俺はフショウの高橋だ (後味のらーな)
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1

【杉元の回想】 

 

それは日露戦争の最中。

まだ第三勢力が奉天で駐在し、次の指示を待つ状態が続く頃だった。

焼け野原に折り重なって地面を埋める兵士達を遠目に眺めながら、簡易テントの下で生き残り兵は各々食事をとっていた。食事と言っても、ただ生きるために口に物を入れているというのが正しかった。数日続いた奉天会戦に体力も気力も削がれ、放心しているものが多い。俺もまた生きてる心地が戻らない一人だ。

 

「幽霊っていると思うか?」

 

連日続く重焼麺麵(じゅうしょうめんぽう:現代の堅パン)を今日も今日とてかじっていた時、隣の男が投げかけた言葉だった。隣の男は痩せ型で、手元の重焼麺麵は半分も減っていない。

俺は口に入れたばかりの重焼麺麵を飲み込んでから返す言葉を探していると、周りにいた歩兵が口を出し始めた。

 

「化け物ならいるだろ、ほら、不死身の杉本」

 

「誰が化け物だよ、誰が」

 

ひと睨みすれば相手は軽く笑って流すが、目には若干生気が宿っていない。奉天会戦が終わってすぐで疲れきっているうえに、こけた頬も、沈んだ目元もより一層目立つようになった。何よりこの大戦で失ったものが多すぎたので無理もないが、もはやこれではどちらが幽霊かわからない。

俺は皆と同じようにくぼんだ男の目を見た。

 

 

「アンタ、高橋だっけ?」

 

「ああ」

 

短く答えた痩せ男の声はかすれてた。それこそ死者のように。

 

「みんなに聞いて回ってるみたいだな。『幽霊っているか?』って」

 

「…信じてるのか?」

 

「いや訊いてるの俺だろ。その質問はどういう意図なんだよって」

 

腹が立っているわけではないが、

噛み合わない会話に歯がゆくなっていると、周りに2、3が集まって口を挟み出した。質問の裏が読めない細長男にかまわず、次々言葉を投げる。

 

「なんなんだ、こういう時に」

 

「気を悪くしたらすまない。深い意味はないんだ」

 

「深い意味はない、だと?」

 

「それにしたって不謹慎にもほどがあるだろう。貴様は親しき仲にも礼儀ありというのがわからんか」

 

「そうだぞ。ここにいるものは皆、仲間を失ったばかりだろ」

 

「杉本だって、三輪だって、山田だって、俺だって、同郷の仲間が次々ロスケ(※ロシア兵蔑称)にやられた!」

 

「お前はっ…俺たちに『仲間』が見えてたら幸せか、会いたいか、とでも言いたいのか!」

 

だんだんと声に熱がこもっている。胸にはおそらく仲間の顔が浮かんでいるのだろう。俺も同じく寅次の顔が頭によぎっていた。嗚呼、化けて出てくれるならむしろ良いかもしれん。妬み恨みを耳元で吐き続けられたら、いっそ梅ちゃんに会う気も失せるだろうか。

俺たちが口々に言って沈んだ顔になるなか、その男だけはあっけにとられた顔になっていた。

 

「そんなつもりじゃなかったんだ。茶化したかったわけじゃない」

 

「そんなつもりじゃないと言うなら、お前一体どういうつもりだったんだ!!」

 

「……場を和ませようと」

 

「「「はぁ?」」」

 

あきれ返る俺たちを前に、むだに大きく細長い背を窮屈そうに丸めて男は続けた。

 

 

「俺だって幽霊など信じていない、むしろ馬鹿馬鹿しい妄言だと思っている。だから馬鹿らしい話の一つでも、こういう時に皆に振れば気も紛れるかと、そう思っただけなんだ」

 

すまない、しおらしく下げた頭。男の言い分は分からなくもないが、それにしたっておかしい。天然なんだろうか。真剣に怒ることがばからしくなり、怒り心頭な様子だった者は脱力していった。

 

「お前なぁ…」

 

「よりによって幽霊の話するか…?」

 

呆れる空気を察して、高橋は表情のない顔のまま、また軽く首をひねった。

 

「精一杯の洒落のつもりだった」

 

「「「……………」」」

笑えねぇよ!!!

 

その場にいた全員が胸の内でそう叫んだ。そしてその日からしだいに『不笑の高橋』の異名が囁かれるようになった。

 

 

 



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2

【杉元一派:釧路】

金塊の手がかりである元囚人の姉畑を探し、無事に彼の刺青人皮を手に入れた一行。

その夜、コタンのカムイ達は穢された動物を送る宴を開くと言った。そして谷垣を犯人と勘違いしたおわびにと、その席に招かれた杉元、アシリパ、谷垣、尾形。

宴が盛り上がりを過ぎたころ、谷垣はフチが夢を見たことで死期を悟った話を伝えた。それを聞いて杉元はいったん村に変えることを提案する。しかしアシリパは旅を続けることを決意し、一行は気持ちも新たに進むこととなった。

この会話は、その話が一区切りついたあとのものだ。

 

「フショウの高橋?」

 

「覚えてねぇのか」

 

尾形の問いかけに杉元は首をひねる。

負傷、不祥、不勝。フショウに当てる字はいくつか浮かんでいく。杉元は酒をぐいと飲み干しつつ、記憶の奥を探っていけば、薄ぼんやりと奉天の帰り道が蘇ってきた。

 

「ああ、あの人」

 

「ヤツについて何か知らんのか」

 

「知らないな。そこまで深い仲じゃない」

 

あの猫背の細長い影がふと浮かんで、懐かしく思う。

そんな杉元の顔を見てか、アシㇼパは興味深そうに尋ねた。

 

「フショウとはどういう意味なんだ杉元?」

 

「全然笑えないという意味で、不笑と呼ばれてたんだよ」

 

「笑わない、ではなく笑えないのか」

 

「そうなんだよ。あの人がいた歩兵連隊とは奉天の時に帰りがほとんど一緒になって、よく喋ってたな。そーいやあの時から全然笑えなかった」

 

「よっぽど冗談が面白くなかったんだな、タカハシという男は」

 

「真面目で悪い人ではなかったんだけどね。なんかズレてるんだよ。笑いどころが」

 

本人自身滅多に笑わないが、それ以上に口を開けば洒落にならない話が飛び出すばかりだったため、いっそう笑えなかった。杉元の話に、谷垣が補足する。

 

 

「高橋はちょっとした有名人だった。俺もあの男とは知らない仲じゃない。アイツは補充兵として内地に戻ったとたん、第七師団の二十七聯隊にきた」

 

「第一師団からここまで飛ばされたのか。難儀だねぇあの人も。お前は仲が良かったのか?」

 

「悪くはなかったとは思う。最初こそ寡黙で剣の腕が立つから近寄りがたかったが、話してみれば普通のやつだった。ただ、喋るといっても相談事ぐらいしか話したことはない。『面白くなりたい』『冗談が上手くなりたい』と言われて、何度か話のネタを一緒に考えさせられたぐらいだ」

 

谷垣がそうつげると、尾形はわざとらしく鼻を鳴らした。

 

「それを仲が良いというんだろう谷垣源次郎。生真面目同士、実のないことを真剣に語っていたじゃないか。実に羨ましい間柄だ」

 

「あいつは意味のない話をするやつではなかった。嘘もめったについたことがない」

 

「ハッ、どうだか」

 

「お前たちタカハシのことで争うのはやめろ!」

 

アシㇼパは語調を強めて言った。杉元もそれについで声を上げたが、声色は酒にほだされゆるくなっている。

 

「そうだそうだ!もお~高橋がかわいそうだと思わないのかよぉ!いくら面白くないからって!」

 

「………」

 

尾形は口をつぐむ。谷垣のほうは珍しく杉元が肩入れするので、興味本位で聞いた。

 

「杉元、お前かばう程仲良かったのか?」

 

「あの人のことはそんなに嫌いじゃない」

 

指摘されても杉元が否定することはなかった。たしかに話す機会といえば奉天の帰り道以来なかったが、とはいえその出会いが色濃かったために無下にする気もないのだ。

独り言のように杉元は付け足して言う。

 

「俺もあの人が嘘をついてるようには思えないしな」

 

「まんまとペテンにかかって、お前も案外手懐けやすいな」

 

「そう言うが、高橋の話はどれもふざけてるようには聞こえない」

 

「谷垣…それが奴の思う壺なんだ。有ること無いこと真顔で話せば、相手にしてもらえると思っている。ちょうどお前達みたいな連中は立派なカモだな」

 

片眉を上げてそう話す尾形を、杉元は据えた目で睨みつけた。灯が影を揺らし、一瞬の緊張が走る。

 

「あの人は本気で面白い話がしたかっただけなんだ。たとえクソしょうもない話しかできなくても、いつか大爆笑がとれると夢見てた。ただそれだけだ。悪気なんてない、懐柔しようなんてもっての他だ。これのどこが詐欺師だよ」

 

「杉元の言う通り、高橋に懐見せたところで、盗られる物はなかった。それにそういうつもりなら、もっと賢く周りを固めていくだろう。鶴見中尉のように」

 

「………フン」

 

尾形が鼻で笑った。一方の谷垣は仲が良かったというのは本当のようで、友の悪口に顔をしかめている。

そして一連のやりとりを見たアシㇼパは、隣の杉元へ顔を向けた。

 

「杉元、タカハシという男の話はそんなにデタラメだったのか」

 

「デタラメというか……そうだねぇ…話が面白くないし笑えないのはもちろんなんだけど、」

 

「もちろん…なのか」

 

「言うなれば、あんまり筋が通らなかったんだよ」

 

「筋?」

 

高橋の話題は大抵、悪気がないことは分かるので回り回って笑えるという、いわばブラックジョークに近いものであった。

しかし中でも突飛な話が多すぎたので、不信に思ったり不気味に思う時もあったのだ。

 



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3

地名は濁しております。巫女関連の話はすべてフィクションです。


【杉元の回想】

 

「だめだな。酔っ払った」

 

「いやどこがぁ!?」

 

表情が依然として変わらない彼が言うものだから、俺は本気で焦った。俺ですら、ぐらぐらと視界が揺れているというのに、男の背は微動だにしていないように見える。涼しい顔で次の酒を注ぐもんだから、よけいに恐ろしい。

 

「せっかく連隊長殿がくださった酒だというのに、もう無くなりそうだな」

 

「祝い酒なんだ。これぐらい早く減ってるのが景気が良いんだよ」

 

周りには酒で潰れて机に伏せる者、床に丸くなる者など様々だった。だが潰れていない者といえば数えるほどしかおらず、今のところまともな話し相手は高橋しかいない。

 

「なあ杉元、俺はどうしたら面白くなれると思う?」

 

「うん~~~……」

 

首をひねるが出てこない。酒をもう一杯あおってから、また考えてビシッと男の顔に指を向けた。

 

「まずはその無表情をどうにかしないとなぁ」

 

「そうか…自分ではめいいっぱい動かしてるつもりなんだが」

 

「人間ってのは相手の顔と同じ顔して喋るもんだろ。あんたが死人みたいに冷めた顔してたら、相手だってそんな顔になるのも仕方ないよ」

 

「相手が死人みたいな顔だったらどうしたらいい?」

 

「それは相手に問題があるから気にしなくていい」

 

どちらにせよアンタ気にしすぎだって、そう肩を叩いても何やら考え込んでいるようで言葉はしばらく返ってこなかった。あまりにも高橋が黙り、沈黙が長引くものだから、しびれを切らして俺から話を振った。

 

「…どうして笑わせることにこだわるんだ?」

 

「笑ってないと、死んでしまうぞ」

 

「………その答えが笑えないんだよなぁ」

 

「そうか。なるほど。ここは面白い冗談で返すべきだったか。すまないがもう一度同じ台詞を」

 

「恥ずかしいからやだ」

もし言ったところで、洒落た返し言葉が言えるのかも怪しいのに。そんな本音は飲み込み、「で、どうなんだ?」と俺は高橋の目を見た。

 

「どうと言われても、これだけ面白くない事が評判になってしまうと気にするだろう?」

 

「誰でもそうだろうね」

 

「それに」

 

「それに?」

 

「……」

 

言い淀む高橋。心なしか顔に赤みが差しているようにも見えたが、見間違いでもおかしくないほど薄い。いや、本人の肌自体が元々青いのでわかりにくいんだろう。あまりに渋るもんだから、俄然口を割らせたくなる。

 

「言ってくれよ、大戦を生き抜いた同志のよしみでさ」

 

「……そうだな」

 

頷きながら、高橋の視線は俺からはずれ、隣の席の上に止まった。時々だが、高橋は喋っている相手から微妙に視線を外す。

 

「昔、笑ってほしい人を笑せられなかった。その記憶がまだ心の傷みたいになって、自分に自信が持てなくなったんだ」

 

「笑ってほしい人?」

 

聞き返せば高橋は小さく顎を引いて続けた。

 

「実は俺の祖母は……巫女のような陰陽師のような『胡散臭い芸』ができる人でな。俺は5〜6歳ぐらいからずっと、その祖母の助手として地方を連れまわされた。両親の反対を押し切って連れ回すもんだから、ばあさんは俺以外味方が居らんようでな。そのころは同情半分で、東京やら大阪やら祖母と一緒に転々とした」

 

「巫女のようなって、具体的にどんな事だ?」

 

「簡単に言えば幽霊と話をする仕事だと。祖母はそれを俺に継いで欲しいらしかったが、あいにく幽霊は実際見たことも聞いたこともなくてな」

 

「そうだな。前にアンタ、幽霊なんていないと断言してたもんな」

 

「そうなんだよ。ばあさんには悪いが、俺は幼い頃から幽霊に縁がなかった。だからばあさんの仕事に付き合わされるのは、苦痛に思った事が多い。特に移動ばかりなもんだから、親しい友人はできないし、親とも満足に会えん。話し相手は野次馬か祖母だけだったな」

 

「それは幼子にしちゃ、辛いだろうね」

 

「でもな、たまに良いことも巡ってくるもんで、行く先々で美人に出会えることが多かった。ありがたいことに」

 

「ふーーーーーん?全然羨ましくないけどぉ?それでぇ?」

 

「その中でも、神戸の肥鵯(こえひよどり)に呼ばれたとき出会った子は格別だった。一目惚れだったな。黒髪のおさげが美しかった。毎晩毎晩、祖母に隠れて会っては明け方まで話し込むこともあった。彼女は一言も俺と言葉は交わせなかったが、それでも会えるだけで嬉しかったんだよ。会って、俺の話にこっくりこっくり彼女が頷くだけで幸せだった。

 

 

「フハ、惚気かい?」

 

「ああ惚気だよ」

 

真顔返すもんだから、俺は一瞬面をくらって固まった。一切表情の動かない語りだが、声は微妙にまどろんでいた。確かに酔っているようにも見えなくはない、ようやくこの人から自分達に似通った人間らしさを感じて、酒をまた一杯つぐ。

 

「ありがとう杉元」

 

「いーや。それよりその初恋、実ったのか?」

 

「それがな、」

 

ついだ途端に酒はぐいと高橋の喉に消えた。あっけなく無くなる酒に目を奪われる。

 

「まったく。気持ちを伝えることもなく玉砕したさ」

 

「気持ちを伝えずって、どういうことなんだよ」

 

「俺が次の土地に移らにゃならなくなった晩、俺は確かに気持ちを伝えようとした。だがその前に、彼女の声を聞いてみたかったんだ。言った通り、彼女は俺に言葉を返してくれない。相槌は打ってくれるんだが、いつも澄ました顔でクスリともしないんだ」

 

「変わった女だ」

 

「奥ゆかしいと言ってくれ。とにかく俺は最後の晩こそ、彼女の声を聞きたかった。あわよくば彼女の笑顔が見れたら、と」

 

「本音は?」

 

「やりたかった」

 

「真面目に答えるなよ」

 

その答えがこの話の中で唯一笑えたところだった。

 

「そういう心意気で、俺は何度も渾身の笑い話を話した。何度もオチを強調して。何度も何度も…」

 

「な、何度も…」

 

「しかし彼女は冷めた目をしたままだった」

 

「地獄だな」

 

「彼女は…冷たかった……」

 

「お前のしつこさにも罪はあるだろ」

 

「何と言っても最後だったからな」

 

高橋は深いため息をつくと、もう空になった酒ビンに手を添えて続けた。

 

「結局どうしようもなくなって、苦し紛れに『俺の話は面白かったか?』と聞いたんだ。それから、もし面白かったなら、と続けようとした。続けようとしたんだ。だが彼女は俺の手をぎゅっと握ると、初めて口を聞いたんだ」

 

「な、なんと言ったんだ」

 

「『友に』と、小さい声で」

 

  

はああああ……大きな大きなため息がまた高橋から出た。こういう時になんて言えばいいのか困る。がつがつし過ぎてドン引きした彼女が、会っていないが目に浮かんだ。『無理です笑』と言われたようなものだった。

 

 

「友かぁ……」

 

「友だとよ…」

 

「寝るどころじゃなかったね」

 

「そうだなぁ」

 

「そのあとどうなった?」

 

「驚くことにすぐ祖母が飛び出してきてな。こっそり後をつけられていたらしい。彼女から俺の手をうばって、情けないからやめなさいと……そう叫びながら…無理矢理……手を引かれて……俺は…俺は……泣きながら帰った」

 

「そりゃ泣くわ」

 

そろそろだめだ、と視界の揺れで察した。話を聞いている最中も酔いが回ってくるのは感じていた。胃がムカムカして気持ち悪い。限界が近かった。

 

「悪い、俺、もう」

 

「だいぶ飲んだからな」

 

突っ伏す俺に仕方ないと頷いているにも関わらず、高橋の方は全く潰れる気配がない。本当にそう思って言っているのか怪しいが、疑うほど器用なヤツじゃないことは、この数日で嫌という程わかっていた。単純に相手を想っての言葉だろう。

 

 

「しっかり眠ったほうがいいな杉元は。三輪と山田はまだ起きてるつもりか、強いなぁ」

 

「…………………は?」

 

 

落ちかけた意識がふと覚める。冷や水をぶっかけられたような気分だった。しかし高橋は何でもない様子で、卓上に転がっていた猪口を2つ並べた。

誰もいない正面の席へ。

 

 

「みわとやまぁだ?」

 

「杉元無理するな、もう呂律回ってないぞ。2人も心配している」

 

「ふざけんな」

 

眠気の波がまた寄せて返ってくる。のみ込まれそうになる最中、なんとか重い舌を動かして高橋を責めた。

 

「おまえみたよなぁ。ふたりは、しんだ」

 

 

帰り道、高橋の笑えない冗談を聞き過ごしたあと。そのすぐ後だった敵の地雷が連隊の一部を吹き飛ばしたのは。すぐ目の前で、あっけなく死んでいった仲間たち。その姿を否が応でも見せつけられたのは俺だけではなく、当然高橋もしっかりその目におさめたはずだった。

そうであるのに、高橋は変わらない無表情のままケロリと俺に言った。

 

 

 



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4

【杉元一派:釧路】

 

 

「『当たり前だ。見ろ、どう見ても2人共腰から下が無い』」

 

「「………………」」

 

「そう言ったのを聞いた後、俺は今度こそ気絶した。本当あの人冗談下手だよな。あははは」

 

どう解釈したものか、複雑な含みのある沈黙がしばらく漂った。

 

「………杉元」

 

「はは、ははは…………ははは」

 

「杉元、それが本当なら」

 

「はーあ………ひひ、ははは!!!」

 

喉を鳴らし続ける杉元を不審に思って、谷垣が声をかける。しかし杉元は俯き加減になっていた顔をクワと上げて、声をさらに大きくするのだった。

ヤケクソのような態度に尾形は額に青筋を浮かべていた。

 

 

「もういい。笑うな、谷垣黙らせろ」

 

「ひははは!!!うえーーん!」

 

「だめだ……笑いながら泣いてる」

 

 

「よしよし杉本、怖かったんだなぁ?もう大丈夫だからなぁ?」

 

「さすがに怖かったぁ」

 

「わかったわかった、明日大好きなオソマを朝から探しに行こうな。きっと綺麗な鹿のオソマと出会える」

 

「ひ~~んありがとぉアシリパさん。でもウンコはいいや別に好きじゃないし」

 

「そうかそうか~。よ~しよし」

 

「ひーーーん」

 

「……」

 

「おい何見てんだ尾形。殺すぞ」

 

尾形はもう杉元に視線を向けるようなことはしなかった。「ハハッ」と乾いた笑みが漏れ出た。酒がだいぶ入ったこともあり、なおさら杉元は尾形の態度が鼻につく。

 

「なんだよお前。俺の怯える姿がそんなにおかしいのか」

 

「ダメだぞ尾形~。いらない喧嘩は売っちゃいけないんだぞ~?ん~?」

 

「話を鵜呑みにするお前の姿が滑稽でなぁ」

 

「尾形ぁ~?」

 

「んだと」

 

その時だった。

パン!パアアン!突如、源次郎のシャツが険悪な空気に耐えかねて悲鳴をあげた。

 

「おあっ…ボタンがぁあ!」

 

源次郎の豊満な胸がさらけだされる。

幸い、いきなり弾け飛んだ谷垣のシャツのボタンは四方に跳ねたが誰にも当たらなかった。一瞬全員の気が「なぜ?」とボタンを見つめることで冷静になる。

 

 

「そりゃ一杯食わされたんだろ、あの詐欺師に」

 

「どういうことだ尾形?」

 

アシリパが尋ねると、目を伏せつつ尾形は酒に手をそえて続けた。

 

「どういうことも何も、あからさまに嘘じゃねぇか。死んだ奴が見える?ハハァ、脅かしたつもりなんだろ。嘘にいとまがなくて結構なことだ」

 

「あのな、あの人は兵役前は祖母の仕事を手伝ってた。つまり、その、霊感ってやつがあってもおかしくないだろ」

 

「その祖母の仕事自体、インチキだったんだろ」

 

尾形は谷垣の方へ一瞥くれると、杉元にあらたまって言う。

 

「お前は知らんだろうが、ヤツは聯隊内で祖母の話を何人かに触れ回っていて、その話を聞いた奴の中には神戸の肥鵯を知っている者がいた。そいつは『肥鵯なんて荒地に人が住んでいるわけない』と言っていたぞ。民家どころか空き家もない。在るといえば、」

 

「あ、あると言えば?」

 

「墓地ぐらい、だとさ」

 

「「「………」」」

 

「墓地で女と夜中に語らう?アホらしい。おおかた、田舎者には分かるまいと盛って話をしたんだろう。ツラツラ嘘が吐けるとは、さすがホラ吹きの血が流れてるだけある」

 

そこまでまくし立ててたところで、ぐいと尾形は酒を喉に流す。「そもそも」と声に苛立ちをにじませて言った。

 

「幽霊に縁がないと言ったのは奴だ、縁がないなら見えるはずない」

 

「おい尾形」

 

とめどなく流れる嫌味をそのままに尾形の酒は進みつづけていた、アシリパが止めるまでは。

 

「……」

 

「お前タカハシと何かあったのか?」

 

手を止めた尾形を、他三人はじっと見つめていた。アシリパが言った。

 

「やけにタカハシに厳しい。お前、何かあっただろう」

 

「……いいや?なにもない」

 

ただ、と付け足して尾形はまた、ぐいと酒をあおいだ。

 

「虫唾が走るほど嫌いなだけさ」

 

笑みを浮かべる彼に誰もなにも物を言えず、「それは見ればわかる」と心で呟くのみであった。

 

 



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5

【誤字訂正】(修正前)6尺→6寸
※ご指摘ありがとうございます、助かりました。


【第七師団:小樽の兵舎】

 

「ここの師団には慣れてきたか、高橋上等兵」

 

横目にそう問われた男は、猫背をいっそう深く丸めるように頷いて敬礼をした。

 

「はい。鶴見中尉の御配慮と御厚意により実りある生活を送っております。身に余る光栄で、なんと感謝を申せばよいやら」

 

「そこまで賢まらなくていい。それに背も丸めすぎだと毎回言っているだろう。もっと己に自信を持ち、胸を張りなさい」

 

 

男は若干丈の足りていない軍服の端を少し握った。緊張するのも当たり前で、今日わざわざ小樽での鶴見中尉の将校部屋へ呼び出されたのだ。男は失礼のないよう細心の注意を払いつつ、ゆっくり背を伸ばして、敬礼の手に力を込めた。

 

「………やはり大きな。いくつだったかな?」

 

「はい、六寸(189cm)程です」

 

「それは頼りになる。私の見込んだ通りだ。これからまた大きい戦がある、期待しているぞ高橋上等兵」

 

「はい、精進いたします」

 

微笑む中尉の顔を男は複雑な面持ちで見下ろしていた。「それで本題だが……」中尉が言いかけ、男から窓の外に目を移した、その時だった

コンコンッ、ノック音が響き鶴見中尉の首が風を切ってそちらへ向く。

 

「いいところに来たようだ」

 

ドア越しに何か見えるのか、目を見開いたままニヤける中尉。高橋はまだ状況が飲み込めず、敬礼をする手に変な力が入る。

 

「月島であります。入ってよろしいでしょうか」

 

「入りなさい」

 

中尉の言葉を受け、月島がきびきびと無駄ない動きで鶴見中尉の前へ来る。その際、目は合わせないものの高橋の方を横目で見ていた。

 

「二階堂の様子はどうかね月島軍曹」

 

「はい、有坂閣下からいただいた義足に終始手間取っていましたが、最近は慣れてきているようで、動きに目立った異常はありません。例の油問屋への突入作戦も問題ないかと」

 

「よしよーし。やはり二階堂の恐れ知らずの特攻無くてして、この作戦の成功は見込めん。二階堂には一刻も早く戦力として復帰して貰わねば」

 

何度も大きく頷く中尉だったが、穏やかに言葉を言い切ったところでピタリと口を閉じた。

 

「ところで、まだ病院の紛失物が絶えないようだが?」

 

「はい、モルヒネが少々」

 

緊張の糸が張り詰める、より低い声でその言葉は交わされた。高橋には分かっていた、それが全て自分に聞かされているものだと。

 

「困った。それは困った。モルヒネは貴重な薬品だ。そのように度々盗まれるようでは他の兵に回す分がなくなってしまう。非常にまずい、そうは思わんか高橋上等兵」

 

 

「……………はい」

 

やはり来た、と振られる事を覚悟してはいたものの、中尉の眼光に冷や汗がにじみ出る。身長こそ高橋の方が圧倒的に勝っているものの、その重圧は頭上から大きくのしかかるようだった。

 

 

「高橋上等兵は、脱走後の二階堂に会ったことがあったかな?」

 

「いいえ」

 

「会ってみるといい、彼もお前に合えば少しは正気に戻るだろう」

 

「それは、」

 

言葉が続くのを遮るように、中尉は高橋との間合いを詰める。

 

「お前への怒りでなぁ」

 

「…………」

 

中尉の瞳がすぐ目の前まで迫っていた。

 

「もう一度あの日の質問をしよう。お前はあの日、尾形と二階堂が脱走する現場を発見した時、何か言葉を交わしたか?」

 

「いいえ」

 

「本当か?一言も?一緒に脱走しようとも言われなかったのか?」

 

「いいえ、俺の存在に気づいた尾形上等兵が威嚇射撃をしてきたため、そのような余裕はありませんでした」

 

「そういえばそうだったな。何度も聞いてすまなかった。お前が偽りなど言うはずがなかったな。むしろその誠実さと剣の腕を見込んで、上官へ昇格させたのだから。疑うまでもなかった」

 

「………昇格の件は身に余る光栄と思っております」

 

「それならもっと胸を張りなさい」

 

 

トンと中尉が朗らかに高橋の背を叩く。そして見上げた笑顔を一瞬沈めて言った。

 

 

「そのほうがブチ抜きやすい」

 

高橋は自分の頭からつま先まで冷え切るのを感じた。中尉の笑顔はすぐに戻っていた。しかし凍てついた部屋の空気はそのままであり、中尉がスッと息を吐こうが緩むことはなかった。

 

「なんちゃって、冗談だ高橋上等兵。驚いたか」

 

「冗談ですか」

 

「そうだ。軍事連絡と戦意の鼓舞を兼ねた高等な洒落だ。参考にしなさい」

 

「分かりました参考に致します」

 

「鶴見中尉、あまり高橋で遊ばないでください。ただでさえ高橋は冗談が下手であると評判なのですから」

 

苦い顔で月島が口を挟むと、中尉は驚いたように目を見開いた。

 

「なに!それは本当か高橋上等兵!」

 

「はい」

 

恥ずかしながら、と小さい声で付け足し、高橋の目の色が沈んだ。責め立てるように一層大きい声で

 

「なぜお前は面白くないんだ」

 

「分かりません」

 

「迷宮入りということかね高橋上等兵」

 

「その通りです」

 

「それはいかん!!月島軍曹、何か面白いことをしなさい」

 

「………………………………」

 

 

月島は自分の目の光が消えていくのがわかった。なぜ俺なんだ、という思いと、これは命令だ、という言葉がせめぎ合う。かろうじて平静を装い、月島は言った。

 

「………面白いこと、ですか?」

 

「そうだ。高橋上等兵の手本になり、一刻も早く彼の不名誉な評価が覆るよう、手を貸しなさい」

 

「そういうことでしたら、兵士共に礼儀を正すよう指導をする方が確実かと思います」

 

「違う違う!それでは根本的に解決せんだろう!それでは一生高橋上等兵は口下手のままだ。貴様は高橋上等兵が恥の上塗りを繰り返しても平気なのか!」

 

「申し訳ありません」

 

なぜ謝っているのか、考えては負けだと心が訴えている。

 

「しかし、恐れながら私も面白いと自負しているわけではありません。他人を指導するほどの技量があるかどうかも分かりませんし、第一私を面白いと評した者は今までおりませ…」

 

「月島は面白い」

 

「いえ面白くありません」

 

「一発芸なんかが得意だったかな?」

 

「え?いえ……全然まったく面白くありませんし、一発芸などもやったこともありませんが」

 

「ならば死ぬ気になってやりなさい、今すぐ」

 

月島はとっさに高橋の姿を仰ぎ見た。コクリと頷く高橋。その目は純粋に輝いているようにも見えた。期待と重圧が月島の逃げ道を塞ぐ。先ほどから月島の冷や汗は、尋常じゃないほど吹き出していた。

 

「………僭越ながら、ひとつ芸をやらせていただきます」

 

「楽しみだなぁ。なぁ高橋上等兵」

 

「はい」

 

期待の眼差しを向けられる中、月島は意を決した面持ちで空を見た。

 

「では…」

 

○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

 

午後6時前、休憩時間といえど上等兵には週番、日番という当番の仕事や他の雑務が溢れているため、ほとんどあってないようなものだ。

内務班の監督もほどほどに、俺は呼び出された場所に急いで向かった。指定の6時まで間に合いそうではあるが、鶴見中尉の呼び出しのため気は緩まない。それに、今から会うであろう男を思うと胃が締めつけられるようだった。

 

「………」

 

呼び出しをうけたのは、病院の医務室に隣接する休養室だ。

廊下の突き当たりにあるそこは、階段を上がって廊下に出れば入り口はすぐ確認できる。俺が階段を上がれば、入り口には誰か立っているらしい事が分かった。背格好から月島軍曹だろうと察し、駆け足で向かえば、振り向いた男はやはり月島軍曹であった。

 

「昨日の今日で呼び出して悪かったな高橋上等兵」

 

「いえ、休憩時間といえど恥ずかしながら俺には時間を潰す友も少ないですから」

 

「そう暗いことを言うな。それより、また背が曲がっているぞ高橋。正せと言われただろう。もうすぐ鶴見中尉がお見えになる。服装の乱れも正しておけ」

 

「は、はい」

 

ぎこちなく背を伸ばし、窮屈な軍服の襟を整える。そうしていると、休養室のドアから視線を感じた。

 

「ああ……………」

 

 

三島がドア越しに、ドアの窓から俺を見ていた。最近やたら視線を感じると思ったら、だいたいが三島で、またお前かとうんざりする。

 

 

「どうかしたか?」

 

「いいえ。それより、服装はこれで問題ないでしょうか」

 

「ああ」

 

「ではひとつ一発芸も確認していただけますか、軍曹殿。先ほど考えたばかりの物が…」

 

「いやいい」

 

即答する月島軍曹に俺は深く頭を下げた。

 

「どうしても見てほしいのです、お願いします爆笑王」

 

「だめだ、あと変な異名をつけるな。俺に笑いは分からん。確認したいのなら他を当たってくれ」

 

「そうだぞ高橋上等兵」

 

そう言いつつ颯爽と現れたのは、コートに身を纏った鶴見中尉だった。俺は敬礼をし、姿勢を正す。

 

「高橋、貴様は昨日の月島を見ても、まだ爆笑王と呼ぶのか?ん?」

 

「はっ、昨日の軍曹殿は俺には到底できない爆笑をかっさらっていきました」

 

「笑っていなかったようだが?」

 

「俺の口角は意に反して上がりにくいのです。実はあの時、内心笑い死にしそうな状態でありました」

 

「それならよかった!なぁ月島」

 

「………………………………はい」

 

俺は月島軍曹のあの一発芸を思い出していた。あれは誰にも真似できない偉業であった。

 

「一応手記に残しておるのですが、」

 

懐に忍ばせておいた物書きを取り出して、見せながらそう言えば、月島軍曹は顔色を悪くして言った。

 

「………手記に?」

 

「ええ。また詳しくあの芸のやり方をお教え願えますでしょうか月島軍曹殿。できることなら、あの妙義、己の芸に還元したいのです」

 

「還元しなくてよろしい、忘れなさい」

 

「忘れられません。せっかく面白かったのに」

 

「俺は面白くない」

 

「月島軍曹ほど面白い人は他にいません」

 

「怒るぞ」

 

「なぜですか」

 

目を丸くする私に、中尉殿が言う。

 

「月島、高橋、世間話もここら辺にしなさい。あまり騒ぐと病人にさわる。軍医の先生も中でお待ちだ」

 

「はい」

 

 

穏やかな笑みで中尉殿は頷いた。いよいよアイツと会うことになるのか。いっそう気が重くなり、目を伏せる。中尉殿と目があった。

 

「怖いか?高橋上等兵」

 

「………」

 

何も答えられずにいると、間を作ることなく中尉は俺に詰め寄る。

 

 

「お前があの日脱走する二階堂を止めておけば、奴はこんな重傷で帰ってくることはなかった。三島に到っては尾形を追わせたことにより、亡くなったのだ。どうして三島は死なねばならん。考えてみなさい、お前があの日脱走をうまく引き止めていればどうであったか」

 

「申し訳ありませんでした」

 

「二階堂は左の頭の皮、両耳、右足が無い。三島は運ばれてすぐ二階堂の隣のベッドで亡くなったそうだ。この病院の医務室で。これから入るのが楽しみだな高橋上等兵」

 

「はい」

 

「よ〜し、よ〜しいい返事だ。まるで嫌味が分かっとらんな貴様。では入るとしよう」

 

 

俺は中尉の姿を見下ろして、じっと黙った。後ろには、亡くなった三島がまだ未練がましく俺を見る。かわいそうに、三島は俺のせいで死んだのだ。俺は三島の姿を横目にいれて、また医務室の扉に向き直った。開かれた扉、その先へと中尉と軍曹の後ろに続いて入っていった。

 

 



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6

【杉元の回想】

 

 

「一発芸をやるよ杉元」

 

奉天からの帰り道の船、艦内ではほとんどの者が昨日の呑み過ぎで意気消沈する中、高橋が平然とした様子で声をかけてきた。

 

 

「ちょ……せっかく休憩時間なんだから、面倒なことやめてぇ?」

 

「面倒とは失礼だな。俺が寝ずに考えた芸だぞ、今聞かずしていつ聞くんだ貴様」

 

「いつまでも聞きたくないよ…やだよ絶対面白くないもん」

 

「聞いてもないのに決めつけるな、面白いかもしれないだろ」

 

「やだぁ」

 

「仕方ない、じゃあこうしよう。芸ではなく話のネタをやろう。応用がきくだろう」

 

「いらないってばぁ。何、なんで自信満々なの?嫌な予感しかしない」

 

「聞け。あのな、昨日お前が眠ったあと、」

 

「やだっつってんじゃん、ねぇ!?そういう強引なのだめなんだよぉ!?だめなんだよぉ!?」

 

「お前が眠ったあと、俺は何も喋らない三輪と山田があまりにつまらないので、2人に断って席を外したんだ」

 

「この時点で笑えないよ……?」

 

「俺は厠に行くフリをして、廊下の窓を眺めていた。すると窓に二つの白い点が並んでいてな。俺はそれが何故かすごく気になった。汚れか?とよくよく目を凝らして見てみると、だんだんその汚れが楕円になっていく。それで、じっとしばらくして見ていると、ふと気がついた」

 

「な、何に?」

 

○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

 

【杉元一派:釧路海沿いの道中】

 

 

「『汚れじゃなくて目玉だったんだ、それ』って」

 

杉元が沈んだ顔色で言うと、アシリパと白石は身を寄せ合って息を飲んだ。白石が震える声で言う。

 

「そ、それでぇ?」

 

「それで、あの人平然と続けたんだ。『女が窓の向こうから俺を見ていて、その瞳だけが白く浮かび上がって見えてたんだ』と。」

 

「ずっと見つめ合ってたという事か?」

 

「そうなんだよ。でさぁ、それから『俺はそれに気づいて、急に恥ずかしくなってな。名も知らない婦人を無遠慮に見てしまったから、とっさにこう口走ってしまった』」

 

「な、なんと言ったんだ」

 

「高橋のやつ、無表情で…顔真っ赤にしながら…『あなたがあまりにお綺麗なもので、見惚れてしまいました。よければ一緒に寝ませんか』って」

 

「ん?」

 

予期せぬ話の展開に、白石もアシリパも固まった。この状態で?いきなり?と一気に言ってやりたい言葉が浮かんでいく。白石が困惑気味に杉元に聞いた。

 

「ちよっ………え、まって、え〜……、これどういう話?」

 

杉元は答えず話を進める。

 

「高橋がそう言うと、その女、次の瞬間消えたんだって。で、そこまで話すとあの人すごい自信満々に『どうだ、これは笑えるだろ』って」

 

「あ……うん?」

 

話について行けず、置いてけぼりになった白石とアシリパが真顔で黙り込んだ。なんとか話を飲み込もうとはするが、考えても考えても疑問が尽きない。

 

「いやもぉ、笑えばいいのか泣けばいいのか……」

 

「怖い話なのか?」

 

「一応船にある窓は外側についてる窓しかない。外から誰かが覗けるはずないし………船内に居たとしても、看護婦さんは別移動だから実質船には男しかいないはずだ」

 

「じゃ、じゃあ洒落にならない話じゃんソレ」

 

「確かに面白くないな」

 

「なんだよ〜こんな出先に怖い話すんなよぉ!」

 

そんなチカパシの嘆きに、聞いていただけの谷垣も頷く。

 

「網走への旅路のげん担ぎにと、面白い話を頼んだはずだが?」

 

「面白いと言えば昨日の高橋が浮かんで。白石も興味ありそうだっただろ」

 

「そういう話だと思わないじゃん」

 

口を尖らせる白石は、昨日の宴で高橋の話が話題になったとアシリパから聞いて、最初「俺にも教えろ」とせがんでいた。「本当に笑えないぞ」とアシリパと杉元を始め4人から忠告されたにも関わらず、教えろと言ったのだ。

聞いたあとで杉元が責められるいわれはどこにもなかった。

 

「変なヤツだな、高橋って男。とんでもない変態じゃん」

 

「変態はお前だよ。むしろあの人は常識のある人だったぞ。ちょっとズレてるけど」

 

隣で杉元が言う。それに谷垣も「その通りだ」と付け足した。

 

「俺が見た限り、アイツは面白くないのと空気が読めない事以外は普通だった」

 

海が近くなり、潮風が肩をすり抜ける。肌寒さが残る中、一行は気持ちも新たに、網走へのっぺら坊と会うべく向かっていた。これらはその道中の、ほんの世間話にすぎなかったはずだった。

 

「にしたって、その人死んだ人見ちゃっても幽霊だと気づいてないって事だろ?んじゃあーよっぽど鈍感の間抜けか、キチガイに違いねぇよぉ」

 

「いや高橋は死んだ人だと分かってる」

 

「どぉゆこと?」

 

昨日の宴で話した杉元の話も、谷垣と杉元が簡単にだが説明する。

 

「つまり死んだ人だと分かってるのに、生きてる人みたいに扱うってこと?」

 

「整理すると、そういうことらしい」

 

谷垣が言うと、白石は自分の肩を抱いて叫んだ。

 

「へ、変態っ!それ紛うこと無き変態じゃねぇか!なんだその無茶苦茶な思考!」

 

「そうなんだよなぁ。しかもその話をネタにするからさぁ」

 

「こわぁ………」

 

「だよねぇ、こわいよねぇ」

 

「お二人、そんなに怯える事はありませんよ。その方のお話、偽りが混ざっています」

 

肩を寄せて震える杉元と白石に、谷垣の大きな影から顔を出したインカラマッがそう言った。

 

「先程から聞いていましたが、タカハシという男は『死者と交流できる』という嘘を言っているのです」

 

「どうしてそう思うんだ?」

 

アシリパが心なしか声を低くして尋ねた。あっけらかんと言ったインカラマッは、変わらず笑みを浮かべて穏やかに答える。

 

「タカハシという男は、私達アイヌでいう霊(アイヌ・トゥカプ)と同義である『幽霊』が見たことがないと最初に自分からおっしゃった。これは事実なのでしょう。その証拠に、祖母から家業の『幽霊と喋る仕事』を継ぐ事はなかった。もし継いでいたら、出兵なんてできませんから」

 

「た、確かに!!」

 

白石が思わず同意すると、インカラマッはいよいよ真剣な面持ちで続けた。

 

「これは私の推測にすぎませんが、タカハシという男は周りに自分はシャーマン的な力がある事と示すことで、威厳を保とうとしたのではありませんか?失礼ですが、その男は仲間内での軽口が苦手だったようにうかがえました。扱いにくい存在に思われていたとしても不思議じゃありません、その際劣勢になった男は自分の保身として『シャーマンの神聖な血が自分にも流れている』と周りに思いこませるべく……」

 

「もういいインカラマッ」

 

どんどん広がっていく高橋の仮説を止めたのは、すぐ隣にいた谷垣だった。険しい顔でインカラマッに言う。

 

「アイツは口数が少ない分、大切なことしか喋らなかった。それに剣術に長けていたから、不思議な奴だと思われても、疎まれたり邪険に扱われる事もない。憧れる者もいたくらいだし、俺も奴の真面目さには目を見張る事があった。お前が考えるほど姑息で素っ頓狂な野郎じゃない」

 

「すみません谷垣ニシパ。タカハシニシパはあなたのご友人であったのですね、そうとは知らず私、本当に失礼な事を言いました」

 

頭をさげる彼女に、谷垣はすぐかぶりを振った。そうじゃない。と下げる頭をあげさせて言った。

 

「……いいんだ謝らなくて。悪気があったわけじゃないんだろう。それに序盤の話は的を得ていると俺は思う」

 

「フフ優しいですね、許してくださるんですか谷垣ニシパ」

 

「そもそも俺は怒っていない。あまり気にしなくていい」

 

「ありがとうございます谷垣ニシパ」

 

インカラマッがそう朗らかに笑うと谷垣は同じ表情で軽く頷いた。すると、じっと話を聞いていたアシリパが杉元の隣から顔をのぞかせる。

 

「しかし谷垣、私もタカハシが言っていることには半信半疑だ。いくら誠実な奴であっだと言っても、言い分があまりにチグハグだ」

 

「アシリパがそういうのも無理はない。俺も、そういう『死者が見える』といった類の話を、高橋としていなかったから詳しく聞いていなくてな」

 

「えっそうなの?俺めちゃくちゃそういう話されたんだけど」

 

驚く杉元を見て、白石が思いついたように言う。

 

 

「ひょっとして高橋って奴は、取り憑かれてたんじゃねぇの」

 

「とり憑かれた?お前高橋が死んだ奴に言わされてたって言いたいのか?」

 

「幽霊なら幽霊見えてもおかしくねぇよ。それにほら、杉元と喋った時って奉天のあとだって言ってたろ。つまり仏さんになったヤツがうようよしてたから、可能性はあるぜ」

 

表面的にまともに聞こえるので、杉元も白石の言い分に少々納得している。だがその隣でアシリパはピシャリと言ってのけた。

 

「それはない白石。死者がこの世の人間に入り込むのは、女じゃないとダメなんだ。私達アイヌは人は死ぬと神と同じ世界に行くと考えている。神聖な存在は普通男にしか寄り付かないが、死んで神と同等になった者に限り女に宿って会話する事が出来る。」

 

「宿るってことは、口寄せの術みたいなことかい?」

 

そう尋ねた杉元に、アシリパは少し考えてから顎を引く。

 

「口寄せが何かわからないが、死者がこの世の人間の体を借りるという意味なら同じことだ。とにかく、タカハシは男だから霊が宿ることはできない」

 

「アイヌの話に限らず、秋田に伝わる霊を体に宿すという術師も女しかいない。やはり霊に取り憑かれて、まともにいられるのは女でないといけないのかもしれない」

 

「そっかぁ、じゃあもう謎が深まっただけじゃん」

 

「でもあの人は確かに見えてる前提で、幽霊の話をしていた。嘘じゃなく、死者と生者の区別がまるでない、みたいな」

 

「でも杉元に『幽霊は信じてない』って言ったんだろー?」

 

「言った。あの人は確かに言った」

 

「もぉ分かんねえ〜〜!どぉいうことお?」

 

頭を抱えて叫ぶ白石同様、ほとんどの者が腕を組んで悩み、うんうんとうなる。道の真ん中を、涼しい風がまた通り抜けていく。しばらくの沈黙のあと、

 

 

「もしかして、」

 

 

チカパシがそう口をつくと、とたんに他の者の視線が集まる。チカパシは谷垣の方へ顔を向けて言った。

 

 

「その人『幽霊』のことおばけの仲間だと思ったんじゃない?だってオレ、『死んだ姿のままの人』のこと『死んだ人』って呼ぶけど『幽霊』って呼んだこと無いもん!」

 

「それは要するにどういうことだ?」

 

「えーーっと……うーーんっと……」

 

「チカパシは、言葉のとらえ方を言っているのでしょう。いわゆる典型的な…不気味な姿の死者を『幽霊』と皆さん呼ばれますが、『死者』は死んだ人の総称です。化け物の意は含みません」

 

「つまりどぉいうこと?」

 

白石が首をかしげる。インカラマッもこれ以上砕けた言い方が浮かばず、言いよどんでしまった。話を聞くほとんどが、やはり煮え切らない気分で考えこむ。その時1人だけ杉元が「あ」と口を開く、と同時にびゅうっと大きな風が一行にぶつかった。

 

「あ!海だ〜〜〜〜!!!!」

 

「コラ!走ると危ないぞチカパシ!」

 

爽快な景色が一行の前に現れ、思わず駆け出したチカパシを谷垣、インカラマッの順から後を追う。ただ杉元だけは、後を追うこと無く考え込んでいた。

 

○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

 

【杉元の回想】

 

長い船旅の後、俺たちは民家を数名に分かれて借り、一晩を越すことになった。

ちょうど俺は高橋と一緒になって、さっき思い出したのはその時の会話だ。

 

 

「これ、幽霊画か?」

 

仏間に掛かっていた掛軸を見かけて、俺は高橋に尋ねた。

 

「どうもそうらしい」

 

「おっかないねぇ」

 

「安心しろ。これは絵だ」

 

「見りゃ分かるよ」

 

俺をなだめようとしてか、または真面目に指摘したつもりなのか、高橋は眉ひとつ動かさずそう言っていた。そして、この後何か引っかかりのあることを言っていたのだ。

 

「杉元考えてみろ。この絵にかいている『幽霊』、実在するわけがないだろ。死後、わざわざ死装束に着替えた女なんか居るわけない」

 

「死人がみんな『死装束の女』な訳ねぇだろ」

 

「そりゃそうだ。だから幽霊はいない。そもそも俺はこんな格好した者見たことない」

 

「うん?」

 

「………しかしこの絵の女はえらく別嬪だな。生きていたら嫁に欲しい」

 

○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

 

【杉元一派:釧路海沿いの道中】

 

こんな格好、つまり典型的な『幽霊』の格好をしている者は見たことない、というだけで、死者自体は見たことあるという意味にも考えられる。

もしそういうことなら、高橋にとって『幽霊』とはいわゆる、『死装束を着た女』のことだけ指す。結果的に死者は見えていたわけだ。

 

という風に、考えがまとまりかけたかけた時、尾形の肩がすれ違う寸前でピタと止まった。

 

 

「なんだよ」

 

「………ヤツが嘘をついているとは言ったが、言い分に信憑性は高い」

 

「根拠は」

 

「ヤツのばあさん、『幽霊と話す仕事』と濁していたが、実際は『幽霊を宿して話す仕事』だったらしいのさ」

 

「おい、それって……」

 

「『イタコ』の類だと」

 

ごくりと杉元は固唾を呑む。その様子に小さく尾形は喉を鳴らしていた。

 

「なんでお前がそんなこと知ってるんだよ」

 

「さァ、なんでかねぇ?」

 

尾形は前髪を後ろへ撫で付け、睨む杉元をそのままに、砂浜へ向かっていった。

 



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7

【第七師団:小樽】

 

病院の医務室に入ると、すぐハエの音が耳を横切る。姿はないが、確かに数匹の羽音がまとわりつくのだ。

 

「中尉殿、申し訳ありませんが二階堂が先程からこの状態で……」

 

「いいんですよ医師殿。それとすまないが、医師殿はしばらく席を外していただけるかな?」

 

医者は中尉の申し出に了承すると、静かにその場を去った。それを見届け、中尉は数個並ぶ内のひとつのベッドに歩み寄る。

 

「調子はどうだ二階堂。右足は痛むか?」

 

「…………」

 

饅頭のような布団がポツンとベッドに乗っており、おそらく二階堂がその中にくるまっているのだろうと分かった。

そして、その右隣のベッドで三島は息絶えたらしい。三島が無言でそこを指している。

 

「………顔を出しなさい二階堂」

 

中尉が語りかけるが、二階堂は饅頭になったまま口をきかない。痺れを切らした様子で、「二階堂いい加減にしろ」と軍曹が叱るが、中尉がそれを制して、もう一度顔を近づけて言った。

 

「どうしたんだ二階堂ぉ?チッチッチ、お前が好きなモルヒネも持ってきたぞ?出ておいで出ておいで」

 

「中尉、二階堂は先ほどモルヒネを吸ったばかりでお腹いっぱいです」

 

「んもぉ!それならそうと早く言え!」

 

モルヒネをさっさとしまい、中尉が貼り付けた笑みを消して囁いた。

 

「二階堂、お前が杉元を殺したい気持ちはよぉ〜く分かる。我々もお前に杉元を巡り合わせてやりたいが、いかんせん金塊の件で手一杯でなぁ」

 

 

杉元、という名前にほんの一瞬「誰だろう」と思ったが、すぐに懐かしい顔が頭に浮かぶ。会戦の帰り以来顔を合わせることは無かったが、あの男とは妙に馬があったのでよく覚えている。

それにしても、なぜ二階堂は杉元を恨んでいるんだろうか。

 

 

「今度もまた金塊にありつく刺青人皮を狩るため、ある賭博場に向かわねばならん。相手は仁義も義理もない囚人だ。手が足りん。お前の力が必要なんだ」

 

「…………」

 

「次の件が解決しさえすれば、早いうちに杉元に会えるぞ」

 

「ほんとぉ!!?」

 

 

いっそう低く囁かれた中尉の言葉に、二階堂が無邪気な声で顔を出した。

その瞬間に俺の毛穴から鳥肌が立つ。変わり果てた二階堂の顔にもはや何も言葉が出ない。

 

「………!」

 

あまりに凝視していたからか、二階堂が俺の存在に気付いた途端、また布団の中へ頭を引っ込めた。

 

「おや、なぜ隠れるのだ二階堂。せっかく高橋が見舞いに来たというのに」

 

中尉が布団に呼びかけども、布団はなんの反応もない。

 

「よもや、この顔忘れたわけではあるまい。お前を売ったことで上等兵になった男だろう。もっとよく近くで顔を見たくないかぁ?」

 

中尉はさらに猫なで声で語りかけ続けた。月島が「二階堂っ」と厳しくたしなめるが、その声にも布団は動かなかった。いよいよ俺も何か言うべきか、と掛ける言葉を探す。だが口を開きかけたところで、中尉が「まぁいい」と区切りをつけたので、何も言えなかった。それどころか、それに続いた中尉の言葉に開いた口がそのまま塞がらなくなった。

 

「まぁいい二階堂。どうせ今日から嫌という程顔を合わせることになる。なんせ毎日会えるのだからな」

 

「………」

 

どういうことなんだろう、と頭を働かせる。その前に月島軍曹が俺に付け足すように言った。

 

「お前は今日から臨時使役として、二階堂の生活介助および病院の医務室周辺の不寝番を行ってもらう」

 

眉ひとつ動かさない様子で突飛もない事をおっしゃったので、俺はとっさにポンと手のひらに拳を打った。

 

「なるほど素晴らしい洒落ですね爆笑王」

 

「月島だ、高橋上等兵」

 

「冗談です軍曹」

 

「高橋〜…お前は本当に面白くない男だ。真面目に言っているのか、ふざけているのかまったく検討がつかん」

 

「すみません」

 

茶化したつもりはなく、純粋に洒落が通じるか俺を試しているのだと思ったのだが違ったようだ。なんせ不寝番という見回り役を始め介助の仕事は本来看護婦の仕事。兵士がわざわざ行うものではなかった。

しかしここは大人しく中尉に頭を下げて詫びる。爆笑王もとい月島軍曹が同じ調子で言った。

 

「詳しいことはお医者様を交え、後ほど説明する」

 

「分かりました。ただ、今週は週番があたっておりますので、その説明は点呼を終えてからでもよろしいでしょうか」

 

時計を見るとまだ6時だが、残っている週番の仕事があるため、それも片付けておかなくてはならない。ついでに内務班で就寝前の点呼をとるのも週番の私の役目だ。どんなに早くても雑務は30分はかかる。説明を聞いていたら点呼に間に合わないだろう。

と、そういう時間の勘定をしていれば、月島軍曹はかぶりを振った。

 

「臨時使役が優先だ。今日の就寝前の点呼は他の者に代わってもらうよう俺から言っておく。明日以降も高橋の番は飛ばして回すように指示しておくから、気にしなくていい。お前は臨時使役に専念しなさい」

 

「分かりました」

 

それならなんの問題もない、と納得する。するとその様子を見ていた中尉が言った。

 

「ほお………ずいぶん聞き分けがいいじゃないか。不寝番を一人でやる自信がよっぽどあるようだな?」

 

「はい。幼い頃から眠りが浅いもので、寝ずの番でもほとんど疲れを感じないのです」

 

中尉の問いに正直に答える。親元から離れ祖母と暮らすようになってから今に至るまで、夜にぐっすり眠りにつくことは二週間に一回ほどだった。ほとんどが、目が覚めた状態で寝具に縫い付けられたように身動きがとれなくなる。原因は不明だ。他にも、見ず知らずの兵が話しかけて来たり、頭がやけに重くなった。こちらも原因が分かっておらず、止むまでやり過ごすしかない。

 

「では当面は頼んだぞ高橋上等兵。くれぐれも薬品の紛失が起こらぬよう、一晩中役目を果たしなさい」

 

「はっ、精進致します」

 

苦ではないが、気を引き締めて中尉に応える。だが俺がそう答えた後、一瞬水を打ったような静けさが部屋を包み、次にフッと空気の抜ける音が響いた。音のでどころは鶴見中尉だ。

 

 

「……フハハッ。一晩中は冗談だ。お前があまりに面白くないからイジワルしちゃったんだ。怒ったか?」

 

「いいえ。むしろ冗談の新しい使い方を学びました。ありがとうございます中尉」

 

「ふー、本当にからかいがいの無いヤツだ高橋。次に会うまでに洒落の五つや六つ考えておきなさい」

 

「分かりました」

 

まったくもぉ、と呟き中尉はまた、フルフル首を振りながらその場を去っていった。てっきり後に続いて月島軍曹も出ていかれるのかと思ったが、軍曹はその場でじっと俺の顔を見てらっしゃった。

 

「……軍曹殿、少しでいいので持ちネタを分けていただけないでしょうか」

 

「お前は俺の事をまだ誤解しているようだな」

 

「では、臨時使役の勤務について詳しく聞かせてください。二階堂の介助が主になるのでしょう?」

 

「……………頼まれんでも、そのつもりだ。待っていろ。お医者様を呼んでくる」

 

「ありがとございます」

 

「……………」

 

月島軍曹は目を伏せた後、また俺の顔に一瞥くれてから部屋を出た。

何か言いたげだったが、結局何も仰らなかった。

 



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8

【杉元の回想】

 

会戦の帰り、兵士は民間に提供された家に泊まった。2〜3人にそれぞれ分かれ、指定された各家に向かう。俺は人数の調整から、余り者と組むことになって、その余り者が高橋だった。

 

「また会ったな、杉元」

 

「妙に縁があるな俺たち」

 

「お前とは酒が長く呑めるから楽しみだ」

 

「呑めるとは限らないだろ」

 

顔に変化がない割によく喋るのは相変わらずで、自然と俺が聞き役に回る。しかし、夜も更けてくるとだんだん人のなりが分かってきて、酒が入る頃にはお互いがくだらない話を振り合っていた。

 

 

「はあ〜〜食った食った」

 

「ほら見ろ杉元。これは自室で呑んでいいとまた渡された」

 

「アンタ、酒本当に好きだな。言っとくけど俺強くないから。ちびちび飲むから遅いだけで、同じにするなよ」

 

「分かった分かった、お前はもう呑まんというわけだな」

 

「そういう事は言ってないじゃん」

 

「どっちなんだ結局」

 

「のむぅ!」

 

「よしよしいい返事だ」

 

そう穏やかに返事をしたあの人は、一瞬笑っているように見えたが、確かめようにもあの人はすぐ晩酌の準備をしようと顔を背けてしまった。

奇妙なことに、あの人は猪口をわざわざ並べて縁側に置き、瓶から丁寧に同じ量で入るようこだわっていた。

 

「酒に月が映っているだろう杉元。見てみろ」

 

「たしかに二つとも綺麗に映ってるね。粋なことするなぁ高橋」

 

「こうやって酒に浮かべた月を飲むと、体が丈夫になり、寿命が伸びるらしい。昔祖母と訪れたある村で、教えてもらった。俺はよく大事なことをする日や何かやり遂げた日にこの飲み方をする」

 

「そりゃ縁起がいい。ここまで生き残って、嫌ってほど自分の体の丈夫さを痛感してるが、まだまだ油断してられないからなぁ」

 

「月には人間の気を自然に還す力がある、という言い伝えがその村にもあった。霊気を養い、気の巡りを整える。だから飲めば飲むほど、運も良くなるという。ツキだけにな」

 

「……………………」

 

「……………」

 

「………………」

 

「運も良くなるという、ツキだけにな」

 

「はいはい面白い面白い」

 

「目を見て言え杉元。目を」

 

「見てるじゃん」

 

「それは木目だ杉元」

 

本当、致命的に空気読めなくて洒落が下手だ。せっかく見直しかけたのにな。俺は優しいから聞かなかったことにして、注がれた猪口に手を伸ばす。しかし、パシッと手を弾かれて猪口は二つ共高橋によって没収された。「何するんだよっ」と高橋を睨む。

 

「これは俺がいただいてきた酒だ、呑みたければ俺に面白いと言え」

 

「言ったじゃん!言ったじゃん!さっき!」

 

「目を見て言うんだ杉元……目を」

 

「なんでそこまで?必死すぎじゃない?どうしたの?」

 

「早く言うんだ!!」

 

「脅されて言うもんじゃないからね高橋ぃ」

 

それで満足なら別にいいけどさぁ、と付け足して言うと即答で「いやだ」とわずかに眉を寄せた。この人の顔が珍しくはっきり動くことに、少し感動する。

 

「ほんとに言わなきゃだめぇ……?」

 

「遠慮なくどうぞ」

 

高橋はこんなに頑固なヤツだったのか。俺は頬をかきつつ、その子供っぽさに少し頬が緩んだ。

 

「アンタは面白いよ。心配しなくても、俺がそう思っているのは最初っからずっと変わってねぇ。俺はずっと、面白いと思ってたよ」

 

「杉元……」

 

「真面目な顔で堂々と全然面白くない話をするから、回り回って面白いよホント」

 

「おお。そういう『面白さ』もあるのか、そちらで極めてみるのもいいな」

 

「いやもう勘弁してぇ」

 

「ふふ、教えてくれてありがとうな杉元、ほら呑め」

 

「うん」

 

ん?まって今、笑った?確認するが涼しげな顔のままだ。見間違いか?聞き間違いか?

猪口を受け取り、軽く互いの盃を当てる。高橋がそのまま酒を口へ運ぶのを、盗み見るように横目でうかがった。よくよく見た高橋は、心なしか機嫌よく、顔がゆるんでいるように見えなくもない。これも見間違いなんだろうか。

 

「じろじろ見るな」

 

「ア、アンタが呑み過ぎないか心配してんだよ。ほらアンタ酔ったら洒落にならないほど面白くないから」

 

「面白くないと言うが、そもそもお前だって面白い話をしてくれた試しがないじゃないか」

 

「面白い話ぃ?」

 

傾けて酒を口に含む。高橋が「お前はさぞ面白いんだろうな」と煽るのを聞き流す。面白い話をしようと思ってした事がないので、いざ話すとなっても持ち合わせてがなかった。そこでふと思い出したのが、高橋がこの前話した『笑い話』だった。

 

「面白いかどうか分からないけど、惚れた人の話ならある。話そうか?」

 

「聞かせてくれ杉元」

 

高橋が興味深そうにこちらを見ている。俺は久々に梅ちゃんの小さい頃の顔を浮かべていた。

凛としてハツラツとした表情で、彼女が名前を呼ぶ。高橋に話したのはそういう他愛も無い話だった。照れも恥じらいも隠さず話したのは、いつぶりだっただろうか。とにかく色んな梅ちゃんの話をした。そして、話してからこういう話をするのは高橋が初めてだったことに気づいた。

 

「……結局お前達は結ばれなかったという訳か」

 

「こうやって浸れる思い出があるだけでありがてぇよ。それに、梅ちゃんは寅次というヤツと結ばれた。俺より頼りになる男だったよ、寅次は。アイツは本当に良いやつだった、ただ今回の会戦でアイツは…」

 

「なるほど。じゃあ彼が寅次か」

 

高橋が指をさす先には、俺の荷物があった。中には布で包んだ寅次の指が入っている。静かに猪口運ぶ手を止める。

 

 

「……荷物を見たのか。勝手に」

 

「見ていない。なぜ見る必要がある」

 

「なら俺の荷物に寅次の指が入ってると分かったんだ?」

 

「親しい者の形見を持ち帰るのは当たり前だろ」

 

「…………そうだな」

 

あまりにも当たり前の顔をして言うので、俺は酔いも覚めて高橋を睨んでいた。それにもかかわらず、高橋の方は変わらず涼しい顔でいるもんだから、疑うのも馬鹿らしくなる。たしかに荷物見られたところで盗られて困る物はない、金なら懐にある。

その頃、ふと魔がさした。それが失言だと気づいたのは口をついたあとだ。

 

 

「よく考えりゃ、知り合って日が浅かったしな俺たち」

 

「……………」

 

 

縁があると言ったのは俺の方だった。それなのに一度信頼が揺るげばすぐ突き放す、その身勝手さに我ながら呆れた。失言だった。

 

「悪い」

 

「謝るな。間違いない。生き残っただけで信用できるわけじゃないからな。所詮赤の他人だろ」

 

くいと、傾けて高橋は言った。

 

「………たまたま同じ師団で、たまたま特別支援隊に選抜され、たまたま生き残って、たまたま帰りの船で近くに座り、たまたま同じ宿で泊まってるだけだ。信用なんてするもんじゃない」

 

「拗ねてんじゃん……」

 

「拗ねてないぞ」

 

「やだぁ〜面倒臭ぁ…」

 

「……」

 

 

そよ風が吹いて、二人の頬を撫でた。酔いが回ってきた分、風は涼しくて心地いい。虫の鳴く声だけが残る。ついこの間まで死ぬ思いで銃声の中を駆け抜けていたのが、少し遠く感じられた。

そう、あれが悪い夢であってほしいと、どれほど願ったことだろう。寅次はもう、梅ちゃんのそばに戻ることはできない。

俺は言った。

 

「お前、いくつ?」

 

「22だ」

 

「帰ったら満期か……出るのか?」

 

「いや残る、お前は?」

 

聞きながら、高橋はまた酒をあおいだ。自分の身の上を聞かれて、一瞬正直に答えようか迷ったが、さっき高橋が拗ねた事を思い出し、それに免じて答えてやるかと思った。

 

「満期だし、他にやる事があるからな。出て行くよ」

 

「やる事?」

 

めいいっぱい事情を省略して答えた。

 

「金を稼ぐために、すぐ北海道へ?」

 

「そうだ」

 

「……骨は直接渡すんだよな?」

 

「…………」

 

高橋はこちらを見て言った。なかなか率直に聞いてくる。赤の他人と互いに言っておいて、遠慮ない。俺はここまで話したのならと、酒に任せて口を滑らせた。

 

「梅ちゃんは俺の顔を見てなんて言うだろうな。恨み言を言われるかも知れん。それとも会ったところで俺に気づいてくれないかもしれない。なんたって、以前の俺とは違う。もうすっかり人を殺しすぎたんだ。手が血で汚れすぎた」

 

「……会わないつもりなのか?」

 

「正直、分からない。今梅ちゃんに会わせる顔が俺にあるのか」

 

「会わせる為の顔?」

 

「……なあ、お前何人殺したか覚えてるか?」

 

「…………だいたいは」

 

「俺は顔が見えるほど近くで殺した奴は顔だって忘れない。殺した過去は清算できんが、忘れないのが償いなんだ」

 

「……俺たち命令されたんだから、償いも何もない。そう思ってないと死んでただろ」

 

「たしかに殺さなきゃ殺されてる。命あってのものだねだ」

 

「そのおかげで生きてる」

 

「そうだよ、寅次じゃなくて俺が」

 

「…………」

 

最後の言葉は小さく、独り言のようになったが、高橋の耳には聞こえだろう。高橋が無言で戸惑うのを察して、俺は明るく笑った。

 

「不思議だな。こんな話、誰にもした事なかったのに、アンタが初めてだよ」

 

「…………」

 

「なあ高橋、ここまできたのも何かの縁だ。ひとつ頼まれてほしい。俺の未練、代わりに果たしちゃくれねぇか」

 

「寅次の骨を俺が渡せと?」

 

「頼む高橋」

 

「杉元………佐一…」

 

高橋は少し寂しげに微笑んだ。あの高橋に人間らしい表情を見たのはこの時が初めてで、違和感を感じた。

 

「杉元佐一、俺はお前が羨ましかった」

 

「………」

 

「……俺はどこに行っても厄介者だが、お前は違う。気取りのないお前は、誰からも好かれる。おまけに度胸もあって漢気もある。眩しくてしょうがなかったよ。だがな、幸せにできるのは俺だとばかり思ってたんだ」

 

「……高橋?」

 

語調がやや強くなって、高橋らしくなかった。

何か変だ、そう思いつつもしばらく黙って話を聞く。

 

 

「今は……お前も幸せにならなきゃならん。梅がお前を拒もうが拒ままいが、会わねばならん。お前は死ぬために生きるのとは違う。佐一、幸せになるために生きろ。うだうだ、くだらねぇこと言ってんじゃねぇ。さっさと、梅に会ってやってくれ、お前じゃなきゃいけねぇんだ」

 

「……お前っ」

 

熱弁を振るう高橋を見ると、目から滝のように涙が溢れていた。俺が目を丸くしていると、水が絶えるところが見えず、それどころかさらに水量は増していた。飲んだ酒全部目から流れてるんじゃないか。

 

 

「酔いすぎだろ高橋!あれだけ言ったじゃん、もう飲むなよ」

 

「佐一ぃ待て、酒返せぇ。俺ぁはまだ呑める」

 

「いやいや無理だって、顔ぐちゃぐちゃだもんアンタ。自分で何言ってるか分かってんのか?」

 

ついに体が震えて、前のめりに倒れる高橋。なんとか肩を持って支えるが、熱が冷める気配はない。「聞け、きけぇよ、」と呂律の回らない高橋に「うん、うんうん」と相槌する。

 

「聞けよ佐一。必ず梅に伝えろよ。お前が生きている事を。梅の目に光ぃ灯すのはお前だろ。なあ。お前、俺とアイツの光だ。お前も晴れた顔ぉしてくんなきゃ浮かばれねえ」

 

月光に照らされる泣き崩れた横顔、その横が妙にアイツと重なった。あの馴染みのある面影と。

 

「…寅次………?」

 

ゴトン、その問いの答えを聞く前に高橋の手から猪口が落ちる。

 

 

 

「……………杉元、どうした?」

 

「えっ」

 

 

仏教面の高橋が、こちらをのぞきこんでいた。先ほどの乱れようとは変わって、背はピンとしっかりしている。足元が冷たい。俺の猪口が転がって、酒が足先を濡らしていた。

なんと猪口を落としていたのは俺の方だったらしい。

 

「俺、寝てた?」

 

「少しぼうっとしているように見えた。大丈夫か?」

 

「あ、ああ……」

 

寅次に重ねた顔は、もう高橋にない。高橋が落としたと思った酒も、実際は俺が落としていた。現実と記憶の辻褄が合わないが、おおかた酔いが回って、寝ぼけてたんだろう。そういう風に納得して、俺は酒をついだ。

 

「それとさっきの頼み、聞けないからな」

 

「え?」

 

「言っただろさっき。自分で渡すべきだと」

 

「ブフッ!!!!!」

 

やっぱり現実じゃん!寅次みたいな事言ってたんじゃん!夢だけど夢じゃなかった!

 

「汚いぞ杉元」

 

「おまっ、えっ!?泣いてたよね?ね?ねぇ!?」

 

口を拭く俺を、心底蔑んだ目で高橋が見る。

 

「うるさいぞ杉元」

 

「いやだって…」

 

「杉元」

 

名前を呼びかけた高橋は、肩をガシッと持って俺の動きを止めた。もう一度「杉元」とひと息つくと、また真を迫った顔で言った。

 

「世間はいつもうるさいが、大事なのは杉元にとって何が大切なのかだと思う」

 

高橋が眉ひとつ動かさず、鼻だけすすった。なんでお前がまた泣きそうなんだ。

 

「…………高橋、お前さぁ」

 

「なんだ」

 

「……アンタせっかく、すげぇお人好しの良い奴なのに。やっぱすげぇ笑えない」

 

脱力しながら言った。その様子に高橋が目の縁に涙を溜めながら、首を傾けた。

 

 

「笑ったな。今言いながら笑ったな杉元」

 

「はいはい気のせいだろぉ」

 

 

 



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9

【第七師団:小樽の病院】

 

「あれだけ他人に無神経で無関心なヤツ、初めて見ました」

 

 

医者が愚痴をこぼすのを、内心「俺もそう思う」と頷きつつ、その言葉は飲み込んで俺は言った。

こうして夕食の後軍医のところへ訪れたのは、他でもない鶴見中尉殿のお達しがあったからだ。まだ高橋の真意を探っているらしい。

 

「高橋がまた何かやらかしましたか?」

 

「そうですよ!!」

 

吐き捨てた先生が手近な机に帳面を投げた。乱暴に置かれたものを、静かに手に取る。記録されているものを、ひと通り見てみるが頭が痛くなって途中で閉じた。

 

「昨日はまだ割れた窓の数は少なかったようですが」

 

「いつもは4枚だったのが3枚になっただけです!今日も3枚割って、1枚足りないと言いたいところですよ!皿屋敷じゃあるまいし!」

 

パリーーン!

悲痛な叫びの直後、ちょうどタイミングよく破裂音が廊下に響いた。先生がこちらを見る。

 

「…….今日は気前が良いようですね」

 

偏頭痛のする頭を押さえながら、早足で俺は音の鳴った方へ向かった。近づくにつれて、男の言い争う声がはっきり聞こえてくる。

 

「ヤダーッ!ヤダヤダヤダヤダヤダ!ヤーダーッ!!」

 

「大丈夫だ、二階堂。怖くない怖なくない、何にもしないから」

 

「嘘つき!するもん!絶対するもんッ!」

 

医務室の扉の前で取っ組み合いをする男が二人。扉の窓ガラスが割れて散らばったのをそのままに、押し引きを繰り返していた。

 

「何をしているんだ貴様ら」

 

「月島軍曹殿………あっ」

 

俺に気を取られ、返事をした際に二階堂が掴まれていた腕を振りほどいて逃げ出す。医務室の中に入っていき、おそらく布団にこもっただろう。

 

「……なぜ破損が絶えないのか説明してもらおう」

 

「まってください軍曹。昨日は風呂に入れさせることができました。口も二言ぐらいは聞いてくれるようになり、今順調に…」

 

「モルヒネの残量が少ない。以前とあまり変わっていないようだが?」

 

「………改善しています、効果はしばらくすればでてくるはずです」

 

「そのようだな」

 

 

先ほど頭痛を誘った手元の帳面を、もう一度開く。医者が嘆くのも無理はない。期待していなかったが、目を疑うものばかりだった。

 

「窓の破損4件」

 

「散歩と運動を兼ねて連れ出そうとしたのですが、抵抗され、その際に何箇所か銃が暴発し…」

 

「モルヒネが3瓶紛失」

 

「毎晩、俺の目を盗んで二階堂が徘徊しており、後をつけるのですが見失うので、その隙に盗ったと思われます」

 

「風呂ガマの破損」

 

「入浴の際、湯加減が気に入らないと言って暴れました」

 

「廊下が水浸しになったようだが」

 

「火傷をしていたので冷水をかけていたら逃げられました」

 

「他諸々の件にも事情があるのか?」

 

「はい」

 

「ふー…」

 

一旦冷静になろう。こいつは真顔で嘘をつくほど器用な男じゃない。ただ、致命的に対処が間違っているだけだ。鶴見中尉がここまでのことを想定していたかは分からないが、こればっかりは人選を誤ったとしか思えない。

 

「二階堂」

 

布団の近くまで寄り、呼びかけてはみるが動きはない。隣に高橋が来て、その様子を静かに見ていた。だが二階堂に返事をする気がないと分かるや否や、布団を鷲掴みした。

 

「む」

 

「ほら二階堂、軍曹殿がいらっしゃってる……ぞ!」

 

 

ガバ!と大振りに布団をはがし、軽々しく後ろへ投げた。

 

「ピピッ」

 

縮こまって震える二階堂と目が合う。すると二階堂はすぐさま寝台から腹ばいになって降り、俺の足元に隠れた。

 

「二階堂が怯えている。高橋上等兵、やり方を考えろ」

 

「分かりました月島軍曹。二階堂、こっちに来い。縄でくくりつけて連れて行ってやる」

 

「分かってない。お前全然分かってないぞ高橋」

 

片手に縄の束を持ってジリジリ歩み寄るので、二階堂を背にして距離を取る。目が真剣で笑えん。

 

「怖いよおッ!!お風呂行きたくないよおッ!また火傷しちゃうよおッ!!うわあああん!」

 

しがみつく二階堂が、今回ばかりはかわいそうでならない。そして、二階堂の『また』という言葉が引っかかった。

 

「高橋、お前いつもどういう風に二階堂の入浴補助をしているんだ」

 

「はい。義足ごと入れない為、まず義足を取り外した後、二階堂の様子を見ながら風呂場に入ります」

 

うむ、ここまでは問題ない。

 

「湯船に浸かる前に、3分程度顔面を湯に浸し、念入りに湯をかけ続けます。次に垢が落ちやすいよう体を48度の湯で流し続けます。そして」

 

「待て待て待て待て」

 

 

説明を遮られた理由が分からないのか、高橋はパチパチ目を瞬いている。なるほど、それで二階堂がこの有様だったか。

 

「高橋、本来42〜45度が推奨された風呂の温度だ。48度は熱いに決まっている」

 

「患者である二階堂と補助の俺は、入浴が一番最後ですから、入る時には湯が冷めています。ですから、あらかじめ沸かした湯を用意しておいて、できるだけ温かい湯で垢を落とせるようにと」

 

「それはわかったが、やはり湯が熱すぎる。もっと冷ませ。それと3分も顔を湯に沈めるとはどういうことだ。溺れさせたいのか」

 

「俺は子供の頃から入浴の際、必ず祖母にそうされてました。ただ二階堂には特別に何回か息継ぎをさせてやっています。溺れることはまずありません」

 

「お前のその習慣は特殊な例だ。普通入浴はそういう拷問じみた事はせず、静かに行う」

 

「そんな……嘘ですよね」

 

「お前普段、兵の奴らと一緒に風呂入ってただろ。なぜ気づかない」

 

「みんな俺の知らないところで早めに済ませているのだとばかり………どおりで俺が顔面洗浄しているのところを、やけにジロジロ見られていたはずだ」

 

 

顔面洗浄……変わった祖母のせいでおかしな習慣を身につけていた高橋にも同情するが、それ以上に、付き合わされる二階堂が不憫だ。足元に隠れ、涙目でこちらを見上げる二階堂。その姿に、医者の愚痴が頭をよぎった。

 

『あれだけ他人に無神経で無関心なヤツ、初めて見ました』

 

「……………」

 

高橋は変わった男だとは思っていたが、これほど人を思いやれない男だとは思わなかった。いよいよ人の世話は向いていないかもしれない。

 

「とにかく、普通に入浴させろ。いいな」

 

「はい………」

 

少し不服そうだが高橋は頷いた。若干の不安が残るが、入浴の件で釘を刺すのはこれでいいだろう。問題はモルヒネ紛失の件だ。高橋が二階堂の世話役に抜擢されたのは、ひとえにこの件を解決する見込みがあったからと言ってもいい。

もしこのまま役立たずであるようなら、鶴見中尉から本当に見放されるだろう。見放される、つまり破棄だ。使い物にならず、懐柔できそうにない者は、情報を漏らされるより先に排除しなければならない。

 

「お前は第一師団からこの間ここへ移ってきたばかりだ、戻りたいと思うか?」

 

「いいえ。ここより他に行く当てはありません」

 

「第一師団では剣術と武道共に優れていた為、期待されていたのだろう。それでも戻るつもりはないと?」

 

「はい。俺は北の地で骨を埋める覚悟です」

 

「ならしっかり態度で示せ。分かっているだろうがこの任が満足にこなせければ、鶴見中尉から信用を得ることは出来ないと思え。もし信用できない者と分かれば、お前の処分は変わるだろう」

 

「善処します」

 

高橋は少し塩らしく返事をした、ように見えた。鶴見中尉に気に入られたいと言っていたが、本心は読めない。相変わらず食えない男だ。

とりあえず今日のところはこれぐらいでいいだろう。そう安心したそばから、高橋が突然二階堂の肩を掴み、サッと腹に縄をかけた。

 

「では気を取り直して浴室に行くぞ、二階堂。そろそろ最後の兵士が出てきて俺たちの番だ。今日は軍曹殿の言う通り、湯は冷まして47度にする。顔面洗浄も2分にしようか」

 

「ヤダヤダヤダヤダ〜〜〜ッ!!!!」

 

 

縄で引きずられる二階堂を見ながら、俺は思わず声を張り上げた。

 

 

「もっと優しくしなさい高橋ぃ!!!!」

 

○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

 

【第七師団:小樽の病院:夜】

 

月島軍曹に怒鳴られながら、二階堂の入浴を手伝い、なんとか今日も医務室まで戻ってくることができた。しかし、また明日も同じように上手くいくかは正直分からない。今まで二階堂の腹と俺の腹を縄でくくり、逃げないように移動させていたのだが、月島軍曹の命により縄を使うことは出来なくなった。二階堂はまだ義足に慣れていないとはいえ、以前よりだいぶ回復して動けるようになった。部屋二つ分の距離なら駆け足で動くことだってできる。それに加えて、物陰に隠れるのが上手い為、取り逃せば一巻の終わりだ。

 

 

「……明日は午後の演習には参加できるそうだ、この調子だと完全復帰は早そうだ。よかったな二階堂」

 

「……………」

 

むくれたまま二階堂はそっぽを向いている。寝台に座るまではいいが、やはりこちらと言葉を交わしてはくれない。世話係を始めてから、俺はろくに二階堂と会話らしい会話をしたことがなかった。

 

「服を着替えよう、二階堂」

 

「……自分でできる」

 

寝台の脇に置いてあった跨下(こした)と襦袢(じゅばん)を手にとってサッサと始めてしまう。普通、兵士達は昼間着ていたままの衣服で寝入るが患者は衛星面に気を遣われる為に、毎回の着替えは義務になる。しかし襦袢は一人でできるとして、下の着替えはさすがに無理だろ。

 

「できたッ!」

 

彼は自信満々に言ってのけるが、俺は眉をひそめた。

 

「できてない、腰までしか履けてない」

 

「これでいいもん」

 

「良くない。俺が履かせてやる」

 

「ヤダ!これでいいもん!!!」

 

「二階堂っ!!」

 

手で抵抗され、たちまち布団饅頭が出来上がってしまった。こうなれば二階堂は動かない。この数日間、この籠城戦法を使われた俺には分かる。毎回着替えを手伝わせてくれないのは、初日に紐を締めすぎて、ちぎってしまったことが原因かもしれない。あれは謝ったのだが、それ以来俺が服の乱れを整える事さえ二階堂は嫌がる。

 

「二階堂」

 

 

俺はピタッと不動の山となった布団に、ゆっくり語りかけた。

 

「………申し訳ないとは思っているんだ」

 

駄々をこねながら「ヤダ」と叫ぶ二階堂を見るたび、俺は悔しさを抱えていた。

 

「多分俺は、気づかないうちにお前を何度も傷つけているんだろう。月島軍曹の言う通り、俺は面倒見が悪い分、色々我慢させてるはずだ。もし本当に俺のやる事が耐えられないなら、迷わず月島軍曹なり鶴見中尉になり言ってくれ。そうすればすぐ、代わりの兵を連れてきてくれるだろう。俺より上手く世話ができる奴が、おそらく」

 

月島軍曹が夕方、俺に言った言葉がよみがえる。

要するにこの世話役が上手くいかなければ、第七師団から外される。もしくは、命さえ危ういだろう。だがこの際、祖母が亡くなった今身寄りもないため、命は惜しくない。

 

「でも勘違いするなよ。俺はお前の世話が嫌な訳じゃない」

 

そう、ただ叶う事ならこの師団では役に立ってみたかった。前の師団では厄介者扱いが常であったので、なおの事。

 

 

「……二階堂、俺は器用じゃない。服を着せることさえ、うまくできなかった。でも雑にお前を扱ったつもりは一度もないんだ。お前の為にできる事はなんだって……」

 

俺は区切り悪く口を閉じた。気づいたからだ。

これらは俺のわがままに過ぎず、俺のエゴに二階堂を付き合わせる訳にはいかない。

 

 

「悪い、喋りすぎた」

 

軽く布団を撫でて、部屋を出る。二階堂は何も言わなかった。少しだけ虚しかったが、無反応には慣れている。

 

「おやすみ二階堂」

 

点呼と報告のため、軍医殿のところへ向かう。それが終われば肝心の不寝番が待っている。今日こそ脱走した二階堂を捕まえて、モルヒネの紛失をゼロにしなければならない。

 

「よし……………」

 

「……………」

 

そう意気込む姿を、背後から月島軍曹が見ていたのを俺はまだ知る由もなかった。

 

 



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10

【第七師団:小樽の病院】

 

不寝番とは兵員が就寝中である日夕点呼後から翌朝の起床まで、各中隊ごとに『週番下士官』の指揮の元、二人一組で兵営内の火災、盗難、脱走・衛生の防止のため見回りを行うものだ。

ただ、俺の場合は特殊である。

 

「今日モマタ熱心ダナ高橋」

 

「…………三島」

 

俺はちらりと横目で三島を見た。手元の提灯で照らされた顔の額には、大仏のホクロのように赤黒い銃痕が光る。

俺の不寝番の内容は、一人で医務室周辺を見回り、二階堂を筆頭にした中毒患者から薬品が盗まれるのを防ぐことだ。こんな厄介な奴の小言を聞くことではない。

 

「今は上等兵だ」

 

「ハハハ、死人ニモ無愛想ナノハ変ワラナイナ」

 

「ほっといてくれ」

 

足早に階段を上がり、医務室の前へ急いだ。

一応ほかの部屋を窓からのぞき見るが、やはりほとんどの患者は寝静まっている。

その間、つきまとう三島を気に留めないよう努めるが、三島の口は開いたままだ。

 

「ワカッテイル。オ前ハ月島軍曹二目をヲツケラレタ、ダカラ早ク二階堂ヲ捕マエナケレバナラナイ。ソウダロウ?俺ハ傍観スルツモリダッタガ、今日ハ手ヲ貸ソウ」

 

「………本当に?」

 

やっと振り向いた俺に、整った顔で三島が爽やかに笑う。

 

 

「モチロンダ、遊ビハ平等デナイトイケナイ」

 

「………これは遊びじゃない」

 

 

含みの多い台詞を三島はよく言う。意味不明な事ばかりで、もう聞き返すこともしなくなった。

医務室に着くと二階堂が居た。軍服姿の二階堂が。

 

 

「行コウ、隠レンボダ」

 

「だから遊びじゃない」

 

 

二階堂が医務室から離れる。それを合図に、俺もその後を追いかけた。

 

「足が速い……」

 

階段を上がるところまでは追いつけた。しかし曲がり角を曲がった所で、見失ってしまう。いつもの状況だった。

 

「コッチダ、高橋」

 

壁から上半身をのぞかせて、三島が後ろを指さす。そちらに目を向ければ、たしかに二階堂のさまよう後ろ姿があった。

 

「……助かる」

 

「昨日ノ朝モ、高橋ガ医務室二戻ル前、二階堂波決マッテ同ジ場所ニ向カッタ。今日モ同ジ場所ニ向カッテイルハズダ」

 

「薬室だろ。ヤツはモルヒネを探してる」

 

「違ウ」

 

断言する三島に、俺は歩みを止めざるを得なかった。

 

「……なぜ?」

 

「お前が第七師団に来たのは、たしか奉天会戦が終わってすぐだった。和田大尉が引き抜いてきた優秀な人材、というお墨付きで。それから二十七連隊には尾形と二階堂が脱走した後、尾形上等兵と入れ替わりでお前が上等兵に昇級してから入ってきた。そうだな?」

 

「それが今、二階堂の探し物と関係あるのか」

 

「アル。第七師団、特二第二十七連隊ニツイテ知ラナイコトガ多スギルノダ。ダカラ二階堂ヲ捕マエルコトモ、鶴見中尉ノ信頼ヲ得ルコトハナイ。オ前、ナゼ鶴見中尉ガ金塊二執着スルカヨク分カッテナイダロウ?」

 

たしかに俺は知らない、第七師団の姿。ただ思い当たる節はある。金塊の話、兵士それぞれの身の上、中尉の思惑、全てが上辺だけの知識で、北の果てでくすぶる野心を俺はまだよく知らない。しかし知った所で、俺の誓った忠誠は変わらない自信はあった。悠々と語る三島を睨む。

 

 

「二階堂の行き先を言え三島。俺の居場所はここしかない。俺は鶴見中尉に認めてもらうんだ」

 

「……………分カッタ、コッチダ。付イテ来イ」

 

 

 

今日しくじれば今度こそ鶴見中尉に見放されるだろう。それだけは避けたい。

俺は三島に案内され、二階堂の後を追った。

背後から見ていると、奴は音も無く病院を徘徊していたが、やがて二階堂は病院から出て行くのが見えた。

 

「………ナイ…ナイナ…イ…ナイ…ナイナイ」

 

近くまで追いつくと、二階堂の声がよりはっきり聞こえてきた。

コソコソ隠れながら二階堂をつける。一気に捕まえてしまいたいのは山々だが、それじゃダメだと三島が頑なに言うので、仕方なく静かに好機を見計らう。

ついに、小樽で根城にしている兵舎にたどり着いた。どこかに向かっているようだ、足どりに迷いがない。二階堂の後に続いて兵舎に入り、階段をのぼる。

 

「なんと言っているんだ……」

 

「シッ。静カニシロ、ココハ将校部屋ノ近クダ。見ツカルト厄介ダゾ」

 

「他の不寝番は」

 

「近クニハ居ナイ。二階堂ヲ捕マエルナラ今ダ」

 

俺は三島の言葉を信じ、二階堂が入った部屋へひっそり入る。提灯の灯りを消した。窓から溢れる月明かりだけが頼りだ。

 

「ナイ…ナイナイ…ナイ……」

 

呟く言葉はそれの繰り返しだった。『無い』と言っているようだが、一体何が無いのだろうか。ギシ…ギシ…と床に足音を忍ばせて近づく。

 

「何を探しているんだ二階堂」

 

「………………」

 

前を向いたまま二階堂がこちらを振り振り返った。思わず俺は息を飲んだ。

 

「……モルヒネを探してるのか?」

 

「…ナイナ」

 

「ないな?ないなって何だ?」

 

「隠レロ高橋!」

 

三島の呼びかけに答えようとも、俺の図体が手早く身を隠せる訳がなかった。声に反応して顔を向けるのがやっとだ。振り返った先、立っていたのは三島の他にもう一つ影があった。

 

「何を探してるんだ、高橋上等兵」

 

「鶴見……中尉…」

 

手元には刀剣が2つ。中尉が密かに間合いを取っているのが分かった。

 

「貴様は医務室で不寝番のはずだが。おかしな事もあるんだな」

 

「二階堂を探しておりました」

 

正直に答える。実際、二階堂は部屋の隅にたったまま、こちらを静かに眺めていた。

しかし俺の答えに、中尉は「フー」と首を振った。

 

「残念だがそれは冗談に数えてやらんぞ高橋。分かりやすく嘘であるし、何より笑えん。この倉庫は二階堂の死に場所だ」

中尉はニッコリ微笑み、人差し指を足元に向けた。部屋が暗いからか、地面に特に変わったところが見られない。強いて言うなら、黒いシミが何点か目立つぐらいだ。

 

「二階堂は生きています」

 

「二階堂は死んでいる」

 

一体何を言っているんだ鶴見中尉殿。大きく食い違う言葉に戸惑うが、鶴見中尉は俺がこう答えると読んでいたかのようだ。笑みを崩すことなく、鶴見中尉は俺に一歩、歩み寄った。

その分俺は部屋の奥へ、一歩後ずさる。

 

 

「それとも、二階堂ではなく私に用があったのか?」

 

「いいえ」

 

「では本当に二階堂を探してここまできたのか?」

 

「はい」

 

「この辺りに二階堂がいるとでも?」

 

「はい」

 

 

質問のたび、中尉は一歩また一歩と俺との間合いを縮める。もう一歩で、剣が届いてしまう距離になった。

 

「………」

 

「……………」

 

 

 

息を止めて中尉の瞳を見据え続ける。逸らしてしまえば最後、自分の首が比喩じゃなく本当に飛ぶ気がした。闇の中、静かに中尉が微笑んだ。冷たい汗が俺の首を伝った。

 

「和田大尉殿が以前、お前をわざわざ第一師団から連れてきた理由をおっしゃられていた。なんでも……たぐいまれな剣技と、死者と意を介す力を持っているから、と。死人に口なしとはよく言ったものだが、お前には縁がないらしい。本来、他の隊であったお前が二階堂がここで死んだことを知るはずがない。二階堂が自分の居場所をお前に教えたのか?」

 

「教えたのは三島です。三島は、お前は二階堂を捕まえて、本当の事を知るべきだと言いました」

 

「さも当たり前のように嘘をつくな、それとも冗談のつもりか?さすが不笑の高橋だ。まったく笑えんな」

 

「冗談ではありません」

 

「……では証明してみなさい」

 

「えっ」

 

ポイと投げられた軍刀。ひとつは手元に残し、床に放ったそれを中尉は顎でしゃくった。

 

「お前が買われたのは、その不可思議な能力だけではないんだろう。私は剣の腕も見てみたい。もし自分の話が本当だと言うのなら、私をそれで追い詰めてみなさい」

 

「え、いや、それは」

 

「遠慮は無用。私も遠慮せんぞ」

 

構えの姿勢で中尉が剣を向ける。戸惑う暇もなく、間合いを踏み越えて、次の瞬間には胸をかすめていた。

 

「やはり胸を張るのはいいなあ高橋。心臓が突きやすい」

 

「っ、中尉」

 

上官の剣を握るなど、本来は不敬極まり無い。しかしながら今は状況が状況であった。無防備なままでは居れず、仕方なく床の剣を拾い上げて攻撃を受けた。

 

 

「おやめください中尉殿。俺の事が信用できないのはよく分かりました。ですがここで剣を交えるのは不毛です」

 

「信用ならん自覚がお前にあったのか。素晴らしい。だが止めてあげないぞ。止めて欲しいなら貴様の素性をおとなしく吐け」

 

「俺の素性などすでに調べ尽くしてあるでしょう」

 

「調べてもロクな事が分からんから尋ねておるのだ」

 

カァン!中尉殿の突きを、剣の峰で弾いて距離を取る。喋りなら打ち合うのは初めてで、反して話しかけてくる中尉の器用さが恐ろしい。

 

 

「和田大尉から何を言われここに来た、吐きなさい」

 

お互いがお互いの呼吸を読み、間合いをはかる。

剣は付き合わせながらも、静かに機会をうかがっていた。

 

「大尉殿にはここに入団した日以来言葉を交わしておりません。無論、中尉の行いを阻むようなことなど…」

 

「フハハ死者と会えるんだろう?玉井伍長が亡くなった後、お前のもとに訪れなかったのか」

 

「死者は最も執着するものの元へ行きます。大抵が自分の親族や愛している者の所です。和田大尉は来ませんでした。おそらく俺の事を何とも思っていません」

 

「では、なぜ三島はお前の元へ来た?」

 

「それは…」

 

俺が言葉をためらう。それを察した中尉が、剣を前に突き出して間合いを詰めた。中尉の剣は俺の脇腹をかすめて抜ける。

 

「何を黙っている……本当に三島と会ったんだろう?」

 

中尉が剣を振り上げたのを、今度は見逃さなかった。斬りかかられた所をとっさに剣で受ける。

 

 

「三島は『お前は第七師団を知らなすぎる』と」

 

「ハハハッ面白い。聞かなくても分かる事をわざわざ三島がお前に伝えたのか」

 

「第七師団の一員になると、ここで身を捧げるつもりと、その覚悟であります」

 

「忠誠を誓ったにも関わらず涼しい顔で私裏切っていった輩はいくらでもいる。お前が脱走を見逃した尾形上等兵がその筆頭だ」

 

「あの脱走は止めようがありませんでした。尾形は俺に聞く耳を持たなかった」

 

「お前が脱走を手引きしたのだろう」

 

「いいえ!それは違います!!」

 

嫌な予感がして、声を張り上げた。しかし中尉はまた俺の心臓に向けて剣を突く。肩に剣先が入ったところを、とっさに横へ避けて距離をとった。

 

 

「吐きなさい。あの脱走があった夜、尾形と本当は何を話した?お前は第一師団にどこまでここの事を流した?」

 

「誤解です。俺は尾形とは何の関係もなく、第一師団との繋がりもない」

 

「いいだろう。お前の誠意とやらはよく伝わった」

 

甲高いキィイン!と鳴った剣先。なんとかはじき返す。そして、それを合図に始まったのは、正真正銘本気の殺し合いだった。

 

「死人に口なし、法螺(ほら)ばかり吐く口は消してやろう」

 



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11

【杉元一派:釧路のコタン】

 

釧路にて、海岸のコタンに住むフチの15番目の妹の元で夜を明かそうとしていた時のこと。

ウミガメの肉に舌鼓を打ち、一行は穏やかに眠りについていたが、ひとりの男だけは目をジッと天井の向けたままであった。

 

「眠れないのか、尾形」

 

「ほっときなよアシリパさん」

 

 

案の定、アシリパの問いに尾形が答えることはなかった。代わりに、杉元へ向けて盛大な舌打ちをした。

 

「お前のせいで余計なことを思い出した」

 

「なんで俺のせいだ。テメェの寝付きが悪いのは俺に関係ねぇだろ」

 

「………今後、高橋の話はするな」

 

「高橋?」

 

 

杉元には意外だった。気に入らない様子だったのは分かっていたが、数日前の話題から引きずるほどだとは思わなかった。過去によほど何かあったらしい。「はいはい」と流して、深追いせずに杉元は眼をつぶる。

しかし白石は察しが悪かった。

 

「なになに高橋ちゃんがどうだって?」

 

「し〜ら〜い〜し〜!」

 

お前はサッサと寝ろ、黙ってろ、余計な事するなと杉元、谷垣、アシリパの順に能天気な口を抑え込む。それでも「クゥーン」と嘆く白石ので、さらに三人は睨みを効かせた。

 

 

「ヤツは、俺と二階堂が脱走することを事前に知っていた、ただ一人の男だ」

 

尾形が静かに告げた。

 

「もっとも、ヤツは涼しい顔でそれを断り、後に鶴見中尉へ報告したがな」

 

○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

 

 

【尾形の回想(小樽の病院)】

 

高橋は週番看護兵やその他諸々の用件を頼まれ、医務室へよく来ていた。ちょうど俺の顎が治ってきた時、俺はヤツに脱走の件を持ちかけた。高橋は二十七連隊で唯一第七師団に染まっとらん男だった。大尉のお気に入りという噂もあったから尚更だ。俺はほとんど噂は本当だろうと見ていた。だから俺の誘いも二階堂同様、乗ってくるに違いないと踏んでいた。

 

「高橋、お前今夜ここに来い」

 

「顎の具合はもういいんですか、尾形上等兵殿」

 

言葉の内容より、高橋は俺が喋れたことに驚いた。目を若干丸くすると、大きな背を折り曲げて俺の顔をのぞき見る。

 

「まだ抜糸したばかりで、顔の跡が痛々しい…安静にしたほうが身のためですよ」

 

「ハハッ…ずいぶん立派なことを言うようになったな、俺に忠告するとは軍医にでもなったつもりかお前」

 

寝台の上から見上げた男の姿は、より一層大きな影を背負って見えた。見下すつもりが本人に無くとも、その冷静な態度が鼻に付く。

俺はかけられた毛布から、右手を振り上げた。

 

「お前は来るだろう、断る理由がないはずだ」

 

右手で高橋の襟を掴み、こちらに顔を引き寄せる。高橋の息が口にかかる。高橋の黒目がわずかに揺れた。

 

 

「誰に垂れ込まれたか知りませんが、俺は第七師団から離れるつもりは毛頭ない。生涯を捧げるつもりです」

 

やはり、ここを脱走する話だと分かっている。つまりコイツにもその気があった訳だ。煮え切らない態度が癪だが、押せば落ちると確信する。

 

「お前は師団の女房か。その心意気には感心するがまだ納得できん。これまでまったく鶴見中尉に接触していないはずだ。いつの間に懐柔された?」

 

「懐柔なんてされてません、むしろ俺はこの地に来た時からずっと尊敬はしています。203高地での偉業は聞いておりますから、さぞ素晴らしいお方でしょう」

 

「大した忠誠心だな?高橋上等兵」

 

「ありがとうございます」

 

嫌味も通じない堅物、聞いていた通り調子の狂う男だった。俺は掴んだ首元を突き放した。薄い体がグラリと後ろに傾く。

 

「この師団に執着する意味が分からん、とお思いでしょう」

 

「大尉への手柄が望みか」

 

「本当に違います」

 

高橋はきっと睨みつけていう。

 

「ここの師団の方が、よそ者を嫌う気持ちはよく分かる。恐れ多くも大尉に命じられ、ここに移って来たのは事実ですから」

 

こう前置きし、苦々しくを伏せた。

 

「しかし……ここから離れるつもりはない。ここは俺にとって最後の居場所です。唯一の居場所だった祖母が居ない今は」

 

「…………」

 

「俺は奉天の後、家に帰り祖母を探しました。だがどこにも祖母の姿がない。実家の秋田まで足を伸ばし、村中を探しましたが、そこにもいない。後で聞いた話、祖母は死んだそうです」

 

「身寄りがなくなった訳だな」

 

「…………」

黙ったままだった。息を飲む音が、かすかに聞こえた。

 

「………そうだけど、そうでもないんです」

 

俺の目を見つめ、高橋は言った。珍しく身の上話かと思えば、話している男の頬には汗が滲んでいた。奇妙だ。これはいよいよ、ただの身の上話じゃないと勘が言う。

 

「俺の祖母は、俺が生まれる前に死んでいた」

 

「……なんだと?」

 

「俺は、両親が幼い頃死んだのは知っていました。それで祖母と名乗るあのババァが現れて、引き止める家族を振り払い、俺を連れ出した。ババァは、俺の才能は自分の血を受け継いだものだと言ったのです。実際俺はババァと同じ芸ができた。だから俺はずっとそれで納得していた」

 

「……そのババァは赤の他人だった訳だ」

 

高橋は小さく頷く。

 

「今思えば、俺が出兵するのを止めなかったのも頷けます。赤の他人の面倒を見るのはあの年じゃ辛い。どこへでもいいから捨ててしまいたかったんでしょう。それにババァの稼業も落ち目だった。継ぐつもりもない俺は、ただの重荷でしかないはずの男だ。幸い、剣の覚えはありましたから、捨てても軍で拾われると見込んでいたんでしょう。今は俺もそのババァとは会う気はありません、それより、勘違いとはいえ満足に弔ってやれなかった両親や祖母に申し訳が立たんのです」

 

「………」

 

「だから俺は、せめてもの親孝行として、地元の軍である第七師団に従事したいと思っています。この地の方々に恩義を尽くすつもりで…」

 

「…………」

 

俺は内心で頭を抱えてていた。コイツの言い分は確かに理にかなっている。だが、それはあえて中央を敵に回すほどの理だろうか。

俺の逡巡をよそに、高橋はとんでもないことを言い出した。

 

「それに、両親もこの師団で『才能』を生かす使命があると、離れれば呪うと言っていますから」

 

その言葉を聞いた時、俺は目の前の男が得体の知れない奇人に見えた。

 

「お前がここに執心する理由は分かった、納得はしていないがな」

 

死んだ両親が言った、というのはこの際『遺言』の事を指してると思えば腹に落ちる。しかし大きな疑念が、ただ1つ残っていた。

 

「さっきから言う『才能』とは何だ。ババァの稼業と関係あるのか?」

 

「ああ、口寄せですね」

 

「は?」

 

俺は、聞き間違えたのかと思った。胡散臭い事を、さも当然のように言ってのけたのだ。

 

「正確には『生口(いきくち)』という生きている人の魂を自分へ移し、その本心や願いを聞く儀式を行っておりました。他にも『神口』『仏口』などありますが、出来る人間はごく限られてます。祖母……いえ、ばあさんはその能力に特に並外れており、横浜では有名な霊媒師でした。それを聞きつけた地方の村に呼ばれることも少なくない。俺もそれによく手伝いとして連れていかれた。ただばあさんは、俺の方がその儀式をする能力があると執拗に言っていました。昔から俺は幽霊を信じていないし、生きてる人を宿すことはできなかった。結局儀式は手伝いしかしたことがありませんがね」

 

「……信じてないのに、死んだ両親は見えるのか」

 

「俺が見たことないのは幽霊であって、両親は幽霊じゃありませんよ。何言ってるんですか」

 

何を言っている、はこちらの台詞だった。こいつの頭はおかしい。そう確信すると、俺は男に背を向けて目を閉じた。馬鹿馬鹿しい、寝てしまおう。

 

「もういい。分かった。貴様の冗談は。お前は本当は第一師団で厄介者だったんだろう。だから居心地が悪くて、自分を知らない北の果てに逃げてきた」

 

「……厄介者扱いは、いつもの事です。ただ、今の話は全て真実です」

 

神妙に言う言葉を真に受けるほど、俺はお人好しじゃない。ましてや『幽霊は信じてないが、死者とは話せる』と真顔で言う男の言葉だ。真面目に聞くのも馬鹿らしい。これ以上話せば、キチガイがうつる。

 

「そうかい。なら、ぜひともその『才能』を拝んでみたいものだな」

 

俺はそう吐き捨てると、今度こそ口を閉じた。

この時すでに高橋から興味は失せていた。むしろ関わりたくない気持ちでいた。

脱走の件を伝えるのは、二階堂だけでいい。コイツは巻き込むだけ無駄、何の役にも立たないだろう。あとで脱走の口封じをしておけば問題ない。

 

「いいですよ」

 

その言葉に、沈みかけた意識が戻った。閉じたまぶたが、ゆっくり開く。

 

「なんだと?」

 

高橋に背を向けて横になったまま、俺は尋ねた。

 

「口寄せでしょう?やって見せましょう。そうすれば、貴方はこの話を信じることでしょう。それに…」

 

ポン、と大きな手のひらが俺の肩に落ちた。

 

「これからやろうとしている馬鹿な企ても、止めるはずだ」

 

いつの間に、そばに寄っていたんだ。置かれた手を払い、真意の分からない男を用心するように、身を起こした。

 

「その前に一つ聞きたい」

 

 

最初の会話で分かった不可解な事が、脳裏をよぎっていた。さっきの身の上話から嫌な予感がする。

 

「お前は鶴見中尉とつながってないと言っていたが、それなら最初から何故俺が脱走すると分かったんだ?鶴見中尉に関わっていないと、俺が脱走する意図を知らないはずだ。どこで脱走の企てを知った?」

 

「いや、見れば分かりますよ」

 

 

小枝のような長細い指が、悠々と俺の頭上まで持ち上がって、ピタリと止まる。

 

 

「ほら。ずっと隣で貴方の弟が『兄様行ってはなりません』とおっしゃっているでしょう」

 

目を見開いて高橋を睨んだ。

そして俺は唯一この時、この男は本物かもしれないと思ってしまった。

 



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12

【第七師団:小樽の兵舎】

 

 

「あ、」

 

俺の右肩から血糊が滴って、すぐ下に落ち、真下に倒れている中尉殿の服の染みになった。「上官の服を汚してしまった」と無礼をわびる思いが湧いたが、そもそも馬乗りになって中尉を押さえ込む事自体、かなりの非礼である。

 

「…あの……」

 

中尉と剣を交えて、いくらか経った時、一瞬の隙をついて中尉の剣を払い飛ばした。そこからは早く、俺は手持ち無沙汰になった中尉の両手を掴み、地面へなぎ倒して今に至る。

 

「……大きな体が味方したな」

 

両腕を地面に押さえられてもなお、中尉は笑って言った。しかし余裕がある中尉とは引き合いに、俺は焦る。

 

「い、………」

 

体の限界が近い。右肩や左の脇の下に切り裂かれたところから血糊がまとわりついていた。

それに、もっと不味いのはこの光景だった。今の状況を何も知らない者が見れば、疑いもなく『上官に欲情して押し倒した兵士』と思われるに違いない。抵抗の末に、成り行きでこうなったとはいえ、誰かに知られればいらぬ誤解を招いて厄介だった。

 

「襲いかかられた時は、ついぞ犯されるかと思ったぞ」

 

目を細める中尉を、俺はまっすぐ見下ろして言った。

 

「男色の趣味は俺にありません。それ以前にそのような不敬死んでもしません」

 

「では上官を押し倒すことは不敬でないと?」

 

「え。いや、その、」

 

不敬に決まっているだろう。矛盾した言い分に、自分で自分を責める。口ごもる俺を中尉は見逃さなかった。

 

「私ははっきり物を言う方が好きだぞ高橋。お前は全く面白くないが、物怖じしない言い方だけは好感が持てた。私の好いていた男はどこへ行ったんだろうな」

 

「中尉殿はこの状態で、なぜ口説けるんですか」

 

正気かと耳を疑う。中尉の首には剣を添えてあった。腕も少しも動かせないほどきつく、俺の片手で両方を頭の上でまとめ、地面に押さえていた。足さえも俺の乗りかかった身体でビクともしない。

つまりこの人を生かすも殺すも、今は俺の手にかかっているのだ。それを分かっているのだろうか。

 

「ほお、なぜだか分からんのか?これは命乞いだ」

 

「絶対違うと思います」

 

俺の知ってる命乞いは、相手にこんな挑発的な目を向けない。

 

「中尉殿、不敬は承知で申し上げます。俺をずっとここに置いてください。俺は…生涯第七師団に尽くすつもりでここに居ります。身寄りもない俺に、居場所はここしかないのです。ここで役に立って死にたいのです」

 

「ならば今ここで死ね」

 

俺はこの時、これまで見てきたどんな死人より、暗く深い黒目を中尉の瞳に見た。改めて、心底信用されてないのだと気づく。

 

「お前が死ぬことで、私は第一師団へ金塊の件が流れることに、気を張る事もなくなる。お前は身の潔白を晴らすだけで、十分役に立つ。ここで死になさい」

 

「それは」

 

言い淀むと、それを読んでいたよう中尉は「フン」と鼻を鳴らした。

 

「身寄りが無いからこの師団に執着するのか?なかなか無茶な主張だな。身寄りがない者などいくらでもいる。そして、そ奴らは大抵己の思うまま、権力に群がって生きている。居場所はどこでもいいと割り切っているものだ」

 

 

中尉の言うことは正しい。実際、身寄りがない事は珍しくなく、戦争が始まってからなおさらその数は増している。それに、身寄りの無い者には、居場所に執着しない者が多いのも事実だ。俺は何も言えなかった。

 

「居場所を軍に見出したところで、お前が救われる訳ではない。分かっているはずだ。自分が本当は誰かにすがりたいだけだという事を。それが分かっているから、お前は第一師団へ情報を流し、中央へすがりつくつもりなのだろう」

 

「し、証拠はあるんですか?」

 

「無いな。今のところ中央や第一師団へ嗅ぎつかれたという報告はない」

 

「無いのなら信じてくれてもいいでしょう」

 

「だがそれも時間の問題だ。すぐ尻尾を掴んでやる。まあ……まずそんな事態になる前に殺すのが先決だがな」

 

「俺は、本当に中尉に尽くすつもりなんです。本当に、第一師団とも、中央とも繋がっちゃいません」

 

「わざとらしい言い方だ。カマトトぶったところで、お前の素性は、じきに明らかになるというのに、まだ言うのか」

 

片眉をあげ、冷めた声で中尉は言った。それが純粋に、ただ悲しかった。本心で言った言葉が全て裏目に出ている。こちらには本当に裏も表もない。

それなのに中尉は取り合ってくれる気配がまるでなかった。すると、いくら尊敬する上官とはいえ埒があかないその態度に苛立ちが募る。「なぜ分かってくれない?」と。そうこうしているうちに、沸々と怒りがこみ上げていた。

そう思ったそばから、決定的な一言を中尉が言い放った。

 

「ああ、それとも……お前も金塊に目が眩んだのか?」

 

限界が、来た。

 

「鶴見中尉殿」

 

呼びかければ腕がわずかに動くが、より強い力を加えて押さえつける。自分の影にすっぽり収まっているこの時だけ、中尉がずいぶん小さく見えた。

俺は額がぶつかりそうな距離まで、顔を寄せる。

 

「分かっていただけるまで、何度も申し上げますよ」

 

「面白い…………私を懐柔する気か」

 

「ええ、そうです。俺は貴方を裏切らない。誓いましょう。俺はね、俺を厄介払いした第一師団や中央に恩義も何も感じとらんのです。あの権力にすがったところで、『おこぼれ』はたかが知れてます。むしろ恩義があると言うのなら、俺が生まれたこの地、この第七師団です。ここで身を捧げることが俺の本望です」

 

「本望?本当に?」

 

「もちろん。それなのに、ここへ来てまだ間もないのに自害しろと?師団の為に働こうと息巻いた矢先に?言っておきますが、俺はオレは金塊なんてどうだっていいんですよ。早く役に立って、早く…早く早…クハヤク杉元佐一をブッ殺シタイ。杉元ヲ殺シタイ!」

 

 

その時だった。

 

「ガフッ!!!!!」

 

ゴツ、という衝撃が体を襲い、一瞬意識が飛ぶ。少しして、俺は誰かに蹴り上げられたらしい、と分かった。

くの字に体を曲げて、床に転がる。

眩む視界の中でぼんやりと中尉をうかがった。提灯の灯りが眩しい。誰かが中尉に駆け寄っている。

 

 

「ご無事ですか鶴見中尉」

 

「面白いところだったのに、水を差したな月島」

 

 

耳に届いたその名前に、突然すべての辻褄が合い、合点がいった。すべては監視されていたんだ。

 

「はぁ、はぁ……っ」

 

情けない声が漏れ、呆然としていた。今しがた気づいたのだ。最初から信用も何もなかった事に。おそらく、二階堂の世話役というのも、より近くで見張る為の口実。ついでに二階堂と俺を泳がせ、ほかの造反者をあぶり出そうという魂胆だったのだろう。

それを俺は、期待されて任されたのだと思い込み、馬鹿真面目に世話をしようと奮闘していた。

 

「ハハ……ッ」

 

頑張るだけ無駄だったんだ。気づいた途端に、やる瀬なさがこみ上げ、みるみる体の力は抜けていった。望みが絶えた瞬間だった。

 

「……、」

 

おもむろに部屋の中へ目をやるが、三島や二階堂の姿はすでに無い。結局三島の伝えたい事をくみ取る事も、二階堂を捕まえる事も出来なかった。

どちらにしろ俺が役立たずには変わりなかったのだ。

 

「やはり監視に気づいた高橋が言い逃れる為、抵抗したようですね。中尉に襲いかかるとは思いませんでした、駆けつけるのが遅くなりすみません。高橋から他の造反者は洗い出せましたか」

 

「月島軍曹。それは叶わなかったが、面白い事が分かった。高橋上等兵は思った以上に使い道のある人間のようだ。まだ奴の首は斬るな」

 

「しかし…高橋が依然として第一師団と中央に通じているかどうかは不明なままです」

 

「たしかに、今だはっきりしないとは言え、こちらに引き込んで操るのは難しい。生かしておいても厄介なだけだ、だが…」

 

俺は殺されるのか。

二人分の眼光が俺を闇の中から、淡々とうかがっていた。

 

「…はぁ、……はぁ…」

 

不思議な感覚だった。

驚くほど、自分の死をすんなり受け入れることができた。

 

「はぁ……っ」

 

ギシッ、ギシッ。二人が剣を持ち、こちらへ歩み寄ってくる。音でわかる。

死への恐怖はない。もはや死んだところで悲しむ者はいない。生きていたとしても、誰の役にも立てないのだから。死んで当然と言えば当然だ。

 

 

「ナイナ……イナイナ…コウヘイ」

 

視界の端に、二階堂の姿があった。部屋の隅に変わらず突っ立っていた。

どうやら『無い』ではなく、『居ない』と言っていたのだろう。探しているのは『コウヘイ』という男だろうか?モルヒネを探しているのではないのは確かだが、今とはなってはどうでもいい。

 

「にか、い…堂。『コウヘイ』…は…見つから…ないのか」

 

探し人が見つからないのはお互い様だ。

俺の祖母だと偽って数年も共に過ごしたババァの顔が浮かぶ。ババァはよく、俺に憑きまとう両親を睨んで言った。

 

『この子はまだ彼岸に行っちゃァ、イカンのよ。我が子を思う気持ちはよォ分かるでな。そやけど、どれだけ恋しくとも、あの世には連れて行かせんヨ。この子はアタシが面倒見る。手ェ出したら、いくら親とはいえ、タダじゃおかんよ』

 

あのババァは今、どこで何しているんだろうか。書き置きもなく姿を消して、本当に俺を捨てたのか。ババァを思うと、一緒に過ごした日々が頭をよぎった。ああ、これが走馬灯か。

 

「……はぁ、はぁ」

 

ババァには悪いが、そろそろ本気で死ぬらしい。血が流れすぎた。

 

「……は、」

 

死期を悟り目を閉じようとしたとき、二階堂が「キタ!ミツケタ!!」と、ひときわ大きな声で叫んだ。同時に、ふわりと風を感じた。何者かの大きな影が俺を覆う。

その者は、俺と中尉の間に、割って入るような格好で立っていた。

 

「…洋平殺しちゃヤダッ!」

 

「二階堂」

 

男の声。この声ははっきり耳に届いた。見上げれば、包帯を巻いた頭と、腰までしか履物の上がっていない尻が見えた。

 

「……二階堂、………が二人?」

 

部屋の隅に立つ、ねじ曲がった首がこちらを向けて体は壁を向いたままの男と、目の前で両手を広げて立つ男を見比べる。瓜二つだった。

 

「コウヘイ…!ミツケタ!」

 

部屋の隅で立っていた方の二階堂が、また叫んだ。

 

「……お前たち…双子だったのか。コウヘイ……とはお前のことだったんだな」

 

意外な真相に、一人しみじみ呟く。すると、目の前の「コウヘイ」と呼ばれた方の二階堂が、俺の胴にしがみついて、また中尉殿に訴える。

 

「洋平殺しちゃダメッ!洋平は俺のものなのッ!」

 

「すみません中尉。いつの間にか着いてきていたようです」

 

「二階堂ぉ〜〜。ダメだぞ、わがままを言っては。ダメだダメだ。コイツは洋平ではない。よく見ろ、この男はお前を私に売った高橋だ」

 

「洋平です」

 

二階堂は静かに答えた。駄々をこねる様子がない。月島軍曹殿も俺も息を飲んだ。中尉だけが楽しそうに笑っている。

 

「面白い冗談だ二階堂。この男のどこがお前の兄と似ているんだ?ん?言ってみろ」

 

「コレは洋平です」

 

「…………」

 

ふう、と息をつくと、中尉は後ろを振り返らず月島軍曹に聞いた。

 

「月島、紛失したモルヒネの行方は?」

 

「はい、先ほど調べたところ寝台の下に未使用のまま、すべて隠してありました」

 

「という事は、二階堂は今、いくらか正気のままなのだな。ますます気に入った」

 

俺と二階堂の肩に、中尉の手が強く置かれた。叩きつけるほどの勢いであった。

 

「二階堂、わかった。もう何も言わなくていいぞ。この男はお前に免じて生かしておくことにしよう」

 

「ヤッタぁッ!よかったネッ!洋平ッ!」

 

「ただぁし!」

 

怒号にも似た声で前置きし、中尉は続ける。

 

「高橋を信用した訳ではない。高橋上等兵、私はお前のように勇猛な兵士が欲しい、数がいるのだ。今は生かしてやる。だぁが…条件がある。二階堂の補助を完璧にこなし、私の盾となるのだ。それがここを生き延びる、ただひとつの方法だぞ高橋」

 

「………お安い御用です」

 

 

朦朧としかけた意識が再びはっきりとし始め、視界も明瞭になってくる。俺は二階堂の腕から顔を出し、中尉の顔を見上げた。生きたい。役に立ちたい。

 

「もし二階堂が死んだら、お前は殺す。第一師団ならびに中央に情報が流れたと分かっても、お前を殺す。それでも私の盾になり死ぬ覚悟はあるか?」

 

第七師団は狭き門にもほどがある。「ハッ」鼻がなった。

 

「貴方の事は、俺の誠意と敬意を尽くし、生涯守り抜くと誓いましょう」

 

「まるで私に嫁ぐような勢いだな高橋上等兵。それなら、洋風の婚式にならって…靴に誓いの接吻でもしてもらおうか。いや、左手の薬指を相手に捧げる、だっかな。この際どちらでもいい。どうだ、好きな方を選べ」

 

洋風が流行るこのご時世、さすが情報将校と呼ばれるだけあって中尉はなかなか洋風に通じているようだ。左手の薬指になんの価値があるか全く分からないが、中尉が価値があるとおっしゃるならあるのだろう。俺にとってこの時から中尉が黒といえば黒であり、白といえば白になる。

 

「………っ、」

 

俺は床に転がっていた軍剣を手探りで握った。一瞬で終わらせろ、何度も言い聞かせる。手のひらは上に。薬指の根元に刃を添えながら。

 

「手伝ッテヤロォカ」

 

ふいに洋平が囁いた。その瞬間、自分の予期しないうちに刃が薬指を輪切りしていた。

 

「ガァッッ!!!!!」

 

痛みに声も出なかった。汗が滝のように吹き出し、体中が尋常じゃないほど震えている。しかし、俺は涙の一滴も呑み込んだ。

 

「……」

 

震えながら、なんとか、触れるだけの接吻を中尉の靴に落とした。恐る恐る顔を伺う。

 

「貴方のためなら…両方…捧げましょう」

 

「熱烈な男は好きだぞぉ高橋」

 

その見下ろした眼光は、俺の心胆に冷たいものを残した。中尉は踵を返し、部屋を出て行った。

 

「あ、高橋ぃ!」

 

それを見送ったあと、張っていた緊張の糸がプツンと切れて、気力で起こしていた体が崩れ落ちる。俺はついに意識を手放してしまった。

 

 

「高橋、死んだァ?」

 

「死んでない、だから揺らすんじゃないぞ二階堂。俺が医務室まで運ぶから軍医殿を叩き起こしてこい」



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13

 

【杉元一派:釧路のコタン】

 

白石と杉元はまだ涼しい夜明けの海を眺めていた。

 

「………」

 

海のどこにもアシリパの姿はないものの、杉元から『マンボウを狩りに行った』旨は伝えられていたので心配はしていなかった。彼女が戻ってくるまで、ハマナスの実以外に何かないかと探すが見当たらない。もっと探せばどこかに、と思っていれば一緒に浜まで来ていた谷垣、インカラマッ、チカパシからだいぶ離れてしまっていた。

 

 

「高橋ちゃんって何者?」

 

 

何の気なしにした白石の問いかけに、杉元は振り向きもせず吐き捨てた。

 

「なんでお前まで高橋に興味持ってんだよ」

 

「尾形ちゃんがアレだけ嫌って、杉元は懐いてるじゃん?こりゃただ者じゃねぇなと思ったわけさ」

 

「懐いてねぇよ、嫌いではないけど」

 

ただ、関わったのは奉天会戦からの帰り際のみ。友達でもなく、仲間でも今はない。知り合いにしてはお互い知りすぎているが、やはり深い仲ではない。

しかし今思い返せば特別な縁のあった男でもあり、杉元にとって上手い言葉が見つからない存在ではあった。

 

「あ!そういえば…高橋ちゃんみてぇに、変なモノが見える男と、昔監獄で会った事があるぜ!」

 

「その男も霊が見えたのか?」

 

「ああ。生き霊から死んだ奴まで。それを使って占いもできた。よく当たったしな。ただそれを稼業にはしてない。本業は事業家だった。なんでも横浜の埋め立てや瓦斯(ガス)灯の設置を進めたのにひと役買ってたらしい。元々、和洋折衷ホテルを横浜でやってたから、中央の偉い方と仲がいいのも相まって、事業はトントン拍子だったんだとよ。ただ異人(外国人)相手に金勘定したのが、やり方がまずくって法に触れたそうだ。本人いわく、まんまと売られたんだと。恨みを買った覚えがいくつかあったって言ってたな。ま、結局そいつはすぐ仲間の偉い方に呼び出されて、外にでちまったけどな」

 

「偉い方?」

 

「そうさ。杉元、それが聞いて驚くなよ。その偉い方ってのはな…」

 

「…いやにもったいぶるな」

 

「伊藤博文」

 

「…………………」

 

「………の知人」

 

「なんだよお知人かよぉ白石」

 

胸をなでおろし、フフフと微笑み合う。なんだ知人か、本人なら怖かった。しかし杉元はふと重大なことに気づいた。

 

「いやでも、知人の時点で政(まつり)に関わる奴じゃねぇのかよ。十分恐ろしい人脈だ」

 

「だよな、ハハハ……」

 

渇いた声で笑おうにも、頬は思ったほど上がらない。

続けて杉元が尋ねる。

 

「それにしても、そんな身の上の話まで、よく男がしてくれたな」

 

「馬があったんだよ。奴は根っからの女好きでな、惚れっぽいタチだから見境なく女を口説いてたらしい」

 

「そりゃ気が合うだろうよ」

 

軽蔑の眼差しを杉元は白石へ向けた。かまわず白石は続ける。

 

「それと何度か生き霊の口寄せの術を見せてもらったが、ほんと、見事に言い当てたんだぜ。一度獄内で起こった脱獄を、先に予言してた。何度か予言を外す時もあったけど、本来の儀式を通じた口寄せじゃないから仕方ないってぼやいてたな」

 

「本来の儀式?」

 

「たしか……そう、簡単に言うと、宿したい相手と酒を用意して、月か星か忘れたが……酒の水面に映ったそれをすする。するとたちまち、相手の魂が自分に宿るとか言ってたな」

 

「月と酒」

 

妙な感覚を杉元は覚えていた。似たようなことを以前にどこかで聞いていたのだ。

 

「………思い出した。高橋だ」

 

口に出したところでどんどん類似点が浮き上がってくる。

 

「……それと高橋も惚れっぽい性格だったな、致命的な口下手だったけど」

 

「確かその男の名前も高橋だった」

 

「すごい偶然だ。こんなにぴったり」

 

「いやーホントホント、こんな偶然あるんだな」

 

白石と杉元は顔を合わせて、変な感動に浸っていた。お互いが過去にあった者が姿以外にそっくりなのである。もしや、と急に神妙な顔をして白石は言った。

 

「親戚だったりして」

 

「………まさかぁ!」

 

「だよななぁ〜〜!」

 

あはは、うふふ、と談笑する二人。しかし、突然服に飛び移った小さな影に小さく悲鳴をあげた。

 

「わッ!!」

 

杉元の服にしがみつく、小さな影。それの正体を見るや否や、杉元は顔を歪ませて言った。

 

「やだぁ〜バッタきらーい!!」



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14

【第七師団:小樽の病院】

 

夕暮れの医務室。薬の在庫切れの確認を済ませ、二人分の衣服を手にとった。しかし、ふと俺はある事を思い出して、その手を止めた。

 

「まずい、月島軍曹に呼ばれているのだった」

 

衣服は脇に置き、ガラス戸に映る自分を見て、急いで身なりを整える。襟を正し、失礼のないように気を配る。今夜は鶴見中尉から重大な任務があるとの事で、月島軍曹の部屋に休憩中行くように言われていた。

 

「……これでよし」

 

 

肩についた塵も払う。そして俺は寝台の方を振り返って、一連の様子を眺めていたであろう男に言った。

 

「二階堂、悪いが風呂は先に行っててくれ。俺は月島軍曹のところへ行ってから行く」

 

「厠ッ!!!!」

 

寝台から上半身を起こした二階堂が元気よく答える。俺は上等兵であるが、敬語がないのは特に気にしていない。しかし突飛もない二階堂の言葉には頭を抱えたい気持ちだった。

 

「……………二階堂、俺は厠じゃない」

 

「違うッ!厠行きたいのッ!連れてって!」

 

「ひとりで行けるだろ」

 

「ヤダー!連れてって!連れてって!」

 

左の薬指を失って以来、二階堂は口を聞いてくれるようにはなった。なったのだが、最近は無駄口が多くなり、正直全て取り合う暇がないほど多弁になっている。だが、それらを無下に扱うことはできなかった。

 

「もう義足にも慣れてひとりで歩けるだろう。知ってるぞ、今朝もそこの廊下を駆け回っていたことを」

 

「無理だもんッ!まだ歩けないもんッ」

 

「隠しても無駄だ、ひとりで行きなさい。俺は月島軍曹のところへ行く」

 

 

「……………俺泣いちゃうよ」

 

「………………」

 

 

恨めしそうな目で二階堂がこちらを見る。

 

「俺が泣くと鶴見中尉が来るよ」

 

「……」

 

「泣いてる俺を見られたら鶴見中尉に認められなくなっちゃうよ、それでもいいの?」

 

「分かった厠に付き添おう」

 

そう、この脅し文句のせいで俺は二階堂に逆らう事が出来ない。事実中尉に世話が出来ない、と思われればまずからだ。どれだけわがままを言われようと、甘んじてそれに従わなければならなかった。

 

「……ほら行くぞ」

 

「ヤダ。だっこ」

 

差し出した手がパシャと振り払われる。そっぽを向く二階堂に、もちろん罵倒は吐けない。できるだけ機嫌を損なわないよう、俺は静かに言った。

 

「お前ひとりで歩けただろ」

 

「だっこ!だっこがいい!だっこしてッ!」

 

「頼む二階堂、俺は急いでるんだ。早く月島軍曹のところへ行かないと、」

 

「……泣いちゃうよ?」

 

「分かった。いくらでもだっこしてやろう」

 

 

こうなってはしょうがない。二階堂が駄々をこね始めると、絶対に譲ってくれなかった。しかも、泣かれてはもう、中尉に世話を任せてもらえないかもしれない、元も子もないのだ。俺は二階堂を担ごうと、体をひょいと持ち上げた。

 

「こら、足バタバタするな」

 

「優しくしてッ」

 

「何を言う、十分優しいだろう。ほら、担いでやるからじっとするんだ」

 

「俵みたいな担ぎ方しないでッ!優しくしてぇッ!」

 

「…………分かった。おんぶにしよう、優しいだろ」

 

そう言うと、納得したのか二階堂はおとなしくなった。義足に気をつけながら、ゆっくり寝台の上に二階堂を座らせた。その際、チラリと部屋の時計を見る。休憩時間は半分以上過ぎていた。二階堂を風呂に入れる事も考えると、今すぐ月島軍曹のところで用事を済ませなければならない時間だ。

 

「おんぶッ!漏れる!早くしてッ!」

 

「分かった分かった」

 

もう風呂は諦めよう。二階堂には悪いが、一日くらい入らなくても大丈夫だろうと高を括る。寝台に腰掛ける二階堂の前に俺は背を向けて、跪(ひざまず)いた。

 

「優しくするから暴れるなよ」

 

「うんッ!」

 

二階堂の返事を聞いて、俺はまた時計を見る。よし、2分で厠から帰ろう。背負ったらすぐ駆け足で行こう。

そう息巻いて、医務室の引き戸に向かったが、先に引き戸がガラッと開いた。

 

「お前達何をしている!!」

 

血相を変えた月島軍曹が立っていた。

 

「は、二階堂をおぶっています」

 

「……………そのようだな」

 

軍曹殿はどこかよそよそしかった。

凄まじい剣幕で入ってきた割に、後の声は独り言のように小さい。しかも「てっきり…」と続けて何か言おうとしたが、咳払いで濁した。

どちらにせよ、ここへ軍曹殿がいらっしゃった理由には察しがつく。俺は先をつくように、頭を下げた。

 

 

「申し訳ありません、すぐ向かおうと思ったんですが、」

 

「お前、二階堂を連れて来るつもりだったのか?」

 

「いいえ。二階堂を厠へ連れて行ってから、行くつもりでした」

 

「それでは遅すぎる。今でさえ、来るのが遅いからこうして気になって出向いたんだ。どれだけ休憩時間が過ぎていると思っている。二階堂は一人で行かせておけばいい。今日は重大な話をすると言っただろう」

 

「そうしたい思いは山々だったんですが、いかんせん二階堂がど…イタダダダ」

 

 

突然襲われた背中の痛みで、言葉が途切れる。二階堂が静かに背中をつねっていたのだ。しかも、月島軍曹が見ているにもかかわらず、口を耳に寄せてコソコソ呟いた。

 

「自分が運びたいから運んでますって言って」

 

「……自分が運びたかったが為、二階堂を運んでます」

 

ほとんどそのまま言ったはいいが、文脈がおかしい。案の定、俺の不可解な言い分に軍曹は眉を寄せた。

 

「過保護になりすぎだ。二階堂は十分回復している。今日の演習でも、ほかの健康な兵に遅れを取らない動きであった。心配する気持ちは分かるが、厠ぐらいは一人で行かせろ」

 

「おっしゃる通りです」

 

俺は大きく頷いた。二階堂も、その言葉に納得したのか、もうつねるようなことはせず、おとなしかった。

 

「ほら二階堂、ひとりで行ってこい」

 

俺は二階堂を背中から降ろすと、軽く背中を叩いた。 クルッとこちらを振り返る二階堂。

 

「…………」

 

ものすごい形相だ。への字口が曲がりすぎて、もはや唇がない。

 

「行くぞ高橋」

 

「………はい」

 

「………………高橋、何をやってる行くぞ」

 

「いや、」

 

 

足をずっと踏まれている。すごい、ものすごい力で踏まれている。進めない、右足だけが未だに二階堂の元にとどまっている。大きく左足を踏み出すが、どうにも右足はついてこなかった。

フン!ふんふん!と、とにかく前に進もうとしたが、ビクともしない。

 

「二階堂、高橋の足を踏むのはやめなさい」

 

「ヤダ!いつ帰るか言ってッ!言わないと行かせないよッ!いいの!?」

 

「大丈夫すぐ済む。ですよね、軍曹殿」

 

「いや、今晩は帰らんだろう」

 

「ほらな。今晩は帰ら、え?」

 

思わず隣に立つ月島軍曹を振り返る。ただ将校部屋へ行って、話を聞くだけじゃなかったのか。

 

「詳しくは言えないが、俺と高橋は今日このまま小樽の街に出る。これは鶴見中尉からのお達しだ」

 

「なるほど。ということで今晩は帰らないらしい二階堂」

 

「ヤダー!ヤダヤダヤダヤダ!!!」

 

「……………」

 

手足をばたつかせ、のたうち回る二階堂。

仕方ない……こうなったら初心に帰り、縄でしばりつけ、布団で簀巻きにし、おとなしくさせるしかない。

俺が懐に忍ばせた縄に手を伸ばしたが、月島軍曹が先に声をあげた。

 

「二階堂、駄々をこねない!暴れるな!」



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15

【第七師団:小樽の兵舎】

 

ごねる二階堂を病院の医務室に置き、俺と月島軍曹は軍曹殿の下士官室へ向かっていた。

 

「聞いているのか高橋」

 

「………はい」

 

足音は2人分、しかしもう1人後ろから誰かが尾けているのが分かった。自分を見張っているつもりだろうか。

 

「それならこっちを向いて返事をしろ。後ろを向くな」

 

「…………はい」

 

後ろにいたのは、腰より下が無いシロクマ、否、青年だった。地面を滑るように這いながら、月島軍曹と俺の後ろを憑いてくる。

 

「………」

 

なんだこのシロクマ?

実は月島軍曹が病室に来た時から、コイツはずっと居た。初めて見るヤツだ。栗色の髪を左右に流し、シロクマの毛皮を被っているので、まず兵士ではないことは分かる。

男はよほど俺たちが気になるようで、こちらを不安げに眺めていた。目的は俺たちにあるようだ。

月島軍曹は、生前の彼と何か深く関わっていたのか。それとも彼の執着する物を月島軍曹が持っているのか。

 

「後ろに何かあるのか?」

 

月島軍曹が足を止めて、目線の高さは合っていないものの、その青年が立つ方へ振り返った。

 

「…………シロクマが、」

 

「シロクマ?」

 

俺は指をさそうとすると、男が首を振る。俺は言いかけた口をつぐみ、男の話をするのはよした。本人が望まないなら、彼の素性を深くは聞くまい。

 

「何でもないです、それより今日の用件というのはなんでしょうか?」

 

「部屋で話す。下手に盗み聞きされては困るんだ」

 

 

このシロクマ男には聞こえてもいいのだろうか。

月島軍曹が特にこの男について触れないので、俺も触れない事にした。

 

「……分かりました」

 

「後ろを向いて返事をするな高橋」

 

うっかりまたシロクマ男を見ていたのを、月島軍曹殿の声で、視線は前へ戻す。

俺たちは夜も更けた営庭の中を歩いて、連隊本部の2階の予備室の前まで来た。月島軍曹が扉を開け、中に入るよう促す。それに従って部屋へ入ると、青年も這い寄って中に入った。お前ここまで憑いてくるのか。

 

「どうした」

 

「…………なにもありません」

 

目を見開いて固まる俺に、月島軍曹は不審な目を向けた。変な誤解を招かぬよう、なんでもない風に振る舞う。

そう気を取り直した矢先だ、月島軍曹が言った。

 

「そうか。なら、今すぐ脱げ」

 

「……………」

 

今度こそ体は動かなくなった。軍曹殿の言葉に頭が追いつかない。そうこうしている内に、まだ暗い部屋の中、軍曹殿が服を脱ぎ始めた。確実におかしい。男が暗い部屋で二人きり、何も起きないはずがないのだ。

俺は考えた末に声を絞り出した。

 

「お、俺に男色の経験はありませ…」

 

「違う」

 

食い気味に否定され、ほっと胸を撫で下ろす。

月島軍曹は使い古された着物を、俺の胸に押し付けた。

 

「これに今すぐ着替えろ。俺も着替える。お前は今日、鶴見中尉の囚人狩りの下準備をしてもらう」

 

「囚人狩り」

 

「金塊の話はどこまで聞いている?」

 

俺は一旦受け取った服を手近にあった作業机の上に置き、自身の軍服のボタンを外し始めた。軍曹と着替えながら、兵営内でまことしやかに囁かれる噂を思い出していた。

 

「アイヌの民達がかつて集めた金塊がどこかに隠されており、数名の囚人に掘られた刺青が集まると、金塊のありかが判明する、とは聞いています」

 

「そうだ、鶴見中尉殿は今は亡き戦友のたむけで、北海道を栄えさせる為の軍資金として、その金塊を探しておられる」

 

月島軍曹が裸電球の明かりをつけた。部屋の真ん中にある机、その上に軍曹が懐から取り出た物をゆっくり置いた。

 

「それが、その刺青ですか」

 

つまり人間から剥ぎ取った皮だ。こんな訳の分からないものが、どうしてあそこまで中尉を魅了するのか。橙色の明かりに照らされるそれは、思っていた以上にちっぽけな物だった。

 

「……違う、これはある者に作らせた偽物だ。本物は中尉が肌身離さず持っている」

 

「これ自体は本物の人の皮ですか?」

 

「そうだ。恐ろしいのか?」

 

「………………」

 

俺の反応を試している。それは視線で分かっていたが、こちらとしては視界の端でソワソワしている青年が気になった。もしや、と軍曹に尋ねる。

 

「この皮の人間は、死ぬ前シロクマの毛皮を着ていましたか?」

 

「は?」

 

俺の反応がよっぽど思いがけないものだったのか、軍曹はまじまじと俺の顔を見た。

 

「……いや、この皮の人間がどういう奴かは知らない」

 

「どうやって死んだかも分かりませんか?下半身を失った、だとか」

 

「この人間を調達したのは、これを作った剥製屋の男だ。知りたければその男に聞けばいい…と言いたいところだが、」

 

「そいつは今どこに?」

 

「死んだ」

 

そう告げた軍曹の声は、心なしか沈んでいた。そして話を聞き終えた後、おそらくそれは思い違いではないと分かった。

 

「今のお前のように、中尉殿に心から忠誠を示し、中尉殿に褒められたいと願っていた男だった。中尉殿の為、懸命に偽の刺青人皮を作っていた。しかしその最中に、男は事故にあって、ついに中尉にもう一度会うこと無くこの世を去った。亡くなる直前、俺に託したのが数枚の偽物で、そこにあるのがその内の一つだ。そういえばその時、剥製屋が確かシロクマの毛皮を着ていた」

 

上半身だけの男は、俺の顔をちらりと見て、すぐ目をそらした。なんという顔をしているのだろう。傷ついた子供のようだ。そんな青年を見るのは辛かった。

なるほど。ここに居たんだな、剥製屋。

 

「さも苦しかっただろうな」

 

「……どこを見ている?」

 

剥製屋を見ていた。同情半分、 もう半分は恐ろしくもあった。これは他人事では無い。俺も中尉に認められる前に、死んでしまうやも知れんのだ。

 

「着替え終わりました軍曹」

 

「………そうか、俺もだ」

 

 

軍曹の方へ振り返ると、何か言いたげな顔だった。そういえばさっき話しかけられた気がしたが、なんと言ったんだろうか。

改めて「さっき何か仰ってましたか?」聞き返すも、「いや、いい」としか言わなかったので深追いはせず、話を戻した。

 

 

「それで、下準備というのはどういう事をすれば良いのですか?」

 

「エサまきだ」

 

月島軍曹の目が俺から卓上の人皮に移る。

今俺が着た、このいかにも呑んだくれと言わんばかりの服と、医務室時月島軍曹が言ったことを思い出し、軍曹殿の言葉の先を読む。

 

「つまり、偽の刺青人皮を、小樽の港町に流せばいいんですね」

 

「そうだ。正しくは、ある賭博場に、だが」

 

頷きつつ、月島軍曹が新聞記事の切り抜きを、机の上に広げてみせた。

『稲妻強盗と蝮のお銀』と目立つ見出しが載っている。

 

「この稲妻強盗の男が元囚人で、今回の獲物だ。コイツも囚人に掘られた刺青を探し、金塊を狙っている」

 

「金塊を狙う者が他にも?金塊の噂はよほど有名なんですね」

 

「………………ああ」

 

探るような目つきだった。月島軍曹は気づけば、いつもこんな目で俺を見ている。

だが、俺はあまりそれを気に留めていなかった。あいにく、探ったところで知られて困る後ろ盾もない。まったく気を配らず、思ったままに言った。

 

「もしかして、本当に金塊があったりして」

 

一瞬、月島軍曹が目を見開いて俺を見た。

それからまた、いつものしかめっ面に戻って、裸電球の明かりを消す。

 

「………………さっさと行くぞ…」

 

何か変なことを言っただろうか。それを尋ねる暇もなく、先を急ぐ月島軍曹の後ろを追って、部屋を出た。

もちろん、剥製屋もその後に続く。

 

 

○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

 

【第七師団:小樽の街】

 

「眠らぬ街とはこの事ですね」

 

最初に会ったときから、奇妙な男だとは思っていた。いまや金塊捜索作戦の一員ともなった者が、今さら金塊の存在を認めかけているなんて、茶化しているとしか思えない。今は笑えない事を言う必要などないだろうに。

俺は「無駄口は控えろ」と睨んだ。すっかり敵意を隠したつもりだが、中尉殿に言わせれば、まだ露骨な言い方に聞こえるらしい。俺自身は、中尉の憶測と高橋の不可解な言動で、特に自分の振る舞いを変えるよう意識したことはなかった。

高橋と会話するとしばしば出た、的はずれな受け答えが引っかかっていたせいかもしれない。いや、これはもう認めて、鼻についたと言うべきか。

笑えない軽口を言ったり妄言を言ったり突飛も無い事を言ったり、連隊内でも高橋の言動の裏を読み、推測が入り乱れていた最中だ。ここ1、2週間で『高橋はただの天然馬鹿』という仮説が急速に定着してきたように感じる。しかし俺にはその仮説さえ、高橋がこちらの隙を作る為の作戦に思えて仕方なかった。

いつ見ても表情が乏しいうえに、得体の知れない男だ。隙が無い。どんなことがあっても、気を許すことはできない。

 

「いいか。このエサ撒き、本来なら俺だけでやるはずだったが、今日は二人で行う」

 

「ええ、そう中尉殿がおっしゃられたんですよね」

 

わざわざ俺が確認した意図を高橋は察したようだ。自分から話題を振ってきた。

 

「中尉殿の疑心は尽きませんか」

 

「近頃はずいぶん寛大になられた。気前が良い日には、でかい勤めでお前を使う事もある。今みたいにな」

 

「そうか……それは良かった」

 

独り言のような声だった。また高橋が言った。

 

「反乱分子扱いですか」

 

「お前のことか?」

 

「違います」

 

「……俺たちを裏切るつもりなら遠慮なく言え」

 

「それは無いです。ここに居られなくなる」

 

俺は歩みをピタリと止めた。しばらく話せば、やはり勘に触る男だ。堪忍袋の緒も切れそうになるが、努めて冷静を装って聞いた。

 

「鶴見中尉に忠誠を誓ったのは、ここに居るためだけの手段だったのか?」

 

「そうですよ」

 

衝動的にその胸倉を掴む。冷静さはすぐ消えて、高橋が薬指を切った時、少し見直した気持ちさえも、たちまち失せていく。

 

「貴様、」

 

「冗談です、落ち着いてください軍曹殿」

 

「………笑えない冗談だ」

 

言い終えて、掴んだ首元を突き放した。キョトンとした表情で高橋がこちらを見る。本当に心の内が読めない男だ。

 

「笑えませんか…?」

 

「当たり前だ」

 

それからしばらく、裏路地に回って黙々と歩いていた。

 

「そういえば、このようなやり取りは前にもありました」

 

「お前が喧嘩を売って、こんな風に簡単に買ったヤツが俺以外にいたのか」

 

「喧嘩?売ったつもりはありませんが……そうか、そういう誤解があったから尾形殿もあの時不機嫌に」

 

「尾形、だと?」

 

また俺は足を止めて高橋の顔を見る。

 

「いつ尾形と話した」

 

「月島軍曹、この進歩だと賭博場に着くのは朝になりますよ」

 

「いいから質問に答えろ、尾形といつ話した?お前が小樽に来たのは尾形が脱走する少し前のはずだ」

 

「話したのはその脱走の前日です。その時ちょうど俺は看護助手の使役に駆り出されていて、医務室にいる尾形の世話も見ていました。その際に脱走の企てに乗るよう誘われました」

 

怒りでこめかみがズキリと痛む。怒鳴るべきではない、それでは相手の思う壺だ。落ち着け、落ち着けと自分で自分をなだめた。

 

「なぜ黙っていた?鶴見中尉に、あれ程尾形と脱走の事で何か会話したのか尋ねられていただろ」

 

「脱走の時に何か話したか、としか聞かれませんでした。俺が話したのは脱走の前日」

 

「屁理屈を言うな。どちらにしろ、そういう事は早く言え。わかったな」

 

「はあ、分かりました」

 

覇気のない返事に、もはや呆れさえ覚えた。

この態度に尾形がキレたというのなら、不本意ながら尾形に同情する。本当にわかっているのか怪しい。

 

「尾形と話した内容は、また詳しく聞く。いいな」

 

「はい。でも本当にたわいもない話しかしていません。俺を育てた祖母が実は赤の他人だったとか、尾形上等兵が弟を殺した張本人だったとか、そういう話を」

 

「『たわいもない』………?」

 

また俺は歩くのをやめて、高橋の顔を見た。

お前にとって、それは取り留めもない事なのか。どういう神経をしているんだ。俺が過敏すぎるのか。それとも白兵戦を生き残り、剣技を極めた猛者となると、ここまで懐が深くなるのか。

 

「軍曹殿、そう何度も止まられると、いよいよ朝になりますよ」

 

「………もういい、俺は何も信用しない事にする」

 

「分かりました」

 

そのあと、目も合わせず黙々と歩き、やっと大通りまで出た。かつて大通りまでの道のりが、こんなにも長く遠かったことがあっただろうか。

本当にこの勤めが上手くいくのかも、もはや怪しくなってきた。そんな心配から少し息をつく。

一方隣の男はそんな俺の心など露知らず、涼しい顔をしていた。いや、というよりか、心なし目が輝いてさえ見える。

 

「……横浜みたいだ」

 

高橋がそっと呟いた。第一師団の名残りを感じた。おおかた、住み慣れた街と小樽のこの広い通りが重なったのだろう。

 

「似ているのか?」

 

「人の身なりはまったく違います。ですが、この活気はよく知っています。ああ…懐かしい」

 

懐かしいという感情がこの男にもあったのが、驚きだった。すると、そんな思いが顔にも出ていたのか、高橋がこちらを見て目を細めた。

 

「どうされました、変な顔をされて」

 

「お前が珍しい事を言うからだろ」

 

「たしかに……初めてこの土地の魅力を見つけた気がします。景色を褒めたのは初めてだ」

 

「そういう事を言っているんじゃない」

 

「月島軍曹殿はここが好きですか?」

 

不意をつくように、高橋が首をやや傾けて尋ねた。これは流石に、ただの興味本位で聞いていることだと分かる。少しだけ肩の力を抜いて答えていた。

 

 

「……嫌いではない。賑やかだと気がまぎれるだろう」

 

「無礼講というやつですね」

 

「そういうことだ。だが、今は勤めの最中だという事を忘れるなよ」

 

「ええ……あ」

 

二、三度頷いたかと思うと、素っ頓狂な声を漏らして、再び俺の顔を高橋はのぞき込んだ。

 

「月島軍曹殿、賭博場へは兵士として潜入するのでしょうか」

 

「いや……この格好だ。本土から流れて来た、出稼ぎ労働者として振る舞うのが妥当だろう」

 

そこまで言えば、高橋の言いたいことはおおかた読めていた。神妙な面持ちで高橋が言う。

 

「ということは、演じる必要がありますね」

 

「そうだ。ひとまず、軍曹殿と呼ぶのは控えろ高橋」

 

「分かった月島」

 

「月島『さん』だ、高橋」

 

不安が立ち込める先行きだ。果たしてこの勤めが滞りなく進められるかだろうか。疑った矢先だった。

 

「むっ……何を止まっている高橋」

 

「月島さん、あそこ見てください」

 

指をさす方へ目を向けると、まだ明かりの灯る屋敷があり、扉が開きっぱなしのために中は丸見えだった。玄関口では、三十代半ばと思われる着物姿の女性が、そこの旦那らしい男と会話していた。別に変わった様子はない。

 

「美しい方だ。男がいなければ結婚しかったのに」

 

「おい、笑えない冗談はやめろと言っただろ。いい加減怒るぞ」

 

「冗談のつもりはありませんが」

 

冗談だと言ってほしかった。しかし否定した本人は、驚く俺を置いてまた歩み始める。そしてあろうことか、また別の女を見て「綺麗な人だなあ」と熱いため息を漏らしていた。

驚くことに、賭博場に着くまでその繰り返し。歩んでは目移りし、独り言を吐いて、うっとりしてまた歩く。

 

「……小樽には美しい方が多いですな」

 

「まさかとは思うが、さてはお前……女好きか」

 

最初は聞き間違いかと、そう思ったがそうでもなかった。所構わず、女がいれば目移りする高橋。

俺がそう問い詰めたところで、目をパチパチ瞬かせて答えた。

 

「何言ってるんですか、男はみんなそうでしょう。それに俺達はいつ死ぬか分からんのですよ、早く女を作るのに越したことはない、そう考えるのが普通のはずだ。月島さんは真面目ですね」

 

誰よりも堅物そうな面をしているくせに、何を言っているんだ。色恋には無縁を貫く模範兵のほうが、むしろ高橋には合うではないかとさえ思っていたのに。「確かにそうだが、」と半分納得してみせて、否定を続けた。

 

「普通はお前ほど、あからさまじゃないぞ」

 

「なるほど」

 

こう自分で言うのもたいしたものだが、ここはひとまず尋ねることにしてみた。

 

「女に興味が無いとばかり思っていた」

 

「逆です。俺は早急に嫁をもらいたい。そして出来ることなら、乳と尻の大きい別嬪な女ならなおさらいい」

 

いつになく熱く語る高橋の姿は、いっそ清々しく新鮮に見えた。とは言ってもいつも淡々と、命令と勤務をこなし、何があっても表情を表に出さないので、新鮮さより違和感が先立つ。

 

「それは難しいだろうな」

 

稀に見ない高橋の多弁ぶりに、少し苦笑した。

 

「お前は理想が高すぎる。第一、先ほどから無遠慮に婦人を見る癖に、どうして声は掛けないんだ?ため息ばかり吐いても何も起きないだろ」

 

「エッ」

 

「ん?」

 

変な声が聞こえたと振り返れば、そこには耳まで赤くした高橋が俺を見下ろしていた。あまりにも露骨な反応でこちらも一瞬戸惑う。それは顔には出さずに言った。

 

「お前…………………童貞か」

 

「そ、そそそそ!そのようなことは!今は!関係ないでしょう!月島ぁ!」

 

「さん」

 

「月島さん!!」

 

高橋の表情は、普段とほとんど変わらない。しかし声は裏返り、手が弁明をしようと空回って、不気味にさまよっている。明らかに焦っていた。

 

「……別に気にする必要はない。軍でも指定遊廓の利用は推奨されている。いざというとき行けばいい」

 

「い、言われなくても分かっています!」

 

「なぜ怒ってるんだ」

 

稀に見る高橋の動揺ぶりは、ほんの少し笑えた。

 

「俺には俺の都合があってですね。遊廓へ行こうにも金がありませんでして。そもそも金で女を買うというのは違うでしょう、たしかに俺は尻と胸がでかい女なら誰でもいいとは思っておりますが」

 

「お前最低だな」

 

あまりにも包み隠さず語るため、ここまで俺が想像していた高橋の従順な優等生という印象が、大きな音を立てて崩れていった。すでに『無神経な童貞』という人物像が上塗りされかけている。

 

 

「……茶番はここまでだ高橋。あれが例の油問屋だ。あそこに行って、俺達は賭けでわざと負け、最後の掛け金として偽の人皮を差し出す手はずになっている。分かったな?」

 

「はい。……もし、うまくいったら」

 

顔を見なくても、高橋がこちらに期待の眼差しを向けているのはわかっていた。望み通り、言ってほしい事を口にする。

 

「鶴見中尉は、少しくらいお前を認めてくれるだろうな」

 

「……月島サンにも?」

 

刀を研ぐような、不穏な低い声だ。表情を悟られぬよう静かに、答えを濁した。

「うまくできたら、の話だ」

 

それから黙って油問屋の暖簾の前まで歩く。

途中、俺は気づかれぬよう、さりげなく隣をうかがった。白兵戦を生き残ったのは伊達じゃないらしい。童貞臭い動揺は消え失せ、比べ物にならないほどの冷静さを取り戻していた。横顔は人を殺しかねない雰囲気さえある。

 

「…ヤット………シテクレル」

 

その時、かすかに高橋の唇が動いていた。呼吸に紛れて何か言っている。

耳をすます。

 

「コレナラ、鶴見サン……ヨシヨシ…ナデナデ」

 

聞き覚えのある台詞だった。すぐに、あの剥製屋の口癖であったことを思い出す。しかも声こそ違えど、その顔には明らかに江渡貝を生き写したような、ヤツの面影があった。

 

「…鶴見サン…二、鶴見サン二…、鶴見サン…」

 

若干、朦朧とした目が江渡貝のものと重なる。その瞬間背中がサッと冷たくなった。

 

「高橋」

 

思わず呼び止めると、普段と変わらない気だるげな目がこちらを振り返えった。まばたきをして、不思議そうにこちらを見る。

 

「はい、なんですか?」

 

「いや…なんでもない。気を引き締めていけよ、ここから兵だと悟られてはいけないんだ」

 

「分かってます。それにしても、月島さんよく足を止めますね。日が暮れてしまいます。早く行きましょう」

 

「………ああ」

 

気のせいか。いつもの調子で癇に障る事を言ってみせる高橋。俺が歩き出すのを確認すると、先頭を切ってそのまま暖簾をピンッと跳ね、くぐって行った。

 

「やってるかい、俺たちも混ぜてほしいんだが」

 

「上でまだまだ盛り上がってるさ。あの調子、今日は朝までだろぉよ。ここんとこ、ずっとそうだからな。おや、あんたら初めてかい?カモにされねぇよう気をつけろよ」

 

「どぉも旦那。心配いらねぇや、俺ぁ賭け事には腕に覚えがあるのさ」

 

油問屋に入った途端、流暢に江戸っ子が混ざった標準語で店主の嫌味をかわした。平然とした様子で店内を進む。店主の横に据えていた男に銭を渡し、何枚か木札を受け取っていた。それに続いて俺も何枚か木札を取る。

 

「慣れているな」

 

先を進む高橋の背中に言った。

 

「小さい頃、旅先でばあさんの賭場行きに付き合わされとりましたから」

 

「巡業していたのか」

 

「ええ、日本各地でばあさんと芸を」

 

階を上がり、高橋が障子戸を開けると中は活気にあふれていた。

数名の視線がこちらを向く。高橋は気にせず、六寸の体で堂々と部屋に入り、やや隅の方へ腰を下ろす。

 

「さあ続けた続けた。俺らも混ぜとくれよ」

 

どこから見ても本土からの流れ者にしか見えない。

 

「…………」

 

ピシャリと戸を閉めて、俺は隣へ腰を下ろす。「……あの」座った高橋が手で止めた。奇妙な目で高橋が俺を見上げている。

 

「なんだ?」

 

高橋が迷惑そうに眉を寄せて言った。

 

「戸は静かに閉めてクダサイ月島サン」

 

それだけ言うと、またなんでもないように賭けへ興じようとする。「半!!」と威勢良く、高橋が3枚の木札を置いた。

一方で俺の体は凍りついていた。俺を見上げたその表情は、生前の江度貝そのものだったのだ。

 

「……お前まさか」

 

「ささ!兄さん方もはったはった!」

 

威勢がいい男の壺振りの一人が言葉を遮った。返事を待たずして、壺振りが盆蓙(ぼんござ)に置いた壺を開いた。「勝負!」と声を上げる。

 

「サ二の半!」

 

「お」

 

なんと読み通りに半が出た。

高橋の手元に戻ったのは4枚の木札と残りの木札。顔を見れば眉ひとつ動いていない。いつもの高橋の顔であったが、そこからは別の不安が降って湧いてくるのだった。

 

「高橋、分かっているな。俺たちは負けに来ているんだ」

 

「ええ分かってますよ。最後に負ければいいって話でしょう」

 

「長引かせるつもりはないぞ」

 

後ろからトントンと、俺と高橋の間へ何かが置かれた。「景気よくいきましょうよ」とその場を仕切る胴元の一人が言った。

置かれていたのは徳利と盃が二つだった。

断ろうにも、酒を置いた男はさっさと立ち去って行く。

 

「ではさっさと飲みましょう。早く終わらせるんでしょう?それとも酒は嫌いでしたか?」

 

高橋が両方の盃に注いだ。酒が蝋燭の火に照らされて揺れる。盃のふちが挑発するように光った。

 

「舐めるなよ餓鬼」

 

鶴見中尉が普段飲まれない分、俺も飲む機会は減っていた。だからと言って、久しぶりの酒に怯むことはない。

 

「いい飲みっぷりですね月島」

 

「さん」

 

「月島さん」

 

と高橋は調子よく盃を傾ける。飲み干して、まっすぐ俺を見た。

 

「お前のことは好かないが、飲みたいから飲んでやる。図に乗るなよ高橋」

 

「図に乗ったことなどありません。むしろ月島さんとは腹を割って話がしたい」

 

「それはお得意の、笑えない冗談か?」

 

「いいえ」

 

酒を飲む高橋は、まだ俺を見ていた。その目から高橋の思惑を探るがやはり見えてこない。

何度もこうやって探って来たが、無駄だった。もし高橋のボロが出るとしたら、酒の入る今この時かもしれん。

 

「なら望み通り、腹が割れるか試してみるんだな。もっとも割れるのは………お前が先かもしれんぞ」

 

「俺は負ける自信はありませんよ」

 

「いちいち癪に触る男だ」

 

二杯目の酒を盃に、俺と高橋はぐいと飲んだ。

 

壺振りの声がまた掛かる。

 

「さア!ツボのハンかぶります」

 

「サァさ!はった!はったはった!」

 

振り返り、俺と高橋が同時に札を突き出した。

 

「半!」「丁!!!」

 

 



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16

もう徳利は7本目に入っていた。今のところ賭けも負けが少なく、月島殿が手を止める素振りも見せない。どちらにしても勝負がつきそうになかった。

 

 

「お前さんなかなかいい読みしてるね。ずいぶん勝ち越してるじゃねぇか」

 

近くに座る浪人が、俺の手札を見て言った。馴れ馴れしい態度は嫌いじゃない。俺は酒を注ぎながら自分にしては愛想よく答えた。

 

「どうも」

 

「この辺じゃ見ない顔だ。流浪の旅でもしてるのかい?」

 

「いんや、これから船で一儲けしよって考えてたところだ。今の小樽にはわんさか金が集まるんだろう?」

 

「やはりな」

 

納得した様子で煙管(きせる)をふかして、意味ありげに笑った。舌の回りが危うい。だいぶ酔っていることが分かる。

 

「……何がおかしい?」

 

月島軍曹が視界の端で話を聞いているのを察した。長話にならないよう気をつけて、男から話を聞き出す。

 

「ヘヘッ、俺もそのつもりで本土から流れてきた一人さ。ただそう上手くはいかなかった。地元の奴に邪険にはされたが、今の小樽は流れてきた者の方が多い。問題はそこじゃなかった、流れ者の中に曲者(くせもの)が混じってたのよ」

 

「曲者?」

 

男の手元に酒を注げれば、ますます顔を赤くして口を開く。そのたびに興味は引かれていった。横目でうかがうと、隣の月島軍曹の目もこちらに釘付けだった。

 

「ああ、豪商の一人が幅を利かせておった。そいつは流れ者からみかじめをせびって、その金を元手に鉄道会社を経営してる」

 

「鉄道会社………なるほどその豪商一人が小樽の利益食いつぶすつもりだな」

 

「そうだ。流れ者を総じて仕切り、小樽の土地から札幌まで北海道全部モノにしようって魂胆さ」

 

鉄道は今や、物と人の要だ。それを景気のいい小樽でやるなら、なおさら繁盛することだろう。

万が一、この勢力が鶴見中尉にとって目障りになるなら、俺たちは全力で潰すが、現時点では手出しする程ではない。

ただの興味本位で自然に問いかけた。

 

「その曲者の名は?」

 

「高橋っていうヤツさ」

 

「「ブフッッ!!!」」

 

思いもよらない名前に、俺も月島殿も同時に酒をこぼした。二人して咳き込む様子を見て、酔っ払いは首をかしげる。

 

「どうしたんだい、二人揃って。それと隣のお前さん、俺たちの話を聞いてたんだな?」

 

「まあまあいいじゃねぇか、面白い話だね旦那。もっと聞かせてくれよ、その高橋ってヤツの話」

 

「そうだねェ……どうしようかね….」

 

やけにもったいぶる様子に、何か引っかかるところだが、俺は落ち着くよう心がけて、言った。

 

「どうした?早く教えてくれよ」

 

「いやなァ、この高橋って野郎はやり手なんだ。アイツの息のかかった野郎はウヨウヨ居やがる、どこで聞かれててもおかしくない。これ以上話すと俺の命があぶねぇのさ。タダじゃ話せないね」

 

男がチラリと俺の手札をみる。最初からこちらが狙いだったという訳だ。

 

「なるほど、そういう魂胆か」

 

「どうだい?その山の半分くれりゃァ、好きなだけ教えてやるよ。高橋の事を」

 

「…そうだな………」

 

顎に手をあてたあと、月島殿の方へ目をやった。これ以上深追いするのもいいが、与太話で長居になりそうなのが気がかりだ。すでにだいぶ居座っている。時計に目をやれば、それは一目瞭然だった。

案の定、コクリと月島殿が頷く。

さっさと負けて、場を引こう。

 

「悪いがこれぐらいで………」

 

「それにしても師団が邪魔だねェ」

 

「……………は?」

 

突然降って湧いた話題に、あげた腰をすぐ据えた。目をやれば、それを言ったのはほとんど喋らなかった別の浪人のようだった。

問題はそこではない。

 

「どういうことだ」

 

「高橋の野郎の口癖さ。『師団が邪魔だねェ』っていつも言ってらぁ」

 

どういうつもりだ、という意味で尋ねたつもりだった。相手もかなり酔っているようで、察しが悪く、ただの質問として受け取ったらしい。

 

「高橋が?」

 

低い声で聞き返せば、ほかの手の空いた男たちから順に口々に声をあげた。

 

「そりゃもう、最近は特にだよ。奴が行く先々に軍の手が回っていて汚れ仕事には目を光らせてる。大方、軍の方も北海道の土地の利権を狙ってんだろう」

 

「そうそう。だから軍の息がかかった店は、高橋に上納金は払わねぇのよ。軍の支援金もらってるから高橋に冷たくされようと、怖くねぇ。高橋はそれが気にくわないのさ」

 

「今の小樽は、高橋派と師団派で分かれてるってェ言っても過言じゃねぇな」

 

そういう事かと納得する反面、不思議な感覚だ。俺と同じ苗字の男でも随分と師団を嫌っているようで、同じであるのは苗字だけだと改めて思う。高橋はよほど強欲な男らしい。

 

「俺は高橋派だねェ、なんてったって高橋のが気前はいい。特に女に関しちゃ、金を惜しまない。他も男も巻き込んで遊びやがる。分かりやすくて面白いね」

 

「俺もだよ」

 

「俺もそうさ、いくら北鎮部隊といえど、ここのところ軍人さんは態度がでかすぎる。労働者を顎で使う者が多くなった」

 

「わしも高橋につくなァ。軍人さんは横柄でいけないや。最近ははぶりも悪いし、おっかないよ。この間なんか、誰の断りもなく漁の収穫を半分よこせと言いやがった」

 

「そうさ、そもそも小樽の街と兵営が繋がってるのが、師団通りの一本道だけというのが不便で仕方ねぇ。何様のつもりだアイツらは」

 

男たちの舌が回るにつれ、隣の席から息の詰まるような威圧が増していた。

俺は、ちらりと背後に視線を送った。月島殿の表情は不明瞭である。

それでも、ずっと黙りこくった軍曹殿がこの言葉の数々をどう受けたのか、想像に難くない。

 

「…………」

 

俺の視線に気づいた月島殿が、傍らに偽刺青人皮を見せた。

 

「……」

なるほど、軽く頷いた。

これ以上不快な思いをするより先に退散せよ、と言いたいらしい。

納得しきれずにいる、その間にも、季節労働者達の愚痴は続いていた。

 

「戦争帰りがなんでぃ!アイツら国に食わせてもらっとる癖に態度がでかすぎる!」

 

「軍もひと皮めくれば、俺たちと変わらん貧乏人の集まりだと言うのに!けしからんわ!」

 

「そうだそうだ!」

 

男たちが盛り上がる中、体の内側で糸の切れる音が聞こえた気がした。

そして、そこから体が勝手に動き始めたのだ。

 

「僕はそう思いません」

 

どん、と盃を置く音が大きく響いた。これで8杯目の徳利がちょうど無くなった。

しかし、こう口走ったのは酔ったからじゃない。

 

「…………兄ちゃん、今なんつった?」

 

「何度でも言いますよ。僕はそう思いません。万が一いたとしても、軍が横柄なのは一部のみだと思います。それかあなた達が、鶴見さんを恐れる心の裏返しで、そう感じるだけではないですか?鶴見さんも月島さんも僕を認めてくれた素晴らしい人たちだ」

 

つらつら言葉が口から出てくる。

自分で自分の喋ることに予想がつかなかった。とめどなく静かな威嚇のような台詞と、怒りが湧いてくる。

剥製屋が憑いているのだと、やっと悟った。

 

「威勢良く罵ったところで自分が偉くなったと思わないでください、これだから育ちの悪い人は嫌いなんだ」

 

「な、なんだてめぇ……」

 

男たちの声には明らかな動揺があった。

煽り文句と分かっていながら、その気迫に気圧(けお)されていたのだ。そういう俺も自分の物の言いように驚かされている。

 

「…………」

 

「………………」

 

両者とも口を開かない。出方をうかがうような沈黙がしばらく漂っていた。仕切り役の壺振りさえも口を閉ざしてた。

そんな中で、ひときわ大きな声の男がそれを破った。

 

「半」

 

ドンと畳に音を響かせ、その手の下に3円(約6万)程の小銭を叩きつけた。「おおっ」と周りの者たちがどよめく。男はこちらをまっすぐ見据えて言った。

 

「喧嘩をするなら賭場らしく、賭けで勝負しよう。アンタが負けたら高橋派になると誓え」

 

燃えそうなほど、カッと頭が熱くなる。剥製屋が怒り心頭になっているのが、じかに伝わっていた。

本人にとって、それほど屈辱な事はないのだろう。

 

「勝負しないのかい?」

 

しかし、怒りで我を忘れるほど愚かな男ではないしい。なんせ負ければ、こちらの誇りも金も根こそぎ持って行かれることとなる。さすがの剥製屋もその勝負には思い留まっていた。

 

「…………負ける勝負を買う馬鹿がどこにいる」

 

これは俺の台詞だった。剥製屋も同意見のようでおとなしい。

 

「ヘッヘッヘ、たしかにそうだ。アンタ賢いねぇ。場を読んで、そこまで勝ってるだけはある」

 

木札の山は俺の前に健在してる。

髭に手を当てて、男がケタケタ笑って言った。次の言葉までは。

 

「しかしなァ………ただ賢いだけで、面白くねぇや」

 

「面白くない?」

 

男の言葉に固まっていた。頭を鈍器で殴られたように、しばらく動けないでいた。

 

「…………わかった」

 

けれども、しだいに自分が激しく怒っていることに気づいた。そして気づいた時には遅かった。

 

「爆笑王、あなたならどうしますか?」

 

「………丁の目だ」

 

一瞬だけ軍曹殿と目が合う。

俺はすぐそらし、静かに懐に手を入れて小銭をぐいと引っ張り出した。

ちょうど3円、手に握って、「フフッ」ふと笑いがこぼれる。すぐに相手を睨みつけた。

 

「丁」

 

放り出した3円に、男はにんまり笑みを浮かべた。

 

「あんたら面白いね」

 



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17

【第七師団:小樽の兵舎】

 

賭博場を後にし、兵舎に戻る頃には、夜空は東からうっすら橙の膜が張るように、明るくなり始めていた。

皆が寝静まった兵営の中を、出来るだけ足音を忍ばせて進む。軍曹殿の自室に着くと、「ほら」と言われて差し出されたのは隊服だった。来る前に脱いだそれを受け取る。

 

「あとの報告は俺がしておく」

 

「ボロ負けした報告ですか?それとも」

 

「馬鹿者、無事偽の刺青人皮を賭場に流せた報告だ」

 

嗜め半分、否定しないのは恥ずかしながら事実であったからだ。

最初に威勢良く喧嘩を買ったはいいものの、あの後散々負け越して、ついにはそれまで勝っていた山から自分の所持金もすべて持っていかれた。

計画通りといえば間違いないが、やりきれない。季節労働者達の鼻っぱしらを折れなかったことが悔やまれる。

しかし、月島殿はまったく堪(こた)えていない様子で、淡々と話を続けた。

 

「おそらく明日の休憩時間、鶴見中尉からまた呼び出しがあるはずだ。明日は二階堂に振り回されてないで、早めに来るようにしろ」

 

「分かりました」

 

軍曹殿の言う通り、最近二階堂には手を焼いている。『優しくする』ように気を付ければいいのだが、大雑把とババァに言われて育ったので、なかなか難しい。鶴見中尉の呼び出しだけは、必ず二階堂を優しく説き伏せて、遅れないようにしなければならない。そんな心積もりをしていると、まだ部屋に入らず、月島軍曹がこちらを見ているのに気づいた。「なんですか?」と尋ねる。

 

「この後、寝るつもりか高橋」

 

「いえ……どうせじきに朝になります。このまま病院に行って今日の代理不寝番のヤツと交代してやろうかと」

 

「本気か?」

 

月島殿が目を丸めてこちらを見た。だがどう考えても寝る時間はない。どうせなら起きていた方がいいと考えた末の答えだった。

 

「眠くはないのか?」

 

そう尋ねる軍曹殿の目はどこか虚ろだった。鬼のような方だと思っていたが、案外人間らしいところもあったのだ。軍曹は眠いんだろうな。

 

「俺はまだまだ目が冴えてますから」

 

まだ緊張感が抜けない。それを素直に答えたが、軍曹殿はまだ納得いかない顔であった。

 

「お前、あれだけ酒を飲んでおいてよくそんな事が言えるな」

 

ああ、と賭博場での様子を思い出す。結局飲み比べの勝負はうやむやとなり、8杯目以降の徳利の数は数えていない。

 

「軍曹殿こそ休まれないのですか?結構飲んでたでしょう貴方も」

 

「俺はこのあとやる事がある。明日も少尉殿の付きっきりで勤務があるんだ。そもそもお前よりは飲んでいない」

 

「そうは言いますが、だいぶ飲まれていたはずだ。やはり軍曹殿は酒、お強いようですな」

 

指摘すると、図星のようで軍曹殿は頭をかいて答えた。

 

「5瓶空けたお前が言うか?」

 

「いつもより少ない方です」

 

本当のことだった。もっと飲みたいのが本音だが、勤務で潜入している手前飲むことに集中するわけにはいかず、控えたほうだ。

 

「末恐ろしい男だ」

 

「あなたこそまだまだ飲めそうだった。飲み比べの決着は持ち越しですね」

 

「そうだな」

 

少しくだけた様子で、軍曹殿が笑った。理由は分からないが、俺が面白かったのだろうか、と嬉しくなる。こちらもつられて、少し頬が緩んだ。

 

「それに、飲まないとやってられんでしょう」

 

「…間違いないな」

 

「疲れを取るには酒が一番です」

 

「それは分かるが…あれだけ飲めば疲れを取るより先に潰れるのがオチだ」

 

「それは無い。潰れれば、それこそせっかくの酒が飲めなくなるでしょう?俺がそんなもったいない真似するはずない」

 

「めちゃくちゃな言い分だな。お前が酒好きなのはよく分かったが」

 

「違います。酒と女が好きなんです」

 

「だまれ童貞」

 

軍曹殿の物腰はだいぶ柔らかくなっていた。さては少し酔っているな、と疑う。

 

「しょうもない事を言ってないで今日は休め、勤務は昼からでもいい。俺から他の者には伝えておく。これは命令だ、いいな」

 

「了解であります」

 

ポンポン。軽く二回ほど、軍曹殿の手が肩に乗る。

 

「……良い返事だ」

 

普段ならこんな良い待遇はない。これはいよいよ軍曹殿が酔っていると確信した。

それにしても、腫れ物のように扱われるのに慣れているため、これはこれで調子が狂った。

気恥ずかしさから、早く立ち去りたいとは思った。「高橋」また月島軍曹が呼び止めた。

 

「なんですか?」

 

「………ヨ、ヨシヨシぺロペロされたいのか?」

 

「…………………………………」

 

これはかなり酔われてるな。俺はこの時ばかりは頭が一瞬考えることをやめていた。

すこしの間をおいて、言葉を探す。

 

「先ほど、俺は、女が好きだと、そう、強く、言いましたね?言いましたよね?」

 

「誤解するな。鶴見中尉にヨシヨシされたいのか、と聞いたんだ」

 

「いやどっちにしてもおかしいでしょう、何度も言いますが女が、特に胸と尻が、死ぬほど好きなんです俺は」

 

「そりゃそうだ」

 

「分かってて聞きましたよね?」

 

「ああ」

 

「『ああ』?」

 

余計にその台詞の真意がわからない。どういう魂胆でそんな質問を俺にしたんだ。

 

「鶴見中尉に褒められたいと言っていただろう、だからまさか、と思ってな」

 

まさか?まさかでヨシヨシペロペロは連想しないだろう。どう考えてもしない。これはそうとう酔っているな。

 

「認められたいんであって、褒められたい、とは違います。中尉にはまだ警戒されていますから、すこしだけでも緩めてもらうのが目標なんですが…」

 

「難しいだろうな」

 

「でしょうね。道のりは長い」

 

「だが、その思惑は悪くない。一方的に心酔しすぎて、早死にするよりずっと良い」

 

まるで、そうなって死んでいった者を見たことがあるかのような言い草だった。思い当たる者が一人いる。

 

「剥製屋のことですか?」

 

「……………」

 

 

月島軍曹殿はしばらく答えに迷ってらしたが、やがて独り言のような声で言った。

 

「俺も一旦休む、お前も休むんだ」

 

「………分かりました、失礼します」

 

煮え切らない思いのまま、部屋を後にする。振り返れば、まだ剥製屋の姿が後ろにあった。彼は月島軍曹殿を心配そうに眺めている。二人の関係は俺が思うより、複雑なのかもしれない。

俺はそんな思案をしつつも、二階堂が眠るであろう医務室に向かった。

 

 

○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

 

 

【第七師団:小樽の病院】

 

少し無理をしすぎたようだ。疲れが一気に押し寄せていた。以前なら、これぐらいなんともなかったのだが。

 

「はぁ………」

 

 

俺は医務室の扉を前にして、もう一度廊下を振り返った。あの剥製屋の姿はもう見えない。別の場所をさまよっているんだろう。

 

俺は扉をできるだけ静かに開け、手短にあった椅子に腰を下し、体を休めた。少し暗くはあったが、すでに朝日の気配が窓からうっすら差し込んでいる。汗が落ちた。脂汗が混じっているようだ。袖で拭くと、体がかすかに震えているのがわかる。

 

「………」

 

遠い夢のような、横浜での記憶を思い出していた。

あの頃も、ババァの仕事の合間に、俺の震えが止まらない事が多々あった。その時、ババァは決まって俺を風呂に入れた。「今から清めるからじっとしてな。『みんな』、アンタの体が欲しいから、離れたくないのよ。寂しいのよ。しっかりしなさい」そう言って、頭を3分水に漬けっぱなしにさせられたのだ。死にそうな思いをしたが、そうすることで震えは収まっていた。「これでもう大丈夫」とババァが満足そうに笑う、あの恐ろしさも忘れていない。

 

「………………」

 

ガチガチ歯が鳴っている。震えがひどくなっている。

今は風呂に入れない。

震えが収まるまで待つしかない。

しかし、男の声が頭に響いた。「体ヲクダサイ。ヨシヨシペロペロ、鶴見サン二サレタインデス。体ヲクダサイ。体ヲクダサイ高橋サン」と繰り返し耳元で囁く。

 

「うるさい」

 

「………………………だれ?」

 

むくり、と人影が寝台の上に起き上がった。

声は掠れていたが、すぐに二階堂だとわかった。

 

「俺だよ、浩平」

 

優しい声が、意識せずに出ていた。疲れた自分の意思に反して、颯爽と二階堂の元に駆け寄る。

 

「おかえり、洋平」

 

「おう、今帰ったぜ。浩平」

 

にっこりと微笑む二階堂が言った。

俺もなぜか笑っていた。さては『二階堂洋平』が憑いているな、と今気づく。

 

「寝てろよ、まだ夜だぞ」

 

「洋平が起きてるからいいもん」

 

俺、否、洋平が手を頬に添えれば、くすぐったそうに二階堂は目を細めた。拒みはしなかった。

 

「やっと話せたなぁ洋平」

 

歯を見せて二階堂は笑っていた。

その表情は今まで一度も見たことないものだった。

 

「……………」

 

俺は黙っていた。この笑顔が完全に洋平にしか見せない素顔なのだろう。その顔を見て、やるせなさがこみ上げる。

 

「やっと会えたなぁ浩平」

 

「次はいつ会える?」

 

首をかしげると、洋平が眉をひそめた。

 

「分からねぇ。俺はいつでも会いてぇ。でもよぉ浩平、結局はコイツの体しだいだぜ。高橋の体は入りにくくて仕方ねぇんだ。今は剥製屋のおこぼれで隙ができたおかげで入れたが、普段ならこう上手くはいかねぇぞ」

 

「早く会えないの?俺、早く会いたいよ!洋平ッ」

 

「早く会うには高橋を説得するしかねぇよ浩平」

 

なるほど、俺の体を本格的に乗っ取るつもりのようだ。そうはさせない気ではいるが、少しの間なら貸してやらなくもないとも思ってしまう。

洋平の時だと、俺は二階堂に『優しく』できるようだった。俺だけの力では二階堂を優しく扱えない。

そう考えている間も、二階堂は洋平と会話していた。

 

「エ〜〜ッ!でもそれってすご〜く面倒臭いッ!」

 

「そうだ、それは面倒臭せぇよなぁ」

 

「じゃあ俺も死んで、二人で高橋の体を奪うのはどお?」

 

「それだと杉元を二人で倒せなくなるぜ、浩平」

 

杉元の名前が突然出て、俺は混乱した。なぜ杉元がここで出てくる?コイツらがなぜ杉元を知っていて、しかも恨んでいるのか。まったく見当がつかない。

 

「お前は生きて、俺は高橋の体を使って、二人掛かりで挑んだほうが確実に杉元を殺せる」

 

「分かった、じゃあまだ俺生きてるね洋平」

 

「そしていつか絶対ぇ二人で杉元を殺そうな浩平」

 

「うんッ!絶対だよッ!」

 

洋平と二階堂は、互いに額をひっつけて微笑んだ。

 

「……………」

 

なんて不穏な会話なんだ。

黙って見ているが、口を出したい。

それに、ただの知り合いといえど、ここまで言われようは、流石に杉元に同情する。杉元がお前達に何をしたっていうんだ。

 

「あ」

 

一瞬だけ、視界が暗くなった。

疲労で首の力が抜けたのだ。

 

「大丈夫?」

 

「俺は平気だぜ浩平。だがよぉ、このまま起き続けりゃ、こっちの体の限界で気絶しちまうかもなぁ」

 

 

当たり前だろと、言ってしまいたかった。しかし依然として体の主導権は洋平が握っているらしい。俺の意思ではビクともしない。

そんな折、二階堂が自分の掛け布団をめくってみせた。端に寄り、ポンポンと寝台の空いたところを叩く。

 

「一緒に寝ようよ、洋平。ココッ!ココ入ってッ!」

 

やめろやめろ!

 

「わかった浩平」

 

わかるな!俺は男寝る趣味はない!

拒絶する本心とは反対に、体は靴を脱ぎ始める。

この双子はどこまで仲がいいんだ?ベタベタ触るのでは足りないのか。

 

「わ〜〜いッ!洋平と一緒だッ!」

 

勘弁してくれ!叫び出したかった。

体はおとなしく、二階堂のすぐ隣で横になる。

もう嫌だ。そう頭を抱えたくなった時、ふと二階堂の顔が目に飛び込んだ。

 

「あったか〜いッ!」

 

俺の体に身を寄せてそう言った。目尻を下げて、心底嬉しそうに。

 

「俺も」

 

洋平の手が伸びて、また二階堂の頬を撫でる。

答えるように二階堂も俺の頭を撫でた。

 

「ヘヘッ」

 

俺の腕と布団の中に収まる二階堂の顔には、いつものへの字口は浮かんでいなかった。安らぎに満ちていた。瞳は和み、口元には微笑みをたたえている。これほど幸せそうな表情を、俺は見たことがなかった。

 

「………………」

 

しばらくその状態であった。だが、ずっとは続かなかった。

 

 

「………オイ、二階堂」

 

「高橋?」

 

しかし俺が声をかけた途端、パッと腰に回っていた左手が離れる。

 

「もう?もう高橋になったの?もうなの?」

 

窓から光が差していた。

朝日が昇りきった今、洋平の気配が消え去って、急に体の主導権が戻ったのだった。………………

 

「早すぎない?」

 

露骨に不満そうだ。

 

「悪かったな、兄弟水入らずを邪魔して」

 

俺はゆっくり二階堂から身を離し、その布団から出ようと身を起こす。

 

「俺では不満だろう、すぐ出ていく」

 

「…………別にいいよ」

 

しかし起こした体は、ぐいと引っ張り戻された。「ぐえっ」蛙に似た声が飛び出る。再び温かい布団の中に押し込まれた。

 

「高橋、昨日の夜から頑張ってるんでしょ?寝てればいいじゃんッ!」

 

「いや、しかし、俺は」

 

俺がよくないんだ、俺は男と寝る趣味は無いんだと、言いかけて口を閉じた。唐突に眠気が襲ってきたのだ。

 

「……いや、だめだ。まだ、まだ…やる事が」

 

「俺も寝るから高橋も寝るのッ!寝なきゃダメなのッ!」

 

「わかったわかった、わかった寝るから目を押すな」

 

強制的に瞼を閉じさせようと、容赦ない二階堂の手のひらが目を覆う。二階堂なりに気を遣ってくれているのだと嬉しいが、やはり洋平との会話よりは素っ気なかった。

 

「……おやすみ二階堂」

 

同じように手を頬に添えてやったが、

 

「…………」

 

パシッと叩かれた。もう二階堂に可愛げは求めない。またへの字口を浮かべている。この野郎、一応俺の方が上官だぞ。

俺は体を反転させた。二階堂に背を向けて寝ることにした。

 

「………おやすみなさい、高橋ぃ」

 

それは意識が沈む寸前。

背中越し、二階堂の声が聞こえた気がした。

 

そしてそれとは別の誰かが耳元で囁く。

「マダ僕ハ、諦メテイマセンカラネ。高橋サン」

剥製屋がにっこりと微笑んでいた。



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18

【第七師団:小樽の兵舎】

 

時刻は現代で言う午後6時になろうとしていた。

廊下に男の慌ただしい足音が響く。

 

「チッ………」

 

具体的には、鶴見中尉から呼び出しされていた時間になる。主に昨日の報告とこれからの作戦確認。

しかし今回下準備をした、肝心の高橋の姿が見当たらなかった。どこの部屋を覗いても居ない。病院まで行って確認していないが、恐らくまた二階堂に引き止められているのだろう。

 

「……遅れるなと、あれだけ言ったはずだ」

 

ひとり呟くのは、良心で忠告した月島軍曹だった。昨晩、賭場での様子に少し見直しそうになっていたのだが、さっそく撤回しそうになる。

 

「月島ぁ!」

 

鶴見中尉の将校室の前に鯉登少尉が立っていた。先に到着したらしいが、まだ入るのを躊躇っていたらしく、月島と目が合った途端にどこか安堵した表情となった。

 

「遅いぞ月島。もうすぐ鶴見中尉に呼ばれた時間になる」

 

「先に着いたのなら、こんなところで立っていないで、中で待っていればいいでしょう鯉登少尉」

 

「……………早く着きすぎても、いかんだろう」

 

苦しすぎる言い訳だった。

だが、今はそれより気がかりな事が月島軍曹の頭を占めていた。

案の定鯉登少尉がそのことに触れる。

 

「……ところで今回から囚人狩りに参加するという上等兵はまだ来ないのか?上官より遅れるとは、たるんどるのではないか」

 

「おっしゃる通りです」

 

庇いようがないことだった。

これ以上遅刻すれば、積み上げた信頼はまた地に落ちることだろう。

高橋について元より期待はしていないが、その様を見ていて気持ちのいいものでもなかった。

 

「……少し様子を見てきます。鯉登少尉は先に中で待ってください」

 

高橋は医務室にいるはずだ。中尉の部屋から踵を返して、見に行ってやるつもりだった。しかし襟元を引っ掴まれて足が止まる。

 

「待て月島!私をひとりにするな!」

 

そう言って唾を飛ばす少尉は、見るからに焦っている。上官といえ月島はあえて低い声で制した。

 

「少しだけですから、早く入っていてください。すぐに戻ります、鶴見中尉にもそうお伝えください」

 

「無理だ一緒に来い!」

 

強情さに月島軍曹の偏頭痛が再発する。

語調を強めて、ふたたび言った。

 

「ですから、少し離れるだけだと言ってるでしょう!」

 

「月島!」

 

「無理です」

 

「月島ぁ!」

 

「無理です」

 

「月島ぁあ!!」

 

「何を騒いでいる二人共」

 

「月し…キェエエエエエ!!!(猿叫)」

 

部屋の扉はいつの間にか開き、押し問答する二人の間に音もなく鶴見中尉が立っていた。

猿叫と共に鯉登少尉は月島の襟元から手を離し、ワタワタと取り乱す。一方それを横目に、月島軍曹は粛然と敬礼をして言った。

 

「お騒がせして申し訳ありません鶴見中尉。実は高橋がまだ来ていない為、医務室まで様子を見に行こうかと思案しておりました」

 

「ほお……高橋上等兵が?一体何に手こずっているんだ」

 

顎に手を当てて尋ねる。その様に傍にいた鯉登少尉は見惚れていた。淡々と月島軍曹が答える。

 

「分かりません、先日の呼び出しでは二階堂の世話が長引いて遅刻していました。ただ、今回は事前に二階堂に構わず、早急に集まるよう釘を刺していたんですが」

 

「それもあまり効果がなかったようだな」

 

「すみません」

 

呼び出した本人に遅刻が知れてしまえば、庇うこと以前の問題だった。医務室に行くのは諦めて、高橋不在のまま話を進めるか。月島軍曹はそう割り切りろうと考えていた。

 

「では、私の方から高橋の元に出向いてやろう。仕事ぶりも見てみたかったから、ちょうどいい」

 

「………」

 

月島軍曹だけでなく、鯉登少尉の言葉も失っていた。一介の上等兵の元に、しかも遅刻中の部下の元にわざわざ向かう話は、どこでも聞くものではなかった。

 

「お待ちください中尉。高橋上等兵はすぐ連れ戻して参りますから、もう少し時間をください」

 

月島軍曹の言葉に鯉登少尉も大きく首を縦に振る。しかし、その訴えもどこ吹く風と、中尉は先頭を切って廊下を進むのだった。

 

「お待ちください」と月島軍曹と鯉登少尉が何度か止めるが、言葉ひとつで中尉が止まる訳がなかった。結局中尉共々、気づいた時は病院の医務室まで来ていたのだ。

 

 

 

○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

 

 

【第七師団:小樽の病院】

 

 

「つ、鶴見中尉殿!」

 

医務室の前に着くと、医者がちょうど席を外すところと重なった。突然の来訪に、医者の方もギョッとしていた。高橋の件について尋ねてみるつもりだった。

 

「高橋なら中にいますよ」

 

しかし訊く前から分かっていたようで、医者はそれだけ告げるとそそくさと場を後にした。いつも高橋が何か迷惑をかけるので、早く回収してほしいのだろう。

月島軍曹はとりあえず礼を言う。すると去り際に、「本当に、いつまで寝てるつもりなんだか。あれでも上等兵ですか」と、吐き捨てて言った。

 

「……寝る?」

 

中尉は静かに、人差し指を額にあてて言った。中尉の次の言葉を遮るように、月島が扉を開ける。

 

「高橋上等兵!お前まさか……!」

 

居眠りしているんじゃないだろうな!と月島軍曹はとっさにそう思った。思えばここ数日寝ていないのに加え、昨日は8瓶以上酒を飲んだ。まさかとは思うが、あれからずっと寝ていたんじゃないだろうか。

声を震わせて、部屋を見渡す。

 

「高橋!」

 

月島軍曹が呼ぶ方にはひとつの布団饅頭があった。

妙なことに、二階堂にしては布団の膨らみが大きすぎる。よく見れば細長い足先が布団からはみ出ていた。二階堂の寝台で居眠りか。

月島軍曹の読み通りだった。

 

「……おい、起きろ高橋!」

 

呆れて息をつき、容赦なく布団を剥ぎ取った。

そしてその瞬間月島軍曹、鯉戸少尉、鶴見中尉さえも目を見開いて固まった。

 

「……朝ぁ?」

 

二階堂と高橋が、布団の中で抱き合って寝ている光景がそこにあった。「んんっ」突然の部屋の光に、どちらともなく悩ましげな声を出す。

先に起きたのは二階堂だった。小さく瞬きをする。

それから、その口を高橋の耳に寄せた。

 

「起きてよ高橋ぃ。朝だよ」

 

嫌な汗が月島の頬をつたう。

 

○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

 

 

 

ガツンと俺の頭を誰かが叩いた。一瞬、剥製屋かと思ったが、ヤツはすでに死んでいる。しかも外は明るいので好きに振る舞えるはずがない。

 

「高橋、起きろ。今何時だと思っている」

 

軍曹殿の声が頭の上から降ってくる。気がつけばやけに部屋が明るかった。裸電球の明かりである。つまり今は夜であるということだ。

 

「はっ、すみませ…!」

 

寝台から跳ね起きて、周囲を見回す。そばに険しい顔の軍曹殿が立っていた。そこから大失態をしてしまったことを悟る。

 

「呼び出しの時間は」

 

「過ぎている、当たり前だ」

 

「申し訳ありま…」

 

ガスの臭いが、鼻に来た。眠気を誘うようなそれを嗅いだ瞬間、首の力がガクッと抜ける。

 

「どうした?」

 

区切りを悪く、急に俺が口を閉じたので月島軍曹が問いかけた。

一方で俺は頭をゆっくりと持ち上げ、ぐらついた体勢を手直す。自分の意思と関係なく、ある人物に目が釘付けになっていた。

 

「…………鶴見さん」

 

うっとりした声が出ていた。

沸騰しそうな熱が、頭に集まる。嬉しさと感動がこみ上げてくるが、あきらかに俺の感情ではなかった。

剥製屋が体に憑いている。

 

 

「鶴見さああん!」

 

 

布団から飛び出して、俺はまっすぐ鶴見中尉に走りよっていた。やめろ!止まれ!

必死に訴えるが、剥製屋は鶴見中尉に両手を広げている。

 

「鶴見さあん!ボクに与えられた役目、ムダじゃありませんでしたよね!いっぱい褒めてくれますよね!やっとボクはヨシヨシペロペロしてもらえるんですよね!鶴見さぁぁあ……」

 

「キエエエエエエエッ!!!!(猿叫)」

 

瞬時の出来事だった。一直線に進む俺、もとい剥製屋を突如として大きな衝撃が襲う。

次に気がつくと俺はうつ伏せで地面に倒れていた。

 

「どういうつもりだ貴様ぁ!!!」

 

般若の形相で剣を抜いた男が立っていた。

軍服の仕立ての良さと、目立つ褐色の肌ですぐさま誰かが分かった。

 

「申し訳ありませんでした鯉登少尉殿、鶴見中尉殿」

 

とっさに謝罪の言葉を並べる。どうやら今の一撃で体の主導権が戻ったようだ。

切れ長の目が、さらに細くなって俺を睨みつける。

 

「どういうつもりだと聞いているのだ高橋上等兵!ヨシヨシペロペロとは!一体何をしてもらうつもりだったのだ!」

 

「少尉?」

 

眉をひそめた軍曹が言う。けれども少尉は聞く耳持たずで、銃まで俺に向けていた。

 

「答えろ高橋上等兵!」

 

「………………分かりかねます」

 

「とぼける気か貴様ぁ!!!」

 

少尉が良いところの坊ちゃんで、気難しい方だというのは事前に知っていた。だが、それにしても答えにくい質問をする。

 

「すみません、寝ぼけておかしな事を口走ってしまいました。本当に申し訳ありません」

 

「『寝ぼけて』……だと?」

 

うまい言い訳を考えたつもりだった。

ところが少尉殿の眉間の皺はいっそう深くなっていく。

 

「あれのどこが『寝ぼけて』いたというのだ。おのれ高橋上等兵……泣きついて許しを乞い、どさくさに紛れて鶴見中尉に抱きつこうとするとは。そこの一等卒とも抱き合っておきながら、見境なく男を求める事、恥を知れ!」

 

「…………なるほど」

 

誤解が誤解を招いて、もはや別人の話のようだった。

言いたいことは色々とあったが、とにかくひとつだけ訂正したいことがある。

 

「俺に男色の趣味はありません」

 

「説得力がないぞ高橋」月島軍曹殿がため息をつく。

「そうだったのか高橋」意外そうに鶴見中尉が声をあげた。

「何も分かっとらんぞ貴様」鯉登少尉が歯をむきだして怒る。

 

 

はて、思っていた反応とは違う。てっきり「当たり前だろう」と言ってもらえると思っていたのだ。

俺が首を傾げていると、鶴見中尉が笑った。

 

「それでは私にも興味が無いように聞こえるぞ高橋上等兵」

 

「当たり前です」

 

まさか自分が言うことになるとは。とっさに出た言葉だったので、上官に対して不敬ではあった。

俺は非礼を詫びるために、「申し訳ありません、生意気な事を言いました」と付け加える。

 

「熱烈に私に迫った末、私に薬指と接吻まで捧げておいて冷たいなお前は」

 

「キエッッ(猿叫)!!?」

 

鯉登少尉殿が泣きそうな声を上げる。

 

「先ほどの姿も、ついに私に手なずけられたと思ったのだが?」

 

鶴見中尉は構わず尋ねた。忠誠を誓うのと、手なずけられるのは違う。

少しずつ近づきながら、地面に倒れている俺に語りかけた。

 

「一瞬、お前が私のかつての友と重なったのだが、あれも勘違だったんだな?」

 

「いいえ。先ほどの奇行は俺ではなくすべて剥製屋がやっていたことです」

 

鶴見中尉殿が怪訝そうに顔をしかめたが、それは一瞬だった。

 

「お前が得意な口寄せで、江渡貝くぅんをその身に宿していたと言いたいのだな?まったく面白くない洒落だ、そういうところだぞ高橋」

 

「口寄せではなく、勝手に剥製屋が取り憑いておりました。これは洒落でも冗談でもありません」

 

鶴見中尉は片手を出してみせた。この手をとって起き上がれと、無言の圧力がかかる。

 

「ありがとうございます、しかし」

 

俺は身を起こし、その手を取らずに、素早く立ち上がる。俺は差し出された手とは逆の手を盗み見た。その手にはしっかり拳銃が握られている。

 

「上等兵ごときに気遣いはいりません鶴見中尉殿」

 

「釣れないやつだ高橋。口説き落とすのはまだ先になりそうだ」

 

満足そうに中尉殿は笑っていた。目が笑っていないその笑顔が本当に恐ろしい。簡単に心を許す訳にはいかないと改めて思う。

 

「遅刻の罰は後ほど受けます、ですからまずは部屋を移させてください」

 

「そうだな、後でたっぷりお仕置きしてやろう」

 

それを眺めていた鯉戸少尉は、俺をさらにきつく睨んだ。親の仇のような目である。「チッ…」舌打ちまでしてきた。かなり怒ってらっしゃるようだ。

 

「……一生遅刻しないようにします」

 

「その言葉忘れるなよ高橋。それと鯉戸少尉のアレはあまり気にせんでいい」

 

中尉殿と少尉殿が部屋を後にして、同じく出て行く月島軍曹がすれ違いざまに言った。

俺はそれを肝に銘じつつ、後に続く。

 

「高橋ッ!今日も朝まで?」

 

二階堂がこちらを呼び止めた。

 

 

「いや、すぐ戻るぜ浩平」

 

軽く手を挙げて、答える。安心したように二階堂は頷いて見送ってくれた。

 

 



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19

【第七師団:小樽の兵舎】

 

報告の内容としては、人皮を無事に賭場で流した事ももちろんだが、大半が脱走前夜に俺と尾形上等兵が話した事であった。

 

「てっきり、脱走時の事を聞かれているのだとばかり思っていました。申し訳ありませんでした」

 

「てっきり、とは随分余裕があるな高橋。私なりに『脱走について知っている事を洗いざらい吐け』と脅したつもりだったんだが?」

 

鶴見中尉はフルフル、と首を振ってため息をつかれた。おっしゃりたいことの意味を汲み取るのは苦手であるものの、今の表情は『呆れ』を示してのだと最近分かってきた。

 

「今一度はっきり言おう、造反について尾形、または他の連中とのやり取りを洗いざらい話せ」

 

「はい」

 

これ以上中尉に呆れられてはいけない、そんな思いで詳細に丁寧に事の経緯を話した。それはもう、たわいも無い事から尾形上等兵の言動ひとつひとつまで。しかし、くわしく話せば話すほど、中尉は眉をひそめ、軍曹や少尉の眉間も険しくなる。

 

「……つまり、尾形上等兵は脱走前日までに喋れる状態であり、造反して中央に持ちかける件を触れ回っていたという事だな?しかも花沢少尉の死因についても言及したと?」

 

「そうです。それと、同じ事を俺以外に触れ回っていたとするなら、考えられるのは北見と園田くらいでしょうか。尾形が寝たきりになって医務室を出入りしていたのは、今挙げた者だけですから。それに、尾形上等兵は医務室以外に移動はしていなかった。いくら喋れるとはいえ、自由に動き回ることも困難でしたでしょうし、何より監視の目もあるので出来るはずがありません。よって他に内通する者は、北見と園田くらいです」

 

 

推測まで添えるのは出すぎた真似かもしれないと思いつつ、はっきりしている事はすべて吐いたつもりだった。

鶴見中尉は、「最初の渋り様が嘘みたいに簡単に喋ってくれる」と笑みを浮かべていた。

月島軍曹殿といえば特に表情を変えることはなかったが、話の最中何度も視線を少尉殿に移すのが気になった。当の少尉殿は黙り込んだままだ。中尉殿を前にすると、寡黙であったので、このままずっと黙っていらっしゃるつもりだろうか。

 

 

ところが、だいたいの話が区切れた時、少尉殿がポツリと言葉を挟んだ。

 

「花沢少尉の話は、尾形がお前に振ったのか?」

 

月島軍曹殿が静かに目を伏せている。さらに顔を険しくさせて。

俺は首だけ少尉殿に向けて答えた。

 

「はい」

 

「嘘をつくな……高橋上等兵!」

 

鯉登少尉殿は物凄い剣幕で吐き捨てた。

 

「嘘ではありません。俺はあの脱走前日、尾形上等兵からに言われました。『花沢少尉は203高地で確かに俺がその頭をブチ抜いてやった』と」

 

「そんなわけがないだろう!ふざけた事を言うなぁあ!!」

 

予想はしていたが、案の定鯉登少尉は俺の胸倉を鬼の形相で掴みかかった。元より俺に避けようという意思は無く、突きつけられた拳銃は深く首に食い込んだ。

 

「勇作殿は敵陣へ邁進した末にっ!我が軍の誉として誇り高くこの世を去られたのだ!貴様尾形上等兵の言い分に乗っかってその名誉を汚すつもりだろう!」

 

「違います。俺もその時は耳を疑いました。ただ、尾形上等兵本人がそう言うもんですから」

 

「それ自体法螺(ホラ)だと言っておるのが分からんのか高橋上等兵!」

 

それはない。あの時、隣で花沢少尉殿本人も『そうだ』と頷いていたのだから。

その旨を伝えようと口を開きかけたところで、月島軍曹が後ろから鯉戸少尉を引きはがした。

 

「離せ月島ぁ!こいつは師団の恥だ!不敬の極みだ!身をもって分からせねばならんのだ!離せ!」

 

「落ち着いてください少尉」

 

落ち着いた声の軍曹殿が、一層大きく騒ぐ鯉登少尉の声でかき消える。

鶴見中尉は手を後ろに組んだままその様子をしばらく見ていたが、静かに俺に尋ねた。

 

「私もその話には驚いたぞ高橋。尾形上等兵が自身の手で花沢少尉を撃ち抜くのは動機こそ無くとも、実際問題実行は可能だ。あながち新事実とは考えられなくもない…………だぁが」

 

中尉は両手を解いて、俺に顔だけを向けて言った。ひっそりと右手が軍剣に添えられている。

 

「なぜ、そのような個人的な話を、わざわざ尾形はお前に話したんだ?」

 

まただ。俺はまた中尉に殺されそうだ。そう察してしまうほど、空気は張り詰めていた。かつて左手の薬指のあった付け根が無いはずの指を震わせる。

 

「やはり尾形上等兵とは以前から面識があったんだろう?そしてまだ密かに通じている……違うか、高橋」

 

「いいえ。尾形上等兵とまともに会話したのはあの人が下顎を負傷した後の事です。それに、以前から俺と話しても尾形上等兵は露骨に舌打ちする事が多かった。おそらく仲は良くなかったと思われます」

 

「かなり、良くなかったようだな」

 

「そうかもしれません」

 

「そうに決まっている」

 

そこまで言われればそうなんだろう、素直に「俺は嫌われていました」と頷く。

 

「しかし……それならますます分からん。なぜ、仲の悪いお前にそんな告白を尾形はした?」

 

さあ、と首をかしげようとしたが、ふとその日の会話を思い出した。尾形上等兵が俺を法螺吹きと言い放つ直前の会話。たしか、あの時、花沢少尉の口寄せを行ったのだ。

 

「確信はないのですが」

 

「言ってみなさい」

 

「おそらく、俺が花沢少尉殿の口寄せを行なったのが気に入らなくて、話されたんだと思います」

 

「……………」

 

鶴見中尉が、俺を見つめたまましばらく黙り込んだ。ゆったり笑みを浮かべてはいるものの、それは形だけの笑みで、目はどこか遠くを見ていた。

やがて変わらず微笑みを浮かべたまま、おもむろに額に手を添えた。

それから「フー」と、目を伏せて中尉が息をつく。

 

「…………」

 

 

何か言おうと、少し口を開けたが、中尉殿はすぐ閉じた。

そしてそれが何回か繰り返して、それでも何も言わなかった。

 

 

「俺が口寄せをしたから、だと思います」

 

「聞こえてる、ちゃんと聞こえていたぞ高橋上等兵」

 

 

ではなぜ、何もおっしゃらないのだろう。

首を傾げていると、その様子さえも良くなかったらしく、例によって鶴見中尉は首フリフリをして呆れている。

 

「口寄せが出来るなど、寝言は寝ていいなさい。それともまだ頭が寝ているのか貴様」

 

「失礼しました。正確には、口寄せではなく自己流の降霊術です。俺の祖母……いや知り合いの者がやっていた事の見よう見まねで、花沢少尉殿に体を貸しました」

 

「違う違う、話をややこしくするな。ちょっと黙りなさい高橋」

 

手で制されたので、頷いて口をつぐむ。

 

「とにかく、花沢少尉が死んでもなお尾形上等兵の近くにいる、と告げたわけだな?」

 

こっくり、小さく顎を引いた。

正しくは少尉殿を自分に宿し、少尉がいかに兄を想い心配しているのかを打ち明けてもらった訳だが、始めに説明したうえで黙らされている。

これ以上口寄せについての言及は不要だろう。

 

「この際、口寄せが妄言でも冗談でも、どちらでもかまわん。重要なのはその内容の信憑性だ」

 

窓の外に鶴見中尉は視線を移しながら言った。遠くを眺めるような目つきだ。

 

「もし、その話が本当なら尾形が造反した事が不自然ではなくなる。ヤツは中央に恨みなど元から抱いていなかったことになるからな」

 

なるほどだな、と心の中で呟く。

尾形本人もあの時打ち明けたように、中央へのけじめとして自害した亡き父親も実は尾形上等兵が殺したらしい。それも含めて考えれば、親と腹違いの弟の死を尾形上等兵はもともと望んでいたようだった。

望んでいた二人の死に中央がどう建前を装おうと、目の敵にするほどの事ではない。

 

 

「尾形上等兵はハナから我々を裏切るつもりだったということでしょうか」

 

月島軍曹殿が尋ねる。その言葉に鯉登少尉の拳が微かに震えていた。忠義に厚いお方なのだろう、よほど尾形上等兵の造反が気に入らないらしい。

鶴見中尉は腕を後ろで組んで、うーんとうなる。

 

「そうとも限らん……と言いたいところだが、杉元達と共闘して白石由竹を奪還してきたことを鑑みれば、あながち間違いではないかもしれん。ヤツが杉元との協力を元々見越していたかは不明だが、あっさり手のひらを返すあの潔さ……父君の名誉と第七師団の為に戦う気は無かったに違いない」

 

「どうした高橋」

 

月島軍曹が俺に問いかけたので、二人の視線もこちらに向けられた。困惑が顔に出ていたらしく、それぞれが俺を探るように視線を送る。

 

「何か気になることでも?」

 

首を振る。気にしないでくださいと、伝えたかった。

しかし何を取り違えたか、すかさず鯉登少尉が拳銃をこちらに向ける。「怪しい、早く吐け」と目で訴えられている。

 

「………」

 

手を使って、なんとか伝えてみようと試みた。

『杉元が何故そこで出てくるんですか?』と、空気に指で字を書いてみたり。身振り手振りで尋ねてみたり。

 

「喋っていいから早く答えろ高橋」

 

「杉元は金塊と関係あるんですか?」

 

質問をした月島軍曹が目を丸くする。

聞かれたから答えたのに、他の二人も戸惑った顔でこちらを凝視していた。

 

「高橋上等兵、お前は本当に何も知らないらしい」

 

鶴見中尉が顔フリフリで呆れ顔になる。また呆れられてしまった。弁明のつもりで、すかさず俺は声をあげた。

 

「金塊についてはおおかた理解しているつもりです」

 

「その金塊を探っているのは我々だけではない」

 

確かにそうだ、と頷く。傍(かたわら)でフンっと鼻で笑う鯉登少尉殿。気にせず俺は鶴見中尉の話に耳を傾ける。

 

「もちろんほかの囚人やその囚人に触発された輩が嗅ぎつける事もある。金塊を追い求める一派の内のひとり、それが杉元だ」

 

「なるほど」

 

脳裏に、奉天会戦帰りの民家で飲んだ記憶が過ぎった。金が必要だ、惚れた女の目が悪い、と呟く横顔。動機は十分ある。

あの時その金を稼ぐ点だけに関しては、俺は背中を押したい気持ちだったのだ。

今、杉元は敵対する派閥にある事は、さすがに理解できる。あの時戦友だった者が、そんな立ち位置になっているとは、正直複雑だ。

 

「他の囚人も、杉元のように、仲間を作って金塊を狙っているんでしょうか?」

 

尋ねる俺に、月島軍曹は目だけで頷いた。

 

「そうだ。現在は元囚人の土方、牛島が永倉新八と結託していることは確認済み。他には知っての通り、今回狙う稲妻強盗も蝮のお銀と行動を共にしている。それ以外にも囚人が点々と散らばり隠れているが、そいつらの所在ははっきりしない為、協力者がいるかどうかも分からん」

 

「お前は杉元と親しかったのか?」

 

鶴見中尉は何かを期待するような目でこちらを見ていた。

 

「………」

 

改めて問われると難しい。知り合ったのは旅順攻防戦が一旦静まった後、所属の歩兵連隊が合流したつかの間の休憩の時である。それに、それからわずか数ヶ月程度で杉元に会うことは無くなった。この先も会うことはないと思っていた。

本当に短い期間、偶然が重なっただけの仲だ。わざわざ思い返すほど深い訳でもない。しかし、嫌いな奴ではなかった。ふとその顔を思い起こして「元気かな」と心配りする程度には、好感は持っていた。

 

「知り合いです、特に仲は良くはありません」

 

「ほぉ……杉元はただの知り合いだと?たしか杉元佐一と高橋上等兵は同じ第一師団から白襷隊として選抜され生き残った、そうだな?それなのに本当に親しい仲にはならなかったのか?」

 

「はい。何度か奉天会戦の帰り際、共に飲むことはありましたが、それっきりです。友人というか知り合いというか、とにかく深い仲ではないですね」

 

「殺せるか?」

 

俺の話を区切るように中尉は言った。薄い笑みを浮かべながら。

 

「杉元佐一と対峙することになったら、お前はすぐに殺せるか?」

 

「もちろん。そう命じてくだされば、必ず」

 

嘘ではない。いくら腹を割って話した仲とはいえ、そこは割り切れていた。それにおそらくそういう状況になれば、杉元もこちらを殺す気で来るはず。自分の生き死にに、相手への情も何もない。俺も杉元もそれが分かっているから激戦をかいくぐって来れた。

 

「よく言ったぞ高橋上等兵。二階堂もさぞ頼もしいことだろうな」

 

「二階堂?」

 

俺は戸惑った。なぜ今の話に二階堂の名前がでてくるのだろうか。

以前、二階堂と洋平の会話に『杉元を殺す』という旨を繰り返し言い合っていた。これはそれの事情を聞く良い機会かもしれない。

 

「中尉、」

 

「そういえば、二階堂はかなり回復してきたようだな。ある程度の勤務なら問題ないらしいが」

 

そのことについて訊くのを遮るように、中尉が尋ねた。

さっきまでの疑問は一旦飲み込んで、報告する。

 

「はい、現状俺の手伝いが無くとも、ほとんどの日常生活はなんとか自力で行えているようです」

 

「二階堂の不自由さを見かねてお前に付きっきりの手伝いを命じたのだ。当初の目的をもう達成しているとは、よくやった高橋上等兵」

 

「ありがとうございます」

 

「もはや二階堂に補助は必要ない。お前は小樽で私の囚人狩りやその他の勤務に集中しなさい」

 

 

鶴見中尉はぽん、と俺の肩に手を置いた。

 

「それとお前に良いことを教えてやる」

 

そして俺の返事を待たずして、俺の耳に口を寄せ、鶴見中尉は言った。

 

「二階堂洋平は杉元佐一が殺した。いっそう杉元が殺しやすくなるだろぉ高橋」

 

横目で見下ろす。中尉と目があった。洋平の敵をとれと言いたいのだろう。

 

「そうですね」

 

「……」

 

俺の答えに満足したかどうかは分からないが、中尉は何も言わず部屋から去って行った。

フー、と首を振る中尉の『呆れ』た顔が頭に浮かぶ。ひっそり振り返って確かめてみようか。その背中を追うように後ろを向いた。

 

「………」

 

しかし、振り返った先にいたのはまるで表情の読めない鶴見中尉の背中。それに加え、般若のごとく顔を険しくして、こちらを睨みつける鯉登少尉殿だった。

 

「貴様ぁ………」

 

「なんでしょうか?」

 

地を這うような低い声だ。正直、そこまで激怒される理由がわからなかった。

思えば、花沢少尉殿の話に触れた時から機嫌が悪くなっていたようにも思う。

 

 

「鯉登少尉殿、まさか花沢少尉とは仲がよろしかったんですか?」

 

「鯉登少尉の父君と花沢少尉殿の父君は同じ薩摩出身で大変仲が良かったらしい。だからこそ少尉同士でも親交があったそうだ、ですよね鯉登少尉」

 

月島軍曹が説明を添えると、険しい表情のまま少尉は大きく頷いた。

なるほど、だから花沢少尉の死の真相にあれほど激昂したのだろう。

そうだ。

そこで俺は考えた。ここは小粋な冗談で場を和ませるべきだと。

俺はなるべく穏やかに、楽しげに聞こえるよう、少尉殿に言った。

 

「少尉殿、花沢少尉は死んでも尾形上等兵のそばにたしかに居ましたよ。あれはおそらく、尾形上等兵が何よりも心配で心残りだったからでしょう。尾形上等兵は花沢少尉に誰より慕われていたのかもしれませんね………というのは、じょうだ」

 

冗談です、と言いかけた時だ。俺より小さい影が突進してきたかと思ったら、また俺は床に仰向けで倒れていた。

 

「きぇえええええ!!」

 

馬乗りになった鯉登少尉が、俺の額に拳銃をつけつけて叫ぶ。

 

「よくも私の嫌っている尾形がっ花沢少尉にっ私より慕われていると言ってくれたなぁ!私を愚弄するつもりかぁ!」

 

「いいえ」

 

「なぜ貴様のようなヤツがっ鶴見中尉に褒められるのだ!お前のようなわけの分からん男が!!っ、花沢少尉の名を語るなぁ!」

 

「鯉登少尉!落ち着いてください」

 

月島軍曹が無理矢理俺から鯉登少尉を引き剥がす。しかし聞く耳持たずの状態は変わらず、羽交い締めで軍曹殿に押さえられてもなお、俺に銃を向けようと必死にもがいていた。

 

「離せ月島ぁ!こいつは体で償わさせねば反省できんのだ!」

 

「やめてください鯉登少尉、殺したら鶴見中尉に叱られますよ。いいんですか」

 

「ぐっ……うるさい!離せぇ!」

 

軍服に土埃がたくさんついている。二人が悶着している間に、俺はその汚れを払って上半身を起こしていた。

その様子を見て、月島軍曹が眉を寄せる。

 

「お前もなぜ火に油を注ぐようなことを言う?」

 

「今のは冗談のつもりだったんです」

 

「お前というヤツは…!」

 

またかそれか、と声にならない叫びをあげ、うなだれる軍曹。そして鯉登少尉を押さえたまま足で器用に扉を開け、部屋から出て行った。

去り際、月島軍曹に引きずられている鯉登少尉が

 

「貴様ぁ!明日私の部屋まで来い!必ず来い!遅刻ならびに諸々の不敬の罰を与えてやる!絶対だ!分かったなぁ!」

 

と怒鳴り散らす。

けれども最後の方は距離が遠くなっていた為、よく聞こえなかった。

とにかく明日は少尉殿の将校部屋に行けばいいのだろう。

俺は立ち上がり、誰もいなくなったその部屋の灯りを消した。

 

暗闇の中、剥製屋がじとりとこちらを見ている。

「イツ、体ヲクレルンデスカ?」

部屋の隅に、二階堂洋平の姿もあった。

「イツ、杉元ヲ殺セルンダ?」

 

俺には答えようもないので「さあ?」と首を傾げて部屋の扉を閉めた。

その後、誰も俺を追ってくる気配はなかった。



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20

【杉元一派:釧路町】

 

杉元たちがバッタの難とラッコ鍋の宴をやり過ごしたあと、お互いさまざまな思惑と猜疑心で探り合いになった。だが、結局はのっぺら坊から全ての答えを得るということで、一同は納得し、共に網走監獄への潜入を行うことになる。

そしていよいよその網走への出発前、釧路町で一行は足を止め、それぞれ旅路に備えて買い出しや情報収集に出向いていた。

もちろん、白石も旅の消耗品を買うため日用品商店にいる。

いつもなら情報収集がてら一人でぷらぷら歩いていたところだった。だが、得意のそれも今は気が乗らず、こうしてすぐ店に入って気を紛らわすことにしたのだ。ため息ばかりが絶えず出ている。

 

「はあ〜〜あ…」

 

白石はついさっき杉元の放った言葉を、また頭に浮かべて思いを巡らせていた。

「インカラマッとキロランケ、旅の途中もしどちらかが殺されたら……俺は自動的に残った方を殺す!!これでいいな!?」

と、そんな物騒な事を言い放ったそばから「なんてな!」とあっけらかんに笑った。

 

「……笑えねぇのはお前の方だっての」

 

そら恐ろしい杉元に、届かぬ声で呟いた。

高橋が面白くないとあれだけ言っておいて、他人の事を言えない。

旭川で捕まった自分をわざわざ助けてくれたとは言え、この先いつ自分も殺される側になるか分かったものではなかった。白石にとってますます笑えなかった。

 

「これ会計ね、おばちゃん」

 

必要最低限の消耗品を手に、会計をしようと店の前の女に声をかけていた。

 

「兄さん新聞もどうだい?」

 

地方新聞は最近よく商店にも置かれるようになり、会計の際ついでに買う人が増えている。

しかし持たされた金は、実のところ白石のものではなくインカラマッからもらったお駄賃だった。

 

「いやぁ…」

 

できれば残りの金は酒や賭けにつぎ込みたい。目下の棚に置かれた新聞を手で制して、断ろうとする。だが、記事の一面が目に入ってその手を止めた。

 

「第七師団がもめ事ね……」

 

紙面へそのまま目を走らせていけば、おおかた内容はこうだ。

第七師団の本部が位置する旭川の軍営の敷地近くに、新しく遊廓ができるそうだが、それが地元住民の反対でどうも設置は見送られているらしい。

 

「こんな地元紙まで取り上げられて、あげく批評の嵐とはなぁ」

 

地元住民の反対意見は新聞社にまで伝染しているようで、文面から第七師団をヤジる言葉が目立つ。

ただ遊廓の話題だけで、ここ釧路町の新聞にまで影響が出ているというのが妙だ。

 

「………そこまで騒ぐことか?」

 

「騒ぐことよ〜、じゃなきゃ師団の思うままになっちまうからね」

 

独り言を拾われ、思わず顔を老婆に向ける。

 

「おばちゃん、なんか知ってんの?」

 

店主らしい老婆は売り物の新聞をヒョイっと手に取ると、その紙面を睨みつけた。

 

「日露戦争開戦前からずーっと約束をしとったらしいのよ、それを師団の偉い方が破ったという話」

 

「その破った約束って遊廓の件かい?」

 

白石が尋ねると、老婆は大振りに右手をあおぐ。

 

「違う違う〜!ほらっ、旭川とこも、小樽のとこも兵舎は町からちょっと離れてるでしょ?兵舎とその近所の人たちは物が行き来しにくいのよ」

 

噂好きなのか、彼女の店番で眠そうな顔はたちまち生き生きしだした。その表情の変化が白石の直感に反応する。乗せれば話す、上等な情報源。

 

「たしかに、言われてみればそうだわな」

 

大げさでも絶妙な相槌で相手は自然と饒舌になっていく。老婆は白石の手の内だ。

 

「軍人さんはいいわよ、特別配給が毎日運ばれてくるんだもの。でもその近所に住む人はどんどん不便になっていってるって。ただでさえ騒がしいのに不便被ってるからね、近所の人たちは、せめて課税を減らしてくれって頼んだらしいの。ずっと前からね」

 

この頃は軍が税収の管理を始め、行政に手を出すようになってきた事もあり、自治体の要望は師団に寄せられる。

しかし、要望が通ることは少ない。そもそも自治体から直接的に軍へ申し出を出すこと自体、珍しくなりつつある。

 

「ずっと前からってどれくらい前だよ」

 

「そうねぇ日露戦争開戦する前くらいかしら。とにかく師団にそういうことを頼んで、その時は偉い方がいいよって言ったらしいのっ。でも口約束だけでね。あとから町長さんが問いただしたら、知らないって言い出したらしいのよ!」

 

「口約束なら証拠がないからなぁ」

 

「それがあねぇ〜〜、あるのよ!しょ、お、こ!」

 

待ってましたと言わんばかりの勢い。

 

 

「え〜〜っ!?うっそー!それってどんなぁ?」

 

そのとき老婆は、先ほどまで饒舌だった口を閉じ、パッと手のひらをこちらに差し出した。

 

「………」

 

ん?何?と首を傾げる白石。その顔を見て、老婆は歯を見せて笑った。

 

「お代は一緒でいいね?」

 

「もぉ〜〜」

 

渋々小銭に手を伸ばす。あっという間にすっからかんだ。意気消沈する白石、それとは逆に店主の機嫌はすごぶる良い。

 

「そう落ち込みなさんなって!これ読んで損はないからね」

 

「はいはい…」

 

今は情報が有利に働く。背に腹は変えられない、と言い聞かせてお釣りと品物を受け取る。

そして差し出された新聞も貰いうけようとした際、老婆が白石の不意をつくように呟いた。

 

「今じゃ高橋さんだけが希望の星さ」

 

「高橋?」

 

聞き慣れた苗字が何故彼女の口から出たのだろうか。目を丸くしていると、後ろにいた客が咳払いをした。老婆も「ちょっと待ってねお客さん」と後ろの人夫に声をかけて、白石にハッパをかける。

 

「さあ、買ったならどいたどいた」

 

「おばちゃん、高橋さんってさ…」

 

「読んだらわかるから!さ、早くどきな!」

 

それ以上は喋りかける暇もなく、店の外に追いやられる。あまりの乱暴さに下唇を突き出して不貞腐れたものの、やはり気になる気持ちは押さえきれず、通りの端に寄って、言われた通り紙面の中から高橋を探した。

 



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21

後日、誤字脱字等修正します。物語の流れも、少々いじります。終始意味不明な文章で戸惑われるかと思いますが、しばらくお待ちください。申し訳ありません。

【追加】
編集の為、一定期間一部のみ公開します。すみません。


【第七師団:小樽の兵舎】

 

 

もうじき朝日が昇る。俺は今日も寝ることができなかった。

最近まで一晩中起きて病院の不寝番をしていたものだから、横になるだけで目は冴えたまま夜を過ごす。

寝返りを打ち、逆側の寝台へ向くと隣の寝台で眠る二階堂の顔があった。

 

「………」

 

パパパラッ!パパラッ!パパラパパ!

じっと見つめていた最中、喇叭(ラッパ)の音が響き、部屋の皆がそれぞれ目を覚ましていく。俺も同じく朝の支度をするが、視界の端の男はただひとり動く気配はない。

 

「……二階堂、朝だぞ」

 

「う〜〜」

 

返ってくるのは言葉ともならない声だけだ。

寝不足なのだろう。夜になると少しうなされており、所謂幻肢痛というのが原因だ。幻肢痛は無くしたはずの足が痛いと感じる病らしい。左小指を削いだ俺でさえ痛いのだから、二階堂の痛みは計り知れない。痛みに耐えられる二階堂を尊敬する。

 

「朝の点呼が始まるぞ。起きるんだ二階堂」

 

せめて何か力になればという思いで、介助係の延長のようにまだ俺は世話を焼いていた。ただ、以前と決定的に違うところは自分がやりたくてやっている、ということだ。

 

「高橋うるさいッ」

 

「分かった静かにしよう、だからとりあえず起き上がれ」

 

「できない!」

 

俺は無言で二階堂を上半身を起き上がらせ、着ていたものを取り替えてやる。朝から義手を動かすのは、他人が思うより苦痛に違いない。

 

「ゆっくりやって高橋」

 

「分かった、分かったから目を開けろ」

 

「眠いもん」

 

二階堂は目をつぶったままだ。どこを見て俺に文句を言っているのか分かりかねるが、この際じっとしてくれてるならそれでいい。

 

「おい………二階堂寝るな」

 

「………………」

 

うなだれた頭に上から声をかける。

かがんで靴を履かせるが、力の入らない脚は思うように動いてはくれなかった。

 

「上官殿がいらっしゃる前に着替えよう。いそげ二階堂」

 

「……」

 

だめだ、やりにくい。やっぱり目を覚まさせたほうがいい。

そもそも頑なにその場を動こうとしないので、俺にできる事も限られてくる。服を着せ、靴も履かせた。あとは股引(ズボン)を履かせるのみ。

かくなる上は、強制的に目覚めさせるしかない。

 

「二階堂、こんな話がある」

 

見下ろす形になるが、俺はできるだけ穏やかに、そして興味を引くよう演技かかった声で語りかけた。

 

「ある街に怖いもの知らずで有名な男がいたそうだ。そして男が住む隣の街には、恐ろしい者が住み着くと噂される無人の屋敷があったんだ。男はもちろん行ってみたかったが、肝心の場所が分からんものだから、屋敷の場所を知る友人を誘って行くことにした。友人は幽霊が見えるそうで強く男を止めたが、男はなおさら面白がった。そんな時友人が言ったんだ」

 

「……」

 

「『廃墟、いついこう?』『はい今日いこう』」

 

「……………………」

 

「………………………」

 

「…………………………」

 

「………………………………」

 

俺と二階堂はただ静かに見つめ合っていた。

しかしながら依然として、二階堂が腰をあげる気配はない。

もう一声か。

 

「それでな、その男と友人はその日の夜に屋敷へ向かった。屋敷は案の定、人の寄り付かないボロ屋となっていた。男はさらに面白がったんだが、幽霊の見える友人は顔を青くして言ったんだ」

 

「………………」

 

「『なんか違和感ない?』『難解、わかんない』」

 

 

「…………………」

 

「………………………」

 

「……………………………」

 

「………そして男と友人はその屋敷に」

 

「もういい」

 

二階堂はそう言うと、腰元までしか履けていなかったを自らあげて、再び俺の目を見た。

 

「もういいから」

 

「なんでもう一度言う?」

 

二階堂は俺をじっと見つめる。しかし、いくらその目を見続けようと、二階堂が訴えようとすることは何も読み取れない。

俺は様子をうかがいつつ、尋ねた。

 

「面白く……なかったか?」

 

「面白くねぇよ」

 

食い気味に二階堂が答えた。

たまにだが、今のように二階堂の言動が洋平と重なることがある。もちろん二階堂が双子で似ているのも当たり前だ、というのは理解している。

しかし二階堂兄弟を見分ける際、『幼いかどうか』で判断していた俺は、そこが曖昧になるといよいよどちらが死んでいるのかが分からなくなってしまう。それが非常に厄介だった。

 

「今回は不発、ということか。次は別の話を用意ておく」

 

「いらない」

 

横を向いた二階堂は、さっきまでのゴネようが嘘のようにテキパキと身支度を整え始めた。

後ろから「本当、もういいよ」と他の兵士達が声をあげる。「遠慮せず」と、振り返ると「冗談じゃない」と真剣に訴える同室の男たち。

俺だって冗談で言ってないと、ムキになりかけたのだが、そうこうしているうちに部屋の外から上官殿が巡回する足音が聞こえてきた。

点呼の際、内務班の現状報告は上等兵の仕事だ。

俺はあらかた部屋を見回して、各自の状態を目視で確認する。

 

 

「ちょっとまて二階堂」

 

「……なに?」

 

呼び止めると、二階堂は迷惑そうに振り向いた。

俺はすっかり口うるさい世話焼き係と思われているらしい。

 

「ボタンが掛け違えている。こんな大胆に着崩して点呼に出るな」

 

「そういう高橋こそ、襟がおれてる」

 

「なんだと」

 

俺は近く足音を気に留めつつ、二階堂の目線に合わせてかがむ。中腰の姿勢で俺は二階堂のボタンを、二階堂は俺の襟を直した。

慣れたもので、というのもこういう場面が最近多い。そしてその度に毎回俺は思う。

 

「こうしていると……」

 

言いかけて言葉を飲んだ。

自分の言いかけた言葉がいかに無神経か、気づいてはいるのだ。ボタンはすでに整っている。

 

「なに?」

 

「いや、なんでもない」

 

「なんだよ」

 

興味をなくしたのか、それっきり二階堂は俺に問うこともなかった。

言わなくていい。

独り言のように呟く。

 

「ほんとになんでもない」

 

一瞬でも、重なった。ババァと過ごした流浪の旅で、ババァが俺の世話を焼く。その姿が今の自分にも重なった気がした。つまり、あの頃の俺が二階堂に重なって見えたのだ。

「こうしていると身内のようだ」

言うだけ虚しいので、死んでも言わない。

 

「気をつけ!」

 

古参の伍長殿の号令により、廊下に向く形で一列に並ぶ。

俺は列の端に立つ。

今週の週番下士官、伍長殿へ員数を報告し、一連の点呼は済んだ。

ただ、去り際に伍長殿がサッとひとこと声を潜めて告げた。

 

「高橋上等兵、お前何かやったな」

 

「何かとは?」

 

伍長殿はなにやら顔に焦り滲ませて、続く言葉も早口である。

 

「少尉がお怒りだ。食後すぐ、少尉の将校室に来るようにと」

 

「鯉登少尉が?」

 

「昨日も一昨日も少尉に呼び出されておるではないか、お前大丈夫か?」

 

大丈夫か、とはどういう意味の大丈夫なのか。

たしかに俺は少尉に突き飛ばされたあの日以来、連日将校室に呼ばれている。しかし将校室でやることと言えば、雑務をこなしたり、清掃に徹するのが主だ。

少尉によれば、『徹底的に掃除しろ、それが罰だ』とのことなので俺は将校室をまんべんなく掃き、拭き、ゴミを処分した。何度か厳しく掃除不足の箇所を叱られはしたが、少尉の物を壊すなどの目立った失態はなかった。

もちろん少尉の大切なものを捨てたなど、なかったはずだ。

 

「大丈夫です」

 

俺は深く頷いた。

 

 



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22

古◯任三郎のモノマネが下手な白石。


【杉元一派:釧路町から離れた道なり】

 

釧路町でそれぞれの買い物を終えた杉元達は、その後釧路町から網走へ向かいしばらく海岸沿いの道を歩いていた。

 

「谷垣ちゃんは高橋と仲よかったんだよな?」

 

話を振ったのは白石だ。

後ろを歩く谷垣は、問いかけに対して少し間を置いてから答えた。

 

「………おそらく、兵営では話していたほうではある」

 

「兵営というと…小樽での生活のことですか?」

 

隣を行くインカラマッの言葉に谷垣は浅く首を振った。

 

「小樽の兵舎は単に潜伏先として利用している、言わば仮の住まいだ。第七師団はだいたい旭川の兵営で生活を送る。高橋とはその旭川で内務班が同じだった。一応小樽の兵舎にも、同じ鶴見中尉の部下として高橋も来るはずだったんだが、ある将校殿の呼び止めで、その時小樽に来ることはなかった」

 

「でも尾形ちゃんが小樽の兵舎から脱走する時、高橋がいたんだよな?」

 

白石がそう言うと、尾形が微かに反応する。最後尾を歩く尾形は目線のみを寄越して、無言の肯定を示した。

 

「高橋は、後から鶴見中尉が旭川から小樽へ呼んだんだ。もともと連れて来るつもりだったのが、それがすぐには叶わなかった。当たり前と言えばそうなんだが、それ以上に長く泳がせておくのが心もとなかったのだろう」

 

「泳がせる?」

 

上官命令で旭川にとどまる、それのどこが『泳がせる』といえるのか。谷垣の説明だと読み取れず、白石は首をかしげる。

 

「高橋って別の上官が旭川に引き止めてたから、小樽に来るのが遅れただけなんだろ。その言い方だとさぁ、高橋がまるで」

 

「ああ……高橋は」

 

「高橋は鶴見中尉に第一師団か中央の間者だと疑われていた」

 

言い淀む谷垣の言葉にかぶせて、そう吐き捨てたのは尾形だった。前髪を撫で付けつつ、鼻で笑う。「ハハッ」と尾形は続けた。

 

「もっとも間者は俺の方だったがな」

 

「タカハシは実際に間者だったのか?」

 

問いかけたのはアシリパだった。面白くなさそうに尾形が答える。

 

「ヤツは違う。前にも言ったが、ヤツは鶴見中尉にご執心らしい。理由はまったくもって分からんがな」

 

「あの人が?」

 

目を丸くして話題に加わったのは杉元だ。

よっぽど意外だったのか、その顔にはありありと『信じられない』という字が書いてある。

 

「嘘だろ」

 

「お前がヤツの何を知っている?俺はたしかに聞いたぞ。鶴見中尉に命を尽くすつもりで第七師団にいると」

 

「あの人がそこまで誰かに、それも男に執着するのが信じられねぇ」

 

「よほど良い条件で第一師団から引き抜かれたんだろーな、それとも…もっと特別な理由か」

 

陽気に付け加えて、白石が言う。妙に真に極まった言い方なのが、杉元も尾形も気にはなったが続けた。

 

「そもそも第一師団から引き抜かれた理由が不明だ、あの鶴見中尉も知らんらしい。別の上官がなんからの理由で引き抜いてきた」

 

「なんらかの理由?」

 

聞き返したのは杉元で、それにすぐ頷いたのは谷垣だ。アシリパも足こそ止めないが、その話に耳を傾けている。

 

「そうだ。なんらかの理由だ。高橋が第七師団に来た頃、それが不明のままだった。ただ、中央に近い上官がやけにこだわって引き抜いた、とだけ確かなことだった。だからか、鶴見中尉が目を光らせて身元を探ったのだが……それでも高橋の身元は分からなかった。いまだに」

 

「ふぅん、なるほどぉ?」

 

白石は声こそ素っ気なくもあるが、谷垣の言葉をよくよく頭で整理するように相槌を打つ。

 

「要するに、高橋という男は中央に関する特別な理由でわざわざ第七師団に補充されたってわけだな?」

 

「そうだ。そして俺と高橋が言葉を交わしたのは日露戦争後、旭川で生活した数ヶ月のみだ。だから理由を探ることも出来ず、これといって仲良く過ごしたわけでもない。それに、俺より仲の良いやつが他にもいたんだ」

 

「……………三島か」

 

目に刺すような光が浮かんでいた。尾形が告げたその名前に、谷垣は顔を強張(こおば)らせて口をつぐむ。

一行は進む足を止めない。しかし、それぞれが意識だけは谷垣に向けていた。それもあってか、谷垣の態度でおそらくその三島が今生きていないことぐらいは察している。さすがに尾形が殺した、とまでは誰も気づくことはなかったが。

 

「……で、白石。突然またタカハシの話題を出したのには理由があるんだろ?」

 

いつになく重く沈んだ空気で、キロランケが言った。いち早くその雰囲気を察し、気遣ってことだった。

 

「さっきから神妙な顔で聞き入って、一体なにを企んでいる?」

 

わざと睨むような物言いで茶化した。キロランケが煙管(キセル)から口を離すと、煙は暗雲が降(お)りるように前を歩く白石の坊主頭へ吹きかかる。

 

「企むなんて大げさな話じゃねぇ。だが俺の見立てが正しいなら、その高橋が引き抜かれた理由が分かる気がわかった気がするんだ」

 

これまた眉をひそめ、さらにわざとらしく声をすごんだ白石を一同は「何言ってんだコイツ」と冷ややかに見つめた。

杉元が呆れ半分で言う。

 

「お前さっきの街で腐りかけの酒でも飲んだ?大丈夫か?頭」

 

「買ってねぇよ、インカラマッちゃんのお駄賃だぜ。もっと身になる物に使うっての!」

 

「それヒモじゃん!谷垣ニシパとお揃いだ!」

「チカパシ指をさすな。それと俺はヒモじゃない」

「ヒモですよ谷垣ニシパ」

 

チカパシたちの言葉をよそに、白石が懐に手を入れる。取り出したそれを、目立つように顔の横にかかかげて言った。

 

「俺が買ったのはこれよ、これ」

 

「新聞か」

 

キロランケが片眉をあげて言うと、答えるように白石がニヤリと歯を見せる。一方で先頭を歩く杉元は愕然としていた。

 

「おい白石……俺はてっきりまた無駄遣いしてたんだと」

 

「ちっちっち、甘いぜ杉元。俺もやるときはやる男よ。今一番必要なのは食料でも寝床でもねぇ……情報だろ?それでこの新聞見たときに、ピンときたんだ。ほらここ、第七師団の事が載ってあるだろ?これは大事な情報源だって見抜いたのさ、俺は」

 

「やるじゃねぇか白石」

 

「見直したぜ白石」

 

杉元とキロランケの称賛の言葉に、「でへっ」と変な声をあげて白石は頬を緩めた。「でもそれは他人の金で買ったんだろ」というアシリパの言葉は流される。

 

「この新聞に第七師団のことと、高橋のことが書いてあった」

 

「なに!?」

 

「ただし、高橋といっても第七師団の高橋のことじゃない」

 

谷垣が驚くのをそのままに、白石は杉元に指をさして尋ねた。

 

「杉元、お前覚えてるか?俺が昨日、高橋ってヤツと似た男が以前同じ監獄にいたって話」

 

「ああ。たしか高橋と同じ苗字、同じく霊が見えて、似た性格、『口寄せ』を本業とは別でやってたっていう、あの」

 

「そうだ。あの高橋が、第七師団の本部と旭川の町ごと一緒に大きく揉めていると書いてあった」

 

 

白石は掲げた新聞を手元に広げて、事の次第をあらかた示して説明する。内容をまとめれば、日用品を売る老婆の話と変わらない。

 

第七師団の本部、参謀長が町長と日露戦争前に交わした約束を無かった事にされたのだ。

約束とは、旭川の兵営付近に住む住民に課せられた町税の減額をする、というものだった。

当初は軍も円満解決を望んでいたようだったが、その時問題になっていた中島遊廓設置反対運動で忙殺され、対応しきれなかった。

中島遊廓の問題とは、兵営付近に新しい遊廓を増やしたい軍と街の対立だ。そして街の風紀が乱れるをことを恐れたその町民たちの抵抗は、日露戦争前から始まり、それ以来遊郭の件でも対立は、今なお続けられている。

 

どちらも日露戦争後に強く町民から訴えられるようになったが、そのように強く申し出を始めたのは日露戦争後で、日露戦争前の訴えは弱かった。というのも、単に町民たちには後ろ盾がなかったからである。師団の上層部もそのことを察していた為、なし崩しで設置に漕ぎ着け、日露戦争後には減額の件も流すことへ意向を変えていたようだ。

けれども日露戦争後になると対立した町の人々には新たな後ろ盾ができた。それが横浜から金の匂いに誘われて流れてきた豪商高橋の会社だった。

町長は高橋の力を借り、中島遊廓設置反対運動にも強く乗り出し、課税減額の件も追求するが、師団の態度はそう簡単に変わらない。

だからよけいに町民にとって師団の印象は悪くなり、師団と町の溝は深まっていくばかりだったのだ。

 

「そうか、本部は住民との揉め事で忙しいから鶴見中尉の行動に目を配る余裕がなかったんだ」

 

そこまでの説明を聞いた時、杉元は深く頷いていた。キロランケが煙管の煙を見つめて言う。

 

「あれだけ鶴見中尉が好きに動けるのも納得だな」

 

「たしかに。中尉が上からお咎め無しなのは……上手く事を隠しているっていうのもあるようだが、本部自体が新聞社や住民に目をつけられて身動き取れないんだろう」

 

「そういうことだな」

 

「…………とはいえ、ここまで叩かれるのを見ると、第七師団にも同情するな。勝手に約束して、無理矢理破ったのは上の奴らなのに、新聞では第七師団を全否定だ」

 

散々戦ってきた相手とはいえ、言葉で袋叩きされている様はさすがに杉元も「言われすぎ」だと察していた。

 

「元々約束をしていた参謀長は何してるんだ?」

 

キロランケがそう言って白石を見る。

 

「たしか…」

 

「死んだ」

 

キロランケと白石はすぐ後ろを振り向いた。

淡々とした口調で割って入ったのは、尾形だった。こちらの様子を観察するように、少し距離を開けて背後を歩く。

白石やキロランケはその存在に声をかけられて初めて気づいたのだった。

 

「当時参謀長を務めていたその大佐は、日露戦争から帰国直後自害した師団長の後を追うように自刃した。どちらも戦争で出た甚大な被害の責任を中央に取らされた、という名目で死んだと」

 

つまり第七師団では、日露戦争を機にして上層部が一気に失われたということだった。軍にしてはとんでもないことだろう。

しかし尾形の口元は片方あがっていた。

 

「名目?それはただの建前ってことか」

 

杉元の口調は冷めている。

 

「建前も何も、死んだことには変わらんだろう。終わった話だ。二人の死はこの件には関係ない。間違いなく二人は自刃した。己の愚行を恨みながら、腹を刺して死んだ」

 

「やけに詳しいなお前」

 

杉元は低く呟いた。問いかけではなく、ほとんどが確信だった。

尾形は喉を鳴らして杉元の視線をかわす。そして横目で谷垣を一瞥すると、また距離をとって歩き出した。

白石は固唾を呑むと、無理矢理声を出して話題を元へ戻す。

 

「と、とにかく死んじまった上層の奴の席に、最近新しい参謀長と団長が補充されたってわけだ。だから町民との問題もよく分かってなくて、膠着状態が続いてるんだと」

 

おおむね伝わったようで、「ほぉ」とキロランケが新聞から身を離して言った。

 

「白石にしてはためになる情報持ってきたじゃねぇか」

 

「シライシよくやったな」

 

アシリパも同じく微笑み、杉元も「そうだよな」と頷いた。しかし白石の興奮はまだ冷めておらず、「それだけじゃねぇぜ」と前置きをすると神妙な顔をして続けた。

 

 

「聞いて驚け、実はその高橋本人が北海道に来てるんだ!しかも小樽に!それも、ほら!新聞でわかった!」

 

「あ、そうなの?」

 

気を高ぶらせて語る白石とは対照的に杉元は『すごいじゃん』と大して関心も寄せずに返事をする。

師団の話とはあまり関係ないのは目に見えていた。そんな話には息を荒くする意味がわからない。

他の者もいまいち話の先が読めず、また白石の話であるから聞き流すように聞いていた。

 

「なんだよもぉ!もっと驚けよ!あの高橋だぞ!横浜の都市開発に関わって、軍やら政府やらに1枚どころか何枚も噛んでる高橋が小樽に来てる!」

 

「いや、うん……だから?」

 

「だからって杉元お前、高橋と仲よかったんじゃねーのかよー!興味わかないのっ!?」

 

「高橋は高橋でもその高橋じゃないから」

 

さらに言うなら、仲が良いというのも実際は微妙なところだったがいちいち否定するのも面倒になっていた。

白石の荒い鼻息に呆れつつ杉元は続けた。

 

「豪商の高橋とは会ったこともない、そもそも俺の知る高橋となんの関係もないだろ」

 

「あるとしたら?」

 

白石の丸い頭がピカリと光る。そして人差し指を額に当てながら「え〜〜〜」と喉に引っかかるような音を鳴らした。

 

「なんだ急に」

訝しむキロランケに、杉元も同意見だった。

 

「ンフンフンフッ…」

 

「なに笑ってんだ腹たつな」

 

「杉元、白石はやっぱり変なもの拾い食いしたんじゃないのか」

 

呆れを通り越して心配をするアシリパ。

杉元も「そうかもしれない」と同じ思いであったが、その先を聞いてみたい気持ちもあるにはあった。

面倒だが親切心で尋ねてみる。

 

「『あるとしたら』ってどういう意味だ白石」

 

「ピカさ〜ん…いい質問です」

 

「誰がピカさんだ」

 

「この記事、お前らはもう読んだよな?」

 

白石が指をさすのは、開いていた記事の裏側だった。見ているはずがない。

 

「読んでないけど」

 

「ん〜ではあなたは読んでいないと認めるぅ…?認めるのかぁ!?」

 

「だからそう言ってるだろ」

「お前が見せてこなかったから読んでるわけないだろーが」

 

キロランケも杉元もいちいち下顎を突き出して喋る白石に、苛立ちが隠せない。

大きく張り上げた声で「でーはぁ、お教えしよう」と体を斜めに構え、わざとらしく微笑んだ。

キロランケの額には青筋が浮かんでいた。尖らせた口がよけいに癪に障る。

「なんなんだコイツ」「本当に腹たつな」「ストゥしまってアシリパさん」

 

「こっちの記事は、豪商高橋の身辺を取材した内容が載ってる。そこに、北海道に来た理由が書いてあった。高橋は旭川のもめ事もあるが、それ以上に人探しのために、北海道へ来たそうだ。なんでも、自分の生き別れた家族がおそらく北鎮部隊に入隊しているんだと、そう言ったらしい」

 

雄弁であるが、話の結末をほのめかすような意味深な口調だった。しかもところどころ早口であったため、理解が追いつかず杉元は曖昧に「あ、うん、そうなんだ」と返事をするしかなかった。詳しいことはさて置き、とにかく金塊にも自分達にも関係のない事情を聞かされていることは察している。果たして聞く価値があるのか、杉元は不安でならない。

大げさな猫背になって語る白石は反応の薄い杉元に、

「ん〜こう言い換えた方がわかりやすいかなぁ?」

と重ねて言った。

 

「ほら…以前話しただろ。高橋と、豪商高橋。二人はもしかしたら、関係があるかもしないと。『もしかしたら親戚かもな』って」

 

「まさか」

 

「そう…皆さんお分かりかなぁ」

 

杉元が唾を飲む。キロランケが煙管に口をつけたまま、吐くことも忘れてその続きに耳をすませた。アシリパや谷口でさえ聞き入っている。

 

「その高橋って男はあの豪商高橋の親戚……いや孫かもしれねぇんだよ!」

 

ひときわ大きい白石の声が空へこだました。

 

「孫?」

 

「孫かよ!?」

 

「まご……?」

 

「ま、孫」

 

「孫か…」

 

「孫ですか」

 

「……」

 

反応はさまざまなだったが、白石の突拍子のない発言に驚きを隠せない。

中でも、それに一番食いついたのは杉元だった。

 

「孫って…それはないだろ。あの人幼い頃にはもう両親の元から離れて祖母と旅をしてたんだぞ。豪商の血が流れてるなら、旅なんてさせず近くに住まわせるなりしておくだろ。会社を継がせることも考えていたなら、なおさらだ」

 

「あっ。たぁ〜しかに!!!!!!」

 

「推理ガバガバじゃねーか」

 

キロランケは煙管を吹かすのもやめて、フラリと前を歩き始めた。「アホらしい、先を急ごうぜ」

それに反して白石はすっかりいつもの調子に戻ると「言われてみればそうか」と眉をひそめていたが、しばらくすると「でもさぁ」と続けた。

 

「どうしても豪商高橋が吐いた言葉が気になる。ここに載ってるこれ」

 

ここ、と指で示しつつ、杉元とアシリパへ新聞を渡す。二人はその紙面を眺めた。

 

「これはなんと書いてあるんだ杉元」

 

「ええと…なになに『亡き長男夫婦が残した孫が軍にいる、その身柄を引き受けたい』との旨を述べて……ってこれ」

 

「いいから続きも読んでくれ」

 

杉元の言葉を遮って白石が頷く。傍らには同じく続きを気にしているアシリパが、杉元を見つめていた。

 

「……」

その様子に杉元も静かに頷くと、紙面へ再び目を向けて、読み上げ始める。

 

 



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23

○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

 

谷垣は少し距離を置いて杉元たちの後ろを歩いていた。

杉元が新聞を読む姿を遠目に、谷垣はかつての高橋の顔を浮かべていた。

 

「タカハシのことが気になりますか?谷垣ニシパ」

 

「そうだな…」

 

懐の読めないインカラマッではあったが、これは純粋に気になって聞いたようだった。

しかし後方に尾形がいるのが気がかりで、聞かれていると考えると、言葉を選んで答えるしかなかった。

 

「高橋とは本当に短い間しか生活を共にしなかったが、悪いヤツではなかった」

 

「谷垣ニシパは高橋のこと好きだったの?」

 

「どうだろうな……」

 

チカパシの見上げた顔に、谷垣は何度か瞬きをする。好感を持つ、と意識する相手ではなかった。もちろん、周りに疑い持たれているヤツではあったので、心を許したというほど入れ込むことはない。

それでも高橋が『身の上話』を打ち明けた時、高橋への先入観は消え、いくらか温かみのある情が湧いた記憶がある。

 

「高橋と一番仲が良かったわけではないが、身の上話ぐらいは聞いたことがある。その話を聞いた時、本当は真面目で情に厚い男だと感じた。あれは意外だった」

 

「充分深い仲ではありませんか、妬けますね」

 

「男同士だぞ……」

 

インカラマッの冗談に苦々しく眉間を寄せつつ、谷垣は繰り返して思った。

一番仲が良かったのは、三島だった。俺じゃない。皮肉にも最も疑いをかけていた男が、高橋を最も気にかけた。

おそらく三島本人もその自覚があった。高橋の方は、三島の複雑な心境を察することは最後までなかったようだったが。

 

 

○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

 

 

【谷垣の回想】

 

 

俺がまだ鶴見中尉に忠誠を誓い、二十七連隊の一員だった時。小樽の臨時兵舎ではなく、本部のある旭川の兵営で生活していた。

日露戦争終戦すぐの為、兵営全体にくたびれた雰囲気が漂う。

しかしその中でもいっそう覇気のない男がいた。

 

「おっと…」

 

廊下の角でぶつかった自分の肩と相手の腕を見る。

 

「あ、申し訳ありません」

 

噂の男の第一印象は大きくて暗い、だった。

 

「こちらもあまり注意せずに曲がってしまった、すまない」

 

「気をつけます。では」

 

顔を見上げれば、男はまるで天井を背負っているようだった。猫背の男はさらにその背を深く沈めて会釈をすると、大股で廊下の先に消えた。

 

「…あれは………」

 

三月頃に日本へ帰ってすぐ、第一師団からここ第七師団へ移ってきたその男は和田大尉のお墨付きということでもっぱら話題になっている。しかも男の剣の腕が立つこともあり、今や師団では下士官から将校までもがその名前を口にした。

 

「噂の男は無愛想だな谷垣」

 

「三島」

 

背中越しにかけられた声に振り向くと、三島がそこに立っていた。三島はまだ高橋の消えていった廊下へ目を向けていた。

 

「ぶつかりそうになっておいて会釈だけとは」

 

「普通だろう」

 

「どうだろうか、舐められとるのかもしれんぞ」

 

「……………」

 

もちろんその男の所属先である二十七連隊でも例外なく話は男で持ちきりになった。もっとも、その内容は決して歓迎や興味だけで終わらない。むしろ身元を怪しみ、警戒する者が多かった。高橋に良い印象を持つ奴は少ない。

 

「鶴見中尉からの伝言だ。探れ、と」

 

「高橋と内務班が一緒であるというだけで、ヤツが心を開くとは思えないが」

 

「やってみないと分からないじゃないか」

 

何か考えがあるのか、三島の顔には自信ありげな笑みが浮かんでいる。

軍には内務班という枠組みがある。内務班とは各中隊ごとに複数班で分けられたもので、一班一部屋二十名から十名程度で衣食住を共にする。その班が、三島と俺は高橋と同じであった。

ただし勤務や教練(※訓練)は内務班で行われるわけではなく、むしろ全員が散り散りの中隊で行うことは珍しくない。

つまり、寝泊まり部屋が一緒だからといって、高橋の心を開かせる時間が長い訳ではないのだ。

 

「下手に近づいても怪しまれるだけだぞ」

 

しかし三島は、そんな俺の忠告を受け流し、さっさと歩いていってしまった。

三島は所謂美男子とまではいかないが、曲がったところのない素直な性格がそのまま表れているような、実直な顔つきの男だ。

ただその真面目さが最近になって、良い方向に向いているのかは分からない。仲間内から裏切り者を探すことに三島は躍起になっている。その徹底した働きぶりは、温厚な三島の印象をどんどん薄くしていく。

 

「………」

 

曲がり角でそんな思案に暮れていると、尾形上等兵がすれ違い様横見で俺を見ていた。

何も言わず、高橋と三島が消えて行った方へ同じく歩いて行った。

 

「…っ、………」

 

あの人も鶴見中尉の手足であるが、その腹の裏は誰にも読めない。そんな男に目を向けられてはいたたまれなかった。

自分も用事のために、その場から去る。

 

○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

 

 

【第七師団:小樽の兵舎】

 

将校室の前で俺は立ち尽くしていた。

小樽の兵舎は部屋数に余裕あるため、下士官でさえ一人部屋があてがわれる。その中でも少尉殿の部屋となれば格別いい部屋が用意されており、扉も引戸でなく西洋的な、押し引きで動く扉であった。

しかしながら、その部屋の高尚さに気圧されて俺は部屋に入れずにいる訳ではない。その扉から上半身を飛び出させて、語りかける者がいたからだ。

これがそういう造りの扉でないことは察している。

 

「そこをどいてほしい」

 

「マタ『例ノアレ』ヲ隠シテイマシタヨ、高橋サン」

 

扉の取っ手付近から、芋虫のように上半身だけを浮き出しているこの男は、あの剥製屋だった。連日の呼び出しの際にも現れては、こうして部屋の壁や扉から半身を飛び出させて話し掛けてくる。

常に興奮気味に話すので真面目には面倒くさく、取り合わないのだが、今日はいつにも増して早口でまくしたてるので口をきいてやるしかなかった。

 

「例のあれ?」

 

「鶴見サンノブロマイド!デスヨ!」

 

なんでそんなことも分からない、とうんざりして剥製屋が鼻息を荒くする。

 

「処分し残していたのか。少尉殿の部屋にあるものは、以前清掃の際に処分したはずだが」

 

「新シイモノヲ懐カラダシテ、一番高イ引キ出シノ奥ヘ入レテイタンデス!」

 

「まだ持っていたのか」

 

「早ク捨テテクダサイ!キーッ!」

 

剥製屋が甲高い声で叫ぶ。しかしその剥製屋の態度には疑問が湧いていた。

 

「中尉の写真が憎いのか?」

 

「ソンナワケアリマセンヨ!ムシロ僕ガ欲シイクライデス!」

 

「しかしお前、捨てろとさっき言っただろう」

 

「アノ兵隊サンガ持ッテイルノガ許セナインデスヨ!ナンデソンナ事モ分カラナインデスカ高橋サン」

 

頬を膨らせて訴えられるが、その理屈はまったく理解できなかった。そもそもあの中尉殿の写真が、少尉自身の趣味で集められているはずはない。

 

「何枚も同じようなものがあることから、おそらくそのお写真は少尉殿が兵士から没収されたものだろう。あんなもの中尉の目に触れたら、気を悪くされかねないからな。鯉登少尉殿は中尉殿に気を配ってそのように隠しておられるんだ。おおかた後日まとめて処分するつもりなのだろう」

 

「本当ニソウデショウカ?僕ハシッカリコノ目で見マシタガネェ!アノ、ウキウキシタ男ノ顔!スキップモシテ、浮カレテイマシタヨ!」

 

「すきっぷ?」

 

「小躍リノ事デス」

 

「あの少尉殿が?冗談か?」

 

頭上に少尉殿が目尻を下げ、ブロマイド片手に跳ね回る様を思い浮かべてみた。しかしそれはあまりに現実離れした光景で、首を振って想像を払う。

 

「ありえないな」

 

「本当デス!僕ガ嘘ヲツイテイルトデモ!?ツクナラモットマシナ事ヲ言イマスヨ!『高橋サンガ面白イ』トカ」

 

「待て。俺が面白いのは将来確定事項だ、嘘にするな」

 

「ハハ、ソンナ訳ナイデスヨ」

 

「静かに首を振るな」

 

「トニカク!!アノ男ガ隠シタブロマイドヲ捨テテクダサイ!早ク!!アノ男ノ手元ニ鶴見サンガ居ルト思ウト気ガ狂イソウナンデス!」

 

声量を増す怒声は、やがて頭痛となって俺に響いた。なだめて収まる癇癪ではなさそうであるし、これ以上話が長くなってもたまらない。こめかみに力を込めて、なるべく穏やかに語りかける。

 

「だから、誤解だ剥製屋。中尉殿のお写真は兵士から没収したものだろう。きっと鯉登少尉殿の持ち物じゃない。毎度俺が破棄せずとも、いずれ鯉登少尉殿自ら処分するはずだ。安心しろ」

 

「話ノ分カラナイ人ダナ高橋サン、ソレハ違ウッテ言ッテルンデス!」

 

「鯉登少尉は陸士(陸軍士官学校)を出たばかりとはいえ、中尉も信頼を置く優秀な方だぞ。そんな方が、私情で何枚も中尉の写真を集めるわけ…」

 

ないだろ、と否定する前に、わめく剥製屋の体が後ろに下がって消えた。扉がふいに開いたのだ。もちろん、内側から人が出て来たという事であり、その人物は話題の鯉登少尉殿であった。

 

「きさんっないごてこけおっ!?(※貴様なぜここにいる!?)」

 

扉の前で鉢合わせると、鯉登少尉はすぐさま手を軍刀に伸ばす。なんと言ったかはまるで分からないが、とにかく礼儀として俺は敬礼した。

 

「少尉がお呼びであると伺いましたので、遅れながらこちらに参りました。すぐに入ろうと思っていたのですが、申し訳ありません」

 

「……………そうだったな」

 

納得したように言いつつも、目にはまだ鋭い光が差している。

 

 

 



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24

つま先から頭まで観察するように俺へ目を向けると、少尉殿はそう言って部屋へ顎をしゃくった。

おとなしくその流れに従い、部屋に入る。部屋の隅には、あの剥製屋が目を吊り上げて少尉を睨みつけていた。

 

「貴様は、なぜ自分がここへ呼ばれたか理由は分かっているか?」

 

「いいえ」

 

部屋の中央奥に置かれた書斎机を挟み、向こう側で腕を組む鯉登少尉が険しい顔をする。少尉殿は落ち着かない様子で続けた。

 

「まるで見当がつかんという顔だな」

 

「はい」

 

「これを見ても思い出さんのか?」

 

胸ポケットから何かを取り出して、音もなく机にそれを置いた。顎を引く。

 

「見覚えがあるだろう」

 

少尉が置いて見せたそれに、背を伸ばしてのぞき込む。たしかに見たことのあるものだった。

写真の中で鶴見中尉が俺に微笑む。以前捨てたものとまったく同じ姿の中尉がそこにいた。

 

「マ、マダ持ッテイマシタヨ高橋サン!」

 

剥製屋が背後から悲鳴のような声で俺を呼ぶ。

「捨テテクダサイ!」「ズルイ!」「早クシテクダサイ!モォ!」「高橋サァン!」と何度も肩を揺するようにわめくが、俺は驚いてそれどころではなかった。

 

「捨てたはずなのに…」

 

「やはり貴様のしわざかぁ!!!」

 

心の内を小さく口にすると、聞き逃さんとばかりの勢いの鯉登少尉殿が歯をむき出して叫んだ。

机がなければ、再び突き飛ばされていたところだろう。

 

「隠しておいた写真が連日消えていくと気づき、まさかとは思ったが…おのれ、貴様どういうつもりだ」

 

「消えると不都合が……?」

 

「あるから怒鳴っとるのだぁ!」

 

なるほど、どこかで俺は誤解をしていたらしい。

鯉登少尉にとって中尉の写真は大事なものだったのだ。

 

「俺はてっきり少尉殿が他の兵から没収した写真かと思っておりました。よもや少尉殿が個人的に中尉のお写真を好んで収集しておられたとは思いませんでしたので」

 

「どちらにせよ中尉のお写真を勝手に処分するな」

 

「はい…」

 

中尉はご存知なのだろうか、こうやって鯉登少尉殿が自身の写真を何枚も所持していることを。もし中尉が写真のことを知ったらどうするつもりなんだろうか。それとも中尉は黙認されているのか。

 

「まったく…どうして貴様は、写真とはいえ中尉の姿をぞんざいに扱えるのか……私には分からんな」

 

少尉は置いてあった写真を手に取ると、それこそ婦人が水晶のはまった装飾指輪を眺める時の、あの眼差しを写真に向けていた。

 

「写真ですから」

 

「写真でも中尉は中尉だ」

 

「中尉は中尉でも写真です。それにお慕いしているなら直接仰ればよろしいじゃありませんか」

 

「簡単に言うなっ」

 

そう言って俺を睨む少尉の顔は、たちまち紅潮していく。どこに気が障ったのか分からないが、今のでひとつ確信する。

俺は鯉登少尉殿を怒らせやすい。

 

「申し訳ありません」

 

「鶴見中尉はご多忙な方だ、それ故に己の成果を逐一報告してはご迷惑だろう。何より自分を売り込むような真似できまい」

 

「なるほど」

 

「そうであるのに、」

 

どんと、机に右手を打って少尉は一段と大きな声で続ける。

 

「貴様といったら…!薬指を捧げ、あろうことか鶴見中尉殿にせっせっせっ」

 

「接吻にも薬指にも事情があるんです」

 

「やかましい高橋上等兵!事実は事実なんだろう!」

「僕、初耳デスヨ高橋サン!?接吻ッテ!本当デスカ!?」

 

軍刀を抜いた少尉、眉間に深くシワをつくる剥製屋。その双方が左右から同時に俺へ詰め寄った。

 

「どういうことか説明しろ!」

「ドウイウコトカ説明シテクダサイ!」

 

「………」

 

二人の勢いに気圧されて、ごくりと固唾を飲んだ。

剥製屋の勢いもさることながら、少尉の問い詰め方は凄まじかった。

たかだか下士官の戯れでこんなに取り乱されるとは、鯉登少尉の忠誠心より鶴見中尉の人心掌握術が恐ろしく感じる。

 

「あー……そうですね、まず中尉殿が俺を」

 

「待て!やはり言うな高橋ぃ!」

 

どっちなんだ。

 

「お聞きになられないのですか?」

 

「よい、もうよいから言うな」

 

「しかし話せといったのは少尉殿…」

 

「いいと言っておるのだ!聞くに耐えん!!」

 

面倒臭い方だな。

詰め寄った時の気迫はどこへやら。少尉殿は眉間に力を入れて首を振っている。

 

「お言葉ですが、俺はまだ何も言っておりません」

 

「聞かずとも何があったかおおかたの見当はつく。どうせお前が鶴見中尉に無理矢理迫ったのだろう」

 

おおかたも何も、明後日の方向に見当をつけられているようだった。

 

「本当デスカ高橋サン!?」

 

お前まで入ってくるな、ややこしい。

 

「違います、俺は鶴見中尉に誓う忠誠心を、左薬指を断ち、靴への接吻することで示したのです。断じて邪(よこしま)な思惑で関係を迫った訳ではありません」

 

俺は両指を広げ、少尉の握る軍刀を制した。

少尉の視線が俺の左の薬指に移る。

その双眸がいっそう鋭く光る。

俺もその指のつけ根へ目を向けた。

その指だけが成長を止めて乳児のままであるような、不自然な小ささ。断面は薄い紫と黒のとぐろを巻いて、自分を見ろと言わんばかりの存在感。

傷は戦地では珍しくなかった。俺にも服の下には変色した傷跡があった。

対峙するこの青年将校の顔色をもう一度うかがった。改めて見れば見るほど気品と華のある、整ったお顔をされていた。

俺の指は、少尉殿の目に不気味な異形として映る、そのはずだ。

 

「すみません、お目を汚しま」

 

「私なら…」

 

 

重なった言葉を止め、俺はとっさに鯉登少尉殿の歪んだ口元を見た。

「私なら何本だって切り落とせる」

 

「…………」

 

あまりに純粋な顔で言ってのける。

きっと鶴見中尉殿の命令となれば簡単に命も差し出すのだろう。まとう雰囲気は、まさに青年将校特有のもの。どれだけ将来の地位を約束されていたとしても、命令を遂行する。どれだけ自分の命に価値があり、どれだけ悲惨な事かも知らずに。

守らねば。

そう思った自分に、俺は驚いた。ごく自然にそう思ったのだ。少尉殿をお守りせねば。

 

「少尉殿、お言葉を返すようですが少尉殿にそのようなことする必要はまったくありません。少尉殿は充分俺より鶴見中尉殿から信頼を置かれているではありませんか」

 

「そ、それは本当か高橋!!」

 

「はい」

 

少尉殿の表情は瞬く間に明るく、期待をこめた目で俺を見た。

羨ましいほど綺麗だ。浅く頷いて、続ける。

 

 

「俺がこのように指を切ったのは、中央と第一師団の間者と疑われたからであります。俺は疑いを晴らすため、指も接吻も捧げたのです。

少尉殿はその才と力量を見込まれています。今回だって中尉殿はわざわざ小樽へお呼びになって、お側に置いておられる。比べるのも失礼な話ですが、私とは真逆の状況であられます。

少尉が指を切る必要などあるはずありません」

 

「フフ」

 

不思議なことに少尉殿は愉快そうに頬を緩めた。俺の言葉がよほど気に入ったらしい。「ンフフ」と、大きな弧を描く唇の隙間から声が漏れる。

 

「高橋上等兵…貴様よくわかっているではないか」

 

毒気の抜けた物言いだ。組んでいた腕も解かれ、荒立っていた心中も穏やかだろう。

 

「ありがとうございます」

 

「たしかにお前の言うことも一理ある。鶴見中尉に期待されているとあらば、指など失う必要はないな」

 

「はい、充分に期待されております」

 

「ンッフフフフ」

 

少尉がより大きな音で喉を鳴らす。

普段の、あの眉ひとつ動かない凛とした表情が嘘のようだ。

俺は少しくらいは信用されたのだろうか。

 

「アカラサマニ持チ上ゲテマスヨネ高橋サン?」

 

ゴチャゴチャとうるさい剥製屋をそのままに、そんな期待から「ですので」と続けて、口を滑らせる。

 

「あのような写真も必要ないでしょう」

 

「それは違う」

 

手で写真のありかを指し示すが、その手はすぐさま弾かれた。

目には再びあの炯々(けいけい)とした眼光が宿る。

 

「鶴見中尉に見込まれていようといるまいと、写真を持ち歩くのは変わらん。お写真は私の生命線だ。たとえ罪に問われようと、私はこの写真を離さんぞ」

 

鶴見中尉に知られても関係ないと言っているも同然だった。上官に逆らわず生きているような少尉殿にも、意外な一面があったものだ。

 

「なるほど。それなら、俺は誰にも言いません」

 

俺は共犯になることにした。決断というほどのこともなく、ごく自然にそう選択した。

俺は姿勢も若干伸ばしてみて、深く頷くと、少尉殿はその態度に納得した様子であったが、ハッと目を見開いたかと思うと、次に怪訝そうな表情で俺を睨んだ。

 

「…………貴様は誰に聞いた。誰かが噂しているのか」

 

少尉殿の目がいっそう鋭くなる。

 

「貴様が今指さした棚、よく考えればあそこに写真をしまったのは今朝だ。誰にも分かるはずがない」

 

俺の手を払った時に気づかなかったのだろうか。

そう、俺が『あのような写真』と呼んだのは、剥製屋が「捨てろ」と朝一番に俺へ訴えた、あの写真だった。

 

「いや……よく考えれば、ここ数日しまった場所はすべてあばかれている。私しか知らないはずの、写真の隠し場所だ。まるで私を監視でもしていたかのような正確さ。貴様……一体どこから私の様子を聞いた?まさか月…」

 

コンコン、戸を叩く音が言葉を遮った。

俺も少尉殿も戸のほうへ意識が向く。向こうからほどなくして名乗り出す。

 

「月島であります、入ってよろしいでしょうか」

 

鯉登少尉が息を呑む音がこちらにまで聞こえた。俺と戸の向こう側とを交互に見つめ、やがて警戒した様子で少尉は静かにつげる。

 

「…………………入れ」

 

「失礼します」

 

扉を開けた軍曹殿の目に映ったのは、さぞかし異様な光景だっただろう。警戒の色を露骨に浮かべる鯉登少尉と、通常いるはずのない俺が向かいに立っているのだから。

 

「なぜお前がここに?」

 

月島軍曹殿が不審感をにじませた口調で尋ねる。

 

「少尉殿に呼び出しを受けたので、食後こちらに参りました。申し訳ございません、俺は一旦外へ出ます。扉の外で待機しておりますので、終わったら申しつけください」

 

言いながら俺は踵を返す。

しかし扉へ向かう肩はすぐ軍曹に掴まれ、俺は思わず軍曹殿の顔を見た。

 

「………いや席を外さなくていい。まあ、お前も関係はある話だ。ここにいろ」

 

思い当たる節はあった。ついさっきまで鯉登少尉殿が追求しようとした、中尉殿のお写真の件だ。

俺が勝手に中尉殿のお写真を捨てていたことを、もし月島軍曹殿がご存知なら、そのお咎めがあるだろう。

 

「し、写真を処分したのは、兵から没収した品だと判断したからであり、決して悪気があったわけでは……っ」

 

「なんの話だ?」

 

俺の消え入る声を聞いて、軍曹殿はいかにも話の意味がわかっていないという顔をしていた。俺は恐る恐る尋ねる。

 

「鶴見中尉のお写真を捨てたこと、ではないんですか?」

 

「貴様捨てたのかっ!?写真を!?」

 

一転したその表情で、言わなければ知られずに済んでいたことを悟った。月島軍曹殿は血相を変え、少尉殿の方へ視線を移す。

何も言わずに少尉は首を横へ振った。

 

「私が懐に隠したものをのぞいて、全滅だ。すべて高橋の手によって、中尉殿をめちゃくちゃにされた……」

 

お写真の話である。

鯉登少尉の目にはうっすら涙が浮かんでいる。誤解のないよう、俺は声に出して念をおす。「写真の話ですよ」。「写真でも中尉は中尉だ!」と荒んだ声が返ってきた。

 

「お前よくそんなことができたな…」

 

素直に驚いた様子の月島軍曹殿が言った。

それを聞いて少尉殿がキッと月島軍曹殿を睨みつける。

 

「月島ぁ…貴様が高橋に写真の隠し場所を漏らしていたのだろう。私が腑抜けることを危惧して、写真を渡したそばから高橋に処分させる魂胆だったのだろう!そうだろう!」

 

「違います」

 

鯉登少尉殿の気迫を物ともせず、月島軍曹殿がキッパリと言い切った。

 

「ぐぬ……だがお前が教えなければ、高橋が隠し場所を知るはず無いではないか」

 

「そもそも腑抜けるのを危惧していたならば写真など渡しません」

 

そんな回りくどくて面倒くさい事をするわけないでしょう、と付け足す軍曹殿。その言葉はもっともで、鯉登少尉も納得して口を閉ざす。けれども少尉殿の表情はまだ晴れずにいた。

 

「少尉殿、お写真はまたいつでも差し上げますからこの話は終わらせましょう」

 

「本当か月島ぁ!」

 

「本題は、今夜の偵察です。そろそろ獲物が餌に食いつく頃でしょう」

 

たちまち顔を晴れやかにする少尉殿をかたわらに、淡々と月島軍曹殿が話を進める。手にしていた洋紙を卓上へ広げた。鉛筆の線で描かれた図は、おそらくあの賭博場の内部の造りだろう。

 

「先日鶴見中尉から仰せつかった作戦だな?」

 

「はい。作戦は今晩から始めるそうです。数名に別れて賭博場に潜伏、監視します。現在、具体的に奴が来る日は読めていませんが……これまで稲妻が起こした事件から考えるに、奴はおそらく夜が更ける前に賭博場へ押しかけてくるでしょう。派手に暴れたところを見計らって、騒ぎに乗じ、奴を捕獲するそうです」

 

「いよいよ人皮狩りが始まるのだな」

 

待ち望むように空(くう)を見た少尉殿は、そわそわと落ち着きがない。

机を覗き込む俺の影が、図面の賭博場を覆うように落ちていた。以前訪れ、いくらか愉快な気分になったその場所を、自分の手で荒らすのだ。俺は影が図面に被らぬよう、そっと身を机から離した。

 

「俺はいつ頃潜入するればよろしいでしょうか?」

 

「今日から5日間だ。二階堂と何人か日替わりで兵を連れて行け」

 

月島軍曹殿の言葉に背筋が伸びる。考える間もなく、俺は問いかけていた。「二階堂も?」月島軍曹殿の表情は変わらない。

 

「二階堂も問題なく今では働くことができる。本人も足を引っ張るつもりはないと言っていた。お前と二階堂が数日の間潜入を先導しろ。周辺の監視は俺が先導し、それぞれ日替わりの兵が同行する」

 

「分かりました」

 

二階堂が連日外へ出歩くのが不安ではあるが、与えられた勤めは必ず果たすと固く心に決めていた。鶴見中尉の信頼を勝ち取るためだ。

その一方で、少尉殿が話に割り入る。

 

「私はどうすればいい月島」

 

「少尉殿は奴が現れるまでじっとしていてください」

 

「しかしっ!」

 

「現れればちゃんと呼びますから」

 

「そうか分かった」

 

快諾する少尉の顔は晴れやかなものだった。

朝から少尉殿は不安が尽きない様子だったが、月島軍曹殿と一緒であるとそんな表情が若干少なくなる。

 

「詳しい内容は今晩ここを出る前に話す。それから今日出る者には、一度玄関近くの空き部屋へ集まるようあらかじめ俺から伝えておく。高橋」

 

「何でしょう?」

 

月島軍曹殿はわざと声を低くして続けた。

 

「同じことは繰り返すなよ。分かったな」

 

この前の鶴見中尉が脳裏をよぎる。

尻餅をついて倒れた俺に、鶴見中尉が左手を差し伸べる光景。右手には短刀を持ち、「さあ」と微笑むあの方は、俺を微塵も信用をしていない。

 

「もちろんです」

 

すべて完璧にこなしてやる。そうすれば信頼され、この先の居場所には困らないだろう。

 



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25

【谷垣の回想】

 

教練の疲れもそのままに、俺はある酒屋ののれんをくぐった。店主に先に人が来ていることを伝えると、二階の座敷へ案内され、狭い階段を体を縮ませながら進んだ。「兵隊さん方、お連れさん来ましたよ」と先に階段を上りきった店の男がいうと「おう」と威勢のいい返事が飛ぶ。この時点で俺は嫌な予感がしていた。外の凍てつく寒さと打って変わって、むせ返るような熱気と光が押し寄せる。

 

「遅いぞ谷垣ぃ!」

 

ゆでだこのごとく顔色をよくした男が、階段から顔をのぞかせた途端に、声を張り上げる。

 

「待たせて悪い、三島……と高橋」

 

ご機嫌にこちらを振り向く男と、長細い座卓を挟んで正面に腰を下ろす高橋に手をあげてみせる。

見れば机に転がる徳利の数は5本をゆうに超えており、数えるのも億劫になった。

他の客にかき消されそうな萎んだ俺の声は、あの酔っ払いに果たして届いているのだろうか。

 

「上官殿にはなんと言って来たんだ。睨まれると面倒だぞ」

 

三島が窓のそばへ腰をずらしたので、隣に座り、足を崩す。店主には追加の酒をつげる。

 

「街に飲みに行くと伝えた。別段、怪しまれることもなかったが……尾形上等兵殿に少し嫌味を言われたぐらいだ。問題ない」

 

「そうかそうかぁ、なら心配ないな。朝に帰ってもお咎めなしだ」

 

三島がくの字に折れた手を持ち上げて、それを卓の上をふわふわさまよわせた後、ぼとりと徳利に落とした。

ほとんど力の宿らないその様子に俺が来て正解だったと心底思った。

というのも、三島が数日前に俺に頭を下げた時にいっていたのだ。「共に飲みに行ってほしい」突然そう懇願するものだから俺は戸惑った。

 

「お前、確か下戸じゃなかったか…」

 

「そうだ」

 

即答する三島の顔はすでに青い。しかし最初の気迫は衰えておらず、

「なぜ、また?」と問う俺に、

意を決した様子で語り出した。

 

「高橋がなかなか腹を見せんのだ。それどころか簡単な受け答え以外雑談に興じる素振りもない、無口な男だ。内務班でも一切遊びに混ざらず、黙々と本にかじりつく。隙なんぞ作らなければ一生生まれん用だ。ここは酒でも飲ませ、この手でもって隙をつくり、あわよくばその本性を暴いてやろうと思ってな」

 

つまり酒の席に高橋を呼びたいが、自分が下戸であるので酒に耐性のあるものに付き添ってもらいたい、ということだ。

言っていることは納得できたが、ますますなぜ俺に頼んで来たのか疑問は強まった。

 

「お前は頼みごとは断れないたちだろう」

 

三島の笑みに影が差す。

 

「俺の弱みにつけ込もうというのか」

 

「まあ悪い話じゃないさ。酒でダメなら女。酒屋の後に花街にも繰り出そうと考えてる。金は半分もつから、お前にとっても損はない」

 

旭川の町の一角は兵をはじめとする男たちの欲のはき溜めが存在していた。おおっぴらに営業する店は少なくても、同じようなことをする店の数は多い。その店々が集まる一帯を兵の間では『花街』と呼んでいた。

俺はそれほど行きたいと思ったことはないが、行きたくないわけではない。俺は指定した日に少しばかり用事があったので、後から合流することを条件にその頼みを飲んだ。

 

「俺が合流するまでの間、大丈夫か?」

 

念のため三島に伺うと、意気揚々と答えた。

 

「なに、下戸といっても飲むことは飲む。久しぶりに飲むからといってそう簡単に潰れはせんよ」

 

あの時の威勢の良さは今は見る影もなかった。まんまと酒に煽られて、当初の目的を覚えているのかも怪しい。

 

「もう飲むな三島。花街に行くからと景気付けに飲むのはわかるが、それ以上飲めば芸妓に挨拶することもままならんぞ」

 

「そのことなんだが谷垣ぃ、今夜は色事はなしになりそうだ」

 

「どういうことだ」

 

「そんなに行きたかったのか」

 

「いや別にそういうわけじゃないが」

 

「じゃあ行かなくても問題ないだろう」

 

ろれつの回らない言葉でも、それなりに説得力はある。俺は、それもそうだが、と口ごもった。

 

「しかし…どうして急に」

 

「俺が言いました」

 

正面に目を移す。男は徳利にも猪口にも触れていた気配はなく、あぐらをかいた膝に拳を乗せていた。

 

「花街には行きたくないと、俺が言いました」

 

先ほどから一言も喋らず俺と三島のやりとりを眺めていたものだから、その存在もすっかり忘れかけていたところだった。一瞬どきりと体を強張(こわば)らせるが、悟られないよう自然体を装う。

 

「高橋は女が嫌だったか?」

 

「いいや好きです。男はみんな好きに決まってるでしょう、なに言ってるんですか谷垣殿」

 

「…お、おお」

 

半分茶化すつもりで聞いた自分も悪い。いざ真面目に反論されると何も言えなかった。

 

「しかし行く気にはなれないんです。わかってもらえませんか、今日は飲むだけで勘弁してください」

 

何を分かれというのか、こちらには見当もつかず黙り込むしかなかった。

代わりに三島が上目遣いのままで話をつなぐ。

 

「こんな具合で頑なに拒むんだ。だから谷垣の意見も聞こうと思ってな。お前は行きたかっただろう?」

 

「そうだったんですか、すみません谷垣殿」

 

男は本当にすまなそうに頭を下げた。丸めた背が後ろの壁に当たってこすれている。

 

「い、いや…俺は」

 

「もしどうしてもと言うなら、遠慮せず言ってください。なんなら近くまで送りますんで」

 

「どうしてそうなるんだ。俺はそれが目的でここにきたわけではない」

 

それこそ意味不明な状況だった。そもそも花街まで仲間に送ってもらう男がどこにいるか。末代まで恥だ。

高橋は悪気のない様子だったが、一方で三島は愉快そうに俺のことを眺めている。

 

「今日は酒で充分足りる。わかった、花街は諦めよう」

 

「恩にきります」

 

俺が承諾すると、高橋はようやく大げさに落とした頭を持ち上げた。

この時、初めて俺はしっかり面と面をつきあわせたが、やはり高橋に最初に抱いた印象は変わらなかった。

髭もなく青白い肌は女のようだが、若干窪んだ目元と垂れ気味の目尻で、どちらかというとその顔は無力な死者を連想させる。

暗くて無口とは思っていたが、いよいよ得体のしれない物の怪に思えてきた。

 

「……た、高橋はどこかで剣の習いを受けていたのか?」

 

しばらくの沈黙の中、苦肉の策で話題を降る。ふと思い出した兵営での噂をもとに、男が食いつくのを願う。

しかし尋ねられた高橋の顔は一寸の変化も見せない。

 

「どうしてそう?」

 

「お前の剣の腕は他の中隊にも聞き及ぶほどだ。心得があると誰もが考える。一体どれほど鍛錬を積めばそうなるのか知りたい」

 

興味があるというのは半分は本音であるが、もう半分は話を広げるための枕文句だった。

当初の目論見通りこの男の素性を明らかにできればいい。最悪手がかりのひとつでもひっぱりだしたいところだが。

誰しも自分のことを話題にされていい気にならない訳がない。

しかしその読みは甘く、大きく外れた。

 

「俺の腕なんて大したことない……です。買いかぶりすぎですよ谷垣殿」

 

謙遜するのが意外であったので、純粋にその態度が疑問に思えた。てっきり本人にとっては当然のこと、といった態度でくるのかと思っていた。

 

「買いかぶるも何も、この前の教練では瞬く間に何人もの兵を倒していただろう。あの中には手練の者もいた。誇っていい」

 

「あれは相手が手加減していたから、運よく勝てただけです。真面目にやればどうなっていたかわからない」

 

嘘を言っているような顔ではない。それどころか、褒められること自体嫌がっているような、恥じているような、そんな様子だった。

けれどもその時の俺は気のせいだと、なおもその褒め言葉を止めなかった。

 

「では日露での戦いぶりはどうなんだ。お前はあの特別部隊の白襷隊に選抜され、戦い、生きて帰ったきた。ひとえに剣の腕がたっていたからだろう」

 

「違う!」

 

ガシャン!と机に打ち付けた拳が、食器や徳利などの一切を震わせた。

その瞬間俺たちどころか他の客までもが水を打ったように静まりかえる。誰もが巨体の高橋を見つめていた。

 

「それこそ、運が良かっただけなんだ。実際は剣技が優れてようが関係ない。銃の扱いならともかく、剣で露兵に敵うわけがない。体格も動きも人殺しにおいてあちらが優れている。生まれ持ったものが違うのに張り合えるわけがないんだ、いくら剣を振って徳を積もうが意味などないんだ」

 

誰も高橋に言葉を返さなかった、だが思うところは同じだろう。俺たちは戦勝国だぞ高橋、勝ったのにその狼狽のぶりはなんだ。まるで負けたような喪失感が漂っている。

 

「………すみません」

 

「ああ…」

 

また男は猫背を丸めて頭を下げた。その背中はいっそう小さく見える。

チラリと三島に視線を送り、目だけで「さっきからこうなのか?」と尋ねる。だめだ、ほとんど目が開いていない。そもそもお前がやると言い出したことなのに、とその寝顔を睨むが起きるはずがない。

 

「なにかあったのか?」

 

「いや……別に、たいしたことはありません」

 

探られるのを避けるように、その話題は濁された。よほどのことがあったに違いないが、話してくれるほどの信用はない。それは百も承知だった。

三島がつぶれてしまった今、それを吐かせるのが俺の役目かと悟る。

 

「たかは…」

 

なんお前触れもなく高橋の長い腕がこちらに伸びたので、話を始めようとするのをやめて固まった。

なにをしようというのだ…と緊張して見守っているとその腕は俺の猪口をずずと卓の真ん中へ寄せ、ひょいと持った徳利をそちらに傾け、静かに酒を注いだ。

すすすと注ぎ終わった猪口をこちらに移す。

 

「あ、ありがとう」

 

黙って差し出すその姿は相変わらず不気味だ。もし中央と繋がっていようものなら、俺たちを見下しているに違いなかった、そういう予想へ行き着いたので緊張はましていた。

 

「皆さんはいつもここで?」

 

高橋の声は体と反して高く小さい。体格以外は女を思わせる節がある。

 

「いや、戦の前はもうひとつ向こうの通りにある酒屋に通っていた。ニシンの塩焼きがうまい、なかなか良い店だった」

 

大柄な高橋が慎重に酒瓶を傾けるのは、なんとも奇妙な図だった。大きさの比率が違うぶん、手にするすべてが人形用の飾りに見える。

 

「そうか…俺も行ってみたいものですね。ここの刺身も充分うまいが、皆さんの馴染みの店にも興味があります」

 

小ぶりの瓶に手を添えて、高橋がしおらしく笑った。生気のないとはこのことだった。

明らかに寂しさを滲ませているので、ひとつ断りをいれようととっさに口を開く。

 

「いや、俺はよく行くが三島は…」

 

下戸であるこの男が、飲みに行くことは少ない。

 

「三島殿?」

 

「…………なんでもない」

 

だが、すべてを言ってしまう直前に、「う〜ん…」と寝ぼける三島が目に入った。机へ突っ伏してはいるがまだ意識があるようだったので言葉を飲み込む。野暮なことは言わない。



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26

俺は若干強引ではあるが「そういえば」と話をそらした。

 

「お前、いくつだ?」

 

この機会に色々探りを入れておきたい。自然さを装って尋ねる。高橋は何も疑う様子なく答えた。

 

「22です」

 

「若いな、どこの出身だ?」

 

「横浜や他の地を転々と」

 

「故郷は?」

 

「故郷……横浜に行く前は弟子屁町(でしかが)に住んでいました。標茶町にいた頃もあり、故郷というほど馴染みはありませんが」

 

「弟子屁町?」

 

「道北にある鉱山近くの町です」と付け足した。

 

「道北…」

 

これは誰も掴んでいないらしい情報だ。高橋の身元が謎に包まれているというのは、ほとんど連隊で知られていた。こんなにあっさり身元が分かるとは拍子抜けたが、聞けることに越したことはなかった。

 

「北海道に住んでいたのか?」

 

「5か6つぐらいまでです。それ以降はずっと離れてましたから、その頃の記憶は薄いですがね」

 

「親とも離れていたのか?」

 

「無理矢理ババァが連れて行ったもんだから、親には滅多に会えませんで……しかし、第七師団へこうして来られましたから最近はしばしば会っております」

 

「ババァ?ババァとは誰のことだなのだ?親戚か?それとも他人か?」

 

「……」

 

「高橋?」

 

その問いかけを境に、高橋は黙り込んだ。しばらくして、その大きな肩をさらに内へ寄せ、ポツリと告げた。

 

「俺のほうが聞きたい」

 

肩は震えていた。

その震えは机の下で膝に強く置いた拳から伝うものだった。

とっさに抱いた疑問だったが、案外『ババァ』の存在が高橋にとって特別であることは明確だった。『ババァ』の素性が明らかになれば高橋について分かることは増えるかもしれない。

 

「高橋……その…ババァというのはお前にとって、」

 

「すみません谷垣殿」

 

俺の言葉を遮ったあと、のろのろと振りつつ

「少し……飲みすぎたようで、もう帰りませんか?」

三島はともかく、高橋は酔うどころか顔を青くしている。

 

「…まだ来たばかりだ」

 

「すみません」

 

「もう飲みたくないのか」

 

言葉を確かめようとすると、机の上をさまよっていた高橋の目線が、ピタと俺の目をまっすぐとらえた。

 

「あなた方が、俺が何者か…危害のない者か気にしているのはよく分かりました」

 

訊かれて、俺は一瞬どきっとする。

さっきの矢継ぎ早の質問があだになったのは目に見えていた。探りを入れていることが早くにバレたのだ。しまったァ……と心中で叫ぶ。

が、なるべく何でもないふうに、

「かっ、かか、考えすぎだ高橋…」

と切り返した。高橋は若干語気を強めて呟いた。

 

「あなただけじゃない、ここの人達はみんなそうなんでしょう。いくら鈍い俺でも気付いていますよ。俺が誰からも警戒され、今も探りを入れられていることくらい」

 

「………」

 

誤魔化しようがなく、ついに俺は黙り込む。

そしてしばらくうつむき加減になっていたが、「ハァ」と息の漏れる音で顔をあげた。

 

「大丈夫ですよ、探りなんて入れなくても」

 

「…………」

 

大丈夫とは何についてか、それも尋ねる前に高橋が弱々しく微笑んだ。

 

「大丈夫です。俺なんて警戒するだけ取り越し苦労。むしろ監視に心を砕くくらいならば、今ここで殺せばいい」

 

「なにを」

 

ハハッと力なく口角をあげたが、慣れていないのか高橋の口元は大きく上下を繰り返し、震えていた。

 

 

「気に入らないんでしょう。俺だって第七師団の方々とわかり合おうなんて思っちゃァいませんよ。それに、他で長生きしたいとも思わない。殺してもらってかまいません。恨みませんから」

 

まるで嘘を言っているようには聞こえなかった。

だがその純粋さが返って気味悪く、高橋の心中を汲み取ることはできない。

返す言葉に困ったあげく、俺は苦し紛れに三島を見た。

 

「み、三島には恨まれるかもしれんぞ」

 

「三島殿が?」

 

「そうだ」

 

ほとんど自分に言い聞かせるようにつげた。

口から出まかせを言うのは苦手なのだが、珍しくこの時はスラスラ言葉が流れでてくる。

 

「さっきは濁したが、実は三島は下戸なんだ。だからほとんどの飲みに行く誘いも断るほどで、もちろん慣れてる店は数少ない。しかし今回、いつも行かない店にわざわざ出向いた。酒も飲んだ。なぜか分かるか……?」

 

「なぜですか?」

 

「ひとえにお前と飲んで、仲を深めたかったからだ」

 

「えっ」

 

うん。驚くのも無理はない、今俺がそういうことにしたからだ。

だがそれ以外は事実である。三島の無茶は思わぬところで報われた。

 

「ここまで歩み寄ってくれた者を前に、そんな虚しいことを言うんじゃない。それにあの戦いを生き抜いたんだ、無闇に『殺してくれ』なんて言うと、死んでいった者に恨まれるぞ高橋」

 

「……………」

 

言葉を続けるも、脳裏には戦争のことがよぎっていた。俺が賢吉の最期をみとった。俺は『生まれてきた役目はなんだろう』と答えの無い問をずっと自分に投げている。

『役目』や『自分』を見失っているのは俺だけではない。そう思うと、自然と目の前にいる男に、少しばかり同情してしまった。

 

「ぐぅ……おえ」

 

俺の隣で、三島が苦しそうにえづいた。

 

「…………帰りましょう」

 

高橋はもう無理に唇を歪めて笑う素振りはみせなかった。俺は「……そうだな」と軍帽を深く被り直す。

 

「ほら帰るぞ三島……だめだ」

 

薄々分かってはいたが、三島は立ち上がれないほど潰れていた。肩を揺するが、顔を赤くしたまま寝息をたてる。頬を叩こうと反応がない。

 

「…どれだけ無理をしたんだコイツは」

 

「三島殿は2〜3杯しか飲んでません」

 

「なっ」

 

「驚きますよね」

 

そう言って高橋は眠る三島にため息をつくが、俺のほうは高橋の酒豪っぷりに驚いていた。5つ以上転がる徳利をひとりで平らげるとは末恐ろしい。

目を丸くして高橋の顔を見る。

その時、高橋が一瞬だけ、目尻をさげた。

 

「まったく…何がしたいのか」

 

おもむろに立ちあがり、こちら側まで2、3歩で近くと軽々三島を持ち上げて背中へ乗せた。

 

「帰りましょうか」

 

「そうだな」

 

両手の塞がる高橋に代わって、店主には俺からお代を渡した。それぞれの分は後日もらうとこいうことで合意して、帰路に着く。

 

のちに高橋が吐いた『22歳、弟子屁町出身、現在しばしば親と会っている』という情報は、鶴見中尉に伝えた数日後に分かったのだが、すべて偽りであったらしい。

調べた者が言うには、高橋は第七師団へ来て以来の外出記録は一切なく、さらに言えば弟子屁町に高橋という者は住んでいないという。22歳というのも、高橋が出兵したのは22の時だったのでありえない話だった。

当然信用されていないことは承知のうえであったが、それでも俺はそのことを知らされた時複雑な心持ちでいた。

 

あのときの受け答えは迷うような間がなく、すべてがその場しのぎの出任せで言っているようには思えなかったのだ。

なにより、あの三島を見守る目つきから、高橋には思うより害はなく、むしろ意外とお人好しな性格じゃないだろうかと思うほどだった。

 

「もしやそう思わせること自体が高橋の策略ではないか?」

 

酒保(※兵営内にある購買)でそのあとの様子を伝えていたときのことだ。

三島は俺がそう打ち明けると、冷や汗を流しながらつげた。

 

「そこまで策士だろうか……」

 

首をひねる俺に、三島がまた付け加えて言う。

 

「あの男ならやりかねん」

 

三島、お前が高橋のなにを知っているんだ。少なくとも高橋は先日酒でつぶれたお前をおぶって帰ってくれたんだぞ、と喉まで言葉がでかかる。

 

「……たしかに油断のならない男ではある」

 

一理あることには違いない。

実際、高橋の問答の裏は取れなかったし、今はどうかしらないが『第七師団と分かり合うつもりはない』とはっきり言った。

一夜の酒で人柄が分かるわけではない。

高橋はまだ信用できないんだ、そう自分に強く言い聞かせた。

 

 



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27

注意)ある実在した人物をモデルにしていますが、あくまでモデルであり、実際とは大きく異なります。想像で作り出した性格と経歴です。ご了承ください。
また、原作に登場しないモブキャラの描写が多く出てきます。申し訳ありません。


【小樽の兵舎:鶴見中尉の将校室】

 

空は墨が水に滲むようにゆっくり闇が濃くなり始めていた。部屋の中も同様で、すでに夜の肌寒さが漂う。

静かに部屋に灯りを灯す中尉。その背中に、将校部屋の物書き机のそばで直立していた男が言葉を投げかけた。

 

「まだ信用できませんよ、高橋は」

 

「………昨晩何があった、二階堂一等卒」

 

淡々と切り出した二階堂は、表情を変えずにヘッドギアに縫い付けられた耳へ手を添えた。

 

「洋平、どうする?言った方がいいかな?いいよね?言っちゃおうか?どうしようね?やめちゃおうか?」

 

「その耳をちぎって放り投げられるのと、今すぐ話すのどちらがいいかね二階堂」

 

「昨晩の作戦はおおむね問題ありませんでした」

 

黒目だけを鶴見中尉に向けボソボソと二階堂は初日の潜入について報告した。

潜入というのは、例の偽物人皮を流した賭場で稲妻を待ち伏せるというものである。

この潜入には二階堂のほかにも、選ばれた何名かの兵がその任務にあたっていた。しかしこの時報告される対象は賭場の様子や任務の進行状況でなく、いまだ疑いの絶えない高橋の様子についてである。

 

「高橋は言いつけ通り油問屋に入り、自分の正体も明かさず、一瞬の隙も見せずに朝まで待ってた。結局あの稲妻が来ることはなかったけど、店主以外の周りのヤツらに自分の身元を匂わせるような下手は打たなかった。だよね洋平…」

 

「律儀な男だな。まるで『誠実』が人の形をしているようだ」

 

月島軍曹からも定期的に監視の報告は届いていた。常に変わらず従順な高橋の様子には感心する。けれどそんな中尉へ二階堂は「でもね」とすかさず断りを入れた。

 

「変なヤツがいました。そいつが高橋とよくしゃべってた……ねぇ洋平」

 

「変なヤツだと?」

 

「変なヤツだよねぇ」

 

二階堂は耳に語りかけている。おうむ返しに中尉が尋ねても、語りかけるのはあくまで手元の耳だ。

 

「あの変なヤツ、占い師の弟子って言ってたね、あのオッサン。たしか口寄せが得意だって偉そうにね。高橋がそれは本当かって疑ってたけど、そいつは態度を変えなかった。『それじゃぁ、あなた、アタシが口寄せして占ってさしあげましょうか』って。ヘラヘラしてたけど自信がありそうだった『高橋先生に教わったんだから、当たりますよぅ。アタシの口寄せは』って言ってたね」

 

高橋先生、とその名を耳にするとたちまちに中尉の顔は険しくなった。こちらには目もくれない二階堂の顔をしばらく見つめ、やがて「高橋は高橋でも……」と独り言のように呟いた。

 

「高橋先生と呼ばれたのは……もしやかの有名な『横浜の父』、高橋黄衛門(きえもん)のことだな?たしか今は隠居生活で北に移り住み、北海道炭礦鉄道の社長をやっているらしいが…」

 

「そのひとが小樽に来てるって新聞でもいってたねぇ」

 

将校室の書斎机には数十部の、小樽に限らず札幌や釧路などの地方新聞がきっちり整えて重ねて置かれている。中尉は迷わずその束から一部の新聞を抜き取って、灯りのもとに晒した。

『第七師団ノ食言(しょくげん)』という見出しの文だ。(※食言:嘘をつくこと)

第七師団をなじる、過激な批判の声に眉を寄せつつ、順を追って上から下へと目を走らせる。

 

「派手にやってくれるな、食言とはどちらのことか…。あの狸爺めが」

 

人皮狩りに取り込み中の今、正直なところあまり本筋から離れたところに手を出すのは避けたかった。

 

「軍に紛れこんだ己の孫を探すため、小樽にまで足を運ぶとは。泣かせる話でどうも嘘くさい。どちらにせよ私のところへ訪ねてくるのも時間の問題か…」

 

けれども、高橋の面会を断るのは不信を買いかねない。

というのも表舞台では敵対している第七師団と高橋であるが、実のところ密に関わりを持っているのだ。うまい具合に世論を煽ぎ、街の反乱分子を一挙にまとめ、自身に都合良い形で鎮圧する。要は庶民の味方のふりをして最後は背中から刺し捨てるのが高橋の常套手段らしい。情報将校の鶴見中尉はもちろんここまですべて知っていた。

しかしそんな中尉でも『孫』の存在は耳にしたことはなく、いまだにその言い分が訝しく思えてならないのだった。

 

「口寄せと高橋黄衛門ってなんか関係あるのかなぁ?」

 

「高橋黄衛門は口寄せを使って成功してきたことで名高い事業家だ。だからやつの胡散臭い言動も侮ることができんのだ。ヤツは世の流れを口寄せで見極める。口寄せがよく当たるので、日清戦争と日露戦争の占いが報知新聞や国民新聞なんかにも掲載されたほどだ。そしてその占いがまた当たっていたものだから、一時期中央が高橋の話題で持ちきりになった。今でも中央で高橋を本物の予言者と言う者も少なくない」

 

つまり高橋の持つ中央、ひいては軍への影響力はそれなりに大きい。面倒であってもないがしろに扱うことは危険だった。

 

「たしか高橋黄衛門の信条は『占いは売らない』。商売として占いをやるつもりはないらしが……とは言ったものの弟子は何人かいた。身分性別問わず、その才能のみで門入りを決めていたそうだが……」

 

「じゃああのオッサンが高橋の弟子っていうのはホントかもね」

 

「まだ断定できない、可能性は半々と言ったところだ」

 

そう言いつつ中尉は手元の新聞をたたんで、そっと束の上に乗せる。

 

「ところでその自称高橋黄衛門の弟子は、結局こちらの高橋になんと占ったんだ?」

 

二階堂はすぐには答えなかった。記憶をじっくり呼び起こすように、照明にたかる羽虫を目で追う。

盆が近いと言っても夜は肌寒い北海道。虫の数は二、三ほど。動きもはたいた塵が舞うかのごとく鈍かった。

 

「『3日後、あなたの待ち人が来るぞ』と」

 

「3日か」

 

鶴見中尉は言葉を含み、二階堂に背を向けて新聞の文字を睨んだ。

当たるかどうか怪しいのが占い。しかも言いふらしたのは自称高橋黄衛門の弟子。ほとんど信用に値しない情報だが、中尉自身どこかで予感をしていた。

今日から2日後に稲妻強盗夫婦は来る。

 

「ご苦労だった二階堂。よくやった。もどっていいぞ」

 

二階堂のほうへ振り返る。二階堂はこちらを見向きもしない。

 

「わかりました……戻っていいって洋平」

 

そう耳へ微笑みかける二階堂の様子を見ていたが、中尉はふと「これは余談だが」と言葉を繋げた。

 

「高橋上等兵も口寄せができるそうだが」

 

二階堂はその言葉に、ぼんやり口を開けたが何も言わなかった。

喋らないことを見こし、言葉を誘うように中尉は語りかける。

 

「……もしかすると高橋上等兵こそが高橋黄衛門の捜し求める『孫』なのかもしれんな」

 

「違う」

 

瞬き一つせず、こちらをうかがう。中尉は黒目を細くして、見返した。しばらく部屋の音は風がガラスを叩くものだけになった。

 

「違うというのはどういうことだ?」

 

「あいつは口寄せなんてできない」

 

「ほぉ」

 

「『あいつの』は、口寄せなんてもんじゃない」

 

口寄せのくだりに気を留めたのは予想外だった。しかし高橋の『口寄せ』はすでに妄言と見受けている。だろうな、と本心からうんうん頷く中尉。

だが二階堂の後の言葉、

 

「ただ死人に振り回されてるだけですよ」

 

と、そのひとことに首を止めた。

固まる中尉をそのままに、二階堂は「これから任務があるので失礼します」とその場を後にして出ていった。

ギキィという木製扉の軋む音が、兵士の悲鳴を思い起こさせる。

まれに見せる高橋の焦点の合わない瞳。その双眸はじつに死人と瓜二つ。二階堂洋平や江渡貝弥作の振る舞いも否定のしようがないほど似通っていた。

まさか本当に死んだ人間が居るのか、と冗談半分に勘ぐってドアを見る。

 

「……」

 

足音もない静かな扉の向こうを睨む。

ドアの外には間違いなく人の気配があった。

 

「誰だ」

 

「………月島であります」

 

「入りなさい」

 

白状した男が部屋に入ってきた。敬礼をする顔にはなんとも居心地悪そうな表情が浮かんでいる。

 

「おや……鯉登少尉も居たのか」

 

続いて部屋に入った人影も同じ表情であった。

人影は頷いたあとに頭を突き出すような敬礼をして、おずおずと言った。

 

「死人に振り回さるっとはどげんこっなんやろう?」

 

「わからんぞ鯉登」

 

「月島ぁ!」

 

「死人に振り回されるとはどういうことなんでしょう?と言っています」

 

「………なにかの隠喩に違いない」

 

毅然とした中尉の言葉に、ですよね、と鯉登少尉は顔を綻ばせた。

 

「そうでしょうか」

 

割って入るように呟いたのは月島だった。

 

「もし言葉のままの意味だとするなら…」

 

「死者が存在するとでも?」

 

そんなわけないだろう、というニュアンスを含んだ中尉の言葉。ふ、と軽く笑って中尉は言った。

 

「確かに死んだと思っていた者が生きていたことはある。銀行を襲ったあの悪霊のことは忘れもせん」

 

いまだ肉体を保ち、生きはばかる幕末の英雄を皮肉で亡霊呼ばわりするならまだしも、真面目な顔で幽霊を語るのはよっぽどのことだ。そうそうする事ではない。正直、月島軍曹自身もそう考えていた。

しかし今朝の件がどうにも気がかりだったのだ。

 

「高橋上等兵は、二階堂を始め、私や他の兵が警戒して四六時中見張っています。以前から申し上げている通り、一見不審な動きはどこにもありません。そうであるのに、妙なことを言って、それを言い当てることがあるのです。まるで実際に盗み見たかのように正確に、身辺のことを言い当てます」

 

「そうかそうか。ますます『口寄せ』の信憑性が増してきたな、面白いぞ」

 

中尉が茶化すのも無理はなかった。その反応も当然だと思い直す月島軍曹、その横で中尉と同じく鼻で笑う鯉登少尉の姿があった。

 

「考えすぎだぞ月島」

 

顎を斜めに構えて少尉は言った。

 

「先ほども言いましたが、やはり高橋が(写真の)隠し場所を言い当てる事の説明がつきません鯉登少尉殿」

 

「フッ、だからと言って幽霊の力を借りたというのか?」

 

「その可能性も考えられる、と」

 

「限りなく低い可能性だ」

 

そう言い切った鯉登少尉に中尉も同様の反応だった。そして「そんなことを月島が言うとは」と意外そうに声を漏らす。

らしくないという自覚が月島軍曹にもあったが、それにしても釈然としない。一方、鯉登少尉は緩やかな笑みを据えたまま肩をすくめて言った。

 

「高橋は狐か狸に摘まれているのか、我々をおちょくっているだけだ。背も高いと態度もでかくなる…。私のことを舐めてかかっているに違いありません。私が必ずあの舐め腐った根性を叩き直してみせましょう……って言え月島ぁ」

 

「もう聞こえてるぞと言え月島」

 

左右から板挟みにされる。

 

「………」

 

 

もう何も言うまい、そう静かに月島軍曹は心に刻んだ。

 

 



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28

※遅れて申し訳ありません…細かい修正後ほど行います。


【谷垣の回想:旭川第七師団兵営、酒房】

 

 

時は11月の中頃というが北海道では真冬と変わらぬ寒波が押し寄せていた。遠くのぞむ山々の頭は雪化粧に覆われ、腹のあたりはすっかり白く、霞の中に消えていた。

 

「3週間後だそうだ」

 

酒保の向かいにある酒保庭園に置かれた長椅子に並んで座り、そう切り出したのは三島だった。平時は内務班の寝泊り部屋に火鉢があるから、そこへ暖をとろうと集まる者の群に混ざるわけだが、話をするのに都合が悪いと三島が言うのでわざわざ外に場所を移していた。

 

「3週間?」

 

思わず吸い込んだ息が鼻を刺す。袖を通した外套では心もとない寒さだった。隣の毛布製外套に身を包む三島を見やるが、それでも耐えられん寒さなんだろう、険しい顔で首をすくめていた。

震えか頷きか分かりかねる動きで三島が顎を引く。

 

「鶴見中尉殿と共に、小樽の兵営へ移るという話だ」

 

話の要旨を聞かされて、ようやく人気(ひとけ)の少ないこの場へ呼ばれた意味を察した。パラパラと酒保を出入りする数名に気を配りつつも俺は

「そうか。いよいよ……」

と目を伏せた。

覚悟していたことであっても、先のことを思えば複雑だった。

 

「ああ。もう人皮の目星はいくつかついているらしいから、小樽へ着けば忙しくなるぞ」

 

そんな俺の心境など知らず、三島の声は弾んでいる。

 

「何名ぐらいがそこへ呼ばれている?」

 

「だいたい五十名前後だろう。そう大勢連れて行くわけにはいくまい」

 

「それもそうだ」

 

「小樽はここより冷え込むらしい、用心せねばならんだろうなぁ」

 

「高橋も来るのか?」

 

「……」

 

隣で身を固くしたのがわかった。俺の肩にも自然と力がこもる。

少し間をつくり、三島は口を開いた。

 

「鶴見中尉はそのつもりだそうだが……」

 

言いかけたところで三島の言葉が止める。

 

「高橋」

 

呟く三島の見る先へ同じように目をやれば、数名の男に囲まれて酒保の裏へと入って行くのが見えた。

高橋は男たちに何か怒鳴られているようで、まだこちらに気づいている様子はない。

 

「何の騒ぎだ?」


「高橋のやつ…また何か見当違いを言ったな」

 

「『また』?」

 

俺の問いかけに、目では高橋たちの姿を追いつつ三島は頷いた。

 

「最近やつとよく喋るようになってな……それでわかったんだが、高橋はあまり他人の言葉の裏が読めないらしい。言葉をそのままに飲み込み、疑うところを知らない。その素直さは純粋な子供のようでもある。ただそれが悪いことに、思ったことをそのまま言うタチでもあるらしく、言葉に遠慮がないと言うか…なんと言うか‥」

とその顔には苦渋の色が浮かぶ。一方で俺は三島から高橋の話が聞けたことに驚いていた。

 

「お前たちが内務班で喋るのをたまに見かけてはいたが……そこまで知る仲になるとはな」

 

数日前に高橋と飲みに行った時、帰りこそ穏やかだったとはいえ、その態度は一貫して固かった。途中、怒りをあらわにする場面もあったから、もう腹を割らせるのも無理かと胸の内で思っていたのだ。

 

「そうだろう。俺でも今だに不思議でならない」

 

それは当の三島も似た思いであったようで、首をひねっている。

 

「思えばあの飲みに行った夜からだ。あれ以来、あいつが俺に話かけるようになった」

 

「駄目元の作戦だったが、案外効いたらしい」

 

よかったじゃないか、と付け加えると三島がますます腑に落ちない表情になった。

 

「そうなんだが……これが想像以上に気を許されているようでな。谷垣、聞いてなかったんだが…俺はあの夜潰れた際に何か高橋にしていたか?」

 

谷垣は迷うことなく、数日前の夜を思い返す。心当たりは大いにあった。あの夜とは、酒に呑まれて意識が怪しい三島に代わり、俺が高橋の相手をした時の事。あらかた会話の内容を先に述べたような情報も合わせて伝えていたが、その折に三島を使って疑心を抱く高橋を煙に巻いたことまでは言い損ねていた。別に話すほどのことじゃないと、重く見ていなかっためだ。しかし三島の話から察するに、あの時の俺の説得が自分で思う以上に高橋の中の三島の印象を大きく変えた可能性がある。

今さらではあるが、そんな推測と事実を交えながら俺はことの経緯を三島に話した。すると三島はパチパチと何度か瞬きをしたが、「よくやった谷垣」とすぐ笑って見せた。

 

「嘘も方便、俺の本心とは違えどうまく高橋を懐柔できたなら上々だ」

 

「…それならいいが」

 

「気に病むことはない谷垣。高橋の腹が割れれば、鶴見中尉もさぞお喜びになる。見ていろ、このまま高橋を飼い犬のように手懐けてやろう」

 

そう得意げに言いながら三島は椅子から腰をあげる。

どうしたんだと目で追うと、三島は振り向きざまに不敵な笑みを浮かべた。

 

「物は試しだ。怒鳴られたあいつを慰めにいく。あいつに恩を売れば、飼いならすのもたやすいだろう」

 

「……そうかもれないが」

 

俺の言葉尻も待たずに、三島はそのまま酒保の裏へと一直線に向かった。渋々俺も雪についた足跡をなぞるように後ろをついていく。

酒保庭園は酒保の目の前にある。その酒保の裏へ行くことなんてほんの数分で足りるが、それでも人気(ひとけ)のなさで静まった道のりは少し長く感じた。

裏へ回る際、チラリと酒保の中をうかがうが、火鉢に数人が当たっているだけで変わらず静かだった。

 

「………!」

 

ただ、ひとりだけ集まりから離れ、冷気漂う窓のそばへ顔を寄せる者があった。それが尾形上等兵だったのでなんとなく目を逸らす。こちらを振り返ったように思えなくないが、気づかないフリをする。

 

「なんだと貴様!もう一度言ってみろ!!」

 

怒声に導かれ酒保の裏まで回れば、そこには案の定、男三名に壁へ追い込まれた高橋の姿があった。

 

「なにしてるお前」

 

「離してやれっ」

 

駆け寄ると、真ん中の男が高橋の胸ぐらを掴んでいたのが見えた。ただしその男と高橋の体格差は大きく違い、遠目では完全に子供が大人に背伸びして、ごねている絵面になっている。まったく高橋が困っているようには見えないが、相手の男の形相から俺たちはその二人の前に飛び出す。あわてて三島が胸ぐらを掴んでいた男を離し、俺が高橋を制した。

 

 

「なんだなんだ。離せ!おい貴様謝れ!早く謝れ!」

 

男はその身軽さから三島の腕に収まってはいたが怒りまでは収まりきらず、その手足をでたらめに振り回し三島を打つ。

 

 

「コイツが何かしたのか?」

 

俺がその男にたずねると、傍観に徹していた周りの二人が目元を歪めて言う。

 

「何したも何も、喧嘩を売られたから買ったまでだよ。この男がコイツの背丈を侮辱した」

 

「背丈?」

 

「高い場所にある窓をコイツが閉めようとした時、後ろからこの男が閉めた。そこまではよかったが、そのあとこう言ったんだ。『絶対に届かないんだから無理しないほうがいい』と。そして続けざまに『ひと目で届かないことが分からなかったのか……?』と聞いてきた」

 

ひととおりの話を聞けば圧倒的に高橋に非があった。嫌味とすぐにわかる台詞に、俺でさえ思うところがある。

三島に押さえられている被害にあった男は

「図体もでかけりゃ態度もでかいな!」

と嫌味を吐き捨てた。対して高橋の方は

「いや、その理論はおかしい。今俺はお前と対等に話してるつもりだ。であるのにお前の図体が小さいままなのはなぜなんだ?」

と真顔で火に油を注ぐ。

 

「ブン殴ってやる!!」

 

「待て待て待て待て!!」

 

三島が押さえるが、なおも男はそこから身を乗り出して高橋を殴ろうとする。背丈にしては中々の跳躍力だった。

俺も両脇からこちらを睨む男たちに「いったん落ち着け」と両手を向けて呼びかける。

 

「聞いただろう、この男まだ嫌味を言う度胸があるらしい。そこをどけ」

 

鋭い目つきで男たちは俺に迫る。俺はその言葉に何も返せなかった。

言いたいことは充分分かる、むしろ高橋の言動のほうが理解しがたいのだ。

そうこうしていると、背中越しに顔を出していた高橋が平然と言った。

 

「俺は嫌味なんて言ってない。質問したんだ。どういう理論なのかはっきりさせてほし…」

 

「お前は黙ってろ高橋!」

 

声を張り上げてたしなめるが、相手はそのひとことで臨戦態勢になった。三島が腰を低くし、「落ち着け、いったん」と繰り返すが耳に入っている様子はない。

 

「貴様……!」

 

「いい加減にしろよ…」

 

三島が抑え切れないでいた取り巻き2人が、こちらへゆっくり歩み寄る。じりじりと高橋は俺ごと壁へ押し迫られた。

ガチャンとガラス窓に高橋の背中が当たり、ついに逃げ場が無くなったことを悟る。

このままでは壁として立ちはだかっている俺も巻き込まれるのでは、いやもう巻き込まれている。

男たちが拳を振り上げた。だめだ俺が殴られる。覚悟を決めた。

 



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29

※修正は明日に行います、読みづらくて申し訳ありません。


「んなっ」

 

唐突に肩を掴まれたことで声が漏れた。

頭で思考をめぐらせているところでの不意打ちだった。

高橋が大股で足を俺の前に放り出し、詰め寄る二人のうち、右手側に立つ男の距離を詰めた。同時に半円を描くように拳を振り上げたかと思うと、そのまままっすぐ頭上に拳を突き落とした。

ゴッという嫌な重低音がした。前のめりになって男が崩れ落ちる。「ヒグッ」とうめいて静かになった。高橋の腕がビュンと風を切る。唖然とする左側の男の首に、その拳がめり込んだ。室内の敬礼(※体の上部を十五度傾けた状態)の格好のまま男は殴られた方向に倒れ、雪の上で小刻みに痙攣していた。

それにあっけにとられていると、高橋はすでに三島の方にズンと歩み寄っていた。狙いはその奥にいる低身長の男だ。

俺はとっさにその体ごと引き止める。

 

「殺す気かっ!」

 

振り向く高橋の表情は、ちょうど逆光で見えなかった。

 

「そうですよ」

 

その抑揚のない声だった。

 

「お前…」

 

本当に人か。そう問いかけそうになった。

だがこちらが訊くより早く口を開いたのは高橋だった。にこりともせず、

 

「冗談です谷垣殿。しかし、反撃しなければこちらが殴られますよ」

 

と言い放った。

確かにその通りではあるが、限度というものがあり、まさに高橋の反撃は一方的な力の爆発だった。けれども高橋は依然として他人事を語るように冷静である。その態度を前にして返す言葉を失った。寒気が体中を走り抜け、麻布に身を包んだような心地になる。

 

「行くぞ」

 

強引に片腕を掴んだのは三島だった。その動きからすぐさまこの場を離れるようとしているのを察した。三島は声を潜めて「見られている」と俺の背後を顎でしゃくった。

ハッとして酒保の窓を向くと、人を食ったような表情でこちらを見る尾形上等兵と目が合う。

つい数分前入り口を横切る際に、窓に身を寄せるこの人の姿が脳裏をよぎった。

三島に引きずられるように俺と高橋はその場をあとにしたため、わずかな時間しか視線が合わなかったが、さらに俺の肝を冷やかしたのは言うまでもない。俺と三島が高橋と結託している、と誤解を生んだかもしれない。

いよいよ動揺を隠せられず固唾を飲むと、そんな俺の気を案じてなのか三島がまた小さく耳打ちをした。

 

「心配するな、上等兵殿には事の旨はあらかじめ伝えてある」

 

『事の旨』というのは恐らく高橋を懐柔する企みのことだろう。それならばひと安心かと、心許ない安息に胸を撫で下ろす。

 

「なぜこうも遠慮なく殴れるのか、お前は」

 

三島は今度は大げさにため息を吐いてそう言った。高橋に投げかけた言葉だとすぐ気づかず、眉を寄せる。横を見れば、三島を挟んで向こう側に同じく三島に腕を引っ張られながら眉を寄せている高橋がいた。

 

「殴ったのは殴られそうだったからだ」

 

高橋は俺に言ったことをまた口にした。しかし口調はいくらか乱暴な、良く言えば砕けたものだった。

 

「お前が変なことを口走らなければ殴られずに済んだはずだ」

 

「そんなことない」

 

真っ向から突っぱねられる三島を見て、不安が募った。「飼いならしてやる」と意気込んだ割に高橋からまったく従順さを感じない。

 

「それに…それを言うならお前のせいだろ三島。お前が入ってこなければあの場は丸く収まっていたのに」

 

「どこがだ」

 

三島は腕から手を離し、呆れ顔で高橋を見上げる。

 

「お前な、背の低い者に対して気を回すのは嫌味に決まってるだろう。お前みたいな図体がでかいヤツが言えばなおさらだ」

 

「そんなわけない」

 

「そんなわけあるんだ」

 

むしろ高橋は三島に対して鬱陶しさを滲ませた態度であった。

三島、お前よく俺に向かって「見ていろ」と言ったものだ。見てられない。

 

「冗談のつもりで言ったとしても愛想がなけりゃ笑えないだろう」

 

「愛想はある、俺だって」

 

「ないから言っとるんだ高橋」

 

素っ気なく三島は言葉を返して営庭を横目に、自分たちの部屋のある兵舎の方へ歩き出した。

追いかけるように高橋が後を歩く。

 

「舐めてもらっちゃこまる。こう見えて日々努力してるんだ」

 

「嘘だろ」

 

思わず口をついていた。ようやく喋った俺の方へ高橋と三島の目が向く。

 

「谷垣もそう思うよな」

 

「ひどいですよ谷垣殿」

 

 

二人の様子に違和感を覚えつつ、先ほどの猟奇的な光景が薄らいでいった。

 

「ほら高橋、いっかいやってみろよ。愛想笑いでも」

 

「よしきた」

 

快諾するとは思ってもいないので、「嘘だろ」とまた困惑するのも束の間、高橋はピクリとも笑わずに言った。

 

「ふっふっふっ」

 

「………」

 

気色悪い。

 

「それは何なんだ、どこから声をだしてる?」

 

同じく反応に困った三島が訊いた。

 

「腹式呼吸を知らないのか?」

 

「誰が呼吸法を使って笑えと言った」

 

「息を止めて笑えというのか?」

 

「普通に力を抜いて、口の端をあげればいいんだ口の端を」

 

言われるままに、高橋はクィッと口の端をあげて俺たちを見た。あがったのは片方だけだった。

 

「………」

 

「両方あげろ高橋。お前気味の悪さに拍車がかかっとるぞ」

 

「無理に決まってるだろ」

 

「なんで無理なんだよ」

 

できるだろ普通は、と呆れ顔で三島が高橋を見る。

 

「それと愛想笑いっていうのは、間合いが大事なんだ。お前は人が苛立つ間合いで相槌を打つからダメなんだ。普通は相手が気持ちよく喋ったあとに『ハハハ』と、ひかえめに口角を上げて愛想笑いをするのが良いのだ。わかったか?」

 

「ハハハ」

 

「違う、今じゃない」

 

その後結局、内務班の部屋へ着くまで俺たちは「あーでもない」「こうでもない」と高橋の言動に茶々を入れて歩いた。

最初こそ手のつけられない冷血漢と思われた高橋だったが、三島の言葉にムキになる様子は子供じみていて、なんだか別人のように見える。

そんな二面性がやはり薄気味悪いとは感じるが、悪いヤツではないのだろうと心のどこかで思っていた。そしてその思いは予期せず、早くに確信へ変わることになるのだった。

 

 

○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

 

 

【谷垣の回想:旭川の兵舎】

 

廊下で目があった高橋が、こちらに歩み寄ってくる。

 

 

「谷垣殿、三島を見ませんでした?」

 

小樽に向かう日が近づいていた。あと2週間。

落ち着かない雰囲気の中、三島は病院に向かっていた。

鶴見中尉の前頭葉がまだ完治していないというのは周知の事実だったが、面会するのはごく限られた人物であり、その人選はひとえに鶴見中尉に委ねられていた。三島が呼び出されたのには意味があるようだった。

 

「わからない」

 

口先に任せて答えると、あからさまに高橋は肩を落とした。

 

「そうか…」

 

「急用か?」

 

「そう言うわけじゃないんだが、」

 

高橋があらたまってこちらを見る。最近は俺ともよく声を交わすようになり、高橋はしばしば砕けた口調になっていた。しかし完全に敬語が抜ける訳ではなく、この時も態度こそ変わらないが、よそよそしさが見え隠れする。

 

「三島が最近外へ呼び出されているでしょう」

 

「……」

 

まさか、と思った。

世間話と肩の力を抜いていた矢先に、緊張の糸が張る。高橋に『計画』のことを勘づかれたのでは、そんな最悪をも予想した。もしそうならば今この場で持って口封じをするしかない。密かに懐の短剣に手を伸ばす。

 

「帰るとき、こう…思いつめた面もちで。ため息をつく日もありますよね」

 

「そうだな」

 

「余程のことがなければ人間、ため息なんぞ吐きませんよね」

 

「そうだな」

 

「しかも連日ため息をつく。ということは呼び出された内容は非常に厄介なこと、ということですよね」

 

「そうだな」

 

「ということは、俺が手を貸してもどうすることもできない、しかしそれでは三島が気疲れしたままですよね」

 

「ああ…そうだな」

 

俺は剣から手を離した。

フッと張った肩から力が抜ける。

 

「つまり三島に何か景気づけることでもしてやりたい、ということだな高橋」

 

「…はい」

 

高橋が浅く頷く。けれど顔つきは少し戸惑っているように見えたのは、あながち間違いではないだろう。

コイツの表情がこの頃少し読めるようになってきた。

 

「俺が何をしてもどうにもならないだろうが…せめてこの前、店に連れ出してもらった恩ぐらいは返したくて」

 

「大袈裟だなお前は。三島はそこまで気にしていないだろ?」

 

もちろん連れ出したのは、こちらに引き込む魂胆があったからだ。

今になって効くとは思わなかったが。

 

「……けれど近頃のあいつはずっと辛気臭い顔だ。死人みたいな」

 

「言い過ぎだ。それよりお前でも人の顔色を気にするんだな、意外だ」

 

「そうだな…別段、誰か個人の顔色なんて気にしたことなかったのに。なぜだろう」

 

高橋の方も首をひねっている。俺はしばらく共に廊下を歩きつつ、その横顔を見ながら言葉を待った。

自分でも考えたことが無かったらしく、高橋は「んー」と唸っていたが、やがて自分たちの内務班の部屋が見えだした頃に「あ」とこちらを見た。

 

「三島は口うるさくて鬱陶しいけれど、突然おとなしくなったから気になるんだけな、きっと」

 

「言っている意味はわからなくないが…」

 

三島の本来の目的を考えれば、『鬱陶しい』と思われていたことは本人にとって非常に不本意だろう。しかしよくいえば高橋の気を引けているのだから、本人には複雑だ。

それより、高橋の変な意地の張り方がおかしく思えていた。

 

「高橋。そこは素直に心配だと言えないのか」

 

「そこまで心配してない。あいつは偉そうに俺の世話を焼くのが常であったから、急に静かになると何かあったと思うだろ。だから別に、特別気を揉んでいるわけでもなく、少し気になるってだけで」

 

「じゃあそういうことでいい」

 

「谷垣殿、誤解しないでもらいたい」

 

「俺は何も言ってないぞ」

 

「その顔は『なるほど、実は二人はそういう感じの関係か』と解釈した顔だ」

 

「いや、それはお前の思い込みだ」

 

「そして二人の有る事無い事を噂にし、流す魂胆なんでしょう。そうなんでしょう」

 

「いや、それもお前の思い込みだ」

 

「嘘をついても無駄です、その胸毛を見て俺が騙されるとでも?」

 

「いや、胸毛関係ないだろ」

 

「冗談です」

 

「お前ずっと真顔だったぞ?」

 

「ははは、まさかまさか」

 

少しだけ笑ったが、やはりそれは微々たる変化だ。それでも最初に見せた下手な愛想笑いより好感の持てる笑いだった。

 

「谷垣殿は面白い人ですね」

 

そう言いながら高橋は内務班の戸を開けた。

 



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30

投稿遅れてしまい申し訳ありません、12/28〜1/6は投稿頻度上げていこうと考えてます。投稿する時間は午前10時で統一していくと思われます。よければまたのぞきに来てください。


戸を開ければ、目の前には一本の廊下が伸びており、廊下を挟んで左右に内務班が設置されている。部屋ごとに窓付の壁があるものの窓は腰の位置まであるし、各内務班の出入り口には扉もない。壁も腰までしかなく、残り半分は銃架だ。銃架には三八式歩兵銃が目隠し役として、ずらりと立てて並んでいるが、拳ひとつ分くらいの隙間ができる。よって内務班内の様子はほとんど丸見え状態だった。しかも俺たちの内務班は入ってすぐ左手にあるから、今は慣れたが、部屋に入ってきた兵とよく目があったりする。

俺たちが入った時も、自然と廊下から自分たちの内務班の兵と一瞬目があった。

内務班の各部屋には壁中央に作業机と呼ばれる大台があって、さらにその奥にはペチカという石炭ストーブよりひと回りかふた回り大きい暖房器具が置かれてある。大抵の兵が寒さから逃げるようにペチカの近くへ座るため、休み時間の場所取りは早い者勝ちだ。今日もすでに何名かがペチカの側を陣取って談笑しているので、俺は自然と一番廊下に近いところへ腰を下ろした。

 

「高橋」

 

自分の寝台へ向かう大きな猫背に呼びかける。金属製の寝台は両側の壁に六つずつ並んでいて、高橋の寝台は最奥に位置していた。呼んだにも関わらず背中は遠ざかっていく。

 

「なんですか谷垣殿」

 

返事はするものの、一度も振り返らずに高橋は自分の寝台まで行ってしまった。たいがいは人に話しかけられるとそちらに専念するものだが、高橋はあくまで自分を優先させているようだった。

なにやら探し物をしているようだ。

 

「……」

 

本を取り出し、俺の座る向かい側に腰を下ろしたかと思うと、すぐ読み始めたものだから驚いた。

その読み方も独特で、背を低く丸めて、顔の前に本を立てて読む。すると高橋の顔はちょうど鼻の上本で隠れ、眠そうな目元だけが高橋の心情を汲み取る唯一の手がかりとなった。

『西國立志編』の表紙がこちらを向く。高橋が二、三冊持っている本の中でも内務班で特によく読む古本だった。俺は本に向かって語りかけた。

 

「その本は面白いのか?」

 

俺も文字こそある程度読めるのが長い文章に目を走らせるのは得意ではなく、読書などもってのほかだった。しかし話しかけた手前、見つかる話題といえばそれしかなかったため何とは無しにそう口をついていた。

 

「そうですね…まあ、そこそこに」

 

目線を本へ伏せたまま、高橋は無愛想に言った。

確かにそのまま「そうですよ面白いですよ」と下手に乗せてしまって、「読んでみますか?」と誘われても正直困る。

かといって水を差すような話も振れない、これ以上下手な質問をしないよう慎重に言葉を選ぶ。

 

「その本は、自分で買ってきているのか?」

 

「……ババァが小さい頃にくれたんです。以前まで他の者が使っていたものだそうで」

 

「そうか」

 

「ババァは………常々…知識をつけよ、とうるさかったんですよ。将来は自分の意思で自分の生き方を決めていけるようにと」

 

高橋は懐かしむような目で窓に視線を移していた。本から口元がのぞき、その口端はほんの少しだが、横に広がっている。

『ババァ』の話題を自分から、しかも穏やかな思い出話として語る高橋は新鮮だった。飲み屋での剣幕を目の当たりにしてから、『ババァ』とは本人にとって憎むべき相手であり、こちらが触れてはいけない話題と心得ていた。

だから薄々、その『ババァ』が高橋の身元を明らかにできる鍵だとは勘付いていたものの、琴線に触れる恐れが拭えず聞くに聞けないでいたのだ。

俺は当たり障りない相槌で、高橋の話に乗った。

 

「勤勉だな、高橋は」

 

「いえ、身ついているかは別の話ですよ。たしかに時間があれば必ず本は読むのですが、実際理解は追いついてないんです」

 

「そうなのか」

 

「文字は読めるんです。文字は。ただ文の意味が分からない。言葉の意味は読み取れますが、文章になると、その意図がはっきりしないんです。挙句、文字がそういう図形に見えてくるので、本当に目でなぞるだけになる」

 

「文字が読めるだけいいだろ。今時、本すら与えられない者もいる」

 

「そうなんですが……それにしても難しくて」

 

「………文章を読むというのは言葉の裏を汲み取ることも必要になる。お前は時々言葉の意味をそのまま取ってしまうから、苦労するだろう」

 

「そう。三島も言いましたよ。お前は言葉の裏を知らない、相手の立場になって考えろ、さもないとこの先利用されて終いになるぞ、と」

 

「三島が?」

 

「はい」

 

「それは……」

 

驚きを隠せずに、声を上擦らせていた。

利用されると忠告した本人が、今まさに高橋を利用しせんとしている真っ最中なのだ。どういう考えがあってそんな言葉をかけたのか、三島の心中が分からない。一度本人に問いただす必要がありそうだが、ひとまずこの場は戸惑いを覆い隠して相槌に徹する。

 

「そ、そうだったのか」

 

「あと、そっくりなことを……昔、ババァにも言われました」

 

「ババァにも?」

 

「はい」

 

高橋は珍しく声を弾ませて応えた、ように聞こえた。実際はどうなのか自信はなかった、俺の見間違いであったかもしれない。しかしこちらに答えるその様子は穏やかで、俺の毒気をみるみるうちに抜いていくのだった。

 

「ババァはよく俺を叱りました。自分の道は自分で決めろ、と。思えば、俺は昔から周りの意思に流されていました。生まれた時は父上、母上の言いつけに従っていました。ババァが俺を両親から引き取った時も、陸軍に入れられら時も、なすがまま、されるがまま。異論なく従った。ただ首を縦に振るのみで、それが当たり前だったんです」

 

高橋はどこか疲れたように天井を仰ぐと大きく息をついた。その様子があまりに不憫にみえて、自分らしくない慰めが口をつく。

 

「従順なことはいいことだ。誰にでもできることじゃない。それに儒教の教えが身についている証拠だろう。読み物の成果はその忠義に表れているんじゃないか」

 

「…………俺は従順な訳じゃない、忠義なんてもったいない言葉だ。俺はそんな良いものじゃない、俺はただ……」

 

高橋は思い詰める表情で、そのあと口を閉ざす。そして数秒の沈黙のあと「すみません」と呟くとその場を立った。

 

「どこへ行く?」

 

「気分が良くないので、厠へ」

 

高橋の顔が青白いのはいつものことだった。だが口調は弱々しいものに変わっていた。これ以上引き留めるべきでないだろう。

 

「そうか」

 

俺は短く返事をした。すると、去り際に高橋の手が俺の肩にポンと乗る。そして一言、

 

「話、聞いてもらってありがとう。谷垣殿」

 

そう残して、部屋を去った。

こちらに向けたその顔には初対面の頃では到底想像できないほど、子供のように無邪気な笑みが浮かんでいた。

 



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31

 

【第七師団:小樽の街中】

 

偵察作戦2日目になる今夜。昨日のように三名の兵を引き連れ、二階堂と共に油問屋に赴く。

盆を間近にした北海道の夜は肌寒く、夜風は首元を突き抜けた。昼間が沈み込むような曇り空であったから、今夜はひと雨降るやもしれん、と心の内で思う。

街の大通りは静かだった。民宿や飲み屋の橙色に灯る光以外、すべての家々は息を潜めている。砂利を蹴る音が際立って響くので、ピンと緊張の糸が張る。

そんな矢先、口を俺の耳へ寄せて剥製屋が金切り声を上げていた。

 

「高橋サン!イツニナッタラ、ソノ体クレルンデスカ!?僕ズット待ッテルンデスヨ!?」

 

下半身のない剥製屋は、腕を俺の首へ回し、おぶられるようにしてその身を俺に乗せている。振り払う隙もなく、突然肩に身を乗り出してきたのだ。

 

「チョット貸シテクレルダケデモイイト言ッテイルデショウ!?コンナニ譲歩シテルノニ!アナタッテ人ハ聞ク耳持タズデスカ!?」

 

俺は今夜の作戦に集中したかった。剥製屋が肉体を持たないのを良いことに、口が閉じることはない。しかし剥製屋も一筋縄ではいかない。

俺が無視するのも分かっていて、わざと耳の近くで叫ぶのだ。しかもご丁寧に、内緒話よろしく耳に手まで添える。

 

「無視シテモ無駄デスカラネェ!聞コエテルデショ!チャント僕ニ体ヲ貸スト誓ッテクダサイ!」

 

「…………」

 

「ソノ体ヲ貸スト、早ク!僕ニ!誓ッ!テッ!ウワアアアアン!」

 

最後には頭を前後に譲りながら叫んだ。だが俺は足を止めなかった。中尉殿直々の依頼に、雑念など抱きたくはない。ましてや剥製屋の戯言へ耳を貸し、緊張の糸を解くようなことあってはならないのだ。そう簡単に俺が相手をすると思うなよ。

 

「………チェ」

 

変わらぬ態度の俺に剥製屋は観念したのかと思った。しかしそれも束の間、次の瞬間低く潜めた声で剥製屋は言った。

 

「コレ以上無視スルナラ僕ニモ考エガアリマス」

 

いつになく冷淡な口調で言うのでひっそりと警戒して、その続きを待った。

 

「夜ニ無理矢理取リ憑イテ……ソノ『愚息』ヲ去勢シマスカラネ!!」

 

「わかった、わかった検討する。だから下半身には手を出すな」

 

剥製屋の方へ首を回す。俺の肩に顎を乗せる剥製屋の横顔は、それでも不満そうに前を向いていた。口を尖らせて「マッタクモォ」と呟く。

 

「最初ッカラ誓エバイイモノヲ。高橋サン、僕、本気デ怒ッテマスカラ!無視バッカリサレテ傷ツキマシタ!約束破ッタラ去勢シマスカラネ!本気デスカラ!」

 

「やめてくれ俺の愚息に罪はないだろ、俺の愚息がお前に何をしたっていうんだ。ナニもしてないし、ナニもできてないじゃないか。この世で何も成し遂げてやしないんだ見逃してやってくれ」

 

「今後ノ活躍モ期待デキナイノニ?」

 

「俺が期待している」

 

「活躍デキルトハ限ラナイデショ、頑固ダナァ。高橋サン…ソンナニ去勢ガ嫌デスカ……?案外失ッタ後ハ気楽デイイデスヨ」

 

まるで過去に経験したかのような口振りに、僅かに開けた口が塞がらなかった。視線を恐る恐る自らの肘辺りに移しす。剥製屋の上半身の途切れ目がそこにあった。と言っても背中越しであるため、姿は毛皮の影しかうかがえない。しかし今は見えない、俺の背後ろに隠れたその先を想像すると、冷や水をかぶったように肝が冷える。おそらく今、俺の顔は病人のように青くなっていることだろう。

 

「高橋サン、ソンナ呑気ナ顔シテテ大丈夫デスカ?」

 

「呑気な顔だと?」

 

「前見テクダサイ」

 

言うや否や、俺の体が何かによって弾かれた。

見ればそこには、先導していたはずの二階堂が立ち止まっており、不機嫌そうに寄せた眉を向けていた。

 

「何よそ見してんの。潜入に慣れてきたからって気でも抜けた?」

 

そんなはずないだろう、と否定しようとしたが、見上げると二階堂の背には油問屋が光を放ってたたずんでいる。

歩きながら話していたせいで、着いたことにも気付いていなかったのだ。

返す言葉もなく黙っていると、二階堂は畳み掛け言う。

 

「それともあの占い師に茶化されたこと信じてるの。鷹括って、今日は獲物は来ないと思ってるんでしょ高橋ッ」

 

「そんなことはない。そもそもあいつは占い師じゃないと言っているだろ。弟子を自称するにしては胡散臭いオヤジであったし、なにより口寄せもいい加減であんなもの当てになるわけが……」

 

「それなら勤めに集中しなよ」

 

「……………すまない」

 

もっともな言い分には素直に頭を下げることにした。何にせよここからは気を引き締めねばならんのだ。

 

「怒ラレチャイマシタネ〜ッ!」

 

「………………」

 

もはや剥製屋の小言も関係ない。肩に肩を重ねる状態には気を留ないことにして、緩んだ心を立て直す。二階堂の横をすり抜けて足を一歩店の敷居に入れた。

 

「親父よ、いるかィ。五名だ、上がらせてもらうよ」

 

暖簾をはねて、屋敷の中に大きく身を滑らせると、蒸し風呂のような熱気が突風になって体に吹き付いてきた。そして同時に、男たちの熱狂する声が耳に届く。玄関のすぐ横にあった座敷で、半丁賭博が行われていたのだ。

 

「あらら旦那ッ」

 

「景気がいいね今晩も」

 

座敷で尺をしていた主人は俺と目が合うと、肩を縮め、壁へ身を添わせてなんとか群れから抜け出てきた。

 

「あ、あの今日も長くいらっしゃるんで?」

 

「そのつもりだ」

 

男はいかにも困ったような顔を作って、「そうですか…」と声をもらす。その様子に脅しをかけるように、俺は声色を沈めて言った。

 

「探しているの者が来るまでは居ると言っただろう。お前も了承したから金を受け取った、そうなだな?」

 

念を押すが、返事に渋っているのか店主は地蔵のように静かだった。目だけが忙しなく暖簾の外と俺を行き来している。

ここの店主には、昨日の夜の帰りに金を握らせていた。第七師団であることと、これから探し人を待つために店へ通うこと、他言無用と了承させて昨晩は引き上げたのだ。

本来は稲妻達に勘付かれないために、誰にも明かさぬはずではあったが、外を見回っていた軍曹殿の指示で店主も抱き込むこととなった。ただ、抱き込むと言っても、『人皮』の話は出さず、人探しというていで話をしている。

勘のいい店主に先手を打つと言う意味もあるだろうが、大きな要因は『高橋の弟子』と自称する男の出現にあるだろう。あの男が万一に人皮を嗅ぎつけ来た輩だったなら危うい。そのうえ、店主との仲も良好と見えた。店主をこちらの監視下に置くという意味でも金を握らせる価値はあったのだろう。

 

「そこまで気を揉まずとも、用が済めば二度とは来ない。それまで辛抱するんだ」

 

「そうですがねぇ……」

 

「……………何か言い分があるのか?」

 

けっこうな金を受け取ったにも関わらず、何か言おうとしたのを横目に制した。

 

「いえいえとんでもない」

 

店主は気のいい笑顔で顔を振る。これで少しでもおとなしくしてくれるかと期待したいところだったが、不安の種は目先にあった。

 

「ところでオヤジ」

 

余所行き(よそゆき)の声を発して俺は座敷に目を移した。

 

「賭博するのは上の座敷と決まってなかったかィ。一体どうしてこんな玄関口なんかで賭けに興じてンだ」

 

そう、昨日の晩までは二階の座敷で賭博が行われていたはずだった。それをいきなり一階の座敷でやるようになったのか、理由が理由ならすぐにでも軍曹殿に報告しなければならない。

 

「アタシが申し上げたんですよ、お二階は『気』の流れが不吉ですからこちらに移しなさいなって」

 

口ごもる店主より奥から大きな声が飛んできた。

それは座敷の奥で腰を据える壺振りの一人があげたものだった。

 

「お前は……昨日の……」

 

その男は、偵察の初日に突如現れた雨雲。『自称』高橋の弟子を名乗る中年の男だった。

男は仕立てのいい鼠色の羽織りと着物で溢れ出そうな体の肉を包んでいる。しかも頭は白髪まじりのおかっぱであるから遠目で見ると、その姿は腐った鏡餅だ。

 

「またいらしたんですねカタブツの旦那ッ。さあさ、お連れさんともお座りなさいな。こっちにこっちに。今日はアタシが振りますヨ」

 

赤子のように小さい手を仰いで手招きする。この胡散臭い男に従うのがシャクでならない。何より座れと言われてもすでに男達が各々陣取って場所という場所はなかった、壺振りの真横以外は。

 

「どうしました旦那。こちらに場所をこしらえましたよ。どうぞ、アタシの隣に」

 

持ち上げた頬の肉で男の目尻が埋まっている。

この男の笑顔には、やはり虫酸が走る。

俺が答えもせずにジッとしていると、賭博をそのままにして他の客が鏡餅に尋ねた。

 

「なんだ、アンタの商売敵かい?争い事なら外でやれよ。面倒だからな」

 

「いえいえそんな訳がございません」

 

男はヌッと首を下へ傾けて、俺を横目に語り出した。男の声は講釈師のような語り口であり、闇夜によく響く。

 

「たしかにあの方はアタシに昨晩苦言をおっしゃられた。アタシが月夜のあの日に口寄せし、ピッタリ心中を当ててみせたにも関わらず、なんとなんと『占いなんて嘘八百。でたらめな口寄せをして人を惑わせるな』とおっしゃった。しかしながらアタシの占いは先ほど皆さんに披露した通り、何度も何度も的中するのでございます。どのような隠し事も当ててしまったでしょう?あの晩も同じくして、パンッスパンッと他の方の胸の内、それはもう当てて回った。あの方もご覧になった。それなのに頑として『口寄せ』を認めようとはしないのです。詐欺だなんだと決めつけるのです。

しかし人と人の縁には意味がございます。どんな言葉を交わそうとも、ご縁は縁。

それにあの方とは、むしろ巡り合うべくして巡り合った仲でございます。争うなどとんでもない。ねぇ旦那」

 

言葉を切った瞬間、ザーーーーと戦車が外の道を駆けていた。

 

「おやおや雨が降り出しましたね」

 

砂利が跳ねるほどの大雨だ。この男が講談を披露すると同時にポツリポツリときて、言葉を重ねるたびその雨脚が増していたのだ。

自称高橋の弟子が挑発するように視線をよこす。俺は何も答えなかった。

話を振った賭博客が「ほお、」と息を吐いて続けた。

 

「………そうかいそれならいいんだ。それにしてもアンタの声はよく通る。壺振りに向いてるな。それより賭けの手が止まってやがらぁ、さっさと続きを始めろアンタ」

 

「はいはいただいま。ほら、旦那も早くいらっしゃい、仲直りといきましょう。それともなんですか、怖気付きましたか」

 

「……………」

 

分かりやすく焚きつけようとしていることぐらい、察しの悪いと言われることの多い俺でも分かっていた。いい加減に、拳で決着をつけても構わないだろうとも思う。ただその行動の裏が読めないまま、安安と喧嘩を買うわけにもいかない。

もしこの場を荒らだて、我々が第七師団であると知られれば潜入作戦の意味をなさない。

 

「……………二階堂、俺はこの場はから引き上げる」

 

俺が消えれば済む話。後は頼むと背後に立つであろう二階堂の方へ首を回す。

しかし暖簾をくぐった人影に、俺はその目を見開いた。

 

「なにを怖気付いとるのだ貴様。早くあの男の隣に座れ。私も座ろう」

 

「なぜここに………?」

 

その方は紺の衣を淡く濡らしていた。頭から雨に降られたようで、整った艶髪の先から大粒が肩へ足へと滴り落ちる。外で走ったんだろう、少し着崩れして身なりは平民に等しい。けれどもこちらに向けてゆったりと称えた笑みには、場違いなほどの気品があった。

 

「まったく貴様は気の弱い男だな。高橋じょ…」

 

遮るように新たに現れた人影が嗜めた。

 

「コイツのことはここでは高橋とお呼びください鯉戸さん」

 

「あなたまで………」

 

鯉登少尉殿の後から姿を見せた軍曹殿も、農奴とも似た身なりであった。二人して散々降られたようだ。

 

「通り雨に降られたんだ。しばらく賭けに興じて止むのを待つ」

 

「でも、それだと」

 

こう、ぞろぞろと駆け込めば怪しまれてしまう。今でさえ客の面々はこの状況を嫌に静かに眺めていた。ボロをだそうものなら、それこそすぐに兵隊であると暴(あば)かれる。

しかし、鯉登少尉殿の視線はあくまで正面で、俺や他の客には一瞥もくれない。

 

「さあ賭けを続けろ。私はニシンで稼いだ金を集めてきた。これで賭博ができるんだろう?」

 

そう言いながら、牽制を含む客の視線を押し分けて、壺振りの正面へドシリと腰を据えた。

その堂々たるや、これは只者ではないと思ったか、客もその勢いに呑まれて口を閉ざす。

たとえ見え見えの嘘であっても、こう自信満々に振る舞えば成金ニシン屋の息子ぐらいには見えてくる。

 

「お前も座ればいい。ちょうどそこが空いているぞ」

 

賭場なんて入ったことないどないはずなのに、少尉殿は勝手知ったる風にして壺振りの隣を顎でしゃくった。

 

「………あの」

 

どうしたらいいか、月島軍曹殿へ指示を求める。だが軽く肩を突かれただけで、なんの言葉も掛けてはくれなかった。

二人に雨宿り以外の目論見があるのは明らかだ。それも俺に関係する企みだろう。

月島軍曹殿は静かに少尉殿の右隣に腰を下ろした。

それに続いて二階堂や他の兵も奥の座敷に各々場所を作って、あぐらをかいていく。

俺は玄関口で置いていかていた。状況を飲み込めないでいるのは、俺だけだ。

 

「…………わかりました」

 

腹を括り、流れに身を任せることにする。俺は草履を脱ぎ揃え、用意された席へ腰を下ろした。

 

「そいじゃ旦那方、仕切り直しといきましょうかァ」

 

張りのある声が場の空気を一変させた。

木札を囲み、男たちは壺振りの手元に集中する。そんな中で、壺振りの隣に座する俺は男たちと同じく賭けに挑もうとされる少尉殿の姿をどこか不安に思っていた。

 

 

 



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