双葉杏をメルカルで落札した結果 (栗ノ原草介@杏P)
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 第1話 『新春の甘姫』

 

 

 

 大人気フリマアプリ――メルカル。

 誰でも手軽に出品できるフリーマーケットアプリで、老若男女、幅広い層に利用されている。

 しかし利用者が増えるにつれて、善良とは言い難い出品者が目立つようになる。

 ゲーム機の外箱だけ(・・)を売りつけようとしてみたり、『この写真が品物です』という思わせぶりなコメントを添えて、商品の写っている〝写真〟を出品したり。

 

「なんっじゃ、こらぁぁああああ――――ッ!」

 

 それは、大晦日のことだった。

 隙間風吹きすさぶボロアパートに、男の声が響き渡る。

 

 彼はアフロで、スーツ姿で、酔っていた。

 

 職場にて行われた忘年会でしこたま飲まされて、ついさっき帰ってきたばっかりだ。どうやって帰って来たのか分からないぐらいに酔っている。ぼんやりとした頭に除夜の鐘の音が聞こえて、「もう年末か……」と呟きながら座椅子に腰かけた。

 コタツのスイッチを入れて、石油ストーブを点火する。その独特の匂いに冬の雰囲気を感じながらスマホを手に取って、メルカルのサイトにアクセス。何か掘り出し物はないかと思って検索し、それ(・・)を発見してしまう。

 

 

・双葉杏。美品。未使用。即決。

 

 出品者からのコメント。

 働きたくないので、養ってくれる人募集。

 

 

 双葉杏が、写真付きで出品されていた。

 

「杏ちゃんなわけ、ないだろうがぁぁああ――ッ!」

 

 彼はスマホの画面を見つめて、怒りに肩を震わせた。

 酔った頭を回転させて、これはどういう出品なのかと考える。

 まさか本当に、杏が売り出されているわけではないだろう。

 と、すると……。

 

 ――こういう手口の、デリヘル嬢とか?

 

 あくまでも可能性の話だが。

 落札すると双葉杏を自称する嬢がやってきて、やめろと言ってもサービスしてくる。そして法外な料金を請求されてしまう。

 そういう悪質な出品とか、メルカルならあるかもしれない。ちょっと賢い風俗嬢が、とんちみたいなアイデアを思いついたのだ。

 

「……入札ゼロ。まあ、そうだろうな」

 

 実に怪しい出品だ。誰も手を出していない。

 双葉杏を落札できるわけがない。

 

「…………」

 

 しかし。

 頭が冷えてくるにつれ、好奇心がじわじわと込み上げてきてしまう。

 

 一体、何を落札できるんだ?

 

 予想どおりにデリヘル嬢が来るのか?

 それとも、〝双葉杏〟という名前の、アイドルとは無縁の商品が届くとか?

 

「くそぅ……。気になってきた!」

 

 こんな、どう見ても何らかの詐欺としか思えない出品に関わりたくはない。

 しかし、杏の名前を目にした時点で、それを無視することなんて……。

 

「だって俺は、杏ちゃんの――」

 

 震える指で〝入札〟をタップした彼は、松平(まつだいら)凡人(ぼんど)。二十五歳。

 かつて一世をふうびしたアイドルユニット――リトルポップスの支持者で、双葉杏の熱狂的なファンだった。遠方(海外)で行われるライブであろうと追いかけて、彼女を応援するために積み上げたCDの枚数は誰よりも多い。

 

 彼はTO――トップ・オタ。

 

 昔はもちろん。

 杏の名前を聞かなくなった、今においても。

 

 ――本当にデリヘル嬢が来たら、びしっと説教してやろう! だけど、杏ちゃんに似てたら、その時は、まぁ……。

 

 ふへへと、だらしなく笑ってしまう凡人。

 外から聞こえてくる百八の鐘にも負けず、煩悩全開なのだった。

 

 

 

 * * * 

 

 

 

 翌日。

 凡人(ぼんど)は『元旦だよ、全員集合!』というメールに呼ばれて出社する。いつものように事務所のドアを開けると、むわっと酒の匂いがした。関係者たちによる盛大な新年会が開催されていて、嫌というほど飲まされた。

 

「おのれぇ……。早苗ぇぇ……」

 

 新年会を抜け出した凡人は、飲ませてきた犯人の名前を呟きながら、負傷兵のような足取りで自宅のアパートへ向かっていた。

 恨むべきは大酒飲みのお姉さん。楽しそうに笑いながら、積極的すぎるスキンシップを取ってきて。

 

「そんなんされたら……」

 

 あの笑顔とスキンシップは反則だ。

 あの人は飲み会のたびにあの調子だから困るのだ。

 隣に座って、酒をついで、ベタベタベタベタ。

 

 ――そんなんされたら、惚れてまうやろぉぉおお――ッ!

 

 と、叫びたくなった回数は、一回や二回じゃない。

 もっとも向こうは、からかってるだけだろうから、ガチ恋はしないほうがいい。きっと本気で引かれてしまう。それに会社でのお互いの立場を考えれば、そういうことはできないし……。

 

「きっとカレシとか、いるんだろうなぁ」

 

 空に向かって呟き、芽生えそうになる恋心を抑え込む。

 真冬の冷たい風を頬に感じて、酔いが醒めてきた。だいぶ足取りがまともになってくる。初詣帰りと思われる人たちが山のほうからおりてきて、すれ違いざまに凡人のアフロ頭をチラチラと見てくる。

 太陽がそのまま地面に落ちてきそうな夕焼け空だった。

 澄んだ空気に夕日の赤が鮮烈な輝きを放ち、凡人の自宅のアパートも赤々と照らされている。

 そこはいまどき珍しい木造アパートだ。

 ブロック塀に囲まれていて、手入れのされていない敷地に枯れた雑草が横倒しになっている。入り口のそばに集合ポストがあって、その脇に階段がある。それが二階の廊下に繋がっている。その廊下には落下防止の鉄格子があるだけで、目隠しになるようなものは何もない。

 なので凡人が住んでいる205号室は外から丸見えで、だからこそ彼は入り口で足を止めていた。スーツのポケットに入っているスマホの存在を強く意識して、通報したほうがいいのだろうかと目を凝らしながら考える。

 

 ――俺の部屋の前に、誰かいるんですが……。

 

 ふわふわもこもこした感じのコートを着た子供(?)が三角座りになっていた。

 そういう知り合いに心当たりはない。

 強いていうなら、親戚の子供だろうかと思うが、その線は薄い。

 凡人は大阪出身で、単身上京している。正月休みを利用して親戚の子供が「来ちゃった」する可能性はゼロではない。しかし限りなくゼロに近い。

 熱狂的なドルオタとしてなりふり構わなかった凡人は、親戚から〝あまり関わっちゃいけないお兄さん〟として警戒されている。お年玉をたかろうとすらしないのだ。念のために用意したポチ袋が、何年も使われずに実家の引き出しに眠っているのが、地味に辛い。

 

 ――まあ、俺の親戚づきあいの話は置いといて。

 

 とりあえず凡事は、謎の子供とコミュニケーションを取ってみようと決意する。

 これが筋骨隆々の大男とかだったら通報待ったなしだけど、相手は子供。いくら不審者だからといって、いきなり通報するのはさすがに大人気ない。

 

 凡人は音を立てないように階段を上がり、正体不明の子供に近づいた。

 

「あ、あの……。そこ、俺の部屋なんですが……」

 

 声をかけても、返事がない。

 

「おーい。ちょっと、ねえってば」

 

 そーっと、つついてみる。

 すると、もこもこのコートがビクッと反応。

 引け腰だった凡人は本気でびびって、臆病な猫のように素早く飛び退いた。

 錆びた鉄の廊下がバアン! と乾いた音を出す。

 その音が子供の耳に届いて、「ん。ふぁぁ……」と声がした。

 どうやらその子は寝ていたようで、眠そうに目をこすりながら立ち上がる。

 コートにうずもれて隠れていた顔があらわになった。吹き抜ける冷たい風がツインテールの金髪をふわふわとなびかせる。すごく背が低くて、立ち上がってもつむじが見えた。こちらを見上げる瞳は大きく、寒さのせいか頬が赤い。

 

 まるで、双葉杏みたいだった。

 でも、そんなわけがない。

 

 憧れのアイドルが、都内から私鉄で一時間以上かかるボロアパートにいるわけがない。山の稜線を間近に見ることのできる田舎に、どうして杏がやって来るというのか?

 

「まつだいら、ぼんど? なんでアフロなの?」

 

 その舌ったらずな声がまた、狂おしいぐらいに双葉杏だった。

 もしかすると、これは夢なのかもしれないと凡人は思う。

 

「……やけに意識がはっきりしてる夢だな。ハハっ」

 

 凡人がアフロ頭を掻きながら笑うと、少女は形の整った眉をハの字に曲げた。 

 

「なに言ってんの? 現実だけど」

「いやいやまさか、あり得ないでしょ? 杏ちゃんそっくりな女の子が俺の部屋に来るとか、そんな夢みたいな展開――」

 

「めるかる」

 

 その一言に、凡人は目を見開いた。

 覚えている。

 つい昨日の話だ。

 除夜の鐘を聞きながら、杏を名乗る風俗嬢に憤慨し、説教してやろうと(場合によっては全力でお世話になろうと)思って落札をしたのだ。

 

「じゃあ、君が――デリヘル嬢?」

 

 だとしたら大当たりにもほどがある。

 だってこの子は、双葉杏にそっくりだ。髪型から顔立ちから体型まで、完全に双葉杏を再現している。年齢が大丈夫なのかが心配だけど……全力でお世話になりたい!

 

 フンスと鼻息を荒くする凡人であったが、少女は嫌そうな顔で「なに言ってんの?」と口にする。

 

「え、だって、メルカルってアレでしょ? 双葉杏になりすました、別人じゃ……」

 

 凡人はあくまでも疑っていた。

 目の前の少女は、双葉杏の名を騙る別人であるということを前提に話をしている。

 

「はぁ……。しょうがないな」

 

 面倒くさそうな吐息をついた少女が、表情をあらためる。

 ニコッと笑ったその顔に、見覚えがあった。

 見覚えがあるどころの話ではない。

 その笑顔が見たい一心で、一体どれほどの時間とお金と情熱を費やしてきたのか。

 

「……杏、ちゃん?」

 

 凡人はごくっと唾をのみ、震える声でそう言った。

 田舎のボロアパートの、肌寒い夕暮れの中で。

 

 その少女――双葉杏は、未だアイドルの輝きを宿した笑みをきらめかせていた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 メルカルで双葉杏を落札したら、本当に杏がやってきた。

 何がどうなっているのか、まるで分からない。急展開すぎて理解が追いつかない。いっそ夢であってほしい。

 いや……。

 ある意味では〝夢〟そのものなんだけど。

 

「ねー。コタツ入れていい?」

「あっ、うん。ご、ご自由に!」

 

 ライブ会場でしか見たことのない杏が、いつも凡人が座っている座椅子に座って、「やっぱり冬はコタツだよねぇー」とか言いながらスイッチを入れている。ドッキリだったら、そろそろ種明かしが欲しい。

 

「ねー」

「はっ、はい! ……なんでしょう?」

「なんでそんな、すみっこにいるの?」

 

 凡人は今、玄関の脇に立っている。

 

「だって杏ちゃんに、その……これ以上近づくのは、ファンとして抵抗があるというか。も、もちろん、すごく嬉しいんだけど! ……自重というか、遠慮というか」

「ここはぼんどの家なんだから、遠慮の必要ないよね? むしろ杏が遠慮しろって感じだし」

「あっ、ハハっ。まあ、そうだね。一応、俺の家だね、うん。……じゃあ、お言葉に甘えて」

 

 凡人は引きつった笑みを浮かべて、すり足でそーっとコタツのほうへ歩き出す。三メートルの距離を移動するのに五分もかけて、コタツの近くのフローリングに正座した。

 

「ねえ」

「は、はい! ……なんでしょう?」

 

 杏の大きな瞳の中に、凡人のアフロ頭が映り込んでいる。彼女をこんなに近くで見るのは、実に久しぶりだった。

 最後の接触イベントは、確か二年前……。

 もうポスターや、過去のMVでしか会えないと思ってた。

 

「ぼんどは、さ……」

 

 杏が何か言おうとして、口ごもる。まるで子供のそれみたいな右手でツインテールの片方をいじり、はじらう乙女みたいに視線を伏せながら、

 

「そ、そんなに……杏のことが、好きなの?」

「…………」

 

 そのとき凡人は、実に悩ましげな顔になる。

 

 ――この問いかけに、果たしてどういう意図があるのか?

 

 もしかすると流行りの〝ウザイ系ヒロイン〟に挑戦しようとしてるのだろうか? だとしたらナイスだと思う。ウザカワな杏ちゃんに煽られるとか最高だ。是非ともその路線で売り出してほしい。むしろ何故やらないのか? 担当プロデューサーを問い詰めてやりたい。

 

 全力で思考している凡人は、傍から見ると否定的に口を閉ざしたように見えてしまう。

 そんな凡人を見つめる杏が、悲しそうな顔でため息をついた。

 

「めるかるで落札するぐらいだから、杏のこと、好きなのかと思ってた……。まぁ、さいきん活動してないし、杏のことなんて――」

 

 ――ダン!

 凡人は正座をしていた状態から勢いよく立ち上がり、オーケストラの指揮者のように腕を振る。

 

「俺、杏ちゃんのこと、好きすぎてヤバいから! そもそもメルカルやってたの、杏ちゃんのグッズを落札するためで! ほら、この押し入れとか、杏ちゃんのグッズでパンパン! もー、何にも収納できないの! ヤバいでしょ! そ、そのぐらい、好きなんだ!」

 

 テンション高くまくし立てる自分の声を聞きながら、凡人はふと、昔のことを思い出す。

 たとえば握手会とかで、凡人はこんな感じだった。

 憧れのアイドルを目の前にして、緊張してテンパってしまって。それでもとにかく好きの気持ちを伝えるために、支離滅裂な言葉に情熱を乗せていた。

 

「ふぅーん」

 

 そして杏は、決まっていつも、理解できないものを見るかのような半眼になって。

 それでも最後に、ニコッと笑ってこう言った。

 

「まあ、ありがと。悪い気は……しないかな」

 

「ぐはぁっ!」

 

 凡人は思わずふらつき、その場に片膝をついた。

 あまりに久しぶりすぎる杏の塩甘対応(塩対応の後に一握りの甘い対応がくる)に、緊張と遠慮と理性が消し飛んだ。

 そう……。

 凡人はショックのあまり、理性を失ってしまったのだ!

 

「杏ちゃん、やっぱり可愛いなぁ……。はぁ……尊い。存在が尊い!」

 

 ゆらっと立ち上がって「ふひひ」と笑う凡人に、杏はぞっとして笑みを引っ込めた。

 

「……あの、思わせぶりなこと言って、ごめん。謝るから、元のビクビクしてたぼんどに、戻ってほしいな?」

 

 口元を引きつらせながら説得してくる杏に、凡人は「それは無理だよ、杏ちゃん」と口にしながら、一歩近づいた。

 

「だって、これが俺の本当の姿だし……。デビュー当時から推してます! 大好きですっ!」

 

 好きな人に好きと言える喜びを噛みしめながら、凡人は泣きそうな顔になる。

 そして本当に感極まってしまって、目のふちから涙をこぼす。

 それを見た杏は、身の危険を感じたのか、小さなひたいに冷や汗をかいて、

 

「あ、うん。それは、ありがと……。でも、いったん落ち着こ? さっきから目つきが恐いし、スリ足で近づいてくるのも地味に恐怖って言うか、そろそろ防犯ブザーの出番っていうか!」

 

 珍しく大きな声を出す杏。

 しかし凡人は、キノコを愛でる星輝子のように「ふひひ」と微笑みながら、

 

「大丈夫だよ、杏ちゃん。イエス・アイドル、ノー・タッチ。それはファンの鉄則だ。見るだけ……。見るだけだからぁぁああ――っ!」

 

「だから近いって! もーっ!」

 

 杏が着ているコートの中には、防犯ブザーが装着されていた。杏がヒモを引っぱって、キュンキュンキュンと警報音が鳴り響く。

 そのうるさい音が、凡人の情熱に冷水(ひやみず)をかけた。

 凡人は杏に向けて進んでいた足の動きを止めて、パチパチと瞬きを繰り返す。

 

「……お、俺は、一体なにを」

「やっと正気に戻ったか」

 

 はあー、と安堵の吐息をつく杏。

 そこに含まれる呆れの気持ちに、やばいことをやらかしてしまった時の悪寒が背中を駆け抜けて、

 

 ――あ、杏ちゃんに、嫌われた!

 

 凡人は慌てて杏から離れ、フローリングにひたいをつけて土下座する。

 

「すいませんっ、した! つい、調子にのってしまいまっ、した!」

 

 すると杏は、またしても「はぁ……」とため息をついて、

 

「……別に、そこまでしなくていいよ。もう暴走しないでね?」

 

 思ったよりも柔らかい言葉をかけられて、凡人はほっとする。

 せっかく憧れのアイドルと再会できたのに、うっかり暴走して嫌われるとか……。

 そんな結末は嫌だ。

 

「ところで、晩御飯は? 杏、お腹が空いちゃった」

 

 杏が小さなお腹をさすり、おねだりの上目遣いを向けてくる。

 

「あっ、はい! ただいま!」

 

 凡人は土下座の体勢から素早く立ち上がり、冷蔵庫に駆け寄ってドアへ手を伸ばす。

 そしてその中身を目にして、険しい顔になる。

 

 缶ビールと、食べかけのツナ缶と、及川牛乳。

 

 絵に書いたような一人暮らしの男の冷蔵庫だった。

 憧れのアイドルに出せるものなんて……。

 

「なんかあった?」

 

 凡人は慌てて冷蔵庫のドアを閉め、スーツのポケットからスマホを取り出した。

 

「いや、その……せっかくだから、出前でも頼もうかなって」

「あっ、それ、いいね! 杏、ピザがいーなぁ」

 

 杏の好意的なリアクションにほっとして、凡人はスーツのポケットからスマホを取り出した。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 凡人(ぼんど)がスマホで注文してから、三十分でピザがきた。

 

「杏、そんなに食べれないから、ほとんど食べていいからね」

 

 凡人はフローリングの上に正座になって、杏がピザを食べる様子を真剣に観察している。アイドルの食事風景なんて、滅多に見られるものじゃない。

 杏はツインテールがテーブルに垂れないように首を伸ばして、ピザをかじる。口が小さいから一度にたくさん食べられない。何度も同じ動作を繰り返して、一切れのピザを食べ終えるたびに疲れたような吐息をついた。

 

 ――ずっと見てられるな、杏ちゃんのご飯。

 

 凡人が嬉しそうにニコニコしていると、それに気づいた杏がピザを食べるのを中断した。凡人とテーブルのピザを交互に見て、

 

「……ぼんどは食べないの?」

「あ、うん。今はちょっと、一杯で……」

「もしかして、もう晩御飯食べてた?」

「いや、晩御飯はまだだけど、杏ちゃんの食事を見てると、それだけで胸が一杯に……」

 

「…………」

 

 大きな目にまぶたを半分おろして不愉快な気持ちを訴えてくる杏。

 しかし凡人は、その表情も可愛いと思って(えつ)()る。彼女が何をしようと〝カワイイ〟に変換されてしまうフィルター。それを持っている凡人は、ある意味で最強の厄介勢だった。

 どんなに尖った視線を向けても態度をあらためようとしない凡人に呆れたのか、杏はいつものため息をついて再びピザを食べ始める。

 そしてしばらく、彼女がもむもむとピザを噛む音だけが聞こえて、

 

「ふぅ……。杏、もう食べれないから、あとはぼんど、食べちゃって」

「あ、うん。そういうことなら」

 

 凡人は立ち上がりピザの箱を見つめて、思わず息をのむ。

 

「杏ちゃん。これ……」

 

 指を向けた先にあるのは、生々しくかじった跡の残っている、食べかけのピザ。

 

「あー、ごめん。途中だけど、もう無理。代わりに食べて」

「いや! 無理! だってそれ、か、か、間接ピザになっちゃうって!」

 

「そんなに気にしなくていいよ。――っていうか、間接ピザってなに?」

 

 杏は呆れ顔で眉をひそめていたが、凡人はいたって真面目にピザと向き合って、

 

「じゃあ、捨てる――のは杏ちゃんに失礼だから、保存しよう……」

「捨ててよ! 保存してどうすんの!?」

 

 思わずテーブルに両手をついて、身を乗り出してくる杏。

 凡人は構わず、真剣な面持ちで、

 

「ラップに包んで、冷凍庫に保管して、後世に残す」

「歴史的資料みたいに扱わないでよ! 私の食べかけを!」

 

 凡人は杏の残したピザを丁寧にラップで包み、冷凍庫に保管しながら思うのだ。

 

 ――いやでも実際、歴史的資料といっても過言ではないと思う。杏ちゃんの食べかけピザとか、メルカルに出品したら億の値が付くぞ。少なくとも俺は言い値で買うだろう。

 

 神妙な顔で頷きながら冷凍庫のドアを閉めた凡人に、杏は呆れ果てたかのような吐息をついて、キョロキョロと部屋を見渡した。

 

「ねー? ここって、お風呂ある?」

「そりゃあ、あるけど」

「じゃあ、ちょっと借りていい?」

「だ、ダメに決まってるでしょう!」

 

 反射的に大声を出してしまう凡人。

 杏は不満げに首を傾げて、

 

「……ダメなの? なんで?」

「だってそりゃあ、まずいよ。杏ちゃんに入浴なんてされたら、俺……どうしたらいいか」

 

 想像してはいけないと思いながらも、想像してしまう。

 いやだって、全裸だぜ。自分がいつも使ってる風呂で、アイドルが全裸で、入浴するとか! さすがにそれは、まずいだろ……。残り湯とか、残り香とか、そういうものと、どう向き合っていけばいいんだ? 排水溝に毛とか落ちてたら、どうすればいい? どこかに通報するべきか? いやでも、どこに!?

 

 思考を混乱させて押し黙る凡人を尻目に、座椅子から尻を浮かせた杏が、もこもこしているコートに手をかけた。

 

「お風呂、どこ?」

「いやっ、だから、まずいって」

「お風呂に入らないほうがまずいよ。くさくなる」

 

 凡人は思わず、強い口調で、

 

「杏ちゃんは、くさくなんてなりません!」

 

「いや、なるから。杏も人間だし」

 

 杏はあくまでも淡々とした態度で、ヘアゴムを外してツインテールをほどく。気だるげな足取りで風呂場のドアへ近づいて、凡人のほうを振り返り、

 

「ここ、だよね? 使い方教えて」

「あ、うん。えっと……」

 

 凡人が簡単にレクチャーすると、杏はすぐに理解した。

 

 ――っていうか杏ちゃん、恥ずかしくないのか? あと、警戒心とかは? そりゃあ、俺は〝手を出す〟度胸なんてないけど、初対面の男だぞ。普通はもっと警戒するだろ? そもそも部屋に上がったりしないよな。

 

 あらためて置かれた状況に疑問を(いだ)き、そして凡人はその可能性に思い至る。

 

 ――もしかして杏ちゃん、俺のことを覚えてるんじゃ……?

 

 凡人はトップ・オタだった。

 接触イベントには必ず顔を出したし、当時は『また来たの? 暇だねぇ』とか言ってくれた。顔を覚えてくれていた。

 でも、それは何年も前の話だ。

 杏からすれば、大勢のファンのうちの一人にすぎない。

 

「じゃあ、ぼんど。お風呂借りるね。覗いてもいいけど、有料だから」

「の、覗かないって!」

 

 にししと笑った杏が風呂場に入り、ドアも閉めずに脱ぎだした。

 凡人は慌てて外へ出る。

 バタンと後ろ手に玄関のドアを閉め、すっかり冷えているドアに背中を預けて空を見る。

 

 星の綺麗な夜だった。

 

 冷たい夜風が吹き抜けて、凡人は思わずスーツの前をかき(いだ)く。

 そしてふと、鼓膜に残る舌ったらずな声を思い出し、

 

 ――そういえば杏ちゃん。俺の名前を……。

 

 風呂場に繋がる換気扇から真っ白な湯気が立ち(のぼ)る。それと一緒に、ぼんやりとくぐもった鼻歌が聞こえた。

 彼女の歌を聞くのは久しぶりだった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 風呂場からシャワーの音がしなくなる。

 万が一にもラッキースケベなんて起こしてはいけない。そう思った凡人は、さらに10分ほど待ってから部屋に戻った。

 コタツの近くにドライヤーが放置され、座椅子に杏が座ってる。椅子に対して体が小さすぎるので、座ってる――というよりも、収まっているという表現のほうがふさわしい。

 

「杏ちゃん?」

「ふすぅ……。ふすぅ……」

 

 杏はうつむいて寝息を立てている。

 凡人は足音を立てないようにそーっと近づき、その寝顔を見つめて考える。

 

 記憶の中にある顔つきと、少し違う。

 

 三年前、リトルポップスの一員としてデビューした彼女は、当時十五歳。

 あの時はもう少し、あどけない顔をしていた。斜に構えている〝キャラ〟をしていたが、それでも子供っぽい純真さがあって、大人と子供の中間みたいな雰囲気が魅力的だった。

 しかし今は、達観した大人のような空気を漂わせている。

 十八歳のそれよりも、もっと上。知らなくてもいいことを知ってしまった、擦れた大人の諦観が滲んでいるような。

 

 ――この数年で、一体何があったのか?

 

 杏の寝顔を見つめたところで、答えは分からない。

 リトルポップスが解散し、徐々にメディアから遠ざかり、最近はほとんど姿を見せていない。

 そんな彼女が、どうしてここにいるのか?

 

 ――346プロで何かあった。

 

 そう考えるのが妥当だろう。

 だって彼女は、346プロの寮に住んでいるはずなのだ。リトルポップス時代にラジオで言っていた。出身は北海道。寮に入っているのだと。

 それが何で、こんな家出まがいのことをしたのか?

 346プロの人間はこのことを知っているのか?

 

 ――連絡したほうが、いいよな……。

 

 凡人のスマホには、346プロの番号が登録されている。

 杏が来ていることを告げれば、すぐにでも彼女のプロデューサーが迎えにくるだろう。

 そうするべきだ。それが大人の義務なのだ。

 

 ――でも。

 

 せめて理由を聞いてからにしたい。

 だって凡人は、杏のトップ・オタなのだ。

 昔はもちろん、彼女の名前を聞かなくなった、今この瞬間においても。

 

 ――もしも、杏ちゃんが俺のことを覚えていて、何らかの助けを求めているなら。

 

 力になりたい。

 手を差し伸べたい。

 ただのファンではない〝今の自分〟であれば、彼女の役に立てるかもしれない。

 

「杏ちゃん。こたつで寝ると風邪ひくぞ。ほら、布団で寝ないと」

「んむぅ……」

 

 凡人は寝ぼけている杏の手を引いて、布団に寝かせた。

 そして自分は押し入れから取り出した寝袋に入って、フローリングの上で寝た。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 翌朝。

 凡人(ぼんど)はスマホの着信音で起こされた。

 体中が痛かった。

 フローリングで寝たことを思い出しながら、窓から差し込む朝日に手をかざす。杏はまだ寝ているようで、膨らんでいる布団は微動だにしない。

 スマホからの着信音は鳴りやまず、画面を見ると〝社長〟と表示されている。

 

「はい、松平です」

『おう、オレだ。ちょっとミーティングをしたい。来てくれ』

「……了解です」

 

 急な出社命令に疲労感を覚えつつ、凡人はのそのそと寝袋から這って出た。頭の奥がガンガンする。まさしく典型的な二日酔いの症状だ。ワイシャツのままで寝てしまったので、シャツがしわだらけになっていた。面倒なのでこのまま出社してしまおうと思う。

 洗面所へ行って歯を磨き、鏡に映るアフロヘアを見て苦笑した。アフロの形が楕円形になっている。アフロにもちゃんと寝ぐせが付くのだ。

 

「どっかいくの?」

「うわっ!」

 

 いきなり背中に声をかけられて、凡人はその場で飛び上がる。

 振り向くと、眠そうな杏が立っていた。

 髪の毛が四方八方に跳ねている。実に豪快な寝ぐせだ。

 それを見た凡人は、可愛い猫動画を見た人のような顔になり、

 

「寝ぐせがすごい杏ちゃんも、可愛いなぁ……。尊い……。尊いよぉッ!」

「もー、そういうのいいから」杏は煙たそうな顔になり、

「――で、どっかいくの?」

「あぁ。ちょっと仕事が」

「お正月なのに仕事? もしかしてぼんどって、ブラック企業の人?」

 

 心底嫌そうな顔をする杏に、凡人は腕を組みながら目を閉じて、

 

「まぁ、ブラックと言えばそうかも。仕事自体は楽しいんだけどな」

「うわぁ、それ、ブラックで働く人の決まり文句だよ。……一体、なんの仕事なの?」

「えっと、その……」

 

 凡人は少しだけ返事を迷う。

 適当に誤魔化そうかと思ったが、自分のことを見上げてくる杏に嘘をつくのは嫌だった。

 

「実は、俺。プロデューサーなんだ」

「……それって、もしかして」

 

 不安げな声を漏らした杏に、凡人は努めて明るい笑みを向けながら、

 

「俺はアイドル事務所――893プロで、アイドルのプロデューサーをやっている」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第2話 『893プロ』

 

 

 

 893プロは、東京の裏路地に建っているビルの一室に事務所を持っている。

 そのビルは造りが古く、コンクリートの壁に鉄扉(てつとびら)が横並びになっている。それはまさしく〝昭和の雑居ビル〟といった風貌(ふうぼう)で、あまり明るい印象を持てない。

 

 ――いかにも恐い人の事務所、って感じなんだよな。

 

 外見からしてやくざ映画に出てきそうな事務所で、しかも名前が893プロ。

 真っ当なアイドル事務所なんですと言ったところで、誰にも信じてもらえない。

 

「おはようございまーす」

 

 体全体で押すようにして、重い鉄扉を開ける。

 ぎぎっと蝶番(ちょうつがい)の軋む音がして、(ひら)いたドアの向こうにあるのは、いたって普通のオフィスだ。

 床は緑色のタイルで、デスクとパソコンと応接用のソファーがある。

 それ以外に目に付くものは特にない。

 物騒な日本刀も無ければ、机の上に足を投げ出して紫煙(しえん)を吐いている組員の姿も見当たらない。

 それどころか、凡人(ぼんど)に気づいてキャハっと笑ってくれたのは、

 

「あっ、ぼんどさん。おはようごさいますっ!」

「菜々さん、おはようございます。昨日は菜々さんも結構飲んだのに、元気そうっすね……」

 

 凡人が二日酔いのアフロ頭を掻くと、彼女は力強く両手のこぶしを握ってみせて、

 

「菜々にはウサミンパワーと、ウコンの力がありますからねっ! キャハ!」

「……それ、ほとんどウコンの力ですよね」

 

 思わず苦笑する凡人。

 すると菜々は、怒って頬を膨らませ、

 

「ちょっとぼんどさん。何ですかその半笑いは! 悪い子はお尻ぺんぺんですよ!」

「菜々さんのお尻ぺんぺんとか、むしろご褒美なんだよなぁ……」

「んなっ!?」

 

 凡人の紳士的発言に頬を赤くした彼女は、安部菜々――17歳(**歳)。

 歌って踊れてアフレコができる、声優アイドルを目指して活動している。しかし残念ながら、売れていない。生活費を捻出するためにバイトをする必要があり、それならウチで働かないかと社長が誘って、893プロの事務員をやっている。

 アイドル業界の通例に従って緑色の事務員服を着ているが、その耳には大きなウサミミが揺れている。これだけは譲れないアイデンティティであるらしい。

 

「俺、最近飲みすぎると次の日が辛くて……。歳ってやつですかね」

 

 凡人が肩をすくめながら弱音を吐くと、菜々はしみじみと頷いて、

 

「あぁー、それはありますねぇ。肝機能が低下――――――してない菜々には、よく分かりませんがっ!」

 

 ギリギリのところで踏みとどまった彼女に、凡人は笑みを浮かべて親指を立てる。

 

「いいね、菜々さん。覆面レスラーは控室でも覆面を脱いではいけない。常に十七歳であることを意識していこう!」

「そ、そうですね……。ぼんどさんが不意打ちで菜々を試してくるから、慣れてきちゃいました」

 

 肩をすくめて赤い髪を揺らす菜々へ、凡人はテレビカメラを向けるようなジェスチャーを見せて、

 

「あとは、ハイビジョンカメラの接写を恐がらないようになれれば、いいんだけど……」

「うーん。スキンケアは万全なんですけど、若い子と比べられちゃうと厳しいな――――――って、年上の方に思わせちゃって申し訳ない!」

「危ないところから立て直したね。ナイスだよ、菜々さん!」

 

 凡人が菜々と笑い合って、ほっこりしていると、

 

「おい、ぼんど。菜々ちゃんといちゃついてないで、こっち来いや」

 

 事務所の奥から社長の声がした。

 ドスのきいた関西弁だ。まさに893プロの社長にふさわしい凶悪な響き。

 

「じゃあ、菜々さん、また」

「あっ、ちょっと待ってください」

 

 立ち去ろうとした凡人に、菜々が近づいた。

 彼女は小柄で、背が低い。

 真正面に立たれると、改めて男女の体格差を実感してしまう。

 

 ――やっぱり可愛い女性(ひと)なんだよな、菜々さん……。

 

 凡人がじっと見つめる先で、菜々もまた凡人のことを見上げて、両手をさし出して。

 一歩、また一歩と近づいて来て、こちらの吐息がかかってしまうぐらいの距離になり――。

 

「え、ちょっ、菜々ひゃん……!?」

 

 動揺して情けない声を出してしまう凡人。

 菜々は構わずに、さらに距離を詰めてくる。

 それに伴って、心臓の音が、どんどん大きくなっていき――。

 

 ――これは絶対の秘密なのだが、凡人は素人童貞なのだった! プロデューサーという立場上、女の子に対して強気な態度を見せているけど、それは虚勢。何かの拍子に接近されると、情けなく緊張してしまうのだ!

 

「……はい、これでよし。自慢のアフロが乱れてましたよ」

 

 凡人の髪を直した菜々が、ふわっと優しく微笑んだ。

 彼女は笑うと、目じりが垂れる。

 その笑い方が、凡人はすごく好きだった。

 好きになりそうだった。

 この事務所に来てからそれなりに長い付き合いで、気の置けないやり取りができる彼女のことを、そういう目で見てしまう瞬間は少なくないのだが。

 

 ――だ、ダメだ。俺には杏ちゃんがいる!

 

 凡人はアフロ頭を振って、杏に対する気持ちを強く意識する。

 

「……ありがとう、菜々さん」

「いえいえ」

 

 凡人は菜々に対する気持ちをぐっとこらえて抑え込み、怖い社長の元へ行く。

 

「ぼんどぉ。菜々ちゃんのことが好きなんは分かるが、今はそれどころやないんやで」

 

 事務所の一番奥のデスク。

 そこにはいかにも〝重役の椅子〟といった感じのソファーがあって、強面(こわもて)のおじさんがどっかりと腰かけている。髪の毛はパンチパーマで、眉毛は太く、目は一重。ヤクザ映画に出てくる〝親分〟の貫録がある。

 

「何か、あったんですか? もしかして、村上組の連中が……?」

「おう。実は、巴のお嬢に目え付けられちまって、鉄砲玉が――って」

 

 バチンと机を叩いた社長が、豪快に破顔して、

 

「それじゃ、ほんまもんの極道やないかーい! ウチは健全経営のアイドル事務所――やっちゅうねん!」

 

 ――実のところ893プロは、ヤクザとはまったく関係がなかった。

 

 そもそも、893と書いて、ハクサンと読む。

 社長の名前が白山(はくさん)で、アイドル業界の習慣に従って数字に置き換えた結果、893プロになってしまった。

 当の本人はお笑いとアイドルをこよなく愛するおっさんで、893プロという会社を立ち上げた直後、「ウチの会社、えらい印象悪いなぁ!」と気付いて焦ったんだとか。

 

「――で、冗談はこのぐらいにして。ちょ、ぼんど、耳かせや」

 

 社長はチラチラと菜々のほうへ視線を向けている。

 どうやら、彼女に聞かれたくない話があるらしい……。

 

「実はなぁ、ちょっと経営がまずいんや。一発ドカンと儲けんと、ウチの事務所、アカンかもしれん」

「……アカンって、どういうことですか?」

「せやから、そのまんまの意味や。今のままやと、三カ月後に手形が不渡りを起こす。オレ、一回不渡りやってるさかい、後があらへん。倒産してまう」

「と、倒産!」

「ばかっ、声がでかい」

 

 ――ガシャン。

 

 陶器の割れる音がした。

 振り返ると、目を見開いている菜々がいて、床に割れた湯呑が……。

 

「あっ、すいませっ。すぐに、片づけっ」

 

 菜々はしゃがみ込んで割れた湯呑を拾おうとする。

 

「菜々さん!」

 

 凡人は大きな声を上げ、菜々がびくっと反応した隙に駆け寄って手を掴む。

 

「素手でこんなもん触ったら怪我しちゃうでしょ。菜々さんはアイドルなんだから、そういうの、気をつけて。片付けは俺がやりますから」

 

 菜々の手首から、震えが伝わってきた。

 その動揺の正体を、凡人は知っている。

 

「……あの。893プロ、なくなっちゃうんですか?」

 

 彼女が本当に十七歳であるならば、ここまで動揺しないだろう。

 本当の菜々を知っているから、凡人は何も言えずに無言で手を放す。

 凡人に代わって、社長が重苦しいため息をついて、

 

「このままやと、余命三カ月っちゅうとこやろな」

 

 その言葉は、会社に対するものであり、同時に菜々へ向けた宣告であった。

 彼女の年齢を考えると、今から他所の事務所で再デビューをするのは……。

 

「……そう、ですか。いや、薄々、そんな気はしてたんです。ほら、菜々、事務員やってますから、収支とか、分かっちゃって。だから、もしかすると、まずいんじゃないかなーって」

 

 彼女はいつものように笑おうとする。

 しかし、その目尻は垂れていない。

 

 ――もし、俺が……。

 

 仮にものすごいプロデューサーで、アイドルを〝売る〟ことができれば、きっと啖呵を切っていた。

 俺が何とかしてやる。だからそんな顔するなって、男らしく言っていた。

 しかし凡人は黙って床を見つめて、手のひらに爪を食い込ませていた。

 

「……まあ、未来のことはどうなるか分からん。それがこの業界や。最後までウサミンパワー全開で、がんばろな?」

 

 社長に慰められて、彼女は頷いた。

 その顔に張り付いている笑みは、〝いい笑顔〟とは程遠い代物で。

 そんな顔をさせてしまっていることに、凡人は担当プロデューサーとして、いたたまれない気持ちになった。

 

「それと、ぼんど。もう一つ、言いづらいことがあるんや」

「……まだ、何かあるんですか?」

 

 身構える凡人に、社長は気まずげな顔で、

 

「年末のオーディションで採用した子。あれ、なしにしてくれ」

 

 凡人は驚き、社長の顔を凝視しながら歩み寄る。

 

「何、言ってんすか。そんなの、ダメでしょ……。だって、可愛そうじゃないですか!」

「そりゃあそうやが、仕方ないやろ? 状況が状況や。沈みかかってる船に船員増やしてどうすんねん。そっちのほうが可哀想や」

「…………ッ!」

 

 凡人は瞬間的に荒ぶった感情が落ち着くまで社長を睨みつけ、肩から力を抜いて社長から距離を取る。

 ゆっくりと深呼吸をして、目を閉じて。

 あの日のことを、思い出す。

 

 あの子にオーディションの合格を伝えた日。

 

 彼女は嬉しそうだった。

 こんな弱小事務所のオーディションなのに、すっごく喜んでくれて……。

 

「それじゃ、連絡よろしくな」

「……はい」

 

 凡人は両手を握りしめ、早足で事務所の外へ出た。

 ひとけのない階段の踊り場でスマホを取り出して。

 

 ――ここでためらったら、電話できなくなっちまう。

 

 そう思った凡人は、ぐっと唇を噛んで〝通話〟をタップする。

 

「もしもし、893プロの松平と申します。電話口にいらっしゃいますのは、諸星きらりさんでしょうか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第3話 『グレイトプレゼント』

 

 

 

 原宿の竹下通りに面しているファーストフード店。

 初詣の帰りなのか、着物を着ている女子たちが楽しそうにしている。

 そこで凡人(ぼんど)は、スーツ姿でテーブル席に座っていた。向かいの席には誰もいない。

 待ち合わせの時間よりも早く来て、彼女へかける言葉を考えていた。

 

 ――こういうのって、初めてなんだよなぁ……。

 

 一度オーディション合格を告げたアイドルに、やっぱり不採用ですごめんなさいと言って、頭を下げる。

 そんな気まずい報告、したことがない。っていうかそもそも、オーディションに立ち会った経験が少ない。

 346プロのような大手ならまだしも、凡人の所属する893プロはオーディションをやること自体があまりない。

 

 ――どうやって切り出せばいいんだろ……。

 

 凡人はホットココアを飲んで、おもむろにガラスの外へ目をやった。

 窓際の席に座っているので、通りを歩く人の様子がよく見える。

 そのほとんどは普通の人だが、奇抜なファッションで個性を主張している人もいる。そんな人が通りかかるたびに、凡人はじっと見てしまう。自分が攻めたオシャレをすることもなければ、その度胸もないので、気になってしまうのだ。

 

 ――あれはどういうファッションなんだ? あの髪型は見たことがないな。

 

 そんなことを思いながら道行く人を眺めていると、そのうちの一人が大きく手を振った。

 

 ――きらりちゃん。

 

 個性的な人たちが自慢のファッションを闘わせている原宿にあって、それでも彼女の個性は際立っていた。

 オレンジ色の髪の毛をツインテールに結って、そこに色とりどりの髪留めが散りばめられている。まるでクリスマスツリーのように楽しくデコレーションされた髪の下には、少女のように無邪気な笑顔。パステルカラーの洋服で、楽しげな雰囲気を振り撒いている。

 

「Pちゃん! おっつおっつ」

 

 店に入ってきたきらりから言われて、凡人は戸惑った。

 

「P――ちゃん?」

「そう! きらりのプロデューサーちゃんだから、Pちゃんだよぉ! だからPちゃんも、きらりのこと、きらりって、呼んでね?」

「お、おう。わかった」

 

 テーブルを挟んで向かいの席に座ったきらりへ、凡人は曖昧な笑みを向けていた。

 アイドルのほうから距離を詰めようとしてくれている。しかしそれに応えてはいけないという状況が辛い。

 

「それで、その……。諸星さんの、オーディションのことなんだけど――」

「Pちゃん!」

 

 急に言葉を遮られて、凡人はビクッとしてしまう。

 

「諸星さん――じゃなくて、きらりって。ね?」

「あぁ、そうだったな……。じゃあ、き、きらり?」

「うんっ!」

 

 嬉しそうに歯を見せて笑う彼女を、凡人は直視することができない。

 

「あのな、きらり。オーディションの件なんだけど」

「……うにゅ?」

「えっと、その。あー……」

 

 上手く言葉が出てこない。

 女の子に別れ話を切り出す感じでいけばいいと自分に言い聞かせ、そもそも女の子と付き合ったことがないという悲しい事実を思い出して、途方に暮れてしまう。

 

「……あのね、Pちゃん」

 

 凡人が言葉を迷っていると、きらりは恥ずかしそうにもじもじしながら、上目遣いを向けてきた。

 

「きらりね、他の人よりちょーっとおっきいから、アイドルとか無理かなーって、思ってたんだぁ。はぴはぴできらきらなアイドルになりたかったんだけど、オーディションとか、受からなくて……」

「きらり。他のプロダクションのオーディション、受けたことあるのか?」

「えっと、そのぉ……」

 

 きらりは少しだけ言いよどみ、申し訳なさそうに苦笑する。

 

「実は、たくさん受けてたの。Pちゃんが嫌な気持ちになっちゃうかなーって思って、内緒にしてたんだけど……346プロとか765プロとか、283プロや961プロ。オーディション、たくさん受けてたんだぁ」

「そう、なのか……」

 

 凡人はきらりから視線を外して、ココアを飲んだ。

 紙コップを持つ手が震えてしまう。大好きなココアの味が分からない。

 

「あっ、あのね、違うの。893プロを最後に受けたのは、たまたまオーディションの日が最後だったから。他と比べてとか、そういうわけじゃ……」

 

 必死に弁解してきたきらりに、「たくさんオーディションを受けるのは普通のことだから、気にしなくていいよ」と言って、凡人は微笑んだ。

 

 彼が動揺している理由は、それじゃない。

 

 893プロのオーディションを後回しにされたことに関しては何も思わない。大手事務所から順番に受けていくのは当然だ。自分がアイドル候補生であっても、そうすると思う。

 問題は、それでも彼女がいま、こうして自分の前にいることだ。

 

 ――つまりきらりは、他のプロダクションのオーディションに挑戦したのに、どこにも受からなかったということになる。

 

 その告白に、彼は指を震わせていた。

 彼女が落選した理由が、本気で分からない。

 考えられるとすれば、体格――だろうか?

 確かにきらりは身長が高い。アイドルと聞いてイメージする女の子のそれを遥かに越えている。

 

 ――でも、それがいい。それが彼女の〝個性(ぶき)〟なのに!

 

 わかりやすいダイヤの原石だと思う。

 ちゃんと磨いてあげればきっと、この子はどこまでも輝く。

 それこそ、アイドルマスターを狙えるぐらいの、すごいアイドルになるかもしれない。

 凡人はそう確信しているが、他のプロデューサーの意見は違っているらしい……。

 

「あのな、きらり」

 

 じゃあもし、ここできらりを突き放したら。

 彼女は、アイドルになれないのか?

 こんなにも魅力的で、唯一無二の個性があって、アイドルになりたがっているのに。

 

「893プロは、君のことを――」

「う、うん……」

 

 凡人の声音から不吉なものを察したのか、きらりが不安げな顔になる。

 そんな彼女に――。

 

 凡人は力強く笑って、手を差し出した。

 

「君のことを、歓迎する。これから一緒に、頑張ろう!」

 

 すごくまずいことをしていると、自分の中の冷静な部分が告げている。

 潰れることがほとんど確定している事務所に、新人アイドルを入れてどうする? 社長になんて言うつもりだ?

 マイナスな言葉が次から次へと、アフロ頭の中に沸いてくるのだが。

 

「うんっ! きらり、みんなをはぴはぴにできるアイドル目指して、がんばるにぃ!」

 

 強く手を握ってきたきらりに、凡人は笑みを重ねてしまう。

 これ以上はダメだと思いながらも、未来の話をしてしまう。

 

「しばらくは待機してもらうことになる。こちらの準備が整い次第、連絡する。最初は劇場でお披露目ライブをすることになるな」

「劇場?」

「ウチ、劇場を借りてライブをやってるんだ。まあ、劇場っていってもあんまり広くはないんだけど。ライブハウスみたいなものをイメージしてもらえればいい」

 

 きらりは「ふみゅー」と呟いて、眉間にシワをつくった。

 

「……そこできらり、ライブすゆの? お客さんの前で?」

「あぁ。そこでアイドルとして、デビューする」

「アイドル……。デビュー……」

 

 凡人を見つめる瞳の中に、無数の星が煌めいた。

 

「それ、すっごいね! 想像したら、テンションが、ぶわぁーって!」

「そ、そうだろ? すごい、よな……」

 

 凡人はハンカチを取り出して、ひたいの汗をぬぐった。

 話を進めれば進めるほどに、本当のことを伝えた時の、ショックが大きくなってしまう。

 それは分かって、いるのだが……。

 

「あっ、そうだ! Pちゃん、ちょっと時間あるぅ?」

「え、あぁ。大丈夫だけど」

「じゃあじゃあ、ちょーっときらりに付き合ってもらおうかなぁ。Pちゃんを連れていきたいお店が、あるんだぁ」

「……分かった。じゃあ、一緒に行こう」

「うんっ♪」

 

 立ち上がったきらりに続いて、凡人も立ち上がる。

 とりあえず彼女と一緒に行動し、タイミングを見計らって本当のことを話そうと思っていた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 きらりが凡人(ぼんど)を連れていったのは、原宿の路地裏にある雑貨屋だった。

 

「こんな店、よく知ってるな……。原宿はよく来るの?」

 

 凡人が聞くと、きらりは得意気に頷く。

 

「原宿は、きらりのお庭みたいなものなんだぁ。はぴはぴが一杯あって、大好きなんだよぉ」

 

 きらりは店員に「おっつおっつ」と慣れた感じで挨拶をして、雑貨屋へ足を踏み入れた。

 そこはすごくオシャレなリサイクルショップ――といった感じの店で、小狭い店内に陳列されている商品はまさに〝雑貨〟であった。

 古着やアクセサリーに始まり、古ぼけた看板から外国の信号機まで置いてある。〝ジャンル〟という概念を超越した商品が並んでいて、だからこそ次に何が出てくるのか見当がつかなくて、いつのまにか好奇心を刺激されてわくわくしてしまう。

 

「あ、あった! これぇっ!」

 

 店の奥でごそごそやっていたきらりが、何かを持ってきた。

 それは星の形のヘアピンで、見覚えがあるような……。

 

「Pちゃん。ちょっとそのまま、動かないでねぇ」

 

 きらりがそのヘアピンを、凡人のアフロ頭に付けた。

 

「はいっ。かんせーい!」

 

 満足げに笑ったきらりが、商品として置いてある鏡を手にとった。

 それをこちらへ向けてくるのかと思いきや、凡人の隣にやってきて、ツーショットの自撮りをするときみたいな体勢になり。

 

 ――ちょ、これ、近い……っ!

 

 髪がふれ合ってしまうほどの距離に、きらりが立っている。

 なんでもなさそうな態度を保つ凡人だが、心臓は休まずに強い脈を打ち、鏡に映る自分の顔が赤くなっていて恥ずかしい……。

 

「ほら。きらりとお揃いだよぉ」

 

 ニコッと笑ったきらりに言われて、気が付いた。

 きらりが付けてくれた星形のヘアピンは、きらりが付けているのと同じものだった。

 

「これはね、きらりからPチャンへ、プレゼントっ!」

「プレ、ゼント……?」

 

 凡人は呟き、自分の頭に付いているヘアピンを触る。

 きらりは鏡を棚に戻して、凡人のほうへチラチラと視線を送り、もじもじと体をくねらせて、

 

「えっとぉ、その……。Pちゃんは、きらりのこと、アイドルにしてくれるって、ゆってくれて。それできらり、すーっごくはぴはぴになったから、その……」

 

 ――ばしぃっ!

 

 凡人の肩に衝撃が走る。

 

「あらためてゆうと、恥っずかすぃー!」

 

 はしゃぐように照れたきらりが、店員さんのほうへ駆けていく。

 凡人は照れ隠しの一撃を受けた肩をさすって、歩くたびに跳ねる彼女のツインテールを眺めて、口元を緩ませる。

 

 ――きらりちゃん、いい子だな。

 

 明るくて、元気で、優しくて。

 アイドルとして成功する要素を持っていると思う。現に今、自分はきらりを推したいと思っている。プロデューサーとしてはもちろん、それ以上に〝アイドルオタク〟としての感性が、彼女の魅力に反応している。

 

 ――やっぱり、デビューさせてあげたい。

 

 凡人が腰に手を当ててうーんと唸ると、「シュポ」っとラインメッセージの着信音が聞こえた。

 スーツのポケットからスマホを取り出して画面を見ると――

 

社長:ちゃんと不採用って伝えたか?

 

 凡人はしばらく、そのまま画面を見つめる。

 スマホを強く握りしめ、背中にじっとりと嫌な汗をかく。

 

「Pちゃん? どうしたのぉ? お仕事?」

 

 凡人にプレゼントしたヘアピンの会計を済ませたきらりが、不思議そうな顔で首を傾げる。

 

「えっと、その……」

 

 そのとき。

 着信音が鳴り響いた。

 スマホの画面を見れば、〝社長 着信中〟の文字が目に入る。

 凡人はごくっと唾をのみ、スマホの電源を落とした。

 

「だ、大丈夫。何でもない。何も、心配する必要はないからっ」

 

 不安げな顔をしているきらりにそう言って、凡人はスマホをポケットに押し込んだのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第4話 『あんず色の青春』

 

 

 

 原宿できらりと別れた凡人(ぼんど)は、そのまま自宅へと向かった。

 スマホの電源は落としたままだ。

 今は社長と話せない。きらりの件をどうするべきなのか整理がついていない。

 

 ――明日、事務所で直接話をしよう。

 

 そう思って、電車に揺られること一時間。

 車窓から見えている景色が山っぽくなってきたところで、凡人は電車からおりた。

 彼が住んでいるのは893プロの社宅で、家賃は月に一万円。すごく安くて助かるのだが、都内からだいぶ距離がある。

 駅のホームを見渡せば、登山の格好をしている人がいる。

 

 ――そうだ。杏ちゃんに何か買っていこう。

 

 心の中でつぶやいて、凡人は無意識に微笑んでしまう。登山リュックを背負うおじさんが怪訝な顔で見ていたが、それには気付かず、跳ねるような足取りで駅前のスーパーへと向かったのだった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「ただいまっ!」

 

 自宅のアパートへ帰りついた凡人(ぼんど)が元気な声を出す。その両手にスーパーの買い物袋を持っている。

 

「……ん、おかえりぃ」

 

 眠そうな声で応えた杏は、座椅子に座ってこたつに足を入れている。

 

「くはぁっ!」

 

 凡人はビニール袋を手放し、崩れ落ちるように両膝をついた。

 

「えっ、ちょっ、どうしたの!?」

「いや、その……。〝おかえり〟って言ってくれる杏ちゃんが、尊くてっ!」

 

「…………」

 

 嫌そうなジト目を向けられてしまう凡人だが、それもまた彼の琴線を刺激する。嫌がっている顔も可愛いという奇跡を目の当りにして、涙腺がほどけそうだった。

 

「ところで、ぼんどって、あんまりスマホとか使わない人?」

「……え?」

「ライン、見てないでしょ?」

「ライン……?」

「そー。送ったのに既読つかないんだもん」

 

 ――杏ちゃんからのライン!? 俺のスマホにッ!?

 

 凡人は慌ててスマホを取り出して電源を入れた。

 社長からの着信が十件あって、ラインメッセージもたくさん。

 見ているだけで胃が痛くなる通知の中に、杏からのラインメッセージがあった。

 

杏ちゃん:今日はお寿司が食べたいな。

 

「ごめんっ、杏ちゃんッ!!!!!!!!!!!」

 

 凡人はその場で土下座する。

 

「今日、理由(わけ)あってスマホの電源を切ってて――。そのせいでラインに気付くことができなかったんだ。杏ちゃんのメッセージに即レスできないなんて……俺はファン失格だ!」

「いや、そんなに謝らないでよ。ラインの内容、ただの杏のわがままだし」

「杏ちゃんのわがままに振り回されるとか、最高のご褒美イベントが発生していたのに、俺ってやつは……」

「わがままならいくらでも――って。ちょっ……、泣いて……!?」

 

 凡人は込み上げる悔し涙をぬぐって、スマホを操作する。

 

「お寿司だよね、杏ちゃん。いま、特上のやつを頼むから!」

「――でも、その袋。何か買ってきたんじゃないの?」

 

 そう言って凡人の持ってきたビニール袋へ目を向ける杏。

 

「あぁ。これは……シャンプーとか、歯ブラシとか。杏ちゃんに必要な日用品を買ってきた。あと、なんかキャンペーン中みたいで、飴が」

 

 シャンプーは店で一番高いやつを買った。キューティクルがすごいことになるらしい。

 歯ブラシと一緒に歯磨き粉も買った。芸能人は歯が命――という宣伝で有名なやつ。

 それにくわえて、勇気を出して買ったものが、あと二つ。

 

「じゃー、とりあえず飴をもらおうかな。お腹すいちゃった」

「お昼、食べなかったの?」

 

 お腹がすいたら昨日のピザを食べるように言ってある。レンジの使い方もちゃんと教えた。

 

「いやー、なんかめんどくて。ずっとこたつでだらだらしてた」

 

 座椅子から立ち上がった杏が、だるそうな足取りで近づいてきて、袋から飴を取り出した。それはピンポン玉ぐらいの大きな飴で、彼女の頬がぽこっと膨らんだ。

 

「……杏ちゃん。飴がすっごい似合うねぇっ!」

「ほれ、ほめこほばじゃないよね?」(それ、褒め言葉じゃないよね?)

「はぁ……、尊えなぁ……」

「ねへ。ひほのはなひきひてる?」(ねえ、人の話聞いてる?)

 

 飴で頬を膨らませている杏を眺めて(えつ)()り、凡人はスマホで寿司を注文しようとする。

 

「あっ、まっへ!」(あっ、待って!)

「ん? 寿司、だよね?」

「ほうらへど、わらひをぬいてほひいんら」

「たどたどしい言葉で何かを訴えかけてくる杏ちゃん。可愛すぎかよぉ……!」

「むぅー……」

 

 杏はもどかしげに眉根を寄せて、自分のスマホを取り出した。その画面に指を走らせた。

 シュポっと、凡人のスマホからラインの着信音がする。

 

杏ちゃん:わさび抜き

 

「くはぁ!」

 

 凡人は衝撃を受けてその場に倒れこむ。

 

「子供舌な杏ちゃん、可愛いよぉ……。お寿司はワサビ抜きとか、お子さま可愛い! はぁ……、尊てぇ……。尊てぇなぁ!」

「…………」

 

 飴で頬を膨らませている杏にぽこっと叩かれて、それでも凡人は満面の笑みを絶やさなかったのだった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 出前のお寿司がやって来た。

 杏は偏食をするようで、あなごと大トロとたまごだけを食べて満腹になった。

 今日は食べかけを残すようなことはしなかったので、聖遺物(せいいぶつ)は発生しなかった。

 

 ――そしてやってくるお風呂タイム。

 

「杏ちゃん。さっそく買ってきたシャンプーを使ってほしい。キューティクルがすごいことになるんだって。さらにキュートになっちゃうね、杏ちゃんっ!」

「ん……」

 

 食べて眠いのか、杏の反応は鈍い。

 

「それから、これも――」

 

 凡人(ぼんど)はおずおずと、床に置いてあるスーパーの袋に手を入れた。

 

「サイズわかんなかったから、とりあえず全種類買ってみたんだけど……」

 

 それは、パンツ。

 もっと上品にパンティーというべきか?

 呼び方はともかく、凡人は杏用の下着を買ってきた。駅前のスーパーで、意を決して下着売り場へ行って、全部のサイズを一つづつくださいと言った。

 店員のおばさんが疑うような眼差しを向けてきたので、『ふぃ、フィルターとして使うんです』と口にした。〝何のフィルターだよ!〟とツッコまれるかと思ったが、おばさんは『そ、そう……』と露骨に引いた口調で言って、それ以上関わろうとはしなかった。

 

「じゃあこれ、もらうね」

 

 杏は一番小さなサイズの下着を手に取って、風呂場へ向かおうとする。

 

「待って杏ちゃん。これも――」

 

 続いて凡人が取り出したのはブラジャーだ。

 杏が隠れ巨乳である可能性を考慮して、Aカップ~Dカップに相当するサイズのものを一つずつ買った。

 やはり店員が怪訝な顔で見てきたが、『新年会で女装することになっちゃって……』と言い訳をすると、パンティーをフィルター扱いした時よりは、普通の顔で対応してくれた。

 

「――あのさぁ、ぼんど」

 

 床に並んだブラを見おろし、杏が「はぁ……」とため息をついた。

 

「必要だと思う? 杏に」

「そりゃあ、いるでしょ。女の子だし」

「そういうことじゃなくてさ……。見て分かんない?」

「え……? 何が」

 

 じっと見つめる視線の先で、杏は自嘲するかのように胸を張り、

 

「つけてないよ。っていうか、つける意味ないし」

「なっ……!」

 

 つけてない。

 それはつまり、ノー、ブラ……?

 

「じゃあ、杏はお風呂に入るから」

「ちょ、ちょっと待って!」

 

 凡人は咄嗟に杏の手を掴んでその場に引きとめる。

 

「……痛いよ」

「あっ、ごめん」

 

 凡人は慌てて手を離し、杏の前に回り込む。

 

「杏ちゃん、その……、ノーブラはまずいでしょ? ち、乳首? ――が、黒くなるって噂もあるし」

「それ、たぶんデマだよ。なってないもん」

「でも、アイドルがノーブラとか、それはさすがに……」

「別に、これからステージに立つわけじゃないし」

「それはそうだけど、でも、その――」

 

 凡人は強く目をつぶり、恥ずかしさをこらえながら――

 

「俺が、ドキドキしちゃうからぁっ!」

 

 事実、ノーブラの話を聞いてから、凡人は杏を直視することができない。

 

「……え。ちょっと待って。それって――」

 

 杏は猜疑心(さいぎしん)を持った探偵のように、アゴに手を添えて凡人のことをじっと見る。

 

「ぼんどは杏のことを、〝女〟として見てるって、こと?」

「……? そりゃあ、そうでしょ。だって杏ちゃん。女の子だし」

「いや、そういう意味じゃなくて、その……。恋愛対象としてみてるのかって、ことなんだけど」

「…………?」

 

 杏はもどかしげな眼差しを凡人へ向けながら、

 

「ほら、杏はマスコット的存在だから、そういう対象にはならないでしょ? 実際、可愛いって言われることはあるけど、ガチ恋? ――とかされたことないし。だから、ぼんどもそうでしょ? 好きなのはアイドルの私で、そうじゃない私は――」

 

 凡人は大きくかぶりを振って、真正面から杏のことを見て、

 

「俺はぁ……、アイドルの杏ちゃんも、そうじゃない杏ちゃんも、大好きだ!」

 

 それはもう、ほとんど無意識に。

 自分で自分を抑えることができなくなって――。

 積み上げてきた杏に対する気持ちを口にしてしまう。

 

「リトルリドルでデビューした杏ちゃんを見た時に、衝撃を受けた。ずっとアイドルは好きだったけど、その気持ちとは違う。もっと純粋に、好きなんだ……。双葉杏という女の子が、どうしようもなく、好きなんだよっ!」

 

 はぁ、はぁ……。

 たかぶる気持ちを口にして、少しだけ冷静になって。

 そして凡人は、壮絶な気まずさを感じて青ざめる。

 

「あ――」

 

 俺、もしかして、〝やっちゃった〟んじゃ……。

 

 勢い余って告白をした。

 冗談っぽい感じじゃなくて、ガチのやつ。

 アイドルにそういうことをするのはファンとしてやっちゃいけないことだし、十八歳の女の子にガチ告白をする二十五歳の男ってのもやばい。

 

 ――嫌われた……。今度こそ絶対に、嫌われた!

 

 きっと杏は気味悪がって、スマホを取り出し110番。

 未成年誘拐で前科がついて、親に泣かれて、早苗さんにシメられる。

 

「え、えっと……。と、とりあえず、杏はお風呂、入るからっ」

 

 しかし聞こえた杏の声は、覚悟していたものと違う。

 戸惑っているような甲高い声だった。

 そんな場合じゃないのに尊みを感じて悶えそうになる。

 

「杏、ちゃん……?」

 

 ゆっくりと顔をあげた凡人の目に映るのは――。

 

「……っ!」

 

 そそくさと風呂場へ入ってドアを閉める杏。

 その頬は真っ赤で、強く眉根を寄せていた。

 

 ――あの、双葉杏が。

 

 マスコットのような存在だと自称していた彼女が。

 まるで普通の少女のように、照れて恥ずかしがっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第5話 『やる時はやる』

 

 

 

 杏が風呂に入っている間。

 凡人(ぼんど)は部屋の外へ出て、ぼんやりと空を見上げる。澄みきった夜空に浮かぶ月が綺麗で、そういえばそれは文学的な告白の表現であると思い出す。

 

 ――そのぐらい洒落た告白がしたかった。

 

 勢い余って気持ちをぶつけてしまうとか、小さな子供じゃあるまいし……。体ばっかり大人になって、中身が成長できていない。自分が子供の頃に想像していた〝大人〟は、後先考えずに告白したりしない。

 

 ――杏ちゃん。どう思ったんだろ……。

 

 二十五歳のアフロ男から求愛される。それはもう、ちょっとしたホラーなんじゃないかと思う。

 仮に自分が双葉杏で、松平凡人と名乗るアフロ男から告白されたら、どうするか?

 全力で逃げると思う。ツインテールをなびかせて、交番までダーッシュ。

 

 ――でも、嫌そうな感じじゃなかったんだよな……。

 

 心の中でつぶやいて、凡人はすぐにアフロ頭をかきむしる。

 ついうっかり調子にのろうとしていた自分が、瞬間的に死ぬほどムカついた。なんだその、杏ちゃんはまんざらではない――みたいな勘違いは。杏ちゃんは嫌に決まってるだろ。あの照れた表情は彼女の優しさだ。俺を傷付けないように気遣ってくれたんだ。これから少しずつ距離を置かれるから覚悟しろ。もう二度と彼女の半径1メートル以内に――。

 

「ぼんど? 外にいるの?」 

 

 ドアの向こうから声がした。

 凡人はハッとして、すぐにドアノブを掴み、

 

「どうした、杏ちゃん。何かあったの――」

 

 開いたドアの向こう側。

 そこには風呂あがりでほこほこと湯気を出している杏が立っていた。バスタオル一枚を巻きつけているだけの際どさに思わず息をのみ、しかしそれ以上の衝撃に襲われて凡人は思わず指をさす。

 杏の長く美しい金髪が、

 

「ふわっふわぁぁああ――――ッ!」

 

 一本一万円のシャンプーを使った結果だと思う。髪質がまるで違っている。ふわっとふくらみ、キラッと輝く。そしてやって来るいい匂い。

 

「てん……し?」

「天使じゃなくて杏だよ。ぼんどの買ってきたシャンプーのせいで、髪が全然まとまらないんだけど」

 

 ヘアゴムを両手でいじりながら責めるような視線を向けてくる杏。

 凡人はしかし、キラキラと両目を輝かせながら杏の髪を見て、

 

「キューティクルがすごいことになるとは聞いていたけど、ここまでキュートになるなんて!」

 

 それを聞いた杏は、呆れたように「はぁ……」とため息をついて、

 

「言っとくけど、キューティクルとキュートって言葉は関係ないからね? ってか、感心してないでなんとかしてよ。ぼんどのせいでこうなったんだから」

「そんなこと言われても、どうすれば……」

 

 もすもすとアフロ頭をかいた凡人に、杏はヘアゴムを差し出しながらこう言った。

 

「責任、とってよね」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 座布団のうえに座った杏が、凡人(ぼんど)に背を向けている。バスタオル一枚だとさすがにこちらの心臓が持たないので、ちゃんと着替えてもらっている。〝働いたら負け〟という格言がプリントされたTシャツだ。石油ストーブのおかげで部屋は暖かいとはいえ、こんな軽装で寒くないのかなと思う。北海道出身の杏にとって、東京の冬なんてTシャツ一枚で充分というだろうか。

 

「ねー。まだ?」

 

 杏がこちらに背を向けたまま、気だるげな声で急かしてくる。

 

「ち、ちょっと待ってね、杏ちゃん。今、心の準備をしてるから。ちゃんと精神統一をしないと」

「ぼんど、大げさだよ。ヘアゴムで髪をまとめるだけなのに」

 

 凡人は杏の背中を見据え、初めて外科手術に挑戦する医者のように両手を震わせている。

 

「もしかして、女の子の髪、結ったことないの?」

 

 その声の響きに、童貞をからかうお姉さんみたいな声音(こわね)を感じてゾクっとしてします。いや、そんなことを考えている場合じゃない。

 凡人は邪念を振り払い、深呼吸を二回。

 

「大丈夫、やったことあるよ。妹いるから、よくやらされてた」

「じゃあ、なんでそんなに緊張してんの?」

 

 そんなの、杏ちゃんが相手だからに決まってるでしょう! ――と、言ってしまいそうになる凡人だが、ついさっきやらかした告白の余韻がまだこの部屋のどこかにあって、彼女に対するガチの好意を口にすることにためらいがあった。

 下手なことを言うとやぶへびになってしまう。杏から何らかのリアクション――おそらくは拒絶を意味する何か――をされてしまいそうで恐い。せっかくこうして普通に接してくれてるんだから、あの告白は無かったことにしておきたい。

 

「やっぱ素手じゃまずいから、手袋を――」

 

 凡人は立ち上がって押し入れに近づいた。

 杏のグッズとリトルリドルのグッズを漁って、目に付いたそれを手に取った。

 

「こ、これは……二宮飛鳥の指ぬきグローブ! よーし、これをはめれば直接手を触れることなく杏ちゃんの髪を結える――って、指ぬきグローブじゃ意味ないでしょうがっ!」

「……楽しそうだね、ぼんど」

 

 こちらに背を向けたまま、呆れたように言ってくる杏。

 向けられている小さな背中から無言のプレッシャーを感じて、凡人は勢いよく押し入れを閉めて、

 

「ちょ、ちょっと待ってね。たしか、大掃除用に買ったゴム手袋が――」

 

 今度は台所へ行って、流しの下にある引き出しを開けた。そこにあったのは水回りを掃除するための分厚いゴム手袋だ。これなら……。

 

「あのさぁ、ぼんど」

 

 肩越しに振り返った杏が、心底嫌そうに目を細めて、

 

「トイレを掃除する手袋で髪をいじられる杏は、どういう気持ちになると思う?」

「……ごめん」

 

 凡人はゴム手袋を戻し、どうすればいいのか分からなくて途方にくれてしまう。

 

「だから、素手でいいってば」

 

 お馴染みのため息をついた杏が、少しだけ言葉をためらってから、

 

「……別に、嫌じゃないから」

 

 その一言に、凡人は息を止めて杏のことを見る。

 その猫背に曲がった小さな背中からはどんな感情も読み取れないのだが。

 でも、今の言葉は。

 ぶっきらぼうな言い方だけど、だからこそ嘘じゃないような気がした。

 

「じ、じゃあ、手を綺麗にしてから」

 

 凡人は台所へ戻って念入りに手を洗う。

 心臓の音がどんどん大きくなっていく。

 ただ、髪を結うだけなのに。

 生まれて初めて風俗に行った時と同じぐらいに緊張していたのだった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 杏の髪は絹のようにサラサラだった。

 それを慎重に結いあげて、凡人は安堵の息をつく。

 万が一にも引き抜いたり、傷つけたりしないように細心の注意を払った。妹の髪を扱う時の百倍は気を遣った。

 

 ――俺、もう一生両手を洗えない。

 

 凡人が両手に残るふわふわな感触を噛みしめていると、こたつの天板に置いてあるスマホから着信音がした。

 その単調なメロディが、凡人を現実へと引き戻す。

 

「……出なくていいの?」

 

 杏が座布団から座椅子に移動してスマホを掴んだ。

 

「社長だって。出なきゃまずくない?」

 

 画面を確認した杏から言われて、凡人はぎこちなく笑う。

 

「だ、大丈夫。放っておいて」

 

 しばらくすると着信音が鳴りやんだ。

 凡人は杏からスマホを受け取って、電源を切って――ほっとする。

 

「社長の電話を無視するなんて、ぼんどってもしかして悪い社員? 働きたくない人?」

「いや、どちらかと言えば働きたい人かな」

「うへぇ……、そうなの? じゃあ杏とは気が合わないね」

「ハハ、うん。まあ……」

 

 凡人は上の空だった。

 893プロのこと。きらりのこと。

 その二つが頭の中でぐるぐる回転している。

 

「ねえ? 何か、悩み事?」

「い、いや。別に、大したことじゃ――」

 

 咄嗟にごまかそうとして、しかし凡人は口ごもる。

 誰かに話を聞いてもらいたい。相談したい。

 そういう気持ちがすごく強くて、チラッと視線を向けた先で杏は、不愛想ながらどこか温かみのある光を大きな瞳の中に宿しているように思えた。

 

「実は、ちょっとまずいことになってて――」

 

 凡人は話した。893プロが倒産寸前であること。それなのにきらりを新人として迎え入れてしまったこと。社長からは不採用にしろと言われていたのに。

 

「……なるほど。だから社長からの電話をスルーしたわけだ」

「まあ、ただの時間稼ぎなんだけどね。明日までに、何か考えないと……」

 

 口ではそう言いながらも、それが時間稼ぎではなくて現実逃避であると凡人は分かっている。差し迫った問題から目を背けているだけだ。

 

 ――しかし、どうすればいいのか分からない。

 

 893プロはすでに〝詰んでいる〟。こうなる前に対策を講じるべきだった。沈没船を救いたければ、船底(せんてい)に穴が空く前になんとかしなければならない。浸水が始まってから慌てても遅い。

 

「ねえ。杏に任せてみない?」

「え……」

 

 凡人は耳を疑って、どういうつもりなのか杏の顔を見る。

 普段の眠そうな様子はなくて、しっかりと目を見開いている。

 

「事務所、どうにかしないと潰れちゃうんでしょ? それは杏も困るんだよ。だって、ぼんどが無職になったら、養ってもらえないじゃん」

「……あっ、そっか。俺、無職になるのか」

 

 アイドルのことばかり考えていて、凡人は自分のことを失念していた。

 

「そうだよ。事務所が潰れたらぼんどだってやばいんだよ。だから、なんとかしないと」

「それは、俺だって……」

 

 何とかしたいと思うけど、どうすればいいのか。

 凡人はすがるように杏を見つめて、もしかしたらと期待する。

 

「まさか、杏ちゃんがステージに立ってくれるとか!?」

 

 仮にも彼女は一世をふうびしたアイドルだ。リトルリドル時代にはテレビにだって出演している。893プロのアイドルよりは遥かに知名度がある。

 双葉杏がステージに立ってくれれば、あるいは――。

 

「いや、杏は働かないけど?」

 

 即答で否定してきた杏に、凡人はそれでも希望を捨てきれなくて、

 

「……え、違うの? 天使系アイドルとして893プロを救うために降臨してくれるんじゃ?」

 

 彼女はダメ押しとばかりにきっぱり首を振り、得意げなドヤ顔でこう言った。

 

「杏は〝プロデューサー〟として、ぼんどのことを助けてあげるよ」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 翌日。

 凡人はいつもより早い時間の電車で、893プロの事務所へと向かった。

 まだ誰も事務所に来ていない。窓から差し込む朝日が壁に並ぶポスターを照らしている。劇場の出演予定を書き込むホワイトボードがあって、応接スペースのローテーブルにはおいかわ牧場のバタークッキーが置いてある。

 

「さて……」

 

 凡人は応接スペースのソファーに座って、かばんから書類を取り出した。

 昨日はあれから一睡もしていない。通勤途中の電車で寝ようと思っていたが、気持ちが(たかぶ)っているせいで全然眠れなかった。疲れているはずなのにテンションが高い。

 

 ――ギィ。

 

 鉄扉(てつとびら)が開く音がして、スーツ姿の社長が事務所にやってくる。

 

「おう、誰かと思ったらぼんどか。えらく早いな。まぁ、ちょうどええ……。昨日のこと、どういうつもりか話してもらおうか? オレの電話もラインも無視しやがって」

 

 どっかりと向かいのソファーへ腰かけた社長へ、凡人は徹夜で作り上げた書類を差し出した。

 

「……なんやこれ?」

「893プロにしかできない企画です。菜々さん、早苗さん、雫ちゃんとゆっこちゃん。ウチのアイドルを、リニューアルプロデュースします」

「リニューアルプロデュースぅ? そんな言葉、聞いたことないで」

 

 凡人は熱意を込めた視線を社長へ向けて、言い放つ。

 

「うまくいけば、893プロ。立て直せるかもしれません」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第6話 『リニューアル・プロデュース』

 

 

 

 凡人(ぼんど)はこれまで、片桐早苗と及川雫と堀裕子の三人をプロデュースしてきた。

 菜々はスカウトした時点で地下アイドルとして個人で活動していたので、凡人がその方向性を決めたわけじゃない。

 

「ふーむ……」

 

 893プロの応接スペース。

 凡人の企画書を読んだ社長は、しばらく唸って、ばさっとその企画書をローテーブルの上に置いた。

 

「……これ。ほんまにぼんどが考えたんか?」

 

 パンチパーマに三白眼。人相の悪い大仏みたいな顔で睨まれて、凡人は内心ギクッっとする。

 

「そ、そりゃ、そうでしょ。他に誰がいるんですか」

「まあ、そうなんやけど――」

 

 実のところ、社長に渡した企画は、杏との共同作業で制作したものだ。しかも杏の比重が八割ぐらい。彼女の出したアイデアが数多く盛り込まれている。

 

「今までのぼんどのプロデュースは、なんちゅーか、平凡やったけど……」

 

 社長の口から出た〝平凡〟という言葉に、凡人はぐっと息をつまらせる。

 聞いただけで心のどこかが無意識に反応してしまう。

 彼にとってその一言は、どんな罵声よりも痛烈な響きを持っている。

 

「例えば、早苗ちゃん。ホットパンツ・ポリスって、思いっきりミニスカ・ポリスの二番煎じやし」

「いやでも、こっちはホットパンツですから。全然違いますよ」

 

 警察の制服をイメージした衣装でありながら、ヘソを出してホットパンツで大胆に太ももを露出する。聖職者を思わせる格好でありながらエロいという背徳感。これは絶対に受けると思っていたのだが、ファンの反応はいまいちだった。

 

「雫ちゃんとゆっこちゃんのピンク・ドット・スクール。これはもう、完全にピンク・チェック・スクールのパクりやし……」

「ち、違いますよ! 確かにPCSの影響は受けてますけど、こっちはチェック柄じゃなくてドット柄ですから。まったくの別物です」

 

 893プロで行われた一回目のオーディションで採用した雫と裕子。彼女たちにはピンク・ドット・スクールというユニットでデビューしてもらった。

 ドット柄の制服――というアイディアを思い付いた時には興奮した。これが〝降りてくる〟という感覚なのかと思った。自分はプロデュースの天才かもしれないと自画自賛していたのだが、ファンの評価はいまいちだった。

 

「しかしぼんどぉ、この企画はオリジナリティが高いやんか! オレの知る限り、それっぽいプロデュースは聞いたことがない。土壇場で覚醒したな!」

 

 膝を叩いてガハハと笑う社長の声に、凡人は形だけの笑みを向けていた。

 自分が過去に提出した企画はさんざんダメ出しされたのに、この企画はあっさり受け入れられている。

 

 ――杏ちゃん。プロデュースの才能もあるんだな……。

 

 社長の声がゆっくりと遠ざかっていき、昨夜のことを思い出す。

 893プロのアイドルを紹介するなり、杏は次々とアイディアを出してくれた。本当は働きたくないんだけどなー、とか文句を言いながらも、積極的に提案してくれた。それがまた、どれも独創的なプロデュースばかりで、凡人は少しだけ彼女の才能に嫉妬してしまう。

 

 ――何をやっても〝普通〟だと、子供の頃から言われて続けて二十五年。

 

 だからこそ、人を魅了する〝個性〟を持ったアイドルに憧れた。少しでも個性的になりたいと思ってアフロ頭になった。その結果、ファンの人たちからアフロPと呼んでもらえるようになったが、それは単にアフロという髪型が個性的なのだ。松平凡人の個性とは関係がない。その事実に気付いてしまった時にはショックで、初めて有給休暇を取った。

 

「……でもなあ、ぼんど。この企画、ちょっと個性的すぎへんか?」

 

 ふいに社長から妙なことを言われた。

 社長は改めて企画書を手にとって、うーんと重々しく唸り、

 

「今の流行りとか、まったく考えてへんよな? 自分で流行りを作り出そうとしてるやろ?」

 

 それに凡人は、頷いた。

 まさにそういうコンセプトの企画だったから。

 

「リスク、でっかいな。まったくファンに受け入れてもらえへん可能性がある」

 

 きっと社長は渋るだろうと思ってた。

 だからこそ凡人は、社長を説得してねじ伏せるだけの理論武装をしている。

 

「これは、今の893プロにしかできない企画なんです」

「……どういうことや?」

 

 大手のプロダクションが新しいタイプのアイドルを売り出せるのは、その母体に経済力があるからだ。

 成功するか分からない前人未到のプロデュースには、失敗した時のリスクが付きまとう。大きな赤字を出してしまう可能性がある。しかしそうなったとしても、会社が傾くことはない。それだけの経済力があるから〝挑戦〟をすることができる。

 しかし弱小事務所では――。

 大爆死といわれるような結果になってしまうと、会社そのものが倒産しかねない。売れなかったとしても、ある程度の利益は確保しなくてはならない。

 結果的に弱気なプロデュースになってしまう。ある程度は流行に媚びる必要があり、成功したところで大きな利益は生み出せない。ローリスクであり、ローリターン。そんなプロデュースを続けた結果が、じり貧で追い込まれている893プロの現状だ。

 

「こんなふうに挑戦できるのは、今だからこそなんです」

 

 凡人はそう口にして、企画書へ向けていた視線を社長へと移す。

 

「……最後の最後に捨て身の大博打をしたい。そういうことか?」

 

 社長と目を合わせたまま、頷く凡人。

 社長はひたいにシワを刻んで、目をつぶる。

 

 ――簡単に許してもらえるとは、凡人も考えていない。

 

 会社の命運を預けてくれと頼んでいるのだ。いくら余命三カ月の会社であっても、社長としては悩むのが当然だ。そんな博打はさせられないと一蹴されるかもしれない。

 

 でも――。

 

「実は、この企画……俺が考えたんじゃないんです。その……、知り合いというか、友達のような人のアイデアなんです」

 

 社長がじろっと凡人のことを見て、呆れたように肩をすくめた。

 

「やっぱりな。平凡がトレードマークのぼんどじゃ、逆さにして振ってもこんなアイデア出てこんよな」

 

 ため息交じりにそう言った社長に、凡人は自分の心の大切な部分を傷付けながら、

 

「平凡でなんの個性もない。そんな俺だから、この企画が持っている〝個性〟の強さが分かるんです。そのすごさが分かるんです。これ、きっと売れますよ。〝普通の人〟の心にすっごく刺さりますもん。平凡がトレードマークの俺だからこそ、それが分かるんです!」

 

 凡人が見つめる先で、社長はその表情を変えようとしない。

 自分の放った声が事務所に反響し、しんと静まり返る。

 そして「ふぅ……」と、吐息をついた社長が、

 

「自分で自分のことを平凡だなんて、言うもんやないで」

 

 そっけなく告げられた一言に、凡人は思わずテーブルに手をついて、

 

「だって、社長がいつも――」

「オレが言うのはええんや。それをどうにかせいっていう指摘やねんから」

 

 強い言葉をかぶせられて、凡人は乗り出していた体を引いてソファーに座り直す。

 

「でもな、それを自分で認めて自虐するのはアカン。それをやり出したら成長がなくなってまう。平凡な自分が嫌いなんやろ、ぼんど?」

 

 凡人は口を閉じたまま、膝の上で両手のこぶしを握りしめる。

 それを見た社長は、ニッと口元に笑みを浮かべて、

 

「そんなら、平凡を卒業せいや。この企画をやり遂げて」

 

 トントンと人差し指で企画書を叩く音がして、凡人は社長のことをじっと見る。ヤクザの親分みたいな強面であるのに、それが慈愛に満ちたものに見えた。

 

「……俺、その、絶対――」

 

 やり遂げてみせますと、言葉にしようとするのだが、目のふちから熱いものがこぼれ落ちてしまう。

 

「あのなぁ、ぼんど。泣くのは成功させてからにしろや。ほんまお前は、男のくせに涙もろいんやから」

 

 苦笑した社長がハンカチを差し出してくる。

 凡人はそれを受け取って涙をぬぐって、強気な笑みをつくってみせた。

 

 

 

  * * *

 

 

 

 しばらくすると、菜々が出社してきた。

 凡人(ぼんど)は早速彼女を応接スペースへ呼んで、企画の話を持ちかける。

 

「リニューアルプロデュース……ですか?」

 

 菜々は渡された企画書をまじまじと見つめて、それから凡人へ視線を向ける。

 

「昨日の話ですけど――このままだと893プロは倒産しちゃうんです。でも、俺はまだ諦めたくない。最後までもがきたい。だから、一発逆転の企画を考えてきたんです」

「……じゃあ、この企画がうまくいけば、893プロは存続できるってことですか?」

 

 菜々の表情がぱぁっと明るくなって、凡人は嬉しくなってしまう。

 

「この企画が成功すれば、なんとかなると思います。だから、ナナさんにも協力してもらいたい」

「もちろんですよ、ぼんどさん。ナナ、頑張っちゃいますよっ! キャハっ!」

「ありがとう、菜々さん!」

 

 横ピースを決めて喜ぶ菜々に、凡人もサムズアップで応える。

 

「――じゃあ、さっそくだけど、企画の概要を説明するね。菜々さんに関しては、ウサミンっていうキャラはそのまま活かして、その個性をもっと強調する方向にプロデュースしたいんだ」

「ふんふん。なるほど……」

 

 菜々は〝メイドアイドル・ウサミン〟というキャラクターでステージに立っている。パステルカラーのメイド服を着て、ウサ耳を付けて永遠の十七歳。この時点でかなりキャラが濃いのだが、それをさらに強化する。

 そのために――。

 

「まずは、地球人を辞めてもらいたいんです」

 

「ほうほう、地球人を辞める――って! いきなりハードル高すぎませんかっ!?」

 

 驚いて目を見開いた菜々に、凡人はローテーブルに置いた企画書を指さして、

 

「菜々さんには〝ウサミン星人〟になってほしいんです。ウサミン星の親善大使として地球にやって来た宇宙人――っていう設定で、地球人と交流を深めるためにアイドル活動をしている。ウサミン星人は年をとらないから、永遠の十七歳」

「あー、そういうことですか……。ウサミン星人。うーん、なるほど……。アイドルの形としては、アリですね。コ*ン星の人とかいましたし」

「そうそう。コリ*星のイメージ」

 

 菜々が乗り気になってくれたことに安堵しながら、凡人はテーブルの上にライブカメラを置いた。

 

「それで、早速やってもらいたいことがあるんです」

 

 菜々はカメラをまじまじと見つめ、「カメラ?」と呟いた。

 

「ええ。これで、ウサミン星の様子を中継もらいたいんです」

 

 凡人の言葉に、菜々は眉を下げて口を歪ませながら、

 

「ウサミン星って、まさか……」

「そう。菜々さんの家を――」

 

 ――バン!

 

 テーブルに両手をついた菜々が、ブンブンと頭を振ってウサミミを揺らした。

 

「だ、だめですよ! そんな、ナナの家を中継なんて……。色々やばいというか、とてもお見せできないというか、見せちゃいけないというか!」

「もちろん常にってわけじゃなくて、菜々さんのやれるタイミングで動画配信をしてほしいんです。できれば生中継で、コメントを通じてファンとコミュニケーションを取ってもらいたい」

 

 しばらく凡人のことを疑わしげな目つきで見ていた菜々であったが、やがてその表情をゆっくりと和らげる。

 

「……つまり、ユーチューバーになるって、ことですか?」

 

 893プロのような貧乏プロダクションがアイドルを売り出すにあたって、一番のネックとなるのが宣伝だ。どんなすごいアイドルであっても、ファンに認知してもらえなければ意味がない。

 そこで、ネットを活用する。

 うまくバズれば、お金をかけなくても充分な宣伝効果を得ることができる。

 

「……でも、難しいですよ、ユーチューブで有名になるのって。ナナ、個人で活動をしていた時に手を出したことがあるんですけど、思うように伸びなくて……」

「そこらへんのことも考えてあります。どうすれば人気ユーチューバーになれるのか」

 

 難しい顔をしている菜々に、凡人は企画書の〝ウサミン星 生中継〟について書かれた部分を指さして、箇条書きになっている部分を見てもらう。

 

「コンセプトは、アイドルと同居している感覚をファンにもってもらうこと。そのために、こういう感じの配信をしてほしいんです」

 

・「おかえりなさい」的な挨拶。アットホームな演出。

・ご飯を食べたり、あーんとかしたり。恋人気分。

・お風呂。湯上がり配信。バスタオルでポロリ。←要検討。

・膝枕配信。カメラをふとももに乗せる。なでなで。

・寝る前に布団から配信。添い寝的な感じ。非エロ。

・寝起きで配信。セルフ寝起きどっきり。タイマーでカメラ起動させる?

 

 しばらく無言でそれを見ていた菜々であったが、徐々にその顔つきが険しいものになる。

 

「……ぼんどさん。ちょーっとナナには厳しいかなーって要求が見受けられるのですが」

「あー。セルフ寝起きどっきりとか、やっぱり難しいですか?」

 

 困ったようにアフロ頭をかきはじめた凡人に、菜々は呆れたようなジト目を向けて、

 

「それもそうですけど、それより――、なんですかバスタオルでポロリって! 昭和のバラエティーじゃないんですから、ダメですよこんなのは。そもそも、ナナはアイドルなんですからっ!」

 

 まあ、当然の反論だと凡人は思う。

 そもそもポロリに関しては、深夜テンションで書いてしまった冗談のようなものである。ノリノリで「ポロリしちゃいますミン!」とか言い出したら、凡人のほうから止めるつもりだった。

 

「じゃあ、添い寝はどうかな? 菜々さんと添い寝できるっていったら、それだけでチャンネル登録者を増やせると思うんですよ。少なくとも俺がファンだったら登録します!」

「いや、でも……」

「お願いします。この通りです、菜々さんっ!」

 

 両手を合わせて拝み倒す凡人に、菜々は心が揺れているかのように視線を泳がせて。

 そしてほのかに頬を赤らめながら、

 

「凡人さんは、……そ、そんなに、ナナと添い寝したいん、ですか?」

「そりゃあもちろん、したいですよ! 菜々さんと添い寝できたら、死んでもいいぐらいですっ!」

 

 これを凡人は本気で言っている。

 この瞬間に関していえば、プロデューサーではなくてファンのテンションになっていた。凡人は菜々のプロデューサーであると同時にファンなのだ。杏の存在がなければ本気で推している。

 

「そ、それはいくらなんでも、いいすぎですよぉ……。きゃはぁ……」

 

 もじもじしながらへへっと笑った菜々が、チラチラと凡人のことを見て、

 

「そ、そんなに、ナナとしたいなら。まあ……、してあげても、いいですけど」

 

 ちょっと誤解を生みそうな発言に、凡人はドキッとしてしまう。

 

 ――いやこれ、ベッドで言われたらそれだけで鼻血を噴いて失血死する自信があるぞ。この感じを配信で出せたら、絶対に勝てる。菜々さん可愛い! 可愛いミン!

 

 凡人はファンとして、そしてプロデューサーとして菜々の可能性に興奮しながら、ライブカメラを手渡した。

 

「じゃあ、さっそく今日から配信していきましょう!」

 

 すると菜々は、恥ずかしそうにはにかみながらカメラを受け取って、

 

「あの、が、頑張りますけど――、ちゃんとナナのこと、観ててください……ね?」

 

 上目遣いで、赤い瞳を向けられた。緊張からか、ちょっとだけ潤んでいるその眼差しに、凡人のファンとしての部分が耐えられなくなって、

 

「ぐはぁっ!」

 

 まるで眉間を撃たれたかのように、凡人は激しくのけぞって、ソファーの背もたれに背中を預けた。

 

「ど、どうしたんですか、ぼんどさん! 急にエクソシストみたいになって」

 

 慌てている菜々の声を聞きながら、凡人はかつてない手ごたえを感じている。

 

 ――杏ちゃん以外で俺を尊死させたのは、菜々さんが初めてだぜぇ……。

 

 重度のドルオタだからこそ、感じ取ることができる。彼女が〝推せる〟アイドルなのかどうかを判別できる。

 

 ――でも、俺には杏ちゃんが。

 

 凡人は心の中で呟いて、ファンからプロデューサーの気持ちにシフトチェンジする。

 

「菜々さん」

「は、はい……?」

 

 そしてプロデューサーとして、忠告しなくてはならない。

 

「エクソシストみたい――って、十七歳は言わないと思う」

「……ミンッ!?」

 

 菜々は恥ずかしそうに頬を赤くして、ふところから取り出した〝十七歳メモ〟に新しい禁句を書き加えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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 第ナナ話 『ハッピーニューウサミン』

 

 

 

 凡人(ぼんど)がリニューアルプロデュースを提案したその日の夜。

 菜々はさっそく、自分のユーチューブチャンネルを開設した。過去にユーチューバーに挑戦した経験があると言った彼女は、凡人がアドバイスをする必要もなく、スムーズにチャンネルを立ち上げてくれた。

 凡人は893プロのHPとSNSで告知をして、少しでも人を集められるようにできる限りのことをする。

 

「まあ、すぐには伸びないと思うけどね」

 

 眠そうな声で言ったのは杏で、今――凡人は自分の家にいる。

 会社で菜々の放送を見守ろうかと思ったが、準備に時間がかかってしまうと聞いたので、帰宅することにしたのだ。

 

「でも、うまくいけば人気が出るんだよね?」

 

 凡人は杏と同じコタツに足を入れて、コタツの上に置いたタブレットを見つめる。その脇にはレンジで温め直したピザがあり、凡人が帰りがけに駅前で買ってきたコーラがコップの中でしゅわしゅわと泡立っている。

 

「人気が出るかどうかは分かんない。杏は、こうしたら面白いんじゃないかなって、意見を出しただけだから。それをどうこうするのは、ぼんどの仕事でしょ? プロデューサーなんだから」

「……ごもっとも」

 

 座椅子に収まっている杏から責めるような視線を向けられて、凡人は肩をすくめてピザを口にする。タブレットの右上にある小さな時計が、放送開始まであと数分であることを告げていた。気持ちが落ち着かなくなって、ピザを持つ手が震えだす。

 

「ぼんどがそんなに緊張してどうすんの? っていうか、緊張する意味ないじゃん」

「そりゃ、そうだけど……。菜々さんが上手くできるかどうか、心配で」

 

 凡人は手に持っているピザを一気に口に入れ、それをコーラで流し込む。

 

「お、始まった」

 

 杏がのんびりと言った。

 凡人は慌ててコップを置いて、コタツに手をついて身を乗り出した。

 

『ウサミン星から生中継。ウサミンチャンネル、始まりましたー』

 

 ユーチューブの画面にウサミン星(千葉)が映り、菜々がニコニコしながら手を振っている。トレードマークのウサ耳を付けてはいるが、洋服は普段着だ。

 あまり着飾らない感じでやってほしいと、凡人は菜々に頼んである。

 このアイドルの私生活を覗き見れる感じが、ファンとしては嬉しい。少なくとも凡人はそう思う。コメント欄にも、菜々の洋服に対する好意的な感想が書き込まれている。

 

『か、可愛い、ですか? ありがとうございます。これ、結構お気に入りなんですよ。近所のしまむら――――――で買えそうな感じですけど、ここはウサミン星なんで、そういうお店はありません。キャハっ!』

 

 ひたいに汗をかきながら自爆をフォローする菜々に、凡人はほっこりしてしまう。この気取らない庶民的な感じが菜々の魅力で、人気を高める起爆剤になると思う。だからこそユーチューブでの自宅配信をリニューアルプロデュースの要に据えた。

 しかしそれは凡人のアイデアではなくて、

 

「……どうかな、杏ちゃん。菜々さん、いけるかな?」

 

 画面から目を離さずに聞くと、杏は少しだけ間を開けて、

 

「まぁ、悪くないと思うよ。親近感あるし、このまま毎日続けていけば、それなりに新規ファンを開拓できるんじゃないかな?」

 

 その評価に、凡人は強張っていた肩から力を抜いた。

 

「そうだよね。いいよね、菜々さん。何かこう、おうちデートしてるような感じがして、テンション上がるよね! 可愛いよぉ、菜々さぁーん!」

 

 ファンのテンションになって歓声をあげる凡人。

 画面では菜々が晩御飯を紹介している。

 

『今日は、肉じゃがと、ご飯とお味噌汁です。普段はスーパーのお惣菜ですませちゃうこともあるんですけど、今日は初めての配信なので、頑張っちゃいました。きゃはっ』

 

「きゃはっ!」

 

 菜々の笑顔につられて凡人も一緒に笑う。

 

 ――これは、予想以上にいいかもしれない。何かこう、バーチャル同棲気分っていうか、そんな感じ。菜々さんとの距離感が近くて嬉しい!

 

『えー、あーんですか? もー、しょうがないですねぇ。じゃあ、一回だけですよ?』

 

 菜々がコメントに寄せられたリクエストに応えて、肉じゃがのお皿に箸を入れた。ちょっと大きめのジャガイモを箸で掴んで持ち上げて、一瞬だけカメラ目線になって、ふーふーと芋に息を吹きかけて、

 

『はい。あーん』

「あぁぁ――ん!!!!!!」

 

 凡人はバーチャルあーんに興奮し、タブレットに向かって大きく口を開けていた。デレデレと照れながらそれをやっているので、第三者視点でみると、まあ……キモい。

 

「あのさぁ、ぼんど」

 

 その声に凡人は杏の存在を思い出す。

 今の一瞬、すっかり彼女のことを忘れていた。まさか杏のことを忘れるなんて信じられないが、それほどまでに菜々のあーんが魅力的だったということだろう。

 効果的なプロデュースをできていることを喜びたくなるが、しかしこの杏から放たれている冷気の正体はなんだろう?

 

「ぼんどはそんなに、菜々のことが好きなの?」

 

 それは、嫌がる感じの声ではなくて。

 責めるような言い方で、ちょっと怒っているような。

 

「杏、ちゃん……?」

 

 凡人が恐る恐る視線を向けると、そこにいたのは――

 見たことのない杏だった。

 不機嫌そうに眉根を寄せて、同様に口を尖らせて。しかし怒りの感情が全てを支配しているのかといえば、そうじゃない。微かに赤くなっている頬には恥じらいの気持ちがあるし、伏し目がちな眼差しをチラリと向けてくる様子は、何らかの理由で拗ねているように見える。

 そしてまだ耳にハッキリと残っている『そんなに、菜々のことが好きなの?』という言葉。

 これらを総合的に考察し、導き出される彼女の感情は、

 

 ――ジェラシー?

 

 いやいやまさか、あり得ない。

 速攻で己の推理を打ち消す凡人だが、考えれば考えるほどにそうとしか思えない。状況証拠が揃っている。

 菜々の配信に興奮する凡人。不機嫌になる杏。

 そこに昨日やらかしてしまった〝ガチ告白〟という事実を加味すれば、彼女が嫉妬の闇に飲まれてむすっとしてもおかしくないような……。

 

 ――っていうか、ちょっと待てよ。

 

 もしも万が一、その仮説が正しいとすると、

 

 ――杏ちゃんが俺のことを〝意識〟している?

 

 いやいや、待て待て。

 相手はあの(・・)双葉杏だぞ。憧れのアイドルだぞ。

 同居三日目にしてちょっと存在に慣れてきて、普通に同じコタツに足を入れてたりするけど、ちゃんと心の底ではわきまえているはずだ。

 

 あくまでも彼女はアイドル。俺はファン。

 お互いにお互いをそういう対象として意識するのはまずい。

 

 勢い余ってガチ告白しといてアレだけど、アイドルとファンっていうのはそういうものだから、そういうふうになるのはまずいわけで……。

 

「まぁ、別にいいけど」

 

 コタツの上で頬杖をついた杏が、不機嫌そうな吐息をついた。

 彼女の気持ちがよく分からない凡人は、下手なことを言ったらまずいと思い、あえて彼女の言葉を聞き流す。

 

『ウサミン星から生配信。今日の放送は、ここまでです。また明日もライブ配信しますので、よろしければチャンネル登録お願いしますね。それでは、おやすみなさーい』

 

 菜々は初めてのライブ配信をやり遂げて、カメラを切るためにマウスをカチカチ操作する。チャンネル登録者数は100人を超えたぐらいで、まだまだ全然少ないが、視聴者はもっとたくさんいるので、続けていれば伸びてくるかもしれない。

 

「一回目にしては、上出来かな?」

 

 凡人は楽観的な笑みを浮かべていたが、杏の表情は険しい。

 タブレットの画面を見つめて、まるで熟練のプロデューサーであるかのような顔をする。

 

「思っていたよりもリアクションが少ないね。これだと、菜々の従来のファンしか来てないんじゃない? テコ入れを考えたほうがいいかも」

「テコ入れって、流石にそれは早くない? もう少し様子を見てから――」

 

「早くない」

 

 苦笑しようとしていた凡人の口が、強張った。

 杏は思案げにあごをさわって、タブレットの画面から目を離さずに、

 

「346だったら、すぐにでも対策を考えるよ。次の配信は明日でしょ? それまでに反省点を洗い出して、少しでも露出を多くするための宣伝を打つ。それがプロデューサーの仕事だよ。アイドルに道を示してあげないと」

 

 画面の中で菜々が『いやぁー、久々の配信は緊張しましたねぇ』と独り言をつぶやいてにへっと笑う。そんな彼女を見据える杏の眼差しは厳しい。

 

 それは、凡人の知らない杏だった。

 リトルポップス時代の彼女からは想像できない、あまり良くない方向に大人びている横顔。

 

「……あのさ、杏ちゃん」

 

 凡人は、我慢できずに聞いてしまう。

 

「346プロで、何かあった?」

 

 本当は、彼女がここにきたその日にそれを聞くべきだった。

 しかし相手は憧れのアイドルであって、どういう方向に転ぶか分からない質問を投げることに強い抵抗があった。

 

「ぼんどには、関係ない……」

 

 きっぱりと言われてしまって、凡人はそれ以上踏み込むことができない。

 不機嫌な響きをもったその一言に、あっさりと気勢をそがれて何も言えなくなってしまう。

 

『さーて、お風呂に入っちゃいますかね』

 

 気まずくなってしまった二人の間で、菜々が『よいしょ』と言って立ち上がる。フンフンと歌う鼻歌はアタシポンコツアンドロイド。しまむらで買った部屋着をばさっと脱ぎ捨てて、小柄な割に大きな胸を受け止めているピンク色のブラに手をかけて、

 

『はっだっかーになっちゃおかっなー♪』

 

 ようやく、凡人は気がついた。

 杏も画面を見つめてギョッとして、凡人に素早く視線を向けて。

 

 ――そこからは、時間との闘いだった。

 

 菜々がブラのホックを外すのと、凡人がスマホをスーツのポケットから抜き出すのがほぼ同時。スローモーションの世界で凡人は自分の指の遅さをもどかしく思いながら、登録してある菜々の番号に電話をかける。タブレットからメルヘンチェンジの着信音が聞こえて、ブラをまだ胸にひっかけたままの菜々が『はいはーい』と田舎のお母さんみたいな調子でスマホを手にして、

 

「カメラ切れてないよ菜々さん! 配信されてる!」

 

 凡人の声に、画面の向こう側にいる菜々が固まった。

 錆びたボルトみたいにギギギと首を回して、カメラ目線になる。

 コメント欄が、すごいことになっていた。

 

コメント:見えた! っていうか、見えてしかいない! ピンク&ピンク! ポロリ、マダー? 裸に、なっちゃえー♪ 

 

『は、はわわわわ…………』

 

 真っ赤になった菜々が胸を両手で押さえて、画面の外へ出る。

 すぐにごそっとカメラが動いて、畳が映り、カメラの映像が切断された。

 

「あっぶなぁ……」

 

 凡人は思わず口にして、脱力して天井を見上げる。

 危く、菜々のアイドル生命がポロリするところだった。

 

「でも、結果オーライじゃん」

「えぇ、何が?」

 

 かけられた声に振り向くと、杏がチャンネル登録者数のところを指さしてドヤ顔をしている。

 さっきまでは百人ぐらいだったのに、いつの間にか千人を超えていた。

 

「いや、増えすぎでしょ!」

 

 思わずツッコんでしまう凡人だが、菜々の配信はポロリ(未遂)のおかげで、好スタートを切れたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 ― 次回予告 ―
 
 三年前、リトルポップスの一員としてデビューした杏。
 華々しい活動の後に待っていた、空白の二年間。
 346プロで何があったのか。
 そして彼女が、凡人の元へやって来た理由とは?

 第8話 『あんずのきもち』

 次回もお付き合いいただけますと、幸いです。













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 第8話 『あんずのきもち』

 

 

 

 ふと、スマホの時計を見ると、深夜の二時だった。

 凡人(ぼんど)の部屋は真っ暗で、家主である彼は寝袋に入って寝息を立てている。

 

「ふぅ……」

 

 杏は布団の中で吐息をついて、スマホの画面から目を離した。

 昼間寝ていたのであまり眠くない。それどころか頭が冴えている。少しだけ興奮しているのかもしれない。

 

「リニューアルプロデュース、か……」

 

 窓から射し込む月明かりに照らされたスマホの画面。メモのアプリが起動していて、そこに893プロのアイドルの名前が連なっている。

 

 杏は今、893プロのアイドルのプロデュースについて考えていた。

 

 菜々に関しては、このままイタ可愛い系のアイドルでいくべきだ。元々の土台を崩さず、その上にさらなる魅力を乗せていく。人気の落ちたアイドルに〝テコ入れ〟をする時の基本だ。

 

 問題は、早苗と雫と祐子。

 

 この三人に関しては、元のプロデュースがあまり良いとは言えない。テコ入れをしたところで、その効果はたかが知れている。

 893プロの現状を考えると、一から新規プロデュースをしたほうがいい。ハイリスク・ハイリターンになるが、三カ月以内に成果を出そうというのであれば、博打といえるような勝負に出るべきだ。

 

 そして、最後の一人。

 諸星きらり。

 

 新人の彼女は、リニューアルではなくて完全な新規プロデュースだ。過去に芸能活動をしていた経験もないとのことで、使いどころが難しい。186センチの身長と、原宿系ファッション。キャラクターは強いのだけど、どうすればそれを〝売る〟ことができるのか?

 

 ――アイツなら、どうするんだろ……。

 

 考えに詰まった杏は、とある人物のことを思い出す。

 

 天才プロデューサー、天使(あまつか)こはね。

 

 それは杏の担当プロデューサーであり、大嫌いな女の名前だった。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 そもそも杏は、アイドルになりたかったわけじゃない。

 

 346プロのスカウトキャラバンが北海道にやって来た時に、親戚が勝手に応募した。

 それを聞いた杏は、受からないだろうと思った。

 いつも周りの人たちが「可愛い」とか、「妖精みたいだ」とか言ってくれるけど、それは贔屓目に裏打ちされた身内評価だ。プロの目で見れば、どこにでもいるちょっと可愛い女の子にすぎないんじゃないかと思う。オーディションに応募したところで、書類審査で落選するのが関の山。

 事実、346プロからの返事はなくて、何の音沙汰もないままに北海道でのオーディションは終了した。

 

 ――まあ、こんなもんでしょ。

 

 杏はそんなふうに思いながら、コタツに入って干し芋をかじる。

 少しだけ、ほんの少しだけ期待もあったが、さしてガッカリはしていない。だって別に、アイドルになりたいとか思ってないし。その道を閉ざされたところで「ふーん」としか思わない。

 でも――

 

「こーんにーちわー」

 

 ソイツは、ノリの軽い挨拶をしながらやってきた。

 いかにも地主の家――といった感じの古くさい大きな引き戸を開けて、家の人たちが「あらあらまぁまぁ、遠路はるばる」みたいなことを言って出迎えていた。

 杏は耳だけをそちらへ向けて、コタツから出ようともしない。

 

 古くからこの地域を牛耳っている双葉の家には、〝挨拶〟をするために色んな人がやってくる。

 

 あるときは政治家だったり、あるときは農協の偉い人だったり。とっかえひっかえやってきて、杏を見るなり「これはお可愛いお嬢さんだ!」とお決まりのおべんちゃらを言う。

 すると杏もニコッと笑って、一握りの愛嬌を振りまいた。

 その手の連中を好きではないが、別段嫌う理由もない。決まって高級なお土産を持ってきてくれるので、笑いかけてあげるぐらいはしてもいい。

 だからふすまが(ひら)いて、ソイツが顔を見せた時、すでに杏は愛らしく微笑んでいた。

 さっきまでかじっていた干し芋をコタツの脇に押しやって、子供の頃に無理やり習わされた日舞の稽古を思い出して、背筋をピンと張る。

 

「初めまして、杏ちゃん」

 

 ふすまの向こうにいたのは、黒いスーツを着ている女性だった。

 見たことのない人だ。ぱっと見の年齢はかなり若い。20台前半ぐらいだろうか。

 髪の毛は金色で、若干のくせがある。その瞳は青く、宝石のように輝いていた。

 たとえるなら櫻井桃華を大人にしたような女性で、テレビでしか見たことのないような美人だった。

 

「どうも」

 

 杏は営業モードで、形だけの笑みを向けている。

 すごい美人だなと思うが、だからと言って仲良くなりたいとは思わない。早くお土産を置いて、どこかへ消えてもらいたい。

 しかしソイツは、図々しくも座敷に上がり込んできた。

 

「な、なに……?」

 

 杏は居心地の悪さに笑顔を消して、怪訝な顔になる。

 しかしソイツは気にせず、こちらのことをじろじろ見ながら、こう言った。

 

「やっぱりあたしの思ったとおり。うん、可愛い! 君は逸材だよ、杏ちゃん!」

 

 そして女性が、スーツのふところから名刺を取り出した。

 杏は彼女から目を離して、戸口に立って様子を見ている家政婦へ視線を送って無言で訴える。

 

 ――仕事の話なら、お父さんの部屋へ案内してよね。

 

 しかし家政婦は首を左右に振って、何故か嬉しそうに微笑みかけてくる。

 どういうつもりか戸惑いながら、杏は差し出されている名刺へ目を向けた。

 

「……てんしプロデューサー?」

 

 名刺の文面をそのまま読み上げた杏に、その女性は慣れた様子で苦笑する。

 

「よく間違えられるけど、それで〝あまつか〟って読むの。あたしの名前は、天使(あまつか)こはね」

 

 名刺をコタツの上に置いた女性が、その白い手を杏へ向けて、

 

「今日から杏ちゃんの、担当プロデューサーだ」

 

 そう言って微笑んだ女性――天使Pの手が握手を求めていたが、杏は応じない。

 すると彼女は、さらに距離を詰めてきて、

 

「君は間違いなく売れる。このあたし、天使こはねが保証する。だから、ね?」

 

 じぃーっと暑苦しい眼差しを向けられて、杏は「はぁ……」と聞こえるようにため息をついた。

 

「杏、アイドルとか興味ないんだよね。オーディションも、家族が勝手に応募しただけだし」

 

 杏は天使Pを押し退けるように手を伸ばして、干し芋を掴む。

 

「興味がないってことは――」

 

 芋をつかんだ杏の手首を、天使Pが捕まえる。

 

「アイドル、見たことないんじゃない? アイドルのライブとか、行ったことないでしょ?」

「そりゃ、ないよ。だって、興味ないんだから」

 

 それを聞いた天使Pが、ふふんと笑う。

 杏の手首をつかんでいる指に、少しだけ力を込めて、

 

「じゃあ、お姉さんと一緒に見に行こう。実際に本物を見れば、考えが変わるかもしれない」

「そんなことないと思うけど――」

 

 杏は天使Pの手を振りほどき、干し芋を口に運びつつ、

 

「見に行くって、どこに?」

「それはもちろん――」

 

 コタツの上に置かれている天使の名刺。

 その隣にパサッと、二枚の航空券が差し出され、

 

「東京へ」

 

 

 

 * * *

 

 

 

 杏は東京へ行ったことがなかった。

 一度ぐらいは、行ってみたいと思ってた。

 だから天使(あまつか)Pの誘いに乗っただけであり、アイドルに興味があったわけじゃない。狙い済ましたようなタイミングで行われる346プロのライブを見たら、東京観光をして、お土産を実家に郵送して帰ろうと思っていた。

 

 それなのに――。

 

「――どうだった、杏ちゃん?」

 

 ライブが終わって、観客が去ったアリーナで。

 杏は天使Pと向き合っていた。

 スタッフたちがあれこれと指示を出し合いながら撤収作業をしてる中、杏は呆然と立ち尽くしている。頭がうまく回らない。冷静になれない。ライブの曲と、ファンの歓声と、そしてアイドルの――。

 

 アイドルの――なんだろう?

 

 何だか分からないけど、ステージでアイドルたちが見せていた何かに、どうしようもなく惹き付けられてしまっていた。そんな感情を(いだ)いたことは初めてで、その気持ちとどういうふうに向き合えばいいのか分からない。

 

(まぶ)しそうだね、杏ちゃん」

「……眩しい?」

 

 天使Pの言葉に、杏は首を傾げた。

 すぐにはピンと来なかったけど、もしかするとそういうことなのかもしれない。

 ステージで輝くアイドルを見て、その煌めきに心を奪われてしまった。

 だからこんなに、何も考えることができない。

 

「彼女たちは、磨き抜かれた宝石だ。あたしが鍛えて、光らせた」

 

 杏の中で、天使こはねという女性に対する評価が変わりつつあった。

 今までずっと、自分をよく分からないものに勧誘してくる胡散臭い女だと思っていたが。

 ひょっとすると、すごい人なのかもしれない。

 そんな人にスカウトされている自分は、もしかすると――。

 

「アイドル、やってみない?」

 

 天使Pの問いかけに、杏は答えない。

 微かに唇を開き、解体されていくステージを見つめる。

 天使Pはそれ以上言葉を続けることはなく、杏の視界の外で微笑んでいた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 そして杏は、アイドル――双葉杏としてデビューすることになる。

 

 それを聞いた家族は大いに驚いた。娘がアイドルになるということ以上に、怠け者で有名だった杏がそういうことをするのが信じられないようだった。

 それはしかし、杏も同様だ。

 まさか自分がアイドルをやることになるなんて、想像だにしていなかった。夢でも見ているようなふわふわとした気持ちのままで、都内の高校を受験して、上京して、346プロの寮に入った。

 すぐにレッスンが始まって、同じユニットを組むアイドルを紹介された。寮でもたくさんのアイドルたちと顔を合わせた。その中には、あの日のライブでステージに上がっていたアイドルもいた。

 

 杏の世界が、変化していく。

 

 リトルポップスの一員として、自らもアイドルとして舞台に立った。歓声を浴びた。ファンがついた。ラジオをやった。握手会をした。CDが出た。オリコンで一位をとった。テレビに出た。ファンが増えた。全国公演をやった。海外公演をやった。

 

 その一年で、杏は別世界の住人になった。

 もはやアイドルじゃない自分がどうだったのか、思い出せなくなっていた。

 

 しかし――。

 

 東京で二度めの春を迎えた頃。

 リトルポップスの解散が告げられた。

 

「まぁー、そろそろみんな〝リトル〟じゃなくなっちゃうからね。ここらへんが潮時ってやつかな」

 

 天使(あまつか)Pの言葉に、リトルポップスのメンバーは不満の声を上げた。解散の報告をした時にはファンから悲鳴が上がったし、ネット上にはプロデューサーを無能であると非難する書き込みが増えた。

 

 杏もユニットの解散に反対だった。

 

 まだまだ充分人気があったし、どうして無理に解散させる必要があるのか。

 表立って文句は言わないが、腹の底に据えかねる思いを持っていた。

 

「まぁまぁ。もっとすごいプロデュースを考えてるから、期待しててよ」

 

 天使Pにそう言われて、メンバーたちは渋々ながらユニットの解散を受け入れた。

 天使Pは346プロのトップ・プロデューサーであり、プロデュースの天才と褒め称えられている。そんな彼女の言葉には、実績に裏打ちされた威厳があったのだ。

 

 そして実際に、天使Pは敏腕を振るう。

 

 城ヶ崎莉嘉は姉の美嘉とファミリアツインを組んだ。二宮飛鳥は神崎蘭子とダークイルミネイト、白坂小梅はカワイイボクと142´S、早坂美玲は星輝子・森久保乃々とインディヴィジュアルズを組んで、どのユニットも大好評だった。リトルポップスのそれを上回る〝結果〟を出した。

 

 しかし、杏は――。

 

「杏ちゃん、どうする? アイドル、続ける?」

 

 ある日、女子寮にやってきた天使Pから、思いもよらない言葉をかけられる。

 

「いやほら、杏ちゃんって、あたしが無理やり誘っちゃったじゃん? だから、無理に続けさせるのもアレかなーって」

 

 最初は、タチの悪い冗談かと思った。

 だけど何だか、様子がおかしい。

 天使Pはいつものようにヘラヘラ笑っているのだが――。

 その青い瞳の奥に、何かを期待しているような光があったのだ。

 

「……アイドル、わりと楽しかったし、もう少しやってもいいかなって」

 

 杏は(しゃ)に構えたキャラの口調で言って、天使Pの顔をこわごわと見つめる。

 

「…………ふぅーん」

 

 その時、少しだけ仮面が剥がれたのだと思う。

 天使Pが何を期待していたのか?

 その吐息が物語っていた。

 

「オッケー。じゃっ、何か思い付いたらラインするから」

 

 天使のように微笑んで、さっと立ち上がり踵を返す。

 杏から顔を背けるその瞬間。

 天使Pは冷淡な真顔になっていた。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 最初のうちは、一週間置きに連絡がきた。

 大体は単文のラインメッセージだけど、それでもこちらを気にかけているような雰囲気があった。

 

天使(あまつか)こはね:ごめんねー。まだいい感じのプロデュースを思い付けないんだよねー。もうちょっと待ってて。

 

天使こはね:うーん、苦戦中。もうちょっと待っててね。

 

天使こはね:いいアイデアが、降りてきそうなんだけどなー。

 

 その連絡はやがて一カ月置きになり、三カ月置きになり、高校二年の冬に送られてきた新年の挨拶を最後に連絡が途絶える。

 

 一体、天使Pがどういうつもりなのか……。

 杏は寮のアイドルたちに、天使Pがどういう人なのか、その印象を聞いてみた。

 

「結構シビアな人みたいやねー。自分で売れないって判断したアイドルには、絶対に活動させないって聞いたことがある。ほら、プロデュースに失敗すると、社内で評価が落ちちゃうじゃん?」

 

 そう言った塩見周子は、「あくまでも噂だけどね」と付け加え、励ますように杏の肩をポンポンと叩いた。

 

「単に忙しいだけじゃないかな。あの人、一人で何人も担当してるから」

 

 それは同じく天使Pにプロデュースされている五十嵐響子の意見で、彼女は「ところで、杏ちゃんのお部屋、お掃除したいんだけど」と言ってきた。

 

 他のアイドルにも話を聞いて回って、見えてきた天使Pの正体は、およそ天使とはかけ離れているものだった。

 

 ――このまま天使Pのプロデュースを待っていたら、もう二度とアイドルができないかもしれない。

 

 そんな危機感を覚えた杏は、柄じゃないと思いながらも、自分からソロ活動を提案してみる。

 

 それは高校三年の夏で、杏は半袖の制服を着ていた。

 天使Pは学校近くの喫茶店に杏を呼んで、こう言った。

 

「杏ちゃんがソロは、売れないと思うなー。リトルポップス解散して結構たってるし」

 

 へらへらと笑いながらオレンジジュースを飲んでいる天使Pに、杏は我慢できずに言ってしまう。

 

「――っていうか、売る気ないでしょ?」

 

 天使Pはオレンジジュースに繋がるストローをくわえたまま、少しだけ目を見開いた。そのまましばらく杏のことを見つめて、ちゅっと音を出してストローから口を離す。

 

「まぁ、ぶっちゃけ、売る気ない」

 

 さすがに、耳を疑った。

 杏は思わず、眉間に力を込めていた。

 しかし天使Pは、ニコニコしたまま、テーブルに頬杖をついて、

 

「リトルポップスに、アクセントが欲しかった。小さくて、可愛くて、生意気な感じの女の子。オーディションで採用しなかったのは、一発屋になってもらうため。ほら、オーディションで採用したアイドルがすぐに消えると、その後のオーディションに人が来なくなっちゃうでしょ? あそこで採用されても、どうせすぐに消えるって。だから、あえてオーディションでは落ちてもらって、直接声をかけたの。東京でライブがある日にスカウトしたのも、計算づく。ドラマチックだったっしょ? 北海道の田舎にいたら、数時間後には東京にいて、特等席でライブを観る。劇的な環境の変化って、感受性を高めるからね。きっとアイドルをやりたくなるって思ってた」

 ニコニコと語っていた天使Pが、杏へ哀れむような眼差しを向けて、

 

「まぁ、計算外だったのは――」

 

 立ち上がってテーブルの脇に置いてある伝票を手に取り、去り際に呟く。

 

「まさか君が、本当に()()()()になっちゃうとはね」

 

 遠ざかっていく天使Pの背中を睨み、きっとコイツは本当に天使なんだろうと杏は思う。

 天使のように美しく、天使のように有能で。

 

 そして残酷な天使のように、人間(ひと)の気持ちが分からない。

 

 

 

 * * *

 

 

 

 高校三年の冬休み。

 寮のアイドルたちが帰省の準備に追われてバタバタしてる時。

 杏のもとに千川ちひろがやってきて、申し訳なさそうに告げた。

 

「社内規則で、一年以上活動実績のないアイドルには、退寮してもらうことになっているんです。それで双葉さんは、高校を卒業する来年の3月に、退寮していただきたいんです。これは天使(あまつか)Pの判断次第なのですが、その時に346プロとの契約も更新しない方向になるのかなって」

 

 遅かれ早かれ、そういうことになるだろうとは思ってた。

 杏は夏のあの日を境に、天使Pとは一切接触していない。

 

 ――まぁ、こんなもんでしょ……。

 

 そもそも杏は、アイドルになりたかったわけじゃない。

 家族が勝手にオーディションに応募して、それがきっかけでアイドルになった。

 だからそれが終わったところで、何とも思わない。

 

「…………あれ」

 

 ちひろが去って、寮の部屋に一人きりで。

 第一線で活躍しているアイドルたちが、故郷に帰るために寮の廊下を歩き去り。

 そして物音の消えた寮に、一人残されて。

 

「お、おかしいな……」

 

 一人きりの部屋を見つめる視界が、ぼやけてしまう。

 頬を触って、そこに涙の感触があって、杏は思い出す。

 舞台袖で待機しているときの緊張感。

 ファンの歓声を浴びた瞬間の高ぶる気持ち。

 何物にも代えがたい、眩しい世界。

 

「はぁ……」

 

 すっかり口癖になってしまった吐息をついて、杏は虚ろな眼差しをスマホへと向ける。

 双葉杏と打ち込んで、検索をかけてみた。

 

 引退。自然消滅。一発屋。

 

 並ぶサジェストを目にして、杏は自嘲するかのように笑う。

 なるほど。天使Pの狙いどおりになったというわけだ。

 

 が、とあるウェブページを目にして、その表情が固まった。

 

《アイドル 双葉杏の活動再開を願うスレ》

 

 それは、ネットの匿名掲示板の中にある、スレッドの一つ。

 杏は震える人差し指で、スマホの画面をタップする。

 

 来年こそは杏ちゃんが復帰する。俺には分かる。 松平凡人

 いやいや、ないでしょ。杏はオワコン。 名無し

 充電してるだけだから。杏ちゃんはそういうキャラなんだよ! 松平凡人

 何年充電してんだよ? 過充電www 名無し

 っていうかお前、必死すぎ。本人?w 名無し

 お前ら、杏ちゃんに復帰してほしくないのかよ? 俺は復帰してほしい! 松平凡人

 二年も何もしてないやつが復帰できる世界じゃない。マジレス。 名無し

 リトルポップスの落ちこぼれw 名無し

 杏は北海道に帰りました。 名無し

 俺は待ってる。いつまでも待ってる。俺は杏ちゃんを諦めない。 松平凡人

 しかし杏は諦めたw 名無し

 いつまでも待ってろwww 名無し

 

 その男は、インターネットの片隅で。

 たった一人で闘っていた。

 

 その松平凡人という変な名前に、覚えがあった。リトルポップス時代に、毎回顔を見せていたファンの一人だ。CDにサインをするときに、松平凡人くんへと書いた。あまりにも変な名前で印象的だった。

 でも、本人は印象が薄かった。七三わけで、眼鏡をかけて、主張の弱いチェック模様のシャツを着ていることが多かった。

 

「まつだいら、ぼんど……」

 

 杏は呟き、部屋の天井を見上げる。

 もう一度、会ってみたいと思った。

 本当に今でも、双葉杏のファンでいてくれる人がいるなら、最後に会って、伝えたい。

 

 ――今までありがとう。でも……。

 

 そして杏は、松平凡人と会うにはどうすればいいかと考えた。

 メルカルの出品の酷さをネタにしているまとめサイトの記事を目にして、ひらめいた。

 

 メルカルに自分を出品すればいい。

 

 もし、彼が本当にファンであれば食いつくだろう。そうすれば住所が分かる。

 

 そして、大晦日。

 ほとんどのアイドルが帰省してしまって物音のしない女子寮で、杏はメルカルのサイトにアクセスして――。

 

 

 

 * * *

 

 

 

「はっ! ……寝てた」

 

 窓から差し込む朝日に、杏は目を覚ます。

 ここは田舎であるせいか、朝になるとすごい勢いで鳥が鳴き始める。そのせいで早朝に起こされる。

 

 ――ぼんどは……。

 

 布団に入っている杏が目を向けた先で、凡人(ぼんど)は寝袋からアフロ頭だけ出して、むにゃむにゃと寝言を言っている。

 

 本当は、こんなに長居するつもりはなかった。

 最後までファンでいてくれた彼に引退を告げて、アイドルの世界から去ろうと考えていた。

 

「…………」

 

 杏はぼんやりとした眼差しを、枕元に転がっていたスマホへと向ける。

 ラインメッセージの通知があった。

 

五十嵐響子:杏ちゃん、いつ帰ってくるの? 北海道から。

 

 杏は少し考えて、スマホの画面へ指を走らせる。

 

杏:もう少し、こっちにいると思う。

 

 その時、寝袋で寝ている凡人が寝言を言った。

 

「ダメですよぉ、菜々さん。エッチすぎますってぇ」

「…………」

 

 杏はむっとして、枕元に転がっていた飴を投げつけた。

 それは凡人のアフロ頭にボフッと吸い込まれて消える。そのシュールな光景に、杏は思わず噴き出してしまう。

 

「まったく、ぼんどは……」

 

 杏はいつものようにため息をついて、それでもどこか楽しそうに微笑んでいたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 ― 次回予告 ―

 本格的にリニューアルプロデュースを始動する893プロ。
 その(かなめ)となるのは、早苗・雫・裕子による新ユニット。
 果たして893プロは窮地を抜け出すことができるのか、それとも……!?

 第9話 『セクシーギルティ』

 次回もお付き合いいただけますと、幸いです。














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