孤独の吸血姫 (凰太郎)
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~序幕~
黒霧の魔都
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──闇暦三〇年、イギリス・ロンドン。
人類による支配権が失われた〈闇の時代〉に於いて、実にそれだけの年月が経過していた。
かつては賑々しい繁栄に飾られた景観も、現在では荒廃の渓谷でしかない。見渡す限りの廃墟が建ち並んでいるだけだ。
此処、フリート街通りも例外ではない。
叙情的懐古を誘う中世様式の建築物は〈領主〉の道楽的趣向に遺される一方で、時折垣間見える鉄筋コンクリートは残骸と化して寂れた哀愁を唄う。
路上へと投棄された自動車の羅列は、経年劣化が始まった鉄屑に過ぎない。再起動も疑わしいものだ。
利便性と様式美の混在を意識した建築物の棟は、現在では悉く寂れていた。
天空を支配する永続的な墨色の空。旧暦時代では当たり前のように仰ぎ見た青空など、もはや恋しい幻想でしかない。
その理不尽な暗幕に鎮座するのは、闇暦にふさわしい化物──巨大な単眼を据えた〈漆黒の月〉である。
この怪物は決して沈む事など無い。
異形の黒月は、白い輪光で退廃の世を照らし続ける。
まるで金環日食を思わせる幻想的な光源だった。
禍々しい巨眼の印象は否応なく強烈であるが……。
そんな狂気然とした魔都にて、凛然たる麗姿が月明かりの逆光に映えた。
老朽化した建物の棟が形成する渓谷で、小高く積み上がった屍の丘に踏み立つ華奢なシルエット──小柄な少女の姿態である。
テムズ川の汚水臭を孕んだ濁風が吹き抜けると纏った黒外套が靡き踊り、内張の赤を鮮やかな呼吸に波打たせた。長いツインテールに束ねた赤い髪も、釣られて双蛇と泳ぎ舞う。
その身に纏う黒衣は、肌の露出度が高い奇抜な造りであった。バッサリと袖が欠落した肩口から繊細な細腕が露出し、辛うじて股下を隠す程度しかないスカート丈は危うくも未成熟な色香として目を惹く。黒革製のニーブーツが、謀らずもそれを殊更に強調している。
「死屍累々……か」
一頻りの剣舞を踊り終え、少女は洒落て自嘲した。
彼女が右手に握り構える細身剣の刃は、紅玉石の如き反射を彩りながらもドロリとした血の滑りを滴らせている。何があったかは、彼女の足下に踏み広がる無価値な肉塊の山が暗に物語っていた。
生ける屍〈デッド〉の再死体だ。
冷たい月明かりに晒されたグロテスクな形相は、宛ら苦悶の呪詛を呻く亡者そのもの。
それらは一体残らず額を斬り割られていた。
無駄な損傷のない痕が暗示するは、正確無比な剣捌き。
黒外套の少女は細身剣に軽く空を切らせ、赤黒く滴る滑りを払って鞘へと収めた。
「レマリア、終わったぞ」
容姿に見合う声音だが、どこか大人びた冷静さを帯びている。
声を掛けた相手は、慎ましい胸に隠し抱く女児──まだ三歳程度であろう。襟首で一房に結わえた金髪を大きなリボンで留めていた。一目に強く印象付けるチャームポイントだ。草色のチャイルドドレスは若干煤けていたが、愛らしい気品を損なってはいない。細やかな刺繍の効果も大きいだろう。
頑なに綴じられた瞼を開くと、レマリアは周囲の惨状を──見ずに黒外套の顔を恨めしく見据えた。
「カリナ! わたし、くちゃいの!」
「テムズ川が近いからな」
無愛想な返答を置いて、カリナは死骸の丘から飛び降りる。片腕に幼女を抱えながらも身のこなしは軽い。
降り立った地表には、嵩の浅い黒霧が泥濘していた。
世界荒廃の元凶たる魔気だ。
カリナが示唆した通り、右側の廃墟棟を挟んだ場所には雄大なるテムズ川が流れている。その水流のせいか体感は涼しい。
ただし、不快指数は高かった。現在では水質が淀みきっているせいだ。墨汁を思わせる川面は絶え間なく濁泡を膿み、それが弾ける度に鈍い汚泥臭が大気に累積していった。
空いた右手で柘榴を齧りつつ、カリナはロンドンの閑散ぶりを淡々と見渡す。
「霧の都・ロンドン……か」
誰に言うとでもなく遠い昔の別称が呟き漏れた。
足下に滞る黒霧が魔都的要素を色濃く甦らせているせいだろうか。
細腕に子供を抱いたまま無造作に歩き出す。
足取りは東の方角へと向いていたが、別に目的があるわけでもない。気儘な放浪の一幕だ。
取り立てて関心も湧かないまま視野を流すと、疎らに人影が窺えた。
だが、街中で蠢くそれらは、もはや生者ではない。
幽鬼めいて徘徊する夥しい数の生ける屍──便宜上〈デッド〉と呼ばれる〝死人返り〟だ。
剥けた表皮に崩れかけた顔面……損傷や腐敗の進行具合によって外見は様々ではあったが、生理的忌避感を刺激する醜怪さは総じて共通項である。
「冥府の賑わいは、地上に在って愉しいものでもないだろうに」
先程、彼女が多勢を葬り返したばかりにも関わらず、既に何体かのデッドが涌いていた。その増殖力は無尽蔵でキリがない。
「レマリア、今度は癇癪を起こしてくれるなよ」
軽く釘を刺しておく。
「かあしゃく、おこしてないのよ?」
「起こしただろうが。デッドが群がってきたのは、オマエが臭いだ何だと喚いたせいなんだからな」
「あ、さっきはちがうのよ? だってね、くちゃいのだもん」
「わかったな?」
「……はあい」
幼女は、ばつ悪く返事した。カリナが静かに怒気を含んだので、幼いながらも感じるところがあったようだ。
数分も歩くと、またぞろ多勢のデッドが彷徨く真っ直中に身を置いていた。
しかし、カリナは群れる死体にも、まったく臆していない。その悠然とした振る舞いは、まるで地獄の散歩に興じる魔姫の如く映る。
それにしても奇妙だ。
そう、それは真に奇妙としか言いようがない。
生者と死者の嗅ぎ分けに関して、デッドは本能的に鋭敏だ。故に獲物を感知した際には、原始的な補食本能が一斉に反応する。
そして、俊敏な群獣と化すのだ──普段の鈍重さが嘘であったかのように。
そんなデッド達が、カリナに対しては全く以て無関心なのである。目と鼻の先に闊歩しているにも関わらず、その存在自体を完全に見落としているかの如く。
本来ならば哀れな贄の末路は、屍群によって呑まれ裂かれるのが運命。例外は無い。
だが、カリナは血腥い晩餐から難なく免れていた。
不意に彼女の正面を、ふらりと屍影が横切る。
「邪魔だ」
些細なゴミを払うかのような感覚で、カリナは無礼を破壊した。
血飛沫を噴いて崩れる肉塊。その頭部は見事に両断されていた。
鋭利な刃が赤黒い汚れで曇る。抜刀の瞬間こそ肉眼で捉えられなかったものの、紅剣による所行を暗に示していた。
「まったくウジャウジャと目障りなもんだ」
辟易と零れる心情。
直後、何処からともなく軽薄な賛美が聞こえてきた。
「ィェッヘッヘッ……相変わらず見事な剣捌きだなぁ、お嬢?」
いつからいたのか──睨み据えた路地裏から姿を現したのは、小汚く痩せた一人の男。
黒いジャケットスーツを着た細身の黒人男性であった。浮き透けるように痩けた頬骨に、無造作に波掛かった黒い長髪。隈に落ち窪んだ目は、常に相手を見定めようとする値踏みがいやらしい。衣装に釣り合わぬ貧相さながらも、根拠不明な自信に満ちた太々しさが滲み出ていた。吹かす葉巻が憎々しく似合っている。
「ゲデかよ」
好かぬ相手を前にして、カリナは嫌悪感を露にした。
ゲデと呼ばれた男は、山高帽子の鍔を一摘みに形式的な礼を払う。続けて自分を警戒視する女児に道化笑いで掌を振るも、保護者の胸へと顔を埋めてしまった。
「嫌われたもんだねぇ? お初でもねぇのに……」
ぼやきながらも、締まりない下品なニタリ顔は口角を広げている。この男には露骨な拒絶すらも愉快らしい。
「いい加減、察しろよ。子供受けするツラか?」
「ィェッヘッヘッ……違いねぇや」
小馬鹿にしたニヤケ面が更に笑い歪んだ。
反省皆無な飄々とした言動が、カリナには常々腹立たしかった。この下衆が嫌われる要因のひとつだ。
もっともゲデ側に視点を転じてみれば、それも楽しみの一環なのだろうが……。
「しかし、なかなか見事なモンでさぁね」
ゲデは感嘆しながら、まじまじと二度目の死を覗き込んだ。
脳脂や肉片が散乱する血溜まりは、見るに陰惨極まりない。
そんな猟奇的な惨状へと興味津々に見惚れる。薄気味悪く、ほくそ笑みつつ……。
常軌逸脱の悪趣味に一瞥を投げ、カリナは赤の果汁で渇きを潤した。
「肉体破損を感じぬ特性はあるが、それだけだ。恐れる道理が何処にあるよ?」
「確かにイカれた脳味噌さえブッ壊しゃあ、コイツ等の活動は停止するがねぇ?」赤池へと見入る好奇心はそのままに、ゲデは空々しい道徳観念を口にする。「普通は大なり小なり躊躇ってモンがあるわな。なんたって〝動く死体〟とはいえ、生前そのままの姿形なんだからな。お嬢、アンタには良心の呵責が御有りで?」
「ニヤけた悪徳面で諭されても、まるで説得力など感じんな。生ける者相手ならば非難も受けようが、心すら持たぬ〝物〟に情けも呵責もあるまいよ」
闇暦時代の常識を吸い滓と共に吐き捨てると、カリナは再び気の向くままに歩き出した。
黙々と退屈に進む最中、不意にレマリアが疑問を向けてくる。
「カリナ? どうして〈デッド〉って、たくさん?」
「また『どうして病』か? ま、知識吸収欲が強いのは、いい事だがな」
「どうして?」
「コイツのせいさ」足下に纏わりつく淡い黒霧を、黒革の脚線美が浅く蹴った。「コイツは、魔界の気〈ダークエーテル〉──その劣化残留体だ。コイツが死体の脳に干渉し、デッドとして再活性化させているのさ。とはいえ、死体の脳は腐敗や損傷が著しい。だから、デッドには魂や自我が無い」
カリナがデッドを許容できない理由のひとつには、そうした空虚な再生に起因する喪失感もある。自我損失のまま原始的本能のみに支配される退廃的存在は、彼女にしてみれば浅ましくも哀れにさえ思えた。
そして、その同情を寄せる価値すら彼等には無い。
だからこそ憤りにも似たやるせない感情は、一転して蔑みへと変わるのだろう。
「ィェッヘッヘッ……ま、お嬢の言う通りさな」空気を読まぬゲデが後追いに駆けて来た。悪意に歪めた言い回しで、無垢なる無知へと教示する。「いいか、おチビちゃん? デッドってのは、ただの〝動く死体〟だ。つまり〈幽霊〉や〈吸血鬼〉とは違って、再生した肉体には〝魂〟なんざ入って無ぇのさ。ま、コイツ等は一山幾らの雑魚だ。仮に〝魂〟があったとしても、クソみてぇな値打ちしかねぇだろうがよ。ィェッヘッヘッ」
「斬られたいか?」
聞くに耐えない品性に立ち止まり、カリナは下衆を睨めつけた。彼女が本気で発する静かなる殺気は、相手を呑み込むような凄みに満ちている。
「おおっと、勘弁勘弁! お嬢の剣に斬られたとあっちゃあ、オレの面目が丸潰れでさぁ」
「キサマの面目など知らんが、死者を冒涜するな」
「へ? お嬢、いま何とおっしゃいました? 『死者を冒涜するな』ですって? 御自分の事は棚に上げて? このオレに?」素っ頓狂に驚いてみせるも、その挙動が何ともわざとらしい。案の定、次の瞬間には抱腹絶倒の嘲りに溺れてみせた。「ィェッヘッヘッ……お嬢にしちゃあ、なかなか上出来の冗談ですぜ! 言うに事欠いて『死者を冒涜するな』ってか……ィェッヘッヘッ」
「意外と足りん頭だな」心の底から見下し、カリナは持論を紡ぐ。「死者の本質とは〝魂〟そのものだ。もぬけの殻となった〝器〟の事ではない。私はそれを愁いて、キサマは愚弄する。何が可笑しいものかよ」
沸き立つ不快感を置いて、黒衣の美姫は踵を返した。
もっとも、この似非紳士はしつこい。性懲りもせずに追って来ると、すぐさまフレームアウトした視野から復活した。
「待てよ、お嬢。僭越ながらオレ様が同伴してやるぜ? ィェッヘッヘッ」
「要らん。さっさとハイチへでも帰れ。せっかくの柘榴が不味くなる」
頑とした拒絶に返す。下卑な輩など顔を見る気も起きない。
「連れねぇなあ? それとも、オレより〝間抜けなカボチャ頭〟の方がお好みですかい?」
「キサマ以外なら〝ふざけたカボチャ頭〟でも何でも我慢してやるさ」
「かぼたたん?」言葉の端を拾い、レマリアが興味津々に顔を上げた。「わたし、かぼたたんがいい! ゲデ、きらいよ!」
「ィェッヘッヘッ……こりゃまた嫌われたもんだぜ。ま、オレとしては〝新鮮な死〟に有り付けりゃ、それでいいんだけどよ。アンタといると〝それ〟には事欠かさねぇからな、お嬢?」
のらりくらりと人を食った道化が、いちいち癪に障り腹立たしい。
いっそ内なる苛立ちのまま、本当に斬りつけてやろうか──とも思った。
「ねえ、カリナ? かぼたたんも〈デッド〉?」
レマリアが強く興味を抱く〝かぼたたん〟とは、イギリスの伝承にある精霊〝ジャック・オ・ランタン〟の事である。単純な顔がくり貫かれたカボチャ頭で、ユーモラスな見た目故に子供の好感を惹き易い。旧暦末期にはイギリス発祥の降霊祭〈ハロウィン〉のシンボルキャラクターとして世界的に有名になったが、これは些か本質を離れた扱いと言えるだろう。
「いいや、アレは〈怪物〉だ。デッドとは違う」
「どうして?」
「どうしても何も、アレは元々そういう存在なのさ」
ジャック・オ・ランタンの本性は、小賢しい悪意に満ちた鬼火だ。核である魂は〝ウィル・オー・ウィスプ〟とも呼ばれている。実態的には狡猾な幽魂であり、警戒心を抱かぬ軽率な遭遇者を溺死させたり転落死させたりして喜ぶ。要するに〈怪物〉としては狡賢いだけの小者だが、決して友好的な存在ではない。
「別に〈怪物〉は劣化残留体の影響で変じたワケじゃない──魔力や妖力の源泉ではあるがな。つまり〈怪物〉は、根本から〈デッド〉と違う存在なのさ」
「あ、さっきもいったのよ? だーけれーてのれっかざりゅーたいって」
「……ダークエーテルの劣化残留体な」
「そう、それ! れっかざりゅーたいって、なに?」
「希薄化した……ああ、いや──」己の説明が幼児には難解な言い回しである点を自覚し、噛んで砕いた表現へ言い換える。「──〝薄くなった残りカス〟ってトコだな」
「のこり? これ、のこりなの?」目を丸くしたレマリアは、漂う黒霧へと関心を向けていた。「じゃあ、いっぱいは? どこ?」
「あそこさ」
歩む足を休め、空を仰ぐ。
その注視を追って、レマリアも保護者に倣った。
広がるのは、もはや晴れる事のない黒雲──。
星の瞬きすら呼吸に喘ぐ永遠の夜闇────。
「あの空の闇が、すべてダークエーテルなのさ」
「アレぜんぶが、いっぱいなの? すごーい!」
二人して広大な闇空へと魅せられた。
ふと巨大な単眼と目が合った。これだけは忌々しい無情緒だ。
「あの黒月が地上を魔界へと新生させた張本人だ。自らを〈門〉と化して、ダークエーテルを魔界から引き寄せたのさ」
カリナの毅然とした反抗心が、地上を見下す眼力を睨み返す。禍々しく淀んだ巨眼が、自分を見つめているかは定かにないが……。
この闇暦世界で支配実権を握るのは、有史以前から人類が〝空想産物〟としてきた異形なる者達──即ち〈怪物〉であった。
此処、ロンドンに限った話ではない。
イギリス全土──いや、世界各国が怪物達によって征服統治され、それらが〈領主〉として君臨している。
闇暦に於ける人類は、その独善的庇護下で細々と生を紡ぐ最下層種族でしかない。
そして、各国領主は独自の軍勢を率い、更なる覇権を求めて小競り合いを繰り返していた。
同属種による世界制覇のためだ。
それこそが、彼等〈怪物〉達の共通理念となっている。
云わば、怪物達による戦乱の世──それが闇暦の情勢であった。
俗に言う〈闇暦大戦〉である。
「う~~」唐突にレマリアが渋く唸りだした。懸命に悪臭を我慢していたようだが、とうとう限界に達したようだ。「カリナ、わたしくちゃい!」
「さっき聞いた」
黒き怪球から瞳を逸らさずに、素っ気なく返す。
「カリナ、へいき?」
「ああ」
「くちゃくない?」
「まあな」
「……」
「……」
「…………」
「…………」
「………………」
「……そんな目で見るなよ」
強大な圧迫感を強いる巨眼よりも、すぐ胸元から向けられる抗議の視線に苦々しく折れた。
「わたしはくちゃいのに、カリナはくちゃくない! カリナ、ずるい!」
「別に狡くはないだろう」
支離滅裂な自己主張だ。
保護者としての経験から言葉裏の真意を推察する。
「オマエ、さては眠くなってきているな?」
「ちがうもん! わたし、くちゃいの!」
この場合『臭い』と『眠い』は完全に同義語だ──そう確信した。
もっとも、レマリア本人は自覚してないだろうが……。
「そろそろ寝床を確保してやらねばならんか。とはいえ、この周辺ではな……」
周囲を物色に見渡すも、在るのは廃墟と屍だけ。レマリアの宿には不憫過ぎるだろう。
「カリナ! わたし、くちゃいのイヤ!」
「……まだ言うかよ」子供の徹底した利己主義には、半ば感心すら覚える。「いい根性しているよ……まったく」
と、カリナは腰巾着の利用価値を閃いた。
「おい、ゲデ。キサマ、この街には詳しいか?」
「へ、ロンドンですかい?」唐突に邪険から一転した扱いに、ゲデは目を丸くする。が、ややあって揚々と自画自賛を誇示しだした。「オイオイ、オレを誰だと思ってるんで? ブードゥー教の死神・ゲデ様だぜ? 活動範囲に制約が無くなった闇暦じゃあ、世界中何処であろうとオレ様の庭さね」
どうやら安い自尊心を触発されたようだ。
舞台役者の如き仰々しい振る舞いには、大根ぶりへの失笑しか出ないが……。
「そうかよ。ならば、今夜の宿を教えろ」
「はあ? オレ様は旅行案内業者じゃねぇぞ!」
「教えろ」
射抜くような睨みつけに、三文役者は反抗を呑む。
「チッ、仕方ねぇな」
カリナの言う〝宿〟が、どういった類なのか──彼は重々承知していた。
ただの寝食だけなら、そこらの廃屋で充分に事足りる。
しかし、カリナが要求する水準は高い。
彼女自身のためではなく、全ては連れのためだ。
少なくとも、衛生的で、快眠が約束され、満足な食事が確保できるような場所でなければならない。
要するに『人間らしい宿泊環境』という事だが、人間社会の価値観が瓦解した闇暦では逆に見つけにくい物件である。
「ここから少し先に在る〝シティ〟なら、或いは御望みの物件があるかもしれねぇな」
「なるほど」
「老婆心ながら教えとくが、ロンドンを支配しているのは〈吸血鬼〉だ。しかも〈不死十字軍〉とかいう新興勢力の旗揚げに発起している最中だから、部外者や外敵を過剰警戒してやがる。あまり刺激しねぇ方がいいぜ?」
「ほう? 吸血鬼の勢力かよ」
カリナが淡く邪笑を含んだ。良からぬ期待感を高めているのが、傍目にも分かる。
ゲデの進言は果たして旧知故の警告だったのか──それとも狡猾な誘導だったのか。その真意は不明だ。
暫く黙々と進んだ末、遠目に〝竜のモニュメント〟が建っているのが見えた。細高い台座上に据えられたそれは、些か造型が甘く貧弱な印象にもある。
この竜の彫像は旧暦時代から存在する遺物だ。ロンドン特別区域である旧市街地〝シティ〟の境界を示す目安である。
「おい、お嬢? ロード・メイヤーの許可は得たかよ? ィェッヘッヘッ」
旧暦時代のシティは〝ロード・メイヤー〟と称される特別市長が管轄する半独立区域であった。仮に英国王といえども、特別市長の許可無く立ち入る事は許されなかったという。
これより先は、ロンドンにあってロンドンに非ず──あくまでも旧暦時代での話だが。
彼女達の行く手に待ち構えるのは、貧弱な竜像だけではなかった。
やがて出会したのは、高々と聳えるコンクリート防壁。無機質で無愛想な灰色の壁面が、シティ領域をぐるりと覆い囲っていた。内壁に広がる世界を、外界から完全隔離している。
近付くにつれて標高が育つ。目算だけでも二〇メートルはあるだろう。ここまで物々しく堅固な防壁は、イギリス各地を流浪してきたカリナも初めて見た。
「対デッド用防壁ってワケか。テンプル・バーも随分とゴツくなったものだな」
防壁の裾まで辿り着くと、その重厚で武骨な叙情壊しを皮肉めいて蔑笑した。
ロンドン市門〝テンプル・バー〟は、旧暦後期に取り壊されている。
その跡地に建てられたのが例の竜像だ。
しかし、歴史的遺産を偲ぶ声から、聖ポール大聖堂付近の路地裏に復元されていた。復元版は闇暦現在でも遺っている事だろう。
「ィェッヘッヘッ……さすがに大都市は、やる事の規模が違うってか」いつの間にか、嫌われ者が脇に並び立っていた。「……にしても随分と過保護だねぇ? どうやら吸血鬼様ってのは、人間に対してお優しいようで」
「そんな温情的政策なワケがあるかよ。目的は他国と同様に〝食料確保〟に決まっている」
灰色の煽りを眺めたまま冷淡に返す。
闇暦に於いて人間達が暮らす〝居住区域〟は、こうした防壁によって隔離されている。デッドの猛威から保護するためだ。
「怪物達の糧は、デッドと同じく〈人間〉だ。端的な例としては、吸血鬼には〝生き血〟が無二の糧であり、邪霊の類ならば〝恐怖〟という抽象的な非物質が糧となる──といった具合にな。総じて怪物達の糧は〝人間の存在〟に依存するのさ」
「ま、一概に〈怪物〉と称しても、生態・性質は様々だからな。当然、糧の在り方も各種で異なるのは道理さ。もっとも中にはデッドと同じように人肉嗜喰もいるけどよ」
「それも含めだが──ともかく、この脆弱種が滅んでしまえば、怪物自身の存在も維持できない。だから、デッドの自制なき補食本能から、最低限の食糧を隔離保護する必要があるのさ。無計画な飽食を看過していては、自分達の首を絞めかねないからな」
「早ぇ話が〝人間牧場〟ってワケだ……ィェッヘッヘッ」
カリナの表情が不快に曇る。
実際、ゲデの表現は間違っていない。簡潔ながらも的を射ている。
しかし、あまりに直球過ぎる無遠慮な表現は、彼女の品性にそぐわない卑語であった。
辟易とする現実逃避がてら、胸に抱くレマリアへと目を向ける。
「さっきから、おとなしいとは思ったが……」
幼女は親指吸いに微睡みながらも、瞼の重さと格闘していた。どうやら眠気も限界のようだ。
「……ん、カリナ? わたし、ねむねむないのよ?」
「眠いんだろうよ」冷静に指摘しながらも、髪を撫でてやる細指は慈母の如く優しい。「できるだけ早く寝床を確保してやらねばならんか」
延々と広がる灰色の結界を左右に見渡したカリナは、入口を求めて左方向へと折れ進んだ。
確固たる選択理由は無い。いつもの気紛れだ。
結論、カリナの直感は正しかった。
おかげで苦も無く防壁内へと入る事ができた。
過程で吸血鬼の門兵がいたが、障害とばかりに赤黒い血の池へと沈めてある。今頃は〝無〟へと還っている事だろう。
斯くして立ち入った居住区内は、外界とは別世界にも思えた。
慢性的な闇空に巨眼の黒月、懐古嗜好の景観──構成要素は、まったく同じだ。
ただし、荒廃の陰りは見受けられない。
たったそれだけの差で受ける印象は大きく違う。
規律めいて建ち並ぶ住居棟は、煉瓦や角石で積み築いた古めかしい外観だった。細長い窓が並び、灯る明かりから居住者達の生活感が窺える。敷き詰められた煉瓦道も朽ち割れてなどいない。目地から雑草が覗く様子すら無かった。
誰しもが想像する〝古き良きロンドンの情景〟が、此処に集約保護されているようである。此処ならば英国旗の威光も、まだ栄えようとすら思える。
けれど、それだけだ。
街全体に漂う索漠感は、まったく払拭されていない。
「人の姿が一切見えんとはな。どいつもコイツも籠城紛いの生活か」
「ま、明かりが灯せる生活なだけ外界よりはマシだがな。デッドが嗅ぎ付けて群がる心配はねぇからよ」
ゲデの見解には同感である。納得はできないが……。
足下の霧を悪戯に攪拌した。
定番の黒霧ではない。健常体たる灰色の濃霧だ。
居住区内でデッドが発生しない理由が、これであった。
「さすがにダークエーテルは、徹底的に遮蔽されているようだな。産業文明が廃れた闇暦で、どうしてこれほどの〝霧〟が発生するのかは知らんが」
旧暦時代〝霧の都〟と称されたロンドンだが、実際に街を染めていた靄は〝霧〟ではない。大規模な産業が垂れ流した排気煙だ。
人間が自由権利を喪失した闇暦では、まず有り得ない光景であった。
「確かに大規模な産業は廃れたがよ、個人レベルでの垂れ流しは健在だ。何せ、このロンドンは人間同士の商業が認可されてるからな」
「人間の商業だと? 怪物主権の御時世に、珍しい内政だな」
「ま、排気の発生源は様々……鍛冶屋もあれば、燻製屋もあらぁな。そうした個人商が吐き出す累積さね」
「火葬屋は無いのか」
「は? 何でだよ?」
「立ち会える〝死〟が減れば、目障りな下衆が餓死してくれる」
「ホンッッットにオレ様を嫌ってやがるな? お嬢?」
「当然だ。好いてやる素養があるかよ」
と、犬猿の足取りの中で、不意にカリナが歩を止めた。
大気中に拡散する稀薄な違和感──それを鋭敏に嗅ぎとったのだ。
街路に佇んだ彼女は、その正体を四方に求める。
「どうした、お嬢? そんなに鼻をスンスン鳴らして?」
「……血だな」
「はあ?」訝しみながらも、ゲデは真似て気配を探した。「オレには何も感じねぇぜ?」
「分かるのさ──私にはな」
「へえ? まるで餓えたホオジロザメの如く……だぜ」
「……やり返したつもりかよ」
感嘆に偽装した揶揄を見透かし、カリナの眉根が不快に曇る。
だが、現状ではどうでもいい些事だ。
新たに捕捉した展開は、もっと関心深い。
やがて、ようやく風向きから方角を特定した!
「こっちか!」
言うが早いか駆け出す!
「おい? ちょっと待てよ! お嬢!」
街路灯の明かりに靡き去る黒外套を、卑俗な腰巾着が慌てて後追いした。
人の目を引かぬ路地裏──少年の抵抗は、あまりに非力だった。露出した腕や腿に刻まれた幾多もの赤筋は、その立証たる切り傷だ。
暴力によって地べたへと這い蹲った少年を、長身の男が無慈悲に踏みつける。
「返せ! 返せよ!」
「ヘッ……ガキのくせに抵抗するかよ?」
細身ながらも引き締まった筋肉の男であった。黒革のライダースーツを胸元開きに着こなし、露骨にアウトサイダーを主張している。全体的に細身ながらも、ワイルドな印象だ。
知る人が見れば、彼こそが〝喉切りキルヴァイス〟だと気付いた事だろう。その二つ名の通り、多くの犠牲者が喉を掻き切られて殺されている。彼特有の殺害方法だ。主なる対象は、女子供──自分よりも弱い者を標的とする傾向にあった。要は小者殺人鬼に過ぎないが、その加虐性は異常だ。
暴力の勝利に酔うキルヴァイスは、強奪した袋から獲物を取り出した。
「ほう? パンに果物、缶詰もあるじゃねぇか。肉が無ぇのは惜しいがな」
戦利品を美酒のように眺める。
「返せ! それはオイラの──オイラと母ちゃんのだ!」
「往生際が悪ィんだよ!」
容赦ない蹴りが未熟な脇腹を痛めつけた!
「ぐっ!」
「おい、ガキ。この闇暦じゃ奪われた方が悪ィんだよ! こっそり盗もうが、暴力で奪おうが、勝ち組こそ正義だ! 負け組には文句を言う資格すら無ぇ!」
更なる追い打ちが蹴り上げる!
「かはっ!」
軽く血を吐いた。
内蔵が破裂したかと思えた痛みに、少年は悶え苦しむ。
だが、それ以上に痛むのは〝心〟だ!
無力さを突きつけられる現実だ!
「──ッキショウ! チキショウ!」
悔し涙がポロポロと零れる。
なけなしの貯金を切り崩して、闇市から買った品々であった。
自分の──そして、母のために。
嗚咽に咽ぶ子供を辟易ながらに見下す暴漢は、やがてゾッとする非道を口にする。
「チッ……鬱陶しいな。やっぱ殺すか」
「ひっ?」
戦慄が走った。尻餅体勢に後退るも、まだダメージを回復しない体が言う事を聞かない。
愛用のジャックナイフを取り出し、その凶刃を舌なめずりに慣らす殺人癖。
その時──「最初から、そのつもりだろうよ」──周囲へと響き渡る少女の声。
それを楔に、緊迫した状況が瞬間を止めた。
「だ……誰だ!」
贄から跳び退くキルヴァイス!
手にした刃は臨戦態勢のままに、邪魔立てる部外者を索敵する!
はたして、それは路地裏の入口に居た。
建物と建物とが作り出す渓谷の麓に……。
冷たい月明かりに浮かび上がるのは、夜露湿る石壁へと背凭れた小柄な影──黒外套の少女であった。吹き抜ける陰湿な風に、赤い双蛇が靡き遊んでいる。
柘榴を齧る少女は、事の成り行きを淡々と観察視していた。この陰惨な状況に眉一つ動かすでもなく……。
「で? 三文喜劇は、もう終わりか?」
「な……何だ、テメエ?」
警戒に訊いつつ、乱入者を値踏みに睨めつける。
改めて見れば、これまでの獲物と何ら変わるものではない。むしろ、彼の嗜好には上玉だ。
相手を把握すると、転じて高揚感に薄ら笑う。
「ヘッ、今夜はツいてやがるぜ。オレァよ、切り刻むなら女の柔肌の方が好みなんでな。殺す前に、たっぷりと可愛がってやるぜ」
「遠慮しておくさ〝切り裂きジャック〟殿──いや、キサマには〝弱虫チカチーロ〟の方がお似合いか?」
蔑視を向ける少女が軽い嘲りに返した。
「……あ?」
あからさまな侮蔑に場の空気が凍りつく!
自分を小馬鹿にした露骨な挑発という事は、思慮浅い愚か者にも伝わったようだ。
云わずとも〝殺人鬼界の伝説的カリスマ〟と〝幼児性愛の内向的猟奇犯〟とでは、雲泥差の開きがある。
「テメェ! 刻まれてぇのか!」
「刻まれたいも何も……キサマには、それ以外の芸はあるまいよ」
またも侮蔑で返し、激昂を誘った。
彼のような愉快犯的殺人鬼には、分かり易い共通項がある。即ち〝恐怖と畏怖の対象〟でなければ気が済まないという安い注目願望だ。
ところが、この少女からは、そうした負念が一切感じられなかった。
それどころか、優越的蔑みに満ちている。
まるで貧相な野良犬の虚勢でも見るかのように。
自尊心だけは人一倍強いキルヴァイスにとって、どうにも腹に据え兼ねる反応であった。
「ブッ殺すぞ!」
吠えると同時に空気を裂く殺意!
凶刃が少女の喉元へと目掛けて突き伸びる!
だが、カリナは左脚を軸とした最小限の回転に黒外套を翻し、その軌道から難無く逸れた。
「テメェ……殺す! 殺す殺す殺す殺す!」
「何度も言うなよ。壊れた蓄音機じゃあるまいし」
逆上に大振りな弧を描く刃を、黒外套の波が紙一重で舞うように避わし続ける!
その壮麗な所作は、まるで輪舞の如く!
「クソが! クソが! クソが!」
一心不乱にナイフを振るうも、それが掠る手応えすら無い!
(何故だ! 何故当たらねぇ?)
涌き募る焦燥に足掻く!
この局面にあっても、キルヴァイスは相手との力量差が理解できずにいた。
(ありえねぇ! こんな事は、ありえねぇ! オレは認めねぇぞ!)
「どうした? 息が上がってきてるぞ?」
「ぅるせぇぇえ!」見え透いた挑発に、またも賊は我を見失う。「クソがクソがクソがクソが!」
「やれやれ、もう少しは楽しめるかと思っていたが……」もはや殺人癖でも陵辱欲でもなく、己の意固地な自尊心のためだけにジャックナイフは振るわれていた。こうなると少しは名を馳せた猟奇狂人も、ひたすら惨めな三下雑魚に過ぎない。肉迫した命懸けの遊戯を期待するカリナにしてみれば、これは何とも興醒めな茶番となった。「もういいよ、オマエ」
嘆息がてらに失望を吐き捨て、キルヴァイスの視界から獲物が消える!
「なっ?」
予想打にしない状況変化に、単純な思考は対応できなかった。
荒れ乱れていた攻撃が一時的に止まる。
少女は忽然として消えた──ワケではない。
「……すげえ」
優美な舞踏にも映る戦いに、少年は思わず息を呑んだ。
正面捕らえのキルヴァイス本人には、分からなかっただろう。
しかし、客観的位置から傍観していた少年からは、一連の行動が見えていた。
彼女は身を屈めて敵の視界から一瞬外れると、そのまま死角から体捻りに頭上を跳び越えていた。
そして、その背後に着地したのだ! 物音ひとつ立てずに!
驚嘆すべきは、それだけではない。
想像してみてほしい──小柄な少女が、長身男性の頭上を脚力だけで跳び越える様を!
その跳躍力たるや、もはや常人の域ではない!
と、蜂に刺されたような熱さがキルヴァイスの左胸に走った。
その違和感に呼ばれるまま、彼は視線を落とす。
「……あん?」
静かに滴る赤。
鋭利な紅の細枝が、彼の胸を突き抜いて斜上へ向けて生えていた!
静寂の夜空へ凱歌を叫ぶかのように!
その根本から濁々と零れるのは、間違いなく彼に内在した生命力!
「血は命なり……か」
背後の処刑人が低く漏らす。
暫しの思考後、キルヴァイスは己の状態を悟った!
それを理解したと同時に込み上げてくるのは、実感を伴う〝死〟への恐怖!
「ヒッ……ヒッ……ヒィィィィィッ!」
「今更怯えるなよ。〝死〟は、オマエの享楽に散々付き合ってくれた悪友だろうに」
肩越しに見た少女の瞳は、生来の殺人鬼だけが持ち得るそれだった。
あまりにも冷淡な美声は無情なる死の調べか。
「な……なん……で……カハッ!」
喉に溜まった血反吐が詰まる。
先程までの猟奇的激情が嘘であるかのように、その男は情けない狼狽面を晒していた。狩る側から狩られる側へと身を堕として……。
対照的に冷酷な側面を披露した少女からは、一片の慈悲すらも感じられない。その圧倒的な負のオーラは、両者を比べるまでもなく闇の威光に祝福されていた。
「しし死にたくねぇ……死に……」
奥歯の震えが止まらない。宛ら、初めて悪寒を覚えたかのように。
死の恐怖と直接向き合った〝死の信徒〟は、譫言のように自らの末路を拒絶していた。
だが、これから地獄へ堕ち逝く罪人の戯言など、カリナにとっては聞くに値しないノイズでしかない。
美姫が魅せた剣技は、鋭くも繊細な的確さを兼ね備えていた。最低限の心臓機能を阻害する事なく、主要筋肉を避けて貫いている。
それは決して温情や哀れみに準ずる措置ではない。
遠い和国の妙技に近い感覚──確か〝活け作り〟と言ったか──酔狂で残酷な道楽だ。
「そういえば、私が誰か訊いていたな?」
「たす……たすけ……」
「地獄の門番に会ったら伝えておけ。『カリナ・ノヴェールに捌かれました』と……。少しは同情が誘えるかもしれんぞ」
冷徹な邪笑のままにレイピア剣の柄を力任せに寝かせた!
辛うじて生を繋いでいた心房へと刃が斬り込むと、毒々しい赤の噴水は闇天高々に飛沫を噴き散らす!
そして〝死〟は、平等に彼を受け入れた。
「オイ、どうなっている」
虚しい退屈凌ぎを終えたカリナは、柘榴齧りに少年へと訊ねた。
「こうした居住区ならば、最低限の生活と治安を確約されているはずだろうよ」
少年は疼く痛みを押し隠し、身に付いた土埃を払いながら立ち上がる。
「オイラにだって分からないよ。けど、食糧や配給は届く事すら珍しくなった。オイラ達〝最下層〟には、食料を買う事だって難しいっていうのに」
「故に、こうした輩が横行している……か」
「いいや、それは前から。コイツ等はオイラ達のような弱い者から物資を強奪して、自分達の物にしているのさ」
「いずれにせよ劣悪な環境だな。衛兵による警備は?」
「無いよ。そんなもん」
「ふむ」
カリナは軽く思索を巡らせた。
(内政方針に問題が無いのであれば、考えられるのは配給兵による怠慢か──横領だ。もっとも〈吸血鬼〉が食料を横領しても意味など無い。となると……)
そして、好かぬ名を呼ぶ。
「ゲデ!」
「ィェッヘッヘッ……嫌われ者のオレ様に何か用かよ?」
奥まった暗がりから、僻む似非紳士が姿を現した。
「領主は何処に居る?」
「ここから少し先に在る名城〝ロンドン塔〟でさぁ」
「……城か」
またもや魔姫が、微かに邪笑を含んだ。
「今宵の宿には丁度いいかもな」
「ま~た嬉しそうに笑ってやがる。やめとけよ。各地から吸血鬼が集ってるんだぜ?」
「その程度で、この私が易々と考えを曲げるとでも思うかよ?」
「ああ、そりゃそうか」
不遜な自信を示され、ゲデは呆気なく納得した。
可憐な容姿から思わせる印象に反し、彼女の意志の固さと自由奔放ぶりは折り紙付きだ。他人の意見に我道を左右された事など一度も無い。
魔城目指してカリナが踏み出した直後、件の少年が彼女の足を呼び止めた。
「あ……あのさ」
「何だ?」
無愛想に振り返る。
「確か〝カリナ〟って言ったっけ? オイラは〝リック〟って言うんだ」
「それで?」
返す眼差しは関心薄く冷ややかだ。
注がれた温度差にも気付かず、少年は照れくさそうに紡ぐ。
「あ……ありがとう」
「…………」
無言に見据えていたカリナだったが、ややあって手つかずの嗜好品を少年に投げ渡した。
「え? これ?」
「情報提供の報酬だ。柘榴二つとはいえ、少しは腹の足しになるだろうよ。それから──」ついでとばかりに思い出し、喜々と死体に見入るゲデへと牽制の予防線を張っておく。「──そろそろ付いてくるなよ。今度こそ斬るぞ」
「あ、オイ! お嬢?」
そう脅し残して、黒外套は滞る灰波へと呑まれ去った。
徐々に霞んでいく影を、ゲデは「やれやれ」とばかりに見送る。
本気を秘めた語気から取り付く島が無い事を悟り、それ以上は深追いするのを止めとした。何よりも、下手に機嫌を損ねられた方が後々面倒だ。
「また改めて来ますァ……チクショーめ」
少々落胆気味に呟くと怪紳士はクシャリと山高帽子を押し潰し、夜闇へと霧散して消えた。
静寂に返った路地裏で残されたのは、奇妙な一幕を体験した少年と無価値な死体──それだけである。
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~第一幕~
鮮血の魔城 Chapter.1
【挿絵表示】
テムズ川沿いに格調高い貫禄を誇示する城塞〝ロンドン塔〟は、旧暦時代からイギリスの自尊的象徴だ。呼称上では〝塔〟とするものの、れっきとした〝城〟である。旧暦中世に於いて、戦争の要たる拠点は〝塔〟とも称されていたのが由縁だ。
イギリス王朝の栄華に刻まれた城の威風は、旧暦までロンドン市民の誇りでもあった。
だが同時に、血塗られた歴史に染められた霊城としても名高い。私欲と策謀が横行した旧暦中世のイギリス王朝に於いては、理不尽な死を課せられた者達の往生舞台と化していた経歴を持つからだ。
殊にエリザベス一世の母であるテューダー朝第二王妃〝アン・ブーリン〟は、その最たる例と言えるだろう。不貞の濡れ衣を着せられた彼女は、無情にも斬首刑に処せられたのだ。然れど、事の真相と噂されているのは、夫〝ヘンリー八世〟の悪癖たる情事萌芽の姦計だ。非業なる死罰を課せられた彼女の無念は、相当に根深かったに違いない。成仏できぬままに夜毎〈亡霊〉となり、後世まで城内を彷徨い続ける事となる──旧暦では有名な怪談話だ。
これは数多い逸話の一例に過ぎない。
だからと言っては不謹慎だが、兎にも角にもロンドン塔は、格調高い建築美と裏腹に絶えぬ不吉を孕む魔城ではあるのだ。
なればこそ、まさに〝吸血鬼の塒〟には相応しい。
白亜造りの城郭に、天を刺す角塔群──それらは荘厳な外観ながらも、堅固に囲う城壁は武骨で重々しい印象にあった。そもそも城壁部は古代ローマの実戦的な遺物であり、城郭は後世に建てられた増築だ。渾然一体とした反要素は無理からぬ事だろう。
闇暦現在に於いて、美と力の混在した城影は悪魔的風格にも映った。不吉に聳える威圧感は、領民に根深い畏怖を植え付けて止まない。
逆さ十字の意匠をあしらった赤木地の旗が、主要箇所で無数にはためく。赤は〝血〟を表し、逆さ十字は〝神への反逆〟を意味する。彼等〈不死十字軍〉のシンボルだ。
上空を舞う怪鳥の群は、かつて〝平和の象徴〟として城内飼育されていた鴉達の変異体。
正面道路を挟むと幅広いテムズ川の流れが在り、外濠の排水が地盤下で合流していた。そこから赤黒い廃血が濁々と垂れ流され、黒く淀む水面へと溶け混じる。噎せぶような鉄分臭と吐気を誘う汚泥臭が、例え難い新手の異臭を生んでいた。
次々と城門を潜り入る豪奢な馬車群。
殆どの馬車に御者の姿は無く、半透明に透ける霊馬が座席台車を黙々と牽引していた。まるで無人の意思に誘導されているかのように……。時折、珍しくも御者が手綱引く馬車もあったが、そういう場合は異様で醜怪な容姿の御者であった。
一度城門を潜ると、鮮やかな城内庭園が広がる。そこは綺麗に手入れされており、外界の荒廃とは無縁な別世界を演出していた。しかし同時に、闇の賜物としか映らぬ破滅的な華美を含んでいるのも事実だ。とりわけ艶やかな薔薇の赤は、彼等の象徴である〝血〟を想起させる。
次々と集う来賓勢は、無論〈吸血鬼〉だ。古今東西の吸血鬼から成る闇暦勢力〈不死十字軍〉の面子である。明後日に控えた定例召集会議へ参加するために、遙々遠方から来訪する者も多い。
それらを正面入口で出迎えるのは、痩せ型の中年騎士であった。鋭くも陰湿な印象の男で、頬が痩けた細面には病的な神経質を伺わせる。ギラつく眼光と細い口髭が相俟って、彼の攻撃的な性分を物語っていた。
一台……また一台と馬車が止まる度に、衛兵が来賓の名を読み上げる。その都度、この男は友好的な笑顔を繕いながら、降車に手を貸した。
「御待ちしておりましたぞ、バートリー夫人。ささ、どうぞ御手を」
儀礼的なエスコートに従って降車するのは、品格を醸す美貌の淑女である。
見た目に三〇代後半といったところか──実齢は不明だが。
黒い髪艶を帯びたワンレンヘアが、妖艶な美しさを醸している。それは腰丈まで伸びており、一挙一動の振舞いに後れ毛の色香を踊らせていた。紫色のフォーマルドレスが、上流社交に適した意匠に品格を保つ。胸元や背中・肩口から素肌を露出する造りながらも、決して低俗で安い印象に無い。無防備に覗ける胸元は色白く珠のような肌理であった。鼻筋の通った顔立ちに、冷たく切れ上がった目。薄い唇に栄える紅は、計らずとも吸血嗜好の現れにも思える。
整った線で形成された美貌ながらも、どこかおぞましい魔性を感受させる淑女であった。
名を〝エリザベート・バートリー〟という。
「これはこれは、ジル・ド・レ卿。今宵もわざわざ貴方が出迎えてくれるとは、夢にも思いませんでしたわ」
明らかに皮肉を含んだ世辞であった。
ジル・ド・レは小賢しく思いながらも、曖気にさえ表さず紳士然とエスコートする。
「カーミラ嬢は、どうされましたの?」
「いやはや面目次第もございませんが、カーミラ様は些か体調が宜しくないようでしてな。これは主の体調管理に気を配っていなかった側近である私目の責と感じまして、カーミラ様には暫し御休養頂き、私自らが来賓の皆々様を出迎えるが筋と老体に鞭打っている次第です」
「まあ、カーミラ嬢が?」
エリザベートは露骨な心配を飾った。あからさまな自己演出だ。
一方で、彼女の胸中は穏やかに無い。
あの貞淑さを装う小娘が、自分以外の吸血鬼を軽視しているのは重々承知だった。このような非礼は、毎度の事である──前回も──前々回も──それ以前の全てに於いても……だ。
「心配ですわね。大丈夫かしら?」
「いやなに、左程の大事にはありませんからな。後日の会議には、いつものように元気な姿を皆様へと御見せになられる事でしょう」
「カーミラ嬢は随分と虚弱でいらっしゃるようだから、心配で堪りませんの。不死になられた時、健康体ではなかったのかしら? そうすれば、このような煩わしさに悩まされる事もなかったでしょうに……本当に御気の毒だわ」
「ハッハッハッ……これは痛み入る御言葉ですな。我が主も胸を詰まらせるに違いありませんて。まあ、斯様な話はともかく、どうぞ先着の同胞達と共にゆるり御話しを興じられませ。定例会議までは、まだ日がありますからな。本日は我が故郷より、粒揃いの娘達を用意させて頂きました。我が故郷フランス産の生娘達は格別ですぞ」
「御気遣い、恐れ入りますわ」
悠々と大回廊を去る吸血夫人を見送りつつ、ジル・ド・レは独り毒突く。
「フン、何も知らぬ女狐が。本当に虚弱なら、ワシの気苦労もありはせんわい」
実際、彼の主君は虚弱どころか不調知らずだった。
伝説的存在である〝カーミラ・カルンスタイン〟は、この場に集う吸血鬼の誰よりも強大無比な魔物である。
だからこそ、かつて百年戦争へと出兵した自分ですら、容易に刃向かえない。その歯痒さを、ジル・ド・レ自身が常々苦々しく思っていた。
「それにしても因果なものよ。まさか仇敵国に身を置く事となろうとは……しかも、宰相としてな」
己が身の皮肉な運命には自嘲するしかない。
生前、百年戦争に於いて祖国フランスのためにイギリスと戦い抜いた彼が、死後は〈不死十字軍〉幹部としてイギリスで政治的統括に奔走する──皮肉な話ではある。
元来〈吸血鬼〉は、生前の故郷に固執しない。多くの〈怪物〉が発祥地に縛られる中で、これは希有な性質と言えるだろう。
そもそも〈怪物〉が生地に縛られるのは、その土地の風土や民俗が自己存在に対するダイレクトな発生背景となっているからである。
しかし、彼等〈吸血鬼〉の根本を構成するのは〝吸血欲求〟だけだ。
それを効率よく満たす事だけに重点を置き、そのためならば何処にだろうと根を張る──例えば伝説の吸血鬼〝ドラキュラ伯爵〟が、生地トランシルヴァニアからロンドンへと赴いたように。
逆に需要が低くなれば、惜しみなく活動地を離れた。
生地による縛りは眠りに要する〝棺の床土〟ぐらいであるが、それも現在では重要性が低い。慢性的に闇が支配する闇暦世界では、陽光による誘眠の呪縛は薄いからだ。
そうした背景故に、スチリア出身のカーミラ・カルンスタインが〝領主〟として居座り、フランス貴族たるジル・ド・レが仇敵国へ身を置くのも不自然ではなかった。先刻のエリザベート・バートリーにしても、わざわざハンガリーから訪れている。
このように雑多な国籍が一堂に会し、吸血鬼による一大勢力〈不死十字軍〉の本格的旗揚げに胎動していた。
だが、他の吸血鬼とは違い、ジル・ド・レの胸中は実に複雑であった。彼の場合、生前の誇りと遺恨が心底に根深く生きていたからだ。
「騎士の気位というものは厄介なものよ……未だ忘却に捨てられぬとはな」
自覚はある。現状では押し殺さねばならない。
最優先すべきは〈不死十字軍〉の盤石たる結束。
〈闇暦大戦〉の世では敵が違う。最早、イギリスだのフランスだのという矮小な小競り合いレベルではない。
見据えるは種族間戦争の覇権なのだ。
「セルビアよりペーテル・ブロゴヨヴィッチ様、御成ーーーー!」
新たな来賓を告げる衛兵の声を受け、宰相は黙想から醒める。
そして、歓待義務のために颯爽と踵を返すのであった。
「毎度ながら気が滅入るわね……望んで着いた地位にないだけに」
続々と階下へと集う来賓勢を窓越しに眺め、少女城主は憂鬱な気持ちを漏らした。
もっとも〝少女〟というのは外見上の事であり、実齢の方は遙かに高い。
憂いを含んだ鈴音のような声は、聞く者に清らかな慕情さえも抱かせた。それが生来のものか、或いは〈魅了〉の妖力によるものかは定かに無い。
浅く波掛かった金髪を撫で梳くと、彼女は純白のドレスを翻して絢爛な室内へと下がった。
意味を為さぬ高級鏡台へと腰掛けると、映らぬ己の鏡姿に独り言を語り掛ける。
「いい事、カーミラ・カルンスタイン? しばらくは、できるだけ部屋の外へは出ないようにね。会議の際には否応なく出席するしかないとしても、それ以外では誰にも会いたくはないでしょう?」
腹を見せぬ来賓勢と対面するのは、露骨な化かし合いばかりで煩わしい。カーミラが召集会議を嫌う理由は、議題の進展云々よりも実はそこにあった。
晴れぬ思いのまま、深い嘆息が零れる。
「せめて〝ローラ〟がいれば、気を紛らわせる話し相手にもなってくれたのだけれども……」
悶々と募る鬱積に、ふと遙か昔の〝想い人〟を恋しく懐古した。無い物ねだりの現実逃避である。彼女の〝想い人〝は、既にこの世にいない。不死と定命の格差による非業の恋火である。
気を許せる友人もいなければ、情欲に焦がれる対象もいない──ロンドン塔に於けるカーミラは、日がな虜囚に過ぎなかった。旧暦時代の自由気侭な日々が懐かしい。
彼女が思い出に慕情する中、不意に部屋の扉をノックする音が響いた。
またも深い溜め息。煩わしい展開が予見される。
「カーミラ様、おられますか?」
戸外からの凛然とした呼び掛けは、聞き慣れた女性の声であった。
それを察知すると、一転して眉根の曇りが晴れる。
嫌う相手ではない。
「ええ、どうぞ」
カーミラは親しい友人を誘うように答えていた。
畏まった一礼に入室してきたのは、声質同様に品格高い女性。深紅のロイヤルドレスで身を包み、細やかな金髪は頭頂に詰め纏めている。そこには宝石を散りばめた白金の髪留めを飾っていた。一目で高貴な血筋だという事が判る。端正な顔立ちに等しく内包されているのは、滲み出る厳格さと慈母性。些か気難しい一本気な性分と、聡明な優しさを物語っている。
「カーミラ様、御忙しかったでしょうか?」
「いいえ、メアリー一世。とりあえず、ジル・ド・レ卿ではなくてホッとしています」
軽口めいた冗談に、二人は苦笑を交わした。
シックに着こなした品格が示す通り、メアリー一世の生前は上流階層の身分だ。
それも旧暦中世のイングランド女王である。
彼女が王位にいたのは、疎むべき父・ヘンリー八世によって国家宗教がプロテスタント派へと改宗させられた時代であった。
元来、長らくカトリック政権であった国家宗教が半ば強引に改宗させられた目的は、父の再婚願望に依る部分が根として大きい。つまり、死別以外に伴侶との離婚を認めないカトリック体制が、ヘンリー八世の悪癖たる好色には障害であったという事実だ。
彼女の母である第一王妃〝キャサリン女王〟も、そうした裏事情から無実の死刑を処された贄である。
即位したメアリーが徹底したプロテスタント排斥によってカトリック政権を復権させた原動力には、そうした〝母の無念〟と同時に〝父への報復〟という仇討ち的感情も看過できないだろう。
ともあれメアリー女王は暴走めいた政策を強行し、プロテスタント信者を弾圧した!
老若男女関係なく!
有無を言わさず連行し、そして、多くは死刑である!
数え切れぬほどの血が流れ、罪無き命が絶たれた!
その数は三〇〇人とも云われている。
宛ら〈魔女狩り〉を彷彿させる赤の悪夢を、彼女は一代で展開したのだ!
いつしか民衆達は、恐怖と畏怖を込めて彼女を別称した──〝ブラッディ・メアリー〟と!
メアリーの場合は〝吸血欲求〟から吸血鬼と化したわけではない。
彼女の転生要因は、こうした尋常ならざる鮮血の怨鎖に拠るものだ。
つまり〝呪い〟と呼び替えてもいい。
だが、行為自体の残酷性はともかく、彼女には確固たる政策理念があったのは事実だ。
だからかもしれないが、彼女の品行方正な実直さは転生後も失われていなかった。
カーミラが特別視に好く理由である。
「それで、どういった用件かしら? まさか会議に関わる事ではないのでしょう?」
「まさか。それが禁則である事は、私とて重々承知しております」
「ええ。〈不死十字軍盟主〉という立場上、わたしは中立な心構えで会議へと臨まねばなりません。原則として、会議前に参列者と個人的に会うのは好ましくないのよ──この状況とかね。密通などという、あらぬ誤解を招きかねないでしょうから。それを承知で?」
「多少は賭けでしたが、霧化して訪れました。無論、皆に気付かれぬように細心の注意を払って行動しております。御心配なさらぬように」
霊的存在にも物質的存在にもなれる〈吸血鬼〉は、まさに千変万化だ。広く知られた蝙蝠や狼だけではなく、鼠や蛇──梟にも変身する事ができる。もっとも、そうした変幻自在ぶりを行使できるのは、妖力の底値が高い吸血鬼に限られるが……。
とりわけ異質なのは、気体である〝霧〟への不定形変身だろう。墓下から痕跡もなく抜け出したり、閉めきった室内へ造作もなく現れる神出鬼没ぶりは、この能力に拠る。霧化した吸血鬼は同属であっても感知しにくい。
とはいえ、根本的には感知側の魔力如何ではあるから、メアリー一世の賭けは運が良かったのだろう。そうでなくともロンドン塔には、ジル・ド・レを始めとして強力な魔力保持者が幾人か在城している。加えて、今宵は会議参列者が多々来賓していた。些か無謀な行動ではある。
一方で裏を返せば、彼女の度胸が据わっている立証でもあるが……。
「そこまでしての急用なのかしら?」
「いいえ。ただ、明後日に控えた会議を前にして、カーミラ様も気が滅入っておられるのではないか……と。口下手な私程度でも、話し相手として気晴らしになれば幸いと思いまして」
「まあまあまあ!」両手で口元を押さえ、カーミラは感激を露にした。「嬉しくってよ、メアリー! まさしく、その通りなの! 今回の会議も逃げ出したいくらい憂鬱よ!」
「心中、御察し致します」
カーミラの一喜一憂に反して、メアリー一世の対応は平静に徹している。彼女は元々イギリス王朝の一時代だ。そうした厳格な環境下が育んだ気質故だろう。
対してカーミラの生前時代は、メアリーよりも凡そ百年後になる。にも拘わらず、その言葉遣いや挙動は逐一時代掛かっていた。まるで文学作品に登場する貞淑な姫君宛らだ。王族たるメアリーから見ても、正直誇張臭い。
「足並み揃わぬ宰相勢を束ねるという役割は、本当に気苦労が多いものですとも。私自身も身に経験がありますが」
「それについてはね、メアリー。わたし、常々貴女に申し訳なく思っているの」
「私に?」
「ええ。だって、この城──ロンドン塔は本来、貴女の居城ですもの。本当ならば、貴女こそが正統な〝城主〟にして〝領主〟であるべきですものね。それをフラリと訪れただけのわたしが……」
多少気落ちした視線を落とすカーミラへ、メアリーが淡い微笑を含んで応える。
「それについては問題などありません。私自身が善かれと判断して明け渡したのですから」
「けれど」
「君主──束ねる者には、下層の者に有無を言わせぬほどの実力と、認めさせるだけの象徴性がなければなりません。貴女にはそれが備わっており、私には欠けていた。それだけの事です」
「でも、仮にも貴女は〈イングランド女王〉だった人物なのよ? 素質は充分だと思うわ。象徴性だって……」
「武力的な才が欠けています。私ではジル・ド・レ卿にも及びません。人間時代の政治的組織図ならばともかく、個の実力が重視される吸血鬼社会では象徴性だけでは束ねられないでしょう」
「そうかしら?」
「そうですとも」
慈しみが返す。
少女城主は観念を嘆息に乗せた。
「イングランド領主にして、ロンドン塔城主……加えて、不死十字軍盟主。正直、荷が重いのよね」指折り数える物々しい肩書きが、カーミラの自由を窮屈に呪縛していた。「とりわけ〈不死十字軍盟主〉という立場は不本意よ。別にわたしが立ち上げた組織でもなければ、先導を煽った覚えもないもの」
単に〝伝説の吸血姫〟という威光を、分かり易い旗頭と利用されているに過ぎない──常々そうは思いながらも、目に見えぬ圧力に流されたまま今日に至る。
「別にドラキュラ伯爵でも良かったんじゃないかしら?」
肩越しの下ろし髪を撫で梳きながら、カーミラは不満そうに口を尖らせた。
「確かに、実力・能力共に申し分ないのですが──」そこまで言って、メアリーは言葉尻を濁らせる。「──ちなみに、今回は?」
「例によって、事前通告が届いているわ。なんでも『教会の十字架で串刺しにされたので療養中』とかで……」
「その前は確か……」
「火山に落ちて全身火傷……」
素直に推薦できない理由が、これであった。
カーミラをも凌ぐ〝伝説の吸血王・ドラキュラ伯爵〟が定例会議に出席した試しは一度も無い。毎回、何かしらの不遇に見舞われているからだ。
脱力感漂う沈黙の中で、カーミラは不意に階下から聞こえる喧噪に気が付いた。
「あら? 騒がしいわね?」
「どうやら正面回廊からのようですね」
「何かあったのかしら……行ってみましょうか?」
カーミラの誘いに、メアリーは自身の引き際を悟る。
「いえ、私は失礼した方が宜しいかと……。行動を共にしている事が知れれば、それこそ、あらぬ噂を誘発しかねないですからね」
紅衣の淑女はスカート裾を軽く摘み上げて礼を払うと、そのまま霞んで消えた。霧化しての退室であった。
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鮮血の魔城 Chapter.2
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正面入口から直結した大回廊。その空間は仰ぎ見るに天井高く、また所要面積も徒に広い。幾多もの巨大円柱が連なり立ち、時代錯誤な芸術意匠が余す所無く刻まれていた。金装飾を始めとした格式高い彩り。室内を飾る厳かな風格は、本来ならば目の保養と機能する華やかさであろう。
しかしながら、闇暦現在では青い霊気に満ちていた。宛ら住まう者達の陰そのものだ。
その霊気漂う空間で、吸血鬼一同が凍りつく。まるで時間が静止したかのように……。
警戒と驚愕のままに凝視するのは、大顎を開放した正面玄関。
淡い月明かりの逆光に、細身の紅剣を携えた少女が浮かんでいた。素性も知れぬ黒外套の少女だ。突然現れた不埒な狼藉者である。
彼女が戦果と躙り踏む無様な死体は、衛兵吸血鬼の成れの果て。不審者を武力行使で取り押さえようとした末路であった。
紅き刃を奮い終えた少女は、戦闘の余韻へと浸っているようにも映る。自らが展開した惨劇に酔うが如く。
大理石の床をドロリと広がり染める赤黒い粘り。やがて死体からは偽りの肉が朽ち落ち、古びた骨格を本性と晒け出した。それも黒い塵と化し、大気中へと拡散していく。自然の理に反して刻んだ年数を一括還元された消滅──如何にも〈吸血鬼〉らしい末路ではある。
「やれやれ……この城では、来訪者を問答無用に攻撃するのが仕来りかよ?」
軽い剣舞に乱れた前髪を退屈に遊び、カリナは挑発めいた不敵を飾った。
品定めに流し見る吸血鬼達は、恐々と強張り血塗れた事後を凝視するだけの小物ばかり。彼女の興には物足りぬ。
だが、その中にも強者が一人いるのを認識した。
ギラついた敵意で睨み据える鎧騎士──ジル・ド・レである。
起きた状況を分析しつつ、彼は少女の正体を推測していた。
(小奴、何者か? 如何に雑兵とはいえ〈吸血鬼〉を相手に、一糸乱さぬ剣捌きで軽く屠りおった。到底、人間には不可能な剣技──おそらく、小奴も〈吸血鬼〉には違いあるまい。無名ながらも同属ならば、先程の超人的な身体能力も合点はいく。仮にそうだとしても、尋常ならざる戦闘技量だが……。推し量るに、ワシと同等か……或いは、それ以上の──カーミラ・カルンスタインに匹敵するような──実力者やもしれぬ)
「髭面、黙祷が長いぞ。部下思いなのは結構な事だがな」
重ね重ねの無礼な挑発が、ようやくジル・ド・レを硬直から解放した。
「黙れ! 此処を何処だと──誰の城だと思っている! このような狼藉、許されると思うな!」
「狼藉……ねえ?」と、軽い嘲笑。
それがジル・ド・レの激昂を誘った。
「な……何が可笑しいか!」
「私は開放されていた城門を潜っただけさ。それが嫌なら朽ち錆びた城門を閉じておけよ──永遠に」
「此処は〈不死十字軍〉が拠点! 貴様のような素性も判らぬ下賤が、城内へ無断進入しただけでも咎である!」
「なるほど、城内侵入が罪状か。ならば──」悪意を向けた美姫の目が、嬉しそうな冷酷に細まる。「──城の乗っ取りは、さぞかし重罪だろうよ」
それこそ彼女が望んだ展開となった。
一瞬、ジル・ド・レの背筋に、気圧されたような戦慄が走る!
少女の瞳力が吸い込むような殺意を宿していたからだ!
生前の戦歴から、彼も腕には覚えがある。並大抵の相手ならば遅れを取る事も無い──そう自負していた。
だが、この不敵な少女からは、得体の知れない焦燥が負わされる。明確な技量差に屈服を噛むような感覚だ。まだ剣を交えてすらいないというのに……。
(ええい、呑まれるでない!)
静かに瞼を綴じると、ジル・ド・レは平常心を呼び覚ました。あくまでも臨戦の心構えだ。
それが窺えるからこそ、カリナにも高揚感が湧く。空虚な生が続く中で、彼女は絶えず血が滾り踊るような充足感に飢えていた。一晩の塒を得ると同時に、その欲求を満たす──実に合理的な策だ。今回が初めてではない。
「来賓の皆々様、下がられよ。此処は私目が、命に代えても御守り致す」
狼狽隠せぬ来賓勢に身の安全を約束し、吸血騎士は前へと進み出た。役目が久しい愛剣を腰鞘から抜くと、油断ならない魔性を睨み据える。
力強く腰を落としたジル・ド・レは、両手握りの両刃剣を顔脇の高さで水平に構えた。切っ先を照準の如く少女へと重なり合わせる。
決闘の覚悟を確信したカリナが、抜き身の愛剣を一振りに血糊を払った。雑兵戦の痕跡を払拭するためだ。これから堪能する旨味を汚したくはない。
先制の機を焦れる鎧騎士に対して、無造作な歩みで距離を詰めていく黒外套。
「珍しいな」悪意の美姫が素直な感想を漏らした。
「何がだ」敵意を逸らさずに騎士が訊う。
「オマエだよ。これまでも一対一の闘いはしてきたが、ちゃんとした〝構え〟を見たのは数えるほどだ」
「それは、貴様が剣の心得も無い雑魚としか闘わぬからであろう」
「……かもな。だから、満たされない」
これまでの味気ない楽勝を思い出し、カリナは自嘲に肩を竦める。
「貴様は何故構えぬか」
「私には〝構え〟など無いからな」
「そうか」
「そうだ」
睨む眼力に、冷めた眼差し──緊迫した静寂が空間を支配した。
地を蹴ったのは、共に同時!
跳躍の勢いのままに間を詰める少女を、ジル・ド・レの重い突きが迎え打つ!
不安定な滞空を攻められたカリナは、咄嗟に宙での体捻りに避わした!
紙一重で脇を掠めた力強い鋼刃を、風圧に泳ぐ黒外套が纏わり呑む!
その隙に振るわれた細身剣は、鷲面の側頭部を捕らえた!
「チィ!」
ジル・ド・レは力業で剛剣を引き戻すと、その逞しい刀身を小賢しい一撃への盾として弾く!
「それをやるかよ!」
忌々しさに吠えるカリナ!
続け様に繰り出す二撃目!
狙うは脇腹!
弾かれた刃の慣性と自身の遠心力を併せた反転運動の速攻だ!
捕らえる!
「グッ?」
衝撃に体勢を崩しながらも、ジル・ド・レが片膝着きに乱暴な一振りを凪いだ!
圧を感じたカリナは、すかさず跳び退いて距離を取る!
ただ単に跳び退いたのではない!
華奢な脚線美で敵の胸板を渾身に蹴り跳ばし、一気離脱と牽制攻撃を一体として繰り出したのだ!
体重を乗せた一蹴は鎧装束の体勢を更に倒し崩し、間合いからの離脱成功率を大きく上げる。
再び距離を離れ、互いに反目を交わした。
「フン……思ったよりも、やりおるわい」
「フッ……やはり鎧というのは厄介だな。有効打には程遠い」
先制の一撃はカリナが与えたが、今回の戦いでは細身剣の不利は大きい。細身の刃は〝突き〟には向いているものの、力任せの斬撃を主とした戦闘では些か不向きであった。況してや、分厚い鎧装甲には威力が完全に殺される。
せめてもの利点は、彼女の速攻性が活きる事か。繰り出せる手数は多い。実際、これによって相手を翻弄する戦法には、確実な手応えを感じていた。
「クックックッ、惜しいな」
ジル・ド・レが含み笑う。
「……だな。やはり細身剣は、斬撃の威力に劣る」
「いや、そうではない。貴様自身が……だ。それだけの戦闘技量──天賦の才かもしれぬが──なかなか御目に掛かれるものでもない。何故、貴様のような逸材が無名であったのか。否、何故に女の身に生まれたか。実に惜しいものよ」
「私の答えは、こうだ──『知るかよ』!」
互いに刃を交える価値を認めたか、愉悦を同調に浮かべる。
それは語らずとも再戦の合図となった!
「「おおおおおおおおおおおおっ!」」
二人の雄叫びが激しく重なり、滾る戦意が距離を駆け詰める!
と、その時!
「双方、剣を収めなさい!」
凛とした威令が過熱に水を差した。
唐突な横槍に場の流れが硬直し、息巻いた決闘は強制的に中断される。
声の主に一同が関心を注いだ。
階上の踊り場だ。
そこには、清廉な印象の令嬢が毅然と睨み立っていた。
(……誰だ?)
カリナもまた、優麗な支配力へと注目する。
純白のロングドレスに、淡く波打つ豊かな金髪。覗く柔肌は遠目にも白雪のようだ。
典型的な貴族令嬢であった。当然ながら、武力面で秀でている印象に無い。
にも拘わらず、ジル・ド・レを始めとした吸血鬼達が挙って儀礼に跪いていた。
その正体に、カリナは強い好奇心を抱く。
同時に彼女の内には、他愛ない苛立ちが芽生えていた。
興を阻害されたからではない。
自分と対極にある品性が、いけ好かなかったからだ。
彼女が〝血統書付き〟だとすれば、自分が〝荒んだ野良〟のように思えてくる。
純白の少女は緩やかに曲がる大階段を下り、咎める眼差しのみで騒乱の場を鎮めた。
「ジル・ド・レ卿、これは何の騒ぎです」
「ハッ、申し訳ありません。されど、捨て置けぬ事態にあったが故に……」
「捨て置けぬ事態?」
「左様で。実は不埒な輩が城内へと乱入し──」
「──私だよ」言い訳がましいジル・ド・レの説明を遮って、カリナが憮然と名乗りを挙げる。「私が、その不埒な輩さ」
「貴女が?」
怪訝そうに値踏みするカーミラ。
それを尻目に流したカリナは、愛剣で軽く空を切って鞘へと収めた。
「で? その不埒者とやらを、どう処理する気かよ?」
柘榴に潤いながら侮りを向ける。
相手を世間知らずの温室育ちと踏んだが故だ。
「き……貴様、無礼であろう!」
烈火の如きジル・ド・レの怒声。
それさえも、カリナは不敬な嘲りに返す。
「コイツが何処の誰だか知らんが、私には恐縮してやる義理はない。オマエ等〝飼い犬〟と違ってな」
「愚か者! この御方こそロンドン塔城主にして、イングランド領主! そして、我等が〈不死十字軍盟主〉である伝説の吸血姫〝カーミラ・カルンスタイン〟様であらせられるぞ!」
飾り並べられる不本意な誇示を、カーミラ当人は複雑な心境で噛み殺していた。
「カーミラ?」微かに聞き覚えのある名に、カリナは記憶を掘り起こす。「ああ、アレか」
「ア……アレだと?」
敬意も緊張も畏怖もない態度に、ジル・ド・レの顔が益々紅潮していく。
「確か〝ドラキュラ〟とかいう老い耄れと並ぶ有名な吸血鬼だ。知名度だけなら一目置いているぞ」
「ぶ……無礼者が!」
「先刻よりもいい顔しているぞ、髭面」
明らかにカリナは、ジル・ド・レを露骨な玩具としていた。思いの外に感情的な側面を知り、どうやら弄ぶ面白味を見出したらしい。
反骨者の本質を見極めていた少女城主は、やがて穏やかな物腰に訊ねる。
「貴女、御名前は?」
「カリナ──カリナ・ノヴェール」
「そう、カリナ……綺麗な響きね」
相変わらず刺々しいカリナの攻撃心に、カーミラは憂いある微笑みで返した。
「で、どうする気だ? 〝伝説の吸血令嬢〟殿?」
「そうね。貴女の言う通り、立場は対等ですものね──貴女は〈不死十字軍〉ではないのですから。とりあえず、わたしの部屋へいらっしゃいな、カリナ・ノヴェール」
「……何?」
「互いに対等の立場で話を聞きましょう。その上で貴女の主張が納得に足るものであれば、今回の狼藉を不問と致します。けれど、貴女の振舞いが単に暴虐の類であれば、わたしは貴女を許しません。それ相応の処罰を覚悟なさってね?」
(何だ、コイツ?)
自分から散々挑発しておいて何だが、カリナは珍しくも戸惑いを覚える。
彼女の隠し武器でもある毒気は、清らかな流水に希薄化されるかのように効果を弱めていた。
(カーミラ・カルンスタイン……初めて会うタイプだな)
思いがけない未知なる収穫に、カリナの興味が改めて首を擡げる。
コイツの底を見極めてやりたい──そんな強い衝動に沸き立ち、久しく眠らせていた好奇心が高まった。
薄暗い石造りの通路を、ジル・ド・レは黙々と進む。
在城階級者だけに利用される幅狭い通用路だ。他に往来の姿は無い。
硬い涼気が陰湿な霊気と混じり合い、飾り気すら無い石廊に満ちていた。
等感覚で石壁へと設置された燭台が、暖かな橙を灯し照らす。鬼火の息吹と揺れる灯りは、時折に吹き抜ける空気の流動から勢いを授かっては鎮まった。その度に焼け溶けた蝋の臭いが鼻腔を刺激する。
カリナとの激闘に剣を収めた彼は、続け様に事後の始末へと奔走した。来賓勢の不安を虚言の接待で緩和し、衛兵達に騒乱の後始末を指示する。
そうした城内管理の責務を一頻り終えると、明後日の準備に取り掛かるべく会議の間へと向かっていた。
黙々と闊歩しながらも、その胸中は穏やかにない。
雌雄の決着が棚上げとなった蟠りも大きいが、それ以上にカーミラの意向が読めなかったからだ。
ユラリと大きく灯火が息吹いた。
一瞬膨張した燭台の陰影から、一片の影が分裂して踊り出る。黒の平盤は醜い泡を吐いて足掻き、自身を人型へ形成しようと膨れ上がった。先を行くジル・ド・レの背後へと滑ると、やがて不完全な人影は本来の姿を露にする。
陰湿な雰囲気を醸す男であった。深く被った漆黒のローブからは、浅黒い素肌が覗ける。線の細い美形ではあったが、鋭い眼差しは暗い光を宿していた。まるで世を妬んでいるかの如く……。
抑揚を抑えた声で、従者が主人へと呼び掛ける。
「……ジル・ド・レ様」
「プレラーティか」
ジル・ド・レは振り向きもせず、憮然と闊歩したまま応対した。どうやら背後の気配を察知していたようだ。
「先程の闘い、実に惜しゅうございました」
「フン、何処からか見ておったか」
「我はジル・ド・レ様の〝影〟にございます。いつ如何なる時でも、私は側に控えております」
プレラーティは粛々と畏まる。
この男──〝フランソワ・プレラーティ〟は、生前時代からジル・ド・レの片腕的存在だ。
そして、ジルを〈吸血鬼〉へと誘った人物でもある。
かつてのジル・ド・レは錬金術に傾倒していた。
目的は、伝説の秘石〈賢者の石〉の精製。
日々の散財に枯渇する資産を潤すためである。
錬金術最大の極意である〈賢者の石〉さえあれば、無尽蔵に〈金〉を生み出せるはずだ。
そのために雇用した錬金術は数知れぬ。
しかし、全てが自称者であり、山師でしかなかった。
失望に怒り、どれほどの人材を首にしたかは数えていない。
そんな折りに現れたのが、この〝プレラーティ〟なる人物であった。
詳しい出自はジル・ド・レも知らない。
肝心の〝本物〟でさえあれば、その辺りは不問と構えていたからだ。
どちらかといえば、プレラーティは錬金術よりも黒魔術に長けていた。
だが、その腕前は──殊に降魔術に関しては──本物であった。
だからこそ、ジル・ド・レは喜々として召し抱えたのである。
目的が〈賢者の石〉から〈悪魔召還〉へと推移したが、大局的には問題ない。
この邂逅で、ジルは気付いたのだ。
自身が心底から追い求めた真の欲求は、その先にあるものだと……。
「しかし、あの者もなかなかの手練れであったかと──確か〝カリナ・ノヴェール〟でしたか」
プレラーティが分析の感想を述べる。
「フン、賢しい小娘が! あのような下賎を受け入れるなどと……カーミラ様は何を考えておられるのか!」
主君に身の安全を警鐘した彼の進言は、少女城主の柔和な微笑によって易々と却下された。
「確かにカーミラ・カルンスタインならば、あのカリナ・ノヴェールとかいう小娘にも遅れは取らぬでしょう」
「だが、それは同時に、ワシとの実力差を明瞭に暗示しておるのだ。カーミラ・カルンスタインの微笑みには、実力に裏打ちされた絶対的な自信が隠されている。それが、どうにも腹立たしい」
己との実力差を忌々しく噛む。
「戦いは男にこそ本分! 女は男に頼ればいいのだ! 女の身にあって、剣を握るなどと……!」
生前に於ける主君を想起したジルは、込み上げる苛立ちを呑んだ。
「力あらば……我に、もっと力あらば…………っ!」
永きに渡る渇望が益々募る。
そんな主人の葛藤を、暗い瞳は淡々と見つめていた。
脳裏に去来する悲劇──英仏百年戦争。その苦々しい記憶を、ジル・ド・レは憤り任せに語り聞かせる。
「怨敵イギリスは、我が主君を〈魔女〉として処刑した。だが、実態は和平外交を見据えた政治的策謀よ」
「停戦の和平を結びたくば、手土産として決起の象徴たる英雄の死を差し出せ──と」
「そうだとも。そして、我が祖国・フランスは、イギリスからの不条理な条件に乗った。恥知らずにも救国の英雄を見捨てたのだ。恩義も誇りも無い掌返しだ。その時からワシは、祖国も信仰も失望に捨てた。隠遁の中で求め続けたのは〝力〟だった。大切なものを守り、正義を貫けるだけの有無を言わさぬ〝力〟……それだけを、ひたすらに望んだ」
「私は、それを叶えるべく貴方の下へ現れた」
「そうだとも! だからこそ、魔性へと身を窶してしまったのだ! 数多くの子供を悪魔への生け贄と捧げ、その生命を啜り飲んだ! 貴様の啓示通りにな!」
「しかし、貴方は行為自体に倒錯し、いつしか虐殺そのものに愉悦を支配されていった」
「ああ、そうだ! それこそが〈吸血鬼〉に転生した経緯だ! どうだ! 貴様の姦計通りか!」
「……私は、貴方の望みを叶えるべく仕えただけ」
「フン」
あくまでも沈着冷静に徹するプレラーティの態度に、ジル・ド・レは激昂を削がれていく。
「後悔なさっておられるのか?」
「……いや、確かに〈吸血鬼〉へと転生する事で〝力〟は得た。そして、それはワシ自身が望んだ結果よ。そこに不服はない。だがしかし──」
「しかし?」
「──まだ足りんのだ。このままでは、カーミラ・カルンスタインには届かぬ。あのカリナ・ノヴェールとかいう小娘も凌駕できぬ。力が足りんのだ……全然な」
「……貴方が望むなら、また祭儀の手筈を整えましょう」
いま、ジル・ド・レの内には、あの時の欲求が甦りつつあった。
愛でるに愛らしい子供達が、恐々と怯え喚く姿──黄色い悲鳴と嗚咽の末、解放された絶頂にも似た断末魔──血と肉と性と力──心底に淀む欲求が混然となって誘惑してくる。
暫しの沈黙後、ジル・ド・レは疲れ果てたかのような口調で命じた。
「……プレラーティよ」
「はっ」
「会議の日取りが近い。現状は下がるがいい」
「……はっ」
素直に影へと還る従者。
強い負念が激しい潮流と化し、ジル・ド・レの頭を逡巡する。
迷いの根源がカーミラへの嫉妬心からなのか、現在は亡き主君への固執からなのか──もはや彼自身にも分からぬままに。
いずれにしても、かつて彼が心酔した〈聖少女〉は、もういない。
カーミラ・カルンスタインは〝オルレアンの少女〟ではないのだ。
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鮮血の魔城 Chapter.3
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「んーーっ! 肩が凝ったわ!」
自室へ戻るなり、カーミラが清々しく伸びをする。凛然とした気負いは消え失せ、素直な自然体に砕けていた。
「……オイ」背後のカリナが冷ややかに呼び掛ける。唐突な変貌ぶりには呆れるしかない。「何なんだ、オマエは? さっきまでとは別人だぞ」
「だって、あんなにも多くの来賓がいるんですもの。それらしい態度で振舞わなければ、城主としての威厳が失墜するわ」
悪戯っぽく肩を竦めると、部屋の主は豪華なベッドへと腰掛けた。
その脇を叩いて相席を促したが、カリナは壁へと背を預けるだけ。頑として拒否する意向のようだ。無碍にされたカーミラは、少々不服そうな顔を浮かべていた。
「それで? どう処理するつもりだよ?」
意地の悪い邪笑で無頼者が訊ねる。
けれども、カーミラはケロリとした表情で簡潔に返すだけであった。
「別に? どうもしなくてよ?」
「……は?」
珍しくも頓狂な声が出る。盟主にあらざるべき態度に、あっさりと毒気を抜かれてしまった。
「キサマ、さっき言っていた事と……」
「わたしはね、カリナ・ノヴェール? 正直、あんな些事はどうでもいいの。ううん、むしろスッとしたくらいよ。貴女の傍若無人さに恐々とする彼等の表情を見た? 本当はわたし自身が、日々、ああしてやりたかったくらいなの」
「オマエ、城主にして盟主だろう」
「だからよ。望んでもいない威光なんてね、毎日の鬱憤が酷いものなのよ。それを貴女が代わりにやってくれた──爽快だったわ」
「横槍を入れたクセに、よくも言える」
「あれ以上やっていたら、貴女は本当に〝不死十字軍の敵〟となっていたもの。それにジル・ド・レ卿は、それなりの実力者──双方無傷とはいかないわ。そうなれば、わたしにしても全霊を以て貴女を吊し上げるしかなくなる。そんなのはイヤですからね」少女城主は穏やかな苦笑を飾る。「けれど、貴女の素性と目的は聞かせてもらうわよ?」
「やはり警戒はするか。ま、当然だがな。況してや、私のような危険分子は──」
「ううん、単なる暇潰し」
「──……」
まるで暖簾に腕押しであった。挑発を帯びた毒が悉く中和されてしまう。
奇妙なヤツに好かれたもんだ──と、カリナは困惑を持て余した。
「生憎、自分の素性は知らん。闇暦以前の記憶が無い」
「記憶が?」
怪訝そうにカリナを見つめる。
(それって、奇妙な事象ね。そもそも〈吸血鬼〉は、生前に何らかの固執や柵があればこそ転生する──云わば、それこそが自己存在確立の根元だわ。にも関わらず彼女には、それが失われている……)
カーミラの黙考には構わず、カリナは続けた。
「で、目的の方はコイツさ」保護者に促され、外套の内側にひょこりと顔を覗かせる女児。「名は〝レマリア〟と言う。コイツの寝床と食事が目的だ」
幼子は警戒に保護者の脚へと縋りつき、離れようとしない。
抱いた不安感を拭うべく、カリナは優しく頭を撫でてやった。
辛うじて安心した人見知りは、ようやく謙虚に頭を下げる。
「こ……こんばわ」
舌足らずな拙い挨拶。
カーミラは晒された黒外套の内へ、まじまじと見入っていた。
困惑を隠せないでいるのを見抜くと、カリナが優越めいて感想を促す。
「どうした? 人間の子供は初めてかよ?」
「あ……いいえ、そんな事はない……のだけれど……」下手な取り繕いに動揺を隠していた。「そう、宿と食事……ねえ?」
白魚のような指を線の細い顎に添えつつ、カーミラは思案を巡らせる。
と、ふと気付く違和感があって、まさかとばかりにカリナへと確認を向けた。
「え、待って? もしかして、そのためだけに?」
「ああ。そのためだけに、この城を頂きに来た」
「呆れた。そんな理由で、あれだけいる吸血鬼達に?」
「そんな理由の方が、私には大事なのさ」
赤の果汁を啜りつつ不遜な態度に酔う。
レマリアが大きな欠伸をした。小さな握り拳で瞼を擦っている。
「眠いか?」
「……ん」
カリナは女児を胸に抱き、ゆったりと背中をあやしてやった。
緊張感が安らいだせいか、小さな癒しが誘眠を覚え始めている。
興味津々に観察していたカーミラは、ややあって快諾を提示した。その口調は再び凛とした厳格さを帯びている。
「いいでしょう。貴女の──いえ、貴女達の客室を用意させます」
「食事もだ」
「無論です。そして、わたしの許可を得ない者も一切近付けさせません。ただし、わたしからも条件があります」
「条件?」
「ひとつ、城内に悪意ある騒乱を生じさせない事──先程みたいにね」
「誰彼構わずケンカを売るなって事か」
正当性を帯びた妥当な強要だ。カリナにしても承諾するしかない。
だが解せないのは、次なる条件だった。
「そして、ふたつめ。暫くは滞在してもらいたいの」
「滞在だと?」これには訝しんだ顔をせざる得ない。「意図が読めんな。先刻の一幕を見れば分かるだろうが、少なくとも私は招かれざる客のはずだ。それを何故だ?」
「言ったでしょう? わたし、日々の鬱憤が酷いのよ。本音を零せる話し相手の一人もいれば、多少は気持ちが晴れると思うわ。要するに──」
「──暇潰し……か?」
「そうね」
カーミラはクスッと微笑み返した。
しかし、続ける言葉に彼女の憂いが陰りを含む。
「それに他国や城外の話も聞きたいし……」
「オマエ、城から出た事が?」
「無いわ。篭の鳥だもの」
ようやくカーミラの真意が汲めた気がした。
自由気侭に旅路を行く自分とは対局にある空虚だ。
「やれやれ、雲上の立場ってのも大変なモンだな」
境遇への同情は湧かない。
立場が違い過ぎる。
さりとも、個人としての共感からは同情は覚えた。
彼女も自分と同じように〝虚無感〟を覚え、埋めようと足掻いている。
吸血鬼とは、永劫の時間を生きる〈不死者〉だ。それ故に〝己の存在意義〟を見失ってしまう事も多い。
有限の生に在ればこそ〝存在意義を懸けるべき目的〟というものは得られる。
だが、不死者の時間は無限だ。致命的な失敗をしようが、やり直しはいくらでも利く。
当然、達成感や充実感には疎くなる。それが〝存在意義の喪失〟に結実している事を、多くの吸血鬼は自覚していない。
そして、怠惰に溺れ堕ちていくのだ……〝永遠の生〟へと。
カリナは──そして、カーミラは──そうした〝虚無感〟が溜まらなく嫌だった。
否、怖いと言ってもいい。
いくら〝永遠の生〟であっても、心が満たされなければ〝永遠の死〟と変わらない。魂の牢獄だ。
だから、足掻く。
何でもいいから充足感に転化しようと、手探りに模索する。
しがみつく。
己の核たる〈心〉が死なないように……。
カリナにとって幸いなのは、傍に〝レマリア〟がいる事であった。
この子を護る誓いを自らに課す事で、自己存在意義の確立が出来ている。
しかし、カーミラには、それが無い。
哀れだった。
そして、その痛みは他人事ではない。
「分かったよ。暫くは厄介になってやるさ」
「本当に? ああ、嬉しいわ!」
カーミラの表情が心底喜びに晴れる。
「勘違いするな。別に気を許したワケじゃない」
「それは徐々にでいいわよ。けれど、わたし達、親密な友達になれそうな気がしなくて?」
「下らん戯言を」
「あら、素直な予感よ?」
「滞在猶予は確約できんぞ」
「構わなくてよ。一ヶ月でも二ヶ月でも……何なら一生居ても良くってよ?」
「調子に乗るな。気が向けば出て行く」
やや舞い上がり過ぎたのを自重し、カーミラは肩を竦めて可愛げに舌を出した。そうした仕草は、悪戯を咎められた子供のように無邪気だ。とても〝不死十字軍盟主〟とやらには思えない。
話が纏まった後、城主は一人の吸血鬼を呼び寄せた。背中が曲がった小柄な老婆だ。その表情は見るからに温厚で、田舎村の人好き婆さんといった風貌だった。
「カリナ、紹介するわ。この者は〝サリー・ポタートン〟──わたしが城内で最も信頼している吸血鬼よ。サリー、こちら〝カリナ・ノヴェール〟──大切な客人よ」
カーミラからの紹介を承けて、サリーが深々と首を垂れる。
対してカリナは、鋭い眼力で交流の障壁を設けていた。露骨な敵意だ。
過敏な警戒心に気付いたカーミラが、意固地な客人を安心させようと補足した。
「大丈夫、警戒しなくても平気よ。サリーは女子供の血は吸わないもの」
「本性の偽装を常套とする吸血鬼相手では、表層的な心象は信用に値すまいよ」
「いいえ、信用できるわ」
「何を以て?」
「サリーの事は、ずっと見てきたもの。それでも納得できなければ〝カーミラ・カルンスタイン〟の名に懸けて……ね」
正視に交えたカーミラの瞳は嘘を飾っていない。
一応の妥協に折れ、カリナは少しだけ険を解いた。
「今後、雑用があればサリーに言えばいいわ。彼女を世話役にしてあげる」
主君の意向を察したサリーが、改めて頭を下げる。
「どうぞ宜しゅうに、カリナ様」
「有り難迷惑だが、まあいいさ。それよりも、さっさと部屋へ案内しろ」
「畏まりました。では、こちらへ……」
先導するサリーに誘われ、黒外套の少女は部屋を後にした。
独りきりとなった静寂の中で、カーミラは考えていた。
カリナが固執する〈レマリア〉なる存在が、どうにも釈然としない。
「可哀想なカリナ。きっと〈レマリア〉に縛られているのね」
散らばる思念を纏めるべく、窓際へと歩み寄って遠景を眺める。
相変わらずの闇空に、相変わらずの黒月──巨大な単眼が何処を見据えているかは定かにないが、現在だけは己の胸中を見透かされているような気分になった。
「なんとか自由にしてあげないと」
人知れず決心を抱く。
「しばらくの滞在は、約束を漕ぎ着けたんですもの……後は、やり方次第。それには綿密に事を運ぶ必要がある──細心の注意を払わなければ、逆にカリナは果てぬ怒りに呑まれてしまうでしょうからね。焦ってはならないわ」
ふと今後の予定を思い起こし、指針定まらぬ思索を止める。
現状は憂鬱な定例会議へ向けて、心持ちを切り替えなければならない。
カリナに宛がわれた客室は、なかなかに整った内装であった。
積もる塵さえなければ……だが。
室内を静かに賑わしている数々の家具類は、一様に格調高い美意識に統一されていた。樫製の棚やタンスは、滲む年季のわりに現役の頑健さを維持している。細部に施された繊細な装飾もまた、充分に目を愉しませてくれた。室内に充満するのは、石壁特有の冷涼。部屋の角には蜘蛛が巣糸を飾っている。多少、鼻が不快に曇るのは、風通しの滞納が積年に埃臭を育んでいるせいだろう。統括して察するに、使われなくて久しい。
「急な事でしたので申し訳ございません。明日には塵ひとつなく掃除させて頂きますので……」
卓上の燭台に明かりを灯しつつ、サリー婆が詫びる。
「そうだな。ま、今日のところは仕方ないだろうさ」
浅い夢へとたゆとうレマリアを、そっとベッドに寝かし置いた。
愛苦しい寝顔を短く慈しむと、カリナは円卓へと寛ぐ。
「カリナ様、御食事は? 当城には洋の東西問わず、赤ワインが揃えてございますが?」
「いいや、要らん」
妖婆が言う〝赤ワイン〟とは、即ち〝生き血〟だ。
吸血鬼独特の隠語表現である。
そして〝貯蔵〟等の言い回しは『血液搾取用の人間を家畜同然に飼い囚えている』の意味だった。
一聞するだけには、残酷な鬼畜の所行としか思えないだろう。
しかし、それは人間の価値観だ。吸血鬼の価値観とは基より異なる。レマリアを連れ歩くカリナにしても、いちいち吸血習慣を咎める気など毛頭無い。
第一、食糧の問題は種族存続の根幹を担う重大事だ。無理解に有る一方的な価値観だけで否定する方が、明らかに歪んだ独善である。
況してや、現在は闇暦──怪物達が支配する世界なのだから、人間の倫理に依存する価値観など何の意味も為さない。
レマリアが標的にならなければ、それでいい──単に、それだけの話だ。
「今後も〝赤ワイン〟は要らん。通常の食事だけを用意しろ」
「はて? 我等に人間の食事は意味がありませぬぞ? 抜けぬ習慣が興じさせる、形ばかりの真似事にございます。それでは御身体に障りますぞ?」
「構わんさ。慣れているのでな」
淡白に述べて、柘榴を齧る。
その様子を見たサリーは「ははあ」と独り合点した。
「カリナ様は、御優しいのですなあ」
「何だ、いきなり気持ちの悪い」
老婆は、それ以上語らない。意味深な笑みを優しく含み、煤けた部屋を整え続けた。
緩い沈黙に間が保てなくなり、カリナは先程から不思議に思っていた疑問をサリー本人へとぶつけてみる。
「確かオマエは『女子供の血を吸わない』と、カーミラが紹介していたな。妙な制約だとは思ったが……何故だ?」
「実は、私が吸血鬼として転生したきっかけこそが根本でしてな。御耳汚しで宜しいか?」
「構わんさ」
カリナは相席を足蹴に差し出した。
何か訳有りの臭いを感じ、安い好奇心を働かせる。
「では、失礼して──」
曲がる腰を錘と煩いつつ、サリーは樫席へと座した。
卓上で揺れ踊る灯火が、妖婆の血腥い回顧を呼び起こす。
「あれは人間だった頃に遡りますが、私には一人娘がいましてな。母一人子一人ながらも、それ相応に幸せでしたとも……ええ、そりゃもう…………」
かつての幸せを咬み絞めるように、老婆は何度も肯いていた。
「けれど、そんな幸せをアイツが──あの男が奪い潰していきおった!」
語気含まれる根深い呪怨!
先程までとは一転し、老婆の表情は悪鬼に歪んだ!
「あの男は娘を誑かし! 連れ去り! 麻薬漬けにし! 娼婦へと貶め! 妊娠した腹を蹴飛ばし! 挙げ句、薄汚い野良猫のように捨ておった! 許すものか……許されるものか!」
それは、おぞましい程の鬼気であった!
が、カリナは呑まれる事も無い。
果汁啜りの平静な態度で聞き役へと徹す。
「最低な情事の果て……か。それで?」
「実家へと戻ってきた娘は、見た目に酷く窶れていましてな。それでも、私は心の底から再会を喜びましたとも。あの子の傷心を想うと胸が張り裂けんばかりでしたが、それでも深く追求せずに痛みを分かち合ったのです。これからは、また親子でやり直そう……と。ですが、翌日、娘は遺書を遺して逝きました。私が仕事へ出た隙に入水自殺したのです」
「おそらく自分が惨めで、同時に己の浅はかさが許せなかったのだろう。責めてやるなよ」
「誠に左様で。そして、悲嘆こそすれど爪先ほども責めてなどおりませんとも。責めるべきはアイツ! 恨むべきはアイツなのでございますから!」
鎮まった鬼が、また顔を覗かせた!
「だから、復讐した! 夜闇に紛れて拉致し、ベッドへと括り着け、供血管で血を抜き取ってやった! 生きながらにして少しずつ……少しずつ! 一滴残らず! 遅々と確実に〝死〟へと近付けてやりましたわい!」
無自覚に加熱した興奮を抑え、サリーは再び平常の語り口調へと戻る。
「時には温情の演技を見せ、一縷の望みも抱かせてやりました。その時のヤツの顔といったら……まだ自分が救かるなどと勘違いをしている間抜けぶりで。いえいえ、勿論、最初から許す気なぞ更々ございませんとも。すぐに罵倒に嘲り返し、蒼白に歪む泣き面を存分に眼へと焼き付けました。それを最期まで繰り返しました──朝を迎えるまで」
「なるほどな」
とりあえず、カリナの疑問は氷解した。
(コイツが自らに課している禁忌は〝深い母性〟と〝拭えぬ後悔〟が転化したものか。だが、それは言い換えれば、己自身への呪縛でもある)
回顧の怨念に浸る妖婆は、またも激情に自制が利かなくなったようだ。
「だが復讐しても、まだ足りぬ! 足りぬ! 足りぬ足りぬ足りぬ! 本当ならば地獄の底までも追いかけて、八つ裂きにしてやりたいところ!」
「やめておけよ」興醒めに聞き役が諭した。「それをしたところで、地獄では永遠に満たされん。罪人の魂は、獄刑執行のために何度でも再生するからな。それどころか、八つ裂き刑を無限に繰り返す羽目となるだろうさ」
「構いませんとも! むしろ望むところですじゃ! アイツを何度も殺せるならば!」
鬼女は聞く耳を持たない。
それほどまでに激情へと呑まれていた。
うんざりとした溜め息を吐き、カリナは平然と毒突く。
「やれやれ……オマエの娘とやらも哀れなモンだな。これで煉獄への拘束は延長決定だ」
「何と? いま何と申された! 如何にカーミラ様の客人とはいえ、我が娘を侮辱されるか! 許しませんぞ──許されんぞ!」
「侮辱しているのはキサマだ!」
怒り任せに一喝し、カリナは席を立ち上がった!
いまにも襲い掛からんばかりの鬼を、吸血姫の凄みが気迫に呑み返す!
「現世での報復は仕方あるまい。それだけの遺恨はあるのだからな。だが、己の母が永劫に〝羅刹〟と在り続けるのを、逝った娘が望んでいるとでも思うかよ!」
牙を剥いた鬼が逆上の憤怒に吠える!
「オマエに……オマエ如きに、何が判るか! あの子は──〝ペニー〟は、私の生き甲斐だった! 私の全てだったんだよ!」
「その娘の魂から、怨鎖の解放までも奪うかよ!」
「なっ?」
「自殺は決して許されぬ魂の罪。なればこそ、キサマの娘は煉獄に囚われているはずだ。いつ解放されるか分からぬまま、紅蓮の楔に縛られてな! それに追い打ちを加え、オマエの果てぬ殺意を呪縛の鎖錠と課すかよ! オマエが殺意に溺れれば溺れるほど、元凶たる娘には罪の重さが増すのだぞ!」
「おお……ぺ……ペニー!」
真に迫る気高き波動が、鬼を成す琴線を断裁した。
「わ……私は……私は!」
「挙げ句『望むところ』だと! このエゴイストが……キサマは〈母親〉という肩書きに酔っているだけだ! 愛情の有様を履き違えるな!」
「おお……おお……おおおおおお!」
復讐に生き続けてきた妖婆は、見開いた目に大粒の涙を流していた。
さりとて、これは負の涙では無い。
零れ流れる温かさは、永らくサリー自身が殺していたもの──自分自身であった。
「お……おおぉぉぉぉぉぉぉぉぉ………………」
年老いた母親は、ただひたすらに泣き崩れる。
ようやく救われた気がした──永遠に続くとも思えた呪刑から。
人の心に泣き濡れながらも、サリーはカリナへの感謝を吐露せずにはいられなかった。
「カリナ様は……カリナ様は、本当に御優しいのですな」
「フン、脳味噌でも逝ったかよ?」
「だって、ほれ」皺枯れた古枝のような指が、カリナの嗜好品を指す。「カリナ様の優しさは、その〝柘榴〟が証明してございます……証明してございますとも」
「……チッ、戯れ言を」ばつ悪く顔を背けたカリナは、身を投げるように座り直した。誰にも明かさぬ本意を見透かされ、拈れ者は弁明を盾とする。「ベジタリアンなのさ、私は……」
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鮮血の魔城 Chapter.4
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不気味な静けさが漂う濃霧の街路。
陰気な月明かりに照らされた居住区画で、その人影は幽鬼の如く浮かび現れた。
艶やかな黒髪が腰丈まで流れ、肌の褐色は生気溢れる濃さに染まっている。黒衣の長外套で身を包み、四肢や胸元には見るからに呪具性を帯びた装飾具。口元をヴェールで覆い隠し、それ故か眼力を宿した赤い瞳は一層印象深く覗いていた。
名を〝魔女ドロテア〟と言う。
「……臭うな、死が」
油断ならない狡猾な瞳が、周囲の光景を観察に滑る。
不鮮明な直感へ誘われるように、魔女は路地裏へと足を踏み入れた。
黒猫が威嚇に横切る。幸先がいい。
住民達からも敬遠されているであろう暗がりには、陰湿な不気味さが漂っている。魔物の涎の如く滴る湿気が、邪悪な同胞として彼女を歓待していた。
微かに感じる死臭と血臭。
深部へ進むにつれ、直感が確信へと変わっていく。
「……やはりな」
やがて見つけたお宝は、絶命に呪詛する死体。
その側にはジャックナイフが転げ落ちており、これが抗戦時の獲物だった事が判る。
「……フッ、貧弱な牙だ」
石道に染みる血痕の滑りから、さほど時間が経過してないようだ。
横たわる死体の損傷具合は、出血量の痕跡に反して外傷が一ヶ所しかない。
即ち、心臓だ。
そこを無駄なく一刺しにされている。
つまり──好都合な素材ではあった。
「肉体破損も少なく、本格的な腐敗も始まってはいない。これほど状態のいい死体は、そうそう有るまい」
赤い目が喜悦に歪む。
翻す長外套の内側から取り出すのは、毒々しい液が詰まった薬瓶。
死体蘇生の魔薬──即ち〝魔法薬〟である。
「最も一般的に知られるゾンビ作成方法は、ブードゥー教の秘薬〝ゾンビパウダー〟によるものだろう。だが、あれはブードゥー教の闇〝邪神官〟が用いる秘薬であり、製薬方法や調合成分等は極秘とされている。一時はテトロドトキシンによる仮死催眠効果が有力視され、それこそが真相とばかりに俗説へと流布した経緯もあったな。著名学者による学説だったからだ。しかし──」ドロテアは鼻で笑う。「──それを疑いもなく鵜呑みにできる俗物博識の、なんと浅はかな事か」
それは数有る諸説の中でも一仮説の域でしかない。
真偽実態は不明なままなのが実際の処だ。
「そもそもゾンビ製作は、ブードゥー教に於いても外法の類だ。従って、その詳細が不透明なのも当然。呪法に精通した我自身とて、真相解明には辿り着いていないのだからな」
故にドロテアが行使しようとしている蘇生術も、ゾンビパウダーに依存するものではなかった。
西洋黒魔術に準じた方法だ。
「ゾンビ蘇生の根元は、ブードゥー観念に於ける自然界の精霊──蛇精だ。それが肉体憑依する事で、自我も魂も内在しない従順な傀儡となる」
男の爪を一枚剥ぎ、魔薬へと漬ける。
更に、自らの髪の毛を一本混ぜ加えた。
「云わば、本質は蛇精そのものであり、術者はそれを使役しているに過ぎん。根元的観念は西洋魔術に於ける〝四大元素精霊〟や〝使い魔〟と変わらぬ」
薬瓶を睨みつけるように早口な呪文を浴びせ続け、その効用を熟させる。
やがて沸々と禍々しく泡立ち始めたそれを、彼女は死体の口へと流し込んだ。
「所詮、肉体は〝器〟だ。単に有るだけでいい」
一般には知られていないが、実はゾンビパウダー以外の蘇生外法もブードゥー秘術にはある。
それは〝悪魔との契約〟だ。
誓約や方法手順も西洋黒魔術のそれと何ら変わらない。
ともすれば、その方法こそは〈魔女〉たるドロテアに最も適していると言えるだろう。
「肝心なのは、方法ではない。結果だ」
赤蝋棒で自らを中心とした六芒星の円陣を描いた。
召還悪魔から我が身を守る結界だ。
死体を前に瞼を綴じ、儀式に要する呪印を結う。
「契約悪魔は、誰でも良いだろう。望む魔力さえ秘めていれば……な」
ドロテアは〈悪魔バフォメット〉とした。
誰しもが絵画等で一度は〝雄山羊頭の悪魔〟を見た事があるだろう。
それこそが〈悪魔バフォメット〉── 主に〈魔女達の宴〉を取り仕切る悪魔で、比較的ポピュラーな存在だ。
「ガ・ディタス・バフォメット……ガーノ・イベリム・バフォメット…………」
念を込めた呪文をひたすらに唱え続けると、眼前の肉塊がビクリと大きい波を一打ちする!
ここぞとばかりに、ドロテアの詠唱は語気を荒げた!
早く!
強く!
「ガディタス・バフォメット! ガーノベリム・バフォメット! レタルファクル・バフォメット! アレティト・バフォメット……」
激しくのた打ち踊る死体!
まるで、目に見えぬ拷問を受けているかのように!
責める!
のた打つ!
唱う!
波打つ!
自身と死体が、自然の理に反した格闘を繰り広げる!
その悪夢的光景は、さながらトランス状態に乱れ狂う原始宗教の宴だ!
「アレティト! プラエス! ガディタス!」
一際大きな気合と共に、ドロテアは仕上げの一手を積み上げた!
所作にして派手さはないが、込められた呪念は最も大きい!
一転して訪れる静寂──やがて、ゆっくりと死体が起き上がった。果てぬ眠りから目覚めたかの如く。
斯くして、男は蘇った。
否、その魂無き肉体のみが……。
悪漢達が集う掃き溜まりという場所は、何処にでも自然発生するようだ。シティ内であっても例外にない。
此処〝黒鴉亭〟も、そんな酒場だった。
シティ居住者達であっても近付く事を躊躇する、治安の悪い区画である。非道徳と悪徳が行き着いて築いた歓楽通りだ。
居住区を管理統治する幹部吸血鬼達から見落とされているのは、その情報網の末端を担う衛兵吸血鬼にも此処を好む荷担者が少なくないからであろう。小悪党同士の結託による隠蔽工作だ。
その黒鴉亭の奥まった円卓に彼等は陣取っていた。
品の無い喧噪で店内が賑わう中、彼等はポーカーに興じている。酒気と煙草が不快な空気と濁り漂っていた。
「キルヴァイスの奴、遅かねぇか? いつもなら、とっくに来てるはずだってのによぉ」
如何にも三下染みた出っ歯が切り出す。吟味する手札は悪い。
「コール──何が言いてぇ? 奴さんが返り討ちにでも遭ったってか?」
粗暴な印象の髭面が一瞥し、ヘビースモーカーの紫煙にカードを捨てた。
酒をあおる眼帯男が思わず吹き出す。
「プゥ……無ぇ無ぇ! アイツがテメェより強ぇ奴を相手にした事があるか? 俺に言わせりゃ、アイツがズバ抜けてるのは殺人技巧じゃねぇ。その御都合主義な嗅覚の方だぜ?」
「そういう事だ──と、フルハ~ウス!」
「なに? カァ~……カードの巡りが悪ィ!」
掛け金代わりの回収される食糧。
これも結局は〝狩り〟で強奪した戦利品だ。
「けどよ、こうした時のオイラの直感は、だいたい的中するんだぜ? だからこそ、窃盗技能しか能がないオイラが暴力的な暗黒街を生き長らえる事が出来たんだ」
出っ歯は、何となしに店内を見渡す。
茶番的なポーカーになど興味が湧かなかった。
生来臆病な気質のせいか、どうにも安心できない。
すると、そこに知った顔を見付けた。
「あ、キルヴァイス!」
髭面と眼帯が視線を追う。
確かにキルヴァイスが、そこにいた。
「たったいま来店したようだな。入り口付近の人混みに呑まれてやがる」
「へっ……だから言わんこっちゃねぇ」
すぐに関心を捨て、ポーカーへと再没頭した。
だが、出っ歯だけは手札を投げ捨て、久しぶりの再会へと駆け出す。
自身の安心を確定したい衝動であった。
結果を逸る気持ちには、無遠慮な雑踏が障害となって鬱陶しい。人影に隠れては現れる姿を見失わないように集中し、もみくちゃにされながらも泳ぎ進む。
「ぐっ……あと少し…………」
ようやく開けた空間へと辿り着くと、大きく息を喘いだ──と同時に、突然響く断末魔の悲鳴!
水を打ったように店内が静まり返る。
誰しもが異状を感じた方向へと振り返っていた。
「な……何だァ?」
出っ歯にとって不幸だったのは、惨劇の最も近くで一息ついていたという事か。
彼の眼前に、何かがゴロンと転がった。
「ひ……ひぃぃぃ?」
あまりに陰惨な形相に思わず顔を背ける!
それは女の生首!
店内で客引きをしていた娼婦の首だ!
それでも、なけなしの勇気を奮い、薄目に状況把握を試みる。
彼が追い求める目的の男は、すぐ側に立っていた。
しかし、どこか変だ。
その要因を観察に探る。
自失呆然としたように立ち尽くす姿からは、従来の活動感──狂気めいた生気と言い換えてもいいだろう──が感じられなかった。
その目付きは虚ろで、何処を見ているか焦点も定かにない。
そして、その手にしているのは、彼愛用の獲物ではなかった。
衛兵吸血鬼達が携えている簡易魔剣だ。
斜に下ろされた刃からは鮮度ある赤が滴っている。
それで、ようやく事態が呑み込めた!
この惨劇を起こしたのは、キルヴァイスだ!
理由は解らないが、彼は娼婦を殺したのである!
それも店内で堂々と!
「キ……キルヴァイス?」
驚愕に乾いた声を漏らすと、淀んだ眼差しと目が合う。
それが最期の視覚情報だった。
次の瞬間には、彼自身の頭が飛んでいたのだから!
「キルヴァイス! テメェ?」
「トチ狂いやがったのか!」
奥の卓で状況を窺っていた髭面と眼帯が、怒号に席を立ち上がる!
だが、彼等にしても未だに信じられなかった。
確かにキルヴァイスは、常軌を逸脱した危ない奴ではあった。
けれども、さすがに誰彼構わずではない。
殺るべき相手と殺るべき場所は弁えている。
同胞とも呼べる黒鴉亭の人間に手を掛けるほど馬鹿でもない。
況してや、連む仲間までは!
他の破落戸達も、ようやく狂人への殺気を露にした!
これから始まろうとしているのは、彼等なりのルールに乗っ取った粛正!
逸った誰かの銃が、キルヴァイスの両足を撃ち抜く!
「バ……馬鹿野郎!」
眼帯が罵倒を吼えた!
臨戦覚悟ながらも、まだ〝仲間〟として案じていたらしい。
が、それも無駄だった事を髭面が諭す。
「どうやら心配いらねぇようだぜ……アレを見な」
キルヴァイスは傷を物ともせずに歩いていた。
更に一発……二発と打ち込まれる銃弾は、もはや部位を選んでいないというのに!
衝撃に反りながらもユラリユラリと前進を刻む。
その動きは歪でぎこちないが、確かに見覚えがあった。
「まさか! あの野郎、デッドに?」
「さぁな。何にしても、アレはもう〝キルヴァイス〟じゃねえって事さ」
冷酷に割り切りつつ、髭面はコルトパイソンに足りない数の弾丸を込めた。人外を相手にする以上、最大限の武装で望まなければ死が待っている。
眼帯も腹を決めたようだ。投擲用の毒ナイフをズラリと五指の間に抜き揃える。
不気味に唸る死人返りが、近場から次々と斬り捨て始めた!
動作そのものは緩慢ながらも、躊躇無き凶刃から逃れられる者はいない!
血飛沫!
肉片!
断末魔!
それは〈悪魔〉が強いた狂宴!
「アディオス! クソ野郎!」
眉間へと狙いを定めたコルトパイソンが、遠巻きに火を噴いた!
黒鴉亭が鎮静化するまで、二〇分足らず──。
宙に浮遊した魔女は、眼下の静寂を眺める。
命の鼓動が完全に絶えた酒場を……。
「……御し易い」
思った以上に傀儡は操り易かった。
その成果は〝新たな素体〟の大量入手が立証している。
後は魔術を行使する時間だけが欲しい。
数多くの屍兵を増産する時間だけが……。
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鮮血の魔城 Chapter.5
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「どうした? 何を泣いておる? ん?」
泣きじゃくる少年を、ジル・ド・レは優しく宥めた。
「ジル・ド・レ様……ボク……ボク……」
「どうした? 男子たるもの、そうそう泣くものではないぞ?」
「何も……何も悪い事してないんです」
「そうであろう。そうであろうとも」
慈しむ表情で彼は何度も肯いた。
まずは、この子の気持ちを解してやらねばならない──そう思うからだ。
「なのに……なのに、ボク……この人達に浚われて、痛い事や酷い事をいっぱいされて……」
「うむ、そうか。そうであったか」
少年が指すのは、ジル・ド・レの脇に並び立たされた巨漢達。
岩のような筋肉を晒し、頭部は麻布のマスクで覆っていた。猟奇的で奇異なる出で立ちだ。その手に握られているのは、鞭や爪剥ぎペンチ等の禍々しい拷問器具。滑り滴る赤は、まだ鮮度が新しい。
拷問処刑人である。
自城〝ティフォージュ城〟の地下室で人知れず展開していた惨劇を嗅ぎ付け、ジル・ド・レは現場を押さえた!
湿る石壁へと鎖枷で括り着けられた少年。半裸に剥かれた華奢な身体には幾多の傷痕が赤黒く滲み、その表情は恐怖と苦痛でクシャクシャに泣き崩れていた。
涼気籠もる地下室内はただでさえ黴臭いというのに、噎せるような血の臭いが混じって吐気を誘う。
「これは何事だ! 何という事をしておるか!」
憤怒任せの一喝に、ジル・ド・レは暴漢達を殴り飛ばした!
哀れな少年へと向き直ると、非人道的な戒めから即座に解放してやる!
絶望の中で現れた頼もしい味方──涙溢れる少年の目には、厳格なる城主が〝神の遣わした正義の使者〟と映ったに違いない。
優しく抱擁する安心感に、少年は泣きじゃくる。
堰を切ったように涙が止まらなかった。
「ジル・ド・レ様……ボク……ううっ……ボク……」
どれだけ長く泣き叫んでいたかは、掠れた声で判ろうというもの。
「もうよい。もうよいのだ」
声を詰まらせる訴えに、ジル・ド・レは慈愛を注ぐ。
「そう……もう、よいのだ」
突如一変して、声音が冷酷な低さへと染まった!
得体の知れない恐怖が、少年の背筋に走る!
自分を宥めていた聖者の抱擁は、悪魔の捕縛へと擦り替わっていた!
柔らかく包み込むように抱きしめていた腕が、親の敵とばかりに渾身の力が込め始める!
「ぃ……がぁあぁああ?」
恐ろしさと苦痛に反り悶えながら、少年は身を剥がそうと足掻いた!
このままでは背骨が折られる!
「もうよいのだ! 童、充分に満喫したぞ!」
「ぃ……ぎぃぃぃぃいいい?」
死の恐怖にもがく少年の表情を、殺意は悦に味わった!
密着に暴れる体温が、性的興奮にも似た高ぶりを彼に与える!
事の総ては、ジル・ド・レの自作自演!
屈強な拷問人も、呪われし地下室も、罪無き少年を拉致監禁したのも、ジル・ド・レ自身が画策したものだ!
「ジ……ジル……レ……さ……」
果てる瞬間が近い──そう察したジル・ド・レは、我慢しきれず喉笛へと噛みついた!
卑しく口周りを汚す赤。
それを生命の美味と啜り尽くす!
咥内に流れ込む鉄臭は一滴たりとも逃すまい!
荒く乱れた少年の息が、徐々に弱々しくなるのを耳元で感じた。
だから、彼は吸血欲求を自制する。
完全に息絶えられては締め括りを味わえない。
石畳へと投げ捨てられた少年は、虚空を仰ぎながら漏らした。
「ジル……さ……ま……な……んで……」
「許せよ、少年。これがワシの性なのだ──悪魔に魅入られた愚か者の忌むべき末路なのだ」
再び慈愛に満ちた両手で、生命の灯を消さんとする少年の頬を優しく撫でる。
そして、瞬間的に変貌した悪鬼の形相は、そのまま脆い首を捻り折った。
「──ハッ!」
血腥い悪夢に、ジル・ド・レは跳ね起きる!
我へと返って見渡せば、そこはロンドン塔内に構えた自室である。忌まわしきティフォージュ城ではない。
あまりの生々しさに、棺で半身起こしとなっていた。
まだ鎮静化しない高鳴りが脂汗と滴る。
それを拭いつつ、彼は独り呟いた。
「夢……か」
否、それは〝夢〟ではなく〝記憶〟だ──そう自覚し直す。
闇暦に於いて、吸血鬼は〝眠り〟を必要としない。
常時〝闇の世界〟だからだ。
しかし、彼は久しく棺床へと潜った。
日々募る責務の疲労感からだ。回復促進目的の休眠ならば、闇暦でも珍しくはない。
そうした流れの中で、彼は忘れ掛けていた呪縛に責められたのだ。
原因は分かっている。
プレラーティが仄めかした進言だ。
「貴奴め、余計な誑かしを投じおって……」
不平を口にして、渋々ながらに棺から這い出た。
回復促進どころか、拭えぬ倦怠感が身を包んでいる。
だが、もはや眠り直す気も失せていた。あまりにも寝覚めが悪い。
卓上の瓶を荒れて取ると、赤の美酒をグラスへと注いで飲み干した。
「現在にして思えば、何故ワシは斯様な悪業に堕落したのか」
悪魔からの呪縛──吸血鬼としての性────それは間違いないだろう。
だが、それだけでは釈然としなかった。
──ならば何故、子供に固執したのか?
吸血行為や虐殺癖だけならば、別に成人相手でも良かったはずだ。
にも関わらず、自分は子供へと固執した。
その異常な執着理由は、意外に根深いようにも感じる。
彼自身の内なる深淵へと眠っているようにも……。
「或いは、それを知るのも悪くない……か」
寂しく乾いた自嘲を浮かべる。
それを模索に探る時間は、まだまだ無限に有る。呪われし第二の人生は、終わりが無いのだから。
不意に背後へ気配を感じた。
厳格さに引き締まった表情が、振り向きもせず言い当てる。
「……プレラーティか」
「左様で」
人の形を成す影。
どうにもタイミング良く現れる──主は疎ましささえ感じ始めていた。
「何用だ」
「今宵は手土産がございます。ジル・ド・レ様に於かれましては、御満足頂けるかと……」
意味深を含んだプレラーティは、主の眼前へと麻袋を投げ置いた。些か大きめの袋だ。
「手土産だと?」
訝しげに手を伸ばそうとした瞬間、麻袋はモゾモゾと動きを見せた!
「これは!」
戦慄にも似た衝撃に、ジル・ド・レは固まる!
生命感を宿す滑らかな動き!
そして、くぐもり聞こえるもがき声!
抱いた懸念が確信へと変わった!
「こ……子供? 貴様、まさか子供を?」
「ジル・ド・レ様には、満足頂ける品かと……」
「何という事を……よりにもよって何という事をしてくれたのだ!」
主の激昂を真正面から受けながらも、暗い瞳は淡々と続ける。
「あくまでも手土産──コレを如何様に扱おうと、それはジル・ド・レ様の自由でございます」
抑揚無き示唆を残し、影は消えた。
堪え難い誘惑を置いて……。
静寂に取り残されたジル・ド・レは、上擦った声に戸惑いを漏らした。
「こ……子供……この中に?」
震える手が麻袋へと伸びる。
理性と欲求が混沌と化して攪拌し、自分でも訳が分からなくなっていた。
「こ……子供が……」
過去に命を奪った八〇〇人の子供達が、無垢な笑顔で彼の名を呼び続ける。それは透過写真のように重なり合い、脳裏で激しい渦を描いた。
「……子供……」
喉が渇く。
自制心が掠れそうだ。
そして、彼は意を決したように麻袋を剥いでいた。
その中に有るのは、やはり彼が欲していた物であった。
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鮮血の魔城 Chapter.6
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招かれざる客人〝カリナ・ノヴェール〟が滞在して、二日後──。
「いまこそ、討って出るべきなのである!」
そう息巻くジル・ド・レ卿の自己陶酔的な熱弁には、会議参加者の誰もが辟易としていた。
薄暗い燭台の灯りが、長く奥まった角卓を暗く照らす。
各人の前にはジル・ド・レ卿が得意気に自賛する〝フランス産の赤ワイン〟が用意されていた。香り立つような芳醇な生命力に、参加幹部達は舌鼓を打つ。確かに美味ではある。
上座中央に座すカーミラもまた、貞淑な所作で淡く赤を含んだ。
しかしながら彼女の関心は、会議参加の顔触れに向けられていた。観察眼が値踏みに滑る。
(ふ~ん、如何にも解り易い布陣だこと)
左側の座列には、自称〝側近〟のジル・ド・レ卿。
彼の隣に、油断ならぬ野心家エリザベート・バートリーが席へと着いている。
その横に座るアーノルド・パウルは、中世の傭兵。己の家族や旧知の村人を、次々と餌食にした事で〈吸血鬼〉の実在を世にしらしめした人物だ。
対して、カーミラの右手には〝ブラッディ・メアリー〟の異名でも知られるメアリー一世。
深き幻夢に誘われるまま覚醒した異常殺人者ジョン・ジョージ・ヘイ。遺体を酸の浴槽で溶かした事から〝酸の吸血鬼〟の異名を持つ。
そして、吸血欲求を自制しきれずに連続猟奇殺人鬼として堕落したペーター・キュルテンと続く。
(つまりメアリー側に座るのは、わたしに対して好意的な保守派──もしくは中立派。ジル・ド・レ卿の側に陣取るのが、内心不満を抱く強権派ね。意図して座り分けたわけではないでしょうけれど……『類は友を──』かしら)
ちなみにカーミラとメアリーの間には、吸血王ドラキュラの席が設けられていた。ひっそりと卓上に置かれたネームプレートが、空しくも寂しい……。
「かのオルレアンの少女〝ジャンヌ・ダルク〟は──我が生前の主君は、自らが旗頭となって勇猛果敢に百年戦争を戦い抜いた! 御解りか? たった一人の少女──それも戦争には縁遠い農家の娘が、瀕死の状態にあった竜の唸りを甦らせたという史実を! 結果、士気を高揚させたフランス軍は、劣勢からの起死回生を果たしたのである! これを〈奇跡〉と言わずして、何と言うのか! 卑劣なる怨敵イギリス軍を相手取り──」
「ジル・ド・レ卿、此処はイギリスですわよ?」
カーミラの柔和な苦笑いが、独り調子に加熱するジル・ド・レ卿へと釘刺す。
「む……むう?」
確かに、これは彼の落ち度であった。
我に返って見渡せば、些か冷ややかな視線が集中している。
とりわけイングランド女王の地位に在ったメアリー一世の鋭い蔑視は、心臓を抉り出されるかのように痛い。
「いや、これはどうも……年甲斐もなく過去の武勇に浸り過ぎたようですな」
冷や汗ながらに着席する。
この場に居る人材を敵に回す事が如何に愚行かは、重々分かっているつもりだ。
そんな暴挙を愉しめる強者は、恐らくカーミラ・カルンスタインかドラキュラ伯爵──或いは、先日のカリナ・ノヴェールとかいう不埒な狼藉者ぐらいだろう。
「とにかくですな。我々〈不死十字軍〉の早急なる課題は『如何にして、闇暦世界の覇権を握るか』に尽きるのでありまして──」先の失態から慎重に言葉を紡ぐ。「──そもそも我等〈不死十字軍〉は、激化する闇暦の戦乱を生き抜くために結成された連盟勢力であります。御存知の通り、そのために世界中の吸血鬼達を統合組織化してきた次第ですな。故に皆様のような大物が名を連ねておられる。カーミラ様やドラキュラ伯爵がそうであり、エリザベート夫人やメアリー女王も然り──不肖、この私も。我等〝古参的実力者〟が立ち上げに奔走していなければ、現組織体制の雛形すらも無かった事でありましょう。しかしながら、これだけの面々が揃いながらも、未だ燻っているだけというのが現状。実に虚しい話ではありませんかな」
ジルが挙げた面々は自らを〝吸血貴族〟と名乗り、吸血鬼社会構図のヒエラルキー上層位へと君臨している特異存在だ。ともすれば、優遇的立場の確立は当然かもしれない。
だがしかし、少なくともジョン・ヘイにとっては、面白くない発言であった。
「ジル・ド・レ卿、僕達だって不死十字軍幹部たる〝上位吸血鬼〟ですがね。そりゃ確かに、元々は〝血液嗜好症の猟奇殺人鬼〟ではある。マスメディアから揶揄的に〈吸血鬼〉と称された〝非人道的覚醒者〟に過ぎない。けれど皮肉にも、死後は本当の〈吸血鬼〉へと転生した身。その点では、アナタ方〝吸血貴族〟と何ら変わるものではない。まあ、潜在魔力では劣りますがね。だからこそ、組織拡大には貢献してきたつもりだ」
これにはペーター・キュルテンも深く同調を示す。
「そもそも我々は、中世的な階級制度が廃れた民主主義社会の中で転生した吸血鬼。貴方達が固執する懐古主義や爵位は意味すら為さない。そして、現在では我々のような近代吸血鬼の方が多いのも紛れなき事実──そこは認識して欲しいものだな。そうした新世代とのジェネレーションギャップの溝を埋めて、組織参入の橋渡しをしてきたのは我々なのだ……と」
なかなか攻撃的な正論であった。
生意気な若造達を腹立たしく思いながらも、ジル卿は温厚寛大さを装う。
結束障害となる対立意識の軟化を促すためだ。
「どうも私の言葉足らずが癪に障ったようですな。無論仰る通りでして、故に短期間で組織拡大の形を成す事が出来たわけであります。これは闇暦勢力の中でも、実に希有な例でしょうな。この点、感謝の念は尽きませんて」
(……くさい芝居だこと)
カーミラが内心白ける。
ジル・ド・レ卿に対してだけではない。
この場にいる誰しも──信頼するメアリーを除いて──が、互いに安い化かし合いを展開していた。
(それにしても、世代による確執は相変わらずね。足並みすらバラバラじゃない)
このような幹部間による暗黙の対立関係は、組織胎動時から払拭されていない。
やや急増的とも言える強引な組織拡大が、仇となった形である。
新旧世代の価値観の相違が生んだ確執だ。
とりわけ方〝吸血貴族〟が依存する支配階級意識は、近代吸血鬼にとって鼻持ちならない悪習でしかない。
(まるで烏合の衆ね。だからこそ、最適な旗頭として祭り上げられたんでしょうけど──わたし自身の意向とは関係なく)
怪物史上に燦然と輝く〝吸血姫伝説〟の威光と羨望は、時に下層からの嫉妬へと転じた。
そうして向けられる不平不満には、彼女自身に謂われの無いものも多い。
要するに、組織体制自体に対する不満だ。
彼女への攻撃的不満は、それが理不尽に転嫁されたものでしかなかった。
(つまりは組織内のガス抜き対象ってわけよね。それこそが〝吸血貴族〟達の目論見だったのでしょうけれど)
とは言え、多くの誹謗は表層化すらしない。概ねが陰口と捻伏せられて終わる。
少女盟主の実力が圧倒的過ぎるためだ。
こうして組織幹部内での対立は、本格的な抗争発起を未然に防がれていた。
彼女を人身御供として、意気を削がれていくからだ。
分かり易い生贄羊である。ひたすら損な役回りでしかない。
「聞けば、最近エジプトには新君主が誕生し、圧倒的な支配力で統制の取れた軍勢を編成したとか」
エリザベート・バートリーの発言であった。
興味深い新情報に、理知派のジョンが補足を挟む。
「古代エジプトは徹底した王権制度が敷かれていた国柄ですからね。それを復権させれば可能な事でしょう。況してや、殆どの兵士は従順な忠誠心を宿す〈ミイラ〉で構成されています。さほど手間暇は掛からないでしょうよ」
「では、北米の動向は知っているか?」
揚々と身を乗り出すアーノルドに、ジル・ド・レが疑問を返す。
「北米? あそこは到底〝軍勢〟とは呼べぬ土着の〈獣精〉やら何やらが勝手気侭に生息し、移民文化に根を敷く〈近代型怪物〉と睨み合っていたはずだが?」
「それが、どうやら事情が変わったらしい。なんでも、こちらも新たに〈獣精〉達の指導者が現れて軍勢を旗揚げし、外敵との交戦体制にも意欲的だそうだ」
「そうは言っても、当面、北米勢は内輪揉め的な睨み合いに膠着化する事でしょう。そして、エジプトはギリシアと……。暫くは他国の侵攻を案ずる事もありますまい」
エリザベートの情勢分析は、ジル・ド・レやアーノルドの軍人的観点からは矮小評価にも映った。戦線を知らぬ浮き世離れが滲み出ている。
それでも闇暦乱世に於ける防衛危惧感は、これまでの会話から充分に強調された。
こうした好転的な流れに、強権派筆頭のジル・ド・レが乗らぬわけがない。
「このように、現在は何処の国でも覇権を見据えた軍事体制を整えつつあります。その現実に目を向けぬは、侵略の危険性を対岸の火事としか捉えられぬうつけのみ」
露骨な含みに主君を一瞥してみせるも、カーミラは相変わらず政策には無関心であった。涼しい顔で赤ワインを嗜み、煩い事を聞き流している。
諦めの悪いジルが、畳み込みの熱弁を奮う。
「皆々様、いまこそ我等〈不死十字軍〉が闇暦の覇者となる時だと思われぬか? 我等〈吸血鬼〉以外に、この世界を統べるに足る高等種族が在りましょうか? 否! 我等〈不死者〉以外に、全国的な勢力分布を持つ種が在りましょうか? 否! 否! 否! 我等〈不死十字軍〉こそが世の統治者にふさわしいという真実を、いまこそ神の誤った認識に刻み直す時! 奇しくも現状に於いて、我等〈不死十字軍〉は強大且つ統制の取れた勢力となった。実に好機ではないか、諸君?」
「それは、つまり〈闇暦大戦〉への参戦表明と?」
懸念するペーターの声を、エリザベートが強引に掻き消した。
「確かに現状に於いて最も爆発力を発揮できる軍勢は、我等でありましょう。逆に言えば、このまま沈黙を続けていると、乱立する新勢力の波に呑まれて寝首を掻かれる羽目にもなるやもしれません」
「では、バートリー夫人は参戦支持と?」
「急いてくれるな、ジョン・ヘイ殿よ。我等が色めき立ったとしても、肝心のカーミラ嬢にその気が無ければ進展はありますまい?」
頬杖に赤の美味を燻らせながら、吸血夫人は盟主へと視線を注ぐ。
不穏な空気の滞留を後ろ盾として、決断を強いているのは明らかだ。
ジル・ド・レやアーノルドも、それに倣う。
狡猾な自作自演に触発された形だろう。
(あらら、無言の圧力というワケね)
一身に強権派の視線を受けながらも、カーミラは飾った余裕を崩さない。
とはいえ、エリザベートが口火を切った小賢しい芝居だけは少々厄介に思えた。論議の流れを決定付ける可能性もある。
「我々が自身の安寧を求むならば、いまの内に出るべきかもしれませんな」と、ペーター・キュルテン。
案の定、押しの弱い保守派は呑まれ始めている。
「うむ、後手へと回るは得策とは思えんな。討って出るなら、いまか!」
実戦経験からアーノルドが同調する。
その真意は、あからさまな駄目押しでしかないが……。
「少々宜しいでしょうか?」ようやく重い口を開いたのは、いままで沈黙の中に洞察していたメアリー一世であった。「皆様は参戦の流れ有りきで話を運んでいられますが……真に国家の安寧を願うのであれば、重要なのは内政だと私は考えます」
「デッド対策として強固な防壁を据え、我が軍の衛兵を見回り警護に当てておりましょう。それだけでも下等な人間風情への配慮としては充分だと思いませぬか?」
「それだけでは足りぬと申し上げている」論を否定するエリザベートに、メアリーは真っ向から食い下がった。「現在、僅かながら居住区画が人口減少の兆候にあるのを御存知か?」
「減少傾向ですと?」
寝耳に水とばかりに怪訝を浮かべるジル卿。
メアリーは凛とした正視に頷き返す。
「我々からの配給だけでは食料や物資は足りず、更には不心得者が強盗や殺人に走り出しているようです」
「愚かな……それでは自己種族の首を絞めているだけではないか。わざわざ保護してやっている意味が無い」
嘆かわしい報告に、ジルはこめかみを押さえた。
「ですが、こうした劣悪環境の温床を見過ごした我等の責も大きいでしょう。現政策に於ける居住区画の状況は、とても満足な環境とは言い難いのです」
「ならば貴女は、人間共の独立でも御望み……と?」
エリザベートの疎んだ視線が問い詰める。
「そうは申しておりません。しかし、まずは人間達が安定した生活を営める社会構図が必要でありましょう」論説慣れした雄弁さは聞く者の関心を惹いた。「内政を疎かにして、何が〝統治者〟ですか? 地盤を固めずして、何が〝国〟ですか? 我々の下には民が──民の生活が在る事を忘れてはなりません。今日まで我等が在るのは、そうした者達の尊き血税の────」
「ホホホ……これは誠に傑作」
気高い演説の静聴を、侮蔑的な高笑いが不意に破る。
「何が可笑しいか! マダム・バートリー!」
「いやなに、天下に名高い〝ブラッディ・メアリー〟が、とんだ臆病風に吹かれたものだ……と」
「臆病風?」
安い挑発に表情の陰りを露呈する。
メアリーの気高き人格は、品行方正な王室生活によって育まれた。そんな生真面目過ぎる性格は、腹黒い泥仕合には向いていない──冷静な観察に、カーミラは思った。
「そうでありましょう? 貴女は正論めいた虚言で理屈付け、躍進の流れに歯止めを掛けようというだけ。ああ、それとも人心掌握の苦策でしたか? 死と再生を体験した魔性の身に於いては、もはやカトリック復権の悪政も意味を為さぬが故に」
「無礼な!」
一触即発の緊張感が会議室内の空気を震わせた!
非戦闘的なペーターやジョンが固唾を呑んで見守る中、メアリーとエリザベートの睨み合いが続く!
「御双方、そこまでに致しません事?」
両者の牽制に割って入ったのは、場違いにも思える柔和な語り掛けであった。
カーミラ・カルンスタインである。
穏やかな微笑みで険悪な雰囲気を制止するも、静かに発散されているオーラは両者を威嚇に呑むほど闇深い。
この〈魔〉としての格の違いには、さすがの吸血貴族達もおとなしく引き下がるしかなかった。
もっともメアリーはエリザベートを睨みつけ、それをエリザベートが嘲けた含み笑いに返す……という水面下の対立は続けられたが。
「とにかくですな」ひとまず落ち着いた空気を好転させるべく、ジル・ド・レが間髪入れずに弁論を再開した。「まずは、このロンドン近辺の安寧だけでも確立するが優先かと。それにはカーミラ様を旗頭として我が軍の士気を揚げ、こちらから危険勢力へと討って出るのが得策──」
「イヤです」
カーミラが何処吹く風の笑顔で邪魔を挟む。
「なっ? ええい、またそのような我儘を! 御自身の立場を何と心得ていらっしゃる!」
「名前貸し?」
「グヌヌ……ッ!」堪える怒気に紅潮しながらも、諦めの悪いジル・ド・レは食い下がった。「闇暦の情勢を理解しておいでか! 斯様な事では他国の軍勢に遅れを取り、手遅れになりますぞ!」
「でも、しませんから」
赤で喉を潤しながら、しれっと返す。
「では、居住区画の政策見直しを?」
メアリーが期待に顔を向けた。
が、これにもカーミラは態度を濁す。
「メアリー一世、このロンドンは他国よりも人間に温情的よ? 些か過保護過ぎるとも思うぐらいにね」
カーミラ自身は、自国の現状に満足している。
吸血鬼と人間の円滑な共存──永らく想い描いてきた理想像だ。
どちらの派閥であっても、徒に掻き乱されたくはない。
「他国の内政実態を御覧なさいな? これほど強固な防壁で、徹底的に隔離保護をしている国があって? 人間達に民主的自由を認めている内政は?」
「で……ですが」
懐柔的な理屈で、カーミラが事を済ませようとした矢先──「私はイングランド女王に一票投じてやるぞ」──突然介入してきたのは、その場に参列していない者の声!
誰もが面食らい、薄暗い室内を見渡した。
されど相手の姿は疎か、気配すら特定できない。
参加者全員が高位吸血鬼であるにも関わらず……だ。
唯一、カーミラだけが正体を看破した。
「カリナ?」
呼び掛けに応じて、実体を現す乱入者。
部屋の一角──照明の灯りさえも吸い込む暗がりから、黒革のニーブーツが足音を響かせて歩み出る。
推測通り、カリナ・ノヴェールであった。
黒の美姫は冷めた目でメアリーを見遣り、憎まれ口に肯定する。
「もっとも所栓は、飼い主視点の奢りではあるがな。それでも他の無能共よりは、幾分かマシだ」
「キサマ、また性懲りもなく非礼を!」
雪辱の再戦も良しとばかりに、ジル・ド・レ卿がいきり立つ。
少女盟主は静かに左手で遮り、それを諫めた。
「やはり貴女だったのね、カリナ・ノヴェール。けれど、感心できないわ。いまは大事な会議中なのですからね」
「退屈な眠気と戦っていながら、よく言えたもんだよ」
軽い嘲笑で毒突く。
彼女はカーミラの横に適当な空席を見つけると、浅い足蹴に椅子を開いて投げ座った。
伝説的吸血王の名が書かれたプレートが、ゴミとばかりに放り捨てられる。
両脚を卓上へと放り組むと、カリナは柘榴を嗜好しながら切り出した。
「さて……キサマ等の中で、直接城下へ入った事のある者は?」
唐突な質問を受け、困惑顔を見合わせる幹部達。
挙手返答をする者などいない。
そもそも質問の意図が汲めなかった。
「そんな事だろうと思ったよ」
予想通りの票数には、呆れた失笑しか出ない。
「どいつもこいつも現実知らずな阿呆面を晒してやがる。だから〝張り子の虎〟なのさ。このロンドンはな」
「それって、どういう意味かしら?」
「さあな。少しは自分で考えろよ、領主殿。脳味噌が腐敗するぞ」
発言権すら無い部外者でありながらも、まるで物怖じせぬ不敵さ。
そんな異端分子を、呪怨を込めた邪視が睨み据える。
エリザベート・バートリーだ。
(チィ、邪魔者めが!)
カリナの一瞥が、悪蛇のように陰険な目と合った。
吸血夫人は、即座に優麗の仮面で本性を取り繕う。
「ま、どうでもいいがな」
投げやりに吐き捨てるカリナが、向けられた敵意に気付いていたかは定かにない。
「満を持して〈闇暦大戦〉への参戦もいいだろうさ。だが、果たしてキサマ等が思い描くように順風満帆でいくか……見物だな」
「何だと?」
「キサマ等が根拠なく心酔しているほど、この急造勢力は盤石じゃないって事さ。髭面」
侮辱を含んだ警告を言い残して、カリナは飽きたかのように席を捨てた。
そのまま退室の流れに乗る。
と、扉の前で立ち止まり、改めて一同を眺め回した。
「真理は喝采ではつくれない。是非は投評では決められない……ってな」
不協和音の申し子は、攪乱するだけ攪乱して去って行った。
静寂に取り残された幹部達が一斉にざわめき涌く。
誰一人として彼女の真意を理解できなかった。
例え、カーミラ・カルンスタインであっても。
唯一、エリザベート・バートリーだけが〝挑戦状〟だと捉えていた。
彼女が内包する野心に対する牽制と宣戦布告の意だと。
然もなくば、退室時の一瞥で目が合うはずはないのだ。
あの小馬鹿にしたような挑発的蔑視と……。
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鮮血の魔城 Chapter.7
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「ええい、忌々しい!」
生来の癇癪に支配されるまま、エリザベートは喚き散らす。
進展見せぬ定例会議が終わり、宛がわれた客部屋の浴室で私的時間に浸る──その一幕だ。
金貼りの浴槽が誇示する豪奢さは、彼女の傲慢な気位に拍車を掛けていた。
その浴槽内に貯まる赤い水嵩は、頭上から滴り注がれる流血の彩美。
浸かる肢体の白さに、鈍く淀む赤が滑る。
毒々しい悪夢的な色香だ。
浴室内には噎せかえるほどの血腥さが溢れ漂っていた。
「忌々しい! 忌々しい! 忌々しい!」
強い腹立たしさだけがリフレインする。
言うまでもなく、カーミラ・カルンスタインとカリナ・ノヴェールへ対する呪詛だ。
とりわけ、予想外な介入者への憤りは大きい。エリザベートの敵意に気付かぬカーミラとは異なり、あの小娘は明らかに見透かしていた。
のみならず──どういう意図かは分からないが──露骨な挑発に宣戦布告してきたのだ!
「あの小娘、カーミラに通じていなければ良いが……」
懸念へと耽る意識に向けて、必死の命乞いが耳障りに届く。
「御許しを! 御夫人様、後生です! どうか御許し下さい!」
黙らせても黙らせても、黄色い懇願は一時も絶えなかった。
キッと頭上を睨み据える。
爛々とした加虐心が見上げる先には、大きな鉄の丸駕籠が吊されていた。それはキィキィと慣性に揺れ、内側に捕らえた娘を不安定な足場に弄ぶ。
「ぅあぁぁう! い……痛い! ヒィ……どうか、どうか御許しを!」
駕籠が揺れる度に悲鳴が漏れ、鮮血が流れた。
内側に突起した無数の刃が、娘の身体を刺し刻んでいたからだ。
「いい加減に黙れ! この下賎の娘めが!」
エリザベートは腹立たしさに立ち上がった。
しなやかな全裸の白肌に、鮮血が赤いショールと纏わりついている。それは猟奇的な美を彩っていた。
あからさまな八つ当たりに、駕籠を大きく投げ揺らしてやる。
「ひ! ひぃぃぃぃぃいいいいいっ!」
「アハハハハハハ! アハハハハハハハハハハハハ!」
一際大きい悲鳴が上がると、吸血夫人は心底楽しそうに高笑いを響かせた。
細々と流れる赤が浴槽に流れ落ちて嵩を増す。
この拷問器具は、通称〝鳥駕篭〟と呼ばれる。生前のエリザベート自身が考案した陰惨な娯楽だ。
彼女は他にも、悪名高き拷問器具〝鋼鉄の処女〟なども創作している。処女を象った鉄棺の内側に、無数の刃を据えた代物だ。閉じるだけで生さず殺さずの串刺し刑が執行される。
これら忌むべき拷問具は、鮮血への欲求と猟奇的嗜好の充足手段として開発された物だ。
しかし、後年には魔女裁判や異教徒尋問などで需要性を発揮する事となる。
なんと愚かしくも皮肉な話だが〝血濡れの伯爵夫人〟として裁かれたエリザベートが、旧暦中世のカトリック政権に貢献した功績は軽くない。
だからこそ、彼女には神と信仰を嘲る資格があった──少なくとも、エリザベート自身はそう考える。
感謝される筋こそあれ、弾劾される謂われはない。
白い肌に赤い滑りが潤いを与え、古きに置き忘れた若さが甦る気がした。
否、実際に甦っているのだと、エリザベート・バートリーは感じている。
一頻りヒステリックな喜悦衝動を満足させた妖妃は、心地よい疲労感に酔って鎮まった。
「今宵は些か興が過ぎたか……」
一転して静寂に包まれた浴室で、冷静に還って呟く。
軋む鳥駕篭に横たわる生娘は、グッタリとしたまま動く事は無い……もはや二度と。
血の気を失った白い肢体と、弱々しく滴る艶やかな鮮血──吸血夫人にとって、永劫に飽きる事のない至悦の源。
熱に浮かされた白昼夢から覚めたかのように、エリザベートは浴室の片隅へと意識を傾ける。
そこに積み重なるのは夥しい屍の山!
処女達の肢体が折々と築く屍丘だ!
正常な精神には、艶めかしくもおぞましい光景である。
この哀れな娘達は、皆〝絞り滓〟だ。浴槽を満たすだけの流血量は、到底一人分では足りないのだから。
自らの肌を愛でるに撫で、エリザベートは満足へと浸っていた。妖しげに照り返す赤の滑りが、彼女の美しさを維持している実感に変わる。
「ああ、なんと麗しい事か……我が瑞々しさよ」
彼女の鮮血への渇望は、これに起因する点が大きい。他の吸血鬼と一線を画する要因だ。
濡れた裸身を拭いもせずに、血塗れの伯爵夫人はバスローブを羽織って浴室を出た。
応接間のソファにくつろぎつつ、エリザベートは先の余韻を反芻していた。
燻らせる赤ワインで喉を潤す。
と、不意に他者の気配を感じた。
「……ドロテアか」
独り言めいて呼ぶのは、生前から従えている魔女の名。
「左様で」
抑揚を控えた返事と共に、背後に黒い影が涌いた。
影は人型となり、従者としての実体を刻む。
褐色の美貌を孕んだ黒い長外套の女性であった。
見た目の年齢はエリザベートより一回り若く思えるが、そもそも人外の実齢など分かったものではない。
風呂上がりの杯を嗜みながら、エリザベートは訊う。
「先の不埒者──確か〝カリナ・ノヴェール〟といったか──何か判ったか?」
「残念ながら詳細は不明……ですが、彼の者のおかげで、少々興味深い流れがロンドン塔に滞留しつつあります」
「ほう?」
掌中でくゆらせる赤の小波に、エリザベートの細まる目が映り込む。
「まずジル・ド・レ卿ですが、カリナ・ノヴェールとの決着には不服を募らせている様子。多少揺らぎをつつけば、事を起こす可能性は大きいかと……」
「で、あろうな」然して興味を抱かぬままに返し、コクリと喉を鳴らす。「あの男の気位を考えれば当然であろう。やれ〝騎士道〟だとか〝武人の誇り〟だとか……ほんに男という生き物は愚かしい」
実益の利を生まぬ美徳を小馬鹿にしつつ、エリザベートは浅い回顧に酔った。
彼女の胸中に去来しているのは、もはや還らぬ者となった夫への慕情──そして、満たされぬ渇き。
彼もまた、そうした人種であった。
そんな女主人の微々たる心境変化を、ドロテアは黙々と暗い観察眼に捕らえる。
愛する夫の戦死こそが、エリザベートが魔性へと身を窶したきっかけだ。
募り満たされぬ寂しさが、彼女を〈黒魔術〉へと傾倒させた。
そもそもバートリー家は、黒く濁った血に支配された呪われし家系と言える。悪魔信望者である伯父に、同性愛主義者の伯母……エリザベートの実兄に至っては色情狂の癖性である。
この淀んだ血は、彼女自身の内にも脈々と眠り流れていた。
だからこそ、自称〈魔女〉たるドロテアが付け入るには苦もなかったのだ。
(……御し易い)
策謀が内心嘲る。
その隠された本性を、エリザベートが知る由など無い。
忠臣を装った従者が淡々と報告を続ける。
「次に、カーミラ・カルンスタインですが……」最も関心を抱く忌々しい名前に、妖妃がピクリと反応した。「どういうわけか、彼女はカリナ・ノヴェールに執心のようです。特別な客人扱いに待遇し、見通しのない滞在を約束させた様子……」
「通じておるのか?」だとしたら、由々しき事態である。「カーミラとカリナ・ノヴェールの因果関係は?」
「そこまでは明らかにありませんが、推察するに取り立てて因果関係があるようには思えません」
「……にも関わらず、特別扱いに優遇と?」怪訝そうに推察を巡らすエリザベート。「あのカーミラが、己以外の吸血鬼に──殊に素性も解らぬ一見に──好意的興味を示すなど想像もつかぬが……」
「これらの不確定要素は〈不死十字軍〉の根幹を揺るがすに好材料かと」
ドロテアは遠回しに野心を刺激していた。
「言われずとも察しておるわ。カーミラ・カルンスタインを──あの忌々しい小娘を失脚させ、我こそが〈不死十字軍〉の盟主となる……それこそが永らく身を焦がした悲願であるからな」
全同属の頂点に女王として君臨し、自らの美貌と栄華を永遠に讃えさせる──エリザベートの心底に常々眠っている野心だ。
「時にドロテアよ、我とカーミラのどちらが華美にあると思うか?」
「エリザベート様に敵う華美がありましょうか」
「そうだとも! だからこそ解せんのだ! 何故に皆は、アレを自らの盟主へと担ぎ上げた? 頂点に君臨すべき支配者は、なによりも美しく気高くあるべきであろう!」
安い虚栄──ドロテアは嘲りを隠し抱く。
しかしながら、エリザベート本人にとっては、何よりも重大な事柄であった。万事に対する彼女の原動力は、異常なほどの〝美と権力への執着〟なのだから。
「さりながら──」息巻いていたエリザベートは、一転して消沈へと呑まれた。「──事を起こすには、揺るぎなき地盤を築くが必須。特に実戦的な兵力がな」
「御望みとあらば、手筈を整えますが……」
暗い瞳が狡猾に誘う。
「いまから根回しに動くと?」
「疲弊する兵士は所詮消耗品。別段、吸血鬼でなくても宜しいかと。然すれば、うってつけの材は、そこら中に転がっております」
懐刀が何を云わんとしているかを察し、エリザベートは不快を噛んだ。
「……デッドか」
同じ〝死人返り〟という再誕プロセスにありながらも、エリザベートは〈デッド〉を汚らわしく思っていた。
否、彼女に限らず、そう思っている吸血鬼は多い。
なまじい生前の個性や自尊心を持ち越しているだけに、それらが欠落した〈デッド〉という再生体は卑しい粗悪品としてしか捉えられないのである。
とはいえ、ドロテアが呈する妙案も理には叶っていた。
「確かに短期で謀反体制を整えるには、打って付けの材だが……アレをどう操ると? 知性も感情も欠落した死体に過ぎぬぞ?」
「エリザベート様は〈ゾンビ〉という〝死人返り〟を御存知で?」
「確か〈デッド〉の別称であったな。旧暦末期には、そうした呼び名で人間共の俗物娯楽などに使われていたのであろう? 闇暦に於ける〈デッド〉は、そうした人間共が抱くイメージを、ダークエーテルが反映具象化した存在に過ぎん」
「それは俗世に流布した誤釈が定着したに過ぎません。正しくは〝似て非なるもの〟です」
「ほう?」
「そもそも〈デッド〉の概念が世に種を蒔いたのは、旧暦末期──怪物としては新参者に過ぎません。一方で〈ゾンビ〉は、南米ハイチのブードゥー教に於いて発祥した由緒正しき〝死人返り〟です。歴史も格も異なります。知性や自我が欠落した〝生ける屍〟である点は共通項にございますが、呪術によって再生させられた〈ゾンビ〉は術師の命令に従う忠実な傀儡なのでございます」
「なれば、誂え向きの雑兵だな」
「如何にも」
エリザベートは軽く想像を巡らせた。
自分に対して献身的に服従する膨大な兵力……。
無償の服従によって侵攻を続ける不死身の軍隊……。
そして、賛美と畏怖に祭り上げられた己自信……。
「悪くはないな。汚らわしくはあるが」
近年、エジプトに君臨したと聞き及んでいる新指導者〝輪廻の呪后〟──強大な呪法によって無数の〈ミイラ〉を忠実なる私兵と従え、絶対的な支配力を掌中にした女王。
そのエジプト新女王と自分自身を重ね合わせて、エリザベートは自己陶酔に溺れる。
(……御し易い)
事の流れは、ドロテアの思惑通りに進んだ。
愚かな女主人が気付く事もないままに……。
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鮮血の魔城 Chapter.8
【挿絵表示】
「なんだ、食べてないのか?」
自室へと戻ったカリナは、卓上の配膳を見て拍子抜けした。
レマリアの食事である。
柔らかなロールパンに、温かなコーンスープとホットミルク……チキンやマリネ、ホールトマトも添えてある。決して贅沢な品々ではないし、吸血鬼には食欲をそそる物でもない。
それでも、闇暦の人間にとっては御馳走だ。
にも関わらず、それが手つかずのまま置いてある。
行儀良く椅子へと座るレマリアは、顔を俯かせているだけだった。カリナの訊いには答えようともしない。微かに覗ける表情は、ふてているようにも映った。
ふと子守役へと目を遣る。
暖炉前のロッキングチェアに揺られるサリーは、うたた寝でもしているかのように緩やかだった。
しかしながら編み物を為す鉤針は、緩々と定期的な交差を刻んでいる。寝てはいない。
「おい、サリー」
「はいはい、なんでございましょう? カリナ様?」
カリナに呼ばれ、穏和な笑みが返された。
「ずっとこうなのか?」
「左様でございますな。カリナ様が城内散策へと赴かれてから、暫くして暇潰しの編み物を始めたのですが……どうにも下手の横好きというものでして」
「そうではない」
思わず苛立ち気味の困惑が涌いた。
まるで主旨違いな返答である。
それを噛み殺して、カリナは明言化する。
「私が訊ねているのは、レマリアの事だ」
「はて、レマリア──様?」老婆は記憶を探るように思索すると、やがて納得気に答えた。「ええ、ええ、左様でございますな。レマリア様に至りましては、カリナ様が出て行かれてから、ずっと斯様な御様子で……実におとなしいものでしたとも」
「食が進んでいないようだが?」
カリナの視線に促され、卓上の膳盆を見遣る。
「あれま? 左様で」柔らかな細目が、穏やかな驚きに剥き開いた。「いやはや気付きませんで、面目次第もございません。何せレマリア様は、おとなしゅうて、おとなしゅうて」
「おとなしい……か」
確かにレマリアは人見知りが強い。マセた勝ち気を見せるのは、カリナに対してだけ──いや、天敵のゲテへ対しても……か。
しかし、その二人に対してだけだ。
それ以外には心を閉ざす態度が顕著であった。
だから、おそらくサリーと二人きりの環境下では、ずっと緊張していたに違いない。借りてきた猫のように萎縮した光景が、容易に想像できた。
けれども、それが食欲減退の原因とも思えない。
基本、レマリアは食と睡眠に関しては素直に準じる。腹が減れば食べるし、眠くなれば寝る。まかり通らないと駄々をこねる。子供故の無遠慮さだ。
一方で、サリーに何らかの非──例えば豹変した恫喝等が、あるとも思えなかった。
初対面時ならともかく、現在では信頼を抱いている。彼女の転生背景を知ったからだ。故にサリーは女子供を絶対に襲わない。そればかりか、子供に対して人一倍強い母性を持ち合わせている。その事も確信していた。
(そうなると……皆目見当もつかんな)
カリナは隠す心配に歩み寄り、レマリアの不機嫌そうな顔を覗き込んだ。
「食欲が無いのか?」
諭し解すような口調で訊う。
女児は首を強く振った。
「メニューか? 好きじゃないのか?」
これにも首を振る。
「じゃあ、どこか具合でも悪いのか?」
首を振る。
無言の否定が累積するほど、見通しのつかない懸念が強まった。
表情にこそ露呈させていないが、カリナの胸中には心配が募っていく。
病気の類となれば医者が必要となる。
だが、この闇暦では医者は貴重な人材だ。
金の問題ではない。
根本的に生存数の問題である。
当てにならない薮医者やペテン師こそ横行しているが、確固たる医学知識精通者は稀なのだ。
「理由を話してみろ? 黙っていては判らんぞ?」
「……だって、いないのだもん」
「ん?」
「おはよしたら、カリナいないのだもん」
「ああ、城内を散策がてらに偵察していた」
「でも、いないのだもん」
「私達の──いや、オマエの安全を守るには、この城の主要人材を見極める必要があるからな。ま、敵情視察と言ったところさ」
「いないのだもん!」
「………………」
「………………」
「……もしかして、それが理由か?」
やや呆れた気持ちで確認すると、レマリアはコクリと頷いた。その面持ちは心無しか、いまにも泣きそうな印象すらある。
蓋を開けてみれば、実に些細な理由であった。
要するに一人きりで置かれた事が不服だったらしい。
しかしながら、レマリアが寂しさと不安に怯えていたのは、紛れもない事実だ。訴える幼女の顔は、堪えていた感情を懸命に押し殺していたのだから。
「悪かったよ」軽い謝罪に頭を撫でてやり、カリナは隣へと相席した。「これからは一緒にいてやる。それでいいだろう?」
レマリアの大きな瞳が、恨めしさと疑わしさに見つめ返す。
「やくそく?」
「ああ、約束だ」
「ホント?」
「ああ、本当だ」
「ホントのホント?」
「……案外しつこいな? 本当に本当だ」
呆れた投げやりにカリナが宣誓すると、すかさずレマリアが小指を立てて差し出した。
「ゆうきいよ?」
「……指切りな」
ふっくらと小さな指に、しなやかな指を絡ませる。
幼稚で信頼性皆無な宣誓儀式だ──と、カリナは思う。
が、この宣誓儀式は何よりも誠実で尊いものだ。
そう、神への信仰や、悪魔との契約以上に……。
とりあえずの確約に満足したのか、レマリアは一転して破顔一笑を彩った。
同時に、その笑顔を見ると、カリナの心中にも安らいだ癒しが芽生える。
「さあ、食べるがいい」
「うん!」
よほどお腹も空いていたのか、レマリアは堰を切ったように食べ始めた。品行方正さなど御構いなしにがっつく様は、上辺を気取った輩には下品と映るだろう。
だが、カリナには愛しい。
それは逞しく生きている証であり、紡がれる生命力の存在感なのだから。
ひたすら頬張る女児を、母性に満ちた眼差しが頬杖に眺める。
頬に付いた食べ滓を取ってやると、自身も柘榴を嗜んで付き合った。
守るから癒される──癒されるために守る──究極のギブ&テイクだと、カリナは思っている。
これに比べれば吸血鬼達の〈血液嗜好症〉など、永遠に満たされぬまやかしでしかないのだ。
心満たされる術を自覚している自分は、なんと恵まれているのだろうか。
質素な卓上が、堅実な家庭へと変わる。
と、レマリアが不意に頓狂な声を上げた。
「あ!」
「どうした?」
幼女は困惑した顔を向ける。
「いたらきます、してないのよ」
暫し、絶句の末……カリナは吹き笑った。
そんな慎ましい幸福を、老婆は優しく見守っていた。
かつての自分と娘を重ね見るように……。
ゆらゆらと揺れるチェアは、まるで過去と現在を時間の波に繋げているようであった。
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~第二幕~
白と黒の調べ Chapter.1
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ロンドン塔在城五日目──さすがのカリナも退屈と鬱憤が溜まってきていた。
仕方なしとばかりに、今日は裏庭の薔薇園で暇を潰す事とする。
彼女にとっては、貴重な憩いの場所だ。
「わあ!」あまりの華やかさに、レマリアが目を輝かせた。「カリナ? おはな、いっぱいよ?」
「まあな」
「これ〝おはなばたけ〟よ?」
「……薔薇園だ」拙ない解釈を訂正しながらも、はたと思い起こす。「ああ、そうか。オマエを連れてきたのは、今回が初めてだったな」
「そうよ、はじめましてなのよ」
「この場所を見つけたのは、敵情視察を兼ねた城内散策の際だったからな。つまり、その頃は日々サリーに預けていたはずだ」
「…………」
「…………」
「………………」
「…………何だ?」
「……カリナ、ずるい」
「別に狡くはないだろう」
手入れの行き届いた薔薇達の香りは、確かな〝生〟を謙虚に微笑んだ。その微々たるも強い自己主張を感じながら、心静かにくつろぐ時間──それは悠々と流れ過ぎ、頑なに攻撃性を鎧とする少女の気構えを裸にさせた。何処に於いても忌避される疫病神の、人知れぬ慰めでもある。
園の中央に設けられているのは大理石造りの東屋。その内には石卓が据えられた仕様となっている。
背高く囲む薔薇の生け垣は、赤と黒のコントラストが美しい。それは保養意識のみならず、周囲から視界を遮るプライバシー保護壁としても機能していた。
石卓へと席を取ったカリナは、頬杖ながらにレマリアを見守る。
幼女は色とりどりの薔薇に強い好奇心を向け、生の花弁や葉に触れては喜んでいた。
「ま、感受性を育てるに自然は大事か」
柘榴を嗜好しつつ、独り納得に落ち着く。
「やはり此処にいらしたのね?」
不意に鈴音のような美声が向けられた。
それを耳にした途端、カリナは鎮静化していた気性を呼び起こす。正体知れぬ声の主を、敵意と警戒心が追い睨んだ。
と、カリナの表情から敵対的な険が消える。
別方角の入口から訪れた麗姿は、カーミラ・カルンスタインであった。
「探したわよ? カリナ・ノヴェール」
白い高貴は慣れた足取りで石畳を渡り、東屋へと歩み寄る。
「何か用かよ」
「そうねえ、例によって〝暇潰し〟かしら?」
さらりと棘を流し、そのまま正面へと相席する。
カリナが露骨に牽制を向けるも、カーミラは気にも留めていない。柔らかな微笑みで避わすのは、どうやら彼女の得意技のようだ。
この数日間、少女城主は宣言通り〝暇潰し〟を興じるようになっていた。時間にしてそれほどでもないが、暇を見つけてはカリナの下へと訪れている。日々募る鬱積にとって、この世間話は至極有益な時間のようだ。
「〈レマリア〉は、御元気?」
「フン、あそこにいるだろうさ」
生の息吹に一喜一憂する無邪気を、カリナは投げる目線で示した。
それを一瞥に追ったカーミラは、然して関心を抱かぬまま話題の転換を促す。
「随分と此処が御気に入りのようね?」
「最初の内こそは物珍しく見る場所も多々あったがな。次第に飽きが生じてきたのさ」
「あら、そう? ロンドン塔は格調高い内装を意識しているのだけれど……貴女の御眼鏡には叶わなくて?」
「同時に、幽然とした虚無感が蔓延している。至る空間は日常的に霊気を帯び、どうにも辛気臭い。活気の欠落ってヤツだな」
安っぽい自賛へと一矢報いてやった。
カーミラが柔和を含んだ苦笑いに肯定する。
「そこは無理もないかしら。何故なら〝活気〟とは、即ち〝生ける者の活動力〟ですからね。如何に生者と近しい存在ではあっても、城内に住まう者達は〈吸血鬼〉──わたし達〈不死者〉には、真の意味での〝生命〟など内在していないもの」
「そうした侘びしさが満ちる城内に於いて、此処には唯一〝生命の息吹〟が在るのさ」
「そろそろ城外へと出向きたいところかしら?」
見透かすような鎌掛けは正直面白くない。カリナは不機嫌そうに顔を背けた。
「如何に私でも、キサマとの約束を反故とする気は無い」
「あら、嬉しいわ。一応は、わたしの立場を尊重してくれているのね」
小悪魔的に喜色を浮かべると、カーミラは薄暗い空を仰ぎ眺めた。
覆う暗闇は相変わらずだが、雲間には微弱な陽光が射している。
されども、それは重厚な闇の濃度に呑まれ、全体的な光景としては灰暗い。
「今日は比較的明るいわね」
「真っ昼間から巨眼が鬱陶しいが……な」
永劫に晴れない闇とはいっても、時間帯による微少な変化は存在する。日中にはうっすらと霞掛かった陽光が差して曇天宛らになるし、黄昏刻ならば黒雲の波間にまばらな夕陽が茜の彩りを添えた。いずれにしても、黒雲は邪魔立てる。
「闇暦世界への変貌に感謝するとしたら、日照死の怖れなく陽光を拝める事かしら。ダークエーテルのベールによって弱体化した陽の光は、もはや吸血鬼を焼き殺す威力を発揮しないし……」
「キサマのような〈血統〉には関係ないだろうよ」
軽く鼻で笑う。
「あら、よく御存知ね。わたしの事を……」
「名だたる〈怪物〉に限っては、基本的な情報を頭へ叩き込んである。でなければ、物騒な闇暦を渡り歩けるかよ」
カリナが指す〈血統〉というのは、始祖たる〈原初吸血鬼〉の直系子孫の事だ。吸血鬼の歴史は原初吸血鬼から始まった。ギリシアの大蛇妖〝エキドナ〟や、ヨーロッパ圏の悪魔女王〝リリス〟等──多くの原初吸血鬼は、神話上の存在と化している。もはや〈魔神〉とでも称する方が相応しい。
とはいえ〈血統〉は、直接的な親子関係になるわけはない。悠久の世代を越えた隔世遺伝である。
「実際に陽光で死ぬのは〈覚醒型吸血鬼〉──つまり、血液嗜好症や猟奇殺人鬼といった異常癖性からの突発的転生だ。故に〈魔〉として脆弱なのさ。人間としての側面が色濃く影響する分、吸血鬼としての特性は薄まるからな。対して、オマエや〝ドラキュラ〟とかいう老い耄れは〈原初吸血鬼〉の呪血を受け継ぐ者──なればこそ、魔性として強力なのも道理だ」
「貴女の言う通りね。事実、わたしは昼でも活動していたもの」素直に肯定しつつも、カーミラは物憂いを落とす。「けれど、多くの吸血鬼は違う。やはり陽光で死ぬのよ」
「フン、そいつは自分が稀少種だという自慢か?」
「まさか? むしろ逆。共感者がいないというのは、とても残酷な事なのよ」
「ま、現在主流と蔓延る吸血鬼は、総じて〈覚醒型〉だからな」カリナは軽い共感に肩を竦めた。「あの髭面共が〈吸血貴族〉などと物々しい肩書きを飾ったところで、所詮は〝高位吸血鬼〟──キサマとは根本的に別格だ」
「だからこそ、憂鬱なのよ」虚しさを吐露するカーミラ。「だって〈吸血鬼〉という特異存在に在っても、自分だけが殊更に特異なんですもの。この孤独と疎外感は、貴女に分からないでしょうけれど……」
「対価として、それほどまでに強い魔力を宿している。少しは祖先に感謝してやれよ」
「望んでいなくっても?」
「そうだ」流浪旅の実体験に基づく持論を、カリナが毅然と示す。「闇暦に於ける絶対的な正義は〝生き延びる事〟だ。そして、それを為すには〝強さ〟が不可欠。オマエには、それが天賦として備わっている。それも誰もが羨むような〝圧倒的な強さ〟がな。それだけでもオマエは幸運なのさ。望めど叶わず死んでいった連中の無念を、私は腐るほど見てきた」
「そうかしら?」
腑に落ちない様子で唇を尖らせ、カーミラは解れ毛を梳き遊んだ。
一方で、白き血統は思うのだ──「では、その〝わたし〟と対等に思える貴女は何者?」と。
ややあって、彼女は強引に気持ちを切り替えた。
「ねえ、カリナ? 貴女、この現世が〈闇暦〉になった経緯を御存知?」
「随分と唐突だな。世に言う〈終末の日〉か? 事の起こりは、旧暦一九九九年七の月だろう」
「そうよ。無自覚にも〝大天使エノクエルからの啓示〟を受けた啓蒙者──確か〝ノストラダムス〟といったかしら──は、終末予言として世界中に警鐘していた。何世紀も前からね。にも関わらず、俗世の人々は真剣に受け止めなかったのよ。わたし達〈怪物〉にしてみれば、幸いだったけれど」
「それさえも試練だったんだろうよ。人類の信心を見極め、存続価値を篩に掛けるためのな。神界の奴等は、ほとほと格差選別が好きなのさ」
「結果、アレが姿を現した……魔界の深淵から、地上に蔓延する〝驕り〟と〝堕落〟を道標として」カーミラは闇空の支配者を疎み、睨み据える。「自らを〈門〉と転じたアレは、魔界の気〈ダークエーテル〉を現世へと呼び込んだ。それがきっかけで、多くの人々が死んだ──それこそ〈ヨハネの黙示録〉のように」
「アレこそが〈黙示録の獣〉だとでも? そんな高尚なモノではあるまいさ」
興醒めに柘榴を齧った。
「そこまで買い被るつもりはないけれど、アレが人類文明を壊滅させた張本人なのは事実じゃなくて? 地上に蹂躙したダークエーテルが、人々の生命を次々と奪ったのだから──その生命力を自らの糧と吸い尽くしてね」
「あらゆる接触対象から〝生命力〟を搾取吸収していく性質……か。ま、遠因的には間違っていないな」
「でしょう? 無差別に増産される〈デッド〉の群勢も、ダークエーテルの性質が影響を及ぼした副産物に過ぎないんだし。万事に影響を及ぼしていると言ってもいいわよ」
一転して、カーミラは暗く沈む。
語り聞かせるのは、忌まわしい回顧。
「遅々と地表を浸食するダークエーテルの濃度は、現在の比ではなかった。発揮する性質も〝魔気〟の別称に恥じぬ恐るべき猛威だったわ。老若男女問わず餌食とし、逃さず枯渇させていく──それを糧として更に増殖し、卑しい飽食の勢いを増した。無形の死神は、あらゆる場所で鎌を振り続けたわ。ただひたすらに──貪欲に────」
「そして、ダークエーテルの干渉下で死んだ人間は、その場で〈デッド〉と化す。止まる事を知らぬ負の連鎖だな」
「唯一幸いだったのは、建物屋内へと進入できないというダークエーテルの法則──つまり〈魔〉としての理ね。わたし達〈吸血鬼〉が、家主に招き入れられない限り屋内へと踏み入れないように。人間達が依存する科学的合理性などは無いけれど」
「故に籠城した人間だけは、辛うじて死の顎から免れた。闇暦に於いて、人類が死滅せず生き残った経緯だな」
カーミラの瞳が、儚げな悲哀を宿した。
「ひどい有様だったわ。〈魔〉に属するわたしが言うのも何だけれど、それこそ地獄絵図よ」
「ああ、そうか。オマエは直に見ていたのか」
「その頃には、このイギリスを活動拠点にしていたの」
「他の〈怪物〉とは異なり〈吸血鬼〉は、人間社会へ依存する傾向が顕著だからな」
「あら、共に在ると言っても良くってよ」
悪戯っぽく微笑する。
が、それも一瞬。
再び物静かな抑揚へと染まり、カーミラは語り続けた。
「〈獣人〉ならば野山に還ればいい──〈妖精〉は豊かな自然で集落を築けばいい──〈悪魔〉なら伏魔殿から現世を嘲ればいい──そして〈デッド〉のような単なる〝死人返り〟ならば、場所を選ばず徘徊していれば済む話。けれど〈吸血鬼〉は、そうではないわ。何故か御分かり?」
「無二の糧として〝生き血〟が欠かせぬ事も、要因には大きいが……それ以前に我等の生前が〈人間〉そのものだからだろうよ。要は長らく〈人間〉として培った生活風習や文化的価値観が、その根底から抜けきらないからさ」
「御名答」淡く苦笑う。「わたし達は人間を脅かす〈魔〉でありながらも、人間社会とは切り離せない〈魂〉でもあるわ。故に吸血鬼の活動基盤は、常に人間社会の内に求められてきたのよ」
「だからオマエは、己の懐古主義を再現せんと模索する──笑えんな」
「あら、それって皮肉っぽくてよ?」
「皮肉だよ」
向けられる毒気を流し、カーミラは続けた。
「思い出しても憂鬱になるわね。人間側も軍隊を派遣して応戦するも、その武力抵抗は意味を為さない。無尽蔵に増殖するデッドの群勢には、科学準拠の武装なんか焼け石に水──ただひたすらに銃声と血飛沫と断末魔が、街を染めていったわ」
「当然だな。如何にデッドとはいえ、本質は〈超自然的存在〉だ。況してや唯物論主義に準じて発展した〝同族殺し〟などが、人外に通用するものかよ」
カリナの嘲りは正論だ。冷徹ではあるが……。
「地上の至る場所で混乱と争乱が支配し、逃げ惑う人々もパンデミック化を拡大していったわ。思いやりや美徳なんか、かなぐり捨ててね。老人や子供連れを進路障害と云わんばかりに暴力で剥ぎ捨て、我先にと逃げ惑う。その浅ましい様は、わたしが想い抱く〝人間像〟とは掛け離れていた。そんな光景を目の当たりにして思ったわ。もはや理性を欠いたケダモノでしかない……と」
当時の惨劇を想起すると、カーミラは必ず思い出す物があった。
瓦礫の廃墟と化した街角で拾った〝テディベア〟だ。
しかし、辺りを見渡し捜せども、その幼い御主人様は見つけられなかった──それらしき肉塊しか。
未曾有の混乱に壊滅した街並には、人の姿など微塵も無い。おそらく〝人だったであろう物体〟が多勢に徘徊し、或いは路上投棄されているだけであった。
篭もる大気は強烈な火薬の残り香に染まり、見通しも煙たく濁っている。銃撃戦の名残だ。
そんな中で入り交じりに感じる血臭は、けれども彼女の食欲をそそる事がなかった。
苦い回想へと泳ぐカーミラの意識を、冷淡な達観が連れ戻す。
「それもまた本性だから〈人間〉ってヤツは怖いのさ。老若男女問わず、誰しもが心底に秘めている。実際、幾多もの〈怪物〉が排斥されてきた旧暦時代の史実には、そうした暴徒による強襲ケースも少なくない」柘榴を啜り、カリナは渇きを潤した。決して満たされる事などない渇きだが……。「苛烈に高ぶった激情任せの狂気は、時として〈怪物〉を上回る残虐性を奮う。それは人間同士の事変でも窺う事ができるだろうさ。例えば〝セイラムの魔女狩り〟であり、例えば〝欺瞞的選民意識による暴行迫害〟だ。この愚かしさは人間が背負う業そのものだから、到底拭い去る事はできない──未来永劫に。ある意味、怪物以上に〈怪物〉だよ。ヤツラ〈人間〉は」
「そうかもしれないわね……けれど、やはり〈人間〉に対する理想像は捨てきれないのよ」
憂いのままに零れたのは、間違いなく彼女の本音であろう。
だからこそ、カリナには空々しくさえ感じる。
「せめて、この国に保護した人々には〝人間らしさ〟を失わないでほしい……そう切に願っているわ」
「言うわりには疎かだがな」
赤の果汁を啜り、冷めた言い種で指摘した。
「そういえば会議乱入の際にも、そのような事を言っていたわね? あの非礼さには、正直些か呆れたけれど」
「どうにも退屈だったのさ。ならば、雁首揃えた間抜け面を弄んでやるのも悪くないと思ってな」あの時の状況を思い起こすと、黒姫の表情には自然と邪笑が含まれる。「それに面白そうな燻りも見つかった……」
「燻り?」
「何でもないさ」
思わず漏れた呟きを拾われ、露骨にはぐらかす。
さりとて、仮に担ぎ上げられた立場だとしても、カーミラ・カルンスタインは愚かな飾り物ではない。誰が友好的で、誰が敵対的か──その相関図は頭の中に築いているつもりだ。
カリナが指すのは、十中八九〝強健派〟の事だろう。大方の察しは着く。
けれども、黒姫の真意は見えてこない。
漠然とした思索を押し殺して、カーミラは先の話題を繋いだ。
「それで? アレって、どういう意味だったのかしら?」
「御自慢の政策実状は、まるで笊って事さ」
文型的には予想通りの返答であった。
だが、どうしてもカリナの意向が読めない。
それはそうだろう。
常々自負するほど、カーミラは〈人間〉に温情を傾けているのだから。単に〝食料兼奴隷〟と見なしている他国勢とは違う──少なくとも少女領主自身は、そう思っている。
互いの黙考が、静かに時を刻んでいく。
観察視ながらに突っ伏すカリナが、ようやく進展を切り出した。
「明晩、空けておけ。居住区へ行くぞ」
「それって、わたしを連れて行くって事?」
「他に、どんな含みがあるよ。私個人で行くなら、わざわざ宣言などせん」
「けれど、城主が夜中に出歩くなんて問題じゃなくて?」
「気取るなよ。そもそも〈吸血鬼〉は、夜に出歩くのが在るべき姿だ。それに周囲へ吹聴するほど馬鹿でもあるまいよ」
「それは、そうだけれど……」
「それでも不安なら〝元・イングランド女王〟でも誘っておけ。アイツなら興味津々についてくるだろうよ」
「でも……」
煮えきらない態度へ、カリナは後押しをする。
「オマエ、言ったよな? 私とは〝親密な友達〟になれそうだ……と」
「ええ」
「〝質の悪い悪友〟程度なら、なってやる」
不遜な拈れ者は意地の悪い邪笑を証とした。
少女城主が立ち去った余韻へと浸り、カリナは独り言を呟く。
「賽は投げてやったが……はたして、どう転がるか」
カーミラだけに向けられた想いではない。
彼女の脳裏には、居住区で出会った貧しい少年も同期的に浮かんでいた。
柵を抱かぬカリナにしてみれば〈吸血鬼〉も〈人間〉も大差無い。
ならば、幸も不幸も等しい権利であるべきだ。
いずれにせよ、これでますます〈不死十字軍〉の面子からは疎まれるだろう。最悪、カーミラ自身にも距離を置かれたかもしれない。
「ま、構わんがな」
慣れた強がりに隠した。
つくづく不器用で損な性格だ……と、自嘲を浮かべる。
散々遊び尽くしたレマリアが、喜々として駆けて来るのが見えた。
「カリナ! むしさん、つかまえたのよ!」
「ほう? 見せてみろ」
「はい、どーぞなの」小さい掌を広げ、モゾモゾ動く塊を自慢げに見せる。「カブトムシなのよ?」
「……捨ててこい」
何故こんな所にコレがいるかは分からないが、おそらく環境変化による生態系の異状だろう。
とりあえずカリナは、愚図る幼女から〝フンコロガシ〟を捨てさせた。
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白と黒の調べ Chapter.2
【挿絵表示】
ロンドン・シティ居住区──巨眼の月光に浮かび上がるは、旧暦中世を彷彿させる街並みであった。灰色の濃霧は不穏な波間と滞り、相変わらず幽然とした情景を演出している。冷たい心象にある景観は、虚栄の落とし闇に過ぎない。
そんな情緒無き情緒を三人の麗姿が歩む。
カリナに誘われたカーミラとメアリーである。
「窓の灯りこそあるけど、人影が見当たらないわね」
周囲を見渡しつつ、カーミラが漏らす。
人々が住まう窓から漏れる灯火は、相変わらず生活感を押し殺していた。まるで害敵に怯えるかのように……。
「襲われる危険性が分かっていて、出歩くヤツなどいるはずがないさ」
「襲われる? 誰に?」
黒き案内人は答えない。ただ黙々と歩を刻むだけだ。
先導者としての役目から、カリナは数歩先を進む形となった。
例によって片腕には幼女を抱いている。
レマリアはおどおどした目で、顔馴染まぬ同伴を窺い見ていた。どうやら性分の人見知りが生じているらしい。
そうした内向性を熟知しているが故に、保護者は黒外套へと匿い包んでやっていた。
カーミラは腑に落ちないまま話題転換を促す。重い沈黙に堪え兼ねたようだ。
「それにしても、専用外套を羽織るなんて久しぶりよ。今回は、素性を隠す意味合いが強いのでしょうけれど……いわゆる〝お忍び〟ですものね」
御丁寧に着衣ドレスと同色──つまり純白の外套だ。同様にメアリーは真紅となる。品格あるロイヤルドレスの上から鮮やかな外套を纏う姿は、くすんだ俗界には場違いな壮麗さと映った。しかしながら、それは是非を不問とするほど、高貴な存在感を漂わせている。
とりわけ、カーミラの純白装束は優美だ。まるで清廉な女神の婚姻衣装を思わせる。
幾多もの返り血に汚れた黒装束とは正反対だ──と、カリナは軽い自嘲を含んだ。
「一応の保険さ。不測の事態に備えて……な」
「保険?」
またもや解せない回答に、カーミラは怪訝を浮かべる。
「そもそも吸血鬼にとって、専用外套は特別な装身呪具──云わば〝魔力増幅具〟だからな。万ヶ一には役に立つ」
「それって、敵がいるって事?」
「さてな……展開次第だ。如何なる状況へと陥っても不思議ではない」
「だって、シティ内にデッドはいないのよ?」
「非道徳な犯罪者崩れ……ですか」
冷静な口調で見解を挟んだのは、持論との符合を確信したメアリーであった。
「どういう事かしら? メアリー?」
「御報告した通り、近年は不埒な輩が横行し、弱者を物資略奪の標的としています。居住区治安劣化の原因の一環です。しかし、まさか、ここまで閑寂としているとは……」
「脳内シミュレーションと現実では、雲泥差があるという事さ」一瞥を向けるカリナの言葉裏には、冷ややかな優越が含まれている。血統書付きへと一矢報いた満足感であった。野良には野良の利がある。嗜好品を齧り、彼女は続けた。「確かにロンドンの景観は壮観だ。これだけの趣を遺す街並は、各地を流浪する私も見た事が無い」
「そう言ってもらえると、わたしも嬉しいわ。とりわけ、こだわった要素ですもの」
「だが、それだけだ」
「え?」
「中身は変わらん。結局は支配者側の独善を具象化した虚栄さ。言っただろう……このロンドンは〝張り子の虎〟だと」
「それって、わたしの配慮が〝ワンマンな偽善〟でしかないって意味かしら?」
カーミラの声音が、静かに不快感を含む。
「そう以外に、どう聞こえるよ」
「衣食住──その全てを補い、援助もしているわ。それに彼等への不当な扱いも許してはいない。他国と違って〝人権〟を尊重していますからね」
「御自慢の配給物資なら届いていないぞ」
「何ですって?」思わず耳を疑った。続けて彼女を支配するのは、隠しきれない動揺。「そんなはずは……だって、ちゃんと衛兵達に指示して」
「疑いも無しに信頼したってか? 監督不行き届きだな。末端とて人間──おっと〈吸血鬼〉って事さ」
「だって吸血鬼に、人間の食料なんか意味は……」
「まさか、等価交換を?」逸早く認めざるべき現実を把握したのは、メアリーの方であった。未だ実状を悟れぬ主へ、深刻な抑揚で解説する。「食料は人間達に需要があります。慢性的に不足しているなら、多少高値でも買う事でしょう。そこに目を付けた商人には、品薄な人気商品を安定して調達できるバイヤーも重宝される。その謝礼がバイヤーにとって需要のある物ならば、別に金銭でなくとも非合法な商談は成立します」
「例えば〝瓶詰め血液〟とかな」御名答とばかりに補足するカリナ。「後は、その腹黒いサイクルが繰り返されるだけだ。腐敗と腐敗は結託しやすい」
「支援物資を横流しに? そんな事、許されるわけが」
「知られなきゃいい」
未熟な領主の瞳を正面から見据え、冷徹に言い捨てる。
先程までの挑発を帯びた皮肉から一転し、その表情は重々しい真剣味に引き締まっていた。
「じゃあ、人間達は?」
「貧困に喘いでいる」
「……そんな」
ショックであった。
まさか自分が預かり知らぬところで、そのような不正がまかり通っていようとは……。
カーミラの心情を無視して、カリナが続ける。
「もっとも、我々には関係ない事だがな。人間共が野垂れ死のうが〝血税〟さえ搾り取れれば、別に良かろう? 何なら、もっと税率を上げてやるか? まだ搾れるぞ、アイツ等」
「そんな酷い事を……よく言えたものね!」
憤りが激昂と沸き立つ。
それでも無遠慮は、悪意の囁きを止めない。
「キサマ等は潤うぞ? 詭弁塗れに騙した愚民を貪り潰すのは、旧暦時代から支配階層の特権だろうよ。人間社会の政人共は、ずっとそうしてきたはずだ。厚顔無恥にもな」
「わたしは……わたしは、ただ……」
ただ人間と共存できる社会構図を築きたかっただけ──そう主張したくとも、それ以上は口に出来なかった。
現実、彼女が想い抱いてきた理想郷は〝机上の空論〟に過ぎなかったのだから。
自分が〝ローラ〟と過ごした麗らかな日々──。
初めて抱いた〈人間〉への慕情──。
そうした想いの具現化を志せばこそ、不本意な地位にも甘んじていたというのに。
唇を噛む失意へ、手厳しい嘲りが更に追い打ちと向けられる。
「オマエが見ているのは、自尊的な幻想だって事さ……〝自己愛〟と言い換えてもいいがな」
「……やめて」
「何を起点としているかは知らんが、結局は〝それをしてやっている〟という己の行為に酔っていただけなのさ」
「やめなさい! カリナ・ノヴェール!」
容赦ない口撃を受け続け、遂に琴線が切れた!
反目する二人を不穏な渦が包み込む!
比喩ではない!
発散される魔力と妖気が周囲の霧へと干渉し、嵐雲のように吸血姫達を取り巻き始めていたのだ!
「カーミラ様! カリナ殿!」
荒れる台流に圧されながらも、メアリーが制止の声を張る!
もっとも、それが中核へと届く事はない!
カーミラの瞳が冷たい金色に染まり、カリナの瞳が情熱に飢えた紅へと染まる!
この不穏な流れを変えたのは、意外な伏兵──レマリアであった。
幼女は唯一、緊迫した状況を理解していない。
ただ、カリナが意地の悪い表情を覗かせている事だけは分かった。
それは、レマリアが嫌うものだ。
戦意に酔う邪笑を仰ぎ見つつ、大人を真似た口調が咎める。
「カリナ、メッよ?」
「…………」
「ケンカするの、メッよ?」
「……わかったよ」
幼い保護者に諫められ、カリナは我を鎮めた。
普段とは逆転した立場だ。
彼女の周囲へと渦まく霧が緩やかに拡散していった。
それを見定めると、カーミラも臨戦の気構えを解く。
とりあえずの事態回避に、メアリーは胸を撫で下ろした。
もしも両者が刃を交えれば〈吸血貴族〉たる自分ですら手が出せなかったであろう。
俄に信じ難いが、それほどまでに潜在魔力は拮抗していた。
「レマリアに感謝しろよ」
捨て台詞気味に言い残して、カリナは歩を再開する。
取り残されたカーミラは、その後ろ姿を沈思に見つめていた。
「カーミラ様、大丈夫ですか」
「ええ」
視線を逸らさず、平静に答える。
その黙視をメアリーが追った。
街路の闇に呑まれていく黒外套。
とはいえ、後追いできぬ距離ではない。
そもそも今回のカリナはガイド役だ。彼女達を置き捨てて行くはずもない。
「それにしても、無謀な……カーミラ様に正面から楯突くとは」
「そうかしら?」
カーミラは黙し、それ以上は語らない。
ただ、眠れる餓獣が消えた闇を見据えるだけだ。滅多に味わった事も無い疲労感を噛みつつ。
「レマリアに感謝……か」
「そういえば、そのように言っておりましたが……その〝レマリア〟とは?」
戸惑うメアリーの質問に、ようやくカーミラは普段の柔和な微笑みを返した。
「その事は、わたしに任せておいて。それと〈レマリア〉の事は他言無用で御願い。カリナ相手でも、その事に触れるのは好ましくないの」
「はあ、それは構いませんが……」
釈然とはしない──メアリーの表情は、それを明らかに含んでいた。
そんな彼女の様子を見て、少女領主は小悪魔的に微笑する。
「さ、行きましょうか」
無責任な引率が消えた闇へと、二人は遅れて足を踏み入れた。
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白と黒の調べ Chapter.3
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「チクショー! どうしてオイラは、こうなんだよ!」
リック少年は自らの不運を呪った!
死に物狂いで街路を駆け抜ける!
振り返ると、追っ手の三人組は加虐心に漲っていた。
居住区を見回り警護する衛兵──即ち〈下級吸血鬼〉だ。
「待てよ! ボウズ!」
「オレ達ァ、オマエ等〈人間〉を守ってやってるんだぜ? 少しは御褒美があってもいいだろうが……へへへ!」
要するに「オマエの血を吸わせろ」という事だが、冗談ではない。
そもそも、対デッド警護は無償政策だ。
「オイラ〝血税〟なら、ちゃんと納めてるよ!」
怪物が統治する闇暦の国々では、税の在り方も人間社会とは異なる。要求されるのは主に支配怪物の糧となる物であり、此処ロンドンでは〝血〟だ。月一回は徴税隊による強制採血が行われ、それが居住区在住を認可する税として扱われる。
いつしか誰とでもなく呼称し始めたが、文字通り〝血税〟だ。
それは吸血鬼達に給与として割り与えられる。
だが、当然ながら均等とは言えない。階級格差による等分比率は、人間社会に於けるそれと変わらなかった。
故に下級吸血鬼には、こうした横暴も稀に現れる。種族的優位性と官軍的奢りによる腐敗だ。公にさえ知られなければ良いというのは、人間社会から受け継がれた負の組織伝統かもしれない。
ともかくリックは、そうした質の悪い連中に目を付けられた。
追撃状況を確認すべく、少年は振り返る。衛兵達には諦める気配も疲労の様子も無い。元来、体力の底値も人間とは違うのだろうが……。
「ぅあ?」
疲労困憊で足が縺れ、派手に転んだ!
背後に気を取られたのは失敗だった。
土煙の中で痛みを堪えて蹲まる。
ややあって追いついた足が、何者かは言うまでもない。
「おいおい、大丈夫かァ~?」
「素直に言う事を聞いてりゃあ、痛い目を見ないで済んだのによ~?」
好き勝手に茶化し並べる下級吸血鬼達。
膝から流れる僅かな血を、一人が指で掬い舐めた。
「あらら、勿体勿体ねぇ」
「だよな。オレ達〝下級吸血鬼〟は、常に満足のいく食事にありつけねえってのに」
「おまけに脆弱で下らねぇ人間なんかを、無償警護しなきゃならねぇなんてよ……貧乏クジそのものだぜ」
「オ……オイラ〝血税〟は、ちゃんと……」
「オマエ、人の話聞いてる? オレ達は『満足のいく食事にありつけねえ』って言ってるんだぜ?」
「そんな配分、オイラの知った事じゃ……」
「この際、配分量はいいんだよ。とっくに諦めてるさ。ただ、スパイスが足りねぇのさ。味だよ! 味!」
「要するに〝味付けの無いステーキ〟を食ってるようなモンだ。空腹感の足しにはなるが無味乾燥──如何に好物でも食った気するか? あん?」
「つまり、オレ達が欲しいのは──」「──恐怖と悲鳴だよ!」
恐ろしい本性を剥き出しにする魔物達!
口角が耳元まで大きく裂け、歯茎が別生物のように競り出した!
ズラリと並び生える鰐のような鋭歯!
爛々とした赤い目は、血に飢えた魔獣そのものだ!
理性無き狂気に染まっている!
「う……うわぁぁぁああ!」
少年が叫ぶ!
恐怖に!
戦慄に!
それぞまさに、彼等の望んだスパイス!
卑しい欲望を垂らす牙が、少年の喉笛へと噛みつかんとした瞬間──「随分と安物のスパイスだな」──不意に割り込んだ少女の声が、鮮血の宴に水を差した。
得体の知れぬ声に血獣達の動きが止まる。
だが、少年だけは聞き覚えがあった!
月明かりの一角で、壁へと背凭れる華奢な影──。
柘榴齧りの不敵な傍観視──。
吹き抜ける風に靡くツインテールと黒外套──。
まるで再現の如き光景が、少年の視界を滲ませる。
「カ……リナ?」
「やれやれ……つくづく襲われるのが好きだな、オマエ」
少女は呆れ気味にボヤくと、物臭そうに身を起こした。
相変わらずの拈れた態度。
けれど、その裏に隠された心根を少年は知っている。
あの日の〝柘榴〟を通じ……。
だからこそ、安心して委ねる事できた。
「な……何だ、テメエ?」
寸分違わず聞き覚えのある安い口上。
が、そこに性蔑的な侮りはない。
同属故の感知だろうか、彼等は少女が人外である事を察知したようだ。
「どいつもこいつも……キサマ達のような輩は、同じ台詞しか吐けんのか? それとも、そういうルールでも流行ってるのかよ?」
無造作に近付いてくる少女を警戒し、吸血鬼達が身構える。
と、今度は背後から女性の声が聞こえた!
「まさか、衛兵まで腐敗していたとは……」
汚職衛兵達が振り向くと、そこには新たな介入者が二人──清廉そうな白外套の少女と、厳格な気品を漂わす赤外套の淑女だ。
声の主は、おそらく赤外套の方だろう。
「コ……コイツ等?」
いつしか彼等は、逆に包囲される形になっていた。
白外套が心底失望して嘆く。
「本当に我ながら情けないわ」
「何も貴女だけのせいではありますまい。疎むべきは、これら恥ずべき汚点の愚劣さです」
「これは、やっぱり責任を取るべきでしょうね」
「僭越ながら、私も……」
何気に聞き逃せない決断へ、カリナが不服を挟んだ。
「オイ、これは私の興だぞ」
「頭数は合ってるんだから、一人づつで宜しいんじゃなくて? それに傍観だけじゃ寝覚めが悪くてよ」
「フン、勝手にしろ」
不機嫌に投げる。
「な……何なんだ、コイツ等?」
衛兵達は不気味さを味わっていた。不敵な会話は、自分達を歯牙にも掛けていない。
途端、彼等の一人が驚嘆を発する。
「あっ!」彼は仲間の存在すらも畏怖に忘れ、ただ小刻みに震えだした。ただでさえ生気のない顔が、更に血の気を失う。「ち……違……オレ、違うんです!」
明らかに恐怖を帯びた叫びを残して、彼は一目散に逃げ出した!
「一人減ったぞ」
黒外套が不満そうに疎む。
「じゃあ、これ以上減る前に始めましょうか?」
清純な微笑みと共に、白麗の少女は愛用の荊鞭を取り出した。
命辛々逃げ仰せた彼は、ようやく心拍を整えていた。
相当に距離を稼いだ場所で、建物へと背中を預ける。
過敏に怯えた魂が自身の気配を殺させた。
「ま……間違いねぇ。アレは──」
城主〝カーミラ・カルンスタイン〟に他ならない。
「生きた心地がしなかったぜ」
あまりに強大で格違いな妖気を、まざまざと見せつけられた気がした。
幸いにも正体を悟れたのは〈魔〉の本能だ。おかげで、より鋭敏な感覚に察知できた。
彼女達にしてみれば、威嚇したつもりもないだろう。ただ普段通りに振舞っていたに過ぎない。それでも強烈な圧であった。
「へっ……へへっ……」
自然と乾いた笑いが零れ始める。身の安全を確保した実感からだろうか。
否、それは精神的自衛かもしれない。骨身に染みた恐怖を誤魔化すための……。
「アレに気付けないなんて、アイツ等は間抜け過ぎるぜ」
置き去りにした仲間達へと嘲りを手向けた。精一杯の現実逃避であり、取って付けた自己弁護だ。そうでもしないと罪悪感を割り切れない。彼等の絶望的な末路は見えているのだから。
スゥと頬を撫でられた気がした。冷ややかな感触だ。湿った風の戯れ──ではない!
「ひっ?」
はっきりとした体感を確信し、思わず跳び退き構えた!
先程まで背後に在った暗がりから気配を感じる!
逃れ仰せたはずの強大な妖気を!
硬い足音を響かせ、戦慄の魔性が歩み出てきた。
血のように真っ赤な外套が!
「仲間を見捨てて逃げるとは、どうやら最も恥ずべき下郎は貴様のようだな」
深紅のロイヤルドレスに身を包んだ凛然たる美貌──〝ブラッディ・メアリー〟だ!
「勘弁して下さい! アイツ等に唆されて!」
「更には保身に仲間を売るか……見下げ果てた性根。如何なる理由とて、貴様達が領民に暴虐を働いた咎は消えぬ」
「た……たかが、ガキ一人じゃないですか」
「たかが?」聞き捨てならぬ暴言に、メアリーの細眉がピクリと反応した。「その〝たかが〟の尊き血によって、我等の生は繋がれている。なればこそ、血の重きを知らねばならぬ。『血は命なり』だ」
これ以上は何を主張しても無駄と悟る。赤の吸血妃は、あまりにも人間へ肩入れし過ぎていた。
「な……何が『血は命なり』だ!」
ヤケクソな叫びを吠えて、吸血妃へと斬り掛かる!
衛兵の武装として携えた凡庸魔剣だ!
メアリーに動じる様子は無い。
迫る狂犬を冷ややかな蔑視で捕らえ続け、そして──!
「なっ? 消えた?」
瞬間的な異変だった。
刃が裂いたと思えた瞬間、彼女は赤く霧散したのだ!
実体が消えたとはいえ、その存在が周囲に潜むのは確かだった。
例えようもない不安に踊らされ、一心不乱の剣が狂う!
「ドコだ! チクショウ! ドコに消えた!」
下級吸血鬼である彼は霧化は疎か、霧化した存在を察知する事も叶わなかった。上級と下級故の絶対的な魔力差だ。
ひたすら空を斬る必死な抗いは、無様で滑稽な踊りにしか映らない。
「チクショウ! チクショウ! チクショウ!」
次第に涙声と化した罵倒に彼は狂い続けた。手応えは無い。
やがて緩慢化した動きの僅かな隙が、彼の命運を終わらせる。
「ヒィ!」
しなやかな指がヒヤリと頬を撫でた。背中で感じる弾力に富む膨らみは、女性のそれだ。
いつの間にか赤の吸血妃は背後へと現れ、処刑の抱擁に贄を捕らえていた。
「何か言い残す事はあるか?」
耳元で甘く囁かれる破滅への誘い。
「オ……レは……」
「フム、貴様は?」
「け……敬虔なカトリック信者なんです」
情けない泣き面へ、美しき冷笑が応える。
「もうよい」
鈍い砕骨音と共に、彼女は価値無き首を捻り千切った。
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白と黒の調べ Chapter.4
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「さ、汚い所だけど遠慮すんなよ」
リック少年は、命の恩人達を明るく自宅へと招いた。
その構成は二階建てで、狭い敷地ながらも背高い。角石積みの壁面に、長細い窓枠。柱や鴨居には装飾意匠が彫られている。
ゴシック建築様式を気取っているものの、カリナ達の目には全体的に安っぽく映った。経年劣化の罅割れや擦り減りも目立つ。
「随分といい所に住んでるじゃないか」
カリナが露骨に茶化す。
しかし、少年はあっけらかんと答えた。
「ただの安アパートだよ」
「……だろうさ」
静かに苦笑する。
どうやら少年は素直過ぎるようだ。言葉に含まれた棘を感じ取っていない。
カリナにしても、別に険悪な展開を期待していたわけではなかった。単に皮肉屋の性分だ。
「オイラ、ちょっと先に行くぜ。お客さんが来たのを、母ちゃんに報告しなきゃいけないから」
リックは一足先に建物内へと駆け入った。歓迎するのが待ちきれないといった様子だ。
「そんな御気遣いをなさらなくても──」謙虚な社交辞令を返すカーミラだったが、建物内へと一歩踏み入った途端、思わず呆気に固まった「──あらまあ、本当に汚ないのね」
意図せず無遠慮な浮き世離れの頭を、カリナが軽く小突いて窘める。
「う……これは」
常に礼節を弁えているメアリーも、さすがに言葉を失っていた。思わずハンカチで口元を覆う。
「そんなに臭うかよ」
「いや、そうではありませんが……しかし、失礼は重々自覚しながらも、つい……」
「温室育ちのオマエ達では、確かに無理からぬだろうな。潔癖な環境で暮らしていたが故の拒否反応ってところか」
黒い野良は優越感ながらに柘榴を啜った。
両者とは対照的に、こうした劣悪環境には慣れている。
彼女達が観察するロビーは、確かに見窄らしかった。あくまでも形式的な空間に過ぎないのだろう。
中央に据え構えているのは、年季の入った登り階段。粗末な樫製で、軽く足を乗せるだけで鳴き軋んだ。
「はたして強度も疑わしいものだな」
カリナが苦笑う。
階段を避け囲うように、廊下がコの字に伸びていた。奥へと続く先には、これまた安板造りの扉が連なっている。各部屋の玄関だ。
「此処は物置かしら?」
カーミラがそう判断したのは、別に嫌味からではない。ガラクタにも見える資材の山が、廊下の端で共同的に積み崩れていたからだ。
「これも住人の家財だろうよ……一応な」
「さっきから耳障りな喧噪が、ひっきりなしに漏れてくるのだけれど……何処の部屋かしら?」
「何処も彼処も……さ。庶民層の安アパートは、こんなものさ」
「まるで下品な盛り場ね」カーミラが呆れ気味に漏らす。初体験した庶民の生活環境は、あまりに未知な別世界であった。「それにしてもギャップが凄いわね。外観は申し分ないのだけれど」
「このロンドンそのものじゃないかよ」
カリナの嘲りに、カーミラの表情が不快に曇る。
顔を背けた皮肉屋は、微々と肩を震わせていた。含笑いを噛み殺しているのは明らかだ。
「何やってんだ? 早くおいでよ?」
階上の手摺りから少年が顔を覗かせる。
「どうやら二階がアイツの住処らしいな」
迷わず階段を踏み出すカリナに、カーミラとメアリーが戸惑いつつ続いた。
リック家族の部屋は、二階の一番奥になる。
カリナは声を押し殺し、カーミラへと語り掛けた。
「改めて招き入れられたのは、偶然ながらも幸いだな」
「ええ。古来より〈吸血鬼〉は、生者の家へ入る際に家人の許可を最初に得なければならない──それが〈魔〉としての理ですものね」
「ま、以降はフリーパスだがな」
斯くして立ち入った部屋は、実に質素な印象であった。
薄いコンクリートを基盤とした心許ない内壁。重厚な造りは外観に限った話のようだ。天井で塵被りとなった笠付き電灯は、おそらく、あまり使われていない。
それを推察したカーミラが、少年へと疑問を向ける。
「節電中なの?」
「いいや。けど、普段は蝋燭かランタンさ」
古呆けたランタンを灯す作業ながらに、リック少年は答えた。
「電気ぐらい使えばいいのに……。供給されているでしょう?」
電力供給は、カーミラが掲げる共存政策の一環である。
大時計塔を改装利用した風力発電だ。それを旧暦遺物たる電線を介して、ロンドン中へと供給している。
「まだまだ全然、電力が弱過ぎるんだよ。実用的な供給力じゃない。だから、冷蔵庫とかを優先的にしてるのさ。貴重な食べ物が腐っちまう方が痛手だからね」
「……そう」
少女領主は消沈気味に結び、それ以上は会話を広げなかった。
いや、広げられなかった──傍目のカリナは、そう看破する。
(リックが提示したのは実状報告に過ぎない。それでもコイツには、痛恨の一矢だっただろう──失策の再自覚に他ならないからな。白木の杭で心臓を貫くよりも効果的な殺し方だ)
同情は両者に対して等しく涌いた。
が、徒に介入する気も無い。
(答えを見出すのは、結局、本人次第だ)
達観的持論に割り切り、会話の手綱を握る。
「オマエ、家族は?」
油芯の寿命が限界に近いのか、リック少年は作業集中の片手間に答えた。
「オイラと母ちゃんの二人暮らしさ」
「父親は?」
「オイラが小さい時に殺されたらしい。だから、顔も知らないや」
その抑揚には、特に感慨も感じられない。思い出すら無いのだから無理からぬ。
「デッドに……か?」
「ううん。吸血鬼にさ」
「っ!」
少年の独白に衝撃を受けるカーミラとメアリー!
それは自責や罪悪感に近い感覚であった。
少年に他意があったわけではない。単に〝事実〟を示しただけだ。
それを理解していても、何故か後ろめたかった。
一方で、カリナは斜に構えた態度を飾る。
「吸血鬼共の癇にでも障ったかよ?」
「さあね。けど、特に理由なんて無かったかもな。アイツ等にとっちゃあ、オイラ達なんて所詮はオモチャなんだろうしさ」
カーミラとメアリーの脳裏には、先程の末端達が思い浮かんでいた。
(ああした連中は、もっと以前から横暴を振る舞っていたのかしら)
歯痒い沈思に暗い瞳を落とすカーミラ。
そうした反応の機微を、カリナは見逃さなかった。
「では、家計は母君とそなたが?」
メアリー一世の訊い掛けに、手を休めたリックが苦笑を返す。
「なんか変な呼び方だなあ。ま、いいけど。母ちゃんは働けないから、オイラが稼いでる」
「そなたが? 一人でか?」
「ああ。母ちゃん、病気で寝たきりなんだ。それでオイラが……さ」
「なんと、子供の身で……」思わず強まる憐れみ。「して、仕事は? 子供の身では、そうそう見つからぬのではないか?」
「基本、日雇い稼ぎ。仕事選ばずの使い捨てなら、結構あるんだぜ」と、それまで楽観的口調だったリックは神妙に声を押し殺した。「あんまり大きな声じゃ言えないけど、ちょっとヤバめの仕事とかもさ。中身不問の物品受け渡しに、墓暴きの手伝いとか……母ちゃんには内緒だぜ?」
一瞬、メアリーの表情が嫌悪感を呑む。王室育ちの厳格な性分故であった。
しかし、改めて実状を噛み締めると、気持ちを切り替えざる得ない。
(いや、そこは不問とせねばなるまい。人生経験未熟な少年が家庭の柱と奮闘するは、止むに止まれぬ事情によるもの──ともすれば、仕方あるまい。そもそも、そうした劣悪な環境は、我等〝支配層〟のせいなのだ。責められるはずもない)
小休止を終えて作業再開するリックに、またもカリナが会話を誘う。
「更には配給の受け取りに、闇市への買い出し……か? オマエも大変だな」
「まあね。けど、慣れたよ」ようやく息吹いた油灯を手に、少年は別室への扉に客人を招いた。「さ、こっちの部屋だよ。母ちゃんに紹介するから」
通された部屋は、然して変わらぬ貧相さであった。
ただし、個室故か更に狭苦しい。それこそ〝物置〟と錯覚できる。
換気も儘ならないのか、鼻腔に届く空気も乾き濁っていた。曇った窓硝子寄りにベッドが据えられている。
そこに寝たきりとなっているのが、少年の母であった。
リックは母親へと〝友人〟を紹介する。その抑揚は誇らしげに自慢するかのように明るい。
「母ちゃん、紹介するよ! こっちがカリナ! 前に話しただろ? オイラを救けてくれたって……」
「別に救けたわけじゃない。ただの退屈凌ぎに、オマエというオマケが付いてきただけの事だ」
「チェ、素直じゃないなあ」不服そうに口を尖らせながらも、リックは嬉しそうだった。「んで、こっちの二人が……えっと……」
「……………………」
いざ紹介という段階になって、少年は手際の悪さを思い起こす。新しい友人達の名前を聞いてなかった事を。
しどろもどろになる少年へと助け船を出したのは、カリナの悪戯心であった。
「〝マリカル〟と〝リャム〟だ」
「ちょ……っ?」「カ……カリナ殿?」
「ちゃんと理に則ってアナグラム名だ。悪くは……プッ……あるまい」
寝耳に水とばかりに狼狽える二人を見て、黒野良は含み笑いを噛み殺す。
そんな戯れの一幕へ半身を起こし、少年の母が挨拶を向けた。
「これはこれは、こんな汚い所へわざわざ……。それに、カリナ様には息子が大恩を受けまして、どのようにして恩返しをしたら良いものやら…………」
瞬時に働くカリナの洞察眼──身体を引きずるような動作から、かなり重く病んでいる。
「じゃあ、おとなしく鼾でも掻いてろよ」
一転して放つは、あまりに冷た過ぎる言い種。
それまで友好的だったリックも、これには憤慨を露にした!
「な……なんて事を言うんだ! いくらカリナでも、母ちゃんをバカにするのは許さないぞ!」
「カリナ殿、いまのは流石に非礼過ぎますぞ!」
どうやらメアリーも同感のようだ。
それを見た生来の憎まれ役は、少しだけ安心した。
だからこそ、表情ひとつ変えずに続けられるというものだ。
「無理した社交辞令など鬱陶しいだけだ。煩わしいのは好かんのさ」
突き放すように吐き捨てると、黒外套は一足先に寝室を出た。
「……カリナ」
扉の向こう側へと靡き消える黒波を、カーミラは悲しそうに見つめる。
一方で、少年の怒りは収まりそうもなかった。
「こ……のっ!」
後追いで殴り掛からんばかりに憤る!
その腕を掴んで制止したのは、他ならぬ母親であった。
温厚な表情は息子に反して怒りになく、ただ穏やかに優しい。
刺々しい態度の裏に潜む真意を汲めたのは、病を煩う母親当人とカーミラ・カルンスタインだけであった。
雑多に小汚いダイニング。使い古された鍋やフライパンが、シンクの貯め水に積み重なっている。樫製の円卓にシミと化しているのは、質素な食事の滓だろう。それらの汚さは、日々紡がれた生の痕跡。
辛うじての配電によって機能している冷蔵庫は、しかし、内側を覗くまでもなく空いているはずだ。
家財道具は悉く埃と汚れにまぶされていた。病に伏せた母と子供の家庭では、とてもこまめな掃除までは行き届かないようだ。
卓上へと置いた燭台がゆらゆらと灯りを息吹き、暗い室内に無数の陽炎を踊らせる。熱に溶ける蝋の臭さが鈍く鼻腔を刺激した。
寂しい静寂の中で、カリナは頬杖に座る。
「長くはない……か」
独り黙想へと耽り、憂いて呟いた。
母親の方は自覚があるようにも窺えたが、少年は知る由も無いだろう。いずれ訪れるかもしれない〝忌避したい可能性〟に対して、それなりの覚悟があるだけだ。
無垢な瞳でレマリアが問う。
「おばちゃん、しんじゃうの?」
「ああ、そう長くはない」
優しく子供の髪を撫でてやるのは、自身への慰めの転嫁であろうか。
或いは、またひとつ胸中へ刻まれた虚しさからの逃避かもしれない。
「なんで?」
「おそらく原因は栄養失調辺りだろうが、それはあくまでも引き金に過ぎんだろう。それによって抵抗力が慢性的に弱まり、内在する病が表層化した……といったところか」
「なんのびょーき?」
「さあな、私は医者じゃない」
「それって、イタいイタい?」
「……さあな」
痛いとすれば〝心〟だ。
息子を置いて逝く母親の痛み──たった一人の母を失う少年の痛み──そして、カリナ自身の無力感を伴う痛み。
「リック、かあいそうね?」
「……そうだな」
レマリアは、保護者の脚へコロンと頭を預けた。
事態など理解していない。
ただ何となしに甘えたくなったようだ。
親指を吸いながら自分を慕う子供を、若き母性が優しく撫でてやる。
はたして自分には、この子との別離を受け入れられるものだろうか──そんな寂しい想いを抱きつつ。
静かに扉が軋み開いた。
カーミラだ。気配で分かる。
「お母様、寝たわ」
「そうか」
「彼、相当怒っていたわよ?」
「……そうか」
「お母様が懇々と宥めてはいたけれど……ね」
「構わん。別に誰からも好かれようと思った事など無い」
あまりにも寂しい孤高──カーミラは、心優しい嫌われ者が愛しくなる。
沸き立つ衝動に気持ちを委ね、背中からカリナを抱きしめていた。
「それは、わたしもなの?」
甘い吐息は〈魅了〉を嗅がせるかのように囁く。
「……そうだ」
緩やかに首元へと絡まる白い腕に触れ、カリナは押し殺した感情に呟いた。
「つれない事を言うのね」
「私にはレマリアがいる。コイツがいれば、それでいい」
カリナが自己愛に撫でる組脚を、カーミラは想いを含んだ眼差しに盗み見ていた。
(でもね、いつかは貴女も別れなければいけないのよ……カリナ・ノヴェール)
抱擁に重なる少女達の影が、慈しみと寂しさを分かち合う。
と、不意に窓が朱を吠えた!
静寂を破ったのは、明らかに異常事態の発現!
「何だ!」
咄嗟に席を立ち上がるカリナ!
窓へと駆け寄って外の様子を窺うと、灼熱の舌が街を蹂躙していた!
「いったい何事なの?」
背後から覗くカーミラにも、困惑の色が浮かんでいる。
「カリナ殿! カー……マリカル様!」血相を変えたメアリー一世が、隣の部屋から飛び込んで来た。リックも一緒だ。「何が起こったのですか?」
狼狽えるメアリーへ、カリナが唇噛みに返す。
「知るかよ。だが、ただの火災じゃないようだ」
カリナが顎で指し示す先には、炎の街路を歩き進む幽鬼的な群衆の姿!
信じ難い光景に、カーミラは驚愕の声を上げた。
「まさかデッドが?」
「いや、違うな。奴等の手を見てみろよ」
各人の手には、剣や鎌などの簡易的な武装が握られている。
彼等はそれを振るい、逃げ惑う人々を虐殺していった。
「デッドには道具を扱うだけの知恵や記憶は無い」
「じゃあ、アレは何なのかしら? まさか他国怪物による侵攻?」
「さあな。しかし〝死人〟には変わりないようだ」
「どうして断言できるの?」
「自我損失・倦怠的動作・損傷不感──〈死人返り〉としての主要条件は全て備えている」
正直、カリナには心当たりが無いわけでもない。
欧州圏の概念だけに特化しているカーミラ達は疎いだろうが、奇しくも自分はハイチのブードゥー教には多少詳しくなっていた──不本意だが、あの下衆のせいで。
(おそらく〈ゾンビ〉か……)
アレが〈デッド〉でないならば、十中八九、間違いないだろう。類似的特徴からは、それしか思い浮かばない。
一瞬、ゲデの暗躍かとも考えた。
だが、それは有り得ない話だ。
あの狡賢い口八丁が、表舞台で反乱を仕掛けるはずもない。
そんな面倒を敷くぐらいなら、誰かをけしかけて漁夫の利を狙う──そういう小賢しい奴だ。
「数にして二〇体程度かしら?」
「いや、六〇体はいるだろうよ」
「それって見た感じより多過ぎなくって?」
「視覚認識の情報よりも、最低限二倍~三倍程度は見積もれよ。目に見える範囲だけが総てではない。初歩的な鉄則だ」
意思持たぬ集団殺人鬼は、次々と無益な虐殺を繰り返していた。回る火の手が怯え隠れる兎を燻り出し、殺戮人形の群へと追い込む。
赤子を抱いた母親が、背中から鉈で斬り殺された。我が子を抱え蹲まる亡骸──泣きじゃくる赤子──その泣き声も程なくして途絶える。
階下の惨劇を、カリナは睨み続けた!
沸々と芽生える激情!
そして、意を決する!
「いずれにせよ、看過はできまいよ」
颯爽と黒外套を翻す。
「行くの?」
察したカーミラの訊いに、憮然とした不敵が答えた。
「勘違いするな。ただの暇潰しだ」
「そう……じゃあ、わたしも暇潰しかしらね」
愛用の茨鞭を手に、白外套が並び立つ。
「勝手にしろ」
静かな戦意に染まる二人の吸血姫。
それに触発されたメアリー一世も、即座に加勢の意を示す。
「では、私も!」
「いや、オマエは此処へ残れ」
「カリナ殿?」
「万ヶ一……という事もあるやもしれん。不測の事態が起きたら、オマエが守ってやれ」
言い残して歩を刻み出す。
その時、堪えきれずに声を掛けてきた者がいた。
それまで蚊帳の外だったリックである。
「あ、カ……カリナ!」
「何だ?」
「そ……その、さっきは…………」
そこまで口にしながらも、それ以上は言葉が紡げなかった。
後悔を抱く少年が心苦しげに視線を落とす。
仲直りをしようと自分へ言い聞かせていた──にも関わらず、肝心な時に勇気を奮えない。弱さへの自己嫌悪と、もどかしさ。
カリナは少年の躊躇を肩越しに見つめていた。
そして、やがて静かな口調に命ずる。
「オマエは母親の側にいてやれ」
「え?」
「余計な心配を抱かせぬように、オマエが不安を払拭するんだ。できるな?」
「う……うん!」
決意を込めて、力強く返事をする。
その気負った表情を見ると、カリナは薄く微笑んだ。
少年は思い出す──初めて彼女と出会った時を。
いまのカリナの表情は、あの時と同じものであった。
柘榴を分け与えてくれた、あの瞬間と……。
だからこそ、少年は悟った──肝心の言葉は交わせなかったものの、自分とカリナは心通じあったのだ……と。
「さて、足手纏いにはなってくれるなよ」
「あら、それはわたしではなくってよ?」
見送る戦姫達の後ろ姿は、美しくも凛々しい。
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白と黒の調べ Chapter.5
【挿絵表示】
紅蓮の炎が街を呑む!
屍の侵攻が人々を斬り捨てる!
シティ居住区は、いままさに地獄絵図と化していた!
その大虐殺のパノラマを、屋根の上から遠退きに傍観する二つの影──〝血塗れの伯爵夫人〟ことエリザベート・バートリーと、その片腕たる魔女ドロテアだ。
「ホホホホホ……見事! 真に見事であるぞ、ドロテア! よくぞ数日で、これだけの兵力を揃えた!」
「御誉めに預かり光栄にございます。されど、まだ種火に過ぎません。此処に揃えたるは、たかが酒場客の頭数。これを皮切りに、更に多くの兵数を増産しなければ……」
「いや、充分であろう」
「エリザベート様?」
「今宵の襲撃分だけで、更なる兵数補填は叶う。なれば、ロンドン塔など楽に陥落出来ようぞ。これで、ようやく忌々しい小娘共を葬れるというもの……ホホホホホホ!」
(チィ、短絡な白痴が! 戦力差の目算も出来んというのか!)
「愚民共、我を崇めるがいい! 讃えるがいい! 畏怖するがいい! 美しいであろう? 怖ろしいでろう? それこそが〝真の支配者〟たる我にふさわしい賛美!」
眼下の惨状を眺める邪視が愉悦と陶酔に細まる。
所々で赤の飛沫が噴き上がり、断末魔の絶叫が絶え間なく響きわたった。
その凄惨な喚き声が、エリザベートの耳には畏敬と崇拝を込めた命乞いに聞こえる。
現状、彼女は自分を〈神〉の如く倒錯していた。
蠢くも動かぬも含め、死体は街路を賑やかす!
それを熱に照らす朱舌は、猟奇的高揚感を助長させる照明演出でもあった。
眼下に黒く広がる屍兵の影。
忠実なる不死の群隊。
その圧倒的な侵攻力に、吸血妃は高らかな嘲笑で勝ち誇る。
「アハハハハ! アハハハハハハ!」
と、その光景に違和感を覚えた。
「……何だ?」
視界の隅に捕らえた異変は、やはり錯覚ではない。
黒集りの一角が、微々ながらも陣形を崩しているではないか。
それは焼け焦げのように広がり、やがて、その周辺を大きく斬り拓いていく!
毒々しくも鮮やかな血飛沫が咲き乱れてはいるが、それは先刻までとは質が異なっていた!
屍兵の赤花だ!
「ア……アレは!」
彼女の目に飛び込んできたのは、反逆の輪舞を踊り狂う黒と白の外套!
謀反の手駒たる屍兵達は、次々と冥府へ解放されていった!
「……カーミラ・カルンスタインッッッ!」
憎むべき敵の姿を認識し、忌々しく唇を噛んだ。
距離にして三〇メートル程離れている。双色の吸血姫達はミニチュア人形にしか見えない。
にも関わらずエリザベートは、確実に憎悪の対象を認識していた。
それは吸血鬼特有の超視力による部分も大きいだろう。しかし、それ以上に彼女の執着的呪怨が、それほどまでに強いという立証でもある。
何故、カーミラが此処にいるのか──それはエリザベートにとって、どうでもよい事だ。ただ〝宿敵によって計画を邪魔立てされた〟という事実だけが、彼女にとっては重要なのである。
一方で策謀者ドロテアの分析眼には、非常に由々しき展開としか映らない。
(アレはカーミラ・カルンスタインに、カリナ・ノヴェール? 何故、貴奴等が此処に?)
全く以て計算外の乱入者であった。
エリザベートにゾンビに自分……これだけの戦力では、些か心許ない。
(此処は一時退くか)
取り敢えずのテストは上々の結果であった。これ以上、無理を敷く必要はない。否、折角の戦力を無駄に損失しない為にも、此処は退くべきである。
「エリザベート様、一時撤退を……」
「ならん!」
「エリザベート様?」
ドロテアが困惑に凝視した女主人の横顔は、まさに吸血鬼の本性であった。殺意に血走った目と、歯噛みする口元に覗く牙──破滅を帯びた美貌の相好に獣性を宿す形相が同化している。
憎悪に漲ったエリザベートの瞳は、カーミラだけを睨み据えていた。
彼女の薄っぺらい自尊心には、もはや、それしか映ってはいない。
「フン……考えてみれば、これは千載一遇の好機よ! いま此処で、あの小娘を亡き者にしてくれる!」
「此処は撤退の選択が英断かと! 悪戯に屍兵を損失すれば、これまでの計画が水の泡……」
「いいや、退かぬ! それでは、我が貴奴に屈した事と同義となろう!」
「し……しかし!」
「案ずるでない。要は確実に屠ればいいだけの事。こんな場所で城主が朽ち果てたとは、誰も思うまい」
(ええい! その実力がキサマには無いと言っている!)
ドロテアは焦燥を抱く。
ここにきて〝傀儡〟は暴走した。
そして、虚栄と過信に支配された人形は、もはや彼女にもコントロール出来る域ではない。
「続け! ドロテアよ!」
紫の外套が滑空に屋根から飛び降りる!
その姿は、まるで血に飢えた巨大蝙蝠!
或いは、獲物を捕食せんと襲撃する怪鳥の如く!
「……誰が行くかよ、馬鹿が」
ドロテアは隠していた本性を曝け出す。
争乱の火祭へと呑まれていく紫翼を蔑視に見捨て……。
「あの手駒は、もう帰るまい。本来ならばアレを御輿として、ロンドン塔を襲撃させる計画であったが……」
要たる傀儡人形は失った。おそらく屍兵も大幅に損失する。
「計画を見直さねばならんか」
魔女が指を鳴らすと、数体のゾンビが静かに撤退した。
蠢く頭数が多いだけに、誰一人として気付かない。
カーミラも──カリナも──エリザベートも────。
「悪く思うなよ、エリザベート・バートリー。少しでも基手は残しておきたいのでな」
損失した屍兵の数は、これを起点に増やしていくしかないだろう。
問題なのは、エリザベートに代わる戦場の要だ。
現状、それは〝あの男〟以外にない。
虚栄心の塊であるエリザベートに比べ、些かコントロールは難しそうだが……。
「保険を掛けておいて良かったよ」
冷酷に言い残してドロテアは踵を返した。
後目に見送る〝血塗れの伯爵夫人〟とは、もう会う事もないだろう。
そして、魔女は闇へと霞んで消えた。
茨の鞭が蛇と踊り、紅い刃が星と閃く!
双色の吸血姫は華麗に舞い、群がる死体の包囲網を捌いていった!
しかし、屍が動きを止める事は無い。
「何なの? 頭を跳ねたというのに、首が無いまま向かってくるわ!」
実際のところ、首だけではなかった。四肢を斬り離しても死体は停止しない。それどころか、地に落ちた部位が分裂派生した別生物のように蠢いているではないか。
転がる部位を細分化に斬り捨て、カリナが平然と教示する。
「蘇生プロセスからして、デッドとは違うのさ。コイツ等は〈呪術〉によって再活動している。脳や頭部を破壊した程度では朽ちん」
「わたし達〈吸血鬼〉に近しい性質ってわけね──認めたくはないけれど」軽く不快感を含んだカーミラは、荊鞭で切断しながら改めて処置を尋ねた。「じゃあ、コツは? 教えて下さるかしら?」
「間接そのものを破壊するか切り捨てろ。如何に動く肉片とはいえ、テコ軸が無ければ行動など出来まいよ」
「なるほどね」
「手首は炎にでもくべてやれ。この部位だけは、乱戦下で捌く暇など無いからな」
本来ならば多勢に無勢の窮地であろう。
さりとも〈吸血姫〉たる彼女達にしてみれば、たいしてデッド戦と変わらなかった。単に一手間多いだけだ。
その時、剥き出しの敵意が、カーミラを急襲する!
「カァァァミラ・カルンスタイィィィン!」
悪鬼の形相で飛来する紫の魔翼が、カーミラの頭上擦れ擦れを過ぎる!
凄まじい突風を発生させる奇襲!
咄嗟に踏み堪えようと試みるカーミラを、勢い孕む気流は紙細工の如く凪いだ!
次の瞬間には、抵抗空しく煉瓦壁へと叩き着けられる!
「きゃあ!」
「カーミラ!」
戦況の急変を察知し、カリナが叫んだ!
だがしかし、彼女の下へは駆けつけられない!
取り巻くゾンビ共が足止めとなっていたからだ!
「ぞろぞろと……っ! どけぇぇぇぇぇ!」取り囲む首を一舞に跳ねるも、すぐさま群がり補填されてしまう。「チッ、基より死体だけあって怖いもの知らずか」
こうなると、武功の欲を出して先行していたのが仇となった。
ややあって、瓦礫の山からカーミラが身を起こす。
屑塗れに汚されながらも、白麗は案じる戦友へと苦笑を向けた。
「大丈夫よ、カリナ。ちょっと油断しただけ……」
その一方で、彼女は失念の軽率さを噛んだ。
つまり、背後に当然潜んでいる黒幕の存在を。
(並の吸血鬼ならば、四肢が弾け飛んでも不思議はなかった……か)
左腕が鈍く疼いた。曖気にも出さぬよう隠してはいたが、それなりのダメージを負っている。
紫翼の怪物は抜け目がなかった。
奇襲に擦れ違う際、超音波咆哮を放っていたのである!
それは不可視の鉄球と化し、風圧に硬直した無防備な身体へと殴りつけた!
臨戦体勢に気持ちを切り替え、カーミラは頭上に滞空する奇襲人物を仰ぎ睨む。
黒い妖月を背景に、悠々と外套を靡かせ立つ紫影。巨眼を後ろ盾にした構図故か、まるで魔界からの刺客にも思えた。
妖しの影は高笑いに勝ち誇る。
「ホホホ……無様! 無様よのう、カーミラ・カルンスタイン? 汚れたキサマは地へと這い蹲り、勝者たる我は悠々と高見にある──これぞ在るべき優劣の縮図よ」
「エリザベート・バートリー?」
「〝様〟が足りぬわ!」
鋭利な爪撃を混ぜた風圧!
鎌鼬現象を帯びた暴風が、ダメージを負った左腕に四筋の赤痕が刻みつける!
この部位を狙ったのが、故意か偶然かは判らぬが……。
「クッ!」
「本来ならば、いま少しは軍勢の育成に集中すべき時期であったが……キサマが介入してきた以上は捨て置けぬわ」
「軍勢?」
「如何にも」
「では、この惨状は貴女が!」
胸中に芽吹く悲嘆と憤り。
確かに強健派が現状の政策方針を快く思ってない節は、カーミラ自身も重々承知している。そして、殊更エリザベートには、自分へ対する反抗心が顕著だという事も。
一方で、己の統制力が絶対的だと自負していたのも事実ではあった。
だからこそ、自身が防波堤として機能する限りは人間を擁護出来るとも……。
が、結局それは過信に過ぎなかったのかもしれない──カリナが示唆していたように。
その証明が組織末端たる衛兵吸血鬼の腐敗であり、我が身を襲った現在の苦境だ。
それでもカーミラは叱責せずにはいられなかった。
「禁じたはずです! 人間を不遜に扱ってはならないと! その人権を尊重せねばならないと!」
「下賤の事など知るか!」
謀反人が吐き捨てた台詞を耳にし、黒外套の眉がピクリと反応する。カリナにとって、唾棄すべき不快感であった。
「所詮、奴等は貯蔵樽よ! 我等を吸血鬼を潤すための家畜に過ぎんわ! 共存? 人権? ハッ! 笑わせるな! 下層の者共は、おとなしく全てを差し出せばいいのだ! その命までもな! 我等支配層は、ただ潤うのみ! 奴等が飢えようが野垂れ死のうが知った事か!」
「エリザベート・バートリー!」
口惜しさに吼える。
まさか〝血塗れの伯爵夫人〟が、ここまで強烈なエゴイズムを鬱積させていたとは……完全にカーミラの憶測を越えていた。
盟主としての立場上、裁かねばならない──そう自覚しつつも、カーミラは躊躇を覚える。
(できれば、戦いたくはないけれど……)
反目関係に在るとは言っても、互いに〈吸血鬼〉であるという同属意識は拭えない。況してや〈吸血貴族〉は希少な存在だ。
だからこそ、それを共感に置き換えようとしてきた。
それに対してエリザベートは、意固地なまでに敵意へと転化している。
この平行線は決して交わる事がない──その確信があればこそ、彼女は苦悩を抱くのだ。
「何故、このような愚考を!」
「空々しい。我がキサマへの殺意を常々抱いていた事は、既に知っておったであろう? 水面下で謀反を画策していた事も……。のう? カリナ・ノヴェール?」
屍兵の包囲網を捌き続けるカリナは、剣舞の一息に冷ややかな睨めつけを返す。
「部外者の私に振るなよ」
「フン、我は忘れてはおらぬぞ。あの時、キサマは我の心底を見透かし、挑発と侮蔑を込めて見据えたではないか」
「ああ、アレか」
背後から襲ってきた屍の脳天を、紅剣が煩わしく突き刺した。肩越しの無作為な一撃だ。物量こそ厄介ではあるが別段脅威ではない。
カリナは鼻で笑い、小馬鹿にした態度で答える。
「アレは、こう思ったのさ──『随分と化粧の濃い老害がいやがる』とな」
「なっ?」
翻る黒波に生み出される幾多もの赤い弧!
黒外套の周囲には肉片が、ピクピクと散乱しているだけだった。
「いまの一体が最後か。もはや捌くべき生ゴミは無いようだ」
煩わしい作業の終了を確信するカリナ。
そのまま手近な瓦礫へと腰を下ろすと、傍観意向に脚を組んだ。
「おい、カーミラ」
「何かしら? カリナ・ノヴェール?」
敵を睨み据えたまま、カーミラが返す。
左腕が疼いた。それは、そのまま誇りの痛み。
隠した異変に気付いたか──或いは気付かぬままなのか──干渉放棄の黒外套は、ぞんざいな言い種に呈する。
「今回の興は、くれてやる」
「え?」
一瞬、カーミラは耳を疑った。
思わず傍観者を凝視する。
あの意固地な拈れ者が、他人へと興を譲ると言う──到底信じられない申し出だ。
しかし、頬杖ながらに自分を正視する眼差しは、強い意志力で見定めているようにも感じられた。
無言の真意を汲むと、不思議と迷いが晴れていく。
「……そうね。それが、わたしの責務ですものね」
己への鼓舞に腕の痛みは忘れた!
「ええい、悉く目障りな小娘が!」
わなわなとした怒りに震える吸血妃。
全く以て、腹に据え兼ねる態度であった。不遜な獲物達は、緊迫も畏敬も抱いていない。
「ドロテア!」
懐刀の名を加勢に呼んだ!
だが、返事は無い。
「……何故だ? 何故、返事をせぬ! ドロテアよ!」
辺りに気配を求めるも、水を打ったかのような静寂──この時、ようやくエリザベートは悟った!
「ま……まさか、見限ったというのか? この私を……無二の主である、この私を!」
受け入れ難い現実!
生前から目に掛けてきた飼い犬は、最大の勝負処に来て飼い主の手を噛んだのだ!
「エリザベート・バートリー!」
凛然とした呼び掛けが、狼狽に浸る吸血夫人を我へと呼び覚ます。
視線を向ける先には、滞空に立つ白い麗姿。
「不本意な形ではありますが、決着を着けましょう」
両手に茨鞭を携えたカーミラ・カルンスタインが、いつの間にか飛翔していた!
その立ち位置は、いまや対等だ!
巨眼の黒月に見守られ、白と紫が激しくぶつかり合う!
闇空を舞う双影は、衝突したかと思うと互いに放物線を描いて距離を離れた。そして、また引かれ合うように弾き合う。
その流れが繰り返されていた。
「まるで磁石だな」地上で傍観するカリナは柘榴齧りに漏らす。「……で、なんでキサマがいるよ」
背後の虚空へと嫌悪感のままに呼び掛けた。
空間に現れたのは、彼女が蔑む下衆──ゲデである。カリナにとっては数日ぶりの厄日だ。
「ィエッヘッヘッ……どうにも食欲をそそるいい臭いしたんでねぇ?」
「まさか、この惨状はキサマの仕業じゃあるまいな?」
「冗談よせやィ! なんでオレが〝不死〟なんかを生産しなきゃならねぇんだよ? おまんま喰い上げになっちまわァ!」
「確かにな」
ゲデの糧は〝魂〟でも〝殺戮〟でもない。純然たる〝死〟そのものであり、その瞬間自体だ。
ともすれば、必然的に〝生者〟の存在は不可欠となる。世にデッドやゾンビの比率が多くなればなるほど、死神の糧は減っていく。それは望むところではあるまい。
つまり、大方はカリナの予想通りという事だ。
無愛想な魔姫へ倣うかのように、ゲデは闇空の衝突劇を仰ぎ眺めた。
「こりゃまた珍しい見せ物だ。吸血貴族同士の決闘ですかィ?」
「そんな尊厳高いものかよ。単に盟主が不祥事の責任を全うしているだけさ」
「ま、オレとしては、どうでもいい事ですがね?」簡単に興味を失うと、ゲデは周囲に散らばる肉片へと好奇心を移す。路上に散乱する赤い欠片は、ピクピクと脈打つかのように蠢いていた。「ィエッヘッヘッ……苦しみ足掻いてやがるぜ、コイツ」
「確かデッドと違って、ゾンビには〝魂〟が内在していたな?」
天空の決闘に見入りながら、カリナが無愛想に訊ねた。
性懲りもない悪趣味には、爪先程の関心も向ける気が起きない。
「まぁな。けどよ、オレ様が指してるのはソイツじゃねえぜ。どのみちゾンビに内在した魂は〝肉体〟という檻に隔離された捕虜みてぇなモンだ。痛みもクソも感じねぇよ。オレが堪能してるのは〈ズンビー〉の方だ」
「ズンビー?」
相変わらず、顔すら向けずに訊う。
「ブードゥー精霊のひとつ──要は〝蛇精〟だわな。精霊としちゃあ下級だが、コイツが死体の四肢に纏わり憑く事で〈ゾンビ〉という傀儡が出来上がる」
「ゾンビ発生の根源ってトコか」
「ソイツが解放されねぇまま切り刻まれたモンだから、二進も三進もいかずにもがき苦しんでやがる……ィエッヘッヘッ、間抜けだぜぇ」
と、ゲデは些か感じた差異を見通す。
「ん? コイツは〝ブードゥー秘術〟じゃないぜ?」
「何?」
興味深い発言に、初めてゲデを一瞥した。
「ああっと……厳密に言やぁ純粋なブードゥー秘術じゃねぇって話だ。プロセス的には踏襲してるが、間違いなくコイツァ似て異なる〝術〟さな。おそらく〈西洋魔術〉の応用ってトコか。精霊との盟約じゃなく、強力な魔力で力尽くに縫いつけてやがる。だから、蛇公共は解放されねぇのさ。ま、どうでもいい事だけどな……ィエッヘッヘッヘッ」
「なるほどな」
柘榴啜りに、再び戦局へと注視を戻す。
(プロセス的に〈ゾンビ〉は〝使役術〟の類だ。そして、それは洋の東西に関わらず古来より多くある。つまり〈黒魔術〉でも応用可能という事だ。それだけの実力が長けていれば……だがな)
冷静に分析しながらも、懸念は胸中で渦巻く。
「……ドロテアか」
先刻、エリザベートが呼び叫んだ名前が思い出された。
白と紫の衝突は未だ進展を見せていない。
「この小娘がぁぁぁあああっ!」
エリザベートが癇癪任せに手刀を突き出す!
四指の爪は鋭利な刃と伸び、数メートル先に舞うカーミラを強引に射程へ捕らえようと襲い掛かった!
その挙動を瞬時に読んだ白い影は、またも大きな曲を描いて回避する。
「チィ……ちょこまかと!」
エリザベートの攻撃は、未だ当たる気配すら感じられなかった。ここぞと繰り出す手数は多いというのに、獲物は悉く優美な旋回に回避してしまう。
カーミラとの交戦で厄介だったのは、その縦横無尽な軌道取りだ。目線上にいたかと思えば、次の瞬間には降下して足下から迫る。かと思えば、その警戒を先読みしたかのように頭上から降ってきた。
そうした変幻自在な出現術から繰り出される二対の茨鞭は、奇襲してくる回数こそ少ないが的確なタイミングで無駄が無い。
それらを避け続けるエリザベートの反応力も、侮れないものではある。
が、あくまでも劣勢な感は否めなかった。
その自覚があればこそ、彼女自身の焦燥も否応なく募るのだ。
「ええい! 忌々しい百舌めが!」
専用の武器を有さない自身の戦闘スタイルが、これほど口惜しく感じた事はない。
カーミラには茨鞭、ジル・ド・レには剣、そして、カリナには細身剣……といった具合に〝武闘派〟と呼ばれる吸血鬼には愛用の武器がある。
一方で、自分やメアリーのような〝非武闘派〟には、そうした武器を所有しない者も珍しくはない。否、そちらの方が多いのが実状だ。
そもそも〈吸血鬼〉は、存在そのものが特殊能力の塊である。従って、そうした武器に頼らなくとも殆どの事象は脅威とならない。
尚且つ彼女の場合は、自身が足りない側面を魔女ドロテアに任せていた。この劣勢は、そうした依存が生んだツケかもしれない。
しかし、エリザベートは諦めが悪い性分であった。況してや相手が〝カーミラ・カルンスタイン〟であればこそ、頑として敗北を喫するわけにはいかない!
(考えよ! 何か策は有るはずだ!)
四方八方から繰り出される茨の舌!
しかも、今回のカーミラは両手持ちだ!
それだけ、彼女も本気ということだろう。
対するエリザベートは外套を盾として身を包む。
防御に徹しながらも、険しく睨む邪瞳は策謀を巡らせ続けた。
とはいえ、休まぬ攻撃が掠る毎に、外套は微々とダメージを累積していく。それは好ましい展開ではなかった。
元来、エリザベートの魔力底値は、カーミラよりも下回る。自力では及ばぬ空中戦能力をこなせているのは、纏った外套の魔力増幅による部分が大きい。しかも、この外套がドロテアによるカスタムメイドであればこそ、カーミラに匹敵するほどの底上げが実現しているに過ぎなかった。
またも繰り出される茨舌の連撃!
と、咄嗟に避わしながらも、エリザベートは何か違和感を察知した。
生来の油断ならない狡猾さが発揮した注意力だ。
(二:一……三:一……二:一…………)
黙視に数える。
(二:一……二:一……四:一…………)
ひたすら且つ確実に避わしつつ、黙々と数え続ける。
それが確信へと変わった瞬間、彼女はニィと邪笑を含んだ。
エリザベートがカウントしていたのは、カーミラから繰り出される手数の左右比率!
そして、それは確実に左手数の少なさを刻んでいた!
察するに、出会い頭の急襲が功を奏したのであろう。
間違いなくカーミラ・カルンスタインは、左腕にハンデを負っている!
付入る勝機が見えた!
(二:一……三:一……二:いまだ!)
自身の左腕を犠牲として、定期的に繰り出された左鞭をわざと受ける!
それは細腕を軸として絡みつき、細かく鋭い棘がガッチリと食い込んだ!
だが、それだけの対価はあった!
「捕らえたわ!」
「きゃあ!」
力任せに上半身を捻り、執念で引き寄せる!
姿を捕らえる事すら困難だった小鳥が、ようやく暴力に屈した!
慣性に突っ込んでくる獲物へ目掛け、エリザベートは右腕を突き出す!
その一撃が容赦なく腹をぶち抜いた!
「かふっ!」
小さく喘ぐように吐血する白麗!
しかしながら、それはエリザベートが欲した一撃ではない。
「チィ!」
思わず憤りを噛む。
不死者たる〈吸血鬼〉相手に腹など貫いても、然して意味はない。ダメージとしては大きいが、所詮、その場凌ぎだ。
「実戦慣れしていない不慨なさか。真に貫きたかったのは心臓よ!」
されど、千載一遇の好機を逃すほど愚かでもない。
すぐさま空いた右腕を獲物の首へと巻き付け、背後からギリギリと絞めあげた!
優勢に酔いしれ、無力化した小鳥の耳元で囁く。
「手を焼かせおって……だが、厄介な動きは封じたぞ」
「クッ!」
清廉が眉根を曇らせる様に、微かな情念を覚えた。怨敵に対する優越感か──或いは貞淑な小娘に対する情欲かは定かにないが……。
純白ドレスの腹部を鮮血が真っ赤に染め濡らす。その清らかな汚らわしさが、深層意識で眠る〈吸血鬼〉の本能を陶酔的に刺激した。或いは悪徳と邪淫に塗れた〝バートリー家〟の性かもしれぬ。
いずれにせよ、エリザベートは異常な興奮に酔った。自制の効かぬ加虐心が頭を擡げる。
茨鞭の拘束力が弱まった左腕が、カーミラの華奢な肩を鷲掴みにした!
「ぅああああああっ!」
「アハハハハ! 心地よいぞ! 夢にまで見たキサマの苦悶、実に心地よい! アハハハハハハハハ!」
更に力を込め、鋭爪を食い込ませる!
「っい! ……ぅああああああああ!」
「アハハハハアハハハハハハアハハハハハハハハ!」
実感した勝利に酔い、妖妃は狂ったように高笑った。
と、その反響に紛れ聞こえてくる微かな含み笑い。
「フ……フフ…………」
「な……なんだ?」
耳に届いた静かな笑い声は、己のものではない!
戸惑いながらに特定した出所は、他ならぬカーミラ・カルンスタインであった!
「フフフ……そうね。これだけ密着すれば、到底逃げられないわね」
「な……何を笑っている? それが判っていながら、何故に笑っている!」
「いい事? エリザベート・バートリー? わたしが逃げられないという事はね、同時に貴女も逃げられないという事でもあるのよ」
一瞬、エリザベートは戦慄する。
冷ややかな微笑を携える吸血姫の瞳は、見る者全てを〝死〟へと魅了するような闇を光らせていたからだ!
次の瞬間、カーミラの眼前に紅い光が短く伸び生える!
それは一振りの細身剣!
「何?」
予想外の連携プレイに虚を突かれ、エリザベートは地表を凝視した!
そこには、頭上へと愛剣を投げ託したカリナの姿!
一方、狼狽に対応が遅れた僅かな隙を、カーミラは見逃さなかった!
短く生まれた紅閃を素早く掴み取る!
途端、握る柄から強大な自己主張が溢れ出す!
(な……何? この魔剣?)
戸惑うカーミラの精神へと、魔剣の意思が浸食してきていた!
(まるで捕食! 禍々しい生命体による捕食だわ!)
沈黙のまま暴れる魔剣は、寄生するが如く彼女の内へと侵入してくる。
肉体的にではない。
宿主の存在そのものを取り込まんとする暴力的な支配意思だ!
(なんて魔剣! こんな化物をカリナは……!)
ひたすらに抗う!
いま、カーミラの精神は現実世界にない。
その魔眼に見えているのは、高々と荒れ狂う怒濤!
粘り気を帯びた赤き津波!
街並すらも呑み染める破滅的なイメージは、彼女の魂さえも呑み潰そうと唸り迫る!
永きに渡って糧と啜り喰らった鮮血が、積念に逆襲してきているかのようであった!
(このままでは呑み込まれかねない!)
気高き意志を精神抵抗の枷と敷き、逆に魔剣を支配せんと試みる!
だが、彼女が抵抗を示せば示すほど、無形の怪物は強大に化けていった!
(おとなしく下りなさい! 我が名は〝マーカラ・カルンスタイン〟! 誇り高き〈ジェラルダインの血族〉なのですよ!)
祖先の名と自らの真名を拠として、折れそうな戦意を立て直す!
その直後、背後から優しき抱擁を感じた。
ひたすらに穏やかで柔らかな抱擁を……。
しかし、伝わってくる温もりは心強いほど熱い!
(これは……ジェラルダイン?)
確証はない。
それでも、確信は湧く。
縁者故の共鳴現象とでも言おうか。
姿無き存在からの力添えであった。
原初吸血姫の魂が味方した瞬間、猛る赤魔が怯んだ!
たじろぐ隙を好機と判断し、いざ組み敷かんと構える。
と、カーミラは奇妙な違和感を捕らえた。
(え? これは?)
敵の中核に〝魂〟を感じる。
しかも、それは自身に力添えする魂とまったく同質──つまり〝ジェラルダインの魂〟という事になる。
(そう……そうだったの……この魔剣は……)
矛盾の中に正体の片鱗を見出した。
轟音を帯びて圧し寄せる赤波!
それは彼女の精神世界を呑み染め、全てを潮流に流し潰した!
赤き鉄砲水が鎮まり引いていく。
徐々に減水していく嵩から、血濡れの麗姿が現れた。
鮮血に汚れ濡れる高潔──白の吸血姫は自然体に佇むだけ。
まるで何事も無かったかのように……。
カーミラは、そこに在るだけだ。
──風に靡かれるが如く。
──草木と揺らぐが如く。
──大海に波とたゆとうが如く。
ただ在るがままに在り、素直に事象を受け入れる。
ただ、それだけ。
やがて、静かに瞼を開いた。
精神世界での攻防は、時間にして刹那でしかない。
魔剣への主従権を勝ち取ったカーミラは、静かに瞑想から帰る。
そして、己の腹もろともエリザベートを貫いた!
「がぁぁぁああああ!」
「く……ぁ!」
激痛の共有!
闇空に噴き上がるは赤の飛沫!
ようやくエリザベートは悟った。
左腕は囮だと!
謀られのは自分の方である!
「よくも……キサマ等、よくもォォォォォ!」
忌々しく呪詛を吠えつつ、貫かれた身体を楔から引き剥がした!
弁圧を失った傷口から、更に霧花が咲き散る!
「グ……アアアァァァ!」
一過性とはいえ、致命的なダメージを負った。
通常の剣なら──否、例え凡庸魔剣であっても〈吸血貴族〉である自分は、ここまでのダメージは負わない。
しかし、カリナ・ノヴェールの愛剣は、相当に強力な魔剣であった。まるで白木の杭に落雷を受けたかのような衝撃が、彼女の命を蝕んだ。それはカーミラにしても同じだろうが……。
紫妖は崩れる体勢のままに急落下していく。
もはや滞空する余力も無くしていた。
朦朧と虚に毒された瞳孔が、伏兵たる黒外套を捉える。
読唇術の心得があるわけではなかったが、少女の唇が何を刻んでいたかは読めた気がした。
────無様だな。
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白と黒の調べ Chapter.6
【挿絵表示】
紫翼は墜ちた。
宛ら、天界から追放された堕天使の如く。
否、そんなに尊厳めいたものではないだろう。
単に闇空から滑り落ちる投棄物だ。
地表へと叩きつけられた衝撃に、夥しい土煙が渦の幕と広がる。
その渦中で鳴った骨身が潰れる不快音は、爆発的な轟音で掻き消された。
「が……は…………」
地面を抉るクレーターの中央で、起点たるエリザベートが瀕死の苦悶を吐く。
半身をめり込ませた彼女を核として、無数の罅が力強く放射状に伸びていた。
墜落衝撃の凄まじさが察せるというものだ。
全身が砕骨しているのが自覚できた。
内蔵も殆ど破裂している事だろう。
にも関わらず、彼女は死んではいない。
虫の息ながらも息絶えてはいない。
ここに於いて〈不死者〉の特性が恨めしかった。
死なぬとは言ってもダメージはある。
現状、小指ひとつ動かせなかった。
明らかな致命傷過多だ。
さりとも棺で再生休眠していれば、数日で復活できるだろう。
それが〈吸血鬼〉の特性だ。
しかしながら、それが叶うはずもない。
むざむざと敵が見逃すはずもないのだから……。
気配を感じた。
異なる方向から、ふたつだ。
ひとつは、自身が転落した上空からフワリと柔らかく舞い降りて来た。
もうひとつは、コツリコツリと冷たい足音を響かせ歩いて来る。
それらが誰かは言うまでもない。白と黒だ。
「エリザベート……」
視野の外からカーミラが呼び掛けてくる。
温厚な口振りからは、明らかな哀れみが汲めた。
未だ朽ちぬ自尊心には屈辱的だ。
言葉交わす宿敵を睨みたくもあったが、瀕死の身体では生憎と首を動かす事も叶わぬ。
「いまにして思えば、露骨に悟れる手数は誘うための揚動であったか」
「ええ。貴女が推察した通り、わたしは左腕を負傷していた。その時点で、左腕は餌と割り切ったのよ」
「何故、詰めは借り物で? 愛用の茨鞭ではなく……」
「密着体勢では鞭なんて使えないわ」
「成程……最初から連携の奇策有りきであったか」
「まさか? カリナの助太刀は咄嗟の判断よ」
「何?」
「ああ、思いつきで投げてやっただけだ」
醒めた口調は、カリナ・ノヴェールのものであった。
「カーミラがキサマを縫い付けた時点で、何を姦計しているかは大方察しがついたからな」
「あら、以心伝心ね。察してくれて嬉しいわ」
「ぬかせよ。どうせ最初から、己の右腕を杭とするつもりだっただろう」
愛らしい白の微笑みを、黒が無愛想に避わす。
「もっとも、アレを使いこなせるかは賭けだったがな」
挑発めいて含み笑うカリナ。
その品定めに似た視線が、カーミラには意地悪くも思えた。
気持ちを切り替えた少女盟主は、再びエリザベートへと関心を移す。
「エリザベート・バートリー──貴女は軽視できない切れ者。わたしは常々、そう思っていたわ」
「……随分と買い被ってくれたものだな」
「真性の武闘派であるジル・ド・レ卿には、武力面では及ばないでしょう。けれど、メアリー一世と五分に渡り合えるだけの実力と知慮を内包している。そんな好敵手を相手取るには、虚を突く奇策が必要だと判断したの」
「好敵手……か」
宿敵が無作為に発した言葉を拾い、強く噛み絞める。
エリザベートにしてみれば、カーミラ・カルンスタインは徹底的に疎むべき仇に過ぎない。
だが、カーミラの方は、そんな自分を尊重すべき〝個〟として見ていたという事だ。
(……器が違うたか)
認めざる得ない──遅過ぎではあったが。
妖妃が永らく抱いていた野心は、いま此処に潰えた。
もはや未練すら無意味だ。
「さあ、殺すがいい。覚悟はできている」
「殺すのは構わんが、その前に訊いておきたい事がある」
カリナが尋問を向ける。
その声音は、あくまでも冷淡であった。
「訊きたい事だと?」
「キサマは先程〝ドロテア〟と叫んでいたな。察するに従者の名だろうが、何者だ?」
「クックックッ……そんな事か」
「ああ、そんな事だ」
互いに交わす乾いた探り笑い。
ややあって、エリザベートは素直に語り出した。
このような結末になっては、私事情報を隠匿する事に意味など無い。
何よりも、自分を見捨てた裏切り者へと一矢報いたい思いもあった。
「アレは生前からの従者よ。黒魔術の師事がために、我が雇うた。我を〈吸血鬼〉へと誘った者でもある。以来、ヤツは我の片腕として付き従った。もっとも、最後には見限ったらしいが」
「そいつ自身は〈吸血鬼〉ではないのか?」
「違うな。ヤツは〈魔女〉──即ち、大別的には〈人間〉だ。ただし、その実力は本物だがな」
「〈魔女〉……か」
推察するに、今回の謀反騒動には大きく一枚噛んでいる──下手をすれば黒幕だ。
エリザベート自身に野心があったにせよ、それを賢しく利用したに過ぎないのだろう。
利害合致や忠誠心があれば、主人の勝負所で雲隠れなどしない。
そう確信を抱きながらも、カリナは口にせず伏せた。
眼前で絶えようとしている敗者に対する、せめてもの手向けであった。
各人の黙考が、暫しの静寂を生む。
それを緩やかに破ったのは、諭すように柔和な抑揚であった。
カーミラ・カルンスタインである。
「ねえ、エリザベート? もう一度やり直せないものかしら?」
「……何?」
「確かに思想や理念で、わたしやメアリーの対極にあるかもしれない。けれど、貴女ほど有能な人材は惜しいと思うのよ。だって、そうでしょう? なあなあと同調しただけのぬるま湯では、更なる意識向上は望めないもの。そうした見地も、また一石を投じる貴重な意見。最近は殊更にそう考えるようになったわ」
述べつつ見遣る相手は、近況で一番の不穏分子。
「……私を見るな」
意味深な視線に気付いたカリナは、不貞気味に顔を逸らした。
「敢えて〝毒〟となれ……と?」
「言葉は悪いけれど」
「……どこまでもアマいな、カーミラ・カルンスタイン」
なけなしの反骨で悪態をつきながらも、いまのエリザベートには温情が痛かった。
身中の虫ですら蟲毒と受け入れる器量は、エリザベート自身には無い。
彼女の根底を成す自尊心と憎悪──それを軟化させていく慈母的な安らぎ──そして、そんな心情変化を頑として認ようとしない拒絶と敵意。
それらが混然となって、彼女の情緒を攪拌する。
短い沈思の後、敗将は決断を呟く。
「…………行け……捨て置け」
「エリザベート?」
「謀反者と裁く気も無ければ、我が軍門に下る気も無いと言う……そんな生殺しの晒し者にするぐらいなら、せめて無価値な屍と捨て置け」
次期盟主の野望は潰えたとしても、己の軌跡を否定する気など無い。
それでは、心底から醜過ぎる。
謀反者の意地を逸早く察したのは、孤高を我が身と知るカリナであった。
だからこそ、黒の魔姫は無関心を装って踵を返す。
「……行くぞ」
「カリナ?」
あまりに淡泊な対応に戸惑うカーミラ。
既に足早く先行した黒外套を後追いに駆け、白の吸血姫は酌量を訴えた。
「待って、カリナ! あのまま放置していては、エリザベートは……」
「最悪、朽ちるだろうな」
懸命に訴える顔すら見ず、カリナは黙々と歩き続ける。
「棺で再生休眠を採れば復活もできようが、床土すら無い野外放置では再生能力の発現は芳しくない。総ては負傷程度と個人の魔力にもよるが、あの具合では……な」
「それが分かっていて、何故?」
「分かった上でヤツは選択した。本人が下した決断に、我等がとやかく言う筋はあるまいよ」
「けれど!」
諦めの悪い温情を一瞥し、カリナは冷たい言葉に突き放した。
「オマエの甘言に乗るような恥れ者なら、私が斬り捨てている」
どこか寂しさを孕んだ口調に、カーミラは思い出す。
望めど叶わず死んでいった連中の無念を腐るほど見てきた──かつて、カリナが吐露した言葉だ。
故に、それ以上は食い下がるのをやめた。
現状に於いて誰よりもエリザベートの心境を理解しているのは、幾多の〝死〟を見てきたカリナ自身なのだから。
後ろ髪を引かれる思いであったが、二人の吸血姫達も、また誇り高き選択を下したのである。
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白と黒の調べ Chapter.7
【挿絵表示】
観念を据えた途端、乾いた自嘲が涌く。
「ク……フフフ…………」
自らが望んだ通り残されたエリザベートは、何故だか可笑くなってきた。
こうして幕を閉じてみれば、実に滑稽な道化である。
目に掛けていた懐刀には見限られ、侮蔑していた小娘共には温情を向けられる。
揚句、この無様な体たらくだ。
笑うしかない……頬を伝う熱さに酔って。
「エリザベート・バートリー──名門〝ハプスブルク家〟の遠縁にあたる歪んだ血統〝バートリー家〟に於いて、ある意味、その極みに達した者」
「だ……誰だ!」
不意に聞こえた濁声が、辞世の叙情を現実へと引き戻した。
その姿を確認したくとも、相変わらず身体を動かす事が叶わない。
先程の一幕とは状況が異なる。
正体不明の相手に為すがままでは、さすがに焦燥と戦慄を覚えた。
濁声は飄々としたおどけに言う。
「そんな警戒しなさんな。ただの〈死神〉だよ」
「死神……だと?」
「そう、ただの〈死神〉だ。だから、別にオマエさんをどうこうするつもりもねぇよ。ィエッヘッヘッ……」
身の毛がよだつ薄気味悪さを感じた。
その独特で下品な喋り方は、生理的嫌悪を否応なく触発する。
「その死神が何用だ!」
「オイオイ、死神の領分はひとつだぜ? そいつは〝死〟を頂き迎える事だ。アンタは、もうじき死ぬ。その瞬間を有り難く頂戴しようって寸法だよ」
「ふざけるな! キサマ如き下賤が我を……」
「フムフム、なるほどねぇ──最初は、戦地へと赴いた亭主の気を引くため……か?」
「な……何?」
濁声の指摘に、瞬間、エリザベートはギョッとした。
彼女の微々たる変化を捕らえたのだろうか、続ける濁声にはあからさまな優越感が含まれている。
「けれど、実際にはテメェの寂しさを紛らわせるためだったってか? 随分とまあ一途な理由で」
「キサマ、何を……?」
間違いない!
この男は──下卑た死神は、彼女の心を読んでいる。
待て、そうではない。
エリザベート自身は、いま現在〝過去〟を思い起こしてなどいなかった。
つまり正確に言うならば、見通されたのは〝心〟ではなく〝過去の事実〟そのものだ!
「最初は黒人の使用人から学んだ〝まじない〟か……ま、ソイツの根元は〝ブードゥー〟だな──初歩的な稚技だけどよ。んでもって、そいつがエスカレートして、今度は〝黒魔術〟へと傾倒したってか。そんなに亭主の戦死がショックだったかィ? おっと違うか。現実逃避したかったのは〝亭主の浮気〟だろ? ィエッヘッヘッ……」
「……や……めろ」
「やがて、口うるさい姑が目障りになってきた──ま、そいつは姑側も同じだろうがよ。だから、殺した。人気の無い階段から突き落とした。師事していた魔女と共犯でな。んで、首の骨ポッキリってな」
「……やめろ」
「犯行直後のオマエさん、いい面してるぜぇ? 一仕事やり終えた充実感に満ちてやがる……ィエッヘッヘッ」
まるで現場を目の当たりにしているかのような口振りであった。
いや、おそらく見ているのだろう。
だとすれば、それは〈霊視〉の類だ。
基より〈死神〉は、霊的存在である。
不思議ではない。
「抑止力の枷を取っ払った後は天下だったよなァ? 嫁ぎ先で、やりてぇ放題だ。で──ホゥホゥ、なるほど──癇癪任せにメイドをどついた事が発端かィ? 返り血で照ったテメェの肌を『若返った』なんて勘違いしてやがる……実にバカだねえ。その錯覚を維持するために、次々と処女を拷問したってか。そんなにも〝老い〟が怖ぇかよ?」
「やめろ!」
「だが、こりゃ羨ましい限りだぜ。悲痛な懇願と恐怖と恨み──極上のスパイスが豊富に添えられた〝死〟が日常的に垂れ流されてやがる。オレ様も御相伴に預かりたかったぜ……ィエッヘッヘッヘッ」
「やめろと言っている!」
「イヤだね」
侮辱への我慢が限界に達した瞬間、視界の隅に死神がヌッと顔を覗かせた。
薄汚く痩せた黒人の男だ。
悪徳に濁る目は喜悦に歪み、葉巻を銜えた大口が卑しく笑って歯を見せている。
「オレ様はよ、相手の人生を見通せるのさ。そいつで死に逝くヤツの羞恥を煽る──そうすると〝死〟に旨味が増すんだなコレが」
「キ……キサマ! ズケズケと立ち入りおって!」
「そう怖い顔しなさんなって。言った通り、オレ様は何もしやしないぜ? ただ〝事実〟を見通してるだけだ。もっとも赤裸々に〝過去〟を直視させられて、後悔と羞恥を抱かねぇヤツなんていやしねぇがな」
ゲデは自分を呪い睨む顔へと、これ見よがしに葉巻の煙を吹きかけた。
「実に滑稽なもんだぜ。聖職者も犯罪者も〝死〟の前にゃ同格だ。どいつもこいつも、テメエが刻んだ足跡を美化に誤魔化してやがる。詭弁に彩られた自己弁護──嘘八百の免罪符だ。そうでもしねえと、テメエが歩んできた人生を受け止められねぇらしい。そこまで恥ずべき人生なら、いっそ生まれて来なきゃ良かったのによ……ィエッヘッヘッィエッヘッヘッヘッ」
「こ……の下衆が!」
予想以上に最低な輩である。
引き裂いてやりたい殺意に呑まれたが、指一本動かす事すら叶わないのが忌々しい。
「さて、続けようぜ? 誇り高き〝吸血貴夫人〟様──」
「キ……キサマァァァ!」
「──と言いてぇトコだが、どうやら幕引きみてぇだな」
どうした心境の変化か、ゲデは口撃をやめた。
真意が汲めぬ違和感にエリザベートは懸念を抱く。
だが、それはすぐに氷解した。
次なる事態を認識した瞬間、彼女は戦慄を覚える。
周囲の瓦礫や物陰、路地裏や棟から、ぞろぞろと現れ始める人影。
最初はデッドかとも思った。
覇気無き動作は、それを錯覚させるに説得力があったからだ。
しかし、彼等はれっきとした人間──居住区画の在住者達であった。
一人……また一人と数が増え、あれよあれよと集団になっていく。
やがてそれは、地べたへと縫い付けられた贄に集まって来た。
「……〈吸血鬼〉だ」
「俺達を苦しめる悪魔が此処にいるぞ」
「なんでこんな……いままでだって、おとなしくオマエ達に従ってきたのに……何だってこんなマネを!」
「ふざけやがって! コイツ等にとっちゃ、俺達人間なんてゴミ虫でしかなかったって事さ」
「返せ! 私の子を! 妻を! 私の家族を返せ!」
口々に罵られる呪詛。
彼等の手に握られているのは、鉄の鎌──白木の杭──聖水────いずれも〈吸血鬼〉を殺せる物だ。
「おやおや、どいつもこいつも殺気立ちやがって。怖ぇ怖ぇ……ィエッヘッヘッ」
「キ……キサマ!」
「おいおい、勘違いしねぇでもらいてぇな? コイツ等は自発的に集まってきたのさ。ま、全部テメェ等が強いた政策のツケだな。オレ様のせいじゃねぇや」
「クッ!」
「もっとも、さっき散歩がてらに歌ったか。『この襲撃を仕組んだのは吸血妃だ~! そいつが、この先でくたばってるぞ~~!』ってな。ィエッヘッィエッヘッィエッヘッヘッヘッ……」
「キサマァァァァァアア!」
我を忘れた憤怒で妖妃の瞳が赤く染まる!
だが、睨み付けるべき相手は、何処吹く風で群衆の芋洗いへと掻き消えた。
──重い衝撃と鈍い痛覚!
自我を呼び戻されたエリザベートが認識したものは、地面へと打ち付けられた己の四肢であった!
「う……うあああああああああああああああああっ!」
肩に!
脚に!
手首に!
膝に!
狂気に呑み込まれた群衆は、一心不乱に杭を叩き打っていた!
「吸血鬼! 吸血鬼! 吸血鬼! 吸血鬼!」
「死ね! 死ね! 死んじまえ! 殺してしまえ!」
握り締めた煉瓦や石を、憎しみのままに杭頭へと殴り付ける!
ある意味、人間は怪物以上に〈怪物〉──カリナの持論だ。
その認識は間違いなく正論のひとつだろう。
いままさに、その側面は表層化していたのだから。
もっとも、その警鐘をエリザベートが知る由もない。
朦朧と霞み始めた意識に抗いながら、彼女は皮肉を噛み締めていた。
あれほど至悦だった鮮血の拷問が、今度は一転して自分を苦しめる!
首筋に感じる鉄の感触。
冷たい刃が、柔肌の弾力に食い込むのを感じた。
例え死すとも、その散り際は気高く美しく──そう想い描いていた吸血妃の最期は、けれども叶う事がなかった。
一際大きな赤花が散り咲き、黒い塊が跳ね飛ぶ!
それでも、残虐な狂気に取り憑かれた暴徒は鎮まらなかった。
もはや自制も倫理も働かず、積年の恨みを肉塊へとぶつけ続ける……ただひたすらに。
遠巻きに瓦礫へと腰掛けるゲデは、止まぬ赤の狂宴を肴と眺めていた。
「ま、頭部切断は〝吸血鬼殺し〟の常套手段だわな」
飄々と嘲りながら、携帯していたウイスキーを最後の一滴まで流し込む。
呷る視野に入ったのは漆黒の月。
黄色く淀んだ巨眼は、間違いなく、この惨状を眺めていた。
卑しく、悪辣に、興味津々と…………。
「喜べよ〝血塗れの伯爵夫人〟様、オレの御主人様も堪能してやがるぜ……ィエッヘッヘッヘッ」
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白と黒の調べ Chapter.8
【挿絵表示】
双色の吸血姫達は、ようやく小汚い安息所へと帰って来た。
その外観を見上げ、カリナは軽い安心を抱く。
(取り立てて、異変は感じられんな。縦しんば何かあっても、心配には及ばんだろうが……そのために、メアリーのヤツを残しておいたのだから)
軋む階段を踏み登る。
先の経緯からか、互いに黙々と歩を刻むだけだった。
ひたすらに会話は無い。
激闘の疲労感もあるだろう。
されど、カーミラに限っては、それだけではなかった。
胸中を巡る思いが釈然としないからだ。
エリザベートの末路……ではない。
その事は既に割り切っている。
胸中に逡巡するのは、もっと別な事柄であった。
「ねえ、カリナ? ちょっといいかしら?」
黒外套に続いて登る最中、我慢しきれず訊ねる。
背後からの不意な訊い掛けに、カリナは無愛想な仮面を再武装した。
「何だ?」
「貴女の魔剣、いったいどういった代物なの?」
「フン……やはり、それかよ」
登りきると目的の部屋は、すぐ側である。
故か、カリナは踊り場で小休止とした。
対話応対が多少込み入るのを予測しての判断だろう。
「正直、感心したぞ。コレを組み敷ける者が、私以外にもいたとはな」
黒艶にくすむ樫の手摺へと背を預け、軽い優越を含んだ態度に返す。
相変わらず、軽視的な毒気を帯びた言い方だった。
「あら、そう思ったからこそ、投げ託してくれたんじゃなくて?」
「まあな。万にひとつの可能性だが、そうした展開が有り得るなら見たくもあったさ。それと、もうひとつ──」
「何かしら?」
「──〈伝説の吸血姫〉とやらが、無様にしくじるのも面白い……ともな」
悪戯的な笑みを浮かべている。
さりながら、敵意ではない。
そこから判断する限り、おそらく本気ではあるまい……と思いたい。
「それは残念な結果だったわね。で? いつから愛用しているのかしら?」
「最初からだ」
「闇暦以前の記憶が無いと伺ったけれど?」
「ああ、そうだったな。だから、私が認識した時点からの話さ」
「単刀直入に訊くけれど、それは何なの?」
「さあな。だが、コイツの中には〝ある者〟が棲む」
その事実は既に知っている──そう思いつつも、カーミラは言葉を敢えて呑んだ。
カリナ自身が把握している詳細を引き出すためである。要は探りだ。
が、ポーカーフェイス戦に於いては、流れ者の方が上手だったようだ。
「その面じゃ、オマエも会ったようだな」
微々たる不自然さを鋭敏に感じ取り、例の如き冷ややかな口調を先制する。
「ま、当然か。だからこそ、コイツを組み伏せる事ができた。一応は合点がいったぞ」
「お見通し……か」
カーミラは、はにかんだ苦笑に誤魔化した。
「会えたのは幸運だったな。でなければ、コイツは制御できん。さもなくば、オマエの魂すらも糧と喰らっただろうよ」
「糧と喰らう……つまりは〝生きている〟という事よね」
「ああ。操者の魂も、斬り捨てた敵も、等しくコイツの餌だ。そうして魔力底値を上げていく。戦えば戦う程、そして喰らえば喰らう程、コイツ自身が強くなるのさ」
「正直、驚いたわね。確かに〝自我〟や〝残留思念〟を宿す魔剣は、世に幾つか存在するわ。精製魔法によって付随形成された〝疑似〟人格もね。そうした魔剣は総じて稀少な武具だけれど……それは一線を画する」
「ま、おそらく唯一無二だろうな」
「ええ。その魔剣は〝魂〟そのものを内在させている。ううん、どちらかと言えば転生体に近い物よ」
「事実、そうなんだろうよ」
「その魔剣に巣喰う人が、誰かは御存知?」
「かつて、真名を聞き出した事がある。確か〝ジェラルダイン〟と言ったな。第一世代吸血鬼──つまり〈原初吸血鬼〉の魂らしい。だから私は、この魔剣を〈ジェラルダインの牙〉と名付けた」
浅く渇きを覚え始めた喉を柘榴啜りに潤す。
「相変わらず、続けるのね」
「……何がだ?」
「それ──柘榴よ」
白から指さされ、軽く嗜好品へと見入る。
「菜食主義も結構だけど、度が過ぎると身体に障るわよ」
「ほっとけよ」
カリナは軽く鼻を鳴らし、目線を逸らした。
こうした指摘である以上は、間違いなく柘榴の意味合いを見透かされている。
なんとも面白くない。
「適度に生き血を摂取しなければ、魔力も低下するわ」
「ハッ……先の戦闘で、私の魔力が劣っているように見えたかよ?」
(……そこなのよね)
カーミラが知る限り、カリナは吸血行為を断っている。
にも関わらず、魔力に陰りは無い。
自分に匹敵する強大さだ。
(蝕んでいないはずはないのだけれど……)
ともすれば、底値自体が高いという事だ。
稀にみる存在ではある。
それだけの魔力という事は、少なくとも第三世代以降ではあるまい。実に興味深い。
「まあ、いいわ。で、経歴は?」
「……どちらのだ?」
「どちらの?」
「剣か? 柘榴か?」
「剣よ」
「知らん。正直、興味が無いしな」
「そう」
それ以上は追求せずに、カーミラは話題を終息させる。
(十中八九、わたしが行き着いた〈真相〉に間違いないでしょうね。けれど、それを語り聞かせるタイミングは、いまではないわ。それよりも優先すべきは──)
想起した瞬間、カーミラの瞳は強い固執を燃え上がらせていた。
(──そう、最優先すべきは〈レマリア〉の存在!)
尋常ならざる凄みが魔眼に宿る!
けれども、それが表層化したのは数秒にも満たない。
自覚したカーミラは、すぐさま普段の貞淑な物腰へと返ったからだ。
その変化に気付けなかったカリナの迂闊さは、カーミラにとって幸いな油断である。
(事前に動揺させる事は、極力避けたいものね)
そして、実行すべき時期は遠くない──そんな予感を確信と抱いていた。
ガタつく扉を開くなり、満面の安堵が出迎える。
リック少年とメアリー一世であった。
「カリナ! マリカル!」
「御双方、どうやら御無事で……」
左腕の痛みを押し隠したカーミラが、憂いある苦笑を返答とする。
とはいえ、高貴なる純潔を損なう腹部の赤は、無言の心配を課したようだが。
一方でカリナは、そわそわと落ち着きを無くしていた。
まるで心在らずの様子だ。
その視線は、些か焦燥気味に周囲を捜している。
目敏く察知したカーミラが声を潜めて訊ねた。
「どうしたの?」
「いや、レマリアの姿が……」
「あら、あそこにいるのは違って?」
目線で指す先を追うと、柱時計の陰から若草色のスカート裾がはみ出ている。
それを認識したカリナは、ようやく平静さを取り戻したようだ。
「どうやら隠れきれないでいるらしいな」
「きっと怖くなって、隠れていたんじゃなくて?」
「ああ、そうか。そうかもな……」
「身の守り方、教えてあったんでしょう?」
「うむ。万ヶ一、私と離れた場合は、物陰へと隠れるように教えてあったはずだな──そうだとも」
「そうでしょう? きっと、それを守ったのね」
母性に染まる黒姫は隠れた女児へと歩み寄る。
その側で片膝付きに屈むと、悪戯っぽくスカート裾を軽く摘んでやった。
「……見えてるぞ」
ひょこりと顔を覗かせる無垢。
「わたし、みつかってないのよ? だって、ちゃんとかくえてますからねーだ」
拙い負けん気が「イーッ」と顔を歪めた。
どうやら簡単に見つけられた事自体が不服らしい。
そんな愛しいおしゃまさを、彼女は優しく抱き上げる。
「そうだな。だが〝かくれんぼ〟は、もう終わりだ」
「おわり?」
「ああ、敵がいない」
「おにさん、バイバイしちゃった?」
つまらなさそうに意気消沈していた。
その背中を軽く叩いて、あやしてやる。
カリナにしてみれば、駄々封じの先手は慣れたものであった。
親指吸いにおとなしくなったレマリアが、頭をコテンと胸枕へ委ねる。
それから左程も経たずに、幼女は微睡みへと落ちていった。
「……よく寝るヤツだ」
軽く呆れながらも、愛らしさに癒される自分がいた。
身体を揺り篭と泳がせ、たゆとう波長を共有する。
しばらくして、徐にリックが近付いてきた。
心無しか、その態度は怖ず怖ずとしているようにも見える。
「あのさ、カリナ?」
「何だ」
「う……ん、さっきリャムから聞いたんだけど……」
些か訊き辛そうに躊躇っていた。
察したカリナは、慣れた無愛想を装って促す。
「どうした? 黙っていても進展はないぞ」
「うん……じゃあ、思い切って訊くけどさ」
深い一息を吸うと、少年は迷いを断った。
その勢いのまま、意を決して疑問をぶつけてみる。
「カリナって〈吸血鬼〉なのか?」
「…………」
「…………」
「……フッ、今更かよ」
黒外套は砕けた苦笑を携え、その答えとした。
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~第三幕~
醒める夢 Chapter.1
【挿絵表示】
「何処だ! いったい何処に!」
胸中を焦燥一色に染め、カリナは城内を駆け巡った!
迷宮の如き造りが煩わしい。
彼女にしては珍しくも、ありのままの自分を露呈していた。
それも無理はない。
彼女が〝彼女〟たるアイデンティティーが、見失われていたのだから。
それだけを必死に捜し求め、彼女は駆け続けていた!
霊気に満ち溢れた広い魔城内を、ただひたすらに……。
「何処にいるんだ! レマリアァァァアアッ!」
慟哭とすら思える悲痛な叫びが、閑寂とした大回廊に響き渡った。
天空の闇を舐める紅蓮の焔!
ロンドン塔の城壁周囲を、大規模な朱舌が取り囲む!
その勢いは鎮まる兆しすら無い!
ただひたすらに灼熱は宴を踊り狂っていた!
城壁へと押し寄せる夥しい数の死体──即ち〈ゾンビ〉の群である!
謎の軍勢による夜襲は、虚を突いた利のままに展開していた!
「クソッタレ! 何なんだ、コイツ等は!」群がる屍兵を破壊し続け、アーノルドが苛立つ。「捌いても捌いても減りゃしない。それどころか怯む気配すらねぇぜ!」
防衛部隊を率いて出陣したものの、予想以上に面倒な敵であった。
加えて、戦場の条件も悪い。
城門は南方角に当たり、表通りは東西へと伸びる。
横たわるテムズ川に沿った形だ。道幅はそれなりだが、乱戦に適したほど広いとは言い難い。
そんな路上を、蠢く黒波が埋め尽くしていた。敵勢は両側から押し寄せて来ている。物量押しの挟撃だ。
結果として〈不死十字軍〉は、城門前に固まる陣型を余儀なく強いられていた。
「このままじゃ圧倒的な敵数に消耗していくばかりだぜ! バリケード代わりの人身御供に過ぎねぇ!」
「焦られるな! アーノルド殿!」
背後からの檄が平常心を促す。
東側の敵を相手取る吸血騎士──ジル・ド・レ卿だ。西側を受け持つアーノルドとは背中合わせとなる。
「単にタフネスさの底値が高いだけだ。個としては、たいした〈怪物〉ではない」
騎士の剛剣が敵兵の頭を破断した。
が、倒れた死体はゆるりと起き上がり、何事も無かったかのように戦線復帰を果たしてしまう。
「頭を破壊しても死なぬ……か。どうやらデッドとは勝手が違う」
「敵一体を沈黙させるのに、こちらは二人殺られる! 割が合わねぇ!」
「致し方あるまい。我等と同じ〈不死者〉ではあるが、小奴等には自我が欠落しているようだ。つまり〝死〟や〝痛み〟を恐れない。玉砕前提の捨て駒戦法は、物量押しに相性が良過ぎるのだ」
「基礎能力では我々〈吸血鬼〉の方が、圧倒的に勝っているのにか?」
「小奴等に相対して、我等〈吸血鬼〉は生前の精神性を色濃く維持している。つまり〝焦燥〟や〝動揺〟といった感情が、未だに涌くという事。衛兵達の志気にも影響は出よう。そうした精神面の脆さが、劣勢を招く要因ともなっているのだ」
「ハッ! そんな腑甲斐無さで、よくも〈闇暦大戦〉へ参戦しようとなんざ考えたもんだぜ」
アーノルドの凡庸魔剣が、敵の眉間を貫いた!
無論、成果はない。
「……クソッタレ」
見渡す限り、死体だらけであった──動くも動かざるも隔たりなく。
彼等〈吸血鬼〉の存在そのものも、例外にない。
阿鼻叫喚に展開するは、血の謝肉祭。
エリザベート・バートリーの謀反から、僅か三日後の凶事であった。
城郭の頂から戦況を見据える白き麗影──カーミラ・カルンスタインの姿だ。眼下の混戦を観察する表情は渋い。
防壁を吹き登る熱風が強烈な異臭を運んだ。血飛沫の鉄分臭と戦火の焦臭さが混じり合ったものだ。
「不快ね。まるで〈終末の日〉を思い出させる」想起される回顧を疎む。「ねえ、メアリー? あの時よりも、ゾンビの数が増えていなくて?」
脇に並び添う真紅のドレスが、形式的な恐縮で答えた。
「そのようですね。カリナ殿の教示を考慮すれば、あの時の三倍はいるかと」
「凡そ一八〇体ってとこ? 僅か三日程度で、そんなに増えるものかしら?」
「あの後、私なりに〈ゾンビ〉の文献を調べました。どうやらネックとなるのは、甦生呪術に要する儀式時間だけのようです。魔術精通者であれば、三日は充分過ぎるかと」
「肝である〝死体〟は?」
「大前提として〈デッド〉化していない〝純粋な死体〟に限るようですが……その気になれば、いくらでも調達できましょう」
メアリーの見解に眉を曇らせた。平静を装った言い回しではあったが、明らかな含みがある。
「それって、まさか?」
「恐れながら、居住区の人間達を虐殺した可能性も……」
カーミラは強く唇を噛んだ。望まざるべき返答でありながらも、予想通りの示唆に。
居住区画の煉獄は、まだ生々しく胸中に刻まれている。
(なまじいエリザベートと対峙しただけに、彼女の謀反が核だと思い込んでいた──それは迂闊な短絡だったわね。傀儡の裏には〝黒幕〟たる存在が別にいる。となれば、その目的は違っても当然なのだから)
カリナが追求し、エリザベートが言い遺した〈魔女〉の名前が思い出された。
「ドロテア……か」
如何に不死身の〈吸血鬼〉といえども、今回の持久戦は些か不利な状況にある。
敵軍先陣へと深く切り込んだジル・ド・レも、さすがに焦りを覚えていた。
(アーノルド・パウルが苛立つのも無理はない。こうも不死身では……)
先程、彼自身が口にした通りであった。物量押しの戦術は、ゾンビ兵に相性が良過ぎる。況して自我が欠落しているが故に、玉砕前提の捨て駒扱いを物ともしない。
剛剣の一突きが、まとめて二体の頭部を破砕した!
西瓜の如く弾け散る!
当然、意味など無い。首無し死体として復活するだけだ。
「下等故に上位を下す……か。皮肉な下克上だな」
浅く自嘲を浮かべる。
頭では理解していながらも、対デッド戦のノウハウが自然と滲み出てしまう。体に染み着いた〈戦士〉としての習性であった。
(確かにゾンビ共のタフな性質は厄介だ。さりとも我が軍の兵が不慣れな点も、劣勢要因としては大きかろう──実戦経験の不足だ。所詮、近代吸血鬼は戦の世を知らぬ。安寧世代の緩さよ)
内政面では一目の価値を尊重してきたが、前線に於いては軟弱な有象無象に過ぎない。
(斯様な組織実態では〈闇暦大戦〉へ参戦したところで底は見えておるな)
歯痒い。
数世紀の間、摂理に反して生き長らえた。
それもこれも抱く理想へと邁進すればこそだ。
理想──いや、待て。
理想とは何だ?
そもそも何を追い求めていたのだ?
取り留めもなく涌いた自問に戸惑う。
と、混戦の渦中で見知った顔を見つけた。
深々と被った漆黒の長外套姿。まるで様子を窺うかのように、城壁裾へと佇む男。
疑心誘発の忠臣に他ならない。
「プレラーティか?」
死体を捌きながら確認する。
「ジル・ド・レ様、機が訪れました」
「機だと? 何を言っておるのだ!」
意味不明な訊い掛けを拾いつつ、数体の敵兵を纏めて破壊した!
「斯様な謎掛けを戯れる暇があれば、我が片腕として加勢せぬか!」
「……機が訪れたのでございます」
「だから、何を──」
叱責する中で、違和感を覚えるジル・ド・レ。
混戦状況そのものは変わらない。
しかし、黒集りに空間が拓いていくではないか。群がるゾンビ達が緩慢的な動きに退いていったのだ。ジル・ド・レの周囲に限り……。
「こ……これは?」
「機が訪れたのでございます」
暗い瞳が淡々と促す。
直感、ジル・ド・レは悟った。
ゾンビ共の撤退は、この男の術だと。
黒魔術によって排除したわけではない。そうした術に不可欠な動作を振舞ってはいなかった。
ともすれば、絶対的な支配権の行使とさえ思える。
根拠も証拠も無い確信だ。
だがしかし……。
(否、それ以外にも不自然さはあったではないか!)
ジルは訝しんだ洞察に睨む。
(そもそも、この男は何故襲われずに居たのか?)
これらの状況を客観的に分析すれば──この軍勢を率いていたのは、プレラーティ自身という可能性が高い!
「プレラーティ! キサマ、一体?」
「私は従者──貴方様の願いを叶えるべく付き添い続けた影でございます」
「ワシの……願い?」
正視に睨み据えた魔術師の目が爛々と赤い照りを帯びる。
吸血貴族たる自分ですら不気味な禍々しさを感じた。
呑まれるような赤い闇──自我も意識も思考も何もかもが、混沌と攪拌されて境界線を無くしていく。
宛ら、彼等〈吸血鬼〉の常套手段ある〈催眠術〉を連想させた。
が、その魔力の源泉は、もっと根深く感じられる。魔界の深淵から湧き出るようなパワーソースだ。
つまりは、単なる精神技巧ではない。
そうした分析観を抱きつつも、ジルは次第に己を見失っていった。
夢遊のように全てを受け入れ、誘惑の声へと歩み寄る──全てを受け入れ? 何を?
何一つ確かな情報も無いというのに?
この男は何者だ?
目的は?
何故、自分を誘う?
そして、己は──ジル・ド・レ自身は何を求めてきたというのだ?
明答など見えない。
見えぬまま、ジルは受け入れつつあった。
やがて並び立った主人と従者は、そのまま屍群陣営の奥深くへと呑まれ去る。
背後から投げ掛けられるのは、部下の制止と断末魔──赤飛沫の悲鳴──骨身が潰され果てる醜音。
それらを手向けと浴び、吸血騎士は決別の歩を刻む。
もはや戦況の行く末など、どうでもいい。
これから満を持して刻むべきは、ジル・ド・レ自身の足跡なのだから。
「随分と大掛かりな人形劇ね」
辟易とする気持ちを押し殺して、カーミラは思索を巡らせていた。
(ゾンビ自身は単なる労働力……自己判断力や知恵なんかは持ち合わせていない。つまり攻城戦を指揮している黒幕が近場にいるという事)
未だ見ぬ〈魔女〉の存在が憎々しい。
主人を捨て駒とした外道。これだけの兵力を水面下で整えていた狡猾な策士。
「メアリー、此処数日で襲撃被害に遭ったと思われる居住区画は?」
「それはまだ調査していませんが……なにより、居住区の実態調査はコンスタンスではないので」
「大至急調べて下さい。必要とあれば、貴女自らが城外へ赴いても構いません」
「この状況下で戦場を離れろ……と?」
「構いません。わたしからの勅命です」
カーミラの瞳には毅然たる意志が宿っていた。
それを汲むが故に、メアリーも素直に殉ずる。
背後で一礼を払うと、彼女は紅い蝙蝠へと変化した。
居住区の方角へと飛び去る知獣を見送り、少女城主が瞳を上げる。
と、はたして忌むべき敵は、そこに存在していた!
黒月の巨眼を後ろ盾に浮遊する人影!
距離にして約二〇メートル先──黒い長外套を靡かせ、戦火の頭上に滞空している!
一瞬、エリザベートの亡霊かとも思った。
だがしかし、それは有り得ぬ話だ。呪われたる魔物と堕落した〈吸血鬼〉の魂は、霊界の理から除外排斥されているのだから。故に〝再生〟こそすれ〝輪廻転生〟などしない。況してや〈幽霊〉などになるはずがない。
「まさか……あれは?」
『ああ、私が〝ドロテア〟さ』
カーミラの推察に影が答える。肉声ではない。低く静かな囁き声を聞き取るには、互いの距離が離れ過ぎている。当然ながら〈魔術〉による無声会話だ。
「満を辞して〝黒幕〟自らの御登場かしら?」
思念を返す。
『黒幕? クックックッ……』
「あら、何か可笑しくて?」
『クックックッ……我は露払いに過ぎん。イギリス全土を掌中に収めるためのな』
「やはり、本隊は別に控えているって事ね。或いは〈不死十字軍〉同様に、未だ母国で胎動中なのかしら?」
『……何?』
「敵対勢力の本格的侵攻ならば、全面攻撃を打ってくるでしょうからね。けれど、エリザベートの謀反を唆した暗躍に、夜闇に紛れた消耗品による奇襲──あまりにも小規模で場当たり的過ぎる」
『…………』
「背後にいるのは、エジプト? イタリア? それとも、まさかフランスかしら? どちらにせよ〈魔女の勢力〉なのでしょう?」
『……よく喋る』
ドロテアの声音から抑揚が消えた。それは情報隠匿を再意識した証拠である。
(これ以上は語らず……か。誘導尋問は失敗みたいね)
詳細看破を突きつける事で動揺を誘ってみたが、結果として裏目に出たようだ。逆に警戒心を誘発し、これ以上の聞き出しは望み薄となってしまった。
(けれど、それは当たらずとも遠からずって事を語っているようなものよ……魔女ドロテア!)
互いに出方を窺う反目が続く。
ややあって、浮遊する影が揺らいだ。
魔女が消え去るのを察知し、カーミラが制止を叫ぶ!
「御待ちなさい! 魔女ドロテア!」
しかし対応は紙一重で遅く、その幻姿は霞と消えた。
『カーミラ・カルンスタイン、キサマ達〈吸血鬼〉の軍勢は今宵滅びる。ロンドンの領有権は、我等の掌中に……』
置き土産の声が拡散して響く。
「虚しい支配権なんて、どうでも良くってよ」カーミラは虚空を睨み据え、忌々しく本音を吐き捨てていた。「けれど、貴女を許す気は無いわ。自らの姦計のために忠義を吐き捨てる──わたしの最も嫌う人種ですもの」
静かなる敵意に、エリザベートの哀れさを愁える。心より信頼を置いていた腹心に裏切られ、道化と堕ちた哀れさを……。
それは、如何に絶望的な惨めさであっただろうか。あのような無慈悲な姦計を、繰り返させてはならない。
総ての元凶は、あの〈魔女〉だ!
絶対に討たねばならない!
次なる〝エリザベート〟を生み出さないためにも!
と、背後に何者かの気配を感じた。
重々しい男性の声が、彼女へと呼び掛ける。
「カーミラ様」
「ジル・ド・レ卿?」こうした戦況には頼もしい人材であった。「丁度良かった。折り入って御願いがあるの。しばらく、わたしに代わって戦局の指示を──」
そう告げて振り返ると同時に、腹部で熱さが燃える。
「……え?」
状況が呑み込めず、カーミラは確認の視線を落とした。
彼女の腹部を貫く簡易魔剣!
「珍しくも虚を突かれましたな。この目まぐるしい乱戦下では、無理からぬ事ではありましょうが」
力強く刃を捻込む!
それは宛ら、エリザベートの仇討ちにも思えた。
「かふっ!」
白が赤を噴く!
「所詮、貴女は浮き世離れ。戦には疎過ぎる」
「ジル……ド……?」
「いま一度、生まれ変わらねばならぬのです──このロンドンも──我等〈不死十字軍〉も──そして、私自身も────」
魔剣に断腸の念を込めるジル!
「っああ!」
可憐が鮮やかに生命を吐く!
理不尽な餞別を引き抜かれると、麗しき少女吸血姫は自らの血溜まりへと崩れ倒れた。
まるで、冷たい眠りへと落ちるかのように……。
本格的な戦ともなれば、来賓や使用人たる〈吸血鬼〉の出る幕はない。率直に言えば〝役立たず〟だ。
ジョン・ジョージ・ヘイとペーター・キュルテンによる合同部隊の任務は、そうした輩を保護する役目にあった。
狼狽に踊る来賓達が、速やかに安全な場所へと誘導される。具体的には屍棺安置室や血液貯蔵室等だ。こうした部屋は総じて地下に設けられているため、緊急避難壕としての側面も補っている。
慌ただしい誘導を終えると、ジョンは一階へと登った。正面大回廊へと続く通路だ。固より深い霊気を漂わせる情景が、更に拍車を掛けた蒼い虚構へと染まっている。
城内には、人の──否〈吸血鬼〉の姿気配は全く無い。避難するか戦地へ赴くか……その二択だ。
手近な窓から外を眺めると、城壁の向こうには朱宴が鮮やかだった。
加勢できぬ弱さが歯痒い。だが、自分達は戦火が鎮まるのを待つしかなかった。
「とりあえず全員避難させたな」
背後からの声に振り向く。遅ればせながら登ってきたペーターだ。
「非戦闘的なボク達には適した任務だね」
軽く自嘲を含むと、ジョンは視線を城外へと戻す。
ペーターも、それを追った。
「ジル・ド・レ卿とアーノルドに任せるしかないさ」
と、ペーターは異変を感じる。
「な……何だ?」
俄に血相が変わった。
ジョンは、まだ気付かない。
「どうしたんだい?」
声も届いていないかのように、ペーターは睨み据えている。どうやら焦点は城門だ。
釈然としないままそれに倣い、ようやくジョンも驚愕を漏らした!
「城門が……揺れ軋んでいるっ?」
外側からの大きな圧力だ!
それはつまり、敵勢が押し寄せているという事実に他ならない!
「殺られたっていうのか? ジル卿とアーノルドが……我が軍きっての防波堤が?」
「僕にしても俄には信じ難いよ。けれど、これは紛れもなく現実──有無を云わさずね」
「クソッ! どうすればいい!」
「まだ現在は巨大閂が耐えているけど、それも僅かな猶予でしかないだろうね」
「実戦部隊は総て迎撃に出たんだぞ! 応戦できる兵力なんか残っちゃいない!」
加熱するペーターに反して、ジョンは沈着冷静を保っていた。口元に手を添えて黙々と思索する姿は、まだ希望を捨てていない。
「おい、ジョン?」
「我々は、戦闘能力で〝吸血貴族〟に劣る──傭兵経験者のアーノルドは別としても。つまり、それさえ補えれば応戦する事も可能なはず」
「だろうさ。けど、現実的に無理な話だ。いまから訓練でも重ねるってのか?」
「待ち給えよ。僕は『我々には応戦手段が無い』と言ったのさ──つまり僕と君に限った話だ」
城門を警戒に睨み続け、ペーターが焦れる。
「正直、話が見えないな。手短に要点だけを言ってくれ」
その時、威勢猛々しい勧告が告げられた!
城門の外からだ!
「聞けぃ! 残留兵共!」
気迫だけで通る叫び声!
聞き覚えを抱き、二人は顔を見合わせる!
「この声は……ジル・ド・レ卿か!」
「貴様等の主君カーミラ・カルンスタインは、既に我が刃に倒れている! 防衛線たるアーノルド・パウルも、我が屠った!」
ようやく合点がいった。
この急変した劣勢は、ジル・ド・レ卿が寝返ったが故なのだ!
理由は判らない。
が、突破された防衛線が、その事実を立証している!
「速やかに降伏し、我が軍門へと下れ! 一時間だけ猶予を与えてやる! よく考え、賢い選択をするがいい!」
そう言い残して、気配は消えた。夢幻であったかのように鎮まる城門。
訪れた静寂の中で、ペーターが嘆息混じりに零した。
「やれやれ……カーミラ様が倒され、アーノルドも死んだ──何よりも主戦力であるジル卿が寝返った以上、我々には打つ手は無いぜ?」
「仮にカーミラ様が殺られたのだとしても、我々には匹敵する一騎当千がいる」
思いの外、ジョンは涼しい。
「そいつは〝ブラッディ・メアリー〟の事か?」
「いいや」
「もしかして、ドラキュラ伯爵なんて言うつもりじゃないだろうな? 確かに〈伝説の吸血王〉かもしれないが、来城した事すら無いんだぜ?」
「いいや」妙案を含んだ微笑を携え、ジョンは明答する。「カリナ・ノヴェールさ」
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醒める夢 Chapter.2
【挿絵表示】
カリナの疲労はピークに達していた。肉体的に……ではない。精神的消耗だ。
そもそも〈吸血鬼〉は〝死人返り〟であると同時に〝幽鬼〟の類でもある。スタミナによる束縛など無いに等しい。
されど〝心〟は、そうではない。
「何処だ……何処に行ったんだ……レマリア」
回廊の石段へと腰掛け、呟き耽る。
まるで不安定で脆い印象であった。普段の孤高は見る影も無い。
現在の彼女は、単に無力な少女に過ぎない。
そもそも悲劇の発端は、カリナが自室を離れていた事に遡る──即ち、ジル・ド・レ率いる防衛部隊が出陣した直後だ。
興の臭いを嗅ぎとった黒の吸血姫は、好奇心のままに城外へと飛び立った。城壁の天辺で足組ながらに腰掛けると、冷ややかに眼下を眺める。喧噪けたたましい下界には、既に苛烈な戦いが展開していた。不毛な潰し合いは、単に柘榴の肴でしかない。
「まるで蟻の縄張り争いだな」
高見に観察する黒集りは、カリナの目にそう映った。
頻りに散る赤花だけは華々しいが……。
「さてと、御手並みを拝見させてもらうか」
吸血貴族達の迷走を期待し、攻撃的にほくそ笑む。
戦況などは、どうでもいい。ただの退屈凌ぎだ。
「片や選民意識に溺れた死体、片や自我損失に動かされる死体──どちらにせよ、殺し会うのは〝死体〟同士だ。そして、生き残るのも〝死体〟……滑稽だよ」
嘲りに満ちた達観を漏らす。
別段〈不死十字軍〉へと加勢する気など無い。どのみち、自分は招かれざるべき部外者だ。
と、尾を靡かせながら飛来する幾条もの紅蓮!
火矢だ!
敵陣後方からの遠距離攻撃である!
次々と射られる炎の加勢!
それさえも、カリナは冷静な分析で片付けた。
「デッドと違い、ゾンビには道具を使う応用性がある。それを課す指示者がいれば……な」
仮に吸血鬼の城が陥落しようと、無頼者の自分には影響など無い。
堅固な石壁に阻まれ、火矢が落ちていく。
奇跡的な流れ弾が、カリナへと目掛けて飛んできた。
しかし、彼女は微動だにしない。微かに顔だけをずらして避ける。脆弱な炎がチリッと頬の横を過ぎた。
「投石機でも据えれば良かろうよ」
数本は窓から城内へと飛び込んでいたが、だからといって戦局を覆す事などあろうはずもない──そう高を括っていた。
直後、城内からの炎上!
勢いに息吹いた炎が、窓から雄叫びを上げた!
「何っ?」
予測外の事態である!
悪運強く部屋へと辿り着いた火矢が、可燃性の内装へ引火したに違いない!
瞬時に脳裏を過ぎったのは、何よりも優先されるべき保護対象──レマリアの存在!
「マズい!」
判断も束の間、無数の炎が降り注ぐ!
敵は休む間すらなく放ち続けた!
次々と容赦無く撃ち込まれる灼熱の流星群!
「チィ、確実に城窓狙いか……有効策と判断したな!」
種火と種火が互いに助長し、巨大な轟炎へと化ける!
外敵を堅固に退け続けるロンドン塔は、しかし内部から蝕まれていた!
一際大きい爆発!
城郭の一部が吹き飛ぶほどの威力であった!
「クッ! 火薬庫でも誘爆したか!」
それが何処に在るかなど知らない。知ろうとする気さえ起きない。どうでもいい情報だ。
肝心なのは、その炎害が我が子へと及ぶ危険性!
城塔の一角から、爆音を帯びた巨炎が生まれ弾けた!
頑強な石壁が内側から瓦解する!
それは、カリナの恐れる箇所──即ち、自室の近くだ!
「レマリアァァァアア!」
噴き昇る熱風を孕み、黒い外套が魔翼と膨れる!
それを滑空の術と転じ、カリナは城壁から飛び降りた!
「いま行くぞ! レマリアァァァアア!」
渾身の叫びに大きく旋回すると、防壁を貫いた穴から内部へと潜り入る!
到達した先は、まるで爆撃跡のように崩壊していた。状況把握に左右を見渡すも、焦臭い粉塵が見通しの邪魔をする。普段ならば霊気漂う陰湿な通路は、破壊の痕によって荒々しく賑わっていた。中には通路幅の大半を占拠する瓦礫も有り、爆発被害の深刻さを物語っている。
「クソッ! 無事でいてくれよ、レマリア!」
武骨な進路障害を物ともせず、カリナは駆け抜けた。ひたすらに目指すは自室──それ以外に関心は無い。
もはや戦の顛末など、どうでもいい!
吸血鬼だろうとゾンビだろうと、好きに死に残れ!
件の爆発は、やはり自室付近にも被害をもたらしていた。
半壊した部屋の扉が視野に入ると、カリナの疾走が拍車を増す。
「レマリア!」
室内へと飛び入ると同時に叫ぶ!
瞬間、愕然と立ち尽くした。
あまりの惨状である。
チロチロと目障りな息吹。可燃性の餌に爆炎の子供が貪りついていた。崩れ倒れた石壁が、全てを重圧に潰す。意匠に凝った家具類も見事に粉砕し、いまや木材の屑でしかなかった。
視界が悪い。濛々とした煙が滞っているせいだ。
「レマリア! サリー! 何処だ!」
「ぅぅ……」
虫の息を気配に感じた!
「サリーか?」
血の匂いを頼りに捜索すると、老婆は大きな瓦礫の下に埋もれていた。
鎮座する障害物を片腕払いに退ける!
華奢な腕とはいえ〈吸血鬼〉の腕力は超人的だ。
「ぅぅ……ぁぁ……カリナ様?」
引き摺り出されたサリーが、霞む意識に主を認識した。
見るも痛々しい無惨さだ。右腕は引き千切れ、両足も膝下から潰されている。
「サリー、しっかりしろ!」
「ぅ……」
「レマリアは……レマリアは、どうした!」
「ぅ……ぁ……」
どうやら言葉を紡ぐ事も儘ならない様子だ。いや、そもそもカリナの訊い掛けすら、耳に届いてないのであろう。それほどの重傷だった。
これ以上は酷と悟り、カリナは質問を中断する。
それよりも、現状で優先すべきはサリーの救命処置だ。
「待っていろよ、いますぐ屍棺安置室まで運んでやる」
肩を貸して担ぐと、彼女は荷重を負って歩き始めた。
この重みは、そのまま命の重さだ。
数少なくも心許した存在だ。
失いたくはない──否、失ってはならない。
現ロンドン塔の地下には、幾つかの増築施設が在る。
全て〈吸血鬼〉の必要性によって要求されたものだ。
それは糧を貯蔵する〈血液貯蔵庫〉であり、或いは血液搾取用人間を捕らえた牢獄であった。
此処〈屍棺安置室〉も、そうした一環となる。過剰ダメージを負った〈吸血鬼〉が、再生休眠を試みる場所だ。言うなれば、彼等の〝集中治療室〟というところか。
石造りの部屋は陰気な冷涼が支配していた。光源と照らすのは、古ぼけた蛍光灯。そのせいか、弱々しくも薄暗く浮かび上がる。色濃く充満する鉄分臭は、言うまでもなく血の匂い。床一面を埋め尽くす無数の棺桶は、規律然とした列構成で安置されていた。奥行きに連れて暗くなるため、部屋の端を見通す事は難しい。
戸口の脇へと据えられた樫卓には、青年吸血鬼の姿が在った。見た目にも明らかなティーンエイジャーである。外見に限っては。
彼──〝マーティン・エドワード〟は、此処の管理番であった。
青年吸血鬼は文庫本の黙読へと耽入り続ける。それだけ暇な部署という事だ。彼にしてみれば、日課として課せられた時間の浪費でしかない。
「無理解の果てに蓄積していく社会的阻害感と、それが暴発した激情か──宛ら〝ムルソー〟の孤独は、僕達〈吸血鬼〉が内包する心情と似通い過ぎているな」
小説の主人公へと感情移入を漏らす。
「もっとも、僕達は死後転生する事で柵から解放されたけど……果たして、それは幸いだったのか不幸だったのか」
皮肉な顛末を自嘲に乗せた。
「人身堕落と引き替えに得た物は、永劫に死ねない無限地獄だ。如何に辛い現実が在ろうとも、直視して生き続けなければならない。或いは、それこそが摂理に反した者への神罰かもしれないな……」
直後、けたたましく叩かれる樫戸。
ささやかな楽しみを阻害され、彼は溜め息混じりに『異邦人』を閉じた。
物臭に扉を開ける。
と、青年は思わず息を呑んで見惚れた。
戸外に立っていたのは、黒外套の少女。艶やかな赤髪のツインテールがキュートであった。しかしながら、未成熟さが残る顔立ちには凛然とした気高さが共存している。
彼女が肩を貸しているのは、肉塊寸前の老婆──血塗れで、四肢の損傷も激しい。右腕が千切れていたが、それは少女が持っていた。
ツインテールの少女は、鋭い口調で簡潔に言い放つ。
「スコットランド、グラスコー地域だ!」
「何だって?」
「床土だ! 早く用意しろ!」
器量の足りない管理番に、カリナは切迫を叫んだ!
気圧されたマーティンが、たじろぎつつも応対する。
「ああ……いや、用意するまでもなく有るよ。此処には在城吸血鬼の床土を敷いた棺桶が、常時保管されているからね。幹部吸血鬼たちは、各自の部屋に個人所有しているけれど」
「能書きはいい! 何処だ!」
「中央の列、奥から六番目……」
聞くが早いか、カリナは連続した跳躍に突き進む。他の棺は踏切扱いだ。
「コレか!」
目的の棺を手早く見つけると、まどろっこしさに蓋を蹴り跳ねた!
老婆と右腕を棺内へと納め、次の手順を語気荒く指示する。
「血だ! 再生用の血液を注げ!」
「そんなに焦らなくとも、すぐに出来るよ。血のバケツで運ぶわけじゃないんだから」
マーティンは壁に通る金属管へと向かった。その脇にフックしてある大口径のホースを取ると、老婆の棺へと凭れ差す。再び管まで戻ると、据えてあるバルブを捻った。
ホース先端から流れ出る毒々しい赤。同時に、鮮度高い鉄分臭が室内へと充満し始める。
「この供給管は貯蔵血液庫に直結してるからね。即時対応可能なのさ」
カリナは無視に徹していた。深刻な面持ちで見つめるのは、なみなみと注がれる貯蔵血液。
「サリー、暫く我慢しろよ。直に傷も痛みも癒える」
慈しむ鼓舞を残して、彼女は棺の蓋を閉めた。
踵を返す黒姫をマーティンが後追いする。
「ねえ、キミ?」
「なんだ」
振り返りもせずに無愛想を返した。
突っ慳貪な態度にも心折れず、青年吸血鬼は続ける。
「本気で言ってるのなら申し訳ないけれど、彼女は相当な深手だ。だから、その……再生する可能性は低い。気休めでしかないよ」
「知っている」
「知っているだって?」
「そもそも〈吸血鬼〉という身に於いても、サリーの魔力底値は低い。況してや老体では厳しいダメージだ。確率は五分以下だろうよ」
「それが判っていて、何であんな?」
立ち止まったカリナは、苛立ちに睨み返した。
「キサマなら言えるのかよ──救かる見込みは低い……などと!」
胸ぐらを掴んで激情を吼える。
「そうか……キミも〝ムルソー〟なんだね」
「何?」
「クールな仮面を装っても、本当は人一倍強い激情家なんだ……だから苦しむ。人知れずね」
「……戯言を!」
怒気を削がれ、畏れ知らずの若者を解放した。
持て余す憤りに唇を噛む。
しかし、気持ちを切り替えねばなるまい。現状は最優先すべき問題があるのだから。
歩を再開したカリナは、憮然とした態度で命じる。
「いいか、死なせるなよ」
「無茶ぶりだなあ。ま、やれる事はやってみるよ」
管理番は困惑気味に軽い苦笑を返した。
頼りない管理番に事を任せると、すぐさまカリナは自室へと駆け戻った。
「レマリア! 返事をしろ! 無事なんだろう! レマリア!」
四方に我が子の無事を求めるも、返事は無い。
「レマリア! 声を出すんだ! レマリアーーーー!」
やはり返事は疎か、生命の気配すらも感じない。
だが、それは心のどこかで予感していた事ではあった。
「いない……この部屋には」
では、何処に?
「死んでなどいない……死んでなどいるものかよ!」
そう、必ず何処かにいるはずなのだ。
城内の何処かに……。
何よりも〝血〟の匂いがしないではないか。
「きっと一人で避難したのさ。日頃から危険の回避方法は教えてあるからな。そうだ──そうとも」
それだけを頑なに信じ、カリナは魔城を汲まなく捜し続けた。
「何処にいる……レマリア」
回廊の石段へと腰掛けると、力無い声が掠れ漏れる。
捜索の甲斐は無かった。
心の拠を見失った現在の彼女は、単に脆い少女に過ぎない。
困憊状態にあって、カリナは喪失感を抱きしめていた。
初めて体験する〝心細さ〟と共に……。
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醒める夢 Chapter.3
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どれほどの街並を見たかは覚えていない。
如何ほどの廃墟に出会したかも覚えてはいない。
ただ、事実を情報へと更新すべく、紅い蝙蝠は飛び続けていた。
「この有り様では、一八〇体では利かぬやも知れぬな」
屍軍の未だ見えぬ実態を懸念する。
A区画──B区画──C区画────行く先々は、悉く虐殺の跡地であった。
そして、D区画。メアリーにとっても、特別な感情移入が生じた居住区画である。即ち、リック親子が住まう街だ。
「やはり、此処も……」
降り立つと本来の姿に戻り、メアリー一世は周囲を展望する。
同じであった。
建物や壁は暴力に崩れ、夥しい血痕が悲痛な嘆きと断末魔の恐怖を彩る。
「宛ら内乱か暴動の痕だな」
死体は無い……一体も。
在るはずがなかった。
それこそが敵の欲した〝素材〟であり、襲撃目的なのだから。
「この分では、あの親子も……」
自然と足取りは、例のボロアパートへと向いていた。
辿り着いた懐かしい掃き溜まりは、やはり廃墟然と化けている。
軋む音に割れ朽ちた扉を開くと、安っぽいロビーへ足を踏み入れる。
静寂──荒涼とした霊気が、建物内部を蹂躙していた。
「耳障りで下世話な喧噪に感じたが、現在となっては微笑ましい生活臭であったな」
階段を登り、馴染みの部屋へと向かった。親子の無事な姿を切望しつつ……。
だが、奥に見えた戸口にゾッと観念を抱く。辛うじて扉と機能しているものの、やはり襲撃の痕が刻まれていた。
重い気持ちに立ち入る。
少年の姿は無い。
床に割れ落ちたランタンに面影を思い起こし、そっと卓上へと拾い置いた。
「……不憫な」
幼き身に苦労を課せられながらも、明るく乗り越えていた健気な生命力を偲ぶ。
「こほっこほっ」
「っ!」
不意に咳込む声を聞いた!
隣の部屋──つまり、母親の寝室だ!
一縷の希望を再燃させ、その部屋へと駆け込む!
ベッドの上に半身を起こした病姿を確認した!
「母君、無事であったか!」
喜びに寄り支える。
「ああ……ああ! リャム様!」
「……そうか、そうであったな」
カリナが悪戯心に付けた偽名を思い出した。
とはいえ疎ましくも、それはもういい。
いまは母親の無事が何よりだ。
「リックは、どうされた?」
「うう、あの子は……あの子は!」
母は泣き咽び、声を詰まらせるばかりであった。
そこからメアリーは、少年の末路を察する。
「どうやら遅かったようであるな……許されよ」
再襲撃を予見できなかった己の迂闊さが恨めしい。
(カーミラ様には盟主として日々追われる責務がある。そして、カリナ殿は客人……居住区管轄の義務は無い。だが、せめて我だけでも警戒に目を光らせていれば、未然に防げたはず!)
ひたすらに甘さを悔いる。
が、母から聞かされたのは、予想外の顛末であった。
「こほっ……あの子は浚われました……浚われたのです」
「何と!」
驚きを隠せない。
敵の目的は〝死体確保〟にある。
なればこそ多くの犠牲者を出しさえすれ、拐かす意図が読めない。
「母君、詳しく聞かせてはくれまいか? 今回の襲撃、どのような経緯であった?」
「襲撃の惨状については、私も詳しくは存知ません──何せ病床の身ですから、表の様子を見に行く事が叶いませんので」
「御存知の範囲で構わぬ」
「二日前の事です……リャム様も既に御承知の事とは思いますが、突如として死者の軍勢が襲撃してきたのです」
(二日前? それではバートリー夫人の謀反後日ではないか。そんな直後から、ゾンビ増産へ胎動していたというのか)
確かに盲点ではあった。あれほど大きな謀反劇の直後では、誰しも再襲撃など思いも寄らないだろう。
「老若男女問わず一人残さず殺され、そして、その死体を〝動く死者〟が区画外へと運び出して行きました。私が無事でいられたのは、おそらく此処が〝隠れ部屋〟のような構造だったからでしょう。私はリックと一緒に部屋へと籠もり、息を潜めておりました」
「では、その時点ではリックも?」
「無事でした。けれど程なくして、他者の気配を感じたのです」
「この部屋に直接……か?」
「はい。それは前触れも無く、まるで湧き出るかのように部屋の隅へと現れたのです。女でした──黒いローブを纏った浅黒い女でした」
その容姿と出現経緯から、メアリーは直感する!
(おそらく、カーミラ様から聞き及んでいた〝魔女ドロテア〟に違いあるまい。此処を見つけたのは探知魔法か、或いは……我等の妖気が残り香となってしまったか)
しかし、目的が『死体集め』ならば、何故ゾンビに襲撃させず、自らが赴いたのか?
疑問は深まる。
黙考へと耽るメアリーに、母親は続けた。
「その者は怯える私達親子を見て、意地悪く薄ら笑いを浮かべました。そして、こう言ったのです──此処にも手土産があったか──と」
「手土産 ?」
「最初は意味が分かりませんでした。ただただ死者の襲撃と、目の前の怪異に怯え震えるばかりだったのです。やがて、その者は抱き庇う私から剥ぎ取るかのように、リックを奪いました」
「外道な。して、目的らしき事は言わなかったか?」
「どうやら襲撃に乗じて、子供や赤子を浚っているようでした。そして、私に対して、こうも言っておりました──キサマは不要だ。どうせ直に死ぬ。病に冒された体など、役には立たん──と」
「……なんと心無き暴言よ」
おそらく母は短命を自覚している──だがしかし、斯様に追い打ちのような言葉を吐いて許されるはずがない!
メアリーの胸中に、非道へ対する怒りが沸々と込み上げた!
独白吐露で堰が切れたか……母親はメアリーの手へと縋ると、必死に懇願する。
「リャム様、どうかカリナ様に御伝え下さい! あの御方なら、きっとリックを御救い下さるはず! 何卒!」
「相分かった。そなたは何も案ずる事はない。カリナ殿には必ずや伝えよう。そして、私も尽力を惜しまぬ」
「ああ、有り難うございます」
ようやく安心したのか、母親の白い手から力が抜け落ちた。
「これは……」
一瞬、メアリーは違和感を覚える。
半身起こしだった母親の姿は、直後の眠り姿と重なり合って消えた。
まるでフェードアウトするかのように……。
幻視的な感覚ではあった。
そして気付けば、ベッドに横たわっていたのだ。
母親の頬へと、そっと触れてみる。
体温は無い。
「そうであったか……既に」
おそらくメアリーが来る前には亡くなっていた──何時かは断定できないが。
それでも息子の身を案じ続け、救いの手を求めていたのだ。
深き母性が縛った幽霊である。
「何も心配する事はない。神は心正しいそなたを必ずや御導き下さる。安らかに逝くがいい」
神に許されぬ〈魔〉は、それでも福音を説いた。
優しくも不憫な魂の為に……。
カーミラは、たゆとう。
無限に広がる赤き波へと……。
鮮血の大海は裸身を優しく包み、深淵なる癒しを与え給うた。
微睡みにも似た緩和感覚は、彼女の〈個〉としての境界線すらも融解するかのようである。
もしもそうなったら、はたして主導権を握るのは〝自分〟か〝赤〟か──そんな黙想に戯れた。
仰向けの視野へと映り込む大空は、夕暮れの如く淡い朱に染まる。赤海の反射によるものだろうか。
「フフ……フフフ…………」
思わず細く零れた。
その声音は小悪魔的に愛らしい。
「赤く染まる空か……なんだか懐かしいわね」
旧暦時代に眺めた夕景を想起させる。
愛しい〝ローラ〟と眺めた情景を……。
闇暦では久しく見ていない光景に、カーミラは懐古的な安堵感を抱いた。
「貴女は、どうなのかしら? わたしと同じく、そう思えて?」
無造作に投げた訊い掛けは、けれども独り言ではない。
頭側に立つ人影へと向けたものである。
カーミラは視線だけを動かし、相手を見定めた。
憂いと虚無感を等しく宿した少女──見た目の年齢は自分と変わるものではない。
それなりの身分を主張している黒いドレスは、しかしながら端々が煤け破れていた。無情なる歳月の刻印だろう。
緩やかに波掛かった金髪は、所々に赤の宝石が散りばめられている。
深雪のように白い肌だが、かといって少女自身は病弱な心象にない。むしろ硝子細工のように繊細な美貌からは、底知れぬ不敵さすら孕んだ冷徹な貫禄も感じられた。
不思議な少女ではある。
外見の可憐さとは不釣り合いな貫禄が醸し出されながらも、それが破綻無く同一化していた。
だからこそ、カーミラは親近感を覚える。
永遠の処女性と、悠久を噛み締めた末に至る達観──それは彼女自身が持つものと同質だからだ。
「ようやく会えたわね、ジェラルダイン──我が血統の始祖」
ジェラルダインは何も語らず、ただ淡々と子孫へと見入っていた。
意思の疎通は、それで充分だ。
ジェラルダインの瞳が語り掛け、カーミラが無言の意図を汲む。
「ええ、そうだと確信はしていたわ。あの剣を手にした時から。やはりカリナ・ノヴェールは、私と同じ──貴女の血統なのね。わたし達は〈ジェラルダインの牙〉を組敷いたわけじゃない……貴女自身の意思で助力をしたのでしょう?」
古の魂が淡い黙視に慈しんだ。
アイコンタクトでもテレパシーでもない。血の系譜のみが可能とした魂の共鳴であった。
「不思議なものね。貴女は、わたしの〝親〟ではない。けれども、実の親より強い絆を課している」
医学的には〈隔世遺伝〉というものがある。父母よりも祖父母からの遺伝が強く出る現象だ。
カーミラとジェラルダインの関係も、それに近しい。
ただし、祖父母などという近親的距離ではない。原初吸血姫は、遙か昔に血脈の礎を築いたのだから。カルンスタイン家の発端よりも、遙か昔に……。
「貴女達〈原初吸血鬼〉は人間と交わり、その〝呪われし血〟──即ち〝呪血〟を脈々と受け継がせてきた。そうした交配種が歴史の中で分岐していき、やがて各地で家系となる……我が〝カルンスタイン家〟や〝バートリー家〟のように。俗に言う〝呪われし家系〟かしらね。ただし〝呪血〟は次第に希釈化し、系譜者からも〈吸血鬼〉の特性が失われてしまう。永い歴史に於いて人間の血が濃くなるのだから当然ね。そうした中で、稀に〈先祖返り〉を覚醒する異端が現れる──わたしみたいに」
カーミラ──いや〝マーカラ〟以外には、カルンスタインの家系に〈吸血鬼〉は存在しない。彼女の両親も、数代後の子孫である〝ローラ〟も、純然たる〈人間〉だ。
「転生プロセスに他者の介入が無いだけに、貴女達〈原初吸血鬼〉の魔力素質がダイレクトに遺伝するのよ。これが〈血統〉と呼ばれる所以──云わば貴女は、私にとって〝会った事すら無い母親〟なのよ。或いは〝歴史の彼方に存在した母体〟かしらね」
カーミラの結論通り〈原初吸血鬼〉と〈血統〉の関係性は、それに尽きる。
生体的な柵は関係ない。悠久なる時代の隔たりすらも意味がない。ヘソの緒や家庭の群像が刻み示す関係性ですらない。
純粋に〝潜在因子によって直系的覚醒を果たした魂〟が全てである。
そして、これが鼠算的に増産同属化する〈覚醒型〉以降とは一線を画する理由でもあった。仮に第三者たる吸血鬼によって同属化させられたのならば、カーミラとて〈覚醒型〉に属する存在となっていただろう。それは吸血行為を経て、呪血が不純化するからだ。
だが、カーミラは自発的覚醒を果たした。原初世代たるジェラルダインの血を、高純度のまま受け継いだのである。
そして、カリナ・ノヴェールもまた、そうした希有な存在の一人であった。
「初見から感じてはいたのよ……それが〝何か〟までは判らなかったのだけれど。だから〝親密な友達〟になれそうな気がしていたのね」
独り合点を呟き漏らす。
「けれどね、ジェラルダイン。カリナは自分の出生すら知らないのよ。これって奇妙だと思わなくて? 愛剣として守り続けてきた貴女なら、何か知っているのじゃないかしら?」
上目遣いで真意を求めるも、始祖たる娘は沈黙に見つめ返すだけであった。威風と慈愛を宿す瞳には有益情報が何も込められていない。
「自分で確かめろ……か。それって意地悪な試練よ?」
意向を汲んだカーミラは、それ以上の追求を諦める。
とはいえ、一つだけ確信も抱けた。
ジェラルダインは慈しみ、見守っているという事実だ。
自らの血を受け継ぐ娘達を……。
その深い母性に嘘偽りは無い。
「度重なる謀反に、貴女との邂逅──次々と転機が表層化している。だとしたら、そろそろ潮時かしらね……カリナを〈レマリア〉と決別させるにも」
重い気持ちを、目の前に広がる朱へと投げた。
憎まれるのは勿論、場合によっては一戦交える覚悟も必要となるだろう。
「それは〝姉妹〟たる〝わたし〟の役目でしょうね」
静かに含まれた決意を、ジェラルダインが穏やかな微笑で受け取った。
やがて赤の世界は揺らぎ、怒濤が全てを溶かし呑んだ。
「っ!」
覚醒に眼を見開き、カーミラは棺から半身を起こす!
なみなみと注がれた鮮血を波飛沫と零して!
白の吸血姫は、魂の最深層から帰還を果たした。
未成熟な裸身が毒々しい滑りに照り染まる。
彼女専用の棺は、生命の赤に満ち溢れていた。
「此処は……」瞬間的な一瞥で必要な情報を吸収し、自らの状況を把握する。無惨に半壊しながらも豪奢な室内装飾が、謀略の痕を刻んでいた。吹き抜けとなった壁からは熱風が侵入し、赤いビロードカーテンを弄ぶ。おそらく投石機等によるダメージだろうが、悉く見慣れた部屋の面影が残っていた。「わたしの部屋?」
「カーミラ様! 御無事で!」
聞き慣れた声が安堵に駆け寄る。
「メアリー?」
「心配致しました。発見した時は、既に意識の無い状態でしたから」
「では、これは貴女が?」
「はい。調査から帰ってみると、血の海に倒れる貴女を発見致しましたので。適切な再生処置さえ行えば蘇生するとは思いましたが、賭けでもありました。何せ、経過時間が分かりませんでしたから」
「そう……心配を掛けたわね」
淡い微笑みで安心を授け、棺から起き出た。
装束を用意するメアリーが、事の真相を訊ねる。
「それにしても、いったい何があったのですか?」
「謀反です」
手伝われながら袖を通し、カーミラは簡潔に伝える。
「謀反? この交戦下にですか?」
「逆に好機だったのかもしれないわね」
「カーミラ様相手に誰が? よもや、カリナ殿が?」
「いいえ、ジル・ド・レ卿です」
「ジル・ド・レ卿? まさか?」
「本当よ。もっとも油断を突かれた形ではあるけれど」
事実を伝えながらも、カーミラの胸中には拭えぬ疑問が芽生える。
(何故、ジル・ド・レ卿は止めを刺さなかったのかしら)
腹部を貫いた程度では死なない──それはジル・ド・レ卿も重々承知のはず。
そして、無抵抗と化したカーミラを〝吸血鬼殺し〟の手段に下すのは他易い。
にも関わらず、何故?
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醒める夢 Chapter.4
【挿絵表示】
現在のロンドン塔内には、人の──否〈吸血鬼〉の姿気配は全く無い。固より深い霊気を漂わせる情景が、更に拍車を掛けた蒼い虚構へと染まっていた。
幽然たる迷宮を駆け巡るは、たった一人の影のみ。
即ち、ジョン・ジョージ・ヘイだ。
彼自身の足音や装飾具の金音が、無遠慮に反響する。走る片手間に周囲を見回し、彼は弱腰の本音を零した。
「如何に僕が〈吸血鬼〉とはいえ、さすがに不気味だな」
向かう宛も尽きて一時的に戻った場所は、威風ある表門を据えた大広間──ジル・ド・レ卿とカリナ・ノヴェールが一戦交えた場所だ。
広大な空間には、巨大な柱が連なり立っている。細微な装飾意匠が刻まれた支柱だ。柱同士の間に生まれ落ちる暗がりは、更に城内深部への主要通路として続いている。そうした造りが四方八方へと伸び広がり、宛ら蜘蛛の巣状の迷宮入口であった。
歯痒い状況に焦れ始める。
「カリナ捜索は、ペーターに任せるつもりだったのに。そうすれば、彼を安全圏へと逃がす事ができた」
しかし、ペーターは頑なに辞退した。
結果、押し問答の末にジョンが折れる形となった。
「一番の理由は、キミも同じ考えだったって事だろう? ペーター?」
どちらが我を通すにせよ、口論で時間を浪費するのは勿体ない。故の妥協だ。
「にしても、いったい何処にいるんだ? カリナ・ノヴェール! 恣意的な性格は知っていたけれど、こうも行き先が分からないなんて……」
この大広間から捜索を始めて、客室棟──会議室──無数の廊下────普段ならば立ち入り禁止扱いの場所さえも巡るだけ巡り、駆けるだけ駆けた。
焦燥に駆られる中で、まだ行っていない場所を脳内検索する。
と、不意に他者の気配を感じた。
警戒したジョンは、それを探り追って注視する。広間外れの一角だ。
(城内で敵って事はないだろうが……〈怪物〉は種々様々な魔力を保持しているからな。何が生じても不思議じゃない)
緊迫感を噛み締めながら、じっと睨み据え続けた。
コツリコツリと近付いて来る硬い足音。
ややあって大柱間の闇から浮かび上がった正体は、まさしく彼の捜し人に他ならなかった。
「カリナ・ノヴェール!」ようやくの邂逅に、歓喜の声を上げる。「良かった! 探していたんだ! 情けない話だが、実はキミに頼みがあって──」
そこまで用件を呈すると、ジョンは言葉を呑み込んだ。思わず駆け寄ろうとした足も数歩で硬直に止まる。
彼を強張らせたのは、得体の知れぬ恐怖。本能的な危険の察知だ。
カリナ・ノヴェールは、その顔を深く伏せていた。表情を窺い見る事は出来ないが、疲労とも悲哀とも負のオーラが蝕んでいるようにも映る。
いや、それはいい。
問題なのは、あからさまに見て取れる違和感だった。
霊風にそよぐ黒外套も、美しくさえある童顔にも、悉く赤の押し花が咲いている。
ジョンは疑問を抱く。
──何故、彼女は、これほどまでの〝返り血〟に染まっている?
──あの汚れは〝誰〟のだ?
意識した途端、背筋に戦慄が走る。頬を伝う脂汗が否応なく不安を助長させた。
彼女の手に下がるのは、抜き身となった深紅の愛剣。
だが、あの滑りは何だというのだ?
滴り落ちる赤の滴は?
ふと想起する──彼女が現れた方向は、一般吸血鬼の避難壕へと通じているはずだ!
「カ……カリナ・ノヴェール?」
ようやく絞り出した声が掠れ震えた。
彼の耳へと返ってきたのは、沈着ながらも冷酷を帯びた声音。
「……レマリアが死ぬはずはないんだ」
「レマリア? 何を言って──?」
「……死ぬものかよ。私が守ると誓ったんだからな」
ゆらりゆらりと恐怖が歩み近付いて来た。その虚脱的な所作はデッドやゾンビとは質が異なる。明確な俊敏さを押し殺した動き──まるで獲物を襲う直前の肉食獣だ。
やがてカリナは、ようやく顔を上げた。
「キ……キミ?」
ジョンの戦慄が高まる!
血濡れの顔に浮かんでいるのは、薄ら笑いとも取れる狂気! その瞳には理知性の損失が窺える!
「そうか……キサマか? キサマがレマリアを──」
獲物を見定めた魔姫が、ゾッとする冷笑に酔った。
「う……あ……」
格違いの恐怖に気圧され、逃走意思に後退る!
まるで〈魔王〉と対峙したかのような畏怖感であった。
狂気は歩を止めない。躊躇を覚えない彼女の足は、間合いを詰めるに有利に働いた。
「レマリアは何処だ?」
向けられた質問に戸惑う。ジョンにしてみれば、意味不明な謎掛けでしかない。
「だ……だから、僕は──!」
「何処にいると──訊いているんだぁぁぁーーっ!」
憤怒に支配された麗獣が地を蹴った!
紅玉石の如き刃が牙を剥く!
「うわあああ!」
本能的に身を守ろうとするも、ジョンは竦む事しかできなかった!
それどころか、縺れる足に尻餅を着いてしまう──が、それは奇跡的に生命線を繋いだ!
瞬間、頭上を凪ぎ過ぎる殺意の紅刃!
「ひ……ひい!」
間髪入れぬ幸運であった!
すかさず身を捩って無様に起き上がると、踵返しの逃走を謀る!
返す刃が背中を浅く抉った!
瞬間的に走る痛み!
しかし、それにかまけている余裕は無い!
死にたくなければ一目散に逃げ馳せるだけだ!
目指すは眼前に見える大柱!
その間へと構成された暗い門!
広く入り組んだ本城内へと続く逃走経路だ!
(あそこにさえ逃げ込めば、身を隠せるはずだ! 城内には数多くの部屋が在る!)
来訪して日の浅いカリナよりも、自分にこそ分がある──そう判断した。
常時狩られる側の草食動物は、得てして逃走能力が秀でている。あたかも、その法則に準じるかのように、ジョンの瞬発性は目を見張るものがあった。
が、理性を欠いた執念というものは、時として原始的本能よりも不屈で恐ろしい。
「レマリアを、どうしたァァァーーーー!」
常軌を逸脱した激情を吼え叫び、並外れた身体能力に追撃して来る!
彼女の周りで生まれ消える幾多の紅い弧!
それは間合いへ入った対象を容赦なく裂き、大木の如き石柱でさえも鋭く抉った!
必死の逃走ながらも、ジョンは背後の敵を分析する。
狂える刃は無差別で考え無しの大振りと化していた。
(もはや卓越した剣技の片鱗すら見えないじゃないか。ジル卿と対決した時とは、まるで別人だ)
そう結論着きながらも、やはり逃げきる自信など無い。基より身体能力が違い過ぎる。
それでもジョンは抗った!
一縷の望みへと賭ける心構えなればこそ!
数秒が数分に感じられ、数メートルが数百メートルにも感じられる!
ようやく目的の空間を眼前までに捕らえた!
後は気力を振り絞って飛び込むだけだ!
(この大広間よりも空間幅は狭いんだ──あの大振りなら思うように振るえないはず!)
思惑を巡らせた瞬間、脚に熱さが走る!
「ぐあ?」
その熱が痛みだと認識したと同時に、彼は滑り転んでいた!
濁々とした赤の流れ──膝裏の腱を切断されている!
「クソ! クソッ!」
忌々しさを込めて傷を押さえた。
目的の逃走経路は目の前だというのに、最早逃げる事自体が叶わない。霧化や獣化といった変化術が使えないのが、心の底から口惜しい。自分達〈近代吸血鬼〉と〈吸血貴族〉の魔力差だ。
体全体を不自然に引き吊り、無駄な足掻きに後退った。
それを哀れなハンデとすら思わず、無慈悲な血獣が静かに近付いて来る。
「レマリアは何処だ」
また例の謎掛けであった。絶望的だ。
「聞いてくれ、カリナ・ノヴェール! 僕は、その〈レマリア〉というのを知らない! 何者かすら知らない!」
「何処にいる」
空気を裂いて紅い弧が生まれ、ジョンの腕は赤い飛沫を弾かせた!
「ぐぁあ!」
無罪者の悲痛も、自我崩壊した裁人には届かない。
それでもジョンは訴え続けた。逃走が叶わぬ現状では、それしか身を守る術は無い。
「聞いてくれ! 君がそれを探しているというなら、僕も手伝う! だから──」
「殺したな?」
「な……っ?」
狂気が一層深い闇を孕んだ。
「そうか、キサマがレマリアを殺したんだな! 私の目を盗んでアイツを浚い、その血を啜り尽くしたのか!」
「違う! 貯蔵血液こそ常飲していたが、僕は誰かを直接喰らった事は無い!」
「じゃあ、私の腕で冷たく眠ったアイツの死体は何だ! キサマが殺したんだ! キサマが! だが、いいか! 易々とレマリアに手を出せると思うな! 私が守っているんだからな! 全身全霊を賭けて、私が守っているんだ! アイツが死ぬわけがない! そうだろう!」
「カ……カリナ・ノヴェール?」
彼女の主張は、まるで支離滅裂だ。
一頻り激情を吐き散らしたカリナは、障気とも思える深い深呼吸へと溺れた。平静の仮面を取り戻し、再びジョンへと訊い掛ける。
「もう一度訊く。レマリアは──私の〝あの子〟は、何処だ」
「く……狂っている!」
生唾が渇きを通過した。
会話すら成立しない凶刃相手に、状況打開の妙案などあるはずがない。
「何処だぁぁぁーーっ!」
絶叫に振り下ろされる赤い刃!
いよいよ覚悟を決め、ジョンは固く身を閉ざした!
一際甲高く金属音が弾ける!
理不尽な処刑は──一向に執行される気配が無い。
不確かな違和感を抱き、ジョンは恐る恐る自分を開放した。
眼前に在るのは、見目麗しい少女の姿!
彼と執行人を遮り、白き外套が靡く!
茨鞭の柄で凶剣を弾き払った彼女は、悠々とした物腰を崩さずに語り掛ける。
「随分と荒れているわね? カリナ・ノヴェール」
「……キサマッ!」
忌々しく歯咬みする!
狂気に呑まれながらも、黒は白を強く意識していた──生涯最大の難敵と成り得る唯一の存在を!
「貴女の〈レマリア〉は、御元気?」
柔らかく慈しむような微笑は、カーミラ・カルンスタインからの正式な挑戦状と受け取った!
花の微香にミツバチが導かれるように、彼は自然体で〝死〟へと導かれる──そういう性質だ。
深い常闇を泳ぎ渡るゲデは、空間に開いた切れ間から現実世界へと躍り出た。
「いい臭いがすると思ったんだがなぁ?」
残念そうな口振りながらも、例の如き飄々たる態度で小瓶入りの酒を呷る。
紫煙蒸かしに見渡す部屋は、薄暗くも陰惨な拷問部屋であった。
「毎日使われてるみてぇだがよ、残念ながら今日は定休日だったかね? ィエッヘッヘッ」
壁や床にこびり付いた夥しい血痕に、滴るほど血塗れた拷問用具の数々──嘔吐を誘う死臭も、彼の嗜好には沿っている。
だが、死屍累々と放置される死体については、少々不満があった。
「最悪だな、ガキばかりかよ? 幼児偏愛癖かねぇ?」
子供を惨殺する外道ぶりが好かない……のではない。そんなセンチな道徳観念など、最初から持ち合わせていない。
「ガキはよ、罪の重さが軽いんだ。どんな罪だろうと、そいつぁ〝健気な生の一生懸命さ〟として善性の許容範囲へと減罪されちまう──悪意塗れの殺人とかなら別だがよ。要するに、オレ様の醍醐味たる〝死の旨味〟が生じねぇのさ。天使様ってのは、とことんガキに優しいようだぜ……クソッタレが!」
腹いせ紛れか、幼い遺体を足蹴に転がす。断末魔の形相は、そのまま恐ろしくも惨たらしい瞬間を刻んでいた。足がもげ、腕が千切れ、心臓を抉り出され……未成熟な死体は、実に様々な末路を披露している。しかしながら、多くは首の骨を捻り折られていた。
「じわじわと拷問で心身共に追い詰め、最後は首の骨ポキリってね」
改めて室内を見渡す。漂う霊気と遺恨から、過去の惨状を見通すためだ。ブードゥー教の〝死神〟たるゲデには、それが可能であった。その魔眼を以てして、死に逝く者の過去を見通し嬲るのだから。
「……な~るほどねぇ? 百年戦争の英雄様が、悪癖再発ってトコかぃ?」
卑しい目が愉しげに歪んだ。
「ただ気になるのは、唆してる〝コイツ〟だな……どうやら〝従者〟を装ってるみてぇだが、そんなタマじゃねえ」
更に意識を集中し、その人物のみに焦点を絞った。
「プレラーティ──ドロテア──ああ、そういう事か」
幻視に正体を看破したゲデは、無作為な足取りで窓へと歩き進んだ。仰ぎ覗く先には、例の巨眼黒月が見下ろしている。
「御主人様も人が悪いぜ? 言ってくれねぇもんだから、間抜けにも鉢合わせしちまった。ま、聞いてても来るけどな。なんせ他人の領域とかは、オレにはどうでもいい事だからよ。ィエッヘッヘッヘッ!」
自由気儘がモットーのゲデにしてみれば、主従関係は行動の根であれ、絶対的な強制力ではない。基本的に自分が楽しめれば、それでいい。例え、同業者が幅を利かせていても……。
「さてさて、何かおこぼれは無いかねぇ?」
罪無き肉塊が散乱する部屋を、好奇心のままに探索し始める。
と、部屋の一角から妙な息遣いを感じた。必死に苦しみ喘ぐ呼吸だ。
興味を惹かれて捜してみると、虫の息で生き長らえる少年が転がっていた。とはいえ、腿は刃で貫かれ、ペンチで五指が潰されてはいたが……。
「なんでぇ? 残りモンがあるじゃねぇか」
喜々と覗き込む。
息を荒げる未熟な生命は、無慈悲な〝死〟への抵抗を続けていた。
「あのな、苦しみ堪えても無駄だから。結局、オマエは死ぬんだよ」
「ハァ……ゼェ……があぢゃ……」
「あらら、声帯潰されてらぁ」
「……がえる……があぢゃ……」
「まったく〈人間〉てのは、しつこいねぇ? 風前の灯火から、くたばるまでが実に長ぇや」
暇潰しに過去を見通してやった。
「んん? オマエ──」奇妙な経歴を見付け、ニタリと喜悦する。「──面白ぇモン、見ィ~付けた!」
卑しい余興を閃いた。上手くいけば、久々に盛大な晩餐が楽しめそうだ。
「オイ、ガキ。特別に延命魔術を施してやらぁ。ま、そうは言っても現状維持だがな。痛みから解放されるとか、瀕死が治るわけじゃねぇ。どのみち結局は死ぬ。ただ、その〝死〟のタイミングを遅らせるだけだ……って、怖ぇ目で睨むなよ。これでも出血大サービスなんだぜぇ? 何せ〝死神〟たるオレ様が、自ら禁忌を犯そうってんだからよ」
「……がり……ぁ……」
「ああ、会わせてやらぁな。そうしなきゃ、お楽しみの幕が上がらねぇしな。ィエッヘッヘッヘッ……!」
どこまでも下卑た笑い声が、呪われし鮮血の部屋に木霊し続けた。
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醒める夢 Chapter.5
【挿絵表示】
普段は不必要なほど静寂に祝福された大広間が、現在は殺伐とした決闘場へと一転していた!
黒が攻め、白が避わす!
白が攻め、黒が弾く!
カリナ・ノヴェールとカーミラ・カルンスタインの攻防は、拮抗した実力故に一進一退を刻み続けた!
「そうか……キサマか! キサマだな! キサマがレマリアを!」
少女城主を睨めつける目に沸々とした憎悪が宿る。
虚ろう魂が見定めた新たな獲物だ。
然れど、それは最大に手強い。
「いまにして思えば、最初からレマリアを狙っていたな! だからこそ、私の滞在を周到に約束させた! そうだろう!」
「とうとう〈レマリア〉は消えたのね」
「とぼけるな! 恥知らずの〈女吸血卑〉が!」
ついに来るべき瞬間を迎えた──それを覚悟したカーミラの表情は、儚げな悲哀を含んでいた。
(消す手間は省けた。後は、どう納得させるか)
カーミラの哀れみが自分へと向けられたものだと、カリナが悟れるはずもない。激情へと呑まれた現状の彼女には……。
「狡猾に友情を装い! まやかしの共感を抱かせ! 虎視眈々と舌なめずりをしていたのか!」
怒り任せに紅い弧を生む!
その軌跡は鋭利ながらも、相変わらず乱雑であった。
他の吸血鬼ならいざ知らず、カーミラに避けられぬ道理はない。
「……墜ちたわね、カリナ・ノヴェール」
「上から言うかよ! その高貴ぶった態度、常々気に食わなかったさ!」
紅い閃光と繰り出される突き!
白き外套がカーミラの円舞に併せ、敵意の牙を纏わり呑んだ!
自身が常套とする回避動作を真似され、カリナは癪を咬む。
「よくも、その動きをっ!」
「貴女だけの専売特許じゃなくってよ」
生んだ勢いを殺さぬまま、カーミラは回転の余力に舞った。
その遠心力を活かした反撃に、茨の双鞭が襲い伸びる!
眼寸前まで襲い迫る双蛇を、カリナは紙一重の後方跳びに退けた!
「所作が似ても当たり前。同じ〈血〉が、そうさせるのだから」
「何が〈血〉だ! 馬鹿にしてくれる!」
足裏が地面の感触を踏んだと同時に、カリナは屈伸態勢をバネと転化する!
「レマリアを返せぇぇぇーーーーっ!」
地を蹴る間合いに繰り出される突き!
勢いと全体重を乗せた渾身の一撃!
が、紅の切っ先は金髪を梳き貫いただけ。
標的と定めた憂いは残像が滑るかのように脇へと避けた。
紙一重で為す技量もまた、先刻のカリナ宜しくだ。
「また猿真似か!」
「言ったでしょう? 同じ〈血〉が、そうさせる……と」
「虚言に惑わすかよ!」
苛立ちを吼えつつも、せっかく得た好機は逃さない!
まだ剣の間合いだ!
そのまま刃を凪ぎ払い、虚を突いた斬撃を狙う!
「もらった!」
手応えを確信するもカリナが捕らえた像は霞!
刃が裂くと同時に、カーミラは白く霧散していた!
「チィ……霧化かよ!」
カーミラほどの技量ならば、交戦下で行使できて当然。
だがしかし、精神集中の行程すらも踏まえぬ対応の早さと魔力底値は、正直、予想を上回っていた。白外套による〈魔力増幅〉の効力も大きいのだろうが。
「何処から来る」
鋭敏な警戒心を鳴子と張り巡らせ、潜伏した気配を周囲に追い睨む。
霧と化した〈吸血鬼〉は、その場に存在しながらも存在しない。或いは、存在しないながらも存在する。見渡す空間そのものが〈潜伏する敵〉だ。
(とはいえ、霧化状態のままでは、アチラも手が出せまいよ)
物理攻撃へと転じるには再実体化の必要がある。
(双方が下手に動けぬ以上、襲撃時に実体化する気配を捕らえるしかない──一瞬の賭けではあるが)
瞼を綴じ、静寂に身を委ねた。
感覚を細く尖らせ、カリナは精神世界の闇へと浸る。
落ち弾ける滴の音……大気の流動……先刻の死に損ないが乱す息遣い…………総ての微音が索敵の邪魔であった。
黙想に立ち尽くすカリナは、一見には無防備だ。
しかし、秘めたる応戦意識に隙は無い。
大気拡散した霧──即ち〝カーミラ〟は、素直に感嘆を覚えていた。
(天賦ね。先程まで理不尽な激情に溺れながらも、局面では冷静な対応判断を下せるなんて)
荒んだ流浪に磨かれた〈戦士〉としての素養だろう。こればかりはカリナの優位性だ。自分では遠く及ばない。
(はてさて、何処から攻めたものかしら?)
おそらく安全且つ有利な方角など無いだろう。
霧は僅かながらにも勝算を考えて、獲物の周囲を漂い始めた。
足の腱を斬られたジョンには身動きすら叶わない。引きずる痛みを庇いつつ、その場で座り倒れるしかなかった。
「な……なんて戦いだ」無力な傍観に、驚嘆の息を呑んだ。改めて介入の余地が無い事を自覚する。正直、矛先の推移に命拾いした気持ちだ。「カーミラ様も、カリナ・ノヴェールも、桁外れた実力じゃないか! 完全に僕等とは格違いだ!」
「で、あろうな」
不意に聞こえた声に振り向く。
彼の背後に立っていたのは、真紅のロイヤルドレスの吸血妃──メアリー一世であった。気高き淑女は、険しい面持ちで戦いの成り行きを見守り続ける。
「貴女から見ても、やはり一線を画するのですか? メアリー?」
「次元が違い過ぎる」
観察視を動かす事もなく、メアリーは淡々と答えた。
その場に座り込むジョンは、斜め下よりメアリーを仰ぐ姿勢となっていた。そのアングルから窺う彼女の目鼻立ちは荘厳に美しい。元〝イングランド女王〟の肩書きは伊達ではない──ジョンは内心思った。彼女ならば〝吸血貴族〟という称号さえも、違和感無く受け入れられる……と。
「僕から見れば、貴女やジル・ド・レ卿だって相当なものですが」
「恐縮だが買い被り過ぎだな……ジル・ド・レ卿は、ともかくとして」
「そうでしょうか?」
認識不足の格下が漏らす甘さに、ようやくメアリーは一瞥を向けた。
「確かに、私の魔力底値は〈不死十字軍〉の中でも高い方であろうな。だが、活かすべき実戦技能が皆無だ。カーミラ様と、カリナ殿──そして、ジル卿には、その両側面が不備無く備わっている。いざ一対一の決闘とでもなれば、私など相手にならぬだろう」
結論を述べて、再び交戦へと見入る。
重みを持て余したジョンも、彼女に倣った。
「どう見ますか? 有利な方は……」
「判らぬな。純粋に戦闘技能ならば、カリナ殿に分があるが……現状は正気を欠いている。普段の冷静な判断力を発揮できていない」
「それは幸いだ。なら、カーミラ様が負けるはずがない」
「カーミラ様とて万全ではないぞ」
「え?」
「重傷を押しての応戦だ。先程、再生休眠を終えたばかりとはいえ、ダメージ完治には遠い」
「じゃあ、どちらも不利な条件を?」
「だから言っている……判らぬ、と」抱く不安を噛み殺して、メアリーは苦い見解を紡ぐ。「付け入るとすれば、カリナ殿が平常心を欠いている事だが……あのような対応力を見せられてはな。どうやら戦闘に関しては、従来の技量が心髄から滲み出るらしい」
「自我の損失に関係なく……ですか?」
「筋金入りの〈戦士〉という事だろう」
交わす言葉が尽き、二人は黙して見入った。
ややあって、ジョンは異なる疑問を訊ねる。
「あの……〈レマリア〉とは何ですか? いや、或いは〝誰〟なのかもしれませんが」
「何? 何故、そなたが〈それ〉を?」
「先程、カリナ・ノヴェールが襲い来る際に口にしました──『レマリアを殺したな?』と……それから『私のレマリアを返せ』とも」
「ふむ?」メアリーは居住区での一波乱を想起する。「生憎と、私も〈それ〉は判らぬ。名前だけは聞いた事があるが……」
介入を制された事柄ではあるが、そもそも真相すらメアリーは把握していない。
だが、カーミラは〈それ〉が〈何か〉を確信している。
そして、あの時に少女盟主が秘めていた決意が、迎えるべく瞬間を迎えたのだ──と。
カリナの瞑想は続く。
微かに霊気が流れた。
瞬間は近い──そう確信した刹那!
「そこかよ!」
振り向き様に魔剣を凪ぐ!
奇襲に飛び掛かる双蛇を、紅玉石の刃が弾き逸らした!
後方頭上!
そこからカーミラは現れた!
「カリナ・ノヴェール!」
「カーミラ・カルンスタイン!」
愛用の武器を弾かれたカーミラが、強襲の勢い任せに近接態勢へと取り付く。
茨鞭の柄と紅剣の柄が、一歩も引かずに鍔迫り合った!
「カリナ・ノヴェール! いい加減に目を醒ましなさい! 貴女が追い求めているのは、永遠の白昼夢に過ぎないのよ!」
「何を意味不明な事をホザいている! 脳味噌でも逝ったかよ!」
ギリギリと攻めぎ合う押し比べ!
「かつて貴女は言った──わたしがロンドンに見ているのは、自尊的な幻想だと! 結局は己の奉仕行為に酔った〝自己愛〟だと!」
「言ったがどうしたよ! 事実は事実だろうが!」吼え返す中、カリナはハッと思い当たった。「そうか、だからか! その腹いせに、レマリアを殺したのか!」
「まだ不毛を続けるというの! カリナ・ノヴェール!」
叶わぬ疎通に歯痒さを咬む。
哀れみと悲しさが堰を切り、カーミラは激情を叫んだ!
「ならば、ハッキリと言ってあげる! 最初から存在しないのよ! 貴女の言う〈レマリア〉なんてね!」
「なっ?」
一瞬、カリナが動揺に染まった。
想像すらしていなかった言葉だ。
そして、彼女の根幹を破壊するほどの暴言だ。
放心に怯んだ隙が、力の均衡を崩し掛けた。
カーミラには好機である!
だが、それも一瞬──。
「言うに……事欠いてぇぇぇーーーーっ!」
カリナが憤怒を爆発させた!
激情が力と転じ、拮抗していた対立を弾き跳ばす!
「あう!」
床へと転げ滑るカーミラ!
直接的な肉弾戦となれば、全開状態のカリナに勝るわけがない!
すかさず半身を立て直し、難敵に身構える!
痛みを感じている余裕などない!
それほどの相手だ!
(霧化を!)
「させるかよ!」
瞬間的に回避を意識したにも関わらず、既にカリナが踏み込んで来ていた!
捕食の如き瞬発力が赤い閃きを突き出す!
「っあああああーーーー!」
非情の凶牙が腹を貫いた!
ジル・ド・レが負わせた致命箇所だ!
「妙だとは思ったが……キサマ、手傷を負っていたな」
「っくう!」
「隠していても、微かに血の匂いがするんだよ。私はキサマ等よりも鋭敏なんだ。普段から絶食しているからな」
「やっ……ぱり、あの〝柘榴〟は……そういう事なのね」
苦悶に堪えながら、白の吸血姫が指摘する。
「古代ギリシアの神話に於いて、柘榴は〈冥府の果実〉として伝わる。貴女は、それを代用品とした──糧である吸血行為のね!」
「ああ、そうさ。レマリアと──あの子と共に生きるために、私は吸血行為を捨てる必要があった。己の生命と魔力を維持するために、新たな糧を模索したのさ。常若の国の〈妖精の林檎〉や日本神話の〈黄泉戸喰〉、人間共が創り出した〈人工血液〉──あらゆる神話や科学産物を模索し続けた。だが、どれもこれも糧に代わる効用は無い。そうした模索の中で辿り着いたのが〈柘榴〉だ!」
カーミラは言葉に含まれていた重みを噛む──此処にもいた……人間との理想的共存を模索する〈吸血鬼〉が!
奇しくも、それは自分の姉妹──ジェラルダインの血統であった。
原初の血が、そうさせる。
哀しき呪縛が、同じ宿命を課す。
それでも、自分とカリナには決定的な差があった。
それを思うと笑わずにはいられない。
どこまでも哀れみを帯びた笑いであった。
「フフ……フフフ」
「何だ? 何が可笑しい!」
「だって、可笑しいわ……可笑しくて、滑稽で、哀れだもの。存在しない存在を溺愛するなんてね!」
「キサマァァァアアーーーーッ!」
逆上が力を込める!
それに呼応するが如く、紅い刃が輝きを帯び始めた!
「クッ……ァァァアアアアア!」
堪えきれず絶叫に悶えるカーミラ!
彼女の中でカリナが暴れ狂っていた!
「吸え! 吸い尽くせ〈ジェラルダインの牙〉! 総てを糧と喰らい尽くせ!」
深い憎悪が、けしかける!
ますます光を輝かせる魔剣──と、その輝きは程なくして鎮静化していった。
「何だ? 何故止まった〈ジェラルダインの牙〉よ!」
「ハァハァ……フ……フフフ」九死に一生を得た贄が、脂汗ながらに含み笑う。「……どうやら〝ジェラルダイン〟は、わたしの考え方に味方したみたい」
「な……何だと?」
「魔剣の中で邂逅して以降、演繹し続けたわ。何故〝ジェラルダイン〟が魔剣内に存在していたのか──何故、貴女が〝ジェラルダイン〟の棲む魔剣を所有しているのか」
「な……何だ? 何を言っている!」
「この魔剣は〝ジェラルダイン〟そのもの──おそらく〝魂の転生体〟か、或いは〝残留思念の具象化〟なのよ。そして、そんな禍々しい代物を愛剣としている以上、貴女自身も無関係ではない」
「だから、何を……!」
「わたし達は共に〈ジェラルダインの血統〉という事──因果的な〝姉妹〟という事よ! カリナ・ノヴェール!」
驚愕すべき指摘に、黒の吸血姫が固まる。
確かに自身の生い立ちは何一つ知らない。
さりとも、あまりに予想外の指摘であった。
「た……戯言を言うな! 何を根拠に!」
「だからこそ、貴女は〈レマリア〉に異常固執する。かつて、わたしが〝ローラ〟を愛したように──元凶たるジェラルダインが〝クリスタベル〟という名の少女に焦がれたように──わたし達〈ジェラルダインの血統〉は、自身の愛を注げる対象を強く求める性なのよ。無償の愛を傾ける存在を求め続けるの。貴女にとっては〈レマリア〉が、そうだったようにね。それは無限の虚無から脱したいが故かもしれない。孤独に対する精神的自衛かもしれない。けれど、貴女の悲劇は〝自らが創り出した幻影〟に依存してしまった事。それは、とても哀しい事ではなくて?」
「幻影……だと!」
またも逆鱗へと触れられ、憎悪に歯噛みする!
「私のレマリアが……あの子が幻影だと言うか!」
「貴女が来訪して今日まで、城内に〈レマリア〉を見た者なんて一人もいないのよ」
「ふざけるな! 現にキサマは──」
「──見てないわ」
頑とした目力に、カリナは言葉を呑む。
いいや、コイツは見ていたはずだ。
初めて顔合わせをした時も、まじまじと外套の内を──いや待て、まじまじと〈何〉を見た?
あの時の怪訝そうな表情は何だ?
直後の意味深な一考は?
まじまじと〝何も存在しない外套〟へと見入ったのではないか?
私の奇行を……。
「わたしだけじゃなくてよ。城内の者は誰一人として〈レマリア〉なんて見ていない」
「……黙れ」
「メアリーも、エリザベートも、ジル・ド・レ卿も……リック親子でさえもね!」
「黙れと言っている!」
思い返せば、レマリアへの対応を見せるのは、他ならぬカーミラだけだったのではないか?
メアリー一世も、リックも、その場にいるはずの女児には無関心だった……無関心過ぎた!
「そもそも思い出して御覧なさい! 貴女自身〝一人の瞬間〟が、多々あったのではなくて?」
ジル・ド・レと対峙した時、あの子は何処にいた?
居住区でのゾンビ退治から戻った時、カーミラに促されるまで何処にいた?
リックの母親と対面した時には?
自分が揺らぐ。
だが、ようやくカリナは反論の種を見出した。
「いいや、サリーだ……サリーがいる! サリーは、私とレマリアを見続けてきた!」
一縷の希望に縋るような思いであった。
しかし、無情なる現実は、それさえも否定する。
「……優しいのよ、彼女は。だからこそ、貴女へと宛がった」
「なっ?」
「彼女の半生は聞き及んでいるでしょう? おそらく貴女の母性を、自分自身と重ね合わせた……だからこそ、口裏を合わせていたに過ぎないわ。貴女を──貴女の〝心〟を守ろうと」
サリーの言い訳を想起した──「なにせレマリア様は、おとなしゅうて、おとなしゅうて」
いまにして思えば、あれは〝見えていない事〟への取り繕いだったのではないか?
「これで分かったでしょう?」
突きつけるカーミラに反論ができない。
それでもカリナは虚脱に呟く。
「レマリアは……いるんだ。いまでも私を待っている」
「闇暦年号になってから、三〇年間……何故〈レマリア〉は〝成長〟しなかったの?」
「──っ!」
「悪夢から解放される瞬間が来たのよ! カリナ・ノヴェール!」
「まだ……言うかよぉぉぉーーーー!」
役立たずとなった愛剣を放り捨て、拳で殴り掛かった!
薄々と認め始めた真実から目を逸らすべく……。
己の保身にしがみつくべく…………。
「レマリアが……アイツが、いないだと! 存在しないだと! よくも言える! あの子と私が過ごした日々も知らずに! よくも!」
無抵抗な仰向けを、カリナは容赦なく殴りつけた!
「アイツはな、整った環境でないと寝れないんだ! 川魚は食わない! 生臭さがイヤなんだとよ! 野菜嫌いを克服させるために、柘榴ジュースに混ぜ忍ばせた事もある! それでも見抜いて飲まなかった! 鼻が利くヤツだよ! まったく手が焼ける!」
沸き立つ感情の総てを拳に乗せる!
「機嫌がいい時は、うろ覚えの『オーバー・ザ・レインボー』を口ずさんだ! 舌足らずでな! 好奇心が強過ぎるから、片時も目が離せない! ムカデを手掴みにしそうになった時は、慌てて引き離したものさ!」
拳を振る!
振り抜く!
振るい続ける!
カーミラは殴打されるままに金糸を乱すも、絶対的な勝者であった。
認め始めている──そう思えばこそ、この痛みは〝痛み〟ではない。
これは〝カリナの痛み〟だ。
愛しい妹の……。
「いつも寝顔を撫でてやった! そうすると夢の中で安心するんだ! 私に摘んだ花をくれた事もある! 雑草だったがな! まだまだ思い出は、たくさんあるぞ! これだけ聞いても、まだ存在しないなどと言えるか! どうだ!」
拳に込められる力が、徐々に抜けていくのが分かった。
次第に勢いも失速する。
やがて完全に鎮まった暴力は、相手の胸鞍を掴んで蹲まった。
「……どうなんだ……なんとか……なんとか言えよ!」
咽ぶように絞り出した声は、完全に拠を見失っていた。
「カリナ・ノヴェール……」
カーミラには、ただ抱きしめるしか術がない。
咬み殺す嗚咽に震える頭を優しき細指が撫で宥める。
まるで子供をあやすかのように……。
反目の決着は覚悟していた以上に心痛かった。
と、不意に聞き慣れた下品な濁声が二人を嘲る!
「ィェッヘッヘッヘッ……吸血姫同士のキャットファイトたぁ、イイモンを見せてもらったぜ。アンタ等〝百合〟だったのかよ? ィェッヘッヘッヘッ……」
耳にした途端、カリナの内で再燃する希望!
「ゲデか!」
その姿を周囲に捜した!
自分と傍観者達との間に黒い靄が集結し始める。
それは次第に人の形を成した。
普段なら見たくもない腰巾着だ。
「よぉ、お嬢……こりゃまたご機嫌そうだな? ィェッヘッヘッ」
死神は山高帽子を摘んだ会釈を向けると、葉巻と酒瓶を嗜み浸る。
相変わらずの太々しさだ。
だが現状では、どうでもいい。
カリナは疎むべき下衆へと歩み、普段の気丈さで確固たる助言を命じた。
「ちょうどいい! キサマ、証言しろ! レマリアは実在する──とな!」
「なんでぇ? おチビちゃん、いなくなったのか?」
飄々と露骨に驚いて見せる。
いつも通りの茶化しぶり──けれども、カリナは安堵すら覚えた。叩き落とされた非情な指摘から、ようやく現実へと還れる足掛かりだ。
「それをいい事に、コイツ等は『レマリアが実在しない』などと言いやがる!」
「そりゃ無慈悲だねぇ?」
「キサマは知っているはずだ! レマリアは幻想なんかじゃないと! 証言してやれ! 実在すると!」
「ああ、そういう事ね。了解了解」
カーミラは初めて会った卑俗を睨めつける。
(何処の誰かは知らないけれど、余計な事を……せっかくカリナが現実を受け入れ始めたというのに)
そうした疎みも、生来の嫌われ者は承知だった。優越に吸血令嬢を一瞥するのも心地いい。
ゲデは葉巻を深く噴かすと、向けられた敵意に酔う。
「さあ、真実を言ってやれ! ゲデ!」
「あいよ」
意気を甦らせたカリナが急いた。
ゲデは物臭そうに従い、大きく口角を歪ませる。
そして、ヌッとカリナへ顔を近付けて、こう言うのだ。
「レマリアだぁ? そんなヤツァ、いねぇよ」
「なっ?」
思いも掛けぬ残酷な裏切り!
呆然と立ち尽くすカリナが見たのは、普段以上に卑しい喜悦面であった。
予想外の衝撃に絶句したのは、彼女だけではない。カーミラも、メアリーも、ジョンも……あまりに冷酷なゲデの対応に言葉を失っていた。思わせぶりな素振りで希望を抱かせ、奈落へと叩き落とす──あまりな嬲り方である。
やるせない憤りが、外道への怒りと転化する。
が、集中する憎悪さえも、ゲデには享楽に過ぎない。
「まったく面倒だったんだぜぇ? アンタに合わせた道化芝居は。ま、幻影とはいえ〈意識の結晶〉だからな、本質は〈魂〉と似たよなモンだ。おかげで、オレの幻視で見る事は出来たがな……ィェッヘッヘッ」
「嘘を……嘘を言うな!」絞り出した否定は、わなわなと震えていた。「現にキサマは、レマリアと会話しているではないか! その品性の無さに嫌われていたのを忘れたか!」
「だからよぉ、そいつは〝お嬢の潜在意識〟ってヤツだ。アンタ自身の感情を、ガキの幻に投影行動させていたに過ぎねぇよ。ガキなら、こう言動するだろう……ってな」
「な……何?」
「この国に着いて早々にデッドが群がったのもよ、アンタ自身が喚いて呼び寄せたのさ。ガキの幻影を現実的に体感したくってな。傍目にゃ狂ってたぜ……ィェッヘッヘッ」
「う……そだ」
「ィェッヘッヘッ……ま、どちらにせよオレ様がエラく嫌われてるのは間違いねぇがな」噴かす紫煙に優越を乗せる。「で、どうだったよ? 自己満足の母親ごっこは? アンタの〈レマリア〉は、いい子ちゃんだったかい? ィェッヘッヘッ」
最早、嘲りすら耳に入らない。
ただ虚ろな拒絶だけが呟き漏れた。
「う……嘘だ」
「嘘じゃねぇよ。ぜーんぶ、アンタの妄想だ」
「嘘だ……嘘だ!」
一心不乱に首を振る。
直視させられた現実に怯え、頑なに拒むかのように。
目に見えぬ悪魔が小娘の心を鷲掴みにしていた。
非力な抵抗を容赦なく握り潰さんと……。
「嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ!」
「オイオイ、お嬢ともあろう者が。往生際が悪ィねぇ」
「嘘だァァァァーーーーーーッ!」
「ありゃりゃ、もう壊れてやんの。チッ、案外思ったよりもヤワだったな」
孤高は崩れた。
頭を抱えて慟哭に沈む姿は、凡百な存在の一つに過ぎない。
「つまらねぇ……こんなオチのために付き纏ってたワケじゃねぇんだぜ? オラ、還って来いよ? お嬢には、もっともっと楽しい展開を見せて貰わねぇとな。ィェッヘッヘッィェッヘッヘッィェッヘッヘッヘッヘッ──ィェッ?」
遠慮なく嘲笑う下衆の首が跳ね飛ぶ!
カーミラ・カルンスタインの茨鞭であった!
傷を押して立ち上がった麗姿が、静かなる怒りを孕む!
「ゲデとやら、そこまでにしておくのね」
首無し紳士は転げ落ちた一部を探り拾い、有るべき箇所に据え直した。その様は滑稽ながらもグロテスクだ。
「オイオイ、カルンスタイン令嬢よォ? オレァ、アンタの手助けをしたようなもんだぜ? 聞き分けないワガママ娘に、物の分別を教えただけさ……ィェッヘッヘッ」
「口を慎みなさい。わたしと貴方では、カリナへ向ける想いが違うわ。これ以上、まだ彼女を苦しめるというのならば──」
「ハァ? どうするってのよ?」
「──その薄汚い口から全身を八つ裂きにしてくれる! 二度と再生が叶わぬほど完全消滅させてやるから、そう思え! わたしは〈妹〉ほどアマくはないぞ!」
誰も見た事のない〈鬼〉としての側面が露呈した!
爛々と吊り上がった目に宿るのは、氷の如き殺意!
その鬼気は圧倒的であった!
彼女を中心として渦巻く黒き台流は、カリナとの反目で見せた魔力の解放である!
初めて見る主君の苛烈さには、メアリー達ですら畏怖を覚えずにいられない。
カーミラ自身にしても、潜む残虐性を露にしたのは数百年ぶりだ。
「チッ……へいへい、承知しましたよ」
ゲデは忌々しそうに舌を鳴らした。
肌で感じる魔力の底深さは、さすがにカリナと同格である。
ややあって自らを鎮めたカーミラは、虚空を仰いで慟哭する放心を慈しみに抱きしめた。
「レマリアは……私の〈レマリア〉は……」視界が滲む。漏れる声が涙を帯びる。「……レマリアが……いない?」
「御聞きなさい、カリナ・ノヴェール。貴女の行為は、祖先の呪血が歩ませた宿命──わたし達〈ジェラルダインの娘〉が踏襲する性なのよ」
「ジェラルダインの……娘?」
虚ろに鸚鵡返しを零す。
「ええ、そうよ。わたしも貴女も、原初吸血姫〈ジェラルダイン〉の血統なの。貴女とわたしが不確かな共感を見出し、更には魔剣〈ジェラルダインの牙〉を従える事ができたのが証明よ」
カーミラは優しく諭し続ける。
きっと想いは届く……清水が石へと染み入るように。
「貴女だけじゃないのよ、カリナ・ノヴェール。わたし達は、皆〈孤独〉なの。誰かを愛するのは、誰かに愛されたいから。けれど、叶わないのよ。不老不死を宿した瞬間から、常命とは相入れないの。それでも、愛し続けるの。それが〈人間〉としての性だから。例え〈不死の怪物〉だとしても……〈吸血鬼〉だとしても、わたし達は根幹的に〈人間〉なのよ。だからこそ足掻く。温もりを求め続ける。気高くあろうともすれば、逆に慢心や悪徳にも溺れるの。それもこれも根が〈人間〉だからよ。心宿さない〈デッド〉や〈ゾンビ〉とは違うわ」
「人……間……?」
「それは夢幻の虚無から脱したいが故かもしれない。孤独に対する自衛かもしれない。けれど、貴女の悲劇は〈自らが創り出した幻影〉に依存してしまった事。それは、とても哀しい事ではなくて?」
「私には……私には何も無い。最早、何も……」
「何も無いわけないでしょう!」
此処が正念場だ!
いまのカリナは境界線の手前にいる!
往かせてはならない!
「レマリアが……レマリアが、いないんだ」
「わたしがいる! わたしが貴女の〝レマリア〟となり、貴女がわたしの〝ローラ〟となるの! 世界中が敵になっても、わたしは貴女を愛し続けるわ!」
「レマ……リア……」
愛する名を口にするだけで熱いものが零れ落ちた。充足に培った歳月が、総て雫と消えていく。
「しっかりなさい! いつもの貴女は、どうしたの! 誇り高く、不敵で、気丈で、何事にも媚びない──そんな孤高の吸血姫は何処へ行ったの!」
脆く壊れそうな心を強く抱きしめる!
「……レマ……リア……」
感触は感じている──状況も把握している────それでも、カリナの心は還って来なかった。
「お願いよ、カリナ……わたしと共に生きて…………」
「う……うう……」
顔を埋めた孤高は声を殺して泣き濡れた。白い胸が熱く湿る。
カーミラは慈母の如く、その全てを包み込む。
されど──瓦解しそうな自我──残酷な現実に弄ばれた傷心──それは、カーミラにも繋ぎ留められるかは定かにないものであった。
その時、聞き覚えのある老声がカリナの耳に届く。
「カリナ様ーーーーっ!」
この場に居るはずのない声だ。
油断ならない魔城にて唯一心許した声だ。
虚脱の瞳が、その存在を見定める。
「サ……リー?」
広間の一角──重傷を押した老婆が駆けつけていた。
「カリナ様! ああ、おいたわしや!」
よろつく足取りに駆け寄る。
荒い息遣いからカリナは察した。
サリーは四肢こそ復活していたが、ダメージが完治したわけではない。むしろ、逆だ。
自分の腕へと崩れ抱かれる老婆を困惑に見つめる。
「サリー……何故?」
「お許し下さい! レマリア様を……カリナ様の大切なレマリア様を守れませんでした! されど、生きておりますとも……きっと! このサリーが保証致します!」
老婆が宥めようとすればするほど、少女の心は痛みを増した。
だが、その痛みが本来の冷静さを取り戻させる。
現実を直視させる鎧へと変わっていく。
「サリー……もう、いい……もう、いいんだ」
「いいえ、よくありません! レマリア様は生きておられる! カリナ様のレマリア様は生きておられる! ですから、決して夜叉羅殺に成り下がってはなりませんぞ! 左様な事になっては、レマリア様が泣かれます! このサリーも悲しゅうてなりません! ぐっ……うう……」胸を押さえて苦悶を堪える妖婆は、ようやく訪れた最期を心静かに自覚した。「はぁ……はぁ……カリナ様は、お優しい方。本当に心優しい方……サリーは……知って……おり……──」
老体から静かに力が抜けた。
「なんだ、それは……私が心優しい……だと? とんだ勘違いだ……迷惑な誤解だぞ。私は拈れ者なんだ。嫌われ者の疫病神なんだよ。おい、起きろ。オマエには懇々と説明してやらねばならん。起きろよ、サリー……」
呼び起こそうと揺らし続ける。
されど最早、答える事はない。
眠りから覚める事はない。
「起きろと言っている! サリー!」
やがて、腕の中から黒い塵が消えていった。
抱く重みが無へと還っていく。
「サリィィィイイーーーーーーッ!」
老塵が拡散する虚空を仰ぎ、少女は悲嘆を叫び染めた。
悲しみを噛み締めた瞬間から、どれくらいの時間が経っただろうか──。
数分か?
数時間か?
或いは、数秒だろうか?
存在すら消えた亡骸を抱き続け、カリナは深く沈んでいた。項垂れた表情を覗き窺う事は叶わない。
その場に居る誰もが彼女の胸中を察して佇む──品性下劣なゲデを除いて。
「ケッ……御涙頂戴の安物劇なんざ、阿呆らしくて笑えもしねぇぜ」
蚊帳の外の死神は、露骨な興醒めを持て余していた。
「……カリナ」
神妙な面持ちで、カーミラが呼び掛ける。
続ける言葉など見つからない。
けれど、このままにしてはおけなかった。
身命を擲ったサリーの為にも……。
「カーミラか……要らぬ気遣いをするなよ」
「え?」
意表を突かれる。
カリナから返ってきた抑揚は、予想に反して泰然としていた。
「……上から目線の同情など癪に障るだけだからな」
憎まれ口に上げた表情からは狂気が消えていた。
脆さが消えていた。
そこに存在するのは、気高き拈れ者だ。
「大丈夫……なの?」
「それが癪に障ると言っている」
レマリアを失った。
サリーを失った。
だが不思議な事に、彼女の心は以前より強く在った。
静かに呪縛から立ち上がると、カリナは冷ややかな蔑視に言い放つ。
「おい、下衆野郎」
「か~? 正気に戻った途端、コレかよ」
久々となる無碍な対応に、山高帽子を潰して嘆いた。
「オマエ、霊視ができるんだったな」
「そりゃあ、オレ様の固有能力だからな」
「ならば、私の素性と経緯も見通せるはずだな」
「それを知った上で付き纏ってるんだよ」
「……だろうさ」
自嘲と侮蔑を等しく浮かべる。
ようやく悟った──何故、この異教の死神が、固執的に付き纏うのか……を。
根深い闇は悲劇の連鎖を呼ぶ。コイツにとっては居心地のいい享楽場だ。
いいだろう。
それさえも受け入れ、私は生きる──生き続けてやる。
「ま、お嬢の頼みとありゃあ聞いてもいいがよ。その前に少しばかり付き合ってもらうぜ? こっちも時間が無ぇんでな」
「時間?」
不機嫌と怪訝を混ぜて睨み返す。
「ああ、アンタに会いたがってるヤツがいるんだよ」
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醒める夢 Chapter.6
【挿絵表示】
ロンドン塔敷地内には幾つかの城搭が聳えている。
双色の吸血姫が連れられた場所は、その内の一つ〝ブラッディ・タワー〟であった。
「ずいぶんとカビ臭い場所だな」
カリナの毒突きを拾い、カーミラが簡潔な説明を挟む。
「この塔は、かつて拷問処刑場でもあったの。故に現在でも、多くの拷問器具が眠っている。闇暦現在では利用されてないけれどね」
「ィェッヘッヘッ……そいつは、どうかねぇ? ま、お楽しみって事で……おおっと、此処だ此処だ」
ようやく目的の部屋へと到着し、卑しい案内人は軋み鳴く扉を開いた。
「こ……これは!」
あまりの惨状に言葉を失う吸血姫達!
霊気と冷気が滞る蒼い石室──時代の眠りから再利用された痕跡を赤々と刻む拷問器具の数々──そして、処狭しと散乱する死体の山!
子供! 子供! 子供! 子供! 子供!
吸血鬼ですら噎せるかと思える血腥さが部屋中に充満していた!
「これは……まさか、ジル・ド・レ卿が?」
思い当たる吸血騎士の性癖に、カーミラは絶句した!
「ま、そういう事らしいな。いつから再発したかは知らねぇが……おっと、コイツだコイツ」
室内を慣れて探る死神が一人の子供の前で止まる。
見覚えのある少年であった!
「この子は……っ!」
驚愕するカーミラ!
居住区で出会った少年だ!
「何故、この子が此処に?」
「ィェッヘッヘッ……浚ったのは〝魔女ドロテア〟さ」
「まさか、ジル・ド・レ卿と魔女は通じていたの?」
「いんや? あのショタコン騎士と魔女は通じてねぇよ。けど、まあ〈魔女〉とは通じてねぇが〈魔術師〉とは通じていたってトコかねえ? ィェッヘッヘッ」
ゲデの示唆は意味が判らない。
判らないが……少年を守れなかったという後悔の念だけは、獄刑のように彼女達を痛ぶった。
この少年だけではない。惨たらしい部屋で弄ばれた幼き命──その全てに対する懺悔だ。
虫の息で喘ぎながら少年の瞳は縋っていた。
自責に拘束されたカーミラを余所に、カリナが少年の脇へと歩み寄る。
「何が言いたい?」
片膝着きに覗き込み、優しい瞳で訊ねた。
「ゼェ……があ……ちゃ……」
言葉を紡げぬもどかしさに幼い腕が伸びる。体を動かす事など叶わないというのに……。
懸命に訴えようと震える手を、黒姫の両手が柔らかく包み込んだ。
「心配するな、オマエの母は無事だ」
苦しみ喘ぐ少年の顔が安堵を覚える。
母親が死んでいるか生きているか──真実は知らない。
それでもカリナは、そう告げた。
「オイ……ラ……どうじで……ごんな……?」
「……私の強さは知っているな?」
「う……ん」
「なら、安心して待っていろ。吸血鬼如き、敵ではない」
「……うん」
苦しそうに、嬉しそうに、命が微笑んだ。
慣れた母性が優しく撫でる。
直後、少年が吐血に咳込んだ。
最期は近い──だからこそ、カリナは呈する。
「ひとつだけ選ばせてやる……私と共に生きるか?」
「ぎゅ……げづぎ?」
「ああ」
事の成り行きをカーミラは黙して見守る。
その確固たる眼差しは、この後の展開を信じているかのようであった。
「どうする? 私と共に来れば、そんな苦しみからは永遠に解放されるぞ?」
されども、少年は困ったように首を振る。
「ううん……があちゃ……の……子……いい……」
「……そうか」
黒の吸血姫は慈愛に微笑んだ。
予想通りの返事であった。
望んだ答えであった。
少年の瞼をそっと綴じると、凛然とした所作にカリナは立ち上がる。
厳かに引き抜いた紅き刃が小さな胸へと切っ先を定めた。
「私を信じろ。痛みなど無い」
そして、魔剣は墓標となり、幼い命を生き地獄から解放した。
約束通り、一瞬たりとも痛みなど与えずに……。
暗い静寂──。
またひとつ命が逝った。
たった数時間で、尊き魂が続けて逝った。
重い現実だ。
「さて……と、じゃあ約束通り教えてやるかね。お嬢の過去を──」
頃合いを見計らい、ゲデが切り出す。
「アンタはカルンスタイン令嬢が言う通り〈ジェラルダインの血統〉だ……って、それはいいか。聞きてぇのは、そっから先だろうからよ。ま、百聞は一見にしかずってな。直接見た方が早ぇ。オレの手間も省ける」
「直接見る? どうやって?」
怪訝を浮かべるカーミラに、酒瓶呷りの優越が答える。
「霊視を共有してやるって話よ。コイツもまた、出血大サービスだ……ィェッヘッヘッ」
そして、ゲデの卑しい目は目映くも毒々しい赤光を垂れ放ち、吸血姫達を悪夢へと呑み込んだ。
旧暦中世、イギリス・ウェールズ地方に存在したしがない田舎村──。
風そよぐ小高い丘にカリナ達は降り立った。
空は清々しいほど青く、萌える草花は健全な生を息吹いている。足下の緑が風に撫でられる度に、仄かに甘い香りが鼻腔を擽った。ラベンダーの香りだ。見渡せば遠景に山々が見え、丘陵を越えた先には質素な集落が日常を営んでいた。
「なんだか懐かしいわね、この正常な光景は……」
周囲の情景を展望したカーミラが、しみじみと懐古に浸る。
「どうやら村の外れか」
呟いたカリナは奇妙な違和感を覚えた。
己の両手を視認し、更に全身を眺め回す。
まるで幽霊のように自分自身が透けていた。
いや、彼女だけではない。カーミラも、ゲデも──全員が霊体化しているではないか。
「幽体化した覚えはないが……」
途惑いを察知した案内役が、安い優越感で教示する。
「現状のオレ達は〝時空を越えた意識体〟そのものだ。ただ眼前の出来事を鑑賞するだけ……どう逆立ちしても史実に介入できないようになってるのさ。つまりは〝時空の摂理〟ってヤツだ。ま、アチラさんもコチラを見る事が出来ねぇがな……おおっと、来た来た」
急に身構えるゲデの注視を追った。
一人の娘が丘を登って来るのが見える。
純白ドレスに、花摘みのバスケットケース。赤い髪はツインテールに纏められていた
その少女を見るなり、吸血姫達に衝撃が走る!
とりわけ、カリナの驚愕は殊更に強い!
「アレは……私?」
「この村の領主〝アンカース家〟の娘──それが生前のアンタだよ」
「なるほどな。だから、キサマは〝お嬢〟と呼ぶ……か」
「まあな」
「に、しても──」過去の〝自分〟を、まじまじと観察する。「──まるで真逆だな。実感が涌かん」
自嘲に苦笑う。
どちらかと言えば、カーミラ寄りのお嬢様だ。
血腥い生き方に身を投じる自分と同一人物には思えない。世間知らずが滲み出た雰囲気は、むしろイケ好かないぐらいだ。
花摘みに座るアンカース令嬢が、ふと背後へと気を取られる。誰かを待っているかのようだ。
小さな人影が、せっせと駈けて来た。
その姿を視認した瞬間、カリナは絶句に固まる!
「まさか……レマリア?」
絞り出した声が震えていた。
懐かしさと、寂しさと、愛しさと、哀しみ──鎮静化していた総ての感情が息を吹き返す。
「レマリアーーーーッ!」
思わず駆け出していた!
感情に支配されるままに!
ただ愛しさのままに!
「ああっと! 待てよ、お嬢!」
制止の声など知った事ではない!
歴史の改変が、どうした!
あの温もりと安らぎが再び得られるなら、時空神にさえ唾を吐こう!
駈けて来る我が子を片膝着きに待ち、抱擁せんと両腕を広げた。
「此処だ! 私は此処にいるぞ、レマリア!」
されど屈託のない笑顔は、待ち詫びる母性を擦り抜けていく。
「もう! わたし、まってっていったのよ!」
満面の笑顔で幼女が抱きついたのは〝忌まわしき吸血姫〟ではなく、清廉貞淑な〝アンカース令嬢〟であった。
「おねえちゃん、ズルい! わたし、こどもなのよ! おそいんですからねーだ!」
「うふふ、ごめんなさいね。さあ、膨れてないでこっちへいらっしゃいな。ダリヤやラベンダーが一杯よ?」
「わあ、ほんとなの! これ〝おはなばたけ〟なのよ?」
「そうよ? 綺麗でしょう」
「うん、きえいね」
噛み締める虚無感には、背後から聞こえる微笑ましい戯れが残酷だった。あまりにも残酷過ぎた。
現実の無情を突きつけられた黒外套を、ゲデが嘲笑う。
「ィェッヘッヘッ……だから言ったじゃねぇかよ? オレ達ァ〝時空を越えた意識体〟そのもの。過去には介入できねぇんだよ」
「……分かっている」
「意識体が抱擁しようなんざ笑っちまわぁ。況してや相手は過去の史実に過ぎねぇ。金縛りにすら出来ねぇよ」
「分かっていると言っている!」
癇癪のままに吠えた!
さぞかし失意に沈んでいる事だろう──卑しい下衆根性は、それを期待してほくそ笑む。
しかし、立ち上がった美姫は、意外にも気丈を保っていた。
「そうか……あの子供が〈レマリア〉の前身か」
「ありゃ? 思ったよりも平然としてやがらぁ」
「意のままにならぬ現実など、とっくに受け入れている」
「クソッタレなタフさな事で」
正直、カリナにしても平気なわけではない。
傷心は癒えてなどいなかった。
むしろ一生拭えぬ。
それでも、受け止めるだけの強さを学んだ──いや、ふたつの尊き命によって授けられた。
後は〈現実〉に呑まれるか否か……それだけの話だ。
無論、言うほど簡単ではないが。
「……あの二人、姉妹なのか?」
「ああ、あのチビスケはアンカース令嬢の妹──つまり〝生前のアンタ〟の妹さ」
「……そうか」
実感を伴わない思い出を眺め続けた。
心を満たしてくるのが〝嬉しさ〟なのか〝寂しさ〟なのかは、彼女自身にも判らない。
月明かりがテラスから射し込む。
穏やかな気候だ。寝苦しさは無い。
にも拘わらず、アンカース令嬢は寝汗に蝕まれ苦しんでいた。ネグリジェを乱し、苦悶に喘ぎ続ける。
「ぅぅ……ぁぁ……ハァ……やめ……て」
艶めかしく悩ましい様は、まるで夢魔の夜這いに遭っているかのようであった。
その辱めを、カリナ達はベッドの傍に佇んで眺めた。
「……どういう事?」
「それはどちらの意味だ、カーミラ?」
「どちらも……よ、カリナ。わたし達はさっきまで花香る丘陵に居た。けれど、気がつけば此処にいる──時間帯も変わってね。それに……」苦しみ悶え続ける寝姿を心配そうに見つめる。「生前の貴女、とても苦しそう。この苦しみ方、ただの〝悪夢〟じゃなくってよ?」
「ああ、微弱ながら魔力を感じる。残り香にも近いものだがな」
彼女達〈吸血鬼〉が吸血行為に通う際、似たような事象を獲物へと課す事がある。相手に催眠効果を及ぼし、夢幻の中で貪るのだ。常套手段のひとつだ。
眼前の痴態は、それと同じ臭いがした。
「さて……と、まずは軽く説明してやるかねぇ?」
耳障りな濁声が、揚々と解説を名乗り出る。
「まずは〝時間と場所の推移〟だが、コイツは自然と生じるのさ。時間軸は〝生前のお嬢〟で、観察対象は〝吸血姫へと変貌した経緯〟だ。それを基準として眺めているわけだから、関係事象だけをピックアップして過ぎていくって寸法さな。そうでもなきゃ、一生分の時間経過を付き合わなきゃならねえ。クソ長ぇ駄作映画の垂れ流しみてぇなモンだ。とてもじゃねぇが、オレでさえ御免だね」
実体無き葉巻を深く吐いた。
「で、お嬢を気持ちよ~く悶えさせている──」カリナの殺気を感じ、愉しげに言い直す。「──苦しめている〝悪夢〟だが、いまは野暮に語らねぇよ。それこそが今回の〝肝〟だしな。ただし、相手はチンケな〈夢魔〉なんかじゃねぇ。それだけは教えといてやらぁ」
「ハァ……ぃゃ……ぃゃ……」
「この現象は毎夜続き、日毎に強くなっている。今晩で五日目辺りかねぇ?」
「ぅぁぁぁあああーーーーっ!」
突然、アンカース嬢が絶叫に反り跳ねた!
それは絶頂にも悲痛にも似た叫び!
呼応するように、吸血姫達は真っ赤な波動を感じる!
カーミラは身に覚えがあった。
魔剣を手にした時の荒れ狂う波動だ。
ただし圧迫感は、あの時の比ではない。
「こ……この波動は?」
「まさか〝ジェラルダイン〟か?」
「イヤ……イヤァァァアアーーーーッ!」
悪夢の餌食が激しく乱れ苦しむ!
と、赤き圧迫が次第に鎮まっていった。
汗塗れに紅潮したアンカース嬢は、荒息ながらに軽く痙攣している。
「ィェッヘッヘッ……果ててやんの」
「……殺すぞ、キサマ」
いつもよりも気色悪く感じるニタリ顔を、カリナが殺気任せに睨めつけた。
「けれど、これでハッキリしたわね。生前の貴女を魅入っていたのは──」
「──ああ、間違いなく〝ジェラルダイン〟だ」
カーミラの演繹を、カリナが忌々しげに噛む。
ややあって、アンカース令嬢が起き上がった。
その表情に自我は窺えず、虚ろな瞳は仄かに赤く灯っている。
「やはり〝催眠効果〟を植え付けたかよ」
「いいえ、カリナ。どちらかと言えば、これは〝遠隔支配〟だわ。何故なら〝ジェラルダイン〟自身は訪れていないのですからね」
「さすがは〈原初吸血姫〉だ。たいした〈怪物〉だよ」
皮肉を吐き、柘榴を齧った。
アンカース令嬢が虚脱的に滑り出たのは、夜風吹き抜けるテラス。
「いよいよ迎えに来るのかしら?」
「オマエなら、そんな面倒を敷くか?」
カリナの指摘に、カーミラは苦笑いで首を振る。
「いいえ、あそこまで操れるなら、呼ぶわね」
観察対象が芝庭へと跳んだ!
まるで猫のように、しなやかな身のこなしで!
二階の高さから物音一つ立てずに!
「あら、この頃から体術に覚えがあって?」
「……なワケあるかよ。どう見ても、アレは運動音痴な箱庭飼いだ」過去の自分を誹謗するのは、なんとも奇妙な感覚だ。「遠隔支配で身体能力までコントロールしてやがる。まさに〈怪物〉だな」
思わず腰の魔剣へと警戒心を向けていた。
白い夢遊病が辿り着いたのは、閑散とした石造りの間であった。奥には祭壇のような角石が祭られており、一振りの剣が気高く突き刺さっている。
魔剣〈ジェラルダインの牙〉だ。
その前まで進むと、アンカース嬢は崩れ落ちた。
様子を見る意識体が気配すら生まずに会話する。
「おい、ゲデ……此処は何だ」
「此処は〝ジェラルダインの墓〟だな」
「……何?」
「人も寄りつかねぇ墓地裏の雑木林──そこには見つけにくい祠があってな。ま、或いは魔力で見つからねぇようにしてるのかもしれねぇが……ともかく、その中だ」
「じゃあ〝ジェラルダイン〟は、この村で最期を?」
食いついてきたカーミラを一瞥すると、葉巻蒸かしの物臭が答える。
「さあねぇ? 或いは此処で一度死んで、また復活した可能性はあるが……相手は〈伝説上の怪物〉だ。オレ等とは存在自体が格違い。その真相詳細なんか把握出来ねぇよ。何にせよ、此処に〝ジェラルダインの想い〟が強く遺されているのは事実だがな」
アンカース嬢が朦朧とする意識を起こした。
眼前に構える剣を認識した途端、その表情が強ばる。
「アナタなのね……毎晩、私を苦しめているのは!」
わなわなと抗議の声音を震わせているのが、怒りか恐怖かは定かにない。
「何故? 何故、私を苦しめるの? アナタとは会った事すら無いというのに!」
傍目に不可解な状況であった。
彼女の反発は魔剣へと向けられたものではある。
しかしながら、その口調や態度は明らかに〝物〟へと向けられたものではない。目の前に居る〝何者か〟へと向けられたものだ。
「どういう事かしら?」
「おそらく見えているのさ。いや、見えるようにされているのかもな」
「それって〝ジェラルダイン〟の魂?」
「或いは魔剣に巣食う残留思念だ。どちらにせよ〝選ばれた〟って事さ……クソ忌々しいがな」
哀れな贄の抵抗が続く。
「なんでよ! なんで毎晩『血を吸え』と強いるの! そんな異常で恐ろしい事を、私にさせようとするの!」
愁訴が涙を含んでいた。表情も感極まりつつある。
「アナタは恐ろしい精神異常者よ! そして、私にも一線を越えさせようとしている! 悪い仲間に引き込もうとしている!」
必死な無力を眺め、黒の実力者が零した。
「どうやら相手を〈吸血姫〉とまでは認識していないようだ。まだ〈人間の異常癖性者〉だと勘違いしてやがる」
我ながら馬鹿らしい白痴さだ。情けなくて笑えてくる。
「私は狂ってなんかいない! 血を飲みたいなんて思ってない!」
一心不乱に頭を振って、否定し続けた。
それが何にもならぬ事を〝カリナ・ノヴェール〟は知っている。
「血液嗜好症は無かったのかしら? 強引に〝ジェラルダイン〟から植え付けられた?」
「いや、潜在的に有ったはずだ──何せ〈血統の覚醒〉だからな。さもなくば、魂の共鳴など起きん。その現実を直視出来ず、駄々に拒絶しているだけさ」
とはいえ、それは〈人〉で在り続けるには大事な線だ。
屈した者こそ〈外道〉へと堕落する。
「もう、やめてよ! 父様も、母様も、村の人達も……そして、レマリアさえ──大事な人が、みんな美味しそうに見えるの! その肌の下に熱く赤い物が流れていると思うと、食らいつきたくなるほど渇くのよ!」
アンカース嬢は蹲まり、苦しみの吐露に啜り泣いた。
「それを理性で組み敷くのが、どれほど苦しい事か! アナタに分かって? 猟奇を美徳とするアナタに〈人間〉であろうとする心が理解出来て?」
魔剣は黙したまま語らない。
が、傍観する魔姫達は意思意向を感じる事が出来た。
「……次だな」
カリナが確信を呟いた直後、それは現実の展開となる。
「い……いや!」
アンカース嬢の身体が、本人の意思とは関係無く動かされ始めた。
「これって、まさか強制支配を?」
「ああ、遠隔支配の延長だろう。まったく……強引な手に出てくれる」
魔剣が強いたにせよ〈原初吸血姫〉が強いたにせよ、己が〈吸血姫〉と化す瞬間を見るのは気分がいいものではない。
「いや……やめて……いやよ!」
理性を振り絞って抵抗するも、少女の細腕は不可視の剛腕で無理矢理動かされた。
「私は、アナタの〈娘〉なんかじゃない! 私は〝アンカース家〟の娘よ! 御父様と御母様の娘なのよ! 絶対に〈吸血姫〉になんかならない! なりたくない!」
クシャクシャに泣き崩れた顔で、それでも〈人間〉としての尊厳に縋り続ける。
されど、強大な〈魔〉の前では、小鳥の囀りに過ぎなかった。
震える手が着実に柄へと伸び、そして──。
「いやあぁぁぁーーーーっ!」
彼女は呪われし魔剣を引き抜いた。
血塗られた業と共に……。
夜風は穏やかだった。
窓から吹き込む風精霊が踊る度に、幼き寝顔は髪や頬を撫でられて笑う。
夢現で、いい匂いがした。
レマリアが大好きな人の匂いだ。
だから、ゆっくりと意識が覚める。
お姉ちゃんが胸へと沈めてくれていた。
髪を撫でる優しさは、いつからか風の戯れではなかったようだ。
「……ん、おねえちゃん?」
寝ぼけ眼で見た表情は、優しく、寂しく、何処か冷たい。
これから起こる事を確信しながらも、カリナは傍観するしかない。それが、とても歯痒かった。
「……ゲデ、いま一度訊う。過去は変えられぬのだな?」
「ああ、無理だね」
喜色に酒の小瓶を呷る。
「例外的な措置法も無いのか?」
「無いね」
「……そうか」
それ以上は抗わなかった。
覚悟を決めて直視するだけだ。
確定された哀しみを強く抱き締める。
堪え難い展開に心折れぬように。
「おねえちゃん、どうしたの?」
「どうもしないわ、レマリア」
魔性の成り掛けは、優しく髪を撫で続けた。
幼い妹は、未だ本性を見抜けていない。
軽く感じた違和感さえも、警戒心へ直結させる事が出来なかった。
「ねむねむできないの?」
「そうね。ちょっと眠れないの」
「イタいイタいなの?」
「ううん、もう苦しくないわ」
「うん?」
親指吸いにコテンと頭を委ねる。
姉は──姉だった者は、愛しさのままに細指を動かし続けた。時折、髪を梳いてやりつつ。
感情を浮かべぬ冷たい表情が、若干寂しそうな儚さを含んだ。けれども、それは仮面ではなかっただろう。
「ねえ、レマリア──」
「うん?」
「──大好きよ」
「わたしも、おねえちゃんだいすきなのよ?」
「……有り難う」
悲しみを微笑んだ。
「ずっと大好き……ずっとずっと一緒だからね」
「うん。ずっといっしょなの」
幼さが嬉しそうに染まる。
深く顔を埋めた愛を、幻夢はあやし続けた。
「さあ、もう眠りなさい……それまで、こうしていてあげるから」
「うん」
約束通り、幼き癒しが寝付くまで続けた。
穏やかな寝息が聞こえると、ようやく魔性が行動を起こす。
静かに──そして、ゆっくりと喉笛に牙を刺した。
起こさぬように──声を上げさせぬように──痛くないように──そして、恐怖を与えないように。
気品に愛された麗しき令嬢は、血を啜る卑しい獣畜生と堕ちた。
咥内が生温かさで満たされていく。鉄分の臭いが鼻を抜けていく。
愛しい生命を自分の中へと受け入れた瞬間、彼女の脳内で赤が弾けた。
それを契機に満たされぬ渇きが暴れ出す。
爛々と血走った目から零れ堕ちた涙は、彼女が哀しみに遺した〈人間〉の一滴であった。
旧暦中世──かつてウェールズ地方には、しがない田舎村が存在した。
一夜にして地図から消えた〈呪われし村〉だ。
紅蓮に染まる灼熱と、阿鼻叫喚を木霊させる殺戮の赤き刃──血に飢えた狂気の麗獣が、総てを根絶やしに終わらせた。
墓地裏に在る祠は発見される事も無く、錆びた鉄扉を硬く閉ざし続ける。
その奥深くで、魔性は眠りに就いた。
忌むべき牙を抱きかかえ、いつ目覚めるかも判らぬ眠りに……。
激情任せの虐殺を忘却したかった。
己の存在さえも消し去りたかった。
されど──。
「──レマリア」
愛しい存在だけは忘れたくない。
魂が疲れ果てた。
その心労が誘眠を植え付ける。
そして、彼女は石の如く眠った。
運命の目覚めまで──。
気がつけば、カリナ達は例の拷問場に居た。
状況が動いた形跡は無い。
現実時間は数秒しか経過していなかった……という事だろう。
「そう……そうだったの」
カーミラは独り納得する。
闇暦以前の記憶が無い──カリナの奇妙な経歴が、ようやく説明付いた。
同時に、彼女が〈レマリア〉という幻像を生み出し、狂気的固執を抱いていた理由も。
(けれど、彼女は〝同属化〟をしなかった──妹を始めとして、村人の誰一人として)
カーミラの慈しみを掻き消すように、下衆な死神が声高に雄弁を演じる。
「最愛の妹をテメェで殺めた罪悪感に堪えきれず、理性がブッ壊れた。コレが惨劇の幕開けだ。血に飢えた魔獣と堕ち、一晩で村を全滅させちまいやがった。家族も、村人達も、それこそ女子供も、一人残らずな。ま、それさえも魔剣の支配意志かもしれねぇが……さすがのオレ様も、そこまでは判らねぇ」
聞いているのかいないのか……カリナは無反応だ。
少年の亡骸へと黙祷を捧げるだけである。
「何にせよ、それからお嬢は永い眠りに就いた。忘却の眠りってトコか──ま、オレから言わせりゃ現実逃避だわな……ィェッヘッヘッ。ところが目覚めの時が訪れる。旧暦一九九九年七の月にな」
「それって〈終末の日〉で?」
「御名答さ、カルンスタイン令嬢。ダークエーテルが呼び起こしたのは〈デッド〉だけじゃなかったって事だ。夥しい負念を魔剣が吸い、お嬢の糧へと転じた。眠りながらにして、吸血行為に等しい魔力吸収が行われていったのさ。もっとも暫くは蓄えて眠るだけ……準備万端に目覚めるのは、闇暦年号が始まってからだ」
またひとつ、カーミラの疑問が氷解した。
(柘榴偏食ながらも、衰えを感じさせない魔力底値の高さ──それは魔剣の性質によるものだったのね。吸血行為を自粛するカリナにとって、魔剣は〈武器〉であり〈牙〉なんだわ。つまり敵を斬り捨てれば斬り捨てるほど、吸血行為に等しい糧が得られるという事……)
「斯くして最強最悪の〈怪物〉たる〝カリナ・ノヴェール〟の誕生でござ~いってな……どうよ? 御満足頂ける御伽話だったかい?」
沈思に浸るカリナへと、ゲデの値踏みが投げられる。今度こそ、さぞかし失望しているであろう──ゲデは内心ほくそ笑んでいた。
「三文役者、聞くに堪えん狂言は終わったか?」
期待を裏切り、カリナは平然と憎まれ口を返す。
目の前で眠る少年の顔を眺めていると、何故か〝レマリア〟が重なった。
見渡す限りの未熟な命──約束された未来を奪われた不条理。その哀れさを思うと、己の過去など些末にさえ思えた。
「生憎、もはや過去などに興味は無い」
「はあ? お嬢が説明しろって言うから、わざわざ──」
「結局、現在の私は〝カリナ・ノヴェール〟だという事だ。それよりも優先すべき事がある」
腹立たしさを噛むゲデ。
とはいえ、結局は折れるしかない。
癪だが、それが両者の力関係だ。
「チッ! 何だよ、優先すべき事ってのは?」
「この部屋で息絶えた子供達の無念──一人遺さず、私に伝えろ! 一人遺さずだ!」
激情露わに立ち上がり、孤高なる愛が吼えた!
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醒める夢 Chapter.7
【挿絵表示】
ジル・ド・レは黙想する。
思えば、信仰を棄てたのは──神に敵意を抱いたのは、いつであっただろうか。
愚劣な政略によって、心酔する聖少女が処刑された日であろうか。
或いは、流れ者の魔術師によって〈吸血鬼〉へと貶められた時からであろうか。
否、そうではない。
根元は、もっと以前だ。
幼き頃の悲劇が発端だ。
母を失った。最愛の母を……。
神への祈りは無駄であった。
そして、信仰を棄てた。
無力感に苛まされた。
やがて、また取り戻した。
神の御使い〝ジャンヌ・ダルク〟との邂逅だ。
されど、また棄てた。
幼少期の無力感が甦る。
闇に堕ちた。
神への敵対者と堕ちた。
そして、現在に至る──。
軋み開く城門の音に現実へと呼び起こされ、ジルは静かに瞼を開いた。
十中八九、降伏は無い……それは承知の上だ。
が、迎え出て来た決闘相手は予想外であった。
カーミラ・カルンスタインではない。
たった一人で出陣したのは、不遜なる流浪者だ。
白ではなく黒が現れた。
どちらでも構わない。
己が選択の是非を確められるのならば……。
「よう、髭面」不敵な笑みを浮かべ、柘榴齧りに挑発してくる。「相変わらず黙祷が長いな」
「フッ……捧げる相手など、もはやおらぬ」
自嘲を交わす猛者二人。
互いに望んでいた──いつぞやの決着を!
「さて、始めるとするか……カリナ・ノヴェール!」
今度は横槍など入らない。
否、入れさせない!
心行くまで殺し合おう!
ロンドン塔城門前──多勢のゾンビが犇めく渦中で、激しい剣舞が繰り広げられた!
周囲の屍兵など歯牙にも掛けず、カリナとジルはぶつかり合う!
「「おおおぉぉぉぉぉーーーーーーっ!」」
暴れる双刃に巻き込まれ、無頓着な屍が捌かれていく!
腐肉が破片と飛び、死血が霧と弾けた!
この決闘の瞬間に立ち会ったのが、彼等の不運だ。
もっとも嘆く自我など有りはしないが……。
「失せろ!」
「邪魔だ!」
互いに好敵手を狙いつつ、片手間で障害物たる屍兵を排除する!
剣舞を踊る足場を広く確保せねばならない!
黒集りに拓いていく決闘場──それは滞空に戦況を見定める魔術師の目にも留まった。
「アレは……カリナ・ノヴェール? またしても邪魔をするか!」
プレラーティは疎ましく睨み、呪文を詠唱した。
早口の呪言が意味する内容は不明だ。
どちらにせよ敵意を帯びた攻撃には違いあるまい。
獲物へと向けた掌に種火が収束していく!
圧縮された炎塊が一際勢いを増した焔球と荒ぶる!
「……消えよ」
気取られぬ狙撃が放たれようとした瞬間、予期せぬ一撃が焔を破壊した!
茨鞭だ!
奇襲方向を追い睨む。
白い麗姿が滞空していた!
「……カーミラ・カルンスタイン!」
「まさか〈魔女ドロテア〉の他に暗躍者がいたとはね……確か〝プレラーティ〟とか言ったかしら?」
「ィェッヘッヘッ……その名で正解だよ」
虚空より下卑た濁声が肯定する。
直後、カーミラの背後に男が出現した。
見窄らしい品性に黒いジャケットスーツ──卑しいニタリ顔に飄々とした態度──プレラーティが見た事も無い怪人物だ。
「ィェッヘッヘッ……お初だねぇ? オレァ〝ゲデ〟──ハイチはブードゥー教の〈死神〉さ」
太々しく葉巻を蒸かしながら卑俗な嘲笑が名乗った。
魔術師が睨めつけに訊う。
「その〈死神〉とやらが、何故ハイチから出た?」
「愚問だねぇ? ダークエーテルが蔓延した闇暦じゃあ、世界中が超自然的な魔界環境だ。生地に縛られる柵は無ぇっての。だったらよぉ──」深い邪悪を含み笑う道化者。「──広い餌場へと出歩いて、テメェから満喫した方が面白ぇじゃねぇかよ? ィェッヘッヘッ……」
さしものプレラーティですら忌避感を覚えた。
この〝ゲデ〟なる〈死神〉は、純粋に負念を楽しんでいる。理念も理想も情も無い。ただ悪意のままに貪りたいだけだ。
「ま、そう警戒しなさんな。オレ自身が何かする気は無ぇよ。アンタを相手取るのは──」
ゲデが一瞥で示すのは、臨戦意思の白外套。
双鞭を構えたカーミラが毅然とした誇りに宣誓する。
「悪いけど邪魔はさせない。カリナの邪魔も、ジル・ド・レ卿の邪魔もね」
ジルの剛剣が重い突きを放つ!
初戦の再現宜しく、カリナは黒外套の回転に纏わり呑もうと転じた……が!
「二の轍を踏むと思うか!」
力任せに横へと凪ぎ、無理矢理に太刀筋を変える!
「かはっ?」
瞬時に魔剣を盾として遮るも、頑強な刃はカリナの脇腹を浅く抉った!
その衝撃を緊急離脱の慣性へと転化し、黒の吸血姫は間合いを取る。
片膝着きの体勢に着地すると、吸血騎士を睨み据えた。
押さえた傷口から零れ落ちる熱い感触──久しく味わってなかった痛みだ。
「少しは学習したかよ、髭面」
「先の決闘で貴様の傾向は覚えた。如何に戦い慣れしていようと、女の身では非力……それを補うべく俊敏さを軸とした奇襲へと転じるのであろう。されど読めてしまえば、どうという事はない!」
「そうかよ」
カリナは軽く嘲笑を含み、静かに立ち上がる。
と、徐に紅い刃を傷口へと当てた。
「吸え」紅刃が仄かに光り、溢れる赤を啜り呑んだ。やがて、次第に血が止まる。「……ふう」
「血を吸う魔剣……だと?」
「物珍しいかよ」
「なるほど。わざと適量を吸わせて、止血の仮手段としたか」
「傷そのものは負ったままだがな。それよりも──」挑発と皮肉を込めて、吸血姫は不敵な蔑笑を浮かべた。「──よくも処女の身体を傷物にしてくれる」
刀身に残る滑りを払い拭う。
「おい、髭面。地獄へ叩き落とす前に訊いておきたい事がある」
「何だ」
互いに反目して佇み、静かな敵意を交わした。
「確か〝ブラッディ・タワー〟と言ったか──あの城塔での拷問は何だ?」
「フッ、どうやら見つけたか」
吸血騎士が乾いた感情に口角を上げる。
「児童偏愛癖か? 或いは子供に怨みでもあるのかよ?」
「……分からぬ」遠い目を虚空へと投げ、ジルは愁訴を吐露した。「現在に始まった事ではない。かと言って〈吸血鬼〉と堕ちたからでもない。生前からの隠匿すべき悪癖だ」
「何人殺ったよ」
「一過の犠牲など数えておらぬ」
「偏愛の歪み……ではないな? あの容赦ない拷問痕からして、苦しめ抜いて殺す事自体が目的だ」
「確かに異常な性癖だと自覚する。が、我にも自制は利かぬのだ」
「狂気者は、皆そう言う」
「理解されぬは百も承知。俗論観念とは永遠に平行線だろう」
「それも言うのさ」
子供の存在に依存しなければ自己確立が出来ぬ者──その点では、両者共に同じかもしれない。
だがしかし、その在り様は対極過ぎた。
ジル・ド・レは、幼き命を悦楽の贄とする。
カリナは、無垢な魂を道標と背負う。
相入れるはずがない。
「子供には罪が無い──などと綺麗事は言わん。偽善者共の利己的詭弁は反吐が出る。されど、理不尽に命奪われる謂われも無いだろうさ」
「母性が言わせるか……やはり〈女〉よ」
「さてな──」満たされぬ想いに柘榴を齧る。「──ただ、私の〈レマリア〉が泣くのさ」
「……レマリア?」
「気にするな。オマエにも殺せぬ子だ」
吸血姫は静寂を破り、黒い魔翼を息吹かせた!
超人的跳躍に生じた風を孕み、空中からの強襲戦法へと転じる!
命削る輪舞の再開だ!
「飛ぶか! カリナ・ノヴェール!」
ジル・ド・レは腰を落とし、安定した重心に構えた。
(鎧装束の重量では飛行など叶わぬ。なれば、攻撃に接近した瞬間を返り討ちにするしかなかろう)
この戦術に於いては、カリナの軽装が利点と活きた。
前から、背後から、右から、左から、休む暇も無く黒翼が襲い来る!
一撃離脱の攪乱戦法だ!
彼女の軌道取りは、優美なカーミラに比べて鋭利で素速い!
「燕と化すか!」
忌々しく追い睨みながらも、ジルは刃応えに高揚する。
四方八方から縦横無尽に襲い来る紅い嘴!
突撃の勢いを帯びるため、軽い体重であっても一撃が重い!
加えて、レイピア形状の魔剣も相性が良かった。
突きを肝とした攻撃は、まさに迅速の槍の如し!
戦人として培った感覚で、騎士は強襲方向を予測する!
愛剣を盾に紅い突尖を弾き続けた!
言うは簡単だが、それを為すジル・ド・レの技量は並々ならぬものである。
そして、重々しい反撃を繰り出した!
「むぅん!」
「当たると思うか!」
直進軸を僅かに浮かせた黒外套は、剛刃の軌道から擦れ擦れ上を滑る!
すぐさま直角上昇による離脱へと移行!
が、浴びた剣圧には違和感を覚える。
あまりにも標的への捕捉がアマい。
(当たらぬは承知の上で……か。手数を減らすための牽制だったかよ)
小賢しさを見極めた。
だがしかし、その流れすら敵の思惑通りだ。
易い化かし合いに過ぎない。
「二度手間を掛けさせてくれる!」
滞空静止から方向転換し、急速降下で再強襲を試みる!
ジル・ド・レが上空を睨み構えた!
今度は確実にカリナを捕捉している!
(クソッ! 軌道を強制させるためだったかよ!)
降下の勢いに呑まれ軌道変更は難しい。
なれば、最早突っ込むしかなかった。
「髭面ァァァーーーーっ!」
「カリナ・ノヴェーーーール!」
鋭利な紅刃と剛剣の突き上げが、互いの顔脇を掠めて擦れ違う!
間髪入れずに、またも強引な凪払い!
カリナは開脚後転に反動を生み、ジルの間合いから跳び離れた。その華麗な回避動作は、ジプシーの踊り子を連想させる。
慣性のままに滑る路面を踏み止まるカリナ。
上げる瞳に睨んだ吸血騎士は、平然とした態度を崩していない。
「……腹立たしいヤツだ」
頬に刻まれた赤い筋を親指で拭った。
同様に、騎士も拳で拭う。
両者が繰り出した一撃は、惜しくも敵を貫く事は出来なかった。掠り傷の痛み分けだ。
(剣技は互角か……いま一歩で埒が開かんな)
かつてカーミラが示唆した通り、なかなか厄介な実力者であった。
表層では苛立ちながらも、カリナは冷静に思索を巡らせる。朧気ながら状況打開の妙案が見え始めた。
「カーミラに出来て、私に出来ぬ道理はあるまいよ」
そう、同じ血ならば……。
薄く勝算を含む。
その瞬間、不意に背後から右腕を掴まれた!
「何!」
ゾンビの捕縛である。
それを皮切りに、次々と亡者共が少女の四肢を封じ始めた!
「クッ?」
腕一本に一体ではない!
足一本に一体ではない!
凡そ、しがみつけるだけの死体数が、四肢の枷と化して拘束を強いる!
如何に〈吸血鬼〉が剛力とは言っても、とてもではないが振り解く事など不可能であった!
「クソッ! 命令を変更したか!」
焦燥に足掻くも動けない!
まるで磔刑だ!
正面からは剣を携えたジル・ド・レが、ゆらりと歩いて来る。
(さて、どうするか……)
この窮地を脱出する手段は──ある。
しかし、それは閃いたばかりの策を用いるという事だ。
(ネタバレした手品では、ヤツの虚は突けまいよ)
とはいえ、このままでは〝なます斬り〟だ。
(やはり秘策を先出しするしかない……か)
本音では渋りながらも、カリナは決心する。
眼前まで来たジルが仰々しく剣を振り上げた。
(チィ……背に腹は代えられぬ!)
不本意ながらも秘策を披露しようと覚悟した──直後、彼女を拘束する屍が一体崩れ倒れる!
「何?」
予想外の展開に動揺を浮かべるカリナ。
振り下ろされた刃が捌いたのは、吸血姫ではなく屍兵であった!
宿敵の疑問を余所に、ジルは次々と戒めを潰していく!
愚鈍な加勢を一頻り捌き終えると、騎士は背後の闇空へと怒号を吼えた!
「プレラァァァティィィーーーーッ!」
地の底から響いてくるような獅子の猛り!
「出過ぎた真似をするでないわ! これは我とカリナ・ノヴェールの決闘! 何人たりとて邪魔立てする事はまかりならん!」
心底からの激昂であった!
それは大気を震わせるかの如く、テムズ川上空にて戦う従者の耳にも届く。
「……ですって」
相見えるカーミラが愛らしく小首を傾けた。
「チッ!」
舌を鳴らす黒魔術師。
大局よりも些末な騎士道に囚われる傀儡に、貞淑ぶった余裕に挑発を織り交ぜる実力者──全てが彼の意にそぐわない。
さりとて、ジル・ド・レの機嫌を損なっては 万事が水泡だ。エリザベートのような失態は避けたい。
彼は眼前の難敵だけに標的を絞り込んだ。
「それで? 今度は、どうなさるのかしら?」
「……頭に乗るなよ、カーミラ・カルンスタイン」
平然を崩さぬ白き麗姿を睨めつける。
「コライサラム・エキシサラム・シューサラム──」
早口の詠唱に呼応し、掌へと火元素が収束していく。
「──ファイアーボール!」
火種は炎球と育ち、焔と吼えた!
さりながら、白き吸血姫には動じる素振りもない。
僅かに立ち位置をずらして、滞空のままに回避するだけだ。まるで地を踊り滑るように……。
「リスペルサラム」
再発動の簡略詠唱を唱える!
多数の焔が生まれ襲った!
炎球魔法の連射攻撃!
しかし、それさえもカーミラは避わし続ける。
時折、避けきれぬ数発があったが、それは茨鞭の的と砕いた。
小気味良く舞い踊る白き麗影──存在しないはずの足場が存在している。
万能的に魔術を発現出来るとはいえ、魔術師や魔女は大別的な種族分類では〈人間〉だ。根本から〈魔物〉たる吸血鬼とは異なる。ただ超自然的な行使術に長けているに過ぎない。
魔術によって飛行能力を得ていても、それは仮付随の能力──不可視の翼上に縋り立っているのと変わらぬ。
対して吸血鬼のそれは、地上を歩行するのと大差ない通常動作だ。存在自体が〈翼〉と言ってもいい。
結局〝鳥の翼〟と〝イカロスの翼〟では、根本的に雲泥差があるという事だ。
「……素より空中戦で渡り合おうとは思っていない」
邪瞳が策謀に歪んだ。
「サラムプリズモルグ!」
二指を立てた手を肘折に突き上げる!
カーミラの周囲に砕けた残り火達が、一際大きく息吹を甦らせた!
「何ですって?」
炎は柱と昇り、小鳥を捕らえる!
灼熱の檻だ!
「茨鞭では……無理そうね」
実体無き元素を斬り裂けるわけがない。
下手をすれば、武器の方が焼け朽ちてしまう。
魔術師が焔格子前まで滑り来た。
「……対決早々に動き回るべきだったのだ、キサマは」
「あら、今頃御忠告かしら?」
「エリザベート戦で見せた戦法は知っている。その機動力を封じれば、脆弱な金糸雀だ。それに──」眼下の決闘を一瞥する。「──今回はカリナ・ノヴェールの助力も期待出来ない」
唯一の不確定要素があるとすれば例の〈死神〉だが、ニタリ顔は向けられた視線に戯けて肩を竦めるだけ。宣言通り、介入する意思は無さそうだ。
関心を虜囚へと戻す。
「キサマを屠り、ジル・ド・レへと荷担すれば事が終わる」
「ジル・ド・レ卿は、それを望んではいなくってよ?」
「……関係無い」プレラーティの冷酷なる真意。「我が思惑は〈吸血鬼勢力の壊滅〉にある。あの男の意向など眼中に無い」
「体よく利用したってトコかしら?」
「……如何にも」
「ひとつだけ訊いてもいいかしら? できるだけ疑問は残したくないの」
「……何だ?」
虜囚が無力化したと踏んだか、返す抑揚は高圧的だ。
「貴方の同胞〈魔女ドロテア〉は何処かしら?」
名を聞いた途端途端、プレラーティは嘲笑を含む。
「クックックッ……まだ気付かんのか、カーミラ・カルンスタイン」
直後、魔術師が幻像と霞んだ。
宛ら残像効果のように姿形が歪み、一回り小さな体躯が重なる。
やがて陽炎が収まると、実体となったのは小柄な身体の方であった。
「貴女は──魔女ドロテア!」
仇敵を前にしたカーミラが、思わず驚愕の声を上げる。
同時に、万事合点がいった。
何故、こうも続けて謀反が生じたのか?
何故、魔女と魔術師の手口が似ていたのか?
策謀者は二人ではない──最初から一人だったのだ!
「暗躍が為の〈性転換魔法〉だ。我は〝プレラーティ〟であり〝ドロテア〟でもある」
「どちらが〈正体〉なのかしら?」
「さてな……あまりにも永い歳月を掛け持ちした。最早、我にも判らぬ」
「ジル卿やエリザベートの生前から、今回の根回しを? そうは思えないけれど?」
「生前の奴等に接近したのは、単に〈魂〉を堕落させる為だ。さすれば、契約悪魔への献上品となる。おかげで多彩な魔術も授かった。されど〈一級魔術師〉には後一歩といったところか……まだまだ足りぬ」
「あ……貴女は……自身の魔力向上の為だけに、彼等の〈魂〉を魔界へと貶めたと言うの!」
「我等〈魔女〉にとっては〈魔術〉こそが総て。行使魔術が強大であればあるほど、その地位と権限は大きくなる」
カーミラの胸中に嫌悪が募る!
「他人の〈魂〉を何だと! その〈命〉と〈生〉を!」
「愚直だな。我は奴等の内に燻る闇を解放させてやったに過ぎん」
「もう、いいわ」
「……辞世は満足したか」
「ええ。もう何も語らなくていい。聞くに耐えない醜さですもの」
我慢していた憤りを解放し、白い外套が踊り狂う!
優美な回転に舞う白い波!
自らを軸とした吸血姫の円心は、みるみる加速を上げていった!
「な……何をしようという! カーミラ・カルンスタイン!」
高速自転が続く!
既に実像が捕らえられない!
炎の牢獄には白き竜巻が暴れ育っているだけだ!
「辞世は済んだ──けれど、それは貴女の辞世よ!」
気流の暴力が膨れていく!
自身も呑まれそうになりながら、ドロテアは踏ん張り堪える!
そして、炎の戒めが弾けた!
「……クッ?」
鎮まる台流に佇み、白い麗姿が種を明かす。
「精霊魔法にて〈火〉を相殺するのは〈水〉のみ──その概念に捕らわれ過ぎていたようね。確かに〈風〉は〈火〉を助長する。けれど、圧倒的に過剰な暴風なら、どうかしら? 今回は暴飲暴食が過ぎた……許容量越えよ!」
「キサマ、最初から抜け出せる算段を?」
「ええ、少しでも情報を収集したかったの」
にこりと微笑む貞淑。
実力に裏打ちされた余裕であった。
「それじゃあ、先程の御忠告に従うわね!」
白い翼が疾風と舞い飛ぶ!
エリザベート戦で見せた厄介な攪乱戦法だ!
「ラジュガ・ミフェ・ディーヨ──」
早口な呪文詠唱!
「──マヴォラ!」
魔女の姿が三人と増えた!
三人が五人となり、五人が十人となる!
「分身魔術?」
「間抜けなエリザベートと同格に侮るな。みすみす標的と留まる気は無い」
「的が増えたなら、その総てを潰せばいい!」
気迫を吼えるカーミラ!
白き疾風が、茨鞭の連撃を乱発する!
次々と貫かれていく幻影!
「な……何っ? 力押しを!」
カーミラの戦闘能力を改めて脅威に感じる。
脅威?
否、これは〈恐怖〉だ!
真正の魔性と対峙した人間の〈恐怖〉だ!
「水泡に帰してなるか! 今回の戦乱は、大きなチャンスなのだ! これだけ大量の贄を捧げれば〝次期魔女王〟の座すら掌握出来るかもしれんのだぞ!」
「それが貴女の〈目的〉……そんな下らない事が!」
「キサマには分かるまい! 強大無比な魔力に恵まれたキサマに、我等〈魔女〉が苛まされる積年の渇望は!」
虐げられてきた歴史を思い起こす。
迫害の痛みを忘れてはいない。
そして、忌まわしき〈魔女狩り〉の暴虐を……。
「貴女にも〈吸血鬼〉の虚無感は判らない!」
「生まれながらにして闇に祝福されし者が! よくもほざく!」
ドロテアは更なる呪文を詠唱した!
しかし──!
「そこォーーーーッ!」
「かはっ?」
魔術発現と紙一重で、渾身の一撃が本体の腹を貫通した!
飛行魔術の集中も乱され、無様に墜ちていく!
墜落の様を滞空静止に見下し、カーミラは魔女の敗因を指摘した。
「動作は真似出来ても、呪文詠唱そのものは出来なかったようね……魔力蓄積と呪文発声は〈本体〉である貴女だけだったのよ」
同情など抱く必要は無い。
狡猾なる〈魔女〉は私利私欲の為に、あまりにも多くの犠牲を踏み躙ってきた。
エリザベート──ジル・ド・レ──そして、カーミラが温情を傾ける〈人間〉達を。
テムズ川が汚らわしい水柱を上げる。
「わたしと踊ろうなんて百年早かったようね」
「おい、従者が逝ったぞ」
「プレラーティの愚か者が……カーミラ・カルンスタインを侮ったな」
遠方に起きた黒い水柱に、カリナとジルは戦況の進展を把握する。
魔力の源泉を失い、周囲の屍兵が〈死体〉へと還っていった。
とはいえ、どうでもいい。
両者の目が捕らえているのは眼前の敵のみ!
叩き折りたい敵刃のみ!
手数は圧倒的にカリナの方が多い。
それら紅い閃光を確実に弾き防ぎつつも、ここぞとばかりに重い一撃を繰り出すジル・ド・レ。
突発的に生まれ迫る剣圧を、黒姫は輪舞の如き体捌きで避わし続けた。
目まぐるしい一進一退が刻まれる。
「鬱陶しい相手だ。さっさとくたばれよ」
「死すべきは貴様よ!」
騎士の剣が大きく振り上げられた!
小競り合いを無視した力任せだ!
密着した状態では、如何にカリナでも離脱回避などできない!
「真っ向から止めるか!」
「それしかなかろうよ!」
広刃と細刃がぶつかり合い、鍔迫り合いの態勢を余儀なく強いられる!
男と女の差は、カリナにとって些か不利に働いた。力も体躯も……だ。
それでも押し止まるだけの技量は、戦闘慣れした実体験からか──或いは意地か。
「惜しい……実に惜しいものよ」
「あんな大振りが惜しいものかよ」
「そうではない。以前も言ったが……何故、貴様のような傑物が〈女〉の身に生まれたのか? それが実に惜しいのだ」
「また、それか。何か〈女〉にトラウマでもあるのかよ」
吸血姫は辟易を帯びた蔑笑を返す。
「貴様程の実力があれば……貴様が〈男〉であれば、我が片腕にも誘えたものを」
「いいや、そうはならんさ」
「何?」
「暑苦しいジジイのお守りなど、私が御免被るからだ!」
僅かに魔剣を引き、均衡を崩した!
虚を突かれグラついた鎧を渾身に踏み蹴る!
その勢いを加味して、カリナは大きく跳び退った!
再び得た間合いに黒い翼を膨らませる!
「またも飛ぶか!」
「腹立たしいなら飛んでみせろよ」
黒き矢が天を射す!
自らを回転軸とした螺旋上昇!
二つの高速運動を一つの力点と転化し、カリナは黒槍と飛ぶ!
「一撃必殺と穿つ気か!」
旋回に迫る黒渦を睨み据え、ジル・ド・レは迎撃を構えた!
狙うは軸芯……真紅の切っ先だ!
迫り来る数秒が数分にも感じられた。
焦れる──次の一撃が決着の瞬間だと確信するからこそ焦れる!
唸り哮る螺旋が射程へと入った!
「逝けぇぇぇーーーーィ! カリナ・ノヴェェェーーーール!」
全身全霊を込めた剛剣の突き!
雄々しくも逞しい刃が、美しき吸血姫の脳天をブチ抜く!
死の瞬間に見開かれる眼!
荒ぶる魔姫を貫いた──ジルがそう思えた瞬間、眼前に在った亡骸が霧散して消えた!
「瞬間霧化だと!」
「……此処だよ」
冷めた警鐘に視線を落とす。
黒外套は懐に潜り込んでいた!
繰り出す突きに身を乗り出した体勢へと!
「実体化を?」
「遅い!」
対応する隙も与えず、紅い牙が騎士を貫く!
前屈み故に無防備となった喉笛へと!
「吸えぇぇぇええ! ジェラルダイィィィイイン!」
雄叫びを吼え、全身の力で突き上げた!
百舌の早贄の如く、串刺し刑と晒される吸血騎士!
鮮血の噴霧に映える魔剣のシルエットは、皮肉にも〈逆十字〉に見えた。
彼等〈不死十字軍〉のシンボルに……。
白い空間に優しく包まれ、ジル・ド・レの意識は走馬燈を眺める。
痛みも恐怖も無い。
ただ胎内回帰にも似た安らぎだけが在った。
旧暦一四〇四年──フランス名門貴族の家系にて、彼は生まれた。財も人脈も恵まれた環境である。
当時、フランスは百年戦争の渦中に在った。
日々何処かで戦火が上がり、日々何処かで儚い命が散った。戦果と落とされる貧困は人心を蝕み、国内情勢も不安定に陥っていた。明日への希望は陽炎の如し。
ジルの幼年期も、そうした情勢にあった。
両親から篤い信仰心を受け継いだ少年は、そうした世相に心を痛め続ける。
だから、決意をした──大人になったら、この戦争を一刻も早く食い止めよう……と。
その瞳はまだ純粋で、眩しい希望に満ちていた。
旧暦一四一五年──最愛なる母が逝った。
ジルが十一歳の頃である。
母は病弱な人であった。
されど、無力な自分がしてやれる事など無い。
故に日々祈り続けた。
神へと縋った。
だが、結局は無駄であったと思い知る。
続けて、父が逝った。
戦死だ。
口々に名誉賞賛されようと、それが何になろうか。
少年に与えられた神の見返りは、理不尽な無情のみ。
後見人に引き取られる中、彼の瞳には〈闇〉が芽生え始めた。
篤い信仰心は一転して、神への憎悪へと推移する。
だから、少年は信仰を棄てた。
救済無き信仰など〈呪い〉でしかない。
旧暦一四二九年──百年戦争へと参加する。
看過出来ぬ戦況に自警団を旗揚げした。
私兵とはいえ、局地戦に於ける貢献度は大きい。
フランスの為では無い。
苦しみ喘ぐ民衆の為だ。
そんな中で、後々まで彼の人生観を決定付ける存在に巡り会う。
オルレアンの野原で出会った娘は、自らが受けた〈神託〉を粛々と語り聞かせた。
さすがに訝しんだが、一応は国王への謁見を御膳立てしてやる事とする。
そこで少女は〈奇跡〉を見せつけた。
謁見した王が偽物と見抜き、傍聴へと隠れ紛れていたシャルル七世を見事に言い当てたのである。初面識にも拘わらず……だ。
少女を間者と疑ったが故の奸計──それを知るのは立案者である国王自身と、ジルを含めた宰相達のみ。
何故、それが看破されたのか?
もはや〈神の御使い〉としか思えなかった。
聖少女〝ジャンヌ・ダルク〟との邂逅──それは喪失した信仰心を取り戻すに充分過ぎた。
旧暦一四三一年──百年戦争末期、忌むべき魔女裁判。
激しい混戦下での撤退とはいえ、実に不覚であった。
心酔するジャンヌ・ダルクが、事もあろうに敵陣へと取り残されたのである。
狼狽えながらも、ジルには希望もあった。
英仏間の戦争協定により、保釈金を払えば捕虜は取り戻せたからである。
イギリスより提示された保釈額は、決して払えぬ額ではない。
にも拘わらず、祖国フランスは拒否した。
救国の英雄を見捨てたのである。
この一連で失望した彼は、表舞台から姿を消した。
信仰も愛国心も投げ棄てて……。
隠遁生活の中で魔術師プレラーティが訪れたのは、これより僅か数年後の事である。
「フフフ……思い返せば、実に波乱な人生であったな」
乾いた笑いに己を慰める。
遠くから穏やかな安らぎが近付いて来た。
母だ。
幼くして死に別れた母が、慈しむ微笑みを向けている。
久しく忘れていた膝枕の温もり……子守歌のように頭を撫でる細指──ジルは童心を想起する。
「ああ、そうであったか……ワシが本当に責め殺したかったのは──」
──自分自身。
──幼き日の無力な自分。
──愛しい母を救えなかった後悔。
ようやくジルは、己の真実へと辿り着いた。
殺したかった自分を、児童への拷問行為に擦り変えていたのだ……と。
「……悔いても戻らぬ」
時間も、経歴も、子供達の命も……。
ひたすらに愛しく我が子を撫で、母は頷いた──ジル、もういいのよ。
「嗚呼……母よ」
慕情に差し出した手が、されど届く事など無い。
慈愛に満ちた母は天国へと導かれ、血塗られた自分は無に還るのだから。
闇空を凝視に転がる亡骸へと、勝者は静かに語り聞かせる。
「最初から瞬間霧化が肝だったのさ。その他の大技は、派手な囮だ」脇腹の痕を、鈍い苦痛に押さえた。「もっとも精神集中が儘ならぬ実戦下では、私にしても賭けではあったがな」
それを易々と為せるカーミラの実力を、改めて噛み締める。
視野の片隅で霧散消滅が始まる。
カリナは無関心に踵を返し、その様を見届けようとはしなかった。
好敵手に対する、彼女なりの手向けである。
朽ち逝く死霧が闇空へと拡散し、誇り高い鎧と剣だけが遺った。
闇暦三〇年──ジル・ド・レ、死す。
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醒める夢 Chapter.8
【挿絵表示】
「クッ! 吸血姫共め!」
敗走の呪詛を込め、魔女は忌々しさを咬む。
空間転移魔法による逃亡を選択するしかなかった。
テムズ川へと墜とされたのは不幸中の幸いか。黒く淀む川面のおかげで、誰にも気取られる事無く脱出できたのだから。
手近な屍兵を数体だけ巻き込み、魔女は転移呪文を実行した。無事にイングランドを抜け出すまでは護衛が欲しい。
況してや、シティ外にはデッドがいる。万全な状態ならば敵ではないが、疲弊した身では排斥の自信が無い。
魔女が転移したのは、防壁を越えたシティ外──非管理地区だ。
反乱の暗躍者は、隔離された戦火を睨み据える。
「まだ死ぬわけにはいかぬ! 総ては復讐のためだ! 歴史に虐げてきた〈人間〉達に! 半端な魔性と蔑んできた〈怪物〉達に!」
徘徊する喰屍達が獲物を察知して近付いて来た。
「やはり数は多いな……頭を狙って排除しろ。私に近付けるな」
命令を受け、死体が死体を殺し出す。手にした鉄パイプや引き千切った死体の腕を武器に、ゾンビはデッドを破壊し続けた。
屍のバリケードを傍観し、取り敢えずは身の安全を確信する。
と、徐に魔女は黒月を怯え仰いだ。
その巨眼へと畏敬を込めて懇願する。
「我が主よ! 我が契約悪魔〝バロン〟よ! いま一度チャンスを! 強大な魔力さえ与えて下されば、更なる混沌を御約束致します! 何卒、あの〈吸血姫〉共を屠れるだけの魔力を!」
「ィェッヘッヘッ……くれるワケねぇだろ」
聞き覚えのある濁声にギョッとした。
嫌悪感を誘発する気配を探して、一角を睨めつける。
やがて細道の暗がりから歩み出て来たのは、予想通りの卑俗──ゲデとかいう死神だ。
「ま、正しくは『与えたくとも与えられねぇ』ってトコだな。テメェとお嬢じゃ、根本的に魔力底値が違い過ぎる。下駄を履かせるにも限度があらぁな」
「黙れ! たかが原始的宗教の死神風情が! あの御方に不可能など無い! あの御方は──」
「あぁ、よぉ~く知ってるぜ? 同業者さんよォ?」
「な……何?」
思いも掛けぬ呼び方に動揺する。
「オレもアイツに従う者さ。混沌の御膳立てをして、負念を生み出す──ソイツが〝御主人様〟の糧ってワケだ。そうして、より強大になる。強大になれば闇暦世界の超自然的摂理は、ますます根深くなる──よくできた負の還元だよ」
言い回しからして間違いない。
この死神もまた〈黒月の使徒〉だ。
何らかの契約関係にあって従う者だ。
「何故だ? 何故、キサマような下衆が、我と同じ立場に!」
腹立たしい屈辱感と納得出来ない動揺が、等しく魔女を支配する。
恨みがましい凝視を余所に、ゲデは太々しく葉巻の紫煙を吐いた。
「ィェッヘッヘッ……オレにとっちゃあ、どうでもいい事さ。ま、取り敢えずアンタはミスを犯したんでな。その御報告に来てやったってワケさ」
「ミスだと?」
「まず〝カリナ・ノヴェール〟を巻き込んだ事。お嬢の機嫌を損ねて、無事に済むはずがねぇやな──オレ以外は。ィェッヘッヘッ……」
手近な瓦礫に腰掛け、葉巻を蒸かす。
「次に、あの黒月を過大評価していた事。オマエさん、根拠無く心酔し過ぎだぜ?」
「根拠無き心酔……だと?」言葉の端を拾い、ドロテアは自身の優位性を取り戻した。「クックックッ……盲目の愚者が! やはりキサマと我は違う! あの御方と我は旧暦時代から固い絆で結ばれた契約関係! 裏切られる事など無──」
「ィェッヘッヘッ……エリザベート・バートリーも同じ考え方だったなぁ? やっぱ主従は似るのかねぇ?」
「ふざけるな! 我とエリザベートでは──」
「捨て駒の末路なんて、どうでもいい些事なんだよ。テメェが〝利用する側〟だったんだから、当然解んだろ? ィェッヘッヘッ……」
「なっ?」
「ィェッヘッヘッ……どうしたよ? 魂が動揺してやがるぜ?」
「ち……違う……我は……私は……?」
ドロテアを懐疑心が蝕んだ。
ゲデの値踏みは絶対的な確信に満ちている。
故に信条の根本が揺らぎを覚えるのだ。
(認める必要はない! こんな下衆の戯言に耳を貸す必要などない!)
そう自分に言い聞かせても、完全否定が出来ない。
狂信的な心酔は、一転して得体知れぬ不安へと変わる。
均衡を崩しそうな心を愉快に眺め、ゲデは満足な一服を深く吐いた。
「そして、最後のミスは──オレの前で〈ゾンビ〉なんかを使っちまった事だよ……ィェッヘッヘッ」
銜え葉巻に指をパチンと鳴らす。
途端、取り巻くゾンビ達が脱力に崩れ倒れた!
まるで糸を断たれたマリオネットのように!
「こ……これは!」
「ゾンビは元々〈ブードゥー秘術〉だ。オレが自由に出来ねぇ道理は無ぇよ」
「な……何故だ!」
「あん?」
「その能力があれば、いつでも戦況を一変させる事が出来たでは──」
「ああ、そりゃよ?」卑しき邪笑が歯を見せる。「沢山殺し合ってくれた方が、オレとしてもオイシイんでな……ィェッヘッヘッ」
闇の濃さが違う!
質が違う!
コイツの前では、カリナ・ノヴェールも、ジル・ド・レも、エリザベート・バートリーも、生温い仄暗さでしかない!
「さて、ボーナス問題だ。魔力支配を失ったゾンビは、単なる死体──じゃあ、次にどうなるかね?」
答えるまでもない!
防壁外には魔気が泥寧している!
此処〝フリート街通り〟とて、そうだ!
そして、ダークエーテルの干渉を受けた死体は──!
恐怖に捕らわれ、視界の隅を見遣る。
ゆっくりと起き上がる屍──忠実な衛兵だった肉体が、次々と再起動していた。
「く……来るな!」
緩慢な動きに距離を縮める捕食獣。
次の瞬間、飢餓に開かれた口腔が喉笛を噛み千切った!
「っひゅ!」
悲鳴が空気と漏れる!
魔女にとっては致命的な痛撃だ!
最早、呪文詠唱も叶わない!
街の至る所から、次々とデッド達が群がって来た!
死者の芋洗いが、鮮血塗れの魔女を呑み込む!
「ひゃ……ひゃへ……ひゃへほぉぉぁぁぁァグァヴゥアァァ……────」
絶望に足掻き伸ばした腕は、喰屍の底無し沼へと沈んでいった。
「地獄に連行される自滅ってか? 古臭ぇ怪奇小説かよ。ま、何にせよゴチソーサン……ィェッヘッヘッ」
懐から取り出した小瓶酒を呷る。
肴は戦乱の立役者が魅せた〈死〉だ──期待したよりは薄味だったが。
ふと黄色い単眼と目が合った。
「アンタも呼び名を統一してくれねぇか? やれ〈魔王〉だの〈妖怪球〉だの〈門の鍵〉だの……こっちも混乱していけねぇや。単なる〝ダークエーテルの塊〟に過ぎねえってのによォ」
ゲデが毒突いた通り、この〈黒月〉はダークエーテルの集合体であった。
同時に知性体であり、超強大な〈魔物〉でもある。
闇暦世界に蔓延するダークエーテル──なれば、その集合知性体は〈世界〉そのものと呼んでも過言ではない。
存在自体が〈秩序〉であり〈法則〉だ。
その支配力は、宛ら〈闇の神〉か。
口元の垂れ酒を拭うと、ゲデは興味醒めて歩き出した。
これ以上留まっても、戦乱鎮まったロンドンで利益は無い。
死神は新たな混乱を求め、街路の霧へと消えた。
食事処には困まらない。
闇暦世界の総てが、彼の遊戯場なのだから……。
神出鬼没で自由奔放な〈死〉への漫遊──それが彼に授けられた役得であった。
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~終幕~
孤独の吸血姫
【挿絵表示】
カリナ・ノヴェールが去って五日後──。
薔薇園の東屋で憩うカーミラは、ティーカップの赤ワインを淡く含んだ。
鼻を突く鉄分臭に、ふと偏食を思い出す。
「柘榴……か」
それが吸血行為の代用となるなら、普及推進案を一考してもいいかもしれない。
もっとも反発は多いだろう。
そもそも一般吸血鬼の魔力維持が期待出来るかは解らない。カリナや自分は〈特別な存在〉なのだから。
「カーミラ様」
聞き慣れた凛声で我に返る。
ジル・ド・レ卿に代わる新たな側近・メアリー一世だ。
「メアリー、居住区見直し案に進展があって?」
報告に石畳を渡ったメアリーは、畏まって東屋へと相席した。
「防壁をシティ外まで拡張するには、あと半年は掛かると見通しが……」
「そう……」
今回の内乱で、少女領主は防壁拡張の必要性を学んだ。
シティを──選別した区域だけを守ればいいという話ではない。
この領地総てに懐を広げなければ、真の〝人魔共存〟は築けない。
防壁がロンドンを──否、イングランドそのものを囲えば、領内に於ける魔気の影響は遮蔽できる。デッドの猛威も排斥できよう。
そうした根回しから民の生活環境を整える意向であった。長期計画になるではあろうが……。
それに伴い、カーミラは新しい政策方針も加えていた。
「人間達の雇用状況は?」
「悪くはありません。働き口が出来た事により生活の安定が見える……と、民衆は歓迎しているようですね」
防壁拡張工事には居住区をはじめとした〈人間〉達を広く雇用した。施工指揮は〈吸血鬼〉であるが、徹底した現場監視によって不正や不当が生じないように厳しく配慮している。無論、障害たる〈デッド〉の駆逐も兼任だ。
そして、これを束ねる共同責任者は、ジョン・ジョージ・ヘイとペーター・キュルテンになる。
近代吸血鬼である彼等ならば、大衆心理にも順応力があるだろう──そう踏んでの抜擢であった。
「現場の雰囲気は宜しくて?」
「ええ。我等へ向ける民の感情も、徐々に軟化されるかと。共通価値観と連帯意識の前には、種族差異など些末な事なのかもしれません」
人間達の〈吸血鬼〉に対する嫌悪と忌避感──吸血鬼達の〈人間〉に対する蔑みと加虐意識──それらを抑制させる為に、敢えて〝同じ目的〟を与えた。
しかしながら、カーミラの胸中には誰にも吐露せぬ思いが巡る。
(……エリザベート・バートリー)
因果な事に、彼女の暴虐がもたらした功績は大きかった。
象徴悪の人身御供によって領民達のガス抜きが為され、人間達による反乱は回避されたのだ。
さもなくば、ジル・ド・レ戦で疲弊した〈不死十字軍〉は壊滅の憂き目に遭っていたかもしれない。
奇しくも、彼女もまた地盤固めに一役買ったのだ。
「……カーミラ様? 如何がされましたか?」
「いいえ、何も……」
メアリーからの呼び掛けに我へと返り、涼しい平静で取り繕った。
「ところで、それって健全な連帯感でしょうね? もう謀反や反乱は懲り懲りよ?」
冗談めいて含羞む。
と、メアリーから注がれる眼差しが穏やかな事に、ふと気付いた。
「何かしら?」
「いえ、今回の一連があってこそ、カーミラ様も変わられた……と」
「そう?」
「以前は政治に消極的──ともすれば無関心な節もありましたが、いまでは意欲的に取り組んでいらっしゃる」
「ん~……どうかしらね?」
カーミラは闇空仰ぎに、はぐらかす。
「今回の一件で、理想論と現実のギャップに気付かされた事も多々ある。自分が拠としてきた理想を、机上の空論で終わらせたくない想いもね。だけど……」
呟き漏らす本心は、偲ぶような声音であった。
「何よりも、守っておいてあげたいのよね──帰れる場所を」
「帰れる場所……ですか?」
真意が汲めずに怪訝を浮かべるメアリー。
だが、カーミラの柔和な横顔に疑問は氷解した。
少女城主の傾視を追って、共に黒月を仰ぐ。
二人が思い浮かべていたのは、心優しき拈れ者──孤独を背負って旅路を行く吸血姫。
あの黄色い巨眼は、この瞬間も黒き外套を見つめているのだろうか……。
静かに月を眺め続ける。
あの毅然とした皮肉屋が、いつか帰って来る日を待ち望みながら……。
「ドイツくんだりまで来てみたというのに……何処もかしこも変わらんな」
辟易と零しつつ、黒外套は魔気漂う情景を見渡す。
険しくも拓けた山道だ。右手は断崖と切り立っており、遠景に拒絶的な山脈が聳えていた。その裾野には黒い雲海が漂う。左側に繁る雑木林は鬱蒼としていて、まるで魔樹の巣窟にも思えた。下山の導と剥き出した馬車道は、おそらく集落へと続いているはずだ。何処かは知らないが……。
「この道はオマエの村へと通じているのか?」
少女を送り届ける道縋ら、柘榴齧りに訊ねる。
「うん、そうよ。ダルムシュタットっていうの」
隣に並び歩く子供は朗らかな笑顔で答えた。
警戒心は感じられない。気を許した……という事だろうか。
年齢は十歳前後。ピンク色のチャイルドドレスが愛らしい。頭には赤いバケット帽を被り、バスケットケースを腕に通している。
出会ったのは偶然だ。
彷徨の山道で出会したデッドの群を捌いてみれば、獲物は大樹の上に逃げ登った少女であった。
以降、襲撃は無い。
厳密には何体か遭遇したが、魔姫の前には結局無いも同じだ。
「何故、あんな所にいた? 子供一人が出歩く場所でもあるまいよ」
「あのね、あのね? あそこ、たくさん野苺が採れるの」
屈託無くバスケットケースの収穫を見せる。大量……と呼べるほどでもないが、そこそこだ。
「お母さん、野苺好きなの」
無垢な笑顔に癒されかけたが、ここは毅然と釘を刺しておく。
「だからと言って、子供一人で彷徨いていい場所でもあるまいよ。今回のようにデッドが襲ってきたら、どうする気だった」
「……うん」シュンと沈んだ。「前は、お父さんと行ったけど……」
「現在は、いないのか?」
「うん」
敢えて理由は追及しない。
闇暦では、よくある事象だ。
「お母さん、病気だから……大好きな野苺なら食べられるかな……って」
ふと似た境遇の少年を思い出した。
ロンドン居住区で出会った少年──救ってやる事が出来なかった。その悔いは残る。
「ほらよ」
バスケットケースへと柘榴をふたつ足してやった。
「え?」
驚き見つめ返す少女を余所に、黒姫は前を見据えたまま嗜好品を齧る。
「いいの?」
「悪けりゃやらん」
不器用な横顔を仰ぎ眺めつつ、少女は笑顔を染めた。
抱いた好感は、そのまま強い好奇心へと変わる。
「お姉ちゃんは、どこへ行くつもりだったの?」
この人の事を、もっと知りたくなった。
何故なら〝いい人〟だからだ。
そして〝優しい人〟だからだ。
「さてな……宛など無い」
柘榴齧りが感慨もなく答える。
「行くとこ、ないの?」
「無いな」
少女は何故だか悲しくなった。
この〝優しいお姉さん〟には〝おうち〟が無い。
家族がいない。
お母さんも、お父さんも、食卓も、暖炉の暖かさも──それは、すごく寂しい事だ。
「じゃあ、ウチにお泊まりして? お姉ちゃん、命の恩人だもの。お母さんだって喜ぶわ」
「フッ、私を招くか」
乾いた自嘲は、されど噛み締めていた。
ささくれた心を、温情が包み込んでくる。
自分の思惑と無縁な歓待は初めてかもしれない。
数歩、沈黙に足を刻んだ。
道程への正視を外さぬまま、カリナは訊ねる。
「オマエ、母親は好きか?」
「うん! 大好き!」
満面の笑顔が答えた。
「……そうか」
微かに口角が上がったのを自覚する。
その言葉が聞けるならば、己の闘いに意義も持たせられるだろう。
これから先、血塗られた旅路が果てぬとも……。
不意に指先へと温もりが絡まった。
幼い指が絡まる感触だ。
その懐かしさに寂しさが動揺する。
思わず並び歩く姿を求めると、一瞬だけ〈レマリア〉がいた。
が、無垢な癒しは、すぐに残像と消える。
そこに在るのは屈託無い〈生命〉の笑顔。
淡い苦笑に己を戒める。
「……未練だな」
黒外套の魔姫は軽やかな表情に顔を上げた。
闇暦の絶対支配者と目が合う。
だが、それにさえ負ける気がしなかった。
心に背負うものが不屈を与えてくれるからだ。
所詮〈人間〉は独りでは生きられぬ。
想いなくして生きられぬ。
そして、私の本質は、結局〈人間〉なのだ。
なればこそ、混沌に身を投じよう。
この健気な温もりを護るために────。
孤独の吸血姫は、決意を抱き締める。
哀しいまでに気高い決意を……。
「お姉ちゃん、行こう?」
少女が手を引いた。
次なる混沌の地は、もう近い。
[完]
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