魔法省大臣は人使いが荒い (しきり)
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謹慎処分

 イギリスはロンドンの魔法省には、魔法省大臣以外にはその存在を知られていない部署が存在する――とは言っても、その部署は立ち上げからまだ僅か数年といったところで、名簿に名が記されている職員はたったの一人きりだ。

 立ち上げからこちら、毎日のように職員の補充を嘆願しているが、残念なことにその頼みが聞き入れられたことは、今の今まで一度としてない。その最も大きな要因は、彼女の人並み外れた能力の高さにあるのだが、大抵のことならばそつなくこなしてしまうが故に、本来ならば分散されて然るべき苦労を、たった一人で抱え込む羽目になってしまっていた。

 要は、器用貧乏というやつだ。

 そうした彼女の表面上の肩書きは、魔法省大臣付き下級補佐官となっている。

 本来の仕事に加えて、補佐官としての仕事もこなせというのだから、今度の魔法省大臣は恐ろしく人使いが荒い。これまでの大臣とは違い、優秀であるという点も彼女は気に入らなかった。少なくとも、これまでの魔法省大臣が相手ならば、多少仕事の手を抜いてもそれが露見することはなかっただろう。しかしながら、今度の魔法省大臣――キングズリー・シャックルボルトは、こと仕事に関することとなると、人が変わったように厳しくなる。

 

 

「――それで?」

 魔法省大臣室の玉座のような椅子に、まるで本物の国王のような風格で腰を下ろしたシャックルボルトは、上目遣いでこちらを見上げながら、低く落ち着きのある声音で言った。

「君は今は亡き闇の帝王が裏で支配する魔法省の中枢で、当時の魔法省大臣パイアス・シックネスが服従の呪文で操られていることに気づいておきながら、それでも自らに与えられた魔法省大臣付き下級補佐官としての役割を忠実にこなしていたと、そういうわけか」

「ええ、そうです」彼女は言う。「何か問題でも?」

「いいや、何も問題はない」シャックルボルトは答えた。「君が常に魔法省に対して忠実であるという事実は揺るぎないものなのだろう」

「何やら含みのある物言いですね、魔法省大臣」

「いやなに、先だって新制ウィゼンガモット法廷にかけられたばかりのドローレス・アンブリッジの証言によれば、君は随分とよく働いてくれる部下だったそうだからな。マグル生まれ登録委員会と直接のかかわりはなかったようだが、実に協力的だったと話してくれたよ」

「あの人は元上級補佐官の立場にかこつけて、下級補佐官である私を、屋敷しもべ妖精の如くこき使いました。言う通りにしなければ、お前もアズカバン送りにしてやると脅されたので、仕方なく言われた仕事を処理していただけのことです」

「ほう?」

「私の言葉をお疑いなら、同僚のパーシー・ウィーズリーにお尋ねください。まあ、彼は選ばれし者の親友の兄君ですので、何があろうと処されることはないのでしょうけれど」

「安心したまえ、私は皆平等に対処するつもりだ。身分も立場も関係ない。全員から話を聞き、公正な判断を下す」

「この魔法省に勤める全員と面談を行うおつもりですか?」

「必要があると思う者とだけ直接話をする――そうしなければ、いくら時間があっても足りないからな」

「それでしたら、私は大臣のお眼鏡に適ったということですね」

「そうして減らず口を叩いていられるような状況かどうかは、今後の調査と返答次第だ」

 この男は何も知らない。早々に魔法省を離れ、選ばれし者――ハリー・ポッターの軍門に下ったキングズリー・シャックルボルトには、あの頃の魔法省を理解することはできないだろう。あまりに窮屈で、息苦しく、不平等で、滑稽――毎秒ごとに憎しみが増し、怯えが広がっていく。あの場にいなかった者に、あの悪夢のような魔法省を、理解できるはずがないのだ。

 毎日生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされていた。

 マグル生まれの母親が数年前に病死していたのは、不幸中の幸いと言わざるを得ない。半純血の父親は、一人娘のために一族の財産のほとんどを魔法省に寄付し、賄賂を贈って、どうぞ寛大なる処置をと遜った。金品をせびりにやって来る死喰い人の下っ端のために、家財を売り払い、金を工面して、どうにかこうにか生き延びることができたのだ。

『不出来な娘を持つ親は不幸だとも。なあ、そう思わないか?』

 その言葉を投げつけられた父親は、血が滲むほど強く唇を噛んでいたが、何も言い返しはしなかった。だが、死喰い人の使いとしてやって来た下っ端が立ち去った後、さめざめと泣いていた姿は記憶に新しい。気の優しい、怒るということを知らない父親は、自分が情けないと言って、自らの頬を何度も叩いては、うわ言のように謝罪の言葉を口にしていた。その姿は、あまりに痛々しかった。

 けれど、彼女は自らの父親を情けないとは思わなかったし、母親はそうした父親のことを「仕様がない人ね」と言って受け入れ、深く愛していた。

 第一、自分のためにグリンゴッツ銀行の金庫を空にし、家財どころか家まで手放そうとしてくれた父親のことを、どうして情けないと思えるだろう。あの父親にはそれが最善だと思えたのだ。それ以上でも、以下でもない。

 だから、彼女は父親のために、誠実に働いた。魔法省に忠誠を誓った。そうすれば、不出来な娘のために最善を尽くしてくれた父親を生かすことができると、そう信じたからだ。母親が心から愛した男を、守らなければと思った。

「君は数日の内に査問会にかけられることになるだろう。逃亡の恐れがある場合は投獄をする必要があるのだが――」

「……そうしてあなた方がやっていることは、例のあの人と何が違うのです?」

 彼女――ジェーン・スミスは思わずそう口にしそうになるが、自らに不利となる発言は控えるべきだと思い留まり、寸前のところで口を噤んだ。シャックルボルトはそれを従順な態度と捉えたのか、目を通していた書類から顔を上げると、ジェーンを見上げる。

「――魔法省からの召喚状が届くまで自宅での謹慎を命じる」

「分かりました」

「落ち着き払っているな」

「今更慌てて何になります?」

 もしこの一年間の魔法省のすべてが悪と断じられるのなら、ジェーンには言い逃れのしようがなかった。

 パイアス・シックネスが何者かに操られていると気づいていながら、その事実から目を逸らし、見て見ぬふりをし続けていた。誰かの命を犠牲にして、自らの命を生かそうとしたのだ。それは、一般的に考えれば酷く罪深いことなのだろう。誰かのために自分の命を犠牲にするくらいでなければ、正義の人とは認められない。正義として認められない者は、大勢の人間の前に晒され、裁かれることになる。正義に敗れた悪は、断罪されなければならないのだ。

「では、もうよろしいでしょうか」ジェーンがそう言うと、シャックルボルトは僅かに首を傾げる。「とりあえず、向こう一週間分の仕事の引継ぎが済んだら帰宅します」

「ああ、そうしてくれて構わない」

「ただいま本部署には上級補佐官がおりませんので、これまで通り下級補佐官のパーシー・ウィーズリーが魔法省大臣のお傍に仕えます。その間の細々とした事務仕事はすべて私が片付けておりましたが、まあ、その程度は些末な問題でしょう」

 上級補佐官とその周辺を陣取っていた、いわゆる魔法省大臣室付きの職員の多くは汚職によってその任を解かれ、ドローレス・アンブリッジと共にアズカバンに送られてしまっている。そうでない者は辞職し、既に魔法省を離れていた。

 故に、残された数人の職員で、次から次へと飛び込んでくる書類を精査し、分類し、魔法省大臣に提出――他にも、魔法省大臣のスケジュール管理から外交関係、マグル関係の問題まで、その多岐にわたる仕事の数々をこなしていたのだが、こうなってしまったからには致し方ない。

「他に何もなければ、話はこれで終いだ。君はたまの休暇を楽しむといい」

「ええ、そうさせてもらいます」

 顔の前でひらりと手を振ってみせたシャックルボルトは、再び手元の書類に目を落とすと、真剣な面持ちで文面を追いかけはじめる。

 いずれにせよ、自分はアンブリッジと同じようにアズカバンに送られるか、辞職、もしくは首を切られるかのどれかだ、とジェーンは思った。

 その書類よりも先に目を通すべき重要案件が目の前にあると指摘しなくても、恐らく一時間以内には魔法省大臣が自らその重要性に気づき、大なり小なり慌てながらも、何とか事なきを得ることができるだろう――今まさに謹慎を言い渡された者としては、ご丁寧に教えてやる謂われはない。

「おいおいおいおい、待ってくれ!」

 ジェーンが隣の部屋に戻って話をはじめると、それを聞き終えるより先に、顔面を蒼白にしたパーシー・ウィーズリーがそう声を荒げた。

 両腕で抱えるようにして持っていた書類をばらばらと足元に落とすと、それを大股で踏み越えるようにして目の前までやってくる。両方の肩をがっちりと掴み、鬼気迫るとしか言いようのない表情で、ジェーンの顔を覗き込んだ。

「君、それはこういうことか? 君はこのクソ忙しいときに――失礼、弟たちの口振りが移ってしまったようだ――大変忙しいときに、この僕の許しもなく仕事を抜けると? ただでさえ人手が足りないというのに、誰よりも君自身がそれを理解しているはずだと思っていたが、それでも、たかが魔法省大臣に謹慎処分を言い渡されたくらいで、君はこの通り山積している仕事を放り投げて、自分だけのうのうと休暇を楽しもうと、そういう魂胆なのか?」

「私だってこの忙しいときに机を離れるなんて正気の沙汰じゃないと思うけれど、魔法省大臣から謹慎処分を食らったら、それに逆らうわけにはいかないでしょう?」

「いや、いいや、君なら逆らえるさ。そうだろう? だって、君はそういう人間じゃないか。目上の人間にはことごとく逆らって見せる、そういう人間だったはずだ」

「……あのねぇ、ウィーズリー」

「この一年間、君のやることなすことに肝を冷やしてきた僕が言うんだ、間違いないに決まっている」

「だったら、あなたが魔法省大臣のところへ行ってきてよ。あなたは闇の帝王をうち滅ぼしたあの大英雄さんとお友達なんでしょう? 新しい魔法省大臣はあの大英雄さんのことが大好きみたいだから、そのお友達の言葉だったら耳を傾けてくれるかもしれないし」

「僕が彼と友達なんじゃない。僕の弟が彼の親友なんだ」

「似たようなものじゃないの」

「全然違う」

 至極真面目な面持ちでそう言い切ってから、今度は意気消沈した様子でがっくりと肩を落としたウィーズリーは、その場に膝をついて散らばった書類を拾い集め始める。

 何と悲しげで、哀れで、頼りのない丸まった背中なのだろう――ジェーンはそう思いながら、書類を拾い集めるのを手伝った。ばらばらになってしまった番号通りに並べ直してやってから手渡すと、ウィーズリーはずり落ちそうになっている眼鏡を直しながら感謝の言葉を口にした。

「君なしで明日からどうやって生きていけというんだ……」

「ちょっと、その語弊を生むような物の言い方はやめてくれない?」

「もう駄目だ、この世の終わりだ……そうだ、いっそのこと、この世が終わってしまえばいいんだ……そうしたら、明日なんて永遠に来ない……仕事をする必要もない……」

 闇の帝王が斃れ、乗っ取られていた魔法省が死喰い人たちの支配から解き放たれてからこちら、この組織は未だ元通りという状態には至っていない。それはそうだろう、職員の半数以上が混血の人間であったがために、大勢がマグル生まれ登録委員会によって謂れのない罪に問われ、その職を離れてしまっていたのだ。

 ある者は逃亡し、ある者はその末に捕縛され、運がよければアズカバンへ、悪くすれば殺されるか、吸魂鬼の口づけが行われた。早々に現場復帰をした者もいれば、怪我や精神的な病に侵され、今もまだ聖マンゴ魔法疾患傷害病院で入院、治療を行っている者もいる。魔法省は早急に不足している人員を補充しなければならず、それと同時に、ジェーン・スミスのような死喰い人に協力的な態度を取っていた職員の処遇も決めなければならないのだから、魔法省大臣は内心では頭を抱えているはずだ。

 パーシー・ウィーズリーを何とかなだめすかしたジェーンは、自分が受け持っていた仕事を少ない職員それぞれに割り振り、大臣補佐室を後にすることに成功した。感情を昂らせたウィーズリーの鼻を啜る音を聞きながら扉を閉じ、大きくため息を吐く。

 少し前までは気を張り詰めていたのか、緊張した面持ちを浮かべながらも背筋をしゃんと伸ばしていたウィーズリーだったが、魔法省の体制が元通りになり、喧嘩別れをしていたらしい家族との仲が修復すると、些か柔和な性格が顔を覗かせ始めたようだった。以前には感じられなかった、微かに甘ったれたような雰囲気が出てきたようで、どうやら人に頼るということを覚えはじめたらしい。まっすぐに突進し続けるイノシシのように、手柄を独り占めしようと躍起になっていた頃に比べれば幾分ましだが、誰かに頼りすぎるというのも問題だ。

 そもそも、パーシー・ウィーズリーは元々優秀な男なので、さほど心配する必要もないだろうが――そうして、数年後に入省してきた後輩のことを考えながらエレベーターに向かおうとしたジェーンは、思わず足を止める。たった今到着したエレベーターの戸が、がしゃん、と音をたてて開くと、中からひょろりとした背格好の人物が姿を現したからだ。

 その人物は、くしゃくしゃの髪を整えようと一生懸命に撫でつけながら、何やら自信のなさそうな足取りで歩いてきた。しかし、自分のことを不審そうに見ているジェーンの存在に気が付くと、頭を押さえていた手を離し、僅かに恥ずかしそうな様子で頬を赤らめる。整えようとしていた髪は残念ながら、再び四方八方に飛び散ってしまっていた。

「あ、あの、」

「はい」

「キングズリーは――い、いえ、あの、魔法省大臣は――」

「大臣室におりますが、お約束はしておいでですか?」

「午後三時に来てほしいと言われていて」

「では、そのまま大臣室にお入りください」

「あ、はい、分かりました」

 酷く礼儀正しいその人物は、ありがとうございます、と口にすると、正面の大臣室に向かって足を進めていく。

 すぐ隣を通り過ぎていくとき、真新しいローブの匂いと、男性がまとうには些か甘みのある香りが鼻をついた。反射的に送った眼差しが捉えたのは、前髪の隙間から覗いたあの有名な稲妻型の傷跡だ。

 ふむ、これはどうやら、あの噂話は本当らしい――ジェーンは反対方向に歩みを進めながら、そう思う。

 キングズリー・シャックルボルトは死喰い人、及びスナッチャーの残党を捕えるため、闇祓いの増強を急いでいるという話だ。そして、闇の帝王を討ち滅ぼした実力と功績を考慮し、異例ではあるものの、ホグワーツ魔法魔術学校の修了過程すら満たしていない者を、闇祓いとして迎え入れようとしている、という噂がある。

 魔法省でも保守派の一部はN.E.W.T試験の結果の重要性についてああだこうだと騒いでいるようだが、魔法省の最高責任者である魔法省大臣の言には遠く及ばない。ただ、最高責任者だからこそ冒してはならない領域があるのではないかと思うが、大臣の推挙する人物がハリー・ポッターだと聞けば、誰も否を唱えることはできなくなるはずだ。

 ジェーンがエレベーターに乗り込んでくるりと振り返ると、大臣室の扉の前に立っていた青年――ハリー・ポッターが、開いた扉の内側に向かって、機嫌良く挨拶をしているところだった。それを迎え入れたキングズリーは、ジェーンが聞いたこともないような気安い声でそれに応じ、ポッターを室内に招き入れようとしている。

 哀れな子羊よ、そう思いながらジェーンがポッターの後ろ頭を眺めていると、刺すような鋭い視線を感じた。見ずとも分かる、これはキングズリー・シャックルボルトのものだ。

 ジェーンはポッターの後ろ頭から視線を滑らせ、こちらを睨んでいるシャックルボルトを見た。そして、これ見よがしに笑みを浮かべ、まるで中世の貴族か何かのようにカーテシーの姿勢を取る。途端、シャックルボルトの表情が引きつったが、ジェーンは構わなかった。

 この期に及んで魔法省大臣に好かれようなどとは思わない。この最悪の一年間を生き抜いてきたのだ、これからは誰におもねることもなく、自分の思うがまま、好き勝手に生きていこう――そう決意を新たにしていたジェーン・スミスには、この後に待ち受ける忙殺の日々を想像することなど、できようはずもなかった。



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家族について

「お前が休暇をもらえるなんて久しぶりだなぁ」

 そう言って純粋に喜んでくれた父親に申し訳なさを覚えはしたものの、ジェーン・スミスは査問会までの残り数日間を、自分なりに楽しんでみようと考えた。だがしかし、ホグワーツを卒業して以来仕事漬けの毎日を過ごしていたせいか、突然の休みを与えられたところで、ジェーンは何をして時間を潰せばいいのかが分からない。

 思い返してみれば、ホグワーツでは勉強、勉強、勉強の日々だったので、ジェーンは休暇が訪れる度に時間を持て余していた。生活としては今と大差ないと言えるだろう。

 友達もなく、恋人もおらず、趣味もなければ、何の生き甲斐もない――さて、どうしてこうなってしまったのだろうと思いながら、ジェーンは寝床に横たわり、ぼんやりと天井を眺めている。

 

 以前住んでいた家は売り払ってしまった。幸い、どこぞの純血貴族が相場よりも高く買い取ってくれたので、今はロンドン市内の古いアパートメントを買い、自分たちの手でこつこつとリフォームをしながら、家族二人で細々と暮らしている。二階はリビング、三階には父親と二匹の猫が暮らし、ジェーンは四階のフロアを広々と使わせてもらっていた。

 一階は店舗として改装し、昔から料理が得意だった父親が、小さなカフェを営んでいる。常に穏やかで、誰に対しても物腰のやわらかな男なので、こうした商売には向いていたのかもしれない。客はマグルが多く、時々魔法族も訪れているようで、思いの外繁盛しているようだ。

 父親は、妻が生きていた頃は本の執筆をして収入を得ていたが、その死後は意欲や熱意といったものを失い、貯金を切り崩しながらの生活を送らざるを得なくなっていた。父親とジェーンだけならば、しばらくは働かずとも暮らしていけるだけの貯えはあったのだ。しかし、ホグワーツで勉強さえしていればよかったジェーンに対し、父親はたった一人で孤独に暮らす日々に耐えきれず、少しずつ心を病んでいった。

 だが、ジェーンがホグワーツを卒業して魔法省に勤めだしてからは、短い時間でも毎日一緒にいられるようになり、父親の精神は徐々に安定し、落ち着きを取り戻していった。それなのにもかかわらず、ちょうどその頃になって闇の帝王が復活を遂げ、魔法省は物の見事に陥落し、イギリスは暗い闇の中に落とされてしまった。

 けれど、今度の父親は一味違った。心を闇に飲まれることなく、勇敢にも立ち向かおうとしたのだ。その方法は間違っていたのかもしれないが、我が子のためならば何だってしてやるという父親の覚悟は間違いなく本物で、自分を護るように立ちはだかった背中はとても大きく、たくましく感じられたものだ。

 こうして、二人はこの数年間、互いに支え合いながら生きてきた。だからこそ、それ自体を見直すべきときが来ているのかもしれないとジェーンは思う。父親にもそれが分かっているからこそ、新しいことに挑戦しようとしているのだろう。

 

 謹慎初日、ジェーンは昼過ぎまで寝室のベッドでごろごろとして過ごした。二十代半ばの、同じ年頃の者たちが休日をどのように過ごしているのか、ジェーンにはさっぱり見当がつかなかったからだ。それに、ジェーンの身体はだらだらと過ごすことを望んでいるようにも感じられていた。身体がそれほどの疲労を抱え込んでいたということに違いない。

 しかしながら、午後三時を過ぎる頃には、そうした自堕落な時間の過ごし方にも限界を覚える。

 ジェーンは呻くような声と共にベッドから起き上がった。久しぶりの長時間睡眠は、ジェーンの頭と身体を重く、気怠くさせるだけだったようだ。

「……これは先が思いやられる」

 謹慎というからには、自宅で自らの行いを反省し、それらを回顧しろということなのだろうが、ジェーンには振り返るべき反省点に心当たりがない。

 職員はその時々の魔法省大臣の命令に従って働くだけだ。たとえ誰しもが悪と断じれる命令が下されたとしても、あえてそれに逆らおうとは思わない。黙って従ってさえいれば、少なくともその間だけは、命が脅かされることはないからだ。

 弱い者は強い者に付き従うことで生きていくことができる。それに抗ったところで結果は目に見えているではないか。太古の時代からそうであったはずだ。一体誰に生き永らえようと必死だった者を非難することができるだろう。

 誰もが選ばれし者のように、その友人たちのように、その崇拝者たちのように、勇敢なはずはない。他人の命のことなど考えている余裕はない。自分と家族の命を護るだけで精一杯だからだ。

 英雄は英雄として生まれ育つのかもしれないが、それ以外の者は何の前触れもなく、ただなす術もなく奈落の底に突き落とされた。一度突き落とされてしまえば、自力で這い上がる術はなかなか見つからない。それこそ、奇跡でも起こり、救世主でも現れないかぎりは。

 

 パジャマ姿にカーディガンを羽織った格好でリビングまで降りていくと、父親が可愛がっている二匹の猫が、ソファの上でくつろいでいた。フローリングの床には猫のおもちゃがあちらこちらに散乱している。いつも通りの光景だ。

 ジェーンはカーディガンのポケットに差していた杖を手に取り、それを一振りすると、散らかったおもちゃを箱の中に片付けた。既に一遊びを終え、満足げな表情で髭を泳がせている猫たちの頭を順番に撫でると、そのままキッチンに足を向けた。

 濃い目に抽出した紅茶と父親が焼いたスコーン、カフェでも販売している自家製のクロテッドクリームとベリーのジャムをトレイに乗せ、窓辺にある二人掛けのテーブルまで移動する。

 窓から見下ろすことのできる午後三時過ぎのロンドンは、僅かな憂鬱さを漂わせていた。曇天の空がそう思わせるのかもしれない。往来する人々の表情は様々だが、その顔に笑みが見て取れると、心がふわっとするような安心感と共に、その感情とは相反する、背筋がすっと凍えるような心地をジェーンは覚えていた。

 

 食事もそこそこに窓の外をぼんやりと眺め続けていると、ジェーンは店のシャッターが閉まる音で我に返った。

 間もなくして階段を上がってくる足音が聞こえてくると、寸前までまどろんでいた猫たちがむっくりと起き上がり、体躯を伸ばして主人を迎える準備をはじめる。

 カフェは午前十時に開店し、午後五時に閉店する。もうそんな時間かと考えていると、残り物のマフィンを手に現れた父親は、未だパジャマ姿の娘を目に留め、僅かに目を丸くした。呆れられるかと思いきや、父親はにこりと微笑むと、足にじゃれつく猫を引き連れながらキッチンに向かって歩いていく。

「突然休みをもらってしまうと、喜びよりも困惑が勝ってしまうものだろう?」父親は、ふふ、と笑ってから続けた。「何をして過ごせばいいのかが分からなくなってしまうんだ」

「まさにその通りなの」

「とくにやりたいこともないのなら、そうして日がなぼうっとしているのもいい。君はただでさえ働きすぎなのだから、今は心と身体を休めてやることが最優先だ。気が向いたら散歩にでも出かけて、気分転換がてら辺りを散策してくるといいよ。ここに越してきてから、君は家と職場を往復するばかりで、ろくに見て回ってもいないのだろうからね」

「そうね、気が向いたら」ジェーンは残っていたスコーンを頬張り、それを冷え切った紅茶で流し込む。「お店はどう?」

「今のところは上々だよ。クロテッドクリームが特によく売れている。明日も早起きをして作らなくてはいけないな」

「お手伝いしましょうか?」

「いやいや、いいんだ。大丈夫だよ」

 父が作ってくれた夕食で腹を満たし、僅かなワインで気分がよくなったジェーンは、ふわふわとした心地のままアパートメントの屋上に上った。その手には赤ワインのボトルと空のワイングラスが握られている。

 アルコールなど何年ぶりに摂取したかも分からない。職場にはジェーンを酒の席に誘う者など誰もいなかったからだ。いや、それらの誘いをすべて断り続けていたがために、誰にも誘われなくなってしまったというのが、本当のところだろう。

 話していても何の面白味もない、骨の髄まで仕事人間と陰口を叩く者がいた。それの何が悪い。それで当たり前だ。仕事の最中に仕事以外の話をする方が間違っている。無駄口ばかりを叩き、仕事をする手が止まっているような者たちは、総じて減給してやればいいのにと、ジェーンは常々思っていた。

 日々相手にしているのは、他者と比較することでしか自らの価値を見い出すことのできない者たちだ。家柄、容姿、学歴、人間関係――そうしたもので他者を値踏みして自分自身と比較し、勝っている者には醜い嫉妬心を露にしたかと思えば、劣っている者には吐き気がするような同情心と安堵感を覚え、内心では嘲笑っている。

 屋上の柵に寄り掛かったジェーンは、空のグラスに並々と赤ワインを注ぎ入れた。それをぐびぐびと口に運びながら、ぶつぶつと毒を吐き続ける。

 

 何が謹慎だ。謹慎などクソくらえだ。魔法省大臣め、近い将来目にもの見せてやる。そうだ、呪ってしまおう。疫病か熱病か――ああ、いや、だが、仕事が滞るようでは困る。流行りの悪戯グッズを飲み物に混入させるくらいが丁度良いのかもしれない。そうでなければ、持続性のある頭痛や腰痛をお見舞いしてくれよう。耳鳴りもセットだ。ああ、でも、ノイローゼにはならない程度に。

 

 ジェーンはまとまりのない思考をぐるぐると巡らせながら、僅かに残っていたワインをグラスに注ごうとした。

 しかし、久しぶりのアルコールのせいだろう、手元が狂ってグラスを取り落としそうになる。慌てて掴み直そうとするが、指の腹がつるりと滑り、グラスはむしろ押し出されるようにして、柵の向こう側に落ちていってしまった。

「う、わ――」

 利き手は反射的にポケットへ伸びるが、残念なことに、杖はリビングのテーブルの上に置いたままだ。そうと気づいた数秒後、ぱりん、とグラスの割れる儚い音がアパートメントの下から聞こえてくる。

 ジェーンは柵の向こう側に身を乗り出すと、真下の歩道を覗き込んだ。すると、そこに立つ人影に気づき、思わず背筋をぞくっとさせる。グラスはその人物の足下で粉々に砕け散っていた。

「そこの人、ごめんなさい、大丈夫ですか?」

 Excuse me, Sir. I'm so sorry. Are you all right――? 身を乗り出した格好のままで片腕を振り上げ、早口でそうまくしたてる。その人物はこちらを振り仰いだようだが、街灯の灯りが届かず、その顔を見ることはできなかった。

「待って、今下に行きます」

 ああ、ああ、だからアルコールなど摂取するものではないのだ――ジェーンはそう思いながら、屋上から直接降りることのできる非常用の外階段に足を向けた。



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誰がビロードのジャケットを殺したか

 手元に杖があり、かつグラスの落下前ならばどうとでもすることはできたが、どのように考えを巡らせたところで、何もかもが既に後の祭りだ。悪いことはいつだって連鎖する。それ以前に、ここ数年はジェーン・スミスの身に良いことが起こった試しなど、ただの一度もない。ああ、本当に災難続きだ。だが、もうこれ以上の災難は訪れようがないだろう。そう思っていたジェーンの前に立ちはだかったのは、もちろん更なる災厄だった。

 大通りから路地に入ったこの通りは、午後五時を過ぎると仕事から帰宅する人々が往来しはじめる。店を五時で閉めるのは、仕事帰りにパブやバーと勘違いをして入ってくる客を回避するためだ。落ち着いた木目調の店内は昼間でも僅かに薄暗いくらいなので、夜になるとゆらゆらと揺らめくランプの炎に誘われ、招かれざる客が訪れることになる。

 しかしながら、今夜は珍しく、通りには人気が少ないようだ。それだというのに、落としたグラスは見ず知らずの誰かの足下に落ち、災難を招き寄せてしまった。なんという強運なのだろう。もちろん、悪い意味でだ。

「本当にすみません。お怪我はありませんか?」

 たん、たん、たん、と外階段を降り、下の通りに出たジェーンは、こちらに背を向けて立ち尽くしている人物の背中に声を掛けた。しかし、その人物は微動だにせず、後ろを振り返ろうともしない。それを奇妙に思い、背後に立って目を凝らしてみると、何となくだがそうしている理由が分かるような気がした。

 一見すると汗のようにも見えるが、スキンヘッドの頭を濡らしているのは、恐らくグラスから溢れた赤ワインだ。微かに葡萄酒の香りがするので、まず間違いはないだろう。こんなことになるならば、グラスのワインを最後まで飲み干してから、次を注ごうとするべきだったのだ。だが、今更悔やんだところで仕方がない。そもそも、悔やむべき点をはき違えている。

 ああ、どうしよう――ジェーンはその人物を見上げながら、頭を抱えたくなった。

 相手は見上げるほど背の高い、少しがっしりとした身体つきの黒人男性だ。一言も話さず、微動だにしないのを見ると、相当にお怒りなのかもしれない。それはそうだろう、ただ道を歩いていただけで頭上からワインを浴びせかけられ、あわや血みどろの大怪我を負うところだったのだから。

「あ、あの――本当に――」

 何と言ってお詫びをすればいいのか、とジェーンが口を開こうとしたときだ。目の前の男はため息まじりに肩を落とし、大きな手の平で濡れた頭皮を拭った。ジェーンは一瞬、その吐息に聞き覚えを感じ、反射的に身体を震わせる。そして、現実とはいかに残酷なものなのかということを、身をもって痛感させられた。むしろ、この場合は自分の方が呪われている可能性があると、そう危惧するべきなのかもしれない。砂浜で波が引いていくように、顔から血の気が失われていくのを感じていた。

「君が考える謹慎とは、自宅でワインを飲んだくれて過ごすことを指すのか。どうやら、私の認識とは随分とかけ離れているようだな」

 上司から言い渡された謹慎期間中に、何の反省をすることもなくワインを堪能し、謹慎初日の夜をまるでクリスマス休暇の初日のように満喫している。少なくとも、この男の目には、そのように見えているのだろう。

 ゆっくりと後ろを振り返った男――キングズリー・シャックルボルトは、パジャマ姿にカーディガンを羽織り、古びた部屋履きを足の爪先に引っ掛け、やや赤ら顔で愕然としているジェーンを見て、酷く険しげな表情を浮かべた。全身を舐めるような眼差しで見てきたかと思うと、ほとんど軽蔑するような面持ちで睨むように見つめてくる。

「……今日はお早いお帰りですね、魔法省大臣」

 ジェーンは絞り出すような声でそう言うと、右手に持っていたワインボトルを慌てて背後に隠した。だが、シャックルボルトは何もかもがお見通しだという顔をして、眉を顰めている。

「あなたがわざわざロンドンの街を歩いて帰っているとは知りませんでした」

「君には他に言うべきことがあると思うのだがね、ミス・スミス」

「……すみません、大臣」ジェーンは突然、起きてから髪を解かしてすらいなかったことを思い出してしまった。「わざとではありません」

「ああ、もちろんそうだろうとも」

 ジェーンが知るキングズリー・シャックルボルトという男はいつも冷静で、あまり表情を動かさない。今は不快そうな面持ちを浮かべてはいるものの、大きな怒りを覚えている様子は感じられなかった。だが、頭からワインを引っ掻けられて腹を立てない者など、この世にはいない。酷く高そうな黒いビロードのジャケットが台無しだ。頭から首を伝って滴ったワインが、白いシャツの襟元を赤く染めてしまっている。

「これからどこかへお出かけですか?」

「それは君に言う必要のあることか?」

「いいえ、でも」ジェーンは控え目な態度で自身の家を指した。「少しお時間をいただけるのなら、シャツとジャケットを元通りにします」

 シャックルボルトが断るだろうことは目に見えていた。だがしかし、このくらいの甲斐性は見せておかなければ、後で何を言われるか分からない。ジェーン・スミスは謹慎中にワインを飲んだくれ、偶然自宅の近所を通りかかった魔法省大臣にそれを浴びせかけたなどと言いふらされては、今後の沽券にも関わってくる。ただでさえつまらない女という印象に加えて、不謹慎だなどと思われるようになっては、それこそ恋人どころか友人も望めなくなってしまう。

「それとも、弁償した方がいいですか? 私の給料一ヶ月分なら何とか払えます。それ以上なら、分割払いにしていただけると大変助かります」

「君は私を何だと思っているんだ? 鬼か悪魔とでも思っているのか?」

「いいえ、大臣」

 ジェーンが至極真面目な表情でそう応じれば、シャックルボルトは僅かに目を丸くする。そして、べたべたしていそうな頭を撫でるように触れてから、その手の平を気持ちが悪そうに見下ろした。

「迷惑でなければバスルームを借りたい」

「……はい?」

「シャワーを浴びることができればより嬉しい」

 いやいやいや、それはないだろう――ジェーンは内心ではそう思いながらも、まあ、それはそれで仕方のないことだと自らに強く言い聞かせる。嘘や冗談でも、先に家に入らないかと提案したのはジェーン自身だ。自分がしたことを考えれば、シャワーを貸すことなど些末な問題でしかない。

「では、こちらへどうぞ」

 ジェーンは閉じたシャッターの隣にある扉から中に入ろうとして、不意に思い出した。そうだ、杖はリビングのテーブルの上に置いてきてしまったのだ。魔法省に勤める魔女として、杖を不携帯のまま家の外に出るなど、本来であればあってはならないこと――故に、杖を貸してほしいなどとは言えず、ジェーンは一瞬頭が真っ白になってしまう。

 だが、天は未だ、ジェーンを本格的に見放しはしていなかったらしい。家の外から娘の声が聞こえてくることを不思議に思った父親が現れたおかげで、ジェーンはどうにか体裁を保つことができたようだ。

「おや、これはこれは」

 父親は扉を開けるなり、娘の背後に立っている魔法省大臣の姿を見ても、少しも驚くことはなかった。それどころか、にこにこと愛想よく微笑み、親しげに抱き締めることさえしてしまいそうな雰囲気だ。我が父親ながら肝が据わっていると呆れながら、ジェーンは肩越しに振り返った。

「大臣、父のユアンです。父さん、こちらは――」

「もちろん存じ上げておりますとも」

 魔法省大臣が何のためにやって来たのかを訊ねようともせず、ジェーンの父親――ユアン・スミスは、シャックルボルトを家の中に招き入れようとしている。さすがのシャックルボルトも目を丸くしていたが、ジェーンが道を譲ると、ユアンに先導されるがまま通路を歩き、階段を上がっていった。

 人知れず大きなため息を吐き、後ろ手に扉の鍵を閉めたジェーンは、重い足を引きずるようにして二人の後を追いかけた。

 あれほどふわふわと心地の良い気持ちでいたというのに、今ではもうすっかり酔いから醒めてしまっている。

 謹慎を言い渡されてからまだ一日しか経っていないというのに、なぜ最も会いたくない人物と、こうした最悪な状況下で顔を合わさなければならないのか。キングズリー・シャックルボルトの顔を見た瞬間に、叫び声をあげなかった自分を褒め称えたいくらいだと思い、ジェーンは自らを慰めた。

 リビングに戻ったジェーンが事の顛末を簡潔に説明すると、ユアンはそれは申し訳なかったと娘の失態を真摯に謝罪し、自分の部屋のバスルームを使ってほしいと申し出た。いやいやそれはありがたい、などと言いながら三階に連れられて行くシャックルボルトの後ろを、赤ワインの匂いをぷんぷんと漂わせている客人に興味津々の猫が、ふんふんと鼻を鳴らしながらついていこうとしている。

「おいで、ブランケット」

 ジェーンがそうして声を掛けると、猫はリビングの扉の前で足を止め、僅かにこちらを振り返る。その隙に扉を閉められてしまっては、もう戻って来るしか選択肢はない。不服そうな声を漏らしながら戻ってきた猫にヤギミルクを少しだけ出してやると、この程度のことで機嫌を取れると思うなよとでもいうふうに尻尾を揺らしながらも、上品にミルクを舐め取っていた。

 来客には目もくれず、ソファでごろごろしていた猫にも同じようにミルクを出してやってから、ジェーンはテーブルの上に置き去りにしていた杖をポケットに入れる。まだ少しだけ残っているワインの瓶にコルクで栓をし、キッチンの戸棚の中にしまった。

「これはまた随分と派手にやってしまったね」

 シャックルボルトのシャツとジャケットを腕に掛けて戻ってきたユアンは、開口一番にそう言った。良く冷えた水で異常な喉の渇きを潤していたジェーンは、テーブルの上にそれらを広げた父親に歩み寄ると、ジャケットに手をかける。

「元通りになると思う?」

「そう思うよ」

「父さんがしてくれるの?」

「こういった呪文は僕の方が得意だからね」ユアンはそう言いながら、妻の形見の杖を取り出した。「落としたグラスの破片は片付けてきたのかい?」

「あ、忘れてた」

「人や動物が怪我をすると大事だから、早く片付けてきなさい。店に箒と塵取りがあるから、それを使うんだよ。魔法を使ってはいけないからね」

「うん」

 酔いが醒めているとはいえ、脳の機能を麻痺させているアルコール成分が完全に抜けきったわけではない。ほんの少し杖先が狂っただけで、この高価そうなジャケットは見るも無残な状態になってしまうことだろう。対戦闘用の呪文に特化している娘とは違い、家事全般の呪文を得意とする父親に任せておけば、まず間違いは起こらないはずだ。

 後のことは任せてリビングを出たジェーンは、一度三階の方を見上げてから、一階の店舗に向かって降りていった。店のキッチンに繋がっている扉を開け、すぐ目の前にあった掃除用具入れから箒と塵取りを取り出すと、再び外へと出て行く。

 グラスの破片は変わらずそこにあった。道を行き交う人々の中には、無残にも砕け散っているグラスの破片に頓着することなく、平気で踏みつけていく者もいる。あれでは靴が傷むだろうと思うものの、そういう人は得てして、靴の傷みに対しても頓着がないのだろう。

 ジェーンは人の往来がなくなるのを待って、辺りに散らばったグラスの破片を箒でかき集めた。その場に膝を抱えて座るような格好をし、小さな破片も残さないよう、しっかりと塵取りの中に掃き込んでいく。

 自分も所詮はこの砕け散ったワイングラスのようなものなのだ――ジェーンはだしぬけにそう思った。

 ただ単なる使い捨ての食器のように、いらなくなれば処分される。ほんの少し欠けた程度であれば修理をして使うこともできるが、ここまで粉々になってしまっては、魔法で直すことも難しい。

 きっと、自分は歪んだ価値観を芽生えさせてしまったが故に、魔法省からは不要と判断されるに違いないと、ジェーンは既に覚悟を決めている部分があった。ただ言われるがままに仕事をこなすだけの屋敷しもべ妖精と何も変わらない。正義と悪を正しく判断できなくなった時点で、人道というものを見失ってしまったのだ。

 ホグワーツ魔法魔術学校に入学したあの日、組み分け帽子が最後の最後まで悩んだ通り、ジェーン・スミスはスリザリンに属するべきだったのかもしれない。最終的に帽子はジェーンをレイブンクローに組み分けしたが、それが正しかったのかどうかは永遠の疑問だ。その証拠に、ジェーンはホグワーツで過ごした七年間で何の楽しみも得られなかった。勝ち取ったものといえば、監督生や首席のバッジだけだ。OWLやN・E・W・T試験で全科目トップの成績を収めても、向けられるのは羨望ではなく、嫉みの感情ばかりだった。

 

「――組み分け帽子が組み分けを間違えることはないのですか?」

 学生時代、ジェーンはとある教師にそう訊ねたことがあった。その教師はとても意地が悪く、冷徹で、自分の寮の生徒にばかり依怙贔屓をする男だったが、ジェーンは不思議と嫌いではなかった。

「……なぜそのようなことを私に訊ねるのかね、ミス・スミス」

「組み分け帽子は私をスリザリン寮に入れようとしました」

「ほう」

「私は狡猾で野心家なのだそうです。でも、最終的には私はレイブンクローの生徒になりました」

「君はそれが不服だと?」

「分かりません」

 魔法薬学の授業は終わり、周囲に生徒の姿はない。この授業が終わると、生徒たちは蜘蛛の子を散らすように教室を出て行ってしまう。しんと水を打ったように静まり返っている教室内で二人きり。この時間が、ジェーンには少しだけ心地よく感じられていた。恋とは違う。けれど、この教師と自分の中に、何か言葉では言い表すことのできない共通点のようなものがあるような気がして、勝手に親近感を覚えていたのだろう。今となっては、あれがどのような意味のある感情だったのかを、ジェーン自身にも説明することは難しかった。



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不穏なお茶会

 割れたグラスを片付けてリビングに戻ると、ユアンは元通りになったシャツとジャケットをハンガーにかけているところだった。

 赤ワインの染みは嘘のように消え、ビロードのジャケットはまるで新品同様になっている。ユアンはご丁寧にもシャツの皴まで完璧に伸ばし、すぐにも着替えられる状態にしてくれていた。

「カフェよりもクリーニング屋を開いた方がよかったかな」

 ユアン自身も、綺麗になったシャツとジャケットをふわふわと宙に浮かせながら、ふふん、と満更でもなさそうな顔をしている。

 その様子を眺めながらジェーンがキッチンでお茶の用意をしていると、間もなくして、聞き慣れない足音が階段を降りてくるのが分かった。ジェーンは売れ残りのマフィンとティーカップをテーブルに並べ、顔を上げる。すると、ユアンのローブを着たシャックルボルトが、丁度リビングに入ってくるところだった。

 身長はあまり変わらないが、シャックルボルトの方が随分と体格がいいので、ローブの裾が少しだけずり上がって見える。僅かに窮屈そうではあるものの、似合わないということもない。

「もう済んでいますよ、大臣」

「ありがとうございます」

「いえいえ。そんなことよりも、娘がお茶の用意をしたので、どうぞゆっくりしていってください。もちろん、他にご用事がなければですが」

 本心では今すぐお帰りくださいと言いたいところだが、それでは無礼が過ぎるというものだ。こうなってしまっては腹をくくり、目の前にある現実を受け入れるべきなのだろう。

 ジェーンはトレイを小脇に抱えたまま、近くにある椅子の背を引いた。

「どうぞお掛けください、大臣。父の焼いたマフィンは絶品なので、ぜひご賞味を」

 そう声を掛けられたシャックルボルトは一瞬複雑そうな面持ちを浮かべたように見えたが、ジェーンが促すように椅子を見やると、黙したまま腰を下ろした。

「紅茶はセイロンとダージリンのオリジナルブレンドです。お口に合えば良いのですが」

「あ、ああ……」

 同じテーブルにつくことが憚れたジェーンは、シャックルボルトから少し離れた場所に立ち、ティーカップを口許まで運ぶ様子を眺めていた。

 だからこそ、そのささやかな表情の変化を見逃さなかったのかもしれない。シャックルボルトは紅茶の香りを確かめるように、立ち上る湯気に鼻先を寄せてから、やや薄い琥珀色の液体を口に含んだ。その瞬間、意外そうに眉が持ち上がり、黒々とした目が丸くなる。

 ジェーンはその反応が一体何を意味するのかと考えを巡らせていたが、傍らに佇んでいたユアンは、あからさまに嬉しそうな声を上げた。

「それは娘のオリジナルブレンドで、下の店でも評判の一杯なんです」

 ジェーンは客の好みに合わせて、紅茶やハーブティーの味や風味を調節することができた。学生時代は魔法薬学が得意科目だったこともあり、そうした調合はお手の物だったのだ。

 ユアンが馴染みの客から依頼を受けると、その注文票がジェーンに手渡され、夜な夜なブレンドした商品が店頭に並べられる。だが、基本的に魔法省の仕事で忙しくしているジェーンにとって、それは負担以外の何ものでもなく、今は月替わりのブレンドティーを担当するだけに留めていた。

 しかしながら、魔法省をクビになった暁には、父の店の手伝いをするのも選択の一つなのかもしれない――そのようなことをぼんやりと考えていると、猫のブランケットが再びシャックルボルトに接近しようとしている姿が目に入り、ジェーンは足を踏み出そうとした。けれど、それよりも素早く動いたユアンが猫を抱き上げ、小さな頭にキスをして優しく叱る。

「さて、僕は僕の愛すべき猫たちを部屋に送り届けてくるとしよう。この子はお客様が珍しくてたまらないようだから」

 ユアンは独り言のようにそう言ってから、反射的に腰を上げようとしたシャックルボルトを見て低く手を挙げた。

「そのままで結構です、大臣。この通り何もないぼろ屋ですが、どうぞ時間の許すかぎりおくつろぎください。もしお泊りになるようでしたら――」

「父さん」

 それ以上は聞き捨てならないとジェーンが声を上げると、ユアンは悪戯っぽく笑ってからリビングを出て行った。もう一匹の猫――クロケットはユアンが抱いてやるまでもなく、寝転んでいたソファから音もなく降り、まるで犬のように従順に主人の後ろを追いかけていった。

 どちらも元は野良で、ユアンが雨の日の夕暮れに連れ帰ってきた猫たちだった。クロケットは見た目がクロケットにそっくりだったから、ブランケットは語感が似ているからという理由で、安易に名付けられた。

「ハッフルパフ生らしい穏やかさだ」

 チョコレート味のマフィンを口に運んでいる様子を横目に見ると、シャックルボルトは静かに目を伏せて、カップを手に取った。

「部屋のハンガーにハッフルパフのマフラーが掛けられていた。物を大事にされる方のようだな」

 どう答えるべきなのかが分からず、ジェーンは口を噤んだままでいた。

 ユアンは確かにハッフルパフ出身だったが、あのマフラーは大事にしているわけではなく、クロケットが気に入って離さないので、しまうにしまえないというだけだったのだ。しかし、ホグワーツを卒業して何十年も経つというのに、それを未だ手元に置いているのだから、多少なりとも思い入れがあるのは確かなのだろう。

 ジェーンは卒業と同時に、制服やその類のものはすべて、暖炉にくべて焼却してしまっていた。思い出どころか、思い入れもないものばかりだ。手元に残ったのは、教科書を詰め込まれたまま埃を被っている、ホグワーツのトランクだけだった。

「……なぜそんなところに立っている?」

「はい?」

「ここは君の家だろう」

「座って良いとは言われておりませんので」

 口をついて出てしまったその発言が自分の耳に届くと同時にしくじったと思うが、シャックルボルトはジェーンのその発言を聞いて、意外にも唖然とした表情を浮かべている。ジェーンには、シャックルボルトが純粋に驚いているのが分かった。だが、その驚きの理由を図りかねていると、シャックルボルトは手にしていたカップをテーブルに置き、佇まいを正しながら咳払いをした。

「では、そこに座りたまえ、ミス・スミス」

 ジェーンは一つ息を吐き出してから、シャックルボルトと向かい合うように椅子に座った。こちらをじっと見てくる視線に耐えられず、テーブルに備えている砂糖とミルクに視線を滑らせる。

「砂糖とミルクはご自由にどうぞ」

「いや、私はこのままで構わない」

「そうですか」

 なぜこのような目に遭っているのか、このような仕打ちを受けているのか、考えれば考えるほど理解から遠のいていく。気が遠くなる。どうか夢であってほしいと思いながら、ジェーンは自分の太ももを抓ってみるが、襲ってくる痛みは間違いなく本物だった。

「実のところ、君とはずっと話をしてみたいと思っていた」

「それはどういったお話でしょう」

「君の在り方についてだ」

「……それは私の存在意義について、ということですか? 仕事上での?」

「君は実に優秀な魔女だと話に聞いている」

「根も葉もない話です」

「どうしてそうと言い切れる?」

「私の優位性を語って聞かせられるだけの逸材を私は知りませんので」

「随分と自信過剰な物言いだな。己を過信し過ぎているのではないか?」

「魔法省大臣におかれましては、この一日で私の有用性を実感していただけたのではないかと考えているのですが」

「それは――」シャックルボルトは少しだけ言い淀んだが、観念したように続けた。「確かに」

「パーシー・ウィーズリーにさぞ嘆かれたことでしょう。スミスを謹慎させるということは、自らの首を絞めることにもなりかねないと」

「まるで見てきたように言うのだな」

「最後には行かないでくれと泣いて懇願されたので」ジェーンは小さく肩をすくめる。「彼は嘆き悲しんだ後に腹を立てて怒り狂うタイプの人間です」

「まさに然り」

 シャックルボルトはそう言うと、くつくつと噛み殺すような笑い声をもらした。

 この、いかにも落ち着き払っているという態度が、ジェーンは気に入らなかった。まるで対峙する者のすべてを見透かしているとでもいうふうな様子で、まっすぐにこちらを見据えてくる。澄んだ黒曜石のような目は物言わぬまま悪を定め、正義を説くのだ。

「君はなぜ魔法省に入った?」

「それはお答えする必要のあることでしょうか?」

 ジェーンがそう応じると、シャックルボルトは僅かに口角を持ち上げ、皮肉っぽく笑いながら頭を左右に振った。

 選択肢などなかったように思う。寮監との面談では、君の成績なら魔法省に入省することは容易いだろう、推薦状を書いても構わない、闇祓いにだってなれると、そう請け負われた。むしろ、そうなるようにと差し向けられていたのかもしれない。ジェーン自身に強い望みがなかったのも、大きな要因だった。進路を決めかねていると、N.E.W.T試験の結果が当時の魔法省大臣の目に留まり、大臣室付きの下級補佐官として大抜擢をされることになったのだ。

 それが運の尽きだったのだろう。ただでさえ最悪だった人生が、より最悪な方向へと転落していく転機となったのだから。

「私は好きでこの仕事をしていたわけではありませんが、自らが下してきた裁決に責任を取る覚悟はあります。査問会にかけられれば、良くて解雇、悪くすればアズカバン送りにされるでしょう。私はそれで構いません。抗ったところで無駄だということは、この数年で嫌というほど見せつけられてきました」

 魔法省とはそういうところだ。元々が独裁的で、権威的な組織だった。純血家系の純血主義による圧政がまかり通り、イギリスの魔法界全体を印象操作する程度のことは容易くやってのける、腐りきった国家組織だったのだ。

 あらゆる情報の差し替え、規制、隠蔽――そのすべてを行ってきた。不都合な真実の多くは抹消されてきた。最後の砦であるはずのウィゼンガモット法廷の中にすら、魔法省大臣の言いなりとなる傀儡が潜んでいるほどだった。その筆頭が、ドローレス・アンブリッジだ。アンブリッジの指示であらゆる仕事をさばいていたジェーンには、今更言い逃れることなどできはしない。

「私は何人もの魔法省大臣の下で働いてきました。でも、誰一人としてこの人のために働きたいと思わせてくれる人はいなかった。誰も彼もが愚かで、浅はかで、独善的でした。たとえそれまでは英傑な人物であったとしても、あの玉座のような椅子に腰を据えると、例外なく自らを貶めるようなことを平気でするようになる」

「君は私もそうだと言いたいのか?」

「残念に思います」

「……そうか」

 シャックルボルトはそう言うと、残っていたマフィンを口に入れ、冷え切っていた紅茶を飲み干し、席を立った。ふわふわと宙に浮いているシャツとジャケットを手に取り、それを腕に掛けると、椅子に座っているジェーンを振り返る。

「査問会についての詳しい知らせは、明日のふくろう便で届けられるはずだ」

「首を洗って待っています」

「ローブは後日返却するとお父上に伝えてくれ」

「分かりました」

「では、失礼」

 恐らく気分を害したのだろうということだけは分かった。ジェーンが見送ろうと立ち上がるまでもなく、シャックルボルトはリビングを出て行くと、そのまま階段を降りていく。間もなくして鞭を打つような鋭い音が聞こえてきたので、階段を降りきったところで姿をくらましたのだと分かった。

 目の前には花の絵柄が美しいティーカップと、マフィンの食べかすが散る皿だけが残されている。どのような心持ちでこれを片付ければいいのか、ジェーンには分からなかった。今すぐ叩き割りたい衝動に駆られていた。

 苛立たしく、腹立たしい。ジェーンは挑発に乗ってしまった事実を鑑み、悔いると同時に、まかり間違ったのだということを悟った。終始キングズリー・シャックルボルトのペースだったことを思い出し、苦虫を噛み潰したような顔になる。ここは誰の家だと自問自答すると、余計に情けない気持ちになった。

 皮肉はすべて受け流された。まるで聞き分けのない子供のように、内心では地団駄を踏み鳴らしている。あの男は自分より一枚も二枚も上手なのだ。その事実を突きつけられたようで、とても居心地が悪い。ぐるぐる、ぐるぐる、と巡る負の感情をどうにか喉の奥で噛み殺し、悪態を吐くことだけは回避した。



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突然の訪問者

 翌日の午前中、キングズリー・シャックルボルトが言っていた通り、ふくろう便で査問会の通達が届けられた。

 ジェーン・スミスの査問会は三日後とあったが、どうやらウィゼンガモット法廷のお歴々は連日の査問会に飽き飽き――もとい、心身ともに疲弊しているらしく、丸一日の休息を要求しているらしい。本来であればジェーンの査問会は二日後に行われる予定だったのだろうが、そのことに対して文句を言ったところで詮無いことだ。

 通達の書状と一緒にこっそり添えられていたメモ書きを目で追いかけながら、ジェーンは気の抜けたため息をもらす。この通達が届けば、少しは緊張感も芽生えるだろうと思っていたが、そんなことはなかったようだ。

 朝一番の便で手紙を届けてくれた礼として、朝食用に切り分けた生ハムを少しだけ分けてやると、ふくろうはそれを口にくわえたまま窓の外に飛び立っていった。どこか見晴らしの良いところまで飛んでいって、そこでゆっくり食べるのだろう。

 ジェーンはその姿が見えなくなるまで見送ってから、車道に面した窓を閉めた。ロンドンの街では、こうして頻繁にふくろうが飛び交っているのだが、それに気づいているマグルは少ない。

 マグルは立ち止まって空を見上げることもしないのかと思ってしまうが、魔法族でも今となっては星読みは学問の一つとなり、それを生業とする者は減っていると聞く。そうでなくてもロンドンの空に星は見えない。たまの晴天でもないかぎり、曇り空を見上げても何ら心は晴れないということなのか――そうしてとりとめのないことを考えながら、ジェーンは手にしていた封筒をエプロンのポケットに押し込んだ。

 

 やはりと言うべきか、日がな一日ごろごろして過ごすのは、ジェーンの性には合わなかった。それなので、査問会の日までは父親の仕事の手伝いをすることにしたのだ。今朝は早起きをして一緒にクロテッドクリームを作り、丁寧に瓶詰をして、ラベルを貼り付けた。その際に、目に留めた者が手に取りたくなるようなまじないをこっそりかけようとしたが、それはいけないとユアンに釘を刺されてしまった。

 商売をしているからには少なからず儲けを出さなければならないというのに、ユアンにはそうした貪欲さが欠けているのだ。客が喜んでくれるならそれでいいと言って、採算など度外視した価格設定を行っている。自分たちが食べるに困らないだけの儲けがあれば、それでいいのだそうだ。

 ジェーンは呆れて物も言えなかったが、今では諦めの境地で、父親のやることを後ろからひっそりと見守っているのが好きだった。あのふさぎ込んでいた頃の父親のことを思えば、こうして日々を楽しそうに生きてくれているだけで、大変に喜ばしいというものだ。

 

 ジェーンはバスルームの鏡の前で髪を高く結い上げ、後れ毛をピンで留め付けてから、フレームの大きな丸眼鏡をかけた。この眼鏡には僅かではあるが魔法が込められている。見えなくていいものを見えないようにするための道具だ。

 ジェーンには、自らの目で見た人物の背後に、その人物の数分から数時間先の未来を視る力がある。必ずしも視えるというわけではなく、その日の体調や相手との相性もかかわってくるのだが、不意に視えてしまうと意識が混乱し、気分が悪くなることがあった。それを回避するために、自衛として日頃から身につけているものだ。

 だが、こうした能力は別段珍しいものでもない。七変化や未来予知といった、派手さのある完成された能力は嫌でも注目を浴びるが、ジェーンのような中途半端な能力の場合は、他人に触れ回って自慢をするような力とは違う。突如として現れる実像の中の虚像は、日常生活においては邪魔にしかならないものだ。

 

 階段を降りていき、キッチンから足を踏み入れて店内を覗き込むと、そこでは既に数人の客が思い思いの時間を過ごしていた。席について紅茶を飲みながら本や雑誌を読んでいる者、持ち帰り用の茶葉やジャムなどを売っている棚を熱心に眺めている者もいる。ケーキ用のショーケースには焼き立てのスコーンやマフィン、ドライフルーツのパウンドケーキなどが並んでいた。ランチタイムになると、近場の会社で仕事勤めをしている女性客がサンドイッチを買いに来るというので、ユアンはキッチンと店内を行ったり来たりしながら、イングリッシュマフィンを焼いていた。

 接客には不向きな性格だと自覚しているジェーンは、イングリッシュマフィンを焼く作業を一手に引き受けると、ユアンを店内に送り出した。いつもは事務仕事に従事しているジェーンにとって、こうして身体を動かして働くことは非常に新鮮だ。魔法を使っているところを見られてはいけないので、開店中はマグル式で作業をする必要が生じるのも、新鮮に感じる由縁の一つなのだろう。

 

 店の方からは楽しげな話し声や笑い声が聞こえてくる。胃がきりきりと締め付けられるような緊張感も、押し潰されるかのような威圧感も、ここにはなかった。まるで天国のような職場だ。いや、魔法省に比べればどこだって天国のような職場なのかもしれない。誰かを怒鳴る声も、叱る声も、咆哮の声も聞こえないというのは、なんと幸せなことか。

 辞めたい、辞めたい、辞めたい――常に頭の片隅に居座っていた言葉が、今や思考の大部分を陣取り、占めている。

 自分はなぜ働いているのか、とジェーンは自問した。それは生きていくためだ、と自答する。食べるためだ。決して仕事が生き甲斐などではない。天職と思ったこともない。もはや辞める手間すら億劫で、今の仕事を続けている。

 けれど、辞められるタイミングもなかったのだ。いや、実際にはいくらでもあったのだろうが、そのタイミングを逃してしまった。離れられなかったのだ。今離れれば魔法省の機能は滞り、自国のみならず、他国への対応も遅滞――悪くすれば停滞すると分かっていた。

 組織としての機能を停止させるわけにはいかないとジェーンは思った。だから自ら貧乏くじを引き、居残ったのだ。隣人たちが次々と逃げ出し、捕まり、殺されていく様子を、明日は我が身と怯えながら、それでも毅然と頭を上げて見ていた。

 だから、恥じることなど何もない。悪いことなどしていない。あのほとんどが崩壊しきっていた魔法省を踏み止まらせていたのは自分たちだという自負が、ジェーンにはある。

 

 ランチタイムが過ぎ去り、これでイングリッシュマフィンを焼き続ける呪縛から解き放たれると安堵の息を漏らしていると、店内の方からユアンが顔を覗かせた。マグル式の調理法は肩が凝ると思いながら首を回している娘の姿を見て、面白そうに笑っている。

「どうかした?」

「お腹が空いたのではないかと思ってね」

「父さんは?」

「僕はもう食べたよ」

 ユアンはそう言うと、肩越しに店内を振り返ってからキッチンに入ってくる。そして、ジェーンが手にしていたターナーを取り上げると、それで店の方を指した。

「今店にいるお客さんは一人だけだから、ジェーンにも対応できるだろう?」

「え、ちょっと」

「ほら、頼んだよ。その間にサンドイッチを作っておくからね」

 心の準備をする間もなく背中を押されたジェーンは、エプロンに付着したセモリナ粉を慌てて払い落とす。自分に接客を言いつけるなどどうした了見だと問いただしてやりたかったが、小洒落た店内に押し出されてしまっては、口を噤むしかなかった。

 だがしかし、ジェーンはそこに待ち受けていた人物を見て、驚いた表情を覗かせる。

 粉だらけの両手を背中に回し、どう声を掛けたものかと考えていると、ショーケースの中を覗き込んでいたその人物が、こちらの存在に気がついた。僅かに屈めていた腰を伸ばし、軽く手を挙げると、にやりと笑う。

「よう、元気か?」

 その人物は魔法省の同僚だった。同僚とはいっても勤めている部署は違う。魔法法執行部の魔法警察部隊に所属している男だ。見るからに完璧なマグルの様相で立っている男を目の当たりにし、ジェーンは得も言われぬ表情を浮かべた。

「何だよ、その不愉快そうな面は。大臣から謹慎処分を食らったって聞いたから、様子を見に来てやったってのに」

「冷やかしに来たの間違いでしょう?」

「おっ、それが客に対する態度か?」

 にやにやと愉快そうに笑っている顔を見て不愉快さを募らせたジェーンは、ずかずかと近づいていくと、粉で汚れた両手を男のデニムのジャケットで拭ってやった。

「あっ、おい、やめろって」

「ちょうど拭けるところがないか探していたの」

「何のためのエプロンだよ」

「そのエプロンが粉だらけなんだもの、手を拭ったって綺麗にはならないじゃない」

 ったく、と漏らしながらジャケットを払った男だったが、デニムの生地に入り込んだ粉は、その程度では取り払うことができない。すると、周囲の目を気にしながら取り出した杖を振るい、自分とジェーンの身体からセモリナ粉を取り払った。

 この男は生粋のマグル生まれだ。当然、魔法省が陥落するとマグル生まれ登録委員会にマークされ、警察部隊の隊員ということもあり真っ先に出頭を命じられていたが、それには応じなかった。逃亡したのだ。風の便りでは無事に生きていると聞いていたが、こうして実際に会うのはほぼ一年ぶりのことだった。

「逃亡生活をしていたにしては痩せていないのね」

「ん? ああ、まあ、逃亡生活っていってもほとんどロンドンからは離れなかったし、マグル生まれの保護やらなにやらの手伝いをしていたからな、幸い食うに困るようなことにはならなかったんだ」

「ご家族は?」

「国の外にいる親戚のところに放り込んでおいたけど、近々帰ってくる」

「そう」

「お前やおじさんも無事で何よりだよ」

 この男とは幼い頃から家族ぐるみの付き合いがあった。家が近所だったのだ。もちろん、スミス家は自分たちが魔法族だということを隠していた。

 だがある日、子供たちが庭で遊んでいると、不思議なことが起こった。庭にあった小さな池にビニールボールが落ちそうになったとき、池の水が一瞬にして凍り付いたのだ。ビニールボールは何度か弾み、向こう岸に辿り着いたが、子供たちは不気味に思ったのだろう、この現象を報告するために親のところへ駆けていった。しかし、その場に残った子供もいる。それが、幼き日のジェーンとこの男だった。

 ジェーンは誓って何もしていなかった。両親から他の子供たちの前では魔法を使わないよう、可能なかぎり制御するようにと再三注意されていたからだ。だからこそ驚いていた。まさか、隣の家に住んでいる一歳年上の面倒見の良いこの少年が、魔法使いだったとは、と。

「査問会なんてどうせ形式上のものだ」

「本当にそう思う?」

「違うのか?」

 ジェーンは事情を話そうとした。しかし、サンドイッチを作り終えたユアンが店先に出てきたので、思わず口を噤んでしまう。ジェーンは父親に査問会のことは伝えていないし、伝えるつもりもなかった。伝えたところでなるようにしかならないからだ。心配させたくもなかった。

「君もジェーンと一緒に食べていくかい?」

「いや、今日はおじさんとジェーンの顔を見に来ただけだから、すぐ戻らなきゃいけないんだ。次の休みにまた顔を出すよ。職場復帰したばかりでサボるわけにもいかないし」

「そうか。じゃあ、ちょっと待っていなさい」

 ユアンは無理に引き止めることはしなかったが、ショーケースの裏側に回り込むと、中からいくつかのマフィンとスコーンを取り出して紙袋に詰め始めた。恐縮している男に向かって、職場のみんなと食べるように言いながら、押し付けるようにして渡している。

「そこまで言うなら、お言葉に甘えて」

 はにかみながらそれを受け取った男は、横目にちらりとジェーンを見る。そして、ユアンに向かって明るく挨拶をしてから、ジェーンに向かって軽く合図を送った。ちょっと来い、ということなのだろう。

「そこまで見送ってくるね」

「ああ、いいとも」

 男の後を追いかけて店を出ると、排気ガスを含んだ生温かい風がジェーンに向かって吹いてくる。アパートメントの壁には音除けの魔法がかけられているので静かだが、こうして一歩外に出ると、未だ慣れることのない騒音が嵐のように押し寄せてきた。目を閉じて呼吸を一つ、気持ちを落ち着かせてから顔を上げると、男が心配そうな表情でこちらを見下ろしていた。

「もしかしておじさんには査問会のことを話してないのか?」

「いらない心配をかけるだけでしょう?」

「それはそうかもしれないが」男はそう言ってから、僅かに眉を顰める。「待て、そんなにやばい感じなのか?」

「さあ」

「さあって、お前なぁ」

 緊張感の欠片もないジェーンを見て、男は大きく息を吐き出しながら頭を掻いている。

 この男は昔からこうだった。ジェーンよりも一年早くホグワーツに入学しただけで先輩風を吹かせていた。いつも一人でいるジェーンを見つけては声を掛け、これでもかと世話を焼いた。妙な輩に絡まれているとどこからともなく現れ、時にはぶん殴ってでも相手を黙らせた。当人は今も変わらない目でジェーンを見ている。

 ジェーンはこの男のことを友人や親友と思ったことはただの一度もないが、それでも、家族のようには思っていた。

「私がもしアズカバンに収容されたら、そのときは荒波を越えて助けに来てくれる?」

 少し悪戯っぽくそう口にすると、男は呆気にとられたような顔をしてから、困惑したような笑みを浮かべた。

「もしお前が本当にアズカバン送りにされたとしたら、あの魔法省大臣の目は節穴だったってことだ。そうしたら俺は今度こそ魔法省に見切りをつけるさ」

「今度の大臣は違うと思う?」

「さあ」

 男は責任は持てないという顔をして首を横に振り、肩をすくめた。だが、今までと同じだろう、とは言わなかった。

 ジェーンの心の半分以上はもう既に魔法省を離れ、別の在り処を求めてふらふらと漂っている。だが、ほんの少しだけ何かが引っかかっていた。その何かがジェーンを魔法省に引き止めようとしている。もしかしたら、それは一種の呪いなのかもしれない。

 遠くにウエストミンスターの鐘の音が聞こえると、男は少し慌てた様子で腕時計に目を落とした。そして、もう行かなければ、と言う。ジェーンは小さく頷くと、走り去っていく男の背中を黙って見送った。



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査問会

 査問会と言えば聞こえは良い。それは組織に所属する者が不正や過誤を犯したか否かについて取り調べを行う場で、疑いがある者にも反論の余地はあるからだ。だが、あれはその体を成していない。なぜなら、取り調べなどはついぞ行われることがないからだ。罪状を読み上げ、責め立て、告発する。口を挟む隙も与えず、ただ、声高に正義を謳う。悪を断罪する。そういう場面を、ジェーン・スミスは何度も見せられてきた。いや、違う。これまではジェーンも誰かを断ずる側にいたのだ。あらゆる決定に不満を覚えながらも、決して反論することなく、冷ややかな思いで着席していた。

 

 我ながらぞっとするとジェーンは思う。しかしながら、これが因果応報というやつなのだろう。見て見ぬふりをしてきた者は、見て見ぬふりをされるのだ。弱者が強者に牙を剥いたところで致命傷を負わせることはできない。だが、猫に襲われた鼠が、時に小さな牙と爪で立ち向かうように、蛇に睨まれた蛙も、最後の悪足掻きをして見せる可能性は皆無ではない。

 失うものは何もない。既に多くのものを失くしているからだ。それならば、物言えぬ弱者たちの代表として、真っ向から反論してみせようではないか。正論を説く者には現実を突きつけ、真意を問おう。今ここに、自らの身を護れる者は、自分自身しかいないのだから。

 

 不思議と緊張をすることなく、査問会前日の夜はぐっすりと眠ることができた。慣れない立ち仕事が功を奏したのかもしれない。程良い疲労感が全身を包み込んで、心地良い眠りの世界へと誘ってくれた。

 午前七時、目覚まし時計の音で目を覚ます。いつものルーティンをこなし、朝食後はカフェの開店作業を手伝った。父親のユアンには、少し魔法省に顔を出してくるとだけ伝え、仕事着のローブに着替える。飾り気など一切ない、退屈な濃紺のローブだ。普段は気分転換がてら歩いて向かうのだが、リビングの暖炉が煙突飛行ネットワークに登録されているので、煙突飛行粉を使って魔法省に向かった。

 吐き出される先は魔法省の地下八階にあるアトリウムだ。ここには魔法省の出入り用にいくつもの暖炉が連なっている。朝夕の時間帯は大変に混雑するが、それ以外の時間帯はたいして人もおらず、比較的静かだ。アトリウムの中央を飾る泉には、陥落後に大層趣味の悪い巨像が建てられたが、今は以前の魔法族の和の泉に戻されていた。

 普段通りのアトリウムで普段と違っていたのは、いつもは守衛室でじっとしているだけの守衛が、ジェーンを待ち構えていたことくらいだろう。守衛はジェーンの姿を見つけるなりぶすっとした面持ちで近づいてくると、所持していた杖を取り上げ、査問会が行われる法廷へ連行すると言った。ジェーンは大人しく杖を差し出し、守衛の後に続いて歩き出す。

 思い出すのは、マグル生まれ登録委員会からの召喚に応じてやってきた、所謂マグル生まれと呼ばれる魔女や魔法使いの、恐怖に怯えた表情だった。

 アトリウムを通り抜けていく間中、方々からの視線を集めていたのは言うまでもないだろう。魔法省大臣室付きのジェーン・スミスが査問にかけられるという話は、どうやら広く知れ渡っているらしい。こそこそとこれ見よがしな視線を送りながら噂話に花を咲かせているのは、確か魔法運輸部の煙突飛行規制委員会に所属している魔女たちだ。ジェーンの無駄に良い記憶力は、ホグワーツ時代から微塵も衰えていない。

 守衛と並んでエレベーターの到着を待ち、全員が降りたそれに二人だけで乗り込む。アトリウムより更に下へ向かう者はいないようだ。それはそうだろう。この下には神秘部と古びた法廷しかない。長年魔法省に勤めている者でも、地下八階より下には行ったことがない者は多いはずだ。

 そもそも、たかが一職員の査問会で裁判に使用される法廷を使うなど、どうかしているとしか言いようがない。本来であればその辺の空き部屋や会議室、ウィゼンガモットの事務所の一室で事足りることだ。それなのにもかかわらず、まるで自らの正しさをより強固なものとするため、悪をより悪たらしめるための舞台として、人目を引くよう派手さを演出する因子として、法廷を利用しているとしか思えなかった。

 闇の帝王が支配していたときと同じように、日刊預言者新聞やラジオ放送をプロパガンダとして駆使し、政権を取り戻した我々魔法省は、日々イギリス魔法界の再建のために尽力していると、そう訴えかけようとしている。

 

 自分はその小さな礎となるのか――ジェーンは人知れず嫌悪感をあらわにした。

 これまで、査問という名の裁判にかけられた者の中で、何の咎も受けず、無罪放免となった者はほとんどいない。ほぼ全員が何らかの罪に問われ、裁かれていると聞く。

 だが、ジェーンにとっては腹立たしいことに、それらは正しい罪なのだ。いかな上からの命令であれ、それを実行したのが他ならぬ自分自身ならば、それは否定をしようのない罪なのだ。今度ばかりは、許されざる呪文を言い訳にすることはできないだろう。もとより、ジェーンにそのつもりはない。

 この魔法省から離れることができるならば、もはや罪に問われても構わなかった。杖を取り上げられることになったとしても、さほどのショックは受けないだろう。ジェーンはもうずっと前から覚悟を決めていたからだ。魔法省が陥落し、全政権が奪われたときから、腹は据わっていた。自分は悪に手を染める。すべてを理解した上での決断だった。魔法省に忠誠を誓うということは、そういうことだと思った。それだけが、生き残る手段だった。

 絶対に媚びない、へつらわない、おもねらない。追従するなど以ての外だ。ジェーンは己の信念に従って行動をしてきた。命を護るためにやってきたことを、なぜ責められなければならないのか。弱者は弱者なりに戦った。戦わずして逃げ出した者たちに、それを裁く権利などあるのか。それが権力を保持した、魔法省の中枢を担っていた魔女や魔法使いなら尚のこと、自らの胸に手を当ててみてほしいと思う。

 

 さあ、時間だ――法廷の扉の前に立たされたジェーン・スミスは、大きく深呼吸をした。

 

「――では、これよりジェーン・スミスの査問会を執り行う」

 松明が燃える地下牢のような法廷で査問会は開始された。法廷の中央に置かれた椅子に腰を下ろし、肘掛けに両腕を乗せると、ぐるぐると蛇のような動きで鎖が巻き付いてくる。手首を僅かに持ち上げると鎖はより絞まったので、これは暴れれば暴れるほど罪人を強く締め付ける類の、呪いの鎖なのだろう。

 ジェーンは吸い込んだ息を静かに吐き出しながら辺りを見回した。ここはつい少し前まで、ドローレス・アンブリッジがマグル生まれの魔女や魔法使いを召喚し、裁判を行っていた法廷だ。たいした広さはない。だが、天井に向かって少しずつ迫り上がっていく座席には大勢の人間が腰を掛け、こちらを見下ろしているので、威圧的な圧迫感があった。

 人々は皆一様に赤紫色のローブを羽織っている。左胸にWの刺繍が施されたそのローブは、ウィゼンガモットに所属する者だけが袖を通すことを許されたものだ。だからといって、そのローブを羨んだことなどジェーンにはただの一度もない。

 議長席には魔法省大臣のキングズリー・シャックルボルトが腰を据えていた。その隣には書記役のパーシー・ウィーズリーが複雑そうな顔をして座っている。ジェーンがじっと睨むように見ると、手にしていたペンの羽の部分でシャックルボルトを指した。どうやら集中しろと言いたいようだ。

 これではまるで闇の魔法使いと同じ扱いではないか。それとも、自分はいつの間にか闇の魔法使いと決定づけられ、それ相応の処遇を受けることになるのか――ジェーンがそのように考えていると、議長席に座っていたシャックルボルトが傍らに置いていた杖を取る。それを一振りすると、ジェーンを拘束していた鎖がするりと解けていった。顔を上げてそちらを見やると、癖のように指先で杖を一回転させたシャックルボルトが口を開いた。

「失礼、こちらの不手際だ」

 何が不手際だと思いはするものの、ジェーンは黙したまま自分の手首をそっと撫でた。拘束されるのは初めてではなかったが、相変わらず良い気分はしない。

「此度の査問ではこの約一年間に渡る君の魔法省大臣室付き下級補佐官としての働きについて論ずることとする。通常、魔法省大臣との面談で済ませることではあるが、君の場合、法廷にかけられた数人の罪人からその名が挙げられ、また幾人かの告発者も出てきている。それを踏まえ、他数名同様に査問会を開く運びとなった」

 ジェーンを見下ろす者たちの中には、こちらを敵視する眼差しも含まれていた。そうした人々の多くはヴォルデモート卿やその仲間たちに、家族や親類、友人を奪われている可能性が高い。それ以外の者は自らが掲げる正義の下、ジェーンを敵視しているのだろう。

 そうしなければ気が済まないのだ。そうしなければ心が休まらない。そうしなければ、自らの正当性を証明することもできない、かわいそうな人たち。

「君はコーネリウス・オズワルド・ファッジ、ルーファス・スクリムジョール、パイアス・シックネス、この三代に渡って魔法省大臣に仕えてきた――相違ないか?」

「はい、大臣」

「内二名は死亡。唯一ご存命のファッジ元魔法省大臣から君の働きぶりについて聴取してきたが、彼は君を大変気に入っていた様子だ。間違いなく魔法省に忠実な魔女だと話してくれたよ。機転、融通が利き、まるでこちらの心が読めるのではないかと疑ってしまうほどの仕事の速さ。だが、同時に君を危ぶんでもいた」

 ああ、そうだ、あの男のせいで自分の人生は終わりに向かっていると、そうジェーンは思う。あの男がジェーンを下級補佐官になどしなければ、今頃はまったく違う運命を歩んでいたはずだ。過去を悔やんでばかりの人生だったが、父親を喜ばせたいという一心で引き受けてしまった過去の自分の選択を、ジェーンは最も悔いていた。

「ジェーン・スミスは魔法省に忠実すぎるあまり、その時々の魔法省大臣の采配によっては、その性質を反転させるだろう。例えば、コーネリウス・ファッジの支配下では温厚な猫であったとしても、ヴォルデモート卿を支持していたパイアス・シックネスのような大臣の下では、冷徹さを匂わせる吸魂鬼のようにさえなり得る、と」

「それが魔法省に忠誠を誓うということなのでは?」

「今は1920年代ではない」

「では、反逆を働いても構わないと?」

「君の思考には忠誠か反逆しか存在しないのかね?」

「闇の帝王が支配する魔法省ではそれらが同義だったのです、魔法省大臣」

「ほう」

 魔法省では魔法省大臣が法律だった。愚かしいことに、大臣は自分のしたいようにできるのだ。

 例えば、コーネリウス・ファッジはヴォルデモート卿の復活を隠蔽し続けた。ただ信じたくないという理由で、ハリー・ポッターやアルバス・ダンブルドアの言葉を妄言と断じた。その結果、コーネリウス・ファッジは大臣の座を退くことになった。

 次いでその椅子に座ることになった男は、闇祓いのルーファス・スクリムジョールだ。任命当初は補佐官たちの力を借りながら、魔法省大臣としての手腕を振るっていた。ジェーンの印象もそう悪くはなかった。少なくとも、純血主義の前任者よりは見込みのある大臣だと思っていた。

 しかし、それも長くは続かなかった。スクリムジョールはヴォルデモート卿にかかわるあらゆる情報の隠蔽をはじめた。疑わしき者はすべて捕え、拘束した。周りの声になど耳を傾けなくなっていた。何と進言しても聞く耳を持たなかった。

 だからだろうか、死喰い人が魔法省を襲撃し、大臣室に乗り込んできても、間に入ろうとする者は誰もいなかった。足がすくんで動かなかったというのもある。だが、この男のために――この魔法省大臣のために命を投げ出してもいいとは、ジェーンには到底思えなかった。

 だから、拷問され、殺されていく様を、黙って見ていたのだ。



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自負と矜持

 確かに闇祓いは優秀だ。それは誰もが認めるところだろう。この魔法省では――いや、世界的に考えても闇祓いは狭き門だと言われている。おそらく、魔法省大臣になることよりも、闇祓いになることの方がずっと難しいはずだ。闇祓いは決して運では選ばれない。OWLやN.E.W.T試験の結果に表れているように、すべてにおいて秀でていなければならない闇祓いは、時に何年もの間採用者が出ないこともあった。

 だから、このキングズリー・シャックルボルトという男も酷く優秀であろうことは、疑うまでもないのだろう。しかしながら、ルーファス・スクリムジョールという前例があることも忘れてはならない。スクリムジョールは優秀な闇祓いだったのかもしれないが、魔法省大臣としての適性は持ち合わせていなかった。その両肩に圧し掛かる負の重責に耐えることができず、現実を直視することもできずに、魔法省の失態を隠し続けた。

「事実を告げれば国民の不安を必要以上に煽るだけだ」

 スクリムジョールはそう言っていた。闇の帝王の復活が認知された後の襲撃の多くは、こうしたスクリムジョールの意向によって伏せられていた。だが、たとえ事実を知らされずとも、そこには間違いなく、事実が事実として存在している。

 魔法省の職員とその家族は、そろそろ本格的に危ないかもしれないという、漠然とした焦燥感に駆られていただけよかった。当の国民たちは、満足な準備をすることもできないまま、突如として奈落の底に突き落とされたのだから。

 

「私は、生きるか死ぬかの選択を迫られる度に、より生き残る可能性が高い方を選び取ってきました。たった今脅かされている自分自身の命を護るための行為です。そこに私自身の善意や悪意が反映されたことはありません」

「では、君はあくまで自らの正当性を主張すると?」

「正当であるかどうかはさておくとしても、自らの命を護る行為に罰則を与えるというのであれば、魔法省の陥落後に自らの職務を放棄し、逃亡した職員にもまた、同じように罰則を与えるべきなのではありませんか?」

 怒号が飛んだ。罵声が降り注ぐ。狼狽しているのだろう。だが、責任転嫁だと怒鳴りつける者ほど、強い後ろめたさを感じているのだ。ジェーンは思わず緩みそうになった頬に手を触れ、軽く目を伏せた。吸い込んだ息をゆっくりと吐き出しながら、心を静めていく。

 ジェーンは自らの行いに正当性など感じてはいなかった。そこに正義などはない。だが、悪に染まったつもりもない。

 諸悪の根源は魔法省大臣なのだ。魔法省大臣が選択を誤ったが故に、イギリスの魔法界はこのようにお粗末な結果を迎えることとなった。そう、魔法省大臣が選択を誤らず、万全の準備を整え、ヴォルデモート卿に備えていたとしたら、結果は違っていたはずだ。

 法廷内は一時騒然としたが、シャックルボルトが軽く手を挙げると、波が引くように静かになっていった。

「魔法省から一時的に退去した者を逃亡者とは定義していない。踏み止まった者も、そのすべてに反逆の疑いがあるとは考えていない。先程告げた通り、君の場合は数名の告発者が出現したことを踏まえ、こうして査問を行っている。なお、君に掛けられている嫌疑は以下の通りだ」

 シャックルボルトはそう言うと、手元の料紙をはらりとめくる。その指先の動きを細部まで模写できるほど凝視しながら、ジェーンは続く言葉を待った。

「死喰い人への資金提供、マグル生まれ登録委員会への荷担、前魔法省大臣パイアス・シックネスが何者かに服従の呪文で操られていると察知していながら、その事実を黙認し、救済を怠った罪――魔法省大臣が正気を取り戻せば、打開のチャンスは皆無ではなかっただろう」

 最後の一つにかんしては、事前に認めてしまったことが仇となったようだ。ジェーン以外にも、パイアス・シックネスが服従の呪いにかかっていると気づいている者はいたはずだが、そうと認めさえしなければ罪に問われることはない。そのくらい大目に見てくれてもいいのではないかと思うものの、馬鹿正直に話してしまったのが悪かったのだと自分自身に言い聞かせながら、ジェーンは真正面にいるシャックルボルトを見上げた。

 より問題視されるのは前者の二つだ。ドローレス・アンブリッジがジェーン・スミスの名前を裁判で発言したというからには、魔法省大臣はそれを無視するわけにはいかない。その他にも幾人かの告発者がいるという話だが、正直なところそれには心当たりがありすぎて、ジェーンには目星をつけることも難しかった。

「まずは死喰い人への資金提供についてだが、何か申し開きをしておきたいことはあるか?」

「いいえ、大臣」

 ジェーンの即答にシャックルボルトは一瞬だけ驚いたような表情を見せた。形の良い眉をぴくりと動かし、手元の書類に落としていた視線をジェーンに向ける。反論の一つでもすると思っていたのだろう。だが、このことにかんしては最初から口を噤むつもりでいた。事情を話せば、この罪は父親のユアン・スミスにまで及んでしまう。いくらもういい、やめてくれと頼んでも、ユアンはまったく聞く耳を持たなかったのだから。

 ユアンは進んで家財を売り払い、資金の提供を惜しまなかった。少なくとも、周囲にはそのように見えていたはずだ。

「……君は死喰い人に協力を乞われ、資金を提供することでそれに応じていた」

「はい」

「なぜだ?」

「金貨で命を買ったのです」ジェーンは臆せず口にする。「金貨を差し出せば命は助けてやるということでしたので」

 そう平然と言ってのけるジェーンの姿を見て法廷内は再び騒然となった。方々から投げつけられる糺弾の言葉は聞くまいとするものの、ヒステリックに叫ぶ声が、まるで鋭いナイフのようにジェーンの鼓膜を突き刺した。

 恥知らず、と誰かが言った。ああ、そうだ、恥知らずだ――ジェーンはそう心の中で答えていた。

 死喰い人がジェーンを殺すことは容易かったはずだ。なにせ、ジェーンはルーファス・スクリムジョールが拷問の末に殺される様を、目の前で見ていた。だが、そうはしなかった。まだ生かしておくだけの価値があると考えたからだろう。

「記録によると、君はホグワーツの創設者の一人であるヘルガ・ハッフルパフの子孫だそうだが」

「そう聞いています」

「ヴォルデモート卿は純血や君のような特別な血統の者を殺そうとはしなかったはずだ」

「仕えるべき主人に隠れて私腹を肥やすような輩がいても何ら不思議ではないかと」

 金貨で命を買うことに何の問題があるというのか。もしそれが不純だというのなら、もっと有用性のある手段を教えてもらいたいと思う。そうした者たちは皆往々にして、やれ杖を持って戦え、やれ屈するくらいなら死んだ方がましだ、などというようなことを口にするのだ。

 誰かが恥知らずと言った。全身が震えるほどの恐怖に耐えながらも、杖を構え、戦って死んでいった者たちに対して恥ずかしくないのか、と。では、あなたたちは何をしていたのだと、ジェーンは問いたい。

 あのとき、あの魔法省で、一体何をしていたのか。まだ逃亡していた者の方が可愛げがある。純血という鉄壁の盾を構え、自分は殺されることはないと高を括っていた者は、マグル生まれの者たちのために何をしてやったというのだ。

 だが、ジェーンがその思いを口にすることはなかった。これはジェーン・スミスの査問会だ。他の者の罪をつまびらかにするための場所ではない。

 けれど、そうした者たちが罪に問われることがないのは確かだ。この魔法界に蔓延る純血主義は、決して消え去ることはない。いくらヘルガ・ハッフルパフの末裔だと言って聞かせたところで、マグルの血が多分に含まれていれば、それはほとんどマグル生まれと変わらないのだ。そして、純血であれば些末な問題であると片付けられる事柄も、大きな罪として裁かれることになる。

 何も変わらないではないか――ジェーンはそう改めて思った。

 ヴォルデモート卿と死喰い人が支配していたあの頃の魔法省と何が違うというのだろう。純血ばかりが贔屓される風潮は時代錯誤だ。純血主義そのものが争いを生み出す種という事実から目を逸らし続けた末路が、今この瞬間なのだ。純粋な純血の家系など、今やひとつもありはしない。真実に蓋をしているだけだ。

「富を持たぬ者は死ね、ということか」

 誰かの声がそう口にする。大声ではなかった。ジェーンには囁くような声に聞こえた。

 だが、その刹那、ざわざわとしていた法廷内が一瞬にして静まり返る。ジェーンは顔を上げて法廷内を見回すが、誰がその言葉を口にしたのかは分からなかった。

 確かにそれなりの富はあった。グリンゴッツの金庫はユアンが出版した書籍の報酬で満たされ、住んでいた屋敷は本家から譲り受けた別宅だったので、家族三人で住むには大きすぎるくらいだった。調度品の数々は古く、どれも骨董品としての価値が高かった。本家に比べれば裕福とは言い難かったが、中流階級程度の暮らしは送ることができていた。しかし、金貨が湯水のようにあったわけではない。ヴォルデモート卿が滅ぶより早く資金の底が尽きていたら、殺されていた可能性は多分にある。

「おっしゃるとおり、私は金貨で命拾いをしました。ですが、それは一つの手段にすぎません。他により有効な手段があったというのなら、それがその人にとっての最善だったのでしょう。私には考えの及ばぬことではありますが」

 人はジェーン・スミスが恵まれているという。その血筋はヘルガ・ハッフルパフに通じ、本家と同じ名を名乗ることを許され、父親はそれなりに高名な作家というだけで、嫉みを買うことがあった。だが同時に、ハッフルパフの末裔だという理由で、レイブンクローでは後ろ指をさされていた。

 とはいえ、スミス家に生まれた自分を恨んだことも、不幸だと思ったこともない。本家はいつもよくしてくれた。文献に残されているヘルガ・ハッフルパフの人柄そのものの人々だ。母親が闘病の末に命を落とし、父親が意気消沈していたときも、進んで葬儀を手伝ってくれた。

 家財を売り払い、家を手放すと言っても、腹を立てることもせず受け入れてくれた。唯一、理解を示してくれた。何か手伝えることはないかとさえ言ってくれたが、ユアンとジェーンは首を横に振り、その申し出を拒んだ。きっと、こうなることが分かっていたからだ。本家に迷惑をかけるわけにはいかなかった。

「逃げる者は逃げ、戦う者は戦い、恭順する者はそれを貫けばいい。私はそのどれもが認められて然るべき権利だったと主張します。私は戦った者の意思を称えません。逃げた者の罪を問いません。ただし、恭順した者の罪のみを裁くというのであれば、私はそれを断固非難します」

「だが、君が恭順したことによってマグル生まれの魔女や魔法使いたちは、その大勢がアズカバンに投獄されることとなった。内何名かは獄中で命を落としているだろう。吸魂鬼のキスを執行された者もいる。それでも、君は自分に罪はないと、裁かれるべきではないと、そう言い切れるのか?」

「私のような些末な者にも自負と矜持があります、大臣」ジェーンは僅かに曲がっていた背筋を伸ばし、毅然と頭を上げた。「私は私自身の弁護を惜しみません。必要とあらば、反論の一つや二つはいたしましょう。ですが、自らの非を認めるつもりは毛頭ありません。私は私のやるべきことをしたのです」

 分かっている。逆らえば逆らうほど、反論を重ねれば重ねるほどに、立場が悪くなっていくということは、分かっているのだ。それでも、自分のために戦って敗れるのなら、それはそれで本望のようにも思える。

 恥ずべきは己に嘘を吐くことだ。自分の正しさは、自分だけが知っていれば、それでいい。

 キングズリー・シャックルボルトは、おそろしく煩わしそうなため息を吐き出しながら、額から頭にかけてをゆっくりと撫でた。書類を読んでいるふうを装っているが、実際には思考を巡らせているのだろう、眼球が活発に動いているのが分かる。

 その様子を目の当たりにしたジェーンは、この魔法省大臣を酷く困らせてやりたいという衝動に駆られながら、小さく咳払いをした。



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暇、暇、暇

 驚くべきことに、ジェーン・スミスは魔法省にいながらにして、有り余る暇を持て余していた。

 査問会を終えて三日後、ロンドンの自宅にて自身の処分が通達されるのを待っていたジェーンのもとに、一通の封書が届けられた。人生の終末を告げられるにしては酷く薄っぺらい封書だと思ったが、レターナイフで封を切り、中身を確かめると、予想とは違った内容の文章が記されていた。たいして長いものではないが、それを要約するとこういうことだ。

 

≪魔法生物規制管理部 動物課 ケンタウルス担当室への人事異動を発令する≫

 

 てっきりクビを切られるものとばかり思っていたジェーンにしてみれば拍子抜けだったが、嫌味なほど丁寧な短い文面を何度か読み返していくうちに、少しずつ自らの置かれた立場を理解しはじめた。

 

 魔法生物規制管理部、動物課のケンタウルス担当室というのは、その名の通り、イギリスに生息するケンタウルスにかかわるすべての業務を担う部署のことだ。

 人間を嫌い、ヒトとして分類されることを嫌悪したケンタウルスたちは、自分たち種族を動物として定義した。人間と同じ言葉を操るが、動物として原始的に生きていく方が、気高く美しいと考えているらしい。

 このイギリスに生息しているケンタウルスのほとんどは、いくつかの群れを作り、それぞれが魔法省の管理する森で生活をしている。ホグワーツの敷地内にある禁じられた森もその一つだ。生存数は年々減少し続けているという話で、マグルによる自然破壊が原因の一つに数えられている。ケンタウルスは清浄な水や森がなければ、生きてはいけない生き物なのだ。

 実際のところ、イギリスでこれまで通りにケンタウルスたちが生きていくためには、解決しなければならない問題が山積みだった。

 いくら森に立ち入り禁止の札を立てたところで、マグルたちはそれを無視し、アウトドアだとかキャンプだとかいって足を踏み入れ、ごみを放置し、土や水を汚していく。魔法で結界を敷けば、マグルの遭難者が後を絶たず、警察部隊の捜索隊と忘却術師たちの仕事が無駄に増えるばかりだった。

 なぜ本格的に立ち入り禁止にしないのかといえば、そうした森のいくつかはマグルが国で管理している公園の中にあるので、双方の主張を受け入れていくと、いずれは互いに妥協しなければならない着地点が必要だったからだ。要は、マグルが管理する国立公園の中に、魔法省が管理するケンタウルス保護区があるという図式が、このイギリスの至るところに存在しているということだ。

 だが、この部署の大きな問題は、もっと他にある。それは、魔法省がケンタウルス担当室を立ち上げて以降、当のケンタウルスが担当室を一度も利用していないということだった。人間嫌いのケンタウルスが人間を頼るはずもない。人間の面倒になるくらいならば、滅びの運命さえ受け入れようというほどだ。

 故に、このケンタウルス担当室送りにされた者は、実質解雇を言い渡されたも同然の扱いを受けたことになる。

 職務としては間違いなく必要不可欠であり、絶対になくてはならない部署なのだが、与えられる仕事といえば、現われもしないケンタウルスを席について待ち続けるだけという、拷問めいた日々だけだった。

 

 地下一階にある魔法省大臣室の隣の部屋で忙しく働いていたジェーンは、あっという間に地下四階に落とされ、段ボールが積まれた薄暗く埃っぽい廊下の先にある、窓もない小さな部屋に押し込まれた。ちょっとした不満を口にしても許されそうなものだが、残念ながらそれを聞いてくれる相手は一人もいない。

 ケンタウルス担当室の前任者は魔法法執行部に栄転したという話だ。そこに空いた穴を埋めるために、ジェーン・スミスは丁度良い存在だったのだろう。これはいわば左遷だ。一種の島流しだ。解雇よりもたちが悪い。

 

 ケンタウルス担当室は給湯室のような作りになっていて、部屋の隅には簡易的なキッチンが付属されていた。その奥には木の扉があって、先の部屋にはいくつかの本棚にケンタウルスの資料が保管されている。異動当日に確認したかぎりでは、棚は良く整頓されていて、後任者にも分かりやすいようメモ書きまで貼り付けてあった。そうした一つ一つの細やかさと几帳面さが、前任者の真面目な仕事ぶりを窺わせた。

 そのおかげというべきか、それ故にというべきか、僅かな資料にさえすべて目を通し終えてしまったジェーンは、異動数日にしてやるべきことを失ってしまった。仕事をしに来ているのに仕事がないというのは何とも奇妙なもので、これで本当に月々の給金をもらってもいいものなのだろうかという、罪悪感を覚えてしまいそうになる。

 普通であればこの罪悪感に押し潰されて、自ら魔法省を離れる選択をするのだろう。だが、これまで安月給で散々こき使われてきたジェーンは、これを天の恵みと思うことにした。先のことは、またそのうちに考えればいいのだ。

 そのため、今日は自宅から本を何冊か持ち込み、ランチボックスの他にアフタヌーンティーの準備も万全に整えてきている。目を通しそびれていた数日分の朝刊と夕刊、週刊誌もあるので、これでしばらくは時間を潰せるはずだ。

 だがしかし、正午を知らせる放送が聞こえて間もなくすると、ケンタウルス担当室に近づいてくる足音があった。

 バターと粒マスタードに少量の蜂蜜を混ぜたものを塗り、新鮮なレタスに薄切りのトマト、今朝削いだばかりの生ハムを挟んだサンドイッチを食べていたジェーンは、読んでいた新聞から顔を上げ、その足音に耳を傾ける。それが馬の蹄の音ならば気分も高揚しただろうが、残念なことに、聞こえてきたのは人間の足音だった。

 一体誰が貴重な昼休みを使って、魔法省内の辺境にある部署を訪ねてくるというのだろう。

 ジェーンが呆れながら手にしていたサンドイッチをブリキ缶に戻し、机の上に広げていた新聞を折りたたんでいると、その足音はケンタウルス担当室の前でとまった。そのすぐあと、扉がノックされる。

「はい、どうぞ」

 ジェーンがそのように返事をすると、取っ手はくるりと回るが、扉はがたがたというばかりで一向に開かなかった。

 建て付けが悪いか、もしかしたら扉自体が呪われているのだろうというのが、ジェーンの見解だった。時々足の小指を何かの角に強打する現象が起こるが、あれも大抵は呪いの類だ。古い木工の家具には呪いが宿りやすい印象がある。骨董品に囲まれて暮らしていたジェーンには、さほど珍しくもないことだった。

 ジェーンは席を立つと、机を回り込んで扉の前まで向かった。そして、がたがたと揺れている扉に、足で強く衝撃を与える。取っ手を掴み、それを押し込むようにして動かすと、扉は驚くほどすんなりと開いた。それと同時に、ごつん、と鈍い音が聞こえて、ジェーンは首を傾げる。

 何事かと思いながら開いた扉の向こう側を覗き込むと、一人の男が自分の頭を抱えてしゃがみ込んでいる姿が見えた。ジェーンはまさかと思い我が目を疑うが、何度瞬いてみても、それが魔法省大臣であることに変わりはない。

「……大臣、こんなところで何を?」

 呻くような声が聞こえ、ジェーンは「はい?」と訊ね返す。すると、キングズリー・シャックルボルトは額を押さえたままゆっくりと立ち上がり、心なしか恨みがましそうな目でジェーンを見下ろした。

「大変失礼いたしました、大臣」ジェーンは悪びれもせずにそう言うと、扉を更に大きく開いた。「どうも前々から建て付けが悪いようで。中へお入りください、今氷を用意します」

 懐から取り出した杖を一振りし、ジェーンは机周りを手早く片付けた。氷嚢などという都合の良いものは用意がないので、ランチボックスを入れてきた巾着に魔法で作り出した氷を入れ、それをシャックルボルトに向かって差し出す。

「どうぞ」

 そう言って椅子を指し示せば、巾着を受け取ったシャックルボルトは、無言のまま腰を下ろした。

 あまりの痛みと衝撃に言葉を失っているようだ。もしくは、苛立ちや腹立たしさといった感情を、必死で抑えつけようとしているのかもしれない。

 いずれにせよ、話を急かすことはしない方が良さそうだと考えたジェーンは、席には着かず簡易キッチンに立つと、家から持ってきたティーセットで紅茶を淹れることにした。さすがに今朝ポットに注いできた紅茶を、魔法省大臣に出すわけにもいかないだろう。

「……あ、」

 不意に思い立って、前任者が残していってくれた壁掛け時計に目をやったジェーンは、そのまま額を冷やしているシャックルボルトに視線を向けた。

「食事はお済ですか、大臣」

 ジェーンがそのように問うと、シャックルボルトは僅かに首を横に振る。そんなことだろうと思っていたジェーンは、淹れたての紅茶を机に運んでから、端に寄せてあったブリキ缶の蓋を開けた。食べかけのサンドイッチをナプキンの上によけ、缶ごとシャックルボルトの方へ押し出した。

「よろしければ」

「いや――」

「父が皆さんで食べるようにと言って作ってくれたのですが、この通りケンタウルス担当室は私一人きりなので、食べきれないと困っていたのです。一緒に食べていただけると、非常に助かります」

 そういうことならばと思ったのだろう、シャックルボルトは片手で紙ナプキンを広げると、その上に具が溢れんばかりのサンドイッチを一つだけ取り分けた。ジェーンは机を挟んで向かい合うように座り、食べかけのサンドイッチを口に運ぶ。

 魔法省内でこれほどまでに静かな場所をジェーンは他に知らない。音という音が遮断され、どこか遠い場所に隔離されているかのような錯覚を覚えるほどだ。そんな場所に魔法省大臣と二人きりとはぞっとすると思っていると、シャックルボルトは手に提げて来たらしい紙袋を、机越しに差し出してきた。

「君のお父君から借りたローブだ」

「ああ、ありがとうございます」

 あの日、ユアンがシャックルボルトに貸したローブは、ユアンが持っている中では最も上等で、高価なものだった。原稿の執筆に没頭するあまり、身なりに頓着しなくなった夫を見かねた今は亡き妻から、クリスマスプレゼントとして贈られたものだったのだ。

 母親が亡くなってからは一度も袖を通すことなく、大切にしまっていたことをジェーンは知っている。だが、あの父親のことだ、魔法省大臣に適当なものを着せるわけにはいかないと思ったのだろう。手持ちのローブの中で最も上等なものをと考えたとき、これを惜しげもなく貸し与えてしまうというのは、人柄の良さをよく表している。

 魔法省大臣室付きから外され、他の部署へ移ることになったと伝えたときも、ユアンは異動先を問うこともせず、娘からの報告を嬉しそうに聞いていた。出世街道を突き進んでいたはずの娘に向かって、大臣室付きの仕事は忙しすぎた、これからは自分の時間を楽しみなさい、などというようなことを平気で言うのだ。

 それが父親なりの励ましであることは重々承知しているのだが――ジェーンはそう思いながら苦笑いを浮かべそうになるが、正面に座っているシャックルボルトがカップを置く音で我に返り、顔を上げた。

「わざわざこのようなところまで出向いていただかなくても、呼びつけていただければすぐ受け取りに行ったのですが」

「君を大臣室に呼びつけるとウィーズリーがうるさいだろうと思ってな」

 自分が机の荷物をまとめている間中、魔法省大臣に対する恨みつらみを吐き出し続けていたパーシー・ウィーズリーのことを思い出し、ジェーンは少しだけ笑ってしまう。だが、他の補佐官たちが何とかなだめすかしてくれなければ、大臣室に殴り込みにでも行っていたのではないだろうか。

 仕事の負担が増えてしまうことについては素直に申し訳なく思うが、こればかりは慣れてもらうよりほかにない。一週間もすれば、ジェーン・スミスがいたことすら遠い記憶になるはずだ。むしろ、そうなってもらわなくては困る。

 

 査問会はそう長引かなかった。ジェーン自身はもう少し粘っても構わなかったのだが、どうやらキングズリー・シャックルボルトがそれを望んではいない様子だったのだ。正しい査問会が行われることなど、当初から期待していなかったジェーンだったが、シャックルボルトが結論を急いでいるように感じられ、内心では大きく首を傾げていた。

 シャックルボルトはジェーンにいくつかの質問をしたが、その返答に対して反論をするどころか、否定さえしなかったのだ。方々を飛び交う野次を拾い集め、それに賛同することもしなかった。その時点で、ジェーンはこの魔法省大臣に不審感を募らせていたが、何か意図あってのことだろうとは察していた。



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魔女裁判

 魔法省大臣室付きを離れ、これまでのように頻繁には大臣と顔を合わせることもないだろうと考えていたジェーン・スミスだったが、その予想は驚くほど早くに覆された。まさか、自宅に続いて職場でも魔法省大臣と二人きりで机を囲むことになるとは、予想すら困難な状況だ。それどころか、歴代の魔法省大臣に食事やお茶の支度を命じられることはあっても、こうして同席したことなどはただの一度もなかった。

 何とも居心地が悪く、胃が微かに縮むような感覚がある。緊張感とは違う、妙に張り詰めた空気が漂っているように感じられていた。

「……まさかとは思いますが」ジェーンがそう口火を切ると、カップの柄を眺めていたシャックルボルトが顔を上げる。「父のローブを返すためだけにいらしたのですか?」

 額を冷やしている巾着から、ぽたり、ぽたり、と雫が落ちていた。シャックルボルトはその雫がローブを濡らしていることにも気づいていない様子で、呆れ顔のジェーンを見ている。

「そちらはお預かりします」

 しびれを切らしたジェーンがそう言うことで、ようやく惨事に気づいたようだ。手にしていた巾着をジェーンに返すと、自らの杖を取り出して濡れたローブを乾かしていた。

 何かを思案しているのなら、大臣室にこもって考え事を続けていた方がずっと建設的だろうと思うのだが、補佐官たちの発する雑音が邪魔に感じられているのであれば、こっそり抜け出したくなる気持ちは理解できなくもない。自分の持ち場を避難所にされるのはいい迷惑だが、連日の激務で疲れているに違いない者を邪険にするほど、ジェーンは鬼ではないつもりだった。

「紅茶を淹れなおしましょう」

 居心地が悪いことこの上ないが、こうなってしまっては致し方ない――そう思うことにしたジェーンは再び席を立つと、ポットを手にキッチンへ向かう。いずれにせよ、昼休みは残り僅かだ。午後の始業を知らせる放送が聞こえれば、大人しく大臣室に帰っていくだろう。

 しかし、もう少しの辛抱だと自分自身に言い聞かせながら、ジェーンが紅茶を淹れなおしていると、不意にシャックルボルトが声を掛けてきた。

「私を恨んではいないか?」

「……はい?」

 ジェーンは思わず何も聞こえなかったふりをしてしまった。キングズリー・シャックルボルトの口から発せられた言葉に耳を疑ってしまったからだ。それはあまりに侮辱的で、屈辱的な意味を孕んで聞こえた。

 自らの成したことが罪であるというのなら、それはそれで構わない。罪が決定した時点で、既に受け入れることができている。これはただの価値観の相違であり、それ以上でも以下でもないのだ。互いに相容れないことを認め合うことほど、無意味なものはない。それこそ時間の無駄だろう。そんなもののために割く時間はない。

 ティーポットを抱えて机に戻ったジェーンは、ほとんど手つかずのままカップに残っていた紅茶を魔法で消失させた。茶こしを潜らせた熱々の紅茶をカップに注ぎながら心を落ち着かせようとするが、一度沸き立った苛立ちはなかなか治まりそうにない。

 それほど、その言葉はどのような挑発の言葉よりも鋭く、ジェーンの感情を強く揺さぶったのだ。

「私を――」

「なぜ恨む必要があるのです?」

 同じ言葉を吐き出されるより前にジェーンがそう言うと、シャックルボルトは僅かに目を見張った。ジェーンの声が思いの外冷ややかだったからかもしれない。感情を表には出すまいと努めるが、シャックルボルトを見る目は据わっているだろう。

「そのようなことを口に出されるとはよほどお疲れなのですね、大臣」

 ジェーンは口許に笑みをたたえると、紅茶でなみなみと満たされたカップを、シャックルボルトの前にそっと置いた。

 あの査問に意味があったのであれば、下された結論が妥当だと確信しているのであれば、そのような問いが口から出てくるはずがない。もし仮に疑問が残っているにしても、処断した相手を前にして、まるで弱音を吐き出すかのように吐露する言葉としては、あまりにお粗末だ。

「どうぞお気の済むままにごゆるりとされてください。ここだけの話、魔法省大臣などおらずとも魔法省の政務は滞りなく行われます。お昼寝でもいたしますか? お風邪を召されては大事ですので、毛布をお持ちいたしましょうか」

 一見、にこにこと機嫌良く話しているように見えるジェーンを目の当たりにして、シャックルボルトはぎょっとした様子で目を丸くしている。紅茶がなみなみと注がれたティーカップを一瞥し、どうやら自分の発言で目の前の女が腹を立てているということは理解したふうだが、解せないといった面構えだ。

 他のことであれば大抵は聞かなかったことにできる。だが、仕事に対してだけは、ジェーン・スミスの矜持はオベリスクのようにまっすぐと高い。

 大臣室付きから外され、他の部署に回されようとも、やるべきことは何一つ変わらない。魔法省大臣だろうと、大臣室付き補佐官だろうと、ケンタウルス担当室の職員だろうと、それは同じことだ。我々は魔法省の歯車の一つに過ぎない。誰が欠けても成り立たないのと同じくらい、誰が欠けても代わりはいる。だからこそ、公平であるべきなのだ。

 お前の考えは間違えていた――いいだろう。

 お前の判断は誤りだった――その通りだったのかもしれない。

 何もかもを認めよう。それですべてに終止符が打たれるのなら、解放されるのなら、いくらでも認めることができる。

 だがしかし、こればかりは許せない。ジェーン・スミスがかろうじて飲み込み、忘却し、諦めたすべてを蒸し返すような言葉を、他ならぬ魔法省大臣が吐き出したのだ。その時点でもう既に、ジェーンの感情は大きく振りきれている。大声で怒鳴りつけないだけ理性的だと褒めてほしいくらいだった。

「私の言葉が君に不快感を与えたようだ、非礼を詫びよう」

「ご丁寧にありがとうございます。ですが、お詫びいただく必要はありません」

 シャックルボルトはますます分からないというような顔をするが、一度口を閉じ、会話の内容について吟味する時間を設けることにしたようだった。ティーカップを水平にそっと持ち上げ、紅茶をこぼさないように気をつけながら、酷く優美な所作で喉を潤している。

 基本的には穏やかな男なのだろう。その常に落ち着いた声音や物腰からも、キングズリー・シャックルボルトの人柄は窺える。頭上から不条理にワインを浴びせかけられても、怒鳴りつけるどころか文句一つ言わない男なのだ。扉に額を強打しても、悪態一つ吐かない。

 そうしたことを考えていると、斜に構えている自分の方がずっと愚かで、恥ずかしく、配慮が足りないのではないかと思えてくるのが、ジェーンには余計に腹立たしかった。

「……あなたを恨んではいません」ジェーンがそう声にすると、シャックルボルトは上目遣いにこちらを見た。「腹を立ててはいますが、それだけです」

「なぜ腹を立てている?」

「それをご存知だからこそ、自分を恨んでいるかなどと甘ったれたことをおっしゃったのでは?」

「甘ったれとは手厳しい」

「他者の罪を糾弾するのなら、自らが下した裁断には責任を持って然るべきです。まるでその決断を後悔しているかのような物言いは、たとえ後悔していないにせよ、避けるべき発言であると私は思いますが」

「……ああ、そうか」

 シャックルボルトは一瞬何かを理解したような表情を浮かべてから、ほんの僅かに申し訳なさそうな面持ちを見せた。

「すまない。本当に、君を不快にさせる意図はなかったんだ」

 やるべきことをしたのであればそれでいいとジェーンは思う。それが自分の意に反していなければ、そして、自分自身で責任を負う覚悟さえあれば、人は何をしても構わないのだ。

 だからこそ、魔法省から逃げた者も、戦った者も、恭順した者も、それが自分の心の声に従った結果なのだとしたら、今ばかりは誰も責められるべきではない。人は誰しもが多かれ少なかれ罪を犯している。だが今は、そうした罪の数々に手を焼いているときではないだろう。他に目を向け、行うべきことがあるのだと、ジェーンはそう考えるのだ。

 

「――自己弁護が過ぎるぞ」

 査問会の最中、誰かがそう声を上げた。聞き覚えがあるような、ないような声だった。顔を見れば思い出すことがあるのかもしれないが、あいにくとこの薄暗い法廷では、相手を特定することは叶わない。だが、男の声であることは間違いなかった。おそらく、強く印象にも残らない、影の薄い男なのだろう。

「お前は結局のところ自身の罪を認めるつもりがないのだ。一向に自分の非を認めようとしないではないか。ドローレス・アンブリッジの方がまだ素直でかわいげがあったというものだ」

 あの女のどこにかわいげがあるというのだろう。ジェーンは瞬間的にそう思い、嘲笑を浮かべかけた。だが、口の内側を噛んでその衝動を抑えつける。

 ジェーンはあの女のような邪悪を他に知らない。ある意味では死喰い人以上の邪悪が、あの女の内面にはあった。

 かわいらしい衣服や装飾品、親切ぶった慇懃丁寧な態度、一見無害であると思わせる上司への振る舞いは天才的だった。多くの者があの女に騙されていた。あの女が常に権力を欲していたことを、ジェーンは知っている。他者の手柄を自らのものにする程度のことは日常茶飯事だった。自分よりも立場が上の者にはこびへつらい、そうでない者にはいつも礼を欠いた態度だ。他者を蔑み、陥れて、悦に浸る。

 ジェーンはウィーズリーから、君には人の心というものがないのかと言われたことがあったが、あの女にこそ心がない。憐れみという感情が欠落している。だからこそ、マグル生まれの者たちにあのような仕打ちができたのだろう。

「アンブリッジは大層饒舌に君について語ってくれたがね」

 ジェーンは黙っていた。それ以外に最善と思える振る舞いが思いつかなかったからだ。火に油を注ぐことは容易いが、時と場合は弁えている。

「アンブリッジがマグル生まれ登録委員会以外の仕事で手を離せない時は、お前が代理を務めていたそうではないか」

「それは質問ですか?」ジェーンがそう問うと、男の苛立ったような息遣いが聞こえてきた。「調べればすぐに分かるようなことを訊ねられるとは思っておりませんでしたので」

 ジェーンの物言いが愉快だと言わんばかりに、誰かが小さく笑い声をあげた。すると、男はますます苛立ちを募らせたようで、木を打つような硬い音を法廷内に響かせた。

「お前のせいで大勢の人間がアズカバン送りにされたことは疑いようのない事実だ! お前一人の身を護るために、一体何人のマグル生まれたちが犠牲になったと思っている!」

「数えたことがないので分かりかねます」

「数十人から数百人はくだらないだろう! お前はそうした全員の命よりも、自分一人の命の方が尊いと、そう思っているのだ! 何と傲慢な! そうした考え方こそ闇の魔法使いに通ずる思想だ!」

 男の激昂が法廷内に轟いた次の瞬間、誰かがその大声にも負けないような、大きなくしゃみを炸裂させた。

 そのくしゃみは、ジェーンの耳には間違いなく「Stupid!」と言っていたように聞こえた。ジェーンの耳にそう聞こえたということは、ここにいる大勢の耳にも、同じように聞こえていたはずだ。

「失礼」些かうわずった、まるで笑いをこらえているような声が、ほとんど悪びれもせずに言う。「どうにも鼻がむず痒かったもので。いやいや、私のことなどお気になさらず、先を続けてください。今のは実に興味深い舌端でしたな」

 その声にはあからさまに人を小馬鹿にしたような佇まいがあったが、誰一人として楯突く者は現れなかった。それはそうだろう、純血主義が未だ強く蔓延るウィゼンガモット法廷内で、純血が発した言葉を真っ向から否定できる者は、もはや純血の家系の者以外にはいない。

「だが、ここでドローレス・アンブリッジを引き合いに出すのは実に愚かしいというもの。彼女は自身をセルウィン家の一族であると嘯いていたそうだが、我々の仲間内ではとんと聞いたことがない。自身の出生を偽装していた彼女がそう証言したというだけで、すべてを無条件に信じるというのはなんともまあ、ちゃんちゃらおかしいとは思いませんか」

 その発言はジェーンにとって酷くありがたい後押しとなった。記録が残っている以上、アンブリッジが法廷で証言した言葉の裏はすぐに取ることができるはずだ。それでも、アンブリッジが自分以外の者を故意に陥れようとしていない、とは言い切ることができなくなった。たったそれだけのことでも、ジェーン・スミスにとってはありがたい。

「アズカバンに収容されていた方々は今現在聖マンゴで入院生活を送られていると聞いています」今度は女の声だった。聡明そうで、穏やかな声音をしている。「ミス・スミスの処遇を決する前に、そうした人々の証言に耳を傾けることも重要であると進言いたしますわ、大臣」

 声というものは実にその人物の人柄を良く表していることが分かる。他者を頭ごなしに非難したがる者の多くは、声が大きく、尖っていて、強い光が点滅するように相手を威嚇するものだ。対して、他者の言葉に耳を傾けようとする者の多くは、小さくてもよく通る声を持っていて、表現がやわらかく、時にユーモアがあり、包み込むような優しさを感じさせた。もちろん、それはジェーン・スミスの経験に基づいた推論だ。例外もあるだろう。

「かつてこのウィゼンガモット法廷では結論を急くあまり冤罪を生んでしまった過去があります。無罪の者にアズカバンでの終身刑を言い渡したのです。本来、我々はもっと慎重にことを運ぶべきなのですよ」

 ジェーンは目を伏せ、静かに息を吐き出す。自分にだけ煌々とした明かりが集中している異様な状況は、一秒ごとに精神的な苦痛となって蓄積されていくようだった。普通であれば平常心などではいられない。今まさに、この人間たちに命を握られているのだと思うと、吐き気を催すほどだった。

 それでも、大勢の中のほんの数人であったとしても、ここには味方になってくれようとしている人々がいる。それが一人でも、二人でも、何と心強いことか。

 伏せていた目蓋をゆっくりと押し上げ、魔法省大臣を見上げる。

 ああ、昔これと似た構図の絵画を見たことがあると、ジェーンは不意に思い出していた。マグルが描いた魔女裁判の絵画だ。何という皮肉だろう。あの絵画を目にした少女だった頃の自分は、数年後に同じような法廷に立たされることになるなどとは、想像さえしていなかった。



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再訪

 魔法省大臣は午後の始業の放送が聞こえると同時に席を立つと、ただ一言「邪魔をした」とだけ言い、ケンタウルス担当室を出て行ってしまった。取り分けたサンドイッチも淹れ直した紅茶も手付かずのまま残されている。結局のところユアンから借りたローブを返却しただけで、一体全体何をしにやって来たのかということは分からずじまいだった。

 ジェーン・スミスは机の上を片付けながらため息を漏らすと、精神的苦痛を蹴散らすように頭を掻きむしった。それからしばらくの間、身体をぐったりと脱力させて机に伏せていたが、こうしてばかりもいられないと起き上がり、後片付けを再開させる。新聞、雑誌、本を読み終えるとすぐに奥の部屋から資料を取り出してきて、再び最初から目を通しはじめた。

 これまでただの一度もケンタウルスが利用していないからといって、この先一度も利用されることがないとはかぎらないのだ。もしかしたら今日、明日にも利用者があるかもしれない。そうしたときに対処できず、手間取っているようでは話にならないだろう。それこそ魔法省の評判を貶めることになってしまう。異動してきたばかりだというのは、何の言い訳にもならない。

 しかし、そうした心配をよそに、ケンタウルスが担当室の扉を叩くことはなく、ジェーンはその日の仕事を終えた。他の職員たちがあくせく働く姿を横目に見ながら魔法省を後にする。どこかへ寄り道することもなく帰宅すると、既に店じまいを終えていたユアンが機嫌良く迎えてくれるが、同時に気づかわしげな目でジェーンを見た。

「まっすぐ帰ってこないで、好きに遊んで来てもいいんだよ」

「今日中に目を通しておきたい資料があったから」

「昨日も同じことを言っていたね」

「そうだった?」

「そうさ」

 今度の休みにでも遊びに行くとは言ってみるものの、ユアンは苦笑いを浮かべてそれに応じている。信じていない様子だ。それはそうだろう。ジェーンが勤めはじめてからこちら、魔法省が休みの日に遊びに出掛けたことなど、片手で数える程度しかない。

「夕飯は?」

「自分でするから大丈夫、ありがとう」

 部屋に戻ってすぐバスルームに向かい、軽くシャワーを浴びてから部屋着に着替える。ベッドの上に放り投げた鞄の中から資料を引っ張り出し、昼食の残りのサンドイッチを食みながらそれに目を通していると、足元にふわふわとした気配を察知した。どうやら閉め忘れた扉から猫が入ってきてしまったようだ。

「ただいま、クロケット」

 ジェーンの足に身体をすり寄せながら、クロケットは深みのある声で鳴いた。頭をそっと撫でてやるとその場にころりと寝そべり、もっと撫でてくれと催促をしてくる。ジェーンは手に残っていたサンドイッチを口の中に詰め、ナプキンで手の平を拭ってから、その場にしゃがみ込んでクロケットの腹をまさぐるようにして撫でた。まるで毛足の長い高級絨毯のような手触りだ。ブラッシングに余念がないユアンの努力の賜物だろう。だが、あまり調子に乗って撫で続けていると気分を害してしまうので、要注意だ。

「明日から私の仕事について来ない? 考え事をまとめるために話相手がほしいのだけれど、誰もいなくて」

 そいつは遠慮すると言わんばかりにジェーンの手の甲に爪を立てたクロケットは、ゆっくりと起き上がり、尻尾を立てたまま部屋を出て行く。

「つれないのね」

 その後ろを追いかけていき、階段を降りていく後ろ姿に向かってそう声を掛けるが、クロケットはか細い声で返事をするだけで振り返ることはなかった。

 

 しかし、おかしなことに、翌日の昼休みにも魔法省大臣がケンタウルス担当室に現れた。

 建て付けの悪い扉は開けたままにしていたが、奥の部屋で資料を漁っていたジェーンには、廊下の向こうから歩いてくる足音が聞こえなかったようだ。こんこんこん、という昨日と同じノックの音が聞こえ、ジェーンが奥の部屋から顔を覗かせると、そこにキングズリー・シャックルボルトの姿があった。

「……」

「何か言ってくれ」

「遠方からのご足労、痛み入ります、大臣」

「今日は手土産を持ってきた」

「はあ、それはご丁寧に」一体どういう風の吹き回しなのだろうと思いながら、ジェーンは何冊もの資料を抱え、シャックルボルトの前に姿をさらす。「散らかっていますが、お入りください」

「忙しそうだな」

「嫌味を言いにいらしたのですか?」

「いや」シャックルボルトは苦笑いを浮かべながら首を横に振った。「今のは失言だった」

 シャックルボルトが言うように、ジェーンは朝から忙しくしていた。もちろん、朝一番にケンタウルスが現れて、何らかの相談を持ち掛けてきたわけではない。だが、昨日持ち帰った資料を読み進めていくうちに、それらが相当昔にまとめられたものであることに気づき、情報の更新が必要なのではないかと考えたのだ。

 各保護区の環境調査はここ十数年行われておらず、群れの数やケンタウルスの個体数も把握できていないのが現状だ。ケンタウルスは魔法省に管理されたくなどないだろうが、もしもの時のためにある程度の情報を得ていなければ、担当室としても対処することができない。先の戦いで犠牲が出ているのは、何も人間ばかりではないのだ。

 そうしたことを踏まえると、まずは手持ちの資料で情報収集をしたのち、現地調査に向かうのが最善であると、ジェーンは既に結論付けていた。

 ジェーンは杖を軽く振り、部屋中で山となっている資料をふわりと浮かせると、空の戸棚に収めた。壁に貼り付けていたイギリス全土の地図をシャックルボルトが眺めていたが、ジェーンはそれを手元に呼び寄せ、くるくると巻き取って傍らに置く。

「それで、本日はどのようなご用件です?」

「君に聞いておきたいことがあるんだ」シャックルボルトはそう言いながら、手土産が入れられている紙袋を差し出してくる。「実は、昨日もその話をするつもりで来たのだが」

「では、今日は単刀直入に願います。ご覧の通り暇ではありませんので」

「もちろん、そうしよう」

 昨日の少し戸惑っているような様子とは違い、引き締まった面構えをしたシャックルボルトは、ジェーンに向かって座るように言う。ジェーンが紙袋を机の上に置き、言われるがままに腰を下ろすと、シャックルボルトも机越しに腰を据えた。

 小さく咳払いをしたあと、短く息を吐き出す。

「先日の査問会の後、魔法警察部隊を聖マンゴに派遣し、アズカバンに収容されていた者の中でも比較的心的外傷の少ない患者から調書を取らせてきた。大臣室からの持ち出しは厳禁だとウィーズリーがうるさいので持っては来られなかったが、実に不可思議な調査結果が記されていた」

「吸魂鬼の脅威に晒されていた人々に正確な証言が可能だったかどうかは甚だ疑問ではありますが」

「吸魂鬼がエネルギーとするのは人々の希望や幸福だ。その反動として、絶望や不幸といった類の記憶は多くの場合、より強く印象付けられることになる。自分をいっそ死んだ方がましと思えるような環境に送り込んだ者のことは、何があっても絶対に忘れないだろう。むしろ、その恨みは日に日に増していったはずだ」

 ジェーンはやはり黙っていた。シャックルボルトが言わんとしていることが理解できたからだ。瞬時に余計なことを口にするべきではないと判断し、ただ黙してシャックルボルトの言葉を待った。

「警察部隊の者の話では、ドローレス・アンブリッジを罵る声はあっても、君の名を――ジェーン・スミスの名を挙げて呪いの言葉を吐くような者は、誰一人としていなかったそうだ」

「そうですか」

「誰一人として、というのが奇妙だとは思わないか?」

「いえ、特には」

 一体何の話をしているのか分からないというふうな顔をして、ジェーンは手土産の袋を手に取り、その中を検める。手を入れて中身を取り出してみると、ジェーンが好きでよく飲んでいる銘柄の茶葉であることが分かった。しかも、限定缶に入っているものだ。シャックルボルトが誰からジェーンの好みを聞いたのかは分からないが、ご苦労なことである。

 目立った反応を見せないジェーンを目の当たりにしたシャックルボルトだったが、たいして気にしていない素振りだ。それどころかシニカルに笑んで見せたかと思うと、ポケットから何枚かの紙切れを取り出し、それを机の上に並べはじめた。ちらりと横目で見やると、すぐに日刊預言者新聞の切り抜きであることが分かった。それはジェーンにも見覚えのある記事だった。昨日まとめて読んだものの中に含まれていたものだ。

 死からの帰還――という何とも仰々しい見出しで、死亡届が出されたはずの者や、吸魂鬼のキスを施行されたはずの者が、ある日突然ひょっこりと帰ってくることが多発している、という内容のものだった。

 ジェーンは手にした缶を紙袋の中に戻すと、それを再び傍らに置いて、シャックルボルトに目を向けた。

「この切り抜きが何か?」

「リータ・スキーターが書いたものだ」

「ゴシップ記者がオカルト記者に転向でもしたのかしら」

「これらの記事は読んでいるか?」

「新聞と週刊誌と話題の本にはほとんど目を通すようにしています」

「どう思う?」

「リータ・スキーターの書くものに信憑性があるとでも?」

「では、これらの記事はすべて彼女の出任せか?」

「私には判断しかねます」

 すました態度でいるジェーンを見つめたまま、シャックルボルトは顎に手を添え、何やら思案げにしている。椅子の背凭れに寄り掛かって身体を預けると、リラックスするような姿勢で足を組んだ。ぴんと背筋を伸ばし、見方によっては緊張感を漂わせている様子のジェーンとは対照的だ。

 まるで勝ち誇っているかのような面持ちが気に入らず、ジェーンが微かに片頬を引き攣らせると、シャックルボルトは口角を持ち上げて笑った。

「ヴォルデモート卿の失脚が彼女のジャーナリスト魂に再び火をつけてしまったようだ。アルバス・ダンブルドアの伝記だけでは飽き足らず、また何冊かの本を書くつもりらしい。既に構想は練ってあると熱心に話して聞かせてくれたよ」

「大臣自らリータ・スキーターとお会いになったのですか?」

「彼女に直接聞きたいことがあったからな」

「さぞかし無駄なお時間を過ごされたのでしょうね」

「ああ、まさか私の口からこのようなことを言う日が来ようとは想像したこともなかったが――」シャックルボルトがそう言って頭を傾けると、左の耳に飾られた金のピアスがきらりと輝いた。「実に有意義な時間だったことは間違いない」

 リータ・スキーターの書く記事は、その多くが事実を誇張し、読者好みに歪曲したものばかりだ。この新聞記事も例外ではない。あの女記者は読者が自分の記事を読んであれこれと噂し、熱狂し、疑り深くなることを悦び、楽しんでいる。

 日刊預言者新聞や週刊魔女をはじめとした週刊誌がリータ・スキーターの記事を欲しがるのは、その名の知名度と話題性で発行部数が伸びることを実感しているからだ。実際、内容など問題ではない。本来であれば、真実を見る目を持っている者ほど、リータ・スキーターの記事には見向きもしないはずだ。

 この魔法省大臣なら尚のこと、無視をして然るべきと判断するのが普通だろう。だがしかし、キングズリー・シャックルボルトは自らの足でスキーターの下に出向き、その上彼女との話が有意義であったなどと言う。ジェーンにはその神経が分からなかった。

「彼女は今回の記事を好感度と更なる知名度の向上のために書いたのだと言っていた。今後のための宣伝活動だと」

「売名行為の間違いでは?」

「皮肉なことに、スキーターが書いた記事の中で最も評判が良く、最も多くの人々に読まれたものは、ザ・クィブラーに掲載されたものだ。ヴォルデモート卿の復活を目撃したハリー・ポッターのインタビュー記事だが――」

「読みました」

「真実は人の心を打つということを理解していながら、スキーターはそれを良しとはしていない。それでは何の面白味もないという。真実を伝えるだけならば他の記者がいくらでもやっているのだから、自分は自分にしか書けないものを書くのだとも言っていたな。あれくらいたくましくなければ、ジャーナリストなどやってはいられないのだろう」

「真実を正しく伝えてこそ真のジャーナリストと呼べるのでは? 彼女はただのゴシップ記者です」

「だが、あの記事にかんしては一切嘘偽りはないと断言している」

「それを信じたのですか?」

「既に裏付けは取れているからな」シャックルボルトは小さく肩をすくめた。「死んでいるはずの人間が生きていた。それは嘘偽りのない真実だった」

「では、まずは魔法生物規制管理部の部長に話を聞いてみるべきです。存在課の課長であれば、より詳しい話を――」

「残念ながら、彼らは当時部長と課長の席を空けていた。そのことについては責めてやるな。職員たちは代理を立てはしたが、普段通りの働きは到底見込めなかっただろう。連日、通常では考えられない人数の死亡と失踪届が出され、彼らはそれを受理し続けていた。それでは、身も心も疲弊するはずだ」

 シャックルボルトはまっすぐにジェーンの目を見つめている。何か強い確信があるというふうな表情だ。ジェーンはただ、その眼差しから逃げないようにするだけで、今は精一杯だった。

「もし何者かが虚偽の死亡届を書き、提出していたとしても、彼らにそれを精査するだけの余裕があったとは思えない。もしくは、分かった上で受理していたという可能性も皆無ではないだろう」

 ジェーンは目を伏せ、ほう、と息を吐いた。今度はシャックルボルトが黙り込み、ジェーンが話し出すのを待っている。

 シャックルボルトは既に裏付けは取れていると言った。だが、ある程度のことは把握できているとしても、全体像としては未だ朧気で、すべてを理解したとは言い難い状況に違いない。

 さて、困ったことになった――ジェーンは内心で困り顔を浮かべるが、実際には平然とした面持ちで、シャックルボルトと正面から対峙するしかなかった。

「なぜ今になって私にその話をするのです?」ジェーンはシャックルボルトの瞳孔がほんの僅かに広がり、瞬時に縮まる様子を、じっくりと観察していた。「まったくもって無意味かと」

「なぜそう思う?」

「既に査問会は終了し、処断は下されました。その結果として私はここにいるのです、大臣」

「それはその通りだが――」

「大臣は私に自分を恨んでいるかと問いましたね」シャックルボルトが頷くのを待って、ジェーンは続けた。「私は恨んではいないと申し上げました。ただ、腹を立ててはいると。私はあなたから向けられる罪悪感が気に入らないのです」

「しかし」

「私は人を殺しました。それはマグル生まれの人々です。何枚もの死亡届を書き、それを存在課に提出しました。その事実は変わりません」

「だが、彼らは生きている」

「彼らが生きていることと、私がここでこうしていることは、まったく別の問題です」

「……君は私を責めているわけか」シャックルボルトは参った様子で後ろ頭を掻いた。「初動が遅すぎる上に調査が不足していた」

「それに、私が死喰い人に資金を提供していたことは疑いようのない事実です」

「同じことをしていた連中は他にいくらでもいる」

「魔法省大臣ともあろうお方がそのようなことを」

「魔法省大臣になど誰がなっても構わなかったのだ」僅かに吐き捨てるような口振りでシャックルボルトは言った。「今回は偶然私に白羽の矢が立ったというだけのことだ」

「それでもあなたは魔法省大臣なのです」

 魔法省大臣など誰がなっても同じだとジェーンは思う。極端な話をすれば、無能な人間でも魔法省大臣になることは可能だろう。

 大昔の無才な王のように、ただ玉座をあたためてさえいれば、黙っていても周囲の者たちが政を行ってくれる。それと同様に、魔法省大臣はただ補佐官が差し出す書付にサインをしていれば、黙っていても魔法界は回っていくのだ。

 だが、ジェーンは無能な魔法省大臣を望んでいるわけではない。有能であればそれに越したことはなかった。むしろ、ジェーン・スミスは後者を待ち望んでいる。自分が仕えるに足る主君を待ち続ける従者のように、次こそはと期待しているのだ。



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顛末

 自分にはあくせく働いている方が性に合っていると気づいたのは、それほど後のことでもなかった。

 だが、死ぬまで仕事をしていたいとは思わない。かといって、老後はマグルのいない片田舎で静かに暮らしたいという願望もないので、適当なところでぽっくり死にたいというのが、ジェーン・スミスの密かな願望だった。もちろん、その願いは誰にも打ち明けたことがない。父のユアンにはこの先も話すことはないだろう。そんなことを言わないでくれと泣き出す姿が目に浮かぶからだ。

 

「――そんなことをして、あの女に知られたら自分がどんな悲惨な目に遭うか、君なら分かっているはずだ!」

 そう大声を上げるウィーズリーに向かって、ジェーンは人差し指を立てた。補佐室には他に誰の姿もなかったが、今は誰がどこで聞き耳を立てているか分からない。

「大きな声を出さないで」

「だが、君のやっていることは――」

「これは私の独断で行っている。だから、あなたには何の関係もない。あなたは何も知らないの。迷惑はかけない」

「僕が言いたいのはそういうことじゃない」

 ウィーズリーは苛立たしげに赤い髪を掻きむしってから、書類の続きを書こうとしているジェーンの手首を掴んだ。

「この僕が保身のためにこんな忠告をしているとでも?」

「違うの?」

「君がどうなっても構わないと思っていたら、わざわざ横から口を挟んだりしない。アズカバンに送られるのを黙って見ているさ。僕には大勢の家族がいるんだ、君の巻き添えになんかなりたくない」

「だったら――」

「娘のために必死になって金貨を工面する父親の気持ちは考えたのか? 君がアンブリッジに逆らうような素振りを見せれば、すぐに大臣へ報告が行くだろう。もしそうなれば、アズカバンに送られるのは君だけじゃない。そのときは父親も一緒だ。君は魔法省と父親を同時に裏切り、何もかもを失うことになるんだぞ」

 何をそこまで熱くなっているのだろう、というのがジェーンの印象だった。

 巻き込まれたくなければ、見て見ぬふりをしていればいいのだ。何を聞かれても知らぬ存ぜぬを貫き通していれば、告発する証拠もないのだから、共に罰せられることはない。

 パーシー・ウィーズリーは当初から生真面目で、半ば融通の利かない、見るからに優等生といった風貌の青年だった。上からの命令は常に厳守、逆らうこともなく、疑うことさえせずに従っていた。自分とは根本的に違う種類の人間であると感じ、ジェーンはある程度の距離を置いて付き合うことを心掛けていたが、その相手から懐かれるというのは、実に想定外のできごとだった。

 ウィーズリーはことあるごとに指示を仰ぎ、意見を求めてきた。のらりくらりと逃げ回るよりも、求めに応じる方がいろいろな意味で楽だったというのも、懐かれる要因の一つだったのかもしれない。自分で考えさせ、その結果無駄なことをされるより、答えを示し、正確な仕事を行わせる方がずっと時間の短縮にもなり、覚えも早いのだ。

 とはいえ、もともと優秀であることは確かだったので、使い勝手の良い部下ではあった。ジェーン・スミスにとってのパーシー・ウィーズリーとは、その程度の存在だった。

 それがいつ頃からだろう、今度は突然意見するようになり、反論まで出てくるようになった。元グリフィンドール生の習性である、勇気という名の無謀さが顔を覗かせはじめていたのかもしれない。

 パーシー・ウィーズリーはジェーンとは違い、心の底から、ただ純粋に魔法省に忠誠を誓っていたのだ。しかしながら、そういう者ほど一度芽生えた疑念という感覚を拭い去ることは難しい。おかしいぞ、と思いはじめたら最後、疑いの気持ちばかりが増していく。

 結局のところ、こういう人物が一番厄介だ。自分の親切心が受け入れられないと分かると、よりむきになって責め立ててくる。受け入れられないことを理不尽に思い、力づくでも分からせようとしてくるのだ。押し売りともいう。相手がどのように思うかなど関係ない。こうするべきだと思った自分の意思が最重要で、優先されるべき感情だと信じている。いずれにせよ、友達にはなりたくないタイプの人間だ。

 だが、ウィーズリーが自らの家族について語るのは初めてのことだったので、些かの興味は引かれていた。ジェーンは自分の手首を一瞥してから、ウィーズリーを見上げた。

「痛いんだけど」

「あ、ああ」ウィーズリーは慌てた様子で手を離すと、敵意はないとばかりに両手を顔の高さまで上げた。「すまない」

「あなたのところは純血の家系なのでしょう?」

「純血かどうかはもはや問題じゃない。それに、今では血を裏切る者と呼ばれている。父は昔からマグルに対して好意的だったし、母や兄弟たちもそうだから」

「あなたは違う?」

「僕は――」

 本来であればこのような場所でする話でないことは分かっていた。危機意識が足りないと言われてしまえばそれまでだ。だが、結果的には誰にも盗み聞きをされていない。口煩くは言いっこなしだ。

「――僕の家はいろいろと込み入っていて、なんていうか、詳しくは話せないんだけど」

 ウィーズリーは歯切れの悪い物言いだった。それでもジェーンが見つめていると、居心地が悪そうに視線を彷徨わせてから、大きく息を吐き出した。

「コーネリウス・ファッジに引き抜かれたとき、僕はそれを嬉しく思った。自分の能力が正しく評価されたんだと思ったよ。だから、両親も一緒に喜んでくれるはずだと信じて疑わなかった。でも、僕の報告を聞いた父は激怒したんだ。お前はただ、ウィーズリー家のスパイとして利用されようとしているだけだってね」

 ああ、とジェーンは小さく同情の声を漏らす。確かにその通りだったのだろう。その父親の言う通りだ。パーシー・ウィーズリーは正しく能力を評価されたわけでも、特別な能力を買われて召し上げられたわけでもない。

 ウィーズリー家はハリー・ポッターと懇意にしているから――パーシー・ウィーズリーが選ばれた理由は、ただそれだけだった。

 父親のアーサー・ウィーズリーはマグル製品不正使用取締局、及び偽の防衛呪文ならびに保護器具の発見ならびに没収局の局長を務めているが、存外慎重な男のようで、コーネリウス・ファッジとは馬が合わなかったようだ。しかも、アーサー・ウィーズリーは当時ファッジが敵視していたアルバス・ダンブルドアの知己でもあった。それ故に、父親の方を味方に引き入れることは不可能であると、ファッジは理解していたのだ。だからこそ、仕事一辺倒な息子の方が選ばれた。

 だが、ファッジの思惑は大きく外れた。パーシー・ウィーズリーはスパイの役割を果たさなかったからだ。実家住まいだったウィーズリーはすぐに家を出て、ロンドンのアパートで一人暮らしをはじめた。おそらく、父親との口論が原因だったのだろう。ジェーンはそれが適切で、賢明な判断だったと評価している。

 コーネリウス・ファッジの考えは安易だったと思うが、万年人手不足の大臣室付きにしてみれば、猫の手程度の増強にしかならないにしても、人員の追加はそれなりに喜ばしいことだった。ファッジはウィーズリー家の息子から早々に興味を失っていたように見えたが、意外に使える人材だったということもあり、補佐官たちから苦情が出なかったことは、この青年にとっては幸いだったといえるだろう。

「あの頃の僕には、恥ずかしいことだけど、魔法省が世界の中心みたいに思えていたんだ。魔法省大臣の言葉こそ信じるに値する――まるで洗脳されるみたいに、ファッジの言葉だけを信じた。ハリー・ポッターよりも、アルバス・ダンブルドアよりも、家族の言葉よりも、権力に阿ったんだ。例のあの人が復活したなんて話は、信じたくもなかったし」

「何があなたの目を覚ましてくれたの?」

「何がということはないよ。徐々に、少しずつ、違うんじゃないかと思いはじめた。事故では片付けられない事件が増えはじめて、その火消し作業に追われ、適当な理由を探し、いよいよ疲弊しはじめていたところに、例のあの人が姿を現した。そこで完全に目が覚めた。愚かなのは僕の方だったんだって」

 ウィーズリーの曇りきった表情を見れば、まだ何の問題も解決してはいないのだということが分かった。近しい者との間に入った亀裂は、だからこそ修復しづらく、そう簡単には埋められない。魔法省が正しかったわけではなく、ファッジの言葉が間違っていたと理解していても、認めたくはなかったのだろう。プライドというものは、いつだって理性の邪魔をする。

「気づいたときに謝ればよかったんだろうけど、僕には無理だった。でもせめて、家族の身の安全くらいは護りたい。僕がここで踏ん張っている間は――こうして魔法省に忠誠を示しているうちは、おそらく家族に手出しはされないはずだ。まあ、言い方を変えれば人質みたいなものなんだろうけど」

 この話を聞いていなければ、ジェーンがウィーズリーを見る目は、今も変わってはいなかっただろう。生真面目でつまらない男だと思っていたが、実際にはそうではなかった。当初はその通りの男だったが、少なくとも今は違うと分かる。

 ジェーンは少しだけ笑うと、再びペンを走らせはじめた。それを目の当たりにしたウィーズリーは、驚愕の表情で机を叩く。

「どうしてそうなるんだ?」

「何が?」

「家族を護るためにはまず自分の身を案じるべきだという僕のありがたい話を聞いていただろう?」

「まあ、そうね、それはその通りだと思う」

 だが、ジェーンは黙ってはいられなかった。見て見ぬふりをしていれば、何も知らなかったことにできる。何も知らずにいれば、巻き添えになることもない。自分の言葉がブーメランのように戻ってきて心臓に突き刺さるようだ。黙っていればよかったものを、ジェーンは相談を持ち掛けてしまった。自分がやろうとしていることを父親に打ち明けてしまったのだ。

 案の定、ユアン・スミスはいつものように優しく笑って、好きなようにしなさい、と朗らかに言った。

 分かっていた。妻に続いて娘まで失ってしまえば、父親はもう生きてはいられないだろうと。ジェーンはそれを逆手に取ったのだ。ジェーンが死ねば、ユアンも死ぬ。それでいいと思った。母親が死んだという絶望はジェーンの頭上からも重く垂れこめていたのだろう。だから、これは断じて正義のためなどではない。もしかしたら、心のどこかでは生に対する執着を失くしていたのかもしれないとさえ思う。遠回りな自殺のようなものだ。

 これは明らかな矛盾だった。自分の中に相反する感情が混在している。生きていたいという思いと、死んでもいいという思いが、同時に存在していたのだ。だが、そうでもなければ、あのようなことはできなかったのかもしれない。

 ジェーン・スミスは人を生かすために殺した。そして、死にたいとは思わないが、死んでも構わないとは思っていた。父親を置いて逝くくらいなら、一緒に死んだ方がいいとさえ考えていた。今になって思うと常軌を逸しているとしか言いようがないが、これがすべてのことの顛末だ。

 以上から、ジェーン・スミスは人に褒められるようなことも、ありがたがられるようなことも、何もしていない。あれは自己満足の結果でしかなかった。精神の均衡を保つために必要なことだったのだ。誰かの役に立ちたいなどというような思いも、命を救うのだという使命感も、ましてや正義感など持ち合わせていようはずもない。

 故に、ジェーン・スミスは絶対に認めない。口止めの呪いを施してあるので、生きて戻った者たちの口からジェーンの名前が出てくることはないはずだ。ウィゼンガモットの中には何かを察している者もいたようだが、あの場で明言しなかったとなると、今後も口を開くことはないだろう。パーシー・ウィーズリーや同僚たちには、他言すれば家族諸共呪ってやると脅してあるので――もちろん冗談だが――心配はしていなかった。

 

 問題は、この魔法省大臣だ、とジェーンは思う。アルバス・ダンブルドアが立ち上げた不死鳥の騎士団などというものに属し、最後まで闇の帝王に抗い続けていた人物ともなれば、諦めが悪いことは目に見えていた。そもそも、一体何のために連日ケンタウルス担当室に足を運んでいるのかも、ジェーンには定かではない。

  何を考えているのかまでは分からないが、嫌な予感だけはひしひしとしていた。魔法省大臣は何かを企んでいる。そしてそれは、自分にもかかわりのあることだ。そうでなければ、連日に渡ってケンタウルス担当室を訪ねてくるわけがないのだから。

 これは何か妙なことを言い出す前に追い返した方が良さそうだとジェーンが考えていると、急に口を噤んだきり目を伏せていたキングズリー・シャックルボルトが顔を上げた。これはまずい、話をさせてはならないと瞬間的に思うが、ジェーンの判断はコンマ一秒遅かった。

「大臣――」

「大臣室付きに戻ってくれないか」

 その言葉を耳にした瞬間、ジェーンの背筋にはぞくりと悪寒のようなものが走った。心臓が、どくどく、と素早く不自然に鼓動し、元に戻る。表情は引きつり、固まった。不思議と吐き気が込み上げてきて、顔から血の気が引いていくのが分かった。後頭部を後ろに引っ張られるような感覚の後で意識を失いそうになるが、机の下で手の甲を強く抓り、何とか平常心を取り戻す。

「君は何の罪も犯してはいなかったと、私からウィゼンガモットに事情を説明する」

 拒絶反応が全身に現れていた。これは想定外の事態だ。魔法省大臣が直々に戻ってきてくれと頭を下げているというのに、少しも嬉しくはない。それどころか、全身に鳥肌が立つほどの嫌悪感が、ジェーンを襲っていた。

 なんだかんだと言いつつも、異動させられたことにショックを受けているのかと思いきや、そうでもなかったようだと自分自身でも意外に思う。少なくともこの身体は、魔法省大臣室から遠く離れたがっているということだ。もう戻りたくはないらしい。

 ジェーンはローブの上から鳥肌の立った腕を擦り、シャックルボルトを見た。

 別にこの男が嫌なのではない。あの激務の只中に戻されるのが嫌なのだと、今ならば分かる。充実からは程遠い、ただただ仕事に忙殺されるだけの毎日だ。数日離れただけで多くを理解する。あの場所はおかしい。パーシー・ウィーズリーのように出世を望んでいるのであれば別だが、ジェーンはそうではないのだ。普通に暮らしていけるだけの収入さえあれば、それでいい。今更戻ってくれと言われたところで、当初からそのつもりは微塵もないのだから。

「せっかくのお誘いではありますが、謹んで辞退させていただきます」

 ジェーンが感情を抑制したような声でそう言うと、シャックルボルトはそれを覚悟していたと言わんばかりの顔で、小さく息を吐き出した。しかし、その表情に落胆の色はない。

「どうぞ他を当たってください。わざわざ私のことなど呼び戻さずとも、大臣補佐の席を望んでいる方は大勢おりますとも」

「君が魔法省大臣に期待をしていないことは知っている。悲観していることも、失望していることも知っている。コーネリウス・ファッジ、ルーファス・スクリムジョール――私が彼らより優れた大臣であるという保証はないが、良き大臣でありたいとは常に思っている」

 だからどうした――そう口に出さなかっただけ、褒められて然るべきだ。

「それに、補佐が他に何人増えようと、君一人の働きには到底及ばないだろう」

 机に両手をついて身を乗り出し、そのようなことを口走るシャックルボルトを見て、ジェーンは思わず目を丸くする。有無を言わせない迫力のようなものを感じて開いた口を塞げずにいると、シャックルボルトは更に続けた。

「他の補佐官たちからも君の働きぶりは聞き及んでいる。全員が口を揃えて、君を手放すのは愚か者のすることだと話してくれた。そうでなくとも、君がまとめた資料の数々は非常に見事だ――ああ、いや、それだけじゃないぞ、君が諸外国と綿密に連絡を取り合っていた成果が形になって表れている。君が査問会にかけられたという話を聞きつけた合衆国の議長室とフランスの大臣室から、抗議の文書が送られてきた。君を失うことは他国との外交関係にも悪影響を及ぼすことになるだろうとな。それは避けなければならない事態だ。イギリス魔法界の現状を踏まえれば、他国からの支援を受けなければならない可能性は否めない」

 称賛されることに慣れてはいなかった。それよりも妬まれることの方が多かったからだ。だからだろう、ジェーンはシャックルボルトの様相に驚いてしまい、言葉が出てこなかった。

 悪い気はしない、などということはなく、それどころか、自分を称える文言に不快感を覚えている。褒められれば褒められるほどに、己の中にある意欲の欠片が減少していくようだった。求められているのはジェーン自身というよりも、そのスキルや人脈でしかない。

 称賛を素直に受け入れ、喜ぶことができないのは、これまでの経験がそうさせているのだ。反吐が出るような思いになるのは、精神的に負った傷が癒えていないからなのだろう。

「……大臣が私のような者を評価してくださっていることはありがたく思います。ですが、私は大臣室付きに戻るつもりはありません。魔法省大臣には魔法省内の職員すべてを然るべき部署へ即時異動させる絶対的権力がありますが、それを行使するというのであれば、私は辞表を提出させていただきます」

「ミス・スミス――」

「補佐室には他にも有能な職員が幾人もおります。皮肉にも歴代の魔法省大臣が育てあげてきた古豪たちです。私が赴任する以前からいらした方々こそ、補佐室にあって然るべき存在です」

「その古豪たちが君を手放すなと言っているのだ」

「いいえ」ジェーンはシャックルボルトを見据えたまま、首を横に振った。「正確に言いましょう、大臣。私はあそこへ戻りたくないのです」

 あの補佐室で何度心臓を握り潰されるような心地を味わったことだろう。何度己の死を覚悟したか分からない。

 これまでの一年間を思い返していると、今頃になって、急に恐怖のような黒々とした感情が襲い掛かってくるのを感じた。そして、ジェーンは不意に理解する。この一年間、自分は何も恐れてなどいないというふりをしていただけにすぎなかったのだ、ということを。けれど、実際にはその感情に蓋をして、自分自身をだまし続けていた。

 常に毅然とし、高尚であろうとしていた。気高くありたかった。だが本当は、いつだって何かに怯えていたのだ。おそらくそれは闇の帝王にでも、死喰い人にでもない。きっと、自らの高すぎる自尊心に戦慄していた。その場に膝をつき、頭を垂れることは何よりも、自分に対する裏切りなのだと思い込んでいた。

 分かるだろうか。人は成功を一つ、また一つと積み上げていくうちに、より強く失敗を恐れるようになっていく生き物だ。

 ジェーン・スミスは学生の時分からまっすぐな一本道を歩き続けてきた。何の面白味もない、これといった特徴もない退屈な道だった。だがしかし、この一年間は半歩先も見えないような暗闇の中、曲がりくねった落とし穴だらけの道を、這いつくばりながら進んできたのだ。そして、ようやく辿り着いた先にあったのが、ウィゼンガモット法廷だった。

 これは、失敗とまでは言い切れないにしても、はじめての挫折とは言わざるを得ないだろう。崖の上から海に突き落とされ、運よく岩場を避けたはいいものの、荒波に揉まれているような状態だ。

 そこへ魔法省大臣が現れ、溺れかけているジェーンに向かって手を差し伸べている。自分のところへ戻ってきてくれと、そう言っている。それは、また元の道に戻されるということだ。ただまっすぐに伸びているだけの一本道に。

 それならば、とジェーンは奮起するだろう。差し伸べられている手を押し退け、小さな貝たちが巣食っているごつごつとした岩に手をかけて、手の平が切れて血だらけになったとしても、自力で陸へと這い上がってみせる。海の中へ引きずり戻そうとする力を振り切って、九死に一生を得てみせるのだ。



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善悪の定義とは

 ジェーン・スミスがはっきりとした拒絶を示して以降、魔法省大臣がケンタウルス担当室に姿を現すことはなくなっていた。

 だが、奇妙なことに元同僚たちが空いた時間を見つけては度々ケンタウルス担当室を訪れ、仕事の愚痴を漏らしたり、助言を求めたりしてくることがある。最終的には、今の魔法省大臣は以前の三人に比べると些かマシだと口を揃えて去っていくので、何者かの差し金である可能性は否めなかった。

 ある日、母親が焼いてくれたというクッキーを持参してやって来たパーシー・ウィーズリーは、椅子にどっかりと腰を下ろすと机に頬杖をついて、紅茶を淹れているジェーンを恨めしそうに睨んだ。

「ずいぶん楽しそうにやってるじゃないか」

「そう見える?」

「補佐室にいるときよりずっと顔色が良いようだし、それに何より健康そうだ」

「毎日三度の食事と八時間の睡眠がとれているからかもね」

「僕は相変わらず一日二回の食事と四時間睡眠が基本だよ」

「愚痴を言うくらいなら大臣室付きを離れたら? 肩の荷が下りて楽になれると思うけれど」

「これは愚痴なんかじゃない。ただ事実を述べているだけだ」ジェーンがティーカップをそっと置くと、ウィーズリーは背筋を正して座り直し、反射的に感謝の言葉を口にした。「君一人分の穴埋めをすることくらい、この僕にしてみれば造作もないことさ」

「はいはい、そうですか」

 手土産に受け取ったクッキーを皿に出すと、ウィーズリーはそれをやや乱暴に一枚取り、半分に割った一方を口の中に放り込んだ。いやに硬そうな音のするクッキーを奥歯でごりごりと噛み砕きながら、淹れたての紅茶を口に運ぶ。まだ熱い紅茶が舌先に触れた瞬間、口汚い悪態を吐いたのを見て、ジェーンはこの青年が酷く不機嫌であるということを察した。

「話したいことがあるのなら、聞くだけは聞くけど」

 ジェーンがそのように言うと、カップを遠ざけるように押しやっていたウィーズリーが顔を上げた。その眼差しを受け止めながら肩をすくめると、ウィーズリーはこれ見よがしにため息を吐く。

「僕は君がいなくなったことに腹を立てているんじゃない」相槌を打つ代わりに首を傾げてみせると、ウィーズリーは続けた。「異動は君の希望じゃないけど、戻らないと決めたのは君の意思だろう。それを無理やり連れ戻そうとするのは大きな間違いだ。それなのに、大臣や他の何人かの補佐官は、未だに君を連れ戻す方法を画策している。僕はそういう、君に執着している連中に腹を立てているんだ」

 ああ、この青年はどこまでも誠実で賢明なのだと、ジェーンは改めて思った。

 何事にも終わりがあることを知っている。いや、最近になって知ったのかもしれない。同時に、過去に身を置くのではなく、前へ進むことも知っているのだ。もしかしたら、置き去りにしてでも遠ざけたい過去があるのかもしれないが、そこまで踏み込んで訊ねられるほど、ジェーンとウィーズリーは気安い仲でもなかった。

「君だって、自分の意思で戻らないと決めた誰かを当てにするのは間違っていると思うだろう?」

「そうね」

「だから僕は言ってやったんだ。もうジェーン・スミスに期待するのはやめて、現実を見ろって。君が戻ってくるのを待ち続けていたら、いつまで経っても現状に慣れることはないからね。それに、期待をし続けるというのは、いつまでも君に重荷を背負わせたままでいるということにもなるんだ」

 正直に告白してしまうと、ジェーンはこのとき、ウィーズリーの言葉に少なからず胸を打たれていた。

 この一年間を共に生き抜いてきた同僚だからこそ言える言葉なのだろう。ただの優しさだけではない。ジェーン・スミスの現在を、最も正しく理解している。

 この一年で変わったのはジェーンだけではない。パーシー・ウィーズリーもまた、大きな変化を遂げている。何より他者に対する思いやりが増したようだった。だが、自分本位でなくなるというのは、良いことばかりではない。周囲の変化に敏感になってしまえば、その分だけ心労も膨れ上がるということなのだ。

「私に言えたことではないのかもしれないけれど、他人よりまず自分の心配をしたらどう?」カップの中に僅かな砂糖をこぼしてスプーンで混ぜている間、二人は黙っていた。「あなただってこの一年間働きづめだったのだし」

「僕は君ほどアンブリッジや死喰い人から気に入られていたわけじゃなかったからね」

「そうでしょうとも」

「君はなんだってあんな従順なふりをしていたんだ?」

「その方が楽だったからに決まっているでしょう?」

「簡単に言うんだな」

「それ以外に理由なんてないのだもの」

 その方が本当に楽だったのだ。反抗すればやることなすことにケチをつけられる。しかし、仮初めの信頼でも得ることができれば、厳しい監視の目からも逃れることができた。

 ウィーズリーが気づいていたかどうかは分からないが、補佐官は常に見張られていた。それはドローレス・アンブリッジも同様だ。あのアンブリッジでさえ、死喰い人から本当の意味では信用されてはいなかったのだ。なぜそれを知っているのかといえば、ジェーンがアンブリッジの動向を、逐一死喰い人に報告させられていたからだった。

 だからこそ、ジェーンは補佐室ではいつも気を張っていた。自分と同じように、誰かが自分を見張っているかもしれないと、そう考えていたからだ。補佐室で信じられる人間はかぎられていた。その見極めを誤っていたら、今頃はそれこそ生きてはいられなかったことだろう。

 

 ジェーン・スミスが死喰い人から信頼されていると完全に確信したのは、たった一人で大臣室に呼び出されたときのことだった。そこでは、魔法法執行部部長だったコーバン・ヤックスリーが、我が物顔で大臣の椅子に腰を据えていた。

「お呼びでしょうか」

 魔法省大臣であるパイアス・シックネスがこのときどうしていたかといえば、彼はまるで屋敷しもべ妖精のように、大きな暖炉の前に座り込んで、そこへ大量の石炭をくべているところだった。このときのジェーンは、魔法省大臣が何者かに操られていると確信していても、その相手が誰かということにまでは考えが至っていなかった。いや、知る必要のないことだと、無意識に思考を断ち切っていたのだろう。知りすぎるということは、時として自らの首を絞めかねないことだと、そう知っていたからだ。

 椅子の座り心地を堪能するように肘掛けをいやらしく撫でていたヤックスリーは、ジェーンが机越しに立つなり、こちらを見上げてきた。まるでこの国のすべてを手に入れたかのような満足げな面持ちを見ていると、ぞわぞわとした悪寒のようなものを背中に感じる。虫唾が走るような悪人面だ。おぞましいほどに気色の悪い笑みが自分に向けられた瞬間、ジェーンは逆流しようとする胃酸を押し戻すために、強く唾を飲み込んでいた。

「もういい、シックネス」

 ヤックスリーがジェーンに目を向けたままそう言うと、暖炉に石炭をくべていた魔法省大臣は小さなシャベルを放り出して、その場にすっくと立ち上がった。こちらをくるりと振り返ったシックネスの表情は、酷くぼんやりとしていた。両方の目の焦点が合っておらず、眼球は微妙にずれた状態で、震えるように痙攣している。

 ジェーンの目にはパイアス・シックネスの意識が服従の呪文に抗おうとしているように見えた。しかし次の瞬間、ヤックスリーがシックネスに向かって杖を振りかざす。すると、シックネスの表情は恍惚としたものになり、表面に現れようとしていた意識が再び、深いところへと沈んでいくのが分かった。

 服従の呪文は、一度呪文を唱えればその効力が永続的に続く類の呪いではない。使用した者の力が強ければ強いほど効力は増すものの、呪文としての拘束力は徐々に弱まっていくものだ。だからこそ、長期に渡って服従の呪文で誰かの精神を操りたい場合は、術者が常に近くにいて、効力が弱まった頃を見計らい、呪文の重ね掛けを行わなければならない。

 普通、権力者を服従の呪文で操り、政を牛耳る算段を企てている者は、自分が術者であると名乗り出ることはしないだろう。常に陰に潜み、安全圏から様子を窺っているはずだ。だが、ヤックスリーはその禁忌を自ら冒した。それは物語の黒幕が突如として正体を現すに等しい事態だった。

 確かにヤックスリーは頻繁に魔法省大臣室を訪れていた。魔法法執行部部長ならば日に何度大臣室を訪れようが不自然ではない。しかしながら、コーバン・ヤックスリーという男が魔法法執行部部長の職務を不備なくこなせているとは到底思えなかった。だが、魔法法執行部部長のサインが記されている書類に手抜かりがあったことは、不思議なことに一度もなかった。他の誰かに政務を任せていたとしか思えない。

 そしてこれは、ここ数か月の働きを評価する最終段階にあるのかもしれないと、ジェーンは瞬時に察知していた。自らの秘密をあえて露見し、相手の出方を窺う算段なのだ。ジェーンの態度が気に入らなければ、ヤックスリーはこの場で死の呪文を行使するだけで構わない。

 ジェーンは無表情のまま、思考を高速で回転させていた。開口一番、たった一言間違えただけで、この命は瞬く間に消滅することだろう。少なくとも、この男に殺されるのはごめんだと思いながら、ジェーンは余裕を表すように、ゆっくりと大きく瞬きをした。

「私はアンブリッジ女史ほど扱いやすい女ではないつもりですが」

「あの女は汚れ仕事を片付けさせるための手駒に過ぎない」

「それを女史がお聞きになればさぞ胸を痛めるのでは?」

「勘違いをさせておけばその分よく働いてくれるのだ、そのような失敗は冒すまい。あの女には今後とも変わらぬ期待を寄せているとも」

 どのような凶悪な顔の者でも、笑みを浮かべればどこかに柔和な雰囲気が感じられるものだが、この男にはそうした気配が一切ない。笑顔は不気味な歪みとなって、見る者に精神的な苦痛を与える。

「ところで、闇祓いのガウェイン・ロバーズは知っているな」

「はい」

「私はあの男にお前の調査を命じていたのだ。いや、正しくは魔法省大臣が、だな」くくく、と肩を震わせながら笑ったヤックスリーは、未だ暖炉の前で立ち尽くしているシックネスを横目に一瞥した。「ジェーン・スミスの仕事ぶりには舌を巻く、というのが、ロバーズの調査報告だ」

「さようですか」

「気にはならないのか?」

「探られて痛い腹はありませんので」

 実際には、探られれば探られるほど痛い腹を抱えていたのだが、そうした表情はおくびにも出さない。いつ頃からか、ポーカーフェイスが得意になってしまっていた。それが喜ばしいことなのかどうかは疑問だが、この通り役には立っている。

「あの女は使い勝手はいいが、自分の立場を勘違いしている節がある。おかしなことに、自分も我々と同じ場所に立っていると思い込んでいるようなのだ」

「彼女は他者からの評価を得れば得るほど付け上がるタイプの人間です、扱いには十分に注意していただかなければ」

「お前は違うのか?」

「あなたがもし私と女史を同列に考えていらっしゃるのなら、これ以上の侮辱はありません、ヤックスリー卿」

 ジェーンがそのように呼び掛けると、ヤックスリーは僅かに驚いたような表情を窺わせた後、満更でもなさそうな顔をして見せた。

「私がこの魔法省のためにどれほどの働きをしているのか、それを最も理解しているのは他ならぬ私自身です。闇祓い局の局長が私をどのように評価したにせよ、それで何かが変わるということはありません」

「酷い自惚れだな」だが、とヤックスリーは続ける。「気に入った」

 本来であれば気に入られたくなどないのだが、背に腹はかえられない。気に入られるための選択をし続けなければ、生き残ることのできない世の中だ。

 ジェーンは目を細めて微笑みに近い表情を浮かべてから、壁に掛けられている時計に横目を向ける。時刻は四時半。間もなくマグル生まれ登録委員会の午後の尋問が終わる頃だった。

「私と話していながら時間を気にするとは、肝が据わっているな」

「五時にアンブリッジ女史が裁定済みの取調べの書類を取りに来られる約束なのですが、手付かずの状態で机の上に置いたままになっているので、お叱りを受けることになるのではないかと考えていました」

「確かにあの女のヒステリックな声は聞くに堪えない」

「可能であれば三十分ほど退室させていただきたいのですが」

「いや、今日はもういい」ヤックスリーはそう言うと、椅子からゆっくりと立ち上がった。「私も行かなければならないのでな」

 どこへ、などというおこがましい質問はしないにかぎる。それ以前に、ジェーン・スミスには興味がないのだ。

 仕事ならばいくらでも引き受けよう。だが、その仕事の邪魔だけはしないでほしいというのが、ジェーンのささやかな願いだった。本当ならば一分たりとも無駄話に付き合っている暇はないのだから。

 席を立ち、机をぐるりと回り込んでジェーンの前で足を止めたヤックスリーは、非常に満足げな面持ちを浮かべているように見えた。

「職務に私情を挟まないお前にならば、私の代わりが務まるだろう」

 以後、ジェーンとヤックスリーとの間には一種の盟約のようなものが結ばれた。互いに何かを頼み、頼まれたわけでは決してない。だが、ジェーンは察した。ほんのちょっとした目配せの一つで、すべてを理解した。

 コーバン・ヤックスリーが魔法省を離れている間は、ジェーンが魔法省大臣の世話をすることになり、同時に、その政務を肩代わりするようにもなっていった。この事実は誰にも話していない。もし話していれば、魔法省大臣に許されざる呪文を使った咎で、間違いなくアズカバン送りにされていたはずだ。ジェーンは紛れもなく当事者であり、加害者でもあったのだ。

 ジェーンは自分が悪事に手を染めていることを自覚しておきながら、それに甘んじていた。理由などない。ただ、その方が楽だった。都合が良かった。理由が必要なら、何度でもそう答えるだろう。

 

 昼休みを終えてパーシー・ウィーズリーがケンタウルス担当室を出て行くと、ジェーンは再び静かな空間にたった一人で取り残されていた。毎日息が詰まるような窮屈さを感じているので、ビルの管理部に窓の取り付けについて相談の紙飛行機を送ってあるのだが、未だ返事はない。忘れ去られているか、後回しにされているかのどちらかだろうが、ケンタウルス担当室の場所が分からないという可能性も、無きにしも非ずだ。

 椅子に深く腰を下ろし、仰け反るようにして身体を背凭れに預け、ジェーンは天井を見上げる。前任者かそれ以前の職員がこの部屋でタバコを吸っていたようで、天井や壁紙はヤニで黄ばみ、薄汚れていた。時おり、天井の上からかさかさと奇妙な物音が聞こえてくるので、何らかの魔法生物が住み着いているのかもしれない。屋根裏に好んで住み着く魔法生物でなければ、魔法省で過労死でもした人間が成仏できず、ゴーストになって居付いているのだろう。

 この地下四階は魔法生物規制管理部なので、どちらも管轄の内だ。部長から出張の許可を得るついでに、話を聞いておいた方がいいのかもしれない。



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地下室の思い出

 このイギリスに生息しているケンタウルスの群は数十あるという記録が担当室には残されている。だがしかし、それは十年以上も前に調査された情報なので、正しい記録であると言い切ることはできない。聞いた話によると、ケンタウルスの頭数は年々減っているというので、群れが減少していることはあっても、増えているということはなさそうだ。

 ジェーン・スミスが魔法生物規制管理部の部長室を訪ねると、そこには酷い仏頂面の部長が山積みになった書類に埋もれ、それらに目を通しているところだった。闇の帝王や死喰い人、スナッチャーらの所業が尾を引き、魔法生物規制管理部はこれまでにない忙しさだと聞いている。もちろん、ケンタウルス担当室に配属されたジェーンにはまったくもって関係のない話だ。

 部長はジェーンが部屋に足を踏み入れると一瞥をくれるが、すぐさま手元の書類に視線を戻した。

「ケンタウルス担当室の室長が一体何の用件だ?」

 私はこの通り忙しい――とでも言うふうに、部長は手に持った書類を僅かに掲げて見せる。

「配属に関する不平不満ならば聞かんぞ」

「不満はありません。それどころか、私のような者を魔法生物規制管理部で引き受けてくださって感謝しているくらいです」

 その言葉を受けた部長は皮肉っぽく鼻で笑い、小さく肩をすくめた。

「では、何の用があるというのだ?」

「実はお願いがありまして」

 ちらり、とこちらを上目遣いに見る表情はとても訝しげだ。お前の身柄を引き受ける以上の面倒事はごめんだと言いたげな顔を目の当たりにし、ジェーンは微かに苦笑を浮かべる。

「部長にご迷惑をおかけするようなことではありません。ただ、出張の許可を頂きたいのです」

「出張だと?」

 部長は眉間のしわをますます深くさせ、今度こそジェーンをまっすぐに見据えた。ただでさえ仕事のないケンタウルス担当室の室長が、なぜ出張に行きたいなどと言い出すのか。部長は甚だ疑問で仕方がないという面構えだ。

 ジェーンは更に部屋の奥まで進み出ると、机の前でぴたりと足を止めた。そして、持参したファイルを差し出す。部長は手にしていた書類を机に置くと、無言のままファイルを受け取った。

「ケンタウルス担当室に異動してきてすぐに、前任者たちがまとめた資料に目を通しました。どれもよくまとめられているのですが――」

「日付が古いようだな」

「はい。ご覧の通り十年近く前の記録が最新の状態です。以降は情報の更新がされていません。いくらケンタウルスが私たち人間に比べて長命とはいえ、個体数の増減は免れません。ましてや先の戦いの後ですから、巨人族とのいざこざに巻き込まれた群もあるのではないかと推測しています」

「だから君は自分の目でケンタウルスの生態を確認しに行きたい、というわけか」

「はい」

「やめておいた方がいいと思うがな」

 それは予想できた返答だった。もし自分が魔法生物規制管理部の部長だったとしたら、同じように言うだろうとジェーンも思う。

 基本的にケンタウルスは人間を嫌っている。魔法省の人間は特に憎まれているはずだ。人間が勝手に決めたルールを押し付け、その中だけで自由に生きろという、酷く理不尽な命令を下している。

 本来、ケンタウルスは人間の作り上げたルールに従う必要はない。魔法界の法律はヒト族にのみ効力を発揮するものであり、動物には適用されるものではないからだ。だがしかし、人間はケンタウルスが自然豊かな森でしか生きていけないということを知っている。マグルの目に触れずに生きていくためには、そうする以外他にない。だからこそその生態を逆手に取り、魔法界の法律で、あの神話の時代から生き続けている神聖な生き物を縛り付けているのだ。彼らの尊厳が守られているとは到底言えない状況だろう。

「ケンタウルスは子供相手には寛容だが、大人相手には容赦というものがない。ケンタウルスの縄張りに無断で足を踏み入れようものなら、無事に帰れる保証もないのだ。それどころか、我々の方が彼らの法律で裁かれることにもなりかねん」

 ケンタウルスは神話の時代から粗野で乱暴な生き物として知られている。星座となったケイローンは別として、ジェーンが禁じられた森でちらと見かけたことのあるケンタウルスは、確かに荒々しい雰囲気があった。だがしかし、人間にも一人一人個性があるように、ケンタウルスにも個体差はあるはずだ。

 例えば、アルバス・ダンブルドアの要請を受けてホグワーツの教授となったケンタウルスならば、多少は話ができるのではないかと考えている。ジェーンがそのように告げると、部長は呆れたように息を吐きながら、手にしていたファイルを机に放った。

「仕事熱心な君のことだ、私が許可を出さなければ、休日を利用してでも自主的に調査へ出向くつもりなのだろう?」

「魔法生物規制管理部の部長からホグワーツの校長宛に申請書を送っていただけると、私の膨大な手間が省けるのですが」

 こちらをじっと見つめてくる眼差しを真正面から受け止め、自分にとって好ましい返答が聞けるのを待っていると、部長は根負けした様子で厳めしい表情を僅かに和らげた。

「分かった、校長宛に申請書を送付しよう。だが、ミネルバ・マクゴナガルはアルバス・ダンブルドアほど寛大ではない。快い返事があるかどうかは、蓋を開けてみなければ分からないからな」

「ありがとうございます、部長」

「ホグワーツから返答があり次第追って飛行機を飛ばす。それまでは大人しく待機しているように」

「はい」

「それから」一度は放ったファイルを取り上げ、それをジェーンに手渡しながら部長は続けた。「ビル管理部からケンタウルス担当室の窓取り付けについての問い合わせがきている。君がその足で管理部に出向いて話を聞く方が早いだろう。この忙しい時期に部屋の模様替えとは、良いご身分だな」

「模様替えが済み次第お披露目パーティーを行うつもりなので、部長も是非いらしてください」

「馬鹿を言え」

 ふん、と不愉快そうに鼻で笑った部長は、野良犬を追い払うような仕草でジェーンを部屋から追い出した。

 ジェーン・スミスをケンタウルス担当室に押し込む計画がウィゼンガモット法廷の決定事項だったとしても、それにはこの魔法生物規制管理部の部長の協力が必要不可欠だったはずだ。いくら魔法省大臣からの要請があったにせよ、部長が良しと言わなければ、これほどスムーズに異動が行われることはなかっただろう。厄介者を押し付けられるのだ、良い気分はしなかったに違いない。

 ジェーンは閉じた扉に向かってそっと目礼をすると、くるりと踵を返してその場を後にした。

 

 

 ホグワーツで過ごした日々を面白おかしい気持ちで懐古したことはない。あの七年間を輝かしい年月であったと振り返る者は少なくないだろうが、そうした人々はただ単に、恵まれていただけに過ぎないのだ。

 多かれ少なかれ友人に囲まれ、教授たちには気に入られ、色恋に頬を染めて、寄宿学校の生活を満喫していた者たちだ。根っからの面倒臭がりであったはずのジェーンが勉強や仕事だけに打ち込むようになってしまったのも、そうした人々とある程度の距離を置く口実を作るためだった。

 自分のことだけに集中していれば、周囲の雑音は届かない。余計なものをその目に映さなければ、それらとかかわらずに済むと思っていた。自分勝手だったことは否めない。だが、どうしても馴染めなかったのだ。

 特にレイブンクローの寮の雰囲気は、ジェーンにとっては苦痛を感じさせるものでしかなかった。ルームメイトたちとの、互いの腹を探り合うかのような上辺だけの付き合いも、ジェーンの胃をきりきりと刺すように痛ませるだけだった。しかし、今になって思い返してみれば、ルームメイトたちも同じように、自分に対して嫌悪感を募らせていたのだろうとジェーンは思う。

 ジェーンは基本的に人付き合いが苦手だった。自分の周りに引いている一線を越えられてしまうと、どうしても身構え、防衛本能を働かせてしまう。そこに悪気はないのだ。だが、反射的に身を引いてしまう行動がより一層、相手に不快感を与えてしまうのだろう。

 近づいてほしくない。触れられたくない。無暗に同意を求めないでほしいと思う。仲の良いふりをすることが友情ならば、そんなものは不必要だと、当時のジェーンは考えていた。もちろん、今も同じ思いだ。

 そんなジェーン・スミスの存在が、他の寮の寮監であるセブルス・スネイプの目に留まるようになったのは、先日店に現れた家族ぐるみの付き合いがある男のせいでもある。もともと魔法薬学の成績は良かったジェーンだったが、授業中に進んで挙手をするということもなかったので、スネイプにしてみれば、いつも教室の隅で黙々と大鍋を掻き混ぜている、根暗な生徒という印象しかなかったはずだ。

 ある日、悪戯の片棒を担がされたことがあった。正確にはアリバイ工作に利用されただけなのだが、ジェーンはいつものことだと思いながら、適当に話を合わせて男の窮地を救おうとした。

 成績が良く、品行方正で、加えて監督生をしていたジェーン・スミスは、教授たちからの信頼も厚かったのだ。

 だが、どういうわけかスネイプだけは、ジェーンの言葉に騙されることはなかった。自分の寮の生徒たちからしっかりと減点した後、教師に嘘を吐いた咎で、レイブンクローから十点減点されてしまったことは、今でも強く記憶に残されている。悪質な悪戯をした自分の寮の生徒からは五点ずつしか引かなかったのにもかかわらず、ただ利用されただけの自分からは十点も引くのはあまりに理不尽ではないかという思いが、後を引いていたのかもしれない。

 そしてそれ以降、スネイプはなぜかジェーンの動向に目を光らせるようになった。授業中はもちろん、大広間で食事をしている時や廊下ですれ違った時なども、スネイプの視線を感じていた。あの一件以来、ジェーンのことを要注意人物として監視しなければという、妙な使命感を芽生えさせてしまったのかもしれない。

 だが、フリットウィックに呼び出されなかったことを考えると、告げ口をしてやろうとは思わなかったようだ。しかも、普通に生活をしている分には何の害もなかったので、最初こそは気味が悪いと感じていたジェーンだったが、しばらくすると自分を睨む目を気にすることもなくなっていった。

 しかし、それから更に数日が過ぎ、ジェーンは不意に気づいたのだ。以前から何かにつけて自分に絡んできていた者たちが、声を掛けてくることは愚か、近づいてくることもなくなっていたことに。

「スネイプ先生」

 魔法薬学の授業が終わり、自分以外の生徒が全員いなくなるのを待って、ジェーンは提出された小瓶を整理しているスネイプに声を掛けた。スネイプは教卓越しに立っているジェーンをじっとりとした暗い目で見てから、再び作業に戻った。

「……お手伝いします」

 生徒たちは皆、仕上がった魔法薬を提出すると、逃げるように教室を出て行く。そのため、小瓶はいつもばらばらに置かれ、スネイプはその都度面倒臭そうに並べ直していたことを、ジェーンは知っていた。

 重いものなど持ったこともなさそうな細長い指先が、見るからに失敗している魔法薬の小瓶を汚らしそうに摘まみ上げ、それをハッフルパフの木箱の中に入れる。ジェーンもそれを真似て、貼られているラベルの名前を確認しながら、レイブンクローの生徒の小瓶を木箱に移していった。

 最後に自分の小瓶を箱の中に入れたジェーンは、微かに感じた達成感を胸に押し留めたまま、魔法薬学の教室を出て行こうとした。スネイプに対して問い詰めたいことはあったが、そんなことを訊ねるのは無粋なのかもしれないと、小瓶を仕分けているうちに考えが変わったからだ。

 だがしかし、スネイプはジェーンを逃がしはしなかった。カバンを背負い直し、そっと背中を向けて出て行こうとするジェーンを、陰鬱な声が呼び止める。

「ミス・スミス」

「……はい、スネイプ先生」

「戻ってきたまえ」

 ほとんど黒く染まっている爪の先で、こつこつ、と教卓が叩かれる。ジェーンは前を向いたまま息を吐き出すと、意を決してスネイプを振り返った。重い足を引きずるように教卓の前まで戻り、スネイプを見上げる。

「何か話があったのではないのかね」

「いいえ……あ、いえ、はい、先生」高圧的ともいうべき眼差しを向けられ、ジェーンの何とかごまかそうという気持ちは一瞬にして消え去った。「ですが、あの、もう結構です。大丈夫です」

「それで?」

「え?」

「話というのは?」

 もう駄目だとジェーンは思った。スネイプからはこちらの言い分に耳を貸そうという気持ちが一切感じられなかった。幸か不幸か、この日の授業は二時間続きの魔法薬学で最後だ。白状するまで解放されないに違いない。

 教授に嘘を吐くときでさえ震えない心臓が、どういうわけかいつもより早く鼓動していた。耳の先に熱が集中して、身体が緊張で強張るのが分かる。ジェーンは赤銅色の波打つ髪を撫でつけながら、ゆっくりと視線を泳がせた。

「ただ、あの、お礼を言うべきなのかと……」ジェーンがそう言うと、スネイプは不可解そうに眉を顰める。「私はよく煙たがられる性質なのですが、なんていうか、端的に言うと周りから快くは思われていないので、鬱憤の捌け口というか、喧嘩を売られるというか、そういう理不尽な目に遭うことが多くて……」

 だが、スネイプが目を光らせるようになってからは、そうした被害に遭う回数は明らかに減っていた。最初は偶然だろうと思っていたが、そうではなかったのだ。スネイプが見ていたのは自分ではなく、それにちょっかいをかけていた周囲の者たちだったのだと、ジェーンはそう考えていた。

 もしかしたら、あの男がスネイプに事情を話したのかもしれない。悪質と言わざるを得ない、相手を医務室送りにするほどの悪戯に手を染めたのは、同じくらい陰湿な嫌がらせをしてくる者への仕返しだったのだと。何もせず、ただ受け身でいるジェーンの代わりに、やり返してやっただけなのだと。

 ジェーンにしてみれば、どっちもどっちだった。やる方も、やり返す方も、どうかしているとしか言いようがない。何かの選択を強いられたとき、ジェーンはいつだって、面倒臭くない方を選んできた。楽な道を選択してきたのだ。言い返すだけ時間の無駄、やり返すだけ労力の無駄――ジェーン・スミスはただ、興味のない相手と関わり合いになりたくないだけだった。

「……でも、最近はそうした嫌がらせも少なくなりました」

「まさかとは思うが、君はそれが私のおかげだとでも考えているのかね」

「あの、はい、そうです」

「勘違いも甚だしいな」

「でも」

「君の思い違いだ、ミス・スミス」スネイプははっきりとした口振りでそう言い切った。「私は他の寮の生徒の面倒まで見てやるほど暇ではない。だが、手伝いには感謝しよう」

 ぱち、ぱち、と瞬いて、眼鏡越しにその顔を見上げる。しかし、瞬いた勢いで目の中に異物が入ったのか、それが刺さる痛みに耐えきれず、ジェーンは眼鏡を外してしまった。そして、その目で、あろうことかその裸眼で、セブルス・スネイプを見てしまった。自分が立ち去る後ろ姿を、何かを懐かしむような眼差しで眺め、見送る姿を、視てしまった。

 片方の目を細め、自分を見上げる格好のまま微動だにしなくなったジェーンを見て、スネイプは仏頂面のまま手を挙げた。呆然としているジェーンの目元に杖先を突きつけ、軽く引っ張り上げるような動きを見せる。すると、右目に感じていた痛みは嘘のように消え、涙が一粒だけ遅れてこぼれた。

「睫毛が刺さっていただけだ。大事無いだろうが、気になるようなら医務室でマダムに見てもらうといい」

「ありがとうございます、先生」

 感謝の言葉を伝えるジェーンを、スネイプは半ば呆れたような目で見下ろしてくる。その言葉に込めた二つの意味を詳細に理解したのかもしれない。だが、それ以上は何も言わず、視線の動きだけでジェーンを教室の外へと促した。

 顔に合わない大きな眼鏡をかけ直しながら、ジェーンは廊下を歩く。途中、スリザリン寮の生徒とすれ違うが、互いに目をくれることもなかった。ジェーンは自らが視た光景を脳裏に思い描きながら、地下から大広間に続いている階段を上がる。玄関ホールに足を踏み入れると、変身術のミネルバ・マクゴナガルが正面玄関の樫の扉を閉じているところだった。土砂降りの雨音が遠くに聞こえていた。

 

 

「――いやあ、ここ最近は原因不明の雨続きで、本当に困ってるんですよね~」

 ジェーンはビル管理部の女子職員の声で我に返る。はっとしたように顔を上げると、正面に座っている職員はジェーンが家から持ってきていたマフィンをもぐもぐと頬張り、至福そうに満面の笑みを浮かべていた。今更それは賞味期限が切れているとも言えず、ジェーンは適当に紅茶を注いでやってから、新しく取り付けられた窓の外に目を向けた。

 場所は自然豊かな森の中にしてもらった。可能性としては低いが、もしケンタウルスがやってきたら、その方が少しは居心地がいいだろうと考えてのことだ。机のすぐ隣に設置してもらった窓の外は薄暗かったが、この部屋の向こう側には大きな森が広がっているのだと想像すると、この狭苦しい部屋の中でも息苦しさを感じないのが不思議だった。

「雨が長引くと苦情の紙飛行機が次から次へと飛んでくるんですけど、呪いか何かで天気を固定されて変えられなくなってるみたいで、こっちはもうお手上げ状態なんですよ~。上司は原因不明の病気で聖マンゴに入院中だし、同僚は苔を栽培するのにちょうどいい気候だとか言って、窓の近くに苔玉をずら~っと並べてるんです。ほら、ビル管理部なんて吃驚するほど暇なんでしょって良く言われるんですけど、実際は違いますからね。毎日毎日大忙しなんですから~」

 へらへらとしゃべり続けている声に返事をすることもなく窓の外を眺めていると、その職員はジェーンに向かって「もしも~し」と手を振ってくる。早く出て行ってくれればいいのにと思いながら視線を戻せば、女は不満そうな顔をしてこちらを見ていた。



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校長

 卒業以来ホグワーツ魔法魔術学校の敷地に足を踏み入れたことは一度もない。コーネリウス・ファッジが魔法省大臣だった頃、あの男はアルバス・ダンブルドアの助言を求めて頻繁に足を運んでいたが、それに同行したこともなかった。一緒に来ないかと誘われたこともあったが、あれこれと口煩く命じてくる上司がせっかく留守にするのだ、大量の仕事を片付けるのにこれ以上の好機はないと、ジェーン・スミスは望んで留守番を買って出ていた。

 ホグワーツはスコットランドの北部、深い森と山に囲まれた奥地にある。隣接しているホグズミード村はイギリスで唯一魔法族のコミュニティーだけで成り立っている村だ。夏のこの時期は気候も穏やかで、外国から旅行にやってくる魔法族の姿もちらほら見られる。特定の週末には保護者の許可を得た三年生以上のホグワーツ生で賑わい、一気に騒がしくなるが、それ以外は静かなものだ。

 とはいえ、例によって例の如く、ジェーンはホグズミード村に良い思い出があるわけではない。かといって嫌な思い出があるわけでもないので、数年振りにやって来たところで感慨に浸るようなこともなかった。他の生徒に比べて圧倒的に足を運んだ回数が少なかったことも、理由の一つなのかもしれない。元々出不精なジェーンは、誰もが楽しみにしているホグズミード休暇を、ホグワーツで静かに過ごしている方がずっと好きだったのだ。誘われれば付き合わないこともなかったが、自分から進んで出向くということはほとんどなかった。

 ここはロンドンよりも気温が低く、風が乾いているので、夏用のマントを羽織っていても少し肌寒いくらいだった。しかし、ホグワーツに向かって続いている馬車道を歩いているうちに、身体が徐々に汗ばんでくる。軽く息が切れてきたのを感じ、日頃の運動不足と寄る年波には勝てないのだということを、ジェーンは思い知らされていた。

 マントを外し、禁じられた森の方向から吹いてくる風を全身に感じながら、ジェーンは歩く。今日のように突き抜けるような青空の日は珍しい。こうした日は分厚い本を小脇に抱え、ちょっとした木陰に腰を下ろして読書をしている時間が、学生時代のジェーンにとっては数少ない至福の一時だった。

 数か月前には激しい戦場となっていたホグワーツだが、今現在は損壊などは見て取れない。当時は相当な壊滅具合だったと聞いているが、生徒たちのいない夏の休暇中にかなりの修繕が進んでいるようだ。魔法省からの応援も来ているはずなので、今日もこの広い城のどこかでは引き続き作業が行われているのだろう。卒業生たちも時間を見つけては手伝いに来ているという話だ、新学期までには元通りのホグワーツに戻っているに違いない。

 馬車道をまっすぐに進んでいって間もなく、ジェーンはホグワーツの正面玄関に辿り着いた。樫の扉は大きく門戸を開いている。人気のないホグワーツは、ホグズミード休暇で大勢の生徒たちが出払っているときの雰囲気によく似ていた。

 玄関ホールはひっそりと静まり、足音が反響する。正面に見えている、何度転がり落ちそうになったか分からない大理石の大階段は、異様なほどの威圧感を放っているように感じられた。学生の頃のジェーンは、極力この大階段を上り下りせずに済むよう、いつも回り道をして大広間や地下牢教室に向かっていた。

 だが、もう大丈夫だろう。たとえ足を踏み外したとしても、己を護る呪文はいくつも習得している――ジェーンは自らをそう鼓舞し、玄関ホールを通り抜けて、大階段に足を掛けた。一段、また一段と足を進め、ついに上りきったところで、ほっと安堵の息を吐く。トラウマというものはなかなか消えてなくならないものらしい。先ほどとは別の汗が滲む額を拭いながら、ジェーンは校長室に向かって歩き出した。

 魔法生物規制管理部の部長がホグワーツの校長宛に手紙を送ってから三日後に返事は届いた。返答は簡潔だったが、快いものだった。しかしながら、城の修繕の他にも、九月から始まる新学期の準備や、空席になってしまっている教員の補充など、校長が携わる雑務は多岐にわたる。今は最も忙しい頃合いだ。あまり長居をして邪魔をしないようにしなければならない。

 在学当時、校長だったアルバス・ダンブルドアと言葉を交わしたことは数える程度しかなかった。人によっては、一度も話したことがなくても、何ら不思議ではなかった。数々の伝説的な逸話を持つ偉大な魔法使いは、生徒たちにとって酷く遠い存在だったのだ。ホグワーツのどこかで偶然出会うことがあっても、気安く話しかけられるような相手ではない。向こうから話しかけてこられたとしても、緊張で言葉が出ない者がほとんどだ。

 アルバス・ダンブルドアという人は神格化されたような存在だった。本人がそれを望んでいたかどうかは分からない。だが、周囲はそうあれかしと願っていた。ダンブルドアがいれば何もかもが上手くいくと信じていたのだ。かつてグリンデルバルドを打ち負かしたように、史上最悪と謳われた闇の帝王を滅ぼすことができるのはダンブルドアだけだと、そう信じて疑わなかった。

 だからこそ、あの偉大な魔法使いの死は、イギリスの魔法界のみならず、世界中の魔法界に衝撃を与えた。まるでこの世の終わりが訪れたかのように、この国は大きな悲しみと、それ以上の絶望に覆われてしまった。ダンブルドアの死がきっかけとなり、ヴォルデモート卿や死喰い人たちの活動が一気に勢いづいたのは、言うまでもないことだ。

 多くの職員がホグワーツで行われた葬儀に出席したがる中、ジェーンは魔法省に残り、各国から次々と寄せられる問い合わせに対して、その一つ一つに丁寧な返信を行っていた。

 多くの人々が絶望していたほど、ジェーンはダンブルドアの死に対して何か特別な感情を抱いてはいなかった。非情と言われても仕方のないことだが、名前を知っている程度の誰かの死を悼むほど、ジェーンは情に厚い人間ではなかったのだ。むしろ、ジェーンにとっては後に訪れるセブルス・スネイプの死の方が、ずっと衝撃的だった。

 二体のガーゴイル像が護っている校長室の前までやって来たジェーンは、一度息を整えてから、一方のガーゴイル像に声を掛ける。部屋にいるはずの校長に取り次いでもらえるよう頼むと、程なくして道は開かれた。隣り合わせになっていた像は左右に割れ、その背後の壁がごりごりと削るような音をたてて開く。目の前に現れた階段はマグルの世界にあるエスカレーターのように、上に向かってゆっくりと動いていた。タイミングを見計らって階段に足を乗せると、階段はジェーンを校長室の前まで運んでくれる。扉の前に到着すると階段は動きを止め、下に見えているガーゴイル像は定位置に戻ろうとしているところだった。

 控えめにノックすると、どうぞという声が返ってくる。微かな緊張と共に扉を開くと、一瞬、何人もの視線が自分に集中したような感覚を覚えた。途端に背筋がぞくりとするものの、次の瞬間には身体が強張るような感覚からは解放されていた。

「どうしました?」

 足を踏み入れたところで動きをとめたジェーンに向かって、校長室の中程まで進み出てきていたミネルバ・マクゴナガルが、訝しげに声を掛けてきた。マクゴナガルは洒落た深緑色のベルベットのローブを着ていた。ジェーンが学生だった頃から、同じ色のローブを好んで身に着けていたような覚えがある。背筋をすっと伸ばし、威厳たっぷりに振る舞う姿勢は、相変わらず凛々しいものだった。

 ジェーンはどくんと大きく波打った心臓を落ち着かせるように、ゆっくりと息を吐き出した。

「本日はお時間をいただきましてありがとうございます、マクゴナガル先生」

「いいえ、ミス・スミス。どのような形であれ、本校の卒業生が再びこの学び舎に戻り、健やかな姿を見せてくれるのはとても喜ばしいことです」

 本当に喜ばしいと思っているかどうかは微妙な表情だ。マクゴナガルはジェーンの姿をとっくりと眺めた後、ローブの裾を翻しながらこちらに背を向けた。

「お茶はいかがですか?」

「いえ、私は――」

「少し座ってお話をしましょう、ミス・スミス」

 長居はしないつもりでいたジェーンだが、マクゴナガルは最初からもてなすつもりでお茶の用意を済ませていたようだ。勘弁してくれと思いながらも、学生時代の上下関係が染みついているせいで無下に断ることもできず、ジェーンは促されるまま椅子に腰を下ろしてしまった。

 マクゴナガルはその様子を満足げに見ると、執務机の隣に立って既に準備されていたティーポットの頭を杖先で叩く。間もなくするとティーポットの注ぎ口から香りの良い湯気が立ち上り、琥珀色の液体がカップに注がれた。ジェーンは差し出されたカップをソーサーごと受け取り、砂糖とミルクを丁重に断った。

 ジェーンは若干引きつった自らの表情をカップの水面に認めてから、恐る恐る顔を上げた。

 少し話をしようと言われたところで、ジェーンには話したいことなどありはしない。ホグワーツで占い学を受け持っているケンタウルスと話をさせてほしいと、そう願い出ただけだ。言い方は悪いが、ホグワーツの校長と話をするためにやって来たのではない。そもそも、この魔女はもてなしの準備までして自分と何の話をしたいというのか、ジェーンには微塵も見当がつかなかった。

「心配しなくともフィレンツェには既に話を通してあります」ジェーンの困惑している気持ちを汲み取ったのか、マクゴナガルが自身の椅子に腰を下ろしながら言った。「もうすぐ禁じられた森を出てくるはずです」

「森で暮らしながらホグワーツで働いているのですか?」

「当初はやむを得ない事情があってホグワーツでの生活を余儀なくされていたのですが――詳しい話は本人の口から聞いた方が良いでしょう。本来であれば、もうホグワーツで生活をする必要も働く必要もないのですが、ダンブルドアに受けた恩を返すまでは、占い学の教授として働かせてほしいと言っているのです」

「恩、ですか」

 ケンタウルスが人間に対して恩を感じるなど、とんと聞かない話だ。話を聞かせてほしいというジェーンの要請に応じてくれたのも、その恩とやらに関係があるのかもしれない。

「恩と言えば」マクゴナガルは紅茶にミルクを入れ、それをスプーンで掻き混ぜながら言った。「ホグワーツの修繕のために技師の手配と派遣をしてくださったのはあなただそうですね、ミス・スミス」

「それは魔法省大臣室の仕事であって、私個人の采配ではありません」

「各国の魔法省へアルバス・ダンブルドアの訃報を出したのもあなただと聞いています」

「それも大臣室付きで手分けをして行いました、マクゴナガル先生」

 取り付く島もないような物言いのジェーンを見て、マクゴナガルは僅かに苦笑いを浮かべて見せる。それから、机の脇に置いていた円状の缶を手元に引き寄せると、蓋を開いてジェーンの前に置いた。中にはクッキーやドライフルーツが詰められていて、途端に甘い香りがふわりと舞う。何か一つでも手に取らなければ缶は下げられそうになかったので、ジェーンは桃のドライフルーツを指先で摘まみ取った。

「失礼ですが、誰からそのお話をお聞きになったのですか?」

「キングズリー――いえ、現魔法省大臣からです」

「では、あまり信用なさらない方がよろしいかと」ジェーンが皮肉っぽくそう口にすると、マクゴナガルはその真意を問おうとするように首を傾けた。「あの人は私を過大評価しているだけなのです、先生」

「そうなのですか?」

「今先生がおっしゃったことに偶然私がかかわっていたというだけのことです。評価されるべきは大臣室付きの補佐官たちであって、私個人の功績ではありません。魔法省にお勤めだった先生にならご理解いただけると思います」

「私はほんの数年で魔法省を離れた人間ですから、残念ながらあなたの言葉を正しく評価できるだけの経験値がありません。ですが、魔法省大臣があなたに見いだしている評価は、あながち間違いとは言い切れないと思っています」

「……おっしゃっていることの意味が分からないのですが」

「人となりというものはそうそう変わらないということです」

 自分の人となりを理解してもらえるほど、ジェーンはマクゴナガルと懇意にしていたわけではない。基本的に変身術の授業以外で会話をする機会はほとんどなく、身近な存在だと感じたこともなかった。しかし、マクゴナガルは違ったようだ。紅茶と茶請けのドライフルーツを口にする気配さえ窺わせないジェーンを見て、何かを懐かしむように目を細める。

「長年教職に携わっていると、生徒一人一人に目を配ることが自然とできるようになってくるものです。それに、目立つ生徒の場合は特に、嫌でも視界の中に飛び込んでくるものなのですよ」

 自分が目立つ存在だなどと思ったこともなかったジェーンは、マクゴナガルの言葉に目を丸くしてしまった。だが、すぐに悪目立ちという言葉が脳裏を過り、妙に納得をしてしまう。そういう意味でならば、ジェーン・スミスは間違いなく目立つ存在だったことだろう。

 七年間友達も作らず、机にばかりかじりつき、唯一連む相手といえば一学年上のスリザリン生だけだ。一日中誰とも話さず、その必要性さえ感じず、ただ狂ったように本と向き合っていた。そうしている間だけは、世界が自分のことを見逃してくれているように感じられていたからだ。



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ケンタウルス

 まだしばらくはこの拷問のような尋問に近い拘束が続くのかと考えていたジェーンだったが、校長室の窓から禁じられた森を出てくる一頭のケンタウルスの姿を捉え、救われたような思いがしたのは言うまでもない。また何事かを話し出そうとしているマクゴナガルを横目に見ながら立ち上がり、窓の外を指で差した。

「お茶の用意までしていただいて恐縮ですが、約束の方がいらしたようなので、私は失礼させていただきます、マクゴナガル先生」

 それはあまりに礼を欠く態度だったにもかかわらず、マクゴナガルは多少眉を顰める程度に表情を変えただけで、嫌味のようなことを口にしたりはしなかった。だがその代わりに、帰り際にもう一度立ち寄るように、と釘を刺すことは忘れなかった。

「それが礼儀というものです、ミス・スミス」

 マクゴナガルの言葉は尤もだと思ったジェーンは黙って頷き、足早に校長室を後にした。受け入れたくはなかったが、納得せざるを得ないことだ。そう自分に言い聞かせながら動く階段を降りていくと、何かが崩れるような大きな音が遠くの方から聞こえてくる。ジェーンが廊下に出ると、二体のガーゴイル像は再び定位置に戻った。

「ピーブズ!! いい加減にしないか!!」何者かの怒号が廊下に響き渡った。「邪魔をするなと何度も言っているだろう!! これ以上邪魔をするようなら、いいか、お前をクリスタルの瓶に詰めて湖の底に沈めて――おい!! 聞いているのか――!!!」

 ああ、ピーブズのいたずらか――ジェーンはそう思うと同時に、何とも言えぬ感情が沸き立つのを感じていた。懐かしいような、苦々しいような、切ないような、形容しがたい奇妙な感覚だ。だが、それはピーブズに向けられた思いではない。あの災厄のようなポルターガイストが、けたたましい笑い声をあげながらこちらへやってくる前に、さっさとこの場を離れるのが得策だろう。さもなければ、学生の頃のようにいたずらの餌食になることは目に見えている。

 ジェーンが廊下を早足で歩き、大理石の大階段のところまで戻ってくると、丁度ケンタウルスの姿が正面玄関に現れたところだった。太陽の光をその背に受けた様相は、全身が淡い黄金色に輝き、なんと神々しいことか。ジェーンは一瞬にして目を奪われたが、再び聞こえた背後からの怒鳴り声で我に返り、どこか覚束ない足取りで階段を降りていく。

「あなたがジェーン・スミスですか」

 かぽ、こぽ、という小気味良い蹄の音が、石造りの建物の中で反響する。こちらへ近づいてくるほどに大きくなる体躯を見上げながら、ジェーンは頷いた。

「はい、魔法省ケンタウルス担当室の室長、ジェーン・スミスです。ミスター――」

「ただのフィレンツェで結構」

 不勉強なことに、ジェーンはケンタウルスに対する敬意の表し方を知らなかった。人間を相手にするような態度で接していると、このケンタウルスを即刻不愉快にさせてしまいかねない。さて、どうしたものかと考えながら、最近覚えたケンタウルス関連の情報を引き出そうとしていると、フィレンツェはジェーンが思いもよらなかった行動に出た。目と鼻の先までやって来ると、軽く腰を屈め、右手を差し出してきたのだ。

 それはいわゆる握手というもので、人間同士の挨拶に他ならない。思わず驚いて目を丸くしていると、フィレンツェは同じ姿勢を保ったまま小首を傾げた。

「これがヒトの挨拶の仕方だと学習したつもりでいましたが、違いましたか」

「い、いいえ」

 ジェーンは首を横に振ると、差し出された腕が引かれてしまう前に、フィレンツェの右手をそっと握った。その手は成人男性よりも一回りは大きく、ごつごつとしていて、皮膚が硬い。人間よりも体温が高いと分かるほど、あたたかかった。

「はじめまして、フィレンツェ。こちらの申し出を承諾してくださったことに感謝します」

「魔法省に関心はありませんが、あなたは良い人物だとミネルバ・マクゴナガルから聞いています。ですから、会っても良いと答えました」

「私が良い人間かどうかは個々人の――」

 どうやら、魔法使いとポルターガイストの戦いは激しさを増してきているようだ。今度は高い金属音が先ほどよりも近くから聞こえてくる。廊下のどこかに飾られている甲冑がなぎ倒されたに違いない。そもそも、あの甲冑は一体何のために飾られているのか、ジェーンは未だに疑問に思っていた。

「私の教室へご案内します、ジェーン・スミス」肩越しに後ろを振り返って音の出所を探っているジェーンの頭上から、フィレンツェがほとんど感情を感じさせない声で言った。「嵐が去るのを待ちましょう」

 フィレンツェが教える占い学の教室はすぐ近くにあった。大理石の大階段は上らず、向かって右側に進んでいくと、ジェーンが学生の頃は使われていなかった教室がある。古びたプレートにはうっすらとだけ十一番教室と記されているのが見て取れた。扉は古かったが、人の手が頻繁に触れる取っ手の部分だけが、新品のように輝いていた。

「……」

 ケンタウルスが授業を行っている姿など想像することもできなかった。生徒たちを席に着かせ、黒板に板書を行いながら進行するものではないだろうと考えてはいたが、これならば納得だ。

 十一番教室の中は、森だった。森そのものと言っても過言ではないだろう。まるで禁じられた森の一角を切り取ってきたかのような空間に目を丸くしていると、先を歩いていたフィレンツェがジェーンを振り返った。

「どうぞ、こちらへ。椅子はありませんが、どこでも好きなところに座ってください」

 教室内には木々が生い茂り、天井を感じさせない空がある。土の地面はところどころが苔生していて、青々とした森の香りを一層強く感じさせるようだった。ジェーンは足元の苔を踏まないように気をつけながら進み、座るのに丁度良さそうな石を見つけると、そこに腰を下ろした。

「ミネルバ・マクゴナガルは、あなたがケンタウルスについて学びたがっていると言っていましたが」

 石に腰掛け、しわにならないようローブとマントの裾を整えていると、フィレンツェがそう口にしながら近づいてくる。ジェーンは顔を上げ、ブロンドの髪に隠れた、宝石のように透き通る青い色の目を見つめた。

「ケンタウルスが人間をどのように認識しているかは存じ上げているつもりです。ですが、ケンタウルス担当室の室長として配属された以上は、あなた方と魔法省を繋ぐ入り口として、多少の結びつきは必要なのではないかと――」

「我々は魔法省と結びつくことを望んではいません」

「分かっています」

「先の戦いでヒト族に荷担したのは我々の森を護るため」

「ええ、そうでしょう」

「一時の気紛れを久遠の盟約であるかのように捉えられては迷惑です――というのが、禁じられた森に住まうケンタウルスの総意であると思っていてください」

 ジェーンはそうしたフィレンツェの物言いから、言葉とは違った意味の思いを感じ取っていた。おそらく、フィレンツェと他のケンタウルスとの間には、考え方の齟齬があるのだろう。この見るからに穏やかそうなパロミノのケンタウルスは、ジェーンが本を読んで知ったつもりになっているケンタウルスとは、明確に違うと言い切ることができる。初対面で握手を求めてきたのが良い例だ。

「あなた自身はどのように考えているのですか?」

「私個人の考えがケンタウルスの総意に反映されることはありません」その答えを受けても尚ジェーンが視線を逸らさずにいると、フィレンツェは表情の乏しい顔に、僅かな困惑を滲ませた。「私はようやく群に戻ることが許されたのです、ジェーン・スミス。もうしばらくホグワーツで教鞭を執ることさえ非難されているこの状況で、魔法省に味方するような発言をすれば、今度こそ永久に追放されてしまいかねません」

「それでもあなたは、再び群れから追放されるかもしれないリスクを冒してでも、教授として残ることを選んだのでしょう?」

「ほんの一、二年の間だけです。それでアルバス・ダンブルドアへの借りは十分に返せると考えています」

「なぜアルバス・ダンブルドアに借りが?」

「ケンタウルスの世界から追放された私をこのホグワーツに住まわせてくれました」

「でも、その原因を作ったのはアルバス・ダンブルドア本人なのでは?」

「アルバス・ダンブルドアの提案を受諾したのは私個人の決断です」

 数年前、魔法省大臣室付き上級補佐官の地位にあったドローレス・アンブリッジが、当時の魔法省大臣コーネリウス・ファッジの要請によって闇の魔術に対する防衛術の教授職に就いたとき、ホグワーツでは不必要な改革が行われようとしていた。本来は校長に決定権のあるホグワーツの教員の任命や教育方針に魔法省が口を挟み、最終的にはダンブルドアを校長の座から引きずり降ろして、アンブリッジを校長の席に据えるという暴挙に出たのだ。

 人は自身の身の丈に合わない地位を受け入れるべきではないとジェーンは思う。自分という存在を客観視することができれば、自分自身が校長の器でないことは理解できたはずだ。だが、アンブリッジには客観性が欠如していた。そして、正当性というものも持ち合わせてはいなかった。希少性のある能力を正しく評価することができていれば、カッサンドラ・トレローニーの玄孫に当たるシビル・トレローニーを解雇することはなかっただろう。

 だがしかし、魔法省大臣によりホグワーツ高等尋問官に任命されたアンブリッジは、ホグワーツに相応しくない教授を解雇することはできても、新たに雇用する権限を有してはいなかった。魔法省はホグワーツの校長が適当な人材を見つけ出せなかった場合に限り、ホグワーツの教職員を任命する権限を得るが、校長が相応しい人物を割り当ててしまえば、それを検分する権利はあっても、ただ気に入らないからという理由だけで処分を下すことは許されない。

 そして、アルバス・ダンブルドアの人選は正しかった。ケンタウルスは星を読み、草を燃し、過去と未来を精査する。それが占いの起源だ。本来であればケンタウルスのみが伝承してきた秘術を人間に教示するなどあり得ないことだが、フィレンツェはそれをすると決意した。結果的に群を追放されるが、それをダンブルドアの責任とは考えていない。

 だが、ダンブルドアは分かっていたはずだ。フィレンツェにホグワーツの教師になってほしいと乞えば、ケンタウルスたちの中でこの問題が提起され、最悪の事態を招きかねないと。そうした一つ一つの負の積み重ねが、互いの種族の溝を深くしていくのだと。

「……ああ、そうだ」

 そうなのだ。間違っているのは自分も同じなのだとジェーンは自覚した。そして、学んだ。この問題には誰も巻き込んではならなかったのだ。他者の善意を利用してはならない。それを考えることさえ罪深いことなのだと。

 自らの膝に頬杖をつき、どこか呆れたような、はたまた何かを悟ったような面差しでため息を吐いたジェーンを、フィレンツェは心なしか不思議そうに見た。

「あの魔法使いはある意味で死しても尚偉大なのかも」

「はい?」

「いいえ、何でもありません」ジェーンはゆっくりと頭を振り、その場に立ち上がった。「これ以上あなたの立場を悪くするような事態になることを、私も望んではいません」

 人間の世界も、ケンタウルスの世界も、実はそう変わらないのだろう。フィレンツェにも理解者はいるはずだ。しかし、だからといって群の中で水を得た魚のように生きていけるかといえば、そうではない。同じ種族同士ならば分かり合えるというのはただの幻想だ。反りが合う者もいれば、合わない者もいる。自ずと争いは生まれるが、それが当然のことであって、むしろそうでなければ、世界は死にたくなるほど退屈に違いない。

 それぞれの世界で平穏に生きていくためには、飲み込まなければならない問題が数多く存在する。ジェーンやフィレンツェはそうした問題と上手く折り合いをつけ、自分だけの心地の良い場所を見つけて、何かを諦めながら生きていた。己の我を通せば非難されるが、それは覚悟の上なのだ。

 だが、そうした自分をいつだって受け入れてくれる、見守っていてくれる誰かがいるのといないのとでは、心の在り様が変わってくる。今のフィレンツェにとっては、ようやく戻ることを許された禁じられた森や、そこに生きる仲間の存在が何よりも尊く、大切なのだろう。

「ケンタウルス担当室に異動を命じられた以上、この職務は全うしますが、そのためにあなたの力を借りようなどという愚考は捨て去ります」

「では、どうするおつもりです?」

「いずれ担当室を利用するケンタウルスが現れないとも限りません」

「あなたが魔法省の看板を掲げている限り、我々に受け入れられることはないと考えるべきです。あなたというヒトがどれほど真摯で、誠実で、ケンタウルスに対する慈愛に満ちていたとしても、それには何の意味もないのです」

「それは絶対に?」

「はい」フィレンツェはこくりと頷いた。「ケンタウルスは矜持の高い種族です。一度こうと決めたことは多くの場合覆りません。自らの意思をころころと変えるケンタウルスは、いずれ仲間からの信頼を失います。我々は他者から蔑まれることが何より許せないのです。そして同時に、侮られないための行動を心がけています」

「私は確かにケンタウルス担当室の室長ですが、必ずしもケンタウルスと懇意になりたいと思っているわけでは――」

「あなたの行いが仕事のためであれ、私情で行われるものであれ、我々がいちいちその理由に気を留めると思いますか?」僅かに眉間を寄せたフィレンツェは、根気強く言い聞かせるように先を続けた。「ケンタウルスがヒトに向ける感情は嫌悪と憎悪以外にはないと思っていてください。基本、ケンタウルスは自分たちの縄張りにヒトが足を踏み入れることを喜びません。他に比べればヒト族に理解のある我々の群ですら、数年前禁じられた森に足を踏み入れた魔法省の人間に、自分たちの法を行使しようとしました。ヒトが言うところの、非常に野蛮な法律で、です」

 数年前という言葉を聞いて、ジェーンはすぐさま該当の事件を思い出した。ドローレス・アンブリッジが禁じられた森に入り、一時的にではあるものの、ケンタウルスに連れ去られたというものだ。その事実を恥じたアンブリッジが真実を語りたがらなかったため、知っている者は多くない。ジェーンも詳しいことは知らなかった。

「ケンタウルスに連れ去られ、その法で裁かれるはずだった人間が、なぜ助かったのです?」

「私はその場に居合わせなかったので、この目で見たわけではありませんが、アルバス・ダンブルドアに救い出されたとか」

「でも、ダンブルドアはその時ホグワーツにいなかったのでは?」

「その日の夜にはホグワーツに戻っています」

 ジェーンは頭の中を整理する。ドローレス・アンブリッジがケンタウルスに連れ去られた同日、魔法省ではそれ以上の大事件が起きていた。ホグワーツを抜け出してきた生徒と死喰い人、不死鳥の騎士団を名乗る魔法使いらが神秘部に侵入した。そして、ヴォルデモート卿が姿を現したかと思うと、アトリウムではダンブルドアとの死闘が繰り広げられたのだ。

 当時魔法省大臣だったコーネリウス・ファッジは、ダンブルドアからの再三の警告を退け続け、ヴォルデモート卿の復活を決して認めようとはしなかった。それなのにもかかわらず、自らの周囲にはいつも闇祓いを配置し、常に怯えながら何かを警戒している様子だったことをジェーンは覚えている。

 結局のところ、ダンブルドアの言葉は正しかったと証明された。

「ダンブルドアは魔法省で例のあの人を撃退した後、ホグワーツに戻ってアンブリッジを救出した――まあ、あの偉大な魔法使いになら、その程度のことは造作もないことなのでしょうけれど」

 ジェーンは独り言を漏らすようにそう言うと、複雑な面持ちで頭を掻く。いっそのこと、そのままケンタウルスの法によって裁かれ、心神喪失状態にでも陥ってくれていたらよかったのにと、そう思わずにはいられなかったからだ。ドローレス・アンブリッジが療養のために魔法省を離れていれば、それだけで救われた命は数多くあったことだろう。返す返すも悔やまれるが、そうしたジェーンの物の考え方は、推奨されるべきものであってはならない。

「アルバス・ダンブルドアは常に我々を尊重してくれました。だからこそ、ケンタウルスはアルバス・ダンブルドアに敬意を払うのです。あの方の助けが入らなければ、あの魔法省の人間が解放されることはなかったでしょう。最悪の場合、命が絶たれていたかもしれません」

 むしろ、そうなることを望んでいたと言ったら、このケンタウルスはどのような反応を見せるだろうかとジェーンは考えた。残酷だと顔を顰めるだろうか。それとも、たいして興味もなさそうに「そうですか」と応じるのだろうか。

 だが、死して無に還れば、それで何もかもが終わってしまう。あの女は暗く冷たい独房の中で永遠に苦しみ続ければいいのだ。絶海の孤島で、荒れ狂う大海原を眺めながら、絶望し続ければいい。

 惜しむらくは、あの女は間違っても、自らの行いを後悔しないということだ。ドローレス・アンブリッジの辞書に殊勝という文字はない。あの歪んだ笑みを浮かべる唇から懺悔の言葉を聞くことは絶対にないのだ。自らの罪の半分をジェーン・スミスに擦り付けようとしたように、残り半分の罪も、そうせざるを得なくした世論に責任を負わせようとしたに違いないのだから。



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機知と叡智

「お前、昔はもっと活発な感じだったよな」

 後に魔法省の警察部隊で働くことになるスリザリンの少年が、レイブンクローの制服を着ているジェーンに言った。所属している寮も学年も違うが、時間と機会があれば、図書室で一緒に勉強をすることもあったのだ。その日も、二人は図書室の一角で隣り合って座り、それぞれに課せられた宿題を片付けていた。何のレポートを書いていたかまでは覚えていない。

 だが、雪が降っていたことは覚えている。秋から冬に移り変わろうとしている、狭間の季節だった。

「……何の話?」

 突然何を言い出すのだろうと思い顔を上げると、少年は机に頬杖をついた格好でジェーンを見ていた。

「ホグワーツに入学する前の話だよ。散々やめろって言われてるのに、庭を裸足で走り回った挙句、すっころんで怪我をしてもへらへらしていたようなやつが、今じゃ何かに憑りつかれたみたいに勉強してる」

「それ、何年前の話だと思っているの?」

「あのな、人間なんて生き物は、何年経っても根本的なところは何も変わらないもんなんだよ。ほら、俺を見てみろ、どこか変わったか?」

「全然変わらない」

「だろ?」

 たとえ何があっても変わらずにいられるのは、人間としての強さがあるからだ。確かに、この少年は出会った頃から何も変わってはいなかった。だが、あえてそのように振る舞っているということに、ジェーンは気づいている。

 厳格な父親は、息子が魔法使いだと分かると、途端に態度を一変させた。息子が魔法使いであるという事実を認めようとせず、それどころか、突き放すような態度を取ったのだ。ホグワーツから届いた入学許可証は何度も破り捨てられた。破り捨てられるたびに、また新たな入学許可証が送られてきたが、同じことだった。ジェーンの両親は、決して入学を認めようとしない父親の説得を試みたが、最後まで首が縦に振られることはなかった。

 最終的にはホグワーツの教授が自宅を訪ねてきて、魔法の力を保持した子供が、魔法学校で教育を受けることの重要性を説いた。力の制御を学びそびれた魔法使いの子供が、マグルの学校でどれだけの問題を起こすかを力説して聞かせたが、それでも、少年の父親は書類にサインをしようとはしなかった。

 困り果てていた教授に助け舟を出したのはユアンだった。自分が少年の後見人になると申し出たのだ。少年がホグワーツで学んでいる間のすべての問題は、自分が請け負うと約束をした。誰も反対はしなかった。

 しかしながら、少年はホグワーツ特急の切符を手にすると同時に、実の父親からの愛を失った。その数年後、魔法使いの兄が年に一度だけ帰ってくることを、家族の中でただ一人心待ちにしていた妹が、病死した。

 そうしたことのショックはあまりに大きかったはずだ。だが、少年はそれでも、何も変わらなかった。

「まあ、組み分け帽子がレイブンクローに入れたんだから、そういう気質は元々持ち合わせていたんだろうけどさ」

 ホグワーツからの手紙が届いたとき、ジェーン・スミスも、人並みにはドキドキ、ワクワクしたものだった。それはそうだろう、親元を離れる不安はあるにせよ、これから新しい生活が始まろうとしているのだ、期待の方が大きいに決まっている。

 だが、ジェーンの希望はあっという間に失われた。ジェーンの頭に乗せられた組み分け帽子が「レイブンクロー」と声を上げたそのときから、ハッフルパフの寮監ポモーナ・スプラウトが「スミス家の血筋がハッフルパフ以外の寮に選ばれるなんて前代未聞だ」と大勢の前で言い放ったときから、希な望みを抱くことさえなくなっていた。

 ジェーンにとって最も望ましかったのは、ハッフルパフに所属することだったはずだ。組み分け帽子は当初スリザリンに入れたがったが、最終的な選択は、適性とは程遠いレイブンクローだった。それがそもそもの間違いだったのだ。組み分け帽子は当人の素質よりも、当人が重んじていることを尊重するという。でも、まれに面倒臭くなって、適当に組み分けすることもあったのではないかと、ジェーンは真面目に考えていた。

 

 フィレンツェはまたケンタウルスについて知りたいことがあれば呼んでくださいと言い残し、禁じられた森に帰っていった。

 話が済んだら戻ってくるように言われていたジェーンは、森のような教室を後にすると、おそるおそる大理石の大階段を上って、律儀にも校長室に向かっていた。しかし、ちょうど廊下を曲がったところで、ガーゴイル像の間から出てくるマクゴナガルの姿を認め、少しだけ歩みを速める。すると、マクゴナガルはジェーンを視界の端に捉えたのか、身体をゆっくりとこちらに向けた。

「フィレンツェとのお話はもう済んだのですか?」

「はい、先生」ジェーンはマクゴナガルの前で足を止めた。「どちらかへお出かけですか?」

「修繕作業の進捗状況を確認に参ります。あなたもご一緒にいかがですか?」

「いえ、私は結構です」

 咄嗟に首を横に振るジェーンを見て、マクゴナガルは微かに苦笑いを浮かべる。今でもまだ大臣室付きの補佐官であったならば同行する義務が生じるだろうが、そうではない。今はケンタウルス担当室の室長に過ぎないのだ。自分には関係のないことだという言葉が、瞬時にジェーンの脳裏を過った。

「では、校長室で待っていてください。すぐに戻ります」

「え、あの、私はもう――」

 しかし、マクゴナガルには取り付く島もなかった。ガーゴイル像に合言葉を伝えて道を開かせると、ジェーンが校長室に向かうまでここを動かないと言わんばかりの表情を浮かべ、睨むように見てくる。

 そうまでして、一体自分に何の話があるのだと思いながらも、ジェーンは言われるがまま校長室に足を向けざるを得なかった。こんな自分にも親切にしてくれている、魔法生物規制管理部の部長の顔に泥を塗るわけにもいかないからだ。

 動く階段に足を掛けて後ろを振り返ると、マクゴナガルはいかにも満足そうな顔をして一度だけ頷き、ローブの裾を翻して廊下を歩いて行った。

 足を踏み入れた校長室は、例によって例の如く威厳と荘厳さを漂わせていたが、ジェーンが肌で感じていたのは、喧騒の後の一瞬の静寂だった。寸前までは大勢の人間が会話を交わしていたのに、部外者が現れた気配を察して全員が口を噤んだような、そうした違和感を覚えている。視線を方々から感じるのは、壁という壁に飾られている歴代の校長たちが、薄目を開けてこちらを観察しているからなのだろう。

 ジェーンは大きくため息を吐きながら後ろ手に扉を閉め、校長室の中程まで進み出た。辺りをぐるりと見回してみると、見慣れたものはもちろんのこと、見たこともないような魔法道具の数々が、棚の中に収められている。おびただしい数の蔵書があり、それらがまるで壁紙のように壁を覆っていた。

 ほんの少し前までは、セブルス・スネイプがこの校長室を使用していたはずだが、かの男の肖像画はどこにも掲げられていない。魔法省はスネイプを正式なホグワーツの校長とは認めておらず、また、歴代の校長と肩を並べられる存在ではないとも断じている。

 だが、ジェーンが調べられた範囲では、スネイプは十分に校長としての責務を全うしていた。少なくとも、セブルス・スネイプが校長に就任してから、その任を放棄する瞬間まで、ホグワーツに身を寄せていた生徒たちの命は護られていたのだ。

「――君は自身の組み分けに不満を持っていたそうじゃのう、ミス・スミス」

 その言葉は最も真新しい肖像画から聞こえてきた。ジェーンにも耳馴染のある声だ。そちらに目を向ければ、半月型の眼鏡越しに、青い色の目がこちらを見ていた。その目は生前と変わらない輝きを放ち、悪戯っぽく細められている。繊細な刺繍が施されたローブを身にまとう老人――アルバス・ダンブルドアが、目を覚ましていた。

「君は実に優秀な生徒じゃった。天才ではないが、万能じゃ。努力を惜しまず、勉学に励んだ。ああ、いや、今でも熱心に励んでおるのじゃろう」

 魔法族の肖像画には様々な形態があり、自我を持つと同時に、記憶の持続性が認められることもあった。だが、そうした肖像画を完成させるためには、描かれている当人の並々ならぬ努力が必要だ。描かれた肖像に自らの言葉と記憶を記録する作業のすべては、生前に時間をかけて行われる。

 もしこのダンブルドアの肖像画が、本当に自分のことを覚えているのだとしたら、一体どれほど膨大な量の記憶をこの肖像画に与えたのだろう――そう考えると、ジェーンはその肖像画に恐れを覚えずにはいられなかった。

「フィレンツェとの会話は有意義なものだったかね?」

「はい、先生」

「ふむ」ダンブルドアは柔和そうに笑った。「この通り、君には知に対する探究心がある。機知も備わっておる。賢さはレイブンクロー生の特権ではないが、君自身が間違いなくそれらの気質を有していたからこそ、組み分け帽子はレイブンクローに導いたのではないかな?」

 それはまるでホグワーツの学生に語り掛けているかのような口振りだった。優しく諭すような物言いだ。もしかしたら、学生の時分であれば、ジェーンもその言葉で納得していたのかもしれない。少しは穏やかな学校生活を送ることができていたのだろう。だがしかし、今となってはダンブルドアの言葉を盲信できるほど子供ではなかった。

「あの帽子は――」ジェーンはそう言って、校長室の高い場所で鎮座している、組み分け帽子を横目に見た。「私にはスリザリンが相応しいと言いました。でも、途中で考えを変えたのです。そして、私をレイブンクローのテーブルに向かわせました」

「もちろん、覚えているとも。スプラウト先生が酷く嘆いておったのう。これまで、ヘルガ・ハッフルパフの系譜を辿る者は、その多くがハッフルパフに所属していたものじゃが」

「スリザリンに所属していたとしても、いばらの道だったのだとは思います。ですが、きっとレイブンクローよりはよかった」

 ジェーンにはそう言い切ることができる。スリザリンには家族のように思っている人がいた。寮監はなぜか馬が合うセブルス・スネイプだった。少なくとも、幾人かの味方がいた。だが、レイブンクローにはそれがなかった。全員が敵のように感じられていた。

「私が他の誰よりも勉強に熱心だったのは、私を見下していた寮生たちに劣等感を植え付けるためでした。陰口を叩く愚かな人より賢くあるために、必死に勉強をしたのです。そうすればあの人たちを黙らせることができるだろうと思いました。でも、彼らは――彼女たちは、より陰湿でした」

 レイブンクロー生は異質を排除したがるのだ。横並びであることに安堵している。ずば抜けて優秀な者は、まるで抜け駆けをしたとばかりに敵視され、落ちこぼれは自らの安心のために利用されて、嘲笑の的となった。特異性は受け入れられない。ただ自分たちとは違うというだけで、当然のように否定をされた。

 おそらく、ジェーンが他の寮の内情を知り得ないのと同じように、他の寮生には分かりはしないのだろう。レイブンクロー特有のぎすぎすとした人間関係は、その後の人生に影響を及ぼすほど、時に酷く残酷なのだ。

 もちろん、すべてのレイブンクロー生がジェーンのような七年間を過ごすわけではない。むしろ、その方が少数だろう。レイブンクローで一生の友人に恵まれ、出会った誰かと結婚をし、幸せな生涯を送る者の方がずっと多いはずだ。

 だが、もしかしたら寮生たちはジェーンが思っていたほど、こちらのことを気に留めていなかったのかもしれない。ただの自意識過剰を拗らせて、自分の殻に閉じこもっていただけなのかもしれない。そう考えてみようとしたこともあったが、当時のことを思い出すほどに不快感が込み上げてきて、嫌な気持ちにさせられるのだ。

「非常に皮肉なことじゃが、そうした君自身の猛りすら感じさせる気概が、組み分け帽子にレイブンクローを選択させたのかもしれぬ」

「……組み分け帽子が選択を誤ることはないのですか?」

 ジェーンは、かつてスネイプにしたのと同じ質問を、ダンブルドアにぶつけた。まっすぐに向けられる真摯な眼差しを一身に受け止めたダンブルドアの肖像画は、たっぷりとしたあごひげをゆっくりと撫でながら、小さく唸り声をあげている。

「ここだけの話じゃが、わしも何度か組み分け帽子の選択に疑問を抱いたことはある。しかしな、ジェーン。あの帽子はいくら問い詰めても、自らの非を認めはせんのじゃよ。創設者らから与えられた自らの仕事を誇示すると同時に、絶対的な自信を持ってしまっておる。百有余年ほどしか生きなかったわしでさえ、多少は自分の行いに対して得意になってしまうことがあったのじゃ。千年以上も生き、同じ数だけ繰り返してきた自らの役割を否定されるというのは、想像を絶するほど腹立たしいことなのじゃろう」

 その言葉を聞きながらジェーンが頭上を見上げると、そこにあった組み分け帽子が、何か物言いたげにもぞもぞと動くのが分かった。寸前までただのしわのように見えていた場所に目や口の形を浮かび上がらせ、人間が伸びをするように帽子を縦に伸ばすと、これ見よがしに咳払いをした。

「私が組み分けを誤るか?」帽子は、ふん、と不満げに鼻で息を吐いた。「そんなわけがない。私の組み分けは常に正しい。創設者たちの意向を汲み、子供たちを然るべき寮へと組み分けているとも」

「なぜそう言い切れるのです?」

「では、私以外の誰に公平性のある組み分けができるというのだね?」

「公平性」

 果たして、歌って喋る魔法の帽子に公平性があるのかどうか、ジェーンには分からなかった。だが、それがホグワーツの伝統だということは理解している。駄々をこねたところでどうしようもないのだ。レイブンクローは嫌だと泣き叫んでも、組み分け帽子の決定が覆されることはなかっただろう。

「確かに、君にはスリザリン生としてやっていけるだけの素質があった」帽子はほとんど言い聞かせるような口振りで言った。「それは認めよう。君にはスリザリンの多くの生徒が持ち合わせている狡猾さと野心があった。何かを成し遂げたいと願う気持ちを強く持っていた」

 スリザリンに属する生徒の特性といえば、狡猾で野心家の他にも、臨機応変な行動力と決断力、鋭い洞察力を持ち、あらゆる事態に機転が利くなど、ジェーンの性質を言い表すような言葉が並べられている。対して、レイブンクローは知性を重んじ、独創性と創造力に優れた、孤高の魔女や魔法使いを受け入れるとされていた。

「だが、君がスリザリン生として七年間を過ごすためには、決定的に不足しているものがあった」

「それは?」

「それは――連帯意識だ」その思わぬ指摘に、ジェーンは目を丸くした。「君には絶望的なほどに協調性が感じられなかった。他者と力を合わせて何かを成し遂げることよりも、たった一人で成し遂げることを望んでいた。スリザリンは仲間意識が強い。しかしながら、君は馴れ合いを好まない」

「……たったそれだけの理由で?」

「重要なことではないか。七年間も価値観の違う子供たちと生活を送るというのは苦痛極まりないだろう。幸いにも、君には知性が備わっていた。レイブンクローは孤高であることも尊重している」

 こじつけだ、とジェーンは思った。帽子はそれらしい理由を並べ立てて自らの過ちを正当化しようとしている。

 そうしてジェーンが組み分け帽子に対して腹立たしさを覚えたのは確かだが、次に口を衝いて出たのは、大きなため息だった。

 心底呆れ果て、しらけ切って、何もかもが一瞬にしてどうでもよくなるような、ある種の空虚感を抱いた。こんなちっぽけな帽子の選択に左右され、貴重な人生の半分以上を無駄にしてきたのだと悟った瞬間、その愚かさを自覚して、自分自身を嘲りたくなる。

 イギリスの魔法界はあまりに狭苦しく、窮屈だ。人生のすべてがこのホグワーツで決まると言っても過言ではない。OWL、N.E.W.T試験の成績で将来が決定づけられ、魔法省でも花形と言われる職を得たものがエリートと呼ばれて、それ以外とは明確に区別をされる。安定などありはしないのに、大船に乗ったつもりになって、足許を見下ろしては安堵しているのだ。そうした者ほど、魔法省が陥落したときは脇目も振らずに逃げ出し、すべてが終息した後で、何食わぬ顔をして戻ってくる。

 どちらも自らの過ちを認められない者たちだ。人間の手によって作られた組み分け帽子も、所詮は人間以上の頭脳を持ち得ず、同じように思考することしかできない。意固地になってしまうのだ。人に頭を下げれば、自らの自尊心が傷つけられ、尊厳を踏みにじられたと錯覚してしまう。たった数度の過ちに頭を下げたところで、品位が損なわれることなどありはしないというのに。

 

 これ以上の議論は無意味だと判断したジェーンは、マクゴナガルが戻ってくると同時に口を閉ざした。組み分け帽子も沈黙し、ただダンブルドアの肖像画だけが、興味深そうにかつてのレイブンクロー生を眺めている。

「お待たせしてしまいましたか?」

 マクゴナガルは戻ってくるなり僅かに含みを感じさせる物言いでそう言った。ジェーンは表情を変えずに首を横に振る。

 例えば、生前のセブルス・スネイプが生徒の悩みをダンブルドアに相談していたのだとしても、ダンブルドアが死後肖像画になってまでその答えを導き出すための手伝いを買って出たのだとしても、それらすべてを理解した上でマクゴナガルが校長室に招き入れたのだとしても、ジェーンはそれに気づかないふりをする。

 ジェーン・スミスはもうホグワーツの生徒ではない。だが、かつてレイブンクロー寮に所属し、そこで七年という決して短くない年月を過ごしたことは、まぎれもない事実なのだ。必要だったのは、ただそれを受け入れ、認めて、自らの意思で別の道を選択していくことだったのだろう。奇しくも、ジェーンは既にその道を歩きはじめている。

 ジェーンの隣を通り過ぎ、ティーセットが揃えられたテーブルの前まで歩いて行ったマクゴナガルは、ポットを手にしてこちらを振り返った。

「お茶はいかがですか?」

 Would you like to have a cup of tea――? その酷く丁寧な誘い文句に、ジェーンは思わず苦笑いを浮かべた。



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対等

 ホグワーツを訪れてから一週間が過ぎた。その間、ジェーン・スミスは前任者たちが残した資料と風の噂だけを頼りに、ケンタウルスの群を探してイギリス中の森を飛び回り、簡単な調査を行っていた。

 フィレンツェにはやめておいた方がいいと言われてしまったが、それとこれとは話が別だ。ケンタウルスの再調査は必要事項であり、情報は常に最新の状態を維持しておきたいというのが、ケンタウルス担当室室長としての心情だった。魔法生物規制管理部の部長に言わせれば、そこまでする必要はないとのことだったが、仕事に関しては完璧を求めたがるジェーンにしてみれば、当然のことをしたまでと言わざるを得ない。

 とはいえ、ジェーンはケンタウルスと接触を図ろうとは思わなかった。精々森の入り口付近をうろうろし、近くに住居を構えている魔法族から話を聞いて、自分の存在を匂わせる程度の行動に留めておいた。いずれ何らかの理由で接触しなければならなくなった場合、何の努力もしていないよりかは、薄っぺらい既成事実でもあった方がましだろうと考えた結果だった。

「ケンタウルスはそういうヒト特有のずる賢さというか、計算高いところが好きになれないのだと思うの。中には変わり者もいるし、ヒトを好きだという個体も皆無というわけではないけれど、基本的にはそっとしておくことが一番ね」

 ケンタウルスが棲む森を領地に持つ女性はそう言ったが、何が本当に正しいことなのかなど、誰にも分かりはしない。

 

 ケンタウルス担当室はジェーンが思っていた以上に快適だったが、考えていた以上に退屈だった。

 この担当室は存在しはじめた瞬間から完結しているのだ。新たな進展は望めず、完結した状態のまま停滞し続け、それでも決して終わることがない。ここはまるで陸の孤島だ。朝から晩まで誰とも口を利かない日の方が多い。

 前任者は十年以上もケンタウルス担当室の室長を務めていたようだが、この退屈な時間をよく十年以上も耐えられたものだとジェーンは思う。一般的な神経の者ならば、まず一年ともたないはずだ。魔法省で最も落ちぶれた部署に送られ、給料泥棒と陰口を叩かれて、後ろ指を指される日々は苦痛だったに違いない。コーネリアス・ファッジの前、ミリセント・バグノールドが魔法省大臣だった時代に、魔法警察部隊からケンタウルス担当室に異動したと聞いているが、異動の理由は記録に残されていなかった。

 とてつもない不祥事を起こして異動させられたのだろうと考えるのが妥当だが、実際にそうならば記録が残されていないのは不自然だ。だが、どこを調べてもそれが出てこない。しかも、前任者は追い出されたはずの魔法警察部隊に十数年越しの帰還を果たしている。警察部隊からケンタウルス担当室に左遷されるような男が、再び警察部隊に返り咲くことなど、この魔法省では不可能に近いことだ。一度地に落ちてしまった評判は、そう簡単には覆らない。

 当のジェーン・スミスも、闇の魔法使いに屈し、金で己の命を買った意地汚い女、と陰口を叩かれていることは知っていた。どの面を下げて魔法省に居座っているのだと、陰口にもならない大声をエレベーターの中で浴びせかけられたこともある。罵倒など日常茶飯事過ぎて、いちいち気に留めることも億劫に感じていたが、そうした精神的苦痛は無関心を装っていても、少しずつ蓄積されていくものだ。

 魔法省は所詮ホグワーツの延長線上にある組織で、変に自信と知恵だけを身に着けた、プライドの高い集団が群れている職場だ。もちろん例外も存在するが、陰口を叩くような連中は総じて仕事のできない役立たずばかりだというのが、ジェーンの所見だった。

 

 魔法生物規制管理部の部長から、そんなに暇ならば手伝えと言われた仕事の書類に目を通していると、ジェーンは静まり返った廊下の先から足音が近づいてくることに気づいた。

 ジェーンはすぐさま放っていた杖を手に取り、乱雑に散らかっていた机周りを一掃して、外していた眼鏡を装着する。無意識に掻きむしっていたらしい赤い髪を撫でつけ、窓に映る自分の姿を見て、奇妙なところがないかを確認した。この数時間声を出すこともなく、自分の喉が正常に機能するかどうかも分からなかったが、その人物はこちらの都合など関係なく姿を現した。

「どうぞお入りください、大臣」

 案の定、少しかすれた声でジェーンがそう口にすると、丁度ノックをしようとしていたキングズリー・シャックルボルトは、その格好のまま僅かな間だけ身体を静止させた。解いていた髪を一つに結わえながら立ち上がるジェーンを見て目を丸くしていたが、すぐに苦笑いを浮かべる。

「君が千里眼の持ち主だったとは知らなかった」

「足音で察しはつきます」

「それは訓練次第で習得できる能力だろうか」ジェーンが指し示す簡素な椅子を一瞥してから、シャックルボルトは室内に足を踏み入れた。「大臣室を訪ねてくる相手によっては居留守をしたいときもある」

「相手の歩き方の癖を覚えることができれば」

「ほう?」

「大臣は身体の重心が僅かに左へ傾いています。左足に乗る体重が右足より僅かに重く、その分右足に対して左足を運ぶ動きが若干遅くなるので、足音が一定ではありません」

「……ほう」

 シャックルボルトはいかにも意味がありそうな険しい面持ちで相槌を打つが、すぐさま思い出したような表情を浮かべ、手に持っていた紙袋を差し出してきた。

「口に合えばいいが」

「ありがとうございます」

 ジェーンは紙袋を受け取りながら、もう一度キングズリーに向かってお座りくださいと椅子をすすめた。

 小洒落た紙袋にはイタリア語で店名が表記されている。ほとんど癖のようにお茶の用意をしながら袋の中を覗き込むと、ころりとした色とりどりのマカロンが、透明な容器の中に折り目正しく並べられていた。見るからに高級そうな菓子を持参してきたからには、ジェーンにとって何か都合の悪い話をけしかけてこようとしているのかもしれない。

 だが、前にやって来たときほど難しい表情はしておらず、むしろくつろいでいるようだ。新しく設置された窓の外に目をやり、何かを考えているような横顔は、どことなく何にも考えていないようにも見受けられる。

「それで、本日はどういったご用向きでしょうか」ポットからカップに紅茶を注ぎ、それを机の上に置きながらジェーンは問いかけた。「あの時計が故障していなければ、今はまだ執務の時間帯なのでは?」

 ケンタウルス担当室の壁に掛けられている時計の針は三時十五分を差している。アフタヌーンティーには丁度良い頃合いだが、そんなものは魔法省大臣室には無用の長物だったはずだ。

「質の良い職務のためには適度な休息も必要だろう」

「……冗談を言っているのですか?」

「いや、まさか」目を丸くするジェーンを見て、シャックルボルトは笑った。「私はまだ大丈夫だが、補佐官たちの疲労が日に日に色濃くなってきてな。書類のミスが目立つようになったので、今日はもう全員家に帰すことにした」

 それこそ何かの冗談だろうという顔でジェーンは愕然とするが、シャックルボルトは至って平然とした表情を浮かべている。

 まさか、それを本気で言っているのか、とジェーンは思った。大臣室がもぬけの殻になれば、魔法省全体の仕事の多くが滞ることになるというのに。

 そうした憤りの感情が顔に表れていたのか、シャックルボルトは小さく肩をすくめてから、目の前に出されたカップに手を伸ばした。

「そう怖い顔をしないでくれ、ミス・スミス。残りの仕事は私が責任をもって終わらせる」

「おひとりでですか?」

「他に誰がいるというのだね?」

 ふふ、と笑う顔を見ないようにして、ジェーンは手土産の紙袋をそっと引き寄せた。

 菓子を取り分けるための小皿を用意して戻ってくると、シャックルボルトはジェーンが机の上に置いたままにしていた書類を手にしていた。ティーカップを片手に書類を眺める様子はまるで、目覚めの紅茶を楽しみながらのんびりと新聞を読むような悠長さを感じさせる。

「これは君の仕事か?」

「ええ」

「そうは思えないが」

「お手伝いをしているだけです」

 ジェーンはシャックルボルトの手から書類を取り返そうとするが、目につく場所に置いていた自分が悪いのだと思い直し、出しかけた手を引いた。椅子に腰を下ろすと、透明なケースの中から鮮やかな色のマカロンを取り、それを口に運ぶ。

「それは実に興味深い」

 物言いたげな表情を浮かべつつも、シャックルボルトは一言だけそう言うと、書類を机の上に戻した。そして、自分の肌と同じ色のマカロンを指先で摘まみ、半分に割った一方だけを食す。それを吟味するようにゆっくりと咀嚼してから、もう一方のマカロンを口に放った。

「この一週間は出張続きだったそうだな」

「はい」

「何か収穫は?」

「各群れの個体数の増減に関しては何とも言えませんが、群れ自体の消滅は認められませんでした。とはいえ、私はケンタウルスが今も変わらず生活している痕跡を確認してきただけなので、報告書を提出するほどの収穫はありません。直接会って言葉を交わしたわけでもありませんので」

「調査はこれからも続けるつもりか?」

「可能であれば」

「そうか」

 ケンタウルスは難しい生き物だ。だが、人間が相手でもそれは同じだろう。どちらかといえば、対話の成り立たない人間を相手にする方が、ケンタウルスを相手にするよりも、ずっと厄介なのかもしれない。

 人間は一見同じ姿形をしているが、似て非なる価値観を持っている。たった一つの世界の中で生きているのに、それを見る目は千差万別だ。それならば、姿形が違い、まったく異なった価値観を持っている別世界の誰かとの方が、いっそ話をしやすいのかもしれない。自分とは何もかも違う存在だと分かっていれば、相手の態度に腹を立てることもないのだから。

「窓があるのとないのとでは、随分雰囲気が変わるな」

 シャックルボルトはこの場違いな世間話を楽しんでいる節があった。何か明確な目的があってやって来たのにもかかわらず、核心には触れまいとしているように感じられる。しびれを切らしてこちらから切り出すのを待っているかのような態度を目の当たりにし、ジェーンは内心でため息を吐いていた。

 ジェーンは橙色のマカロンを手に取り、シャックルボルトを睨むように見据える。しかし、シャックルボルトは素知らぬ顔で窓の外に目を向けていた。

「大臣はなぜ私を免職処分になさらなかったのです?」

「そうしてほしかったのか?」

「ええ」

 ジェーンが少しの躊躇いもなく、一拍の間も置かずに肯定する声を聞いて、シャックルボルトは改めてこちらに顔を向けた。その表情は不思議と穏やかに見える。

「仕事を辞められる良い機会でした」

「だが、君は辞めなかった」シャックルボルトは紅茶を口に含み、それを飲み込んでから続けた。「いつでも辞めることはできたはずだろう?」

 ああ、その通りだ、とジェーンは心の中で同意する。

 いつだって辞めることはできた。だがしかし、ジェーン自身の意志がそうさせてはくれなかった。

 そうすればよかったと思うことは度々ある。もうずっと前から辞めたいと思っていたのだ。それでも、心を無にして、苦痛を心の片隅に追いやって、何も感じていないふりをして、騙し騙し仕事を続けてきた。惰性のような使命感を抱いていたのだろう。我がことながら不可解だとジェーンは思うのだ。まるで、自らの意思で窮愁に落ち、自虐を楽しんでいるかのようだった。そう思わなければ、到底平常心など保ってはいられなかったのかもしれない。

「その気があれば、私から査問の話を持ち出されたときに申し出ていたはずだ」

「あのときは私が辞めると言ったところで――」

「もちろん、受け入れていたとも。ウィゼンガモットの中には度重なる召集に辟易している者も多かったからな。私の手間も省けたはずだ」

「……まさか、それを確かめるために事前に呼び出しを?」

 その問いかけを受け、シャックルボルトはすうっと目を細めた。相手を見定め、見透かそうとするかのような鋭い眼差しだ。

 ジェーンが僅かに身を強張らせると、シャックルボルトは目元を和らげ、口を開いた。

「君の目は光を失ってはいなかった。反骨精神が見て取れた。私が君を焚きつければ、必ず楯突いてくるだろうと思ったし、そう確信もしていた」

 ジェーンは唇を真横に引き結び、奥歯を強く噛みしめていた。なぜだか酷く侮辱されたような気持ちになる。良い気分はしなかった。

 この男は――この魔法省大臣は、最初から自分を試していたのだと、ジェーンは瞬時に理解した。こちらを挑発するような物言いも、いやにしおらしく思えた態度も、下手に出るかのような振る舞いも、すべてが計算の内だったのだ。自分の出方によって、相手がどのような姿勢を見せるのか、それを見極めたかったに違いない。なぜそれに気づけなかったのか、ジェーンは己の迂闊さを恥じた。

「だが、君があそこまでの拒絶反応を見せたのは想定外だった。査問会での様子を見るかぎりでは、君はもっと勇ましい人間だと思っていたからだ」

「それは皮肉ですか?」

「いいや」シャックルボルトは思いの外真摯な面持ちのまま首を横に振った。「君にも人並みの弱さがあると分かって、むしろ安堵した。あの劣悪な環境下で最後の最後まで持ち堪えていた者の精神が無傷であるとは到底思えないからな。だが、君があまりに毅然としていたので、私もごまかされてしまった。先日は配慮に欠けた提案をしてしまい、申し訳なく思っている」

 ジェーンはどのような顔をすればいいのか分からず、眉根を寄せた表情のままシャックルボルトを見ていた。

 こうして素直に謝られてしまっては、責めるのも野暮というものだ。しかしながら、それでは気がおさまらない。ジェーンは今すぐに怒り出したいような、恥ずかしいような複雑な感情にさいなまれ、妙に居た堪れない気持ちになった。

「大臣室付きに戻ってきてほしい気持ちに変わりはないが、無理強いをするつもりはない。君には休息が必要だと理解している」

 ジェーンは何も言うことができなかった。憤ろしい思いに駆られていることは確かだ。しかしながら、この程度の言葉でほだされる女であったなら、もっと楽な人生を送ることができていただろうとも思う。そもそも、この魔法省大臣が本心から語っているかどうかなど、ジェーンには分からないことだ。

 シャックルボルトのカップが空になっているのを見たジェーンは、ポットの中に残っていた紅茶を無言のまま注いだ。湯気を立ち上らせる液体はうっすらと黄色味がかり、ほのかに花のような香りを漂わせている。この香りが鼻孔をくすぐると、荒んだ心が少しずつ潤っていくような気持ちになるが、釈然としない感情は未だに居座り続けていた。

「……ここの前任者は実に優秀な男だった」

 ポットから滴る最後の一滴がカップに落ちる様を眺めながら、シャックルボルトが唐突に言った。そして、不可解そうな顔をしているジェーンに視線を移し、再び口を開く。

「ミリセント・バグノールドの采配は正しかったわけだ」

「……何の話をしているのです?」

「バグノールドはケンタウルス担当室を一種の避難所として利用した――と私は考えている」本人から聞いたわけではないからな、とシャックルボルトは続けた。「ここの前任者は元々は魔法警察特殊部隊に所属していた。ヴォルデモート卿の全盛期時代には、部隊を取り仕切る立場にあったが、ヴォルデモート卿が失脚すると同時に辞職を申し出た。大勢の部下を亡くし、それを自らの責任だと考え、すべての誇りを失ってしまった」

 きちんと塞がっていなかったポットの蓋が、かたん、と鳴った。ジェーンは両手で抱えるように持っていたポットを傍らに置くと、呼吸を整えた。周波数を急いで調整し、ラジオのチャンネルを合わせるように、自らの思考をシャックルボルトに近づけようとした。

「バグノールドは、私が君に感じたのと同じように、ここの前任者を手放すには惜しい人物だと考えたのだろう。だが、彼の傷ついた心を癒すためには相当の時間を有するだろうと予測し、考え得るかぎりで最良の決断を下した」

 かつてヴォルデモート卿がその猛威を振るっていた時代があった。魔法省にも多くの犠牲が出た。誰かが責任を負わされたに違いない。魔法警察特殊部隊を指揮する立場にあったのなら尚のこと、方々から心にもない言葉で責め立てられたことだろう。

 当時と比べてしまえば、この一年間など酷く生易しいものだったはずだと、ジェーンは思う。

「魔法省を辞めたがっていた男を説得し、表面的には多くの責任を負わせる形で魔法警察特殊部隊の任を解くと、ケンタウルス担当室送りにした。当時、彼は数々の汚名を着せられたが、死んでいった仲間たちの無念を思えば些末なことだったと言っていたよ。彼は多くのものを背負い、背負わされ、それでも黙したまま、十年以上ものを時をこの担当室で過ごしていた」

「……それで、あなたは過去の魔法省大臣に倣い、私をケンタウルス担当室に送ったと?」シャックルボルトはジェーンの問いに答えなかったが、否定もしなかった。「いつからです?」

「何がだ?」

「いつから私をケンタウルス担当室に異動させようと画策していたのですか?」

 最初の質問がそれかと言うふうな呆れた表情を見せ、シャックルボルトは小さく肩をすくめる。僅かに身を乗り出し、机の上に置いてあるケースの中からマカロンを選びながら、口を開いた。

「査問会が行われる前だ。より厳密に言うと、君を大臣室に呼び出す前から決めていた」

「本当に?」

「なぜ疑う?」シャックルボルトは言いながら首を傾げた。「私は君を手放すには惜しい逸材だと考えていた。だが、裁判の最中に被疑者の口から度々その名が挙げられる人物を、ウィゼンガモットのお歴々連中が黙って見過ごすとは思えない。無駄に矜持ばかりが高い連中を黙らせるためには、その御心を愉悦で満たしてやるしかなかったわけだ」

「愉悦、ですか」

「連中にとっての悦びは解雇や免職などという苦痛ではなく、半永続的に続く辱めだ。だが、その感覚は長く持続しない。すぐに飽きるからな」

 ジェーンは一瞬、この男の本性を見たような気がした。根っからの優等生気質なのかと思いきや、それは表の顔で、実際のところは違っているのかもしれない。物事を真正面から捉えるのではなく、斜に構えた状態で傍観し、良いところを持ち逃げしていくタイプの人間だ。要領の良い生き方を心得ているからこそ、先の戦いでは生き残り、こうして魔法省大臣の椅子に座っている。

「もちろん、誤算はあった。君の善行には正直なところ驚かされたからな。だが、それは私にとって良い誤算だった。ただ忠実なだけの部下よりも、独自に判断し、決断を下せる者の方がずっと好ましい」

「私が上司の命令に従って人殺しを行っていたことには目を瞑るとでも?」

「より大きな善のためには必要なことだ――とは言わないが、すべてが終わったときに見えている世界がより良いものであるならば、多少のことには目を瞑ろうと思う」

「ここでグリンデルバルドの言葉を引用するのは悪趣味かと」

 軽蔑するような眼差しを受けたシャックルボルトは、目を伏せたまま少しだけ笑い、選び取ったマカロンを丸ごと口に放り込んだ。念入りに味わっている様子は満足げだ。ジェーンは大きくため息を吐くと、すっかりぬるくなってしまった紅茶を喉に流し込んだ。

「君の仕事ぶりに関して私から言うべきことはない。自らの身を護るために取った行動を責められるのなら、闇祓いとしての職務を放棄して逃亡した私の行動も責められて然るべきだ。こんな私に魔法省大臣が勤まるものかと思うが、白羽の矢が立ってしまったのだから仕方がない。せめてもの罪滅ぼしだと思って、イギリス魔法界の復興のために尽力するつもりだ」

「……それがあなたの素直なお気持ちですか」

「墓穴を掘った私とは違い、君は最後まで死喰い人相手に尻尾を見せなかった。ジェーン・スミスの不屈の精神こそ称えられるべき行いだ。現役の魔法省大臣として感謝の言葉を贈りたいが、君はそれを良しとしないだろう」

「私は魔法省大臣に称賛された程度では大臣室付きには戻りません」

「ああ、そうだろうとも」

 シャックルボルトはそう言うと、カップに残っていた紅茶を飲み干し、椅子から立ち上がった。

「君のおかげで良い休息になった。私は大臣室に戻って残りの仕事に取り掛かるとしよう」

「何かお話があってここにいらしたのでは?」

「話ならもう済んでいる」

 にやりと笑ったシャックルボルトは、先ほど目を通していた机の上にある書類をこつこつと指先で突き、ジェーンを見た。

「これは急ぎの仕事だ、今日中に上げてくれ」

「……分かりました」

 シャックルボルトはその魔で踵を返し、ローブの裾を翻して、ケンタウルス担当室を出て行った。

 遠ざかっていく足音を聞きながら前髪を掻き上げたジェーンは、ため息を一つ漏らしてから、魔法省大臣が興味を示した書類を手元に引き寄せる。数十枚と重ねられたその書類の一枚一枚には、それぞれに人物写真が貼り付けられ、大きく『死亡』のスタンプが押されていた。



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大臣室

 ジェーン・スミスの手で書かれた死亡届の数は百件以上にも渡った。しかしながら、死亡届を提出すれば、それですべてが万事解決するわけではない。代わりの死体を調達し、逃走ルートを確保して、場合によっては、当面の間だけでも身を隠せる場所を用意してやらなければならないこともあった。

 アズカバンでは、死喰い人やその手先の者が度々姿を現し、マグル生まれの処刑を楽しんでいた。アズカバン送りにされたマグル生まれたちの死因は、吸魂鬼のキスばかりではない。人間狩りは普通に行われていた。杖を奪われた魔女や魔法使いを磔の呪文で苦しめ、服従の呪文で快楽を得て、気が済むまで蹂躙した。辱めを良しとせず海に身を投げる者もいた。

 そうした者たちに不自然に思われないためには、それなりの工作が必要不可欠だった。あわや、ということがなかったわけではない。忘却術を使用したこともある。肝を冷やしたことは一度や二度ではなかったが、ジェーンとかかわりを持ったマグル生まれの人々の多くは、今も無事に生きているはずだ。

 だが、残念なことに、すべての人を救ってやることはできなかった。返す返すも悔やまれるが、冷静に考えれば、そのようなことは到底不可能だったのだと分かる。人間一人の手が届く範囲などたかが知れているのだ。ジェーンの手で救うことのできた命は百余人と数としては少なかったのかもしれないが、上出来だと褒められるくらいの働きではあったはずだ。

 

 こうして当時のことを思い返していると、ジェーンは未だに無念や後悔、懺悔の気持ちに苛まれることがあった。眠れない夜を過ごすことも、悪夢にうなされることもある。そうした現象は徐々に薄れていくだろうという当人の期待をよそに、それはむしろ、最近になってより強い感覚となって脳裏を過っていた。忘れようとすればするほどに、鮮烈な記憶がよみがえっては、ジェーンを苦しめた。相談する相手がいないというのも、心的な外傷を助長させる一要因なのかもしれない。

 

 魔法生物規制管理部の部長から預かった仕事は、ジェーンがこの一年間で提出した死亡届の確認と訂正作業だった。

 これが実に面倒で、書類上は既に死亡している人間を生き返らせるためには、いくつかの手順を踏まなければならない。大臣室付きにいた頃は、まさか自分がこうして事後処理に追われることになるとは思ってもおらず、手順の簡略化について根回しをすることすらしていなかった。すべてを他人任せにしようとしていた自分に落ち度があったのだと考え、ジェーンはひたすら料紙にペンを走らせるしかなかった。

 次から次へと届けられる書類を開封しては、ため息を吐く。ようやく終わりが見えてきたと思うと、新たな書類が届けられた。それでも何とかすべての仕事を片付けた頃にはもう、時刻は午後九時を回ってしまっていた。

 ジェーンは久しく感じていなかった目の奥の傷みを妙に懐かしく思いながら大きく伸びをする。酷く凝り固まっていた肩と背中の筋肉をほぐすと、僅かに背筋が痺れるような感覚の後で、全身に熱い血潮が巡るのを感じた。以前はこうした作業を苦も無くこなしていたのだから、何かを怠るということは、安息を手に入れる一方で、これまでに獲得した能力の一部を失うことにもなり得るのだろう。継続は力なり、とはよく言ったものだと、ジェーンは思う。

 

 清書を終えた書類をファイルにまとめてから、ジェーンはそれらを抱えてケンタウルス担当室を出た。省内に残っている人の数はあまり多くない。残業を強いられている者の他は、魔法法執行部や魔法事故惨事部、魔法運輸部など、二十四時間体制で魔法省に詰めている部署の夜勤担当の者がほとんどだ。

 魔法生物規制管理部がある地下四階はひっそりと静まり返っていた。廊下には自分の足音が反響するばかりで、昼間の騒がしさからは程遠い静寂が、暗闇の中に溶け込んでいる。部長には、書類は直接魔法省大臣に届ける旨を知らせてあるので、問題はない。

 エレベーターは途中止まらず、ジェーンは誰とも顔を合わせることなく、地下一階に到着した。通常であれば一度補佐室を通してから大臣室に向かうのが礼儀だが、今日は全員家に帰したと話していたので、顔を出すだけ無駄だろう。そう考えたジェーンは、エレベーターの中で腕に抱えたファイルを抱え直すと、待合室を抜けてまっすぐに大臣室を目指した。

 ジェーンは、こんこんこん、と素早くノックをした。腕の中から滑り落ちそうになったファイルを慌てて支え、すぐに姿勢を正すが、待てど暮らせど返事はない。もう一度ノックをしても返事はなく、不可解に思ったジェーンは、扉の取っ手に手を伸ばした。留守にしているのかと思いきや、取っ手は何の抵抗もなく回り、重厚な木の扉は音もなく押し開かれた。

「……」

 返事がなかった時点で予想はしていたことだった。ジェーンは脱力するようにため息を吐いてから大臣室に足を踏み入れ、誰も見ていないのを良いことに、足を使って扉を閉めた。

 キングズリー・シャックルボルトは机に伏せて居眠りをしていた。ちょっとした仮眠のつもりなのか、無意識下で意識を手放してしまったのかは分からない。だが、残りの仕事は自分が終わらせておくと言っておきながら居眠りに興じるとは、些か格好の悪い話だとジェーンは思う。しかしながら、ヴォルデモート卿が斃れてからこちら、魔法省大臣は休みらしい休みを取っていないのだ。たまには我が物顔で大臣室を出入りする補佐たちを締め出し、自分の配分で仕事をしたいという気持ちも分からなくはなかった。

 執務机に歩み寄ったジェーンは、机上に散らかっている書類に素早く視線を走らせた。少なくとも、今すぐどうにかしなければならないものはないようだと確認してから、抱えていたファイルを机の端に置く。それから、シャックルボルトの身体の下敷きになっていた紙をそっと引っ張り出し、しわになった部分を魔法で伸ばしていると、とある字面が目に飛び込んできた。

 

≪ロドルファス・レストレンジがアメリカ合衆国に渡った可能性について――≫

 

 ホグワーツの戦い後、多くの死喰い人やその傘下、スナッチャーたちが捕えられた。命を落とした者も多い。中には逃亡した者もいる。その中で、魔法省が最も重要視し、同時に危険視しているのが、ロドルファス・レストレンジだった。ヴォルデモート卿の右腕と称されていたベラトリックス・レストレンジの配偶者で、死喰い人の幹部としてそれなりの立場にあったとされている男だ。魔法省に顔を見せることはなかったので、ジェーンとの面識はない。

 第二次魔法戦争直後から、魔法省大臣は闇祓いに逃亡したロドルファス・レストレンジの捜索を命じていた。しかしながら、レストレンジの行方は杳として知れぬまま、その捜査網は今や国外にまで広げられている。ヨーロッパ各国の魔法省には既に手配書を送っているものの、どうやらかんばしい返答は得られていないようだ。ジェーンがさっと目を通した闇祓いの報告書には、捜索は難航している旨が事務的に記されていた。

 キングズリー・シャックルボルトが抜け、幾人かが殉職した闇祓い局の現状は、おそらく未だかつてないほど悲惨な状態だ。適性検査と訓練課程を終え、ようやく闇祓いとして働きはじめたばかりのニンファドーラ・トンクスを失ったのも、相当な痛手だろう。だからこそ、魔法省大臣は即戦力となる闇祓いの増員を急いでいる。もし、逃亡した死喰い人たちが新たな軍を築き、それを従えてこの弱り切っている魔法省に攻め入ってきたとしたら、それを迎え撃つだけの余力が現状残されているかどうかは、甚だ疑問だ。

 机に突っ伏したまま微かに唸り声をあげたシャックルボルトに横目を向け、ジェーンはほんの少しだけ哀れに思いながらその横顔を見た。何でも一人で解決できる者の性は理解しているつもりだったからだ。下手に他者の力を借りるよりも、自分一人で片付けてしまった方が早く、楽であることを知っている。悪く言えば、頼ることに慣れていないのだ。この男はそもそも、そうした性質の人間なのではないかとジェーンは思っていた。本当であれば、大勢の者の上に立つべき人間ではないのかもしれない。それなりの地位を与えられたとしても、ある程度の自由は認められていた方がずっと、自らの力を発揮することができる。

 もちろん、魔法省大臣の椅子に座ることを選んだからには、その職務をまっとうするだけの覚悟と自信があるのだろうが――ジェーンは大臣室内にあるクローゼットからマントを一着取り出してくると、それをシャックルボルトの肩に掛けてやった。

「さて、と」

 ジェーンは手にした杖をくるりと回し、足の長いスツールを呼び出した。それに軽く腰を掛けると、机の上に散乱している書類を軽く仕分け、早急さを求められるものから順番に並べていく。ペンスタンドに立っていた純白の羽ペンを拝借し、不要な紙の裏側にメモを残しながら、いかにすれば魔法省大臣にかかる負担が必要最低限で済むかを考えていた。

 補佐官の務めは様々あるが、魔法省大臣に降りかかる過重な負担を可能なかぎり取り除き、補助をすることが一番の仕事だとジェーンは定義していた。

 魔法省中から日々寄せられる案件の量はあまりに膨大で、魔法省大臣一人きりでは到底さばき切れるものではない。補佐官はそれらを精査し、より重要度の高いものだけを魔法省大臣に任せるのだ。それ以外の種々雑多なものは、個々人の責任の下で処理することになっている。どれだけ些細な案件でも最終的には大臣の指示を仰ぐことにはなるが、仕事としては書類に目を通し、サインをするだけの状態に仕上げておくのが慣例だった。

 忙しさでいえば、魔法省大臣よりも補佐官の方が上かもしれないが、補佐官が行う業務は個別に評価されることはない。特に下級補佐官の功績は上級補佐官に持ち逃げされ、罪過は当たり前のように押し付けられる。ドローレス・アンブリッジのように恥も外聞もかなぐり捨てて、ただただ上司を持ち上げ、愛想を振りまいて懐に入り込み、大臣のお気に入りという不動のポジションを狙うのでなければ、相当な忍耐力を必要とする仕事だ。現状、補佐官として大成するためには、多くの月日を要することだろう。魔法省大臣の最も近くで仕事をしているからといって、それが成功の近道になるとはかぎらないのだ。

 

 ジェーンが口許に手を添えながら書類に目を通していると、不意に、視界の端が明るくなるのを感じた。反射的に顔を上げると、丁度視線の先にあった豪奢な暖炉に火が入り、炎の中に何者かの生首がひょっこりと現れる。

 ジェーンにはその顔に見覚えがあった。暖炉の煤でも吸ってしまったのか、げほんごほんと咳き込んでいる生首の様子を見に行くために立ち上がり、急ぎ足でそちらに向かう。

「ご無沙汰しております、議長」

 そう声を掛けながら暖炉の前で膝をつくと、その人物は大きく咳払いをしながらジェーンを見上げた。一瞬訝しげな面持ちを浮かべるものの、ジェーンの顔に焦点が合うと、こわもての顔からは想像のつかない愛想の良い笑顔を見せた。

「これはこれは、ミス・スミス」男は好奇心に満ちた目でジェーンを見た。「私の記憶違いでなければ、君は確か、その大臣室から追い出されて久しかったはずだが」

「おっしゃるとおりです、議長」

 ジェーンは素早く肩越しに振り返って後方を確認するが、シャックルボルトが起き上がる気配は今のところない。ジェーンがこうして膝をついた格好をしているのも、魔法省大臣が居眠りしている姿を見せないためなのだが、そうした気遣いなど当人には知る由もなかった。

「今日は書類を届けに――」

「こんな遅い時間にかね?」男は僅かに目を伏せ、腕時計を覗き込むような仕草を窺わせた。「こちらは午後五時なので、そちらは十時くらいだろう。君の栄転先はケンタウルス担当室だ。残業には縁遠い部署だと思うのだがね」

「……さすがはMACUSAの議長殿、英国魔法省の内情にまでお詳しいとは恐れ入りました」

 ゆるく笑みを浮かべながら皮肉っぽいことを口にするジェーンだったが、男に堪えた様子はない。それどころか、もっといじり倒してやろうという思いが、暖炉の炎越しに透けて見えていた。

 MACUSAとはアメリカ合衆国魔法議会の通称だ。イギリスの魔法省大臣室はアメリカの魔法議会とも定期的にやりとりをしているので、大臣室付きだったジェーンにはもちろん、その議長とも面識があった。MACUSAの議長はこわもてだが人好きのする性格をしていて、思慮深い一面も有している。

「亡命にご協力してくださったことに関しては心より感謝しておりますが、他国の煙突飛行ネットワークを無断使用するのはご遠慮ください。本来、魔法省大臣室の暖炉はネットワークから隔絶されているものなのです」

「だが、不正に侵入する手段を私に教えたのは君だ、ミス・スミス」

「国家の非常事態でしたので」

「それについては理解している」

「議長」

 ジェーンが呆れの中にも厳しさを滲ませた声を出すと、議長は僅かに首をすくませながら、片方の口角だけを持ち上げて笑った。

「こちらとしても、君がそこにいることは想定外だった。今日はMACUSAの議長としてではなく、友人として、キングズリー・シャックルボルトに個人的な話があったのでね」

「大臣でしたら――」

 あいにく席を外している、と口にしようとしたジェーンの肩に、そっと何者かの手が触れた。小さく肩を震わせてから背後を振り仰ぐと、暖炉に浮かび上がる顔をまっすぐに見ているシャックルボルトの姿があった。その横顔には、寸前まで正体もなく眠っていた名残すらなく、すっかり魔法省大臣の顔で魔法議会議長と対峙していた。

「お待たせして申し訳ない、議長」

「彼女を補佐官に戻したとは聞いていなかった」

「まさか」ジェーンに手を貸して立ち上がらせると、シャックルボルトは暖炉の前に立った。「私がどれだけ懇願しても、彼女は首を縦には振らないでしょう」

「そうだろうな」議長は何か含みのありそうな口振りでそう言ったが、すぐに表情を改めると、声色を変えて先を続けた。「さて、そろそろこの体勢にも疲れてきたので、用件だけを手短に伝えるとしようか」

 確かに、暖炉に上半身だけを入れた姿勢は、いつまでも保ち続けられるものではない。不要な時間を使わせてしまったことに多少の申し訳なさを覚えながら、ジェーンは数歩後退ってから、くるりと踵を返した。手に持ったままだった書類を机に置き、退室の準備をはじめる。しかし、議長はそれを待たずに話し出してしまった。

「お訊ねの死喰い人の残党――ロドルファス・レストレンジの件だが、今のところめぼしい情報は得られていない。捜索隊にMACUSAの闇祓いを数名投入しているが、足跡は一切辿れない。君はこちら側の大陸に落ち延びたのではないかと考えているようだが、海を渡っていない可能性の方が高いだろう」

「近隣の国は」

「どこへ行くにしてもアメリカを経由するはずだ。その形跡がないということは、ヨーロッパのどこかにいるか、未だ国内に潜伏しているか」

 MACUSAは他国から流入してくる犯罪者の取り締まりに関しては、鷹のように厳しい目を持っている。捜査態勢が完成されているので、そう簡単に議会の目を掻い潜ることはできないはずだ。議長の言葉をそのまま受け取るならば、ロドルファス・レストレンジは海を渡ってはいないのだろう。だが、裏社会に精通している者を懐柔することができれば、議会に悟られることなく身を隠すことは可能かもしれない。

 しかしながら、それはどこの国に対しても言えることだ。あらゆる手段を講じれば、このロンドンに身を潜めていたとしても、魔法省から完璧に姿を隠すことはできるのだから。

「近いうちにMACUSAから正式な文書が届けられるはずだが、君には私の口から直接話しておこうと思ってね。あわよくばイギリスの魔法界に恩を売れるチャンスだと考えていたのだが、残念だよ」

「いえ、大変感謝しています、議長。我々の手助けが必要なときは、何なりと。助力は惜しみません」

「それは実に心強い」

 すっかり出て行くタイミングを逃してしまったジェーンは、そ知らぬふりをしながら、手持ち無沙汰に執務机の上を整頓していた。けれど、丁度別れの挨拶に差し掛かったところで思い出したように名前を呼ばれ、頭を抱えたくなる。どうか余計なことは言ってくれるなと思いながら暖炉を振り返ると、議長と目が合った。議長はすうっと目を細め、口を開いた。

「私が以前君に伝えた言葉は、今もまだ生きていることを覚えていてくれ」

「……分かりました」

「一度環境を変えてみるのも悪くはないだろう?」

 議長はジェーンに向かってそう言ってから、シャックルボルトと二、三言葉を交わし、暖炉から跡形もなく姿を消した。

 シャックルボルトは暖炉を見やったまま少しの間考え込んでいた様子だったが、ふわあ、と大きな欠伸を漏らしたかと思うと、ジェーンを振り返る。

「ついついうたた寝をしてしまった」

「私の目には熟睡しているように見えましたが」

「ほんの二、三十分のことだ、大目に見てくれ」

 少しだけ申し訳なさそうな面持ちを浮かべながら、シャックルボルトは執務机に戻っていった。ジェーンは椅子の背凭れにかけられていたマントを受け取り、それをクローゼットに戻すために歩きながら話し続けた。

「大臣が眠っている間に、大臣が起きていれば片付けられたであろう仕事は、私が精査しておきました。それらを簡単にまとめたメモがあるので、すぐに確認してください。それから、私の所見ではありますが、今日中に終わらせておいた方がいいものと、明日でも間に合うものとに仕分けておきました。ご参考までに」

「君が持ってきた書類はどれだ?」

「机の端にあります」ジェーンはクローゼットから取り出したハンガーにマントをかけながら答えた。「部長は大臣に受理していただくようにと」

「胸が躍る仕事だな」

 そう言ってファイルを手に取ったシャックルボルトは、早速その中身に目を通しはじめる。ジェーンはクローゼットの戸の陰からその様子を眺めていたが、程なくして、シャックルボルトには届かないほど小さく息を吐き出した。頭の中の葛藤には気づかないふりをして、クローゼットの戸を静かに閉める。

 もとよりジェーンの役割は自らがやり遂げた仕事を大臣室に運ぶまでが本分であり、それ以上のことを求められているわけでも、強いられているわけでもない。やりたいか、やりたくないかでいえば、やりたくはなかった。しかしながら、やるべきかやらざるべきかでいえば、前者を選択してしまう程度の人情は持ち合わせている。

「……コーヒーと紅茶、どちらを飲まれますか?」

 ジェーンがそう問いかけると、シャックルボルトはやや意外そうな顔をしてこちらを見やった。すぐに視線を逸らしたものの、何やら機嫌が良さそうに破顔し、手元の書類に目を落としながら口を開く。

「コーヒーをいただこうか」

「では、隣の部屋で淹れてきます」

「ああ」

 もっと薄情になれたならと思う。もっと無責任になれたなら、どれだけ楽になるだろうと考える。見て見ぬふりをすることができたなら、自分の生き方に息苦しさを覚えることも、不必要な苦労を背負い込むこともないのだろう。だが、どうしても薄情にはなりきれない。無責任に振る舞うこともできない。見て見ぬふりをするよりも、手を差し伸べる方を選択してしまうのだ。

 昔、お前のそれはただの偽善だと言われたことがあった。お前のそれは善意や優しさなどではなく、自分という存在を他者に認めさせるための手段にすぎないのだと、言葉を浴びせられたことがあった。他者を通さなければ自分を認められない弱い人間なのだと言われ、当時のジェーンは妙に納得してしまった。自分は他者に感謝をさせ、それを甘んじて享受することで、かろうじて自我を肯定しているに過ぎなかったのだと、思い知らされた。

 そういう人間にとって、このイギリスの魔法界はあまりに狭く、生きにくい。ふとした瞬間に、その場で見境なく叫び出したくなるような思い出がよみがえり、羞恥心を煽られる。ここではないどこかへ行けば、この筆舌に尽くしがたい思いが消えてなくなるというのであれば、今すぐにそうしたいと、ジェーンはいつも思っていた。



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嵐の前の何とやら

 身近で目の当たりにする魔法省大臣の仕事ぶりは感嘆に値するものだった。一見すると無駄があるようにも思えるが、自らで定めたルールがあるのか、いくつかの作業を並行して行うことで、むしろ効率が上がっているように感じられる。早急さを求められているものから順番に片付けていくジェーンには慣れない工程だが、万年人手不足が嘆かれている闇祓い局で働いていたのだ、いくつもの仕事を同時にこなすことには、何の苦も感じないのだろう。乱雑に見えた机周りも、当人には意味のある配置だったのかもしれない。

 余計なことをしたと反省しながら書類の精査を行っているジェーンの傍らでは、キングズリー・シャックルボルトが濃紺のインクにペン先を浸し、書類の一枚一枚に目を通すと、文末にサインを書き込んでいた。飾り気のない書体だが、誰の目から見ても誠実さを窺わせる、丁寧で、どこかやわらかい印象を与える字だ。

 その様子を何気なく眺めていると、先々代の魔法省大臣だったコーネリウス・ファッジが、酷く仰々しい飾り文字で署名していたことを、ジェーンは不意に思い出した。そうした者ほど自己顕示欲が強く、見栄を張りたがる人物であるということを、これまでの経験上良く知っている。

 その点、この魔法省大臣は分をわきまえているようだ。魔法省大臣という肩書の上に胡坐を掻いてはいない。サイン一つでその人物の人となりを理解した気になるわけではないが、ジェーンの目にはシャックルボルトのそれが、非常に好意的に映っていた。

 

「まさか、君がMACUSAの力を借りていたとはな」

 机に背を向け、本棚に収められている資料の中から必要なものを探していると、シャックルボルトが思い出したように口を開いた。羽ペンの先がかりかりと紙を引っ掻く音に耳を傾けていたジェーンは、肩越しに振り返り、その姿を一瞥する。シャックルボルトはジェーンに目を向けるでもなく、机に向かってペンを走らせ続けていた。

「他の国からも援助を得ているのなら、今すぐに白状してくれ。イギリスの魔法省大臣として礼状を送りたい」

「……各国の代表はそれを望んではいないでしょう」一冊のファイルを取り出しながら、ジェーンは言った。「すべては内々に行われたことです」

「だが、彼らが無償でそれを引き受けたとは思えない」

「では、お訊ねします」ジェーンは後ろを振り返り、机に向かって足を進めながら続けた。「もし海を挟んだ大陸で我が国のような未曾有の事態が起こったとして、その国から亡命者を受け入れてほしいと懇願されたら、あなたはそれを無視できるのですか?」

「個人的には助けたいと思うが、公式的な見解を述べるのなら、二つ返事で了承することはできないだろうな」

「当初は考える時間がほしいというお返事でした」

「……どうやって彼らを頷かせた?」

 それは、魔法省大臣の権力を行使したからだ――とは、口が裂けても言えない。

 あのときのジェーンにはそれが可能だった。名ばかりの魔法省大臣は服従の呪文でジェーンの支配下にあったからだ。ジェーンの働きに妙な信頼を寄せていたヤックスリーは、大臣室に足を運ぶことも少なくなっていたので、ある程度までなら勝手をすることができた。

 各国の要人たちは皆一様に、一補佐官の――それも、たいした権限も持たない下級補佐官の要請では、いくらなんでも応じられないと口を揃えた。当然だろう。数年来の付き合いを持つ相手からの頼みでも、ただの善意で危険を冒すことはできない。しかも、国から命を狙われている者を、その国の要請で亡命させてくれというのは、何とも奇妙な話だったはずだ。

「では、それが我が国の魔法省大臣からの要請でしたらいかがでしょう?」

 ジェーンがそう問うと、いくつかの国が断る理由は見当たらないという返答を寄越した。だが、それらの国々は分かっていたはずだ。イギリスの魔法省大臣に国民を亡命させる意思はない。しかしながら、察してもいたのだ。それをしなければならないほど逼迫した状態なのだと。

 ジェーンは当時の魔法省大臣に、服従の呪文を用いて、何枚もの亡命手続き書を認めさせた。その行為が大罪であることは理解していたが、他に方法がないのだから仕方ないと、自分に強く言い聞かせていた。

 だが、書類に魔法省大臣直筆の署名があれば、少なくとも要請を受けた国は当局に言い訳が立つ。たとえ問題提起されたとしても、自分は何も知らなかった、騙されただけだ、すべての責任はイギリスの魔法省にあると、そう言い逃れることができる。そうした保険があるのとないのとでは雲泥の差があるのだ。

 もし何もかもが露見し、すべてが明るみに出ていたとしても、それはそれで構わないとジェーンは考えていた。そもそも、ヴォルデモート卿が国外に逃亡したマグル生まれの者たちの捜索を、わざわざ命じるとは到底思えなかったのだ。

 問題として取り上げるとしたら、実行犯であるジェーンの処遇と、責任ある自身の仕事を他者に丸投げしていた上に、目と鼻の先で勝手を許していたコーバン・ヤックスリーの処罰だけだったことだろう。ジェーンとしては、死喰い人の幹部を道連れにできるのなら、それ自体に価値があることだと思っていた。

「MACUSAの議長と個人的なやり取りを行うほど親しい間柄なのでしたら、あの方から直接お聞きになってはいかがです? なぜたかが下級補佐官の口車に乗せられたのか、と」

「彼は君をたかが下級補佐官などとは思ってはいないようだ」

「あの方も使い勝手の良い手駒をご所望なのでしょう」

「君のそれは自分自身を卑下しているのか、遠回しに私のことを非難しているのか、実に判断が難しい」

「その両方です」

 平然とした面持ちでそう言い放ち、ジェーンは手にしていたファイルをシャックルボルトに向かって差し出す。苦笑いを浮かべながらそれを受け取ったシャックルボルトは、手元の資料に目を落とすと、机の上を見もせずに目的の書類を手繰り寄せた。

「議長とは別段親しいわけではない。時々互いに必要な情報を交換しているだけだ。私の目にはむしろ、君の方がより親しい関係のように見えたがな」

「付き合いだけならば大臣よりもずっと長い相手ですので」

「議長からヘッドハントされているそうだが?」

「何度もお断りしているお話です」

「ほう、何度もか」

「……国に残っても大陸に渡っても、業務内容に大差はありません。わざわざ大海を渡って自分には合わない水を口にするくらいなら、住み慣れた土地でぬるま湯につかっていた方が、今のところは精神衛生上良いという判断をしました。議長にもそうお伝えしているのですが、存外諦めの悪いお方のようです」

「そうか」

 自分から振っておきながら、この話題に興味があるのかないのか分からない態度で相槌を打ち、シャックルボルトは書き損じの料紙に何事かを書き込んでいる。ジェーンもこれ以上踏み込んだ質問をされることは避けたかったので、口を噤んで目の前に山積している仕事を終わらせることに集中した。

 

 すべての仕事が片付いたのは真夜中の一時を過ぎた頃だった。感謝の言葉を述べた後、家まで送ると言ったシャックルボルトの申し出を丁重に断ったジェーンだったが、あろうことか、荷物を取りに戻ったケンタウルス担当室で力尽きてしまった。ほんの少し休むつもりで腰を下ろした椅子の上で、うっかり意識を手放してしまったのだ。次に目を開いたとき、壁にかけられた時計は、七時半を指し示していた。

 ジェーンは一瞬だけ混乱するものの、自らの失敗を察し、思わず苦笑を浮かべる。職場に泊まり込むなど、どれくらいぶりだろうか。魔法省がヴォルデモート卿の支配下にあった頃から解放されて間もなくは、家に帰る暇もなく働いていたが、ここしばらくは自宅で夕食を取ることができていた。父親が心配しているのではないかとも思うが、今や自宅と職場を往復するだけの生活をしている年頃の娘こそ心配するべきだと考えているような男なので、かえって喜ばしく思っているのかもしれない。

 だが、今となっては一人親に一人娘だ、一応は連絡を入れておくべきなのだろう。そう考えたジェーンは、窓の外を眺めて何分かぼんやりした後、椅子からのろのろと立ち上がる。部屋の奥にある簡易キッチンで顔を洗い、髪を梳き、申し訳程度の化粧を施して身だしなみを整えた。一ヶ月前よりも扱けたように感じられる頬を撫で、くすんだ鏡越しに自分の緑色の目を見つめる。忌まわしい目ではあるが、この色だけは何となく気に入っていた。

 意を決するように、ぱちん、と頬を叩いてから、ジェーンは顔に合わない大きな眼鏡をかけると、心なしかふらふらとした足取りでケンタウルス担当室を出た。やや目深にフードを被ることも忘れなかった。

 薄暗い廊下には道を塞ぐように所狭しと段ボールが積み上がり、何年前のものかも分からない資料が放置されている。何度か足を引っかけて転びそうになっているが、勝手に処分するわけにもいかず、今のところは部長の対処を待っている状態だった。とはいえ、もう十年以上もこのような有様らしいので、この先も片付けられることはなさそうだ。丁度朝の食事の時間帯なのか、害獣班が飼育しているブラッドハウンドの興奮した吠えが、埃っぽい廊下にまで響いていた。

 まだ忙しい時間帯ではない通信室から適当なふくろうを借り、ジェーンはその場で父親宛に簡単な手紙を書いた。

 昨夜は忙しかったので職場に泊った、今夜は夕食までには帰れると思うと記し、宛名、宛先を書いた封筒に入れると、それをふくろうに持たせる。ふくろうは地面すれすれをすうっと滑るように飛び、外と繋がっている専用の出入り口から出て行った。

「おい、今日発売のクィブラーはもう読んだか?」

 手紙を出し終えたジェーンが通信室を後にしようとすると、入れ替わりでやって来た職員が、挨拶よりも先に夜勤から上がろうとしている職員に向かって、興奮気味に声を掛けるのが聞こえてきた。

 ザ・クィブラーは、ゼノフィリウス・ラブグッドが編集し、発行している雑誌だ。内容はといえば、幻の魔法生物の存在の有無やその隠された生態、有力な目撃情報など、一貫して非常にマニアックな記事でまとめられている。一部には熱狂的な読者もいるようだが、基本的にはフィクションとして楽しむ読み物だ。

 しかしながら、過去に一度だけ、読者の度肝を抜くような特集を組んだことがあった。数年前、リータ・スキーターがヴォルデモート卿についてハリー・ポッターをインタビューしたものだ。以降発行部数を伸ばし、以前よりはメジャーな雑誌として知られるようにはなっていたが、実質ヴォルデモート卿がこの国の魔法界を支配するようになってからもハリー・ポッターを擁護するような記事を書き続けたことで、娘は死喰い人に誘拐され、ラブグッド自身はアズカバンに投獄されるという結果を招いた。

 尚、政権が復旧してすぐに、無実の罪で投獄されていた者たちは魔法省大臣の命令で、全員釈放されている。

「お前、まだそんな子供だましの雑誌なんか読んでたのか」

「リータ・スキーターが書いたポッターのインタビューは覚えているだろ? あんたは散々馬鹿にしていたが、結局は正しかったんだ。今回の特集だって――」

 アズカバンに投獄された者の中には、吸魂鬼の影響による後遺症で苦しめられる者も少なくないのだが、釈放されて早々に発刊できるくらいの元気があるのなら、ダメージは最小限で済んだのだろう。投獄期間も関係しているのかもしれない。

 そのようなことを考えながら通信室を後にしたジェーンだったが、不思議なことに、ザ・クィブラーの話はそれ以外の場所からも続々と聞こえてきた。魔法族は基本的に噂好きではあるが、たかが一雑誌の特集程度で、これほどまでに魔法省内が騒然となるのは珍しいことだ。

 だがしかし、部長ならば噂の内容を知っているはずだ、あとで仕事をもらいに行きがてら聞いてみようと思いながらジェーンがケンタウルス担当室に戻ろうとしていると、それは起こった。何の前触れもなく腕を掴まれたかと思うと、人気の少ない廊下に引きずり込まれ、何者かにほとんど覆い掛かられるような格好になる。

 ジェーンの身体は咄嗟に動いていた。身を屈めると同時に太ももを身体に引き寄せ、ローブの裾から覗くふくらはぎに装着しているホルダーから杖を引き抜く。小指側に伸びた杖先をナイフに見立て、それを相手の喉元に突き立てようとするのと同時に、杖腕の手首を抑えつけられた。

「おい、待て待て、ちょっと待て。俺だよ、俺!」

 無意識に動いていた身体が、それが聞き覚えのある声だと認識すると、途端に意識を取り戻した。目と鼻の先に迫る見知った顔は僅かに焦ったような表情を浮かべていたが、眼鏡がずれている上に、惚けた面持ちで自分を見上げているジェーンを見て、引きつっていた表情をやわらげさせる。

 魔法警察部隊に所属している幼馴染のその男は、ジェーンの身体から力が抜けたことを目視で確認すると、掴んでいた手首を解放し、ほっと安堵の息を吐き出した。そして、顔から落ちかかっている眼鏡を元の位置に戻してやってから、筒状に丸められた雑誌をジェーンの胸元に押し付けた。

「……これ、クィブラー?」

「ケンタウルス担当室には戻らない方がいい」

「なぜ?」

「とりあえず、身の安全が確保できる場所に移動する。話はそれからだ」男はそう言うと、脱げかけていたジェーンのフードを引っ張り、先ほどよりも深く被らせた。「ったく、あの魔法省大臣は一体何を考えてるんだ?」

「あ、ちょっと、待って――」

 一向に話が見えてこないジェーンは、自分の手を取って早足で歩き出した男の横顔を見上げ、困惑で表情を歪ませた。しかし、何となく見下ろしてみた手元の雑誌を一瞥して、今度はぎょっとした表情を浮かべざるを得なかった。

 雑誌の表紙はリータ・スキーターの似顔絵がでかでかと印刷され、時々ウィンクをするという酷く悪趣味なものだった。だが、ジェーンが注目したのはその部分ではない。その似顔絵の下の方に、きらきらと光る文字で記されていた文言に、とても嫌な予感を覚えていた。

 

≪次々に蘇る死者たち。知られざる真実のすべてを今、敏腕記者リータ・スキーターが暴く!≫



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ある日のこと -前編-

 その日、ベラトリックス・レストレンジは機嫌が悪かった。姿を現してから一切の言葉を口にせず、靴の爪先をこつこつと神経質そうに鳴らして、時折不満を発散するように大きく舌を打つ。数人の男を従えていたが、その者たちはレストレンジのあまりの苛立ちぶりに戦々恐々という様子で、可能なかぎり刺激をしないように努めていた。

 変に怯えた態度を見せれば付け入られるだけだと知っていたジェーンは、無関心を貫き、魔法省から連れて来られているマグル生まれの者たちの名簿の確認を行っていた。その日は数が少ない方だったが、それでも、十人以上ものマグル生まれの魔女や魔法使いが、ただマグル生まれであるという理由だけで、アズカバンに投獄されようとしていた。

 アズカバンは絶海の孤島にある、魔法族の犯罪者を収容しておくための監獄だ。姿現しを含むあらゆる魔法が封じられている他、周辺の海流が複雑に入り組んでいるため、泳いで陸を目指すことはもちろん、普通の船では海を渡ることも難しい。仮に脱獄することができても、生きて戻ることは困難だろう。不可能だと断言できないのは、過去にシリウス・ブラックという名の囚人が――後に無実の罪で収監されたことが公表されている――煙のように消え、脱獄に成功した前例があるからだ。脱獄の手段は未だ公表されていない。

「おい、お前」ジェーンが名簿と向き合っていると、レストレンジが低く唸るような声で言った。「お前のことだよ!」

 自分のことを呼びつけているとは露ほども思わずにいると、何者かがジェーンの肩を小突いた。何事だと顔を上げると、近くにいた魔法使いがジェーンを睨み、軽く顎をしゃくる。示された方を見やると、傲然たる態度で胸の前に腕を組んだレストレンジが、据わった目でこちらを見ていた。

「何かご用命でしょうか、マダム・レストレンジ」

「ヤックスリーのやつはまだなのか?」

 さあ、と言って首を傾げることは容易いが、そんなことをしては命がいくつあっても足りないだろう。ジェーンは手にしていた名簿を閉じると、レストレンジに向き直った。

「私は先に行ってマダムのお相手をしているようにと仰せつかっただけですので」

「はっ、お相手を仰せつかっただけ、だって?」笑わせてくれる、と言って、レストレンジは不遜に笑った。「お前ごときに私の相手が務まるとでも? ヘルガ・ハッフルパフの末裔だか何だか知らないが、お前の家系も所詮は穢れた血の混ざりモノじゃないか。こんな落ちこぼれの魔女に私の相手をさせようとは、ヤックスリーも底意地が悪いよ」

 ああ、これは当たり障りのない相手を適当に捕まえて、腹に抱えた鬱憤を晴らそうとしているだけなのだと、ジェーンはすぐに察することができた。肝心なのは、このベラトリックス・レストレンジに癇癪を起させないことだ。ただ静かに、滞りなくこの仕事を終わらせ、無事に魔法省へ帰還することだけが、ジェーンの任務だった。

 だが、そうは言ったものの、コーバン・ヤックスリーがアズカバンにはやって来ないことを、ジェーンは知っていた。今頃は、魔法法執行部の部長室で眠りこけていることだろう。

 無味無臭の検出不可能な睡眠薬を調合するにはそれなりの期間が必要だったが、服用させることにかんしての苦労はなかった。あの部屋を好んで訪れる者は誰ひとりとしておらず、もしいたとしても、お茶に招かれたいと願う者はいないはずだ。部屋にあるティーセットに魔法薬を仕込んでおけば、部屋の主だけが屋敷しもべ妖精の淹れた紅茶を口にする。ヤックスリーは午後の紅茶を欠かさない。この時間になってもアズカバンに現れないということは、ジェーンの作戦が成功したということだ。

「あの男はこの私を何時間待たせるつもりなんだ」

「昨日、部長がお帰りになる折に、明日の午後六時、マダム・レストレンジがアズカバンにいらせられるので、どうかお忘れになられませんようにとお伝えいたしました」

「あいつに私との約束を反故にするだけの度胸があったとはね」

「失礼ながら」そう言うと、レストレンジはジェーンを横目に見る。「そのようなご判断をされるのは時期尚早かと存じます」

「どういう意味だ?」

「Mr.コーバン・ヤックスリーは魔法法執行部の部長であらせられると同時に、死喰い人の幹部としても広く周知されています。魔法省の実権を奪われ、追い出された――特に失脚した元闇祓いなどからは相当に恨まれ、命を狙われる立場にあるといえるでしょう。Mr.ヤックスリーに限ってそのようなことはないと思いたいですが、元闇祓いのキングズリー・シャックルボルトは侮れない人物です」

「お前はヤックスリーがシャックルボルトに劣るとでも言うのか?」

「いいえ、マダム」

 どちらが勝っているかなど、ジェーンにとってはどうでもいいことだった。ただそこに脅威があるということを示せれば、比較対象など誰でもよかったのだ。だが、闇の帝王の名が禁語に指定されていることを推測することもできず、うっかり口を滑らせるような間抜けな男という印象はあったが、自分の心根にも気づかず秘密を共有し続けるヤックスリーとならば、おおよそ互角の戦いをするのではないかとは思っていた。

「ただ、相手が一人だとは限りません。さすがの死喰い人も闇祓い級の魔法使いを複数人同時に相手をするとなると、ある程度は難儀するのではないかと」

「確かに連中は徒党を組んで我々に抗おうとしている」

「殊に失礼なことを申し上げているという自覚はございますが、可能であれば、どなたかが部長の安否を確認するために戻られた方がよろしいのではないでしょうか。ご命令とあらば、私がすぐに見て参りますが」

 レストレンジはいくらか考えるような素振りを見せたあと、近くにいた仲間を呼び寄せた。そして、何事かを耳打ちされた仲間は黙って頷き、もう一人と連れ立ってその場を離れていく。レストレンジはジェーンの助言を受けて、仲間をロンドンに向かわせたようだ。アズカバンの建物の外に出れば、魔法を使うことも、姿現しをすることも可能になる。

「いかがいたしますか?」ジェーンが平然とした口振りでそう問うと、レストレンジは煩わしそうな目で睨みつけてきた。「すぐに刑を執行されますか? それとも、このままMr.ヤックスリーを待たれますか?」

「そうだな……」

 ベラトリックス・レストレンジの周りに残された仲間の数は三人だ。一人は仮面をつけているが、残りの二人は素顔を晒している。ジェーンにも見覚えのあるその顔は、かつて魔法法執行部で働いていた魔法使いたちだ。元々純血主義だったのか、ただ単に長い物に巻かれる主義なのかは、興味がないので考えない。だが、その顔と名前だけはしっかりと、頭の中の記憶の糸に縛り付けた。

「お前はどう思う?」

「……私、ですか?」

 まさか問い返されるとは思ってもいなかったジェーンは、レストレンジを相手に目を丸くしてしまう。何かを判断する立場にないと言うのは、レストレンジが求めている答えではないのだろう。

「立場上、Mr.ヤックスリーを待たないという選択肢は存在しません。大臣からも部長の指示にはよく従うようにと命じられております」ジェーンがそう言うと、レストレンジは皮肉っぽく鼻で笑った。「ですが、あの方であれば、この場はマダム・レストレンジのお言葉に従うようにと、そうおっしゃるのではないかとも考えます」

「さて、それはどうだろうね」

 くくく、と笑うレストレンジの横顔を見やりながら、ジェーンは内心で大きく息を吐き出し、極度の緊張感を緩和させようとしていた。何でもない、平気だという顔をして、頭の中では目まぐるしく思考を巡らせている。

 部屋の隅にはアズカバン送りにされたマグル生まれの魔法使いたちが追いやられ、自らのどうしようもない末路を想像して、体を震わせているのだ。平然としているジェーンを猛然と睨み、敵意を表している者もいる。泣き叫びながら助けてくれと懇願された記憶が不意によみがえり、心臓が抉られるような心地がしていた。

「あの男は魔法省の仕事に私が関わることをよしとしていないのさ」

 だからこそこうしてちょっかいをかけてやっているんだが、と言う表情には、どこか狂気じみたものを感じた。退屈で退屈で仕方がないというふうな、空虚さのようなものも感じられる。

「あのお方に魔法省を任されたのは自分なのだから、お前は手出しをするなってね。あいつは私が羨ましいのさ。だって、そうだろう? 私は誰もが羨む居場所を手に入れたんだ。この世界で最も偉大な魔法使いの隣にいられるという、この身に余る栄誉を得た。これは望んで手に入れられるものではない。私は選ばれた存在なんだよ」

 落ち窪んだ目が異様にギラギラと輝いている。ジェーンは人知れずぞっとしながらも、その感情を腹の奥底に押し留め、心底興味がないというふうを装った。

 一体この世界に生きる内の何人が、闇の帝王の隣に立つという栄誉を得て、自らが選ばれた存在などと嘯くことができただろう。

 レストレンジのものの考え方が、この上なく馬鹿馬鹿しいとジェーンは思った。少なくともジェーンは、たとえ相手が誰であれ、上に立つ者が自らにかしずく者を我が物のように扱い、振る舞うことを許せないと思う。

 例えば、それが英国の女王陛下であっても、ジェーンの考えは変わらない。上に立つ者は常に、下にいる者を敬い、尊重するべきだ。民の存在しない国の王になど、存在価値はないのだから。

「それに比べ、お前は本当に哀れだな。あんな男の手駒としてこき使われる気分はどうだ? あれはさして有能とは言えない男だろう? まあ、無駄な仕事を増やすことにかんしては、超一流と言えるかもしれないが」

 ジェーンは口を噤んだまま黙していた。やはり、レストレンジはジェーンの答えなど望んではいないと分かるからだ。だが、無視をしていると思われては、そのうち逆鱗にも触れてしまうだろう。長い期間、魔法界の最高権力者の傍らで仕事をしていると、そうした者たちの機嫌を肌で感じ取れるようになる。必要なのは、程よい距離感だ。近すぎず、遠すぎず。無関心は相手の虚栄心を刺激し、不興を買うことにもなり得る。

「ああ、それにしてもむしゃくしゃするね!」

 レストレンジは豊かな黒髪を掻きむしりながら吐き捨てるように言った。その杖腕には自身の杖が握られているものの、ここでは闇の帝王であっても魔法を使うことはできない。だからこそ、ジェーンはアズカバンの敷地外ではなく敷地内に、それとなくレストレンジを誘導したのだ。そうでなければ今頃は、その苛立ちに任せて多くのマグル生まれたちが犠牲になっていたことだろう。

 最終的に、待つことに飽きたレストレンジが先に帰ると言い出せばこちらの勝ちだと考えていたが、今のところは想定外の辛抱強さを見せている。正直なところ、レストレンジがここまで長く居座り、ヤックスリーが現れるのを待ち続けるとは、ジェーンは思ってもいなかった。長くとも精々三十分程度だろうと踏んでいたが、もうその時間は優に超えてしまっている。

 このとき、何かが妙だ、とジェーンは感じはじめていた。酷く嫌な予感がしていた。

 果たして、ベラトリックス・レストレンジはここまで我慢強い女なのか。苛立ちを隠しはしていないが、ここまでの不満を募らせておきながら、周囲に危害を加えないことが、果たしてあり得るのか。もしかしたら、相手を嵌めようとしている自分こそが、相手に嵌められているのではないか。こちらの行いのすべてが露見していて、この場にいる者のみならず、ヤックスリーを含めた全員がジェーンを陥れようとしているというのが、最悪の展開だろう。

 ジェーンの心臓は、ルーファス・スクリムジョールが目の前で殺された日と同じくらい、大きく鼓動を打っていた。ついに自分の番が回ってきたのかという思いと、ようやくこの不毛な慈善活動を終えられるという思いが、同時に込み上げてくる。

 迷っている暇はない――ジェーンがそう思ったとき、レストレンジが動きを見せた。身体を強張らせ、身構えそうになってしまうのを、奥歯で頬の内側の肉を噛み、どうにか持ち堪える。

「いつまでもこうしていたって埒が明かないからね、私は魔法省に戻る。ヤックスリーがどうなったって構いやしないが、あのお方は利用価値があると考えておいでだ。もし敵襲を受けているんだとしたら、あの男一人では手に負えないだろう」

「そういうことでしたら、お引止めはしません」

「そうだろうよ」

 皮肉っぽく吐き出された言葉にすら、何か含みのようなものを感じてしまい、ジェーンの脳内では様々な可能性が複雑に絡み合っていた。



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ある日のこと -後編-

 ベラトリックス・レストレンジは仮面の男一人だけを引き連れて部屋を出て行った。心なしかその足取りが軽く感じられたのは、気のせいではあるまい。素顔を晒さず、終始仮面を身に着けていた人物は僅かにジェーンを振り返るものの、レストレンジに急き立てられ、その背中を追いかけていく。

 これは好機か、あるいは罠か。

 後を任された二人の男は、レストレンジが姿を消すと急にそわそわとしはじめ、互いに目配せを送り合っていた。おそらく、ただの使い捨ての兵隊として連れて来られただけなのだろう。もしくは、レストレンジが想定外の動きを見せたので、話が違うと内心では慌てているのかもしれない。

 

「はじめてもよろしいですか?」ジェーンは二人の男に向かってそう声をかけた。男たちは顔を見合わせ、一方が微かに頷く。「では、こちらの書類にサインをいただきます」

 ジェーンはそう言うと、男たちに背を向けて、マグル生まれの者たちの方へと足を向けた。見るからに怯えた表情の魔女と魔法使いたちは、近づいてくるジェーンから少しでも遠く離れようと、壁にぴたりと身を寄せていた。

「この部屋を出てすぐに、あなた方の身柄は吸魂鬼に引き渡されます。その前に、こちらの同意書にお一人ずつサインをお願いします」

 そう言って、ジェーンは手にしていた名簿を差し出した。しかし、誰一人それを受け取ろうとする者はいない。それはそうだろう、同意書にサインをしてしまえば、自分の魂は吸魂鬼の手へと渡ってしまうと信じているのだ。

 暗く冷たい牢獄の中、いつ外へ出られるかも、明日まで生きられるかも分からないまま、孤独と戦い、寒さに凍え続ける。美しい思い出は吸魂鬼の餌となり、すべて吸い尽くされて、残されるのは絶望と、人間という魂の器だけだ。

 

「――あんたは一体何人のマグル生まれを、こうしてアズカバン送りにしてきたんだ?」ジェーンよりも年若い青年が前に出てきたかと思うと、使命感に燃えるような眼差しで、猛然とこちらを睨みつけてきた。「そうやってさも当然みたいな顔をして、あの連中と同じ場所に立っているつもりでいるんだろう? ヘルガ・ハッフルパフの血筋だって? だから何だっていうんだ。そんな古臭い血にすがって、自分は他の誰よりも尊い存在だとでもいうつもりか? あんたの首を掻き切れば、俺たちと同じ赤い血が噴き出すんだぞ。それともなんだ、あんたら純血の魔法使いからは、黄金の血でも溢れ出すっていうのか?」

 目と鼻の先に迫っている青年の顔は酷く青ざめていた。目の奥底には強い意志と決意が見え隠れしているものの、体は恐怖に震え、血の気が引いているのが見て取れる。

 ああ、これは――ジェーンはマグル生まれたちの魂胆をすぐに察した。そして瞬時に、それを利用しようと考える。崖っぷちに立たされている以上、利用できるものはすべて有効的に活用しなければならない。

「言いたいことは、それだけですか?」ジェーンはわざと反感を買うような物言いをした。「こちらにサインをお願いします」

 もう一度同じ言葉を口にすると、青年は一瞬にして激高し、ジェーンに掴みかかってきた。それが合図だったかのように、他の魔法使いたちも一斉に動き出すと、残された二人の男に勢いよく飛び掛かった。羽交い絞めにされているだけのジェーンとは違い、男たちは床に押し付けられ、杖を取り上げられている。

「だからそいつらを拘束しろと――っ!」

 床に押し付けられた一人が声を荒げるものの、誰かの脱ぎたての靴下を口の中に詰め込まれ、言葉までをも封じられていた。

 そう、ジェーンはマグル生まれの者たちを拘束してはいなかった。ここへ運ばれてくる者のほとんどは、既に戦う意欲を失くしている。マグル生まれ登録委員会に杖を剥奪され、吸魂鬼がうろつく魔法省の地下牢で一夜を明かせば、誰もが戦意を喪失するというものだ。

 今回移送してきたマグル生まれたちがその影響を受けていないのは、地下牢で過ごすことなくアズカバンに連れて来られたからだろう。地下牢は他のマグル生まれたちでいっぱいだと告げると、ドローレス・アンブリッジは尋問が済んだ者たちを、そのままアズカバンに連行するようにとジェーンに命じた。反論ならいくらでもできたが、ジェーンはアンブリッジの命令に、大人しく従った。

 

「おい、杖はどこだ!」

「右のポケットです」

 ジェーンがそう応じると、青年は近くにいた魔女に向かって、杖を取り上げるように言った。魔女は、まるで何十匹という蛇が入れられた壺に手を入れるような顔で、ジェーンのポケットをぐるりとまさぐる。そして、見つけ出した杖を素早く取り上げると、両手で強く握り締め、胸元に抱いた。

「それで」先ほどまでと変わらない口振りでジェーンは言った。「これからどうするつもりですか?」

「逃げるに決まってるだろ」

「どうやって?」

「建物の外に出れば姿現しが使えるからな」

 この惨憺たる事態を包み隠さず報告すれば、アンブリッジは癇癪を起し、金切り声で怒り散らすのだろう。上司としての責任は一切負わず、すべての責めはジェーンが受けることになるのだ。

「あんたが先頭だ」

 アズカバンはもともと要塞として築かれた建造物だ。建物の中は入り組んでいる。不慣れな者は、見取り図でもないかぎり外へ出ることは難しいだろう。ジェーンも曲がる角を一つでも間違えれば、たちまちのうちに吸魂鬼の餌食だ。そうでなければ、ここが闇の魔術の研究施設として使用されていた頃に、拷問の末殺された船乗りたちの亡霊に憑りつかれ、二度と日の目を見ることはない。

 どちらも御免被りたかったジェーンは、後ろに回された両手を拘束されたまま、先頭に立って歩き出した。

「当たり前に姿現しをすると言っていますけれど」ジェーンは前を向いたまま口を開く。「資料によれば、あなた方の内の半数が試験に合格していないようですが」

「合格していないやつは姿現しができないとでも?」

「いいえ。でも、姿現しをした先でバラける可能性は高い」

「このままアズカバンに放り込まれるより、バラける方がずっとマシだ」

 果たして、ここにいる全員がそのように思っているのだろうか。体がバラける恐怖は、それを経験した者にしか分からないという。指の爪がバラける程度ならば何の問題もないが、試験に挑戦した者の中には上半身と下半身がバラけ、上手く接合ができずに、そのまま命を落とした例もあった。途中で眼球が行方不明になり、二度と復元されなかった者がいることも、ジェーンは知っていた。

 

 何度か角を曲がり、階段を上り下りして、建物の外を目指す。後ろの方では、マントを頭から被せられ、ローブの裾を破り取った布の切れ端でぐるぐる巻きにされた男たちが、絶え間なく唸り声をあげていた。うるさい、黙っていろと殴られても大人しくならないので、何事かを伝えようとしているに違いないが、そう助言したところでマグル生まれたちは聞く耳を持たないに決まっている。

 

 アズカバンの守衛は魔法警察部隊の管轄だ。ジェーンには幼馴染以外にも何人か顔の利く相手がおり、ここへ足を運ぶのは決まって、その相手が守衛を任されている日だった。

 だが、今日は違う。いつものように見ず知らずの人間の墓を暴き、アンデット化させた傀儡を引き連れてやって来たのでもないのだ。今日は、正真正銘生きた人間を連れてきている。レストレンジが視察に来るという以上、実際に生きた人間を連れて来なければ、水面下で行ってきたすべての努力が水の泡と化すからだ。

 自らの命を最優先に考えるのであれば、マグル生まれたちの命は切り捨てて然るべきだ。ジェーンの本心もそう告げている。だがしかし、ほんの少しだけ残されている良心が、それを許さなかった。一方では罪に手を染め、一方では偽善に勤しんでいる――ジェーンはそうした自分に吐き気がするほどの嫌悪感を抱いていたし、すべてを放棄して逃げ出したい衝動にも駆られていた。

 一体何のためにこんなことをしているのか、幾度となく自問自答を繰り返しても、決まって答えは得られない。

 

 ようやく守衛室の前まで戻ってくると、その部屋はもぬけの殻となっていた。通常ならばあり得ない事態だ。しかしながら、ジェーンの推測通りならば、突き当りの扉を開いた先には、最悪の魔女が待ち構えている。

 だが、マグル生まれの者たちにはそうした危機感というものが欠如していた。むしろ、出口が目の前に現れた喜びに胸を躍らせているようだ。ジェーンが止める間もなく何人かが駆け出し、歓声を上げながら重たい鉄の扉に飛びついた。

「待って――」

 思わず声を上げるものの、前のめりになった体はすぐに引き戻される。反射的に振り返ると、青年がジェーンを見下ろし、勝ち誇ったように笑っていた。その表情が苦痛に歪むまで、もう幾ばくもないだろう。どうか自分の推測が誤りであれと願うが、開いた扉の隙間から見えたものが光ではなく闇だった時点で、無意味な願望は思考の外に追いやった。

 ガラガラガラ、という聞きなれない奇妙な音と共に、ほんの少しだけ開いた扉の隙間から、吸魂鬼が滑り込んでくる。あと一歩で自由を手に入れられるという喜びに満ちたエネルギーを吸い上げるべく、吸魂鬼は扉の前にいる者の身体の上に素早く覆い被さった。

「おい……」青年の表情からは余裕の色が消え去り、声に絶望が滲んだ。「おい、あれはどういうことだよ……」

 

 生気が吸い取られる。魂が抜けていく。吸魂鬼の口づけで、人間はただの器と化す。

 

 ジェーンは青年の力が弱まった隙に、するりと腕の中から抜け出した。もう彼らは助けられないと、吸魂鬼の餌食となった者たちに見切りをつける。ジェーン・スミスに救えるのは、自らの手が届く範囲内にいて、その指示に大人しく従う者たちだけだ。だが、今はそれさえも危ういだろう。

「生きてここを出たい人は、私に従って」

 守衛室の前に置かれている古びた長椅子に片足を乗せ、ローブの裾から覗くふくらはぎのホルダーから杖を抜き取ったジェーンは、マグル生まれの者たちをぐるりと見回した。ジェーンのポケットから杖を奪った魔女は、それを胸に抱いたまま、恐怖に慄いた表情を浮かべていた。

「杖を所持している人は前へ出て。あなたのそれは偽物です。その二人をこちらへ、急いで」

「誰があんたの言いなりになんか――」

「死にたければ好きにしなさい」ジェーンは青年に向かって冷たく言い放った。「もうあなたに構っている余裕はない。早く、その二人をこちらに寄越して」

 こうなってしまっては、全員が助かる見込みはない。多少の犠牲は否めない。自らの選択に後悔するのは、未来の自分に任せればいい。

 この世の終わりが来たかのような顔をしている面々を押し退け、ジェーンはマントを被せられている男たちをひっつかみ、引きずるようにして歩き出した。何かのはずみで口の中に詰め込まれた靴下が落ちたのか、二人のうちのどちらかが大声を上げる。

「この穢れた血め!」その激昂が狭い廊下に響き渡ると、人間の魂を食らい尽くした吸魂鬼が次の獲物を狩るべく、こちらに意識を向けるのが分かった。「お前たちに魔法を使う権利はない! 資格もない! 我々から魔法を盗んだ大罪人どもが!」

「俺たちは魔法を盗んでなんかいない!」

「ならばなぜマグルの分際で魔法が使えるのだ!」

「そういうふうに生まれたからだ!」確かに、それ以外に理由はないとジェーンも思う。「なあ、あんたらは怖いんだろ! 俺たちマグル生まれがもたらす変革を恐れているんだ! 自分たちが無知で無能だって知らしめられることが、許せないんだろ!? だから俺たちみたいなマグル生まれを排除して、自分たちは特別な存在だって思い込みたいんだよな!?」

 

「――おやおやおや、ずいぶんと威勢の良い声が聞こえてくるじゃないか」

 

 心底ぞっとする、小動物を猫かわいがりするような声が、鉄の扉の向こう側から聞こえてきた。その声音とは相反する、頭上から信じられないほどの圧力で押し潰されるような感覚を味わいながら、ジェーンは死喰い人の軍門に下った男たちを盾にして立つ。

「マダム! マダム・レストレンジ! 謀反です!」

「へえ、そうかい」レストレンジは愉快そうに応じた。「それで、ジェーン・スミスとかいう女は、白なのか? 黒なのか?」

「し、白です、マダム!」

 男がそう答えると、今度は明らかに不愉快そうな舌打ちが、ここまで聞こえてくる。

 そうか、この男たちは自分を見張るために連れて来られただけの、ただの捨て駒だったのか。護衛の兵隊ですらなかったのだと、ジェーンは思う。それなりの地位を与えられておきながら、それでも魔法省から寝返り、良かれと思って長い物に巻かれた結果が、これだ。

 ジェーンは必死に叫んでいる男の背中を、迫りくる吸魂鬼に向かって勢いよく突き飛ばした。マント越しにも分かるのだろう、自身を覆い尽くす冷気に狂気の声を上げると、うつ伏せの身体をよじり、死に物狂いでその場から逃げ出そうとした。ジェーンに腕を掴まれているもう一人の男も、何か嫌な予感を感じ取ったのか、呻き声を上げながら肩を大きく揺すり、その手から逃れようとしはじめる。

 飢えた吸魂鬼が夢中で人間の魂を貪る様子を横目に見てから、ジェーンは後ろを振り返った。

「この隙に外へ」

「あんた、正気かよ……」

「正気でこんなことができるとでも?」

 未だしぶとく抵抗を続けている男の肩の下に靴の先を滑り込ませ、ジェーンがその体を仰向けにさせると、吸魂鬼は男の顔がある辺りにゆっくりと吸い寄せられていく。この時に聞いた断末魔の叫びは、死ぬまで耳に残って離れることはないだろう。

 

「誰かの命を犠牲にしてまで生きたくないというのなら、そこで自分の順番が回ってくるのを待っていればいい」

 強気な言葉を口にしていながらも、ジェーンの全身からは血の気が引き、杖を握る指先は感覚を失うほどに冷え切ってしまっていた。だが、何があっても心だけは閉ざしていなければならない。何一つ読み取らせてはいけないのだ。

 閉心術は吸魂鬼に対しても有効であるとされていた。吸魂鬼の前ではそれを維持することすら至難の業だが、閉心術を試みることで感情が読み取りにくくなり、標的にされる可能性が低くなるといわれている。

 アズカバンでは基本的に魔法を使用することができない。それは周知の事実だが、ならばなぜ、シリウス・ブラックは動物もどきになることができたのか。ジェーンにはそれが疑問だった。おそらくは、杖を用いることなく己の肉体のみで完結する魔法は、アズカバンの建物内でも使用することができるのだ。その証拠に、閉心術を試みているジェーンに、吸魂鬼は今のところ関心を示していない。

「今すぐに決めて」ジェーンは後ろを振り返り、答えを迫った。「私に従って生き延びるか、楯突いて死ぬのかを」

 

 死はなぜかいつも頭の片隅にあって、いつしか誰の身にも訪れるものなのだと理解したとき、何もかもが腑に落ちたような気がしたことを覚えている。自分が生まれたことに意味などない。人は勝手に生まれ、勝手に死んでいく。生きることに意味を見い出せる人間はごく少数だ。死の間際に後悔するような人生を送る者の方が、ずっと多いのだろう。自分は後者に違いないと、ジェーンは常々思っていた。

 ジェーン・スミスにとって、死など些末な問題だ。それでも死に抗い続けているのは、自分の亡骸に縋って号泣する父親の姿を、容易に想像することができたからだった。母が旅立った日の夜、お前は自分より先に逝かないでくれと懇願してきた父親のか細い声が、まるでたちの悪い呪いのように、耳の奥にこびりついて離れない。そうした父親の在り方こそが、ジェーンを偽善に走らせる一要因となっていた。

 娘の死を嘆く父親がいる。その事実が、赤の他人の背後にも透けて見えた瞬間、ジェーンの頭のネジが飛んだのだ。

 目の前にいる死にかけた人間にも家族はいる。その人間が死ねば、誰かがその亡骸に縋り、一晩中泣き続けるのだろう。その様子は、頭の中で自分の亡骸と号泣する父親の姿にすり替わり、いつもジェーンを苦しめた。

 きっと、最初に透けて見えたときにはもう、心が壊れはじめていたのだ。多少の犠牲は致し方ないと諦める反面、意固地になって他者の命を救おうとする。自分の命になど何の価値もないと思う反面、他者の命を犠牲にしてまで生き延びようとする。この手で人を殺めることすら厭わなくなったというのに、同時に生かそうともしている。ジェーンの行動は、明らかに矛盾していた。

 何が正しいことなのかも分からなくなっていた。正義なんてものはどこにもなかった。そうだ、これは戦争なのだと、そう思い知らされる。自分はその真っただ中にいて、今更逃げ出すことなどできないのだと、そう思った。

 助けてと叫んでみたところで、誰も助けてはくれない。それなのになぜ、ただ縋るだけの誰かを、命懸けで助けているのだろう。まるで使命を帯びた者のように、誇り高い円卓の騎士のように、勇者になどなりえない、ただの人でしかないというのに。



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あの日のすべて

 今月号のザ・クィブラーは、数年前に発刊されたハリー・ポッターの独占インタビュー掲載号に次ぐ売れ行きだったらしい。アズカバンを出てきたばかりのラブグッドにとっては酷く喜ばしい事態だろう。リータ・スキーターに至っては、次いで発売される自著のための売名行為に成功し、今頃はいやらしくほくそ笑んでいるに違いない。

 それ自体、自分には何の関係もないことだと思いたかったが、突きつけられたザ・クィブラーにはジェーン・スミスの名が多くのページに記されていた。こんなものは事実無根だと突き返してやりたかったが、いくらか誇張した内容ではあるものの、おおむね正しいことが書かれているので強く出ることもできない。

 魔法省大臣室の応接用のソファに腰を下ろしてザ・クィブラーに目を通していたジェーンは、膝に乗せていた雑誌の上に突っ伏すと、その格好のまま大きく息を吐き出した。両手で耳を塞ぐように覆うと、自らの息遣いと心臓の音、ごうごう、という血潮の巡るような音だけが聞こえてくる。まさか、ここまではっきりと自分の存在が白日の下に晒されるとは、思ってもいなかったのだ。

 

 あの日のマグル生まれたちがリータ・スキーターの取材に応じたのだろうと、ジェーンにはすぐに分かった。

 あの日のことはよく覚えている。不甲斐ないことに、逃がしてやれたのは大勢いたマグル生まれの内の、男女二人だけだった。他は吸魂鬼の餌食となるか、死喰い人の放った死の呪文によって殺害された。

 とにかく、あの日は散々だった。前々から入念に立てていた計画を台無しにされ、内心では焦っていたというのもある。ベラトリックス・レストレンジがアズカバンまで視察に来るということ自体、ジェーンにしてみれば寝耳に水だった。実際のところ視察というのは建前で、ジェーン・スミスの行動を訝しんだ何者かが死喰い人に密告し、その真偽を確かめに来たと言った方が正しいのだろう。

 レストレンジがアズカバンに来るという知らせを受けたのは前日のことだった。そもそもその日は、アズカバンに足を運ぶ予定がなかった。当日の昼、ドローレス・アンブリッジからマグル生まれ登録委員会の尋問で補佐として入るように言われ、そのままの流れで、マグル生まれの者たちをアズカバンまで移送するよう命じられたのだ。本来であれば、アンブリッジ本人かその部下がアズカバンまでマグル生まれを連れて行き、引き渡しを行う予定だった。ジェーンはあくまで代行であり、その役目を常に担う役職にあるわけではなかった。

 アンブリッジはレストレンジに命じられてジェーンをアズカバンに向かわせたのだろうが、さすがのアンブリッジもレストレンジが視察にやってくると聞いて、肝を冷やしたのではないだろうか。自分は純血のセルウィン家の血筋であると言い張っていたが、実際には父親が魔法使い、母親がマグルというごく一般的な家庭に生まれていたことなど、当時既に調べがついていた。スクイブの弟がいたことは、魔法界で生きていく上では最も隠したい事実だったに違いない。

 ジェーンは、純血主義の死喰い人たちならば、アンブリッジが出生を偽っていることに気づいていたはずだと、そう確信している。だが、あえてその事実に触れなかったのは、ヤックスリーが言っていた通り、使い勝手の良い手駒を手放すのが惜しかったのと同時に、それをわざわざ指摘し、追放してやるほど価値のある魔女ではないと、そう判断されてのことだったのだろう。もしくは、眼中にさえなかったのだ。

 

「これだけの内容の記事が掲載されるなら、ゼノフィリウス・ラブグッドから事前に知らせを受けていたはずですよね、大臣」

 ジェーンを大臣室まで連れてきた幼馴染の男はそう言うと、向かい合って座っている魔法省大臣を蔑むような目で睨んだ。

 睨まれたキングズリー・シャックルボルトは些か困った表情を浮かべると、もう一冊のザ・クィブラーをローテーブルに向かって放り投げる。表紙にでかでかと描かれているスキーターの似顔絵はとびきりの愛想を振りまき、ぱちん、ぱちん、とハートが飛び散るウィンクを繰り返していた。

「もちろん、事前の知らせは受けていたとも。この通り見本も送られてきている。だが、記事の大部分が書きかえられていてな」

 見てみろ、と言われたジェーンは突っ伏していた体をもたげると、テーブルの上に放られた雑誌を引き寄せた。そして、気乗りがしないままページを開き、ざっと中身に目を通す。なるほど。確かにシャックルボルトの言う通り、見出しの作り方から記事の内容まで、大部分が差し替えられているようだ。

「ラブグッドに問い合わせてみたところ、大臣には自分が話をつけるから、記事を差し替えておくようにとリータ・スキーターに頼まれたのだそうだ。雑誌の大半は刷り終えていたので、もう無理だと最初は断ったらしいが、差し替えてくれればギャラの支払いは不要だと言われて渋々引き受けた。そうしたら売り上げは上々、今は増版作業で忙しいから、込み入った話なら後にしてくれと」

「あのスキーターがギャラの支払いは不要だと言ったんですか?」

「より得るものがあると考えてのことだろう」

 ザ・クィブラーの原稿料など、自著の印税に比べれば微々たるものなのだろう。リータ・スキーターの望みは目先の金貨などではなく、巨万の富と名声なのだ。ザ・クィブラーが部数を伸ばせば伸ばすほど自身の知名度が上がり、これから発売される自著の売り上げも約束されたものとなる。

 他者の人生をあることないこと書き連ねることで得た富と名声になど何の意味もなく、同時に誇れたものでもないとジェーンは考えるが、どうやらスキーターの考え方は違うようだ。

 そんなことは以前から分かっていたことではあったが――ジェーンは既に乱れている前髪を頓着することなく掻き上げると、もううんざりだというふうにため息を吐いた。

「自分の善行が金儲けの材料にされるのが気にくわないか?」

「ええ、そうですね」呆れ果てた様子で応じるジェーンを、シャックルボルトは意外そうに見る。「あの人にしてみれば過去のできごとでも、私にとっては違う。まだ何の整理もできていないし、考えもまとまってはいないのに、こうして騒ぎ立てられるのは迷惑です」

 世間はすべてが終わったものと考えている。魔法界は選ばれし者の活躍によって救われ、平和への道を歩みはじめていると信じている。大抵の者にとってはその通りなのだろう。少しずつでも何もかもが元通りになり、以前までの生活を取り戻せると信じることは、何もおかしなことではない。

 だがしかし、多くを経験した人々は、それを知らなかった頃の自分に戻ることは、決してできないのだ。罪が裁かれ、償いの機会を与えられたとしても、過去が消えてなくなることはない。他者に許されたところで、自分で自分を許してやることができなければ、心の整理をつけられたことにはならないのだ。

 それなのに、リータ・スキーターはまるで十年以上も前の秘密を暴くかのような語り口で、重い問題を軽々しい記事に仕立て上げた。今もまだ苦しんでいる大勢の人々の心情など考えもせず、あたかもすべての国民には知る権利があるとでも言い出しそうな切り口で、当人が望んでもいないことを公言したのだ。

「私はヒーローになりたかったのでも、後の世で称えられたかったのでもない」

「それは分かっている」キングズリーは表情を変えずに頷いた。「そうなりたかったのであれば、査問会では別の受け答えをしていただろう」

 ジェーンとキングズリーが険悪そうにしているのを横目に見た幼馴染が、話題を変えようと口を開いた。

「スキーターのやつは今どこで何をしているんです?」

「さあな。私には一言の弁明も寄越していないし、今後面会の予定もない。記事の差し替えについても、私は何も聞いていなかった」

「自分の記事がこれだけの注目を集めているからには、あの女がこれを利用しない手はないでしょう。ほとぼりが冷めるまで雲隠れなんてもったいない真似はしないに決まっている。売名のためには絶好の機会だ」

「そうなると、スキーターはミス・スミスを表舞台に引きずり出そうとするだろうな。しかも、彼女はそれを正しいことだと信じているし、ミス・スミス自身が魔法界に向けて真実を語ることが当然であると強く思い込んでいる」

「私は――」

「君を矢面に立たせるつもりはない」口を挟もうとしたジェーンの言葉を遮り、キングズリーはそう言い切った。「非公式ではあるがスキーターが記事を書くことに了承した私にも責任の一端はある」

 魔法省大臣が了承しなかったとしても現状に大差はなかったはずだ。リータ・スキーターは好きなように記事を書いたことだろう。もしかしたら、今よりも悲惨なことになっていたかもしれない。だがもし、魔法省大臣がその権限を最大限に行使していたとしたら、違っていた可能性はある。そしてジェーンは、そうしておくべきだったのだと、強く思うのだ。

「……懸念事項がいくつかあります」

 猫背になっていた背筋をまっすぐに伸ばしたジェーンは、手元のザ・クィブラーを閉じ、テーブルの上にそっと置いた。強い言葉で非難したい気持ちを抑え、目の前にいるシャックルボルトを見据える。

「まず、自宅にいる父が心配です。まだ店は開いていませんが、あのカフェは魔法族よりもマグルの客の方が多いので、ザ・クィブラーを読んだ人たちが押し寄せてきたら、魔法事故惨事部に出動要請を出すような事態にもなりかねません」

「そういうことだったら俺に任せておけよ」幼馴染は立ち上がり、ジェーンの肩に手を置いた。「俺が事情を話して、おじさんを安全な場所に避難させておく」

「猫たちもお願い」

「ああ」

 幼馴染はジェーンに向かって頷きかけると、シャックルボルトに一礼してから、その場で踵を返した。一瞬何かを言いかけたようにも見受けられたが、思い留まったようだ。ジェーンは幼馴染が退室し、その足音が確かに遠ざかるのを待ってから、再び口を開いた。

「もしかしたら大臣も同じようにお考えかもしれませんが、この記事は間違いなく死喰い人の残党を刺激します。表立った行動に出ることはないのかもしれませんが、闇の帝王が討たれたとはいえ、彼らの野望が潰えているとは思えません」

 リータ・スキーターの独自取材による記事は数ページにも渡っていた。内容的にはよく調べられており、まとめられてもいるが、無駄な私見が多すぎるようだ。これではジャーナリズムというより、個人的解釈に特化したエッセイのようなものに近い。持論を押し付けている上に配慮にも欠けているため、読む者によっては気分を害することや、精神的なダメージを負うこともあるだろう。

「念のために聞いておくが、ここに書いてあることはすべて真実か?」

「概ねは」

 ジェーンが素直に答えると、シャックルボルトは口許に手を添え、小さく唸りながら親指の腹で下唇を撫でた。ソファの背凭れに背中を預け、何かを瞑想するように目を閉じる。ジェーンはその間、大人しく口を噤んでいた。

 

 

 吸魂鬼が人間の魂を食らっている隙に鉄の扉から飛び出すと、ジェーンは視界の端に緑色の閃光を捉えた。ぞくぞくとした何かが背筋を駆け上り、全身に鳥肌が立つ。しかし、ジェーンは杖腕とは逆の手に力を込め、掴んでいた男を閃光に向かって投げ飛ばした。その反動で地面に転がるが、すぐに体勢を立て直す。吹き飛んだ眼鏡を探す間もなく杖を構えて素早く立ち上がると、既に二本の杖はこちらに向けられていた。

 ジェーンは二本の杖が自分に向けられているのをその目に見てから、両手を挙げ、自らの杖を足元に落とした。

「敵意はありません、マダム・レストレンジ」

「私はあんたが黒だと期待していたんだけどね」

「ご期待に添えず申し訳なく思います」

 レストレンジは興を削がれたというふうな面持ちで、ジェーンに向けていた杖を下ろした。しかし、共にいた仮面の人物は未だ杖を構えたままでいる。レストレンジはその姿を横目に見るが、特に何を言うでもなく、もう一度視線をこちらに向けた。

「あの穢れた血どもはどうした?」

「こちらの隙を突くことで一度は制圧されかけましたが、今は皆、吸魂鬼に怯えて出口付近で立ち往生しています」

「私が連れてきた連中の姿が見えないようだが」

「一人は吸魂鬼のキスで、もう一人は私の盾となって死にました」

 冷たい風が吹き荒ぶ中、簀巻きにされた状態のまま地面に伏している男を尻目に、あまりに平然と言ってのけるジェーンを目の当たりにして、レストレンジは一瞬だけ呆気にとられたような顔をした。しかし、すぐに腹を抱えて狂ったように笑い出したかと思うと、愉快でたまらないというふうに口を開いた。

「いい根性をしているじゃないか。お前はヤックスリーの気に入りらしいが、魔法省で働かせておくのはもったいないね」

「お褒めに預かり光栄ですが、私自身杖を振りかざすことよりも、机に張り付いて書類仕事をしている方が性に合っておりますので」

 レストレンジが口の端を持ち上げて、ふっ、と笑うのが分かった。ほんの僅かに警戒心が薄れ、人間らしさのようなものを感じさせた刹那、今度は赤い閃光が一直線にレストレンジに向かっていく。不意打ちを狙ったつもりなのだろうが、レストレンジは一歩前に踏み出した仮面の男に護られるまでもなく、自身の杖を振り上げながら許されざる呪文を繰り出した。

 一か八かの賭けだった。全員が生きて帰ることができるかどうかは分からないと伝えた。それでも戦わなければ生き残ることはできないと告げると、彼らは戦うことを選択した。無残に殺されるくらいなら、勇ましく戦い、死にゆく道を選ぶと言った者もいた。今、それが正直な気持ちだったのかと問えば、違うと答えるだろう。死にたくなどなかった、生きていたかったと、そう言うに違いない。

 レストレンジが放った死の呪文は、咄嗟に築いた盾の呪文を貫通し、マグル生まれの男の胸を貫いた。その屍を越えるようにして現れた次の男は、何もさせてもらえないまま、その目から輝きを失っていく。男の手から滑り落ちた杖を拾い上げ、それを振り上げようとした女は、杖先から星屑のような煌きを散らしながら、男の体に折り重なるようにして絶命した。

 こうなることは初めから分かっていた。すべての者を護り、生かすことなどできはしない。だが、そうした犠牲の上に作り上げられた一瞬の隙が、勝機を生んだのだ。ジェーンは懐に忍ばせていた本物の杖を取り出すと、確実に狙いを定め、ベラトリックス・レストレンジに向けて閃光を放った。それが相手に届くのを待たず、もう一本の光の矢を放つと、ぐるりと体を捻らせるようにして姿をくらまし、レストレンジの真後ろに姿を現す。

 一方の閃光は盾の呪文に阻まれた。だがしかし、もう一方の閃光は、確かにレストレンジの体を射貫いた。

 ベラトリックス・レストレンジはヴォルデモート卿の右腕と称されている人物だ。ここにいる全員が束になって掛かっても、勝ち目がないことは分かっていた。だが、それは正面から、馬鹿正直に勝負を仕掛ければの話だ。相手の裏をかき、予想外の行動に出れば、可能性は皆無ではない。それに、ジェーンは視たのだ。眼鏡を外したその裸眼で、レストレンジの背後に立つ、未来の自分の姿を。

 姿現しを使ってレストレンジの背後に回り込んだジェーンは、気配を悟られるより早く、その体を羽交い絞めにした。閃光は遅れてやって来た。レストレンジは闇雲に杖を振り回すが、閃光を跳ね返すことができず、ジェーンの腕の中で気を失う。

「杖を下ろしなさい」

 レストレンジの首に杖を突きつけながら、ジェーンは仮面の男に向かって言った。男は幾ばくか考える時間を設けてから、ジェーンの言葉に従って、ゆっくりと杖を下ろした。

「事を荒げたくはない」ジェーンは離れた場所で状況を窺っているマグル生まれたちに届かないほどの声で続けた。「でも、あなたたちが思っている以上に、あなたたちに恨みを持つ者は多い」

「……待ってくれ」

 片腕でレストレンジの体を支えながら、もう一方の手では、食い込むほど強く杖先を首筋に押し付ける。すると、男は少し掠れた声でジェーンの行動を制止し、自らの仮面に手を掛けた。細く息を吐き出してから外された仮面の下には、ジェーンにも見知った顔が隠されていた。コーネリウス・ファッジが魔法省大臣だった頃に、大臣室を頻繁に出入りしていた男だ。

「頼む」ルシウス・マルフォイは青白い顔に苦悶の表情を浮かべ、ほとんど唇を動かさずに言った。「その女を返してくれ」

「それはあなたの出方次第です、Mr.マルフォイ」

「子供を身籠っているんだ」

 本当に追い詰められていたのだろう。ただならぬ緊張感を漂わせながら、本来であれば決して明かしてはならないような言葉を、マルフォイは口にした。その顔色は青白いというよりも土気色に近づき、もはや生気すら感じさせない。

「ベラトリックスに恨みはあっても、腹の子供に罪はないはずだ」

「あなたはおかしなことをおっしゃるのですね」ジェーンは皮肉っぽく言った。「それで命乞いをしているつもりですか?」

「ベラトリックスを殺せば、次に殺されるのは君だ。私が君を殺す。生き残った穢れた血も、一人残らず殺す」だが、とマルフォイは続けた。「私とベラトリックスを見逃してくれるのなら、今ここで起きたすべてのことを忘れよう。私はベラトリックスと共にここを去り、君たちも生きてアズカバンを出ることができる」

「それだけでは不十分です」

「私とベラトリックスの命が保証されるなら、君の言葉に従おう」

 あの時、マルフォイの命乞いを受け入れたことが正解だったのかどうか、ジェーンは未だに考えることがある。しかしながら、あの場で二人を殺していたとしたら、ジェーンは死喰い人に付け狙われ、生きてヴォルデモート卿の死を見届けることはなかっただろう。査問会にかけられ、魔法省大臣付き下級補佐官から、ケンタウルス担当室に左遷されることもなかった。だが、望まぬ英雄になることなら、できたのかもしれない。

 ジェーンは自分を含め、生き残ったマグル生まれたちの命の保証を約束させると同時に、ベラトリックス・レストレンジの記憶を修正することに同意させた。ここでは争いなど何一つなく、マグル生まれたちは予定通り吸魂鬼たちに引き渡され、刑は執行されたのだ。

 マルフォイはジェーンの申し出を了承する代わりに、もう一つだけ要求し、ジェーンはそれを受け入れた。

 これが、あの日のすべてだ。



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