忘れられた物語に結末を (四足歩行戦車団)
しおりを挟む

一話 感染

 

 

村の外れにある小さな小屋。薄汚れた天井。

幽月は死を待っていた。

身体は動かない。身体の至る所に発疹が広がり、人としての原形を失いかけている。

死ぬならば鬼に負けたとき。

この世界に生まれたときから幽月はそう考えていた。

だが、まさか畳の上で死ぬことになろうとは、志半ばで天然痘を患うことになろうとは、彼は夢にも思っていなかった。

 

常中の呼吸をやめてから三日目。意識がある時間の方が短くなってきた。全集中の呼吸。いくら身体能力を向上させる呼吸方法だとしても、それは万病を克服する力ではない。押し寄せる病の波には逆らうことはできず、幽月は三日前にして死と痛みを引き伸ばすだけの無駄な足掻きだと悟った。その日以来、全集中の呼吸を止めた。身体を蝕む発疹は日に日に広がり、幽月を着実に死へと導いていた。

 

それから何日か経ったのか、今が昼なのか夜なのかも認識できなくなってきた頃、小屋の戸が開く音がした。幽月はまだ自分の耳が正常に機能することに少し意外に思った。ただそれ以上に己ができる事は何もない。建て付けの悪い戸はガタンゴトンと大きな音を鳴らしながら開いた。

 

首が動かせなかったから何者がやって来たのかは分からなかった。ただ、ここに人は訪れないのは知っていた。なら獣だろうか。そういえば以前聞いたことがある。疱瘡の感染を防ぐため己みたいに隔離された病人が唐突に消え失せたという事件があったらしい。親族の間では神隠しやら死神に連れ去れてたと騒がれていたが、事件の真相は何でもない。天然痘で動けなくなった病人を獣が喰らい持ち帰ったそうだ。

 

己も獣に惨たらしく食い殺されて野生に戻るのだろうか。一度目は何も変えられることなく平凡な人生を歩み、二度目の人生を与えられてからは人のため鬼を殺し続けたが、その結末がそれか。死を身をもって体験したことであったから知っていたが、人とはひょんなことで生を終えるのだなと改めて思った。劇的でも、悲劇的でも、喜劇的にもなく、誰にも看取られることなく、ひっそりと死ぬ。

 

幽月は忍び寄る死の足音を耳にしてそっと目を閉じた。だらが直ぐに気がついた。獣は扉を開けない。ましては建て付けの悪い扉など、とてもとても開けれるはずがなかった。

 

なら来訪者は何者か?まさか死神だろうか。それとも人か。ありえない。

 

幽月の動かない瞳に映り込んだのは一人の女性だった。彼女は幽月を覗き込むように見下ろしていた。そして言った。

 

「私は医者の珠世と言います。疱瘡で苦しむ患者がいるとお聞きして遠路からやってきました。ですが間に合わなかったようで…。見たところ貴方はあと数日の命でしょう」

 

珠世と名乗る医者は哀れむような瞳で幽月を見つめながら言った。

 

知っている。この時代に天然痘を治す術はない。幽月は静かに女性を見つめた。哀愁漂う女性の容貌と珠世という名前にどこか覚えがあった。それが何の記憶なのか正確には思い出せなかった。

 

「ただ人ならざる者に堕ちたとしても生き存えたいという望みがあるのなら、貴方の命を救う手立てがあります。ですが、それはとても辛く悲しい道です。人に疎まれ嫌われ、日の当たらぬ闇でしか生きられない。いっそのこと死んでしまいたいとも思える生き方しかできなくなるでしょう。それでも貴方は生き延びたいと思いますか?」

 

幽月は返事をしなかった。今の彼には喋る力も残されていなかった。だから、その返事の代わりに幽月が発したのは奇妙な呼吸音だった。珠世は聞き慣れない呼吸をする幽月の顔をじっと見つめていたが、間も無くして起こり始めた変化に思わず口を開いた。

 

今にも死にそうだった幽月の灰色の肌。それが奇妙な呼吸により血の巡り方が変化したのか人の肌色に戻り始めたのだ。そして弛んでいた顔の筋肉も僅かながらだが張りが戻った。発疹は相変わらず蟲の群のように身体の至るところを蝕んでいる。それでも幽月の身体は弱々しくも生き返りはじめたのだ。そして顔色が元の人間と変わらないくらいに戻ると幽月はゆっくりと口を開いた。

 

「俺は…鬼になるのか?」

 

鬼。死にかけの男からその言葉が発せられたとき珠世は僅かに身構えた。

 

珠世は敢えて鬼にするとは言わなかった。それは騙すつもりで伏せていた訳ではない。ただ世間では鬼なんて眉唾物であり、患者のこれからの人生を左右する大事な決定を迫るには些か不適切な情報だと思えたからだ。

 

だがこの男は今の情報だけで鬼だと結びついた。それに死にかけの身体を辛うじて会話ができるまでに活性化させる呼吸法。もしや…。

 

珠世は目の前の男の正体を察した。彼は鬼の天敵。鬼を狩る者。だが彼が幾ら歴戦の鬼狩りであったとしても今や風前の灯であることには変わりはない。己の脅威となることはない。だから落ち着きのある口調で言った。

 

「はい。もし生き延びることを選択するのならば貴方は鬼になります」

 

「そうか…」

 

幽月はゆっくりと自嘲の笑みを浮かべた。鬼狩りが鬼になる。冗談にも使えないほどバカな話であった。

 

今まで鬼を殺してきた者が、鬼に仲間を殺された者が、鬼の傷跡を見てきた者が鬼になるというのだ。まともな感性をしているのなら断わるのだろう。

 

「…頼む。俺を助けてくれ」

 

だけど幽月は鬼になることを選んだ。全ては自己満足のため。エゴのため。諦めていた望みを叶えるため彼は人であることを諦めたのだ。

 

「分かりました。ただ治療の成功率は極めて低いです。ですから確実に命の保証はできないことを覚悟しておいてください」

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二話 牢獄

 

幽月が目が覚めたとき、そこは暗い部屋であった。灯はない。内装は簡素に血に塗れた毛布と布団だけ。そして鉄格子と煉瓦の壁で囲まれていた。見たところ牢であるようだった。

ただ少し様子がおかしい。ここには明かりがない。故に普通の人間なら此処が牢であると推測できないほどに真っ暗に見えるはずだ。だが視覚に変化が起きたのか普通に昼間のように明白に見えていた。しかも自然と心地良くもある。

 

幽月は起き上がると自らの腕を見た。腕は透き通るように白く、あの忌々しい発疹はどこにもなかった。念の為にと身体の至る所を見たり触れたりしたが発疹は完全に消え失せていた。それに全身が錆びついたような倦怠感や疲労感も消え失せて、今は力に満ち溢れている。幽月は久方ぶりに動かす身体を解すために柔軟体操をしてみた。

 

「体調はいかがですか?」

 

様子を見にきたのか、珠世が鉄格子越しに声をかけてきた。

 

「絶好調だな。鬼の身体能力が高いことは分かりきっていたが、ここまで愉快な身体をしているとは思わなかったよ」

 

「それは何よりですが、どこか身体が崩れてきたり溶けてしまったりするところはありませんか?」

 

「どういうことだ?」

 

珠世の悍しい質問に幽月は首を傾げた。

 

「言葉の通りです。実は前々から人を鬼にする治療はしているのですが未だ成功した事はなくて。殆どの場合、鬼になっても身体がその負担に耐えられず細胞ごと崩壊したり溶けたりしていたのですよ」

 

「それは随分とおっかない話だが、まぁ今のところは問題はないね。ただ少し違和感があるとするならばどうにも腹が減って仕方がないんだが、おにぎりの一つでも分けてはもらえないか?」

 

「おにぎりですか…。申し訳ないですが鬼になった今、人間と同じような食事でその空腹感を満たす事はできません」

 

珠世は申し訳なさそうに目を伏せて言った。幽月もなんとなく理解していた。鬼は人しか食わないと同時に人しか食べれないのではないかと。もう己は人間のする食事で腹を満たすことができないのだと。

 

「まぁ、そうだろうな。……やっぱ人の血肉を食うしかないのか?」

 

「いいえ。貴方の場合少量の血でも事足りるように改造してあります。ですから心配しなくても食事のために人を殺す必要はないはずです」

 

「はずです?」

 

珠世の言葉には少し不安が残されていた。幽月は思わず眉を顰めて聞き返した。

 

「実はこの治療法が成功したのは貴方が初でして、まだ全てにおいて確証がないのですよ」

 

「つまりあれか。唐突に身体に異変が起きて死んじゃったり、普通の鬼みたいに食人衝動が湧き出たりする可能性もあるわけ?」

 

「ええ。あくまで可能性の話ですが過去の失敗でもそういう事例はありました。ですから今回も目覚めてはっきりとした意識が確認できるまで地下牢で監禁させてもらいました」

 

珠世はそう言いながら牢の鍵を開けた。取り敢えずのところは暴走することなく安全だと判断されたらしい。幽月は牢から出ると尋ねた。

 

「それでこれから俺はどうすれば良いんだ?アンタには命を救ってもらったという大きな恩がある訳だし、何か手伝って欲しいということがあるんだったら何でもするけど」

 

「そうですね。暫くは貴方の状態の経過を観察するために私と一緒にいてもらいます。ですが、その前に貴方から大事なことを教えて貰わなければいけません」

 

「大事なこと?」

 

幽月は首を傾げながら顎を撫ぜた。思い返してみる。だが大事なことと言われても特に心当たりはなかった。それに痺れを切らしたのか珠世は嘆息をして言った。

 

「貴方の名前です」

 

「ああ、名前ね。そういえば名乗っていなかったな」

 

幽月は納得したように手を打った。そういえば、あの時は生きたいという意思は伝えたが名前は教えていなかった。

 

「俺の名は西行幽月。元鬼殺隊であり華柱を務めていた男だ」

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

三話 悪鬼降臨

それから幽月は医者の珠世の助手として数十年間ほど各地を点々と渡り歩いた。

 

珠世は人間の医者として表向の世界を生き、夜には鬼の専門家として人の肉を喰らう悪鬼達に対抗する研究をしていた。幽月はそこで珠世の技術を見習いながら、助手としてそれなりに勤めていた。

 

ただ鬼の研究というものはあまりにも難解なものであり、珠世の頭脳と莫大な歳月があったとしても順調にはいかなかった。それに幽月以降、人を鬼にする治療は成功していない。両者の最終目標である鬼達のボス、鬼舞辻無惨の殺害は絶望的に思われた。

 

そして、あるとき幽月は言った。

 

「やっぱり上弦の鬼からより濃い無惨の血を手に入れて調べるしかないんだろうね」

 

“上弦の鬼”。それは鬼達のボスである鬼舞辻無惨直属の部下“十二鬼月”その上位六体の鬼を指す言葉である。ちなみに下位六匹は“下弦の鬼”というがあれは雑魚である。そして今の研究にはサンプルとなる高濃度の無惨の血が足りていなかった。

 

「珠世さん、提案なんだけど今から五十年は別行動をしてみない?」

 

「別行動ですか?」

 

「ええ。珠世さんは今まで通りに鬼の研究、俺は上弦の鬼と接触して採血を試みるってどう?その方が効率が良いし、お互いに得意の分野を活かすことができる」

 

「得意の分野ですか…」

 

そう言うと珠世は少し考え込んだが、直ぐに答えを出した。

 

「そうですね。このまま同じやり方をしていても、らちがあかないのも事実です。貴方の言う通り、取り敢えず五十年程は別行動としてみましょう。それに貴方は元鬼殺隊であり鬼舞辻無惨と並んで唯一鬼を殺せる血鬼術を持っています。それが何かの打開策になるかもしれません。ですが、くれぐれも無茶はしないように」

 

「ええ。珠世さんもお気をつけて。くれぐれも結果に焦らず思い詰めすぎないようにしてください」

 

それから珠世と別行動をし始めた幽月は上弦の鬼を追い求めて放浪の旅を始めた。

 

だが、数十年は上弦の鬼に接触するどころか手掛かりすら掴めなかった。鬼が出たと言われた場所に駆けつけても普通の鬼だったり下弦の鬼ばかり。

 

そして、ある真夜中の深い森にて、幽月はいつものように情報収集に勤しんでいた。

 

「上弦の鬼どこにいるか知らない?」

 

「助けてくれ…!」

 

「会話になってないな。もういいよ。取り敢えず死んでみる?」

 

幽月は片手で首根っこを掴み上げていた鬼から全ての血を吸い上げた。鬼の身体は再生することなく朽ち果てて塵芥となって消え失せた。

 

それから幽月は取り込んだ血から無惨の血だけを分解すると体の糧にした。これで暫くは空腹は満たされるだろう。

 

幽月の血鬼術は人を喰らわない代わりに鬼を喰らい自らの糧にすることに特化していた。この力のおかげで幽月は鬼としての人間の血肉を喰らう食事を必要としていなかった。

 

ただ、その血鬼術は他所から見れば異様な光景である。唐突に首を掴まれ持ち上げた者がミイラのように乾燥し塵となって消えるのだ。しかも、それが不老不死故に殺し合いが不毛とされる鬼同士の争いでそうなるとすると。

 

「鬼舞辻無惨…⁉︎」

 

幽月が振り返ると二つの蝶の髪飾りをした長身の女性が立っていた。幽月には彼女が何者であるのか直ぐに察することができた。今は忌々しく感じてしまう日輪刀の脇差に、かつては己も背に掲げた悪鬼滅殺の滅の文字。服装は時代に合わせてか黒の詰襟になっていた。

 

「鬼殺隊か。久方ぶりに見たね」

 

幽月は懐かしみながら呟いた。

 

一方の彼女は目の前で起こった鬼が鬼に殺された光景に驚きを隠せないようだった。圧倒的な力を持つ鬼による鬼の殺害。底知れない力を感じさせる威圧感。それらの要因が幽月を鬼舞辻無惨と判断させた。

 

幽月はとんだ勘違いを鼻で笑った。そして態とらしく悪い笑みを浮かべて言った。

 

「さぁ、どうだろうね。俺が鬼舞辻無惨なのか自分で確かめてみたら?」

 

そして背負っていた番傘の先を鬼殺隊の女性に向けた。幽月は己を事情を話すつもりはなかった。

 

どうせ己の事情を話したところで信用はしてもらえないだろうし、己が逆の立場であっても鬼の言うことなど決して信用しない。鬼はあくまで人の敵でなければならないのだ。下手に馴れ合いをして鬼殺隊に混乱を生じさせるべきではない。

 

だからこそ、ここは悪鬼を演じて戦うことにした。そして適当な理由を作って見逃すつもりだった。

 

幽月が敵対の態度を見せると女隊士は動揺を押し殺して臨戦態勢となった。そして暫くは睨み合いが続いたが、幽月が敢えて視線を逸らすと、女隊士は餌に食い付いた魚のように迫ったのである。

 

幽月はその姿を明確に捉えながら思考した。桃色の刀身の日輪刀、この呼吸音、そして、この型の動きはーー

 

【花の呼吸 伍ノ型 徒の芍薬】

 

花のような華麗な剣筋で放たれる九つの連撃。幽月はそれを全て紙一重で交わしながら彼女の背後に回り込んだ。そして人間を鬼の力で攻撃するのは心が痛むが、死なない程度に加減をして蹴り飛ばしたのだ。

 

ただ少し加減をし過ぎたらしい。女剣士は落ち葉を舞い上げて勢いよく転がったが、直ぐさま受け身を取り大勢を立て直した。そして再び放つ。

 

【花の呼吸ーー無駄である。

 

かつて幽月は己の全集中の呼吸に辿り着くために幾つかの呼吸法を極めた。一つは水の呼吸、二つはその派生系である花の呼吸、そして花の呼吸を限界まで極めたところで幽月は至ったのだ。己の身体に適合した唯一無二の全集中の呼吸“華の呼吸”に。

 

故に幽月は水の呼吸と花の呼吸においては視線、呼吸音、脚の向き、筋肉の収縮具合、体重移動、全ての予備動作の段階において未来視レベルの予測を可能としていた。花の呼吸の使用者であったからこそ、その戦い方も熟知していた。

 

つまり幽月に対しては花の呼吸は最悪の相性なのである。

 

「さて、女の子を虐めるのも飽きちゃったし、そろそろ終わりにしようかな」

 

幽月は薄ら笑いを浮かべながら膝をつく女剣士を見下した。

 

一見すると圧倒的勝者。だが内心では滅茶苦茶焦っていた。あまりにも広い実力差。そのせいで自然に見逃すきっかけを作れなかったのである。

 

このまま鬼を演じていたら、本当にこの女隊士を殺さなければならなくなる。だが、それは不本意。本当にどうしよう。と考えながら女隊士に歩み寄っていると、彼女はどこか悟りきったような表情で幽月を見つめながら言った。

 

「貴方はどうして私を殺さないのですか?」

 

幽月は態と脚を止めた。好機である。何のつもりで鬼である己に話しかけてきたのかは知らないが一先ずはトドメの引き延ばしができる。幽月は傘を地面に突き刺して、それに縋ると悪そうに笑った。

 

「さぁ。それはどうしてでしょう。なんなら当ててみる?多分、当たりっこないけど」

 

女隊士は暫し沈黙して幽月を見つめてから、真っ直ぐな瞳で告げた。

 

「本当は人を殺したくないからでしょう」

 

妙に鋭い。というか大正解である。

幽月はいっそのこと開き直っても良いのではないかと考えた。だが自分が鬼であると思い出して、彼女の言葉を鼻で笑った。

 

「残念不正解。正解は弱いもの虐めが楽しいからーー」

 

「嘘ですよね」

 

女隊士は即答した。それもうはっきりと幽月の言葉を遮るように断言した。幽月の顔から余裕の笑みが消えた。

 

「12発。私は貴方に12発も蹴り殴られました。しかも、それは全て技の隙を突かれた決定的な瞬間に。普通の鬼が相手でしたら致命傷は確実でした。なんなら私はもう生きてはいなかったでしょう。ですが今の私の身体は生きているどころか骨一つ折れていない」

 

幽月は困ってしまった。名推理である。反論の余地はなかった。というか手を抜き過ぎた。もう、いっそのこと女隊士が逃げ出すのを期待するよりも自分が逃走した方が良いよな気さえした。というかそうしよう。

 

幽月は一歩ほど足を退いた。

 

「逃げないでください」

 

女隊士は幽月に呼びかけた。幽月はそれの返事をしなかった。

 

不毛なのだ。別にこの戦いは勝敗を気にするようなものでもないし、守るものがない今、戦いから逃げてはならない理由はない。幽月には鬼殺隊としての使命もなければ圧倒的な強者であれという鬼の矜恃すらなかった。

 

ただ幽月は唐突に苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。背筋が凍るような恐怖を感じたのである。それは何であるか。幽月は女隊士の遠い向こうを見つめた。

 

そして今まで殴打にしか使わなかった番傘から刀を引き抜いた。その番傘は仕込み刀となっていた。

女隊士はその月光に美しく輝く桜色の刀身を目にして驚いた。

 

「まさか、その刀は……⁉︎」

 

驚愕する女隊士に意を返すことなく幽月は刀を構えた。そして閃光の如く速さで彼女に迫ったのである。

 

殺される。

 

女隊士は動けなかった。その刀身を目にして動揺したこともある。だが、それ以上に速過ぎたのだ。今までの動きとはまるで違う。本気の攻撃。

 

だが刀は女隊士に振るわれることなく、彼女の背後を通り過ぎた。

 

「ほう。鬼でありながら鬼殺の刀を振るうとは珍しきことか……」

 

重々しい男の声。そこで女隊士は初めて背後にもう一匹の鬼がいることに気が付いた。

 

しかもその気配。

 

女隊士の身体に身の毛が逆立つほどの恐怖が駆け抜けた。心が砕け散りそう。木々のなかで眠りこけていた烏達がその場から逃げ出すように一斉にとびさ。

 

女隊士のすぐ後ろで衝突した二本の刀。一つは桜色の刀身に悪鬼滅殺の文字が刻まれた刀。一つの漆黒の刃に幾つもの悍ましき目玉が蠢く刀。

 

「今は会いたくなかったよ」

 

唐突に現れたその鬼の瞳には“上弦ノ壱”の文字が刻まれていた。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

四話 血鬼術

【華の呼吸 参ノ型 梅華】

 

【月の呼吸 壱ノ型 闇月・宵の宮】

 

両者の剣技が炸裂した。辺りには斬撃の余波が飛び交い、赤黒く濁った血が散乱した。

 

しかし血を流したのは幽月だけであった。全身を斬り刻まれた幽月は間合いから逃れるように後退した。そして歯切りをして叫んだ。

 

「それエフェクトでしょ‼︎なんで当たり判定あるのよ⁉︎」

 

初めて目にした全集中の呼吸。しかもエフェクトかと思われた月輪には血鬼術というわけか、斬撃の当たり判定があったのだ。

 

だが叫んだところで無意味。相手は鬼。しかも何故唐突に現れたのかは知らないが十二鬼月の最高位に君臨する最強の悪鬼、上弦の鬼の壱であった。

 

その迫力は他の鬼とは比較にならないほどに重厚で、周囲の全てを押し潰すほどの威圧感を放っている。それを間近で感じてしまった女隊士は恐怖のあまり動けないでいた。しかも鬼の射程範囲の寸前で。

 

「戦えないなら遠くに逃げてもらえる?」

 

「…えっ?」

 

幽月は後退しながら女隊士の襟を掴んだ。そして身体を捻らせて勢いをつけると森の奥地へとぶん投げてしまった。女隊士は叫び声を上げながら飛んでいく。

 

これで良し。邪魔者がいなくなったところで幽月は攻勢に切り替えた。

 

【華の呼吸 肆ノ型 桜華・千華繚乱】

 

鬼へ踏み込みながら放つ幾千の斬撃。その様は吉野の山に舞い散る桜の花びらの如き。かつて幽月はこの技を会得する為に、春の吉野山に籠り視界に映る幾千の花弁を地に落ちる前に全て斬ったという。

 

【月の呼吸 陸ノ型 常夜孤月・無間】

 

対して上弦の壱が放った技は縦横無尽に覆う無限の斬撃。目には目を、剣には剣を、不可避の斬撃の幕に斬撃の幕で対応したのである。

 

だが斬り刻まれたのは上弦の壱であった。上弦の壱の腕、胸、脚からは血が吹き出す。幽月は振るわれた刀の斬撃に、それに付随する月輪の刃の全てを剣技のみで斬り払ったのである。そしてトドメをさすために首を目掛けて斬り込んだ。

 

しかし今度は上弦の壱が数多の斬撃から逃れるために後退した。追撃は…できない。幽月は上弦の壱を睨みつけた。一方の上弦の鬼は十分に間合いを離れると斬り刻まれた衣服を少し見つめた。そして幽月を見据えて口を開いた。両者の傷は既に再生していた。

 

「見事なり。剣戟のみで私を退けた者はそうはいない…。だが、その型に二の太刀はないのであろう……」

 

図星である。幽月は苦笑いを浮かべながら言った。

 

「さぁ、どうだろうね。まだ小手調べだったりするかもよ」

 

嘘である。華の呼吸・肆の型、あれこそが幽月が持ち得る剣技の中で最速最強の技であり、必殺技であった。最終奥義もないことはないが、あれは本当に最終奥義。放った後には刀は塵となり腕が捥げる。相手の底が見えない今はまだ使うべき技ではない。

 

故に詰みであった。己の剣技ではこの鬼を倒せない。そして、それを見通したように上弦の壱は余裕をかまして問いてきた。

 

「今宵はあのお方から鬼を狩る鬼を始末せよと言われ駆けつけたが、その正体が鬼殺の剣を振るう逸れ鬼だったとは……。私の名は黒死牟…。お前は何者だ?名乗れ」

 

その威圧感と構えられたままの刀は名乗らなければ即斬り刻むということを意味してるのだろう。だが刀を受けるにはまだ時間が足りない。鬼に無闇に情報を与えたくはなかったが幽月は名乗ることにした。

 

「西行幽月。忘れた物語の結末を見届けるために鬼になった男だよ」

 

「西行幽月か…。問おう。何故お前は鬼でありながらあのお方に仕えない?そもそもお前は如何にして鬼になった?」

 

「鬼になった方法は企業秘密。そして鬼舞辻無惨に仕えない理由は至極単純さ」

 

幽月は一息ついて決め顔で言った。

 

「鬼舞辻無惨が大嫌い……いや、寧ろ好きだからさ。俺はアイツの愉快な死に様を見届けるために恥を捨て、鬼となってまで地獄の淵から蘇ってきた」

 

物語のあらすじば殆ど覚えていない。だけど幽月は物語の全ての元凶たる鬼舞辻無惨が昔から今に至るまで多くの絶望と悲しみを積み上げてきたことは覚えていた。いや、実際に目に焼き付けてきたと言う方が正確か。それが師であれ友であれ仲間であれ。

幽月にとってこの世界は物語であり憎悪すべき現実であった。そして無惨の死に様を見て、愉快に踊り狂うまで幽月の世界は終わらない。

 

「愚かなり…」

 

そう幽月が啖呵を切ると黒死牟はただ一言呟いた。そしてもう用はないと言わんばかりに幽月に向かい斬り込もうとしたのだが。

 

【血鬼術 狂水】 

 

唐突に地面から放たれた無数の黒い水の刺が黒死牟を貫いたのである。

 

「なに……⁉︎」

 

まさかの不意打ちに思わず動揺する黒死牟。だが幽月の血鬼術の本領はここから発揮する。

 

「俺の狂水が入っちゃったね。お前の体液は全て俺のものだよ!」

 

幽月が掲げた手を握り締めると黒死牟は胸を押さえて膝をついた。とてつもない苦しみが胸の奥に集中している。そして、そこから黒死牟の肉体は水風船のように膨れ上がりーー

 

「華と散れ…!」

 

上半身が爆散したのであった。周囲には汚れた血の花弁が舞い散る。

 

幽月は血の雨の一滴を指先につけるとペロリと舐めた。そして顔を顰めた。これは不味い。今の幽月には分解できそうな濃度ではなかった。これではこの鬼を殺せない。しかも顔を苦ませている幽月を嘲笑うかのように、黒死牟は肉体の大方を再生し終えている。

 

「なるほど…。自らの血が混ざった液体を操る血鬼術か…。仕込んだのは最初の剣戟の時だな…」

 

ご名答。どうやら観察眼も達人級らしい。幽月は苦笑いを浮かべながら舌を巻いた。

 

推察通り布石を置いたのは黒死牟に最初に斬り刻まれ地面に自らの血を散乱させたときからだ。あのときから地中の水分を掻き集めて水の刺を放つ準備をしていた。そして自らの剣技では倒せないと分かると会話をしているうちに迎撃を整えた。あとは事の通り、時間稼ぎの会話が終わると水の刺で迎撃し、黒死牟の体内に自らの血を混入できたら大爆殺だ。

 

「だけど俺の血鬼舞の本随はこれだけじゃないんだよね」

 

幽月はニヤリと笑いそう告げると、突如黒死牟の体は煙を上げて溶け始めたのだ。

ドロドロに崩れ始めた肉体を見て黒死牟は六つの瞳を見開いて驚愕した。

 

【血鬼術 恐水】

 

水を操る幽月のもつ一つの血鬼術。その術は支配下にある水の性質を変容させる力を持つという。それを例えるなら液体窒素を王水に、血中の水分を硫酸に。

 

黒死牟は叫び声を上げながらもがき始めた。なまじ再生力が高いだけあってその苦しみは想像を絶するものだろう。硫酸による肉体の破壊と鬼の細胞による肉体の再生。その両者の均衡により黒死牟の身体は地獄のような激痛が駆け抜けていた。いくら痛覚に耐久がある鬼でもこれには耐えかねまい。

 

だが、これはあくまで足止めに過ぎない。鬼を本当に殺すには狂水で鬼の血を全て体内に取り込み、その中の無惨の血を分解する必要があった。だが流石は上弦の壱という訳か。分解が困難なほどに無惨の血が濃かったのだ。

 

この濃度だと大量に取り込めば分解するどころか逆に身体を支配されてしまうだろう。故にこの鬼は幽月の血鬼術をもってしてでも殺せない。それに今は痛みに悶え苦しんでいるが、いずれは痛みに慣れて硫酸にも適応してしまうだろう。鬼とはそういう生物なのだ。状況に応じて自らの身体を作り変える可能性を秘めている。ここまでか。

 

「黒死牟さんよ。業腹だけど、ここは痛み分けといこうじゃないか」

 

そう告げると幽月は投げ捨てた番傘を拾い刀身を納めた。そして地面に散らばった血を回収すると痛みに悶える黒死牟を背に走り去ったのだった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。