挑発探偵 (石黒ニク)
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椛館殺人事件/(非)日常編
紅天狗岳の紅葉


「いやはや、それにしても紅葉が素晴らしいね! 見事なまでに圧巻だよ!」

「そりゃあ、この紅天狗(べにてんぐ)岳は紅葉が咲き誇るところで有名ですからね。というか、見事なまでに圧巻って二重表現ですよね?」

「まあまあ、細かいことはいいじゃないか。今日はせっかくのシルバーウィーク初日なんだ。気晴らしに一緒に紅葉狩りでもしようじゃないか、近衛(このえ)クン!」

「気安く呼ばないでくれますか、まだ出会って1時間も経っていないでしょ」

 

 この、やけに馴れ馴れしい女性とは、山の中腹辺りで出会った。方向音痴らしく、道に迷っていたところで遭遇。目的地も同じようなので、一緒に向かっている。

 

「苗字くらい気軽に呼ばせてくれよ。アダルトビデオの世界では出会って5秒で挿入することもあるんだし、私のほうがどう考えても健全の極み乙女じゃないかっ」

「初対面の人間に向かってアダルトビデオの話ですか……肝が据わっていますね」

 

 それはさておき、この紅天狗岳はどこを見ても紅葉、紅葉、紅葉で、日々の業務に追われてくすんだ心が洗われる美しさを帯びている。本当に来てよかった。

 ――この人とさえ、出会わなければ。

 

「うん? どうしたんだい、近衛クン。私の顔に何か付いているのかな?」

「いいえ、何にも。それより、一ノ瀬(いちのせ)さんはどうして方向音痴なのにひとりでここに? ちょっとした自殺でもしに来たんですか?」

「ちょっとした自殺ってなんだよ。するとしたら、自室でオーバードーズでもするよ……いやね、ひとり誘ったんだけど、急な用事で来れなくなっちゃって。キャンセル料もバカにならないし、仕事も休みで暇だし、私だけでも来ることにしたんだ」

 

 仕事ってことは、このヒト。成人しているのか。背丈も小さいし、服装も山登りに適していないし、そのくせ荷物は多いし、もっと若いのかと思った。

 

「そういう近衛クンは何のために椛館(もみじかん)に? 長年付き合っていた彼女と別れたから、ちょっとした自殺でもしに来たの?」

「ちょっとした自殺ってなんだよ。たかがそんな理由で命なんて絶ちませんよ……でも僕の場合、意味合い的には傷心旅行に近いかもしれないですね」

「つまるところ、傷心旅行か。へえ、じゃあお姉さんが癒してあげようか? このナイスなボディと洗練されたテクニックで、キミを確実に昇天させちゃうよ!」

「お構いなく。そういうのは大丈夫です。それに、僕はロリコンじゃないので」

「むらっ……あ、SE間違えた。むかっ! 私のコンプレックスをバカにしやがって! キミが椛館でなかなか寝付けないときに耳元でお経を唱えてもいいんだぞ!」

「なんですか、その地味な嫌がらせは……」

 

 そうこうしているうちに、目的の屋敷が見えてきた。斜め上の木々の間から紅蓮の屋根が窺える。紅葉と夕焼けのグラデーションが眩しい。一ノ瀬さんのところからでは竹馬にでも乗らないと見えなさそうだけど、口に出して言うのは気が引ける。

 

 

「まったく。遅いよ、近衛クン。もうすっかり日が落ちてきたじゃないか」

「はあ、はあ……僕を置き去りにしてダッシュで消えていったヒトに言われたくないですね。一ノ瀬さんってひょっとして、学校のマラソンで友だちと一緒に走る約束をしておいて、ゴールが近くなると速攻で破っていたんじゃないですか?」

「よく分かったね。ひょっとして、私の高校時代に教室から制服でも盗んだ?」

「話が飛躍していて、よく分からないですね。走りすぎて、もともと容量の少ない脳みそまで丸ごと筋肉になりましたか? 僕より小さいのに体力バカなんですね?」

「そこまで言わなくてもいいじゃん。制服に欲情するくらい、私に執着しているのかと思っただけだよ。なにその冷たい眼差し。キミってヒト殺したことあるの?」

 

 軽蔑していただけなのに、なんだそれ。屋敷の目の前に来るのにどれほどの崖を乗り越えただろうか。むしろ一度も休まずに走り切るほうが、よほどクレイジーだ。

 

「まあいいや。早くなかに入ろうよ。あ、いまのなか(・・)は屋敷内って意味だからね。決して、私の秘めたるダンジョンのことじゃないよ。私は尻軽じゃないからね?」

「誰も誤解していないですよ、そんなの。あまりふざけたことを言っていると、後ろから膝カックンしますよ。僕の膝カックンは日本代表を唸らせる代物ですからね」

「なんだその不思議な経歴。そんなことより、近衛クン。私をおぶってよ」

「どうやら、僕の、超高校級の膝カックンの餌食になりたいみたいですね」

 

 屋敷まで数メートルというところで、面倒なことを言ってきた一ノ瀬さんを脅し、半ば強引に歩かせる。疲れていたのは彼女も同じだったらしい。



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チェックイン

「……ふむふむ。私たちが最後のチェックインみたいだね。受付に鍵がふたつしかない。それに、宿泊リストによると、今日は私たちを含めて6人も居るみたいだよ」

「意外と多いですね。ちょっと見せてもらってもいいですか?」

 

 

【椛館・宿泊リスト】

14:57~蜜屋彩華

15:38~茂田熊三郎

15:55~木村翼

15:55~金橋かしわ

16:18~一ノ瀬ゆかり

16:22~近衛竜彦

 

 

「名前からして男女それぞれ3人っぽいね。テ〇スハウス的な展開を期待しちゃうよ! 近衛クンも傷心旅行のために来たのなら、心躍るでしょ?」

「書いていて思いましたが、宿泊リストは手書き制なんですね。宿を取るときはネットの予約だったのに、ずいぶんとアナログとデジタルが入り混じっていますね」

「……それはすみません。なにしろ、まだ屋敷の経営に慣れていなくって」

 

 背後から声がして振り向くと、そこにはゴシックロリータ調の給仕服に身を包んだ女性が立っていた。髪は頭の上へ団子のようにまとめていて、きりっとした目つきが印象的な、美しい人だ。

 

「経営ってことは、あなたがここのオーナー? まだお若いのに大変ですね?」

「おっと。さっそく口説きに掛かっているね、近衛クン。男はみな狼という定説は間違っていなかったんだ! オーナー、気を付けて。性的な夜食にされちゃうよ?」

「え、えっと……?」

「ああ、そのヒトは無視してください。ホラッチョなので」

 

 頬を膨らませ、地団駄を踏みながら怒る一ノ瀬さんは本当にオトナとは思えない対応をしていた。おまけに初対面の人にさえ、下ネタ攻撃をかましているし。

 突然の低俗な物言いにオーナーも困っているじゃないか。一ノ瀬さんを心のなかだけで侮辱しつつ、やっぱり現実でも鋭い視線で憐みを向けておく。

 

「そ、そういえば自己紹介がまだでしたわね。わたくしは蜜屋彩華(みつやさいか)と申します。できればオーナーなどではなく、蜜屋と気軽に呼んでくださいませ」

「ご丁寧にどうも。僕は近衛竜彦(たつひこ)です。そしてこちらのちんちくりんは――」

「ちんちくりんって言うな! 夜な夜な枕元に立って5秒に1回の頻度で髪の毛を1本ずつ抜いてやろうか!? あ、私は一ノ瀬ゆかりです。よろしく、蜜屋さん」

 

 なんだ、その心の狭い嫌がらせは。そんなことを実践されたら、1分で12本も討伐されることになる。老後に備えて髪の毛は大切に育てていきたい。これからも。

 

「ええ、宜しくお願い致します。――ところで、おふたりはこの椛館に来るのは初めてでいらっしゃいますか?」

「私は完全初見だけど、近衛クンは?」

「僕も初めてですね。たまたま宿泊サイトを読み耽っていたら、この紅葉がいっぱい綺麗に咲いているところを、その紹介ページの写真で見て感動したんです」

「それはオーナー冥利に尽きますね。このシーズンはちょうど紅葉狩りの時期で、紅天狗山への観光客も8割増しですのよ。宿泊する方は多くありませんけどね」

「え。もしかして、紅天狗山も蜜屋さんの土地なんですか?」

「ええ。正確には祖父のものですが、24歳の誕生日プレゼントとして、この椛館と紅天狗山の一部を譲り受けましたの。わたくしは月に行ける券だけでいいと言ったんですけどね。おじいさまってば、孫のわたくしが可愛くて仕方ないみたいでっ」

 

 誕生日プレゼント、だって? 規模が違いすぎる。さすが若きオーナー。月に行ける券だけではなく、土地と屋敷まであげるなんて、彼女の祖父もすごいヒトだな。

 

「……え。っていうか近衛クンって、ここ初めてだったの? 紅天狗山がどうたらって説いていたのは、付け焼き刃の知識を自信ありげにひけらかしていただけ?」

 

 いちいち引っ掛かる言い方だ。確かに徹夜漬けで覚えた穴だらけの情報だけど、年甲斐もなくキレそうになるのを、改めて屋敷のなかを見回すことで抑える。

 椛館の内部は、紅葉の朱色を基調とした絨毯や壁紙がどこまでも広がっており、外の景色を彷彿とさせるデザインになっている。いま僕らが居るホール中央に聳え立つ大きな階段と、天井にある楓の形をした豪華絢爛なシャンデリアが印象深い。



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塩よりも薄い

「そういえば、一ノ瀬さんはどういった目的でここに来たんです?」

 

 上のフロアへとつながる大きな階段を上りながら、蜜屋さんがぽつりと疑問を口にした。会話がいったん途切れ、気まずい空気が流れていたので、ちょうどいい。

 

「ん~と、近衛クンにはさっき話したんだけど、ペア旅行の相手が急な仕事でキャンセルしちゃってさ。ほかに行く相手もいないし、私の休日はおよそほとんどが不倫した芸能人を叩くだけで退屈だから、日々のリフレッシュも兼ねてさ」

「やっぱり悪趣味ですね。だいたい、芸能人の不倫があなたになんの関係が?」

「悪趣味とは失礼だな! あらかじめ言っておくけど、私は『叩く』という行いを正当化しながら、画面を眺めている現実生活非充実な低賃金野郎とは違うからね?」

「ものすごい偏見じゃないですか……セン〇ンス・ス〇リングもびっくりですよ」

「ちょっとしたクイズを出そう、近衛クン。家庭を持ちながら、他のオスやメスに手を出してしまう性欲ファンキーを俯瞰することで、見えてくるものは何だと思う?」

 

 急に変なコーナーが始まった。屑を鑑みることで見えてくるものなんか、間違いなく碌なものじゃないだろうが、暇を持て余しているので、とりあえず思考してみる。

 

「えっと、他人の失敗から学ぶってことですか?」

「それもあるけど、やっぱり芸能人の不倫って面白いんだよね。謝罪会見でいくら御託を並べても、けっきょく性欲でしかないってところが最高にクールじゃない?」

 

 私は芸能人の不倫を面白いコンテンツとして見ているよ、と一ノ瀬さんは続けた。暇つぶしに頭を働かせた僕が愚かだった。蜜屋さんも声を失っている。

 

「……確かに傍から見ていると面白いですわよね。人間のオスやメスとしての本能が動物的な滑稽さを内包していて、節操のない獣が足掻くさまは特に見ものです」

 

 ――と思っていた僕が愚かだった。まさか蜜屋さんも同類だったとは。ドン引きしていたと思ったら、同じ穴の狢を見つけて震えていただけだったみたいだ。

 

「お。蜜屋さんも私と同じタイプなんだ! イメージ的にもっと和やかなやつが好きなんだとばかり。私ってラブコメとかは割と好きなんだけど、蜜屋さんはどう?」

「ラブコメですか……あの予定調和でワンパターンなやつですよね? わたくしはどちらかといえば、殺伐系が好きなので、不倫以外の趣味は合いませんのね」

 

 ――と思っていたら、すぐに友情決裂していてびっくり。

 

「おや、蜜屋さん。新しい客人かい?」

「翼きゅん……? その人たち、だれ?」

「うわっ、熱盛カップル……! ええ、まあそうですけど、なにか?」

 

 階段を上がってホールに出ると、腕組みをしてバカみたいに密着し合っているカップルが迎えてくれた。高校生くらいだろうか。どちらもフレッシュな印象にある。

 蜜屋さんの、彼らに対する反応が、もはや塩よりも薄い水なことには触れない。

 

「それなら、自己紹介をしておかないとだ! オレの名前は木村翼(きむらつばさ)! 唯一無二のイケメンで、世界一の幸せ者さ! なんてったって、隣に天使が居るからね!」

「翼きゅんがやるなら、わたしも! わたしは金橋(かなはし)かしわ! 一世一代の美少女で、世界一の幸せ者よ! なんてったって、隣に神さまが居るもん!」

 

 なんだ、このふたり。独自の世界観を築き上げている。蜜屋さんが熱盛カップルと揶揄したのも頷けるレベルのバカだった。あと、変な決めポーズをするな。

 

「すごいね、このバカップル。なんというか、すごい以外の感想が出てこない」

「そうなんです。出会ったときから、これ(・・)で。わたくし、呆れて何も言えないの」

 

 悪いヒトたちではなさそうだが、頭が良くなさそうだ。一ノ瀬さんとほとんど同じで、関わってはいけないタイプに分類される。なるだけ視界に入れたくない。

 

「かしわ……! やっぱりきみはオレのマイスイートマイマイスイートポテトハニースイートマイポテトハニーポテトマイポテトポテトぽたぽた焼きだよ!!」

「翼きゅんこそ、わたしのスーパーデラックスウルトラスーパーデラックストリプルデラックススーパーレインボーロボボプラネットスターアライズだもん!!」

「いや、きみこそオレのイシスウアジェトセクメトセルケトソプデトタウエレトテフヌトネイトネクベトヌトネフテュスバステトハトホルへケトマアトムトさ!」

「そんなに褒めないでったら! 翼きゅんなんて――」

 

 コーヒーショップのオーダーあるいは般若心経みたいな、愛の言葉を連ねるバカップルはさておき、僕らは蜜屋さんの案内で自分たちの部屋へと歩を急ぐ。

 

「はは……なんだか疲れました。昨今の学生カップルはあんな感じなんですね」

「いやいや。あれはどう考えたって特例でしょ。女神の名前をすらすら言えるバカップルなんてそうそう居ないってば。それに、オリジナルのポーズまでしてきたし」

「あんな恥ずかしいこと、学生のうちじゃないとできませんよね。きっと、あのふたり、別れたあとに顔を真っ赤にしますよ。消えない黒歴史を刻んだんですから」

「学生じゃなくても普通はしないよ、そんなの。たとえるなら、ハロウィンで仮装して街を汚すようなもんでしょ。そういう輩は例外なく火葬されればいいんだ」

「ずいぶんと手厳しいですね、一ノ瀬さんって。まあ、僕もそれには同意しますけど」

 

 たぶん、プリクラでも同じことをしているのだろう。履歴が残ることも知らずに。全世界に公開されていることも知らずに。そう考えたら可哀想になってきた。



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17分53秒

「それじゃあ、わたくしは夕食の準備がありますので、これにて失礼させていただきます――では、素敵なシルバーウィークをお過ごしくださいませ」

「蜜屋さん。案内してくれてありがとうございます」

 

 クールな笑みを浮かべ、彼女は階段を下りていく。若きオーナーは忙しいみたいだ。それなのに僕ときたら、ここまで来るのにもう疲れた。夕食まで寝ようかな、と馳せるくらいに。もちろん、個性が強い人たちのせいでもある。

 

「さて、近衛クン。ここに鍵がふたつある。7号室と8号室だ。どっちがいい?」

「そんなの、どっちでもいいですよ。なんなら、見てから決めます?」

「じゃあ、広いほうが私の部屋ね。きみには余りものをあげようじゃないか!」

 

 どちらもあまり変わらないと思うけど、一ノ瀬さんは子どもみたいに燥ぎながらふたつの部屋を吟味して回った。多少の違いはあれど、広さはほとんど同じ。

 

「うーん。もうめんどくさいから相部屋にする?」

「それだけは絶対に嫌です。いろいろあって疲れたので、僕はこれで」

「あっ、せっかくの乙女の好意を……! さてはきみ、童て――」

 

 彼女がくだらないことを言っている間に、僕は8号室の鍵を手に取り、部屋をあとにする。自室となった余りものの部屋へと入るのと同時に、ため息を吐く。

 ――何なんだ、あの人は。

 そのまま荷物をベッドへと乱暴に投げ、壁に凭れ掛かる。もともと人間関係が嫌になってわざわざここまで来たのに、どうしてあんなに馴れ馴れしいんだ。

 なんだか神さまみたいな、得体のしれないものがこう教えてくれているみたいだ。『人間である以上、人間からは逃れられない』――自分でも何を考えているんだか。

 意味のない問答を頭のなかで悶々と流しているうちに、ドアベルが鳴った。ふと一ノ瀬さんの顔が浮かんだが、無視する訳にもいかないので、ドアを開ける。

 

「やあ、近衛クン。20分ぶりだね。正確には17分53秒だけど、20分でいいよね?」

「……なんの用です? せっかくゆっくりしていたのに」

 

 蜜屋さんだったらよかったのに。やっぱり彼女だった。

 

「まあまあ。疲れているのも分かるけど、私の相手をしてくれよ。あ、いまの発言に性的な意味はないからね? あくまで暇を潰せるような相手っていう意味でっ」

「そんなの、補足されなくても分かりますよ。暇ならゲームでもすればどうです?」

「遠出したのにわざわざゲームなんてしないよ。ねえ、いま暇?」

「確かに暇ですけど、あなたとは過ごしたくないです」

 

 この人と居ると、とても疲れる。あの人たち(・・・・・)と比べるとだいぶマシだけど、やっぱりいまはひとりが良い。蜜屋さんには悪いけど、夕食は要らな……

 

「……それは嘘だね。きみはいま、人間の温もりを求めている。違うかい?」

 

 ふざけた発言だ。僕のことも知らないくせに、何を出しゃばっている。行き場のない怒りやイラつきを隠したまま、あくまで平生を装って冷静に答える。

 

「……あなたに何が分かるんです? まだ出会って3時間くらいでしょう?」

「過ごした時間は関係ないよ。私はね、基本的に困っている人が居たら助けるタイプなんだよ。初任給をすべて赤い羽根募金に使おうとしたこともあるくらいにね」

 

 それはどうなんだろう。辛うじて穏やかな内面で吟味する。信憑性がない。それに、この人はいつだってふざけている。どうしていま真剣な眼差しで僕を見るんだ。

 

「だいたい僕が困っているだなんて、決めつけもいいところですよ」

「決めつけなんかじゃないさ。ちゃんとした根拠に基づいている」

 

 根拠だって? そう問う前に一ノ瀬さんは口を開く。

 

「きみは冷静に努めているようだけど、感情が顔に出ているんだ。ポーカーフェイスをしているつもりなんだろうけどさ。さっきだって私が訪ねたとき、嫌な顔をした」

「……よく言われます。ババ抜きも人狼ゲームもそのせいで勝てないんです」

「悲しかったよ、私は。まさか魔法石を7個使うガチャで☆5のキャラが出てきたときみたいな顔をされるとは。私なんて可愛いし、当たりだと思うんだけど」

 

 顔面だけで言ったら、たぶんそうなんだろう。しかし、この世のなかは往々にして、見た目よりも内面が重視されることが多い。綺麗な薔薇には棘があるように、虫の食い荒らす野菜が美味しいように、一ノ瀬さんは残念な女性なんだ。

 

「とにかくさ。悩みがあるんだったら、私に話してみなよ。カウンセリングは専門職じゃないし、よく分からないけど、捌け口にされるくらいなら任せてよ」

 

 ――もちろん、性的な意味じゃないよ。

 その後付けさえなければ、僕は完全に一ノ瀬さんと連絡先を交換する仲になっていた。彼女の言葉を借りて補足するなら、これももちろん、性的な意味じゃない。

 

「……はあ。厚顔無恥とは、あなたのためにあるような言葉ですね、まったく」

「お。ツンデレで言うところのデレかな? そしてそのままベッドに――」

「そんなことを言うなら、いますぐドアを閉めてあなたの足の小指をポアしてもいいんですよ? それとも、僕の膝カックンをお見舞いしてあげましょうか?」

「受けたくないと言ったら嘘になるけど、いまはきみの心情を吐露するシーンだから、自己主張は控えめにしておくよ。それに、小指ポアだけは地味に痛いから嫌」

 

 一ノ瀬さんがふざけているおかげで、なんだか気が楽になった。もしかしたら、その効果を狙っていたのかもしれない—―なんて、考えすぎだよな、きっと。



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オーバーリアクション

「実は僕、とある企業に勤めていたんですけど、辞めたんです」

「いま流行りのブラック企業ってやつ? 低賃金過酷労働でお馴染みの?」

「お馴染みかどうかは知りませんけど、ブラックなのは違いないですね」

 

 ただ、給料や福祉厚生なんかはそれなりに充実していて、過酷だったとはいえ、慣れたら難しくない作業だった。単純で、誰にでもできるような退屈な――。

 

「社長がワンマンパワハラ野郎で、従業員のほとんどが喫煙者で、なにか問題が起きたら僕のせいになるんです。新入社員の目の前で怒られて、さんざんでしたよ」

老害(クズ)なんて、みんなそんなもんだよ。非のない人にあの手この手で理由をでっちあげて責任を押し付けるんだ。私なんてほぼ毎日が口喧嘩パレードだったよ?」

「口喧嘩、ですか……すごいですね。僕なんて何も言い返せませんでしたよ」

「どうして? 自分は何も悪くないんでしょ? 脳死で無意味な駄文を聞かせられてムカつかなかった? 私ならむしろ10倍くらいにして返すけどね。まあ、そのせいで辞職に追い込まれたけど、いまでもその選択は間違っていなかったと思うよ?」

 

 ふざけているだけの人かと思ったけど、意外に芯は通っているんだな。辞職に追い込まれたエピソードが気になるが、これ以上のプライバシーの詮索はやめておく。

 

「ありがとうございます、一ノ瀬さん。おかげで少しだけ楽になった気がします」

「それは良かった。じゃあ、私の相手をしてくれるよね?」

「ごほごほ……持病がぶり返しちゃったので、今日はこの辺で」

「仮病なのは分かるよ。ねえ、そんなに私ってめんどくさいかな?」

 

 面倒というより、関わりたくないというのが、本心に近い。悩みを聞いてもらった身でおこがましいのは承知だが、夕食までの時間はひとりで過ごしたい。

 

「でもさ、近衛クン。よく考えてみてよ。合コンとか婚活パーティーで理想の条件に見合う相手を必死に品定めしている29歳独身OLよりかは幾ばくかマシじゃない?」

「それ、誰のことを言っているんです? やけに限定的ですが」

「お願いだよぅ。知らない場所にひとりで居るのが心細いんだよぅ~」

「うわっ、急に抱き着かないでくださいよ……気持ち悪い!」

 

 毛虫みたいにまとわりつく一ノ瀬さんを無理やり剥がす。ふいに学生時代のアルバイトを思い出す。アイドルの握手会だったっけ。女性アイドルに群がる不潔なおじさんたちを剥がしていた。――そういえば、あれは汗くさくて最低な現場だったな。

 そのぶん、一ノ瀬さんは身体的な意味でまともだ。汗くさくないし、清潔だ。あえて言うなら、不潔なおじさんたちとの共通点は抵抗してくるところだろう。

 

「さすがは、近衛クン。大抵の男は抱き着いただけで委縮するというのに、ダメージゼロだ。まあ、彼らのシンボル()だけはむしろ、いきり立っているんだけどね」

「あの、一ノ瀬さん。自分でも理解していると思うんですけど、下ネタはやめたほうが良いですよ。それで喜ぶのは、性癖が歪んでいる買春おじさんくらいです」

 

 言いながら、少しだけ部屋を片付け、準備を済ます。この人との問答はRPGで言うところの王さまとのやりとりに酷似している。いつかのパワハラを想起させるが、一ノ瀬さんのそれはまだかわいいほうだ。

 

「さあ、近衛クン。探索だ!」

「――うぎゃあ!」

 

 一ノ瀬さんが扉を大げさに開けると、悲鳴のような声が聞こえた。開け放たれた扉の先には、頭頂部の眩しい初老の男性が倒れているのが窺える。どうやら、彼女はドアの前にちょうど居た彼に、悪質なタックルをしてしまったらしい。

 

「す、すみませんでした! お怪我はありませんかっ」

「なんなんだ、お前ら! 社会の功労者に向かって出会い頭にひどい仕打ちだな!?」

 

 咄嗟の勢いで初老男性の下に駆け寄ったが、差し伸べた手を払いのけられ、おまけに傲慢な暴言を吐かれた。なんだか募金したお金を横領されたかのような、やるせない気持ちになる。いつかのパワハラを想起させるし、精神衛生的に最低だ。

 

「謝らなくていいよ、近衛クン。どちらかといえば、悪いのは私のほうだしね。それに、彼は大丈夫だと思うよ。どうせ、老害にありがちなオーバーリアクションさ」

「生意気なメスガキめ! 俺さまは被害者だぞ!! 誠意をもって謝れ!!」

「怪我もしていないと思うよ。いや、毛がないと思うよ。自明だけど」

「この頭は限りある人生のなかで、俺さまが優秀な頭脳を使ってきた証拠だ! 毛の抜け切っていないメスガキには永遠に分からないことだろうがな!!」

「出た~、年功序列マウント! 人生の先輩ぶる老害に限って、そういうつまんないことほざくんだよね。あー、やだやだ。それ、あんたの頭くらい寒いよ?」

 

 こうして、一ノ瀬さんと初老男性の不毛な争いがゴングを鳴らしたのだった。止める気は起きない。いまとなってはもはや、両成敗でいいじゃないのかと思う。



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フルーツカクテル

「ふう、良いストレス発散になったよ。老害と言い争うのは私の日課だったしね」

「一ノ瀬さんって、性格がだいぶ歪んでいますよね。芸能人の不倫で嘲笑ったり、初老の方との口喧嘩に娯楽性を見出したり……僕でよかったら相談に乗りますが」

「心外だなあ、口喧嘩を甘く見てもらっては困るよ。英会話だって、それだけで相手を罵ることができたら一人前だって言うし、意外と頭を使うんだよ?」

「あなたのひどい口喧嘩と、セレブの嗜みである英会話を同列に扱わないでください。ス〇ードラー〇ングとN〇VAが可哀想です。謝罪してほしいレベルで」

 

 あのあと、初老の男性が彼自身の小汚い汁で顔を濡らすまで口喧嘩は続いた。できればそんな不快感がマックスむ〇いで、グロテスクな場面を見ていたくはなかったけど、彼女の多彩な罵詈雑言は聞いていて、爽快感がありあまったのだった。

 

「それで、どこから散策します? 個人的にはワインセラーを見てみたいですが」

「じゃあ、そこにしよう! 2階は個室ばかりで、特に面白みもないし」

 

   *

 

「お、すごいですね、ワインが壁一面にありますよ。しかも、ボルドー産まで。まあ、僕はワインよりもぶどうジュースのほうが好きですけどね」

 

 蜜屋さんはワインが好きなのかな。もはやワインの倉庫と化している空間を舐め回すように眺め尽くす。どこもかしこもワインだらけで、なんだか怖くなった。

 

「おや、近衛クン。きみはお酒が呑めないのかい? 奇遇だね、私も実は――」

「――呑めない訳ではありませんが、ワインを呷るくらいだったら、果汁100%の甘いぶどうジュースを飲んだほうが幸せな気分になるんですよ。わりと安価ですし」

「ちぇっ……なーんだ、呑めるタイプか。あーあ、期待して損した。変にシンパシー感じちゃったよ。どうせ、私なんてフルーツカクテルしか呑めないメスだよっ」

「ええと、すみません。期待に沿えなくって。フルーツカクテルなら僕も好きですよ。ちょっとしたジュースみたいで、呑み会のときは酒の合間によく飲みます」

「ジュースじゃないよ、お酒だよ! なんだよ、バカにして!! 私なんか少し呑んだだけでおかしくなっちゃうもん……私だってみんなと楽しくしたいよっ」

 

 一ノ瀬さんにも可愛いところがあるんだな……お酒の耐性は個人差があるから仕方ないことではあるんだけど、彼女の機嫌を損ねる態度を取ってはいけなかった。

 猛省。さもないと、僕ですら彼女の口喧嘩のターゲットにされかねない。彼女の口喧嘩スキルは、凡人の僕ではとうてい適わないほどの恐ろしいものだった。

 

「ええと、その……落ち込むことはありませんよ、一ノ瀬さん。ワインにも呑みやすいものがありますから。詳しくは知りませんが、蜜屋さんに相談してみては?」

「蜜屋さん、か。確か厨房で夕食の準備をするって言っていたね。善は急げとも言うし、さっそく行ってこようかな! 近衛クンも付いてきたかったら、ご自由に!」

 

 言いながら、一ノ瀬さんはワインセラーを飛び出し、目的地へと向かった。まったく、そそっかしい人だ。高級なワインもあるはずなのに、割ったらどう落とし前を付けるつもりなのだろう。まさか僕を生け贄に? 怖いので僕も外へと出る。

 

「やあ。きみはさっき2階のホールで会ったよね。僕たちから自己紹介をしたっきりだったから、良ければ名前を教えてもらえるかな。同じ宿泊客として、ね」

 

 一ノ瀬さんを追いかけて大広間へ入ると、熱盛カップルの片割れが居た。女性のほうは居ないみたいだけど、どうしたんだ。離れたら死ぬタイプに見えたけど。

 

「ああ、そういえばまだ名乗っていませんでしたね。僕は近衛竜彦って言います」

 

 よろしくの意味を込めて手を差し伸べる。あの初老男性と違って、彼には相応のマナーが身についているらしい。女神の名前を叫ぶ変態の面もあるのに不思議だ。

 

「敬語じゃなくって大丈夫ですよ。僕のほうがきっと、年下ですから」

「ふーん、何歳なの?」

「高校生です。高校2年生」

 

 想像したように彼は高校生だった。そりゃあ、そうだ。成人したカップルが変なポーズで愛を語り合うなんて、そんな寒くて痛いことできるはずがない。

 しかも、学生の身でシルバーウィークに旅行とは、だいぶマセている。でも、楽しそうだな。目の前でいちゃつかれたらムカつくけど、TPOを弁えたら問わない。

 

「高校生なら、年上の……しかもオトナに向かって『きみ』って話し方は良くないと思うけどね。6歳も離れているんだから、それなりに敬意を示してもらわないと」

「きゅ、急に年上風吹かせてきた……怖い」



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勇気を振り絞って

 高校生に年上の威厳を見せつけたあと、思い出したように僕は目的地を厨房へと定める。見取り図によると、厨房は大広間と繋がっているらしいが、一ノ瀬さんは辿り着けているだろうか。方向音痴でもさすがに、迷うなんてことはないはず。

 目的地へ近付く度に美味しそうな匂いが強くなる。シチューっぽい。蜜屋さんの手料理だと思うと、心が躍ってしまう。可憐な女性のお手製料理なんて初めてだ。

 

「おや、豪勢な料理だねえ。これ、みんなキミが作ったのかい? すごく旨そうだよ。オーナーさんも若いのに偉いねえ。感心、感心!」

「ええ、まあ……。あの、言いにくいんですけど、まだ作っている最中なので出ていっていただけますか。わたくし、作業風景を見られるのは好きじゃないんです」

「それなら、俺さまが手伝ってあげようじゃないか! なあに、心配は要らないよ。こう見えても長いひとり暮らしをしているから、料理スキルが妙に高いんだ」

 

 厨房へとつながるドアの隙間から聞こえた声に唖然とする。あの初老男性――宿泊リストと照らし合わせるのなら、茂田(しげた)さん、か――蜜屋さんが鬱陶しそうに振る舞っているのに、まったく気が付いていない。いったい、どこまで傲慢なんだ。

 

「出ていってください! あなたの料理にだけ塩の代わりに砂糖を入れますわよ!!」

「何なんだね、キミは! せっかく、この俺さまが手伝ってやろうって言っているのに! キミも俺さまを拒絶するのかね!? やっぱり若いオスが良いのか!?」

 

 自分が悪いくせに怒鳴るなんて、愚の骨頂もいいところじゃないか。一ノ瀬さんの言葉を借りるなら、茂田さんは紛れもなく、老害の称号が相応しい。まさに、あいつ(・・・)と同じだ。

 

 意味もなく老害に責められている蜜屋さんが可哀想に思えてきたので、勇気を振り絞ってひとつ歩を進める。――怒鳴り声の前で拳を握るような思いはたくさんだ。

 

「その辺にしていただけますか、茂田さん。蜜屋さんが困っていますよ」

「なんだ、若造。また喧嘩か!? あのメスガキの保護者か何か知らんが、社会に貢献したこの立派な頭をコケにしたのは、まだ許していないからな!!」

「――よく言うよ。一ノ瀬さんに泣かされたのに、まだ凝りていないんですね」

 

 心のなかだけで言おうとした言葉が、勢い余って口を衝いて出てしまった。僕というやつは、一ノ瀬さんの影響を受けすぎなんじゃないのか。まだ出会って1日も経っていないのに。

 

「なんだと!? 貴様はいま、年上の俺さまに向かって何を言った? あ!?」

 

 昔の、数か月前の僕だったら、この時点で身体を震わせながら、平謝りしていただろう。相変わらず身体は震えているけど、でも謝るなんて真似はしていない。

 ――だって、悪くないから。

 

「保護者じゃありませんよ。もちろん、恋人でもないし、親しい間柄でもないですが、彼女のことを意味もなく悪く言うあなたは、最低の極み禿頭ですよ?」

「お前も言いやがったな、コノヤロー! だからこの頭は人生で苦労してきた証だって言ってんだろうが!! 禿頭とかSNSのいいね並に気軽に言ってんじゃねー!!」

「大声でみっともないですね。ふつう、その年代であれば、冷静な口調で諭すような話し方をするべきでは? それから、蜜屋さんが作ってくださっている料理にあなたの汚い唾が飛ぶのが不快なので、黙って出て行ってくれますか」

「だからこの頭は努力の証だと……くそ、若いメスは若いオスに媚びるのか」

 

 なんだかよく分からないことをぼやいたと思ったら、急に厨房を去っていった。今度はぐちょぐちょの顔面じゃなかったな。ただの涙目でも需要はないけど。

 さすがに禿頭は言いすぎたのかもしれない。いまさらながら、反省しておく。

 

「近衛さん。助けてくださって、ありがとうございます。意外と男らしいですのね、近衛さんって。あの人ったら、しつこくってわたくしの手には負えませんでしたの」

「困っている人を助けるのが、紳士の嗜みというやつです。英国紳士としてはね」

 

 どこぞのエ〇シャールみたいな台詞を呟く。冗談を言えるくらいには僕の心のほうも落ち着いてきた。さっきは一ノ瀬さんを諭していたけど、口喧嘩に勝ったときの爽快感って、こんなにも素晴らしいものだったのか。なんだか何かに目覚めそう。

 

「……英国紳士? 日本人ですわよね?」

「すみません。言ってみたかっただけです」

「ユーモラスで男らしいですのね、近衛さんって。もっと真面目な方だとばかり」

 

 言いながら、蜜屋さんは無邪気に笑った。まるで子どもみたいにあどけなく。そんな彼女もなかなか意外なものだけれど。もっとクールな人だと思っていたから。



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懲りない人たち

「だから翼きゅんと待ち合わせしているんだってば! なんなの、この禿頭」

「少しくらいお話をしてもいいじゃないか。どうせ待っているあいだは暇だろう? とっておきの話があるんだ。ね、ね。ちょっとくらいだったら良いだろう?」

 

 大広間へと戻ると、言い争っている声がしていた。金橋さんと茂田さんだ。

 言われ慣れたのか、禿頭と罵られても茂田さんは涙目になっていない。海外ドラマのゾンビみたいに、回を追う毎に成長しているのかもしれない……なんてね。

 

「蜜屋さんの次は金橋さんですか、茂田さん。テ〇スハウスじゃないんですから、手当たり次第に女性との距離を詰めようとしないでくださいよ」

「なんだ、貴様。俺さまのストーカーか? 男に好かれても嬉しくねーんだよ!」

 

 行く先々にこの人が居るのは否めないが、ストーカーと呼ばれるとシンプルに吐き気がする。いったい何が楽しくて、おじさんの後ろに居ないといけないんだ。

 

「彼女、嫌がっているのが分かりませんか? セクハラですよ、それ」

「助けてください! この人、身体をべたべた触ってくるんです! 触り方が痴漢みたいに陰湿で気持ち悪くって、ゲロ吐きそうなんです!! 今朝食べた伊勢海老の塊が丸ごと出てきそうなんです!!」

 

「身体は触っていないだろ! なんなんだ、いったい! 痴漢冤罪もいいところだ! そうやってお前は罪のない一般人の人生を壊したんじゃないのか!? ちっ、俺さまだって若いメスと楽しく会話がしたいだけなのに……っ」

 

 年齢に見合わない大声で喚きながら、茂田さんはどこかに行ってしまった。妙な引っ掛かりもあるが、いまは本気で怯えている少女を助けなければ。

 

「ええと、大丈夫かい?」

「うん……ありがと。やっと居なくなった、あの禿。唾いっぱい飛ばしてきてキモかった。それに声が大きくて、本当に怖かった。あなたが来てくれて助かったよ」

 

 しかし、茂田さんも懲りない人だな。若きオーナーに、彼氏持ちのJKまで狙うなんて。ストライクゾーンが広めというか、相当の自信家というか。

 単純に鏡を見たことがないんだろうな。頭が可哀想なのに身の程も弁えないなんて、珍しい。あらゆる基準は自分が満たしているのだと思い込んでいるのだろう。

 

「あの。もし良かったら、お名前を教えてもらってもいいですか。わたし、あなたのこと知らなくて。えっと、わたし……金橋かしわって言います。高校2年生です」

「僕は近衛竜彦って言うんだ。呼ぶときは『近衛さん』でいいよ。彼氏のほうにも言ったけど、僕は年上だからそれなりに敬意を払ってね――ってまあ、冗談だよ」

「は、はい。近衛さん、よろしくお願いします」

 

 顔が強張っているのは彼氏と同じ反応だ。さすが熱盛カップルだけある。

 

 

 

「やあ、かしわ。おや、近衛さんと一緒だったんだね! 待たせてすまなかった!」

 

 そうこうしているうちに片割れ――木村翼が戻ってきた。独特な空気を吸わされる前に部屋に戻らないと。このふたりが同じ場所に居ると、理解不能な会話が――。

 

「翼きゅんっ! もー、遅いよぅ~☆」

「ごめんにゃ、かしわたん。あとでいっぱい構ってあげるから許してぽよ(*ノωノ)」

「しょうがないなあ。許してあげるぽよ( *´艸`) だから代わりになでなでだよぅ?」

「もちろんさ(^◇^)! オレはかしわにょるとした約束なら、絶対に守るから! いままでも、これからも、黒雲母!!」

「嬉しいおっ(*‘∀‘)! 翼きゅんったら、だ~いしゅき(´∀`*)」

「オ、オレもかしわぴゅんのこと、だいしゅきすぎてしんどいマン! 世界で……いや、大宇宙のなかでいちばん好きだ! オレと死ぬまで一緒に居てください!」

「うん……ずっと一緒だよ、翼きゅん(⋈◍>◡<◍)。✧♡」

 

 はい、優勝。なんだこれグランプリ優勝。学生カップルって、こんなに痛かったっけ。氷のような寒気よりも、太陽みたいな眩しさを感じる。熱すぎて近付けない。……っていうか、いま顔だけで会話していなかったか?

 

「さあ、部屋に戻ろうか、かしわプリンセス。お部屋までご案内しますよ」

「きゃっ、お姫様抱っこ!? 翼きゅん、わたし重いよ!?」

「なんのこれしき、二次方程式。解の公式は『X=-b±√b-√4ac÷2a』」

「すごい、翼きゅんΣ(・ω・ノ)ノ! 題意を完全に満たしているよぅ!」

 

 二次方程式の解の公式か。懐かしいな。当初は僕も解くのに苦労したっけ。いまではめっきり使う機会もなくなったけど、公式だけなら頭のなかにちゃんとある。

 

 ――意外と覚えているんだよな、そういうのって。

 



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異世界で無双できるレベル

「それじゃあ、僕たちはこれで失礼します。近衛さん、かしわの暇つぶしの相手になってくださってありがとうございました」

「彼女、大切にしろよな。それと、まだ学生の身なんだから、いちゃらぶはほどほどにな」

「い、いちゃらぶなんてそんな……近衛さんも後ろの彼女さんとお幸せに!」

「う、後ろ……?」

 

 妙な寒気がして振り返ると、抜き足差し足で近づいてくる一ノ瀬さんと目が合った。「こら、せっかく後ろからだーれだ的なことをしようとしていたのにネタバレするなよなっ!」なんて木村翼に文句を言っていた。

 

「すみません、あはは。では僕たちはこれにて」

「部屋に帰ってあんあんするの? 何かとは言わないが、ゴムは着けておけよ?」

「付けませんよ、そんなの! っていうか、そんなことしません!!」

 

 一ノ瀬さんってすごいな。あの熱盛カップルでさえも翻弄している。無遠慮で、他人の家の玄関でも土足で入ってくる。すっごくアメリカン。こういう人がカウンセラーとかになるんだよな。

 

「いやはや。近衛クン! 近衛クン!!」

「な、なんですか……そのきらきらとした視線は」

「私は見ていたよ、ずっと。きみの、ヒーローのような活躍を!」

「見ていたって、僕をですか? なんのために?」

「理由なんかないよ。私が個人的にきみを気に掛けていただけさ」

 

 道理で見ないと思っていたら、僕を張り込んでいたのか。しかもすべて見ていたのか。遭遇ガチャでレア度の低い茂田さんを連続で引くところや、そんな彼のナンパ現場に居合わせる場面を。

 見られていたのなら、もう少しだけ理性的な言葉を選んだのに。どうしていま言うんだ。

 

「最初に会ったときは物怖じして、目線すら合わせられなかったはずなのに。いまではすっかり、あの性欲禿げ頭を老害扱いしている。きみは過去の自分に勝ったんだよ!」

「そ、そうだといいんですけどね。たぶん、あの人だから言えたことなのかも」

「だとしても、それは間違いなく成長と言えるよ。蜜屋さんや非処女の金橋さんを救えたんだし」

「茂田さんにとってはものすごく迷惑な話ですけどね。ナンパの邪魔をしてしまいました」

「ナンパじゃないよ、あれは紛れもなくハラスメントさ。きみ、お手頃だったよ」

 

 それを言うなら、お手柄。雰囲気を壊すような真似をしたくはなかったので、そのまま頷く。口喧嘩の天才のお墨付きだ。僕もナンパ撃退の仕事でも始めようかな。

 需要があるかどうかは知らないけど、こういうのってだいたい、自分から需要を作っていくんだよな。ゼロからイチを作るのは得意だ。

 

「ところで、一ノ瀬さんは蜜屋さんにワインの相談はできましたか?」

「あはは。そのことか……できなかったよ。あんまり言いたくないんだけど、道に迷っちゃって」

 

 そういえば、一ノ瀬さんは椛館の場所も分からなかったほどの方向音痴だったっけ。新しい場所に行くときはたいてい、地図を持っていくのが基本だけど、彼女の場合はまったく異なる。

 遭難間近の彼女と出会ったとき、彼女は地図を持っていた。それでいて、道に迷っていたのだ。

 

「だから厨房に赴いたときはびっくりしたよ。まさかあの禿と蜜屋さんを取り合っているとはね」

「ダブルナンパ対決じゃないんですから。僕の活躍、見ていなかったんですか?」

「ジョークだよ。場を和ますための……ふふ。困っている人を助けるのが紳士の嗜みなんだろ?」

「それは完全にバカにしていますね。膝カックンの餌食になりたいんですか?」

「ずいぶんとそれを推すね? どうせ、脚を棒のようにしていたらダメージゼロでしょ。やってみなよ」

「ふ。僕の膝カックンを舐めていたら、怪我しますよ。食らいたいのなら加減はしませんが」

 

 一ノ瀬さんの後ろに回り込み、自分の心のなかだけでカウントダウンを始める。容赦はしない。むしろ、すべての憤りや負の感情を彼女にぶつけるかのように、僕の想いを膝に込めまくる。

 そして、カウントゼロで一気に放出する。レーザービームのような勢いで一ノ瀬さんは抵抗虚しく、床に倒れ込む。脚を棒みたいにしても、僕の膝カックンはほとんどすべての万人を倒すことができる。

 

「わ! 痛っ!? 膝カックンってこんなに刺さるような痛みあったっけ!?」

「どうですか、僕の膝カックンは。柔道全国レベルの幼なじみですら倒れる代物ですよ」

「なんだその特殊な特技は……異世界で無双できるレベルだよ」

「地味すぎでしょ、その異世界無双。誰も読まないですよ」

 

 倒れたときの埃を叩き払う一ノ瀬さんに手を伸ばし、起き上がらせる。彼女の手は小さかった。それに、子どもみたいな柔らかさだ。ホントにこのヒト、成人女性なのか? ホラッチョのごとく詐称していないだろうな?



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あるいはただのY

「はあ……女の子と会話ができないまま俺さまは死ぬのか……」

 

 大広間にある階段を上ると、ホールの隅っこのほうで頭を散らかしたおじさん――茂田熊三郎が佇んでいた。何やら大きなため息を吐き、項垂れている様子だ。そのまま素通りしようとして、隣を歩く一ノ瀬さんに袖を掴まれ、その場に停止させられた。

 

「近衛クン。困っている人を野放しにしていいのかい? きみ、英国紳士なんだろ?www」

「露骨に草を生やさないでください。あれは蜜屋さんを和ますためのジョークですっ!」

 

 さっきはからかわれただけで、笑い話みたいにできたけど、今回は違う。無言で一ノ瀬さんの後ろへ回り込み、とっておきの膝カックンをお見舞いしてやる。「ちょっ、セクハラだよ!! 私の膝裏は性感帯なんだからっ!」などと彼女は意味不明な供述をしているが、気にしない。

 

「ん? ……なんだ、お前らか。この際、お前らでいいや。なあ、俺さまと少し話をしないか?」

「この際ってなんだその妥協匂わせは! 私だってあんたが厨房でナンパしまくっていた蜜屋さんや非処女の金橋さんと同じ女なんだぞ! しかも、意外と巨乳なんだぞっ!! 刮目したまえよ!!」

 

 一ノ瀬さんは気の迷いでもあるのか、あるいはただの欲求不満なのかはさておき、自分の胸を中心に手繰り寄せ、大きさを主張し始める。横のヒトの唐突な奇行に、思わず苦笑いがこぼれた。

 

 そんな彼女に呆れつつ茂田さんのほうを見ると、どうやら一ノ瀬さんの胸に熱い視線を送っているようだった。年老いたおじさんですら、男の性という名のスケベ心には逆らえないらしく、釘付けになっていて草生えた。

 

「……みっともないので、やめてくださいよ。もはや、ただの痴女でしょ、あなた」

「カッコつけちゃって。お姉さん、知っているんだよ。横目で私のおっぱい、見ていたのを」

「えっ!? ……なんて、勢いで驚いちゃいましたが、本当に心当たりがありません」

 

 とはいえ、彼女らの様子を見ていたのは一ノ瀬さんの言う通りだ。ただし、助平なおじさんとは違い、僕が向けていたのは熱いまなざしではなく、冷気を帯びたものである。

 

 さとり世代特有の、冷めた目。

 

「で、茂田さん。話ってなんです? 一ノ瀬さんを口説きたいのなら、空気を読んで去りますが」

「それは私が困るよ。そもそも私はショタコンだから、9歳以下の男の子しか好きになれないよ」

「一ノ瀬さんって問題発言しかしませんね……いえ、ヒトの趣味を否定している訳では」

「冗談だってば。ちゃんとストライクゾーンは一般的だから安心してよ、近衛クン☆」

 

 何を安心すればいいんだろう。今日あったばかりのヒトの恋愛的な趣味が、9歳以上の異性だったことに安堵するタイミングが分からない。いったい、どこのナンパ師だろう。茂田さんかな?

 

「お前ら……俺さまを置いてけぼりにするなよ。頼むから話をさせてくれよ」

「す、すみません……しばらく相手にされなかったからって咽び泣かないでくださいよ」

 

 涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を凝視するのは、こちらとしてもキツイ。ましてや、自分よりもだいぶ年老いたおじさんの、不衛生で汚い顔面はモザイク処理されるべきなのに、どうしてかそれが施されていない。

 

「その前にひとつ質問がある。お前らはそ、その……恋人の関係なのか?」

「なにそれ。違ったら私を口説くの? それなら、私たちはこれをきっかけに恋人になるけど」

「なりません。そもそも僕はロリコンなので9歳以下の女の子じゃないと愛せないんですよ」

「うわ……警察に通報しなくちゃ。ロリコンって99%の確率で犯罪者だって言うし」

 

 ネタばらしする前に全力で距離を置かれた。あの茂田さんにさえ。悲しい。ぴえん。




次のエピソードでようやくあらすじのあれを回収できるはずです。おそらく。


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3年前の惨劇/疑惑

「なあ、お前らはこの椛館で起こった殺人事件を知っているか?」

「さ、殺人事件ですって……?」

「おじさん。オーナーに振られたからって、嘘吐いちゃダメでしょ。嫌いな作品だったからって低評価レビューしちゃうような評論家気取りじゃないんだから」

「嘘じゃねーよ。実際に3年前くらいに起きたんだよ。俺さまの言うことは正しいぜ?」

 

 茂田さんがなぜだか自信ありげに胸を張って言うので、さとり世代特有のスキル、スマホ検索に頼ってみる。ワード入力のバーに【椛館】と打ってみると、入力予測の候補――スクロールして最後のほうに【殺人事件】やら【死体 写真】など物騒な文字が並んでいた。昨日調べたときは明るい情報しかなかったのに。

 

「ほらな。俺さまの言う通り。確か、連続殺人事件だったか。詳しくは記事を読んでみろ」

「え、ええ。そうします」

 

 本音を言えば、ヒトのスマホを覗かないでほしかったが。

 この手のタイプに何を言っても無駄なのは心得ているけど、それでもやっぱり不快感がありあまる。ってか、息臭っ。金橋さんの言っていたことがよく分かる。それだけでもはや吐きそう。

 

「ええと、なになに……ふむふむ。要約するとつまり、この椛館で殺人事件が起きたんだね」

「それは要約し過ぎです。なにひとつとして詳しい情報がありません」

 

 椛館で殺人事件があったことは記事の見出しで分かる。茂田さんの話が嘘じゃないことも。深夜の情報集めが功を奏していないことも。せっかくのシルバーウィークに曰く付きの館で泊まりとは、僕はバカなのか。

 

「じゃあ、今度は近衛クンが愛してやまないロリボイスで読むね――椛館連続殺人事件とは、紅天狗岳の頂上付近に位置する椛館で起きた連続殺人事件である。椛館の2階西館の4号室が現場となり、被害者は或場伊斗(あるばいと)(23歳)と振板(ふりいた)このみ(21歳)の2名で、警察は現場の隣の部屋で宿泊していた三木祭(みつぎまつり)(29歳)を被疑者として逮捕した。三木は容疑を全面的に認めており、警察は痴情のもつれによる犯行として捜査を進めている、だってさ」

 

 本当に幼い女の子みたいな声で読みやがった。っていうか、好きじゃないし。恋愛対象じゃないし。さっきのは一ノ瀬さん(あなた)の冗談に便乗しただけだし。言いがかりにしては本当に悪質だ。

 

「うん? 痴情のもつれってことは被害者の或場さんと被疑者の三木さんは恋愛関係にあったってことですか?」

「もしくは、振板さんのほうかもね。このネット記事に被害者の生前の写真があるけど、確かに女の私でも可愛いと思える顔しているよ。性格はクソかもだけど」

「いずれにせよ、この振板さんはいわゆる間女ってやつですよね。一ノ瀬さんの言い方は毒があり過ぎますが、性格は良くなかったかもですね」

「29歳ってことは、或場を逃せば、結婚の適齢期が過ぎちゃうだろうし、本当に焦っていたんだろうね。だから浮気されて、怒りが沸点に達した」

 

 被疑者の気持ちもよく分かるが、殺すのはどうだろう。なんだかやるせない気持ちになるな。

 

「29歳か……それなら、俺さまが幸せにできたのに。なんで殺人なんかしたんだよ。まったく、困ったちゃんだ」

「あの。恐縮ですけど、もしかしてこの話を女性陣にしようと?」

「まあな。結局はお前に止められちまったが、この話で怖がった女の子を介抱して、最高のイケメンになる計画だったんだ。『全人類ハーレム計画』だ。すごいだろ?」

 

 茂田さんには悪いけど、止めてよかったと思う。イケメンに限る映え台詞ばっかり言うし。やっぱり、鏡を知らない世代なのか?



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3年前の惨劇/悪意

「うわ! この海砂利水魚……じゃなかった。クリームシチュー美味しいね!」

「お気に召していただいて、感無量ですわっ。オーナー冥利に尽きます」

 

 時刻は19時を少し過ぎた頃。オーノー……じゃなかった。オーナーである蜜屋さんが作ってくれた夕食をみんなで食べる。大広間の長テーブルで。

 メニューはクリームシチュー、フランスパン、鮭のムニエルなど他多数。お昼をコンビニのおにぎりで済ませた僕にとっては素晴らしいディナーであった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「蜜屋さんって、お料理が上手なんですね。僕はこのシュウマイが好きです」

「うふふ。ありがとうございます。特にそのグリンピースは最高級のものを使っておりますのよ」

「小さなところにも配慮がされてあるんですね……さすがは若きオーナー!」

「わたくしを煽てても何も出ませんわよ。出るとしたら、その……汚い話になってしまいます」

「じゃあ、言わないでください。食事中なので」

 

 それにしても、このディナー最高だな。他のヒトと食卓を囲んだのはいつ以来だっただろう。大学の学食が懐かしく思える。いや、待てよ。あまり友だちが居なかったから良い思い出じゃないな。よし、忘れよう。

 

「あ、近衛クン。ショートケーキのイチゴ食べないの? 私がもらっていい?」

「やめてくださいよ。僕は好きなものを最後に食べる派なんです。他をあたってください」

「ちぇっ、ケチだなあ。イチゴくらい口移しで食べさせてくれよな。なんてね、冗談だよ」

「冗談にしては質が悪いですね……イナゴだったらむしろ食べさせてあげるんですけどね」

 

 言いながら、気持ち悪くなってきた。なんでイナゴの話になったんだっけ。あ、僕のせいだ。

 

「かしわぴょん。はい、あーん」

「あーん! ん~、翼きゅんが食べさせてくれたイチゴ、美味し~(*´ω`)」

「ふふ。かしわプリンセスが満足なようで、僕も幸せですぞ(∩´∀`)∩」

 

 なんだその口調。そしてまた顔だけで会話しているし。蜜屋さんの手作りだって言うことを忘れているだろ。まったく、近頃の熱盛カップルは。いちゃつくなら見えないところでやってくれよ。共感性羞恥がすごい。

 

「あ、えっと。茂田さんは、いかがですか。わたくしの料理……」

「ふ。美味しいよ。ただ、このカルボナーラは俺さまのほうが上手に作れる」

 

 しん、と空気が静まり返る。人目を憚らずバカみたいにいちゃついていたふたりでさえも、この異変を察知し、押し黙った。

 そんな言い方しなくてもいいじゃないか。せっかく蜜屋さんが話しかけてあげたのに。

 

「だからあのとき、手伝ってあげるって申し出たのに。でもきみは俺さまよりもそこの若いオスを取った」

「そういう訳じゃ……近衛さんは悪くありませんわ!」

「そうさ、きみが悪い。ぜんぶきみが悪いんだ。だからこそ、何も知らないガキどもが、この曰く付きの館にやってきてしまった」

 

 曰く付き……? と金橋さんが小首を傾げる。まさか、茂田さん……昔ここで殺人事件が起きたことを言い触らすつもりなのか?

 

「せっかくだから、この俺さまが教えてやる。いいか、ガキども。ここは昔、殺人事件があったんだ。それをこのオーナーもどきの若いメスは隠ぺいしていたんだぞ!」

「さ……殺人事件!? それって本当なの!?」

「え、え。嘘ですよね、蜜屋さん!?」

 

 蜜屋さんは渋い顔をして下を向いたまま黙ってしまった。椛館の殺人事件について少しは知っている僕はどうすればいいのか分からなくて、最後のシュウマイを口に運ぶ。うん、美味い。



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3年前の惨劇/改装

「おい。なんとか言ったらどうなんだ! こっちは格安だから『まあ、いっか』くらいの腹積もりで金を出しているんだ! なのに殺人事件があったことを隠すだなんて、オーナーというより人間としてのモラルを疑うぜ!!」

 

 1泊2日のディナー付きで6980円だったっけ、この椛館。そういえば、宿泊代にしてはめちゃくちゃ安かったな。学生カップルが泊まりに来るレベルだしな。

 おまけにオーナーが若い女のヒトという贅沢尽くし。ただ、格安という爆弾に飛び込む客の層はまあまあ低い。たとえば、クレーマーよろしく妙な演説をしているおじさんとかね。

 

「……確かに、昔ここで殺人事件があったことは事実です。それを事前にお伝えしていなかったことも認めます。ですが、インターネットでプリッツェルがごとく調べれば、事件のことなんてすぐに分かるはずかと。皆さまはそれを承知でこの椛館に宿泊なさったのでは?」

「な……開き直りかよ! そこの、朝から夜まで盛っているガキどもみたいに『いんたーねっつ』なるものをまるで理解できないタイプが泊まりに来る可能性を考慮していない時点で、きみはオーナー以前に人間失格だ!」

 

 だ、太〇治。とにかく、このおじさん、蜜屋さんに振られたからって散々な言いようだな。常日頃から人を見下して生きているんだろうな、きっと。プライド高そうだし。

 

「しつこいです! 殺人事件なんて3年も前のことですし、あの事件自体、容疑者逮捕で終わったはずです! いまさら蒸し返さないでください。あの部屋はもう綺麗さっぱり片付けました! そのために改装もしたんですから!」

「改装した程度でどうにかなるレベルの問題じゃねーだろ! 死体だぞ、死体!!」

 

 茂田さんが夏の虫みたいに喚いているあいだ、残された僕らは沈黙を貫いていた。より正確に言うなら、金橋さんは大声に怯え、木村くんはそんな彼女の盾になろうと抱きしめていて、一ノ瀬さんは顎に手を当てていた。

 一方で僕は、鮭のムニエルをどう食べようか悩んでいた。骨をすべて取っ払ってから食べるか、否か。鮭の皮に手を付けようとして、一ノ瀬さんがテーブルを両手で強く叩き、思い切り痛がった。

 

「ええとさ……水を差すようで悪いんだけど、片付けたんなら別に良くない? むしろ蜜屋さんは被害者だよね? 悪いのは殺人者だよ」

「そ、そうですよ! 殺人事件があったからってなんですか! 確かにわたしたちはインターネットのことはよく分かりませんが、椛館の宿泊券をふたつぶん確保するくらいはできます!」

「それに、殺人事件があっただなんて、わくわくするじゃないですか!」

 

 一ノ瀬さんの発言を皮切りに、口を閉ざしていた彼らが吠え出す。後半から趣旨が変わっている気もするけど、あえて気にしない。僕もムニエルの皮を千切っておじさんにかみつく。蜜屋さんにすべての責任を押し付けるのはおかしい! しかも3年前の事件に首を突っ込むなんて!

 

「な……なんなんだ、貴様ら! なんでこの危機管理能力ゼロの若いメスに肩入れするんだ!?」

「そりゃあ、ねえ。殺人事件のことを言わなかっただけで、彼女は私たちに手厚いサービスを提供してくださっているし、豪勢な夕食まで用意してくれた。それに比べてあんたは意味もなく怒鳴り散らしたり、空気を読めずにナンパを繰り広げたり、まるで下半身に脳みそがある魔改造人間のごとき所業野郎だ。支持するのは当然、満場一致で彼女ということになる」

 

 一ノ瀬さんの暴走は止まらない。――だいたい、振られた腹いせに過去の事件を蒸し返すなんて、ゴシップ記者でもしないよ、そんなこと! リベンジポルノかよ! 

 ――あんたはオーナーに人間失格って言ったけどさ、恥の多い生涯を送ったのはあんたじゃないの? あ、恥じゃなくて禿だった! お詫びして訂正します!

 むしろ、言い過ぎという概念を覆す所業だった。さすがは口喧嘩の天才。



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ぶどうジュース?

「ふう。久しぶりにすっきりしたかも」

「お疲れさまです……いやあ、一ノ瀬さんのあの物言いは、聞いていて惚れ惚れしちゃいました」

「ふふふ、どうも。金橋さんから私に乗り換えちゃう? なーんて、未成年淫行は不倫よりも質が悪いっつーの!」

 

 複数対単数による口喧嘩で見事な勝利を収めた一ノ瀬さんは、咽び泣きおじさんが去っていった余韻に浸ってうざいノリをかましていたが、彼女にぶどうジュースのグラスを渡した木村くんは愛想笑いでやり過ごしていた。

 その様子を冷めたような細い目で金橋さんが睨んでいたが、一ノ瀬さんは気付いていない様子。木村くんを取り巻く女の愛憎劇に期待していたぶん、なんとなくやるせなさを感じる。とりあえずグラスに口をつける。

 

「うん、甘くて美味しいですね。このぶどうジュース」

「ジュース? おかしいですね……わたくしが用意したのはワインなのですけど」

 

 テーブルのボトルを手に取って確かめる。地下のワインセラーにあったものと完全に一致している。

 

「あれ。じゃあ、これってワインなんですか? やけに舌触りが軽やかですが」

「ソムリエみたいな感想をどうもありがとうございます。それはたぶん、ぶどう果汁が100パーセントだからそう感じるのかもしれませんね。祖父はよくこのワインを『月1の頻度で公開される探偵小説』と表現していましたが、どうでしたか?」

 

 これはどういったコメントを求められているんだろう。『ジュースみたいで美味しい』だったらダメなのか? あいにく僕のボキャブラリーでは、このワインを『炭酸の抜けたファ〇タグレープ』としか形容できないぞ。

 っていうか、月1の頻度で公開される探偵小説ってなんだよ。どういう思考回路をしたらワインをそう表現できるんだ。解決編まで読むのに初夢を何回か跨ぎそうだな。

 

「……ん? 待てよ」

「どうしましたか、近衛さん」

 

 ぶどうジュースだと思っていたものが実はワインだった。ここまでは良い。確か一ノ瀬さんってお酒が呑めないって言っていたような。彼女が持っているグラスはワイン用のシャープなボデーのやつだ。

 

「一ノ瀬さん。ひょっとして、酔っぱらっちゃってます?」

「ふぇ? ジュースで酔う訳ないでしょ。きみは私をバカにし過ぎだと思うな! あの禿みたいに嗚咽交じりの号泣会見を開かせてもいいんだよ? う、おえっ……ごめん、ちょっとトイレで吐いてくる」

 

 どうやら、本当にワインだったらしい。口許を手で押さえながら一ノ瀬さんはログアウトした。それに付き添う木村・金橋ペア。その場には僕とオーナーの蜜屋さんが残された。なんだか気まずい。とりあえずグラスに口をつける。

 

「ところで、蜜屋さんはワインお好きなんですか?」

「いえ。わたくしもお酒は苦手なほうで……ひと口でも飲んでしまうと、一ノ瀬さんみたいになってしまいます」

「蜜屋さんはクールっぽいタイプなので、燥いだ感じも見てみたいと言えば嘘になりますね」

「有名大学のヤリサーじゃないんですから、さすがに泥酔して街で寝るなんて真似しませんよ?」

 

 お酒の話でつい盛り上がる。蜜屋さん、下ネタイケるんだ……意外だ。誘導したつもりはないのに、なんかヤリサーっていう単語が出てきてしまうし、次の話に困る。酒の肴に下ネタが許されるのは人生に華のないおじさんだけだと思っていた。



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レッツラボイラー

「ふわあ。よく寝た……6時30分か。こんなに寝たの、いつ以来だろう」

 

 ブラック企業に勤めていたときは間違いなく、こんな朝を迎えたことはなかった。カーテンをし忘れた窓が眩しくて寝惚けた目に染みる。だけど小さな幸せを浴びているみたいで、ちょっぴり嬉しくなる。いままで朝のことが嫌いだったから余計にそう感じる。

 

「昨日は楽しかったな……ちょっと飲みすぎちゃったかもしれないけど」

 

 頭が痛む。けっきょく僕はワインを二三呷った。アルコールが弱かったから良かったものの、本場の代物だったらデッドエンドを迎えていたかもしれない。主に吐き気的な意味で。身の丈に合った飲み方をしないとね、お酒は。

 

「そういえば、一ノ瀬さんは大丈夫だろうか。カクテルで酔うって言っていたし」

 

 部屋の扉を開けると、赤が多すぎてちょっと眩暈がした。そういえば、椛館に泊まりに来ていたんだっけ。1泊2日で6980円という格安なお値段での宿泊。その理由は3年前に起きた殺人事件が要因らしいけど、よく分からない。

 

「んん? なんだこの異臭は……」

 

 基本的にこの椛館は、高級感に包まれたような良い匂いがするんだけど、その奥で微妙に鼻につんと来る刺激臭みたいな臭いがしていた。おかしいな、昨日まではこんなことなかったはずなのに。

 

「おはようございます、近衛さん。よく眠れましたか?」

「おはようございます、蜜屋さん。お陰さまでとても気持ちのいい朝を迎えることができました」

 

 廊下の角から蜜屋さんがやってきた。さすがはオーナー。朝が早い。ごはんの用意をしているらしい。エプロンと三角巾を装備している。そのセット、保育園とか小学校でしか見たことないけど。

 

「あの、蜜屋さん。失礼ですが、なんだかこの辺くさくないですか?」

「くんくん……確かにちょっと臭いますね? ガス漏れでしょうか。ちょっとボイラー室を見てきますね」

「あ、それなら僕も行きますよ。ひとりでこの館のことを色々するのは大変でしょうし」

「ありがとうございます。ではお言葉に甘えて……と言いたいところですが、オーナーとしての沽券に係わりますので、わたくしひとりでレッツラゴーしてきます」

 

 腕まくりして張り切っている様子だったので、同行することはできなかった。まあいいや。ボイラー室へ向かう蜜屋さんの背を眺めたあと、大広間へと歩を進める。

 

「さすがに誰も居ないか……ってあれは一ノ瀬さんか?」

 

 何やらバケツらしきものを持ってきょろきょろしながら、どこかへ行こうとしているのが窺えた。なんとなく怪しい。後ろから呼びかけようと思って近づく。一ノ瀬さんの肩に手を掛けようとして、ふいにどこかで大きな音がした。

 

「うっひゃああ!? え、なに!? こ、近衛クン!? どうして私の後ろに……!?」

「いや、あの……ちょっと驚かせようと思って忍び寄ってみたんですけど」

「心臓に悪いよ、近衛クン! おしっこ漏らしちゃったら、どう責任を取ってくれるのさ!?」

 

 その歳で漏らすとしたら、さすがに土下座しないとな――っていうか、それよりも。

 

「それより、一ノ瀬さん。さっきの音って!」

「うん。若いメスの声……金橋さんか蜜屋さんの喘ぎだね。木村くんがハッスルしているのかな?」

 

 一ノ瀬さんのくだらない冗談は、ムーディよろしく右から左に受け流しておいて――若い女性の声であることは間違いない。だけどそれは喘ぎなんてレベルではなく、むしろ悲鳴に近いものを感じた。なんだか嫌な予感がする。

 

「声の響き方的に地下じゃないの? 近衛クン、急ごう。胸騒ぎがするんだ」

 

 珍しく神妙な表情の一ノ瀬さんを見て、この状況が普通じゃないことを悟った。いったい、地下で何があったんだ。悲鳴を上げた人は大丈夫なのか。正体不明の不安が高まっていくなか、僕らは声の主のもとへと急ぐ。



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椛館殺人事件/非日常編
現実的非日常の始まり


 一ノ瀬さんとふたりで地下へと降りて、すぐさま廊下の奥に佇む蜜屋さんを見つけた。ワインセラーの前で呆然と部屋のなかを眺めているようだった。

 

「どうしたんですかっ! 蜜屋さん!」

「あ、あ……ワインセラーのなかに、ひ、ヒトが……!」

「ヒト……?」

 

 おそるおそる室内へと足を踏み入れる。地下というのもあって、朝なのにもかかわらず薄暗く、そして空気が淀んでいた。匂いの管理に厳重なワインセラーにあるまじき異臭が蔓延っている。

 これは……錆びた鉄のような臭いだ。奥へと進むにつれて、うっすらとヒトのシルエットみたいなものが浮かび上がってくる。嫌な予感がする。僕の本能が告げる。足を進めてはいけない。

 

「え……これって」

 

 一ノ瀬さんが何か言う前に気付く。最初は誰かが倒れているのだと思った。でもそんなやさしいレベルのものじゃない。現実を見ろ、近衛竜彦。ワインレッドの水たまりにそれが浮かんでいた。

 

 後ろでパチッと音がした。蜜屋さんが電気を点けてくれたのだろう。より鮮明にそれを見ることができた。明らかにもう生きていないことが分かる頭の痛々しい傷、壁にだらんと凭れ掛かった生気のない身体。そして、彼女が常に持っていたはずの特徴的なうさぎのポーチ。

 

 金橋かしわは死んでいた。一世一代の美少女で、世界一の幸せ者である彼女はその生涯を静かに終えていた。

 

【椛館殺人事件/(非)日常編 END】

 

 *

 

【椛館殺人事件/非日常編 START】

 

「おいおい、マジかよ。殺人事件って」

「そんな……金橋さん――かしわが死んだ?」

「……?」

 

 死んでしまった金橋さんを除く宿泊客全員とオーナーである蜜屋さんが、大広間にて一堂に会した。死体を発見した僕ら以外のふたりにも事情を説明し、それから現場へと向かった。

 

「かしわ……! かしわ!!」

「死体に近付くな。ここからは私が現場を仕切る」

 

 こときれた彼女を前にした木村翼の悲痛な叫びが現場に木霊する。彼が死体に駆け寄ろうとして、意外な人物からの声が轟く。一ノ瀬さんだ。普段の軽いノリからは到底イメージできない神妙な表情が印象的だった。

 

「一ノ瀬さん……?」

「この事件の犯人はきっと相当なバカだね。私が探偵だということも知らずに殺人なんて!」

「え、探偵? あなたが?」

 

 あまりのサプライズ発表に目を丸くする。一ノ瀬さんが探偵だって? まったく信じられない。サンタクロースが実在しないレベルで、もう16話もいったのかってくらいに信じられない。

 

「意外そうな顔をするのも無理はないよ、近衛クン。探偵は事件が起きるまで素性を明かさないものだからね!」

「いや、そうじゃなくて。あなたみたいな頭の悪そうなロリッ娘が探偵という高貴なジョブであることに些か驚いているんですよ」

「ずいぶんと失礼だな、キミ! こう見えても20代後半だぞ!!」

「年上なのかよ! っていうか、探偵って言っちゃっていいんですか? 頭のいい犯人なら真っ先に狙ってきそうな気がするんですけど……」

「そ、それはまあ。気合で乗り切るよ。最悪の場合を想定して、正当防衛も視野にあるし」

 

 ひょっとしたら、犯人だけでなく自称探偵の一ノ瀬さんもバカなのかもしれない。低い可能性だけど、犯人が手練れでないことを祈ろう。命が危ぶまれるときは必殺技を使うことも厭わない。

 

「……っていうか、あの。一ノ瀬さん……事件の犯人とはいったい、どういった意味ですの? 現場の状況から鑑みても、金橋さんが事故で死んでしまった可能性だってまだありますよね?」

 

 確かに一ノ瀬さんは言い切った。事件の犯人だの、殺人だの、何度も何度も。現場には金橋さんの血と思しき液体が広がっているが、主成分は床に転がっているワインなのだと思う。

 その証拠に転がっているボトルのなかに封の開いたものがあるし、彼女が凭れ掛かっている壁付近の棚には数本の空白ができている。きっと、彼女が転んだ際に落としてしまったのだろう。




非日常編、開始。


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ムノウ巡査との出会い

「もちろん、言葉通りの意味だよ。金橋かしわは他殺だ。事故で死んだとは考えられない」

「どうしてそう言い切れるんですの? 転んで頭を打ったのかもしれないでしょう!?」

 

 他殺説を信じてやまない一ノ瀬さんと、事故説を訴える蜜屋さん。両者の間には、不倫というコンテンツで繋がった絆が燃やし尽くされそうなレベルの火花が散っていた。つまり一触即発。

 ちなみに僕も蜜屋さんと同じ事故の可能性を疑っている。床に零れているワインの諸々がそれを物語っている気がする。根拠はない。ただの思い付きだ。

 

「死体をちょっと視界に入れただけで、現場を鑑みたなんて言わないでくれよ。殺人現場を何度も見ている私とは比較対象にもならない憶測だよ、それはさすがに」

「憶測なのは当たり前ですわっ! あんなの、生粋の乙女であるわたくしに直視できるはずがありません! 死体ですよ、死体! 汚らわしいにもほどがあります!」

「直視できないといった割に、金橋さんの頭の傷には言及するんだね? おかしいなあ、蜜屋さんが立っていた場所からだと暗くてよく見えなかったはずだけど」

「一ノ瀬さん、お忘れですか。わたくしがワインセラーの照明を点けたんですよ。それに、汚らわしいとはいえ、いちおう死体は目立つ物体ですから……見たくなくても見てしまうんです」

「そういえば、そうだったっけ。はは、フキくらい筋が通っていて、反論の余地がないや!」

 

 このアホ探偵。最初の驚きを返してくれよ。少しでも憧れそうになった僕がバカだった。火花が完全に散ったのを見計らったかのように、木村翼が口を開く。

 

「あの。とどのつまり、かしわはどうして死んだんですか? いずれにせよ、警察を呼んだほうが良いんじゃないですか? 僕たちだけで捜査なんてしたら、犯人に証拠隠滅されちゃいますよ!」

「そのことなら抜かりないよ。私がこっそり呼んでおいたんだ。知り合いのムノウ巡査さんをね」

「ムノウ?」

 

   *

 

「あ、ゆかりさん! 現場保存はばっちりです!」

「ありがとう、ムノウちゃん。きみが居てくれるだけで私は頑張れる気がするよ!」

 

 いつの間にか現場の前には警察のヒトがふたり居て、刑事ドラマでよく見る立ち入り禁止の黄色いテープや、事件現場にある数字のプレートなんかがいっぱいあった。

 

「ところで、ムノウちゃん。現場は荒らしていないよね?」

「はい! 大まかな現場検証をしただけで特に触ったりはしていません!」

「さすがはムノウちゃん! 頭をなでなでしてあげよう」

「わーい! ありがとうございます~!」

 

 なんなんだ、この戯れは。言葉を失っているあいだ、一ノ瀬さんはムノウさんの頭を、犬でも扱うみたいに撫ぜまくっていた。彼女の髪型が寝癖に変わってしまうほどぐちゃぐちゃにして。

 

「あの、一ノ瀬さん。彼女を褒めているのでしたらせめてムノウ呼びはやめたほうが……」

「ムノウちゃんはムノウちゃんだよ。あ。もしかして、ムノウちゃんをムノウちゃんだと?」

「失敬な! ムノウは確かにちょっとばかりムノウかもしれませんが、ムノウではないです!」

 

 胸ポケットに手を忍ばせたムノウさんは【武農佑乃(むのうゆの)】と書かれた警察手帳を自慢げに見せびらかす。とたん、ムノウって名前だったのかよ! と各方面から聞こえてきた。

 あと念押しのようなムノウの意図的なゲシュタルト崩壊はやめろ。

 

「ま。とにかく、これで証拠隠滅ができなくなった訳だ。心置きなく現場の捜査ができるよ」

「ちょっと待ってください、一ノ瀬さん。どうして殺人の線で捜査しようとするんですか!」

「そういう蜜屋さんこそ、先からよほど金橋さんの死を事故のせいにしたがっているけど、そうしたほうが都合の良いことでもあるの?」

「なっ……! そ、そういうつもりで言った訳ではありません! 皆さんも疑いの眼差しを向けないでください! わたくしはただ――」

 

 この状況における探偵の存在は強力すぎる。場を仕切る権限を持っていて、誰も一ノ瀬さんに迂闊なことを言えない。疑問ひとつもたちまち彼女の手によって消し去られてしまう。自称なのに。

 反旗を翻せば疑いを掛けられてしまうかもしれない。そんな不安が僕らの口を閉ざしてしまった。まるで独裁者に心臓を握られているような、嫌な気分だ。誰も彼女に逆らえない。



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現場のマウントは証拠で

「先も言ったけど、事故の可能性はほぼゼロだと思うよ。なんなら、断言してもいい」

「そんなに殺人事件だと主張するのであれば、一ノ瀬さん。根拠をお話ししてください」

「事故か事件か……初歩的な言い争いは終わりだ。私の信条は『現場のマウントは証拠で』だし」

 

 それから一ノ瀬さんは金橋かしわの死の事件性について語り始める。終始ふざけていた人とは思えないくらい、普段のギャップと違っていて、多重人格者を疑うほどだ。

 

「――まず、金橋さんの致命傷なんだけど、頭部を鈍器のようなもので殴られてできたものだと判明したよ。いちおう現場をざっと見たら、粉砕されたワインボトルが血痕付きでごみ箱に捨てられていたし、たぶんそれが凶器だと思う」

「はい。ムノウもガイシャの傷をよく観察してみたら、生々しいところに細かなガラスの破片が付着していましたので、そのワインボトルが凶器とみて間違いないと思います!」

「うん。だからさ、これがもし仮に事故だとしたら、金橋さんの命を奪ったとされるワインボトルがごみ箱に捨てられている訳がないんだよ。それとも、事件が起きる前に誰かワインボトルを割っちゃった?」

 

 僕も含め、頷く人は誰も居なかった。沈黙は依然として僕らのなかを泳いでいる。金橋さんが死ぬ前にボトルを割った人が居ないのなら、一ノ瀬さんの推理は正しいことを意味し、そしてそれは死の事件性を物語っている。

 

「……ということで、証明終了だ。ムノウちゃんは引き続き、現場の保存と監視を頼むよ。私はここに居る関係者のアリバイを聞く」

「ま、待ってください。まだこのなかのヒトが、かしわを殺した犯人だとは言えないのでは?」

「そんなことはひとつも言った覚えはないよ、木村クン。あくまでこれは可能性のひとつを潰していく作業に過ぎない。外部犯の犯行も否定できないけど、こういうのはたいてい、内部の犯行だよ。じっちゃんの名に懸けて、ね」

 

 金橋さん殺しが内部の犯行、か。だとして、僕や蜜屋さん、木村くんに茂田さん……のなかに犯人が居るということになる。僕はやっていないので、僕以外の3人のなかに――ということだろう。

 

「ちなみに、一ノ瀬さんのおじいさまは名探偵かなにかなんです?」

「ううん、ただの盆栽好きの一般人だよ」

「一般人!?」

 

 これほどまでに安心感のないじっちゃんは初見だ。先行き不安でしかないけど、事件は解決するのだろうか。とにかく僕らはひとりずつアリバイを聞かれることになった。

 

「まずはムノウちゃんの大まかな検死結果を基に、近衛クンからアリバイを聞くよ。これによると、彼女が死亡した時刻は昨日の深夜1時半から2時にかけて、だ。このあいだ、きみは何をしていたのかな?」

「僕ですか……ええと、部屋でゲーム実況を視聴していました。スマホに履歴があります」

「ふむ。つまりアリバイ無しだね。犯人候補リストに入れておくよ」

「なっ……! なんでですか! 履歴があるんですよ、ほら!」

 

 動画サイトのページを開き、表示されている画面を一ノ瀬さんの童顔フェイスに押し付ける。

 

「ちょ、近衛クン! 近付け過ぎだって! 便器よりも汚いとされるスマホを、よりにもよって私の愛くるしい顔面に!?」

「ブルーライト半減のシートを貼っているので視力には問題ないかと。それより、見てください。ゲーム実況の生配信を深夜2時まで視聴しています。あっ、内容まで細かく説明しましょうか?」

「動画を観ていたことは分かったからあ!! とにかく、部屋にひとりで居たんだよね? いくら履歴が残っていたとしても、そういうのはアリバイとは言わないから!」

 

 なーんだ、そうだったの。悪目立ちしたのがバカみたいだ。スマホをそっとしまう。



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