双夜譚 月姫 (ナスの森)
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上弦

 とある山奥の地。

 人里から離れ、世俗からは隔絶された空間の中で、二人の少年少女が見つめ合っていた。

 黒い外套を身に纏った銀髪の少女と、紅い着流しを着こなす黒髪の少年。

 このような辺境の国の山奥において、こんなにも出で立ちの違う者同士が出会うという光景は見る者によっては摩訶不思議に映る。

 だがそれは些細な事。

 今こうして二人は出会い、言葉を交わしている事こそが純然たる事実であった。

 

「……シキ?」

「うん! 僕の名前! 君の名前はなんて言うの?」

 

 突然名乗られて戸惑う少女に、少年は笑顔で少女に名前を聞く。

 

「……■■よ。それが私の名前……」

 

 戸惑いながら、少女は自分の名前を名乗った。

 対して好きでもない名前だった。ただ己を指し示すだけの記号に過ぎないものの筈だった。

 

「ふーん……何か綺麗な名前だね!」

「ッ!! そ、そう……あ、ありがとう……」

 

 初めてそんな事を言われた少女は頬を赤らめ、顔を俯かせた。

 ……この気持ちは、一体何なのだろうか?

 ……この子に、もっと私の名前を呼んで欲しいと、そう思えてくるのは何故だろうか?

 それは少女には未だに理解できない感情。幼き無垢な少女には決して理解しえない感情だった。

 

「……どうしたの? 何処か具合でも悪いの?」

「な、何でもない! それで、で、貴方の名前はなんて言うの!?」

 

 心配して此方の顔を覗き込んでくる少年。

 自分と少年の顔の距離が近くなっている事に気付いた少女は恥ずかしくなって慌てつつも、名前を聞き返した。

 名前そのものは、もう聞いている。

 それでも、少女は少年の名前を頭に刻みつけたかった。

 自分で聞いて、自分で呼びたかった。

 

「う、うん。僕の名前は……」

 

 少年の瞳が、少女の顔を真っ直ぐと見つめる。

 蒼い瞳だった。透き通るような、蒼い虹彩の眼だった。冷たい光すらも通さない暗い森の中において、その煌めきは一層引き立っていた。

 ――――キレイ……。

 知らずの内に、少女はそう呟いていた。

 

 一巡してから、少年は少女に名乗った。

 

「七夜……七夜志貴……」

 

 懐かしい夢だった。

 それは幼い頃、■■という少女が七夜志貴という少年が出会い、短い時間を共に過ごしただけの、暖かい思い出だった。

 

 パチリ、と視界がいつもの日常に戻った。

 紅い吸血鬼の館である紅魔館のメイド長こと十六夜咲夜は、自分が椅子に座ったまま眠っていた事に気が付く。ここの所働き詰めだったのか、暇の時間を見てホールに設置されたソファーにて疲れを癒やしていたのだ。

 眠気ではっきりしない意識の中で、咲夜は背もたれに預けた上体をゆっくりと起こし、館の窓の外を見つめる。

 窓の外には上弦になる一歩手前の月が浮かび上がっていた。

 

「……懐かしい夢を見たものね」

 

 あの少年、七夜志貴と出会ったときもあのような月が浮かんでいた事を思い出し、咲夜は独りごちた。

 十六夜咲夜という人間はあまり夢を見ない。というより、昔を思い出すこと自体彼女にとっては稀である。十六夜咲夜という人間の時間は、十六夜咲夜という名前を持った瞬間に始まっており、それ以前の記憶など彼女にとっては忘れ去られるべき過去に等しい。

 それでも、一つだけ、忘れられない事があった。

 ずっと思い出の中にしまっていた記憶、それをあろう事か十六夜咲夜になってから見ることになるとは、彼女自身も思いもしなかった。

 

「……これのせいかしら?」

 

 言って、咲夜はメイド服の胸ポケットから棒状のナニカを取り出す。

 頑丈な鉄で出来ているであろう平べったいソレには、彫刻で『七夜』と掘られていた。

 咲夜はその鉄の棒を暫し見つめた後、指でその鉄の棒を弄る。その途端。

 パチン、という音を立てて、鉄の棒から片刃の刀身が飛び出してきた。鉄の棒は、飛び出し式ナイフと呼ばれるものだった。

 月明かりに照らされた刀身はその鏡面に咲夜の顔を映し出す。

 

「……何て、未練がましい顔」

 

 柄に『七夜』と掘られた飛び出し式ナイフ――咲夜は七つ夜と呼んでいる――の刀身に映った己の顔を見つめ、自虐の言葉を捻り出す咲夜。

 あの日、少年から形見として貰った七つ夜。

 自室のタンスの奥に大事に保管してあった筈なのだが、寝ぼけて持ち歩いてしまったか。

 

「志貴の方は、大切にしてくれているかしら?」

 

 咲夜は七つ夜とはまた別のナイフを思い浮かべる。

 七つ夜と同じ大きさくらいの飛び出し式ナイフ。

 あの日、形見としてこの七つ夜を咲夜がもらったように、咲夜もまた自分のナイフをあの少年に形見として預けた。

 渡したナイフそのものに愛着はなかったのだが、七つ夜を渡された時、自分もなにか彼に渡したいと思い、自分が持っていた中でかなり上物のナイフを渡した記憶がある。

 

 お互い、また会える事を信じての物々交換だったわけなのだが、未だに約束は果たされていない。というよりも。

 

「あれから10年以上も立った。お互い死んでいるか生きているかも分からないし、そもそも私はお嬢様たちと共に幻想となった。

 約束が果たされる事はもうないのでしょうね、志貴」

 

 刀身が飛び出た七つ夜を暫く片手で弄りつつ、まあ所詮子供同士の約束だと思い直して咲夜は立ち上がる。

 久々に懐かしい夢が見られた事だ。今宵くらいはこれを持ち歩いて仕事をするのもいいだろう。そう考えた咲夜は七つ夜の刃をしまい、懐に忍ばせて敬愛する自らの主の下へ向かうのであった。

 

「……それにしても、お互い初めて相手に贈った物がそろって刃物だなんて、我ながらズレた子供時代だったわね。私も、志貴も」

 

 途中、紅い廊下を歩きながら呟く咲夜。

 せめてお互いもう少しましな贈り物を考えられなかったのかしら、と内心でため息を吐くのであった。

 

 

     ◇

 

 

 紅魔館の門の前には一人の少女がいる。

 華人服とチャイナドレスが合わさったかのような淡い緑色の衣装を身に纏い、紅く腰まで髪を伸ばした少女の名前は(ほん) 美鈴(めいりん)と言った。

 一見、ただの人間にしか見えない彼女の種族は妖怪である。……この幻想郷において人の形をした妖怪はさして珍しくはないのだが。

 この屋敷の門番を任されている身である美鈴であるが、実は他の仕事も任されている。詳細は省くが、この紅魔館の門前と庭の掃除が花の世話に関すること諸々は全て彼女の管轄である。

 庭の花壇に咲いた花の世話などを終えた美鈴は門前に戻りたち、一息つく。

 

「白黒魔法使いも、今日は来なさそうね」

 

 久しぶりに平和な夜が過ごせですね、と体の力を抜く美鈴。

 閑散とした空気が広がる夜の紅魔館の門前であるが、美鈴はこの空気は嫌いではなかった。咲夜ほど忙しい訳ではないが、こうした空間に身を落ち着けるというのはいいものだ。

 茶を飲むのもよし。素振りをするのもよし。瞑想するのもよし。

 さて、今宵はどのように過ごそうかと思っていたその瞬間、美鈴は異様な雰囲気を察知した。

 

「……この気配は?」

 

 確実に、()()()()()()()()()()()()

 人間ではない、しかし妖怪でもない。

 そんな気配だった。

 しばらく周囲を警戒する美鈴の前に、一つの人影が姿を現した。

 服装は、少なくともこの幻想郷でよく見られるようなものではない。

 

「……何方かは存じませんが、手合わせの申し込みは、今は受け付けていませんよ?」

 

 念のため、形式として目の前の来客に遠回しな断りを入れる。

 こう見えても、美鈴は人里の人間ともある程度の交友を得ている。妖怪でありながらも人当たりのいい性格をしていることと、自身の能力の低さを補うために武術を嗜む面は非常に人間に近く、その手の人間からの共感を得やすいというのが起因している。

 わざわざ、紅魔館の門前まで来て彼女に手合わせを申し込む物好きもいるくらいだ。

 ……勿論、どう見ても目の前にいるヒトガタはその手の輩でないことは美鈴は分かっている。

 

「……」

 

 ヒトガタはぎこちない動きで美鈴へと襲いかかった。

 そして、その牙を美鈴の首へ突き立てようとして――ヒトガタの体が吹き飛んだ。

 美鈴が振るった掌底がヒトガタを完膚なきまでに粉砕したのだ。

 

「まあ、どう見てもその手の輩ではありませんよね……」

 

 煙の立つ掌底をもう一方の手で払いながら、美鈴は苦笑する。

 ――――せっかく静かな夜を過ごせると思ったのに……。

 結局はこうなってしまうのか、と美鈴は己の不運を嘆いた。

 

 顔を見上げた美鈴の視界には、先ほどと同じような気配を放つヒトガタが複数、それも十数や数十では済まさない数だ。

 見た目はどれも人間に見えるが、『気を操る程度の能力』を持つ美鈴にはソレが人間でない事はひと目でわかった。

 

死者(グール)ですか……」

 

 動く屍、ゾンビ、リビングデット……言い方はいろいろある。

 だが、少なくとも幻想卿ではあまりに見ない類の敵であった。

 はて、と美鈴は顎に手を当てて考える。

 死者たちの格好からして人里のモノたちでない事は確か……となると外来人の死者が流れ込んできたか、それとも人里にたどり着けずに無残に妖怪に食われていった外来人たちのなれの果てか、はたまた誰かの悪戯か。

 

「お嬢様の仕業でしょうか……って、冗談ですよ、冗談!」

 

 今の一言が咲夜や彼女の主人である吸血鬼にでも聞かれたら即自分の首が飛んでしまうと思った美鈴は、途端に血相を変えて誰に向けてでも無い言い訳を付け加える。

 現実逃避を終えた美鈴はため息を一つ吐き、襲いかかる死者達と対峙する。

 

「何処の何方の仕業かは存じませんが、ここは通しませんよっと!」

 

 所詮は知性も理性もない死に損ない共、どれだけ数を束ねようと、美鈴の敵ではない。

 拳を構えて美鈴は、飛びかかってくる死者たちを迎え撃った。

 

 

 

「今日の月も悪くないわね」

 

 従者である咲夜から淹れられた紅茶の入ったティーカップを口から離し、この館の主たるレミリア・スカーレットは窓を見上げて呟いた。

 満月とはほど遠い、未だ弦月にも満たない欠けた月であるが、なんのこともない。十分に眺められる輝きだ、とレミリアは思った。

 

「満月に満たぬ月を物足りぬと感じないのは、お前の淹れてくれた紅茶のおかげだろうな、咲夜」

「お褒めにお預かり光栄です、お嬢様」

 

 咲夜にお嬢様と呼ばれる、この館の主ことレミリア・スカーレットは吸血鬼である。人間でいえば十歳にも満たないような見た目の少女であるが、こう見えて齢500年以上を生きる正真正銘の魔性であった。

 レミリアは吸血鬼の紅い眼で弦月に満たぬ欠けた月を見つめる。

 

「今日は、新月から七日ばかり立っているな」

「満月を拝めるのは、もう少し先になりそうですね」

「なに、吸血鬼にとっては秒にも満たない時間さ」

 

 紅茶はまた一口啜るレミリア。

 再び月を見上げようとして――そしたら、異様な光景が目に映った。

 一瞬、その光景の意味が分からなくなり、レミリアは思わず蝙蝠の翼を広げ、立ち上がった。

 

「お嬢様、如何かなさいましたか?」

「……いや、……」

 

 訝しげに聞く咲夜の言葉に、レミリアは言い淀むだけだった。傍にいる咲夜が動揺していない様子から、この光景はレミリアのみに見えているものらしかった。

 ――――そこには、月が二つあった。

 一つは先ほどまでレミリアと咲夜が一緒に見ていた月。その隣にはレミリアが一番好きな満月が浮かんでいたのだ。

 二つの月は輝いていた。

 まるで最初からそこにあったかのように、共にそこで存在してあるべきかのように、二つの月は寄り添わず、しかし決してお互い離れる事も無く浮かび、夜の闇を照らしていた。

 やがて、レミリアの視界は現実に引き戻される。

 

「……今見えた“運命”は一体……」

 

 レミリア・スカーレットは『運命を操る程度の能力』を持っている。具体的な詳細は知られていないが、とにかくその能力を持つレミリアには、レミリアだけにしか見えないものが見えたのだ。

 ――――先ほどあの月の隣に現れた満月……。

 レミリアは思い出す。

 ――――咲夜がここに来た時の満月に、そっくりだ。

 いやそっくりではない。まさにあの日見た満月そのものだったとレミリアは思い返す。

 

 ならば、自分に今見えているあの月は何だ?

 

 あの日の満月があの月の隣に並ぶ意味とは、一体……?

 

「ふふふ……」

「……お嬢様?」

「咲夜、来客を出迎える準備をしなさい」

「ッ! 畏まりました」

 

 レミリアの意図を図りかねた咲夜であったが、それでも『時を操る程度の能力』を用いてレミリアの傍から姿を消した。

 主の命令は絶対。例えその意図が自分に分からなくとも、それが主の命とあれば実行するのが従者の役目というもの。

 

「……面白くなりそうね。さあ、来なさい。何処の誰だか知らないけれど、来るのでしょう? あの満月の日にここに現れた咲夜のように!」

 

 弦月に満たぬ月を再び見上げ、レミリアは上機嫌そうに笑った。

 何処の誰が来るなどレミリアには分からない。そもそもナニカが来るかどうかも怪しい。

 それでもレミリアは半ば確信めいた笑みで、期待の想いをあの月に乗せた。

 

 

 

 場所は変わって再び紅魔館門前。

 門前には多くの屍が倒れ、砂状の煙となって霧散していく。

 美鈴が放たれる拳、蹴り、虹色の色彩を持つ気の弾幕が死者を瞬く間に殲滅していく。

 

「せぇいっ!」

 

 拳が死者の腹に突き刺さる。その途端、死者の体の内部から爆発にも似た破裂が起こり、内蔵がまき散らされる。

 生理的に嫌悪を抱かせる厭なモノが美鈴の体に付着するが、どの道塵となって消えていくので美鈴にとっては関係なかった。

 とにかく残りの夜を平和に過ごすために美鈴は死者を早めに殲滅せんとしていた。

 

「まったく、数だけは多いですねっと……!」

 

 余裕の表情を浮かべながらも、少しうんざりした様子を見せる美鈴。

 元々人間に対して友好的な妖怪である美鈴は、例え死者といえど人のカタチをした化け物共を蹴散らす事には少々思う所があった。

 それでも美鈴は手を緩めない。

 拳、肘、膝、足。四肢のあらゆる凶器を用いて死者たちをなぎ倒していく。

 

 やがて死者の数も残り僅かとなった。

 最初にここに現れた時の数など最早見る影もない。

 だが死者にそれを知覚する知性はない。故に多くの仲間が屠られても何の躊躇もなく美鈴へ向かっていく。

 しかしその動きは非常にぎこちなく緩慢。美鈴の脅威とはならない。

 

「残り後少し……っ!」

 

 もう少しで終わる、と気合いを入れて残りの死者を迎え撃とうとしたその時。美鈴は思わずその手を止めた。

 止めてしまった。

 

 ――――蠢く死者達の群れに混ざるかのように、ソレはいた。

 

 残り少ない死者の群れの隙間に見えたその影は、まるでそこに存在しているかも疑わしい幽鬼のように佇んでいた。

 

「……あれは……?」

 

 影の正体はよく見えない。

 見たところは黒髪の男に見えたが、それしか分からなかった。

 この幻想卿ではあまり見ない衣類らきしものを着用しており、片手をポケットに入れたまま、もう片方の手を力なくぶら下げて、美鈴の方を見ていた。

 

 死者、ではない。だからと言って妖怪でもない、その気配は紛れもなく――。

 弦月に満たぬ月と、影絵の風景をバックに、その影は亡霊のごとく佇んでいた。

 もし、死者という表現を用いるのであれば、今自分肉薄しかかっている死者達よりも、あの影の方が余程相応しいのでは無いかと、美鈴はそう思った。

 

 そして、影の姿が消えた。

 

「えっ?」

 

 まるで最初からそこにいなかったかのように、突如として消えた。

 一瞬、ただの幻かと思った美鈴であったが、その直後。

 突如として、美鈴の目の前に肉薄していた筈の死者たちの体がバラバラニナッタ。

 

「っ!?」

 

 何分割にも、十何分割にも。

 まるで積み木が崩れ始めるかのように。

 バラバラになった死者の体から、美鈴の視界を塞ぐ程の肉のカーテンが広がる。

 あまりにも突然の事態に頭が追いつかない美鈴は思わず、血しぶきが目に掛からぬように腕で視界を塞いだ。

 その直後。

 

 一瞬、幻視した。

 自分の脳天が串刺しにされてそのまま息絶える。……そんなイメージが、美鈴の脳裏に鮮明と浮かび上がった。

 

「――――っ!!」

 

 それは無意識の反応だった。

 立ち止まる暇など無い、思考する時間など許されない。

 フリムカナケレバシヌ……そんな本能の警告に従うまま、美鈴は背後を向いて腕を振るった。

 まず最初に感じたのは、金属の凶器を弾く感触。

 そこでようやく第三の敵の存在を認めた美鈴は、先に反応した腕に続いて視線を振り向かせるが、下手人の姿は既にない。

 

 瞬間、弧を描いて己の首筋を狙う刃物の軌跡。

 美鈴は死角からの攻撃を受け流し、美鈴は刃物が飛んできた方向に向けて、カウンターの回し蹴りを見舞うが、無駄。

 影は既にそこにはいない。

 空振る己の蹴撃の最中、自分の膝の下ほどまでに重心を低くして躱す影の存在を、美鈴はようやく間近で視認した。

 

 ―――好機!

 

 あまりにも無謀な体勢。美鈴は無様に四肢を地面に落としている影に向けてその頭蓋を踏み砕かんと踵落としを見舞う。

 直後に舞う粉塵。

 人体を潰す手応えは無く、地面を煉瓦を叩き砕いた感触だけが残る。

 

「――――っ!」

 

 美鈴は口を歪める。斧のごとくたたき落とされた踵は標的を見失っていた。奴は、四肢を地面につけたまま状態のまま奇怪な足さばき真横へと移動していた。

 ――――コイツ、あの体勢のまま躱した!?

 先の回し蹴りのカウンターも、影は躱した訳ではない。

 低重心のまま移動してきたのだから、最初から当たる訳がなかったのだと美鈴は悟る。

 奇怪な動き、まるで蜘蛛のようだった。

 

「ならば!」

 

 低重心で移動すると分かったのなら、その上で畳みかけるまで!

 自らも腰を下ろして重心を低くし、地を高速で這いずる影に決死の正拳突きを飛ばす。

 だが、当たらない。影の重心は更に低くなり、頭と胴体が地面とほぼ並行に、ほぼ仰向けの状態の影がある。

 それでも、影のスピードは緩まない。

 

 ――――奇怪な!

 

 そう思うや刹那、影はいきなりその体勢のまま跳び上がり、背面跳びの容量で美鈴の上背後に回り込み、首筋を狙う。

 月明かりを反射する凶器。首筋一カ所に向けて三撃が飛んできた。

 

 ――――早い!?

 

 まるで斬撃が分身でもしたかのような錯覚に陥ってしまうほどの、華麗なナイフ裁き。

 その全てを美鈴は重心をずらすような体裁きで躱す。

 影――美鈴は蜘蛛と呼ぶことにした――は再び美鈴の死角に回り込む。再び極限の前傾姿勢を持って美鈴の膝の下から弾丸のように突き出されるナイフの牙。蜘蛛ほどではないにせよ、同じく低重心を保っていた美鈴の顎と迫るナイフの刃先の距離は、既に首元に到達する一歩手前だった。

 続けざまに避けた後の体勢では、首を逸らして回避する事を難しかった。

 ――――これは避けられない、ならば!

 

 伸ばした腕を咄嗟に差しだす。

 

「っ!」

 

 出血と共に腕に鈍い痛みが襲いかかるが、妖怪であるが故の長い年月と日頃の鍛錬からこの程度の痛みは慣れている。

 美鈴はひるむこと無く、ナイフが迫ると同時にカウンターの拳を蜘蛛に突き出す。否、突き降ろす。

 蜘蛛も仕留められなかった己の不手際を悟ったのか、ナイフを美鈴の腕から即座に引き抜く。そのおかげで美鈴の腕の皮膚に刺さったナイフはこれ以上細胞を食い荒らすことなく、蜘蛛の体ごと、後退していく。

 

 体を美鈴の方へ向けたまま、四肢を付いた状態で速度を落とすこと無く、滑るように元の位置へ後退していく。

 音も立てずにざざざっと滑り込んで後退していく様はまさに蜘蛛そのもの。

 後ろに守るべき門がなければ、美鈴は思わず己が地面ごと後ろに下がったかのような錯覚に陥る所であった。

 

 瞬く間に元の位置に戻り、再び影絵をバックに佇む蜘蛛。

 美鈴は後退していった蜘蛛を見つめる。

 蜘蛛の口元は歪められていた。

 楽しそうに、愉しそうに、この刹那の殺り取りで幾度も己が仕留め損なった美鈴の事を見て嗤っていた。

 

「初めまして、かな?」

 

 その嗤いは、同じ口元から発せられた優しげな声音と、決定的に釣り合っていなかった。

 



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その蜘蛛、殺人鬼なり

 ――――……眠い……。まったく、死人をおいそれと起こすなよ。

 弦月に満たない月の下、巨大な樹木が立ち並ぶ森の中で目覚めた“彼”は、気怠げに、不機嫌そうに呟く。

 月の冷たい光が僅かに届く森の下、彼は仰向けに倒れていた自分の上体を起こし、周囲を見渡す。……人の気配はない。……獣の気配はない。

 だがここに、否、この世界にいるだけでどうにも体が疼く。まるで媚薬を飲まされた獣のように、とにかく『コロシタイ』と。

 この体が、この魂がそう叫んでいる。

 どうやら自分はそういう存在であるらしい。

 ならばこの衝動に従う他ないだろう。

 

「高揚して忙しない血流、音はすれども人の姿はなし、生命(いのち)閃光(ひかり)はあれど血の匂いはさして、か……まるでお伽噺に迷い込んだかのような奇怪さだね、まったく」

 

 この舞台の主催者は何を考えているのやら、とぼやきながら彼は自分のコンディションを確認する。

 ここに来る前の記憶は無い……どうでもいい。

 ポケットに一振りの飛び出し式ナイフ……これで殺せるな。

 そして、周囲の木々、地面、空間にすら見える黒いツギハギ……これが『死』か。

 

「……十分」

 

 満足そうな薄ら笑いを浮かべた彼は、立ち上がり、ナイフを片手に歩き出す。

 何処に行くべきかなど決まっていない。何をすべきなんて分からない。己が何者であったのかも、この気持ちの悪い『線』や『点』が視えていることも、そしてそれらがみんな『死』だとなぜ理解できるかも、彼には何も分からない。

 だが、ヤりたい事なら決まっている。

 

 数刻ほど歩いただろうか、遠くに紅い館が見えてきた。

 広大な湖の向こう側、亡霊を映し出しているかのような霧に包まれて、うっすらとその紅い館は見えていた。

 その瞬間、己の血の高揚が更に高まっていくのを彼は感じた。

 アレはいけない、アレは異常だ、アレはいてはいけない……ああ、なんてこった、あんな誘蛾の如き輝きを魅せられちゃ、此方へ来いと言っているのと同じじゃないか。

 ――――だから、俺のような蜘蛛を引き寄せる。

 男は笑みを深くし、湖を回り込むようにして、紅い館を目指した。

 

 ――――匂う、死の匂いだ。なんだ、ちゃんと血の匂いもするじゃないか。

 木々に囲まれた細道。紅い館へ一直線へと続くその道を目指しながら、彼はそう思考した。いつの間にか、館へ向ける彼の歩のペースは速くなっていた。

 ――――少なくとも、さっきまではしなかった匂いだ。はてさて、一体どのような催し物が行われている事やら。願わくば、俺を仲間はずれにしないで貰いたいね。こう見えても寂しがり屋なんだ。お仲間がいなきゃ生きていけない。

 ……そう考えながら、とうとう館の門前が見える距離までたどり着いた時。

 

 その舞踏会は行われていた。

 

 群がるひとがたの群れ……いいや、あんな()()()()()()()()出来損ない共など人間とは呼ばない、例えるのなら死人といった所か。

 ならばあいつらは何に群がっているのだろうか、と一人の死者が自分の足下まで吹っ飛ばされてきたのを視認し、彼はその方向を見据える。

 そこには女がいた。紅いロングヘアーを腰まで伸ばした少女。いい体をしているのが遠目からでも目に取れた。特に冷たい月光に照らされてチラチラ見える太ももは、生まれたての子鹿のようで解体しがいがありそうだ。

 ――――ああ、駄目だ。我慢できそうにない。

 見ただけで分かる。あれは人ではない。おそらく、正面からでは到底敵わないだろう。化け物であるだけなら問題ないが、あの動きは明らかに武を研磨してきたものの動きだ。不意打ちが効くかどうかでさえ怪しい。

 さて、どうするかと彼は考える。

 彼女の周囲に障害物は見当たらない、だからと言って正面から当たるのは愚の骨頂だ。そんな事を考えていると。

 残り少ない死者たちが、一斉に彼女に肉薄しているのが見えた。

 ――――いや、あるじゃないか。文字通りの障害物が。

 彼女に不意打ちを仕掛ける上で使える障害物、そして、彼女と殺り合う上で邪魔な障害物。まさに一石二鳥。

 故に。

 ――――あんたも、そんな人形どもじゃ満足できないだろう?

 だから。

 

「その首、俺が貰い受ける」

 

 そう呟くと当時、彼は一番近くにいた死者の体を足場に跳び移り、解体すると同時、また次の死者に跳び移り、解体し、また跳び移る。

 零から最速へ、最速から零へ。

 大凡視認する事が困難な程の動きで、少女の目前に迫っていた死者たちも一斉に解体する。それを囮に彼女の後ろにある門に跳び移り、彼女の脳天目がけてそのナイフの先端を突き出した。

 

 

     ◇

 

 

 頭上には弦月に満たぬ欠けた月。

 その凍えた薄い月光は、塵となって消えていく死者達の亡骸を延々と照らし続ける。

 

「初めまして、かな?」

 

 その薄ら笑いとは到底釣り合わぬ優しい声音で、蜘蛛は美鈴へと語りかけた。

 彼の周囲にある死者の亡骸たちが、月光に照らされて塵となっていくのを確認して、美鈴はようやく己の目の前にいたモノ以外の死者たちも彼の手によって葬られたのだと気付いた。

 そう、直前まで美鈴に気付かれることなく、ソレを成し遂げていたのだ。

 この自分が接近を許してしまった事といい、この男の気配遮断能力は隠形に長けた式神に匹敵するか、もしくはソレ以上か。

 

「何者ですか?」

 

 美鈴は突然現れた蜘蛛に対して警戒度を上げると同時、蜘蛛に聞いた。

 

「どうでもいいだろう、そんなこと」

 

 パチン、と柄からナイフの刃を取り出し、再び構える蜘蛛。

 

「せっかくこうしてお互い出会えたんだ。なら、やる事は一つだろう?」

「外来人の方ですか? 何故こんな事を?」

「あんたを解体したいから」

「手合わせを申し込むなら、礼儀の作法を学んでから出直して下さい。先ほどの不意打ちは見事でした。ですが――――」

 

 美鈴は重心を低くして構える。

 

「先の攻防で貴方の動きには慣れました。次来るのであれば、この拳が貴方の頭蓋を打ち砕くと知りなさい」

 

 刺し傷を負った腕が煙を立てて再生する所を敢えて見せつけながら、美鈴は遠回しに最後の警告を促した。これで退いてくれるのならばそれでいい、人里へ行きたいのであれば、地図も譲り渡そう。この男の腕ならば人里にたどり着くまでの自衛くらいは造作もないだろう。だから、これは警告。

 退くのならば手は出さない、これ以上進むのであれば、命はない。

 

「そうなりたくないのであれば、お引き取りを」

「まったく、連れないな」

「貴方のためを思って言っているのです」

「こっちは態々邪魔者まで排除したっていうのに、お駄賃代わりに殺り合ってもくれないのかい?」

「……何を言っても無駄のようですね。では、お覚悟を」

 

 しかし、そう言われては美鈴も断る事はできなかった。先の不意打ちはともかく、お膳立てのために邪魔者を態々片付けてやったと言われれば、武人としての美鈴に断る口実はなくなってしまう。熟々厭らしい男だと美鈴は内心で舌打ちする。

 そこから先は、互いに言葉はいらなかった。

 

 蜘蛛がまた構える。

 膝よりも重心を低くし、そのまま美鈴の視界から消えた。その姿勢を保ったまま、静から動へと、動から静へと激しく変化させる。

 ――――まったく、馬鹿げた動きだ。

 驚愕を表に出さす、美鈴は蜘蛛を待つ。武術とは呼べない。が、到底一世代で磨き上げられるような動きではない事は確かだ。明らかに人間の運動法則から逸脱している。

 だが、それでも美鈴の敵たり得ない。その動きは既に散々見た代物だ。

 

 後ろからの奇襲に対し、美鈴は視線で追う事無く振り向き、最小限の動きで決しの拳を放つ。

 ――――っ!

 その驚愕は果たしてどちらのものだったか。再度奇襲を察知された蜘蛛の方か、それとも拳を再び躱された美鈴の方か。

 蜘蛛は獣を思わせる反射神経で体を捻って奇襲を察知したカウンターを紙一重で躱し、反撃を顧みることなく月写しの凶器を美鈴の腕を切り落とそうと振るった。

 人間の限界まで突き詰めた蜘蛛の体術は、並の魔の体など瞬時に解体する。それを察した美鈴が易々と食らう訳がない。重心を落としまま身体ごと回転させて受け流し、それに併せて返される刃を叩き落とす。

 しかし、蜘蛛はナイフがたたき落とされた反動を利用し、再び地面に四肢を付いた姿勢になる。その姿勢のまま再び獣以上のスピードで美鈴を翻弄し始める。

 

「その動きは慣れたと言ったはずです!」

「こっちもな」

「っ!?」

 

 またナイフで攻撃してくる、と思った美鈴の予想を裏切り、蜘蛛は四肢を付いた状態から体を反転させて下から、バネのように跳躍しながら美鈴の腹を蹴り上げた。

 閃走・六兎。

 驚く美鈴であったが、咄嗟に自身も飛び上がって衝撃を和らげる。そのまま蜘蛛の足を掴んで握りつぶそうとするが、蜘蛛はもう一方の足で掴もうとする美鈴の足を蹴りつけ、美鈴よりも速く地上に降り立つ。

 ……まるで、空中で意図的に体重を移行するかのような急降下着地だった。次々とヒトとは思えぬ挙動を見せつけられ、呆れる美鈴。

 束の間、美鈴よりも先に着地した蜘蛛は、水面を弾ける飛礫のような、低く速い獣じみた跳躍で美鈴の着地予定地点へと跳んだ。

 ――――着地を狙いますか……ならば!

 空中で体勢を整える美鈴。

 何をするのかと蜘蛛は思えば、美鈴は落下してゆく筈の身体を()()()()、蜘蛛のナイフを避けた。

 ――――っ!?

 驚愕を見せたのは蜘蛛の方。着地ざまに美鈴の足を切り落とす筈だったナイフは空振る。

 跳び込んできた分、蜘蛛の立て直しは美鈴よりも明らかに不利だ。

 蜘蛛が着地するよりも速く、命を刈り取るような一撃が蜘蛛を襲った。

 

「っ!」

 

 防御と同時に受け流しがかろうじて間に合ったのは、蜘蛛が生来持つ獣のような本能故か、それとも本人が知らぬ内に修羅を乗り越えてきたからか。

 弾き飛ばされるナイフ。しかし、蜘蛛もまた反動を利用して弾き飛ばされたナイフと同じ速さで跳び、地面に刺さる前にナイフを回収する。

 ザザザ、と地面に四肢を付けて吹き飛ばされた衝撃を殺しながら後退していく蜘蛛。

 

 再び、両者は死合を始める前の位置に戻った。否、実際はそれよりも遙かに距離が開く事となったが、結局振り出しに戻ったのである。

 人間と妖怪。その力差の一端を味合わされた蜘蛛は、恐怖と絶望に屈する所か、その笑みを深くするばかり。

 ――――何故、そんなに笑えるのだ?

 そんな蜘蛛の様子を見た美鈴は、赤色のロングヘアーを掻き上げ、汗に濡れた肌を空気に晒しながら、不意にそう思った。

 相手に戦意の喪失はない。

 ならば、と美鈴は再び大きく息を吐き、重心を低く構えたまま距離を開けた蜘蛛を睨み付けた。

 暫しの沈黙の後、先に口を開いたのは蜘蛛の方だった。

 

「……なあ、さっきから疑問に思っていたんだが、何故()()()()()()()()?」

 

 先ほどまで愉しそうに戦っていた蜘蛛が、幾分か不満そうな表情で美鈴に問う。

 そう、蜘蛛は確かに果敢に美鈴を責め、美鈴はソレに応えている。

 だが、これまでの攻防で美鈴が最初に動くことは決して無かった。その姿勢はどちらかと言えば受け身。

 自分ばかりが攻めている状況が蜘蛛にはつまらないようだった。

 

「武人である以前に私は門番を任されている身ですから。ここを離れる訳にはいかないのです」

「そんな事をしなくても、俺はあんたに夢中だぜ?」

「そう言いながら何とか私をやり過ごしてこの館へ侵入せんとしてきた者を、私が何人見てきたと?」

「……そうかい。ああ、片思いの恋慕ほど虚しいとよく言ったもんだ」

 

 肩をすくめ、皮肉げに笑う蜘蛛。

 ――――まったく、悲しいね。

 こっちはこれ程までにあんたを想っているのに、これ程までに殺したいのに、これ程までに解体したいのに。その頭蓋を突き刺し、攪拌し、喉を裂き、背骨を断ち切り、首を胴体までめり込ませ、最後にその月光を反射して煌めく股を解体したいと切望しているのに。

 先の攻防で殺され掛かった事はあれど、それはヒトの身ならざるものの一撃であるからに過ぎず、美鈴自身には積極的に蜘蛛を狩りに行こうという気概がないのだ。

 ならば、と蜘蛛は薄ら笑いを浮かべた。

 

「いいぜ」

 

 構えを解き、両腕をだらんと力なくたれ下げる蜘蛛。

 ようやく諦めてくれたかと思った美鈴であったが、その直後。

 

「あんたがその気になってくれないのなら」

 

 蜘蛛はナイフをくるりと逆手に持ち替え、刃を地面に向けるように掲げる。

 何をする気だ、と身構える美鈴。

 あくまで門番として相手の出方を見てから応える姿勢を保ち続けようとする彼女であったが。

 

 ぞわりと、背筋を迸る悪寒が彼女を襲った。

 

 逆手に持ったナイフの刃を地面に向ける蜘蛛。

 一瞬だけ、その地面に向ける眼が、蒼く煌めくのが美鈴には見えた。

 ――――アイツは地面を……いや、『何』を視ている?

 ただ何の変哲も無い地面を見ている筈だ。美鈴が戦った感触では蜘蛛の身体能力は人間の領域を片足踏み越えてこそすれ、持っている武器もただ頑丈なだけのナイフ、そして幻想郷の住民に見られるような能力も持ってはいないように見えた。

 

「こっちからあんたを誘うとしようか、ねっ!」

 

 蜘蛛がかがみ込み、地面にある『ナニカ』を睨み付けてそのナイフを振り下ろす。

 ナイフの刃先が地面に突き立てられるその直前。

 ――――アレハナントシテモ阻止シロソウシナケレバオマエガマモルベキ主ノ城ハ――!!

 考えるよりも早く、美鈴の身体は蜘蛛へと肉薄していた。

 

「っ!」

 

 気が付けば、蜘蛛の体は目前。

 持ちうる限りの全速力。

 虹色の闘気をまき散らしながら流星のごとく、美鈴は蜘蛛のいる地点まで瞬く間に移動していた。

 

「よっと」

 

 肉薄してきた美鈴の一撃を間一髪で躱す蜘蛛。

 その瞬間、蜘蛛のいた地点には巨大な窪みが出来ていた。大きさにして半径7メートル。蜘蛛の身体能力を持ってすれば一足たらずで移動できる距離であったが、並の人間であればとっくに粉々になっていたであろう一撃だった。

 

「ハァ、ハァ……ッ!?」

 

 その窪みの中心に拳を突き当てていた美鈴は荒げた息を落ち着かせた後、はっと我に返った。辺りを見渡せば自分の拳によって凹んだ地面があった。

 ――――私は、何をしている?

 ただ目の前の青年が地面にナイフを突き立てようとしていただけだというのに、なぜ慌てて門から離れた?

 ……門から?

 

「おや、おかしいな」

 

 距離を取った蜘蛛が、優しい声音で美鈴へと語りかける。

 

()()()()()()()筈じゃなかったのかい、お嬢さん?」

「キサマッ……」

 

 優しい声音だが、明らかに小ばかにされている。思わず屈辱に表情が歪む美鈴。

 紅魔館を守る門番として門から動かずに守り続ける事を誓ったというのに、それを目の前の青年に宣言した筈なのに、あろう事かそれを崩された。

 蜘蛛の意味不明の行動によってそれはあっさりと瓦解した。

 

「ハハハ。それにしても、枷を外しただけでこれとはね。やっぱあんたに番人なんざ不釣り合いだよ」

「お嬢様は!紅魔館は! 私の枷なんかじゃないっ!」

「ああ。あんたみたいな化け物を飼い慣らす怪物だ。さぞ殺り甲斐があるのだろうな。此処からでも身体が疼いて仕方が無い」

「――――」

 

 瞳から色が消える美鈴。いや、色が消えるのでは無く、一色に染まっていく。怒りの赫が蜘蛛を射貫いた。

 ――――もう殺す。

 標的が美鈴一人だけならばよかった。だが、この男は今口にしてはいけない言葉を口にした。人間が、あろう事か何の能力も持たない、ちょっと身体能力が優れているだけの人間がそれを口にする事。人間ごときが、吸血鬼を殺すと宣言する事。

 それが何を意味するのか。

 

「……いいでしょう。貴方のおかげで私を縛り付けるモノはなくなった。ここが人里でない事を悔いながら逝きなさい、人間」

「いいねえ、らしい目になってきたじゃないか! やっぱり片道通りの想いなんて詰まらない。互いの本性を曝け出し合ってこそ殺し合いってもんだ!」

 

 門番という“枷”から解放された美鈴。並の人間ならば見るだけで窒息する程の虹色の闘気を前にして、蜘蛛はただ笑う。絶望でも、恐怖でもなく、その嗤いはただ歓喜に満ちている。先までは自分から手を出すだけだった戦いが、今度は相手からも手を出してくれるというのだ。

 ――――ああ、やっぱ殺し合いってのはこうでなくちゃな。

 拳に虹色の気を宿らせ、戦意を滾らせる美鈴を前にして、蜘蛛は三日月状に口を歪めて嗤う。

 

 虹色を纏った少女が蜘蛛に走り寄った。

 蜘蛛もソレに合わせて動く。美鈴の動きは先ほどとは段違いだった。蜘蛛の奇襲に対してただ応じるだけであったのが、今度は美鈴から蜘蛛に殺しに掛かってきた。

 完全に、立場は逆転していた。

 虹色の気を纏う美鈴の拳の威力は先ほど門番として戦っていた彼女の比ではない。避ければ視界は霞み、掠れば甚大なダメージを受ける。だからといって避けきれる速度でもない。

 故に、蜘蛛は同時に3つの行動を以て美鈴の攻撃を捌かなければならかった。蜘蛛の如く重心を低くし、そしてナイフによる受け流しと回避を同時に行う。しかも手持ちのナイフは一本のみ。

 明らかに分が悪い。チキンゲームに程がある。それ程のスペックの差が蜘蛛と美鈴の間に存在していた。

 それでも、蜘蛛は美鈴の攻撃を捌いていた。先に挙げた3つの行動を同時に易々と行い、美鈴の攻撃をナイフ一本という少ない手数で捌ききっていた。目の前の蜘蛛の技量に美鈴はただただ呆れるばかりである。

 しかも、捌ききるばかりか蜘蛛もまた美鈴の動きに慣れてきたのか段々と反撃に転じてきている。押している割合は美鈴の方が圧倒的に多いが、美鈴の身体にもほんの浅い切り傷が刻まれていく。

 

 蜘蛛の動きもまた美鈴と同じように違っていた。最初は蜘蛛のような低重心のまま獣のスピードで地を這っていただけなのが、戦闘場所が僅かに移動したせいか、周囲の木々や障害物などを足場に超常的な反射神経のなす運動で跳び回り、段々と美鈴を翻弄し始めたのだ。

 その動きは視界を慣らす事を許さぬ、さながら空間を扱う蜘蛛のよう。ここに来て美鈴はようやく己の失策に気付いた。

 自分が門を離れこの蜘蛛を仕留めんと追いかけ続ける内に、自分は狩り場に誘われたのだと。全ては蜘蛛の策に他ならなかったのだと。

 ならばどうすればいい。

 動きは捕らえられぬ。動きは蜘蛛、スピードは獣をゆうに超えている。おまけにここは相手の狩り場の中。

 ならば答えは1つ――――蜘蛛の巣ごと、相手を押しつぶしてしまえばいい。

 その答えにたどり着いた美鈴は不意に立ち止まる。ソレを訝しんだ蜘蛛もまた立ち止まり、美鈴を見つめる。

 おそらく好奇心なのだろうが、好都合だと美鈴は内心でにやりとほくそ笑み、両腕の掌を対にしながら大きく回転させる。

 その円の中心に、美鈴の能力による虹色の気が集束していく。

 

「はっ……!」

 

 それを見た蜘蛛の笑いは果たして絶望か、興奮か、歓喜か。いずれにして美鈴には関係がなかった。

 こいつはここで仕留める。その蜘蛛の巣ごと叩き潰してくれる。武人として磨き上げた技を放とうとしながらも、美鈴の思考は完全に魔の側へと傾いていた。結局の所、自分がこういう思考に陥るのも目の前の蜘蛛の策略の内だったのかと思うと少し癪に触る美鈴であったが、それももう関係ない。

 

 そして、ソレを放たれた。

 美鈴の妖力を能力で練り上げて集束し、放たれた気の集合体。濃厚な密度までに練り上げられたソレは、地面を抉りながらも速度を緩めず、周囲の木々すらもなぎ倒して蜘蛛へと迫る。スペルカードで扱うべき必殺の一手でありながら、弾幕ごっこでは禁じ手である、宣言なき砲撃。

 避けるのであれば、選択肢は左右の二択のみ。周囲の木々を吹き飛ばしていくこの状況では蜘蛛の足場となるものは地面のみ。つまり、その選択が成された時点で畳みかければ、容易に終わる。

 そう、美鈴は思っていた。

 ――――()()()

 それは一体、誰が呟いた言葉だっただろうか。己の気弾を避けた蜘蛛に対し畳みかける未来を幻視した美鈴のものか、それとも……。

 

 次に、美鈴は信じられぬ光景を目にした。

 己の前を直進していた、身の状を優に超える気弾。それがいきなり()()()、そこには悠然とナイフを構えた蜘蛛の姿があったのだ。

 

「は……?」

 

 思わず呆然とする美鈴。

 相殺されるのならばまだ分かる。まだ納得できない訳じゃ無い。自分程度の妖怪が放った弾幕など、容易に相殺できる、それ所か押し返す存在さえこの幻想郷では珍しくない。

 だが、何の力もない人間の、ただの変哲のないナイフ一本の一振りで、ソレが消滅させられたのだ。

 幻かと思った美鈴であったが、己の足下から蜘蛛の足下まで続いている地面の抉り後が、紛れもない現実を語っていた。

 

「い、一体なにを……」

 

 した、と蜘蛛に思わず聞こうとして、美鈴は蜘蛛の目を直視した。

 冷たい氷湖のような、蒼い虹彩を放つその眼を直視してしまった。

 似たような悪寒はこれまでも感じ取っていた。初めてかち合った時の攻防でも、この蜘蛛が地面に向けてナイフを突き立てようとした時も。思えば、美鈴はその悪寒に従ってこの蜘蛛の攻撃に対処していた。

 だが、今度は直死してしまった。

 己の死を連想させる、その蒼い眼を。

 

「何を呆けている?」

「……っ!」

「俺もあんたもまだここに立っている。ならやる事は一つだろう?」

「……なに?」

「さっきは肝が冷えたよ。だがその調子だ。さあ、続けようぜ? 要らぬ煩悶を抱く必要なんてなし。あんたの本性をもっと俺に曝け出してくれ!」

 

 呆けている美鈴の視界から、蜘蛛の姿が消えた。

 気付いて、美鈴はしまったと我に返った。呆けている場合ではない。先の一撃で標的は仕留められなかったはおろか、相手の足場すらも大して奪えてはいない。気弾が放たれてから消されるまでの飛距離は決して長いものではなかった。そのため、彼の足場となり得る木々(蜘蛛の巣)は僅かにしか破壊できていないのだ。

 ――――殺サレル

 

「あっ……」

 

 殺される、呆けていたら自分の方が殺される。蜘蛛の足場を破壊する筈だった気の弾幕はあっさりと消滅させられた。相手はナイフの一振りで自分の弾幕を消滅させられる。しかも相手はこの空間を自由自在に跳び回れる。

 自分も能力により空を飛ぶことはできるが、この空間においては瞬時に、自由に足場を伝って方向転換できる相手に圧倒的に分がある。下手に空を飛ぼうとすれば、死角を増やすばりかで、それこそ相手の餌食になる。

 ――――私ハ、ココデ殺サレル。

 

「アアアアアアあああああぁぁァァアっ!!」

 

 狂ったように、美鈴は拳から気の弾幕を放ち続けた。

 幸い相手に飛び道具はない。ならば接近させなければいい。

 だが、弾幕は当たらない。巣を張り終えた蜘蛛は、木々をはじめとした障害物を足場に跳び、避ける。

 接近されたとしてもそれに対処できる自身は確かに美鈴にはある。

 それを考慮しても、相手を近づけさせる訳にはいかないのだと、美鈴の第六感は告げていた。

 気を濃縮した必殺の一撃が一振りで消滅させられるのならば、今度は手数で攻めることにした美鈴は、弾幕の密度を上げた。

 周囲の木々をえぐり取っていく程の威力を込めた弾幕は、確実に蜘蛛を追い詰めていく。ナイフ一本では対処できる弾幕の数にも限界はある。

 目の前の弾幕をナイフで消すことはできても、別の場所に飛んでいく弾幕はナイフでは届かない。その弾幕は、確実に蜘蛛の足場を削っていく。

 元々、森という程木々が密集してはいない空間だ。美鈴が守るべき門がある場所から少し移動した程度の所の距離だ。

 やがて、追い詰められた蜘蛛は、美鈴の目の前に地面に足を付いた状態でその姿を晒してしまった。

 

「好機!」

 

 周囲に最早足場となる木々は存在しない。彼に頼れる足場はもはや地面のみ。

 ――――ここで、仕留める。

 再び、美鈴は拳に気を溜め、ソレを解放した!

 先ほどのような気を濃縮した一撃ではなく、米粒の弾幕を幾重にも重ね合わせた極彩色の弾幕。

 何も威力を重視する必要は無い。相手は人間。耐久は妖怪である自分の足下にも及ばない。この逃げ場のない空間で、数で押しつぶす!

 

 そして、辺り一面が虹色に爆ぜた。

 一つ一つ消す事は叶わない。だからと言って避けれるほどの範囲も、隙間もありはしない。

 虹色一色の光景が消え、焦土と化した目の前の風景が美鈴の視界に映った。

 

「……」

 

 周囲に気を配る美鈴。

 人の気配は見当たらない。あれ程感じていた『死』の気配も今は感じない。

 そう認識した美鈴は、一息ついて荒ぶる己の心を静める。

 次に来たのは安堵。あの蜘蛛に対して門を守り抜いて見せた事、そして自分が殺されずに済んだという安堵だった。

 故に、己の身体に纏っていた虹色の闘気を解除する。

 それが、いけなかった。

 

 ――――極彩と散れ

 

 その隙を、蜘蛛は見逃さなかった。

 死を狙わない、ただ純粋な決死の一撃。

 水面をはじけ飛ぶ飛礫のような、獣じみた低空跳躍で一気に草むらから躍り出て、美鈴へと肉薄する蜘蛛。

 その決死の一閃は、美鈴の首筋を寸分違わず切り裂いた。

 

 

     ◇

 

 

 弦月一歩手前の月光の下、立っていたのは蜘蛛。多量の血を首筋から吹き出しながら倒れていたのは美鈴だった。

 

「へえ、まだ息があるんだな」

 

 こひゅー、こひゅー。

 美鈴の口から返答はない。ただ歪な呼吸音を上げながら、視線だけで蜘蛛の方を見上げるだけだった。口を動かそうとしても、そこから吐き出されるのは言葉という音からは程遠い、赤い液体のみだった。

 それでも、蜘蛛は美鈴の言わんとしている事を悟り、片目を閉じて皮肉げな笑みを浮かべる。

 

「ああ悪い。喉ごと裂いちまったら声は出ないわな。で、あそこからどうやって生き残ったかって顔をしているな、あんた?」

 

 それはそうだ。足場は潰した、逃げ場は潰した。

 なのに、この蜘蛛は何故生きている?

 何故、自分はあの一撃を避ける事ができなかった?

 言葉に出来ない疑問が頭の中を駆け回り、されど口には出せずに美鈴の意識はただ混濁とするばかりであった。

 

「簡単さ。逃げ場なら態々あんたが作ってくれたからね。あんたが俺に最初に放ったアレ、覚えているか?」

「……」

 

 美鈴は思い返す。

 おそらく最初に気を濃縮して放ったアレの事だろう。一体アレがどうしたと

――――っ!?

 こひゅっ、こひゅっ。

 言いたげに言葉を割ろうとして、口から血を吐き出す美鈴。相変わらず表情に変化はないが、その今にも死にそうな虚ろな目が僅かに見開かれたことから、蜘蛛は彼女がようやく悟ったのだと見抜き、続けた。

 

「そうだ。あんたは念を込めて俺が避けれぬよう、地面付近も隙間なく埋めたつもりだったんだろうが、それ以前にあったよな。あんたが最初に放った弾で出来上がった、()()()()()がさ」

 

 その抉れた地面に、彼は避難していたのだ。念を押して地面が抉れるほどの量の弾幕を放っていた美鈴であったが、その抉れる深さは最初に放った高濃度の気の弾には到底及ばない。その僅かな高低差、大凡20センチメートルくらいしかない深さの安全地帯に、蜘蛛は避難したのだ。

 結果、弾幕は僅かに髪を掠る程度に止まり、驚異が過ぎ去った瞬間に美鈴の背後の草むらに身を潜めた。そして油断した美鈴は、背後からの奇襲を許してしまった。

 それでこの現状が生まれたのだった。

 ――――最も、原因はそれだけじゃないがね。

 蜘蛛は内心でそう付け加える。この女の一番の敗因はそんなものではない。普段の彼女ならば先の奇襲だって余裕で対処できただろう。

 一番の敗因は、この女が『死』に敏感になりすぎた事だ。長い年月をかけて磨き上げられたせいか、元々勘がよかったのが災いしたのか。美鈴の死を狙って振るう蜘蛛のナイフに対して、美鈴は敏感になりすぎた。

 本格的にそうなったのは、蜘蛛が地面の死にむけてナイフを突き立てようとし、紅魔館ごと倒壊させようとして、彼女がそれに対して門番の役割を放棄してまで無意識に反応して見せた時だろう。

 死を狙う一撃と、死に至る一撃の区別が、彼女の中で曖昧になっていた。

 故に、()()()()()()()()()()()を許してしまった。それでも反応して、こうやって間一髪で生き延びているのは見事という他ないが、それでも動けないようでは同じだ。

 僅かでも、自分に最高の時間を与えてくれた彼女に対する義理を果たし終えた蜘蛛は、ニヤリと嗤ってその美しい女体を見下ろした。

 

「さて。約束通り、あんたの身体を思う存分解体させてもら――――っ!?」

 

 再びポケットに忍ばせた飛び出し式ナイフを手に取ろうとして、思わず蜘蛛は呆然としてしまった。

 美鈴の姿が突如として消えたのだ。まるで最初からそこにいなかったかのように、突然移動したかのように消えた。まだ余力を残していたのか、と周囲に気を配る蜘蛛であったが、そんな気配はしなかった。

 

「森の狐狸どもに化かされた、って感じじゃあないな……」

 

 おびただしい量の血が残っている事から、少なくとも彼女がそこにいたという痕跡は残っている。彼女が致命傷を負い、しばらく動けないだろうという事も。

 

「……ん?」

 

 ふと、自分の足下の地面にナニカが突き刺さっている事に蜘蛛は気付く。月光を反射して美しく銀色に輝くソレを、蜘蛛は手に取る。

 ソレは一振りのナイフだった。

 冷たい月光を反射する銀のナイフが、そこにあった。

 はて、こんなものさっきまであっただろうか、と腕に手を当てて考える蜘蛛であったが、刀身を裏返すと、その刀身には文字が掘られていた。

 

 ただ一言、『これ以上近づくな』と。

 

「……へぇ」

 

 思わず、蜘蛛は愉しそうな薄ら笑いを浮かべた。

 これは狐狸どもの仕業ではない。あの紅い館に住んでいる何者かが自分の足下に置いていったのだと悟る。

 ――――そんな事を言われちゃ、余計に覗きたくなるってもんだ。

 そう呟いて蜘蛛は館の方を見る。異彩を放つ、紅い館を蜘蛛は見つめた。

 

 どんな手品を使ったのかは知らないが、仲間を一瞬で安全地帯に避難させた芸当。

 あれを見せられて、近づかない方がどうかしている。

 

「ク、ハハハ。どうやら、俺の仕事はここからが本番らしい……」

 

 こんな望まれない役者を、一体どんな舞台が待ち受けているのやら。

 今にも興奮でどうにかなりそうなどぎまぎを押さえながら、蜘蛛は紅い館の敷地へと足を踏み入れた。

 



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七夜を名乗る

 ――――やはり、お嬢様の言う通りになってしまったか。

 首に幾十にも包帯を巻き付けられて意識を失っている美鈴をベッドに寝かせ、咲夜は眉を潜めた。

 危なかった。あと一歩遅ければ間違いなく美鈴は死んでいた。

 不意打ちとはいえ、美鈴が人間相手に一本取られた。しかもその一撃は美鈴の首が飛んでしまう一歩手前までに深く刻まれており、美鈴の反応があと少し遅ければ完全に首を刎ねられていた所だった。

 咄嗟に時を止めて美鈴をここまで運んだ咲夜であったが、頭の中は美鈴をこのようにした侵入者の事で一杯だった。

 

警告(メッセージ)は残しておきましたが、おそらく無駄でしょうね……」

 

 時を止めて美鈴を回収するついでに侵入者の足下に書き置きを残した咲夜であったが、おそらくあの侵入者はここまでやってくるだろうと咲夜は結論付けた。

 現在、紅魔館の玄関は咲夜の手によって幾重にも施錠され、更にはこの館の主人の友人の魔法使いであるパチュリー・ノーレッジの貼った結界によって触れようとすれば自動的に扉から侵入者をはじき返す仕掛けになっている。

 それでも侵入者は、この美鈴を打ち倒す程の手練れ。

 それに加えて彼女の主人であるレミリア・スカーレットはその侵入者を出迎えろと命令してきた。それは即ち、侵入者は美鈴を退けて必ずこの館に入ってくると明言している事に他ならなかった。

 あの月見で、咲夜の主であるレミリアが一体どのような運命を視たのか、咲夜には分からない。お嬢様こそ自分の全てを理解して下さるという自負は咲夜にはあるものの、逆に咲夜の方はレミリアの全てを理解しているとは言い難い。

 それでも、主の意向に従うのが従者の務めだ。

 そう自分に言い聞かせたその時、不意に咲夜は自分の名前を呼ばれた気がして、美鈴の方を向いた。

 ――――さ、く、や、さ、ん。

 まだまともにしゃべることなど出来ない。喉ごと裂かれては声など出はしないだろう。それでも、美鈴は咲夜の名を呼んでいた。

 ――――もう、し、わけ、あり、ま、せん。

 声に出なくとも、その口の動きで咲夜には分かった。

 

「無理はしないで、美鈴」

 

 美鈴の頬を撫でながら、咲夜は彼女に自分の存在をアピールする。今の自分の声が美鈴に聞こえているのかは咲夜には分からなかったが、美鈴の表情は心なしか安心するような様子になり、再び深い眠りに落ちた。

 妖怪である彼女ならばこの程度の傷は1、2日ほどで完治するだろう。門番という業務に復帰できるまでには時間は掛からないものの、それまでは紅魔館の庭の掃除や花たちの世話も咲夜が担当する事になりそうだった。

 ――――庭の管理に関しては本来管轄外だけど、仕方ないですね……。

 肝心の門番兼庭師がこの状況では、そうも言っていられないと咲夜は結論付けて再び頭の思考を美鈴から侵入者に関することに切り替えた。

 

「さて、ナイフは何本必要になるかしら……」

 

 主の城に侵入する不届き者について、咲夜は考える。

 姿自体は時を止めて美鈴を回収する際に確認している。美鈴と戦った後だというのに、ほとんど無傷であった事に驚きを見せた咲夜であったが、それを吟味していかにして侵入者を串刺しにするかを考える。

 ここは人里ではない。しかも相手は外来人。配慮する要素は何処にもない。

 そう考えていたら。

 

「……来たわね」

 

 知らせにより、咲夜は侵入者が玄関のドアを開けた事を察知した咲夜は、能力でその場から消えた。

 ――――わ、た、しは……ま、だ……。

 声の出ない口をそう動かす美鈴だけが、その場に取り残された。

 

 

     ◇

 

 

 再び門の前に立ってみれば、先ほど感じていた美鈴の気配があの館の中から感じ取れた蜘蛛。やはり生きていたかと蜘蛛は笑う。

 となれば、その彼女を避難させたのは間違いなくこの館の住民に他ならない。随分と仲間思いなのか、それとも彼女ほどの腕っ節を失うのが惜しいだけか。いずれにせよ、蜘蛛には関係のない事だった。

 常人ならば乗り越えられない高さの門を一足で跳び越え、蜘蛛は館の敷地へと入る。

 冷たい月光に晒されて、綺麗に掃除された庭や、手入れをされた花が花壇で蕾を閉じて安らかに眠っているのが目に入る。

 これもあの門番の仕業だろうか……だとしたら随分と芸の多い女だな、と蜘蛛は更に美鈴に対する評価を引き上げた。

 一通り庭の鑑賞を終えた蜘蛛は、館のドアの前に立った。

 幾重にも施錠が施された玄関の扉。

 おまけに魔術的な施錠までもが施された厳重なソレを蜘蛛は見つめる。その蒼い眼で、その扉をしばし見つめた後。

 

 先ほど回収した銀のナイフを取り出し、手首のみを動かして。

 ひゅん、と上から下にそっと刃を振り落とす。

 それだけで、この玄関の施錠は解除された。

 

 がちゃり。

 取っ手に手をかけ、蜘蛛はその扉を開ける。

 中に入ると、外より入る月光に照らされたエントランスが蜘蛛の目に入る。その光景に蜘蛛は目を少し見開いた。

 明らかに、外から見るより館の中が広い。まるでそこだけ別空間であるかのように、空間だけがあたかも広められたかのように、とにかくそれだけでもこの館は異常だった。

 そして、何より異常なのは――――

 

「ハハハ、何だこれ。()()()()()じゃあないか……」

 

 何より目に奪われるのは、この空間の所々に走る死の線。館の外にも薄らと見えていたが、この館の空間に走る死の量は尋常ではなかった。

 今にも壊れそう空間、今にも壊れそうな世界。

 今にも真夏の雪に千切れて消えてしまいそうなその世界に、さしもの蜘蛛も笑うしかなかった。さしもの蜘蛛にとってもこれは視界に悪い。意識的に焦点をずらさなければ、瞬く間に狂ってしまいそうだった。

 ちょっと撫でただけでこの世界を壊してしまえる……これ程愉快な事があるものか。

 大凡、何らかの能力か術でこの空間を無理矢理広めているのだろうが、そのツケでも表すかのように、空間に尋常でない程の死の線が走っていた。

 ならば、この出鱈目な芸当を成し遂げてしまう術者とは一体――――。

 

「人の館に侵入して早々にその一言とは。随分と失礼なお客様ですね」

 

 その声が蜘蛛の耳に入った途端。

 蜘蛛の目の前に、一人のメイド――十六夜咲夜が現れた。

 蜘蛛は多少の驚きを見せながらも、大きな動揺は見せなかった。むしろ突然現れたそのからくりに興味を持ち、蜘蛛は女性に話しかけた。

 

「いや、これは失礼。急にこんなけったいな箱庭に放り込まれちゃ愚痴の一言も言いたくなるもんさ」

「そのけったいな箱庭でいきなり見知らぬ館の門番に襲いかかる貴方の方が、よほどけったいじみているかと」

「ハハハ、違いない」

 

 片目を閉じながら皮肉げに笑う蜘蛛。

 それをただ冷淡に見つめる咲夜。

 

「その言動、自分が外の人間であるという自覚はあるようですね」

「ああ、やっぱり? ま、それはどうでもいいことだろう。俺にとっても、あんたにとってもさ」

「ええ、重要なのは――――」

 

 瞬間、咲夜の姿は消える。

 それと同時、自分の首筋に冷たい何かが接触するのを感じ取った蜘蛛は間一髪で跳んでその一撃を躱した。

 

「貴方が美鈴を打ち破り、お嬢様の城に侵入したという事実のみ」

 

 気がつけば、蜘蛛がいた所には銀のナイフを構えている咲夜の姿が蜘蛛の目に映った。一瞬、反応が遅れてしまったことに冷や汗を搔く蜘蛛。

 一方、自分の不意打ちを避けた蜘蛛の超常的な反射神経に咲夜は内心で驚愕するも、表に出すほどでは無かった。不意打ちとはいえ、美鈴と体術で渡り合った男だ。この程度の不意打ちは捌けて当然だろう。

 咲夜が気付いた時には男は一足で15メートルも距離を取っていた。

 その身体捌きを視た咲夜は蜘蛛に対してこう評価を下す。

 ――――能力を除いた反射神経、および身体能力は明らかに自分を上回っていると。

 

「危ない危ない、一体どういうカラクリなのやら。ああ、そういえば……」

 

 冷や汗を搔きながらも距離を取った蜘蛛は、何かを思いついたかのように咲夜に話しかけた。

 

「あの門番のお嬢ちゃんは元気かい? あんたのおかげで解体し損ねちまったもんで、このままじゃちと不完全燃焼なんだが……」

「それを貴方様に答える義理が、こちらにあると?」

 

 ナイフを握る手に若干の力が入る咲夜。

 理由は二つある。

 一つは純粋に美鈴が殺されかけたことによる怒り。

 そしてもう一つは、この殺人鬼が美鈴が突然目の前で消えた事が自分の仕業であると見抜いていることだ。

 ――――腕は立つ上に勘も回る、面倒な相手ですね……。

 こういう相手は速攻で仕留めるに限る、と咲夜は右手の指の間にナイフを三本挟みながら侵入者を睨み付ける。

 

「さて、無駄だと分かりつつも念のためお聞きしますが。お客様、先に対しての返答は以下に?」

「ハっ」

 

 鼻で笑った蜘蛛は回収した銀のナイフを取り出し、それを咲夜へ投げつけた。刀身に咲夜が掘った蜘蛛へのメッセージが書かれたナイフが、その切っ先を咲夜の胸元に向けて飛んでくる。

 その向かってくるナイフの刀身を、咲夜は左手の指で挟み込むようにつかみ取り、その返答を見た。

 『これ以上近づくな』と咲夜自身に掘られた刀身の裏側を、咲夜は覗き込む。

 そこには――――。

 

「受け取れよ、あんたへの『手向けの花』だ」

「フっ――――」

 

 薄ら笑いを浮かべる蜘蛛に対し、咲夜もまた鏡合わせのように笑う。

 『手向けの花』……咲夜に向かって返されてナイフの刀身に刻まれたその言葉こそが、蜘蛛の答えだった。

 

「ならばその花、千本にしてお返ししましょう。貴方の血ともに」

「そりゃあいい。俺の血を代金に一手踊ってくれるのかい、お嬢さん?」

「生憎奏者はこの私。踊るのは貴方一人だけですわ!」

 

 咲夜がそう言い終えると同時、咲夜の周囲に大量の銀のナイフが展開される。

 千本、二千本は下らない。空間を埋め尽くす程の量のナイフが、その切っ先を蜘蛛の方へと向けられていた。

 その光景の中心にて、まるで惑星を回す恒星のごとき輝きを放つ咲夜を見上げ、蜘蛛は口角をつり上げた。

 ――――この規模は、先の門番の比ではないな。

 前髪を掻き上げながら嗤い、蜘蛛は姿勢を低くして咲夜へと躍りかかった。

 

 

 殺到する大量の銀のナイフ。その中心に立つ美しき奏者と、そのワルツに身を投じる一匹の蜘蛛。

 まるで羽虫一匹を潰すためにこのエントランスホール全体に毒ガスをばら撒くかのような所業。そんな絶望的な絵面を前にして蜘蛛は笑っていた。

 

「まったく、本当に堪らない!」

 

 対して蜘蛛は、逃げるでも防ぐでもなく、前方のナイフの弾幕に向かって駆ける。自殺を選び取り、迷う事の無い滑走。全身をナイフが串刺しにせんという距離まで縮まった時、蜘蛛はその重心を下に下ろした。

 地面とナイフの弾幕の、大凡ちゃぶ台の下くらいの高さしかない隙間にその身を投じる。安全地帯に身を潜めた蜘蛛はそのまま驚異が過ぎ去るのを待つ……わけがなかった。

 銀のナイフの奏でる狂騒曲を目くらましに、蜘蛛はその隙間をその低い重心のまま駆けた。その体勢のまま、速度を零から最速に、最速から零に。前へ、後ろへ、真横へ、本物の蜘蛛のような自在な移動を展開する。

 大凡人間の運動法則を無視した体術は最早人外に達する動き。やがてナイフの弾幕が薄くなったことを確認した蜘蛛はエントランスの階段の手すりや壁を足場に立体的な跳躍移動を展開。

 中心に佇む咲夜の死角に瞬く間に回り込み、目も追いつかぬ速度で背後から奇襲をかける。その心の臓を貫かんと切っ先を振るう。

 が、それは瞬く間に潰された。

 

「っ!?」

 

 キィンっ!

 鳴り響く音は金属と金属が衝突する音。いつの間にか咲夜の姿は無く、空中に制止したナイフだけが蜘蛛のナイフの刃を止めていた。

 運動の勢いをあっさりと殺されたその瞬間、勘に従うままに蜘蛛は空中に静止したナイフを蹴りつけて天井へと張り付く。いつの間にか空中に静止したナイフの姿はなく。自分がいた地点に向けて大量のナイフが降り注いでいたのを目視した。

 

「ハ――――」

 

 いよいよ持って狂ってやがる、と蜘蛛は笑った。

 その感情は驚喜。得体の知れない敵に対して、蜘蛛は恐怖ではなく歓喜の情を抱いた。何て殺し甲斐のある相手なんだ、と。

 天井に張り付く蜘蛛に向かって再び向かってくるナイフ。

 下方の全方位からナイフの包囲網が迫ってくる。ソレに対して、蜘蛛は天井を蹴って急降下した。

 自身の身体を掠るナイフは無視し、最初に遭遇した相手のナイフを掴み取り、両手のナイフで自身に迫り来るナイフの弾幕を弾く。

 全てを弾ききれる訳では無い。迫るナイフの雨が蜘蛛の身体にかすり傷を付けていく中、蜘蛛は左手に掴み取った相手のナイフを、ナイフの雨の隙間から一瞬見えた咲夜に向けて投げつけた。

 無論、それは届く訳がない。飛び交う他のナイフによって弾かれ、あらぬ方向へと向かう。

 だが、それで十分だった。これで相手の動揺を誘おうなどと蜘蛛は考えていない。

 その規則正しいナイフの雨の中で、一瞬でも綻びができれば、ソレで十分だったのだ。

 

「疾っ!」

 

 向かうナイフを弾いて蜘蛛は空中で体勢を整えないまま、足下に迫っていたナイフを足場に、跳んだ。

 投擲したナイフによってできたナイフの雨の隙間。その乱れ、綻び。蜘蛛の巣よりも複雑難解なその道を蜘蛛は空中のナイフを足場に蹴りながら、咲夜の死角へと回り込んだ。

 

「っ!」

 

 これで決まったと思った咲夜は、その動揺の隙を突かれた。さっきのように空中に静止させたナイフを足場にするのはまだ分かる。いや、本来足場にできる大きさではないのだが、この男なら何ら不思議ではない。

 だが、動いているナイフについては話が別だ。初っぱなから最高速を維持しながら投げているとはいえ、そのナイフにはきちんと物理法則が働いている。

 にも関わらず、この動き。

 空間に巣を張る蜘蛛というよりは、まるで空中に巣を張る蜘蛛のよう。

 

 動揺している咲夜の死角から、首筋を狙ったナイフの一閃が飛んできた。

 動揺している懐ら、咲夜は思わず手に持ったナイフでその一撃をなんとか捌いた。空中でかち合う二人。

 既に身体中にかすり傷が見られる蜘蛛であるが、その表情の歪みは苦痛ではなく、快楽。蜘蛛の狂気を垣間見た咲夜は、両手に持った六本のナイフで蜘蛛に斬りかかる。

 しかし、蜘蛛が振るうナイフ捌きと、咲夜が振るうナイフ捌きでは天と地の差があった。

 咲夜のナイフ捌きが下手な訳では無い。むしろ幻想郷においてナイフ捌きは誰にも負けないという自負が咲夜にはある。それは近接でのナイフ捌きでも同様の事。

 それでも、蜘蛛のソレには及ばなかった。

 元々体術のレベルが違う事と、更に言うならば男と女の筋力の差。

 高速で振るわれる六本のナイフの手数が、蜘蛛の振るう一本のナイフの手数に負けていたのだ。

 しかし、咲夜とて素人ではない、致命傷になる一閃を捌き、身体の所々にナイフのかすり傷を刻み込まれただけで終わる。

 そのかすり傷の数も、蜘蛛のものと比べれば圧倒的に少ない。

 現状でどちらが有利かは誰が見ても明らかだった。

 

 それでも、咲夜は恐怖した。

 この蜘蛛の在り方を、この稀代の殺人鬼の狂気を。

 先の行動はまさしく正気の沙汰ではないのだ。

 

「くっ!」

 

 僅かに出来た隙を突いて、咲夜は懐中時計のボタンを押す。

 瞬間、彼女の世界が広がる。

 色のない、白黒の冷たい世界が広がった。

 距離を取り、再び時を再生させる咲夜。

 急にその場から消えた咲夜に対し、蜘蛛は動揺する様子もなく、空中に肉薄していたナイフを蹴りつけて壁へ跳び移り、既に距離を取った咲夜の方を睨み付けた。

 咲夜もまた蜘蛛を睨み付ける。

 

「あんた、手品師にでも転職したらどうだ? 給仕なんぞよりもそっちの方が儲かると俺は思うがね」

「生憎、同じ事を知り合いからも言われましたわ。断りましたけど」

 

 まさか、あの日の博霊の巫女から言われた事と同じ事を言われると思わなかった咲夜は、幾分か和らいだ笑みで答えた。

 

「そうかい。まあ、俺は今のあんたの方が断然殺し甲斐があると思うが、な!」

「口説くのならもう少しましな文句を考えて下さい、と!」

 

 蜘蛛も消える。

 咲夜も消える。

 蜘蛛と咲夜の距離は、蜘蛛が一足で詰められる距離。

 だがそれよりも早く、咲夜は時を止めて空中へと()()()

 

「……まさかとは思ったが、あの門番といい、ここの連中はみんなあんたみたいに飛べるのかい?」

「それをお答えする義理はありません」

 

 言うと、咲夜は手に持ったナイフを再び投げつける。

 瞬間、蜘蛛には一瞬だけ灰色の世界が広がったかのような感覚を感じ取った直後、ナイフは何千本にも増殖していた。

 迫り来るナイフを弾きながら蜘蛛は咲夜へと肉薄する。

 先ほど彼女の隙を突けたのは、あくまで彼女の動揺があったからに過ぎない。

 

 だが、気になるのは先ほど、彼女がナイフを投げた瞬間に見えた、あの()()()()()。はて、と蜘蛛は自分の目に手を当てて考える。

 この目は、常人では見えないモノを映し取る事ができる。こんなツギハギだらけの世界が自分に見えているように、彼女はあの灰色の世界を常に見ているのだろうか?

 この目は、あり得ざるモノを見る事ができる代物だ。

 ならば、一瞬だけ見えたあの灰色の空間は、決して幻などではない……。

 

 ならば、見させて貰うとするか……。

 

 肉薄して斬りかかった途端、彼女の姿がまた消え、また別の場所に現れる。そして、その瞬間に彼女が投げたナイフもまた消えているという現象に蜘蛛は気付いた。

 そして――――蜘蛛の中である仮説が立った。

 急に現れるナイフ。しかも初動の速さではなく、最初から加速しきっているかのような速さで飛んでいく。

 次に空中で静止しているナイフ。一瞬だけ見えた芸当だが、蜘蛛が足場にしてもソレはびくともしなかった。

 極めつけは彼女の瞬間移動。

 そして、突き刺さっては一斉に彼女の手元に戻るナイフ。

 

 まだ確信には至らない。

 ならば答えを無理矢理引きずり出してやろうか、と蜘蛛は薄ら笑いを浮かべて。

 

 蜘蛛は突如として、そのまま咲夜の正面に立ち止まった。

 左手をポケットに突っ込み、ナイフを持った右手をだらんと力なくぶら下げながら、咲夜の方を見た。

 ――――一体、何のつもりですか?

 その自殺行為にも等しい蜘蛛の愚行に、咲夜も攻撃の手を止め、立ち止まってしまった。

 訝しんで蜘蛛を見つめる咲夜。

 蜘蛛は相変わらず笑っていた。まるで歌舞伎に使うような能面がそのまま薄ら笑いを浮かべたかのような不気味な笑い。

 まるで、何かを待ち望んでいるかのような、そんな笑いだった。

 蜘蛛の背後には壁がある。既に咲夜のナイフを入れられる程の隙間はない。

 つまり、背水の陣という事だ。

 ――――正面から受けて立つ、という事ですか……。

 愚かな、と咲夜は内心で蜘蛛を嘲笑う。勝負を破棄し、ただ派手に散ろうとするだけの、愚者の考え。

 

「……いいでしょう」

 

 ならば、そんな暇もなく散らしてやる。遊びはもう終わりにしよう。舞台は終幕へ。ただ彼女だけ見る事が出来る、灰色の世界で幕を下ろそうではないか。

 灰色の世界が、彼女を中心に広がった。

 何も動かない、色彩もない、彼女だけの世界。

 全てが止まったその空間で、咲夜は不気味な笑いを浮かべる蜘蛛を睨み付けた。暢気なものだ。

 ――――貴方はその笑いを浮かべたまま、己が死んだ事にすら気付かず、無様に散っていく!

 

「人間から怖れられ、忌み嫌われてきた力、本気で振るえば……!」

 

 その言葉を口にした瞬間、一瞬だけ、咲夜の脳裏に紅色の着流しの少年の笑顔が過った。

 ――――そうだ、彼だけは、志貴だけは違った。

 こんな私に母から貰ったという大切な宝物をくれた。こんな化け物みたいな私を、笑顔で受け入れてくれた。誰も寄せ付けないこんな私と、嫌な顔一つせず遊んでくれた。

 一緒に隠れん坊をしたときも、能力を使ってズルをしていた私を一生懸命になって見つけてくれて、叱ってくれた。あの少年のおかげで、咲夜は殺人鬼をやめる事ができた。

 そして、敬愛する素晴らしい主と出会うことができた。

 ああ、なんだ。十六夜咲夜になる前の“私”にも存外素敵な思い出に溢れかえっているじゃないか。

 ――――だから、ごめんなさい。志貴。

 ――――今の私にとっては、お嬢様こそが全て。そのためならば、貴方との約束だって破ってみせる!

 

 決意を固めた咲夜は飛び上がり、蜘蛛を見下ろす。

 己が持ちうる限りのナイフを蜘蛛に向けて投擲する。

 投擲されたナイフの雨は、速度を保ったまま蜘蛛の面前で停止する。

 如何な蜘蛛であろうと、いきなり目前に現れた大量のナイフを一斉に捌ききる事などできはしないだろう。

 

 既に数えるのも億劫なくらいのナイフが、その切っ先を蜘蛛に向けたまま静止していた。次に咲夜がこの灰色の世界を解除した瞬間が、この蜘蛛の最後だ。

 

「あなたはこの冷たい世界で、何も理解できぬまま死ぬ……!」

 

 懐中時計を掲げ、揺らしながら咲夜は宣言する。

 

「私を理解できるのはお嬢様だけ……解除!」

 

 そして、時は動き出す。

 その瞬間、ありえない事が起こった。

 迫るナイフに蜘蛛は対処仕切れず、その笑いを保ったまま、何も出来ずに息絶えるというのが、咲夜が幻視した未来だった。

 その筈だった。

 

 ――閃鞘・八点衝――

 

 蜘蛛が放つは、斬撃の乱舞。

 己の腕が動く最大範囲までを襲う鋼の乱れは、まさに狂気を宿した暴風の渦。不協和音と聞き間違うくらいの金属音を響かせながら、その斬撃の暴風は咲夜のナイフの雨を迎え撃った。

 それだけならば、まだ驚かなかった。

 蜘蛛のナイフが咲夜のナイフに触れる懐から、咲夜のナイフが刀身ごと切られていくのだ。切られていくナイフは形ばかりかその慣性すらも殺され、床へと落ちていく。

 咲夜は目を見開いた。蜘蛛は自分のナイフをたたき落としているのでは無く、解体しているのだという事実に。

 そして、全てのナイフを捌ききった蜘蛛は、その笑いを崩さずに咲夜を見つめた。

 ――――どうした? 俺はまだまだ踊れるぜ?

 そんな事を言わんばかりの目付きで、咲夜を睨み付けた。

 

「なにを、したのですか?」

 

 今度こそ、動揺を抑えられない咲夜。

 たたき落とされるだけならばまだ分かる。だが、迫り来るナイフを切られた。

 切られただけならまだ分かる。その次は、その慣性を、投擲されたナイフという意味すらもが殺された。

 

「なに、少し線をなぞっただけさ。それであんたのナイフはみんなこの様だが……()()()()()()()()()()()?」

「ッ!?」

 

 蜘蛛のその一言で、咲夜は悟ってしまった。

 自分の能力を、力を、見破られた。

 見破られる事自体には痛手はない。問題は、相手がそのタネを分かった上で、自分のナイフを軒並み解体してしまった事だった。

 これではナイフを回収した所で、殆ど使い物にならない。

 

「時を操る、ねえ……。人間が扱うにしちゃあ少々過ぎた力だが、そこいらの魔よりも化け物じみてるな、あんた」

 

 化け物じみているは、此方の台詞だと咲夜は内心で叫ぶ。

 どんな手品を使ったのかは知らないが、あれほどの量のナイフを捌いてみせるナイフ捌き。おまけにたたき落とすに飽き足らず、解体する始末。

 咲夜は確信する――――この男も、何らかの能力を持っているのだと。

 それが何なのかは分からないが、この男が幾重にも施錠された玄関をナイフの一振りで突破してきた時点で、警戒はすべきだったのだ。

 

 何をやっている、愚かなのは自分の方ではないか。

 咲夜は先ほどの自分の思考を吐き捨てる。この男は勝負を捨てたのでは無い。

 むしろその逆――勝負に打って出たのだ。

 咲夜とやり合う内に、咲夜の動きを、戦い方を観察して己の中で仮説を立てて、それが正しいかどうかを確かめるためにあえて勝負に出たのだ。

 そして、咲夜は蜘蛛の思う壺に嵌まってしまった。今思えばあんな隙だらけの仁王立ち、分かりやすい挑発以外の何物でもなかっただろうに。

 ――――つくづく無能ですね、私は……。ですが……。

 だが、咲夜は諦めない。

 むしろ勝機を見いだし、後一本のナイフを取り出した。

 七つ夜と掘られた鉄の棒から、パチン、という音を立ててその刀身が現れる。

 

 最後に取り出した咲夜の得物は、奇しくも蜘蛛が持っているモノと同じ飛び出し式ナイフ。

 

「ハハハ……」

 

 己の得物を全て解体されて、それでも戦意を滾らせる美しき銀の少女に、蜘蛛は思わず見惚れて笑いを零した。

 

「やっぱり最高だよあんた。メイドにしておくのが勿体ない」

「生憎、お嬢様からは貴方を迎え撃つよう命じられています。ここで退くわけには行きません」

 

 そこから先は、言葉などいらなかった。

 互いに消える。

 咲夜が見出した勝機。

 それは長期戦に持ち込み、相手を消耗させる事。幸い相手が負っているかすり傷は此方が負ったものより遥かに多い。あの勝負でも蜘蛛は全てのナイフを裁き切れていた訳ではない。元からあったかすり傷に加え、更に重なり上塗りにされたかすり傷からの流血は、確実に蜘蛛の体力を削っていく。如何に性能に支障をきたさない傷であっても、長期戦になれば自ずとその差は現れて来る。

 そのためには、時止めで距離を取りつつ、さりとて乱用せず、相手が消耗した所を七つ夜でその首を掻っ切る!

 

 だが、それを差し引いても咲夜は不利だった。

 如何に彼女の空間といえど、この屋内は既に蜘蛛の独壇場であった。あの速く、かつ立体的な動きを展開されれば面倒だ。

 咲夜が一歩引く頃には、相手は瞬く間に咲夜との距離を詰めて来る。得物が互いに制限されている中で、この体術の差は苦しいものがある。

 故に、咲夜は最後の手段に出た。

 

「如何にここが貴方の惨殺空間となり得ようとも、この空間は私の空間! 故に、貴方の時間が私の時間であるように、貴方の空間もまた、私の空間!!」

 

 瞬間、それは巻き起こった。

 空間が広がっていく。

 蜘蛛が立体的な動きを展開できないように、この紅魔館のエントランスホールの空間そのものが広がっていく。

 これこそが咲夜の能力の真骨頂。

 時止めそのものよりも、彼女がこの紅魔館において重宝される最大の理由だった。

 時間を操れるという事は、空間も操れるのと同義。

 

 元より狭い屋内戦闘に特化した体術を扱う蜘蛛にとって、咲夜の能力は大の天敵。ソレを今まで行使しなかったのは、咲夜の最後のプライドが邪魔をしていたのか、それはもう蜘蛛には分からない。

 だが、蜘蛛は笑った。

 ――――遅すぎるよ、あんた。

 最初からソレをしていれば自分に勝ち目はなかったというのに、能力の種が割れた今となってはもう無意味に等しい。

 蜘蛛は視る。

 空中に走る“死”を。元々無理矢理個人の能力によって広められた空間。固有結界と呼ばれる魔術空間が世界からの修正を受け続けて脆くなるように、咲夜の空間もまた脆い。

 故に、教えてやろう。

 

「これが、モノを殺すという事だ」

 

 蜘蛛はその空間に走る“死”にナイフを通す。

 その瞬間、咲夜の世界は終わった。

 空間は元通り。むしろ蜘蛛がここに入ってくる前よりも狭くなっていた。これが、この館本来のエントランスホールの広さ。

 正に蜘蛛の惨殺空間にはうってつけだった。

 

「っ!?」

 

 動揺を隠さない咲夜。

 その隙を蜘蛛は逃さない。

 だが、同時に蜘蛛は咲夜に敬意を抱いていた。

 ――――あんたは、あの門番以上だよ。

 その意志も、能力も、それ以上。

 故に、自分の最大限の礼を持って応えようではないか。

 

――――極死

 

 ナイフを持った腕を振り上げる蜘蛛。

 己の世界が通じないと知り呆然と立ち尽くす咲夜。

 振りかぶった腕が真横に動く。

 必殺の威力を込めたのか、蜘蛛は振るった腕の勢いを殺し切れず、無様にその背中を向ける。

 くるり、と独楽のように反転する蜘蛛。

 シュン、と風を切って飛んでくるナイフの光。

 

「――――」

 

 その軌跡を視認して、咲夜の意識は蜘蛛の方へ向いた。

 動揺していた反動か、時止めも用いずに真っ直ぐに飛んできたナイフを七つ夜で弾く。

 

「――――え?」

 

 そこで、咲夜の動きは止まってしまった。

 弾いたナイフが宙で回転している。

 そのナイフを間近で見つめてしまった。

 

 ――――どうして、このナイフがここに……?

 

 そのナイフは、咲夜が持っている七つ夜と同じ飛び出し式ナイフ。

 日本刀のような刃紋が走り、中心を走るように掘られた細い窪みを持つ両刃の刀身は、見間違えようもなかった。この七つ夜と同じように、こんな珍しいナイフは世の何処を探しても何処にもない。

 そのナイフは紛れもなく、あの日に自分があの少年に渡したナイフで……。

 

 時は既に遅く、いつの間にか咲夜の頭上に飛んでいた蜘蛛が咲夜の頭部を鷲掴みにしていた。

 

「――――あ」

 

 ぐぎり、と。首の骨が、捻じ曲がる、おと。

 

――――■■

 

 蜘蛛が唄う。

 ……もともと化け物じみていた蜘蛛の動きは、ここにきて奇跡のように美しかった。

 片手で胴体から離れた頭を鷲掴みにされたまま、咲夜の視線は蜘蛛の眼へと移った。

 綺麗な、蒼い眼だった。透き通るような、蒼い虹彩の眼だった。その眼はどうしようもなく、あの日出会った少年の眼と寸分も変らぬモノだった。

 

「し、き……?」

 

 思わず、その名を呟いた瞬間。

 

 その“運命”は、否定された

 

 

     ◇

 

 

「な、に――――」

 

 その声は誰のものだったか。

 咲夜の薄れゆく筈の意識は、突如として現実に引き戻された。

 

「えっ?」

 

 こんな素っ頓狂な声を上げるのは、今日で何度目だったろうか。

 咲夜は目の前の光景が信じられず、思わず自分の首筋を手で何度も触って確認した。

 ――――首が、繋がっている!?

 続いて、蜘蛛の方を見る。

 蜘蛛の方も目に見えて動揺していた。先ほどまで掴んでいた咲夜の頭の感触を手を握っては広げては繰り返して確認し、そして信じられないような目で、再び首が繋がっている咲夜を見た。

 ――――あんた、一体なにをした?

 ――――そんなの、こちらが聞きたいです。

 殺し合った由縁か、お互いの気持ちが合致している関係か、いつの間にか眼で会話できるようになっていた二人。

 暫し、お互い見つめ合う。

 

「あ……」

 

 そして、再び蜘蛛の蒼い眼を見た。

 美鈴を回収した時はそっちに意識がいっており、彼のナイフにも、彼の眼にも気づかなかった。しかし、こうして間近で見る機会を得て、咲夜は思わずその眼に見入ってしまった。

 ――――キレイ……。

 抱いた感想は、奇しくもあの日初めて少年の眼を見つめた時と同じものだった。まるで、あの事に戻ったかのような感覚に陥る咲夜。

 そして、次に咲夜の眼に映ったのは、彼の手に握られている、あの日自分が少年に渡したナイフだった。

 

「貴方、し……」

「そこにいるあんたの仕業かい、吸血鬼?」

 

 言いかけたその言葉は、皮肉にも主の登場によって遮られた。

 蜘蛛の言葉にハっとなる咲夜。

 思わず蜘蛛の視線が向いている方に、咲夜もまた視線を向ける。

 

 パチ、パチ、パチ。

 

 聞こえてきたのは、ゆっくりとした拍子の拍手音。

 手を叩きながらエントランスホールの階段を降りて来るのは、背中に蝙蝠の翼を生やした少女。人間で言えば10歳にも満たぬであろう見た目の少女。

 シャンデリアから映し出された紅い月をバックに佇むその影の正体は、紛れもなく咲夜の敬愛する主だった。

 

「見事な舞だったわ、二人とも」

 

 まるでショーを見終わったかのような口調で、咲夜の主ことレミリア・スカーレットは二人を見下ろす。

 その眼に2人を侮蔑する意図はない。純粋に二人を称賛している……そんな眼だった。

 そんなレミリアに対し、先に立ち上がって口を開いたのは蜘蛛の方だった。

 

「御満足頂けたなら結構だ。それで、もう一度聞くが。これはあんたの仕業かい、吸血鬼?」

「ふん、人聞きの悪い事を言うな」

 

 微笑むレミリア。

 

「私はただ思っただけに過ぎないわ。貴方も、咲夜も、ここで朽ち果てる()()()()()()ってね」

「ッ!?」

 

 レミリアの言葉に驚愕の表情を浮かべる咲夜。

 未だに訝しむ蜘蛛。

 その中で、咲夜だけが自分が助かった理由に気付いた。

 『運命を操る程度の能力』……詳細は分からないが、因果律に関わるその能力に、咲夜は救われたのだ。レミリアが意識してか、しないでかはともかくとして。

 確かにレミリアは、咲夜を救っていた。

 でなければ、自分の首は今頃胴体から落ちている筈である。

 ――――また、お嬢様に救われた。

 その事実だけが、咲夜の頭の中にストンと落ちた。

 

「ククク、まあいいさ。それで、次はあんたが俺の相手をしてくれるのかい?」

「その傷で、尚向かってくるというのか、殺人鬼?」

「ああ。館の外からでもあんたの気配ははっきりと感じ取れた。それが目の前に現れたとあっちゃあ、我慢できずにはいられないよ」

「無理だな。咲夜はともかく、お前では私を殺す事はできん」

 

 全身の掠り傷から血を滴らせながらも揺るぎない殺意を向けてくる蜘蛛に対し、レミリアは止めておけと制止する。咲夜を相手にしたばかりだというのに、その殺意を緩ませるばかりか、むしろ増し増しになっていっている事には感心するレミリアであったが、人間である彼が自分を殺せるわけがない。

 そう思っていた。

 

「……どうかな? 少なくとも、俺はこのナイフをあんたに通せば殺せると思っているぜ?」

「ッ!?」

 

 血に滴る前髪を掻き上げ、蜘蛛はその眼でレミリアを見つめた。

 咲夜が見惚れたその蒼い眼は、不死者や長寿者である者にとってみれば、己の死を連想させる。そんな恐怖を抱かせるものだった。

 その突然感じた恐怖にレミリアは思わず目を大きく見開けた後、腹を抱えて可笑しそうに笑った。

 

「ふ、ふふ、アハハハハハッ!」

 

 笑うレミリア。長寿である吸血鬼にとっては、退屈は最悪の毒。故に死に近い日常を退屈凌ぎとして捉える傾向がある訳なのだが、いざ自分が殺せる程のナニカがあるのだと認識すれば、その話は変わる。

 レミリアは、本当の死の恐怖を一瞬でも味わったそんな自分に対しておかしくなって笑ってしまった。

 

「面白い眼を持っているのね、貴方。ああ、やっぱり私は間違っていなかった!」

「……お嬢様」

 

 笑い続けるレミリア。

 愉快、愉快だとその口は告げる。

 

「夜空にて輝く二つの月。それが先ほど私が見えた運命……そこに、貴方が現れた」

「……」

 

 自分を見下ろすレミリアに対し、蜘蛛は黙って聞き続ける。ナイフを握った手が震えている事から、レミリアを殺したいと我慢しているのは丸見えなのが、そこは主に変わって咲夜が警戒する。

 

「私は見てみたい。あの満月の日に現れた咲夜のように、この弦月に現れた貴方の行く末を見てみたい」

「運命、ねえ……」

「あら、胡散臭い言葉に感じるかしら?」

「いいや、こうしてあんたをバラせる機会に巡り合えたんだ。だったらその運命に感謝するさ……」

 

 相変わらずな薄ら笑いを浮かべる蜘蛛の思考も、相変わらずだった。

 先ほど殺し合っていた咲夜を無視して、今か今かとレミリアを解体する事を望んでいた。それほどまでに、このレミリア・スカーレットという少女は魔的だったのだ。

 

「フフフ、咲夜を殺しかけたその殺気はさすがね、けれど……」

「ッ!?」

 

 瞬間、反転する蜘蛛の視界。

 気が付けば蜘蛛の身体は床へと叩きつけられていた。

 下手人は、レミリアではない。

 もしレミリアだとすればソコに意識を向けていた蜘蛛はとっくに反応できている。

 だとしたら……。

 

「これで、チェックメイトです」

 

 床に投げつけられた蜘蛛の首筋に、七つ夜を突き付けた咲夜の姿があった。

 

「他の女に気を取られてデートの相手を疎かにしちゃ、紳士は務まらないわよ?」

 

 倒れた蜘蛛に向けて、レミリアはくすりと妖美な笑みを浮かべながらゆっくりと歩み寄る。

 ハッ、と蜘蛛はそんな無様な己を自嘲した。

 ――――いや、本当に下手だね。どうも……。

 一度は殺した相手。それが何の因果か、今度は自分がその相手に殺されかかっている。

 

「時を操るだけが、私の取り得ではありません。気付きませんでしたか?」

 

 咲夜とて元々暗殺者だったのだ。

 己に意識を向けていない相手に対して奇襲を仕掛けるなど造作もない事だ。……その相手が本来ならば自分を殺していた筈の人間である事は、少し情けない気が咲夜はしたが。

 ともあれ、今度こそ咲夜は蜘蛛を見逃すつもりはなかった。

 床に組み伏せ、身体を拘束し、首筋にナイフを突きつけた。

 

 その突き付けられた七つ夜を見て、彼がナニカ反応してくれるかもしれないという、そんな淡い期待も込めていたのは内緒だった。

 

「ク、ハハハ……」

 

 自嘲するように笑い続ける蜘蛛。

 

「それで、どうするのかしら殺人鬼。ここで誰も殺せぬまま朽ち果てるかしら?」

「……それは、頂けないな。死んだらもう誰も殺せない」

 

 やれやれ、と言った感じで蜘蛛は皮肉げな笑みを浮かべながら、手に握ったナイフを手放した。

 すかさず時を止めてナイフを回収する咲夜。

 それを降参の意と見たレミリアは咲夜に命令した。

 

「いいわ。離してあげなさい、咲夜」

「ハッ」

 

 命令通りに咲夜は蜘蛛を解放し、距離を取った。

 その後ろ姿を、ずっと見つめた。

 

「それで、あんたは俺に何をさせたいんだ、吸血鬼?」

「さっきも言った通りよ殺人鬼。私は運命を見た。夜空に浮かぶ二つの月……だが、私が見れた運命はここまでだった」

「……」

「私に仕えなさい。その身を捧げろとはいわない、血を寄越せとも言わない。私は謂わば観客。貴方という役者を遠くから眺める観客に過ぎない。これからどうするかは貴方次第。それでも私は最後まで見てみたい。貴方と、咲夜の運命を……」

「お嬢様……」

 

 レミリアの目は、真摯に蜘蛛を見つめる。

 その目が気紛れでなく、本気で見たいのだと語っている。

 それを見た蜘蛛は皮肉げな笑いを深くして、その膝を着いた。

 それは服従の意。貴方に仕えるという服従の意を示す姿勢だった。

 

「いいぜ。精々従者らしく振舞うとするさ。けど……」

 

 その蒼い眼だけを見上げ、レミリアを睨み付ける蜘蛛。

 それに対し、レミリアもまた鏡合わせのように笑った。

 

「ええ。我慢できなくなったら、いつでもこの寝首を掻き来るといいわ。そうなる日は来ないと、私は信じているけど……」

 

 そうかい、と蜘蛛も薄ら笑いで答える。

 自分から厄介事を抱え込みに来るとは、ずいぶんと物好きな吸血鬼もいたものだと、蜘蛛はレミリアをそう評価した。

 

「さて、お互い吸血鬼と殺人鬼じゃ語呂が悪い事だし、そろそろ名乗るとしましょうか。

 我が名はレミリア。レミリア・スカーレット。この館の主にして、ツェペシュの末裔と言われる一族の一人だ。

 貴方の名前を、教えてくれないかしら?」

「生憎、ここに来るまでの記憶が曖昧でね。そもそも名前以前に前があるかどうかすらも怪しいんだ。好きに呼んでくれ」

 

 遠回しに、自分の記憶喪失を告げる蜘蛛。

 素直に覚えていないといえばいいだけなのに、その一言だけで目の前の殺人鬼に捻くれ具合がレミリアには伝わった。

 

「そうねえ。咲夜、今日は新月から何日目かしら?」

「七日目ですが……お嬢様?」

 

 月見をしていた時と同じ質問をされ、思わず訝しむ咲夜。

 ふむ、と考えるレミリアは思い付いたかのように、再び視線を蜘蛛に向けた。

 

「決めた。今日からお前は“七夜”と名乗れ。あの夜空の月からやって来たお前には相応しい名だ」

 

 レミリアが蜘蛛に名付けたその名に、咲夜は思わず見開いた。

 その名は、とても懐かしい響きだった。

 これは、果たして偶然か、それともレミリアの言う運命なのか。

 呆然とする咲夜を余所に、蜘蛛――七夜は膝を着いたまま答えた。

 

「はいはい。精々あんたを退屈させぬよう立ち回るとするさ、ご主人様?」

 

 こうして、紅魔館に一人の執事が誕生した。

 




咲夜の持つ七つ夜:まんま原作の七つ夜。
七夜の持つナイフ:リメイク版七つ夜

七夜のコンボムービーで有名なTaMaさんが2019年になって新しいコンボムービーを出していて驚きに固まるナスの森であった。
https://www.nicovideo.jp/watch/sm34721603


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七夜と咲夜

 夜が明け、アレほど騒がしかった月は見えなくなっていた。

 思えばお嬢様が起こした紅霧異変の時も、永遠亭が起こした永夜異変の時も満月の夜の時だった。

 そう考えると、満月でない夜にあのような騒ぎは少し珍しいかも知れない、と私は柄にもなく思った。

 それとも、昨日の夜はただ単に私が見た夢に過ぎなかったのだろうか。美鈴の首が切り裂かれたり、私の首根っこが引っこ抜かれたり。果てにはその張本人である侵入者があの日私があの少年に渡したナイフを持っていたりと、とにかく一夜にしてそこいらの異変に勝るとも劣らない内容だった。……少なくとも、私にとっては。

 そうだきっと夢に違いない、と現実逃避しようとして、身体中に巻き付かれた包帯やかすり傷の跡が紛れもなく現実であることを物語っている。

 

「夢では、ないのですね」

 

 口にしてみて、すとんと胸の中に収まる。

 夢でないことが残念なのか、それとも嬉しいのか。

 そんな事はもう分からない。

 懐かしい気分になっている事は確かだ。あの男があの日出会った少年、七夜志貴である可能性がある……それだけで十分に懐かしい気分になれた。

 問題は何故私があの夢を見た後にあの男が来て、しかもお嬢様があの名をあの男に付けたのか。

 単なる偶然、というだけでは済まされない。

 お嬢様が気まぐれを起こすことはよくある事だが、お嬢様が意図しているにせよしていないにせよその気まぐれにはどれも何かしらの意味がある。

 能力の内容が曖昧なだけに具体的にはと聞かれると返答には困るのだが、『運命を操る程度の能力』を持つお嬢様があの名をあの男に与えた事には何かしらの意味がある。

 それはやはり、あの男があの日私が出会った少年ということなのかもしれない。

 好都合に解釈しすぎだ、とは自分でも思っている。

 それに、今の私は十六夜咲夜というレミリア・スカーレットに仕えるメイド。今更過去の残影である■■であることに拘る必要なんてもうない。

 過去は過去、今は今。

 今の十六夜咲夜という人間を構成するに当たり、■■であった頃の記憶も不可欠であることはわかっている。

 だが、拘る必要はない。

 所詮は子供同士の約束だ。

 むしろ此方だけが拘っていて、向こうはどうでもいいとか思っていたら、馬鹿らしいし恥ずかしい。……我ながら子供っぽい理由は否めないのだが。

 だが、私がそこから背を向けることは即ち、お嬢様の思惑から外れてしまうことになってしまうのではないか……そう思えてならなかった。

 

「ああ、女々しい……」

 

 そんな自分の思考に吐き気がする。

 私は誰かを基準にしなければ物事の判断も付かない程の子供に成り下がった覚えなんて無い。

 志貴も、お嬢様も関係ない。

 お嬢様に従っているのも私の意思。

 ならば、私のこの迷いも私自身で片付けなければならない。

 そう決めた私は、時を止めて彼に宛がった部屋の前で立ち止まった。

 彼の負った怪我は私よりもひどいものであるが、此方は一度彼に首をもぎ取られたのだ。このままこき使ってしまっても十分おつりは来るだろう。

 とにかく、ここで働いて貰う以上は従者としての相応の技量を身につけて貰わなくては困る。

 

「七夜、起きていますか?」

 

 ドアをノックし、彼の名を呼ぶ。

 七夜……あの上弦の月の夜にやってきた男に、お嬢様はそう名付けた。

 新月から七日目の夜は上弦の月。

 その月の夜にやってきた男、故に名は七夜(ななや)

 その名付け方は完全に私を意識したものであり、お嬢様は私が満月の日にここにやってきた時に「十六夜咲夜」と名付けたのに倣い、あの男に同様の名前を送ったのだろう。

 お嬢様が名付けたというのであれば、その名にはきっと意味がある。偶然では決してない。

 ならば、それを確かめるのも私の役目だろう。

 ……と、決意を新たにしたのはいいものの、一向に部屋の外から返事はない。

 

「物言わぬならば、入りますよ?」

 

 嫌な予感がして、私はドアに取っ手に手をかける。

 がちゃり、とドアを開けば、そこにあったのはただのもぬけの殻だった。

 ……逃げた、という訳ではないようね。

 確かに、私の空間すらナイフ一本で元に戻して見せた彼ならば私の空間を乗り越えて脱出することができてもおかしくは無いが、それならばちゃんと感知できる筈である。

 何せ私の能力だ。己の力が破られたのであれば己の身体の一部が破損するような感覚で知る事が出来る。

 ならば少なくともこの館内にはいる、と結論付けて彼の部屋の捜索に入る。

 部屋のクローゼットを覗いてみれば、ハンガーに掛けた筈の燕尾服が見当たらなかった。

 

「……ふぅん。そこまで仕事熱心だとは思わなかったわ……」

 

 思わず、口から皮肉が零れる。

 あの男、初日から此方の言いつけを破りやがった。

 ああ分かっていた、分かっていたとも。

 あの殺人鬼がおとなしく此方の言う事を聞いてくれるような輩ではないことくらいは。

 昨日の夜に此方の指示があるまで動かないようにと告げたが、所詮口約束に過ぎないのだと。

 幸い、ナイフはパチュリー様に頼んで新造してもらった。何故か修復が効かなくて一から作り直して頂く羽目になってしまったが。

 お嬢様のご友人であるパチュリー様の手間をかけさせてしまっては、本来メイド長の名折れなのだが、あの二人は寛大な心で許してくれた。

 特にパチュリー様は上機嫌そうに「久々に面白い事例を見れたから、別にいいわよ」と仰って下さった。

 ……話が逸れた。

 とにかく、あの殺人鬼がこの館で問題を起こす前に止めなければ、と私はその場から姿を消した。

 

 時を止めて七夜を探し始めて数分、ことは既に起こっていた。

 

 

     ◇

 

 

 死屍累々……そう表現するのが相応しかった。

 四肢をバラされ、または心臓を一突きにされ、はたまた十七分割されて次々とその身が溶けてゆくメイド妖精たち。

 その中心に立っている燕尾服の男は、長さ六寸ほどの刀身の銀のナイフを弄びながら嗤っていた。

 

「へえ、妖精って死ぬとこんな風になるのか。血も出ないし、死んでも蘇るなんて、殺した身からしちゃあ割に合わない」

 

 いっそ死をなぞってしまおうか、とそんな思考が過る燕尾服の男、七夜。

 先日、ここの館の主であるレミリア・スカーレットに見込まれ、執事として雇われた男である。殺人行為に対して忌避するばかりかむしろ嗜好すら持っているこの男は、いくら死なないといえど幼い容姿の少女たちを解体することに何の感慨も持たなかった。

 

「そうは思わないかい、お嬢ちゃん達?」

 

 溶けて消えていく妖精たちから目を背け、七夜は背後にいる者達に振り向いてそう語りかけた。聞けば蕩けてしまうような声音。しかし優しいその声音は七夜の口元の嗤いとは決定的に釣り合ってはいない。

 ガクガク。ブルブル。

 七夜が振り向いたその先には、壁際で数人で震えながら固まっている残りのメイド妖精達がいた。

 あまりの恐怖に、妖精達は声すらまともに出ていなかった。

 がた、がた、がた。

 壁際で数人で固まったメイド妖精達は、全身が痙攣しているかのように動かない。

 表情こそ見えないが、全員の目から涙が零れているのが見て取れた。

 

「ああ、悪い悪い。ちょいと怖がらせちまったか。けど、ガキの躾にはこれが一番手っ取り早いんだ。 大凶にでも当たったと思って諦めてくれないかい?」

 

 笑みを深くして、七夜は銀のナイフを持ち直して壁際に固まっている残りのメイド妖精達に歩み寄る。

 ゆっくり、ゆっくりと。

 ナイフを持った手を力なくぶら下げ、もう片方の手をポケットに入れながら、ゆっくりと歩み寄った。

 ヒィっと、固まっているメイド妖精たちの内の一人がやっと小さい悲鳴を鳴らした。他のメイド妖精達もその震えをより激しくさせるばかりであった。

 

 ――――やだ、あんな風に死にたくない。

 

 死に慣れているつもりだった。

 所詮自分達は妖精。死んだ所でまた蘇る。先ほど死屍累々となって消えていった仲間達もまたどこかで復活していることだろう。

 それでもあんな風にバラバラにされて死にたいなどとこの場のメイド妖精たちの内の一人も思わなかった。

 どうしてこうなったか、と聞かれれば、彼女たちの内の一人もそれに答える事はできないだろう。

 最初は大勢で目の前の男を囲ったつもりだった。

 けれど、気付かない内に仲間達は次々と身体をバラされて葬られていき、気がつけば自分達だけになっていたのだった。

 だが、実際としてこの場に残っている妖精メイド達の内、男が他の仲間を殺している場面を目撃しているモノは誰一人としていなかった。

 隣で仲間が殺されようと、それに気付いたものは誰一人としていなかった。その事実が、得体の知れなさが彼女たちの恐怖に拍車をかけていた。

 彼女たちが鈍い訳では無い、彼の暗殺技術が異常なだけなのだ。

 

 やがて、七夜のナイフが彼女たちに届く所まで距離が縮まったその時。

 

「貴方は」

 

 七夜の視界の横から見える、ナイフの光。

 そのナイフを、七夜は咄嗟に銀のナイフで弾き返す。

 

「一体、何をしているのですかっ」

 

 ナイフを弾く七夜の隙を突いて、突如として現れた咲夜は七夜と妖精メイドたちの間に割って入る。

 咄嗟に咲夜から距離を取る七夜。

 突如の彼女の出現に、反省の色を見せる所か、七夜は真逆の笑みを浮かべていた。

 そんな彼の様子に対する苛立ちを隠しつつ、咲夜は七夜にナイフの切っ先を向けながら聞いた。

 

「もう一度聞きます。人の言いつけを無視してほっつき歩いた挙げ句、貴方は一体何をやらかしているのですか?」

「いやなに、散歩がてら先輩たちに挨拶をと思ってね。めでたくも今日からご主人様に飼われる身だ。主の城の構造(つくり)くらいは把握しておくべきだろう?」

「それは重畳。そこまで仕事熱心だとは思いませんでした。先輩たちに対する挨拶を除いては、ですが……」

「違いない」

 

 七夜は非肉げに肩を竦める。

 その様子に、咲夜は己の胸の内から黒い怒りがわき上がってくるのを感じた。

 ――――ああ、自分はどうかしていた。こんな血に汚れた男を、あの少年かもしれないと、一瞬たりとも思っていたなんて……。

 あの少年は、こんな皮肉めいた笑いなんてしなかった。

 たかが偶々この館への侵入者が、たまたま自分の悪夢を形取って出てきたに過ぎないのだろうと……咲夜はそう思うことにした。

 

「得物は取り上げた筈でしたが、油断も隙もありませんね。全部壊されたと思っていたのですが、まさかくすねていたとは……」

「こう見えても刃物には目がなくてね。特にあんたのナイフは綺麗だ。吸血鬼の住む館で銀の刃物を振り回すなんて中々に洒落が利いてる……ひょっとして、あんたも無理矢理飼われている口かい?」

 

 手元の銀のナイフを弄くりながら、揶揄うように咲夜に問う七夜。

 昨日殺り合った時に、おそらく迫り来るナイフを次々と壊していったあの時に、いくつか壊さずに拝借していたのだろう。

 あの時、得物を拝借した時にソレを出さなかったのは、単に取り押さえられたままでは得物を抜くことすらままならなかったからに過ぎなかったのだ。

 

「生憎、私は自分の意思でお嬢様にお仕えしております。それに常に安穏に囲まれていてはお嬢様も退屈でしょう? 少しくらい毒もあった方が、永き時を生きる者にとっては丁度いいのです」

「そいつは重畳。従者の鏡だ。さしずめ、俺もその退屈しのぎの一つといった所かな?」

「自覚なさっているのならば結構。私も貴方も、お嬢様を退屈させぬよう存在していることを努々お忘れ無く。

 それで、お仕置きのメニューは何をご所望ですか?」

 

 ナイフを指の間で挟み込むように持ち、構える咲夜。

 七夜もまた笑みを浮かべながら咲夜から奪い取った銀のナイフを構える。

 紅い眼と、蒼い眼が交差する。

 

 ギリッ。

 

 咄嗟に、歯ぎしりしてしまう咲夜。

 駄目だ。

 何度己に言い聞かせようとしても、この男を前にしたらあの少年を思い出してしまう。

 雰囲気は全然違うのに、あの少年はそんな風に笑わないのに、あの少年は昔の自分やこの男みたいな殺人鬼ではないというのに。

 その、蒼い眼だけが咲夜のナイフの切れ味を鈍らせた。

 眼そのものは違う。

 あの少年の眼は、この男のように『すぐにでもお前を解体したい』と嗤うような眼はしていない。

 それでも、変わらず綺麗なその蒼い虹彩の眼と、先日目の前の男から回収したあのナイフが、この男はあの日の少年ではないという咲夜の認識を鈍らせるのだ。

 ――――いいや、そんなことは関係ない。

 この男は自分の言いつけを破った。

 破るだけならばまだいい。

 問題は、お嬢様に仕える姿勢を見せた直後に、この屋敷の住民に手をかけたことだ。いくら死なない身の妖精とはいえ、メイド長としてその愚行は看破できない。

 決心の固まった咲夜は、そのナイフの切っ先を七夜に向けようとして。

 

『そのお兄さんは、悪くないよ?』

 

 その声に、両者の意識は互いから外れた。

 声をした方に七夜と咲夜は眼を向ける。

 廊下の曲がり角、そこの暗闇から、七色の宝石が短冊のように付いた翼が見えた。

 首をかしげる七夜……その口元の嗤いが深まっている事から、どのような存在か大体察知している様子であるが。

 

「……もしかして、妹様、ですか?」

 

 その翼に見覚えのあった咲夜は、咄嗟にその声の主に問いかけた。

 それに対する返答はない。

 いつの間にか、僅かに見えていた筈の翼も暗闇に消えており、そんな二人の前に一匹の蝙蝠が現れた。

 

『元々、そこのお兄さんが廊下を歩いている所を、メイド妖精達がいきなり囲んで、弾幕で蜂の巣にしようとしていたの。そこのお兄さん、アイツが新しく雇った人間でしょう? 多分、普段見慣れない顔だから侵入者だと勘違いされたんだと思う』

「……では、七夜は?」

『……単に火の粉を払っていたんだと思うよ? それにしては、少し愉しんでいるようにも見えたけど……』

「……」

 

 蝙蝠から発せられる言葉に神妙になる咲夜。

 そのまま壁際に固まっているメイド妖精達に咲夜は振り向いた。

 メイド妖精達は未だ七夜の方を向いて怯えたままだった。

 遠目からじゃ話にならないと思った咲夜は、蝙蝠に向けて一礼した後、メイド妖精の所へ歩いて行った。

 歩いて行く咲夜を一瞥した蝙蝠は、七夜へと問いかけた。

 

『……お兄さん』

「……うん?」

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()……そんな感覚を味わったことってない?』

「ッ、へぇ……」

 

 一瞬、驚いた顔になった七夜であったが、すぐに興味深そうな顔で蜘蛛を見つめた。

 その笑いは今までのような皮肉めいたものではなく、単純な好奇心だった。

 

『やっぱり、そうなんだ……。館を回っている時のお兄さん、外にいる時の私と同じような顔をしていたもん……』

 

 そんな七夜の反応を是と受け取った蝙蝠は、納得した様子で言う。

 

「ああ、散歩している時に妙に身体が疼くのかと思えば、君の仕業だったのか。まあ確かに普通の場所はともかく、メイド長の手の入った空間はこの眼に悪い。そこにいるだけで気が狂っちまいそうだよ……」

『……どうやら、お兄さんのは私のより酷そうだね。それなのに、そんな平然としていられるんだ……』

 

 憧れとも、羨望とも取れる眼差しが七夜にささる。

 そんな蝙蝠に対し、七夜は特別何か思う様子もなく、平然と蝙蝠を見つめる。

 狂った様子もなく平然と己を見つめるその姿に蝙蝠は何か思う所があったのか、蝙蝠もまたじっと七夜を見つめた。

 やがて、その沈黙を破ったのは蝙蝠の方だった。

 

『私はフラン。フランドール・スカーレット。この館の地下室に閉じこもっている吸血鬼だよ。お兄さんは……ナナヤ、でいいのかな……』

「……」

『それじゃあお兄さん。気が向いたらフランの所に遊びに来てね。フラン、お兄さんともっとお話がしたいな……』

 

 そう言って、蝙蝠は七夜の目の前から消えた。

 その気配が、七夜が地下から感じる猛烈な魔の気配の主の元へ帰って行くのを、七夜は感じ取った。

 

「やれやれ……」

 

 ため息を吐く七夜。

 ここの館の主であるレミリア・スカーレットとは別に、もう一つ強力な吸血鬼の気配を感じていた七夜であったが、使い魔越しとはいえ本人からコンタクトを取ってくるとは思いもしなかった。

 ――――気を扱う門番に、時を操るメイドに、運命を操るご主人さまに、終いには自分と似たような眼を持つ吸血鬼……いよいよまともじゃないね、こりゃ。

 ――――解体しがいのある獲物が多すぎて、つい目移りしちまいそうだよ。

 この館だけでこれだ。

 外に行けば、一体どんな獲物に会えることか……想像するだけで笑いが止まらなくなってくる七夜。

 

「それにしても、地下室に、これと似たよう眼か。まるで――――」

 

 そこまで言いかけた時、七夜の思考を空白が支配した。

 ――――まるで……何だ? 自分は今何を言いかけた?

 一瞬、思考に詰まった七夜であったが、すぐにどうでもいいかと思い直した。

 話が終わったのか、そんな事を思っている間に咲夜が七夜の所まで戻ってきた。

 

「……どうやら、妹様の話は本当のようですね。刃を向けた事を謝罪します、七夜」

「何だ、やらないのか?」

「貴方の事をあの子たちに伝え切れていなかった私の落ち度です。あの子たちには、再度私から伝えておきます」

 

 勿論、瀟洒なメイドたる咲夜は、昨夜の内に妖精メイド達に七夜の事を伝える事を怠ってはいなかった。

 偏に彼女ら妖精の頭の悪さと、それに加えて今までのルーチンを崩すかのように七夜という異物が介入してきたせいなのだ。

 それでも、咲夜はそれを言い訳にはしない。

 その事を口にせず、真っ直ぐと己の非を認めた。

 見た目によらず不器用だな、七夜は内心で思った。

 

「俺としちゃあ、昨日のダンスの続きをしたくて堪らなかったんだが……」

「それはまたお預けということで。……ですが、貴方が最初に私の言いつけを破ったということに変わりは無い。そうしなければこの事態も招くことはなかった」

「お互い様って事かい?」

「ええ。今回はお相子といきましょう。ですが、次はありません」

「そりゃあ残念」

 

 片目を瞑って皮肉げな笑みを浮かべる七夜。

 内心でため息を吐く咲夜。

 この男、おそらく自分と殺り合うためにわざと事情を説明しなかったのが、明らかに見て取れたのだ。

 あの蝙蝠――フランが態々伝えてこなければ、間違いなく昨日の続きが行われていたことだろう。

 

「それと……」

 

 もうこの話題はなしにしよう、と思った咲夜は懐から刀身が飛び出た状態の飛び出し式ナイフを取り出す。

 昨夜、咲夜が七夜から回収したナイフにして、あの日咲夜があの少年に渡した筈のナイフ。そのナイフの刀身をしまい、柄だけの状態にして七夜に差し出した。

 

「これは返します。ですから、貴方も私のナイフを返して下さい」

「……まあ、俺もいつまでも他人の玩具を弄る程物好きじゃない」

 

 言って、七夜もまた手に持った銀のナイフを咲夜に差し出す。

 互いの本来の得物を受け取り、懐に仕舞う二人。

 咲夜は、そのナイフを懐に仕舞おうとする七夜に思う所があるのか、じっとその様子を見つめてしまった。

 ――――もしかして、案外大切にしてくれているのかしら?

 例え目の前の男があの少年でなかったとしても、少しだけ嬉しくなる咲夜。

 

「それと七夜。これと、これを……」

 

 言って、咲夜は懐から数本の小型の銀色のナイフと、一個の指輪を七夜に差し出した。

 シャンデリアの光を見事に反射する数本の小型の銀のナイフと、何の飾り気もない指輪。

 それを受け取った七夜は訝しそうに咲夜を見つめた。

 

「パチュリー様から貴方へ餞別、との事です」

「ご主人様が言っていたご友人かい?」

「ええ。パチュリー様は現在、貴方に非常に興味をお抱きになっています。近々、自分の図書館の所まで訪ねてきて欲しいと仰っていました。その指輪の使い方もその時にレクチャーするとの事です」

「淑女から誘われるとは男冥利に尽きる。近い内に赴くとするさ」

 

 了承する七夜は、その銀のナイフと指輪を受け取る。

 銀のナイフは、見た目に反して驚くように軽かった。

 とても金属の重さとは思えぬ軽さに、七夜は少し眉を吊り上げる。

 明らかに何らかの術式で軽くしてあるのが分かる。もしかしたら目の前の上司がアレほどの大量のナイフを持ち歩けるのもこれが種か、と七夜は推測した。

 

「それでは、さっそく業務の説明に移ります」

「俺もあんたもこの様だっていうのに、もうやるのか?」

「勿論。私も貴方も昨日の傷は癒えていませんが、今ばかりは――――」

 

 咲夜がそこまで言いかけたその時。

 

「……ここにいましたか」

 

 それを遮る人影が一つ。

 それは、咲夜にとっては見慣れた人物。

 華人服とチャイナドレスが合わさったかのような淡い緑色の衣装を身に纏い、紅く腰まで髪を伸ばした少女。

 そして首に幾重にも包帯が巻き付けられているその少女の名は、紅 美鈴。

 昨夜、七夜と門番として対峙し、首を切り裂かれた少女だった。

 

「美鈴、まだ動いては……」

「いえ、ご心配無用です咲夜さん。まだちょっと痛いですが、この通り、喋れるようになるまでは回復しました」

 

 微笑みながら、心配する咲夜にそう言った美鈴の声は、痛々しいものだった。

 これでも大分回復したのだろうが、無理しているのが見てとれる。

 優しい微笑みから一転して、今度は美鈴は咲夜の隣にいる男を睨み付けた。

 七夜の方を、睨み付けた。

 

「そして、昨夜ぶり……と言ったところでしょうか、七夜さん」

「あんたか。生きているとは思っちゃあいたが、まさかもう喋れるようになるとはね」

「ええ、おかげさまで喉を切られて暫く喋れませんでしたが、今はこうして口を聞けるようになりました」

「そいつは結構だ。それにしても、飼い犬三匹揃って死に損なうとはね。あれだけ暴れて締まらないよな、お互いさ……」

「ッ!」

 

 皮肉を言いながら笑みを浮かべる七夜。

 キッと睨み付ける美鈴。

 その間に挟まれた咲夜は先ほどの七夜の皮肉を頭の中で反復していた。

 ――――飼い犬三匹……美鈴は首を切り裂かれ、七夜は全身に切り傷を負わされ、私は首をもぎ取られて……アレ、私だけ何か酷くない?

 そんな事を考えている中、七夜と美鈴は睨み合ったままだった。

 

「……私は所詮、敗者です。貴方がここに留まることについても、私からはとやかくは言えません。ですが。一つだけ聞かせて下さい」

 

 嘘は許さない、とそんな強い真摯な眼で七夜を睨み付けて、美鈴は聞いた。

 

「あの日。私は持てる武技を駆使して貴方を迎え撃ちました。()()()()()()でした。ですが、貴方が地面にナイフを突き立てようとした瞬間、その均衛は崩れ去りました。私は、私の勘に従って門から離れ、貴方を排除しようと躍起になった。

 単刀直入に聞きます。あの時、貴方は何をしようとしたのですか?」

 

 睨み付ける美鈴。とても穏やかな雰囲気ではない。

 咲夜やレミリアが七夜がこの館に居着くことを良しとしている中で、美鈴はだけは未だに不信の目を七夜に向けていた。

 そんな美鈴に対し、七夜は皮肉な笑いを崩さぬまま答えた。

 

「あんたがカカシのように動かないもんでな。なら……あんたの後ろの守るべきものごと崩しちまえば、ちょっとはその気になってくるんじゃないかと思っただけさ」

「本当に、()()()()()()()()()()?」

「さあてね。だがまあ、()()()()()()()()()()()()。門番のお嬢さん?」

「……そうですか」

 

 明確には語らない七夜。

 しかし、美鈴にはそれで十分だった。

 そして――美鈴はほっとした。

 あの時の自分の行動は、()()()()()()()()()()()()()()のだと。

 それを確認できた彼女は幾分か憑き物が落ちたような表情になるが、依然として七夜をにらむ目は変わらない。

 

「私は、貴方のことが信用できません」

「当然だ。こんな人でなし、信用する物好きなんざいないだろうよ」

「貴方は危険だ。あの時私が止めてなかったら、躊躇いもなく実行していたでしょう?」

「あんたがその気になってくるんだったら、どっちも変わらないだろう?」

「……そうですか」

 

 ハァっとため息を吐いて美鈴は、目を瞑る。

 それは呆れているようにも、怒りを抑え込もうとしているようにも七夜には見えた。

 

「私は、貴方の事が嫌いです」

「……なら、あの時の続きをしてくれないかい? こっちはあんたを解体し損ねたナイフが疼いて仕方ない」

「言ったはずです。私は既に敗者だと。一度付いた決着に対して文句は言いません。あの時の私の判断は正しかったのか、それを確認しに来ただけです。

 ……それでは」

 

 咲夜に一礼した後、美鈴は背を向けて立ち去っていった。

 その背中にナイフを突き立ててやればまたあの時の続きができるだろうか、と思った七夜であったが、後ろの咲夜の突き刺さるような視線を受けて断念する。

 

「……随分と、嫌われたものですね」

 

 ジト目で後ろから七夜を睨み付ける咲夜。

 咲夜とて、美鈴を傷物にされた事に対して思う所が無いわけでは無いのだ。

 

「互いの領分が噛み合わないんだ。これくらいは当然だろう」

 

 肩を竦める七夜。

 門番と殺人鬼。武人と暗殺者。男と女。人間と妖怪。

 美鈴と七夜はどこまでいっても噛み合わない存在であることは一目瞭然で分かること。そんなわかりきったことを突きつけられた所で、七夜という男は何も思わなかった。

 

 それでも、願わくばもう一度だけ、あの門番ではない彼女と思う存分殺り合える機会に恵まれん事を。

 ただそう思うだけであった。

 



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双夜

 金色のシャンデリアに照らされた紅い内装の館の中、メイド長たる十六夜咲夜は今日から新しく自分の直属の部下となった執事・七夜を連れて館の中を案内していた。青と白を基調としたメイド服の少女と、黒い燕尾服の少年という絵面は周囲の紅と釣り合いが取れているとは言い難かったが、二人はソレを気にすることはない。

 元々、咲夜自身も自分が仕える主のこの趣味について思う所がないわけではないのだが、それを口にするのは従者として無粋というモノだろう。

 

「ここが調理室です。お嬢様達のお食事は基本的にここで調理致します。……ちなみに、料理の腕に覚えは?」

「さてな。ペンギンが空の飛び方を聞かれた所で答えられる道理がない」

「人も飛べる世界です。ペンギンであろうと蜘蛛であろうと飛べるようになって頂かねば困ります」

 

 遠回しに料理はやる気が起きないと答える七夜に咲夜もまた遠回しにやれと言い返す。

 あの少年の面影を持つ七夜に対し、咲夜は上司としての体面を保ちつつコミュニケーションを図ろうとしてはいるのだが、まともな会話とよべるようなものは一切なく、どうしてもこのような皮肉合戦になってしまっていた。

 素直にこの男の皮肉に付き合わなければいいだけの話なのだが、こう見えて咲夜も幻想卿の住民だ。皮肉に対しては皮肉で返してしまうのが身体に染みついてしまっている。そのおかげで、確認は愚かこのような焦れったい会話が繰り広げられてしまうのだ。

 

「あの嬢ちゃんたちはいいのかい?」

「……妖精たちは基本的に要領がよくないのがこの世界の常識です」

「人は飛べるのに妖精は料理できないってか、お伽噺の定石(セオリー)も通用しないとはね……」

「次に行きます」

 

 さすがに学んだ咲夜は、返す事無く次の部屋へ七夜を案内する。

 返す気が失せた……というのもあるが、七夜の言った事については咲夜も概ね同意だったので返す必要もなかった。

 続けて案内してきたのは大広間。相変わらず紅い床、壁、天井に囲まれた代わり映えのしない景色。しかし、設置されたテーブルの上に敷かれた白いテーブルクロスが多少の目の保養にはなるだろうか、と七夜は柄にもなく考えた。

 

「私が来る前にここを回っていたと聞きましたが、ここはご存じで?」

「見覚えはないな。何せ代わり映えがしないんだ。殺害現場になりそうな所以外は全部同じに見えちまう」

「テーブルクロスや食器の白などで多少の目の保養にはなるかと思いますが?」

「生憎、紅か白に上塗りされた黒くらいの違いしかないさ。相変わらずあんたの空間は目に悪い」

「……まあ、外からの外見と中身の違いの違和感についてはその内慣れるかと」

 

 そういう問題じゃないんだがね、と七夜は付け加える。

 ――――このメイド長、もう俺に空間を殺されたことを忘れているのか?

 他人から見えれば何の変哲も無い広い空間であっても、七夜の眼から見ればその空間はとても歪だった。

 続いて大広間から出て、次々と代わり映えのしない紅い空間の中を咲夜に案内される七夜。無論、合間に業務説明を入れる事を咲夜は忘れない。むしろそちらがメインなのだが、先ほど七夜が言ったとおりに従者ならば主の城の構造は把握しておくべきであるというのは咲夜も同意である。

 

「ここがベランダです。お嬢様は基本的にここで朝食を取ります」

「……うん? 業務は夜からじゃないのかい?」

「朝は弱いですか?」

「吸血鬼にしろ殺人鬼にしろ、俺たちの時間は月明かりのいい夜だろうに」

「それには同意しますが、最近のお嬢様は日中でも外出されることが多いです。日傘は必要ですが」

「真昼を歩く吸血鬼、ねえ……」

 

 片目を閉じた皮肉めいた薄ら笑いで呟く七夜。

 ……虚空へ向けたその笑みは何故か、いつもの彼とは違うと咲夜は感じた。

 会ってからまだ数日と立っていないが、この男の大凡の性格を咲夜は把握しているつもりだった。

 そんな彼が、一見いつもと変わらぬように見えるが、こんな風に想い下に独白するところは初めて見る。

 ――――もしかして、彼の失った記憶に関わる何かに触れたかしら……?

 

「……何か、思う所でもありましたか?」

「いいや。ナイフを振り回すメイドがいるくらいだ。そんな吸血鬼がいても不思議じゃあない」

「ええ。主の命を狙う執事もいるくらいです。摩訶不思議ではないでしょう」

 

 ――――しまった……。

 せっかく彼の記憶の一部に触れられるかもしれないと期待した矢先、あっさりと皮肉で返された事に苛つき、つい皮肉で返してしまった自分に拳骨をしたい気分になる咲夜。

 じっくりと彼の記憶を掘り返せるいい切っ掛けになったのかもしれないのに、それを自分の短慮で潰してしまった。

 

「ほぉ……何故そう思う?」

 

 おかげで、目の前の殺人鬼はモノ言いたげな顔から一転して、獰猛な笑みで此方の話題に食い付いてしまった。どう見積もっても先の話題を掘り返せるような雰囲気ではないと判断した咲夜は、とりあえずは諦めることにした。

 

「気付かないとでも? 態々私の言いつけを破ってまでの屋敷の散策。しかも、貴方は得意の殺害現場になりそうな所しか覚えてないと自分で言っていたでしょう?」

「……なら話は早い。この屋敷の空間、あんたの能力で縮める事はできないのかい? こうも広くちゃ蜘蛛の糸も張れなくて、番犬の真似事もままならないよ」

「貴方ならば無理矢理できない事もないでしょうに。それに、私が態々空間を縮めたとして、どうするおつもりで?」

「勿論、ご主人様を解体――」

 

 言いかけたその時、咲夜の姿が七夜の視界から消えた。

 その現象に七夜はさして驚かない。既に何度もみた代物だ。

 咲夜が消える直前、七夜の『あり得ざるモノを視る眼』が、咲夜から広がる灰色の世界を、しかと捉えていたのだ。

 そして、即座に取り出したナイフの柄を、刀身を出すと同時にその方向へ突きつけた。

 

 瞬間、交差するナイフの光。

 交差する赤と蒼の瞳。

 いつの間に七夜の後ろに回っていた咲夜はその七つ夜を七夜の頸動脈に、七夜のナイフもまた咲夜の頸動脈に置かれていた。

 お互い、その気になればいつでも首を刎ねられる状態。なればこそ発生する抑止力。

 七つ夜を持った腕と、あの少年に渡されたナイフを持った腕が交差したまま、暫しの膠着状態が続いた。

 

「言ったはずです。次はないと。そのナイフを下ろすのであれば先の発言は聞かなかったことにしてあげます」

「デートの相手は疎かにするなとご主人様に叱られたばかりでね。そんな眼で誘ってくるあんたにナイフを下ろすだなんて失礼じゃないか?」

「一度殺した相手に尚執着するのは見苦しいかと。しつこい男に女は寄ってきませんよ?」

「あんたがその気になってくれるのなら同じさ。今度は奏者だなんて抜かすなよ? 共に踊って黄泉路でベッドといこうじゃないか」

「亡者と戯れたいのであれば一人でお逝きになってください。踊るのであれば料金は血では済みませんよ?」

 

 結局、こうなってしまうのがこの二人であった。

 ――――違う、こんなことがしたいんじゃない……。

 この男が余計な事を言うせいで咲夜の仕事は増えていくばかりである。先の発言が侵入者を効率よく排除するためというのであれば聞き入れないこともなかったが、よりもよって自分の前で堂々と『主人を殺す』と発言したものだ。

 

「それにしても、銀以外のナイフも持っているんだなあんた。随分と大事に持ち歩いているようだが、俺の名前の由来はそのナイフかい?」

 

 自身に突きつけられた七つ夜を一瞥し、その柄に掘られた『七夜』という文字を眼にし、咲夜に問いかける。

 それもまた、咲夜が期待していた反応ではなかった。

 まるで初めてその七つ夜を見るかのような反応。

 もし目の前の男があの少年であるのならば、このナイフを見せれば何らかの反応があるのだろうと、そんな淡い期待があった。

 この試みは既に二度目だ。一度目は昨夜。

 一度目は七夜の意識が半分レミリアにいっていたため、このナイフに意識が向かないのは仕方ない。

 だが今回は違う。

 態々『七夜』の文字が見えるようにナイフを置いている筈なのだが、帰ってきた反応は自身の名前の由来に関することだけ。このナイフをそのものには何の執着も示さない。

 ――――やっぱり、別人かしら?

 しかし、別人と割り切るには早計な要素がこの男にはありすぎた。

 あの時から変わらない、その蒼い瞳。

 そして、今咲夜に突きつけられている、■■があの日あの少年に渡したナイフ。この男があの少年から奪ったという線も考えにくい。頑丈に出来ているとは言え、こんな変哲もないナイフに態々奪い取ろうとするような価値などないだろう。

 

「……ただの偶然です。そもそも、このナイフをお嬢様の前で出したのは昨夜が初めてです。ハァ……」

 

 ため息を吐き、時を止めて七夜から距離を取る咲夜。

 此方から刃を下ろしたら、瞬く魔に自分の首をかっ切ってくることは目に見えて分かることだったからだ。その証拠に、この男は自分が時を止めてくるタイミングが把握できるのか、自分の首筋に僅かな掠り跡があるのが確認できた。

 自分が時を止めるよりも早く、この男のナイフが動いていたという事実に、咲夜は呆れるばかりである。獣と蜘蛛が合わさったかのような動きといい、自分の能力による空間を無効化した事といい、本当に人間なのか疑わしくなってきた。

 そして、時は動き出した。

 

「……結局、やらないのかい?」

「その問答も二度目ですね。私はもう貴方とするのはゴメンですから。ことあるごと要らぬことを言って挑発するのは控えて下さい。私の仕事が増える一方なので……」

「なら、精々俺を上手に使ってくれよ? あんたが舞台を整えてさえくれれりゃ、その分だけこっちも巧くやるさ」

「検討しておきましょう。……ですが、やりたいのであれば自分ですればいいのでは? 毎回空間を元に戻されるのはさすがに疲れますが。だからと言って私がそれを止められる筈もない」

「脚本家の許しもなしに舞台を壊す程無粋じゃない」

 

 ナイフの刀身を柄に仕舞い、何処までが本心なのか読めぬ表情で七夜は答える。

 相変わらず能面に薄ら笑いを貼り付けたかのような七夜の表情からは、何も読めない。この男が自分に要求してきているものに関しては、確かに本心を言っているように聞こえた。だが、咲夜にはこの男が大人しく自分の言う事に従ってくれるかは甚だ疑問であった。

 馬鹿な訳では無い、むしろ頭は異常に回る。……だが、その本質は獣のソレだ。

 理性的な振る舞いもできる、ナイフ捌きからして手先が不器用であることはまずないだろう。従者としての能力もおそらくだが期待できる。……だが、本人がソレを殺し合い以外で発揮してくれるかどうかは疑わしい。

 

「それに、空間を操れるあんたの能力は俺にとっては貴重さ。あんたの下でなら、思う存分ナイフを振るえそうだよ」

「褒め言葉として受け取っておきましょう。ですが、ナイフを振るう相手はどうか慎重に選ぶように。間違えれば貴方が剣山となることをお忘れ無く」

「ああ、上玉も多すぎれば目移りしちまうのが玉に瑕だ。選ぶにしても、雨夜の品定めの時間は必要だろう……」

 

 でなけりゃ、ご主人様にまた叱られちまうしな、と皮肉げに笑いながら付け足す七夜。

 やや捻くれた答え方だが、とりあえず見境無く襲う事は無いという言質を取れた咲夜は再び館の案内と業務説明を継続した。

 

―――――――――――――――

 

『■■ちゃん! これあげる!』

『わ、私も、これを……』

 

 七夜の森で出会った二人は、互いのナイフを相手に差し出す。

 紅色の着流しを着た蒼眼の少年は、『七夜』と柄に掘られた飛び出し式ナイフを。

 黒い外套を身に纏った紅眼の少女もまた、和洋折衷の飛び出し式ナイフを。

 互いのナイフを受け取った二人は、再び笑顔で向き直る。

 

『それじゃあ!』

『うん!』

『次会った時に一緒に返そう!』

『約束だよ、志貴!』

 

 それは、とても懐かしい、あの頃の僅かな残照。

 全てが黒に塗りつぶされた思い出の中、唯一色はせずに輝き続ける、■■と呼ばれていた少女の唯一の記憶。

 暗闇というには明るすぎるが、光というにはあまりにも儚すぎる残り火だった。

 

―――――――――――――――

 

 説明しつつ、咲夜は隣にいる七夜と名付けられた燕尾服の男を見つめる。

 昨日見た夢、レミリアが見た運命、七夜という名。

 決して、偶然では片付けられない。

 あの頃の残照を呼び起こすかのように、上弦の月の夜にやってきた男。

 あの日あの少年・七夜志貴から貰った七つ夜は、今も咲夜の懐にある。引きずるのはよくないと思い、持ち歩くのは昨日かぎりだと決めていたはずなのに、咲夜は今もソレを持ち歩いている。

 咲夜が一瞥する七夜の懐にも、あの日自分が少年に渡したナイフが眠っている。

 

 そして、首を取られる瞬間に垣間見た、あの蒼い眼。

 

 ――――……本当に、貴方なの?

 ――――もしそうだとして、何故今になって私の前に現れたの?

 ――――私は、どうすればいいの?

 

 ■■であった頃の最後の記憶は、あの少年の里が■に■■されたと聞き、そこで目の前の全てが■■■■になったことのみ。

 ……どうすればいい? 七夜があの少年だったとして、今更なにをすればいい? そうでなかったとしても、そのナイフについてどう聞けばいい?

 ……答えは出ない。どれだけ頭の中で巡らせようとも、答えは深淵の中のまま。

 それでも、今はとにかく確かめなければいけない。

 自身を記憶喪失だと語る、このひねくれ者の正体を。

 

 目の前の男の手綱を握りつつ、あの日交わした約束を果たそうとする咲夜の奮闘は、始まったばかりである。




・雨夜の品定め
源氏物語の帚木(ははきぎ)の巻で、五月雨の一夜、光源氏や頭中将(とうのちゅうじょう)たちが女性の品評をする場面。雨夜の物語。また一般に、人物(主に女性)を品評すること。

七夜特有の古めかしい言葉かつエロティックな表現にはこれ以上にない相応しい言葉だと思い、つい言わせてみました。


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大図書館

 気を抜けば頭痛が起きる、なんて変な表現だが、それに当てはまる怪現象を俺は今体験している。頭痛が起きないようにするために意図的にそこに気を遣わなければならないのは、それこそ頭が痛くなる話だが……。

 何の因果かは分からないが、この目には死が視えている。

 何故ソレを死と知覚できるのかは分からないが、そうとしか言えない以上仕方ない。ここに来る前の記憶なんて興味もないし、殺せるのであればそれでいい。なら、この目は精々有効活用させてもらおうとしよう。

 ……と、思いはするものの、さすが四六時中目にするのは鬱陶しい。特にメイド長の力が加わった空間は目にするだけで脳漿が蕩けてしまいそうになる。

 意図的に意識を死からずらさなければあっという間にこの身は崩壊するに違いない。

 

 まあ、これは意図的に意識の焦点を『死』からズらすいい訓練にはなるだろう。視ようとしなくても視える。視ようとしたらもっと視える。俺の持つ直死の眼はその二択の訳なんだが、逆に言えば意識を逸らして、死に対する認識を曖昧にするっていうのも不可能ではない筈だ。

 ……暴論なのは承知だがね……。

 オオカミのような肉食動物と馬といった草食動物の例を挙げて考えてみる。

 オオカミといった肉食動物は、両の目の配置が二つとも前方へ向くようになっている。これは視界が狭い代わりに、目の前の獲物との距離感や姿形をハッキリと把握できるようになっている。

 逆にシマウマのような肉食動物は両の目の配置が前方ではなく、やや左右斜め、つまり対象との距離感や姿形をはっきりと認識する能力を犠牲にして、代わりに広範囲の視界を手に入れているわけだ。この広い視界の大きなメリットとして、まず自分にとって驚異たりえる存在をいち早く察知できることだろう。距離感や姿形を認識する必要なんてない。

 逃げるのであれば、姿形よりもその存在がそこいると分かっていれば十分。対象との距離を考える必要なんてない。そんな暇があるのならばさっさと自分の足を動かして逃げればいいだけの話だ。

 ……で、話を戻そう。

 何でそんな例を挙げたかといえば、俺のような蜘蛛の体術の行使にはこの二種類の目のようなステートを同時に持たなければいけないって所だ。まあ、人間の目の向きはどう見繕っても肉食動物寄りだ。草食動物のような周囲を把握できるようにするためには、瞬時に目を動かして見渡すか、それか経験で慣れるしか方法がない訳なんだが。

 獲物の急所を突くためにはその場所を把握しなければならない、そしてどのくらいの速さで、かつ何秒でその獲物にたどり着けるかを把握するためには、肉食動物のような目が必要。

 反面、奇襲に失敗した時に逃げるためや相手の死角に回るために周囲の障害物を利用して蜘蛛のような立体的な動きを展開するためには、草食動物のような周囲の空間を把握するような目が必要な訳だ。

 感覚、認識というものは重要だ。日常生活でも、そして俺が好む殺しでもね。

 

 『殺し』に関しちゃあ、この眼は間違いなく一級品だ。だが、何でも殺せる毒ってのもこれまた厄介なものでね。決まった所しか狙い無い分、ナイフ捌きの精巧さは確かに鍛えられるんだが、殺す技術そのものに関しては話が別だ。

 如何に最低限の力で獲物を仕留められるか、という技術。この『眼』を以てすれば簡単にソレを行える分、使い続ければその技術は衰えていくだろう。それは何としても避けたいことだ。

 ナイフ捌きが鈍って足癖ばかりが悪くなる……なんて事態になったら目も当てられない。

 ……そして、ここからが本題。

 別に死を視ること自体に抵抗がある訳じゃ無い。

 だが、望んだ獲物と相対することなくまま死を視すぎてお陀仏……なんてオチはゴメンだ。望まれない役者であろうと、大根役者になるつもりは毛頭ないんでね。

 そこでだ、先ほど上げた草食動物の目のように、死をあまりに認識しない方法っていうのに触れてみる。

 ようするに死の位置そのものを把握しても、それ以上の知覚を持たない方法。

 『そこにある』という認識以上のものを持たないということだ。深くは知覚しない、周囲にある障害物と同程度の認識に抑える。その死に触れる必要になった時だけまともに知覚すればいい。

 テレビに例えるのならば、チャンネルを切り替える、と表現するのがいいのか。

 一種の自己暗示まがいの気休め程度のものだが、これだけでも結構負担を抑えることはできる。

 これならばメイド長の空間にいてもさほど苦にはならん筈だ。

 元々、メイド長の能力は上司にしてみればこれ程理想的なものもない。時間を操るついでに空間を操れるだなんて、空間を武器にする俺からしてみれば理想的な能力なのだ。使われる側としちゃ是非とも活用していきたい代物だよ。

 先ほどそれをメイド長に打診してみたものの、どのような返事が来るかは分からない。検討はしておく、の一言である。

 精々いい返事を願って、暇つぶしついでにご主人様のご友人だと言われる人物の寝床に入ってみたわけだが……。

 

「俺の想定が甘かったかな、こりゃ……」

 

 世界を覆い尽くす程の本棚の羅列を前にして、俺は呟く。

 死が視えすぎることに関してはもう慣れたつもりだった。外観と中の空間の大きさが一致しないのにも慣れたつもりだった。

 だが、さすがにこれはあんまりじゃないかね……。

 

「本当、まともじゃないよ……」

 

 さて、まあここの連中がみんな規格外の力を持っていることについては知れたこと。故にこそこのような窮屈な箱庭に押しやられたのであろうが、その中でもメイド長の能力は群を抜いた代物じゃないかね。

 ……そう考えてきたら、またあの夜を思い出してきた。

 やはり我慢はよくないな。今すぐにでも踵を返してメイド長と殺し合えないものか。元々、あの門番とやりあってそれでくたばっても文句はなかったことだしな。

 記憶がない今、娑婆に未練がある訳でもない。

 ……だが、それでも些か勿体ないと思うのが人情というものか。

 今はこの上なく自分の命が惜しい。最高の獲物と殺り合うためには、この命は不可欠だからな。

 そのためにも、この幻想の箱庭においても屈指の知識人として知られるご主人様のご友人に挨拶ついでに、ここのイロハを教えて貰うとしようかね……。

 そう思い、俺は図書館の周囲を見渡す。

 見れど眺めれど目に映るのは本棚の羅列ばかり。障害物が多いのは殺害現場にうってつけだが、生憎今回は別の用事だ。

 なるべくこの図書館の中心と思われる方向に歩を進めてみると、やがてソレは見えてきた。

 壁のない書斎、という表現が正しいのだろうか。いや、周囲の本棚が実質的な壁の役割を果たしている。

 兎にも角にも、お目当ての人物は見つかったわけだ。

 

「失礼致します」

 

 此方に見向きもせずに読書に耽っているこの異界の主に、その無防備な背中についナイフが軽くなってしまう前に、俺は声をかけた。

 

 

     ◇

 

 

 紅魔館の地下にはある大図書室がある。

 広大な空間に立ち並ぶ本棚の羅列。一体誰が、どのようにして集めたかという疑問も抱く間もない程にぎっしりと詰められた知識の宝庫。

 その中心に、「動かない大図書館」という肩書きで知られる少女はいた。

 その名はパチュリー・ノーレッジ。

 薄紫色の服、ドアキャップに似たかぶり物を頭に乗せた長い紫髪のこの少女は、例にも漏れず人間ではない。

 少女と思しき見た目とは裏腹に、その年齢は100を超えている。

 少女、パチュリー・ノーレッジはこの大図書館の主にして、魔法使いでもある。そして、この館の主であるレミリア・スカーレットとは気心の知れた友人でもある。

 本を読むことが好きな彼女は、いや、本を読むことそれ自体に価値や享楽を見いだしている彼女は、今日も今日とて読書に耽っていた。

 ここの図書館においてある本の内容は粗方網羅し、理解、記憶している彼女であるが、それでもその本を読むことに飽きを見せてはいなかった。

 読んだ記憶を頭の中で復唱するのと、実際にもう一度読むとは、やはり彼女の中では大きく違うのだ。

 本に書いてある内容、その文字、文体、挿絵、筆圧、その全てにはその本を書いた者の見えない情熱や主張が詰まっている。

 それはやはり、実際に読むことでしか感じることのできない、何にも変えられない代物なのだとパチュリーは考えていた。

 故に、彼女は本を読み続ける。

 

 ……そして、それに熱中しているからといって、己の背後から近づいてくる下手人に気付かないほど、彼女は愚かではなかった。

 それでも、背後からその聞き慣れない声を聞くまで、彼女は気付けなかった。

 

「失礼致します」

「むきゅっ!?」

 

 そんな素っ頓狂な声が出てしまう程に、その者の気配は薄かった。

 これが聞き慣れた咲夜の声だったらまだ驚きはしなかっただろう。時を止めて急に現れることはしょっちゅうであったし、その事で一々悲鳴を上げるほど彼女は狭量ではない。

 ましてや、急に自分の背後から現れて紅茶を置いて一言も発せずに去って行くことなどザラにある。

 にも関わらず、パチュリーはその者の気配に気付けなかった。

 

「だ、誰かしら……?」

「これは失礼。先日、レミリアお嬢様から雇われました、七夜というものです。何卒よろしくお願い致します」

 

 いつの間にか自身の背後にいた男性は、片手を上腹に添えて頭を下げながら、パチュリーに挨拶した。

 能面に薄ら笑いを貼り付けたかのような皮肉げな笑みも相まって、何処か此方を小ばかにしているような印象さえ与える。しかし、絵に描いたように似合う燕尾服がうまく調和して何故か悪印象を抱かせなかった。

 

「先日、貴女様からお呼びの声があったとメイド長から聞き、こうして馳せ参じたのですが……その様子だと、また日を改めた方がよろしいでしょうか?」

 

 そういえば、そんな事も言ったわね、とパチュリーは昨日の自分の発言を思い出す。咲夜に壊されたナイフの修復を任されて、珍しいと思いつつも修復魔法が効かなかったことを思い出すパチュリー。

 自身の魔法を以てしても修復不可能までに壊されたナイフ。

 そのカラクリに興味を抱き、ナイフを壊した本人を連れてくるように咲夜にお願いしていたのだった。

 ……と、いうことは今自分の前に立っているこの男こそが……。

 

「いいえ、結構よ。貴方の事は咲夜から既に聞いているわ。歓迎するわよ、ナナヤ。いきなり後ろから声をかけるのは心臓に悪いけどね」

「申し訳ありません。あまりにも無防備な背中を晒しているものでしたので、ついナイフを突き立ててしまう前に、慌てて声をかけた次第で御座います」

「冗談にしても笑えないわよソレは……ハァ、とりあえず、そこに座りなさいな。お茶は出せないけれど、そこまで時間は取らないわ」

「では遠慮なく」

 

 また変わり者が一人増えてしまった、とパチュリーはため息を吐きつつ、向かい側の席に座るよう七夜に促した。何も言わずに七夜はパチュリーが指示した椅子に腰をかける。

 

「一応、自己紹介をしておきましょうか。私はパチュリー・ノーレッジ。一応、ここの館の主であるレミィの友人をやっているわ」

「では改めて。本日限りでご主人様から雇われた執事、七夜で御座います。以後、お見知りおきを」

「……それと、別に敬語でなくて構わないわよ。私はレミィの友人であって、形式的には貴方たちの主ではないのだから」

「メイド長からは、貴女様にもご主人様同様敬意を持って接するよう仰せつかっておりますが?」

「咲夜は単にメイド長として他の従者の模範となるよう心がけているだけよ。私はそんなことは気にしないっていつも言っているのだけれどね。貴方がそうしたいと言うのであれば、止めはしないけど」

「畏まりました。では……こんな感じで結構かい、魔法使いのお嬢さん?」

「お嬢さんは余計よ。こう見えても私は……いえ、もうそれでいいわ」

 

 一々指摘することに疲れたパチュリーは渋々と了承した。100年以上生きているとはいえ、幻想郷の他の人外魔境たちと比べれば自分は全然若いほうだからだ。お嬢さんという呼び方もあながち的外れではないだろう。

 

「それにしても、あっさりと素面に戻ってくれたものね。初対面なのだし、普通はもっと遠慮するものではないかしら?」

「生憎、素で敬える程できた人間じゃないさ」

「そう。慇懃無礼なのね、貴方」

「お褒めにお預かり、光栄で御座います」

「言ったそばから敬語に戻らなくていいわよ! まったく……」

 

 開いた本で顔を覆ってため息を吐くパチュリー。

 そんなに長く会話をしている訳でも無いのに、喘息で疲れそうだった。

 とにかく、この話題は取りやめようとしたパチュリーは次の質問をした。

 

「それで七夜。ここはどうかしら?」

「どう、とは?」

「この館についてよ。住民の一人としては少し気になる所だわ」

「赤い葡萄酒ばかりで飽きるね。もう少し白を混ぜてもバチは当たらないんじゃないか?」

「要するに、悪趣味と?」

「いいや、素敵な色さ。もう少しパンチが欲しい所だが」

「私も同意見よ」

 

 やや捻くれた答え方だが、おそらく感性は普通なのだろう。目の前の男をそう判断したパチュリーは幾分か安心する。

 

「それじゃあ次の質問ね。率直に、此処はどうかしら?」

「さっきの質問とは違うのかい?」

「ええ。この館についてではなく、単純に貴方がここに来てからの感想。まだ1日程度しか立っていないでしょうけれど、感じたことの一つや二つはあるでしょう?」

「生憎、箱庭に感じ入ることなんてないよ。俺はできる事をするだけなんでな」

「クスっ。箱庭、か……是非とも何処ぞの隙間妖怪に聞かせたい言葉ね……」

 

 思わず手元を押さえてパチュリーは笑いを堪えた。

 感じ入ることなんてないと言いながら、その口から出てきた「箱庭」という言葉こそが彼の感想なのだろう。

 本人がどういう意図で言っているのかはパチュリーには計りかねるが、おそらくどの意味でもこの幻想郷に当てはまる。

 明確とも取れるし、曖昧とも取れる言い回しはさすがと言ったところか。

 

「さすが、レミィが見込むだけあって変わり者ね。これなら確かにやっていける、か……」

「俺を試したのかい?」

「半分は。単純に貴方のことを知りたかったっていうのもあるわ。同じ館に住む以上はね」

「そうかい。で、俺はあんたのお眼鏡に適ったのかな?」

「それは貴方次第よ。精々うまくやりなさい、執事」

 

 投げやりな返事を返すパチュリー。

 彼がやっていけるのかやっていけないのかを決めるのはパチュリーの領分ではない。あくまでパチュリー本人からしてみれば問題ないと言っているだけに過ぎないのだから。

 さて、そろそろ次の話題に移ろうか、とパチュリーは口を開いた。

 

「それで、私からの贈り物は気に入って頂けたかしら? 新人従者へのささやかなプレゼントのつもりだったのだけれど……」

「ああ、いい物をもらったさ。この指輪だけはどうしても不可解だがね」

 

 言って、七夜は先ほど咲夜から渡された指輪を取り出す。

 何の飾り気もない指輪。しかし、何らかの力が眠っていることは素人目の七夜からみても分かることであった。

 訝しげに指輪を見つめる七夜に対し、パチュリーはその疑問に答えた。

 

「その指輪は、謂わばマジックアイテムと呼ばれる物の一つよ。用途は、空を飛べる私たちにとっては余分なものだけれど、貴方には役に立つんじゃないかしら?」

「これを着ければ、俺も飛べるようになるってかい?」

「そんな便利なものじゃないわ。そうね……試してみるのが早いかしら。七夜、少し立って、自分の目の前に階段があるとイメージしてみなさい」

「……」

 

 言われた通りに立ち上がった七夜は、パチュリーに言われた通りにイメージをしてみる。実際はそこに階段がある訳では無いので、その認識がイメージの邪魔とならぬよう、態々目も閉じた。

 

「いいわ。進んでみなさい」

「ほぉ……」

 

 言われた通りに歩を進めてみる七夜。

 すると、あろう事か七夜の足は何もない空間に立った。その現象に七夜は表情こそ変えなかったが、密かに感嘆の声を上げる。

 ――――中々に面白いな、これは。

 空を飛ぶのでは無く、空を歩く。

 空を飛ぶこと事態に憧れはない七夜であったが、これならば空を飛ぶ美麗な少女たちとも多少は殺り合えるかもしれないという淡い期待を抱いた。

 

「便利な物だな。これもあんたが遇ってくれたのかい?」

「まさか。たまたま魔法の実験をしていた時にできた副産物よ。元々破棄しようと思っていたのだけれど、丁度いいから貴方にあげようと思っただけ。気に入って頂けたかしら……って、えぇっ!!?」

 

 指輪ができた敬意を説明するパチュリーであったがその言葉は目の前の光景によって遮られることとなった。

 信じられない動きだった。

 四肢を付きながら、沈み込むような低姿勢で、蜘蛛のような動き。

 これだけならばまだ分かる。

 その体勢のまま、七夜は指輪の効果で創造した見えない床や天井、壁を蹴りながら三次元的な動きを展開していた。

 動きそのものも恐ろしく速い。が、ソレ以上に速度のメリハリが尋常じゃない。視界を慣らすことを一切も許してくれない動き。まるで一種の芸術。

 人外のように空を飛べないが故に生み出されたその極地を、パチュリーは間近で見せつけられた。

 

「……まあ、こんな所か」

 

 納得するまで動き回ったのか、七夜は納得した様子で元の椅子に落ちるように座った。未だ呆然として七夜を見つめるパチュリー。

 

「……じゅ、順応が速いわね。イメージも平行してやらなければいけないのに、まさか壁や天井まで創って足場にするなんて……」

「これくらい、メイド長のナイフを避けることに比べれば朝飯前さ。感謝するよ、おかげでこの指輪の使い方も分かった」

「そう……それは何よりだわ」

 

 コホン、と喘息を我慢してパチュリーは続ける。

 

「そうね、貴方の動きを見ると下手に空を飛ぶ道具を与えるよりかは、その指輪の方が何倍も相性が良さそう。お気に召さなかったらどうしようかと思ったけど、問題はなさそうね」

「俺としちゃあ、こんな物を副産物で生み出しちまう何処ぞの魔法使いの方に興味津々なんだがね」

「魔法使いだなんてとんでもない……外に出たら私ごとき、精々が高位の魔術師止まりよ」

 

 外と幻想郷では、魔法使いの呼び名が与えられる基準が違う。

 外では発達した科学技術故、魔術でしか行えないことはごく少数。魔法と呼べる代物は最早五つくらいしか存在しない。

 だが、文明が発達していない幻想郷となれば話は違う。その場合、魔法使いとしての基準は一気に下がる。単純に科学技術ではできない事が多いからだ。

 妖怪の山に住む河童達がその技術を幻想郷中に広めれば話は別かもしれないが、そういったことが起こらぬ限りは、パチュリーも、あの白黒魔法使いも、人形遣いの少女も、幻想郷においては皆魔法使いを名乗ることができる。

 

「さて、と。付き合わせて悪かったわね。もう行っていいわよ、七夜。執事業務も大変でしょうし」

「そうかい、ならさっさと此処からおさらばするよ。あまりメイド長を待たせるのもよくない」

 

 そう行って、七夜は立ち上がり、パチュリーから背を向けて去って行く。

 その背中があまりにも儚く、目を離したらすぐにでも何処かへ消えてしまいそうな物悲しさを感じたパチュリーは、思わず七夜を引き留めた。

 

「七夜」

「……ん?」

「貴方はこの幻想郷を箱庭と例えたけど、言うなればここは、全てを受け入れる幻想の箱庭よ。狭いけれど、決して窮屈じゃない。物事には、全て意味がある」

「それで?」

「貴方がここに来たのにも、きっと何か意味はあるわ。それに頭に留めて置きなさい」

「ハっ――――」

 

 かすかに鼻で笑うような声を残し、七夜は背を向けたまま去って行った。

 それが見えなくなったパチュリーは、再び本を手に取って読書に耽る。

 彼に対して言いたい事は粗方言い終えた。先の言葉をどう受け取るかは彼次第。

 願わくば、彼とは長い付き合いになることを祈るばかりだとパチュリーは思った。

 そして……。

 

「そういえば、咲夜のナイフが修復できなかった件について聞くのを忘れていたわ……」

 

 しまった、という顔で再び顔を本で覆い隠すパチュリー。

 思えば、そのために今日ここに呼び出した筈であるのに、別の話題でおざなりになってしまった。

 修復できないナイフ、咲夜の空間を破ってみせた能力、極めつけは自身の術式を施した玄関の施錠をナイフの一振りで解除してみせたこと。

 どれもパチュリーにとっては魔法使いとして無視しがたい現象なのに、あろうことかソレを忘れて会話に熱中してしまった。

 

「まあ、いつでも聞けるし。いっか……」

 

 そう言って無理矢理自分を納得させ、パチュリーは今度こそ意識を手前の本へ集中させた。

 動かない大図書館たる彼女は、今日も今日とて本棚のビルに囲まれた部屋で読書に耽る。

 

 

     ◇

 

 

「意味、ねえ……」

 

 大図書館を後に、紅魔館の一階へと続く階段を上りながら、七夜は呟く。

 元々、自分の欲しい物は分かっていても、自身の存在する意味についてはどうでもいいというのが七夜の感想だった。

 いつか死ぬなら、ここで死んでも大差はない。

 生の実感以上に死を望む彼にとって、存在する意味など、それこそ無意味だった。

 レミリアの戯れに付き合っているのも謂わば遊びみたいなもの。それは向こうも同じ認識だろう。

 生きているも、死んでいるも大差なんてないのだ。

 この眼に映る線をなぞってしまえば、すぐにでも殺せてしまうのと同じように。

 

 彼にとって自分の命とは謂わば道具に過ぎない。

 殺し合いとなれば、いつだって自分の命を捨て鉢にする事が出来る。

 覚悟がどうのこうのではない、彼自身が自分がそういう存在であると結論付けてしまっているのだ。

 そんな七夜の在り方を感じ取ったのか、パチュリーは立ち去る七夜に対し言葉をかけたのだろうが、それでも七夜の在り方は変わらない。

 今、自分が一番欲しいものを彼はちゃんと理解していた。それが、世間一般の者にとってはどれだけ無意味なものであるかも理解していた。

 

 記憶を失った彼にとって、その欲しい物は失った記憶ですらない。

 それはつまり、記憶を取り戻しても彼にとっては無意味なものであることを証明しているに他ならなかった。

 

「分かっているさ。それくらいの事……」

 

 自身がここに存在する意味。そんなことはパチュリーに言われなくとも分かっている。

 失われた記憶。

 なのに、何故か覚えている殺しの業。何故だかソレを死と理解できる、黒い線と点を見る眼。

 これだけ殺しに関わることだけを覚えているのだ。

 

 自分がここに来た理由など一目瞭然。

 いや、そうでなくとも彼は同じことをしていただろう。

 

 

 

 

 

 何故なら、この身は自らを呼ぶモノを殺すだけの存在なのだから。

 

 

 

 

 

 



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人里

 さんさんと降り注ぐ日光。ギラつく刃物のように鋭い光は二人の歩きゆく道を照らす。照らされるは道だけにあらず、周囲に敷き並ぶ田んぼや庭園、はたまた草むらなどもまとめて照らし、豊かで鮮やかに緑の世界を形作る。

 幻想郷ではさして珍しくないこの光景も、外から来た者が見れば感嘆の声を上げることだろう。都会ではめったに見られる事のない光景。

 だからこそ、例に漏れず外から来た彼もこの光景に感動の意を示すかと思えば、そうでもなかった。美しい光景を照らし出す日光などなんのその、むしろ肌が焼け付いて身体の性能に支障が出ないかと心配にさえなる。刃物の煌めきだったらいつまでも眺めていられるというのに、こうも上から照らし出されては堪った物では無い。

 つまり何が言いたいのかというと、その男は朝が弱いのだった。

 

「空を飛べたり時を操れたりするんだったら、態々俺を引っ張り出す必要なぞないと思うんだが……」

 

 ただでさえ普段から気怠そうな影を持つ七夜の表情は、ここに来て更に覇気を感じさせぬ形相だった。……それでもその『今すぐにでもお前を殺したい』と言わんばかりの目付きは変わらないが。

 

「文句を言わない。せっかく男手が入ったのですから、精々荷物持ちとして役立って頂きます」

 

 隣を歩く咲夜が愚痴る七夜に一瞥しながら答える。

 現在の二人の出で立ちは館にいる時と変わらない。

 咲夜は白と青を基調としたメイド服を、七夜は黒を基調とした燕尾服を。特に七夜の黒は日の光を吸収しやすいため、余計に日の光の弊害を受け入れる羽目になっていた。無論、その程度のことで七夜は根をあげたりはしないが。

 

「雁首持ちなら喜んで引き受けるんだが、米を担いだ殺人鬼が押し入ってきたら番犬もさぞ仰天するだろうな」

「嫌味を動かす口があるのなら、まず足を動かして下さい。それとも、淑女と歩く朝はお気に召しませんか?」

「夜明け前なら大歓迎だ。……という訳で、今夜また殺り合ってくれないか? こっちはあんたの首の抱き心地をもう一度味わいたくてね」

「……その挑発には、もう乗らないわよ」

 

 目を閉じてうんざり、と言った様子で拒絶の意を示す咲夜。冗談まじりの挑発ではない、この男は本気である。

 この男、見た目平静に見えてレミリアに自分との殺し合いを邪魔されたことを相当根に持っている。事実、レミリアの介入がなければこの男の曲芸じみた業で咲夜は死んでいた。いくらこの男のナイフを間近で見てしまったことによる動揺があったとはいえ、そこについては咲夜も言い訳するつもりはない。

 故に、今更首をねじ切られたことを恨むつもりはない。

 ……恨む筋合いはない、きっと、おそらく。

 敬語が崩れているので実際はかなり我慢の限界であることは、内緒である。

 

「言ったはずです。お嬢様は日中も活動される事が多いと。今日は快晴なのでさすがに出歩く事はありませんが、今の内に慣れておくとよろしいかと」

「なら、いつも通りあんた一人で行けばいいだろう。こっちはあんたほど便利な性能はしてないし、昼間は狩る事ができないから基本的に夜行性だよ」

「分かっています。そのためのこの時間を選んだのです。貴方が幻想郷の夜の空気に中てられて余計な気を起こさぬようにと、ね……」

 

 夜の時間は、魔が騒ぎ出す時間。

 そんな時間にこの男を野に放ったらどうなる事やら。

 いくら記憶喪失といえど、退魔一族の名を持つこの男がそんな夜に大人しくしている筈が無いのだ。

 だからこそ、外に出すならばこの時間が良いと咲夜は判断した。

 チ、という小さい舌打ちが咲夜の耳に入る。

 どうやら咲夜の言っていることは図星のようだった。

 

「なるほど、確かに俺の扱いを心得ているな。効率的な活かし方とは思えないが、腐らせ方はピカイチだよ」

「あら、そうでもないわよ? もし貴方が人里まで付き添ってくれるというのであれば、昨日の貴方の要求を飲んであげようと思うのだけれど……」

「……おまけに首輪の繋ぎ方も上手いときたもんだ。今の言葉、忘れるなよ?」

「交渉成立、ですね」

 

 渋々ながらも了承する七夜に、咲夜は内心でガッツポーズを決めつつ、表面は静かに微笑む。こう見えても殿方と一緒に出歩くのは初めてなのだ。相手は目付きが壊滅的に悪いのが玉に瑕だが、顔は悪くない。

 元々この男の能力については咲夜も買っている。人間離れした体術も、隠形に長けた式神を思わせる気配遮断能力も、自分の空間を破って見せた能力もそうだが、特に咲夜が気に入ったのは接近戦において自分すらも上回るナイフ捌きだ。

 相手が少なからず自身が認めた男である、というのも一つあった。

 

「ではお嬢さん、不肖ながら人里までエスコートさせて頂きます。暫し幻想(ユメ)の旅路をお楽しみくださいませ」

 

 咲夜の手を取り、目線がそこまで間近にするように腰を下げながら、さながら本物の紳士のような口調で七夜は言う。

 慇懃無礼。

 明らかに形から入っているだけの、芝居じみた口調だ。

 それでも、この男には様になっていた。

 ニヒルながらも優しく甘い声音は普通の女であれば虜にされても不思議ではない。

 

「……形から入るのは結構ですが、その、心にもない事を言うのはやめて頂きたい」

「これは手厳しい。まあ、俺も素で言える程物好きじゃない」

 

 恥ずかしくなった咲夜は、顔を逸らしつつ断りを入れる。

 言われてあっさりと咲夜の手を離し、立ち上がる七夜。

 あれ程キザったらしい台詞を吐いておきながら、本人に恥じる様子は一切ない。本当にお遊びの感覚で言った言葉なのだろう。

 

「さて、いつまでも立ち往生なのは頂けない。この世界の人の営地とやらを拝みに行こうじゃないか」

「……まったく、さっきまで乗り気では無かったというのに。ああ言った手前、無理して私の前を歩こうとしている訳ではないのでしょうね?」

「勿論。あんたに前を歩かれたら、その綺麗な背中についナイフをぐさりって事になりかねないからね」

 

 冗談交じりに聞く咲夜。しかし、帰ってきた七夜の返答が予想斜め上をいき、いや、ある意味では予想通りで、つい肩を落としてしまった。

 ――――聞くんじゃなかった……。

 この殺人鬼にまともな返答を期待するのがそもそも間違いだった。

 咲夜は自分の前を歩く七夜の背中を見つめる。

 そもそも、咲夜は一度とて七夜に人里への道を教えたことはない。そもそも咲夜もめったに徒歩で人里へ行く事は無いので、ある意味では初めて道らしい道を通って人里へ行く事になる。

 にも、関わらず、七夜は迷わずに歩を進めていた。

 目的の場所が何処かを分かって歩いているというよりは、本能に身を任せて彷徨い歩いているようにも見えた。まるで幽鬼のよう。今を生ける生者という空気からはほど遠い。

 ――――なら、その本能に、任せてみましょうか。

 

幻想(ユメ)の旅路、か……」

 

 七夜の言葉を反復する咲夜。

 七夜は冗談交じりに言ったのかも知れないが、確かにいいかもしれない。異変解決として、はたまたお嬢様の気まぐれとして幻想郷を飛び回ることは数合ったが、歩き回った体験は確かに少ない。

 せっかく、自分の目の前に空を飛ぶ事ができない憐れな蜘蛛が一匹歩いているのだ。ここは彼にエスコートされてみるのもいいかもしれない。

 

「では、御言葉に甘えてエスコートして頂きましょう、新人執事さん?」

「ハッ、仰せのままにってか、メイド長?」

 

 先行する七夜。それに付いていく咲夜。

 本日は快晴。

 二人の主である吸血鬼は館で眠り、二人の夜が朝の道を歩く。

 紅い月を映し出すために存在する二つの夜は、かくして幻想の地を共に歩く。

 ひとっ飛びで向かうのではなく、人里までの徒歩の道のりは、咲夜にとっては存外新鮮なものとなった。

 

 

     ◇

 

 

 人里までは、思った程掛からなかった。

 人の活気に満ちた里。とても妖怪たちの跋扈する地に囲まれた者達の空気ではない。いやそれとも単に、呆けているだけなのか。

 ただ妖怪達の怖れを満たすためだけに、この箱庭の、更に窮屈な辺境に押しやられているのかと思えば、ちらほら出入りしている妖怪も見かける。

 危険度が低いと見なされている妖怪は里の出入りが許可されているらしい。おかげで人里のただ中だというのに身体が疼きやがる。

 弱小妖怪くらいなら判別が付くって程度なんだが、やはり腐っても箱庭の要の一つと言うべきなのか。何匹か力のある妖怪も出入りしているようだ。いつナイフが軽くなっちまうか分かったもんじゃないね、こりゃ。

 まあ、この衝動に身を任せるっていうのも癪だ。殺しってのは自分でやるからこそ意味がある。解体しがいのある獲物ほど特に、な。

 

「ここが人里か。思ったより普通だな」

「無常を怖れる者達の集まり、妖怪達の怖れの糧、一種のシステムのようなものですから」

「ある意味こいつらも飼われているって事か?」

「さあ、それは管理者に聞かない事にはなんとも。白黒魔法使いのように、人里の外で暮らす事を好む人間も少なくありませんし」

 

 白黒魔法使い、上司であるメイド長や門番の嬢ちゃんから度々聞く単語だ。このメンツの口から数度名前が挙がる当たり相当手こずる輩らしい。さぞや解体しがいのある獲物なのだろう。

 よく出没する場所はあの紫魔法使いが居座る大図書館だという。どのように巣を張り、絡め取ってご馳走しようか、考えるだけでゾクゾクする。

 ……そんな考えを読まれたのか、横にいるメイド長からジト目で睨まれた。……勘のいい女は嫌いじゃないがね。

 

「それで、これからどうするんだいメイド長? 俺とあんたが一緒にいて少々目立つように思えるが?」

 

 さっきから周りからの視線が鬱陶しい。

 俺に対しては精々奇異の目線で見られる程度だが、メイド長に関してはその限りではない。忌避、憎悪、羨望、憧憬。種類は様々だが、特に前者二つは多く感じられる。

 まあ、この見てくれだ。嫌でも目立つのだろうが、何かここの人間たちと憩いでもあったりしたのだろうか。

 

「……そうですね、貴方の言う通りです。七夜、貴方はこの紙に書いてある通りに店を回って、必要なモノを買い足して下さい。私は別用がありますので、終わったら、あそこの寺子屋前に待ち合わせましょう」

「買い出し以外にも用があるのか?」

「ええ。お嬢様の食用の血を採取しに、契約した住民たちを回ります。時間はそんなに掛からないでしょう」

「契約するための血のやり取りだろうに。血を吸うために契約するのは本末転倒じゃないのかい?」

「お伽噺の定石(セオリー)も通じない、とは誰の言でしょうか?」

「……仰る通りで」

 

 人間にとっちゃ住みがたい世界だと思っちゃいたが、逆もまた然りということか。元より、悪魔の契約というものは悪魔側に有利なように出来ている。それをさせないための処置というわけか。

 ご主人様が変わっているだけなのか、それともこの箱庭の管理人が定めた掟なのか、真実は闇の中、か。……まあ、どちらにせよ殺すのだから些細な事だろう。

 

「では、いったんお別れです。くれぐれも寄り道はしないように」

淑女(レディ)との逢瀬に遅れたりはしないさ。じゃあな」

 

 背を向けて去って行くメイド長。

 それだけで鬱陶しい視線の多くは向こうへ免れた。その背中はどこかバツが悪そうだった。ふむ、ここに来るまではそれなりに楽しそうだったんだがな。やはりここの住民と何かあったのか。

 ……ご主人様絡みの何かか? いや、だとしたらご主人様がこの問題を放置しているとは思えない。さりとてご主人様がこの事を把握していないとも考えにくい。

 ……となると、これはあいつ自身が撒いた種、もしくは問題と考えるのが妥当かね。見ている分にはなんとも思わんが、目を付けた獲物が肝心な時に解体しがいもなく、というのは頂けない。

 ……柄じゃないが、俺からも少し踏み込んでみるとしよう。

 

「失礼」

「あら、ここじゃ見ない顔ね」

「ああ。本日付けで紅魔館の飼い犬となった七夜という。よろしく頼むよ、瑞々しいお姉さん?」

「あらまあ! 咲夜さんの所の……通りで見ない服装だと思ったわ。さあ、どうぞどうぞ! 好きなだけ買っていって頂戴!」

 

 メモに言われた通りの八百屋を訪れ、敢えて紅魔館の名を出してみる。

 ……あまり悪い印象はない。むしろ人里における知名度はご主人様よりもメイド長の方が高そうだ。

 この八百屋の女性だけ特殊な可能性もある。

 もう少しだけ踏み込んでみるか。

 

「それじゃあ、これをお願いするよ。メイド長も足りないとぼやいていたからな」

「毎度あり♪ また来てね、執事のお兄さん!」

 

 執事、という単語が出てくるあたり、この女性はかなりメイド長と懇意にしていると思われる。何にせよ、誰もがメイド長を疎ましがっている、という訳では無いようだ。あの仏頂面からは想像も付かないが、人当たりは悪くは無いのだろう。

 ……だが、これだけじゃ参考にならない。

 メイド長が俺がこう行動する事を見越して見回る店を指示しているのならば、さすがは瀟洒なメイドと言ったところだが……。兼ねてからメイド長が懇意にしている店ばかりを回っていては、好意的な意見しか聞けないのは自明の理。

 だが、ならば俺にやらせるよりもメイド長本人が買い物をした方が何倍も効率がいい。態々夜型の俺を起こしてまでやらせる意味はない。

 逆に言えば、それこそ知らない店の物も買えるいい機会にもなり得るだろう。

 ……それをさせないという事は。

 

「……はぁ、俺は何を考えている」

 

 買い物袋片手に呟く。

 俺も焼きが回ったかな。本来なら、潔く消える陽炎が定め。あの館でメイド長に首を刎ねられて、それで死ねればよかったのに、ご主人様の気まぐれで生かされちまった。無論、あそこで死を拒んじまった俺も俺だが、おかげで今は狩り時でない事も相まってか、余分な思考が頭に過りやがる。

 だが、何故かな。あのまま何も殺せずに死ぬのはやはり未練なのだ。

 気、時、運命、魔法、この眼によく似た魔眼。あの館だけでこれだ。あんな脳漿を蕩けさせる程の香りを味わせておきながら、口にする事が許されないなんて生殺しにも程がある。

 もっと料理を味わいたい。

 もっと他の異能者とも殺し合ってみたい。

 この身に生きている実感と、それ以上の死を味わいたい。

 分かっている。この身は生きたいと言っているのだ。

 どうしようもなく、極彩とその命を散らすために、生きたいと思っている。

 ならば、生きると決めた以上は、自分がやると決めた事ぐらいはやり通さないと後味が悪い。……という訳で、何だかんだ思いつつ俺は買い物ついでの聞き込みを実行するのであった。

 

『毎度あり!』

『咲夜さんところの人かい? 安くしとくよ!』

『あー、吸血鬼のお嬢さんの所か? 珍しいな、いつもはメイドさんが来るってのに……』

 

 残り数店、という所まで回った。

 相変わらず好意的な意見しか聞かないが……それでも、少しだけ分かった事がある。

 それは、彼らの意見が()()()()()()()()()()()()()ということだ。いや、これは十分な収穫だよ。

 何が収穫かって、今まで回った店の数々。それは単にメイド長が懇意にしているだけの店ではない。

 店の経営者が皆、この幻想郷に来てからそんなに時間が経っていない者達だという事だよ。憶測の域だが、紫魔法使いの大図書館で勉強した知識じゃあ、人間の里に住んでいる人間っていうのは、大半が元々ここが幻想郷と呼ばれる前から住んでいた人間たちの末裔であり、外から迷い込んできた人間は大半が食われるかであり、ここにたどり着けるケースは少ないらしいね。

 メイド長が懇意にしている店ってのは、その少ないケースの人間が経営しているのが大半だった。本人たちから聞いた訳じゃないが、大体空気の違いでその辺りは分かる。諸々から感じ取れる仕草や文化の相違。素人目でも案外分かるもんだ。

 

 ……となると、後はもうこれしかないよなあ?

 メイド長からは寄り道はするなと言われているが、ここまで来たら何のその。ようは同じ物を同じ値段で買えれば何の問題もないという訳だ。

 買い物手帳を片手に周囲を見渡す。

 お目当ての品は……アレか。本来ならあの店の品物を買い寄せるところだが、ちと趣向を変えて同じ物を売っている違う店を探してみる。

 ……まあ、近くに商売敵がいる所に店を構える道理もなし、少し手間だが、離れた場所を探してみるのが得策だろう。

 そう思い探してみてから数十分が経過した頃だろうか、同じ物を売っている店を見つけ出す事ができた。

 ……あのメイド長ならば見破ってきそうなものだが、その時はその時だ。

 明らかに排他的な空気を漂わせ、大凡客を引き付けられるとは思えぬ店の看板を潜り抜ける。

 

「失礼」

「……うん、オメエさんは?」

 

 真っ暗な店の角っこにその男はいた。

 老年の男。

 目を瞑りながら腰かけ、さながら地蔵のように生きているの死んでいるのか分からない風貌であったが、此方が近づくと気配を感じ取ったのか、ギョっと見開く魚のように目を開け、此方を睨み付けた。

 

「本日限りで紅魔館の飼い犬になった、七夜というものだ。ちょいとここの品、見て行っても大丈夫かな?」

「紅魔館……だと? ケッ、悪魔の犬がここの店に何の用だ?」

 

 ……ここまであからさまだとはね、逆に参考にならん可能性の方が高いかもしれない。この手の輩はどんな客にもこのような接待態度である可能性が高い。ちょっと無駄足だったかな。

 だが、個人的にこのご老人に少し興味が湧いたので、少し会話を続けてみようか。

 

「いやなに、犬らしく厄介事らしい匂いを嗅ぎつけてね。それと、その接客態度は客を引き寄せんぞ?」

「オメエさんのその目付きに比べれば何倍もマシだ。オメエさん、一体何人殺してきた?」

「さて、この身が潔白なら今頃地獄で八熱巡りにされた後だろうよ。だが、何の因果か俺はここにいる」

「なら、聞き方を変える。……一体()()殺ってきた?」

「……ほぅ?」

 

 生憎、この身が犯した罪に覚えなどない。記憶が真っ白なのだ、前すらあったかどうか分かったもんじゃない。

 だが、俺は何故かこの老人の問いを無下にすることはできなかった。

 何人ではなく、何匹か。まるで人ではなく化け物を殺してきたかのような言い草だ。……いや、この眼を以てすれば不可能ではないか。

 だが、生憎此方はその問いに答えられる材料(きおく)を持ち合わせちゃいない。あの夜に門番の嬢ちゃんやご主人様を殺る事ができれば少しは会話も弾んだんだのだろうが、まったく、殺せなかったこの身を恨むばかりだ。

 

「逆に聞くが、何故そう思う?」

 

 故に、此方は聞き返す事しかできない。

 

「ただの直感よ。オメエさんは若ぇが、それにしちゃあ厄介な業を背負っているようにも見えるんでな」

「業、とな?」

「ああ、それも個人単位じゃねえ。何年も磨き上げ続けてきた業。まるで執念のようにねばっちぃ、退魔(ヒト)の業だ」

 

 ヒトの業、か。

 この身にそんな余計なしがらみがあるとは到底思えんが、まあ、老人の戯れ言程度に頭の片隅に置いておくとしよう。

 

「そして信じられねえのは、その業を背負って平然としているオメエさんだよ。殺しに意志は不要か、殺人鬼よ?」

「まさか。自分じゃないものに獲物を預けられるかよ、俺はいつだって俺が殺したいから殺す、それだけさ」

「……化け物の犬は、化け物って訳か……」

 

 納得したように頷く老人。

 さっきまでの此方を疎むような雰囲気は割かし成りを潜めている。……どうやら、入店を許可されたらしい。

 

「七夜っつったか? 懐かしいな名だな。オメエさんに似た眼つきの奴を俺はよぉく知ってるよ。外にいた頃にも、今のオメエさんとよく似た業を背負った奴と会ったことがある。外見もそっくりだ。最も、業に対する姿勢は正反対と言った所か。奴は業を受け入れた上で殺す、オメエさんは業をねじ伏せた上で殺す。……似てはいるが、どっちが生粋の殺人鬼なのやらな……」

 

 どうやら、少し当ては外れたらしいな。

 この老人も例に洩れず外から来た人間らしい。だが、この老人の話は些か興味深い。オレと似たような業に、似たような眼つき、か。

 案外、血縁者か何かだったりしてな。

 

「心しておけよ小僧。その業はここで暮らす上で邪魔でしかない。何せ、この人里を自然災害から妖怪達が守る事さえある、そんな世界だ。人間にとっても、妖怪にとっても、互いの存在は不可欠。この幻想の世界には、猶更オメエさんやオレのような存在は不要だという事だ」

 

 確かに、この身は時々人外に対して殺害衝動を起こす事がある。この老人の言う業とは、正にソレを指すのだろう。この衝動の由来についても知っていそうだが、ソレについては興味はない。

 解体しがいがあるかないか、程度の指標にならこの衝動は些か便利なのだ。人間に対しては効果がないっていうのは玉に瑕だがな。

 

「ちなみに参考程度に聞くが、あんたはどう思っているんだ? この、ネバーランドについて」

「下らねえ老婆心の成せる代物だ。時代に置いていかれたくねえ婆の発想。端的に言って反吐が出る」

 

 あのスキマ妖怪は胡散臭く笑って聞き流すだろうがな、と老人は舌打ちしながら答える。俺が言うのも何だが、こんな素敵な舞台を用意してくれた主催者様に対してそのような言い草はないのでは。

 婆の隠居先としては少々デカすぎるのでは、とは思うがね。

 

「まあいいさ。せっかく来たんだ。仕方ねえから、オメエさんをお得意様として扱ってやらあ。せいぜい好きなもん見っけて持っていきな」

「それは有難い。高嶺の花ばかりじゃ退屈する。たまには草っ原の毒も必要だろう」

「追い出されてえか小僧!」

「おや、こいつは失敬」

 

 つい口が滑ってしまった、と。

 では、面白い話が聞けたついでに目的のモノを買うとしましょうかね。確かここらへんに置いてあった筈なんだが……ああ、あったあった。

 目的の品を手に入れた俺は、さっそく老人に持って行って鑑定をお願いした。

 

「こいつを貰えないかな」

「……こんなもん、何処でも売ってんだろ?」

「ここらじゃああんたしか取り扱っていないだろう? 探すのに手間かけたんだ。安く頼むよ?」

「……どうにも釈然としねえなあ。小僧、正直に答えろ。ここに何を求めてきた?」

 

 やれやれ、鋭い爺さんな事だ。

 普通、それくらいの事で見抜くかね。確かに目的はこの品だが、俺自身の探し物は違うとこの爺さんは見抜いてきやがった。

 益々興味が湧いて来る爺さんだ。つい解体したい衝動に駆られる。……だが、今はこっちの事が先決かな?

 この際好都合だ。悪魔の犬だとか叫ぶくらいだし、メイド長について知ってることがあったら洗いざらい吐いてもらおうか。

 

「単刀直入に、メイド長について少し聞きたくてね。本人に聞いても出て来るものなんざなし、ここは第三者の意見を聞きたくてね」

「生憎あの紅い館の犬について教えられる事なんざないし、そいつはオメエさんについても同じだ。……あくまで、里の一住民としてしか答えられねえが、それでいいか?」

「ああ、何でも構わない。話してくれ」

 

 むしろ、ソレが一番聞きたい事柄だしな。

 

「紅霧異変っつー事件の後だったかな、あの嬢ちゃんが人里にやってくるようになったのは……」

 

 紅霧異変……ね、概要として紫魔法使いから聞いちゃいるが、実際はどんなもんだったのか。当事者でない俺には栓なき事だが、とにかくそういう事件があったとだけ分かっていればいいだろう。

 

「で、あの嬢ちゃんの俺達に対する態度だが……それはまあ酷いもんだった。こう、なんだろうな……愛想がないのはともかくとして、とにかく冷たいんだよ。無論、あの嬢ちゃんだけが悪いんじゃねえ。先に邪険にしたのはそもそもここの奴等だ。あの異変を起こした紅い館の主の従者って事もあって……それでもなんとか歩み寄ろうとする奴等だって少なからずいたのさ」

 

 なるほど、必ずしもあいつ自身だけの所為というだけではないようだ。

 しかし、吸血鬼の従者と分かっていても歩み寄ろうとする人間たちがいたとはね、さすがは幻想郷の住民と言った所か。

 

「だが、そんな奴等に対してもあの嬢ちゃんの態度は冷たいままだった。むしろ此方を見下して内心で嘲笑っているようにも見えた。無論、それに関しちゃ完全にここの奴等の被害妄想だろうがな。とにかく、他人に冷たかったんじゃよ、あの娘は」

 

 懐かしむように虚空を見上げて話す老人。

 天は二物を与えないというが、従者としての能力はともかく、対人関係はそれほどでもか。あれほどの能力がありゃあちょっとした事じゃ常人たちと馴染めないと思うが、それに関してはどうなのだろうか。

 

「だが、そんな嬢ちゃんも変わった」

「……変わった?」

「ああ、今じゃ嬢ちゃんの態度は改善されて、ここの奴等に対しても人当りよく振舞うようになったさ。だが、だからと言ってそれ以前の印象が簡単に変わるわけがねえ。それにいきなり人が変わったように、今まで冷たい氷のようだった人間が、いきなり表情を解して対応してきたら不気味だろう。その不気味さも相まってか、何か裏があるんじゃねえかと疑われ、結局また避けられるのさ」

「……」

 

 それはまた、なんというか……。

 

「おそらく、嬢ちゃんには何かがあったんだろう。今までの態度がいけないと思わせるキッカケが。だが、それをするにゃ遅すぎたし、嬢ちゃんも今までの印象を変えるにはどうすればばいいか分からねえままなんだろうな。いきなり態度を変えても、かえって避けられる事くらい分かるだろうに……不器用な娘だよ、本当に」

 

 なるほど、大体話は読めてきた。

 これは確かにご主人様も関与しないわけだ。吸血鬼の従者、という肩書は確かに邪魔になっただろうが、メイド長本人の対応でどうにでもなった事柄ではある。で、メイド長もこのままではいけないと思って態度を改善してみたが、結果はご覧の有様。

 人当りのいいメイド長を受け入れてくれるのは、それ以前のメイド長を知らない外からの新参者のみという訳か。やれやれ。

 

「まったく、どうしようもない」

「そう言ってやんな。オメエさんの上司だろう。男を見せて何とかしてやれ」

「生憎、それができる甲斐性なんざ持ち合わせちゃいないよ。この身に出来る事は限られてるんでね。……で、会計は?」

「……初来店記念だ。只で持っていけ薄情小僧」

 

 おや、聞きたい話を聞くついでにタダで貰えるとはいい買い物をしたものだ。

 言い付けを破って寄り道をした甲斐があったな。

 さて、聞きたい話を聞けたことだし。さっさと残りの物を買って寺子屋前で合流と行こうかね。

 

「んじゃま、世話になったな、ご老人」

「ああ。また来い、名も無き七夜よ」

 

 最後に、後ろから意味深な言葉をかけられた気がしたが、特に興味もなかった俺はそのまま店を後にした。

 途中、後ろからのご老人の意味ありげな視線が鬱陶しかったが、この何もない背中に思う所でもあったのかね。

 まあいい。後は必要な物を買って、寺子屋前で合流するだけだ。

 

 

     ◇

 

 

「んじゃま、世話になったな、ご老人」

「ああ、また来い。名もなき七夜よ」

 

 背を向けて店から去っていく燕尾服姿の少年の背を見送って、その背中が見えなくなると、老人はハァっと溜息を吐いた。

 懐かしい、なんてものじゃない。

 あの少年に見た面影、背負う業、まさしくあの男ではないか。

 

「まったく、一目でアイツの子だと分かったぞ……」

 

 煙管の煙を吸い込み、吐きながら老人は呆れるように呟く。

 表情は動かずとも、あの『すぐにでもお前を殺したい』と嗤う眼、忘れられる筈がない。あれこそ生粋の殺人鬼というのだろう。

 あの男と先の小僧、どちらがより生粋の殺人鬼かは、分かったものではない。

 

「やれやれ、子は作らないと言っていたお主が、どういう腹積もりか子を作るとはな……。だが、どこまでいっても、蜘蛛の子は蜘蛛という事か。

 あの小僧、お前以上に壊れとるぞ」

 

 もう一度煙管の煙を吐き、老人は呟く。

 

「皮肉な事じゃ。そうは思わんか――――黄理よ」

 

 悪態と共に吐かれた煙は、虚空の闇へと消えていった。

 

 

 



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対峙

注意:残酷な描写
厭な人はブラウザバックを。正直自分でもここまで描くとは思わなかった……。


 古い木造建築が立ち並ぶ街並み。

 その街並みの一角にある暗い店舗の中から姿を現した七夜は、買い物袋を片手に寺子屋を目指した。何だかんだ自分で夜行性だと宣いつつ、最後まで仕事を完遂してしまったなと七夜は柄にもなく耽った。

 おまけに余計な興味のために寄り道までしてしまう始末である。まあ、それなりに面白かったので本人はどうとも思ってはいないのだが。

 己の仕事をやりきったことを自覚した途端、未だに沈まぬ日の光を浴びて七夜はその貼り付けた笑みすらも歪めた。

 ――――やはり、昼は駄目だな。まったくやる気が起きん。

 これが日を遮る障害物の多い狩り場であったのなら話は別だったのだろうが、如何せんこんな人の往来の多い場所では殺害現場には相応しくない。

 最も、建ち並ぶ木造建築や、路地裏などは狩り場にならない事も無いのだが、だからといってどうやってそこに獲物を誘い込むかという話になるし、そもそもそんな物好きがこんな往来を歩いているとは七夜には思えなかったのである。

 

「やれやれ、さすがは瀟洒なメイド、か……」

 

 こうも自分に殺る気を起こさせない時間帯を選ぶとは、首輪の繋ぎ方に中々になっている上司である。このままでは咲夜とレミリア、どちらをご主人様と呼べばいいのか分からない状態だ。いや、結局はどちらもご主人様という事になるのか。

 片や時の首輪、片や運命の首輪を繋がられてどうしようもない。

 この見えない首輪もこの眼で殺せたらどれだけ楽なのやら、七夜のため息を虚空へと消えていく。さすがにそこまで便利な性能はしていない。

 この眼で殺せないことはともかくとしても、業が鈍っていくのは七夜としては死活問題だった。鍛錬で得た技術は瓦礫の塔に過ぎない、塗り固めなければ絶えず瓦解していくものだと、誰かが言っていたか。そのためにも、何とか獲物にありつけたいモノなのだが……。

 

「まあ、暫くは番犬の真似事かな……」

 

 幸い、この仕事を引き受けるのならば、咲夜から七夜向けに空間を弄ってくれるという約束を取り付けてある。

 咲夜は七夜の挑発に乗ることはなくなり、本格的に相手にしてもらうには、いよいよ主であるレミリアに直接手をかけるしか方法はなくなってしまうのだが……。

 こと暗殺において、七夜は紅魔館の面子の誰よりも自分は優れているという自負がある。さすがに咲夜の時止めを鑑定に入れれば話は違ってくるかも知れないが、相手の死角に回ること、こと気配遮断にかけては七夜の右に出る者がいないのは周知の事実だ。

 故に、棺桶の中で眠っているレミリアに対し、寝首を搔く事だって造作ではない。無論、相手は吸血鬼だ。ただのナイフでは殺せないだろうが、それを可能にする術を七夜は持っている。

 だが、元から七夜はその選択肢を頭に入れていなかった。

 あんな魅力的なご主人様の力を見る事無く終わるなんて、それこそどうかしている……それが七夜の思考だ。暗殺者として最高峰の能力を持っていながら、その思考は大凡暗殺者向けではない。

 殺人鬼としてはともかく、やはり暗殺者としては七夜はかの鬼神に比べ格段に劣っている。そんな自身の性能と性格の矛盾は七夜もよく自覚している。

 欲しがりな性分である自分は、暗殺者としては片手落ちだろう。それこそ“殺す”事しか取り柄がなくなってしまう。

 そう、殺し合いも暗殺も、結局の所は殺すという結果に終止する。ようするに、殺せさえすればいいのだ。

 結局の所、この男の結論はそこに終止するのである。

 

「さて、と」

 

 目的の寺子屋前までやってきた七夜。

 随分と寄り道をした彼であったが、上司である咲夜の姿は見えない。どうやら未だに献血中のようだった。

 これなら寄り道もばれる心配はないか、と思ったその矢先。

 どくん、と胸の鼓動が跳ね上がった。

 

「……ハッ」

 

 この衝動を感じるのは既に二度目だった。一度目、咲夜とここに落ち合うと約束した時、この寺子屋の建物の中から感じた。

 そして今回は二度目。

 強い“魔”の気配だ。

 だが、純粋な魔ではない。

 ――――混ざり物の気配だ。

 その事実が、七夜の高揚をより促進させる。衝動の所為ではなく、七夜本人があの寺子屋の中にいる気配の主を解体したがっているのだ。

 もしかしたら、この眼を使わず、直接この舌で解体の味を味わえるかもしれないのだ。

 そして、その気配の主が、外に出てくるのが七夜の目に入った。

 

「く、はははッ……」

 

 ――――おいおい、人里の真っ只中とはいえ、そんな不用心に出てきて大丈夫かよ……。

 ……このナイフがいつ軽くなっちまうか、分かったものではないというのに。

 七夜はなるべく視線を逸らすようにして、寺子屋から出てくる気配の主を一瞥する。

 子供達の肩を優しく押しながら出てくるその女性に、七夜は釘付けになった。

 釘付けに、ならざるを得なかった。

 ……七夜の眼は、あり得ざるものを視ることができる。

 そこにないのに、だけど確かに在る物。特に、魔性に関する物に関しては。

 その眼が、女性を見据える。

 女性の見た目は人間と相違なかった。青のメッシュの入った長い銀髪、赤いリボンの付いた青い帽子を被り、胸元にも赤いリボンが付いた上下が一体になった青い服を着用している。

 彼女のイメージは、一言で言い表すのであれば青、といった所か。

 そんな清楚な見た目と雰囲気を漂わす彼女であるが、七夜の眼からは異様な物が視えていた。

 ……それは、黒い靄だった。

 彼女の半身を犯すかのように浸食している、黒い魔性の靄。

 間違いない、アレが彼女の“魔”の部分であると、七夜は確信した。

 

「嗚呼……」

 

 なんてこった、と七夜は虚空を見上げる。

 己の意識を保つために、今すぐにでもあの女性に飛びかかりたいという衝動を抑えるために、七夜はらしくもなく“我慢”という選択肢を取った。

 なぜ、そんな選択をしたのか。

 分かっている、アレは彼女の本当の姿ではない。

 どちらが本当の彼女であるかはともかくとして、少なくとも、七夜の本命はあの姿ではない。……故に、狩り時ではない。

 本当に、この箱庭は魅力的な上玉が多すぎる。

 雨夜の品定めの時間が必要だと自分で言いはしたが、果たしてそこまで自分の理性が持つかは甚だ怪しいところだ。

 それでも、七夜は身から溢れた立つ衝動をねじ伏せながら、女性の後ろ姿を見つめる。

 黒い靄が、見える。

 蜘蛛を引き寄せる、誘蛾な花匂を放っている。

 

「差し詰め、花びらを閉じた魔花、と言った所か……」

 

 今の彼女は、差し詰め花弁を閉じた蕾という表現が正しい。

 七夜の眼は、我慢しきれずその蕾の中身を覗き込んでしまったが、それだけだ。満開の姿を見るには至らない。

 いつかは、見せてくれるのだろうか?

 いつかは、自分に晒してくれるだろうか?

 狂える己をその眼に焼き付けさせてくれるだろうか?

 ああ、考えるだけで脳漿が沸騰しそうになる!

 だから、その時まで――――。

 

「その花びらを開かせた時が、狩り時かな」

 

 その時まで、待つとしようか。

 寺子屋から去って行く女性の背中を見送った七夜は、傍にあったベンチに買い物袋を置いて座り込んだ。

 咲夜から来るまではまだまだ時間がありそうだ。

 だからといってそれまでする事など無い。唯一知りたいと思い探っていたこともほんのちょっとの寄り道で大体を知る事が出来てしまったことから、いよいよ咲夜が来るまでやることがなくなってしまった。

 元より……この時間帯で活動すること自体が性分ではない。彼が、『七夜』であるが故に。

 寝るか、そう思ったその時だった。

 

「ちょっと、そこの貴方」

「……うん?」

 

 不意に、後ろから見知らぬ声をかけられた七夜は振り向く。

 赤目で、赤いロングヘアー

 白い小袖の上に紫の打掛を羽織った女性がそこに立っていた。

 

 

     ◇

 

 

 その男を見つけたのは、偶然だったといえよう。

 顔立ちは整ってはいるものの、刃物のような目付きは周囲とは一線を画する。

 それだけならば、まだ彼女の興味を引きつけなかった。

 本格的に彼女の目を引いたのは、見たことのない生地で出来上がった、黒を基調とした衣服だった。

 外の世界ではさほど珍しくない燕尾服であったが、この幻想卿では話が違う。同じ給仕服とした知られるメイド服に関してはよくこの人里を訪れる紅魔館の従者がいるので、さほど珍しいとは思わなかった。

 だが、男性物の給仕服たる執事服に関しては話が別である。

 警官であると同時に、コレクターでもある彼女の嗅覚を、それはもうビンビンに刺激した。

 故に、その男に声をかけた。

 

「ちょっと、そこの貴方」

「……うん?」

 

 その声に応えて、少年も振り向く。

 遠目でしか見えなかった鋭い双眸は、目付きが悪い、なんてものじゃなかった。

 女性は一目でその男の在り方を悟る。

 ――――この男は、普通じゃない。

 種族が、肉体が、ではなく、在り方が。

 何も無い、ただ能面に薄ら笑いを貼り付けたかのような小さい笑み。鋭いと思った双眸は、文字通り抜き身の刃物のように鋭く嗤っている。

 まるでこの世界に価値を見出していないかのような、気怠げな雰囲気は、この世に生ける者というイメージから一層遠ざける。

 故に、次はコレクターとしてではなく、警官としての嗅覚が刺激された。

 

「何か用かい、お姉さん?」

「いえ、珍しい服を着ているから、思いがけず声をかけてみたのだけれど……」

 

 当たり触りのない会話から始める。

 嘘は言っていないのだから、問題はないだろう。

 

「これかい? ああ、俺の飼い主が態々遇ってくれた特別製らしい。性能的にも文句はないんで、有り難く着用しているんだが……」

 

 ――――見てくれに執着せず、あくまで性能だけを気にするか……。

 些細な事ではあるが、概ね女性はこの男の性格について把握しかけていた。この程度ならばまだ物事に執着しない性格であるというだけで片付けられる。

 しかし……決してそれだけではないと、女性の勘は告げる。

 この手の輩は、このような自分の生ける世に価値を見出していないような奴には、しかして『一つの事』に固執、執着するようにしてこの世にしがみ付く者が多いのだ。

 この世そのものに価値を感じないが故、その者の全ての想いと執着はその『一つの事』に終始する。狂人の究極系の一種と言い換えてもよい。

 それは恋人であったり、物であったり、仇であったり、形は人によって様々だろう。

 とにかくその執着するモノが、危険な代物であった場合、女性はこの男を牢に入れなければならない。

 できればこの男がボロを出して、危険と断定できる材料を突き止めた上で。……そうでなくてもコレクター感覚で牢にぶち込んでしまうのが彼女であるのだが。

 

「それで、一体何の用なのかな、お姉さん?」

「いえ、それだけなのだけれど……う~ん、困ったわね、何と話したら良いのやら……」

 

 いざ嗅覚で嗅ぎつけたのはいいものの、肝心の材料が見つからず悩む女性。

 以前、ある教授に何でも一つ願い事を叶えてやると言われ、その際に「巫女が欲しい」と答えた変人である彼女だが、その巫女を手に入れた彼女はさっそくコレクションとして牢にぶち込んだ。

 ……割と外道巫女として知れ渡っていたので、まあいいかと高を括っていた彼女であったが、その後痛いしっぺ返しをくらい、さすがに興味あるものに何でも手を出す事はやめようと反省した彼女。

 そんな過去もあり、危険な匂いはプンプンするのだが中々に懐の十手に手を伸ばしにくい状況なのだ。

 だが、その膠着状態をあろう事か向こうから崩してきてくれた。

 

「まあ、丁度暇してたし、何か面白いことを話してくれるんだったら、聞いてやってもいいぜ?」

「あ、あら、そう?」

 

 どうやら、雰囲気に反して男は割と友好的なようだった。

 これなら何かしらこの男について引き出せるのでは無いかと、そう意気込んだ矢先、次の男の発言で、その希望は崩れ去った。

 

「特に、その探るような厭らしい目には、俺がどう映っているのか、興味が注られるね」

「ッ!?」

 

 途端に、胸が締め付けられるような感覚に陥る女性。

 相手は、此方が探ろうとしているということに気付いていた。深淵を覗き込もうとして、逆に深淵に覗かれてしまった。

 そう、赤髪の女性の思惑はここでもう頓挫となった。

 本来ならば、ここで身を退いておくべきなのだと女性は直感し、ここで問い詰めるべきなのだと女性は判断した。

 そして、女性は判断の方を優先した。

 決して踏み入れてはいけない、その道へと足を踏み入れた。

 

「そうね。私も貴方のその『今すぐにでもお前を殺したい』と嗤うような眼が気になるのよ」

「なら、もっと視ていくかい?」

 

 意趣返しに女性も眼の事を言及する。

 だが、男は動揺するばかりか、むしろ逆。男の腕がドン、と寺子屋の壁に寄りかかった。

 女性を、逃がさんとばかりに壁に押しやり、間近でその眼を見せつけた。

 だが、次の瞬間、ゾワリと悪寒が女性の背筋を走った。遅れるように、冷や汗もまた垂れて走った。

 男の目の色は深淵の黒から、蒼い虹彩に煌めく色へと変化していたのだ。

 先ほどまでの男の目が刃物そのものであると例えるのなら、今の男の蒼い眼はまるで、その刃物が鞘から抜かれて月光を反射しているかのよう。

 ――――殺サレル。

 ただその四文字が、女性の脳裏に幾度も。

 

「――――」

 

 それは無言の圧力、ではない。

 問答無用の理不尽さを感じさせるその眼は、女性に不可解な恐怖を与えると同時に、女性の目を惹きつけていた。

 まるで、この刃に刺されて死ぬのであれば、自分は一切の後悔も抱かずして死ねるだろうという、そんな情慕すら抱かせる。

 呼吸すらも、忘れそうになる。

 だが、女性はソレに屈しなかった。

 

「いいえ、十分……よッ!」

「おやおや」

 

 手を振り払う女性。

 意外にも、男はあっさりと女性の手を離してくれた。元々冗談のつもりだったのだろう。……だとしても、許せるモノではなかったが。

 男の顔は相変わらず変わらない。刃物のような目付きに、貼り付けたような薄ら笑い。大凡生者からは離れた空気を放っている。

 そうだ、こんな男を放置など出来るはずが無い。

 

「さてと、困ったな」

「何かしら?」

「どうやら、あんたは俺をこのまま逃したくはないらしい。だが俺にも先約があってね。暇とは言ったが、いつそのお暇が来るかは検討も付かない」

 

 困ったもんだよ、と男は肩を竦めて皮肉げに笑う。

 男の言う通りだ。女性は男をこのまま逃がすつもりはない。

 捕まえるつもりはなくとも、この男の危険度の有無だけは確認しなくてはならない。

 妖怪ではない、ただの人間。だが、人間といえどこの幻想郷に限ってはどのような能力を持っているか分かったものではない。

 そしてそれが妖怪に限らず、人間であろうとも、危険思想を持っていないとは限らない。

 

「そうね。最初は興味本位だったけど、私は貴方を見逃す訳にはいかなくなったわ」

「それはまた、態々ご丁寧に」

「だから、ここで貴方が証明さえしてくれればいいわ。口約束だけでも構わないのよ。貴方が、この里において危険じゃないって、そう証明してくれれば」

「……ふうん、そう来たか。だが参ったね、それには少しばかり時間がかかる。手っ取り早く済むに越したことはないんだが、そうだな……」

 

 ふむ、と男は顎に手を当てて考える。

 そして再び、能面のような薄ら笑いを浮かべ、女性に提案した。

 

「とりあえず、少し込み入った説明が必要だな。さっきいい店を見つけてね、そこで良ければ話をするよ。ご婦警さん?」

「あら、どうしてそう思うのかしら?」

「隠し持ってるその十手、気付かないと思ってたか? 十手は武器としてよりも、身分証の意味合いの方が強いようだしな」

「……」

「それに、あんたは嗅覚が鋭いと見える。ソレを信じるっていうのなら、今がチャンスだぜ?」

 

 さあどうする、と男の目が女性に語りかける。

 ――――ああ、この男は黒だ。

 女性は確信する。

 自らの怪しい匂いに、自分が気付いた事にも、それを分かっていながら尚、この男はその状況を愉しんでいるようにも見えた。

 それに、嗅覚が鋭いという意味ではこの男も人の事は言えない。手を伸ばそうとしていてとはいえ、そのような仕草を見せた覚えはないし、そもそも隠し持った十手を見せた覚えもない。にも関わらず、この男はソレに気付いた。その上で、女性を誘っている。

 選択を迫られる女性。

 そして、言われるまでも無く、女性の中で既にその選択肢は決まっていた。

 

「分かったわ。貴方に付いていきましょう」

「そうかい。なら――――1名様、ご案内だ」

 

 途端に、男の貼り付けた笑みが、一瞬だけつり上がったのを女性は見逃さなかった。

 覚悟を決める女性。

 自分が取ろうとしている手は、決して最善ではないだろう。

 それでも、事を早めに済ますことを女性は選択した。相手が馬脚を表すのを待ち、その場で取り押さえようという選択肢を取った

 そして、背を見せて歩く男の背中を、女性は付いていく。

 買い物袋はどうするのだろうと考えた女性であったが、どのみち捕まえるのだから些細な事だと思い、気にしないことにした。

 

 そして、暫く歩き、やがて人の少ない影の世界へと足を踏み入れる。

 人の気配がない、その世界へ案内された。

 人里の構造を熟知している女性は、もちろんこの世界の事も知っていた。

 日の光が上からしか届かない世界。建物の壁に囲まれた狭い空間。

 天からのみ降り注ぐ日光は表とは違う明暗を映し出し、退廃的で幻想的な光景を生み出す。

 そこで、男は立ち止まる。

 女性も、ソレに合わせて立ち止まった。

 逃げ場の無い、路地裏で。

 

「随分と、退廃的な店なのね」

「ああ、ここはサービス店さ。俺から、あんただけへのね」

 

 パチン、という音が響く。

 男が取り出した木製らしき棒から、日本刀のような刀紋が入った両刃の刀身が現れる。

 

「さて。いらっしゃいませ、お客様?」

 

 次に、胸を射貫かれるような殺気が女性に襲いかかる。

 何て厭な笑い。人間とはこれ程までに血に飢えた笑いができるのだろうか。

 分かっていた。男の狙いは最初からこれだと。人里の構造を熟知していた女性は、ここら辺に店などないという事も知っていた。

 それを分かった上で、男に着いてきたのだ。

 

「……そんな事だろうと、思ったわ」

「この方があんたもやりやすいだろう? 住民を巻き込む心配がない上に、現行でとっ捕まえる事ができるんだからな」

「それは、気を利かせたようね!」

 

 笑う男を睨み付け、女性もまた十手を取り出す。

 女性はようやくこの男のことを掴んだ。生きる価値を見出していない人間が、それでもこの世に留まろうとする理由。

 この男にとってはコレこそが全てなのだろう。

 “殺し”こそが、この男にとっての情熱、この世の全てなのだろう、と。

 

「絡め取られると知りながら巣に飛び込むとは、はしたないお嬢さんだ」

「生憎、絡め取られるのは貴方よ。私にナイフを向けたその行為――現行犯として貴方をとっちめます」

「ククッ。ならようこそ淑女(レディ)――――この素晴らしき惨殺空間へ」

 

 男が謳うと同時。

 男は、女性の視界から消え去った。

 呆然となる女性。

 

「消え――――ッ!?」

 

 その瞬間、寸での所で反応が間に合ったのは、まさに奇跡と言えよう。

 十手の棒が、寸での所で上から跳びかかってきた男のナイフを防いでいた。

 人が一瞬で消え、上から降ってくるという現象に驚きを隠せない女性。

 飛ぶだけならば分かる。だが、一瞬で消えて上から降ってきた……まるで何かの手品を見せられたかのようだった。

 

「ッ!?」

 

 十手を持つ痛みが悲鳴を上げる。

 痙攣する十手を持った腕をもう一方の手で殴りつけ、金縛りを解いた。しかし、持ち直した直後、その視界に男を捉える事は叶わなかった。

 

「ガッ!」

 

 直後、横から飛んでくる蹴撃。

 衝撃と共に吹き飛ばされる。

 吹き飛ばされた女性の身体は路地裏の壁にぶつかる……事は無く、それより先に回り込んでいた影がそのナイフを振るう。

 偶々吹き飛ばされた方向に視界を向けていた女性は、奇跡的にその一撃を十手の鉤で防ぐ事ができた。十手の鉤は相手の刀を防御しつつ、引っ掛けて絡めとる方法を基本的な型としているが、今回受け止めたのはナイフの刃。その刀身の長さは十手の棒よりも遥かに短く、絡めとるには至らない。元よりナイフを使った武術とは得てして体術の延長戦としてある。用途が相手に依存される十手術では相性が悪いのだ。

 絡めとるには至らず、しかもその衝撃の強さは先の蹴撃と何の遜色もない。

 吹き飛ばされた女性の身体は、まるでピンボールのように逆ベクトルの衝撃を受けてまた吹き飛ばされる。

 

「あぁっ!?」

 

 背中が壁と衝突し、ミシミシと身体中に伝わる衝撃に悲鳴をあげる女性。

 妖術で身体を強化していたのであれば、この痛みはなかっただろう。だが、その妖術を発動する間を相手は与えてくれず、その衝撃と痛みを、女性は受け入れてしまった。

 辛うじて防御のイロハが間に合った女性は再び下手人を視界に入れようと必死になるが、直後、それ以前の問題に直面した。

 ――――十手が、ない?

 何処に落としてしまったのかと、周囲を見渡し……そんな時間を、向こうは与えてくれなかった。

 

 ズブリ。

 

 右肩が、何かによって貫かれた。

 

「あ……」

 

 肉を裂くより先に、骨が砕かれる音。

 自分の肩から、自分が持っていた筈の十手の先端が生えていたのを視認する女性。

 生えた十手の先端が引っ込み、肩から引き抜かれる。

 その痛みを感じる間もなく、女性はまた蹴り飛ばされた。辛うじて動く方の腕で受け身を取る女性。

 

「ガっ、アァっ!?」

 

 ようやく、痛みに悲鳴を上げた。

 ――――今の、突き……!

 貫かれた右肩の風穴を押さえ、痛みに耐えながらも、女性は思い返す。

 ――――鈍器で貫かれたというよりは、まるで刃物を突き刺されたかのような鋭さだった!

 

 『点穴』と呼ばれる、およそ優れた暗殺手段とはかけ離れた殺害方法。かの鬼神が最も愛用したと言われる殺害方法と同じ手段を男は用いていた。

 右手にはナイフ、左手には女性から奪った十手――両の手でそれぞれ違う暗殺手段を実現しているのだった。

 だが、その様子を女性は視認できない。

 

 立つのも束の間、全方位から、打撃と斬撃が同時に襲ってきた。

 

「イッ?」

 

 ざくりと、ナイフが腕の肉を削ぐ。

 見えたのは流れた血だけで、その下手人の影を補足する事は叶わない。

 

「ギィッ!?」

 

 ごきり、と今度は肉を伝った衝撃が、骨に皹という傷跡を残す。

 聞こえたのは骨が割れる音だけで、どこから打ち込まれたのかさえ分からない。

 

「ッ」

 

 今度は、悲鳴すら上がらなかった。

 ナイフの刃が足を抉り、ざば、と音を立てて地面がぬれていく。

 骨まで食い込んだナイフが足と床を血塗れにして、立っていることさえ苦痛にさせた。

 

「アァッ!」

 

 一拍子挟んでの悲鳴。

 右腕に鈍器が叩き付けられる。今度は、骨だけと行かず、肉までもがミシミシと音を立ててグチャグチャになる。

 

 その後も、それの繰り返し。

 常人ならば失神してもおかしくないほどの威力が込められた斬撃と打撃の音の協奏。それでも、女性は倒れなかった。

 血を吐き、女性は内心で悪態を付く。

 ――――コイツ、遊んでるっ!!

 女性がギリギリ死なない程度の斬撃を、女性がギリギリ失神しない程度の打撃を、全方位から振るい、女性の生気を削いでいく。

 だが、致命傷となる一撃は一度として飛んでこない。

 まるで、巣に捕まった虫を、蜘蛛の糸で絡め取って弱らせていくような、卑劣な手法。

 いつでも、女性を殺せるチャンスはあった。

 例えば最初の一撃も、もっと速く振るっていれば首を刈り取る事ができた。

 例えばこの右肩を貫いた点突も、肩と言わず脳天めがけて叩き付けていれば、その首は胴体にのめり込んだだろう。

 右腕を狙った打撃だって、どうせ右肩を貫かれて動かせないのだから、もう一方の腕を狙った方がよほど効率的だろう。

 

「ギ、イィアアアァッ!!!」

 

 それでも、影を視界に捉える事は叶わなかった。

 これ以上は喰らう訳にはいかないと判断した女性は、出血と痛みに耐えながら路地裏の外を目指す。

 上から降り注ぐ光ではなく、通路を伝う光の道を目指す。

 悲鳴を上げながら全速力で走る、身体中もミシミシと悲鳴を上げる。それでも、女性は足を止めない。

 決死の覚悟で背を向ける。

 その背を逃がさないと、後ろから跳びかかってくる影の気配を、女性はようやく感じ取った。

 

「ッ、掛かったァッ!」

 

 くりると、独楽のように反転した女性は、同時に此方に肉薄していた影に向けて左手を掲げる。

 目を見開く影。開かれる蒼い虹彩の双眸。

 ――――けれど、もう遅い!

 散々人で遊んでくれたツケをここで返してやらんと言わんばかりに、ソレは放たれた。

 この幻想郷に住む力あるものならば誰もが持ちうる常套手段。すなわち、弾幕だ。

 敵はまだ女性に肉薄しかかっている状態、そんな状態で、しかも近距離から放たれれば、ソレは避けられまい。

 この男が、どのような能力を持っていたとしても。

 

「―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――うそ」

 

 だからこそ、その光景を信じる事ができなかった。

 結論から言うと、至近距離からの弾幕が男を捉えることができなかった。

 ――――あんな近距離で?

 ――――しかも不意打ちじみた弾幕を?

 女性が放った弾幕は、建物の壁を傷つけぬよう威力は手加減されたものだが、速度は決して加減していない。

 弾丸のごとき迫る弾幕の数々を、彼は、奇怪な動きで回避していた。

 

 女性が呆然とする理由はこれだった。

 最初、敵が視界から急に消えた時とは比べものにならないくらいに、あんぐりと口は開けられる。

 最初のように、影の姿が見えなくなった故の動揺ではない。

 その逆、()()()()()()からこその思考停止。

 一瞬、身体中を迸る痛みすらもが、忘却の彼方に帰する。

 

 男の動きは、異様だった。

 獣じみたスピードで壁を這い、屋根裏を這い、壁から壁に跳び移り、壁から屋根裏へ跳び移り、屋根裏から天井に飛び移る。

 そして、そのスピードは緩まない。

 通常、生き物が急な方向転換をする時は、一時的にその速度は急激に弱まる。特に円ではなく角を描く移動はその傾向が顕著だ。

 なのに、その男にはソレが無い。

 そして、その動きを以て、弾幕を躱していたのだ。

 這い、跳び移り、身体を捻らせ、得物で受け流し、その立体的な移動術を以てして弾幕を躱していた。

 

「――――――――――――」

 

 言葉が、まるで出なかった。

 空を飛べない力のない人間故に、たどり着けたのであろうその境地を、女性はまじまじと見せられた。

 さっきは動きが見えなかったが、こうして弾幕を打ちながら静観に徹していれば、目で追うくらいの事は叶った。

 今まで見えていなかっただけに、それが見えてしまったが故に、今度こそ呼吸を忘れてしまった。

 

 女性は今まで、自分があの男の影を捉えられなかったのは、何かしらの能力によるものだと勘違いしていた。

 だが、実際は違う。

 その正体は、あの男の蜘蛛のごときイカレタ体術なのだ。

 極限まで磨き上げられた殺戮技巧、それが女性の身体中に傷を負わせていた代物の正体だったのだ。

 男の動きは、美しかった。

 弾幕のスペルカードのような派手さはない。だが、決してはソレらでは見られない境地が、世界が、あの動きにはある。

 

 そう、倒すべき敵でありながら、牢に入れるべき危険人物でありながら。

 女性は、その動きに見惚れていた。

 飛んでいるのではなく、まるで舞っているかのよう。

 そして、女性はある事に気がついた。

 

「そう、いえば……」

 

 ようやく口を開き、弾幕を打ち続けながら呟く。

“絡め取られると知りながら巣に飛び込むとは、はしたないお嬢さんだ”

“ようこそ淑女(レディ)――――この素晴らしき惨殺空間へ”

 この戦いが始まる前の、男の言葉が脳裏を過る。

 巣、惨殺“空間”、あの動き――――連想されるは、蜘蛛。

 見えない糸、面影糸を巣と張る蜘蛛。

 今の自分はまさに、その巣の糸に絡め取られる真っ最中なのだ。

 

「あ……ぁ……!」

 

 ようやく女性は、自分の過ちに気付いた。

 胸の内から湧き上がってくるのは後悔。

 ここの場所に誘われたとき、最初は内心で安堵していた。

 相手の馬脚を引っ張り出せる、住民も巻き込まずに住む、その上、逃がす心配はない。

 実際は、逆である。

 逃げ場のない狩り場に誘い込まれたのは、自分の方だったのだ。

 

「ク……アアァァァッ!!」

 

 悔しの慟哭で叫びながら、女性は弾幕の密度を濃くする。

 それでも威力は周囲の建物を傷つけない程度に抑えていたのは、僅かながら理性が働いたせいだろう。

 だが、密度を濃くしたが故に。

 隙間を埋めてしまったが故に、女性は男を再び見失ってしまった。

 

 そして、気付かなかった。

 上、その空間に目をとらわれていたが故に、下から弾幕を潜り込んで迫ってくる男の姿に。否、潜り込むというよりは、その隙間に無理矢理身体を捻じ込んでいるかのよう。

 さながら蛇のような蛇行、アメンボのような滑走、獣のような疾走、蜘蛛のような低姿勢。

 女性の意識が向いていない、弾幕の下側に出来た僅かな隙間を高速でくぐり抜けて、男は女性の懐に迫った。

 

 鈍い快音が鳴り響く。

 ずぶり、と弾幕を打つために掲げていた左腕の骨に食い込む鉄の感触。

 さながら”キリ”のごとく穿たれた十手の先端は、容赦なく女性の左腕を刺し潰した。

 

「―――――ッ!!!!!?!?!」

 

 声のない悲鳴が響く。

 振るわれた十手は、女性の左腕を潰すだけでは飽き足らず、そのまま振り下ろして地面と十手の間に潰した箇所を挟み込む。

 

「ギぃ、嗚呼嗚呼ァッ!!!」

 

 更に潰される左腕。

 突き刺さった十手はついに潰すには飽き足らず、貫き、骨を通り抜けて先端が地面に突き刺さる。

 錐のように突き刺さった十手は、今度は女性の動きを封じる杭の役目も果たす事となった。

 そして、動きを封じられ身動きが取れなくなった女性に首めがけて、もう一方の得物が振りかぶられる。

 

「ぃ、ヒィッ……」

 

 思わず、恐怖のあまりに口を引き攣らせ、涙を流す女性。

 もはや痛み以上に、恐怖による金縛りで動けなかった。

 冷たい温度が身体中を伝って、ガクガクと寒気を訴える。突き刺さった十手からの、ひんやりとした温度が、更にソレを促す。

 そして、さらに冷たい刃が、首を切り落とさんと迫る。

 

 目をつむることしか、女性ができる行動はなかった。

 

 




殺人鬼と言ったら警察。
東方で警察と言ったらこの人……。

そして、リメイク前よりも黄理要素増し増しである。
それとごめんなさい……まほよの戦闘BGM聞きながら書いてたらいつの間にかこうなってました……


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狂姫

今年最後の投稿っ!


 七夜は殺しという自分の意思だけで成立される行為よりは、殺し合いという互いの殺す意思によって成立する儀式の方が好みだった。かの鬼神との違いはこれだった。

 かの鬼神は将来、自らの脅威たり得るだろう相手の右目めがけてその殴打器を叩き付けた事がある。しかし、あくまで彼の行為は殺人鬼ではなく、暗殺者としての行動原理がそこにはあり、殺すには至らなかった。そして、その鬼神の直感は当たったのか、その未来で二人は殺し合う事となった。

 七夜が今行っている行為は暗殺者としてではなく殺人鬼としての行動原理故、こうして赤髪の女性を相手に遊んでいた。しかし、やっている事は皮肉にもかの鬼神が行った事と似ている。将来殺し合うかもしれない相手に対する行為とこれから殺し合うための行為。似て非なるものだが、少しだけ似ていた。殺しには至らせない致命傷一歩手前のギリギリの一撃を獣じみた動きで全方位から女性に浴びせてゆく。

 その行為を持って自らの意思を女性に示しているのだ。

 ――――このままでは死ぬぞ?

 ――――俺を捕らえるというのであれば、殺す気で来い。

 そう、そのつもりだった。

 態々十手を奪って不利を悟らせ、それでも逃げ場がない以上、目前にいる殺人鬼を殺さなければお前には未来はないのだと、七夜は蜘蛛の足捌きで女性に語りかける。

 七夜が女性から奪った十手は、最早本来の用途からはかけ離れた運用がなされている、相手の得物を絡め取る防具としてではなく、相手の骨を砕き、時には風穴すらもあける蜘蛛の牙と化していた。

 最早鈍器ではなく、その業を以てして刃物そのものの鋭さを身に纏っている。もう一方の手に握られたナイフについては、語るにも及ばずである。

 その七夜の足捌きを以てして、女性は標的を見失っていた。見えない恐怖、今まで力あるものは皆弾幕という派手な演出を持って対応してきたために、このような舞台には慣れていないのだろうか。

 ――――やれやれ残酷だね、幻想郷って奴は。

 殺させないための弾幕ごっこ。力あるものでも、力なきものでも同等に渡り合える、勝負というよりは美しさを競うもの。

 ――――だが、そんな神秘、七夜(おれ)には不要だ。

 弾幕すら撃てない真の意味でも力なきものだからこそたどり着ける境地があるという事に、ここの連中は疎い。

 それを思い出させようという気概は自分にはないが、そういった者がどのような行動を起こすかは、言うまでもないのではなかろうか。

 そのくせ里にいる人間はともかく外から迷い込んできた人間はルール上食っても良いと来たか。そんな事はほとんどないと聞くが、実際はどうだかは検討も付かない。

 少なくとも、この里の人間にそういったことは知らされていないだろう。怖れられてこその妖怪、自然の歪みではなく人の歪みによって生まれた妖怪はとりわけそれに縋っていくしか生存する方法がない。食われることは殆ど無いという事が知れ渡れば、それだけでこの箱庭は瓦解する。

 ――――なるほど、よくできた箱庭だね、まったく。

 人は妖怪を怖れ、妖怪は人の消滅を怖れる。なまじ人間の数より妖怪の数が多いだけに、常に死活問題を妖怪達は迫られている。恐れは人の数だけある。その絶対数が少ないのだから、この人里を襲う自然災害を妖怪達が密かに守っているというのは頷ける。

 妖怪たちはこの里を「動物園」と喩えることがあるらしいが、どちらかというと家畜(にんげん)放牧(ようかい)と言い表した方が彼らの関係には相応しいのでは無いかと、七夜は思った。ようするに、どちらも縛られているのである。

 閑話休題――ついに女性は覚悟を決めたのか、七夜に背を向けて路地裏の出口へと一直線に向かった。

 その様子に七夜は失望しない。むしろ期待を持った。その背中からは逃亡の意思は感じられない、むしろ決死の覚悟すら感じたからだ。

 ――――面白い、あんたの勝負に乗ってやるよ。

 式神じみた気配遮断を解き、あえて一直線の殺気をぶつけながら七夜は女性の背中へ跳びかかる。水面を弾ける飛礫のような獣じみた低い跳躍。10メートルを1足すらかけぬ疾走を以て女性へと跳びかかった。

 七夜から見て女性の身体は既に満身創痍の域を超えている。いくつも骨に食い込んだ切り傷や、骨を粉砕された打撲、果てには十手により空けられた点穴も複数。中にはちょっと触れただけで本体から切り離されそうな部位さえある。白い小袖は既に真っ赤に染め上がり、赤と混じった紫の打掛は黒に変色している。

 普通の人間なら幾度と死んでいるか分からない傷、下手したら並の魔でも失血死しかねない程に、凄惨だった。もし里の住民が目撃しようものなら、人間ではなく何処かの妖怪の仕業だと勘違いしかねない。だが、女性をここまで凄惨な姿にしたのは、他ならない人間であった。……故に、女性はこの直後に思い知る事となる、自身をここまで無残な姿に変えた、男の能力の正体を。

 

「ッ、掛かったァッ!」

 

 くるり、と独楽のように身体を反転させる女性。

 間近まで迫っていた七夜を睨み付け、まだ損傷を負っていない左手を七夜の方へ掲げる。

 来るか、と七夜は目を見開く。

 さて、何が来るのやら、と待ち望む七夜に向けて飛んできたのは、案の定弾幕だった。鋭い三角形の形をした弾の幕が至近距離から七夜に襲いかかる。

 七夜にはそのような攻撃手段はない。故に弾幕勝負においては七夜は勝負相手として成立しない。

 だが、それ故にたどり着けた境地を七夜は持っている。

 咄嗟に低空を飛んでいる状態から慣性を無視して急降下、四肢を地面に付いた体勢から立体的な動きを展開する。

 見るモノを魅了する、蜘蛛のような、鼯のような、獣のような動き。

 弾丸のごとき速さで迫る弾幕をそんな奇怪な動きで躱しながら、七夜は眉を潜めた。

 ――――何だ、この見た目に反して豆粒のような威力の弾幕は……。

 当たれば人間一人がかろうじて気絶する程度、当たり所が悪ければ精々致命傷程度……そんなレベルの威力だった。

 そして、七夜は気付く。周囲の建物に弾幕が当たっても、後は微々たるもので倒壊させる規模の威力はないという事に。

 

「……戯けが」

 

 女性に対する失望と、自分の呆け具合に呆れる。

 七夜は決して女性を軽く見てはいない、むしろ獲物としては上物。人間であるため、この眼を使わずして解体の味を堪能できるのも七夜としては点数が高かった。

 初撃を防いだ反応だって捨てたものじゃない。普通の人間であれば何回死んでいるか分からないほどの傷を負っても立ち上がってくる勇気もある、七夜の攻撃も見えていない筈なのに捌いてみせている。

 だが、七夜と女性には決定的な違いがあった。

 それは、互いの了見の違いである。

 おそらく女性は七夜を殺す気など毛頭ないのだろう。人里であるが故死人を出せば大問題になること、そして、この騒ぎを周囲に知られないこと。

 それに意識を割いているからこその有様。

 ――――阿呆が。その気になればその弾幕で俺の巣を破壊する事くらい容易だろうに。余計なしがらみに捕らわれて何を呆けている?

 だが、この結果を招いたのはその互いの了見を考慮しなかった自分にも問題があろう。

 弾幕を避け続けながら、そういえばと七夜は思い返す。

 ――――そういえば、この身も飼われたままだったな。

 ふと、上司と主人を思い出し、弾幕を避けながら天を仰ぐ。

 ああ、なんて様だろうか。向こうは自警団という立場故に縛られ、此方もまた首輪に繋がれた身だ。お互い厄介なしがらみを抱えた状態で、しかも了見をかみ合わせない状態でこうして相対しているのだ。

 愉しみも何もあったものじゃない。

 やはり昼は、狩る気が起きない。せっかく自分の巣に入り込んでくる物好きな淑女を手元に収めたというのに、絡め取るばかりで食欲が沸かない。蜘蛛の名もさぞかし嘆こう。

 強引に寝床に誘うだけでは、相手がその気になってくれる筈が無い。誘うにしてももっと紳士的なやり方があっただろうに。淑女(レディ)の誘い方がそもそもなっちゃいなかったのだ。

 ――――ひとまずはお開きかな?

 己の不利を悟った女性が叫び声を上げながら弾幕の密度を濃くする様子を一瞥し、そう思った七夜は獣じみた動きで弾幕をくぐり抜けて一気に女性へと肉薄する。

 そのまま、十手で女性の左腕を貫き、杭のように先端を地面に刺した。そして、死のイメージを刻まんともう一方の得物を振りかぶる。

 

「ぃ、ヒィッ……」

 

 飛んでくるナイフの軌跡を視認し、顔面を蒼白にさせながら眼をつむる女性。

 そうだ、この恐怖を脳裏に刻み込め。この刃がお前を殺す筈だった蜘蛛の牙だ。

 その一撃(くちずけ)をその肌に刻み込んでやろう。

 その傷こそが――

 

「……え?」

 

 ――再戦の証だ

 女性の首に薄くも無く、深くも無い一閃を刻み込む。致命傷には至らないが、まぎれもない切り傷。だが忘れるなかれ、この一撃が本来、お前の首を刈り取るものであったという事実を、屈辱を、脳裏に刻み込め。

 

「……はぁ」

 

 刻み込んだ傷をしかと確認した七夜は一息ついて立ち上がり、女性に背を向けた。

 後少しで死んでしまいそうな女性を一人置き去りにして、その背を向けて距離を取っていく。

 

「ちょ……ぢょっど――――ッ!?」

 

 その背を追わんと立ち上がろうとするが、身体中が軋んで動けない。

 いや、それ以上に左腕に刺さった十手が杭になっていて身動きがまるで取れない。痛みと屈辱に顔を歪めた女性は、涙目ながらもその十手を引き抜こうとするが。

 

「おっと、抜かない方がいい。あんただからよかったが、普通の人間ならとっくに十数回は死んでいる傷だよ。これ以上血を流したらどうなるか、分からない程愚かじゃないだろう?」

 

 まるで暴れる子犬を宥めるかのような小ばかじみた口調で、耳元から囁かれる。前方にいた筈の男の影はなく後ろから耳元で囁かれる声だけが女性の世界を支配する。

 

「ッ……!」

 

 更に顔を歪める女性。

 七夜に言われずとも分かっている。後数十分いや下手したら後数分でも他の誰かが発見してくれなければ、自分は確実に死ぬだろう。

 屈辱のあまり地面の土を握りつぶしたくなるも、それすらも叶わない。

 女性が、七夜に対してできる術など、何一つとして存在しなかった。

 乱れる息、自身の生命の危機を訴える心臓の鼓動、熱い汗の代わりに流れる多量の冷たい血液――女性の身体全てが、女性の心にお前はもうすぐ死ぬのだと訴えかけている。

 

「まあ、そういう事だ。助けを呼んどいてやるから、大人しくしていろ」

「―――――」

「それでは、本日はご来店頂き真に有り難うございます。お客様はお忘れ物の無いようお帰り下さい。

 ――じゃあな」

 

 そんな芝居じみた台詞だけ残して、男は女性の視界から姿を消した。

 ここは路地裏。あの奇怪な体術を以てして、壁や屋根を足場に離脱したのだろう。

 一人、左腕に杭を刺された状態で、一人取り残される。

 女性の視界に映っているのは、ただただ己の血で汚し尽くされた血塗れの路地裏のみ。ただ一人、その世界に置き去りにされ、女性はただただ呆然としたまま俯く。

 

「なに、それ」

 

 痙攣するように震える喉を、かろうじて動かして、女性は悪態を付く。

 女性の表情は呆然としたままで、流れる血と共に朦朧としていく意識の中で、喉だけが怒りに震えていた。

 ――これだけ、傷物にしておいて?

 ――これだけ、風穴を空けといて?

 ――これだけ、切りつけておいて?

 ――これだけ、骨を砕いておいて?

 ――これだけ、乙女の身体を汚しておいて?

 

「さいご、にく、びに、軽い、傷、だけ、残し、て――――置いていく……だけ、ですって……!?」

 

 頭が、どうにかなってしまいそう。

 何だ、今までの自分の努力は何だったのだ。

 ――ここまでやっておいて、最後は放置?

 ――ここまで滅茶苦茶にしておいて、最後はまるで興味をなくした玩具みたいに廃棄するっていうの!?

 今まで流してきた血の全てが、頭に逆戻りして登ってきそうだった。

 もう血は少ない筈なのに、脳漿が沸騰して溢れそうだった。

 生命の危機を訴えてくる筈の各器官は、冷たくなってゆく身体に反して、狂うような業火の熱を訴えているかのよう。

 

「ふ、フフフ」

 

 そして、女性は――

 

「ア、 ハハハハハハハッ、ハハハハッ、アハハハハハハハハ、ク、ヒハハ、フフフッ、アハハハハハッ!!!」

 

 嗤った。せり上がるような屈辱の涙、ねっとりとあふれ出す憤怒の笑い。

 およそ女性が持てる限りの全ての負の感情を込めて笑い、嗤い、ワラった。

 こんな感情は初めてだった。捕らえた者から痛いしっぺ返しを喰らう事はあった、捕らえようとした者から逆にしてやられる事もあった。だが、今回はどうだ。

 肌を切られると共に精神を切られ、骨を砕かれるごとに心も砕かれていった。最後はボロぞうきんのように捨てられた!

 

捨てられた捨てられた捨てられた捨てられた捨てられた捨てられた捨てられた捨てられた捨てられた捨てられた捨てられた捨てられた捨てられた捨てられた捨てられた捨てられた捨てられた捨てられた捨てられた

 

 捕まえるのも、釈放するのも本来此方の筈なのに!

 それをあろう事か此方を巣に捕まえて散々いたぶった挙げ句最後までこの首を刈り取らず、まるでボロ雑巾のごとく捨てやがった!

 どうせならこんなボロ雑巾、とっとと切り捨てればいいものを、あろうことか破棄しやがった!

 

「いッ、ハハ、いい、ワァ、名も知らぬ殺人鬼さん!」

 

 思い浮かべる、あの憎たらしい貼り付けたような薄ら笑いを脳裏に刻みつける。この首の傷も、この右肩を貫いた点穴も、この右腕を潰した傷も、この左腕を貫いた風穴も、足に骨まで食い込んだ切り傷も、この打撲も風穴も切り傷も!! 一カ所たりとも忘れるものか!!

 

「ああもう、怒りで腹が捻れて死にそうっ!! フフ……フ、ふふふっ、アハっ♪」

 

 女性には分かっていた。

 この世をどうでもいいと考えているあの男の唯一の嗜好は“殺人”であると。あの男にとってはその殺意こそがまっとうな愛情表現であろうということも。

 なのに、自分にはそれすら向けられなかった。

 こうして自分を甚振ったまま捨てやがった。

 この身体も、警官としてもプライドも、女性としてのプライドも、その全てを女性はあの男にズタズタに引き裂かれてしまった。

 

「許さない……赦さない、ユルサナイっ!! 絶対に貴方を赦したりなんてしないっ!!」

 

 血塗れの路地裏を睨み付ける。屈辱の涙に濡れた顔を上げ、もう既にいない筈の人物を睨み付ける。

 

「いいわ……絶対に捕まえてやるっ! 他の誰かにくれてやるものですか……貴方は、貴方だけは……この小兎姫が捕まえるっ!!」

 

 屈辱、恥辱、憤怒、憎悪……それら全ての感情を乗せて女性――小兎姫は啼く。

 殺人鬼の残す面影糸を辿る彼女の追走は、始まったばかりである。

 この後、駆けつけてくれた人里の住民から「パンダのお面を被った変な男の人から貴女を救出してくれと頼まれた」と聞き、再び小兎姫が呆然とするのは、また別の話である。

 

 

     ◇

 

 

「……だいぶ寄り道をしてしまったな」

 

 慌てて近くにあった小道具屋から仕入れたパンダのお面を懐にしまい、七夜は割と本気で蜘蛛の体術を駆使し、寺子屋前へと急いだ。

 目立たないように建物の壁と屋根を伝って空間を扱う蜘蛛のような移動を以てして、ようやく目的地へとたどり着いた。目的地には既に、足踏みをしながら立っている自分の上司がいた。

 ――ああ、間に合わなかったか。

 

「遅い。何をしていたのですか」

 

 メイド長の前に姿を現した七夜に、咲夜はジト目で睨み付けながら聞く。

 

「おまけに買い物袋もほっぽり出して。私が来たからいいものの、誰かに盗られでもしたらどう責任を取るおつもりで?」

「面白い催し物に誘われてさ。こっちが退けども押してくるんでつい、な」

 

 ――まあ、誘ったのは何方かといえば此方なんだがね……。

 だが相手も無理矢理押し通してきそうな雰囲気だったので、何方でも大差はないだろうと七夜は結論付ける。

 

「寄り道はするなと言った筈ですが?」

「悪いね。淑女に、しかもあんな目で誘われちゃ断れなくてさ」

「そーですか、へー、女性からの誘いだったのですか、ふーん?」

 

 余計に目が鋭くなる咲夜。

 墓穴を掘ってしまったか、と七夜は内心で焦る。

 思えば、目の前にいるメイド長も立派な淑女である。と考えると、七夜は身近な女性との約束を放棄して、見知らぬ女性との逢瀬を愉しんでしまったという事になる。

 ――確かに、コイツはちと無責任にも程があったかな……。

 表情は変えずとも、珍しく心の底からメイド長に対して申し訳なさを感じる七夜。

 

「参考にお聞きしますが、その女性とは一体……?」

「年は俺やあんたより少し上って所だろう。大体二十代前半と言った所かな。髪は赤いロングヘアーで、白い着物の上に紫色の羽織を掛けていたよ」

「そうですか……注意しないといけないですね」

「まあ、本業は警官だっていうし、アレはおそらく変装の類だろうね。にしてはちと派手すぎる気がしないでもないが」

「そう、警官……待って下さい、警官ですって?」

 

 それは、聞き捨てならない単語であった。

 ゆっくりと、咲夜は頭の中で自分がいない間に七夜に起こった事柄を今ある情報で整理する。

 七夜、殺人鬼、警官、面白い催し物……厭な汗が咲夜の頬を迸る。

 

「まさか……七夜、貴方っ……」

「ああ、別にあんたが心配するような事はしていないよ。あんただってそのためにこの時間を選んだだろうに……」

「あの貴方が、殺す事以外に興味が惹かれるとでも?」

「こう見えても色々な事に興味を持ちたがる年頃でね。特に、厄介事の香りには、否が応でも引き寄せられるよ」

「血沙汰ではなくとも、面倒事には違いないという事ですか……あぁ、まったくもう……!」

 

 頭を搔きたくなる衝動をすんでの所で押さえる咲夜。

 ――――やっぱり、連れてくるのではなかったか。

 この男を館にほっぽいて出かけるのも何か心配なので共に人里に来た訳だが、別行動を取った途端にこれである。

 勿論、七夜だけの問題ではないのだろうが、彼には自分もその手の輩を惹きつける匂いを持っているということを咲夜は自覚して欲しかった。本人もその手の匂いにホイホイと誘われる質には違いないだろうが、それ以上に七夜もその手の悪臭を放っているのだ。

 だからこそ、警官という犬が彼の匂いに引き寄せられたのだろう。

 殺人鬼という、悪臭に。

 

「とにかく、ここから出ましょう。話はそれからです」

「ああ。あんたに言われたものは全部揃えたしな。ここにもう用もないだろう」

「ええ、お嬢様のための献血も済ませました。貴方と一緒にいたら余計に私がこの里に居づらくなる」

「おや、自分が煙たがられているという自覚はあるのかい?」

「……その口、縫って差し上げても構いませんよ?」

「おぉ怖い怖い。じゃ、さっさと行くとしようかね。ここであんたと一緒にいたら、いい加減俺もナイフを押さえられない事だろうしな」

 

 周囲の視線を見渡しながら、七夜は鬱陶しそうに言う。

 咲夜への忌避の視線とついでに、己にも向けられる奇異の視線。目立つなりである事は確かだが、こうまで見つめられたらさすが鬱陶しいという奴だ。

 そんな七夜の言葉も聞いて咲夜もバツを悪くしたのだろう。早足で人里の門へと向かっていく。七夜もソレに続いた。

 

 

     ◇

 

 

 人里からの帰り道。

 来た道を二人は無言で歩いていた。空を飛ばない慣れない道のりであったが、さすがに一度通れば覚えられる。

 七夜の野生じみた勘に感謝しつつも、咲夜は七夜に声をかけられないでいた。

 聞きたいことは山ほどある――自分と別れている間に一体何が起こっていたのか、どうして自分が里の住民からあんな風に見られているのを聞かないのか。

 だが、七夜の表情は相変わらず分からない。

 感情も、行動も悟らせぬ能面の薄ら笑い。

 暗殺者、殺人者としては理想的な顔つきなのであろうが、対人という観点でみればこれ以上に無い厄介な空気を醸し出している。

 そんな咲夜の気持ちを察したのか、七夜の方から口を開いてくれた。

 

「ところで、少し聞いていいか?」

「……何でしょうか?」

「実の所、あんたがどうしてあんな視線を向けられているのか、その事情は概ね理解している」

「寄り道のワケは、それですか?」

「ああ。あんたから直接聞き出してもよかったんだが、やっぱり第三者から聞いてみないとな。買い物ついでに回って聞かせて貰ったよ」

「……」

 

 行きの時点ではやる気のなさをこれ見よがしに訴えていた男が、まさか人里の中で自分について聞いて回っていたとは予想できず、咲夜は思わず固まった。

 さっきまでのやる気のなさはなんだったのだ。ただ買い出しをするだけなのに、何故この男はそういう余計な所でアグレッシブさを発揮するのだ。全く以て解せない男だと、咲夜は内心で吐きつけた。

 

「そう、ならそれでいいではないですか。人の黒歴史を聞けて、さぞかし満足でしょう?」

「なるほど、そういう所か。生憎俺にそんな趣味はないよ。それに、満足するにはまだ早いしな」

「これ以上、何を知りたいと?」

「こればかりは、あんたから直接聞かないと分からない。聞いても大丈夫かい?」

「……お好きに」

「あんたの奴らに対する態度の急変、その切っ掛けはなんだ? ちょっとやそっとで自分の対応を変える程、柔な質じゃないだろうに」

 

 よりもよって、あろう事か一番厭らしい所を、七夜は聞いてきた。

 別に七夜はどうしても知りたいという訳では無い。むしろ興味はなさげだ。聞けるものならば聞いておくか、程度のものである。

 つまり、ここで咲夜が答えなくても、この会話はそこで終了する。だが、咲夜はせっかく切り出せたこの会話を中断させたくなかった。

 故に、咲夜は敬語を崩し、素の口調で話し始める。

 

「……私がどの時期から豹変したかは、もう聞いた?」

「いいや。ただある時期から態度が変わったとしか」

「そう。正確には、ある異変が切っ掛けだった。60年に一度に発生する幻想郷の幽霊の増加によって起こった異変なのだけれど、詳細は省くわよ。それで、その異変の原因を突き止めるためにある場所に赴いたの」

「ある場所?」

「赴いたというよりは、たどり着いたという表現の方が正しいかしら。異変の原因を探る内に、とにかくその場所に着いた。そこで、閻魔と出会った」

「……ほぅ?」

 

 閻魔という単語を聞いて、興味深そうな反応を示す七夜。

 案の定の反応だったので、咲夜は気にすることなく続けた。

 

「閻魔様はご丁寧に、その異変の原因を説明してくれたわ。元々幻想郷(こちら)の問題ではなく、地獄(あちら)の問題のようだったから、私たち幻想郷の住民が態々解決に出る必要ない異変だったのよ。つまり、異変と呼べる現象ですらなかった……」

「口ぶりからするに、動いたのはあんただけではないようだが?」

「どうかしらね。私は一人でたどり着いたけれど、もしかしたら前後に他の誰かも来てたかもしれない。それはともかく、さすがは閻魔様といった所かしら。自身の義務を全うするだけでは飽き足らず、私に長い説教までしてきたのよ……。おまけに弾幕ごっこまでに発展する始末……スペルカードを発動する最中も口が休まらなかったわ」

「釈迦が説法してくるとは、余程お節介な閻魔(やま)なのだろうな。紋帳に書き記す(いとま)もなさそうだ」

 

 真顔で皮肉を零す七夜。

 彼なりの相づちなのだろうと咲夜は納得し、続けた。

 

「その説教の内容なのだけれど、私は少しに人間に冷たすぎるらしいの。血の通わない金属といっても何のその、そんな皮肉にも取り合わず、あの閻魔は一方的に言いつけてきた」

 

 今思えば、なんとも下手な皮肉返しだと、咲夜は自分で思う。

 ナイフは血の通わない金属。しかし、ナイフは時に血を流させるためにあるもの。そしてその血の中にも鉄分という金属は含まれているのだ。

 ナイフと血は切っても離せない関係であると、他ならない咲夜自身が一番よく分かっていた筈なのに。

 今思えば、そういう思考すら鈍ってしまう程に、あの時の自分は頭に血が上っていたのかもしれない。これでも血の通わない金属だと宣おうものならば、それこそ失笑ものだ。

 だが、それも仕方なかろう。

 志貴(ヒト)に言われて足を洗おうと、罪を消えない。それは十分に分かっていた。

 

「それから、かしらね。閻魔(ひと)から言われて、というのも癪だったのだけれど、その……」

「思う所があって、態度を改めたという事か」

「ええ、そうよ。閻魔様の話では、私はこのままじゃ地獄にすら行けないらしいわ。そんな先の事を考えるなんて、私らしくないとは思ったのだけれど……確かに、私があの人たちに対しての態度を改めたのはソレが切っ掛けかもしれない」

「……その割には、あまり成果は芳しくないように見えるが?」

「余計なお世話よ。これでも、少しは改善したのよ? 以前の私を知らないヒトは、ちゃんと私を受け入れてくれてるし。中には人づてに以前の私を聞いても、それでも態度を変えないでいてくれる。そういう人たちの有り難さだって、ちゃんと分かっているわ」

 

 言っている内に、咲夜は少しばかり顔を俯かせた。

 恥ずかしさではなく、己の情けなさにため息が出る。

 結局、自分は生ける人間の一人なのだ。どれだけ己に吸血鬼の従者と嘯こうが、どれだけ他人に冷たくしようが、この血も、体温も、心も、全ては十六夜咲夜という人間のものなのだ。

 ソレを否定するという事は、自身の敬愛する主も、そしてあの日笑顔を向けてくれた少年も同時に否定することになる。

 

「貴方は、そういう考えとは無縁そうね。今の自分が消える事に対しても、一切の恐怖がない貴方には」

「まあな、地獄に送られて当然の人でなしと考えてきたが。何もする事無く消えられるのなら、俺はそっちの方を取るよ」

 

 如何にも、この男らしい答え。

 咲夜すら怖れる“地獄にすら行けない”という、文字通りの魂そのものの消滅。六銭が足らずに、断罪すら赦されず三途の川に溺れて消えていく。

 この男はソレが一番いいのだと己に語る。

 生の更にその先があるのなど、この男にとっては冗談じゃないだろう。

 

「それに、人の一生は化け物に比べて短い。そんな人間に生の後がないんだったら、夢とほぼ変わりが無いな。俺に相応しい在り方じゃないか」

 

 ククっと自嘲するように嗤う七夜。

 そんな七夜を、咲夜は少し羨ましそうに見つめる。

 この男がたどり着くであろう結末ではなく、自分と違って本当の意味で“(ゆめ)”を楽しめる七夜。

 生きている今を夢と受け入れる事ができる精神。覚めればその先はただの無。それを尊いとは思えなかったが、だからこそ羨んだ。

“死後の生活を良いものにするという考えが、人生を善い物にする唯一の方法だと知れ!”

 あの時の閻魔の言葉が咲夜の脳裏に過る。

 おそらく、今が一番いいというスタンスの咲夜に対して出た極論なのだろう。

 だが、咲夜はその言葉を受け入れる事はできなかった。だからといって、それを今の生き方を以て証明することもできていない。

 血の通う人間にもなりきれず、血の通わないナイフにもなり切れない。

 

 ――――なら、私は一体何なのだろう?

 

 答えは出ない。

 それでも唯一あるのは、自分は死ぬまで人間なのだという当然の帰結のみだった。

 

「変な話になったわね。早く帰りましょう」

「咲夜」

「何ですかって――今、名前……」

 

 その声からは一生聞こえないと思っていた単語が耳に入り、咲夜は一瞬だけ呆然とする。

 今まで誰も人の名前を呼んでこなかった七夜の口から、自分の名前が呼ばれたということが信じられなかった。

 呆然と口を開ける咲夜に構わず、七夜は言葉を続けた。

 

「あんたが自分が血の通った生き物だと受け入れられないのなら、俺がここで殺してやるよ」

「……は?」

 

 更に、その言葉で頭が真っ白になる。

 

「俺はあんたの血を知っている、あんたの肌にナイフを切りつけた。あんたの首をへし折ってすらみせた」

「―――――」

「俺と共に血を流したあんたの姿を忘れちゃいない。あの時のあんたは、間違いなく生きていたよ。あんたを殺した俺が言うんだ、間違いない」

 

 この男は、何を言っている?

 まさか、慰めのつもりで言っているのか?

 

「受け入れられないのなら、俺に殺された時の事を思い出せよ。その時に流れた血を思い出してみろ」

 

 言われて、咲夜は思い出す。

 投擲したナイフと同時に、背面跳びで咲夜の真上に跳躍した七夜の姿。

 当たれば心臓を貫くナイフに気を取られ、上から迫ってきた真の死神。その死神は確かに、咲夜の首を捻り切っていた。

 首が離れた己の胴体、男に抱かれた熱の感触。

 咲夜は、確かに覚えていた。

 

「あっ……ぁ……」

 

 知らずの内に、咲夜の身体は震えていた。

 それは、血の通う人間ならば誰もがする反応。

 死に対する拒絶。一度死んであの世から引き上げられたが故の、絶対的な恐怖だった。

 身体が覚えて無くとも、その心は、魂は、あの冷たさを覚えている。

 これじゃあ、確かに死ねないではないか。

 

「思い出したか? 血が流れれば死ぬ、つまりは殺せるってことだ」

「……七夜?」

「それでも受け入れられないんだったら、()()()()()()()()()()()()

 

 それだけ言って、七夜は咲夜から背を向けた。

 それきり七夜は何も言わない。

 呆然とする咲夜にも構わずただただ進んでいくだけだった。ぼーっとしていたら、瞬く間に見えなくっていきそうな勢いである。

 そんな七夜の背中を見た咲夜は思わず。

 

「フフフ……何よ、それ……」

 

 あまりにも可笑しすぎた。

 あまりにも笑えなさすぎて、いっそ清々しくなって笑いに堪えた。

 

「それで、慰めているつもりなの?」

 

 おそらく、本人にその意図はない。

 精々目を付けた獲物が解体し甲斐がなくなってしまったら困る、というものだろう。死に抗わなくなったら、それはもう殺し合いとは言えないのだから。

 ああ、だけど、今のは卑怯だと咲夜は思う。

 あんな事を言われたら、あんなのを思いだしたら……もう死ねないではないか。

 その死に恐怖しながら、自身が血の通った人間である事を自覚せざるをえないまま、生きなければならないではないか。

 

 ――――本当、馬鹿な殺人鬼。

 

 心の中で悪態を付きつつも、咲夜は七夜の後を追おうとして、立ち止まった。

 光が見えた。

 七夜の頭上から見えてくる、否、迫ってくる七色の光が、咲夜の視線に止まった。

 

「七夜っ!!」

 

 それが危険なものであると察した咲夜は、七夜に呼びかける。

 七夜も咲夜に言われるまでも無く気付いていたのか、ソレに対応しようとナイフを抜きかけるまで咲夜の目に映るが、その瞬間。

 

 光が、爆ぜた。

 広範囲に、大凡たった二人ぽっちの人間を捕らえるには大きすぎるくらいの、結界が広がった。

 

「っ!?」

 

 張られた結界から伸びてきた札が咲夜の身体を拘束する。

 身動きの取れないことを悟った咲夜は時を止めて脱出を試みるが、結果は同じだった。

 あの時と同じだ。時を止めて術者の動きを止めることはできても、術の効果を止めるには至らない。こんな出鱈目な術を行使してくる人間など、咲夜は一人しか知らない。

 どうすれば、と思った矢先に、咲夜と同じように結界に捕らわれかけていた七夜の腕が、あらぬ方向に振りかぶられているのが、咲夜の目に移った。

 ――――一体、何をしようとしているのだ?

 そう疑問に思ったが、自分が何もできない以上、今は七夜を信じるしかない。

 そう思った咲夜は、時止めを解除した。

 瞬間、七夜が振りかぶったナイフは地面へと突き立てられ……それだけで結界は“殺”された。

 

「七夜……!」

「やれやれ、今日は厄介ごとのオンパレードだ、と!」

 

 蜘蛛の如き動きで咲夜の所までざざっと身を退ける七夜であったが、その表情は驚愕ではなく、歓喜。

 こんな状況で喜ぶな、と突っ込みたい咲夜であったが、後にして先ほどの結界を張った犯人を見つめた。

 

 上から、空を飛んで二人を見下ろす赤い巫女。

 

「退きなさい、咲夜」

 

 それは咲夜の知る彼女ではなかった。

 いつものようなのほほんとしたような安穏さはない。異変の元凶を懲らしめんとする憤怒とも違う。

 言うなれば、憎悪の目。

 その目は咲夜ではなく、隣にいる――

 

「私は今から、そこにいる男を退治しなければならないわ」

 

 ――七夜へと、向けられていた。

 ここから、運命は狂い出す。

 




メルブラの七夜の閃鞘・迷獄沙門(AAD)って、なんで何時までも投げ判定が残っているのか考察してみた。
そういえば歌月十夜の赤い鬼神でも黄理が紅摩に決死の一撃を仕掛けた時、ギリギリで仕留め損なって、黄理が逆に遠投されたっけ。
つまり、七夜のAADは赤い鬼神の忠実な再現だったんだよ!(暴論)


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鬼神降臨

あけおめっ!
20000字近くなってしまったので、小休止を挟みつつどうぞ


 ――おい、何の冗談だ?

 冷や汗を搔きながら、七夜は遙か頭上から己を見下ろす少女を見上げた。巫女服と一言で表現しても、如何にも解体してくれと言わんばかりに露出している脇、さらにその脇と共に胸に巻いていると思しき晒しまでもが覗き見え、お世辞にも淑女が着るには些か清潔さに欠ける服装である。

 しかし、そんな事などまるで気にさせない、そんな恐怖が七夜に襲いかかる。

 初めてだった。これ程の相手、対峙しようものなら、それこそ七夜のような輩であれば戦慄しつつも歓喜に震えているに違いない。

 だが、七夜の身体は震えていた。武者震いではない、本当の恐怖。

 それほどの規格外でありながら、魔に萎縮しないためにある筈の衝動はまったく機能していない。

 つまる所、これ程の力を持ちながら、尚彼女は純粋な人間である事を意味していた。

 ――この俺が、メイド長に声をかけられるまで気付かなかっただって?

 人間に対する気配察知はそこまで得意な訳では無いが、それを抜きにしても七夜は他人からの敵意や殺気には人一倍敏感である。相手の虚を突くことに特化した体術は、同時に生存にも長けている。

 その七夜をして、咲夜に声をかけられるまで気付かなかったのだ。後一歩咲夜の声が遅れていたら、間違いなく二人揃って成す術がなくしていた所だろう。

 

「ハハっ!」

 

 故に、七夜は笑った。

 そうか、あれが噂に聞く博霊の巫女。

 あらゆる異変を解決に導き、歴代の博麗の巫女の中でも特に才能に秀でていると言われる巫女。如何な異変を起こそうが、その巫女がやってきた時こそが最後。如何な計略や企みを駆使しても、持ち前の運と才能という圧倒的な理不尽を以て打ち破ってきた規格外。

 人という非力な種族でありながら、生まれながらにして『究極』を持ち合わせた少女。

 その名も――

 

「博麗、霊夢っ……!」

 

 引き攣る笑みを歪めて七夜は蜘蛛のような足捌きを以て咲夜の所まで後退する。何故か自分だけではなく彼女も結界に捕らわれようとしていたため、結界ごと殺して七夜は彼女を救出したのだ。

 七夜は咲夜を一瞥した後に再び此方を見下ろす赤い巫女を見上げ、笑みを深くする。

 ――やれやれ、あの婦警といい……。

 

「今日は厄介ごとのオンパレードだ、と!」

 

 はてさて何か目をつけられるような事でもしただろうか、と七夜はここに来てからの自分の行動を振り返る。

 ……1日目、紅美鈴と殺し合い首を刎ねかける、十六夜咲夜の首をねじ切って一度は殺害する。……2日目、紅魔館の妖精メイド達を殺戮。……そして今日、見知らぬ婦警を人里の中でズタズタにする。

 ――ああ、確かにこれは目を付けられても不思議じゃないかな。おかげで楽しめそうだが。

 結果として七夜が手にかけてきた者達は殺されこそすれ、死んではいない。ぎりぎり幻想郷の法には触れていない筈であるが……いや、そもそもスペルカードルールを無視して殺しにかかった時点で十分に御法度であったか。

 ――なるほど、なら暴れた甲斐があったというものじゃないか……。

 七夜は己のコンディションを確認する。

 先ほど結界を殺した時の負担で若干の頭痛がするが、性能には問題ない。

 主武装のナイフは健在、咲夜から譲り受けた銀の投げナイフも燕尾服の内側のホルスターに収納されている。

 パチュリーから譲り受けた指輪によって多少の空中戦も可能、そして目にはちゃんと彼女の死が映っている。

 何も問題はない。強いて言うのであればここが自分に有利な狩り場でないことが挙げられるが、文句は言えない。

 できる事ならばサシでやり合いたかったものだが、まあ仕方ない。

 相手が自分だけでなく咲夜にも手を出してきた以上、彼女が何の報復も行わない訳がない。

 

「何の真似かしら、霊夢?」

 

 咲夜が見上げながら霊夢に問う。

 彼女の両手には既に銀のナイフが握られており、いつでも対処できる体勢に入っている。

 今現在何らかの異変が起こっていて、霊夢が相変わらず怪しそうな存在を片っ端から懲らしめている……というのであればいつもの事なのだが、何故か今回は違う、と咲夜の勘は告げていた。

 咲夜の知る霊夢は、それだけで射殺されそうな怒気を放つ事はあれど、このような殺気を放つ事はない。咲夜の知る彼女は、凄ますような目こそすれ、このような冷たい目はしなかった。

 

「一体、どうしたの?」

「貴女には関係ないでしょう? 邪魔になると面倒だからついでに結界で拘束してやろうと思ったのだけれど……」

 

 警戒とは別に、純粋に知人を心配するような様子で問いかける咲夜であったが、そんな彼女の気遣いを切り捨て、霊夢は視線を咲夜から七夜の方へ移す。

 ひんやりとした目線が、七夜を射貫く。

 

「まさかソレを、退治しようとした奴に邪魔されるとは思わなかったけれどね」

 

 まったく面倒ったらありゃしないわ、と霊夢は後ろ髪を雑に祓い上げて言う。彼女としては、今の一撃で終わらせるつもりだったのだ。そしたら、何故か知り合いが標的と一緒に歩いていたのでまとめて捕らえることにしたのだろう。咲夜からすればとばっちりもいい所であるが、それが博麗霊夢の異変解決のやり方なのだ。

 

「七夜が? どうして……」

「貴女には分からないでしょうけれどね、今、幻想郷に異変が起ころうとしている。心当たりはないかしら、紅魔館の門前に現れた死者たちについて……」

「っ!?」

「……」

 

 顔が強ばる咲夜。何も言わない七夜。

 霊夢は構わず続ける。

 

「花映塚の時のように長く生きてきた奴らがあまり騒がないようなら私だって動かなかったのだけれど……どうやら、そういう訳でも無いようだし……なら、一番最初に事が起こった貴方たちの所へ行くのが筋じゃない?」

「……霊夢?」

 

 おかしい、と咲夜は思う。

 彼女の知る霊夢であるのなら、一番に飛んでくる問いは「貴女がこの異変の元凶?」といった言葉だ。このように、最初から冷静に自分の事情を説明するような律儀な少女ではない筈だ。

 故に、咲夜は直感する。

 ――霊夢は本気だ。弾幕ごっこなんていう遊びをやりに来た訳では無い。

 

「それに……私の勘が告げるのよ。隣にいる貴方――なぜだか知らないけれど、あいつらと同じ感じがする。それだけじゃないわ、これを見なさい」

 

 言って、霊夢が取り出したのは、鈴だった。

 風に揺らされている訳でもないのに、その鈴は七夜の方へ向けてチリンチリンと音を立てている。

 まるで、何かの啓示でも示しているかのように。

 

「それは、何かしら?」

「先代の博麗から閻魔から譲り受けた、死人に対してのみに反応して鳴る鈴よ。こんな形で役に立つとは思わなかったけれど。後は、分かるわね?」

 

 ギロリと、霊夢は見上げる七夜を睨み付ける。霊夢は七夜がこの幻想郷に現れた死者達の仲間だと言うのだ。

 憎悪と、薄ら笑いが対峙する。

 

「待ちなさい」

 

 対して咲夜は納得いかない、という様子で霊夢に反論を仕掛ける。

 確かに、霊夢の言い分も分かる。確かに死者達が現れたタイミングと、七夜が幻想入りしていきたタイミングは一致している。場所が多少離れていただけで、たまたま七夜だけが離れた場所に呼び出された、という解釈もなくはないだろう。

 穴だらけの推論であるが、幻想郷の住民はそうやって糸を辿りながら異変を解決してきた。

 

「とりあえず、貴女の言い分は分かったわ。けどね、七夜はうちに来るまでに美鈴と戦っていた死者たちを全滅させているのよ? 判別が付いているのかはともかくとして、死者が死者に襲いかかるなんて、あり得るのかしら?」

「どうかしらね。案外、貴方たちを油断させるための罠かもしれないわよ?」

「そんなことは……っ」

 

 反論しようとして、息がつまる咲夜。

 今の霊夢は本気だ。何としてでも戦いに発展する前に説得せねばならぬと意気込んでいたが、そういえばと思いだして七夜を一瞥する。

 ――この殺人鬼は、隙あらば私やお嬢様に殺しにかかるだろう。

 それが分かっているからこそ、咲夜は七夜に対する警戒を怠っていないワケなのだが、そもそも同居を許してしまっている時点で、霊夢の言い分にも軍配が上がってしまう。

 それでも、咲夜は引こうとは思わない。

 それは、主の意向に従ってのもの。レミリアが七夜を雇ったとあらば、それには必ず意味がある。ならばこそ、霊夢に七夜の相手をさせるわけには行かないのだ。

 確かに七夜は“殺す”ことの技量に関してなら、幻想郷のどんな化け物連中もあっさりと凌駕してみせるだろう。だが、純粋な力で比べた場合、空も飛べず弾幕も撃てない七夜は下手したら最弱に位置している。

 単純に、七夜が霊夢に勝てるビジョンが浮かばないのだ。だからこそ、咲夜はなんとか会話で霊夢を退かせようと試みる。

 

「それに、貴女がそんな玩具に頼って異変を解決するなんて笑えない冗談だわ。貴女はもっと、勘というか、運とか、そんな曖昧な手段で異変の元凶を見つける筈でしょう? 何より、貴方自身がソレを一番信じている」

「だから言ったじゃない。私の勘も告げてるって。たまたま私の勘とこの鈴の判断が一致しているだけよ。だから――そこを退きなさい、咲夜」

「断るわ。それにいくら貴女の勘が当たるといっても、今の貴女は些か危うい。そんな貴女の言葉を、此方が信じるとでも?」

 

「――いいや。退いてくれ、メイド長」

 

 しかし、ここに来て、咲夜の味方は一人減った。

 他ならない、咲夜が守ろうとしている筈の七夜から待ったの声が挙がったのだ。

 

「七夜、“退いてくれ”とは?」

「どうやら向こうは俺に用があるらしい。あんたまで巻き込まれる筋合いもないだろう」

「しかし、お嬢様は貴方を――」

「ご主人様の首輪があるから、なんて宣うんだったら、即刻その首を刎ねるぞ?」

「……正気ですか?」

 

 此方へ殺気を向ける七夜を見て、咲夜もまた七夜を睨み付ける。

 確かに、主の意向があるから貴方を死なせない、という言葉は失礼だったかもしれないが、この男の事だ。そんなこと一切気に止めもしないだろう。

 ならば、七夜が咲夜に殺気を向ける理由は一つだろう。

 

「アレと殺り合うと?」

「それ以外に理由なんざないだろう?」

「考え直して。貴方は弾幕が撃てない以上、彼女との弾幕ごっこは成立しない。それ以前に、彼女はごっこすらやろうとしていない。幻想郷の結界を担っている博麗の巫女が、遊び抜きでかかってくる事がどれだけ理不尽なのか、分からない貴方ではないしょう?」

 

 博麗の巫女が死ねば、幻想郷は崩壊する。

 博麗の巫女は幻想郷の調停者にして、最も力ある者のことを指す。妖怪が形式としてだけでも人間を襲わなければいけないということ以外にも、弾幕ごっこがこの幻想郷に普及した理由にはこの博麗の巫女の存在こそが関係している。

 博麗の巫女を食えば、博麗大結界を維持できなくなり、自分たちの首すらも絞める結果となる。故に、妖怪たちは襲うべき人間の枠組に入っている筈の博麗の巫女に手出しができない。

 そのための弾幕ごっこでもあるのだ。

 だが、今の霊夢は明らかに遊びをしようという雰囲気ではない。幻想郷を維持するためにあるルールを、あろう事かその中核たる博麗の巫女自身が破ろうとしているのだ。

 

「貴方が自分の命に執着がないのは分かっています。けど、ここは私に任せて。貴方はお嬢様に報告を……」

「飼い犬の後始末を、主人にやらせようっていうのかい?」

「いい加減にして。これは貴方だけの問題ではない。異変の元凶として、紅魔館が疑われる事自体が問題なの! お嬢様に伝えないと……!」

 

「ねえ、いつまで待たせるの? 早く、私の邪魔をするかしないのか決めなさい、咲夜」

 

 それを、上から絶対零度の声で語り駆ける調停者。

 内心で歯ぎしりをする咲夜。あまり時間はかけられない。

 状況は最悪だ。客観として、事なきを得るためならば七夜を霊夢に差し出すのが手っ取り早い。だが、咲夜の主はソレを望まないだろう。いや、誤魔化すのはもう止そう……咲夜自身が一番ソレを望んでいないのだと。

 

「……最後よ。先に行きなさい七夜。私なら霊夢の相手をする事が出来る。弾幕ごっこの範疇で終わらせる事が出来る」

「果てしてごっこで済むかな? あんたが行けば、俺は存分に殺し合うことができる。あんたは安穏な日常に戻れる。態々使い捨ての石ころのために投げ捨てる命でもないだろう?」

「あなたは、そうやって自分を……! あくまで霊夢が退治しようとしているのは貴方だけ! 幻想郷の住民である私なら殺される心配はないんですっ!」

 

 自身を「使い捨ての石ころ」と評した七夜に激怒した咲夜は、口を荒げて説明する。

 自身の生を夢と言い切ったり、この男は些かに自分に対する評価が低すぎる。決して卑屈ではない、良い意味でいえば潔い。だが、咲夜は断じてそんなことは容認しない。

 ……もう、ここまででいいだろう。

 

「私の言う事を聞けないのなら、力尽くでも眠って貰います」

 

 ナイフを七夜に向ける咲夜。

 あまり時間はかけられない。即刻この殺人鬼を眠らせた後に、霊夢と弾幕ごっこで勝たなければ。

 いくら霊夢といえど、自分が提案したルールの中で敗れれば、さすがに身を退けるだろう。だから、その前の目の前の面倒事を片付ける選択肢を咲夜は取った。

 

「結局こうなるか。来なよ、俺とあんたじゃ潰し合いにならない。結果は速く、潔く決まるだろうさ」

 

 張り詰める緊張感の中、互いに得物を取り出す。

 七夜の言葉に間違いは無い。霊夢の気が長く持たない以上、長引かせれば双方叩かれて終わりだ。

 故に、一瞬でケリを付けようという意思だけは、双方とも合致していた。

 咲夜は考える。この殺人鬼と対峙した上で、己の考え得る限りの最悪を。

 ……それは、この男が自分の空間を無効化できるという事実に関して。タネが未だに分からないのが痛い所であったが、だからこそ更なる危惧が思い浮かぶ。

 それは、時止めすらも無効化される可能性。何がタネかは知らないが、この男には自分が時を止めるタイミング、とでもいうべきか、ソレを見抜いている節があるのだ。予備動作が察知されてしまう以上、それすらも破られる危険性がある。

 だが、一つだけ確かなことがある。あの時、この男は紅魔館の玄関の施錠を解除する時や、自分の空間を破るとき。そういう時は決まってナイフを振るっていたのだ。

 つまり、七夜の能力の行使には動作が伴う。

 動作がなくとも能力を行使できる咲夜にとって、これは大きいアドバンテージだ。

 ――ならば、そこを突く。

 

 

     ◇

 

 

 そして、事は一瞬で終わった。

 

 七夜に向けてナイフを投げつける咲夜。

 投げつけられたナイフは咲夜の時の力によって増殖し、弾幕となって七夜に襲いかかる。咲夜の思惑通りに七夜はその弾幕をナイフで弾いて迎撃し始めた。

 これならば自分の能力を破る暇などあるまいと、咲夜は時止めを実行して――その世界は、一瞬で終わった。

 

「――え?」

 

 一瞬の動揺。

 咲夜の時止めは、七夜の振るった手刀によって“殺”された。

 それ事態に驚きは無い。

 だが、咲夜は見逃さなかった。

 ほんの一瞬、ほんの刹那の出来事――七夜が、自分の世界に入り込んでいたという事実に。入り込める時間はほんの一瞬だったのだろう。だが、その一瞬は七夜にとって十分すぎた。

 ――どうして……私の世界が?

 その隙に生まれた動揺の最中、一瞬で咲夜の元へ接近した七夜は、そのまま咲夜の脇腹を片手で掴み、己の身体ごと勢いよく反転。

 そのまま咲夜の身体を地面に叩き付けた。

――閃鞘・一風

 悲鳴を上げる暇もなく、咲夜の身体は地面に沈み込む。

 

 薄れゆく意識の中で、咲夜は思いだした。

 あの一瞬――七夜が自分の世界に入り込んだ時に感じた気配が、かつて自分が“おとうさん”と呼んでいた人物に似ていた事を。

 それが誰だったかを思い出せぬまま、咲夜の意識は断たれた。

 

 

     ◇

 

 

 その刹那の攻防は、霊夢ですら思わず目を見開いた事だろう。

 達人同士の立合は一瞬で終わるという言葉を聞いた事があるが、まさにソレだった。そこには、確かに弾幕ごっこでは見られない境地と世界があった。

 同時に、霊夢は安堵した。

 咲夜が自分の邪魔をするかしないかの勝負であった訳だが、その結果として咲夜が敗れた事に。

 咲夜が相手ならば向こうはルールを犯さない限り、霊夢もできるだけスペルカードルールで応じていた事だろう。それでも、今の自分は何の拍子で手加減できるか分からないのだ。

 その理想的な条件を、態々霊夢が標的としている人物が作ってくれたのだから。

 

「さて、と」

 

 眠る咲夜の身体を抱っこし、安全な所に寝かせた七夜は再び立ち上がって霊夢を見上げる。垣間見える感情は絶望にあらず、そこには狂気じみた薄ら笑いが浮かんでいた。

 瞬間、鋭利な刃がそのまま一直線に自分に飛んでくるような錯覚を霊夢が感じた。避けねば死ぬ、とそんな錯覚を抱かせる殺意を、霊夢は感じ取った。

 

「すごい殺気ね……」

 

 感じ取った霊夢は、しかして何処か風吹くような様子。

 ――ああ、俺の想いに気付いてしまったか。

 そんな霊夢の呟きを耳に入れた七夜は、笑みを深くする。

 胸が高鳴る、鼻息が荒くなる、無意識に跳びかかりそうになる身体を、理性が待て待てと押さえつける。

 必死に己を押さえつけながら、七夜は目上の少女に告げる。

 自らの、想いを。

 

「ああ、博麗霊夢。あの大図書館であんたの事を知ってから、ずっとあんたを想っていたよ」

 

 まるで発情する獣が今か今かと待ち構えるような表情で、七夜は霊夢を見上げながら語り上げた。

 

「あんたをどう解体するか、どう切るか、どう潰すか、どう裁くか……いや、惨死体はあんたには似合わないな。もっとあっさり綺麗に殺るのが一興かな?」

 

 途端に、霊夢は自分の目が刃物のように細められるのを感じた。

 

「あんたを――どう(ころ)すか。ずっとそればかりを考えていた」

 

 歪んだ笑み、恍惚じみた笑み、殺意という愛情。

 その全てが、霊夢にとっては不快、忌避、嫌悪といった感情を抱かせる。

 

「なに貴方。変態? 死の魂がほざくんじゃないわよ」

 

 言って、霊夢のお祓い棒を持つ右手に力が入る。

 今すぐにでも七夜を滅したいのか、手にはもうすでに博麗の紋章が入ったお札が握られていた。

 やれやれと言わんばかりに七夜は肩を竦める。

 どうやら相手は自分の想いを受け取らずに、このまま自分を消したいと思っているらしい。

 つまり、相手は自分の想いを受け止めてくれる気はないようだ。

 だが、応えてくれぬのなら、こちらが一方的に想いをぶつけるだけである。

 

「ああ。あんたみたいな麗人と殺り合って、思う存分解体できるなんて夢みたいだ! さあ、殺し合おうっ!」

 

 ――こんな……。

 霊夢の腕に力が入る。

 ――こんな血に飢えた死者(やつら)なんかに、お義母さんはっ……!

 我慢仕切れないのは、霊夢も同じ。

 そして、霊夢は宣告した。

 

「死になさい」

 

 瞬間、七夜の視界を覆い尽くすのは光。

 更には七夜と霊夢がいる空間が結界に包み込まれる。如何に避けようとも爆風を逃さず、七夜を圧殺するつもりなのだろう。

 七夜は地面にナイフを突き立て、その結界を殺し、再び空を見る。

 ――ああ、なんて……。

 

「なんて、黒い空なんだ……!」

 

 その蒼眼に映るのは、黒い空。

 世界を支配する弾幕の一つ一つに走る死の線が、まるで光を闇で覆い隠しているかのよう。陰陽のごとく明暗が分かれた色彩の弾幕を、七夜はただ笑いながら見つめ、跳んだ。

 一足ではあの巫女まで到底届かない。

 ならば、パチュリーから貰った指輪を使い、足場を想像し、七夜は更に跳ぶ。

 加速しきった身体に更に足場を用いて加速をかけ、人の境界を越えながら弾幕の海へと身を投じた。

 迫り来る黒い空へ向けて、ナイフを突き立てる。

 休む間もなくナイフを振るい続け、七夜は己に着弾するであろう弾幕のみを殺しながら黒い世界を疾駆する。

 加速に加速をかけた速さは獣をゆうに超え、身体の節々が悲鳴を訴えるが、七夜は気にしない。これくらいの芸当を成せなければ、待っているのは死のみだ。

 七夜はただ単純に霊夢を目指して弾幕を殺している訳では無かった。その弾幕が障害物としてあれるように、狩り場に相応しいように、必要な弾幕だけを消していく。

 一定の弾幕のみを消し去って理想的な狩り場へと作り替えていく。暗殺を極めたものならば相応しい狩り場へ作り替えることなど朝飯前。

 その最中、僅かに見えた隙間から、此方を睨み付ける少女の姿を、七夜は目視した。

 

 即座に周囲の弾幕を目くらましにして少女の視界から消える。

 この時点で、霊夢は己の失策に気がついた。

 相手の動きからして、明らかに屋内での戦闘に特化したスタイルであること。自分の結界を消して見せた芸当といい、この弾幕は相手にとってのいい目くらましにしかならないのだと霊夢は悟る。

 ならば。

 

「これなら、どうかしら!?」

 

 霊夢の意思で、世界を覆い尽くしていた弾幕は姿を消す。

 だが、既に七夜は霊夢の目前まで迫っていた。

 それに対して霊夢は特に焦らない。

 結界で防ぐなどといった愚かな選択肢は霊夢の中にはもうない。貼った所でナイフの一振りで消されるのが目に見えているからだ。

 迎撃の構えを取る霊夢であったが、途端に霊夢の視界から七夜の姿が消えた。

 一足で、ではなく三足。

 指輪で足場を作って蹴り、加速。それを瞬時の内に三度繰り返して、その加速はついに霊夢の認識を超えた。

 どこだ、と霊夢は七夜の姿を追う。

 遮る影がないので上はない。

 左右にも、自分の勘によればおそらくいない。ならば――

 

「下っ!」

「っ!?」

 

 如何に精巧な気配遮断を持とうとも、理不尽のごとき勘を持つ巫女の前ではそれも無意味。霊夢から放たれるのは高速で迫り来る針。

 その全てを弾く七夜。

 即座にまた霊夢の視界から姿を消そうと空中に足場を想像して蹴るが、霊夢には通用しない。

 元々暗殺のためだけにある体術。結果を出せなかった時点で待つのは死のみ。その段階すら七夜はとうに通り越している。

 これ以上は限界がある。

 七夜の動きは、霊夢にはもうお見通しだった。

 一瞬で視界から消えてみせる瞬発力自体は厄介であったが、数々の異変を解決してきた霊夢にとっては、それ以上の速さを持つ敵は幾度となく見てきている。

 勿論、七夜の瞬発力自体は霊夢が相対してきた敵の中でも群を抜いていたが、今更ケモノ程度のスピードで霊夢を翻弄することなどできよう筈がない。

 

「ちぃっ!?」

 

 聞こえる舌打ち。

 それでも、七夜のその笑みだけは消えなかった。

 自身の技が通じない。戦闘手段の大半が己の体術にある七夜にとっては凄まじい痛手である。

 如何に万物を殺せる眼を持とうとも、それに触れるには技が不可欠。その技が既に通用しないのならば、この勝負は七夜に勝ち目などない。元々、出来レースにも程がある勝負だったのだ。

 片や超能力が少し使えるだけの人間、片や博麗の結界を担う器。そもそもの格が違いすぎた。

 

 だが、七夜は笑っていた。

 嬉しそうに、楽しそうに。その頭の中で幾度となく霊夢という少女を犯し、殺し、解体してきた。それが現実で形になったことは一つとしてないが、とにかくそういった霊夢への想いこそが七夜の原動力だったのだ。

 殺人鬼は、止まらない。

 故に、霊夢は少しだけこの男を恐れた。

 故に、早めに勝負を付けようとした。

 

――夢想封印・散

 

 霊夢を中心に、全方位に向けてお札の弾幕が放たれる。

 無論、ナイフ以外に攻撃手段を持たない七夜は、それでも霊夢にその刃を届かせるためには、弾幕を避けながら霊夢に接近するしか術はない。

 紙一重で札の弾幕を受け流し、避け、さながら空中を舞うを蜘蛛のごとき動きで翻弄しつつ接近する。

 

「蹴り穿つ……!」

 

 放たれるは、正面からの蹴り上げ。

 無論、見え見えの攻撃などに霊夢が当たる訳がなく、霊夢はひょいと身を翻して避けるが、その瞬間。

 

「っ!?」

 

 振り向いたその先にいた七夜の分身が、霊夢の顎を蹴り抜いた。

 法術も、外法も、魔法も、妖術さえも用いない、純粋な体術を以て生み出された分身が、霊夢の顎を蹴り上げたのだ。

 霊力による身体強化によりダメージを免れた霊夢であったが、一撃を受けたという事実は変わらない。

 仰け反った霊夢の身体の背後から、その命を刈り取らんとする凶刃が迫っていた。

 弾丸のごとき迫るナイフの切っ先。狙うは霊夢の背中にある“死の点”。

 だが、霊夢は持ち前の勘を発揮し、身を翻して避ける。

 避けられることなど分かっていたと言わんばかりに七夜はとっさに刃を引っ込めて、霊夢の視界に入らないように、蜘蛛の足さばきで空中を移動し、再び死角から霊夢を襲う。

 

 これを逃せば、チャンスはない!

 

 動きで翻弄できないと分かった以上、この隙を逃せば、今度こそ次は無い。

 己にそう言い聞かせた七夜は、懐から投擲用の銀のナイフを取り出し、両手にナイフを持ちながら攻めていく。

 全方位からの奇襲ではなく、一点を狙っての、連続切り。

 並の魔であれば一瞬で解体する斬撃の嵐を繰り出す。

 閃鞘・八点衝と呼ばれる技を、両手のナイフ2本で行使する。さすがにお互い立ち止まっての白兵戦であるのならば、体術で上を行く七夜に分がある。

 その死角からの斬撃の嵐を、霊夢は咄嗟にお祓い棒を振り回して裁いて見せた。捌ききれぬ斬撃には咄嗟に弾幕をぶつけ、逆にその爆風で七夜にダメージを与えるという芸当までこなしてきた。

 この奇襲は失敗。

 霊夢は無傷、七夜は逆に爆風によるダメージを受け、額から血を流していた。

 それでも、七夜は止まらない。

 

――――極死

 

 咄嗟の対処に追われたが故、霊夢とて隙が無いわけではない。

 本来ならば離れた距離から打つその技を、近距離で成し遂げようという荒技に七夜は挑戦する。

 身体ごと、横に振るわれる銀のナイフは、霊夢の心臓を刻まんとするが、霊夢はソレを後退して避けた。

 だが、この振りは元より切り刻むためではなく投擲するためにあるものだ、霊夢が避けたその瞬間、銀のナイフは霊夢の心臓に向けて投擲された。

 

「っ!?」

 

 その勢いと同時に、七夜は霊夢の背後へ背面跳びで跳び上がる。

 至近距離から放たれた関係上、本来ならば跳んだ勢いで敵の首をねじ切るこの技では、敵の首をへし折るには至らない。

 だが、七夜にはそんなものは必要ない。

 獲物の首を切り落とすのにそんな力などいらない……ソレを可能にせしめる眼を七夜は持っている。

 心臓に突き刺さり舞い上がった血の膜はカーテンとなって、霊夢の視界を遮る。

 霊夢は、背後に跳び回った七夜に気付いていない。

 

――――七夜!

 

 もう一方のナイフで、霊夢の首に走っている死の線を切りつけ、そこでようやく七夜は気付いた。

 己の、過ちに。

 七夜の眼は、あり得ざるものを視る事が出来る。

 近くで凝視して、やっと気付いた。

 自分が殺した霊夢が、まがい物であるという事実に。取れた首と、胴体が、無数の札となって散っていく。

 

「……冗談」

 

 呟くも刹那、既に遠くに瞬間移動していた霊夢本人が、地上から己を見物しているのが七夜の目に入る。

 ――おいおい、何の冗談だよ、本当に……。

 いつ入れ替わったのかという疑問もある。この眼で見ても気付くのが遅かった辺り、絶妙なタイミングで入れ替わっていた事に間違いは無いが、それ以上に、ある事実が七夜の心底を震え上がらせた。

 ――姿形はともかくとしても、死の線や点の位置までもが、まったく同じの分身を作り上げるだと?

 それは、最早分身の域を超えているのでは無いか?

 かの紅霧異変にて時を操る咲夜すらもが欺かれた分身……七夜が見れば、その分身の精巧さは更に際立っていた。

 宙にて戦慄する七夜を見上げ、霊夢はお構いなくお祓い棒を振るい、更なる術を発動させた。

 

夢想封印・集

 

 夢想封印・散によって散っていった札の弾幕が、霊夢の分身に向け、まるで吸い寄せられるように戻っていく。

 その速さは、散の時の非ではない。

 この術の異様さはあくまで散の術の時に放った霊夢本人にではなく、散っていった分身の元へ集まっていく点であった。

 歴代の博麗の巫女ではなし得ない、才能という生まれ持った素質のみで、霊夢はソレを成し遂げていた。

 

 全方位からの、札の凶刃が、七夜に襲いかかる。

 

「ハっ!」

 

 自らの下手を鼻で自嘲した七夜の行動は早かった。

 出し惜しみなどない。

 懐にある投擲用の銀のナイフを全て取り出し、一点に向けて投げつけた。

 それは一方向からくる札の弾幕の死の線に向けて、飛来していく。

 投げられたナイフの一本一本は計算されているのか、一個の札を殺すには飽き足らず、奥の方から迫ってくる札の弾幕の死すらもなぞっていく。

 一瞬のうちに出来た突破口へ向けて、七夜はナイフを投擲すると同時に跳んでいた。

 目指すは下の一点に作った突破口。殺しきれなかった無数の札を紙一重で避け切り、七夜はようやくその包囲網から脱する事ができた。

 

「つつっ」

 

 何の外法も用いず身体を酷使した代償は、遠慮なく七夜へと襲いかかる。

 爆風による傷。

 人間の限界の動きでもある体術の酷使により悲鳴を上げる筋肉。

 弾幕による無数のかすり傷。

 そして、生物以外の死を視すぎた事による頭痛。

 それら全てが七夜に襲いかかってきた。

 さらに、それだけではない。

 遠目からソレを眺めていた本体の霊夢にとっては、その代償に苦しむ七夜は格好の的だった。

 打ち落とされ、落下しゆく羽虫を逃がさんとばかりに、空中へ落下する七夜へと霊夢は肉薄していた。

 

「これで、終わりっ!」

 

 霊夢の掌底に霊力の塊が集中する。

 身体を動かせない七夜は、ソレを受け入れるしか、ない。

 霊力の塊が、七夜の腹へとたたき込まれた。

 

「ガ、ァっ!?」

 

 跡形もなく消えてしまえ、そんな霊夢の願望を叶えるかのように、腹にたたき込まれた霊力の塊は七夜の中で暴走する。

 外から叩き潰すのでは無く、内側から破裂させる技。

 スペルカードルールなどお構いなしの一撃。

 あと一瞬の未来で、七夜の身体は内側からはじけ飛ぶ。まるで風船が割れるかの如く、あと一瞬でその光景は現実となるだろう。

 

 だが、七夜は違った。

 

「なっ!?」

 

 驚きを隠せない霊夢。

 無理も無い。腹にたたき込んだ霊力の塊はそのまま七夜を内側から食い荒らすとばかりと思われた。

 だが、寸での所で身体を動かせるようになった七夜が、腹にたたき込まれた霊力の塊に向けてナイフを突き立てたのだ。

 それだけで、霊力の塊は消え去った。

 

 動揺する霊夢。

 その隙を七夜は見逃さない。

 身を引く霊夢の腕を掴み取り、もう一方の腕で振るわれる一閃。狙うは霊夢の腕に走る死の線。今度ばかりは分身ではなく本物。一度その技を見た七夜は今度こそ霊夢を見逃さない。

 

 しかし、持ち前の勘か、霊夢は身体を捻らせて死を回避。

 振るわれたナイフはただ霊夢の右腕を浅く切り裂くに留まった。

 だが、と七夜は微笑む。

 

「やっと、二撃目」

 

 一撃目は、二重六兎による分身が入れた蹴撃。

 そして二撃目でついに、七夜本人が霊夢に一撃を入れた。

 

「この……!」

 

 出血する腕を押さえて、霊夢は七夜に向けて札と針による弾幕を飛ばす。

 既に動ける七夜は空中に想像した壁を蹴り、四肢を突くようにして地面に落下する。

 ――ああ、駄目だ。

 七夜は弱音を吐く。

 不意を突いて入れた、ようやくの一撃。

 だが、おそらく何の気休めにもならない一撃だ。それに比べて此方はこんな体たらく。

 まったく、払った代償の割に合ったものではない。

 だけど、だからこそ。

 

「やべぇ……!」

 

 七夜は尚も笑う。

 こんな所で終わらせるなんて勿体ない。例えソレが確定しきった自分の敗北によるものであったとしても。

 空の戦いで、これだけ楽しめた。

 相手のテリトリー内での戦いでこれだけ楽しめたのだ。

 ならば、自分も魅せなければ相手に失礼だろう。ならばこそ、決着は相応しい場所で付けねばならない。

 己の得意とする狩り場の中で、あの巫女を仕留めてみせようではないか。

 

「楽しすぎだってあんた……!」

 

 笑いながら、七夜は四肢を突きながらケモノの如きスピードで背後にある森林に向けて疾走した。

 純粋な逃亡行為。男ならば情けないことこの上ない痴態だが、それでも七夜はあの巫女ならば付いてきてくれると信じていた。

 ……だって、あんなにも自分に殺意を向けてくれるんだから。心地いいことこの上ない!

 

「ッ、まだ動くっていうのッ!?」

 

 そんな七夜の背を見据えた霊夢は、呆然となる。

 霊夢は相手の状態を考える。

 見たところ、魔法などの術を行使している訳でも無いのにあの動き、確実に男の身体を蝕んでいる筈だ。

 おまけに弾幕だっていくつか被弾している筈である。

 ……それで尚、あの動きである。

 

「けど、逃がさないッ!!」

 

 霊夢もまた降り立ち、森林へと足を踏み入れる。

 手負いの獣ほど恐ろしい存在はいない。

 ――ならば、完膚なきまで滅してやらねば……!

 一人の獣は快楽を求めて逃走し、一人の巫女もまた憎しみのままに獣を追う。

 それが、踏み込んではいけない領域であると、霊夢が知るのはまだ先であった。

 

 木々のヴェールを突っ走る。

 霊夢は己の全速力を持って森林の中を飛んでいた。進むにつれて、その樹海は更に大きくなっていく。

 紅魔館周辺に位置するこの森林地帯は、紅霧異変の影響により、妖力の霧たる紅霧を吸い込んだことにより、一本一本の木がまるで一個の城の如き大きさまで成長していた。

 ――なるほど、自分のテリトリーにご招待って訳ね。

 七夜の意図を察した霊夢は、思わず己の腕の傷を見やる。

 少量の血が流れ出ているソレは、霊夢が忌み嫌う死者から付けられた、確かな屈辱の証だった。

 けど、それももうすぐ無に帰す。

 あれは、完膚なきまで叩き潰すと霊夢は心に決めた

 その瞬間、彼女の身体は全ての事象から『浮』いた。

 

 

     ◇

 

 

「ハ、かッ、ぐ、……」

 

 額から流れる血を袖で拭い、七夜は巨木を背に座り込んだ。

 あまりにも一方的だった。

 こうして獲物がやってくるの待っている七夜であったが、下手したらその前に七夜自身が失神死しかねない程だった。

 肉体的なダメージであるのならばまだしも、蜘蛛の体術といい、死を視る眼といい、七夜の能力は長時間使用し続けるとリバウンドが凄まじい類いのものばかりなのだ。

 さっきから、あのとてつもない量の弾幕の死を視すぎて、脳がどうにかなってしまいそうだった。

 

「なんて――無様……」

 

 自嘲する七夜。

 これは本当に死んでしまうかもしれないと、七夜は思った。

 七夜は、今までのことを思い返してみる。

 さきの殺し合いとは無関係――ようは柄にも無く感傷に浸ってみようと思ったのだ。

 自分の獲物には責任を持たないと行けない――そう己の言い聞かせてきながら、結局目を付けた獲物を解体することは一度としてなかったな、と七夜は思い返す。

 

「ハァ、メイド長だけでも解体しておくべきだったか……」

 

 思い浮かべるのは、この三日間で随分と世話になった銀髪のメイド。何だかんだで世話をかけてしまっていた少女。思えば、何も返してやることはできなかった。

 だからこそ、せめて解体だけでもするべきだったと思わずにはいられなかったわけだが。

 それを思うと、自分は未練ばかりを残してきたなと七夜は自嘲する。

 ――けれど、仕方ないじゃないか。

 そんな未練なんて、どうでもいい程の楽しい時間を、自分は今味わえているのだから。

 

 カラン、とそんな音が響いた。

 

 頭の中に未だに色はせない紅白の巫女を思い浮かべるや否や、七夜は突如として音のした方向へ目を落とした。

 そこには、割れたパンダのお面が落ちていた。

 燕尾服の内ポケットにしまわれていたパンダのお面。あの婦警を助けるために、町の住民に救助を願い出た際、顔を覚えられたら面倒と思い急遽古道具店から購入したお面であったが……。

 

「ああ、コイツのおかげだったのか……」

 

 割れたお面を見下ろし、七夜は思い返す。

 あの霊力を込めた掌底、咄嗟に反応が間に合って殺すことができたが、その一瞬の間がなければそれすらも叶わなかった。

 懐に忍ばせていたこのパンダのお面がクッションになり、掌底が腹に到達するのが一瞬だけ遅れた。その一瞬の間を、このお面は作ってくれたのだ。

 人生、何があるか分かったものじゃないなと七夜は空を見上げた。

 

 見上げた途端、小粒が降り注ぐ。

 瞬く間に小粒は大粒へと、降ってくる量もだんだんと多くなり、やがて雨という現象として形となった。

 

「ハハッ、こりゃ好都合」

 

 降り注ぐ雨。

 その源たる雨雲を見つめて、七夜は呟いた。

 唯一の光源たる日光が薄くなったのだ。おまけにここはただでさえ日光をあまり通さない樹海。

 七夜は背後にある木をトントンと叩いた。その手応えを感じ、笑みを深くする。

 曇天により薄くなった日光、更に日光を遮る樹海、それに加えてこの樹木の頑丈さ。

 

「狩り場にはうってつけ、か……」

 

 いよいよこれは運が向いてきたなと七夜は、この時ばかりは神に感謝した……最高の狩り場を与えてくれて有り難うございます、これで気兼ねなくあの巫女を解体することができます、と。

 後は、獲物を待つのみ。

 

 あの巫女は、おそらく本気を出してはいなかった。普段、異変解決に赴く時と同等か、もしくはその半分すら出していない可能性がある。

 それを考えて、七夜は自分とあの巫女のスペック差を想像して更に笑った。

 楽しすぎて、笑った。

 もはやあの巫女を待ち続けるこの時間すらもが愛おしい。あと少しで、自分の望む最高の時間がやってくると。

 子供じみた純真な笑いで、七夜は霊夢を待ち続けた。

 

 そして、巫女は姿を現した。

 

 七夜の遙か頭上の、木の壁を通り抜けて。

 

「は?」

 

 その、あまりにも非常識な光景に、七夜は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。

 幸い、巫女はまだ此方に気付いていない。

 七夜は木を通り抜けて現れた霊夢を凝視する。

 木を通り抜けるだけならばまだ分かる。雨粒が彼女をすり抜けているのもまだ分かる。

 精々霊体化しているのだろうと納得するだけで済んだ。

 

 七夜は、霊夢の死を視ることができなかった。

 

 そんな筈はない、と七夜は自分に言い聞かせる。

 死は万物の結果。どんなものにだって、存在の限界というものはあるのだ。

 それはあの巫女だって例外ではない。その証拠に、七夜の記憶違いでなければ、さっきまであの巫女の死は視えていたのだ。

 

 なのに、視えない。

 

「おい、何の冗談だ。 周りに“死”はあれど、あんたにだけ無いなんてまるで……」

 

 まるで、全てから『浮』いているかのように。

 

「ああ……そうか……」

 

 一人納得する七夜。

 短い思考の末、あの巫女ならば何があってもおかしくない、という結論に至る。納得というよりは、開き直ったというべきか。

 

「浮いているのか、あんた」

 

 既に霊夢はそこに在りながら、七夜の手の届かない次元に立っている。

 最早、視ることさえできず、触れられず、見ることしか叶わないのだろう。

 それでも、七夜は立ち上がる。

 七夜があの浮いた少女に触れられる手段は、それでも『死』以外にはあり得ないだろう。

 だから、死という概念からすらも浮いた、少女の死を理解するしかなかった。

 

「いいぜ、視えないのなら、視えるまで見てやるよ。俺は、ただ『殺す』だけだからな」

 

 それ以外に、自分の存在意義などない。

 七夜は霊夢を凝視する。霊夢はまだ七夜に気付いていない。ならば、全てが手遅れになる前に、七夜は霊夢の死を理解しなければならない。

 浮いた少女を、凝視する。

 ――途轍もない、頭痛が走った。

 まだ視えない。それでも少女を見る。

 ――脳症が、沸騰するように痛かった。

 まだ視えない。遠ざかっていく意識の中で、それでも少女の死を探す。

 ――脳の細胞が、壊死していくのが、手に取るようにわかった。

 

 それでも視続ける。

 それでも、ゼロに何を掛けてもゼロであるように、一向に少女の死は視えてこなかった。

 

「ッギ……、マッダッ……」

 

 視えない。

 いくら見ようとしても視えない。だがそれが何だ、それでも視なければならないのだ。

 故に、視えるまで見続けるしかない。

 

 ――溶けていく、脳細胞。その領域は既に七夜の記憶回路までに到達していた。

 

 自身に手を差し伸べた、物好きな吸血鬼の姿が、七夜の記憶から消えていった。

 さっき殺しかかった、赤髪の婦警の事が、もう思い出せなかった。

 自らに幻想郷のイロハを教えくれた、紫髪の魔法使いとは、誰だったか。

 

 最後には、この幻想郷で一番共に時間を過ごしたであろう、銀髪のメイドの事までもが、頭から抜け落ちた。

 

 蕩けたプリンが重力に耐えられず崩壊していくように、七夜の脳みそもまた痛みという熱と共に崩壊していく。

 いつしか、脳の機能そのものすらも歪曲していった。

 

「……ァ……ィ……」

 

 声を出す機能すら、そんな電気信号すらも、送る事は難しくなっていた。

 そして、ソレを気にする思考能力すらもが、既に抜け落ちていた。

 抜け落ちていく、全てが沸騰する血の熱に耐えきれず、蕩けていく。

 

 七夜は、既に失明していた。

 目の前は真っ暗。何がどこにあるのかさえ、いや見えたとしてもそれが何であるかを思考する事すら、今の七夜にはできないだろう。

 

 ソレデモ、視エナイ……!

 

 それでも、七夜のその執念は、かろうじて霊夢を認識することを可能としていた。

 真っ暗な暗闇の中で、死に近付けば近づくほど、『死』が視えて来る。

 何もない、失明しても尚も視えてしまう『死』。

 その『死』のみが支配する世界の中でも、七夜は尚も霊夢を認識していた。

 

 何故なら、そこにだけ『死』がないのだから。

 

 周りが闇ばかりだからこそ、一点の(ひかり)がよく視えていた。

 その姿を視認することは既に叶わないが、それでも七夜はその少女のことだけは覚えていた。

 己が解体すると決めた、その少女のことだけは。

 

 そして――

 

「見つけた」

 

 霊夢の声が響くと同時、七夜も。

 

――見ツケタ。

 

 死に囲まれた暗闇の中で、霊夢(ひかり)の、ほんの僅かの、薄い死の線を捉えた。

 

 

     ◇

 

 

あのさ ■■

 

『なんだ ■■』

 

今からさ

 

『今から?』

 

超えられるかな あんたの業

 

『……知るか』

 

自惚れかもしれないけれど

この身はもうあんたと並んだと思ってる

 

『…………………』

 

おっと 怒らないでくれよ?

 

『……別に 教えた覚えもねえのに勝手にヒトの業を真似てやがった小僧だ 怒る気も湧きやしねえよ』

 

ハハハッ ソレは 随分な親不孝を働いちまったな けどさ……

 

「けど なんだ?』

 

並ぶだけじゃ もう駄目みたいなんだ だから……

 

『……だから?』

 

今から あんたの背を追うのはやめにするよ

 

『ほぅ?』

 

俺はさ 正確には あんたの■■ですらない いうなればただの幻想(ゆめ)だよ

 

『……』

 

けどさ だからこそ そんなユメ物語があってもいいだろう?

 

『……いいや』

 

……うん?

 

『人生ってのは 巧くできてるもんだ そんな(ユメ)も 一回くらいはあるかもしれねえ』

 

……以外にロマンチストなんだな あんた

 

『そうか? ……いや そうだな』

 

だからさ

 

『だから?』

 

鬼神の名 俺に寄越してくれないか?

 

『……大きく出たな 勝手にしろ』

 

ああ 勝手にする どうせこの身は一抹の夢 ならいっそ悪夢にだってなってやるさ

 

『莫迦だな お前』

 

あんた程じゃないさ

 

『そうか? まあ そうだな そうだ 違いない』

 

違いないだろう?

 

『ああ 違いない』

 

それじゃ もうすぐそっちに逝くから 精々待ってろ 糞(おや)()

 

『――ハッ 逝ってこい 莫迦(むす)()

 

 

     ◇

 

 

 妙なユメを見た気がした。

 いや、そもそもユメとは何だったのか……そんな疑問を抱く思考も、七夜には残っていない。

 『死』を理解しすぎた彼の脳には、もはや『殺す』以外の機能など残ってはいなかった。

 七夜は立ち上がり、ゆっくりと霊夢へと歩み寄る。

 その、光を失ってなおも輝く蒼い虹彩の眼を、霊夢に向けた。

 正確には霊夢ではなく、死が少ない霊夢の『死』に、目を向けていた。

 光のない彼にとっては、死の少ないその光はまるで、最後の希望であるかのように輝いている。

 

――アア、ソウカ。

 

 余分な機能を捨て去った七夜の脳はそれでも思い出す。

 

――自分ハ、アレヲ■シタイ。

 

 僅かな思考、否、本能でそう思った七夜は、虚ろな表情の上に、そっと薄ら笑いを乗せた。

 

「ッ!?」

 

 その笑みがあまりにも不気味で、浮いていた筈の霊夢は身をたじろいでしまった。

 さっきまでの彼とは、全然様子が違う。

 元々死人のような空気を漂わせていた七夜であったが、今の彼はまるで、霊夢のよく知るグールそのものだった。

 ふらりと、緩慢な動作で、七夜は霊夢へ一歩踏み出す。

 

「貴方ッ……」

 

 悪寒が迸り、霊夢もまた下がる。

 

 少しだけ、昔の話をしよう。

 ある所に、二人の鬼神がいた。

 一人は殺戮技巧を以て、“殺す”ことを探求した鬼神。

 もう一人は圧壊の腕を以て、“壊す”ことを究極とした鬼神。

 

 “殺し”と“壊し”。ベクトルの違い故、比べる事すら間違っているが、それでも基準として比べるのであれば、前者は後者に大きく劣っていた。

 生まれつき持たぬが故に“探求”した前者と、生まれながらにして“究極”を持つ後者では雲泥の違いがあった。

 それ故に、前者の鬼神にしか辿り着けない地平も確かに存在していたが、圧倒的な“究極”の前であと一歩及ばず、敗れ去ってしまった。

 “探求”では、“究極”には遠く及ばないのだ。

 

 ずさり、と七夜は一歩前進する。

 

「――ッ」

 

 冷や汗を流す霊夢はその分後退する。

 

 霊夢は『空を飛ぶ程度の能力』を持った巫女である。

 この場合はただ文字通りに空を飛ぶのでなく、霊夢が周囲の事象から文字通り“飛ぶ”のだ。

 一番分かりやすいのは重力、呪い、死、接触……ありとあらゆる事象から、法則から、その世界から、彼女は抜け出す事ができる。他の意識体は霊夢に指一本触れる事は叶わず、霊夢は上から一方的に干渉することができるのだ。

 鬼巫女とも呼ばれる彼女はさしずめ、物事を『俯瞰』する事を究極とした鬼神とも言えよう。

 

 七夜の持つソレは、霊夢の持つ究極には到底敵わない。

 その殺戮技巧も、死を視る眼も、生まれ以てのものではない。生まれ以ての究極を持つ霊夢には、絶対に敵わない。

 こうしてかろうじて霊夢の死を視ることできていても、触れられないのならば同じだろう。

 それでも、生まれ以てのものでないという条件を視野に入れて、七夜もまた究極に至らなければならなかった。それが霊夢に対抗する唯一の術なのだから。

 

 かの鬼神は、殺戮技巧を極めた――それは、ただの探求に過ぎない。

 ■■■■は、二度の臨死体験を得て、死を視る眼に目覚めた――それは、ただ違う視点(カメラ)を手に入れたに過ぎない。

 それら二つを持つ七夜をしても、『究極』には程遠い。

 ならば、今から七夜はソレを手に入れなければならない。かの鬼神とも、■■■■とも違う、七夜自身の極致を以て、『究極』にたどり付かなければならなかった。

 しかし、生まれ以ての究極を持たない七夜が、以下にしてそれを手に出来る手段を持とうか。本来ならば、そんな手段など存在しない。

 

 ――ならば何故、生まれ以ての究極を持つ霊夢が、こうして七夜を相手に退がらなければならないのか?

 

 殺しに最高の業、殺しに最高の眼……後一つ、ピースが欠けている。

 “探求”を“究極”たらしめる最後のピース、その欠けたピースが前の二つと合わされば、あるいは……たどり着けるかもしれない。

 この幻想の箱庭ならば、それも可能かもしれない。

 

 ソレを、七夜は、ついに――

 

「ッ!!!!!!」

 

 その、得体の知れない恐怖に耐えきれず、霊夢はついに周囲に陰陽玉を展開し、四方八方から七夜を鉢の巣にせんと、その光を放った。

 最早、口もきけず、声も出せず、思考すらできない七夜は、ソレを捌く術などない。

 だが、ここに宣言しようではないか。

 

 ここにまた、一人の鬼神が生まれたと。

 

 この後、霊夢は『七夜』を知る事になる。

 何の神秘も持たない、脆弱な人間の身でありながら、魔の血を引く者達から恐れられた由縁を。

 ただ一石を投じる程度の存在でしかない、使い捨ての超能力者の扱いに否と答え、夜の頂点に君臨し続けた業の果てを、霊夢はこの後思い知る事となる。

 

 ここに、生まれ以ての『究極』と、探求の果ての『究極』がぶつかる!

 




現在の七夜の状態。
・諸々満身創痍
・霊夢の死を理解した反動で、脳細胞が色々壊死、失明という代償を得て辛うじて霊夢の死を理解できている状態。
この幻想郷に来てからの記憶も全部抜け落ちてます。

……どうすんのさこれ!


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再び、鬼神となり夜の頂へと

 その一瞬の出来事は、まさしく霊夢にとっては未知だったと言わざるを得ないだろう。

 周囲に陰陽玉を展開すると同時に、上下左右の360°包囲から七夜を弾幕で蜂の巣にしようとした瞬間――七夜の姿が、霊夢の視界から消えた。

 否、おそらくは消えたという認識すら、霊夢は持つことができなかっただろう。

 瞬く間に、周囲に展開した筈の陰陽玉が“殺”された。

 

「――」

 

 目を見開く霊夢。

 先ほど七夜が自分の視界から消えたのだという認識を、再び元の位置に着いた七夜を視認することで、ようやく霊夢は持つ事ができた。

 何が起こったのかが分からず、霊夢は頭の中で先ほどの状況を整理する。

 彼が何をしたのか自体は分かる――おそらく、自分の結界を消した時と同じように、周囲の木々を足場にしながら自分の展開した陰陽玉をナイフで消していったのだろう。見たところ、彼は既に投擲用のナイフを全本使ってしまっている様子。ならば、直接陰陽玉に近づいて消していったと見るのが自然だ。

 ……不可解なのは、それ以外の事柄だった。

 

「……」

 

 恐る恐る、霊夢は元の位置に立った七夜を見下ろす。弾幕がかすれてボロボロになった燕尾服、額から流れている血、その他弾幕による掠り傷。おまけに身体強化もなしになし得たあの無茶苦茶な動き。

 不可解なのは、何故それほどのダメージを負っておきながら、自分が反応する間もなくソレを実行できたのかという事。

 ――何かが、違う。

 そう直感するや否や、再び七夜の顔が霊夢を見上げる。

 ただひたすらに、霊夢のよく知る死者のような瞳孔のない目。その目からは既に光を失っている。

 それでも、七夜の眼は霊夢の方を向いていた。

 瞳孔をなくしても、それでもその蒼い虹彩の輝きだけは如何ともしがたく消えない。光の届かない樹海の中で、それは月光を反射する刃物の如く煌めいている。

 

「貴方……一体ッ」

 

 目の前の彼は、霊夢の知る死者ではない。死者など生ぬるい。それらとは比べものにならないくらいの、“死の気配”を放っている。

 一方的に死を与えてくるような西行寺幽々子の気配ともまったく異なる……あらゆるものの死という理不尽を内包しているかのような……言うなれば、“死”そのもの。

 

「――ッ」

 

 絶え間なく警告を鳴らす自らの勘に従い、霊夢は再び七夜の周囲に陰陽玉を展開する。

 例え避けようとその陰陽玉は地の果てまでさえ獲物を追い続ける――術者たる霊夢はただそれを上から『俯瞰』するだけで良いのだ。

 だが、霊夢は安心できなかった。更に札を掲げて自らの十八番とも言える術を発動する。

 

――夢想封印

 

 放たれるは七色の光。それぞれ別の色を持つ七つの光弾が、出現する、その前に。

 その光は。

 斬、という刃音に瞬く魔に消え去った。

 

「な……!」

 

 先ほどとまったく同じ現象。

 今度は偶然などではない、七夜は今の霊夢すら見きれないスピードで、陰陽玉や夢想封印の光弾を消していったのだ。

 それらが動き出す前に、それよりも速く、七夜の身体は疾駆していた。

 霊夢の真下にいた七夜の身体が崩れ落ちる。

 明らかな疲弊。しかし、それによる荒い呼吸は一切ない。いや、呼吸をしていないというよりは。

 まるで、呼吸する機能を失っているかのようだった。

 

 故に、一息つく事すら無く、七夜は立ち上がって再び霊夢を見て――

 それを認識する前に、霊夢は『浮』いている身体を後退させた。最早勘に縋る暇すらない。言うなれば、身体が勝手に動いていた。

 前方に何重にも結界を張りながらの後退。

 その結界の光を視認した瞬間、結界が消されたという認識が生み出される前に、凶刃が霊夢の眼前へと躍り出た。

 その兇刃が迫っているのだと認識する前に、霊夢の身体は消えた。

 遙か後方の場所に霊夢の身体は出現する。

 『浮』いている筈の霊夢の身体。後退する必要性など何処にも無い。だが、それでも博麗霊夢は退いた。

 アレに当たってはならないと、霊夢の勘ではなく、それより先に身体が動いた。

 

「な、何が……」

 

 襲いかかる悪寒。

 霊夢は思い返す、先ほどの一瞬を。

 三回だ、三回もその一瞬を垣間見た。その三回を味わい、霊夢はようやくある事に気付いたのだ。

 ――何で、ナイフの刃音よりも、弾幕の光が消えるタイミングの方が速いのよ……。

 振るわれる刃の音すらも置き去りにする斬撃。明らかに人の域を超えている。

 おかしい、こんな事はおかしいと霊夢は頭の中で繰り返す。七夜の蜘蛛の動きや獣じみたスピードは確かに人の域を超えた体術だ。だが、霊夢からすればそれは曲芸の域を出ない動きだった。

 如何に動きが奇怪なれど、そのスピードはケモノが精々。空を飛ぶ少女達や、ましてや天狗の逃げ足と比べれば赤子に等しい速さだ。

 この変化は明らかにおかしい。ここに来て隠し球を用意していた、なんて様子も見受けられない。

 一体、何が彼を変えたというのだろうか。

 霊夢は知らなかった。それは確かに、彼女の知らない領域だった。

 

 ここに、自分と対をなす鬼神が生まれたのだという事実に、霊夢はまだ気付かない。

 

「ッ!?」

 

 そして、その速さを獲得しながら、その隠形形態の式神じみた気配遮断は未だ健在であった。いつの間にか己の真下まで移動していた七夜の姿に、霊夢はまたもや目を見開いた。

 霊夢の身体が取った突発的な瞬間移動は、紛れもなく線ではなく点の動き、つまり文字通りの瞬間移動だった。

 それに対し、七夜の動きは言うまでも無く線。その線の動きが、点の動きに追随するなど、あってはならない筈だった。

 

 だが、ここに万に一つの鬼神がいた。

 

 木々を足場に気配を悟られる事無く、瞬間移動という理不尽に追随する速さを持って追いついた蜘蛛が、そこにはいた。

 それほどの無茶な動きをしておきながら、七夜の息は上がっていない。だが、明らかに疲弊していた。

 いや、疲弊していたというよりは、自らが思うよりも力が出て、どう制御すればいいのか分からない、といった方が正しいだろう。

 だが、それも時間の問題だった。

 ナイフを持っていない方の、七夜の手が握ったり開いたりを繰り返している。

 ゆっくりと、光の失った蒼い双眸が霊夢の方へ見上げられる。

 

 その笑みは、まるでリラックスでもしているかのような、穏やかな笑みだった。

 

 その刃物のような目付きと、穏やかな口元は決定的に釣り合っていない。

 そのアンバランスな笑みが、余計に霊夢の恐怖を引き立てる。

 

 霊夢の勘が騒ぐ。

 次は、もう今までのようにはいかないだろう。弾幕を展開すれば、それを消されるには飽き足らず、この身は解体されてしまうだろう。下手したら、消される事無くこの身が先に殺されてしまうかもしれない。

 

 七夜の身体が闇に消える。

 周囲の木々を伝って、まるで世界を死が支配しているかのような、猛烈な殺気が霊夢に降りかかった。

 

「……ッ」

 

 ソレは、霊夢が知らない世界。

 霊夢が体験した中で一番近い世界は、間違いなく西行寺の異変。だが、それすら生ぬるい。

 その身を捨ててでも己を殺しにかかろうとする存在を、霊夢は初めて見るのだった。

 故に、その恐れもまた霊夢の限界というパラメーターを振り切った。最早周囲と言わず、世界全体を歪める弾幕。

 『浮』いた霊夢の身体と同じように、何にもとらわれることなく、樹海という蜘蛛の巣すら通り抜けて蜘蛛を圧殺せんとする弾幕の群れが七夜に襲いかかった。

 

 

     ◇

 

 

 頭痛がする。目が見えない。息ができない。音が聞こえない。

 あらゆる五感が薄れてゆく。

 ならば『死』という第六感の他に頼る存在はなかった。

 

 七夜の視界は、死で埋もれていた。とうに失明した七夜は世界を色や形で捉える事は既に叶わず、蠢き動き回る黒い線や点だけが七夜の見える世界だった。

 その世界の中で、一点だけ光があった。その光だけは、死が僅かにしか存在しない。その光は、少女のようなヒトガタのシルエットを保っている。

 その光には死の点はなく、細い死の線だけが数本通っている。

 

「ク……アハハハッッ……!!」

 

 ――ああ、世界が死に満ちている……! なのに、アレだけは如何ともしがたく色褪せない!

 きっと、如何ともしがたく高尚な存在なのだろう。自分のような地を這いつくばるのがお似合いな蜘蛛など、比べものにならないくらいの高嶺の花なのだろう。

 決して手の届かない月に向けて、必死に糸を吐き続ける憐れな蜘蛛……それが今の自分なのだろうと七夜は僅かに残った意識でそう思考する。

 

 その光が、一体何であったのかは七夜は思い出せない。

 自分が恋い焦がれた存在なのか、それとも憎い存在であったのか。それすらも七夜にはもう分からない。

 死を理解しすぎた脳は、それを思い出す機能など既に存在しなかった。

 それでも、だからこそ、七夜は分かった。

 ――自分は、アレを殺したいのだと。

 ならば、解体しよう!

 この身が燃え尽きようとも、あの光だけは何としても己の手中に収めて見せようではないか。

 死という闇の中で、色褪せず輝いている霊夢(ひかり)を愛おしそうに見つめ、七夜はその恋慕(さつい)をぶつけた。

 

 樹海をすり抜けて七夜に襲いかかる弾幕。

 避ける隙間などない、そもそも避け切れる速さですらない。避けたとしてもありとあらゆる邪魔者をすり抜けてそれらは追随してくる。

 だが、それらは七夜の動きに追いつけなかった。

 

 音を置き去りにする疾風、ケモノなど生ぬるい疾走を以て三次元的な動きを展開し、弾幕を殺し、避け、受け流し、驚異的な運動と反射神経を以て弾幕の雨をくぐり抜け、その愛おしき光の死を捉える。

 

 その光は、一つの『究極』だった。

 七夜が持ち得ない『究極』の持ち主。存在が違いすぎるあまりに近づいただけでその断層に飲み込まれる。

 立っている位置があまりにも違いすぎる。

 俯瞰する事を究極とした光は本来、七夜の手の届く存在ではないのだ。

 

 それでも、七夜はその執念を以てして、その究極に手を届かせるために、自らもまた『究極』となった。

 殺しに最高の業、殺しに最高の眼。そしてあと一つ、『探求』を『究極』たらしめるあと一つのピースを、七夜はようやく手にしたのだ。

 熟考するまでもない。

 業、眼――ならば次に来るのは、殺しに『最高の肉体』であろう。

 言い換えるのであれば、その殺しに最高の業を最大限まで発揮するための肉体だったのだ。

 その肉体を手にし、七夜はかの鬼神ですら『探求』止まりだったソレを、ついに『究極』にまで昇華してみせた。

 

 問題は、その肉体を手に入れるための手段。

 七夜の急激な身体能力の向上――その方法は至って単純だった。

 幻想郷が博麗大結界に囲まれるよりも遙かな昔。古来の侍たちは殺し殺されるような事を当然のように受け入れたという。それは武士としての心構えにあらず、刀の柄を握った瞬間に、彼らは覚醒するのだ。

 試合の前に気を引き締める、というレベルの話ではない。彼らは刀を抜く事で脳の機能を切り替えるのではない。脳が、肉体を戦闘用に作り替えるのだ。

 かくして肉体は生物が使用すべきではない方法で活動し、血脈は血液の循環ルートを変えて呼吸さえさせなくなる……そう、戦いに無駄な「ヒト」としての機能は全て排除され、戦闘用の部品に作り替えてしまう。

 

 一言で言えば、七夜はその古来の侍達と同じような手法で、自らの肉体を作り替えたのだ。

 

 あくまで、一言で言えば。簡単に聞こえるが、これはそういった単純な話ではない。

 まず前提として、侍が使う剣術とはヒトが扱う武術である。その人が剣を振るう事を前提とした動きに特化するように、古来の侍達は自らの肉体を変革せしめる。

 だが、七夜の扱う体術は根本的に違う。

 七夜の扱う蜘蛛の体術は、四足獣であるのならば体得可能であると言われている……逆に言うのであれば、その手の人間以外では、四足獣でなければ体得不可能なのだ。元四足獣の妖怪では駄目、四足獣そのものでなければ体得は不可能。ヒトガタの妖怪になった時点で体得する可能性は閉ざされる。妖怪という存在に昇華すればそれ以上の恩恵があるのだから、体得する必要もない。

 その動きに特化するように肉体を作り替えるのは、さすがに古来の侍たちといえど容易ではない。

 人間の限界の動きとも言われるその体術は、言い換えるのならば人間がギリギリ体得できる体術であって、人間が扱うのに適した体術ではないのだ。

 ヒトが扱う事を前提とした剣術を最大限発揮できるように肉体を作り替える事と、ヒトがギリギリ体得できる人外的な体術をソレ向きに作り替えるとでは、肉体の作り替わり方が根本的に異なる。

 七夜に流れる血はその体術を扱うのに適した身体ではあるが、『最高』の身体ではない。

 最適の身体から、最高の身体に作り替える……殺しに特化した業に最適な肉体ではなく、それを扱うのにこれ以上ない肉体に作り替える……その荒技を、七夜は成し遂げた。

 

 その肉体の作り替わり方は、古来の侍達とは根本的に違うだろう。

 肉体の活動の仕方も、血液の循環ルートも、作り替わる部品も根本的に異なる。

 侍達が行った変革など比べものにならないくらいに、根本の部分から肉体を作り替えた。

 ヒトではなく、戦闘のためだけに生まれたケモノそのものの身体に、自らを変革せしめたのだ。

 

 死を理解しすぎた事によって、『殺す』以外の余分な機能は脳から削ぎ落とされ、その細胞は蕩け、壊死し、脳機能そのものが大きく歪曲した。

 大きく歪曲したその脳機能が、七夜の身体を、その業を扱うのに最高の肉体に作り替えたのだ。

 古来の侍達が刀という武器を持って自らを変革したように、七夜もまた『死』という武器を持って自らを変革した。

 

 この幻想の箱庭であるからこそ実現できた奇跡。

 ここに、三つの奇跡が揃った。

 殺しに最高の業、殺しに最高の眼、殺しに最高の肉体……三つの奇跡(ピース)が合わさり、七夜はついに『究極』へと至った。

 かの鬼神ですら、殺す事は『探求』止まりだった。

 七夜はその『探求』を『究極』へと昇華させた。

 

 ここに、殺す事を追求した鬼神の名を継ぎ、殺す事を究極とした鬼神が生まれたのだ。

 

 本来、この死を視る眼ですら殺せなかったヒトと人外の境界。

 七夜は、その境界すらも殺して見せた。

 その境界を殺し、七夜はついに鬼神となった。

 

 その動きは、先の七夜の比ではない。

 木々の間を縫って跳び回る蜘蛛の姿が、霊夢にはまったく捉えられないでいた。動きそのものはまったく変わらない。

 ただ速さが、力が、反射速度がまったく違う。

 殺すという電気信号のみを発信する脳により作り変わった肉体の影は、霊夢の五感に捕らわれる事を断じて許さない。

 速さだけならば、まだ霊夢にとっては問題にはならなかった。だがそもそもの話、如何に瞬発力を高めようとケモノ程度の速度しかないから霊夢の相手にならなかったのであって、その肝心の速度を高められては一気に脅威度が増す。

 

 その速度が既にあった瞬発力、気配遮断、および蜘蛛の動きと合わさり、霊夢は七夜の影を捉えられないでいた。

 分かるのは、ただひたすらに木々という蜘蛛の巣を伝って突き刺さる殺気。

 

――コイツ、なんで止まらないのよ……!!

 

 その殺気は今まで感じていた殺気とは、“質”が違った。

 紅霧異変の時に、吸血鬼のレミリアから感じた自分を見下す高圧的な殺気とも違う。

 春雪異変の時に、西行寺幽々子の従者・魂魄妖夢の、主を守らんとその剣を振るう美麗な殺気ともまた違う。

 “生粋”の殺人鬼としての、単純で、他の意が混じらぬ鋭くて、純粋な殺気。

 こうして自らの弾幕で世界を埋めているにも関わらず、未だその殺気が衰えない。つまり、この地獄絵図の光の中で、蜘蛛は未だに己を付け狙っているという事だった。

 

 それは、確かに霊夢の知らない領域だった。

 『俯瞰』する事を究極とした鬼神と、『殺す』ことを究極とした鬼神。

 基準として比べるのならば、同じ究極を以てしても後者は前者に大きく劣る。俯瞰とはすなわち全てを見下ろす事である。

 全てを上から凌駕し、干渉し、制圧し、自らを侵す者は誰一人として存在しない。その究極は、殺すというただ一点の究極など比べものになりはしないだろう。

 

 そもそも、生まれ以てしてその究極を持ち得た霊夢と、高すぎる代償を払ってようやくソレにたどり着いた七夜では雲泥の差が存在する。

 それでも、確かに、その存在は霊夢にとって未知だった。

 自らを殺し得るかもしれない存在……そもそもとして、霊夢は博麗の巫女という立場上、命を侵される心配がない。

 幻想郷において異変を起こした者は、博麗の巫女という絶対の存在に挑むという事を意味する。しかし、その巫女を倒せば幻想郷は維持できなくなり、自らもまた死ぬ。

 つまり、異変を起こす者は、自分は博麗の巫女に敗れるという前提を受け入れた上で異変を起こさなければならないのだ。

 そして、その異変を起こした者の中に、自らの消滅を省みる輩が殆どだったのは言うまでも無い。所詮、スペルカードルールという遊びを前提としたお祭りみたいなものなのだ。

 霊夢とて面倒と思いつつも、心の何処かでは退屈な日常に魔を刺すように起こる異変を楽しんでいる節もある。

 

 だが、ここに万に一つの鬼神がいた。

 

 自らの消滅も厭わず、自己すら失い兼ねないほどの代償を払ってでも、博麗霊夢を抹殺しようとする者がここにいたのだ。

 その到底理解し得ない所業も、殺気も……どれ一つを取ってしても、それは確かに霊夢の知らない領域だったのだ。

 極論を言うのであれば、そのルールを霊夢から破ってしまった時点で、その領域に自分から足を踏み入れてしまった時点で、博麗霊夢は敗北していたのだと言えよう。

 

 それでも、依然として霊夢は七夜を圧倒したままだった。

 辛うじて霊夢の死を理解できているとはいえ、その線の数はほんの数本。それの源たる点は一切視認できず、その線を断ったとしても即死に至るような箇所ではない。

 その死の少なさ故に七夜は霊夢を認識する事ができているのはまさに怪我の功名と言えるだろう。

 それでも、七夜は止まらない。

 弾幕や結界は次々と殺され、ダメージを逃れようと死を見続ける代償は遠慮なく七夜にのし掛かる。

 それでも尚、七夜は止まらなかった。

 失明した眼はそれでも死が近づく度に爛々とその蒼を煌めかせ、笑みは深くなっていく。

 

 その笑みを垣間見た霊夢は、更に身を震わせ、叫んだ。

 

「いい加減……止まってよッッ……!!」

 

 それは未知から抜け出したい一心での叫び。

 ここに来て、霊夢自身もまた逃走(とうそう)から闘争(とうそう)へと切り替えた。一刻も早くこの死の気配から抜け出したい。それでも抜け出せないなら、叩くしかない。皮肉にもその判断は英断と言えた。

 死に近すぎた彼に弾幕をぶつけた所で、神速のごときナイフ捌きで殺されるだけ。移動速度だけであれならば、その腕が振るうナイフ捌きの速さなど想像に易い。ならば死の少ない霊夢本人が出向いた方が、向こうから獲物が迫ってくるという意味でも効率的と言えよう。

 

 自分が、その動きを見切れたらの話であるが。

 

「いいえ……」

 

 思い直す霊夢。

 できるできないの話ではない。あの動きを見切るしかないのだ。勘すら間に合わぬ程の速さであっても、ソレに対応しなければならない。博麗霊夢は、そうやって異変を解決してきたのだ。ソレを当然のようにこなしてきたからこその博麗なのなだから。

 影が闇から飛び出す。認識する事すら叶わないソレを、霊夢は紙一重で躱した。勘よりも先に、身体が動いた。

 ――これでは駄目だ、次はちゃんと勘で躱さないと。

 

 二度目、再び暗闇からの強襲。

 弾幕を消しながらも尚も衰えない速さで迫る影を、霊夢は()()躱した。

 ようやく、勘で捉える事が叶った。

 この対応能力もまた、彼女を博麗の巫女たらしめる所以であるのだろう。

 

 三度目、正面からの強襲。

 その姿を捉える事は叶わないが、霊夢の勘はソレに反応しようとして、その勘すらもが欺かれた。

 神速で迫る蜘蛛は、突如として霊夢の目前まで接近した直後に、空中を蹴って別方向から再び霊夢に迫った。

 

「ッ!?」

 

 しかし、霊夢はソレに反応する。

 勘に従い、その方向へ霊力弾を飛ばす。弾幕にあらず、威力と速度を集約したソレは、七夜と並ぶ速度をたたき出す。

 だが、脚力でたたき出される速度がこれならば、そこから振るわれるナイフの速度は語るには及ばず、その霊力弾すらも殺された。

 それを認識する前に霊夢は身体を捻らせていた。

 白銀の刃が、浮いた身体を通り抜けてゆく。

 

 ここで、霊夢の第六感が迸った。

 

 自分は確かに、あの刃に対して“死”を感じた。だが、振るわれた刃はその予感に反して、『浮』いた身体を通り抜けてゆくだけだった。

 ならばこの恐れは単に自分の思い違いなだけだったのか……いや、それはない。

 先ほどは不覚にも接近を許してしまったが、その兇刃が霊夢の身体を切り裂く事はなかった。……しかし、その身体は確かに悪寒に従って回避行動を取っていたのだった。

 その勘に従った回避が、正しいのだとすれば。

 霊夢の頭の中で、ある一つの仮説が過った。

 

 ――もしかして、どこでも切れる訳ではない?

 

 霊夢は思い返す。彼がそのナイフで消していった代物は……結界、弾幕。大凡霊夢の霊力で構成している全ての代物を彼はその一振りのナイフで消し去っている。

 だが、それにしては狙う所が妙ではなかったか? 今思えば、最初に結界を消されたときも、結界そのものというよりは、まるで別の『ナニカ』を見ていたような。

 今もこうして、あの蜘蛛は自分を狙っているというよりは、その別の『ナニカ』を狙っているような、そんな気がしてならなかった。

 

 ――それに加えて、あの戦法。

 

 一つの勝機が霊夢の中で浮かび上がり、霊夢はそっと微笑んだ。

 おそらく、相手は自分の『ナニカ』を狙っている。その『ナニカ』は偉く限定的で、ソレに触れられなければ相手は自分に手を出せないのだと。

 それを見出した霊夢は、周囲の弾幕を全て解いた。陰陽玉も、札も、封の杭も、結界も。展開していた全ての霊力の放出を止めた。

 結局、あの蜘蛛に対しての有効戦法はこれなのだ。有り余る弾幕を放っても姿を眩ませる障害物として逆に利用されてしまう。

 ならばこそ、こうして責めを解いて出方を待つのが一番だったのだ。

 

 霊夢は、自らの身体に浮いたままに身を任せた。

 勘とそれに従う身体。これが導くままに、解は見出されるだろう。

 一合目、上からの強襲。それを見切れたわけではない。勘に従ってそれを捌く。姿は視認できなくとも、()()()()()()()()()は判別が付く。

 二合目、後ろからの奇襲。同じく避け、霊夢はその影が狙っていた箇所を頭に焼き付ける。

 三合目、左横からの突き。同じく避ける。狙われた箇所をきちんと焼き付ける。

 

 そして、以降はその繰り返しだった。

 多少順序に変化はあるものの、七夜が狙ってくる箇所は、霊夢の予想通りに“限定的”な箇所のみだった。

 ようやく、霊夢は相手の弱点を掴んだ。

 

 何かしら有しているであろうその能力と、そのケモノのような縦横無尽を駆ける戦法は、決定的に釣り合っていない。

 あらゆる角度から責めるその体術と、限定的な箇所しか狙えないその能力は、この場においてはまったく噛み合っていないのだ。

 その体術はその能力を想定した上での動きではない。何方が後付けであるのかは霊夢にはどうでもよかったが、これは大きなアドンヴァンテージであろう。

 

 再び、兇刃が迫る。

 霊夢にはもう恐怖はなかった。見えずとも、狙いは絞られている。そこに意識を割いていれば、後は自らの勘が回避を促してくれる。

 その兇刃が自分の身体の『ナニカ』に当たらぬよう少しだけ筋と肉を捻らせ、カウンターをお見舞いしてやればそれで仕舞いだ。

 

 だが、蜘蛛は霊夢の予想を上回った。

 

 予期していなかった、まったく別方向からの奇襲。

 霊夢から見て右からのその奇襲は、さっきから執拗に狙っていた箇所とは真反対の方向からのものだった。

 

「ッ!?」

 

 それを察知した霊夢はその方向へ向くが、既に刃が『浮』いた霊夢の身体の中に食い込み、やがて霊夢が警戒していた箇所へ届こうとしていた。

 ――しまッ!?

 先ほどまで執拗にその箇所を、ソレを狙いやすい方向から狙っていた蜘蛛が、突如として反対の方向からその箇所を狙って飛び込んできたのだ。

 『浮』いているが故に、例え別方向からでも身体がすり抜ければその箇所を狙える。

 全ては七夜の計算通り、相手に先入観を植え付け、その上で相手の能力の特性を利用してでの奇襲。

 

 蜘蛛の身体が、霊夢の身体をすり抜ける。

 身を翻した霊夢は七夜の身体を思い切り蹴飛ばした。俯瞰しているが故に、例え相手は霊夢に触れられずとも、霊夢からは相手に触れることができる。

 七夜の身体が霊夢の身体をすり抜けている状態のまま、その蹴撃だけが七夜に干渉した。

 吹き飛ばされた七夜はそのまま樹木に叩き付けられる。その状態となって、霊夢はようやく七夜の姿を視認する事が出来た。

 ……七夜は、笑っていた。そこにあるのは苦悶や絶望ではなく、狂喜に歪められていた。

 

「こいつッ……!」

 

 ――何で、笑っているのッ!?

 潜在一隅の好機を逃したというのに、何故そうまでして笑えるのだ。

 これ程生きていると――これ程厭な時間などないというのに、この男にとってはソレは快楽だとでもいうのか。

 

「消えろッ!」

 

 夢想封印・瞬

 霊夢の18番である術に加え、不可視の要素が加えられた弾幕。

 七つの不可視の霊力弾が木の壁にめり込んだ七夜に向けて殺到するが、次の瞬間にはその七つの大玉は殺され、七夜の姿は見えなくなっていた。

 

「なんて……ッ!?」

 

 やつ、と続けようとした途端、自分の身体に異変が起こっているのを霊夢は感じ取った。

 ――身体が、重い?

 ナニカが、身体に流れ込んでくるかのような感触。そのナニカは毒のような、とにかく自分にとってはよろしくないものなのだと霊夢は感じ取った。

 そして、自分のある箇所に違和感を持った霊夢は、その箇所にそっと手を当てる。

 それは、四ミリほどの傷だった。

 

 それは、あり得ない現象だった。

 『浮』いている彼女に傷を付ける事は本来叶わない。本気の彼女に対してスペルカードルールでなければ誰も敵わないと言われるその所以が、破れようとしていた。

 ならば、この身体の重さにも説明が付くだろう。

 干渉されない筈なのに、干渉されてしまった――その矛盾を受け入れてしまったのだから、その先にあるのは崩壊のみだった。

 

「……何処に、いるの?」

 

 もうこの術も長くは続かないと悟った霊夢は、再び影から七夜が飛び出してくるのを待った。

 いつ、その暗闇から七夜が飛び出してくるのかは分からない。

 ガチリ、ガチリと震える霊夢の身体。その原因は決して身体の異常だけではない。

 その原因は恐怖だ――その執念を、その果ての集積回路を見せられ、その未知の領域に霊夢は震えているのだ。

 浮いている筈の自分が、僅かとはいえ傷を負ったという事実に。

 今まででも勘でソレは分かっていたが、こうして直に味わえば実感の度合いは何倍も違う。

 

「次こそは――」

 

 消す、と決意を新たにし、霊夢は再び暗闇の中から七夜が飛び出してくるのを待った。

 

     ◇

 

 

 雨に打たれている中で目を覚ました十六夜咲夜は、轟音が鳴り響く森林の中へと急いでいた。時間の止まった灰色の世界を駆けながら、咲夜は樹海の中を疾走していた。本来、時間を止めている間ならば急ぐ必要はないのだが、そんな事は彼女にとってどうでもよかった。時間を止める直前まで戦闘音が聞こえていた事から、おそらく七夜はまだ無事なのだろうという確信は咲夜の中に存在していたが、それでも万が一の時もある。

 そして、とある樹木の下に目が入った。

 

 その樹木を背に座り込んでいる影。

 黒い燕尾服はとうにボロボロに破れ、その中からおびただしい量の血を流して座り込んでいる影がそこにはいた。

 

「七夜っ!」

 

 時止めを解除して、世界に色彩が戻ってきた瞬間、彼の名を叫びながら咲夜は七夜へ駆け寄った。

 間近で見れば、その傷は更に凄惨だった。土手っ腹が抉れたように真っ黒に染まり、右腕はとうに潰れて骨や神経組織にむき出しになっていた。それに加えて全身に負っている弾幕の掠り傷。

 そして――当の七夜はまるで糸の切れたマリオネットのように動かない。

 

「七夜っ、七夜っ! 生きているのなら返事してください」

 

 必死に呼びかける咲夜であったが、七夜はうんともすんとも言わない。

 咲夜はいったんに七夜から目を反らして周囲の状況を確認する。……そして、座り込んだ七夜の身体から伸びている血痕が、草陰の奥まで続いているのが目に入った。

 そのような傷でありながら、そのボロボロの身体を引きずってここまで避難したのだろうか。

 そして、更に咲夜は気付く……七夜が呼吸をしていないという事に。

 

「うそっ……!」

 

 慌てて咲夜は七夜の左手を手に取って、脈を確認する。

 ――脈は、確かに動いていた。

 だが、明らかに生き物のソレから感じるような脈動ではない。どれに形容していいのかは咲夜には分からなかったが、少なくとも七夜は死んでいないのだという確認は取れた。

 

 そして、目の前が、真っ白になった。

 意識が、朦朧となっていく。

 やがて、その白い風景の中で、蒼い靄のようなものが浮かび上がった。その靄は時間が立つにつれて大きくなり、やがて一つの映像を映し出した。

 

『これで終わりだ、殺人貴』

『……』

 

 映像の中にいたのは、二つの人影。

 一人は黒い鎧と身に纏い、更に右手には魔剣と思しきものが握られていた。

 もう一人は両目を赤い包帯で巻いて隠した青年らしき男。その手には――例のナイフが握られていた。

 

『だが、ここで貴様を■すのは少し惜しい。その万物を殺す眼……精々我が姫のために役立て貰おう。それに――貴様には、少し問い質したいこともあるしな』

『―――――っ』

 

 黒騎士の言葉を聞き、苦渋の表情で抵抗を試みる包帯の青年であったが、圧倒的な力の前ではそれも無意味。

 黒騎士の牙が、青年の首筋が噛みつかれる。

 どくり、ごくり、と……大凡3リットルあまりの血液が黒騎士に吸われると同時――

 

『ぬ、ぅっ!?』

 

 突如として、黒騎士は苦しみ始めた。

 再び、映像は靄となって消えていく。今度は逆戻りするかのように、空白の世界の中へと遠ざかっていった。

 そして、咲夜の意識は再び現実に戻された。

 

「今の、ヴィジョンは……?」

 

 七夜の脈に手が置かれたまま、咲夜は呆然とする。

 ただの幻であれば咲夜だってそこまで動揺はしない。だが、何故か咲夜はそれをただのヴィジョンとして片付けることができなかった。

 あそこに自分はいなかった筈なのに――何故か、妙な懐かしさを咲夜は感じていた。

 いや、それよりも気になる点がある。

 ――包帯で眼を隠していた男は、七夜?

 気になるのは、あの黒騎士らしき人物から血を吸われていた男。その包帯の男の服装が、紅魔館の燕尾服を着る前の七夜の格好と瓜二つだったのだ。黒い縦セーターに灰色の長ズボンというコレと言って特徴のない服装であったが、目を覆い隠す包帯を除けば風体もそっくりだった。

 考えを巡らせていた、その時。

 

「……やれやれ、随分と、懐かしいモノを……」

「七夜っ!?」

 

 咲夜の前で、ようやく七夜が息を吹き返していた。

 いや、七夜の呼吸は依然として止まっている。呼吸できないというよりは、まるで呼吸する機能を捨て去ったかのようだった。

 よって、息も上がってはいないが、それでも目に見えて疲弊はしている。それくらいは七夜の傷を見てみても自明の理であった。

 

「無事ですか、七夜っ! さっさとここから逃げ――」

「――ん? 誰か、そこにいるのか?」

「何を言って――七夜、まさか……」

 

 七夜の言葉に、咲夜の頭の中で最悪の事態が浮かび上がる。

 よく見れば、七夜の眼は爛々と蒼く輝いていたが、それでも、ナニカが違った。七夜の眼は、咲夜の方に焦点がまるで合っていない。

 

「見えて、ないのですか?」

「ああ、そうだが。それ以前に――あんた誰だ?」

 

 その言葉で、咲夜の頭の中が更に真っ白になったのは、言うまでも無いだろう。

 七夜は現在失明している。それは誰が火を見ても明らかであるが、更なる最悪の事態が咲夜の中に浮かび上がる。

 

「七夜、私が分からないのですか!? 十六夜咲夜です。貴方の上司で、紅魔館のメイド長で、貴方に首輪を付けている者の一人です!」

「ああ、悪い。何を切り捨てちまったかも分からないんだ。クククっ、混沌と、混沌となってな」

 

 咲夜の呼びかけに、七夜は意にも介さない。

 辛うじて声を聞こえているみたいだが、それが何を意味しているのかは七夜には最早分からなかった。如何に七夜が咲夜を認識できた所で、彼の眼に映るのは『死』しかないのだ。その死に埋もれていない霊夢だけを、辛うじて獲物として認識できているのだ。

 『死』に埋もれた有象無象である咲夜など眼中にも入れられないだろう。

 

「まったく、死が近づいてくると、コレだけはよく見えるもんだ。ハハハッ、全部ラクガキだらけだ。いいじゃないか、こんな世界も……!」

 

 自嘲するように嗤う七夜。

 その眼は、咲夜を見てはいない。全てを皮肉と嘲笑う彼の心は、死の少ないただ一つのヒカリへと向けられている。

 死に埋もれた世界にあって、尚も色褪せないヒカリを、七夜は解体することを夢見る。ただそれだけの存在と成り果てていたのだ。

 

「なな、や……」

「さて、と。とりあえずこの腕が邪魔だな」

 

 見えずとも、己がどのような状態かくらいは分かるのだろうか。

 彼は左手に持ったナイフを振りかぶる。その蒼い眼が、だらんとぶら下がった右腕を獲物の如く睨み付け――その腕を、切り落とした。

 

「な――」

 

 呆然とする他ない咲夜。

 昔、あの少年に渡したナイフがこのような形で使われるというショックも、ソレを促していたのだろう。

 だが、それ以上に理解できないのはその行為そのものだった。

 妖怪や吸血鬼のような化け物であるのならば分かる。いらなくなった部分を切り離して利用したり、使い魔の一部として使役したりと、人間である咲夜にも使い道はいくらでも思いつく。だが、それはあくまでどのような傷でも致命傷になり得ない化け物だからこそできる芸当であって、空も飛べない只の人間がする所業ではない。しかも、ナニカに利用する訳でも無く、ただ邪魔だからという理由だけで己の腕を切り離すなど、狂人以外の何物でもないのではないか。

 

「――――」

 

 七夜は痛そうにする様子もなく、ただ平然と破れた燕尾服の布きれを拾い、切り落とした箇所に巻き付けて止血をした。目が見えていないはずなのに、あっさりと応急処置をこなしてみせるのはさすがと言った所だろう。

 

「ハハっ、ああ、最高、だ! 最高だよ、あんた……」

 

 咲夜が呆然とする懐で、七夜はただただ嗤う。

 死にまみれた世界の中で輝く存在。既に名も姿も忘れてしまったが、それでもその存在だけは覚えている。

 自身が解体すべき、標的だけは。

 

「さあ、ケリを付けよう」

 

 出来ることならば、もっと続けていたいと七夜の心は願っていたが、それでもこの身はあと数分と持たない事を七夜は自覚している。

 呼吸する機能も、記憶も、目の光りも、生命維持の機能も、全てを捨て去って手に入れた究極は、その奇跡はもう長くは続かない。

 だからこそ――ただ一つ見出したその勝算に七夜はかけることにした。

 七夜は立ち上がり、暗闇の中へと姿を消す。

 

 咲夜は、置き去りにされた七夜の右腕を見つめ、未だに呆然としていた。

 恐れでは無く、理解できないモノの片鱗に触れてしまい、ソレを受け入れ切れないでいた。

 

 

     ◇

 

 

 七夜がゆっくりと現れた。

 霊夢は自分の目を疑う。

 こんな正面。距離は一瞬で詰められるからともかくとして、こんな真正面から現れるなど、最早自殺行為もいいところだろう。

 

「……やっぱり。正気じゃないのね、貴方」

 

 そうとしか霊夢には思えなかった

 よく見ると、七夜の右腕は切り落とされていた。

 ……おそらく、もう使いモノにならぬと自分で捨てたのだろう

 一瞬、七夜が前に倒れ込む様子が目に入った途端、消えた、という認識すら置き去りにして七夜は霊夢の視界から消え去った。

 地面が弾け飛び、音すらも置き去りにする、極限の前傾姿勢を保ってでの疾走。動きは蜘蛛、速さは素早い天狗のソレと同等以上。ヒトの身でありながら、既にヒトの境界を跳び越えた動きは、霊夢には到底真似できない境地だ。

 

 だが、霊夢にとってはそんなものは関係なかった。

 霊夢は既に決心していた。本来ならば、ソレは博麗の巫女としては行ってはならない所業――この地をまるごと焦土にする術を行使しようとしていた。

 巣の中の蜘蛛を捕らえられないというのであれば、その巣ごと焼き払ってしまえばいいという発想に結びついたのだ。

 霊夢の勘は、既に七夜の位置を捉える事を可能としていた。

 分かる――どんな暗闇に潜んでいようと、あの蜘蛛の如き暗殺者の居場所が手に取るように分かっていた。だが、その足さばきと速さにより姿そのものを捉えるのは困難。ならばこその一手。

 その霊夢の勘では、蜘蛛が此方から遠ざかっているのが分かった。

 今から自分がやろうとしている事が分かったのか、どうやら勘がいいのは向こうも同じらしい――しかし、遅い。

 

 お祓い棒を掲げ、霊夢は宣言する。

 地を迸る凄まじい霊力の奔流、広がる結界。やがて、全ては光に包まれる。

 

「夢想封い――っ!?」

 

 ――しかし、ソレが発動する事は無かった。

 当たりを焦土に変えようとしていた術式は消され――更に、ある違和感が霊夢を襲った。

 蜘蛛の位置が、分からないのだ。勘で分かる筈のソレが、分からないのだ。

 いや――これではまるで。

 

「勘が、働いて、ない?」

 

 それはとてつもない違和感だった。今までソレが普通であったからこそ、その違和感は不安となって霊夢に襲いかかる。

 ――まるで、ナニカとの“つながり”を断ち切られたかのような、そんな物寂しさと、不安が上り詰めた。

 

 その直後。世界が、殺された。

 

 

     ◇

 

 

 七夜は、霊夢と相対して、兼ねてからある違和感を感じていた。

 死の線や点の位置が自身とまったく同じの分身を作り上げていたこと、式神じみた気配遮断で奇襲しているのにソレを察知された様子もなく反撃されること。この作り変わった肉体を得てもそれだけは変わらなかった。

 ――まるで、博麗霊夢がそう思ったから、世界が自分にそうさせている、そんな違和感が七夜にはあった。

 ならば、どうするか? それがある限り、例え死が視えていようと七夜が霊夢に一矢報いるのは不可能であろう。

 ならば簡単だ。

 

 そうさせているモノを、殺せばいい。

 

 この世界が霊夢の勘通りに事が運ぶのであれば、そうさせている要因を殺せばいい。その死を探すため、七夜は作り変わった身体の性能をフルに活かして、ソレの死を探し回った。死しか見えない世界の中で、まるで森の中に隠されたたった一本の木を見つけるかのような所業であった。

 そして、ついに見つけた。

 霊夢と幻想の地のパイプライン。博麗大結界が存在する限り、その地が存在する限り、博麗の巫女が最強であるというのであれば、そのパイプラインを殺してしまえばいいのだ。

 草むらの中に潜んでいたその死点を、七夜は戸惑うこと無く突いた。

 

 その瞬間。世界が、殺された。

 

 

     ◇

 

 

 その異変は、突如として起こった。

 霊夢が発動しようとした術式は解除され、全ては無に帰す。今まで頼りにしていた勘が突如として機能しなくなり、不安に包まれる中で、ソレは起こった。

 七夜が突き刺した地面を中心に、辺り一帯の地面が崩れ始める。

 まるで、既に定められていたのような亀裂が辺り一帯の地面に走り、ソレが崩れ、崩壊してゆく。

 その地はただの現実でもなく、幻想でもなく、ただただ無に帰って無くなってゆく。

 しかし、地面が崩れた所で元より『浮』いている霊夢には何ら問題などない。……あくまで『浮』いたままであればの話ではあるのだが。

 問題があるとすれば――ソレは一つ。

 

 木々が、倒れていく。

 

 ソレは、今までの霊夢と七夜の攻防を見たモノならば、誰もが愚かと思うだろう。

 せっかく自らの巣を壊される危険性のある術の発動を阻止できたというのに、結局巣が壊れてしまうのならば本末転倒に他ならない。

 おそらく、霊夢もそう思っただろう。

 

 だが、その倒れていく木をすり抜けた途端――霊夢は七夜の狙いに気付いてしまった。

 

 働かなくなった勘――それを差し引いても霊夢は才能に富んだ博麗の巫女だ。例え勘で迎撃される心配はなくとも、念には念を入れておいて然るべきだろう。

 気付いた時には、もう遅かった。

 

 落下してゆく木々が、霊夢の身体をすり抜けた途端、その視界が開けた途端に迫って来た白銀の刃。

 態々自身の巣を壊してでの、たった一度きりの奇襲。

 勘が働かなかった上、元々反応する事すら難しい速さで振るわれたナイフは、確かに霊夢の『死』へと届いた。

 蜘蛛の糸のように細いその線を、霊夢の左腕に走るソレを、七夜は一瞬のうちに寸分違わずなぞって見せた。

 

「――え?」

 

 霊夢は間の抜けた声を出す。

 恐る恐る、欠損したソレを見つめる。

 ソレは、矛盾だった。全てを俯瞰する筈の存在が、俯瞰すべき対象から逆に干渉された。全てを見下ろし、上から一方的に叩き潰すだけの存在が、下からの干渉を許してしまった。

 そうあるべき存在なのに、その前提が崩れた。

 

「あ、あぁ――」

 

 本来入ってこない筈の情報が、切断面を通じて霊夢の中へと入り込んでくる。まるで窓を空けた途端にその気圧差に耐えられないかのように、乱入する大量の情報が霊夢の身体の中へと入り込み、蝕んでいく。

 その『死』の切断面は、霊夢の浮いた身体と世界の境界線でもあったのだ。その境界線を殺されたとあらば、襲ってくるのは矛盾。

 その矛盾を世界が修正せんと、今まで受けてこなかった干渉、その情報が一気に霊夢の身体の中へと入り込んできたのだ。

 

「ア、アァァァァッ!?」

 

 ヒトの身では、その急な修正に耐えられる筈もない。

 痛み以上に、自らの能力を破られたリバウンドは、躊躇なく霊夢の身体に襲いかかった。

 痛い、とてつもなく痛い、だが、それ以上に霊夢は苦しかった。矛盾のツケを受け入れた霊夢の身体は、耐えきれずに悲鳴をあげつづける。それは、常人など想像も付かぬほどの激痛に他ならなかった。

 激しいリバウンドと共に能力が解除され、霊夢は奈落の底へと落ちていく。

 落下する木に張り付き、ソレを見下ろす蜘蛛が一匹。

 

 その図は、幻想の調停者(バランサー)を沈め、かの一族が再び夜の頂に君臨したかのようだった。

 

 その日、霊夢は『七夜』を思い知った。

 




評価がオレンジに落ちてしまった→まあ、仕方ない……
その後、評価一覧を見る→1~6までの評価の評価話数がみんな一話→どういう事だおらぁん!?


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代償

 つんざくような鬱陶しい雨に打たれながら、霊夢の意識は徐々に目覚めようとしていた。ぐちゃぐちゃの泥に沈みかけていた身体を起こさんと四肢が――否、三肢が無意識に藻掻く。

 起きたのならば、次にすべきは目を開く事だった。霊夢の双眸が見開かれ、その殺風景な風景が目に移った途端、その視界はぐらついた。

 重い身体は重力に耐えきれず、霊夢は再び顔面から地面の泥に沈み込んだ。

 

「――ッ、――ッ」

 

 声にならない悲鳴を上げながら、ようやく顔を上げた霊夢は勢いよく上体を起こして仰向けになる。顔に付着した泥が鬱陶しくなり――左腕の袖で拭おうとして、ある違和感に気付いた。

 拭おうとする筈の左腕の感覚が、ないのだ。

 袖の白を赤く染めるための左腕の感覚が、ない。

 痛みすらもない、だが、その面はどこか熱を帯びて熱い。

 恐る恐る、それを覗き込んで――ようやく、左肩の口から先がないという事実を受け入れた。

 

「あ――あぁ……ッ」

 

 だが、その事実を受け入れたのは世界のみ。霊夢自身はソレを受け入れる事など到底できなかった。だが受け入れずとも、その危険信号を認識した脳が、霊夢に痛覚という名の警告を促した。

 辛味というものは、口の中を火傷するような感覚で例えられる事がある。それは味覚ではなく痛覚からくるものだ。その熱の正体を知ってしまったのならば、後に襲いかかってくるのは明確な痛みに他ならなかった。

 

「――――――ッッッッ!!!!!!」

 

 声の挙がらない悲鳴。磨いた鏡のような、異様なまでの切断面は一種の芸術だと評すこともできよう。だが、それが己に降りかかれば話は違う。

 いっそ絶叫でも上げる事ができればどれだけ楽なのか、不幸な事に霊夢の身体にはそんな余力すら残されていない。

 ……否、訂正しよう。余力は僅かにだが残されていた。

 その余力を悲鳴に割かなかったのは、偏に霊夢の才能ともいえよう。身体ごと泥に沈みかけていたせいか、切断面の中に泥が入り込み、それが幸運な事に夥しい出血を抑えていた。ならば――と霊夢は血が出すぎない内に、切断面に手を当てて、結界で塞ごうとして――できなかった。

 

「な――」

 

 狼狽える霊夢。いつもなら呼吸するように張れる筈の結界が、貼れない。

 

「どうして……」

 

 再び結界を張ろうと霊力を込めるが、結界を貼れない。霊力がなくなった訳では無い、ならばこの血の流れをせき止める結界一枚を貼る事くらい、霊夢にとっては造作もない筈だった。

 しかし、貼れない。

 息をして当然の如く貼れていた、博麗の術が行使できないのだ。

 

「く、ア――アアアアァァッッ!!!!??」

 

 霊力はある。お世辞にも大量に弾幕を行使できる程の量は残っていないが、それでも結界を一枚貼る事くらいには残っている筈なのに、ソレすらも行使できない。

 ――どうして、どうしてよ!?

 結界に割かれないと分かった余力で絶叫を上げ、霊夢は頭の中でその言葉を繰り返す。こんな事、今まで一度もなかった。思い通りになる筈の事柄が、思い通りにならない。世界が、霊夢の思惑に応えてくれない。

 応えてくれないのならば――自分自身がどうにかするしかない。絶叫の最中でその思考に至った霊夢は、断面を押さえていた右腕を離し、泥をすくい上げる。

 そして――その泥を、断面に塗り付けた。否、塗りつけたというよりは、詰め込んだと言った方が正しいだろうか。

 泥を構成する成分――砂や土を血管や細胞の断面に詰め込み、流血をせき止めようとしていた。

 

「痛――イタイッ」

 

 砂利と土が肉と血管を食い潰す。だが、こうでもししなければ出血で霊夢は死んでしまう。如何な才能を持とうと、霊夢の器はあくまで人間。吸血鬼や鬼を再生する間も与えずに叩き潰す事はできても、自身がその生命力を持ち合わせている訳でも無かった。

 だが、同時に生命の危機を訴える霊夢の身体は、痛みとは相反するかのように、次々とその行為を求めた。

 ジャリ――泥をすくい上げる。

 グチョリ――それを断面に詰める。

 

「――――――ッッッ!!!!」

 

 詰めて、水分を絞り取り、固める。巫女服の一部を切り取り、水分で泥が落ちないように包み、結ぶ。応急処置を終えた霊夢は、今度こそ身体を起こそうとして――再び重力とは別の重さに沈んだ。

 身体の内から――ナニカがこみ上げ来る。例えるのならば、噴火寸前の火山、破裂寸前の風船、出産寸前の妊婦。内からこみ上げてきた赤いソレは、霊夢の口から遠慮なく吐き出された。

 

「ゴ、ホォッ?」

 

 右手で手を押さえる。

 ナニカ暖かい感触がするソレを、恐る恐る覗き込んだ。

 真っ赤なモノがこびり付いていた。口から吐き出されたソレはまさしく生命を循環させる源。ちょっぴり鉄の味が残るその液体は、まちがいなく――

 

「アぁ――ゲホッ、ゲホッ、ア、ゲッ、ゴボォッッッ!!!!!」

 

 それが、ようやく己の血液であると自覚した途端、心臓から逆流して大量にソレは吐き出される。身体という内界から、現実という外界へと吐き出される赤い液体は間違いなく、霊夢の生命の危機を訴える。

 本来ならば干渉される筈などない存在だった。だが、腕を切られた以上、干渉された以上、その矛盾を受け入れた霊夢の身体には能力のリバウンドが躊躇なくのし掛かる。霊夢の存在の根底に干渉され、ソレが殺されたのだ。これで済んでいるのはむしろ奇跡と言えよう。

 霊夢も、ソレは理解していた。

 ならば、それをなくすための方法は。

 この生き地獄の矛盾を吐き出すための方法は――。

 

「……腕、を」

 

 この不快感をなくすためには、失ったモノ(うで)を取り戻さなければならない。左の肩口の先から欠損した自らの身体を取り戻せれば、或いは――いや、()()()()()()()()()()()()()()()

 

「……何を……?」

 

 思わず、自分の脳裏に浮かんだ思考に真っ白になる霊夢。

 ――これほどまでに、生きていると、思える時間はあったか?

 

「そんなこと……」

 

 ――戻るのか? また、虚無な自分に?

 虚無なんかじゃない。

 ――本当に?

 本当よ。

 ――これほど生きていると。

 ええ、これ程厭な時間はないわ。だから……。

 

「何処なの……何処」

 

 口中の鉄の味を噛みしめながら、霊夢は立ち上がり、辺りを見回す。アレほど綺麗に磨かれた鏡面のような光沢を放っていた肉の断面は、泥に汚れその醜い(ぎょう)(そう)を白い布地に覆い隠されている。

 その汚点を洗い流し、矛盾を辻褄合わせに変えるためには、失った部位(パーツ)を取り戻さなければならない。

 死に体同然となった身体を無理矢理引きずり、霊夢は泥と瓦礫の如く散乱し倒壊している巨木が広がる荒野を彷徨い歩いた。

 

 見つけなければ。

 見つけなければ。

 見つけなければ。

 見つけなければ。

 見つけなければ。

 

「うで、どこ?」

 

 フラつく視界は、逆に言えば意図的に周囲を見渡す必要性を排除させ、それでも観察眼だけは集中させ、霊夢はひたすら彷徨い歩く。

 その行為は、確実に自らの寿命を縮めるだけのものであったとしても、霊夢はこの虚無を埋めることを最優先とした。

 だが、その行為すら叶わないという現実を、霊夢は突きつけられた。

 

 つんざく雨の音の向こう側。水滴のカーテンを浴びながら、さながら幽鬼のごとく、その男は佇んでいた。

 その男の在り方は、最初に見た時とまったく変わらない。

 明らかに死の境界の淵に立っているようなその男は、あたかも陽炎のよう。生も死も同一と嘲笑う皮肉な薄ら笑いを能面に張り付かせている。

 

 今こうして彷徨っている霊夢が、生を求めて彷徨うヒトであるのならば。

 向こうに佇んでいる男は差し詰め、死を求めて這いずるケモノだ。

 

 男の格好は霊夢よりも悲惨だった。

 元々霊夢が直接受けた傷は左腕が欠損した程度のモノ。残りのダメージの半分以上は能力が破られたことによるリバウンドが原因である。

 だが、男はその限りではない、死を理解しすぎた事に対する代償はとうに霊夢の受けた代償を遙かに上回っている。それに加え、今まで受けてきた弾幕の掠り傷は肉という肉を、骨という骨を削り取られ、土手っ腹には黒ずんだ円状の傷が開けられている。その上、霊夢とは対照となる右腕を失っている。

 とても満足に動けたものではない。半分以下の負傷で済んでいる霊夢ですらこの有様だというのに、その男は知ったことかと言わんばかりに悠然と佇んでいる。

 

「あ――」

 

 ここで、声を出してしまったのは失策と言えよう。

 だが、無理もない。霊夢にとってその男は最早、絶対的な死のイメージとして出来上がってしまっていた。

 これだけ無惨な状態なりながらも、否、これだけ死に瀕しているからこそ、その領域に引きずり込まんと言わんばかりに、その存在はあったのだ。

 

 幸運な事にも、能力を解かれた事によって死の概念に埋もれた霊夢を、七夜は見失っていた。死の落書きに埋もれた世界の中で、尚も死に支配されずに輝いていたヒトガタを七夜は見失っていた。

 そのヒトガタに僅かに走っていた死の線を断った事によって、そのヒトガタの光すらもが死の世界に紛れ込み、ようやく霊夢は七夜の認識から逃れる事ができていた。

 

「あ、ああ、ああッ!」

 

 だが、ソレを知らぬ霊夢は掠れ声を上げて自らの首を絞める事となる。

 その掠れ声を聴覚で捉えた男の眼が、霊夢の方へと向けられる。

 ギギギっと、ブリキの人形のように顔だけを霊夢に向けて、光を失い、凍えきった蒼い双眸が向けられた。

 

 ブリキの人形は、その能面に張り付かせた笑みを、更に歪めた。

 

 まるでようやく愛しの恋人に会えたかのような感情が乗ったソレは、霊夢からすれば不気味以外の何物でも無い。

 恐怖は霊夢の身体を鞭打ち、逃げろと訴えてきた。

 今のままではあの死者に、否、あの卓越しすぎた殺人鬼に到底太刀打ちできない。

 だが、身体を引きずる霊夢に対し、ソレはあまりにも速すぎた。

 

 ブリキは、一瞬にしてケモノへと変貌した。

 

 背を向ける霊夢に向けて、一気に肉薄する。

 ケモノ――七夜は、霊夢の背を押し倒し、その上にのし掛かった。

 闇雲にナイフが振るわれる。

 ざしゅく、と五寸ほどの刃が霊夢の左足の関節を切り刻む。骨の髄まで食い込んだ一閃は、その絶技は一瞬にして霊夢の足を不能に追いやった。

 見えずとも、切った感触により左足を見抜いた七夜は、今度は右足の関節に向けてその兇刃を振るう。

 ザクリ、と右足の意識も刈り取られる。

 

 残った右腕を動かす力は霊夢には残ってはいない。

 

 つんざく雨に打たれ、此方を見下ろす死神に怯え、寒気に震える霊夢。うつ伏せに倒され、上手く直視できない。

 

 その瞬間、ペロリと背筋を(ぬめ)り摩る感触に、霊夢の背筋が震え上がった。

 

「ひぃッ!?」

 

 既にナイフを持った手で霊夢の右腕を押さえている七夜。

 しかし、死に埋もれた霊夢を視覚する事は困難……ならば触覚で霊夢の形を把握するしかない。だが、肝心のもう片方の腕は使い物にならぬと自分で切り捨ててしまった……ならば舌を伸ばして、形を把握するしかない。

 

「い、いやッ!?」

 

 生理的嫌悪よりも先立つ圧倒的な恐怖。

 死に瀕して敏感になった霊夢の肌を、七夜の舌は滑らかになぞっていく。そして、把握する。

 やがて、その舌は、霊夢の首筋にたどり着き、把握した。

 ニヤリ、と無邪気そうに嗤った殺人鬼は左手に持ったナイフを掲げ、その凍えた蒼色に煌めく眼を霊夢の首筋へと向けた。見えてはいないが、確実にその命を刈り取れる箇所にその眼は向けられていた。

 

「私を――殺すの?」

 

 気がつけば、口はそんな風に震えた。

 天界に住む天人たちはお迎えの死神たちを追い返して自らの寿命を無視して生き続けてきた者が多いと聞いているが、それでも霊夢は思う。

 如何な死神を追い返すことはできれど、この死神の手にかかれば、そんな強靱たる意志は一振りの元に瓦解するだろう、と

 故に、この死神を説得することでしか、自らの死を回避する方法な、ない。

 

「いいの? そんな事をして――。私を殺したりしたら、幻想郷を囲む博麗大結界が崩壊して、この世界も、私も、貴方も、みんな消えてしまうのよ?

 それでも、いいの――」

 

 ――なんて、醜い。

 そんな口が零れていた己自身を霊夢は蔑ました。

 そんな命乞いをしてみた所で、結果なんて、分かりきっているのに。

 

「知らないよ」

 

 あっけらかんと、七夜は即答する。

 

「誰かが残るとか消えるとか、そういうのは俺の知った事じゃない」

「――ッ」

 

 ああ、分かりきっていた事じゃないか。この殺人鬼の在り方なんて、霊夢はもう散々思い知っている。生も死も同一と看做す死神。自らの存在の消滅すら厭わず、ただひたすらに霊夢のみを殺すためだけに自らを捨て鉢にする。そんな七夜のとち狂った行為を、霊夢はこの短い時間で腐る程見てきたではないか。

 そんな男が、今更周囲や自らの消滅に構うわけがないじゃないか。どうでもよさそうに笑った七夜は、そのナイフを霊夢の首筋向けて振り下ろした。

 

 狙うは死ではなく、肉の筋そのもの。

 死を与えるだけでは足りない、せめて、この幻想(ゆめ)が終わる最後に、その肉の切る味を思う存分吟味したい――それが生に拘らない七夜の細やかな欲望だった。

 

「―――――ッ!!!」

 

 目を思い切り瞑る霊夢。

 閉じた瞼の下から、涙が絞り出てくる。

 ――いやだ。

 その涙に込められた懇願は、頬を走り、地に吸われるだけ。天に届きなどはしない。

 ――死にたくない!

 

 その死の刃は霊夢の首筋を切り裂――

 

「――――?」

 

 未だ、痛みがある。

 痛みがあるという事は、生きているという事実に他ならなかった。

 違和感を覚えた霊夢は、重い瞼を持ち上げ、ぱちくりと開いた。うつ伏せになった身体を何とか転がせ、その覚えのある気配の主を視界に入れた。

 

「……ゆか、り?」

 

 目に入ったのは、この雨には似合わぬ日傘から覗かれるように見えた見覚えのある長い金髪だった。

 視界に入れたその光景を最後に、霊夢は世界の重力に逆らえず、そのまま意識を落とした。

 

 

     ◇

 

 

 火の点る暖炉に温められた部屋。その隅に設置されたベッドの上に寝込んでいる母親。

 それが君の知る世界の全てだった。

 君の母は病弱だった。立とうとすれば倒れ込み、言葉を紡ごうとすれば咳き込む。頑強な古巣から一人抜け出したと聞くかつての姿からは想像し難く、日に日に彼女は弱っていく。

 それでも、彼女は笑っていた。嬉しそうに、けれど申し訳なさそうに。

 子供の君はその笑顔の意味を理解する事はなかったけれど、やはり、根底の部分では悟っていた。

 もう、自分の母は(なが)くはないのだと。

 ずっと古巣で暮らしていれば朽ちる事も、老いることもなかったのに、彼女は穢れに満ちたこの星で朽ちることを善しとした。

 その細やかにも満たない幸福そうな笑顔を、君は遠くから眺めていた。

 

 その笑顔の意味を君は理解できない。

 けれど、やっぱり理解できてしまっていて、君は彼女の前だけでは自分すらも騙して、気付かない自分を演じて、彼女との時間を過ごした。

 そうして、日に日に弱っていく彼女の寝息を聞いては、影でしくしくと君は泣くのであった。

 君は世界を広く識っているわけではない。それでも、一人で生きているだけの技量は既に持ち合わせていた。

 彼女を失えば、君は孤独に生きることとなる。この不可解な能力を有効活用する世界に浸り、やがて彼女に顔向けもできなくなるだろう。そう悟っていたからこそ君は、彼女の前でこれからのことを考えようとしなかった。

 君は彼女との時間(いま)をとても大切にしていた。最後には彼女を笑って見送れるように、影でまたしくしくと泣き、普段の悲しみを洗い流していた。

 

 君は隠しているつもりであったが、やはり彼女はソレに気付いていた

 夜な夜な君の泣き声を聞く度に、彼女もまた布団の中で隠れて泣いていたということに、君は気付かなかった。

 けれど、それは仕方のない事だった。なぜなら、彼女も君と同じだった。君の前で泣き顔を見せようとなんてしなかった。

 最後に、笑って君を見送れるように、彼女もまた影で精一杯泣いた。

 

 君たちは、互いに泣き顔を見せようとはしなかったんだ。

 それでも、彼女が泣けたのは、君がいたからこそだ。君が泣いていると知ったからこそ、彼女も釣られて泣くことができたんだ。

 

 君も、彼女も、ただ不器用なだけだったんだ。

 

 

     ◇

 

 

 つんざくような鬱陶しい雨に打たれながら、咲夜は倒壊した木々が散乱する泥の荒野を歩いていた。

 見上げてみれば、空がいつもよりも遠く見えた。比喩ではない、本当に空が遠いのだ。

 まるで壺の中に落とされたかのように、周囲は暗く、見える曇りの空だけが僅かに明るい。

 咲夜は目線を空から己の手元に移す。そこには、布きれに包まれた“なにか”があった。赤い液体が内側から染みこんだそれは、七夜の腕だった。

 霊夢との戦いで負傷した七夜は自らの腕を咲夜の前で切り落とし、一瞥もせずに立ち去ってしまった。

 その直後に先の崩落が起こり、咲夜はそれに巻き込まれて地の底に落とされた。洗練された身のこなしで着地できたのはいいものの、おかげで七夜の腕を見失ってしまい、こうして何とか見つけて持ち歩いているのだった。

 泥に埋もれていたソレを拾い上げた咲夜は自らのメイド服の一部を切り取り、毛布代わりにして包み込み、こうして腕の主を探しているのだが……。

 

「何で……こう、なるの、でしょうか……」

 

 ため息を吐く咲夜。

 本当に、七夜が来てからの咲夜は散々だった。一回は首をへし折られて殺されるわ、地面に叩き付けられて気絶させられるわ、やっと追いつけたと思ったら今度は当の本人が自分の事をさっぱり忘れているわ……とにかく咲夜にとっては信じられないことのオンパレードである。

 いっそ、咲夜は泣きたくなってきた。……というよりも、泣いていいだろう。

 ああ、そうだ。これも全てあのひねくれ者のせいなのだ。

 そもそもあの捻くれ者が紅魔館にやってこなければ自分は頭を脊髄ごと引き抜かれるという無惨な殺され方をせずに済んだのだ。いや、そもそもの話あの殺人鬼があの日七つ夜と引き換えに渡したあのナイフを持ってさえいなければ、それに気を取られず首をへし折られることもなく、こんなに彼に執着する事も無かったのだ。

 彼が来てからの何もかもは彼のせいなのだ。

 

「見つけたら……覚悟しなさい……フフッ」

 

 自分でも、信じられないくらいの腹黒い笑いを浮かべ、咲夜は再び歩き出す。

 辺り一面は、死地だった。もし星が死んだ直後の光景があるとするのであれば、まさしくこれが当てはまるのではないかと咲夜は思う。

 足を速めて咲夜は七夜を探す。

 

 この鬱憤をどうにかしてもらうためにも、この異常な事態の説明のためにも、とにかく今は彼に生きて貰わなければ困るのだ。勿論、霊夢にも何故七夜を退治しようとしたのかを問いたださなければならない。

 七夜があの知性の欠片もない死者どもと同じ存在であると、なにより彼女の勘がそう告げているのであれば、七夜も少なからずこの死者たちが出現する異変に関係していない訳ではないのだろう。霊夢が動いているのだから、少なくとも異変という程度の事態には発展していると見ていい。もしかしたら、彼の正体も分かるかも知れない。――そうなれば、この胸のモヤモヤにも片が付くかもしれないのだ。

 

 だから、あの殺人鬼を探さなければ。

 そう思っていたら――異様な光景が見えてきた。

 最初に目に映ったのは、見覚えのある後ろ姿だった。

 

「貴女は……」

 

 花弁を開いた花のような形状をした日傘。大凡この雨と泥の荒野の光景には似つかわしくない。

 その主が、此方を振り向くと同時、動いた傘の奥に見えたソレに、咲夜は目を奪われた。

 

「ッ!?」

 

 全身に傷を負い、地を流して倒れている燕尾服の男――それを見かけた途端、咲夜は何故ここにスキマ妖怪がいるのかという疑問を吹き飛ばした。

 

「七夜ッ!」

 

 名前を呼び、スキマ妖怪――八雲紫の傍を通り過ぎ、咲夜はうつ伏せに倒れている咲夜へと駆け寄る。

 

「……“ななや”?」

 

 叫ばれたその名を聞いた紫は、二人を一瞥する。

 殺されそうになった霊夢は、既に救出した。

 後は、その霊夢の命を奪いかけた不届き者を排除するだけ……なのだが。

 

「……」

 

 倒れて息をしない男に必死に呼びかける咲夜。

 まるでもう二度と手放すかと言わんばかりに、あの悪魔の犬と謳われていた少女が、一人の死にかけの男に必死に呼びかけていたのだ。

 

「……いいわ。今回、半分はこの子の自業自得だし、見逃してあげる。それに――少し、()()()確認したいこともあるしね」

 

 そんな言葉を残して、妖怪の賢者、八雲紫は無数の目玉が覗く空間へと消えていった。

 

 

     ◇

 

 

「七夜、しっかりして下さい!」

 

 うつ伏せになった七夜の身体を転がし、呼びかける。

 七夜の怪我は、最悪だった。

 何故こんな身体で今まで動き回れていたのかが不思議な位だ。身体中が弾幕に抉られ、右腕は切り落とされ、その他、様々な傷が残されている。

 明らかに常人が助かるような傷ではなかった。

 それでも、私は彼がまだ生きていると信じて、呼びかけた。ついさっきまでいた妖怪の賢者の気配は既にない。七夜を放置して去って行った以上、彼女に七夜を助ける気などないなど毛頭ないのだろう。

 応急処置の道具も今は手元にはない。

 だから、私は呼びかけることしかできなかった。

 

「目を、覚まして、くださいっ!」

 

 お願いだから。目を覚まして。

 見えてなくてもいいから、私のことなんて忘れていてもいいから。どうか、命だけは無事でいて。

 そうでなければ、私は今度こそ、耐えられそうにない。

 

「お願いだから、もう、置いて逝かないで……志貴っ!」

 

 無意識に、そう叫んでいた。

 私は、最悪な女だ。もし七夜が志貴でなかったら、私は彼に志貴のことを押しつけているだけの未練がましい女に過ぎない。

 もし、彼が七夜志貴であったとして、その後どうするかのなど考えていないというのに。

 だが、今は考えている暇などない。

 私の時の力はそんなに万能なものではない。意識体の時間を止める事はできないし、時を止めて七夜を運ぼうにも、物を動かすためならばその対象の時間だけは動かさなければならない。

 時を止めて七夜から美鈴を救った時も、七夜のトドメから救っただけで、屋敷に運ぶまでに刻一刻と美鈴の命の灯火は弱っていていた。

 

 ならば、どうすればいい。

 考えろ、考えろ、考えろ、考えろ、考えろ、考えろ、考えろ、考えろ、考えろ、考えろ。

 今考えられる最善の手は、時を止めて紅魔館まで移動して美鈴に助けを求めることだろう。だが、そもそも七夜を治療できる所まで、七夜の命が持つか。

 

 いや、そもそも、七夜は今生きているのか?

 

「っ!!」

 

 片方になった七夜の手首に指を当てる。生死を確認するのであれば、呼びかけるよりも此方の方がよほど実用的だろう。

 だが、神様とは、此方の希望をこうも簡単に砕いてしまえるものなのだろうか。

 

「……脈が、動いて、ない……」

 

 頭が、真っ白になる。

 どうしていいのか分からない。生きているという確実な保証すらもが消えてしまっている。

 

「どう、すれば……ッ」

 

 その時だった。

 頭どころか、急に目の前の光景も真っ白になった。この感覚は、あの時と同じだ。さっき気絶していた七夜に触れた時と、同じような感覚だ。

 一体、どうなっているのだろう?

 そう思うや刹那、白い光景の中心に靄が出現した。靄は徐々に大きくなっていき、やがて映像としてソレは映し出される。

 

 まただ。今度は一体、何を見せられる?

 

 映し出されたのは、日が差し込む緑の庭。そこに根付いた一本の木の下。

 

 倒れている割烹着の少女、それを支えている一人の少年。

 割烹着の少女の胸には――丁度心臓が位置しているその箇所には、一振りの短刀が突き刺さっていた。

 少女の命は風前の灯火、それを支える少年の腕は悲しみに震えている。

 自身を人形だと騙る少女の目からは、灯火が消えようとしている。

 

 ――……何だか、みんな悲しいことばっかりでした。だから。痛みを感じない、人形になろうと、思ったんだっけ。

 

 出血は止まらず、目は閉ざされる。

 事切れていく己を感じながら、その少年の腕の中で、少女は懐かしんでいた。

 

 ――痛いのはイヤなんです。だから、人形になってしまえばいいと。

 

 だから、と少女は続ける。

 

 ――■■さんは、気にしなくていいん、です。人形、ですから、痛くも、怖くも、ないんです。もう、こんな、人形、一つに、■■家に、踊らされる、必要、なんてないんです……どうか、■■さんの、大切な人のところへ、行って……あげて、下さい。

 

 最後に、少女は、一滴だけ涙を流しながら、目を閉じて笑った。

 偽りの笑顔ではなく、細やかな、だけど本心からの微笑みだった。

 

 ――ありがとう、■■さん。少し、遅かった、ですけど、約束、守って……くれて……。

 

 

 少女は、それきり動かなくなった。

 

 

「――――あ」

 

 そうして、私の意識はまた、現実へと戻された。

 何故なのかは分からないが、頬を伝うナニカが目から流れるのを感じた。だが、そんな事はどうでもよかった。

 なぜならば。

 

 どくん、どくん、どくん。

 

 七夜の手首に当てた指に、微かな、鼓動が蘇っていた。

 

「七夜ッ……!」

 

 先の疑問なんて吹き飛ぶ。

 ああ、生きてる!

 七夜は、ちゃんと生きている。それだけが、今は嬉しかった。

 だが、安心できるわけではない。このまま行けば七夜は確実に死ぬ。辛うじて感じ取れた脈も事切れる寸前だ。現時点で生きているだけなのだ、事は一刻を争う。

 ならば、取る行動は一つ。

 

「絶対に、死なせませんから……!」

 

 時を止めると同時、私を中心に灰色の世界が広がる。

 目指すは、迷いの竹林。その中に位置する永遠亭という屋敷。

 かつて永夜異変と呼ばれる異変を起こした者達の集う場所へと、私は急いだ。

 

 

     ◇

 

 

 幻想の郷からは離れ、舞台は外の世界へと移る。

 

 とある場所。とある空間。時は進み、ある場面を映し出す。

 

 そこはある木造屋敷の中の一室だった。

 四本の木造の柱と、その柱の間を埋めるように掛けられた簾に四方を囲まれ、更に正面に向く簾には白紙の掛け軸が掛けられている――そんな囲いが列を成して設置されていた。

 その列を成して設置された囲いの中の一つ一つに、余す事無く薄暗い人影が見えていた。

 和式作りの部屋には天井につるされた行灯がこの空間を薄く照らし、強い光では生み出せない陽炎のごとき煌めきを生み出し、この緊張に包まれた空間を和らげる所か、むしろ闇を助長させているようにも感じた。

 

「……さて」

 

 その緊張感の中で、一番奥の囲いの中に居座っていた老人が、重い口を開く。

 

「今回、我らがこうして集った理由は他でもない」

 

『……………………』

 

 切り出した老人の声音に、周りは答えない。

 だが、沈黙というにはほど遠く、誰もが言うまでも無く今回の集会の意図を理解していた。

 

「欧州の地において起きた騒動、諸君らはどう捉える?」

 

 老人の質問に、各人たちは続けるようにして意見を発し始めた。

 

「聖堂教会。魔術協会。血を吸う鬼ども」

「我らは蚊帳の外。議論の必要性はないのではないか?」

「否、それは早計よ。二年前にも、27祖の名を連ねる死徒共がやってきたと聞く」

「前触れと捉えてもおかしくはなかろう」

「場所は三咲町。かの鬼種との混ざり者が統治する地よ」

「遠野、か……」

 

 遠野――古くからの鬼種の一族の名を聞いた各人は密かにざわめき立った。

 魔という物が存在する。自然の流れにありながら、正当な流れにあるものからは邪な輩に映り、彼らは総じて人間社会の驚異として敵対した。

 遠野は、その中でも鬼と呼ばれる種の魔の血を引く一族である。そういった魔との混ざり物の者達は“混血”と称され、純粋な魔とはまた別枠の存在としてカテゴライズされるのだ。

 

「遠野。吸血鬼。双方にどのような繋がりが?」

「10年前、反転した遠野の長男が当時の当主であった遠野槙久に処分されかかるも、反転が収まり表に復帰したと聞く」

「事実かは怪しいものよ」

「然り、二年前の吸血鬼の来訪を契機に、遠野の長男は欧州へ旅立ったと聞く。『遠野家の長男』が生きていたという事実は確かにあるのだろう。その長男が本当に遠野一族の人間なのかは置いておくとして」

「事実はどうあれ、その件においては遠野は来訪した吸血鬼を教会の犬どもと協力して処分したという。斎木の件でも、奴らは反転した斎木を売った協力者。潰すに足る理由はあるまい」

 

 混血と呼ばれる魔との混ざり者たちは、何も全員が人間から受け入れられていない訳ではない。人の血も持っている以上、人の社会の中にうまく溶け込む存在もいる。中にはその魔としての能力の有用性を示すことで、退魔側に協力する混血の一族も存在するのだ。先ほど彼らが挙げた遠野一族もまたその側に属している。

 現に、今こうして集まった者達の中にも、何人かは魔の血を宿している者が存在している。

 今回の総会は、そういった退魔の代表者たちが集う者達の話し合いである。

 

「結局。我らの今後の身の振り方は変わらん、という結論か?」

「然り。だが、今回の騒動を機に外の者どもが極東(こちら)へ多く流れ込む可能性がも否定できまい」

 

『………………………』

 

 全員が押し黙り、熟考する。

 今回の騒動で、外来の魔の者達とソレに敵対する教会、および魔術協会の情勢は大きく揺らいだ。

 それ以前から、彼ら極東の退魔組織は、多くの魔、処分対象となった混血、彼らの許可もなくこの地に根ざした魔術師共を狩ってきた。

 彼らに共通している事は、皆総じて彼ら退魔組織のテリトリーを侵したという罪状を持っているということだった。逆に、それさえ侵さない者に対しては閉鎖的な彼らも寛容になる。聖堂教会や魔術師たちが少ないながらもこの地に根ざすことを彼らが黙認しているのもソレが理由だ。

 

 だが、ここ数年、あまりにも強大な外来の魔がこの地に出入りしすぎている。

 混沌、転生者、真祖、タタリ、その他諸々。

 その直後に、今回の欧州の騒動だ。彼らの侵入を許してしまった矢先、此方にも悪影響が出ないとは限らない。

 今後の身の振り方、及び対策――議題としては単純であるが、同時に重要な事柄であるのが、今回、彼らの代表者たちがこうして集ったことからも読み取れる。

 

「既に、流れ込んでいる可能性がありますわ」

 

 突如として、男達の集う重い空気の中に、若い女性の声が響いた。

 

 熟考の沈黙は、突如としてざめめきへと変わる。

 何処からとなく響いた女性の声。老練した術理を備えた男が集まる集会において、その存在は明らかに異質だった。

 囲いが立ち並ぶ空間のその真ん中に、空間の裂け目が、開いた。

 

 覗かれるは無数の目。妖力の気が充満し、まるで世の醜さを体現するかのような無数の目が覗かれる裂け目より、一人の女性が姿を現した。

 

「……これは、これは……」

 

 囲いの中にいた各代表者達が一斉に構え出し、警戒する中で、奥にいた老人だけが、慌てることもなく、口を歪めた。

 警戒、恐怖、煩悶――多くの感情が交差するなかで、この集まりの中でも一番の老練であった男は、彼女の名を呼ぶ。

 

「妖怪の賢者が、よもやこのような場所にどのような用件か。のう――八雲紫殿」

 

 八雲紫――老人がその名を口にした途端、周囲に代表者達は目に見えて動揺した。

 曰く、妖怪の賢者。曰く、境界を操る化け物。曰く、幻想を体現する魔そのもの。

 実際に目の当たりにするのが初めての者もいるのか、彼らのざわめきは止まらない。彼らと敵対関係にある魔の代表者の一人が、こうして退魔の代表者たちが集う集会の中に現れるなど、異常事態、という言葉では済まされない。

 明らかに、協定違反とも取れる行動だ。

 各代表者たちは、その中でも特に混血の者達は、その格の違いを明確に感じ取り、恐怖した。

 

 だが、それ以上に困惑した。

 彼らは、鬼と呼ばれる強力な魔すらも完封する陰陽の術理を有する退魔のスペシャリストである。ましてやその代表者たちの集う場だ。

 いくら妖怪の賢者といえど、そのような場に姿を現すことは自殺行為以外の何物でもなかろう。

 

「会合への突然の乱入、心からお詫び致します。ですが、それを偲んで私の頼みを聞いてはくれませんか、外の退魔組織の皆様?」

 

 そんな彼らの困惑を察した八雲紫は、彼らに向け詫びの会釈を入れ、囲いの中の代表者地に頼みを入れる。

 

「……よかろう。此奴の席を用意してやれ」

 

 老人は、彼女の頼みをあっさりと受け入れた。

 傍にいた老人の従者は困惑しつつも、丁寧に彼女に新しい簾の囲いと席を用意する。

 感謝の意を込めて頭を下げた紫は用意された囲いの中に入り、席に座った。

 

「――して、既に外の者が流れ込んでいる、と申したが。それは真か、妖怪の賢者?」

「はい、その可能性が。……ですが、その前にあなた方に確認したい事があるのです。よろしいですか?」

「申してみよ」

 

 では、と紫は一息軽く吸った後、彼らに問うた。

 

(なな)()、という(あざな)に聞き覚えはあるでしょうか?」

 

 七夜――その単語に、一連の面々が戦慄したのは、言うまでもなかった。

 



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