起きろ」

 

 ソファを蹴られて、メイは飛び起きた。

 

 アーロンがフライパンを持っており、既に朝食の準備が整えられていた。

 

「あれ? あたし、寝ちゃってたんだ……」

 

「寝ちゃってたんだ、じゃない。起こそうとしても起きないから勝手に朝飯の準備を始めていた」

 

「メイ、具合でも悪いの?」

 

 そう問いかけてきたシャクエンにメイは首を横に振る。

 

「ううん、そんな事はないんだけれど……」

 

「だけれど?」

 

 煮え切らない言葉にシャクエンは問い返す。

 

「あたしにも、よく分かんないや」

 

「分からないならさっさと退け。ソファを占有している」

 

「あーっ! そういう言い方ってないんじゃないんですか! アーロンさん!」

 

「でも、メイがなかなか起きないから」

 

「メイお姉ちゃん、ずっと寝息立ててたよ。みんな起きているのに」

 

 シャクエンとアンズの言葉にメイはうろたえる。

 

「あ、あたし、そんなに図太く眠っていたの?」

 

「図太いのはいつも通りだが、今日はなおさらだったぞ。叩いてもひねっても起きない」

 

 ぼやくアーロンがスクランブルエッグを作って盛り付けている。

 

「叩いてもひねっても、って……。叩いたんですか?」

 

「何をやっても起きんからな。そのうち、起こすのは面倒だと思い始めた」

 

「ひっどい! アーロンさん、そんな言い草ないでしょ!」

 

「でも、起きなかったメイにも非があるよ」

 

「昨日からずっとこの調子だからね」

 

 アンズとシャクエンは今朝ばかりはアーロンの味方らしい。そんなに眠っていたのか、とメイは訝しげになる。

 

「あたし、変な事言いませんでした?」

 

「寝言か? 言っていれば話の種にもなるんだが、何にも言わずずっと眠っていただけだ」

 

 ぐうの音も出なかったが、ある種安堵した。何か言っていれば、もしかしたら三人に危うい眼差しで見られているところだったのかもしれない。

 

 額に手をやって熱がない事を確認する。

 

 今までに見た事のない夢であった。

 

 その割には妙に生々しく、かつての思い出であったかのように鮮明だ。

 

「夢……、あたし、夢なんて」

 

 見ない、と言おうとしてアーロンが皿を運んできた。

 

「何だ? 夢見が悪かったのか?」

 

「あっ、まぁ、そんな感じですかね」

 

 曖昧に返すとアーロンは眉をひそめる。

 

「馬鹿でも夢は見るんだな」

 

「失礼な! 馬鹿って!」

 

「確かに今のは失言だった。夢を見る全ての人間に対して、な」

 

 より一層酷い罵倒にメイは言い返そうとしたが、その瞬間、頬を熱いものが伝った。

 

「メイ……泣いているの?」

 

 えっ、と困惑する。目元を拭うと涙が溢れていた。

 

「お兄ちゃん、泣かせちゃ駄目だよ」

 

 アンズの言葉にアーロンが僅かに当惑したのが伝わった。

 

「何故、泣く」

 

「わ、分かんないですよ、あたしにも。何で? 悲しくもないのに、涙が出るんでしょう?」

 

 おろおろとするメイに、一同は困り果てていた。

 

「いや、聞きたいのはこっちで」

 

「何か、嫌な事でも思い出したの?」

 

 嫌な事、と胸中に語りかける。

 

 あれは何だったのだろう。

 

 誰かと話している夢だった。かと思えば、世界が焼かれている夢でもあり、どうしてか髪を解いた自分と対面している夢でもあった。

 

 夢なのだから支離滅裂は当たり前なのだが、あまりに現実離れしている。

 

「よく、分かんないです、あたし……。何が、どうなったんでしょう?」

 

「こっちが聞きたいところだ。飯を食え。そうすれば涙も止まるだろう」

 

「あ、アーロンさん、あたしが、お腹空いて涙を流しているとでも……」

 

 言いかけて腹の虫が鳴った。これにはさすがに赤面せざるを得ない。

 

「い、今のナシ!」

 

「ナシもあるか、馬鹿。飯を食え。そうすれば涙も収まる」

 

 テーブルを囲って四人で食事をする。

 

 どうしてだろう、とメイは涙の痕をさすった。

 

 この平和な時間が、いつまでも続いて欲しい、と切に願っていた。

 



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第百六話「ルイツー」

 

「右目の細胞組織は再生済みです。アイパッチをつける必要はないのでは?」

 

 アクロマの進言にヴィーツーが苦い顔をする。

 

「私の一存ではない」

 

 ヴィーツーはつい昨日、再生されたばかりのゲーチスの躯体をデータ化していた。そのデータベースの中で、重大な見落としがないかどうかを再確認する。なにせ、稀代の偉人の再生。

 

 一つでもイレギュラーがあれば、それだけで弱点になり得る。

 

「気にし過ぎなのでは? 私の造った人造人間の肉体は完璧ですよ。それは、ヴィーツー様直々に感じておられるでしょう?」

 

 自分の今の肉体も、アクロマの技術があってこそ。ヴィーツーはだからこそ煮え切らなかった。

 

「お前に再生された身体が完璧であればあるほどに疑わしいのだ」

 

 ある意味ではこの肉体が作用すればするほどに、ゲーチスの肉体に何か細工をしていないかと不安になる。記憶を引き継いだ完璧な人間のクローンは完成して久しいが、それだけに充分な検証もなしに使っている自分達が、いつ落とし穴にはまってもおかしくない。

 

「ゲーチス様は」

 

「睡眠中です。まだ、覚醒時間に問題がありますね」

 

 覚醒時間。ヴィーツーは歯噛みする。せっかく、造り上げたゲーチスの肉体は、長期的な運用に向いていないとの結論が出ていた。

 

「やはり、脳細胞か」

 

「ええ。ヴィーツー様のように、前回までの記憶をバックアップして、データ化しているのならばまだしも、ゲーチス様は隔たりがあります。前回のゲーチス様の肉体と今回の肉体では差がある。そもそも、再生実験に提供された時点で、再起不能であった事は大きいでしょうね」

 

 再起不能。プラズマ団が一念発起し、イッシュでの活動を再開した矢先に起こった出来事が原因で、ゲーチスは身も心もズタズタになった。その状態からの再起は絶望的であったために、ヴィーツー含め、幹部連は判断せざるを得なかったのだ。

 

 ゲーチスという頭目の再生には、この身体からでは駄目だ、と。

 

 新たな肉体を構築し、ゲーチスをトップに据えた組織の再編。

 

 それにはイッシュでの活動履歴は邪魔となった。半数を切り捨ててのプラズマ団のカントーへの支配。

 

 だがそれもヤマブキという街の特殊性には勝てていない。

 

「波導使い、アーロンめ」

 

 忌々しいその名前を呟く。幾度となくプラズマ団の計画を邪魔してきた、このカントーにおける敵。

 

「いつの時代も、敵対する人間は現れるものですね。それが異国の地であったとしても」

 

「だがアーロンとの戦いがなければ、ゲーチス様は完璧な再生を遂げる事はなかっただろう。その点で言えば、アーロンにも感謝しているよ」

 

 波導という概念。それがなければあと二年か、あるいは五年以上は遅れていた再生計画であった。

 

「ツヴァイが残していった波導の概要も素晴らしい。これほどのデータがあれば再現も可能でしょうね」

 

「無論だとも。ゲーチス様は今度こそ、完璧な支配者として君臨なされる」

 

 波導のデータはツヴァイによって形式化され、アクロマが手を加えた事によってそれは技術から科学へと進歩を遂げた。

 

 最早、一子相伝の技術ではない。誰もが恩恵を受けられる科学としての体系化。それによってもたらされるのはプラズマ団の恒久的支配。

 

「アクロマ。アーロンに勝てるか?」

 

「愚問でしょう。アーロンの波導技術は拙く、古めかしい。今のゲーチス様ならばおそるるに足りません」

 

 しかし一抹の不安もある。ヴィーツーは声を潜ませた。

 

「……だが、問題なのは脳と活動時間の制約」

 

「脳だけは、今の科学でもどうしようもありません。それだけ人間も、他の生物も、脳が発達し過ぎた」

 

 ポケモンの脳を使う、という代替案もあったのだが、それでは人間のような動作をさせる事は出来ない、という結論であった。何よりもまず、ゲーチスの再臨にはあの明晰な頭脳が必要不可欠。代替の脳ではかつてのゲーチスのような権謀術数ははかれまい。

 

「こういう時、あの男がいればな」

 

「N様、ですか」

 

 プラズマ団の王。英雄としての因子を持つもう一人の人間、N。彼さえいれば、彼の脳を使ってでも計画を強行出来た。

 

 しかしNの行方はようとして知れず。代わりを立てたもののやはり――。

 

「Mi3は?」

 

「脳波、生命反応共に優秀ですが、何分、メイ、として生きさせ過ぎました。既に別人格が宿っていると言ってもいいでしょう」

 

「Miシリーズは何のためにあると思っている。生きている脳サンプルを造るためだ。我々のクローン技術はホウエンに十年遅れている。彼の地では、ツワブキ・ダイゴの模造品が可能であったというではないか」

 

「噂話ですよ。真のツワブキ・ダイゴを造れたわけではないというのが、実際の見解でしょう」

 

 ホウエンに流れた黒い噂の一つだ。二年ほど前に、コープスコーズと名乗るデボンの尖兵がカナズミでの支配を強めた。目撃証言によればそれは初代ツワブキ・ダイゴそのものであったという。無論、ただの噂話。切り捨てる事も出来たが、プラズマ団は一度接触しておくべきであった。

 

 それも解体されたデボンの子会社では無理からぬ事。既にその技巧は永久に葬られて久しい。

 

「我々がやる他ないのだ。先駆者のいない中、人類の叡智を切り拓くのは我ら、プラズマ団」

 

 決意を新たにしたヴィーツーにアクロマは問いかける。

 

「しかし、どうしようもない事です。脳だけは。培養だけでも数十年かかる」

 

「……アクロマ博士。他人の脳を使って、人格だけを移し変える事は」

 

 禁忌とも言えるその質問にアクロマは飄々と返す。

 

「無理ですよ。その可能性ならば既に計画チームが至っています。人格データの移し変えも、前のゲーチス様が壊れていなければ可能でしたが、我々の行っている事は、既に壊れてしまったおもちゃを、元通りに直してくれという無理なオーダーです。しかも、全盛期にしろ、と」

 

 肩を竦めるアクロマにヴィーツーはコンソールを叩いた。

 

「だが……、私という成功例があるではないか」

 

 突き詰めれば自分の脳さえ使えば。その疑念にアクロマはフッと笑みを浮かべる。

 

「ヴィーツー様。構いませんがその場合、あなたが今まで築き上げた信頼や他のものを対価にする事になります。成功率も低いこの実験に、自ら投げ打ちますか?」

 

 そう言われてしまえばヴィーツーも二の句を継げなかった。自分という個が惜しい気持ちはある。この個体を投げ打ってまで、ゲーチスに繋げるか、と言えば微妙なところだ。

 

 アクロマが指示通り動くかも分からない。もし、この狂科学者がゲーチスや自分の再生にこだわらない実験を一度始めてしまえば、誰がストッパーになるというのだろう。

 

 ヴィーツーという幹部はいなければならない。

 

 この男の野心を止めるためにも。

 

「……本当に、方法がないのか?」

 

「脳の代替品を造ろうにも、予算がね」

 

 自嘲気味にアクロマは語る。既にプラズマ団としての活動資金が尽き始めていた。このカントーで悪と断じられた組織の末路は伝え聞いている。

 

 ロケット団、ヘキサ、ネメシス……。かつて隆盛を築いたそれも時代の波の前に消えていった。どう足掻こうとこの状況は変えられないのか。

 

 ヴィーツーは拳を握り締める。如何にして、ゲーチスを完成たらしめるのか。何が足りないのか。

 

「今のゲーチス様では、あの英雄のポケモンであっても、活動時間は……」

 

「三分、とも満たないでしょう」

 

 絶望的な数字であった。その力がこの手にあったとしても三分も持たないのではヤマブキへの復讐も果たせまい。

 

「しかもゲーチス様は全盛期を模倣しております。全盛期のあの方は……同調も使えた。皮肉ですがその驚異的な能力が仇となりましたね。それ故に、力を全開に出来ない。そんな事をしてしまえば今度こそ、取り返しのつかない事になってしまう」

 

 分かっている。ゲーチスがその能力を全開放すれば、それは身の破滅だと。

 

 寿命を縮めるだけの結果であるのは何度もデータで試算した。

 

「どうすればいい……。ゲーチス様はせっかく、ここまで来たんだ! ここまで来ておいて今さら、後戻りは出来ない」

 

「気持ちは分かりますが、打破するのには我々だけでは足りません」

 

 歯噛みしかけてハッと気づく。

 

 我々だけでは、とこの男は言ったのか。

 

 顔を上げる。アクロマは読めない笑みを浮かべていた。

 

「アクロマ……。策は、あるのだな?」

 

 その声音にアクロマは指を立てる。

 

「一つだけ。当てはあります」

 

「あるのだな! ならばいい。それにすがるしか、我々にはあるまい」

 

 アクロマは通信を繋いだ。先ほどからオープンにしていたらしい。すぐにマイクに吹き込む。

 

「との事です。あなたとの協定に、サインすると言っています」

 

 どこに通信しているのだろうか。アクロマの返事にノイズ混じりの音声が返ってきた。

 

『そうか。それならばいい。おれとしても、満足行く結果だ』

 

「誰だ……?」

 

「よく知っているはずですが、まぁいいでしょう。契約するのに、顔が見えては逆に不都合な場合もある」

 

 何を言っているのだ。ヴィーツーが問いかけようとすると通信先の声が笑みを含んだ。

 

『プラズマ団は結局、ゲーチスの再生に手間取っている。その間に、ヤマブキは堅牢な城壁と化す。そうなってしまえばそれまでだ。もうあなた方のような素人集団では及びもつかない領域へと足を踏み入れるだろう』

 

 素人集団。そう断じられてヴィーツーは怒りが湧いてきたが、堪えた。ここで下手に騒いで反故にするよりも、優先すべき事がある。自分のつまらぬ矜持でゲーチス復活を止めてはいけない。

 

「……何者かは知らんが、ゲーチス様を、復活出来るのだな?」

 

『条件がいくつかあるがね』

 

「条件?」

 

 嫌な言葉だ。何度、このヤマブキで聞いた事だろう。突きつけられて不利なものしかこの世にはないのではないか、と錯覚させられるほどだった。

 

『まずは波導使い、アーロンの始末』

 

 だからこそ、その条件が意想外であった。アーロンとの決着はいずれつけなくてはならないと思っていただけに、相手から言われるとは考えつかなかったのだ。

 

「波導使いとの? どこまで知っている?」

 

 内通者を勘繰らざる得なかった。しかし、通話先の相手は嘲るばかりである。

 

『波導使い一人も殺せなくて、天下のプラズマ団とはお笑い種だ。支配が欲しいのだろう? ならば、今まで障害になってきた男一人くらい、殺してみせろよ』

 

 幾度となく煮え湯を飲まされてきたのは事実。アーロンを殺すのは前提条件のうちの一つであった。このヤマブキをプラズマ団の支配に加えるための。

 

「……考えてはいたさ。だがね、あの波導使いを、……忌々しい事に倒す手段が見当たらない。どんな暗殺者でも失敗する。あのハムエッグと一時的な協定も結び、スノウドロップによる真価も見た。だが、最強と言われるスノウドロップでさえも返り討ちであった。どうあって、奴を殺せる? そのプランを知りたい」

 

『他者を頼るか』

 

 屈辱だが仕方がない。プラズマ団の擁する戦力では、最早太刀打ち出来ない。

 

「……ああ。もうこちらの立ち位置などにこだわっている場合ではないのでね。波導使いを殺せるのならば、何でもしよう」

 

『ゲーチス復活に賭ける思い、伝わったよ。その言葉が聞けただけでも上々だ』

 

 一体、この通話口に立っている人物は何者なのだ。先ほどからヴィーツーは節々に憤りを感じていた。

 

 どこかで自分を小ばかにしている。今の境遇にある自分を、嘲っている。

 

 それに、知っている口ぶりだ、とも思っていた。どこかで、この人物と自分は会った事がある。しかしそれがどこだったのか、まるで思い出せない。

 

「では、あなた方の持つ高速演算チップ、渡してもらえるという事なのですね?」

 

 アクロマの声にヴィーツーは眉根を寄せる。

 

「高速演算チップ?」

 

「ヴィーツー様。脳の修復と、全盛期のものを用意するのは、確かに不可能に近い。ですが、脳を加速させ、その演算速度を上げる事は、可能なのです。赤子を一瞬にして老練たる戦士に変える事すら可能な技術。それが、彼らの示す高速演算チップです」

 

 ヴィーツーはその響きに胡乱なものを感じていた。そのような都合のいいものが存在するのか。

 

「……そんな画期的な技術があれば、どうして企業に売らない?」

 

「我々に支援する、と彼らは言っているのですよ。そうする事で、最終的な利益を得るのだと、理解しているのです」

 

 アクロマはどこか興奮気味に語った。この男が真に欲しているのはゲーチスの復活ではなく、その高速演算チップとやらのデータだろう。

 

「どうして、その高速演算チップとやらを、我々に売る気になった?」

 

『将来を見越しての判断です。このカントーの将来。引いては、全ての人類の未来』

 

 どこまでも傲慢な、とヴィーツーはその言葉を受け取る。人類の未来? そんなものを天秤にかける物好きがどこにいる?

 

「その高速演算チップとやら、当然動作保障くらいはしっかりしているのだろうな?」

 

「ご安心を、ヴィーツー様。これこそが高速演算チップのコアです」

 

 コンソールに送られてきたのは圧縮されたプログラムであった。ヴィーツーは怪訝そうにする。

 

「何だそれは?」

 

「OSです。ヤマブキでつい最近、ホウエンから送られてきた画期的なOSを巡り抗争があった事はご存知ですよね?」

 

 プラズマ団が介入する暇がないほどに様々な人物が入り組んできたあの事件か、とヴィーツーは納得する。この国の軍部が動いたせいで、プラズマ団は下手に手出しが出来なかったのだ。

 

「軍の欲しがっていたOSだろうに」

 

「そのOSの発展型ですよ。ようやく手に入った……!」

 

 プレゼントを受け取った子供のようにはしゃいで、アクロマが解凍する。圧縮されたプログラムが開き、勝手にプラズマ団のコンソールを支配し始めた。様々なモニターが瞬時に書き換わっていく。

 

「アクロマ! やめさせろ!」

 

「やめさせる? 冗談じゃない。これで、プラズマ団は最強の防壁を手に入れたも同義」

 

 口角を吊り上げたアクロマにヴィーツーは絶句する。書き換わったモニターが元の画面に戻った。しかし、それが先ほどまでと異なるのは、中央に少女のアバターが映し出されている事だ。

 

 白衣の少女からは翅が生えており、翅は神経のようにプログラムに張り巡らされていた。

 

 茫然自失のヴィーツーが呟く。

 

「これは……」

 

「電子の妖精ですよ」

 



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第百七話「死者蘇生」

 

 アクロマの声にヴィーツーが睨む目を向ける。通話越しの相手が笑ったのも伝わった。

 

「何をした! 貴様ら!」

 

『いいえ。これで、あなた方は最強の片鱗を手に入れたというだけの話』

 

「勝手にプログラムを入れ換えたな……。何の目的で」

 

『こちらから動かしやすくしたんですよ。オペレーションが分散すると真価を発揮出来ないのでね』

 

 少女型のアバターがメッセージを送信する。その送信先はゲーチスの外部メモリだった。

 

「やめさせろ! 今のゲーチス様は眠っておられるのだぞ!」

 

『潜在意識に働きかける。そうすれば、かつてのゲーチスと同じくらいには、再生するでしょう』

 

 この通話先は何者なのだ。どうして、ゲーチスの復活に加担する。

 

「このOSは何なのだ、アクロマ。どうしてこんな事が出来る?」

 

「進化したOSです。元々はRUI、ルイという名前のOSでしたが、最早、これは違う。そうですね。名を冠するとすれば」

 

『ルイツー、と呼ぶのが正しいか』

 

 ルイツー。そのような存在がまかり通るのか。そもそも、このOSが正規品なのかも分からない。ヴィーツーからしてみれば一刻を争う事態なのに、アクロマも通話相手も平然としている。

 

「貴様ら、分かっているのだろうな? これで、ゲーチス様に問題があってみろ! お前らはここで殺されるのだぞ!」

 

 モンスターボールに手をかけたヴィーツーにアクロマは微笑むばかりだった。

 

「いえいえ。どうあったところで、結局、彼に加担せざるを得ないのですよ。ゲーチス様を本当に復活させたいと願うのなら、ね」

 

「アクロマ……、貴様の裁量だぞ。この人物に、プラズマ団を勝手にさせていいと思っているのか?」

 

「勝手に? いや、違う。進化には、当然の事ながら痛みを伴う。成長痛のようなものですよ」

 

「成長痛で! 我が方の軍勢を殺す事になるのだぞ!」

 

 いきり立ったヴィーツーに比べて、アクロマは落ち着いていた。どこまでも、落ち着き払っていた。それが気に食わない。

 

「お静かに。ゲーチス様は、蘇られます」

 

「このような勝手で! どうやって蘇ると言うのだ? それは本当にゲーチス様なのか?」

 

 今さらの疑問でもあった。自分達はゲーチスの似姿を追い求めているだけ。中身が違っても最悪、いいと思っている。そのくせ、ゲーチスというカリスマにはこだわる。 

 

 その在り方に、アクロマが吹き出した。通話先の相手も笑ったのが伝わった。

 

 ――何という羞恥。

 

 ヴィーツーはプログラムを停止させようとするが、既にルイツーはプラズマ団の機関部まで入り込んでおり、強制停止させない限り、ルイツーを阻む事は出来そうにない。

 

「こうなれば……」

 

 取り出したのは全てのシステムをダウンさせるボタンであった。最終手段だが、この基地自体を停止させる。

 

 アクロマが手首を握り締め、ゆっくりと頭を振った。

 

「やめたほうがいいですよ。これは必要なのですから」

 

「アクロマ……何を企んでいる? 何の目的で部外者にここまでやらせた?」

 

「私のやりたい事は、ヴィーツー様にはよく分かっていると思われますが、違いますかな?」

 

 アクロマの最終目的。それも汲んで、彼はここにいるのだ。そのために、ゲーチスの復活計画があった。

 

 彼の最後の最後。本当の目的に至るまでの道標がたまたま、重なっただけの話。

 

 そうでなければ彼はプラズマ団などには決して手を貸さなかっただろう。立ち位置でさえも違ったかもしれない。

 

 それほどまでに、プラズマ団の思想とアクロマ当人の思想はかけ離れていた。

 

「……本当に、ゲーチス様は無事なんだろうな?」

 

「モニター班が教えてくれますよ」

 

 手首を離したその一瞬に、ヴィーツーは通信を吹き込んだ。

 

「モニター班! ゲーチス様は」

 

『そ、それが……。今、突然に覚醒なされて、それで、仰るんです。〝Nが去ってから今日で三年半だ、と〟』

 

 三年半。ヴィーツーは震撼する。

 

 日時の記憶は曖昧のはずだ。さらに言えば、Nが去ってからの事はほとんど記憶に留めなくなっていた。

 

 つい一年前の事でさえも思い出せない状態の続いていたゲーチスが急に明確な日時を言い始めた。

 

 それだけでも奇妙だが、モニター班は続ける。

 

『ゲーチス様……。歩かれてもいいので――』

 

『ヴィーツー。ゼクロムは使えるか?』

 

 ゲーチスの声だ。しかも、戦闘意欲に溢れた声音であった。

 

 まさしく全盛期に戻ったかのような、若々しい声。

 

「ゲーチス様? しかし、ゼクロムは未だに調整中でして」

 

『チンピラを、一人殺せばいいのだろう? やるとも』

 

 認識している。

 

 ヴィーツーは眩暈に似た症状を覚えた。

 

 現在、何が起こっているのかの認識が最も甘かった。それは脳の記憶を司る部位に関して、まだ不明な点が多いせいだったが、それが改善されている。

 

 現時点で、何が起こっていて何が問題なのかを認識する脳が、働いているのだ。

 

 これは異常事態であった。

 

 ツヴァイが現れた時、波導の概念を見せられた時にも同じように感じたが、それ以上であった。

 

 波導は、波導使いのみが使える。だが、これは自然科学の領域ではない。

 

 これは冒涜だ。

 

 何に、とは言えないが、生命の達してはいけない領域に踏み込んだのは確かだった。

 

「ゲーチス様は、真に復活を成されたのか……?」

 

 こんなに早く? ヴィーツーの脳裏に疑問符が浮かぶ。

 

 チップとやらを埋め込んだ素振りもないのに、何故? と。

 

「チップは、実のところ、既に埋め込んであったのですよ」

 

 アクロマの告白にヴィーツーは目を慄かせる。

 

「何だと……。貴様、そのような身勝手を!」

 

「待ってください。身勝手? 私に研究は一任されていた。Miシリーズも、英雄の因子も、そして言ってしまえば、あなた自身もだ、ヴィーツー様。あなたの今の生存でさえも、私の手中にある。それをお忘れか?」

 

 アクロマの声にヴィーツーは後ずさる。この連中は何だ? 何をしようとしている?

 

「アクロマ、お前の真の目的は何だ?」

 

「知れているでしょう。――Mi0の、全てのMiシリーズの原点であり頂点。私の愛した唯一の女性、ミオの再生ですよ」

 

 やはりこの男の研究目的は狂っていた。

 

 Mi0。Miシリーズの被検体であり、全ての始まりであった。

 

 Mi3は英雄の因子と彼女をベースにした三番目に過ぎない。

 

「お前は……Mi0さえ、造れればそれでいいのか……」

 

「ええ、何か問題でも?」

 

 その一事のために、この男は万事を投げ打った。

 

 狂気に走る事も厭わず、何もかもを置いてきた。彼岸に置かれた価値観と倫理観は、自分には推し量りようもない。

 

「本気だったのか……。あれも、これも、全て」

 

「だから、私は一度だって嘘は言っていません。ゲーチス様を復活させるのには協力しますよ。ただ、私はそれ以上に、Mi0の復活にこだわらせてもらう。それだけのはずです。そういう契約でした」

 

 その通り。そういう契約であった。

 

 アクロマの研究には口出しをしない。その代わり、全ての技術を提供しろ。これがプラズマ団の持ち出した条件だ。

 

 だが、まさかこの男の野望のために、ゲーチス復活でさえも途中経過に過ぎなかったとは。

 

 虚脱感が襲ってくる。

 

 自分は何を信じていたのだ?

 

『何も心配する事はないはず。ゲーチス復活は成された』

 

「こんな……、こんなはずではなかった!」

 

『ですが、こちらの提供したOSによって高速演算チップにはシステムが宿り、ゲーチス本人のトレーナーとしての力量を最大限まで引き上げます。それこそ、波導使いなんて目ではない』

 

 この通話先も何なのだ。どうして波導使いを殺したがる。

 

「お前も、波導使いに恨みがあるのか?」

 

『恨みというよりも、これは執着です。彼を超えなければならない。それが、おれに課せられた、唯一の使命だ』

 

 この通話先も歪、とヴィーツーは感じる。世界全てが、歪の塊のようだ。

 

「お前ら、ゲーチス様を復活させれば、私が満足行くと思っているのか」

 

「そうではないのですか?」

 

 アクロマの振り向けた言葉にヴィーツーは声を荒らげた。

 

「お前らは! 私が形骸上のカリスマを擁立する事に躍起になっていると! そう思っていたのだな!」

 

 アクロマは眉をひそめる。通話先も怪訝そうな声を出した。

 

『そうではない、と?』

 

「断じて違う! 私は、ゲーチス様でなければならなかった。私がたとえ何回死のうが、何回違う身体を行き来しようが、それでも変わらないものがあった! 志だ! それを、お前らは、容易く超えてきた。容易く、折ってきたのだ!」

 

 モンスターボールの緊急射出ボタンに指をかける。押し込んだが、どうしてだか作動しない。

 

「……なるほど。あなたがどれだけ変わろうとも、カリスマだけは変わって欲しくなかった、と。しかしそれもエゴですよ、ヴィーツー様」

 

 アクロマの押したボタンのせいであった。ボールシステムがダウンし、開閉スイッチがオフラインになっている。

 

「あなたには、見守ってもらいましょう。新たに生まれ変わった、カリスマの姿を」

 

『ヴィーツー。ワタクシは、戦う。ゼクロムを寄越せ。ゼクロムを、だ』

 

 本当ならば、喜んで差し出すところだが、これは違う。自分の思い描いていた、カリスマの復活ではない。

 

 今のゲーチスは操られているのだ。

 

 アクロマであり、この通話先の相手であり、ルイツーに。

 

 誰を消せばいい? 誰を殺せば、この悪夢を終わらせられる?

 

「残念ながら、ルイツーのシステムは完璧です。私とて、もうこのプラズマ団の基地は全て、ルイツーの支配下から抜け出せる方法を知らない」

 

 ヴィーツーは掴みかかっていた。アクロマがフッと笑みを浮かべる。

 

「貴様ァ! プラズマ団の理念を! 何もかもを捨て去ってまで、波導使いに勝てればいいのか? 我々はそのような浅慮で立ち上がったわけでは――」

 

「では、逆にお聞きしましょう。プラズマ団の理念とは何です?」

 

 アクロマの怜悧な眼差しがこちらを見据える。その眼球に映った自分自身は、全盛期の姿を保っていながら、どこか異物めいていた。

 

「ぷ、プラズマ団の理念は、ポケモンの解放だ。解放し、全ての民草が等しくなったその時、支配が始まる。ゲーチス様という圧倒的支配を掲げて、その時から永遠となるのだ……」

 

「では、永遠の支配の始まりの形に、何故喜ばないのです?」

 

 客観的に見れば、ゲーチスの復活は喜ばしい事のはず。それを素直に受け止められないのは、他でもない。

 

 自分の思想がないからだ。

 

 ゲーチスは、ただの機械以下に成り果てた。

 

 かつてのゲーチスを模倣はしている。全盛期の姿でもある。能力も恐らく引けを取らない。

 

 だが、そこにプラズマ団の思想も、理念も、崇高なものは何一つなかった。

 

 ただの、同じ文言を繰り返すだけのマシーンに、成り下がった。

 

 ヴィーツーは手を離していた。アクロマは白衣を整えこう口にする。

 

「研究は飛躍しますよ。神の領域に。誰かが歯止めをかけなければ、どこまでも研究は飛躍し、跳躍し、超越する。それを阻む事は、人類の歴史を否定するも同義なのです」

 

「だが……私は、こんなものを求めてはいなかった」

 

『ヴィーツー。ゼクロムだ。ワタクシが打って出る。波導使いを、殺してみせようじゃないか』

 

 ――違う!

 

 ヴィーツーは叫び出したかった。

 

 こんなものはゲーチスではない。その本懐ではないはずだ。

 

 しかしアクロマも、他の団員も、通話先の相手も同じように答える。

 

「これが、あなたの追い求めた、ゲーチスというカリスマですよ」

 

 本当にそうなのだろうか? ヴィーツーは顔を覆った。

 

 自分の求めたのはこんな、張子の虎であったのか。張りぼてに等しいものであったのか。ただ、言葉と能力さえあればいいのだと、そんな浅ましい事を思っていたのか。

 

「……黙れ」

 

「何ですって?」

 

「黙れと言っているんだ、アクロマ。それに通話先のお前! よくもこんな事をしたな。ただで済むと思うなよ。お前らは! プラズマ団を侮辱したのだ!」

 

 糾弾の言葉にもアクロマは動じる気配はない。それどころか、不敵に笑ってみせる。

 

「侮辱、ですか? それは、ちょっと可笑しいですね。だって私達は、等しくあなたに従っただけです。あなたは今のゲーチス様が不完全だと言った。私も、今の技術ではどうしようもないとは言った。ならば、ゲーチス様を使えるようにはしてくれないのか。そうあなたは思ったし、私に命じた。だから、オーダーに応えたんですよ。ゲーチス様を復活させる。どんな手を使ってでも。そういう意味ではなかったのですか?」

 

「私が追い求めて、焦がれたのはこんな結果じゃなかったと言っているんだ!」

 

 アクロマは理解し難いとでも言うように肩を竦めた。

 

「これはこれは。酷くご立腹の様子だ。何が気に食わないのです? 完璧なOSにこのプラズマ団の基地を任せ、さらに言えば、そのOSの加護を受けたゲーチス様の完全復活。これに勝る喜びはありますまい」

 

 アクロマの言葉は正論だった。だからこそ、ヴィーツーは困惑している。手段は問わないつもりだった。

 

 だが、実際に行われた事は、何もかもを無視した、非道である。

 

「違う……。お前らは、看板に色を塗っただけで完成だと言っているようなものだ。同じ色だから文句はないのだろう、と。そう吼えているんだ。……違うはずだ。何故、わたしはもっと早くに気付けなかった。私のものであったはずのゲーチス様に、何で勝手に、色を添えた?」

 

 本音が滲み出ていた。

 

 自分の制御下のゲーチスが欲しかった。自分の制御出来るカリスマが欲しかったのだ。かつてのゲーチスがNにそうしたように。

 

 しかし、今のゲーチスは違う。

 

 あれは別種の何かだ。

 

 自分では決して制御出来ない、別の何かに取り憑かれているのだ。

 

「魂の存在を信じるのならば、それは確かにそうでしょうね。だって、オリジナルゲーチス様はまだ生きていらっしゃる。再起不能とは言っても、生きてはいるんですから。魂は未だに現世にある。それなのに、同じ魂を持つ存在が二つもいる事になってしまった。その矛盾に、あなたは困惑しているのですよ。ちょっと見方を変えればいい。オリジナルゲーチスにこだわる必要性はないのです。カリスマが複数いてもいいじゃないですか。そのほうが効率もいい。換えも利く。どれだけ死んでも死なない、最強のカリスマ。ゾクゾクしますよ! プラズマ団を率いるのは、不死のカリスマなのです。Nでさえも、もう古い。英雄の因子を持ち、死なず、なおかつこの数値を見てくださいよ!」

 

 データ上に記されたのは波導適性であった。ツヴァイの遺していったデータ基準である。

 

 そこには「波導適性アリ」と書かれていた。

 

「何を……、お前らは何をしたのだ」

 

「全てだと、言ったではありませんか。ツヴァイの遺したデータは偉大だった! 波導を数値化し、データとして還元、英雄の因子がデータ化されたように、波導もまた、データとなる! 凄くないですか? このゲーチスは! このカリスマは、波導でさえも使えるのですよ!」

 

 世界が傾く。

 

 何かが音を立てて壊れたのが分かった。

 

 自分の理想だったのかもしれない。あるいは野心か。そういった、自分を構築する何かが、元の形さえも分からぬほどに、壊され、陵辱された。

 

 ヴィーツーは懐から拳銃を取り出していた。

 

「アクロマ!」

 

 引き金を引く、その一瞬に、電撃的な痛みが走った。

 

 覚えず銃を取り落とす。アクロマのコンソールに添えた指先のせいであった。

 

「痛みの度合いは? レベル1からレベル100までご用意できますよ。忘れたのですか? あなたの身体は私が造った。どこで致死量を混ぜようが、それは私の勝手なのですよ」

 

 裁量一つで殺せる、と言われているようなものだ。ヴィーツーはキッとアクロマを睨み据える。

 

「ここまで……、アクロマ、ここまで貴様は人でなしであったか!」

 

「何を仰る。あなただってMi3を道具としてしか見ていなかった。言ったでしょう? 目線の違いなのですよ。あなたにとっての血と肉でしかないそれは、私にとって愛おしく換えがたいものであった。ですがあなたにとってのカリスマは、愛おしいものは、私にとって血と肉と汚物でしかなかったのですよ」

 

「アクロマぁ!」

 

 ヴィーツーが吼えて拳銃を取ろうとする。その瞬間、指先の神経が消し飛ばされた。激痛だけではない、喪失感が胸の内を埋め尽くしていく。

 

「右手の第二関節から先を完全に遮断しました。これで何も掴めません」

 

 未来でさえも、と言外に付け加えられる。

 

 ヴィーツーは立ち上がり、無様にもアクロマに背を向けた。激痛で引きつる顔のまま、基地を出ようとする。

 

『逃しませんよ』

 

 アクロマの広域通信が響き渡った。

 

 廊下には武装したプラズマ団員がいる。

 

「止まれ! 殺害許可が出ている!」

 

 自分の部下だった者達がモンスターボールを構えて道を遮った。ヴィーツーは頭を振る。

 

「お前達……。何故だ、何故、私の言う事を聞かない……」

 

『あなたはどこまでも三下であった、という証です。情報面でも、あなたは私に遥かに劣る』

 

 ヴィーツーは慌てて身を翻す。素早いポケモンが足を穿ち、次いで右肩を切りつけられた。それでもヴィーツーは逃げた。遁走し続けた。

 

 基地から出た頃にはもう虫の息であった。

 

 だが、行かなければ、という思いが胸を締め付ける。

 

 自分が撒いた種だ。終わらせるのは自分以外にあり得ない。

 

「これを、倒せる人間は、奴しかいない……」

 

 カリスマとなったゲーチスと狂科学者アクロマ。それに協力する第三者。彼らを滅ぼせるのは、最早この世で一人だけだった。

 

「波導使い、アーロン……」 

 

 あの男しかいない。

 

 青の死神でしか、この悪夢は終わらせられないだろう。

 

 ヴィーツーは痛みで歪んでしまった視界の中、ヤマブキを彷徨った。

 



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第百八話「狂信者」

 

『最早、ヴィーツーは無用の長物であった。切ったのはさすがだと言わざるを得ない。アクロマ博士』

 

 通話先の声にアクロマは笑みを湛える。

 

「それほどでもない。君がいなければ、何も成し得なかったよ。まさか、こんな形で戻ってくるとはね。確か名前は……」

 

『もう、名前は捨てた。おれはアールと名乗る』

 

「アール、ね。なかなかに君らしい。一個人としての名前はもう必要ない、か」

 

 アクロマは広域命令を出すチャンネルに繋いで団員に呼びかけた。

 

「離反者ヴィーツーを逃がすな。見つけ次第、殺せ」

 

『了解』の復誦が返ってくる。アクロマは満足気に息をつく。

 

「まさか、私がプラズマ団の実質的なナンバーワンとなるとは」

 

 考えもしなかった。ヘッドセットを通信に繋いだまま、アクロマは部屋を移動する。

 

『おれはあんたならば、と思っていたよ』

 

「謝辞はいい。どうせ、君は欠片にも思っちゃいない。あの時。君は死ぬはずだった。それこそ、無能の謗りを受けるべき上官、ヴィオの判断ミスで。だが、君は幸運にも生き残り、ヤマブキで雌伏の時を待った。長かったろう?」

 

『たった一ヶ月くらいだ。短かったよ』

 

 しかし永遠とも言える一ヶ月であったに違いない。その間に波導使いを殺すべく派閥が動き、新たな殺し屋が野に放たれた。彼は一人の人間が経験する一生分以上のものを背負い込んだはずだ。

 

「泥水をすすった気分はどうかな?」

 

『以前、ハムエッグにも似たような事を言われた。その身分で満足しているのか、とも』

 

 さすがは盟主、と言ったところか。彼の素質を早々に見込んだのだ。

 

「君は先見の明がある。だから、ハムエッグに気に入られた」

 

『おれには、そんなもの欲しくなかったよ。ただ、一つでよかった』

 

 そのただ一つを手に入れるのには、彼の身分ではどうしようもなかった。そのために欺き、壊し、暗躍した。

 

 手に入れられるものを全て手に入れようとした。

 

 何という――強欲。

 

 どこまでも時分の手を汚す事に躊躇いがない。

 

「君の姿は私によく似ている。私も、彼女のためならば惜しくなかった。人間性など。そのようなものに関わっている暇があれば、一つでも彼女を造ろうとした。理想のMiシリーズを。私の描き得る、最大の女神を」

 

 密閉された扉が生態認証で開く。

 

 そこには数多のカプセルがあった。培養液に満たされているオレンジ色のカプセル群にはどれも未発達の細胞が浮かんでいる。

 

 視線の先にあったのは、一つだけのオリジナルであった。髪を泡沫に揺らす少女の姿が、照明で浮かび上がっている。

 

「ミオ。ようやく来たよ」

 

 シリアルナンバーはMi0とある。

 

 全ての始まりの女神であった。

 

「偽りと、善悪の逆転だ。私は君を描くために、三年間待った」

 

 コンソールに手を当てる。静脈認証型のコンソールが読み取ったのはこの基地そのものの上昇であった。

 

「雌伏の時は過ぎた。揺籃の段階を終えた我々は巣立たなければならない。カリスマには、カリスマを」

 

 モニターに映し出されたゲーチスが式典用の服を設えられて舞台に上がっていく。

 

「そして、私には最高の君を」

 

 逆探知装置が作動し、ポケモン図鑑に埋め込まれたその位置がつぶさに明らかとなる。

 

 狙うのは、波導使い、アーロンのアジト。

 

 そのためならば、全てを敵に回す。

 

「Mi3、いいや、三番目のミオ。迎えに行くよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それが浮かび上がったのを知っているのはこの世界でも数人であった。

 

 ヤマブキの南方に位置する港町にて、サントアンヌ号に乗り合わせた乗員がデッキに飛び出して写真を撮っている。

 

「見ろ! 船が浮かんでいる!」

 

 指差した先には灰色のフリゲート艦が赤い電磁を作用させながら浮遊していた。小型艦艇に見えるその姿に、一同は唖然とする。

 

「同じだ……。ちょうど一年ほど前に、イッシュ地方を恐怖のどん底に陥れた、あの艦艇と……」

 

 そう思ったのはイッシュ行きを予定していた観光客であった。浮遊する艦艇はそのまま北上する。

 

「あの方向は、ヤマブキだぞ……」

 

 誰もが声を発しようとして、何も言えなくなっていた。首都への突撃など、誰が予想出来ようか。天蓋のように空を覆う影に怯えて、膝を落とす人間もいた。

 

「神よ……」

 

 祈る声に艦艇から声が発せられる。拡張された音声を誰もが聞き取った。

 

『神などいない。ワタクシのために、世界があればいいのです!』

 

 イッシュにいた人間ならば一度は聞いた事のある声音だった。しかし、まさか……。誰もが復活した恐怖に慄くしかない。

 

「この声は、まさか――!」

 

『プラズマフリゲートは新たに浮上した! これは、プラズマ団の実効支配が始まった事の、ほんの序章に過ぎませんよ!』

 

 プラズマ団。その名前に泣き出す人間もいた。あるいは意味が分からず首を傾げる人間もいた。

 

『ワタクシだけが、ポケモンを使えればいいのです!』

 

 浮遊戦艦プラズマフリゲートのデッキで演説をする男の姿が、電波ジャックをされた家々のテレビに映し出される。緑色の髪を逆立たせた、巨躯の男であった。

 

 右目にアイパッチをしており、鋭い容貌と眼光が相まって凄味を引き立たせる。

 

『カントーの民草よ! 王の顕現に恐れよ! 平伏せよ! 我が名はゲーチス。ゲーチス・ハルモニア・グロピウス! 英雄の因子を持つ者なり。ワタクシの顔を、よぉく覚えておくとよろしい。これから支配するのはワタクシだからです!』

 

『プラーズマー!』

 

 艦橋に出てきた団員達が一斉に声を上げる。灰色と黒の衣装に身を包んだ人々が腕を掲げて忠誠を誓った。

 

『カントーの人間は! 今まで感じた事のない絶望に晒されるでしょう! ワタクシの言う事だけを、聞いていればいいのです!』

 

 ゲーチスが杖を舞台上で叩きつけ、鋭く声にした。

 

 それに呼応するように、プラズマフリゲートを包み込む赤い電磁が脈打ち、家々を嵐の只中に巻き込む。

 

「これは何なんだ!」、「プラズマ団が復活したって言うのか?」、「あの組織はイッシュだけのものじゃ……」

 

 反応は様々な人々であったが、誰もが共通しているのは言い知れぬ恐怖であった。赤い電磁の揺らめきは激動の予感をカントーの人間に感じさせるのには充分であった。

 

 その人混みの中で、ヴィーツーはただただ慌てていた。ヤマブキシティに入り込む事は地下通路で出来たものの、街頭モニターをジャックしたプラズマ団の復活を真に脅威だと思っている人間は、ヤマブキには存在しない。誰も彼もが、オフィスを行き来するのに忙しい。

 

 時に無関心な彼らの行動が幸いであったのは、ヴィーツーのような異常者を誰も見咎めなかった事だ。足を引きずり、血を流している自分を引き止める人間もいない。

 

「急がなければ……。波導使い、アーロン。彼しか、止められない。もう、ここまで来てしまったのだ。プラズマフリゲート。あれを止められるのは、彼しか……」

 

 脳裏に浮かんだ死神の影に、ヴィーツーは必死に彷徨う。

 

 ヤマブキの街並みに風が吹き抜けた。一陣の風だ。

 

 その風を、不穏と受け取った者もいただろう。あるいは気にも留めなかっただろうか。

 

 ヴィーツーはその風を感じ取っていた。この風は、ヤマブキの光と影の象徴だ。

 

 何かが、一瞬にしてプラズマフリゲートへと向かっていったのを関知する。

 

 目にも留まらぬ速さのそれは、暗雲そのものであった。

 

 黒い雲を引き連れて、何かが鋭く、プラズマフリゲートを目指している。

 

 傍目からしてみれば、気象現象の異常とも見える、その一陣の風の行方。

 

 ヴィーツーは唾を飲み下した。

 

「まさか、奴らでさえも敵に回すのか。アクロマ……、何を考えている?」

 

 だが、今は、とヴィーツーは一歩でも進んだ。一歩でも、彼に近づかなければ。

 

 不意に膝を落とす。限界か、息が上がっていた。

 

「ここまで、なのか……。私は……」

 

「お困りのようだね」

 

 かけられた声にヴィーツーが面を上げる。

 

 ここにいるはずのない存在が、周囲に黒服を引き連れて佇んでいた。

 

 ヴィーツーは目を見開く。あるはずのない、嗅ぎ分けられるはずのないのに……。

 

「どうして、――ハムエッグ」

 

 ピンクの身体を持つポケモンはその恰幅のいい体躯を揺らして笑う。

 

「なに、情報は速さだからね。彼がそろそろ動き出すのは察知していた。そうなってくると、一番に切られるのは誰なのか。割とはっきり出ていたものでね」

 

 黒服達のせいでハムエッグの異様を気に留める人間はいなかった。彼が引き連れている少女にも。

 

「まさか、貴様……」

 

 星空を内包した瞳の少女がすっと首を上げた。その眼差しの見据える先には暗雲がある。人工的に作り出された暗雲の群れを率いる対象が、彼女には見えているようだった。

 

 ――スノウドロップ、ラピス・ラズリ。

 

 この街で最強の暗殺者が、何の束縛もなく立っている。それだけでも異常事態であった。

 

「ラピス。落とすのはあの一群ではない。まぁまずは、彼らの出方を見ようじゃないか。話はそれからだよ」

 

 ハムエッグの手の者達がヴィーツーに肩を貸し、そのまま車へと押し込んだ。

 

 ハムエッグもモニターのついた後部座席に乗り込む。リムジンタイプの車種は、エンジン音さえ立てずに動き出した。

 

「……私を擁してどうする? やらなければならない事があるのだ」

 

「アーロンかい?」 

 

 せせら笑うこの街の盟主に、ヴィーツーは真剣な声を投げた。

 

「嗤っている場合か。街が滅びるぞ。いや、それだけならばいい、あのカリスマに、支配される事になる。カントー全域が」

 

「それはどうかな? 君が言うほど、カントーの人間ってのはたくましくないわけじゃないよ。現に、もう彼らが出た。という事は、だ。既にマークされていたんだよ、プラズマ団という素人組織はね。無論、その情報を売ったのはわたしではないよ」

 

「……あの通話先の」

 

 考え得る可能性にハムエッグは首肯した。

 

「かもしれないね。まぁ誰だろうと、転がり出した石を止める事は出来るのか。その一事だよ。プラズマ団、頭目ゲーチス。果たしてブランクを埋めるだけの力はあるのかどうか」

 

 ヴィーツーは押し黙るしかない。その復活の先陣を切ったのは他ならぬ自分。

 

「私は……、それこそが正しいのだと思っていたのだ」

 

「ゲーチス復活。まぁ、プラズマ団の思想としては、間違っちゃいない。ただ、疑問なのは彼女だ。Miシリーズ、だったかな。どういう経緯だったんだ? 彼女だけは、イレギュラー中のイレギュラーだった。どこまで記録を遡っても、どこかで途切れる。わたしも知りたいのだよ。ここまで理解に苦しむほどに秘匿された、単なる少女の秘密をね」

 

 言わなければならないのだろう。ヴィーツーは口火を切った。

 

「始まりは三年前。ゲーチス様がまだご健在であった頃にプラズマ団に引き入れた、アクロマという男の話になる」

 



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第百九話「さよならの言葉は」

 

 映し出された光景にアーロンは唖然としていた。

 

 あの素人組織が? という思いと、ゲーチスなる存在の登場。深まる疑念の中、反射的にメイに目をやっていた。

 

 当人は固まっていた。

 

 何が起こったのか分からない、というように。

 

「おい、大丈夫か?」

 

 ハッとしたメイがよろりと立ち上がる。心ここにあらず、と言った様子の彼女は危うい足取りで外へと向かっていった。

 

「あたしは……」

 

「おい! こんな状況でどこに行く!」

 

 アーロンは思わず声を荒らげて肩に手をかける。メイは無感情な瞳を向けていた。

 

 今までの感情が全て抜け落ちたような表情であった。

 

「あたしの名前は、Mi3。帰らなくっちゃ」

 

 明らかに今までのメイの様子ではない。シャクエンとアンズも困惑していた。

 

「メイ? 何を言っているの?」

 

「お姉ちゃん? どうしたって……」

 

「ゴメンね。シャクエンちゃん、アンズちゃん。あたし、ここにいちゃいけないの。あの人の下に行かなくっちゃ」

 

 扉を開けようとするメイにアーロンは手首を掴んだ。

 

 メイが機械めいた動きでアーロンを視界に入れる。

 

「行くな。今行けば、お前は……違う。そういう道を辿るんじゃない」

 

 その言葉に滲み出ていたものを悟られたのだろう。メイはふっと声にした。

 

「アーロンさん、知っていたんですね」

 

 息を呑んだ。Miシリーズの事、メイが英雄の因子を埋め込んだ人造人間である事。それらを一発で看破されてしまった。

 

「……俺は」

 

「いいんです、アーロンさん。あなたがどこで知ったのだとか、そういう事はもう、どうでも。あたし、あの人が呼んでいるから。行かないといけないんです」

 

 指差した方向にはテレビがあった。ゲーチスという男の演説が垂れ流されている。

 

「あんな、紛い物のために、お前が行く事はない」

 

 アーロンの説得にメイは頭を振る。

 

「違います。ゲーチスじゃない。あたしを求めている、たった一人の人がいる」

 

 メイの手がするりと離れていく。階段を幽霊のように足音もなく降りていく彼女を止める術がなかった。

 

「行くな! 馬鹿!」

 

 二階から迸らせた声に下階の店主が怪訝そうにこちらを窺った。

 

「あ、アーロン? 何だって言うんだ? それにメイちゃんも。今日はシフトじゃないよ」

 

 店主の声に、メイは微笑んでそっと扉を押す。

 

「さよなら」

 

「待て! お前は、まだ何も得ていない! まだ、何も成していないんだ! だというのに、呼んでいる、だと? そんな事で、俺が行かせると思っているのか?」

 

 駆け降りようとしたが、アーロンはどうしてだか憚られた。

 

 二階から呼びかけるだけのアーロンに、メイは振り返って首を横に振る。

 

「アーロンさん。今まで、ありがとうございました」

 

 やけにかしこまった声にアーロンは波導の眼を使う。やはり、というべきか、メイの波導は感知出来なかった。

 

 あの夜と同じだ。

 

 あの仕留め損なった夜。自分の初めての暗殺の失敗と同じ。

 

 メイの波導は人間のそれではない。異物が混じっていた。

 

 共鳴するかのように体内で三つの波導が脈打っている。それら三つがそれぞれに別の代物であるのが分かった。

 

「これが、英雄の因子だって言うのか」

 

「メイ! どこへ行くの!」

 

 シャクエンの叫びにようやく我に帰ったアーロンはメイの背中を目で追っていた。

 

 誰もが喫茶店を出て行くメイを止める有効手段を持ち合わせていなかった。

 

「何で……。どうして、誰も止められないの……」

 

 それは自分とて同じなのだろう。アンズは呆然としている。シャクエンは行ってしまったメイに追いつけるにも関わらず、その足を止めていた。

 

 何かが、自分達では窺い知れない何か大きなうねりが、メイを止めるなと告げていたのだ。そのうねりの正体は誰にも分からなかった。

 

 ただ、メイをこの瞬間、止められなかったのは失敗だった。取り返しのつかない事だったと、全員が分かっていた。

 

「俺達は、何のためにいたんだ……。あいつに、いつの間にか引き寄せられて、この場所にいたんじゃなかったのか……」

 

 だというのに、いざという時に何も出来ず、立ち止まるばかりで。

 

 アーロンは拳をぎゅっと握り締める。

 

 シャクエンは声を殺して涙していた。彼女からしてみれば光を見せてくれた友人との別れだった。

 

 アンズも声をなくしたまま、一筋の涙が伝っていた。

 

 無条件に信じられる人間を立て続けに二人もなくせば、喪失感ははかり知れないだろう。

 

「いや……お姉ちゃんまで、あたいを置いていくの。父上みたいに……」

 

「メイ……。私だけが、止められたのに」

 

 皆が同じ気持ちだ。自分ならば止められた。その歯がゆさに叫び出したくなる。

 

 店主は全員の顔を見やってから、そっと呟いた。

 

「……君らが、カタギでない事は、知っていたよ」

 

 明かしたつもりはなかったのに、店主は独白するように語っていた。

 

「多分、裏社会の、陰惨な部分を見てきたのだろう事は想像に難くない。でも、君達を救えるのは、メイちゃんだと思っていた。彼女だけが、あちら側に行ってしまった君達を、引き戻せるものだと……。でも実際には、彼の岸に行ったのは、メイちゃんのほうだった」

 

 悲壮な現実に打ちひしがれるしかない。自分達を留めておいた人間は、手の届かぬ彼方へと旅立ってしまった。

 

「メイ……、どこへ行ったって言うの……。私、メイと一緒の時以外の笑い方、分からないよ。メイが教えてくれたんだよ、まだ、笑顔でいられる場所がこの世界にはあるって。なのに、メイ……」

 

 シャクエンの涙に濡れた声音に店主がコーヒーを差し出す。

 

「我々では、メイちゃんを引き戻す事は、出来ないのかもしれない」

 

 残酷な宣言であったが、店主は第三者だからこそ、この現状を誰よりも客観的に見ている。

 

 自分達が動けもしなかったのだ。当然、救い出す事など出来はしないのだろう。

 

「私、私は……!」

 

 シャクエンが外に出ようとする。それを制したのはアンズだった。

 

「やめて! シャクエンお姉ちゃん……、みんないなくなってしまったら、あたい、どうしたらいいのか分からないよ」

 

 誰もがここから飛び出したいに違いないのに、その方法が分からない。歩き方を教えてくれた人がいなくなってしまえば赤子同然であった。

 

「アーロン。お前は、どうするんだ?」

 

 店主に声を振り向けられてアーロンは身を持て余す。

 

「俺は……」

 

 メイを取り戻す、と一息に言えればどれほど楽だろう。

 

 しかし、隠し事をしていた。プラズマ団に聞いていたメイの秘密。それが露見した以上、もうメイとはまともに話せる気がしない。

 

 自分はメイからしてみれば全てを知る得る鍵であったのに知らぬ振りを通してきた人間だ。恨む気持ちもあるのかもしれない。

 

「俺は、どうすればいいんだ」

 

 正直な気持ちだった。どうすればいいのか分からない。所詮は暗殺者だ。

 

 誰かの命令がなければ、動く事さえも出来ない。

 

 裏稼業の人間は命じられれば何でもする。どのような薄汚れた事にだって手を染める。だがそれは、目的意識があるからだ。

 

 目的のない裏の人間は、どこにも行けない。逃げる事も、ましてや戦うことも出来っこないのだ。

 

「アーロン。お前が一番に、メイちゃんを止められるのだと思う」

 

 店主のてらいのない言葉にアーロンは面を上げる。

 

「だが、手を離してしまった」

 

「もう一度、繋げばいいんだろう? 一度手を離したくらいで、切れる縁でもないだろうに。殊に、メイちゃんとお前は、そう容易く切れるものかね」

 

 店主の言葉にアーロンは部屋にとって返した。

 

 テレビから流れるゲーチスの演説。その波導を読み取る。

 

「……何だこれは」

 

 ゲーチスの声だけではない。別の波導が流れ込んできていた。

 

 メイはこれを読んだのだ。これを読み取って、自分を呼ぶ声を関知した。メイにしか分からない暗号であった。

 

「これは、音階か? 波導が音階になって、流れてくる」

 

「お兄ちゃん? どういう事なの?」

 

「波導使い……。メイはどこへ……」

 

「馬鹿は、これを受け取った。今、解読する」

 

 アーロンは全身全霊をかけて波導を判読する。音階の形状になっている波導だ。通常、ゲーチスの演説のほうが目を引くために紛れ込ませやすい。

 

 一方通行の暗号であったが、その音階はメッセージを示していた。

 

「〝目覚めよ、Mi3、揺籃の時は過ぎた。プラズマフリゲートにて始まりの女神と共に君を迎えに行く。来るのは……〟。そういう事か……」

 

「波導使い、メイはどこへ?」

 

「ヤマブキのセンタータワーだ。そこで馬鹿を迎えるつもりなのだという。プラズマフリゲート、と言っているな。この空中戦艦の事か」

 

「行かなくちゃ!」

 

 飛び出しかけたシャクエンをアーロンは呼び止める。

 

「待て! これは、何が映り込んでいる?」

 

 ゲーチスの演説を突如として遮ったのは濃い影であった。暗雲か、と首を巡らせた団員達が一斉にモンスターボールを取り出す。

 

 ゲーチスも演説を取り止め、口角を吊り上げて声にした。

 

『来たか。カントーの守り手』

 



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第百十話「最強の名」

 一斉に振り向けられた視線と攻撃には、圧巻と言う他ない。

 

 それが敵愾心であっても、集団というものは個を圧倒する。

 

 暗雲の切っ先で風圧を受け止めるマントをなびかせた彼は手を振り翳した。

 

「焼き払え!」

 

 暗雲に映っていたであろう群体が分散する。

 

 一体一体が、オンバットであった。オンバットが群れで飛び、雲のように、密集していたのだ。この陣形を組み立てられるのは世界広しといえども、自分しかいない。

 

「来たか、カントーの守り手。ドラゴン使い、ワタル!」

 

 ゲーチスの忌々しげな声音にワタルはカイリューの背中で鼻を鳴らす。

 

「はじめまして、のはずだがな。そしてさよならだ、プラズマ団の諸君」

 

 払った手に同期してオンバットが破壊光線を掃射する。プラズマフリゲートの各所へと攻撃が加えられたかに思われたが、それは薄紫色の防御膜に遮られた。

 

 着弾したのは一発か二発ほど。ほとんどがその防御膜に弾かれた。

 

「人工リフレクター、か。そうだな、それくらいの守りはしていてもおかしくはない」

 

 ワタルは感心すると共に、オンバットで仕留められなかった初撃の失敗に苦々しさを感じ取った。

 

「失敗は、あまりしたくないものだな、カントーの軍神よ」

 

 ゲーチスの声にワタルは口角を吊り上げる。この支配者の風格の男は分かっている。どの程度、相手を屈服させれば勝利に繋がるのかを。

 

 この男も軍師のタイプだ。ワタルは瞬時に判断し、端末を取り出す。

 

「ゲーチス・ハルモニア・グロピウス。国際指名手配犯だ。だが、ここまで健在だとは書かれていなかった」

 

「力が戻ってきたのだよ。ワタクシに相応しい、力がね!」

 

 掌を掲げたゲーチスにはいささかの衰えもない。まさしく全盛期の威風がある。

 

「……データの齟齬か? 確かゲーチスは最早、使い物にならなくなったと聞いていたが。まぁ、いいさ。オレがやるのに、一切、手加減が要らなくなっただけの話」

 

 ワタルは手を薙ぎ払い、オンバットに指示を飛ばす。

 

「リフレクターを引き千切ってしまえ」

 

 オンバット二十体相当の攻撃力は一体がドラゴンタイプとしては弱小でも、それ相応の威力になる。オンバットが各々噛み付き、牙で食い千切ろうとする。

 

「させると思っているのか」

 

 ゲーチスが杖をつくと、電流が人工リフレクターの皮膜を震わせた。電撃を浴びた形となるオンバットが数体、落下する。

 

「電磁波、か。そのプラズマフリゲートそのものが、攻撃兵器と見た」

 

「さて、どう出る? カントー四天王、最強の男よ」

 

 ワタルは呼吸を一つつき、肺の中を入れ換える。熟考する暇はなさそうだった。

 

 既にこの街は動き始めている。盟主、ハムエッグとホテル、そうでなくとも大小様々な組織の陰謀が渦巻くこの街の上空で、一戦交えるのは賢くはない。

 

「最強の名前って言うのは、こういう事を言うんだ。カイリュー、逆鱗」

 

 ワタルはそれを命じた瞬間、雲間から出てきたオンバーンに乗り移っていた。

 

 カイリューが赤い燐光を滾らせてプラズマフリゲートへと特攻する。

 

 人工リフレクターと電磁波が展開されたが、無意味だ。残像すら居残すカイリューの拳が紛い物のリフレクターを容易く引き剥がす。

 

「底が見えたな! オンバット、破壊光線、放て!」

 

 オンバットがすかさず穴に向かって光条を一射する。甲板に出ていたプラズマ団員が慌てて避難を始めた。その中で、一番目立つ舞台で、ゲーチスは動きもしない。

 

「慌てないのは、ボスの風格とでも?」

 

 ワタルのカイリューは容赦なく、艦艇の底を叩いた。足場を揺らされた団員達が転げて、姿勢を立て直す前に滑り落ちていく。

 

 燐光を引いたカイリューが躍り上がり、ゲーチスをその眼に据えた。

 

「射程内だ! 破壊光線!」

 

 カイリューの一射した破壊光線は確実にゲーチスを殲滅せしめたかに思われた。だが、それを防御したのはあまりに意外な姿であった。

 

「出でよ」

 

 その一声で、破壊光線が弾かれる。

 

 ワタルは瞠目していた。

 

 ドラゴン使いならば分かる。

 

 黒い装甲を思わせる表皮に、青白い血潮を棚引かせるその威容。

 

 尻尾の充電部位が青く輝き、プラズマフリゲートに一瞬で暗雲を使い、護りを固めさせた。天候さえも操る、伝説のポケモン。その名は――。

 

「ゼクロム」

 

 ゲーチスが呼ぶとゼクロムは両腕を引いて咆哮した。

 

 ワタルは自分の全知識を総動員する。ゼクロム? 何故、あれほどのドラゴンポケモンがプラズマ団の手にある?

 

「神話級のポケモンだぞ……」

 

「ワタクシの前に、跪きなさい! 最強の男よ!」

 

 ゲーチスが手を振り翳すと、ゼクロムがカイリューに向かって跳躍した。今のカイリューで反応出来ないほどの素早さではない。問題なのは、速さよりも……。

 

「その、何もかもを無力化してしまいそうなほどの、気迫」

 

 ゼクロムの特性だ。全ての特性を無効化し、相手へと攻撃を叩き込む。

 

「そう! テラボルテージを!」

 

 ゼクロムの背筋から光背のような電流の輝きが延びる。高威力の攻撃を関知したカイリューが直前で飛行進路を変えてゼクロムへと突っ込んだ。

 

 その射程内を、ゼクロムの放った青白い雷の刃が突っ切る。

 

 電気の十字架だ。

 

 それが空間内を押し包み、全方位の千の刃と化している。

 

「クロス、サンダー!」

 

 ゲーチスが吼えた。それに呼応してゼクロムが拳を握り締める。「クロスサンダー」に内包された電磁の威力が発揮され、天空を亜光速の稲光が駆け抜ける。

 

 カイリューはその中であってもなお、健在であった。当然だ。自分が育て上げたカイリューはこの程度では沈まない。

 

 ゼクロムがすっと手を掲げる。その掌から電磁の十字架が構築されて真っ直ぐにカイリューへと撃ち込まれた。しかしカイリューは薄い皮膜を展開して弾く。

 

「バリヤーか。なるほど、ドラゴン使いを名乗るのは伊達ではないようですね」

 

「押し切れ! カイリュー! 相手もドラゴンだ! こっちの攻撃が命取りになる!」

 

 ワタルの声を受け止めたカイリューが赤く熱した拳を振り上げる。ゼクロムは動きもしない。受け止める算段なのか。だが、とワタルは感じ取る。

 

「こっちのラッシュを、全てさばけるとでも?」

 

 カイリューがゼクロムへと目にも留まらぬ速度の拳を見舞う。ゼクロムがその一撃を受け止めるも、カイリューだけではない。

 

 ワタルの操る全ドラゴンタイプがゼクロム一体を包囲していた。

 

「自然と、カイリュー以外に目が行かないものだろう? そうするように仕向けたんだからな。当然、気づけなかっただろうよ。オンバット二十体、包囲完了」

 

 オンバットが口腔を開き破壊光線を充填させる。

 

「続いてオンバーン、オレの乗っている個体以外、全四体、配置完了」

 

 オンバーンが両翼を開き、内耳を震わせる。「ばくおんぱ」が放たれ、音波の檻にゼクロムが捕らえられた。

 

「いくら堅牢さが売りでも、破壊光線二十体の威力、食らい知れ!」

 

 二十体の破壊光線が同時に発射され、ゼクロムの周囲を暫時、オレンジ色の光の瀑布が包み込んだ。

 

 勝った、とワタルは感じ取っていた。空気中に混ざる生き物の焼けるにおい。加えて、唇に引っかかる生物の油。電気を発生させるポケモン独特の臭気に、勝利宣言を向ける。

 

「これが、プラズマ団の切り札だったのだろう? 残念だったな。ドラゴンで挑んだのは相性が悪かったようだ」

 

 封じ込めた。そう思い込んだワタルへと、ゲーチスは不敵に――嗤った。

 

「そうですね。そうであったのなら、何とよかった事か」

 

 ゲーチスが勝ちを確信する理由がない。ワタルは勝利者の声音を振り向ける。

 

「諦めろ。ゼクロムは敗れた」

 

「普通に考えれば、でしょう? ワタクシは、どうやら普通ではないようなのでね」

 

 ハッとしてワタルが目線を振り向ける。

 

 黒煙の棚引く空間から、ぬっと黒い手が伸びてきた。悪魔の手のように、防御も儘ならぬカイリューを締め上げる。

 

「馬鹿な……。確かに攻撃は命中したはず……」

 

「ゼクロムは、確かにドラゴン。その程度であったのかもしれない。ですが、今はワタクシがいる。ワタクシが、ゼクロムを従えている」

 

 強く杖をついたゲーチスの声に従って、ゼクロムが咆哮する。それだけで黒煙が霧散した。

 

「生きている……」

 

 ワタルはあり得ないものを目にしていた。ゼクロムの身体には傷一つないのだ。

 

 破壊光線二十発。それに、ハイパーボイスを四発。加えてダメ押しに、逆鱗の拳を数え切れぬほど撃った。

 

 だというのに、生きている。

 

 その体表には艶めきさえもある。磨き上げられた陶器のように、傷が見当たらなかった。

 

「何をしたんだ……。攻撃を、全部受け流すなんてポケモンのやれる域ではない」

 

 それこそ、神の領域だ、と言いかけて、ワタルは口を噤んだ。まだ戦闘の途中であるのに、自分が弱音を吐くわけにはいかない。

 

 だが、ゲーチスからしてみればその一瞬だけでもよかったのだろう。

 

 頬を綻ばせたゲーチスはワタルへと決定的な言葉を突きつける。

 

「あなたは、ワタクシよりも――弱い」

 



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第百十一話「堕ちる」

 ゼクロムの握り締めた手にカイリューの骨格が軋みを上げる。「げきりん」の限界が来ていた。ワタルは舌打ちしてオンバーンを呼びつける。

 

「爆音波だ! ゼクロムに隙を作れ!」

 

 放たれた音波攻撃に対して、ゼクロムのした事は少ない。その音波を全身の筋肉で吸収し、周囲の空間へと反射させたのだ。

 

 これはポケモンの技ではない。

 

 これは、テクニックだ。技術、技巧と呼ばれる部分の話だ。

 

 ヨガの達人が力の抜き加減を理解しているように、このゼクロムはポケモンの技を吸収し、解き放つ術を知っている。それをどのようにすれば破壊光線ほどの高威力でも弾き返せるのだと、理解しているのだ。

 

 どこかで既視感を覚えた。

 

 前にも、自分はこれに似た対象と戦った事がある、と。

 

 どこだ、と考えを巡らせる前に、ゼクロムがカイリューを地面へと放り投げた。オンバーンを呼んでカイリューを回収させる。傷の度合いから、もう戦いは無理だとモンスターボールに戻した。

 

「オレの、一番手だぞ……」

 

 ただのカルト教団の頭目がやれるバトルの領域を超えている。

 

 ワタルの呟きに、ゲーチスは肩を揺らして嘲った。

 

「これが、四天王! これが、カントーの国防ですか! この程度が! 児戯に等しい、今のワタクシと、ゼクロムにとっては! こんなものが、カントーを背負って立つ人間の実力か! あまりに脆弱! あまりに、貧弱!」

 

 ゲーチスの哄笑が響く中、ワタルは歯噛みする。この悔恨に、一つだけ風穴を開ける手立てがあった。だが、それは、止められればまさしく完全敗北である。そのリスクを背負ってでも、勝たなくてはならない。ここで勝てなければ、カントーの国防と四天王は地に墜ちる。

 

「……使いたくはなかったが。全オンバットに命じる。変わらずの石を、破棄せよ」

 

 その命令にゲーチスの高笑いが止まった。水を打ったような静寂の中、オンバットが隠し持っていた小さな石を捨て去る。叩き割る個体もいた。その次の瞬間、光が包み込み、オンバットの弱々しい躯体が倍以上に膨れ上がった。その光の先にいたのは、ただ一つ――。

 

「オンバーン二十と四体。これが、オレの真の切り札だ」

 

 空域を埋め尽くす黒翼の龍が咆哮する。オンバーンに強制進化させられた二十体が一斉に、その内耳をゼクロムに突きつけた。

 

「二十と四体の全力攻撃、食らい知れ! 爆音波!」

 

 直後、静寂を叩き割る轟音が、ヤマブキシティを包み込んだ。ビルが跡形もなく破砕し、砕け散ったガラス片や粉塵が街を埋め尽くしていく。

 

 焦げたような灰色が街を満たし、音域に触れたものは余さず消去されていった。

 

 当然、ワタルはこれでゼクロムを下したと思っていた。思い込んでいた。

 

 そうでなければ、この相手はまさしく――。

 

 ゼクロムは音叉の檻の中で片腕を掲げる。その掌の中で不意に電磁の十字が形作られた。

 

「いけない、避け――」

 

「クロスサンダー」

 

 命じた声に、数体のオンバーンが貫かれる。電磁の十字架が突き刺さったオンバーンが墜落した。

 

「まだ、生き永らえて……!」

 

「惜しいかな、四天王ワタル。ワタクシを倒すのに、これ以上とない力でしょう。これ以上とない切り札でしょう。鬼のようにあなたは強い。羅刹のように、あなたの心には一切の容赦がない。通常の敵ならば、倒せなくともその強さ、強靭さに敬服し、屈服するであろう事は想像に難くありません。ですが、我々はプラズマ団。全てのお題目と、思想をかなぐり捨ててでも、生き永らえ、雌伏の時を待った集団。思想的なもので敗北するくらいならば、我々は思想を、意志を、捨てる」

 

 ゼクロムの青白い血潮が宿り、その腕を振るい落とした。その瞬間、発生した電磁の十字架がオンバーンを次々と撃ち落として行く。

 

「嘘だろ……。オレのエースが」

 

「残念ながら、あなたが捨て去った程度のプライドでは、ワタクシには勝てない。ワタクシは義でも何でもなく、悪意で立っている。ここにいるのはワタクシ個人ですが、ワタクシそのものが、プラズマ団なのですよ」

 

 杖を鋭くついた音に相乗し、ゼクロムが吼える。「ばくおんぱ」の威力が霧散し、音波攻撃が一斉に消失した。

 

「爆音波を、咆哮だけで消し去るなんて」

 

「通常ではあり得ません。ですが、ワタクシは得た。最高の力を」

 

 ゲーチスの掲げた腕から青白い瘴気のようなものが棚引く。それを目にしてワタルはようやく思い出した。

 

 この既視感の相手。

 

 引き分けに持ち込まれた因縁の敵と同じだ。

 

「波導を、使っているのか……」

 

「いかにも。波導使いの技術はデータ化され、我が身に刻まれた。それは刻印の名を持つゼクロムも同じ事。ワタクシとゼクロムは波導を帯びているのです。だから、通常のトレーナーのそれではない。最強の名を欲しいままに出来る」

 

 波導使いと同じなど考えられない。だが、カイリューの攻撃を受け流し、オンバーン二十四体を屈服させられるのは波導くらいしか思い浮かばなかった。

 

「どこまで……、ゲーチス。貴様はどこまで強欲なんだ」

 

「どこまでも。ワタクシの力が支配に変わるまで、掲げ続けましょう! さぁ! 幕が降りる!」

 

 ゼクロムが腕を掲げ、掌の上に電磁の球体を作り出した。それに連鎖してオンバーンを包み込んだのは電流の檻である。球形のそれがオンバーン二十四体を同時に攻撃に落とし込む。

 

「――雷撃」

 

 その攻撃の名前が紡がれ、オンバーンが一体、また一体と焼き尽くされて墜落を始めた。

 

 雷撃、の名前に相応しく瞬時の感電だ。それが神経の一本一本まで焼き尽くし、オンバーンは黒煙を引きながら街中へと墜ちていく。

 

「オンバーン……。こんな、こんな事が」

 

「カントー四天王。負けを認めるのならば潔いほうがいい」

 

 ゲーチスの声にワタルは歯噛みする。

 

 これ以上の単体戦力はない。カイリューもやられ、オンバーンも沈められた。こうなってしまった以上、自分は敗走するしかない。それで一刻も早く、カントーの国防にこの危機を伝えるのだ。

 

 カントーは非常事態宣言を出すに違いない。そうなってしまえば戦争も同じだった。

 

 ――だが、簡単に折れてしまえない理由がある。負けを認められない、意志がある。

 

「オレは、まだ負けちゃいない。オンバーンは残り一体、ここにいる」

 

 その言葉が強がりだと思ったのだろう。ゲーチスは鼻を鳴らした。

 

「あなたの乗るオンバーン一体で何が。言っておきますが、捨て身などあなた方らしくもない。それこそ悪足掻きだ」

 

「かもしれない。だが、オレは! オレはカントーの国防を預かる軍人である以前に、一人の武人だ! 武人には武人の散り方がある! オンバーン! 波導使いを倒すために習得した技だ、やれるな?」

 

 確認の声を振り向けるとオンバーンは強く鳴いた。両翼を広げて身体の中央にエネルギーを集中させる。

 

 イメージは心臓の脈動を自ら操作する感覚。

 

 自身を研ぎ澄まし、最強の一打へと、この身を昇華していく。

 

 オンバーンの身体に青白いオーラが纏いついた。その顕現にゲーチスは眉根を上げる。

 

「まさか……、あなたも至っていたのか。波導の境地に」

 

「境地、というほどでもない。ただ、学びはした。波導という概念を。そして、技として繋げたんだ! この技の名前は!」

 

 オンバーンが咆哮し、ゼクロムへと一直線に突っ込んでいく。ゼクロムは腕で受け止めたが余剰衝撃波がその黒い表皮を叩いた。

 

「龍の、波導!」

 

 ワタルの雄叫びに相乗し、オンバーンが今にも焼き切れそうな身体を波導の熱に晒す。ゼクロムの体表を跳ねたのは波導の残滓だ。電流のように細かくなった波導の残滓でさえも龍の形を作り、ゼクロムに噛み付く。

 

 ゼクロムはその段になって初めて、余裕を崩した。体内波導を乱されれば、たとえ伝説とはいえ、差し障る。ゼクロムがもう片方の腕を振り上げて球体を練った。

 

「雷撃!」

 

 天罰のように一条の雷がオンバーンの身体を貫く。

 

 ワタルは、既に離脱していた。最後のオンバーンが身体を射抜かれて墜落していく。

 

 最早、打つ手はなかった。近場のビルの屋上に降り立ったワタルは敗北の苦渋を噛み締める。

 

「……悔しいが、オレの負けだ」

 

 この戦局をどうすれば覆せる? プラズマフリゲートはゼクロムの護りを得て究極の空中艦艇になった。この悪夢を終わらせられる人間はいるのか。

 

「この街の抑止力に頼るほかないのか……」

 

 全ては、この爛れた街の人々に託された。

 



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第百十二話「敗北宣言」

「ワタクシの、勝ちだ……!」

 

 ゲーチスは勝利の余韻に浸る。

 

 全盛期にもこれほどまでの勝利を確信した事はない。今、カントーの国防は自分に下った。四天王を倒したのだ。Nを操っていた時でさえ、これほど満たされはしなかった。

 

「ワタクシに、勝てる者はいない!」

 

 ゼクロムが空中戦艦プラズマフリゲートを護りつつ、ヤマブキを睥睨する。甲板に出ていた団員が一人、不意に声を上げた。

 

「ぷ、プラーズマー!」

 

 その声に一人、また一人と号令が重なっていく。

 

 やがて大きなうねりになったそれは、ゲーチスを賞賛する響きであった。

 

「いいぞ! ワタクシは、もっとやれる! カントーなど、最早我が手中よ!」

 

 支配と実効の感覚に酔いしれた、その瞬間であった。

 

 ゼクロムの右腕に氷の華が咲いていた。

 

 否、それは咲いていたのではない。突然の凍結現象に、ゼクロムの表皮が引き裂け、血が迸る前にそれさえも凍らせられたのだ。

 

 ゼクロムが手を振るい上げ、攻撃対象を見据える。ゲーチスはその視界と同調し、その相手を目にした。

 

 ビル群に挟まれた遥か下方に、少女が佇んでいた。

 

 緑色の長髪を灰燼に棚引かせ、廃墟へと歩みを進める少女は星空を内包した瞳を持っている。

 

 その瞳が不意に、ゼクロムを見つめた。

 

「あれを、落とせばいいんだよね、主様」

 

 割って入った澄んだ声音に毒気を抜かれたほどだ。少女はモンスターボールに手をかけてそれを繰り出す。

 

「いけ、ユキノオー」

 

 飛び出したのは白い羅刹だ。雪原から現れたかのような大型ポケモン。その紫色に濁った瞳が、ゼクロムを睨む。

 

「ユキノオーだと? そんなもので、ゼクロムが止められるか! クロスサンダー!」

 

 電磁の十字を構築したゼクロムがそれを槍のように投擲する。しかし、ユキノオーは慌てるでもなく、その腕で「クロスサンダー」を掴み取った。

 

 熱した電流が焼くかに思われたがそれを凌駕する凍結速度で「クロスサンダー」が無効化されていく。

 

「何なんだ、貴様は……」

 

 覚えず狼狽する。ゼクロムの攻撃を受け止められるポケモンとトレーナーなどいるはずがないのに。

 

 そのポケモンはいとも容易く、凍結させた「クロスサンダー」を叩き折る。

 

 まだ余力のあると思われるユキノオーはゼクロムを注視し、片手を払った。

 

 それだけでゼクロムの右半身が凍結に晒される。

 

 ハッとしたゲーチスが指示を出した。

 

「ゼクロム! 電磁の熱気で焼き切れ!」

 

 尻尾の発電機が作動し、発熱させて電気を生じさせるも、それを上回る速度で凍結がゼクロムを覆っていく。

 

 これはまずい、とゲーチスは歯噛みする。ドラゴンであるゼクロムに、氷の攻撃は相性が悪い。

 

「ゼクロム、トレーナー本体をやりなさい! 雷撃!」

 

 ゼクロムが腕を振るい上げる。その瞬間、雷鳴が轟き、少女を狙った一条の雷が天地を縫い付けた。

 

 勝った、とゲーチスは確信したが、それを守ったのはユキノオーである。さすがに受け切れなかったのか、半身は爛れていた。

 

「ワタクシのゼクロムに勝てるわけがない!」

 

「そう……。今のままじゃ、ちょっと無理みたいだね、ユキノオー。やろうか。主様からも、お許しが出たし」

 

 少女がすっと手を掲げる。その手の甲に埋め込まれた何かがユキノオーの脈動とリンクし、紫色のエネルギーの甲殻が包み込んだ。

 

 まさか、とゲーチスは目を瞠る。

 

 咆哮と共に叩き割られたその姿は先ほどまでと一線を画していた。

 

 四足で、その巨大重量を支えている。発達した雪の芽が避雷針のように一対、背筋から伸びていた。

 

「――メガシンカ。メガユキノオー」

 

 まさか、メガシンカポケモンであったとは。ゲーチスの驚きを他所に少女は告げる。

 

「メガユキノオー、主様からはこう言付かっている。〝慣らし運転〟だって」

 

 自分が、慣らし運転だと? その言葉はゲーチスの矜持を傷つけるのに充分であった。

 

「誰の命令かは知らないが、後悔させてやる! ゼクロム、雷撃!」

 

「メガユキノオー、吹雪」

 

 その言葉が放たれた途端、掌に構築させていた「らいげき」が丸ごと凍結した。

 

 ――吹雪、だと? 

 

 否、これはそのような生易しい技ではない。

 

 問答無用の凍結攻撃だ。しかも寸分の狂いもなく、攻撃を放つ前にそれを霧散させた。

 

 吹雪、だというのならばそれは局地的なものであった。

 

 ゼクロムの右半身が凍り付いていく。メガユキノオーの放つ冷気に、ゼクロムが生命活動を弱めた。

 

「波導が、弱まっている?」

 

 そうとしか考えられない。先ほど全ての技をいなしたゼクロムの体内波導が凍結攻撃によって危険域に達していた。

 

「よく分かんないけれど、波導使いと同じだって言うのなら、その戦い方は心得ている。ゼクロムを、凍り尽くせばいいんだよね?」

 

 左半身を引き上げて、ゼクロムがメガユキノオーへと攻撃を叩き込もうとする。

 

「クロス、サンダー!」

 

「メガユキノオー、ウッドハンマー」

 

 渾身の電磁の十字は、メガユキノオーの巨躯から放たれた拳で打ち消された。

 

 メガユキノオーに目立ったダメージはない。「クロスサンダー」は掻き消されたのだ。

 

「よもや、これほどまでとは……」

 

「メガユキノオー、接触点から完全凍結、出来るよね?」

 

 触れた箇所からぴしぴしと音を立てて凍てついていく。このままならば、ゼクロムは氷の彫像と化してしまうのだろう。

 

 このまま、ならば。

 

「だが、ワタクシは得たのだよ。波導の力を」

 

 その瞬間、微かな音が響いた。亀裂である。メガユキノオーの体表に不意に亀裂が走り、そこから空気が漏れたのだ。

 

 少女も気づいていないようだ。

 

 ゼクロムの行った波導攻撃に。

 

「波導は、触れた箇所から相手の体内波導を感知し、ダメージを与える事が出来る。メガユキノオーの体内は精密機器並みだ。だからこそ、少しの穴が命取りになる。波導回路に数ミリの穴を開けてやった。それだけで、メガユキノオーのリミッターが解除された身体は、自壊する」

 

 空気だけが漏れていたと思われたその一箇所から、今度はメガシンカを形成する紫色のオーラが漏れていく。メガユキノオーは手で覆ってそれを防ごうとするが、その手にも皹が入った。

 

「メガユキノオー? どうして……」

 

「分からぬならば教えてやろう、小童。波導は全能なり。それを司るワタクシに、通常の熟練トレーナーでは、勝てない」

 

 少女の手の甲から突如として血が迸る。痛みにそのかんばせが歪んだ。

 

「同調するトレーナーにも、その傷は及ぶ。さて、ゆっくりだ。ゆっくりでいい。ワタクシは、お前が何者なのかを聞き出せる」

 

 ゼクロムが力を込めると凍結が解除された。その身体には傷一つない。

 

 電磁の十字を形成したゼクロムはその切っ先を少女に突きつけた。少女は、分かっていないのか動きもしない。

 

「このまま射殺す事も出来る。だが、ワタクシはあえて言おう。この街に敗北宣言を出させろ、と。もうヤマブキの人間はワタクシに勝てない。戦う事も出来ない」

 

 少女は傷ついた手を引いて、メガユキノオーに命じる。しかし凍結が成される前に、ゼクロムの体表を跳ねただけの波導が打ち消した。

 

「もう、二度も同じ攻撃は効かない。そういう風に、出来ているのだ。ワタクシに、勝てる人間はいない。誰一人として。ああ、これが全能感か。これが、支配か。ワタクシは、これを求めていたのだ」

 

「メガユキノオー、もう、渋っている場合じゃないみたい。絶対零度」

 

 メガユキノオーが咆哮し、一撃必殺の彼方へとゼクロムを葬り去ろうとする。街に降り注いでいた粉塵が集結し、それらが凍結の龍となって、ゼクロムへと襲いかかった。しかし、ゼクロムも、それを操るゲーチスも動じない。ただ、手を掲げただけだ。

 

 その一動作で、凍結の龍を射抜く。内部から形状崩壊を始めた凍結は跡形もなく消え去った。

 

 それと同時にメガユキノオーの額に稲妻のような傷痕が走る。

 

 メガシンカが解除され、ユキノオーがその場に突っ伏した。

 

「ユキノオー?」

 

 少女の呼びかけにもユキノオーは反応しない。

 

 当然だ。

 

 脳細胞を破砕してやったのだから。

 

「死なせたくなければ、ボールに戻す事ですね。ギリギリで間に合う」

 

 少女はユキノオーを揺するばかりだ。恐らく、戦えとしか命じられていないのだろう。

 

「所詮は戦闘機械か。そのような生き方も辛いでしょう。今、楽にしてあげますよ」

 

 ゼクロムの番えた電磁の十字に目もくれない。少女を照準した、その時であった。

 

 不意に肌を粟立たせるプレッシャーの波を感じ取る。

 

 その根源にゼクロムとゲーチスは視線を向けた。

 

「ああ、来たと言うのか。Miシリーズ。英雄の因子の再現」

 

 視線の先にはヤマブキのセンタータワーが屹立していた。

 



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第百十三話「美しき数式」

 

「おお、女神だ」

 

 プラズマフリゲートの最奥で、今もゲーチスの視覚映像を傍受しているアクロマは感嘆の息を漏らす。

 

 センタータワーに反応があった。仕掛けておいたポケモン図鑑の逆探知機能が彼女の到来を告げている。

 

「遂に、成される時が来た。原初の女神、ミオと、Mi3、メイの統合。それによってもたらされるのは、真の女神の出現。この私の、真意がようやく、ようやくだ。果たされる」

 

 悲願であった。アクロマはゲーチスの脳内へとそのまま直通回線を繋ぐ。

 

「ゲーチス。戦闘を一時中断。このままプラズマフリゲートはセンタータワーを目指す」

 

『構わないが、もう力の誇示は』

 

「必要ないでしょう。向かってくる命知らずなどいまい。私の造り上げた傑作は、四天王と、この街最強の暗殺者、スノウドロップを下した。これ以上の戦力などいるはずもない。今のゲーチスとゼクロムに向かってくるとすれば、それは自殺志願者だけだ」

 

 この領域まで到達した自分達を阻む存在などいるはずもない。

 

 プラズマフリゲートはゆっくりと、船首をセンタータワーに向ける。針路変更にも団員達は動じない。今の今まで行われていた戦闘のほうが戸惑いだっただろう。

 

『スノウドロップにも勝てる事が実証されたんだな』

 

 通話先のアールの声音は自信ありげだった。

 

「ええ、全ては高速演算チップと、そしてルイツー。私が形態化した波導の概念のお陰。これによってカリスマ、ゲーチスは完成した。最強のポケモンを携えたこの使い手に、敵う者はいない」

 

『だが、まだだ。まだ、この街には抑止力がいる』

 

「波導使いの事か? あんなもの。知れているだろうに」

 

 どうしてアールはここまで波導使いにこだわるのか。理解し難いが、それはどちらにとっても同じ事だろう。

 

『Mi3とMi0が同期すれば、どうなる?』

 

「素晴らしい事が起きる」

 

 アクロマの感じ入ったような声音に疑問が挟まれた。

 

『何か、とてつもない事でも?』

 

「君に害は成さないさ。ただ、女神の誕生を祝ってくれ。それだけが、はなむけだ」

 

『……おれは、それを祝うべきなのだろうか』

 

 そういえば、アールもメイに特別な感情を抱いていたのだったか。フッとアクロマは笑みを浮かべる。

 

「同期の済んだMi3、君達がメイと呼ぶ個体には、どれだけでも自由を与えよう。君を好きになるように調整し直してもいい。私が欲しいのは、完璧な女神だけ」

 

 恋愛などにうつつを抜かす不完全な少女ではない。

 

 アールが何を考えているのかは分からなかったが、彼はただ沈黙していた。

 

「まぁ、すぐに分かるさ。どれだけ素晴らしい事なのか。私の崇高なる理念を。私が唯一、この世で愛するべきだと感じた、美しき数式の行方を」

 



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第百十四話「魔物」

 

 傅いていた。

 

 まさか自分が頭を垂れるなど、予想もしていなかった。

 

 だが、これしか方法がない。

 

 ヴィーツーは嘆願の声を発していた。ハムエッグに連れられ、訪れたのは波導使いアーロンの根城だ。全て理解しているかのようにハムエッグは振る舞い、自分はと言えば、今まで煮え湯を飲まされてきたアーロンに頭を下げている。

 

 屈辱、云々以前よりも止めなければ、という意思が勝った。どうせ、今の自分とて、いつアクロマが殺せるとも限らないのだ。

 

「……頼む、波導使い。筋違いなのは分かっている。だが、お前しかいないのだ。お前だけが、あの化け物を、ゲーチス様を止められる」

 

 自分の意に沿わない進化を遂げたゲーチスはもう魔物であった。それを止めるのには同じ波導使いである彼しかない。彼以外に止められるとは思えなかった。

 

 最強の暗殺者、スノウドロップでさえも現状では時間稼ぎだ。伝説と波導を得たゲーチスの前には四天王さえも敵わなかった。

 

「お願いだ! 私達の不始末を、お前がつけてくれ!」

 

「……俺は、お前らの不始末をつけるつもりはない」

 

 やはりと言うべきか、アーロンの返事は淡白であった。ヴィーツーは歯噛みしてその場に頭をつく。

 

「この通りだ! 私の命などくれてやろう! だが、悪魔の研究なのだと気づけたのだ。アクロマの思う通りにやれば、Mi3は意に沿わぬ終わりを告げられる。あの男の、狂った研究のためだけの個体だったのだ」

 

「どういう、意味……」

 

 この街で一二を争う暗殺者、炎魔。その彼女が不安げに表情を翳らせている。この場に三人もの手だれが揃っている事にまずは驚愕したが、今はそのような場合でもなかった。

 

「言葉通りだ。Mi3は、アクロマの唯一愛した女性、Mi0をベースに造られた、人造人間だ。もっとも、アクロマの研究だけでは、彼女の中身のないコピーを量産するだけだったが。我々が傘下に入れてからの三番目の個体が、Mi3という名前を持つ」

 

「……あんた達、何をやっているのか分かっていて、そんな事を続けていたの」

 

 瞬撃のアンズの声に棘が篭る。殺されても仕方がなかった。

 

 しかしアーロンがそれをいさめる。

 

「全てを聞く。その上で、俺が決めるだけだ」

 

「でも! お兄ちゃん、こんな奴、殺しちゃおうよ! メイお姉ちゃんに、酷い運命を抱えさせた、張本人じゃない!」

 

 アンズの声にアーロンは首を横に振る。ここまで冷静な波導使いも、見た事がなかった。

 

「駄目だ。殺す事は許さない。おい、ヴィーツー。全て話せ。あの馬鹿は、何のために出て行った? そのアクロマという科学者は何を最終目的にしている?」

 

 ヴィーツーは重々しく口を開く。

 

「女神の再現……、そう、アクロマは呼称していた。彼にとってしてみれば、唯一愛した人の再生計画。我々は、彼の持つクローニング技術がゲーチス様の復活に使えると判断して懐柔した。だが、彼は最初からゲーチス様の復活など、途中経過でしかないと考えていたのだろう。Miシリーズには、目的として英雄の因子を埋め込んである」

 

「英雄の、因子……」

 

「イッシュを救った英雄の、遺伝子のようなものだと思ってくれればいい。こちらにはその遺伝子サンプルがあった。Mi3の中には彼の英雄の記憶も混ざっているはずだ。我らの王、Nの」

 

「N……、ここで繋がるわけか」

 

 アーロンはどこかで聞いたのだろうか。その名前を容易く飲み込んだ。

 

「Nは、元々プラズマ団の王であった。だが、ゲーチス様が頭目として支配を掲げ、張りぼての王であったNは追放された。どこへ行ったのか、我々も与り知らない。Nの遺伝子の一部を、我々は英雄の因子と呼んでいた。それを使い、造り上げたのがMi3だ。元々、Miシリーズには同じ出自がある。イッシュで育ち、小さな田舎町から旅立った記憶が。だから、見た目上は普通のトレーナーと大差ない。問題なのは、Mi3に入れておいた中身だ」

 

「中身、って……」

 

 シャクエンが口元を押さえる。確かにこれはおぞましい計画であった。

 

「英雄のポケモン、ゼクロムと対を成すその存在、名をレシラム。そのポケモンを封印し、ライトストーンという石に還元した。その石を、心臓部に埋め込んである。英雄の因子に、その英雄の使っていたポケモン。これにより、擬似記憶を持つトレーナー、メイはただのトレーナーでありながら、いずれ世界の命運を握る存在になる、はずであった」

 

「はず、という事は、計画に支障が出たんだな」

 

 アーロンの振り向けた声に、ヴィーツーは自嘲する。

 

「お前だよ、波導使い、アーロン。お前が、気づきさえしなければ、カントーで着実にその成果は挙げられるはずだったんだ。だがあの日、お前はMiシリーズに何かをしたな? そうでなければメイとしての人格が表に出たままのはずがない。恐らく、バグが発生した。そのために、Mi3は本来の用途から外れてしまった。私も、二度も殺されてしまった」

 

 全ての原因は、アーロンなのだ。アーロンが、メイにバグを発生させなければ、彼女は英雄の因子と心臓のライトストーンの告げる使命に衝き動かされ、もっと早くに行動を起こしていただろう。

 

 ゲーチスと共に、プラズマ団の傘下に下るはずであった。

 

 それがこうも急造品のゲーチスと、ゼクロム、アクロマの支配というイレギュラーに晒されたのは全て、メイの異常事態のせいだ。メイさえ、何もなければ全てうまくいっていたのに。

 

「なるほどな。あれにメロエッタを持たせたのは、お前らの判断か?」

 

「英雄の因子は古代の記憶を併せ持つ。古の歌も本来、我らが使う時のためのトリガーであった」

 

 もう全てを話し終えた。しかしアーロンは動き出そうとしない。

 

「これで全部か?」

 

「ああ、全て、だ。お願いだ、アーロン。ゲーチス様を破壊してくれ。お前の波導でしか、波導使いにされてしまったゲーチス様は救えないんだ」

 

「誰が、見も知らぬ人間を救うか。俺は、そのゲーチスとやらを救いはしない」

 

 アーロンがコートを翻す。

 

 その行方に誰しも声を投げた。

 

「波導使い、どこへ」

 

「今、ゲーチスとプラズマフリゲートがセンタータワーに向かっている。恐らく馬鹿もそこにいるのだろう」

 

「止めて、くれるのか……」

 

「馬鹿を言え。俺は何もしない。この状況に引っ掻き回されるのは御免だ」

 

「でも、お兄ちゃん! お兄ちゃんなら、メイお姉ちゃんを救えるかもしれない。それこそ、今まで通りに――」

 

「アンズ。何を期待している? 今まで通りなんてないんだ。今までが歪だった。もう、あのような光景には戻れない」

 

 その声音に全員が圧倒されていた。では、波導使いアーロンは何を寄る辺にして動くというのだ。何を信じて戦うと言うのだ。

 

 ハムエッグの傍を通り過ぎる際、ハムエッグが目配せする。

 

「近くまで送ろう」

 

「いい。俺の足で行く」

 

「アーロン。言ったはずだ。君は、最も残酷な運命を選ぶ事になる、と。それが、今だ。お嬢ちゃんに追いついてどうなる? お前は、どうしたい? 所詮は暗殺者、どれほど言い繕おうと、殺し屋である事に違いはない。お前は、何に成れる?」

 

 ハムエッグの問いかけにアーロンは沈黙を挟んだ。まさか、この期に及んでハムエッグがアーロンを躊躇わせるような事を言うとは思えなかった。ヴィーツーは逡巡する。

 

「は、ハムエッグ。お前、話が違う……」

 

「話? わたしは一度も約束はしていない。確かに、君を引き合わせるとは言ったが、一度も口裏など合わせてはいないよ。この街の事はこの街の人間がオトシマエをつける。それが流儀だ。アーロン、波導の暗殺者として、メイちゃんを殺すかい? それとも、アーロンという一個人として、メイちゃんを助けるのかな? それこそ白馬の王子様のように」

 

 どうして、ハムエッグはそのような口ぶりを使う。このままではアーロンは自分の行動そのものをかなぐり捨てかねない。

 

 ヴィーツーは声を荒らげた。

 

「ハムエッグ! アーロンが、せっかく、戦う気になってくれているのに、お前、何を!」

 

「だから、そういうのが、我々の流儀ではないと言っているんだ。世界の危機? この世の破滅? それとも、カントーの実質支配の頭が挿げ変わる? そんなもの、一言で言ってのけよう。どうでもいい」

 

 ヴィーツーは息を呑んだ。このポケモンは何を言っている。この街を支配しておきながら、何をのたまっている?

 

「お前、自分さえよければいいって言うのか」

 

「……何か不満でも?」

 

 まさに、何の疑問も挟んでいなかった。ハムエッグに疑う余地などない。本心から、自分さえよければいいのだと思っているのだ。

 

 この街の盟主は身勝手であった。否、身勝手だからこそここまで成り上がれたのか。

 

 この爛れた街の秩序を守るなどというお題目で動いているのではない。

 

 ただただ、支配の象徴として立ちたいだけなのだ。改めて、ヴィーツーはハムエッグという存在の大きさに愕然とする。

 

 ハムエッグは、支配したいだけ。

 

 この街の支配構図が塗り変わるのならば、分かりやすい側につくというだけの話。

 

 なんて事はない、どこにも、思想も、展望もなかった。盟主は始めから、腐り切っていた。

 

 腐敗の只中にあると分かっていて、アーロンが正常な判断を下せるのだろうか。

 

 ここでゲーチスとプラズマ団を壊滅させる事に意義を見出すのだろうか。

 

 不安になってヴィーツーは喉から声を発しようとした。懇願の言葉が必要だと感じたのだ。

 

 しかし、アーロンの返答は素っ気なかった。

 

「俺に、平和も、この世の破滅も、興味はない。ただ、流れるがままに生きるだけだ。それが波導使いであり、何よりも人として正しい。俺は、超人ではない。何もかもを超越した、義憤の徒でもない。正義など……もってのほかだ。だから、俺の立ち位置は一つだ、ハムエッグ」

 

 アーロンは鋭い一瞥をハムエッグへと投げかける。

 

「ほう、それは何かな?」

 

「――気に入らない奴は殺す。それだけの事」

 

 アーロンはコートを翻してアジトを出て行った。今の言葉が答えだと言うのか。

 

 その背中に追いすがろうとしてハムエッグに止められた。

 

「無駄だよ。もう結論は導き出された」

 

「……波導使いなら、止められるのに、何で、惑わせるような事を言ったんだ! あれじゃ、意固地にもなる!」

 

「そちらこそ、何を勘違いしているのかな。我々裏社会に生きる者にとって、表舞台が穢れようと、放逐されようと、どうでもいいのだよ。それが真意だ。裏に生きている人間にとって、誰が支配者になろうとも、あるいは支配者など存在しなくとも、この世が荒廃の一途を辿ろうとも、結局のところはそうだ。どうでもいい。それが答えなんだ。だが、波導使いアーロンは、少しばかり偏屈なのでね。彼は言っただろう。気に入らない奴を殺しに行くだけ、と。なに、彼はやるよ」

 

 その自信が分からなかった。今の返答では不安なだけだ。

 

「分かっていて、試したのか?」

 

「いいや、彼がどう判断するのかは、わたしにだって読み切れない。ただ、彼はとても人間らしい。波導使いで、人の道をどれだけ外れようとも、合理性を捨ててまで、人間らしさにこだわる。わたしはポケモンだから、その合理性に従わない生き方のほうが疑問なのだが、彼は違うんだ。わたしなどとは、違う」

 

 それが希望なのか、それとも絶望なのかは分からなかった。

 

 ヴィーツーは扉を開けて外に飛び出す。

 

 既に波導使いの姿はなかった。

 



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第百十五話「涙の唄」

 

 視界いっぱいに広がるのは、粉塵を舞い上がらせた大地。

 

 灰色の境界の向こう側に、赤い電磁を滾らせて浮かぶ戦艦があった。プラズマフリゲート。イッシュで壊滅させたはずのプラズマ団の母艦。 

 

 それが今は、自分を迎えるためにこのセンタータワーに向かっている。

 

 既に退避の済んだ最上階には人気はなかった。

 

 メイだけが、その役目を背負って佇んでいた。

 

 かつてシャクエンと共に上った場所。あの時には、何も自分の使命などあるとは思っていなかった。

 

 しかし今は――。

 

 メイは胸の前で拳を握り締める。

 

 今は、自分の番なのだ。

 

 自分が置いてきた因縁が目を覚ました。

 

 プラズマ団の擁する黒いドラゴンがこちらを睥睨する。

 

 どくん、と脈動した。激しい鼓動に息が切れる。

 

「あたしの中の……ライトストーンが、共鳴して……」

 

 脈打つ鼓動にメイは短く悲鳴を上げた。

 

 激痛さえ伴う鼓動は呼び合っているのだ。

 

 対応する黒い龍と白い龍。相克する者同士が、今、一つになろうとしている。

 

 それは自分だけではなかった。

 

 メイの視界に白い衣を纏った自分自身が幻視される。髪を解き、女神のように微笑んでいた。

 

 今ならば分かる。

 

 あれは、自分の基になった少女だ。

 

「ミオ……。もう一人の、あたし」

 

 別の人を愛した。

 

 自分の知らない人を愛し、その果てに死んでしまった、哀れな自分。死んだ後にも、焦がれた人の手で分解され、解析され、再構築された、どうしようもない、自分自身。

 

 その最初期の自分があのプラズマフリゲートの最奥に収まっている。

 

 脳裏を言葉が掠めた。

 

 ――補完の時だ。

 

 知らない声のはずなのに、メイは立ち上がってプラズマフリゲートと相対した。

 

 モンスターボールを手にし、手持ちを繰り出す。

 

「メロエッタ……」

 

 メロエッタが跳ね上がり、ガラスを砕いた。

 

 風圧が身体をなぶる。

 

 接近するプラズマフリゲートの甲板には倒したはずの頭目がこちらを見据えていた。

 

 プラズマ団の真の支配者、ゲーチス。

 

 あの時、倒したのは幻影であったのか。それとも、別の個体であったのかは分からない。ただ、今のプラズマ団を率いているのはあのゲーチスに他ならなかった。

 

 メイは覚悟を決める。

 

 ライトストーンと自分の内部に宿る因子に呼びかけられ、歌を歌った。

 

 名前も知らぬ、古の歌。

 

 紡がれる言葉は自分のものであって自分のものではない。

 

 最古の記憶から蘇った古の歌に、メロエッタの身体が反応する。

 

 髪が巻き上がり、オレンジ色の躯体になったメロエッタは自分がプラズマ団に造られた存在である証明であった。

 

「あたしは、Mi3。この時のために、あたしの記憶と、身体と、そして心臓があった」

 

 左胸にあるライトストーンこそが、この戦闘の極地を切り拓く唯一の鍵だ。

 

 メイは古の歌を紡ぎつつ、ゼクロムとゲーチスを睨む。

 

 あのゲーチスには分かっているのか、攻撃してくる気配はない。

 

 ゼクロムが対応して体表を震わせた。共振現象だ。ライトストーンの埋め込まれた心臓が震える。

 

 生命を吸い上げて今、顕現しようとしていた。

 

 自分本来であったもの。この光の石に内包された、神話のポケモンが。

 

 古の歌が終わりに近づけば近づくほどに、そのポケモンが激しく自分という殻を破ろうとするのが分かる。もう「メイ」という個体にこだわる必要はないようだった。

 

 最後の節へと辿り着く。

 

 これを歌い切ればライトストーンの中に封印されたポケモンが姿を現す。

 

 その段階に至った、その時であった。

 

『それ以上の、節に進む必要はない。私は、Mi3に用があるのだから。確かにレシラムの開放も一つの理由ではあった。ですが、私が価値を見出すのは、メイという少女のほうだ』

 

 知らないはずの声なのに、メイは歌を止めていた。

 

 プラズマフリゲートの船首に白衣の男が立っている。その隣には培養液に満たされたカプセルがあった。

 

 内部に揺らめく影に絶句する。それと同時に、やはり、という感慨が這い登ってきた。

 

 ――あたしは、このために生きていたのか。

 

 カプセルの中にいたのは、もう一人の自分……始まりの女神であった。

 

「ミオ。ようやくだ、ようやく、ここまで来れたよ」

 

 感じ入ったような声を出す男は十メートルほどの距離を挟んでメイと対峙した。

 

 メロエッタが攻撃姿勢に入るがそれが意味を成さないのはゼクロムの戦力からして明らかである。

 

「メロエッタも、この時のためのトリガーとして用意した個体。私の前では、攻撃しない。よく分かっている」

 

 眼鏡のブリッジを上げて男はメイを見据える。その眼差しには愛情でさえも感じられた。

 

 狂った愛情だ。

 

「メイ、今こそミオと同期し、真の女神を誕生させるんだ。レシラムの入ったライトストーンは、この後、ヤマブキの全域支配のために使う。こちら側の躯体に、君のデータを入力する。そうすれば蘇るはずなんだ。ミオは。私の愛したたった一人の女性は」

 

 命じる声にメイは最終節へと、歌を進めた。しかしそれは古の歌ではない。

 

 Mi0、通称ミオに自分という個体を補完させるために必要な音階だった。一種の波導に酷似している。

 

 音階で、自分の脳内にあった情報と、個体としての存在を明け渡す。それこそが最終目的だ。

 

 メイの歌声にミオが反応したのか、瞼を上げようとする。

 

「おお! ミオが、始まりの女神が目を覚まそうとしている!」

 

 歌を紡ぐ度に、自分が消えていくのが分かった。

 

 この街に来て、殺し屋や他の人々と過ごした時間が削ぎ落とされていく。

 

 ――シャクエン。

 

 初めての友達だった。

 

 彼女を本気で裏の世界から救い出したかった。そのために命さえも投げ打った。その甲斐があったからか、彼女はようやく人並みになれそうだった。

 

 ――アンズ。

 

 敵対していた時もあったが、まだあの子は幼い。これからいくらでもやり直せるだろう。その機会があるのは分かっている。安堵して、時の流れに任せられる。

 

 ――ラピス。

 

 ハムエッグが手離さない限り、彼女はずっと、人殺しを当たり前に行っていくのだろう。だが、いつかは気づくはずだ。自分の存在価値に。その時、親であるハムエッグと対決する事になるのかもしれない。そうなった時こそ、彼女は真に巣立ちの時を迎えるであろう。

 

 最後の歌声を紡ぎ出す。

 

 思い出が、何もかもが消えていく。

 

 ミオという自分の素体に、吸い込まれていく。

 

 自分に意味はないのだ。ただただ、ミオのためにあった。彼女に奉仕するためにあっただけの、人造人間。

 

 涙は出ない。これは約束された事象だからだ。自分は配置され、人間らしさを学ぶはずであった。

 

 Mi3として、ただただ、学習するだけのはずであった。

 

 そんな自分を変えてくれた存在が脳裏にちらつく。

 

 彼は、自分を助けてはくれないだろう。

 

 そういう人間だ。

 

 だが、彼に助けられた人々はきっと、いい思い出を紡ぐに違いない。

 

 せめて、彼ら彼女らのこれからに幸あらん事を。

 

 自分の犠牲の分だけ、彼らを救ってくれればいい。

 

 そう思っている。だというのに、何故……。

 

「どうして、涙が溢れてくるの……」

 

 歌の途中なのに、メイは止め処なく溢れる涙に困惑していた。

 

 白衣の男が眉根を寄せる。

 

「どうした? まだ補完は成し得ていない。あと一小節だ。あと一小節歌えば、完了する。Mi3、女神よ、歌え」

 

 あと一小節歌ってしまえば、本当に自分は自分でなくなってしまう。

 

 それこそ、ライトストーンをただ内包しているだけの、肉の塊だ。

 

 紡ごうとして、幾度も躊躇った。

 

 頬を伝う熱いものと、胸を占める喪失感がメイに歌声を躊躇させる。

 

「何をやっている? 歌うんだ、Mi3。もうすぐだ。もうすぐ、ミオが完全になる」

 

 自分はその命令に逆らえない。

 

 メイは最終節を歌い始めた。

 

 その途中にも、彼の姿が過ぎる。

 

 彼は、何度も自分を助けてくれた。

 

 自分を「メイ」という個体たらしめたのは彼だろう。

 

 もう叶わないと知っていても、願うのならば一つだけ。

 

 ――アーロンさんに、会いたい。

 

 その思いが、口を噤ませる。

 

 最終節の、本当の最後の部分を歌うのに、弊害となった。

 

 男はそれを悟ったのか、手元にボタンを取り出す。

 

「使いたくはなかったが、Mi3、人らしく成り過ぎたな。設計ミスだ。ミオのための個体であったはずなのに、ここまで人間らしくなるなど。想定外だが、その分ミオも人間らしくなるだろう。楽しみだ。始まりの女神に捧げるのには、これくらいの生け贄でなくては」

 

 ボタンに指がかけられた、その瞬間、メイは懇願していた。

 

「……お願い。アーロンさんに、もう一度会わせて。会いたいの。アーロンさんに」

 

「青の死神に? ……余分な感情だな。あとで切っておこう」

 

 これは余分なのか? 自分にとって、要らないものなのか?

 

 最終節を歌い上げようとする。

 

 もう何もかもが、自分の中から消え去った感覚があった。

 

 空っぽの身体から音階として情報がMi0に送信される。

 

 男が口角を吊り上げた。その時であった。

 

「――言っただろう。相変わらず、歌がヘタだな、お前は」

 

 視界の中に青いコートをはためかせた姿が入る。

 

 まさか、と残りカスの思考がそれを拾い上げた。

 

 男の手からボタンが引っ手繰られ、力の抜けかけた自分を支える影があった。

 

 澱んだ視界に、青の死神の顔が映る。

 

 どうしてだか……アーロンはいつにも増して、悲しげな目をしていた。

 

 ――そうだ、この人は。いつも悲しそうな顔をして、人を殺すのだ。

 

 手がそっとその頬を撫でる。アーロンの手がその上から握り締めてきた。

 

「もう、お前ではないのか。もう、あれに全部、明け渡してしまったのか?」

 

 尋ねられても、自分は答えられない。呼吸音と大差ない声が、辛うじて漏れた。

 

「アーロン、さん。……何で、いつも、悲しそうな顔をしているの」

 

 泣きそうな顔で彼は人を殺す。

 

 今にも溢れそうな涙を堪えるようにして、彼は戦っていた。

 

 どうして……。自分のほうが泣きそうになってしまう。

 

 アーロンの頬を撫でる手に、ふと、雫が滴った。

 

 死神の横顔に、一筋の涙が流れていた。

 

 ようやく安堵する。この人は、何度だって涙を堪えてきた。泣けば楽なのに、泣く事はなかった。

 

 メイの瞳には波導を習得しなければ、この世を生きる事さえも許されなかった少年の姿があった。

 

 彼はいつも泣いている。泣きながら、人を殺めている。

 

「ようやく、泣いてくれました、ね……」

 

 よかった、と声が漏れる。

 

 それを最後にして、意識は闇に没した。

 



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第百十六話「喪失する彼方」

「青の死神……。何をしに来た……」

 

 背中にかかる男の声にもアーロンはしばらく返事が出来なかった。

 

 今の自分の顔を、メイ以外に見せたくなかった。

 

 それを好機と判断したのか、白衣の男が哄笑を上げる。

 

「言っておくが、お前は特一級の抹殺対象だ。ゲーチス! やれ!」

 

 甲板に出ているゲーチスが杖をつく。それを合図として黒い龍のポケモンが電磁の十字を番えた。

 

「ゼクロム。クロスサンダー!」

 

 放たれた声に、電磁の十字架がセンタータワーの屋上に突き刺さる。

 

 粉塵が舞い散る中で、アーロンは真っ逆さまに落下していた。

 

 メイは瞬きもしない。その表情がいつものように、馬鹿正直な感情をぶつけて来ない。

 

 もう二度と、その機会は失われてしまったのだ。

 

「馬鹿め……。お前はいつだって、どうしようもない、後戻りの出来ないところに行ってしまうんだな。悪癖だぞ」

 

 ゼクロムが落下中のアーロンを見据える。その掌に青い電撃を内包した。その直後、天地を射抜く雷鳴が、センタータワーを消し炭にする。

 

「雷撃! これで、波導使いは下した! 私達の、勝ちだ!」

 

 白衣の男の笑い声が響き渡る。

 

 ――もう、どうでもいい。

 

 誰が勝者であろうと、誰が敗者であろうとも。

 

 自分には関係がない。ただ、堕ちていくだけだ。

 

 いつからだったのだろうか。自分は堕ちるだけの日々だった。堕ちている事に気づかずに、ただ漫然と日々を過ごしていた。

 

 それが、少しばかりマシになった。

 

 誰かのために生きていく事で、食い潰されるだけの自分は、何もないと思っていた自分の心には、何かが生まれた。

 

 それを最初、形容する手段を持たなかった。

 

 何と呼べばいいのか分からなかった。

 

 だが、今は分かる。

 

 腕に抱いたメイの体温。彼女の呼吸。彼女の、言葉。自分を、波導の殺し屋だと知っていても、どれだけ汚い部分を見せ付けても、決して屈しなかった――彼女の笑顔。

 

 いつだって、笑って迎えてくれた。

 

 それがきっと安息の場所になったのだろう。知らぬ間に、自分は甘えていた。

 

 甘える事を決して許されなかった少年時代。師父に、一人前になれと言われていた。一日でも速く、大人にならなければならなかった。

 

 波導使いとして。アーロンとして生きるのに、感情は邪魔だった。

 

 師父から投げかけられたあの日の言葉も、全て忘却の彼方に忘れ去っていた。

 

 それを思い出させてくれたのは彼女だ。

 

 今はただただ、その思い出に浸る。

 

 ゼクロムが自分へと照準し、電磁の十字を放り投げた。攻撃するつもりはない。電磁の十字が肩口へと突き刺さる。焼け爛れた肩の血が瞬時に蒸発した。

 

「これで一死、だ! 波導使い! ゲーチスとゼクロムの前に、全く歯が立たないだろう? 悔しいか? 悔しいだろう!」

 

 ――悔しい?

 

 今はそんな感情に浸っている場合ではない。

 

 一つでも、メイとの日々を思い出そうとした。

 

 殺そうとした少女。邪魔だと思っていたその存在がいつしか、かけがえのないものになっていた。自分の部屋にいるのが当たり前になっていた。

 

 シャクエンとアンズ。彼女らを引き合わせてくれたのも、メイのお陰だ。お節介な彼女がいなければ、自分はただただ殺し屋を殺し返すだけだっただろう。

 

 あるいは、それさえも諦めて誰かに殺されていたかもしれない。

 

 それほどまでに、どうでもいい日々だった。それに意味を与えてくれたのは、彼女だ。

 

「我が始祖の女神の前に、ただの経験値稼ぎの少女と、波導使い! ゲーチスのプロトタイプに成り果てたお前のデータは最早、不要だ! 消え去れ!」

 

 ゼクロムが全身に電流の青い血潮を充填させる。次こそ決めるつもりだろう。両手を重ね合わせ、体内の電流を一点に溜め込んでいる。

 

 ――ああ、こんな日々も終わりを告げるのだな。

 

 ハムエッグに諭されるまでもなく、分かっていた。こんな安息が長く続くはずがないと。

 

 だが、どこかで祈ってもいたのだ。

 

 この世に神がいるのならば、もう少しだけ。あと一秒でもいい。この優しい時間を長引かせてくれ。

 

 もう、俺に、人殺ししかない殺伐とした時を、あの寂しさを味わわせないでくれ。

 

「お前は塵となり、ここに女神と支配者が誕生するのだ!」

 

 ゼクロムが片手に巨大な電撃の檻を集中させる。まさしく渾身の一撃だろう。

 

 アーロンは抱えたメイに呼びかけた。

 

「少しで終わらせる」

 

 そう告げた後の自分は、もう涙を見せなかった。無事なビルに降り立ち、メイを手離す。

 

 電気ワイヤーがゼクロムの手首に絡みつく。瞬時に絡め取った波導を感知し、回路を切り裂いた。

 

 発動しかけていた技が霧散する。それを相手が理解する前にアーロンは躍り上がっていた。

 

 ゼクロムの腕を伝い、その右肩の波導を完全に切断する。だらりと垂れ下がった右腕にゼクロムが自分でも気づく前に、次は鳩尾だった。そこへと、ピカチュウと共に少しだけ触れてやる。

 

 それだけで内部骨格のさらに奥、内臓の配置が理解出来た。瞬時に頭に叩き込まれた内臓の波導回路を、アーロンは全て――一瞬で断線させる。

 

 ゼクロムがかっ血する。

 

 電気ワイヤーで首筋を締め上げてアーロンはゼクロムを跳び越えた。

 

 眼前にはプラズマフリゲートの甲板がある。

 

 音もなく、水鳥のように降り立ち、すっと双眸を向けた。

 

 暗殺者の瞳が捉えたのは舞台上に佇む、不格好な役者が一人。

 

 団員達を押し退け、アーロンの手がゲーチスの右肩を掴んだ。

 

 駆け抜けた残像に誰もが止める声さえも上げられない。

 

 ゲーチスも突然の接近に目を瞠っていた。その喉から声が漏れる前に、ピカチュウの電撃が右半身を麻痺させる。

 

 ゲーチスが痛みに蹲った瞬間、アーロンはその顔面を蹴りつけた。

 

 仰向けに倒れたゲーチスの顔を引っ掴む。

 

「許してくれ……」

 

 その喉から漏れたのはまさかの命乞いだった。アーロンは無感情な眼差しのまま、首を横に振る。

 

「駄目だ。お前らだけは――許せない」

 

 ピカチュウの電撃とアーロンの波導切断が相乗し、ゲーチスを一瞬にして殺害していた。

 

 絶叫が喉から迸る。断末魔が響いたのはほんの三秒ほどだ。

 

 ゲーチスは口の端から唾を垂れて絶命していた。踵を返したアーロンに、団員達が絶句する。

 

 覚えずと言った様子で道を譲っていた。

 

 波導使いを阻もうという命知らずはいなかった。

 

 その視線の先にはミオのカプセルを抱くアクロマの姿がある。

 

「そ、そんな馬鹿な! ゲーチスは、完璧であったはずだ! だというのに、一瞬で……。は、波導回路を再構築! 高速演算チップを作動! これで、ゲーチスはまだ動く!」

 

 にわかに、ゲーチスが立ち上がったのが気配で伝わった。

 

 アーロンは振り返らずに指を弾く。

 

 すると、ゲーチスは杖の先端を己の喉笛に向けていた。

 

「綺麗に死ねたのにな。こういう末路を辿るんだよ、悪足掻きって言うのは」

 

 次の瞬間、ゲーチス自身が自身の喉笛を杖で掻っ切っていた。血飛沫が舞い、団員達が戦々恐々する。

 

「な、何なんだ、お前は……」

 

 アクロマの怯え切った声にアーロンは言い放つ。

 

「波導使いだ。他に、何がある?」

 

「げ、ゲーチスも波導使いのはずだ。ゼクロムだって! だというのに、何が違う? プロトタイプのお前と、何が……」

 

「教え込んでやろうか、研究者。波導をただ纏うだけでは、波導使いとは呼ばないんだ。よく見ていろ」

 

 アーロンが甲板に手をつく。ピカチュウが肩口に留まり、頬袋から青い電流を跳ねさせた。その瞳には最早、迷いはない。

 

「――これが、波導を使う、という事だ」

 

 甲板に宿る波導の残滓をアーロンはすくい上げてアクロマの足元を崩した。突然に足場が崩落したものだからアクロマがたたらを踏む。

 

「そ、そんなはずはない! 波導は私が形式化した! データに成り下がったのだ! 私のデータ上、不可能はない。私がデータに仕立て上げたものに、不可能はない!」

 

 アクロマが懐からテンキーを取り出してエンターを押す。喉笛を切り裂かれたゲーチスがよろめきながらも歩む。しかしその姿は最早亡者のそれであった。無理やり動かされている四肢は鈍い。

 

「死んでも死に切れない、というわけか。どこまでも、底意地の悪い奴らだ」

 

「何とでも言え! お前はここで死ぬのだ! ゼクロム!」

 

 波導を切り裂いてやったはずのゼクロムが翼を展開して立ち向かってくる。主共々、既に傀儡であるのは言うまでもなかった。

 

「ゼクロム! クロスサンダーを撃ち込め!」

 

 アクロマの命令にゼクロムが電磁の十字架を円陣に展開する。しかし、アーロンは臆する事もない。

 

「その程度か」

 

 すっと手を掲げて、薙ぎ払っただけの動作だ。

 

 それだけで、空気中に充満していた電磁の波導が打ち消された。「クロスサンダー」が中断され、アクロマは目を見開く。

 

「そんな馬鹿な……。何が違う? 何が、お前と私では違うと言うのだ……。げ、ゲーチス! その不死の力、見せ付けてやれ!」

 

 アクロマがエンターキーを押すと、ゲーチスが手を振り上げた。喉元からぼとぼとと血を噴き出させて引きつった笑みを浮かべる。

 

 ゲーチスの命令に従ってゼクロムが全身に青い電磁の血潮を滾らせた。内奥から発光し、青く輝く。反転した太陽のように、光が全方位へと放出された。

 

「最後の大技、雷撃、最大出力!」

 

 ゼクロムがアーロンを見据え、突進を仕掛けようとしてくる。恐らくは捨て身の一撃。プラズマフリゲートの無事でさえも二の次に置いた、渾身の一発だろう。

 

「それでも、俺が勝つ」

 

「言っていろ! ゲーチスの脳波をコントロールしている高速演算チップは最大に設定された! これで、ゼクロムとの同調率も引き上げて、最大の一撃を約束させ――」

 

『そこまでだな、アクロマ』

 

 不意に発せられた通信にアクロマが声を詰まらせる。それと同時に、ゲーチスが喚き始めた。頭を押さえて目鼻から血を流している。

 

「……何だ、何をした」

 

『高速演算チップは諸刃の剣だ。こちらからの設定でゲーチスの脳細胞を完全に破壊した。これでもう、お前らはゲーチスをカリスマとして立てる事が出来なくなった』

 

 放たれる声にアクロマは歯噛みする。

 

「何故……、何故裏切った、アール! いや、リオ・リッター!」

 

 その名前にアーロンは目を瞠る。通信を傍受されている事を関知しているのか、リオの声音は穏やかだった。

 

『最初からこうするつもりだった。お前らに近づいて、全てを終わらせるのには、これしか方法がなかった。プラズマフリゲート、全システムをおれが掌握し、今や、その全行動はおれの意のままだ』

 

「裏切れば、お前とて波導使いに始末されるのだぞ! お前は、歴史の悪人として、汚名を被る事になるのだ」

 

 アクロマの言葉にもリオは迷った様子はなかった。

 

『これしかないんだ。おれが、メイに出来る事なんて、こんな事くらいしか。……アーロンさん、後は任せました。プラズマフリゲートはこのまま、ヤマブキに沈めます』

 

「リオ……。お前、どうしてそこまで出来る。お前は俺を倒す術だってあったはずだ」

 

 その言葉にリオは自嘲した。

 

『……おれは表の王子じゃなかった。それだけですよ。裏の王子として、メイには知られずに、その身を守る。きっと、おれに出来る事って、その程度なんです。表で、あなたが支えてやってください』

 

「リオ! 生きて帰すと思うな! 貴様の位置は逆探知している! そこだな!」

 

 ゼクロムが突進を中断し、電磁の十字架を一つのビルへと向ける。アーロンは跳躍していた。

 

「させるか!」

 

『いや、いいんですよ、アーロンさん。おれは、こういう最期がお似合いなんです』

 

 アクロマに掴みかかったのと、ゼクロムが「クロスサンダー」を撃ったのは同時だった。

 

 ビルを穿った電磁の十字架に捉えられたリオの姿が波導の眼に大写しになる。

 

 アーロンは声にしていた。

 

「リオ……、お前は、真っ当に生きられたのに」

 

 波導が最後に拾い上げたのか、リオの残留思念が語りかける。

 

 ――アーロンさん。正しい事をしてください。メイを、頼みます。 

 

 その信念に、散っていった男の魂に、アーロンは瞑目する。

 

「ああ、約束する」

 

 ゼクロムがこちらへと向き直る。既に制御を失ったプラズマフリゲートは傾いていた。団員達がめいめいにポケモンを出して脱出していく中、舞台の上でゲーチスがのた打ち回る。

 

 最早、その生存でさえも危うかった。

 

 全身から血を流したゲーチスの喉から笑い声が漏れる。狂気の嗤いであった。

 

「殺せ!」

 

 アクロマが声を張り上げた。ゼクロムがプラズマフリゲートへと真っ直ぐに突進してくる。

 

 全身から光を放出したゼクロムの威容に、アーロンはたじろがなかった。

 

 それどころか、信念の光を双眸に携え、真っ直ぐに睨む。

 

「決着だ。プラズマ団」

 

 ゼクロムの雷撃を身に纏った拳がプラズマフリゲートを叩き折った。アーロンは一歩も退かず、ゼクロムの体表に降り立つ。

 

 全身から雷を放出するゼクロムであったが、アーロンのした事は少ない。ただ、波導を無力化させただけだった。

 

「何故だ……。あれそのものが、数万ボルトの雷のはずだぞ……。どうして、奴は生きていられる?」

 

 滑る甲板の上をアクロマが必死にカプセルを抱く。

 

 アーロンはゼクロムの体表の上で佇んでいた。青いコートが発生する強力な磁場で焼かれ始める。

 

 節々に炎が発し、無力化し切れない熱が嬲っていた。

 

「ゼクロム。お前もまた、犠牲者だ。だからこそ、葬る。俺の全身全霊をかけて」

 

 ピカチュウと共にアーロンはゼクロムの表皮に手をついた。それだけでも常人ならば焼け死んでしまうほどの温度。

 

 だというのに、アーロンの身体には何の異常もなかった。

 

 焼け始めたコートだけがその強大な熱量を主張しているが、彼自身は何もないかのように振る舞う。

 

「ゼクロム、焼け焦がせ!」

 

 アクロマの声にアーロンは一言返しただけだ。

 

「焼け死ぬのは、お前だ。研究者」

 

 アーロンが飛び退る。ゼクロムの攻撃の照準が、プラズマフリゲートの甲板に立つアクロマへと向けられた。

 

 アクロマが目を慄かせてアーロンを見やる。

 

「何をした!」

 

「何も。ただ体内波導を調整し、お前以外の対象を見えなくした。敵をお前だと誤認させただけだ。波導の初歩の初歩に過ぎない」

 

 ゼクロムが全身の雷撃を一点に集中させる。その拳が照り輝き、アクロマの顔を浮かび上がらせた。

 

「あ、アーロン。助けてくれ……。やめさせろ。私は、こんなところで死んではいけないのだ。まだ! まだやるべき事がある! ミオを、私はまだ抱いていないんだ! 復活した女神の恩恵に、一つも与っていない。彼女を感じたいんだ! 彼女を、どうか私に――」

 

「残念だが、お前のエゴで解体し尽くされた少女は、お前を望んじゃいない。共に消滅しろ」

 

 カプセルを抱いたアクロマが怨嗟の声を響かせる。

 

「アーロン! 貴様、後悔するぞ! 私がいなければ、何も成されない! プラズマ団も、メイという少女も、何もかも! 全てが潰えるのだ! だというのに、お前は一時の感情で、私を殺すのを是とするか? それは人類全体にとっての衰退だ。極論、お前は人類を後退させる事をしているのだぞ!」

 

 アーロンはビルに降り立ち、アクロマに声を投げる。

 

「悪いが、俺はただの殺し屋なのでね。人類全体が云々など、知った事か」

 

 ゼクロムの拳がプラズマフリゲートを叩きのめす。機関部に電流が至ったのか、内部から爆発が轟いた。

 

「アーロン! 言っておくが、メイはもう空っぽだ! 何もない! その少女に、意味など一つもないのだ! 無力感と喪失感の中、お前は生き続ける。生き地獄だ!」

 

 アクロマが哄笑を上げる。その笑い声も、爆発の音叉に遮られ、プラズマフリゲートが轟沈するのと同時に消えていった。

 

 ゼクロムの全身から波導が消え失せていく。あまりにもその身体に似合わぬ能力を引き出されたせいだろう。

 

 急速にゼクロムの生体反応が薄れ、一つのビルを巻き添えにして雷が天地を縫い付けた。

 

 その一閃が最後の一声だったかのように、ゼクロムは沈黙した。

 

 アーロンはメイを降ろしておいたビルへと移動する。

 

 決着を見るまでもない。

 

 プラズマ団は崩壊した。もう敵はいないのだ。

 

「終わったぞ、馬鹿」

 

 声をかけてもメイは起きる様子はない。生態波導を感知すると、心臓に埋め込まれた何かがメイの波導を吸い上げていた。

 

 話にあったライトストーンか、とアーロンは判ずる。

 

「このままでは、お前は死ぬ、か」

 

 不思議と、焦りも、恐怖もない。

 

 何もかも終わってしまった。その喪失感だけがある。

 

 自分に何が出来る?

 

 波導を操るとはいえ、自分は戦う事しか出来ない破壊者だ。波導を切断する以外の使い道は師父に教えてもらえなかった。

 

 その段になって、ハッとする。

 

「波導を、切断する……」

 

 アーロンは瞬時に決断した。それしか方法がない。

 

 自分にはそれしかないのならば。

 

 メイの胸元に手を当ててアーロンは波導の眼を極限まで高めた。フェイズ2を超えた最大の領域まで波導を高める。

 

 波導感知の意識圏が極められ、ライトストーンが媒介する波導の静脈が手に取るように分かった。

 

 ライトストーンはメイから波導を奪い、この身体を食い破ってレシラムとして生誕しようとしている。それを阻むのには、ライトストーンの波導を全て、逆転させるしかない。

 

 出来るか? と胸中に問いかける。

 

 最早、出来る出来ないを論じている場合ではない。

 

 やるしかなかった。

 

「ここで死ぬな、――メイ。お前は、俺にとって」

 

 波導回路を脳裏に描く。あまりにも微少な波導回路に気後れしそうになったのも一瞬、アーロンはライトストーンが吸収している波導回路の一点へと向けて、電流を放った。

 

 一瞬だけ、青白い光が明滅する。

 

 極限の集中から脱したアーロンは汗を掻いていた。

 

 波導の眼を戻す。メイの生命波導は途絶えていた。

 

 ――失敗したのか。

 

 アーロンは瞑目する。もう、打つ手はない。ただ祈っても叶わない。二度と機会は失われてしまった。

 

 もう、話す事も出来ない。

 

 馬鹿を言い合える事も出来ない。

 

 失われた命は、二度と戻らないのだ。

 

 ライトストーンの波導を切断するだけなど、虫が良すぎる。そんな現実が待っているはずもなかった。

 

 頬を熱いものが伝う。死神になってから久しく忘れていた感情が胸を締め付けていった。

 

 失う、という感覚。

 

 師父が教えてくれた。失ってから初めてその尊さに気づけるのだと。

 

 その通りであった。自分にとって、メイを喪失する事がこれほどまでに大きな事だとは思いもしなかった。失わなければ、自分はその命の尊さにさえも気づけなかった。

 

 それほどまでに愚鈍であった。

 

 それほどまでに、死に、無頓着であった。

 

「俺に……これ以上、失わせないでくれ」

 




明日、続きを更新します


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第百十七話「藍より青し」

 漂っている感覚があった。

 

 潮騒の音が近い。瞳を開けると、どこまでも続く青空が広がっている。

 

 浅瀬であったので立ち上がった。陸に上がろうとすると、陽炎のように白い衣を纏った少女が佇んでいた。

 

 潮風に髪をなびかせる少女は、見間違えようもない、自分自身であった。

 

「あなた……」

 

 その声に少女が振り返る。女神のように優しく微笑んでいる。

 

「あなたは、メイ、ね」

 

 そう告げられてようやく自分が「メイ」なのだと実感出来た。メイはそのまま引き寄せられるように少女へと歩み寄る。

 

 確信があった。彼女の名前は――。

 

「あなたは、ミオ、ね」

 

 自分の基になった少女。古の歌は彼女を蘇らせるためにあった。

 

 と、言う事はもうこの場所はあの世なのだろうか。メイがきょろきょろしていると、ミオはフッと笑った。

 

「やっぱり、あなた全然、私と似ていない」

 

 その言葉の意外さに面食らっているとミオは足元の砂を軽く蹴る。

 

「当たり前よね。同じ人間は、この世に二人もいないんだもの」

 

 それは自分が彼女を素体にして造られた、と分かっていて言っているのだろうか。メイが困惑しているとミオは波打ち際に立った。

 

「こうして見ると、波というのは単純な反復運動に思える。だけれど、そこに意味を見出す人間がいるから、物語は生まれるし、何よりも、それが人間たらしめている」

 

「あたし、死んだの?」

 

 直截的な問いにミオは頭を振った。

 

「彷徨っているだけ。でも、あなたは選べる。この波打ち際のように、あちら側に行くのは容易い。でも、戻る事も出来る、曖昧な位置。そこに意味を見出すのかは、あなた次第」

 

「ミオ……あなたは、戻りたくないの?」

 

「私を求めた人は、もうとっくの昔に死んでしまった。今のあの人は妄執に取り憑かれた、あの日のまま、時間が止まってしまっている。その時を進ませてあげたいけれど、私じゃ無理なの。私は、過去にしか生きられないから。でもあなたは、未来に生きられる」

 

 ミオの言葉にメイは逡巡する。自分は、まだ生きていていいのだろうか。元々ミオの復活のために造られただけの人間である。

 

「あたし、生きていていいのかな」

 

「当たり前じゃない。だって、生きている事は素晴らしいのだから。生きているだけで、あなたは変えられる。これから先を。あなたの大切な人を」

 

 ミオは波打ち際で踊るように身を翻す。メイには分からない事だらけだった。彼女が言う事はまるでもう生きる事を諦めているかのようだ。

 

「でも、あなただって戻れるんじゃないの?」

 

「私は、過去の人間。でも、あなたはそうじゃないでしょう?」

 

「過去だとか、未来だとか、勝手に敷居を作るのは、何ていうか、あたし、好きじゃないよ」

 

 出来得る事ならば、ミオも元に戻してあげたかった。それが叶うのならば。

 

 その意図を察したのか、ミオは首を横に振る。

 

「私は、戻っちゃいけないの。戻ったら、あの人は死に切れない。でも、優しいのね、メイは。その優しさで、支えてあげて。あなたを想っている、不器用なあの人を」

 

 不器用な人。そう言われて真っ先に思い浮かんだ姿にメイは目頭が熱くなった。

 

 もう、会えないのだろうか。そう思うと途端に怖くなる。この場所で、この瀬戸際で、喋っている場合ではないのだと思える。

 

「あたし、帰りたい……。でも、迎えてくれるかな」

 

「迎えてくれる。きっと、あの人は。あなただけなのよ、メイ。あの人に、希望を持たせられるのは」

 

 戻るのにはたった数歩の距離でいい。だが、その代わりもうミオとは話せないだろう。それも、とてつもない喪失感が伴った。

 

 もう一人の自分。半身とも言える存在。それを手離してまで、自分の身勝手に生きていいのだろうか。

 

「行ってあげて」

 

 ミオの言葉にメイはその手を引いた。ミオには消えて欲しくなかった。

 

「一緒に行こう! あなただって、立派に生きてこられる。生きていける。過去の人なんかじゃないよ。あなただって、人間なんだから……!」

 

 自分が人間であるのならば、ミオだって人間に違いないのだ。

 

 ミオは呆気にとられたような顔をしていたが、やがてぷっと吹き出した。

 

 女神の笑みではない。たった一人の少女の笑い方になって、彼女はメイの手に自分の手を重ねる。

 

「いいよ。行こう。でも、私が行くと、彼を混乱させちゃうかも」

 

「一人より二人のほうがいいよ。だって、まだ戻れるんでしょう? だったら、さ」

 

 ミオは、ああ、とこぼす。どこか感じ入ったような声だった。

 

「そっか。だからあなたは、あれだけの人を救ってこられたのね」

 

「あたし、そんな大層な事はしてないよ。救うなんて。あたしがやってきたのは、ただ、目の前の愛しい人を、守ってきただけ」

 

 これからもきっと変わりはしないだろう。ミオは自分に肩を引き寄せて、いいよ、と声にした。

 

「行こう。メイ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 雫がぽとりと頬に落ちてきて、メイはその温かさにそっと手を触れる。

 

 声を殺して泣いているこの人はきっと、今までも泣きたかったのだ。だというのに泣けなかった。

 

 ようやく、涙の流し方を思い出したのだろう。メイはそっと、彼の涙を拭った。

 

「ようやく、泣けたんだね。アーロンさん」

 

 これまで悲しい事に揉まれて来たのに、泣く事を自分に許さなかった強い人。

 

 辛い事や苦しい事に直面しても、涙を流す事を自分から拒絶してきた弱い人。

 

 アーロンは涙を拭って、メイの手を取った。ああ、と喉の奥から声が漏れる。

 

「生きて、いるのか……?」

 

「当たり前じゃないですか。あたし、生きていますよ」

 

 微笑んだメイにアーロンは何か、皮肉でも返そうとしたのだろう。小憎たらしい声でも、いつものように放とうとしたのだろう。

 

 だが、その唇が紡いだのは、あまりにも弱々しい声だった。

 

「メイ。俺を、独りにしないでくれ」

 

 ようやく聞けた、とメイは感じていた。

 

 アーロンは今まで誰とも関わらないで生きてきた。生きてこられた。その彼がようやく発する事の出来た、弱音。

 

 きっと、ここからが始点なのだろう。彼からしてみればやり直せる機会が始まったのだ。

 

 メイはアーロンをぎゅっと抱き寄せた。

 

「独りになんて、しませんよ。ずっと、一緒にいましょう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この日、一つの抗争にピリオドが打たれた。

 

 ハムエッグのはからいでプラズマ団壊滅は軍部の働きとされ、大衆には蜂起したプラズマ団はカントーという国家によって阻まれたのだと知らされた。

 

 だが、自分は知っている。自分達は知っている。

 

 たった一人の、死神と呼ばれた男が、プラズマ団を壊滅させたのだと。

 

 青の死神はカントーに何かを求めるかに思われたが、彼の求めたものは少なかった。

 

「今回のプラズマ団蜂起を自分とは無関係にしてくれ」

 

 それだけであった。カントーは交渉の準備を進めていただけに拍子抜けであったが、その分の埋め合わせはハムエッグが行ったらしい。きっちり儲けた、と後ほど報告があったそうだ。

 

 爛れた街は、変わらない。

 

 プラズマ団という大きな流れがあっても、今日も変わらず、同じように流れていく。

 

 人間も、裏社会も、何もかも。

 

 変わるとすれば、それはいつの日か、この世界が終わってしまう時だろう。

 

 時の最果てに至るまで、この世は同じ業を繰り返し、煉獄の只中にある――。

 

 ハムエッグはそう告げてから、瓶を一本開けた。

 

「頼んでいない」

 

「サービスだよ、アーロン。功労者への、ね」

 

 功労者、とアーロンは胸中に繰り返す。

 

 真の功労者であるリオの存在は、自分と限られた人間しか知らない。彼は命を賭して、この街を守ったのだ。その意思がたった一人の少女を守りたいだけの、些細なものであった事は胸の内に留めておこう。

 

「スノウドロップの調子は?」

 

「ああ。万全だよ。ゼクロムとの戦闘がいいリハビリになった。これから先、今まで通りの働きが出来そうだ」

 

 殺し屋には殺し屋の日常がある。

 

 スノウドロップ、ラピス・ラズリはこのポケモンが間違っているなどとは思うまい。ただ命じられるままに殺すだろう。

 

 その輪廻でさえも、街の一部なのだ。

 

「それにしたって、アーロン。ホテルが後ほど交渉したいって言ってきているらしいじゃないか。何人か回せ、との仰せだろう?」

 

 ホテルは今回、全く介入しなかった。理由は明白、「利益にならない」からだ。

 

 ゼクロムと渡り合える戦力があるわけでもない。しかしホテルは情報操作を補助し、この街の立ち直りを一日も早くした。そのせいか、アーロンへとせっつくように言ってくる。

 

「俺の物ではない、と言っても聞く耳持たず、か」

 

「当然だろうね。君の下に、プラズマ団の成果と、一二を争う暗殺者、炎魔、セキチクの殺し屋、瞬撃と集っているんだ。この状況で、一人でも寄越せ、というのは至極当然の事だろう」

 

 アーロンは立ち上がり、グラスを置いた。

 

「そういう商売ではないのでね。俺が直々に赴く。そうすればあの小うるさいホテルの大将も黙るだろう」

 

「炎魔や瞬撃に、もう殺しはさせたくない、と?」

 

 嘲るような物言いにアーロンは睨み据える。

 

「ああ。もう、傷つくのは俺だけでいい」

 

「殊勝だね。だが、そんな日々がいつまでも続くはずがない。今回は、運がよかったんだ。君も、わたしもね。運だけに身を任せていればいずれ破綻する。アーロン。友人としての忠告だ。ちょっとばかし、身内を売るだけでいいんだぞ」

 

 ハムエッグへとアーロンは言い捨てる。

 

「冗談を言え。家族を売るなんて出来るか」

 

 少し前までの自分ならば出なかった言葉だった。

 

 ――家族。

 

 そう口にすると胸の内を安堵が占めていく。暖かな感慨にふけっていると、奥の部屋からよろりと人が出てきた。

 

「アーロンさーん! お腹空いちゃった」

 

 その様子にハムエッグも肩を竦める。アーロンは耳を引っ張ってやった。

 

「い、痛い! 痛いですって!」

 

「当たり前だろう。腹が減ったなど、仕事先で言うものじゃない」

 

「でもでも! お腹空いたんだから仕方ないじゃないですかぁ」

 

 文句を垂れる相手へと、アーロンは呆れ返って声にする。

 

「全く、ふざけている……。帰るぞ、メイ」

 

 名を呼ぶと、メイは嬉しそうに声を弾けさせる。

 

「はい! ごはん、ごっはんー」

 

「相変わらず、歌がヘタだな、お前は」

 

 節をつけて歌うメイへとアーロンが首を横に振る。メイはいきり立って言い返した。

 

「適材適所があるんですよ。あたし、今日もラピスちゃんを笑顔にさせました。これって立派な功労賞でしょう?」

 

「ふざけるな。お前に出来る事なら、そこら辺を飛び回っている鳥ポケモンにだって出来る」

 

 言い合う二人の背中を見送るハムエッグがフッと笑みを浮かべた。

 

「限りある安寧でも、今はそれを享受する、か。変わったな、青の死神」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『三十六の路地を封鎖しました。今日の仕事は滞りなく行われる予定です。……何で私がこんな事を』

 

「おい、余計なノイズが混じったぞ」

 

 口にすると通話先のヴィーツーはマニュアル通りの受け答えをした。

 

『申し訳ありませんね。こっちも仕事なもので』

 

 プラズマ団を離反したヴィーツーは路地番の役割が与えられていた。それが適材適所だと判断されたのだ。

 

 アーロンは青いコートを夜風にはためかせながら、街を俯瞰する。

 

 宵闇に煌くネオンライト。けばけばしい、夜の化粧を纏った街が今宵も、何かの胎動を予感させる。

 

『殺しの対象は逃げ込んできたわ。そちらなら、問題なくやれるでしょう? あなたは存分にクズだものね』

 

 ホテルの仲介にアーロンは応じる。

 

「ああ。こちらからも見えている」

 

 波導の眼に映った標的を見据え、アーロンはピカチュウを繰り出した。相棒は肩に乗って青い電流を跳ねさせる。

 

「――行くぞ」

 

 跳躍したアーロンは電気ワイヤーを用いてビルの谷間を滑空する。

 

 月光の下、殺し屋と澱んだ空気が跳梁跋扈する街、ヤマブキシティ――。

 

 青い闇を掻き分け、流転する世界を、死神は見据えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第九章了

 




 どうも、オンドゥル大使です。

 拙作『MEMORIA』はここまでならば平和に終わります。

 メイとアーロン。シャクエンにアンズは「家族」となり、殺し屋は続けつつも、それは安寧と愛に包まれた、平和な物語でしょう。

 代わりにここから先、本当の最終章では、決してハッピーエンドとは言えない終わりが待っています。

 真に残酷な物語の結末を目撃する覚悟があるのならば、この先をお読みください。

 逆にここまででも充分物語としては完結しているのでここで全て「完結」でブラウザバックしていただいても大丈夫です。


 物語の真の姿を目にする人はこの先へ。

――――

 ここまで読んでくださった方へ。謝辞を込めて。

 アーロンは涙する事が弱さではないのだと思い出し、ようやく再スタートの位置に来られました。それはメイという無垢な少女のお蔭でもあり、炎魔シャクエンとの戦いとオウミという悪徳刑事との別れもあり、瞬撃の宿命を受け止めたその全てが、波導使いアーロンを作っています。

 アーロンはこの先、どれだけ辛い事があっても家族を守り通すでしょう。

 同時に彼に最もむごい仕打ちとなるのが次の最終章です。

 波導とは何なのか。

 波導使いはこの世界にとって何なのか。

 全ての答えはこの先に。

2016年8月23日 オンドゥル大使より




――――――

ハーメルン版なかがき

どうも。はじめましての方ははじめまして、オンドゥル大使です

色々紆余曲折あって、現在連載中の長編『AXYZ』だけでは不十分と思い、HEXAシリーズ第六作をこうして更新していくことにしました。多分毛色が違うので、あちらから来た方は驚かれたかもしれませんね。

ですがそれなりに自信のあったシリーズであるのと思い入れのある作品ですので、違和感はあるかと思いますがハーメルンでもやらせていただきました。

この頃はまだ力足らずな面も否めないのですがそれも含めてまぁ自分ということで一つ。

上記の通りこの先の最終章がなくても一応は完結っぽい空気なのですが、あまりに自分が昔書いたなかがきが生意気だったのでここでフォローさせてください……

できればアーロン達の辿り着く最終章、一人でも読んでいただければ幸いです。

どうかよろしくお願いいたします

2020年6月8日 オンドゥル大使より


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Extra Episode 鬼哭の黒、追憶の涙
第百十八話「死の足音」


 

 吹き荒ぶ風が裏通りを吹き抜けた。

 

 着膨れをしたホームレス達が僅かな火を求め合ってマッチを擦り合わせる。

 

 暖炉の代わりにあるドラム缶にありつけたのは一部の人々だけで、そのみすぼらしいホームレスの男は輪から外れ、路地裏を彷徨っていた。

 

 黒服の路地番がすぐ傍を通り抜ける。

 

「お、お目こぼしを」

 

 ホームレスの言葉を無視して路地番は歩いていく。その背中にすがりついた。

 

「た、頼んます……。今日だけの、今日だけの駄賃をくだせぇ」

 

「駄賃だぁ? てめぇ、働きもしてねぇで何が駄賃だ! 汚らしいオッサンが!」

 

 路地番がホームレスを蹴りつける。路地番とて、この街では最下層に近い役割であったが、自分達ホームレスよりかはマシな待遇であった。

 

 殺し屋や、見られては困る境遇の人間に路地を開け放ち、その分の報酬をねだる、卑しい職業であっても、ホームレスに身を落とした自分よりかはマシだろう。

 

 唇の端を切ったホームレスは、それでも路地番を呼びかける。

 

「お、お目こぼしを……。何でもします、何でもしますから」

 

「何でもたって役に立たなきゃ同じだろうが」

 

「この間のプラズマ団の蜂起の時に死んじまえばまだマシだったんじゃないですかねぇ」

 

 路地番の部下が嘲る。その通りだった。死ねばまだマシなのだが、死ねるだけの度胸もない。

 

「放っとけって。どうせこいつら、死んでも死んでも湧いてくる。この街の汚物だよ」

 

「た、頼んますから」

 

「しつけぇぞ! てめぇみたいなのには一銭だってやるのは惜しいって言ってんだよ!」

 

 殴られてホームレスは裏通りに転がった。唾を吐きつけられ、路地番は離れていく。

 

「ったく、叩いても叩いても出る羽虫みたいな奴らだな。まぁどの街でも同じ事か」

 

「参っちまいますね。オレら路地番の職業を軽んじられているようで」

 

「〝眼〟の奴らにも成り切れない、半端者ばかりさ。口を閉ざし、一切の主張を抑えた〝眼〟であるのなら、少しは有効活用のしようがあるんだが、こんなオッサンじゃ、何にも務まらねぇ」

 

 路地番の足音が離れていくのに従ってホームレスは死を覚悟した。

 

 今年の冬は特段に冷える。恐らく、何人かのホームレスは凍死するだろう。その中の一人になるかもしれない。

 

 ――怖い。

 

 死ぬのが怖いのもあるが、このまま何も信じず、何にも信じられないまま、たった独りで消えていくのが。

 

 せめてすがるべき神の一つでも持っておくのだった。

 

 ホームレスはゴミ捨て場に落ちていた小さな十字架を取り出す。木製の十字架で、敬謙な信徒の落としたものにしては細工も何もない、簡素なものだった。

 

 せめて神ぐらいは信じさせて欲しかった。

 

 何でもいい。すがるものが欲しいのだ。

 

「い、嫌だ。このまま、何にも満たされず、何もかもに見捨てられて、死んでいくなんて」

 

 唇が震える。白い吐息が漏れる。身体が内奥から震え出し、心臓の音が妙に反響して聞こえてくる。

 

 死の足音が近づいてきているのが分かった。

 

 今宵で最後か、と思うと月を仰ぎたくなる。

 

 月は雲間に隠れており、誰も自分を見初めてくれる人間はいなかった。

 

 神もいない。この世には、救済などありはしない。

 

「ああ、何か、何か、恵んでくれぇ……。何でもいい、何でもいいんだ」

 

「――恵みが欲しいのか?」

 

 その唐突な声音にホームレスは振り返る。

 

 奇妙な井出達の男であった。

 

 黒い旅人帽に、闇に紛れるかのような漆黒のコートを纏っている。落ち窪んだ眼窩から覗く瞳は鋭い。死者、という言葉を真っ先に想起した。

 

「し、死人……」

 

「恵みが欲しいのか、と聞いている」

 

 その声で死人ではなく生きている人間であるのが分かったが、どこか浮世離れしたその言動にホームレスは戸惑うばかりだ。

 

「お、お恵みをくださるんで?」

 

「そうだ。恵んでやる。何がいい?」

 

 まさか、ホームレスに施しをする酔狂な人間がいるとは思えなかった。しかし、ホームレスも必死だ。何か、今必要なものを考えた。

 

 金か。それとも一晩の宿か。暖かい火か。

 

 考えあぐねる。どれも、一日を過ごすのならば必要だが、それは一時的な救済に過ぎない。明日になれば、また同じものを必要とする。永遠にこの男が自分を救ってくれるはずもない。

 

「あ、あっしは……何でも。ただ、救いが欲しい」

 

 信じるものが欲しかった。手にした十字架を視界に入れた男は白い吐息と共に声を放つ。

 

「では、救済を与えよう。魂の救済だ」

 

 男の手がすっとホームレスの頭部に触れる。

 

 その瞬間、多幸感が訪れた。

 

 今まで感じた事のないような感覚であった。脳髄が奥底から揺さぶられて、心臓と渾然一体となり、脈動が体内から溢れてくる。

 

 自分でも驚くほどの、体内の力。それが満ち満ちてくる。

 

「あ、あっしの身体の中から……」

 

「そうだ。これが波導だ。我はお前の波導を操り、体内から循環構造を変容させている。感じるだろう? これは〝幸福〟だ」

 

 唇の端から唾が垂れてくる。人格を保っていられなくなるほどの幸福。

 

 ホームレスは十字架を強く握った。目の前のこの男こそが、信じるべき神に思えたのだ。

 

「あ、あなた様は、神なのですか……」

 

「神、か。そうだな、力のある存在をそう規定するのならば、我は神と言ってもいいかもしれない」

 

 ホームレスは男の足元にすがりつく。男がもう片方の手ですっと印を切った。

 

「神の印を与えよう。我が御許に降り立ちたまえ」

 

 影がホームレスを覆う。男の両肩から翼が生えていた。赤と黒に彩られた翼で、内側が爪のように尖っている。

 

「ああ、信じるべき神は、ここに……」

 

「我が糧となれ。デスウイング」

 

 それがホームレスに聞こえた最後の言葉だった。

 

 翌日、路地番が同じ路地を通る時に気がついた事があった。

 

「どうなさいました?」

 

「いや、何か、砂粒が多いな。何だ、これ? 工事でもしたみたいな」

 

 靴が踏みつけるのは細かい砂利だ。都市の一画に砂利が降り積もっているのである。

 

「昨日のホームレスが何か仕出かしたんじゃないですか?」

 

「かもしれない。路地を汚くするとオレ達の沽券に関わるからな。ちょっと見てくるか」

 

 路地番達はホームレスが何かをやっているのならば、それを咎めようとしたのである。

 

 路地の奥へと踏み入っていくと砂利は余計に酷くなり、路地番は明らかな嫌悪を示した。

 

「……ホームレス連中、何かやりやがったな。路地番の仕事を増やしやがって」

 

 毒づくとうず高く積み上がっている灰の山があった。ホームレスの火の不始末だろう。路地番は首を横に振る。

 

「こんなところで火を焚きやがったのか。燃え移ったらどうする」

 

 早速処理しようとすると、灰の一部が欠けてごろりと転がる。

 

 その瞬間、視界に飛び込んできたものに路地番は腰を抜かした。

 

 悲鳴の出る一歩手前で彼は開いたり閉じたりする。

 

「どうしたんですか、先輩。こんな灰、すぐに退かせば……」

 

「違う! よく見ろ! これは……」

 

 路地番の指差した方向に、部下も目線をやる。

 

 目を慄かせ、部下が後ずさった。口元に手をやって吐き気を堪えている。

 

「……何なんですか、こりゃあ。悪趣味な石細工で?」

 

「そんなわけあるか。これは――全部、死体だ」

 

 灰の山だと思っていた白色の砂場の一部が剥離し、その部分に驚愕の表情のまま塗り固められた顔があった。

 

 死の淵の顔だ。絶叫の形で固定された口を開いたまま、ホームレス達の死骸が折り重なっていた。それらが一つ一つの形状を失くし、石のように固まっているのだ。

 

 しかも経年劣化による侵食を混じらせて、それらが人であった頃の尊厳などまるで存在しなかった。

 

「嘘だろ……。昨日までこんなのなかったぞ」

 

「報告だ。ホテルに報告する。ぼさっとするな! すぐにだ!」

 

 へい、と部下が応じてホロキャスターに声を吹き込む。路地番は首の裏を汗でぐっしょりと濡らしていた。

 

「誰がこんな殺し方を……。人間を、石にしやがった」

 

 路地番の視線は断末魔を叫ぶ前に石化されたのであろうホームレスの顔へと向けられていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ホテルへと伝令されたその死に様はすぐさまハムエッグの下に届いていた。

 

 警察が動き出す前に街の盟主に指示を仰ごうというのだろう。

 

 ハムエッグはそれを聞くなりボタンを押して秘匿回線にする。

 

「やぁ、聞いているかね、ホテルのボス」

 

『聞いているわよ。あまり気持ちのいいニュースじゃないわね』

 

「この事は公表しないほうがいい」

 

 ハムエッグの判断にホテルは疑問を呈した。

 

『何故? この街に入ってきた殺し屋の情報ならば、あらゆる人間に情報を仰いだほうが得策じゃなくって?』

 

「これが普通の殺し屋ならば、そうだろう。そのやり方でいい。だが、これは普通ではない。やって来たようだ。災厄の担い手が」

 

 その言葉にホテルは質問をする。

 

『ハムエッグ。そちらに何か、当てがあるというわけ?』

 

「わたしも、風の噂程度にしか聞いていないのだがね。これは、非常にまずい事となった。最悪、一戦交えるとしても、我がスノウドロップが勝てるかどうか」

 

 自分にしては弱気な発言にホテルは疑問視する。

 

『……天下のヤマブキの盟主が縮み上がるほどの何か。興味深いわね。秘匿回線でこれを言っているのも気になるし。何か、掴まれたくない尻尾でもあるの?』

 

「この情報だけは、青の死神に伝えてはいけない。この街始まって以来の、最悪の殺し屋の可能性がある。我々だけで対処する」

 

 ハムエッグは自然と早口になっている事に気がついていた。それもこれも、弾き出される可能性が、とある存在と合致するからである。

 

『石化、していたそうじゃない。死体が』

 

「これは我が方とホテルミーシャとの協定にしたい。他の殺し屋には教えてくれないでくれ。直下の部下だけを使う。依頼すれば、それだけ危険度の高まる殺しだ」

 

『そこまで危険視する殺し屋なんて存在するの? スノウドロップ、それさえも及び腰になるなんてあなたらしくない』

 

「言っただろう? 風の噂だって。だが、噂とはどこまでも度し難く、恐れを抱かせるものだ。わたしはこの話を耳にした時、心底恐れたよ。そして、この街に奴が来た場合、どう対処すべきか、いくらでもシミュレーションした。だがね、そんなものは結局、対処の例に過ぎないんだ。スノウドロップはそのために鍛えて来たと言っても過言ではない。この時が訪れない事を祈っていたんだが、前回のプラズマ団の一件で、全てが収束したと思い込んでいた。わたしとて、まさかこの時期になって奴が来るとは思わなかったんだよ」

 

 ハムエッグの口調がいつにも増して慎重な事に気がついたのだろう。通話口のラブリは怪訝そうにした。

 

『そこまでして、あなた達が脅威と判定していた相手って何? わたくし達ホテルも、それ相応の覚悟をしなければいけないという事になる。情報を』

 

 ハムエッグは一呼吸ついた後、その名前を口にした。

 

「奴はこう呼ばれている。石化の波導使いであり、全ての破壊者。その名前は――」

 



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第百十九話「家族の形、人のカタチ」

 

「アーロンさーん。朝御飯、まだですかぁ」

 

 上がってくるなりそう尋ねられて、アーロンは憂鬱が二割増しになったのを感じた。

 

 シャクエンがキッチンに立とうとしている。アンズは食器の片づけだ。その一方で、メイは、といえばテレビを観ていた。

 

「お前は、この二人を見習う、という事さえも出来ないのか?」

 

 シャクエンから料理の途中経過を聞く。

 

「今、味噌汁を作ったところ」

 

「その先は預かろう。アンズも、食器の片づけは俺がやる」

 

「でも、お兄ちゃん。あたいだって役に立ちたいし」

 

「立派な心がけだが、一人の馬鹿を調子づかせないために、お前らはそいつの口を塞いでくれ」

 

「また馬鹿って言ったー」

 

 ばたつくメイをシャクエンが撫でて、アンズがいさめる。

 

「これではどちらが年下か分からないな」

 

 アーロンは嘆息をついて朝食の仕上げにかかった。

 

 メイは、というと朝から有名人のゴシップに躍起になっている。

 

「大変ですねー、芸能界」

 

 ちょっと前まで自分の身分が大変だった事などすっかり忘れてしまったのか。メイの言葉はどこまでも呑気であった。

 

 シャクエンがメイの横にちょこんと座り、アンズもメイを挟んで座っている。

 

「……何か、監視されている気分なんですけれど」

 

「そうでなくとも、監視している。お前が妙な事をしないようにな」

 

「何でですか。あたし、すっごいいい子ちゃんですよ?」

 

「いい子ちゃんは後から来た奴らに朝飯を任せたりはしない」

 

 そう言うとさすがにメイでも言い返せないのか、むすっとむくれた。

 

「仕方ないじゃないですか。あたしがキッチンに立つと、アーロンさん、怒るし」

 

「片づけまで含めて料理は料理と言う。お前のは遊ぶだけ遊んで後片づけも出来ない、出来損ないだと言うんだ」

 

「ひっどいですよ、あたしだって真面目にやっているのにー」

 

 ばたつくメイへとシャクエンが声にする。

 

「メイ、波導使いの言う事にも一理ある。もうちょっと真面目になったほうがいいと思う」

 

「あたいも。お兄ちゃんのほうがまだ理由としてはきっちりしていると思うなぁ」

 

 二人ともこちらの味方についたのでメイは膨れっ面のまま、アーロンの背中を睨んだ。

 

「……情報操作しましたね、アーロンさん」

 

「していない。馬鹿のやる事があまりにも常識外れだから、常識人が仲間についただけだ」

 

 そもそも情報操作の必要性がない。

 

 アーロンは焼き上がったたまご焼きを皿に盛り付け、季節の野菜を添えた。

 

「朝食を仕上げるのも、お兄ちゃん、様になってるよね」

 

「波導使いはずっと自分の分だけやってきたから」

 

 アンズとシャクエンの言葉にメイは不服そうだ。

 

「あ、あたしがいるから、アーロンさんは他人の料理をするのも覚えたんだよ?」

 

「それはメイ、全然誇りに思うところじゃない」

 

「メイお姉ちゃん、太くなったよね」

 

 二人してメイを責め立てるのでさすがに黙りこくった。

 

 大人しくテレビのチャンネルを回している。

 

「さて、出来たぞ」

 

 全員分の皿に盛り付けを完了させ、アーロンは卓上へと運んでくる。

 

 芳しい朝の香りの代表格である味噌汁に、メイは目を輝かせた。

 

「やっぱり主夫ですよ、これからは! アーロンさん、さっすがー!」

 

「おだててでも何も出ない」

 

 ひらりとかわしてアーロンは食事に手をつけ始めた。シャクエンとアンズも同様である。

 

 メイだけはどこか引っかかったように小言を漏らし続けている。

 

「……何か、あたしに対する風当たり強くありません?」

 

「変わらないだろう。アンズ、よく噛んで食え」

 

「うん、分かってる」

 

「……なーんでアンズちゃんだけ」

 

「シャクエン、今日はシフトだったな。焦らずに食っていけ。朝飯を食うのと食わないのとでは、仕事に違いがあるだろう」

 

「分かっている」

 

「平等って言葉を取り違えているんじゃないかなー……。ホラ、最後にあたし! あたしですよ、アーロンさん!」

 

 メイの言葉を無視してアーロンは味噌汁をすすった。アンズとシャクエンも同様である。

 

「ぜ、全員無視ですかぁ?」

 

「うるさいぞ。テレビの天気予報が聞こえない」

 

 アナウンサーが夕立に見舞われるところがあるでしょうと言っている。早目に洗濯物は取り込んだほうがよさそうだ。

 

「あ、あたしよりアナウンサーですか?」

 

「少なくとも有益という点では、アナウンサーだ」

 

「い、いいいですよーっと、あたしにはピカチュウのご飯あげる役割がありますからっ!」

 

 魚介の缶詰を冷蔵庫から取り出し、メイは手招きする。

 

 ピカチュウはやはりと言うべきか、メイには近寄らない。

 

「な、何で? あたし、大分慣れましたよね?」

 

 理不尽だと言いたいらしい。アーロンはピカチュウの背中を撫でてやってから、魚介の缶詰を近づかせた。

 

「これなら食えるだろう」

 

 ピカチュウは電気メスを使って缶詰を器用に開ける。

 

「……まだ、他の誰かからのご飯は口にしないんですね、ピカチュウ」

 

 それでもマシにはなったほうだ。以前までは本当に徹頭徹尾、アーロンがやらなければ警戒して動きもしなかった。しかしメイをつけ上がらせるだけなのでアーロンは黙っておく。

 

 ホロキャスターが鳴り響く。アーロンはすぐさま通話モードにした。

 

「何だ?」

 

『今日の仕事です。六十七の路地で暗殺をお願いします』

 

 三日前に入っていた殺しの案件であった。アーロンは了承の声を吹き込み、すぐに朝食を片づける。

 

「仕事が入った。俺はすぐに出る。片づけは」

 

「あたいとシャクエンお姉ちゃんがやるよ」

 

 引き受けたシャクエンとアンズを目配せし、アーロンは立ち上がった。

 

「ちょっと! あたしにもちょっとくらいは任せてくださいよー」

 

 メイの懇願を無視してアーロンは下階へと降りる。コーヒーを抽出していた店主と顔を合わせた。

 

「おっ、アーロン、仕事かい?」

 

 もう、以前までのように衛生局だと騙す事はない。アーロンは短く答えた。

 

「野暮用でね」

 

「気ぃつけるんだぞ。メイちゃんもみんなも、帰りを待っているんだから」

 

 偽ってまで行動しなくてはならなかったのはつい一ヵ月前までだ。それが様変わりした。変化をただいいものとして受け入れるのにも時間がかかったが、少なくとも害悪ではあるまい。

 

「ああ、行ってくる」

 

 アーロンは雑多な人混みに身を任せて路地裏へと歩み出た。

 

 張っていたのはヴィーツーだ。連絡用のインカムを耳に当てて黒服に袖を通している。

 

 路地番の格好であった。ヴィーツーは路地番に身を落としてようやく一ヵ月。

 

 仕事に慣れ始めた頃合であった。

 

「首尾は?」

 

「上々だ……じゃない、上々ですよ。……まったく、何で私が波導使い相手に敬語など」

 

「路地番は、きっちり報酬をもらいたければそれなりの言動をするべきだ。そんな基礎も習わなかったとは言わせないぞ」

 

 アーロンの忠言に、ヴィーツーは額に手をやって首を振った。

 

「分かっていますよ。今回のターゲットはこの街に潜り込んできた、ジョウト出身のマフィアの頭目。言ってしまえばおのぼりさんです。こいつが一人になるのは先にも言った通り、六十七の路地に入った瞬間。こっちで全ての情報網と部下の動きを制し、孤立させます。そこからは」

 

「俺の仕事、だろうな」

 

 了承したアーロンが電気ワイヤーを使ってビルの縁へと取っ掛かりをつける。ヴィーツーは嘆くように口にした。

 

「……そういくつも仕事なんてあるはずがないと思っていましたが、ここまで連日、殺しがあると色々と疑いますよ」

 

「この街はそういう街だ。いい加減受け入れろ」

 

「敵も味方も関係なし、ですか。郷に入らば郷に従え。私達プラズマ団が一ヶ月前に反旗を翻したのだって、もうニュースじゃ報道さえもされない。あれに、意味なんてなかったって言われているようで」

 

「釈然としない、か」

 

 引き継いだ語尾にヴィーツーは納得のいっていない顔を振り向ける。アーロンは指を一つ立てた。

 

「言っておこう。騒ぎ立てられないという事は、平和の証だ」

 

「偽りの平和でしょう。どこまで糊塗すれば気が済むんだか」

 

「それでも、平和がなければやっていけないのさ。この街も、住んでいる人間達も」

 

 電気ワイヤーを巻き取らせてアーロンはビルの屋上へと着地する。俯瞰する六十七の路地に入ってきたのは黒色のバンであった。そのバンから三人組が降りてくる。

 

 路地番との手はずでは、このまま二人を制し、頭目だけを殺す予定であった。

 

 後ろなどまるで気にしていない、刈り上げた髪型の頭目が煙草を吹かした瞬間、路地が封鎖される。

 

 守りの任を帯びていた二人が路地の外に取り残されたその一瞬。

 

 アーロンは飛び、頭目の眼前に降り立った。

 

 頭目は呆然としている。

 

「てめぇ……、どこの組のもんだ?」

 

「どこの組でもない。ただ、その命は少しばかりこの街では目立つのでね。刈り取らせてもらう」

 

「殺し屋か。だがな、こっちだって手ぶらじゃねぇんだよ」

 

 頭目がモンスターボールを手にし、中からポケモンを繰り出した。

 

「いけ! ドータクン!」

 

 出てきたのは銅鐸そのもののポケモンであった。両端に赤い目があり、薄い光沢が表皮を輝かせている。

 

「鋼か。見た目からして、ヒットマン相手への牽制、及び護身用と言ったところか」

 

「ドータクン! サイコキネシス!」

 

 放たれた紫色の思念の渦がアーロンを押し潰そうとする。アーロンは肩に留まったピカチュウに短く命じる。

 

「エレキネットを使って相殺」

 

 展開された「エレキネット」が思念の渦を包み込んだ。頭部を叩き折るかに思われた力量が全て、電気の網にすくい取られる。その現実に頭目は目を見開いた。

 

「なんだ、それ……。ただのピカチュウのエレキネット程度で、ドータクンの攻撃を」

 

「捉えるのは容易い。直情的な攻撃は、俺には無意味だ」

 

 頭目は歯噛みし、手を薙ぎ払う。

 

「だったら、てめぇの足場ごと粉砕してやるよ! ドータクン、サイコウェーブ!」

 

 思念の波が払われ、地面が捲り上がる。コンクリートを破砕し、粉みじんにするほどの激しい思念であったが、アーロンは動じる事もない。

 

「ピカチュウ、軽く電撃でいなせ。三十度右方向の思念を切って突き破る」

 

 その指示に、ピカチュウが的確に電流を放った。アーロンはそれに併せる形で波導回路を読み取る。

 

 思念の中にも波導は宿る。網のようにこちらを絡め取ろうとした「サイコウェーブ」であったが、その波導回路の弱点へとアーロンは的確に切断電流を撃った。

 

 相殺された思念の波が一部だけ剥離する。その隙を見逃さず、アーロンは身体ごと突進した。

 

「サイコウェーブ」に生じた一点の隙間を潜り抜け、アーロンの姿が眼前に迫った時になって、頭目が焦りを見せた。

 

「なっ、何をしやがった! てめぇ!」

 

「波導を軽く切って、サイコウェーブに隙間を生じさせた。その隙間を通るのに、さほど苦労はしない」

 

 信じられないのだろう。頭目が目を慄かせて震え出す。

 

「……んな事、信じられるかよ! ドータクン、もう容赦なしだ! サイコキネシスを乱れ打ちして、この殺し屋をやっちまえ!」

 

「おや? それは妙だな。いつから、手加減などしていた?」

 

 照射された「サイコキネシス」がアーロンを押し潰そうとする。即座に回避し、壁を蹴りつけて撃ち込まれるであろう第二波を破った。ドータクンの思念の動きは一撃目で既に見切っている。

 

 その癖も、生じる隙も全て、アーロンにはお見通しだった。「サイコキネシス」の乱れ打ち。通常ならば、どの波かが捉えるであろう。しかし、アーロンの波導の眼には、それら全てがつぶさに映っていた。

 

 一つ一つの生じさせる隙も、完全に。

 

 突き出した右手で波導を切り、生じた合間を縫ってアーロンが肉迫する。ドータクンがおっとり刀で迎撃しようとする。

 

「首をひねり潰せ! サイコウェーブ!」

 

「残念ながら、その生じさせる波も、その波の位相も全て、この眼には視えている」

 

 電撃を纏い付かせた右手が思念の波を掻き分け、ドータクンの堅牢そうな身体へとそのまま触れた。接触の瞬間、ドータクンの波導回路がアーロンの脳裏に刻み込まれる。

 

 ドータクンは一見すると隙のない、防御タイプのポケモンに見えるがいくつかの脆いポイントがあった。アーロンの眼はそれらを感知し、電撃が確実にその点を突く。

 

 突かれた箇所からドータクンの表皮が磨耗し、くすんだ灰色になっていった。その思念の衰えにドータクン本体も驚いているに違いない。

 

「何をしてやがる……。ドータクンの防御が突き崩されるはずが」

 

「ない、と思っているのならば、それはおめでたい、と言うんだ。この世に、絶対防御の盾などありはしない」

 

 崩れたドータクンの表層をアーロンは右手で引っ掴み、そのまま叩き落した。頭目とてドータクンほどの防御性能を誇るポケモンがただの人間の、ちょっとした力加減で落とされるとは思っても見なかったのだろう。

 

 目を見開いたまま、絶句している。

 

「何者だ……。ドータクンを、ただの人間が倒せるはずがねぇ」

 

「そうだな。ただの人間ならば、ポケモンに手傷を負わせるなど不可能だろう」

 

 朽ちていくドータクンの鋼の表層に一瞬だけ、光が宿った。その攻撃の矛先にアーロンは勘付く。

 

「やれ! 破壊光線!」

 

 太陽光を吸収し、表層を輝かせたドータクンから放たれたエネルギーの瀑布。頭目は焼き尽くしたと確信したのだろう。

 

 口角を吊り上げた頭目の背後へと、アーロンは回っていた。その背中をとんと突いてやる。

 

 それだけで頭目は恐れを成した。腰を砕けさせ、目を戦慄かせる。

 

「ば、馬鹿な……。いつ、後ろに回った?」

 

「破壊光線……、ほぼゼロ距離だ。だが、今のドータクンには正確無比な射撃は不可能にしてある。波導を操り、その視覚に潜り込んだ。今のドータクンに、俺は見えていない」

 

 こめかみを突いて言ってやると頭目は慌ててドータクンを盾にする。アーロンの右手による波導切断を防いだドータクンが中央から亀裂を生じさせた。

 

「ぱ、パンチでドータクンの表皮を破った……?」

 

「正確には拳ではないんだがな。そういう存在がいる事くらい、裏稼業ならば学んでおけ。まぁ、その機会は永遠に失われるわけだが」

 

 頭目が突然に痙攣し、喉の奥から叫びを発した。先ほど突いた背筋から波導を操ったのだ。

 

 頭目がその意思とは無関係に立ち上がり、アーロンへと歩み寄っていく。足を押さえようと手を伸ばすが、その指先が無情にも逆向きに折れ曲がった。

 

「ああ、何故だ……。死ぬのか……」

 

「死ぬ、じゃない。俺が殺すんだ」 

 

 アーロンの右手が頭目の頬を引っ掴む。そのまま波導の眼を使い、内部の波導回路へと電撃を流し込んだ。

 

「――終わりだ」

 

 内部からの電流にのたうった頭目が事切れるのに、三秒とかからなかった。

 

 アーロンは殺しを遂行し、電気ワイヤーで近場のビルの屋上へと躍り上がる。

 

 ようやく路地番の封鎖を抜けてやって来た取り巻きが頭目の死を確認していた。

 

「これで一つの組織が潰れた、か。まぁその辺りのチンピラ風情ならば、何の障害にもなるまい」

 

 アーロンは跳躍し、ビルの谷間を抜けていった。

 



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第百二十話「悪徒Ⅰ」

 

 会合、と言うからにはそれなりの場所を、と用意したのはホテルの側である。

 

 豪奢なレストランを予約したホテルミーシャは数人の手だれを連れて来ていた。その中には当然、直属の部下である軍曹も含まれている。

 

「お嬢。ハムエッグは来ますかね」

 

「来なければ、協定を結ぶ意味がないわね」

 

 このような時でもラブリは冷静だった。そもそも石化の殺し屋に関して知っている事を交換し合うのが今回の会合の目的である。

 

 こちらのカードは既に準備されている。後は、ハムエッグ次第であった。

 

 ハムエッグは約束より五分遅れてやってきた。侍らせているのは一人の少女のみ。

 

 だがそのたった一人が、この場にいる全員を殺し尽くせるほどの戦力であるのは窺い知れている。

 

 ――スノウドロップ、ラピス・ラズリ。

 

「初めて見るわね。現物は」

 

 ラブリの評に服飾を纏ったハムエッグは読めない笑みを浮かべた。

 

「そういえば、ホテルのボスと会うのは初めてだったか」

 

「うん。主様、ここではラピスは」

 

「ああ、じっとしているんだよ。おいしいご飯を食べさせてあげよう」

 

 ラピスが目を輝かせる。傍目から見れば、ただの子供。しかし、その戦力は単騎でヤマブキという街を半壊せしめる。前回のプラズマ団の時における戦闘がホテル側の解析に寄れば「リハビリ」であった事にラブリは驚いていたが、直接目にすればさもありなん。

 

 ハムエッグは決して切り札の実力を見誤ったりしない。底を見せないのがこの街で渡り歩いていく流儀だ。

 

「座りましょうか」

 

 ラブリが席につく。ハムエッグとラピスも席についた。

 

 ホテル側の護衛は席につかずずっと立ちつくしている。

 

「座ればいいんじゃないかな? 立っているのはしんどいだろう」

 

「いえ、我々はお嬢のための盾ですから」

 

 答えた軍曹の声にハムエッグは笑う。

 

「生真面目だね、君の部下は」

 

「あなたの手持ちほどではないわ」

 

 ラブリは言い返しつつ、前菜が運ばれてくるまでに話をある程度進めておくべきだと感じていた。

 

「石化の殺し屋、と言ったわね」

 

「ああ、その通りだ」

 

「その殺し屋のやり方が、あのクズに似ている、とも」

 

 あのクズ、で了承は取れたのだろう。ハムエッグは首肯する。

 

「ああ、アーロンと同じ、波導使いだろう」

 

 あまりにもあっさりと答えられる反面、その石化の波導使いがどれほどの脅威なのかはまだ明かされていない。ここからが手札の切り合いであった。

 

「石化の波導使いがこの街で表立って動き出したのは二日前。ホームレス殺しは」

 

「聞いているよ。ボロボロの白い灰になっていたんだって?」

 

 殺しの手口を聞き出さなくっては。ラブリは鎌をかけた。

 

「あのクズみたいに、波導を操って殺したのでしょうね」

 

「わたしにも、波導に関しては分からない事のほうが実は多くてね。専門家は、と言えば彼しかいない」

 

 波導使いアーロンは、ハムエッグにさえも手の内を明かしていないという事か。それだけ波導という存在が脅威なのだと分かる。

 

「あのクズは、その時間、何をしていたのかは分かっているの?」

 

「おいおい、まさかアーロンを疑っているのかい?」

 

 冗談にしようとするハムエッグにラブリは本気の眼差しを注いだ。

 

「それはそうでしょう。波導使いがその専門家だと言うのならば、他人がやったように偽装する事だって可能でしょうに」

 

「ないよ。アーロンは利にならない殺しはやらない。どれだけ追い詰められても、利にならなければ人殺しはしないんだ。それはわたしが長年、彼と付き添ってきて分かった事の一つだよ」

 

「じゃあ、話を変えて。もし、波導使い同士がぶつかり合ったらどうなるのか」

 

 石化の波導使いとアーロンが別人である、という前提の話であったが、ハムエッグは頭を振った。

 

「分からない、というのが正直だ」

 

「分からない? 長年の友でしょう?」

 

「彼は自分の殺し方に関してはとても口が堅くてね。何が苦手とするだとか、どういう局面が得意だ、とかは言わないんだ。殺し屋なんてみんなそうだろう?」

 

 確かに殺し屋は手が割れればお終いだ。そういう職業だから、と言えば理由にはなる。

 

 しかし、ラブリは追及した。本当に、アーロンではないのか、と。

 

「じゃあ、波導使いがやったのではない、という確証もないわけね?」

 

「あまり勘繰ってあげないで欲しいな。アーロンはそこまで人でなしではないよ」

 

 自分の与り知らぬところで波導使いアーロンをどうするべきかという審議が行われている。それだけでも充分にこの街の将来を左右するものであった。何よりもこの場において協議されるべきは、波導使いアーロンの実力と、石化の波導使いの実力が拮抗するものなのかどうか。

 

「では言葉を変えるわ。あのクズならば、どう殺すのか?」

 

「分からないと言っているじゃないか」

 

「何一つ、ではないでしょう? だってスノウドロップは波導使いと事を構えた。つまり、それなりに情報はあるはず」

 

 ハムエッグは肩を竦めた。ラピスは自分が話題に上がったのを感知していないかのように天井のシャンデリアをじっと眺めている。

 

「参ったね、どうも。こちらの知り得るアーロンの情報を売れと。そう言っているのか」

 

「それだけじゃない。あなた、前回のプラズマ団の蜂起だって、どこかしら分かっていたんでしょう? そうでありながら、あの段に至るまで放置した」

 

「お互い様だろう、ホテルだって。どうしてヤマブキの危機に、ホテルは一切介入しなかったのか。それはあのプラズマ団の蜂起に介入しても旨味がないと知っているから。つまり、ある程度予備情報は仕入れていたわけだ」

 

 お互いに腹の探り合いだ。ホテルとしてはハムエッグの情報網がどこまで行き届いていたのかを知りたいが、それは無傷では済まないだろう。こちらがどこまで情報網を敷いていたのかを知らしめる事になる。

 

 食えない奴だ、とラブリは胸中に毒づく。

 

 情報の交換、という名目があるとはいえ、どちらかが損をする形となるのは明白である。両者共に、削り合いをしつつ、それを最小限に留めたいのが人情。

 

「プラズマ団は、確かに面白くなかった。だから何もしなかった。それでは不満?」

 

「面白くないというのならば、余計に何もしないのは不自然だろうに。炎魔の一件をお忘れか? あの時、末端構成員が殺されただけで、躍起になって犯人探しをした」

 

「あれはわたくしの部下を殺した。という事は、わたくしへの侮辱と同義」

 

「しかしね、あれは炎魔の仕業ではなかった。熾天使なる、炎魔と同質の殺し屋の仕業であった。マインドセットを極限まで減らした上位互換。ここで気になるのは、その熾天使。どこへ行ったのか?」

 

 心臓を鷲掴みにされた気分だった。まさか、知っているのか、と言いたくなるのをぐっと堪える。

 

「そうね。どこへ行ったのかしら」

 

「しらばっくれても無駄だよ、ホテルの諸君。宿主、という制度を使っていたらしいじゃないか、炎魔は。それを極限まで細分化し、親指一本程度でも宿主を切り替えられる理想の殺し屋、熾天使。そんなものを、野放しにするほど、ホテルは愚鈍ではあるまい?」

 

「熾天使に関してはわたくしの関知するところじゃないわね」

 

「まぁ、これはいいんだ。わたしは、別に熾天使が今、どうしているかだとかはどうでもいいんでね。例えば、スノウドロップへの牽制用に再教育されていようとも、どうでもいい」

 

 どこまで知っていて、このポケモンは人を愚弄するのだ。やはりこの街随一の情報屋は伊達ではない。熾天使の処遇はホテル内部でも上層の領域であった。

 

「そんな話をしに来たんじゃないでしょう?」

 

 ラブリは務めて平静を装って口にする。今議論すべきは、熾天使という戦力を保有しているか否かではない。ハムエッグも退き時を心得ているようですぐに話題を仕舞った。

 

「そうだね。熾天使云々はこの際、どうでもいい。問題なのは、石化の波導使い。あれをどうするか」

 

 前菜が運ばれてくる。ラブリは聞き出すタイミングを何度か失っている事に気がついていた。このポケモンは思いのほか、口が堅い。情報の値段次第では誰にでも口を割るわけではないらしい。

 

「石化の波導使いを、どう対処するか」

 

「わたしとしても命題だよ。スノウドロップでも敵うかどうかは五分五分だ」

 

 そこまでハムエッグは弱気でありながら、情報戦においては負ける気がしていないのも事実。ホテル側に情報面での上を行かれたくないのだろう。

 

「最終段階になれば、スノウドロップのカードを切る、と思ってもいいのかしら?」

 

「本当の最後の段階になれば、ね。それこそ、どんな殺し屋でも敵わなかった場合、わたしはスノウドロップを出そう」

 

 しかしそれまでは静観を貫く構えだ。ハムエッグはあくまでの傍観者を気取りたいらしい。ラブリはここで交渉のカードを切る事にした。

 

「石化の波導使いの手持ちに関して、わたくし達は情報を持っている」

 

 ぴくり、と僅かな反応であったがハムエッグが眉を跳ねさせる。知らないのか、とラブリは一気につけ込んだ。

 

「この手持ちの情報は大きい。これ次第で、ヤマブキのパワーバランスは変わるでしょう」

 

「それを買え、と?」

 

「値段はこちらで提示させてもらうわ。その代わり、確定情報を売る」

 

「確定情報、ね。そうでなければ、わたしとしても困る。仕留め損なう結果になりかねないからだ」

 

 その情報をアーロンに売るつもりだろうか。ハムエッグの真意は不明だが、この情報に食いついているのだけは確かだ。

 

「軍曹。石化の波導使いの目撃情報を」

 

 軍曹が歩み出て書類を手渡す。受け取ったラブリは書類の隅を指で弾く。ここからが商談だ、という合図だった。

 

「二十、でどうかな?」

 

「この街の命運がかかっているのよ。百、これ以下はない」

 

 提示した額にハムエッグは辟易したようだ。

 

「恐ろしいね。手持ちの情報だけだろう? そのポケモンの技構成、特性、使い方、それらを包括した内容である、という保障はない。それこそ、名前一行の可能性だってあるんだ。だというのに、百、はおかしいね。その大仰な書類だってダミーではないという確証もない。君達は張子の虎で商売をしようとしている」

 

 盟主の名前はやはり伊達ではない。こちらにあるのはたった一行のポケモンの名前だけだ。それを読み取られたとはいえ、顔に出すほどこちらも初心ではなかった。

 

「でも、わたくし達の持っている情報は新しい。あなたの持っている風の噂程度の情報とは鮮度が違う」

 

 古い情報と新しい情報ならば確定で新しい情報の勝利だ。それは情報屋ならば誰しも分かっている。情報は何よりも鮮度が命。一秒でも新しければそちらに軍配が上がる。

 

「情報屋を相手取るのならばその商売の仕方が悪いとは思わない。むしろ、正しい。だが、わたしは今日、君達を相手にするに当たって情報屋、ハムエッグとしてではない。ヤマブキの盟主であり、スノウドロップの飼い主としてここにいる。情報屋の手段でわたしを篭絡出来るとは思わない事だ。今のわたしの双肩にかかっているのはね、この街の未来だよ。だというのに、舌先三寸でわたしがそのたった一行の情報を買い取ると? 馬鹿にはしないでもらおうか。わたしにだって情報の見極めを行う審美眼くらいはある」

 

「ではこの情報は必要ない、と?」

 

 ラブリの試す物言いにハムエッグは鼻を鳴らした。

 

「生憎だが、君達の行う情報のやり取りは少しばかり、ずさんだ。そうだな、素人臭いと言ってやってもいい。本当の情報のやり取りとは、こうやって目と目を合わせてやるものだけではないのだよ」

 

 ハムエッグの言葉は繰り言だ、と断じる事も出来た。しかしあまりにも物怖じしないこの気迫は何だ? じっとその眼を見据えているとラブリはハッとした。

 

 情報は鮮度が命。

 

 このポケモンはもしや――。

 

 即座に軍曹に命じる。

 

「軍曹。我が方に、裏切り者がいる」

 

 その言葉に護衛の者達がざわめいた。軍曹は歩み出て進言する。

 

「お嬢、そんな人間がいるとは思えません。何故、そう思われたのですか?」

 

「情報は一秒でも新しく。わたくしが持っているのがどの段階までの情報なのか、リアルタイムでハムエッグに売れば、それこそ莫大な利益を得るでしょう。最終的な勝利者を確約されたのならば、離反する人間がいてもおかしくはない」

 

「ですが、こんな矢面に……」

 

 その時、一人の護衛の者が震え出したのを、ラブリは見逃さなかった。全員の眼がその一人に注がれる。

 

 逃げ出そうとしたその人物を三人ほどが取り押さえた。

 

 その手にはホロキャスターがあり、ハムエッグへとメールを送っていた。

 

「この、裏切り者が!」

 

 殴りかかろうとした構成員に、ラブリは声を張り上げる。

 

「おやめなさい! 御前である!」

 

 鶴の一声に構成員達が硬直する。ラブリは顎をしゃくった。

 

「処遇は後にするわ。そいつを取り押さえておきなさい。まぁ、こういう頭同士の取り決めともなれば、離反者が出るのは想定内よ」

 

「ですが、ボス。背信行為ですよ」

 

「だからと言って、ここは一流レストラン。血に染める場所ではない」

 

 ラブリはようやくシャンパンに手を伸ばした。ここに来て初めて喉が渇いた。

 

「一手、という事か」

 

「遅れたかそれとも逸ったかは置いておきましょう。どちらにしても、お互いに用心の要る事だというのはよぉく分かった」

 

 こちら側に離反者がいるという事は、向こう側にも、と考えてラブリは相手がラピスしか連れていない意味をようやく察した。居たとしてもここには連れてこられなかったわけだ。ハムエッグは自分の周辺しか信じていない。ここに来て、組織の弱点が露呈した形となった。

 

「さて、話を戻そうか。そのたった一行の新情報、いくらだったかな?」

 

 もう議論の余地はなかった。こちらに非がある以上、交渉は同レートのはずがない。

 

「……二十で手打ちよ」

 

「それならば納得が出来る」

 

 ラブリは大仰に纏めた書類を卓上に出す。ハムエッグはそれを受け取って中身を検めた。

 

「本当に一行だけとは、恐れ入った。さすが、ホテルの頭。肝が据わっている」

 

 書類の大部分は空行と黒塗りであり、分かっている情報はたった一行だけだった。

 

「こちらにも、百人前後の戦力を統率する義務がある。交渉において下手に出るわけにはいかない」

 

「立派な心がけだよ」

 

 言葉の表層にも思っていないような言い草だった。

 

 ハムエッグはその一行を目にして、書類を破り捨てる。もうその価値は失われたように。

 

「さて、わたしと君だけが、この情報を握っている事になるわけだが」

 

 謀られた、とラブリは感じた。この盟主は最初からアーロンに協力を仰ぐつもりではない。自分達で対処するつもりなのだ。今日の交渉は波導使いアーロンを議論するのではなく、ハムエッグの軍門にホテルがどの程度下るのか、という審議であった。

 

 石化の波導使いの話題はそのためのブラフでしかない。

 

「……わたくし達を使う、というの?」

 



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第百二十一話「悪徒Ⅱ」

「わたしとしても戦力が欲しくてね」

 

 ハムエッグ一人では到達出来る場所はたかが知れている。だがこちらの情報戦力と戦闘力を併せ持てば、ハムエッグの戦力は大幅に拡がる事になる。やられた、というのはその点だった。

 

 ハムエッグ相手にこちらは戦力をくれてやらない、という選択肢があったのはつい数秒前まで。

 

 裏切り者の存在は組織に疑念という名の亀裂を走らせるのには充分であった。

 

 このまま内々の裏切りを勘繰るよりも有益なのは、ハムエッグにある程度の戦力をくれてやり、勝手にやらせる事。

 

 そうすれば、こちらは勘繰られずに済む。その間にあわよくば、ハムエッグを潰す手段を講じる。

 

 最良のやり方を模索したが、やはりこのレストランで出来るのは最低限であった。

 

「……どの程度?」

 

 頬杖をついて尋ねるとハムエッグは卓上に手を置いた。

 

「アイアント部隊をこちらへ。それだけで随分と違う」

 

 熾天使の時に戦力を見せびらかし過ぎた。こちらの手の内はある程度割れているのだ。

 

「……いいわ。アイアント部隊、ね」

 

「但し書きが欲しい。口約束ではいくらでも破れるからね」

 

 軍曹を呼びつけ、書面にアイアント部隊をハムエッグの指揮下に加える事をサインする。ハムエッグは控えを受け取り薄く笑った。

 

「さて、これで少しばかりこの街も見渡しやすくなったわけだが、存外ね、たった一人を炙り出すのは難しいんだ」

 

 まだこちらから搾り取ろうというのか。ラブリは眉根を寄せる。

 

「……何を要求すると?」

 

「最初の一撃はこちらに任せて欲しい。石化の波導使いを見つけ出したあかつきには、こちらが先に手を打とう」

 

 パワーバランスを考えれば、ホテル側に先んじて撃ってもらう、と言われると思っていた。そうしたほうが後出しでどれだけでも戦力を奪える。しかし、ハムエッグはその逆を言ってのけた。

 

「……何故?」

 

「戦において、最初の一撃は肝心だろう? それを任されたほうが、戦いを制御出来る」

 

 嘘もいいところだ。最初に仕掛ける側は捨て駒のほうがいい。アイアント部隊をそれに使うつもりか、と問い質したいが、最悪な事に先ほどの書面でアイアント部隊の実効命令権は委譲してしまっている。

 

 つまりハムエッグがどう使おうとも文句の一つも言えない。

 

「分かったわ。最初にどうするのかはわたくし達側では一切、口を挟まない」

 

「理解があって助かるよ、ホテルミーシャ。では、話の続きと行こうか」

 

 まだ石化の波導使いをダシにして戦力の分散をはかっているに過ぎない。当の波導使いをどうするのかは協議の最中であった。

 

 ハムエッグがシャンパンに口をつけ、喉を潤してから話題を変えようとする。

 

 ラブリも前菜を頬張り、話を転換させたかった。

 

 何も知らないのか、知っていても口を挟まないのか、ラピスは大人しく前菜を食べている。

 

「石化の波導使い。風の噂でもいい。その能力は?」

 

「波導使いにおける最大の欠点を、わたしは知っている」

 

「結晶化、ね」

 

 それに関してはこちらも既知だった。アーロンと仕事をする際に一度や二度、耳にした事がある。

 

「知っていたか。その結晶化の応用、だと考えているが定かではない」

 

 それに何よりも、とハムエッグは指を立てる。

 

「先ほどの情報を知った上での発言ならば、結晶化の応用だという線も危うい」

 

 言葉尻を引き継いだラブリにハムエッグは満足そうに頷いた。

 

「その通り。攻撃方法は不明だが、このポケモンに関して言えば情報はある。カロスの情報源だがね」

 

「わたくしも、調べたわ。そのポケモンの特性を。聞くに、一体でどうこう出来るタイプじゃなさそうだけれど」

 

「奇遇だね。わたしもそう思っている。だが、波導使いは単騎だ。これは間違いない」

 

 アーロンのピカチュウしかこちらの知っている前例はないがハムエッグがここで嘘をつく意味はない。

 

「じゃあこのポケモン一体だと?」

 

「だが攻撃方法が一切分からない。所詮は、データ上の試算だ。机上の空論だと言われてもおかしくはない」

 

 ラブリは考えを巡らせる。ハムエッグでさえも知らない、石化の波導使いの手持ちの情報。それを得られればこの立場を逆転出来るかもしれない。

 

 だが、そんな虚しい考えに益を浮かべる前に、ハムエッグはホロキャスターを差し出す。

 

 そこには今回の争点となっている石化の波導使いの目撃情報が羅列されていた。

 

 思わず瞠目する。そこまで手札を持っていながら、今に至るまで明かさなかったというのか。

 

「この情報、いくらで買うかな?」

 

 いつの間にか立場が逆転していた。組織が勝つという大局から外れ、個人でしかないハムエッグの独壇場になっている。

 

「これは、〝眼〟の情報なのかしら?」

 

「それは買ってから確かめるといい」

 

 ヤマブキを見張っている〝眼〟の情報だとすれば浮かび上がってくる疑問が二つほどある。

 

 ――石化の波導使いは、身を隠すつもりがない?

 

 そうでなければ〝眼〟の情報源などに上がってくるはずがないのだ。あるいはもう一つの可能性。

 

 ――これら全てが、石化の波導使いに関するものだとしても、無価値の可能性。

 

 つまり完全なダミーをちらつかせてこちらから金をふんだくろうとしている、という考えである。

 

 ラブリは後者の可能性を視野に入れつつ、これを買うべきか否かを思案する。

 

 もし、ハムエッグが一切、この情報に関しての手綱を握っていないのだとすればこれは買ったほうが優位だ。しかし、全て作り物、つまり相手側の情報の振りをしたただの張りぼてだとすれば、これは買ってしまえば大きな遅れとなる。

 

 どちらだ、とラブリは額に汗を掻いていた。

 

 ここでの自分の判断が、ホテル全体の遅れとなってしまいかねない。頭目として、判断する局面には慣れてきたつもりだったが、それはこちらが優位であった場合の話。

 

 ここまで愚弄されて、平気なはずもなかった。

 

 ハムエッグより一歩前に出たい、という思いが先行し過ぎれば、地雷を踏み抜きかねない。もう、この情報は手垢がついている。地雷原なのだ。

 

「……買う、買わない以前に、一つ聞いておきましょうか」

 

「何かな? 答えられる範囲ならば何でも答えよう」

 

「あなたにとって、石化の波導使いは脅威なのかどうか」

 

「先にも言ったはずだ。わたしはこのために、スノウドロップを鍛えてきた」

 

 それは詭弁ではないのか、と言い返したいのを抑えて、ラブリは言葉を選ぶ。

 

「では質問の意図を変えるわ。あのクズ――波導使いアーロンでは勝てないのか」

 

 その質問にハムエッグは僅かに表情を強張らせた。この質問は当たりだ。ハムエッグが何よりも恐れているのは波導使いアーロンの動き。

 

 その動きが迅速であればあるほどに、この交渉は意味を成さなくなる。つまり、アーロンの動きだけは制せなければならないのだ。

 

 ここでどう出るかが運命の分かれ目。ラブリは息を詰める。ハムエッグも言葉を慎重に繰ろうとして来る。アーロンに関して、どのような見解を示すのか。

 

 緊張が高まった瞬間、お互いの端末が鳴り響いた。同時に通話する。

 

「もしもし?」

 

「わたしだ。どうした?」

 

 放たれた言葉にラブリは震撼する。ハムエッグもここに来て初めて、驚愕を露にした。

 

「何ですって? 石化の波導使いが動いた?」

 

「どこで、だ?」

 

 向こうも同じように張っていたらしい。同じ内容を二人は別人から聞き及んでいた。

 

『西の四十地区です! 石化した死体が出まして……、今警察が現場検証を』

 

「警察を動かすな。わたしの指示に従ってこれから言う番号にかけろ」

 

 オウミを失った以上、警察勢力への根回しはハムエッグが直に行わなければならない。その隙があった。

 

 ラブリは声を潜めて吹き込む。

 

「石化の波導使いが近くにいる可能性がある。追いなさい。出来るだけ速く」

 

 隙をつき、少しでもハムエッグを出し抜こうとする。しかしハムエッグも対応は手慣れたものだった。

 

「路地番を使え。四十地区近辺を全て封鎖。わたしの権限でどうにでもなる」

 

 石化の波導使いの尻尾を掴みたいのは同じ心境であった。

 

 通話を切ってハムエッグはフッと口元を緩める。

 

「どうやらお互いに、行き会ったみたいだ」

 

「そのようね。でも、この場合、見つけたほうが対処する、というやり方でいいわよね?」

 

 こちらの手の者が先に見つければそれだけ先制を取れる。そう判じての声だったが、ハムエッグは薄く笑った。

 

「それでも構わないが、君らはちょっとばかし軽視している。波導使いを侮るな」

 

「それはあなたの子飼いに半ばなっているあのクズを鑑みての台詞、かしら?」

 

「どうとも。ただね、波導使いって言うのは厄介だ。わたしがこれまで接してきたどの殺し屋よりも強く、それ以上に謀が出来ない輩だよ。そういう風に仕上がっているんだ。だから、こっちの意のままにだとか、そういう事は出来ないと思ったほうがいい」

 

「忠告、感謝するけれどわたくし達はホテルミーシャ。当然、最終判断はわたくしがつける。ホテルを預かるものとして、頭目、ラブリとしての判断を」

 

 それは重々に承知している、とハムエッグは返す。

 

「ただ、生き急ぐものじゃないって言っているんだ。ほら、まだメインディッシュも運ばれていない」

 

 ハムエッグの目的が分かってきた。

 

 最初から、石化の波導使いが出没した際、こちらの動きを牽制するためにこの場所での会合を承諾したのだ。

 

 ――自分の動きを監視する、という名目も兼ねて、か。

 

 やはり食えない相手だ、と感じつつ、ラブリは端末に表示されているカウンターを目にしていた。

 

 石化の波導使いを追い詰めるためのカウントダウンだ。

 

 自分達ホテルが動けば、十分以内にはかたをつける。それが流儀であり、この街に慣れていない新参者への対処に他ならない。

 

「せいぜい、味わって食べるわよ。そう何度も遭遇出来ない会食ですもの」

 

 ラブリの声音にハムエッグも同調する。

 

「そうだね。わたしだって、ホテルの頭とこう面と向かって話す事は少ない。せいぜい、喋り込もうじゃないか。これからの事も含めて」

 

 石化の波導使いに関しての動きは制した、とハムエッグは思っているに違いない。

 

 ここから先は、相手を軽侮したほうが敗北する。

 

 一手先さえも危うい綱渡りに、ラブリはシャンパンを飲み干した。

 



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第百二十ニ話「彷徨える咎人」

 

「おい! こっちだ。情報源はボスより。勅命だ! 石化の波導使いを追え、と。容貌の怪しい奴はひっくるめて身包みを剥がせ!」

 

 ホテルの黒服達が四十地区に車を走らせる。先行しているのはドリュウズとクイタランを擁するガンマ小隊である。

 

「石化の波導使い……。波導使いと言えば煮え湯を飲まされた事もある。油断はしない事」

 

 構成員に言い含めたジェーンはこれから先に起こり得る事をモニターする。敵陣営によるこちらへの侵略はないとはいえ、波導使いともなれば緊迫する。

 

 一戦力がこちらの小隊単位の能力なのだ。身震いは、ただ単に未知の敵との遭遇を予感してのものだけではない。

 

「ガンマ小隊がどれだけ持ち堪えられるかは、私次第……」

 

「小隊長、クイタラン部隊の展開準備完了。いつでも行けます」

 

 呼吸を整え、呼気を張り上げる。

 

「よし! 現着と同時にクイタランを展開。地下にはドリュウズを潜らせろ。四十地区より波導使いを逃がすな」

 

 これは戦争だ。

 

 熾天使を相手取った時よりもなお深い戦闘の気配。肺に充満する鉄錆と炎の放つ硝煙の香り。ぞくぞくしてくる。

 

 これが戦場だ。

 

 これが、ホテルの本懐だ。

 

「見せ付けてやる! ホテルミーシャの最大戦力を!」

 

 端末にドリュウズとクイタランの現在地が示され、四十地区を包囲したのが確認された。

 

 それとほぼ同時に、車両展開していたガンマ部隊の構成員達がアサルトライフルを構えて四十地区を見渡す。次々と情報の運ばれてくるゴーグル型端末を装備した構成員は最早、一端の軍人だ。

 

『マル四、こちらに敵影なし』

 

『マル七、こちらも同様です』

 

「油断しないで。いつどこから攻めてくるのか分からないのが波導使いよ」

 

 前回とて全くその攻撃に対し、何も出来なかった。今回は雪辱を晴らすつもりである。

 

『こちらマル九、異常は――、な、何者だ!』

 

 張り上げられた声にジェーンは、かかった、とそちらの陣営との端末情報を同期する。瞬く間に視覚情報が共有され、その視野に映った黒衣の人影を捉えた。

 

「これが、波導使い……?」

 

 しかし青の死神とは全くの異質だ。青の死神の張り巡らせる殺気とは別次元であった。

 

 まるで、殺意が感じられない。

 

 その場にただ佇んでいるだけと言われても納得出来る。しかし今回の目標は波導使いの排除。

 

 アサルトライフルを構えた構成員が声にする。

 

『動くな! 石化の波導使いだな?』

 

『そう呼ばれているのか。我の事をどう呼ぼうと勝手だが、いささか居辛いな、この街は。至るところに眼がある。潰すのに、少し時間をかけすぎた』

 

 その言葉の意味するところにジェーンは戦慄する。別回線で暗号文を送った。

 

「街の〝眼〟は? 機能している?」

 

 その耳に飛び込んできたのはあり得ない情報であった。

 

『妙です、小隊長……。街に全展開しているはずの〝眼〟全員の通信が途絶。誰とも連絡が取れません!』

 

 ほとんど悲鳴のような返答にやはり、という確信を得た。

 

 この黒衣の男こそが、石化の波導使い。

 

 自分達の、敵。

 

「構えろ!」

 

 構成員が寄り集まり、石化の波導使いを包囲する。どう足掻いても逃げられない包囲陣に、相手はうろたえた様子もない。

 

『銃火器か。原始的だな。もう少し、面白みがあるのだと思っていたが』

 

「撃ち方、始め!」

 

 ジェーンの号令で全員がアサルトライフルを掃射する。常人ならば必中しているはずの銃弾に、黒衣の影は嬲られる様子もなく、ただ静観を貫いていた。

 

 煙の晴れた空間にジェーンはあり得ないものを目にしていた。

 

「何を……」

 

 銃弾一つ一つが、蜘蛛の巣のように糸に絡め取られている。否、正しくは糸ではない。

 

 それらの放つ銃火器としての特性である、煙や硝煙が棚引き、糸のように「固定」されているのだ。

 

 空間に漂っているはずの煙や微細粒子が固形化して、相手に着弾する前にそれぞれが繋がり合っていた。接続し、形状となって波導使いを守る檻のようになっている。

 

「何をしたって言うの……」

 

『こちらは何もしていない、と言ってもいいが、ヒントを与えようか。万物に波導は宿る。我は銃弾の波導を読み、曲げ、変容させ、その波導の在り方を接続させた。銃弾一つ一つが我が手足と同義となり、同じ波長を持つ銃弾と引き合って、繋がったのだ』

 

『まやかしを!』

 

 一人の構成員が逸って引き金を引いた。

 

 その銃弾に対し、相手のやった事は少ない。

手を薙ぎ払い、銃弾の硝煙を空間で捉え、瞬時に凝固した銃弾の軌道が他の弾丸を繋ぎ合わされる。

 

 スローモーションを見ているようだった。相手に命中する前に弾丸が「固定」されている。

 

 ジェーンは立ち上がりコンソールに据えていた目を戦慄かせた。

 

 この恐れは以前とは違う。青の死神とはまた違う恐れが這い登ってくる。

 

 次の指示を出せたのはジェーンが生粋の軍人であったからだ。

 

「ど、ドリュウズ部隊、陸上展開! ドリルライナー、全方位攻撃!」

 

 地中から上がってきたドリュウズが鋼の爪を開き、ドリル形態から移行する。四方八方を囲まれ、相手には逃げ場もないはずだ。

 

 加えて中心に向けての「ドリルライナー」。どう足掻いたところで先ほどの銃弾の二の舞にはならない。

 

『ポケモンを使ってくるか。荒事になるが、そうだな、その三体目のドリュウズ』

 

 相手の指差した先にいたドリュウズがドリル形態となって突き進む。しかし直後に耳朶を打った声に、ジェーンは驚愕した。

 

『コンマ三秒遅い。突けるな』

 

 そう告げた黒衣の男はそのコートを翻した。すると一瞬だけ、赤い光が明滅する。

 

 瞬時に拡張した光の帯が、ドリュウズを引き裂いた。

 

「破壊光線?」

 

 そう錯覚したのはその赤いエネルギー波の凄まじさが理由であったが、破壊光線のような荒療治のやり方ではない。

 

 指示方向にいたドリュウズが地に縫い付けられていた。

 

 全身が青銅のように固まり、ドリルの回転も全くない。

 

 静止したドリュウズ一体分の隙をついて、相手が歩み出る。

 

 それだけで、一斉攻撃を試みたドリュウズ達は目標を見失って空を穿った。

 

『嘘だろ……。ドリュウズだって目がないわけじゃないんだぞ……』

 

 その通りだ。ドリル形態になっているとはいえ、相手を見据えての攻撃。照準されているはずの相手がたった一つの脆弱性を突いてその包囲陣から逃れるなど――。

 

「あり得ない……」

 

 石化したドリュウズを相手は指で弾く。ただそれだけの行動。

 

 だというのに、ドリュウズはバラバラに砕け散った。亀裂が走ったのも目で追えなければ、何かをしたような仕草もない。

 

 ただ触れたようにしか見えないのに、ドリュウズが跡形もなく消し飛ばされる。

 

 その事実に、モニター越しのジェーンは唖然としていた。

 

 何が起こった?

 

 今、自分達は何を相手取っている?

 

『ドリュウズ数体による数の圧倒。悪くない、とは思う。戦局としては、この街で渡り歩くのにはドリュウズのような堅牢な鋼タイプを使役するのは間違いではないし、貴様らが軍隊、というものを継承しているのならば、やり口もスマートだ。何も、イレギュラーはない。この我の存在以外はな』

 

 石化の波導使いそのものが、イレギュラー。

 

 ジェーンはしかし、ここで敗北を認めるわけにはいかなかった。今もハムエッグと攻防戦を繰り広げているボスに顔向け出来ない。

 

 ここで、石化の波導使いは倒す。倒して、ホテルが制圧したと言う証を立てるのだ。それこそが自分達の目的である。

 

「ドリュウズを操る総員に告ぐ。まだ、敵は死していない。汝らに問う! 我らホテルミーシャは! 何のためにここに来たか!」

 

『我らは屠るため! 殺すために常世を彷徨う咎人なり!』

 

 構成員達の蹄を揃えたような声にジェーンは首肯し、一斉命令を出す。

 

「ならば問う! 目の前にいる敵を葬れずして、何が軍隊か、何が史上最強の総体であるか! 葬れ! ドリュウズ部隊に伝令! その背中が見えたのならば追いすがれ! 食らいつけ! 逃がすな、決して逃がすな!」

 

『承服!』

 

 ドリュウズがドリル形態から爪と鋼のひさしを引き剥がし、通常形態に移行する。

 

 ドリル形態のままのドリュウズを二脚で立つドリュウズが肩に担ぎ、全身から地面のエネルギーを放出する。

 

 地表が剥がれ、エネルギーの瀑布に大気が震える。

 

 石化の波導使いは肩越しに見やり、ぼそりと呟いた。

 

『波導の相乗、ドリル形態のドリュウズを他のドリュウズのエネルギーで補佐し、相手へと投げつける』

 

「そう! 気合――、弾ァ!」

 

 通常の「きあいだま」とは違う、ドリュウズそのものを砲弾とした「きあいだま」であった。ドリル形態のドリュウズが黄金の光を引き移し、ドリルが輝きを帯びる。

 

 闇夜でも目が眩むほどの鋼の勢いにジェーンは勝利を確信した。

 

 これを食らって立っていた者はいない。

 

『だが、間違っているとすればそれはたった二つのドリルである事。我からしてみれば、回避範囲が広がっただけだ』

 

 石化の波導使いは難なくそのドリルを避ける。地面を抉り取ったドリルの勢いは止まらない。避けられるのもある程度計算の上だ。

 

 地表に潜り込んだドリルはそのまま不可視となる。地面を揺らす振動に石化の波導使いが僅かによろめいた。

 

『なるほど、これは……』

 

「回避すれば、地面そのものを振動させ、地震で迎撃。しかも!」

 

 回転数が上がり、ドリルが地表へと迫ってくるのが伝わったのだろう。石化の波導使いは足場を見据えた。

 

『ドリルは、まだ生きているのか』

 

「地下からの攻撃ならば読みにくいはず!」

 

 突き上がった鋼のドリルが相手を捉えようとする。今度こそ、取った、とジェーンは感じていた。手応えはある。

 

 しかし、ドリルは相手を引き裂く事はなかった。

 

 構成員の視覚を借りて拡大すると、石化の波導使いは何と素手で受け止めていた。

 

「素手……」

 

『見事なり。我に、手を使わせたのはそれなりの自信のあっての事だろう。軍体としての統率、熟練度。認めよう、だが……』

 

 コートがばっと閃く。それだけで赤い光線が照射された。

 

 ポケモンの仕業にしてはまるでその本体が見えない。相手の動きはほぼノーモーションだ。

 

 だというのに、それを受けたドリュウズは瞬時に石化していた。

 

 一体ならばまだ望みを繋げたが、二体とも、である。

 

 赤い光線が掠めた程度にしか見えなかったのに、二体とも石化の洗礼を受けている。

 

『我に触れる、という事は波導を読まれる、覚悟はあるのだな? 既に波導は読んだ。ドリュウズは二体とも石化の虜だ』

 

「退かせろ! もう二体を!」

 

 ジェーンの軍人としての直感が言わせた言葉であった。それを現場の構成員が咀嚼する前に、石化したドリュウズ二体が投げつけられた。

 

 投擲したドリュウズへと皮肉にも投げ返される。石化したドリュウズはぶつかっただけで砕け散った。砂粒が、辛うじてドリュウズ二体の痕跡を主張しているだけだ。

 

 もうここに、三体ものドリュウズの死が確認された。

 

『そして、あと二体だったな』

 

 黒衣が翻り、赤い閃光が瞬く。

 

 一体のドリュウズは攻撃を感知して回避行動を取ったが一体は間に合わなかった。先ほどの投げ返されたドリュウズに恐れを成したのだろう。怯え切ったドリュウズが足元から徐々に石化に侵食されていく。

 

 何をどうすれば、瞬時の石化など行えるのか。全てが不明のまま、事態が転がっていく。

 

「もう一体のドリュウズを退かせろ! これ以上の損害を生む前に、クイタランによる火炎包囲を行う!」

 

 ジェーンは最後の一体を守るべくそう命令する。クイタランを保有する構成員達が前に出てクイタランの集団を繰り出した。

 

『相性上、クイタランとドリュウズは噛み合わないからな。二重の構え、というわけか』

 

 本来ならばドリュウズによる地下侵攻と、地上でのクイタランの展開で相手の足止めを行うつもりであったが、石化の波導使いの手持ちを警戒して今回、二重の策にしたのが幸か不幸かこちらの損失を最小限に留めている。

 

 それでも、ドリュウズ部隊をほぼ無効化されたのは痛い。

 

『クイタランが、雁首揃えて十体前後。ドリュウズよりも揃えやすいのは分かる。だが、火炎で燃やし尽くすのにも、その程度の火力で足りるか?』

 

「やれ! 火炎放射!」

 

 クイタランが一斉に火炎放射を石化の波導使いに向けて放つ。火炎放射は結果的に石化の波導使いの足場を縮め、炎のフィールドを作り出した。

 

『だが、無駄だぞ、作戦指揮官。我の波導の真髄を知らずして、火炎放射を無駄打ちしたな』

 

 石化の波導使いが手を払う。それだけで一方向の火炎が一気に炭化する。

 

 やはり何らの攻撃を撃っているのだ。その見極めをせねば。

 

 ジェーンは真剣にコンソールに向き合う。何だ? どのようなポケモンが、相手の手持ちなのだ?

 

『火炎を破るうちに、我の手の内を明かさせようというのだろうが、一方向を破れば、もう無駄打ちする必要もない』

 

「果たして、そうかしら?」

 

 その言葉が放たれた瞬間、炎の合間を紫色の影が掻っ切った。

 

 石化の波導使いが一歩でも進んでいればその喉笛を食い破ったであろう。

 

 その影を相手の目が感知する前に炎の中に消えていく。

 

『伏兵か』

 

『我々は勝つためにここに来た。倒すために、葬るために来ている。手段は問わないと、既にボスからは通知済みだ』

 

 構成員の声に石化の波導使いは首を傾げる。

 

『炎の中に潜む程度の能力で、我の足止めなど』

 

「その程度じゃないわ。やってやりなさい」

 

 インカムへとジェーンは声を吹き込む。

 

「――熾天使、モカ・アネモニー」

 



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第百二十三話「炎熱の使者」

 

「熾天使、だと?」

 

 石化の波導使いが僅かに動きを止めた。その隙にクイタランが炎を追加していく。既に常人ならば耐え切れないほどの温度に達しているはずだったが、波導使いは汗一つ掻かない。

 

「伝え聞いたところによると、この街の殺し屋の二番煎じだったな。炎魔、のカウンターとして作られた、という」

 

 相手も既知のようだ。構成員達は自分達も突然に組まされた編成に戸惑っていた。

 

 ――以前、敵であった対象を味方にした。

 

 にわかには信じ難い事であったが、ボスであるラブリがそうしたのならば納得も出来る。

 

 ホテルミーシャはラブリを中心軸として回る強豪の集団だ。

 

 一人一人が、独立しても稼動可能な歴戦の兵達。それを集団で従えているラブリ、という圧倒的な存在。

 

 構成員達はラブリのためならば命を賭す。それは一度ホテルに忠誠を誓えば例外はない。

 

 今も火炎の中に隠れているのであろう、熾天使と、その手持ちであるバクフーンの〈蜃気楼〉も同様であろう。

 

 炎魔と同等の脅威。それが今は味方についている。安堵よりも、いつ牙を剥かれるのか分からない、恐怖が勝っていた。

 

 構成員達も、熾天使の実力をはかりかねている。どこまでやれるのか。お手並み拝見と行こう。

 

「悪いが高みの見物はさせるつもりはないのだ。炎の中に潜んで、我の命を狙うのならば来い。食い破りに来るといい」

 

 石化の波導使いはどこまでも威風堂々としている。青の死神とはまた違う脅威、と構成員達は見定めていた。

 

 その時、波導使いの背後の火炎が盛り上がった。

 

 瞬時に波導使いが手を薙ぎ払う。当然、その場所からバクフーンが現れるのだと思われた。

 

 しかし、出現したのは波導使いの真正面だ。

 

 バクフーンは炎の襟巻きを拡張させ、その部分の火炎を意識的に高めただけに過ぎない。

 

 完全に罠にかかった波導使いの喉元へと、バクフーンが食らいかかる。

 

 勝負あった、と誰もが唾を飲み下した瞬間、波導使いはピンと指を弾いた。

 

 それだけで赤い光線が照射される。

 

 バクフーンは本能か、あるいは術者の指示かは不明だが身を翻して光線を回避した。身体を丸め、まさしく獣のように、波導使いを付け狙っている。

 

「察しのいい使い手だ。我が、そちらに気を取られた、と誤認した事までもお見通しか」

 

 波導使いにブラフは効かない、と証明された。

 

 火炎による偽装は意味がないと判じたのだろう。

 

 燃え盛る炎の中から一人の少女が忽然と現れた。今までどこにいたというのか。白い衣服を身に纏った少女は灰の中から今しがた復活したようにこの戦場に顕現する。

 

「〈蜃気楼〉。少しばかり、手強い相手みたいやね」

 

 あれが、と構成員達は息を呑んだ。

 

 灰のような白い髪に、青い瞳。言葉を失う、とはこの事だ。魔性の美しさに誰もが絶句していた。

 

 この世のものとは思えない。一度惹かれれば戻れない妖艶さを兼ね備えている。

 

「分からせてやらんとね。〈蜃気楼〉。うちと、波導使いの、力の差を」

 

 手を薙いだだけで、辺り一面が業火に沈んだ。バクフーンの放ったこれまでにない強力な噴煙が、灼熱地帯に戦場を落とし込む。

 

 当然、石化の波導使いは回避も儘ならず呑まれた。

 

 一撃の余韻も、ましてやその予備動作もほとんどない。

 

 ――これがモカ・アネモニー。これが熾天使か。

 

 構成員達は這い登ってくる恐れを抑えるので必死であった。

 

 モカは手繰るように炎を自在に操り、その威力を強めたり弱めたりしている。

 

 あえて、だ。あえて炎の弱い点を作り出している。

 

 その場所に石化の波導使いを誘い込み、確実に抹殺するために。

 

 まさしく暗殺のために鍛え上げられた素養。相手を殺す事にかけてはホテルの軍人達でさえも及び腰になるほどの、迷いのなさ。

 

 当然、炎の弱い場所に相手は現れるかに思われた。

 

 その誘導が成功するものだと。

 

 だが、炎を割ったのはただの一閃であった。赤い一条の光線が走っただけで、強い部分も弱い部分も関係がなく、炎が鎮火された。

 

 あまりに一瞬の出来事に頭がついていかない。

 

 燃え盛る業火を一つも浴びずに、石化の波導使いが佇んでいた。

 

 周囲は灼熱で満たされている。間違えようのない、真の炎熱の只中にある。

 

 弱い部分、と言ってもそれは相対的な話であって、他の部分に比べれば、だ。

 

 弱くともそれだけで常人ならば内臓まで焼き尽くされる事だろう。

 

 その炎を逃げ惑うでもなく、相殺するでもなく、一撃で、無力化せしめた。

 

 熾天使モカの表情に僅かな翳りが生じる。当然だろう。彼女からしてみれば絶対の灼熱の牢獄を作り上げたつもりであるのに、相手は牢屋の錠前をいじったわけでも、ましてや抜け穴に転じたわけでもない。

 

 真正面から、打ち破ってみせた。

 

 その偉業にホテルの構成員達は我慢の閾値を越えていた。

 

 目の前で展開されている戦闘があまりに現実離れしていたせいか、それとも這い登ってくる恐怖を抑える精神の麻痺か。

 

 数人の構成員がクイタランを伴って特攻した。

 

 雄叫びを上げる構成員に、戻れ、と指示を上げる間もなく――。

 

 石化の波導使いの洗礼が浴びせられた。

 

 赤い光が明滅しただけで、領域に踏み込んだクイタランも、構成員も、石化させられていた。

 

 予備動作も、何もない。ただ、踏み入っただけだ。それだけで固められた構成員の顔面を、石化の波導使いは殴り飛ばす。

 

 塵となり、頭部が粉砕された。

 

 砂粒が舞うのを彼らは息を呑んで見つめる事しか出来ない。

 

 踏み入ればやられる、という確信に全員が及び腰になった。

 

「ちょっとは、やるようやね」

 

 モカの声に石化の波導使いは炎を背にして平然とする。

 

「クイタランを使い、炎の場を作る。それを媒介にして、火を浴びれば浴びるほど強くなる特性、貰い火か。最強の域まで高めたバクフーンによる噴煙攻撃。なるほど、有効ではある。通常のトレーナーならば死に至るだろう。だが、我は波導使い。既に人間の域は超えた」

 

「あの時の波導使いも、随分と人間離れしていたけれどあんたほどやないわ。本物の、化け物やね」

 

 平時の声音だがモカも恐れているのか、バクフーンにすぐの指示は出さない。慎重に流れを読んでいる。その間にも、石化の波導使いは手を払った。それだけで、その部分の炎は消え行く。

 

 何か特別な事をしているようには見えない。赤い光の明滅だけで、払った箇所が消えていくのは奇術か何かのようだ。

 

「波導のタネ、教えてはもらえんのかね」

 

「残念ながら、言ったところで理解は出来まい。熾天使、かなりの使い手と見たが、まだだな。この領域ならば我の敵ではない」

 

「言ってくれるやないの。〈蜃気楼〉! クイタランの残した炎、全部吸い上げっ!」

 

 バクフーンが仰け反り、炎の襟巻きを拡張させ、あろう事か場の火炎を吸収していく。その度に、脈動が走り、構成員でも分かるほどにバクフーンが強大になっていく。

 

 火炎を得たバクフーンは全身から橙色の呼気を滾らせていた。血脈が走り、四肢の末端に赤い銅鑼のようなものが構築されていく。

 

 何だ、と訝しげに見つめた構成員は一歩、踏み入っただけでゴーグル型の端末に異常を来たした。突然に現れるアラートの文字列に慌てて端末を投げ捨てる。すると、端末は地面に落ちる前に炭化して消えた。

 

 どれほどの温度に達しているのか。全身に火炎の血潮を滾らせたバクフーンがかぁっと口腔を開く。

 

 その一動作だけで、石化の波導使いのコートを灼熱が嬲った。コートの端が延焼している。石化の波導使いは手を払ってそれを鎮めようとするが簡単には消えなかった。

 

「まるで、怨嗟そのものが炎の形を取っているようだな」

 

「行くで、〈蜃気楼〉。あの、炎魔との戦闘でも出さんかった、あんたの真髄――」

 

 バクフーンの眼窩から炎が巻き起こったかと思うと、その姿が瞬時に掻き消えた。

 

「見せてやり!」

 



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第百二十四話「散り行く命」

 

 次の瞬間、バクフーンが残像を引いて波導使いの背後に立ち現れる。手を払って石化させようとする波導使いであるが、その姿も残像であった。次に現れたのは直上だ。食い千切らんと開かれた牙を波導使いが手で払う。

 

 照射された赤色に掻き消されたそれさえも、残像。

 

 本体は、と探したのは波導使いだけではない。この場にいる全員であった。

 

 だが、陽炎の中バクフーン本体は全く姿を現さない。時折、その速度が閾値を越えて現世に顕現しているように生じるが、それが残像である事は誰もが理解していた。

 

 橙色に染まったバクフーンの姿を引き裂く赤い閃光も弾切れを警戒してか波導使いは撃たなくなる。

 

「こちらのエネルギー切れを狙った戦法。小賢しく、立ち回るつもりか」

 

「小賢しかろうが勝ったもんが正義やろ。うちは勝つために、全てを捨ててまでここにいる。炎魔に勝てへんかったのも、この街での残飯処理に回っているのも、全て、いつか来る勝利のため。……そして、分かった。それは今やとな!」

 

 残像を引いた爪が波導使いの背中に迫る。身を翻し、それを回避し様に放たれた閃光がバクフーンの腹腔を穿った。

 

 しかし、それも残像。

 

 本体の行方が全く分からないのだろう。ホテルの構成員達がざわめく。

 

「熾天使のポケモンはどこへ……」

 

「最初から、居らんと思ったほうがまだマシちゃうか? 波導使い。この状況に、うちの〈蜃気楼〉のどこから来るかも分からない波状攻撃。点やない、面での攻撃をどう避けるのか、あるいはどういなすのか、そればっかり考えとるやろ?」

 

「……バクフーンは存在する。それくらいは分かる」

 

「そんなまま事やないって言うとるんやけれど、通じんか。分からんからしゃあないやろうな」

 

 波導使いはまだ読めていないのだ。

 

〈蜃気楼〉の真髄。熾天使の真の強さを。

 

 バクフーンの姿が四方八方に拡散する。全方位からのバクフーンの脅威に波導使いは手を払って応戦する。

 

 赤い光の瞬き。

 

 その根源を、モカは読み取る。

 

「そこやな。〈蜃気楼〉! そいつのコートの下を焼いて!」

 

 どこから発生したのか分からない炎熱が波導使いのコートへと延焼する。鎮火させようとした波導使いへとバクフーンの牙と爪が襲いかかる。それは炎の広がったコートの裾からであり、あるいは死角にある位置からの攻撃でもあった。

 

 守りに徹していた波導使いがここに来て異常を感じたかのように立ち止まる。

 

 全方位、もっと言えば何体も存在するバクフーンの幻影に違和感を覚えたのだろう。

 

 これ以上は種を明かす結果になる。モカはすぐさま最後の指揮を振るった。

 

「〈蜃気楼〉、もうこれでラストダンス! 波導使いを、骨の髄まで焼き尽くす!」

 

 瞬間、波導使いの足元から着火した炎が全身を覆っていく。赤い光を放出する前の攻撃に判断さえも下せなかったのか、波導使いは全身を焼かれていた。

 

 炎に包まれ、踊り狂う人形のように波導使いがのた打ち回り、その場に蹲る。

 

 その頭部へと最後の一撃が放たれた。

 

 バクフーンの拳が波導使いの首を落とす。

 

 ごとりと転がった波導使いの燃え盛る頭部にモカは勝利を確信した。

 

「勝った……」

 

 炎のフィールド全域から波導使いを見下ろすバクフーンの幻影がめいめいに姿を現す。

 

 ホテルの構成員には決して分からない戦術だろう。

 

 これ以上やるのは熾天使としても旨味がないと判じる。バクフーンに攻撃の指示を止めさせようとした瞬間だった。

 

「――なるほど、この位置からならば、熾天使の炎の扱いも分かってくる」

 

 ハッとして振り返る。

 

 佇んでいた黒衣の波導使いは健在であった。

 

 首も、もちろんある。では先ほど焼いた相手は?

 

「焼かせたのは……囮……」

 

 ――否。断じて否だ。

 

 自分とて一流の暗殺者。対象を間違えて殺すなどあり得ない。波導使いはこめかみを突き声にする。

 

「熾天使。炎の幻術の理由が分かった。バクフーンの幻影だと思っていたものは、実のところ幻影でも何でもない。直撃の瞬間まで、全てが実体であった。身代わり、という技がある。それによって体力を引き換えにバクフーンをその分だけ身代わりを作り、攻撃の直前まで実体化させる。お前の位置からならば、どのバクフーンにどれだけ体力を割いて実体化させているのか、よぉく分かる。しかし、好位置を見つけ出すまでが不可能だな。なにせ、その位置は熾天使、お前の背後でなければならない。戦闘においてこれを出されれば、まずもって勝利は不可能となるだろう」

 

 だというのに、何故自分の後ろにいる?

 

 解き明かせない謎に波導使いは短く答える。

 

「眼だ。それを波導で操り、視覚を奪う。触れなければ難しい技ではあったが、お前があまりにも集中しているせいで我の入れ替わりには気づけなかったようだな。入れ替わった瞬間を狙い、視覚の位相を変えさせてもらった。お前の眼は、もう我を映す事はない」

 

「まやかしを!」

 

 払った手に連動し、バクフーンが駆け抜ける。振るわれた爪による一閃はしかし、何もない空を掻っ切っただけだ。

 

「だから、度し難いと言っているだろう。もう眼は使い物にならない」

 

 今度は別の位置から声が聞こえてくる。

 

 モカは振り返ると同時にバクフーンを奔らせる。牙と爪、あるいはバクフーンそのものを使っての特攻。

 

 持てる全てを尽くして焼こうとしても、今度は正反対の位置から声が飛んだ。

 

「どうした? 先ほどから当てずっぽうか?」

 

 あり得ない。自分の眼には、焼かれている波導使いが確かに映っているというのに、声の主は死んでいない。

 

 何かの冗談に思えたが肩に触れたその体温に冗談ではないのだと悟った。

 

「この距離まで近づけば、最早、至近。さて、ここからどうしようと我の思いのままだが、どうする? このまま益のない戦いを続けるか?」

 

 モカは身体ごと振り払い、自身の周囲をバクフーンに焼かせた。円形に広がった燃焼範囲に敵はいるはずだった。

 

 しかし、今度はやけに離れて波導使いの声が聞こえてくる。

 

「そんなに遠くに攻撃してどうする?」

 

 周囲を焼いた、だというのに。

 

 ――黒衣の波導使いの姿は、その攻撃領域の中にあった。

 

 息がかかるほどの距離にあるのは、無感情の能面だ。殺すと決めた眼差しには一切の慈悲がない。

 

 奈落を見通しているような眼が自分を反射している。

 

「嘘!」

 

 自分自身を囮にしてバクフーンを集め直す。「かげぶんしん」と「みがわり」、それに貰い火特性を利用した炎熱戦法が通じない道理はない。

 

 最早、その存在を炎の中に落とし込んだバクフーンはどこにでもいて、どこにもいない。それだけの存在へと昇華したのだ。

 

 それなのに、一切命中していないなど、あり得ない。

 

 自分の操る炎そのものがバクフーンと言ってもいい。手を振り払えば、炎が波立った。その中にもバクフーンはいる。

 

 三体ほどに分裂したバクフーンが波導使いを串刺しにしようとする。しかし、それらを全て、難なく逃れた波導使いはまたしてもモカの肩へと触れた。

 

「もう、遠近感さえも消え去っている。我と戦うのは、無駄だ。時間がいくらあっても足りないぞ」

 

「黙れ!」

 

 燃え上がらせた炎の中にバクフーンが亡霊のように出現する。炎の端から端に至るまで、全てがバクフーンの攻撃領域だ。これを逃れる術はない。

 

 赤い光が明滅する。

 

 その光が射抜いたのはバクフーンではなく、モカの大腿部であった。

 

 膝を落としたモカの肩口へと今度は同じように赤い光が突き刺さる。

 

 瞬時に、動かなくなった。

 

 石化されたのだと分かった時には波導使いの姿が眼に映らなくなっていた。万華鏡のように視界が分裂する。波導使いの像が幾つも重なり合い、どれが実像なのだか分からなくなった。

 

「うちの眼が……、何でこんな……」

 

「これが波導の力だ。影分身、身代わり、それに炎熱作用による陽炎、極限まで攻撃性能を高めたバクフーンと、このフィールドならば無限回復の特性、貰い火。それら全てを集めて作り上げた舞台だったが、我には及ばない。波導で分かる。幻影一つ一つの攻撃性能はたかだか相手の首を掻っ切る、その瞬間に発生するだけの限定的なもの。こうしてやれば、全て潰える」

 

 波導使いが地面に手をついた瞬間、同心円状に広がった赤い光に炎が掻き消されていく。

 

 当然、バクフーンもあおりを受けた。幻影が次々と消えて行き、最後に残ったのは残りの体力も僅かなバクフーン一体のみ。

 

 炎もちらつくだけでもう回復の余力もない。

 

「弱点と言えば、このフィールドを脱すれば全て意味を失くす、という点であったが、一対一においてこれ以上の能力はあるまい。一度でもこの場に入れば、幻影の攻撃から逃れる手段はゼロだろう。だが、我は波導を極めた。敬意を表してあえて言おう、熾天使よ。――波導は、我に在り」

 

 バクフーンへと赤い光が照射された直後、その身体が固められていた。石化したバクフーンを、歩み寄った波導使いが手を当てる。それだけで内側から発生した亀裂がバクフーンを粉砕した。

 

「そんな……。うちの、〈蜃気楼〉が……」

 

「トレーナーも、後を追うといい。どうせ、手持ちを失えば、暗殺者など死んだも同然だ」

 

 モカの頭部を引っ掴み、波導使いが声にする。モカはもう全て諦めていた。バクフーンが死んだとなれば抵抗の手段もない。

 

「……でも、残された死に方はある」

 

 発した意味が分からないのか、波導使いが眉をひそめる。

 

 奥歯に仕込んでおいた仕掛けを噛み締める。

 

 その瞬間、モカの体内から着火した。瞬く間に膨れ上がった灼熱の領域に波導使いが驚愕に塗り固めた表情で声にする。

 

「見事なり……」

 

 その声を聞いたのがモカ・アネモニーの最期であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 自爆。

 

 しかも自分を巻き込んだ広範囲を灼熱の域に落とし込む。まさしく炎の暗殺者らしい最期であった。構成員達は黙ってその戦いを眺めていたが、やがて堪え切れなくなったかのように敬礼を始める。

 

 利用し、利用される側だったとは言え、熾天使はホテルの利益として働いた。その行動には敬意を表するべきだと感じたのだ。

 

 だが、その美しき賛美も直後に悲鳴に変わる。

 

 赤い光が炎の中で明滅し、一人の構成員を貫いた。

 

 その構成員は腹部から徐々に石化して行き、断末魔を上げて身体が粉砕された。

 

「ゴミだ。人間は、死ねばゴミになる」

 

 炎を引き裂いて黒衣の波導使いが現れる。まさしく災厄の招き手のように、超越の眼差しを携えて。

 

 構成員達はどうするべきか、決めあぐねていた。熾天使が散った。

 

 それはもう、クイタラン程度ではどうしようもないという事だった。

 

「退くのならば退くといい。だが、来るのならば容赦はしない。一つずつ、潰してやろう」

 

 ――敵前逃亡など、あり得ない。

 

 ガンマ小隊の人々の意思は一つだった。だからこそ、この瞬間、彼らはこの戦いを俯瞰している小隊長へと散り際の声を送った。

 

「小隊長、先に行きます!」

 

 雄叫びを発してクイタランと共に特攻する構成員。彼の腕が石化し、次いでクイタランの発生させた炎の中に自らを投げ込んだ。直後、備え持っていた近接爆雷が起爆し、石化の波導使いの耳を潰す。

 

 暫時、立ち止まった姿勢の波導使いへと雪崩のように構成員達が突撃した。

 

「ジェーン小隊長、ご武運を」

 

「ホテルミーシャに、栄光あれ!」

 

 それぞれの持っている価値観。己の命を賭すに足る存在。家族への最後の言葉。敬愛する者へと捧げる命の華。

 

 石化の照射が続き、構成員達は物言わぬ石となっていく。石となってまでも生き永らえる必要はない、とその後ろを務めた構成員が炸裂弾のピンを引き、自分ごと波導使いへと攻撃を投げ込む。

 

 しかし無傷だ。

 

 波導使いには傷一つない。先ほど、熾天使との戦いで発生したはずの炎も消し去り、波導使いは無慈悲に手を払う。指揮者のタクトのように鮮やかに払われる手で、命が摘み取られる。

 

 一つ、また一つ――。

 

 屍の山の代わりに爆発が重複し、間断のない攻撃と化すがそれでも相手は怯まない。

 

 牡丹のように咲いた爆発の光さえも石となり、砂粒となって消えていく。命の証明も。その覚悟も、全て砂粒のようだ。

 

 時間という永劫の存在があるのならば、その前に立ち竦むしかない、些事であった。命そのものが、羽虫の出来事のように潰えていく。

 

 やがて、爆発の音が止んだ。

 

 クイタランも、ドリュウズも、構成員もいなかった。

 

 周囲には骸の代わりに無数の砂の山。その中央で波導使いは煤けた風に佇む。

 

「終わったか。だが、この程度だったのだろう。命も、何もかも。虚しさしか残らない。それも分からずして、何故、生きられる? どうして、無駄な事が出来るのだ?」

 

『それも分かっていないクソ野郎だからだよ』

 

 発せられた声と共に風を引き裂く音が耳朶を打った。

 

 波導使いが振り仰いだ視界には銀翼を月光に翻すエアームド数体がいた。

 

「無意味だ。空から攻めようが、陸から来ようが」

 

『だから、今は撤退する。雪辱は、お前の死でもっても償えない。その肉片の塵と化すまで、我らが恨み、晴らせぬと思え』

 

 銀翼の影が後ろ足に掴んでいた何かを手離す。

 

 次々と落下してくるそれを目にした瞬間、波導使いが手を薙ぎ払う。

 

 赤い閃光が瞬くのと、エアームドの有していたナパーム弾の火が点火するのは同時だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『こちらアルファ小隊! ジェーン小隊長、部隊は』

 

 相手が声を詰まらせる。戦局をモニターする車両の中でジェーンは咽び泣いていた。散っていった仲間達は勇敢であった。自分はそれを伝えなければならない。だというのに、安全圏で見守っているのが酷く卑怯なように思われた。

 

『……ジェーン小隊長。帰還するのが、小隊長の務めである』

 

 諭されるまでもない。ジェーンは涙を拭い、了解の復誦を上げた。

 

「ガンマ小隊は全滅。ボスに通達されたし」

 

 この無様な戦況を、ホテルの上層部がどう受け止めるのか。

 

 きっと、よく戦ってくれた、と言うに違いない。自分を労ってもくれるだろう。

 

 ――それほど賢しくない私を、お許しください。

 

 最後に祈ってから、ジェーンは車両のハンドルを切った。

 

 四十地区の路地に無理やり捩じ込み、いななき声を上げるエンジンが目標へと向かって猪突する。

 

 フロントガラスの先には、部下を屠った怨敵の姿が。

 

 ジェーンは車両ごと特攻し叫ぶ。

 

「ホテルミーシャに、栄光あれ!」

 

 直後、爆風と破壊の連鎖が彼女の精神を闇の向こうへと誘った。

 

 



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第百二十五話「亡者共」

「分からないな。何故、死んでいく?」

 

 膨れ上がった爆発の形状のまま、固形化されたのは警備車両だ。それなりに装甲で固められており、中の人間が死んだのかどうかまでは分からない。

 

 それでも波導使いは念には念を、と指で弾いた。直後、警備車両が崩れ落ちて砂と化す。

 

「砂粒だ、お前らは」

 

 ナパーム弾は弾頭が爆発する前に全て石化しており、無力化されていた。

 

 転がったナパーム弾を波導使いは足蹴にし、その波導を読んで信管を抜く。

 

 無用の長物となったナパーム弾十数個。それに中の人間の生死も分からぬまま石化させた装甲車。

 

 何かを叫びながら死んでいったならず者達。

 

 波導使いは僅かに眉根を寄せた。

 

「どうせ、石になって死んでいく。その運命には抗えないのに、こいつらは、全くもって面倒なだけだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一報が入ったのはメインディッシュの後であった。

 

 デザートが運ばれてくるまでの僅かな時間に軍曹はラブリの耳元に囁く。それを受けてラブリはこの場での対応を諦めざる得なかった。

 

「急用が入ったわ」

 

「全部隊の壊滅かな?」

 

 ハムエッグの声にラブリは冷笑を浴びせる。

 

「人でなしね、あなた」

 

「そりゃどうも。人ではないからね」

 

 ラブリからしてみればこれは急務だ。ガンマ部隊の壊滅。それとエアームドの空挺部隊から捉えた映像では、まだ波導使いは生きている、との情報。

 

 自分が指揮を執っていれば、という後悔さえも浮かばない。胸の内にぽっかりと穴が開いてしまったようだった。

 

 自慢の兵士達が、命をかけたのに、散っていった。さぞ無念だっただろう。

 

「わたくしには、やる事がある」

 

 立ち上がりかけたラブリをハムエッグが制する。

 

「まだ、負けてはいないのだろう?」

 

「何を今さら。エアームドだけでは勝てない」

 

「こちらに、戦力の譲渡が行われたはずだが?」

 

 ラブリは瞠目する。まさかこの時点でハムエッグが使うとは思ってもみなかったのだ。

 

「……意外ね。我々ホテルの慌てようが、面白くって仕方がないんじゃなくって?」

 

「ああ、その辺りに関してはわたしは存分に人でなしだが、これだけ精鋭揃いのホテルが壊滅、なんて言う憂き目にあったと知れば、少しばかりは力添えをしたくなる」

 

「どうするつもり? 言っておくけれど、波導使いの戦力が一個小隊を上回ったと判断した以上、部下をむざむざ死なせる作戦なんて建てさせない」

 

「承知している。何のためのアイアント部隊か? わたしは、まずアイアントを使って足を潰す。動けなくするんだ。アイアントの群れは陸上での戦闘展開を無力化する。戦いの舞台が空へと移るか、と言えば、否だろう。飛べるのならば何故、今までやっていない? 恐らく、この波導使いは飛べない」

 

「ビルの上を行ったり来たりは出来ない、と言うの?」

 

「あれはアーロンの特権さ。こいつは地を這う羽虫だ。ならば、その羽根をもぐ。エアームドに警戒飛行をさせたまま、空域を見張らせればいい。その間に、陸路を制する」

 

 アイアントを使っての陸路の封鎖は可能だ。だがそれも時間稼ぎにしかならないかもしれない。

 

「どうすると言うの? こんな事をしたとて、勝機はない」

 

「あるさ。ラピス、仕事だよ」

 

 その声にラピスは僅かに顔を上げた。

 

「デザートは?」

 

「また今度さ。最上級のスイーツをあげよう」

 

 ラピスは飛びっきりの笑顔で席を立ち、踊るように舞った。

 

「で? 誰をころすの?」

 

 スノウドロップの準備は万端、という事か。ラブリは苦々しくハムエッグの顔を窺う。

 

「どうやってスノウドロップを届けるか」

 

「エアームドを一体寄越してくれ。彼女くらいの軽さなら届けられる。現着次第、メガシンカさせる。メガユキノオーの凍結範囲に入った瞬間、相手を殺す」

 

「こちらの攻撃展開を待つとは思えない」

 

「待たせなければいい。ラピス。空からダイビングだ。なかなか出来ない経験だよ」

 

 ハムエッグは何とラピスを空中で投げ放つというのだ。さすがにそこまでの行動力はないかに思われたが、ラピスは諸手を挙げて喜ぶばかりである。

 

「お空にダイブだね」

 

「そうだよ。きっちり着地しなさい」

 

 どこまでも――人間の価値観など無視した作戦。だが、これはハムエッグにしか出来ない。ハムエッグだからこそ、ここまで出来る。

 

 軍曹を呼びつけラブリは命じた。

 

「彼女をエスコートなさい。くれぐれも粗相のないように」

 

「お嬢、エアームドの空挺部隊から新たな連絡がありました。敵の向かっている方角が分かったそうです」

 

「どこへ? この波導使いは何のためにこの街に来て、何人も殺してきたの?」

 

 軍曹が耳打ちする。その事実にラブリは戦慄いた。

 

「たった、それだけ? それだけのために、わたくし達は……」

 

「何かな?」

 

 こちらを窺うハムエッグに、ラブリは咳払いする。

 

「……何でもないわ。ではスノウドロップを現地へと運び、殲滅戦を行うにして、勝てる算段は?」

 

「最強の暗殺者に確率論を持ち出すのは無粋じゃないかな?」

 

 確定で殺せる、と踏んでいるのだろう。だが、ハムエッグが知るはずもない。こちらとて最強の札は切った。熾天使モカの死はまだ知られていないはずだ。

 

「確実に確実を踏んでこその作戦。わたくしはまだ不充分に感じる」

 

「ではエアームドを使っての追撃プランを推奨する。波導使いとて、波状攻撃には慣れていないはずだ。たとえ凍結結界の中だとしても、鋼ならば数秒は持つ。札を与えて爆導索で波導使いを滅する」

 

「札?」

 

 ハムエッグは路地番に予め伝えていたであろう情報を開示する。そこには脱出ボタンの保管されている倉庫への暗証番号があった。

 

「脱出ボタンを使い、凍結結界の中に侵入したエアームドを安全に帰す。その間、数秒だが爆導索を相手に張るのには充分だ。氷の中での爆発。二つの属性はさすがに防げまい」

 

 念には念を、という事か。脱出ボタンの倉庫という新たな情報に、やはり食えない、と感じ取る。

 

「ではエアームド部隊にはそう進言を。でも、まだ不充分よ。この石化の波導使いが、どれほどの脅威なのか」

 

「問題ない。切り札は、既に提示しているからね」

 

 切り札。

 

 ハムエッグの言うそれは紛れもなく――。

 

「連絡済というわけ」

 

「彼から言ってきた。だが、これは本当に最後の最後だ。ラピスが命をかけて防衛する。その間、数分か、数時間かは分からないが、必ず消耗する。その状態ならば勝てる。現に、前回だって勝てた」

 

「素人集団とは違うわ。あれは宝の持ち腐れだったのよ。ゼクロムなんて使ったところで、所詮は素人。勝てる見込みがあった。だけれど、今回、スノウドロップとてリハビリなんて気楽さじゃないはず」

 

 軍曹に連れられてラピスは既に屋上に向かったはずだった。

 

 ハムエッグは肩を竦める。

 

「勝負は時の運だ。さすがに読み切れない部分だってあるさ」

 

「嘘よ。あなた、全ての現象を掌握しているつもりでしょう?」

 

 ハムエッグは何一つ確定の言葉を吐かず、ただ黙々とメインディッシュの肉を切り分けた。

 

「わたしには、この街はもう切り分けられている。住み分けが出来ている、と言ってもいい。ホテルと、わたしの間にきっちりとプライベートスペースが出来ている。今回の波導使いは無粋にもわたしとホテルの間に降り立っている無言の了承に土足で踏み入った。どちらにとっても、理解し難い敵さ。滅ぼす事に、何の疑いもない」

 

 ナイフで器用に肉を切る。きっと、今までの事も、これからの事もハムエッグからしてみればステーキを切るように単純な事なのだろう。

 

「……わたくしの部下が死んだのよ」

 

 だからか、こぼした声には焦燥と弱音が染み込んでいた。自分はハムエッグほど切り分けられない。割り切れない人間の弱さだ。

 

「心中、お察しするよ。わたしだってラピスが死ねば悲しい。あの子はわたしの半身だ。あの子が死んだとするのならば、わたしも後を追うだろう。この街は空白の玉座に晒されるが、それでもいい。わたしには、あの子は眩しいんだ。薬を使わず、今まで自由意志だけの戦いをさせてきたのは何も細く長く、だけを目的としたわけじゃない。わたしにとって、あの子が世界であり、あの子にとっての世界はわたしだ。だから、死に際はあの子と一緒がいいんだよ。君が、ホテルの構成員一人一人を肉親以上だと思っているように」

 

 ハムエッグの思わぬ本音のように思われた。だが、これもこちらを煙に巻くための虚偽かもしれない。偽りと偽りを塗り重ねて、最早、真実など誰にも見えなくなっている。

 

 その中でももがき続けるのがホテルであり、自分なのだ。

 

 最後の一人になるまでホテルは兵力を惜しまない。

 

「わたくしは、たとえわたくし一人になっても、戦うわ。それがこの街のためならね」

 

「安住のために争いを求む、か。わたしも君も、歪の塊だ。だが、それがいい。それこそが、この爛れた街には相応しい」

 

 自分も目の前のポケモンも、争いの中に活路を見出す。人生を賭けた大博打の中に、生きる意味を見出す戦闘狂だ。その中でしか、生きている感覚を味わえない不適格者だ。

 

「では、待ちましょうか。わたくし達は。せめて、この街を背負って立つ者として」

 

「王者は、余計な事を言わず、ただ玉座に座していればいい。それこそが、存在理由であり、何よりも人々は安心する」

 

 デザートが運ばれてくる。この長い夜を終わらせるのはまだ早いと思いつつ、両者共に黙ってデザートを口に運んだ。

 



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第百二十六話「死徒の翼」

「波導が、僅かにざわめいている。エアームドの動きが変わった。これは〝畏怖〟だ。来るか、盟主ハムエッグ。その使いである最強の暗殺者、スノウドロップ」

 

 歩み出るところでアイアントの群れが道を埋め尽くしていた。殺す事は出来たが、無駄を撃つ事になる。ここは静観し、別の道から行くべきか。そう感じて身を翻した波導使いの視界に、銀翼が映えて映る。空気がひりつき、それの到来を予感させた。街そのものが震撼し、災厄を打破しようとしている。

 

「だが、来たところでどうなる? ホテルとハムエッグが組んだところで、我には敵うまい。どこまでも無力。愚行だ」

 

 一体のエアームドが高空を突っ切っていく。一体だけ速度が緩い、と感じていると急に全身を粟立たせるプレッシャーの波に襲われた。

 

「これが……スノウドロップか」

 

 来ると分かっていても全く予期出来ないほどの脅威。波導使いはその場から離れようとするが、既に靴裏が凍りついていた。

 

「凍結範囲……、あまりに速い」

 

 エアームドがハーネスを外してその人物を投下させる。視界に入ったのは風に煽られる少女だ。緑色の髪に、星空を内包した瞳がこちらを見据える。

 

「あれが、敵だね」

 

 空中で射出されたポケモンが一挙に少女を包み込んだ。雪男を思わせる威容が少女を包み込み、着地に備える。

 

「させると思っているのか」

 

 赤い光が照射される。だが、それをいなしたのは攻撃でも何でもない、空気の圧力の変化であった。凍結に晒された空気と他の空気との温度差によって生じた層が石化を防いだのである。明らかにその威力が違った。熾天使とは比べようもない。

 

「波導使いって、全部似たようなものだね。ラピスは、多分、倒せると思う」

 

 その言葉に凍結の領域を広げさせたユキノオーが吼える。波導使いは後退して体勢を立て直そうとしたが、それを許さなかったのは陸路を這い進むアイアントであった。

 

 こちらの退路を塞ぎ、確実に正面衝突を企てている。

 

「これも、ハムエッグの策か」

 

 着地したユキノオーと少女が凍結の手を伸ばしてその衝撃を減殺させる。ばっと生じた土煙がすぐさま凍り、まるで津波のように固定化された。

 

「ユキノオー、メガシンカ」

 

 直後に放たれた声に波導使いは駆け抜ける。メガシンカされれば厄介である。何を使ってでも、それだけは阻止する。そう判じた身体が跳ね上がり、赤い光を瞬かせようとしたところでユキノオーのメガシンカの途中の腕が伸びてきた。

 

「メガシンカ中に、攻撃なんて」

 

 普通は不可能だ。だが、このユキノオーと使い手はそれを実行する。

 

 メガユキノオーへと書き換わっていく半身を蠢かせながら、ユキノオーの腕が樹木の槌と化す。

 

「ウッドハンマー」

 

 すぐさま飛び退れたのはまだこちらに石化の分があるからである。石化の攻撃の気配にメガユキノオーが僅かに遅れを見せた。その一瞬で何とか攻撃領域から逃れる。

 

 だがそれでも食らった攻撃は甚大だ。

 

 掴みかかられたコートは破けている。波導使いは新たに脅威として眼前の敵を見据える。

 

「まさか、これほどまでとはな……。最強の暗殺者、スノウドロップ」

 

「ラピスはね、この街が大好き。だから、主様の助けになりたいの。波導使いがその邪魔だって言うんなら、ラピス、まよわないよ。まよわずに、ころす」

 

 メガユキノオーへとメガシンカを遂げた躯体がこちらを睥睨する。背筋から伸びた雪の華の芽がその素早さを殺しているのが分かったが、それでも充分に脅威であった。

 

 まず相手の射程が割れない。どこまで攻撃可能なのか、まるで分からない。

 

「まずは、こちらから攻めに転じるか」

 

 赤い光を照射させる。メガユキノオーは地面を抉り込んだ。なんと拳の一撃で捲り上げたアスファルトを使って防御する。そのような力技などあるものか。石化の攻撃が防がれ、波導使いは横っ飛びしていた。

 

 次の一撃にすぐさま転じなければ、この状況では不利に転がるばかりだ。

 

 考える前に、次へ、次へ、と波導使いは戦術を変える。

 

「スノウドロップ、ラピス・ラズリ。この真の強さは、トレーナーの指示がほとんどなしに攻撃出来るというもの。だが、そのトレーナー本体はどうだ?」

 

 赤い光の明滅。メガユキノオーが当然防御するが、それこそが狙いであった。

 

 波導使いが狙いをつけていたのはカーブミラーである。その部分に反射した光がラピスへと降り注ぐ――はずであった。

 

 しかし、ラピスは動じない。それどころかメガユキノオーにほぼ指示を出さず、その死角からの攻撃を防ぐ。

 

 その方法は、自分の周囲を凍結させて逆反射させるというものだった。

 

 ――何という無茶苦茶な戦力。

 

 凍結と攻撃、その破壊力に関して言えばスノウドロップに比肩する使い手はいないだろう。鏡による反射も全て、氷によって逆反射されてしまう。

 

「光を使うんだ。その赤い光が、石化、の元かな?」

 

 ラピスは波導使いとの戦いが初めてではないはず。

 

 一度でも戦った事のあるタイプならば次はしくじらない。それがこの街最強の暗殺者の所以だ。

 

 だからこそ、波導使いは一撃によって沈める事を想定していたのだがあまりに浅かった。

 

 石化の光を見切られてしまえば、本体狙いは難しくなる。

 

「どこまでも、強大な壁だな、スノウドロップ。しかし我はそれを超える。熾天使、あれも相当な使い手であった。聞いた話ではお前のカウンターのためにある暗殺者だというじゃないか。炎魔、に相当する、と。だが、あの熾天使でさえも、我の前では些事であったぞ。スノウドロップ、お前はどこまでついて来られる?」

 

 まだ石化の攻撃には余力がある。どこまでもスノウドロップを消耗させる手立てはあった。

 

 だが、ラピスは長丁場にさせるつもりはないらしい。

 

「悪いけれど、主様が早く終わらせなさい、って」

 

 ラピスが手を払っただけで、付近一帯が凍結の領域に晒された。ビルが凍て付いたかと思うと内側から破砕される。粉塵でさえも凍りつき、氷の刃と化した。

 

「これが、攻防一体の実力……!」

 

 どんな一撃であっても無駄玉は撃たない、というわけだ。波導使いは赤い光を使って凍結を相殺させる。それを目にしたラピスが首を傾げた。

 

「おかしいな。だって、今の攻撃、ころすつもりだったのに、何で当たらないんだろう?」

 

 相手とて射程と攻撃に割く割合を読んでいる。読みながら戦っているのだ。こちらの攻撃力が割れれば不利に転がる。波導使いは最小限の石化範囲を使い、スノウドロップへと踊り上がろうとした。

 

「でもま、いいよね。だって本気じゃないし」

 

 ラピスがすっと手を掲げる。それだけでメガユキノオーが丸太のような腕を振るい上げて激震をかました。

 

 空間そのものが震え、攻撃の照準がぶれた一瞬。

 

 赤い光の照射と、凍結の刃が交錯した。

 

 石化はメガユキノオーの一部へと命中したがこちらのほうが深刻であった。

 

 凍結の刃が肩口に突き刺さる。その部位から侵食が始まり、波導使いは舌打ちをする。

 

「致し方ない。波導を切る」

 

 攻撃を受けた範囲の波導をゼロに近い値まで下げ、相手の侵食を回避した。

 

 メガユキノオーも命中したのは攻撃に必要な部位ではない。屹立した二本の雪の芽である。石化の攻撃が至る前に切り離された。切り離した部位が侵食されるのを目にしてラピスが声にする。

 

「へぇ、こういう戦い方なんだ、こっちの波導使いは。ラピスもさ、似たような事が出来るよ」

 

 指揮棒のように手を振るっただけで、氷が津波の如く押し寄せてくる。ブーツに雪の一片が纏わりついたかと思うと、一瞬で右脚を凍結に浸した。命中した箇所から問答無用で凍結させるなど、正気の沙汰ではない。

 

 ――確定で、潰す気だな。

 

 ハムエッグの本気が伝わってくる。波導使いは波導をコントロールし、雪の浸食を最小限に留める。

 

「惜しいな。ねぇ、波導使い。あなたの名前を教えてよ。ここまでやるんだからさ、お互いに名乗らないとつまらないよ」

 

「……驚いたな。ラピス・ラズリはハムエッグの人形と聞いていた。それが他人の名前を気にするなど」

 

「前までは気にならなかったんだけれど、お姉ちゃんがね、初対面の人には名前を聞かないといけないんだよ、って言うから。あなたとはすぐにさよならだけれど、名乗るのが筋だ、とか何とか聞いた事もあるし」

 

 さらりと恐ろしい事を口にする。これが波導使いアーロンでさえも手こずらせた最強の暗殺者の精神。

 

 波導使いは旅人帽を傾け、軽く会釈した。

 

「お初にお目にかかる。我の名前は波導使い、ゼロ。まさかこの局面で名乗るとは思っていなかった」

 

 波導使い――ゼロは口角を吊り上げた。それに比してラピスは眉も上げない。

 

「へぇ、あっちはアーロンでこっちはゼロか。面白いね。ラピスは、ラピスだよ。ラピス・ラズリ」

 

「存じている」

 

「知っているんなら、挨拶はいらないよね。ころしちゃおう」

 

 問答無用のスノウドロップの声にメガユキノオーが応じる。凍結の波が一直線に放たれた。跳ね上がり、ゼロは考える。

 

 この暗殺者にも、弱点はあるはずだ。

 

 だが、単体戦力でこのスノウドロップを上回る事は出来まい。メガシンカに、元々の素養も高い。加えて、聞いていた話ではアーロンとの戦闘で精神面の脆さが露呈したとの事だったが、目の前の相手にそのような素振りはない。

 

 克服した、と見るべきだろう。

 

 ならば、真に弱点のない殺し屋だ。

 

「しかし、この街の抵抗力も味な真似をする。熾天使、スノウドロップ、ホテルミーシャ、ハムエッグ。どれも、確かにただの暗殺者が拮抗するのには無理が生じる存在だ。だが、我は波導使い、ゼロ。それら全てを凌駕する」

 

「あのさ、舌噛むよ」

 

 下段から襲ってくる凍結の腕にゼロは瞬時に波導を読んで防御した。石化の光を浴びせ、その行く手を阻む。

 

「面白いな。どこまでも、楽しませてくれる。これは〝愉悦〟だ。我に、どこまで戦いの楽しみを味わわせてくれる? さぁ、来い」

 

「言われなくっても行くよ」

 

 背後から迫った氷の龍が口腔を剥き出しにする。ゼロは手を払い、その氷の龍を石化させたが、直後に内部から分裂した。

 

 粉砕した塵の一つ一つが攻撃性能を持っている。頭では防御したつもりでも、肉体の生存本能として防御出来ない部分がある。それは呼吸であり、なおかつ人間ならば逃れようのない筋肉の動きでもある。

 

 呼気に混じって氷が肺に侵入したのを感知した。

 

 ゼロは自らの胸元に手を当てて波導を読み取る。

 

 内側から相手の身体を食い破る凍結攻撃。だが、とその粒子を切断した。

 

 肺の中に存在した粒子がことごとく無力化される。しかし、それだけに尽力するほど相手も隙だらけではない。

 

 今度、ゼロを絡め取ったのは氷の鞭であった。空中の只中にある足を捉え、そのまま振り回される。

 

 地面に頭部を叩きつけられ、脳しょうを撒き散らすかに思われたが、ゼロは波導を分散させ、地面との圧力を切った。

 

 浮遊が生じ、ゼロの身体が無重力に晒される。触手の動きが鈍ったのを感じ取って根元から石化を浴びせた。

 

 弱まった触手が戻っていく。

 

「なんか、変な使い方だね、それ。アーロンも充分に変だけれど、その上だよ。あの波導使いは、波導を切って壊すやり方をするけれど、あなたは、波導を切っているのが何て言うのかな。本当の使い方じゃない気がする」

 

 さすがはこの街最強である。既にこちらの手の内は読み取られているのだろう。

 

「我がこれ以上、余計な手を打つ暇はないというわけか」

 

「そんな、余計な事なんて言っていると、本当に死んじゃうよ?」

 

 構築されたのは氷の槍である。十数本は一度に作り出され、同時に投擲された。

 

 ゼロは自分に命中する恐れのある数本だけを石化させたが、途中で軌道が変わった。

 

 命中しないと当たりをつけた槍に触手が巻きついている。照準を変え、こちらに矛先を向けた槍にゼロは瞬時の石化で応戦する。

 

「メガユキノオー本体には触れさせてくれないのか」

 

「だって一回でも触れられたら負けちゃうもん。それくらい分かるよ」

 

「だが、操っている触手とて、メガユキノオーの媒介する氷の攻撃網だ」

 

 石化が徐々に本体であるメガユキノオーへと戻っていく。これで攻撃が返った、と思ったがメガユキノオーは即座に切り捨てた。

 

「来るまで待つわけない」

 

「いや、それでも充分なほどだ」

 

 ラピスが小首を傾げている。その瞬間、石化した触手の切れ端が地面を伝ってラピスへと狙いを定めた。氷の槍が投げ返される。その挙動にスノウドロップとて目を見開いた。

 

「あれ? 切ったはずなのに」

 

「万物に等しく、波導は宿る。たとえ根元から切ったとしても生きていた、のならば、それは動くのだよ。我が波導の奴隷としてな」

 

 石化に晒した槍や触手が一斉にメガユキノオーへと襲いかかった。当然、命中する前に叩き落されるが一発くらいは通るだろう。

 

 それこそ、石化の波導の真髄であった。

 

 一発の槍がメガユキノオーの足元に突き刺さる。

 

 それだけでいい。

 

 相手の射程に、たった一発でも入り込めば、それが侵食開始の合図だ。

 

 地面を伝い、波導が流れ込む。

 

 メガユキノオーが感知した時には既に遅い。両腕と両脚でその巨体を維持しているメガユキノオーには避けるだけの素早さもなかった。

 

 瞬く間に足元が石化に侵食される。メガユキノオーが地面を踏み鳴らした。

 

「地震、か。組み込む技としてはさすがだな。しかし、もう体内に入っている」

 

 メガユキノオーが石化に喚く。ラピスはしかし、動じる事もない。

 

「だったら、戻っちゃおうか。メガユキノオー」

 

 まさか、とゼロは息を呑む。

 

 それがまさしく逆回しであった。

 

 メガユキノオーが紫色のエネルギー殻に包まれたかと思うと、全エネルギーを空気中に放出し、メガシンカが解除された。

 

「強制退化……。そこまでの域だとは」

 

「戻っちゃえば、波導の位置も変わっているよね」

 

 その通りだ。メガユキノオーの波導を読んだ攻撃であったのだが、ユキノオーの波導では話が違ってくる。

 

 ユキノオーが咆哮し、凍結の渦を形成する。吹雪に飲み込まれた形となったゼロは突破口を目指そうとして、自分に向かって飛んでくるエアームドを視界に入れた。

 

「何だ……?」

 

 エアームドが後ろ足に何かを掴んでいる。編隊を組むエアームドがそれらを起動させた。

 

 直後、爆発の光の輪が吹雪の渦中に広がる。

 

「爆導索……! 動きが」

 

「止まった、ね」

 

 吹雪の渦が全方位から細やかな刃を形成する。ミキサーに叩き込まれたように、空気が分解され、量子の段階まで還元されていく。

 

「よもや、ここまでとは」

 

「よくやったほうだと思う。でも、手持ちも晒さないで勝てるほど、甘くはない」

 

 ラピスは手を払う。それで終わったのだと確信したのだろう。

 

 だが、その認識は差があったようだ。

 

「よもや、ここまで――今の段階で勝負出来るとは思いもしなかった」

 

 その言葉にラピスが眉を寄せた瞬間、ゼロはコートを閃かせる。

 

「技名を隠してやっていたのもここまでだ。やろうじゃないか。デスウイング」

 

 ゼロを覆うように、拡張したのは内部に爪を持つ赤と黒の翼であった。両翼がゼロから展開された瞬間、包囲陣を突破する赤い光が瞬いた。

 

 今までの石化の赤の比ではない。

 

 帯のように赤い光が発射され、吹雪に風穴を開ける。

 

 ラピスが初めて動揺した。

 

「吹雪を、破った?」

 

「信じられないか?」

 

 躍り上がったゼロには両翼が生えていた。赤と黒の翼から紫色のオーラが迸る。

 

 ラピスが震え上がった。

 

「何、これ……。こんなの、感じた事がない」

 

「教えてやろう。それは〝恐怖〟だ」

 

 ユキノオーの操る凍結領域がこちらへと迫ろうとしてくる。ゼロは手を掲げた。

 

「ダークオーラ。この波導はそのような下賎なる手に穢されない」

 

 浮かび上がった波導にユキノオーが凍結の手を仕舞う。それほどの恐怖を感じている事だろう。今まで恐怖を知らなかったスノウドロップでさえも陥った。もう逃れる事は叶わない。

 

「でも、吹雪を突破したくらいで」

 

 再び練られる凍結の手だったが、今度はこちらから仕掛ける番であった。

 

「やれ。デスウイング」

 

 放たれた赤い光条がユキノオーへと直進する。ユキノオーが前に出て腕で払った。だが、その一撃でも石化が始まる。

 

「こんなの、凍結で止めれば」

 

 ユキノオーが凍結を広げ石化を止めようとする。しかし――。

 

「止まら、ない……?」

 

 石化は止まるどころか侵食を早めた。石化した腕を引きずり、ユキノオーが呻く。

 

「ポケモンのほうが物分りのいいようだ」

 

「何をしたの。ユキノオーの、体力が削られている」

 

「先ほど言ったではないか。我の波導はアーロンのものではない。アーロンの一門はかねてより、波導の放出を専門としてきた。この街にいるアーロンはその逆、切断のようだが、我の波導はそのどちらにも属さない」

 

 ユキノオーが石化した肩口へと腕を振り下ろす。迷いのない一撃が石化した箇所を叩き折った。

 

「即断即決、素晴らしいな。だが、惜しいぞ。もう、体内の波導は操っている」

 

 その証拠にユキノオーの放つ凍結領域が少しずつだが制御の不確かなものになっていく。

 

 屈み込んだユキノオーが自身の体内の不調に気づいたのか、弱々しく鳴いた。

 

「そんなはず……。ユキノオーが負けるはずないのに」

 

「教えてやろう、スノウドロップ。我の波導の真髄。それは吸収だ。デスウイングは波導を撃ち込むのと同時に、相手の波導を奪う。波導回路、というものに不調を来たしたポケモンは、自壊する。それが運命だ」

 

 ユキノオーの体表が溶けていく。自らの神経系統が自らの首を絞める。

 

 ラピスは声を張り上げた。

 

「ユキノオー! 敵は目の前なのに、もう戦えないって言うの……」

 

「残念だが、もうスノウドロップの名前は返上だな」

 

 ゼロが舞い降りる。「デスウイング」をトレーナー本体へ、と歩み出ようとしたところで空域の戦闘の気配が変わった。

 

 飛び込んできたエアームドが袈裟切りを仕掛けてくる。スノウドロップが使えないとなれば守るつもりか。

 

「逃がすと思っているのか?」

 

 エアームドに取り付けられたハーネスがラピスを回収する。その羽根に向けて赤い光が放出された。石化に晒されたエアームドが高度を落としていく。

 

 しかし、エアームドの編隊は完全であった。次のエアームドにラピスを任せ、石化していくエアームドは何とこちらへと特攻してきた。

 

「ホテルの精神か。だが自滅の精神だ」

 

 攻撃を放つまでもなく、石化したエアームドが砕け散る。自分へといくつもの刃が振り向けられた。

 

 エアームド達がそれぞれの銀翼を閃かせ、ゼロの首筋を狙ってくる。

 

 しかしゼロは最低限の足踏みで回避し、その身体に石化の引導を叩き込んだ。

 

 石化した仲間を気遣うわけでもなく、エアームド達は突進し、ある者はそのまま墜落する。

 

 それでもゼロを狙うのをやめないのはこの街にとって真に脅威であると認定したためだろう。

 

 何体目かのエアームドを撃墜した時、既にラピスの姿は見えなくなっていた。

 

 だが充分だ。

 

 これでもう、ホテルもハムエッグも歯向かえない。

 

「ヤマブキシティは我の前に屈服した」

 

 口角を吊り上げたゼロの背後にエアームドが切りかかろうとする。

 

「まだ残っていたか」

 

 石化を放とうとしたところで、はたと気づく。

 

 このエアームドは既に石化して撃墜したはずのものであった。それが何故か飛翔し、攻撃を繰り出してきた。

 

 その理由は一つしか思い浮かばない。

 

 首筋を叩き折ってから、ゼロは振り返る。ビルの屋上に疾風を連れて来たのは青い装束の死神であった。

 

「来たな、波導使い、アーロン」

 



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第百二十七話「合わせ鏡」

 

「お前が、波導使いか。もう一人、とはハムエッグから聞いたが。そちらから来るとは思っても見なかった。石化の波導使い」

 

 向こうも既知らしい。ならば話が早い。

 

「何のために訪れたのか、分からないほど無知でもあるまい」

 

「さぁな。俺は、波導使いとしての名誉が欲しいわけでも、この街の守り手を自称するわけでもない」

 

 降り立ったアーロンの肩口にはピカチュウが留まっている。頬袋から青い電流を跳ね上げさせるその姿は戦闘用に研ぎ澄まされていた。

 

「そうか。では何故、我の前に立つ?」

 

「知れた事。お前が気に食わないからだ」

 

 直後にアーロンの姿が掻き消えた。否、その姿は既に射程内にあった。アーロンの右腕がゼロの頭部を掴もうとする。

 

 紙一重で避けてコートから赤い光を照射した。アーロンは回避し様に横腹を蹴りつける。

 

 ――波導切断。

 

 そう感じたのは両者同時であったらしい。

 

 弾かれるようにお互い強制的に距離を取る。

 

 波導が干渉し、磁石のような斥力を発生させたのだ。

 

「波導切断が通用しない……?」

 

「そちらも。生半可な波導の鍛え方ではないようだ。こちらの波導吸収能力を発揮する前に切断に打って出た」

 

「……珍妙な波導の使い方をするのだな」

 

「お互い様だと、言っている!」

 

 瞬いた赤い光条をアーロンは跳躍する。宙に踊り上がったアーロンへと「デスウイング」を狙い澄ました。

 

 アーロンが電気ワイヤーを投げる。ゼロは手を払って電気ワイヤーを石化させた。当然のように断ち切られるが、その上を行くのはもう一本のワイヤーである。下段から攻め込んだ電気ワイヤーがゼロの足元を絡め取った。

 

「我に触れれば無意味!」

 

 石化に晒したのと、アーロンが射程に踏み込むのは同時だった。自分の背後に降り立ったアーロンが右手を突き出す。それに対比する形で、左手を突き出した。

 

 青い波導と紫色の波導が干渉し合い、またしても弾き返される。

 

 両者共に波導を使った戦術は通用しない、と悟った。

 

「あまりに熟練の域に達していると、こういう風になかなか終わらない事がある。将棋やチェスと同じだ」

 

「俺以外の波導使いは、存在しないはずだ」

 

「それはお前の先代のアーロンが教えなかっただけだ。現にツヴァイというイレギュラーはあっただろうに」

 

 その名前にアーロンが震撼したのが伝わった。

 

「……お前が、ツヴァイをけしかけたのか」

 

「我は、波導の一部領域の強化を行ってやったのみ。元々、素養はあった。ただ、アーロンの教え方では十年かかるのを我は半年でやった」

 

「どうりで、あいつは調子付いていたはずだ。波導の行く末も分からない、半端者を仕向けたのは、お前だったか」

 

「赤い波導との戦いはためになっただろう? 波導の継承者、アーロンとしては」

 

「自分の末路を見ているようで、気分は悪かったさ!」

 

 飛び上がったアーロンの姿をゼロは常に真正面に捉える。赤い閃光が瞬き、アーロンに攻撃を加えようとするが、動き続ける相手に苦戦を強いられた。

 

「我が吸収の波導が最も苦手とするのは、同じく波導使い相手だ。何せ、相手も波導を熟知しているのだから」

 

「お喋りが過ぎると、死ぬぞ」

 

 ピカチュウの電気メスがゼロの喉笛を掻っ切ろうとして来る。ゼロは電流を石化させた。その事実にはさしものアーロンでもさえも息を呑んだようだ。

 

「電流を石化させた?」

 

「万物に波導は宿る。凍結でも、電流でも。物に形がある限り、有限の命である限り、波導はそれらを網羅する」

 

「釈迦に説法とは、この事だな。俺に波導を説くか」

 

 電流の網がゼロを囲い込む。赤い閃光を発し、網を突破した。その先に待っていたのは死神の腕だ。突き出された腕には必殺の気配が漂っている。

 

「だが、こっちも必殺だ」

 

 左手に紫色の波導が宿り、アーロンの波導切断と相殺し合う。お互いに何度交わしたのかも分からないほどに相手の波導を読み合っている。だが、波導使い同士では絶対に、相手の体内波導は読み切れない。それこそ相手に隙がない限りは。

 

「いたちごっこだぞ、これでは」

 

「そのようだ。だが、アーロン。お前には弱点がある」

 

 片羽根を石化されたエアームドが甲高い鳴き声を上げる。どうやら布石は打たれたらしい。

 

「……何をした」

 

「大切なものがあるとどれほど冷酷な人間であっても弱くなるものだ。アーロン。窺っているよ。とても可愛いお嬢さんと暮らしているそうじゃないか。波導の暗殺者の本分を、忘れてしまうほどに」

 

 エアームドに撃っておいた波導はその思考回路を埋め尽くし、アーロンから奪回したはずだ。一体のエアームドが踊り上がり、その後ろ足に捕らえた獲物を誇示する。青の死神が驚愕に顔を塗り固めた。

 

「メイ……。どうして」

 

「信じられないか? 実のところ、我も驚いているのだ。プラズマ団の仕立て上げたカリスマ。Miシリーズの唯一の生き残り。そのデータはツヴァイが持ち帰っていた。彼からもたらされたデータを基にして、彼女を割り出すのは不可能ではなかった。だが、死んでいるはずだった。プラズマ団蜂起の際に、Mi0と同期し、全てが収束するはずだった。それを阻んだのは、お前だよ、アーロン」

 

 エアームドが高空へと飛翔していく。アーロンが電気ワイヤーを放り投げたが、それを石化で阻止する。

 

「お前……!」

 

「外道だと、言ってもらっても構わないが、それにしたところで、随分とぬるくなったのだな、波導使いの一門、その継承者は」

 

「黙れ!」

 

 アーロンの突き出した右手がゼロの頭部を引っ掴もうとする。しかしゼロは応戦もしなかった。

 

 このアーロンの攻撃では自分は死なない事を理解していたのだ。

 

「どうした? やらないのか?」

 

 獣のように息を荒立たせたアーロンであるが分を弁えている。自分が死ねば、あのエアームドは墜落するだろう。そうなればメイも道連れだ。

 

「人殺しも出来なくなったか?」

 

 挑発にアーロンはゼロへと蹴りを見舞う。それを受け止め、ゼロは逆にアーロンの腕を掴んで見せた。

 

「これで、一死、だ」

 

 石化の光の照射をアーロンは飛び退って避ける。だがそれは石化だけだ。アーロンの右腕がだらんと垂れ下がっていた。

 

 持ち上げようとするがそれさえも叶わないらしい。

 

「右腕の波導を緩めてやった。それで、ちょっとばかし戦闘不能になってもらう」

 

「何のつもりだ……! 俺は、お前を殺す!」

 

「口だけ達者になったところで出来ない事を言うものじゃない。分かっているのだろう? もう詰んだんだよ。これ以上、戦いを続けても、今のお前では我には勝てないし、どうせ勝負になどなるまい」

 

「どうかな」

 

 アーロンが右腕に電流を通す。すると、右腕がすっと持ち上がった。

 

「電気的刺激を波導回路に注ぎ込み、一時的に波導の麻痺を改善させた」

 

「石化の波導使い、ここで死ね」

 

 駆け出すアーロンが右腕を突き出す。今度こそ、殺すつもりで発してくるだろう。

 

 だが、もう勝負は決している。

 

「踏み入ったな」

 

 自分の領域に入ったアーロンがハッとして立ち止まる。惜しかった。あと一歩入っていれば石化の虜であったのに。

 

「これは……波導を自分の周囲に罠のように張って……」

 

「そういう使い方を、アーロンには出来ないだろう。我だからこそ、出来る芸当だ」

 

 ゼロはそのまま中天に手を伸ばす。一体のエアームドが操られてその手を受け止めた。

 

 飛び去っていくゼロにアーロンは歯噛みする。

 

「逃げるのか」

 

「馬鹿な挑発のし合いは意味がない事が分かっているはずだ。アーロン。賭けをしようじゃないか」

 

「賭け……だと」

 

「我はこのヤマブキを屈服させた。もう恐れるものなど何もない。ホテルも、ハムエッグも、等しく無力だ。我は支配を始める。強き者が弱き存在を使役するのは世の常だ」

 

「支配など、馬鹿げた事を。この街はそう容易く出来ていない」

 

「かもしれないな。だが、ホテルとハムエッグの敗北は思ったよりも色濃いはず。我に投資する企業や実業家はいくらでもいる」

 

 確信があった。自分がホテルとハムエッグに勝ったといえば、この街では絶対だ。

 

「敵を増やす真似だ」

 

「だから、賭けだよ、アーロン。我がこの街を完全な支配下に置き、全てを新しく始める前に、止めて見せろ。それが出来れば、Mi3には手を出さないでおいてやる。期限は三日だ。それだけあればこの街の真の屈服には充分なはず。三日目の夜に、この娘を石化させて殺す。そうすればお前にはもう、生きる希望はない」

 

 アーロンが拳をぎゅっと握り締める。その瞳には殺意が宿っていた。

 

「殺す! 貴様だけは、絶対に!」

 

「吼えるのは、もっと強くなってからだ」

 

 ゼロは飛び立っていく。アーロンの波導が怒りに塗り固められていくのを背筋に感じていた。

 

「いいぞ、もっとだ。もっと怒れ、アーロン。その時こそ、お前を」

 



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第百二十八話「最後の業」

 

「一瞬だった」

 

 シャクエンは懺悔するように語る。アンズも顔を伏せていた。自分達がいながら、と後悔の声を漏らす。

 

「ホテルのエアームドだと思ったから、伝令か何かだと思ったの。まさか、操られていたなんて」

 

 二人に非はない。問題なのは自分だった。

 

 アーロンは無理やり叩き起こした右腕を休ませつつ、次の策を練っていた。

 

 どうすれば、あのゼロという波導使いに勝てる? 何を犠牲にすればいい?

 

「一度、ホテルとハムエッグに会うべきか」

 

「本当に、お兄ちゃん、スノウドロップがやられたのは……」

 

「ああ、事実だ」

 

 自分が情報を得て発った時には、もう勝負は決していた。波導使いゼロ。あの人物の持つ波導は今までの敵の比ではない。

 

 波導吸収能力もまるで理解出来なかった。こちらの波導切断と同様か、それ以上の波導の応用だ。

 

「石化の波導使い……。父上の、仇」

 

 アンズは冷静になれない可能性がある。アーロンはすぐさま声にしていた。

 

「お前は、今回の戦いから外れろ」

 

「でも……! 父上の仇ならあたい」

 

「だから、だ。キョウの仇、という一事に惑わされて大局を見失う。お前達はメイの所在を追ってくれ。あの石化の波導使いは、俺が倒す」

 

「でも、波導使い。あなただって、苦戦した」

 

 シャクエンの言葉は事実だ。石化の波導使いの手持ちでさえも分からないこの状況は不利である。

 

「どうにかして、ホテルとハムエッグに渡りをつける。その間に、敵の弱点を突く」

 

「もし、弱点なんてなかったら?」

 

 最悪の想定だったがアーロンは備えを口にしていた。

 

「物量戦でも、恐らくは勝利は望めまい。その時はヤマブキという街を出ろ。それしかない」

 

 屈服を是としろ、という言葉にシャクエンは歯噛みした。

 

「何で……。私達の街なのに……」

 

「あの波導使いは、何が目的なの……」

 

 それも問い質さなければ。アーロンがホロキャスターに手を伸ばしたのと、店主がノックしたのは同時だった。

 

「お客だよ」

 

 通されたのはなんと、ハムエッグとホテルのラブリ本人であった。取り巻きはいるものの、この二人が一同に会するのは初めてである。それだけ事の重大さを物語っていた。

 

「クズの波導使い……、やられたのね」

 

「アーロン。わたしのほうから訪れるのは初めてかな?」

 

「ああ。最悪の事態を思わせる」

 

 返すとハムエッグは僅かに笑ったが、いつものような余裕はなさそうだった。

 

「いいかな? 部屋に入っても」

 

「ああ。俺も、話をしなければ、と思っていたところだ」

 

「話、ね。アーロン。単刀直入に言う。スノウドロップが敗北した」

 

 やはり、と言うべきかハムエッグは焦っている。ホテルも同じのようでその情報に嘆息をついた。

 

「……言いたくないけれど、ホテル側も戦力はほぼ開放し切った。それでも、勝利出来なかった」

 

「ホテルとハムエッグでも勝てない相手となれば、これを期に街を引っくり返そうという輩が集まってくる。そいつらの投資で石化の波導使い――ゼロは名実共にこの街の支配者となる」

 

 実業家達の資産を集めれば、一つ一つは小さくともこの街を引っくり返すのには充分だ。支配構図が変わる。ハムエッグとホテルによる盟約は解かれ、新たな秩序が始まってしまう。

 

「そうなれば、わたしが統治する前の無法地帯に逆戻り……。いや、それでも希望的観測だな。無法地帯以下の、ただのゴミ溜めになる」

 

「悔しいけれど同意ね。今までの協定関係や力関係が無視されるとなれば、それこそ意味を成さない。わたくし達はどうしても、手を組まざるを得なくなる」

 

「だが歴然たる事実として、スノウドロップの敗北は耳聡い連中には入っているだろう。俺が引き分けに持ち込んだ時だけでも酷かった。だというのに、新参者が最強の暗殺者を下したとなれば、速い連中は動き出す」

 

 今も、こちらの裏を掻こうという人間は数多いだろう。ハムエッグは首肯する。

 

「スノウドロップはすぐには出せない。三日後、だったか。間に合いそうにもない」

 

 言っていないのに知っているという事は、既にゼロが言い触らしたか。三日後にこの街の支配構図が入れ替わると。

 

「本当に、嫌になる事だけれど、あなたしかいない。あなただけが、この街で唯一、あの波導使いに届く」

 

 ラブリが弱音を吐くのはよっぽどだ。それほどに、ホテルも被害を被ったという事だろう。

 

「だが、俺でも怪しい。あいつの手持ちでさえも明らかにならないのだから」

 

「せめて相手の情報がもっとあれば、ね。エアームドから得た情報は?」

 

「全くもって。これがその映像だけれど」

 

 ラブリの取り出したホロキャスターに映し出されていた俯瞰映像には、スノウドロップの使った吹雪に風穴を開けるゼロの姿があった。黒と赤の両翼が展開している。

 

 それが手持ちか、と判じたがそれ以上は一切不明であった。明らかなのは僅かな事だけだ。

 

「一つ、相手のポケモンは波導を使える」

 

 ハムエッグの挙げる事柄にラブリが言葉を継いだ。

 

「二つ目は、石化を使えるポケモンである事」

 

「三つ、その石化を自在に操れる上に、波導使いとしての格も上」

 

 最後に付け加えたアーロンの声にこの会合の人々は沈黙した。

 

 石化の波導使いを倒せなくてはこの街は蹂躙される。だが、その目星もつかない。

 

「……少し、外の空気を吸ってくる」

 

 アーロンの申し出に誰も断らなかった。切羽詰ったこの状況で誰もが打開策を欲していながらも、その方法が一切思い浮かばない。

 

 アーロンでさえも勝利のビジョンはなかった。

 

 メイが殺される。

 

 石化させられ、自分の目の前で崩れ落ちる。

 

 その映像ばかりが網膜にちらつき、アーロンは壁を殴りつける。

 

「俺に出来る事はないのか……」

 

「波導使い」

 

 振りかけられた声にアーロンは目線を向ける。

 

 シャクエンが不安げな眼差しを向けて佇んでいた。

 

「何だ?」

 

「波導使いが、その、困っているみたいだったから」

 

「困ってなどいない。勝つ手段を探すだけだ」

 

「本当に、あなたは一人で勝てると思っているの? そんな相手じゃないんでしょう?」

 

 一度戦えば勝てるか勝てないかは分かる。ゼロとの勝負に、全く勝てるビジョンがない。

 

 だが、シャクエンの前でそのような弱気な部分を晒すわけにもいかない。

 

「俺は、波導の殺し屋だ。だから、どこまでも独りでやってやる。奴を殺せば、全てが丸く収まるのだろう? 奴の喉笛を掻っ切って、一欠けらすらも残さない」

 

 口ではいくらでも言えた。しかし、実際に戦えば勝てる見込みが薄いのは明らかだ。スノウドロップやホテルの戦力でも全く敵わなかった相手。それを自分一人で倒せるのか。

 

「私は、勝てないのならば、逃げてもいいと思っている」

 

 意外な言葉だった。シャクエンだけは、たとえ支配が変わってもこの街に居続けると思ったからだ。

 

「何故だ? 敵前逃亡になる」

 

「もう、敵だとか、味方だとか、そういうのに縛られない生き方が出来るんだと思っていた。波導使いと、アンズと、……メイと。四人で、本当の家族みたいに過ごせるんだって思っていた。……私も、甘い夢を見ていたのかもしれない」

 

 自分と同じだ。家族ごっこがまかり通るのだとシャクエンも夢見ていたのだ。だが、現実はそれを許してくれない。自分達は否応なしに決断を迫られている。

 

 残酷な決断であった。

 

 もう、家族のように生きる事は出来ない。

 

「……他の街で、静かに過ごそうと言うのか」

 

「メイを取り戻せないのなら、私は、心に傷を負ったままこの街で生きる事なんて出来ない」

 

「だが、それはどこに行っても同じ事だ。どこに逃げても、メイを死なせた事が重石となって、きっと崩壊する。どんなに取り繕っても、あいつなしでは……、俺達は家族になんてなれないんだ」

 

 そうだ、今さらに気がついてしまった。

 

 ――メイが全ての始まりだったのだ。

 

 メイがいたからシャクエンも、アンズも、安息の暮らしが出来ていた。彼女が、自分達にもう一つの道を示してくれていたのだ。

 

 そんな中心軸を失ってしまえば、もう二度と元には戻れないだろう。

 

 きっと、誰が笑顔でも、嘘くさいだけになってしまう。

 

「俺は、どうすればいい……。教えてくれ。シャクエン。こういう時、どうすればいいんだ。俺は、何も知らずに生きてきた。ようやく、この世界を感じ取る事が出来たというのに、そんな時に、何もかもが滑り落ちていくなんて……」

 

「波導使い……。私も、分からない。何をすればいいのか。メイを助け出したいけれど、自分の力が及ぶのか」

 

 何を寄る辺にすればいいのか分からなかった。圧倒的な力を前に、こうも自分達は無力なのか。

 

「――らしくない感傷に浸っているじゃないか。アーロン」

 

 その言葉に二人して振り返った。

 

 その姿に言葉を失う。

 

 青い旅人帽に、青いコートを身に纏っていた。鞄を提げており、いつからそこにいたのか、まるで読めなかった。

 

「波導使いと……同じ姿」

 

 それの意味するところは一つだ。

 

「――師父」

 

 どうして、と声にする前に師父は歩み寄ってきて口元に笑みを浮かべる。

 

「アーロン。その名をくれてやったが、残念だよ」

 

 何を言っているのだ。アーロンが立ち尽くしていると、その胸元へとすっと手が触れられた。

 

「――こうも、弱くなっているとは」

 

 一撃であった。

 

 触れられただけなのに、アーロンは吹き飛ばされていた。壁に激突し、肺の中の空気を吐き出す。

 

 咳き込むアーロンへと師父は超越者の眼差しを向けてきた。

 

 シャクエンが駆け寄って来ようとするがアーロンは声で制する。

 

「来るな! これは、俺と師父の問題だ」

 

「一端の口を利くようになったな。あの時の子供が」

 

「師父、何で今さら、俺の前に現れた?」

 

「理由がいるのか? ヤマブキに訪れただけだ」

 

「違う! あんたは言ったはずだ! 自分を次に見つける時は、殺し合いになると。波導使いは、二人と要らない」

 

 臨戦態勢に入るアーロンに師父は冷徹だった。

 

「そうだな。そのような事も言った。だが、そんな場合か、アーロン。ゼロが、動き出したようじゃないか」

 

 アーロンはハッとする。師父は全てを知っていてこの街に訪れたのか。

 

「ゼロの事を……」

 

「よぉく、知っているさ。石化の波導使い。我らアーロンの一門とはまた違う、別種の波導使いの一族だ」

 

「そんな事、俺は教えてももらえなかった」

 

「合間見える事を想定していなかったからな。まさか、我が馬鹿弟子が殺し屋なんて稼業をやっている事も、その殺しの最中に奴と戦う事も、全て想定外だ」

 

 師父の言葉にアーロンは黙りこくるしか出来ない。いつか、師父と出会う時には自分の今を告げなければならないと思っていた。しかしこんな状況になるとは思ってもみない。

 

「師父、俺は……」

 

「別段、その稼業を責めているわけではない。波導切断、お前のやり方を鑑みれば、その結論に行き着いたのは何らおかしくもない。ただ、馬鹿弟子はあの時、わたしの下を去った時から何も成長していない事だけは確かだと言う事だ」

 

 耳に痛かった。あの時――師父の下を去り、教えを全て放棄してこの街に来た時から、何一つ自分は変わっていない。

 

「アーロン。どうした? 一つも返してこないという事は、全て諦めたのか?」

 

「俺は、諦めてなどいない……。行け、ピカチュウ!」

 

 繰り出したピカチュウが肩に留まる。師父は以前と同じように鼻を鳴らした。

 

「ピカチュウ、か。随分と成長した。お前に比べればポケモンのほうがよっぽどだ」

 

「師父、俺は、あんたを……!」

 

「余計な言葉が要るか? わたしと、お前の間に」

 

 師父は鞄からモンスターボールを取り出し、それを地面に落とした。

 

「ルカリオ。十年振りか?」

 

 師父のルカリオは何も変わっていなかった。その雄々しさも、波導の強さも、自分に教える者として立ち塞がる姿勢も。

 

「十年前とは違う」

 

「何が違う? アーロン、ちょっとばかし自活出来るようになったからと言ってお前は何一つ成長していない」

 

「減らず口を!」

 

 飛び込んだアーロンが電撃を師父に見舞おうとする。それを阻んだのはルカリオだ。

 

 波導を帯びた拳をアーロンの頭部に叩き込もうとする。

 

 すぐさま張っておいた電気ワイヤーで足を取ろうとした。しかし、ルカリオはそれを読んでいたかのように動き、アーロンの背後を取る。

 

「それも、読めている」

 

 二本目のワイヤーがルカリオの両腕を縛り付けた。これでルカリオに手は出せない。

 

「師父、俺はここで超える!」

 

「超える? 馬鹿を言うな。次に会った時は殺す、だったはずだ。そんな事も忘れたのか? 我が馬鹿弟子は」

 

 ルカリオが瞬時に空間を飛び越えて自分の眼前に降り立った。

 

 馬鹿な。そんなに早く解けるはずがない。

 

「嘗めていたのはお互い様だな、アーロン。わたしのルカリオが十年前、お前に本気を出していたとでも?」

 

 ルカリオの拳がアーロンの胸元を捉えた。波導を瞬時に固めて防御しなければ肋骨を持っていかれていたほどの威力である。

 

 仰け反ったアーロンの視界に入ったのは跳躍したルカリオだった。足先に波導を溜めている。それの意味するところを理解し、即座に右腕で庇った。

 

「飛び膝蹴り」

 

 放たれた一撃を電流と波導でいなす。それでも減殺し切れない重さがアーロンの右腕を襲った。

 

 左手で電気ワイヤーを繰ってルカリオの首筋を絞めようとする。しかし、ルカリオは放った波導だけでそれを霧散させた。

 

「さっきも、解いたわけじゃないのか……」

 

「波導を放出し、それを力として操る。わたしの波導の使い方だ。まさか、それさえも忘却したか?」

 

 ルカリオの間断のない拳に、アーロンは防戦一方であった。電流を見舞おうにも隙がない。十年前よりもなお、ルカリオは強くなっている。

 

 舌打ちをして自分の周りへと電撃を拡散させた。これで距離が稼げるか、と思ったが、ルカリオは地面に波導で場を形成し、両腕を広げた。

 

 雄々しく吼えたその攻撃だけで、小賢しく張った電撃の網が掻き消される。

 

 まるで勝負にならなかった。

 

 ルカリオが踊り上がり、その蹴りを打ち下ろす。アーロンは飛び退って体勢を整えようとするが、地を這って波導が追撃をしてきた。

 

「龍の波導」

 

 ドラゴンの牙を形成した波導が下段から襲い来る。アーロンは咄嗟に「エレキネット」を展開した。

 

 しかし電気の網は容易く突破され波導が腕に噛みつく。

 

 侵食した波導が自身の波導回路を狂わせた。

 

「こいつ……! ピカチュウ! ボルテッカー!」

 

 全開にした電流を放出し、辛うじて波導攻撃を無効化する。しかしルカリオは止まっている相手ではない。眼前から掻き消えたルカリオの姿は背後にあった。

 

 トン、と拳が背筋に当てられる。わざと波導を消しての拳。つまり、王手であった。

 

 アーロンの身体から戦闘意欲が凪いでいく。これほどの力の差だとは思いもしなかった。

 

「俺、は……」

 

「身体だけ立派に育って、中身はまだ子供の時のほうがマシだったぞ。アーロン。もう一度言う。弱くなったのだ、お前は」

 

「俺が、弱く……」

 

 信じられない事に目を戦慄かせる。数多の殺し屋と戦った。時に命を削ってまで極めた波導の極地があったはずだ。だというのに、師父にはまるで敵わない。

 

「これでは波導継承者の名は返上だな。アーロン。わたしは、二三日、この街に滞在する。その間にわたしを破れなければ、石化の波導使いに敵うはずもない。お前は名を失い、石化の波導使いがこの街を支配する事だろう」

 

 師父の他人事めいた言葉に耐えかねたのか、シャクエンが口を挟んだ。

 

「それでも! 波導使いは戦った! 戦って、挑んだだけ、あなたよりかはマシなはず!」

 

「誰だ、この女は?」

 

「……殺し屋です」

 

 発した声の弱々しさに師父は鼻を鳴らす。

 

「殺し屋同士で家族ごっこでもしていたのか? 女など、いるだけ邪魔だ」

 

「あなたがそれだけ強いのならば、ゼロに挑めばいい! それもしないあなたは、卑怯者に過ぎない!」

 

「わたしが卑怯者、か。言ってくれるな、女」

 

「シャクエン。やめろ。師父に、口ごたえをするな」

 

 止めに入ったアーロンに、シャクエンは堪え切れないものがあったらしい。師父へと食いかかるように罵声を飛ばす。

 

「立ち向かわないのならば、波導使いを名乗るのも恥だと! あなたなんて、師でも何でもない!」

 

「やめろと言っているんだ! 炎魔!」

 

 遮って放った怒声に、シャクエンはようやく我に帰った。師父は口元を緩めていた。

 

「面白い。わたしが卑怯者で、恥晒しだと。そう思うか? アーロン」

 

「……いえ。俺は勝てなかった。結局、それに集約される」

 

「波導使い? でも」

 

「そうだ。勝利者の前では敗北者は地べたを這いずり回るだけ。間違えるな、アーロン。わたしは三日の猶予を与えた。本来ならば今すぐにでも破門してやりたいほどだが、最後の、師としての温情だ。三日の間に、わたしに勝ってみせろ。そうすれば、最後の波導を教える」

 

 師父は踵を返して行った。ルカリオがそれに続く。

 

「波導使い。大丈夫なの」

 

 シャクエンに肩を貸してもらいようやく立ち上がる。ダメージは深刻だったが、身体よりも心だった。

 

 ――師父に、勝てると思い込んでいた。

 

 それが実際にやればこうも容易い。力の差は歴然である。

 

「師父……、あの人が最後の波導を教える、と言ったのには理由がある」

 

 アーロンは呼吸を整えて師父の行ってしまった場所を眺めた。

 

「どういう事?」

 

「俺は、あの人に波導の全てを教えてもらったわけじゃない。最後の最後に、逃げ出したんだ」

 

 シャクエンが目を瞠る。それも当然だろう。自分が波導使いだとこれまで名乗ってきたのが全て嘘だと言っているようなものだからだ。

 

「どうして……。でもアーロンの名前を」

 

「継承した。だが、俺は我慢出来ない事があった。あの時、あの草原で俺の青い闇を払ってくれた人に、報いる事の出来ないまま、この街にやってきたんだ」

 

 アジトの前まで来たアーロンは迎えに出向いているハムエッグやラブリ達を目にした。

 

 彼らにも話さなければならないだろう。自分の最後の業を。

 

「アーロン。師父とやらが、来たんだね」

 

 ハムエッグは全てを悟っているようだった。一階の喫茶店に入り、椅子に腰かける。

 

「少し、長い昔話になりそうだ」

 



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第百二十九話「追憶の波導」

 

 草原での戦いは、もう手慣れたものだった。

 

 ルカリオの拳をいなし、その隙に電撃を見舞う。ルカリオが怯めばさらに麻痺の効果のある電流を流し込んで波導を切断しようとする。しかしその一線になって、ルカリオは阻んでくるのが常だった。

 

「今日はここまでだ」

 

「……師父。例の話ですが」

 

 切り出したアーロンに師父はうんざりしたように頭を振る。

 

「駄目だ。今のお前を波導使いとして、野に放つ事は出来ない」

 

「何故ですか。もう、波導の何たるかは覚えました。基本だって出来ているつもりです」

 

 何度も問いかけた事だ。自分は波導使いを継承した。だから、もうこのような草原での戦いではなく、真の戦いの場で波導を使いたい。そうする事で初めて、自分の居場所が出来る。

 

「何度も言わせるな。未熟な奴を波導使いとして放てば、わたしの責任になる。今のお前では、何も出来まい」

 

 切り捨てる師父にアーロンは飛びかかった。電撃を見舞おうとして、その攻撃を波導防御でいなされる。

 

「……これでもまだ、ぼくの力は不足ですか」

 

「お前は、強ければ人のためになると? その波導が、誰かを救えると思っているのか?」

 

「こんな草原で、いつまでも隠居していたって何にも見えない! ぼくは師父のしてくれたように、誰かを波導で救いたいんです」

 

 その言葉を聞いた瞬間、師父がアーロンの手をひねり上げた。全く抵抗も出来ない。

 

「忘れるな。お前の波導の真髄は切断。その行く末は他人にいいように操られ、人殺しをしてしまう境遇だ。波導切断で他人は救えない」

 

 断ずる声にアーロンは言い返す。

 

「使い方次第、でしょう。ぼくは間違えない」

 

 暫時睨み合っていたが、師父はぱっと手を離した。

 

 ルカリオをボールに戻し、師父は背を向ける。

 

「退院の時期が決まったんだったな。一週間後か」

 

「ええ。だからぼくは」

 

「行きたければ行け。もう止めまい」

 

 意外な言葉だった。今まで、何度も止めてきたのに急に突き放されたような感覚であった。

 

「師父……認めて――」

 

「勘違いをするな。波導の継承者としては、なるほど、充分だろう。だが、それは真に波導を極めたわけでもない半端者。お前がどれだけ祈ろうと、願おうとも、その波導は破滅をもたらす。お前は、絶望し、人を救うどころかその手にかけるだろう。波導使いが人を救う、などというのはまやかしだ。そのような幻影にすがっている暇があれば、次に会った時、わたしを殺せるように鍛えておけ」

 

「……ぼくは、師父を殺したくありません」

 

「次に会えば分かる。波導を教えた、という事がどういう呪縛なのかが」

 

 アーロンは師父の背に頭を下げて草原を後にした。

 

 その日を境にして師父は草原に現れなくなった。

 

 別れの言葉を交わす事もなく、師父とはもう会えないのだと、アーロンは感じ取った。

 

 曇天の広がる中、アーロンは決意する。

 

「強く……強くなって見せます。そして、波導で人を救う」

 

 それがどれほどに愚かなのか、まだ知る由もなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おい、ヤマブキのネットを売ってくれないか?」

 

 その言葉に黒服は振り返る。一人の行商人がアタッシュケースを片手にニヤニヤと笑みを浮かべている。

 

「ヤマブキのネットワークを? どうしてお前なんかに」

 

「あんたら、路地番だろ? ちょっとした提案だよ。オレに売れば、いい買い物になる」

 

 黒服二人組はお互いに視線を交わし合い、こめかみの当たりを突いた。

 

「頭がイカレているのか? それともこのヤマブキのルールも知らない、半端者か? ネットワークを売れと言われても、そっちに見合うだけの対価がないと何も売れないんだよ」

 

「金ならば、あるが」

 

「金の問題じゃない。信用の問題だ。取り入りたければもうちょっと上手く立ち回れ、三下。我々が情報を売る、という事はそれだけで信頼も売る、という事だ。そこいらのおのぼりさんが容易くヤマブキの中枢に潜り込めるとでも思うな」

 

「やっぱり、駄目か」

 

 行商人は肩を落とす。黒服は軽くあしらった。

 

「本当に情報が欲しければ、実力を示すんだな。そうしないと何にも売れない」

 

「じゃあ、ちょっとばかし見せてやれよ」

 

 行商人が指輪を多数つけた手を振り上げる。その時、暗闇が蠢動した。

 

 今まで気配などなかった場所に、突如として現れたのは青い装束を纏う少年である。

 

 不格好な旅人帽に、コートを羽織っていた。

 

 突然の第三者に黒服はうろたえた。

 

「何者だ?」

 

「実力示せ、とのお達しだ。やれるな? アーロン」

 

「殺しても」

 

「構わない。どうせ路地番の命だ」

 

 その瞬間、青い衣の少年が掻き消える。黒服が習い性で拳銃を出した時、その姿が眼前にあった。

 

 慌てて安全装置を外そうとして手首を捩じ上げられる。銃声が一発、木霊した。

 

「ピカチュウ、腕の波導を切れ」

 

 少年の肩口に留まったピカチュウが青い電流を跳ねさせて、黒服の両腕の間を明滅させる。その直後、黒服は脱力したように両腕を下ろした。

 

 驚愕に見開かれた眼差しへと、少年の掌が入る。

 

 迸ったのは断末魔だ。黒服が痙攣したかと思うと、すぐさま見開かれた目から血飛沫が零れた。

 

「な、何だって言うんだ!」

 

 もう一人がおっとり刀で銃撃する。しかし少年を捉える前に、影さえも居残さない移動方法で回避された。

 

 ピカチュウの放つ青い電流の残滓だけが彼の存在を物語っている。

 

 それほどまでに素早く、人間の感知領域を超えていた。

 

「当たらねぇ!」

 

 照準してもその姿はすぐに掻き消えてしまう。首筋にワイヤーがかけられた。そのまま仰向けにねじ伏せられ、黒服は背後の少年の気配を感じる。

 

「てめぇ!」

 

「――死ね」

 

 黒服の全身を突き抜けたのは電撃による激痛であったが、一瞬の痙攣の後に事切れていた。

 

 乾いた拍手が送られる。

 

「やるな。さすがはオレの買った手だれだ。それ、毎回思うんだが、どうやって殺しているんだ? 警察には感電死だって分からないんだろ?」

 

 行商人の興味に少年は淡白に答える。

 

「教える義務、あるのか」

 

「いやぁ、ないさ。だってお互い様、企業秘密って奴だからな。ただ、これからやって行くんだ。おっかないのは無しにいこうぜ」

 

 少年は背中に担いだ死体を突き飛ばし、行商人へと転がしてやる。行商人は早速持ち物を検分し始めた。

 

「これこれ……ポケナビだ。連絡先が入っているはず。こいつらの上役にアクセスするのに、一つ得たわけだ」

 

 上機嫌の行商人に比して少年はどこまでも無口であった。

 

「なぁ、つまんなさそうな顔してんじゃねぇよ、アーロン」

 

「そんな顔をしていたか」

 

 呼ばれた少年――アーロンは旅人帽の鍔を下げる。

 

「お前さ、これからこの街でのし上がろうって言うんだから、もっと機嫌よくしろって。組んだ仲じゃないか」

 

 行商人の声音にアーロンは承服出来なかった。

 

「知らない。俺に、殺す以外に価値があるのか?」

 

「当たり前だろ? トップになったら、利益は半々、そう言ったじゃないか。やる気はどこに行ったんだよ」

 

「勝手に進めてくれ。俺は、先に宿に戻る」

 

 アーロンが身を翻す。行商人は後頭部を掻いてぽつりとこぼした。

 

「悪い奴じゃねぇんだがなぁ。ちょっとセンチになり過ぎだろ」

 

 行商人は死体から戦利品を漁るのに必死のようだった。

 



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第百三十話「過去の傷」

 

 客引きをする黄色い声の女達。

 

 けばけばしいネオンと据えたにおい。男と女のにおい。

 

 それらが渾然一体となった裏通りの景色が滲んで見える。アーロンは偏頭痛に襲われて壁に寄り添った。

 

 呼吸を整えて波導の眼を確認する。ネオンの波導、店の中で事を済ませている人々の波導。

 

 余計なものばかり見えてくる。

 

「大丈夫だ……。十秒数えれば……」

 

 深呼吸して十秒数える。すると、余計なものが入ってきた視界が幾分かクリアになった。

 

 この街は情報量が多い。波導の眼は要らぬ物さえも捉えてしまう。

 

 手招きする女達を無視してアーロンは一つの雑居ビルに入った。よろけた足取りでビルの二階に辿り着き、ドアを開ける。

 

 開け放たれた屋内ではヤクザもの達が寄り集まり、一人の女をいたぶっていた。

 

 女は全身に痣を作っており、半裸で寝転がっている。

 

「何だ、てめぇ――」

 

 近づいてきた下っ端をアーロンは波導切断でいなす。両脚の波導を切られた下っ端は無様に転がった。

 

「な、てめぇ! どこの組のもんだ!」

 

「……なぁ、イライラするんだよ。助けてくれないか」

 

 アーロンの声にヤクザ達が怪訝そうにする。

 

「クスリでもヤってんのか?」

 

「ガキの来る場所じゃねぇんだよ!」

 

 一人のヤクザが刀を手に取る。アーロンはピカチュウを繰り出した。それを見てヤクザ達が嘲る。

 

「ピカチュウだってよ! こいつぁ傑作だ! 殴り込みにピカチュウ使うヒットマンなんて居んのか?」

 

 嘲笑を浮かべるヤクザへと、アーロンは音もなく接近し、その首筋を掴んだ。

 

 直後、迸る悲鳴と叫び。

 

 ヤクザは膝から崩れ落ちる。それを目にしていた全員が固まっていた。

 

「な、何しやがったんだ!」

 

「殺した。それも分からないのか?」

 

 アーロンの態度に刀を持ったヤクザが斬りかかる。それをステップで回避して拳を顔面に叩き込んだ。跳ねた電流が男の神経を切断する。

 

 刀が宙を舞い、執務机に突き刺さった。

 

 男達が慌てて銃器を取り出す。アーロンは取り乱さず、一人、また一人と始末していった。

 

 男達は隙だらけだ。ワイヤーで首を吊ってやり、もう一人の銃撃の盾にする。首を吊った男をそのまま電撃でなぶり殺し、他の男達におっ被せた。

 

 血が滴り、床を濡らす。

 

 アーロンは血溜まりに手をついた。その瞬間、床を伝って全員の波導を読んで感電死させる。一気に静まり返った屋内でアーロンは血のにおいを肺に取り込んだ。

 

 死者の香り。朽ちていく人の感触。

 

 踵を返し、アーロンは事務所を出ようとした。

 

 その背中へと声がかけられる。

 

「あの! あなた、何者……」

 

 女であった。着崩したドレスを整えてこちらを見据えている。アーロンは短く答えた。

 

「波導使いだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ホトケが、ひぃ、ふぅ、みぃ……。こいつはカチコミか?」

 

 検分する警官の声に部下がメモを取っていた。

 

「小さな暴力団です。誰かが狙っていたとも思えない」

 

「じゃあ衝動的なもんだと?」

 

「にしては、全員、というのが気にかかりますね。オウミ警部。やはり、何かしら、事件が起こっているのでは?」

 

 オウミは煙草を取り出して火を点けた。

 

「んなもん、この街じゃ常習的だろうが。殺し屋か? だが、暴走した殺し屋なんて使う奴はいねぇ。こいつは、明らかに手綱を握られていない。手口も粗いし、素人だな」

 

「快楽犯でしょうか」

 

「快楽犯がわざわざ事務所に殴り込み? そいつは随分とキマってんな」

 

 笑い話にすると鑑識がやって来て早速見咎めた。

 

「オウミ警部! 現場で灰を落とすなと言ってるでしょう!」

 

 毎度の恨み言を聞き流し、オウミは現場から離れた。

 

「何か分かったんで?」

 

「いんや、何にも。ちょっと退屈してっから、何かあったら情報くれや」

 

「そういえば、子飼いの女が一人、生き残っていたそうですが、保護されました。話を聞きますか?」

 

「女の話なんていつだって湿っぽい。どうするべかなぁ……」

 

 オウミは紫煙をくゆらせながら考えを巡らせる。生き残りの女に話を聞いたところで、このような事務所の子飼いならばもう使い物にならない可能性もある。

 

「近くの駐在の警官が一応、話を聞いたそうです。今のところ、マトモ、との判断ですが」

 

「早目に話を聞いたほうがいい、ってわけかい。物騒だよな、おい」

 

「警官が手を出さないとも限りません」

 

「法治国家だろうが。どこまで爛れてやがんのかねぇ」

 

 オウミは仕方なく部下の示す番号に電話をかけた。

 

「ああ、もしもし? こっちは本庁の。うん、そう。そっちで預かっている女、こっちに護送してくれ。安全運転でな」

 

 アポを取り付け、オウミはため息をつく。

 

「女一人に話を聞くだけで安全運転か。アホみたいだな」

 



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第百三十一話「食い場荒らし」

 

 枕元のポケナビが鳴ったのでアーロンは眠りから叩き起こされた。

 

 カプセルホテルの内観は簡素で、眠れるスペース以外は何もない。ポケモンの回復は無料だったが、今時有料の場所のほうが少なかった。

 

「何だ?」

 

『何だ、じゃないぞ、アーロン。お前、昨日殺しをやったな?』

 

 行商人からの声だった。アーロンは額に手をやって応じる。

 

「だから? 証拠は残していない」

 

『証拠だとか、んな問題じゃねぇんだよ! お前が動くとこっちの商売に差し障るんだ! いい加減分かれ! 勝手に殺しをやっていいのが、殺し屋のラベルの意味じゃねぇんだぞ! 殺しは……』

 

「必要以上にするな、動くな、自分の言う以外の殺しは請け負うな」

 

 何度もそらんじた言葉だ。アーロンの声音に行商人は心底参ったように応じる。

 

『……分かっているなら頼むぜ、アーロン。渡りをつけるのだけでも必死なんだからよ。そういや、昨日の黒服の路地番、ホテルの奴らだったらしい。一応報告しておこうと思ってな』

 

「ホテル……」

 

『ホテルミーシャ。ここいら一帯を仕切っている、まぁマフィアみたいなもんだ。物好きなマフィア、ってだけなら脅威に挙がらないんだが、こいつらには黒い噂が絶えなくてな』

 

「どういう噂だ」

 

『何でも、叩き上げの軍人だとか、ジョウトやそこいらの派閥競争で勝ち進んだ連中で、元は退役軍人の集まりだって言う、噂だがおっかねぇな』

 

「殺せばいいのか」

 

『馬鹿。そう簡単にやらせてくれるかよ。お前はちょっと待機していろ。オレが話をつけてくる』

 

「じゃあどうすればいい? 俺は、何もせずにこの街を彷徨っていろとでも?」

 

『何もしない、のも殺し屋のスタンスの一つだよ。こっちのやり口に文句があるんなら、そっちだって気ぃ遣え。それくらい出来なきゃ殺し屋なんて名乗るな』

 

 一方的に通話が切られ、アーロンは嘆息をついて出かけの準備をしようとした。

 

 するとまたしてもコール音が響く。

 

「何だ。まだ何か?」

 

『お前、最近頭痛がするとか言っていたろ? 闇医者雇っておいた。そいつのところに今日は行け。予約は取ってあるから、オレの名前を出せばいい』

 

 このところ続いている偏頭痛と波導の眼の衰え。それが仕事に差し支えるとの判断だろう。アーロンも、気にはなっていたが普通の人間に波導は相談出来ない。

 

「そいつは……波導に関しての知識はあるのか?」

 

『あるから雇ったんだよ。光栄に思えよ? 波導なんて、そんなマユツバを通したんだから』

 

「恩に着る」

 

 言葉だけの謝辞を述べてアーロンは通話を切った。メールで位置情報が送られてくる。

 

 カプセルホテルを出るとビジネスマン達が表通りを埋め尽くさんばかりに歩いていた。ヤマブキシティは表向き首都だ。それなりに経済が活発である。

 

 ――自分がかつていた草原とは、正反対だ。

 

 青い闇を払いたくって何もない場所に赴いた。そこで自分を変える出会いがあった。

 

 人の波。波導の集合体。一種の群体のように映る。

 

 人間という集団が波打ち際のように一定のパターンを持って存在する事がアーロンからしてみれば驚きだった。

 

 彼ら彼女らは、人が死のうが生きようが会社に行き、業務をこなし、その日一日を労って晩酌する。多くがそういう風に出来ている。

 

 だが、自分は違った。

 

 裏に生き、裏に死ぬ。

 

 それしか出来ない。その生き方しか知らない。

 

「どうやったところで、俺は、これ以上マトモにはなれない」

 

 呟いて指示されたビルを仰いだ。廃ビルのような場所で一階層はテナント募集が出ている。

 

 入るなり埃っぽい空気に咳き込んだ。

 

 どうやら掃除もまともにされていないらしい。二階に上がるとようやく人の気配を感じた。感知したのは四人分の波導だ。

 

 扉を開けると診察用のベッドの上で男女が絡み合っていた。

 

 カーテンが引かれていてまともには見えないが、明らかに男と女の情事であった。

 

 喘ぎ声が漏れ聞こえる中、一人の老人が診察台で待ち構えていた。老人はアーロンを認めるなり、眉を上げる。

 

「若いな」

 

 それが第一声であった。殺し屋に若いも何もあるものか、とアーロンは感じる。

 

「予約は、サガラ、で入っているはずだ」

 

「ああ。窺っているよ。それで、お前さん、波導の眼を持っているんだって?」

 

 いつまでも椅子に腰かけないアーロンに老人は悟ったように笑みを浮かべる。

 

「何だ? 気になるのか。初心な暗殺者だな」

 

「別に。ただ、こんな場所でまともな神経を持っていないことくらいは分かった」

 

 同時に波導の患者を請け負った意味もある程度理解出来た。腰かけると、老人は自嘲気味に口にする。

 

「ワシが、イカレているとでも思ったのだろう?」

 

「そうでないのか?」

 

「逆だよ、間抜け。イカレちゃ、この商売お終いだ」

 

 こちらも意に介さず老人は煙草を吸い始めた。アーロンは胡乱そうにする。

 

 本当に、この老人は医者なのか。窺う視線を感じ取ったのか、老人は眉根を寄せていた。

 

「人の事ジロジロ見てんじゃないぞ、若い殺し屋。ワシが医者ではないとでも思ったか? 医師免許はきっちり持っておる」

 

「持っていても、モグリじゃ意味がない」

 

 返した声に老人は喉の奥で笑った。

 

「違いないな。名乗ろう。カヤノだ。お前の担当医に雇われた」

 

 女が達する声が甲高く響いた。アーロンは短く名乗る。

 

「波導使い、アーロンだ」

 

「アーロン、ね。それ、本名じゃないだろ」

 

 喋ったのか、と勘繰ったがカヤノはすぐさま否定する。

 

「ああ、雇い主が喋ったわけじゃない。ただ、この界隈では有名だ。波導使いの一門、アーロン。代々、その名を襲名するのは波導の素養を認められた人間だけ。殺し屋だった、って情報はないが、波導使いっていう奴らがいるのは知っている」

 

「それほど、表立った動きはしていないが」

 

「静かに動いたところで、この街じゃ筒抜けなんだよ。死因不明のホトケが数体、出来上がっている。あれ、お前のなんだろ?」

 

 何が目的なのか。アーロンは警戒する。

 

「脅しか?」

 

「殺し屋相手に脅しなんて通用するかよ。事実関係の確認だ。波導で人が殺せるのか?」

 

 どこまで話すべきか、とアーロンは迷った。全てを話せば、この老人は自分を見限る可能性もある。

 

「疑っているのか?」

 

「滅相もない。言ったろ? 事実関係の確認だと。殺しをするのには、ちと若い。それだけ気になっただけだよ」

 

「波導で人は死ぬ。それだけだ」

 

 こちらも淡白に返してやるとカヤノは口角を吊り上げた。

 

「病状は聞いている。偏頭痛に、眩暈だったか? それに、正体不明の苛立ち、情緒不安定。まずはこれだ」

 

 取り出されたのは水であった。怪訝そうに聞き返す。

 

「これは?」

 

「内部の層が違う水だ。波導の眼で見てみろ。色を上から順に当てたら合格だ」

 

 嘗めているのか、とアーロンは波導の眼を使う。

 

「上から、オレンジ、緑、黄色、赤、だ」

 

 波導の眼を使わなければただの水にしか見えない。そういう仕掛けがあるという事に、まず驚いた。

 

 カヤノは目を見開き得心する。

 

「なるほどな。嘘じゃないのは分かった」

 

「俺が波導使いじゃないとでも?」

 

「まぁ雇い主が雇い主だ。ちょっとテストしたかったのもある」

 

「……それほどに、俺の雇い主は有名か」

 

「一部では、な。強欲商人サガラ。ガキを買い取って殺し屋に仕立て上げるって言う、そういう方面では名のある奴だ」

 

 間違っていないのでアーロンは訂正を促す事もない。ただ、あまり名が売れれば面倒だと言っていたのはサガラのほうだ。これでは意味がないと感じる。

 

「俺はガキじゃない」

 

 代わりのように発した言葉にカヤノはフッと笑った。

 

「一端の殺し屋のつもりか? だが、ちょっと迂闊だな」

 

 何が、と判じる前にカーテンの向こうに殺気を感知する。咄嗟に飛び退りその一撃を避けた。

 

 銃弾が先ほどまでいた場所を貫いている。アーロンは即座にピカチュウを繰り出し、電気ワイヤーで絡め取った。裸体の女の首筋をひねり上げる。男も立ち上がり、アーロンへと照準していた。

 

「……末端構成員か」

 

「お前が波導使い、アーロンだな。確認は取ったぞ」

 

「何のだ? 殺す確認か? そんなものを取っている暇に、お前らは死ぬ」

 

 殺気立ったアーロンが女をくびり殺そうとする。その時、手が叩かれた。

 

 奥まった部屋から一人の少女と、がっしりとした体躯の男が現れる。

 

 アンバランスな取り揃えにアーロンは睨み据えた。

 

「何者だ」

 

「何者、とは心外ね。わたくし達の縄張りを知りもしない、殺人狂が」

 

 声を発した少女はまだ五歳にも満たないだろう。だというのにこの場を支配している実行力が窺えた。

 

「殺人狂、だと……? 貴様らも、俺を張っていたのか」

 

「勘違いも甚だしい事ね。自分を中心に世界が回っているとでも思っているのかしら?」

 

 アーロンは電気ワイヤーに力を込める。その段になってカヤノが立ち上がった。

 

「ヤメだ、ヤメ。お前ら、医者で死人を出すつもりか?」

 

 カヤノの声に男が拳銃を下げ、少女が片手を上げた。それだけで了承が取れたように殺気が凪いでいく。

 

「これは失礼したわ。カヤノ医師。何分、礼節も知らない獣が迷い込んだもので。わたくし達ホテルとしてはしつけを施したいから」

 

「ホテル? ホテルミーシャか」

 

 サガラの言っていたこの街を実効支配する勢力だ。それが目の前にいるというのか。

 

「あら、知っていてこの縄張りに手を出したんだとしたらとんだグズね。あなた、本当に、ゴミクズの資格があるわ」

 

 少女はまるで超越者のように言葉を発する。それが気に食わず、アーロンはもう一本の電気ワイヤーを繰った。

 

「死にたいのか、ガキ」

 

「同じようなガキに言われるのは、どこか間が抜けているわね」

 

 ワイヤーを向けようとして締め上げられていた女が拳銃を自分のこめかみに当てる。

 

「わたくしが死ねと言えば、彼女は死ぬわ」

 

「だから、何だ?」

 

「鈍いのね。それくらいの力がある、と言っているのよ、わたくしの一言には。他者の縄張りで喰い合いをするのは殺し屋として三流とは教わっていないのかしら?」

 

 アーロンは暫時、本気かどうかを窺った。波導を読めば本気かどうかが分かる。女は絶対の忠誠を少女に誓っているようだった。その行動に迷いがない。

 

 アーロンは電気ワイヤーを解く。カヤノが頭を振った。

 

「約束では、この殺し屋が本物かどうかの見極めのはずだよな? ホテルのボス。死人を出さない、っていう取り決めだった」

 

「わたくしだって、死人を出すような取引はしていないわ。ただこっちも、見極めには本気を出さざるを得なかった」

 

 カヤノがため息をつき、困ったように後頭部を掻いた。

 

「まぁ、何だ。お前がここ最近頻発する、食い場荒らしかどうかの確認が欲しかったんだよ。それでホテルが動いた」

 

「食い場荒らし……」

 

「あなた、縄張りも何も関係なく、人を殺して回っているでしょう? それだとヤマブキシティでは下の下、ルールも分からない素人だって言っているのよ」

 

 それの何が悪いのか。自分はサガラに命じられて殺しを遂行しているだけだ。アーロンは顎をしゃくる。

 

「貴様らと違うまい」

 

「いいえ、あなたのやっている事はね、クズ、というのよ。死体漁り、骸転がし、色々と言われているわよ、裏では。ヒステリックとでも」

 

 アーロンは眉根を寄せる。そのような下賎な事をしているつもりはなかった。

 

「俺は殺すべき奴だけを、殺しているつもりだ」

 

「だったら、カヤノ医師には罹らないでしょう? イライラしているんですってね、波導使いアーロン」

 

「それがどうした?」

 

 ラブリはフッと微笑み、撫でるような声で口にする。

 

「解放してあげるわ。あなたの、その苦しみから」

 

 この地獄のような連鎖を終わらせるだと? 不可能だ。

 

「俺は、誰に命じられているわけでもない」

 

「それが厄介だって言っているのよ。強欲商人サガラを潰せば、あなたも共倒れってわけじゃないのがね。正直、強欲商人を殺すだけの案件ならば、我がホテルが動いていないわけがない。サガラはわたくしと、もう一人のこの街の支配者に楯突こうとしている。それにあなたは利用されているだけ。いいように転がされて、あなた、もしもの時に切り捨てられるわよ? サガラはそれも計算済みで、あなたみたいなのを使っている。元々、子供をにわか仕込みで殺し屋に仕立て上げるような奴。まともな神経のはずがない」

 

「五歳児に言われるとはな」

 

 アーロンがラブリを見下すと彼女は威厳たっぷりに声にする。

 

「軍曹。わたくしが、ただの五歳児に見えるそうよ。この子」

 

「それは、見る目がない、と判断しますね」

 

 軍曹と呼ばれた厳つい男は少女に寄り添っている。まるで美女と野獣だ。

 

「貴様ら、何だ? 俺に何の用がある」

 

「あなた、このまま切られるのは惜しい、ってわたくしは判断したのよ。カヤノ医師から話を聞いて、面白い、とも思った。今までの、使い捨てじゃない感じがしてね」

 

 使い捨て、という言葉にアーロンは眉を上げる。サガラがこれまで自分のような人間を使ってきた事があるのか。問い質そうとして、駒には不必要な感情だ、と切り離す。

 

「俺を買っている、と言いたいのか」

 

「直訳では。ただ、今のままじゃあなた、下の下よ。最悪。ゴミの中のゴミクズ。最底辺の殺し屋」

 

「おい、ホテルのボス。あんまり挑発すんな。ここは医者だ。殺しの戦場じゃねぇ」

 

 カヤノがいさめるとラブリは肩を竦めた。

 

「失礼。あまりにも、ケダモノだったから。これくらい言ってあげないと分からないのと思って」

 

「馬鹿にしているのか」

 

「馬鹿にされるような顔と仕事振りをしているからよ。この街では、一流の殺し屋には一流の賛美がついて回る。でもあなた、イライラして人を殺して、それで飼い主である人間のご機嫌を窺って、悔しくないの?」

 

 悔しい? アーロンは問いかける。

 

 自分は、悔しいのか? サガラに、文句でもあるのか。

 

 ――否。

 

 アーロンは断じる。今の境遇に不都合もない。サガラの支配から逃れたいとも思っていない。ただ、あの男が下衆だと、思う時はある。だが、下衆だから噛み付きたいと思っているわけではないのだ。

 

「俺は、狩れと言われれば従う。まかり間違っても奴の子飼いだ。噛み付きはしない」

 

「変なところで律儀なのね。義を通すのならばもっと上等な相手がいるものだと思うけれど」

 

「殺し屋使いに、上等も下賎もあるものか」

 

 その言葉にカヤノがぷっと吹き出す。ラブリも口元に手をやって笑った。その様子が我慢ならず、アーロンは睨み据える。ピカチュウが青白い電流を弾けさせた。

 

「……失礼。だってあまりにも……求めるものの少ないのね、あなた」

 

「殺し屋に、求めるものが多い奴は嫌われる」

 

「プライドもない。どこで、見落としてきたのかしら? あなたほどの使い手ならば、それは当然、師範に当たる人間がいるはずよね? その人間は教育しなかったのかしら? あなたが一端の殺し屋になれるように。これじゃ、言ってもよくて殺人鬼よ」

 

 殺人鬼。自分がそのように呼ばれているなど思いもしなかった。

 

「俺は、殺人鬼じゃない」

 

「いいえ、そうなのよ、実際。あなたの存在そのものが、災厄のようなもの。ヤマブキと言う街にそぐわない、三流の殺し屋」

 

「喧嘩を売っているのか?」

 

「まさか。あなたの価値を問い質している。こう言えば分かりやすい? あなたに相応しいステージがある。そこに上らなければ、あなた、このまま底辺を這いずっていくだけ。わたくしはチャンスを与えている」

 

 五歳児が何を言うのだろう。アーロンは正気を問いかけたが、付き従う軍曹も、カヤノも本気のようだった。

 

 本気で、この少女にそれだけの力があるのだと思っている。

 

 おめでたい、と罵るよりも、この街の歪さが形状を伴って出現しているように思えた。

 

 この少女のような、まだ遊びにうつつを抜かすような年齢の子供が、この街の運命を担っている。それだけでも冗談の類だが、殊更冗談とも思えないのは、彼女の放つ気迫であった。

 

 ラブリから放たれるそれは、王者の気品だ。

 

 超越者のみが持つ事を許される特権。上り詰めた人間だけが口にする事を許可される言葉遣い。

 

 彼女は頂上の景色を知っている人間であった。それは自分のような殺し屋でも分かる。

 

 自分のような、度し難く弱い存在でも、頂点の人間は理解出来る。

 

「……会えば変わると言うのか」

 

「あら、興味が湧いてきたの?」

 

「少しばかりは、意味があるのかと」

 

「賢明、とまではいかないけれど、ようやく一般のラインに立てたじゃない。その存在に会えば、あなたにだって少しは分かる。この世界で、極めるという事がどういう事なのか。何を捨ててでも、頂上に立つ事が出来るのか」

 

「お前らは、俺を何にしたい? ただの殺し屋だ」

 

「今のままでは、ただの、というのも怪しいけれど。でも、波導使いという逸材を、このまま朽ちさせるのは惜しいと感じているだけよ。わたくしも、そいつもね」

 

 ようやくその段になって殺気を仕舞えた。もうラブリには敵対する感情はない。

 

「勘弁願うぞ。医者で人死になんて出すなよ」

 

「失敬したわね、カヤノ医師。ここまで粗暴だとは、思いもしなかった」

 

 くすくすと笑うラブリにアーロンは問い詰める。

 

「で? どこにいる?」

 

「あなたは餌をあげると言ったら数秒の間にあげないと忘れてしまう癖でもあるの? そう急く事はないわ。この街で戦うのならば、彼と一戦交えない事には話は始まらない」

 

「彼?」

 

 男なのか、と勘繰ったところラブリは意味深な笑みを浮かべるばかりだ。

 

「こればっかりは、会ってみないと分からないかもね」

 

 ラブリが通信機器を取り出す。未だカントーでは普及率の低い外国産の通信端末だ。確かホロキャスターと言ったか。

 

 立体映像が投射され、声が漏れ聞こえた。

 

『面白いやり取りを拝聴させてもらったよ』

 

 男の声だ。その声音にアーロンは歯噛みする。

 

「聞かれていたのか」

 

「これも交渉の一つでね。あなたが戦闘時、どういう風なのか知りたいって」

 

『悪くは思わないでくれ、若き波導使い。わたしも、君がどういう人柄なのか、てらいのない部分で知りたくってね』

 

「最初に名乗ったほうがいいんじゃない?」

 

 ラブリの提言にようやく、と言った様子で通話口の相手が笑った。

 

『これは失敬。わたしの名前はハムエッグ。盟主、という座を取らせてもらっている。ハムエッグだ』

 



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第百三十ニ話「殺人鬼」

 

 カヤノの診療所で聞いたのはハムエッグなる人物が自分に会いたがっている事だった。

 

 これを外部に漏らすな、という言伝もない。アーロンは自分の飼い主にどう説明するべきか決めあぐねていた。もし、ハムエッグが強欲商人サガラと敵対するのならば、これは自分の胸の内だけで留めておくのが順当だろう。

 

「どうした? しかめっ面して。お前、相変わらず可愛くねぇな、アーロン」

 

「可愛がられたくって、やっている商売じゃないんでね」

 

「違いない。なぁ、そっちはどう思うよ?」

 

 サガラが顎をしゃくった先には自分によって制圧された一組織の構成員達がいた。全員が無様に地面に寝転がっており、その表情は苦悶に歪んでいた。

 

「て、てめぇ! サガラ! 商談じゃねぇのかよ!」

 

「ああ、商談さ。ただ、オレのほうが強いってだけの話」

 

 サガラは組織の中でも頭目に近い相手へと歩み寄る。スキンヘッドの男はサガラを睨み上げた。

 

「てめぇ! 交渉じゃねぇだろ! こんなもん、無理やりだ!」

 

「そうだよ、オレは元々、そういう性質でね。お前らヤクザものと、張り合う気はないんだ」

 

「ガキを仕込むのだけは、てめぇ上々だと思って放っておけばつけ上がりやがって……! 殺し屋を飼育しているだけでいいんだよ、お前みたいなのはよォ!」

 

「生憎と飼育係って暇でね。暇だと色々考えちまう。こいつの下で、いつまでも生き物係をしているのは果たして得策かどうかって」

 

 指示されてアーロンが頭目の頭を掴み上げる。うろたえた頭目が声を発した。

 

「待て、待て待て、お前。本気なのか? こっちの頭潰したところで、てめぇ、追われるだけだぜ? 何せ、ホテルにもう喧嘩売っちまっているんだから」

 

 ホテル、という言葉にアーロンが僅かに眉を跳ねさせる。しかしサガラは気にも留めない。

 

「ホテルも、いずれ潰す対象だよ。あんなもん、にわか仕込みのガキでも行けるさ」

 

「……過信だな、サガラよォ。ホテルを侮るな。それに、この街にゃもう一匹居やがるんだぜ。怪物がよォ……」

 

 怪物。その言葉に自然とハムエッグと名乗った超越者が思い起こされる。

 

 ――君の価値を問い質したい。

 

 言葉が蘇った。ハムエッグはただ一つだけ言った。

 

 自分に会いに来れば変わる、と。

 

 簡潔でありながら力のある声であったな、と今さら感じる。

 

「怪物恐れているんじゃ、怪物は育てられないっての。こいつは怪物になるぜぇ……。それこそ、ホテルも、何もかもを潰しかねない、怪物によ」

 

 サガラが唇を舐める。頭目が声を張り上げた。

 

「分も弁えねぇ、三下が、のし上がれるほど甘くねぇって言ってんだよ! こいつ一匹育て上げたところで、てめぇ破滅だぞ! ホテルとハムエッグを敵に回したんならなぁ! お前の行く先は――」

 

「うるさいな、こいつ。殺していいか?」

 

「ああ、やっちまえ」

 

 頭目の喉から断末魔が迸る。アーロンは頭目から手を離した。焼け焦げた粘膜から黒煙が棚引いている。

 

「次は誰だ?」

 

 アーロンの声音に突っ伏した人々がめいめいに許しを乞うた。しかし、サガラは冷徹に命じる。

 

「一人一人、分を弁えさせて殺せ。なぶるようにな」

 

 首肯し、アーロンは次の獲物へと向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ものの数十分ほどで死体の山が出来上がった。

 

 サガラは何者かに電話している。節々に聞こえる文句からそれが警察関係者であるのが分かった。

 

「ああ、てめぇに仕事やるって言ってんだよ」

 

『ざけんな、強欲商人サガラさんよぉ……。てめぇの子飼い、ちっとばかし勝手が過ぎるんじゃねぇか? 身元不明のホトケ何人も挙げてっと、不自然だと思われるんだって分かれ。この間も組に押し入ったんだぞ、そいつぁ……。不可侵条約なんてまるで無視だ! 手綱握ってんだろうな?』

 

「無論だって。旧知の仲だろう、オウミ。お前がそこにいるのも、オレの弾んだ賄賂のお陰なんだぜ」

 

 金をちらつかせる。この男の常套句だった。

 

 通話口のオウミなる人物は舌打ちする。

 

『何人やった?』

 

「ざっと十五人、ってところだ。どこまで内々に処理出来る?」

 

『まっ、五人くらいだな。後は事故死に偽装しろよ。こっちだってな、暇じゃねぇんだ』

 

「仕事与えてやってんだろうが」

 

『余計な仕事はサビ残も出ねぇんだよ、馬鹿野郎が。いいか? 事故死に見えるようにやれ。車や業者の伝手はてめぇで揃えろ。それくらい出来なくて何が強欲商人だ』

 

 一方的に通話が切られ、サガラは悪態をついた。

 

「あの悪徳警官が。組織でのし上がりたいのはお互い様だろうに……」

 

 ぼやくサガラにアーロンは問いかけた。

 

「どうするんだ?」

 

「バラバラにして捨てようにも、奴さん、そういう面倒なのは後々の処理が大変なんだとよ。仕方ねぇからバンに押し込んで、業者に頼んで流してもらうしかねぇな」

 

 業者と流し、という言葉はこの業界に入ってから覚えた。

 

 業者は死体遺棄を専門にする連中の事だ。流し、とは自然な形で死体が見つかるように偽装する事をいう。元々、水死体専門でやっていたからその名が通ったらしい。

 

「おい、アーロン。ずらかるぞ。いつまでもいたら、怖い刑事にこれだ」

 

 手錠を下げる真似をするサガラにアーロンは尋ねていた。

 

「なぁ、自分が操られるっていう、感覚はないのか? 例えば……」

 

 アーロンは思い返す。ラブリの超然とした佇まいを。彼女の前では、強欲商人サガラなど羽虫なのではないかと思わせられる。

 

 その言葉尻を感じ取ったのか、サガラは高圧的に振り返った。

 

「……何が言いたい?」

 

「自分より高次の存在がいて、そいつの掌の上で踊っているんじゃないかって、危惧は」

 

 続けようとした言葉は張り手に遮られた。頬を張られるのは一回や二回ではないのでアーロンは慣れていたが、この度に思う。

 

 ――師父は本当に大切な時以外、自分を殴らなかったな。

 

「道具が文句言ってんじゃねぇよ。てめぇなんて、オレがいなけりゃ路傍の石だ。いんや、それ以下だ。野垂れ死にたくなきゃ頭使え、頭」

 

 アーロンは考える。

 

 この男を今、殺せばホテルの連中やハムエッグに褒めそやされるのだろうか。よくやったと言われるのだろうか。

 

 ――否、と感じる。

 

 この男を殺したところで、自分の価値は変わらない。まずは決断する事だ。

 

 ハムエッグに会うか、会わないか。

 

 それだけでも自分の意思で決めるべきだった。

 

 サガラが煙草を吹かそうとすると、曇天から雨が滴ってきた。

 

「しけって来やがった。てめぇみたいに、陰険な雲だぜ、アーロン。ったく、使う側の神経も考えろっての」

 

 この男の下で、いつまでも働いていていいのだろうか。アーロンの逡巡を感じ取ったのか、ピカチュウが頬袋から電流を放出する。

 

 いつでも、殺そうと思えば殺せる。

 

 だというのに、自分は何故、この男に逆らわない? 

 

 自分でも分からない感情だった。

 

 サガラに従い、その場を後にする。きっと業者が来れば、この場所で殺しがあった事など、まるで分からないほど掃除される事だろう。

 

「この世で速いものの順位を教えてやるよ。宅配ピザと新聞と週刊誌だ。こいつらが三位までを独占している。四位に殺人業者が来る。オレ達はせめて、一位の宅配ピザにでもあやかろうじゃねぇの」

 

 その日の昼食は言葉通りピザだったが、アーロンは味を感じなかった。

 

 この仕事についてから味を感じた事など一度もなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 サガラと別れてからアーロンの中に溜まっていくのは砂粒のような細やかなものであったが、それが時折、目詰まりを起こす。

 

 その結果、偏頭痛と苛立ちが起こるのだ。

 

 薬をもらってはいたが、カヤノがそれ以上に言付けたのはラブリの言葉の補強だった。

 

 ――まぁ、ワシに言えた義理じゃないがな。自分の立ち位置は自分で決めろよ、波導使い。

 

「……どうやって決めろって言うんだよ」

 

 頭痛薬をミネラルウォーターで無理やり流し込み、アーロンは繰り返す。

 

 殺さなくては。

 

 殺して、胸の内をすっきりさせるのだ。一種の儀式でもあった。

 

 行き会った人間は不幸にも死ぬ。それだけだ。

 

 ――災厄に近い。

 

 ラブリに評されたのを思い出す。殺人鬼だと。

 

 頭痛と一緒こたになって、ラブリの言葉とカヤノの言葉が連鎖した。頭蓋で喧しく声を張り上げる。

 

「……自分で考えろだって? だったら、お前ら、この怒りが分かるって言うのか?」

 

 目に付いたのは歳若いアベックだった。アーロンは覚えずその二人の後を追っていた。

 

 裏路地なんかに入って、まともな人間が何をするというのだろう。自分達のような人でなしの領域だ。踏み入れば死を意味する。それも分からずして、この二人は十数年、生きていたというのだろうか。

 

 唇を交し合う二人にアーロンが歩み寄る。

 

 背後に至ってようやく、男のほうが気づいた。

 

「何だ、お前……」

 

 放たれる前に、頭部を引っ掴んで電撃を流す。悲鳴も一瞬、男は沈黙した。

 

 次は女だ、とアーロンが殺しの矛先を向けようとする。一歩も動けなくなっている女の顔に浮かんでいたのは驚愕であった。この世の悪に行き会った不幸を、まだ認識出来ていない、呆然とした顔。

 

 厚塗りの化粧を引き剥がしたい衝動に駆られる。

 

 アーロンはまず、髪を引っ掴んだ。すぐに殺しはしない。引きずって髪を散り散りになるまで焼いてから、次いで顔面の表層をじっくりと焼こうと思った。

 

 そうしなければ、自分の中の膿が取れない。膿は溜まっていく。砂粒のように細かいのに、目詰まりするせいだ。この男女は自分の、ほんのささやかな目詰まりによって殺される哀れな子羊。

 

 泣き喚く女の喉笛を掻っ切ってやればきっと赤い赤い鮮血が流れる事だろう。電気メスを使用して、その喉を掻っ捌こうとした。その時である。

 

「やれやれ。見ていられないな」

 

 誰かが裏路地の入り口に佇んでいた。いつから見られていたのだろう。アーロンは攻撃姿勢に移る。

 

「お前、見ていたのか」

 

「見ていたも何も、君は軽率だ。スナック感覚で殺し過ぎだよ、波導使いアーロン」

 

 アーロンは舌打ちする。また殺す対象物が増えた。

 

「……ああ、イライラする。お前らみたいなのを見ていると、殺したくって仕方がない」

 

「幸福の渇望かい? まぁ、君の心理状態が危ういのはカヤノ医師から説明を聞いていたからある程度は察するが……。ここまでやるともう病気だね。イライラするんだろう? 来るといい。この世が簡単に出来ていないのがよく分かる」

 

 歩み出たのは小さな人影だった。またしても、五歳児にも満たないほどの、少女。

 

 ――嘗められているのか。

 

 アーロンの思考にあったのはそれだけだった。自分を侮っているとしか思えない。

 

 女を捨て、アーロンは飛びかかろうとした。電気ワイヤーを両手に保持し、殺しの姿勢を取る。

 

「イライラするんだよ……。何もかもが」

 

「ちょっとの間だけでも忘れさせてあげよう。ラピス、いいね? 殺すんじゃないよ」

 

「うん。でも、難しいかな。腕の一本は」

 

「不可抗力だね」

 

 アーロンは跳躍した。獣のように吼えて、ワイヤーを投げる。いつものように標的を仕留めようとする。

 

 その瞬間、視界が白に染まった。

 



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第百三十三話「血濡れの道」

 

 考えてはいた。

 

 殺し、殺されの世界以外で生きる術を。

 

 だが、思いつかなかった。

 

 師父は何も教えてくれなかった。あの日、行ってしまった師父の背中を誰よりも追い求めていたのは自分自身だ。指針が欲しかったのに、師父は軽蔑だけを投げて消えてしまった。

 

 ――どうして、最後まで面倒を看てくれなかったのか。

 

 いつもそうだ、と感じる。

 

 自分の愛した人は、どうしていつも、勝手に消えてしまうのだ。

 

 歪んだ愛でもよかった。それが歪で、暴力という形でしか発揮されなくともよかったのに。

 

 消えられてしまえば、自分は何も言えないではないか。

 

 文句を言おうとしてもその背中がないのでは、どうしようもない。泣き喚こうが、吼えようが、足掻こうが何もかも、意味がない。

 

 波導使いは孤独だ、と師父は言っていた。

 

 こういう事なのか。

 

 波導使いは、こうして孤独を深め死んでいくというのか。結晶化の話が思い起こされる。

 

 自分は誰にも見初められる事もなく、いつかは結晶化して死んでいく。

 

 絶対の孤独。海の底のようにすがるものもない。

 

 泣き出したくなっても泣く事さえも許されない。自分は強くあらなくはならないのだ。そのために、余計なものは全て捨ててきた。

 

 本当の名前も、師父との思い出も、大切なものも、人間としての価値観も。

 

 生きるためなら何でもする。泥でも被る。人を殺めるのも容易い。

 

 血濡れになった掌を目にして叫び出したくなる夜があった。

 

 事切れて、人形のように突っ伏す人間の後頭部をずっと目にしていると気が狂いそうになった。

 

 人を殺す度、自分には何もないのが分かった。

 

 彼らは遺すものがある。何かを、次に遺そうとする。だが、奪う側の自分には何もない。

 

 虚無だ。

 

 波導という力だけを誇示する虚無。

 

 それが自分だ。何もない空洞の心が悲鳴を上げる。がらんどうの胸が、声にならない叫びを発する。

 

 ――ここから出して。

 

 ――こんな暗いところは嫌だ。

 

 いつの間にか、涙する自分を切り離す術を心得ていた。泣かれて叱責されている自分。何もないと思っていた、波導使いになる前の自分自身。

 

 馬鹿だな、とアーロンは口にする。

 

 お前は満たされているだろうに。まだ両親がいるじゃないか。まだ、泣けるじゃないか。

 

 旅人帽の鍔を目深に被ってアーロンは咽び泣く子供から踵を返した。

 

 泣け。泣き喚け。

 

 それが、お前に許された特権なのだ。

 

 お前は、泣く事しか出来ないのだ。自分は違う。

 

 泣く代わりに人を殺せる。人を殺して、涙の代わりに血を流す。

 

 戦場で流れる血の分だけ泣け。殺し、殺される世界を知る前に存分に泣くといい。

 

 どうせ、泣けもしない。そういう夜が訪れる。

 

 ――泣けよ、殺し屋未満。お前と俺とは違う。

 

 アーロンが歩み出ようとしたところで声が投げられた。

 

「しかしそれは、自分を切り売りするのと何が違う?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 問われて、アーロンは目を覚ます。

 

 記憶にない場所だった。木目調の天井で換気扇が回っている。

 

 暖色のライトが点けられており、これも夢なのではないか。とアーロンは目をしばたたく。

 

「起きたか」

 

 その声にアーロンは即座に攻撃に転じようとして、手近なところにピカチュウがいないのに気づく。

 

「悪いね。ピカチュウはここだ」

 

 示されたのは回復システムだった。回復中の文字が点滅している。

 

「随分と無茶をさせてきたらしい。ピカチュウのPPも体力もレッドゾーンだった。回復に時間がかかる」

 

 それよりも、アーロンは先ほどから同じ調子で語りかけてくるその対象に目が行っていた。

 

 大振りな身体。ピンク色の肉体を押し込めているのは紳士服だ。ご丁寧に赤い蝶ネクタイをつけているそれは――人間ではなかった。

 

「ポケモン……」

 

 アーロンのこぼした声にその巨躯のポケモンが恰幅を揺らす。

 

「知らないのかい? 世の果てではポケモンが人語を喋る」

 

 長大な舌を出したポケモンが流暢に人の言葉を操る。真っ先に自分の正気を疑った。

 

「心配しなくっていい。ラピスに一時的に昏倒させただけだ。君も筋がいいから、致命傷を避けた。真に実力の拮抗する殺し屋同士ではその殺し合いに時間がかかってしまう。君をここまで連れてくるのに苦労したよ。関係各所の揉み消し、それに警察勢力への情報統制。死んだアベックの片割れにはきっちりと金を積んでおいた。まぁ、義憤の精神に駆られでもしない限り、君の身柄は割れまい」

 

 どういうつもりなのだ? このポケモンは、どうしてそこまでする?

 

「……何者だ?」

 

「声で分からないか。無理もない。君は、いつだって緊迫しているから」

 

 そう言われてようやく自分の記憶の中の声と合致した。この声の持ち主は――。

 

「盟主、ハムエッグ……」

 

 何という事だ。この街の盟主と言われてきた人物は人ではなかった。人外の相手にアーロンは面食らう。こちらの驚愕を悟ったのか、ハムエッグは落ち着き払っていた。アーロンを目にして一杯のグラスを差し出す。

 

 水が入っていた。

 

 毒がないかを波導の眼で精査しようとして眩暈を覚える。目元を押さえたアーロンハムエッグは言いやった。

 

「言っただろう。無理をし過ぎだ、と。波導の眼も、そう何度も使えるものじゃない。波導は無限のものでもないはずだ」

 

「俺の事を、調べて……」

 

「そこまで詳しくは。ただ、ホテルのボスが注目している人物だ。噂は入ってくる。殺人鬼だと」

 

「俺は、殺人鬼じゃない」

 

「口で言うは容易いさ。だがね、君を保護したあの現場を見れば分かる。君は殺しに、逃げ場を求めていた」

 

 逃げ場。そう言われてしまえばアーロンは二の句を継げなくなった。これは仕事だ、と言い返してもよかったのだが、胸を張れる仕事ではない。

 

「……殺しが逃避だとでも?」

 

「わたしの見た限りでは、ね。君のやっている事は殺しという災害のようなものだ。殺し屋のそれとは、全く違う」

 

 それは暗に自分の存在を否定されているようで腹が立った。このポケモンの隙を突いて波導を切断出来ないか、と周囲に目線を配る。

 

 その時、カウンターからちょこんと顔を出した少女と目が合った。

 

 緑色の髪に星空を内包したような眼をしている。あの時、自分の前に立ち塞がった少女だ。

 

「自己紹介が遅れたね。彼女はラピス。ラピス・ラズリ。わたしの育て上げた、一級の殺し屋だ。まだ実績は少ないが、一部では二つ名をいただいている。スノウドロップ、と」

 

「花言葉は〝あなたの死を望みます〟か、悪趣味な」

 

「そうでもないさ。殺し屋にはピッタリのネーミングだよ」

 

 ラピスと呼ばれた少女はじっとこちらを窺っている。この状態でハムエッグを殺すのは難しいだろう。

 

「それで、俺をどうしたい? 保護、と言ったが俺は何にも頼んでいない」

 

「わたしも君に興味が出ていてね。出来れば二人っきりで話したいんだが、安全のためにラピスには同伴してもらう」

 

「殺し屋がいなくては話せないような内容なのか」

 

「殺し屋相手に何も仕込まないほど、慢心はしていないと言って欲しいな」

 

 ラピスは抑止力というわけか。アーロンは息をつき、ハムエッグを睨んだ。

 

「どこまで、本気なんだ?」

 

「君に興味が出た、という事かい? それとも、わたしがこの街の盟主だという事でも?」

 

 両方だが、アーロンにとって重要なのは前者だ。

 

「俺は強欲商人、サガラの子飼い。所詮、三下の殺し屋だ。どうして、お前のような奴が接触してくる」

 

「ふむ……ちょっとばかし、君は軽率が過ぎると言ったが、やはりね。君は自分がどれほどの価値なのか考えた事があるか?」

 

 自分の価値。ラブリにも問い質された事だ。

 

「殺し屋の価値なんて決まっている」

 

「そうとも言えんさ。株式相場じゃないんだ。株価が下落すれば殺し屋の価値も下がるわけじゃない。殺し屋の価値とは、わたしは、矜持だと思っている」

 

「矜持……そんなもの、殺し屋になる時に真っ先に捨てるものだろう」

 

「逆だよ、アーロン。君は、その矜持を誰よりも一番に持って行きたいはずだ。だが、いまの境遇がそれを許してくれない」

 

「別に不満はない」

 

「満足な人間より、不満足な豚のほうが、わたしは価値があると思っている。今の自分に絶対を持っている人間ほど、それは成長の余地がない」

 

「……何が言いたいんだ」

 

 ハムエッグは一呼吸ついてアーロンを見据えた。

 

「つまりだね、君がこれから先、ヤマブキでやって行くのに際して、応援したいと言っているんだ」

 

 何を馬鹿げた事を言っているのだろう。盟主ハムエッグは戯れが過ぎるようだ。

 

「応援? 俺はただの殺し屋だ。それを応援など」

 

「いいや、君の技術と強さはそれほどの価値がある。ただ、そうだな。どれだけ先進的な技術でも、あまりに格の違う強さでも、振るう対象を間違えればただの暴力だ。意味のない連鎖だ。君の今、現状は暴力に過ぎない。だが、それを違うものに出来る。暴力以外の何かに転化出来ると言っている」

 

「暴力以外に殺し屋の何がある? 俺はこのままでもいい」

 

「本当に、そう思っているのか? アーロン。君は真に、そう思って、これから先、苛立ちながら人を殺し回っていくのが正しいとでも? わたしは、先にも言った通り盟主だ。盟主は、街の秩序を守る役割がある。無秩序に暴れ回る人間がいるとすれば、それを排除するのもまた、盟主の仕事なのだよ」

 

「……このまま暴走するのなら、俺を始末する、と?」

 

「悲しいが、そうなってしまう可能性が高い。だから、わたしは君に、個人的に接触した。盟主ハムエッグとして、公的な判断を下さざるを得ない状況に追い込まれる前に、わたしは個人的に、君に忠告したい。このままでは身の破滅だ。回避する手段は少ないが、残されてはいる」

 

 このまま、目についた人間を殺していくのでは、それは殺人鬼。しかしハムエッグは殺し屋としての道を提示すると言っている。

 

 アーロンからしてみればどちらでもよかった。殺し屋だろうが、殺人鬼だろうが。

 

 ただ、今よりもマシな境遇があると言うのならば、聞いてみるのも悪くないと思えた。

 

「話してみろ」

 

「聞く気分になったかな?」

 

「サガラを通さずに俺を拉致した時点で、もう選択肢は少ないのだろう。俺が足掻けばそのラピスとやらが殺す。強欲商人は手薄になっている。それを突いて抹殺する事など造作もない。ホテルからしてみれば、格好のチャンスを与えている。それで一個貸しが作れる。つまり、俺がここでうんと言おうが首を横に振ろうが、どっちにしろ、益はあるという事だ」

 

 ハムエッグは丸っこい手先で拍手する。それをラピスも真似ていた。

 

「さすがだよ、アーロン。頭が回る奴は嫌いじゃない。そうだよ、既に強欲商人サガラは射程範囲だ。いつでも殺せるが、わたしは、君に言った。機会を与えたいと。だから、ここからは君の戦いだ。君が、これから先を変えるために、行動出来るんだ」

 

「ホテルの尖兵として、サガラを抹殺しろ、か?」

 

「半分は正解だが、今、わたしがホテルを押さえている。察知しているのはわたし個人のデータベースだ。つまり、ホテルはわたしが情報を流さない限り、動き出さない。君の戦いなんだ」

 

「何をさせたい」

 

「サガラを殺せ。君の手で」

 

 放たれた言葉は意外というほどでもなかった。この状況で、ハムエッグが提言するのは限られている。

 

 自分の下について飼い主を殺せ、という事だ。

 

「俺はお前の下にはつかない」

 

「そういう問題じゃなく、わたしは、君に温情を与えているんだ。このまま飼い殺しにされる優秀な暗殺者を見たくなくってね。君が選べるのは、二つの道だ。一つは、このままサガラの右腕として、街に立ち向かう道。もう一つは、誰にも縛られず、真の殺し屋として再スタートする道。どちらでもいい、君が選べ」

 

 どう考えても後者のほうが分のいい選択肢だ。しかし、ここで重要なのは自分で選んだという一事。

 

 アーロンは今まで、選ぶ事など出来なかった。

 

 波導使いになった事も、サガラに使われている事も、選んだ結果ではない。流され、そうするしかない道に追い込まれてきた。

 

 人生で初めてかもしれない。

 

 ここで選べば、自分は本当に、自分の選んだ納得の上で生きられる。

 

 今までの道を帳消しには出来ないが、ここから先ならば変えられると。

 

 ハムエッグは黙ってアーロンの返事を待っていた。ここでピカチュウを引っ手繰り、この盟主から逃れる事もまた選択の一部。

 

 ――自分はどうしたい?

 

 胸中に問いかける。何のために殺し屋になった? 何のために、自らを研鑽の日々に置いた?

 

 変わるためではなかったのか。

 

 青い闇を払う時も、このヤマブキで生きていく時も、根底にあったのは変わりたいという精神だ。

 

 アーロンは戸惑いつつも答えを模索した。

 

「俺は……本当に何が出来るのか、分からないんだ。この波導で、何が成せるのか。師父は、最後の最後に俺には教えてくれなかった。俺も、師父から逃げるように別の道を選んだ。波導で人を幸せに出来ると、本当に思っていたんだ」

 

 最初の希望は消え去った。もうこの手は血に塗れている。

 

「だが、次の希望があるはずだ。次に繋げるのに、君の手はまだ、それほど手遅れじゃないと思うがね」

 

 立ち上がり、ハムエッグと向き合う。睨み返すアーロンにもハムエッグは涼しげだ。

 

「俺は、人生がそう何度も、やり直せるとは思っていない。それほど都合がいいとも、もう思ってなどいない」

 

「ああ、そうだとも」

 

「だが、今が岐路であるのは分かる。ここで選んだ事に、一生後悔するか、それとも、何かを見つけ出すのか、俺にはまるで分からないが、やってやる」

 

 アーロンの手にモンスターボールが握られる。青いコートを翻し、アーロンはその場を立ち去った。

 



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第百三十四話「DEATH Period」

 

「おう、アーロンか。何してやがった? 連絡が取れないからこっちも必死でよ。いい案件が入ってきたんだ。ホテルの幹部殺しだとよ。その依頼だ。ベンチャー企業の社長ってのは羽振りがいいねぇ。もう先行投資で一千万だぜ? 今、ケースに持っているんだけれどよ、この重みが心地いいのなんのって……」

 

 

『サガラ。俺はケリをつけたい』

 

 いつになく真剣な声音のアーロンにサガラは疑問符を挟んだ。

 

「何だ? お前、何か変だぞ? クスリでもヤってんのか?」

 

『もう、あんたの下で殺し回るのはうんざりだ』

 

 裏通りから風が運ばれてくる。

 

 身体の芯を冷やすようなつむじ風に、サガラは視線を向けた。

 

 青い衣を纏った少年の殺し屋が、静かに佇んでいた。片手にはポケナビがある。それを地面に叩きつけ、踏みしだいた。

 

「……何のつもりだ?」

 

「もう、終わりにしよう、サガラ。俺の望んでいた俺には、あんたの下ではなれない」

 

「おいおい、今さら何言ってんだよ。怖気づいたのか? それとも、変な野心でも出たか? お前は俺の下じゃないと生きられないんだよ。もうそういう契約だろうが。何人も殺してきたし、今さらカタギに戻ろうなんて」

 

「そんな気はない。俺は、裏でも構わない。ただ、自分が生きるのに、自分で遠慮しなくてはいけないのが間違いだと思っただけだ」

 

 アーロンの口調には迷いがない。サガラは説得を諦めた。

 

「……そうかい。てめぇ、もうやる気も何もねぇ、野良だって事か」

 

 アーロンがピカチュウを繰り出す。戦闘姿勢に入った眼前の敵にサガラは諦観の眼差しを注いだ。

 

「嫌になるぜ、アーロン。いつだって、ガキを仕込むってのはこういう危険性があるから、オレはな。手を打っておくんだよ。ガキの心変わりほど馬鹿馬鹿しい事はねぇ。だからな」

 

 サガラが指を鳴らすと数人の黒服が現れた。先ほど話していたベンチャー企業のSP達であろう。

 

「いつもこういうオプションをつけてもらうのは金が要るんだぜ? だが、つけないといつ暴走するか分からないガラクタを使うリスクがある。アーロン。てめぇも相当、ガラクタだったって事だ。ここで死ね」

 

「死ぬのは、お前だ」

 

 SP達がポケモンを繰り出す。ヘルガーが数体、呻り声を発してアーロンを睨んだ。

 

「飼い主に噛み付くってのはどれほど馬鹿な事なのか、教育してやってくれよ、お前ら」

 

「行くぞ」

 

 アーロンが駆け抜ける。ヘルガーが咆哮し、一挙にアーロンへと飛びかかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 絶望し切っていたわけでもない。

 

 何もかもを諦めていたわけでもない。

 

 サガラの下で、生きていくのも選択肢にはあった。だが、自分の心が許せなかった。

 

 あの日、波導で人々を救えるのだと、本気で思っていた自分を裏切る事になる。

 

 それだけが許せなかった。

 

 ヘルガーが肩口に噛み付く。それさえも利用してアーロンは波導を切断する。食いかかっていたヘルガーから力が失せて痙攣した。

 

 コートを引き裂かれ、ヘルガーの炎がちりちりと焼く。

 

 ピカチュウに「エレキネット」を命じさせてアーロンは一体、また一体と葬っていく。

 

 電気ワイヤーが主人である黒服に絡みつき、そのまま薙ぎ払って二人を殺した。ヘルガーの群れがアーロンへと襲い来る。

 

 電撃を放って動きを鈍らせ、アーロンはしゃにむに前進した。

 

 激痛に出血。

 

 血が滴る中、垂れ込めた曇天から降り注ぐのは豪雨だ。目の前を灰色に染め上げるほどの雨粒の中、アーロンはヘルガーとSPを葬り去っていく。

 

 青い光が明滅し、アーロンは咆哮した。

 

 電流がのたうつ中で、一人だけ立っていた。

 

 倒れ伏すSPを超えて、アーロンが向かったのはサガラの下である。

 

 まさかSP全員が殺されるとは思ってもみなかったのだろう。サガラは逃げ遅れていた。今さらに敗走しようとするのをアーロンは地面を伝わせた電流で制する。足の波導を切られてサガラは無様に転がった。

 

「おい、これを解け! アーロン! てめぇ、何をしているのか分かっているのか? もう誰も頼れないんだぞ! 拾ってやった恩も忘れやがって。この街でたった一人っきりで生きていくのが、怖くねぇのかよ!」

 

「俺は、どうせお前の下にいたって、一人には違いない」

 

 頭部を引っ掴む。サガラは命乞いをしなかった。その代わりに憎悪の眼差しが向けられる。

 

「死ぬぜ、アーロン。てめぇは、後悔しながら、たった一人で死んでいくんだぜ。その姿が目に浮かぶようだ。誰にも頼れず、どことも知れぬ場所で、朽ち果てていく。傑作だな、こりゃ。死んじまうってのはこういう事なのさ、アーロン。もう、人生の何回分、人殺しをしてきた? まともになんてなれるわけがねぇ。後悔しかない。お前は、後悔だけに沈んで、死んでいく」

 

「その時になっても、俺は自分で選んだ道だ。後悔が胸を締め付けたところで、俺はもう、この道を選んだ。その矜持と共に生きていく」

 

 アーロンの言葉にサガラは鼻を鳴らす。

 

「矜持だと? んなもん、殺し屋にあるもんか。お前を利用する頭が挿げ変わっただけの話。オレなんて、ここで消したところでお前の人生を変える事になんてならないんだよ」

 

「……かもな」

 

 ハムエッグの言ったほど、人生はうまく出来ていないだろう。それでも――今を変えたいと思うのは、願うのは、いけない事なのだろうか。

 

 この波導がいつか人を救える時が来ると、そう祈るのは、馬鹿な事なのだろうか。

 

「さよならだ。そして死ね。サガラ」

 

「ああ、クソッ。さよなら、だと? ああ、本当にしょうもねぇ。しょうもねぇ、人生だった」

 

 電撃がサガラの脳髄を焼き切り、絶命させるまで一秒とかからなかった。

 

 たった一秒。

 

 それでこれまでの関係が清算されてしまう。そのような容易い関係性の上に成り立っていたのだ。

 

 いつでも殺せると思っていた。だが実際に殺してしまえばこれほどまでに呆気ないとは。アーロンは降りしきる雨の中、天に向かって叫んだ。

 

 慟哭であった。

 

 殺し殺されの世界に慣れていたはずの神経が今になって悲鳴を上げたように、全身から声を発していた。

 

 身を翻す。雨の中、通りの先で傘を差していたのはハムエッグだった。

 

「風邪を引く」

 

「要らない」

 

「サガラを殺した君を、賢明だとも言うつもりはないし、愚かだと罵る気もない。ただ、君は心より願う事を遂行出来る強さがあった」

 

「俺は、どうすればいい? もう、何が正しいのか、何が間違っているのかも分からない」

 

「わたしの言える事は一つだよ」

 

 傘が差し出される。青い傘だった。

 

「――死神になれ。それこそ、誰も寄せ付けず、誰にも心を許さない、鉄の死神に。そうなれば、君は人生を悔やまずに済む。死神になった時、君には真の証が生まれるだろう。殺し屋としての、真の名前が」

 

「……波導で人を救いたかった」

 

 こんなポケモンに独白したところで仕方がないのかもしれない。だがアーロンは口にしていた。

 

「そうか」

 

「だが、俺の手は、人を殺すばかりだ。傷つけるばかりだ。波導で人を救う事など、二度と出来ないのかもしれない。師父のようには、成れないのかもしれない」

 

「誰も傷つけない人間はいないよ。ただ、君が全てを殺し、死神になった時、それでも手を差し伸べてくれる人がいるのならば、それは君が波導で救ったのも同じじゃないのかな?」

 

 殺しの上で、人を救え。

 

 無理難題だ。矛盾する命題でもある。

 

 しかし、この街で生きていく以上は、それ以外に道はない。

 

 何よりも、自分で選び取った。ここから先に、涙も後悔もない。

 

「俺は、戦う。戦い続ける」

 

 傘を断り、アーロンは雨に打たれた。

 

 灰色の景色を行くその背中にそっと声がかけられる。

 

「孤独を愛する死神、か。いつか、その背中に誰かが希望を見出すといい……というのはわたしのエゴか」

 



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第百三十五話「波導の嵐」

「青の死神と呼ばれるようになったのはその後だ」

 

 語り終えてアーロンは目を伏せる。シャクエンも、この話を聞く全員が黙りこくっていた。

 

 人を救いたくて波導使いになったのに、結局人殺ししか道がなかった、愚かな人間の話だ。

 

「……でも、波導使い。あなたは、私達を救ってくれた」

 

「そうだよ。お兄ちゃんは、あたい達に、人殺し以外の道があるって教えてくれたんじゃない。それも、波導で救ってくれた事にならないの?」

 

「さぁな。俺に判ずる術はない。ただ、俺の思っていた波導で救うというのとは、違ったというだけの話だ」

 

 立ち上がったアーロンにハムエッグが声を振り向ける。

 

「どこへ行くんだい?」

 

「師父は、三日だといった。ゼロも、三日間だと。俺は最後の波導を学ばなければならない。逃れ、逃れ続けた俺は、過去と向き合わなければ、もう進めないんだ」

 

「……一つ、言っておくよ、アーロン」

 

 ハムエッグの声にアーロンは目をやる。いつになく真剣な口調で、ハムエッグはこぼしていた。

 

「あの日、君に選択肢を与えた事は、間違いだと思っていない。それと、君は自分が思っているほど、冷酷な人間でもない。だから、メイちゃん達が集まった。彼女らは君に光を見たんだ。それは、波導で救ったのと、同じじゃないのか?」

 

 自分に光、と胸中に繰り返す。

 

 シャクエン達の寄る辺になったつもりはない。師父の言う通り、ただ弱くなっただけかもしれない。

 

 ――ただ、もう後悔はしたくない。

 

 アーロンは歩み出していた。その背中を呼び止めようとしたシャクエンをラブリが制する。

 

「やめておきなさい。波導使いは本気よ。クズなりに、身の振り方を決めたってわけ。わたくし達がどうこう言える身分じゃない」

 

「でも……、波導使いはこのまま生きる事だって出来る。メイのために、そこまでするのなら、あなたはもう……」

 

 言われずとも分かっている。

 

 もう――救われている。

 

 だからこれから先に行うのはわがままだ。ただの自己満足のエゴで、自分は動くだけ。誰かを救うだとか、何かのためになるだとか言うお題目ではない。

 

 アーロンという個人に過ぎない存在が、必死に足掻くだけだ。

 

 何かを成すわけでもない。何かを変えるわけでもない。

 

 ただ、自分に決着をつけるのには、今一度師父と合間見えるほかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「思っていたよりも決断が早かったな」

 

 師父はビルとビルの谷間にある空き地で文庫本を読んでいた。

 

 佇むビルの陰になっており、陽も差さない。あの修行の日々と変わらず、師父は衰えてもない。

 

 十年前と何も変わらないのが、逆に空々しいほどであった。

 

「師父。最後の波導を、俺に教えてください」

 

 文庫本をパタンと閉じ、師父は立ち上がる。

 

「馬鹿弟子が、勝手気ままに生きてきて今さら教えを乞う、という事がどれほど愚かしいのかは」

 

「理解しています。ですが、もう俺にはそれしかない。ゼロに、勝たなくてはならない」

 

「そうまでして、あの娘が大事か、アーロン。ゼロに勝つのには、並大抵の努力では追いつけないぞ」

 

「承知しています。だからこそ」

 

 モンスターボールを手にする。そのまま中天に放り投げた。

 

「――俺は選ばなくてはいけないんだ。ピカチュウ」

 

 肩に留まったピカチュウが頬袋から電流を奔らせる。師父は鞄からモンスターボールを取り出しそっと地面に転がした。

 

「選ぶ、か。だが、一つ間違っているぞ、アーロン。選ぶという行為は強者の権利だ。弱者に、選ぶ事は出来ない。ルカリオ」

 

 ボールを割いて現れたルカリオが戦闘形態を取る。

 

「――分からせてやれ。波導の真髄を」

 

 ルカリオの姿が掻き消える。アーロンは波導の眼を全開にしてその姿を追った。右腕を突き出し、拳と交錯させる。

 

 波導を帯びたルカリオの拳と、波導切断の電撃が弾け飛んだ瞬間、お互いに距離を取っていた。

 

「波導使い同士ではぶつかり合えば斥力のように、お互いに弾かれ合う。しかし、その次だ。次の手を先に打ったほうが勝利する」

 

 ルカリオの状況判断は素早い。すぐさま跳躍し、アーロンへと肉迫する。振り下ろされた拳をいなして電流を撃ち込もうとするが、それを予期したようにもう一方の掌で受け止められる。

 

「甘いぞ、アーロン」

 

「いいえ、そちらもです」

 

 ルカリオが攻撃を感知して飛び退った。先ほどまで首筋があった空間を裂いたのはピカチュウの尻尾だ。「アイアンテール」の刃を思わせる一撃が引き裂いていた。

 

「電撃一辺倒ではない、それは評価しよう」

 

 今度はアーロンが攻める番であった。突き出した右腕をルカリオが弾き、反撃しようとしたその拳を電流が射抜く。

 

 ――これで、左腕の波導は切断した。

 

 その確信に次の攻撃へと転じる前に、切られたはずの左腕でルカリオはアーロンを薙ぎ払う。

 

 目を凝らすと切断した部位を波導の糸で縫合しており、瞬時の再生が窺えた。

 

「放出型の波導はこういう使い方が出来る」

 

「そう、でしたね……。ルカリオの強さも、昔と変わらない」

 

「向かって来い。一つ一つ、ルカリオとわたしが教育し直してやる」

 

 雄叫びを上げてアーロンが跳躍する。電気ワイヤーを駆使してルカリオを縛り上げようとしたが、その網をルカリオは華麗なステップで退ける。

 

「まだだ!」

 

 地面に手をつきアーロンはルカリオの直下の地面の波導を切って陥没させた。一瞬だけ生まれる隙。

 

 それを突いてアーロンが接近する。突き出した右腕には必殺の電撃が纏いついている。

 

 ルカリオは姿勢を崩したがなんと地面に波導の塊を撃ち込んだ。反動で無理やり姿勢を建て直し、空いた手でアーロンの右腕を掴む。

 

「ルカリオはその程度でやられるほど、やわくはない。弾き返して距離を取れ」

 

 師父の命じる声にルカリオはアーロンの胸元へと拳を叩き込み、撃ち込んだ波導を触媒にして飛び退った。

 

 地面に撃ち込まれた波導が膨張し、次の瞬間、青く明滅する。

 

 波導の塊を爆弾として使用する戦法。咄嗟に薄い皮膜の波導で防御するが、ほぼ直撃であった。

 

 荒い呼吸のアーロンへとルカリオは余裕のある眼を向ける。

 

「この程度で音を上げるなよ、アーロン。ここからだ。ルカリオ、波導の力を見せてやれ。青く輝く、その波導の、真の姿を」

 

 ルカリオが印を切り、波導を体内で練り上げた。その直後、関節を軸にして波導が燃え盛る。

 

 全身を覆うように放出された波導の勢いはまさしく嵐。身に纏っているルカリオを波導の眼で見ると、直視出来ないほどの波導が脈打ち青い焔のように揺らめく。

 

「これは……」

 

「波導の真髄が一。その名は波導の嵐だ。ルカリオの最終到達点の一つでもある」

 

「これが、最後の波導ですか」

 

「最後の波導? 違う、間違えるな、馬鹿弟子が。到達点の一つだ、と言った。最後の波導はこんなものではない。行くぞ、ルカリオ。刻め」

 

 青い残像を居残してルカリオの姿が瞬間的に迫った。呼吸を整える前に鳩尾へと鋭い一撃が叩き込まれた。

 

 呼吸の止まるほどの衝撃。背骨へと突き抜けた拳の威力がそのままアーロンを吹き飛ばすかに思われた。

 

 だが、それを阻んだのはルカリオから流れ出す波導であった。まるで触手のようにのたうち、アーロンの両肩を絡め取る。後退さえも許さない波導の極地にアーロンは反撃するしかなかった。

 

「十万ボルト!」

 

 ピカチュウが両頬の電気袋から電撃をルカリオへと叩き込む。しかしルカリオの纏っている波導が鎧を思わせる堅牢さで防御した。

 

「……攻防一体、これが」

 

「そう、これが波導だ」

 

 ルカリオが拳に波導を充填する。来る、と身構えた身体にアーロンは自ら電流を通した。

 

 肩を拘束していた波導が消え、直前に跳躍してその一撃を回避する。空間さえも震え、微粒子が弾け飛んだのが分かった。それほどの波導密度による一射。まともに食らえばひとたまりもない。

 

「本気、と見ました」

 

「本気? 何を今さら言っている。わたしは、最初から馬鹿弟子に、温情を与えるつもりなどないぞ。最後の波導を習得したければ、死ぬ気で来い」

 

 半端な覚悟では最後の波導など見せてはもらえない。アーロンは息を詰めて戦闘姿勢を取った。

 

 身体を沈ませ、右腕を掲げる。波導切断、その一事だけだ。自分にはそれ以外の放出系の波導は使えない。

 

 ルカリオを倒すのには相手の波導回路の奥の奥、生命波導を司る部分を焼き切るしかない。

 

 だが、焼き切った時、ルカリオは確実に死んでしまうだろう。

 

 師父のルカリオを殺すかもしれない。

 

 その恐れがアーロンに殺しの逡巡をさせた。ルカリオの姿が掻き消え、眼前に立ち現れる。

 

 それを予期する事も出来ずにアーロンは叩き飛ばされた。ルカリオの眼差しが侮蔑の色を伴って注がれる。

 

 ――手加減無用、と。

 

 自分が手加減して、勝てる相手ではない。まさしく波導の全てを集約しなければ太刀打ちも出来ないだろう。

 

 呼吸を整える。体内の波導を正常値に持ってきてから、右腕に集中した。

 

 右肩に留まるピカチュウにも波導が伝わる。ピカチュウの電撃を通し、波導回路を焼く。それが思惟として伝わり、いつになく双眸に戦意を宿らせたピカチュウがルカリオを睨んだ。

 

 ルカリオも負けじと睨み返す。

 

「ようやく、いつもの調子になったか?」

 

「ええ、俺は、勝たなきゃいけない。勝てなければ、最後の波導を教えてもらえないのならば、俺は……」

 

 駆け抜ける。波導の嵐を身に纏ったルカリオの姿はまさに悪鬼。だが、こちらも悪に染まったのならば負けてはいない。

 

 ピカチュウの電撃が右腕の表層を跳ねてルカリオへと叩き込まれようとする。

 

 しかしルカリオは拳を払うだけでそれをいなした。

 

 次いで訪れるのはルカリオの拳の打ち上げになる――かに思われた。

 

 だが、ルカリオはそこで異常に気がつく。振り上げようとした拳の波導密度が異様に低いのだ。

 

 そのせいで、アーロンは両腕を使ってのものではあったが、ルカリオの拳を真正面から、受け止めた。

 

「ルカリオの拳を、受けた……」

 

 師父も驚愕の声音を発している。アーロンは即座に右腕をルカリオの鳩尾に添えた。

 

「焼き切る!」

 

 波導回路断線が成される前にルカリオが蹴って距離を取る。しかし効果はあったようだ。

 

 ルカリオが膝を落とすと背面に宿っていた波導が一部霧散していた。

 

「俺も、伊達に十年間、殺し屋なんてやっていなかった。相手の拳を受け、刃をしのぎ、矢を折る方法は、既に講じている」

 

 波導切断の応用であった。相手の波導の一部に相手でさえも関知できないほどの小さな風穴を作る。実際、波導を使わない相手にはほぼ無意味だ。だが、波導の精密さが売りのルカリオにとってそれはとてつもない違和感となる。

 

 違和感は拳に、力の加減を迷わせる。その迷いの一点を突いて、波導切断を行い、放出される波導を十分の一までカットする。

 

 いつか、ルカリオと戦う事になった場合を想定して組んでいた戦略であった。

 

 その想定通り、ルカリオは手を開いたり閉じたりして感触を確かめる。

 

 波導を組み直し、ルカリオは波導弾を地面に撃った。自分の波導が切られたわけではない事を確認したらしい。

 

「ちょっとした手品か。しかしアーロン。手品が二度も三度も通用するわけではない事は」

 

 承知している。ルカリオと師父は確実に、この手を読み切って対策を練ってくる。

 

 だからこそ、焦らない事だ。焦らずしっかりとルカリオの攻撃を読み、見切る。

 

 そうすれば――、と判じていたアーロンにルカリオの攻撃が差し挟まれた。

 

 ルカリオがあり得ない速度で肉迫していた。波導の嵐を使っての移動方法だ。足先に波導を集中させ、急加速を得た。

 

 自分がピカチュウの電撃を使い、一時的に筋肉に刺激を通すのと同じように。

 

 アーロンは受け止めるが、次の攻撃までは読めなかった。

 

 身体をひねったルカリオが蹴りをアーロンの頭部へと見舞う。ただの人間ならば首が折れている。

 

 それでも大した一撃ではない、と高を括っていた。そのつけのように、急に視界が暗くなった。

 

 これは、眼の波導をやられたのだ。

 

 ルカリオが瞬時に波導の位相を変えて眼を一時的に眩惑させた。

 

「これでは……」

 

「受け切れまい」

 

 ルカリオの拳が空気を切って接近する。アーロンは即座に切り替えた。双眸から青い光が流れ出す。

 

「フェイズ2……」

 

 波導の眼をフェイズ2に移行し、ルカリオを波導だけで目にする。高密度の波導体で覆われたルカリオの姿はほとんど光の瀑布だ。

 

 拳をいなして後退し、アーロンは息をつく。

 

「アーロン。聞くが、お前は何を求めている」

 

「……何がですか」

 

「あの小娘を取り返す事か? しかし、波導使いには邪魔な感情だ。しかもお前は既に、殺し屋として地位を確立している。どこの街に行っても、お前は殺し屋としてしか生きられないし、ゼロと無理やり事を構える必要もない」

 

「今さら、逃げろって……」

 

「戦う必要性のない相手と戦ってどうすると言うのだ。ゼロは災厄だ。だがそれを無視する事も出来る。ただ静観していればいい。あの殺し屋の少女の言うように、別の街に行って静かに暮らす事も出来ないわけではあるまい。何故、立ち向かう? 何がお前を、そうさせる?」

 

 この問いに答えられなければ自分にはメイを助け出す資格などない。アーロンは胸中に問いかける。

 

 ――何のために、誰のために戦うのか。

 

「……師父。俺は駄目だった。あの日、あなたの下を去ってから、ずっと。ずっと、逃げて人を殺めてきた。自分にはこれしかないと言い聞かせて。でも、そうじゃないんだ。俺には確かに、もう殺しが馴染んでいる。人殺しに、何の躊躇もないかもしれない。でも、気づかせてくれた。俺に、別の選択肢があった事を。あの時、ハムエッグの言っていた意味が、ようやく分かった。俺は変われたんだ。時間はかかった。とてつもない時間が。取り返しようもない時間だけが。それでも、これからを変える事は出来る。過去は無理でも、未来なら……そうだ、俺は」

 

 ようやく、アーロンは顔を上げる。それが最後に行きついた答えであった。

 

「俺は、あいつと未来に生きたい。あいつとならば、生きていられる。そんな気がするんだ」

 

 紡ぎ出した答えに師父はフッと笑みを浮かべた。手を払い、ルカリオを挙動させる。

 

 拳を繰り出そうとするルカリオに対してアーロンは反撃しようとした。

 

 反撃に転じようとした精神の中、一部分だけがそれをすくい取った。

 

 もしかしたら読み間違えかもしれない。それでも、アーロンはそれに賭けた。

 

 攻撃姿勢を解き、薄い波導の皮膜も解除する。

 

 ルカリオの拳に宿った波導がアーロンの身体を――貫いた。

 



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第百三十六話「AtoZ」

 

 目を覚ますと知らない場所にいた。

 

 いつものような木目の天井ではない。冷たいアスファルトの感触にメイは顔を上げる。手足が縛りつけられていた。コンクリートの十字架と手足が一緒こたになっている。石化した部分には自分の体温の一片さえも感じられない。

 

「起きたか」

 

 そう声にしたのは漆黒の衣を纏う存在だった。振り向けた視線のあまりの冷たさにメイはぞっとする。人間とはとても思えない眼差しだった。

 

「あなた、アーロンさんと戦っていた……」

 

「波導使い、ゼロだ。急に起き上がられると面倒なのでね。両手両足を既に石化させておいた」

 

 その言葉の持つおぞましさよりもメイは言うべき事があった。強気にゼロを睨みつけ吐き捨てる。

 

「アーロンさんを誘き出す餌にしたつもりだろうけれど、アーロンさんは来ない」

 

「何故、そう思う? あれの弱点は調べ済みだ」

 

「アーロンさんは、あたしみたいなのに頓着しない。きっと、三人ともそれが正しいと思っているはず」

 

「薄情な連中だな。いや、これは信じているのか。そうだな、これは〝希望〟だ。お前は、あの連中が冷たくありながらも何よりも信頼の置ける奴らだと信じ込んでいる。だから、強気を決め込める。だが、奴は来る。必ず。しかもアーロン一人で、だろうな」

 

「あなた、アーロンさんを誘い込んで何がしたいの。この街の秩序を乱すのなら、ハムエッグさんやホテルが黙っていない」

 

「そのハムエッグとホテルは我が下した。もう、残された希望は波導使いアーロンだけだ」

 

 ハムエッグでさえも負けたというのか。その事実よりもメイはこの男がどうしてそこまでアーロンにこだわるのか、聞く必要があった。

 

「何で……。どうして波導使いは争い合うの? お互いの力が拮抗しているから? それとも、何か許せない事でも」

 

「許せない事? 我にはないが向こうにはあるだろうな。何せ、我は災厄の導き手。秩序と調律を主とする波導使い、アーロンの一門とは対極にある。かねてよりアーロンの名を継ぐものはゼロの名前を継ぐ者達と争わなければならなかった。それがお互いの血の宿命。見せてやろう。これが、波導使いゼロと、アーロンの歴史だ」

 

 ゼロの手がメイの頭部に伸びる。必死に頭を振ったが、引っ掴まれた瞬間、強烈なビジョンが脳内を駆け巡った。

 

 炎の中、対峙する二つの波導使い。

 

 青と紫。

 

 お互いの波導の全てを賭けて二つの勢力がぶつかり合い、命を散らし、何もかもを忘却の果てへと追いやる。

 

 波導切断、波導放出、波導吸収――。あらゆる波導の流派が生まれ、消滅し、潰え、また生じてきた。

 

 全ての波導使いの血の因縁はアーロンとゼロという二者に分類された。

 

 AとZ。

 

 始まりと終わり。

 

 その名前を冠する者達は惹かれ合うように出会い、殺し合い、お互いの名前を継がせた後継者にまたも殺し合いを課した。

 

 それが当たり前のように。幾度も血が流され、波導が研鑽されていった。

 

 これは必要悪であったのだ。

 

 波導の極みへと至るための。殺す度に、波導が一つ上の段階へとシフトする。

 

 波導はいつしかそうやってしか進化出来なくなっていった。波導の進化にお互いの血の運命が刻み込まれる。

 

 どちらかが死ななければ波導は極みへと至らない。

 

 しかし潰えればそれは波導の終焉だ。後継者を作ったのは全てそのため。いつか辿り着く波導の根源を見るためであった。

 

 そのようなエゴに何人の「アーロン」と何人の「ゼロ」が犠牲になっただろう。

 

 波導の極地などまやかしだ。人は人の見たいものしか見ない。彼らの行き着きたい極地とは、相手の血筋を滅ぼす事。それさえも是とする人間の業の向こう側。全てを操り、全てを掌握する存在へと昇華する事。

 

 それが波導の源泉であり、その真の体現であった――。

 

 あまりの情報量にメイは眩暈を覚える。これほどまでに波導使いは戦ってきたというのか。戦って、己を犠牲にしてまで波導を極めたかったというのか。

 

「何で、こんな……」

 

「こんなものを見せるのか、か。誰かが血で贖わなければならない。アーロンの名もゼロの名も、全て、波導の極地。……根源と呼ばれる波導の真の姿に至るためなのだ。我は波導の真髄を極めたつもりだったが、まだだ。この無敵を誇る石化の波導でさえも、まだ足りない。それには、対極である波導使いのアーロン。それを取り込まなければならないのだ。我は我の代で終わらせる。この波導使いの運命を。それには奴の波導が必要だ。青の波導の極地。それこそが、波導の完成には必要不可欠なのだ」

 

「そんなもののために……あなた達はどれほど犠牲にしてきた」

 

 何百人、いいや、何千人かそれ以上。人の屍の果てに波導の極みがあるというのか。

 

「波導が最終段階に至るのには必要なのだ。犠牲は全て波導の彼方にある。命を取り込み、我が糧とする。我はある種、波導を極めた。だが亜流が存在するのならば、それはまだ完全とは呼ばないのだ。完全なる波導の取り込み。それこそが進化の果て」

 

 このゼロという波導使いも波導を極めるという事しか考えていない。何人殺そうが、どれだけの犠牲があろうが知った事ではないのだ。メイは怒りがふつふつと湧いてくるのを感じた。

 

 波導使いに。その血の宿命とやらに。

 

「……下らない」

 

 放った言葉にゼロが眉根を寄せる。

 

「今、何と?」

 

「下らない、って言ったのよ。波導の進化? 真の極地? そんなもの、必要ない。この世にはいらない!」

 

 ゼロの指先がすっと首筋に掲げられる。刃を突きつけられている迫力があった。

 

「口を慎めよ、小娘。石化して殺すくらい造作もない」

 

「あなたこそ! そんな波導の修行なら、誰にも迷惑のかからない辺境でやりなさい! どうして人を簡単に殺せるの。あなたとアーロンさんは違う!」

 

「違う? 何がだ。奴も人は簡単に殺すぞ」

 

「アーロンさんは、いつだって……、いつだってそうだった! 泣きそうな顔で人殺しをする。あの人はそう。涙したほうが楽なのに、ぐっと堪えている。どこかで泣いている自分を切り離している。そうする事しか出来ない人だから。不器用な人だから……。でも、あなたは違う! 身勝手な都合で他人を殺す事に喜びを感じている。波導の極みなんて、どれも大層なお題目だけれど、そんなの関係ないくせに! ただ、殺したいだけでしょう! あなたは!」

 

 ぴくりとゼロが眉を跳ね上げる。

 

 次の瞬間、弾かれたように笑い始めた。狂気の笑い声がビルの天井に反響する。

 

「――そうだ。我を理解出来る人間がいるとは思わなかった。我に、感情はないが一つだけ分かる。これは〝愉快〟だ。ようやく、我自身も感情を見つけ出した。殺したいんだよ、何もかもを。破壊の向こう側に追いやりたい。そのために波導を研鑽した。破壊の波導を。何もかもを壊してしまいかねない虚無の向こう側を。実際、波導を学んでいると分かったのは、波導の果てにあるのは虚無だ。何もない。先人達が行き着こうとしていた場所に、何もなかった。ただ、殺して殺し尽くした屍の群れと、足元を覆い尽くす骨ばかり。それが分かった時、我は決心した。全てを破壊し、全てを吸収する。この世に、他に波導使いがいるのなら、そいつと一戦交えて、及びもつかない実力の差を見せ付けてやるのも一興だと感じた。だが何より、それ以上に、我はこの世界を壊したい。人間がゴミの数ほど存在し、ポケモンがそれと同量か、あるいはそれ以上存在する、命の総量が溢れ返ったこの世界を、一度、無に帰したいのだ。そうする事で我は満たされる。命を奪い尽くし、果てを手に入れれば、少しばかりは感情も、何もかもを得られるかもしれない」

 

「傲慢よ。あなたは、傲慢の果てにただ何もないと決め付けただけ。世界は、そんなに容易くない。あなたが思っているよりも、世界は満たされている」

 

「かもしれない。だが、満たされた世界で満たされない我がいるのならば、それはもう虚栄なのだ。我が満たされた時にこそ、世界は意味がある」

 

「アーロンさんとは、正反対。あの人は世界に何もなくっても、守るべきものを一つだけでも見つけられればいいと思っている。たった一つだけでも信じられれば、それは価値があるのだと、思っている」

 

「波導使いアーロンがどれほど無欲かは知らないが、我は奴を壊す。その時こそ、我は感じ取れる。〝快楽〟を」

 

 首筋に触れた箇所から石化が始まっていく。痛みもない。ただ冷たいだけだ。人間の持つ体温とはまるで対極の、何も信じていない存在だけが持つ冷酷さ。

 

「アーロンさんが、きっと許さない」

 

「許されようとも思っていない。お前を石化した時、アーロンは何と言うのだろうな? それが少しだけ、そう、これは〝楽しみ〟だ。アーロンの絶望こそが我の糧。彼奴が絶望し、力でも何もかも我に敵わないと知った時、その絶望の味こそが我に、生きている事を教えてくれる」

 

「どこまでも……歪な」

 

「歪んでいるのは分かっているさ。だが、命の積み重ねでしか、人間は生を甘受できない。そういう風に出来ているんだ。誰かが地球の裏側で死ぬ。誰かが、隣人が殺人鬼となる。そんな事でさえも、ただの現象として受け止められるのが人間の冷酷さ、薄情さだ。だが、我はそれにこそ、人間の真価があるのだと思っている。他人など所詮は踏み台だ。誰かを踏みつけて、その命を蹴り飛ばした時こそ、生は輝く。命は、その瞬間だけ刹那の輝きを帯びるのだ」

 

 この男は奈落の淵のような眼をしている。それがどこで見たものなのか、メイは思い出した。

 

 ――最初に会った時の、アーロンさんに。

 

 似ているのだ。

 

 何もかもを信じず、何もかもを諦観と傍観に置いていたアーロンに。彼も殺しの世界だけで生きていればこのような眼差しの持ち主になったのかもしれない。

 

 波導使いアーロンとゼロは表裏一体だ。

 

 どちらかが、どちらかに転がってもおかしくないのだ。

 

 正義と悪よりもなお、分け難いカードの裏表。

 

 どちらが正義とも、どちらが悪とも言えない。

 

 アーロンがゼロの立場になっていてもおかしくなかった。同時にゼロもアーロンになっていてもおかしくないのだ。

 

「……悲しい」

 

「何がだ? 死ぬ事がか?」

 

「あなた達の在り方よ。どうして……あなただって、アーロンさんのようには成れた」

 

 今さらの事かもしれない。だが、その事実がただ悲劇でしかない。

 

 出会いと別れの積み重ね次第で、同じような人間でもこうも違ってしまう。

 

 破壊を望むゼロと、再生を望むアーロン。

 

 どちらかをこの世の悪とも言い切れない。ゼロの在り方もまた、自然と在ってもおかしくはないのだ。

 

「……本当に、お前は理解したのだな。波導使いの真の運命を。ならば解るはずだ。我もアーロンも決して、特別な事を望んでいるわけではない事を」

 

「でも、あたしは……。あたしが選び取りたいのは、アーロンさんのほう。あなたじゃない」

 

 冷酷な宣言だったのかもしれない。だが、ゼロには突きつけたかった。自分は破壊を望まないと。

 

 ゼロは僅かに目を伏せてからすっと手を掲げた。

 

「ならば仕方あるまい。ここで朽ち果てろ。理解者よ。これ以上の繰り言は意味がない。三日の刻限を守らない事になってしまうが、お前がそう言ったのならばもう期限など意味がないという事は悟っただろう。お前が言ったのは波導使いの真理だ。この世に波導使いがいる事の意味のなさを、お前は語ったのだ」

 

 ゼロの石化の侵食が頬へと至る。少しずつ筋肉が硬直していくのが分かった。血管が止められ、波導が塗り固められる。後に残るのはただの朽ちた肉体だけ。

 

「死ね。理解者よ」

 

 それがメイの感じ取った最後の言葉であった。

 



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第百三十七話「名も無き花」

 

 垂れ込めた曇天の下で、明らかにその建物だけが異様な波導を放出していた。

 

 廃ビルに過ぎなかったが、ゼロが分かりやすくマーキングしたのが理解出来る。音もなくワイヤーを巻き上げてゼロの待つ階層へと至った。

 

「――遅かったじゃないか。我が半身」

 

 ゼロの傍には十字架に磔にされたメイの姿がある。

 

 石化が完全に侵食しており、瞼は閉ざされていた。波導を読むまでもない。

 

 メイは死んでいた。

 

「三日の刻限を守らなかったのは謝ろう。だがこの小娘は正鵠を射た。それがどれほどまでに自分の寿命を縮めるのかも知らずに。さぁ、波導使いアーロン。最後の波導とやらを習得したその波導、見せてもらおうか!」

 

 ゼロが波導の眼を全開にする。しかし、直後に彼は愕然とした。

 

 目をしばたたきアーロンを凝視する。

 

「……何故だ。何故、今のお前に――波導の一欠けらさえも感じられない?」

 

 アーロンは歩み出ていた。ゼロが覚えず、と言った様子で後ずさる。しかしアーロンの歩みの先にはメイがいるだけだった。十字架に磔にされたメイの額に、アーロンはそっと自らの額を当てる。

 

 ――冷たい。

 

 生命波導がまるで感じられない。石化によって完全に命を封殺されていた。

 

 ゼロは及び腰になりながらも調子を取り戻すように声を張った。

 

「そうか! 波導を無に近い閾値に設定し、石化を遮ろうと言うのだな。なるほど、有効な手立てだ。それを前のアーロンが仕立て上げたというのならば、賞賛に値するだろう。だが我には!」

 

 コートをはためかせると赤い光が明滅した。アーロンは僅かにたたらを踏む。その足元が石化していた。

 

「石化の波導は有効のようだな! その戦術は既に! 見切っている!」

 

 言い放ったゼロにアーロンは言葉少なだった。メイを見やり、そっと手を伸ばす。触れた途端、アスファルトの十字架が砕けた。メイだけが滑り落ちる。それを受け止めてアーロンは言葉にしていた。

 

「……馬鹿な奴だ。最後の最後まで、どうしようもなく、大馬鹿だ、お前は」

 

「我の波導でさえも理解しようとした。だからこそ、死期を早めてしまった結果になったが。アーロン、その娘を心の拠り所にしたのは理解出来る。我も、立場が違えばそうなっていたかもしれない。だが諦めろ。拠り所は死んだ。お前にはもう、孤独な殺しの道しか残されていないのだ」

 

 アーロンはそっと、メイの骸を降ろす。その唇が言葉を紡いだ。

 

「待っていろ。すぐに終わらせる」

 

「終わらせる、だと? 馬鹿を言うな。我がお前の波導を吸収し、最後の波導使いとなるのだ。それこそが波導使いの終焉、〝幸福〟である!」

 

 ゼロが赤い光を放出しようとした瞬間、アーロンはまるで気配を感じさせず、足音もなくゼロへと肉迫していた。

 

 ゼロが瞠目する。その頭部を引っ掴み、アーロンはビルから飛び降りた。

 

 ゼロは両翼を展開して離脱する。アーロンは水鳥のように軽やかに降り立った。

 

 黒と赤に彩られた翼を持つゼロが浮かび上がる。

 

「焦ったぞ……。波導のないお前はまさに、死者同然。死人が動いても関知出来ないのと同じく、気配が読めなかった。なるほど、それが波導の極地、最後の波導か。確かに近似値を無に設定すれば、気配のない殺しが可能となる。暗殺術としてはかなり高度だが、失策があるとすればそれは真正面では通用しないという事だ。そのためには我の背後を取る必要があった」

 

 勝利を確信したゼロの口調にアーロンは静かに返すばかりだった。

 

「いいから来い。それとも、死に損ないも殺せないほど、そっちは弱いのか」

 

 アーロンの挑発にゼロは両翼を展開させたまま、コートをはためかせる。赤い光条がアーロンへと突き刺さった。

 

「デスウイング! お前の波導を吸収する!」

 

 肩口に突き刺さった「デスウイング」から波導が徐々に吸収される。アーロンは膝をついた。

 

「設定した弱い波導が仇となったな! これでお前はすぐに絶命する!」

 

「そうか。俺は死ぬのか。死ぬのは、もう怖くはないが……。お前は勘違いをしている。行け、ピカチュウ」

 

 繰り出されたピカチュウが両頬から電流を跳ねさせる。しかしその勢いもどこか弱々しい。

 

「アーロンよ! 最後の波導とやら、所詮は付け焼刃だったな! ただ単に石化への牽制に弱い波導を使っただけの、浅知恵よ!」

 

「そうか、お前にはそう見えるのか。俺が、波導を纏っていないように」

 

 直後、空間が震えた。降り出した雨の水分粒子が静止し、時が止まった。

 

 何もかもを置き去りにして、ゼロとアーロンだけが止まった時の中で動いている。

 

「な、何が起こった……」

 

「言っておくが、時間を止めたわけではない。最後の波導の、準備段階だ」

 

「小賢しい!」

 

 赤い光線が突き抜けてアーロンを捉えようとしたが、その瞬間アーロンの姿は掻き消えていた。どこへ、とゼロが首を巡らせた時には、アーロンの姿は空中にあった。

 

「いつの間に……」

 

「まずは、地に墜ちろ」

 

 突き出した右腕から放たれたのは電撃と波導切断であった。ゼロは咄嗟に波導の皮膜で防御する。しかし皮膜は完全に消え去った。触れただけなのに、波導の防御は脆く崩れ去る。

 

 ゼロが地面へと墜落した。揚力を失った翼が虚しく空を掻く。

 

「ち、違う……。これは、ただの波導切断じゃない。貴様、何をした? どのような術を使った?」

 

「言っただろう。最後の波導だと。俺は、師父に教わった。その真の姿を。波導の行き着く先にある、虚無の世界を」

 

「虚無、だと……。それはただ単に波導をカットしただけ! それが最後の波導だとすれば!」

 

 ゼロが両翼を押し広げる。赤い光芒がアーロンへと突き刺さろうとした。

 

 しかし、石化したはずのアーロンの肩口には何もない。石化の気配も、兆候も。

 

「だとすれば、何だ? 俺には、もう見えている」

 

「見えている、だと? 単純に生命波導を弱めただけの話! そんな小手先が通用すると思うな!」

 

 次々とアーロンへと突き刺さる赤い光の帯。波導吸収が成されるかに思われたが、やはりそれを成す前にアーロンのあまりに弱々しい波導をすくい取れずに失敗する。

 

 金魚すくいの網のように、今のアーロンの波導は弱い。

 

 少しの衝撃で穴が開いてしまう。少しの衝撃で砕け散ってしまう。

 

 その危うさを持っているのに、どうしてだか完全な破壊が出来ない事に、ゼロは疑問を抱いているようだった。

 

「何が、貴様をそうさせた……? 波導を、完全に捨て去ったというのか!」

 

「波導を捨てた。一面ではそうかもな。俺は、もう二度と波導使いを名乗る事はない」

 

 ゼロが驚愕に表情を固めて声を張る。

 

「嘘だ! アーロンの一門がそれほどまでに、そこまで犠牲にしてでも成し遂げたいものなどあるはずがない。我は破壊の波導使いなり! 全てを破壊し、全てを虚無へと還す! その身体、貰い受けるぞ!」

 

 赤い光の帯がアーロンの鳩尾へと突き刺さり、そのまま全ての波導を吸引しようとする。しかし、アーロンから得られる波導はなかった。本来、浮かび上がっているはずの青い波導が存在せず、もちろんながら、波導の色は赤くもない。

 

「何をどうやって……。禁忌に触れたか」

 

「絶対吸収能力を誇る技、デスウイング。それでも俺の波導が吸えない事に、恐怖を感じているのか。言ったはずだ。最後の、波導だと」

 

「それがまやかしだと! 言っている!」

 

 広げられた両翼が力を帯びて羽ばたいた。砂礫を吹き飛ばし、ゼロが浮遊する。

 

「我の波導の根源は吸収! 吸い尽くせ、この場にある全ての波導を! デスウイング、掃射!」

 

 赤い光が拡散し、周囲のビルや街灯、生きとし生ける全てのもの、活動しているものを沈黙させていく。

 

 街灯が切れ、ビルが根こそぎ色をなくし崩落する。地平からも緑の一滴すら吸い込む光であった。

 

 枯れている芝生でさえも、その僅かな波導を消していく。アーロンは足元に花を発見した。

 

 名も無き花が小さく揺れている。

 

 石化の赤い光が何もかもを奪い尽くそうとする。

 

 収束し、ゼロを軸として全ての生命が静止した。この場にあるのはゼロの支配下のみ。

 

 ゼロは確信に拳を握り締める。

 

「全ての波導は、我が身体に。吸収された。満たされている、満たされているぞ、アーロン! 我はこれほどまでに、満たされている! お前はどうだ? もう、生命波導の一点すらも窺えない、その朽ち果てた身体で!」

 

 屈み込んだアーロンが既に力尽きたのだと判断したのだろう。ゼロの哄笑は止まない。

 

「攻撃手段も持たぬ、弱く、小さき存在よ。その波導の最後の一滴すら、我のためにあるのだ」

 

 しかし、アーロンは立ち上がった。

 

 ゼロは瞠目する。

 

 アーロンのコートは擦り切れていた。帽子もボロボロである。それでも、その眼差しが死んでいなかった。屈み込んでいたのは力尽きたからではない。ゼロはその視線の先に小さき花を発見した。

 

「花……? 花を守るために、お前は屈んでいたというのか。そんな、些事のために」

 

「些事かどうかは俺が決める。名も無き花を守るのに、理由がいるのか」

 

 すっと上空のゼロを仰いだ眼差しにもゼロは臆する様子を見せなかった。

 

「だが! ピカチュウはどうだ? ピカチュウは耐えられまい!」

 

「いいや、ピカチュウも、もう覚悟の上だ。俺の波導について来てくれている。今の俺では、こいつを守ってやるのも一苦労だが」

 

 ピカチュウを薄い波導の皮膜が保護していた。それはピカチュウの内奥から発生しているのだ。アーロンが媒介し、強化しているとはいえ、それはピカチュウ本体の生命波導であった。

 

「……ピカチュウに、波導は使えない」

 

「そうだな。通常は。だが、俺はこいつと十年以上付き添っている。もう俺が言うまでもなく、どこの波導を切ればいいのか、俺以上に分かってくれている」

 

 アーロンが跳躍する。その右腕がゼロへと突きつけられた。ゼロは口角を吊り上げる。

 

「だが! 我が波導の領域だ!」

 

 石化の波導がアーロンの右腕を浸す。しかし、それを破ったのはアーロン自身ではない。

 

 石化の波導が、自然と消え失せる。赤い死の光が、すうっとアーロンに触れた途端にその身体を抜けて行った。

 

「石化波導が……通用しない?」

 

「厳密に言えば、俺はもう波導使いではないからな」

 

 右腕がゼロの胸部へと叩き込まれる。放たれた電撃がゼロを突き飛ばした。波導切断がゼロの体内波導を感知し、その回路を焼き切ろうとする。

 

 ゼロはすぐに組み直した。波導回路の断線した部分を新たな波導で修復、回路の活性化、及び回路の命令系統の循環――。

 

 それら全てに一秒とかからなかったが、波導回路が修復された直後、またしても内部でショートした。

 

 ゼロは目を見開いて波導回路の修復に務めているが、どれだけやっても波導回路が焼き切れてしまう事に狼狽しているらしい。

 

「……何をした」

 

「何も。いつものように、波導の切断を」

 

「そのようなはずがあるか! 波導回路は、組み直せばお前の波導切断は通用しない。そのはずだ。だというのに、波導の切断が消えない。一度切られた部分が、まるで腐り落ちたかのように……」

 

 繋ぎ直しても繋ぎ目から溶けていく。それを自覚したのだろう。ゼロはアーロンへと敵を見る眼を向けた。

 

「それが、最後の波導か……!」

 

「少し違うが、その一部。師父とルカリオが教えてくれたのは、そう難しい事じゃなかった。答えは、最初にあったんだ。波導のほんの初歩の初歩に。波導は万物に流れる全ての生命の根源。何もかもに波導が存在し、その何もかもが等しく、波導の前では平等だ」

 

「知った風な口を!」

 

 赤い光条がアーロンを貫く。しかし、石化が巻き起こらない。

 

 ゼロは忌々しげにアーロンを見据えた。

 

「どういうカラクリだ、それは!」

 

「行かなければいけないんだ。お前の相手は、あまり長い事は出来ない。さっさと石化を解いてやらないと、本当に命の波導が尽きてしまう」

 

 アーロンの眼差しは目の前の敵であるゼロではなく、ビルに残したメイへと向けられていた。

 

「あの小娘か? 既に石化の虜だ! 何なら確かめてみるといい。触れるだけで、朽ち果て、砕け散るだろう!」

 

「なら、波導を与え直す。季節のごとに、花は散る。だが、決して死に絶える事はない。それと同じだ。波導が完全に消えたように見えたとしても、それは一面では死ではない。新たな命への準備なんだ。万物は循環し、生と死を繰り返して、円環の波導を描く。それが、生きるという事なんだ」

 

「見透かしたような達観も、いい加減にしろ!」

 

 飛び込んできたゼロがアーロンの首を絞める。直接触れた箇所からゼロの波導が感じ取られた。同時に相手も感じた事だろう。

 

 今のアーロンの波導を。

 

 ハッとしてゼロがその手を緩める。

 

「お前、まさか……」

 

「ああ、循環の時が来た。今の俺の波導がないのはそのせいだ」

 

 ゼロが眼を慄かせる。絞めていた手から力が失せた。

 

「馬鹿な……。既に、死んでいるだと?」

 

「外面上はそうかもしれない。これを死と呼ぶ。だがそうじゃない。お前だって知っているはずだ。波導使いの真の死とは、結晶化現象の事だと。だからこそ、分かっている。いいや、分かっていたはずだった。波導が消え去る事は、何も死ではない」

 

 師父とルカリオが教えてくれた。

 

 最後の波導の事を。そのために必要な――覚悟を。

 



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第百三十八話「最後の波導」

 

 ルカリオの拳がアーロンを貫いた。

 

 波導が貫通し、背骨も、肉も、内臓も何もかもを圧迫し、押し潰したかに思われた。

 

 だが、何も起こらない。

 

 アーロンの波導は静かに脈動し、ルカリオの拳から伝わる波導を感知する。

 

 ルカリオに、攻撃の意思はなかった。

 

「師父……、それにルカリオも、もう、俺を殺すつもりはない。それが波導で分かった。あなた達は、もう俺と戦うという事に意味を見出していない。俺が、この波導を感じ取れる域に達するかどうかだけを見ている」

 

「見事なり」

 

 師父が歩み出た。ルカリオは拳を開き、アーロンの胸元に手をやる。

 

 流れ込んでくるのは悲しみだ。深い悲しみだけがルカリオを満たしている。

 

「どうして、ここまで悲哀に満ちた波導が……。あなた達は、最初から、俺を殺す気はなかった」

 

「全てを失った。それはわたしも、ルカリオも同じ事。愛する者を殺し、ただただ旅の合間に訪れた希望を見出した。その希望が、いずれ自分達の悲哀を理解した時こそ、これを授けるべきだと」

 

 ルカリオの波導の波長が変化する。攻撃に転じていた波導の嵐がやみ、嵐の後に訪れたのはうららかな春の陽射しのような優しい波導であった。

 

「愛する者を、失った波導……」

 

「喪失の悲しみと、真に人を愛した時のみ、訪れる感情だ。人はそれを愛ゆえに苦しむためにこう呼ぶ。涙、と」

 

 今まで自分と切り離してきた泣き疲れた自分。それが目の前に存在している。そっと手を差し伸べている。

 

「泣く事が出来るのは、人間だけだ。生きている者の中で、泣くという行為を悲しみと愛で流せるのは、人間だけなのだ、アーロン。愛と悲しみの両面を知ったのならば、お前とて分かるだろう。頬を伝う、涙の感触が」

 

 溢れ出た暖かさが胸を締め付けて、堰を切って流れた。

 

 涙として。

 

 死神の眼から流れ落ちる。

 

「泣かないのが強さではない。涙する事を知り、愛を知り、その上で戦う事を覚悟したのならば、これを与える」

 

 ルカリオの波導の脈動がアーロンと同期し、その波導が体内を満たしていくのを感じた。

 

 波導使いの寿命だ。

 

 ルカリオの全身が結晶化していく。師父も同じであった。ルカリオを介してアーロンに波導を伝えている。

 

 ――脳裏を過ぎったのはいくつもの記憶のフラッシュバックだった。

 

 愛した人を手にかけなければならなかった師父の悲痛。それが自分の感情のように伝わってくる。師父は今まで多くを失ってきた。多くを失い、ある時には絶望し、波導の終わりを渇望した時もあった。

 

 だが、最後の最後に希望として残ったのは一輪の花だ。小さく、どのような名前なのかも分からない。その名も無き花が、師父の心の支えであった。

 

 青い花。

 

 風に揺れるその花へと、アーロンは手を伸ばす。花びらが散り、その命を終わらせたと感じた。

 

「花は移ろい、季節ごとに生と死を繰り返す。それが万物。それが波導の真の姿。波導は何もかもに宿り、何もかもが波導であるのだ。お前にも、見えるだろう? 名前のない花が。その花が安心して咲ける場所こそが」

 

 アーロンは自身の内面に揺れる一輪の花に、そっと屈み込んだ。

 

 名前も知らない花が、どこかで咲く。その場所の事をようやく知る事が出来た。

 

 人を愛した時、この花は咲く時を迎えるのだ。しかし同時にそれは枯れ始める事でもある。

 

「枯れる時を、恐れるな。愛は無限ではない。波導と同じだ。有限なんだ。愛も悲しみも表裏一体。どこかで終わりが来る。だが、終わるからと言って、恐れていては何も出来ない。ルカリオ、これで全てを終わりにする。波導の真髄とは、生きとし生ける万物の中に唯一無二を見つける事だ。代わりなどない。わたしが見つけるのではなく、お前が見つけ出した青い花の咲くところを。その場所に名をつけるのならば、それは――」

 

 ルカリオが完全に結晶化した。

 

 その身体から波導が全て失われ、風が吹き荒んだだけで脆く崩れ去った。

 

 師父も半身が波導の結晶に覆われていた。終わりの時期をとうに過ぎた花が最後に告げている。教えるべき事を、ようやく教えられたと。

 

「師父。俺は……」

 

 唇が震える。うまく言葉にならない。何度もしゃくり上げた。

 

 涙が止め処ない。

 

「見つけたな。ようやく、お前も。……馬鹿弟子が。人を愛せなかったあの子供が、ここまで成長出来た。わたしはそれだけで嬉しい」

 

 師父の全身が結晶化しようとする。アーロンが駆け寄りかけて否、と足を止めた。

 

 師父の終わりは師父だけのものだ。

 

 自分が介入していいものではない。

 

 ――ただ、見届けろ。

 

 自分の終わる時と等しい、師父の眼差しを。慈愛に満ちた、その瞳を。

 

「これを使えば、お前にはもう、波導使いとしての資格は残らない。波導を操る術も、戦う事も、何もかもをなくすだろう。さらばだ。アーロン。波導の果てにまた会おう。いつだって、わたしとお前は繋がっている。忘れるな。波導は……」

 

 結晶化した師父の終わりは一瞬であった。

 

 一陣の風が吹き抜けると師父であった結晶体を吹き飛ばしていった。

 

 その風も、どこかで他人の希望となる。どこかで、誰かを助けるのだろう。

 

 そうやって波導は巡り巡る。

 

 それこそが万物の真実。

 

 最後の波導の名前は――。

 



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第百三十九話「落涙閃」

 

「何故、波導を捨てた? どうして、そこまで諦められる?」

 

 ゼロの声にアーロンは頭を振る。

 

「俺は、諦めてこの場所に立っているんじゃない。これからのために、戦っている。覚悟したんだ、ゼロ。お前を倒す」

 

 ゼロは鼻を鳴らし、手を薙ぎ払った。

 

「口ではどうとでも言える! 波導の護りのない貴様など、我が最大の波導の前に破壊し尽くす! もう隠れるのはなしだ。終わりにするぞ、破滅のポケモンよ」

 

 ゼロの体内に潜り込んでいた翼が波導を得て膨れ上がり、半透明であったその身体に血脈が宿る。

 

 赤と黒で彩られた、巨大な翼を持つポケモンであった。

 

 猛禽の如く鋭い眼と口先を持っている。

 

「――イベルタル、破壊を司るポケモンだ」

 

 ようやく明らかとなったゼロのポケモンが咆哮する。それだけで地脈から残りカスのような波導が吸い取られた。このポケモンは生命を吸って生き永らえるのだ。

 

「そう、か。今の今まで、そのポケモンには生命波導がなかった。ほぼ死んでいたんだ。だから、そのポケモンの波導が見抜けなかった。ポケモンの初歩の初歩だ。衰弱したポケモンは縮小し、目には映らないサイズにまでなる」

 

 モンスターボールの初期原理を説明するのに使われるこの法則をゼロは逆利用した。

 

 イベルタルの波導を自らで吸い上げ、最小のレベルまで縮まらせた。それによってイベルタルを狙われないように仕組んだのだ。

 

「我が波導と繋がっていたポケモンを切り離す、という事は、どういう事か分かるな?」

 

 この場所に留まらない。イベルタルは、ヤマブキシティ全域から波導を吸い尽くすつもりだろう。ゼロのコントロールを離れたイベルタルの破壊行為は止まらない。恐らく生命波導を全て吸収しなくては死にもしない。

 

「だが、俺は。これ以上、この街の人間を傷つけさせるつもりはない。ピカチュウ、最後の波導だ」

 

 心得たピカチュウが一声鳴き、雷雲を呼び寄せた。放たれた雷撃がアーロンへと宿る。

 

 全身を薄く覆ったのは青い波導であった。焔のように妖しく燃え盛り、アーロンの内奥から生じている。

 

「そのような小手先で! イベルタル、全てを吸い尽くし、この街を死に染めろ! デスウイング!」

 

 イベルタルが両翼を広げて石化の波導でこの街全域を押し包もうとする。アーロンは右腕を掲げて、波導を集中させた。

 

 蒼い焔のように宿った波導がアーロンの身体を染め上げていく。

 

 コートの色が反転した。

 

 白だ。

 

 何もかもを消し去った末の、純白が、アーロンを包み込む。

 

 アーロンがその手を地面へとつけて、最後の波導の名前を紡ぎ出した。

 

「――落涙閃」

 

 直後、天地を縫い止める黒白の雷がイベルタルを貫いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 黒と白の向こう側へとアーロンは追いやられていた。

 

 何も見えない。何も聞こえない。

 

 そんな中、ぼんやりと温もりを感じる。

 

 師父の波導だった。ルカリオも共にいる。彼らだけではない。

 

 かつて「アーロン」の名を継いできた者達が、自分を包み込んでくれていた。

 

 暖かい炎。胸に宿る、青い闇を払う光。

 

 ――ああ、これが。

 

 アーロンは感じ取る。

 

 愛と悲しみを背負った者達は光の向こうへと消え行く。行かなくてはいけないのだ。その向こう側へといずれ自分も誘われる。

 

 師父とルカリオがこちらを振り向いたのが分かった。

 

 眼が見えなくとも波導で分かる。

 

 彼らは微笑み、光の向こう側――遥かなる累乗の先へ。

 

 師父はコートを翻して声にしていた。

 

「さらばだ、アーロン。また会おう」

 

 アーロンは唇だけで答える。

 

 ――ええ、いずれ、また。

 

 きっとまた会えるはずだから。

 



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最終話「アオイヒカリ」

 黒白の一閃はイベルタルを完全に静止させていた。

 

 体内の波導回路が全て焼き切られ、イベルタルはその生命活動を停止していた。ゼロはおっとり刀でイベルタルに波導を与えようとする。

 

「我が波導が……途切れた、だと」

 

 イベルタルだけではない。今の黒白の雷を目にした自分にも変化が生じていた。

 

 波導を見る眼が正常に動いてくれない。青い闇が自分を覆い尽くそうとする。

 

「離れろっ! くそっ! どうしてだ、我の眼が……。アーロン、貴様ァ!」

 

 喚くゼロとは対照的にアーロンは波導を棚引かせていた。

 

 焔のような波導は消え失せ、白に染まった身体も今は解けている。

 

「まだ生きているのか。しぶといな、お前は」

 

「死んで、堪るか……!」

 

 その双眸に無理やり波導が通される。フェイズ2状態に移行した波導の眼を駆使して、ゼロが歩み寄ろうとしてくる。

 

「残念だったな、アーロン。我を、殺し尽くせなかった。イベルタルはもう使えないかもしれないが、我は生きている! お前の波導を貰い受け、その波導で生き永らえる。さぁ、波導を……。波導を寄越せ」

 

 その手が急速に枯れ果てたかと思うと紫色の結晶が纏わりついた。波導使いの終わりだ。

 

 ゼロはそれを振るい落とそうともがく。しかし、身体の内側から発生する波導の終わりを誰も解く事は出来ない。

 

「波導使いになったのならば、誰もが覚悟する終焉だ。お前の波導は、もう尽きた」

 

「そんなはずはない! 我は、無限に波導を吸収出来る! そうだ、その足元にある、その花でもいい! 花の波導を寄越せ! 我の物だ!」

 

 ゼロが地面に手をつけて花の波導を奪おうとする。アーロンはその波導吸収を、身を挺して遮った。

 

「誰のものでもない。命は、誰のものでもないんだ」

 

 それが分かれ目となった。

 

 結晶化するゼロが呻き、断末魔の叫びが迸る。

 

「嫌だ! 我はまだ! まだ生きていられる! 波導を! 波導をくれ! 一滴でもいい! 雨でも、風でも、何でも……! 少しでも波導があれば、我は……」

 

「波導は誰のものでもない。波導は御身に在らず」

 

 その言葉がゼロに聞き止められた最後の言葉であった。結晶化したゼロが天に手を伸ばそうとする。

 

 その指先の末端でさえも結晶と成り果てた瞬間、吹き抜けた風が結晶体を散らせる。

 

「波導使いは花よりも儚く、散り際は何よりも脆い。永遠とは、まるで真逆の存在なんだ」

 

 アーロンはピカチュウの頭を撫でてやる。最後の仕事が、まだ残っていた。

 

「ピカチュウ。お前に、俺の波導を少しだけ預けておいた。まだ行けるな?」

 

 鋭く鳴いた相棒は心得たように電気ワイヤーを作り出す。ビルに巻きつけて、アーロンはメイの待つ階層へと至った。

 

 メイは石化されていたが、まだ波導は残っている。

 

 ゆっくりと額に触れてやり、その波導を感じ取った。

 

 複雑に入り組んだ波導回路の生きている部分に波導を流し込む。

 

「ピカチュウ、これが俺の、本当に最後の波導だ」

 

 波導回路を見極めたアーロンの放ったのは針の穴のような小さな活路。

 

 そこに全ての波導を注ぎ込む。

 

 瞬時に右腕が肩に至るまで結晶化し、砕け散った。

 

 人を殺め続けた右腕は跡形も残らなかった。

 

 アーロンは仰向けに倒れ込む。

 

 身体を動かす波導は残っていなかった。

 

 目を閉じる。もう、青い闇が世界を覆う事はない。

 

 どこまでも優しい白の世界で、アーロンは安息に包まれていた。

 

 ――波導使いの見る夢の果てが、訪れようとしていた。

 

 左手を上げる。

 

 師父が導いてくれるのだと思ったのだ。

 

 しかし、その手を引いたのは師父の幻影ではなかった。

 

 人の温もりのある手が、左手を包み込んでいた。

 

「俺は……」

 

「――こんなにも、疲れたんですね」

 

 その声の主にアーロンは自嘲気味に返す。

 

「馬鹿を相手取ると疲れる。俺も、焼きが回ったな」

 

「放っておいてくださいよ」

 

「そうもいかない。どうやら、ここが帰る場所らしい」

 

 ならば交わすべき言葉があるはずだ。今まで、保留にしてきた、その言葉を今度こそ自分から言わなくってはいけない。

 

「ただいま」

 

 その言葉に久しく忘れていた慈愛が宿る。

 

「――おかえりなさい」

 

 ピカチュウが鳴いて寄り添う。

 

 ――ああ、こんなにも、平穏な声。

 

 ついぞ聞いた事のないほど、ピカチュウが安堵している。安らいだ声を出している。

 

 訪れに、アーロンは安心して眠りにつく事が出来た。

 

 夢も見ないほど、今までの何よりも、深い眠りであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ポケットモンスターHEXA6 MEMORIA 完

 




あとがきをもって完結します。これまでありがとうございました


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あとがき

あとがき

 

 拙作、『MEMORIA』を読んでくださり、ありがとうございます。毎度同じみになってまいりました、オンドゥル大使です。

 今回はHEXA六部、という事で、随分と遠くまで来たなぁ、という感慨と共に、「なかがき」で終わっているはずのこの物語が何故、この最終章を迎え、この最終回となったのか、紐解こうと思います。

 そもそもHEXA第五部『INSANIA』、あれで大体、やりたい事は出来たと言いますか「人気は出ずとも満足行くものができた」という感覚はありました。

 しかし、やりたい事とやるべき事と、その結果というのは毎度別個のものでありまして、私は満足した、かのように思っていたのですがやはりどこかで不足の要素を見ていたのでした。

「INSANIAでは自分のことなどまるで分かっていない記憶喪失の彼=ツワブキ・ダイゴを主軸とした願いと祝福の物語だった。では、その正反対、呪いしかない物語があるとすれば……」

 私の作品を知っている方ならばピンと来るでしょうが呪いと悲哀しかない物語がありました。そう、炎魔という暗殺者が主人公の物語『F』です。

 それまでに色々と試行錯誤するにつれ波導使いを主人公に据えた物語をいつかはやりたいと思ってはいたのですがその波導使いが構想段階では女の子だったり、色々と定まっていませんでした。

 それを確定させた要素が「暗殺者」です。

 波導使いは必ずしも正義の人間ではないのではないか。

 その道が拓けた瞬間、HEXA六部が形を成しました。

 波導切断、という変わった設定も全てそのためです。

 暗殺者なら最強の暗殺者がいい、それも、殺しの遂行に迷いがなく、スマートな最高にクールな奴がいい。その具現化がこの物語の主人公、アーロンでした。

 実は波導の勇者ルカリオはテレビで一回だけ観ただけであまり深くは追っていないのですが、それが幸いしてか波導使いの常套句である「波導は我に在り」を一度も言わない主人公となりました。

 この物語のアーロンは映画のアーロンとは全く違いますし、そもそもヤマブキシティ自体、ほぼ独自設定です。

 しかし、アーロンを主人公にするのならば毎度女の子が出てきたほうがいいな、と思いました。007で言う「ボンドガール」のようなものです。

 物語の彩りにはやはり女性キャラ。しかも、毎回主人公を殺しに来るほど厄介な暗殺少女達……。

 炎魔シャクエンを出すのは割とすぐに決まったのですが、それ以降も楽しんで書けました。私が書いた中では、悲劇に走り過ぎない作風となったかと思います。……まぁ、毎度のことながら人は大勢死んだのですが。

 さて、主人公アーロンと彼の周りに集まる暗殺少女達は確定したところで、この物語の根幹、いい意味でも悪い意味でも、それが見えてきました。

「手を変え品を変えれば、これいつまででも続けられなくね?」という事です。

 実のところ、毎回暗殺者を変えればこの作品、二十章くらい出来ます。

 しかし、終わりのない物語は幸福ではありません。

 物語には終わりがあるから幸福なのです。

 なので第五章と六章辺りで「この家族ごっこに終わりが来る」というのを仄めかしたのは正解だったと思っています。

 基本、毎回メインとなる暗殺者と女の子が出てきて、それを解決する、というスタンスでした。

 誰が毎回メインとなったかは、まぁ読めば分かるので割愛して、さて、最終章の話です。

 なかがきでも書きましたがこの物語、第九章で円満解決します。

 メイは真の姿を見せましたがプラズマ団はアーロンによって壊滅し、これまで通り、メイとシャクエン、アンズとの共同生活を続けられる。ある意味では、平穏な日々がずっと続いていく……。

 超ハッピーエンドです。

 しかし語られていない事が多過ぎました。

「アーロンはいつから暗殺者になったのか」「師父との約束は?」「石化の波導使いはどうなったのか」……。

 これらはわざと最後の疑問に残した代物です。しかし、これらがなくとも終わらせられた物語でした。

 メイと分かり合えたアーロンは愛と悲しみを知り、深い孤独から脱する。

 それでいいのです。通常ならば。

 しかし物語にはピリオドを打たなければなりません。なのでなかがきで忠告、という形にしました。

「これで波導使いアーロンの物語は一度終わります。しかし、これ以上を観るのには覚悟してください」

 この文句は、円満に終わらせられる物語のさらなる深い闇を直視する人のみに向けた言葉でした。

 何一つ終わっていない。アーロンの本当の最後の物語、真の完結篇――。

 最終章はそのためにありました。

 私自身がMEMORIAにケリをつけるために。アーロンが師父と、メイとの間に、芽生えた感情に終わりを告げるために。

 愛を知り、悲しみを知り、孤独である事を知り、最後の最後に、誰かが傍にいてくれることをただ願っただけの――弱くて醜い、物語でした。

 これは英雄譚ではありません。

 ましてや波導使いアーロンの成長物語というわけでもありません。

 これは小さな、最後の最後に名も無き花を守ることを決意出来たただの「人間」の物語です。

 アーロンとメイが最後どうなったのか。

 全ては皆さんに委ねます。

 これ以上語ることは無粋でしょう。

 これは影でしか咲けない花があるというだけの、些細な物語。

 次はHEXA第七部『ANNIHILATOR』でお会いしましょう。

「思い出」を巡る物語は終わりを告げました。

 

 

2016年9月26日 オンドゥル大使

 

 

――――――――

 

ハーメルン版 あとがき

 

どうも。ここまで読んで下さりありがとうございます。あるいはここだけでしょうか?ひとまずはじめましての方ははじめまして。

 

ハーメルンでポケモン二次創作をやるにあたり、ひとまずは最新作『AXYZ』のほうをチェックしてくださった方もいるかもしれません。続きは書いているのですが、お待たせすることになったのでこれを更新することにしてました。

 

こちらはあとがきの通り2016年には完結した作品であり、いわば古い作品です。しかしAXYZ以外でまず読んでもらうとすればと思ったのも今作でして、自分ではお気に入りなのです。……まぁあまり評価は芳しくなかった気はしますが……

 

次はHEXA第5部『INSANIA』を更新していこうかなとも思ってます。と言うのも、AXYZの更新はまだ待たせることになりそうなのと、『ディズィーの素敵な冒険』のほうの感想で「HEXAって何?INSANIAってなに?ググっても出ないんだけど」と言われたので本編を上げていきます

 

とはいえこの作品、お気づきでしょうが「ダーカーザンブラック」がやりたかったのですが当時はまだ三期の希望はあったのと、マイナー二次でやる勇気はなかったので……。

 

あ、気になった方はようやく勇気が出て書いてる『DAKER THAN BLACK ―煉獄の扉―』もよろしくお願いします。って、ポケモン二次創作のあとがきで宣伝しちゃってますが……

 

ひとまず所感を言うなら、粗いながらも完結させた本作ですので、シリーズの6作目ながらに気に入っているのです。まぁ作者が気に居るのと読者様が気に入るのは違いますけれど……

 

ひとまず波導使いアーロンの物語は完結いたしました。

 

不器用な男が不器用ながらに、生き様を模索する話であったと思います。

 

 

元々のあとがきではカッコつけてますが、書いた時にはあまり評価されずに凹んだのももういい思い出です。

 

そもそもポケモン二次創作で殺伐とし過ぎですね……とはいえこれが作風ですので……

 

この作品の派生作というか、元にした中編もあるのでもしかしたらそれもこっちに上げるかもです。『F』という短編です

 

まぁ色々あったけど完結できていますめでたいと思ってます。そして叶うのならばこれを機にお見知りおきおば、と思ってます。

 

それでは。このあたりで。ではまた

 

2020年8月16日 オンドゥル大使より

 



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