鎮守府点描 (Ashlain)
しおりを挟む

山城:砲戦距離5千

 薄明が始まったばかりの海を進みながら、山城は今日何度目かのため息をついた。

 僚艦に聞こえないようにしているのがせめてもの気遣いだった。

 

 ――わかってはいるのよ。

 

 防御力も速力も新型艦にはかなわない。

 おまけにツキもないと来ている。

 勝負になるものと言えば主砲の火力くらい。

 

 姉である扶桑も山城も今や旧式艦で、艦隊の主力を張れる立場にはない。

 そしてそうであっても、維持費は戦艦のそれなのだ。

 

 そんな旧式艦を放り出すでもなく鎮守府に置き、大規模作戦の折にはこうして働く機会も作ってくれる。

 合理性を重んじる提督だが、そういった部分には提督なりの優しさが見えている。

 

 そのことは山城もよく知っていた。

 それでも、艦娘として奉職するからには、華々しい戦果のひとつも挙げてみたい、そう思うのが人情というもので、それこそがため息の理由でもある。

 

「攻撃始点まで5海里です」

 

 並航しながら山城に報告したのは三日月。山城と同じく旧型だが、それだけに航行の経験は豊富だ。

 無線や電探の使用を制限している状況にあっても、艦の位置の把握を誤ることはない。

 

 山城は頷いてありがとうと応じ、僚艦たちに指示を出す。

 

「私とウォースパイト、ガングートは現在の針路と速度を維持。三日月と長月は先行して攻撃始点付近の状況を確認。

 飛鷹、攻撃隊の発艦は問題ない?」

 

 後方に離れた位置で艦載機を飛ばし始めているだろう飛鷹にだけは、近距離の無線通信を飛ばした。

 

「Understood」

「да」

「三日月了解」

「長月、準備よし。増速する」

 

 四者四様の応答があった。

 2隻の駆逐艦が増速し、前方へ離れてゆく。

 

「こちら飛鷹、攻撃隊は順調に発艦しあり」

 

 わずかな間を置いて、飛鷹からの返電が届いた。

 

 ――順調じゃない。

 

 山城は小さく笑みを浮かべた。

 しかしそれもほんの一瞬のこと。

 山城は己の運のなさを疑っていない。

 いま状況が順調に進みつつあるということと、それが最後まで続くということはまったく違う。

 己の運のなさを疑わないということは、それを身に沁みて知っているということでもあった。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 ややあって、先行した三日月と長月が戻ってきた。

 波を踏む足が速い。表情が険しい。

 山城は確信した。

 きっと何かろくでもないことが起きたのだろう。そうに違いない。

 ウォースパイトとガングートにハンドサインを送り、やや船足を落とす。

 

「支援砲撃実施予定海域に敵艦隊」

 

 眼前で見事なターンを決めて並航の態勢に移った長月が短く報告した。

 

「計4隻、重巡3、軽巡1。予定航路付近に停泊しています。投錨はしていません」

 

 長月に続いて針路を変更した三日月が補足する。

 

「偶然かしら?」

 

 偶然とは毛ほども思っていない口調でウォースパイトが尋ねる。

 

「投錨していたのなら、」

 

 どこからか煙草を取りだしながらガングートがつまらなさそうに応じた。

 

「偶然と判断できたかもしれないな」

 

 煙草を口の端にくわえ、これもどこからか取りだしたライターを右手に、左手で風を遮って器用に火を点ける。

 一口吸いつけて煙を吐き出し、それで、という視線を山城に送る。

 

「偶然とは思えないわね、残念ながら」

 

 ため息とともに山城は言葉を吐き出した。

 

「我々の支援砲撃への対応を目的とした布陣、そう判断します。

 あの海域を使うのは3度目だったかしら?

 候補になる海域を全てカバーしているのか、山を張ったのか、あるいはこちらの通信が漏れたのか」

 

 まあ原因は今はどうでもいいわ、と付け加える。

 

「支援砲撃を行うためには敵艦隊をどうにかしなければならない。

 そして敵艦隊は我々が来ることを知っている。少なくとも予測している。

 それを前提に今後の行動を決める必要があります」

 

「支援砲撃を中止して引き返すという選択肢は?」

 

 事前の想定と状況が全く異なるのだし、と付け加えてウォースパイトが質問する。

 これも先程と同様、そうなるとは微塵も考えていない口調だった。

 

「本隊が最深部海域への突入を中止するなら」

 

 肩をすくめて山城が答える。

 そうなれば支援砲撃そのものの意味がなくなる。

 つまり、無理をして支援砲撃を行う理由もなくなるということだった。

 

 受信モードにしていた通信機がかすかな音を立てた。

 短い符号で構成された電文が、山城の個人用端末に表示される。

 

『第一・第二艦隊は敵前衛警戒網を突破。

 我が方の損害、第一艦隊、中破2、小破1。第二艦隊、中破1。

 最深部海域への突入は60分後』

 

 平文に直すとそのような意味になる。

 

「幸運なことに、」

 

 山城の口角が、笑みの形に上がる。

 自嘲の笑みだった。

 

 鎮守府にとっての幸運。本隊にとっての幸運。

 さてこの幸運は、私たちにとっても幸運なのかしら?

 私はこの幸運を喜ぶべきなのかしら?

 

「本隊は予定通り、敵の警戒網を突破しました。我々も予定通り行動せねばなりません。

 本隊は既に血を流している。不測の事態があったとて、我々だけが引き返すわけにはいきません」

 

 それに、と山城は心の中でだけ付け加えた。

 

 ――前衛支援の役割を果たした姉様に会わせる顔がないじゃない?

 

「それでこそ、ね、ヤマシロ」

 

 にこりと笑ってウォースパイトが頷く。

 

「具体的には?」

 

 紫煙を吐きながら訪ねたのはガングートだった。

 

「敵艦隊を排除してから支援砲撃を行いたいところですが、時間の猶予が足りません。

 本隊を待たせれば敵の航空隊に囲まれかねない。本隊の突入後に砲撃を実施すれば同士討ちの危険がある。

 よって、敵の陣形を崩して支援のための間を作るに留め、敵艦隊には砲撃終了後に対応します。

 直接照準射撃になるけれど」

 

 ほう、という表情で視線を向けたガングートに、山城はにやりと笑ってみせた。

 

「敵がじかに見えているのだもの、普段の砲戦よりはやりやすいでしょう?」

 

 ウォースパイトが、出来のいい冗談を聞いたかのようにくすくすと笑った。

 こんなときでも仕草の端々に滲む品の良さはお国柄、というところだろうか。

 

 ガングートはやれやれといった風情で携帯用の灰皿に短くなった煙草を落とす。

 

「無茶な話ではあるが」

 

 先ほどまでの、どこか気のないトーンではない。

 

「無茶は戦争の通り相場だ。どこの国でも似たようなものだな」

 

 砲戦用意だ、と艤装妖精たちに告げる口調が戦意に満ちている。

 

「君のところの無茶よりはだいぶましな方だろう?

 タシュケントが随分こき使われたと言っていたぞ」

 

 長月が遠慮のない軽口を飛ばす。

 ちょっと長月、とたしなめたのは、こんなときでも生真面目な常識人の三日月だった。

 

「――似たようなものさ。

 それで、どう動く?」

 

 もう一度同じ台詞を繰り返して、ガングートは山城に指示を促した。

 

「長月と三日月は当初の避退予定点から目標海域へ逆行。

 雷撃で敵を動かして。自爆までの航走距離は短めに調整するよう。

 あなたたちの魚雷で沈みたくはないから、よろしく頼むわね。

 私とウォースパイト、ガングートは予定通りの航路で目標海域に進入、主砲は予定通り支援砲撃。副砲は状況によって妨害の排除に用いること。

 予定の支援砲撃の完了後は主砲も含めて敵艦隊と交戦。撃沈までは期さなくていいわ、こちらを妨害・追撃する気が起きなくなる程度に叩けばそれで。

 飛鷹、聞こえてる?そういう状況だから、予備の第二波をすぐに上げて。長月三日月と一緒に、同じ方向から突入。

 目標の選定は――今ここで決めても意味ないわね。旗艦と見える奴がいたらそいつから、くらいかしら。あとは各自の判断に任せるわ。

 大破者が出たら対応は都度指示。私が指揮を取れない状況になったらウォースパイト、ガングート、長月、三日月の順に指揮権を委譲する。

 海域進入後、最大30分で離脱。後尾は私が締める。

 ああ、無線と電探の使用制限は突入開始時点で解除。

 質問は?」

 

「突入の前の話だが」

 

 ガングートが小さく手を挙げて言った。

 どうぞ、と促した山城に頷いて答える。

 

「こちらからも雷撃をしておいていいかな?

 巡洋艦級もいると誤認させたい」

 

 ああ勿論、航走距離は短く設定するよ、と付け加えた。

 

「そう言えばそうだったわね。お願いするわ」

 

 山城はくすりと笑った。

 

 運はない。

 状況はお世辞にもいいとは言えない。

 

 そうであっても、戦場慣れした、しかも士気の高い僚艦と舷側を並べて戦えることが嬉しかった。

 

「ガングートは目標海域進入に先立って雷撃。

 他は既定のとおり。いいわね?」

 

 5隻から5通りの表現で、了解の意が伝えられる。

 

 戦闘準備を整えながら二手に分かれた艦隊の上空を、切れ目のある雲に隠れるように、飛鷹が急遽発艦させた攻撃隊が追い越してゆく。

 三日月と長月が増速し、ちょうど先導するような格好になった攻撃隊を追って隊列を離れた。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 本隊の突入開始まで30分弱。

 おそらく支援艦隊を待ち受けているであろう敵を撹乱し、砲撃を済ませるにはぎりぎりの時間しか残されていない。

 

 山城の通信機に、三日月と長月の突入開始を告げる電文が飛び込んできた。

 

「始めましょう」

 

 短く告げて速力を上げる。

 2隻の戦艦から返答はない。一際高くなった2隻の主機の咆哮がその代わりだった。

 

 山城は戦場をいま一度見渡す。

 島と島に挟まれた海域。攻撃始点と避退予定点はいずれもそう広くない海峡だが、幅も深さも戦艦の航行に不足はない。

 中間部の幅は最大で5千mほど、攻撃始点から避退予定点までは1万mほど。

 支援砲撃は攻撃始点から見て右側の島越しに、深海棲艦の当海域最深部部隊へ向けて行う。

 

「敵艦視認、計4隻。

 ツ級、リ級、リ級、ネ級」

「リ級は片方精鋭級、片方が旗艦級だな。

 指揮してるのがネ級と旗艦級のどっちかは不明」

 

 無線封止を解除した三日月と長月が報告を入れてくる。

 

「長月、三日月、深入りしすぎないよう注意」

 

 たとえ散発的な砲撃であっても、旧式の駆逐艦に当たれば大きなダメージになる。

 集中砲火を浴びれば、言うまでもない。

 

「攻撃始点を通過――左舷前方に敵艦隊」

 

 言いながら、山城は転舵した。

 

 艦体を寄せたガングートがハンドサインを送り、左前方へ離れてゆく。

 左舷から前を横切る、と伝えていた。

 

 その通り前を横切ったガングートの左舷から4本の細い航跡が伸びてゆく。

 予告通り、雷撃を行ったのだった。

 

 一旦前に出て右舷側に回ったガングートは減速し、山城の後ろに戻る。

 針路設定は任せる、という意思表示だった。

 

 さきに突入した駆逐艦との挟撃のかたちになった雷撃で、敵艦隊は混乱しているようだ。

 統制の取れた攻撃、その前提になる陣形を組めていない。

 ただ、山城の経験に即して言えば、それもそう長い間ではない筈だった。

 

「第二支援艦隊戦艦部隊、我に続け。

 わが艦隊は本隊の支援を行う。主砲塔群、右舷砲撃戦用意、距離2万。

 舷側副砲は左舷前方の敵艦隊へ向けて各個射撃を許可」

 

 言い終わるか終わらないかのうちに、ウォースパイトとガングートが副砲の射撃を始める。

 敵艦との距離は5千もない。戦艦の砲戦距離としては至近もいいところだった。

 敵艦の周囲に派手な水柱が上がり、命中したらしい爆炎が同時に上がる。

 砲撃ではなく、別働の艦爆隊が放った爆弾だった。

 

「飛鷹攻撃隊の爆撃は精鋭級リ級に直撃弾1、至近弾2。雷撃は命中ありません」

「戦艦隊副砲の砲撃、弾着、今――駄目だ、各個射撃じゃどれが誰の射弾かわからん」

 

 こっちからも撃ってるしな、と砲声混じりの報告を寄越したのは長月だ。

 

「牽制になれば上出来。

 当たったのならもっと上出来だわ。飛鷹、あなたのところの艦爆よ」

 

「支援攻撃隊、攻撃行程の始点に到達。敵の迎撃機なし、観測の用意よし。

 ――改装空母だって、甘くないでしょう?でも私、甘味は好物なの。期待してるわ、山城」

 

「お互い、無事帰ったらね――ウォースパイト、ガングート、始めるわ。

 全砲門開け、第1斉射開始」

 

 まばゆい砲炎が視界を一瞬白く塗りつぶし、轟音と衝撃が艤装を揺さぶる。

 衝撃波が押しのけた海水が波立ち、それが再び戦艦たちを揺らした。

 

 山城はちらりと前方の状況を確認する。

 敵艦隊は混乱から立ち直りつつあった。彼女たちはこちらの発砲を確認した筈だ。その目的も。

 

 駆逐艦2隻は捨て置いてよいと判断したのだろう、ぐるりと回頭し、こちらへ針路を変更している。

 

「左舷副砲群、反航戦用意。

 飛鷹、こちらの主砲射弾は?」

 

 距離を詰めつつある敵艦隊を横目で見ながら、山城は支援砲撃から意識を離さない。

 

「ガングートは近弾500、山城は近弾700、ウォースパイトは遠弾500。

 攻撃隊はこれより突入する。第2斉射の観測は無理ね、可能なら第3斉射で観測する」

 

「了解、ありがとう。

 諸元修正、第2斉射用意」

 

「あと20秒で第2斉射可能」

「ウォースパイト、同じく」

 

 再装填と砲撃諸元の修正を行いながら、ガングートとウォースパイトが応じる。

 きっかり20秒後、山城はふたたび主砲の射撃を命じた。

 

 ふたたび砲炎と轟音、衝撃。

 薄暗い夜明け前の空と海に慣れた目には、砲撃の強烈な光がひどくこたえる。

 

 ようやく戻った視界に、敵艦隊が再度転舵するのが見えた。

 

「ヤマシロ、左前方。

 こちらの頭を押さえに来ています」

 

 速力の利を生かし、駆逐艦と空母攻撃隊を無視し、敵はこちらの支援砲撃阻止を目標と定めたようだった。

 丁字戦――こちらの先頭を押さえ、集中砲撃を加えるつもりであるらしい。

 

 ――どこまでついてないの?それとも判断を誤ったの?どこでどう?

 

 弱音と愚痴と後悔の全てを、山城はひとつの舌打ちに込めた。

 

「ウォースパイト、ガングート、第3斉射用意。

 前方の敵は、」

 

 第1砲塔をぐるりと旋回し、左前方に指向しながら山城は宣言した。

 

「山城が叩きます」

 

 斉射命令を出すよりも早く、山城の第1砲塔は射撃の準備を完了している。

 

「邪魔だ、」

 

 直接照準で狙いを定め、咆えた。

 

「どけええええええええええッ!」

 

 主砲発射の衝撃に負けないよう、力いっぱい足を踏ん張る。

 轟音に負けないよう、大声で叫んだ。

 

「各艦、第3斉射開始!」

 

 みたびの斉射。

 第1砲塔の弾着が、当然ながら最も早かった。

 敵艦隊の先頭を航走していたリ級のシルエットが、海面から沸き立ったふたつの水柱の影に隠れる。

 

 たじろいだようにリ級が速度を落とした。

 

 ――そうだ迷え。このまま針路を維持すれば更に撃たれる。前部砲塔の主砲しかなくとも戦艦の主砲だ。

 

「第3斉射、弾着――山城が遠弾500、ウォースパイトが挟叉、ガングートは近弾300以下。

 雷撃隊は命中1、艦爆隊は命中弾2」

 

「飛鷹、ありがとう。無事で何よりだわ。

 あと1斉射分だけ観測を。こちらは第5斉射後に予定通り離脱する」

 

「約束が違うわ、ヤマシロ」

 

 笑みを含んだ声でウォースパイトが咎めた。

 

「私たちには主砲は支援用と言っておいて、ひとりだけ主砲で巡洋艦と遊ぶなんて」

 

「おかげで奴ら、行き足が止まった。丁字戦は諦めて反航でやりあう気だ」

 

 腰抜けが、とでも言いたげな口調でガングートが補う。

 

「ならばあと2斉射、メインディッシュをさっさとやっつけましょう。

 有視界射撃のデザートはその後よ――甘味は別腹、そうではなくて?」

 

 いつになく高揚した気分で、山城は僚艦たちに告げたのだった。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 本隊の戦闘結果が入電したのは、支援の完了と海域離脱を報告してから60分後だった。

 

『敵艦隊旗艦を撃破、随伴艦は撃沈9撃破2。

 本隊の損害は大破2、中破5、小破3』

 

 ほぼ期待通りの戦果を挙げ、損害も許容範囲内。

 無傷の艦が2隻だけとは満身創痍もいいところだが、随伴艦も全て撃沈ないし撃破しているのであれば、帰投に向けて問題はないと考えていいだろう。

 

 支援艦隊は既に帰還のための航路に乗っている。敵艦隊の追撃はない。

 夜はすっかり明けていた。

 

 支援艦隊は、支援艦隊とは到底思えない様相を呈している。

 新鋭艦を含む巡洋艦4隻と近距離で殴りあったのだから、当然と言えば当然の結果だった。

 中破2、小破1、弾薬は主砲も副砲も、魚雷まで含めてほぼ射耗している。

 余分な戦闘を行ったため、燃料すらぎりぎりという有様だった。

 砲戦に参加しておらず、被弾のない飛鷹でさえ、急遽参戦させた攻撃隊の回収と被害の集計に忙殺されていた。

 

「ツイてない。防御の薄い箇所を撃たれるなんて」

 

 ため息とともに山城がこぼす。

 

「あの乱戦では仕方がないわ。バイタルパートが無事ならどうとでもなるでしょう」

 

 帰投するまでの辛抱よ、とウォースパイトが応じた。

 彼女自身も魚雷を受けて浸水がひどく、速度が低下している。

 

「戦果も大したものだったじゃないか」

「撃沈2、撃破1。

 支援砲撃の結果は戻って本隊に確認しなければ、正確なところはわかりませんが」

 

 長月と三日月が口々に言う。

 

「支援砲撃は上空から見た限り、命中弾4は堅いわね。

 敵艦隊の損害まではわからないけれど」

 

 ようやく全機の着艦を終えた飛鷹が口を挟んだ。

 支援の仕事は果たしたと見てよい、そんな戦果ではある。

 

 それでも山城の心は晴れない。

 

「不運艦を旗艦になんて据えるものじゃないわね。

 たまの戦闘だと思ったらこれだもの。皆にも貧乏くじを引かせたわ」

 

 もう一度、山城は深いため息をついた。

 

「不運か?」

 

 戦艦の中では唯一小破で済んだガングートが、美味そうに吸い込んだ煙を吐き出しながら言う。

 

「同志山城、貴様は不運だったかもしれないがね。

 少なくとも私は不運だったなどと思ってはいないよ」

 

 栗色の瞳で正面から山城を見つめたガングートが、かすかに笑って断言した。

 

「勇敢な戦友と肩を並べて戦えることを不運と思う奴などいないさ。

 そうだろう?それに、」

 

 ガングートの笑みが大きくなる。

 

「あの咆えた山城、あれはなかなか恰好が良かった。

 いいものを見せてもらったよ、спасибо」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

摩耶:防空巡洋艦の憂鬱

「だからさ、こう、わーっと敵の艦載機が来るじゃないですか?

 そうしたら機銃をがっと艦載機の針路に向けてばーん、って行くと、どーんと」

 

「お、おぅ」

 

 手振りを交えながら説明する鬼怒に、摩耶は気圧されたように頷いた。

 

「わーっと来たらがっと向けてばーん、どーん、です」

 

「わーっ、がっ、ばーん、どーん」

 

 手振りまで真似ながら、機械的に鬼怒の台詞をなぞる。

 

「そうです、そのタイミングで!

 あとは練習すれば大丈夫ですから!」

 

 嬉しそうに鬼怒が大きく頷く。

 摩耶は絶望的な気分で笑顔を作った。

 

「……うん、わかった。ありがとう」

 

 実際のところ、何もわかってはいなかった。

 なぜこれで防空射撃が当たるのかと思っている。

 

 結局は最後の一言、練習、ということなんだろうな、とまた一段気分が沈む。

 

 落ちたもんだなあ、とひとりごちて、摩耶は首を振った。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 鎮守府には様々な艦種があり、様々な艦がいる。

 砲撃でもって敵を叩く戦艦、制空権を取って航空攻撃を行う空母、雷撃と夜戦を活躍の場とする水雷戦隊の面々。

 それぞれに期待される役割があり、それぞれがその役割をこなして鎮守府は成り立っている。

 

 立ち上げの直後で規模が小さかった頃は役割がはっきりせず――というよりも誰もがどんな役割をもこなさねばならず、だから何でも屋が重宝されたと聞く。

 在籍する艦娘の数が200を超える昨今では、各々なにか特化した役割を持ち、その役割に関する能力を磨き上げて貢献する、という真逆の状況になっている。

 何がしか人に負けない能力を持ち、それを更に尖らせて、鎮守府の総体としてどのような状況にも対応できるようにすること。

 それが鎮守府の育成と運用の基本方針だった。

 

 現に人類が確保している海域を維持するための通常作戦ならばいざ知らず、深海棲艦たちの領域に踏み込むことになる大規模侵攻作戦にあっては、やはり専門家の――一芸に秀でた艦娘が必要とされるのだ。

 

 二度の大規模改装を経た摩耶に与えられた役割は艦隊防空。

 

 ときには基地航空隊の援護もなく、随伴可能な空母の数も限られる中、深海勢力の深部へと突破を図らなければならないこともある。

 必然、艦隊が航空攻撃を受ける機会は多くなり、被弾の機会も艦隊の損害も、それに従って増加する。

 それらを防ぐため、対空射撃能力に秀でた艦が艦隊に組み込まれるようになっていた。

 海域の状況により艦隊の運用には制約が課せられるため、複数の艦種にわたって防空担当は存在する。

 さきに摩耶を絶望させた鬼怒もその一人であり、防空を担当するための駆逐艦も数隻が鎮守府に在籍している。

 

 その艦隊防空の役目が、このところうまくいっていない。

 摩耶の悩みの種はそれだった。

 

 実戦でなにか失敗をしたわけではない。そもそも通常作戦において、摩耶の防空能力は過剰ですらある。

 敵の艦載機が、空母の積む艦戦部隊の網を突破してくることは難しい――そのように艦戦隊は編成されている――し、その網を抜けたとしてもせいぜいが数機。

 実戦の勘を失わないために週に1度は艦隊に随行するが、そこで仕損じたことはない。

 

 芳しくないのは演習の結果だった。

 防空射撃演習では、艦戦隊による防空網を突破された場合を想定して、通常作戦の実戦よりもよほど多数の標的を用意する。

 その撃墜率が思うように上がらないのだった。

 

 第二次大改装――いわゆる「改二改装」を終えて艤装そのものの対空能力は向上している筈で、にもかかわらず撃墜率は大改装前よりも低下している。

 提督も僚艦たちも改装に伴う一時的な能力の低下と捉えているようで、そのことについてなにか叱責めいたことを言われたことはない。

 訓練の量を増やせば艤装が馴染むだろう、それで撃墜率も上がるだろうと思っていた。

 しかし大改装から1か月ほど、艤装が馴染む感覚はなく、訓練のたびに違和感が増しさえしている。

 ついにはどうやって敵機を落としていたのか、摩耶自身もよくわからなくなってしまった。

 

 自分と同じように対空戦闘を得意とする艦娘に改めて防空射撃のコツを聞けば何か掴めるかもしれない。

 そう考えて声をかけた相手が鬼怒だった。

 鬼怒は快く教えてくれたのだが、その内容はといえば先刻のそれだ。

 

 恐らく、自分の感覚をそのまま口に出しているのだろう。彼女自身はそれで解る。そのとおりにやっているのだ。

 

「いや、でもそれあたしにはわかんねえよ……頭、悪ぃのかな……」

 

 はぁ、と力のないため息が漏れる。

 

「あら摩耶さん、珍しいじゃない。どうしたの?」

 

 掛けられた声に摩耶が振り向くと、小首を傾げた五十鈴が立っていた。

 そういえば彼女も防空と対潜の専門家だったな、と思い出す。

 

「五十鈴、ちょっとその……顔貸してくれねえか。

 困ってるんだ」

 

 言ってしまってから、この言い方はどんなものだろう、と摩耶は後悔した。

 今の自分は、人にものを頼むときにあって当然の気遣いすらできていない。その余裕を失っている。

 

 五十鈴はそのことについては何も言わず、摩耶の顔をちらりと見て、ここじゃなんだから食堂へ、と答えた。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

「――そういうわけなんだよ。

 もう正直、調子が良かったときの感覚が思い出せねえ。

 なんか手掛かりになるかと思って鬼怒に相談したんだけど」

 

 そこまで説明した摩耶に、五十鈴は気の毒そうな表情を見せた。

 ふたりの間で、アイスコーヒーのグラスがふたつ、汗をかいている。

 

「相談相手の人選、どうかしらね。あの子は感覚派だから」

 

「ああ。いや、熱心に教えてはくれたんだが、正直――」

 

 でしょうね、と五十鈴は納得の表情で頷く。

 

「努力家で、才能もあるの。長良型はそういうところがあるのかもしれないわね、長良姉といい名取といい鬼怒といい。

 反復練習で身体に刷り込むから、自分でうまく言語化できなくてもやれるようにはなるのよね」

 

 そういうもんかな、と摩耶が返す。

 

「それで摩耶さん、あなたは何に困ってるの?

 防空射撃のコツなら教えられるわ。鬼怒よりはいくらかわかりやすく。

 でもたぶんそれ、摩耶さんならもう知ってると思うけど」

 

「コツが解ってても当たらなきゃ意味ねえじゃねえか。

 当りさえすりゃあここまで悩んでねえよ」

 

 だからわざわざ相談してるんじゃねえか、そんな気分が態度に出た。

 

「今はまだいいよ演習なんだから。

 でもこのままじゃいつか絶対本番でやらかす。

 落とせた筈の敵機の攻撃で味方がやられるとこなんて想像したくもねえ」

 

「そこよね。

 大改装してから、うまく当たらないことが問題なのよね?

 それじゃ、コツがどうこうの前にやることがあるわ」

 

 摩耶の態度に腹を立てた様子を見せることもなく、五十鈴が応じる。

 立ち上がり、こっち、ついてきて、と言って席を立った。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 案内されたのは鎮守府の電算室だった。

 こんなところで何を、と訝る摩耶には答えず、五十鈴は端末で何かを検索している。

 

「出撃も演習も記録を取ってあるじゃない?

 見直せば何かわかると思うのよ」

 

 言いながらキーボードを叩き、慣れた手つきでマウスのホイールをくるくると回す。

 

「これが直近の演習、こっちがその前の実戦。

 それで大改装が――1か月前?」

 

 ああ、と頷く摩耶に、じゃあ一月半前あたりでいいかしら、と日付を入力し、五十鈴は求めていたものを探し出した。

 

「で、これが大改装前の演習と実戦。

 機銃のガンカメラの映像ね。最近のから見てみましょうか。

 対空射撃は――」

 

 言いながら再生した映像を早回しで進め、画面にちらちらと対空砲火が写ったあたりで少し巻き戻す。

 

「このあたりからね。

 右側から左に向けて敵機が入ってくるのに反応して、機銃の仰角と方位角を調整して、見越し射撃を――」

 

 ん、と声を上げて映像を止める。

 

「これ、見越し角が小さいのかしら。右側に初弾が外れてる。この光、曳光弾よね。

 それから修正して、というよりは標的を弾で追って命中弾を得てる」

 

「ああ、確かにそうだな。そうなんだよ、最近初弾が全然当たらねえんだ。

 それで曳光弾の軌跡を見ながら修正して当てる」

 

「編隊が崩れてたり、あるいは進入してくる数が少なければ、あまり問題ないのよね。

 ばらばらに突っ込んでくるから、迎撃までに余裕があるじゃない?

 だから撃ちながらの修正でも間に合う。演習だと逆に数が多いから」

 

「撃ちながら修正してるようだと投弾の判定までに当てられない――そういうことか」

 

 五十鈴は頷く。

 

「そうなんだよなあ……当たらねえ、当てられねえんだよ。

 これでも演習も射撃訓練も真面目にやってんだけどさあ」

 

 知ってるわ、と五十鈴は素っ気ない。

 

「練習不足以外に原因があるんじゃないかな、って思うのよね。

 だってほら、前のはちゃんと当ててるじゃない」

 

 端末を操作し、画面に映し出したのは大改装前の演習の映像だった。

 確かに五十鈴の言う通り、初弾で命中させるか、すくなくとも至近距離を掠めさせている。

 

「出来てたことが出来なくなってて、あなたは訓練を怠ってない。

 それなら、原因はきっと訓練以外のところでしょう」

 

 じゃあ何が、と腰を浮かせた摩耶に、確かめてみましょうよ、と五十鈴は微笑んだ。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 今度はどこだよと尋ねる摩耶に、五十鈴はあっちよあっち、と港湾区画の一画を指さした。

 

「……工廠?」

 

「御名答」

 

「艤装回りになんかあるってことなのか?」

 

「訓練不足じゃない、腕の問題でもない、だったらあとは艤装でしょう。

 まあ、どの艤装かはわからないけど。それも工廠で確かめられると思うのよね」

 

 まあ道理だけどさ、とまだ半ば納得のいっていない表情の摩耶を、どの道このままじゃどうにもならないでしょう、と五十鈴が突き放す。

 

「餅は餅屋、艤装なら工廠――というか明石さんよね」

 

 ちょっと寄り道しましょうと言い、酒保でアイスキャンデーを買い込む。

 5本あれば足りるかしら、と箱入りのものを注文し、工廠ってこの時期暑いのよ、と付け加えた。

 

 いるかしら、と呟いて工廠の通用口を開ける。

 広い工廠は新規艤装の作成もしていない。静かなものだ。

 五十鈴の言葉のとおり、空調が効かない工廠はこの時期の昼間、どうしても暑くなる。

 明石は工廠の片隅、作業台の前にいた。

 制服でなくTシャツ一枚にハーフパンツ、片手に団扇足下には水の入ったバケツ、という姿だった。

 

「差し入れでーす」

 

 もう二人、一緒に振り向いたのは夕張と大淀だ。

 夕張はつなぎの作業着の上半身を脱ぎ、腕を腰のところでゆるく縛っている。

 大淀は制服姿ではあったが、胸元を空けて書類挟みで風を送っていた。

 

「あら珍しい。

 たまんないですねここ、提督に頼んで移動型のクーラーでも買ってもらった方がよさそう」

 

 執務室で控えている姿からは想像もつかないような格好で大淀が言う。

 

「差し入れ?なになに、夕張の分もある?やー、この時期はこういうのに限るよね!」

 

 にこにこと夕張は箱を開けている。

 じゃあちょうどいいから休憩にしましょうか、と明石がいい、5人でアイスを食べることになった。

 

「それで、これをわざわざ届けに来てくれたわけじゃないんでしょう?」

 

 あらかた食べてしまったところで明石が尋ねる。

 

「連れてきたってことは摩耶さんのほうです?

 艤装の調整とか?」

 

 まあそんなところです、と五十鈴が答え、摩耶に向かって頷いてみせた。

 実は、と摩耶が事情を語り、明石と夕張がなるほどと聞く。

 

「記録を当たれば何か手掛かりが――ああ、もう調べたんですか?

 手回しがいいですね五十鈴さん。それで、どうでした?」

 

 常日頃から文書と記録の管理が業務の大きなウェイトを占めている大淀は、やはり記録のことが気になるようだ。

 

「初弾の見越し角が合ってねえ。いや、当たらないとは思ってて、修正するようにはしてるんだけど」

 

「でも修正できない?」

 

「そう」

 

 ふーん、と首を傾げた夕張が、手順どうなんだろう、と呟いた。

 

「手順?」

 

「うん、対空射撃の手順。だいたいどんな感じでやるんですか?

 私なんかは高射装置と高角砲を連動させるんですけど」

 

「あたしも変わんないよ。ああ、電探と機銃の連動になるけど。

 電探で位置、目視で速度を確認して、見越し角を調整して、射撃位置より一定距離前に来たら電探から射撃指示、機銃で射撃」

 

 特に変わった手順じゃないですよねえと夕張が同意を求め、変わらないですねえと大淀と五十鈴が頷く。

 

「そうするとやっぱり艤装かなあ。外してチェックしてもいいです?」

 

 工具を取り出しながら、なぜか笑顔で明石が尋ねる。

 なんで明石はこういうときいつも嬉しそうなんだろうと訝りながら、それでも仕方なく摩耶は首を縦に振った。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

「さっきの話だとあれですよね、見越し角の調整は摩耶さんがやってるんですよね。

 それが小さいってことはええと、」

 

 天井から下がるチェーンに電探を掛けて落下を防止し、基部艤装と電探の間のコネクタを探りながら明石が言った。

 主砲と高角砲、それに機銃は既に取り外されている。

 

「的速を過少に判断してる、機銃側で摩耶さんの設定した見越し角に追随できてない、あとは――」

 

 指折り数えながら夕張が応じる。

 

「電探側で射撃指示のタイミングを誤ってる、とかですかねえ」

 

 大淀が付け加えた。

 

「的速は問題ないと思うんだよなあ。機銃の射撃角もあたしが見る限りは適正だし、電探にも的速と距離に応じた射撃指示のタイミングは都度渡してるぜ?」

 

 じゃあどこが原因なんですかねえと首を傾げた夕張の横で、明石が、あ、外れた、と呟いた。

 

「舶来モノはわかりづらくていけませんねえ。

 あちらからメンテナンスマニュアル取り寄せないと」

 

 慎重な手つきでコネクタを作業台の上に置く。

 へえ、あんまり見ない形状だと思ったら、と大淀が覗き込んだ。

 

「Mk.37?」

 

 艤装に詳しい夕張が尋ね、それそれと摩耶が答える。

 

「大規模作戦の褒賞で大本営から届いたんだってさ。対空・対水上、両方に使える奴で、何人かで使い回してるからあたし専用ってわけじゃないけど。敵機を遠距離から捕捉できるから便利だぜ。大改装してからはこれ使ってんだ」

 

 摩耶の説明に、ひょいと顔を覗かせた艤装妖精が得意げに頷いている。

 

「摩耶さんが太鼓判押すなら、電探の故障の線も薄いかあ。

 射撃指示のタイミングってどんなものです?」

 

 困りましたねえとこぼしながら明石が尋ねる。

 

「的速と迎撃距離にもよるけど、的速450キロ、距離2000なら250手前」

 

 摩耶の返答に、まあそんなものですよねえと大淀が応じた。

 

「――あれ?」

 

 何かに引っかかったらしい明石が顔を上げた。

 

「今の話って単位どうなってます?」

 

「メートルだろ」

「ヤードでしょ」

 

 摩耶と電探の艤装妖精が同時に答え、顔を見合わせる。

 

「それだ」

 

 明石と夕張が同時に声を上げ、事情を察した大淀が天井を仰いだ。

 

「ヤードだとだいたい9掛けですからねえ。250mのつもりで250ydだったら25m弱違う。

 それがそのまま迎撃点のずれに繋がるから――」

 

 手早く計算した大淀に、当たるわけがねえ、と摩耶が苦笑する。

 

「なんだってこんな単純な――」

 

 力が抜けたのか、工廠の床にしゃがみ込んでしまった。

 

「まあ得てしてそういうものよ。原因が単純で良かったんじゃない?

 直すのも単純に直せるんだから」

 

 ね、と五十鈴が笑いかける。

 その表情はどこか安堵しているようにも見えた。

 

「案外こういうの馬鹿にならないんですよ。

 前世紀にはメートル系とヤード・ポンド系の取り違えで不時着しかけた旅客機もあったそうですから」

 

 何にせよ原因がわかってよかった、と言いながら大淀が立ち上がり、夕張もそれに続いた。

 

「妖精さんとの調整は摩耶さんがやってくださいな。

 私は艤装のチェックとメンテナンスをやっておきます。

 再設定が必要な艤装があったら一緒にやっちゃいますから、言ってくださいね」

 

 明石が言い、じゃあ手伝うわと五十鈴も腰を上げた。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 調整と言ってもそう大したことがあるわけではない。

 五十鈴の言う通り、原因が解ってしまえば簡単なことだった。

 

 お互い、単位をメートルに統一することで話はあっさりとまとまった。

 適当な目標を選定して測距の訓練を幾度かやってしまえば、もう間違うことはない。

 確認と訓練が終わるころには艤装の調整も済み、摩耶は明石に礼を述べて工廠を後にした。

 

「五十鈴」

 

「なにかしら」

 

 日も傾いた帰り道、摩耶は五十鈴にまだ礼を言っていなかったことを思い出す。

 

「その――ありがとう。助かったよ。

 でも五十鈴、なんでここまで――?」

 

 摩耶も五十鈴も、午後の半日をあらかた潰していた。

 

「バカね、決まってるじゃない」

 

 くるりと軽やかな動作で向き直った五十鈴が笑顔で答える。

 

「摩耶様には、胸を張って堂々としててもらいたいの。背中を丸めてため息なんて似合わないわよ。

 だから気にしないで。それでも借りだと思うなら、いいわ、今度間宮でもご馳走してもらおうかしら?」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

イタリア:地中海急行

 被弾した大鳳のダメージコントロールを、イタリアはじっと見つめている。何をすることもできなかった。

 秋月とリベッチオが既に手を貸していて、これ以上手が増えても意味がないことはイタリアも理解できている。

 

「イタリア、Watch out」

 

 旗艦の金剛が南西側の上空を指して注意を促す。

 深海勢力の基地から飛び立ったのだろう攻撃隊の空襲は既に止んでいたが、それが一時のことでないという保証はないからだった。

 

「大鳳艦戦隊の収容よし、だ。

 だが、あまり長時間は無理だぞ。こちらの艦戦隊の燃料にも限界がある」

 

 グラーフ・ツェッペリンが報告する。

 彼女は、大鳳の被弾で一時的に着艦が不可能になった艦戦隊を着艦させ、必要な補給を行っている。

 着艦と補給のためのスペースは限られているから、その間は自分の艦戦隊を上空待機させねばならないのだった。

 

「解ってマース。

 そもそもあまり時間をかけてはいられませんからネ。大鳳、Are you OK?」

 

「消火完了、飛行甲板の使用に支障なし。

 大鳳、まだいけます」

 

「さすがに無事とはいかんか。小破、といったところかな。

 あちらも必死だ」

 

 ひとつ息をついてグラーフが応じ、制帽を取って顔にかかった髪を払いのけた。

 

「さあ、艦戦隊を戻そう」

 

「はい。

 秋月さん、リベッチオさん、ありがとう。助かりました」

 

「Air watch、3艦分担。真北から120度ごとにイタリア、秋月、金剛が担当。

 リベッチオはSubmarineへの警戒をお願いしマース」

 

 金剛が指示を出し、秋月とリベッチオが了解の意を伝える。

 イタリアも頷いて北へ――故国の方へ、視線を向けた。

 

 シチリアの島影が水平線にぼんやりと浮かんでいる。

 カレー洋からステビア海を渡り、紅海を抜け、たどり着いた故郷の海が、今はイタリアの戦場だ。

 

「金剛さん」

 

「んー?」

 

「……わたし怖い」

 

「ワタシだって怖いですヨ?」

 

「そういうんじゃなくて」

 

「んー?」

 

「もう5回目なのに」

 

「あー」

 

 金剛はなにかを察したようだった。

 

「4回でダメなら5回目、5回でダメなら6回目デース。

 いいですかイタリア、私たちはもう敵の喉に食らいついてます。離しちゃ駄目なんですヨ」

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 スエズを抜けて地中海へ、さらに大西洋へ。

 鎮守府史上最長の距離を駆け抜ける作戦の中でイタリアたちに与えられた任務は、地中海東部の深海勢力の排除と橋頭堡の確保だった。

 

 ひとつずつ拠点を潰し、制空権と制海権を確保しながら徐々に前線を押し上げる、という形は、作戦予定期間との兼ね合いで認められなかった。

 連合艦隊を押し出してその打撃力にものを言わせるという方法は、兵站の負荷の観点から却下された。

 結果として採用されたのは、打撃力と速力に優れる艦隊をもって東地中海を一挙に通り抜け、サルデーニャ島付近の敵の本拠を叩く、という作戦だった。

 何やら長く仰々しい作戦名が付されてはいたが、艦娘たちは誰もそれを覚えてなどいない。

 その概要と艦隊の編成から、『地中海急行』とあだ名され、鎮守府ではそれが半ば公式の作戦名として知れ渡っている。

 

 作戦の開始以来、艦隊は目標海域へ向けた出撃を反復していた。

 激しい抵抗を受けつつも状況は順調に推移し、あとは敵の総旗艦を落とすのみ、そんな状況にまでは持ちこめている。

 

 だが、その決定的な一撃を与えることができていない。

 

 支援艦隊、陸上攻撃機隊、そして金剛率いる本隊が共同で行う攻撃を、深海の総旗艦は耐え続けている。

 随伴艦も彼女が落とされればこの海域を失うことが解っているのだろう、ありとあらゆる手で――ときには身を挺してまで、総旗艦を守っているのだった。

 

「総旗艦への攻撃はわたしの役目なのに」

 

 既に4回、艦隊は最終攻撃に失敗していた。

 あるいは随伴艦に、あるいは総旗艦の装甲に阻まれている。

 勿論それは総旗艦への攻撃の機会を得られた回数の話で、中途で引き返さざるを得なくなった分は含まれてはいない。

 

「誰も気にしてませんヨ」

 

 金剛の声は優しいが、イタリアは自分たちを最前線へ押し出すために支払われるものを理解できないほど愚かではなかった。

 支援艦隊が消費する燃料と弾薬。

 陸上攻撃機隊が払う犠牲。

 自分たちが行動するための燃料、弾薬、そして流される血。

 そもそもここに――地中海にたどり着くまでに、鎮守府は膨大な物資を消耗している。

 日々の任務の代価を投げ捨てるような消耗の先に本隊はいて――そして自分は、求められた役割を未だ果たせていない。

 

「わたしが気にするんです。

 それに、さっき大鳳さんが、被弾したとき、」

 

 イタリアの声が歪む。

 

「わたし、ちょっとほっとしちゃって。

 これでもう進まなくていいかもって」

 

 俯いてきつく閉じた目から涙があふれ、故郷の海に吸い込まれた。

 

「最低ですわたし」

 

 つい、と後進をかけた金剛が、背中合わせにイタリアに触れた。

 

「艦娘をやってれば、そういうこともあります」

 

 いろいろとPressureもありますからネ、と付け加え、後ろ手にイタリアの手をそっと握る。

 心配そうな視線を向けた秋月に頷いてみせ、目配せで防空の2艦分担を指示した。

 

「うまくいかないときは特にそう。

 自分を責めて責めて、それでもどうにもならないから、Run awayしたくなるんデス」

 

 鎮守府の中でも最古参の部類に入る金剛は知っている。

 真面目な、あるいは心優しい艦娘ほど、己のために払われる犠牲を重く受け止める。

 それに見合った結果を出せるのならばさほどの問題にはならない。

 だが、どれだけ準備を積み重ねようと、最後は運が結果を左右するほどの強敵は確かに存在する。

 そういった強敵に相対したときこそ、それを討ち果たすために鎮守府は犠牲を払うのだ。

 その最前線にいる艦娘には相応の重圧がかかる。そして、誰もがいつも重圧に耐えきれるとは限らない。

 自分や味方の被弾を積極的に願うようになってしまうことすらある。

 そうなってしまった艦娘を前線に置いておくことなどできはしない。

 誰にとっても不幸な結末、そう表現するしかないものが、激戦地には往々にして生じるのだった。

 

「どうしても、なら、帰ったあとで提督に具申しますけど。

 どうでしょうネ」

 

 結果はわかっている、という風情で続ける。

 

「編成を決めるのは提督デスけど、提督、あっさり決めてるように見えてResearchはとーってもしっかりやってマース。

 自信があるからあんまり変えてくれません。

 ――まあ、勘違いもしますけどネ。ワタシを艦隊に入れたりとか」

 

 どういうことですか、と涙顔を上げて振り向いたイタリアに、金剛はにこりと笑った。

 

「ワタシが艦隊に入った理由のひとつに、イギリス生まれだから、っていうのがあるんですヨ。

 地中海も多少は知ってるでしょう、って。でもワタシ、日本に行くときは喜望峰回りデシタ」

 

 そこまで言って、大げさに肩をすくめる。

 

「地中海なんて、通ったこともありマセーン。

 せっかくの出番だから黙ってマシタ。金剛もあまりいい子じゃありませんネ」

 

 思わず泣き笑いの顔になったイタリアに、はい、とレースのついたハンカチを渡す。

 

「聞こえていたぞ。

 舐められたものだな大鳳、ええ?」

 

 艦戦隊の収容を終えたグラーフが近づいてきていた。

 言葉とは裏腹に、表情には棘がない。

 

「はい、大鳳は装甲空母ですから。

 あれしきの攻撃で進撃不能になったりはしません」

 

 一緒に戻ってきた大鳳が、笑いながら断言した。

 

「それに、駄目なときはイタリアさんがどう思ってても駄目になります。

 大鳳、その辺は身に沁みて知ってます」

 

「そういうことですイタリア、誰一人アナタだけの責任なんて思ってマセン。

 4回のChanceで決められなかったなら、5回目を作りマス」

 

「次はもっと決定的なチャンスを作るね。リベ、試してみたいこともあるんだ」

 

 リベッチオも話に加わる。

 

「リベたち、11人までなら強いんだって。提督が言ってたよ」

 

 だから連合艦隊じゃないのかな、と小首を傾げながら付け加える。

 

「提督らしいJokeデース」

 

 やれやれと金剛が肩をすくめた。

 作戦上の制約には、提督も頭を痛めているのだろう。

 使い古されたジョークのひとつも口にしなければやっていられない、ということなのかもしれなかった。

 

「秋月も、まだまだいけます。

 あちらの好きなようにはやらせません」

 

 先ほどの空襲の折の対空射撃で傷めた砲身を手早く交換しながら秋月が言う。

 

 ふう、と大きく息をついたイタリアが、北の空を見上げた。

 故郷の海の匂いと、故郷の空の色がそこにあった。

 

「みなさん、もう一度、わたしをあの総旗艦の前まで送ってください。

 やれるかどうかはわからないけど」

 

 目の端に残った涙を拭って付け加える。

 

「やれるだけ、やってみます。もう一度」

 

 金剛が、ぱん、と手を打ち合わせた。

 

「皆さん、準備はOK?

 それじゃ行きまショー!」

 

 常と変わらない金剛の号令のもと、6隻の艦娘は隊列を組みなおす。

 

「イタリア」

 

 単縦陣の4番目に位置を取ったイタリアの傍らをゆっくりと航過しながら、金剛が声をかけた。

 

「はい?」

 

「敵艦隊の粘りも大したものデス。

 あの粘りがどこから来るのか、あちらがなにを思って戦場に立っているか、そのあたりを考えてみるのもいいかもしれませんネ」

 

 よくわからない、という表情を向けたイタリアに、西日の逆光の中、金剛はにこりと笑いかけた。

 

「なにか見えてくるかもしれませんヨ」

 

 艦隊の先頭に戻った金剛がFollow me、と声を上げ、艦隊はふたたび地中海を進み始めた。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 艦隊が決戦予想海域に到着したのは、日も暮れ始めた時刻だった。

 

「わが索敵機、敵艦隊を発見」

 

 イタリアの報告が、艦隊の空気に緊張を走らせる。

 

「前衛の護衛艦隊をこちらへ向けて展開しています。計12隻」

 

 これまでの4回と同じ状況だった。深海棲艦側としては凌ぎきれているがため、同じ配置でよしとしているのかもしれない。

 

「艦隊、単縦陣を維持して増速。

 イタリア、基地航空隊の誘導と支援要請をお願いしマース」

 

 了解しましたと答えてイタリアが敵艦隊の座標を打電する。

 

「グラーフ、大鳳、艦載機を上げて」

 

「了解した。――稼働機全機発艦!」

「大鳳、了解しました。

 第一次攻撃隊、全機発艦!」

 

 艦隊の後方で、2隻の空母が次々に艦載機を発艦させる。

 前方からは空戦の音がかすかに響いてきた。基地航空隊が攻撃を始めたらしい。

 

「全艦、左舷砲戦用意。南西から北東にかけて航行しながら砲撃戦デース」

 

 言いながら金剛はすでに転舵している。

 それぞれに了解の意を伝え、5隻の僚艦がそれに続いた。

 

「イタリアの索敵機はそのまま基地航空隊の戦果確認と支援砲撃の観測。

 金剛の索敵機も観測用に移動させます。誘導してネ」

 

「イタリア、了解しました」

 

 敵艦隊を視認できる位置へ占位した索敵機が、情報を伝えてくる。

 

「基地航空隊の戦果、敵護衛艦隊撃沈2、中破2。本隊小破1。

 支援砲撃の観測の準備よし」

 

 無論、基地航空隊も無傷では済まない。

 敵艦隊の上空には、墜落した機が残した黒煙が燻っている。

 イタリアの心臓が、ひとつ大きく脈を打った。

 

「上々ネ。

 艦載機部隊、Ready?」

 

「こちらは用意よし、だ。いつでもいいぞ」

 

「大鳳艦載機部隊、艦隊上空で合流完了。いつでもいけます!」

 

 金剛が頷くと同時に、甲高いエンジン音を残して艦載機部隊が敵艦隊の方角へと飛び去ってゆく。

 

「わが艦戦隊、制空権を確保――艦攻隊、艦爆隊、攻撃開始します!」

 

 ややあって大鳳が告げた。

 敵の艦戦部隊を制圧し、対空砲火の網をかいくぐり、航空攻撃が行われる。

 

 損傷していた敵護衛艦隊の駆逐艦のうち1隻が魚雷を艦の中央部に受け、瞬く間に沈んだ。

 対空砲火に捕らわれた攻撃機が1機、2機と火を吹いて海面に突っ込んでゆく。

 至近弾の水柱と命中弾の火柱が、暮れて彩度の落ち始めた海に、どぎつい彩りを加えてゆく。

 

「護衛部隊に更に命中弾。撃沈1、中破さらに1――合計で撃沈3、中破2。

 本隊の巡洋艦級に命中弾、中破1、小破1」

 

 口の渇きを覚えながら、イタリアは報告を続けた。

 心のどこかで、総旗艦への致命的な命中弾を――ほとんど起こり得ない奇跡を、イタリアは期待している。

 

「第二支援艦隊から入電デース。

 『我これより支援攻撃を開始する』。

 金剛索敵機、支援砲撃観測の準備よし。

 全艦、針路を維持、最大戦速――行きますヨ!」

 

 索敵機がもたらす弾着の情報をもとに、支援艦隊は砲撃の照準修正を行い、更に砲撃を加える。

 支援砲撃によって更に敵艦隊の被害は積み上がり、護衛艦隊で残るのは2隻のみ。

 本隊にも撃沈こそないものの、更に1隻の中破の損害が生じていた。

 

「敵護衛艦隊、速力低下」

 

 イタリアの索敵機が、更なる情報をもたらした。

 激しい攻撃に晒されたためか行き足を落とした護衛艦隊は、戦艦から見れば格好の標的だ。

 

「各艦、敵護衛艦隊と行き足を揃えて。

 主砲砲戦用意!」

 

 金剛の号令に、イタリアははいと答えて速力を一旦落とし、主砲の仰角と方位角を合わせた。

 

「Fire!」

 

 イタリア、次いで金剛の主砲弾が敵の護衛艦隊を襲う。

 大口径の主砲弾の巨大な水柱が敵を包み込むように沸き立ち、だが命中弾は得られていない。

 残された護衛艦隊の旗艦と性能向上型の駆逐艦が、必死の回避行動で飛来する砲弾をかわしている。

 

「30秒くれ、それだけあればこちらの攻撃隊が攻撃点に再度占位できる」

 

「Ok、グラーフ、任せるワ」

 

「大鳳攻撃隊も再攻撃可能です」

 

「軽巡には大鳳の攻撃隊の方がいい位置だな。

 そちらは任せた。私は駆逐艦を貰う」

 

「大鳳了解!」

 

 報告と指示が飛び交い、攻撃の方針が決定された。

 空母たちの攻撃隊は新たな攻撃位置へと移動を始める。

 イタリアは索敵機の視界を確保すべく高度を上げ――そして呻いた。

 同時に金剛もそれに気付いたようだった。

 

「金剛さん、敵本隊が――」

 

「見えマシタ。護衛艦隊の速力低下、罠だったかもしれませんネ」

 

 敵の本隊が速力を上げ、金剛たち主力艦隊の前に出ようとしていた。

 

「このままでは」

 

「ええ、丁字戦デス――全艦、取舵一杯」

 

 一旦落とした速度をもう一度上げるには時間がかかる。

 今から同航戦に持ちこむためには角度の大きな右への変針をしなければならず、それは更なる速度の低下を意味している。

 まかり間違えば行き足の落ちたところを袋叩きにされる可能性すらあった。

 金剛の判断――反航戦への移行は、そのあたりを踏まえたものだ。

 とはいえ、敵の総旗艦を撃沈するという目的に対して不利な状況であることは間違いない。

 

「右舷砲戦用意。

 目標、右舷後方の敵主力艦隊。

 リベッチオと秋月は一旦本隊の艦列から離脱。

 自由航行を許可しマス、好きに暴れてきなさい。

 ただし追撃戦時には艦隊へ復帰すること。いいわネ?」

 

「リベ、いってきます!」

「秋月、了解しました!」

 

 2隻の駆逐艦が口々に応答し、素早く方向を変えて隊列から離れる。

 無理をするな、と金剛は敢えて言わなかった。そもそもの指示自体が相当に無茶な話であるからだった。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

「大鳳艦攻隊、護衛艦隊の旗艦を撃沈しました!」

「こちらの攻撃隊も駆逐艦を撃沈――護衛は片付けたぞ、次は本隊を叩く!」

 

「秋月の雷撃、命中ありません」

「リベもだよ、外しちゃったぁ」

 

 僚艦たちからの報告は止むことがない。

 戦況は、今のところ悪くはない。護衛艦隊は既に壊滅しており、本隊にも僅かながら打撃を与えている。

 

「イタリア、Target、敵本隊!」

 

 了解、と応じてイタリアは砲門を開いた。斉射、弾着観測、そしてまた斉射。

 本隊の後尾に位置する重巡洋艦に対して、最初の斉射で挟叉を、第二斉射で命中弾を得た。

 撃沈にこそ至らないものの、敵艦は黒煙と炎をあげて速力を落としている。

 続く金剛の斉射が、艦列の中ほどにいた空母を捉えた。飛行甲板から炎と煙を噴き上げている。

 どう見ても離着艦不能、おそらくはこのまま沈むであろう損害だった。

 

 速度を上げ、戦艦隊にほぼ並航する態勢でグラーフと大鳳が攻撃隊を指揮している。

 航空戦から引き続いて護衛艦隊への攻撃を行った第一次攻撃隊を収容し、第二次攻撃隊の発艦準備を進めていた。

 

 無論、敵艦隊もただ黙って撃たれるのみというわけではない。

 飛行甲板を使用不能にされた空母はともかくとして、重巡と戦艦2隻、そして総旗艦たる大型戦艦の火力はいまだ健在だった。

 戦艦の主砲弾が主力艦隊の周囲に水柱を立たせ、巡洋艦の主砲がそれに続く。

 金剛もイタリアも被弾してはいるが、まだ攻撃に支障はない。

 

 そして、敵本隊に肉薄した秋月とリベッチオが攻撃を開始した。

 両艦とも、速度の優位を生かして敵の戦艦たちに攻撃を加えている。

 リベッチオは牽制するかのような砲撃を行い、秋月は大胆にも戦艦を回り込んで総旗艦へ直接攻撃を試みた。

 さすがに警戒していたのだろう、敵の戦艦が移動と砲撃で突破を阻む。

 

「諸元修正、二次攻撃!」

 

 一進一退の戦況の中、金剛の号令が響く。

 まず金剛が発砲した。弾着を観測し、方位と距離を修正しながら更に射撃を続ける。

 

「総旗艦に狭叉――命中弾!」

 

 徹甲弾が総旗艦の装甲を貫き、炎と煙が夕暮れの空に向かって伸び上がってゆく。

 

「被害は――」

 

 言いかけたイタリアが、あ、と小さく引きつった声を上げた。

 総旗艦は反撃に出ようとしている。その主砲は、正確にイタリアの未来位置へ向けられていた。

 

 咄嗟に機関を後進に入れ、同時に精一杯の取舵をかける。

 炎と煙の中から、砲炎が閃いた。16インチ主砲の斉射だった。

 被弾はない。だが、飛来した敵弾はイタリアを挟叉していた。

 

 ――次は当たる。

 

 イタリアは確信した。

 そして、あの主砲弾をまともに受けたなら、どんな幸運に恵まれても中破は免れない。

 背筋を冷たいものが這い上がる。

 

 そしてまた砲炎。2度目の斉射がイタリアを襲い――被弾したのはグラーフだった。

 

「飛行甲板に被弾、艦載機の離着艦不能」

 

 呻くような声でグラーフが報告する。

 

「なんで――」

 

 目を見開いたイタリアの声がかすれた。

 射線に割り込んだグラーフが、総旗艦の主砲弾をイタリアの代わりに浴びたのだった。

 

「夜戦ではどの道空母の出番などない。

 私の航空攻撃では総旗艦を落とせない」

 

 素っ気なく答え、それに貴様との約束もあるからな、と付け加える。

 

「機会は作った。あとは貴様の仕事だ。

 ――こちらはいい。はやく撃て」

 

 飛行甲板に開いた大穴から立ちのぼる黒煙に顔をしかめてグラーフが言う。

 弾かれたように顔を上げたイタリアは、敵情を確認した。

 

 煙が煙幕のように広がり、旗艦と戦艦たちは視認が困難になっている。

 見えているのは巡洋艦2隻と沈みかけた空母のみだ。

 

「大鳳攻撃隊、発艦よし。

 敵5番艦へ攻撃を行います」

 

「イタリア、敵6番艦へ砲撃開始します!」

 

 これから日暮れまでの短い間に、敵艦隊を殲滅することは不可能だった。

 であれば、夜戦に向けて場を整えるべき。大鳳もイタリアも、そう判断していた。

 

 攻撃機隊の魚雷とイタリアの放った主砲弾がともに重巡を捉え、撃沈する。

 

 駆逐艦たちも乱戦を続けていた。

 決して離れずに攻撃を繰り返すリベッチオと秋月の奮闘の甲斐あって、敵主力は離脱しきれていない。

 リベッチオは空母の息の根を止めている。

 秋月は総旗艦への近接攻撃を試みていた。

 先ほどと同じように、大回りで戦艦をかわす――と見せかけて急転舵し、戦艦の逆を突こうとする。

 それも読まれていたか、あるいは戦艦の側に反応するだけの余地があったのか、今回も砲撃で接近を阻止され、有効な打撃を与えることができていない。

 

「艦隊集合、隊列を組みなおしマース」

 

 金剛が呼びかける。

 日が落ちた決戦海域で、艦隊は再び合流した。

 

「グラーフ、損害は?」

 

「飛行甲板使用不能、格納庫と機関にも損傷――大破だ。

 これ以上は無理だな。どの道夜間は戦えないが」

 

「ワタシは小破、イタリアのは……かすり傷ネ。リベッチオ、秋月、大鳳、状況は?」

 

「リベ無傷ー」

 

「秋月も損傷ありません」

 

「攻撃隊収容完了しました。夜戦ではお役に立てませんが――まあ、弾避けくらいには」

 

三者三様の返答に、OK、と金剛が頷く。

「敵艦隊は東へ離脱しマシタ。とはいえ、距離を取っているだけデス――こちらの追撃は想定してますネ。

 注文通りの追撃戦デース。先頭はワタシ、そのあとは順に秋月、リベッチオ、イタリア。グラーフと大鳳は後方待機。

 大鳳、司令部に打電。『我、追撃戦に突入す』」

 

 てきぱきと指示を出し、組み直した艦列の先頭に立った金剛が、東へ向けてゆっくりと増速してゆく。

 3隻の僚艦がそれに続いた。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

「敵主力を視認。東北東、やや東寄り」

 

 夕闇の海上、前方を監視していた秋月が短く伝えた。

 敵艦隊がいる方へと指をさす。

 

 顔を出した満月の下で、黒々とした艦影が3つ、東へ向けて航行している。

 

「戦艦級2、それに総旗艦――間違いないわネ」

 

 金剛が頷いた。

 

「各艦、最大戦速。

 ワタシとイタリアは距離8000で射撃開始。リベッチオと秋月は近接戦」

 

 了解、と返した駆逐艦2隻がさらに速度を増し、敵主力へと迫ってゆく。

 

「最後はやっぱりイタリアになっちゃいますネ。

 ワタシひとりじゃ落とせないし」

 

 駆逐艦たちの背中を見送った金剛がぽつりと言った。

 敢えて見ないようにしていた事実を突きつけられて、心臓がぎゅっと縮むような感覚を覚える。

 

「できるだけ、いい状況に整えますからネ」

 

 はい、と答えたイタリアに頷きかけて金剛が前へ出てゆく。

 

「距離8000、目標視認。

 全砲門、Fire!」

 

 ほとんど仰角のない主砲群が火を噴き、時を置かずに着弾する。

 夜目に鮮やかな閃光と炎。

 同時に撃ち出された総旗艦の主砲弾が金剛を捉えた。

 装甲を食い破った徹甲弾が爆発し、衝撃で後ずさった金剛が辛うじて踏みこたえる。

 

「金剛さん!」

 

 悲鳴のようなイタリアの声に、爆発で飛び散った艤装の破片を腕から引き抜いた金剛が大丈夫、と応じた。

 

「測距儀損傷、水上機格納庫火災、缶損傷、発電機故障」

 

 大破ネ、Shit、と普段けっして見せない表情で呟き、血と煤で汚れた顔をぐいと拭う。

 

「これでFinish?――な訳ないわよネ?

 イタリア、Go Ahead!」

 

 まっすぐに敵艦隊を指し、イタリアの背を叩いた。

 逡巡するイタリアを、ワタシは大丈夫、と励まして送りだす。

 再び増速したイタリアは、その言葉に押されるように敵艦隊を目指した。

 

 前方で駆逐艦たちが戦闘に入っている。

 秋月がみたび、戦艦をかわそうという機動を行っていた。

 最初は大回り、2度目は大回りと見せて最短距離。

 今回は最短距離と見せて大回り――その動きを看破した敵戦艦が、余裕を見せて秋月の予想針路を塞ぎにゆく。

 と、秋月が更に急転舵し、迫ってくる戦艦に主砲の点射を浴びせた。

 

 2回の失敗を布石にして相手を釣ったのだろう。

 もしかしたら、夜戦で確実に敵の随伴艦を減らすために、最初から狙っていたのかもしれなかった。

 

 リベッチオは敵の戦艦をかすめるように移動しながら、対潜用の爆雷をばら撒いている。

 爆雷は着水とほぼ同時に爆発した。どれだけの量を投げ込んだのか、次々に発生した誘爆が高く厚い水の壁を作りだす。

 敵艦に与えた損害は大きくはないだろうが、戦艦の態勢を崩して視界を塞ぎ、イタリアの砲撃の妨害を不可能にするという点では十分だった。

 

 距離を6000ほどまで詰めたイタリアは針路を変え、艦体を敵の総旗艦と平行にする。

 

 随伴艦の妨害はない。総旗艦は月明りの中、その姿を晒している。

 ここまでの場を整えてくれた僚艦たちの努力が有難くもあり、そしてそのために失われたものが重くもあった。

 なおも防御の態勢を取る総旗艦に狙いを定め、イタリアは唐突に理解した。

 

 ――彼女もわたしと同じなのか。

 

 撤退せずに攻撃を凌ごうとするのは、撤退も己の撃沈も、それがすなわち深海側にとってはこの海域の失陥だからだ。

 それはこの海域で払った犠牲を無にすることと同じ。だからこそ、彼女はここでこうして戦っている。

 

 積み上げられた犠牲の重さを、おそらく彼女は認識しているだろう。わたしと同じように。

 仲間たちの奮闘と日々の努力の先にわたしがいるように、この海域で沈んだ深海棲艦たちの上に彼女はいる。

 逃げることも諦めることもできない――わたしと同じように。

 

 であればどうするか。

 自分を援護できる僚艦が今この瞬間に存在しないとしても、可能な限り被害を低減させ、わたしたちを振り切ろうとするはず。

 速度と針路を変化させてわたしの砲撃をかわそうとする。

 彼女はさきの被弾で機関に損傷を受け、ここから増速することはできない。速度の変化は減速しかない。

 減速しながらこちらへ接近する方向に舵を切ることはできない。少しでも離れようとするはず。

 

 減速と取舵、その未来位置へと主砲の方位角を調整して、イタリアは主砲を斉射する。

 

 第1射が喫水線付近に、第2射が砲塔付近に着弾した。

 数瞬遅れて爆発が生じる。間違いなく、撃沈に至る損傷だった。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

「イタリア!」

 

 追いついてきた金剛が声をかける。

 イタリアは総旗艦の姿を見つめていた。

 光の失われた目に、月が写っている。

 艤装にくろぐろと開いた破孔から、海水が流れ込んでいた。

 

「やりましたネ」

 

 はい、と答えて視線を総旗艦に戻す。

 

「ああ彼女も同じなんだって思ったら、どう動くかが読めて」

 

 それだけで金剛には伝わったようだった。ああ、と頷く。

 

「戦艦撃沈1、海域離脱1です」

 

「リベの装備じゃ撃沈は無理だったよ、やっぱり」

 

 寄ってきた秋月とリベッチオが報告する。

 お疲れ様デシタ、と駆逐艦たちを労った金剛が、見送ってあげなさい、と沈みゆく総旗艦を手で示す。

 

 金剛が瞑目して頭を垂れた。

 リベッチオが神妙な顔で十字を切った。

 秋月が静かに合掌した。

 イタリアはそっと呟いた。

 

「Rientro al mare」

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

「グラーフ、大鳳、こちらは済みマシタ。作戦成功デス」

 

 ややあって、後方待機を命じていた空母たちに、金剛が報告する。

 

「総旗艦と戦艦のうち1隻を撃沈、もう1隻は海域離脱。

 こちらはワタシが大破、ほかは損傷状況変わらず」

 

 一旦通信を切って、そういえば、と金剛はイタリアに視線を向けた。

 

「さっき言ってたあれ、どういう意味デスカ?」

 

 あれはね、とイタリアのかわりにリベッチオが耳打ちする。

 頷いた金剛がふたたび回線を開いた。

 

「大鳳、司令部に打電。

 『地中海急行は終点に到着した。

  護衛艦隊全滅、主力艦隊随伴艦撃沈4、海域離脱1。

  敵総旗艦は海に帰った』」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

村雨:鼠たちの戦場

 電探の艤装妖精が肩をつついた。

 

「なになに?なにか見つけた?」

 

 応じた村雨の声はくぐもっている。

 行軍時用の戦闘糧食――ひらたく言えば握り飯――を頬張っているからだった。

 

「逆探に引っかかった。

 レーダー波じゃない。短波。たぶん通信。方向はわからない」

 

 艦隊は無線封止中で、近くには友軍の艦隊も展開していない。基地もない。

 民間船は夜間に護衛もなくこんな場所を航行したりはしない。

 となれば、原因はひとつしか考えられない。

 

 村雨は握り飯の残りを一口で胃に押し込んで増速し、艦隊の先頭を航行する旗艦、龍田に近づいた。

 

「あらぁ、なあに?」

 

 接近に気付いた龍田が声をかけてくる。

 

「逆探に感ありです。短波無線、方向不明――短時間で消えたのよね?」

 

 並んだ村雨が、行き足を緩めずに小声で報告した。

 後半は艤装妖精への確認だった。

 

「数秒くらい。無線電信か、でなくてもなにかの符号だとおもう」

 

 妖精の答えに、ふぅん、と龍田が応じる。

 

「村雨、あなたはどう思う?」

「うーん……やっぱり、敵艦の待ち伏せじゃないでしょうか」

 

 でしょうねぇ、と答えて龍田が頷く。

 

「みんなに伝えてあげて。

 逆探に感、付近に敵艦ありと思われる。警戒を厳とせよ。

 あ、灯火管制、無線封止は継続ね」

 

 はーい、と答えた村雨が、仲間たちに龍田の命令を伝達する。

 艦隊は先ほどまでと変わらず静かに航行を続けているが、その空気は明らかに変化していた。

 

 あなたたちも戦闘準備をよろしくね、と龍田が自分の艤装妖精たちを起こす。

 輸送用のドラム缶の艤装妖精までがつられたように顔を出した。

 

「ごめんなさいねぇ、あなたは隠れてていいのよぉ」

 

 妖精が素直に引っ込んだあと、龍田はドラム缶の固縛をもう一度確認し、面倒なことになりそうねぇ、と髪をかき上げた。

 思い出したように背中に背負った薙刀を外し、右手に提げる。

 

「いい夜よね、村雨。

 死にたい船はどこかしらねぇ?」

 

 物騒としか言いようのない台詞ではあるが、暗夜、どこにいるともしれない敵艦に備える今のような状況にあっては頼もしい。

 

「高波と風雲が見張員を乗せてきてます。

 先行させますか?」

 

 そうしましょう、と答えて龍田が指示を出す。

 

「高波、風雲、前方警戒、お願いするわねぇ」

 

「高波、了解しました」

「風雲了解」

 

 応じた2隻の駆逐艦が、高くなりつつあるうねりを踏んで速度を上げ、左右から村雨と龍田を追い越してゆく。

 2隻とも、その肩に、見張りを務める妖精を乗せていた。

 

 輸送任務とはいえ緊張と警戒を緩めるわけにはいかない。だからこそ村雨は電探を、高波と風雲は見張員を載せてきている。

 それが鎮守府の、そして人類の置かれている現状だった。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 深海棲艦が現れ、人類から海を奪い去って数年。

 艦娘を投入した反撃により、人類は徐々に海を取り戻しつつある。

 とはいえそれは主要な港湾を結ぶ線状の領域に限ったことだ。

 実のところそれすら十分ではないのだが、その線状の海域に含まれない広大な海は、いまだ安全とは言い難い。

 人類が制海権を確保した海域の民間航路であっても艦娘の護衛が付くのは珍しいことではないし、実際に戦闘が生じることもままある。

 南方の島嶼に設置された拠点への補給ともなれば、艦娘たち自身が補給のための装備でもって出向くことのほうが通例だった。

 

 駆り出されるのは大概、軽巡洋艦や駆逐艦を主とした水雷戦隊で、安全な海域を除いては、空襲を避けるためにこうして夜間に航行することになっている。

 無論、夜が安全というわけではない。

 昼の空襲よりは一方的に叩かれる可能性が低いというだけで、敵に先立って索敵を成功させなければ、やはり同じように危険はあるのだった。

 

 しかし、危険があったとしても、安易に輸送を中断するわけにはいかない。

 補給ができないということはその拠点を放棄せざるを得ないということで、一度放棄した拠点を再度拠点として利用できるようにするためには、海域の掃討からやり直さねばならないからだった。

 当然、放棄に当たっては拠点に配置された人員や艦娘が、より大きな危険に晒されることになる。

 一頃に比べれば改善してきているとはいえ、ある危険と別な危険を引き比べてどちらかを選ばねばならない、といった状況は、現場に出る艦娘たちにとっては日常のことだ。

 現に、確実な交戦が想定される任務ではなかったにもかかわらず、村雨たちはいま戦場に置かれている。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

「敵艦隊、発見した、かもです!」

「見ぃつけたぁ。

 ――右舷前方、島の影から出てきてます。

 重巡級1、軽巡級1、駆逐級2を確認」

 

 高波と風雲が報告する。

 かも、と不確定な部分を残してはいるがそれは高波の口癖で、実際に発見できないときにこういった報告はしないことを村雨は知っている。

 夜間で月もないという悪条件下であっても、訓練を積んだ見張妖精は十分な距離をもって敵艦を発見していた。

 

「高波を先頭に単縦陣に陣形変更。

 みんな、遅れないでねぇ」

 

 駆逐艦たちが龍田の指示のとおりに陣形を変更する。

 戦闘が想定される海域だから航行灯すらなく、月はもう沈んでいる。

 薄曇りの空の雲の切れ間からかすかに投げかけられる星明りと、それを反射してほの白く光る僚艦の航跡だけが航行の頼りだ。

 

「各艦、装備を最終点検。敵前で左へ転舵後、右舷砲戦。

 航過後の二次攻撃は隊列を解いて自由航行。誤射と衝突には気を付けてねぇ」

 

 ――初撃で優位を取り、自由行動を許した二次攻撃で殲滅しろ、と。

 

 村雨は龍田の指示をそのように解釈した。

 かわして逃げるだけでは追撃される可能性がある。ならばその可能性ごと敵艦隊を叩き潰してしまえばよい――龍田の意図も事実そのようなものだった。

 

 艦隊の置かれた状況にも合致している。

 待ち伏せていた敵はこちらを発見しているだろうが、こちらも不意討ちを受けることなく、十分な時間的余裕をもって敵を発見している。

 重巡洋艦は厄介な敵だが、交戦距離が短くなりがちな夜戦ならば駆逐艦にとって不利というほどの不利はない。

 そして数的優位――敵は4隻、こちらは6隻。

 

 よしいける、と戦意を高揚させながら、村雨は、その端緒となった敵の通信の探知を自分の手で為したことを誇らしく思っている。

 いいとこ見せられたかな、とちらりと思い、そして何かが心に引っかかった。

 

 ――あれ?

 

 敵はひとまとまりになって待ち伏せをしていた。

 待ち伏せ攻撃は不意討ちになったときにこそ最大の効果を発揮する。

 だからこそ灯火も無線も使用せず、息を潜めて敵が網にかかるのを待たねばならない。

 

 ――だったら、あの通信は一体なんのために?

 

 危険を冒してでも通信しなければならない理由はそう多くない。

 

「龍田さん、増援の可能性が。

 あの通信、ただの待ち伏せなら辻褄が合いません」

「そうかもしれないわねぇ」

 

 困ったわ、とでも言いたげな様子で龍田が応じる。村雨の短い報告で状況を把握したらしい。

 

「でも、どの道ここでやるべきことは変わらないのよ。

 敢えて言うなら、なるべく早く片付けましょうね、ってことくらい?」

 

 確かにそれがこの後予測される危険を避けるためには最も重要なことだった。

 間を置かず、龍田が全艦増速と突入態勢への移行を下令する。

 

 艦隊が増速し、敵艦隊へと肉薄する、そのさなか。

 

「右舷から雷跡3――いえ4!」

 

 春雨の報告はほとんど悲鳴だった。

 直後に爆発音と本物の悲鳴が上がり、水柱が高々と立ち上がる。

 

「春雨被雷!

 右から雷撃、雷跡4視認、艦影なし、潜水艦と思われます!」

 

 怒鳴るような声で報告を寄越したのは、春雨の後ろ、艦列の最後尾についていた長波だった。

 崩れた水柱を被ってずぶ濡れになった春雨は、被雷した右足を押さえたまま水上に倒れ込んで動かない。

 

「春雨!」

 

 叫ぶ村雨の声がひび割れる。

 急転舵して春雨の――妹のもとへ駆け寄ろうとした村雨を、龍田の凍り付くような声が制した。

 

「村雨」

 

 振り向きかけた顔を思わず戻した村雨に、表情を削ぎ落した顔で龍田が告げた。

 

「あなたは高波、風雲とともに前進、あなたの指揮のもと、敵艦隊を殲滅。

 一隻残らず沈めなさい。必ず。いいわね?」

「龍田さんは」

「右手の潜水艦が死にたいようだから、ね?」

 

 にこりと笑った顔の中で、目はまったく笑っていない。

 

「長波!」

「はい!」

 

 呼ばれた長波が反射的に背筋を伸ばして応答する。

 

「あなたは春雨の被害の確認と報告、それが済んだら応急処置。

 私はあの潜水艦を沈める。万が一、二度目の魚雷が来たら、春雨を引き摺ってでも回避させなさい」

 

 了解、と応じた長波に頷き、龍田は転舵した。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 龍田は一歩ごとに深く海水を蹴り、見る間に増速する。

 

 ――小癪な真似を。

 

 二段階の待ち伏せ。

 艦娘たちが気付かなければ挟撃し、気付けば本隊を囮に雷撃で不意討ちを仕掛ける。

 村雨が探知した通信は、そのためのものに違いなかった。

 

 村雨は違和感を抱いて報告を上げた。

 龍田はその違和感の正体を誤断した。

 あの時点で増速でなく周囲の警戒を命じていれば、春雨は被雷せずに済んだかもしれない。

 

 魚雷を放った敵潜水艦への激しい憤りとともに、死にたくなるほどの後悔を、龍田は覚えていた。

 最大戦速まで加速し、後悔に蓋をして心の底へしまい込む。少なくとも、そうせよと自分に命じた。

 

 海面を駆けながら前方を捜索し、潜望鏡を見付け出す。

 こちらにはもう気付いているのだろう、小さく白く波を切って、潜望鏡が海面下へ消えようとしていた。

 

 砲撃はもう届かない。

 完全に潜航されてしまったら、爆雷投射機の手持ちがない龍田にとって、攻撃は難しくなる。

 それでも。

 

「逃がさないわよぉ」

 

 天龍にすら見せられない、見せたことのない笑みを浮かべて、龍田が呟く。

 右手の薙刀を握り直し、海面のうねりに合わせて踏み込み、波頭が持ち上がる勢いを利用して、龍田は跳んだ。

 空中で薙刀を両手に持ち替え、その穂先を下へ向け、着水と同時に突き込む。

 

 ごつん、という手応えがあった。

 龍田の船体を構成する基部艤装と同じ材質の薙刀は、潜水艦の耐圧船殻をあっさりと貫通した。

 軽く捻りながら薙刀を引き抜くと同時に、耐圧船殻の上部に残されていた圧縮空気が噴出し、大量の気泡と飛沫が龍田を包む。

 慌てて浮上をかけた潜水艦がどうにか海面に達したとき、その目の前には、薙刀を提げた龍田の姿があった。

 

「たっぷり空気を吸っておきなさい、もう二度と吸えないから」

 

 つい、と薙刀の先で潜水艦を指し、機銃掃射、と短く命じる。

 3連装機銃の艤装妖精は、龍田の命令に喜んで従った。激しい連射の音が響き、大量の薬莢が海に吸い込まれる。

 もがく潜水艦に表情を消した顔を向けた龍田は、機銃の艤装妖精に、二度、弾倉交換を命じた。

 外しようのない距離から機銃の掃射を浴びた潜水艦は、龍田の言葉のとおり、二度と浮上することなく沈んだ。

 

「こちら長波。春雨は缶損傷、浸水中、魚雷発射不能。

 バイタルには異常なし。応急処置にて浸水の拡大は停止可能な見込みです」

 

 沈む敵潜を見届けた龍田の通信機に、長波からの報告が届いた。

 龍田はひとつ息をついて髪をかき上げる。少なくとも春雨に関して、最悪の事態は避けられたようだった。

 

「了解、すぐにやって。こちらは潜水艦を片付けた。私も長波と春雨に合流する。

 ――村雨、聞こえた?春雨は命に別状ないわ。安心して本隊をやりなさい」

 

 ふたつの了解の声を聞き、龍田は被雷した駆逐艦のもとへ向けてふたたび舵を切った。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 敵艦隊へ向けて増速しながら、村雨は身悶えしたくなるような後悔に苛まれている。

 あの違和感にもっと早く気付いていれば。

 増援要請ではなく攻撃の合図だと認識できていれば。

 

 ――春雨は被雷せずに済んだかもしれない。

 

 頭では今更詮無いことと理解していても、村雨の心が納得を許していなかった。

 ぎりり、と歯を食いしばって、これではいけないと思い直す。

 

 沸騰した怒りを――敵艦隊と己への怒りを鎮めるために、3度の深呼吸が必要だった。

 

 どうにかこうにか心を落ち着けた村雨は、前方の状況を確認する。

 敵艦は4隻、重巡を先頭にこちらへ向かってくる。

 単純にぶつかれば不利なことは目に見えていた。

 そもそも数の優位を生かす予定だったものが、被雷と潜水艦への対応でこちらは3隻しかいない。

 しかし勿論、村雨に退く気などない。龍田の命令に従うというよりも、妹を傷つけた敵艦隊をのうのうと永らえさせる気がないのだった。

 

 ――こちらが有利、あるいは敵が不利な点は?

 

 村雨は考える。

 彼我の差はどこだ。我が優位を取れる点は。

 

 全体としての戦力?――お話にならない。

 個艦の戦力?――駆逐艦同士ならともかく、特に重巡と1対1は厳しい。

 ならば局所で数的優位を作ればどうか?――うまく敵を分断できれば、あるいは。ただし必ずどこかで1対2以上の状況が生じる。

 索敵能力?――お互いに相手を発見しあった今の状況ではあまり関係がない。灯火管制をしたまま戦えるなら、それは優位になるかもしれない。

 位置関係?――こちらは比較的自由に航行できる。敵艦隊は陸地を背負っている。

 

 これしかないな、と村雨は心を決めた。

 地形も利用して可能な限り敵艦隊の行動の自由を制限し、自分たちは自由に動くことで優位を得る。

 首尾よく数を減らせたなら、あとは数的優位を作って押し込む。

 

 作戦とも言えないような雑な方針ではあるが、何もないよりは遥かにましなはずだった。

 

『こちら長波。春雨は缶損傷、浸水中、魚雷発射不能。

 バイタルには異常なし。応急処置にて浸水の拡大は停止可能な見込みです』

『了解、すぐにやって。こちらは潜水艦を片付けた。私も長波と春雨に合流する。

 ――村雨、聞こえた?春雨は命に別状ないわ。安心して本隊をやりなさい』

 

 長波と龍田からの通信が入ってきた。

 深く安堵した村雨は了解と答えてもう一度息をつき、高波と風雲に声をかける。

 

「聞こえたわね?

 春雨は無事、長波と龍田さんはそれぞれ役割を果たした。

 今度はこちらの番よ。方針を伝えます。

 敵を陸地側に押し込んで行動を制約して叩く。

 主砲はまだ有効射程外よね?」

「届くには届きます。命中はちょっと」

 

 期待できませんね、と風雲が応じた。

 

「それで構わない。今のうちに即応用の予備弾を砲塔内に上げておいて。

 合図したら射撃開始、同時に敵艦隊の前方へ雷撃。

 砲撃も雷撃も、命中より行動の制約を重視して。

 海側に外すのは問題ないけど、陸側には外さないでね。

 本命の攻撃開始前の砲撃と雷撃で、敵艦隊を陸側に追い込む。

 うまくいけば転舵の方向を制限できるから、当てやすくなる筈よ。

 最初の航過で数を減らして押し込めればベスト、そうでなくても次の手を制限できれば上出来、ってところね。

 初期段階で行動の制約に失敗したら龍田さんたちと合流する」

 

 そこまで説明して、ああそうだ、と付け加える。

 

「今の龍田さんに『失敗しました』って報告はしたくないから、2人とも、よろしくお願いね」

 

 春雨の被雷直後の表情を消した顔、そして目が笑っていない笑顔を、村雨は思い出していた。

 

「重巡よりキレた龍田さんの方がおっかないですよねえ」

 

 風雲が遠回しな言い方で村雨の方針を受け入れた。

 

「その作戦ならいける、かも」

 

 高波はもう少し直接的な言い方だった。

 よし、と村雨が頷く。

 

「じゃあ、やっちゃいましょう!

 攻撃開始!」

 

 村雨の合図と同時に、3隻は一斉に砲撃を始めた。

 続いて魚雷が投射され、夜目にも白い航跡が敵艦隊の方へと伸びてゆく。

 

 砲撃は命中こそしないが、弾着は村雨の期待のとおり、敵艦隊の海側に集中していた。

 こちらの砲撃に触発されたように、深海棲艦たちも砲門を開いて応戦する。

 弾着の位置はまだまだ遠い。夜戦の初弾などそうそう当たるものではないから、これは計算のうちだった。

 そうこうするうちに魚雷が敵艦隊の近くをかすめる。命中はないが、敵艦隊は回避のために更に陸寄りに舵を切った。

 

 ――いい感じ。

 

 ここまでは村雨の思惑通りに事が進んでいる。

 

「敵艦隊接近、間もなく行き違うかも!」

 

 高波がいつもの調子で報告する。

 

「二次攻撃開始、標的は各個に設定。

 航過後は自由航行で追撃戦。戦果、期待してるわ」

「了解かも、です!」

「風雲了解!」

 

 答えるが早いか、2隻の僚艦は主砲を撃ち始めた。

 村雨も敵の先頭、重巡洋艦に狙いを定めて射撃を開始する。

 無論、敵も黙って撃たれるだけではない。撃てる砲のすべてを使い、激しく反撃する。

 艦体の傍をかすめる砲弾に肝を冷やし、水柱に足を取られそうになりながら村雨は海を駆け、艤装妖精を叱咤して砲撃を続けた。

 二度三度と命中弾を得はしたものの、まだ相手の足を止めるには至っていない。

 

「駆逐艦、撃沈したかも!」

「風雲も撃沈1、駆逐艦です!」

 

 僚艦からの報告を頼もしく聞き、村雨は行き違った敵艦へ向き直るように転舵した。

 軽巡洋艦が陸側へ、重巡洋艦が海側へ、それぞれ舵を切っていた。

 

「高波、風雲、軽巡をお願い!

 村雨は重巡を押さえます、そっちが済んだら合流して!」

 

 了解、とふたつの声が答えた。

 さて、と村雨は重巡洋艦の未来位置へ向けて速度を上げる。

 

 ――代償を払わせてやる。

 

 おそらく艦隊の指揮はあの重巡が執っているのだろう。

 であれば、春雨をあんな目に遭わせた元凶もあの重巡、ということになる。

 

 距離を取ろうとしているのか、重巡洋艦も増速した。

 追う形になった村雨の射撃開始よりも先に、敵が撃ち始める。

 海面から沸き立ついくつもの水柱を避け、あるいは突っ切って、村雨は敵艦に迫った。

 その間も射撃は忘れない。激しく揺れる中の速射は艤装妖精にとっても楽な仕事ではないはずだが、妖精は不平を漏らさない。

 さらに一つ二つと命中を知らせる爆発を目にして、村雨は己の勝利を確信した。

 

 それがわずかな気の緩みにつながったのかもしれない。

 同じパターンでの回避行動を無意識に繰り返していた村雨があっと思ったときには、敵の主砲弾が装甲を貫いていた。

 

「ちょ、待っ……」

 

 弾着の衝撃と爆発で弾き飛ばされ、海面に叩きつけられる。

 激痛で一瞬呼吸が止まる。悲鳴こそ噛み殺したものの、呻き声まで止めることはできなかった。

 どうにか頭を持ち上げ、敵艦の状況を確認する。

 ひとまずの危険を排除したと見たのか、村雨の方へ来る様子はない。

 軽巡洋艦が逃げた先、高波と風雲がいる方へ、重巡洋艦は転舵している。

 

 ふざけんじゃないわよ、と吐き捨てて村雨は被害を確認した。

 艤装と制服に大穴が開き、あちこちに火が燻っている。

 海面に叩き付けられたときに折れたのだろう、電探のアンテナが曲がっていた。

 魚雷発射管も発射不能になっている。

 艤装妖精が庇ってくれたのか、装填済みの魚雷の誘爆は避けられたようだった。

 当の艤装の妖精たちは、破損した己の住処を悲しそうな顔で見つめている。

 

「われ射撃可能、ただし揚弾機故障」

 

 主砲の艤装妖精が報告した。

 

「砲塔内の予備弾は?」

「3射分」

「それだけあれば十分ね」

 

 一旦は立ちあがった村雨だったが、射撃姿勢を取ろうとして顔をしかめた。

 左腕が上がらない。

 手持ち式の主砲射撃は両手で艤装を保持するのが基本だった。片手撃ちでは命中率が著しく低下する。

 右手だけで主砲を保持しようにも、被弾箇所の痛みでうまく力が入らない。

 被弾まで順調に距離を詰めていた目標の重巡洋艦は徐々に離れてゆきつつある。

 

 ――このまま撃っても当たらない。せめて何か支えになるものが。

 

 海上にそんなものがあるはずもない。あるのは不安定に揺れる海面と自分の身体だけだ。

 悔しさに歯噛みしながら村雨は通信回線を開いた。

 

「高波、風雲。村雨は被弾しました。

 追撃困難、重巡がそちらへ向かってます。そちらの状況は?」

「軽巡は沈めたかも」

「了解、迎撃する」

「注意して。手ごわいわよ」

 

 通信を切ると力が抜けた。

 尻もちをつくようにへたり込む。目の前に自分の右膝があった。

 

 ――支えだ。

 

 右手の主砲、その前部を右膝の上に乗せて固定する。

 旋回ができないのが困ったところではあるが、片手で撃つよりは当たりそうだった。

 遠ざかる重巡洋艦は村雨に背を向けていた。もうこちらへの意識を切っている。

 

 身体をずらして重巡洋艦の針路の先に照準を固定し、慎重にタイミングを計って、引金を落とす。

 一瞬のち、背後からバイタルパートを撃ち抜かれた重巡洋艦が崩れ落ちた。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

「重巡が視認できないかもー」

「村雨、状況はどう?」

 

 高波と龍田からの通信が入っていた。

 もう何もかも投げ出したい気分で海面に転がっていた村雨は、その声にのろのろと身体を起こす。

 

「敵本隊は殲滅。撃沈4、駆逐艦と軽巡は高波と風雲が、重巡は村雨が落としました。

 村雨は被弾、攻撃は不能、全速航行不能。電探も修理が必要です」

「春雨は応急修理を完了、こちらも半速でなら、ってところねぇ」

「風雲は無事です。高波は小破したかもー」

 

 龍田の指示で合流した艦隊は、ふたたび針路を南に取った。

 

「これ、夜明けまでには着かないわねぇ」

 

 損傷を受けた村雨と春雨は巡航の速力すら満足には出ない。

 残された距離と艦隊の速度を計算すれば、夜明け――つまり空襲の危険が生じる時間までに港に逃げ込むことは不可能だった。

 

「積荷、投棄しますか?」

 

 後ろめたさを感じつつ、村雨は提案した。

 重量物である補給物資を捨ててしまえば多少は速度が上げられる。

 話を聞きつけたドラム缶の艤装妖精たちが、不安そうに成り行きを見つめていた。

 

「まだ駄目」

 

 龍田はしかし、言下にそれを否定した。

 

「春雨のも含めて全部無事なんだよ」

「無事なんですよ!」

 

 長波と春雨が口々に言う。

 

「春雨はさあ、被雷したときにドラム缶庇ってたからな。あたし見たぞ、あれ無理しただろ」

「ちょっとだけです!だってせっかく運んできたし、待ってる人がいるのに」

 

 だから大怪我するんだよ、とぼやきながら、長波は口調ほどに腹を立ててはいない。

 

「ほら、無碍にできないでしょう?

 拠点に支援を要請してみましょう」

「渋りそうですね。あそこ陸さんの拠点ですし」

 

 まあそのときはそのときよぉ、と笑って龍田は回線を開いた。

 

「こちら輸送部隊。進出途上で待ち伏せを受けた。

 敵艦隊は殲滅するも我が方の被害中破2小破1、夜間の到着が不可能につき上空援護を乞う」

 

 ややあって送られた返答に、龍田が笑みを大きくした。

 

「いえ、現在の地点までとは――ええ、こちらが薄明までに進出できる地点まででも。

 攻撃機ではなくて上空援護です。そちらの隼で空襲に対する援護を。

 ――そうですか、では止むを得ません。艦隊の安全を優先しなければなりませんので、補給物資を投棄せざるを――

 え?援護をいただける?それはありがとうございます。

 鎮守府を代表して、あなたのご厚意に感謝いたします」

 

 通信を切った龍田が、済んだわよ、と駆逐艦たちに声をかけた。

 

「上空援護、快く引き受けてくれたわ。

 感謝しないとねぇ」

 

 どこがぁ、と遠慮のない声で長波が言う。

 駆逐艦たちが一斉に笑い声を上げ、ドラム缶の艤装妖精たちがほっとしたような笑顔を見せた。

 

「さっきのあれ、よかったんですか?

 あれじゃほとんど――」

 

 組み直した艦列の中、村雨は小声で龍田に尋ねた。

 夜明けも目的地もまだ遠い。だが、東の空がぼんやりと明るみ始めていた。

 

「――脅迫?

 やぁねぇ、私がそんなことするわけないじゃない?」

「いえ、それもそうですけど、あとでなにか……」

「いいのよぉ、どうせ叱られるのは私じゃないし。

 それに、可愛いあなたたちに怪我させてまで運んだ物資、無駄にはできないでしょう?」

 

 ねえ、と龍田は自らも積んでいるドラム缶をついと撫でる。

 顔を出した艤装妖精が、嬉しそうに笑った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

明石:資材管理担当艦の事件簿

「あれ?」

 

 異変に気付いた明石は、工廠の中を見回した。

 昨日まで確かに置いてあった筈の場所に、ウエスがない。

 機械の整備・清掃用の端切れ布だから、艦娘たちの艤装の整備を任されている明石にとっては毎日のように使う品だ。

 それだけに備蓄は大量に用意されている――それも、衣料工場から出た端切れを裁断したもの、不織布で作られたもの、精密機械用のもの、といくつかの種類を取り揃えてある。

 グリースを拭いたりオイルを拭いたり作業台を拭いたりとあれこれ用途のある、明石にとっては必需品だ。

 それが一箱まるごと見当たらない。

 

 工廠は建前上、誰が使ってもよいことになってはいるが、実際に使うのは明石を除けば夕張くらいのものだ。他の艦娘たちは、なにか用事がなければあまり近寄ることはない。

 

「おっかしいなー、確かにここにしまっといた筈なんだけどなー」

 

 ばさばさと頭を掻きながらもう一度棚を確認する。やはりない。よくよく調べてみれば、工具箱や備品類も微妙に置き場所が違う。

 おそらく誰かが使ったのだろうが、一箱分のウエスというのはどう考えても一度になくなる量ではない。別の場所で使うために持ち出すにしても、夕張あたりならば断りを入れるかメモのひとつも残す筈だった。

 じゃあ誰だろう、と工廠に立ち寄りそうな艦娘を思い出そうとしてみるが、結局のところ夕張か明石本人、あとは大淀くらいしか思い当たる相手がいない。夕張は言ってみれば工廠仲間のようなもので、明石が普段何に気をつけて工廠を使っているかをよく知っている。大淀にしても同様で、彼女は任務の統括をする関係上、やはり明石のやり方は熟知している筈だった。

 しばらく考えてみたが時間の無駄でしかなく、それに気付いた明石はやめやめ、と独りごちて倉庫の片隅に積んであった別の一箱を引っ張り出してきたのだった。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 その日一日、明石はあまり気分よく仕事ができなかった。愉快とは言えない余所事が気になり続けていたのだから、これは無理のないところではある。

 仕事を終えて食堂へ向かう道すがら、事務室に立ち寄った。

 

「ああいたいた。大淀、紙とサインペン貸してもらえる?」

 

 なんですか急に、と言いながら頼んだものが即座に出てくるあたりは大淀だ。

 

「いやそれがさあ」

 

 サインペンで紙にさらさらと用件を書きつつ、明石は事情を説明した。

 

『工廠から端切れを箱ごと持ち出した方は明石まで御連絡ください』

 

 随分遠慮した書きっぷりじゃないですか、と事情を聞いた大淀が笑う。

 

「まあ悪気があったかどうかもわかんないしねえ。

 知らないでやっちゃったなら、次はきちんと戻してねって言えば済む話だからさ。

 ――掲示板、いい?」

「どうぞどうぞ。期限、とりあえず1週間くらいでいいです?」

 

 日付の入ったスタンプを取り出して日付を変えながら大淀が尋ね、あんまり長いこと貼っとくものでもないしね、と明石が応じる。

 明石の走り書きに掲示期限のスタンプを押し、はいどうぞと大淀が手渡した。

 

「貼るときに期限過ぎてるのがあったら、ついでに剥がして捨てといてください」

 

 はいよと請け合って食堂前の掲示板へ向かい、掲示期限が過ぎていた告知を剥がしてその跡へ貼る。

 ここならば大半の艦娘の目に留まる筈だった。遠征や出撃で出ている艦娘、許可を取って外出・外食する艦娘もいるにはいるが、数としてはさほど多くない。

 

 あとはこれを見た本人が声をかけてくれれば解決かな、とひとつ息をついて立ち去ろうとした明石を、誰かの声が引き留めた。

 

「盗難、ですか?」

 

 振り返ると、鳳翔が誰かと話をしている。

 

「ええ、検品前の箱が開けられたようで、中身が。

 ただ盗難とも言い切れなくて――」

 

 相手には見覚えがあった。出入りの調理業者の営業だ。

 資材や消耗品の発注は明石と大淀が担当している関係で、幾度か顔を合わせたことがある。

 鳳翔は鎮守府の規模が小さかった頃に調理を担当していたことから、今でも食堂のメニュー決めに関わっている。

 

「穏やかじゃありませんね。何が盗られてたんです?」

「鶏と魚です。鶏はささみ、魚は鰯。どっちも一次加工済みでパックされてまして、それが1パックずつ。

 ――ご無沙汰してます、明石さん」

 

 割って入った明石に営業が応じた。

 

「盗難とも言い切れない、ってどういう?」

「それがですね」

 

 言いながら営業が出したのは千円札だった。

 

「これがコンテナに入ってまして。

 代金のつもりかな、と」

 

 確かに判断に苦しみますね、と明石が応じ、話題を変える。

 

「1パックって500グラムくらいでしたっけ?食事出すのに支障が出るような量じゃないですねえ」

「出たら大変です。食べ盛りの子もたくさんいますし、なにより――」

 

 ああその先は、と明石は笑って鳳翔を遮った。

 戦艦や空母の食事の量は並大抵のものではない。実戦でなく、訓練のみであってもそうなる。作戦から帰投して満足な食事がないとなれば、彼女たちがどんな行動に出るかなど知れたものではなかった。

 

「外からじゃないですよね、これ」

「内部でしょうねえ。警備はきちんとしていただいてますし」

 

 女性が多く華やかな雰囲気ではあっても軍事施設である。警備もついている。外周を囲む柵には監視カメラもある。

 そうそう外部から忍び込めるような場所ではないし、苦労して外部から忍び込んだにしては盗られたものが中途半端に過ぎる。

 

「食料品だけというのはちょっと。それに、一応、代金も払ってますから。

 ああそうだ、お代はきちんと全部の分払うように大淀に伝えておきますので」

 

 明石は営業に言い、その場を辞して事務室へ戻った。

 

「さっきそこで鳳翔さんに聞いたんだけど」

 

 まだ事務室に残っていた大淀に事情を話す。

 

「代金の件は問題ないと思います。検品してないけど、まあこっちの話ですからね。

 で、お代まで置いていった、と」

「それはいいと思うんだ。それよりもさ」

「ええ。ほかに何かないか、ちょっと調べないとですね。あとは誰がやったのかの調査と対策」

「調査って言ってもねえ。寮の自室の冷蔵庫ぜんぶ開けさせればわかるとは思うけど」

「出入口にはカメラありますから、まずはそれですね。

 あとは――私、備品の数量だけ調べておきます。他になにか無くなってるとあれですし」

「艤装は各自チェックしてる筈だけど、それも各寮で確認してもらった方がいいね。

 物資関係は私がもう一度数量チェックかなあ。弾薬とか無くなってたら不祥事だよ」

 

 やれやれ、と二人は顔を見合わせて苦笑した。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 しばらくして明石と大淀はふたたび事務室で落ち合った。

 

「どうでした?」

「資材は異常なしだね。まずは良かった。あと施錠は確認してきたよ」

「こっちは備品類がいくつか無くなってましたね。家具として使ってたクッションがいくつかと、あと段ボール」

「段ボール?」

「あの、提督が着任したときに荷物入れるのに使ってたやつです」

 

 あれ備品扱いなの、と明石が呆れたような声を上げ、なぜか備品扱いなんですよ、と大淀が応じた。

 

「まあ実質ただの段ボールなんですけど、備品だから勝手に捨てられなくて」

「クッションだの段ボールだのはまあ実害はないけど、誰か勝手に使ってるならそれはそれでまずいよ」

 

 やっぱり調べないといけませんねと大淀が言い、二人は事務室を施錠して奥の扉へ向かう。

 

「監視カメラなんて使うことになると思わなかったなあ」

 

 事務室奥の扉の先、中央管理室の椅子に腰掛けて明石はため息をついた。

 戦友である艦娘たちを疑いたくはない。普段はその必要もない。

 しかし今、工廠用の消耗品や食料品、普段ほとんど使われない備品とはいえ、鎮守府からモノが消えているのは事実で、それを放置するわけにはいかなかった。

 

「私もです。いっそ狸や狐の類ならまだ楽なんですけど」

 

 大淀も同じ気分であるらしく、ぼやきながら監視カメラの映像を呼び出している。

 

「ひとまず調理室の裏手ですかね。昨日の夜、配達があったのが――?」

「だいたい毎日4時頃だってさ。鳳翔さんが言ってた」

 

 じゃあそこから早回しで、と言いながら時間を指定し、早送りの動画を画面に映し出す。

 

「あ」

「これかな」

 

 ほどなく二人が同時に声を上げた。

 帽子を目深にかぶった人影が画面に映し出されている。

 画面は全体に暗く、角度も俯瞰で写す形になっているため、顔までは判別できない。

 

「さすがに制服じゃありませんね」

「そこまで間抜けじゃ……帽子にマスクかあ。典型的な不審者スタイルだわ」

 

 漫画かドラマでしか見たことないわ、と明石が笑う。

 

「だいぶ小柄だね」

「ですね……コンテナがひとつ30cmくらいですから、5個で150から60ってとこですか」

 

 人影の身長は5個積み重ねたコンテナよりもやや低いくらいだった。

 

「駆逐艦?」

「たぶん。潜水艦の可能性もありますけど」

 

 彼女たちはこんなあからさまにはやらないと思う、と大淀は褒めているのか貶しているのかよくわからない感想を述べた。

 しばらく眺めていると、その小さな人影は小さな懐中電灯で照らしながらコンテナの中を漁り、最後に紙片のようなものをコンテナの中に入れて立ち去った。

 

「手際が」

「良くないですね」

「慣れてないのかな」

「でしょうね。慣れてても困りますけど」

 

 そりゃそうだわ、と明石は笑う。

 

「どうする?

 駆逐艦のおイタで片付けられるとは思うけど、どっちにしても現場押さえないとだよ」

「そのうちまたやる可能性はありますから、そこを押さえればいいんですけど」

「それがいつになるかわかんないんだよねえ。毎日不寝番はちょっと」

「交代するにしても二人だと厳しいですし……」

「あんまり話を広げたくもないよね、できれば」

 

 無論、やっていること自体は褒められた話ではない。

 だが、ことを公にして犯人を罰さねばならないか、というと、そこまで悪質でもない、というのが二人の共通した見方だった。

 

「警備システムに動体センサを入れたって話があったじゃん、あれ使えないかな」

「使ってみたけどダメで切ってたんですよ。閾値の調整が難しくて。

 風で揺れる木の枝に反応したり、猫に反応したり」

「カメラの番号とタイムスタンプだけ吐かせて、あとはこっちで目検とかならどう?

 どの道全部のカメラの一晩分なんて見られないんだし、絞り込まないと無理じゃないかな」

「そこですよねえ。あー、赤外センサと連動させれば木の枝とかは弾けますかねえ」

「とりあえずそれで一晩見てみる?設定、やるよ」

 

 設定画面を開き、温度、移動速度、大きさ等々、データの出力条件を設定して画面を大淀に譲る。

 

「こんなもんでいい?」

「問題ないと思います」

「メールも飛ばせるみたいだけど」

「うーん……まだいいんじゃないですかね」

「本音は?」

「大規模作戦や緊急事態でもないのに夜中起こされたくないです。

 それっぽいのが出たら、その翌日からで」

 

 だよねえ、と二人は笑いあった。

 

「対応だけど、現場押さえてお説教、備品やら消耗品やらは原状復帰、使えなくなったものがあったら本人に弁償させる、ってとこでどう?」

「まあその辺が落としどころじゃないですか。提督には一通り済んでから報告でいいでしょう」

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 翌朝、事務室に顔を出した明石を、早いですねと大淀が出迎えた。

 

「だってさあ、気にならない?」

「なります」

「見た?」

「まだです。だって先に見たら明石さん怒るでしょ」

 

 何よそれ、と言いつつ、たしかに楽しみを取られたような気にはなりそうだとも思う。

 そのあたりを把握されてしまっているのは付き合いが長いせいだろう。

 中央管理室で吐き出されたログを確認し、順にカメラの画像を確かめてゆく。

 

「あれ、これ何だろ」

 

 明け方近くの時間帯の記録を確認していた大淀が呟いた。

 

「画像だと……ちょっと暗くて遠いですね」

「その絵の赤外領域だとどう?」

「こうですか。人っぽいですね。二人?」

「うん。場所は工廠でも備品倉庫でも調理場でもないな。

 寮の裏手だね」

「ですねー。あ、もうひとつ熱源ありませんか、ここ」

「こっちはほとんど動いてないねえ。何だろ?」

 

 しばらく見守るうちに、ふたつの熱源は動かない熱源の傍へ寄り、そしてもと来た方へ戻っていった。

 

「現場、確かめてみます?」

「賛成」

 

 大淀の提案に明石が頷く。

 

 ややあって現場に着いた二人は顔を見合わせた。

 

「これかー」

「うーん……これは……ある意味仕方ない気もしますが……」

「いやでもこれ、びしっとシメないと駄目だよ大淀」

「明石さん、顔に説得力が皆無です」

「それはそれ、これはこれ。

 現場押さえて説教!」

「まあ、それはそれ、ですねえ」

 

 毒気を抜かれた口調で大淀が同意する。

 

「明日の朝、ここで張るってことでいい?」

「それしかないでしょうね。早い方がいいと思います」

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 翌未明、まだ暗い時間帯。明石は寮の裏手、室外機の陰にしゃがんで犯人を待っていた。

 時折伸びあがって室外機の反対側に視線を落とし、複雑な表情でため息をつく。

 正直なところ、自分が犯人をうまく叱れるかどうか、あまり自信がなかった。

 

 ややあって足音が聞こえてくる。足音はふたつ。昨日見たカメラの画像のとおりだった。

 明石は一度顔に両手をやり、顔を引き締めて怒った表情を作る。

 現場を押さえて説教、ともう一度自分に言い聞かせた。

 

 足音が近づいたタイミングを見計らって立ちあがり、持っていた懐中電灯の光を浴びせる。

 

「に゛ゃっ!?」

「ふぁーーっ!?な、なんなのです!?」

「電に多摩、あんたたちだったのね?」

 

 驚いて逃げだそうとしたその先に、大淀が立ちはだかる。

 

「計算通りですねえ。逃げられませんよぉ」

 

 光を反射する眼鏡を片手でくいと直してにやりと笑うその姿は完全に悪役のそれだった。

 観念した多摩と電に、明石が雷を落とした。

 

「備品に工廠の消耗品、それに食料まで――だいたい多摩、あなた止める立場でしょうに一体何やってるのよ!」

 

 時間が時間だけにけっして大声ではないが、それでも迫力はなかなかのものだった。

 しゅんとしてしまった電とは対照的に、多摩は不貞腐れたような表情だ。

 

「仕方ないにゃ。これは多摩として見過ごせなかったんだにゃ。

 それとも何かにゃ?子供を産んだばかりの猫さんを放っておけとでも言うのかにゃ?」

「ひ ら き な お る ん じゃ あ り ま せ ん」

 

 一音ずつ区切るように言いながら、明石は多摩の頭を鷲掴みにして力を込める。

 

「あだだだだだだだ」

「明石さん、とりあえずそのへんで。

 猫ちゃんが驚いてます」

 

 半笑いの大淀が止めに入り、明石は手の力を緩めた。

 その足下で、ウエスとクッションを敷いた段ボールに入った猫が明石を見上げている。

 多摩の言葉のとおり、子猫が5匹、母猫の傍らで眠っていた。

 

「あなたたち、このままここで餌だけあげるつもりだったの?

 面倒見たいならきちんと見なきゃ駄目だし、そうだったら餌以外にもやらなきゃいけないことはたくさんあるのよ。

 病院連れて行ったりとか、提督の許可取ったりとか。挙句勝手に鎮守府のモノを持ち出すなんて論外もいいとこだわ」

 

 でも、となにか言おうとした電を遮って明石が続ける。

 

「とにかく、黙ってこんなことするんじゃありません。

 他の手配はしてあげるから、鳳翔さんには6駆と多摩できちんとお詫びしておきなさい」

 

 え、じゃあ、と顔を上げたふたりに、押し被せるように明石は言った。

 

「わかったの?返事は?」

「はい!」

「じゃあほら、それ置いてさっさと寮に戻りなさい」

「はぁい!」

 

 いそいそと持ってきたものを――火を通したささみを母猫の傍の皿に置き、多摩と電はお辞儀をして立ち去った。

 腕を組んで見送った明石の肩を大淀がつつく。

 

「明石さん、顔、緩んでます」

「……仕方ないじゃん。

 それはそれとして、この子たち、捨てるわけにもいかないってのは多摩の言う通りなのよねえ」

「お母さんをここで面倒見るなら避妊手術、あと全員の健康状態のチェックとワクチンってとこですかね。

 あとはもうちょっといい寝床とトイレ、猫砂、餌。いろいろと物入りです」

「詳しいじゃない」

「調べたんですよ」

 

 手回しのいいこと、と明石は大淀の肩を叩いた。

 鎮守府に来てから随分になるが、大淀のこういう部分は変わらない。

 

「ところで、朝までもうひと眠りしませんか?」

 

 もう用は済んだとばかりに大淀が言う。

 そうね、と応じた明石が、朝食を食べ終えた母猫に小さく手を振った。

 

「――そういうところですよ」

 

 笑みを含んだ大淀の声を、明石は聞こえなかったふりで誤魔化したのだった。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 その後、艦娘たちと提督の寄付で必要な経費は賄われ、猫たちは鎮守府で暮らすことになった。

 子猫のうちの一匹は工廠に居着き、作業の合間の明石の無聊を慰めている。

 子猫を見に来た電に、明石は尋ねた。

 

「そういえばさ、どうして提督に相談しなかったの?」

「司令官さんは猫を嫌がるって噂なのです。縁起が悪いから、って」

 

 ふぅん、と頷きながら、明石は提督が子猫を見たときの緩んだ笑顔を思い出している。

 

「誰が言ったか知らないけど、噂だけだったじゃない。

 こうして許可は出してくれたし、費用も結構出してくれたのよ。それにほら、船には猫が乗るものでしょう?」

「そうなのですか?」

「そうよ。よかったらアークロイヤルあたりに訊いてみるといいわ。

 悪運の強い猫の話を聞かせてくれると思うわよ」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

長良:海の見える戦場

 長良は足を止めて大きく息をついた。

 行く手の上り坂を恨めしげに見上げる。

 勿論そんなことをしても坂がなだらかになるわけがなかった。

 

 あの上りを上がり切ったら一休みしよう、そう決めてまた一歩を踏み出す。

 たぶん視界もある程度は開ける筈だ。現在地は把握できるだろう。

 

 それにもしかしたら、ともうひとつの期待を抱きかけて、その先は考えるな、と自分に言い聞かせた。

 期待した分だけ、それが空振りに終わったときの落胆も大きくなる。

 なんでこんなことに、と思い返しながら、長良は鉛のようになった足を進めた。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 艦娘の休日の過ごし方は人それぞれだ。

 寮でのんびりと時間を潰す者、部屋の掃除や私物の整理に時間を費やす者、趣味や娯楽に打ち込む者。

 長良は趣味の山歩きに時間を使っている。

 普段の訓練のときも足腰を鍛えるために時間を使っているから、僚艦たちには休みなのに普段と同じことをしていると笑われなくもない。

 

 長良本人は、皆も来ればいいのにと考えている。

 山は不自由だ。一蹴りでぐんと身体が加速することもなければ腰と膝と体重移動だけで針路を変えられることもない。

 水平線まで見通せる電探の目もなければ見えない水中を感じ取る探信儀の耳もない。

 一歩ずつ自分で歩かねば前には進めないし、荷物は全て艤装の助けを借りずに自分で持ち運ばねばならない。

 そういう不自由を楽しみにいくのだと、長良は思っている。

 

 潮の香りとむせ返るような湿気の混じっていない空気の匂いや、渓谷を吹き上げてくる風の涼やかさや、海の上よりもずっと遠くにある水平線や、波立つ海のようでいて全く違う雲海や、その雲海の上に島のように浮かぶ遠くの山々を見たり感じたりするたびにそう思う。

 そうやって一日二日と過ごすうちに海の上が懐かしいと思うようになり、帰りしなに温泉に寄って帰路につく頃には海へ出ることを待ち遠しいと思うようになっている。

 長良自身もそれがどういう心境の変化なのか、よくわかってはいない。だが、そうやって自分は心の平衡を保っているのだろうと考えていた。

 

 今回山に入ったのは昨日の午前中。夜行バス、電車、タクシーと乗り継いで麓まで入り、尾根筋の避難小屋まで上がって一泊した。

 今朝は暗いうちから起き出して朝食を摂り、9時頃には頂上へ着いてそのまま主稜を縦走している。

 

 人の少ない山だった。山に入ってから会ったのは二人だけ。一人は昨夜止まった避難小屋で会った中年の男性で、長良とは逆方向から縦走してきたという。お互いの行く先の道について情報を交換した。人が少ない割には道は整備されていて、荒れたところはないらしい。唯一の難所と言っていい場所は、急な岩肌を鎖を頼りに降りる鎖場だけだ。

 ここを越えたら適当な場所で昼の休憩にしよう、と考えながら鎖場を上から覗き込むと、ちょうど下に誰かが来たところだった。

 二人目だ、と思いながら、お先にどうぞと声をかける。ありがとうございますと返事があった。じゃらりと鎖が鳴り、下の誰かが上り始めたのを確認して周囲の風景に視線を移す。

 平地より一足二足早い山の秋も、ここではまだ入口に着いたばかり、というところだ。紅葉はまだなく、咲き終わりの夏の花がここかしこで風に揺れている。振り返ればなだらかにうねる稜線の先に自分が上ってきたばかりの山頂がある。遠くへ視線を転じれば、白く光る街並みの先にうっすらと青い海が見えた。

 ポーチからスマホを取り出して一枚二枚と写真を撮った。

 撮りながら、あの海でも誰かが、とふと思う。風に海の匂いなど勿論混じってはいないけれど、山に来て海を意識してしまうのはこういうときだ。

 

 これも一種の仕事中毒なのかなあ、と苦笑いして伸びをした長良を、三つの物音が現実に引き戻した。

 激しく鎖が鳴る音、小さな叫び声、何かが地面に落ちる音。

 覗き込むと、下で誰かが倒れていた。鎖の配置が先ほどと変わっている。鎖を岩肌に固定しているアンカーがどこかで抜けたに違いなかった。

 一番上から抜けるのは勘弁してよ、と祈りながら鎖を伝って素早く降りる。

 

「大丈夫?」

 

 鎖を降りきって荷物を地面に下ろし、声をかける。

 

「すみません、落ちちゃって」

 

 横たわったまま苦しそうに答えたのはまだ若い男性だった。中学生から高校生といったところだろう。落ちたときに岩角にでも打ち付けたのか、右脚に大きな傷がある。

 

「右脚、動かせる?」

 

 彼は黙って首を横に振る。ひどく痛むらしい。出血もある。

 

「無理しなくていいよ。バックパック下ろそう」

 

 手早く相手のバックパックを外す。

 自分のバックパックに括りつけていたマットを外し、少し離れた安全と見える場所に敷いた。

 

「落ちたときに頭ぶつけたりした?」

「いえ、脚だけだと思います。下には背中から落ちたから」

「わかった。じゃあちょっと動かすね。両手を私の首に回して」

「え、あの」

「いいから早く」

 

 抱きかかえられる形と知って躊躇する彼に押し被せるように言い、半ば強引に抱え上げた。

 

「痛っ」

「ごめんね、すぐだから」

 

 マットの上に下ろし、楽にしてて、と声をかける。

 長良は応急手当の手順を思い出していた。

 

 意識はある。出血はあるが、即座に命に関わるほどの大出血ではない。

 自力で受傷部位を動かせない。たぶん骨折。

 まず安全の確保、次に止血、骨折が疑われるから患部の固定。

 

 ポーチから出した小さなハンドタオルを畳んで患部に当て、汗止めに巻いていたバンダナを外してタオルごときつめに巻く。

 しばらく圧迫していれば大概の出血は止まる、と鎮守府の研修で教わった知識を反芻する。

 

 折れているであろう脚の固定には、自分のバックパックのフレームを引き抜いて使った。

 

 とりあえずはこれでいい――これ以上悪化はしないはずだ。

 問題はこの先よね、とスマホの画面を確かめる。圏外。

 

「助けを呼びたいんだけど、あなたのスマホ、どこかしら。私のは圏外なの」

 

 ああ、と斜め掛けしたサコッシュからスマホを取り出して画面を確かめ、首を横に振る。

 

「僕のもです」

 

 そう、と頷き、長良はあたりを見回した。

 

「昨夜はこの先の避難小屋で?」

「はい」

「他に誰か、一緒に泊まった人はいた?」

「いましたけど、反対側に行く人だったので……」

「人、少ないもんね」

 

 この場所で救助は呼べない。

 少なくとも日が暮れるまでの間に人が来ることは期待できない。

 選択肢は三つしかなかった。

 

 彼をここで待たせ、長良が救助を呼びに行くか。

 長良が彼と一緒にここでビバークするか。

 長良が彼を救助が呼べる場所まで移動させるか。

 

 ほんのわずか考えて、ひとつめとふたつめは無理だな、と長良は判断した。

 一人で残すにせよ長良が付くにせよ、怪我をした身体でビバークさせるのは負荷が大きい。ましてここは遮るもののほとんどない稜線で、二人ともテントを持っていない。

 今は問題がなくとも、体力を消耗すれば容態悪くなる可能性もある。

 人が通りかかれば補助を頼むことはできるが、長良も彼も今日この道を通る予定の人とは一人も会っていない。

 

 方針を決めたならばあとは行動あるのみだ。

 

「これからの話なんだけど、あなたを下ろさないといけないと思うんだ。

 二人ともスマホが圏外だから救助は呼べないし、ここでビバークは難しいし、誰か来るのもあんまり期待できないし」

「――はい」

「あなた一人なら背負えると思うの」

「え、いや、それは」

「怪我人が気を遣わないの。

 それでね、悪いけどバックパックはここに置いていくから、貴重品と水と行動食だけ持って。

 保温が要るかもしれないから、レインウェアも」

「はい」

「日が落ちる前に救助呼びたいから、すぐに出るね。バックパック持ってくるから、支度して」

「はい」

 

 長良も最低限の荷物の他は持つつもりがなかった。

 ポーチの中身を確かめ、必要なものを持ってあとは全て残置する。

 

「荷物いい?ザックカバーどこ?」

 

 そこのポケットです、と答える言葉のままに雨避けのカバーを引っぱり出してバックパックに掛ける。

 自分のバックパックにも同じようにカバーを掛け、マップケースを括りつけた。

 ペンと、この先通る予定のないエリアの地図を出し、地図の裏面にメモを書く。

 

『負傷者の搬送のため、荷物を残置しています』

 

 念のため自分の連絡先も書き、マップケースに入れる。

 運が良ければ誰かが見て連絡をくれるだろう。少なくとも無用の騒ぎにはならない筈だ。

 

 肩を貸して立ち上がるのを手助けし、自分は相手の前へしゃがんだ。

 

「乗って」

「――あの、やっぱり」

「今更どうこう言わないの。これでも鍛えてるから大丈夫」

 

 乗りなさい、ともう一度促すと、やっと背中に体重がかかった。

 トレーニングと称して名取あたりを担ぎ上げたときよりも軽かった。

 ということは私よりも、とあらぬ方向へ連想が飛び、筋肉は重いから、と誰に対してだかよくわからない言い訳を心の中で述べる。

 

 ともあれ今は、軽い体重が有難い。これから数時間はこの重みを背負って歩かねばならないのだ。

 

 レインウェアの上半身分を支え代わりに腰に巻き、自分の腕は彼の脚の下を通して腕を握る。

 

「揺れるから響くかも。

 痛み止めでもあればよかったね、ごめん」

「大丈夫です。すみません、僕こそこんな」

 

 こういうときはお互い様よ、とだけ答えて、長良は歩きだした。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 それが2時間ほど前のことだった。

 平地では秋の入り口で暑さも残るこの時期、山では随分と涼しくなっている。

 であるにも関わらず、長良は暑さに喘いでいる。頭上の太陽が今は恨めしい。止まらない汗を拭うことすらできなかった。

 

 30分に1度ばかり彼を下ろして休み、水分と糖分を補給してはいる。

 それで蓄積された疲労が消えるはずもなく、立ち止まる間隔は徐々に短くなっていた。

 背負う彼の体調も気掛かりだった。なるべく振動を伝えないよう心掛けてはいるものの、おのずと限界はある。

 時折噛み殺した呻き声が背中から聞こえ、同時に腕や脚がこわばるのを、長良は感じていた。

 

 普段から自分に厳しいトレーニングを課している長良は、そのことを普段の自分に感謝している。

 しかし同時に、トレーニングとの違いを思い知らされてもいた。

 

 ――きついからってやめるわけにいかないのよね。

 

 追い込んでも、限界を迎えたらそこでやめる。無理をしない。

 それがトレーニングの鉄則であり、長良の自己管理のやり方でもある。

 

 今はそれができない。

 たまたま会って、言葉を交わして、背負ってしまった。

 もう見捨てることなどできない。少なくとも自分が倒れるまではこの背中の荷を下ろすわけにいかない。

 そして自分が倒れたら、それはすなわち共倒れなのだ。だから倒れるわけにもいかない。

 

 戦場と同じか、とふと思い、こんなに海から離れてるのに、と少し可笑しくなった。

 艤装を扱う技術も操舵の技術も僚艦たちと連携する技術も関係がなく、ただひたすら体力のみが問われる、ここは戦場だった。

 普段の戦場を離れたくて、なにもない不自由を楽しみに来たはずなのに、不自由なままで他人様の命を背負っちゃうなんて。

 歯を食いしばったまま、口の形だけで笑う。

 

 ――まだ笑えるなら大丈夫。

 

 言い聞かせて一歩を踏み出し、努力して呼吸しながらまた一歩を踏み出す。

 足も腕も重い倦怠感に包まれてしっかりとした感触がない。呼吸のたびに肺が痛む。

 日が落ちるまでに下りなければいけない、天候が崩れれば状況がより悪くなる、そのことは理解できていても、いま日差しを遮って涼を得られるのであれば、早く日が暮れるか雨のひとつも降ればいいのにと思ってしまう。

 無論そう思ったところで天候が変わるわけでもなく、背に負った重みは軽くはならないし、歩くべき距離が短くなるわけでもない。

 勝手なものだなと自分で自分を笑うだけだ。

 

 あれこれと脈絡のないことを考えながら、長良はようようにして坂を登りきった。

 

「ね、下ろすよ」

 

 手頃な場所を見つけて背中に声をかける。

 返事がなかった。

 ぞくりとしたものが背筋を走り、一瞬で汗が冷える。

 まさか、と慌てて背中の彼を下ろして寝かせた。意識がないが、怪我をした足に響いたのか、かすかに呻いて顔をしかめた。

 弱々しくはあるが呼吸も正常だった。怪我と苦痛で体力を消耗しきったのか、あるいは転落したときに頭でも打っていたのか、どちらとも判断がつかない。

 

 ――頭は打ってないって言ってたっけ?

 

 呼吸を整えながら、地図と周囲の地形を照らし合わせて現在地を確認した。

 あの鎖場から麓までの道程の、半分ほどは消化しただろうか。

 もうしばらく歩いて稜線を外れ、その後は林の中を麓まで下る。

 人ひとり担いで下るのは楽な仕事ではないが、あと半分と思えばどうにかなりそうな気がしてくるから不思議なものだ。

 

 そういえば、と思い出して、ポーチからスマホを取り出して確認する。

 安堵のあまり膝から崩れそうになった。2本だけアンテナが立っている。

 110番に電話して状況を簡単に伝えた。

 

 遭難者を搬送していること、要救助者は負傷して意識がないこと、負傷の経緯、現在地と下山予定。

 ヘリで救助に向かうから動かないように、という言葉に、心からの同意とともに了解の旨を伝える。

 動かずに済むものであれば、もうこれ以上動きたくなどなかった。

 

 ヘリを待つ間、彼の様子に気を配りながら、改めてあたりを見回す。

 傾き始めた太陽が、柔らかい日差しを落としている。

 火照った身体に吹き上げてくる風が心地良い。

 歩いてきた方を振り返ると、ずっと上の方に、日に照らされて光る岩肌が見えた。

 よくあそこから人ひとり担いで歩けたものね、と半ば呆れた気分で見上げる。

 深く息をついて視線を転じると、あの鎖場の上で見たのと同じように、遠く青く海が見えた。

 

 今日も誰かが戦っているだろう海とは離れているけれど。

 隣に僚艦はいないけれど。

 艤装すらここにはないけれど。

 

 守るべき誰かがいれば、そこが自分の戦場になるのだ。

 そういえばこの達成感と満足感は、戦場で耐えて耐えて持ち場を守ったときのそれと同じなのかもしれない。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 救助のヘリは30分ほどで到着した。

 降りてきた救助隊員に状況を説明して負傷者を引き継ぐ。

 担いでここまで下ろしたことに、少なからず驚かれた。まあそうだろうな、とは思う。長良とてこの状況でなければ担いで下ろそうとは思わなかっただろう。

 人数に余裕があるので乗っていきますかと尋ねられ、少し考えて長良は首を横に振った。

 

「いえ、彼と私の荷物を上に残置したままなので。取りに行かないと」

 

 救助隊員が顔を見合わせて何事か言葉を交わし、中の一人が、こちらで取ってくるから乗っていきなさい、と促した。

 実のところ、行き帰りの時間と体力を計算して、どちらもぎりぎりかなと考えていた長良にとっては、この上なく有難い申し出だった。

 

 ヘリに乗ってしまうと、街まではわずかな時間のフライトだった。ヘリポートで下ろされると、待っていた救急車が負傷者を乗せて病院へ向かう。

 見送った長良は、改めてことの経緯を尋ねられ、名前と連絡先を確認された。

 身分証を出し、連絡はこちらへと鎮守府の連絡先を示す。救助隊員は驚いたような顔をしたが、そのことについては何も言わなかった。

 

「ところで、あの怪我をした方は?」

 

 そのときになってはじめて、長良は彼の名を聞いていなかったことに気付いた。

 

「たまたまあの現場で行き違っただけです。そういえば、名前もなにも訊きませんでしたが」

 

 取り立てて期待もしていなかったのだろう、後日なにか追加でお尋ねするかもしれませんと言われ、事情の聴取はそれで終わった。

 回収した荷物をどこへどう届けるといった事務的なやり取りを済ませ、日帰り温泉で汗を流して駅へと向かう。

 腕と脚の怠さと重さは変わらない。ただ、今夜はよく眠れそうだと長良は考えていた。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 翌々日。

 帰ってから1日休んだというのに、長良は全身の筋肉痛に苦しんでいた。

 トレーニングはあと1日2日は休まねばならないだろう。

 ルーチンワークになっている課業の演習ですら、満足に身体を動かせていない。

 

 いいニュースもあった。長良が運んだ怪我人は、命に別状なかったらしい。

 

 あれだけ苦労したのだからいいニュースがあってもいいじゃない、と長良は思っている。

 

「長良姉、どこか怪我でもしたの?

 休みの間、また山に行ってたって聞いたけど」

 

 尋ねてきたのは五十鈴だった。

 

「んー……」

 

 どこまで話したものかと考えながら、長良はあのとき背負った背中の重みを思い出していた。

 

「怪我じゃないよ。まあいろいろあってさ。筋肉痛」

「え、長良姉が筋肉痛なんて珍しいじゃない。どうしたの?」

「人助け。怪我人背負って山下りたのよ」



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 ~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。