ジーニーの祈り (XP-79)
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1. しあわせの隠れ場所

ご主人様、ほら願いをどうぞ
私はあなたの子分
そう、最高のお友達

(映画「アラジン」よりFriend Like Me)








 

 

 

 目の前には緑の農地が広がっていた。地平線の果てまで緑の絨毯が侵食している。雲は厚く、昼日中だというのに薄暗い。

 そう言えばこの地域は雨量が凄かった。雲はいつも黒く空を覆っていた。年がら年中薄暗い気候はここらの住民の性格も陰気で閉鎖的にしているようだった。湿気を纏う風は懐かしさと同じくらいの苛立たしさを沸き上がらせる。

 

 ふと隣を見ると小さな少女がこちらを見上げていた。癖のあるブリュネットの髪と猫のような形の瞳を持つ整った顔立ちの子供だった。肌の色はバターのように黄色味がかっているがアジア人にしては顔の彫りが深い。ハーフだろうか。

 少女はこちらを見上げて子猫のように小さく笑んで口を開いた。

「ねえおじちゃん」

「おじちゃんじゃねえよ。俺ちゃんそんな歳行ってねえから。多分」

「多分ってどういうこと?」

「いや、映画とコミックスとアニメで俺ちゃんの年齢違うっぽいから……っつーかあの上手く纏めて死にやがった老眼(ローガン)野郎のせいで俺ちゃん老化しなくなっちゃったから色々と複雑なんだよね。いや、ウェポンIのキャップは老化するっぽい……MCUだと老化したから……でも俺ちゃんウェポンXだし……」

「つまりどういうことなの?」

 

 どういうことなのと言われても、そのままの意味だとしか返しようがない。

 俺ちゃんの年齢は30代後半くらいに設定されている事が多いが、それぞれのアース(もといメディア媒体)によって「デッドプール」の年齢はバラバラだ。

 そもそも原作が時系列を大して気にしないMARVELで、映画配給は時系列という概念をコズミックパワーで粉々にされた20世紀FOXなのだからもうキャラクターの年齢なんて些末な事を気にしてる奴なんて製作者どころか視聴者にも存在しないんじゃないだろうか。

 生みの親に聞くにしても、知り合いのJ(最近はジーニーになっちまったけど!)曰くスタン・リーは故郷の星に帰っちまったらしいから真相を問いただす事もできねえし。本当に自由な爺さんだよ、あいつは。

 20世紀FOXに至ってはコズミックパワーならぬマネーパワーに惨敗してディズニーに買収されて時系列ごと時空の彼方に消滅した。

 そんでそのディズニー、もといMCUは人気キャラ数人を殺した挙句にフェーズ4に突入しちまってこれからどうなることやら。「X-MEN VS アベンジャーズ」とかないよな?その場合は俺ちゃんどっちに味方したら良い訳?映画版デップー(X-MEN) VS アメコミ版デップー(アベンジャーズ)?「もうキャップおじいちゃんったら、またCWなんて起こして!」ってツッコむ準備しといた方が良い?

 

 まあ日本で一番ポピュラーなデッドプールである映画版デップーの俺ちゃんは30そこそこだろうけど。でもそれは別にどうだっていい事だ。君たちも俺ちゃんの年齢なんて気にしなくてOK。少なくともこのファンフィクションのストーリーに俺ちゃんの年齢が関わってくる事は無い。

 あ、このファンフィクションの地文は俺ちゃんの三人称時折一人称モノローグで構成されておりまーす。

 読みにくい?知るか!!直してほしけりゃ「アベンジャーズ:エンドゲーム」で俺ちゃんがトニーを颯爽と助けるCGを挿入するんだな!!

 そうすりゃデッドプールの人気は爆上がり!!俺ちゃん超人気者!!キャーデッドプール素敵ー!抱いてー!でもこの文章書いてるの俺ちゃんじゃないから書き直しなんてできないんだけどね!!

 

「ま、長くなったけどつまりおじちゃんの年齢はスパイディより上、キャップより下をうろうろする正弦波上の一点だっていうこと。ったくいい歳した俺ちゃんは映画だコミックスだアニメだカプコンだとめちゃんこ忙しいのにお前らはオリ主が異世界で無双するファンフィクションを読んで暇つぶししてるって世の中不公平過ぎるんじゃねえの?そんなに異世界行きたきゃ車道に飛び出して『I can FLY!』って叫んで来いよ。突っ込んで来た車がデロリアンかフォード・アングリアだったらマジで異世界行けるぜ。死後の世界も異世界としてカウントOKなら100%だ」

「……おじちゃん、どこを見てるの?」

「見てんじゃねえよ。文字を書いてんの。HEeeeeeeeY!一円も払わないで暇が潰せるファンフィクションサイトに頭のてっぺんまで漬かり切ってるJapanのナード達~!お前らこんなクソみたいなファンフィクション読んでて楽しい?それよりもうちょっと自分の存在価値について考えた方がいいんじゃない?いつまでもパソコンの前に座ってると尻が野良犬の小便臭いカリフラワーみたいになっちまうぜ!」

 ディスプレイの前に向かって中指を突きつけるデッドプールに、少女は訳が分からないと首を捻った。嫌に大人びた仕草だった。

「おじちゃんが誰に向かって喋ってるのか分からないけど、自分自身の存在価値についておじちゃんにだけは言われたくないと思うよ」

「意外と辛辣だねお嬢ちゃん。でも気の強いレディは好きだぜ。死んでるみたいに大人しいよりよっぽど良い。ところでパパとママはどこにいるのかな。こんな所にお嬢ちゃん一人ってことは無いだろう。迷子かい?」

「……ここはどこ?」

 

 きょろきょろと辺りを見回す子供は本当に迷子だったらしい。迷子にしてはあまりに態度が堂々としているような気もするが、女の子の方が成長が早いと聞く。大人びた子なのだろう。デッドプールは肩を竦めた。

 

「ここはオハイオ州のド田舎村だよ。農業地帯で、あんまり治安は良くない街さ。ガキがふらふら一人で出歩いてるとあっという間に攫われてレイプされちまうような所だ。だだっ広い農地と安い酒場以外にはなーんも無い場所だよ」

「お兄ちゃんはここで育ったの?」

「あそこに家があるだろ」

 

 どこまでも続く農地のど真ん中にぽつんと立っている家を指さす。

 その家はいつ倒壊してもおかしくない粗末な造りをしていた。腐りかけた木を適当に寄せ集めて釘を打ち付けてペンキをぶちまけた粗大ごみのようにも見える。あちこちに穴が空いており、申し訳程度に張り付けられている薄っぺらい木板が逆に寒々しかった。

 少女はその家屋を見て微かに眉根を顰めた。少女の基準ではそれは家と呼べる代物ではない事が表情から容易に読み取れた。

 ウェイドも今こうして改めて見るとあまりに粗末な家だと思う。トニー・スタークであれば悪意なく犬小屋とでも形容しそうな建物だ。とてもあそこに3人の人間が暮らしているとは思えない。

 しかし幼少期のウェイドはそこに居た。

 

「あの家がお兄ちゃんの生まれ育った家?」

「家っつーより家畜小屋の方が近いけど、まあそうだ。あれが俺の家だった。いっつもベッドからは馬糞みたいな臭いがしてたし、隙間風が酷くて冬は毎年死ぬかと思うくらいに寒かった。折檻で水をぶっかけられて一晩中外の木に縛り付けられてた時なんて、このまま夏への扉を開いちまうかと思ったさ。ほら家の前にあるあの木だよ。近所の犬が毎日あの木の根元で小便するから一晩中ずっと臭くて鼻が曲がりそうだった。そういやあれからまだ30年も経ってねえんだなぁ」

「そんなに酷い事をされたのに家を出なかったの?」

「出て行ったよ。14歳の時だ。これ以上この家に居たら死ぬまでこき使われるって逃げ出したんだ。でもそれまでは我慢してあの家に居た」

「よく我慢してたね」

「そりゃあ金が無かったからな。逃げてもどうにもならねえって分かってた。俺だけじゃなくここら辺に住んでる子供が皆そうだった。俺はこの村に溢れ返っている酒浸りの父親と、夫のDVに怯える臆病な母親の間に生まれた行く先も何の展望も無い沢山の子供の内の一人だった。別に珍しくもなんともない出自で、むしろこの村に居る子供の大半は俺と同じような生まれ育ちだったよ」

 

 鼻を鳴らして笑おうとした。しかしシャツの襟をひっつかまれて喉が詰まり言葉が出なかった。そのままウェイド・ウィルソンの手足は宙に浮いた。

 

 11歳のウェイドは平均身長よりも小さい体躯を持つ子供だった。加えて輝くようなプラチナブロンドに淡く発光しているような白い肌、それと細長い手足のせいで少年よりも少女のように見える優れた容姿をしていた。しかしその身体から生傷や火傷の痕が絶えた事は無く、今も身体には青紫色をした痣が幾つか貼りついていた。

 猫の子のように襟を掴まれてぶらぶらと手足を宙に揺らしているウェイドへ、その襟を片手で摘まみ上げた男は唾を散らしながら怒鳴った。

「ウエェェェイド!!!仕事をさぼって何やってやがる、このただ飯ぐらいの役立たずが!!」

「…………」

 ウェイドはじっと黙って間近にある父親の顔を見返した。

 父は赤ら顔で鼻は丸く、髪はトウモロコシのような濃い黄色をしている。薄汚れたズボンは元の色さえ分からないくらいに土塗れだった。厚い瞼に半分隠れている濁った青い瞳を見返すと父は苛立たし気な顔をしてウェイドを地面に叩きつけた。

 咄嗟に体を丸めて頭を庇う。背中にコンクリートがぶち当たって皮膚が破れる感触がした。栄養が足りていないせいでウェイドの皮膚は正常な子供よりずっと薄かった。怪我をしやすく身長も中々伸びない。

 弱弱しい少女のように地べたに這いつくばるウェイドを見下ろして父親は情けないと首を軽く振るった。

 

 父はさも農家らしい見上げるような大男だった。腕は丸太のようで丸めた拳は野球ボールのように大きい。酔った時には若い時分にベトナム戦争に行った事を何度も自慢して、その時ばかりはご機嫌だった。

 

 痛む身体を叱咤して立ち上がり、上官の命令を待つ兵士のように黙って両手を身体の後ろで組む。こうしていると父親は振り上げた拳を一度収めて、威厳ある将校を真似ているのか張り上げた暴言を叩きつけた。

 酒で焼けた喉のせいで威厳とは程遠いかすれた声に、それでもウェイドは怒鳴られるたびに恐怖で肩を跳ね上げた。

「何とか言ったらどうだウェイド!女みたいなツラをしているんだからもっとお喋りになったらどうだ!水撒きは終わったのか!」

「………はい、終わりました父さん」

「じゃあさっさと雑草を取れ!このうすのろ!!頭に詰まってるのがクソじゃなけりゃあ言われる前にちゃあんと次の仕事をするんだ!!何をすればいいのか一々聞かなきゃ動けないのかこの愚図!!」

 尻を蹴り飛ばされて地面にまた這いつくばる。臀部に走った痛みが両足に響き足が石になったように震えた。しかしぼんやりとしていたらまた蹴り飛ばされる事を知っていたためにウェイドは歯を食いしばって立ち上がった。

 だが覚束ない足元のせいで直ぐに転げて、土で体を汚す。

 生まれたての小鹿よりも弱弱しい姿に苛立った父は今度は腹を目掛けて足を振り上げた。ウェイドの柔らかい腹は低い鈍音を立てて宙に上がり、放り捨てられる空き缶のように地面に落ちた。

 

 過剰な折檻のせいでウェイドの身体はどこもかしこも傷に塗れていた。意識がある時はいつも痛みに歯を食いしばっていた。その状態でも日々大量に降りかかってくる仕事をこなすためにはだだっ広い農場で農耕馬のように体を引きずりまわさなくてはならなかった。

 全身を苛む痛みと疲労感、そして極度の栄養不足のせいで頭はいつも靄が掛かっているようにはっきりとしない。限界を迎えて倒れると容赦の無い蹴りが飛んできて、地べたに頭を擦り付けられる。

 土の味を知っているだろうか。ミミズに小便をかけて青汁をミックスしたような味だ。出来れば一生知りたくないような味をウェイドは味蕾の底まで浸透する程に知っていた。

 

 もう嫌だ、疲れた、無理だと身体の限界を感じた幼いウェイドは何度も涙を浮かべながら母親に縋った。

 母は弱音を吐くウェイドを父のように殴りはせず、荒れた指で細い金髪を梳いた。その仕草は優しかったが、母が地面に倒れたウェイドを助け起こす事は終ぞなかった。

 すすり泣くウェイドに「神様は越えられない試練は与えないわ」と掠れた声で、その言葉しか知らないように母は何度も言い聞かせた。

 

 

 母はクリスチャンだった。胸元にはいつも錆びたロザリオがぶら下がっていて、父に殴られると目を瞑ってロザリオを握り締めるのが母の癖だった。

 忙しい日々の中で母は隙を見ては聖書を開き、中身をぶつぶつと呟いては一人満足そうな顔をしていた。神だけが母の人生の拠り所であるようだった。母の人生において無条件で愛を与えてくれる存在なんて神しか居なかったのかもしれない。

 母の人生についてウェイドは詳細に聞いた事はないが、自分と同じか、それ以上に悲惨なものだった事は間違いないように思う。

 だがどれだけ母が人生の柱に聖書を刻み込んでいたとしても、彼女が聖句の意味を理解していたかどうかは分からない。

 母はあまり頭の良い人ではなかった。母にとって聖書とは大乗仏教の魔法の言葉である南無阿弥陀仏と一緒だった。意味はよく分からなくても、その言葉を呟けば必ず神様が自分を助けてくれる合図のようなものとしか考えていなかった可能性すらある。

 もしちゃんと聖書の中身を理解していれば彼女は自身が怠慢の罪にあたる事を知り、行動していただろう。つまりは夫が子供に暴力を奮っている事を黙認した罪について。

 警察に通報するか、包丁を研いで夫の体に突き刺すか、もっと穏当なところで行けば教会の懺悔室に向かうか。手段は多くあった筈だ。そうしなかったのは母は愚かであり、臆病な卑怯者であり、怠惰であり、そして本当に自分の子供を愛していなかったからだ。

 

 

 

 

 生まれてから14歳になるまで大体こんな感じの人生だった。

 そうして知ったのは農業というのは脳筋がやってはいけない仕事だということ。馬鹿みたいに畑を耕して育てて売るだけでは労力に比べて実入りがあまりに少ない。

 大事なのはいかに効率の良い苗を手に入れるかということとマーケティングだ。同級生で農家をやっている家の幾つかは賢く事業を展開してそれなりに余裕のある暮らしを確保していた。

 しかし父や母はそういう事に全く頭が回らないようで、10年近く前の農業の在り方からやり方を改めなかった。ほとんど毎日水撒きをして、雑草を取って、肥料の準備をする。休日なんて無い。

 いくら働いても裕福にはなれない。それどころか日に日に貧しくなっていく。食事は自分で育てた野菜と薄いスープだけの日々。服はほつれた箇所を何度も繕っており、雑巾にしか使う手段が無さそうな布切れになり果てていた。

 父は愚かで時代にそぐわない頑迷な男だった。70年前のパターナリズムが横行していた時代であればあの男にもまだそれなりに救いは合ったのかもしれないが、現代はあまりに個人の権利が肥大しており、またウェイドはあまりに父よりも聡明だった。

 暴力の嵐に晒される毎に暴力にしか頼る事の出来ない父の姿は間違っていると確信し、ただ傍観するばかりの母の愛を疑い、同時にこんなに苛烈な折檻を受けなければならない自分はとても悪い子供なのではないかという疑念を抱き、精神は2つに分かれて天秤の左右に乗っていた。

 自分の正しさに対する傲慢なまでの確信と自分の存在価値に対する臆病な猜疑心が子供のウェイドの中に深く刻み込まれ、それはウェイドの性格の根底に横たわった。

 自身が思う正義、自分の思考への猜疑心、ウェイドをただ否定するばかりの周囲の環境という不一致は暴力から来るもの以上のストレスを彼の中に貯め込んでいた。

 

 

 しかしそれでも良い事が全くない日々ではなかった。

 少なくとも田舎の綺麗な空気がたっぷりと吸えたのはウェイドの40年近くに及ぶ人生の中で子供時代だけだった。澄んだ空気を通して眺める星空は途轍もなく綺麗で、地平線の果てに落ちる夕陽は燃えるように美しかった。

 それに雨が降って仕事が無い日だったり、学校に行った帰りだったり、真夜中だったり、学校や仕事や宿題に駆り立てられていない時間の隙もあった。

 ウェイドはそういった時間の隙を見つけては友達とキャッチボールをしたり、童貞食いが趣味の売春婦と初体験を済ませたり、図書館に通って本を読んだりした。金は無かったけれどそれは友人皆がそうだった。同じエレメンタリースクールに通っているのだ。役所の職員の子供や大農場の経営主の子供も居たけれど、殆どは貧困層出身の奴らばかり。

 

 皆で拾った野球ボールをぶん投げて近所の家の窓ガラスを割って逃げまわったり、街頭ラジオから流れるSmooth Criminalを飽きるまで歌ったり、川に飛び込んで爪の色が青くなるまで泳いだりした。

 今思うと現代の子供よりもずっと子供同士でつるんでいる時間が長くて、外で遊ぶ事も多かった。

 それはテレビゲームが無いからだとかスマートフォンが無かったからだとかいう理由だけではないような気がする。当時は冷戦が終わったばっかりの時代だったために社会が色々と不安定で、子供もそれを敏感に感じ取っていた。

 子供は複雑に入り組んだ世情を理解は出来ずとも、世情で顔を暗くする大人の心理には驚くほどに敏感だ。

 ソ連がどうとかブッシュがどうとかパナマがどうとかいう理由でピリピリしている大人の傍で不安に心を苛まれるよりも家の外で馬鹿みたいにはしゃぐ方がずっと楽で、何も考えないで済んだ。

 

 だがいくら友人達と遊ぶ時間が楽しくてもウェイドは図書館に行く時間だけは必ず確保していた。

 読む本は同年代の子供と同じくもっぱらヒーローが登場するフィクションとノンフィクションが混在するファンタジックな小説ばかり。

 ヒーローに関する小説はコミックと比較すると少ないものの、ウェイドが子供の頃から既に相当数が出版されていた。もちろんヒーローが派手に暴れるシーンの多いコミックスも好きだったが図書館には小説しかなかったために自然とウェイドが読むのは小説ばかりになった。

 図書館に備えられていたヒーローが登場する小説の中でウェイドが最も好んだ小説は、偉大にして最古のヒーロー、星条旗のアベンジャー、キャプテン・アメリカの活躍劇を纏めた小説だった。

 ウェイドが子供の頃はまだアベンジャーズは結成されていなかったがバットマンを代表とするヒーローが世間に知られ始めており、ヒーローの認知度が急激に高まり始めている時代だった。ヒーローを模した人形、彼らの活躍を描いた絵画や写真やアニメーション、果てはヒーローからインスパイアされたデザインの食料品までもが販売され、ヒーローという存在が一つのビジネスになり始めていた。

 その中で一番多くの国民の尊敬を集め、長い間アメリカという国のマスコットとして経済を回してきたヒーローがウェイドは一番好きだった。キャプテン・アメリカ。人体実験により人間として極限の身体能力を得た、正義のヒーロー。

 

 彼はスーパーマンのようにぶっとんだ能力を持っている訳では無く、バットマンのように豊富な玩具を持っている訳ではない。単なる凄く強い人の域を出ないというのに、キャプテン・アメリカは盾を構えて多くの人の前に立ち、星条旗を抱いて戦場の最前線をひた走る。悪だくみをする卑怯な連中をばったばったとなぎ倒して、味方を護るために自分を盾とする高潔な姿を小説で読むたびに心が高鳴った。

 大柄な男性だけれど、弱者に対して暴力を奮う事を何より嫌い、父のようにローティーンの子供を木に吊るしてサンドバックにするなんて事は絶対にしない正義の味方は、ウェイドの目に理想的な人間の有様として映った。

 

 こんなヒーローになりたいと思った。

 

 

 ウェイドはその小説のシリーズを何度も読み返した。授業中も小さな膝に乗せて読み、借りて家に持って帰っては月明かりに翳して読んだ。何度も読み返したせいで全てのページにウェイドの指の痕が残った。

 一言一句を空で暗記できる程に読み込んだ頃、唐突にウェイドは、どうしてもその本が欲しくなった。

 いつも自分の手元にその小説を置いておきたくなったのだ。自分の好きな時にキャプテン・アメリカがヴィランを相手に大立ち回りをする挿絵を眺められるようにしたかった。

 モノクロの挿絵の中でもキャプテン・アメリカはキラキラと光っているようだった。絵の中のキャプテン・アメリカが真っすぐに前を見る瞳は凛々しくて、身体は全ての男の理想のように逞しく、その絵を見るだけで心が湧き立った。

 そんな彼が自分のベッドの下に居たら、どれだけ心強いか。マイヒーロー。そう囁くだけでヒーローは自分を助けてくれる。その瞬間だけは何でも耐えられそうな気さえした。

 

 勿論、挿絵の中から彼が飛び出てくるなんてことはあり得ない。そんな意味でウェイドは彼を手に入れたい訳では無かった。そして偉大なヒーローである彼がこんなに小さく、些細な不幸に振り回されている自分を見つけてくれるだろうという夢想ができる程に、ウェイドは夢見がちでもなかった。

 むしろ幼い頃からウェイドはプラグマティスト(実用主義者)の片鱗を見せ始めており、自分と同じような境遇にありながら「いつか素敵な足長おじさんが助けに来てくれる」と妄言を吐く同級生達に対して、冷めた視線を向けていた。

 現実は厳しい。自分と同じような境遇の子供はいくらでもいるし、自分よりも酷い目に遭っている子供も沢山いるだろう。アフリカにはカカオ栽培のために人身売買される子供が多くいると聞く。アメリカでも薬物中毒の親から生まれたせいで、先天的な障害を持って生まれてくる子供が沢山いる。

 それに比べれば、五体満足で学校に行けている自分は遙かにマシだ。

 辛い目に遭っている子供達の中で、自分を目掛けてヒーローが助けに来てくれるだなんてことはありえない。それは現実に全く還元されることの無い、意味の無い妄想でしかない。

 

 ヒーローが自分を助けてくれるのは、もっと精神的な意味での事だ。ヒーローはその圧倒的な力と高潔な精神、それと果断な行動力を示す事で、子供たちに小さな勇気と忍耐を与えてくれる。

 この広い世界には、あんなに偉大なヒーローもいるのだ。そして自分があんなに偉大なヒーローになれる可能性だってあるのだ。

 そういった希望は、悲惨な状況にある子供達を絶望からほんの少しだけ遠ざける力を持つ。

 

 合計8回読み返し、この本が欲しいという欲求を強めたウェイドはその欲求のままに立ち上がった。

 読み返し過ぎてボロボロになったペーパーバックの小説の束を小さな腕で抱え、学校で一番優しい教師の教室に向かった。らしくなく胸が弾んでいた。生まれてから一番に勇気のいる行動だったかもしれない。廊下を弾く足裏が焼けたように熱かった。

 震える手で扉をノックすると、暫くの後に「入っていいわよ」と声がかかる。失礼しますとウェイドは扉を開けた。

 大きな赤ぶち眼鏡をした中年女性の教師は小さなウェイドが扉の向こうから入って来るのを見て、また喧嘩かと眉を顰めた。

 ウェイドは生育環境のせいか大人に積極的に話しかける事の無い子供だったが、自分や友達が馬鹿にされたら直ぐに手が出る喧嘩っ早い子供でもあった。

「ウェイド、どうしたの?また喧嘩かしら」

「違います」

「じゃあどうしたの?何か嫌な事でもあったのかしら」

「……先生」

「なあに?」

 ん、とウェイドは無言で抱えている小説の束を見せた。その仕草で教師はウェイドが何を自分に言いたいのかを完璧に把握した。ウェイド・ウィルソンがキャプテン・アメリカの熱烈なファンである事は校内でも有名だった。

 

 小説を抱えているウェイドの腕は少なくとも1週間は洗濯されていないだろう薄汚いシャツに覆われていた。手首や首元には青あざがある。ウェイドが過酷な環境の中に居る事は明らかであり、そして彼の心の支えが偉大なるキャプテン・アメリカだと察するのは簡単だった。

 じっと自分を見上げる青い瞳に教師は暫く悩んだ顔を見せた。

(今思い返すと、優しいという割に明らかに虐待されているウェイドについて警察に何にも言わなかったのはどうしてなのかと思ったりもする。しかしあの地域でそんな些細な事で一々警察に連絡していたら小学校から子供は居なくなっていただろう。日本の皆には想像も出来無いだろうが、アメリカにはそんな小学校は山ほどある)

 ようやく開いた口からは、授業の時に五月蠅い生徒を注意する時よりも少しだけ柔らかい声が零れた。

「それは学校の備品よウェイド。あなたのものじゃないわ」

「………はい」

「図書館からその本を持ち出すには貸出カードに名前を書かなきゃいけないの。そして7日以内に返さなきゃいけないわ。でもあなたはそれが嫌なのね?」

 窘めるというより確認するような口調の教師にウェイドは俯いた。厳しい口調ではなかったが何故か責められているような気がした。

 この頃のウェイドは周囲は全て自分の敵で、自分の味方なんて世界中のどこにも居ないのだという軽い妄想性障害を患っていた。

 既にこの場から立ち去りたかったが、腕の中の小説の表紙に描かれているキャプテン・アメリカの自分と同じ薄い青色の瞳を見てぐっと歯を食いしばる。

 

「………僕以外に、この本を借りている人はこの2か月居ません」

「2か月前には居たんでしょう?」

「卒業した先輩です。もう僕以外にこの小説を読む人はこの学校にいない。そもそも小説を読むような趣味のある子供はこの学校に居ません」

「でももしかしたらその本を借りたい人が明日現れるかもしれないわ。それに次に入学してくる1年生の中に小説を読むのが好きな子もいるかもしれない。ウェイド、それはあなたの物じゃなくて皆の物なの。皆の為にその本を買った人がボランティアで学校に譲ってくれたのよ。だから私達は皆でその本を譲り合わないといけないの」

 ウェイドは何も言い返せなかった。教師の言う事は正論だと知っていた。赤ぶち眼鏡を殴って砕きたくなるほどに隙の無い正論だ。

 しかしその正論を押してまで欲しかったからここまで来たのだ。ウェイドは顔を持ち上げて教師を見上げた。何も手に入れていないのに帰りたくない。

 自分を見上げて来るウェイドに教師は微笑んだ。ウェイドは大人に向ける口数は少ないが澄んだ瞳は雄弁だ。

 大人にとってはウェイドが欲しているのは単なる薄汚れた小説でしかない。中古本として売っても全部合わせて5ドルもしないだろう。

 しかしウェイドにとっては宝物で、これから先の人生を大きく揺るがすものかもしれなかった。簡単に「規則から外れるから駄目」だと跳ねのけて良いものではない。

「でも頑張る子供にはご褒美があるものよ。部活とか、テストとかね。そう、次の標準テストで学年5番以内に入ったらなんとかしてあげるわ。この学校で沢山本を読む頭の良い子供なんてあなたぐらいだしね」

 ウェイドは数秒の時間をかけて教師の言葉を噛み締め、すぐに顔を輝かせて何度も頷いた。

 

 

 標準テストとはアメリカ全土の小学校で行われる年に1回のお祭りみたいな試験だ。小学校の試験なのだから別にそう難しいものではない。少し頑張れば点数はすぐに跳ね上がる。

 ウェイドは必死になって勉強をした。その日からポケットには歴史の年号や化学式を書いた紙をいつも忍び込ませるようにした。数式を頭に叩き込んで、適当に思い浮かんだ数字を組み合わせて問題を作って自分で解いたりもした。

 元からウェイドは頭が良い少年だった。勉強に適した環境に生まれなかったせいでそうとは周囲から思われていなかったが、頭の回転は非常に早く理論的な思考回路を有していた。特に言語面においては小説をよく読んでいたためかエレメンタリーの生徒にしては語彙が豊富で、難解な言い回しもよく理解した。

 結果的にウェイドは全教科トップクラスの成績を取り学年1位になった。

 

 その日は嬉しかった。成績表を受け取ったまま図書館に行き小説の束を抱えて女教師の所にスキップで向かった。

 扉を勢いよく開けて成績表を掲げたウェイドに彼女は一瞬驚いた後で満面の笑みを浮かべて、よく頑張ったわねとペンだこのできた指を撫でた。

 しかし小学校の備品である小説を一人の生徒にプレゼントするというのはウェイドのために行える彼女の権限を越えていたらしい。自分のものになるのだとはしゃいで抱えていた小説を彼女はあっさりと取り上た。

 茫然とするウェイドに彼女は笑みを浮かべて自分のバッグから新品のペーパーバックの山を取り出した。

「はい、これは私から貴方へのプレゼントよウェイド。あなたは頭の良い子ね。きっと偉大な人になるわ」

 

 

 思えばあれが生まれて初めてウェイドが欲しいと思い、手に入れた物だったような気がする。

 小説を抱きしめてウェイドは何度もお礼を言って頭を下げた。いつも言葉少なで表情を出す事も滅多にないウェイドだったが、その時ばかりは泣き出さんばかりに喜んだ。

 帰り道の足は軽かった。固く小説を抱きしめて家に帰り、家に入ってからは親に見とがめられないよう早足で自室に戻った。

 ベッドの下にきっちりと綺麗に並んだキャプテン・アメリカの小説シリーズを置いた時にはぽろぽろと涙が零れた。ウェイドの部屋は薄暗く、湿気が酷くて足元の床が直ぐに崩れ落ちそうな悲惨なものだったが、キャプテン・アメリカがやってきた瞬間からベッドの下だけはぴかぴかと輝いているようにさえ思えた。

 

 何もかもが自分に敵対するような空間の中で、初めて自分の味方が現れたような気がしたのだ。何よりそれが自分の努力の結果手に入れたもので、誰かから施されたものでない事が心に大きな光を灯した。

 

 その日からも虐待は続いたが、ウェイドの心境は大きく変わった。自分の正しさをもう少しだけ強く信じる事にしたのだ。

 祖国を護るために戦ったキャプテン・アメリカのように、とまでは言わずとも、彼の後に生まれて彼の功績を知っている人間として恥ずかしくない程度には自己に誇りを持ちたかった。

 ウェイドは悲惨な現状を諦め、死体のように生きる事を止めた。

 現実に立ち向かう事にしたのだ。

 

 小学校の高学年にもなると父親は学校に行かずに仕事をしろと頻繁にウェイドを殴った。それでも黙って学校に行くと馬鹿なお前が学校に行っても何の意味も無いと罵倒され、木に縛り付けられた。

 それでもウェイドは、ともすれば「自分は悪い子だからこんな折檻を受けてもしょうがない」という楽な思考回路へ陥ってしまいそうな自分を叱咤し、間違っているのは自分ではなく親の方だと強く心に言い聞かせた。

 自分は親の所有物ではなく、意思のある一人の人間である事。自分はこんな虐待を受けなければならないような事は何もしていない事。学ぶ事は自分を強くする事だから、絶対に学びを止めてはいけない事。自分には自分の人生を生きる権利がある事。

 10年とちょっとの人生で得たそれらの真理を、たとえ誰も肯定してくれなくても、ウェイドはそれらが全て真実だと何度も自分に言い聞かせた。

 

 それでも雨の降りしきる中、殴られた頬の痛みを耐えながら木に縛り付けられていると心が弱る時もある。

 そう言った時は歯を食いしばり、ウェイドは自室のベッドの方向を向いて囁いた。

「キャプテン・アメリカ、僕を助けて。マイヒーロー、僕に勇気を」

 

 その願いは程なくして聞き届けられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ウェイドはエレメンタリーを卒業してミドルスクールに入学した。

 人当たりのよいウェイドはクラスに問題なく馴染み、勉強も常にトップの成績を取り続けていた。痛めつけられ続けた体の成長は遅かったが、それでも少しずつ体力は増え、力を増した。

 

 そして2年生に上がってから暫くして、ウェイドは殆ど着の身着のままといった体で家出をした。

 

 切っ掛けは些細なことだった。エレメンタリーの頃から大事にしていたキャプテン・アメリカの小説シリーズをベッドの下から見つけた母親が、ウェイドが学校に行っている隙に古本屋に売り払ってしまったのだ。

 何度も読み返したせいで手垢まみれになっている古本は母の目には単なるゴミにしか見えなかったらしい。しかしそれでも夕食の足しにはなると思われたらしく、母は小説の代わりに3ドルを得て近所で卵を1パック買った。

 

 今思うとそれ程大したトラブルでもない。少なくとも人生を変えるようなイベントになるにはインパクトが足りない。

 テロ組織に誘拐された先で友人となった天才物理学者が理不尽に殺されたり、第二次世界大戦の最中で行われた超人計画に参加した事でアメリカの英雄に祭り上げられたり、超人計画を再現しようとγ線を浴びたら怒りで理性があったり無かったりする緑色の巨人(グリーン!)になってしまったり、路地裏で両親が無意味に殺されたり……少なくとも、それだけで映画が1本作られそうな派手なオリジンでは無かった事は確かだ。

 ちなみにAmaz●n primeに入れば全部無料で視聴できるぜ。未視聴の奴らは、取り合えず“アイアンマン”と“キャプテン・アメリカ/ザ・ファーストアベンジャー”と“ウィンターソルジャー”と“バットマン/ダークナイト”だけは見ろよ!!マジで!!

 まあ俺ちゃん……おっとっと、一人称がブレブレだ、ファンフィクションとは言え一応体裁は整えねえとな‥…ウェイドはスーパーヒーローじゃないし、この時点ではスーパーでさえ無かった。ただの萎びた栄養不足のガキ。そのガキの唯一の支えがそのペーパーバックだった。

 

 

 プレミアがついている訳でも無い古びたペーパーバックの山なんて、他人から見れば資源ごみに出し忘れた紙束程度にしか見えないだろう。売られたり捨てられたりしてもしょうがないもので、金を溜めて新品を買い直せばそれで済んだ話だ。

 しかし当時のウェイドにとってそれは世界が一変する程に重大過ぎる出来事だった。自分の心の安全地帯が、現実と立ち向かうための心の支えが、母親の手によって奪われたのだから。

 

 ミドルスクールから帰ってきたウェイドはベッドの下を除いた。

 流石にもう一言一句完璧に覚えてしまっていたためエレメンタリーの頃のように毎日小説を読むということは無かったが、それでも3日に一回は小説を開いてキャプテン・アメリカの挿絵を眺める事が習慣となっていた。

 しかしその日小説はベッドの下に無かった。頭が真っ白になった。

 

 母親は父親の虐待を黙認していたが、自分から積極的にウェイドを虐げる事は無かった。小柄なウェイドよりもさらに小柄で、いつも腰を曲げて神に許しを乞いながら仕事と家事をこなしている姿は哀れでさえあった。だからウェイドも母の愛を疑いこそすれ、憎悪は抱いていなかった。

 だからまさか母親が自分の一番大事なものを奪ってしまうとは思っても居なかった。

 いつだって自分から何かを奪うのは父親で、母親は自分と同じ被害者だと思っていたのだ。

 それは間違いじゃない。しかし同じ被害者だから支え合えるなんていうのは幼いウェイドの都合の良い幻想だった。

 

 慌てて階下に降りる。母親はリビングで雑巾のような布を繕ってなんとか服に仕立てようとしていた。薄汚れた布は元の色が分からないくらいに褪せている。

 母は薄いブロンドに碧眼といういかにもアメリカ美女らしい色彩をしていたが、顔は老婆のようだった。皺は深く木石のように表情が無い。ブロンドには白いものが混じっている。

 足音荒く下りて来たウェイドを母は緩慢に薄眼で見やった。焦りで震える声を何とか落ち着かせながら口を開く。

「母さん、僕の、僕の小説を知らない?」

「……小説?」

「ベッドの下の!」

 少し考えるように宙を見据えて、母親はああ、と小さく頷いた。

「あの、小説。見覚えが無いから、その………いらないものかなって」

「あれは僕のだよ!?どこにやったんだ!!」

「その、ええと………し、知らないわ、知らないの」

 

 ウェイドは普段からあまり声を荒げない子供だった。父親にいくら虐待されても静かに涙を零すばかりで怒鳴るどころか反抗すらしない。そのように調教されていた。

 そのためにウェイドが声を荒げる姿を母親はこれまで見た事が無く、怒鳴る子供を前にして肩を小さく狭めて震え始めた。まだ子供の年齢だったがウェイドは既に母親の身長を追い越し、段々と男性らしい骨格に移り変わろうとしていた。

 怒鳴り声を向けられ、実の夫にそうされた時と同じように母は体を小さく丸める。頭は怒気で熱を持っているというのに、ダンゴムシの様だとウェイドは頭の冷ややかな部分で思った。こちらがその気になれば簡単に潰されてしまう事を知りながら自分を護ろうと必死になっている弱弱しい何か。

 

「いらないものかなってさっき言っただろう!どこにやった!!」

「知らないの、ごめんなさい、私はただ、違うの、ごめんなさい」

「謝らなくていいからどこにやったのか言えよ!」

「ウェイド、何をしているんだ」

 

 騒ぎ声が聞こえたらしく農作業から帰ってきた父がリビングに顔を出した。自分以外の男の怒鳴り声が家に響いている事が不快なのか、泥の付いている眉を震わせて不機嫌な顔を作っている。

 いつもならば父の表情に体を竦ませていただろうが、しかし今のウェイドにとっては父の機嫌なんて些細な問題だった。父よりも母よりもずっと強くウェイドを護ってくれていた存在が居なくなった事の方がずっと重要だった。

「母さんが僕の小説をどっかにやっちゃったんだ、あれは僕のものなのにっ、」

「お前の小説?はっ、文字も碌に読めるかどうか怪しいお前が持っていてもしょうが無いだろう。それより、」

「どこにやったんだよ!答えろ、おいっ」

「ウェイド、そんなどうでもいいことで騒ぐんじゃない!それより、」

「どうでも良くなんかない!」

 

 叫びながら椅子を蹴り飛ばす。

 椅子は食器棚に当たってガラスを割った。父の赤い顔がさらに赤くなって巨大なトマトのようになった。弾けるように父は唾を散らしながら叫んだ。

 

「何をしているウェイド!!折檻だ!!ふざけた事をしやがって!!」

「ふざけた事をしたのはこのババアだ糞ったれめ!!僕の小説をどこにやったんだ!!震えてないでさっさと応えろよこの愚図!!」

「違うの、私のせいじゃないわ、私はただ、お金が足りなくて、ウェイドの晩御飯に使うために、」

「僕の意見も聞かず、僕の所有物を勝手に売って、それが僕のためだって!?弁明するならもっとマシな事を言え!!」

「お前の意見、お前の意見だと!?1ドルもまともに稼げないお前に意見なんて言う価値がある訳が無いだろうが!!お前達は俺に従っていればいいんだ!!黙って、静かにしてろ!!ぶん殴られたいのか!!」

 

 拳を振り上げる父に一瞬肩が竦んだ。あの大きな拳で殴られた時の痛さは身体に刻み込まれている。

 しかしそれでも今回は、いや、これまでも父より自分の方が正しかった。それだというのにこれまで自分は我慢していたのだ。だから自分で手に入れた物を奪われるような羽目に陥った。

 我慢ばかりしているからこうなる。 

 

 ウェイドは母をその場に突き飛ばして弾かれたように自分の部屋に向けて駆け上がった。通学にも使っているバッグに衣服と、隠れて溜めていたドル紙幣を詰め込む。他にも小さなナイフや拾った缶詰など、使えそうなものは何でも詰め込んだ。

 バッグを背負って玄関まで走る。リビングから出てきた父に向かってウェイドは唾を吐きつけた。吐いた唾が泥だらけのズボンに当たりざまあみろと鼻を鳴らした。

 

「僕には僕の意見がある!麻薬と酒で頭の中身を腐らせるのもいい加減にしろこのクズ!!お前だけじゃない、そこで蹲ってるババア、お前もそいつと同じクズだ!!自分が世界で一番可哀想っていうツラをしてるお前が一番気持ち悪い!!お前らみんな死んじまえ!!」

「……う、ウェイド、違うの、ママは、」

 

 ママは、と呟いて父の後ろから腰の曲がった小さな女が顔を出した。

 年齢を考えるとあまりに老けた顔だった。頭は全て白髪で覆われており皺は深い。母というより祖母と言った方が良い風体だった。

 「ああ、神様」そう呟いて顔を歪めてめそめそと泣きだした母に向けて玄関に置いてあった錆びた鉄製の傘立てを投げる。

 母は全身を強かに打ち付けられて床に倒れた。打ちどころが悪かったのか、痛みに呻く母にも唾を吐きかけた。

 

 これまで父はウェイドに何度も罵声を吐きかけて暴力を奮ってきたのに、母はおろおろと戸惑うばかりだった。一度として母がウェイドに手を差し伸べた事は無かった。いつだって母は哀れっぽく涙目であり、世界で一番自分が不幸だという顔をしてただ神に祈っていた。

 これまでは母には力が無いからそうやって何も出来ないのもしょうがないと思った。しかし子供のウェイドでさえこうして家を出ていく事ができる。

 ならばどうして母は神に祈っていたのだろうか。神に祈るよりずっと先に出来ることが幾らでもあった筈だ。いくら祈っても何もしてくれない神を母はもっと早く見限るべきだった。そうして自分の手足と頭を動かすべきだったのだ。

「ああ、神様。お助け下さい、あなたの哀れな羊を」

 痛みに呻きながらもまた母はそう言った。この期に及んでまだ母の視界にウェイドは映っていなかった。母は胸元から垂れ下がっているロザリオを掴んで額に押し当てて目を閉じていた。

 

「ママは何だって?ママ、はぁ!?ママらしい事を一回でもしたことがあるかよお前が!!いっつもめそめそめそめそ泣くばっかりで一度も何もしなかった癖に!僕を助けることも見捨てて逃げる事もしないで気持ちの悪い!!」

「神様、どうかお許しください。どうかお許しください。神様、」

「黙れクズ!!」

 

 最期に母親へ吐き捨てるように言葉を投げつけて、扉を開け放ったウェイドは家を出た。そのまま力尽きるまで走った。

 後ろから父が追いかけて来るような音が聞こえたけれど、タバコと酒とドラッグに体を侵食されている肥満気味の中年男が若く健康なウェイドに追いつける訳も無かった。

 

 農場を掻き分けるように走る。農場から出たら、街に向かって走った。もう二度とあの家には帰らないと心に決めた。

 小さな勇気がウェイドの胸に灯っていた。今にも崩れそうな田舎の家にこれから老いていくだろう頭の悪い父と、背骨の曲がった母親を置き去りにする事が勇気ならば、それは間違いなく勇気ある行動だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 それからの4年の年月はあまりに短く感じた。

 幸いにも一度も逮捕される事無く、大きな病気をすることも無く、ウェイドは18歳になった。

 

 ぐんぐんと身長が伸び、髭も生えるようになって手入れが欠かせなくなった。身体からは丸みが削ぎ落されて骨と筋が肌に浮き立ち、中性的に愛らしかった容姿は男性的で鋭利な容姿へと移り変わった。

 最初は路上にゴミ漁りから始まった生活だが、次第に年齢を偽って働く方法を見つけた。14歳と16歳なんてほんのわずかな違いで口数多く押し通せばなんとかなる。

 ちゃんとした収入を得られるようになると生活は一変した。

 まずは小さいながらも部屋を借りた。格安のアパートは家と同じ位にボロかったが、ゴミ捨て場から拾ってきた木材を加工して隙間風は通らないようにした。こまめに掃除をして、比較的綺麗な状態で捨てられていたラグを敷くとそれなりに見られる部屋になった。

 そして身形をきちんとするようにした。髭は毎日剃り、髪も整え、安物ながらも清潔な衣服を着るようになると周囲がウェイドを見る視線は一変した。粗野な父と陰気な母からよくも良いパーツばかりを選別したものだと、自分でも遺伝子の神秘に驚く程にウェイドの顔は整っていた。

 ウェイドが通っていた学校と住んでいる場所はそう遠くは無かったが、金髪碧眼を持ついかにもなアメリカ的美青年に、雑巾のような服を着た汚らしい子供の面影を見る者は居なかった。

 割と寡黙だったウェイドの性格は仕事をするようになってからすぐに変わり、喋り過ぎだと笑い混じりに窘められる程に喋るようになった。語彙は豊富で、頭の回転が早いウェイドは初対面の人間が相手でも上手く会話を回し、よく人に好かれた。接客業をすれば多めにチップを貰うこともあり、食事を奢ってもらうこともあった。

 仕事は新聞配りや飲食店のウェイターから、喧嘩の代行や変態相手の売春まで、何でもやった。

 本当に何でも。

 

 とにかくは生きていく事が大事だ。他は二の次。そして生きていくためには金がかかる。

 金持ち連中は「金より愛が大事」だと言うけれど、まずは金が無ければ愛を持つ余裕は生まれない。どれだけジーザス・クライストが民衆に愛の重要性を訴えたとしても、無限にパンを作るふざけた能力を持っていなければ死からの復活に3日もかける怠惰なロン毛野郎などに誰もついて行きはしなかっただろう。

 全ての物事には優先順位があり、一番大事な物を護るためには他は切り捨てて行くくらいの気持ちでなければならない。社会の隅で生きるうちにウェイドはそう思った。

 

 そうと思わせたのは4年の間に出会った多くの大人達だ。その中にはウェイドの身の上に同情する者も居れば、世間知らずのガキが無謀にも家出なんてと苦言を呈する奴も居た。虐待の事を警察に通報すれば良かったのにと哀れなものを見る目つきで言う奴も、父親を殴り殺してやれば良かったんだと笑う奴も居た。

 彼らは総じて間違ってはいない。ただ優先順位が違うだけだ。自分が一番大事か、それとも家族が大事か、はたまた世間体か。または目の前で傷ついている他人を一番大事だと思うか。

 どれが答えでも間違ってはいない。ただその答えがその人の人間性を決定する。ウェイドにとって一番大事なのは自分自身だった。それが自分の人間性で、ヒーローとはかけ離れているものだった。

 

 そしてそう言った人間性の自分は、同じような人間性を持つ女を引き寄せた。

 名前はフローラと言った。歌手を志望して田舎から出てきた女で、ウェイドがウェイターを務めていたバーで頻繁に歌っては花束を貰っていた。

 閉店後に一緒にまかないを食べてぽつぽつとお互いの身の上話をする内に、いつの間にか交際が始まっていた。それが自然の成り行きであるかのように何の切っ掛けも無く、ただウェイドとフローラは時間が許す限り一緒に居て、夜にはセックスした。

 恋をしたというにはあまりに熱の無い関係だった。ウェイドとフローラはお互いの境遇に自分を見出して、お互いを慈しむことで傷を舐め合っていた。

 フローラと一緒に居る間は幸福とは言えないながらも心は穏やかだった。きっとフローラもそうだっただろう。いつも泣きそうな顔をした彼女は、ウェイドと一緒に居る時にはたまに笑顔を見せた。

 美人では無かったが愛嬌のある女だった。猫のような形をしている瞳は可愛らしく、不満がある時にはじっとウェイドを見上げた。その目で見られるとウェイドは小さな子供を虐めているような気分になって口を閉じ、最後にはフローラに言い負けてしまうのだった。

 

 付き合い始めてから半年でウェイドはフローラと一緒に暮らすようになった。

 心が弾むような恋ではなかったが、一緒に暮らしていると自分自身が2人に増えたような感覚がして、生活の中に不快なものは少しも無かった。妄想性障害による被害妄想はまだ尾を引いていたが、あまりにフローラがウェイドに似ていたために彼女が生活の中に居てもウェイドは不安も恐怖も感じなかった。その位にフローラはウェイドによく似ていた。

 金髪碧眼で巨乳という典型的なアメリカ女で、お喋り好き。でも大事な所は口にせず秘密は自分の中にしまい込む。プライドが高いくせに自己卑下が激しく、そのギャップを誤魔化すために常に皮肉を口にする。

 ベッドの上でも彼女はウェイドによく似ていた。快楽は大好きだが、警戒心は絶頂の瞬間でも緩まない。むしろより強固になり相手を徹底的に拒絶する。他人との距離が狭い事が本能レベルで怖いのだ。その気持ちがウェイドにはよく分かった。

 きっと彼女も理不尽な暴力を奮われた事があるのだろう。その経験をウェイドは知っている。むしろ女性である彼女の方が自分より酷い目に遭っていたかもしれない。

 だから運搬業やら喧嘩代行やらで鍛えられ、さらに遅めの成長期のせいで同年代の中でも大柄に分類される体格を持つ事になったウェイドが恐ろしくても当然だ。

 彼女の警戒心は彼女がウェイドに抱いている好意や信頼とは全く別個の問題だった。

 だから別れる最後の瞬間まで彼女の警戒心が一度もほぐれなくても、ウェイドは笑って許した。

 

 

 付き合い始めて2年もした頃、フローラは他の男性と付き合う事になったと告げてウェイドと別れた。

 一切合切の荷物を纏めた彼女は、これから付き合う男性はちゃんとした収入と社会的ステータスを持っていると泣きそうな顔で笑った。

 ウェイドは心から彼女を祝福した。フローラもそうだが、ウェイドも恋をしていた訳では無かった。ただ寂しかったのだ。

 ただウェイドは自分と同じような境遇をした彼女が少しでも自分の居場所が見つかれば良いなと思った。出来れば、自分も。

 

 フローラが家を出て行くより先にウェイドの方が家から出て行った。彼女の分の小さな荷物が玄関には積み上がっていて、その隣には同じように小さなウェイドの荷物が積み上がっていた。

 自分の分の荷物を背負って靴を履く。玄関の前に立つウェイドをフローラは眩し気に眺めた。ウェイドは既に身長が180cmを超えており、子供の頃に見せた可愛らしさは全て削ぎ落されていた。

 自分とよく似た色をしている長い金髪を指で梳くとフローラは笑窪を作って微笑んだ。

「……幸せにね、ウェイド」

「君もなフローラ。君に会えて僕は幸福だった。短い間だったけど、夢を見ているようだったよ。これからも君を愛している。一番の親友として」

「私も愛しているわウェイド。同じ境遇の同士としてね。こんな目に遭わせた神様を見返してやらなきゃ死んでも死にきれないわ」

 あなたもそうでしょ、とお茶目に笑うフローラの唇に小さなキスをして、ウェイドは家を出て行った。

 ウェイドの手には志願兵通知書が握られていた。ウェイドはこれから、BCT(基本戦闘訓練)を受けるためにサウスカロライナ州に向かう。

 玄関から長い道を歩いている間ウェイドは一度も振り返らなかった。

 フローラは暫くの間小さくなっていくウェイドの後姿を見ていたが、その姿が見えなくなると自身も荷物を担ぎ、ゆっくりと小さな家から出て行った。

 

 

 

 

 

 



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2. 西部戦線異常なし

「それで、お兄ちゃんは軍隊に入隊したんだね」

「しょーゆーこと。軍人になったら衣食住は保証されるし、退役した後も色々と恩恵がある。そんで入隊したら、やっぱり俺と同じような奴らばっかりだったよ。ドラフト(徴兵)制度が廃止されても軍の内情は何も変わらねえ。下層階級のティーンが一発逆転する最大のチャンスだってどんな馬鹿でも知ってるから、まだガキみたいな年齢の奴らが軍施設でライフル担いでマラソンしてても誰も何も言わねえし思わねえ」

「……あなたは、それが間違っていると思うの?」

「んにゃ。あいつらも俺も、兵士にならなかったら高確率で道端のゴミを拾って生きるような大人になってた。そんで最後は野垂れ死にだ。だったら戦争に出て、どっかの国の土の肥料になった方がよっぽど有意義な人生さ。梅毒で死ぬかヤクの売人になるような奴らが、少なくとも人間として生きて死ねるんだから、西部前線に異常はなし。オールオッケー。適材適所。そうして国は回っているのよん」

「軍に入隊して、それからお兄ちゃんはどうしたの?」

「別にあんまり変わった事は無かったさ。ブートキャンプ(初期入隊訓練)ではロボットみたいに規則正しい生活と、武器の掃除、それと体育の授業よりはキツイ訓練を叩きこまれてあっという間にムッキムキになったよ。最初は訓練にひいこらしてたけど、1カ月もすりゃあ大分慣れて、ブートキャンプが終わったら高卒資格を取って、退役した後は大学に行きたいなんて考える余裕も生まれた。ごみ溜めから這い上がってやるってな………ま、全部無駄になったけどね」

「大学、行けなかったの?」

「行けないっつーより、行かなかった。途中で俺ちゃん兵士が天職だって気付いたからさ、ウェストポイント(陸軍士官学校)ならともかく、広々としたキャンパスでパソコン持ってノマド気取りだなんて想像するだけで鳥肌が立っちゃうのよ」

「士官学校に行けばよかったのに」

「推薦はされたさ。俺ちゃん優秀だったから。でも後方で指揮官っつーのは俺の仕事じゃない」

 

 鼻で笑って肩をすくめた。

 適正が無かったとは思わない。でも性には合わなかっただろう。もし後方指揮官を楽しめるような性格なら、そもそも今の自分はこんな事になっていない。

 でもそれは自分だけではないとも思う。キャップだって後方指揮官として素晴らしい才能があるに違いないが、安全地でオーダーメイドのソファに座って最前線へと指示を飛ばす彼の姿なんて全く想像ができない。少なくとも前線で戦える内は、彼は指揮官に専念する道を選ぶ事はないだろう。

 まだ若いスパイディも、熟練した兵士でもあるローガンも、大金持ちのバットマンも、甘やかされて育ったボンボンのアイアンマンでさえそうだ。

 超人的な能力を持っているから、というだけでは説明のつかない最前線への固執。「大いなる力には大いなる責任が~」とかいう使い古されたセリフだけでは納得ができないその執着心には、一種の存在肯定感が潜在しているんじゃないかと思う。

 つまりは銃弾の雨に晒されている最中に感じる「こんなに危険な目に遭いながらも皆を助けようと奮闘する俺ちゃん凄い!立派!めっちゃイケメン!!」とかいう悪質なドラッグにも似た高揚感だ。ヒーローとか呼ばれている存在は多かれ少なかれこの高揚感の中毒症を患っている。

 特に酷い中毒者はアイアンマンだろう。あの男は、自覚こそ無いかもしれないが、日常的に自傷を繰り返している破滅願望者だ。

 

 情けないけれど、そうやって必死に自分で自分を肯定しないと立っていられない位にみんな寂しい生き物なんだよ。

 だから俺ちゃんも寂しがりや仲間としてアベンジャーズに入れて欲しいんだけどな。中々上手く行かないもんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ウェイド、ウェイド!!待て!!それ以上はやり過ぎになる!!」

 そう制止する声も聞こえたが、振り上げた拳は振り下ろさなくてはならない。それにまだ謝罪の言葉を聞いていなかった。

 周囲はやんやと囃し立てる声とウェイドを制止する声が入り混じっている、その中でウェイドは再度拳を振り下ろした。タイル床に派手な音を立てて男が倒れる。

 顔面から叩きつけられてうめき声を零す同僚の周りをウェイドはゆっくりと歩いて回った。

「ヘイMademoiselle, ちっちゃなアジア人は殴れてもでっかい白人は殴り返せないってか?自由の国にあるまじきレイシスト野郎め。ほら立ち上がれよ。それともママが居ないとたっちも出来ねえか。ほらたっちだたっち、あんよは上手!」

 自分のバトル・バディーはまだ後ろで茫然とした顔をしている。アジア系の幼い顔立ちは、ウェイドより2つ年上であることを忘れさせる弱弱しいものだった。彼の頬は酷く腫れていた。

 

 長いブートキャンプのプログラムの内、BCT(戦闘基礎訓練)が終了し、ウェイドはAIT(高等個別訓練)に進んでいた。最も一般的かつ伝統のある、言い換えれば兵士の掃きだめであるInfantry(歩兵科)に進んだウェイドは、現在歩兵学校の基地内にバトルバディーと共に住んでいる。

 

 小柄なアジア人のバトルバディー、ササキ・カオルは小動物のように小柄で可愛らしい外見から悪い意味でよく目立った。ウェイドもカオルと初めて顔を合わせた時はまだミドルスクールの学生じゃないかと本気で疑い、お嬢さんだとからかった。カオルはウェイドにからかわれても少し困ったように笑うだけで怒る事はなく、お返しとばかりに皮肉交じりにウェイドを揶揄する事も無かった。

 日本人は我慢強く謙虚だと噂には聞いていたが、ササキ・カオルはまさしく日本人らしい日本人で、真面目で誠実、かつ冗談が通じず皮肉も言えない性格に、皮肉屋で軽口の多いウェイドも口先で揶揄うことが躊躇われた。

 言い返してこない、小さな幼い(実際にはウェイドより年上だが)人間に毒を吐くと、こちらが弱い者いじめをしているような気分になる。

 ウェイドは弱い者いじめは嫌いだった。特に幼い外見をしている人物を相手にすると、自分の中に存在する父親の遺伝子を目の当たりにするようで自分自身に嫌悪が走る。

 それにカオルは良い奴だった。仕事は真面目にこなし、座学は同期の中でもトップだ。体力には難ありだが、途中で吐きながらでも走り続ける根性がある。

 だが一般社会であればカオルが持つ真面目さや謙虚さ、誠実さは彼の欠点を覆い隠すのに十分な美徳足りえるものかもしれないが、周囲が破落戸上がりの志願兵ばかりである軍社会となると話が変わる。

 祖国に帰った方が良いぜお嬢さんと揶揄されるのも、女日照りの日々の中でベッドに誘われるのもカオルにとっては日常茶飯事だった。

 そしてその度にウェイドが、バトルバディーのよしみとしてカオルの代わりに彼らとお上品なお話し合いをしていたのだった。

 

 今日もその類の連中がまたカオルに突っかかってきたのだろう。

 食堂でカオルと一緒に食事を取っている最中、ウェイドが少し席を立った隙にカオルは同僚から何がしかの不興を被って殴られたらしい。

 いい加減に飽きれば良いだろうにと思うが、ブートキャンプの最中には娯楽らしい娯楽など無い。外出は制限され、飲酒もままならない。鬱憤発散のお相手をお願いできる女性なんて女性兵士か事務員しか居ないが、その数は男性兵士に比べて非常に少ない。思い余った男性兵士が女性兵士や事務員をレイプするにしても、そもそもの数が足りない上に、彼女たちの生活圏は厳重に男性兵士と被らないように保護されている。

 そして志願兵はいくら年嵩でも26歳は超えず、ありとあらゆる欲求を精神力のみで抑えつけるのは難しいお年頃だ。

 結果、男性兵士も性暴力の被害に遭う。実際の統計として、アメリカ軍内での性暴力の被害者の過半数は男性だ。

 

 行き場のない欲求は性か暴力、もしくはその両方の形をとって、カオルのような弱者に襲い掛かる。

 その現状を上層部が知らない訳も無いが、Don’t ask, don’t tell(聞くな、言うな)が軍隊の在り方である以上、誰も声を上げられない。声を上げた結果人格障害の烙印を押されて除隊になった先輩達も珍しくはないのだ。特にカオルのような有色人種の新兵に手を差し伸べる奴なんて滅多にいない。

 

 そんな訳で騒ぎ立てる周囲を押しのけながらウェイドはカオルに駆け寄り、とにもかくにもひとまず一発ぶん殴って、今に至るのだった。

 

 地面に血交じりの唾を吐いた同僚はじろりとウェイドを睨みながら立ち上がった。

 身長はウェイドとそう変わりないが、腹は牛のように肥えている。父親に似た体形に、ウェイドの好感度はゼロを振り切ってマイナスに突入した。

 

「このゲイ野郎め、ベッドのお相手がそんなに大事かよ。そいつの具合はそんなに良いのか?」

「Language, Mademoiselle、それともFraulein?ヒトラーの崇拝者共はお口が悪くて困りますわねぇ。そうは思いませんことカオル?」

「え、あ、いやその………」

「ほらカオルも言ってるだろうが、Kiss my ass, baby. そんなにゲイ野郎の具合に興味深々なら俺のケツにキスして懇願しろよ。『僕ちゃんのポークピッツは満足に勃ちもしない役立たずだから、アナルが縦割れの立派なpussyに開発して下さい』ってな。はい復唱!!」

「死ねクズ!!」

「Language(お口が悪いですわよ)!!」

 殴りかかってきた拳を躱して腹を殴る。体勢が崩れたところで腕を取り、そのまま投げ飛ばした。

 そのまま壁に激突するかと思ったが、空中でバランスを取り戻して床に着地し、こちらを睨んでファイティングポーズを取る。

 腐っても歩兵科のAIT真っ最中の奴だ。こちらを睨む目つきに油断は無い。そのままこちらに突進してくる。

 身長は同じ位だが、脂肪の分相手の方が体重が重い。的確に腎臓目掛けて突き出してきた相手の拳を寸での所で躱すも、その勢いに負けて数歩後ずさった。

 方向転換して再度突進してきた相手に向けて、ウェイドは咄嗟に掴んだ椅子をぶん投げた。

「おらよ!」

 男は咄嗟に飛んできた椅子を避けたもののの、続けざまに投げられた2つ目の椅子はよけられなかった。

 食堂の椅子は経費の問題から全てパイプ椅子だった事がお互いにとって幸いした。相手の男は首が骨折するのを免れ、ウェイドは同僚殺しの汚名を逃れた。

 

 激突した椅子に脳を揺さぶられ、男はその場に倒れた。運悪く顎先に椅子の柄がぶち当たったらしい。白目を向いており、口の端から泡が零れている。周囲から囃し立てるばかりだった同僚が、決着がついたのを見てわっと湧いた。

「おい、こいつ生きてるだろうな?」

「生きてるさ。呼吸はしてる。脳が揺れただけだ」

「一応医務室に連れて行くか」

「よくやったぜウェイド、いい試合だった。あいついっつもうるせえから」

「パイプ椅子は卑怯だろ!プロレスかよ!」

「Languageはお前だろうが!!」

「ありがとう、ご観戦ありがとう皆!観戦代を徴収するからこちらに一列にお並び下さい!俺の応援をしてくれた奴は3ドル、あいつの応援をした奴は5ドルとなっております!無論おひねりはいくらでも、」

「—————ウェイド、ちょっと来い」

 

 それまでの騒ぎが嘘のように、しん、と食堂が静まり返る。

 教官が食堂入口に立っていた。「愛と青春の旅立ち」のフォーリー軍曹がフィルムから抜け出て来たような男は、深く被った帽子から鋭い眼光を光らせてウェイドを睨んでいた。

 囃し立てていた連中は押し黙り、うわぁ、という哀れみの混じった呆れの視線がウェイドに集中した。基地内での暴力沙汰はご法度だ。例えそれが相手から一方的に売られた喧嘩であっても、処罰は均等に分配される。

 軍隊での処罰は分配品だ。誰も彼もが漏れなく受け取る事ができるよう、この点ばかりは厳密に管理されている。ウェイドは頬を引き攣らせながら「Yes, Sir」と返した。

 

 黙って頷いた教官は踵を地面に叩きつけながら食堂から出て行った。辺りがわっと騒めく。ウェイドは重い息を吐いた。カオルは悔しそうに顔を顰めてウェイドに駆け寄る。

「ウェイド、ごめん、僕のせいで」

「………俺は大丈夫だカオル。ガルシア教官は公平な男だ。お前は医務室行ってろ。そのほっぺた、これからラグビーボールみたいに腫れるからな」

「分かった。ウェイド、ガルシア教官に何か言われたら、元々は僕が原因だって伝えておいて」

「了解、マイバディー。この礼はこれから3日間分の座学の課題で良い。ガルシアのお説教でかなりの脳細胞を使いそうだ」

「任せて」

 真面目な顔で頷くとさらに幼さが増す。カオルに親指を上げた拳を突き出して、ウェイドは軍靴を鳴らしながら食堂を出た。

 

 

 

 

 

 

■  ■  ■

 

 

 

 

 

「ジョージア州はいけない。空気が重すぎる。天気も悪い」

「ご出身はどちらだったんですか?」

「デンバーだ。もう何年も帰っていないが。お前は?」

「……オハイオです。兵士になってからは帰っておりません」

「そうか」

 ガルシア教官はウェイドよりも身長の高い、大柄な黒人だった。訓練教官らしく罵倒の語彙は素晴らしく豊富で、部下には非常に厳しいが、暴力的な制裁は一切行わない公平な人物であることからそれなりに人気があった。

 AITの練兵教官としては珍しく小隊付き軍曹ではなく、怪我のため一時的に後方任務に就いている少尉であるからなのかもしれない。外見に似合わず何処となく上品な、所謂士官的な雰囲気のある男だった。

 机に腰かけてタバコに火をつけたガルシアは、気を付けの姿勢のまま微塵も動かないウェイドに楽にしろと告げた。

「カオルが侮辱されたから暴力を振るったと聞いたが、間違いないな」

「はい」

「そうか。まあそれは良い」

「良いのですか?」

「話が終わったら廊下で腕立て伏せを200回だ。それで良い。どうせ何を言ってもお前の行動は変わらんだろう。なら言葉を重ねるだけ無駄な事だ。軍隊において、無駄は何よりも真っ先に排除するべき敵だ」

 あっさりとした言葉に拍子抜けしながら、ウェイドは肩の力を緩めた。しかしタバコを灰皿に押し付けたガルシアの、「それより、」という言葉に体を固くする。ここからが本題だ。

 だが緊張を帯びるウェイドに対し、ガルシア教官の声は平穏そのものだった。

「お前宛てにマークスマン(選抜射手)から勧誘が来た」

「勧誘、ですか?」

「滅多に無い事例だ。良かったな。教会で銃を乱射するミドルティーンよりは射撃が上手いと思われているらしいぞ」

 ほら、と突き出された書類にはDesignated Marksman of U.S.Armyの公式文書である事を示す鷲のマークが控えめに印刷されている。反射的に受け取り内容を読むと、AIT卒業後の進路について淡々と選抜射手を推薦する文字が並んでいた。本当に推薦する気があるのかという程に温度の無い、いっそ冷淡な文章だったが、単なる一新兵に対する推薦としてはこれで十分という事なのだろう。

 その文章から微かな苛立ちを感じて、ウェイドは微かに両頬を釣り上げた。人並み以上の自負心が胸奥で鼓動を強くしていた。

「射撃大会であいつらに勝ってしまったのが運の尽きだったな。たかだか二等兵に負かされるとは連中も思っていなかったんだろう。プライドを叩きのめされたツケを直々に返したいそうだ。入隊してからの功績次第では早めに上等兵に昇進させてくれるらしいが、どうする」

「光栄です」

「受けるということか?夜学には通えなくなるぞ。選抜射手の訓練はブートキャンプがお子様のキャンピングに思えるレベルのキツさだ。お前は優秀だが、訓練中は夜に息子を慰めることもできないと思っておいた方が良い」

「………通信教育も考慮しておりますので」

 

 ブートキャンプが終了した後の事は、ウェイドは未だ深くは考えていなかった。

 ただなんとなく射撃が得意だったことから狙撃手か選抜射手になるのだろうなと思ってはいた。まさか勧誘されるとは思っても居なかったが、渡りに船だ。近接戦闘も得意である事だし、狙撃手よりも血の気の多さが求められる選抜射手の方が自分には向いているとも思う。

 だが高校卒業資格は暫く取れ無いだろう。通信教育で数年かけて卒業するしかなさそうだ。

 

「ならばそのように返信しておこう。本当に良いんだな、ウィルソン」

「はい。よろしくお願いします、サー」

「退室してよろしい。あと外の廊下で腕立て伏せを200回しておけ。選抜射手になるのならその気の短さはなんとかしろ」

「Aye aye sir」

 敬礼すると、ガルシア教官は深く頷いた。

 

 

 

 

 

 

 廊下に出ると、既に先客が居た。廊下の端で一心腐乱に腕立て伏せをしている男は、かなりのスピードで体を2本の腕で上下させているが、表情には苦し気な様子は微塵も無かった。

 「よお」と陽気に話しかけると、男は腕立て伏せを止めることなく、剃ってあるのだろう、髪の生えていない黒い頭を上げた。

 

「何だ?」

「隣、良いか。混んでなければ」

「どうぞどうぞ。今日は割と空いてるんだ。何回?」

「200回。あんたは?」

「残り58回だ。トータルで250回」

「そりゃ凄い。何したんだよ」

「友人が集団暴行に遭ってたから、代わりに殴られたんだ」

 

 あはは、と男は爽やかに笑った。黒い肌から汗が弾いて散っている。昨今珍しい程に好青年といった言葉が相応しい男だった。

 年齢はウェイドよりも幾分か年上だろう。黒い肌と見るからに逞しい体はいかにも恐ろし気だが、表情は明るく和やかだった。軍人よりもカソックを着て教会で聖書片手に朗々と説教をしている方が似合いそうだ。

 

「コミュニケーションが下手な友人の代わりに御挨拶をしたってことか?」

「いや、ただ殴られ続けた。彼らが飽きるまで。無抵抗で声も上げない人間を殴っても何も楽しくないだろう?それで我慢していたら教官に見つかって、喧嘩両成敗っていう訳さ」

「Mッ気あるなあんた。もしくは単なる英雄だ。それなのに250回なんて酷い話だな」

「そうでもない。あいつは……俺の友人は彼らの私物を盗んだらしい。自業自得だ」

「それじゃあなんで庇った」

「金が無かったんだと。給金を家族に仕送りしていて、碌に髭剃りも買えなかったそうだ。だからどちらも悪くない。俺が殴られて話が終わるならその方が単純でいいだろう?俺は体が丈夫でね。殴られても腫れもしない。二度と盗みはしないとあいつは誓った。盗まれた方も一発殴って気分がすっきりした。それで終わりだ」

「………頭がイカれてんなあんた」

「よく言われる」

「名前は?」

「ジェイソンだ。ジェイソン・マクスウェル」

「悪魔のくせに聖マルコみたいな事を言う奴だ」

「良く言われる。でも俺は物理も数学も苦手だ。あんたは?」

「ウェイド・ウィルソンだ」

「君がウェイドか。話に聞いたことがあるよ。二等兵のくせに射撃大会で選抜射手と狙撃手のチームを抜いて優勝した、未来のクリス・カイルだって」

「そりゃあ俺ちゃん天才だからさ」

「喧嘩好きの問題児とも」

「そりゃあ、俺ちゃん天才だからさ。突っかかってくる奴が多いんだよ」

「本当だと信じたいね。よろしくウェイド」

 

 差し出された手を握り返し、ウェイドはジェイソンの隣で腕立て伏せを始めた。運よく人通りが少なかったため、ウェイドは200回の腕立て伏せが終わるまでジェイソンと話をした。

 

 そうして分かったのは、ジェイソンがとんでもないお人よしだという事だった。誰かの代わりに殴られて懲罰を受けるのはこれが初めてではなく、教官からかなり呆れられているらしい。

 実家が貧乏だったために軍人になったが、本当は教師を目指していて、任期が終わったら大学の教育学部に進みたいとジェイソンは笑った。筋骨隆々とした黒人の外見だが、物腰は柔らかで口調も優しく、底抜けに人が好さそうな男で、確かに良い教師になりそうだと思った。

 

「教師か。そりゃあ確かに向いてそうだ。少なくとも軍事施設で誰かの代わりに殴られるよりは向いてるだろうよ。でもいくらあんたがドM野郎でも流石に片方の頬を殴られる前に頬を差し出す必要はねえんじゃねえの。ジーザスも真っ青な自己犠牲心だ」

「殴った側の拳の痛みはいつまでも続く。例え本人が忘れても、拳は忘れない」

「は?」

「殴られるよりも殴る方が痛みが強い場合もあるっていうこと。特に無抵抗な人が相手だったら、拳の痛みは心まで伝わる」

「………そりゃあ希望的観測が過ぎるぜ悪魔さん。性善説がお好きか?」

「そうであって欲しいなっていう意味だよ。そういった痛みが無い人間が居るのも知ってる。でも、できればその痛みが分かる人間の方が多いって信じる方がずっと建設的だ。誰もが非情で、何の痛みも無く誰かを傷つけられるって諦めても、何も進歩が無いだろう?」

「そうして信じてあんたは更に殴られるのか」

「そうだよ。何回でも」

 

 腕立て伏せを終えたジェイソンは立ち上がり息を吐いた。汗をシャツで拭い、真っすぐにウェイドを見下ろす。

 黒い瞳が子供のようだと思った。混じり気なくキラキラとしていて黒曜石のようだ。

 不意にウェイドはキャプテン・アメリカの挿絵を思い出した。キャプテン・アメリカは白人だ。金髪碧眼の彫刻めいた美青年で、目の前に立っているような朴訥とした黒人とは全く違う。外見の類似点なんて20代中頃程度だろう年齢しか存在しない。

 しかしきっと、キャプテン・アメリカの目の光はこの男に似ているのだろうなと思った。誠実で高潔な光。後ろめたさや薄汚れた感情の無い純真さが溢れていた。自分にはこんな目はできない。ウェイドは苦笑して首を振った。

 

「俺の負けだよジェイソン。俺は全くお前の言葉を信じる事はできないが、お前がそう信じる事に意味がある事は信じても良い」

「君は……優しいんだね、ウェイド。噂と見た目に依らず」

「お前一言多いって言われねえ?もしくは思考と口が直結してるタイプとか」

「それは言われた事が無いな。余計な事を考え過ぎるとはよく言われるけど」

「じゃあ俺がお前の始めての人って訳だ。今晩何か予定はある?良かったら俺と楽しい所に行かねえか?」

「無いけど………僕はカトリックだ。ホモフォビアじゃないし、多様な人類の性癖に寛容であろうとは務めているけど、僕自身はヘテロだから」

 

 頬を引き攣らせるジェイソンに軽く笑い声を立てる。ウェイドとカオルの間についての噂を知っているのだろう。

 事実としてウェイドはカオルと関係を持った事は無いが、小さくて若いカオルを、実技ではトップの成績を誇るウェイドが何時も傍で護っているという光景は目立つらしい。カオルよりウェイドの方が若いのだが、外見年齢はカオルの方が遙かに下だ。

 バトルバディーとしてカオルが訓練中にゲロを吐く所も、野外訓練で糞を漏らす所も見ておいて今更興奮する訳が無いと思うのだが、そう言った心情を誰もが解してくれる訳が無い。一々訂正して回るのも面倒臭い。

 しかしそれなりに良い奴だと認識したジェイソンにだけは誤解を解くべく、ウェイドは腕立て伏せを続けながらあのな、と言葉を続けた。

 

「一応言っておくが俺はお前みたいなゴツい野郎はタイプじゃない。おっぱいがデカくて気が強いお姉様か、キュートで物慣れないカワイ子ちゃんが良い。一緒に吐瀉物をまき散らすまで訓練した奴なんて以ての外だ」

「そうか。良かった」

「あと俺とカオルは何でもねえから。あいつがよわよわで頼りなさ過ぎるから手ぇ貸してやってるだけ。あいつは完璧ヘテロの、単なる真面目な良い奴だ」

「ああ……すまない、君たちの事を知りもしないのに」

「基地内じゃあ下らない噂が供給過多状態だからしょうがねえさ。今日は週末だろう?暇なら飲みに行かねえかって言おうとしたのさ。あんたは良い奴そうだから、仲良くしたい」

「それは、勿論。是非」

「そりゃあ良かった。いい店に連れて行ってやるよ」

 

 そう答えてウェイドは腕立て伏せのスピードを上げた。

 

 

 

 

 

 

 

■  ■  ■

 

 

 

 

 

 カオルの頬の腫れは酷いもので、夜になると首元まで広がっていた。本来ならば静かにベッドに横たわっているべき外傷なのだろうが、一週間の内で唯一基地から外出できる週末の夜に友人をベッドに縛り付けておく程にウェイドは良い子では無かった。

 腫れを隠すためにマスクをして、外出届を出し、基地から一番近い町に向かう。既に空は暗く、湿気が強いせいで空気は鬱々としていた。

 

 ピンクと白が入り混じったネオンが頭上に光っている。舗装された道には煙草やら空き缶やらがまき散らされ、歩いているだけで酔っぱらいそうな匂いが立ち込めていた。路地裏は薄暗く、何が行われているのか分かったものでは無い。規模の大きな街には必ずある、退廃的な地区だ。

 しかしウェイドはこういった埃臭い雰囲気が嫌いではなかった。女性だって、お綺麗に澄ましているバージン女よりも、何もかもを飲み込む度量を持つ娼婦の方が一緒に居て楽しいし、美しいと思う。整然としたものよりも雑多なものの方がウェイドの強い好奇心や渇望を癒す力を持っていた。

 路上には軍服を着ている人間が目立つ。週末だという事で、街に繰り出す同僚が多いのだろう。カオルとウェイドはラフな私服を着ていたが、足さばきや視線の動きから軍人だとすぐにバレてしまうだろう事は自分たちでもよく分かっていた。

 この街で目立つ行動をすればすぐに教官にバレる。そのことを皆理解しているから、私服だろうが軍服だろうがこの街ではあまり目立たないように遊ぶのが暗黙のルールだった。無論、ウェイドとカオルもそのルールを知っている。

 

 目に痛い程のネオンが煌めく中で、煩い喧騒を避けるように歩く。未成年のように見えるカオルは通りすがる酔っぱらいから口笛を吹かれて幾度も眉根を顰めた。

「抑圧的な基地内でならそれなりに理解も我慢も出来るけど、どうしてそこらを娼婦が歩いているような場所でまで……男が好きなら、ここならティーンの少年だって買えるだろうに」

「軍人を屈服させたい馬鹿が多いのさ。それよりすげえなそのほっぺ。ラグビーボールみたいだ」

「腫れのピークは明日の夜だって言われたよ。暫くは咀嚼もままならなくなりそうだ。頬肉を噛んじゃうから」

「あと3発は殴っておけばよかったか?」

「次は僕が殴り返すから大丈夫」

 

 カオルは唇を噛んだ。小動物めいた外見をしているが、存外にプライドは高い男だ。日本人らしいというのか、寡黙で表情も少ないが、内に秘めている熱情は計り知れない。眉を顰めている表情は少し不機嫌な程度のようだが実はかなり苛立っているのだろう。

 

「くそっ、もう少しで僕が勝てたのに」

「無茶すんなよカオル。こういうのは得手不得手があんのさ」

「でも僕は負けたくなかった。自分の手で勝ちたかったんだ」

「それじゃあ拳で殴り掛かるのは愚策だな。体格的に近接戦闘じゃあどう考えても勝てねえ。距離を取って狙撃するか、口先で丸め込む方が成功率は高い」

「………僕の射撃の成績知っててそれ言う?」

 

 カオルの射撃の成績は中の中だった。悪くも無いが、良くも無い。少なくとも彼の体力と筋力の無さをカバーするには足りない成績だった。

 カオルの射撃訓練にウェイドは何度も付き合ったが、的に向かって標準を引き絞って引き金を構える姿には、残念ながら何か光るような才能は認められなかった。集中力もあるし、我慢強くもあるのだが、いかんせん銃身を構える筋力が乏しく、また視力が致命的なまでに悪い。

 

「お前、筋は悪くないんだけどな……」

「練習したからね。でも練習してそれだ。僕の体は元々戦うのに向いてない」

 

 肩を竦めてカオルは自嘲の笑みを零した。

 カオルは馬鹿ではない。むしろ血気盛んな20代にしては聡明で冷静な方だ。自分が兵士に向いていない事など分かっているに違いなかった。

 しかしそれならばなぜ兵士になったのか。いや、貧乏に耐えかねて兵士になるにしても、どうして歩兵科を選んだのか。需品科や通信科なら彼の聡明な頭脳を使って出世することも叶っただろうに。

 それはウェイドが彼とバトルバディーを組んでからずっと疑問に思っていた事だが、その質問を口にする事は憚られた。彼は何時も歯を食いしばって、周りについて行こうと訓練をしていたからだ。真面目でひたむきな彼の努力を無視するような発言はしたくなかった。

 しかしそれでも人には向き不向きがある。生まれ持っての才能というものは時として残酷なまでに人生に影響を及ぼす。こればかりは天から降ってくる事は無い。そして人が持ち合わせている才能というのは、総計すれば誰しもそう大して変わらないとも思う。

 カオルにはカオルの秀でた才能がある。彼は自身でその才能を積極的に埋もれさせようとしているように見えてならなかった。お節介だと分かりつつ、ウェイドは微かに口を開いた。

 

「お前さ……」

「黙ってウェイド。僕は歩兵科に入った事を後悔していない」

「まだ何も言ってねえよ」

「目が言ってる。表情が分かりやすいんだよウェイドは」

「表情豊かなイケメンって最高だと思わねえ?」

「はいはい。君はイケメンだよ。僕のタイプじゃないけど」

「そりゃ残念」

 

 険のある瞳で睨まれてウェイドは口を噤んだ。カオルは聡明だ。そして既に覚悟は決まっているらしい。ならばその決断に自分が口を突っ込む権利は無い。

 肩を竦めて大通りに面しているバーの扉をくぐる。

 アルコール臭は強いが、店の中は清潔だった。長年染みついたヤニの臭いが鼻孔を擽りはするものの空調を利かせているためにそう気にもならない。

 兵士の間ではこの店はこの辺りで一番お上品な店だと評されており、ウェイドもその評判に異議は無かった。

 先輩に連れられて初めてこの店に来てからまだ片手で数えられる回数しか来た事は無いが、この地区では一番のお気に入りの店だ。この辺りは酒に混ぜ物をしているような店も珍しくないが、この店にはマッカランの18年も置いてある。それなりの質の酒をそこそこの値段で提供してくれる店はこの街では貴重なものだ。

 

 バーカウンターが入口の反対側にあり、右手に広がる店内にはシックな色をした円形のテーブルと椅子が並べられていた。その奥には床よりも一段高いステージがある。今は黒人の太った男性が、芋虫のように太い指を驚くほど軽快に鍵盤の上で躍らせながらアップテンポの曲を歌っていた。繊細で巧みな技巧に、今日は当たりだと片頬を上げた。

 デビューして間もない芸人や歌手、若い音楽家、ポルノ女優の雛、未熟なポールダンサー、そういった種類の人間が集まって毎晩ショーを開くのがこの店の売りだ。

 事前にその日の登壇者を知る事はできないため、天から降ってきたような素晴らしい歌声に出会う事もあれば、下手くそなピアノを何時間も聞かされる羽目になることもよくある。しっとりとしたバラードに耳を癒された次の瞬間に、派手な音楽で登場した豊満な美女のストリップを目にすることも、よくある。

 店内を見回すと、それなりに込んでいる店内には軍の将校や街の名士の姿も見られた。この地区では強い人気を誇るこの店には幅広い客層が集い、客がショーマンに接触する事は禁止されていなかった。

 富裕層に属する客から人気を得たアーティストは即座にスポンサーが付いて、この店から羽ばたいて行き、より広い世界に飛んでいく。逆に人気が無ければ早々にこの店からも追い出されていく。

 そのせめぎ合い、人生の一つの切っ掛け、才能ある人間が花を咲かせる寸前の煌めきから、これからただひたすらに落ちていくだけの人間の絶叫までがこの店では楽しめる。

 

「上手いねあの人」

「ああ。すぐにでもスポンサーがついてこの店から出ていくんだろうな。何飲む?」

「ビールで。あとシーフードピザとポテト」

 

 その言葉を受けたウェイドはカオルと自分の分のアルコールと適当な料理をいくつか注文して、店内を見回した。ステージにほど近い所でジェイソンが手を振っていた。カオルを連れて同じ席に座る。

 曲はアップテンポなバラードからしっとりとしたジャズに変わり、ジェイソンは楽し気に目を細めていた。ウェイドも知っているスタンダード・ナンバーだ。黒人アーティストの太く低い声としっとりとしたピアノの旋律が耳に心地良い。

 

「悪いな、待たせたか?」

「いや、俺も今来たところだ。良い店だな。もっと早く教えて欲しかったよ」

「……カップルなの君たち」

 

 へえ、と怪訝な顔をしたカオルの肩を叩く。表情は真剣に。とはいえ、ただのおふざけだという事は分かっている。

 

「カオル、確かにデートの約束をしたカップルが良く言うセリフのトップ10に入る台詞を迂闊にも言っちまったってことは認めるが、俺はこのでかい黒人のブツに興味はねえぞ。もちろんケツにも興味はない」

「俺も興味はないな。初めまして、ジェイソン・マクスウェルだ」

「佐々木薫です。初めましてジェイソン。座学でトップのあなたの名前はいつも気にしていますよ」

「いつ君に抜かれるかと俺はいつも気が気じゃない。手加減してくれ」

「実技の赤点をカバーしないといけないので、お断りです」

 カオルは差し出された大きな掌へ握手を返し、ジェイソンの顔を見上げてそのキラキラした瞳に目を細めた。

 カオルとジェイソンは同い年くらいだろうが、ジェイソンの方が10歳は老けて見える。だが少年のような色をしている黒い瞳は眩しい。カオルもウェイドと同じくジェイソンの瞳にやられたのか、思わずと言った表情で頬を緩めた。

「……あなたは良い人そうですね」

「初対面なのに?」

「目が、なんとなく。それに噂は聞いていますよ。『殴られたがりの悪魔』って」

「その二つ名は俺も初耳だ。カッコいい」

「ウェイドもあるよ。『饒舌な兵士』って」

「二つ名っていうかそのまんまじゃねえか。もっとカッコいいやつがいい。『Star Load』とか」

「Star road?君が踏まれたがりだなんて知らなかったよ」

「美女に踏まれるならそういうプレイだと思って楽しめるけど、野郎は御免だ。踏むのも踏まれるのも楽しくない」

「今日君が食堂で同僚を足蹴にしたって聞いたけど」

「あれは椅子でぶん殴っただけだ。至って紳士的に、スマートに気絶させてやろうという俺ちゃんの親切心さ」

 

 ぱちぱちぱち、と拍手が鳴る。ステージを見ると、客席から手渡された花束を抱えた男性がにこやかにお辞儀をして舞台袖へと下がって行っていた。次の登壇者が舞台袖から現れる。

 ジェイソンと同じ席に座り、そのまま3人でコメディアンの巧みな話芸に腹を抱えて笑ったり、ショーツ1枚で踊るポルノ女優の卵に向けて口笛を吹いたりした。

 合間に同僚の愚痴やら故郷の話をしていると、妙にジェイソンとカオルは馬が合うようだった。会話の端から推測するに、ジェイソンはあまり家族に恵まれていないらしい。少なくとも軍以外に帰る家は無い様子だった。

 ウェイドもそうであるし、あまり深く聞いたことは無いがカオルもそうなのだろう。カオルと出会ってからこれまでの会話で、家族の話題が2人の間に上った事は一度として無かった。

 

 腹が捩る程に笑わせてくれたコメディアンに向けて手を振り、口笛を吹く。コメディアンは投げキスをしながらステージから下りた。拍手がまばらになり、静かになる。

 店内の会話も一瞬途切れ、奇妙な沈黙が降りた。その雰囲気に飲まれたカオルとジェイソン、そしてウェイドも口を閉ざした。「彼女が来る」と、隣のテーブルの客が呟いた。

 何なんだ、と疑問に思うのと同時に、一人の女性がステージの端から姿を現した。

 

 枯れ木のような体の両側に、鉄さび色の腕が揺れている。爪はボロボロで、何枚か剥げてしまっていた。年齢不相応に背中が曲がっているせいで老婆のように見える。長い金髪は、ちゃんと手入れすれば黄金色に輝くだろうに、酷くくすんだ色をしていた。碧眼を半分瞼で隠して、ステージの中央に立った女は身の置き所に迷っているようにおずおずと躊躇いがちにお辞儀をした。

 その女には見覚えがあった。フローラだ。しかしウェイドが知っているフローラとはあまりに面持ちが違った。フローラと別れてからまだ1年程しか経っていないのに、彼女の容姿はあれから20年は経ったかのように変貌していた。

 

「………フローラ」

「ウェイド、知り合いか?」

「去年まで付き合ってた。歌手を目指してるって言ってたけど、」

 

 社会的地位のある男と付き合う事になったと言っていたのに、こんな所で歌っているなんて、と続けようとしたが、フローラがピアノの前に座ったために口を噤んだ。体の動きはぎこちなく、片足を庇うような仕草をしていたことから、足の骨が折れているのだろうと思われた。よく見ると片足は腫れていて、それ以外にも長袖のブラウスに覆われていない首筋や手首には火傷の痕や切り傷が見えた。

 

 鍵盤を見下ろすフローラは、どこか虚ろで、小さい女の子のようだった。遊び飽きて放り出された人形のような有様の彼女に、しかし店内からはこれまでのアーティスト達に向けられていたものとは違う、重苦しい視線が向けられていた。何かを期待している視線だった。

 ウェイドが知る限り、フローラは確かに歌が上手いが、残念ながら小さなバーで短いショーを行う以上の実力は無かった。バーの雰囲気を少々明るくするような声ではあったが、こうまで質量のある視線を向けられるに値する歌は歌えなかった筈だ。

 ピアノを半目で見降ろしたフローラは、一拍の後に細い指を鍵盤に置いた。白黒のキーの上で10本の指がぎこちなく踊り、ピアノの小さな音が店内に広がる。伴奏の時点で、音楽に造詣が深いとは言えないウェイドにも分かるようなミスが数回あったものの、不思議と誰もミスタッチを気にしていないようだった。

 

 何が始まるんだ、と3人でフローラを見上げる。伴奏が終わり、フローラは口を開いた。歌い始めは細々としていて、よく歌詞も聞き取れなかった。音程は合っているのか合っていないのか、声が小さすぎてよく分からない。

 しかし段々と声が、岸辺に近づく程に大きくなる波のように勢いを増していく。漣のような声は波になり、胸へとせり寄ってくる。そこでようやくウェイドは歌詞を聞き取ることが出来た。

 歌詞は、フローラが書いたのだろう、彼女の人生そのものだった。薄暗い人生と、短い幸せ。小さな光。それはつまりウェイドの人生によく似ていた。フローラはウェイドによく似ている。別れてから既に1年近く経っていたが、それでもまだフローラはウェイドによく似ていた。

 段々と沈積していく情熱。周囲からは槍のような視線が向けられ、次第に歌声には吐き出すような嗚咽が混じっていく。ピアノは激しさを増し、かき鳴らすように歌声を責めていく。

 高まっていく情感。悲憤と、微かすぎる希望。彼女の腹を少しずつ裂いて内臓を引きずり出しているような歌だと思った。血をまき散らすように声を出してただ只管に訴える。

 そうしてとうとう身体の中の全てが引きずり出されて残骸のようになったフローラは、ある一点で爆発した。

 

 凄まじい声だった。絶叫だ。いや、そんなに大きな声では無い。訓練中に兵士を叱咤する教官の方がよっぽど大きな声だ。しかし喉の奥から絞り出されている声は心臓を貫くような絶叫だった。

 アルコールのせいで焼けた喉から、歯並びの悪い口を通して出てくる声に鳥肌が立つ。

 

 人生の苦難は喜びよりも明らかに激しく、津波のように押し寄せてくる。

 実父にレイプされて、淫売だと母に殴られた。助けを求めに逃げた伯父の家でもレイプされ、殴られ、存在価値を否定された。その頃から自分は何も変わっていない。

 ようやく愛し愛される男と出会えたと言うのに、自分の方から手を離した。一時の欲望のために手放した小さな幸せ。救いようがない馬鹿な女。金と安全のために付き合い始めた男は結局せせら笑って自分を捨てた。

 あの男を愛していた。自分を愛するように。そのまま生きていればささやかな幸せが手に入っただろうに、自分は間違えた。なんて馬鹿な女。そもそも生まれてきた事が間違いだったのだろうか。神様は何を考えて自分をこの世に遣わせたのか。

 もう周りに振り回されていた少女ではない。大人の女になったというのに、未だに生きる希望も意味もどこにもない。自分の周りには誰も居ない。自分を肯定する人間は誰も居ない。私の存在価値はどこにもない。

 この歌を聞いている人は、私のようになってはいけない。本当に価値あるものに気付きもせず、生まれて来た意味も分からず、ただ流され生きて生きて来た。全て自業自得だと分かっているのに、何かに縋らずにはいられない弱い人間。

 神様はいつか私を救ってくれるだろうか。見放してはいないだろうか。こんな愚かな自分にも生まれてきた意味があるのだろうか。それを知るためには、どれだけ苦しくても、悲しくても、生きていかなければならないのだろうか。生きていかなければ——————ああ、神様。

 

 

 

 

 ウェイドは言葉が無かった。フローラは自分と別れて幸福な人生の第一歩を踏んだのだと思った。

 だがフローラはより悲劇的な人生へと進んでいたらしい。だからこそフローラは歌手として大きな一歩を歩んでいた。

 彼女の悲劇は彼女を天才にした。他の誰にも真似できない彼女の歌は、幸福から遠いところにあるが故に、彼女を彼女たらしめていた。

「……彼女は、ウェイドの知り合い?」

「ああ。もう別れたけど」

「そう」

 カオルは潤んだ目を袖で乱暴に擦って一心にフローラを仰ぎ見ていた。その気持ちがウェイドにはよく分かった。 

 歌が上手いと手放しには賞賛できない歌だった。喉のケアを怠っているせいで声は荒れているし、所々音程が外れている。ちゃんと音楽学校で訓練を受けたような歌手で無い事は明らかだ。

 しかしこの上無く価値がある歌だった。少なくとも、自分のような生まれ育ちをしている人間を沼の底から救い上げるような歌だった。吐瀉物をまき散らすほどに大丈夫だと言い聞かせてくれているような気がした。そのまま彼女のすっからかんになった身体の中に埋めて欲しいとまで願った。そうすればきっと寂しくはなくなるだろう。

 全くもって神様など信じた事のないウェイドだったが、フローラの歌の中にウェイドは生まれて初めて限りの無い神聖な愛を感じた。そこらの讃美歌よりもはるかにフローラの歌は愛に満ちていた。

 

 潤んだ瞳で周囲を見回すと、なんだこの下手な歌はと眉を顰める者もいれば、涙を流して嗚咽する者もいた。分かる者には分かるが、分からない者には絶対に分からないだろう。分かってたまるものか。

 先細るようにフローラの声は消えていく。ピアノを弾く指は疲労のせいで痙攣している。そしてラジオが強制的に落とされるように彼女の声は曲の途中でぷつんと途切れた。

 一瞬の静けさの後に、ウェイドは椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり、手の骨が折れるのではないかという勢いで拍手をした。隣を見るとジェイソンとカオルも高らかに拍手を鳴らしていた。店内は無言の拍手で満ちていた。誰もBravoとは言わない。言う余裕もない程に彼女の愛が満ちていた。

 

 カオルは目を赤く腫らしながら一心にフローラを見つめていた。

「凄い……彼女、凄いね」

「俺もあいつがあんな歌を歌えるなんて知らなかった」

「ウェイド、挨拶に行かなくてもいいのか?」

 ジェイソンに言われて、ステージの中央でぎこちなくお辞儀をするフローラに視線を向ける。

 自分と別れて、社会的地位のある男と付き合い始めたと聞いた。しかし上手く行かなかったのだろう。もし上手く行っていたらあんな歌を歌う事は出来ない。

 会いに行ってもいいのか、という躊躇いは短かった。少なくとも彼女の腫れている足と傷跡を見た以上、このままさようならと爽やかに別れる気分にはなれなかった。

 舞台袖に下がっていくフローラを見上げながら小さく呟いた。

「ちょっと行って来る」

「よかったら紹介してね」

「ファンになった?」

「うん。これまで聞いた歌の中でも最高だった。彼女は最高だ。ファンになったよ」

 カオルは頬を殴られた理由以上に紅潮させて目を潤ませていた。

 ウェイド以上にカオルはフローラの歌に感銘を受けたらしい。既に姿が見えないというのに、カオルの視線は舞台袖に未だ注がれていた。

 フローラは、ウェイドと付き合っていた時と性格が変わっていなければ、口数が多く陽気な性質の女だ。ファンだという童顔の男と喜んで握手もサインもするだろう。無論、ウェイドが知る彼女のままであったらの話だが。その可能性はあまり高くないように思えた。

 誤魔化しも含めた無言で頷いて、舞台袖に向かう。次に現れたアーティストに観客の興味は移っていた。もしくはフローラの余韻をかき消すように無理やりに意識を逸らすようにしていた。

 

 

 舞台裏に続く廊下は店内からすぐに入ることが出来る。スポンサー希望の客を歓迎する店の雰囲気が現れているのか、廊下には用心棒が一人立っていたものの、舞台裏に近寄ってくるウェイドへあからさまな警戒心は露わにしていなかった。

 ダメ元でフローラに取り次いでくれるよう頼むと、意外にも用心棒は素直に頷いて一度舞台裏に引っ込んだ。厄介な客だと店長に告げ口でもされているのかと一瞬疑ったものの、意外にも用心棒の男はすぐにフローラを連れて廊下へと戻ってきた。

 フローラはウェイドを見て不器用そうに微笑んだ。その表情に驚きが無いところを見るとステージの上からウェイドの姿を見つけていたのかもしれない。用心棒の態度もそれで納得ができた。予めフローラがウェイドの来訪する可能性を伝えておいてくれたのだろう。

「フローラ」

「ウェイド………久しぶり」

 下手くそに笑うフローラに、それよりも幾分か上手にウェイドは笑った。

 フローラは酷く痩せていた。ウェイドと交際していた時も痩せ気味だったが、今は骨と皮ばかりになっている。肌の艶は無くなり、髪も荒れていた。ウェイドに似て澄んだ青色をしていた瞳は曇っていた。

 あの時フローラの言うがままに別れるんじゃなかった。ウェイドは後悔しながら、しかしそれでもそれ以外の選択肢は無かったように思う。

 今を以ってしても自分によく似た彼女を人並みに幸せにできる自信は無かったし、彼女と一緒に居て自分が幸せになる想像もできなかった。だというのに彼女を引き留めることなど出来る訳がない。

 だが自分と一緒に居れば、少なくともこんな目に遭わせていなかった。そしてフローラはあのような歌を歌う事は出来なかっただろう。

「また会えて嬉しいよ。でもどうしたんだ。こんな所で働いてるなんて思っても居なかった」

「私は前から歌手志望だったのよ?バーで歌うのはおかしなことじゃないわ……ちょっと向こうで話しましょ」

 はい、と温い缶ビールを手渡されて裏口へと案内される。

 

 裏口に続く路地は点滅する小さな街頭が一本立っているのみで、周囲のビルのせいで星明りも入り込めない薄暗さが漂っていた。ごみの詰まった袋やビール瓶にたむろする蝿がぶんぶんと五月蠅い羽音を散らしながら飛んでいる。

 彼女はそう言った諸々を気にもせず、壁に背を付けて缶ビールに口をつけた。ウェイドも彼女に倣って背中を壁に預けて缶ビールを啜る。

 ゴミ溜めのような路地裏で温いビールを啜る傷だらけの女と貧乏な軍人というのは、傍から見れば侘しいことこの上無いだろう。その光景と同じようにウェイドの心持も寂しいものだった。幸せになっていると思い込んでいた女がこんな場所に居る事が何よりも寂しく、そうと思い込んでいた自分の浅はかさに苛立った。

 遠くから聞こえる酔っ払いの声を背景にウェイドは口を開いた。

「いつからここに?」

「先月からよ。ショーはこれで3回目。まだまだ新米ね」

「今日のステージでは一番良かった。最高だった」

「今日のステージだけ?」

「悪い、間違えた。生まれてからこれまで聞いた歌の中で一番良かった。アレサ・フランクリンも真っ青な歌声だったよ。スポンサーがついたらヒットチャート間違いなしだ」

「ありがとう」

 小さく微笑んだ彼女の笑窪に、自分と一緒に暮らしていた頃のフローラの面影を見てウェイドは少し心を落ち着かせた。

 自分が想像していたよりもフローラは変わったわけではないようだった。少なくとも内面の方は。缶ビールを小さく啜る様子は退廃的だが、ウェイドを見る目つきは1年前と同じように柔らかい。

「でも歌手とポールダンサーとストリッパーの見分けも付いてないような客も居るだろ。金持ちと交際し始めたんじゃないのか?

「別れたわよ。8回殴られて、4回浮気されて、骨を2本折られてようやく目が覚めたわ。馬鹿な事をした。ほんと、男を見る眼は最悪なのよね、あたし」

「どこのどいつだ。殺してやる」

 空になった缶を握りつぶし、苦味を噛み潰したような顔をするウェイドの腕をフローラは笑って叩いた。

「別にいいのよ。あたしも馬鹿だった。目先の欲に囚われ過ぎてたのよ。自業自得だわ。それよりウェイド、この近くに配属されたの?」

「……ああ」

「そう。訓練は厳しい?」

「キャンプみたいなものさ。命懸けだが健康的だ。君程辛い思いはしてないよ」

「それならよかった。あなたが幸せになってくれたらいいなって結構本気で願っていたから。あなたは頭が良いからあたしみたいな馬鹿はしないだろうけど」

 

 悪戯めいたウィンクをしてフローラは口端で笑った。それにつられてウェイドも笑う。別れてからたった1年と少ししか離れていなかったのに、フローラは一生分の不幸を飲み込んだような疲れた顔をしていた。

 衝動のままにフローラの体を抱きしめる。愛おしさよりも哀れみが勝る衝動だった。取り落とした空き缶が地面に落ちてカンカンと乾いた音を鳴らした。腕の中にすっぽりと収まる体は前よりもずっと細く、埃臭い。首筋に顔を埋めて髪を撫でる。フローラの腕は少しの躊躇いの後にウェイドの背中に回り、母親が子供にするように背筋を優しく叩いた。

 暖かな感触に目を細めて少しだけ体を離し、そのまま唇を合わせようとすると背中に爪を立てられた。

「駄目よウェイド。私はもうあなたと付き合わない」

 断固とした意志を持つ声だった。ウェイドは言葉を詰まらせ、腕の中にフローラを抱きしめたまま唇を噛んだ。

「どうして。せっかくまた会えたのに。俺はまあ、社会的地位は無いけど自分の女に暴力を振るうような真似はしないし、浮気もしない。それにもう無職の未成年じゃない。軍人になって収入も、まあ多いとは言えないけどちゃんとある。歌手になりたいんなら応援も協力もする。一番のファンになるよ」

「ありがとう。嬉しいわ。嬉しけど、でもあなたとは良い友人でいたいの。私とあなたは似ているから………それに、ごめんなさい、怖いの」

 背中に突き立てられた指から細かい振動が伝わっていた。フローラの身体は酷く震えていた。

「あなたは良い人だって知ってる。あたしの大事な人よ。あなたと一緒に暮らしていた時間は、これまでの人生で一番幸せだったわ。あなたは何も悪くない。でも、ごめんなさい。あたしは……大きな男の人が怖くてしょうがないの。しょうがないのよ、ウェイド」

 

 罪悪感を顔に貼りつかせて呟いたフローラに、ウェイドは何も言えなかった。腕の中でフローラは細かく震えていた。怯えさせないようゆっくりと腕を離し、一歩離れる。顔色は青白い。

 何があったのか具体的には分からない。しかしフローラを自分が幸せにすることは不可能だと突きつけられた思いがした。それはきっと間違いではない。

 小さな子供のように震えて、怯えた目をしているフローラに、ウェイドは昔を思い出した。自分もこうだった。

 家を出てからまだ5年も経っていない事が嘘のように自分の状況は大きく変わったが、それでもあの時期の恐怖は根深く脳裏に染みついている。

「——————実は俺も、大きな男が少し怖い」

 そう言って頭を掻いた。フローラがゆっくりと頭を上げた。

「大柄な白人で金髪碧眼の、特に軍人経験のある奴は最悪だ。俺の親父に似てるから」

「……分かるわ」

 フローラは笑って頭を振り、潤んだ目を何度も瞬かせた。両手を差し出される。ウェイドはゆっくりとその手を握った。

 冷たく震えている。でも振り払われる事はない。これが最適の距離なのだと言われた気がしたし、ウェイドもそうだと認めざるを得なかった。

 もし自分がか弱い女として生まれていたら、大柄な白人で、更に金髪碧眼を持つ軍人とだけは付き合いたくないだろう。それどころか身近に居るだけで身震いするかもしれない。

 しかしフローラは自分の手を握り返した。それで十分だ。ウェイドは頭を振って笑った。体温の高い自分の掌でフローラの指を温めるように擦った。

「ねえウェイド、あたしはもう今日の仕事はこれで終わりなの。良かったらお友達を紹介してちょうだい?あのアジアンの男の子、凄く熱心に見てくれていたから挨拶したいわ」

「男の子っていうか、俺より年上だけどなあいつ」

「うっそ、ほんと?ティーンかと思ったのに、じゃああたしより年上なの?」

 

 あはは、と笑うフローラを連れて、ウェイドも笑いながらカオルとジェイソンに紹介するためにテーブルに戻った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから1年後、カオルとフローラは結婚した。

 結婚式には親友代表としてスピーチをして、ジェイソンと一緒にカオルにシャンパンをぶっかけて大笑いした。

 そしてそれから更に1年後には、カオルとフローラの間に娘が生まれた。

 名付け親になって欲しいと言われて、うんうんと悩みながらジェイソンと一緒に名前を考えた。

 

 2人の遺伝子をちょうど半分ずつ受け継いだ、ブリュネットの髪と猫のような瞳を持つ赤ん坊に、ウェイドはマリカと名付けた。日本人としてもおかしく無い名前にしたかった。もしいつかマリカが自分のルーツを知りたいと思った時に、日本へ行っても違和感を感じないようにしたかったのだ。

 

 

 

 

「じーにー!」

「ジーニー?」

 玩具のように小さな指で指さされたのは、間違いなく自分だ。しかしどうしてジーニーと呼ぶのだろうか。

 膝に乗せたマリカはきゃっきゃと笑いながら身を捩っている。

「じーにー、じーにー!」

「俺ちゃんがジーニー?ランプの魔人の?」

 こくこくと頷く、もうすぐ2歳のマリカはいつも楽しそうに笑う子だった。手間のかからない明るくて賢い子だと、やや親馬鹿の気があるらしいカオルはいつも自慢していた。

 どういうことだとこの家の家主に目を向けると、カオルは子供用の玩具を片付けながら、ああ、と口を開いた。

「最近ディズニーアニメを知り合いから沢山貰ったんだけど、マリカはアラジンのジーニーが好きみたいでね。だからウェイドをジーニーだと思ってるのかもしれない」

「いや、共通点なんもなくね?俺はあんなハゲじゃねえし」

 

 苦笑しながらカオルは「ほら、ジーニーじゃなくてウェイドおじちゃんだよ」とマリカに言うが、マリカは変わらず「じーにー!」と言ってウェイドを指さした。カウンターキッチン越しにその光景を目の当たりにしたフローラは噴き出すように笑った。その隣でランチの準備をしていたジェイソンは、「人種的に俺の方がジーニーに近いんだけどなあ」と言って和やかな笑みを浮かべた。

 

「いや、ジーニーは人種とかないだろ。魔人だし。肌の色青いし」

「でも顔の造りは白人よりも黒人寄りだろう?いつか実写化したらきっと黒人の俳優が演じると思うよ」

「ていうかなんでジーニー?」

「ウェイドがマリカ(ジャスミン)って名付けるからだよ」

「じゃあそこはアラジンでいいじゃないのよ……」

「でもアラジンは18歳の設定らしいじゃない。ウェイドは、」

「まだ俺ちゃん21歳よ!?ジーニーよりはアラジンの方が近くね!?」

「じーにー!」

 

 きゃきゃと笑うマリカの頬を指先でつっつく。焼きたてのパンのような感触がした。もっちもちだ。

 

「いいじゃない。マリカはアラジンよりもジーニーの方が好きだもの」

「俺だってそうさ。乳首の無いコソ泥よりも魔法の使えるロビン・ウィリアムズの方が好きに決まってる。でも結局ジャスミンはチョイ悪の半裸野郎に取られていく運命だから……まあそんなの俺は許さないけど!」

「じーにー!」

「いつかマリカが自分のアラジンを連れてきたら、僕より君の方がキレそうだね」

「こんなに可愛いマリカを嘘つきなコソ泥に取られてキレない訳がねえだろ。それだったらむしろ俺ちゃんが貰っちゃう!」

 ん~!とほっぺにキスするときゃあきゃあとマリカは楽しそうに騒いだ。

 はいはい、とフローラは笑っているが、カオルは複雑そうな顔をした。

「ウェイドが僕の義理の息子……いや、ちょっと受け入れ難い……無理……」

「じゃあ俺ちゃんと露出狂の窃盗常習犯とどっちがマシ?」

「んんんんんんんんん」

 唸るカオルの隣で、ジェイソンの携帯が鳴った。

 通信元の番号を観て、微笑んでいたジェイソンの顔が一瞬で無表情になる。即座に通話ボタンを押して耳に押し当て、暫くのやり取りの後にジェイソンは携帯を閉じた。

 カオルとウェイドは黙ってジェイソンを見やった。フローラは不安げにカオルを見やっている。ウェイドはきゃあきゃあと笑うマリカの頭を撫でながら、口端に笑みを浮かべた。2人の視線を受けて、ジェイソンは目で小さく頷いた。

 

「ウェイド、カオル。俺達の戦場が決まった」

 

 

 

 



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3. 俺達に明日は無い

 POSOっていう動画を知っているか?

 

 知らないのならば、この単語を忘れてくれ。俺ちゃんが悪かった。知らないなら知らない方が良い。

 生きていく上で知らなくても良い知識ってあるよな。愛と平和は大事だが、人にはそれぞれ許容量がある。自分のリミットを知っておくのは生きていく上で大事な事だ。

 義務感と責任感が乗ってる天秤の反対側には、自身の許容量が乗っている。そのバランスを崩したらサノスとかアイアンマンみたいになっちまうって訳。

 つまりは、基本的に知識は力であるけれども、知らないでおいた方がむしろ愛と平和に満ち溢れた人生がゲットできるような知識もこの地球上にはあって、この4つのアルファベットはそれの中の一つってこと。

 

 まあ、ともかくも、俺ちゃんは2001年にインドネシアのポソ県に居た。

 言い換えると、このファンフィクションではそういう設定になってるって意味だ。

 

 

 ポソ県は海に面していて景色は最高に良かった。アメリカの東海岸ではお目に掛かれない、透明度の高い青い海は目を癒した。緑は多く、夜には星が良く見える。独特な文化もアメリカ育ちのウェイドにとっては目新しいものばかりで、全てが興味深かった。香ばしいスパイスの匂いは食欲を刺激した。床に敷かれた絨毯の繊細な模様には目を回しそうになったし、女性が頭に巻くジルバブは花飾りなどよりずっと華やかだと感嘆した。

 これが観光だったのならウェイドは素直にこの国独自の魅力的な文化や景色、歴史へ好奇心を沸き立たせていただろう。

 ただし当時のポソ県はそこら中に死体が転がっているという地獄染みた状況の只中にあり、とても観光地には向かない有様だった。

 顔面が二つに割られた死体、内臓が引きずり出されている死体、手足が捥がれた死体、幼児を抱きかかえる母親の死体。死体のフリーマーケットが町中に広がっていた。老衰と病死以外の死に方ならあの時期、あの地域には粗方揃っていた。

 

 長い間放置された死体は独特の悪臭を放つ。

 腐肉の臭いだけではなく、内臓の中に満ちていた大便を栄養とする常在菌が生成したガスの臭いだ。多量のガスと死後硬直で鉄のように拘縮した肛門括約筋は死体を巨大な風船にする。路上に放置されている死体は揃って腹が膨れていた。

 ぱあんという破裂音と共に、時たま路上に放置されていた死体の消化管が破裂して内容物を周囲にぶちまける。その時の悪臭と言ったら、生ごみを小便で熟成した臭いの100倍は酷い臭いがした。

 

 ウェイドとカオルは基地の中で悪臭に眉を顰めながら、民家に寄り掛かってレーションを口に押し込めていた。民家はウェイドが3回体当たりしたら崩れ落ちそうな木造建築物だったが、背もたれ代わりの役目は十分に果たした。

 ここ数日同じようなものしか口にしていない。民家から食料を徴収してはいるが、ほとんどの民間人が避難しているために食料もあまり残されてはいなかった。残されている僅かな食料にも毒物が混ぜられている可能性があり、容易に手は付けられない。それに過度な緊張と悪臭のせいで食欲自体が低下していた。

 だがそれでも何か食べないと動けなくなる。2人のレーションを口元に運ぶ動作はロボットのように義務的だった。

 カオルは無線を耳に当てて食べ飽きたレーションを飲み込みながら口元だけで微笑んでいた。

 

「フローラ、ごめん。ニューヨークに一人で行く事になってしまって」

『いいのよ。元からあたしの収録のために行く予定だったんだから。良い機会だしマリカと一緒に色々見て回ってみるわ』

「CDアルバムか。ようやくだな」

『あら、ウェイドもそこにいるの?』

「いるよ。アルバムがリリースされたらサインしてくれよな。ああ、ジェイソンも近くにいる。同じ部隊なんだ。毎日顔を突き合わせてるよ」

『仲が良いのね。妬けちゃうわ』

「安心しろフローラ。俺はこいつのケツには興味ない」

「僕も君のマグナムに興味なんてないよ。フローラ、準備は大丈夫?」

『何度も確認したわ。でもニューヨークって初めてだから道に迷うかもしれないわね。地図を見ても迷路みたいなんだもの』

「マジかよフローラ!ニューヨークが初めてだなんて!そりゃあ旅行で一週間は潰れるぜ!」

『だから見て回りたい所が沢山あるの。自由の女神とか、セントラルパークとか、タイムズスクエアとか、』

「あとはブルックリン橋とワールドトレードセンターと、そうだな、ロックフェラー・センターくらいか」

「ニューヨークには行った事はあるけど、ワールドトレードセンターとセントラルパークには行った事ないな。一緒に行ければ良かったんだけど」

『じゃあ帰ったら土産話を聞かせてあげる………2人とも気を付けてね』

 それまでの明るさから一転して、込み上げる感情を無理やり抑え込んでいるようなフローラの声にウェイドは無理に陽気な声を出した。カオルも声だけは明るく、まるで安全な場所で友人とトランプでもしていそうな調子で返事をした。

「ああ、勿論」

「大丈夫だフローラ。俺ちゃんとジェイソンもいるから、カオルは大丈夫さ」

『うん、マリカと2人で待ってるわ。愛してるわよカオル』

「僕も愛してる。君も気を付けて」

 ええ、という返事を最後に無線が切れる。

 途端にカオルは疲れた顔をした。背中を軽く叩くとその勢いで頭が風鈴のように揺れた。

「……大丈夫か?」

「うん。大丈夫」 

 

 服の袖で顔を拭ったカオルの顔は青白く、頬骨が浮く程に痩せていた。

 歩兵としてチームに参加しているカオルは今日までかなりの行軍を強いられている。少数精鋭のマークスマンであるウェイドの方が負担は大きいが、カオルの体力の無さを考えるとそろそろ倒れてもおかしくなかった。

 それに心理的なストレスも大きいのだろう。カオルは心優しく繊細で、とても軍人向きの性格ではない。濃い隈からすると数日は寝ていないように見えた。それなりに睡眠時間は確保されている筈だが、薄い寝袋に入り込んで深い眠りは得られない。休憩時間の今でもカオルの両手は小刻みに震えていた。長時間命の危険に晒されているせいで自律神経がおかしくなっているのかもしれなかった。

「お前は休憩してろ。顔色が酷いぞ」

「大丈夫だよ。むしろ君の方がずっとキツイ筈だ。昨日かなり無茶したって聞いてるけど」

「俺ちゃんは天才だから大丈夫さ。このままだったらクリス・カイルも越しちゃうよ」

「答えになってないよ……」

 溜息をついてカオルは頭を振った。呼吸が浅く早く、冷汗で体がびっしょりと濡れている。極度のストレス状態で診られる症状だった。ウェイドはカオルに配給のチョコレートバーを差し出した。

 甘いものはカロリー摂取に効率が良いだけでなく、心の栄養にもなる。黙ってカオルは受け取り、貪るように食べた。慰めるように背中を叩く。

「頑張れ。帰ったら美人な嫁の料理が食えるぞ」

「フローラの料理は大味なんだ……僕が作った方が美味しい。知ってるだろ」

「じゃあ帰って美人な嫁に手料理を食わせてやれ」

 言われずともフローラが料理下手である事はウェイドも知っていた。彼女の微妙な味の手料理を食べて、引き攣りそうな顔で美味しいと言って、むくれた彼女を宥めながら一緒にベッドまでもつれ込んだこともある。

 ウェイドはそうやって彼女を傷つけないように黙っていたけれど、カオルはきっとフローラがキッチンに入るとさりげなく隣に立って料理のアドバイスをしているのだろう。以前遊びに行った時に食べたフローラの料理はウェイドが知っているものよりも大分美味しかった。家によくやって来るウェイドとジェイソンに料理を振る舞う彼女の笑顔は、ウェイドが知っている彼女のどの笑顔よりも可愛らしかった。

 

 不幸な生まれ育ちをした彼女は現在ようやく確かな幸せを掴んだらしい。それはウェイドにとっても幸福な事だった。特にこんな悲惨な場所に居ると、自分が知る女性が平和の中で幸せを築いている事は奇跡の体現であるようにも思えた。

 そんな奇跡を引き起こした自分の友人が誇らしく、心配でもある。カオルはフローラの隣で奇跡のような幸福を噛み締めているべきで、こんな場所でこんな事をするような性質の人間ではない事は明らかだった。早く退役して料理の腕を生かして料理人になるなり、頑固で真面目な気質を生かしてどこかの企業に勤めるなり、ともかく軍人以外の職業に就いた方が彼の幸せだと思う。

 だが戦場のど真ん中で体と同じ位の大きさのライフルを抱きかかえる友人にそんな戯言を口にするのは躊躇われた。代わりに励ますようにカオルの肩を叩く。小さく笑ったカオルはチョコレートバーを齧った。

 

 そしてチョコレートバーがカオルの口の中に消えるのとほぼ同時に、鼓膜を裂くような爆発音が周囲一帯に鳴り響いた。

 思わず視線を爆発音の発信源だと思われる方向に向ける。続けざまに同じ爆発音と、白い光が周囲を照らした。肌が熱さを感じて毛穴が一気に開いた。網膜の神経が白い光を真正面から受けたせいで一瞬視界がホワイトアウトする。

 手探りで隣に座っていたカオルを庇い、背後の民家に体を押し込めた。地面に転がったカオルは呻きながらも体を起こそうと四肢を動かしてもがいている。

 何が、と口にする前に同規模の爆発が続いた。無線を耳に押し当てながらM4を握り締める。その間にも爆発は一定の間隔を置いて鳴り響く。許容量を過ぎた音量に鼓膜が引き攣れて痛んだ。焦りの滲む兵士達の声が、それでも混乱を抑えた冷静さを強調するように無線越しに反響した。

 

『第3区画に爆発物が投げ込まれた。現在戦闘中。一部の犯人は逃走。まだ何か隠し持ってる。即応隊を要請する』

『要請を了解。現地に向かう。現場近くのチームは実行犯を可能な限り捕縛せよ。狙撃班はそれぞれの判断に任せる』

「ラジャー。可能な限りね」

 地面に倒れたままのカオルを引きずり起こすと、カオルは痛む鼓膜に顔を顰めながらもはっきりと応えた。

「第3地区から逃げるならこの民家のすぐ裏を通る可能性も高い。狙撃するには一番難しい通路だ。そこで待機しよう」

「OK相棒、愛してるぜ」

 ぱちんとウィンクすると呆れたような顔が返ってきた。

 だがこんな時にこそふざけないと神経がやられるだろう。意図した通り、突然の襲撃に対して緊張のあまり強張っていたカオルの顔が少し解れていた。

 

 

 カオルとウェイドが崩れ込んだ民家は、丁度奥の部屋が路地裏に面していた。

 銃を構えて民家を横切り、薄暗い路地を映す窓に飛びついて2cmほどの隙間を開ける。視線を走らせるも人影は無い。

 ウェイドは隙間にM4の銃口を突っ込んで誰か通行人が来るのを待った。横目でカオルを見ると、端末を見ながら「接近中」と簡潔な答えを返した。

 その言葉を裏付けるようにバババ、パパパ、という連射音が段々と近づいてきた。民家の間を木霊して、実際よりも大きく聞こえる。汗が額から滲んだ。音は近づいてきている。グリップを握り締め、眼球に力を入れた。

 どおっ、と路地裏に人の塊が突入した。足音が乱雑に響き渡る。隙間から見えた人の塊の中に知り合いの顔が一つ紛れていた。顔を殴られたのか、口端から血を流しながらも一歩も引く事無く敵に食らいついている。

 悪魔の名前を持つ自分の友人は、普段は心優しく親切なクリスチャンだが、いざという時にはウェイドも驚くほどに現実的で容赦がない。そして優秀な兵士でもある。

 兵士が2人と、敵が3人。引き金に指をかけて、目を細める。乱闘の動きを読みながら引き金を引く。

 

 銃弾は真っすぐに敵の側頭部を射抜いた。すぱっという気持ちの良い音と共に、脳漿が地面にぶちまけられる。あっとこちらを見たもう一人も、次に放った銃弾で眉間をぶち抜いた。知り合いに向かってウェイドは叫んだ。

「捕縛しろジェイソン!!」

「大人しくしろ!!」

 ジェイソンは残った生き残りを地面に倒して、訓練通りの手つきで動きを封じた。もう一人の味方が手早く手足を縄で拘束する。拘束された男はその場に荷物のように横たえられた。

 ウェイドが殺した2人は外見からして争いごとに慣れた雰囲気をしていたが、残った1人は踝までを覆うゆったりとした長い服を纏い、動きは鈍重な中年男だった。

 見た目通りに男はあっさりと手足をぐるぐる巻きに拘束され、ジェイソンにされるがままに地面に頭を擦り付けた。

「Tolong bantu!Saya tidak ,elakukan apa-apa!A, Aku akan memberimu segalanya,」

「動くな!いいか、うごくな!Freeze!!OK?Right!?」

「R, Right, right, I don't move…チ、チガ、ワタシ、みんかんじん、てきチガウ、」

「話は後から聞く!!」

 顔色を真っ青にした男は何度もうなずいた。ウェイドとカオルが勝手口から路地裏に飛び出して、ジェイソンに拘束されたままの男のズボンと腹をぱんぱんと触って所持品を確かめる。硬い感触がポケットから帰ってきたために手を突っ込んだ。

 爆発物か、と一瞬緊張が走ったが、出てきたのは拳銃1丁と革財布だけだった。他に爆発物はない。銃を取り上げると、ジェイソンは男の両手を掴んで引きずり起こした。

「不審な男を3名発見。2名射殺。1名捕縛しました」

『場所は』

「第4ブロック民家です。英語が喋れないようだ。翻訳を要請する」

『すぐに向かう』

 簡潔な返事に頷き、ウェイドはジェイソンと共に民家の中へと男を引きずって戻った。

 

 

 

 

 

 

 

 話を簡単に纏めると、こうだ。

 男はこの地区の有力者で、熱心なイスラム教徒だった。

 しかし過激派とは縁もゆかりもなく、日に2回の礼拝や日常的な儀式など、一般的な宗教活動以外に従事した事はなかった。むしろ平穏な生活を乱す過激派の事を嫌っていた。

 だというのに民間人の退去命令が出されているこの地区にまだ残っていたのは、もし民間人が残っていた場合に軍やテロとの緩衝材となって民衆を保護する人物が必要だと思っていたからだった。

 命の危険があると知りながらその役目を買って出たのは、この地区の名士としての責任感だったらしい。激化するテロ活動を止める事ができず、結果的に大量の死人を出した事への罪悪感を感じていたそうだ。妻は既に2年前に病死しており、一人娘は遠くの街に嫁に出ていて心残りも無かった。

 そうして自分の家に居ると、過激派のメンバーが突如として家に押し入ってきて、アメリカ軍が基地にしている建物の間取りを教えろと迫ってきた。

 現在アメリカ軍が基地としている建物は、以前は公民館兼病院としての役割を果たしている比較的大きな建物だった。男はその構造を隅々までよく知っていた。そもそもその建物はこの地区に病院が無い事を懸念した男が数年前に私財を使って建てた物だった。

 真面目で暴力事を嫌う男は過激派もアメリカ軍も嫌いで、関わり合いにはなりたくなかった。しかし銃を向けられ、抵抗できない状態にされたために間取りを素直に教えた。

 その情報を得た過激派のメンバーは効果的に基地を攻撃できるポイントを割り出した。そこに爆弾を投げ込むと決定するや、自分もそれに協力しろと銃口を向けて詰め寄ってきた。

 協力しなければ、許されざる反逆者として無惨な死を迎える。遠くの街で平和に暮らしている娘も同じ運命を辿るだろうと。

 

 抵抗したら愛する娘が殺されるかもしれない。男は恐怖で顔を歪めながらも、先ほどまで自分に銃口を向けてきた男たちと一緒に大量の爆弾を背負い、予め決められていたポイントに設置した。

 しかし爆弾から十分に退避するや否や、何の躊躇もなくスイッチを押した過激派達と、目の前で起こった爆発と爆音に晒されるや否や途端に怖くなったため、突発的にその場を逃げ出してしまった。予定ではその場に残って拳銃でアメリカ兵を殺して回る予定だったが、それ以上の暴力は耐えられなかった。

 

 

 

「………話が合わんな。爆発を見てビビって逃げたんならどうして過激派の兵士2人も一緒だったんだ。あいつらは土壇場で逃げ出すような奴をノコノコと自宅まで送迎してやるような紳士じゃないだろう」

「Masing-masing adalah seorang ekstremis yang berusaha bunuh diri. Saya bukan teman saya.」

「彼らは自分を殺そうと追いかけて来た過激派で、自分の味方じゃなかった」

「おいおい、あいつら銃を持ってたのにわざわざお前を追いかけたのか?失礼ながらあんたは銃弾より早く走れるようには見えねえけどな。背後からパーン!それで終わりだろう」

「Mereka tidak pernah menggunakan senjata untuk membunuh pemberontak. Bor lubang di tengkorak dan bunuh, dan biarkan mayat itu berada di persimpangan jalan kota.」

「彼らは反逆者を殺す時、決して銃は使わない。ドリルで頭蓋骨に穴を開けて殺し、死体は街の十字路に晒す」

「逃げ出した奴を相手に悠長なこった」

 

 ウェイドは鼻を鳴らすように笑って銃口で中年男の頭を叩いた。民家の中は埃臭く貧相だったが、伝統的な模様を描かれた絨毯が床を覆っており、エキゾチックな雰囲気に満ちていた。

 だがそれもM4やM26MASSを背負った軍服の男達が、絨毯を泥だらけの軍靴で踏み荒らすまでの事だった。両手を拘束されたまま床に跪く男に冷やかな視線を向けて銃口を向ける。腹の出た中年男の顔色は白を通り越して青に変色していた。

 無遠慮に男の頭を銃口で叩くウェイドを窘めるようにジェイソンが眉根を顰める。

 

「止めろウェイド。彼は被害者だ」

「こいつの話を全面的に信じればの話だろう。それにあの爆発で13人死んだ。こいつは消極的な協力者だ。同情する余地は無いと思うけどな」

「そう、消極的な、だ。まだ救われる余地はある。少なくともキリスト教では間違いを犯した者にも必ず救われる道がある。勿論異邦人もだ。ヨナの物語は知っているだろう?」

「お前はこいつに改宗を勧めるべきだよジェイソン。だが今は宗教談義をしている暇はねえ」

「君の言う通りだウェイド。今は情報を引き出すのが先だ」

 

 ジェイソンは瞳を鋭くしてじっと男を射抜いた。真っすぐ過ぎる瞳の色に男がたじろぐのが見えた。

 男の気持ちがウェイドにはよく分かった。人間にあるべき薄汚さ、私欲や躊躇い、臆病さ、そういったものが無い視線は、後ろ暗い所がある人間にとっては暴力に等しい。ジェイソンの瞳はこの戦場にあって酷く異質なものだった。

 男の前に座り、ジェイソンは静かな表情のまま男の顔を覗き込んだ。

「知っている事を全て話せ。話したら安全な場所まで送ってやる」

 淡々とした言葉に、男は額に汗を流しながらゆっくりと頷いた。

 

 

 

 

■  ■  ■

 

 

 

 

 男から得た情報より判別した、テロの隠れ場所らしき民家へSMGを装備した兵士達が俊敏に駆けていく。

 彼らを見送った後に、ウェイドはがくがくと怯え続けている男を乗せた軍用トラックの荷台に乗り込んだ。一応は安全だと思われている地区まで片道で3時間はある。舗装されていない道は重量のある軍用トラックをも兎のように跳ねさせる。

 荷台には拘束されたままの男と、ジェイソンとカオル、それとウェイドの3名が乗っていた。森近くの道であるために木々が時折視野を塞ぐ。しかし一本道には迷う要素が全く無かった。

 

 ウェイドは煙草を咥えて空を見上げた。気持ちが良い程に青く抜けた空だ。地上の喧騒からは酷く遠く、こちらを見下ろして馬鹿にするように雲が空を通り過ぎていく。

 こんな状況でなければ良いピクニック日和だと笑顔にもなっただろう。だが状況は戦場を突っ切るトラックの狭い荷台に4人の男がむさ苦しく並んでいるという最悪なものだった。吸っている煙草も心なしか普段より不味い。

 煙を吐き出すと安っぽい草の臭いが鼻孔を擽る。ウェイドはぼやくように声を上げた。

「安全圏まであと2時間ってところか。帰るまでには全部終わってそうだなあ」

「そうなっていればいいけどな。まあ実行犯は全部で6人で、お前が2人殺したからそう長くもかからんだろう」

「だと良いが……おいあんた、大丈夫か?」

 びくびくと震えている男の顔をジェイソンは覗き込んだ。

 あれから表情一つ変えず、執拗で徹底的な尋問をしたジェイソンが親切そうな青年の表情で話しかけてくるなど男にとっては軽いホラーのようなものじゃないかとも思ったが、ウェイドは賢明にも口には出さなかった。

 この友人が為す事は全て善意から来るもので、怯える男を心配しての行動である事は分かり切っていたからだ。友人は厳つい見かけによらず繊細なので「お前のやってる事はホッケーマスクを被ってチェーンソーを持ったモンスターと同じ位に相手を怖がらせる」という事実を伝えると落ち込んでしまうだろう。

 怯える眼でジェイソンを見る男に何を思ったのか、ジェイソンっはゆったりとした声で優しく話しかけた。

「もう大丈夫だからそう怯えるな。俺達はあんたを安全な場所まで送るだけだ。暫くはそこで軟禁させてもらうことになるが、潔白が証明されればすぐに開放される。奥さんにも会えるさ」

「だからそうやって子猫ちゃんみたいに震えるのを止めろ。レディーならともかく、あんたみたいな良い歳したおっさんがビビッて目を潤ませても気持ち悪いだけだ」

「ウェイド」

「事実だろうが。いつまでもビビられてたらこっちもあんたを護る気が失せちまう。ただでさえ、あんたはまだ容疑者なんだからな」

 軍に支給される煙草は不味い。まだ残っている煙草の火をトラックの荷台に押し付けて消し、ウェイドはぽいと投げた。

「全く神様とやらのために毎日毎日お辞儀して良く分からん呪文をむにゃむにゃと唱えて、何が楽しいのやら。あんたに一度も声をかけてもくれないアッラーのためによくもまあ馬鹿馬鹿しい奉仕ができるもんだな。それともあれか、死後の世界とやらのためか。良い事をしてたら天国に行けて、悪い事をしたら地獄に?それじゃあ人殺しのために爆弾運んだあんたはどうなるんだろうな。それとも「神様のため」だったら人殺しはノーカンで、天国行って美人な処女を貰って万々歳って訳か。馬鹿馬鹿しい」

 鼻で笑うと男はピクリと肩を揺らした。怯えた瞳に微かな反抗が見えた。しかしぎろりと睨むと僅かな反抗は姿を消した。

 その代わり、顔を少しひきつらせたジェイソンが小さく息を吐いた。

「……ウェイド」

「何だよ」

「僕はクリスチャンだ。だから止めてくれ」

「何で」

「君の理論で言うと、神託を受けていないのに敬虔な信仰を持つ人は皆気が狂ってる事になる。僕も含めて」

「そりゃあ悪かった」

 肩を竦めてウェイドは口を閉じた。

 ジェイソンの強い信仰心を全くもってウェイドは理解できないが、この好青年の気が狂っているとは全く思っていない。過剰にお人よしでやや口煩いが、ジェイソンは気の良い奴だ。

 

 ジェイソンのこの気質を作ったのは宗教かもしれないが、ウェイドがジェイソンを見る目には宗教のフィルターはかかっていない。人が成長する過程に宗教は多かれ少なかれ全ての人が、ウェイドでさえ、影響されているが、その結果どんな人間になったのかは宗教には関わりが無いことだ。

 

 だからウェイドは、宗教が人を差別する原因になり、それどころか戦争の源にもなるという理由を全く理解できなかった。この戦争も、なんて馬鹿馬鹿しいのだろうという感想以上のものを抱けない。

 まだ領土を争ったり、エネルギー資源を奪い合ったり、戦争特需で儲ける企業から圧力を受けて勃発する戦争の方が理解できる。ウェイドにとっては死後の幸福よりも、より即物的な利益の方が重要性が高く、理解がしやすいものだった。

 カオルは会話についていけないのか目を白黒としている。

 大方の日本人らしくカオルはブッディストらしい事をウェイドは知っていたが、宗教めいたものをカオルから感じた事はなかった。こうして宗教を原因とする戦争の最中にあってさえ、カオルは目に見えない神を信仰する人々の気持ちに共感するどころか、欠片も興味を抱いていないらしい。

 その見事な程の無関心ぶりは、生まれ育ちから(主に母親のせいで)宗教に対して否定的な見解を持つに至ったウェイドとは異なり、宗教とは無縁の生活をしてきた事が理由なのだろうと思われた。否定も肯定もなく、ただ理解ができないし、興味もない。カオルにとって宗教とは趣味嗜好の範囲を出ないものなのだろう。

 

 敬虔なクリスチャンのジェイソン、宗教に無関心なブッディストのカオル、宗教嫌いであり無宗教のウェイド、そして生粋のイスラム男が、過激派が暴れている戦線で同じ場所に居て、尚且つ同じ場所を目指しているのだから中々おかしな状況だとウェイドは思った。

 宗教の色が濃い状況だというのに、誰も天国だの地獄だのコーランだの聖書だのを口にしない。ただトラックの荷台で揺れながら、神の怒りではなく銃口だったり爆弾だったりを警戒している。

 それはこの場にいる全員が神様とやらに対して、自分の頭の中で既にある程度の折り合いを付けているからなのだろうとウェイドはぼんやりと思った。現実と宗教について、どこまでどちらを優先して、どこまでどちらのために行動するかをとっくの昔に決めている。だから誰かに何かを勧めるつもりも無いし、何かを勧められても変わらない。

 

 ウェイドは宗教のために裂く自分の労力の割合は0%で、これから先にこの割合が変わる事はまず間違いなく無い。口には出さないが、カオルも自分と同じ筈だ。

 カオルがイスラムの男を見る時、顔には理解不能なものを見る怪訝な表情が浮かんでいた。

「まあ、宗教は自由だけどさ。でも他人に押し付けるのは良くないよ。誰が何を信仰しても自由なんだから、拒否する自由もあるべきだ」

「……全世界の人がお前と同じ考え方だったら宗教戦争はなくなるだろうな」

「そうなんだろうけど、宗教で心が救われている人もいるだろうから、そうそう誰もが簡単に譲る事はできないんだろうね。でもだからって戦争まで起こす必要もないだろうに。話し合いで済ませれば良いだけの事じゃないか」

「お前の話し方はミサに一度も連れてって貰った事のないプライマリースクールの子供と同じだな」

「プライマリーはともかくミサには一度も行ったことが無いよ。フローラも無宗教だしね」

 あはは、とカオルは乾いた声で笑った。ジェイソンもつられて笑った。

「カオルはイスラムの考え方に違和感があるのか?まあ、あんまり日本人には身近な宗教じゃないよな」

「正直僕はイスラム教だけじゃなくてキリスト教もよく分からないよ。日本でもクリスマスを祝うけど、あれは単なるお祭り騒ぎだし、そもそも宗教っていうものが良く分かってないんだと思う。知識としては知ってても、週末に教会に行くとか、食事の度にお祈りをするっていう感覚が無いから」

「日本はシントーとかいう多神教の国だったな。キリスト教は馴染みが無いか」

「いや、日本人の殆どの人が仏教徒だと思うけど、でも法事とお盆以外に何の関りも無いし、結婚式だって最近じゃあほとんど教会で挙げるし、なんていうか……あんまり興味がないんだろうな。宗教が無くても生活できるから」

「…………ジャア、シゴのセカイは、ドウナル、思う?」

 これまで石像のように黙りこくっていたイスラムの男はカオルに目を向けてポツリと呟いた。声は小さかったが、ジェイソンに向けるような明らかな怯えは無かった。

 まず間違いなく、この男にとってここまで宗教に無関心な人間と遭遇したのはこれが初めてなのだろう。男の視線には軽蔑と好奇心が半々の割合で含まれていた。

 人の機微に聡いカオルはそれに気づいているのだろうが、全く気分を害した様子も無く、少し考えてから口を開いた。

「僕は生まれ変わったりするんじゃないかと思ってるけど、輪廻転生って言うんだっけ」

「ブッディストの考え方だな。解脱を目指して現実で苦行を重ねるという」

「いや、別に解脱とかはよく分からなくて……なんだかちょっと違うかな。仏教の考え方なんだろうけど、もっとシンプルな……そうだね、僕はまだ死にたくないから、死んだらまた人生をリトライできるっていう自分に都合が良い考え方を信じているのかもしれない。そうやって無意識の内に精神の安定を図っているんだろうな。死んだ後の事を真面目に考えると怖いから」

「日本じゃあスーツを着た閻魔様に界王様の所へ行く道を教えて貰うんじゃねえの?」

「それはドラゴンボール」

「じゃあ死神に尸魂界に連れて行かれるか、もしくは地上に留まって虚になるか、」

「それはBLEACH。流石に日本人でも漫画の世界をリアルだと思ってる人は居ないよ……多分」

 息を吐いたカオルは、これで良いか、と男を見た。

 男は不可思議なものを見るような視線をカオルに向けたが、何も言葉にすることは無かった。内心では、自分の信じたいものを信じると言ってのけたカオルを軽蔑しているのかもしれない。だが男は口を閉じて一度頷いた。

 男の視線は今度はウェイドに向いた。

「あなたハ?」

「俺は無宗教だ。天国も地獄も無いし、死んだら何もなくなるだけだと思ってる。アメリカじゃあ珍しくも無い考え方だ」

「……じゃあ、なにヲ信じてル?」

 男の視線を受けて、じっと睨み返す。

 国の命令を振りかざして人殺しを繰り返す無宗教の軍人の心情に興味でも湧いたのか。確かに敬虔なイスラム教徒の男からしてみれば自分は未知の生き物に違いないだろう。男はウェイドの軍人らしく鋭い視線に少し体を震わせながらも視線を逸らせる事は無かった。

 何を信じているか。宙を見上げる。

 

 母はクリスチャンだった。そのせいもあって、ウェイドはキリストの神を信じていない。あれだけ祈ったにも関わらず、神は父の暴力から母を護らなかった。

 だから神なんて存在しない。もし存在していたとしても、大嫌いだ。気分屋で依怙贔屓の酷い奴だ。もしくは無力な人間を見下ろして嘲笑っているような性根の腐った奴だ。

 上からこちらを見ているだろうに、神は一度も哀れな自分を助けてくれなかった。父親に暴力を受けている時も、その存在を欠片たりとも感じることは無かった。家の外の木に縛り付けられて、殴りつけられた頬を雨が打つ痛みに涙を流した時も、濡れた頬を拭ってくれた事は終ぞなかった。

 昏い夜を拒絶するように閉じた瞼の裏で閃いたのは、十字架でもジーザスでもなかった。もっとより身近で、現実的でありながら、遠い存在だった。

 子供の頃の自分を助けてくれたのは——————

 

「……キャプテン・アメリカ?」

 ふと口に出した。無意識の言葉だったが、それは間違っていないように思った。

 何かを信じれるとすれば、それはキャプテン・アメリカだ。言い換えれば、きっと誰もが納得する正義を為してくれる人がこの世界にはいるに違いないという祈りだった。ウェイドが何かしらの宗教を信じているとすれば、それはヒーローという名前の宗教だった。カオルはぱちくりと目を見開いた。

「君の神様はキャプテン・アメリカ?」

「さあな。でもキャプテンは敬虔なクリスチャンだから、俺ちゃんみたいな考え方は唾棄すべきだと思ってるかもしれねえな」

 小さく笑う。馬鹿馬鹿しい考え方だ。コミックスの中の英雄に心酔するなんてティーンの子供でもあるまいし。でもそれが自分の内心を表すのに最も適切な表現なのではないかと思った。

 意味が分からないとイスラムの男は首を振った。その瞬間に爆発音が周囲に鳴り響いた。

 

 

 トラックが横転する。視界が反転して、重力が身体を地面へ叩きつけようと押し寄せて来た。咄嗟に隣に座っていたカオルの体を引き寄せる。

 体が宙に浮かび上がる奇妙な浮遊感の後に、爆音が再度響き渡った。熱気が全身を襲う。カオルを身体の下に敷いて庇い、ウェイドは歯を食いしばった。1日に2回も爆発で吹き飛ばされるのは初めてだと冷静な部分の頭で思った。

 爆発音が途切れた隙に頭を上げると、横転して燃え上がるトラックが見えた。割れたフロントガラス越しに見えた運転席と助手席は血塗れだった。

「ジェイソン、ジェイソンどこだ!」

「俺はこっちだ!」

 そう遠くない位置でジェイソンは男を身体の下に庇いながら地面に伏せていた。

 ジェイソンには大きな怪我は見られず安堵の息を吐くも、その身体の下に庇われている男は口からピンク色の舌をだらりと垂らし、首から上を180度回転させていた。爆発で吹き飛ばされそのまま地面に首を打ち付けたのだろう。

 保護対象を殺された。舌打ちする。任務失敗だ。

 それだけではない。武装はしているものの、車が無くなった。安全圏まで行くにしても基地に戻るにしてもかなりの距離がある。危険な行程になるだろう。通信機で救助を頼むにしても、そう長く持ちこたえられるかどうか。

 せめて身を隠そうとジェイソンに向かって森を指さすと、ジェイソンはこくりと頷いて駆け出した。

 

 身体の下に敷いたままのカオルを担ぎ上げて、走る。

 だが数歩もしない内に背後からパパパ、と音が連続で鳴った。銃弾で皮膚が破れ、肉が裂ける鈍い音がした。

 

 ぞっとした。ウェイドの身体に痛みは無かった。カオルを担いだ背中に温い液体が伝って落ちる感触がした。

 カオルからくぐもった声が数語聞こえたが、その意味を今は深く考えたくなかった。ただ体中から血の気が引いた。

 そんな訳は無い。きっと銃弾が皮膚を掠っただけだ。すぐに手当てをすれば良い。そう自分に言い聞かせながら、森に向かって走った。そうしなければ足を止めてその場に崩れ落ちそうだった。

 森に入った後も外から姿が見えない位置まで走った。その間一言もしゃべる事は無かった。カオルの浅く速い息が耳元で反響していた。

 

 ジェイソンはウェイドより少し遅れて走っていた。犬のように疾走するウェイドに付いて行くのは容易では無かったが、ウェイドは肩にカオルを担いでいたためになんとか付いて行く事が出来た。

 だがそれでもウェイドの脚力は尋常ではなかった。草に足が擦れる微かな音以外には音を立てることもなく地面を滑走し、地面に足跡を残さない足さばきで銃弾を避けるようにジグザグに軌道を描いて走った。

 

 数十分は走っただろうか。銃声は聞こえなくなり、周囲には足音も無かった。

 静かな森の中でウェイドはカオルを湿った地面の上に横たえた。ジェイソンもウェイドの隣でカオルを覗き込むようにしゃがむ。

 深い森の中は草の青い臭いがした。土は故郷を思い出させるような豊かさで、カオルの軽い身体を柔らかく包んだ。鳥の声が小さく響いていた。カオルは目を細めて、木々の隙間から零れる太陽の光を見上げていた。

 カオルの胸の近くから血が迸り出ていた。元々不健康気味な白い頬は蝋のように青白く冷めていた。手を握ると、冷たかった。この国中に漂っている死の臭いがカオルからも臭った。

 ジェイソンとウェイドは、鼓動に合わせて噴出する血液を抑え込むように胸に両の手を当てた。しかし4つの手のひらの隙間から血液は休むことなく流れ出ていた。ジェイソンの両の瞳からぽたぽたと涙が落ちてカオルを濡らしていた。嗚咽を抑え込んでいるジェイソンに、ウェイドは何も言えなかった。

「水」

 囁くような声がカオルの口から聞こえた。ジェイソンは黙って鎮痛薬をベストから取り出し、カオルの口に放り込み、水筒のキャップを開けてカオルの口の傍まで持って行った。カオルは唇から水を零しながらも錠剤をのみ込んだ。

「カオル、痛いか」

「……驚いたよ。思っていたより、痛くない」

 カオルは静かに目を閉じた。微かに動く唇は白かった。目を閉じたままカオルは言葉を続けた。これまで何度も練習したかのように、その言葉は淀むことなくカオルの口から零れ出た。

「ウェイド、フローラを頼む。僕が死んだら良い人と再婚してくれと、遺書には書いてあるから。君なら……」

 かっと頭に血が上る。ウェイドはカオルの頬を全力でひっぱたいてやろうかと思った。なんて馬鹿な事を。

 

 フローラの夫はカオルだけで、マリカの父親もカオルだけだ。2人の家族にカオルは心から愛されていた。カオルが2人を愛するように、2人の愛はカオルのものだ。そうそう簡単に他の誰かが代われるものじゃない。カオルの言葉は2人の愛を軽いと言っているに等しかった。

 

 怒りのままに手を頭の上まで振り上げる。しかし青白い顔をして最期を待つ親友を見ると、その顔を歪めるような暴力を働くなど出来る訳が無かった。振り上げた手はカオルの黒い髪を梳いて終わった。

 例えいくら正当な暴力だったとしても、親友の最期はせめて安らかであるべきだ。聡明で寛容で、少し不器用な親友に、ウェイドはいつものように揶揄うような口調を混ぜて言葉を返した。

「馬鹿な事を言うんじゃねえよ。マリカはどうするんだ。俺はあいつのジーニーだぜ?パパじゃない」

「頼むよウェイド。君なら、僕は許せる……ジェイソン、ウェイドを頼む。こいつは優秀だけど、無謀で馬鹿な奴だから」

「分かった。分かってる。大丈夫だカオル」

 涙を零しながらジェイソンは頷くと、カオルのドックタグを胸から取り外してウェイドのポケットに突っ込んだ。

 穏やかな顔をしていたカオルは最後に顔を小さく歪めて、「死にたくない」と呟いた。その言葉を最後に目を閉じて、動かなくなった。

 

 ウェイドはカオルの顔についた泥を拭って、一度深く息を吐くと、ポケットの中身を漁った。標準装備の手榴弾と予備の弾倉、コンバットナイフ、そして救急キットを取り外す。

 友人が死んだというのに酷く冷静な自分がおかしかった。ブートキャンプでバトルバディーになってから、もう3年以上経っていた。カオルの事を親友だと思っているし、思われていただろう。結婚式でスピーチもした。カオルの娘の名付け親にもなった。それなのに自分は今冷静に、自分とジェイソンが生き残るためにカオルの装備を剥いでいる。

 とことん自分は兵士に向いていると、皮肉な事を思う。そんな余裕があるのもおかしかった。こんな薄情な男だとカオルは知っていただろうに、自分の愛する妻と娘を任せようと考えたカオルは、何をもって自分をそんなに高く評価していたのだろうか。

 

「ジェイソン、基地に連絡を」

「分かった。どこからバレたのかは分からないが、連中が追ってくるのは間違いない。移動するぞ」

「ああ」

 ジェイソンが鼻をすする音は聞かない振りをした。

 横たわるカオルの黒くて短い髪を一房切り落とし、ウェイドは医療用のガーゼに包んでドッグタグと一緒に心臓に一番近いポケットに詰めた。胸の奥が苦しくて呼吸をするのも困難だった。だが何も声に出すことはなく、ただ歯を食いしばった。

 親友の死による哀しみを状況も考えず露わにできる程にウェイドは情に篤くはない。どんな時でも冷静に動く事ができるという、非常に兵士に向いている特性をウェイドは有していた。

 しかしウェイドは友人の死に何も思わない程に冷血漢でもなかった。友人が突然、あっけなく死んでしまった事に納得のできる説明を付けて、簡単に飲み込めるように加工するための宗教への信頼もなかった。

 冷たいのか熱いのかもよく分からないが、狂ったように心臓を打ち鳴らす胸に拳を押し当てて、ウェイドは何かに祈った。何かは、少なくとも神ではなかった。ただカオルのために祈った。片手に握るSMGの冷たい感触だけがウェイドの祈りを強く受け止めてくれた。

 

 乾いた銃声が2発鳴った。反射的にウェイドとジェイソンは草むらの中に身を潜めた。

 厚く生い茂る葉の隙間から目を凝らすが、銃を構えている敵の姿は見えない。ただ銃を乱射している音だけが響き渡っていたため、敵が居る方向ははっきりと分かった。

「基地は何て?」

「敵本部への突入作戦を決行したが、もぬけの殻だったらしい。既に逃げ出した後だったとか。元々あの男は使い捨ての駒だったのかもしれないな」

「Shit, shit, shit, こっちが本命ってことか?」

「かもしれない。裏切者の制裁か」

「頭蓋骨にドリルで穴を開けて十字路の真ん中に晒すんじゃねえのかよ!」

 敵が居るだろう方向に向けて発砲する。短い悲鳴が聞こえたが、銃声の音は止まなかった。

 足音に耳を澄ませると、少なくとも7, 8人以上は居そうだった。一人が痛みのあまり地面にのたうち回っているらしく土が擦れる音がしたが、誰も痛みに悶える仲間を気にすることなくこちらに注意を向けている。

「どうして宗旨替えをしたのか分からないが、今はそんな事を気に掛けている場合じゃない。逃げよう」

「賛成だ畜生め」

 この状況では分が悪い。逃げるしかない。そう分かっていながらも、ウェイドの頭にあったのは、車両も無く、土地勘も相手の方が上の状態で逃げるのは困難なのではないかという焦りと、置き去りにしたカオルの遺体だった。

 まさか遺体まで荒らすような事はないだろうと願いたかったが、アメリカ軍が彼らにやらかした事を思い返すと、軍服を着ているアメリカ人の遺体を辱める事は彼らにとって心を痛めるような悪行ではないだろうとすぐに分かる。同じ人種のイスラム教徒を躊躇なく殺すような連中であれば猶更だ。

 殺されたあのイスラムの男は最後に神を思ったのだろうか。自分を殺した連中が崇めているような神を。そう一瞬思い、すぐに息を吐いた。そんなの、今はどうでも良い事だ。

 

「援護が車でどう見積もっても30分はある。それにこの森はそう広くない」

「そうだな。それに奴ら、銃弾を消費するのが趣味のようだ」

 こちらの姿を確認もせずに発砲を繰り返す連中のおかげでこちらの声や足音はかき消されているが、それでも確実に距離が詰められているのが分かる。今の所は物陰に隠れながら移動してやりすごしてはいるものの、直ぐに限界が来るだろう。

 しょうがない。ウェイドは銃を構えた。

「一人があいつらをひきつける。一人が逃げる。OK?」

「NOだ。馬鹿かお前は」

「馬鹿じゃねえよ。JapanのDEMON島津が考えた、SUTEGAMARIっていう立派な戦法だ。本隊を逃がすために少数が犠牲になる、まさにThe Americaな戦法さ。古今東西戦に狂ってる奴らは発想が同じって訳だ」

「俺達は今2人だ。どっちが多数なんだ」

「お前が多数に決まってる。俺とお前なら生き残るのはお前の方が相応しい。それに俺なら敵を皆殺しにして生き残る可能性がある。ほら、俺ちゃん優秀だし?」

「無茶だ馬鹿!」

「それじゃあ頼んだぜ」

 ポケットからガーゼに包んだカオルの髪とドッグタグを取り出して、ジェイソンのポケットに突っ込む。

 ウェイド!と叫ぶ声が背後から聞こえてきたが、ウェイドは軽く手を振って応えるに留めた。

 

 

 

 敵に向かって走る。方向は分かっている。物陰に隠れながらとは思えない速度で、足音を殺してウェイドは走った。

 銃声が大きくなる。だがこちらには気づいていない。微かに揺れる葉の動きを見て、どのあたりにいるのか見当をつける。

 一番大きく葉の動く位置に銃口をぴたりと向けて発砲した。くぐもった悲鳴と、地面に倒れる音が聞こえた。

 動揺の声が小さく上がり、その方向に向けて走る。一瞬前まで自分が居た地面に小さな穴が空いて、微かな煙が立っていた。

「Bunuh musuh Tuhan!Bunuh musuh Tuhan!」

「Anjing, American!」

 銃声が木々に反射して方向が分からなくなる。目を細めて、走りながら引き金を引き続ける。

 腕は痙攣して、寸断なく聞こえる銃声に神経が震えた。顔の横を銃弾が横切った回数は1度や2度では無かった。これまでになく死を身近に感じた。だがそれでもウェイドは銃を手放すことなく戦い続けた。

 

 あと何人だろう。最初に聞こえた足音からは確実に少なくなっているが、それでも人数ははっきりと分からない。

「Saya menemukannya!」

 はっと振り返る。一人がウェイドの背後に回っていた。銃声のせいで聞こえなかったのか。

 距離にして10mもない位置から銃口を向けられている。反射的に横に飛んだ。脇腹を銃弾が掠めてぱっと血が散った。

 横に飛びながらも銃口を向けて、引き金を引く。ヘッドショットが綺麗に決まり、脳みそが地面に飛び散る。

 

 だが男が叫んだ言葉は周囲に響いており、踵が地面を蹴る音が幾つも聞こえた。脇腹から血がどくどくと流れているが、アドレナリンが放出しているせいで痛みは感じない。ただ酷く思考が澄んでいた。

 銃声が鳴る。横に飛んで逃げるが、今度は太腿を一発の銃弾が貫通した。一瞬焼け付くような痛みが走り、その場に倒れた。

 地面に倒れながらも銃を撃つ。だが足音が近づいて来る。死の音だ。死の音は草の擦れる音と、泥を弾く靴の音をしていた。ウェイドは冷静にその音に耳を澄ませた。

 十分前のカオルもこんな気持ちだったのだろうか。恐怖はそう大きくは無かった。ただ体の芯が酷く澄んでいるような気がした。泥の臭いと血の臭いで環境は最悪の筈だが、妙に気分が爽快だった。

 

 味方を助けるために一人残って敵と対峙するなんて、キャプテン・アメリカみたいだ。

 場違いな微笑みが浮かんだ。そうだ。自分はこうなりたかった。ずっと子供の頃から、こうなりたかったんだ。

 小説の挿絵を今でも鮮明に思い出せる。埃臭いシーツに包まれて、ドキドキしながらページを捲った。ヒトラーと戦うキャップ。悪と戦う分かりやすい正義。万人から価値があると認められる、尊敬と親愛を一身に受けて当然だと納得できる人。

 泥だらけになりながら銃を撃つ今の自分には、彼と同質の価値があるようと信じられた。田舎で両親から虐待されていた小さな子供が、英雄とまでは言えなくても、少なくとも自分で自分を誇れる程度の男にはなれたのだ。

 上等な人生じゃないか。

 ジェイソン。悪い、カオルをフローラに届けてやってくれ。俺はここに残る。

 呟いて死の音が近づいて来るのを待った。SMGは残弾が尽き、拳銃を構えた。

 草の擦れる音が近づく。耳になれない外国語の声も一緒になって頭上から降ってくる。ウェイドは目を閉じた。

 

 銃声が鳴った。同時に数人の男が崩れ落ちる音が聞こえた。

 頭をもたげると、ジェイソンが立っていた。息を切らしてウェイドを見下ろしている。額からは大粒の汗がいくつも噴出されていた。

 ジェイソンはその場に足をついて、ガーゼの包みをウェイドに押し付けた。

「走れ、ウェイド」

「馬鹿野郎め」

 乾いた笑みを零して、ウェイドは宙を見上げた。そうとう悪運が強い星の下に自分は生まれてきたのだろう。

 そしてどうやってもヒーローにはなれない運命らしい。太腿を貫通した銃弾は太い動脈や神経を傷つけることはなかったようで、立ち上がると強烈な痛みは走ったものの、歩けないことはなさそうだった。

 ガーゼをポケットに入れて周囲を見回す。遠くからまだ敵の声が聞こえた。

「ジェイソン、逃げるぞ」

「いや、無理だ」

 ジェイソンはほら、と自分の腹を指さした。軍服をじっとりと血液が濡らしていた。ぞっとするような量の血液だった。ああ、もう助からないな、とウェイドはその姿を見て直ぐに察した。だがそれを認める事は出来なかった。

 ジェイソンはその場に力なく倒れて、頬を泥で汚した。慌ててその隣に膝をつく。

「逃げてる途中で撃たれた。それで、もう助からないと思って無様に戻って来た訳だ。正直もう一歩も動ける気がしない」

「……じゃあ担いでやるよ」

「その足で?」

「無理じゃないさ」

 ジェイソンの腕を掴んで引き上げようとすると太腿に鋭い痛みが走り、そのままウェイドも泥の中に顔から突っ込む羽目になった。頭をぶつけた衝撃で視界が回るように揺れる。強かに全身を叩きつけられた痛みは気絶しそうな程に強烈だった。

 痛みのあまり呻き声をもらすウェイドに、ほらな、とジェイソンは呆れ半分嘲笑半分といった表情で片眉を上げた。

「諦めろ、ウェイド。俺も、そろそろ気が遠くなってきた」

「馬鹿言うんじゃねえよ。俺みたいな奴より先にお前が死ぬなんてことあるか」

 吐き捨てるように言っている間にも、ジェイソンの顔色が段々と先程のカオルの白い色に近づいていく。表情は溶け落ちて、凡庸ながら人の好さそうなジェイソンの顔立ちだけが顔面の上に残っていた。

 澄んだ瞳の色が徐々に光を無くしていくのを間近で見て、もうジェイソンは駄目だとウェイド察した。

 しかし、それでも諦めたくなかった。カオルは死んでしまった。その上もう一人の友人までが死に、自分一人で生き残ってどうやってフローラとマリカに会いに行けば良いんだ。

 

 もう一度立ち上がろうと足を踏ん張る。震える足に鞭打ち、なんとか両の足で体を支えた。しかし自分の体重以上の物は1gも支えられないような気がした。血がだらだらと流れ続けている太腿を手で抑えながら、ふらふらとジェイソンに近寄る。

「帰るぞ、ジェイソン。アメリカに帰ろう」

 さあ、と手を伸ばす。目を見開いたままのジェイソンは、何の反応も返さなかった。ウェイドが伸ばした手は震えていた。

 

 こん、と音がした。振り返ると、口から血を吐き出して、目も虚ろな敵が、震える指で手榴弾のピンを抜いている光景が見えた。

 咄嗟に近場の木の影に倒れ込む。それとほぼ同時に、爆発音が鳴り響いた。

 背中を焼くような熱が次の瞬間にウェイドを襲った。軍服越しでも肌を焼きそうな熱に身もだえる。

 しかしそれでも、爆発音が止むと、直ぐにウェイドは痛みを堪えながら足を引きずりながらその場から逃げた。後ろは振り返らなかった。ドックタグと髪の入ったガーゼの小さな包みを、ポケット越しに指でなぞった。

 ごうごうと木々が燃える音が背後で鳴っていた。

 

 

 

 

 

 

■  ■  ■

 

 

 ウェイドは援護に来た即応部隊に拾われ、安全圏にある医療施設で治療を受けることになった。

 脇腹と太腿から失血してはいたものの致命的と言える程ではなく、数単位の輸血と縫合のみで処置は済んだ。ただし銃弾は綺麗に貫通していたとはいえ損傷した筋肉が直ぐに回復する訳も無く、数か月は歩行が難しいだろうと医者からは説明を受けた。

 適切な医療機関での治療とリハビリを受ければ半年程度で元通りに走れるようになるだろうと説明を受け、ウェイドはどこか他人事のように頷いた。

 

 早々にアメリカへの帰還が決定したウェイドは、輸送機を待つまでの数日間をベッドの上で過ごした。

 同じ病室には知り合いはおらず、ウェイドは一人でテレビを見たり、本を読んだりして暇を潰していた。昔、小さなバーでショーをしていた黒人が超人気アーティストとしてテレビで素晴らしい歌声とピアノを披露している映像を見て、そう言えばジェイソンとカオルと初めて飲みに行った時に見たアーティストであることに気付いた。

 あの時にカオルはフローラと初めて出会ったんだったか。

 自分とよく似ているフローラがカオルを選んだ理由は、何となく分かる。カオルは本当に良い奴だった。冴えない外見とは裏腹に、熱い心を持っていた。誠実で頭が良く、友人思いな男だった。

 あんな泥の中で血を噴出して死ぬような男じゃなかった。

 ジェイソンもそうだ。心優しく高潔で、珍しい程に純朴な男だった。学校の教師として沢山の子供たちを導き、守っていくのに相応しい人格と能力を併せ持つ男だった。あんな奴が、銃を握って敵に向ける事自体が間違っていた。

 とっくにその事実に気付くべきだったのだ。その機会は何度もあった。少なくとも、あの2人とは違って兵士が天職だと明言できる自分だけは、その事実をはっきりと2人に指摘するべきだった。

 しかし自分達が初めて出会った時、自分はまだ実戦を知らない若造で、こんな事があるとは思っても居なかった。勿論理屈として兵士になるというのは死と隣り合わせだという事を理解してはいたものの、その現実はどこか霧がかった向こうの世界の事のように思っていた。

 楽観視していたのだ。死はいつも隣にあった。神に祈ることで死への恐怖を克服する人々の気持ちをウェイドは全く理解できなかったが、それはウェイドの精神が人一倍頑丈だったからなのではなく、死をどこか遠いもののように思っていたからだった。

 子供の頃の方がずっとウェイドは死を間近に感じており、その恐怖はキャプテン・アメリカに縋りつかなければ耐えられない程だった。その事実を忘れていた。

 

 2人が死んだ責任は自分にある。その責任を、自分は果たさなければならない。

 自分が何をしなければならないのかよく分かっていた。しかしそれでもカオルの遺髪とドックタグを片手に、もう一本の手に携帯を持ってアドレス帳を開いているといつの間にか一日が終わってしまっているのだ。

 明日には本国に帰る。ウェイドは白いシーツを前に目を閉じた。心を平静に保つための準備が必要だった。

 暫くの後に目を見開く。震える指でフローラの携帯にかかる電話番号を押した。

 耳に押し当てた携帯は数回のコールを鳴らした。このままフローラが電話に出ないで、時が過ぎて行く事を願った。

 しかしがちゃりと音が鳴り、聞き慣れたフローラの穏やかな声が聞こえた瞬間にその願いは永遠に叶わないものとなった。 

『ハーイウェイド、どうしたの?』

「フローラ……フローラ、」

 声が震えているのが自分でも分かる。

 長い付き合いのフローラは、その声の調子からウェイドが平時の状態に無い事を直ぐに察した。冗談や軽口の多いウェイドの口からこんな声を聴くのはフローラも初めての事だった。

『ウェイド、どうしたの?何かあった』

「君に……君に伝えないといけない事があるんだ。今、時間はあるか?」

『ええ、良いけれど、でもちょっと待って。さっきから何だか煩くて、場所を移すわ』

 確かに電話越しにも、空気が擦れるような音が奇妙な音がした。電波が悪いのだろうか。しかしそれにしても妙な音だった。何か巨大な物が近づいて来るような音のように思えた。

 

 フローラがマリカを呼ぶ声が聞こえた。マリカ、そろそろ出るわよ。

 はーい。少し不機嫌なマリカの声。くすくすと笑うフローラがマリカの手を握り、ヒールを鳴らして警戒に歩く。携帯を頬に当てる擦れた音。

 きーん。高鳴る音。近づいて来る。ウェイド、それで、何があったの?

 

「フローラ、落ち着いて聞いてくれ」

 

 

 

 

 

 ぶつりと携帯が切れた。

 ウェイドはそれから何回かフローラの携帯に電話をかけなおしたが、結局フローラは出なかった。

 それから30分後、テレビの画面には、爆発し、崩れ落ちる大きなビルが鮮明に映っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■  ■  ■

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「マリカ、ほらトマトもちゃんと食べな。野菜も食べねえと美人になれねえぞ」

「とまと、や!」

 唇を尖らしてむくれるマリカは最高に可愛い。思わず頬が垂れ下がってしまう。カオル似のチョコレート色の瞳とフローラ似の白い肌が合わさったマリカは、名付け親としての贔屓目を加味してもとても可愛い子供だった。

 そんな子供に嫌いなトマトを突き出すなんてなんて酷い事を!そもそも嫌いだと分かっているのにどうして朝食のサラダにトマト添えたのだ!なんて自分で自分を非難するも、このまま野菜を食べない子供に育ってしまっては困る。

 バランスの良い食事が子供の健康的な成長に繋がるのだ。ウェイドは心を鬼にしてマリカの前にトマトを差し出した。

「マリカ、可愛いマリカ。My sweet, 野菜を食べないせいでマリカが大きくならなかったら俺ちゃん泣いちゃうぞ?」

「ん~、や!トマト、やぁ」

「だいじょーぶだマリカ。ほーら、赤くて可愛い色だ。マリカの唇と同じ色!」

 小さく切ったトマトをマリカはジト目で睨み、むう、と尖らせた唇を微かに開いた。

 その隙間にトマトを入れると、凄く嫌そうな目をしてマリカは数回咀嚼してなんとかトマトを飲み込んだ。マリカは大きな目に涙をいっぱい溜めていた。ウェイドはマリカの髪を撫でて大きな声で褒めた。

「良い子だマリカ!頑張ったなあ、偉い偉い」

「マリカいいこ?」

「ああ、良い子だマリカ。マリカはいい子。可愛い子。苦手なトマトも食べれるし、トイレでおしっこもできるようになってきたもんな。ほらたっち」

「たっち、ジーニー!」

 両手で万歳をするマリカにたっちをする。マリカは先程まで泣きそうだったことを忘れたようににこにこと笑った。

 

 両親を失ったマリカの一時的な保護者として、ウェイドは一人残されたマリカの世話をしていた。腹と太腿を抉った銃弾を癒すための療養期間を、ウェイドは全てマリカのために使った。足はまだあまり動かず、少し歩く程度でも痛みが走ったが、2歳の子供の面倒をみる程度ならば問題は無かった。

 毎日慣れない手つきで子供用の食事を作り、トイレトレーニングをして、おむつを付け替える。身長が190cm近い大男が細やかに幼児の世話を焼く姿は傍から見ると滑稽かもしれないが、小さな2人の幸せな生活を揶揄する者は誰も居なかった。それにもし誰かに馬鹿にされたとしても、自分は全く気にも留めなかっただろう。

 マリカの世話は大変な事も多かったが、全く嫌ではなかった。元から世話好きな性格だったが、それよりも日々少しずつ成長するマリカの姿にウェイドは癒されていた。

 

 親友3人を一度に失ったウェイドの精神は酷く疲弊していた。アメリカに帰国した直後などは碌に眠る事もできず、拳銃を携帯していなければベッドから一歩たりとも動く事がきなかった。

 少し調子が戻ってからも、日常の些細な物音に対する敏感さは中々戻らず、大きな物音がしたら咄嗟に物陰に隠れてしまっていた。調子の悪い日は柔いベッドの上から下りるとそこは泥沼なのではないかという妄想に憑りつかれてしまい、丸一日シーツを被ってベッドの上から動く事ができなかった。

 だがマリカは、軍のカウンセリングよりも遙かに強い力でウェイドを癒してくれた。

 

 もしマリカが居なければ、そしてウェイドがマリカと共に暮らすこの数カ月間が無ければ、自分はどうなっていたか分からない。もしかすると心を病んで精神病院にでも行っていたかもしれない。

 だがマリカの世話は大変で、そしてそれ以上に素晴らしい日々だった。ウェイドの疲れ切っていた精神はマリカとの日々の中で回復しつつあった。

 もしウェイドが結婚していたのならば、このままマリカを養子に迎え入れる事も出来ただろう。しかし現実はそうではなかった。フローラの親戚がマリカを養子にする事が既に決定していた。

 今日はウェイドがマリカと過ごす最後の日だった。

 

「マリカ、ほら、そろそろ家を出るぞ。その前に歯磨きしような」

「ん!」

 歯ブラシを構えたウェイドの膝にマリカは乗り上げて、あーんと口をあける。行儀よく並ぶ小さな歯を一つずつ丁寧に磨いた。膝の上の小さな体温がこの上なく愛おしい。

 歯磨きを終えたウェイドはマリカを立たせた。洗面所でうがいをさせて、そのまま鏡の前で髪を梳かす。子供特有の細い髪にリボンを絡めて綺麗に編み込み、髪の先にキスをした。

「マリカ、俺ちゃんはいつでもお前のジーニーだ。何かあったらスープスよりも早く助けに行く」

「……ん、」

「だから何か、助けて欲しいと思うような事が有ったら俺ちゃんを呼ぶんだぞ」

「ん!」

 上下する頭と同時に、編み込んだ髪が揺れた。

 額にキスをして、纏めた荷物と一緒にマリカを玄関まで送る。そこには既にマリカの養父と養母となる夫婦が待っていた。

 確かにフローラと似た口と鼻の形をしている男だと思った。しかしフローラとは違い、もっと恵まれた人生を送っているだろうことがよく分かる充実した表情をしていた。凡庸な顔立ちの夫婦は、街中ではその姿も紛れてしまうだろう、至って平凡な雰囲気をしていて、マリカがその間に入っても何の違和感も無い。少なくとも独身の大男がマリカを連れて歩いているよりもよっぽど普通で幸福な家庭に見える。その事にウェイドは安堵し、少しの悲しみを覚えた。

 

 儀礼的なやりとりをいくつかウェイドと夫婦の間で行った後、ウェイドはマリカの手をひいて夫婦の方へ押しやった。

「マリカ、本当にありがとうな」

「……ジーニー?」

「バイバイだ。でもまた会えるさ。大丈夫、何も怖がることなんて無いんだ。何か怖い事があったら、おじさんとおばさんに頼るんだ。我慢する事なんて無いんだからな」

 きっとマリカはフローラやカオル、そして自分とは違う、平凡な人生を送ってくれるだろう。平凡な家庭で成長して、平凡に恋をして、幸福になってくれる。そうウェイドは信じていた。

 マリカは寂し気な瞳を瞬かせながらも、自分の背中を押す夫婦を交互に見上げて、何かに納得したように一つ頷いた。不幸な環境にある子供が時折見せる不思議な聡明さがマリカの瞳に宿っていた。

 2人に手を繋がれながら去って行くマリカは足を動かしながらも振り返り、猫のような可愛らしい瞳に焼き付けるようにウェイドの姿を目に映した。

「バイバイジーニー!バイバイ!!」

「ああ、バイバイマリカ。幸せに、幸せにな………幸せになるんだ」

 瞼の裏ではカオルの最期の姿が閃いていた。そしてマリカを護るように腕に抱えながら事切れていたフローラの姿も。

 

 マリカは車に乗るまでずっとウェイドに、ジーニーに手を振っていた。

 ウェイドも大きく手を振り返した。

 そのまま車が見えなくなるまで、ウェイドはそこに立っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから一週間後、ウェイドは軍に復帰した。

 優秀な実力が認められ、復帰してから程なくして空挺学校への推薦入学が決まった。

 卒業してすぐにRIP(レンジャー教化プログラム)を受け、合格し、レンジャー訓練生として文字通り血反吐を吐くような目に遭った。ウェイドはその中でも自分を追い込むように訓練に没頭した。

 這いつくばりながらもレンジャー学校をなんとか卒業して肩章を得た頃には、周囲にはカオルやジェイソンと親友であった頃のウェイドを知る者は居なくなり、兵士が天職だと口にしてもおかしくない男ばかりに変わっていた。

 ウェイドはそのまま第75レンジャー連隊に入隊した。仲間は皆自分と同じように立派な体格の目が鋭い男ばかりで、ブートキャンプの頃はまだまだ緩い連中ばかりだったのだなと思った。

 それから数年の間、RFF(レンジャー即応部隊)としてウェイドは幾度も出撃した。化け物揃いのレンジャー部隊の中でもウェイドは最優秀の成績を誇っていた。

 

 そして入隊から6年後、24歳の時。

 ウェイドはデルタフォースに入隊した。

 

 

 

 

 

 

 

 



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4. The Great Dictator

 そこまでの話を聞くと、少女は大きく息を吐いてウェイドを見上げた。キャラメル色の瞳は子供特有のぱっちりとした形をしていたが、ウェイドを気遣うように緩やかな弧を描く唇はあまりに子供らしさとはかけ離れていた。

「———お兄ちゃんは、頑張ったんだね」

「そうよ、頑張ったのよ。俺ちゃん天才だけど、やっぱりデルタフォースはぶっとんだ奴らばっかりだから、そりゃあもう実戦も訓練も死ぬほどきつかったさ。恐怖の館の夢を何回見た事か。おまけにパワハラとかいう概念が欠片もねえ連中ばっかりだから休日なんてありゃしねえし、ストレス性胃潰瘍で血を吐いた奴もいたよ。いきなり盛大に吐血しやがったから変な感染症なんじゃねえかってみんな大慌てで、」

「そっちもだけど、その、戦争でお友達を亡くしちゃって……」

「あーそっちか。まあでもあれは頑張ったとかそういうのとはちょっと違う。そりゃあ2人が死んだ時は悲しかったさ。よわよわの真面目君とぴゅあぴゅあなクリスチャンとかいう俺とは全く違う奴らだったけど、意外に気が合ったから」

 宗教や人種、能力も出身も全てバラバラだったが、寛容な2人のおかげでなんとか自分は彼らと友人関係が保てていたのだと今では思う。ウェイドの高慢で気分屋で現実主義的な性質を2人は上手く受け入れ、そこに美点を見出してくれていた。軍での所属が別々になっても友人関係が保てていたのはあの2人の寛容さのおかげだった。

 だからこそ、あの2人が死んだあとはそれなりにふさぎ込んだし、ショックも受けた。フローラの死も重なり、あの当時の自分の荒れようは中々に酷かった。

 病院で療養している時から毎日浴びるように酒を飲んで、うっかり血が出る程に吐いてしまい退院が長引いた。精神科にも受診し、精神安定剤だかなんだかをいくつも処方されたりした。

 

 だがそんな日々も半年程度で終わった。酒量は日々減り、処方される錠剤もすぐに減った。そしてカウンセリングで問題なしと診断されるなり、少なくとも表面上は、ウェイドは何事も無かったように軍に戻った。

 

「……友達が俺ちゃんの目の前で悲惨に死んじまうなんて事は、俺ちゃんの人生では別にそう珍しい事じゃなかった。退院してからいい女に声かけて何回かファックしたら、すぐに元通りの俺ちゃんになったよ。その程度の事だ。あんなのはそこらへんによく転がってるテンプレ的悲劇に過ぎねえもんだ」

「でも、あなたにとってそれはテンプレ的なんて言葉では片づけられない事だったんでしょう?」

「ああ、そうじゃなかった……初めての親友だった。でも身内や友人が誰も死んだことのない人間がどれだけ居る?理不尽な暴力を振るわれた事のない人間は?両親から見捨てられた事のない人間は?そんなありふれた悲劇のどれもに遭った事の無い人間の方が少数派で、だったら悲劇から立ち直れるのは当然だ。俺ちゃんはその時点ではまだ多数派に属していたんだ。ローマ人に宛てた手紙をゆっくり読んで安堵できる気楽な立場だよ。悲劇の主人公を気取るには要素が少なすぎる」

「そんな事はないよ。誰だって親友が死んでしまったら悲しいし、悲しむ権利がある筈なんだから。誰もが同じような悲しい目に遭っているからって、誰もがすぐに立ち直れるわけじゃないもの。それを助けるために宗教があって、カウンセリングがあるんでしょう?無理に頑張る必要なんて、」

「このように、俺ちゃんたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている!ってなもんだ。本気にすんなよ、ただの冗談さ。確かに同僚には精神をやられて変な宗教にのめり込む奴も居たよ。でも俺はそういうのは無理だった。礼拝にだって一度も行った事が無い不信心者が友達死んだからっていきなり神様を信じられる訳がない」

 

 そう言った後に、確かにこれまで一度も教会に足を踏み入れた事は無いが、神に祈った事はあるという事実に気づいて自嘲気味に頬を揺らした。むしろそこらのクリスチャンよりも祈った回数は多かったと思う。

 どうか助けてください!あの野郎をぶっ殺す手助けをしてください!ああ神よ、戦友を助けてください!手に汗握る祈りは届いたり届かなかったり。

 でも得られた結果は神が全く関わることのない現実的なものだから、結果が出た0.1秒後には神の存在を忘れている。別居している夫婦よりもドライな関係だ。その程度が軍人と神の関係としては丁度良いのではないかと思う。

 

「宗教やドラッグは俺には必要なかった。精神科のドクターに言われた通りお薬飲んで、カウンセラーとお話して、適度なアルコールと女を摂取して、それで終わりさ。模範的軍人のあるべき姿ってな」

「お兄ちゃんは強いんだね」

「どーも」

「………そんな目に遭っても、軍を辞めなかったんだから」

 労わるような少女の声に、ウェイドははっと鼻で笑った。

「辞めないさ」

 目を閉じて首を振る。昔を思い出すように目を閉じる仕草は、ウェイドにとって珍しいものだった。ウェイドの瞼の裏には懐かしい青春と2人の親友たちの姿が浮かび上がっていた。2人は笑っていた。

「——————俺ちゃんが辞めちゃったら、ジェイソンとカオルの事を覚えてる奴がいなくなっちまうんじゃないかって思った。たとえ天才的な兵士の俺ちゃんでも平和な日常に戻ったらころっと奴らの事を忘れて、安穏と暮らしちまうんじゃないかって。馬鹿馬鹿しいよなぁ」

 自嘲気味に唇の両端を持ち上げた。その危惧は少し当たっていたかもしれないと思う。

 

 ヴァネッサは最高に良い女だった。強く、美しく、しかし弱さと暗い過去を持つ、決して完璧ではないからこそ最高の女。

 彼女との生活は至福の日々だった。人生という悲劇に挟まれた幸福なCMの間、ウェイドは親友たちが死んだインドネシアの泥沼の事を頭の隅に押しやり、ランチには何を作るかとか、次のデートの行き先とか、今晩のセックスの体位の事ばかりを考える事ができた。日々は温かく、柔らかく、明日へと地続きに繋がっているものだった。

 だがそれでも彼らの事を忘れた訳ではなかった。ふとした瞬間に、自分ばかりが柔らかいベッドで眠り、彼らは冷たい泥沼で死んだ現実への体を焼くような罪悪感や行き場のない苛立ちを覚えた事もある。好きな人と愛し合う生活に後ろめたさを感じる事もあった。だからと言って自らの平和と幸福を手放す事もできなかった。

 思うに、あまりに幸福に慣れていなかったせいで自分は余計な事で悩んでいたのだと思う。生まれてから初めてと言ってもいい平和な日々をどう受け止めれば良いのか分からなかったのだ。

 きっとあの日々が長く続けば、自分の中で過去と現在の折り合いをつけることもできただろう。昔を忘れることなく、しかしかといってずっと考え続ける訳でも無くそこらのありふれた退役軍人と同じように年を重ねて行ったに違いない。

 だが実際にはその懊悩の日々は長くは続かなかった。

 ウェポンXの手術を受けた結果、全ての記憶が吹っ飛んでしまったのだから。

 

 今ではウェイドの記憶はまっさらだ。何も残っていない。愛するヴァネッサの事を覚えているのが奇跡的な程に、ウェイドの記憶は重大な欠陥を抱えている。もちろん2人の親友の事なんて何も覚えていない。

 覚えていないのに、この少女を前にすると不思議と記憶が蘇る。何故だろう。

 

 少女をじっと見る。少女は可愛らしい造形をしているものの、街中を歩けば人込みの中で紛れるだろうという顔立ちで、特に目立つような所は無い。ただ大きな瞳は酷く大人びた輝きを湛えていた。瞳は大気圏を思わせる薄い青をしていた。

 この少女の瞳は青色だっただろうか?その瞳の色に違和感を覚えた。美しく真っすぐな青色は少女の外見の中で一つの異質だった。

 違う。この少女の瞳の色はこんなに怜悧で鮮烈な色はしていなかった。

 その事をはっきりと確信すると同時に、違和感の範囲が自分の周囲全てに広がった。

 

 

 

 

 何故自分はこんなところで、こんな少女を相手に、覚えている筈のない自分の過去について話しているのだろうか。

 

 

 

 そもそもここはどこだ。

 こいつは誰だ。

 

 意識するともう駄目だった。背筋がぞっとする。何も分からない。

 何故これまで自分は呑気に自分の過去について滔々と語っていられたのだろうか。流れるように自分の過去を喋るなんて、天と地がひっくり返っても脳みそがイカれ狂っている自分に出来る筈が無いというのに。

 あまりに得体の知れない状況に舌打ちした。ここまで訳の分からない状況に放り込まれたのは初めて……でもない。むしろもっと酷い状況の中で目を覚ました事もある。

 ただ目の前の少女から全く敵意を感じないのが不気味だった。もっとはっきりこちらに殺意を向けてくれていれば、ウェイドも安心して暴れる事が出来ただろう。

 だが少女は殺意どころか、ウェイドを心から心配しているような表情で見上げている。

 

「俺は……あんたは、何を俺に言わせたいんだ」

「お兄ちゃんが言いたいことを言って欲しいの」

 返事になっていない言葉に、少女は何も説明する気は無いのだと察せられた。ウェイドは立ち上がって少女を高圧的に見降ろした。

「俺が言いたいことだって?タラレバ娘が居酒屋で愚痴るような日頃のストレスを吐き出せってか?『あたしに相応しいイケメンでお金持ちでダークナイトみたいな糞映画を死んでも観ないような結婚相手がどこかに居る筈なの~』ってか。ふざけんな。俺に相応しい男なんてスパイディ以外に居るわけねえだろうが!それとダークナイトは誰が何と言おうと傑作だ!!!!」

「そうじゃなくて、お兄ちゃんが言いたいこと……吐き出したいことを、話して欲しいの。友達の事でも、後悔している事でも、何でも。僕はここでの事は絶対に口外しない。約束する。本当は違う予定だったんだけど、今、僕は君の事をもっと知りたいんだ」

「つまりここは懺悔室って事か。そもそもここはどこなんだよ。何が起こってるんだ!」

「……君は狂っているんじゃなくて、普通の人よりもずっと正気なのかもしれないね。まさかこんなに早く解けかけるなんて……すまない、ウェイド。もう少しなんだ。もう少し、ここで僕に話をしてくれ」

「あんた幼気な女の子なんかじゃねえな。その外見はなんだよ。誰だよあんたは」

「警戒するのも分かる。でももう少しなんだ。それに僕はもっと君の話を聞きたい。トニーは君にはアベンジャーズに入る資格は無いと言ったけれど、それは早計だと僕は思う。僕達にはもっと話し合いが必要だ。今はその絶好の機会なんだと思う。君が誰かに言いたいことを、僕に言って欲しいんだ。きっと今以上の機会はないだろうから」

「俺が、俺が?誰かに言いたいことだって?」

 少女の言葉は理解ができないものばかりだった。

 外見は少女のままだというのに、少女の声は変声期をとうに終えた男のものに移り変わっている。ウェイドが少女に明確な警戒心を抱くようになってから、彼女の仕草も子供めいたものから成人した男のように大胆なものが見え隠れするようになった。

 そしてその少女の外見さえ、今では2重にぶれて見える。断線しかかっているテレビのようにぶつぶつと少女の姿は現れたり消えたりを繰り返し、ウェイドの目の前で点滅した。

 だがそれでも、ウェイドは少女に明確な敵意は感じず、また自分の方も敵意を抱く事が出来なかった。

 

 少女の目が悪い。綺麗な青い瞳はウェイドを真っすぐに見ていた。その瞳は胸を突くように純真だが、凄腕のエージェントのように鋭かった。その2つが何の違和感もなく2つの瞳に収まっているのは奇跡のように思えた。

 じっとその瞳に見上げられていると、不思議とその期待に応えたくなる。澄んだ瞳にはこの少女の言葉は間違っていないと思わせる力があった。ウェイドは少女が言う通りに自分が今少女へ言いたい事を考え始めていた。

 思考の海に足を踏み入れると、すぐになんだかとても大事な事を喋ろうとしていた事に気づいた。絶対に忘れてはいけないような事だ。しかし記憶が朧気だった。ウェイドは記憶を手繰るようにゆっくりと口を開いた。

 

「………MCUのPhase 4に俺ちゃんが入る予定はないってケヴィンに言われちゃった事……?」

「え?」

「いや違うな。エンドゲームが歴代最高の興行収入を叩きだした事か?20世紀フォックスは買収された挙句アバターも抜かれちまっていい面の皮だと思ったんだが、よく考えたらディズニーに吸収された訳だから別にエンドゲームにそう嫉妬する事もねえんだよな。ボヘミアン・ラプソディは大ヒットした事だし……DCEUは悲惨としか言いようが無えけど」

「ちょっと待てウェイド。何の事だ」

「ジャスティスリーグはマジで酷かった。どうして人気キャラをあれだけ出しておいてあんな事に……主にはスプスの顎のせいだろうけど。ダークフェニックスもちょっとネタに出来ねえレベルでヤバかったが、マーベルがこれからX-MENを上手く料理する可能性もあるし、ここら辺はまだ分かんねえか。それより、それより今はスパイディがMCUに復活した事の方が重要なんだよ!!!」

「ウ、ウェイド、大丈夫か?」

「俺は大丈夫だ、大丈夫じゃねえのはMCUだ。スパイディの一連の問題が一応集結したのは目出度いが、ぶっちゃけPhase 4にもう突入してんのに今更こんな問題でがやがや言ってて大丈夫なのか滅茶苦茶心配なんだよ!!Fuck you, SONY!!!もうこうなったら今こそ俺ちゃんがMCU入りしてアベンジャーズのリーダーとしてチームを牽引していくべき時だっていうのに、ゾンビランド続編ってなんだよ!ヒーローものの2作目って大体クソだっつーのにどうしてそっちに行くんだよ!ただしウィンターソルジャーとガーディアンズ・オブ・ギャラクシーVer.2とダークナイトと俺ちゃんの映画は除くな!むしろデッドプールは2作目が最高だから!勿論オリジンも最高だけど!」

「落ち着けウェイド。よく分からないが落ち着いてくれ」

「俺ちゃんは落ち着いてる。落ち着いてるが、もしこれをMCUを打ち倒す好機だと勘違いしたDCEUがジャスティス・リーグ2を出したとして、それにグリーン・ランタンが出てきたら俺ちゃんはDCEUを跡形もなく破壊する所存だ!そんなもんやる暇があったら「バットマンVSアイアンマン」とかやれって話だろ!もしくは「X-MEN VSアベンジャーズ」とかな!配給会社なんて糞くらえだ!!緑の変態コスチューム馬鹿よりもそっちの方を皆観たいよな!?俺は割とガチで観たい!!」

「ウェイド、気持ちは分かるが落ち着け。ほら隊長が困ってるぞ。あの人ヒーローものにあんま興味ない人なんだから」

 

 

 

 宥めるように肩を叩かれて前を見ると、奇妙なものを見るような、そして同時に可哀想なものを見るような目をした自分の部隊の隊長が立っていた。いつも厳格で滅多に表情を変えない男だが今は明らかに自分の部下に対して呆れの表情を露わにしていた。

 そんな隊長を他所に自分を含めた特殊部隊のメンバーの過半数は歓喜と興奮からその場で奇声を上げたり身を捩ったりしていた。

 傍から見れば筋骨隆々の特殊部隊員達が興奮しながら奇声を放つという、そこらの人間ならば恐ろしさのあまりにその場で腰を抜かしてもおかしくない光景だろう。これが普段ならばウェイドも同僚たちの奇行にドン引きしつつも携帯でこの光景を撮影していたに違いない。

 だがそうはできなかった。ウェイドも奇行に走る特殊部隊員の中の一人だったのだ。

 むしろウェイドは同僚たちの中で最も大きな奇声を上げていた。度重なる厳しい訓練により培われた巌のような筋肉は興奮のあまり硬直したようだった。

 

「うっひょうはぁああああうぁあああああ!!!!」

「きゃ、きゃ、キャプテン、キャプテン・アメリカ……マジか」

「うわぁマジか。マジかぁ。どうしよう。一旦家に帰ってトレーディングカード持って来てもいいですか?プライマリースクールの頃から集めてたレアカードがあるんです」

「俺もコミックスにサイン欲しいので、ちょっと本屋に寄ってもいいですか?コンプリート版が先月発売されたばっかりだから、是非それにサインをして欲しい」

「うぁわああぁにゅあああああ!!!!」

「………ウィルソン、その悲鳴なのか喘ぎ声なのかよく分からん奇声を止めろ。緊張感がなくなる。あとお前らも興奮する気持ちは分かるがいい加減にしろ。相手は外見はともかく実年齢は90歳越えのジジイだぞ。アニメやコミックの挿絵みたいな外見じゃないかもしれんだろうが」

「でも、そうだとしても隊長、キャプテン・アメリカですよ……キャプテン・アメリカなんですよ!?俺がレンジャーの狂った訓練に耐えられた理由の40%はハウリング・コマンドーズに憧れていたからなんですよ!?」

「俺は60%だ!配置変われ!!なんでお前がキャプテンの部屋のすぐ外に配置されてんだ!!」

「嫌だ!!絶対嫌だ!!」

 

 ぶんぶんと髪を奮いながら頭を横に振る同僚にウェイドは今ほど苛立ちを感じた事は無かった。両手で髪を引っ張ってぶんぶんと振り回そうとすると、髪に指がひっかかる前に素早く腕を取られそうになり寸前で手を引く。流石デルタフォースと言うべきか全く隙が無い。さらに同僚の瞳は絶対に譲るものかという強い意志で輝いていた。

 普段はキャプテンのファン仲間として仲良くしている同僚も今この瞬間に限っては敵だとウェイドは確信した。この上無く明確に敵だった。

 

 特殊部隊にはヒーローファンが多く在籍している。それというのも、常に緊張を強いられる任務が多いという部隊の特性上、殆どのメンバーが過剰なストレスを緩和する目的にコミックスや小説をザックの中に数冊詰め込んでいるためだった。戦場における唯一と言って良い娯楽は、生死の境目が日常的に傍にある兵士にとって聖書に等しい影響力があった。

 そして多くのヒーローの中でも元アメリカ軍兵士であったキャプテン・アメリカは、現アメリカ軍兵士においては既に信仰の域にある存在と言っても過言じゃない。

 昔からキャプテン・アメリカのファンだったウェイドの心は大人になるにつれて多少の落ち着きを見せ、子供らしいヒーローへの憧憬は鳴りを潜めたたものの、それでも一番好きなヒーローは未だにキャプテン・アメリカだ。新しいキャプテンのグッズが出れば少ない給与を削って即座に買い集め、プレミア付きのトレーディングカードは額縁に入れて部屋に飾っている。

 

 出来得ることなら今すぐ家に帰ってヒーローカードシリーズのキャプテン・アメリカのカードを取りに帰り、ついでに初任給で買ったハードカーバーのキャプテン・アメリカ小説シリーズも取って来たい所なのだが、目の前の隊長の表情を見る限りそれは難しそうだった。

 何しろ今日がその任務の当日なのだ。事前に連絡してくれていればキャップのサインを貰うために準備万端に備えられただろうに。

 そう思うもキャプテン・アメリカが北極から発掘された事自体が極秘事項であるから、寸前まで秘匿されていたのはしょうがない事なのだろう。

 

 そう、キャプテン・アメリカは生きていたのだ。

 

 70年間北極で眠り続けていた英雄は現在S.H.I.E.L.D.に身柄を預けられており、今まさに目覚めようとしていた。まるでティーン向けのコミックスのような展開だ。隊長の顔がいつもの面白みの欠片も無い真面目腐った顔でなければ季節外れのエイプリルフールだと思っていたに違いない。

 ニック・フューリーに似た厳めしい顔つきで、隊長は普段よりも浮足立っている隊員たちへ呆れながらも言葉を続けた。

 

「既にキャプテン・アメリカことスティーブ・ロジャース氏の解凍処置は終了しており、生命には特に問題が無い状態だとフューリー長官からは連絡を受けている。我々はロジャース氏と面会予定の政府要人の護衛としてS.H.I.E.L.D.の施設に向かい、何事も起こらないよう注意を払うだけの任務だ」

「我々は何からお役人を守ればいいんですかね?」

「キャプテンは70年間眠っていたんだ。生半可なジェネレーションギャップじゃない。記憶が錯乱して突発的に暴れないとも限らん」

「そのリスクがあるのにどうしてわざわざ面会なんて」

「キャプテンの名前はでかいからだろ。機嫌を取っておいて悪い事はない。それにキャップがS.H.I.E.L.D.に独占されるのが気に食わない奴らもいるだろうしな」

 

 鼻で笑ったチームメンバーのボブにそれもそうかと頷いた。キャプテン・アメリカの名前を知らないアメリカ人は居ない。彼程に国民から篤い信頼を寄せられている有名人なんてそうは居ないだろう。名前を売りたい奴らにとってキャプテンは人目を集める誘蛾灯のようなものだ。手元に置いておきたいに決まっている。

 自分だって子供の頃からキャプテン・アメリカの華々しい活躍劇に胸を躍らせ続けている一人だ。キャプテン・アメリカは憧れの粋であり、心の大きな支えだった。

 そのキャプテン・アメリカに会いに行く。そう考えただけでやばい。とてもやばい。何がやばいって、全てがやばい。

 気持ちは20年憧れたアイドルとの一日デート券を手に入れたファン。もしくは心から愛する二次元キャラクターが三次元に飛び出して目の前に現れたオタク野郎。もしくは運悪く不良に絡まれている時に、プライマリースクールの頃から大好きだった仮面ライダーがバイクに乗って現れて「大丈夫かい?」と手を差し伸べてくれた瞬間の少年。

 つまりウェイドの心拍数はとんでもなく荒れ狂っていた。自身の保身か、それとも政府の安泰のためにキャプテンに会おうとしている政治家を守る任務であるという事に苦々しい思いが無い訳でも無かったが、それでもキャプテンに会えるかもしれないという期待を殺す事はできなかった。

「まあ、そんなに危険度は高くない任務だ。とはいえ気は抜くなよ」

 あまり気の入っていない上官の命令へ、Yes, sirとウェイドを含めた皆は普段よりも力の入っている返事をして、揃ってS.H.I.E.L.D.の施設へと向かうべく足を動かした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 S.H.E.L.D.とデルタフォースの関係はそう強い訳では無い。デルタは対テロ特化部隊として設立された背景もあり、飽く迄人間を敵とした集団戦のための部隊として機能している。

 しかしS.H.I.E.L.D.は敵が人間でない場合のテロ組織を想定して設立されており、やや特殊な立場にあった。兵士よりもインテリジェンスオフィサーが活動のメインに置かれ、CIAに近い雰囲気がある。

 だからこそ戦闘面の補強をすべくキャプテン・アメリカの戦闘能力と指揮能力を欲しているのかもしれない。

 秘密主義のデルタフォースに輪をかけて秘密主義の塊であるS.H.I.E.L.D.の施設に足を踏み入れたのはこの時が始めてだった。フォートブラッグにあるデルタ訓練施設よりも清潔で広々とした建物は、軍施設というよりもどこかの大企業の本社といった雰囲気がある。

 

 その雰囲気に合わせてか、それとも政府要人とやらの要望か、ウェイドは着慣れないスーツに身を包んでインカムを耳に突っ込んでいた。通信状態は良好。1940年代のラジオの割れた音声までが詳細に聞こえる。

 キャプテン・アメリカことスティーブ・グラント・ロジャースは無事に冷凍状態から回復し、いつ目覚めてもおかしくない状態らしい。まだ北極で仮死状態のまま眠っている所を発見されてから2週間程度しか経過していないのに、超人血清とは計り知れないものだ。S.H.I.E.L.D.がキャプテンの存在について過剰なまでに情報統制を敷いているのも分かる気がした。

「そんな機密情報たっぷりのS.H.I.E.L.D.の施設にいきなりデルタフォースを伴った政府の連中が乗り込んでくるんだから、そりゃあ良い気はしねえよなぁ」

 呑気な顔で息を吐くボブに舌打ちをする。今日のバディーであるボブは陽気な性格で仕事もできる男だが、ヒーローにそれ程の思い入れは無いらしく、キャプテン・アメリカの奇跡の生還へも興味を示していない。

 こんなに近くにキャプテン・アメリカが居る状況なんてこれから先一生無いかもしれないというのに、興奮の欠片も無いボブの冷めた態度へ理不尽だと分かっていても苛立ちが湧いた。

 キャップがこんなに近くにいるのに、顔を見るどころかキャップの居る部屋から遠い廊下でまんじりと待機しているだけなんて、そんなの悔し過ぎる!!

 悔しさのままに歯軋りを鳴らしながらウェイドは言葉を漏らした。

「そりゃあS.H.I.E.L.D.は機密情報たっぷりの胡散臭い組織だろうけどよ、これはねえんじゃねえ?監視カメラは設置できねえんだからせめてもっと近くに配置させろよ!」

「そういやカメラがねえな。なんでだ」

「1940年代には監視カメラなんて無かったからだろ。余計なものを増やしてキャプテンにバレるリスクを高めるのは本末転倒だ」

「そこまで忠実に再現するこたあねえだろ。どっかに隠しておけば」

「キャプテンにバレたらどうすんだよ。「なんだいこれ?変なインテリアだね」とか言われたら反応のしようもねえだろ。「最近流行りのインテリアなの。レンズの角度がおしゃれでしょ」とでも?」

「そんなに簡単にバレやしねえだろ」

「馬鹿、相手はキャプテンだぞ。あのキャプテンだ。どっからばれてもおかしかない」

 ウェイドのキャプテンフリークっぷりを知っているボブは肩をすくめて苦笑いを零した。

「お前は本当にキャプテンが好きだよな。俺はアイアンマンの方が最先端でカッコいいと思うんだけど」

「そりゃあよかった。もしキャップが保護室をぶち破って逃げ出したら俺が行くから、お前はしっかり写真を撮ってろよ。俺とキャップのツーショットを撮るのがお前の任務だ。ついでにチャンスがあったらサインを貰いに行け。『ウェイド・ウィルソンへ』って入れてもらうのも忘れるな」

「へーへー」

 ボブの返事は気の抜けたものだった。ウェイドとボブが待機しているS.H.I.E.L.Dの施設の廊下はキャプテンが保護されている部屋からはやや遠く、エントランスにほど近い場所だった。

 

 70年間の冷凍状態から覚めたキャプテンは、常人では耐えられないだろう精神的なショックを最小限にするために、まずは無事に生きてアメリカに帰還した事実だけを伝えるらしい。それから徐々に70年間丸々眠っていた事実を教えて、現代社会に馴染むための知識を教えていくんだとか。

 その対応が正しいのかどうかは分からないが、そもそも70年間分の時間をタイムスリップした事実に変わりなく、どうせいつかキャプテンはその事実を受け止めなくてはならない。

 遅かれ早かれ訪れるその時を思うと、自分が大好きなキャプテンがどんな対応を取るのか心配であり、興味もあった。人間らしく取り乱し泣きわめくのか、それとも悠々とその事実を受け止めるのか。

 

 インカムの向こうで動きがあった。シーツが擦れる音。

 キャプテン・アメリカが体を起こしたらしかった。

『対象の意識が回復した』

 その言葉に体を少し強張らせる。緊張したわけではない。今すぐキャプテンに走り寄りたい衝動がウェイドの背中をほんの少しだけ押した。少年時代に薄暗いベッドの下へ向けていた祈りを思い出した。

 

 冷たい雨の中、木に縛られて、空腹で身もだえしていた日々。殴られた頬の痛みと吐きつけられた唾。

 ざあざあと雨が鳴る中でウェイドはいつも自分の部屋のベッドの方を向いていた。辛い時はいつもそうしていた。負けないためにだ。自分が正しいと信じ続けるために。

 そしてどんな時だってキャプテンはそこにいた。自分を助けてくれた。彼が存在していたというだけで自分は救われていた。

 

 あなたのおかげで俺は地獄のような少年時代を生き抜く事ができた。俺はあなたのようになりたくてここまでたどり着けたんだ。本当にありがとう。あなたが大好きだ。

 今生きているキャプテンにその事実を伝えたくなった。しかしぐっと歯を食いしばってその衝動に耐える。今はそんな余裕はキャプテンには無いだろう。彼自身が今は地獄のような状態にある。

 キャプテンの声がインカムの向こうから聞こえる。存外に落ち着いている声だった。対応している女性エージェントが宥めるようにキャプテンに話しかけている。

 しかしすぐにキャプテンの声に疑惑が混じった。女性エージェントの声に動揺が走る。

『対象の精神が不安定だ。エージェントを投入する』

「はあ?おい、待て」

 S.H.I.E.L.D.の武装エージェントなんて目の当たりにしたら余計にキャプテンは混乱するのでは。

 そう思った瞬間にインカムの向こうから破壊音が響いた。ウェイドは悪態をついて即座に立ち上がった。

「ウェイド、どこに」

「エントランスだ!あそこを突破されたら民間人が巻き込まれる!」

 軍靴で地面を弾くように走る。

 廊下を歩くスーツ姿の職員を押しのけるように真っすぐエントランスへと向かった。

 

 キャプテンを保護していた部屋は、彼の特殊な立場を考えこの施設の中でも奥まった場所にある。それなのにウェイドがようやくエントランスに到着した時には、インカム越しではなく、地面を抉るような音を立てながら何かが走っている音が聞こえた。

 エントランスで扉を背にするように立ったのとほぼ同時に、金髪碧眼の鍛え上げらえた肉体を持つ男がエントランスへと飛び降りてきた。

 2階から危うげなく着地した男は、この施設から脱出しようとしているのか、ウェイドの背後、ガラス越しに広がる車道へ視線を向けていた。シャツにパンツというランニング最中のようなラフな格好だというのに背筋が粟立った。頭の中で注意警報がガンガンと鳴り響いた。猛獣を前にしているような気がした。

 

 だが頭の一部では、それにしても容姿が良い男だと呑気に思っていた。

 キャプテン・アメリカのコミックで見たような現実離れした筋骨隆々とした体格では無い。筋肉が全身を覆う理想的な肉体ではあるのだろうが、デルタフォースにはこの位の肉体美を持つ男はごろごろ居る。

 ただ容姿が素晴らしく整っている。ギリシャ彫刻として美術館に並んでいても気づかないのではないかという容姿に、確かにこんな顔で「国債を買ってはくれませんか?」だなんて言われたら思わず財布を取り出してしまうだろうなと妙に納得した。いや、ティンカーベルをやってる時にはマスクを着けていただろうけど。

 しかしその容姿に感嘆する暇は無かった。

 猛牛のように突っ込んでくるキャプテンを食い止めるべく両足に力を籠め、掴みかかろうと駆け出す。

「キャプテン、落ち着いて下さい!」

 自分とキャプテンの体格はほとんど同じだ。薄いシャツをひっつかみ、そのまま相手の走る勢いのままに投げ飛ばそうと歯を食い縛る。

 

 そう、体格はほとんど同じだった。それも相手は70年の眠りから目覚めたばかりで混乱している。おまけにキャップは非武装で、こちらはスーツ姿だがその下にはしっかりとプロテクターも身に着けている。

 負ける要素は無かった。

 ウェイドが認識できたのは白いシャツを掴もうと手を伸ばした所までだった。

 上下さかさまになった視界の中でキャプテンの顔がはっきりと見えた。

 

 

 

 あ、瞳の色が俺ちゃんと一緒ですごく薄い青色だぁ。

 

 

 

 

 一度瞬きした後に全身を襲う衝撃。

 耳が地面に打ち付けられて酷い耳鳴りがした。そのままごろごろ地面を転がる。ようやく衝撃を殺した身体が動きを止めた時には痛みのあまり呼吸ができなかった。

 何が起こった。いや、分かる。技を極められた訳では無い。その必要も無かったんだろう。ただ腕力に任せて、枕投げの枕のようにぽーんと投げられただけだ。それも凄まじい力で。

 身長190cm近く、体重90kgオーバーのウェイドはキャッチされなかったベースボールのように地面をごろごろと転がったのだ。

 すぐに体を起こすも、その時にはもうキャプテンは外に駆けだしており、後姿も見えなかった。ウェイドがキャプテンに向かって駆け出してから時間にして3秒と経っていなかった。ウェイドはすぐさまに立ち上がり、キャプテンの後を追った。

 

 

 

 

 

 

 

 タイムズスクエアの中心で茫然としているキャプテンの背中には寂寥感が浮かんでいた。その傍にはフューリーも居り、そう易々と近付けるような雰囲気ではない。周りのエージェントも佇むキャプテンに声をかけることも出来ず、ただ彼が自ら動くのを待っていた。

 その雰囲気を知っていながらも、ウェイドはおずおずと近寄った。戦闘後の高揚と、キャプテン・アメリカを直に見た感動が周りの雰囲気への遠慮に勝っていた。そもそもウェイドは積極的に雰囲気を読むようなタイプでは無い。何より、キャプテン・アメリカに話しかけるチャンスをみすみす逃すなどあり得ないと思っていた。

「……キャプテン、S.H.I.E.L.D.までお送りします」

 無視されるだろうかと思ったが、茫洋とした表情ながらもキャプテンは、ああ、と言って足を動かした。だが視線は未だニューヨークの摩天楼に捧げられている。点滅する色鮮やかな電光掲示板。肌を露出した女と奇抜な髪色をした男の群れ。爆音で流れるロックとクラクションの渋滞。

 小さな個人など踏み潰してしまうような情報量に圧倒される様は、初めてニューヨークに来た観光客のようだと思った。しかし実際はもっと酷い衝撃に見舞われているに違いなかった。インターネット越しにニューヨークを見た事が無いどころか、彼の常識ではこんな光景はありえないだろうから。

 しかし流石の精神力と言うべきか、キャプテンはフューリー長官に冷徹に突きつけられた事実に錯乱する様子は無く、むしろ淡々と受け入れているようでさえあった。

「車に、」

「いや、歩いて帰りたい」

 小さく手を振ったキャプテンはそう言った時には既に足を動かしていた。幸いそう遠くまでキャプテンが逃亡した訳では無い。直ぐに戻れるだろう。

 逃亡。いや、逃亡ではない。彼は保護されていただけだ。どこに行くのも彼の自由だ。S.H.I.E.L.D.は70年間のギャップから彼を護ろうとしただけで、彼の人権を奪おうとした訳では無い。

 だがS.H.I.E.L.D.が彼を単なるスティーブ・グラント・ロジャースとして蘇らせた訳では無い事もまた確かなように思えた。彼を北極から回収して蘇らせた予算は全て善意では無いだろう。まず間違いなく、彼はヒーローとしてリクルートされるに違いない。それは彼の意思を無視した決定事項だ。

 何もかもを悟ったように歩くキャプテン・アメリカがどこまでを理解しているのか、ウェイドには計り知れなかった。

 

 歩行者の数は多いものの、キャプテンの周囲を護りながらS.H.I.E.L.D.まで歩いて帰るのはそう面倒な事でも無い。一歩一歩踏みしめるように歩くキャプテンの隣に他のエージェントを押しのけて無理やり並んだ。

 S.H.I.E.L.D.のエージェントからは鋭い視線を貰ったが、元々共同の任務の筈だ。いやこっちの名目は政府要人の護衛なのだけれど、そんな細かい事はどうでも良い。デルタのキャップファン代表としてこの場所は譲れない。

 キャプテンは空を覆う程に立ち並ぶ電光掲示板を見上げて、ぽつりと呟いた。

「……建物が高い。それにピカピカしてる」

「ええ、ニューヨークは世界で最も賑やかな街ですから」

 独り言のようなキャプテンの言葉に思わず短く返す。いつものお喋り加減のままにニューヨークの歴史やら、この70年間の世界の歴史やら、70年前はどうだったのかなどをぺらぺらと喋ってしまいそうになったがぐっと堪えた。キャプテンはまだ見知らぬ人間と情報量過多なお喋りを楽しめるような心理状況ではないだろう。

 雰囲気は読めないし、あまり読む気も無いウェイドだが、ショックを受けている人間への気遣いまでもが無い男ではない。

 それにしても、とキャプテンの端正な横顔を見る。初めて目の当たりにした時に受けた印象と同じく、鋭利に整っている顔つきではあるものの、よく見ると完成されているとは言い難い顔立ちである事に気付いた。自分と同い年か、少し年下だろうか。まだ成熟しきっていない青年のような青さがある。

 それもその筈で、ファンブックの設定を信じるならキャップはまだ20代後半の若者なのだ。70年間の冷凍期間を除けばだが。

 見ず知らずの特殊部隊員からの返事に、キャプテンは気にする様子も無く言葉を続けた。話し相手が欲しいのかもしれない。ウェイドは役得だと拳を握った。

「人も凄く多いな、表情も明るくて……アジア人も居る」

「観光地ですからね。日本人や中国人、韓国人なんかもよく来ます。今じゃアジア系アメリカ人も珍しくは無いですよ」

「……アジア人や黒人に、いじめや迫害なんかは」

「無くなったとは言えませんが、貴方が知っている程ではありません」

 少なくとも投票権は平等になったと言うと、キャプテンは少し複雑そうに眉根を下げ、すぐに「そうか」と嬉しそうに微笑んだ。

 キャプテンの感覚はまだ第二次世界大戦の最中にある。敵対国である筈の日本人や、公に差別の対象だった人種が普通にニューヨークの街を歩いている事にまず驚き、そして平和になった事を喜んだのか。

 この調子であればキャプテンが現代に馴染むのも早いのではないかと思った。少なくとも、来年から大統領が黒人になるという程度の事実はあっさりと受け入れそうな様子だった。

「でも車は浮いていないんだな。70年も経ったのに」

「は?」

「いや、こっちの話だ。何でもないよ。それにしても凄いな。僕はまだ第二次世界大戦にいる感覚だから、あんな風に、」

 そう言ってキャプテンは頭上で瞬く看板の群れを指さした。

「むやみやたらに明るいと目が潰れそうになる。戦時中は今よりもずっと……暗くて、閉鎖的だった。それにこんなにたくさん人種が混じっていて、それをみんなが平然と受け入れているなんて驚きだよ。さっきの彼は大きな組織の長官なんだろう?黒人が組織のトップというのは僕の感覚では驚きに値する事だ」

「拒否感が?」

「いや、良い事だと思う。人種や国籍はその人の価値には関わらないと僕は知っている。僕のチームには日系や黒人の仲間もいて、彼らは素晴らしい兵士だ。ただまだ常識がついて来れない」

 首を振るキャプテンは、しかし非常に冷静であるようにウェイドには思えた。

 

 突如として70年後の世界に放り込まれて、それでも彼は既にその状況を受け入れようとしているのだ。普通ならば恐慌状態に陥ってもおかしくはない。

 ヒーローの中のヒーローであるキャプテン・アメリカならばその位当然だ、と思うには、目の前の彼は自分と同世代の単なる青年にしか見えなかった。星条旗色のピチピチスーツではなく、ラフなシャツにパンツという恰好がさらにそう思わせているのかもしれない。

「常識は徐々に身についてきますよ。今は体を休めて下さい」

「……ああ、そうだね」

「貴方は十分に戦われたのですから、休息が必要です。あなたのおかげで……」

 

 あなたのおかげで俺は救われました。

 

 いきなり初対面の人間にそんな事を言われても困るだろう。そもそも意味不明だ。しかしどうしても口に出して感謝を言いたくて、言葉を詰まらせた。

 話し相手として隣を歩いていた男が突如として黙り、キャプテンはすっと顔を覗いた。ウェイドは少し眉を下げて迷子の子供のような顔をしていた。

「僕のおかげで?」

「あ、貴方のおかげで、多くのアメリカ国民の命と自由が守られました———貴方は英雄です」

「僕はただの兵士さ。ただ運が良かった」

「そんな事はありません。あなたは正義のヒーローとして知られていますし、実際そうであると俺は信じています。俺だってあなたに憧れて、その……ヒーローに、憧れたんです。子供の頃に。それで今は特殊部隊に」

 顔が赤くなるのを感じた。こんな時に白人は不便だ。感情がすぐ顔に出る。

 キャプテンはじっと自分を見るウェイドに何を思ったのか少し微笑んで、目尻に小さな皺を寄せて首を振った。悩んでいるような、迷っているような顔だった。

 ウェイドと同じような迷子の子供めいた表情だったが、しかし瞳はただ真っすぐに前を向いていた。

「僕は自分の信じる事をしただけだ。ただ、ちょっとばかり運が良かっただけなんだ。もし僕が生まれたのがドイツだったら僕はナチスへの反逆者として処刑されていただろう。日本人に生まれていたら反戦争論者として袋叩きにされていたかもしれない。僕は偶然自分の正義と国家の正義が上手く合わさったタイミングに生まれて、そして周囲の人に恵まれていただけだ。だから………もし君がヒーローになりたいなら、君が信じる事をするだけでいいんだよ」

 口端だけで笑ったキャプテンはウェイドの背中を軽く叩いた。

 そのまま、じゃあ、とだけ言ってキャプテンは到着したS.H.I.E.L.D.の施設の中に姿を消した。有無を言わさずその周囲をS.H.I.E.L.D.のエージェントが囲む。

 部外者だと言わんばかりに締め出されたウェイドは、彼の広い背中を見送りながらぽかんと口を開いた。叩かれた背中が妙に熱を持っていた。ボブが近くに寄ってくるまでウェイドはそのまま呆けていた。

 

「ウェイド、隊長から指示が来ただろ。何勝手な行動やってんだ」

「か……」

「すぐに他のチームと合流するぞ、CIAから連絡が……ウェイド?」

 

「かっけえ………」

 

 ウェイドはその場に崩れ落ちた。

 ヤバい、カッコいい。ヤバい。憧れたヒーローそのものだ。ヤバい。かっこよすぎる。ヤバい。

 そう言いながら悶えるウェイドを見下ろして、ボブは「次の任務が入ったからな」とため息混じりに伝えた。

 

 

 

 

 

■  ■  ■

 

 

 

 

 キャプテン・アメリカと直にあって言葉を交わすという、今から考えれば奇跡のような時間の後に待ち受けていた任務は酷く冷徹で陰惨で、浮足立った気分を非情な現実に戻すものだった。

 ウェイドを含むデルタフォースのチームはニューヨークからハドソン川を遡り、アパラチア山脈の一角に辿り着いていた。

 

 アメリカ東部を中心に活動しているテロ組織が子供を誘拐し、人身売買を行って活動資金を稼いでいるという情報は数か月前から掴んでいた。孤児院や母子家庭の保護施設を狙って子供を誘拐する手口は鮮やかで、何の痕跡も残さないプロのもの。既にその被害者は判明しているだけで30人以上になる。被害届が出ていない者も含めれば40人以上に上るのではないかと思われていた。

 何の手がかりも残さない所業に業を煮やしたCIAは彼らを追跡するのを諦め、次に襲われる可能性の高い孤児院をリストアップし、そこで暮らしている子供達全員の靴に小型のICチップを埋め込んでテロ組織が動くのを待つという屈辱的な策に出た。

 無垢な子供が誘拐されるのを指を咥えながら待つというのだから、プライドの高いCIAにとってここまでの屈辱は無かっただろう。

 思惑通りに誘拐された子供の靴から発せられている信号を衛星で探知し、彼らの居場所が広い山脈のど真ん中である情報を掴んだCIAはすぐさまにデルタフォースへと情報を共有した。

 直ぐに連中の手の内から子供を一人残らず助け出せ、というメッセージと共に。それがつい先日の事だった。

 

 

 ヘリを飛ばして敵に察知されては困るという理由から、ウェイド達デルタチームは人数を分散させ、一般車に乗り込んで山中を走った。途中まではそのまま車で動き、車道から車の数が少なくなれば目立たないよう徒歩の移動に切り替えた。

 ICチップが指し示す地点は山のど真ん中で、余程物好きな登山家でも無いと足を踏み入れないだろう場所だった。ただでさえ一般人であれば途中で体力が尽きるような山間に、周囲に気を張り巡らせながらの異動は少なくない体力を消費させたが、デルタフォースのメンバーの足は遅くなるという事は無かった。

 むしろ悪辣な活動を繰り返すテロ組織から子供を助けるという分かりやすい正義の行いに、重装備が普段よりも軽く感じられたくらいだ。残念ながら、こんなに容易く自分達が正義だと信じられるような任務ばかりでは無かった。

 

 ウェイドは昔から子供好きだった。幼少期に大人から虐待されたせいか、小さな子供には無条件で庇護欲が湧いた。短期間ながらマリカを育てた後はさらにその傾向が強まり、子供は何を賭しても守るべきだと思っていた。

 そんな子供を大量に誘拐し売り捌いているクズ共。そいつらはカオルとフローラ、そしてジェイソンを殺したテロリスト共の同類でもある。そいつらがこの先に居る。脳がふつふつと湧き立つような怒りに体が燃えていた。

 だが怒りに視野が狭くなるような事はなく、むしろ普段よりも冷静に周囲の状況を見るように努めた。感情に任せても碌な事にはならない事はこれまでの経験からよく知っている。

 

 子供達を乗せているだろう車の痕が近くを走っていた。木に身を隠しながら視線を先へと走らせる。

 人影も無ければ、民家の姿も見えない。ただ鬱蒼と茂る木に隠れるようにポツンと一つ建物が見えた。建物はキューブ状をしており、一切の窓が存在していなかった。何階建てなのかも外見からは判断し辛い。民家にしてはあまりにデザインがシンプル過ぎる。こんな形に住んでいるような人間は間違いなく変人だろう。

 辺りは深い枯草に覆われ、舗装もされていない一本の車道だけがその家へと続いていた。普段車を停めている事を示すように一部分だけ雑草が生えていない場所があり、そこは今住人の不在を示すように空いている。

 周囲に人影が見えない事を確認した後に、インカムから待機の指示が下った。建物の近くで枯草の上に腹ばいになり、木陰に身を伏せる。ウェイド含むチームはそのままの体勢で2時間以上待機した。

 

 焼け付くような時間だった。焦りが少しずつ心の淵に溜まるようだった。

 こうしている間にも子供達はどんな目に遭わされているのか。そう思うとすぐにでもあの建物に乗り込んで暴れまわってやりたくなる。しかし一人不用意な行動をする事は絶対に許されない。チームで動く事が何より子供達の命を守るためには最善だと分かっていた。

 まんじりともせずに、ただ指示を待つ。そうしているとようやく犯人と思われる車が近づいているという連絡が入った。

 その連絡から数十分の内に、車の走る音が聞こえた。静かな森の中ではその音はよく聞こえた。段々と近づいて来る。エンジン音から小型トラックである事はすぐに分かった。

 木々に遮られながらでも目を細めれば、道を走るトラックの姿は見える。トラックは駐車場に停まり、運転席と助手席から人が降りた。笑い混じりの雑談を交わしながら2人はトラックの後扉を開けた。男達は荷台に乗り込み、中から次々と子供達を引きずり下ろした。

『誘拐された子供を目視で確認しました』

「こちらも確認」

 年齢は5歳から10歳までの幅があるだろう子供達は、しかし揃って力なくぐったりとしている。子供達は運転手と荷台に乗っていた男、そして施設から出て来た男に引きずられるがままになっていた。何か薬物を投与されたのだろう。髪を掴まれてずるずると地面を引きずられているのに呻き声一つたてない。

 子供はそのまま建物の中に連れ込まれていった。家屋にしては無機質なキューブ型の建物は何かの実験施設のように見えた。鍵もカードキーのようで、民家にしては警備が厳重過ぎる。だが外見から見る限りでは2階建て程度の大きさで、そう大きくも無い。これまで誘拐された子供が全員ここに居るとは考え辛かった。

 ここに居ない子供は別の基地に送られたか、それとも既に売られたかだろう。

「糞野郎め」

「内部はどうなっているんだ」

『センサーには建物内部に今連れられた子供の7人、それと大人5人分の反応がある。ただし地下にも反応がある』

「地下はどうなってる」

『詳細不明。ただかなりの人数が居る事は確か。10人以上は居そうだ』

 舌打ちするも、下手に突っ込んで子供を人質に取られ、殺されでもしたら取返しが付かない。ウェイドはその場でSMGを構えたまま指示を待った。その間にも味方が施設の周囲を取り囲んでいるのが分かる。

 

 数分が数時間にも思えた。皆が焦れていた。スターク社製のセンサーでも地下の状況は分からず、この時にも子供が酷い目に遭っているかもしれない。

 世界最高峰の技術を誇るスターク・インダストリーのセンサーでも分からないのなら待ってもしょうがないのではないかという雰囲気が部隊に流れていた。今にも子供が殺されてもおかしくない状況を鑑みると、チャビン・デ・ワンタル作戦を決行するには時間が足りず、即時解決を決行する段階のように思えた。

 被っているヘルメットとマスクを木に押し当てて、SMGのグリップを握る手に力を籠める。熱い息を吐いた。

 

 ヘイ、落ち着けウェイド。焦ってもしょうがない。正しいと思う事を為すんだ。お前の神はそう言っただろう?

 天におわす神は欠片も信じちゃいない。でもヒーローは信じられる。祈るんだ。

 自分が正しい行いができますように。

 

 息を整えながら待つ。その時はすぐに訪れた。

 

『チームB、突入準備。チームA、Cは予定通りに』

「ラジャー」

 チームBのリーダーの合図に従い、ウェイドは突入準備に入った。外からでは内部構造がまるで分からない。その分状況判断が求められる。ウェイドの所属するチームBは建物内に人質と閉じこもった犯人の制圧において最も優秀なチームだった。

 恐怖の館で散々訓練した通りに木陰から素早く飛び出し、扉近くに体を貼り付けさせる。中から物音が聞こえた。監視カメラが備え付けられていたのだろう。建物目掛けて走り寄ってきたこちらにとうに気付いていてもおかしくない。

 

「Go」

 小さな合図を確認したウェイドは扉のカードリーダーに、これまたスターク社製のカードキーを差し込む。デルタ所属のハッカーは優秀だ。電子キー越しに扉は容易にハッキングされ、数秒としない内にあっさりと扉が開いた。

「サンキューアイアンマン」

 取り出したカードキーを回収して、扉を蹴破った。同時に中に催涙弾を投げる。

 小さな爆発音と共に煙が噴き出した。突入する。

 マスクも何も身に着けていなかった男達はその場に蹲っており、即座に拘束した。建物の内部は床はタイル張りで小さな家具が所々に置いており、それなりに生活感があった。ここを基地にし始めたのはそう最近の事ではなさそうだった。

 子供はぐったりとしたまま床に倒れており、他のチームメンバーが直ぐに建物の外へと連れ出した。既に医療班もバックアップとして待機している。ヘリもこちらに急行しており、迅速な治療が受けられる筈だ。

 

 床に倒れたままの男の両腕を後ろ手で縛り上げて、頭を軍靴で踏みつけた。呻き声を上げる男の頭蓋に銃口を突きつける。

「ヘイBaby, 地下はどこから行ける。さっさと言わねえとその脳みそ吹っ飛ばすぞ」

「俺は、俺は命令されてやっただけだ。子供には何にもしちゃいねえ」

「報告しておいてやる。いいから言え!」

「あそこのタイルの下だよ!」

 銃口をごりごりと眉間に押し当てると、物分かりの良い男は震える指先で部屋の隅を指さした。

 男の髪をひっつかんで引きずりながら部屋の端まで歩く。呻く男の声は無視だ。ウェイドは煙で鈍い視界の中で、他と比べて手垢の目立つタイルの一枚を見つけてコンと叩いた。軽い音だ。喚く男の耳に口を近づけ、大声で叫ぶ。

「これまで誘拐した子供もこの下か!」

「あ、ああ、それと技術者やらなんやらも下にいる。俺達のリーダーも、」

「糞野郎め!何人だ!」

「分かんねえよ、多分7人とかそこら……」

「技術者とは何だ!ここで人体実験でもやってたのか?それとも何かヤバいもんでもここで作ってたのか!?」

「知らねえって、本当に俺は雇われただけで、」

 男を放り投げて無線をONにした。情報を共有すると、すぐさまに突入指示が下った。

 ここまで地上で大騒ぎしておいて、階下で何も起こっていない訳が無い。子供の安全のためは直ぐに保護する必要があるという判断は満場一致した。

 

 他のメンバーもその場に集まり、銃を構えている中でタイルに指をかける。存外に軽い力で引っぺがされたタイルの向こうには階下に繋がる階段が灯りに照らされていた。

「Go」

 合図と共に、素早く突入する。地下は明るく、生臭い臭いがした。剥き出しの洞穴のように周囲は岩ばかりで、頭上に光る蛍光灯だけが近代的に明るかった。

 階段を降りると、大人が腕を広げた位の広さの道が30m程目の前に続いており、その先で右に折れていた。かなり広い地下迷路だ。ウェイドは他のメンバーと並び、銃口を前に付きつけながら前へと足を進めた。

 

 前に進むたびに生臭い臭いが鼻につく。サバイバルの訓練で鹿を捌いた時のような臭いだ。

 殺したばかりの鹿の肉は無臭だったが臓腑の臭いは強烈で、さらに腸を誤って傷つけてしまったために内容物が零れて酷い汚臭がした。その時に似た臭いがした。

「……臭いが酷いな。何の臭いだ」

「生臭いというか、腐った肉みたいな、」

 そこまで呟いた同僚は口を閉じた。奴らが商品である子供を誤って殺したとして、そのまま地下に放置していた可能性が脳裏を過ったのだろう。ウェイドもその想像が脳裏を過り歯を噛み締めた。その可能性については、あまり考えたくなかった。

 そのまま無言で数歩歩く。蛍光灯のあかりは瞬くことも無く先を照らした。右に折れている道の先に大きな影が見えた。

 それと同時にずる、ずる、という音が洞穴の奥から響く。足を止める。

 逃げ出した子供か、それとも反撃のために出て来たテロ共か。銃の引き金に手をかける。ずる、という音は何かを引きずっているようで、さっきの男達のように子供を引きずってこちらに向かっているのかもと思った。人質のつもりで連れて来たのかと。

 しかしウェイドのその予想は外れた。折れた道の向こうからは、どう見ても化け物としか言いようのない生物が現れた。

 

 一言で表すならば、全身が混濁した緑で覆われた液状の生命体。

 

 全身から体液を噴出しているその生物は見ているだけで嫌悪感と吐気を齎した。体長は3m近くあるだろう、それほど広いとは言えない洞穴を覆い隠す程の巨体だった。手足は2本ずつあり、顔らしいものも首の上についているのだが、幼児が作った泥人形のように造りが雑でどうにも人間には思えない。

 どう見ても人間ではなく、地球上にこれほどまでに醜悪な生物はいないように思えた。動きは鈍重だが、その生物が身じろぎする度に汚臭を纏った粘液質な液体が周囲に巻き散らかされた。

 

『————マァ、マ。マミィ』

 

 その生物には口らしきものは見当たらなかった。口も眼も鼻も無く、ただ全身に大小の穴が穿たれている。だがその音はこの生物が発している声だという事はすぐさまに分かった。虫の羽音を塗り込めたような声はこれまで聞いたことが無い程に不快な音で、鼓膜にペニスを突っ込まれてレイプされているような悍ましさに身の毛がよだった。こんな声を発せる人間が居る訳が無く、目の前の悍ましい生物が呻いている事は明らかだった。

 

 生理的な嫌悪感が限界に達したのだろう、一人が化け物に向かって発砲した。乾いた発砲音が鳴り響き、小さな煙が上がった。勝手な行動を取った隊員はその場で叱責されるべきなのだろうが、誰も声を発する事ができなかった。

 銃弾は粘液を貫通する事無く柔く受け止められていた。銃弾は跳弾する事無くその場にぽとんと落ち、痛みを感じていないらしい化け物は首を傾げながら興味深そうにつんつんと腕でつついた。

 その光景に全員が顔面を蒼白にしながら後ずさりするも、チームのリーダーは冷静さを必死に保つように声を低めて宣言した。

「………S.H.I.E.L.D.案件だ。撤退するぞ」

「しかし子供が中に、」

「想定外過ぎる。余計な刺激を加える訳にもいかな、」

 風を切る音が聞こえた。ウェイドは反射的に脇に飛びのいた。車がすぐ横を全速力で駆け抜けたような音が聞こえた。

 衝撃で体が剥き出しの岩壁に叩きつけられる。頭を庇うように覆った腕の隙間から赤く染まった地面が見えた。

「ひっ」

 腰が抜けて、その場に倒れる。喉が引き攣れて呼吸が出来ない。トラックに轢かれて粉々になってしまったかのような無数の肉片が目の前に散らばっていた。

 その中心では緑色の液体をまき散らす巨体が泥遊びするように不格好な腕を振り回し、血塗れの肉を捏ねていた。

 化け物が捏ねているのはさっきまで喋っていた仲間の肉片だった。飛び掛かってきた緑の化け物に押しつぶされてミンチになったのだ。

 

 ウェイドを襲った衝撃は、猛スピードで突っ込んで来た化け物の単なる余波でしかなかった。押しつぶされた仲間たちは痛みを感じる暇も無かっただろう。

 

 咄嗟にウェイドはその場から逃げ出した。仲間の敵討ちなどという言葉は全く浮かんでこなかった。恐怖が全ての理性を押し殺し、生存欲求だけがウェイドの中で声高に喚き散らしていた。

 階段は化け物の向こう側であったから、その反対側へ。つまりは洞穴の奥へ。装備してある無線を震える手でもぎ取るように口元まで持って行った。

「本部、本部、俺以外全員やられた。緑色のどう見ても人間じゃない化け物、S.H.I.E.L.D.案件だ!!」

『……S.H.I.E.L.D.案件了解。すぐに応援を要請する』

「到着までどれだけかかる!?」

『ヘリを飛ばして、最速で40分』

 その間にあの化け物がこちらに意識を向けたら、自分は虫のように押しつぶされて死ぬだろう。その想像はあまりに容易だった。

 しかし反撃など考えられない。どう見ても人間ではなく、いくら特殊部隊である自分でもあんな化け物は殺せない。立ち向かうよりも逃げた方が生き残れる可能性は高い。

 それに40分待たずとも、外にはデルタの味方が居る。こちらに異常事態が起こった事は既に伝えているのだから応援はすぐに来るだろうと、縋る様な思いで祈った。

 ただしSMGの銃撃を受けても何のダメージも受けていない様子だったあの化け物を、ただの人間の兵士であるデルタが何とかできるという想像が難しいのも確かだった。

 

 洞穴の奥に向かって走る。夢中で走った。呼吸の粗さも、疲労も、何も感じなかった。ただずるずるという音がまだ聞こえて来ていた。

 あの化け物がこちらに近寄ってきているのか、それともこの先から聞こえてくるのかさえ分からない。今は前に向かって走るしか無かった。走った先に同じような化け物が居る可能性なんて考えたくも無かった。

 

 走って3分も立たないうちに行き止まりに突き当たる。洞穴の行き止まりには、岩肌の露わな洞穴には不似合いな金属製の扉が待ち構えていた。先ほど見た化け物も容易にくぐれそうな大きな扉だ。

 扉の向こうには化け物が待ち構えているのではという想像が脳裏を走ったものの、走ってきた道の方からずるずるという音が近づいて来ているのが分かった。段々とその音は大きくなっている。選択の余地は無かった。

 焦りのあまり震える手で扉の横のカードリーダーにスターク社製のカードキーを差し込む。ハッキングが完了するまでの数十秒が死ぬほど長く感じられた。

 こんな洞穴の奥でもスターク社製のカードキーは問題なく衛星を介してデルタの本部と通信できるらしい。この作戦が終わったらアイアンマンのポストカードを買ってやろうとウェイドは心に決めた。

 ピッという小さな電子音と共に扉のロックが解除される。その間にもずるずるという音は大きくなり、こちらに近づいているのが分かる。

 

 躊躇いなく扉を開ける。中は広く、白い光に満ちており、狭苦しい洞穴とのギャップに一瞬目が眩んだ。病室のような白い壁のせいで余計に眩しさが眼に痛い。

 部屋の中は子供用のミニプールや、小さなブランコ、カラフルなボールの山、キャラクターもののトランプなどが乱雑に置かれていた。部屋の隅には絵本が積み重ねられていて、幾つかはページを開いたまま床に置かれている。プレスクールの遊び時間の真っ最中であるような雰囲気がした。これまでの粗雑に造られた洞穴とはあまりに違う部屋だった。しかし腐った臓腑のような生臭さはまだ部屋中から漂っていた。

 飛び込んで扉を閉めて鍵をかける。扉越しにもまだずるずるという音はまだ聞こえていた。しっかりと鍵を閉めた事を確認して、一度息を吐く。

 

 何なんだあれは。疲労ではない理由から額から汗が零れ落ちた。

 あれは、化け物だった。間違いなく化け物だ。人間の世界に居て良い存在じゃあない。精鋭揃いのデルタのメンバーが瞬きをする間もなく惨殺された。あの化け物が肉塊になった仲間たちで泥遊びをしていなければ、自分もその中の一人だっただろう。

 気分が悪かった。何かの悪い夢ではないかと思った。パニック映画のような洞穴を走り抜けた先には、子供用の玩具で溢れた白い部屋があったなどという非現実的な光景に、これは夢だという想いが強まった。

 だがそのウェイドの希望を絶つようにこつこつという足音が聞こえた。ずるずるではなく、普通に靴が床を蹴る音だった。

 疲労感のあまりその場に崩れ落ちそうになる身体を叱咤し、音の発生源である部屋の奥を見る。

 部屋の奥には、ウェイドが入ってきたのと丁度反対側に、もう一つ扉があった。蝶番の軋む音をたてて、一人の男がその扉から部屋へと入ってきた。男は山のように積み上げられている絵本を見ると「片付けもしなさいと言ってるのに、」と苦笑して広げられたままの絵本を丁寧に閉じた。

 

 男は体格の良い黒人で赤いマークのついた軍服を身に着けており、姿に似合わない柔らかな笑みを浮かべていた。軍人よりも神父か教師と言った方が説得力のあるだろう優し気な顔立ちだ。容姿は凡庸ながらも顔の中心にある2つの大きな瞳は印象的に瞬いていた。ウェイドはその男に見覚えがあった。

 デルタに入るずっと前、ウェイドはその男と、もう一人の友人と共に青春を過ごした。自分の中でも数少ない、人並みに幸福な記憶だった。心優しい敬虔なクリスチャンの友人の顔とその男の顔は完全に一致した。しかしまだ兵士として新米であった頃の記憶を思い起こすのに時間がかかり、また自分の目が信じられず、ウェイドの親友に対する反応は一瞬遅れた。

 

「久しぶりだな、ウェイド」

「…………ジェイソン?」

「そうだ。覚えていたか」

 

 良かった、と呟いた男は、ウェイドの目の前で爆殺された筈の親友の姿をしていた。

 ウェイドは首を振るいながら、嘘だろうと口にした。似ている他人であるという方がよっぽど可能性が高い。

 しかし男はウェイドが何を思っているのか分かっていると言わんばかりに「俺はジェイソン・マクスウェルだよ。お前がAIT時代に同僚の浮気をバラして訓練でタコ殴りにされた事も覚えてる」と告げた。それは確かに懐かしい記憶だった。

 しかしそれでも信じ難い。

「……お前は死んだ筈だ。もう、もう7年も前に」

「そんなになるか。お前も老ける筈だ」

「まだ俺はギリ20代だ。それにお前もおんなじくらいに老けてるじゃねえか」

「ああ、生きてたからな。ヒドラのおかげで」

 飄々と口にしたジェイソンは、何か飲むか、コーヒーしか無いが、と何ともなさげに言い放った。

 ウェイドはその言葉に応える余裕は無かった。ヒドラ。キャプテン・アメリカが殲滅したというドイツのテロ組織。

「ヒドラ……お前を助けたのがヒドラだって?」

「そうだ。アメリカ政府と言い換えてもいい。こら、止めなさいトーマス!」

 ジェイソンがそう言うと、扉の向こうから聞こえていた化け物のずるずるという音が止んだ。

「今は大人同士で話をしているんだ。遊んで貰うのは後にしなさい!」

「……遊ぶ?」

「そうだよ。トーマスはやんちゃで人懐っこくてね。初めて会う大人を見ると自分と遊んでもらいたくて、つい飛び掛かってしまうんだ」

 可愛いよね、と言ってジェイソンは笑った。趣味の悪い冗談を言っているような顔ではなかった。

 その顔に、トーマスという可愛い少年が自分の後ろにいるのかとウェイドは後ろを振り返ったが、目に見えるのは金属製の扉だけだった。あの扉の向こうには悍ましい化け物が居る。だとすればジェイソンがトーマスと呼んだ存在が何なのかは自明だった。

「トーマス?あの緑の化け物が?」

「化け物じゃない。子供さ。まだ彼は8歳の少年なんだ」

「化け物だろうがどう見ても。俺の仲間を虫みたいに潰して、」

「あの子は殺すつもりなんてなかったんだ。不幸な事故だ」

 何を言っているのかと思うが、彼はこちらを真っすぐに見ていた。そして扉の向こうに労わるような視線を向けていた。その視線には全く冗談めいた色は見当たらなかった。下手な冗談であって欲しいと願ったが、ジェイソンは本当に、あの緑色の悍ましい化け物が8歳の人懐っこい少年だと信じているようだった。

 

 とても正気とは思えない。この7年間でジェイソンに何があったのか知らないが、とんでもなく酷い目に遭ったのだろう。化け物を子供だと誤認してしまう程に。

 

「———おい、おい冗談は止めろよジェイソン。不幸な事故でデルタチームを轢き殺すおこちゃまが居る訳ねえだろうが。目を覚まして正気に戻れ」

「俺は正気さ。あの子はいきなりお前たちに銃で撃たれて、そしてお前達にじゃれついた。それだけだ。死んでしまったのは不幸かもしれないが、そもそもいきなり銃で撃ってきたのはそちら側だ」

「どっちが悪いとか、そういう段階の話じゃねえだろ……」

 ジェイソンはおかしくなってしまっているとウェイドは確信した。

 じゃれついただけでついアメリカが誇るデルタチームを殺してしまうような化け物を擁護するなんて、理解不能だ。まだ神とやらの為に戦争を起こす宗教狂いの馬鹿共の方が理屈に則っているような気さえする。少なくともそいつらは、神をあんな化け物だとは思っていないだろう。

 親友を、それも兵士として未熟だった自分のせいで死んだと思っていた親友が完全に狂っているのを見て、既に限界まで疲弊していたウェイドの精神は悲鳴を上げていた。

 親友が生きている事を喜んで、仲間が死んでしまったことを悲しんで、こんな場所からジェイソンを引き剥がして一緒に帰ってしまいたい。この願いを叶えてくれれば敬虔なクリスチャンにでもブッディストにでもなんにでもなろう。

 

 震える息を殺して、ウェイドはジェイソンに向き直った。どうか自分の言葉がジェイソンに通じるよう心から神に祈った。

「ジェイソン、何があったのか俺は知らない。でもお前が凄く辛い目に遭った事は分かる。だからどうか、お前が知っている事を全てS.H.I.E.L.D.に話してくれ。お前はヒドラなんかの仲間になるような奴じゃなかっただろう。正直に全部話せばきっと、」

「S.H.I.E.L.D.……?ははっ、S.H.I.E.L.D.か。まあ、別にそうしても構わないんだけどね。でもできれば面倒事は避けたい。俺は子供達が君たちの手によって傷つけられる所は見たくないんだ」

 おいでトーマス、とジェイソンが優しく呼ぶと、ウェイドの背後で扉が軋み、玩具のように捻じ曲がった。

 蝶番を引き千切り、緑色の化け物はゆっくりと部屋に入って来る。咄嗟に部屋の隅に逃げるが、化け物はウェイドに視線を向ける事無くジェイソンの元へと近寄った。ジェイソンの身体に粘液を纏わりつかせながら擦り寄る姿に、親に呼ばれた子供のような仕草だと、ウェイドはどこか麻痺しかけている頭の隅で思った。

「待て、ジェイソン」

「トーマスは義理の父親から日常的に過剰な折檻を受けていたんだ。ヒドラが保護した時には両腕が壊死していて、敗血症で1カ月も生死の境を彷徨っていた。でも今はこうして元気に動けている。他にも、他にも沢山の子供達が居るんだよ。マリアは伯父に6歳から9歳までずっとレイプされ続けていて、言葉を一つも喋れなかった。ジーナの母親は彼女がお腹にいる時からドラッグをやっていて、生まれた時から両手両足に奇形があった。ディックは金に困った父親に命じられて、スナッフフィルムに出演させられる寸前にヒドラによって保護されたんだ。ウェイド、君はまだ神を信じていないのかい?」

「ジェイソン、俺の話を聞け!」

「ウェイド、神はいるよ。天上から俺達を見下ろして下さっている。誰もが大事な使命を神様から貰って生まれて来たんだ。俺はようやくその使命に辿り着いたんだ」

 緑色の化け物、トーマスはジェイソンと共に歩を進めた。ウェイドに背を向けて、ジェイソンは部屋の奥へと戻っていく。

 奥に続く扉は自然と開いた。ウェイドはその扉の向こうに無数の緑色の塊が蠢いているのを見た。

 優しいジェイソンの声が、待たせてごめんねマリア、はしゃいじゃ駄目だよジーナ、こらディック、玩具はちゃんと片付けなさい、と言っているのがどこか遠くの世界から響いているように聞こえた。

 トーマスとジェイソンが呼んでいたのと同じような化け物が扉の向こうにひしめいていた。体の表面を緑の粘液で波打たせながら、その緑色の群れはジェイソンを歓迎するように棒のような腕を振り回してはしゃいでいた。

 

「俺はまだ神を信じている。俺の使命は、この子たちを救う事なんだ。その為なら俺はなんだってやる」

 

 最期に一度振り返ったジェイソンの瞳は、やはり優し気な色をしていた。ジェイソンは緑の化け物に埋もれるように扉の向こうに姿を消した。

 

 途端に部屋には静けさが満ちた。白く簡素な部屋には子供の玩具とウェイドしか残っていなかった。ジェイソンが生きて目の前にいた事と、非現実的な緑色の化け物が目の前を横切った事を示す証拠は、床を汚す緑色の粘液しか無かった。

 数分か、十分か、ウェイドはその場から動けなかった。視線は扉に釘付けになり、呼吸は酷く荒く、全身が冷汗で濡れていた。扉からはがたがたと音が鳴り、きっとこの場から逃走を図っているのだろうと察せられた。

 これだけ広い地下を用意しているのだから、脱出経路ぐらいは確保しているに違いない。だがそうと知っていても、ウェイドは扉を開ける事は出来なかった。まだ奴らが居るかもしれない場所に近づくのは、あまりに恐ろしかった。特殊部隊員として有り得ない事だが、ウェイドは彼らがさっさとこの場所から逃げ出してくれることを祈っていた。

 ようやく物音が止み、身じろぎが出来る程度に精神が回復したウェイドは、部屋の奥に続く扉に手をかけた。

 扉の隙間から緑色が見えない事を確認して、ゆっくりと開ける。

 

 うぅ、と唸るような音が聞こえてきた。それに酷く生臭く、洞穴や先ほどまでいた部屋とは比べ物にならない異臭がする。鼻が曲がりそうな悪臭はそこら中に腐った生ごみをまき散らしたよりも遙かに酷いと断言できるものだった。戦場で散々に悪臭に慣れていなければ、今この場に胃の内容物を全て吐き出していただろう。

 部屋は薄暗く、視界は殆ど何も移さない。

 手探りで部屋の明かりをつける。

 いっきに開けた視界には、実験室のような造りをしている部屋が広がった。机が整然と並べられ、ビーカーやら書類やらがその上にぶちまけられている。

 部屋の隅には手術の時に患者が乗せられるような狭いベッドが並んでいた。そこには手足を拘束された子供達が、人形のように縛り付けられていた。素っ裸の子供達は身じろぎもしておらず、余計に人形めいた印象を与えた。ただ口から洩れる呻き声だけが彼らが生き物であることを証明していた。

 

「……マリカ?」

 

 部屋の隅のベッドの上に、猫のような瞳をしたブリュネットの髪の少女が拘束されていた。見覚えのある顔だった。カオルの面影が強く、しかし強気そうな鼻はフローラに似ていた。

 あれから7年も経つ。見間違えであって欲しいと願いながら駆け寄り、細い肩を揺さぶった。

「おいおいおい、マジかよ、なあ、目を開けてくれよ。よく似た別人だと言ってくれよ」

 揺さぶっていると、少女は薄く目を開けた。少女はウェイドを見て、じーにー、と呟いて、笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 



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5. 狂へる悪魔

 ボブは同じチームで戦う仲間だった。それなりに付き合いは長く、何度も一緒に酒を飲みに行ったし、戦場では一緒に死線を何度も潜り抜けた。

 陽気でパーソナルスペースの狭いウェイドには仲の良い友人が多く居たが、ボブはその中でも一緒に行動する事が多かった。よく馬鹿をやるウェイドのストッパー係と周囲には認識されていた様だが、実際にはウェイドに便乗して馬鹿をする事の方が多かった。

 だから自分の決断にこうまで反対するボブを見るのはウェイドにとって初めての事だった。ボブは車を走らせながら、助手席に座り鼻歌を歌うウェイドに何度目かの説得を試みていた。

 

「おい、何度も聞くけどマジなのかよウェイド。はっきり言ってどうかしてるぜ。てめえが銃を手放して、ガキとお手々繋いで学校行ってる姿なんて俺には想像できねえよ」

「俺はいつだって本気だ。先輩達のお楽しみに突っ込んで行ってお邪魔虫になった時だって本気だっただろう?」

「ああ……ありゃあイカれた行動だった。ケツを蹴っ飛ばされて素っ裸で逃げ惑うあいつらの姿は最高に笑えたし、強姦されかかってた後輩を助けたあんたをちょっと尊敬したりもしたさ。だからそんなあんたが血も繋がってないガキの世話に掛かり切りになるなんて想像したくもねえんだよ。そもそも、」

「ところでボブ、9歳の可愛い女の子が好きな物って何か知ってるか?取り合えずジーニーの人形を買ってみたんだけど、やっぱテディベアとかの方が良かったかな。それともバービー人形?」

「………あんたが子供好きっていうのはよく分かった。でもいくら何でもただの友達の子供を、それも誘拐されて虐待を受けた子供を引き取って育てるなんて無茶だ。そんなの国が許す訳ねえだろ。お前はあの子の家族でもないし、カウンセラーでもない。結婚してるんだったらまだちょっとは可能性があったかもしれねえけど、結婚どころかお前は月単位で女をとっかえひっかえする独身の無神論者で、ついでにお前自身が実家と絶縁してる天涯孤独の特殊部隊員の現役兵士ときたもんだ。駄目な要素しかない」

「軍人は辞める」

 腕に抱えているジーニーを模した人形を撫でた。

 ボブはウェイドがそうやって何かを愛おしそうに撫でている仕草を始めて見た。ウェイドはすっきりとした表情で唇を持ち上げていた。

「退役する」

「………そうか」

 ボブは病院の前で車を停めた。何を言ってもウェイドが足を止める事は無いとその表情だけで確信できた。これ以上何を言っても全てが無駄だろう。

 人形を抱えて車を降りるウェイドに軽く手を振る。

「人を殺すよりも子供を育てる方があんたに向いてるとは思えんが、まあ、好きにするといいさ。あんたの人生だ、ウェイド・ウィルソン軍曹」

「正当な評価あんがとよ」

 大柄な男の腕にもあまるサイズの人形を抱えたウェイドに苦笑いを零し、ボブはその場を後にした。

 

 

 

 病院の一室でマリカは滾々と眠っていた。これまで何回か見舞いに来たが、マリカは周囲からの刺激に何の反応も示さずにただ目を瞑っていた。眠っているのか、それとも植物状態になっていてこのまま死ぬまで目覚めないのかすら外部から推し量ることは出来ない。

 9歳というにはあまりに小さな身体は病院のベッドの中で埋もれていた。腕には点滴が繋がれている。病室に置かれているチェストにはこれまでウェイドが持って来た人形や花が所狭しと置かれていた。

 その中にはフローラが生前出した唯一のCDアルバムもある。カオルと出会った頃は陰惨で悲痛な歌ばかりを歌っていたフローラだが、カオルと結婚し、マリカを産んだ頃には明るく爽やかな歌や、有名な曲のカバーも歌うようになっていた。

 

 ウェイドは個室であることを良い事に、持ち込んだコンポにCDを差し込んで曲を流した。鮮やかで満ち足りた笑顔を浮かべるフローラが映るCDジャケットが良く見えるよう、CDケースはコンポに立てかけた。

 フローラが歌う“Whole New World”がひそやかに部屋に流れる。2歳の頃マリカはこの曲が好で、子守歌代わりにフローラはよくこの曲を歌っていた。ジーニーが好きなのだからマリカは勿論“Friend like me”も大好きだったのだが、カオルは音感を母親の胎内に置き忘れてしまったような音痴で、子守歌を歌う役目はいつもフローラに譲っていた。

A whole new world. A new fantastic point of view.

No one to tell us no pr where to go. Or say we're only dreaming.

 ハスキーで豊かな声がゆっくりと病室に広がると、ウェイドはあの頃の幸福な日々を容易に思い出すことができた。幸せそうなフローラとカオル、そしてその2人に育てられ、幸福な子供になる筈だったマリカ。

 

 日向の中ではしゃぎ疲れるまで走り回るマリカが転げやしないかと、カオルが心配しながら見守っている。ジェイソンは転げたマリカに一番に駆け寄った。その手をすり抜けて自力で起き上り、そしてまた笑って走るマリカに、ウェイドは「こんなに根性があるなんて将来は大物になるに違いない!」と大げさに褒めてフローラに笑われた。

 あんなに派手に転げても起き上るなんてマリカは凄い奴だ。きっと将来はアメリカ代表のアスリートになるぞ。あんなに可愛いのにあんなに根性がある子供なんていやしない。

 ウェイドは何度もそう言った。そして実際にそうだと確信していた。カオルとフローラの性根を受け継いでいる子供なのだから、きっとそうだ。

 きっと誰もが好きになる、素敵な女性へ成長するに違いない。アスリートでも、歌手でも、主婦でも、何でもいいんだ。たとえ何でも、マリカは世界中から愛情を受けるに相応しい人になる。

 

 そうだ。そんな日々だった。一日だってウェイドはそんな日々を忘れた事は無かった。ただ全てが霧の向こうに閉ざされてしまったようで、今自分がいる居場所とは明確に区切りがついた過去のように思えてならなかった。

 

 マリカがあの施設で何をされていたのかは分からない。

 施設にあった書類や実験器具は全てS.H.I.E.L.D.により回収され、情報がデルタフォースに回ってくる事は無かった。ウェイドが盗み見た書類には『Weapon VIII』と書いてあったような気がするが、その意味もよく分からなかった。レベル6以上の機密情報であるらしく、ウェイドが持つセキュリティクラスでは情報閲覧が許可されなかった。

 

 ただマリカがどうしてあの施設にいたのかは分かった。フローラの親戚であり、マリカの養父であった男に問い質しに行ったところ、彼は既に妻と離婚していた。ウェイドが軍人であることを知っていた彼は、ほんの少し尋問しただけで彼の所業をぺらぺらと吐いた。彼は事業で失敗してかさんだ借金の返済としてマリカを違法組織に売っていたのだ。

 頭に上った血のままに、ウェイドは男を何度も殴りつけた。フローラと、そしてマリカにも少し似ている顔つきが全くの他人にしか見えなくなるよう徹底的に潰して、そしてマリカを撫でた事もあるだろう手の骨は一本一本丁寧に折った。

 心行くまで男の骨が折れる感触を堪能した後、少しだけ冷静さを取り戻し、尋問の途中で剥げてしまった爪を拾って男の口の中に返してやりながら、至って紳士的な口調で二度とマリカに会わない事、連絡を取ろうとしない事を約束してくれるよう頼んだ。

 頼み事の内容がよく分かる様に、男の耳元で軍隊仕込みの大声で約束を言い聞かせた後にバスタブに張った水の中に男の頭を沈め、窒息する寸前に引きずり上げて一言一句間違いなく繰り返せさせた。

 口から血塗れの爪と大量の水を吐き出しながら、男は快く了承してくれた。

 

 

 もう二度とマリカをあんな場所には戻さない。優しいフローラの歌声に包まれながらウェイドは歯ぎしりを零す。

 人身売買に手を染めた男の所へ、虐待児であるマリカが戻る事は絶対にありえない。そんな事を児童保護団体が許す訳が無い。しかし男の他にマリカには親族らしい親族はいなかった。ならば順当に考えればマリカは孤児院に行くか、里子に出される事になるだろう。

 だがウェイドは見ず知らずの他人の手にマリカを託すつもりは無かった。

 優しく裕福な夫婦を探して里子に出すのが最もマリカの幸福を考えた行動には違いない。しかしウェイドはマリカの名付け親としての権利を主張しようと心に決めていた。

 この選択が本当にマリカにとって一番の幸せになるのかは分からない。ボブの言う通り、軍人としての生活しか知らない自分ではマリカを育てるのに相応しい人間とは言えないだろう。胸を張って「幸せにする」と言えない時点で、自分にはマリカを育てる資格は無いかもしれない。

 だが愛する人を手放していずれ後悔するのは、フローラと、2歳のマリカの2回だけで十分だった。

 

「マリカ、いい天気だ。ほら今日はジーニーを持って来たんだ。好きだっただろう?Whole New Worldもよく聞いてたもんな。でも今はアラジンよりもチキン・リトルとかニモとかの方が好きかな。俺ちゃんそういうのに疎くってさぁ」

 ジーニーの人形をマリカの目の前で振る。マリカは滾々と眠っていた。ウェイドは小さな頭を撫でて額にキスをした。

「眠り過ぎるのも成長には良くねえぞ。まあ人生たまには寝すぎるのもいいけどな。キャプテンだって70年間寝っぱなしだったのに、ついこの前エイリアンとニューヨークでドンパチやって勝っちまったしな。でもキャップは眠りにつく前から十分すぎるくらいに成長してた。マリカはまだまだ成長期だろ?」

 ジーニーの人形をチェストの上に置く。これまでプレゼントした色とりどりの人形の間に挟まって、ジーニーの人形は何の悩みもなさそうに口を開けて笑っていた。

「9歳っつったらまだまだおチビちゃんだ。俺が9歳の時は……まあ俺の話は良い。外で遊びたい盛りだろう?俺でさえ仕事の合間に外で遊ぶ機会はあったもんだ。小説を読む事もできた。ヒーローに憧れる事だって……それなのに、俺ちゃんなんかよりずっと良い子のマリカがこんな所に閉じ込められてるなんてあっちゃいけねえ事だ」

 マリカの顔色は酷く白かった。フローラに似て元々白い肌をしていたが、今は心配になるような青白い肌をしている。医者が言うには内臓を弄られていて何かの薬物投与も受けていたらしい。血液検査やCT検査ではまだはっきりとは分からないが、何らかの後遺症がある可能性が高いそうだ。

 もしかするとこのまま二度と目覚めないかもしれない。拳を握り締める。自分のせいだ。

 自分がマリカの手を離したのがいけなかったんだ。名付け親のくせに。カオルと約束したくせに。

 マリカのジーニーのくせに。

「………マリカ、信じられるか?俺ちゃん本物のキャップに会ったんだぜ。リアルのキャップはコミックみたいな筋骨隆々のマッチョマンじゃなくて、GUCCIのCMにでも出てそうなおっぱいのデカいイケメンだったよ。でもマリカはアイアンマンの方が好きかな。それともハルク?アベンジャーズがボランティアで病院に来てくれたりしねえかなぁ」

 マリカの手を握った。小さな手だ。成長期に差し掛かっているという年齢を考慮してもあまりに小さいように思えた。その小ささに目が熱くなった。

「————大丈夫だ。マリカが会いたいヒーローが居たら俺ちゃんが呼んでやる。行きたい場所があったら、どこでも連れて行ってやる。俺ちゃんはマリカのママにはなれねえし、パパにもなれないかもしれないけど、今度こそジーニーみたいな友達にはなれるよう、頑張るよ」

 

 どんな後遺症があっても、もう目を覚まさなくても、マリカはずっと自分が面倒を見よう。その覚悟はあった。

 しかしただベッドの上で眠ったまま年を取るマリカを見続けるという想像は全く愉快ではなかった。

 

 ウェイドは深く息を吐いた。これまで幾つも間違いを犯した。

 フローラと別れてそのまま見送った事。カオルを助けられなかったこと。ジェイソンを置いて帰った事。マリカを手放した事。

 間違いばかりだ。もう二度と間違いは犯せない。そしてこれまでの間違いを償うためにも、マリカを手放す訳にはいかなかった。何があっても。

 

 握った手がぴくりと動いた。その僅かな動きに息が止まる。

 見間違えじゃないか、と一瞬思うも、ウェイドの手を握り返すように小さな指がはっきりと動いた。胸の奥で心臓が狂ったように拍動を打ち鳴らした。

「マリカ?」

 肩を小さく揺らす。もう一度名前を呼ぶと、瞳がうっすらと開いて天井を見上げた。合わない焦点で眠たげに瞬きを繰り返していたマリカだが、暫くすると自分の手を握るウェイドの方へと視線を向けた。フローラとカオルを足して2で割ったような容貌に胸が潰れそうになった。

「マリカ」

「……あ、あたし、」

 ウェイドの記憶にある2歳のマリカよりずっと明瞭な口調でマリカは喋った。ウェイドを見上げるマリカの瞳は夢心地だったが、暫くすると焦点が合ってきた。光を取り戻した瞳はあきらかに意識を取り戻した人間のものだった。

 

 ああ、神よ。感謝します。

 生まれて初めてウェイドは心からそう思った。

 

 深い眠気を追いやり、覚醒したマリカは9歳にしてはどこか大人びた顔をしていた。ウェイドの姿を見て口の端を持ち上げ大きな瞳でゆっくりと瞬き、何かを訴えたそうに息を荒く吐いている。今にも呼吸が止まりそうな荒い息遣いにウェイドはすぐさま立ち上がった。

「ま、待ってろマリカ。先生を連れて来るから!」

「い、じぃ、にげ、」

「直ぐに戻るから待ってろ、な?」

 そう言い残して、ウェイドは耐え切れない笑みを零しながらナースステーションへと走った。

 マリカが眼を覚ました。その事実だけで涙が零れそうだった。

 

 廊下を走る足音も荒く、ウェイドはナースステーションで大声で叫んだ。詰めていた看護士やら医者やらが一斉にこっちを見たが、全く気にもならない。

「ドクター、ドクター!誰か、おい、誰かマリカを見てくれ!目を覚ましたんだ!!」

 そう叫ぶと、「落ち着いて、直ぐに行きますから」と一人の医者がウェイドの元へと駆け寄った。マリカの主治医であり、この病院にマリカが搬送されてからずっと診ていた医師だった。

 医師は驚いた顔をしながらも冷静だったが、逆に歓喜と興奮で満ち満ちているウェイドは何から伝えてよいのか分からず口の中で舌を転げ回していた。

「ああ、先生、マリカが眼を覚ましたんだ!喋ったんだ!俺をジーニーって呼んだ!ああ、でも先生、呼吸が荒くて、喋りはしたんだけど後遺症とかあるかもしれねえし、本当に大丈夫なのかどうか分かんねえから」

「直ぐに診察しますから落ち着いて下さい。周囲が慌てていると患者も焦りますからね」

 そう言われてウェイドは荒れ狂う心臓を必死に宥め、廊下を歩く医師の背中に「お願いします先生」と言ってその後をついて行った。

 ナースステーションからは「あの子、目を覚ましたのか」「良かったな」なんて声が聞こえてくる。本当に良かった。込み上がってくる涙が眼の縁に溢れそうだった。

 

 

 

 

 しかしマリカの病室に戻る廊下の丁度半ばまで歩いた所で2人は急いて動かしていた足を止めた。

 その先へと向かう意思を萎えさせる程の異臭がマリカの病室から漂っていた。それはこれまで嗅いだどんな臭いよりも神経に触る、腐った内臓をかき混ぜたような臭いだった。強制的に吐気を催させるような臭気は凶悪な意志を持っているかのようだった。

 医者は異臭に怪訝な顔をして顔を顰めたが、ウェイドは顔を青白く変えた。

 あの洞穴で嗅いだ臭いと同じ臭いだった。

「嘘だろう?」

 ようやくマリカが眼を覚ましたのに、あの化け物がやってきたのか。

 最悪だ。ファック。糞ったれなバケモノめ。狂ったジェイソンの取り巻きめ。ふざけやがって。

 しかしどこから。どうやって。疑問が湧くも、それは今はどうでも良い事だった。ただあの化け物がこの病院に、マリカが居る病室の近くに居るという事が何より重要だった。

 胃の底から炎が燃え上がるようだった。腰のホルスターから銃を抜き出す。視線を周囲に飛ばし、緑色が視界の端にでも映っていないか神経を尖らせた。強い臭いがする。かなり近い。

 医者は悍ましい異臭にたじろぎ、怯えるように周囲を見回していた。「あんたは戻っていろ」とウェイドは告げ、医者をその場に置いて先へと進む。

「これは何の臭いだ?あの病室から……君は何か知っているのか?」

「ドクター、直ぐにS.H.I.E.L.D.に連絡を。緑の化け物が居ると伝えてくれ」

 

 マリカ、マリカ、マリカ。

 

 今はただ、マリカの無事しか頭に無かった。混乱しながらも逃げる医者を確認し、走ってマリカの病室へと戻る。

 病室の扉を開くと一段と酷い異臭が鼻孔を襲った。空気まで淀んで見える程の異臭は涙が出そうな程だった。

 だがそれよりも悍ましい光景が病室に広がっていた。

 

 汚臭を纏った緑色の粘液の巨体が、マリカが寝ていたベッドの上に横たわっていた。清潔なシーツは緑色の粘液で汚れてしまっている。チェストに置いてあった花束も人形も、笑っているフローラが映るCDジャケットも緑の粘液を被っていた。

 部屋には変わらずゆったりとしたフローラの歌声がWhole New Worldを紡いている。場違いな優しい歌は一層目の前の光景を悲惨なものにしていた。マリカは巨大な粘液の塊に圧し掛かられているか、その姿は見えなかった。

 

 頭が一気に沸騰した。口から血を吐きそうだった。判断は一瞬だった。ウェイドは吼えた。

「マリカに何してやがる!」

 拳銃を、粘液を纏った巨大な化け物に向けて放つ。標準を定める必要は無かった。あまりに巨大な身体は天井まで届き、身をかがめなければならない程だった。

 だがその身体に当たった銃弾は柔らかな粘液に跳ね返されてその場に落ちる。舌打ちして、ナイフを持つ。あの洞穴で感じたような恐怖は無かった。それよりも巨大な怒りがウェイドを支配していた。

 

 緑の化け物に飛び掛かり、ベッドから引き剥がそうとする。重く巨大な肢体は微塵も動かなかった。

 この巨大な身体に圧し掛かられているとなれば、マリカは呼吸もできていないのではないか。そう思うと血の気が引いた。

「この野郎、この化け物め!」

 振り上げたナイフを化け物の背中に突き刺した。手の感覚で化け物が震えたのが分かった。

 突き刺した傷から、この化け物の血液なのか、緑色の液体が零れ落ちる。痛みに悶えるように化け物は手足をばたつかせて暴れた。

 拳銃は効かないが、ナイフは効くようだ。そう察したウェイドの判断は迅速だった。

 振り落とされないよう身体に縋りついてナイフを引きぬき、再度振り下ろす。泥人形のような身体の、心臓があるだろう場所に突き刺し、引き抜くと大量の液体が零れ落ちて鼻を突いた。

 動きが鈍くなった瞬間を見て、胴体をベッドの上から引きずり下ろす。粘液で汚れた床に倒れた化け物に馬乗りになり、ウェイドはその頭へナイフを突き立てた。

 卵の殻を突き破るような感触がした。ナイフを引き抜き、また突き立てる。どろりとした粘度の高い液体が零れる。また引き抜き、突き立てる。

「死ね、化け物、死ね!」

 また引き抜き、突き立てる。引き抜き、突き立てる。

 フローラの優しい歌声と、化け物が噴き出す粘液が床に撒き散らされる音が混じって鼓膜に突き刺さる。

 引き抜き、突き立てる。

 零れ落ちる粘液は徐々に少なくなっていった。見上げるような巨体も小さくなっていく。吐き出した粘液の中からごぷりと空気が吐き出された。

 突き立てたナイフから手を離し、首を絞めるように手をかける。細い首だった。そのまま力任せに引きずり起こすと粘液が繭のようにその身体から離れて行った。

 身体から粘液をぽたぽたと落としながら、噴出した粘液の分だけ小さくなった体はウェイドの為すがままに宙に手足を浮かしていた。ウェイドは全身をナイフで斬りつけられ、顔を滅多刺しにされ、首を絞められて紫色に変色した、子供の顔を見た。

 

 頬の肉はこそげて顎の骨までが露出している。柔い頭蓋骨は切り刻まれ、ずたずたになった脳までがはっきりと見えた。口の中からは切り刻まれた口腔粘膜からナイフで切断された頸椎の端が覘いている。眼球は両方とも潰れ、眼窩からどろりと零れ落ちてしまっていた。中身が零れた眼球は薄い皮となり、ぺしゃりとウェイドの足元に落ちた。

 2つに裂かれた瞳孔はキャラメル色をしていた。

 それはマリカだった。

 

 

 

 A hundred thousand things to see. I'm like a shooting star.

 I've come so far. I can't go back.

 To where I used to be.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後の事は、あまり記憶に残っていない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■  ■  ■

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 上官の執務室の扉を蹴破って開けたのは始めてだった。何の抵抗も無く古めかしい両開きの扉は騒音を立てて吹き飛んだ。

 秘書らしい男はアポイントメントも無しに上官の突如乱入したウェイドに驚いて腰を上げたが、部屋の主であるガルシア教官……ガルシア大尉は平然とした表情のままウェイドを迎え入れた。広いデスクに深々と腰かけて湯気の立つコーヒーを舐めている。

 ガルシアはウェイドの教官であった頃よりも少し額に皺を増やし、髪には白いものが混じっていた。だが他は時を止めているように変わっていない。軍服をきっちりと着込み、どこか上品な雰囲気を纏っている。

 荒々しい怒気を纏わせている乱入者を体を張ってでも止めるべきかと秘書が逡巡している間に、ウェイドは軍靴を盛大に鳴らしながらガルシアの目の前まで迫る。憤怒と虚無が半分ずつ入り混じったの表情を浮かべるウェイドを見て、ガルシアは僅かに口角を上げたように見えた。

 

 歯を食いしばり、荒い息を吐いて出来る限りの冷静さを保とうと努力した。それは人生で最も無駄な努力だったかもしれない。口から出た声は噴火寸前の活火山のように震えていた。

「なんで調査を止めるんですか、大尉」

 怒気を堪えるために全身を細かく震わせているウェイドに対してガルシアは至って平静だった。コーヒーカップを置いて真っすぐにウェイドを見る。

「それがS.H.I.E.L.D.の決定だからだ。あの組織は一種の治外法権だ。我々には関与する権利はない」

「子供を緑色の巨大な化け物に変える組織を放置するのがS.H.I.E.L.D.の判断だというなら、S.H.I.E.L.D.は単なる税金食らいの屑の溜まり場です。即刻解体するべきだ。役に立たない馬鹿共を血税で肥え太らせる余裕は我が母国には存在しないのでは?」

「落ち着けウェイド。あそこは我々には対処できない問題を一手に引き受けているんだぞ。彼らの事情もある」

「その事情とやらは無垢な子供の命よりも遙かに重要だと言うんですか。そう判断する十分な証拠を奴らが提示したというなら、俺だって落ち着いてやってもいいんですよ」

 提示する筈が無い。ウェイドは歯噛みした。

 S.H.I.E.L.D.は秘密主義だ。奴らは情報を自分達の中に孕んでおくことが世界の平和に繋がると確信している。

 対テロ特殊部隊であるデルタフォースよりも更にその情報秘匿性は高く、しかし権限は強く、外部からは全く内情を知る事が出来ない特殊な組織に物を申す権利はウェイドには無く、目の前のガルシアにも無い。

 そうと分かっていながらもガルシアに噛みつかずにはいられなかった。他に頼る先は無いのだ。ガルシアは目を細めてウェイドをじっと見るだけだった。

「S.H.I.E.L.D.は情報を開示しない。我々と協力して作戦任務にあたる事はあるが、その場合でも裏で何やら別の任務に従事している事もある。そしてその全てが世界のためであると、彼らは信じている……そして事実、そうだ。チタウリの一件で彼らは確かにその事実を証明した」

「それとこれとは別の話でしょう!緑の化け物はいきなりやって来る宇宙の軍勢なんかじゃない、子供だったんだ!今だってどこかで子供が攫われて、緑色の粘液べとべとの泥人形にされてるかもしれないのに!」

「落ち着けウェイド」

「落ち着いていられるか!!」

 机を蹴り飛ばす。秘書が立ち上がりウェイドに掴みかかったが、腕の一本で振り払った。

 壁に叩きつけられた秘書は呻き声を上げながら無線を取り出し、応援を呼んだ。それを無視して、ウェイドはガルシアに掴みかかる。胸倉を掴まれてもガルシアは表情一つ変えなかった。平静を保つ顔面に唾を吐きながら叫ぶ。

「てめえがあの時の作戦を指揮したのはあんたなんだって事は知ってんだよ!ジェイソンと化け物をわざと逃がしただろう!何故だ!!」

「わざと逃がした訳では無い。彼らには銃が効かなかった。手の打ちようが無かったんだ」

「嘘をつくんじゃねえよこの愚図野郎!」

「嘘ではない」 

 背後からばたばたと足音が聞こえる。開け放たれたままだった扉から複数人が乱入してくる気配を感じた。

 落ち着けウェイド、大尉のせいじゃないだろう。そう諭す何人もの声が聞こえた。彼らは正論を言っていると分かっていた。しかしそれらは全て雑音としか聞こえなかった。

 ガルシアの胸倉を掴む腕を離そうと何人もの人間が纏わりついてくる。邪魔だと振り払うも、相手も軍人だ。呆気なく数人に取り押さえられ、地面に腹ばいに押さえつけられる。押さえつけられながらもウェイドは吼えた。

「俺の親友の子供が死んだんだ!あいつらのせいで、呆気なく、まだ9歳だったのに!このまま黙っていられるか!!」

「違う。君が殺したんだ」

 乱れた服装を直しながら、ガルシアはウェイドを見下ろした。

 機械音声染みた、何の抑揚も無い声だった。だからこそその声はウェイドの脳内に深く浸透した。ウェイドはマリカの姿を思い出した。

 猫のような形の瞳。チョコレートのようなブリュネット。可愛いマリカ。ジーニーと自分を呼ぶ、子供らしい高い声。

 カオルとフローラの間でにこにこと笑う姿。それを見て微笑むカオルと、子守唄を歌うフローラ。ウェイドが知る限りで最も具体的な形をした幸福だった。ウェイドは彼らが大好きだった。

 勿論、今でも好きだ。その権利があるのならば。

 

「マリカを殺したのはジェイソンではない。彼女の養父でもない。彼女を化け物にした組織でもない。君が殺したんだ、ウェイド・ウィルソン」

 

 頭が真っ白になった。自分を押さえつける連中を蹴り飛ばし、殴りつけ、立ち上がる。

 澄ました顔のままのガルシアに向かって走る。背後から静止の声がかかる。

 拳を顔面に叩きつけた。吹き飛んだガルシアは背後の窓に体を叩きつけられ、ガラスが割れて飛散した。

 ガラスと共に床に崩れ落ちたガルシアへと大股で近寄り、大柄な体躯の上に馬乗りになる。そのまま拳を振り上げて殴り続けた。拳を振り下ろす度に、口からは呻き声や叫び声が漏れ出た。涙が零れて散った。

 ばたばたと足音を立てながら周囲を取り囲まれる。再度取り押さえようと騒いでいるのが聞こえた。だが先程のような穏健に取り押さえようという雰囲気はなく、容赦の無い暴行が周囲から飛んできた。

 それらへ抵抗しながら、ガルシアを殴る。自分でも叫び声なのか泣き声なのか分からないような声が噛み締めた歯の隙間から漏れ出ていた。拳が骨を砕く感触にこちらの手も酷く痛んだ。

 だがそれも長くは続かなかった。応援で呼ばれた一人がウェイドの腹へ蹴りを入れ、ガルシアの身体の上から蹴り飛ばされた。そのまま両手を拘束されて、部屋から引きずり出されて行く。

「上官に対する暴行だ。年金が貰えるとは思うなよウィルソン軍曹」

 口の端から零れた血を拭いながら、ガルシアはウェイドの背中に向かって言い放った。

 扉向こうにガルシアの姿が消えていく。引きずられながら、ウェイドは扉が閉まる最後の瞬間にガルシアの血に濡れた唇を見た。

 唇はHail HYDRAと言っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まあ、こんな所か。

 後の展開は知ってるよな?

 

 俺ちゃんは退役して、年金無しでシャバに放り出された。

 とはいえ元特殊部隊の経歴を生かせる職業はそれなりにある。シークレットサービスとか、民間軍事企業とか、それこそS.H.I.E.L.D.とかも元デルタフォースっていう経歴を出せば割とすんなりリクルートが来ただろう。

 でもその時、俺ちゃんはもう組織とかそういうのが嫌になってた。それと割と自暴自棄になってた。

 

 ……退役した後にS.H.I.E.L.D.に入って、マリカを化け物にした組織について調べてみようと思った瞬間もあるよ。

 でもさあ、マリカを殺したのは俺じゃん。俺が殺したんじゃん。なのに復讐とか、馬鹿らしくてさ。

 いや滅茶苦茶怒ってるよ。勿論。でも俺ちゃんのせいで他の子供達が死ぬかもとか、俺ちゃんが関わるせいでもっと酷い事が起きるかもとか、ネガティブな思考のスパイラルループに陥って抜け出せなかったんだよね。

 だって俺が好きな奴らは皆碌な目に遭ってねえし。好きな子には意地悪するんじゃなくて優しくしてあげたい系男子だから俺ちゃんは。

 

 そんでまあ適当に傭兵とかやりながらぐだぐだ過ごしてたら、めっちゃイケてる美人でエロくて最高にホットな女と恋に落ちて結婚して、これまでの不幸は全部この生活の前振りだったのか!って納得しかけたら、全身癌に侵されてるって分かって。

 ああもうこりゃ駄目だって、すぐに受け入れた。生命保険今からでもかけらんねえかなって思ったけど無理だったな。やっぱ保険にはちゃんと入っとかなきゃいけねえって、それを一番後悔したよ。

 

 ……だってさあ、カオルもフローラもマリカも皆いい奴だったのに、俺より早く死んじゃったじゃん。俺の方があいつらより早く死んで当然なのに、まだのうのうと生きてる方が不思議なくらいだったからさぁ。

 でもヴァネッサを残して死ぬのは嫌だったし、それにあいつは俺が死なないよう何でもするつもりみたいだったから。好きな女を死ぬまで縛り付けるなんて嫌だった。だったら一か八かで治るか、すっぱり死ぬかのどっちかの方がマシだった。ずるずる生きるのは御免だ。

 

 それであんな詐欺みたいなリクルートにかかっちまったんだよな。

 いや詐欺みたいっていうか、100%詐欺だったんだけど。

 

 そんで結果的に、心の底から憧れて、尊敬して、ああなりたいと思ったキャプテン・アメリカと同じWeapon計画に巻き込まれて、自分も超人になった。

 ヒーローと呼ばれるに相応しい能力だけはWeapon X計画のおかげで授かった訳だ。

 

 でもやっぱり俺はキャプテン・アメリカにはなれなかった。

 ジーニーにもなれなかった。

 

 発狂したり、過去を忘れたり、恋人と別れたり、色々とあったけれど……俺はどうしようもなく俺のままで、こうしてまだ生きている。

 その理由は分からないし。多分どうでもいい。

 自分が正しいと思う事を通してきたつもりなのに、どうして自分はこうなんだろう

 

 

 

 

 

 

「………君は悪く無いよ、ウェイド」

 大きな掌に背中をぽんぽんと撫でられる。もう正体を誤魔化すつもりも無いらしい。

 少女———マリカの姿をしていた人物は、テレビのコードが断裂しかかっているようにマリカと本当の姿を行き返りしてぱりぱりと点滅している。少女でないその人物の姿は子供の頃から見慣れたものだった。

「俺ちゃんからここまで聞き出して、何が目的なんだよキャプテン」

「……騙すような真似をしてすまない。ヒドラの組織が各地で子供を誘拐しているという情報が入ったんだ。これまでS.H.I.E.L.D.や軍の内部で握り潰され続けていた情報だったんだけど、幸か不幸かサノスとの戦いでヒドラも混乱して、情報を処理する余裕が無くなったらしくてね。それで調べてみたら、君の名前があったんだ」

 

 ウェイド・ウィルソン。特殊部隊所属。

 2009/09/23ヒドラ施設にて実験中のWeapon VIII個体と接触。

 情報隠蔽のためウィンターソルジャーによる処理が検討されたが、今後のWeapon 計画に有用な人物として監視付きの上で放置が妥当と判断された。

 

 そう言えばここに来る前にそんな書類を見せられたような気がする。

 こんな些細な情報も引っ張り出してくるんだから、アベンジャーズという組織は粘着質極まりない。呆れの籠った溜息を吐いて頭を振るった。

「……そんで、俺ちゃんの記憶を弄ってマリカの事を調べたってわけ?わざわざマリカのコスプレまでして」

「一応言っておくけど、これは君も同意の上の事だ。今はワンダとプロフェッサーXが協力して君に記憶を取り戻させているから、思い出そうと思えば思い出せる筈だよ」

 キャプテンがそう言うや否や、たった一日かそこらか前の記憶が呼び起こされた。

 

 

 ヒドラが非道な実験をやっているから、その実験をしている施設を潰す協力をして欲しいとキャップから連絡があった。

 俺ちゃんは最近任務が無くて暇で……人類半分殺したサノスとローニンのせいで商売あがったりだったんだよね……家でゴロゴロしてる真っ最中だった。そこで突然キャップから連絡があって任務を依頼されたんだからもうテンションは爆上がりだ。

 胸糞悪い依頼も多い傭兵稼業だけど、キャップからの依頼はいつも良い依頼だから割と嬉しいんだよ。

 あとなんやかんやでキャップの為なら金を惜しまないツンデレ社長のおかげでペイも良い。

 そんで話を聞いたらWeapon計画に巻き込まれる前の、特殊部隊に所属していた頃の俺ちゃんがその実験に接触したっていう報告があったからその時の事を教えて欲しいって言われたんだ。

 勿論俺ちゃんはWeapon計画のモルモットにされる前の事はなーんも覚えてないから、悪いけど何も知らねえし覚えてねえよ?って応えた。これがキャップじゃなかったらある事無い事適当に言って金だけ貰おうとしただろうけど、流石にキャップに詐欺は働けない。なけなしの俺ちゃんの罪悪感が死んじゃいそうになる。

 

 それに詐欺だってバレた後の事が怖い。キャップ、怒ったらマジで怖えから。それに付き合い長いからすぐに詐欺だってバレそうだしね。

 

 そう言ったら、キャップは分かっているって言った後、すごく申し訳なさそうに直接頭の中の情報を見れる手段があるからって伝えて来た。

 何でもB.A.R.F.システムにワンダとプロフェッサーXの能力を加えればぐっちゃぐちゃになった俺ちゃんの記憶を整理する事が出来るらしい。なんて詐欺っぽい話だと鼻で笑いそうになったけど、嫌なら断ってもいいんだよ、むしろ止めておこうか?なんて繰り返すキャップの話しぶりは詐欺師失格だなと思った。押しが弱い上に申し訳なさが前面に出過ぎている。

 でも話を聞くとこの作戦のスポンサーはいつも通りトニーで、元々ぐっちゃぐちゃな頭の中を弄らせるだけで5万ドルは保証するって言うから、もうNOと言う理由なんて無かった。

 どうせ俺ちゃんの頭の中身は再現不可能な程にぶっ壊れていて、昔の記憶なんて欠片も残っちゃいない。だからB.A.R.F.を使おうがスカーレットウィッチとプロフェッサー・ハゲが協力しようが、まず間違いなく失敗すると分かっていた。

 でも失敗しても金は支払って貰うって約束してくれたし、だったら俺ちゃんにデメリット無いじゃん?

 

 そういう訳でアベンジャーズタワーに行ったらトニーとキャップとワンダと、あとマジでプロフェッサーXが居て、あれ?ここどこのアースを元にしたファンフィクな訳?アベンジャーズ VS X-MENは無かった系アース?って混乱してると、めっちゃ不機嫌そうなトニーにB.A.R.F.のデカい機械の中心に押し込められた。

 んもう、そんなに焦らないでよシャチョさぁん♡なんて言ってたら、隣でキャップも俺ちゃんと同じように機械の中に入っていて、あれ何でキャップも入ってんのって思ったら、「ランダムな記憶の中で欲しい情報を手に入れるためもう一人君の記憶に入る必要があるんだ。それも出来れば君があんまり警戒しない人物を」って言われた。

 いやいやそりゃあキャップに対して警戒なんてしてないけどさ、でも俺ちゃんの記憶を全部フルオープンで見せる程気を許してるわけじゃねえよ。

 そう言ったら、「外見はB.A.R.F.の効果で貴様の狂った心に入り込みやすい容姿に自動で変わる」ってめっちゃぶっちょ面の社長に言われた。つまりキャップがヴァネッサの容姿になって俺ちゃんの記憶の中を優しく誘導してくれるってこと?

 え、それなんてプレイ?俺ちゃん相手がキャップなら突っ込むよりそのデカいイチモツを突っ込まれたいんだけど、でもまあそんなに上下に拘りがある訳じゃねえし、あんたのムッチムチのケツにこれまで興味が無かったこともねえから今回は俺ちゃんがtopに専念してもいいけど、

 って言ったところでキレた社長がB.A.R.F.のスイッチをONにした。

 あんたホントキャップ好きだよね。絶対認めはしないだろうけどさ。

 

 

 視界がぐるぐる回って、脳みそがシェイクされるような気持ちの悪さに思わず胃の中の物を全てリバースしそうになった。アイアンマンお得意の機械に吐瀉物をぶちまけたらちょっとはすっきりするかな、2重の意味で、と思ったけれどこんな公衆の面前でマスクを脱ぐ事への羞恥心もあり、どうしようとうんうん悩んでいる内に気持ちの悪さは潮のように引いた。

 

 その瞬間、まるで嘘みたいに広大な農場が目の前に広がった。まさか機械で周囲に投影している映像だとは思えないリアルさに若干引いた程だ。VRなんて目じゃないリアルさは草の青い匂いさえ再現しているようだった。

 流石スターク、オーパーツレベルのオーバーテクノロジー技術をポンポン産み出しやがる。感嘆しながらその光景を前にしていると、脳細胞がカチカチと音を立てながら再構築されるような感触がした。

 あの農場のあの場所に、そう言えば家があったような記憶がある。そう思うと同時に記憶そのままのボロい家がその場所に出現した。

 

 そうだ。この場所で自分は生まれて、そして育った。

 

 あまりに懐かし過ぎる記憶に脳細胞が引き絞られるような感覚がした。

 忘れた過去を思い出した影響か、自分が何なのか、そして何のためにここにいるのかを静かに忘れた。ただ目の前の懐かしい家に意識を全て取られた。2階の隅のあの部屋の、あのベッドの下に、自分の心の支えがある。

 どうして忘れていたのか理解できない程にその記憶は鮮やかに息を吹き返した。

 

 そうしてふと隣を見ると、マリカの容姿をテクスチャのように貼られたキャプテンが、キャラメル色の瞳をこちらに向けていたのだ。

 

 

 

 

 

 全てを思い出したウェイドはあまりの恥ずかしさに身悶えしそうだった。

 かなり重度のキャップフリークっぷりをまさか全て本人に見られているとは、死にたいレベルでの恥ずかしさだ。アイドルグッズを集めた祭壇を本人に見られるよりキツイ。ウェイドは顔を覆って地面を転がった。

「いやああああキャップ全て忘れてお願い!俺ちゃんは清く正しいファンだから!ポルノ作成とかには手を出してない純粋なファンだから、お願いだから全て無かったことにしてぇえ!」

「僕が冷凍状態から起きて逃走した時、止めようとして来たのは君だったんだね。他のエージェントより良い動きだったよ」

「3秒で沈められたけどな!!」

 ふふっと笑うキャプテンは懐かし気に目を細めた。

 もう用は済んだとばかりにキャプテンの容姿がマリカから彫刻めいて均整の取れている肉体に変わる。

 キャプテンの恰好は普段の星条旗カラーのスーツではなくネルシャツにジーンズという、ラフさとダサさが絶妙に交じり合っている私服だった。素晴らしい容姿と体躯を持っているというのにその恰好のダサさでかなりの損をしているように思えてならない。せめてズボンにインしているシャツを外に出して欲しいと切実に思った。

 だがキャプテンは自分の絶望的なダサさ……ファッションセンスではスプスと良い勝負だ……に気付く様子も無く、ただ申し訳なさそうな視線をウェイドに向けていた。

「一応言っておくけれど、僕は君の記憶を全て見た訳ではない。君はワンダとプロフェッサーの能力で君の人生を全て詳細に思い出しただろうけど、B.A.R.F.へ出力された君の記憶はWeapon VIIIの実験についての部分だけだった。だから、」

「いやん、俺ちゃんの恥ずかしい過去をキャップに見られちゃった!もうお嫁に行けないわ!責任取ってよね!」

 体をくねらせながらきゃっ言っちゃった♡と呟くと、キャプテンは重々しく頷いた。

「言われずとも、ちゃんと責任は取るさ」

「ん?」

「あの実験を行ったヒドラは必ず潰す。これ以上彼らの犠牲になる子供は絶対に出さない。バナー博士やシュリ王女、ドクターストレンジとも連絡して、実験台にされた子供達を元に戻す研究も進めて貰う事にするよ。時間がどのくらいかかるかは分からないけれど、皆で協力すればきっと今よりは良くなる」

「ああそういう意味ね。良かった。いやちょっと残念とかは思ってないからね」

「?」

「いやこっちの話。っつーか……え、そういやあサノスと戦った後ってことは、ここはエンドゲーム後の世界なんだよな。なのに何でトニー生きてる訳?そしてキャップもどうしてそんな若い姿な訳?そして何でMCU基準の世界なのに俺ちゃんが居る訳?権利とかどうなってんだよ。いやファンフィクに権利も何も無いだろうけどさ」

「……?サノスとは戦ったけど、トニーは生きているよ。若い姿って言われても、確かに僕は1910年代生まれだけど、70年間冷凍状態だったからその間の加齢は無いし、」

「いやそうじゃなくて、ほら愛しのペギーとダンスを踊るために過去に行ったりとかさぁ」

「?」

 意味が分からないというキャップの表情に、デッドプールはああそう、と一人頷いた。

 

 画面の向こうの皆は意味が分からないだろうけど(特にMCUしかアメコミを知らねえ連中は!)、こういう『このファンフィクションではこういう設定で話が進みます!』とかいう、原作に沿っていない前提ありきのファンフィクがMarvelやDC関連ではよくある。

 何しろMarvelには長い歴史や派生アースが多いから、一つ一つを追っていたらキリが無い。登場キャラが死んだり生き返ったりゾンビ化したり結婚したり離婚したり子供を作ったり過去に遡ったりと、話の展開が行ったり来たりのあっちこっちで一つに纏めるのは不可能なのだ。という訳で、原作に完璧に沿っているファンフィクという方が逆に珍しい。

 だからアメコミ関連のファンフィクを読む時は作者からの説明や、話の流れを読んで「ああ、このファンフィクではそういう事なのね、ハイハイ」と察する能力がある程度必要になる。特にこんな、原作を良く知らねえ奴が書いた、デッドプールのファンフィクションの癖にMCUの設定をガンガン入れて来る不親切極まりない作品の時には!

 

「あー、うん。分かった。つまりエンドゲームの後だけどキャップもトニーも問題なく存在する、ご都合主義的展開のアースな訳ね。ハイハイOK。理解した。画面の向こうの皆もそういう事だと納得してくれよ。話が進まねえからな」

「君の言う事はよく分からないけど、納得して貰えたようで良かったよ」

 キャプテンはお疲れ様、とデッドプールの肩を叩いた。

 それが合図だったのか、周囲の景色が溶けて消えた。同時に脳みそが煩く騒めき始める。頭蓋骨にスモッグが注入されているような感覚がする。

 ワンダとハゲのおかげで脳が前みたいにすっきりしていたんだな、とようやく気付いた。Welcome back DEADPOOL!って感じだ。

 そうだ。俺ちゃんは金のためならなんでもする傭兵だ。優秀なデルタフォース隊員のウェイド・ウィルソンではないし、ヒーローでもないし、かといってヴィランとも言い切れない。そして心優しいジーニーでもない。

 

 そうだ。俺ちゃんは俺ちゃんでしかない。どうやったって、キャップにはなれやしない。ジーニーにもなれない。なれなかった。

 俺ちゃんは結局俺ちゃんの信じる事をする事しかできないんだ。ベッドの下のキャップに祈っていた頃と同じで、何も変わらない。ただ人殺しになってしまったというだけで。

 最初から最後まで、それだけが事実で、真実だった。

 

 サイキッカー2人が能力を停止したのと同時にB.A.R.F.がシステムを終了し、ただのウェイドとしての記憶が遠くへと去って行く。

 一時だけ取り戻していた人間としての優しさや寂寥感、そして親友と彼らの子供への罪悪感が静かに死んでいく感覚が神経を震わせた。デッドプールとしての自分を取り戻していくと同時に、ウェイド・ウィルソンは手の届かない場所まで歩いて行ってしまう。

 

 それは悪い事ではない筈だった。今のウェイドは昔のウェイドではないのだから。どうやっても戻る事が出来ない過去のウェイドが去って行って、清々しい気分になってしかるべきだった。

 しかし酷い吐き気がした。あまり良い気分とは言えなかった。意味も無く叫んでしまいたかった。過去の記憶の残っているウェイドが抱えるには、デッドプールは重すぎたのだった。

 嗚咽を零しながらその場に崩れ落ちたデッドプールの背中をキャプテンは優しく撫でた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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6. Catch Me If You Can

 キャプテン・アメリカことスティーブ・ロジャースは、アベンジャーズタワーのリビングでトニー・スタークと共にソファに腰を下ろしていた。

 トニーは非常に不機嫌そうに寸断なく爪先を床に叩きつけていたが、気にする事無く紅茶をスプーンでかき混ぜる。そも、お互いに相手が不機嫌だからと遠慮するような柔な関係ではない。それに加えてスティーブは人の心の機微には鋭いものの、機嫌を伺うような繊細な性格では無かった。

 

 トニーとスティーブはF.R.I.D.A.Y.がデッドプールの記憶を分析し、Weapon VIIIの実験施設を特定するのを待っていた。

 デッドプールがWeapon VIIIの被験者を見つけた洞穴。当時ヒドラに関与していたと推測されるジェイソン・マクスウェルとエマヌエル・ガルシア。腐臭を発する緑色の粘液を噴出し、体長3mにまで達する被験者の外見。それら全ての情報を合わせれば居場所を割り出すのはそう困難な事では無い。

 更に長年の戦いにより現在ヒドラは弱体化の一途を辿っており、自分達の居場所を隠蔽するだけの余力も最早残されてはいないと推測された。スティーブが長年かけて集めたヒドラの資料に加え、スターク社の全権限を揮って世界中を探すF.R.I.D.A.Y.の能力がある以上、そう時間はかからないだろう。

 

 その短い時間でスティーブはトニーを説得しようと試みようとしていたが、何の手ごたえも感じないまま既に30分が経過しようとしていた。ソファの上でトニーは大げさな身振り手振りを加えながら、苛立ちを隠そうともせず何度目か分からないスティーブへの説得を試みようとしていた。 

「いいか、あんたのその糞硬い頭蓋骨を貫通するために何度でも言うがな、あいつは単なる狂った殺人鬼だ。あんたの大事なジャック・ルロワとは違って自分の意思で小金を貰って殺人を繰り返してる、常識も何もあったもんじゃない奴だ。そんな奴を一時的とはいえチームに入れられるか。勝手な行動をするに決まってる」

「彼は狂ってなんかいないよトニー。現実を直視している正気の人間だ」

「狂っていないのならなおさら問題だ。全くの正気で大量の人間を殺して、そうして稼いだ金で買ったド派手な赤いスーツを着て街中を出歩くような恥知らずをヒーローだと認められるか?………僕は無理だ。ああとも、僕だけはあいつを認めてはいけない。あいつが行くべき場所は刑務所か、精神病院か、あいつが望む通り神の御許のどれかだ。そうだ、ゴッサムに良い精神病院があるらしいぞ。あそこを拠点に会社を経営している知り合いが居てな。彼に頼めば腕の良い精神科医を紹介してくれる。良かった良かった。これで一件落着だな」

「トニー」

 窘めるように言うと不機嫌そうに鼻を鳴らす。もう四十路に入った男だというのに仕草は拗ねた子供のようだった。昔から子供っぽい所のある男だが、こうまで不機嫌さを表すのは最近では珍しい。

 

 スティーブは拗ねた子供を諫めるようにじっと瞳を見据えた。そうすると父親に叱られた子供のようにぐっとトニーは黙る。しかし瞳は如実に不満を露わにしていた。

 自分程ではないにしろもういい歳をしている大人の癖にと思うが、彼が不機嫌になる時にはいつだって確かな理由がある事もまた事実だった。

 気まぐれな言動から気分屋だと思われがちだが、トニーは理不尽に怒ったり不機嫌になったりする事は滅多に無い。非常に論理に適った行動をする男だ。

「確かにデッドプールは金を貰って殺人を繰り返している犯罪者だ。僕も彼のしている事を全面的に認めている訳じゃない……しかし彼が殺した人間はヴィランばかりだと判明しているじゃないか。彼は彼なりのルールに従って行動している。発狂している人間がそんな事を出来る筈がない」

「スティーブ、あいつの過去をチラ見して情でも湧いたか。自分と同じ超人だから保護してあげようと?見上げた献身だよ。涙が出る。だがはっきりと言っておくがあいつはお前とは違うぞ。あいつは倫理や献身や道徳心といった、君が溢れんばかりに持っているモノを、残念ながら欠片も持っちゃいない。私はあいつがチームに入ったところでメンバーが迷惑を被るか、最悪背中から撃たれるリスクが高まるとしか思えないがね」

「……これは彼の問題なんだ。彼抜きで進めるのは、あまりに彼に対して不誠実だ」

 平行線の議論に息を吐く。机の上に置かれた紅茶は既に冷め切っていた。話し合いを始めた時にダミーが淹れて持って来てくれたものだという事を思い出した。彼に申し訳ないと口に含んだら酷く渋い味がした。

 きゅるきゅるとアームを回してこちらを見ている(つまりはカメラを向けている)ダミーには、擦り寄ってくる猫のような愛嬌がある。「おいしい?おいしい?」とでも言うように自分の周りを回るダミーに「ありがとう、美味しいよ」と言うと、嬉しそうにアームを振った。しかし窘めるようなトニーの声が飛んで来る。

「嘘は駄目だぞキャップ。こういう時はしっかり不味いと言ってやるんだ。それが教育だ」

「君は自分の子供に少々厳し過ぎやしないか」

「その方が結果的には彼らのためになる。君のように一度懐に入れれば大量殺人鬼でもダダ甘に甘やかしてしまうような駄目男と私は違うんでな。言うべきことは正しく言ってやるのが良い父親であり、良い友人だ」

 鼻で笑うトニーに誰の事を言っているのか嫌でも分かった。その人物が1人ではない事も。

 シビルウォーを無理やり思い出させる強烈な皮肉に思わず立ち上がりかけたが、ぐっと堪える。代わりにアームをがっくりと垂らして落ち込んでいるダミーを撫でると、喉を鳴らす猫のようにきゅるきゅると音を出しながら機嫌よく去って行った。

 

 いい加減彼の皮肉にも耐性が付いた頃だ。トニーが流れるように口から零す皮肉はこちらを嘲笑っている訳でも、ただ苛つかせたい訳でも無く、自分を守るためのハリネズミの棘のようなものだと気付いたのは本当に最近の事だった。

 長い事社交界の荒波に揉まれて生きてきたせいか警戒心が人一倍強いトニーは、当然のように人の好き嫌いが過剰なまでに激しい。そしてペッパーやローディーのような見返り無く人に親切に出来る、聡明で寛容な人間が彼の好みである事は明らかだった。

 

 彼が嫌いなのは衝動的かつ感情的で、行動が全く読めない、法を破る事にすら微塵も躊躇わない、つまりはデッドプールのような人種だ。

 それは聡明な彼でさえ行動が読めない人間に対する恐怖感だけではない。彼は、彼の大事な人間——家族や仲間たち———が、衝動的に行動する人間に危害を加えられる可能性を恐れているのだ。彼はああ言ったが、ピーターを見ていると自分よりも彼の方が懐に入れた人間にとことん甘いと思わずにいられない。

 そしてアベンジャーズというのは彼にとっても思い入れが深いチームだ。アンソニー・エドワード・スタークは仲間が危険に晒される可能性を前に黙っているような男でない。何度も背中を預けて戦ってきたのだから、少なくともアベンジャーズの古参メンバーは彼の懐の中に居るという確信があった。

 

 だがそれでも、今回の作戦、Weapon VIIIの実験施設への突入作戦にはどうしてもデッドプールに参加して貰わなくてはならないとスティーブは確信していた。トニーが言うように多少は情に流されている自覚はあったが、それ以上に彼の能力は貴重なものだと思えてならなかった。特殊能力頼りのメンバーが多いアベンジャーズにはきちんとした特殊部隊の訓練と実戦を積んだ人材は少ない。

 確かにデッドプールは命令を軽視する傾向があり、状況判断が甘い事もあるが、それはヒーリングファクターという不死の能力による一種の余裕の表れであり、言い換えれば彼には多少の無茶な作戦でも敢行できる実力あるとも言える。

 残る問題は彼がどこまで周囲と協調的な態度を取れるかにかかっていた。だがそれは実際に共に行動してみないと分からない事だ。

 試してみる前から無理だと切り捨てるには彼という個人は大きすぎる。そして何より今回の作戦に彼は少なからず執着しているに違いなかった。

 彼を参加させないまま実験施設への突入を強行すれば、その後に彼がどんな行動を起こすのか想像が出来ない。

 

 確かにデッドプールは衝動的で、感情的で、アウトローな男だ。だからこそ自分の知らないところで自分の親友とその娘の仇を殲滅したとなれば、激昂した挙句にアベンジャーズと敵対しても全く可笑しくはない。

 だからせめてこの作戦中はメンバーとして加えて、自分かトニーの目の届く所に居て欲しいのだが、トニーは彼の自制心は作戦中も保たないと確信しているようだった。

 

 渋い紅茶を顔を顰めながら飲み干し、あんたは甘いと再度口にする。

「あいつはまず間違いなく作戦中に問題を起こす。そして全部を滅茶苦茶にするぞ。あいつ一人が死ぬ———いや、死なないんだったな、まあ全身バラバラにされるのならともかく、そこに僕も加わるのは御免だね。あんたもそう思ってくれているものだと思っていたんだが、それは僕の自意識過剰な勘違いかな?」

「君の危惧も僕は理解している。でも彼はそこまで自制心の無い人間じゃない」

「それは君の彼への肩入れによる見込み違いだ。あの男は間違いなくやる。全財産を賭けても良い。もし君が負けたら破産では済まない金額だがそれでも君はあの男を信じるのか?」

「信じる」

 はっきりとトニーの目を見て告げる。トニーは気に食わないという感情が非常に分かりやすい表情で溜息を吐いた。

 目を机に落とし、タブレットで何かを操作してこちらに手渡す。渡されたタブレットの画面にはバナー博士とシュリ王女、ドクターストレンジ、そしてどのような伝手を使ったのかゴッサムの騎士であるバットマンから渡されたらしき報告書が並んで表示されていた。

 この短期間でよくもこれだけの人員に、特にアベンジャーズのメンバーでもないバットマンに連絡を取れたものだと思うが、それだけヒドラの動向に注目している人間が多いのだろう。未だ地球はサノスとの衝突により生じた混乱の最中にあり、この混乱に乗じて生じた犯罪の数は膨大だ。その中の幾分かにヒドラが関わっている事は間違いが無く、情報の共有や協力を出し惜しみするような愚かなメンバーはアベンジャーズにもジャスティス・リーグにも存在しない。

 

 スティーブはその報告に目を通し、瞠目した。

 数人分の報告書の結論部分だけを何度も読み返す。自然と拳に力が入りタブレットに小さな罅が走った。

 既に知っていたのだろうトニーは目を細めて小さく息を吐いて強張っているスティーブの肩を叩いた。

「分かっただろう………止めとけキャップ。あいつは駄目だ。特に、この件に関してはな」

「しかし、」

「あの男がこの事を知ったら最悪だ。僕だってあいつが無差別大量殺人をやらかすような救い難い極悪人とまでは思っていない。単に、あの赤い狂人は自分が正しいと思ったことをやる事に全く躊躇いが無いと言っているだけだ……君と同じように。ただし、君の正しさとデッドプールの正しさはあまりに違い過ぎる」

 トニーの指摘は的を射ており、反論する事は容易ではなかった。歯を食いしばる。彼がそうなってしまった事に自分が全くの無関係とは思っていない。

 むしろ自分の言葉が彼の後押しをした事は間違いなかった。彼は自分が言った言葉をその通りに受け止めて、自分が正しいと思っている事を迷いなく実行しているのだ。

 それが間違っているとは言わない。ただ自分の周囲には、70年前も今も、躊躇なくアドバイスや叱責をくれる友人や仲間が居た。彼らは暴走しがちなスティーブのブレーキであり、同時に狭くなりがちな視野を広くする優秀なアドバイサーだった。

 そしてスティーブは生粋のクリスチャンでもあった。

 貧しい幼少期を過ごしたスティーブは教会で配られていた聖書の冊子で英単語を覚え、その一言一句までを暗記し、内容について自分で考えていた。毎週末には教会で神父の説教を聞き、キリスト教の精神について理解を深めた。

 そうして多くの人が小馬鹿にするような、絵に描いたような理想を心から信じるに至り、さらに理想を現実にするための行動を惜しまなかった。

 スティーブの正義とは自分の信念であり、仲間たちへの敬意であり、隣人を思いやり献身に尽くすという正しいキリスト教における愛でもあった。

 

 だがデッドプールは一人だった。神でさえデッドプールの傍には居なかった。

 さらにトニーの言う通り、彼はスティーブのような強い理性や倫理観、道徳観を備えていない。彼の正義は彼一人の独りよがりなものでしかなく、他人への配慮や尊重といったものを著しく欠いていた。

「それが虐殺であれ、惨殺であれ、それが自分にとって正しいと思えばあの男はやるぞ。たとえあんたが止めようとな」

「……彼はこの作戦に参加する権利がある」

「B.A.R.F.を貸し出したのは誰だ?彼への報酬を出すのは?その権利とやらは誰が出すものか……いや、こんな事を言いたい訳じゃないんだ。キャップ、頼むから僕にマスコミに向かって垂れ流すような建前をあんたに言わせないでくれ。私は意地悪をしたいわけじゃない。老人を虐めて楽しむ趣味は僕には無い。ただ僕は救う相手を間違えるなと言っているんだ。あんたが優先するべきはアベンジャーズであって、罪のない子供達であって、大量殺人犯じゃない。あの狂人にも同情すべき点はあるだろう。しかしそれは他よりあいつを優先する理由には決してなり得ないものだ」

 

 分かったな、と言ってトニーは踵を返した。明確な話の終わりだった。背中にはこれ以上の議論を拒絶するはっきりとした意思が張り付いている。

 こうなったトニーは梃でも自分の決定を変えないし、他人の意見に耳を貸さない。全くどちらが頑固ジジイなのか。何を言おうと無駄だと察してスティーブは口を閉ざした。

 だがその背中を止めるようにF.R.I.D.A.Y.の柔らかな声がかかった。

『Mr.スターク、ご報告したい事が』

「何だF.R.I.D.A.Y.」

 やや不機嫌さを残した声だったがF.R.I.D.A.Y.は気にもせず淡々と言葉を続ける。いつもならば臍を曲げた父親へ皮肉の一つや二つは言ってのける自立心の強いF.R.I.D.A.Y.が直ぐに本題に入ろうとした事にスティーブは目を鋭くした。

『先ほど私に対してハッキングが行われました』

「………そうか、そりゃあ珍しい。昨日はたった97件しか君をハックしようとした不貞の輩は居なかったような覚えがあるからな」

『タワー内からの侵入です。それも居住階層からの侵入である事が確認されました』

「何だって?」

 盛大に眉根を顰めたトニーにスティーブも困惑した。

 ハッキングも何も、このタワーに出入りする人間にはある程度F.R.I.D.A.Y.に干渉する権利が与えられている。特に居住階層——アベンジャーズのメンバーが寝泊まりする空間———からは、ほぼフリーであらゆる情報が閲覧できるようになっている。

 それこそトニーにしか閲覧できない機密情報やF.R.I.D.A.Y.のシステムに関わる部分には強いセキュリティがかけられているものの、そういった情報にアクセスを試みるとタワー全体に地震かと思う程の警報が鳴り響く。

 そしてその警報までもがシステムを停止させられていたら、防犯システムの管理を一手に担っているF.R.I.D.A.Y.とこうして会話をする事が出来る筈が無い。

「誰が何をやった。そもそも何をしようとしたんだ?君をハックするくらいなら僕に直接我儘を言ってくるような遠慮の無い奴らしか居住階層には居ないと思っていたんだがな」

『ハッキング元はMr.ロジャースの個室です。目的は先程Mr.スタークがMr.ロジャースにお見せになった情報と、先ほど割り出しが完了致しましたWeapon VIIIの実験が行われていた可能性が最も高い施設の場所です。さらにハッキングを行ったと思われるウィルソン氏が現在、』

 

 パリーン、ガシャーン。

 派手な破壊音が響き渡った。そして高らかに響き渡る警報。

 スティーブは自分の眉間に皺が寄るのを感じ、トニーが焦りと怒りと呆れで熱い息を吐いたのを見た。一人F.R.I.D.A.Y.だけが冷静だった。

 

『屋上に向かっております。直ぐに稼働可能なヘリが1機屋上に、』

「止めろ!」

『オフラインでも稼働可能な機体ですので、不可能です。撃ち落とすのならば容易に可能ですが』

「それも止めろ!街中だぞ!!」

 

 ビル全体に響き渡る警報は止まる気配もない。スティーブは立ち上がり、トニーは苦い顔をして悪態をつきながらも足を進めた。

 泣き崩れたデッドプールを休めるためにスティーブは居住階層にある自室へと寝かせていた。そして自室には仕事用のパソコンが置いてある。

 ただでさえ厳重なセキュリティをさらに常時自身でアップデートしているF.R.I.D.A.Y.ならともかく、現代機器に強いとは言えないスティーブのパソコンに侵入する事はそう難しくはない。そしてそのパソコンはF.R.I.D.A.Y.へのフリーアクセス権限を持っていた。

 

「トニー、ヘリの準備を!彼より早く現場に着かなければ!」

「他のヘリは任務でローディーに貸しているんだ……ああくそっ、だから言っただろうが!あの男には自制心なんて欠片も無いって!」

 

 トニーは端末を放り投げ、F.R.I.D.A.Y.の名を高らかに叫んだ。

 放り投げられた端末は床に転がり、光る画面を瞬かせた。その画面には何人ものヒーロー達が下した『Weapon VIIIの被験者を元に戻す方法は理論上存在しない』という結論が浮かんでいた。

 

 

 

 

 

 

 

■  ■  ■

 

 

 

 

 

 キャップのパソコンをハックして得た情報から、Weapon VIIIに関与していたヒドラの残党がオハイオ州に潜伏していることが判明し、ウェイドはすぐさまにオハイオ州に向かって飛んだ。

 トニー・スタークのヘリをかっぱらい、追っかけて来たアイアンマンをRPGで吹っ飛ばした。当たり所が悪かったのか、エンジンからぷすぷすと煙を吹かしながらエリー湖に墜落していくアイアンマンの映像と俺ちゃんの突き立てた中指を撮影してSNSにアップしてやった。いいねが5分で5000を超えたぜ。

 みんなアイアンマンが好きだし感謝もしてるけど、それはそれとして他人を上から目線で侮辱して安心する特殊性癖持ちのチビのおっさん(それも地球上で指折りの大金持ち!)が、一回無様にスケキヨになる所を見たいって思ってるよな。

 そりゃそうだ。俺だってそーだ。とんでもない金持ちのくせにラブラブな美人の奥さんと可愛い娘が居るって時点でギルティー。だから湖に沈むアイアンマンを焦って救助なんてしなくていいぜキャップ。あんたに優しく助けられてもそいつは内心複雑だろうしな。

 

 まあそんなわけでかっぱらったヘリを手近な空軍基地で乗り捨てて、軍用ヘリにでも乗り換えよって思ってたら、あらびっくり。昔の上司にごたいめーん!

 いやまあF.R.I.D.A.Y.からハックした情報でここに居るって事は知ってたんだけどさ。でもロマンティックを演出するために知らなかった振りをするのも大人の男として必要な振る舞いだよな。

 

 軍施設の中を走って逃げる懐かしの黒人ハゲを走って追いかけながら銃弾を撃ちまくる。

 周りから悲鳴やら怒号やらが上がってくるけど無視無視!マーベル世界の軍人や市民はこういった事に慣れてるから大丈夫さ。NY市民なんて多分もう宇宙船が突如として上空に現れても何も驚かねえんじゃねえかな?

 少なくともNY市民よりも肝の据わりが悪い軍人達は、上機嫌にSMGを撃ちまくりながらガルシアを追いかけるデッドプールを目の当たりにして自分の身を護る事しかできず、止めようなどという思考すら思い浮かばなかった。

 

 必死に走るガルシアは記憶にあるよりずっと老いていて、腹には余計な脂肪がたぷんたぷんと揺れている。増えた脂肪と反比例するように衰えた筋肉は重たすぎる体重を引きずるには縮み過ぎているらしく、必死な形相の割にそのスピードは欠伸が出そうな程に遅い。額から汗を噴出しながらひいひいと喚く姿はあまりにみっともなさ過ぎて笑いを誘った。

 この男のせいで自分が被った事態を思うと、さらに笑いが深くなった。

 年を経るとその人の本質が露わになる。いつまでもヒーローという呼称に相応しいバッツやキャップがその最たる例だろう。

 それに対して若かりしガルシアは大物ぶっていたものの、その本質はやっぱり自分のオリジンに相応しい惨めな小物だった。

 

 あっさりと追いついて回り込み、すっかりと太くなった足をひっかけて床に転ばす。

 勲章をいくつもぶら下げながらみっともなく床を這いずる走る姿はこれから屠殺されようとしている豚に見えてしょうがない。爆笑しながら脂肪に埋もれた胴体を踵で蹴りつけると豚のような悲鳴を上げた。その声にまた笑みが深まる。

「やあ久しぶりガルシア教官!髪切った?いや元々ハゲだったかあんたは。いやあ元気そうで安心したよ!俺ちゃんがぶち殺すまでに死んでなくて本当によかった!これも運命ってやつだな!」

 ノーモーションで両膝を銃弾でぶち抜く。炸裂する銃声とほぼ同時に悲鳴を上げて、惨めに地面を這いまわるガルシアの胴体をサッカーボールのように蹴り上げた。

 空中で華麗なトリプルアクセルを決めるもガルシアは着地に失敗した。床に響く鈍い衝撃。残念ながら転倒!ガルシア選手基礎点減点!織田選手のそんな解説が飛んできそうだ。

「俺ちゃんに殺されたくて今日まで必死に生きて来たんだろ?待たせちまって悪かったなぁMy sweetie、可愛い奴め。自分で自分を殺す奴をWeapon計画なんかでわざわざ強くしておいて、こうして記憶を思い出した俺ちゃんがてめえを殺しに来るまで呑気に軍人を続けるなんざ見上げた変態だ。尊敬する程にハイレベルな自殺プレイ兼放置プレイ!師匠と呼んでもいいかしらん?」

 地面に叩きつけられたガルシアは肺から空気を吐き出しながら化け物でも見るような目つきでこちらを見上げた。

 なによ、てめえらが俺ちゃん達を作ったっていうのに失礼じゃない?

 何かしらを言いかけたガルシアの口は大きく開かれていて、ちょうど50口径を突っ込まれたそうな顔をしていたからデザートイーグルを突っ込んでやった。片手では撃ちにくいが、.50AEを撃つ時に手にかかる衝撃は気持ちが良いから好きだ。

 何より野郎の口に突っ込んだら自然と涙目でこちらを見上げて来るのが良い。ぴくぴくと小鼻が震えて、そんなに酷い事はしないよね?という哀願めいた視線がうるうると瞬く。その瞬間に引き金を引くと綺麗に後頭部に花が咲いたように脳漿が散るんだ。その瞬間は絶頂した時と同じ位に、イイ。

 ガルシアの潤んだ瞳に小さくウィンクした。

 

「Hasta la vista, baby」

 

 パァンと一発。そして拳に伝わる小気味よい衝撃。口蓋にまあるい覗き穴が空く。それで終わり。人の終わりの瞬間は驚くほどに呆気ない。

 

 綺麗に後頭部まで破裂したガルシアの首は茫然という表現がよく当てはまる良い表情をしていた。何が起こったのかまだ分かっていないような丸い瞳が薄い眼瞼から覗き見える。悪党の死体たるものこういった末路を迎えるべきだという見本のような首だと思った。

 長年に渡って悪だくみを仕組んで来た小物の悪党は、最期には名も無い鉄砲玉に突っかかられて惨めに死ぬのが相応しい。キャップみたいな大物ヒーローに殺されるなんてこいつらにとってはただのご褒美だ。こんな野郎共には勿体なさ過ぎる。俺ちゃんだってまだキャップには殺して貰った事ないのに!お前らなんかに先は来させないからな!ぷんぷん!

 

 吹き飛んだ血液はガルシアの背中から廊下までを濡らしていた。

 流石に至近距離で.50AEをぶち込まれたために顎から下はほとんど吹っ飛んでいるが、それもまた味がある。我ながらいい感じに射殺したものだ。

 これからジェイソンにも会いに行く事だし、親友として手土産の一つや二つは持って行ってやるべきだろう。そう思い、芸術的に破裂したガルシアの首から下を切り落とした。喜んでくれるといいんだけどな。

 

 

 首を片手で抱えながら、どうやってジェイソンに会いに行こうかと悩む。

 軍用ヘリを頂こうと思っていたのだが、ここからオハイオ州はちょいと距離がある。ヘリでも行けない事は無いが、もっと手っ取り早く到着するにはやはり戦闘機だろう。

 それにやっぱり男のロマンといえば戦闘機だ。アパッチも勿論カッコ良いし心惹かれるものがあるが、あのシャープな流線形程に少年のハートをキャッチするものは無い。そう思い、サイレンが煩く鳴り響く空港を横切った。

 ガルシアを殺害されすっかりと警戒態勢に入ったらしく、空港をのんびりと歩いている内に武装した軍人に囲まれて撃たれたが、別に大した痛みでもない。惰性的に撃ち返しながら戦闘機を物色する。ラプターがあれば乗ってみたかったのだが、残念ながら見当たらなかった。しょうがなく昔懐かしいレガシー・ホーネットに乗り込みエンジンを起動させる。

 

 軍施設中に鳴り響いているサイレンをものともせず、腹の奥にまで届くようなエンジン音を唸り声として吐き出しながら、ゆっくりと、しかし確実に速度を上げながら進む機体。がたがたと震える胴体部分で体を小さくしながらウェイドはしっかりと操縦桿を握り締めた。

「Rift off, rift off, さっさと飛べのろま野郎め。いや嘘嘘、動いてくれてありがとうねハニーちゃん!そんでさっさと飛べこの野郎!」

 罵声を飛ばしながらがちゃがちゃとスイッチを弄る。徐々に加速する機体は少しの間地上をうじうじと走っていたが、滑走路ギリギリのところでようやく浮き上がった。

 真下に遠ざかる大地が見える。周囲は青い空に囲まれた。

「よし、よし!イケんじゃねえかレガシーちゃん!まだまだ若いもんには負けられねえな!」

 ガッツポーズをとり高笑いを上げる。最高の気分だ。

 残念ながら複座の機体では無かったので、ガルシアの首は膝の上に乗せた。男の膝の上なんて嫌かもしんねえけど、景色は最高だから許してくれるよな?と聞くと、心なしかガルシアの薄い唇は小さな弧を描いた。

 そうだよな。なんてったって雲の上だ。最高の空だ!なんにも思い悩むことなんてない!

 

 空軍に所属した経歴は無いが、空挺資格を取得する過程でパイロットとして簡単な訓練を受けた経験はあった。とはいえそれも20年近く前のことで殆ど覚えちゃいないのだが、B.A.R.F.とワンダとプロフェッサーのトリプル効果のおかげで今の自分はこれまでになく昔の記憶が明瞭だった。

 微かな記憶を頼りに戦闘機を飛ばす。真下に広がる大地があっという間に後方に飛んでいく。暴れようとする操縦桿を腕力のみで宥めながら、雲を切り裂きながら飛んでいく感覚はサイコーだった。歓声を上げながら片手でガルシアの首をピザ生地のようにくるくると指先で回す。

 飛ばすだけなら意外になんとかなるもんだな。いやもしかしたら俺ちゃんパイロットとしても天才だったのかも!陸軍兵士としても天才なのにパイロットとしても天才とか、マジ俺ちゃん流石って感じじゃね?このまま行けば鉄社長も真っ青の人気キャラとしてMCUどころかX-MENや、果てはDCEUにも参加して、全てのアメコミ映画時空で『やっぱりデップーがアメコミサイコーの男ね!キャー素敵!サインして!』の声を上げさせるのも遠い未来じゃねえな!!

 

 

 ————そう思ったのが良くなかったのかもしれない。

 

 

 調子に乗って(調子に乗った自覚位はあるんだよなぁ……)背面飛行をしていたら、きりもみ状態になってしまった。あっという間の出来事だった。

 バーティゴに陥った事を自覚してもなお計器を信じ切れなかったのが悪かったのかもしれない。それとも高度が下がっている事に気付いて焦って操縦桿から手を離してしまったのが拙かったか。

 いずれにせよ、コントロールを失った機体はオハイオ州の上空1000ft地点から地面に向かって落下した。

 

 いやあ失敗失敗。ぐるんぐるん回る視界の中で額に拳をこつんと当てた。てへぺろ(・ω<)☆

 

 まあ俺ちゃんは死なないし、既に目標地点には到達しているから何も問題は無い。尊敬すべき旦那のように下から吸血鬼の狙撃手がこちらを狙い撃ちしている訳でも無し。

 真下に広がるのはだだっ広い農場の中に造られているヒドラの秘密基地だ。ぱっと見では民家のようにしか見えない。しかしよくよく見ればド田舎の民家にしてはあまりに監視カメラの数が多く、玄関扉は指紋認証式だ。いかにもアヤシイ。

 落下するなら落下するで丁度良い。思いっきりエンジンを吹かす。座席に体が押し付けられて全身の骨に罅が入った感触がした。

 あまりに急激なGがかかり、脳みその血管が耐え切れずぶちぶちと千切れる感触に鳥肌が立つ。網膜の血管が破れたのか視界が真っ赤に染まった。胃の中のものが逆流して口から零れる。

 ガルシアの頭に向かって吐瀉物をまき散らしながら、びりびりと震える機体の悲鳴に向けて歌った。

「Here I go!Unh, ooh, WOOOOOOOOO!!!」

 バイオリンをかき鳴らすような騒音が耳元で五月蠅く喚く。しかし暫くすると、急激な気圧のせいで鼓膜が破れて何も聞こえなくなった。耳から血液が垂れている感覚が分かる。

 視界がおぼろげなせいでよく分からないが、段々と空気が重く、苦しくなる。地面が近づいてきているのだ。圧縮された空気が目の前から噛みついてくる。

「Back up!Uh-oh!Watch out!UnHHHHHH!!」

 

 地面に衝突する寸前で脱出装置を起動させる。バカンとキャノピーが外れると、途端に凄まじい勢いで風圧が全身を襲ってきた。呼吸が出来ない程の風に慣れる暇もなく、座席ごと射出される。衝撃で肋骨と足の骨が折れたのが分かった。

 自動で開いたパラシュートが速度を急激に和らげるものの、そもそも脱出したのが地面に衝突する数秒前の事だった。当然速度を殺しきれる訳もなく、全身が柔らかな草と土に強烈に叩きつけられる。内臓が破れる感触を最後に残し、ブラックアウト。

 

 

 それから数秒か、数分後。数時間は経っていないだろう。そんなに時間がかかっていたらもうキャップと社長に追いつかれている。

 戻った視野は灰色の空を映した。骨が再びつなぎ合わさるまでウェイドはその場に寝っ転がって空を見上げた。じゃまっけなパラシュートを身体から外しながら相変わらずの曇り空だと呟く。昔と何も変わらない。何の力も無い惨めな少年だったウェイドが見上げていた空と、清々しい程に何も変わらない。

 しかし今のウェイドの気分はこの上無く最高だった。脱出する寸前に咄嗟に抱え込んだガルシアの首も心なしか和らいだような顔をしているような気がする。かろうじて首に引っ付いている口は空気に晒されてでろんとしているが、それもよく見たら愛嬌が無い事も無いような気がしてきた。少なくともでっぷりとした胴体がくっついていた時よりもイケメンである事は間違いない。

 周囲は見渡す限りの緑の海で、豊かな土の匂いは原始的な安心感を齎す。記憶にある自分の生家と同じような風景は、それもそのはずで、今居る場所は昔懐かしいウィルソン家があった場所と程近い地点のようだった。

 田舎らしく40年以上前からの風景をそのまま保っているらしい。目を細めればトウモロコシのような髪をした肥満体形の父と、聖書をぶつぶつと呟く痩せた母がそこらに歩いている幻覚さえ見えそうだった。

 

 しかしぼうぼうという音がウェイドの僅かな感傷を切り裂いた。

 何事かと見回すと、どうやら火が周囲に広がりつつあるらしい。よく見れば豊かな緑は少しずつ炎に侵食されている。

 ホーネットに積んであった燃料が地面に衝突した時の衝撃で周囲にばらまかれ、発火し、急激な勢いで周囲を燃え上がらせているようだった。

 焼ける草の灰が舞い上がって空に散り、ごうごうと音をたてる。

 ばたばたという足音が聞こえて目を向ける。目の先30m程にヒドラの施設があった。とはいえ戦闘機の直撃を受けた民家風の建物は見事にふっとんでいた。しかし地下施設は無事だったらしく、地下に続く扉から武装したヒドラの兵士が数人飛び出していて、足音荒く歩き回りながら何やら喚いている。混乱する輩が慌てふためいている様は腹筋に良い刺激を齎した。

 

 全身の怪我が修復した事を確認し、デッドプールは起き上ってガルシアの首を抱え上げた。

 この火事は俺ちゃんのせいじゃないよね?と聞くと、そうだよ、と答えてくれた。よし、OK。全てはヒドラのせいだ。俺ちゃんはしーらね!!ぴっぴろぴー!!

 幸運な事に持って来た装備は全て無事だった。背中に日本刀を背負い、両手には銃。準備は万端。デッドプールはヒドラの戦闘員の前に躍り出た。

 

「You done wound me up!Boutta show you what I'm workin' with, uhHHHHHHHHHHHHHH!!!!」

 

 いきなり飛び出て来て叫び出したウェイドに気圧されたのか、状況が理解できないのか、ヒドラの戦闘員は一瞬動きを止めた。躊躇なく彼らに向かって発砲する。見惚れるようなHead shot。最高だ。弾ける頭蓋は開花したばかりの薔薇のようだ。

 全身の血液が途轍もない勢いで回転しているのを感じる。とてつもなく興奮しているのが分かる。実際にウェイドは勃起していた。絶頂寸前の白い世界がずっと続いているような感覚が手足の先まで広がっている。

 昔懐かしい糞ったれの故郷が燃え上がっていて、自分はその中を嫌いな上司の生首を振り回しながら歩いてる。

 もう一方の手には銃を持ち、背中には日本刀を背負って、自分のダチとその子供を殺した奴らに復讐する正義の行いのために前に進んでいるんだ。

 邪魔する奴らはみんな殺す。そして俺ちゃんは死なない。何があっても。だから俺ちゃんが一方的に相手を虐殺する未来は既に確定している。俺tueeee状態ってやつだ。

 この快感は癖になる。そこらのドラッグよりよっぽど脳髄にキマって、自分をハイにしてくれる。

 だからもう誰にも止められない。自分自身でさえ。

 もう戻れないんだ。戻りたくても。故郷は今燃えている。

 

 

 

 

 

 

 

 地下施設は昔ウェイドが入り込んだ洞穴とよく似ていた。

 ただ一つ違うのは、足を踏み込むたびに緑色の悍ましい化け物たちが次々と姿を現してくるという所だけだった。気味悪い呻き声を上げながら泥人形のような足を引きずり、こちらの姿を見るなり向かってくる。

 デッドプールは洞穴の影からその化け物が姿を現すなり、すぐさま日本刀で切り裂いた。聞くだけで耳が腐りそうな悍ましい断末魔をバックミュージックにウェイドは大声で歌いながら歩いた。

「You got some power in your corner now. Some heaby ammunition in your camp!!」

 地面にまき散らされた緑色の粘膜の上をスキップで歩く。びちゃびちゃという音を弾かせて、デッドプールは先へと歩き続けた。

 何十体という化け物を殺しながらも、その歩みは遅くなる事は無い。Weapon VIIIの実験を受けた結果か、化け物は銃弾は効かない上に凄まじい怪力ではあったが、その動きは素人のそれだ。元が戦闘経験も碌に無い幼い子供なのだから当然だろう。いくら怪力だろうとド素人の動きの生物などウェイドの敵ではない。

 それになにせ今の自分は、少なくとも今だけは、ヒーローである筈だ。キャップの言った通り、自分が正しいと思う事をやっている。なのにどうして負ける訳があるのだろうか。

 

 歩み続けていると洞穴の奥に扉を見つけた。鍵がかかっていたが、持っていたパイナップルを爆発させて鍵ごとぶっ壊した。

 壊れた扉を蹴り開ける。盛大な音を立てて開け放たれた扉の向こうには記憶通り白い部屋が目の前に広がっていた。病的なまでに整えられた部屋には子供用の玩具が乱雑に広がっている。

 

 白い部屋の中心には年経た友人が立っていた。顔には皺が増えていて、記憶にあるよりも痩せているようだった。だが表情に浮かんでいる怒気は年齢を感じさせない迫力があった。拳を震わせながらこちらを睨み、唇をぶるぶると震わせながら白い歯を剥き出しにしていた。

 

「ウェイド、貴様、貴様、よくも、」

「HEYジェイソン、Pleasent for YOU!!!!!」

 

 未だ持っていたガルシアの首をジェイソンに向かって投げつける。首はジェイソンの胸にあたって跳ね返り、ぽすんとその腕の中に落ちた。

 その首が誰なのか気づいたジェイソンは、驚愕と恐怖のために一瞬動きを止めた。それを狙って銃口を向ける。

 しかし引き金を引く寸前に緑の化け物がジェイソンを庇うように躍り出た。銃弾は粘液に阻まれてそのまま地面にぽとりと落ちる。

 面倒な連中だ。日本刀で斬りかかる。反応する暇も無かったのか、正面から刀を受けて切り裂かれた緑の身体から粘液が零れ落ちた。それを見てジェイソンは悲鳴を上げた。

 

「止めろ、止めろウェイド!どうしてそんなに酷い事をするんだ!」

「酷い?俺ちゃんは化け物を退治してるだけだ。なーんにも悪かないっての」

「その子たちはただの子供なんだ!!Weapon VIIIの実験のせいでそんな姿になっているだけで、」

「でももう戻んねえんだろ?じゃあただの化け物じゃねえか。元が子供だろうが傭兵だろうが違いがあるか?」

 

 そう言うとジェイソンは押し黙った。刀を振るうと化け物が痙攣しながら地面に倒れる。

 その頭に刀を突き立てる。数回身じろぎでもするように全身が震えた後に、化け物は動かなくなった。

 ジェイソンは叫びながらその化け物に走り寄った。緑色の粘液に手を突っ込み、小さな子供にそうするように頭を撫でた。傍から見ていればそれは狂人の有様だったが、ジェイソンの目は涙に濡れていて、狂っていると一蹴するにはあまりに悲嘆に暮れていた。

 

「トッド、トッド、なんて事だ、可哀想に、」

「……可哀想か?」

 

 こてんと首を傾げるウェイドをジェイソンは睨みつけた。その表情は子供を奪われた親のような怒気と同時に、悍ましい化け物を見るような嫌悪感に溢れていた。

 

「こんな小さな子供を殺しておいて、よくもお前はそんな事をっ」

「それはお前が言えるような事じゃねえだろうが。小さな子供を悍ましい化け物にしたのは手前の癖に、何を被害者面してやがる」

「そうしなければこの子たちは生きていけなかったんだ!身寄りのない、ヒドラしか助けてあげられない子供たちだった!」

「じゃあ殺してやるべきだったな」

 

 鼻で笑うウェイドに、ジェイソンは信じられないという顔を向けた。

 ウェイドは銃口をジェイソンに向けて深い笑みを唇から零していた。

 

「てめえに分かるか?化け物になっても死ぬに死ねねえ辛さが。いっそ死ねればどれだけ幸福かって、寝る前に何度も考える気持ちが」

「それは……でも、それでも彼らは生きていたんだ。俺と一緒にここで暮らしていた!お前に殺す権利なんてっ」

「死ぬほど辛いんだジェイソン。てめえには死んでも分かんねえだろうけどさ」

 

 ジェイソンがトッドと呼んだ化け物の死体は、遠い昔にマリカがそうだったように、徐々にその本当の姿を現した。小さな少年がジェイソンの腕の中におさまっていた。細い子供の身体を分断する、袈裟懸けに斬りつけられた傷は鮮やかだった。痛みを感じる暇も無かっただろう。

 トッドの表情は穏やかだった。きっとマリカの表情もそうだった。それがウェイドの願望なのかどうかは分からない。これから先も一生分からないだろう。しかし少なくとも、罪の無い子供を化け物にして生き延びさせて、それで満足していたジェイソンよりは彼らの気持ちが分かる。

 何が正しいのかは分からない。でも自分にとってはこれが正義だ。

 

 引き金に指をかける。ジェイソンはウェイドを見上げながら小さな子供の死体を腕に抱いた。

 銃口に目を向けていたジェイソンの表情は困惑を混じらせている怒りから徐々に悔しさ混じりの諦念に変わり、最後には無表情になった。

 赤いフードのせいで表情の分からないウェイドに、ジェイソンは頭を振った。それは駄々を捏ねる子供に親が呆れるような仕草に似ていた。眉間に銃口を押し当てたウェイドは、自分を見上げるジェイソンの瞳に大昔を思い出した。

 面倒見の良い男だった。カオルと自分にいつも心優しい言葉をかけ、配慮を忘れない人物だった。間違いなく軍人には向いていない男だ。

 子供を守って導く教師に相応しい男だと思っていたし、今でもそう思っている。

 ジェイソンはウェイドを見上げた。唇だけで小さく笑い、十字を胸で切った。

 

「————祈れよウェイド。いつかお前の元に神が来たらんことを」

「ジェイソン、俺は祈らねえよ」

 

 一発の銃声。それで人生が終わる。

 ジェイソンはそれがどれだけ幸福な事か、知らないままに死んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■  ■  ■

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ウェイド、君は勝手な行動をした。それは分かるかい?」

「分かんねえなキャップ。俺ちゃんはアベンジャーズじゃねえからあんたの命令を聞く義務はねえんじゃねえのか」

「ミッションに参加する同意書に署名した時、僕の指揮下に入ると同意しただろう」

「覚えてねえなあ。ほら俺ちゃん記憶がすぐに無くなっちゃうからさ。あ、でもあんたが次回のスターウォーズに出演するかもっていうニュースは覚えてるぜ。いやあMCU終了直後に出演希望を出すとは流石の俺ちゃんも驚いちゃった」

「勝手にパソコンをハッキングして情報を盗んだ事、トニーのヘリを盗んだ事、空軍基地で暴れまわって戦闘機を盗んだ挙句に破壊してヒドラの基地もろとも周囲の農地を燃やし、数十人を殺害した事……君の境遇やWeapon VIII計画との関係を踏まえて考えても、とても看過することはできない事態だ」

 分かるね?と言われて、はーい、と応える。

 

 キャップの事は好きだが、真面目過ぎる事は彼の欠点だ。トニーなんてヘリとご自慢のスーツを壊された事について一通りの罵倒を叫んだ後は、顔を見るのも嫌だとウェイドをアベンジャーズタワーの一角に閉じ込めて接触しようともしない。

何が駄目だったのか、どうするべきだったのか、ウェイドへ懇切丁寧に説明しようとするキャップに今も監視カメラ越しに苦々しい顔をしているだろう。

 ウェイドでさえ真面目腐った顔で説明してくるキャップに「こんな事をしても無駄だからさっさと諦めて帰ったら?」と思うのだから、トニーの心情は相当に荒れているに違いない。

 

「暫く君はアベンジャーズの監視下に置かれる事になる。不本意だろうが我慢して欲しい」

「それってどのくらいの期間?」

「Weapon VIII計画についての調査が終わるまでだから、少なくとも2か月」

 

 げーっと叫ぶと、これでも短いくらいだとキャップは溜息を吐いた。

 監禁室にしては綺麗な部屋は窓が一つと机と椅子しかない。そして暇つぶし用の本が数冊と小さなラジオ。まさかここに2か月監禁じゃないよなと思っていると「明日からはちゃんとした部屋を用意してくれる予定だよ」とキャップが告げた。

 

「暫く不都合はあるだろうけど、我慢してくれ」

「ここに居る間はバーにもクラブにも行けないってマジ?アベンジャーズってどうやって性欲発散してる訳?」

「さあ」

 性欲なんてありませんという顔をしたキャップはこてんと首を傾げた。間違いなくキャップは童貞だと確信すると共に、この男はともかくとして他のメンバーの性欲処理はどうしているのかはファンの永遠の議題の一つだろうと容易に想像できた。

 

「君の家の荷物は明日搬送する予定だ。訓練場は9階にある。何か疑問があればF.R.I.D.A.Y.に聞くと良い」

「はいはーい」

 しつこい説教にうんざりして、机に脚をのっけてひらひらと手を振る。

 今はキャップとも会話をしたくない気分だった。

 

 洞穴に居た緑色の化け物はウェイドが皆殺しにしていた。実験体になった子供達のリストも見つかり、現在照合をしている最中らしいが、ストレートチルドレンや行方不明の届けが出ていない虐待児が多数混ざっているため被検体全員の身元を割り出すのは困難だとキャップから教えられた。

 

 そしてヒドラのメンバーだったジェイソンは化け物たちの世話係として長く勤めていただけの、単なる下っ端構成員の一人だとも告げられた。醜悪な見た目と臭いを放つ化け物の世話を一手に引き受けていたジェイソンは、その代わりに民間人を拷問したり、殺害したりというヒドラらしい任務に全く従事していなかったらしい。

 言葉を発することも無い緑色の巨大な化け物を本当の子供のように手厚く保護するジェイソンはヒドラの中でも変わり者として扱われていた。時たま喋るはずの無い化け物と言葉を交わす素振りも見られたことから、気が触れていると思われていたのか、良くも悪くも他のヒドラの構成員と関わる事もあまりなかった。

 

 いずれにせよ、あの化け物を本当に心から大事に思っていたのがジェイソンだけだったという事は変わりない。

 兵器として作られた化け物がジェイソンを庇ったのが、そう訓練されていたからなのか、それとも親のように守ってくれるジェイソンを愛していたからなのか、それともようやく死ねる機会を逃したくなかったのかは分からない。

 分かっているのは、化け物も、ジェイソンも、あの施設に居た他のヒドラも、全員ウェイドが殺したという事だけだ。

 

 これから先ヒドラが再び製造する可能性もあるが、ウェイド一人に惨殺されるなどどう考えても彼らは兵器として欠陥品だ。さらに外見は醜悪でとても民間人に紛れての任務なんてできそうになく、知能も子供レベルかそれ以下となれば、今後も彼らを製造する可能性はそう高くも無い。

 これから先、子供達が誘拐されてあんな化け物にされる事は無い。だが化け物を殺し尽くした達成感はどこにも無かった。

 その代わりに、自分の長い記憶を掘り出すための原因があっさりと片付いた事へのあまりのあっけなさと、あまりにあっけなく自分に殺された化け物の末路に対する容易に処理しきれない哀れみだけが残った。

 自分の手で殺したのだ。その事に後悔は無い。だってもう人間に戻れないのならば、殺すしかないのだ。

 

 キャプテンならば他の選択肢を必死に模索するだろう。トニーも同様だ。他のヒーローたちも。でも自分はこれが一番正しいと思った。

 化け物でいる辛さならば理解している。そしてあの化け物が生きていたら、他の人間が絶対に犠牲になる。どっちを優先させるかって話だ。

 しかし同時に、マリカが眼を覚ましたあの時、あの化け物がマリカだと気付いていたら、きっと自分は殺さなかっただろうとも思う。

 それはマリカのためではなく、自分がマリカを殺したくないからだ。

 

 ……化け物になってしまったマリカにはまだ理性があったのだろうか?

 緑色の粘膜に覆われたマリカは、自分をジーニーと呼んだ。あれはマリカに残されていた最後の理性だったのだろうか。自分があそこでマリカを殺していなければ、マリカはウェイド・ウィルソンを殺し、あの病院に居る人間を殺し尽くし、そしてアベンジャーズの誰かに殺されていたのだろうか。

 

 それとも自分が殺していなかったら、あの化け物の姿のまま、今もまだマリカは生きていたのだろうか。

 化け物として生きることに、自分では見つけられなかった、何か優しい希望を見出して。

 

 

 

 

 

「俺は許されるかな、キャプテン」

 独り言のような言葉への返事は期待していなかった。しかしキャップは目を少し見開いて、ウェイドへと向き直った。

 こうして居直ると、キャップは自分よりも少し年下なだけの青年だ。今となっては戦闘力もヒーリングファクターを備えている自分の方がほぼ間違いなく上だろう。

 だがその肩に乗っている重責はヒーローの中の誰よりも重い。誰も彼もが彼に頼り、彼の指針に従って動く。彼の代わりは誰にも務まらない。彼が「許されるべきではない」と一言言えば、それはアベンジャーズの決定とほぼ同意だ。

 

 ウェイドの質問にキャップは痛々しい程に真っすぐな瞳を向けて答えた。

「僕は神様じゃない。君のしたことを僕は全て知っている訳では無いし、知ったところで君の罪全てを裁く権利は僕には無い。ただ僕はヒーローであり、ヒーローであり続けたいと願っている。そして出来る事なら君にとって信頼に値する人間の一人でありたいと思っている」

「……それは、勿論」

「そして同時に、僕は僕自身が、きっと永遠に許される事はない罪人だろうと思ってもいる。僕は80年前に人を沢山殺した。それも君のようにヴィランではなく、ただ徴兵制度に従って戦争に行っただけの、国に帰れば良い父や息子だっただろう無実の人々をだ」

 内容とは裏腹に穏やかで、後悔のない声だった。いっそ清々しい程に彼は自分の罪を肯定していた。

 自分はヒーローだと言ったその口で、自分は許されない人殺しだと言ったキャップが分からず首を傾げる。キャップは笑みを深めた。

「ヒーローとは何だと思う、ウェイド?」

「……悪い奴らを懲らしめる。んで、人殺しをしない」

「それが君にとってのヒーローのイメージなんだね。でも、僕は違う……懲らしめることが出来なくてもいいんだ。極端な事を言ってしまうと、人を殺していてもいい。大事なのはそれに伴う意思だ。それが自分にとっての正義と照らし合わせて問題の無い行動であれば、それでいい」

「じゃあキャップにとってのヒーローって?」

「ヒーローとは隣人の愛を知り、隣人の罪を知っている人の事だ。そして何より、自分の愛と罪を知っている。ウェイド、君は自分の罪が分かるかい?」

 そう言われると、ウェイドは黙るしかなかった。緑色の化け物がただの子供だと知っていて虐殺した事は間違いなく罪と言われて然るべき行いだった。

 だがそれはウェイドにとっては正しい事だった。キャップや、他のヒーロー達にとってみれば悍ましい行為だったかもしれないが、ウェイドにとっては正しい事だったのだ。

 愛されない子供として生きて、最終的にWeapon計画に辿り着き、化け物になってしまった人間の気持ちは彼らには分からないだろう。

「……ガキを殺した」

「でも君はそれを罪だと思っていないね」

「成功体のあんたにゃ分かんねえ感情さ。あんたは唯一のWeapon I計画の成功体だ。失敗作の俺達とは違う」

「君たちを失敗作だとは思わない。でも確かにあの子たちの苦しみを理解できるのは君と、バナー博士ぐらいかもしれない。バナー博士も何度も自殺しようとして、その度にハルクに邪魔をされたと言っていたから……君の罪はそこじゃない。ウェイド、いいかい、君の罪は、それを僕たちに教えてくれなかった事だ」

 まさにキャップらしい言い草だとウェイドは鼻で笑いそうになった。情報共有、意思の統一。実に兵士らしい。

 そうやって並み居るヒーロー達と「お話」したとして、きっと彼らは子供を殺すという決断には至らないだろう。その過程でどれだけの犠牲が出たとして、無業の子供を殺すという決断を彼らが下せるとは思えない。

 そう思っているだろうウェイドを知りながらもキャプテンは言葉を続けた。

「子供達は死にたいと思う程に苦しんでいるだろうから殺してやった方が楽なのかもしれないと、僕は君に言って欲しかった。君が一人であの施設に突入する前にそう言ってくれれば結果はもう少し良いものだったかもしれない」

「そう言われたらあんたはどうしたんだ?」

「彼らを人間に戻すための手段を探しながら彼らを保護しただろうね」

「人間には戻らなかったら?」

「———それが最善だと思えば、殺しただろう。僕の手で」 

 キャプテンは本気だとすぐに分かった。鍛え上げられた大きな手をひらひらと振っている。優し気な表情だが、ぞっとする程に澄んだ青色の瞳をしていた。

 

 同時にその表情をしたキャプテンが自分を殺す光景が、B.A.R.F.システムの中に入ってきた時のように目の前に浮かび上がった。

 自分は地面に寝転び、振りかぶった盾を見上げている。刃のように鋭い盾の切っ先がキャプテンの剛腕で振り下ろされれば自分の太い首でも切り落とされるだろう。そうしてそのまま復活することもなく、普通に死んでいく。

 その光景にウェイドは泣きたくなった。胸の奥が安堵のあまり切り裂かれたようだった。そんな未来が訪れればと願うと同時に、本当にそんな事態になれば必死になって抵抗するだろうとも思った。

 

 キャプテンは、しかしすぐにその表情を取り消して、苦笑して首を振った。

「でも僕やトニーの知り合いには凄い能力を持っている人たちが沢山居るから、きっとそうはならなかった。子供達の為ならジャスティス・リーグの面々も協力してくれただろうしね。それに人間に戻れなかったとしても、理性を取り戻す事ができれば、彼らもいつか自分の姿を受け入れてその人生に幸福を見いだせたかもしれない。——————殺すしか無かったにしても、君が一人で彼らの死を背負う必要な無かったんだ」

「……他の誰かにゃ任せらんねえ仕事ってのが誰にだってあるだろ」

「そうかもしれない。でももし本当に君がそう思っているのなら、君は許しなんて求めはしない。君は誰にも相談せずに、自分一人で行動した事が罪だと分かっているんだ。でも君が許されるかどうかは僕に分かる事じゃない。それはいつか最後の審判の時が来るまで、神様にしか分からない。それまで僕たちは自分で自分の罪を抱えて生きるしかないんだよ、ウェイド」

 あんまりな言い草にぶうと唇を尖らせる。口先だけでも「きっと許されるよ」と言ってくれるかもしれないとちょっと期待した自分が馬鹿だった。キャップはどこまでも真面目で、リアリストで、同時に根っからのクリスチャンだった。

「もうちょっと俺ちゃんに優しくしてくれてもいいのに」

「すまないが、これが僕だ。トニーのように人を甘やかすのは下手でね」

 さて、とキャプテンは踵を返した。

「悪いけど僕はそろそろ行くよ。暫く暇だろうが、言ってくれればスパーリングなら誰かしらが付き合ってくれると思う。君の戦闘スタイルに興味があるメンバーは大勢居るから」

「へいへい、なあキャップ」

「何だい?」

「キャップは神に祈ったりする?」

 前々からの疑問だった。もしかすると遥か昔にカオルとジェイソンと、もう顔も覚えていないイスラムの男とトラックの上で雑談した時から疑問に思っていたかもしれない。

 ウェイド・ウィルソンは祈らない。デッドプールも祈らない。ではヒーローはどうだろうか。キャプテンはあっさりと答えた。

「ああ、今でも週末に時間がある時には教会に行って神に祈るよ。祈ると救われるような気がする」

「祈れば救われるのか?」

「さあ。どちらかというと救われるというより、自分の中の考えを整理するっていう方が近いような気もする———祈るだけで救いが降ってくる訳も無いし、罪が許される道理も無いしね」

 肩を竦めた仕草は本当に生粋のクリスチャンなのかと疑問に思う程に軽かった。

 だが同時に、なんとなくキャップにとっての神様というものが分かったような気がした。彼は確かにクリスチャンだろう。しかし彼にとって神様は縋るようなものではないに違いない。

 

 全ては自分の力で引き寄せるものだ。神様とはふとした時にちょっと星を見上げるような、そんなものだ。

 子供だった頃、キャプテン・アメリカの小説を隠していたベッドの下のような場所に神様は居る。

 

 納得したウェイドの顔に、キャップは優しい微笑を浮かべて言葉を返した。

「宗教は関係ない。祈るのは人の自由であり権利だ。君は祈りたいときに祈るといい。そうすれば、君にとっての神様がそこに居るだろう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 キャップが去ってからラジオを付けると、最新のディズニー映画の曲が流れていた。賑やかな曲だ。興行収入が幾らだったかと、曲が終わると同時に解説が入る。サノスの件で未だ荒れている世界だが、段々と復興が進むと同時にこういった娯楽もまた復活してきたようだった。

 その次に流れた音楽もディズニー映画のものらしかったが、これはウェイドの知らない曲だった。その次もよく知らない曲で、耳慣れない曲ばかりが次々と流れていく。

 しかし年代を遡るように曲が続くにつれて段々とウェイドも知っている曲が増えてきた。

 まだただの人間だった頃にヴァネッサと一緒に見た映画で流れていた曲。傭兵時代に街頭で聞いた曲。デルタに在籍していた頃にバーで聞いた曲。

 そしてカオルと、ジェイソンと、そしてまだ小さいマリカと聞いた曲。フローラがよく口ずさんだ曲。Whole New Worldが聞こえた。優しい声がした。ほんの少しだけ聞いた、9歳のマリカの声に少し似ている声のように思った。

 

 曲に耳を傾けながら、自分は心優しい友人であるジーニーにはなれなかったなと思う。

 あの寂れた生家で何度も耳にした聖書の一節ももう忘れてしまった。キャプテンはああ言ったが、祈り方もウェイドは覚えていなかった。

 ただ残っている全てはここにあった。あの頃に憧れたヒーローはここに居て、自分の罪もここにある。それで十分だ。サイコーな気分だ。サイコー過ぎて泣きそうだ。

 

 

 そうだ。飛んでしまおう。

 そう思ってから行動するまでのタイムラグは殆ど無かった。ラジオのスイッチを切って、机の上に丁寧に置いた。

 そのまま窓に向かって全力でダッシュ。そして空中にダイブ。

 

 

 ガシャアンという派手な音が後ろから追い立てる。J.E.R.V.I.S.、じゃない、今はF.R.I.D.A.Y.だったか。とにかくそいつがアベンジャーズ・タワーの防衛システムを起動したらしく、わんわんと煩いサイレンを鳴り響かせた。

 そう言えばここは何階だったっけ?高階層だった記憶はあるけどよく覚えていない。眼下にはニューヨークの摩天楼が広がっている。空中で一瞬停滞するも、次の瞬間には地面に向かって凄まじい速度で落ちて行く。

 道路を行き交いする車や、スマホ片手に歩いている歩行者がぐんぐんと近くなっていく。だがそれらの現実に被さるようにして懐かしい顔が目の前に映り込んだ。

 

 手の届かない遠くで、フローラとカオルとジェイソン、そしてマリカがこちらを見ていた。

 皆が笑っている。自分を許してくれるかのように、両手を広げてこちらに来るよう誘っている。

 それはどんな美女の誘いよりも蠱惑的で、抗い難い魅力があった。死と罪悪感と、全ての罪を免罪される開放感への魅力だ。これほどまでに人類を惑わす魅力など無いとウェイドには断言できた。

 

「ひゃあぁぁぁあっほー!!!」

 

 ぐんぐんと地面が近づく。風を切る轟音が頭蓋骨の中で反響する。胃液を全て口から噴き出しそうだ。視界がコンクリートの灰色の地面に侵攻されていく。

 近づいてくる自分の大事な人たち。大事だった人たち。自分も今そっちに行くよと手を振る。

 今はこれだけ愛おしいと思う人たちの顔も、すぐに記憶から消えてしまうだろう。経験上、1回脳漿を派手にぶちまけたらWeapon Xの手術される前の事は大半忘れてしまう。いくらB.A.R.F.システムやらワンダやらプロフェッサーやらが直した記憶だろうと変わりない。でもそれでももう良い。

 だって今、すごく気持ちが良いんだ。思い合う女とセックスした直後に勝るとも劣らないような気持ちよさと解放感が全身を覆っている。その後の事はもう何も考えられない。

 

 さあ、死が近づいてくる。耳に慣れた死の音は、銃声でも炎の音でもなく、今度はごうごうと鳴る風の音をしていた。

 目を下向けると、運の良い事に、ウェイドの下を横切っている不幸な通行人は誰もいなかった。これならば遠慮なく死ねる。

 死ぬ寸前に後悔と愛と寂寥が浮かぶ。それはつまり、彼らの事だった。自分はそれをようやく手にできる。あれからこんなにも長い時間が経ってしまったけれど、でも遅すぎるという事はない。

 

 ああ、会いたかった。会いたかったよ。

 

 死ぬほど会いたかった。

 

 

 あの頃の優し気な笑みを浮かべるジェイソンが見える。可愛いマリカの小さい頭が見える。彼女を抱くフローラと、それを見ているカオルも。

 近づいて来る。彼らに向かって手を伸ばす。

 柔らかいマリカの髪を撫でるまで、あと、3、2、1————

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 劇終 

 

 

 

 

 

 



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