羅刹の拳【完結】 (につけ丸)
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斉天大聖編
1話


最初の友達が、家出した。

一人の少年が、居なくなった。

一人の青年が、帰ってきた。

 


 嘘か真か、この世には本物の『神』が地上に現れる。

 比喩ではない。

 正真正銘、本物の『神』が、である。

 ……決して朽ちぬ不滅の身体とびっきり美しいか異形かの稀なる容姿。人が幾年月を捧げようと手にすること叶わぬ御業に奇跡。

 まさに『神』と呼んで相応しい超越者たちが。

 そして神々は《不死の領域》と呼ばれる場所から地上に顕れる。《不死の領域》とは人間が住む"地上"とも、地上と《不死の領域》の境にある"幽世"とも違う場所。広大無比な神話の世界が広がる場所だった。

 そして地上に現れた神は、総じて神話の軛からはずれる。たとえ善なる神であっても人々に災いを齎す存在と成り果てる。

 何故なら、神話の中に在るべき神々が地上に現れる。それだけで本来の姿から乖離し叛逆しているのだから。

 

 およそ"(まつろ)う"ことを知らぬものたち。

 移ろいやすく強固な自我。強大で奇怪。地上のあらゆる生命から逸脱した毛外の魑魅ども。

 その尋常ならざる者どもを古くより人々は畏怖をこめ『まつろわぬ神』と、そう呼んだ。

 

 

 ○◎●

 

 

 ───『弼馬温』の呪法、破れる。

 

 日光東照宮は西天宮にて、三百年の間『弼馬温』を守護してきた九法塚家がその異変に気付いた時にはすべてが遅かった。

『弼馬温』とは、古来より日本を裏で舵取りをしていた"古老"と呼ばれる者達が、江戸時代初期に護国守護のため施した呪術の名称である。

 日本は世界の果てに位置する国だ。呪術の本場であるヨーロッパや神話の入り乱れる中東やインドを有するユーラシアの端にあり、それゆえ昔から色々なものが流れ着く場所であった。それがたとえ、まつろわぬ神であってさえも。

 

 ゆえに古老たちはまつろわぬ神を追い払う、都合のいい用心棒を欲したのだ。

 そうして今から三百年ほど前、どこかからか現れた『神』を捕らえ、"幽世"と呼ばれる地上ではない場所へその『神』を封じ込めたのだ。

『神』を封じ、外界より『まつろわぬ神』が現れれば封印を解いて戦わせる。……それが『弼馬温』の全容である。

 

 必然、用心棒とするならば強い神が必要となる。

 そして驚くことなかれ。封じられた神の名を──"斉天大聖・孫悟空"。

 石から生まれ天に歯向かいながら果てには仏に記別されるまでに至った。その雷名はアジア全土に轟くほどのビックネームだ。

 ただ今は違う。

『弼馬温』により()()使()()()()()()()()に他ならず、『斉天大聖』と言う名すら奪われ"猿猴神君"という仮初めの名を与えられ幽世に封ぜられていた。

 

 簡単にまとめれば『神』を顎で使うことのできる罰当たりな代物こそ『弼馬温』であり、これを古老たちから信任を受け、一族を挙げて守護している者たちこそ九法塚家であった。

 

 三百年の間、静謐を保っていた『弼馬温』と斉天大聖。

 しかしどんな手を使ったのか? 

 斉天大聖は九法塚の目を掻いくぐり、ついに三百年の時を経て復活を遂げた。

 

 復活を遂げた斉天大聖は地上へ繰り出し災禍を起こす──はずだった……。

 

(───けれど一週間前、復活した斉天大聖は古老の方々の手によってふたたび幽世に封ぜられた……)

 

 気合一閃。

 眼前に迫る猿の魔物たちを手に持った刀で退けつつ、九法塚家の若き長、九法塚幹彦(くほうづかみきひこ)は思案する。

 ニホンザル、アカゲザル、マントヒヒ、オラウータン、マウンテンゴリラ……。

 幽世に向かった幹彦たちを出迎えたのは、この世のありとあらゆる種類の猿であった。数は三百は下らない。

 群れ、という言葉はもう収まらない。表すならばこうだろう……"軍勢"と。

 一匹一匹の強さも馬鹿にならない。身体能力や野生の感はもとより、呪力まで内包している。決して油断は許されない敵であった。

 

「持ちこたえろ! 斉天大聖はまだ復活を諦めていない! こんな所で私たちが潰えることになれば、誰にも止められなくなるぞ!」

 

 きぃきぃきぃ。懸命に叫ぶ幹彦の叱咤激励に答えたのは、嘲りにも似た鳴き声。

 仲間からの声はひどく小さい。

 幹彦たちにもう余力が残っていない証左だった。

 押されている、こちらの方が。

 斉天大聖の復活を感知してより一週間。万全の準備を整え臨んだと言うのに、こんな醜態を晒し、憤りすら覚えた。

 

『弼馬温』の異変に守護する立場でありながら気付けなかったことも。

 幽世への調査も出向いた先から敵に発見されたことも。

 そのまま戦闘へとなだれ込み、劣勢を知られていることも。

 古来より日ノ本を守護し、今なお斉天大聖を抑えている古老の方々に申し訳なくって仕方がない。

 

 そもそも古老の方々は、千年以上存在する、とうの昔に人から外れた方々なのだ。

 物事の考え方からして根本的違う。

 ゆえ、人間側への肩入れには否定的だ、と考えていた幹彦にとって驚天動地の出来事であったし、それを許してしまった己たちの不甲斐なさに忸怩たる思いを抱いていた。

 

(……それに顕聖之符、か)

 

 ───顕聖之符。『弼馬温』の核となり、斉天大聖を封ずる要諦となっていた霊符のことである。

 西遊記にて地上のみならず四海や天界を騒がせた斉天大聖を、天帝の命によって捕らえたという『顕聖二郎真君』。

 その呪力の宿った霊符は、どういう事か幹彦たちの懸命の捜索もむなしく行方知れずとなっていた。

 これには幹彦たちも頭が痛かった。『弼馬温』の要となっていた事のみならず、必ずや斉天大聖にも有効な対抗手段となると踏んでいた彼らにとって、失望を禁じ得なかった。

 

(だが、どうにかせねばなるまい。……それが蟷螂の斧になろうとも。それに奥の手も、ある。必ずや斉天大聖を封じてみせる!)

 

 懐にある確かな重みを再確認した、その瞬間であった。

 

「若!」

 

 突然、鼓膜を鋭い声が貫いた。

 ハッと思考の海に沈んでしまっていた意識が、現実に浮上する。戦いのさなかである、という現実に! 

 眼前にあったのは極大の拳──。

 黒い毛皮に覆われたゴリラの毛むくじゃらの豪腕から、殴打が繰り出されていたのだ! 

 

(───しまった! 戦闘の最中に、思考にのめり込みすぎた!)

 

 ルァァアアアアアアアン!!! 魔物の蛮声が、幹彦の鼓膜を揺るがした。

 

 

 

 

 ○〇●

 

 

 

 

 最初の友達が、家出した。

 一人の少年が、居なくなった。

 一人の青年になって、帰ってきた。

 

 

 ───バカタレが! 

 

 十四歳の冬。彼、荒木秀信(あらきひでのぶ)は苛立っていた。

 幼かったときはまだ可愛げの残っていた彼も、今では見違えるほど様変わりし、もう背は大人でさえ見上げるほどに高く、逞しい。容姿も荒武者然とし、右顎にある傷跡が待ちゆく人々の目を引いた。

 季節は移り変わって二月の初め。鱗雲が空を漂い、秋には鮮やかな衣を纏った木々も今では寂しげで。冬の寒々しい空に溶けていく吐息は白く、指先は霜が出来そうなほど寒い。見上げる雲もどこかうんざりするほど濁っていた。

 

 彼が苛立っている理由は、やはり家出した友達にあった。でも家出したことに怒りはなかった。

 去年の夏ごろに家出した友達も、ついに観念したのか半年の時を経てこの故郷に帰ってきたのだ。

 

 "久しぶり! みんなで集ろーぜ! "

 

 第一声はそれだった。帰ってきた彼は秀信たちの前に突然現れると笑顔で腕を振って宣ったのだ。なんら変わらない笑顔で。

 あの笑顔を思い出すだけでむかっ腹が立つ。ギリギリと奥歯を噛んで、ぱりん、と手元から金属の泣き声が聞こえた。

 

「おおっと」

 

 力を入れすぎた。洗っていた皿が見るの無惨に割れている。破片も飛び散っていたが、秀信の丈夫な皮膚を裂くには役不足だったらしい。それから手づかみで破片を拾って新聞紙に包んだ。

 秀信の家族は五人家族だ。秀信は三人兄弟の真ん中で、上に高校生の兄と下にまだ保育園に通う妹がいた。兄は部活で朝早くに家を出るし、共働きの両親もあまりに変わらない時間帯に妹を連れて家を出る。必然的に部活に入っていない秀信が朝食の片付けを一任された。

 

「いかんのう……」

 

 頭をかきながら手早く片付けを終わらせ、家を出た。

 道すがら小さな山が見えた。見慣れた景色のはずなのに斜面にはユンボが止まり、山を切り崩していた。山一つを太陽光に変えるそうだ。

 厭うように顔を背け、歩き出す。少し歩くとお寺があった。半年前まで登っていた柿の木は切り倒され駐車場に変わっていた。

 町は変わる。人も、変わる。半年も家出すれば誰だって。

 何も変わらない笑顔が嫌いだった。変わってしまった事をひた隠す仮面だ。殴り飛ばしたくて堪らない。けれどそんな事すれば、また彼が出て行く気がして。

 

「おいたちはこがんも脆い関係やったとか……」

 

 打ちのめされる思いだった。

 

 

「おはよー」

 

 気の抜けた挨拶が背中に触れた。からからから、と自転車の転がる音を響かせながら近づいてくる人物に振り向けば、やはり知っている人物だった。

 田中秋文。友人の一人だった。

 

「おお、秋か」

「今日はちょっと早いね。さっきの駐車場で追いつくかなって思ったけど外れちゃった」

「そうかい」

 

 顔は平凡、体も普通。外見も雰囲気も特筆したところがない少年だが、声にはいつまでも聞いて居たくなる甘さがあった。優しさや朗らかさとも違う、安心を贈る声だ。

 

「んー。もしかしてお皿でも割っちゃった?」

「…………なんでわかったとや」

「あはは。だって秀、さっきから硝子とか割れそうなものから変に目を逸らしてるじゃん。秀って毎朝片付けしてるし、だったらお皿でも割ったのかなーって」

「はぁ……たまにおまえの目の良さが怖ぁなるわ」

 

 観の目、というやつだろうか。昔から洞察力に長けていて彼のまえでは隠し事はできない、それが秀信たち友人グループの共通認識だった。

 

「秀」

 

 短い声に、眉を釣り上げると秋文が自分を見ていた。

 

「君が苛立っている理由はちょっとだけわかるよ……でもね人は変わるものなんだよ」

「…………」

 

 秀信も言葉なく賛同しながら、失望を禁じ得なかった。

 隠し事なんてもの、自分たちの間に存在しないと信じていたから。変わらないままで居られる。強い絆で結ばれていると思っていたから。

 だが、現実はどうだ? 十年……十年間も積み上げたものは、たった半年間会わなかっただけで崩れ去っていた。信じたものと、現実のギャップが受け入れなれない。あの場所に留まりたかったそれができない自分と現実に失望が止まらなかった。

 

「はぁ。……たまには、帰ってきなよ」

 

 見透かした言葉だった。

 それだけ言って、秋文は自転車にのって先に走り出してしまった。

 学校に着いて、授業を受けて、放課後になり、一つの結論を出した。

 

 彼から離れなければない、と思った。

 

 頭を冷やす為にも彼から離れなければならない。そう思った。

 それに彼の見たものも見たかった。町以外の場所、というものを。

 秀信は生涯で一度もこの町を出たことがない。家族が旅行に行く時も駄々をこねた。自分が自分になって生まれた場所を離れるなんて思考、これまでの秀信には想像もつかない発想だった。

 

 行先の一応の目処は付いていた。

 秀信の家には変わった風習がある。それは小学生の頃から毎年やっている恒例行事。簡単に言えば、親からある程度の金銭を受け取って旅をする、という内容だ。

 どこに行くかも自由、どこに泊まるかも自由、限られた金銭をやりくりし何に使うかも自由。そんな全て自分次第の旅をさせる風習が荒木家にはあった。

 実際、兄は去年四国へ訪れていた。秀信も毎年旅に出

 ろと言われるのだが、結局、町の民宿で一泊して終わりだった。

 今度はどこか遠くへ行こう。

 そこに現実逃避がないと言えば嘘になる。けれどもそうでもしないと、何も出来ずに終わりそうな自分が怖かった。

 

 ただ、ふと思い立って生まれ故郷を出る前に、町を見下ろせる場所を訪れた。背の低い山だが、町を十分に俯瞰できる所へ。

 学校を出て歩くほど見慣れた町が後ろへ過ぎ去っていく。時とともに変わって行く町。

 かつては静かだったこの町も、地理的優位さがついに認められたのか急激な開発が推し進められていた。そこに住む人々も変化を強いられ、秀信の手に収まるスマートフォンもその変化の一端であった。

 ガラケーひとつで大騒ぎだった半年前が少し懐かしい。

 

 時の流れは、人々の流れは、秀信の感傷なんて知らぬとばかりに押し流していく。

 それがどうしようもなく怖い。

 町だけじゃない。不変だと思っていたあいつらとの関係も、ついに変化を強いられた。

 それがどうしようもなく怖いのだ。

 町は居るべき場所だ。友は己を認めてくれる存在だ。それらが変わるのは、自分すら変容していく感覚を覚えて恐怖が胸を占めた。

 

 

「来たか」

 

 山の山頂には先客がいた。友人の正木隆。巌さながらの風貌を備える彼は胡座をかいて、町を見下ろしていた。まるで自分の来訪を予期していた、とでも言うように彼は振り向きもせず語りかけてきた。

 

「変わっていくな。どこも、かしこも」

「人も、じゃろう」

「ふ、確かにな」

 

 隣に座ると隆が口角を釣り上げ、懐からおもむろに酒瓶とお猪口を取り出した。大人たちからくすねては隠れて飲んでいた酒のつがいだ。

 酒瓶を傾け、なみなみと注ぐ。キュッと一息に飲み干し、度の強いアルコールが喉を焦がして、臓腑に落ちていく感覚に身を任せる。

 

「変わらんもんなんぞ、ありはせんのかも知れんのう」

「だが。少なくとも、俺は変わらん」

 

 断言する言葉に虚をつかれた。確かに世の中に変わらない人間が居るとすれば彼になるだろう……それは物心ついたあの日から変わらない。

 笑みが零れた。肩を揺らしながら喉を鳴らす。

 

「のう……お前はおいを覚えておいてくれるか」

「当たり前だろう」

「町を出ようと思う」

「好きにするといい」

「あいつみたいに変わっちまうかもしれん」

「それでも覚えている。俺はお前が……いや、違うな。今のお前が此処に居たことを。過去は変えられない」

 

 大きな言葉だった。少なくとも秀信は大きい力強いものが腹に染み渡っていく錯覚を覚えた。

 

「無事に帰ってこい。それだけだ」

「おう」

 

 柔らかい無表情を湛えたまま言い切った。彼は無言で拳を差し出し、秀信も我が意を得たりとコツンと突き合わせる。

 

 

 荷物を抱えてバス停に到着すると友人のひとりが待ち構えていた。森勇樹。彼はニヤニヤとひょうげた笑いを貼り付けていた。笑みを絶やさないのは秋文も一緒だが、どこか胡散臭さが拭えない印象を覚える。

 

「なんじゃお前、連れてけと言われても無理じゃぞ」

「まー、ボクは君たちほど繊細でもないから頓着しないだけどさ、ただ気になった事があってね? 君の旅行先って最近妙に行方不明事件が多発してるらしくってさー、気を付けてねって言いに来たんだ」

 

 アハハ、と飄々としたやつだが、無事に帰って来てほしいのは本心なのはよく分かっていた。

 へいへい、と頷いて頭を掻く。

 馬鹿だ、馬鹿だ、馬鹿野郎どもだ。

 だからこそ、思う。またあの日々に戻りたいと。あの黄金の日々を取り戻したいと。

 だからこそ、思う。この旅が終われば必ず決着をつけると。

 そう胸に刻み、秀信は歩き出した。

 

 空は未だに雲掛かって晴れないけれど、悪くない旅立ちに足取りは軽かった。

 

 目的地は栃木県、日光東照宮。

 東照大権現に神格化された徳川家康を祀る霊廟にして豪華絢爛な神社。

 

 それは荒木秀信と言う少年の人生を揺るがす───壮絶な旅の幕開けだった。



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2話

あまり見ない奇妙な出で立ちの少女だった。

白衣に緋袴をまとい、黒髪と言うにはいささか茶色味が強いだろうか。





 なんでこうなっとるんじゃ? 

 

 そう疑問を漏らすのも無理からぬ状況に彼はあった。

 白い息をため息に変えそうになるのを押し留めながら歩く秀信の背には、すやすやと心地良さそうに眠る少女がひとり。華奢な少女の温かさを肌に受けながらも、空いた片方の手でガリガリと頭を掻いて、秀信は何故こうなったのかを反芻していた。

 

 ○◎●

 

 生まれ故郷の町から旅立った秀信は、半日と経たずに東京の地に足を下ろした。

 拍子抜けするほどすんなりと着いてしまったが、まあ、九州の片田舎から関東といえど飛行機を使えばそんなものである。

 彼が今いる場所は港区にある芝公園駅の駅前で、この近くに住む親戚を訪ねる計画だった。空港を出る前に一報は入れていたので日が傾くまで散策する算段であった。

 

「おっ、こっからでも東京タワーの見えるとか」

 

 東京を訪れるのは初めてだが、何とか迷子にならずに済んでいる。地図アプリがなければ即死だった。

 今日の東京の気温は二月とは信じられないほど暖かくて、素肌に触れる空気の柔らかさは春のほのめかすそれのよう。

 芝公園をゆっくりと歩き、珍しい真冬の燦めく陽気に当てられながら、東京タワーを目指してぶらぶら歩いていた時のことだった。

 背の高い秀信だからこそ気付けたのだろうか? 

 

「────ん?」

 

 ()()()()()()()()()

 いや、言葉をそのままにすれば語弊がある。倒れているわけではないが、随分と弱々しい。

 疲労困憊の様子でよろよろと歩き、時折、膝を付いてなんとか進んでいる。

 あまり見ない奇妙な出で立ちの少女だった。白衣に緋袴をまとい、黒髪と言うにはいささか茶色味が強いだろうか。腰まで届きそうな淡い色合いの髪を揺らす少女で───

 

「──てっ! 眺めてるなや!」

 

 誰かが手を差し伸べる気配もない、思い切って駆け出し少女の元へ急ぐ。辛いのだろう、懸命に進む彼女の双眸には涙が潤み、日焼けと言う物を知らない白い肌は、白を通り越して少し青い。

 

「おい、大丈夫とか!?」

「………………?」

「お前だ。そこの…………名前が分からんが、その、倒れかけの」

「あ……。す、すみません、少し立ちくらみがして……もう大丈夫で…………」

 

 そこで彼女の言葉は途切れた。

 くずおれる少女。秀信は咄嗟に動き、あわや地面にぶつかる寸前に彼女を抱き止めた。

 

「お、おい! ……む、気を失ったのか」

 

 一瞬、取り乱しそうになったが顔色をうかがい、脈を測るなどして少女の健康状態を診る。どうやらただ眠ってしまっただけのようだ。

 どこかで休ませよう。

 ここにいても迷惑になるだけ、秀信は彼女を抱えて大股で歩き出した。

 

 ○◎●

 

「…………」

「気が付いたか」

 

 ベンチに横たわっていた少女が目をぱちくりと瞬いて、こちらへ視線を寄越した。

 どうやらまだ状況整理が上手く行ってない様子で、辺りを見渡し、身体に掛けてある秀信のコートを不思議そうに眺めては小首を傾げた。

 しかし、すぐに……

 

「………………。……………………っ!?」

「お?」

「も、申し訳御座いません! 見ず知らずの方の前で倒れてしまって……! そ、それに介抱までしてもらったようで、なんとお詫びすれば良いか」

 

 意外と俊敏な動作で身を起こした少女の口から、見掛けに違わぬとても丁寧な言葉が返ってきた。元来の白さと今さっきまでの青さが、ひっくり返ったように羞恥で赤くなった彼女に、今度はこちらが取りそうになる。

 自分まで取り乱しては元も子もない。だから秀信はなんとか平常心を繋ぎ止めて、笑い飛ばすことにした。

 

「ガッハッハ! なあに、気にするごたーことはなか! おぬしが倒れよった時はたいそう驚いたが、まあ、困ったときは助け合いじゃ。ほれ」

「あ、ありがとうございます」

「ん」

 

 彼女が寝ている内に、近くの自動販売機で買っておいたポカリを手渡す。

 力が入らないのだろうか? 懸命にペットボトルの蓋を開けようとしているが、なかなか開かない様子だった。

 スッと少しだけ強引に奪い取って、パキリと蓋を取って再度手渡す。そのときには借りてきた猫のように縮こまる少女の姿があった。

 

「すみません、飲み物まで戴いて……。お礼は必ずさせていただきます……」

 

 上目遣いで秀信を見ながら、蚊の鳴くようなか細い声でお礼を言う彼女は元が少食なのだろう、コートを掻き抱くようにして縮こまりながら、雀の涙くらいの量をちびちびと飲んでいく。

 やはり良い所の生まれなのか。飲み方ひとつ取っても所作が上品で、食事となればいつも取り合いになって口に入れれば勝ちな自分とは月とすっぽんだ。

 

「気にせんでよかて。今さっきも言ったが、好きでやっちょることやっけんな。それに、だいぶ薄着ばってん寒うはなかとか? なんならもう一枚、貸してもよかぞ」

「いいえ大丈夫です! それにここまでお世話になっていて何もせずに居るなんて私が許せません! 必ずお礼はさせて頂きますのでっ!」

 

 わたわたと手を振って、今度はぐっと可愛らしく拳を握る少女。

 忙しなか女ん子じゃのう。そがんか、と返した口元が緩んでいたことに秀信はついぞ気付かなかった。

 対する少女も訛りの強い言葉に、地方の方……九州の方かしら? と自分よりも遥かに逞しい偉驅を見上げていた。

 

「そんで、なんでまたあがんところで倒れとったんじゃ? 言いとうなかなら言わんでもいいが、気になっての」

「届け物があって出掛けていたんです。いつもならこんな事にはならないんですけど、今日は早朝から少し……体調が悪くて……」

「無理しすぎたか」

「はい……」

 

 小さい身体をさらに縮こまらせて恐縮する少女。ひとつ一つ動作するたびに小さくなっていく彼女に思わず苦笑が漏れた。

 少し出歩くだけで倒れる、か。うぅむ、想像がつかん……。

 正直、世が世ならば戦士として歴史に名を刻めそうな秀信にとって万里谷という少女は宇宙人にも思えた。

 

「そう言えば自己紹介がまだじゃったの。わしは荒木秀信、観光で東京にきちょる田舎もんじゃ。よろしく頼む」

「万里谷祐理と申します。こちらこそ、よろしくお願いします。それに改めて、荒木さん。先程は助けていただき、ありがとうございました」

「ガッハッハ、そうかしこまらんでよかて。見たところ万里谷、でよかか? ……は同い年くらいじゃろ。気にするごたーことはなか」

「……? 万里谷で結構ですけれど、私は今年で十四歳ですから、荒木さんからすればだいぶ年下になると思いますし呼び捨てで構いませんよ?」

「わしは、十四じゃ」

 

 少々顔を引き攣らせ、年齢を短く零した。まあ、同世代でも抜きん出て恵まれた身体を持つ秀信だから仕方のないことではあった。

 そもそも秀信は物心がついた頃から、正確な年齢を言い当てられたことはない。

 十歳あたりまではまだ五歳ほど上に見られるくらいだったが、今となっては二十歳にも間違えられる始末である。

 決して老け顔という訳ではないのだが、満腔より滲み出る有り余った貫禄が、そう錯覚させてしまうのだ。

 

「そ、そうだったんですか!? 私ったら、てっきり年上の方だと思ってました……すみません」

 

 ふたたび萎れた花さながらにしゅんとしてしまった祐理に、しまった! と解りやすい表情を湛える秀信。

「女心がわかってないね秀……」という故郷からの思念波を感じ取った気がしてギクリとしてしまう。

 

「うんにゃ、こっちも過敏に反応してつっけんどんな態度を取ってしもうた。すまん。よし、これでお相子じゃ。それにいつもの事やっけん、よかよか」

「でも……」

「で、万里谷。ここにおっても仕方なかろ、どっか休めるとこはなかか? ここまで付き合ったんじゃ、送ってやるぞ」

 

 秀信の強引な言葉に期せずして、くすりと幼さと可憐さを含んだ笑みを零した。

 どうやら短い間にも秀信の人となりは察しが付いたようで、祐理は仕方がない人ですねと言わんばかりに微笑んでいた。

 

「もう。……そうですね、ここから一番近い休める場所と言えば七雄のお社でしょうか」

「七雄のお社? そりゃ万里谷の神社か」

 

 白衣に緋袴。絵に描いたような装束衣装にさすがの秀信もなるほどと当たりをつけ、相違はないようで祐理も静かに頷き、言葉を続けた。

 

「はい、そこが私の担当するお社なんです。お手伝いもさせて頂いてますし、少しくらいなら休ませて貰っても大丈夫なはずです」

「じゃ、行くか」

「え?」

「ん? 動くとは早かほうがよかろ。ほれ。まだ? おぶってやるけん」

 

 おもむろに秀信は立ち上がると、祐理の前に躍り出た。背中を向けしゃがみ込み、バッチコイ! と言わんばかりだ。

 ぽかんと小さな口を開け、常なら優しげな眦も今では大きく見開いている。それくらい今しがた秀信が放った言葉はとっぴな言葉だったのだ。

 

「そ、そんな! 流石にそれは申し訳ないですしっ、それに殿方とそんな……それも初対面の方と……」

「そがん言うても、ここでジッとしとっても辛かだけじゃろ。よかけん、早う」

「…………」

 

 一時の間、躊躇っているのかピクリとも動かず無言の時間が流れたが、ついに観念したのかおずおずと祐理が背中に体重を預けてきた。

 妹とは全然違うのう……。五つ下の元気な盛りで少し隙を見せれば背に飛びついて来る妹とは全く違う、お淑やかな彼女の所作に今まで意識していなかった照れが顔を出してしまう。

 

「よ、よろしくお願いします荒木さん」

「ん」

 

 少し頬が熱を持ってしまったのを悟られないよう、前を向いて返事もぶっきらぼうになってしまった。

 ゆっくりと歩き出す。頑丈な妹や弟ではないし、ましてや殺しても死ななそうな幼馴染たちでもないのだ。記憶にないほど繊細な気遣う動作で歩を進める。

 だが、それにしても軽い。まるで羽のようだ。肉をもっと付けんか、と口内から漏れる瞬間、南の方から凄まじい思念波が喉を貫き、ゲフンと誤魔化すように咳払いして口を噤んだ。

 背中で不思議そうに小首をかしげている気配がしたが、気にしない。

 

「取り敢えずこっちの方向でよかか?」

「あ、はい! 公園から少し離れた場所にありますから」

「よし」

 

 そこで会話は途切れた。

 ゆっくりゆっくり歩いていく。都心でこんなにも暖かな昼下がりの時間だと言うのに、すれ違う人は皆無だった。

 けれどもやはり真冬なのは変わりなく、風もないのにしんしんと冷えてしまって、少しの間座っていただけなのに足先が痺れていた。

 空に揺蕩っていた白い雲はいつの間にか晴れて、奇跡の起きたかと見紛うほど青一色。空を見上げれば視界の隅に対象な赤を宿した背の高い塔が見え、横たわるビル群が城壁のように見えてあの塔が楼閣ようですらあった。

 枯れた木々のさざめく心地良い音色に耳を傾け、光が爛漫と降り注いで視界を楽しませてくれる。

 まるで二人だけ賑やかな世界から切り離されて、静かな深い森に迷い込んでしまったようだ。

 季節の訪れはいつも気まぐれで唐突だ。まだまだ冬なのにこんなにも温かいとのどかな春の訪れを感じて、日を跨げば肌を裂く冬が戻ってくるのだろう。

 秀信はなんとなはなしに、生命の息吹香る森から騒がしい絢爛な都へ向かう心持ちになりながら、背に感じる布越しの鼓動を静かに聴いていた。

 

「………………」

 

 ゆっくりゆっくりほぐれていく。こんな風におぶって貰うのはいつ以来だろう、そもそも異性の人とこんなに肌を触れ合った記憶がどこにも見当たらない。

 強張っていた手足が、少しずつ少しずつ弛緩していって、力強い彼の背中に……ああ、気付けばもう広い背中に身体を預けていて。

 自分よりも少し温かい人肌の温度と心の臓が奏でる鼓動に、睡魔の甘い誘惑が訪れる。抗えそうにない甘美な誘いに、ゆっくりと意識は溶けてしまった。

 

 

 ○◎●

 

 

 七雄のお社はだいぶ判りにくい場所にあった。高級ホテルや学校、テレビ局に大使館とが立ち並ぶ街並みの一画に細い小道がある。まずはそこを見つけなければならなかった。大通りから入れる小さな道だが、よくよく気をつけてなければ見落としてしまいそうだった。

 祐理を背負い七雄神社なる場所に向かっていたのだが、気付けば背中の姫君はいつの間にやら夢の国に旅立っておられ、起こすのも忍びなく仕方なしの人づてに尋ねてなんとか辿り着いた次第である。

 尋ねているときに向けられた生暖かい視線がなんとも居心地悪かった。まあ、自業自得だ。

 小道を抜けるともうすぐそこだ。何百段とありそうな石段を軽々と登りきれば、都心にこんなにも風情のある場所があるのかと、嘆声が出そうなほど静かで威のあるお社が出てくる。周りを木々に囲まれ、悠然と佇むお社は言い知れない幽玄さがあった。

 宮司さんに事情を話すと、社務所にある専用の和室に通された。手早く布団を敷いた宮司さんは祐理を寝かせるよう促すと、静かに退室していった。

 あまり愛想はなかったが、こちらをかなり慮っているのは挙措のひとつ一つを見れば察するのは容易だった。

 

「起きたか、よう眠っとたのう……。いつの間にか眠っとたけん驚いたぞ。ガハハ!」

「……すみません。またご迷惑を」

「起き上がらんでよか、そのまま寝とれ。なぁに気にするごたーことはなか、おぬしは軽かったからのう? ここまで運んでくるのは大分楽じゃったぞ」

「まあ。ふふっ」

「おっと、すまんすまん。野郎ばかりとつるんどったけんが、こがん機微の分からんとたい。許してくれ」

「いえ、そんな。私、荒木さんとお話するのは楽しいです。異性の殿方とこんなに話したことはありませんでしたけど、こんなに楽しいのは久しぶり……」

 

 そ、そうか。照れくさそうに鼻頭をポリポリと掻いてなんとか誤魔化す。けれどもあまり意味はなかったようだ。

 見ればこちらが誤魔化す必要もなく彼女は顔伏せて、こちらを見てはいなかったのだから。それでも白衣と淡い色合いの髪からのぞく肌が紅葉のように赤く染まってるのを、どうしても目線が拾ってしまう。

 

「あ、あー……そう言えば。宮司さん、かのう? えらいお礼ば言われたぞ、なんでも大切な巫女様を助けていただいたとか、安らかに眠られておられるとか」

「……そうですね。言われてみればそうかもしれません、今さっきみたいな何もない穏やかな眠りはここ最近、なかったと思いますから……」

 

 祐理は顔を伏せたまま、声を震わせていた。今さっきまで血色の良かった肌は、気付けば青白さを取り戻していた。

 

「……なんかあったとか?」

 

 そこで彼女は口をひしと噤んだ。秀信としても深入りすべきではないのではないか、とささやく声が聞こえたが、何故か引き下がろうとは思わなかった。ただの好奇心がもたげたのではないのは確かだがうまく言葉にできない。なんというのだろうか? 放っておけないのだ、彼女が。稚拙だがそんな気持ちだった。

 意を決したようにぎゅっと拳を握った祐里は、ぽつりぽつりと話し始めた。

 

「三年前……からでしょうか。眠りに就くたびに悪夢を見るようになったんです……。怖い……とても怖い夢でした……。夜な夜なうなされることもありましたし、元々身体が弱かったんですが眠れなくて良く体調も崩すようになってしまって……」

「夢、か」

「はい。それも普通の曖昧な夢じゃないんです。夢の中の私は……どこかの、大きな儀式に参加していて、私だけじゃなく他にも多くの同じ境遇の方々が集められているんです……。それを高い所で、人の形をした見上げるほど大きな……ナニカが睥睨していて……。でも瞼を瞑ればハッキリと思い出せるんです。あの恐ろしい……」

 

 そこで彼女の言葉が止まった。彼女の手がぶるりと震え、凛とした声色が沈む。よほど恐ろしいのだろう、彼女の元々白かった肌がさらに蒼白となって、額にも大粒の汗が吹き出だしている。

 思考より先に手が動いていた。辛そうな彼女に無理はしなくていい、と手を握る。

 下の弟も妹も眠るときにこうすると、表情が穏やかになるのだ。けれども祐里はそこで言葉を止めることはなく、懸命に舌を動かし残った言葉を紡いだ。

 

「───エメラルドの瞳が……」

 

 でも、と呟いて伏し目がちだった視線を上げて、傍に座る秀信に焦点を合わせた。嬉しそうに秀信の手を取って、先ほどとは真逆の穏やかな表情を湛えて。

 

「ありがとうございます。ふふっ、どうしてでしょう? 荒木さんと一緒に居たらあの悪夢を見なくて済みましたから……。甘えてしまって、こうして夢のことまで話してしまいました」

 

 蕾のほころぶ笑み、とはこの事を言うのだろう。かぁ、と両頬が熱を帯びるのを自覚しながら誤魔化すようにガッハッハと笑って身振り手振りを加えて「そがんことはなか」と首を振る。

 そう言うと今度は祐理が「いいえ、そんな事はありません!」身を乗り出し、意外と強い声音で反論した。

 この時初めて秀信は眼前の少女が見た目にそぐわない、芯の強い子なのだと謙遜合戦繰り広げながら、気が付いた。

 秀信自身が言っていたように彼はあまり女性経験がないのだ。どうしてもその容姿が足かせとなって、異性……どころかクラスメイトでさえも秀信の人柄を知らない者たちは距離を取ってしまう。

 祐里も箱入り娘さながらに異性と関わって来なかったのと同じように、秀信もまたそれほど大きく変わらないくらいには同世代の異性と話した記憶がなかった。

 それでも気性が合うのだろう。不思議と彼彼女の会話は途切れてしまう事はなく、今日が初めて会ったのが信じられないほどに打ち解け合っていた。

 

 それからどれくらい時間が流れたのだろうか……? 

 なんだかんだで陽も傾きはじめている。そういえば東京タワーを見物にいく予定だったがすっかり忘れていたことに気付く。

 だけど秀信は全く残念だとは思っていなかった。それはこの目の前の少女との奇縁を、秀信もなかなか好ましいものだと感じていたからかも知れない。

 

「そいぎ、おいもそろそろお暇するばってん……もう倒れんごとの」

「あ、もう行かれるんですか」

「近くの親戚を訪ねるごとなっちょるけん、あんまり遅くなるわけにはいかんのじゃ。明日には日光に行こうと思っとるけんのう」

 

 それを引き留めたのは意外にも祐里の方からだった。

 

「なら、せめて電話番号だけでも教えて下さいませんか? 荒木さんが日光から帰ってらっしゃたら、その時改めてお礼をさせていただきたいんです。……ここまでお世話になって、何もできないなんて申し訳なくて悶々としてしまいます」

「む」

 

 これまで彼女のお礼を、という言葉を固辞し続けていた秀信だったが、今度ばかりは身体の関節が動かなくなったように固まってしまった。

 出会ってから弱々しい姿を見せていた彼女の凛とした姿に驚いたのかも知れないし、懇願する彼女の上目遣いの瞳にやられてしまったのかもしれない。ともすれば南の方角からもはや波として幻視できるほどの何かに気圧されたのだろうか。

 それに少しだけ惜しかったのだ。ここで別れてしまえば、おそらくこの目の前の少女との縁は完全に途切れてしまうだろうから。

 

「ま、電話番号くらいならぜんぜんよかぞ。またこれから何かあるかもしれんからのう」

「ふふ、ありがとうございます。荒木さん」

 

 どこか言い訳をするようにそっぽを向きながら、懐から携帯電話を取り出す秀信。

 そんな彼にしっとりと微笑んだ彼女の柔らかい笑みは、まるで山間に咲き揃う桜を彷彿とさせ、これで何度目になるのか秀信の頬を紅潮させながら、どうしようもなく彼の心を攪拌させた。

 秀信は初めて味わう心のうねりに翻弄されながらも、抗うことなくその心地の良いうねりに身を委ねていた。



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3話

「新体操やアーティスティックスイミングもですか……?」





 夏の日。太陽が地面を焦がすにおいが辺りに散らばって、山向こうの入道雲が穹の蒼さを際立たせていたあの日。

 日が中天まで昇りきって南天で向かうころ。蝉時雨が耳を満たしてしまう小さな公園で、二人の少年が蹲っていた。

 片方の少年は止めどなく流れる血に皮膚が染まるのも構わず、顎を手のひらで抑えて、泣きじゃくっていた。

 もう片方の少年は許しを乞う姿勢で泣きじゃくる少年の前に膝まづいて、血痕とぶよぶよとしたピンク色の塊の付着した石を握りしめていた。

 

 はじまりはなんだったのだろう。

 トモダチになろ、と語りかけられた事か。手を握られた事か。目を合わせた事か。

 ただ言えることは、泣きじゃくる少年にとって全てが不快で嫌忌する行動だった。

 だから拳を振るった。さながら獣が邪魔者や外敵を追い払うように。

 

「痛いっ……痛いよぉ!」

 

 結果は見ての通りだった。右顎から唇にかけて肉の削げおちた裂傷が走り、夥しい出血が少年の服を汚していた。うだるような暑い日だった。汗と血が混ざり合いながら喉を伝って、頬を伝う涙が洗い流した。

 痛い、痛いよ。みぃん、みぃん。苦痛に染まった声が蝉時雨に紛れて掻き消える。苦痛などないのだ。虚偽なのだ。痛みを無くしてしまえば傷も瘉える。消してしまえ。痛みを無くせ。過去を否定する大合唱を鼓膜に叩きつけた。

 ごめんよ、ごめんよ。そしてもう一つの声までも蝉時雨はかき消して、最初っからなかったのだと声高に叫んだ。

 過去が蝉時雨にまぎれて、くだけて、ほどけて、とけていく。でも、そんな訳がなかった。

 

「痛い……。痛い……」

 

 痛みを無くしたくなかった。生まれて初めての"痛み"を無に返したくなかった。

 だって苦痛は喜びだ。生物は生まれる折、痛みを伴う。何かを犠牲にしながら、痛みとともに無から生まれてくる。存在と調和させるものは痛みだ。痛みは怒りを生む。怒りは錨となって存在へと導いた。

 

 涙は痛みからではない。自分がはじめて自分を認識した歓びが、涙を零させた。

 

 幼い彼は痛みを知らなかった。生まれながら人の枠を超えていた少年は、"痛み"を"痛み"だと思えなかったから。だから風に触れれば絶叫するほどの痛みは、生みの痛みだった。

 

 痛みが、ただ現れて名を残すだけだった彼を導いた。

 痛みが、不確かで不鮮明だった彼を人にした。

 痛みが、"彼"を彼にした。

 

 ──今、此処に、いる。

 

 痛みから生まれた一念が悟りとなって幼い少年の心を満たす。それは少年にとって何ものにも代え難い、赤く染まった黄金の記憶。

 あの日。夏の日。本当の意味で彼は生まれたのだ。

 

 

 

 

「夢か」

 

 丑三つ時。東京の親戚の勧めでビジネスホテルに一泊することになった秀信はベッドのなかで目を覚ました。背中や脇に気持ち悪さを訴えかけられ、触れてみると顔を顰めるほど寝汗をかいていた。

 寝苦しい夜だった。今は真冬で少し窓の方へ目を向ければしんしんと霜枯れた夜が広がっているような、暑さとは程遠い季節だったが。

 あの夢を見るときはいつもだ。月に一度は見る夢。夢なのに痛みは鮮明にあって、人によっては悪夢に分類してしまう夢だ。

 でも秀信にとってあの夢は、過去の記憶は、なくてはならない標榜だった。自分が人へ生まれた日の記憶。

 

 首を振って、肺胞に溜まった空気を吐き出す。肺活量があるから長い息になった。ごそごそと棚を漁って湯呑みを取り出し、ポット押してお湯を注ぐ。

 窓辺に椅子を置いて都会の景色を眺めた。百万ドルの夜景とはいかないが、片田舎から出てきたお上りさんの秀信にとって新鮮そのものだった。真夜中でも耳を澄ませば誰かの声や騒音が耳に入る。無音は嫌いだった。

 

「犬……?」

 

 最初、見間違いかと思った。けれど違う。はっきり"見える"。星明かりを掻き消す都会に照らされて、真っ黒な毛皮に覆われた一匹の犬が見えた。

 今日日、野犬などそうそう見かけない。そしてあの黒い犬は、普通の犬ではなかった。なにせ、屋根伝いに、建物を足蹴にして夜空を疾走しているのだから。

 そして──。

 異様な光景に目を凝らし続けていた秀信は、気がついた。あの黒い犬はなにかを追いかけている。逃げる誰かを追いかけている。踵を返して部屋を飛び出した、オートロックなんて文字が脳裏をよぎったが知ったことか。

 間におうてくれよ! 秀信は四肢に力を込め、駆け出した。

 

 

 白く荒い息を吐き出し前面に広がる白を振り払いながら、祐理は逃げていた。追われているのは祐理だった。

 もともと身体が弱く体力が皆無に等しい少女だ。神に連なものである黒い犬から、ここまで奮戦出来ているのがもう奇跡だ。

 けれど僥倖でもあった。神に連なるものだからこそ、気配を察知できた。

 世にはひとつの不可思議な法則がある。それは神話に居るべき神々が、気まぐれに地上へ降り立つという法則だ。神々はまつろわぬ神と呼ばれ、強大な力で地上へ数々の爪痕を残して去っていった。

 万里谷祐理もまた爪痕のひとつだ。彼女は普通の少女ではない……遠い遠い裔とはいえ神の血脈を現代に伝える尊き巫女"媛巫女"のひとりだった。

 そして媛巫女はひとりひとり固有の能力を備えている。祐理は"霊視"と呼ばれる能力を高い精度で発揮できる媛巫女だった。霊視とは占いのようなものだ。勘に近いものでもある。けれど神の遠い裔である彼女の勘だ。

 こうして逃げれているのも、"何かが来る"という勘があればこそだった。

 

 走って走っていつの間にか人気がなくなり、公園に辿り着いてしまった。一目ではわからなかったがここは芝公園、七雄のお社から2キロ近くも逃げていたらしい。虚弱な祐理にとって長距離といっても過言ではなく──遠吠えが夜を切り裂いた。

 天に吠える猛々しい遠吠え。矮小な人の心を挫くなんて容易いことで、祐理はたまらず膝を折って蹲った。胸をかき抱いて、嗚咽を零した。

 

「あっ、あっ、あぁぁああああああ!」

 

 犬の遠吠えだった。どこまで響き渡る聖なる声。()()()祐理はひとつの夢を思い出した。いくつものフラッシュバックが駆け巡る。祭壇。集められた少女たち。不安。恐怖。長身痩躯の老人。

 最大級の恐怖が人が爬虫類であった大昔の脳の地層に叩きつけられた。心身を喪失しなかったのは奇跡だろう。生存本能が意識を繋ぎ止めたのだ。

 のそりと陰影が揺らめく……夜闇をくぐりぬけて現れたのは一匹の犬だった。ただの犬ではない。体躯は象も及ばない、牙の鋭さは狼も及ばない、爪の鋭さは熊も及ばない。

 あれは神に連なる獣。神聖無比なる聖獣なのだ。

 

「哮天犬……」

 

 小さなつぶやきが漏れた。もしかしたら唇が震えただけだったかも知れない。けど、黒い犬は……哮天犬と思しき犬は祐理を睥睨し、今度こそ祐理は思い出した。

 あの夢は夢なんかじゃなかった。夢は過去だった。自己を守るために自ら封じた、凄惨な過去の記憶。

 人を塩の柱に変えてしまう"エメラルドの瞳"は虚妄ではなく、神々を戯れに弑する荒ぶる羅刹の君も偽りではなかった。

 哮天犬がふたたび吠えた。

 目の前の人間が自分から意識外したのが気に食わなかったのか、大きく、大きく、吠えた。嬲られる思いだった。遠吠えが轟くたびに心が砕かれる、いっそ一思いにに喉を砕いて欲しい。

 

 思考が通じたのか、哮天犬が前のめりの姿勢になった。牙を剥き、爪を逆立て、土砂を蹴りあげ祐理へ向けて一直線に飛びかかった。

 ──鮮血が舞った。

 地面に飛び散った血が街灯の灯りに照らされ赤を反照していた。それでも祐理は生きていた。それどころか痛みがなかった。

 当然だ、血を流したのは祐理ではないのだから。

 

「荒木、さん……?」

 

 恐怖が驚愕に早変わりする。

 彼はニッと白い歯を見せながら「間に合ったごたの」と笑った。腕を哮天犬に噛まれながら、痛みを毛ほども感じさせない素振りで祐理に笑いかけた。

 今日の昼に出会った……身体が大きいだけの、裏の世界のにおいなんて全く感じさせなかった少年が突如現れ、颯爽と助けに来てくれたのだから。

 驚嘆すべき光景だった。なにせこの世の真実を知っていようがいまいが、呪術師であろうがあるまいが、ただの人間が神に連なる獣を阻むことなど不可能だ。あってはならないのだ。

 祐理の心中などそっちのけで哮天犬はその間にも怒りをみせた。噛みつき腕に刺さった牙を抜こうとし……微動だにしない。

 ギチギチ。固まり切ったゴムを無理やり動かしたような音を犬の優れた聴覚は捉えた。哮天犬はこの瞬間、本気で困惑した。顎の力は強力無比、それなのに外れないのだ。筋肉を締め上げた、ただそれだけで牙も動きも封ぜられてしまった……いや、そもそも何故只人相手に、顎では()()()()などと敗北を認めてしまったのか。

 容貌魁偉。人の中にあって人ではないもの。雄々しく美々しく逞しい。陰翳から吹き出した黒い犬は、薄明かりに照らされる人から外れた魔人の姿を垣間見た。

 祐理はひたすらに俯いていた。それでも彼女生来の生真面目さで、勇気を振り絞って細く開けた目は、弱々しく光る街灯の影をしっかり捉えていた。

 腕を振り上げた影が、拳を振るった。それだけで脅威は去った。言葉にすればたったそれだけ。たったそれだけで人が獣を追い払った。

 哮天犬はさながら車に轢かれた獣のごとく下半身を引き摺って、いびつな動作で退いていった。引き際を知る名犬であった。

 

 

 こつ、こつ。と足音が聞こえて目の前で止まった。

 恐る恐る顔を上げると鬼が立っていた。鬼と見紛うほど禍々しい人が立っていた。

 伸びてきた手にビクッ、と肩を強ばらせ……伸びきた手もまた強ばって臆病な猫の手を思わせる動きで引っ込んだ。

 

「すまん」

 

 ハッと顔を上げた先には居心地悪そうな秀信が居た。居場所のなさそうな人がいた。ただそれだけだった。腰が抜けて動けない祐理に、彼は離れたところに座り込んでぽつりと零した。

 

「怖かったろう」

「ごめんなさい……」

「ははは。わしぁ……なんというんだろうな。自分で言うのも何だが、ちょっと努力すりゃあどんな種目の金メダルだって取れるらしいからの」

「え」

 

 頬をかいてつとめて優しい声音で語る秀信に、祐理はふいと視線を戻して目を瞬かせた。心なしか目が輝いている気がする。

 

「新体操やアーティスティックスイミングもですか……?」

「…………………………」

 

 ちょっと無理かもしれん。秀信は目を反らし頬をかきながら、ちょっとだけ考えて、「頑張れば……あるいは?」と呟いた。それから自分がシンクロやらリボンを舞わせて新体操をしているイメージが飛び込んできて、どうにも可笑しくて肩を震わせてしまった。

 祐理も顔は俯むかせてはいたが肩が揺れていて。さっきまで確かに漂よっていた微妙な空気が吹き飛んでしまったのを悟った。

 ひとしきり笑うと祐理がハッとして秀信の腕を取った。

 

「血が」

 

 言われてみれば、さっき噛まれた場所からどくどくと流血していた。すっかり忘れていた。

 

「なぁに、気にするごたなか。唾つけとりゃ治る治る」

「じっとしていてください。治癒の術の心得なら少しはあります」

 

 ぴしゃりと強い語気で詰め寄られ、口を閉じて顎を引いた。それから彼女の手が淡い光を放ったかと思うと、秀信の傷がみるみる塞がっていく。呪術など毛ほども知らぬ秀信は瞠目し、人知を超えた御業のように思えた。

 それから傷が完全に消えると、祐理は厳かな所作で体を戻した。終わったらしい。

 

「あの……お聞きにならないんですか」

 

 主語を抜いた言葉で、きっと、いくつかの事柄を指した言葉なのだと思った。追われていた理由、黒い犬、先程の術。

 秀信は無言だった。そのままおもむろに立ち上がると、祐理の前で背中を向けしゃがみ込んだ。昼と同じようにおぶるつもりらしい。今度は素直に従って背に手を置いて、ゆっくりと彼は歩き出した。

 道はお昼も通っていたから覚えはあって、夜道の暗ささえどうにか出来れば案内がなくとも進むことができた。

 

「むかし、むかし……というほど昔でもないか。十年ほど前だったか。九州の寂れた片田舎に、それはそれは強い餓鬼がいた」

「え」

 

 なんの話しかわからず、困惑を口にして、直ぐに言葉を噤んだ。きっと昔話なのだ。誰の、なんてわかりきった昔話。

 

「曰く、嬰児のころに鉄板を握りしめ鉄球に変えた。

 曰く、二歳のころには迷い込んだ猪を投げ飛ばした。強さの理由は何だったんじゃろうなぁ……元来、巨驅の血筋だったのか、そいとも先天的に筋肉が発達しやすか身体だったことか……或いは、虎や熊みたいに強さに理由なんてなかったかも知れん」

 

 強い語気でも、揺らぎもなく、ただ淡々と秀信は言葉にした。

 

「ひとつだけ分かることは、そん餓鬼が途方もなく"強い"ことは確かじゃった。五歳になる頃には、"鬼"だとか"負け知らず"だとか、そんな呼ばれ方をしとった、らしい」

 

 顔が暗闇に隠れて見えない。祐理も好んで見ようとはしなかった……地面に敷かれたモザイクに揺れる幾重もの影に目を落とした。

 

「そうして大人たちは決まって口にする──()()()()()()()()()()()、と。こんな片田舎に収まる器ではない。こんな場所に居ていい神童ではない。ここから出て大きな世界に行くべきだ。外に出るべきだ」

 

 彼の語気は変わらない。けれど、手のひらに伝う彼の鼓動は自分のものより些か早かった。

 

「そうだ──ここに居てはいけない」

 

 祐理は思い当たるものがあった。人は理解できないもの、人から外れたものを、"かみ"と呼び馴らわし祭り上げる。そうする事で自分たちの理解できない存在を、枠組みに収めて常識の範疇に貶めてしまうのだ。きっと彼も。

 

「物心ついたばかりの人格すらあやふやで、自我も薄かった頃じゃ。弱くて凡庸な人間しか居らん、対等と思える人間なんぞおらん。そいつは悟った。人は弱い。自分より強いものなんぞ、この世におらん。居るはずがない。だからここに自分の居場所はない」

 

 彼は孤高であった。

 彼の歩む道を阻むものはおらず、老若男女の誰もが畏怖を込めた目で彼を仰ぎ見て、彼もまたそれを拒まなかった。

 彼は孤独であった。

 彼と同世代の、まだまだ幼い子供たち……しかし鋭敏な感覚を備えた子らは総じて距離をとった。彼もまた抜身の刀身さながらの雰囲気を隠すことはなかった。

 どこまでも己と他人は分け隔てられている。わかり合うことはなく、わかり合う必要もない。天上天下唯我独尊。まさに彼のためにある言葉であった。

 

「しかしな、有為転変は世の習い。ある日、そいつにも転機が訪れた」

 

 俯いたままの祐理に構わず、秀信は一転して明るく楽しげな声音で語り出した。重箱に納められた大切な思い出を紐解くように。

 

『おっす! ぼく□□□□ってんだ! いえもちかいしさ、トモダチになろーぜ!』

 

「そいつを恐れない例外(バカ)が現れたんじゃ。近所に住む普通の子供だったはずでの……傍からみても凡人の域を出ない同い年の子供じゃった。特徴があるとすれば意志の強そうな瞳だけか。

 素直に驚いた。そんな平々凡々な子供が恐れ知らずに自分と友達になろうと笑いかけたんじゃからな」

 

 クツクツと愉快そうに笑い、「神童だの怪童だの呼ばれとる餓鬼より、誰も彼も忌避しとった奴に平然と声を掛けてくる凡人の方がわしは凄い奴じゃと思う」と、心底楽しそうに言った。

 

『おいに、話、掛けるな』

 

 彼はすぐに突き放した。驚いたのもあったし、プライドもあった。だが一番の理由は……友達になろう、と言われたのが初めてで、どうしていいのか見当もつかず戸惑ってしまったのだ。

 

「弱っちくなんてない! じゃあ勝負しろ、ぼくが勝ったらトモダチな! それでどーだ!」

 

 結局、彼の申し出を受けた。最初は軽い気持ちで、自分に向かって威勢のよい事をいう子供なんて今までいなかった。物珍しい。だからか、心が動かされたろう。

 そうして勝負が始まった。

 

「──戦いはわしの負けじゃった。人は強かった。それを思い知れた……そして叶うなら、あの日のままで居続けたい。そう思って今まで生きてきた」

 

 話は終わりだった。なんてことはない。どこにでもいて、ありふれていて、けれど唯一無二の、誰かの話だった。

 

「自分で言うのもなんだが、他人よりも強い身体を持っちょるからの……普通に生活を送っとるだけでも変化の荒波がざぁざぁと訪れよる」

「荒木さんは……変わりたくないんですね」

 

 小さく頷く。

 変わりたくない。昔のままでいたい。そんな欲求は誰しも持っているものだ。郷愁とも似ているようで違う、追憶の情。

 彼は人並み外れていた、だからあの日の記憶は黄金だった。

 しかし彼は容貌魁偉だった。優れすぎる身体が、変わらずに居続けたいなどという想いなど踏み躙って、変化へと手ぐすねを引くのだ。

 

「…………」

 

 識っている感情だった。奇天烈で比類ない能力を有しているのは万里谷祐理という少女も同じだったから。彼女は霊視の才に優れている。おそらく歴代でも最高位の精度を誇るだろう。

 でもそんなもの望んでいた訳では無い。天命なのだと諦めはした事はあっても、喜んだ記憶は少なかった。才のせいで"最悪の存在"に目を付けられ、拭えないトラウマだって生まれた。二年前に起きたあの凄惨な事件を経て、今の今まで平素で居られたのは忘却という形で封をしていたからに過ぎない。

 

「力は……怖いです」

 

 そうだ、力は怖い。偽りのない本音だ。二年という月日の経った今でさえ、過去に意識を向ければ身体の芯が青褪め、指先から震えが走った。でも彼の前で嘘は騙りたくなかったし、相応しくもなかった。

 そうじゃの、と寂しさを隠さず秀信は同意した。

 

「私も優れた能力を宿していると誉めそやされる事は、一度や二度ではありません。媛巫女という地位にあって、敬られるのも才があるからに他なりません。……人を終えられた"羅刹の君"と恐れられる方に出遭い、見初められたのも才があったせいです」

 

 それでも、とその先の言葉は続かず……秀信は目を瞠った。首元に柔らかな感触が広がった。肩と背中に置かれていた手の感触はいつの間にか消えていて。

 祐理をおぶっていたはずの秀信は、祐理に抱きすくめられていた。後頭部にはおでこが預けられていて少女の毛髪と腕の汗腺から由来する匂いが、心臓に早鐘を打たせた。思わず足を止める。

 祐理はその先の言葉を口にするために大きな勇気が必要だった。力の塊である秀信を肯定すれば、自分の裡に秘めた力も肯定してしまう。力は結局力でしかない。方向性が違えど根源では同じだ。

 そしてそうすれば忌まわしい過去も……恐怖し記憶から消し去っていたはずの過去だって肯定に繋がってしまうのだ。

 それでも。声にならない唇の揺らぎが言葉になって秀信の両の耳に届いた気がした。

 

「あなたが。荒木さんが。居てくださって良かったと、そう思います」

 

 噛み締めるように、口を引き結んで目を瞑った。目を開けたらきっと前は見えなかっただろうし、言葉は言葉にならなかったはずだ。大きく息を吐いて、大きく揺らいでしまった自分を糺す。

 背中に伝わるぬくもり。今が真冬で良かった。彼女の体温を強く感じ取れる幸運に感謝した。

 

 ああ、居るのだ。

 

 自分は、此処に居るのだ。

 

 顔は見えなくても、誰かがそこにいるのだ。ひどく満足してしまった。

 

 

「……万里谷」

「はい」

「……わしは、いて、よかったと、思うか」

 

 応じる返事は、合わさった頭に伝わる頷きだった。

 

「思います。敵を追い払ってくださったから、ではなく」

 

 救われたと思った。自分をまた見つけられた気がした。

 そうか、そうか。

 なんどもなんども、自分でも呆れるほど繰り返して、二人は日常へ帰っていった。



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4話

誰もが魅せられたのだ。

戦士の咆哮に。英雄の背中に。王者の覇気に。





 ──栃木県日光市『日光東照宮』

 

 早朝。昨日とは打って変わり、今日は生憎のくもり模様で寒さも格段に増している。昨日の真夜中に起きた一件もあってなかなか寝付けなかったが生来の図太さを発揮し 、なんとか床についた秀信は溌剌とした顔で日光を訪れていた。

 電車に揺られて数時間、まだ九時にもならない時間だが流石は関東を代表する観光地。人や車の出入りでにぎやかだ。道と人を縫って表参道を通り抜けると、ついに大きな鳥居が目に入った。

 おおっ、見えた見えた。日光東照宮の一の鳥居が見えた時、秀信は思わず嘆声を漏らした。

 少し胸を撫で下ろす。紆余曲折はあったが、ついに秀信は目的地に辿りついたのだった。

 

 

 かつては徳川幕府の聖地と称された東照宮の豪華絢爛さは格別であった。

 四方に十二干支の像が施された五重塔、ひときわ目を引く黄金色の陽明門、極彩色のレリーフが散りばめられた本殿をはじめとする建造物の数々……。

 まさに"観"光地、視覚から入る情報量は秀信を満足させるに余りある光景であった。それから足早に境内を見て回った。

 

「うっし、これで一通り回ったか。しっかし、どこもかしこも綺麗なもんだが……。人がわんさか居るけん、なかなか見て回れんな」

 

 もう昼前だ。秀信が言うように現在の東照宮は来た時の何倍という人々が訪れ、かなりの賑わいを見せていた。あまりの多さに酔ってしまいそうだ。

 そんな騒がしい東照宮の隅で、秀信は小休止していた。

 時間は十時を過ぎたあたりで、これから東照宮に隣接する二荒山神社の見物に行き、その後はバスに乗り込んで中禅寺湖や戦場ヶ原のある奥日光にまで行こうと計画していた。

 ふわぁ、と大きなあくびが出る。朝が早かったからか眠気が顔を出してしまった。

 というか昨日あんなことがあったのに、しっかりと睡眠を確保できた自分の図太さに呆れてしまう。目元を擦りながら、旅程を頭の中で反芻しながら近くにある神厩舎の賑わいを眺めている時だった。

 

『────────』

 

 なにか、聞こえた気がした。

 なんじゃ? 少し驚いてあたりをキョロキョロと見渡す。けれど相変わらず視界に入ってくるのは観光客や絢爛な建物ばかりで特に変わったところは見受けられなかった。

 気のせいやったか。疲れとるんか? 情けないのう……。

 帰ったら鍛え直しじゃ、と視線を切ろうとした瞬間だった。

 

 ──違和感を感じた。

 

 それはほんの少しの違和感……。なんというか上手く言葉に出来ないが、見えているようで見えていない……()()()()()()()()()()、そんな不思議な感覚。

 思考を途切れさせれば、すぐにでも忘れてしまいそうな……少しの違和感だった。

 目を凝らして神経を研ぎ澄まし、やっと理解する。

 違和感の場所は神厩舎と呼ばれる『三猿』の像があることでも有名な建築物……の裏にある()だった。

 

 なんてことない場所なのに、何かが()()()()

 

 人々は気にした様子もなく通り過ぎていくというのに秀信はそこがひどく気になった。違和感に好奇心がもたげると同時に警鐘が耳鳴りとなって響いた。

 けれども秀信は訝し気な表情を浮かべながらもゆっくりと林へ向かっていた。

 

 たしかに、何かがおかしい。

 

 近づけば近づくほど、認識しにくくなっていくのが分かる。気を抜けば本当に見失ってしまいそうだ。自分でもよく分からないほど意固地になりながらも、ついに辿り着いた。

 やはり、おかしい。林の奥が不自然なほど見通せない。林の中に入ってしまっていいのだろうか、怖気づきそうな心を「男は度胸!」と叱咤する 

 好奇心は猫を殺す、そんな単語が頭を過ぎったが思い切って秀信は進んだ。そうして、足を踏み入れた瞬間だった。

 

『─────た』

 

 ノイズの掛かった声とともに、世界が塗り替わった。

 ぞわり、と踏み出した足から薄闇のように、しかし鈍いなにかか噴き出し、秀信は囚われてしまった。

 瞬間、思考は深く深く霧がかり瞳には鈍い光が宿った。

 思考が茫洋としている。だというのに足が……一歩、また、一歩、ブリキのように、確実に動いていく。

 こっちに来い、こっちに来い。……そう囁かれてる気がして、此岸から彼岸へ引っ張られているよう。

 身体はまったく言う事を聞かず、その様子を高いところで別の自分が眺めていた。"幽体離脱"という言葉がきれいに当てはまほど心身が剥離していた。

 疑問よりも先に思ったのは"不快さ"だった。自分が自分ではない。まるで自分が二つに別れてしまって、そのどちらの感覚も共有している不愉快さ。

 あまりの不快さに血の流れが逆流する錯覚を覚えた。耳を打つ血流の音はまるで荒波に似ていた。ヘモグロビンが酸素を脳へ送り届ける前に一酸化炭素に寝取られてしまう気さえした。

 

 歩みは止まらない。

 さく、さく、と湿った地面から音が鳴り、どこまも同じような杉並木が続いていく。出口のない迷いの森に入ってしまったかのよう。

 

『────けた』

 

 またノイズがかった声が聞こえた。その声が鍵だったのか、秀信の瞳に理性の光が戻った。ふらつく頭を抱えて未だにぼやけた思考に活を入れる。

 

 辺りを見回せば、どこかの古びたお社に居た。

 長年の劣化が原因だろうか? 建物の半分ほどが大きく崩れている。それにしては傷が新しい。なにか大きな爆発か、強い突風にでも晒された様相を呈していた。

 

「どこや……ここは……? ……日光東照宮のお社、か?」

 

 不気味な場所だった。長居してはならないと、さざめきのような警鐘が中耳骨の内から響いている。

 秀信は身体能力が並ではない。常人の数十倍はある膂力にスタミナ、それは見た目を裏切らない。

 そして彼の本能や直感もまた獣並みに鋭い。

 その直感が叫びを上げている。引き返せ、と。しかし、引き返す訳には行かなかった。

 

「誰かは知らんが変なところに連れてきやがって……!」

 

 自分は確かに"呼ばれた"のだ。であれば、すごすごと引き下がる訳にはいかない。せめて正体を知ってからにしないと腹の虫が収まらない。

 ともあれ未だ頭がふらつく。座れる場所を……そう思い立って、手ごろな場所を探していたとき、とあるものが視界を掠めた。

 

「ん? あれは」 

 

 それは、一見、ただの布きれに見えた。けれどこの場所には不釣り合いな物でもだった。京劇に出てきそうな赤や黄色の散りばめられた暖色系の布は、茶や黒といった寒色系ばかりの林は居場所ではなかった。

 

 それに……変だ、何かが。

 

 言葉にするのはひどく難しい。

 情報量、と例えればいいのだろうか? 視界にあるどんな存在より、それこそ目の前にある古びたお社でさえも歯牙にかけない、目に見えた圧力となって存在感を放っていた。

 どうしても振り払えず、気になって仕方なくて、気付けばもう眼前にまで歩み寄り、布を手に取っていた。手に取ってしまった。

 

『──()()()()

 

 まずっ──! 

 気付いた時には、もう遅かった。翼を広げて獲物を捕らえんとする猛禽のごとく広がった帯は秀信の右腕を絡め取るように巻き付いたのだ

 

「────!」

 

 驚愕の声を上げる暇もなかった。まるで溶鉱炉のなかにうごめく融解した鉄のなかへ手を突っ込んだかのように熱を感じた。熱は手を伝って、心臓に届き、成果丹田の奥底まで浸透した。

 感触は痛みであり衝撃だった。耐えきれず秀信の意識は無へと落ちていった。

 

 

 

 ○◎●

 

 

 

 

 目を開ければ、ドス黒い雲がわだかまる夜空が見えた。濃密な生命を感じる芳醇な匂いに葉擦れと鳥のさえずり、素肌に伝う風の冷たさが意識を覚醒させたのだと当たりを付けた。

 脳から命令を下せば、四肢はいつも通り正常に機能する。この頑丈すぎるほどに頑丈な身体は、長年付き合ってきた己でさえ死ぬビジョンが見えないのだから頼もしい。

 

「な……?」

 

 上半身を起こし辺りを眺めると、そこで初めて以前と様相が一変していることに気が付いた。

 いつの間にかジャングルの中に身を置いている。まるで戦争映画に出てくる密林よろしく、鬱蒼とした森にいた。

 

 同時に気付く。────ここは、知らない場所だ、と。

 

 秀信のありとあらゆる感覚が確信とともに、この上なく警鐘を鳴らしていた。此処はまずい、と。

 国や県、そんな次元の話ではない。そんな小さな違いで済むような場所ではないと気が付いたから。

 まるで深海の底や宇宙の果てに放り投げられたような……いや、それよりももっと酷い感覚に、怖気が全身をねぶっていく。──同時、右腕に違和感を感じた。

 

「腕がッ!?」

 

 意識を失う前に突如として腕に巻き付いた布が、じわじわと面積を広げ、今ではもう肩にまで這い回って来るではないか。

 どうなっとるんや!? 秀信は混乱の極致にあった。

 焦りが全身を駆け抜け、ありえない事態に動転しそうになる。必死で戸惑い荒れる感情を押さえつけながら、空いた左手でむんずと布を引っ掴んだ。

 だが、どれだけ踏ん張ろうと取れやしない。

 

「クソッタレェ、こんまま身体に纏わり付くようなら……! ───ッオオオオオッ!」

 

 地鳴りが起きるほどの雄叫びを上げる秀信。いっそ肩が引き千切れてしまえ! なりふり構わず引っ張ろうとした瞬間だった。

 

『ふむ……なかなかにしぶとい。さすがは私の眼鏡に適った少年。そう易々とは従ってくれはしないか。ふふ、なかなかどうして、万事上手く行かないものだ』

 

 さっきまで蠢いていた布が動きを止め、どこからか若い青年の声が響いた。けれど人影などどこにもない。

 

「ど、どっから聞こえる声じゃ!」

『おかしなことを言う。君の目の前に居るだろう? それと先刻、君の肉体にしっかりと取り"憑か"せてもらった故、外れる事は叶わない。まあ一蓮托生と言っても過言ではないな』

 

 どこか古風で変テコな言葉遣いで語り掛けてくる声はささやき声さながらに小さな声だったが、不思議なほどに秀信の耳に届いた。威、と言うのだろうか? 聞いた瞬間、すべてのこと唯々諾々と従ってしまいそうな威厳を感じた。

 まさか。

 声の聞こえる方向にギクリとしながら、視線を落とし布を見やれば、先程まではなかったはずの装飾が描かれていた。奇妙な『眼』の模様が。そうして導かれる解は……。

 

「布が喋っちょるのか!? んなバカな!」

『ふっ、この程度で驚いていてはこの先身が持たないぞ。君も驚いてるだろが、名乗らせてもらおう。

 私は二郎真君。玉皇天帝の甥にして天地両軍の将、顕聖二郎真君を見知りおけ』

「顕聖、二郎真君……?」

 

 聞き覚えのある名前だった。昔、隆と勇樹が一緒になってやっていたゲームに出てきた中国の英雄の名だ。興味はなかったが、友人二人が熱心に語り合っていたので記憶には留めておいたから、こんな時でも思い出すことが出来た。

 しかし思い出す記憶が確かだったら、それはおとぎ話の話だ。架空の話で現実の話などではない。よしんば真実だとしても何千年と昔の話だ。

 信じられる訳がなく……いや、そうだ。昨晩のことを思い出せ。あの人知を超えた御業と、神々しい黒犬の存在を。もしかすると、二郎真君とやらが嘘を言っていないかも、という疑心がもたげた。

 

『私の名乗りは、今はよい。それよりも私の指し示す場所へ急げ。でなければ君は後悔することになるだろう』

「なにを言っとるんじゃ───ぬお!?」

 

 言い終わるが早いか、右手に巻き付いた布に引っ張られた。たたらを踏みながらどこかへ連れられていく。

 

「おい! おい! どこに連れいくつもりじゃ!?」

『何から何まですまないないが……今は急いでくれ、力なき者たちが襲われているのだ』

「は、はぁ!? 襲われとる!? 誰が、何に!?」

『───口にするより見た方が早い!』

 

 草木を掻きわけた先に見えはものは、まさに常識をひっくり返す光景であった。

 

 ───"猿"だ。猿が人を襲っているのだ。

 

 薄闇の中で双眸に宿るタペータムの光が茫洋と浮かび縦横無尽に蠢くのは、猿だった。

 それも一匹だけではない。ニホンザル、アカゲザル、マントヒヒ、オラウータン、マウンテンゴリラ……この世のありとあらゆる種類の猿が何十何百と群れては人々を襲っている。

 対する人もまた普通ではなかった。何十人という人間が神職の者が着る装束をまとい刀や槍、なぎなた……多種多様の武器を振り回ししのぎを削っている。

 後から知ったことであったが、彼らは古来より呪術師や魔術師、あるいは魔女などと呼ばれ、内に秘めた"呪力"と呼ばれる力を自在に操る術を持った者たちであると言う。

 

 そんな事を知る由もない秀信は、さらなる混乱の渦に叩き込まれ……はしなかった。昨晩、という下地があったからか多少なりとも冷静さをもって秀信は戦場を観た。ひとつでも情報を、と両の目をカッと開いてつぶさに観る。

 戦いの趨勢はここから見る限り、押されているのは人間側。何倍もある数の差に太刀打ちできていない。

 

「……現実、なのか?」

『君の眼は節穴かな? 見えるものすべて現実そのものだ。君の前に広がる、あの人も猿の魔物もすべて現実だ』

 

 嘘だ、と叫びたかった。

 けれど鉄のさびたような血の匂いも、聞こえてくる猿叫も呻吟も、早鐘を打つ鼓動も、何もかもが本当の事なのだと示していた。

 

「おいに何をさせたかとや……戦え、と。そういうとか?」

『ああ、そうだとも。そのために君を呼んだ。君の力があればあの者たちを助けることができる……そう見極め、君をこの幽世へ呼んだのだ』

 

 噛んだ唇から盛大に血が吹き出た。反吐が出そうだった。悪態をつきたい衝動に駆られ……けれどもう、そんな余裕も逡巡もする時間は残されていなかった。

 人を優に越える大猿が、若い青年に組み付いたのだ。人間側にも動揺が広がるのを肌で感じた。あの青年こそが集団の頭なのだと直感で理解した。故に、猶予は一刻もない。

 

「だりゃあああああッ!!!」

 

 秀信は風となった。

 胸中にあるのは、ただ助けなければ、と言う思いだけ。それ以外の余計な感情は削ぎ落とし、ひたすらに駆けていた。大猿に目標を定め、拳を抜き放つ。

 ───穿! 

 拳をしたたかに浴びた大猿は、一切の重量感を感じさせぬまま……それこそプラスチック製のマネキンさながらの軽快さで吹き飛んでいく。

 荒木秀信。人類史上から鑑みても桁外れの大力を持つ彼は容貌魁偉にして、膂力無双を持つ少年である。

 故に百キロはあったであろう、あの大猿の巨体を吹き飛ばす事が出来た。

 

 はぁ、はぁ……。ただひとり勝者の息遣いが木霊する。

 敵も味方もなく、誰もが静止していた。人魔、騒乱の舞台に突然乱入してきた存在に、戦場の"刻"が止まってしまった。故に、此処が分水嶺。

 

「勝つぞ──ッ!」

 

 本能のままに叫ぶ。背に受けるすべての視線に向けて。彼に生まれ持って備わった戦場勘が「叫べ!」と語りかけてきたのだから。

 

 ───うぉぉぉおおおおおおおおおッ!!! 

 

 果たして、応えはあった。

 呼応する人々の雄叫びは先刻と打って変わって闘士に満ちていた。もはやそこに劣勢に喘いでいた弱兵はいない。

 誰もが魅せられたのだ。

 戦士の咆哮に。英雄の背中に。王者の覇気に。

 たった一声。ただの一言で、劣勢をものともしない軍勢に早変わりさせた。

 武神たる二郎真君の眼鏡に適ったのも頷ける、天賦の才というには余りある戦いへの天稟が示された瞬間であった。

 

 だが相対する猿の軍勢も負けてはいない。もとより個々が人よりも優れた身体能力を持ち、呪力すら有する存在なのだ。少しばかり敵の威勢が良くなろうとも、揺るがない地力の差があった。

 

「ありがとう! さっきは助かった!」

「よか! 今はコイツらをさっさと片付けるぞ!」

「ああ!」

 

 背中合わせに言葉を交わす。

 名前も顔も、未だ満足に知れていないというのに背中を預けるに足る者である、という確信があった。

 しかし、幹彦は焦りを拭えなかった。彼の参戦によって戦線が持ち直したのは間違いない……が、一時的に高揚状態に陥っただけで息切れは必ず訪れる。数の不利もある。

 秀信の参戦は、当座の急場を切り抜ける効果はあったが、依然として窮状であることには変わらなかった。

 引き際を見誤ってはいけない、と幹彦は思案する。

 ここで敗北しても、何の関係もない民間人である彼だけは逃がす……! そう決意し、幹彦は死線へ臨んだ。

 

 ……しかし結局、それは杞憂に終わる事となった。

 

 (およ)そ、二百と四十六匹。

 

 総勢三百は居た猿の魔物を相手取り、荒木秀信という少年が叩き出したキルスコアである。

 まさに鬼神のごとき強さであったと、その場に居合わせた呪術師たちは口を揃えて言う。

 

 勝負は決した。人間側の勝利であった。

 

 

 

 

 終わったか……。

 肩を張るほど大きく息を吸って、安堵の息を吐く。己が発する返り血と汗のにおい、空気を漂う肉の焦げたにおいや深い、森の清涼な薫りとが入り混じりすこぶる奇妙な異臭と変わって秀信の表情を歪めさせた。

 

「先ずは礼を言わせてくれ。君が居なかったあの戦いを生き残れなかった。僕だけじゃなく、ここにいるみんなも、だ。改めて本当にありがとう……君は命の恩人だよ」

 

 九法塚幹彦、と名乗った実直そうな青年は生真面目な顔でそう言って頭を下げ、秀信の腕を取っては嬉しそうに破顔した。

 猿との戦いで怪我と疲労が蓄積されているだろう彼だったが、それを感じさせない笑みだった。

 

「荒木秀信です、秀信でよかです。……それに気にせんでください。おいもいきなり此処に連れて来られて、戦えって言われて、そんで我武者羅に戦って……正直、なにがなんだか分かっとらんとです……」

「戦えと言われた、だって?」

 

 目を瞠いた幹彦に、秀信も目を瞬かせた。てっきり幹彦が戦場へ呼んだのだと思っていたが違うらしい。少しでも情報が欲しかった二人は、ここに至った経緯を掻い摘んで話し合うことにした。

 

 幹彦は語った。九法塚家の家業には日光東照宮に施された術式『弼馬温』を監視、管理するお役目があること。

 そして最近になって件の封印が破られ斉天大聖が復活してしまったこと。そして再度封印するためここに来たことを。

 

 秀信は観光で日光東照宮に訪れ、ふるびたお社……幹彦は西天宮と呼ぶ……に迷い込み、「二郎真君」と名乗る布に取り憑かれたこと。

 そして訳も分からず、"幽世"に連れ去られ戦場まで導かれたこと。

 

「なるほど、一般人である君がここまで来れた理由がやっと分かったよ。それに『弼馬温』の核となった顕聖符の所在もね」

 

 すべてを話し終えた幹彦の表情は少しだけ柔らかくなっていた。

 

「君がこの幽世に現れたときは本当に驚いたよ。普通の人間がなにも持たずに身一つでやってきて、しかもあの猿と戦い始めたんだからね。……でもそういう経緯があった訳か」

 

 納得したように幹彦は言い、秀信の目を真っ直ぐに見て話し始めた。

 

「助けてもらったのは感謝している……けれど、君は現世に帰りなさい。君を戦いに巻き込んでしまったことには申し訳なく思っている。

 だからこそ安全な場所に戻ってくれ。……君はただ巻き込まれただけの一般人なんだ。こんなところで傷付く必要はないよ」

 

 秀信の肩に手を置いた幹彦は、穏やかに微笑んだ。

 

『───いや、それには及ばない。この難局、乗り切るには彼の力が必要となるゆえな』

「ッ何者だ!?」

 

 誰何の問いに、果たして答えはあった。……それも秀信の右腕から。

 

『私は天帝が甥にして天地両軍の将、顕聖二郎真君である、と言えばよいかな?』

 

 その言葉の投じた変化は顕著であった。幹彦を含め、人間すべてが手を止め跪いたのだ。

 

「あ、貴方が……! まさかその霊布が御身であったとは! 知らぬ事とは言え、汗顔の極み。先程の失礼をお詫び申し上げます。この咎は日光は西天宮を守護する九法塚が総頭、幹彦にひとりに帰するものと御容赦下さい……!」

『ふふ、かまわない。此度の斉天大聖誅伐の仕儀において、私と君たちは同士ゆえな。だのに何故咎め立てできようか?』

「……! 御身もまた斉天大聖討伐に轡を並べられると! これは心強い!」

『ああ。そして、そこな少年もまた同士である』

 

 幹彦たちのリアクションにぽかんとしていた秀信が、二郎真君の一言で話題の中心に引っ張り出された。

 

「わしが、か……?」

『そうだ。今からおよそ七回ほど太陽と月が交叉する前のこと。三百年余、この地に封じられていた斉天大聖が『弼馬温』の軛を引き千切り、復活を遂げた。それは九法塚である君たちも知るところであろう』

「は! 私どもがここに居るのも、その異変を受けてのことですから」

『うむ。彼奴の暴れん坊ぶりは故事を紐解かずとも分かる通り、現世に繰り出せば騒乱を起こすのは必定……これに気付いた私も誅伐のため一度は戦ったが……敗れてしまった』

「なっ! ま、まさかそんな! 二郎真君様が!?」

『今こうして布として身を窶している事こそ、その証左。しかしその甲斐あってふたたび幽世に斉天大聖めを封じることに成功した。だが彼奴は天に唾吐く暴れん坊、必ずや自由を求め地上に現れるだろう……』

「はい。古老の方々も尽力されていると聞き及んでおります」

『うむ。彼らのお蔭で時間稼ぎが出来ているが……私も座視するつもりは無い』

 

 おお、と平服している人々から熱を帯びた声が漏れた。

 

『故に思案を巡らせ、思い至ったのが人の子に頼ることだった。それも只人ではいけない。類稀なほどに強い者でなければ。

 ……そして君を見出したのだ。一目見れば分かった。君には格別の戦士の相がある、と』

 

 右腕に巻き付いた布の『目』の模様が動き、秀信の双眸をのぞき込む。

 まったくの門外漢な秀信は難解な授業されている気分に陥っていたと言うのに、話を振られ思わず鼻白んだ。

 

『少年、後生だ。斉天大聖めを討つ大儀のため、どうか私に協力してはくれまいか?』

「………………」

 

 即決できなかった。できるわけが無い。思わず目をそらす。

 

「ま、待ってください! 彼は確かに強い! それは先刻の戦いを見れば、論ずるまでもありません! 

 ですが彼は無関係の民間人です! それに体躯は立派ですが、まだ子供なのはわかります! それを巻き込むなどたとえ二郎真君様であろうと言語道断です!」

『しかし。君たち只人にあの斉天大聖に抗しうる手段があるのかね? ……すまないが、私はこの者に取り憑いているから、君たちへの助力は叶わないぞ』

「……それには及びません。我々も無策で、死地に来たわけではありません。ここへ来る前、古老の方々よりこの『斬竜刀』を預かっております故」

 

 そう言うと幹彦は懐から一本の古びた匕首を取り出した。

 

『む。その横溢する呪力……『禍祓い』か』

「は、古老の方々が『弼馬温』黎明のころより禍祓いの巫女に頼み、呪力を籠めさせた逸品に御座います。これさえあれば斉天大聖と言えども無視し得ぬでしょう」

『なるほど、得心いった』

 

 これには二郎真君も納得できるものがあったのか、語気が弱くなった。

 

「それにしてもなぜ今になって『弼馬温』が破られたのでしょう? 

 禍祓いの巫女もここ百年は空位、それに加えここ数ヶ月、龍蛇や『まつろわぬ神』の類も出現したとの報告もありませんでした。故に疑問だったのです」

 

 秀信は気付いていた。悩んでいる己を慮って幹彦が、強引に話題を変えてくれた事を。

 それは二郎真君も理解したのだろう、一呼吸置いたあとそれに乗った。

 

『これは()()の掟にも通ずる故、詳しくは話せぬが……とある予言により『弼馬温』の意義がなくなってしまった。それがこの騒動の原因だろう』

 

 その言葉は、九法塚の者たちにとって途方もない衝撃となって波紋を呼んだ。

 

「わ、我ら九法塚家が守護してきたお役目の意味が薄くなっていた、と……?」

 

 平服していた幹彦の拳は白に染まり、言葉は悲鳴じみていた。幹彦の言葉に二郎真君は無言を貫いた。

 

「そう、ですか……お話は分かりました。意義が薄くなろうと『弼馬温』が破られた事は紛うこと無き事実、斉天大聖の存在も消えるわけでは御座いません」

 

 一つひとつ、ゆっくりと言葉を吐き出す幹彦は瞑目したままであった。一族の紡いできたものを軽視されていた彼の胸中は如何ばかりか。

 苦悩が空気を伝わって、心に響いてくるような錯覚すらも覚えて。口を出さずには、いられなかった。

 

「……信じるとですか? だいぶ荒唐無稽な話ですし、コイツ、あんま信用できんですよ」

 

 何も知らないからこそ、秀信はその言葉を投げ掛けれたのだろう。それに秀信としても、ふざけるな! と、二郎真君に怒鳴り散らしたかったのが本音だった。

 事後承諾すらなくこんな変な事件に巻き込まれ、あまつさえ戦いに身を投じろとすら言われたのだから。

 なにが一蓮托生だ! なにが大義だ! と、そう叫びたかった。

 けれど、口を食い縛って耐えている彼らを差し置いて、そんな事できる筈もなく。

 

 それに何百年もここを守ってきたという彼らを蔑ろにして自分が首を突っ込んでもいいのか。

 それが気になって仕方がない。秀信という少年は、大胆不敵ではあったが、厚顔無恥ではなかった。

 考えれば考えるほど、この状況を作った斉天大聖とやらと二郎真君にはむかっ腹が立った。

 

「信じるさ。ぼくら九法塚の一族は斉天大聖を封じる『弼馬温』守護の御役目を担っていたけれど、いつかは破られるとは考えていたんだ。……そしてそれは僕の代だった。それだけだよ。まぁ、信じたくないのが本音だけどね」

 

 肩をすくめて微笑む。そこにはさっきまでの動揺からいち早く立ち直り、窮状を打開しようとする男の姿があった。

 強か人じゃ……。

 傍から見ても真面目そうな彼は一族の使命だけでなく、現世を危機に晒してなるものか、という義憤もあるのだろう。秀信にとっても好ましく思えた。未だにどうするか決めかねている己とは大違いだった。

 

「……これから、幹彦さんらはどがんすっとですか?」

「決まっているさ、止めに行くよ。『弼馬温』の管理、ひいては日ノ本の静謐を司っているのが僕らだ。それを差し引いてもこの未曽有の危機はどうにかしなければいけないと思う。

 それが蟷螂の斧だとしてもね……西洋風に言えばノブレス・オブリージュ、かな」

 

 幹彦が微笑んで──()()が現れたのは、唐突であった。

 気付けば秀信以外のこの場にいる人間すべてが───倒れ伏していた。重力が一瞬で何百何千倍にも跳ね上がったかのような重圧に。 

 なぜ気付かなかったのか、この全身が総毛立ち血が逆流したかと錯覚するほどの"威圧"に。

 

 気配は頭上。秀信の直上付近から、傲岸に見下ろしているものがいる……奥歯を噛み砕きそうなほど食い縛り、頭上を見上げればやはり、()()

 

「──はは、何やら騒がしいと思えば……なるほどおぬしの差し金かね? 二郎殿」

 

 天から見下ろすは赤い眼球と金色の瞳。身に纏うものは京劇の舞台衣装を思わせる豪奢なそれ。金の雲に乗り睥睨するものの正体は、金毛に包まれ赤ら顔を持った"猿の化生"であった。

 

 ───()()()()

 

 なんだ、あれは。

 数なんて、意志なんて、運なんて、関係はない。存在の格からして、足元にも及ばない。

 矜持、信念、アイデンティティ……己を構成するすべてのものが足元から崩れ去った感覚に震えが止まらない。

 

『現れたか、斉天大聖。……君の無法は看過できるものではないゆえな、恥を忍んで雪辱を果たしに来たぞ』

「はははははは!!! 笑わせてくれるのう二郎殿。何を言い出すかと思えば、夢物語の類かね? 今のおぬしになにが出来る? ……しかし我の懐でちょろちょろされるのも目障りじゃのう」

 

 あの金色の猿が放つ一言ひとことが、まるで鉛の重さを持って身体に伸し掛かる。

 今、二郎真君が言った名。()()()()という名が、『猿の化生』の正体と全ての異常の理由を物語っていた。

 これが『神』……! 

 額をつたい落ちた大粒の汗が目に入り酸味を感じさせ、心臓が早鐘を打つのを堪えきれない。

 二郎真君を小馬鹿にしていた斉天大聖が顎に手を当て、悩むような仕草を取った。思案しているのだ……偉大なる王者として争いの芽を摘んでおくか、圧倒的強者の傲りとしてこのまま泳がせておくかを……。

 

「───ん? そこにおるのは人の子か?」

 

 そこで、初めて斉天大聖は秀信を認識した。それも秀信だけを。幹彦たちなんぞ、物の数にも入っちゃいない。

 

「なるほど、己だけでは太刀打ち出来んから人の子と組んで捲土重来する腹積もりだったようだが……しかしその目論見も上手く行っておらぬと見える。ますます情けないのう二郎殿」

『………………』

「おぬしも不憫じゃのう。クク、どうじゃ今からでも遅くない。我の側に付くならば生かしてやっても良いぞ、え?」

 

 秀信は一言も喋ることなく、黙り込んでいた。ただの一瞬足りとも、視線を反らすことなく。

 分かった。判ってしまった。何故、二郎真君も幹彦さんたちも命を賭けて戦っていたのか。……それをすべて理解した。

 

 ───コイツを野放しにしたら、いけん。野に放ったが最後、地上はとんでもない事になる……! 

 

 此処に至って、秀信の肚は決まった。

 

「……その目、気に入らんのう。所詮、敗北者に拐かされた馬鹿な人の子か。ふんっ、わしが手を出すのも惜しいわ。───眷属よ、貴様に任せるぞ」

 

 そう吐き捨てた斉天大聖は、そのまま何処かへ去って行った。

 終わったのか? 全神経が弛緩しかけた瞬間、……二郎真君が呟いた。

 

『───来るぞ』

 

 何が、と聞くより早く巨大なナニカがジャングルを飛び越え、秀信の眼前に()()()()()

 ズン! と腹の底に響くほどの振動を鳴らし、現れたのは丸い毛玉だった。否、毛玉などではない。現れたソレは、その巨体からは想像もできない俊敏さでやおらに立ち上がったのだから。

 ───ソレは()()だった。

 今まで屠った猿とは一線を画す、はるかに強大な()をもった巨猿であった。

 体毛はオレンジがかった赤銅色。憤怒の形相を湛え、サイズも普通ではなく、ジャングルの木よりも背が高かった。身の丈十二、三メートルというところか。体型も遅しい。手が長くて短足。ずんぐりむっくとしオラウータンに近いだろう。

 その威容に知れず、首筋を伝い落ちる冷たいものを強く自覚する。

 

 あれは"神獣"───。

 

 斉天大聖に仕える猿……おとぎ話に出てくる龍にも比肩するほどの強大な敵。先刻の猿など歯牙にも掛けない大敵。

 

 ────GYAAAAAAAAAAAA!!! 

 

 荒ぶる神の眷属は文字通り猿叫を上げ、秀信に踊りかかった!



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5話

鬼だ。
悪鬼だ。
地獄から現れた餓鬼に違いない。





 あのとき、"戦う"と即答出来なかったことに。

 あのとき、斉天大聖を恐れてしまったことに。

 あのとき、覚悟が出来ていなかった自分に。

 

 秀信は恥じた。

 

 あれが幼少のころより共にいた彼らなら。あれが自分に痛みを教えてくれたあいつなら。

 今このとき、誰よりも前を駆け、誰よりも無鉄砲に、誰よりも傲岸に笑っていたに違いない。

 だと言うのになんだ、この体たらくは? 

 

『人の子よ。ここは退きたまえ。あの巨猿は今の君では到底太刀打ちできない力を秘めている。ここは一度退き、策を練り、力を蓄えるのだ』

「───断る」

 

 二郎真君の声が聞こえる。彼は「退け」という。けれど、それこそ「否」である。秀信は巨猿をにらみ付けた。まったく退く気がないことを示すように。

 

「お前の言うとおり確かにあいつは強か。んなこと、お前に言われんでも分かる……。ばってん此処で退けんやろうが」

『何故?』

「此処でわしが退けばどうなる。幹彦さんらは逃げられんやろうが……それに二郎真君と言ったか。お前は斉天大聖とかいうエテ公を倒すつもりなんじゃろう? あのエテ公は巨猿より強いんじゃろう? ならあいつを倒せんといかんだろう!」

『む。……だが、あれは神獣だぞ? 人の子が……それこそ英雄と呼ばれる者が命を賭けて倒せるか倒せないかの強大な存在だ。今の君に万が一にも勝ち目はあるまい』

「ふん! ここで終わったなら、おいはそこまでの男だったと言う事じゃ!」

 

 二郎真君はそこでやっと理解した。取り憑いたこの少年は、途方もなく愚かである、と。

 たしかに分身たる哮天犬を退け、自分の眼鏡に適った。その才気は比類なく、制御するのも一筋縄ではいかないだろうとは予想していた。しかしこれほど聞かん坊で、猪突猛進だとは思いもしなかった。

 

 ────GYAAAAAAAAAAAA!!! 

 ────ウォォオオオオオオオオオオッ!!! 

 

 大音声を轟かせ、秀信はシンプルに突っ込んだ。幹彦たちの静止の声が聞こえるが、振り切って進む。

 先の闘いで秀信は大きく疲弊している。それは間違いない。そして先天的に筋肉量が多い特徴を持つ者はおおよそ息切れしやすい傾向にあった。

 だが秀信は当て嵌まらない。

 人間の筋肉にはおよそ二種類あると言われている。遅筋と呼ばれる赤い色をした、力はないが持久力に長けた筋肉だ。

 もう一つは速筋と呼ばれる白っぽく、持久力はないが瞬発力と大きな力を発揮する筋肉が。

 もし。もし赤い筋肉と白い筋肉の長所……持久力、瞬発力、筋力に優れた第三の筋肉があるとしたら。

 もし。もし生まれつき全身の筋肉が第三の筋肉で構成され、それが一部の隙も無く()()であったならば。

 極めつけに筋肉を抑制する物質が分泌されにくく、先天的に筋肉が過剰な特徴を備えていたならば……。

 それはとんでもない素養を備えた人間となるではないか。それこそ英雄と呼ばれるような……。

 これを兼ね備えた奇跡的な人間こそ、荒木秀信。二郎真君に見出された未だ成熟するに至っていない少年であった。

 

 鼓膜に伝わる血のさざなみが、周囲の音を掻き消していく。筋肉の収縮が祭りで奏でられる雅楽となって鼓膜に届いた。

 身体が火照って仕方がなかった。抑えていた激情の枷が外れていく。対して指先が冷たくなった。アドレナリンが大量に分泌され、脳に血が集中しているのだ。

 発汗した汗や流れ出る血が湯だち、熱を持った身体はもう限界だと言わんばかりに軋みんで、ぎこちない。

 けれども足は止まらなかった。逸る心は収まらなかった。見据えた視線は揺るがなかった。

 神獣へ向け、地面を踏み砕くほど激しく踏み出し、死を恐れぬ戦士の如く猛然と突き進む。 

 巨猿もまた地を駆けていた。

 しかし烈火の如き秀信へ虫かなにかを見下ろすように無感動な視線を送るだけ。

 その余裕はまさに圧倒的強者としての振る舞いに他ならない。

 

 近づけば近づくほど、巨猿の威容は凄まじい。昨晩の哮天犬などより、よっぽど威圧感を感じた。当然だ、秀信は知らぬことだが哮天犬は二郎真君の眷属。

 主人が敗北し布へと身を窶したのだ。眷属である哮天犬もまた零落するのは道理。だからこそ秀信は勝てた。

 だが今度はどうだ。正真正銘、万全な神の眷属だ。全身をおおい躍動する強靭な筋肉、口腔から覗く太く黄ばんだ犬歯、戦意を根こそぎ奪う射竦める鋭い眼光、赤いオーラを纏っているかと見紛うほどの覇気……。

 こんな生物が現世で暴れれば大きな街ですらひとたまりもない。

 

 ───じゃがここでこいつばブッ倒さんと、おいは前には進めん! 

 

 頑迷なまでに斉天大聖への反骨心を迸らせる。舐めきっている斉天大聖にもこの巨猿にも、そして二郎真君にも一矢報いねば気が収まらなかった。

 身体の芯から震える上がる恐怖を怒りに変え、そのまま勢いよく巨猿の脛へむけ拳を振り下ろした! 

 

「ッウラァッッッ!!!」

 

 咆哮とともに放った拳は、確かに巨猿を捕らえた。同時に、ドム……、と間抜けた音が脛と拳の間から聞こえた。

 その後にはしんと静寂だけが残った。

 静寂と同時にぶわり、と全身から冷汗が噴き出すのを自覚する。まるで重ダンプの巨大なタイヤを殴ったかのように全く手応えがなかった。

 秀信には己の拳と力の強さには絶対の自信があった。

 今までの生涯の中で、この拳を振るえばどんな喧嘩相手も沈み、さらに先刻の猿たちにも通用したのだから、この巨猿にも必ず痛打を与えられると踏んでいたのだ。

 だがどうだ、この無残な結果は? 幼い子供が大人に戯れているようではないか。

 その衝撃たるや青天の霹靂さながらであった。

 秀信の胸中は驚愕や羞恥、怒り。視界すら白く染める激情に覆い尽くされた。

 

 動きが、止まる。

 それはこの戦場であって悪手以外の何物でもない。

 巨猿が動く。

 遊びは終わりだと言わんばかりに。足元の虫を払うように敏捷な動作で足を振りあげ、硬直した秀信に引導を渡そうとする。

 

『くっ……! 致し方あるまい』

 

 その瞬間、巨猿の動きを察した二郎真君が叫んだ。右腕の布の模様じみた『目』がうごめき、秀信を拙い傀儡子が操るように動かしたのだ。

 ズォン! と轟音じみた風切り音が響き、ギリギリで身を捩った秀信だが、気が付けばその風圧で五メートルは吹き飛ばされた。

 なんとか両足で着地し、同時にバックステップ。ギクシャクとした、だが理に適った動きで、巨猿と距離をとる。

 その時にはもう秀信も正気に戻っていた。

 

「呆けておった。……すまん」

『構わない。そも私が拐かしたのだからな、貸し借りなどありはしない。……しかしこれで分かっただろう。退け。でなければ、死ぬぞ』

 

 やはり首を振る。だが以前と違い、決して意固地になっている訳ではない。

 さっきとは打って変わって、秀信の頭は冷えていた。

 

「無理じゃ。お前も分かっとろう? あの巨猿の速さからはわしは逃げ切れん。……それに、何度も言うが、ここでわしだけが逃げても、幹彦さんらは逃げ切れん」

『……ならば私に身体を預けてはくれまいか? 私も鋼の末席を占める者として、神獣であれ武技で仕留めて見せよう』

 

 その言葉に秀信は逡巡を見せたが、結局頷きはしなかった。

 

「言ったじゃろう、あいつはわしが倒さねばいかんと。死ぬ気でやりゃあ、なんとかなる。なんとかする。わしは今までそがんして生きてきた」

『……はぁ、仕方がない。全く、これほど二郎真君たる私を悩ませる人の子など居ただろうか? ならばあまり気は進まないが、あれに対抗する(すべ)を教えよう』

「対抗する術、じゃと?」

 

 そこまでだった。巨猿が襲いかかってきたのだ。

 電光石火。秀信が動いた、と認識した瞬間にはもう眼前で腕を振り上げていた。

 こなくそ! 思考するより早く、本能のままに飛び退き、紙一重で、避けきれた。

 轟! と豪快に衝撃音が鳴り響き、その拳の強さを物語るように地面が蜘蛛の巣状に罅割れていく。

 前回の焼き増しだ。拳圧で吹き飛ばされ、デジャヴに襲われる。けれども立ち直りは見違えるほど早くなった。

 

「術とは!?」

 

 二郎真君に向け、鋭く問いかける。

 

『前準備だ。耐えてみせよ』

 

 その瞬間、全身の至るところに鋭い物で突かれた感覚を覚えた。クぉッ、と呼気が漏れ、着地した瞬間、転がりそうになるのをなんとか防ぐ。

 これが前準備ちゅうやつか!? 唐突に起きた異変に、目を白黒させる秀信。

 

『君の身体にある二十七の経穴を突いた。これで君の経脈が叩き起こされたはずだ』

「経穴!? 叩き起こした!? ──うおっ!?」

 

 二郎真君の言葉の意味を考える余裕もなく、巨猿が迫った。今度はその長大な腕をフルスイングし、薙ぎ払ってくる。

 倒れ込むようにゴロゴロ転がり、寸での所で躱す。

 

『下腹部、臍下丹田になにか感じるものはないか?』

「────!」

 

 たしかに、なにかを感じた。暖かみのあるものを。ほんの少しだが。

 

『説明は後回しにしよう。その力、この戦いでものにせよ。いま君も言ったな? 死ぬ気でやる、と。ならばそうせよ───死中にこそ活あり』

「無理言うてくれるわ!」

 

 そう言い合っている間にも巨猿は止まらない。ひび割れた地面を掴み、そのまま無造作に投げつけてきた。 

 礫を投げつけるという単純だが、天然の砲弾だ。かつては投石にて巨人殺しを為した英雄もいる、バカにはできない。

 それもただ石塊を投げるのではなく、砂礫を掴めるだけ掴んでは投げつける散弾じみた攻撃。

 

「痛ぅッ!」

 

 避けるのは不可能。咄嗟に両手をクロスさせガードしたが、またたく間に赤く一直線状の筋が身体中に出来上がった。痛覚が鋭い叫びを上げる。膝を付きそうになるのを堪え、走り出す。

 それを逃す巨猿ではない。すぐさまふたたび、投球フォームに入った。

 今度は、まずい。

 巨猿の掌中にあるのも。それは三、四メートルは軽くありそうな巨大な石くれ。あれに当たればひとたまりもない。

 いま頼れるのは己の親からもらった二本の足だけ。風より早く駆けよ、と疾走する。

 

 ──GYAAAA!!! 

 

 巨猿の咆哮と同時、石くれが投擲された。あれは間違いないなく直撃ルート……。悪態をついて四肢に力を籠めるが、避けれるヴィジョンが見えない。

 万事休すか! そう思った瞬間だった。

 ──熱を感じた。マグマのように渦巻き、激しい潮流さながらに猛るものを。

 場所は、下腹部……臍下丹田と呼ばれる場所。

 先刻、二郎真君に促され感じたような曖昧なものじゃない。荒れ狂う波濤のごときチカラが確かにここにある。

 

『───その力を、足へ注げ。それで活路は拓ける』

 

 言われ、思いっきり踏み込んだ足に目一杯の力を注ぎこんだ。

 やり方は二郎真君がお膳立てしてくれているらしい。この臍下丹田から湧き出るチカラを流れ……まるで血管を流れる血の如く動き、初めて感じたといのに違和感なく受け入れ扱うことが出来ていた。

 ───疾ッ! 

 地面をこれでもかと踏み砕き、超加速。直後、後方にて轟音が響き、あの石くれを見事躱したことを悟った。

 

「凌いだぞ!」

『うむ。こと戦いに関しては才気凛々であるな君は』

 

 歓声をあげ、九死に一生を得ることができた喜びをあらわにする。

 ぶっつけ本番で、今まで触れたことの無いおかしなチカラを使いこなさなければならなかったのだ。

 彼の喜びはひとしおだった。二郎真君も、たしかな安堵と惜しみない称賛を送った。

 

 ……けれど、それがいけなかった。

 

 ゆらり、と秀信の視界が陰った。ゾクリとこれまでにないほど警鐘が打ち鳴らされ、足を地面に打ち付けて急ブレーキをかける。

 その判断は正解でもあり間違いでもあった。

 ここで止まらなければ、そのまま巨猿に突っ込んでいただろうし、止まっても巨猿の長大な腕で殴打されることは自明の理であった。

 逃げ場は、ない。

 石くれを投擲すれば、逃げることに必死になっている秀信の逃走経路は絞られる。この巨猿は秀信の挙動はどう動くのかそれを完全に見切っていた。秀信の想像以上に巨猿は俊敏であり、したたかであった。

 ────ゴシャッ! 

 秀信と二郎真君に聞こえたのは肉を強く殴打した不快な音だった。

 次いで空白が襲う。それは肉体も精神も理解を拒絶したような、一時の停滞。

 しかしそれも須臾の時間。骨が、肉が、血が、皮という肉袋からまろびでているのを理解した……。

 ぬるりとした怖気が秀信のあらゆる正の感情を蹂躙していく。

 思考がまともに動いていたのはそこまで。叫ぶ暇もなく意識を置き去りにする衝撃とともに、景気よく吹き飛んでいた。

 

 その先に乱立する木々をも巻き込んでなお、秀信は止まらなかった。

 いくつもの大木を穿って轟音を響かせながら豪快に吹き飛んでいく。

 神獣という埒外の生物の、一撃。攻撃が当たった時点で体が破砕しなかったのが奇跡だった。

 砲弾じみた勢いで吹き飛んだ秀信が、ぶち当たる軒に勢いを削がれ、ついに停止する。

 ……あとには凪ぐような沈黙だけが残った。まるで果てた戦士を悼むような静寂が。

 あんな一撃を受けて、只人が生き残っているはずがない……そう確信させるに足りうる凄味が巨猿の一撃にはあった。

 天罰を下せば、用はない……残った人間を屠るのみ。

 ───天罰。

 そう、この行いはただの罰であった。秀信は戦いだと考えていても、圧倒的強者である巨猿はそれくらいにしか捉えていなかった。

 人と、神に連なるもの。雲泥、と例えてもいいほどの絶対的な開きがそこにはあった。

 

 だが。踵を返した巨猿が一歩を踏み出そうとした時───それは起きた。

 こつん、と小石が後頭部に当たったのだ。

 蚊に刺されたかと思うほど、なんの痛痒にも介さない出来事。だと言うのに、巨猿の動きは止まり後ろを振り返っていた。

 

 果たして()()は現れた。

 

 ガラガラと音を立て瓦礫の山から立ち上がるナニカがいたのだ。

 そのナニカは、赤かった。

 あれは"人"か? 否、そうではない。そんなことはあり得ない。あってはならない。神獣の一撃は天罰に等しい。天罰を受けて立てるものが人である筈がない。

 ならば何者か? 

 血化粧で面貌を紅へと変え、衣を朱へと染めたあれは何者だというのか。

 あの足取りもおぼつかず、焦点すら定まっていない死体同前の存在は、そう時を待たずして鬼籍に入るだろうあれはなんだ。

 瀕死だ。間違いない。だというのになんだあの満腔の覇気は。戦意は。闘志は。もはや可視できるほどに茹だつオーラに知れず、神獣たる己が総毛立った。

 あれは人ではない。人であってたまるものか。

 ───では何者か? 

 鬼だ。悪鬼だ。地獄から現れた餓鬼に違いない。

 ───あれは、まずい。

 あれは己を……ひいては主さえをも脅かすものだ。巨猿は確信とともに前傾姿勢を取った。そこに侮りはなく、獅子が全力で狩りをするような敵意と殺気のみがあった。

 

「…………」

 

 立てたか。顎が砕け、どうにも口が回らない秀信は独り言ちるように胸中でそう零した。満身創痍だ、猿との戦いからすでにボロボロだったが、今は輪をかけてひどい。

 痛覚もどこかおかしくて痛いのか痛くないのかすら曖昧で……いや、痛い。逆巻いた皮膚や肉が、空気に触れるだけで絶叫をあげたくなる痛みを感じた。

 だったら何故曖昧などと感じたのか。きっと、自分が曖昧なのだ……居るのか居ないのか、希薄で薄弱になってしまった。

 

 だから痛みが必要だった。生きるために、生き残るために。あのまま臥せっていたほうがマシだった、と思えるほど痛い。でも痛みが彼を彼にする。朦朧とする意識が鮮明になる。

 

 今まで語り掛けてきた二郎真君からの応答はない。腕に巻き付いた布を見れば、今さっきまであった筈の『目』の模様がなくなっている。何某かの理由でいなくなったらしい。それとも愛想を尽かされたか。

 ま、そっちの方が丁度よか。

 どうでもよかった。わかることは一つ。ここからは秀信一人の戦いだった。

 だれにも言い訳しない。誰にも言い訳できない。逃げ場などなく負ければ終わり。一回こっきりの大勝負。けれども手柄はすべて独り占め! ビタ一銭も渡す必要はない、喉がひりつく命を賭けた大死合! 

 ……なんとも燃えるではないか。

 ちぎれ飛び痛みを伝える機能を放り出そうとする神経に活を入れる。霞み赤く染まった視界でしっかりと敵を捉えた。敵はすでに動いていた。速い。

 あの巨体からなぜあんなスピードが出るのか不思議なほどの速度。だけど、秀信は、しっかりと"観えて"いた。

 刹那の思考を巡らせる。あの巨猿に長期戦なんぞもっての外。電光石火の短期決戦で臨まねばならない。

 

 ───どうせ、身体も長うは持たんじゃろうしな。

 

 自重するように、口角を吊り上げる。故に、シンプルにこの一発の拳に───全身全霊を賭ければいい。

 心臓の鼓動が痛いほどに高まって、臍下丹田から湧き出るチカラも湯水のごとく止まらない。身体が芯から燃え上がりそうなほど熱かった。まるで酩酊しながら射精感に溺れているような退廃的な気分にすら陥って。けれども視界に映る敵はしっかり視えていた。

 すべての事象がスローモーションになっていく。網膜に映るすべての色が白と黒だけとなった。まるで映写機がゆっくりと動きを止めていくような、時を経るごとに世界の時間は伸びていく。逸る心が体感速度を押し上げていく気がする。

 と同時、バチバチと脳内で放電したかと錯覚する鋭い痛みが走り、次いで断続的にあぶられるような痛みが苛んだ。

 嵐のように荒れる心。これ以上なく火照った体。頭痛の止まらない頭。

 無我の境地とはまるで正反対。澱み、穢れ、煩悩、怒り。そんなネガティブで、けれども、激しいものばかりが、噴火した火山さながらに溢れかえって、犇めき合っている。

 荒木秀信。お前はいつだって最強だ。なんの理由もなく。己が己であるだけで。こんなところで終わる男では決してない。

 敵を倒すなんぞ、葉っぱの裏にひっついたイモムシを潰すくらい簡単なことだ。敗北なんてありえない。何でもできる。できないことはない。一番だ。だから勝てる! 勝つ! 必ず!!! 

 己を鼓舞し、高めていく。それは鉄を熱し、精練するのにも似て。 

 

 行くぞ荒木秀信! 気張れ───ッ!!! 

 

 落ちてきた巨大な拳の甲を、上から掌でなぞるように受け流す。皮が摩擦で、焼け落ちた。痛みが、自分と敵の境界線となって別かった。 

 下へ落ちていく拳の勢いを利用し、己を独楽のごとく体を回転させ、上方へ向かう。転がりながら腕に右足から着地する。転びそうになった。かまわん踏み込め。

 巨猿と視線が交錯する。

 明らかな敵意を含んだ視線を真っ向から受け止め、睨み返す。それでいい。

 巨猿の腕は地面に突き刺さって止まっている、故にチャンスはこの時のみ。

 臍下丹田の力を足に込める。最初やった時より格段に送り込んだ量も、速さも、精度も上がっていた。

 

 ───疾ッ! 

 

 腕から頭部まで十メートルの距離を一息に詰めた。息がかかるほど接近し、拳を引き絞る。キリキリと矢を弦につがえるように。

 今までの借りを返すように。膨れ上がる戦意を凝縮し、圧縮するように。万感の思いを込め、目一杯に溜めた拳を……

 

「───ッ!」

 

 眼球へ叩き込んだ! 

 拳は見事、巨猿の眼を捕らえ、巨猿は大きくのけ反る。秀信は人間という種の中でも最高峰の膂力を持っている。

 そんな彼が全力全開で……それも「気」なんて言う未知の力でブーストされた渾身の一撃を放ったのだ。

 さしもの神獣である巨猿といえど、抗すのは不可能。巨猿は脳がシェイクされ見事失神し、

 

「勝っ……たぞ……ッ!」

 

 力を使い果たした秀信は満面の笑みを浮かべ、そのまま地面に落ちていった。

 

 

 ○◎●

 

 

 どうやら意識を失っていたらしい。それが短かったのか、長かったのか、判断を付ける術はない。

 ただ一つわかることは身体は鉛じみた重さで、あたかも糸が切れたようにピクリとも動かない、ということだけだ。

 目線を動かし、巨猿を探せば。すぐそこに居た。烈火の怒りで色づいた瞳でこちらを睨めつけ、けれどどうやら三半規管が狂っているらしい。立ち上がろとして、すぐに倒れ伏す。

 現状は何となく理解した。

 ……こっから一刻も早う逃げんといかん……。だが秀信も限界を迎えていた。

 これまで、か……。斉天大聖までたどり着かんかったが……あの巨猿には勝った。それで良しとするか。どこか満足したような笑顔を浮かべ、意識が薄くなって……

 

「──荒木君! 大丈夫か!? 神獣に一人で戦いを挑むなんて、無茶なことを!」

「ひどい怪我です……。治療の術を、早く!」

「若、急ぎましょう。神獣もまた動き出します」

「ああ! みんな、撤退だ!」

 

 薄れゆく意識の中で、誰かに担がれる感覚を覚え、それを最後に秀信の意識は消失した。



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6話

だから見届けます。
誰だってしたくありませんから、後悔。





「先ずは礼ば言わせてください。地上に戻してもらった上に、怪我まで治してもらったみたいで……。本当にありがとうございます。幹彦さん、あんたは命の恩人じゃ!」

 

 そう言って頭を下げ、ベッドの隣に座る幹彦の腕を取って、嬉しそうに笑う秀信。

 神獣との戦いで重傷を負った彼だったが、どうにか一命を取り止め地上に戻ってきていた。もうそこいらを駆け回れそうなほどピンピンしている彼を見れば、一命を取りとめ、というには語弊があるかも知れない。

 

「とんでもない! 命の恩人なのは君も同じさ。……君が戦うより僕たちで戦えれば一番よかったんだけど、力不足ですまない……。

 本当に、半死半生だった君を助ける事ができて僕も嬉しい。我が九法塚の秘薬を使っても後悔はないさ」

 

 幹彦と重ねた時間は短い。

 けれど、信頼できる仲間として、二人は認め合っていた。

 

「君が神獣へ向かって行ったのは本当に驚いた。そして倒してしまう事にもね。

 ……でも只人である君が神獣に、いや、そもそも戦場に飛び込んでくるなんて何を考えているんだ。確かに君の行いは人として正しいかも知れない。けれどもっと自分の命を大切にしなさい」

 

 強い意志の籠もった目と声だった。たとえ秀信が助けに入らず死んでいたとしても、子供を巻き込むより良い。そんな清廉さが彼にはあった。

 まだまだガキな秀信よりよっぽど出来た人だった。

 

「あれはわしも考えが浅かったと思っちょります。でも、どがんしても逃げる気にはなれんで……」

「信念や矜持を持つことは良いことだ。それを貫くこともね。けれど、それで死んでしまったら元も子もないだろう? 」

「うす……」

「今回はなんとか一命を取り留めたけれど、あの戦いから今日まで三日間も昏睡状態だったんだ。君は若い。だからこそもっと生きなくちゃならない。今回は幸運にも命を落とさず済んだけど、一歩間違えれば死んでいたんだからね?」

 

 三日。そう、彼の言う通り秀信はこの三日間死んだように眠っていた。

 幹彦たち秘蔵の薬や秀信の頭抜けた生命力、色々な要素が重なりあって三日で快癒に到っているものの普通なら危篤状態に陥っている重体だったのだ。

 だから幹彦も助けてもらった身とはいえ、苦言を呈さずにはいられなかった。

 

「さて。お説教はこれくらいにしておいて、君の住所と電話番号を聞いてもいいかな?」

「…………っそれは……」

「君の御家族に連絡したいのは山々だったんだけど、君の連絡先が判らなくてね。困っていたんだ」

「……幹彦さん」

「でも頭が痛いよ。僕たち大人が秀信くんみたいな子供に助けてもらったなんて、親御さんにもなんて言えばいいやら……」

「幹彦さん」

「でも御礼はちゃんとしなくちゃいけないからね、それに」

「──幹彦さん!」

 

 振り下ろした拳と同時に、声を吐き出す。

 幹彦もそこで喋るのを辞め、ゆっくりと視線を合わせた。

 

「……わしも連れて行ってくれんですか。また()()()へ戻るとでしょ? わしも十分巻き込まれた。やっとに、ここまで来て引っ込んどくとは納得できんです」

「……危険すぎる。たしかに君は神獣と戦えるほどの武を持っているかもしれない。……けれども君はただ巻き込まれただけの人間だ。こちらの世界に深入りしてはいけない。それに君はまだ中学生なんだろう。子供を危険な場所に連れて行こうとする大人がどこにいる?」

 

 表には出さないが幹彦はふたたび幽世に向かえば死ぬだろう、という予感めいたものを感じていた。

 それは呪術を携わる家系に生まれ、幼少のころより『まつろわぬ神』の脅威をこと細かく聞いていた彼には確信すらあった。

 幹彦は真面目な青年だ。

 だからこそ間違いなく死地となるであろう場所へまだ十代も半ばの子供を連れて行きたくはなかった。

 

「どがんしてもだめですか? 腕っぷしには自信があります。連れて行ってもらえば、なんかの役には立つと思うとです。……この通り」

 

 それでも秀信は譲らなかった。必死に頼み込んで頭を下げる。

 しかし幹彦の答えは変わらない。だめだ、と首を振る。

 

「やはり連れてはいけない。斉天大聖に一矢報いたいという君の気持ちもわかる……だけど抑えてはくれないか。それに君は……」

 

 幹彦の目線は、右腕に向けられていた。

 かつてはにぎやかな色を散りばめた布が巻き付いていた右腕に。布は姿を消していた。しかし無くなった訳ではない。秀信の皮膚と同化するように溶けてしまったのだ。

 幹彦の目線の先、右腕は秀信本来の姿かたちをしていなかった。酸素を抜いてしまった血のごとく赤黒い色へと変色し切っていて、二郎真君が宿る布が引き起こした現象なのだとよく考えなくても察せた。

 一度の戦闘でこれほどの変化だ。とてもではないが次の戦闘にも、などと言えるものではなかった。……それを幹彦は言外に語っていた。秀信は眼をそらした。

 

「そういうことだ。大丈夫、必ず僕らがあの斉天大聖を封印してみせる。古老の方々からの賜った斬竜刀という奥の手もある。……だから君は安心して故郷に帰りなさい。いいね?」

「………………」

 

 肩に手を置いて語りかけた後、扉を開け出ていく彼の姿を秀信は言葉もなく見送るしかなかった。

 ぎぃ……と。扉の閉まる物悲しい雑音だけが、残り香のように漂った。

 

 ○◎●

 

『どうするのかな。九法塚の者たちは行ってしまったようだが?』

「なんじゃおったんか」

 

 ベッドでひとり沈思黙考していたところへ唐突に声が響いた。風の囁くような爽やかなその声音は、忘れようもない、あの出来事に巻き込んだ張本人であった。

 神獣との戦いでとうに見限られたと思っていたが違ったらしい。以前と変わり布から腕そのものへ居を移した「目」の模様はこちらを見据えていた。明らかに異形が身を侵食しているにも関わらず、秀信は頓着しなかった。

 ふっと視線を外して、病室の窓から外を眺める。冬の寒空には灰色の雲がながれ寂し気な情景を描いていた。

 

『ご挨拶だな人の子よ。あのときの神獣の一撃から君を庇ったのは私だぞ? それで力を少々使いすぎてしまってな。今の今まで休眠していたのだよ。

 君があの一撃を受けて四散しなかったのは、私に帰するものと知りたまえ』

「へーへー」

 

 憮然とした顔で、そっぽを向き投げやりに言葉を返す。

 

『それで、どうするのかね? 本当に此処に留まるのかな? 私の制止を振り払うほど躍起になっていたと言うのに』

「……おう。どうせわしがついて行っても足手まといになるだけじゃ……そいなら専門家に任せたほうがなんぼもマシやっけんの」

 

 どこか言い聞かせるような声音だった。舌を動かす彼の視線は定まらない。

 

『愚かな。只人が『まつろわぬ神』たる斉天大聖に勝てる訳がない。相対した君なら判るだろう? あれは人の手に負えるものではないと』

「ふん、忘れとらんか? おいも人じゃ。……おいじゃあ、あやつらに……斉天大聖とか言うバケモノには勝てん。そんことはあの巨猿と戦って勝てんかったことからもわかるじゃろう?」

『───君は、本気で、そんなことを、言って、いるのか?』

 

 怒気を孕んだ声だった。今までのような春風駘蕩とした爽やかさも貴人めいた遊びもない。

 崇高なる使命を抱いた戦士としての声だけがあった。

 力を失おうと歴っきとした『神』が持つ、確かな威がそこにはあった。

 初めて聞く常にはないその物言いに、秀信は二の句が継げなくなった。

 

『君は勝てずともあの神獣と戦い生き残った。しかも戦いの天稟によるものだけで!』

「……」

『これがどれほど稀なことかわかるか? 英雄と呼ばれる戦士がその命を賭して挑み、やっと互角に戦えるものたちと君は真っ向から戦かったのだ! 

 今はまだ無理かもしれない。が、修練を積み、私と合力すればきっとあの斉天大聖めにも届きうる……』

「───ええい、もうよか! 黙ってくれ!」

 

 勘弁してほしかった。耳を塞ぎたかった。逃げさせてほしかった。ああ、こんなにも情けないやつが自分だったのかと嫌悪が止まらない。

 こんなのは自分ではない。自分はこんなみっともない言い訳はしない。けれど……敵が。剥き出しの猛威が。己を変えていく。

 傷付くのは怖くなんてなかった。傷つけば傷つくほど自分は自分になれた。でも強敵と拳を交えると、自分が変化していく。それがどうしても恐ろしい。

 

 それっきり二郎真君は黙り込んでしまった。今はそれがありがたかった。考える時間がほしかったから。

 たしかに幹彦たちは自分の命を救ってくれた恩人だ。そのことに秀信は感謝してもしきれないくらいの思いを抱いていた。

 

 だけど自分をここで使()()()()()()()()

 

 自分の何者にも代えがたい存在……故郷の幼馴染みや家族のためではなく、二郎真君の「大儀」や命を救われたとはいえ昨日今日知り合った人たちに、命を使ってもいいのか。

 そこが秀信はのどに引っかかった小骨のように気になって仕方がない。

 

 秀信は強い。そこに誇張はない。

 だがやはり齢十四の少年なのだ。切った張ったの命のやり取りなんてそれこそ夢のまた夢で、命の使いどころを今決めろなどと言われても、とてもではなかった。

 これがあいつらだったら考えるまでもなかったんじゃが……。

 故郷の幼馴染みたちを瞼の裏に描いて、ふと、望郷の念が顔を出す。これが幼馴染みたちだったらどうだったのだろう……。自分よりも良い答えを見付けたに違いない。そう思う。

 

 帰りたい。これ以上なく。

 決断から逃げ出しそんな軟弱な思考に逃げている自分にひどく失望する。

 

 知れずため息を吐き出そうとして「Prrrr……」と、懐から携帯電話の着信音が鳴り響いてきた。着信相手を見れば[万里谷祐理]の名前が踊っていた。

 

 ぴくり、と痙攣したように指が震える。

 万里谷祐理という少女の声はいま一番聞きたくない人だろうことは疑いようのない事実だった。彼女には不甲斐ない自分を見せたくなかった。あそこまで情けない姿を見せておきながら、また、その上乗せなどと勘弁して欲しい。

 けれども一番聞きたい人の声でもあった。指は思考を通さず、脳の古層から送られた司令によって反射的に着信ボタンを押していた。

 

「……もしもし」

『あ、荒木さん! よかったぁ……やっと繋がりました……』

 

 返ってきた声は心底安堵した声で、秀信は面食らってしまった。

 そして、はたと気付く。

 そうか、三日も眠りこけとったんだったか。そういえば着信履歴がいくつか入っていたような……気付いた瞬間、相手もいないのに頭を下げてしてしまった。

 

「すまんっ! あ、あぁー……ちょ、ちょっと観光が楽しゅうての、着信に気づかんかったんじゃっ」

 

 謝ったのはよかったが、今の摩訶不思議な出来事に巻き込まれていることを彼女に言う訳にはいかない。だが咄嗟に言い訳が思いつくわけでもなく、そんな言葉が口から出た。観光に夢中で三日間も放置……正直苦しかった。

 

『いえっ、こちらこそお電話してしまって申し訳ありませんでしたっ。先日の件で改めてお礼をと思いましてっ!』

 

 だが、余裕をなくしていたのは秀信だけではなかったらしい。そういえば彼女には日帰りで買えると言っていたことを思い出す。

 

「本当にすまんかったのう……。この穴埋めは絶対にさせてもらうけん、許してもらえんやろか?」

『穴埋めだなんて、そんな。私が勝手にやったことですからお気になさらないでください。……秀信さんの声を聴けただけで嬉しいですから』

「……そ、そうか」

 

 天然でやっているのだろうか。こちらが思わず俯いてしまうような台詞をかけられてしまった。けれど、彼女に他意はないのだろう。心底ほっとした声音は、邪な勘繰りを許さない清らかさがあった。それに声を聴きたかったのはこちらも同じだった。

 祐理の声は、優しさと甘さが同居したいつまでも聞いていたいと思える声だ。耳にするだけで、居ていいのだ、と包まれる気がした。

 

「…………」

「…………」

 

 ふと、沈黙が二人の間を行き来した。

 凪のような沈黙の中、ゆっくりと言葉を探して。先に口を開いたのは、秀信だった。

 

「のう、例えばの話なんじゃが……万里谷なら戦えんくなった自分の代わりに、喧嘩をしてくれと頼まれたらどがんする? それも見ず知らずの相手に」

『け、喧嘩ですか?』

「……あ、いや、変な質問ばしてしまったのう。忘れてくれ」

『いいえ、そんな』

 

 ちょっとだけ彼女は黙り込んだ。それから口を開いた。

 

『……私は秀信さんも知っての通り身体が弱いですから。喧嘩は無理ですし、それならきっと、喧嘩を止めるよう努力すると思います』

「見ず知らずの相手でも、か?」

『見ず知らずの相手でも、です。誰だっていた痛い思いをするのは嫌ですし、私もそんなところを見たくありませんから。だから止める方法を考えるんだと思うんです』

「それでも、止められなかったら、どがんする……」

『その時は……そうですね……』

 

 そこで少し思案するように祐理は言葉を切った。静寂のなかを撫ぜる彼女の息遣いに、少しだけ耳を傾ける。

 

『きっと、最後まで見届けるんだと思います』

「見届ける?」

『はい、見届けます。そうしないと後悔すると思いますから……。あの人たちはどうなったんだろう、あの場にいれば何かできたかも……そんな風に心の中でわだかまってしまうと思うんです。

 だから見届けます。誰だってしたくありませんから、後悔』

 

 後悔。自分とは縁遠い言葉だと思っていたそれが、彼女の言葉によって浮き上がってきた。

 いや、後悔なんて半年前あいつが出て行った時からずっとしているではないか。

 あの時のやるせない気持ちを思い出せば。

 悩むのも、反省するのもいい。けれど、後悔するのだけは御免だった。

 そのことを秀信は、やっと思い出すことができた。

 

『──なにか、あったんですか?』

「え?」

『あ、すみません、不躾なことを……。でも、なんとなく秀信さんが大変なことに巻き込まれてらっしゃる気がして。声もお辛そうでしたし……。

 これでも私、巫女ですから、けっこう感は鋭いんですよっ』

 

 電話越しに握りこぶしを作っていそうな巫女様の少し自慢げな言葉に毒気を抜かれてしまう。

 ああ。どうしようもなく自分は……。クツクツ、とのどで笑い声を上げる。

 

「いんや、なんもなかよ。ありがとうな万里谷、吹っ切れたわ。……うし! 必ず会いに行くけん、待っちょってくれよ!」

『え? 秀信さ──』

 

 通話を切って、顔を上げる。

 もうそこには現実に懊悩する少年の姿はなく、決意を秘めた戦士がいた。

 

「二郎真君」

『なにかな?』

「すまんのう……踏ん切りがついた」

 

 わしはなんば迷っとったとや。こがん簡単なことを見失なっとったとか。

 見届けてやる。きっと居なければ、自分さえも居なくなってしまう。自分が居なくなるのは、それだけは御免だった。

 

「斉天大聖ばぶん殴ってでも止めて、そんで万里谷に会う! 故郷にも帰る! わしの命を賭けて!」

 

 

 ○◎●

 

 

 

 ───けれどそんな決意も水泡に帰した。

 

「なん……で、じゃ……?」

 

 幽世に戻ったとき、もう()()()()()()()。二郎真君に導かれ、幹彦の野営地に着いたときには誰も居なかった。

 なにもないわけじゃない。

 まだぬくもりの残ったコップも、読みかけの本も、仮設テントだってある。

 引き千切られた衣服も、肉の焦げたような臭いも、血痕に塗れた刀剣だって、ある。

 ……居ないのは人間だけ。

 幹彦を初めとする人間は、生命を感じさせるものは、一つとしてなく、寒気のする無機質さと異臭のみがそこにはあった。

 

「なぜじゃ…………」

 

 生気の消え去った中心で、呻くようにこぼす。気づけば脱力し、地面に膝を付いていた。

 浮かぶ表情は"絶望"だけ。ただそれだけ。目をまろび出らんばかりに見開き、うつろな視線を彷徨わせているだけ。他の感情の一切はどこか遠くへ消え去っていた。

 

『簡単なことだ。君の判断が遅かった。それだけだろう』

 

 容赦のない言葉の槍は、秀信の心拍数をズグンッと跳ね上げた。

 その通りだ……ああ! あのときあのときあのときあの時──! 

 もっと早く決意を固めていれば! こんなことにはならなかった! 

 なんて無様! 死んでしまえ荒木秀信! お前には路傍の石ほどの価値すら惜しい! 

 

「──二郎真君ッ!!! おまえの力を借りれば、わしは、()()()()に勝てるとか!?」

 

 拳から滑り落ちた雫が貪欲な大地に呑み込まれていく。そこかしこで血を吸い込んでいると言うのに、まだ足りぬとばかりに。

 

『…………』

 

 二郎真君は答えなかった。

 

「やつらにこの報いを受けさせれるかを聞いておる! 答えろ顕聖二郎真君──ッ!!!」

 

 咆哮。ビリビリと大気が震えるほどの大音声で詰問する。

 怒りが、収まらない。空虚な絶望は身体が弾け飛ぶほどの怒りに取って代わられた。

 視界が真っ赤に染まっている。もう後悔だの、止めるだの、そんなことはどうでもよくなっていた。

 斉天大聖を縊り殺す! この手でッ! 

 ──遂には、ただの一片の混じりけのない殺意だけが渦巻いた。

 

『ああ、それは間違いない。力を失い不完全な私とでも君と合力すれば、先刻戦った神獣だって歯牙にもかけない力を振るえる。それほどの逸材なのだよ、君は』

 

 そうか、そう俯く秀信の口から洩れる。

 

「わしはお前が好かん」

『正直は美徳だが、君は少しばかり明け透けすぎるな』

「黙っとれ……! じゃが、わし一人戦ってもあの巨猿にすら苦戦する有り様。

 だから力を貸せ顕聖二郎真君! お前の望むままにしてやる」

 

 今ここに火蓋は切って落とされ、悪鬼はふたたび戦場に立った。

 いざ、開戦の時。



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7話

蕾のなかに広がる光景は国そのものであった。
神の坐すところ。やはり尋常ではない。




 ──月光の翳った闇をひらすらに駆けていた。

 

 うっすらと朧げに映る草木を掘り返さんばかりに地面を蹴っ飛ばしひた走る。

 ここは森。駆け回るには障害になるものが多くある。そもそもが息苦しいほど生命の息吹薫る鬱蒼したジャングルなのだ。

 今のようになりふり構わず走れば、容易くどこかの幹にぶつかるか枝に足を取られるのは明白だ。

 しかし緩めることは一切しなかった。

 

 べちゃり、べちゃり。

 ぬかるんだ地面が跳ね、気持ちの悪い感触に不快感を覚える。

 ずっと走り続けているからか足に疲労が貯まりきって、こわばり始めている。

 酸素を貪欲に欲する身体をどうにかしようと、息遣いが聴覚を満たすほど荒い。

 もうどれだけ走ったのか、それすら見当も付かない。けれども足を止める気はさらさらなかった。

 

 せめてこの森を抜けなければ! 今にも停止してしまいそうな身体を厳しく叱咤し、どこまでも駆けていく。否、駆けているのではない……逃げているのだ。後ろからやってくる恐ろしい者から。

 逃げろ、足を動かせ、立ち止まるな。さもなければ追い付かれるぞ───悪鬼に! 

 

 なりふり構っていられない全力疾走。だというのに、逃げ切ったという安堵はまったく得られない。なんで自分がこんな目にあっているんだ! ふざけるな! そういってゲームの電源を切るようにプツンとこの状況から脱することが出来ればどんなに楽だろうか? しかし後ろ確かに迫る恐怖は刻一刻と近づいている。

 

 懸命に走り、ついに森の出口を見つけた。長い長いトンネルをから見える光にも似ていて、心に安堵と歓喜がどこまでも伸びあがって弾けてしまう。

 やっと、振り切れた。

 これで一安心だ。

 ああ、戻れたら旨い酒をしこたま飲んで飲んで飲み干してしまおう! 

 安堵が安心を生み、安心が余裕を、余裕が夢想を描いて───打ち砕かれた。

 

 ぬうっ、と。

 闇の中から、"手"が現れた。地獄に引きずり込むかのごとき魔手でありながら、勇敢な戦士さながらに力強い手。

 総毛立つ、とはこのことだった。全身が恐怖に絡めとられ、凡そ構成するすべての筋肉が硬直する。その隙を見逃す相手ではなかった。

 嘘だと叫びたかった。奴が此処に居るのは……それは……とある真実を乗り越えなければ辿り着けないから。

 バカな! そんなことはあり得ない! 

 導き出された事実に驚愕するより早く、顔面をその掌に掴まれた。

 どんな膂力があればそんな事が可能なのか? 

 その手は片手のまま、地面に足が付かないほど、高く、高く持ち上げていく。

 

「あり得ない! あり得ない! あり得ないッ!!! 我々は()を超えていたのだぞ! ───荒木秀信……!」

 

 それが末期の言葉となった。

 掌力絶大。握力を高めた手は、まるで熟れた柘榴のように斉天大聖の眷属たる者を握り潰してしまった。

 

「……死ぬ時くらい、黙って死んどけや」

 

 ぼたり、ぼたり。

 掌から落ちる物は握り潰した血や脳漿だけではない。秀信に刻まれたいくつもの裂傷から赤黒い血液が滴りおちていく。

 彼は満身創痍だった。

 辛勝である。快勝とはほど遠い。けれども全ての猿を惨殺せしめたのだ。

 吐、と深い呼気が洩れる。しかしそこに安堵の色はカケラもなく、どこまでも熱く煮えたぎる激情のみがあった。

 秀信はいま、この上ないほど怒り狂っていた。

 うつむき地面を凝視する瞳には、怨敵の姿しか映っていない。猿の毛生"斉天大聖"……己の仇へどこまでも殺意を迸らせる。

 

「斉天大聖……お前を殺す……!」

 

 怒髪天の形相を湛え、怒りに身を震わせる。

 悪鬼が、一匹。そこには、居た。

 

 

 

 斉天大聖の坐する本拠地で快進撃を続ける。幸いなことに森を抜ける道案内は、さっきの猿がやってくれた。

 彼の身体に刻まれた傷はすでにない。二郎真君の力……『破邪の意思』とでも名付けようか? それのお蔭によるものだろう、あらゆる戦傷は快癒していた。

 それを鬱陶しく思わないでもなかったが、秀信の胸中は、意外にもおだやかだった。怒りに囚われたままでは勝てない、と本能的に悟っていたからかも知れない。

 

 二郎真君もまた彼に力を貸しながら、彼の怒りを鎮めることに労力を惜しまなかった。彼の荒々しい覇気のなかに凛々しい闘志とが交互に沸き上がる。秀信は動、二郎真君は静。見る者が見ればさぞ珍妙なことだろう。

 だが、今こそ荒木秀信と二郎真君のベストコンディションだった。

 二郎真君を受け入れた秀信は、天賦の肉体に、武神が揮う武芸の数々を習得し、力と技を極めた状態に居た。まさに大敵を相手取るに相応しいもの。

 仲が良いとは口が裂けても言えない二人であったが、利害は一致している。呉越同舟、というには些か語弊があるが私情を呑み込みここに立っていた。

 

 森を抜けれてみれば、斉天大聖の本拠はすぐだった。

 一言で言えば、湖。

 奥日光の中禅寺湖を思わせるその場所は、今まで歩いてきた場所と打って変わって、雲が途切れ、薄闇を切り払う光のカーテンが照らし出していた。

 湖を囲むように三山や五嶽にも肩を並べそうな背が高い山々が軒を連ね、湖の水源は、雲の揺蕩う場所と同じところから流れ落ちる大瀑布。

 そして湖の中心地には蓮の蕾じみた浮き島が、ひとつ。 水の上に浮かぶ蕾は金色と朱色が入り乱れ、それだけで一つの宝玉かと見紛うほどであった。

 

「なん、じゃあ、ありゃあ……国、か……?」

 

 そう漏らしたのも無理はない。蕾のなかに広がる光景は国そのものであった。神の坐すところ。やはり尋常ではない。

 いくつもの豪華絢爛な建物が建ち並ぶ蕾は中心に向かうほどに盛り上がっていき、最奥には紫禁城さながらの壮大な城が鎮座していた。

 まさに人智を超えた領域。『神』の住まうに相応しい神域であった。

 

「綺麗なもんじゃな……。ここが敵地じゃなかぎ、見惚れっちょった」

『宜なるかな。しかし今は捨て置け。

 あれが斉天大聖めがこの幽世にて創り出した『領域』の中枢。奴の伝承にもある花果山水簾洞、それを模したものなのだろう。……そして、斉天大聖めはあの城にいる』

「あん? わかるとか?」

『うむ。君も()を凝らせば分かるはずだ』

「………………」

 

 目を、凝らす? 

 二郎真君から底上げされているのは視力も同じようで、国の中の様子もここからでもハッキリ視えた。

 それは見れば見るほど頭がおかしくなりそうな光景だった。

 

 幹彦や秀信が戦ってきたあの猿たちが、さも我々は歴っきとした「人」であると言わんばかりに数多の猿たちが王国で生活を送っているのだから。

 眼に入る深い毛並みでおおわれた猿は一様に衣服をまとい、強化された耳朶を打つにぎやかな声は明らかに言語を解していた。

 往来にはまるで人の子供がそうするように何匹かの子ザルがそこかしこを駆け回り、旅芸人風の猿が技を披露すれば道行く猿たちが愉快気に手を叩いて笑う。

 まるで猿の惑星じゃな……。

 寒気がした。人類が取って代わられ、似たような生物が地上を闊歩する未来を幻視して。

 現世に斉天大聖が現れれば、必ず()()なるのだと、茫然と悟る。

 

『人の子よ。かも知れない未来を見て焦燥に駆られるのは分かるが、私が言っているのはそうではない』

「……?」

『それではたた景色を漠然と見ているにすぎない。私の言う『眼』とは、神獣と干戈を交えた折、君が垣間見た武の秘奥たる『心眼』のことを指す。実在する姿ではなく、観念的な姿を捉えるのだ』

「…………」

 

 分からない。が、なんとなく言っていることは理解できた。あの巨猿と戦ったときに踏み入れた感覚を知らなければ、入り込めないステージ。

 今の二郎真君の言葉を借りるならば、『心眼』と呼ばれるものだ。

 以前であれば、神獣と戦うときのような極限状態でしか使用できなかったソレも、今では平時でも使うことが出来ていた。

 

『眼』を、凝らす。──今度は"観えた"。

 中心地にそびえ立つ紫禁城じみた城からは揺らめく陽炎さながらの()()が噴き出し、黄金色に包まれていた。

 二郎真君、という力を失っているが『神』を宿しているからこそ理解できた。あれは神気。人とは、生物とは、根本から違う存在があそこにいるのだ。間違いない。あそこに斉天大聖が居る。確信が生まれ──

 

 ───バチッ! 

 

 そこまでだった。

 眼球に直接、電流を流しこまれたような鋭い痛み。痛みを堪えながら眼を閉じて首を振る。

 

『ふふ、気付かれたようだな』

 

 どこか面白がる声音の二郎真君に、彼の意図を悟り、思わず視線を鋭くする。

 

「お前分かってやっちょったな?」

『バレてしまったか。しかし構わないだろう? 君だってそう言う腹積もりだったのだ』

「質問を質問で返すな、アホンダラ」

 

 見透かしたような口調の二郎真君に、苛立たし気に返す。鼻を鳴らして、心が見透かされるんは不便じゃのう、と肩を竦めた。だが話は早い。

 

「おう、そうよ。オツムの悪かおいのやる事なんぞ決まっちょる。真正面から突っ込む。それしかなか」

 

 当然、と言わんばかりに秀信が脳筋的模範解答を述べ、たまらないと言った風に二郎真君も笑い声を上げ、道筋は見えた。あとは走るだけ。

 

 

 

 森から浮き島へ侵入するルートは、岸から浮き島へ繋がる橋しかなかった。後は泳ぐくらいか。

 もう大聖にはバレている以上、隠れても意味はない。

 だから秀信はそのまま一切隠れることなく正面の一番大きな橋から渡ることにした。

 

 橋を渡り城門に立った時、そいつは降ってきた。

 

 神獣たる巨猿──。

 初めて相まみえた時と同じく、奴は空から跳躍にて秀信の前へ現れた。過去を鮮明になぞる動作で、むくり、と身を起こす。身構える秀信を一瞥すると、そのまま身を翻して来た方向へ去っていった。

 相手は三日前、死闘を演じた大敵だ。警戒を解くわけにも行かず、困惑を口にした。

 

「何じゃ? 襲ってこんぞ?」

『……』

 

 すぐさま戦いになだれ込むと想定していた両者は、正直拍子抜けした思いだった。

 そうしてこちらに背を向け城門の前に立つと、逞しい両腕でギギギ……、と少しずつ少しずつ開け始めたではないか。

 これにはさしもの秀信も驚きを隠せなかった。

 

「なにか企んどるようには見えんが……。ホントに敵意がなかごたのう」

『君もそう見えるか。しかし相手は化かし合いならば比倫を絶する斉天大聖。進むにせよ何にせよ、油断してはならん』

「うっさいわ。お前に言われんでも分かっちょる」

 

 結託した二人ではあったが、基本的に仲の悪さは変わらないようだ。

 ……というか秀信側が嫌っている、と言っても良かったが、まぁ過去の経緯を思えば当たり前ではあった。

 

「………………」

 

 巨猿はこちらを振り返ることなく、歩みを進めていく。目指しているのは、どうやらあの巨大な城。

 少しでも路地に入れば迷路じみた場所になるが、一直線に走るこの道とこれみよがしに鎮座する城を目印にすればもう迷いようがない。

 疑いようもない。彼らの足は止まることはなかった。

 

「遠くからでも分かっとったばってん、広すぎじゃなかか……。あと目がチカチカする」

 

 見えた景色から推察できたように蕾のなかは広大であった。なにかに襲われては堪らん、と足早に進んでいた秀信だが、なかなかたどり着かない。

 ただまっすぐ歩くだけでも、それなりの時間が流れいた。

 それにここから見える巨大の城も街並みも、柱や瓦、外壁に至るまで朱色に染まり、その合間を縫うように金が施され、いっそ清々しいほどに派手派手しい。

 

『この領域の主は斉天大聖。あの派手好きならば仕方ないことではあるが……苦手かな?』

「まぁな。おいはどちらかと言うと金閣より銀閣の方が好きな性質じゃしのう……。野山でウサギ追いかけとった田舎もんには肌に合わんわ」

『ふふ、そうか。斯くいう私も華美なものは苦手でね。……天帝の甥ではあるが地上を流浪していてな、意外と朴訥なのだよ私は』

「うそこけ」

 

 二郎真君が何やら嘯いて、それを耳をほじりながら、聞き流す秀信。ここが死地なのを理解しているのか疑問になるほどの振る舞いであった。

 そうする間にも、休まず歩を進め、やはり阻むものは一つたりともなかった。

 そこそこの時間を要しながらも秀信は大聖の塒たる城にたどり着いた。

 

「こっからが本番、か」

 

 近づくごとにより濃密になっていく噎せそうな気配に腕をぐるりと回して、首を鳴らす。

 先刻までのゆるさはとうに消え、眼光鋭く戦意を横溢させるばかり。切り替えの早さ、これもまた秀信の才の一つであった。

 

 踏み入れた城の縄張りは大阪城のような輪郭式に似た形だった。

 三の丸、二の丸、本丸と連なり、その廓ごとには、此の城からでも見える大瀑布をから曳いた水掘が配置されていた。堅固な巨城である、しかしそんな些事など関係はないのだろう。

 

()()()()()()()()()()()

 その事実さえあればあらゆる防衛機能など意味を持たない。比類なき絢爛さと勇壮さのみが、この城の存在価値なのだ。

 

 香炉から立ち込める甘い薫香……水掘から伝う芳醇な水の香り……かすかに香る木々の匂い……。

 なんやこの城は。拳をきつくきつく握り締める。

 桃源郷に踏み入れたかのような甘やかな空間。気を抜けばすぐにでも、夢遊病のごとく意識が空へ飛んで行きそうだった。

 城内に潜むものたちの息遣いだけが、秀信を陶酔させなないように繋ぎ止めるか細い紐であった。

 いくつも連なる扉を開いて、開いて。最後の扉が開け放たれた。

 案内役だった隻眼の巨猿は、己の仕事は終わったと言わんばかりに広場の隅へ向かい……

 

「おう、おう。遠路はるばるご苦労じゃの二郎殿」

 

 ついに辿り着いた。『まつろわぬ神』斉天大聖・孫悟空の眼前へ。奥歯を噛み締め、双眸をまろびでらんばかりにカッと開く。

 アイツが! アイツがッ! 

 心が逸る。怒りが零れ落ちる。血が逆流する錯覚を覚えた。殺意、敵意。どこまでも激しく底のないそれを、長槍のごとく大聖に突きつけた。

 

「ええい、わめくなわめくな。殺気をわんわんと向けおって、まったく鬱陶しい小童じゃ」

 

 ごろんと上座で横になっている大聖が、桃を齧りながら鬱陶しげに顔を顰めた。どこまでも傲慢な姿に、はらわたが煮えくり返る。

 二郎真君が秀信の様子を鑑みて、埒が明かないと判断したのだろう、質問を投げかけた。

 

『斉天大聖、君と私たちは敵対していたと記憶していたのだが……なぜ此処まで引き入れた?』

「なぁに、己を取り戻すまでのほんの座興じゃ。このまま座しておっても、時は我の味方。勝ちを労せず拾えるが……それでは面白味がないからの」

 

 ぐるりと見渡せばばここは、楕円形を成すリングであった。戦うにはお誂え向きの場所。

 それに大聖の居る上座からなら、広いリングも良く見下ろせるだろう。

 

「故に、彩りが欲しい。苦節三百年、顎で使われた我が雪辱を果たすため奮起し、あの古老とか言う輩も、宿敵たる二郎殿も、我の武と大望の前には破れた……そのような遊びがあった方が面白かろう?」

 

 その言葉を聞いて、黙っていられる筈がなかった。

 

「馬鹿を言うなエテ公……いや、斉天大聖」

「あん?」

「なにが遊びじゃ、なにが彩りじゃ……」

 

 鼻を大きく鳴らす。滑稽な話だと小馬鹿にしながら。

 

「封印()()()のがお前だろう? 封印()()()()のがこいつに幹彦さんらじゃろう?」

『人の子よ』

「止めるな。……誤魔化しても、威張っても、手前が敗北者だった過去は変わらんじゃろうが。ええ? どうなんじゃ言ってみぃ」

 

 一瞬だけ斉天大聖が能面になった気した。見間違いだったのかもしれない。斉天大聖はすぐにオトガイに手を当て、思案する仕草を取った。

 

「……おお、おぬしに言われて思い出したわ。地上からわらわら湧いた人の子どもか。我はほっといても良かったんだがのう? 気付けば眷属どもが勝手に片付けておったわ。じゃから、我に言われてもそんなもん知らんわ」

「お前は……っ!」

『落ち着きたまえ。己の感情に呑まれては仕舞だぞ』

「あ、安心しろ。……だいぶ落ち着いとるわ」

 

 灼熱の吐息を吐き出し、肩で息をする。目が滾って、握り締めた拳が拳を砕きそうだ。

 食い縛った唇から赤黒い血液が垂れようと、マグマのごとく煮え滾った情感は一向に冷えそうにない。

 そんな秀信の様子をニヤニヤと睥睨しながら、余裕綽綽とした態度で片手を上げては振る仕草を取った。

 それが、合図だった。

 

 ズン! ズン! ズン! 

 

 三度、地面が震え、見上げた先には阿吽像じみた巨驅を誇る巨猿が三匹。

 何処かに潜んでいた大聖の眷属が、不遜にも主に挑みかからんとする人間に鉄槌を下そうと現れたのである。

 

「そぉら、ひねり潰せい!」

 

 大聖の号令のもと、三体の巨猿は無防備な秀信に躍りかかった! 

 

 

 

 荒木秀信は長い人類史の中でも、おおよそ最高峰の身体能力を誇る少年である。世が世であれば、その腕っぷしで如何なる乱世とて駆け抜け、統一を果たしただろう。まさに英雄の称号に相応しい天稟を持っていた。

 その少年が、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()……。

 それは人の身でありながら、神にも届きうる存在となるに違いない。あの時、あの場所で。二郎真君が秀信と出会い、見出した事こそ類稀なる僥倖だったのだ。

 

「ほう」

 

 感嘆の息を漏らしたのは、嘗てその暴れん坊ぶりから大鬧天宮と言う逸話すら生み、天竺へ旅立っては道中いくつもの魔を降して"闘勝戦仏"の名を授かった闘神だった。

 

「あの若さで心眼の法訣を会得するか。クククッ、巻き込まれただけの只の人の子じゃと思っておったが……。なかなかどうして、()()

 

 鮮血の雨が降り注ぐ。蹴り。殴打。掌底。点穴。

 動きの一つひとつに無駄がない。ともすれば刀剣地味たキレさえ介在していて。

 人体の構造を理解したその動きは、さながら快刀乱麻を断つ軽妙さで一息に巨猿を屠っていく。そこに巨猿と戦った初戦の拙さはどこにもない。ともすれば流麗ささえ備えていて。

 緩急自在にして独特な動きは、中国武術のそれ。二郎真君の武技を見事、()()、にしている証左であった。

 たとえ複数の神獣であっても、斃れるのは時間の問題でしかなかった。

 

「お前の手下どもは、片付けたぞ! さっさと降りて来いエテ公!」

 

 雄々しい身体には鮮血がこびりつけど無傷。有象無象に満身創痍となり遅れを取っていた者の姿はない。

 一挙手一投足を追うごとに二郎真君の知識や技が、猛烈な勢いで馴染んでいくのを感じる。

 確かに脅威かも知れんのう……。まぁ、それもここまでよ。口角を吊り上げ、鼻を鳴らす。

 

「んなわけあるかい。そぉれ───来ませい」

 

 現れたのは、人型の猿であった。

 されどこれまでの巨猿と違い、矮軀である。ともすれば秀信よりも数十センチは低い。大聖と同じく金色の毛で身を包み、その上から瑠璃紺の衣を身に纏っている。掌中に収まっているのは二尺ほどの刀身を持つ、柳葉刀。

 見咎めた瞬間、二郎真君が囁くように語りかけてきた。

 

『覚悟せよ、人の子よ。この戦い生半な気持ちで進めば死より他にはないぞ』

「……どういう事じゃ?」

『今までの戦いはお遊びに過ぎなかった、と言うことだ。先刻斃した三匹の巨猿とも、そこな隻眼の巨猿とも、違う。同じ神獣でありながら、抜きん出た力を持つ者。神が振るう権能にも匹敵する最高位の神獣だ』

 

 二郎真君のどこか焦りの混ざった声を聞きながら、なるほど、と一人納得していた。

 今まで大聖がなぜ秀信の行く手を阻むことをしなかったのか。阻まなかったのではない……阻む必要がなかったのだ。

 例えどんな侵入者が現れようとあの金の人猿、或いは"霊猴"と呼んでもいい神獣が出張れば、すぐさま息の根を止めることができるのだから。

 ───だから、だからなんだと言うのか。

 

「死ぬ気で片す!」

 

 

 そう意気込んで──瞬間、両者は"風"となった。

 

 金光一閃。

 

 気合一閃。

 

 虚空を煌めく二条の閃光。次いで、虚空を揺らす音の波動。身の程知らずにも『神』に挑む少年の、前哨戦の開幕であった。



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8話

お前は、わしだ──

──我は、汝。

 
わしは、お前だ──

──汝は、我。


赤黒い腕が赤に染まる。熱され融け合う鉄のように、酸素を取り込んだ血のように。


 初動は、トンッ、と前のめりに片足立ちになる動作だった。なんてことはない簡素な動作で……けれど秀信の『眼』には観えた。臍下丹田から湧き出る呪力が、片足へ流れ込んでいくのを。 

 

 ───煌ッ! 

 

 直後、膨大な呪力が圧縮され紫電へと変わると霊猴の下肢で弾けた。防げたのは二郎真君の助けがあったからに他ならない。接触した部位が千切れ飛ばなかったのは二郎真君の宿った右腕だったからに他ならない。秀信だけならば初撃で絶命していた。

 ぶわ、と汗腺が広がって雫が滴り落ちた。息を吐き、生きているこの一瞬に感謝した。

 

「…………すまん」

『構わない。それよりあの一撃、この身に受けて術理を理解できたぞ』

「術理?」

『うむ。とはいえ、そもそもあれは術と呼べるほど難解なものではないが。……いたって単純、何をしているのかと言えば、()()()()()()()()()()()()。しかし雷を纏い、稲妻にも等しい速さで揮えば、ただの蹴りでも必殺の矛となる』

 

 単純明快、しかし強力無比。今の秀信にとって死を連想させる刃に他ならない。

 弾! 今度は秀信が地面を踏み込む。

 秀信の脚力で踏み込んでも綻びを見せないリングは大聖が設えたからだろう。ちょっとやそっとの攻撃では傷ひとつ付かない頑丈さを持っていた。

 これが屋外ならば、秀信が動き回るだけで、雷蹴の余波だけで、地面は崩れ硝子化していたに違いない。

 

 あの稲妻に等しい蹴りは強力だ。しかし秀信は凌ぐ方法を思いつき、手段も持っていた。先日、開眼した『心眼』を使うのだ。

 本来、一度は武の深淵を覗き『心眼』を行使するに至ったとはいえ、未熟な彼は手足のように『心眼』を行使出来ない筈。だが二郎真君の助けがあれば話は別。

 電光石火、閃電神速、韋駄天足などと呼ばれる極めて速い神速域のものであれ見切ることを可能にしていた。

 

 けれど。

 

 ふたたび閃光。

 鮮血が舞った。

 

 秀信の上半身に横一文字に疵痕が残った。落雷による樹状の傷と同じものが微細に広がる。

 避けられなかった。神速は速すぎて制御が難しく大振りになりがちだ。一直線上でしか突っ込んで来ない。

 それでも躱せない。ただただ速すぎるから。

 

「グッ……!」

 

 二の腕から胸を通り、反対の二の腕にまで到達した傷が、秀信の顔を歪ませた。対処など不可能だ。

 神速とは神の領域を指す。人は神の領域には至れない、人から外れたものを神というのだから。

 まだだっ、まだだっ、──まだだッ! 

 痛みを堪え、カッと目を見開く。目を皿にし虹彩が充血しても知るかと敵を凝視する。『心眼』を最大限に開眼し、時間がひどくゆっくりになっていく。全身全霊を懸け、迎え討たんとする。

 

『否。……それでは、いけない』

 

 二郎真君が語りかけてきた。

 

『我武者羅な力だけでは、いけない』

 

 二郎真君が言葉もなく伝えてくる。欲するものの逆を行え、と。

 ものを良く見たいのならば、盲よ。ものを良く聞きたいのならば耳聾よ。生きたいのならば生を捨てよ。死中にこそ活あり、と。

 

 本当に、気に入らん。秀信は思った。

 今の今まで大敵と干戈を交えていたと言うのに、自分は右腕にすっ込んで眺めていた奴が、こんな時だけと偉そうに助言して行くのだ。本当に気に入らない。

 だが一番気に入らないのは、その助言を欲していた自分自身だ。思わず苦虫を噛み潰したような顔になってしまう。

 

 けれどそれも一瞬のこと。今度は、すべての五感を断った。目を瞑り、耳を塞いで、息を止めて、味蕾を閉ざし、触覚を切った。眼前に迫った敵を前にして、気が狂ったかと思えるその動作。

 力任せにやってもダメだったことが、ふっと力を抜くと豆腐を裂くかのように簡単に出来る事がある。

 秀信がやっているのは、それとなんら変わりない。思考がひどくクリアになっていく。するすると一点に意思が集中していき、秀信はひとつの境地に辿り着いた。心眼の要諦たる"観の目"が、一個の術となるのが手に取るように分かったのだ。

 見切りの心眼が目覚めた。霊猴の軌跡が、刃風の嘶きが、敵意が、己が、心の音が、すべてが知覚できた。

 神速域で飛来する霊猴を手と腕の甲で、裏拳打ちし、受け流す。

 だけどあの術は絶大に過ぎた。

 いかに見切ろうと手が焼き焦げる。黒煙が灰も同然な手と腕から燻る。

 

『まだ諦めないつもりか』

 

 二郎真君の思念に無言を貫いた。霊猴は想像以上に強い。二郎真君の助力でなんとか生を繋げられる……それほど隔絶していた。けれど力を借りるつもりなど毛頭なかった。力を借りる行為はきっと身体を明け渡すことだ。

 

『このままでは君は死ぬぞ』

 

 ひとつ、ふたつ、みっつ…………。二郎真君の手助けがあればこそ絶命に至らないまでも急襲する蹴りが秀信の身体を確実に削っていく。

 腕の中から破砕音が響き、複雑骨折したのか皮膚の内側から黄ばんだ骨が飛び出ていた。痛みで全身が埋め尽くされていた。痛覚を伝える神経がパンクしそうなほど、身体のそこかしこが限界を叫んだ。

 

『人には踏み入れられない領域がある。人のままでは神には、権能の一端である霊猴には勝てないのだ』

 

 秀信は無視した。

 

『何故分からない。このままでは……』

 

 二郎真君の言葉は、甘言だと思った。悟りを開く直前のブッダが、第六天魔王に囁きかけられているのと同じだと思った。

 耳を貸し、楽な道を選んで、肉体を一度でも明け渡せば……おそらく寄生してきたコイツに奪われてしまうだろう。秀信は意識と思考から二郎真君を追い出そうとした。

 

『頼む。私の声を聴いてくれ』

 

 二郎真君の声が遠い。どこか遠くで鼓動も聴こえる。ただ、物悲しい青年の声が心に刻まれていくのは確かだった。

 

『君はどうすれば私に信を置いてくれる。心を開いてくれる。耳を貸してくれる』

 

 心眼を行使しているからか、一瞬の間にも二郎真君は言葉を重ねた。

 

『私の赤心を語れば、君は心を開いてくれるか』

 

 心眼を行使し、二郎真君の言葉が届く間にも霊猴の攻撃は続いた。走り回った犬を思わせる動作で激しく息を吸って吐く。隙を見せれば即死の極限状態。霊猴の息をつかせぬ攻撃は精神を消耗し、意識を朦朧とさせていく。己を強く律し、全身全霊を掛けて臨まねばならなかった。些かの油断でさえ、手ぐすね引く死神はワッと飛び出してきて命を掠奪していくだろう……だから二郎真君の言葉に耳を傾けるなど──

 

『──()()()()()()()()

 

 思いがけない言葉に心眼が揺らぎ、腹部にしたたかな衝撃が走った。少しの間、臓物が喉に詰まって呼吸不全になった。

 

『数日前。君と少女の前に現れた、()()()()()()()()()()

 

 総毛立った。呼吸不全などどうでもよかった。数秒間、生命を狙って襲いかかる霊猴すら意識を外して、二郎真君の宿る『目』を凝視した。

 

『私自身というには些か語弊があるが哮天犬は私の半身であり分身であり、私が狩猟神であったころの名残なのだ』

 

 その時、秀信を占めた感情は怒りだったのか疑念だったのか。しかし先ほどまでとは打って変わり、二郎真君の言葉が待ち長く焦れったかった。

 

『だから』

 

 優しく穏やかな二郎真君の微笑みを幻視した気がした。

 

『君のお蔭だ。私が正道から外れず外道に堕ちずにすんだのは』

 

 

 

「な……ぜ」

 

 咽喉がけいれんを起こして発声が上手くいかない。でも知らなければ後悔するという確信が、秀信を突き動かした。

 

『私は元来、破邪顕正を定められた神だった。そして君と話している私も、顕聖之符という呪符を媒介として《不死の領域》から御霊をほんの少し降臨させただけの存在に過ぎない。

 ……しかし、だからこそまつろわぬ神が齊しく有する"まつろわぬ性"を持たず"悪しき魔を討つ善なる武神"として振る舞えた』

 

おかしいとは思っていた。まつろわぬ斉天大聖があれほど無法を働き、右手に宿る二郎真君はなぜ勝ち筋の見えない戦いに身を投じているのか。

同じ神であってもまったく別なのだ。落魄した二郎真君は。しかし、最初からそうであった訳では無い。

 

『私は"悪しき魔を討つ善なる武神"という己の性に忠実に従い、斉天大聖に挑み、そして──敗れた。力の大半を喪った。……私のなかで何かが外れたのはこの時だったのだろう』

「外れた?」

『まつろわぬ性に呑まれたといってもいい。私は破邪顕正の神として斉天大聖を野放しにしてはならなかった。座して滅びるなど我が神性が許さなかった……そして神性が導くままに斉天大聖へ捲土重来を誓い、力を取り戻すべく哮天犬を放った』

「……力を取り戻す方法は…………」

『察しているのだろう? ──巫女とは人身御供とされ供物としたなら神の良き滋養となる存在。そしてあの少女ほど才に溢れているならば格別だ』

 

 秀信は今が戦場であることも忘れて目を伏せた。怒りは湧かなかった。ただ悲しかった。

 まつろわぬ性がどういうものなのか詳しく知らない。けれど、善き神様であっただろう二郎真君が、外道に堕ちる寸前まで追い詰めた性などきっと碌でもないものに違いない。

 

『踏みとどまれたのは君のお陰だ。君があの時、我が牙から少女を救ってくれなければ……私は外道に堕ちていた』

 

 二郎真君の淵源をすこし垣間見た。

 

『そして、だからこそ、君を見出した』

 

 繋がった気がした。何故、ただの人間で、旅行をしていただけの自分を、二郎真君が見出したのか。神に連なる者である彼が、甲斐甲斐しく自分の世話を焼いてくれたのか。

 

『赤心を語った上で、もう一度頼む。私を受け入れてくれないか』

「受け入れる……とは」

『我らは異心同体。私の手によって君と私は比喩ではなく"一"となった。本来ならば我らの間には言葉も必要ない……我らは相即不離なのだから、他者へと意思を伝える言霊は意味を持たない──

 

 ──あとは心さえ合わせてしまえば、という二郎真君に秀信は即答できなかった。口を閉ざし、霊猴の一撃で盛大に吹き飛びながら、それでも意識は右腕の『目』に向かっていた。

 

「お前を……許す気は無い」

『それでいい』

「お前を頼らんと敵に勝てない自分が許せん」

『私もだ荒木秀信。私が居なけれ君は死んでしまうように、君が居なければ私は果てる。私が居なければ勝ち目がないように、君が居なければ私は勝てない』

 

 御霊をほんの一部降ろした神と、人を外れきれない人間。どこまでいっても半端者同士。破れ鍋に綴じ蓋。きっと二人でやっと一人前になれるのだ。

 右腕の感覚が徐々に広がっていく。いや、二郎真君の感覚が自分と重なりはじめているのだ。奇妙な感覚だった。

 きっと、自分の指はこれほど分厚くはなかった。

 きっと、自分の心臓はもっと早かった。

 きっと、自分の目は三つもなかった。

 小さな差異が違和感となって重なろうとした彼らを阻もうと壁となった。そして壁を取り払ったのは"痛み"だった。

 二人は痛覚も共有する。傷付けられれば同じ部位に痛みを感じれば、怒りを生んで、怒りは戦意へと変わる。敵を排除しようと、決意を滾らせる。

 存在を調和させるものは痛みだ。痛みは怒りを生む。怒りは錨となって存在へと導いた。そして二人は唐突に悟った。

 

 お前は、わしだ──

 

 ──我は、汝。

 

 わしは、お前だ──

 

 ──汝は、我。

 

 

 赤黒い腕が鮮烈な赤に染まる。熱され融け合う鉄のように、酸素を取り込んだ血のように。

 

 中空を駆ける霊猴は危機的なものを察知したのか、霹靂さながらの速度を一切ゆるめる事はなく──左腰に佩いた剣を抜いた。

 刀身のきらめきが雫を連想させる刃だった。二郎真君が柳葉刀だと言葉もなくつぶやき、およそ二尺はあろうかと言う剣は、その身に受ければ大柄な秀信でも両断してしまうだろう。

 霊猴が一息に三間の地点にまで接敵した。

 右手に握った柳葉刀を構えるのが観えた。地面と垂直に構えられた剣が、ギラリと光を放つ。

 冷たい青味を帯びた刀身が、担い手の金毛を映し出して、金へと変わっていた。あの凶刃が己を捉えるまで、一弾指に六十五あると言う刹那のすら要らないだろう。

 ついに、死の一閃が揮われ──ガキンッ! と金属と金属の打ち合わさる甲高い音が、いやに響いた。

 音源は、秀信と剣の間から。もっと言うなれば、剣の刀身と秀信の"歯"が打ち合わさった音だった。

 荒木秀信と二郎真君。渾身の真剣白刃取りである。霊猴どころか大敵たる斉天大聖さえ瞠目するのが分かって、鼻を鳴らしたい衝動に駆られた。

 しかし未だ死中にあり。

 ぐらり。剣の勢いに逆らわず、その上で、剣を引っ張りながら背中から地面へ倒れていく。背が地面に叩き付けられ、衝動が身体中へひろがる。圧迫された肺腑から、呼気が出口を求めて咽喉へせり上がる。

 秀信は吐き出さなかった……これは種火だ。秀信に釣られ前のめりになった霊猴へ、攻撃を繰り出すための種火。

 全神経を集中させ、すべての力を右足へ送る。力を分散させず、呼気を圧縮し、臍下丹田の気と練り込んで──放つ。

 弾ッ! 秀信の右足は人体の急所たる鳩尾穴へしたたかに叩き込まれた。霊猴は苦悶の声を上げながら、まるで蹴り上げたボールのように景気よく吹き飛んだ。

 

 見たか! 歓喜の念に胸中が沸きあがり二郎真君に諌められた。

 余韻は一瞬の束の間だった。

 霊猴は中空でくるりと回って、十間ほど離れた地点で何事もなかったかのように着地した。

 ちょっとショックだった。

 霊猴から一切目を逸らさず、息を整える。束の間の安らぎ、逃す手はなかった。少しばかり優勢にはなったものの、それ以前の消耗が激しい。防ぎ切れなかった剣が舌と口内を切ったのだろう、鉄錆びた味が味覚を満たしている事に気付く。残され時間は少ない。

 霊猴が口を開いたのは、そんな時だった。

 

「人如きがなかなか足掻く……されど此処まで。疾く引導を渡しくれる」

「お前、しゃべれたのか」

「大聖様の聖域に入り込み、多くの眷属を手にかけ、あまつさえ牙を剥くなど言語道断」

「おい、シカトか」

「路傍の砂となりてその命の軽さをとくと知るが良い!」

「なんじゃ、亡骸を残してくれるんか。豪気じゃのう!」

 

 再開の合図などない。ただ戦意のぶつかり合いが鏑矢となった。

 もうちょい会話を繋いで、休みたかった。

 そんな甘えた思考を殴り付け、真っ向から挑む。それにさっきの会話だけでも、死闘を乗り切るくらいの体力は快復している。

 

 無色透明な大気が朱に染まり、己の身命が散華していく。

 それでも剣は錆びない。

 それでも拳は衰えない。

 そして音がした。

 肉を打つ音。風を切る音。凪。金属を打つ音。雷鳴。打撃音。……咆哮。

 冷たく簡素な音が空間に木霊し、金色の線が幾条も疾走っては赤い点に殺到する。金の紐は直線と放物線を描いて、赤へ迫り受け流され黒煙のみが残った。十重二十重に向かってきた無数の線を、悉く躱して流す。それは流麗な舞にも似て。

 幾条もの線が殺到する。否、あれはそんなにも多くはない。たった一つ。あの線はたった一条でしかない。

 常人には見切れない速さで何重にも見えるのだ。

 線も点も、人の姿であった。

 およそ生物界では観測できない速さで疾駆し、それに応えるように舞って、互角に渡り合う。音が響けば、煙が舞う。霊猴と秀信は死闘を繰り広げ、終わりが目前に迫っていた。

 

 霊猴の剣が繰り出される。

 心臓を貫くことへ一点賭けした刺突。膂力はもとより重力さえ利用した霹靂さながらの唐竹割り。お次は踏み込んだ大地の反動を利用する剣豪の秘剣のごとき逆袈裟斬り。奥義の博覧会かと錯覚するほどの剣技の数々に目眩がしそうだ。

 刺突はどこまでも追い縋ってきて、唐竹割りは一歩間違えれば身体を持って行かれていた。逆袈裟斬りは避けきれず左腕に、一条の紅い筋が出来上がった。

 今まで戦った誰よりも、強い。確信とともに言える。

 だが、何故だろうか。恐ろしさをまったく感じなかった。二郎真君がともにあるから、ではない。

 確かにあの剣は早く、鋭い。けれど……。

 

「その剣……抜かん方が恐ろしかったぞ」

 

 剣が放たれると同時に、拳風を撒き散らしながら豪拳が放たれた。鈍い音のあとには短いうめき声。剣を受け流した秀信が、霊猴の横っ腹にしたたかな一撃を入れたのだ。

 

「今のお前は剣ばかりが前に出て、恐ろしさを欠片も感じん。ステゴロでやり合う方がもっと恐ろしかった」

「───!」

 

 こめかみに青筋を立てた霊猴が大きく仰け反り、息を吸う動作を取った。莫大な呪力が、沸く上がっていく。

 霊猴の操る術は雷。と言うことは……。

 

「電撃か!」

 

『心眼』を開眼する。刹那、霊猴の口から稲妻が迸った。大気をけたたましく叩き、大電力が秀信に迫る。

 秀信はそれでも泰然とした姿勢を崩さない。腰を落とし、膝を曲げ、背筋を伸ばし、どっしりと構えすらして。

 往くぞ。二郎真君の肯定を感じながら……次の瞬間、起きた出来事に霊猴は二度目の瞠目をせざるを得なかった。

 

 秀信は防いだ。

 雷撃を絡めるような()()()()で───。

 

 一体どんな技倆と術理があればそんな事が可能となるのか、秀信は雷撃を掌にひとまとめにし、皮を剥くように完璧に散らしてしまった。

 何なのだこの人間は……? だが流石と言うべきか霊猴は、すぐさま再起動した秀信も動き出そうとして……けれどここで計算違いが起きた。

 鋭い痛みに思わず立ち竦んでしまった。

 人間の皮膚には電気抵抗がある。だが、これは乾いた状態でしか維持できないものである。発汗している時や、今のように血まみれであれば、皆無に等しくなる。

 その隙を見逃す敵ではない。鋭い突きが一直線に放たれた。

 が、それは悪手。

 認めなければならなかった。相対する敵が、人の姿をしたバケモノである事を。

 不敵に笑う。秀信にはもう勝ち筋は観えていた。

 逡巡すらなく右腕を盾にする。冷たい金属の感触が、肌を、肉を、血管を貫いて突き進む。二郎真君と荒木秀信を貫く。

 痛い。痛い。痛い。とんでもなく痛い。

 痛みが怒りを生み、感情が爆発する。灼熱の化身と化したかのように身体が熱い。荒木秀信と二郎真君は咆哮した。

 

「『オォオァアァァアア───ッッッ!!!』」

 

 痛みが増大すればするほど"存在"の自覚が増える

 意識が重なり一体化する。二郎真君との同調は比率を増す。

 痛みが増すほど敵意が増す。敵意は強固な意志となり、意志はそのまま自我と化す。二つの自我が喰らい合いながら面積を広げ、自己と他者の境界が曖昧になって視界が白んだ。空間が己となって血が通いはじめた感覚さえあった。消えかかる自我を繋ぎ止めたのは、やはり痛みだった。

 

 痛みの在る場所は、自分だ。痛みこそ存在の証明。生まれた喜び。痛みの無い場所など無以外の何ものでもない。

 秀信は満身創痍だ。全身隈無く痛みに耐えていた。だから人という入れ物を認識し、人から外れず戻ってきた。

 

「覚悟しろ」

 

 血管が浮き上がらんばかりに筋肉を固める。右腕が猩々緋を纏う。沸騰した血潮が鉄剣を溶かし、融け合って、己が鋼へと変化するようだ。

 進み続けていた切っ先が、鼻先で止まった。

 

 一瞬の停滞のあと、リングに地鳴りが起きた。咆哮だ、大地を揺るがす雄叫びだ。

 キン、と金属音が響いた。右腕を勢いよく振り、刀身の真ん中から真っ二つに折ったのだ。さしもの霊猴も瞠目し──それは一瞬の隙。

 

 右拳を───放つ! 

 

 全身全霊を込めた一撃は、霊猴の右頬に突き刺さりリングの端まで派手に吹き飛ばした。

 どれほどの膂力が籠められていたのか。リングの壁に霊猴が叩き付けられ、轟音が響く。

 

「まだじゃァ!」

 

 そうだ。まだ奴は死んじゃおらん! 秀信は動いていた。

 確実にトドメを刺す。

 それまでは降せたとは言えない。

 首を撥ねねば。

 心臓を止めねば。

 魂魄を永訣させねば。

 生かして改心させるなどと言う甘さなど、悪鬼となった時に捨て去っていた。

 さながら虎が獲物に爪を突き立てるかのごとく飛び掛かって、何度も拳を振るった。人体を徹底的に壊す経穴を打ち、ダメ押しに四肢を砕く。

 

 

 わしの勝ちだ! 私の勝利だ! 俺の! 僕の! 我の! 余の! 妾の! この拳で砕いた! ぐちゃぐちゃにしてやった! 見てみろ自慢の毛並みも剥いでしまったぞ! ははは! 

 

 痛快だった。強敵を降し、痛みを与えた敵を破壊するのが。

 

 自儘に暴れる快感が背を走り抜け、終わらない射精感に涎が滴り落ちる。

 

 なんで変わってしまうのが怖いなどと怯えていたのか。

 

 

 馬鹿じゃないのか。 

 

 

 ああ、なんて気持ちがいいんだ。

 

 

「ギャハハハハハハハハハッ!」

 

哈哈哈哈哈哈哈哈哈哈哈哈(はははははははははははは)ッ!』

 

 

 

 

 

 

「──まあ、ここまでかの」

 

 大聖の簡素な声が、いやに響いた。

 

「そうだ、そうだ。思い出した。おぬしらが痛めつけておるそやつは儂に抗った道士たちの長だったかの? 名はおぬしが言っておったのぉ……()()じゃったか。しかし所詮、()()()()()。その程度か」

 

 拳が凍り付いた。吹き出した汗が拳を濡らし、霊猴のか虫の息が、ゆっくり撫ぜていった。

 

 なんの、冗談だ。それは。

 

「ん、何じゃ小童? 鳩が豆鉄砲打ったような顔して? おぬしが今まで屠ってきた我が眷属の正体を知らなんだか? ───()()()()()()?」

 

 言霊ではなかった。

 決して神が振るう権能ではない。

 だと言うのに、秀信からおおよそ気力と呼ばれるすべての物が抜け落ち、抜け殻の様に茫然と己の拳を見るのみだった。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、気を付けてねって言いに来たんだよ』

 

 今になって思い出した友の言葉。人を猿に変える斉天大聖。数多の眷属。それを屠った己───。

 それを思い出すのと膝からくずおれるのとは同時だった。

 

 わしは、なにを。

 

『──いかん!』

 

 二郎真君が自失し、膝を折った秀信を動かしそのまま大跳躍して水堀へ向かうと水神としての神性を開放した。

 ドドドッ! 堀の水が氾濫し、溢れる水が秀信の巨体ごと押し流していった。

 

「呵呵可呵呵呵呵───ッ!!!」

 

 その遁走劇を睥睨し笑うのは一匹の猿。哄笑だけがどこまでも響きわたった。



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9話

これは償いでもあり、斉天大聖に抗し得る起死回生の一手だ。


 まつろわぬ斉天大聖から逃げ出した彼らは、大河の流れに従い見つけたとある洞窟で身を隠していた。

 慟哭が洞窟を揺らす。荒ぶる咆哮は物悲しい慟哭を内孕んでいて、洞の奥にまで届くほどだった。血を吐くように男は叫んだ。何故だ、と。

 千の猿と三体の神獣。そして霊猴。敵として現れた者たちすべてが人間だったという……斉天大聖の言葉を信じるならば霊猴は幹彦であったとも。胃のあたりからせり上がってくる酸味が口内に広がり、口元を抑えた。

 力は失っているとはいえ二郎真君は『神』だ。武技はもとよりその叡智に何度助けられたか分からない。ならば人を変化させた眷属の正体を見抜けない道理はない。見抜けなかったでは済まされない。それなのに。

 右腕を千切らんばかりに握り締める。指先から血が滲み、痛みは二人を同調させる筈なのに、どこまでも両者を別かった。

 許せるものかよ……! 満腔から怒気を発露させ、二郎真君の宿る腕を睨み据える。神だろうがなんだろうが、こんな所業は許せるものでは無かった。

 

『…………』

 

 二郎真君は無言を貫いた。多くの敵を斃し、秀信との同調によって力を取り戻したのだろう……秀信の影が伸び、焚き火を挟むようにして黒い影がわだかまると、ゆっくりと人の姿を形作った。

 現れたのは美しい青年だった。凛々しく端正な美貌を持った美丈夫の青年で、特筆すべきは両の目の他にもう一つ、額に湛えられた『目』が覗いていること。

 "三眼"の美丈夫。それが二郎真君の真の姿であった。明らかに並ではない。『神』だと名乗られれば納得とともに頷くだけの神々しさに溢れていた。

 だからなんだ。一も二もなく胸ぐらを掴む。抵抗はなかった。下等な人間に詰め寄られようと視線の先の男は、瞑目していた瞼をゆっくり持ち上げると穏やかに問い返した。

 

『知っていれば……君は敵を討てたかな?』

「───!」

 

 無理だ。理論も感情もなしに結論が先に出た。

 己の同族を、共に駆けた戦友を、心を合わせ挑んだ同胞を……どうして己が手にかけることが出来ると言うのか。二の句が告げなかった。奥歯を噛み締め、胸ぐらを掴む手を強くするのみが返答となった。

 だが。だが。だが……。

 

「そいが言い訳になるとか……!」

『…………』

「普通に暮らしとったのに訳もわからず拐われた人らじゃぞ! 幹彦さんらは助けるために命を賭けて立ち向かって……じゃが、皆等しく人外へと変えられたんじゃぞ……!」

『弱肉強食は世の倣い。君も知らない訳ではあるまい』

「ンなもん……! 挙げ句の果てには、どがんなった!? 化け物のまま化け物(わし)に殺されて……こがん仕打ちがあるとかッ!?」

 

 秀信は泣いていた。両の目尻から珠のような涙をひっきりなしに。こんなに泣くのは初めてだった。殺してきたものたちが人だと分かった途端、傷を受けた節々から強烈な痛みが広がった。人から受けた傷によって人になれた。

 人は人を殺すときっと人ではなくなる。自身と似通った姿かたちをした存在を抹消すれば、自己の否定に繋がる。

 居なくなりたかった。

 変わってしまうのが怖い? 人殺しがなにをいう。

 もう自分は引き返せない場所にいた……斉天大聖も二郎真君もこの事件に加担し関連した魑魅どもを倒したなら自分も消え去りたかった。自分の生を否定したくて堪らない。

 慨嘆に暮れ悲しみに震える彼の耳朶が、青褪めた二郎真君の冷たい声を受け取った。

 

『君の言い分も分かる。だが大局を見て、私はそれが最善だと判断したまで。すべては秩序と安寧の為に行ったこと。君もこの世に住まうものならば理解せねばならない』

「手前ェッ!」

 

 二郎真君は能面の仮面を貼り付けたまま言い切った。能面とはいえ、薄らと笑みを含んだアルカイックスマイル。

 神は地上に降りれば、まつろわぬ性に呑まれて堕ちる。まつろわぬ神が力を失えば、まつろわぬ性も散逸するが力を取り戻せばすぐに戻ってしまう。二郎真君はその性質を忠実に再現しているように思えた。秀信との同調で、自我は強固となり力を取り戻し、そしてまつろわぬ性が快復した。

 だから、きっと、そのせいで彼は心無い言葉を浴びせるのだ。自分が変わってしまったように、二郎真君も変わってしまったのだ。

 意識と感覚を共有し、重なりあったなら分かることで……。

 

 

「………………」

 

 秀信は全ての動作を止めた。掴んでいた指を離して、肩を落として俯いた。二郎真君も悟ったように目を伏せた。

 わかっていた。二郎真君がそんな小細工などする筈がないことは。

 彼は自分で、自分は彼。あの戦いで総てを委ね合い、同調し合ったのだ。二郎真君が悟っているものを、秀信に見抜けない道理はなかった。

 斉天大聖は千変万化の神で、化かし合いも一級品だった。二郎真君となった秀信も見抜けなかっのなら、間抜けなのは秀信も同じだった。

 人に仇なすまつろわぬ神を誅伐するため立ち上がった戦士は悉く意気消沈し、沈痛な顔を浮かべていた。敗色濃厚どころではなく、そもそも相手にもされず、翻弄されている。

 

『荒木秀信、あまり自分を責めるな。……君に落ち度はない……それこそ君を拐かし、この地獄に放り投げた私にこそ責があるのだ』

「…………」

『君に同族殺しを強いてしまった罪。無辜の民から犠牲を出してしまった咎。それらすべては私の敗北が招いた罪なのだ。故に私は義務を果た贖罪としよう……()()()()()()

「……何?」

 

 何を言っているんだこいつは? 

 己を討てと言ったのか? 

 

「ふざけるな、なんでそがん事になる! そんなら今まで通り、お前と一緒にやればよかろうが!」

 

 驚愕に揺れる秀信をよそに、二郎真君はどこか天上の貴人を思わせる春風駘蕩とした笑みを浮かべ、つらつらと言葉を重ねていく。

 

『ふふ。巻き込まれただけだった君が、私とともに戦うことになんの隔意も抱いていないことに面映い気持ちもあるが……』

 

 篝火が揺れ、笑みを含んだ二郎真君が一層濃くなった錯覚を覚えた。現に彼の圧力は層倍したものとなり、秀信に伸し掛かった。

 

『これは償いでもあり、斉天大聖に抗し得る起死回生の一手だ』

「起死回生……?」

『うむ。君と重なり合い私はおおよそ三割程度の力を取り戻した……君とふたたび重なり合い、やっと五割というところだろう』

「やったら、そいで……!」

『それでは斉天大聖に全く歯が立たない』

 

 二郎真君は言葉のあいだ、ずっと穏やかな口調を崩さなかった。表情には優しいものを湛えていて、先ほどまでのアルカイックスマイルなどと遠い過去のようだ。

 

『だが、ダメなのだ。君と合力したとしても勝率は一割にも満たないだろう。それほどに斉天大聖めは強い』

「ならばなおさら分からん! なんでお前を殺さんとならん!?」

 

 厳かな声音で、ポツリと二郎真君は言葉を結んだ。

 

『───()()()()()()()()()()()()()

 

 小さな囁き声……だが、その言の葉はしっかりと秀信の耳に伝わった。

 

「神殺し、じゃと……?」

『そう。人間でありながら神を殺し、神に抗し得る力を所持する唯一の存在"()()()"。私が、或いは、私と君とで斉天大聖めを止める事が出来ればこんな事にはならなかったのだが……すまぬな、私の力不足だ』

 

 あの二郎真君が、どこか諦めたように力なく笑っている。それがどうしようもなく、心を締め付けた。今度こそ秀信は二の句が告げなくなった。

 

『斉天大聖の眷属が人を化かしたものたちで僥倖であった。私は三割ほどの力を取り戻し……ひとつの権能の行使が叶うようになった』

「権、能?」

『そう。天上の神々が、司り、意のままに振るうべき力の総称だ』

 

 神々は森羅万象を司る。あるいは森羅万象のなかから生まれ出ずる。海の神なら津波を起こせるし、豊穣の神なら空前絶後の豊作を授けるのも可能だ。神が振るうに相応しい奇跡を畏敬を込めて"権能"と呼んだ。

 

『まつろわぬ神は神話から外れるが、しかし、神話に縛られる存在だ。まつろわぬ神々が地上に現れる折、自身の神話をなぞり顕現するものも珍しくない。逆に言えば神話をなぞることで力を取り戻すことも可能なのだ。

 神話をなぞり私はまつろわぬ神へと到る。今までのような『弼馬温』の霊符に宿る意思として、ではなく斉天大聖めと同じ『神』として、な』

 

 静かに語ると二郎真君は秀信を正眼に捉えた。

 

『どうか私の後生の頼みを聞いてくれ。これが最後の願いだ。……私を弑逆し"神殺し"として新生するのだ。そして君が斉天大聖を討つ。これならば君という"神殺し"は生まれるが『まつろわぬ神』はすべて滅びる』

 

 何故こいつはいつもそうやってなんてことないように無茶な頼みばかりするのだ。よりいっそう笑みを深くした二郎真君が、眼差しを強くする。

 

『まつろわぬ神へと到るため、私は第三の『目』を開眼する。我が眼は真実の姿を映し出す破邪顕正の権能。……斉天大聖めの眷属を()に戻すことによって我が神力は快復する。

 誇ってくれ。力に快復も、眷属の正体も、私のみでは到底不可能だった……これもすべて君の尽力があればこそ』

 

 やめろ、やめてくれ。そう叫びたかった。

 

『確かに神殺しは世を麻のごとく乱す存在。しかし君ならば。荒木秀信。君という荒々しくも性根の正しい君ならば、大丈夫だ』

 

 秀信は何もいえなかった。咽喉が消失したかと錯覚するほど言葉が出ない。それに……己の命を賭けて臨まんとする眼の前の戦士に、なんと言葉を掛ければよいのだ。ましてやその決意を汚す事など。

 

『これこそが世を乱さず何事もなくこの窮状を切り抜けられる唯一の策。……もはや我らにこの手段以外、手は残ってはいない。

 君にこんな重荷を、こんな責務を、こんな業を背負わせるのは偲びない。……だが斉天大聖めをのさばらせれば、必ずや現世に未曾有の悲劇が襲うことは明々白々。それが私はどうしても看過出来ない』

 

 変わってしまったはずだった。自分たちは変わってしまったはずだった。

 人が人を殺し、魔を討つ善なる武神が罪なき人を手にかけ、我らはもはや正道に戻れないほど外れたはずだった。しかし彼は、それでも彼は、正しいことを為さんと足掻いていた。

 眩しかった。照魔の光を御覧じろ。彼こそ天帝が甥にして天地両軍の大将軍、赤城顕聖二郎真君なり。秀信は沈痛な表情浮かべながら確かな満足も抱いていた。

 この誇るべき善なる武神の一助となれるならば……本懐であると、ふと思ってしまった。

 

「………………」

『後生だ、荒木秀信よ。どうか私の名代となり、斉天大聖めを斃してくれ。今まで、ともに死地を歩んだ私だからこそ言える───君ならばそれが出来ると』

 

 そう言って頭を下げた二郎真君は、おもむろに手を秀信の方に向けた。その手に忽然と現れたのは刃の先端が三つに別れた刀。名を"三尖刀"。

 怖気を掻き立てる鋭い刃を備えた、二郎真君自慢の神代の武器であった。その妖しい刃の煌めきに呑まれたか、二郎真君の眼差しに打たれたか、秀信は鉛のようなつばを嚥下した。

 

「わしは……」

 

 

 答えは一つだった。

 

 

 ○◎●

 

 ──斉天大聖の『領域』が赤々と、燃えている。

 

 ずる、ぺた。ずる、ぺた。

 金と朱で染め上げられた神造の都市は、夜闇をかき消す揺らめきによってその様相を一変させていた。その間を縫うように猿ではなく、人間の姿を取り戻した人々がぐったりと、倒れて眠っている。

 不思議なことに炎は人々を焼くことも、きらびやかな建造物を焼き焦がすこともなかった。ただ蒸気か立ち上るかの如く、天にきらきらした靄がのぼっていくだけ。

 場違いにも現世に現れた夢ものがたりの者たちを、あるべき場所へと返すかのように。

 

 ずる、ぺた。ずる、ぺた。

 幻想的とすら言えるその場所をたった一人、歩を進めるものがいた。

 巨驅である。大人でさえ見上げるほど高いその上背、手には一間半はありそうな三尖刀がひとつ。只者ではないことは明白であった。

 永いときを流浪したかの如く頭から襤褸を引っ掛け、その襤褸からのぞく髪は、炎の光に照らされ赤く燃えているようであった。

 

 ずる、ぺた。ずる、ぺた。

 向かう先は、斉天大聖の城。この人間の討つべき者が住まう場所であった。

 常ならば日が落ちると闇に覆われ道を照らすものはないはずだが、今ばかりは別。

 それゆけ、それゆけ。

 そう、ささやく声が聞こえんばかりに煌々と城への道を照らし出していた。

 

 やがて辿り着いた彼を待ち受けていたのは、隻眼の猿。襤褸の彼とは一度、死闘を繰り広げた仲であった。

 

 だがこの巨猿、他の猿たちのように人の姿に戻らず、ただ此処で佇んでいた。

 何故か。

 猿は襤褸の彼を認めては口角を吊り上げ、笑った。さぁ、始めようと言わんばかりに。猿は、静かに拳を構えた。

 襤褸の彼もまた応じるように笑い、構えた。

 

 いざ、決着を! 

 

 ───寒光一閃。

 交叉した両者は、一時の停滞のあと。片方は沈み、もう片方は、ゆるゆると歩を進め始めた。

 

 もうその歩みを阻む者など居はしなかった。

 

 

 

 

 ゆらゆらと揺れる王国の輪郭をなぞりながら、その先に坐する峰々の稜線へ。その稜線をまたなぞりながら進めば、己の故地たる場所を思わせる大瀑布へとたどり着く。

 涅槃の姿勢をとって桃を齧りながら、つまらなそうに城の屋根で眺めているのは誰であろう『まつろわぬ神』斉天大聖・孫悟空であった。

 

「人は弱いのう。天地星辰の運行から決して逃れることはなく、我ら神々の意思のままに動く奴隷よ。此度も人から猿に変えられ、散々弄ばれて今度は人の姿に戻る。まるで手のひらの上で転がるガラス玉よ。そうは思わんか? え? ──小童?」

 

 ぶわり、と風が吹いた。

 襤褸がたなびき、吹きすさぶ風に乗って遠くへ飛んでいく。

 現れたのは六尺の上背と三十四貫の重量を誇る、世に二つとなき容貌魁偉の肉体。

 その身には目の覚めるような猩々緋の羽織を纏い、その双眸には烈火のごとき意志を湛えて。

 神に抗う者、荒木秀信。

 人知を超えた者たちの戦いに巻き込まれ、果てには同族すら手に掛けならがも、ついに彼は大聖の御前へ現れ出でた。

 

「いいや。いいや。お前に憐れなれなくとも、人は強い。神なんぞおらんでも、一人で立ち上がる。神にだって立ち向かえるほど強い。──それが人間じゃ」

 

 仁王像さながらに胸を張り、どこまでも不遜に。

 頑として意志を変えることなく、はっきりと言い放つ。

 

 秀信は反芻していた。

 あの時、二郎真君との最後の会話を。

 

 

 ○◎●

 

 

「そいでも、わしは───断る」

 

 秀信はそうキッパリと言い放った。先刻と打って変わって、二郎真君の眼差しに狼狽えた様子もなくハッキリと答えた。

 

「……わしは無知じゃ。お前のように冴え渡る智謀も武技も持ち合わせておらん。"神殺し"がなんなのかも、正直分からん」

『では何故?』

「ふん。わしはな……友を手に掛けてまで、勝利を得ようとは思わん! そがんことをすりゃあ、もう、わし自身が跡形もなく消え去ってしまう!」

 

 神殺し。

 それがどんな存在なのかは知らない。二郎真君が最後の救みとするのだから相当なものなのだろう。けれど、そんな物のために二郎真君は自分に命さえ捧げると言う。秀信を信じて。

 

 嬉しかった。友として。

 けれど、駄目だ。

 二郎真君と心を通わせたと思うならば、背中を預けあったならば、友だと認めるのならば、なおさら駄目に決まっていた。

 

 居なくなればいい。確かに自分は思った。今でも思っている。けれど、変わってしまってもいいなど……ほんの少しも考えちゃいなかった。

 

『だが君に策はあるのか! 神通無限と恐れられた大妖怪『美猴王』斉天大聖・孫悟空を斃す策が! よしんば斉天大聖を倒そうとも変化させられた人はどうする……世は甘くはない! 人には戻らない! 私が人に戻せば『まつろわぬ神』となった私が残るぞ……そして私は必ずや君を殺そうとする! ───あるならば言ってみろ、その策を!』

「ない」

 

 いっそ笑えるくらいに、そう言い切った。

 

「わしを信じちゃくれんか。お前とともに命を張った戦友を信じちゃくれんか」

『荒木秀信……』

「拐われた人らが戻るのにお前の力が必要なら貸してくれ……それしか手段がないなら、わしからも頼む」

『ああ、言われずとも』

「まつろわぬ神になったなら、そんときゃ、わしがなんとかする。ダメでもわしがお前を止める。

 じゃが、弱り切ったおぬしを殺すことだけは無理じゃ……友を殺すばかりか、なんの抵抗もしないおぬしを殺す事なんぞ出来はせん」

 

 だから……。

 二つの眼でしっかりと二郎真君の双眸を覗き込む。

 

「おいは必ず斉天大聖を斃す。果たし合うならばその後で。───尋常の勝負で決着をつけよう」

 

 そう言い切った。不器用すぎる彼が出した精一杯の策だった。

 

『……………………。ふふっ……』

 

 二郎真君はしばし瞑目し、笑った。

 なんて愚かしいのか。これほどの愚か者、神代の時代に居たかすら怪しい。

 だが……賭けてみたいと思った。

 聡明であると自負していた己が、何故こんなにも愚かしい真似をしているのだろう。だが愉快だった。

 男児三日会わざれば刮目して見よ、とは言うが……傍に居ようと、この者はいつの間にか"虎"に成っていたか。

 まるで我が子が手を離れる奇妙な感覚を覚えて、クツクツと肩を揺らしてしまう。

 

『──楊二郎と呼べ』

「……あん?」

『なに、私の字のようなものだ。いつまでも友に仰々しく呼ばれるのは好みではないのでな。……どうだろうか?』

「ガハハ。そいぎ、わしも秀信と呼んでくれ楊二郎! お前の呼び名、はじめからずっと堅っ苦しくって堪らんかったんじゃ」

 

 ひとしきり二人で笑い合う。そこには死地へ赴く悲壮さなどなかった。ただ心の底から湧き上がる愉快さにいつまでも笑っていられそうな気分だった。

 

『君はふたたび城へ向かい、斉天大聖を討つ。私は第三の目を放ち、人を戻す。やる事は単純明快、されどそれゆえ困難至極。だが……』

 

 頷きあう。意志を確かめるように。

 

『───勝ち給え。そして雌雄を決しよう。……神殺しとなった君を討つのは、この楊二郎を置いて他には居ないのだから』

 

 再度、二郎真君は三尖刀を差し出した。揺らめく炎によって橙に燦めく刃は二人の心象さながらであった。

 深くうなずき、二つの影は重なった。

 

 先刻、交わした最後の会話を反芻しならが秀信は赤い羽織に触れていた。手に持つ三尖刀と同じく、二郎真君から受け取ったものだ。

 

『ああ、それとこれも持って行きたまえ。そのボロボロの服では些か見窄らしいゆえな』

 

 そう言って今まで右腕の赤が抜け、最初に見た布になると猩々緋色をした羽織となったのだ。礼を言う前に二郎真君の気配は消えていた。

 語るべきは事は語った。やるべき事は分かっていた。

 

 

 ───猩々緋色の羽織を夜風にたなびかせ、殷々とうなる三尖刀を構えた者がいる。

 

『神』たる斉天大聖にさえ気圧される事なく傲岸に仁王立ちする者は一体何者なのか? 鬼か? それとも虎か? それともバケモノなのか? 

 いいや違う。"人"である。

『神』に挑まんとするどこまでも愚かしいその者は。凜々と戦意を横溢させ、胸には友との約定を携えて。一人静かに佇むのは人間の少年であった。

 

()()()()()()()()()()

 

 笑う。嗤う。哂う。斉天大聖何するものぞと! 口をいっぱいに引き裂き、歯列をギラリとのぞかせ笑う。

 

「人間が『神』に勝てない理なんぞ誰が決めた?」

 

 人の強さ。そうやって思い出すのは、人の強さを教えてくれた故郷の友とこの幽世で死地をともに駆けた戦士たちだった。

 

「よっく聞け斉天大聖。たとえ此処で()()()()()()()()()()、九法塚幹彦が、故郷の友が、楊二郎が、あらゆる人間たちが、貴様を阻む壁となって立ち塞がるだろう……しかし……」

 

 秀信は笑った。肩を震わせたまらぬと。

 

ガッハッハッハッハッハ───ッッッ! 

 

 壮絶な笑みを浮かべ、鬼を超えた人は笑う。愉快でたまらないと、まつろわぬ神を前にしながら。

 

「だが、お前は。この荒木秀信()を越える事は──出来んやろうがなぁ……!」

 

 

 

 

 

ほざいたなッ!!! 小童ぁ──ッッ! 

 

 斉天大聖のこめかみから、赤い血が吹き出ると同時、幽世すべてを揺らす怒号が放たれた。それをどこか他人事のように眺めながら、秀信は走馬燈のように故郷の友を思い浮かべていた。痛みを教えてくれた友達。覚えていると約束してくれた友達。隣を歩いてくれた友達。心配してくれた友達。

 秀信はひとりひとりの顔を思い浮かべて、心の中で相好を崩しちいさく謝った。

 

 すまん、兄弟たちよ。一足先に逝く。

 

 

 最後に思い出し、想い描いたのは、優しげな少女の……ほころぶような(かんばせ)。白衣に浅葱色の袴をまとい、黒髪と言うにはいささか茶色味が強い彼女の髪。山間に咲く桜を思わせる淡い雰囲気と、贈られたなによりも大切な言の葉だった。

 

『──居てくださってよかったと思います』

 

『敵を倒してくださったから、ではなく──』

 

 フッと笑って自分の鈍感さ加減に笑みが零れた。痛みにも鈍感ならば自分の心にもどうやら鈍感だったらしい。秀信はやっと自覚できた。

 ふふそうか。どうやら。

 

 初恋は、実らんようじゃのう……。



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10話

天を指さす、この者こそ──。


「我が姓は孫、名は悟空。斉天大聖の号を得たり!」




 "人間の戦士"荒木秀信と"闘勝戦仏"斉天大聖・孫悟空の戦いは激化の一途を辿っていた。

 十貫は下らない長大な三尖刀を振り回し、斉天大聖へ刃を突き立てようとするが、悉くを阻まれる。斉天大聖の軽捷さもあるが、掌中に収まる武具……孫悟空の代名詞たる"如意金箍棒"によって払われてしまう。耳を劈くような破砕音が響き、城が次々と崩れ去っていく。目にも止まらぬ速さでただ駆け回る。それだけで嵐に等しく、城内は崩壊の一途を辿った。

 

 ちょこまかとっ! 

 軽捷無比な斉天大聖の挙動に、胸中で悪態をつきながら追いかけ回す。焦れた秀信が散乱していた石くれを蹴り上げ、斉天大聖へ嗾けた。斉天大聖はひらりと躱すと、翻って秀信へ猛然と突っ込んできた。

 これを狙っとったんか、秀信は斉天大聖の思惑に気付いた。自分は追いかけていたのではない……背中を見せられていた。背を追いかけ続けた秀信が、自分でも知らぬ間に狩る側へと意識が変遷してしまった。その絶妙な心を読み、一気に転進してきたのだ。

 だが秀信は焦ることなく地面に三尖刀の石突を突き立て地面をめくれ上がらせた。斉天大聖に大岩の礫をくれてやったが流石は鉄頭銅身。礫を叩き割って速度を落とさず迫った。

 秀信も急制動した反動を重ねて、強烈な横蹴りを放った。

 

「したたかじゃのう小童!」

 

 秀信も強いが、斉天大聖もさらに強い。瞬足の横蹴りを嘲笑うかのごとく触れる直前でそのまま上空へ跳躍。次の瞬間には、霹靂さながらに如意棒を振り下ろしてきた。

 

 手前が言うな、と腹筋と顎をかため寸でのところで三尖刀が間に合った。ギィィンッ、っと一瞬の鍔迫り合いのあとに轟音。やはりと言うべきか一瞬で押し負けた秀信が、三尖刀ごと叩き付けられた。クモの巣状の罅が地面に刻まれ、飛礫と土煙が舞う。

 少々力みすぎたかの? だがこれでお終いじゃ。

 視界を奪った土煙を、その身に宿った無尽蔵の神力でもって吹き飛ばす。予想違わず、視線の先には千々に砕けた秀信の姿が───なかった。

 

「───!」

 

 刹那、見事な敏捷さで中空へ飛び上がった斉天大聖は迫る三尖刀の刃を躱すことに成功した。頬を横切った刃のあとに頬をぬるりと伝わったものは、汗だったのか血だったのか。

 咄嗟に如意棒を振って、秀信を吹き飛ばす。……だが衝撃を巧みに操り、たたらを踏みながらも、そのまま距離を取られた。斉天大聖の二撃を受けながらも、元気に城の屋根を走りはじめた。

 斉天大聖は今相対している人間に呆れそうだった。神に歯向かった度胸もそうだが、肉体が常軌を逸している。天竺への旅路で退治した妖怪変化でもあれほどの怪物は稀だった。

 なんという度胸、なんという技量、なんという天稟。頬の血をべろりと舐め肩を揺らす。じゃが地の利……いや、天の利は、いまだだ我にあり! 

 

「お次はこれじゃ小童──伸びろ如意棒!」

 

 くるり、と軽業師のごとく空中で回って景気をつけ、次の瞬間、地上にいる秀信へ如意棒を──突き降ろした。 

 一撃ではない。棒の一突きが刹那を経るごとに速度を増す。秒からはじまった攻撃が、"釐"を超え"雲耀"へと。

 

 一──二──四──八──十六──三十二──六十四──百二十八──二百五十六──五百三十二──千六十四────。

 

 秒間にして()()()()()()()()()()の超連撃が放たれた。霹靂の嵐だ。降り注ぐ弾幕が秀信だけに収まらず、地面を刳り抜いて赤熱させ大気を焦がす。 

 だがそれでも。まだまだ秀信は生きていた。

 まるでコンクリートハンマーの騒音が何十倍にもしたような轟音の中、秀信の咆哮が砂礫を揺るがす。ほう、と感嘆の声を漏らした。この沛然たる超連撃の豪雨のなか、まつろわぬ神に抗う人間は諦めてはいなかった。

 三尖刀は二郎真君の分身だ。

 ならば三尖刀は自分で、自分は三尖刀。そう思考すれば刀剣の姿をしていた神器は"篭手"へと姿を変え、するすると秀信の腕へと自ら嵌った。

 あとは根性勝負だった。己の持ちうるもの……『心眼』で、武神の武技で、直感で、拳で、足で、肉体で。あらゆるものを用いて最小最低限の力で切り抜けられる活道を選んで切りぬけた。

 ふはっ、と痛快に笑う。

 この死の雨を人間が切り抜けられるだろうか? いやいや、そんな人間など居やしない。それはもう人間ではない。鬼か、修羅か、夜叉か、羅刹か。

 素の力ならば我にも迫るのではないか──? 

 そう思わせるほど化け物じみた"人間"に知れず、戦いの神として笑みが浮かぶ。

 

 クソッタレッ! 何じゃこの嵐は!? 

 敵を喜ばせているなど知らない秀信は好転しない窮状に状況に苛立ちを募らせていた。とにかく手数が半端ではない。一瞬たりとも気を抜けない。霊猴と戦ったときの攻撃よりも段違いにキレのある攻撃は流石は闘神と唸らざるをえない。

 だが、さっさと切り抜けんと持たん! だがあのエテ公は中空から攻撃してきちょる……飛べばそれこそ飛んで火に入る夏の虫じゃ……。

 打開策が見つからない。完全なアウトレンジからの攻撃に加え、この超連撃は檻の役割も果たしている。

 どうすべきか、とそんな風に悠長に思案する余裕があるのは霊猴との戦いで散々っぱら神速を見切り経験を積んだからだろう。

 そうして幾ばくもなく打開策が浮かんだ。

 斉天大聖は完全な真上から攻撃を放っている。重力に抗っているのは決して神力を使ったものではなく、この怒涛の突きで抗力を得ている。ならば。

 心眼の深度をより深めていく。

 おそらく心眼は視界に頼らない。視界に頼ればラグが生まれる。敵の視線、大気の動き、微弱な振動……およそ森羅万象と呼ばれるものを視覚を越え直接脳内に叩き込まれる事によって成り立っていると秀信は解釈していた。そして森羅万象を見切れるこれならば、"力の動き"とて見切れるはず。

 そうして見開いた目で如意棒から重力に抗う力の波が"観えた"。

 決める。如意棒へ向けて大きく拳を揮う。

 弾かれた如意棒は、小さな間隙を生んだ。その間隙は腕を肩にまで引絞って振りかぶるには十分だった。

 乾坤一擲の大ぶりな動きは、死と隣合わせ。チャンスは一度きり。

 

「ぬおっ!?」

 

 金属バットで快打を打ったような耳心地の良い音が鼓膜を駆け抜けた。そして如意棒が吹っ飛び、それに体重を預けていた大聖もまた吹っ飛んだ。秀信の全力はたとえ斉天大聖と言えども場外ホームランさながらに景気良くぶっ飛ばす力があった。

 だがここでは終わらせない。

 中空でクルクル回る大聖へ向け、地面を蹴って大跳躍───逃げ場のない大聖に、弾丸の如く突っ込み殴り掛かった。 

 

「待て待て待てい! それはないぞ小童!」

「誰が待つか糞エテ公! ここで死んどけ!」

 

 咄嗟に如意棒を持ち替えて防ぐが、その勢いは余す事なく伝わった。

 すでに吹き飛んでいたと言うのに、お代わりと言わんばかりに勢い付いて吹っ飛び──豪快な破砕音とともに城壁へ叩きつけられた。

 

 小童! すぐさま爆発したかと見紛うほど瓦礫の山をふっ飛ばし、怒り心頭で大聖が現れた。

 身構えるより早く、斉天大聖が飛んで来た。眷属である霊猴が神速の速さだったのだ。斉天大聖もまたその駿足を持ち合わせていた。

 掌と膝蹴りが同時に放たれた。膝蹴りはブラフ、身を捻って躱す事に成功する。

 問題は掌であった。掌をそのまま突きだす掌底は、速さもそれほどでもなく脅威も感じないと言うのにひどく恐ろしい何かを備えていた。

 身体を捻った直後で重心がややズレたが、けたたましく鳴る警鐘に従って無理やり首をひねって転がりながら躱す。

 

 グッ、と大聖が掌底を固く()()()。ただそれだけの動作で秀信の巨体が浮かんだ。思わず瞠目する。大聖がいま何をしたのかわからなかった。

 ……本当に、ただ大気を握りしめただけ。そこに武技も術理のありはしない。

 ハッとする。そう、ただ握りしめただけ。やったのはシンプルな事……斉天大聖はあり余る掌力で、手のひらを握りしめ大気を削り取ったのだ。それこそ()()()()()()()()()()()()で。

 なんてデタラメ、掌力絶大という言葉では収まりきれない『神』の脅威に知れず身震いしてしまった。

 それが致命的な隙を作った。

 掌を手刀へと変遷させ、迅雷さながらの速度で斬り込んできた。

 今度は純粋な力押し。地面を転がった上で身体が浮き上がり、回避は不可能であった。篭手が破壊され腕から間欠泉じみた血が噴いた。遠くで篭手の破片が地面に落ち、乾いた音が響いた。

 僥倖であった。まだ生き残っている。

 大聖の胸ぐらを掴み、動きを封じる。あとは、この拳を──叩き込むだけ! 

 バキッ。 必殺を臨んだ拳が放たれ、鈍い音が斉天大聖の頭蓋あたりから響く。砕けたのだ───

 

「ぐ、ぁぁああああああああああ!?」

 

()()()()()

 

「阿呆め、知らんのか小童? 我は『鋼』そのものだぞ? 金丹盗み服みたれば、わがからだまた嫌えられ、銅の筋肉、鉄の骨、火眼のなかの暗は金。屁眼は真鋳製、鶏日は錫メッキ。素手で挑んで勝てる道理なぞありはせんわ!」

 

 "鉄頭銅身"。乱行を繰り返した先で霊薬や蟠桃をくらい、八卦炉で焼かれ生き残った彼だからこそ手に入れた鋼の肉体。たとえ尋常ではない膂力を誇る秀信とて打ち砕けるものではなく、それどころか逆に砕かれてしまった。

 秀信の力は絶大だ。しかし今回はこれが仇となった。力の強さが反動となって、彼の拳を完膚なきまでに砕いてしまったのだ。酷い複雑骨折で砕けた骨がすら見えるほど。とてもではないが戦闘に使える状態ではなかった。

 

「これで仕舞いじゃ! そぉれ森羅を震わせ碧空を驚かす一条の鉄棒、馳走仕る!」

 

 見栄を切った大聖が如意棒を振りかぶり、閃電の如く強襲する。篭手を失った秀信に打ち合える得物はなかった。

 でもやるしかねぇ! 腹を決めた秀信がその場で勢いよく地面を蹴って()()()をしたのだ。

 これにはさしもの大聖も目を剥いた。遠回りな自殺にしか見えなかったからだ。

 けれど秀信は一切諦めていなかった。心眼と持ち前のクソ度胸で如意棒どころか斉天大聖すら視界から外す。視界など邪魔になるだけ、直感でやるしかない。

 天と地が逆さまになった状態で、振り下ろされる如意棒に向けたのは"足"。

 蹴り上げるのか? いや、そうではない。

 迅雷の速度で迫る如意棒に滑るように足を這わせがっしりと()()()()()()()()()()()。それだけでも驚嘆すべき事だと言うのに秀信はまだ終わらなかった。

 

「おいだけが素手で不利じゃと言うのらば! おおぉぉおおおおおおおお───ッ!!!」

 

 そのまま臍下丹田から力を練り上げ、ぐるりと回転。如意棒を地面に叩きつけると、神珍鉄で鍛えた神代の武器を叩き折ってしまった! 

 

「───これで五分だろうがぁ!!!」

「はははは! 小童、おぬし本当に人間か──ッ?」

 

 怒りも忘れ、盛大に笑ってしまった。ただの矮小なる人間が己の獲物を砕き割ったなどと。笑う以外にどうすればいいのだ。

 

「手強い。ほんに手強いのう。おぬしが時間稼ぎであることはわかっておるが……だか完膚なきまでに討ち果たしたいぞ。誇れ、おぬしは我が刈り取るに値する敵手じゃ」

「……時間稼ぎ?」

 

 とある言葉が引っかかった。

 闘神としての称賛だけでなく、健闘している人への慈愛を介在させた笑みを浮かべながら、分かっている、分かっていると、したり顔を浮かべ笑みを深めた。

 

「そう誤魔化す事はない。貴様が時間稼ぎの捨て駒なのは分かっておるぞ? いくらおぬし等とて人が『神』に勝つなど思うてはおるまい。そら白状せい、真打ちの二郎殿はいつ出てくる算段なのじゃ? それとももう貴様のなかに居るんかの?」

 

 ああ、こいつは勘違いしているのか。

 斉天大聖とは打って変わって少し冷めた表情を浮かべた秀信は口を開いた。

 

「あいつは来ん。お前が猿にした人々を戻すため力を使ったけんな。力を失ってからでしかこの世に現れんのだ。……算段と言うならば、おいがお前斃してその後に楊二郎を斃す。それが策じゃ」

 

 きょとん、と間の抜けた顔を作ると、次には大聖の顔からストンッと表情が抜け落ちた。それは恐ろしいくらい空虚に。

 

 

「舐めるなよ──」

 

 冷めた声だった。気付いた時には大聖が目の前にいた。防御を取る暇も、なかった。戦いを始める前のように心底つまらなそうに呟いて。身体をバラバラにされる感覚がと痛覚を焼き焦がす信号が脳に到達するのは同時だった。

 

「──人間」

 

 憐憫を多分に含んだ傲岸で冷め切った声が耳朶を打つ。見えなかった。なにも。

 仰向けに倒れ伏した秀信の首元に足を置き、斉天大聖は敗者を傲然と見下ろした。つまらなそうな表情を一変させ、今度はいやらしいまでの狡猾な笑み。

 

「おい小童。今まで『神』である我と戦い、おぬしが何故死ななかった分かるか? え?」

 

 尊大な笑みは深くなっていく。にんまりと、それこそ三日月のように、深く、深く。

 

「二郎真君と言う忌々しい『神』の思惑を完膚なきまでに打ち砕き、そして愛し子たるおぬしの───()()()()()()()()()()()

 

 は、と声が出た。

 

「実を言えば……我にはもうここ(幽世)から出る手段はあったのだ。しかし、無策で繰り出せばあの古老とかいう鬱陶しい輩がしゃしゃり出てくる。二郎真君がおる。ゆえに一時の間、奴らの眼を誤魔化す()が欲しかったのじゃ」

 

 人差し指で、ゆっくりと指差す。茫然とした秀信を。

 

「それが──おぬしじゃ。おぬしを必要になったとき間が悪いことに現世に戻り、手を出せなくなっていたが……。愚かにもふたたびこの領域に舞い戻り、しかも使って下さいと言わんばかりに、こうして目の前に現れた」

 

 愉快、愉快。

 暗闇でも不気味な存在感をはなつタペータムの眼を爛々と光らせ嘯く、猿の大化生。黄金色の毛並みをなびかせ壮絶な美しさを備えながらも、どこか濁っていて燻んでいる。だが黄金は黄金だ。

 敵は黄金の化け物。人が及ばぬ領域に在るもの。神。神。これが──神か。

 

「よい道化じゃったぞ小童! 『弼馬温』なんぞという呪法に囚われ始まった我が三百年の屈辱! 辛酸を舐めさせられ恥辱の澱に喘いでいた我に、よく活路を示し、憎悪と無聊を慰めていくれた! 礼を言うぞ小童!」

 

 沁みだす。赤熱し溶けだした鋼がひび割れた心から沁みだしていく。

 斉天大聖ェッ! ブツん、と何かが切れる音が聞こえると同時、怒号を上げようと口を開いた瞬間だった。

 

「天雷无妄、元享利貞!」

 

 はは! と愉快気に笑いながら口訣を結んだ斉天大聖がその姿形を変化させ、拳ほどの毛玉になると一直線に秀信へ向けて飛び込み、そのまま彼の口の中へ入り込んでしまった。

 神通無限・斉天大聖。体内に入られてしまったら、術の一つも修めていない秀信はもはや()()()

 何もかも掌の上。

 心臓の部分からじわじわと細胞がひっくり返る感覚を最後に、身体が硬直していく。どうしようも、なかった。荒れ狂う潮騒のごとき心の中でそう悟りながら、深く昏い深海に放り込まれたように意識は消滅した。

 

 

 ───そうして静寂のみが、辺りに響いた。

 

 俯いた秀信が、顔を上げる。面影は、なかった。

 紅い目に金色の瞳……火眼金晴。面に出ているものは斉天大聖の霊眼。もうそれだけで、すべてを物語っているに等しかった。

 大きく、歪つに、くちびるが円を描く。たまらない喜悦を押しとどめる事が出来ない、そう言わんばかりに。

 

 荒木秀信(斉天大聖)はおもむろに腕を、フッと横へ振るった。変化は顕著であった。斉天大聖を起点として衝撃が駆け抜け、それを阻んだ建造物、大地、河川、大気……あらゆるものが刳り貫かれ吹き飛んだ。

 ただの拳風のみで。まさに至高の存在。『神』なのだ、あれは。間違いなく『神』なのだ。

 

「ははは! あの小童の身体を奪ったのは間違ってはおらんかったようじゃのう! 『神』の()()と変わらぬほど身体の調子が良いわ!」

 

 今。この時を以って荒木秀信は『神』となった。斉天大聖・孫悟空を孕んだ『まつろわぬ神』へ……。大願成就を目前にして、喜悦を隠そうとしない大聖はすばやく印を切ると、何処からか呼び出した雲に乗って軽快にとんぼを切った。

 そして電光石火。目にもとまらぬ速さで領域を駆け抜けた。

 向かう先は、己を封ずる幽世の出口。かつて秀信が迷い込んだ西天宮につながる回廊である。

 またたく間に辿り着き、言葉もなく虚空から取り出したのは、一本の匕首。古ぼけたそれは以前、幹彦が古老より賜ったものと同一のもの。大聖は幹彦たちを急襲したあと抜け目なく奪っていたのだ。

 この禍祓いの呪力がふんだんに込められた匕首───『斬竜刀』を。

 

「さぁ、仕上げじゃ! 竜を屠る宝刀よ、わが道を切り裂け!」

 

 禍祓いとは稀有な力である。魔術のみならず権能でさえ僅かでも消し去ってしまえるのだから。そして禍祓いの呪力の籠もった斬竜刀は、その名の通り"呪を破る刃"。

 それが例え『神』さえ封じる代物であったとしても。

 斉天大聖の接近を感知してか、幽世に斉天大聖を封じ込めていた呪縛が動き出す。させるものか。

 大きく口を開け、『斬竜刀』を呑み込んだ。斉天大聖の肉体を中心に禍祓いの力が溢れ……そんで小童の身体を隠れ蓑にして使えば……っと。

 禍祓いと変化による二重策。これにはさしもの呪法でさえ標的を見失い、戸惑ったようにとぐろを巻く。

 

「アッ──ハッハッハハハハハハハッ! 『弼馬温』破れたりぃぃぃ!!!」

 

 地獄まで轟くような哄笑を上げ、喜びをあらわにする大聖。

 重畳、重畳。これ以上なく上手く行った。

 刺客たる小童は取り込み、二郎真君も時を待たずして現れるだろうが、今ではない。それに不完全なあやつでは我の相手にはならぬ。この孫様の敵ではない。

 もはや復活を妨げるものなど皆無であった。

 

 

 結界を破り、現世へ繋がる回廊へ飛び込んだ大聖はそのまま、現世へ躍り出た。

 そのあまりの衝撃に日光東照宮どころか、女峰山全体が鳴動している。火山の噴火さながらに鳴り響く振動音に、人々の安寧は打ち壊された。だが歯牙にかけることなどあり得ない。

 斉天大聖はまるで祝福するかの如く現れた薔薇色の曙光を全身に浴びていた。

 ああ、気分が良い。得も言われぬ快感に、囚われていた事すら悪くなかった……そう思えるほど。

 

 さぁ、名乗りを上げよう。

 地上に災いを振り撒き、思う存分遊び回るために。

 

「我は猿猴神君に非ず。我は天なり。天に斉しき存在なり───」

 

 言葉を結ぶ。その威厳は豪放磊落な勇者のものではなく、封じられた滑稽なサルのものでもなかった。

 

「我、石より産まれし猴王して神通無限、変化は千変にして万化なり。天宮にて丹を偸み、酒を貪り、蟠桃を喰らう。武を弄び、凶を為し、悪を顕す!」

 

 天を指さす、この者こそ──。

 

 

「我が姓は孫、名は悟空。斉天大聖の号を得たり!」

 

 

 斉天大聖、此処にあり。三千世界へ向け、宣告する。 

 三百年の月日を経て『まつろわぬ神』斉天大聖・孫悟空は現世へ現れ出でた───。



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11話

そうして荒木秀信は人を終えた。





 空が白みはじめた霜枯れた朝。万里谷祐理は白い息を吐きながら、日課である境内の掃除に精を出していた。いつもなら朝でも凛として居る彼女の佇まいはどこか虚ろだった。

 少女の胸を占めるのは、一人の少年だけであった。

 件の少年とは三日ほど連絡がとれず、やきもきしていたのだが……昨日になってやっと連絡が付いた。それは良かった。良かったのだが。

 

「はぁ。あの時の荒木さん……なにかとても思い悩んでいらっしゃいました……。それに、あの時からなんだか胸騒ぎが……」

 

 真っ白なため息ひとつ。気になりだすと責任感の強い彼女はとことん気になってしまう。あのあとまた連絡を取ったのだが繋がることはなく、気になって寝不足気味であった。

 変な事を言ってしまわなかっただろうか。傷付けたりしなかった? あのとき何を言ってしまったんだろう。

 自罰的な思考ばかりが空回りする。

 

「なにもなければ良いのですが……」

 

 彼女がこうして心を乱すのも無理はなかった。祐理が持つ感性の鋭さは生来のもので、そして理由があった。

 そもそも万里谷祐理という少女は"普通の人"とは言いがたい。九法塚幹彦らの呪術側に近く、古の神々の血伝えるという『媛巫女』に数えられ敬られる乙女だ。

 本人にあまりその自負はないが、的中が六割に達するほどの強大な霊視能力を備え、ただの勘や嫌な予感でさえ無視できないほど。

 

「やはり何か───」

 

 言葉は、そこまでだった。

 

 カラン。手に持っていたはずの箒が転がり、境内に乾いた音がいやに響いた。

 おかしい。ゆるゆると何故か強ばった視線を向ければ、手が、ひどく震えていた。日本においては比類なき霊視の的中率を誇る彼女だからこそ"観えた"。

 

()()()()()()()()()

 

 まるで、まるで……そう、見上げるほど巨大な巨人が突如として現れ、睨み据えられている感覚。正確には猿。しかしただの猿と思うなかれ。石から生まれ龍を降し最後には仏の記別を得るに到る。

 大鬧天宮を引き起こし天を相手取って暴れ回った、天にすら斉しい大妖怪。それが関東の上空に現れた。

 神職に就き、幼いころからそちら側の教育を施されていた祐理は知っていた。相対したことがなくとも、判った。

 間違いない、これこそ── 

 

「──まつろわぬ神……」

 

 おののいた唇から呟かれた言霊が祐理を蝕んだ。両の手で身体を掻き抱く。明らかに厳冬の寒さだけではない、冷たさ。死が目前に迫ったことによる、寒さ。すべてを掠奪する冬の冷たさではなく、死をもたらす絶対零度の刃で心臓を貫かれた感覚であった。

 はじめてではない。毎日、毎夜、感じていた。二年の月日の間、忘れ去ろうとし、数日前までは封じ込めていた過去(トラウマ)

 けれど無理だった。あの刻み込まれた恐怖は決して記憶を無くそうと消せるものではなかった。"東欧の魔王"に見初められ、とある儀式の生贄に消費された傷は。

 

 しかし、今、眼前に聳える現実もそれと同じ質量をもって祐理に降り掛かった。いや、真っ只中にいるから悪夢すら霞むほど底知れない恐怖を覚えた。

 そして恐怖に震えるなか、なぜかそこに知っている気配を見つけた。見つけて、しまった。

 

「荒木、さん……?」

 

 わななく小さな花弁のような唇からまろびでた言葉は、恩人の名。

 今までの恐怖は退出し、代わりに訪ねて来たのはさながら赤熱する炉に投げ込まれような焦燥。汗腺と涙腺から雫が溢れ、大地に足を着くことが罪深く思えるほどの焦りに祐理は声を張った。

 

「荒木さん……!」

 

 喘ぐように手を伸ばす。けれど、意味などない。

 か細い蜘蛛の糸のような希薄な気配は、大いなる存在の濁流さながらの気配に呑まれ露と消えてしまった。

 鋭すぎる超感覚を持つ彼女は、気付いてしまったのだ。あの恩人が、『神』の手によって消え去ってしまった事を。

 

 

 

「おるわおるわ、うじゃうじゃと!」

 

 明朗闊達な声が響きわたる。声の主は巨躯を誇る精悍な少年。容貌魁偉な風貌に違わず居丈高に雲の上で

 ふんぞり返り、天から地上を見下ろしていた。

 出で立ちはひどく奇妙だ。京劇の演目"美猴王"に出てきそうなほど派手派手しく、けれど京劇では再現し得ないほどの"威"があった。

 人の姿をしていながら人など歯牙にかけない超越者。あれこそ『まつろわぬ神』。ありとあらゆる災厄の具現。

 

「さぁて、今からでも人間どもで遊び回るのも良いが……。やはりこの孫様が暴れまわるには()()粗野な面貌では華がない。はは、我は洒落者ゆえのう」

 

 鼻歌を歌いながら嘯く斉天大聖はどうやら奪った身体がお気に召さなかったらしい。この身体を捨てると言う。用のなくなった秀信の身体から飛び出そうとした。の、だが……。

 

「アダダダ!? な、なんじゃあ!」

 

 全身の皮を剝かれそうになった痛みにたまらず叫んでしまった。

 

「……むぅ、あの小童の身体を奪って現世に飛び出してきたは良いが、思いの外()()()()しまったらしいのう。漆でも使ったようにへばり付いて離れんわ」

 

 正攻法では取れぬか。ふうむ。

 どうやら相性が良すぎたらしい。引き剥がそうとすると痛みが走った。腕を組み左の指でトントンと鳴らしながら、引き剥がす方式を思案する。

 ──ん? あれは? 

 幸いにも……人類側から見れば不運にも……良いものが見付かった。右拳を握りしめ、その場所へとんぼを打った。

 日光から見て南西の方角。だだっ広い人間がうじゃうじゃいる平野を抜けた先に、雪化粧で施された霊峰があるではないか。

 斉天大聖が知る由もないが霊峰の名を()()

 三百年前の大噴火を最後に今の今まで噴火していない……未だにくすぶり続ける日本最大の活火山である。

 

「お誂え向きにあるではないか、いい塩梅の山が! これも日頃の行いが良いからじゃのう、は──はっはっはっ!」

 

 哄笑を轟かせる大聖。固く握りしめていた右拳を空に振りかぶって、すいすいと雲を霊峰のもとへ走らせた。

 

「善哉、善哉。よし、あの霊峰を噴火させればこの殻も燃え尽きる! 『鋼』たる我も鍛え上げ、人間どもも地獄に叩き落とせる! 一石二鳥どころか三鳥じゃのう!」

 

 彼の言った『鋼』とは、その名の通り"鋼の肉体"をもった軍神を指す言葉である。

 神々は不朽不滅にして不老不死だ。

 デメテルやイナンナをはじめとする豊穣を司り、生と死を権能とする神々は大地母神と呼ばれる。そして、それらとは逆の立ち位置に属する神々が居る。さながら陰と陽のごとく。

 それは斉天大聖も含む戦神や軍神だ。戦場での不死を司り、戦いに特化し、鎧さながらの鋼の肉体を宿しているもの達だ。火山と鉱石は『鋼』の一党にとっては産湯のようなものだ。『鋼』を剣と例えればいいか。

 ともかく封印から抜け出したばかりの斉天大聖にとっては最高の滋養となった。

 行動は早かった。迅雷の如くひとっ飛びし、あっという間に富士山の火口まで辿り着いた。眼下には地獄さながらに赤々と蠢動するマグマの湖が広がっていた。

 

「うむ、これほどの量があれば我が力を高めるには十分じゃろうて」

 

 したり顔で笑った。気合を入れると右拳が動き、おっ? と驚きながら包拳礼でもするかのように左の手のひらで受けた。

 うん? 独りでに動く右拳が、腹部を、胸部を、肩を、顔面を、急所を狙って殴りかかってくる。痛くはない。痛くはないが驚いた。

 右手が勝手に動きよる。驚きに目を剥く斉天大聖だったが、すぐに元凶を突き止めた。

 

「あ、あの小童め! まぁだ自我を保っておったのか!? とことん面倒くさい奴じゃのう!」

 

 まつろわぬ斉天大聖を、最後の最後まで阻もうとするのはやはり荒木秀信。秀信は大聖に取り込まれた時点で、意識は大海に落ちた一滴の雨粒のように溶けて消えるはずであった。

 けれど、そうはならなかった。霞んでいく意識を繋ぎ止めるものがあったのだ。

 これからが本当の最終ラウンド。残った気力をかき集め乾坤一擲、最後の抵抗に出た。 

 

 

 

 時は少し戻る。

 七雄のお社で祐里が焦燥感に襲われている真っ最中だった……物陰から"哮天犬"が現れたのは。祐理の驚きは相当であった。ぐちゃぐちゃだった思考が空っぽになるほど。

 けれども、それがよかったのかもしれない。無音の世界で音が良く通るように、祐里のなかにスッと哮天犬の思念が伝わった。荒木秀信に力を貸してくれ、と。

 

「あ、あなたは……いったい……?」

 

 哮天犬は応えず、ひとつの動作を取った。

 朝日に照らされた哮天犬は壮絶な美を誇っていて……人などより遥か高い次元に在った。漆黒の毛皮に覆われ、赤いのたくった呪印と黄金色の瞳だけが黒を遮る色で、神に(したが)うに相応しい神獣で……その哮天犬が頭を下げた。ただの少女である祐理へ。

 その時、祐理は理解した。霊視を介することなく多くを悟ってしまった。そして昨夜、秀信がひどく思い悩んだ問いを投げかけてきた理由も。

 きっと世の裏側の事情に巻き込まれたに違いない。その事件の発端で張本人……というには語弊があうが、哮天犬が目の前にいて頭を下げた。何よりの証拠であった。

 

 自分は、あの時、何と答えた? 

 

 哮天犬が頭を垂れた事実など放り出して思考を占めたのは、あの問答だった。血が凝固し一気に引き抜かれ氷水にすり替えられた思いだった。

 最後まで見届けるなどと。最後の最後まで巻き込まれろなどと。

 荒木秀信という少年はただの人だ。人であることを願っていたし、誇らしく思ってもいた。変わることを嫌がっていた。そんな彼が、人間の命など塵にも等しい神々の闘争に巻き込まれた──それはきっと彼を死地に向かえと囁き使嗾したも同義だ。

 

 俯いて苦渋を浮かべた顔に、湿り気を帯びた鼻先が触れた。哮天犬が眼前に歩み寄って、睥睨していた。

 哮天犬は言葉もなく述べた。行こう、と。

 蜘蛛の糸のようにかぼそく……けれど確かな縁がある。それに縋って行くのだ。存在を捨て去って居なくなった彼の元へと。心の底からこんこんと沁みだす想いに従って。

 祐理が決意を瞳に宿すと、哮天犬が天に向かって咆哮した。祐理の身体がくずおれて地面に伏した。けれど意識は哮天犬の背にあって、肉体と魂魄が別れていた。こうでもしなければ、彼の元へは行けないのだ。

 哮天犬が穹へ駆け出した。うつむいた視線の先にある閉じられた手は、寒さだけではない白さで染まっていた。

 疑問は掃いて捨てるほどにある。哮天犬は……いや、哮天犬の主は身勝手だった。けれど、嘘をついてる気が毛ほども感じなかった。真に彼を想い遣って憂う感情があった。

 だから信じることにした。迷いはなかった。……やることは判ってる。なら、今はそれだけで十分。

 ──顔を上げる。

 もう不運を嘆くか弱い少女はどこにもいない。瞳に決意を宿し、凛と立つ乙女だけがいた。胸の上で手を重ね『神』ではない誰かに祈りを捧げる。"人"である、あの人へ祈りを捧げる。

 

 どうか此処に居てください、と。

 

 媛巫女の地位も、身体も捨て去って、たった一人の少年の居場所になろうと少女は誓った。

 

 

 

 いつの間にか山の麓に立っていた。

 ここは生まれ故郷だ、と周りの景色を見てすぐに気づいた。幼いころから駆け回り、少し見ればわかるほど頭に焼きついた景色だった。

 今、麓から見上げる山もよく知っている山だ。むかし、もう十年も前か。最初なんてとっくに忘れてしまったけど……幼馴染みと五人で飽きるほど遊んだ場所だった。顔ぶれはたまに変わる事があったけど、いつも同じ日常が流れていた。

 

「見ろよ、黒曜石見つけた! こいつで槍作ろうぜ!」

「物騒だなぁ……あ、でもさーさっきいい感じの樫の枝見つけたんだよね」

「少し長いな。それに一本しか作れん」

「なんでみんな作る気満々なの? というかどこで使うの?」

「そんなのチャンバラやるに決まってる!」

 

 みんなで馬鹿をやって、たまに大怪我してしこたま怒られて、でも笑えればそれで良かった。十分だった。それがよかった。それでよかった。

 でも人は変わる。時間という絶対軸のなかで生きる自分たちが生きている限り。人が人である限り。

 不変ではいられない。

 それが嫌だった。

 ひとつ感情が剥がれ落ちれば、もう止まらなかった。

 昔に戻りたかった。

 ずっとずっと、遊んでいたかった。

 勉強なんかほっぽりだして、どうやったら山のてっぺんに一番速く着けるを考えたかった。卒業式が嫌いだった。始業式は参加したことがなかった。部活なんかするよりも、川で駄弁りながら釣りでもしたかった。

 でもずっとはいられない。

 ずっと同じではいられない。

 必ず変化が訪れる。……それがどうしようもなく嫌だった。

 

 だから、背を向けたのだ。

 

 周りを見れば、二人だけになっていた。

 二人きり、山頂の拓けた場所で静かに向かい合っていた。はじめての友達は言葉もなく、しっかりと己を見ていた。

 ああ……これだ。出会ってからいつもそうだった。

 どうしようもなく心が()()()()のだ……あの真っ直ぐな瞳に見られると。

 自分が変わりたくないと踏みとどまった時は、いつもあの瞳が少し先に場所から見据えてきて……そして言葉もなく問いかけてくるのだ。

 

 ───お前はそれでいいのかよ、と。

 

 目、醒ませよ。自分を人にしてくれたあいつは、大人びた雰囲気でニッと微笑んで、ゆっくりと去っていった。

 分かっていた。

 あいつが居たから虚ろだった自分が自分になれた。彼の居る場所が自分の帰る場所だった。()()()と想い続けられる場所だった。

 家出したあいつが帰って来た時、ひどく腹を立ててしまったのは、あいつに置いてけぼりにされた気がして……居場所が無くなって自分も消え去りそうで……それがたまらなく嫌だった。

 でも、もうあいつは変わってしまった。

 

 だったら変わらなければならなかった。過去にしがみついてては、いけなかった。

 

 

 ざぶん、と秀信は唐突に海のなかへ落ちた。一滴の水となって大海とひとつとなった。でも自分が広がり薄まり海となっていく。

 思考が這い出た先は此処だった。

 此処は何もない。きっと自分が帰るべき場所なんだ、秀信は悟った。生まれ出ずるものは無から現れる。無という何もない何でもある場所から、自分を象り生まれて世界を認識する。

 斉天大聖を呑んで呑まれて、秀信は帰ってきた。海のなかは光の届かない無明の世界で、自分が曖昧になった。慣れ親しんだ感覚だった。悩みも苦しみもない……もう自分が変わってしまうのが怖いなどと悩まなくて済む心地の良い場所。

 居なくなってしまおう。

 そうして居なくなろうとして。

 

 ──あなたが。荒木さんが。居らしゃって良かったと、そう思います──

 

 何かに引っかかった。耳元で……耳は無くなったから、きっと魂魄に、誰かの言葉が聞こえた。

 此処は誰も居ない場所。なのになぜ誰かの声が聞こえるのだ? ……だが疑問が口をつくことはなかった。湧き上がったのは喜びだった。

 自分はすんでのところで消失を免れた。あの声が在ったから、此処に居られる。生き残れた。心を満たすのは生への感謝だった。自分が居なくならなかったことへの喜びだった。

 生きていたい。誰かと一緒に居たい。無いはずの手で胸を掻き抱いて、嗚咽を漏らした。

 

 ふと悟った。此処に帰ることは途方もなく変わることだった。存在から無への転化だった。名を遺すことも、存在の証明もできず、ただ消え去る。それがどうしようもなく怖かった。

 一も二もなく叫んだ。

 

「わしは……わしは此処におるぞ!」

 

 その言霊は撃鉄であった。

 濁り切った感情に溢れた広大な澱が一気に反転し、煌く感情が大爆発を起こす。

 ゴウ、ゴウ。その瞬間、血潮のうねりがうるさいほどに耳朶を叩いた。止まっていた歯車が動き出す。

 

 果たして答えはあった。

 それも二度と会うことはないと覚悟していた少女から。

 

『そこにいらっしゃるのですね荒木さん!』

「居る……居るぞ……!』

 

 どうして彼女が聴こえたか、なんてどうでもよかった。秀信は叫んだ。存在を誇示するように。

 

『わしは此処に在るぞ……万里谷!」

『はい……はい!』

 

 深い闇を切り裂いて、哮天犬に乗った祐理が姿を現したのはその瞬間だった。伸ばされた手を掴んで身を任せる。二人が触れ合うと同時、哮天犬は闇へと溶けた。

 無のなかに二人だけが在った。とても奇妙な感覚であった。己と彼女との境界がひどく曖昧になって混じり合っている感覚……それは、ある意味で官能的でもあった。

 感情や思考だって共有できるほど混ざりあって……でも"二人"は"一つ"には決してならなかった。

 距離も視界もすべてが曖昧な、無のなかで、秀信はかけがえのない言葉を交わした。それは他者の受容であり、無の否定。自分と他者を別かつ儀式だった。

 

 秀信は言った。

「祐理。わしは、わしはお前が来てくれてよかった」

 祐理は言った。

「私もです秀信さん。私も、あなたが居てくださって良かった」

 

 彼女の小さな身体を包んだ。壊してしまわないか冷や冷やしながら、こわごわ腕を広げて彼女を掻き抱いた。すると応えるようぬ、いつの日かと同じく抱きすくめられる感触に笑みが零れた。

 祐理のぬくもりを感じ、秀信の存在を刻んだ。二人は限りなく近く、隣り合わせにいながら、決して交じり合うことは無い。近くにいることで求め合い、別たれることで安定した。痛みとは違う、存在の証明だった。

 

「なぜ、ここに」

『私は……あなたに酷いことを言ってしまいましたから』

 

 首を振った。そんなことはないと。

 でも祐理は翻さなかった。

 

『私が"見届ける"などと言わなければ秀信さんは普通で居られたはずです。此処に来なかったはずです』

「いいや、わしは望んできた。帰るべき場所に帰ってきたんじゃ……それはきっとお前の言葉がなくとも変わらん」

『ですが』

「祐理よ。どうか償いだの、罪悪感だの、つまらんもので曇らんでくれ。お前は笑っていちゃくれんか」

『秀信さん……』

 

 少しだけ顔に影を落とした祐理は、すぐに顔を上げると秀信を見据えた。彼女には二つの目的があった。ひとつは秀信と再会すること……もう一つは。

 

「このままじゃあ日本は終わるんじゃな」

 

 躊躇う祐理にかまわず秀信は断じた。斉天大聖が地上に現れたならば……という危機感はまつろわぬ斉天大聖と最初に相対した時から抱いていた。

 祐理は諦めを滲ませた顔で、小さく頷き、そしてつぶやいた。

 

『どうか最期まで一緒に』

 

 決然とし凛とした彼女は途方もなく美しかった。秀信はもう何も言わなかった。十分だった。静かにうなずく。二人は居るべき場所へ戻る覚悟を決めた。

 でも同時にたまらなくなった。できればこんな再会はしたくなかった。争いに巻き込みたくなかったのは秀信も負けず劣らずだった。

 七雄のお社で畳に敷いた座布団の上でお茶でも飲みながら土産話に花を咲かせたかった。日常でこそ出会いたかった。

 でも。

 

 虚空から『斬竜刀』があらわれ、手に取って二人で構える。

 

「「凶を浄め、災を退け、厄を祓う───是すなわち幸いなる者の霊験なり。かくあれかし!」」

 

 一気に振り下ろす。

 

『斬竜刀』から禍祓いの呪力があふれ秀信を封じていた呪縛に穴を空けた。身体に負荷が掛かる感覚が襲った。重力に似ていて……でも違う。斉天大聖の呪縛から解き放たれた精神が、肉体のある場所へ戻されているのだ。

 

 祐理と繋がっていた手が解けていくのを感じる。遠くなっていく祐理は静かに微笑んでいた。離れたくなかった。

 ああ、この子がたまらなく好きだ。

 独りぼっちになるとほどけて消えてしまう死地だとしても変わらず凛とした彼女に、あたたかな粉雪のような想いを押し止めることが出来そうになかった。

 

「どこまでもお傍にいます秀信さん」

 

 彼女の言葉が聴こえて、秀信は自分の新しい場所を見つけた。どんなに変わっても傍に居ると、居てよかったと言ってくれる誰かがいる。肯定し続けてくれる誰かがいる。もう迷う必要はなかった。

 帰ろう。帰るんだ。一緒に日常へ必ず。

 

 そうして荒木秀信は──人を終えた。

 

 

 意識が切り替わった。

 間髪入れず、身体の支配権を取り戻そうとするが、考えを変えた。全部を取り戻すのは不可能だと気付いたからだ。大海と一滴の雫。それくらいには斉天大聖と自分に差があった。

 じゃが人体を壊すには指さえ動けば十分じゃ! 

 一滴の雫は大海になり、大海は自分になった。決して交わらない少女がいる限り、自分は居て、ならば……秀信はまたたく間に右手の支配を取り戻した。

 殴り掛かる。何度も何度も。快音が響いて秀信の放った右拳は左手に防がれてしまった。さすがは音に聞こえし斉天大聖。これしきの事、切り抜けて当然。

 

「小童ァ、まだ我に抗うか! これで何度目じゃ!」

『ガッハハハ! おぬしの呪縛が簡単に破れるもんじゃったからのう……体力が有り余っとるんじゃ!』

 

 けれどここで止まるものか。拳を壊しかねないほど固く硬く堅く、巌さながらに拳を握って左手を押し込めていく。

 

『遊んでくれやぁ……!』

「こんのガキャア……!」

 

 憤怒に染めた大聖が左手を解いて、拳を振った。それは一本の鉄槌にも似て、秀信の宿る右手半分を抉り取った。

 血が噴き出す。痛みが襲う。声なき声を叫ぶ。

 だけど秀信は消えなかった。それどころか存在をさらに確かなものへと変えた。

 痛みは存在の証だ。

 痛みは復讐と怒りを。復讐は他者をより強く認識し、怒りは錨となる

 自己を世に調和させる。

 人に与えられた痛みによって荒木秀信は人になれた。そして人を終えた秀信は新しい痛みを得て、生まれ変わった。

 

「わしは、お前の敵じゃ斉天大聖」

 

 己は拳を向けた。敵も拳を向けた。

 拳を握るには敵意がなければならない。敵意のためには痛みが。痛みのためには存在が。拳を握る動作は、秀信の存在証明の果てにある。荒木秀信は神から生まれ"神の敵対者"であることを選び取った。

 

「認めてやろう小童! 貴様はそこいらの三流の『神』なんぞよりよっぽど手強い敵であると!」

『そいつは重畳ォ! んじゃそんまま素直に死んどけやァ!』

 

 拳を虚空に向けあった奇妙な鬩ぎ合いだった。支配権の奪い合いなのだ。呑むか、呑まれるか。どちらも引かない、一進一退の鬩ぎ合いが続く。本来ならばまつろわぬ神と人間の勝負など目に見えている。だが斉天大聖がその神威で押し潰そうと、決して荒木秀信という存在は消えなかった。

 理解が出来なかった。神の意に反して存在し続ける人間など理解の外だった。しかし秀信も退けないのなら斉天大聖もまた退けなかった。この抵抗こそ夢見た解放という悲願への最後の障害なのだ。

 これさえ凌げばあとはどうとでもなる。

 目の前の嫌にしぶとい人間も殺せる。幽世に引き込もっている古老とかいう奴らも手は出せなくなる。二郎真君も万全ではなく容易く打払える。

 

『斉天大聖……。そうか、お前は……』

 

 斉天大聖の情念が流れ出てくる。秀信は般若の形相を浮かべる斉天大聖を見て、ひとつのことを悟った。

 斉天大聖もまた生きようとしていた。神という……《不死の領域》から訪れたものが、必死に。滑稽さすら取り繕うことなく。

 だから悟ったのだ。

 生き抜きたいと願う自分と何ら変わらないのだと。神だろうと痛みが平気な訳じゃない、居なくなりたい訳じゃない。だったらこの因縁は誰にも渡してはいけない。二郎真君にだって。古老にだって。幹彦にだって。

 自分の手で引導を渡さなければ。

 

 だって斉天大聖は自分で、自分も斉天大聖なのだから。

 

『共にゆこう。斉天大聖』

 

 斉天大聖が驚愕に染まった。今まで喰らい合っていたものが、心の隅から隅まで受け入れて、笑い掛けてきたのだから。

 

「や、やめよ!」

 

 ──お前はわしじゃ。わしはお前じゃ。

 

 ──不本意じゃが、お前はわしの身体に入り込んで、身体を奪い取り、我らはひとつになった。

 

 ──わしとお前。大海と雫ほど隔てられようと一つになったならば斉天大聖……お前もわしじゃ。

 

 声なき声が斉天大聖の頭蓋を揺るがした。自慢の鉄頭などくぐり抜けて、意思が沁みこんでくる。言葉はいらない。言葉は他者へ伝えるものだから。

 

 ──黄泉路への旅は一人では寂しかろう……おいが同道してやる。

 

「我もろとも死ぬ気か小童! この孫様とおぬしの命が等しいとでも言うのか!?」

 

 ──応。そして、お前とわし。化け物ふたつの命を掛け合わせようとも、たった一人の命にも代えられぬ。ならば何故人々に災いを齎せようか。

 

「ぐ、ぉぉおおお! 我に、我に、入ってくるなぁああっ!」

 

 斉天大聖と交わり、苦悶を耳にしながら、秀信の脳裏に浮かぶのはひとりの少女だった。野山に咲き誇る桜を思わせる微笑みを浮かべる少女。彼女の手のぬくもりを、肌に感じる。いつまでも此処に居たいと願うほどの心地良さで……ふと斉天大聖の動きが止まった。

 荒木秀信と斉天大聖は全てを共有している。視界も思考も、そして首元に触れる誰かが抱きしめてくれる暖かさも。

 斉天大聖は親を知らない。石から生まれ火の産湯に育まれた『鋼』の武神だ。最初から王で、最後まで強者だった。

 だから未知だった。誰かが抱きしめてくれるぬくもりなど。

 いいものだろう、誰かに認められるのは。秀信の声を聴いて……それは途方もない隙。秀信は容易く身体を掌握した。拳を握る。振り下ろされた拳は秀信に胸部に突き刺り、皮を、血を、肉を、心臓を食い破った。

 

 静寂。

 けふ、力なく肺からせり上がる血と空気を吐き出す。痛みは感じなかった。ただ全能感にも等しい達成感が胸中を占めていた。

 

「ふふふ……そうら、見ろ……。我らの命とは、こんなにも、軽い、もの、だろ、う……?」

 

 ぐらり。くずおれた身体は雲から滑りおち、龍の咢さながらの火口へ落ちていった。

 

「はは」

 

 未練も執着も、すべて忘れて笑ってしまった。

 夏の日の空みたいだった。山向こうの入道雲が穹の蒼さを際立たせていたあの日のような空がいっぱいに広がっていて。

 自分が生まれた日の穹で死ぬのも悪くなかのう、と呵呵大笑しながら落ちていった。

 

 ……ふんっ、敗けたわ。

 意識の途切れる瞬間、呆れ切った声が聞こえた気がした。

 

 

 

 

 

 

『かぁー! 敗けた敗けた! まったく、この孫様に三度ならず四度も歯向かうとは! まっことしつこい人間じゃった!』

 

「───うふふふ。わたくしも驚いていますわ。天すら揺るがした斉天大聖さまを討ち果たす人間がいるなんて思いもしませんでしたもの。斉天大聖さまとこの子の戦い、しっかり見届けさせて頂きましたわ!」

 

『来おったなパンドラ! 愚かな女よ! クク、はじめるのか……あの忌々しい神殺し生誕の秘儀を?』

 

「ええ、ええ! もちろんでございますわ! この子はその条件を満たしましたわ! 神を弑逆するという条件を! 

『鋼』にも抗しうる武の天稟と、神に向かっていく無鉄砲さを以って! まさにわたくしの義息にふさわしい子ですわ!」

 

『やんぬるかな! 討たれてしまってはもう遅いんじゃがのう……。たしかにこやつ自身は性根のまっすぐな奴じゃ、だが神殺しが現れれば地上は麻のごとく乱れ、現世と幽冥の均衡は失われる! それが気がかりではある』

 

「それは杞憂と言うものだ斉天大聖」

 

『ほう! これは驚いた、二郎殿ではないか! 我の推測では顕現はまだ先じゃと踏んで居ったが……?』

 

「ああ、彼が心配でね。飛んで参ったのだが……フフ、やはり私の愛し子だった少年だ。必要はなかったようだな」

 

『なるほどのう……では、先刻の杞憂とは?』

 

「なに。そのものが神殺しとなれば私が必ずや討つ。ゆえにそのような心配は無用なのだ」

 

「あら、では二郎真君様。あなたも私の子供たちと覇を競い合ってきた『鋼』の系譜に習い、後顧の憂いを断つために此処でこの子を討たれますか?」

 

「ははは、無粋なことを言わないで欲しいものだな。そのような事はしない。彼とは正々堂々と戦い、そして打ち砕く。そう言う約束なのだから」

 

「あらあら。二郎真君様と決闘の約束をするなんて大変な子みたいね。……ふふ、痛い? 苦しい? でも我慢しなさい、その痛みはあなたを最強の高みへ導く代償なのだから! 

 ───では皆様、祝福と憎悪をこの子に与えて頂戴! 羅刹の王となる運命を背負った子に、聖なる言霊を捧げて頂戴!」

 

『ふん。荒木秀信よ、よっく聞け。おぬしはこの天にも斉しき孫様を討ち果たした初めて弑逆した神殺しとなる! そしておぬしはこの孫様の───天すら騒がした美猴王の権能を得る! 我の権能はとびっきりじゃからのう……おぬしに扱えるとは到底思えぬ! ふたたび相見えた時には奪い返してやる故、それまで震えて待っておるが良い!』

 

「我が友、秀信。まさか本当に神を弑逆してしまうとは……因果とは奇っ怪なものだな。しかし君との逆縁、必ず果たすことになるだろう。それまで精々武を磨いておくのだな!」

 

 

 

 

 

 

「うぅむ、死に損なったか……」

 

 無骨な岩肌の感触を受けながら、目を覚ました秀信はボソリと零した。

 頬を掻きながら、あたりを見渡す。どうやらまだ富士山の山頂付近にいるらしい。見惚れそうな銀世界と、空気の清涼さにそう当たりを付けた。

 

 勝ったのか、あの斉天大聖に。

 確証はなかったがなんとなく分かった。己が生きている……それが何よりの証拠だろう。

 あの『神』に……いや、斉天大聖に勝ったなどと未だ信じられない。けれど確信はあった。

 身体を見れば、砕いた手も大穴が空けた左胸も綺麗に治っている。まるで全てが夢だったと言わんばかりに。

 けれどそんな事は有り得なかった。脳裏に焼き付いた記憶の数々が現実にあったことなのだと囁いている。

 

 奇妙な出来事に巻き込まれたもんだ。胸中で独り言ちる。

 幹彦さんたちの思いは遂げられただろうか。最期までともに戦った少女は。疑問と悩みは間欠泉のように吹き出てきて、だけどすぐに考えるのはやめた。

 こんな所でぼぅっとしているな。悩む時間があるなら動け。強敵は……楊二郎はすぐにやってくる。

 剣を研げ。拳を揮え。足踏みなどするな。

 動いてから考えろ。動きながら考えろ。……それが正解なのだから。

 

 すっくと立ち上がり、そして───声を掛けられたのは山を下りようとした時だった。

 

「「「おや」」」

 

 その声は、大きかった。

 声量の話ではない。

 まるで雷鳴が大気を震わせどこまでも伝わっていくように、声は高いところから来て落ちてきた。

 

「「「こんな場所に人が……いや、神殺しが訪れるとは。なんという奇縁であるか」」」

 

 何故、今まで気付かなかったのか? まるで妖怪の大入道さながらの巨人が空を持ち上げながら、秀信を見下ろし語り掛けているではないか! 

 

「こりゃあたまげた……『まつろわぬ神』っちゅーやつは、ホントに何でもありじゃのう……」

 

 あんぐり口を開けた秀信は、そう呟く他なかった。

 

「「「見た所、なかなかの剛力の持ち主と見た。どうだろう我輩の代わりにこの空を持ち上げてはくれないか───?」」」

「なんじゃそりゃあ! ───御免被るのうッ!」

 

『まつろわぬ神』アトラス。

 荒木秀信が"神殺し"として初めて出会った『まつろわぬ神』であった。

 

 

 かくして"人間"であった荒木秀信の奇妙な旅は幕を閉じる。これより始まるは『猿魔王』と名を残した、一人の魔王の歴史である。



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