真実《プラウダ》の女王陛下 (伊藤 薫)
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第1章:序
[1]
東京・神保町。
ある日の夕刻、私がいつもより早く仕事をすませて出版社の玄関を出た。その時、ある男が神田すずらん通りの数歩前を歩いていた。
《同志》ミーチャ。本名は倉田道義という先輩記者だった。根っからのロシアかぶれ。何ごともロシア語とロシア流で対応する。その《同志》がちらっと視線を横に向ける。その時、《同志》は後ろから歩いて来た私に気付いた。ロシア語で話かけてくる。
「おや、本郷君。仕事終わりかね?」
《同志》とはすでに長い付き合いだった私もロシア語で返事した。
「ええ。先輩も?」
「うん、大洗の取材から帰って来たところだ。会社に行こうと思ったけど、その前に腹が減ってね」
「自分もメシを食べようかと」
「一緒にどうだい、ちょうど私の知ってるレストランで美味しいロシア料理を食べさせる店がこの近くにあるから」
気前のいい《同志》からロシア料理を奢られるとあれば、私は断る言葉がなかった。
《同志》が案内してくれた店はレストラン・オルセーといった。通り沿いに建つこじんまりした店だった。席は十脚ばかりしかない。客はみな正装に身を包んでいる。私は自分が着ていた服装―くたびれたネルシャツとジーンズが恥ずかしくなったが、《同志》はすきのない黒スーツ姿だった。それが戦車道の取材に行く時の《同志》なりの流儀だった。
2人ともミリタリー専門の月刊誌で戦車道の取材を担当している記者だった。私は本郷健という本名だが、入社した時に編集長から「お前の担当は黒森峰だ」と告げられた。ドイツ軍のハインツ・グデーリアン将軍が書いた回想録―「電撃戦」の翻訳者と同名だったからだ。ドイツ軍の装甲部隊に近しいところが多い黒森峰の担当として適材だろうという判断だった。
給仕に私たちを窓際のテーブルに案内する。《同志》はメニューを私に手渡し、独特の発声で聞いてきた。
「スープとアントレは、何にする?それから、料理は・・・」
「先輩にお任せします」
《同志》のおまかせで出てきた料理とワインはどれも一級品だった。《同志》の評では、この店の都築というシェフの目利きが良いらしい。ロシア本国から最高の品物を輸入しているとのことだ。当然ミュシュランガイドにも載っている。
琥珀色のコニャックを2人で舐めながら、私は《同志》の大洗で行われたエキシビションマッチの取材を聞いている。戦車道全国高校生大会の優勝校はその地元で優勝記念の試合をやる決まりになっていた。今年のエキシビションマッチは第63回大会で優勝した大洗女子学園・知波単学園・継続高校と聖グロリアーナ女学院とプラウダ高校。
私は《同志》に尋ねる。
「プラウダ番として試合はどうでしたか?」
「ほとんど聖グロリアーナの勝利のお膳立てみたいな感じだったよ。君こそ黒森峰は?何か動きでも?」
「まだお通夜モードですかね」
「決勝は姉妹対決で外野は大いに盛り上がったが、黒森峰としては決して負けるわけにいかない大会だったのは容易に想像がつく。それを落としたんだからなあ」
私はコニャックをひと口含んだ。
「そういえばプラウダにはたしか、留学生が来てるんでしょう?」
「そう。名前はクラーラ」
「戦車は?」
「T34/85。プラウダは留学生に必ず載せるんだ。そういう伝統がある」
「T34/85に?どうして?」
珍しく酔いが回ったらしい《同志》がこんな話を始める。
「本郷君、どんな留学生にせよ、あまりマトモと呼べるような選手は数少ない」
私はうなづいた。一時期の大学駅伝でどの大学も脚の速い留学生選手をスタメンに入れることが流行ったように、戦車道でも留学生がスタメンにいることが増えた時期はあった。駅伝とは異なり、日本国内の戦車道で勇名をはせた留学生はあまり聞かない。
「ぼくは今までプラウダに来た留学生を何人も取材したけど・・・本当に強かったのは1人だけだ。あれこそ偉物だった」
「誰です?」
「マリア・オクチャブリスカヤ。プラウダには女帝がいたんだ」
「女帝?」
「エカチェリーナだよ。T34の砲塔に女帝の名を冠してたんだ・・・」
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[2]
無線に雑音が混じっていた。小隊長の命令が辛うじて聞こえてくる。
《ベア1より各車、先頭の車両は私がもらう。ベア2は2番目、ベア3は3番目をやれ》
「ベア2よりベア1、了解」
ベア2の車長―マリアはそう答えた後、無線を車内通話に切り替えた。
「アーリャ、徹甲弾を装填」
装填手のアーリャは車体の床に屈み込む。床の弾薬庫から徹甲弾を取り出して砲身に装填し、装填口の閉鎖栓を閉じる。
「戦車長、装填完了しました!」
砲手も兼ねるマリアは電動旋回レバーを押す。76ミリ砲を備えた砲塔が唸りを上げてゆっくりと旋回する。マリアたちが乗るT34/76の砲塔には左側面に白いペンキで「エリザヴェータⅠ世」と書かれている。
「当時のプラウダはどの戦車も」《同志》が言った。「砲塔にスローガンが書かれた。《母校の勝利に》とか《タピオカ万歳》とか」
「《タピオカ万歳》?」私は思わず尋ねた。
《同志》は笑った。
「言葉は何でも良かったようだ」
砲塔の中では照準器や計器、戦車砲の閉鎖機も全て左に旋回を始めたが、マリアとアーリャの座席は動かなかった。これはT34の欠点だった。車長と装填手の座席は車体の旋回リングに取り付けられている。そのため砲塔が旋回する度に、2人は回転する砲尾と射撃装置と一緒に動き回らねばならない。マリアは《同志》に対して「まるで砲塔とダンスを踊ってるみたい」と自嘲していた。
マリアは身体をねじ曲げながら射撃照準器を覗き込む。敵役の戦車が左翼から縦列でこちらに迫ってくる。小隊長から指示された通り、先頭から2番目の車両―T34に照準をつける。俯仰ハンドルを回して主砲の砲口を目標の側面に合わせ、そのまま前進してくる敵戦車を照準器で追い続ける。敵を約六百メートルの地点までひきつける。
その時、小隊長が無線から叫んだ。
「ベア1より各車、発射!」
「
轟音とともに主砲の76ミリ砲から徹甲弾が放たれた。ほぼ同時に、小隊の全車両から射撃が行われる。各車の主砲から炎が閃いて花火のようだった。戦車が衝撃で揺れ、砲尾が勢いよく後退する。焼けた薬夾が砲身から押し出され、むき出しの弾薬箱に音を立てて落ちる。砲尾から逆流した硝煙が狭い車内に充満する。全員が軽くせき込んだ。
マリアたちの戦車―《女帝》はじりじりしながらうずくまっていた。ディーゼル・エンジンはアイドリングしながら命令を待っている。砲塔の旋回装置が唸りを上げ、戦車砲を前方に向けた。マリアが不意に操縦手の首筋を固いブーツの足先で突いた。
「前進全速!急いで!」
操縦手であるサーシャは左右にある操縦レバーのうち左を手前に引き、右を前に押し出した。《女帝》がかすかにスリップしながら左に旋回する。T34に装備された履帯の広いキャタピラが泥を噛むのを感じ取った。続けてクラッチを踏み、変速レバーをT34の一番高いギアである四速に押し込んだ。変速機がギリギリと鳴る。サーシャは屈んでハンマーに手を伸ばしたが、操縦手に殴られて従わされることを嫌った《女帝》のギアが噛み合った。サーシャはアクセルを一杯に踏み込み、《女帝》は最大速度の30マイルで陣地の土手を乗り越えて跳ねながら走った。
練習場は雨上がりの泥にまみれた不整地が広がっていた。身構えていなかったマリアは詰め物入りの戦車帽をかぶった頭をどこかにぶつけた。戦車の中は金属に囲まれている。サスペンションが装備されているとはいえ、練習が終わった後は全身が打ち身やアザだらけになる。車体がガタガタと揺れる中、マリアは弾着確認を行う。数秒後、爆音が轟いた。マリアは目標の車体から立ち上がる白旗を視認した。
敵の先鋒は全て撃破されていた。マリアたちの小隊が迫る。敵の本隊は向きを変えて窪地の傾斜を下り始める。そして煙幕を張る。
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[3]
敵は河に逃げるつもりだろう。
小隊長―ベア1はそう判断した。無線でマリアたちに追撃を命じる。小隊は窪地を横切るように煙幕の中を探りながら進撃し、そのまま敵ともつれるように戦闘に入った。マリアは思わず悪態をついた。
「××××!この×××野郎!」
それなりにロシア語が分かる3人の反応も三者三様だ。アーリャが「そすもんでね、マリアしゃん」と言えば、「美人が台無しだっぺよ」と嘆いたのは無線手兼機関銃手のナージャ。サーシャはウハハと忍び笑いをする。
マリアは肩の高さにある小さな展視孔を睨んでいる。敵役がばらまいた煙幕のせいで視界は余計に悪い。市街戦を彷彿させるような乱戦に陥り、いつの間にか小隊長との通信も途絶える。
ペリスコープから周囲を監視していたナージャがまっ先に敵を発見した。車長であるマリアには考えている時間は与えられない。要は戦うか逃げるかである。
「T34、12時!」
この時、とっさに頭に血が上ったアーリャだった。ナージャの叫び声を聞くなり、アーリャは砲弾を装填して「装填完了!」と怒鳴った。マリアは主砲を12時方向に向けて発射ペダルを踏んだ。発射と弾着がほとんど同時だった。
「命中!」ナージャが言った。その声と同時にハッチから顔を出したマリアはいま交戦したT34を見た。後部の変速機が吹っ飛んでその場に擱座している。すぐ傍を味方のT34が走り抜けた。ナージャの大声がマリアの注意を引き戻した。
「KV1、2両!」
重戦車だ。ところがアーリャは「徹甲弾、装填済み!」と叫んだ。重戦車には徹甲弾より貫通力があるAPDS(装弾筒付徹甲弾)が有効である。だが、砲弾を抜いている暇はない。マリアは反射的に「発射!」と言いながら撃った。
「命中!」ナージャが報告する。
マリアはアーリャに命じる。
「APDSに切り換えて!」
アーリャは指示された通りにAPDSを装填する。またマリアは発射ペダルを踏む。再び「命中」。マリアはそこで下に手を伸ばし、次の徹甲弾を装填しかけているアーリャの腕を掴んでAPDSを装填するよう伝えた。砲身に徹甲弾が入っている時に重戦車に遭遇したくない。APDSならどんな戦車が相手でも装甲を貫ける。
《女帝》が高地を登り始める。ようやくマリアの戦車は煙幕の外に出た。右方に軽戦車のT60が2両見えた。マリアは射撃照準器を覗いて命令を出しかけてやめた。T60はじっとうずくまっているだけだった。どうやら破壊された車両らしい。
視界の端に何かが動いた。マリアは躊躇せずにサーシャの左肩を蹴った。《女帝》が左に旋回する。マリア砲塔を敵に向けた。
「アーリャ、APDS!T34!」
「装填済みは徹甲弾!」アーリャが訂正する。
「発射!」マリアは発射ペダルを踏んだ。「APDS装填して!」
アーリャから「装填よし」という報告が入る。とっさに照準を決めて再び発射ペダルを踏んだ。砲弾はT34の上方を飛んで行った。マリアはあらためてAPDS装填を命じた。アーリャが「装填完了」と言った瞬間、マリアは「発射!」と続けた。
今度は敵の前部装甲に命中した。命中した箇所から火花と炎が噴き出した。乗員が飛び出してくる。
「T34!8時!」
マリアが叫んだ矢先、ガンと殴られたような衝撃に襲われた。相手が撃った徹甲弾が砲塔側面の傾斜装甲に当たって弾かれた。マリアはさっと砲塔の内部を見回す。異常は見当たらなかった。判定装置も動作していない。マリアは砲塔を背後に向けて叫んだ。
「目標、8時のT34!APDS!」
「装填完了!」アーリャが叫び返した。
敵が逃げようと旋回を始める。マリアが「発射!」を告げて左側のペダルを踏む。
同時に衝撃が襲った。次いで主砲の反動が《女帝》を揺るがした。マリアはハッチを開けて左右に眼を向ける。左上方―斜面の天辺に3台目のT34を発見した。
アーリャが「命中!」を報告する。その声を聞きながらマリアは旋回レバーを押して砲塔を左に急旋回させつつ、いま撃破したT34には見向きもせず、サーシャの右肩を蹴った。《女帝》が右に旋回して敵と正対する。
T34は《女帝》に向かって徹甲弾を放ち、斜面を後退しながら上がり始めた。マリアは主砲を敵の正面に定め、発射ペダルを踏んだ。T34の砲塔に火花がまばゆく咲いた。次の瞬間、判定装置の白旗が揚がる。
「状況終了!」
無線から小隊長の声が響いた。マリアはホッと息を吐いた。身体から緊張が解ける。戦車にいる他の乗員も同じだった。戦車に乗っている間は心身をひどく消耗する。マリアは腕時計に眼を落とした。戦闘に突入してからまだ20分しか経っていない。
誰かが《女帝》の上に飛び乗り、車長用のハッチをノックした。
マリアは砲塔から顔を出す。差し伸べられた手を掴んで立ち上がる。眼の前にプラウダ戦車道の隊長が立っている。隊長はマリアの身体を抱きしめる。周囲に戦車道の履修者が集まり、皆が拍手を送る。隊長がマリアの耳元でささやいた。
「
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[4] 幕間(その1)
「最初の練習試合で、単騎で七両撃破とはすごいですね」私が言った。
「そうだろう」
《同志》が1枚の写真をテーブルに出した。
T34/76を背景に、4人の選手が写っている。いずれも
一番左に身体の大きいアーリャ。隣は細面に眼鏡をかけたナージャ。少し老けたような顔立ちのサーシャ。そしてマリア。「エカチェリーナⅠ世」の車長兼砲手。
マリア・オクチャブリスカヤ。モスクワ生まれだが、一族はコサックの末裔だった。留学先のプラウダでは最初の紅白戦から、もう周囲に一目置かれるようになった。切れ長の瞳は淡青色。鼻筋がすっと通り、口元は不敵な様子で緩められている。上背は高いようだ。背丈は他の乗組員たちよりも一回り大きい。
「マリアたちと初めて会ったのは、どこで?」私は言った。
「当時、私がちょうどプラウダで取材をしていて、試合後にマリアたちと会ったんだ」
大学で史学科を専攻した私はつたない記憶を頼りに言った。
「『エリザヴェータⅠ世』というのはたしかにロマノフ朝の女帝ですが、どうなんですかね。あまり一般的じゃないような気がします。ロシアの《女帝》といったら誰もが同名のⅡ世の方を想像しますが」
「そこがマリアなりの謙虚なところだ。たしかに気持ちの上ではⅡ世に倣ってそう書きたいところだが、自分はまだまだ未熟者なのであえてⅠ世を選んだ」
「マリアはともかく、他の乗員たちは戦車道の経験者だったんですか?」
「いや、操縦手のサーシャが中学生選手だっただけだ。あと2人はちょっとロシア語が喋れるというだけで選ばれた。マリアがプラウダに来て最初の1週間ぐらいは真夜中までクルーと一緒に練習を積んだそうだ」
「それでも、初心者の乗員を使い物にするのは簡単に出来ることじゃありませんよ」
当たり前だが、戦車は素人が扱えるほど簡単ではない。私も何度か取材で戦車に乗せてもらったことがある。自分よりもずっと年下の女子高生が操縦する姿をカメラで写真に収めたりした。どの学校でも言われていることがあった。未経験者がまともに隊列を組んで行進するまでに3か月。目標に砲弾を当てるのに最低でも3か月はかかる。
「まあ、元々が無茶な要求だったんだ。当時、プラウダは大会に出場する選手を選抜するためにこんな無茶をよくやってた。1個小隊3両で大隊規模の敵を相手にして生き残ったらめでたくスタメンになれる」
「まるでスパルタだ」
「うん?」
「ああ、厳しい教育という意味ではなくて、古代ギリシャの都市国家スパルタのように思えますね」
《同志》はうなずいた。
「まあ、まさしく今は無きソ連流の『力こそ正義』を実践したってところだ。ただ、面白いのは当時、戦車道の顧問をしていたのは元陸上自衛官で機甲科出身の諸橋という体育教師でねえ。諸橋はマリアに1週間でものにならなかったら、すなわちスタメンにならなかったら国に帰すと言ったそうだ」
「それはひどい」
「自分の権威が落ちることを恐れたんだろう。まあ実は諸橋はあの練習試合で、戦車に乗ってたんだ」
「へえ」
「マリアが最後に撃破したT34だよ。マリアは諸橋と正面からやりあって見事に撃破してみせた。諸橋は面目が丸潰れになって、顧問を辞めざるを得なくなった。それもマリアの株を上げることになった」
「マリアは黒船ですね」
「黒船?」
「黒船が来ないと、部活にはびこる悪しき慣習を正そうとする雰囲気にならない」
《同志》は受け答えに困るという顔をして黙ってしまった。何か変なことを言ったのだと私は気づいたが、自分の物言いの何が変だったのか分からなかった。分かっていたら、初めから言っていない。
「それで、マリアの留学生活は順風満帆だったんですか」
「そうでもない。さっそく試練が襲いかかるわけだが」
《同志》がコニャックのお代わりを2人のグラスに注いだ。
「そうこなくっちゃ」
第1章はこれで終わりです。
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第2章:破
[5]
マリアは《女帝》の砲塔から上体を出して双眼鏡を覗いていた。
戦車道全国高校生大会。今日は準決勝。プラウダは予選から順当に勝ち進んで黒森峰と対戦することになった。マリアたちの小隊―4両のT34は川に面した高台の陣地に身を潜めていた。マリアはハッとして顔を空に向けた。
《何か来る》
1秒後、ヒューという風切り音が聞こえた。砲弾は《女帝》の20メートル後ろに着弾して競技場を揺らした。土砂が巻き上がり、黒い雨を周囲に降らした。
「今のは何⁉」サーシャが車内から叫んだ。
「戦車よ」
「戦車?そんな!」
88ミリ砲だ。マリアはそう思った。黒森峰に《ティーガー》がいる。間違いない。
マリアは車長席に飛び降りてハッチを閉める。ブーツが操縦手のサーシャの肩にかかる。両方の爪先がすばやく同時に肩を叩く。《エンジン始動》。
サーシャがスターターを押す。《女帝》は身震いした。マリアはインターコムで徹甲弾の装填をアーリャに命じる。爆発がT34の周囲で起きる。地面が震える。《女帝》の左右に車体を埋めた小隊の他の戦車は川越しに黒森峰の大口径砲と撃ち合いを始める。何発かひときわ騒がしい砲弾がごく近くに着弾した。マリアはやっと命令を下した。サーシャの肩の上で2つのブーツが躍った。
「後退するわ。急いで。向こうはコッチの距離を掴みかけてる」
サーシャがギアレバーを後進に押し込んでアクセルを踏み込む。キャタピラが回転し、車内の全員は《女帝》がバックで勢いよく陽射しの中に出ようとしたため、身体が前につんのめった。すぐに一条の陽光がマリアの展視孔に差し込んだ。
《女帝》が平らな地面に出る。眼の前に河が流れている。川のこちら側―南岸に広がるトウモロコシ畑は踏みにじられている。この距離では、草原地帯にいる黒森峰は小さな点のようしか見えない。しかし小隊の周囲に着弾する砲弾は凄まじい力で大地を揺るがしている。しかもこの弾は何マイルも先から飛んできている。マリアはサーシャの首筋を押す。
サーシャは戦車を一速に入れた。マリアは川を見下ろす高台の突端を横切り、《女帝》を西に向かわせた。すでにこちらは戦車のうち5両が撃破されている。2両は炎に包まれている。擱座した車両はどれも白旗を上げ、装甲に大穴が開いている。黒森峰の《ティーガー》に粉々に吹き飛ばされていた。
《女帝》は稜線にそって突進した。すでに小隊の他の戦車4両とそれ以外の5、6両も塹壕から出ている。このまま右往左往していると、各個撃破の目標になるしかない。
《さてどうする?》マリアは思案する。
T34の76ミリ砲では対岸にいる黒森峰の《ティーガー》を傷つけることさえ出来ない。戦車砲の砲身長が短いために敵の重戦車を貫徹するのに必要な初速を得ることが出来ないからだ。射距離2マイルか1マイルでさえも。しかし《ティーガー》は姿が見えないこの距離からでも、ゆったりと腰をおちつけてT34を撃破できる力を持っている。
砲弾が《女帝》の行く手前方の20メートルに着弾した。土が宙に吹き上げられる。
「距離を掴みかけてる」アーリャがインターコムで言った。「夾叉されてるっぺ」
マリアはナージャに副隊長を呼び出すよう命じる。副隊長がマリアの小隊を麾下に置く中隊を率いていた。
数秒後、副隊長から通信が入った。マリアはインターコムを切り替えた。
《ポーラーベアよりクイーン。マリア、聞こえるか》
《クイーンよりポーラーベア》マリアは答える。《このままだと何も出来やしない。
《・・・せめてフラッグ車だけでも後退させたい》
《簡単にそんなことをさせてくれる敵じゃなくてよ》
《丘の陣地から出て川に向かってけん制する。その隙に、フラッグ車を退避させる》
《誰がけん制する?》
《・・・》
《アタシに突撃しろって命令しなさい。アナタが中隊長なんだから》
《・・・よろしく頼む》
マリアは小隊に向けて通信を切り替える。
《クイーンより小隊各車。アタシたちは最大速度で川まで降りて一撃離脱する。1発お見舞いしたら、さっさと逃げ出す》
小隊から「了解」が返答される。マリアはインターコムで車内に告げる。
「いいわね?聞いた通りよ」
「突撃です!」アーリャが吠えた。「突撃あるのみです!」
「まるで知波単みたいね」ナージャが笑う。
「サーシャ、全速前進!」
マリアのブーツが首筋の真ん中を押す。サーシャはまずシフトダウンしてから左手の操縦レバーを引き、右手のレバーを前に倒す。《女帝》が左旋回に入った。サーシャはギヤを三速に上げる。速度を上げて真っ直ぐに丘を下りていった。
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[6]
マリア率いるT34の小隊は長い斜面を蛇行しながら猛スピードで降りていった。
マリアはサーシャに対して、相手の測遠機に捕まらないように右に左へ旋回するよう命じた。マリアの開いたハッチ越しに見る世界は二分されていた。上半分は青く澄み切り、下半分はどこもかしこも戦いの帳と飛び散る作物の破片ばかりだった。サーシャが車体を目いっぱい左右に振った。こんな乱暴な操縦では何かを見つけて標的にすることなど不可能。丘の一番下に着いた時が狙い目。差し当たって今は速度を落とさないこと。マリアはそれだけを命じた。
サーシャはギアを四速に入れる。《女帝》を出来る限り速く走らせながら、丘をまっすぐ下りていった。川の向こう岸では四両の戦車が密集隊形を取っている。
全てⅣ号戦車だ。黄褐色の迷彩。75ミリ砲。
「アイツらが見える?」サーシャがインターコムでマリアに呼びかけた。
「ええ」
「奴らのでかい兄貴はどこにいるの?貴方が怖いのよ、マリア。間違いない。プラウダ最高の砲手なんだから」
マリアは声を上げて笑った。黒森峰のワークホースは死の物狂いで疾走するプラウダ戦車の縦列が止まるのをじりじりしながら待っている。
「距離は?アーリャ」
「1000メートル!」アーリャが声を上げた。
「もっと接近する?」サーシャが尋ねた。
「もち」
《女帝》はさらに丘を下った。詰め物入りの戦車帽を被った頭が狭い車内でぐらぐらと揺れる。サーシャは川岸に建つ納屋に向かって《女帝》を走らせた。マリアは納屋の陰に陣取って相手から身を隠すつもりだった。小隊はそこで集結して攻撃を決断する。Ⅳ号戦車は500メートルも離れていない。この距離なら撃破できる。
サーシャは左に急旋回を行った。Ⅳ号戦車はまだ1発も撃っていない。サーシャは《女帝》を納屋の裏にすばやく入れた。マリアのブーツが停止を命じた。マリアはハッチを開けて立ち上がった。小隊の残る3両の戦車が《女帝》の後ろに止まった。
マリアが車外に飛び降り、30秒ほど姿を消した。やがてまたハッチに転がり込んでくると、戦車帽をインターコムに接続して低く屈んだ。アイドリングする《女帝》がガラガラと音を立てるエンジンに負けない声で、マリアは乗員たちに命令を伝えた。
「アタシたちが最初に突撃する。コーリャの戦車がすぐ後についてくる。アタシたちが納屋の陰から出たらすぐに、アーニャとターニャが反対方向に姿を現す。敵の注意を左右に逸らす。サーシャ、スピードが必要になるわ。これだけ敵に近いから、もし奴らに対して真横に進むなら、こっちを捉えにくくする必要がある。コッチが十分に離れたら、ブレーキを踏んで。アタシは出来るだけたくさん撃つ。それからまたあの丘に戻る」
危険な戦術だった。相手に対して横に進めば、T34のキャタピラの一番弱い装甲を敵にさらすことになる。戦争はどれも正面装甲が一番厚く設計されている。しかし同時に、マリアは斜めからⅣ号戦車の脆弱な側面を攻撃できるようになる。
マリアがハッチを閉じる。サーシャは手を伸ばしてアーリャのブーツを拳で叩いた。
「アーリャ、ワタシのために最初の砲弾に
「いいっぺよ、サーシャ」
マリアは自分の座席に着いた。アーリャはサーシャを見下ろしてにっこり笑った。「この頃は」《同志》が言った。「乗員たちが弾に自分の名前を名付ける文化があった。お呪いみたいなものだが」
砲塔が唸りを上げて旋回する。マリアとアーリャは旋回する戦車砲の後ろから離れないように、ゴムマットの上を歩き回った。マリアは戦車砲を右に90度以上旋回させた。納屋の物陰から《女帝》が飛び出したら、この角度で1発お見舞いするつもりだった。
「徹甲弾」マリアは命じた。アーリャは徹甲弾を持ち上げた。サーシャはインターコムでアーリャが砲弾にキスする音を聞いた。
「必ずⅣ号に命中するっぺよ、幸恵」アーリャはそう言って砲尾に装填した。
「ナージャ?」マリアが呼びかけた。
機関銃手が前席から振り向いて車長を見上げた。
「何だっぺ?」
「アナタ、本名は?」
「奈良岡咲」
「苗字からとったのね。では、2発目はそれよ。準備はいい?」
「準備よし」サーシャが答える。
村の武術大会で人馬が解き放たれる前の一瞬のように、マリアはひと呼吸置いた。刀が振り上げられ、メロンが木に揺れている―。
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[7]
「突撃!」
サーシャはクラッチを離してアクセルを踏んだ。エンジンに燃料を一気に注ぎ込まれた戦車は埃を巻き上げて走り出した。続けて《女帝》が納屋から出てもいない内にギアを二速に入れた。飛び跳ねる鉄がガタガタと立てる音を突き破って、マリアは砲声が響くのを聞いた。小隊が納屋を回って現れた時、Ⅳ号戦車の1両が狙いすました1発を放ったのだ。黒森峰は的を外した。サーシャが《女帝》を急加速させたからだ。しかしこれは1発目に過ぎない。連中は間違いなく2発目を装填している。相手の戦車はまだ3両いる。
今度はマリアが発射ペダルを踏んだ。
《女帝》が衝撃で車体が傾き、右のキャタピラが浮き上がる。主砲が車体に対して完全に右を向き、キャタピラが畑の上で飛び跳ねる。サーシャは発射の反動にも手を離さず、さらに速度を出した。《女帝》が再び両方のキャタピラを地面に着けるよりも先に、ギアを三速にシフトする。アーリャは2発目の徹甲弾を取り落とした。砲弾が床にぶつかる音が響いた。アーリャは砲弾を拾い上げてそれを砲尾に押し込む。マリアが呟いている。
「いけ、いけ、いくんだ・・・」
サーシャは変速機を出来るだけ酷使して《女帝》を駆り立てた。回転数がギアチェンジすべきポイントを越えて上がるのを見つめる。言うことを聞いてちょうだい。もう少し加速に耐えてくれ。《女帝》にそう頼んだ。サーシャの祈りはエンジン音の高まりにかき消された。少し待ってからクラッチを踏み、ギアレバーを四速に入れた。《女帝》が前のめりになり、ほっとして力いっぱい走り出した。その時、マリアが叫んだ。
「今よ、サーシャ!」
サーシャの脚がブレーキを力いっぱい踏んだ。生まれてこのかたしたことがないほど素早くシフトダウンした。
マリアの脳裏で一頭の馬が突然、轡を引かれて頭をのけぞらせる光景が浮かんだ。だが馬は乗り手を気遣って地面に足を踏ん張った。マリアは鞍の上でのけぞり、手綱をいっそう強く引いた。馬は大人しくなり、回転する《女帝》のキャタピラがぴたりと止まる。乗員は埃に包まれた。《女帝》が広い場所にじっと動かずにいる。600メートル先の4両のⅣ号戦車に横腹を向けていた。
心臓がドクと脈を打った。マリアは動いた。発射ペダルには左脚を載せている。砲塔がもう数度右に滑る。マリアはもう片方のブーツで飛びながら、回転する戦車砲を追いかけた。眼は潜望鏡に釘付けになっている。アーリャは装填を終えた砲尾の横に立ち、次弾を抱えている。まるで装甲に一撃を食らったかのように、さらに1秒が戦車の中でドキンと脈を打った。マリアの手が俯仰ハンドルを回した。
「よし」マリアはつぶやいた。「さあ、きなさい・・・」
マリアは発射ペダルを爪先で押した。戦車砲が火を噴いた。砲声が雷鳴の様に轟き、砲尾が下がる。煙る薬莢が押し出された。それが二度跳ねる前にアーリャが次弾を戦車砲に押し込み、マリアは俯仰角に小さな修正を加えた。それから再びペダルを踏み、戦車は揺れた。強烈な爆発が戦車を揺さぶった。砲尾が再び薬莢を吐き出した。車内に発射ガスの悪臭が立ち込めた。マリアのブーツがサーシャの首筋を蹴った。
「進め、進め!」
サーシャが操縦レバーとギアを動かした。マリアは上下に跳ねながら砲塔を旋回させてまた正面に向ける。車体のバランスを良くして速度を上げるためだ。
「首尾は?」ナージャは叫んだ。「どうなったの?」
マリアはしばらく答えなかった。潜望鏡をⅣ号戦車の方に向け直している。急いで離脱しながら損害を調べる。
「この××××!×××てやる!」
「2両のⅣ号が炎上」アーリャが代わりに答える。「1両が煙を上げてる。最後の1両は外した」
「こっちは?」
「ターニャが動けなくなった」マリアは言った。「乗員は脱出してる」
「次はどうするんだっぺよ、マリアしゃん」ナージャが聞いてくる。
《女帝》は蛇行しながら丘を登っている。自分の判断は小隊を危険に晒すことになるかもしれない。一族のために
「引き返しなさい、サーシャ。ターニャの下に向かうわよ」
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[8]
サーシャはぐるりと回って丘を降りるために《女帝》を右に旋回させた。戦車が急に揺れる間、マリアはしっかりと両脚を踏ん張った。ナージャはいいぞとばかりに拳をサーシャに向かって振りかざした。サーシャはT34を丘の下に向け、ギアレバーを掴んで三速に入れた。《女帝》が突進した。
戦車は砲弾の穴の縁で弾んで宙に飛び上がった。それから激しく落下して走り続ける。全員が身体をぶつけた。マリアは詰め物入りの戦車帽を被った頭を打ち付ける。「おつむをこんなに毎日ぶつけてたら歳を取った時にバカになるんじゃないか」後日、マリアは《同志》にそう語った。マリアは「もっと速く!」と叫んだ。
「他の3両は?」アーリャが言った。
「忘れてたわ」マリアは回転式の潜望鏡で背後を確認した。「3両ともついて来てる」
200メートル先では煙が川の両岸から渦を巻いて立ち上がった。撃破されたⅣ号戦車は炎に包まれている。燃料と弾薬に火が付いたのだ。3両目の戦車はエンジンから灰色の煙を吐き出していたが、まだ動いている。4両目は川岸に沿って行ったり来たりしている。納屋の右ではターニャのT34が撃破されていた。左側のキャタピラが吹き飛ばされて、戦車の後方にバラバラに散っている。戦車は開いたハッチから黒い煙を噴き出しながらくすぶっている。生き残ったⅣ号戦車の1両が戦車にもう1発お見舞いしていた。回収して修理できないようにするためだ。《女帝》は接近した。黒森峰の戦車が狙いを定められないように《女帝》を左右に振りながら100メートルまで近づいた。ターニャの乗員たちが見える。燃えるT34の陰にうずくまっている。しゃがんでいる2人が近づいてくる《女帝》に手を振った。他の2人は地面に横たわっている。
「けが人がいる」サーシャがインターコムで報告した。
マリアは《女帝》の向きを変えるよう指示を出す。《女帝》が川岸に沿って走り出した。全速力でT34を脱出した乗員たちと川の間に持って行くと、まだ動いている2両のⅣ号戦車に横腹を向けてピタリと止めた。砲塔ではマリアがすでに目標を捕捉しつつあり、旋回する戦車砲の後ろについてステップを踏んだ。アーリャが跪いて弾薬箱に手を伸ばし、砲弾を探している。サーシャはナージャをちらりと見た。
「行って!」
ナージャはためらわなかった。脚の間に手を伸ばすと、脱出ハッチのハンドルを引いた。扉が持ち上がり、ナージャはキャタピラの間を滑り降りてハッチを閉じた。
《女帝》の近くで砲声が響いた。小隊のT34の1両が弾を放ったのだ。崩れた納屋、畑と川岸の小さな一画。2両のⅣ号戦車と3両のT34がほとんど自分たちだけで戦争を繰り広げている。
T34の1両が《女帝》の前に出た。コーリャが川向こうを動き回るⅣ号戦車に有効射を食らわそうと方向転換した。マリアはハッチから頭を突き出した。《女帝》によじ登る乗員たちに「早くつかまって!」と怒鳴った。砲塔が再び旋回する。アーリャがまた砲弾を込めた。マリアが発射ペダルを踏む。戦車が反動でかしいだ。
「みんな乗ったわ」マリアが叫んだ。「サーシャ、ここから逃げ出しましょう」
サーシャはアクセルを一杯に踏んだ。前方にいるコーリャのT34が道を開ける。その時、耳をつんざくガンという音がした。コーリャの戦車が強烈な一撃を食らい、その勢いで車体が浮き上がってあやうく横倒しになりかけた。白旗が挙がる。サーシャは「まずい」と小声で呟いた。
「《ティーガー》よ!」マリアは叫んだ。
サーシャは我に返った。ブレーキを踏みつけ、《女帝》のギアをバックに入れる。車体後部を素早く振ると、今度は隆起する丘を背にして戦車を目いっぱいの速度で後退させる。
マリアは初めて対岸のⅥ号重戦車《ティーガー》と向き合った。戦車は巨大だった。四角に張った車体はT34と対照的に、装甲が傾斜していない。
サーシャは分厚い正面装甲を《ティーガー》に向ける。T34の姿を標的としては一番狙いにくいように平たい三角形に見せながら、丘を後進する。マリアがアーリャに叫んだ。
「徹甲弾、装填!」
アーリャはすでに徹甲弾を持っていた。すぐに砲弾が砲尾に押し込まれた。サーシャはアクセルを踏み続けた。マリアの眼は《ティーガー》にひたと据えられていた。巨大な88ミリ砲の動きを読むつもりだった。
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[9]
マリアは《女帝》の砲塔をどうにか旋回させて《ティーガー》に向き合った。小隊の残り2両の戦車は川岸と黒焦げになったコーリャの戦車から離れつつある。《ティーガー》は3両の中で最も楽な目標を選ぼうとしている。アーニャは回避するより先に速度を上げて、大きく円を描いて旋回している。
《ティーガー》が一弾を放った。アーニャの後方に土柱が立ち上がった。巨大な戦車砲から煙の輪が吐き出される。《ティーガー》は逃げるアーリニャに対して照準を修正した。マリアにはアーニャは十分に敵の狙いを逸らしていないことが分かった。
その時、《ティーガー》の戦車砲が再び吠えた。大きな車体はほとんど揺れなかった。徹甲弾が転輪上の車体右側を直撃した。アーニャの戦車は20メートルほど走ってから停止した。撃破されたT34から白旗が揚がる。《ティーガー》からもう一度、砲煙の輪が吐き出される。
《ティーガー》の砲塔はまだ《女帝》から離れた方向を狙っている。すでに《女帝》は川岸から800メートルほど離れている。一撃を加える頃合いだ。マリアがサーシャの首筋を押す。サーシャがブレーキを踏んだ。
T34の砲塔が左に旋回する。戦車砲が眼下の川岸に向かって数度下がった。生き残ったⅣ号戦車が図体の大きな女王に付き従う侍女のように《ティーガー》の後ろで動いている。
マリアは発射ペダルを踏んだ。《女帝》が砲弾の後ろで身震いした。爆風が埃の雲を舞い上げる。かき乱された土が落ち着くのを待たずにアクセルを踏んだ。バックで遠ざかりながら《ティーガー》をちらりと見た。敵は微動だにしていない。徹甲弾が命中した面から薄い煙をたなびかせている。傷ひとつない砲塔を《女帝》にまっすぐ向けている。
「くそ、まずい」マリアは思わずロシア語で呟いた。
速度が必要だった。サーシャなら実に素早く《女帝》を旋回させることもできるが間に合うだろうか。マリアは賭けた。とっさにサーシャの右肩を足で叩いた。戦車の向きを変えた途端、《ティーガー》の戦車砲が吠えた。変速機に徹甲弾が命中し、ギアボックスと燃料タンクがやられた。不意に戦車が燃え上がった。「あの頃の競技用車両は今の特殊カーボンなんて使って無かったから」《同志》は言った。「弾を食らえば平気で燃えてたな。ホントに命がけだったよ」
「脱出!」
マリアはハッチから飛び出しながら叫んだ。エンジン室に載っていたはずのナージャはけが人を抱えて、すでに丘の上に向かって走り出している。地面に着地したマリアはその後に続いて丘を駆け上がり、陣地に飛び込んだ。息を整えてからマリアは口を開いた。
「みんな、無事?」
左手にサーシャが飛び込んだ。息も切らさずに「どうにか」と答えた。ナージャが掠れた声で「やられちゃいましたね」と言った。アーリャがふうふうと喘ぎながらマリアの右手に転がり込んだ。
マリアは柔らかい灰色の戦車帽を脱いだ。肩まで切り揃えた黒髪がパッと広がる。濡れた犬が水を飛ばすように首を振る。青い軍服の襟元を少し開けてその場で地団駄を踏む。
「クソッ、クソッ、どうなってるの!」
「どうしたんだっぺか?マリアさん」アーリャが言った。
「アイツら、《ティーガー》を使ったのよ」
「それが怒る理由?」サーシャが訳知り顔でニヤニヤしながら言った。
「アナタまでそんなこと言わないで」
「どういうことだっぺよ?」今度はナージャ。
「相手は88ミリ砲よ。コッチの戦車が敵う訳がないわ。レギュレーション違反で連盟に訴えてやる!」
《女帝》の名に肖ったマリアのT34は無残な鉄塊に姿を変えていた。
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[10] 幕間(その2)
「《ティーガー》にT34がやられる。よくある話じゃないですか」
私はげんなりとした調子で言った。《同志》が私の肩を小突いた。
「バカ、話はしまいまで聞け」
マリアの時間稼ぎは成功した。フラッグ車を後退させはしたが、プラウダは準決勝で敗退した。黒森峰と決勝を争うことになったサンダース大付属高は慌てて《ティーガー》対策に90ミリ砲を備えたM26パーシングを投入したが、大した活躍は出来なかった。黒森峰が結局、この年の大会で優勝を納めた。
私もおぼろげに記憶している。その年、戦車道関連の雑誌はほとんど黒森峰優勝の立役者が《ティーガー》であるという記事を載せていた。何しろ戦車道の全国大会で初めて重戦車が登場したのだ。それまでの戦車は最大でも75ミリか76ミリ砲を搭載したT34やⅣ号戦車G型ぐらいだった。
「そこで、ちょっとした面白い一幕があってね」《同志》は言った。
大会後にプラウダが宿泊していたホテルに黒森峰の女子生徒が独りで来た。その女子生徒はホテルのフロントに自分が《ティーガー》の戦車長であり、プラウダでT34に載っていた戦車兵に会わせてほしいと頼んだ。
「そういえば、黒森峰で初めて《ティーガー》に乗ってたのは・・・」
《同志》が苦笑を浮かべる。
「黒森峰番の君が覚えてないのは問題だろう」
「さすがに覚えてますよ。西住しほ、ですよ。へえ、マリアが西住流の家元とねえ」
「がぜん興味が湧いてきただろう」
私はうなづいた。コニャックをひと口含む。
西住は撃破したT34の砲塔に書かれていた文字を告げる。
「エリザベートⅠ世と書かれた戦車の持ち主は?」
フロントが電話を繋げる。ロビーに降りてきたマリアを眼の前にして西住は一瞬、棒立ちになった。西住は「留学生だったのね」と言って手を差し出す。
「だから?」
マリアは腰に手を当てたまま斜に構える。西住についてきた黒森峰の他の生徒が「その態度は何だ?」という風にがなり出した。言葉は少なくとも手を差し出してきたことから、西住が自分の健闘をほめようしていることは分かっていた。だがマリアは素直に喜ぶ気持ちになれなかった。
「大会に黒森峰が重戦車を出したことについては連盟に批判もあった」《同志》は言った。「学校の経済力に左右されたり、戦車の性能差だけで勝敗が決まるパワーゲームにしかならないとか」
今もその状況に対して違いはない。私はそう思った。破壊力が高い長砲身の重戦車を持つプラウダと黒森峰が長い間、戦車道大会の優勝旗を交換していた時期があった。コニャックをひと口含んでから《同志》は続けた。
「腹を立ててたマリアは西住の手を握ろうとしなかった。挙句に『今日の勝利はアナタの実力ではないわ。ただ戦車の性能がT34よりも良かっただけよ』と言い返した」
「手厳しいですね」
「それで余計に激昂した黒森峰の生徒と乱闘騒ぎになった。後日にプラウダは黒森峰に謝罪したが、戦車道の隊長はマリアに『よくやったと』とウィンクしたそうだが」
「そこまでがオチですか」
《同志》はうなづいた。
「ですが・・・そんなことでマリアがひと際目立った留学生だとは思えませんが」
「そう焦るな」
《同志》の話には続きがあった。
後日、プラウダに新たに補充された戦車はT34/85だった。「ラオス人民軍で埃を被ってた車両を何台か譲り受けて競技用に改造したんだ」とは《同志》の言葉だ。従来の76ミリ砲に代わり、十分に《ティーガー》に対抗できる85ミリ砲を装備したT34。砲塔の側面にマリアは白いペンキで再び女帝の名前を記した。
「今度は誰の名前を?」私は言った。
「エカチェリーナⅡ世」《同志》は言った。「マリアはロマノフ王朝最強と謳われた女帝に《ティーガー》を撃破することを誓ったんだ。プラウダは翌年も戦車道大会に出場した。もちろん黒森峰も。2校は再び準決勝で対戦することになった」
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第3章:急
[11]
頭上で稲妻が走った。
マリアは空を見上げる。雨を顔で受け止めた。それから数分で雨は弱まり、今度は小ぬか雨になる。マリアは前進したかった。時間が虚しく過ぎていくにつれて、不満が怒りに変わっていくのを感じた。今は自分の戦車―T34/85の車長ハッチに身を乗り出し、ひたすら1両前の戦車の尾灯に眼をこらしていた。
隊長はマリアが所属する第3大隊の全車両に待機命令を出していた。いまプラウダは戦車道全国高校生大会のまっただ中にいる。相手は黒森峰。今もマリアの脳裏に浮かんでいるのは昨年、自分のT34を屑鉄に変えた《ティーガー》。重要な局面を迎えているにも関わらず、自分の大隊を遊軍にしておく隊長の気が知れなかった。
今夜はひどく寒い。マリアは身震いした。こんな日はあまり身体を動かさない方が良い。誰かがマリアの戦車のエンジン部分に乗り出して脚を滑らせた。戦車帽を被って物思いにふけっていたマリアは物音に不意を衝かれて眼を向けた。人影はサーシャだった。
「命令は?」マリアがサーシャに尋ねた。
サーシャは首を横に振った。
「じきに来るわ。まちがいない」
この時、マリアとサーシャは第3大隊の小隊長になっていた。
「サーシャが小隊長になったわけも、実に面白い」《同志》が言った。
プラウダ高校は青森県にある。広大な陸奥湾に艦首方向が巨大なスロープ状になっている巨大な学園艦が浮かんでいる。大会の数日前、マリアとサーシャが戦車隊長に会いに執務室に行った。執務室は荘重な調度品に囲まれ、赤い絨毯が敷かれている。ステレオからクラシックが流れている。普段はチャイコフスキーかショスタコーヴィチだが、今流れているのはプロコフィエフが作曲したカンタータ「アレクサンドル・ネフスキー」の第4曲「立てロシアの民よ」だった。マリアが以前にリクエストした曲だった。
執務室では、隊長と副隊長がチェスをしている最中だった。マリアは盤面を覗き込む。ゲームは中盤。隊長の方が優勢だった。相手に押され気味の副隊長が一手を差す度に、マリアは低い声で呟いた。
「うげ」「それはないわ」「はぁ」「ダメダメ」
副隊長は声を荒げた。
「ちょっとぉ、邪魔しないでくれる?イライラする」
「イライラするのは、コッチよ」マリアは言った。「そんな手で勝つ気あんの?」
「うっさいわねえ」
「まあまあ、2人とも」
隊長はマリアに顔を向ける。
「チェスの心得が?」
マリアはうなづいた。
「少なくとも副隊長よりはね」
「それなら、ひとつ勝負してみようじゃないかと隊長が提案した」《同志》が言った。「大会が始まる前に第3大隊で小隊長が1人足りないという話が出てたから、隊長が勝ったらサーシャ、マリアが勝ったら他のメンバーが小隊長になるという条件で三番勝負をしたわけだ」
「サーシャが小隊長?なら、マリアの戦車は誰が操縦したんですか?」私は言った。
「これがまたすごいじゃじゃ馬でね。T34で曲芸をしてみせたのさ」
ある日、マリアは練習場で小隊の全員が集まって何か見ていることに気づいた。人垣の背後からマリアも見学する。練習場から黒く舞い上がる埃が渦を巻き、深い壕の中で戦車―T34/76がエンジンを轟かせて、まるで悍馬のように動き回っていた。その場で踊り、スピンし、ギャロップまでする。マリアは傍にいたサーシャに大声で尋ねる。
「アナタも、あそこまで運転できる?」
サーシャは苦笑を浮かべながら首を横に振る。
不意にゴーグルを付けた操縦手がハッチから顔を出して観客に拳を振った。皆が歓声を上げて応える。操縦手はハッチに身体を引っ込め、エンジンをふかして戦車を塹壕から動かす。最後に戦車を小回りさせ、埃のカーテンを舞い上げた。エンジンが切られた後、操縦手が前面装甲板によじ登って地面に滑り降りた。戦車帽とゴーグルを取り、髪に手を走らせてから観客に向かってお辞儀をする。マリアの胸中で次の操縦手が決まった。
「操縦手はラウラといった」《同志》は言った。「実家が農家でトラクターを運転してたというぐらいだから、操縦の腕前もうなづけるというわけだ。話が脇道にそれたな。大会に戻そう」
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[12]
「《女帝》の調子はどう?」サーシャは言った。
「バッチシ」
「そういえば、砲手はマリアがやるの?」
マリアはうなづいた。サーシャの疑問は《同志》が補足してくれた。T34/85の乗員は5名である。人手不足でもない限り車長と砲手を兼ねる必要はない。プラウダには補欠の選手が大勢いるが、マリアはあえて以前と同じように砲手を兼任した。
「どうして?」
「自分自身で獲物をしとめないと気が済まない質なの」
「相手が《ティーガー》だから?」
「それもあるわね」
2人は戦車のエンジン部分で攻勢の開始前に受領した地図を検討した。
「進撃ルート通り進んだら、ここが私たちの死に場所になるのかしら」
サーシャが示したのは進撃ルートの先に広がる平原だった。平原は黒森峰の陣地から正面に当たってしまう。黒森峰にいるはずの《ティーガー》なら平原で何千メートル先からプラウダのT34を射抜くことが出来る。
「そうかもしれないわね・・・」
夜明け前、2人は司令部に出頭した。最後の作戦会議に出席するためだった。
司令部は物置小屋にあった。室内は屋根から吊るしたランタンで照らされている。机の上に地図や重要な地点を示す差し棒などが置いてあった。
隊長は差し棒で地図上の1点―部隊の停止位置から西に300メートルの地点を指した。
「ここに沼地がある」
「進撃ルートから外れてるわ」
隊長はマリアの指摘にうなづいた。
「ここを通れることが出来れば、黒森峰の背後に出られる」
隊員たちは驚いた様子で地図を確認する。
「平原からの攻撃と連携して挟撃できるかも」マリアは言った。
サーシャはうなづいた。
「問題は沼の深さね。深すぎたら通れないし、挟撃なんて絵に描いた餅になる」
「偵察に行った副隊長の報告によれば」隊長は言った。「見た目はさほど深そうには見えないということだが、なかなか大バクチだ。この沼から進撃して敵の背後を突き刺すドン・キホーテはいないか?」
隊員たちは顔を見合わせる。下手すれば、戦車もろとも泥の中に沈むだけだ。
「同志隊長」マリアは言った。「アタシとサーシャに行かせてください」
沈黙が訪れる。
「戦車は1両ずつ沼に進ませます。真正面から《ティーガー》の餌食になるよりも、敵の背後を衝ける可能性がわずかでもあるなら、それに賭けるべきだと思います」
隊長はマリアの言葉をじっくり吟味した後でこう言った。
「同志マリア、貴官の言う通りだ」
第3大隊からマリアとサーシャの小隊は本隊より先に移動を開始した。マリアは沼地の浅瀬を選び、対岸までの距離が最も短い地点から小隊を前進させることにした。マリアの小隊からターニャが先鋒を志願した。マリアたちが見守る中、ターニャのT34がゆっくりと沼を前進した。水が履帯の上まで上がって来たが、T34はそのまま対岸にたどり着いた。マリアはホッと息を吐いた。ターニャに続いて、他の戦車も縦列で浅瀬を渡った。
2個小隊の全車両が無事に沼地の対岸に渡った。1両の損害を出さずに黒森峰の背後を進出することに成功したのである。マリアは隊長に通信を繋げる。
《クイーンよりアルクトス、2個小隊はオマハビーチに取りついたわ》
《アルクトスよりクイーン、了解した。予定通り敵の背中を切り裂いてやれ》
《クイーンよりアルクトス、了解》
マリアは小隊に対して攻撃を下命する。
《クイーンより小隊各車。攻撃に移れ。眼の前に敵が現れたら、各個撃破すること》
沼地を越えた先は起伏に富んだ平原が続いていた。その奥に背の高いトウモロコシが茂る広大な畑が広がっている。後方からサーシャの小隊が続いた。数十両のT34が横列に展開しながら、枯れたトウモロコシ畑の中を手さぐりに近い状態でゆっくりと前進した。
《女帝》―T34/85はトウモロコシをへし折りながら自ら先頭を進んだ。畑を出て1本の野道に入る。突然、400メートルほどの左手にⅣ号戦車が現れた。黒森峰もマリアに気づいたらしい。G型特有の補助装甲板付き砲塔がこちらに向かって旋回し始めた。
マリアはすぐさま命令を下した。
「10時方向に敵!400メートル!徹甲弾、用意して!」
「徹甲弾、装填よし!」アーリャが怒鳴るように報告する。
マリアは砲塔を左に旋回させる。ラウラが平坦な場所を選んで滑るように《女帝》を停止させる。マリアは瞬時にⅣ号を照準に捉えて発射レバーを引いた。
「発射!」
炎の塊がⅣ号戦車の装甲に立ち昇った次の瞬間、砲塔から白旗が揚がった。マリアがラウラの首を蹴る。ラウラがギアを入れる。《女帝》は前に弾かれたように走り出してトウモロコシ畑を突進する。
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[13]
《女帝》は30分に渡って黒森峰の戦車を探してトウモロコシ畑をうろついた。
畑は多くのキャタピラによってなぎ倒され、荒れ果てていた。いくつもの黒煙の筋が立ち昇っている。マリアはさらに十数回、発砲した。だがどれも命中させられなかった。黒森峰が背後を衝かれたショックから立ち直ろうとしていた。不意に現れたⅣ号戦車と小競り合いを演じた後、Ⅳ号戦車は撃破した。マリアは全体の戦況がどうなっているのか見当もつかなかった。
ナージャは無線のチャンネルを回した。不意に《女帝》を呼びかける声が聞こえたのだ。
《クイーン、クイーン!こちら、ペンナイフ・・・!》
ペンナイフはターニャのコールサインだった。
「ペンナイフ、こちらクイーン!どうしたの?」
《右前部に直撃!履帯大破、行動不能!敵が見えない!どこから・・・》
無線機から大きいノイズが響いた刹那、通信が途絶えた。
マリアは《女帝》をいったん停車させる。ターニャの戦車が走行していたのは右側。右側に砲塔を回転させるが、姿は見えない。固いブーツでラウラに《女帝》を右に大きな半円を描くように走るように指示を出す。《女帝》が右に旋回する。
ターニャの戦車が見えた。砲塔から白旗が揚がっている。その近くに撃破されたT34が3両。《女帝》はその横を通過した。撃破された車両が同心円上に並んでいる。
「チクショウ」マリアはつぶやいた。
「何です?」ナージャが言った。「どうしたんです?」
マリアは皆に向かって告げた。
「《ティーガー》よ」
マリアは敵の戦車を発見した。T34の残骸から立ちのぼる炎を背景に《ティーガー》のシルエットがくっきりと浮き上がって見えた。砲塔に書かれた車両番号は212。間違いない。去年、先代の《女帝》を粉々に破壊した《ティーガー》。距離は600メートル。マリアは背を屈んで3人にささやいた。
「アタシたちが虎を狩るわよ。みな覚悟はいい?」
3人はうなづいた。その顔に決死の覚悟が滲んでいる。
西住しほは《ティーガー》の車長席に立って戦場を観察していた。隊長から数十分前に陣地の背後をプラウダに衝かれたという報告を受け、《ティーガー》で数両のⅣ号戦車を率いてトウモロコシ畑が広がる眼の前の平原にたどり着いた。
1両のⅣ号戦車が横から離れる。300メートルほど進んで靄の中に今にも姿を消そうとした時、T34/85から戦いを挑まれた。西住は双眼鏡で2両の戦車の戦いを眼で追った。2両はレースに突入した。全速力で畑を横切る。まるで2頭の馬がぶつかりそうになりながら並行して疾走しているようだった。
T34/85の戦車兵は狡猾だった。Ⅳ号戦車を残骸に誘導する。こちらの車長に急旋回と減速をせざるを得なくなった。T34/85は驚くほど素早く停車した。ジャンプしてピタリと動かなくなった次の瞬間、主砲が吠える。プラウダが放った徹甲弾がⅣ号戦車の後部に命中した。煙の柱がまだひとつ、空に灰色の染みを加える。
西住はその戦車から眼を離せなくなった。砲塔にキリル文字が書かれている。「エカチェリーナⅡ世」。去年、プラウダに在籍していた留学生だろうか。河岸に取り残された仲間を救うために果敢に自分の《ティーガー》に挑んでみせた。いまT34/85が円を描くように機動している。《ティーガー》が撃破した数両のT34の脇を通り過ぎた。動作の緩急が鮮やかだった。Ⅳ号戦車との戦闘は見物だったが、今では慎重に動いている。T34/85がこちらを見ている。こちらの《ティーガー》に気づいたのだ。西住は咽頭マイクで砲手を呼んだ。
「砲手、右60度」
巨大な砲塔が旋回する。砲身は全く上を向かない。トウモロコシ畑にある標的は仰角をかける必要がないほど近くにいた。どの標的を撃つにも水平射撃だった。
「敵が見える?」
砲手はすぐに答えなかった。周囲に煙が濃く立ち込めている。
「こちらに向かって旋回してるヤツですか?」砲手は尋ねた。
「そう」
「見えます」
「距離は?」
「600メートル」
「待ちましょう。向こうが撃ってくるのを待って」
西住は近づいてくる戦車を眼で追った。
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[14]
マリアは生まれてきてからずっと境界線を越えてきた。自分はコサックの末裔だ。その気になれば誰の土地にも愛馬を走らせてきた。戦車道の試合中に何度も死と鬼ごっこを演じてきた。どこそこは行ってはいけない場所だなどという考えは鼻であしらった。
いま《ティーガー》を狩るという自分自身の命令にマリアは今さら掛け値なしの不安を覚えた。屠られたT34たちの車体をすばやく通り過ぎた。バラバラになって燃えているものもあれば、穴が開いただけで動かなくなったものもある。《ティーガー》の破壊力は凄まじかった。戦車の残骸は不吉な前兆のように思える。「こっちに来るな」と警告しているようだった。
マリアはラウラの肩から両脚のブーツを外して操縦手の首筋をやさしく叩いた。
「ラウラ、前進しなさい!全速力よ!」
「女王様、仰せのままに!」ラウラが叫んだ。
ラウラは《女帝》を全速力で走らせた。破壊された戦車が横たわる《ティーガー》の領域に脚を踏み入れた。そこはマリアたちが行きたい場所だった。
《ティーガー》が砲塔を旋回させて《女帝》を出迎えた。
T34/85が《ティーガー》に向かって全速力で突進してきた。今は彼我の間に400メートルの距離があったが、西住はこの戦車の速さに驚いた。こんな風に動くT34は見たことがなかった。いや、T34に限らない。どんな戦車でも。
敵は狭い角度で左にスライドしながら、煙る地面を近づいてくる。《ティーガー》の長い砲身が疾走するT34を追う。ハッチに立つ西住の足元で砲塔がかすかに旋回する。西住は砲手と一緒に狙いをつけ、突っ込んでくるT34を砲身の延長線上に捉えた。
《ティーガー》の砲塔が左に旋回する。マリアは《ティーガー》が《女帝》を砲身の延長線上に捉えようとする瞬間を慎重に狙った。敵の砲塔が旋回を停める。マリアは4秒数える。
「ラウラ、右に切りかえして!ナージャ、距離は⁉」
機関銃の傍に開いた窓から外を観察していたナージャが応える。
「約380メートル!」
マリアは装填手に命じる。
「アーリャ、徹甲弾を装填!」
ラウラがレバーを切り返す。途端にT34は横滑りする。雪の代わりに土を蹴立てて回転するスキーヤーのように真横を向いた。さらに中心線を横切って右側に戻ってジグザグ走行を続ける。
《ティーガー》の油圧式旋回装置がきしみながら停止する。砲塔が身震いし、それからイライラしたような音を立ててT34に追いつこうと旋回した。敵は右に走ったかと思うと、それからまた左に向きを変えた。あんな風に操縦したら乗員たちの身体がバラバラになりそう。西住はそんなことを思った。
「砲手」
「はい」
「距離は?」
「375メートルです」
今度は操縦手に命じる。
「敵と正面から向き合うようにして。常に前部装甲を相手に向けておきたい」
「
《ティーガー》は右に左に動き回るT34に真正面から向き合い続けるために小さく後ろにステップを踏んだ。まだ《ティーガー》に不慣れな操縦手の運転はぎこちなかった。本来、《ティーガー》を操縦するはずだった選手は前日に高熱を出して倒れてしまった。補欠の操縦手はすぐに来たが、不安は拭えなかった。操縦手はまず片方のキャタピラを動かし、それからもう片方を動かした。一つ一つの動作はギシギシと軋むようだった。
刹那、西住は敵の操縦手に感心した。あの操縦手には才能がある。風格と言っていい。馬にまたがった最高の
「砲手」
「はい」
砲手の反応は素早かった。声に落ち着きがない。乗員たちはあのプラウダの《女帝》に恐怖を感じているのだろうか。西住はいぶかった。
「1発で仕留めなさい」
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[15]
敵はいま横腹を見せながら、左に長い距離を猛スピードで走っていた。《ティーガー》の砲塔が回転する。砲手は敵に狙いを定めた。西住は衝撃に備えて身構える。だが、操縦手は敵に正面を向け続けようとして《ティーガー》を動かしてしまった。砲手の狙いが狂う。
「操縦手、何をしてるの!止めなさい!」
操縦手はギアをニュートラルにした。《ティーガー》は大人しくなった。T34はすでに200メートル以下に接近していた。トウモロコシがまだ立っている一画をジグザグ走行で近づいてくるT34をじっと見つめながら、《ティーガー》の周りで罠をせばめつつある。
《女帝》の車速は《ティーガー》が砲塔を旋回させる速さを少し上回っていた。マリアがそうするようにラウラに命じたのである。《ティーガー》の砲塔の旋回率は毎秒6度に過ぎない。《女帝》が高速かつ急接近すれば、敵の車長や砲手は捉えることが出来ないだろう。マリアはそう踏んでいた。案の定、《ティーガー》はその場で足踏みした。
「ナージャ、距離は?」
「230メートル!」
「アーリャ?」
「装填完了!」
「ラウラ!停めて!」
ラウラが全速力からブレーキをロックする。埃の雲が《女帝》のキャタピラから舞い上がる。ラウラは《女帝》をくるりとスピンさせ、ピタリと停めた。マリアは照準器でがら空きになった《ティーガー》の左側面を捉える。距離は200メートル。外しようがない。
「発射!」
マリアは発射レバーを引いた。
T34の85ミリ砲が火を噴いた。対戦車榴弾は《ティーガー》の左側面に命中してキャタピラの中央に備え付けられた転輪を破壊した。《ティーガー》は後ろによろめき、破損した左のキャタピラを軸にして右に旋回する。
「砲手!」
「ダメです、間に合いません!」
最後の瞬間、西住は頭をひっこめた。T34の主砲の発射音と《ティーガー》の側面に砲弾が命中した衝撃音は一つに聞こえた。敵はそれほど接近していた。西住は両手でヘッドホンを抑え、何が起こるのか分からずにただ身を守ろうとした。こんなに近くから敵に撃たれたのは生まれて初めてだった。《ティーガー》は身震いしただけで無事だった。
西住は再び車長席に立ち上がった。左側面から煙が上がっている。砲手はなおも巨大な主砲を左に旋回させて敵を捕捉しようとしていた。主砲はほとんど背後を向いていたが、敵はすでに姿を消していた。敵はスピードを上げて《ティーガー》の周囲を回る。
「操縦手!さあ動いて!敵を正面から外さないで!」
《ティーガー》の強力なエンジンが唸りを上げる。ギアが噛み合った。戦車がよろめいたような感じがした。何かが左キャタピラで邪魔をしている。
「どうしたの?」西住は咽頭マイクで叫んだ。
「わかりません。転輪に敵弾を食らったのかもしれません。どうしたんでしょう」
操縦手の声はおろおろしていた。その不安は悪い兆しだった。まるで戦車自体が不安に陥ってしまったようだ。
T34は《ティーガー》の背後を走り続けた。砲手は懸命に敵を追い続けていたが、敵の敏捷な動きに到底追いつけなかった。西住は車体上面に滑り降りた。機敏にフェンダーを乗り越え、左キャタピラの脇で地面に降り立った。
中央の転輪が歪んでいる。T34の徹甲弾は転輪の天辺近くに命中していた。転輪の縁をその奥にある二枚重ねの転輪の方に捻じ曲げていた。左側面は爆発で全体が煤けていたが、損害は軽微だった。左のキャタピラが外れないようにするためには、慎重に走らせねばならないだろう。行動は不自由になったが、修理できない程ではない。
西住は大地を蹴って《ティーガー》の側面をよじ登り、旋回する砲塔を飛び越えた。ハッチに脚を滑りこませ、インターコムに接続する。まだT34は《ティーガー》の戦車砲よりも速く走っていた。西住には分かっていた。T34は今度、右の転輪を破壊するつもりだ。《ティーガー》を完全に動けなくするつもりだ。それから回り込みながら接近して、とどめの一撃を放つ。
「操縦手、左の転輪がやられてる。右のキャタピラだけを後退して旋回させて。砲手」
「
「敵は反対側のキャタピラも壊すつもりよ。敵を牽制して。走り続けさせるの。絶対に停まらせないで」
《ティーガー》は後ろによろめき、動かない左キャタピラを軸にして右に旋回した。操縦手は戦車砲を旋回装置より速く旋回させた。戦車が突然停まる。西住はキューポラの中で荒っぽく揺さぶられた。あのT34がいた。回転するキャタピラから土を跳ね上げている。T34は《ティーガー》の長い砲身に遅れて走っていた。
「距離は?」
「300メートル」
「命中しなくていいの。今度停まったら1発お見舞いすると教えてあげなさい」
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[16]
刹那、出し抜けに《ティーガー》の主砲が火を噴いた。砲声がキューポラの中で西住を突き飛ばした。固い縁に背中が叩きつけられた。
砲弾は外れた。T34の背後で草原地帯に土の柱が立ち上がった。砲弾は敵の頭上を飛び越えていた。砲手が敵までの距離を大きく見積もりすぎたのだ。しかし敵は今や虎の尾を踏んづけたことを知ったに違いない。装填手が次弾を装填する。砲手は照準器に眼を当てたまま砲塔を旋回させ、操縦手にその場で旋回するよう命じた。右のキャタピラが前方にぐいと動いて止まった。《ティーガー》の主砲が向きを変える。《ティーガー》は義足を付けた老人のように動いていた。西住は爆風に備えてハッチに頭をひっこめた。砲手が発射レバーを引く。西住は頭を上げる。発射ガスと舞い上がった土越しにT34を見た。この砲弾も外れた。今後は敵の手前に落下した。砲手は敵を挟夾していた。
T34がスピードを落とした。
「砲手、急いで!敵は旋回して撃ってくるつもりよ!」
砲塔が唸る。油圧式の旋回装置が砲身をT34にピタリと向けた。砲手は砲口を少し下に敵の前方にずらした。西住は心の中で呟いた。来なさい。
《女帝》はスキー選手のように土を横滑りしていた。車体と合わせて旋回した敵の88ミリ砲が土砂を跳ね上げて走る《女帝》を捉えようとする。マリアは再び《女帝》を接近させるつもりだった。今度は右の転輪を狙う。
「いい?今度は3秒だけ数えるわ。3秒数えたら切り返して!」
「何で今度は3秒何だっぺよ!」アーリャが尋ねた。
ナージャが前の座席から怒鳴り返す。
「タイミングをずらす為だっぺ!」
《ティーガー》の主砲が旋回を停める。
「ラウラ!」
「仰せのままに!」
ラウラが再び全速力からブレーキをかける。《女帝》が《ティーガー》に向かってスピンしながら接近する。85ミリ砲にはすでに徹甲弾が装填されている。前方に停まる。すかさず照準器で《ティーガー》の右側面を捉える。マリアは発射レバーを引いた。
「発射!」
西住は眼を見開いた。T34の動きが信じられなかった。敵は先程と同じ曲芸でフェイントを演じてこちらの照準を躱した。砲手が敵に必殺の一撃を与えるタイミングを外されたことはすぐに分かった。砲手が悲鳴を上げる。
「タイミングを逸します!」
「いいから撃ちなさい!」
西住が砲手に命じた瞬間、《ティーガー》は揺さぶられた。敵の徹甲弾が右側の転輪に命中する。同時に《ティーガー》の主砲がT34の前部を捉えて轟音を上げた。T34は強い突風に飛ばされたかのように後退する。
《ティーガー》の砲弾が前部に直撃する。強い衝撃が車内を揺さぶる。灰色の油煙が立ち込める。マリアは呻き声を上げた。全身の関節に痛みが走る。首と尻と肩がバラバラに引きちぎれるような感じがした。
「左が動きません。キャタピラが切れたようです!」ラウラが叫ぶ。
「右のキャタピラを動かしなさい!正面を虎に向けて!」
《女帝》が軋みながら右に旋回を始める。マリアは砲塔を回しながら、照準器で《ティーガー》を見る。巨大なエンジンが咆哮を上げた。変速機が噛み合い、黒い排気ガスが吐き出される。両側のキャタピラが破損した転輪の上で悲鳴を上げた。敵はまだ動ける。マリアは悪態をついた。巨体を揺らして砲身の延長線上に照準を合わせようとしている。
「アーリャ、徹甲弾用意!」
アーリャは床に跪いた。弾薬箱を覆っているネオプレンゴムのシートを剥して徹甲弾を探し始めた。
「敵の砲身がこっちを向きます!」ラウラが言った。
「ナージャ、敵を機関銃で牽制して!」
ナージャがDT機関銃のトリガーを引いた。《ティーガー》の厚さ80ミリの前部装甲に敵うわけがない。ペリスコープで敵の砲身を睨んでいたマリアは自分たちの死の臭いをかぎとる。
「徹甲弾を装填して、アーリャ!」
ガゴンという重い音。砲の閉鎖弁が締められる。
「装填、完了しました!」アーリャが応えた。
マリアは照準を定める。《ティーガー》の車体と砲塔の間を狙う。ほとんど無意識に発射レバーを引いた。
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[17]
凄まじい轟音が辺り一帯に響いた。《ティーガー》の砲塔にT34の徹甲弾が直撃して大きな火花が咲いた。敵弾は爆発しなかったが、鐘の舌のように前部装甲に激突した。《ティーガー》の車内では衝撃で全員の耳が1分ほど麻痺した。西住が気を取り戻して敵の様子を窺う。車体の後部から炎が上がっていた。西住は咽頭マイクに吹き込んだ。
「砲手、貴方が仕留めたの?」
「いえ、味方です」
「前方の約350メートルにいたⅣ号戦車が《女帝》に気づいて、後部の燃料タンクに榴弾を撃ち込んだのだ」《同志》が言った。「後部に被弾した瞬間、マリアたちは衝撃で気を失った」
意識を取り戻した時、マリアは弾薬箱を収納した床に倒れていた。戦車の後部がしゅうしゅうと音を立てている。焼けた鉄が水とディーゼル燃料をまき散らしていた。マリアは車内に充満する煙ごしにアーリャを手探りする。ぐったりと砲身にもたれかかっていた。ナージャもラウラが気を失っている。
「脱出!」マリアは喘ぎ声で絞り出すように言った。「全員、脱出!」
マリアは車長用のハッチを開けた。これで煙を外に逃がすことが出来る。他の乗員が呻き声を上げながら、眼を覚ます。マリアがもう一度、脱出を命じる。ようやく乗員たちはそれぞれのハッチから外に這い出る。
だが、マリアは脱出しなかった。判定装置の白旗はまだ揚がっていない。《女帝》はまだ動ける。独りでどうにか徹甲弾を装填して砲の閉鎖弁を閉める。その時、インターコムに雑音交じりの無線が入る。
《クイーン!こちらサーベル、応答せよ》
サーベルはサーシャのコールサインだった。
マリアは喘ぎながら無線に応じる。
西住は後退を命じた。
《ティーガー》は速足程度のスピードしか出せなかった。眼の前で燃料タンクから炎を上げているT34/85を一瞥する。ハッチが全て開いている。乗員は脱出したようだった。
突然、《ティーガー》のそばで土柱が噴き上がる。西住は双眼鏡に眼を当てる。砲煙が立ち込めている戦場で遠くから撃って来た敵を確認する。T34/76。新たに現れた敵は左右に車体を振りながらこちらに接近している。
「砲手!」
「見えてます!」
「距離」
「300メートル。接近中」
「眼を離さないで」
「
《ティーガー》の砲塔が眼を覚ました。油圧式の旋回装置が巨砲を目標に向けるために甲高い音を立てて動き出した。砲手の声に心配している様子は無かった。砲塔が西住の胸の周りで左右に旋回する。T34/76が土砂をまき上げながら、左に突進する。また左の転輪を狙うつもりだろう。
「操縦手!左の敵に正面を向けて!横に回らせないで!」
《ティーガー》が急停止した。ギアと駆動軸が唸りを上げる。《ティーガー》は前に飛び出した。あまり損傷していない右のキャタピラだけを回して車体を左に旋回する。不意に西住は背中に冷たい感触を覚えて右に眼を向けた。眼に入って来た光景を咄嗟に理解できなかった。あの戦車には誰もいないはずだ。
T34/85の砲塔がゆっくりと旋回していた。
《ティーガー》はサーシャのT34に相対していた。ガラ空きの側面を見せている。ほんの少し左に砲塔を旋回させて、マリアは照準を定める。《ティーガー》の主砲がこちらに旋回し始める。もう遅い。マリアは俯仰ハンドルを回して主砲を目標に合わせる。
「
マリアは発射レバーを引いた。
轟音。徹甲弾が《ティーガー》の車体と砲塔の間に命中した。巨大な戦車が煙と閃光に包まれた。一陣の風がさっと吹いて靄が晴れる。《ティーガー》の車体から白旗が揚がっている。その瞬間、マリアは呆然とした。頭にたまっていた血がすっと下りていったような感じだった。
後部の燃料タンクが小さな爆発を起こして《女帝》が揺れる。マリアは気を取り直して砲塔に上体を持ち上げた。だが、左脚がハッチにひっかかった。炎が無気味な音を立てて燃料タンクから噴き出している。視界が血のような赤い色で覆われた。マリアは人影を見つけて叫んだ。
「ここから出して!」
「マリアか?!」
「ええ!」
サーシャとラウラがマリアの両腕を掴んで引っ張り上げた。左脚のブーツを《女帝》の中に残して外に引きずり出された。マリアは意識を失った。最後に覚えているのは炎に包まれた《女帝》が爆発した光景だった。
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[18]
私はふうと息をついた。《同志》の緊迫感あふれる話ぶりにあてられた感じだった。
最後の料理を運んできたウェイターに《同志》は「料理長を呼んできてくれないか」と言い、私に謎めいた笑みを向けた。私は怪訝な表情を浮かべる。
不意に落ち着いたアルトが店内に響いた。
「お料理はいかがでしたか?《同志》?」
「今日も君の腕は冴えわたってたよ、都築真利亜シェフ」
私は思わず「あっ!」と叫んでしまった。テーブルの傍に立っていたのは青い軍服から白いコック服に着替えたプラウダの《女帝》だった。顔が少し赤味を帯びている。火傷の痕なのだろう。
「また、アタイの噂をしてたんですね。同志記者」
「悪くはないだろう」
「少し整理させてほしい」私は呟いた。「今のあなたを見る限り、戦車道の選手として黒森峰の戦車を撃破してたようには見えないが」
「まぁ無理もないわね。アタイはマリア・オクチャブリスカヤよ。名前は変えたけど」
マリアは服のポケットからメダルを取り出した。
「プラウダの戦車兵勲章だ」《同志》が言った。
「戦車長がなぜ、いまコックに?」
私は当然と思える疑問を口にした。
「順番が逆ね。アタイは元々コックだったのよ。最初、戦車道を始めた時は給糧担当だったの。ロシアの戦車道というか、アタイがいた学校ではスタメンになれない選手はせめてメシだけでも作ってろっていうスタンスだったのね。熱いスープを入れたドラム缶や乾パンを背負って練習場まで運ぶのよ。冬はこぼれたスープで服が濡れて、身体じゅうツララだらけになったこともあったわ」
《同志》がニヤニヤしながら言った。
「給糧担当がどうして戦車兵に?」
マリアは笑った。
「ある時、アタイがたまたまトラックの運転をしてるのを隊長に見られたのよ。それで、まずは操縦手になるよう命じられたわ。車長になったのは日本に留学する少し前。自分の戦車で砲手が卒業したから、その代わりだった。やってみて自分に才能があるように感じたわ。でも、日本で《ティーガー》にやられるまでだったわね」
「それで、今はこのお店を?」私は言った。
「元は伯父のお店だったのよ。今はパリにいるけど。でも、アタイは伯父のために厨房に立ってるわけじゃないわ」
「どういうことです?」
「プラウダで一緒にやってたサーシャ、ナージャ、アーリャはアタイがロシアで料理を作ってたって言っても、全然信じちゃくれなかったわ。『女帝が包丁を握るもんか。使用人とかメイドにやらせてんだろ』って感じで茶化すだけだった」
マリアはぐっと胸を張ってみせる。
「だから、アタイは言ってやったのよ。『見てなさい。いつか必ず食べさせてあげるから。アタイの料理』3人はただ笑ってるだけだった。『こりゃ見物だぞ』って」
「この店をオープンさせた時、最初のお客さんはその3人だったね」《同志》は言った。
マリアはうなづいた。その青い瞳に光るものがあった。
《同志》がテーブルの上に置かれた1枚の写真を私に手渡した。妙齢の女性たちがテーブルを囲んで屈託のない笑顔を浮かべている。私はすぐに気づいた。それは在りし日、プラウダでT34/85を駆っていた戦車兵―マリア、サーシャ、ナージャ、アーリャたちだった。
《同志》が節をつけて歌い出す。プラウダ戦車道に受け継がれる歌だった。元はソ連の作家ヴァシリー・グロスマンが独ソ戦に記者として従軍した際に聞いた文章だった。
「『練習場に続く広い泥道を思い出す。栄光と死の道である』」
「『春は息詰まる砂塵の中を』」マリアが歌う。
「『夏は月明かりの夜』」
「『秋はしのつく雨の中』」
「『冬は深い雪を踏んで行進する沈黙の隊列』・・・」
マリアは写真を手に取る。最後にこう言った。
「みんな、英雄よ。わたしたちはみんな英雄、わたしの戦友なのよ」
今回で最終回です。
最後まで読んでくださった皆様に感謝します。
わずかな間だけでも楽しんでいただけたら幸いです。
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