若草のような君に (享郎)
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第一話 デアイニ


 処女作です。

 この作品に立ち寄って下さり、ありがとうございます。
 宜しければ、そのままお目通し頂けると幸いです。
 それでは。



 すっかり心地よくなった陽射しがその訪れを教えてくれる。

 春。それは出会いの季節とか。新たな始まりの季節とか。巷ではよく言われているけど、その前向きで楽観的な言葉に少々期待してしまう人は大勢いるだろう。

 

 オレ―宮森樹(みやもりいつき)もその内の一人だ。

 

 今日から高校二年生となるわけだが、訳あって、凡矢理高校に転入することになった。

 これまでは小学校卒業からイギリスにいたので、少し不安な気持ちもあった。

 けれど、小学校時代に過ごした頃と大きく変わることのない、凡矢理の街並みを見て、そんな気持ちも風船が飛んでいくように、どこかへと消えていった。

 

 凡矢理といえば、とふと物思いに立ち止まる。

 小学生の時に仲良くした男友達二人と、幼いながらしげしげと通っていた和菓子屋の娘である女の子、が脳裏に浮かんだ。

 あいつら、そしてあの子も、もしかしてその高校にいたりして……。

 

 懐かしさを覚えつつ、どこかワクワクするような気持ちでまた歩き出していく。

 すると、十字路を右折した先で。

 これから通う高校の制服を着た女子生徒が、目に涙をためながら、ガラの悪い数人の男どもに囲まれている姿を目にした。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 春。それは始まりの季節。暖かな風が桜の枝を揺らし、髪をくすぐる。

 そんな四月――――私は今日から高校一年生です!

 念願叶って家の近くの高校に合格……。

 今まさにこれから始まる高校生活に胸を膨らませている所です!

 高校生ってどんな感じかな?

 取りあえず、初日は空も真っ青で桜も咲いて……。

 何だか素敵な恋とか始まっちゃいそうな予感です……!

 と、思っていたのですが……。

 

「お嬢ちゃんかわい~ね~。高校生?」

「学校なんていいから俺たちと遊ぼ~ぜ?」

 

 なんだか初日っからピンチです……!!

 あわわわわ……どどどどどどうしよう……!!

 ただでさえ中学は女子校で、男の人は苦手だというのに……。

 

「ほら、こっちに……」

 

 男たちが私の肩に触れようと距離を詰めてくる。

 あまりに怖くなって私は思わず目を瞑ってしまう。

 頭もくらくらしてきた。

 あっ……、だめだ……。いしきが……。

 

「おい、こんなところで何してんだ」

「あ?んだよてめえ……」

 

 地面にしりもちをついた衝撃のおかげで、僅かに意識を取り戻す。そこには、少し大人っぽさはあるも、同じ高校の制服を着た男の子が、男たちに立ちはだかっていた。

 

「おいてめえ、盾突くと容赦しねえぞコラ」

「悪いな、この子はオレの大事な人なんだ。お引き取り願うとありがたい」

「あぁ!?んだとてめえ!」

 

 彼の言葉は、苛立つ男たちの火に油を注ぐ形になってしまったようだ。逆上した男の一人が、彼に向かって拳を振りかざしていく。

 やめて……!

 彼が殴られる姿を想像して、また目を瞑ってしまう。

 ところが、次に私の目に飛び込んできたのは想像とは違う光景。

 彼を殴ろうとしたはずの男の一人が、呻き声をあげながら地面にうずくまっている。それを怯えたような様子で身構える他の男たち。何でもないように私の前に立っている彼の姿。

 

「そっちから先に手を出してきたんだから、これは正当防衛になるよな?あまり騒ぎを大きくしたくないし、ここで引いておくのが互いのためになると思うけど」

「っ、ま、マジかよ……」

「お、おい。もう行こうぜ……」

 

 そう言って男たちは、うずくまっていた一人も連れて、そそくさと私たちの元から去っていった。

 すると、彼はふと一息つく。飼い猫を気にかける飼い主のように優し気な表情を浮かべながら、私の方へと振り向いた。

 

「朝から大変だったな」

「い、いえ、そんな。こちらこそ助けてくださり、あ、ありがとうございます!」

 

 カ、カッコイイ……!!

 ようやくまともに見た彼の姿、雰囲気から、まるで王子様みたい、と私は胸をひどく打ち付ける鼓動を何とか抑えながら応じる。

 

「立てるか?」

 

 彼はこちらに微笑みかけながら、私に手を差し伸べてきた。私はその手を取り、立ち上がろうとするが、腰が抜けてしまい立てなかった。

 

「あ、あの、すいません!もう大丈夫だとすっかり安心してしまって……」

 

 彼に迷惑をかけてしまった申し訳なさと、立ち上がれなかったことの恥ずかしさで、まともに顔も見ることができない。

 ううう……、どうしよう……。

 

「なら、おぶっていこうか?」

「え??」

 

 彼から差し出された提案に、思わず拍子抜けたような返事をしてしまう。

 

「その制服、オレがこれから通うところと同じやつだろ?登校時間も迫ってきてるし、君が立てないのなら、オレが君をおぶっていくのが手っ取り早いかな、と思って」

 

 そうは言ったって、入学初日に男の人におんぶしてもらって登校するなんて……。

 気恥ずかしさと戸惑いで、どうにかなりそうだったけど、そうするより他ない。

 

「じゃ、じゃあその……、お願いしてもいいですか?」

「ああ、任された」

 

 彼は、年相応の少年のような笑顔を初めて浮かべた。

 背を向けてしゃがみ込み、こちらに手招きする。

 

「ほら、乗って」

「は、はい……」

 

 よいしょ、と彼はひとたび私を背負うと、学校に向け通学路を歩き始めた。

 

「私……、その……、重かったりしたらすいません」

「いや、そんなことないぞ。むしろ、ちゃんとご飯食べてるのかって、少し心配するくらい軽いから」

 

 私は、ううう、と顔を真っ赤にして、彼の背中に顔をうずめてしまう。

 恥ずかしくて心臓がドキドキしちゃう……。男の人の背中って、こんなに大きくて安心できるものなんだ……。

 そんなことを考えている内に、彼があっと思い出したように口を開く。

 

「そういえばさ、君って新入生?」

「は、はい!そうですよ。あなたもそうなんですか?」

「いや、オレは二年生だ」

「え、それじゃあ先輩ってことですよね?!尚更申し訳なくなってきました…」

「ハハハ、そういうのは気にしなくていいぞ」

 

 清潔感あふれる黒髪のショートヘア。スラリとして私よりも高い背丈。同年代の男子と比べても落ち着いて大人びた印象から、確かに先輩という感じも頷ける。

 さっき私を助けてくれた先輩、かっこよかったな……。

 もしかして、先輩は私の……。

 

「先輩!!」

「ん?どうした?」

「先程は本当にありがとうございました!私、小野寺春(おのでらはる)っていいます!よろしければ先輩のお名前をうかがってもいいですか?」

 

 早口でそう捲したてた私に対して、先輩もこちらに顔を向ける。

 一瞬目を見開いて何か考えるようにした後、またさっきのような優し気な表情を浮かべた。

 

「オレの名前は、宮森樹。よろしくな、小野寺さん」

 

 何かの新しい始まりを予感させるように、春の暖かな向かい風がいっそう勢いを増して、私の頬を撫でていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「二年C組か……」

 クラス名簿が張り出されている廊下の喧騒をやっとの思いで抜けて、これから学校生活を送ることになる教室へと、宮森樹ことオレは歩き出していた。

 登校中、男たちに言い寄られぶるぶる震えていた少女―小野寺春を、無事に正門近くの場所まで送り届けてからの別れ際、

 

『今度、是非今回のことでお礼をさせて下さい!』

 

 と小野寺さんにあまりの勢いで言われたもんだから、断ることも憚られてついOKしてしまった。いったいどんなお礼をされるのか、と今は気になってしまう。

 それに、小野寺さんという苗字がまた問題なのだ。

 あのとき、脳裏には真っ先に和菓子屋のあの子が思い浮かび、小野寺さんとの関係性を疑ったりした。

 けれど、考えても仕方ない。膨れ上がりそうな想像を断ち切り、関係ないだろと思うようにした。

 

 二年C組の教室にたどり着くと、既にいくつかのグループができているようだった。

 その中でも特に騒がしいグループの方に目を向けると、見覚えのあるシルエットを二つ、はっきりと認識できた。

 久しぶりだな。口元を綻ばせながら、その二人の背後から近づいて背を叩く。

 

「よお、覚えてるか?(らく)(しゅう)

「ん?って、ああああああ!樹じゃねえか!どうしてここに!?」

「おー!!樹じゃんか!小学校以来だね。あれ、かなり男前になったんじゃない?」

「どうしてここにって、そりゃあ今日からこの学校のこのクラスに通うからだぞ、楽。二人とも、雰囲気がそんなに変わってなくて安心した」

「ってことは、また樹とクラスメイトになれるのか!嬉しいよ!」

「またよろしくな、樹」

「ああ、こちらこそよろしくな。楽、集」

 

 小学生の頃の旧友に出会え、互いに認知できたことの嬉しさからか、自然と頬が緩む。

 そこで、この会話の流れから取り残されていた第三者達から声が挙がる。

 

「ちょっとダーリン!盛り上がってるところ悪いけど、私たちにも説明しなさいよ」

「そうだぞ、一条楽!お嬢の言うとおり、我々にも話してもらおう」

 

 モデルのような出で立ちの金髪美女と、なぜなのか男装している青リボンの美女が、楽に問い詰める。

 

「そうだな、こいつは……」

「いいよ楽。自分から自己紹介するよ。オレは宮森樹。楽と集とは小学校の時の幼馴染といったところだ。中学から高一まではイギリスにいたんだ」

「そういうことね!私、桐崎千棘(きりさきちとげ)!私も昔はアメリカにいたことがあったの!よろしくね、宮森君!」

「私は鶫誠士郎(つぐみせいしろう)だ。こちらもよろしく頼むぞ、宮森君」

「よろしくな、桐崎さん、鶫さん。それと、桐崎さん、さっき楽のことをダーリンって呼んでたけど、もしかして二人って付き合ってるのか?」

「え、ええ、そうなのよ!ね、ダーリン!」

「そ、そうだぜ、樹!な、ハニー」

 

 まさかあの鈍感そうな楽が高校生になってこんな綺麗な女の子と恋人同士とは。

 ……どうしてか二人の間の不自然さから若干胡散臭さも感じたが、気のせいだろう。

 交友関係の新たな広がりを喜んでいると、橙色の花飾りを髪留めにした、いかにもお嬢様っぽい女の子が話しかけてきた。

 

「宮森さん、初めまして。私、橘万里花(たちばなまりか)と申します。実は私、そちらにいらっしゃる一条楽様の許嫁でありますの」

「こちらこそよろ……って、え?許嫁ってどういうこと?」

「こら、橘――!!」

 

 まさかあの鈍感そうな楽に綺麗な彼女どころか、お淑やかな許嫁がいるなんて……。

 ていうか、同じクラスの中で、どんなドメスティックな状況を作り出してんだよ、楽。

 現に、楽を間にして桐崎さんと橘さんが言い争ってるし。あ、楽が桐崎さんに吹っ飛ばされてる。桐崎さん、怪力だな。楽、南無三。

 そんな風に彼らの様子を眺めていると、新たに二人がこちらへと近づいてくる。

 

「宮森君だっけ?初めまして。私は、宮本るり。一条君や舞子君の幼馴染と聞いて驚いたわ。これからよろしく」

「ああ、よろしくな、宮本さん」

 

 小柄ながら知的な雰囲気を感じさせる宮本さん。

 素っ気ないようにしながらも、声をかけてくれるあたり、いい人なのだろう。

 そして、その背後にいる人物にオレは目を向ける。

 

「ほら、あんたも声かけたらどうなの、小咲(こさき)

 

 オレは、小咲と呼ばれた彼女のことを知っている。

 濃い目の茶髪。アシンメトリーな髪型。

 小学生の頃、あの和菓子屋に通っている内に、同年代で売り子の彼女と会話を交わして親しくなった、あのときの記憶が甦ってくるようだった。

 

「久しぶりだね、樹君。元気にしてた?」

 

 戸惑うような微笑みをたたえながら尋ねる彼女こそ、小野寺小咲。

 

「ああ、こちらこそ久しぶり。小咲」

 

 教室の外では、春嵐が桜の木々を激しく打ち鳴らし始めている。

 

 

 

 

 

 

 

 

「え?王子様?」

 

 目の前にいる赤みがかった茶髪の女の子――私の親友である(ふう)ちゃんが、興奮気味の私に対して目を丸くして聞き返す。

 

「そーなの!!私が絡まれてるところに颯爽と現れて、『悪いな』って!かっっこよかったな~私これ絶対運命の出会いだと思うんだ~。その上、腰が抜けて立てなくなっちゃってた私を背負って、学校のすぐ近くまで運んでくれて~。わはぁ~なんて優しい人なんだろう!」

「ふぅ~ん……。それが待ち合わせをすっぽかした理由?私ずっと待ってたのに。無事でよかったけど」

 

 風ちゃんにそう言われて初めて、一緒に待ち合わせて登校するという約束を破ってしまったことに私は今さら気づいた。途端に罪悪感で胸がいっぱいになる。

 

「ううう、ゴメン風ちゃん!まさかあんなことがあるなんて……」

「ううん、春が無事でよかった……。でも春、入学初日から男の人におんぶされて登校してくるなんて、大胆だね」

 

 風ちゃんにそう言われて、宮森先輩におんぶされていたときの感触を思い出す。頬がカァァっと赤くなって、思わず口が固まってしまう。

 

「それに、その人はこの学校の人なのかな?また会える約束とかしたの?」

 

 からかうような口調で風ちゃんが面白そうに私に聞いてくる。

 

「うん!今度その人にお礼しようと思うんだ!……って、もうチャイムなっちゃうね」

「そうだね。また後で続き聞かせてね、春?」

 

 風ちゃんとの会話を中断し、私は急いで自分の席に着く。

 すると、隣の座席に、私が教室に入った時にはいなかった、ヨーロッパのお姫様人形のような銀髪の少女が、退屈そうに座っていることに気づく。

 私は意を決して、銀髪の少女に口を開く。

 

「こんにちは!私この席なんだけど、お隣さんですよね?」

 

 こちらを向いていなかった銀髪の少女が私の方へ顔だけ向き変り、目線が合う。

 この子の金色の目、すっごく綺麗だなあ……。

 

「あ、あの……。お名前は……?」

「ポーラ。ポーラ・マッコイ」

 

 ポーラ、マッコイ……。見た目の通り、外国から来た子のようだ。

 

「よろしくね、ポーラさん!私は……」

「名乗らなくていいわ。別に覚える気ないから」

「……え?」

 

 これからクラスメイトとして、友達として関係を築いていけるのかなという私の期待感は、彼女の冷たい制止によって霧散してしまう。

 せっかく自分が勇気を出したのに。悪態もつきたくもなるが、ポーラさんには何か他人と関わりたくない理由があるのかもしれないと考えを改める。

 

「あ」

「……え?」

 

 直後、ポーラさんの懐から落ちた二つの丸いものを見て、私は目が点になってしまう。

 とても現実には思えないが、あれは恐らく手榴弾ではないだろうか……。

 ポーラさんって怖い人なのかも。

 そう感じている内に、ふと今朝の出来事がまた頭に浮かんできて、私はスカートの裾をきゅっと締める。

 

 早く宮森先輩とまた会えるといいな……。

 

 始業のチャイムが鳴り、担任の先生が教室へと入ってきた。私の高校生活はまだ始まったばかりだ。

 

 




 第一話『デアイニ』をご一読下さり、ありがとうございました。
 
 いかがだったでしょうか?

 少しでも楽しい読み物と思っていただけたのなら、幸いです。

 宜しければ、数話ほど連投されていると思われるので、そちらもどうぞ。


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第二話 クマサン

 
 第一話の後書きにある通り、連投です。

 第二話にもお立ち寄り頂き、ありがとうございます。

 それでは。



「よいしょ、よいしょ……」

 

 授業も終わり、廊下が生徒達で騒がしくなってきた。

 高校での初めての放課後だというのに。

 私は担任の先生に頼まれて、抱えれば私の背丈と同じくらいに迫るほどの量のプリントを職員室へ運んでいる。

 

「きゃっ!」

「あ、悪ぃ」

 

 その途中、向かい側から歩いてくる男子とぶつかってしまい、私はプリントを落としてしまった。

 男子の方は一言声はかけてくれたものの、そのまま歩き去ってしまう。

 廊下には、ばらまかれたプリント達と、ポツンと尻餅をついている私だけが取り残された。

 

「ああっもう!」

 

 何今の男子。これだから男の子って……。心の内で毒づきながら、散らばっているプリントを苛立たし気に拾い集める。

 

「大丈夫か?」

 

 背後から突然呼びかけるような声がしたので振り向く。

 そこには十字の髪留めをつけた先輩らしき男の人が、プリントを一枚手に取りながら、こちらを気にかけるように覗き込んでいた。

 

「す、すみません。何か手伝ってもらっちゃって……」

「いいって。ただのついでだし」

 

 あれからその先輩とプリントを拾い集め、今は廊下を二人並んで、プリントを両手に抱えながら職員室へと歩を進めている。

 手伝ってもらっている上に、先輩に自分が運んでいるのと比べ、二倍以上の量を運ばせていることに、私は先輩の厚意に痛み入る気持ちだ。

 

「その帯の色、君一年生?」

「はい。あの、先輩は……先輩ですよね?」

「オレは二年。分かんないことあったら何でも聞いてくれ」

 

 二年、と聞いて私は、隣歩く先輩から、宮森先輩へと意識を傾けてしまう。

 先輩に直接お礼をするという約束をした。

 けれど、実際に何をするのか。どうやって。いつ会えるのだろうか。色々と漠然としてて、どうすればいいか悩ましいところだ。

 そうこうしている内に、私は現実へと戻り、先輩に何か言わなくてはと立ち止まる。

 

「でも正直助かっちゃいました。私まだ職員室の場所とかうろ覚えで……。それに、ちょっと安心しました。私、中学が女子校で、共学って少し不安だったんですけど、先輩みたいな優しい人もいるって分かりましたし。実は今朝も、この学校の男の先輩に助けてもらったりして!」

「へぇ、よかったなそりゃ」

「本当は今すぐにでもその先輩に会いたかったりするんですけど……」

 

 そこまで言って、私は宮森先輩以外にもう一人。二年の先輩を探していたことを思い出す。

 

「あ、そうだ!先輩、二年生だとおっしゃいましたよね?」

「え?ああ」

「私、実はその人ともう一人、二年生で探さなければならない先輩がいるんですが、ご存じないですか?噂によれば、この学校では有名な方らしいのですが」

「有名?そいつの名前は?」

 

 先輩がそう私に聞き返すと、廊下の奥の方から別の男子生徒の声がした。

 

「おーーい、一条!さっきキョーコちゃんが探してたぞー!」

「サンキュー!すぐ行くわ!」

 

 一条と呼ばれた先輩は、男子生徒へ適当な返事をし、私の方へと向き直る。

 

「で、何だって?」

 

 私は目の前の先輩が、探している先輩と同じ苗字であることに驚きを隠せない。

 

「一……条?」

 

 そう呟くと、目の前の人物が探している人物と同一なのではないか。そんな疑いが肥大していく。

 私は抱えていたプリントを放り出して壁際に後ずさるほど、背筋がぞくぞくしてしまいながらも、確かめるように先輩に尋ねる。

 

「失礼ですが、この学校、一条って苗字の方は他にも?」

「いや、多分俺だけだけど……」

 

 何が何やらという表情を浮かべる先輩を他所に、私は自分の中の疑いが確信に変わったことで一つ息を吐く。

 

「じゃあ、あなたがあの、一条楽先輩……」

「あの?」

「ヤクザ集英組の組長の息子で、超絶美人の彼女がいるにも関わらず、多数の綺麗な女の子を従えて、噂じゃ学校の権力を裏から牛耳っているという、あなたがあの一条楽―!?」

「ちょ、ちょっと待て待て待て!なんだその噂!」

「ひぃぃ、近寄らないでください!」

 

 私は、迫ってくる目の前の忌々しい人物にぞわぞわとしながらも、先程の先輩の行動を改めて振り返る。

 

「じゃあ、まさかさっきのも。さっき私に優しくしてくれたのも、あれも女の子に取り入る手口の一つだったんですね!ひどーい!優しい人だと思ってたのに!」

「待て待て、ちょっとは人の話を……」

「私!あなたに一つ言っておくことがあるんです!」

 

 蛇口を開いたように流れ出した私の言葉は収拾がつかない。

 

「これ以上!私のお姉ちゃんに……」

 その言葉を口に出そうとした瞬間、開いた窓から桜の花びらを伴った強風が吹く。

 廊下を、私たちを駆け巡るとともに、私のスカートを捲り上げ、クマさんのパンツをよりにもよって、あの一条楽先輩の眼前へ曝け出した。

 廊下に再び静けさが戻ると、私は、恥辱にまみれ、涙目になった視線で、先輩を睨む。

 

「……見ました?」

「い、いや……。高校生にもなってクマさんはないかと……」

 

 ついかっとなって、反射的に私は先輩にビンタを喰らわした。

 

「サイッテーー!!!サイテーです!サイテーです!この女の敵―!」

「お、俺のせいでは……」

 

 私はこれでもかというほど、憎しみも込めながら、左頬を紅葉模様にして倒れこむ一条先輩へと罵声を浴びせかけている。

 すると、別の方向から聞き覚えのある声がした。

 

「どうしたの一条くん?何の音?」

「また一騒動起こしてんのな、楽」

 

 そこには、心配そうに見つめてくる私の最愛のお姉ちゃんと、呆れたように苦笑いを浮かべている私の王子様が、すぐ近くに隣並んで歩み寄ってきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 新しい学校、新しいクラスでの一日も放課後となり、教室にいたクラスメイトが次々と散らばっていく中、オレは小咲に呼び止められていた。

 

「あの、樹君…。よかったら校内を少し散策しない?」

「ああ、いいよ。小咲が案内がてら校内を紹介し回ってくれると助かる」

 

 断られるとでも思っていたのだろうか。

 不安そうにしていた彼女はオレの返事を聞いた途端、花が咲いたような笑顔をこちらに振りまいてきた。

 

「うん!それじゃあ行こっか?」

 

 ……彼女の笑顔に何人の男がやられているのだろう、と少しくだらなく考えてしまう。

 それからというもの、小咲と校内を色々と巡る中で、世間話も交えつつ、今日出会ったクラスメイトの話題に会話が及んだ。

 

「にしても、随分と賑やかな奴らに囲まれてるよな」

「そうだよね。去年もたくさんのことがあって楽しかったなあ……」

 

 そう話す小咲の、懐かしみながらも柔らかい表情を見る限り、去年は本当に楽しかったんだな、と伝わる。

 楽に集、小咲に宮本さん、桐崎さん、鶫さん、橘さん……。あんなメンツが揃っていれば、騒がしくもなるだろうし、楽しくもなるだろう。

 

「オレもあいつらと仲良くやっていけるといいな」

「大丈夫だよ!みんな、宮森君を喜んで迎えてくれるよ!」

「そうか、そうだといいな」

 

 こうした小咲の、気遣いというか、優しさというか。小学校のときから相変わらずだな、と感心してしまう。

 

「そ、それに……、私だって樹君とまた仲良くなりたいし……」

 

 口元に手で三角を作りながら、小咲は覗き込むようにこちらへ投げかける。

 

「もちろん、仲良くしてくれるとありがたい」

「ふふっ、またよろしくね」

 

 当然の返答をしたはずだが、小咲は音符が出てきそうなくらい、上機嫌に廊下を歩いていく。

 そういえば、小野寺さんは無事に高校生活初日を終えられただろうか。

 彼女に、お礼をする、と言われはしたものの、次いつ会えるのかも分からない。それならばこの放課後の内にばったり会えたりしないだろうか。オレはそんな可能性の低いことを考えたりする。

 すると、廊下の先でパチンと大きな音がした。

 

「何だろ、ちょっと見に行くか」

「うん、そうだね」

 

 向かった先では、廊下にへたり込んでいる同級生と、顔を真っ赤にしてその同級生を罵倒する少女の、二つの姿があった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ、ああ小野寺、樹。実はだな……」

「お姉ちゃん!それに、み、宮森先輩!」

 

 オレと小咲の呼びかけに対し、楽と小野寺さんの二人がそれぞれの反応を示したと同時に、小野寺さんが小咲のもとへと駆け寄ってくる。

 

「あれ、春?どうしてここに?」

「お姉ちゃん安心して!私が来たからにはもう大丈夫だからね、ね!ね!」

「え?ええ?」

「お、お姉ちゃん!?」

 

 興奮気味の小野寺さんに対し、やや困惑の表情を浮かべる小咲。小咲に妹がいるという事実にただ驚く楽。

 それぞれ表情が異なる中、小野寺さんが両手を広げ盾となり小咲を守るようにして、楽へ立ちはだかった。

 

「私の名前は小野寺春!小野寺小咲の妹です!」

「い、妹?そうか、確か小野寺、妹いるって……」

「近づかないでください!お姉ちゃんは絶対あなたになんか渡しませんから!」

「え?!」

「えええええ、ちょっと春!何言ってんの」

「お姉ちゃん目を覚まして!お姉ちゃんは、騙されてるんだよ!」

 

 怒涛の展開から一歩離れているオレは、冷静に状況を見つめようとする。

 どうやら小野寺さんは、楽についてのことで何か良からぬ噂でも聞いたのだろうか。

 そうこう逡巡している内に、楽の後方からピコンと赤いリボンが覗いてくる。

 

「どうしたの?さっきから騒々しいけど?」

 

 目をぱちくりさせながら、桐崎さんはオレらを見回し、楽に尋ねる。

 

「あれ?誰、その子?」

「千棘……、実はだな……」

 

 楽が桐崎さんに説明すると、桐崎さんは心底驚いたように口を大きく開けた。

 

「ええ!?小咲ちゃんの妹!へぇ~小咲ちゃん、妹いたんだ!よろしくね、お名前何て言うの?」

「弱みでも握られてるんですか?!」

 

 歩み寄ってきた桐崎さんに対し、小野寺さんが突っかかる。

 

「え、弱み?えと、何の話?」

「だって、変ですよ!先輩みたいに超絶美人で、スタイルよくて、人当たりもよさそうな方が、こんな見るからにダメそうな、軽薄で、性格悪そうな人と付き合っているなんて、絶対おかしいです!!」

「こらこらこらこらこら!」

「な、なんてこと言うの、春~!謝りなさい!」

「おい、小野寺さん」

 

 小野寺さんの、あまりに頭に血の上っている様子及び発言を聞いて、このままではまずいと感じ、小野寺さんの頭へトンと右手を振り下ろす。

 

「ちょっ?!何するんですか、宮森先輩!!」

 

 小野寺さんはいかにも興奮した様子で、こちらを睨み返してくる。

 

「あのな。小野寺さんは、会ったことも、話したこともないような人を、事前に耳にした噂をそのまま鵜吞みにして、いざその人に出会ったときに、この人はこういう人だ、って決めつけてかかってしまうのか?そうやって、小野寺さんは、先入観をもとに人と接するのか?」

「い、いえ、そういうわけでは……」

 

 幼い子供に親がそうするように。オレは穏やかに、発した言葉がちゃんと小野寺さんへ染みこむように諭す。小野寺さんは、次第に目線を下げていく。

 

「仮にさ、小野寺さんが、小野寺春はひどい奴らしい、って噂を流されて、それを耳にした他人からそういう風に扱われるとしたら、嫌だろ?」

「っっ、それは、もちろん嫌です……」

 

 ここでようやく自分のしていることが理解できたきたのだろうか。小野寺さんは、何かに気づいた様子で一度顔を上げると、再び視線を落とす。

 ここまできたら、もう大丈夫だろう。

 

「それを考えたらさ、小野寺さんが相手にそういうことをしたら、相手がどう思うかなんて、今の小野寺さんなら分かるよな?」

「はい……」

「そしたら、次にすべきことも、高校生になった小野寺さんは既に知ってるはずだ」

 

 オレがそう伝えると、小野寺さんは振り向いて、楽の方へ歩み寄り、頭を下げる。

 

「す、すみませんでした、一条先輩……。プリント運ぶの手伝ってもらってたのに、勝手に決めつけて、色々ひどいこと言って、本当にごめんなさい……!」

「いいって、気にすんな」

 

 小野寺さんがちゃんとすぐに反省して謝れる子で、楽の心が相変わらず海みたいに広くて良かった。ひとまずこの場は落ち着きそうだ。

 

「ありがとね、宮森君」

 

 隣にいる小咲が、こちらに顔を向け、そう囁いてくる。

 

「大したことはしてないよ」

 

 照れ隠しのように、オレは目線を正面に戻して、そう答える。

 桐崎さんはゆらゆらと小野寺さんに近づいて、抱きついて、頬をスリスリし合っている。

 ところが、今度はまた別の足音が楽の方へ駆け寄ってきた。

 

「楽様~!こちらで私とお茶などいかがですか!?」

「うぉっ!?た、橘!?」

 

 嬉々とした表情とともに、そのまま楽へと抱きついた橘さんの登場で、場は静まり返る。

 

「おや?何ですか、その子?」

「な、何をそんな、堂々と、廊下の真ん中で男の人に抱きついてるんですか!しかもその人、彼女いるんですよ!分かってるんですか!?」

「はい?」

 

 小野寺さんの剣幕に、橘さんは目を瞬きさせながら、こちらへ向き変える。

 

「ふふ、まだまだお子様ですわね」

 

 そう言うと、橘さんはまるで舞台に上がった役者のようにポーズを決めていく。

 

「愛とは貫くものなのです。たとえ彼女などという障害があろうとも、愛があればどんなことでも乗り越えられるんですよ!」

 

 一同愕然である。

 

「なので楽様?ちょうど二年生にもなりますし、そろそろ古くなった彼女は捨てて、私に乗り換えませんか?」

「人を中古車みたく言うなー!!」

 

 再び楽へと抱きつき、改めて楽を誘惑する橘さん。

 怒りを纏わせながら、桐崎さんが彼らへずかずかと割り込んでいく。

 この一連の流れの中で、すっかり困惑して立ち尽くす小野寺さんに対し、彼女のお姉さんである小咲が、優しく語りかけるように諭す。

 

「春?一条くんは、春が思っているような悪い人じゃないよ。春がどんな噂を聞いたのか知らないけど、噂はあくまで噂なんだから」

「そうだな。少なくともあいつは噂通りの人となりではないぞ、小野寺さん」

「お姉ちゃん……、宮森先輩……」

 

 小咲に続き、オレも小野寺さんに対して、楽のフォローに回る。それでも引っかかるところがあるのか。小野寺さんは浮かない表情をしている。

 ところが、ハッとしたように、何かを思い出した小野寺さんの次の発言で、この場に爆弾が落とされた。

 

「けど……、この人私のパンツ見たんですよーー!!?」

 

 ……思わず溜息をついて、回れ右をしたオレは悪くないはずだ。

 




 第二話『クマサン』をご一読下さり、ありがとうございました。

 いかがだったでしょうか?

 連投の方は次の第三話までに留めます。

 次の話も宜しければ、どうぞお立ち寄りください。


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第三話 カエリニ

 
 連投はこれまでです。

 第三話にお立ち寄り頂き、ありがとうございます。

 それでは。



「……はぁ……」

 

 空が茜色に移り変わり、あらゆる影がその長さを伸ばし始めた頃。私はようやく下駄箱で靴を履き替え、帰路につくところだった。

 今日という忙しない一日を思うと、一息つきたくなる。

 

 朝の登校中にいきなり男の人に囲まれた。

 それを宮森先輩に助けてもらって、そのまま先輩におんぶされて学校まで行った。

 風ちゃんにからかわれ、ポーラさんに冷たくあしらわれ。

 プリント運びを手伝ってもらった先輩があの一条楽先輩だと分かった。

 そしたらお姉ちゃんや宮森先輩、桐崎さんや橘さんまで現れて……。

 

 ほんとにいろんな事が起きた一日だった。

 あれからというもの、一条先輩とは飼育小屋でも出くわした。そこで再びパンツを見られてしまった。さすがにカッとなって先輩をぶっ飛ばしてしまったけど。

 先輩は噂通りに性格が悪いというわけではないだろうけど、やっぱりあの先輩はサイテーだ。女の敵だ。

 

 なのに、どうして、お姉ちゃんも、宮森先輩も、一条先輩を庇うのだろうか。それに、あんな超絶美人な桐崎さんも橘さんも。あの先輩のどこがそんなにいいのか、全く見当もつかない。けど、私はとにかく、お姉ちゃんをあの一条先輩から守らなければ。

 そう決意する私に、また別のことが頭に浮かんでくる。

 

「宮森先輩へのお礼、どうしようかな……」

 

 うわ言のように、そう呟く。

 私のスカート見られた発言の後、桐崎さんに一条先輩がぶっ飛ばされた頃には、とっくに宮森先輩の姿はその場から消えていた。

 

 あの時、先輩を引き留めて、お礼の件について話せたらよかったのにな……。

 けど、明日だって、その次の日だって。先輩と学校で逢えるチャンスがきっとあるはずだ。

 そう思い直し、下駄箱から校門の方へ歩いていくと、校門にいるはずのない人影が見える。

 

「あ、やっぱりまだ学校にいたんだな」

「み、宮森先輩!!?」

 

 そこには、もう帰ったはずの、私の王子様の、宮森先輩がいた。

 

「ど、どうしてここに!?」

「いや、あのまま帰ってしまおうと思ってたんだけど、小野寺さんのお礼の件、今日の内にどうにかできた方がいいかな、って考え直したんだ。それで、考え事でもしながら、少しここで小野寺さんを待ってみようと」

 

 私は、ここにいるはずのなかった先輩が私の目の前にいる。驚きと嬉しさと恥ずかしさでどうにかなりそうだ。高鳴る鼓動と火照ってくる躰ををどうにかして落ち着けようと試みる。

 

「それに、今日に限っては、下校中にまた男どもに囲まれでもしたら困るだろ?今日のところは小野寺さんのボディーガード代わりに送ってくよ」

 

 その一言で、私のささやかな試みは無残に崩れ去り、リンゴのように赤面してしまう。

 

「じゃ、じゃあ、その、よろしくお願いします……」

「ああ」

 

 そう言って、先輩と私は、帰り道を並んで歩き出す。

 日がさらに傾いたのだろうか、その赤みは先刻からより深くなったような気がする。

 

 

 

 

 

 

 

 

「それで、風ちゃんがですね……」

 

 夕陽が眩しく町並みをオレンジ色に染めてきた。

 オレは、隣で今日の出来事を思い出すように、はにかみながら話す少女―小野寺春と、彼女のお家までの帰り道を歩いている。今の話題は、小野寺さんの親友であるらしい風ちゃんのことだ。

 

「その風ちゃんって子、気配りができて、いい子なのな」

「そうなんですよ!風ちゃんはほんとにいい子なんです。今日だって、私が一緒に登校しようって約束破っちゃったんですけど、怒らずに私の心配してくれて……」

 

 どうやら小野寺さんには頼もしい友人がいるらしい。

 一度その風ちゃんという人物にも会ってみたいものだ。

 次に、話は放課後の出来事へと向けられる。

 

「それにしても、あの一条先輩って人、確かにひどい人ではないのかもしれませんが、桐崎さんという超絶美人の彼女がいる身でありながら、橘さんという許嫁もいるし、その上、お姉ちゃんに手をかけようとしているなんて……、信じられません!!」

 

 先程まで、風ちゃんについて、優しい表情を浮かべ、慈しむように話していたのに。 

 打って変わって楽のことになると、小野寺さんは頬を膨らませながら話す。

 

 楽と桐崎さんのことについては、教室での騒動後に、本人たちから既に事情を聞いた。

 それに、楽が小咲に想いを寄せているだろうことは、先程のやりとりでも何となくではあるが、ある程度感じ取れている。小咲の方からはそんな様子はあまり感じ取れなかったが……。

 ともかく、ある程度の関係が掴めているオレは、小野寺さんを宥めようとする。

 

「楽にも、それなりの事情があるんだろう。さっきも言ってたけど、楽は小野寺さんが思ってるような悪い奴ではないぞ」

「先輩がそう言うのなら、そうかもしれませんが……。やっぱり彼女のいる身でありながら、お姉ちゃんにまで手を出そうとしてるのは、受け入れられません!」

 

 小野寺さんの、楽への誤解を解くには、かなりの時間を要しそうだ。

 すると、小野寺さんが、あることに気づく。

 

「……そういえば、先輩。お姉ちゃんのこと、小咲って呼んでませんでしたか?先輩ってもしかして、お姉ちゃんと親しかったりするんですか?」

 

 小野寺さんは不思議そうに、疑うように、そう尋ねてくる。

 

「実は小学生のとき、和菓子屋おのでらの常連だったんだよ。そこで、売り子をしてた小咲と何度か話す内に、同級生ということもあって、次第に仲良くなったんだよ」

「そ、そうだったんですね……」

 

 小野寺さんは、何故か少しだけ小鼻をふくらましたような感じになっている。

 

「あ、そうだ!小野寺さんのお礼の件なんだけど」

 

 そこでオレは、紛らわすように、一気に本題の方へ話を進める。

 

「は、はい!」

 

 突然にやってきたお礼の話に、小野寺さんは肩をびくつかせて、強張った返事をする。

 

「久しぶりに、和菓子屋おのでらの和菓子が食べたくなったからさ。和菓子を一つ、オレが頂けるってのはどう?」

 

 こちらから提案したことであれば断りづらいだろう。

 そう思いついたことを、できるだけ自然に聞こえるように小野寺さんに伝える。

 

「そんな、うちの和菓子であれば勿論喜んで差し上げたいですけど、助けてもらったお礼として、そんなものでよろしいんでしょうか?」

 

 小野寺さんは、どこか釈然としない表情とともに、体をこちらの方へ乗り出して、オレに疑問を投げかける。

 

「ああ、充分なお礼だよ」

 

 オレは、偽りなく、感じていることをそのまま口に出す。

 

「けど、それじゃあ、何というか私の気が済まないというか……」

 

 それでもまだ納得がいってない、といった様子で、小野寺さんは引き下がってくる。

 

「いいんだよ、小野寺さん。あんまりのものをもらっても、逆に困るしな」

 

 まだ十分に納得がいっていないのだろうか。

 若干不満そうな小野寺さんを宥めている内に、目的地で、小野寺さんのお家である、和菓子屋おのでらの前まできた。

 

「そ、それじゃあ入りますか……」

「そうだな」

 

 少し恥ずかしそうに、小野寺さんがおずおずと扉に手をかける。

 

「ただいまー」

 

 小野寺さんが店の正面の扉を開くと、店内の様子が映り込んでくる。

 正面に和菓子を並べたショーケース。

 隅には待合用の座席と店の名前が書かれた暖簾。

 こじんまりとしながらも、どこか温かさや清潔さを感じられるような空間。

 四年以上経ってもほとんど変わることのない、内装と雰囲気に思わず懐かしさを感じずにいられない。

 すると、店の奥の方からこちらへと近づいてくる足音がする。

 

「おかえり、春。おや、そちらは……」

 

 小咲と小野寺さんの母親で、娘たちとよく似た容貌でありながら、どこか男勝りな印象を抱かせる、菜々子(ななこ)さんが姿を見せた。

 

「お久しぶりです、菜々子さん」

 

 見知った人物の登場に、感慨もひとしおな気持ちで、挨拶をする。

 

「思い出した。あんた、四年くらい前までよくウチに来て、小咲とくっちゃべってた、樹君じゃないかい。なんだい、すっかりと男前になったじゃない?」

 

 懐かしみとともに、どこか感心したような様子で、菜々子さんはオレを見つめる。

 

「どうも。覚えてもらえているなんて嬉しいです。またこの街に帰ってきました」

「それじゃあ、またこの店の常連さんになってくれるのかい?」

「はい、そのつもりです」

 

 そいつはよかった、と菜々子さんは口元を緩ませる。

 菜々子さんは目線をオレから、このやり取りをただ見つめていた小野寺さんへと移す。

 

「それにしても春~。男嫌いの春が、男の人を連れて帰ってくるなんて~。春も隅に置けないなぁ~」

「ちょっとお母さん!!!」

 

 ……そういえば、菜々子さんって恋バナめいたもの大好物だったな。オレと話してた小咲が、菜々子さんに面白いように弄ばれてたことも思い出した。

 

「まあ、それはさて置き、どうして春は樹君と帰ってきたんだい?」

 

 つい数秒前の、いまだ残る少女らしさ一面から、いかにも母親らしい雰囲気を纏って、菜々子さんは小野寺さんにそう尋ねる。

 

「じ、実はね、登校中に男の人達に囲まれたところを、宮森先輩に助けてもらって。そのお礼として、うちの和菓子を一つもらってもらおうってことになって」

 

 少し眉をひそめたように、小野寺さんは今日の出来事をつらつら述べる。

 

「そういうことね。何とお礼を言ったら……。娘を助けてもらったこと、恩に着るわ、樹君。うちの和菓子で良ければ、今日は特別に一つ持っていきな」

 

 事情を知った菜々子さんは、こちらへと向き直り、真剣な面持ちで感謝の思いを伝えるとともに、労うように提案を受け入れてくれた。

 

「ありがとうございます、菜々子さん」

 

 つられるようにしてオレも、菜々子さんに、贔屓の店の品物が一つ頂けることの感謝を伝える。

 

「い、いえ、宮森先輩。こちらこそ、困っているところ助けて下さり、本当にありがとうございました」

「どういたしまして」

 

 そう言い、小野寺さんも改めてこちらに深々と頭を下げてくる。お礼のことといい、本当のところは礼儀正しくて素直な子だな。オレはお返しをしながら小野寺さんを眺める。

 

「それじゃ、アタシは厨房に戻るから、後はよろしくね、春。樹君と仲良くよろしくやってなさいな」

「もう、お母さん!!!」

 

 オホホホと、菜々子さんはこの様子を見て、満足そうに仕事場へと戻っていった。

 嵐が過ぎ去った後のように、二人の間には静寂が訪れる。

 

「じゃ、じゃあ、持ち帰る和菓子を選ぼうかな」

「そ、そうしましょう」

 

 お互いにどこか気まずさを感じながらも、小野寺さんと一緒に、和菓子の商品が並べられているショーケースへと、足を運ぶ。

 

「先輩は、何か好きな和菓子とかありますか」

 

 とても気になるといった感じで、小野寺さんがこちらへ顔を覗かせてくる。

 

「そうだな。甘い物好きだから、基本的に和菓子は何でも好きなんだけど、強いて上げるとすれば、餡菓子かな」

「へぇ、餡菓子ですか!私も、大福とか、餡で作られる物には目がなくてですね……」

 

 それからというもの、餡菓子の魅力について熱心に語ってくる小野寺さん。

 和菓子屋の娘というのもあって、その熱弁からは、和菓子が本当に大好きなんだな、とひしひしと伝わってくる。

 

「あ、すいません。つい話し込んでしまって……」

「いいんだよ、小野寺さんって、和菓子大好きなんだな」

「もちろんです!」

 

 小野寺さんはさも当然かのように、えっへんと胸を張って返事する。

 

「それで、和菓子選びの方はどうですか、先輩?」

「ああ、もう決まったよ」

 

 そう言って、オレはショーケースの中にあるそれを指差した。

 

「石衣ですか……」

 

 小野寺さんは、まるで刻むこむように、ポツリと呟く。

 

「うん、やっぱりいつも買ってたやつにしようかなって。それに、この店の石衣好きなんだ」

「ふふっ、そうなんですね。じゃあ、ちょっとお待ちくださいね」

 

 別の餡菓子でもいいか、とも考えはした。けれど、久しぶりに来たことだし、お気に入りの品に落ち着くことにした。

 小野寺さんは、トタトタとショーケースの向こう側へ駆けていく。そこから石衣と書かれた包装を取り出し、丁寧に袋に入れて、わざわざこちらへ戻って来た。

 

「はい、先輩!お礼の品です!本当に今日はありがとうございました!」

「ああ、こちらこそありがとう」

 

 何度目か分からないお礼の言葉を述べながら、小野寺さんは花が咲いたような満面の笑みで、袋を差し出してくれた。

 その可憐な表情に、心穏やかで暖かな気持ちを抱くとともに、その笑みに思わず彼女の姉の小咲の笑顔が重なり、まさしく姉妹だなと感じる。

 

「それじゃあ、オレもそろそろ帰るよ」

「あ、そうですよね……」

 

 一気にシュンとなってしまった小野寺さんを他所に、オレは背を向け扉の方へと向かう。

 扉に手をかけて、また学校で、と言おうと振り返ろうとした、まさにその時。

 小野寺さんが「あの!」とオレに呼びかけてきたので、咄嗟に固まってしまう。

 

「どうした?」

 

 小野寺さんは、両手を前にしてスカートの裾をキュッと掴んで、さも大事なことがあるといった様子で口を開く。

 

「あの……、私、その、男の人が苦手で、これまでも男の人と話すときはいつも警戒したり、嫌悪感を抱いたりしてて……。けど、宮森先輩は、今までの人達と違って、話すと自然と笑顔になれるというか、安心出来るような、そんな人で……」

 

 目に涙をためながら、目線を少し下にずらしながら、頬を赤らめながら。

 全身に力を込めて一生懸命に伝えようとする小野寺さんを、オレはただ黙って見つめる。

 

「だから、これからも、先輩がよろしければ、学校でも、この店でも、また違う場所でも、もっと先輩と仲良くしなりたいですし、もっとたくさん先輩とお話したいです……」

 

 そう言い終えると、薄茶色のつぶらな瞳が、願うようにこちらを見つめてきた。

 

「そうだな……。オレも、小野寺さんのような素敵な後輩の子が、仲良くなりたい、なんて言ってもらえるのが嬉しくて。むしろ、そういうことはこっちからお願いしたいくらいだよ」

 

 それを聞いた小野寺さんが、光が差してくるように嬉々とした表情を浮かべていく。その様子を見て、オレは一つ提案してみようと思い立つ。

 

「よければさ、連絡先交換しない?」

「っ!!?いいんですか?!是非お願いします!」

 

 そう言うと、小野寺さんは大急ぎで自分の通学鞄を持ってくる。そこからスマートフォンを取り出し、自らの電話番号とメールアドレスを差し出してきた。

 オレが、自分の電話帳に新たな連絡先として登録した後、小野寺さんに向けて空メールを送信する。

 すると、小野寺さんは「来ました!来ましたよ先輩!」なんて大げさに喜んで、眩しい笑顔をこちらに向けてくる。可笑しいような感じがして、思わず口角が上がってしまう。

 連絡先も無事に交換し終えたので、改めてオレは扉に手をかける。

 

「さて、今度こそオレは帰るよ。またね、小野寺さん」

「はい!またお会いしましょうね、宮森先輩!帰り道、お気を付けてくださいね」

 

 オレが扉を開けて、外に出て、扉を閉め終えるまで。

 小野寺さんは、満足そうな笑みを浮かべながら、こちらにささやかに片手を振っていた。

 こちらも小野寺さんに片手を振り返した後、扉を閉め終えると、辺りの静寂に包まれる。

 夕日は既に沈みかけていて、夜の気配がしてくる時間帯に差し掛かっていた。

 帰り道と、空の澄み切った夕焼けを重ねたうちに、明日も晴れになる気がした。

 




 第三話『カエリニ』をご一読下さり、ありがとうございました。

 いかがだったでしょうか?

 ひとまず第三話まで投稿してきました。
 第四話より先の話について、ストックはまだまだあるのですが、翌日以降に投稿していこうかなと考えております。

 それでは、また次のお話で。


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第四話 ジハンキ

 第四話にお立ち寄り頂き、ありがとうございます。

 昨日の夜に見たら、お気に入り登録が十件となってて、嬉しかったですね。

 それでは。


 高校生活も始まって、私の王子様、宮森先輩と出会ったあの日から数日が経った。

 週も変わり、段々と新しい生活に慣れてきたのか。

 学校の中の空気も人も落ち着きを感じさせてきている。

 授業もあと五分もしないうちに終わるというのに、私は机に突っ伏したまま、ふと宮森先輩のことを頭に思い浮かべる。

 

 今頃、先輩も授業受けてるんだろうなぁ……。

 登校初日からガラの悪い男たちから助けてもらった。

 一条先輩のことでまるで兄のように諭してくれた。

 私のことを校門で待ってくれたり、うちの和菓子屋まで送ってくれたり、そこで連絡先を交換したり……。

 

 あれからというもの、私は嬉しさのあまりに、顔がにやけてどうしようもなく、体をくねくねさせながら、少しの間悶えていた。……お母さんに気づかれるまでそうしていたせいで、お母さんに散々に弄ばれたのだけど。

 

 先輩に会いたいなぁ……。

 連絡先を交換したその日の内にメッセージを送るべきか、そしたらどんなメッセージを送ればいいのか、延々と頭を悩ませていた。

 そんな私に、先輩の方から『これから、よろしくね』なんて、逆に連絡が来た時に感じた、胸の高鳴りを今でも時々思いだしちゃうくらいだ。

 それから今日まで、メッセージのやり取りはちょこちょこと続いているけれど、同じ学校にいるのだから、そろそろどうしても会いたくなってきてしまう。

 顔に熱が灯ってくるのを感じて、それを紛らわすように、机に突っ伏した頭を両腕で覆い隠す形に体勢を変えると、今度は別の先輩のことが浮かぶ。

 

 ……一条先輩。

 

 集英組のヤクザの一人息子で、彼女がいるにも関わらず、許嫁がいたり、お姉ちゃんを狙ったりしていて、私のパンツを、不可抗力だったとはいえ、二度も見た人。

 けれど、落としたプリントを一緒に集め、職員室に運ぶのを手伝ってくれた。お姉ちゃんや宮森先輩にも信用されているみたい。それに、この前の休日にうちの和菓子屋のバイトに来て、お母さんにまで認められてしまってる人。

 実際にあの人が作った餡はビックリするほど美味しかったり、人並み以上のお人好しなところがあるのは認めよう。あの人は根っからの悪人という訳ではない。お姉ちゃんや宮森先輩の言葉、実際の一条先輩とのやり取りを通じて伝わる。

 だが、私の大好きなお姉ちゃんに、彼女持ち・許嫁持ちでありながら近づいてくる点で、私はまだまだ一条先輩には心を許すつもりはない。

 

 そうこう考えている内に、授業の終わりを告げるチャイムが鳴ったのだろうか。教室が賑やかになっていくのが、見えないながらも感じ取れた。すると、足音が一つ、私の方へ近づいてくる。

 

「大丈夫?春」

 

 心配そうに、三つ編みのおさげに手を触れさせながら、風ちゃんが尋ねてきた。

 

「んん~……。ちょっと考え事してた……」

 

 閉じていた目を開け、起き上がりながら私はそう答える。

 

「そっか。もしかして宮森先輩のこと?」

「ううう、そ、そうでもあるんだけど……」

 

 あの日あったことは、風ちゃんに話してしまっていた。

 にこやかにそう聞いてくる風ちゃんの口から、宮森先輩、と出されると、私は思わず赤面してしまう。

 

「そうでもある?てことは……、一条先輩のことも考えてた?」

「え」

 

 風ちゃんはエスパーか何かなのだろうか。私は目を丸くして風ちゃんを見る。

 

「昨日電話で一条先輩がバイトに来たとか言ってたでしょ?それに、今の春が考え事するなら、その二人の先輩のどちらかかなと思ったから」

「そ、そうなんだね」

 

 風ちゃんの観察力と洞察力に、私は感心してしまう。

 この親友には、私が何か隠し事をしたとしても、何でもお見通しにされる気がする。

 

「それで、具体的にはどんなこと考えてたの、春?」

「一条先輩のことは、やっぱりお姉ちゃんとのことがあるから、私がちゃんと見極めないとなって考えてて……。宮森先輩については……、ただ気になって、せっかく同じ学校にいるんだし、会いたいなぁって……」

 

 改めて風ちゃんに考えてたことを話しているうちに、だんだんと恥ずかしくなる。

 私は目線を逸らしながら、声をミュートにしながら、そう呟く。

 

「ふふふ。春って、カワイイ」

 

 にこやかな表情をさらにニコニコさせて、風ちゃんがそう言う。

 私は頭から湯気が立ち上ってきそうなくらい、体に熱が帯びてくるのを感じる。

 

「気になるならさ、ちょうど放課後になったし、先輩達のいる教室に突撃してみようよ」

「ええ?!」

 

 風ちゃんからの突然の提案に、私は立ち上がってしまうほど驚く。

 

「私も、春の王子様の宮森先輩や、一条先輩が、実際にはどんな人なのかは興味あるしさ。それに、春のお姉さんもどうしてるか、春は気になるでしょ?」

 

 風ちゃんは先輩達の教室へ突撃する理由をいくつか上げていく。いまだ驚いて固まってしまい、どうしようか悩んでいる私に、風ちゃんは視線を合わせてくる。

 

「だから、どうしよっか、春?」

 

 微笑みを浮かべながら尋ねてくる風ちゃん。

 私も、宮森先輩やお姉さんに会いたい気持ちと、一条先輩を確かめなくてはという使命感めいたものが湧き上がってくるのを感じて、決意が固まった。

 

「行こう、風ちゃん!」

 

 私たちは先輩達のいる二年C組の教室へと、急ぐようにして駆けだした。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……あの人?」

「そう、一条先輩……!」

「なんだか、あんまり怖そうじゃないね」

「見た目はそうなんだけど……」

 

 私たちは二年C組の教室までやってきて、廊下側のドアからひょっこり顔を覗かせながら、教室内を観察している。一条先輩やお姉ちゃん、この前の先輩方の姿は確認できたけど、宮森先輩の姿は確認できない。宮森先輩、どこにいるんだろう……。

 

「あ、お姉さんに話しかけるみたいだよ」

「なっ……!」

 

 やはりというべきか。一条先輩は、彼女がいる身でありながら、ぬけぬけとお姉ちゃんのことを狙っているようだった。私がちゃんとお姉ちゃんのこと守らないとな。

 

「あ、けどなんか別の人もきたよ」

「あ!あの人だよ、一条先輩の彼女って……!」

 

 今度は桐崎先輩がやってきたようだ。

 今日もまたモデルさんみたいに綺麗で、思わず尊敬の念を抱いてしまう。

 

「あ、今度は男の人が来たよ。もしかしてあの人が宮森先輩?」

「え、確かにすごいイケメンだけど、違うよ」

 

 宮森先輩の名前が出てきてビクンとしたが、風ちゃんの指しているあの人のことは知らない。

 けど、見た目だけなら芸能人みたいで、宮森先輩といい勝負かもしれない。

 

「あ、また女の人」

「げっ、あの人は……!」

 

 この前の廊下の一件でも、彼女がいる一条先輩に構わず抱きつくなど、大胆不敵で美人な橘先輩。

 ……実は、あの人が一番面倒な人なのかもしれない。

 それからというもの、また橘先輩が一条先輩に抱きついたり、男の人が銃みたいなのを一条先輩に打ったりで、その場は無秩序と化してしまった。

 何が何やら、もう分かんなくなってしまいそうだ。

 お姉ちゃんも、その様子を困ったように見てるし……。

 

「あら、春じゃないの」

 

 突然私たちの背後から声がしたので、思わず振り返る。

 

「あなた、同じ学校だったの」

「あっ、るりさん!!お久しぶりです」

 

 声をかけてくれたのは、お姉ちゃんの中学からの親友である、るりさんだった。

 

「ちょうど良かった、るりさん……!一条先輩ってどんな人なんですか!?」

 

 二年の教室までわざわざ見に来るまでに至った経緯も説明しながら、私は物事を冷静に捉えられるるりさんに頼る。

 

「……そうね。一言でいえば、鈍感クズ野郎……といった所かしら」

 

 るりさんは何故だか邪悪なオーラを纏いながら言う。

 一条先輩って、やっぱり悪い人なのかな……。

 けど、鈍感クズ野郎だと何だか少し違う気も……。

 

「……でも春。あんたは余計な事をしない方がいいわよ」

「え?でも、お姉ちゃんが……」

「……いいから。あの二人の事は放っておきなさい」

 

 味方だと思っていたるりさんから、釘を刺されるかのように言われたので、私は戸惑いと困惑を隠し切れない。

 一条先輩のことを見極めるなんて、まだまだ先のことになりそうだ。

 そんなことを考えている内に、重要なことを思い出して、私は慌てて、そのまま教室へと入っていきそうなるりさんを引き留める。

 

「あの、すいません、るりさん!!実は、もう一つ聞きたいことがあって……」

「……何?」

 

 私があんまりな勢いで尋ねるものだから、さすがのるりさんも少し驚いた様子でこちらを見返す。

 

「み、宮森先輩って、今どちらにいらっしゃいますか?」

 

 できるだけ自然に思われるように、私は慎重に尋ねる。

 

「宮森君?宮森君なら、さっき学級長の仕事のことでキョーコ先生に職員室の方へ呼ばれてたけど……。どうして宮森君のことを聞くの?」

「そ、それは……」

 

 ううう、やっぱりるりさん鋭いな……。

 

「宮森先輩が春の王子様だから、会いたいってことですよ。でしょ?春」

「ちょっ!?ちょっと、風ちゃん!!」

 

 私が適当な返事をしようとしたタイミングで、風ちゃんがド直球なことを言ってしまった。

 私はあまりに動揺してしまい、まるでストローで吸い上げられたリンゴジュースのように、体の熱が急激に上昇してくるのを感じる。

 ……そのことを鋭いるりさんが見逃すはずもなく。

 

「……ははぁん?どういうことか聞かせてもらおうかしら、春」

 

 結局、宮森先輩とのことを、るりさんには洗いざらい話すことになってしまった。

 その内に、隠密がお姉ちゃん達にも見つかってしまい、また一騒動あったのは、別の話。

 ……今度、風ちゃんには美味しいケーキを奢ってもらうんだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 あれから、先輩達や風ちゃん達とも別れて、私は一人で校内をぶらぶらしている。

 結局、それ以降も宮森先輩とは会えなかった。

 そんな少しの落胆の気持ちを、ため息で追い出しながら、角を曲がる。校庭にも面している屋根付き通路の中央に自動販売機を見つけた。

 せっかくだから、お気に入りの抹茶ラテを飲もう。私はポケットから財布を取り出し、100円玉を自販機へ手を伸ばす。

 

 すると、私よりも他の誰かの手が先着して、その人の100円玉が吸い込まれた。

 もう、なによ。心の中で悪態をつきながら、その人の方へじろりと目線を移す。

 

「あれ、小野寺さんか」

「み、み、宮森先輩!!?」

 

 そこには、さっきまであんだけ探していたはずの、私の王子様が立っていた。

 

「お、お先にどうぞ!先輩の方が早かったんですから!」

「そうか、悪いな」

 

 暴れだす心臓と表情筋を抑え込めるように、何とか口に出す。

 宮森先輩がどんなのを飲むのか気になり、私は先輩の背後にささっと回って、先輩が飲み物を選ぶ様子を眺める。

 やっぱり背も高くて、足も長くて、雰囲気があって……。きっとモテモテなんだろうなぁ……。

 ぼやぼやとしている内に、先輩もどうやら何にするか決めたらしい。紙コップの抹茶ラテだ。

 

「お待たせ」

「ど、どうも……」

 

 よりにもよって、まさか先輩が私と同じ抹茶ラテ選ぶなんて。もしかして先輩も抹茶ラテが好きなのかな。

 自販機に目を向けると、抹茶ラテの欄に『売切』と表示されていて、私は思わず固まってしまう。

 せっかく先輩と一緒に抹茶ラテが飲めたのに………。

 

「……やるよ、これ」

 

 すると、先輩は私に抹茶ラテを差し出してきて、また自販機に100円玉を投入する。

 

「え!?い、いいですよ!先輩が買ったんだから、先輩が飲んでくださいよ!」

「……好きなんだろ、抹茶ラテ。真っ先に手伸ばしてたし」

 

 どうしてあれだけのことで分かるのだろう。

 先輩にるりさんや風ちゃんのような、いやそれ以上の目敏さや恐ろしさをちょっと感じる。

 

「……で、でも」

「いいんだよ。今日は先輩の奢りってことで」

 

 そう言って、ニッと爽やかなその笑顔を向けられては、今の私にはどうしようもできない。

 

「あ、ありがとうございます……」

「いえいえ」

 

 私は素直に先輩から差し出された抹茶ラテを受け取る。

 先輩は、今度はレモンの天然水をほぼノータイムで押した。

 

「先輩は、それがお気に入りなんですか?」

「そうだなぁ……」

 

 ふと思ったことを口に出しただけのつもりだった。

 けれど、先輩はペットボトルの飲み口を見つめながら、何かを考えこむようにしている。

 

「……自販機だと、気づけばいつもこればっかり選んじゃってて。最近は、新しい飲み物に挑戦しようかなと思って、いろいろ試してるんだ」

 

 それで、抹茶ラテを選ぶのに、少し時間がかかっちゃってたのか。それなら……。

 

「よろしければ、飲み物、交換しませんか?」

 

 宮森先輩に、私の好きな、抹茶ラテをという飲み物を知ってほしい。

 

「いいのか?抹茶ラテ、好きなんだろ」

「いいんですよ!それに、私もいつもと違う飲み物に興味ありますし……」

「……そういうことなら」

 

 先輩は驚くような表情を浮かべていたが、私の言葉を聞いて観念したようだ。

 ペットボトルを持つ手も持たない手もこちらへ差し出す。私も同じように両手を差し出して、お互いの飲み物を交換した。

 ペットボトルの蓋を開けると、中から爽やかなすっきりとした香りが漂ってくる。けれど、いざ飲んでみると、思ってもいなかった炭酸の刺激の強さに思わず顔を顰めてしまう。

 

「ハハハ、初回はそうなるよ」

 

 先輩はストローを口にくわえながら、ちょっと面白そうに私を見てくる。

 なんだか恥ずかしさが浮かんできて、照れ隠しのように先輩へと言葉を並び立てる。

 

「けど、さっぱりしてて良いですよ。……先輩の方はどうですか?」

 

 先輩はストローから口を離し、先ほどまでのいたずらっ子のような表情とは一転して、感心したような様子で抹茶ラテを眺める。

 

「抹茶ラテ、美味しいよ。久々に当たりかも」

「ホントですか!?良かった~!」

 

 その言葉を聞いて、私は自分でも驚くほど大げさに喜んでしまう。

 それからは、先輩がクラスの学級委員長になった話や、今日風ちゃんと一緒に先輩の教室まで言った話などをした。自動販売機の傍らで、放課後で行きかう生徒も段々と少なくなっていくのを眺めながら、先輩との時間を楽しんだ。

 下校のチャイムが鳴った後も、「今日は遅くなったし送るよ」なんて、先輩から言われたときは、どうにかなりそうなくらい嬉しかった。荷物を教室に取りに行って、待ち合わせの校門まで行くのに、自然とスキップしてしまうくらいに。

 やっぱり先輩と過ごす時間って、心がポカポカして、幸せな気持ちになれちゃうな。

 けれど、そんな時間も、私のお家まで来たところで、終わりを迎えてしまう。

 

「宮森先輩!今日もお家まで送って頂き、ありがとうございました!」

「こちらこそ。抹茶ラテ、教えてくれてありがとう」

 

 あのとき、勇気を出して、飲み物の交換を提案して良かった、と心からそう思う。

 

「それじゃあ、またね。小野寺さん」

「はい!また学校で!宮森先輩!」

 

 そう言って背を向け、通りを歩いて行こうとする先輩を、私は家の前で右手をささやかに振りながら見送る。急に寂しさがこみ上げて、また早く会いたいと思ってしまう。

 すると、突然何か思い出したかのように、先輩が立ち止まり、こちらへ振り向く。

 

「今度は二人で、抹茶ラテ、飲めるといいな」

 

 先輩の微笑みをたたえる表情に、私はつい見とれるのと同時に、反射的に返事をする。

「約束ですからね!!」

 

 リンゴのようになった頬の赤さが、夕焼けのおかげで、先輩には上手く隠されているといいな。

 私は、先輩を包まんばかりの夕焼けに、そんな淡い期待をかけた。

 

 




 第四話『ジハンキ』をご一読下さり、ありがとうございました。

 いかがだったでしょうか?

 宜しければ、感想や評価もお待ちしております。

 それでは、また次のお話で。

 


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第五話 プールデ

 第五話にお立ち寄り頂き、ありがとうございます。

 この話では、和菓子屋のあの子の視点が加わります。

 それでは。


 桜が咲き乱れる春から、木々の若葉が瑞々しい新緑へと、季節は移り変わり始めた。

 今日は金曜日で、学校も用事も済み、オレはすっかりまったりモードで、自宅のリビングで過ごしている。

 

 両親はいるのだが、お互いに仕事の性質上、海外にいることが多く、一人暮らしの状態が続いている。この家も、小学校時代に過ごした一軒家で、一人でいる分には、気楽ではあるものの、少し物寂しくも感じてしまう。

 

 ――――テレビでも見ようか。

 

 最近のポップミュージックを垂れ流していたヘッドホンを取り外し、ソファから腰を上げて、テーブルの上にあるリモコンに手を伸ばす。

 すると、ソファの脇で充電器に差し込んであったスマートフォンから、リズミカルな着信音が部屋中に響く。

 ディスプレイには『一条 楽』と表示されている。

 

「もしもし?どうした、楽?」

「おう、樹。実は、急用があってな………」

 

 楽によると、今日の帰り際、キョーコ先生から、明日のプール掃除を頼まれたらしく、人手が欲しいとのことだった。手伝えるのだが、明日の午後は確か……。

 

「分かった。昼過ぎまでだが、それでもいいか?」

「ああ!サンキュー、助かるよ!それじゃ、また明日な、樹」

「また明日、楽」

 

 通話が途切れ、部屋には静けさが返ってくる。

 

「……やっぱり、ギター弾こうかな」

 

 心変わりして、リビングを片付けて、二階にある自分の部屋へ向かう。

 部屋の明かりを点けると、ベットの傍らに立てかけてあるギグバックから、マホガニー材で作られたアコースティックギターを取り出し、ベットに腰掛ける。

 さて、明日はどんなメンツが揃ってるかな。

 そんなこともうっすらと考えながら、思い思いに音を出していく。

 

 

 

 

 

 

 

 

「一条く~ん!!」

 

 初夏の香りが漂い始めた土曜日の晴れた10時頃。

 私は、両手にお弁当を詰め込んだバスケットを抱えながら、お姉ちゃんや風ちゃん、るりさんと一緒に、学校のプール掃除に来ている。

 なんでも昨晩、お姉ちゃんに一条先輩から、プール掃除の手伝いに来てほしい、との連絡がきたらしく、お人好しなお姉ちゃんは当然引き受けた。

 なので、私は、一条先輩とお姉ちゃん達の監視のために連れ添ってきたのであり、風ちゃんも一緒についてきてくれた。

 それに、もしかしたら宮森先輩にも会えるかもしれないし……。

 

「お待たせ~!今日はよろしく!」

「小野寺……!来てくれてありがとうな……!」

 

 私たちよりも先に、一条先輩や桐崎先輩、舞子先輩が来ていた。

 お姉ちゃんが呼びかけると、一条先輩は今日もデレデレとお姉ちゃんに応えている。

 私はしっかりとお姉ちゃんを守るため、一条先輩に睨みを利かせておく。

 

「お嬢~!お待たせしました~!」

 

 声がした方向へ振り向くと、既に見知った二人が近づいてくる。

 

「着替えに手間取ってしまって」

「おはよう、つぐみ。よく似合ってるじゃない!」

「もう少し布の多い服はなかったんですか……?」

 

 桐崎先輩にそう答えるのは、鶫先輩だ。

 あのとき二年生の教室へ行って、実は女性だということが分かった。その時はついスゴくイケメンの男性だと思い込んでいたので、あまりに驚いてしまったのは、記憶に新しい。

 

「よぉ、お前も来てくれたのか。えと……、ポーラちゃんだよな?」

「……ちゃんはやめてよ、気持ち悪い。黒虎が来いっていうから……」

 

 そして、ポーラさんも一緒に来ている!

 この前の配達の帰りに、体調を崩した鶫先輩をおんぶしていた一条先輩と出くわした。

 その時に、ポーラさんも一緒にいて、それ以降は教室にも来るようになった。

 今日こそは少しでも仲良くなれたらいいな。

 ……そんなポーラさんは、なぜか桐崎先輩の前で跪いていて、なにやら忠誠やら御用命やら言ってる。

 一体桐崎先輩とは、どういった関係性なのか、よく分からない。

 

「楽様――!!」

 

 鶫先輩が用具の点検をしようと言いかけたところで、その用具室から、橘先輩が猛然とこちらへ駆け寄ってくる。

 また一条先輩に抱きつかんとする寸でのところで、桐崎先輩の足で食い止められた。

 

「何をなさるのですか、桐崎さん」

「あんたの行動は読めてるのよ」

 

 いかにも怒ってますというように、橘先輩はプンプンとしているが、桐崎先輩は呆れたように、軽くあしらう。

 こうしたやり取りは私も既に数度見たので、お姉ちゃん達と同様、ただただポカンと眺めている。

 すると、もう一つタタッと足音が駆けてくる。

 

「みんな、おはよう!既にお揃いかな?」

「お!おはよう~樹!」

 

 ここに着いたとき、姿を見かけなかったから、もしかしたら今日いないのかも、なんてちょっぴり心配もしていた。けれど、私の王子様、宮森先輩は颯爽と登場した。

 

「お、おはようございます!宮森先輩!」

「ああ、おはよう、小野寺さん。それに、君は風ちゃんかな?」

「はい!初めまして、宮森先輩」

 

 青地のパーカー、中央に英字が書かれた白Tシャツ、グレーの半ズボン。

 制服姿の先輩も堪らないけれど、こうした私服の先輩を見れるのは、また一面が知れて嬉しい。

 きっと夏の先輩もこんなにカッコイイんだろうな。

 ふと思ってしまい、顔を赤らめながら、先輩から顔を背けてしまう。

 私がそんな様子なのは、もちろん風ちゃんに見られちゃって、「春って、カワイイ」なんて言われるので、なかなか頬の色は変わってくれそうにない。

 

「……これで全員揃ったか。皆集まってくれてサンキューな」

 

 今回のプール掃除の発端である一条先輩が、皆に聞こえるように呼びかける。

 

「終わったら好きに遊んでいいらしいから、頑張って終わらせようぜ!」

「「「「「お~~~!」」」」」

 

 

 

 

 

 

 

 

「「いっただっきま~す!!」」

 

 みんなでやったプール掃除は、ワイワイとやりながらも、いつの間にか終わってしまった。

 太陽もその軌道の頂点に達した頃、私たちはプールでこれから遊ぶ前に、休憩も兼ねて昼食タイムに入っていた。

 

「おいっしーー!!これ全部、春ちゃんが作ったの!?」

「盛り付けはお姉ちゃんに任せたんですけど……」

 

 桐崎先輩が、私の作った料理を本当に美味しそうに食べてくれる。私はちょっと照れ隠しのつもりで、お姉ちゃんの名前を出す。

 

「私は普通のお弁当を作ったつもりだったんですが、気づいたら高級幕の内に……」

「どうしたらそんな事に……」

 

 一条先輩のその呟きも尤もである。

 どうしてお姉ちゃんは料理がてんでダメなのに、盛り付けとか、飾り付けとか、そうした類のものは職人級にできてしまうのか。

 宮森先輩は、お弁当美味しく食べてくれてるのだろうか。

 

「宮森先輩、お味の方はどうですか?」

 

 私はつい気になってしまい、宮森先輩に尋ねてしまう。

 

「美味しいよ。料理上手なんだな、小野寺さんは」

「そ、そうですか!良かった!えへへ……」

 

 先輩に、料理上手、なんて褒められてしまう。私は、天にも昇れちゃいそうなくらいに込み上げる嬉しさを嚙み締める。朝早く起きて、お弁当作った甲斐あったよ…!

 そんな浮かんだ気持ちの中、ある人物がこの場にいないことに気づく。私が辺りを見渡し探すと、その人物は木を登って太い枝の上で座っている。

 

「ポーラさん!一緒に食べないの~!?」

 

 私はポーラさんに呼びかけるが、ポーラさんはこちらをちらりと見た後、プイっと目を逸らされてしまった。

 

「……少し分けて貰っていいかな。後で私が渡そう」

 

 鶫先輩が少し申し訳なさそうに言いながら、ポーラさんの分のお弁当を取り分ける。

 ポーラさんはどうして、人の輪に入らず、一人でいたがるのかな……。

 せっかく一緒のクラスにいて、こうして今日も一緒にいるのだから、私はもっとポーラさんと仲良くなりたいのに。

 

「鶫先輩、私が今からポーラさんにお弁当渡してきますよ」

 

 私は、宮森先輩に対して勇気を出したように、ポーラさんに対しても勇気を出して、仲良くなりたい。

 

「……そうか、ならお願いしてもらってもいいかな」

 

 鶫先輩は一瞬呆気にとられたような表情を浮かべたけれど、すぐに何か微笑ましそうにしながら、取り分けたお弁当を私に渡してくれた。

 私はお弁当を持って、ポーラさんのいる木まで行き、お弁当の包みの部分を咥えて、ポーラさんのいる場所まで木登りする。

 

「ちょ……、何やってんのよあなた……!!危ないでしょ!!?」

 

 よいしょっと木登りする私にようやく気付いたのか。

 驚いたようにポーラさんが声を上げる。

 

「え?でもポーラさんも登ってるじゃん」

 

 こうして登ってきた私を心配してくれる。

 ポーラさんは意外と面倒見のいい人なのかもしれない。

 

「それに、ここでお弁当食べたら美味しそうだな~って思って」

 

 せっかく天気のいい日なのだし、実はこうしてお友達と木登りしてお弁当を食べるのには興味があったのだ。

 

「はい、これポーラさんの分!」

 

 ポーラさんはまだ驚いたままの表情で、お弁当をまじまじと見つめる。

 

「……いらない……!」

「え~?せっかく美味しく出来たのに~」

 

 結局、ポーラさんはそっぽを向いてしまった。

 仕方なく私は自分で持ってきたお弁当を、自分で食べることにする。うん、おいしー。料理上手な私の、ちゃんと朝早く起きて頑張ったお弁当だから。

 

「……ポーラさんってさぁ」

 

 私は、ポーラさんのことで、気になってることに踏み込んでみる。

 

「いつも鶫先輩のこと見てるよね」

「……は!?」

「鶫先輩とはどんな関係なの?あ、同じ中学だったとか?」

「……あなたには関係ないでしょ」

 

 ポーラさんは苛立たし気に応じているが、私は諦めないで話を続ける。

 

「……私にはさ、お姉ちゃんがいてね。ほら、あそこの。小咲お姉ちゃんって言うんだけど。昔から優しくて、おっちょこちょいだけど、頼りがいがあって、大好きで、大切なお姉ちゃんなんだ。……もしかしたら、ポーラさんにとっての鶫先輩も、同じ感じなのかなって」

 

 ポーラさんは、私がお姉ちゃんにするように、鶫先輩には、肩の力を抜いて、気を許しているような気がしている。お互いの共通項で話を広げて、ポーラさんのことをもっと知れたらいいんだけど、どうだろう。

 

「………関係ないって言ってるでしょ!?なんでそんなに私にかまうのよ、あなたは…!!」

「え~~、いいじゃない、ケチンボ~」

 

 私の今回の狙いはどうやら失敗のようだった。

 ポーラさんは、頬を赤らめながら、またプイっと私からは目線を逸らして、皆のいるプールの方を見つめる。

 

「あ!皆もうプール入り始めちゃったよ……!」

 

 いつの間にそれだけ時間が経ったのだろう。

 私が、ポーラさんとこのようなやり取りをしている一方で、他の皆はお弁当を食べ終えてしまったようだ。

 

「私達も行こっか、ポーラさん。浮き輪や水鉄砲もあるんだよ」

 

 今度は一緒にプールで遊ぼう、とポーラさんを誘ってみる。

 

「……勝手にすれば?」

「え!?ちょっ……!?うそ……!?」

 

 ポーラさんはそれだけ言って、ひとっ飛びで木から飛び降り、プール沿いの小道を歩き出していってしまった。

 ポーラさん、あんなに皆のところへ行きたそうにしてたのに。

 試みがまた失敗したことに残念さを覚える一方で、ポーラさんの運動能力にひたすら驚嘆の気持ちが湧いてくる。

 

「……仕方ないや。私も皆のところ行こ」

 

 そう言って木から降りる前に、もう一度プールの方を眺める。

 すると、宮森先輩と、お姉ちゃんが、プールサイドに二人並んで座って、楽しそうに話してる姿が目に入ってきた。

 ……どうしてだろう。胸の辺りに、どこかチクっとした痛みを感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「そーーれ!そっち行ったわよ!楽!」

「ちょっ、ちょっと待て千棘!?ぐわあああ!!」

 

 お昼ご飯も食べて、千棘ちゃんたちはプールで元気に遊んでいる。

 

「行かなくていいのか、小咲?」

 

 私は、皆のところには行かずに、今は隣にいる樹君と二人で、お弁当を食べた場所から動かず、プールサイドに並んで座っている。

 

「ううん、いいの。そう言う樹君は行かないの?」

 

 なにせ私、ビート板を使って泳げるようになったとはいえ、金づちだし……。それに今は、樹君と久々に二人でこうしてお話ししたい。

 

「オレは、もう少ししたら、ここを出るよ。この後用事があってな」

「……そうなんだ」

 

 どうやら樹君と二人で一緒にいられる時間は、それほど長くはないらしい。

 

「ところでさ」

「うん」

 

 樹君は、いつもと変わらない澄ました表情で、こちらを見る。

 

「例の、約束の男の子は見つかったの?」

「え、えええ!?」

 

 突然そんなことを樹君が言うから、私は飲もうとしてたお茶をこぼしてしまうくらい、動揺してしまう。

 

「……小学生の頃に言ってたろ。いかにも大事そうに。持ってた鍵も見せながら」

「……そうだったね。今もまだ見つかってはないかな」

 

 私は少し噓をついた。

 約束の男の子に関しては、既に手掛かりがある。

 その子だとはまだ確証を得たわけではない。

 でも、一条くんがペンダントを持っていて、恐らくだが一条くんが約束の男の子だ。

 けれど、私だけでなく、千棘ちゃんや万理花ちゃんも鍵を持っている。

 だから、誰が一条くんと約束をしたのか、定かではないのだ。

 

「そうか、今でも探してるのか?」

「うーーん、どうなんだろ……。最近はあまり考えてないかな」

「そうなのか」

「うん……」

 

 それっきり会話が途切れる。

 ずっと大事にしてきた鍵のこととか。

 中学の頃から好きでいる一条くんとのこととか。

 そういったことに最近悩み始めてしまったのは、樹君が四年振りに私の前に現れたからだ。

 

 私は小学校時代、今でもそうだけれど、引っ込み思案だ。女の子の友達は数人できても、親友と呼べるまでは深く付き合えず、ましてや男子のお友達なんていなかった。そんな小学生の私は、約束の男の子に思いを馳せながら、ぼんやりと時を過ごしていた。

 

 ――――そこへ樹君は突然現れた。

 

 あの時の彼は、表情がコロコロ変わるという子ではなかった。けれど、退屈な私の話を真剣に聞いてくれたり、私を公園とかプールとか色んな場所に連れて行ってくれたりして、私の閉じていた世界を広げてくれた。

 樹君とのお話やお出かけはどれも楽しくて、いつしか私は、段々と樹君に惹かれていくようになった。

 その頃は本気で樹君のことを、顔を忘れてしまったあの約束の男の子、又は王子様なんじゃないかって思っていた。

 だから、小6の夏の終わり、約束の男の子の話を初めてして、鍵を見せて、樹君に約束の男の子かどうか確かめたときに、

 

「オレは、その子じゃないよ。その話も初めて聞いた」

 

 と言われたときは、とても落ち込んだし、悲しかった。加えて、

 

「ロマンティックな話じゃん。その子といつか出会えるといいな」

 

 なんて言われてしまえば、樹君に対して、私が抱えているものも投げられなかった。

 思えば、あれが私にとっては、初めての失恋だった。

 それから程なくして、樹君は引っ越すことになり、高校二年生になるまで離れ離れになって、想いを告げる機会はなくなってしまった。

 

 ――――そんな彼は今、再び私の前に現れた。

 

 あの頃と比べて、背丈が随分大きくなり、清潔感あるショートヘア、すごく端正な顔立ち、筋肉質になった身体、いい意味で柔らかくなった表情…。

 盗み見しながら樹君をぼんやり眺めていると、樹君とつい目があってしまう。

 

「どうした、小咲?」

「う、ううん!何でもないよ……」

 

 樹君に見つめ返されただけなのに、どうしてこんなにもドキドキしちゃうのだろう。

 私、今は一条くんのことが好きなはずなのに……。

 

「お姉ちゃん、宮森先輩。二人とも皆のところ行かないんですか?」

 

 気づくと、ポーラさんにお弁当を届けに行っていた春が、いつの間に戻ってきていた。

 

「オレは、用事があって、そろそろ帰らないといけないから」

「そ、そうなんですね……」

 

 樹君が私に言ったようにそう言うと、春はしょんぼりとした様子になっている。

 

「ポーラさんは、どうだった?」

「……残念ながら、逃げられちゃいました」

「そうか。多分楽が連れ戻してくると思うから、またその時に話せるといいな」

「そうだといいんですけど……」

 

 それだけ言うと、樹君は、さてと、と言って立ち上がり、私達両方を見る。

 

「ぼちぼち行くよ。小野寺さん、それに小咲も、今日は美味しいお弁当ありがとう」

「い、いえいえ!美味しいと言って下さり、こちらこそ嬉しいです!」

「……どういたしまして、樹君」

 

 相変わらず澄ましてるけど、はっきり分かるくらい、柔らかくにこやかな表情で言ってくる樹君に対して、春は慌てながら、私は照れながら、返事をする。

 

 ――――盛り付けだけでも、お弁当手伝って良かったな。

 

 樹君は、プールで遊んでいる皆にも一声掛けてから、こちらに手を振って、プール脇の出入口へと消えていく。

 樹君を見送った後、皆はプール遊びを再開し、私と春との間には静寂が訪れる。

 

「宮森先輩と、どんなこと話してたの?お姉ちゃん」

「……少し昔話をしてただけだよ、春」

 

 空に浮かぶ雲が、風によって絶えず動き続け、その形を変えていくように。

 私のこの心も、樹君によって絶えず動き続け、その形を変えているようだ。

 

 




 第五話『プールデ』をご一読下さり、ありがとうございました。

 いかがだったでしょうか?

 さて、この三人の関係はどのようになっていくでしょうか。

 それでは、また次のお話で。


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第六話 コイバナ

 第六話にお立ち寄り頂き、ありがとうございます。

 男の友情回です。ちょっぴり、あの人のことも……。

 それでは。


「……え~今日は、お前らに重大発表がある」

 

 いつも通りの、8時からのHRなのだが、キョーコ先生はいつもと違う雰囲気である。

 

「私、結婚するから、今月で学校辞めるわ」

 

 あっけからんとキョーコ先生がそう伝えた瞬間、クラス全体が固まったようになったが、水を打ったように各地から歓声と、どよめきの声が挙がる。

 

「ええ~~~~!!?キョーコちゃん、それ本当~!!?」

「キョーコちゃん、恋人いたんだ~!!」

「今月ってあとちょっとじゃん!!」

「ねぇねぇいつ結婚すんの!?旦那さんどんな人~!?」

 

 あっという間に、クラスはワイワイガヤガヤと騒ぎ始め、中には何人かの男女が思わず立ち上がって、やたらと盛り上がっている。

 オレは、今日のこの発表のことを、HRが始まる前にキョーコ先生から直接呼び出しを受け、事前に聞かされていたので、驚きと祝福の言葉は既に先生に伝えてある。

 先生には恐らく、クラスの学級委員長として、この後始まる一限のためにも、この盛り上がりの歯止め役を期待されているのだろう。

 けれど、クラスの雰囲気と、キョーコ先生の度量を考慮すれば、もう少しだけ、勝手に騒がせておいても大丈夫だろう。

 それよりもオレは、やたら盛り上がっている男女に紛れて、上手く隠してるつもりなのだろうが、何となく普段と違う様子のあいつの心配をし始めている。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……しかし、ビックリしたな。結婚とか、オレ達にゃまだ全然ピンと来ねぇ話だよな~」

「……だな~」

「……そうだな」

 

 今は昼休みであり、オレは楽と集と共に、屋上の柵にひじ掛けでもしながら、キョーコ先生のことについて立ち話している。

 

「キョーコ先生、誰からも人気あったし、淋しくなるんだろうな~」

「そ~だな~、良い先生だったからな~」

 

 ……やはり、集については、どこか変な感じがする。

 

「……オレ達もいずれ結婚とかすんのかね?」

 

 楽が唐突に疑問を投げかける。

 

「どうかな~。楽はその点大丈夫なんじゃね?お前なら小野寺と良い家庭を築きそうだ」

「なんで当然のようにそんな前提なんだ!!?なれるもんならなりてぇけど!!」

 

 集が楽に向かって大げさにグーサインを出し、楽からは勢いのいいツッコミが入る。

 

「そうだな、楽。まずは桐崎さんと橘さんをどうにかしないと」

「なんで樹までその前提でノッてくるんだよ!!」

「「ハハハ」」

 

 つい先日、楽から、集に好きなやつがいるらしい、と聞かされた。

 その時点で既に心当たりがあったが、楽には勿体ぶって言わないでいたら、あまりにしつこく楽から詰め寄られた。

 そこで、楽の好きな奴(小咲のことだが)を一発で言い当てたときの、楽のトマトのように赤くなった顔が、今でも思い出し笑いとして、鮮明に浮かんできてしまう。

 

「……ったく。やっぱズリーだろ、コレ……。いいかげん集も好きな奴教えろよ」

「にょほほほほ、楽が当てられたら教えてやるよ」

 

 ちなみに楽には、事前にその時に、今は好きな奴はいない、と伝えてある。

 オレは問われることはない。

 

「樹は分かるんだろ?集の好きな奴」

 

 すっかり集の好きな人当てゲームみたいなものに翻弄されきった、鈍感な楽は、オレに助け舟を出すように促す。

 ……さすがに、話を進めるか。

 

「集、お前はキョーコ先生のことが好きなんじゃないのか?」

「キョーコ先生……。確かに、集は仲良かったし、いなくなったら淋しいだろ」

「ピンポンパンポン大正解~!!キョーコちゃん美人だし、皆からも慕われてたし、淋しくなるよな~」

 

 そのいつもよりも少しだけ投げやりな表情と声に、集を挟んで向かい側にいる楽もどうやらさすがに気づいたようだ。

 

「……珍しいな。お前今ウソついたろ」

「……ほえ?……なんの事だい、楽……?」

「……たま~~になんだけどよ。分かるんだよ。昔からお前に何かあった時とか、いつもは分かんねえんだけど。たま~~にだけ、『あ、こいつ今ウソついてんな』って分かる時があるんだ」

「小6の時に、集の母親が入院したときとかな」

「ああ、樹の言う通りだ。お前、その時とおんなじ顔してたぞ」

 

 これだけ言われてしまえば、ただ呆気に取られている集も観念するだろう。

 

「……恐ろしいもんだな。幼なじみって奴は」

 

 

 

 

 

 

 

 

 キョーコ先生の寿退社を知り、三人で昼休みに屋上で語った日から、気づけば明日にはキョーコ先生が退職するところまできてしまった。

 今は、授業終わりの休み時間で、オレは楽と二人で、屋上へ向かっている。

 

「やっぱりさ……」

「ん?」

 

 楽が視線を少し横にずらしながら、おもむろに口を開く。

 

「鶫も言ってたんだけどよ、このタイミングで想いを伝えるっていう選択肢は、間違ってんのかな」

 

 楽はこの間にも、鶫さんにも相談しながら、集のことについて真剣に考えていたのだろう。

 楽は人の恋愛感情とかには鈍感なのだけれど、こうして誰かのことをまるで自分のことのように真剣に向き合えるところ。

 そんなところがオレは好きだし、こいつのいい所なのだろう。

 

「間違ってはいないぞ。伝えるも伝えないのも本人の意思の問題なのだし、そのタイミングはたとえ彼氏彼女がいるいない、結婚するかしないかの時のように、どんなタイミングであろうとも、告白ってのは結局は勝手な行為なんだよ」

「そ、そうなのか……」

「ほら、もうすぐ屋上着くぞ」

 

 屋上の扉を開けると、黄昏の空の中、集は柵に前に持たれながら、こちらにも気づいてないだうか、グラウンドの方を眺めたままでいる。

 

「……明日だな、先生が退職すんの」

「……そうだな」

 

 楽の呼びかけに応じたので、こちらの存在には気づいていたようだ。

 いつもとは違い、集の背中には淋しさがくっついているように見える。

 

「……お前は、いつもオレの恋愛を応援してくれるよな」

 

 楽が、集に語りかけるように、言葉を紡ごうとする。

 

「……まぁあんまり応援とは呼べない行動も多々あるが」

「それは言えてる」

「まあまあ」

「……だからオレも、お前を応援するよ」

 

 楽はそのまま集の方へ歩き出していく。

 

「お前が何も言わずに先生を見送るなら、何も言わねぇ事を応援する。…オレに出来る事はそんくらいしかねぇ。だからせめて、先生が行っちまったら、一回くらい、メシおごらせろよ」

 

 最後の方は照れて、明後日の方向へ視線をずらしていたが、楽は楽なりに、親友として集のことを考えたんだなってことが、よく分かる言葉だった。

 

「……オレも、何をどうしようが、集の味方だ。先生が行ってしまったら、楽がメシをおごった後、オレは何時までもカラオケ付き合ってやるよ」

「……サンキューな。楽、樹……」

 

 集は先ほどよりか、背中にくっついていた淋しさも少しは取れ、微笑むくらいには今の間ではあるが、励ますことができたらしい。

 けれど、オレの中では、楽から集に好きなやつがいるらしい、という時点から、依然としてどこか霧がかかったような感情が、胸の内でうごめいている。

 楽と集はお互いの恋愛事情について腹を割って話してくれたのに、オレは彼らに何か話しただろうか。

 それでも、オレは、あいつらのことをそう呼ぶように、あいつらから親友として呼ばれてもよいのだろうか。

 今悩んでいるのは集なのだが、オレはあいつらの力に少しでもなりたい。

 

「ところでさ、集。それに楽」

 

 どうした、と言わんばかりに、二人がこちらへと顔を向ける。

 

「参考程度まででいいんだけどさ、オレの恋バナでも聞くか?」

 

 すると、二人は、さっきまでのややしんみりとした雰囲気は何処へやら、鼻息を荒くして、いかにも興味津々のように食いついてきた。

 

「おお!樹の恋バナなんて、興味ありますな~~!」

「なんだよ、やっぱりあるんじゃねぇか、樹」

「いいか?あくまで、集の今の恋について参考になるかも、って思ったから話すのであって、決して胸キュンのような話じゃないぞ」

 

 既に二人は、なんだ早く教えろよ、と言いたげに、こちらに聞く耳を傾けている。

 

「……そうだな。さて、改めてどこから話そうか……」

 

 そうして大切なあの人との記憶へと、意識を埋没させていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ついに、キョーコ先生の最後の登校日がやってきた。

 最後のHRの後、キョーコ先生に花束やクラス皆の寄せ書きなども渡し終わった。

 今はキョーコ先生が渡されたものを手に抱えながら、グラウンドを通って校門の方へと、教室に手を振り返しながら歩いていくのを、教室からただ眺めている。

 

「キョーコ先生、本当にいなくなっちゃうんだ……。淋しくなるね……」

「……そうだな」

 

 隣にいる小咲が声をかけてくれるが、オレは生返事しか返せない。

 今、この教室に集はいない。きっと屋上の特等席から一人、キョーコ先生のことを眺めているのだろう。

 そういえば、楽の姿も見当たらない。少し辺りを見回すと、廊下で鶫さんと何やら話し込んでいるようだった。

 すると、次の瞬間、楽が突然ハッとしたような表情を浮かべた後、鶫さんの肩にポンと手を置いて一言かけて、廊下の先へと走り出していった。

 

 ……なるほど、そういうことか。これで集は後に引けなくなったな。

 

 オレが一人納得していると、クラスの一人から、机に積まれたプリント類を運ぶようにと、日直に対して呼びかけている。

 確か、今日の日直は……、あの二人か。

 オレは教室前方へ歩き出し、本来の日直係の片割れに声をかける。

 

「集のやつ、多分どっか行っちゃったから、手伝うよ。宮本さん」

「助かるわ、宮森君。……ったく、あのメガネ、どこ行ったんでしょうね」

 

 教室から職員室の道のりの中で、宮本さんは集への愚痴を散々に語っている。

 さすがに今日ばかりは許してほしいな。

 宮本さんには適当な返事をいくつか返していると、正面遠くの角から、急ぐようにして、こちらへ駆けてくる男子生徒の姿が見える。

 

「あ、ちょっと……」

「集!!」

 

 その姿が誰か気づいた宮本さんに小言を言わせないように、普段よりも大きな声を出して、オレは集に呼びかけ、空いている方の通路へ片手を差し出す。

 

「行って来い!!」

 

 集は必死の形相だったけれど、こちらの呼びかけに気づいてくれたのか。

 オレの横を通り過ぎる直前に、あちらも片手を挙げ、すれ違いざまにハイタッチをかまして、そのまま突風のように、廊下の先へと消えていった。

 

「今の……舞子君……?」

 

 宮本さんはこれまで見たことのないだろう、集のあんな姿を見て啞然としている。

 オレも、内心では、あんな集が見れるなんて、想定以上だった。

 

「悪いな、宮本さん」

「え?」

「このプリント類、職員室に届けておくから、もう教室戻っていいよ。それと、今日オレ、このまま学校サボるから。先生にも伝えといて」

「ちょっ……!?ちょっと宮森君まで……!!」

 

 宮本さんのその後の言葉は聞かず、オレはプリント類を全部宮本さんから取り上げ、職員室の方へ駆け足で向かう。

 今日は曇り空。予報ではこれから雨が降り出すようだ。

 

「晴れるといいな、集」

 

 オレはそう呟いて、また駆けるスピードを上げていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 降り出した雨はすっかり止み、雲間からは次々と光が差してきた頃。

 オレと楽、そして集は揃って学校をサボり、たこ焼き屋の前で、先ほど楽のおごりで購入したたこ焼きに舌鼓を打っている。

 

「……サンキューな、楽、樹」

「え?」

「……」

「……スッキリした。オレの趣味じゃないやり方だったけど、悪くないもんだね。こーいうのも」

「……そうか……」

「なら良かった」

 

 集の顔は、すっかりと晴れ晴れとしたものとなっており、安堵の気持ちを覚える。

 

「……んで?楽、お前はどーすんだよ」

「?何がだ?」

 

 急に集は楽の方へと話題を向ける。

 

「まさかオレには告白までさせといて、自分は小野寺に何もしないでいるつもりか?」

「ゴフゥ!!!」

「ごもっともだな」

「ゲホッ……、いや……、それはその……、言いたいことはもっともなんだけど、色々あるっちゅーか……」

「ヘタレだな」

「うるせえ!!」

「ハハッ冗談だよ。いいんじゃない?楽は楽のぺースでさ」

 

 思わず心の声もそのまま出たりしたが、またこの三人の雰囲気も、いつもの感じに戻りつつあるように感じる。

 

「でも、後悔はすんなよ?楽がもし後悔するような選択をしそうになったら、今度はオレがそのケツ蹴飛ばしてやるよ」

「……おう……」

 

 集は照れ臭そうに楽にそう言うと、今度はオレの方へと目を向ける。

 

「樹もさ、もし何かあったらさ、その時は言いなよ。力になるからさ」

「おう、オレもだぞ、樹」

「……ありがとな。集、楽」

 

 どうにもこうにも、普段言わないことや言われないことを言いあってしまう時は、男というのは照れくさくてどうしようにもなく、つい口数が少なくなってしまいがちだ。

 

「よし!たこ焼きも食い終わったことだし~。次はカラオケ行こうぜ!樹!今日は朝までやろうぜ~」

「いいぜ、集。今日は、朝まで付き合おう」

「え、お前らマジで朝までいくの?高校生ってそもそもオールは無理なんじゃ……」

「じゃあ、楽はここで置いてって、オレら二人で行くか?樹」

「そうしよう」

「だーー!!分かったよ!朝まででも何でも行くから、オレも連れてけ~!」

 

 雲は、霧にそれとも水蒸気に変わってしまったのだろうか、空はいつの間にか快晴になっていた。

 

 




 第六話『コイバナ』をご一読下さり、ありがとうございました。

 いかがだったでしょうか?

 集は何やかんや好きなキャラで、少しくらい樹君と絡ませてもみたくなったので、忠実になりすぎましたが、書いてみました。

 それでは、また次のお話で。


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第七話 オミマイ

 第七話にお立ち寄り頂き、ありがとうございます。

 今回は、何やら進展がみられるかも。

 それでは。


 夏が確実にその姿を現してきた。

 五月の終わりの土曜日の午前中、オレはこの前のプール掃除の時と同じように、楽から呼び出され、楽の自宅前まで来ている。

 

「おはよう、樹。呼び出しちまって、わりぃな」

「構わないよ。おはよう、楽」

 

 というのも、今日の朝方、楽の方へ宮本さんから電話が来て、どうやら小咲が風邪を引いたので、せっかくなら楽がお見舞いに行けば?みたいなことを伝えられたらしい。

 さすが宮本さん、気づいていないわけがない。それに、なんとも強引だ。

 けれど、楽が一人で行きづらそうにしていたら、宮森君と一緒に行けばいいじゃない、と何故か言われたらしく、楽はそれを名案だと思ったのだろう。

 こうしてオレに連絡して、今に至っている。

 どうして宮本さんは、桐崎さんなどの名前を出さず、オレの名前を出したのだろうか。

 まあ、今日はいつもの用事はないからいいのだが。

 

「やっぱり、男一人で女子の家に行きづらくてよ。樹がいてくれると心強いよ」

「本当は一人で行けるといいんだけどな」

「……いや、小野寺の家に男一人で行くのはな……」

 

 鈍感のくせに、こういうところどうしてか奥手の楽に、オレは呆れるような視線を向ける。

 

「……それに、オレって、春ちゃんにやたらきつく見られてるだろ?樹がいてくれると、春ちゃんも少し柔らかくなってくれるかなって」

「確かにな」

 

 それはその通りかもしれない。

 小野寺さんは、楽と桐崎さんとのニセコイ関係を知らない。いまだに楽が小咲を狙う二股、いや橘さん含めると三股野郎と思っているらしく、いまだに楽のことをどこか見極めてやる、といった感じで接しているみたいだ。

 その点、オレは小野寺さんから随分と慕われているようだ。可愛い後輩なので、先輩冥利に尽きるのだが。

 

「それでだ、樹。小野寺のお見舞いに、何か買っていくんだけど、どうすっか」

「ひとまず、スポーツ飲料水かなんか持って行けばいいだろ」

「だな。あとせっかくだし、春ちゃんにも何か持ってこうと思うんだが、何がいいと思う?」

「……それだったら、あれがいいんじゃないかな」

 

 買い物も決まったので、オレと楽は足並み揃えて、本日の目的地へと歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

「あれ、お店閉まってるぞ?」

「ほんとだ」

 

 お店の前の張り紙には、『暫くの間都合により休業とさせて頂きます』と書かれており、お店の窓も扉も締め切られている。

 商店街を見渡しても、空いているお店はあまりなく、日の当たる時間はいつも賑やかな通りも閑散としている。

 恐らくは、商店街同士の付き合いかなにかで、小咲達のご両親も駆り出されているのだろう。

 

「そういや、確か宮本も裏から入れって……」

「なら、裏からお邪魔するか」

 

 オレ達が裏手へと回ると、引き戸式の玄関が見えてくる。

 

「それじゃあ、インターフォン押しなよ。楽」

「え、オレがか……!」

「何照れてんだ。楽が呼ばれてるんだから。押しなよ」

「お、おう……」

 

 これは、楽が玄関前でインターフォンを押すか押すまいか、葛藤している様子を隠れて眺めている方が、何倍も面白いかもしれない。

 楽がインターフォンを押すと、「はーーい」と声が聞こえ、トントンと階段を降りてくる音がする。

 それにびくりと楽が反応しているので、緊張をほぐしてやろうと思い、楽の脇腹をツンと押す。分かってるよと言いたげに、こちらを恨めし気に一瞥する。

 

「はい、どちら様で……」

 

 すると、パジャマ姿の小咲が、少し咳き込みながら玄関の扉から現れる。

 その途端、思いっきり扉を壊さんばかりにピシャリと閉めてしまったので、楽は驚き、オレは呆然とする。

 

「あれ!?ちょ……小野寺!?どうしたんだ小野寺―!!?開けてくれー!!」

 

 楽はあまりのことで動揺してるのか、扉をバンバンと叩きながら、小咲に呼びかける。少し落ち着いたのか、小咲はまたとりあえず扉を開けてくれる。

 

「い……一条くん、い……樹君も、どうしてここに……」

「え……宮本が用事あるから代わりにって……」

「そんな話聞いてない!!」

「えぇ!?」

 

 宮本さんのことだから、そんなことだろうとは思ったけども。

 楽は、小咲と会えて喜んでいるのか、それともガッカリしているのか、よく分からない顔でぶつぶつ言ってくる。

 こちらとは反対方向を向いて頬を赤らめ咳き込んでいる小咲を遠目で見遣りながら、オレはまあまあと楽を宥めておく。

 ……小咲の様子を見る限り、どうやら楽もチャンスありそうじゃん。

 

「じゃ……じゃあひとまず上がってくれる?お見舞いありがと」

「え、いいのか?」

「なら、そうするよ。小咲、具合はどう?」

「う、うん平気。まだ熱はあるけど、お薬も貰ったし」

「そうか、良かった」

 

 立ちながら会話もできてるし、今日ちゃんと安静にしておけば、すぐに治るだろう。

 

「そういや今日、店閉まってたけど。いつもは休日もやってるよな」

「ああ、実は今お母さん達、商店街の人達と旅行中でまだ2、3日帰らなくて」

 

 やっぱり。楽がこちらを見て何か言いたげにしているが、あえて無視して、そろそろ小野寺さんがどこにいるのか、気にし始める。

 小咲大好きな小野寺さんのことだから、てっきり付きっきりで看病してるもんだと……。

 ところが、いきなり背後の玄関先から、ドサッと何か落としたような音がする。

 

「な、な、な……!?み、宮森先輩……!!それに、一条先輩まで……!?」

 

 ホームランバーアイスを口にしてわなわなとしながら、信じられないものでも見るかのように、小野寺さんはこちらを見つめている。

 

「おはよう、小野寺さん。今日は、楽から連絡を受けて、一緒に小咲のお見舞いに来たんだよ。驚かせちゃって悪いな」

「い、いえ……、宮森先輩は、その、構いませんよ……!けど、一条先輩!なんであなたまでいるんですか!!さっさと出ていってください!!」

「わー!待って待って春ちゃん!!」

 

 小野寺さんは、もじもじしながらこちらに応えたかと思いきや、突然キッと表情を一変させて、楽の背中を押して、玄関の方へ押し返そうとする。

 

「コラ春!一条くんは私のお見舞いに来てくれたんだよ?失礼な事しちゃダメ!」

「お姉ちゃん……、でも……」

「そうだぞ、小野寺さん。実はな、小野寺さんにも渡すものがあって……」

 

 ここでオレは、準備していたものを取り出す。

 

「これ、涼美屋の苺大福。この前好きって言ってたろ」

「えええ!?そんな……!覚えてくれてたんですか!?私、この苺大福が本当好きで……!」

 

 小野寺さんの好みについては、この前の帰り道とかで耳にしていたので覚えていた。 

 小野寺さんは、とんでもなく食べたそうに熱い視線を、苺大福に送っている。

 

「まあな。けどこれは、ここに来る前に楽と二人で選んだものなんだ。楽のおかげで選べたようなもんだし」

「そ、そうだったんですね……」

「だからさ、その苺大福と引換と言っちゃなんだけど。今日のところは、楽に小咲のお見舞いをさせてやってくれないかな?」

「~~っ!!し、仕方ないですね!今日のところは、少しは居させてあげますよ!宮森先輩に感謝してくださいね、一条先輩!」

「……ありがとう」

「ありがとな、小野寺さん」

 

 小野寺さんは、大事そうに苺大福の箱を抱えながら、捲し立てるように楽に言葉を投げかけた。

 オレは楽へと、良かったな、とアイコンタクトを送る。

 楽は、どうしてかまるで神でも見るかのようにした後、こちらへ親指を突き立ててくる。

 

「じゃあ少し台所借りてもいいか?昨年のお礼におかゆか何か作りたいんだけど」

 

 どうやら楽は一度、小咲にお見舞いされた経験があるらしい。

 

「え、いいのに……」

 

 小咲は遠慮がちにそう言うが、こういう時は勝手に進めた方がいい場合だ。

 

「オレも手伝うよ」

「あ、じゃ、じゃあ私も手伝います!お姉ちゃんはちゃんと休んでてね!」

 

 かくして、三人によるおかゆ作りが始まったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……それで、何を企んでるんですか?お姉ちゃんが弱ってる所につけこもうって腹ですか?」

「……何も企んでないって……」

 

 小野寺さんはボウルで卵をかき混ぜながら、楽へと小言を投げている。

 楽は、何と答えればよいのか困りながらも、鍋の様子を見ている。

 オレはというと、下準備をした後、使い終わった用具を洗っている。

 

「……とても信用できませんね。彼女のいる身でこんな所に来て、美人の彼女さんに怒られませんか?」

「うぐっ……、それは……。それには深~い事情があってだなぁ」

「へ~~。それは興味深いですね。二股が許される事情って一体何なんでしょう?」

「ほぐっ……」

 

 ボコボコに責められてるじゃないか、楽。

 この状況を見かねたオレは、ある提案をしようと、水道の蛇口を閉める。

 

「あのさ、楽」

「なんだ、樹」

 

 楽だけでなく、小野寺さんもこちらに注目する。

 

「小野寺さんにはさ、話してもいいんじゃないかな。その事情ってやつ。このままだとさ、誤解されたままで一方的に楽が不利益被るだけだぞ?」

「……そうだな、樹。実はな、春ちゃん……」

 

 楽は、できるだけ包み隠さず、集英組とビーバイブとの関係で、高校生活の間は楽と桐崎さんがニセコイ生活をしないといけないことを、小野寺さんに丁寧に説明した。

 小野寺さんは、初めは全く信じられないといった様子であった。

 だが、証人としてオレが立ち会ってること、これまでの楽の言動を振り返った結果、信じてくれそうな様子である。

 

「そうだったんですか……。一条先輩にはそんな事情が……」

 

 小野寺さんは俯きがちになりながら、何かを考えるようにしている。

 

「……とりあえず、おかゆ出来ちまったから、冷めない内に小野寺に食べさせようぜ」

「ああ、そうだな」

「はい……」

 

 楽の一声で、オレ達は作ったおかゆと、冷たい麦茶を持って、小咲の部屋へ向かう。

 

「お姉ちゃん、おかゆが出来……、なんで掃除してるの、お姉ちゃん!!」

 

 小野寺さんが扉を開けると、風邪を引いてるにも関わらず、部屋を掃除していた小咲が、ビクンと驚いて、困ったような笑みを浮かべて振り返る。

 

「も~~!病人なんだから寝てなきゃダメでしょ~?」

「あはは……、つい……」

 

 こういう他人のために無理しちゃうところ、小咲は昔の頃と全く変わってないな。

 驚き呆れながらも、どこか小咲らしさがあって、微笑ましくもある。

 一方、楽はというと、そわそわしながら、小咲の部屋を見回している。

 オレも小咲の部屋に来るのは、小学生以来なので、内心奇妙な感じだ。

 

「じゃあお姉ちゃん、水分取ってしっかり休んでね。スマホ鳴らしてくれたら、いつでも来るからね」

「あ……うん」

 

 気づけば、小野寺さんは小咲に少しおかゆを食べさせてから、小咲のおでこに手を合わせて熱を測り終えたようだ。……小野寺さんから言われたあとの、小咲の様子が若干気になるが。

 

「ほら!先輩方、行きますよ!」

 

 小野寺さんはオレと楽の間を縫うように、小咲の部屋から出ていこうとする。

 

「……楽、気づいてるか」

「ああ、なんか変じゃねえかと思ったが……」

 

 小野寺さんがオレらの間をすり抜けたときに、違和感は確信へと変わった。小咲の部屋から出た後、オレは小野寺さんへ近づいていく。

 

「……悪いな、小野寺さん」

「え?って、ふぎゃあ!!?」

 

 オレは小野寺さんのおでこに、自分の右手を重ねる。……やっぱりか。

 

「ちょっ、ちょちょちょちょ!?いきなり何するんですか、宮森先輩!!」

「……小野寺さん、小咲の風邪うつってるだろ」

「う……!うつってなんかいません……!この通り元気でピンピン……!」

 

 思いっきり顔を赤くしながら、小野寺さんはそう懸命に否定する。

 オレは困ったようにしながら、楽に言って持ってこさせた体温計を、小野寺さんに渡し熱を測らせた。

 体温計には、『38.2℃』と表示されている。

 

「……寝ろ!!」

「嫌です!!」

 

 楽は少し怒ったようにそう言い、小野寺さんは必死に否定する。

 

「私まで倒れたら、お姉ちゃんの事、どうするんですか!?」

「……オレ、今日は何もねぇから、良ければ面倒見るけど」

「オレも同じく、今日は面倒見るよ」

「……で、でも……!」

 

 煮え切らない小野寺さんに対し、オレは前にもやったように諭す。

 

「いいか、小野寺さん。今、倒れでもしたら、誰が責任を一番感じると思う?」

「そ、それは……」

「分かってるかもしれないけど、それは小咲だ。小咲に余計な心配かけさせたくないだろ?それに、オレや楽もそうだ。もう少し早く気づいてやれなくて、悪かったな」

「い、いえ、そんなことは……」

「だからさ、こういう時は先輩を頼りなよ。ちゃんと小野寺さんには休んでほしいんだ」

「……わ……かりました……」

 

 それだけ言うと、小野寺さんは伏目がちになり、しょんぼりと床を見つめている。

 ……他人のために無理しちゃうあたり、姉妹でそっくりだな。

 

「よし、じゃあ小野寺さんは部屋に戻って寝てな。楽は、ちょっとついてきてくれ」

「はい……」

「おう」

 

 小野寺さんがちゃんと自分の部屋に戻っていったことを確認してから、オレと楽は先程の台所へと、階段を降りていく。

 

「にしてもさ……」

「ん?」

「樹って、色々なことによく気づくよな」

 

 台所まで辿り着くと、楽はどこか感心したように腕組みしている。

 

「そうでもない、ただ気になるようになってしまった、というだけで」

「……この前話してくれた、あの人のおかげか?」

「……否定はできない」

 

 確かに、オレが今のように、人への洞察力や観察力を磨けたのも、そのことが切っ掛けではあった。

 無性にむずがゆくなってきたので、オレは話題を逸らす。

 

「そうだ、楽。お前、小咲のこと見てやりなよ」

「は!!?」

 

 面白いように楽はその表情を一変させる。

 

「オレは小野寺さんの面倒見るから、小咲の面倒見てやれるのは楽しかいないんだよ」

「い、いやいや……!だって、風邪で寝てる女子の部屋にだぞ!?」

「……いいから。こんなチャンス、滅多にないぞ。小咲の話し相手になってやれ」

「……わ、分かったよ。恩に着るよ、樹」

「それでよろしい」

 

 それだけ言うと、楽は小咲のところへと向かう。

 オレは小野寺さん用のおかゆを作ろうと、その下準備に入り始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「はあぁ~~……」

 

 パジャマに着替えて、私は布団のベットに入り込んでいる。

 体調悪いかも。そう感じたのは、ちょうど出かけてるときだったけど、まさか熱がこんなに上がっちゃうなんて……。

 帰ったら、いるはずのない宮森先輩達がいて、少し気を張っちゃってたのもあるかも。

 先輩達に、迷惑かけちゃったな……。

 そうして自分なりに反省していると、扉の方からコンコンと音がする。

 

「入ってもいいか?」

「……どうぞ」

 

 よっ、と言いながら、宮森先輩は両手が塞がってるにも関わらず、器用に肘や足を使って、するりと私の部屋へ入ってきた。

 どうしよう……!そういえば私、男の人を自分の部屋に招き入れるなんて初めてだ……!

 もう少し、お部屋綺麗にしとくべきだったかも……。

 

「小野寺さん、まだ何も食べてないんだろ?おかゆ作ってきたんだけど、食べるか?」

「は、はい。ありがたく頂きます」

 

 身体に倦怠感を覚えてはいるけど、実際のところお腹は空いてきていた。

 先輩のこういう気遣いは嬉しいし、何より先輩の手料理が食べられるなんて……!

 体調崩して良かったかも。

 そんな不謹慎なことを考えていると、私の目の前におかゆを乗せたスプーンが伸びてくる。

 

「ほら、口開けて」

「え、えええええ!?」

 

 こ、これって、まさか!俗に言うあーんってやつじゃないの……!?

 まさか先輩にこんなことまでしてもらえるなんて……。

 

「はい、あーん」

「あ、あ、あーん……」

 

 おかゆを口に含むと、暖かく優しい味が口の中に広がる。先輩、料理もできるんだ……。

 

「お口にあうかな?」

「は、はい!とっても美味しいです……!」

「それは良かった」

 

 先輩はホッとしたように、柔らかな笑みをこちらに向けてくれる。それを見た私には、先輩の先程の言葉がリフレインしてくる。

 先輩を頼りなよ……か。

 もう少しだけ、わがままになってもいいよね。

 

「先輩、またあーんしてくれますか?」

 

 先輩は意外そうな表情を浮かべたものの、すぐにまた優し気な顔つきに戻る。

 

「ああ、いいよ」

 

 それからというもの、私は先輩に何度かあーんをしてもらった。

 あんまりに幸せな気持ちになれるものだから、熱が上がっちゃってるんだろうなぁ……。

 それに身体が応えたのか、一気に熱くなって、疲れてきて、ちょっと……、苦しくなってきちゃった……。

 すると、おでこの方にひんやりとした感触が広がる。

 

「冷えピタ、貼っといたから。ゆっくり寝なよ」

 

 先輩は、スポーツドリンクを私の枕元に置き、おかゆを食べ終えた食器を持って、立ち上がろうとしている。

 ……まだ、行っちゃヤダ。

 気づくと、私は先輩のシャツの裾を掴んでいた。

 

「私が、寝るまで……、その、手を……、繋いでもらっちゃ、ダメ、ですかね……」

 

 私は、涙目になりながらも、先輩にあんまりなワガママを言う。

 

「……わかった、寝るまでな」

 

 先輩は、それ以降何も言わずに、私の頼りなさげにしていた小さな手を、頼もしく大きな手のひらで、優しく包み込んでくれている。

 さすが、私の王子様だ。なんだかスゴく安心するし、気持ちいい……。まるで、吹雪吹き荒れる中のかまくらにいるような感じする。

 あのね、先輩。私、やっぱり、先輩、のこ、と、が……。

 先輩への想いを重ねる内に、私の意識は深い海の底へ沈められていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 時刻は18時を少し過ぎたあたりを指している。

 扉の方からコンコンと音がした。

 私は返事をすると、扉の前で立っていた人物は、そろりと部屋の中へ入って来る。

 樹君はこちらを見るや否や、私のベットに前がかりにもたれかけて眠ってしまっている一条くんを見つけて、なぜか少し溜息をついている。

 

「樹君。春の方は大丈夫そう?」

「ああ、すっかり気持ち良さそうに寝てるよ」

「そっか、よかった」

「楽、寝ちゃったの?」

「うん、私もさっき起きたんだけど、その時には……」

「そうか……」

 

 そこから樹君と私の間には静寂が流れ、部屋の中には一条くんの、規則正しいリズムの寝息がスヤスヤと聞こえてくる。

 

「小咲、体調はどうだ?」

「うん、だいぶ良くなったよ。春や一条くん、そして樹君のおかげだね」

「いえいえ」

「ほんと……、今日はありがとう。こんな時間までいてくれて」

「用事もないし、大丈夫だよ」

 

 何でもないように樹君は言ってくれてるけど、私にとってはスゴく嬉しいことなのだ。

 

「楽とはさ、なんか話したか?」

「えーっと、最近のクラスのこととか、樹君のこととか話してたよ」

「オレのこと?どんなこと話したの?」

「ほら、樹君って、小学校のときは一条くんとも私とも知り合っていたでしょ?」

「そうだな」

「だからね、それぞれの樹君との思い出を語ってた、って感じかな」

「……なんか、恥ずかしいな、それ」

「アハハ、あの時と比べても、樹君、随分と大人っぽくなっちゃったもんね」

 

 樹君との会話は、なぜか一条くんの時とは違い、余計に恥ずかしがったりしないし、お互いがぎこちなくなることもなく、川が流れていくように自然と話が続いていく。

 かと言って、ドキドキしてないのかという訳でもなく、心はポカポカとしているけれど、どこかちょうどいい温度で落ち着いているような気がする。

 

「……この部屋に来るのは小学生以来だから、なんだか奇妙な感じがしちゃうな」

「ふふふ、そうだよね」

「あの時と比べても、今の小咲って、雰囲気とかあまり変わらないよな」

「そうなのかなあ……?」

「そうだよ。穏やかで優しい、心地よい雰囲気のままだ」

「そ、そうなんだ……」

 

 なんだか今の私の心は、シーソーの真ん中に立っているみたいだ。

 約束の男の子と樹君との間で揺れ動いた小学生時代。

 中学の時には一条くんが現れた。

 樹君という重りを完全には落としきれはしなかったけれど、時を重ねるにつれて、あの時の約束の男の子かもしれない一条くんに傾いていった。

 あとはその傾きに身を任せて下りて行けば良かったものを、今年の春にまた樹君は現れて、私の心は再びシーソーの中央で立ち往生するはめになった。

 

 ……樹君に今のこの気持ちを知られたら、樹君はどんな反応するかな。

 

 昔と比べて、今の樹君は、はるかに自分の周りがよく見えていて、私の気持ちのことも、そのうち気づいてしまいそうだ。隠し事が上手くない私だから、尚更だ。

 

 一条くんと樹君、私は今、どっちの人に恋をしているのかな……?

 

「あのね、樹君……」

「ん?」

 

 私は少し、今でも心に残る思い出の引き出しを開けてしまう。

 

「嫌、だったら、してくれなくてもいいんだけど……」

 

 小学生の時、体調を崩して横になっている私に、樹君は知らずの内にお見舞いに来てくれたっけ。

 何も言わず、幼さを感じる小さなその手で、私の同じように小さな手をただ握り締めてくれていた、あの頃の樹君の姿を思い浮かべる。

 

「もう少し寝たくてね。それで、私が寝るまで、隣で手をつないでいてくれるかな……?」

 

 私はなんて大胆なことをしているんだろう。

 けれど、この気持ちの在り処を確かめたい気持ちに押されてしまい、左手を差し伸べながら樹君にわがままを言ってしまう。

 

「……いいよ、寝るまでなら」

 

 樹君は一瞬驚いたような表情を浮かべた。

 けれど、ふっと息をついた後は、私のささやかで少しは大きくなった手を、さらに大きくて温かいその手で握ってくれたまま、黙って私の傍に寄り添い続けてくれた。

 

 ああ、やっぱりだ。

 あなたにとっては何でもないことなのかもしれないけれど、こんな私にはまるで特別なことのように感じられてしまうし、なんだか安心出来てしまう。

 早く、この気持ちを、はっきり、させないとね……。

 抗いようのない眠気に襲われて、私は意識を手放した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 いつの間に寝ていたんだろう。

 私は目をこすりながら開け、むくっと眠気眼のまま起き上がる。

 時計の針は19時20分を少し過ぎた辺りだろうか。

 

「目が、覚めたか」

「ふわっ!?み、宮森先輩!?」

 

 宮森先輩は、ベットの側面にもたれて座りながら、こちらの方へと向き直る。

 

「もしかして、ずっとここにいてくれたんですか……!?」

「ずっと、というわけじゃないんだけどな」

 

 ということは、お姉ちゃんのところにも様子を見に行ってくれてたのだろうか。

 

「そうだ、小野寺さん。体調の方はどうだ?」

「はい、おかげで随分と良くなりましたよ。見てください、この通り!」

 

 私は腕を上下させながら、先輩に見せつける。

 

「ハハハ、そいつは良かった」

「お姉ちゃんたちの方は、大丈夫そうですかね?」

「ああ、小咲も楽も、今はスヤスヤ寝てるよ」

「そうですか……」

 

 お姉ちゃん達の方も、どうやら問題なさそうでホッとする。私はまた、先輩に伝えなければならないことがあるみたいだ。

 

「先輩!今日はこうして一日中、私だけでなくお姉ちゃんの分まで看病してくださり、ありがとうございます!!それに、一条先輩とのことも、ありがとうございます……!」

「どういたしまして。けど、楽のことは、楽に言ってやりなよ」

「う……、そ、そうですよね……。私、これまでにいくつも一条先輩にきついことを……」

 

 先輩への感謝の気持ちを伝えられたのは良かったけど、一条先輩にはなんて声をかけてあげればよいか、分からなくなってしまう。

 

「……楽にはさ、一言ちゃんと謝れば、それで十分なはずだぞ」

「そう、ですかね?」

 

 先輩は、そんな私を見かね、視線を落とし、一層落ち着いた声をかけてくれる。

 

「ああ。楽は、バカがつくほどの、お人好しだからな。だから、一言で十分だ」

「確かに……。あとで一条先輩にあったら、そうしますね」

「ん」

 

 一条先輩を小学校時代から知っている宮森先輩の言うことだから、間違いないだろう。

 小学校時代から知っている……。

 そこで、宮森先輩のことで関連して、頭の中にはもう一人の存在が浮かんでくる。

 

「お人好しといえば、小咲もだけどな。病人なのに、部屋を掃除してたのは、さすがに驚いたな」

 

 私の心でも読んだのだろうか、タイミングよく、先輩はお姉ちゃんの名前を出す。

 

「宮森先輩は……」

「ん?」

「先輩は、どれくらいお姉ちゃんと仲が良いんですか?」

 

 私は、小学校のときに、先輩とお姉ちゃんが仲が良かったことなんて知らなかった。

 当時知っていたのは、お姉ちゃんには、同年代に仲の良い男の子がいるらしい、ということだけだった。

 

「どれくらい……と言われると、少し困っちゃうな。お互いに、なんというか、気兼ねなくいられるような感じがするかな。小咲と話すのは、落ち着くしな」

「そ、そうなんですか……」

 

 聞き出した自分が悪いのだけれど、私にはまた、この前のプール掃除で見た二人の姿が思い出されて、あの胸の痛みが甦ってくる。

 

「それで……、お姉ちゃんには名前呼びなんですか?」

 

 私のこの気持ちは溢れ出して、言葉となって宮森先輩に向かってしまう。

 

「そうだな。元はと言えば、小咲の方からそうしよう、と言ってきたのだけれど」

 

 ……お姉ちゃんの方からだったんだ。

 あの大人しいお姉ちゃんが、小学生の時とはいえ、自分から名前呼びを言い出すなんて、よっぽど……。

 私は、自分の中に膨れ上がる黒い妄想にどうにか蓋を閉じようとするが、どうにも抑えきれない。

 もしかして、お姉ちゃんは、昔、宮森先輩のことを……。そして、今も……。

 

「先輩、お願いがあるんですけど……」

「何?」

 

 私はそんな思いを打ち消そうと、正座で向き直り、真剣な眼差しで先輩を見つめる。

 

「私のこと、これからは小野寺さんじゃなくて、春、と呼んで頂けないでしょうか?」

 

 だって、あなたは私にとって、かけがえのない王子様、のように感じるから。

 そんなあなたには、私のことを、少しでも特別な存在として認識してもらいたい。

 

「……分かったよ。春」

 

 先輩は一瞬何か考えるようにしたけれど、またこれまでも見せてくれたような、優し気な表情のまま、私の名前を口にしてくれた。

 

「はい!樹先輩!」

 

 私にくれたのと近いくらい、いや同じくらいの喜びを与えられることを願う。

 私は先輩の名前に心を込めて、とびきりの笑顔で伝える。

 

 




 第七話『オミマイ』をご一読下さり、ありがとうございました。

 いかがだったでしょうか?

 これにて呼び方だけ言えば、小咲も春も同率ですね。

 それでは、また次のお話で。


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第八話 エンソウ

 第八話にお立ち寄り頂き、ありがとうございます。

 今回は誕生日パーティーの回です。

 それでは。


 月も変わり、夏の匂いがより感じられるようになった金曜の夕方。オレはいつもの面子と一緒に和菓子屋「おのでら」に来ている。

 皆はどうやら小咲の部屋に集結しているみたいだが、オレは小咲の母親の菜々子さんと世間話をしている。

 

「にしても、一条くん、記憶喪失だなんてね~。ヨン様みたいね」

「ヨン様なんて、懐かしい名前出しますね、菜々子さん」

 

 つい昨日のことで、オレは委員長の仕事で居合わせなかったのだけど。

 下校の際、楽が桐崎さんを飛んでくるボールから庇った結果、楽の頭にボールが直撃し、そのまま記憶喪失になってしまったらしいのだ。

 実際に今日のHR前に記憶喪失中の楽と顔を合わせたのだが、オレのことも全く覚えてないらしい。

 普段の様子とは違い、何だか女の子のようにおどおどとしていて、やたらと素直な感じになっていたので、寂しさを覚えつつ、新鮮な感じもあった。

 桐崎さん達は楽の記憶を何とか取り戻そうと、塀の上から飛びかかったり、熱々の中華丼をぶっかけようとしたり、胸ぐらをつかんで首元に銃を突きつけたりなど、楽との出会いを再現してみたのだが、効果はなかった。

 だからこそ、今こうして『第一回楽の記憶を取り戻そうの会作戦会議』なるものを題して、皆は小咲の部屋でどうにか楽の記憶を取り戻すための方法を必死に考えているのだ。それに、今週末の日曜日は桐崎さんのお誕生日らしいし。

 

「一条くん、戻ってくるの遅いわね。麦茶でいいか悪いか、早よ決めてほしいのに……」

 

 麦茶の入れた人数分のコップをお盆にのせながら、菜々子さんはイライラし始めてきそうな様子で、階段の方を見やる。

 先程まで楽も併せて三人でいたのだが、進展具合を確認するのもあって、楽を皆のところへ行かせたのだが、それにしても中々戻ってこない。何かあったのだろうか……。

 すると、足音が一つトタトタと近づいてくる。

 

「樹先輩、一条先輩の記憶の方はどうですかね?」

 

 厨房の方で他の従業員の方々と和菓子作りの作業をしていた、作務衣姿の春が心配そうに尋ねてくる。

 

「まださしたる進展はないかな、春」

「そうですか……」

 

 春にはここへ来るときに事情を話していたので、事情を知っている者として、気にかけずにはいられないのだろう。

 そういうところは、小咲と揃って姉妹で良いところだ。

 一方で、ちらりと菜々子さんの方を見ると、やたらとニヤニヤとしている。

 

「あらあら春~~!!いつの間に宮森君と下の名前で呼び合うようになっちゃって~。小咲と取り合いになっても知らないぞ~」

「もう!!お母さん!!」

 

 相変わらず菜々子さんは随分な恋愛脳のお方である。

 

「ほんとにもう……、私そろそろ厨房の方に戻りますね!」

 

 顔を真っ赤にした春は、逃げるようにして厨房の方へと向かっていく。

 厨房へと入る間際、春は何かハッとしたようにしてこちらを見遣る。

 

 春はニコリとした表情を浮かべながら、ささやかに手を振ってきたので、オレも手を振り返す。

 そうして春は、どこか満足したようにして厨房へと消えていった。

 

「春が男の人に対して、あんな風になるとはねぇ~。宮森君も満更でもない感じ?」

「そういうわけじゃないですよ」

 

 変わらずニヤリとしてこちらに仕掛けてくる菜々子さんに対して、オレは少し困ったようにして適当に流そうとする。

 

「まあ、冗談よ。小咲もそうだけど、男嫌いだった春が、宮森君に対してあんなに懐いてくれてるようだし、母親としては、娘達と仲良くしてもらえてありがたいわ」

「……いえ、こちらこそ仲良くさせて頂き嬉しいです」

 

 菜々子さんは突然母親の表情になってそんなことを言うものだから、こちらは一瞬そのギャップに戸惑ってしまう。

 

「そろそろ、オレもあいつらの様子見てきますよ。麦茶のことも聞いてきます」

「ん、頼んだよ」

 

 思い出したようにして菜々子さんにそう伝えた後、オレは階段を上がり、小咲の部屋の前まで行くと、思ったより静かな様子である。

 

 何やら、楽が一人で話しているようだ。

 女の子、丘の上、絵本、結末、ハッピーエンド……。

 扉の前で聞く耳を立てていたのだが、どうやら楽がたまに付けているペンダントとも関わってくるような話のようだ。楽からは以前から話は聞いていたけど、ペンダントはあまり目にしたことはなかったのだ。

 楽の話が一段落着いたのか、静けさがこちらにも伝わったので、改めてオレは部屋の扉を開ける。

 

「何か進展はあったか?」

「い、樹君!実は……」

 

 小咲や他の皆の話によると、どうやら楽の記憶を取り戻す手がかりとして、小咲の部屋から男の子一人と女の子四人の表紙がある絵本が見つかったそうだ。

 それと楽の持っているペンダント、桐崎さんや橘さん、そして小咲の持っている鍵とが、彼らの間で幼少期に結ばれた約束とに関係しているようなのだ。

 ……薄々感づいていただけで、けっして頭の中に具体的にはっきりしてこなかった。

 だが、楽が小咲に好意を寄せるのも、小咲が昔の約束の男の子を探す気になってないのも、桐崎さんと橘さんとの関係性も含め、ここにきて腑に落ちてきた。

 

 そして、どうやらそのタイミングで第一回作戦会議は終了を迎えたらしく、皆は部屋を片付け始め、オレは菜々子さんへとその旨を伝えに行く。

 階下を降りる最中、オレには一つ、引っかかることが浮かんでくる。

 ほぼ約束の男の子が分かっているはずなのに、どうして小咲から楽への好意は薄らいできているように見えるのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

「私、家に同じ本がないか探してみる!」

「私も何か手がかりになりそうな物探してみるね!」

 

 千棘ちゃんは、一筋の光が見えたように明るく、鶫さんと一条くんを連れて帰っていく。

 橘さんも千棘ちゃんと反対方向へと向かい、舞子君もこの場からいつの間にか姿を消していた。

 私のお家の前に残ったのは、るりちゃんと樹君だ。

 

「……さて小咲、どうして黙ってたのか説明してもらおうかしら」

 

 後ろから般若でも見えるんじゃないかってくらい、こちらの方へ首を傾けるだけで物凄い迫力を醸し出してくる、そんなるりちゃんに私はたじろいでしまう。

 

「まあまあ、小咲にも話しづらいことだったんだと思うよ、宮本さん」

 

 そんな私を見かねてか、樹君は助け舟を出してくれる。

 るりちゃんもそれで少し落ち着いたのか、一息着いてから視線を私からずらす。

 

「……まさか、こんなことになっていたとはね。あんたも千棘ちゃんも橘さんも皆、一条くんと10年前に出会っていて、“鍵”を持ってる。そして一条君は錠の付いたペンダントを。まさに絵本の通りね。はてさて誰が運命の相手なのやら……」

「まるでおとぎ話みたいだよな」

「そうね」

 

 るりちゃんや樹君の言うように、ほんとにおとぎ話みたいな状況だ。

 

 結局、一条くんの約束の女の子って誰なんだろう。

 私の家からあの絵本が出てきたってことは、私がその子の可能性が高いのかな……。

 

「……それにしても、そんな重要な絵本がずっと自分の机にあったのに気づかないなんて、あんたバカじゃないの?」

「それを言わないで!!自分でも分かってるから!」

 

 るりちゃんに正論を言われて、私はあまりに恥ずかしくなって必死になる。

 けれど、どうして忘れちゃってたんだろう……。

 

「小咲はちょっと抜けてるところあるからな」

「もう、樹君まで……!」

 

 私の心に合わせてくるかのように、樹君はそう言ってくるので、思わず恨めし気な顔を樹君に向けてしまう。

 

「けどさ、よかったじゃん」

「え?」

「約束の男の子、見つかって。昔も言ってただろ?まさか楽のことだったとは、今日知って驚いたけど」

「う、うん……」

 

 静かに穏やかな表情を浮かべる樹君に対して、私は相槌を返すだけで精一杯になる。

 

「とにかく、当面は楽の記憶が戻ることが大事だけどな。じゃあ、オレもそろそろ帰るよ。またね、小咲、宮本さん」

「そうね。また千棘ちゃんのお誕生日で、宮森君」

「ま、またね、樹君……」

 

 そんな私の想いを打ち消すように、樹君は急ぐように手を振って、通りの方へ消えていってしまった。

 

「……小咲。気にはなっていたのだけど、宮森君のことはどう思ってるの?さっきのやり取りといい、昔のことといい、どこか引っかかるのよ」

 

 私の考えていることが表情や雰囲気に出てしまっていたのだろうか。さすがに鋭いるりちゃんには痛いところを突かれてしまう。

 けど、親友として、これまで私のことを応援してきてくれたるりちゃんには、私の今抱えていることを伝えないとな……。

 

「あのね、るりちゃん。実はね……」

 

 それからというもの、私達は家の近くのカフェに移動して、幼少期の頃の約束のことや、樹君との小学校時代の出来事、そして高校二年生になって樹君と再会したことで、一条くんと樹君との間で悩んでいることを伝えたりした。

 大体のことを話し終えたとき、るりちゃんもストローを口に咥えながら、どこか戸惑うような、呆れたようにしながらも、真剣な表情をこちらへ投げかける。

 

「それで、小咲はどうしたいのよ?」

 

 るりちゃんはじろりとこちらを見ながらも、いつも以上に眼差しに力がこもっている。

 

「……一条くんのことは、中学から、それに多分幼いときも、好きだったと思う。何気ない優しさが好きだし、一緒に話したりするのはドキドキするし楽しいし……」

 

 一条くんに対しての、私のこれまでの気持ちに偽りの部分なんてない。幼いときも、中学からこれまでも、一条くんはきっと私にとっては特別な存在であるはずだ。

 

「けどね、樹君といるときはね、なんだかとても落ち着いて安心できるし、ドキドキはもちろんしてるんだけど、それでも自分が自然にいられるような感じがして……」

 

 樹君のことを思い浮かべながら話していると、樹君の表情や話し方、そういったものが近くに感じられるようで、心がポカポカとしてしまう。

 

「それにこの前ね、私が風邪をひいたときに樹君が一条くんとお見舞いに来てくれて、その時に昔のように手を繋いでもらったの。そしたら、樹君のことが私にはすごく昔のように特別のように感じられて……。樹君は約束の男の子ではないけれど、小学生の頃と変わらず、私にとっては王子様のように感じられるの……」

 

 そこまで言うと、いよいよ私の心のうちは私にも分からなくなってきてしまう。

 それまで一条くんに恋をしていたのは確かなはずなのだけれど、今はその対象が樹君に取って代わっていくいるような感じがする。

 るりちゃんは、どこかで聞いたフレーズね、と窓の外を見て一言呟くと、再びこちらへと向き直り、少し困ったようにしながらも、諦めたようにして口を開く。

 

「確かに、人の気持ちは変わるものだし、好きな相手が変わるのだって仕方のないことなのかもね。私は小咲の味方だから、引き続きあんたの恋愛相談に乗るわ」

「る、るりちゃ~ん……!!」

 

 私はすっかり視界がぼやけちゃいながらも、るりちゃんに対する感謝の気持ちがあふれ出してくるのを抑えきれず、思わずテーブル越しに抱きついてしまいそうになる。

 

「……だからこそ、あんたは今、一条くんと樹君との間でまだまだ揺れはするのだろうけど、きちんと考えた上で、どちらに想いを寄せるのかハッキリしなきゃダメだよ」

 

 私からの特攻に少し照れくさそうにしながら、るりちゃんはまた真剣な面持ちで私に助言を与えてくれる。確かに、もう少し頭と心を落ち着けて考えるべきかも。

 

「そうだね……。ちゃんと自分の中で答えを見つけないとね……!」

 

 そう力を込めた瞬間と同時に、私のグラスの中にある氷がカチッと音を立てた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「お~い、お姉ちゃ~ん」

 

 日向ぼっこするには最適なくらいの、晴れた日曜の昼下がり。今日は桐崎先輩のお誕生日パーティーということで、私は風ちゃんとポーラさんと一緒に、先輩達と待ち合わせの場所である駅前の広場までやって来た。

 

「春ちゃん!ポーラ!あと風ちゃんだっけ……。お前らもパーティーに参加すんのか?」

「はい!一応招待して貰いましたし」

 

 私の呼びかけに、つい今日に日付が変わる頃まで一時的な記憶喪失になっていたらしい、一条先輩が応じる。

 私たちが来ることまでは知らなかったようだ。

 先輩方の方を見ると、一条先輩やお姉ちゃんに加えて、鶫先輩や橘先輩、舞子先輩やるりさんの姿があるが、私のお目当ての人物の姿がない。

 

「樹君なら、用事があるみたいで、千棘ちゃんのお家に直接向かうって聞いたよ、春」

「そ、そうなんだ」

 

 そんな私の少なからずの動揺を感じ取ったのだろうか。

 お姉ちゃんが樹先輩のことについて伝えてくれる。

 心の内を言い当てられたかのようで、さすがはお姉ちゃんと感じる一方で、お姉ちゃんの口から、樹君、と言われて少しドキリともする。

 

「それでは、宮森君を除くと、皆様お揃いのようですし、ご案内いたしましょう」

 

 鶫先輩の声掛けで、私たちは広場から一塊となって歩き出す。

 

「言っとくけど、千棘んち見てもビビんじゃねーぞ?あいつんちのパーティーは規模がちげーから」

「ご心配なく!お姉ちゃんから大きな家だって聞いてますから」

 

 一条先輩から私と風ちゃんにまるで注意事項のように聞かせてくる。

 昨年も桐崎先輩のお誕生日パーティーに参加しているお姉ちゃんからも、桐崎先輩のお家のことは聞かされているので、そんなに驚くこともないだろう。

 と、気軽にどんなお家なのかワクワクしてたのだけれど……。

 

「でかーーーー!!!」

 

 お城みたいな大きなお屋敷が見えてきた辺りから薄々感じてはいた。

 けれど、いざ門の手前までやってくると、まるで空を覆いつくさんばかりの迫力を身に受けて、思わず思ったことがそのまま飛び出てしまう。

 あまりのお家の大きさに驚いて、口をパクパクさせたままでいたけれど、私たちの傍にタクシーが一台止まったので、目を向けると、そこから降りてくる人物に目を奪われる。

 

「お待たせ、皆」

 

 いつも通りの優し気で落ち着いた表情に、白のアンダーシャツの上にアイボリーのジャケット、黒のスラリとしたデニム。

 いつもよりもさらにオシャレな姿が樹先輩に組み合わさって、どうしようもなく胸が高鳴ってしまい、ドキドキが収まらない。

 どうしよう、かっこよすぎて、直接見るのさえ恥ずかしくなっちゃう……。

 

「我々もちょうど着いたところだよ、宮森君」

「そうか、良かった」

 

 鶫先輩は樹先輩にそう声をかけた途端、自分のスマホを取り出して通話を始める。

 おそらく桐崎先輩に連絡して、こちらに来てもらうようにお願いするためだろうか。

 

「春と風ちゃんも来てたんだな」

「うひゃあ!?」

 

 いつの間に私の目の前に来たのだろうか、瞬間移動したような突然の樹先輩に、顔も直視できない今の私は飛び上がるほど驚いてしまう。

 

「そうなんですよ、私達も桐崎先輩から招待を頂きまして」

「そっか、お互い楽しめるといいな」

 

 そんな私の代わりに風ちゃんが樹先輩に応じてくれて、樹先輩もそれだけ言うと私たちのもとを離れて、お姉ちゃん達のところに向かう。

 

「も~春。あんまり驚いちゃうと宮森先輩だって驚いちゃうよ」

「ううう。でも、風ちゃん~…」

「ふふふ、春って可愛い」

「もう……!」

 

 すっかり真っ赤に頬が染まった私に対して、風ちゃんはさらに弄んでくるので、まだこの頬の色は元通りになってくれそうにない。

 何とか頬を冷まそうとしながらいると、樹先輩とお姉ちゃんが喋っている姿が見える。

 私も何かお喋り出来たらよかったのに、と少し勿体ないことをした気分になる。

 一方で、お姉ちゃんが頬を上気させながら何だか楽しそうに樹先輩と話しているのを見て、胸を針でプツリとつつかれてるような気持ちになる。

 

「……お待たせ皆……!」

 

 モヤモヤを抱えそうなタイミングで、玄関の方からドレスアップした桐崎先輩がちょっと恥ずかしそうにしながらこちらへとやって来る。

 

「キャ~~!!桐崎先輩すっごくキレ~~!!」

「……ありがとう」

 

 お家といい、その姿といい、桐崎先輩はまるでお姫様みたいだ。

 

「かわいいドレスだね、千棘ちゃん」

「……なんかやけに気合入ってんなぁ」

 

 お姉ちゃんや一条先輩達も、それぞれ桐崎先輩のドレスアップした姿に対して、各々の感想をやいのやいのと伝えあっている。

 

「ま、私の方がかわいいと思いますけどね」

「……主役より目立ってどうすんだお前」

 

 ……そんな中でも、橘先輩のぶれない姿勢に呆気に取られてしまう。

 そういえば、私も今日はパーティーだからとそれなりの恰好では来たつもりではあったので、樹先輩に一言でも貰えたらよかったな……。

 そんな乙女心が、逸した機会をさらに惜しく感じさせてくる。

 このモヤモヤした気持ちと一緒に、空を流れる雲のように流れて行ってしまえばいいのに、と願うばかりだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 桐崎先輩のお誕生日パーティーも終盤に差し掛かった頃。私はあれから樹先輩と特に話すこともなく、風ちゃんやお姉ちゃん達と一緒に取り皿で取った料理を口にしながら、一息ついている。

 お屋敷へ入り広間の扉を開くと、まず大勢のギャング(?)のような方々から桐崎先輩が派手な祝福を受けていた。それからも、信じられないようなバイキング形式で出てくる料理の数々に驚いたり、中にはプレゼントとして自家用ジェット機なるものを用意してくる人に唖然としたり……。

 中々に密度の濃い時間を過ごしてきたので、こうして今は落ち着いて食事を取れていることに気がほぐれるような気分だ。

 ところが、何やらステージのような所から差し迫ったような声が聞こえる。

 

「おい、弾けないってどうゆうことだよ!!」

「すまん、さっき配膳を少し手伝ったときに手を怪我しちまって………」

 

 どうやらパーティーを盛り上げるバンドのメンバーの内で欠員が出たみたいだ。

 もちろんメンバーといっても、余興として準備してきたんだろうギャングの人達なのだけども。

 

「どうすんだ!!お前ほどギターを上手く演奏できるやつなんて他にいねえぞ!」

「ほんと、すまん……!」

 

 欠員が出たのはギター担当の方のようだ。

 私たちだけでなく、周囲の方々もざわざわとし始め、何やら落ち着きのない雰囲気に変わってゆく。

 すると、見覚えのあるアイボリーのジャケット姿の男性が彼らの元に歩み寄る。

 

「もしよろしければ、オレが代わりに弾きますよ」

 

 こちらからは後ろ姿しか見えないけど、声をかけに行ったのは樹先輩で間違いがなかったので、私は驚きのあまり開いた口が塞がらない。

 

「てめえ!!舐めてんのか!」

 

 バンドのメンバーの一人が声を荒げて、樹先輩に掴みかからんとする勢いなので、私はビクッとしてしまう。

 

「……本当に弾けるのか?」

 

 ギター担当の方が、まるで救いの神でも現れたかのような視線で、樹先輩を見上げる。

 

「普段は一人で引いてるんですけど、合わせる分には問題ないレベルのはずですよ」

「……オレのギター、貸してやってくれ」

 

 その有無を言わさぬ態度のおかげで、他のメンバーの方もそれなら仕方ない、ということで、樹先輩をステージ上のギターと椅子が用意されたところまで連れていく。

 

「いいか、オレはまだお前の実力を見てねぇ。だから、まずは何か曲を何小節弾いて、お前の実力を確かめさせてくれ」

「わかりました」

 

 バンドのボーカル担当の方からそう告げられると、樹先輩は一言だけ応答して椅子に座る。

 ギターをセットすると、真剣な眼差しで準備を行う。すっかり会場の人達はステージの方へ注目してしまっている。

 その準備のことを、近くにいた人の会話から聞く限りチューニングらしい。

 ギターのことをよく知らない素人目から見ても、樹先輩のチューニングのスムーズさと正確さはずば抜けているみたいで、バンドメンバーの方々は目を丸くしている。

 チューニングが終わったのだろうか、樹先輩は音を止めた。

 

「それでは、始めますね」

 

 その言葉を皮切りに、まるで踊りだしていくかのように、樹先輩の弾くギターから音が流れ始め、あっという間に会場全体を覆いつくしていく。

 飛び出して来る音のリズムと旋律は、何とも華麗で鮮やかだ。

 ギターを弾く樹先輩のいつもより真剣でちょっぴり楽しそうなその姿と相まって、わずかの間ではあったけれど、魅力的で素敵な演奏だった。

 数小節の演奏が終わりを告げると、それまで水を打ったように静かに樹先輩のギター演奏に聴き入っていた会場全体に、ドッと盛り上がり拍手が巻き起こった。

 それと同時に、バンドメンバーの方へと演奏を要求している。

 バンドメンバーの方々もすっかり感動し興奮した様子で樹先輩の元へ駆け寄っていく。

 

「さあ、どんな曲を演奏します?」

 

 さも得意げに言う樹先輩のその笑顔は、いつもよりも眩しく見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 演奏も終わり、パーティーもすっかり終幕に近づいていく中、オレはベランダに出て夜風に吹かれながら、レモンスカッシュを飲んでゆったりとしている。

 そうしていると、屋内から一人の少女がこちらへと近づいてきた。

 

「樹先輩!さっきの演奏、スゴかったです!!私、感動しちゃって……」

 

 春はすっかり興奮した面持ちで、さきほどまでの演奏について語ってくれた。

 演奏の方は、上手くいった。

 最近はいつも一人で練習し、大勢の人前で演奏するなど滅多にやらない。

 だが、たまにはこうしたセッションのような形で他の何人かと演奏するのも良いものだと感じられた。

 

「それにしても、樹先輩!ギターをお弾きになるなんて、初めて知りましたよ!」

 

 春はまだまだ興奮冷めやらぬ様子でこちらに尋ねてくる。

 

「だよな、こっちで誰かの前で弾くなんて全くなかったから」

「そうだったんですね!ギターの方は、誰かに教わったんですか?」

 

 誰かに教わった。

 その言葉を聞いただけで、あの人のことが頭の中を埋め尽くさんとばかりに思い出されてきて、オレは少しだけ次の言葉に詰まってしまう。

 

「……そうだな、前にある人に教わったんだよ」

「へぇ、どんな人だったんですか?」

 

 ごまかそうとした記憶は再び心のうちに溢れ出してくる。

 

「どんな人、か……。大人とは思えないほど無邪気で明るくて、けど大人らしく落ち着きのあるところもあって頼りになって…、それでもたまに孤独な感じも見えるような人だったかな」

 

 少し語り過ぎたかも、と思い春の方を見ると、春からは興奮していたような感じは消え、どこか不思議に思っているような様子でこちらを見つめていた。

 

「先輩にとって、その人って大事な方だったんですね」

「……ああ、何と言ったってオレの師匠だからな」

「いいなあ、そんな師匠のようなお方がいらっしゃったなんて、羨ましいです!」

 

 春はきっと額面通りに受け取ってくれただろうか。

 師匠という言葉は全くの真実ではある。

 けれど、そこにまだ内包されている想い、感情などは今はまだ悟られたり、知られたりはされたくないし、そうあってほしくない。

 

「樹君~!春~!みんなで集合写真撮るって~!」

 

 そんな思いをかき消すように、小咲がオレたちを呼びかける声がする。

 

「はーい!今から行くよ、お姉ちゃん!」

 

 大好きな姉に呼びかけられたからだろうか、春は元気よく小咲へ返事をする。

 

「それじゃあ、行きましょうか。樹先輩」

 

 腕を後ろに組み、半身で頭を少しこちらへ傾けて、はにかむように、けどどこか名残惜しそうにしながら、春はオレに目を合わせる。

 今日は人前で演奏をしたからだろうか。

 それとも、自分のことを少し話したからだろうか。

 いや、パーティーで少し浮ついているから?

 

 あの人のことを思い浮かべたからだろうか?

 

 いつもよりかは少し高めの体温を感じながら、結局はパーティーの雰囲気のせいにして、自分だけこうしたむずがゆい思いに囚われたくなくて、春を呼び止める。

 

「春」

 

 すでに歩き出そうとしていた春は、驚いたように足をパタリと止める。

 

「どうされたんですか?」

 

 さて何を言ったら、と自分で呼び止めておいて少し戸惑う。不思議そうにこちらを覗く春の今の姿を改めて見て、まだ言ってなかったことに気づく。

 

「今日のその服、よく似合ってるよ」

「ふ、ふえぇぇ!!?」

 

 こちらに目線を寄こしながら、首から下はまるで石造みたいに固まってしまった春の横を通り過ぎ、オレは集合写真を取りに、小咲のいる方向へと向かう。

 空はよく澄んでいて、上弦の月が微笑ましくこちらを見渡している。

 

 




 第八話『エンソウ』をご一読下さり、ありがとうございました。

 いかがだったでしょうか?

 本当のところ、樹にとって、あの人は一体どんな存在なのか。

 それでは、また次のお話で。


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第九話 コウブツ

 第九話にお立ち寄り頂き、ありがとうございます。

 温泉の脱衣所で体重計見ちゃうとつい乗りがちなのは、私だけですかね。

 それでは。


 テーブルの上には、お母さんと春が作ってくれた和菓子がいくつか並んでいる。

 私はそのうちの一つを手に取り、しっかりと吟味していく。

 

「……どお?小咲、秋の新作の感想は」

「んー。もう少し栗の甘みを生かせるといいかも……」

 

 このように、私は料理が絶望的に出来ない代わりに、家の中でも一番味が分かるようなので味見役に回ることが多く、その度にお母さんからは感想を尋ねられる。

 

「それにしても気が早いな~。まだ夏もこれからなのに……」

「このくらいから準備しないと間に合わないんだよ」

 

 春の疑問ももっともであるけれど、実際に季節ごとで新商品を考えているようでは生産が追いつかず、数か月前から取り組まなくてはならないのだ。

 

「じゃあお父さんに感想伝えてくるね。あ、そうだお姉ちゃん」

 

 新作の商品も全て味見を終えて、春が片付けをして厨房の方へと戻っていこうとする際に、何かに気づいたようにこちらへと戻ってくる。

 

「味見役頼んどいてなんだけど、最近少しお肉付いてきてないない~?気をつけないとすぐ太るよ?」

「だっ……大丈夫だよ。ちゃんと気をつけてるもん!」

 

 春が私のほっぺをぷにぷにと触りながら、ニヤニヤと言ってくるので、私はちょっと強がるようにして言い返す。

 ……とは言うものの、確かに最近よく甘い物も食べているし、しばらく体重計にも乗っていないことに気づき、私は着替えも兼ねて洗面所の方へ向かう。

 洗面所までやってきて、運動もあんまりしてないし、ちゃんと体調管理しないとなと思いながら、上着を脱ぎつつ、体重計に足を乗せる。

 

 すると、体重計に表れた数字を見て、私は雷に打たれたような衝撃を感じる。

 片足立ちをしてみても数字は変わらない。

 抱えていた上着を洗濯籠に放り投げても変わらない。

 あまりの結果に、私は顔を抑え全身から変な汗が出てくるのを感じる。

 

 確かに味見とか、おやつとか、買い食いとか。思い当たる節は幾つかあるけど、たった数日計んなかっただけで、こんなに増えるなんて……!

 鏡の前でほっぺをぐにぐにしたり、お腹を触ったりしてみるのだが、見た目にはそう変わらなく見えるだけで、実は人から見たら太ってきていると思われているかも……。

 もしかして一条くんや、それに樹君にも……。

 大変だ……!すぐなんとかしないと……!!

 

 

 

 

 

 

 

 

「小咲の様子がおかしい?」

 

 昼下がりのグラウンドにて、体育のサッカーの授業が間もなく終わりを迎えるかといったタイミングで片付けに入る。

 コーナーにあるコーンの元へ向かおうとしたオレに、楽が隣にやってきて、真剣な表情を浮かべながら唐突にそんなことを言うので、オレは思わず聞き返してしまう。

 

「そうなんだよ。どこか顔色が悪かったり、昼飯前に弁当を食べようとしてたり、授業中は珍しく机に突っ伏してたりしててよ……」

 

 楽は心配そうにしながら、今日の小咲の様子についてつらつらと述べていく。

 オレも心なしか小咲が少し元気がなさそうだな、と授業中思っていたのだが、一体どうしたのだろうか。

 

「それに、体育の授業へ移動となった途端、突然ガバッと机から起き上がって、勢い良く向かっていったし……。さっぱり分かんねえんだ」

 

 楽がそこまで言うと、ここまでの情報から、オレは今日の小咲の様子についての謎が解き明かせそうな一つの答えに辿り着きそうになるが、まだ確証はない。

 

「それでだ樹、何か小野寺について分かりそうか?」

 

 コーンを手に持ち用具室へと運びながら、楽はこちらへと視線を投げかける。

 

「そうだな……、どこか顔色が悪い以外に教室の小咲の様子はどうだった?」

 

 オレの中の答えにより確信の持てるよう、楽へと尋ねる。

 

「どうって言ったってなあ……。顔色が悪い以外つったら、何か小野寺の方から音がしたと思ったら咳き込み始めたり、突然お腹叩いたりしたくらいだったな……」

 

 そこまで言ってくれれば十分だった。

 鈍感だが、人の細かいところをしっかり覚えている楽には感心する。

 楽が好きな人だからというのもあるだろうけど。

 恐らく、今日の小咲のおかしな様子の原因は、ダイエットだろう。

 男のオレからすれば、体重のことなどさしたる悩みにもならないのだが、やはりダイエットというのは、小咲を始め思春期の女の子特有の悩みであるみたいだ。

 小咲はそんなこと気にしなくてもいいくらいのはずなんだけどな……。

 

「なるほど、何となく分かったよ、楽」

「ほんとか!?一体どうしてだ、樹?」

「恐らくだけどな……」

 

 こちらに乗り出さんばかりに食いついてくる楽に、オレは少したじろぐ。

 小咲がダイエット中なのではないか、ということをこれまでの情報を根拠にして説明すると、楽は落ち着きを取り戻す。

 ところが、今度はどうしたらよいだろうかという感じで、用具室にコーンを片付けて更衣室へ向かう道中、頭を悩ませている。

 前の集との一件でもそうであったが、このように誰かのために自分のことのように必死に考えられる楽を見て、お人好しというか、人が良すぎるというか、オレは改めて楽のことを良いやつなんだな、と思いながらその隣を並び歩いている。

 しかし、具体的な策が思いつかず、余りに頭を悩ませている楽の様子に、小咲のことで別の心配事をし始めているオレはさすがにヤキモキし始める。

 更衣室で着替えも終えて教室へ向かう道すがら、ある提案を出すことにした。

 

「例えばさ、明日小咲に何か作って持っていくってのはどうだ?」

「ああ!!それなら確かに名案かもな!けどよ、ダイエットなら、もし作っても食べてくれないんじゃないか?」

 

 もっともな質問を楽から受けるが、今回の小咲のような場合、事情が違う。

 

「違うよ、楽。小咲って、ダイエットが必要だと思うか?」

「い、いや、小野寺は細いから、ちゃんと食わないとぶっ倒れないか心配……って、あっ」

 

 楽は何かに気づいたように、ハッとした表情を浮かべる。

 

「そうだろ?だから、明日何か作って持っていくとしたら、ちゃんと一言かけてから渡せば、きっと小咲も観念して食べてくれると思うぞ」

「なるほど……。そしたら何を作って持って行きゃあいいだろう?」

「小咲の好物とかでいいんじゃないかな?」

「好物か……。小野寺の好物って何だろうな」

「いや、知らないのか」

「そ、そういや小野寺の好みの食べ物とかって聞いたことねえなって……。樹なら、何か心当たりあるか?」

 

 全く、どうして好きな子のそういうことはこれまで聞いてこなかったんだか。

 楽の奥手ぶりに若干呆れるものの、せっかくオレを頼りにしてくれているので、小咲の好みが特別変わっていないことを願いながら、思いついたものを口に出そうとする。

 すると、先に教室に辿り着いてたらしい集がこちらに呼びかけてくる。

 

「おい、楽、樹!小野寺が体育で倒れたって!」

 

 どうやらこちらが思っていた以上に小咲は無理をしてしまっていたようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「小野寺、大丈夫か……?」

「……え?何が?全然大丈夫だよ……?」

 

 休み時間のチャイムが鳴り終わった後も机に突っ伏していた私に、席が隣の一条くんが心配そうに声をかけてくれる。

 私は辛うじて顔を一条くんの方へ向けて、頬をべったりと開きっぱなしのノートにくっつけながら応答するのにとどまる。

 昨日はダイエットのため朝ごはんを抜いたせいか、一条くんの前でお腹がなったり。 

 隠れて早弁しようとするところを一条くんに見られたりして恥ずかしい思いをしたり。

 千棘ちゃん達とのケーキバイキングも断ってしまい申し訳ない気持ちもしたり…。

 加えて、水泳の授業では力が入らず溺れてしまう始末で、挙句の果てには、家に帰って体重計に乗るとさらに体重が増えてしまっていた。

 なので、私の心はどんどんと沈み込んでいった。

 

「なっ……!なぁ小野寺!」

 

 そんなすっかり絶望したような私に一条くんが声をかけてくれる。

 

「前にさ、オレがこんにゃくの煮付け作ってきたの……覚えてるか?」

「……覚えてるけど……」

 

 確か一年生の時に、一条くんが珍しくお昼ご飯を一緒に食べようって言ってきた時だっけ。

 あのときは朝の占いの結果を真に受けて、一条くんにたくさん迷惑かけちゃったな。

 

「でよ、今度は樹に小野寺の好みを先に聞いて、こんなの作ってみたんだけど……」

 

 樹君の名前が出てきて私は物凄く気になったが、つっこむ間もなく一条くんは鞄の中からタッパーを取り出し、蓋を開けて私の方へ差し出してくる。

 

「大学いも、食べてみてくれるか?」

 

 な、なんでこんな時に……!?

 目の前にいきなり私の大好物が飛び込んできたので、どうしようもなく食べたい気持ちが溢れてきてしまう。

 そこから漂ってくる良い香りから、見ただけでも美味しいと分かるあたり、さすが一条くん……!

 まさかコレ…、私の為に……!?

 そこまで思考が行き着くと、体重のことを思い出す。

 今日は何にも食べないという今朝の決意を取り戻そうと、何度も頭を左右に振りながら葛藤する。

 

「……お……小野寺?」

 

 でも、せっかく一条くんが作って来てくれたんだし、一口くらい……。

 

「いやあの、無理にとは言わねーけど……」

 

 一条くんからの言葉で、私は現実に引き戻されたかのように、大学いもへと無意識に伸ばした手をピタリと止める。

 

「あ……ご……ごめん、一条くん……。実は、今、食欲……なくて……」

 

 何かとんでもないようなことをしようしていた罪悪感のようなものが、私の心の内を埋め尽くしていくの感じながら、私は少しづつ後ずさる。

 

「食欲なくてゴメンナサ~~イ!!」

「えぇ!?ちょっ……!?」

 

 耐えきれなくなった私は、一条くんの制止も振り切って、教室の外へと駆け出して行ってしまう。

 しばらく廊下を駆け抜け、中庭に出る校舎間の連絡通路までやって来てから、通路の壁に少しもたれて中庭の芝生の上に体操座りをしながら、一つ溜息をつく。

 

 食べたかったな……。

 絶対美味しかったのに……。

 せっかく一条くんが作ってきてくれたのに……!!

 

 一体何をやっているのだろう。

 占いの時と一緒で、私の勝手で空回りして、また一条くんのこと傷つけちゃった。

 何て謝ろうか、また食べさせてくれるくれるのだろうか……。

 そういえば一条くん、私の好みが大学いもだって、樹君から聞いたって言ってたっけ。

 樹君、今でも私の好み覚えててくれてたんだ……。何だろう、すごく嬉しいな……。

 

「って、うひゃあ?!」

 

 すると突然、頬にピトッとひんやりとした感触がして、反射で思わず声が出てしまう。

 

「全く……、何やってんだ小咲」

「い、樹君!!?」

 

 振り向くとそこには、お茶のペットボトルを私の頬につけながら、壁をまたいでこちらをどこか呆れたように覗いてくる樹君の姿があった。

 

「あんまりの勢いで教室を飛び出していくから、追いかけてきたんだよ。…全く、楽にも言ってあったんだがな……。あ、そのお茶やるから」

「あ、ありがと……」

 

 ジト目を少しも崩さないまま、樹君は私にペットボトルを渡してくれる。

 つい樹君のことを考えていたところに現れたので、私は心臓のドキドキを抑えきれないまま、ただただ樹君に従いそれを受け取る。

 

「あのな、小咲」

「う、うん」

 

 樹君が今度は真剣で澄んだ表情をするものだから、私はたじろいてしまう。

 

「それなりに理由があってもさ、さすがに逃げ出してきてしまうのは、いくらお人好しの楽でもさすがに困ると思うぞ。楽はな、昨日も小咲の様子が変だってオレに言ってきてたし、今日なんて君のために大学いも作って持って来たんだぞ」

 

 表情を崩さないまま、けど口調は少し穏やかに語りかけてくれる樹君に対して、私は一条くんへの罪悪感や申し訳なさで胸がいっぱいになってしまう。

 

「だからさ、今日のところは、楽に一言言ってから、大学いも食べさせてもらいなよ」

「そ、そうだね……」

 

 こうなってしまうと、私は樹君の言葉に頷かざるを得ない。そういえば、小学生のときも、私が落ち込んでいたり悩んでいたりしたときに、樹君はこうして声をかけてくれたっけ。

 

「それにな、小咲細いんだから、ちゃんとご飯食べてくれないと心配なんだ」

「え?」

 

 小学生の記憶を掘り起こそうとしていた私の耳に、樹君のそんな一言が飛び込んでくる。

 ビックリしたのと同時に、これまで私を埋め尽くしていた負の感情が一気に溶けてなくなってしまうかのような、ほの温かい気持ちに身体が包まれる。

 

「……どうした?急にニヤニヤしだして」

「ううん、何でもないの」

 

 やっぱりあなたはスゴイな。

 こんな私の悩みなんて、あの頃と同じくまるで魔法のように溶かすことができるのだから。

 

「心配してくれてありがとね、樹君。もう大丈夫だよ」

「どういたしまして」

 

 温かな気持ちのままの表情を樹君に向けると、樹君も表情を柔らかくし応えてくれる。

 

「それとね、覚えてくれてたんだね、私の好み」

「ああ、良かったよ。小咲の好みが変わってなくて」

「ふふふ、こういうの結構嬉しいんだよ」

「そうか、尚更良かった」

 

 すっかり私もいつもの調子が戻り、樹君との間でまた心地の良い会話を交わす。

 樹君と一緒にいると、ドキドキとポカポカが入り混じったような何とも言えないような気持ちになれて、この時間ができるだけ長く続くといいなって考えちゃうな。

 

 樹君との間では余計に恥ずかしがることなく、ドキドキしながらも割と自然に接することができるのに。

 どうして一条君との間では、恥ずかしくなってどこかぎこちなくなることが多くて、樹君と再会してからそれを残念に思うことが増えてきたのだろう。

 一条くんは優しくて素敵な人だ。それに、あの約束の男の子かもしれない。

 でも、今は一条くんに恋をしているというよりも、一条くん言い換えれば約束の男の子との恋に恋しているだけなのかもしれない。

 それに、あの絵本の中の王子様のような存在は、小学生の頃からずっと樹君で、今だって樹君は私にとって……。

 

 ……ああ、そうか。樹君を王子様だと幼心に想い、投げつけることのなかったあの頃の気持ちが、一度は諦めていたけど消えることなく残り続けていたから。

 こうして更に成長した王子様と再会し、改めて恋心として浮かび上がってきているのだ。

 

 どうしよう。

 そう意識し始めると、今こうして樹君と並び歩いているこの状況が、何だか恥ずかしくも、嬉しくも、楽しくも、とより一層感じられるようになった。

 心臓の鼓動はどんどん高まり、頬がどんどん熱くなるのを感じる。

 ずっとこのままでいたい気持ちと一度ここから逃げ出したいような気持ちがぶつかり合ってしまう。

 けれど、その心の騒ぎ様が不思議と嫌じゃなくて、むしろそのくすぐったい感じが愛おしく思える。

 

 そんなことを考えていると、いつの間に教室に辿り着いたのか。私は教室の扉の前にいて、樹君は一条くんのところへ向かい何かを言った後、こちらの方へ手招きしている。

 

 あの手に触れることが、包まれることができるのは、今度はいつになるんだろう。

 

 一条くんにどう謝ろうかを頭の片隅で考えつつ、私の頭の大半は樹君のことで埋め尽くされてしまっており、この熱はどうにも今日のうちは引いてくれそうにもない。

 

「小咲、楽に言うことあるんだろ?」

「……うん、そうだね」

 

 一条くん、ごめんね。

 るりちゃんにもまた話さなきゃ。

 

 教室の窓から見える良く晴れた空には、積乱雲が高く高く立ち上ってきている。

 

 




 第九話『コウブツ』をご一読下さり、ありがとうございました。

 いかがだったでしょうか?

 斜面を転がりだした球は、摩擦がない限り、止めようがありません。

 それでは、また次のお話で。


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第十話 クリーム

 第十話にお立ち寄り頂き、ありがとうございます。

 本日はホワイトデーということなので、気になる人や大切な人に何かしらのお返しができるといいですね。

 それでは。


「なあなあ!樹!この前借りた映画、スッゲー面白かったよ!!」

「そうだろ?実はさ、その続編があるから、今度貸そうか?」

「まじか!!楽しみにしてるよ!」

 

 少しモヒカンに近い髪型の、クラスのサッカー部の男の子が目を輝かせている。

 

「ねえ!宮森君!この前の数学の小テスト、宮森君が教えてくれたおかげで、私達いつもよりもいい点数が取れたよ!!……それでね、また今度少し時間が空いてたらまた教えてくれないかな?」

「もちろん。その時はまた力になるよ」

 

 少し外ハネがある黒髪ショートボブのバレー部の女の子が、陸上部それにソフトボールの女の子と一緒に、それぞれが嬉々とした表情を浮かべて、答案用紙を手に持っている。

 

「ちょっといいか、宮森?来週中の美化週間の説明をクラスの皆にしたいんだが、月曜の朝のHRで少し時間空けといてもらえるか?」

「いいぜ。先生にはこちらから通しておくよ」

「ありがとな、助かるよ」

 

 それだけ言うと、美化委員の少し小柄の男の子は、おそらく説明用の資料を手にしながら、同じく美化委員の女の子と打ち合わせみたいなのを始めている。

 

 このように、今はお昼の長い休み時間なのだが、クラスの委員長の樹君は、クラスの皆から男女問わず慕われており、クラスの色々な人によくよく声をかけられている。

 クラスの中でも大人びた印象からにじみ出てくる頼もしさや、誰に対しても目を配って分け隔てなく接する人当たりの良さなどの、樹君の人柄だからこそ為せる業なのだけど。

 そんなようにクラスの子達から求められる想い人の様子を遠目に見ながら、私はちょっぴり切なくなって、ついその姿を目で追い続けてしまう。

 

「な、なあ、小野寺?ちょっといいか?」

 

 すると、廊下の空いた窓に佇む私に、一条くんが頬を指でかきながら尋ねてくる。

 

「小野寺の誕生日って、いつ?」

「え?」

 

 目線を斜め上にしている一条くんの唐突な質問に、私はちょっと驚いてしまう。

 

「いやほら!こないだ千棘の誕生日あったろ?あいつだけ祝うってのもなんだから、教えて貰おうっと思って……?」

「い……いいよそんな……気にしなくて」

「いいからいいから、それでいつなんだ?」

 

 どこかアタフタとしながらそう尋ねてくる一条くんに対して、誕生日のことを気にしてくれて嬉しい気持ちもある。けど、同時に少し申し訳ない気持ちも出てくる。というのも……。

 

「……明日、なんだけど」

 

 そこで会話が途切れると、一条くんは何とも言えないような表情を浮かべた後に、一言だけ言って、そのまま教室の中へと入っていく。

 前までなら、一条くんに誕生日を聞かれたらもっと嬉しくなって、きっと答えるにも慌てたかもしれないけど、今さっきは友達のような感じで落ち着いて話せた。

 それにしても、明日はもう私の誕生日か……。

 去年は女の子の友達同士で私を祝ってくれたっけ。プレゼントとかも用意してくれて嬉しかったな。

 

 ……樹君、もしかして私の誕生日のこと、覚えてくれてたりするのかな……?

 

 小学生の頃にもらった樹君のプレゼントが何だったかと思いをはせながら、私は再び樹君へとどこか期待したような視線を注ぐ。

 そんな私の視線は、また別の子に声をかけられている樹君には気づかれることなく、休み時間のクラスの喧騒の中に紛れ込んでいった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……春ちゃあぁ~~ん!!折り入って頼みがぁあ~!!」

「げっ」

 

 今日の授業も残すはあと一つというところの休み時間に、私は廊下をうろついていると、ドドドっと物凄い勢いで一条先輩が近づいてくる。

 

「……はあ?プレゼント選びの手伝い?」

 

 どうやら一条先輩は、明日のお姉ちゃんの誕生日にプレゼントを贈りたいようだ。

 

「……そりゃ私も放課後選びに行く予定でしたけど、それならるりさんに頼めばいいじゃないですか。もしくは彼女の桐崎先輩に」

「いや……宮本にはすでに『小咲と行けばいいじゃない』という意味不明な事を言われて断られた。千棘も予定があるっていうし……」

「それなら、い、樹先輩はどうなんですか?」

「樹にも頼んだんだが、『小咲が好きなお前なら大丈夫だろ。一人で選べ』って言われ、そのまま予定があるってことで断られた……」

「そ、そうなんですね」

 

 るりさんは確かにそんなことを言ってしまいそうだし、桐崎先輩も予定があるなら仕方ない。

 それよりも樹先輩の予定がどうにも気になってしまう。

 

「頼む!!一人じゃ小野寺の喜びそーな物、見当つかねーんだ!この通り!!」

 

 両手を合わせて頭を下げる一条先輩に、私はどう答えるべきか逡巡してしまう。

 この先輩は桐崎先輩という彼女がいるが、それはニセモノの恋人関係で、お姉ちゃんを好いてはいるが悪い人でもない。

 それに私は今まで酷いことを何度か言ってきたので、先輩にはどこかでその借りというかそういったものを返さないといけないと思うし……。

 

「……大麻呂デパートって品揃えも良くて、プレゼント選びにゃ最適だと思わないか?」

「え?」

 

 頭を悩ませていた私に、一条先輩は唐突に顔を上げてそんなことを言い出す。

 

「今は確か“和菓子フェスタ”なるものをやっていたよーな……」

 

 その言葉に私の心は反応してしまい、考えていたことなんて吹き飛んでしまう。

 

「……待ち合わせどこにします?」

「現地で」

 

 和菓子屋の娘の私は、やっぱり和菓子に目がないのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……フフ……先輩やりますね。先輩のオススメはどれもなかなかどうして……」

「春ちゃんこそ」

 

 プレゼント選びの品物に大体目を通したので、絞り込むのは後回しにし、今は“和菓子フェスタ”が行われているフロアのテーブル席に買ってきた和菓子を一つずつ並べて、一条先輩とそれぞれの食べ比べをしている。

 和菓子はどれも美味しく、一条先輩の選んできたものは私の好みにも合い、またその逆も然りの様子だ。

 

「いやぁ~、やっぱり春ちゃんを誘ったのは正解だったな」

「……は!?」

 

 快活な表情を浮かべる一条先輩に対して、私は驚いてキョトンとしてしまう。

 

「春ちゃんってオレと好み似てるよな。一緒に楽しめるってのはいいもんだな」

「そ、そうですかね……。けど、確かに和菓子好きな知り合いが増えるのは嬉しいです」

「だろ!」

 

 ニコッと笑みを浮かべて上機嫌な一条先輩の言動から、この人は悪い人ではないけれどどこか女たらしの面を感じる。

 きっとお姉ちゃん達も一条先輩のこうした側面に振り回されてるんだろうなあ、と私は少し困ったように笑みを返す。

 

「にしても……、さっきお店の人に『デートですか』って言われたときは、さすがに困っちゃいましたよ。先輩、仮にも彼女いるのに」

「ははは……すまんな。春ちゃんって男とデートとかした事あんの?」

「あるワケないですよそんなの。私女子校でしたし……あ」

 

 そこまで言うと、私には樹先輩とのことが思い出される。

 

「そういえば、デートとは呼べないかもしれませんが……、二回ほど樹先輩に学校からお家まで送ってもらったことがあって……。樹先輩、私のどんな話にも付き合ってくれて、とても紳士で優しくて、温かくて。二回とも違う事情でのことだったんですが、時間も忘れちゃうくらい楽しくて、また一緒に帰れたらなあって……」

 

 樹先輩との思い出に熱中するあまり、目の前に一条先輩がいるにも拘らず、私は樹先輩のことを熱く語ってしまう。

 気づいたときには一条先輩も少しポカンとした表情をしてこちらを見ているので、頬がどんどんと熱くなっていく。

 

「へえ、春ちゃんって樹のこと相当慕ってんだな」

「そ、そういうことにしといてください……」

 

 幸い一条先輩が鈍感であったから良かったものの、風ちゃんとかに話したら確実に弄ばれただろう。

 

「けど、樹はやっぱすげえやつだよ。クラスでも皆から慕われてるしよ。その上たいていのことは何でもこなせるし、オレには真似できねえな」

「へえ~!そうなんですね!」

 

 やっぱり樹先輩は学校のクラスの方でも大活躍で、カッコイイんだろうなあ。

 それに、お姉ちゃん以外の同じクラスの先輩から樹先輩のことが聞けるので、私は関心しながら一条先輩の話に頷く。

 

「この前だって、樹に手助けしてもらわなかったら、小野寺に大学いもとか渡せなかっただろうなあ」

「それ、お姉ちゃんから嬉しそうに聞きましたよ」

「ほんとか!渡してよかった~!」

 

 喜んだ様子の一条先輩を見ながら、その件も樹先輩が絡んでたんだって思うと、実のところ樹先輩とお姉ちゃんの関係ってどうなんだろうって気になってしまう。

 特にお姉ちゃんは最近、樹先輩に対して様子が少し変な感じ、どこか違和感を感じさせるような感じがしてならない。

 お姉ちゃんの好きな人って、たしか振り返ってみれば一条先輩のはずなんだけど……。

 

「そうだ!渡すといったらそろそろ小野寺のプレゼント選ばねえとな。行こう、春ちゃん」

「は、はい……」

 

 そんな私の疑念をよそに、一条先輩は急ぐようにしてテーブルにあった和菓子のお皿を片付けて行ってしまう。

 このことはまた今度考えることにして、私は鞄を肩にかけ一条先輩についていく。

 その後、お姉ちゃんのプレゼントとして私は服を選んだ一方で、一条先輩は結局自分の好みというか私も好きそうなブローチにした。

 好みが似ているらしい私と一条先輩からして、私いる意味あったかなと思いつつも、無事プレゼント選びは終わった。

 

 樹先輩も、もしかしたらお姉ちゃんへの誕生日プレゼントを用意しているのだろうか。

 今度は、樹先輩とちゃんとデートって形でお出かけしたいな。なんてぼやぼや考えながら、夕陽の差す帰り道を歩くのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 私の誕生日の日の授業もすっかり放課後になり、私は委員の仕事も終えて一人で渡り廊下を歩いている。

 

 この後の夜ご飯時から千棘ちゃん達がお祝いをしてくれるそうだ。

 お家に帰って支度をしなきゃと思いつつ、少し心に引っかかることがあり、その足はのんびりとした速度になっている。

 朝に千棘ちゃんやるりちゃんに祝われ、一条くんからも可愛らしいブローチをもらえてすごく嬉しい気持ちになれていたのだが、樹君とは今日あまり喋れていない。

 

 樹君からは朝に「お誕生日おめでとう」とは言われたのだけど。

 私にはその一言でも覚えてもらえてたのでも幸せな気持ちになれるのだけど。

 どこか満たされないような気持ちも感じてしまい、そんな風に期待しすぎてしまってる自分に恥ずかしくなってしまう。

 

 あの頃は一緒にプレゼントもらえてたのにな。

 そんな自分の邪な気持ちを振り払おうと、少し歩幅を大きくして教室に戻ると、そこにはいつもの窓際の席で本を読んでいる樹君の姿が一人飛び込んでくる。

 

「委員の仕事お疲れ、小咲」

 

 穏やかで澄ました表情を崩さないまま、樹君は本を閉じてこちらを眺める。

 

「う、ううん。樹君の方こそ、いつも委員長のお仕事、お疲れ様」

「いやいや」

 

 鼓動の勢いが増すのを感じつつ、普段のクラスの中での樹君の様子を思い浮かべながら、私には一つ疑問が生じてくる。

 

「けど、こんな時間まで残ってるなんてどうしたの?」

 

 普段学校の用事がない限り、そんなに学校に残らない樹君が、今日は他に誰もいなくなるまで教室に残ってるなんて珍しい、というか初めてなんじゃないだろうか。

 

「そのことなんだけどさ」

 

 樹君はもたれていた椅子から立ち上がって、自分のリュックサックからオレンジのお渡し用の紙袋を取り出し、私の元までやってくる。

 

「はい、誕生日プレゼント。改めて誕生日おめでとう、小咲」

「え、私に!!?くれるの!?」

「他に誰がいるんだよ」

 

 私はさっきまでプレゼントのことで少しだけしょんぼりとしていたけど、今は樹君から本当にプレゼントがきて感激のあまり、自分で自分に指を指しながらあたふたする。

 

「まさか、このために待っててくれたの……?」

「ああ、朝でも良かったけど、帰りの方がその日邪魔にならなくていいだろ?ほら」

 

 樹君はそのまま紙袋を手渡してくれるので、私は大事そうに受け取る。

 

「中、見てもいい?」

「どうぞ」

 

 中を見て取り出してみると、そこにはローズが可愛らしくオシャレにパッケージされたデザインのハンドクリームが私の目に映る。

 

「こ、これって……!?」

 

 小学六年生のとき、樹君からのプレゼントとして貰ったのもハンドクリームだった。

 

「前さ、ハンドクリームあげたときに小咲、すごい喜んでくれただろ?もっと違うやつにしようかと思ったけど、その時の記憶が強くて。それに和菓子屋の娘で手先が器用だから、厨房ではダメだろうけど、気に入れば普段の生活で使ってくれたらなって」

 

 前より少しは良いやつにしたから。

 そう言って少しおどけるようにして見せる樹君を正面に捉えながら、私はまるであの頃に戻ったような気がして、懐かしさを覚えるとともに、心からこみ上げてくる嬉しさや喜びを嚙み締める。

 あのときハンドクリームを貰ったときは、あまりに感激して抱きついちゃったっけ。

 今でもあの容器は部屋の押し入れにしまってた気がする。

 

「ううん、すっごく嬉しいよ……!!ありがとう、樹君……!」

「どういたしまして」

「また大事に使うね!」

「ああ、どんどん使ってくれ」

 

 私は満面の笑みで答えると、樹君も表情を柔らかくして温かさのある笑みを浮かべる。

 ほんとは前みたいに抱きついてしまいたい。

 けど、さすがに誰もいないとはいえ学校の教室でそんな大胆なことができるほど、私は幼すぎてはいないし、それに恥ずかしすぎる。

 私は鞄の中にハンドクリームの入った紙袋をしまおうと自分の席まで戻る。

 樹君はリュックサックを左肩から下げ、いつの間にか教室の扉にいて、こちらに振り向いている。

 

「それじゃあ、また明日、小咲」

「う、うん。また明日ね、樹君」

 

 樹君が手を振って教室から出ていくのを見届けると、私は紙袋をしまう最中、なんだかとても勿体ないことをしたような気持ちに囚われてしまう。

 

 もしかして、今日なら樹君と一緒に帰れるんじゃ……。

 

 そう思った瞬間、私は急いで紙袋をしまい、教室から弾かれるように玄関の下駄箱まで出来る限りのスピードで樹君を追いかける。

 少しだけ息を切らしながら下駄箱まで追いつくと、樹君はキョトンとした様子でこちらを見つめてくる。

 

「どうした、小咲?」

 

 心臓のドキドキはさっきよりも激しいし、頬の赤らみもますます増してきているけれど、ここまで来たら勇気を出さないと、私!

 

「樹君!きょ、今日一緒に帰らない?!」

 

 追いかけてきた勢いそのままに、勢い良く言い過ぎたのでどうだろう。

 不安になりながらも、樹君はフッと口元を緩めて私の方に向き直る。

 

「いいよ、一緒に帰ろうか」

「うん!」

 

 上履きから履き替えていた樹君に遅れないよう、私も急いで履き替える。

 グラウンドでは運動部の元気な声が響いている。

 隣にいる彼に聞かれないように、この間に私の心臓の鼓動も収まってくれるといいなと願いながら、私達は並んで校門の方へと歩き出した。

 

 




 第十話『クリーム』をご一読下さり、ありがとうございました。

 いかがだったでしょうか?

 積もる想いは、その人に勇気を与えるだけでなく、疑念を生み出してしまいます。

 それでは、また次のお話で。


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第十一話 オウチデ

 第十一話にお立ち寄り頂き、ありがとうございます。

 今回は新キャラの登場です。樹にとってはどんな存在でしょうか。

 それでは。


 陽射しの強さが増し、半袖の学生服でも若干の暑さを感じるようになった6月下旬の金曜日。

 放課後になり次々とクラスメイトが帰り支度をする中、唐突に集の一言が飛んだ。

 

「なあなあ、来週期末考査もあるし、皆で勉強しない?!」

 

 ノリノリの表情で呼びかける集に対し、オレらは振り返る。

 

「いいわよ!やろうやろう!」

「お嬢がそう言うのでしたら」

 

 真っ先に手を挙げたのは桐崎さんで、目を輝かせながら手を挙げる。

 鶫さんもそんな桐崎さんを見ながら、微笑みをたたえて応じる。

 

「ダーリン!あんたはどうすんの?」

「あ?いや、オレもやるなら行くけど……」

「楽様が行くなら私も行きますわ!」

 

 桐崎さんに楽が気だるげにしつつもどこか楽しみにしてそうな様子で言いかける前に、橘さんは楽にタックルをかましながら被せてくる。

 小咲や宮本さんも桐崎さんにすでに声をかけられており、どうやら参加するようだ。

 

「いてて……、樹はどうすんだ?」

 

 橘さんにタックルされた腰に手をやりながら、楽が尋ねてくる。

 

「オレも構わないんだが、その勉強会はいつやるんだ?」

「明日とかでいいんじゃないかな?」

 

 オレの問いかけには集が答えてくれる。

 土曜か……、どうしたものか。

 

「場所は前と同じく楽ん家でいいんじゃね?」

「あー……、明日は組のもんが少し用事あるみたいでよ。ちょいと都合が悪いかもしれねえ」

 

 普段は楽の家が一日勉強会の場所になっているようだが、今回は使うことができないみたいだ。

 時間と場所次第では断ろうとしていたが、どちらの都合も成り立たせるにはこれしかないと思い、オレは一つ提案をしてみる。

 

「そしたら、うちに来るか?」

「え?いいのか、樹?」

「一軒家に一人暮らしみたいなもんだし、たまには人を招くのもいいかと」

「宮森君のお家?!私、行ってみたい!」

 

 こっちの都合もあるが、本音も混ぜてその旨を伝えると、桐崎さんが真っ先に飛びついてきた。

 彼女とは海外住みを経験していることとその明るい性格からだんだんと仲良くなり、最近では楽に対する愚痴も言ってくるくらいの間柄となっていた。

 

「宮森君のお家来てもいいって。あんたはどうなの、小咲」

 

 他の面子も乗り気の中、宮本さんがなぜかオレに聞こえるように小咲にそう言うので、オレは少し慌てたようにする小咲を思わず見てしまう。

 

「わ、私も行ってみたいかな……、樹君のお家……」

「……それじゃあ、決まりだな」

 

 どこか消え入りそうな声になる小咲を尻目に、改めて皆に確認を取るとOKが返ってくる。

 集合時刻と集合場所を伝えた後に皆とは解散して、リュックサックを肩にかけながら昇降口へと向かう。

 そのまま廊下に出ると、ポケットに入れたスマートフォンからピロンと電子音が鳴るので、取り出してロック画面を見ると、春からの連絡だった。 

 なにやら緊急のようなので、メッセージアプリを開いてみれば、

 

『樹先輩!来週、期末考査がありますよね?

 そこで、折り入ってお願いがあるのですが、先輩のご都合が宜しければ、明日風ちゃんと一緒に勉強の方を見て頂けないでしょうか(>_<)』

 

 と送られてきたので、この際人数はもう関係ないし、春たちも明日の勉強会に呼ぶことに決めて、その旨を文字で打ち返信する。

 さて、今日の帰りの間にドリンクやお菓子を買っておかないとな。それに家の掃除も。

 けど、今日はその前に、あの子を早めに迎えに行こうか。

 下駄箱で靴を履き替えるうちに思い直し、まだ夕焼けには早い時間帯の帰り道へ足を運ぶ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 学校の登校時間よりは遅いくらいの良く晴れた土曜の午前。私はお姉ちゃんや風ちゃん、るりさんと一緒に、今日の集合場所となっている学校へと向かっている。

 

 こんな休みの日に学校に行くなんて不思議ではあるけど、今日の実際の目的地はそこではなく、何とあの樹先輩のお家なのだ。

 期末考査のため勉強を教えてもらおうと、昨日は勇気を出してメッセージを送ったら、まさか樹先輩のお家で一緒に勉強できることになるなんて……!

 返信が来た時には思わず跳び上がっちゃって、風ちゃんに良かったねなんて言われながら、ちょっとからかわれちゃったっけ。

 今日だって先輩のお家に行くのに、どんな恰好で行けばいいとか、どんなものを持っていこうかとか悩みに悩んだ。けれど、それはどうやらお姉ちゃんも同じのようで、私以上にドタバタしてた気がする。

 やっぱりお姉ちゃんは今は一条先輩じゃなくて樹先輩のこと……。

 

「ほら春、もうすぐ着くよ」

 

 ぼんやりとしていた私に、お姉ちゃんがいきなり声をかけてくるので、私は思わずビクンとなるくらい驚いてしまう。

 いつも通っている校門の方を見てみると、そこには既に樹先輩達が揃っていた。

 

「おはよう、みんな~!」

「小咲ちゃん達、おっはようー!」

 

 お姉ちゃんの呼びかけに、桐崎先輩が元気良く応じる。

 私たちが合流すると、それぞれが挨拶を交わしたのちに樹先輩が声をあげる。

 

「そしたら、皆揃ったようだし行くか」

 

 樹先輩を先頭に私たちは一塊になって歩き出す。

 どうやら樹先輩のお家は一軒家らしく、学校からは徒歩で20分ということ、方角も私のお家とほとんど同じから、意外とご近所なのかもしれない。

 ちゃんと道順を覚えておこうと 目に映る光景を嚙み締めて歩いていくと、樹先輩がこちらを見やりながら、少し申し訳なさそうに呟く。

 

「こちらの都合で悪いんだけどさ、今日家に小学生のはとこがいるんだ」

「へえ~!樹のはとこか、どんな子なんだ?」

 

 一条先輩の疑問も尤もだ。樹先輩のはとこってどんな子なんだろう。

 何故今日樹先輩のお家にはとこがいるのか、と疑問に感じる前に気になってしまう。

 

「まだ小学三年生だけど、いつも明るくて優しい女の子だよ。会ったら仲良くしてくれると嬉しいな」

 

 樹先輩は穏やかな表情を浮かべながら、お兄さんのような、いやそれ以上にお父さんのような雰囲気を漂わせ、私たちに静かに語りかけてくる。

 皆からも「もちろん!」とか「早く会いたい!」という声が挙がる。

 私も、樹先輩が大事にしているであろう、はとこの女の子に早く会いたくなった。

 そうこうしている内に樹先輩が足を止めて、ヨーロッパにもあるような感じのする門の傍にある『宮森』という表札の下のインターホンに手を伸ばす。

 ほんの数秒した後にインターホンの向こうから、「はーい」と聞こえてくる。

 

「ただいま。皆を連れてきた。今から玄関のドア開けるよ」

 

 樹先輩は門を開けて鍵を取り出し、玄関のドアに鍵を差し込むとカチャリと音がする。

 樹先輩がこちらを振り向き、大丈夫だよというサインらしきものを出してくれると、私達も玄関へと先輩に続くようにしてなだれ込む。

 家の中に入ると、靴棚の上にある木製の置物や、廊下の壁に立てかけている洋画など、落ち着きと清潔さを感じさせてくれるような空間が私達を包み込んでくれる。

 私は、実は男の人のお家に来るのなんて初めてなんじゃないだろうかと気づく。

 お家の樹先輩らしい空気と香りも相まって、ドキドキが抑えきれそうになり、つい駆け出して叫んでしまいたいような気持ちにもなる。

 お家に上がって居室の方へ進むと、充分に人数分位置取れる長机が二つ繋いであった。

 私達はそれぞれの荷物を適当な位置に置いて、勉強用具と教材を取り出していく。

 すると、部屋の案内を終えてから一度この場を離れていた樹先輩が、2Lの種類の違うドリンク3杯と紙コップを左手に抱えながら、「皆!」と呼びかけて入ってきた。

 樹先輩の背後には、まるで輝くルビーのような赤色の瞳を持つ、ショートヘアーの女の子がトコトコとくっついてきている。

 樹先輩は膝を曲げ、目線をその女の子のと同じところまで合わせる。

 

「さ、皆に自己紹介しな、明日花(あすか)

「うん!」

 

 樹先輩から普段よりも穏やかな表情を向けられている、“明日花”と呼ばれた女の子は花が咲くような笑みを先輩に返してから、私達の方へしゃきっと向き直る。

 

「皆さん、初めまして!!小学三年生の、二階堂明日花です!お兄さんのお友達に会えて、とっても嬉しいです!」

 

 しっかりとした口調ながら、快活そうにニッと明るい笑顔で私達を照らし出さんとする明日花ちゃんを見て、どんなに可愛くて尊いものを目にしてるんだと、私はキュンキュンとしてしまう。

 

「うわーーカワイイ!!明日花ちゃんって言うんだね!」

 

 桐崎先輩が抱きつかんとする勢いで明日花ちゃんに突っ込んでいくので、他の皆も明日花ちゃんを囲うようにして歩み寄っていく。

 

「私、桐崎千棘って言うんだ。よろしくね!」

「うん、こちらこそ!千棘お姉ちゃん!」

「はあああ~~!!ほんとカワイイわね、この子!」

 

 桐崎先輩はすっかり興奮した様子で明日花ちゃんに抱きつく。

 抱きつかれた明日花ちゃんも「えへへ~」と言いながら笑顔を浮かべている。

 

「初めまして、私は小野寺小咲。よろしくね、明日花ちゃん」

「うん、小咲お姉ちゃん!」

「ふふふ、ありがとね。樹君、こんな可愛らしいはとこがいたんだね」

「まあな」

 

 お姉ちゃんも明日花ちゃんに挨拶をしたのと同時に、樹先輩にも話しかけた姿を見て、私もつい負けじと明日花ちゃんの前まで行き、腰を下ろす。

 

「明日花ちゃん、初めまして!私は小野寺春。そこにいる小咲お姉ちゃんの妹だよ」

「そうなんだ!姉妹で可愛いなんて羨ましいなあ~。よろしくね、春お姉ちゃん!」

 

 ちょっとした対抗心というか嫉妬のような気持ちも抱えていたのだが、まさか私もお姉ちゃん呼びをされるなんて思わず、その響きにただただうっとりとしてしまう。

 春お姉ちゃん、か。

 お姉ちゃんという響きがこんなに良いものだとは知らなかったよ。

 

「こちらからもよろしくな、春」

「は、はい!樹先輩!よろしくね、明日花ちゃん」

「うん!」

 

 樹先輩から唐突に声をかけられたので、私は高鳴る心臓を抑えつつどうにか応じる。

 それからも皆の紹介は続いたのだが、女性陣が皆○○お姉ちゃんと呼ばれるのに対して、一条先輩や舞子先輩は一条さんとか舞子さんと呼ばれている。

 どうして僕たちのことはお兄さん呼びにしないのって舞子先輩が明日花ちゃんに問いかけると、

 

「だって、私のお兄さんは樹お兄さんしかいないんだもん!」

 

 だなんて明日花ちゃんが満面の笑みでそう答えるので、私を始めこの場にいる女性陣のハートを打ち抜いていったような気がしてならない。

 それに、樹先輩も微笑みながら「よくできました」と明日花ちゃんの頭を撫で、明日花ちゃんがそれに対して本当に嬉しそうな表情を浮かべている。

 私は何か微笑ましいものを見るような、けどどこか羨ましいような視線を彼らに向けてしまう。

 

「それじゃあ、何かあったらリビングにいるから呼んでくれ。オレは明日花の相手をしなくてはで、そっちにはたまにしか行けないから」

 

 場もようやく落ち着き始めた頃、樹先輩は明日花ちゃんの手を引きながら、リビングの方へと姿を消した。

 

「にしても、宮森君のはとこさん、カワイかったわね~!!」

「ですね、お嬢。それに宮森君と似て、年頃のわりにしっかりなさってましたし」

「確かにあんな子がはとこだったら、樹君も可愛がっちゃうだろうな~。……いいなあ」

「ええ、とっても可愛いらしいお子さんでしたわ。さあて、楽様!早速ではありますが、私に数学を教えて下さいまし~!」

「お、おい橘!いきなり抱きついてくんじゃねえ!」

「もう~万里花!!」

「ま~た始まっちゃった」

「いつものことよ。ほっといて勉強始めちゃいましょう」

「……先輩達、いつもこんな感じなんだろうね」

「うん、そうだね……。風ちゃん」

 

 開始早々騒々しい様子の先輩方を横目にして、私は数学の教科書やノートを開きつつ、樹先輩がこの場にいないことに寂しさと切なさを感じてしまう。

 

「春、もしかして宮森先輩のこと考えてる?」

「え、ええ?!なんでいつも分かるのよ、風ちゃん……」

「顔に出てるんだもん。春って、やっぱりカワイイ」

「もう……!」

 

 そんな分かりやすい顔してたかな。私は頬を膨らませる。

 ほんとは、樹先輩につきっきりで教えてほしかったのにな。

 そんな煩悩を取り払うかのように、私は範囲の最初の問題から取り組み始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 お昼を過ぎ、おやつの時間が近づいてきたころ、私は数学の問題が解けずに頭をうんうんと悩ませている。

 

「ねえ、るりちゃん。この問題分かる?」

 

 私はすかさず、隣で難しそうな英文を和訳しようとしていたるりちゃんに声をかける。

 

「あーこの問題分かんないやー。宮森君に聞いてみたら?」

「もう……!ほんとはわかるでしょ、るりちゃん……」

 

 今日のるりちゃんはずっとこんな調子で、分かんないところを尋ねてみても、樹君に聞けばいいじゃないというスタンスを崩さずに突っ返してくるのだ。

 さっきは千棘ちゃんに教えてもらったけど、その千棘ちゃんは今、鶫さんと一緒に一条くんや橘さんの勉強を見ている。

 私は諦めたようにして、教科書とノートとシャープペンシルを持って立ち上がり、本日数回目の樹君への訪問に逸る気持ちを抑えながら、リビングへと歩き出す。

 

「あ、お姉ちゃんも今から樹先輩のとこ行くんだ」

 

 背後からは、同じように英語の教科書とシャープペンシルを持って居室から出てきた春が私についてくる。

 

「うん、そうだよ」

 

 樹君のところへは度々誰かしらが質問に行っているのだが、実のところ、その回数は春が一番多いんじゃないだろうか。

 お姉ちゃんとしては、男嫌いの春が樹君という男の人に非常に懐いている様子を見て安心するのもある。

 けれど、それ以上に春からは樹君に対して何かただならぬ気配を感じるので少し不安にもなる。

 このことに気づいたのも、私が樹君に思いを寄せようと決意した頃からだった。

 まだ本人にも確かめてもないくせに、妹のことを邪推するなんて嫌だな。

 自分に後ろめたさを覚えながら、リビングに通じる扉をノックする。

 

「樹君、入るよ」

 

 扉を開けると、そこにはリビングダイニングキッチンの空間が広がってきた。

 左手を見ればダイニング、さらに奥を見ればキッチンがあり、視線を正面そして右へとずらしていくと、手前からテレビ、テーブル、ソファといった具合に配置されている。

 南向きの家のため、カーテンの向こうから暖かな陽射しと流れ込んでくる穏やかな風に吹かれている。

 絨毯の上に座ってテーブルにある漢字練習帳に真剣な顔をしながら取り組む明日花ちゃんを、いつもよりも柔らかい表情で眺めつつ、ソファに腰掛けて日本史の教科書を片手に取る樹君の姿がそこにある。

 

「どうした、小咲?それに、春?」

 

 つい見惚れていたのだろうか。

 首を傾げて樹君が声をかけてくるのにようやく気づいた私達は、慌てながらそれぞれ分からなかった問題を見せる。

 

「小咲のは、相加平均と相乗平均を使う問題だな。ここをこうして、こうすれば……ほら」

「わあ、すごい……。ありがとう、樹君」

 

 樹君はソファの脇にあった小型のホワイトボードに書いて、分かりやすくさらっと説明してくれる。

 私は感嘆の声を上げながら、ソファで隣に座らしてくれる樹君との距離の近さ、その声色や表情も含めて自然とドキドキとしてしまう。

 すると、春が少しだけ小鼻を膨らましたような表情を見せながら、私とは反対側の樹君の隣へと腰を下ろす。

 

「樹先輩!この問題なんですが……」

 

 春は、私と樹君との間の距離間と全く同じようなところまで樹君へ近づき、樹君の前ではちょっと困ったような顔をしてみせる。

 

「ああ、これは『見る』という動詞の使い分けだな。『LOOK』は主体的に対象を見る。『WATCH』は動いてるのを見る。『SEE』は自然に目に入る。と、いった感じに分けられて、今回の問題は後ろに『TV』とあるから、今回は『WATCH』を入れるんだよ」

「へえ~!そんな使い分けがあるんですね、ありがとうございます!」

 

 落ち着いた声色で聞かせる樹君に対して、春は顔を綻ばせて応える。

 この一連のやり取りを見て、樹君に対する春への疑念は確信めいたものに私には感じられるようになった。

 そして、恐らく春も同じように私に対して……。

 

「むうぅう~…!お兄さん!私そろそろ遊びたい!」

 

 私が思考の渦に飲み込まれそうになっていると、明日花ちゃんがプンプンと効果音が付きそうなほどに頬を思いっきり膨らませながら、すっかり我慢できないといった様子になっている。

 

「そうだな、そろそろ休憩するか」

「わーい!!お兄さん、テレビゲームしよ!」

「仕方ないな」

 

 樹君は立ち上がり、テーブルの向かい側にいた明日花ちゃんの頭にポンと手を置いて、ウォルナット材のテレビ台の引出しを開け、ゲーム機とカセットを取り出そうとする。すると、リビングの扉がガチャリと開く。

 

「宮森君たち~!ちょっと休憩しましょ!」

 

 千棘ちゃん達の方も勉強が一息着いたところのようだ。

 

「ちょうど良かった。これから明日花と遊ぶところだから、皆も一緒に少しどうだ?」

「ええ!そうしましょう!」

 

 リビングがワイワイとどんどん賑やかになっていく。

 私と春は、ソファの間に樹君のいたスペースを残しながら、どちらも置いて行かれてしまったように、皆の様子、いや皆に囲まれた樹君の様子をただ眺めている。

 結局、夕陽が西の空を染め上げる時間まで、私達はテレビゲームやカードゲームに興じることになった。

 その間、私は皆との時間をどうにか楽しもうとしながらも、春には特に話しかけることもできないまま、あっという間に時だけが過ぎ去っていった。

 

 




 第十一話『オウチデ』をご一読下さり、ありがとうございました。

 いかがだったでしょうか?

 気づいた二人はどうなってゆくのでしょうか。

 次回以降は、間隔を少しづつ開けるかもしれません。

 それでは、また次のお話で。


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第十二話 オフロデ

 第十二話にお立ち寄り頂き、ありがとうございます。

 本日3月21日は、小野寺春さんのお誕生日ですね。

 それでは。


 夕暮れを感じさせるほど暗闇が徐々に周りを包み込み始めていく中、オレは遊び疲れて眠ってしまった明日花をおんぶしながら、小野寺姉妹と帰り道を歩いている。

 家で皆が解散した後、帰る方向によって二手に分かれ、先程までは宮本さんや風ちゃんもこの中にいたのだが、既に別れていった。

 小咲と春が前を二人隣進み、オレがその後ろをついていくのだが、珍しく二人が中々お互いで喋りだすことがないので、何かあったのだろうかと勘ぐってしまう。

 

「そういえば、樹君」

 

 そうしていると、小咲がこちらに目線を送ってくる。

 

「どうした」

「いつも、土曜日はこうして明日花ちゃんの面倒を見てるの?ほら、この前のプール掃除の時も、お昼すぎに途中で帰っちゃったし」

「そうだな。この子、今はお祖母さんと二人暮らしをしていて、土日は基本特に予定が入らなければ、向こうに行って相手してるよ」

「そうなんだ……」

 

 オレは背中で気持ちよさそうに眠ってしまっている明日花を少し見遣りながら、いつもよりも若干鋭い小咲にそう応じると、小咲はどこか納得したような様子になる。

 

「それにしても、おばあちゃんと二人で暮らしてるんですね……。明日花ちゃんのご両親は何をなされている方々なんですか?」

 

 小咲と会話が始まってから、こちらを興味津々に見ていた春が会話に入り込んでくる。

 

「明日花の親御さんは……。残念なことにもういないんだ」

「っ?!す、すいません!こんなこと聞いて……」

「いや、仕方ないよ。気にすんな」

 

 言葉通り明日花のご両親はもうこの世にはいない。

 行方をくらました父親の方は探せば見つかるかもしれないが、探す気も価値もないし、それにあの人は確実に戻ってこない。

 申し訳なさそうに俯く春を、オレはどうにか宥めようとする。

 

「樹君のご両親は、どうしているの?」

 

 どうしても気になってしまったのか、小咲が心配そうな表情を浮かべて尋ねてくる。

 

「いや、オレの両親は、元気に海外で働きまわってるし、夫婦仲も親子仲も良好だから安心してくれ、二人とも」

「そっか……良かった」

「そうなんですね……」

 

 オレの言葉に二人は安堵した様子になるも、その表情にはまだ少し陰りが見える。

 

「けど……、明日花ちゃんがほんと気の毒ですよね、こんなにいい子なのに……」

 

 春はまだ先程の発言を気にしてるのか、心配の色が消えない。

 

「大丈夫だよ、春」

 

 小咲も含めて二人の沈んだ様子を見ているのが、そろそろ歯がゆくなってきたオレは、どうにか明るい方向へ話を持っていこうとする。

 

「明日花には、お祖母さんがついてるし、それにオレだっている。オレの両親だって、このことは分かってるし、いざとなれば力になってくれるさ。それに、この子自体がとても素敵な子なんだ。ちゃんと守るよ」

 

 自分にも言い聞かせるように、オレはいつもよりも真剣に伝える。

 

「だからさ、この子と会ったときは、仲良くしてくれるだけでもありがたいんだ。これからも、その時はよろしく頼む」

 

 明日花のことを思うと熱さを抑えきることが出来ずじまいとなり、最後は懇願のような形になってしまうが仕方ない。

 

「うん、もちろんだよ、樹君」

「当然ですよ!任せてください、樹先輩!」

 

 小咲も春もそんなオレの言葉を受けてか、決意のこもった視線を送ってくれる。

 

「ありがとう、二人とも」

 

 気づけば、二人の家である和菓子屋『おのでら』に辿り着いていた。

 

「それじゃあ、また今度な。今日はお疲れ」

「うん、テスト頑張ろうね。またね、樹君」

「明日花ちゃんにもよろしくです、樹先輩!」

 

 二人はオレへとささやかに手を振り、オレも明日花を落とさないよう片手を振り返す。

 やがて二人の姿も背後へ遠くに追いやり、明日花とそのお祖母さんである知佳(ちか)さんの家が見えてきた頃、じっと眠っていた明日花が目をこすりながら起き上がる。

 

「あれ、お姉ちゃん達は?」

「お姉ちゃん達なら、もうそれぞれのお家に帰ったよ。明日花」

「そっかあ……」

 

 明日花は眠気眼をこすりながら、寂しそうにポツリと呟く。

 

「ねえ。樹お兄さん……」

「ん?」

「今日ね、お兄さんだけじゃなくて、お姉ちゃん達とも沢山知り合って、遊べて、とっても、とっても楽しかった」

「そうか、良かったな」

「……また、お姉ちゃん達とも遊べるかな?」

「ああ、もちろんだ」

「ふふっ、楽しみだなぁ……」

 

 明日花はそれだけ言うと、また眠ってしまったのだろうか。オレにさらにもたれかかり、スヤスヤと気持ち良さそうに寝息を立てている。

 ふと離してしまえばどこかへと流されてしまいそうなくらい、所在なさげで心許ない明日花の重さを、かかる背中や持つ手で離すまいと必死に手繰り寄せながら、オレは明日花への決意をますます強くしていく。

 

 この子はちゃんと側で見守りますよ。

 だって、大切なあなたとの、大事な約束なんですから。

 

 夕陽も空の彼方へと沈み込み、辺りは夜の気配に包まれていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜ご飯も食べ終え、今はリビングでチャンネルを切り替えながら、私はぼんやりと今日の出来事を頭の中で思い浮かべる。

 初めて樹先輩のお家にお訪ねできたこと。

 樹先輩のはとこである明日花ちゃんと出会ったこと。

 樹先輩に何度も分からないところを聞きに行ったこと。

 勉強の後は皆で遊んだこと。

 帰り道で樹先輩と明日花ちゃんの事情を聞いてしまったこと……。

 樹先輩や皆と過ごした時間はとても楽しかったし、樹先輩の新しいことをいくつも知れて嬉しかったし、樹先輩に勉強を教えてもらうときはあんなに心がポカポカとしたし。

 

 それなのに、どうしてだろう。

 今日という日を振り返ると、なんだか晴れないような、どこかモヤモヤとした気持ちとなってしまう。

 樹先輩と明日花ちゃんの事情を聞いてからは、明日花ちゃんに慈しむような眼差しを向けていた樹先輩と、それに明るく快活な笑顔で応えていた明日花ちゃんの様子を見て、羨ましいなと思っていた自分が途端に卑しく感じてしまう。

 

 ああ、そうだ。忘れてしまいたい大事なことがもう一つ。

 お姉ちゃんの想いに気づいてしまったと同時に、恐らくお姉ちゃんに私の想いが気づかれてしまったこと……。

 疑いのまま、勘違いのままいてほしかったものが確信へと変わった瞬間、やっぱりそうかという納得の気持ちと、これからどうすればいいのかという不安でたまらない気持ちとが混ざり合って、その場では言葉が出なくなってしまった。

 お姉ちゃんのことは大好きのはずなのに、お姉ちゃんとどう接すればいいのか分からないし、もしこの状態がこのまま続いてしまったらどうしよう……。

 そんな泣き出したくなるような気持ちを抑え込もうとして、ソファの上で体操座りになって顔をうずめていると、背後から足音が近づいてくる。

 

「春、お母さんからお風呂入りなよ、って……」

 

 お姉ちゃんは若干気まずそうな表情とどこか消え入りそうな声で尋ねてくる。

 私は返事をする気が起こらず、空返事だけでも返そうとようやく顔を上げる。

 先程までの寄る辺のなさそうな雰囲気は何処へやら、何かを決意したようなお姉ちゃんの意志のこもった表情、目が私の前に立ちはだかった。

 

「……今日、一緒にお風呂入ろ。春」

「え、いや、でも……、そんな……」

 

 今はお姉ちゃんとなるべく一緒の空間にいたくないという逃げ腰の自分と、ここで逃げたらお姉ちゃんにも私自身にも失礼だと訴えてくる自分の間に板挟みになり、私の応答はしどろもどろなものになってしまう。

 

「どうしても話したいことがあるの。一緒に入ろ?」

 

 揺らぐことのない、お姉ちゃんの熱のこもったその瞳に、私は完全に気圧されてしまった。

 

「う、うん……。入ろっか……」

 

 いつもであったら、大好きなお姉ちゃんと一緒にお風呂に入るなんて、楽しみでしょうがなく、二人きりでいられる時間は心地よくて幸せの伴うものなのに。

 今日ばかりはとてもじゃないが気が進まなくて、重苦しいものに感じてしまう。

 

 お姉ちゃんも同じ気持ちなのかな……。

 

 淡々と脱いだ服を洗濯籠に入れ、タオル一枚だけ持ってお風呂へと入り込んでいったお姉ちゃんを眺めて服を脱ぎながら、私も後を追うように駆け込んでいく。

 それぞれ体を洗い流し終えるまで一言も口を利かないまま、やがて浴槽で二人向き合う時間がきてしまった。

 私はお姉ちゃんに顔を合わせづらくて、目線を斜め下に傾けながら鼻の下までお湯につかっている。今日の入浴剤は、摘みたてのようなミントの香りがする。

 触れようとしても手が伸びないような、口に出そうにも喉でつっかえてしまうような空気に包まれた中で、お姉ちゃんが口火を切った。

 

「……今日、楽しかったね。皆でお勉強できて」

「そう……だね」

 

 お湯の中を見つめるように少し下を見ながら話すお姉ちゃんに、私は口の下くらいまではお湯から顔を上げて、目線はそのままずらしながら応じる。

 

「それに明日花ちゃんにも会えたしね。また近いうちに遊んだりできるといいよね」

「うん、そうだね……」

 

 明日花ちゃん、と言われると、その特徴的なルビーのような赤い瞳と快活な表情が思い浮かぶ。

 一方で、彼女を温かく見守っていたあの人のことが離しきれず現れてきて、私をさらに複雑な心情へと追い込んでくる。

 

「けど、春。明日花ちゃんにお姉ちゃんって言われて、凄く嬉しかったでしょ?」

「そ、そんなこと、ないよ……!」

「ウソ。あの時の春、うっとりしてたもん」

「そ、そうかなぁ?」

「そうだよ」

 

 確かに明日花ちゃんから春お姉ちゃんと呼ばれたときは嬉しくないわけがなかったが、それをまたいで行ってしまうくらい私はビクビクと次に目を向けている。

 

「春はさ」

「うん」

「試験の勉強、結構進んだ?」

「そう、だね。数学と英語は特に」

「そっか。暗記が必要な科目は後回しでいいもんね」

「うん」

「私も、今日は数学と英語、頑張ったかな」

「そうなんだ。どれくらい進んだの?」

「私はそれほどかな……、二年生になると難しくなるし」

「だよね。私も少し見たけど、さっぱりだったもん」

「あはは、そうだよね」

「先輩達もちょっと難しそうにしてたし」

「う~んそうかな?皆、勉強できるしなあ」

「桐崎先輩とか鶫先輩とか、ずっと教える側だった気がする」

「あの二人はものすごく勉強できるから」

 

 まるで爆弾ゲームみたいに、私達は本当に触れないといけないところを触れることができず、それは相手から言ってほしくて押し付けあうようなまま、時間ばかり徒に過ぎてゆくので、怖いのにイライラして歯痒い気持ちになっていく。

 

「……そう思うと、樹先輩もすごく勉強できるよね」

「……うん、この前の中間は確か樹君が皆の中で一番だったよ」

「樹先輩、勉強もできるなんてスゴイ」

「ね。……春。今日、樹君にたくさん教えてもらってたよね」

「……そうかもね。お姉ちゃんもでしょ?」

「私も樹君に何回か聞きに行ったけど、春ほどじゃないよ」

「そうだっけ」

「そうだよ、千棘ちゃん達にも教えてもらえば良かったのに」

「だって、樹先輩の説明分かりやすいもん」

「本当にそれだけ?」

「え?」

「樹君に教えてもらってる時の春、本当に楽しそうだったよ」

「……それを言うなら、お姉ちゃんだって」

「……そう見えた?」

「見えたよ」

「そんなに?」

「うん、とっても」

「そっか……」

「…………」

「ねえ、春」

「うん」

「私、樹君のことが好きなの」

「うん、今日知った」

 

 湯気で上気した頬の赤らみ。

 濡れた艶やかな髪の黒。

 熱のこもった瞳の胡桃色。

 真っ直ぐに私を見つめるお姉ちゃんは、これまでになく美しく私の目には映る。

 やっぱり私ではお姉ちゃんに敵いっこない気がしてきた。

 

「けど、春も樹君のことが好きなんだよね?」

「……先輩としてね」

「ウソ。ダメだよ、春」

「ほんとだって!私は後輩として先輩のことが…」

「……はぐらかすのはやめて、春。本当のことを言って」

「だから!!本当のことだって……!」

「いいかげんにして!!」

 

 ここまでお姉ちゃんが感情を露わにして怒号をあげるんて初めてだったので、私は思わずビクリと驚いてしまう。

 

「……春が樹君に恋してるなんて、私も気づいてるんだよ。隠そうとしたって無理なんだから」

 

 お姉ちゃんはこちらを正面に捉えながらも、その表情は怒りから悲しさへと移り変わってゆく。

 自分とお姉ちゃんが同じ人を好きになることで、お姉ちゃんと樹先輩という大好きな二人との関係を壊してしまうかもしれないのが怖くて、自分の気持ちを押し殺すつもりでいた私の中の抱えてる思いも、滲んできてしまって決壊しそうだ。

 

「……私、お姉ちゃんのことが大好きなんだよ。樹先輩のことだって……。そんな大好きな二人だから幸せでいてほしい。お姉ちゃんと樹先輩ならきっと……」

 

 そこから先のことが言いきれず、視界はぼやけてしまい、溢れていたものが流れ出してきて私の頬を伝う。

 お姉ちゃんはそんな私の両頬を包み込むようにそっと触れる。

 

「私も春のことが大好きだよ。けどね、樹君のことも大好きなの。……もしね、私たちが同じ人を好きになって、その時に私が何も言わず、春のことを応援しようとしたら、春はどう思う?」

「そんな……、嫌だよ。お姉ちゃんもその人のことが好きなのに、それを見て見ぬふりするようなことなんて……」

「そう。そしたら、立場が逆でも一緒のことが言えるよね」

 

 お姉ちゃんはにっこりと微笑み、伝う滴を拭う。

 

「……同じ人を好きになるって、誰も傷つかないなんてことはないだろうけど、どうせ傷つくなら一緒に傷つきたいな。それに、私たち姉妹なんだから、片方だけが一人傷ついて苦しんでいる姿なんて、ほっとけないでしょ?」

 

 私から流れ出すものはさらに勢いを加速させて、せき止めることができなくなってしまう。

 

「だからね、良いんだよ春。樹君のことが好きって言って、良いんだよ」

「お、お姉、ちゃん……!」

 

 漏れ出る声は嗚咽となってぐちゃぐちゃになっている私を、お姉ちゃんは何も言わずにただ抱きしめてくれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 あれから私が泣き止んで落ち着いてからお風呂を出て、今はお姉ちゃんの部屋のベッドに二人向かい合って寝転んで、今日のことやこれまでのことについてお互いに会話を弾ませている。

 お姉ちゃんとこうして一緒に寝るなんて、いつ以来だろう。

 

「樹君に初日から困ってるところを助けてもらったって言ってたもんね、春。もうそんなときから、樹君のことが好きだったんだ」

「その日からというか、一目ぼれというか……」

「ふふふ。だって、その時から樹君は春の王子様なんだもんね」

「そ、そうだけど……」

 

 今は、私が樹先輩をいつから好きになったのか、ということをニンマリとした表情のお姉ちゃんから問い詰められている。

 私は恥ずかしくなって赤面しながらもそれに答えている。

 

「私ばっかりずるいよ……。そういうお姉ちゃんはどうなのさ?」

「わ、私!?」

 

 私からの返し刀に、お姉ちゃんは分かりやすく動揺した様子だ。可愛い。

 

「前まで一条先輩のこと好きだって思ってたんだけど、いつから樹先輩に?」

「……つい最近のことだよ。一条くんのことはもちろん好きではあったんだけど、樹君と再会してからは、小学生の時の気持ちが甦ってきてね」

 

 お姉ちゃんが小学生の頃に樹先輩のことを好きでいた、というのは私にとって既知の情報だ。

 

「それに、今の樹君、随分とカ、カッコよくなって大人っぽくもなったのに、昔と変わらないところとか、私との取るに足らないことも覚えててくれて……。この前だって、私がつまらないことで悩んでたのを、いとも簡単に解決しちゃってね。その時からかな、今は一条くんよりも樹君に惹かれているんだって」

「そうなんだ……」

 

 照れてるようにしつつ慈しむような表情を浮かべて話すお姉ちゃんは、私には惚れ惚れするくらい輝いて見えてしまう。

 

「春、今度さ」

「うん」

「樹君と明日花ちゃんのところに二人で遊びに行こうよ」

「そうだね、私も行きたい」

「うん、きっと樹君も喜んでくれると思う」

 

 今日の帰り道の樹先輩の姿が思い出される。

 安らかな寝息を立て幸せそうに目を瞑る明日花ちゃんを背に抱えながら、凛々しくて真剣な眼差しで私達を捉えた樹先輩に、私は少しでも力になりたい。

 

「じゃあ、そろそろ寝よっか」

 枕もとの照明のスイッチに手を伸ばすと、明かりは消え、暗がりに包まれる。

「ねえ、お姉ちゃん」

「何?」

 

 暗くて表情は読み取れないけど、私はお姉ちゃんに向かい合ったまま、囁くように呟く。

 

「樹先輩のこと、頑張ろうね、お互い」

「うん、負けないよ」

「私だって、負けないもん」

「ふふふ、おやすみ、春」

「うん、おやすみ、お姉ちゃん」

 

 お互いどんな表情をしていたんだろうか。

 けれど、私の心の中はすっかり憑き物が落ちたように晴れ渡っている。

 お姉ちゃんも同じ気持ちなのかな。

 私は目を閉じて、大好きなお姉ちゃんと樹先輩のことを頭にぼんやりと思い浮かべながら、夢の世界へと旅経っていった。

 

 




 第十二話『オフロデ』をご一読下さり、ありがとうございました。

 いかがだったでしょうか?

 さて、お互いの恋心を認識しあった二人は、樹にどうアプローチをかけてゆくでしょうか。
 
 次回も一週間後に投稿予定です。

 それでは、また次のお話で。


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第十三話 ベントウ

 第十三話にお立ち寄り頂き、ありがとうございます。

 学生のお昼休みの時間って、放課後に匹敵するするくらい青春の時間だなと感じます。

 それでは。


 梅雨もすっかりと明けた小夏の週明けの昼休み。

 オレは皆に連れられて、この前の期末考査の結果が張り出されているという掲示板までやってきている。

 向こうの学校では順位とかはつけられず、半期や年間の成績を通して成績評価が下されていたので、こっちの高校でテストの点数に順位がつけられて掲示されるというのは、この前の中間でもそうだが、何だか奇妙な感じがして慣れない。

 けれど、これからは大学受験に向けての模試もあるし、なるべく慣れておかないと。 

 そう思い直すと、人垣ができているところまで来たので、どうやら目的地に着いたようだ。

 

「さあ!今回は何位かな~!」

 

 意気揚々と桐崎さんは片手をかざしながら、掲示板の方を眺める。

 

「あ!あったあった!」

 

 いや早いな。桐崎さんの目の良さに感心しながら、桐崎さんの指差す方向を見ると、そこには彼女の名前だけでなく、オレや鶫さんの名前もある。

 今回は鶫さんが二位で、オレが三位、桐崎さんが五位のようだ。

 

「五位か~。現国が難しかったなー。宮森君にまた負けちゃった」

「今回は鶫さんが強かったよ。オレは、理科で落としちゃったのが響いたかな」

「いえいえ、お二人も好成績ではないですか。たまたまですよ」

 

 三人で今回のテストの結果について語っていると、他の皆もそれぞれの順位を見てきたようで、彼らも加えてまたワイワイと盛り上がる。

 

「しっかし、この学年の上位五人の内、三人がここにいるなんてスッゴイね~!」

「ええ、全くもってその通りよ。ったく、私はなんでいつもあんたなんかに負けているのかしら……」

 

 オレらの成績を聞いて上機嫌に囃し立てる集と、若干不機嫌そうに集へ愚痴を向ける宮本さんを見て、今回も集が勝ったんだなと悟る。

 二人とも上位10%に入っているのだから、十分にいい成績なのだが。

 

「くっそー、オレも勉強してんだけどな……」

「けど楽、この前よりも順位上げてるじゃんか」

「そうだけどよ……、お前ら頭良すぎなんだよ」

 

 悔しそうにしている楽だが、実際に今回は五十位以内に入っているみたいなので、楽自身が掲げる公務員という目標に向けては、そこまで悪くないような気がする。

 

「そういえば、万里花!あんた、今回赤点の数は?!」

「失礼ですわね、桐崎さん。今回は二つに留めましたわよ」

「いや、そもそも赤点は取っちゃダメだろ……」

 

 呆れながら口にする楽に対し、オレも心の中で同意してしまう。

 楽のための自分磨きに専心するあまり、それとはあまり関係のないことには全くやる気を起こさないという橘さんの姿勢は、自分に正直というかある種の潔さを感じさせてくれるが、学生の本分は勉強なのだから、赤点を取らない程度には頑張ってほしい。

 そうして教室へと戻る道すがら、いつものやりとりが眼前で繰り広げられている中、皆の最後尾を歩くオレの隣まで、するすると小咲が近づいてくる。

 

「樹君、今回も成績すごく良かったね」

「鶫さんに負けちゃったけどな。小咲はどうだった?」

「今回は九十二位だったかな。平均は超えたけど……」

「そっか。また次頑張ればいいさ」

「うん、また勉強教えてね。樹君」

「いいよ、またその時な」

 

 やった、と小咲は小声で小さくガッツポーズを取りながら、嬉しそうな表情を浮かべている。

 小咲は和菓子屋も手伝いながら、この前の勉強会も頑張っていたので、ちゃんと復習さえしておけば、次のテストではもう少しいい点数が取れるような気がしなくもない。

 和菓子屋の手伝いという点では、一年生も今日が成績掲示みたいだから、春の方はどうだろうかと頭の片隅で少し考える。

 

「そういえばさ」

「どうした」

 

 オレを思考から引き戻すかのように、唐突に小咲が尋ねてきた。

 

「樹君って、毎日お昼ってどうしてるの?今さら聞くのもちょっとおかしいけど」

「そうだな。オレは、朝に時間が取れれば自分で作るし、けど面倒なときは購買に買いに行っちゃうかな」

「そうなんだ……」

 

 本当にどうしていまさらそんなことを聞くのだろうか。小咲になんでか聞いてみようと、小咲の方を見やる。

 

「小咲ちゃーん!!お昼食べよー!」

「う、うん!今行く!じゃあ、樹君、またね」

「ああ、またな」

 

 いつの間に教室に辿り着いていたらしく、桐崎さんの呼びかけに遮られ、小咲にはその理由を聞けずじまいになってしまった。

 桐崎さん達の輪の中に入っていく小咲を眺めている内に、気にしてもしょうがないような気がしてきたので、教室にはそのまま入らず楽や集とともに購買へと向かう。

 今日はというか最近は、テスト週間のせいもあってか、なかなか自分で弁当を作る気が起こらず、いつも購買で昼ご飯を済ます楽や集についていっている。

 購買でパンを二つとレモンティーのペットボトルを買い、オレらは屋上まで行き、そこにあるベンチへと腰かけた。

 三人でくだらない話をしながらパンを頬張っていると、ポケットにあるスマートフォンからピロンと通知音が鳴る。ロック画面を見ると、送り主は春のようだ。

 

『樹先輩!!先輩に教えて頂いたおかげで、今回の試験は前回よりもかなりいい成績が取れました(*^^*)』

 

 メッセージアプリを覗いた先では、嬉しそうな文面とともに、クマさんがお辞儀をしているスタンプが送られてきていた。

 それを見たオレは口角を少し上げて、一言『良かったな』とともに、親指を突き立てるペンギンのスタンプで送り返す。

 流れてくるそよ風は、今日のような夏日には心地よい気分にさせてくれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 わた雲がまばらに見える晴れの日のお昼休み。

 私は教室で風ちゃんと机を向かい合わせてお弁当を食べながら、メッセージアプリを見ては頬を緩ましている。

 ディスプレイには樹先輩とのトーク画面が映っており、樹先輩の『良かったな』という一言と、可愛らしく親指を立てるペンギンのスタンプがそこにはある。

 

 樹先輩って、見た目とは裏腹に、こんなスタンプ使うんだ……!

 

 先輩の新しい一面が見れて、心がポカポカして、ついつい画面から目を離せないままでいると、正面から温かい視線を感じる。

 

「ふふふ、良かったね、春」

「も、もう何よ~風ちゃん」

「前回よりもいい点数取れたんだもんね。中間のときは、赤点の科目あるかもって冷や冷やしてたのに」

「今回は平均あったもん。さすがに風ちゃんには敵わないけど……」

「宮森先輩に教えてもらったおかげだね」

「う、うん……」

 

 実際、樹先輩に教えてもらえてなかったら、中間の時のように酷い点数取っちゃってたかも。

 樹先輩にはいつも助けてもらってばっかな気がして、私も何か先輩の力になれるようなことが一つでも増えるといいんだけど。

 そんなことを考えていると、ニコニコとしていた風ちゃんが、その表情を少し真剣そうなものへと変えていく。

 

「そういえばさ、春のお姉さんも樹先輩のことが好きなんだよね」

「うん、そうだよ」

 

 風ちゃんにはテスト明けの休日に遊びに行った際に、事情を話してある。

 

「姉妹揃って同じ人を好きになるって中々ないよ」

「だよね~」

「けれど、これでお姉さんにも堂々と宮森先輩が好きって言えるんだし、お姉さんにとられちゃう前に、どんどんアタックしてかなきゃだよ、春」

「が、頑張ります……!」

 

 私にとっては親友の風ちゃんが一番の味方であるので、こうして応援してもらえると嬉しいし、勇気も出てくるというものだ。

 

「あ、そうだ」

 

 風ちゃんが何か思いついたように、指を立てて私の方をにっこりと見る。

 

「宮森先輩のお弁当とか作ってみたらどう?」

「えええ!?」

 

 突拍子にそんなこと言う風ちゃんに、私は驚きと恥ずかしさで思わず興奮して大きな声を出してしまう。

 

「だって、宮森先輩って、一人暮らしのような感じだったでしょ?」

「うん、そう言ってた気がする……」

「だから、お弁当とか作っていってあげると、先輩も喜んでくれるんじゃない?」

「そうかも」

「それに、この前のプール掃除のときに、春の作ったお弁当のこと美味しいって先輩言ってたから、自信もっていきなよ」

「そ、そうかなあ、えへへ……」

 

 風ちゃんにほいほいと乗せられて、すっかり私は調子よくなってしまう。

 確かにこの前だって料理上手だと褒めてもらえたし、先輩のお昼の負担を少しでも下ろすことができるのなら、それはきっと先輩の力になることに繋がるはずだ。

 

「よし!風ちゃん!私、先輩のお弁当作るよ!」

「うん、頑張れ、春」

 

 私は鼻息を荒くしながら、右手を握り締め気合を入れる。今日は夏日だけれど、自分の周りだけまた一段と暑くなってきたような気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

「さて、どうしようかな……」

 

 早朝、いつも通りにお父さんや一緒に和菓子の仕込みなどのお手伝いをしてきたのだが、私は今台所で頭をぐるぐると悩ませている。

 というのも、この前のお弁当は、皆の分を作るのにたくさんおかずを作っておけば、あとはお姉ちゃんがまるで錬金術のような盛り付けをしてくれたので良かった。

 

 けれど、今回は樹先輩一人のためにお弁当を作るのに、男の人だからどんだけの量を作るのが良いのかとか、どんな盛り付けにしたらいいんだろうとか、そもそもどんなおかずが好きなんだろうとか。

 次々と悩ましいことが出てくるので、私は台所で手が動かせないいまま、5分くらいずっと冷蔵庫と睨みっこをしながら、腕組みをしている。

 すると、足音が一つ近づいてきた。

 

「あれ、春?どうしたの?」

 

 まだパジャマ姿のお姉ちゃんが、覗き込むようにこちらを見ている。

 

「う、ううん何でも!何か飲もうかな~って。あ、あはは」

 

 樹先輩のお弁当を作ろうとしてるんだよ。

 

 そんなことをお姉ちゃんに言い出すなんて、とてもじゃないが恥ずかしすぎるので、お姉ちゃんには何とかしてごまかそうとする。

 お姉ちゃんは首を少し傾げて、人差し指を口元につけながら、何か考え込むようにしている。

 私には、お姉ちゃんのそんな姿も可愛らしく映って、羨ましく感じてしまう。

 

「……分かった。春、樹君にお弁当作るんでしょ」

「え、えええ?!何でわかっちゃうの、お姉ちゃん!!」

 

 私は驚きのあまり跳び上がって、お姉ちゃんの方を涙目で凝視する。最近のお姉ちゃん、鋭くない?

 

「ふふふ、やっぱり。だって、私もそのつもりだったから」

 

 穴があったら入りたくなっていた私に、お姉ちゃんはにっこりと笑みを浮かべて、さらっととんでもないことを言う。

 

「え、ちょっ!?お姉ちゃんが料理なんて、ダメだよ!」

 

 お姉ちゃんには昔、何度か料理で家族全員を窮地に陥れた前科がある。

 

「もう、大丈夫だよ、春。おにぎりをいくつか作るだけだから」

 

 お姉ちゃんは怒ってますと言いたげに、可愛らしく頬を膨らませながら、炊飯器の方へと向かう。

 

「にしても、どうして急にお弁当作るなんか言い出したのよ……」

「それは、春も同じでしょ」

「うっ……、そ、それは」

 

 私は痛いところをカウンターで突かれてしまう。

 

「樹先輩、一人暮らしのような感じだから、お弁当を作ってあげたら少しでも先輩の負担を軽くできるかなって……。お姉ちゃんは?」

「……私も同じ感じかな。昨日、樹君にお昼どうしてるのって聞いたら、自分で作るか購買で買うって言ってたけど、最近は購買ばかり行ってるような気がしたから……」

「そうなんだ……」

 

 やっぱり自分でお弁当作るだけの余裕もなくなってるのかもしれないって思うと、尚更先輩にお弁当を作って行ってあげようという気分になる。

 けど、お姉ちゃんも作ると言ってるし、どうしよう……。

 そうしてお互いに何も言い出せなくなった途端、ニンマリと満面の笑みを浮かべながら、ひょいっとお母さんが台所の方へと入ってきた。

 

「ふっふっふ~、聞いちゃったあ。あんた達、樹君のお弁当作るんだね~。姉妹揃って、樹君にベタ惚れじゃないの~」

「「もう、お母さん!!」」

 

 ほんとにこうした話が大好物なお母さんは、オホホホ~といった感じで赤面する私達の前までやってくる。

 

「お弁当、作ってあげるんなら、もう二人で作れば?ほら、春がおかずで小咲がおにぎりっ感じで」

 

 先程までの恋バナ好きの女子感は何処へやら、お母さんはいかにもお母さんといった具合に提案してきた。

 なので、私もお姉ちゃんもちょっと呆気にとられながらお互いに顔を見合わせる。

 

「そ、そしたら、一緒にお弁当渡そうか、春」

「そう……だね、お姉ちゃん」 

「よーし!そしたら作るわよ!あんた達の分もあるしね」

 

 まだ置いてきぼりな私達をそのままに、お母さんはテキパキとお弁当の用意を始めてゆく。

 私とお姉ちゃんはお互いちょっと困ったような顔を見合わせてから、ふっと微笑み返しあい、頑張ろうね、と言葉を交わす。

 悩んでいたことは霧散して、とにかく樹先輩のためにまた美味しいって言ってもらえるようなお弁当を作ろうと、エプロンの紐をいつもより固くキュッと結んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 昨日とも打って変らないくらい気持ちの良い夏日の昼休み。オレは小咲に呼び出され、中庭まで連れていかれている。

 その際、昼休み中に話をするのだから、購買に行って先に何か買っていこうとすると、小咲が何やら必死そうに、取り敢えずついてきてなど言い繕う様子であるので、理由も聞かず黙って小咲についていっている。

 やがて、中庭のいくつかベンチが置いてあるところまで来ると、そこにはこちらに大きく手を振る春の姿が見えてきた。

 

「樹先輩!突然お呼び出ししてすいません!」

「私からもごめんね、樹君」

「いや、構わないんだが……、一体どうした?」

 

 昼休みにクラスメイトから頼まれごとや簡単な相談事はちょくちょく聞く。

 そうではあるが、こうして中庭に呼び出され、しかも友人からというのは初めてなので、一体どういう用事で呼び出されたのか、まるで見当がつかない。

 

「あの!樹先輩、実はですね……」

 

 春がベンチの脇にある入れ物に手を伸ばし、中から両手に収まるくらいの箱を取り出す。

 

「今日、その、お弁当作ってきたんです。お姉ちゃんと。なので、宜しければ、食べて頂けると嬉しいです……」

「え、わざわざオレのために?」

「は、はい……」

 

 控えめにそう言いながら、おずおずとその弁当箱を差し出してくる。

 

「私からもお願い。お弁当食べてくれると嬉しいな」

「……小咲、昨日のあれはまさかこのためか?」

「あはは……、だって樹君、最近自分でお弁当作ってこれてないでしょ?」

「確かにそうではあるが」

「それに、樹君にはいつもお世話になってるし、このくらいは、ね?」

「そうか……」

「とにかく!先輩もお姉ちゃんも早く座っちゃって下さい!お昼休み終わっちゃいますよ!」

 

 春ちゃんと小咲に言われるがままに、オレはベンチに腰かけさせられる。

 右隣に春が、左隣には小咲が既に陣取っていて、姉妹に挟まれる格好になってしまった。

 

「はい、どうぞ。先輩」

「ああ」

 

 春から弁当箱を受け取り、中身を覗くと、そこには唐揚げや卵焼きなどといったおかずと、形が見事に整ってるおにぎりが三つほどそこにはある。

 

「食べていい?」

「どうぞ!」

 

 いただきますと三人で手を合わせてから、唐揚げへと箸を伸ばして口に運ぶ。

 醤油がよく効いていて美味しく、香ばしい感じが広がる。

 

「これ作ったのは、春だな?」

「はい!どうですか、お味の方は?」

「美味しいよ。やっぱり料理上手だな、春」

「そ、そうですか!良かったぁ、えへへ……」

 

 春の作ってくれた料理の感想を述べると、春は頬を赤らめさせながら、ホッとしたような表情で地面の方を見やる。

 一方で逆サイドからも、何だかジーっとした視線を感じる。

 

「……樹君、おにぎりも食べてみて」

「ああ、そうだな」

 

 頬をほんのりと膨らませながら言う小咲を横目に見ながら、オレは箸を置いておにぎりに手を伸ばす。

 おにぎりを口に含むと、塩味の効いた優しい味を感じる。

 ……確か昔、一度小咲のおにぎりを食べたときは、見た目だけとんでもなく良くて、中身がとんでもなく不味いことがあったので、正直驚いた。

 

「へぇ、ちゃんとおにぎり出来てるじゃん、小咲」

「もう……!私だっておにぎりくらいは握れるようになります!」

「ハハハ、悪かったよ。ちゃんと美味しいから」

「そ、そう?良かった……。ふふふ……」

 

 ちょっと怒ってますというような振りをしていた小咲は、今度はにこやかな笑みをこちらに振りまいている。

 

「せ、先輩!おかずはまだあるんですから、どんどん食べて下さい!」

「樹君、もっとおにぎり食べ進めてもいいんだよ?」

「分かった分かった。自分のペースで食べさせてくれ」

 

 両隣の姉妹から食べ終わるまで急かされながらも、オレは二人の弁当を充分に堪能した。

 その頃には、お昼休みも残すところ数分という時間に差し掛かっていたので、お礼だけはちゃんと言って教室へと戻ろうと、席を立ち上がろうとしたら、二人に呼び止められる。

 

「樹君!もしね、迷惑じゃなかったら、これからもこうしてお弁当作ってきてもいいかな?」

「……ありがたいことではあるけれど、それだと二人に負担がかからないか?」

「いえいえ、私達がしたいんですよ。樹先輩さえよろしければ、またこれからも喜んでお作りしてきますよ!」

「そうなのか。……こうして美味しいお弁当作ってもらうなんて、正直言うと嬉しいし、もし迷惑じゃないというのなら、また頼ってもいいかな?」

「うん、頼って、樹君」

「任せてください!樹先輩!」

 

 いつもよりも大人しく覚束なげなオレに、二人は満面の笑みを返してくれる。

 こんなふうに誰かに頼み事を、自分の口から直接するのはいつぶりだろうか?

 もちろん、立場上学校とかの公事の頼み事などは何度かあるけれど、私事で誰かに頼み事をするなんてのは、よほど相手と親しくなければ出来るはずのないことなのだ。

 こうして小咲と春から向けられる感情と、自分自身の中で変わり始める二人の立ち位置を少しずつ心の中で感じ始めながらも、その奥底に沈められたはずの何にも代えがたい想いが立ちはだかり、オレを当惑させ心中穏やかでいさせなくする。

 教室へ戻ろうと一歩先を行く二人の、オレを急かそうと手招きをする姿を捉えてから、オレは適当に返事をして空の上を見上げる。

 昨日よりも多くのわた雲が、空の晴れ間を結うように、着々と覆ってきていた。

 

 




 第十三話『ベントウ』をご一読下さり、ありがとうございました。

 いかがだったでしょうか?

 物語もどんどん加速してきていますね。

 それでは、また次のお話で。


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第十四話 ネガイヲ

 第十四話にお立ち寄り頂き、ありがとうございます。

 七夕の願い事って、普段は口には出せないようなこととか書けたりしちゃいますよね。

 それでは。


 商店街の明かりも絶え絶えになり、夜の静けさに外はすっかりと支配されている。

 私はリビングで歯磨きをしながら、台所で洗い物をしているお母さんと、明日行われる七夕大会のことに会話を弾ませている。

 

「……お母さん、お姉ちゃん、おやすみ~」

「おやすみ~」

 

 髪をほどいてパジャマ姿の春が、枕を抱えながら眠たそうに廊下の方から呼びかけるので、私も手を振り返す。

 目をほとんど閉じながら、のそのそと歩いて行ってしまう春は、小さい時から変わらず可愛らしい。

 

「そういや、高校の笹の納品って確か……」

 

 お母さんがパタッと手を止めて、首を傾げる。

 

「小咲、あんたお正月にお世話になった神主さんって覚えてる?」

「え?うん、確か凄腕の霊能者の」

「実はこの辺の七夕で使われる笹って、あの神主さんが用意しててね。短冊に書いた願いが超高確率で叶うって評判らしいのよ」

「へー」

 

 あのときは皆と巫女になってお手伝いしたけど、一条くんの厄祓いのせいで散々振り回されたっけ。

 

「……樹君と付き合いたいとか書いちゃえば?」

「書かないよ!!もう!!」

「ヒョッヒョッヒョ、照れちゃって~」

 

 まるで悪戯っ子のように口端を上げてお母さんはニヤニヤと言うので、私は叫ぶように照れ隠しをする。

 お母さんったら、すぐそういうことに結び付けるんだから。

 でも、あの神主さんが用意したものなら、本当に叶っちゃうかも……。

 そんな妄想に期待をかけたことで、火照った体を冷ますまで時間がかかり、いつもよりも寝つきは悪くなってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 迎えた七夕大会。校内は短冊を持ち歩く生徒でワイワイと賑やかだ。

 

「おやおや~?一条くんはどんなお願いをするのかな~?」

「ん!?いや別に…!ちょっと小惑星でも発見しようかと……」

「それはまた壮大な願い事だな」

 

 教室のどこかからは一条君と舞子君、そして樹君の会話が聞こえてくる。

 教室の後ろの棚のところにいる私はペンを離して、そっと短冊に書き上げた願い事の内容を頭の中で読み上げる。

 

『樹君の彼女になれますように。 小野寺小咲』

 

 …………ああーーーーー!!!

 ど、ど、どうしよう、ほんとに書いちゃった、書いちゃった!!

 こうなることを望んでいるのに、いざ字面だけ見てもどうしようもなくドキドキしてきてしまう。

 これは……、短冊のどこに吊り下げようか。絶対に誰かに見られてはいけない。

 

「小咲ー、何書いたー?」

「ほひゃう!!!」

「……何、ビックリするじゃない」

「う……ごめん……」

 

 気づけばるりちゃんや千棘ちゃん、鶫さんが近くまで来ていたので、願い事にドキドキしていた私の心臓はさらに跳ねて、短冊を咄嗟に隠しながら過剰に驚いてしまった。

 皆に願い事の内容を聞いてみると、期間限定ラーメンの復活やら、千棘ちゃんの健康や無事やら、宝くじで三億円が当たれやらが返ってきて、こんなバカなことを書いてしまってるのは私しかいないと知り、気恥ずかしさが立ち込めてしまう。

 それでも、この願いは叶うかもしれないので、今さら後に引くことなどは出来ず、私は皆に適当にはぐらかし、タイミングをずらして笹のあるところまで出る。

 その際、とんでもない量の短冊が付けられたため、その重さに耐えきれず、ありえない角度までしなれてしまっている笹の姿がある。

 あまりの光景に驚くとともに、どんなことが書かれているのか気になって近寄ると、その内容は全部、橘さんが書いたものだった。

 先生方に注意を受けながら、まだ短冊が押し込められている段ボール数箱に手を伸ばしている橘さんが見えて、相変わらずのエネルギッシュさに若干引きながらも、感心してしまう。

 周りの人の目もそちらに注目していたようなので、今のうちにササッと人に見られない上の方に短冊を取り付けようと、脚立を笹のところまで持っていくと、背後からお姉ちゃんと声をかけられる。

 

「春……!」

「お姉ちゃんも短冊付けに来たの?」

 

 左手に短冊を持ちながら、明るい笑顔を浮かべる春の後ろからは、風ちゃんやポーラさんの姿も見える。

 

「お姉ちゃん、なんて書いた?私は『和菓子作りがもっと上手くなりますように』って書いたよ!」

 

 わあ、春はちゃんとしたことを書いたようだ。

 

「わっ……私は……世界平和……かな……」

「お姉ちゃんは優しいな~」

 

 春ならばれてもいいかもと思ったけど、風ちゃんやポーラさんが一緒の以上はごまかさないといけない。

 それを一点の曇りなく変わりない笑顔で褒めてくれる春を見て、内心後ろめたく、このまま後ずさりしたい気分になる。

 女の子の悩みのような願い事を見られて騒いでいるポーラさん達を私は遠目にしながら、いつになったらこの短冊をつけるチャンスが来るのだろうかとヤキモキしていると、あと数分したら予鈴のチャイムが鳴ることに気づき、私は名案だと思い立つ。

 春達と別れてからも私はその場に居残り、予鈴のチャイムが鳴ったのと同時に生徒達が掃けていくのを確認してから、私は大急ぎで脚立を用意し、笹の頂上に願いを込めた短冊を狙い通り取り付けることに成功した。

 授業の始業時刻に教室へ駆け込みセーフして、私はやり遂げたことに満足し、ニタニタとした笑みを抑え込めないまま、授業の用意をしつつホッと息をつく。

 

「え~、では授業を始めま~す」

 

 一限を担当する副担任の福田先生の声掛けも、特に気にもならないほど今の私は浮かれてしまっている。

 

「あ、やべ。あの笹移動させなきゃいけないんだっけ。えー……、どいつにしようかな……」

 

 先生は指をあちらこちらへ動かし、やがてその動きがある方向を向けて止まる。

 

「じゃあ一条!お前今からあの笹、中庭に移動させてもらっていいか?」

「え!?オレ一人っスか!?」

「男の子だろ?頑張れ~」

「マジかよ……、ついてねー……」

 

 私の隣の席の一条君は溜息をつきながら立ち上がり、クラスの皆から温かく見送られながら、教室の外へと出ていく。

 え、待って。それって、一条君に短冊見られちゃうかも。

 

「あっ……あの先生!!私も行きます!!一人じゃ大変だと思うし……」

「おー小野寺は優しいな~」

 

 まずいと思った瞬間、冷や汗をかきながら私は手を挙げて勢い良く立ち上がる。

 

「でも却下☆別にあれくらい大丈夫だって~。男は働いた方がいいんだよ、男は」

 

 断られたことで、私の冷や汗は更に勢いを増す。かくなる上はこれしかない。

 

「う……う~~ん、な、なんだか、お腹が急に痛いような……」

「え!?」

 

 仮病を使うなんて奥の手だが、この状況は仕方ない。

 私は流れてくる冷や汗を生かしながら、お腹を抑え前屈みになり、渾身の演技で保健室に行くことを訴える。

 

「うわ、ほんとに顔色良くないな。行ってきなさい」

 

 許可も下りたことなので、私はお腹を抑えるふりを続けながら、廊下へと駆け出す。

 

「大丈夫?私も付いて行こーか?」

「大丈夫大丈夫」

 

 窓から顔を出して心配そうにこちらに呼びかけてくる千棘ちゃんに、心配させないように気丈に返事を送ってから、私は笹の置いてある場所まで急ぐ。

 校門の方まで行くと、笹の傍らには一条君が立っている。

 

「いっ……一条君!」

「あれ?小野寺?」

「私も……手伝いに……」

「えっ!マジ!?ありがとう!」

 

 必死に急いできて息も絶え絶えになりながら、膝に手をつく私は一条君の方を見上げる。

 

「むしろ私一人で運んでもいいけど」

「いやそれこそ無茶だろ!!」

 

 結局一条君の気遣いに負けてしまい、笹は二人で運ぶことになった。

 樹君に見られるのが一番まずいが、一条君に見られるのだってまずい。

 絶対に見られないようにしなきゃと意気込みすぎて、自分の足元は見えておらず、持ち上げた瞬間に足が絡まり、勢い良く笹を倒してしまう。

 

「大丈夫か!?ちょっと待ってろ、すぐに起こすから」

「待って!私が……!私が起こすから……!」

 

 何とか誤魔化して、一条君には根元の方を持ってもらい、私は笹の幹を持ち上げる。

 

「小野寺はどんな事を書いたんだ?」

「えっ私!?」

 

 何とか落ち着いて運び始めた矢先、一条君は突然聞いてきた。

 

「えっと…、戦争がなくなりますように……?」

「優しさ無限大だな」

 

 さっきとは違う答えで、しかも疑問形で誤魔化す私に、一条君は少し呆れるような笑みを返す。

 

「一条君はどんな事を書いたの?」

「ん?」

 

 さっき教室で聞こえたような気がするけれど、気になって私は一条君に尋ねる。

 

「……いや別に大した事は。くだらねぇ事だよ」

 

 視線を斜め上に泳がせて答える一条君を見て、さっきの願い事とは違うことを書いたんだろうことは分かるけど、はぐらかすなんて一体どんな事をお願いしたのだろうか。

 そうしている内に、移動するよう言われた中庭の中央までやってきたので、笹をしっかり立てて、教室へと戻ることにする。

 校内へと入り、教室へと向かう道中、私は今度こそようやく一安心し、人に見られることはないだろう私自身の願い事に期待を寄せてしまう。

 彼女かぁ……。樹君の彼女……、なんてね。

 

「……あれ?」

 

 口元に両手を合わせてすっかり夢見心地でいると、一条君が何かに気づいたようだ。

 

「なんか笹移動してねーか?」

「……あれ!?」

 

 廊下の突き当りの窓の向こうを見ると、中庭の中央に置いたはずの笹が何故か窓際の方まで移動していた。

 一体どうしてと考える前に、笹の頂上付近が見えるということは、すなわち私の短冊が見えるってことなんじゃと気づく。

 私からはまた安穏とした気持ちが連れ去られて行ってしまう。

 

「丁度良かった。上の方はどんな事書いてんだろ」

 

 一条君はちょっと見て行くかって具合に、窓際へと近づいていく。

 ま、まずい。何としても阻止しなければ……!!

 

「ま、待って一条君……!!み……、皆それぞれの想いで願いを書いているんだから……」

「え、ダメかな……?」

 

 私はこれ以上ないくらい素早く窓際に移動し、両手を広げて一条君の前に立ち塞がる。

 一条君を食い止めながら、私は短冊がこちら側を向いていないことをちらりと確認し、少しだけホッとするが、次の瞬間突風が流れ込み、短冊の内容がこちらに向き返ってしまうのが見えて、焦りはピークに達してしまう。

 

「それ……、って小野寺!?」

 

 こうなったらもう回収するしかないと、私は窓を勢い良く開けて短冊に手を伸ばす。

 

「おい!危なえって……!!」

 

 もう少し、もう少しで掴める……!

 

「取れた……!」

 

 その瞬間、足元が滑って、私の体はどんどんと前のめりになっていく。

 

「危ね……!!」

 

 私の半信が外に投げ出されそうになったところで、お腹の辺りに思いっきり力強い感触を感じる。

 

「ふぬぐぐぐぐ……!!」

「ひぅ!?」

 

 一条君が踏ん張る力を、お腹を握り締める力を強めると、私は思わず強まる感触に反応して変な声を出してしまう。

 気づけば、廊下の方へと、一条君に背後から抱きつかれながら、私は短冊を掴んだ右手はそのまま倒れこんでいた。

 そこから少し落ち着いて、私は廊下にへタレこみ、一条君が顔を真っ赤にしながらこちらに呼びかける。

 

「……バカ!!何やってんだ危ねぇだろ!!!」

「……ごめんなさい」

 

 本当に私は何やってるんだろう。一条君にまで危険な目に遭わせてしまい、自分の愚かさ加減と一条君への申し訳なさから、目には涙が溜まってくる。

 

「……目の前であんな危ねぇマネされたら困る」

「……うん、本当にごめんなさい、一条君」

 

 困ったような、戸惑ってるような表情を一条君は浮かべるのに対し、私は心配してもらえたという嬉しさも相混ざってきて、首を垂れたまま謝罪の言葉を述べるに留まってしまう。

 

「教室、戻るか」

「……うん」

 

 一条君が立ち上がるのと同時に、私も俯きがちになりながらも腰を上げて、一条君の後ろをついていく形で教室へと歩き出す。

 果たして一条君に短冊の内容見られちゃったのかな。

 だとしたら心が痛いな。でも、なんで心がズキズキとするのだろう。

 前まで一条君のことが好きだったからなのかな。

 私達は教室に辿り着くまでの間、一言も言葉を交わさずじまいのままだった。

 やっぱり神頼みじゃなくて、短冊に書いたこの願いは自分の力で叶えなきゃ。

 今回は、お礼と言っては何だけど、一条君の願い事が叶うようなお願いをしよう。

 先生に心配されつつ、一限の授業に合流するため教科書を開きながら、私は服に隠していた短冊をそっと鞄の奥の方へとしまい込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 本日の授業も終わり、目に見える景色も少しづづ赤みが出始めてきた頃。

 オレは楽からの頼みで今日欠席している飼育係の子の代わりに、飼育小屋の手伝いに来ている。

 オレと楽が飼育小屋へと足を踏み入れた途端、いつもは楽に素知らぬふりをしてくるはずの動物達が、一斉に楽の方へと猛然と駆け寄ってきた。

 

「うおおなんだ!?いつもは冷たいウチの連中が……!!」

「おお、スゴイな」

 

 あまりの光景に当の本人も驚きを隠しきれないまま、その表情は段々と嬉しさを伴うものに変わってゆき、ついにモテ期が来たのだと感動で目頭を抑える様子である。

 オレもこれほどの光景は確か、一度小咲と飼育小屋に来た時の小咲に対する動物達を見た時以来である。

 それが動物に異常に懐かれる小咲ではなく、動物に異様に好かれない楽に対してなされていることに、天変地異でも起きたのかと疑いの眼差しを向ける。

 これも七夕大会の為せる業なのか。

 きっと楽は飼育小屋の連中に死ぬほど懐かれるようにとか書いたんだろうか、それにしても効果抜群だなと考えながら、いまだ興奮気味の楽とともに動物達を宥めつつ彼らの世話に取りかかる。

 この飼育小屋には数多くの種類の動物達がおり、それぞれ楽自身のつけた名前があるのだが、例えばシャムワニのマルガリータ・ド・佐藤、カピバラのスメルニョン西野といった具合に、楽の絶望的なネーミングセンスが遺憾なく発揮されている。

 しかも、オレがマルガとかスメルとか省略して呼ぶと、楽は必ずフルネームで言い直してくるので、こういうところ神経質で細かい。

 桐崎さんから、あいつは変なところ細かいのよ、と愚痴を聞かされたことがあったけど、これには小学生の頃から知っているオレも完全に同意する。

 

「あのよ」

「どうした?」

 

 動物達の世話もあともう少しで終わるところで、檻に動物を入れながら楽が呟く。

 

「どうやら小野寺には好きな奴がいるみたいなんだ」

「……なんでまたそんなこと」

 

 急に小咲の名前を出すものだから、オレは訝しげな視線を楽へ向ける。

 

「今日、オレ、先生に言われて、笹運びに行かされただろ?」

「ああ、災難だったな」

「その時によ、笹を運ぼうとしたら小野寺が来てな」

「やっぱり仮病だったか」

「無事運び終えたのは良かったんだが、その帰りに窓から笹が見えて、小野寺の書いたらしき短冊があってよ」

「それで?」

「そこには、誰とまでは見えなかったんだが、下の方に書かれてた『の彼女』って書かれてるのは分かったんだ。だから、小野寺の好きな奴ってどんな奴なんだろうなって…。あああああ!チクショー!!めっちゃ気になる!!」

 

 そこまで言うと、頭を抱え込んだ楽はぐるぐると首を横に振りながら悩んでいる。

 オレはそんな楽に、多分お前のことじゃないか、って声をかけたかったが、その言葉は小咲の様子を思い浮かべた後に、喉に詰まって沈み込んでいく。

 恐らくではあるが、小咲が誰かに思いを寄せているとしたら、その対象は楽ではなく別の誰か――――オレに流れているのではないか。

 

 ここ最近の小咲は、他の誰よりもオレと接するときの距離感が近づきすぎてきている。

 その視線は、オレがこっちにきた当初の、小咲が楽へと向けるものと酷似、いやそれ以上にどこか意志の固まったようなものであり、それに気づいたのもつい先日のお弁当の時だった。

 今日だって、春も含めてまたまた三人で中庭にてお昼を一緒に過ごしたが、勝手におにぎりを持ってそのままオレに口を開けさせ食わせようとするなど、やり口が大胆になってきている気がする。

 

 それに厄介なことに、このようなことは春の方にも当てはまる。

 先輩として慕われているのかと思っていたら、これもまたお弁当を皮切りに、彼女からオレへと向けられる視線も感情も一様にさらに熱を帯び始めたように感じつつある。

 小咲に対抗して自分の箸でおかずを取ってそのままオレの口へ運んできたり、メッセージアプリの通知がこれまでよりも増えたりなどなど……。

 

 これがオレの自意識過剰で済めば、それはそれでオレが笑いものになるだけで良いのだが、お互いからこうまでされては、多少なりとも気づかないわけにはいかなくなる。

 だって、彼女達から向けられるものは、あの人からのそれと全くもって――――。

 

「樹はどう思う?」

「え?」

 

 思考が加速していくことで、楽からの突然の呼びかけに拍子抜けしたような返事をしてしまう。

 

「小野寺の好きな奴、どんな奴かなって……」

 

 眉尻を下げている楽は本当に心底小咲が好きな人のことが気になるようだ。

 

「さあ、分からないな」

 

 楽が思い悩むように、オレも考えなくてはならないことがあるんだから、とちょっぴり毒づくように楽に答える。

 

「けど、楽は小咲のことが好きなんだろ?」

「あ、ああ。そうだがよ……」

「それなら、自分からもっとアピールしていけばいいんじゃないか」

「……そうだよな」

「もしかしたら……、その相手が楽なのかもしれないんだから、うじうじしてる場合じゃないぞ」

「え、え!?マジでそんなことがあり得るのか!?」

「もしかしたら、な。実際のことなんて小咲以外知らないんだから」

 

 不安で落ち着かない様子から一転、鼻息荒く意気込む楽を見て、もう大丈夫だろうとオレは判断し、手元にある用具を元にあった場所まで戻しに行く。

 

 そう。本当のところなんて、小咲しか、春しか、知らないのだから。

 

 頭痛の種を一旦頭からは切り離して、オレは動物からまだまだ異様に好かれている楽を遠目に見やりながら、辺りを見渡す。

 目に映る赤みはすっかりはっきりとしたものになり、その主犯である夕陽と目と目が合って、その眩しさにオレは思わず目を背けた。

 

 




 第十四話『ネガイヲ』をご一読下さり、ありがとうございました。

 いかがだったでしょうか?

 目敏い樹君、この後どうしていくんでしょうね。

 それでは、また次のお話で。


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第十五話 シリタイ

 
 第十五話にお立ち寄り頂き、ありがとうございます。

 お気に入り件数が二百件を超えていたり、日間ランキングの方にも顔を出していたり、自分にとっては良いニュースの一つとして、とても嬉しい気持ちになりました。
 皆さんもこうした状況であるからこそ、何か自分なりの新たな嬉しさを見出せると良いですね。

 それでは。


「お兄さん!こっちこっち~!」

「分かった分かった」

 

 凡矢理高校での高校生活も一学期が終わりを告げ、夏休みに入った週の平日の夕刻、走り回る小中学生の元気な声が響き渡っている近場の公園で、オレは明日花と一緒に遊具巡りをしている。

 明日花が次に指差すのは、長さ50m近くあるような滑り台だ。

 オレがまず座り、そこにできる前の空間に明日花がすっぽりと入る、いわばオレが明日花を後ろから抱え込むような形で、滑り台へと流れ出していく。

 

「わあぁあああ~~~!」

 

 明日花は後ろのオレも気にしないで、実に楽しそうに両手を広げ、無邪気に滑り台を満喫している。

 全く、かれこれ二時間以上はこの公園で遊び倒しているのだが、この小さな体の一体どこにこんな元気が隠れているのか不思議で仕方ない。

 オレ自身は小さい頃、こんなに純粋無垢で活発な子供であったのだろうかと耽っていると、滑り台の終着点に辿り着いたらしい。

 明日花は興奮した様子でオレのシャツの袖を掴みながら、もう一回乗ろうと上目遣いで催促してくる。

 

「はいはい、分かりましたよ」

「わーい!行こ行こ!」

 

 明日花はオレの手をがっしりと掴んで、善は急げとばかりにぐいぐいと引っ張りながら歩き出す。

 こういう人を振り回すところ、あの人とそっくりだな。

 やれやれと溜息をつきながらオレもついていこうとすると、ズボンのポケットから着信音が流れ出すとともに小刻みな振動を感じる。

 空いている片手でスマートフォンを取り出せば、そこには『小野寺小咲』と表示されている。

 

「電話だ。明日花、一人で先に滑ってきな」

「えーー、一緒に行こうよ、お兄さん」

「こっからちゃんと明日花が乗って滑ってくるの見てるから。あとでまた二人で乗ろう」

「うー、分かった。ちゃんと見ててね」

 

 不満そうに口を尖らしながらも、明日花は見せつけてやると言わんばかりに素直にオレの言葉に従って、滑り台の入場口へと駆けていく。

 ある程度距離が離れたのを見届けてから、いまだ鳴り続けているスマホへ手を伸ばす。

 

「もしもし樹君?いきなりごめんね」

「大丈夫。それより何かあった?」

「じ、実はね……」

 

 小咲の説明によると、どうやらここ最近、和菓子屋『おのでら』の通りの真向かいに、新しくケーキ屋さんができたらしく、お客さんを取られたと菜々子さんがカンカンになってそこへ乗り込んでいくと、なんと楽が店のお手伝いをしているらしいのだ。

 ケーキ屋が繁盛するのに対し、客足の減っていく状況を危機と捉えた菜々子さんは、小咲と春に布を減らした制服で客引きをさせるという、何とも現金な作戦に出たようだ。

 それでもケーキ屋の勢いは止まらないため、ついには明日、いよいよ彼女らは水着で客引きさせられるらしく、その相談で小咲は電話をかけてきたのだと言う。

 

「それで、どうしたらいいかな……?私嫌だよ、そんな格好で客引きだなんて……」

 

 消え入りそうな声で呟く小咲に対し、オレは明日花が滑り台に乗り始めるのを眺めながら、こめかみを押さえて彼女らの置かれているあまりの状況に嘆息する。

 

「そしたら、明日朝早くそっち行って、菜々子さんに客引きのことだけは説得するから」

「う、うん、ごめんね。困らせちゃって」

「いいから。このことは楽にも相談したか?あいつなら何でも力になると思うが」

「まだ、何も言ってない……。あとで一条君にも連絡する」

「そうしろ」

 

 ……オレじゃなくて当事者の楽にまず先に相談しろよ。

 オレは心の内で悪態をつきながら、滑り台を滑りゆく途中にも関わらず、こちらへと大袈裟に手を振りかざしつつ顔を綻ばせている明日花の様子を見て、手をそっと振り返す。

 難しいことを一切考えず、自分の意の赴くままに滑り台を無邪気に楽しむ明日花は、オレの目には心底羨ましくも妬ましくも映った。

 オレは滑り台を終えて、こちらへと向かってくる明日花を視覚に捉える。

 滑り台にもう一度乗れたらそのような気持ちを味わえるんじゃないかと淡い期待を抱きながら、小咲との通話を終えてスマホをポケットにしまい、胸に勢い良く飛び込んでくるであろう明日花を迎え入れるために、オレはゆっくりと膝を屈めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ここをこうするとですね……、ほら。サイトの商品情報とか更新できるんですよ」

「ほぉ~~、そんな風にできてるの」

 

 夏休みに入った土曜の昼下がり、商店街の通りも人の往来が少しづつ落ち着き始めた頃。

 樹先輩はお母さんにパソコンの画面を見せながら、つい先日立ち上げてくれたウチのお店のネット上の公式サイトのあれこれを熱心に説明にしている。

 かれこれ小一時間お店の片隅の座席でパソコンと睨めっこする二人の様子を、私はさっきから合流したお姉ちゃんと一条先輩と、少し離れたところから立って見物している。

 

「ウチも小野寺んちも前よりお客さん増えたらしいな」

「うん、なんとか一件落着だね」

 

 一条先輩もお姉ちゃんも胸をなでおろすように言う。

 お店の売り上げだけでなく、お母さんの剣幕も落ち着いたので私も一安心だ。

 

「にしても、樹の奴すげぇな。一週間足らずでどっちの店も上手くいくような方向に持っていくなんて」

「そうだよね……、今日だって来てくれて……」

 

 先輩達が言う通り、私も樹先輩には感嘆と感謝の気持ちばかり湧いてくる。

 火曜の朝早くに樹先輩は、一条先輩と二人でウチを訪ねてきて、私とお姉ちゃんの水着客引きのことでお母さんを制したと思えば、一条先輩と考案したというレシピの試作品の味見にずっと付き合ってくれた。

 そこから、ケーキ屋さんと連携しながら、出来上がった新商品をSNS上や店頭で巧みに宣伝することで、どちらの店にもお客さんがくるような状況を作り出した。

 それに加えて、今回のコラボキャンペーンに止まらず、どちらの店も新たなお客さんが増えるようにと、インターネット上に両店の公式サイトなるものまで立ち上げてしまったのだ。

 私とお姉ちゃんもさすがに嫌がっていた水着の制服のことで、先輩が直接お母さんを説得しに来てくれただけで既に嬉しさで胸がいっぱいだったのに、想い人がここまでお店のことに自分の時間を割いて関わってくれたなんて、惚れ直さない方が無理な話のように思える。

 私の王子様は、本当に頼りになる人だ。

 先輩がお望みであるなら、私のみ、水着の制服姿だって見せてあげても……。

 そんなはしたないことまで考えてしまっていると、一段落着いたように樹先輩がパソコンを閉じようとする。

 と同時に、店の奥から元気な足音がパタパタとこちらへやって来る。

 

「お兄さん!」

 

 ルビーの瞳を輝かせながら、今まで厨房の方を覗いたりリビングで寛いでいたりしていた明日花ちゃんが、樹先輩の方へと走り抜けていく。

 やがて樹先輩のところまで辿り着くと、そのまま先輩の足にぎゅっと抱きつく。

 

「すみません、菜々子さん。明日花のことで面倒かけてしまって」

 

 膝にくっつく明日花ちゃんの頭をさらりと撫でながら、樹先輩は少し申し訳が立たないようにお母さんの方に顔を向ける。

 

「構わないわよ。樹君には色々とお店のこと手伝ってもらったし、それに和菓子を好きになってくれる子が増えてくれるのは嬉しいからね」

「……ありがとうございます」

 

 柔らかな表情で返すお母さんに対し、樹先輩もかすかに微笑みを浮かべている。

 樹先輩は私達と違って、大人のいる世界に入り込むことができているように見えて、それでもいつもは私達のいる高校生の世界に属しているのが不思議な感じがする。

 

「ほら、明日花も」

「うん、あの、ありがとうございます!菜々子さん!」

「どういたしまして」

 

 樹先輩に頭をトンと突かれた明日花ちゃんが、恥じらいを見せながらも折り目正しくお辞儀を返す様子を、お母さんも温かく見つめる。

 仕事のことも明日花ちゃんのことも落ち着いたようなので、彼らの世界から離れたところにいた私達もその輪に加わろうと近づいていく。

 

「樹君、私の方からもありがとう。今週ずっとウチのこと手伝ってくれて」

「ほんとそうです!一体何とお礼をいったら……」

「オレからもだぞ、樹。ケーキ屋のこともあんがとな」

「いいって。皆にはいつも世話になってるから」

 

 樹先輩はいまだ膝にくっつきながらこちらを見る明日花ちゃんの頭に手を置いたまま、いつも通りの穏やかな表情で私達に応える。

 

「明日花ちゃんもありがとう。味見とか付き合ってくれて」

「えへへ、こちらこそ美味しい和菓子をありがとう、春お姉ちゃん!」

 

 私は明日花ちゃんと同じ視線の高さまで膝を屈めて言うと、明日花ちゃんはにっこりと眩しい笑顔を返してくれる。

 

「そしたら、オレらはそろそろ行きますね」

 

 樹先輩はパソコンを袋に入れ、席の横に立てかけていたリュックサックにしまい込み、それを肩にかけて明日花ちゃんの手を握った。

 すると、明日花ちゃんが樹先輩の手を強く握り返したと思ったら、そのまま体をくるりとさせて先輩の方へと向き直る。

 

「お兄さん!私、もっとお姉ちゃん達と一緒に遊んだりしたい!」

 

 明日花ちゃんは断固とした決意を秘めた表情で樹先輩を見つめる。

 

「けどな、お姉ちゃん達も都合があるだろうし……」

「別に小咲達なら、今日はもう好きにしてもらっていいわよ」

「菜々子さん……」

 

 私とお姉ちゃんが口を開く前に、お母さんは勝手に言ってしまったので、私達は口を開けたまま固まり、樹先輩も少し困ったような表情を浮かべる。

 

「あのな、明日花。おばあちゃんも今日は昼終わりで家にいるから、帰ってあげないと」

「それなら、お姉ちゃん達をお家に呼べばいいでしょ?!」

 

 無邪気に笑う明日花ちゃんに対し、樹先輩はこめかみを若干押さえてため息をつく。

 いつもは何事にも余裕を感じさせ動じることのないように思える樹先輩が、明日花ちゃんという年下の女の子に振り回されている。

 その様子はどこか珍しく新鮮に映り、思っちゃいけないんだろうけど、困っている樹先輩もいいなって私は口元を緩ませる。

 

「……小咲、春、それに楽。今日って大丈夫?」

「私は大丈夫だよ!春もだよね?」

「うん!お姉ちゃん」

「オレも大丈夫だけど、いいのか樹?」

「今から電話してくる。ちょっと待ってて」

 

 そう言うと、樹先輩は店の隅の方まで行って、スマートフォンを取り出す。

 待っている間、明日花ちゃんは楽しそうに私達の間を行ったり来たりしながら、そのルビーの瞳をキラキラさせて樹先輩を見つめている。

 やがてスマートフォンから耳を離して、樹先輩がこちらへと戻ってくる。

 

「来ていいって。各自準備が出来次第向かうか」

 

 樹先輩は先程までの困り顔からまたいつもの穏やかな表情に移り変わり、私達に呼びかけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 おやつどきの時間も過ぎて夕方の足音がしてきそうな頃、気づけば私達は樹先輩に連れられて、明日花ちゃんとそのおばあちゃんが住んでいるお家まで辿り着いていた。

 一面に並べられた瓦。漆喰塗りの壁。木々などが整えられた庭。そこには昔ながらの日本家屋が、堂々と私達の前に姿を現していた。

 和風大好きな私は、既にこのお家の外観にすっかりと心惹かれている。

 

「楽の家よりかは随分とこじんまりしてるかな」

「え、一条さんのお家ってそんな大きいんですか!?」

「いや、大きさのことはいいだろ、樹……」

 

 外の玄関を開けながら、樹先輩達は談笑しながら敷地内へと入っていくので、私もお姉ちゃんと一緒に遅れないようについていく。

 お姉ちゃんも周囲をチラチラと見ながら何だか落ち着きがない様子だ。

 

「只今戻りました」

「おばあちゃん、ただいまー!!」

 

 樹先輩は引き戸の玄関をガラガラと開け、明日花ちゃんが元気よく家の中へと呼びかける。

 すると、奥の方からパタパタと着物姿の小柄な女性がこちらへと近づいてくる。

 

「ようこそ御出で下さいました。明日花の祖母で、樹の大叔母の二階堂知佳(にかいどうちか)でございます。今日は樹が学校のお友達を連れてくるというものだから、いつもよりも舞い上がってしまってるわ」

 

 口元に袖を当てて、まるで少女のようににこやかに笑う知佳さんは、私の目にはとても若々しく見えて、お母さんでも通っちゃうんじゃないかって気がする。

 

「いつも通りでいいよ、知佳さん」

「そうもいかないわよ、樹。ここに若い子が来るなんて久しいんだから」

「それもそうか」

 

 樹先輩が軽口を叩く一方で、知佳さんは靴箱からテキパキと人数分のスリッパを取り出している。

 

「じゃあ知佳さん。改めて紹介するよ、こちらから……」

 

 知佳さんの方が落ち着いたとみるや、樹先輩は私達の方へ目配せする。

 私達も樹先輩に近い順に名前などの簡単な自己紹介をした。

 

「一条君に、小咲さんに、春さんね。樹から聞いてはいたけど、皆とてもいい子たちね。さ、上がって上がって」

 

 声を弾ませる知佳さんにつられるがまま、私達はスリッパを履いてリビングの方へと案内される。

 外観からてっきり昔ながらの畳や障子ばかりの空間をイメージしていた私は、障子はあるけれど畳ではなく床など、和とモダンが融合したような内装に心を完全に奪われてしまい、リビングに着いて見渡してはウットリするを繰り返している。

 そして、この空間に自然と溶け込むことのできる樹先輩の姿が、和の効果もあってか普段以上に凛々しく刺激的に映って、私は独りでに頬を赤らめてしまう。

 

「それじゃあ、知佳さん。あの人にも挨拶してくるよ」

「ええ」

 

 リビングに荷物を置いて、場が落ち着き始めたタイミングで樹先輩は知佳さんに声をかけ階段を駆け上がって行ってしまう。

 

「すみません、知佳さん。樹の言ってたあの人って誰のこと言ってるんすか?」

「あら、あの子、何も言ってないのね」

 

 あの人、という言葉ににいち早く反応したような一条先輩が、私達よりも先に知佳さんに尋ねる。

 あの人って誰だろう。

 私もお姉ちゃんもお互いによく知らないことなので、とぼけた顔をしながらお互いを見合わせる。

 

「直接行った方が早いから、ついてきてくれるかしら」

 

 お庭で咲いているキボウシに夢中の明日花ちゃんを残し、私達も知佳さんに連れられて二階の階段を上がり、障子に仕切られた幾つかある部屋部屋の中の一つの場所で立ち止まる。

 

「樹、入るよ」

 

 知佳さんが呼びかけたら、どうぞ、と中から樹先輩の穏やかで低い声が聞こえてくるので、障子を開けて私達は中へと入る。

 そこには、胡坐を組んで座ったまま、顔だけこちらに振り向いている樹先輩がいる。

 樹先輩の体が向く方向には、満面の笑みで宝石のような赤い瞳を輝かせている、ショートボブの女性の写真が飾られた仏壇がある。

 

「邪魔して悪いわね、樹」

「いいよ、知佳さん。大体伝えたし」

 

 ちょっとばつが悪そうな振りをする知佳さんに、樹先輩は写真の女性の方へ視線をずらして応答する。

 ……何だろう。

 樹先輩の雰囲気がいつもよりも少し、ほんの少しだけど、私やお姉ちゃん達といる時に比べて、不思議と物憂げな感じがする。

 

「知佳さん、申し訳ないんですが写真の方って……」

 

 お姉ちゃんが恐る恐るといった感じで、私達三人が気になることを知佳さんに訊く。

 

「ええ、この子は私の娘の、二階堂明香里(にかいどうあかり)。明日花の母親で、樹とはいとこ違いなのよ。残念だけど、昨年の夏の終わりには彼方へ逝ってしまったけどね……」

「そうなんですか……」

 

 部屋の中は何とも言えぬ静けさで覆われてしまう。

 あの人とは、明日花ちゃんのお母さんの明香里さんのことだったのだ。

 樹先輩のお家で勉強会をした時の帰り道を思い出して、私は明日花ちゃんや知佳さん、そして樹先輩のことで胸が締め付けられるような感じがする。

 

「樹にとっては、明香里は物心ついたときから知ってる人かしら?明香里も樹の母親とは仲良くて、あの子がアメリカに留学した時も樹達のところにお世話になったのよ」

 

 知佳さんは気丈に振る舞って話題を持ち出す。私は思わず声を上げてしまう。

 

「樹先輩ってアメリカにもいたことあったんですか?!」

「三年ほどだけどね。親の仕事の関係で」

「あなたのご両親はお互い、いつも忙しそうにしてるものね」

 

 私のところのように生まれてからずっと同じ場所にいるんじゃなくて、樹先輩のところは本当に色んな所を飛び回ってるんだな、と感心する。

 

「だから、明香里にはむしろ世話かけてもらってたよ。まあ、中学から今度はこっちが押しかけることになったけど」

「皆さん聞いてるかもしれないけれど、中学から四年間、樹はイギリスにいたの」

「はい、樹から聞いてます」

「それでね、その時現地でちょうど夫と離婚していた明香里と、今よりももっと幼い明日花と一緒に、三人で暮らしてたのよね」

「明香里さんも明日花ちゃんもイギリスにいたんですか!?」

「……明香里の諸々の都合でね。明日花は小学校に上がる段階で私の所に来たのだけれど」

「え、ということは、樹先輩って明香里さんと……」

 

 そこまで言おうとすると、階段を駆け上がってくる音がしたと思えば、明日花ちゃんが怒ったようにしてこちらにズンズンと向かってくる。

 

「皆、お母さんのところにいたんだね!気づいたら誰もいなくて心配したんだから!!」

 

 お冠の様子の明日花ちゃんは、言葉を並べていくうちに泣き出しそうになっていく。

 そこへ、いつの間に移動したのか、樹先輩が明日花ちゃんの前まで来て、頭を撫でる。

 

「ごめんな、明日花。寂しい思いさせちゃって」

「う、ううん。こちらこそ怒鳴ってごめんなさい、お兄さん」

 

 明日花ちゃんは涙目で俯きながら、安心したように口元を少しずつ緩めていく。

 すると、明日花ちゃんのお腹から可愛らしい音が部屋に鳴ってしまう。

 顔を上げ始めていた明日花ちゃんは、今度は頬を赤くしてさらに俯く。

 

「さて、少し早いけどお夕飯の支度をしましょうか。皆さんも是非お食べになっていって。樹、あなたはお手伝いよろしく」

「いいんすか?!ありがとうございます!」

 

 知佳さんのお言葉に即座に感謝の意を伝える一条先輩に従って、私とお姉ちゃんも知佳さんに慌ててお辞儀を返す。

 そんな様子を知佳さんは、あらあらいいのにといった感じで温かく見た後に、樹先輩の方をそのままそっと見やる。

 樹先輩は一息ついてから、明日花ちゃんの手を取って階段の方へ向かっていく。

 そんな樹先輩の後ろ姿を見やりながら、私は自分の中に湧き上がってくる疑念のことで頭をぐるぐるさせる。

 あんなに懐かしそうに。あんなに親しそうに。

 あの人は、一回りは年が違いそうな明香里さんのことを、呼び捨てで。

 一体、樹先輩にとって、明香里さんとはどんな存在なのだろう。

 先輩のことならどんなことでも知りたがるようになってしまった悪い子の私は、確かめたいと逸る気持ちを抑え込むように、皆の足並みに合わせてゆっくりと階段を一段また一段と降りた。

 

 




 第十五話『シリタイ』をご一読下さり、ありがとうございました。

 いかがだったでしょうか。

 今回の話は次の話と合わせて、前後編みたいなものです。

 それでは、また次のお話で。

 


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第十六話 カンケイ

 第十六話にお立ち寄り頂き、ありがとうございます。

 学校がないと家ばかりにいて、思ってる以上にだらけてしまいがちになるので、時折自分なりに気を引き締めておくのも肝要ですよね。

 それでは。


 知佳さんと樹君が作ってくれた夕食も食べ終え、私は春と一緒に、夕焼けの空の下に映る庭の様子を縁側で眺めながら、知佳さんの淹れてくれたお茶を嗜んでいる。

 夕食は和風ハンバーグだった。

 外はこんがり、中はジューシーで、ほんのりと甘さを残しつつ肉汁が香ばしく口の中に広がり、何より温かく優しさのこもった味がして大変美味しかった。

 

 ―――この料理、樹が得意らしいのよ。

 

 口元へ上品に手を当てながら言った知佳さんの言葉が思い出される。

 作った理由は、せっかくの夕食だから、ある程度自信のある料理しか作りたくなかったからだそうだ。

 悪戯に笑う知佳さんに、そう暴露された時の樹君の、澄ましながらもキリッとした眉が下がり、耳を若干赤らめている、あの姿が愛おしく脳裏に映し出される。

 今さっきだって、あの時の樹君の、普段は全く見られない可愛げのある姿は、春とも話題に上ったところだ。

 当の樹君は、明日花ちゃんのお部屋で、一条君も含めて三人でテレビゲームか何かで遊んでいるようだ。

 明日花ちゃんや一条君の賑やかな声が階上から私達の元まで届いてきている。

 

「お二人さん、お茶の方はどうかしら?」

「あ、はい!とっても美味しいです!」

「よかった」

 

 意識外からの知佳さんの登場に、春は声を上ずらせながら返事する。

 知佳さんは穏やかな表情を崩さずに、温かな笑みを浮かべたまま、今度は私の方へ視線を寄こす。

 

「小咲さんの方も、お口に合ったかしら?」

「はい、和菓子とも相性がとても合いそうなくらい、香ばしくて美味しいです」

「そう言ってもらえて嬉しいわ。流石、和菓子屋の娘さん達ね」

 

 そう言うと知佳さんは、縁側で隣並んで座る私達と同じように、春を私と挟み込むようにして腰かけた。

 私の方へ少し悔しそうな視線を向けていた春は、隣に知佳さんが腰かけたのを見るや否や、目をパチクリさせながら肩に力を張るようにする様子である。

 その姿が私の目には可愛らしく微笑ましく映る。

 

「春さん、そんな畏まらなくったっていいのよ」

「あ、す、すみません!」

「ふふ、もっと気楽でいいんだから」

「は、はい……」

 

 慌てふためく春とは対照的に、知佳さんはまるで小動物を愛でるかのように、柔らかな表情を浮かべている。

 

「お二人さん、今日は明日花のワガママに付き合ってくれてありがとう。明日花、いつにも増してすごく楽しそうにしてたわ」

 

 知佳さんはそのままの表情で、私達へと目線を合わせる。

 

「そんな、とんでもない!こちらこそ、いきなりお家の方に上げて下さり、こんな美味しいお茶やお夕食を頂けたりして……。ありがとうございます、知佳さん」

「春の言う通りです。お礼を言うのはむしろ私達の方ですよ」

 

 春も私も思いが伝わるようにと、しっかり知佳さんの目を見つめ返す。

 

「いいのよ。あなた達には明日花のことは勿論、特に樹のことでお世話になってるからね」

「いえ、こちらもと言ってはなんですが、私達の方が樹君にお世話になっております。最近だって、お店のことで樹君のこと巻き込んで、色々してもらいましたし……」

「そうなんです。樹先輩にはこれまで何度迷惑かけたことか……」

 

 樹君の方へ話題が流れると、私達は姉妹揃って、尻込みするような調子になってしまう。

 

「ふふ、二人ともいい子ね。樹からも色々聞かされるわ。学校の人間関係に関しては、あなた達のことが一番かもしれないわね」

「へぇ、一番ですか……、えへへ」

 

 知佳さんからの言葉に、春は喜びが隠し切れないようで、嬉しさが表情にも言動にも出てしまっているが、私も口元が緩むのを我慢しきれていない。

 すると、知佳さんが足の上に重ねていた手を解いたと思えば、右手の袖を口元に当てて、こちらを覗き込むように小首を傾げる。

 

「ところでお二人さん、樹のことがお好きなんでしょう?」

「「え、えええ!!?」」

「あらあら、図星かしら」

 

 あまりの直球が知佳さんから投げられるものだから、私と春は驚きすぎて口をあんぐりと開けながら、苺のように顔を真っ赤にしていく。

 

「ど、ど、どうしてですか?!」

「今日のお二人の様子を見るだけでも充分明白よ。それに、二、三週間ほどとはいえ、樹にお弁当持って行ってたそうじゃない。よほど好感度がない限り、異性にそんなことをするとは考えられないわ」

 

 知佳さんからの説明に、私達は既に赤くなったその顔を益々火照らせていく。

 

「私の親族は何故か皆ね、こんなことやあんなことに目敏くなる傾向にあるのよ。言い当てたようでごめんなさい。けれど、ここでの話は女の子同士ということで収めておくから」

 

 確かに、私達の樹君への好意の表れをズバリ見抜いた知佳さんの話す姿は、まるでちょっとしたことですぐに気づいて理路整然と話す樹君のように私は感じた。

 待って。ともすれば、今日会ったばかりの知佳さんでさえ気づくのだから、ましてや当の樹君には、私達のこの想いの片隅でも既に見抜かれてしまっているのだろうか。

 

「全く、こんなに可愛らしい御姉妹に想われるなんて、樹も中々やるわね」

 

 私の懸念を他所に、知佳さんをどこか感心したように言う。

 すると、顔を俯かせて悶えていた春が顔を上げて、知佳さんの方へ再び顔を合わせる。

 

「あのっ、知佳さん」

「はい」

「確かに私は、こうして言われただけでこんな反応をしてしまうほど、樹先輩のことがす、好きです……。けど、だからこそ、気になることがあって…」

「何かしら?」

「樹先輩と、その、明香里さんって、一体どんな関係だったんでしょうか?」

 

 春は胸に手をぎゅっとやりながら、決意のこもったように知佳さんへと投げかけた。

 いつの間に春は、こんな思いきりのあることが出来るようになったのか。

 私が春に目を細める一方で、私自身もあの部屋での樹君の様子から、ずっと気にはなっていた問いが明かされるのを期待して、知佳さんへと熱い視線を送る。

 私達が迫ってくるのを見て、知佳さんは先程までの様子とは変わり、どこか真剣な面持ちで、庭に生えている植物を見やる。

 

「そうねぇ……、あの二人に関しては、何というか一言じゃ上手くまとまらないわね。それこそ樹が物心ついたときから、姉弟みたいで、友人のようで、師弟を思わせて、あるいは……」

 

 そこまで言うと知佳さんは、それ以上深く掘り下げるのを避けるように言い淀む。

 

「とにかく、一言では表せない関係だわ。けれど、樹にとって、明香里は今でも忘れることのできない存在であることは確かね」

「そうですか……」

 

 忘れることのできない存在……。

 樹君にとって、明香里さんが切っても切れないほど重要な人物であるというのは分かったけれど、一体樹君は明香里さんに今どんな気持ちを抱いているのだろう。

 きっとこのとてもとても気になる問いを解き明かさない限りは、樹君とさらに深い関係になるのは不可能に近いことだろうと、直感が私に働きかけてくる。

 春もきっと同じように考えているのだろう。

 胸に当てていた手を降ろして、膝の上で固くぎゅっと握り締めている。

 

「樹は、学校ではどんな感じかしら?」

 

 私と春が言葉を発せずにいると、今度は知佳さんから私達に尋ねてくる。

 

「樹君はクラスの委員長で、皆のことを気にかけてくれて、誰に対しても気配りができて、先生からも頼りにされてます。誠実で大人っぽくて、誰とでも仲良くできるから、クラスでも学年でも大人気です」

「そうなの、随分としっかりしてるのねあの子」

「はい!いつもカッコよくて、頼りになりますし、尊敬してます!」

「あらあら、お熱いわね」

「え、そ、そんな……」

 

 夕食の時の樹君に対してしたように、悪戯に微笑む知佳さんに弄ばれて、春はまた顔を赤らめていく。

 そんな知佳さんは表情を崩さないまま、視線を膝の上へ落とす。

 

「あの子、少し背伸びしてるのよ。早く大人になりたがって、色んな事をこなそうと、気ばかり張っちゃって。本人は上手く隠してるつもりでも、私には分かるわ。そんな風にさせたあの子の両親や私、それに明香里が悪いのだけれど。あのままだと多分どこかで疲れきってしまうわ」

 

 気遣わしげに語る知佳さんを見つめながら、私には普段の樹君の姿が思い浮かぶ。

 大人びていて頼もしい印象が、誰の目にも自然に定着しているように見える樹君が、実は多少気を張っているようなのは、薄々だけど感じてはいた。

 だって、私の手を引いて連れ出してくれたあの頃のあなたは、感情こそ今のようにあまり表情などに出なかったけれど、もっとありのままでいてくれたような気がするから。

 

「だからね、樹と親しいお二人だから、お願いと言ってはなんだけれど、少しでも樹の気を楽にさせてあげて。いつもだとかずっとだとかは言わないわ。ただ、ふとした時に気にかけて、寄り添ってくれるだけでいいから」

 

 真っ直ぐにこちらを捉えながら、知佳さんは不安なようで、けれど優し気な口調で私達に投げかけてくる。

 

「はい、任せてください」

「もちろんです、知佳さん」

 

 即座に伝えた春に続くように、私も間をほとんどおかずに返答する。

 あの勉強会の日から、私達の樹君への想いとその働きかけは決まっている。

 

「本当にいい子達ね。お二人なら、きっと樹だって……」

 

 知佳さんが言葉の続きを紡ごうとした瞬間、上からドタドタと音がしたと思えば、その音は階段の方へと向かってきている。

 きっと明日花ちゃんの足音に違いない。

 

「……今日はここまでかしらね」

 

 スッと知佳さんは立ち上がり、リビングへと足を向けようとする。

 気づけば太陽は地平線で見え隠れしていて、辺りは段々と薄暗くなってきていた。

 

「お二人さん」

 

 リビングへ動き出す前に、知佳さんは柔らかな笑みをたたえて私達の方へ向き直る。

 

「樹のこと、これからもよろしくお願いします」

 

 知佳さんが腰を折り曲げて、綺麗なお辞儀を突然にするものだから、私と春も慌てて立ち上がり、不格好なお辞儀を返す。

 

「お姉ちゃん達!一緒にこれやろ~!!」

 

 階段から降りてきた明日花ちゃんは、両手にボードゲームの箱を抱えながら、元気一杯の様子で尋ねてきた。

 後からやってきた樹君は半ば呆れたように、一条君も苦笑いを浮かべている。

 

「明日花、もうそろそろお時間よ」

「そうだぞ、お姉ちゃん達もお家に帰らないといけないから」

「え~~もっと一緒に遊びたい~!!」

 

 知佳さんと樹君に諭されながらも、明日花ちゃんはさらに駄々をこねる。

 私もまだまだここにいたい気持ちは山々だけれど、外も間もなく暗闇に包まれてしまう。

 そこで、私は春と顔を見合わせ、妙案を思いついたので、明日花ちゃんの方へと二人で歩み寄る。

 

「明日花ちゃん、今日のところは私達も帰らないといけないけど、今度ね、近くで花火大会があるの」

「花火、大会……?」

「うん、良かったら、お姉ちゃん達と一緒に行かない?先輩達とも一緒にね」

「行きたい!!皆さんと一緒に回れるの!?」

「そうだよ、樹君たちもいいよね?」

「ああ」

「いいぜ、千棘たちもきっと喜ぶと思う」

 

 二人からも了承の返事を得て、明日花ちゃんはそのルビーの瞳を一際煌めかせながら、とっても楽しみで仕方ないといった様子で小躍りしている。

 私は、そんな明日花ちゃんの様子を、困ったようにしながら笑みを浮かべて見つめる樹君の姿を、バレないように目でちゃっかりと追う。

 よかった。これなら明日花ちゃんも喜んでくれるし、何より樹君を自然に花火大会に誘うことができた。

 目を合わせただけでお互いの企みが分かっちゃうなんて、やっぱり私達姉妹だね。

 同じように樹君を眺める春と再び顔を合わせ、私達は微笑みあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 時計の針は21時を過ぎた頃だろうか。

 春達は既に家に送り届け、彼女達が帰宅した後もまだまだ元気の余っていた明日花と少し遊んだ。

 そしてつい先程、とうとう遊び疲れた明日花が寝静まったところだ。

 和風とモダンが噛み合ったリビングには、テレビから本日のニュースを読み上げるアナウンサーのハキハキとした声と、ブラウンの絨毯の上に整然と正座を組んでいる知佳さんがお茶を点てる音だけが聞こえてくる。

 オレはソファに腰かけ、ニュースを小耳にはさみながら、手元に置いてあったレモンスカッシュのペットボトルの蓋をプシュリと開ける。

 

「またそんなもの飲んで。体に悪いわよ」

「飲みたいから飲むんです」

「明香里みたいなこと言わないで頂戴」

 

 明香里の名前を出しながら、知佳さんは口を尖らせる。

 そういえば、明香里と一緒にいた頃は、半ば強引に飲みに付き合わされたっけ。

 あの人、すぐに酔うタイプだったから、一杯付き合うだけで済んだのだが。

 

「まだまだレモン系の飲み物しか味がしなくって」

「ずっと飲んでるわよね。お茶もまだ?」

「そう、だね。まだ」

 

 レモン系の飲み物は明香里の大好物だった。

 いつも飲み物を欲しい時に何か頼めば、そういうものばかり渡された。

 何回か直接尋ねたこともあったが、返ってくるのはいつも、まるでRPGのキャラクターのセリフみたいに、決まりきった言葉だった。

 

 ―――好きの押し売りよ。

 

 全く、とんだ迷惑である。

 今でもオレはそれらを手に取り続け、手放せないでいるのだから。

 

「今日、明香里とは何か話した?」

 

 お茶を点て終えた知佳さんは、出来上がったお茶の様子をまじまじと見つめている。

 

「この家には珍しく、若いお客様が三名いらしたよって。改めて、簡単な他己紹介したかな」

「そう」

 

 それだけ言って、知佳さんは音を立てずにお茶を啜る。

 そして、知佳さんは茶碗を机に置き直すと、こちらに視線を寄こす。

 

「今日いらして来た子達は、あなたに聞いていた通り、皆とてもいい子だったわ。一条君は好青年だったし、小野寺御姉妹は、小咲さんの方はお淑やかで、春さんは素直な子で、お二人とも可愛らしかったわ。素敵な人達に囲まれてるわね」

「ああ。何とも幸運だよ」

 

 知佳さんは、オレと目を合わせるというより、オレの首元辺りを見ているようであるが、次の瞬間その視線を引き上げて、オレの目をじろりと見つめる。

 

「樹、小咲さんや春さんのことをどう思ってる?」

「……どうしてまたそんなこと」

 

 炭酸の抜けるように、オレは気でも抜いてたのか、返答を間違えた。

 捕まえたとでも言いたげに、知佳さんはオレから目線を外さずにロックしてくるので、オレも目を背けずに身動きが取れなくなる。

 

「あら、気づいてないとでも思った?それとも、樹の方がまだ気づいてなかった?」

「さあ、どうかな。一体知佳さんは何のことに気づいたのやら」

「勘違いならごめんなさい。あなた、小咲さんや春さんと、なるべく二人もしくは三人でいること避けてなかったかしら?」

「……降参。相変わらずあなた方の観察と洞察には恐れ入る」

「正直なところがあなたの良いところよ」

 

 抵抗を試みはしたが、やはりこの家の人にはすぐに分かられてしまったようだ。

 わざとらしく両手を挙げるオレに、知佳さんはふっと微笑みをたたえる。

 

「それで、お二人のことはどう思ってるのよ?」

 

 知佳さんは目線はそのままに、小首を傾げて興味ありそうに眼をしばたたく。

 

「……二人とも、それこそ知佳さんの言葉を借りるなら、とてもいい子だよ。小咲は、小さい時からだが、おっちょこちょいでぼんやりとしてることが多いけど、穏やかで一緒にいれば気兼ねなく接することができて落ち着く。春は、高校の初日から知り合ったけど、見てるこっちが恥ずかしくなるくらい素直だし、礼儀正しい。それに、感情が豊かで表情をコロコロ変えるものだから、一緒にいて飽きない。それと、二人とも他人を気遣う優しさを持ってる。たまにそれが行き過ぎてて心配になることもあるけど」

「あらあら、樹にしては、随分と語るわね」

「正直なので。聞いたの知佳さんだろ」

 

 口元に袖を当てて目を丸くする知佳さんに、オレはいたたまれない気持ちを視線で送る。

 確かに少し言い過ぎたのは、自分であるんだけれど。

 

「そうね。けれど、樹にとってはいいことよ」

 

 袖を振り払いながら、知佳さんはオレから目線をずらし、今度はテレビ画面の方を何となくといった感じで見やる。

 

「また一つ聞くわ、樹。お二人とはこれからどうしていきたい?」

「どうしていきたい、か……」

 

 それだけ言うにとどまり、オレは二の句が継げなくなってしまう。

 二人と、小咲と春と、どうしていきたいかなんて、今のオレには……。

 

「大人の殿方なら、女の子をあんまりに待たせるのは感心しないわよ」

「分かってる」

 

 あの二人それぞれへの明確な感情を、自分自身が納得できる答えを、今持ち合わせている訳ではない。

 しかし、このままの関係を引き延ばしたままなのは、オレにとっても、あの二人にとっても、良いことではないということは感じている。

 ただ、どうしてか。まだ踏み切るべきではない、踏み切ってはならないと、アクセルを入れようとする足を絡めとるように、ブレーキの手がいくつも伸びてくる。

 それに、あの人のことだってまだ……。

 

「樹、明香里のことが忘れられない?」

 

 知佳さんからのそっと触れるような言葉に、オレはハッと息を呑み顔を上げる。

 はたから見ると、前屈みになって床ばかり見ていたことに、今更ながら気づいた。

 

「明香里のことは忘れなくていいのよ。いや、忘れてはならないわ。死んだ者は二度とこちらに戻ってはこないけれど、生きる私達の記憶の中で生き続けることができるのよ」

 

 知佳さんは、テレビ画面から目線を天井の方へ逸らし、目を閉じて、オレだけでなく、自分にも沁み込ませるように語りかける。

 

「しかしね、樹。それに縛られたり、囚われたりしていてはいけないわよ。これは、明香里が亡くなってすぐ後に、向こうで私があなたに伝えたわよね。覚えているかしら?」

「ああ、覚えてる。覚えてはいるけど……」

 

 忘れもしない。あの夏の終わりが近い頃の、こっちの夏と比べたらずっと涼しくて、曇天が空を覆いつくしていたあの日。

 連絡を受けて飛行機で飛んできた知佳さんが明日花とともに駆けつけてきて、忙しいはずだが居合わせてくれたオレの両親と、諸々の手続きを済まし終えた後、オレ達の家で日中わんわんと泣いていた明日花が寝静まってから、二人きりになった時に伝えられた言葉だ。

 

「ええ、実際にそれができるようになるのは時間が必要よ。特にあの頃のあなたにとって、明香里という存在が一番近しい存在だった。ひどく難しいことだと思う」

 

 知佳さんは目をゆっくりと開けながら、天井をじっと眺めている。

 

「けれど、もう一つ必要なことがある。それは、この悲しみや痛みを少しでも共有してくれる人よ。一人では抱えきれずに押しつぶされてしまいそうになる。私やあなたのご両親、明日花だって、あなたにはいつでも手を差し伸べるわ。それでもね、小咲さんや春さんこそが、一番あなたにとっては力になるはずだと私は思うの。それが例え、あなたの選んだ方でも、どちらであってもよ」

 

 天井を眺めたまま、知佳さんは目の周りのしわをくっきりとさせながら、顔全体から力を緩めて柔らかい表情を作り出す。

 

「だからね、樹。今あなたの前にいる小咲さんと春さんのことに、しっかり向き合いなさい。あなたがそうある限り、あのお二人なら受け止めてくれるわ」

 

 そこまで言うと、知佳さんは茶碗を手に取り、茶の残りを全部飲み干すと、テキパキと机の上を片付けて、自分の寝室の方へと歩いて行く。

 そして去り際に、相談にはいつでも乗るから、とだけ言い残して、そのまま扉を閉めて行ってしまった。

 

 いまだ流れてくるニュース番組の、週間の天気予報を伝えるキャスターの声だけが響くリビングに、一人ぽつりとソファに取り残されたオレは、手元に置いていたペットボトルを再び手に取り、まだ半分残ってる中身を恨めし気に眺める。

 それが自分の中に今なお在る想い出の残滓にも、抱えている焦燥や苛立ち、不快感、悲しさや愛しさといった感情の数々がごちゃ混ぜになったようなものにも見える。

 オレは蓋を開けて、それらを無理矢理に、喉の奥へ奥へと流し込む。

 忽ちやってきたレモン特有の酸味と苦味といった炭酸の刺激に、オレは思わず顔をしかめながら、瞼を強く閉ざした。

 

 




 第十六話『カンケイ』をご一読下さり、ありがとうございました。

 いかがだったでしょうか?

 迫る小野寺姉妹、悩む樹。

 それでは、また次のお話で。


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第十七話 ハナビデ

 
 第十七話にお立ち寄り頂き、ありがとうございます。

 前まで詰め詰めで書いてましたが、少し変えてみました。
 これまでの話もそのように修正してあります。

 それでは。


 7月もあと数日したら終わる。

 日本の夏は、肌をこんがり焼くメラメラとした暑さもあれば、肌がべったりするジメジメとした湿気もある。

 一方で、夕立の雨はまるでシャワーを浴びるみたいで気持ちいいし、木々の生い茂る緑とカラッと晴れ渡る空色の組み合わせは素晴らしい。

 そんな日本の夏も、まもなくその盛りの8月がやってくる。

 知佳さんの家の縁側で、オレンジ色に照らされている庭の植物たちを眺めながら、オレは取り留めもなくそんなことを浮かべる。

 

 明日花のおねだりで三人が訪ねてきた日から、一週間は経っているだろうか。

 今日は、小咲と春の言っていた花火大会の当日だ。

 あの時小咲に尋ねられ、その場の流れでオレはそのままOKと返してしまった。

 けれど、知佳さんと話して、いやその前からも、オレはすっかり小咲と春との関係について頭を悩ませていた。

 

 ――――あなたのしたいようにすればいいのよ。

 

 そうして思惟する度に、脳裏には紅い唇を覗かせる明香里の言葉がリフレインされてくる。

 ますますどうすればよいのか分からなくなってくる。

 望みはそれこそ言葉にしきれていないだけで、オレの心を激しくドンドンと打ち付けている。

 なのに、オレのいる部屋にはとても簡単には手放しきれないものがある。そのせいでオレは狼狽え、怯え、怖がり、結局はうずくまってしまう。

 あの日も、この前も、知佳さんには忠告されてきたのに。オレは全くもって前進しきれず立ち止まったままだ。

 思考の波を断ち切るために、オレはため息を一つついて、そばに置いてあるコップ一杯分のレモンティーを飲み干す。

 すると、リビングの奥の方からこちらへと、元気のよい足音が近づいてくる。

 

「お兄さん!!見て見て!おばあちゃんに着付けてもらったんだ!」

 

 ルビーの瞳をキラキラと輝かせながら、明日花はオレの前でその浴衣姿を回って見せる。

 

「よかったな。いい感じじゃん」

 

 浴衣は赤地に水色の朝顔が所々あしらわれている。

 天真爛漫な明日花にはよく似合う。

 

「でしょ!お兄さんも浴衣いい感じだね」

「どういたしまして」

 

 実のところオレも、知佳さんに促されるがまま、用意してもらった浴衣に自分でパパっと一足早く着替えていた。

 女性陣の準備は時間がかかるのもあり、待ち時間が思いの外できてしまった。

 そのために、つい先ほどまで縁側で黄昏る羽目になったので、こうして明日花が来てくれて安堵する。

 そう、女性陣は時間がかかる。

 今回、知佳さんは花火大会には付いてこない。

 なので、他に誰のことを待っているのかというと……。

 

「樹君、お待たせ」

「随分とお待たせしてすみません、樹先輩」

「お姉ちゃんたちも着付け終わったんだね!」

 

 少し申し訳なさそうにしながら、こちらへ顔を覗かせてくる小咲と春の姿がそこにはある。

 どうしてこんなことになったのか。

 前回の帰り際に知佳さんが、浴衣を貸してあげる、と秘密裏に提案していたみたく、二人もオレに黙って了承していたとのことらしい。

 

 オレがそれを知佳さんから知らされたのは、今日の昼食を取っていた時だった。

 口に含もうとした水を思わず吹き出すとところだった。

 

「お二人とも、元々がとっても良いから、浴衣が映えるわ~」

「「あ、ありがとうございます…」」

 

 今回の首謀者はオホホといった感じで、口元に袖を当てながら、二人の着物姿とその反応を楽しんでいるようである。

 

「樹も何か言ってあげたら?」

「…知佳さん」

 

 ご機嫌な知佳さんは、その矛先を二人からオレへと向ける。

 小咲と春も照れていた様子から一転し、どこか期待しているような目でこちらへと振り向く。

 小咲の方は白地に赤と水色系のダリアが彩られている。

 春の方はクリーム地にピンク系の縞模様であしらわれ、紫色の帯が良いアクセントとなっている。

 

「そうだな…、二人とも、それぞれに似合ってるし、いいと思う」

 

 それぞれの浴衣姿を数秒であるがまじまじと見た割には、大したようなことも言えず。

 今度はオレが二人に対して、少し申し訳ないような気持ちになる。

 しかし、当のご本人達は顔を俯かせ、頬をほんのりと赤らめた様子である。

 どうやら悪いわけではなかったとオレは一息つく。

 

「さあ、皆さん!気をつけていってらっしゃい」

 

 満足したように微笑みを浮かべる知佳さんに送り出される。他の皆との待ち合わせの場所である花火大会の会場まで、四人連れ立って向かう。

 そういえば、花火なんていつ振りだったろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

「千棘ちゃん!お待たせー!」

「小咲ちゃん達~!やっほ~!」

 

 私は集合場所である屋台の前で、一人佇む千棘ちゃんへ声を掛ける。

 私と春、樹君と明日花ちゃんの四人でここへ向かう途中で、るりちゃんと風ちゃんとも合流した。

 私達は花火大会の会場として、多くの屋台と人で賑わう河川敷に辿り着いた。

 

「明日花ちゃんも来たんだね!!今日は楽しもうね~!!」

「うん!千棘お姉ちゃん!!」

 

 千棘ちゃんが明日花ちゃんの方へと駆け寄っていく。

 明日花ちゃんもそれに応じるように、輝くような笑顔で千棘ちゃんに抱きつく。

 

「桐崎さん、楽達は?」

「買い出し!そろそろだと思うけど――」

「おーーい、戻ったぞ~!」

 

 樹君と千棘ちゃんが言葉を交わしている間に、一条君の呼びかけが聞こえてくる。

 声のする方向へ振り向くと、ビニール袋を片手に持つ一条君とともに、舞子君と鶫さんも連れ立ってやってきていた。

 

「皆着いてたか。ほれハニー、焼きそばとイカ焼きとリンゴ飴」

「ありがと~、ご馳走様~」

「誰がおごるっつった!?」

「あれ、楽のおごりじゃないの?」

「樹も乗るなよ!」

 

 一条君と千棘ちゃんに樹君も加わって、賑やかしげな会話が繰り広げられる。

 樹君って、昔も今もこういうときノリがよくなるよね。

 何だかそんなあなたは、こうした時間は少し気を緩めることが出来てるのかな。

 そんな風に感じられて、私は勝手ながらちょっぴり安心するのだ。

 

「……そういや、今年こそ見れるかなぁ、例の花火」

「……それ“お結び玉”の事?」

「?なんだよそれ」

 

 舞子君とるりちゃんがそんなことを呟くので、一条君達も会話を止めて尋ねる。

 

「知らないの?毎年ここの花火大会では年に一発、いつ上がるかわからない幻の花火があるんだ。それを男女二人で見ると結ばれるって言われてるんだよ」

「よく知ってるな、集」

「お前そういう話ホント好きだな」

 

 舞子君の説明に、樹君はへえといった感じで、一条君は半ば呆れるように相槌を打つ。

 私も、そんなのあるんだ、と聞き通しながら、ある妄想を膨らましてしまう。

 するとそこから、橘さんが一条君へと突っ込んでくる。

 “お結び玉”を一緒に見るようにと、体を寄せて熱心に誘っている。

 堤防の方を眺めると、既にハート型で照明付きの二人用の椅子が用意されている。

 橘さんのやることは相も変わらず大胆で積極的だ。

 呆気にとられることも多いけれど、その心意気はすごいなっていつも思う。

 

「まぁ今年は皆で見る事になりそうだね。楽、こっそり抜け出して、誰かと二人きりになろうとするなよ?」

「しねーよ、んなこと!!」

「楽様私と!!ぜひ私と……!!」

 

 舞子君から一条君へと釘を刺すような一言に、私も少なからずドキリとしてしまう。

 なぜなら、樹君とこっそり二人で抜け出そうかなって、さっき妄想しちゃったから……。

 もしそんなことになったらどうしよう。どうしてしまおう。でも、そうなったらいいな……。

 

「ちょっ……小野寺!」

 

 独りでにそんなことを浮かべては体を熱くしていた私に、一条君がどこか慌てたような感じで呼び戻す。

 

「春ちゃんの事、ちゃんと見といた方がいいぞ?あの子、とんでもなく方向音痴だろ…?」

「あ、うん、分かってる」

 

 小声でひそひそと伝えてくる一条君。

 私も春の方向音痴な面を思い出し、苦笑いを浮かべる。

 皆が皆それぞれで会話している様子を見る限り、どうやらいつの間にやら、花火が始まるまでは自由時間になったらしい。

 

「余計なお世話ですよ、一条先輩。高校生にもなって迷子になんかなりませんよ」

「あ、ゴメン。聞こえてたか」

 

 私達の会話が聞こえていたらしい春が、ずいっとこちらへ顔を覗かせる。

 

「それと、お姉ちゃんを『小野寺』って呼ぶのもやめて下さいよ」

「へ!?」

「私だって小野寺なんですから。そう呼ばれると、たまにごっちゃになるんです」

「じゃあ…なんて呼べば…」

「下の名前で呼べばいいじゃないですか、フツウに」

 

 話を黙って聞いていれば、突然に何て事を言い出すのだ、春は。

 あまりのことに顔を赤くしてしまった私に、一条君も同じように顔を赤くしてこちらの方を見やる。

 

「え……と……小咲?」

 

 一条君から下の名前で呼ばれるのは、恐らく初めてかもしれない。

 なので、私は思わず照れてしまい、視線を一条君から逸らしてしまう。

 おかしいな、さっきまで樹君のことばっかり考えてたのに。樹君に思いを寄せるってとっくに決めたのに。こうしたことで前まで想いを寄せていた一条君にドキドキしてしまう。

 私って実は相当はしたないのかも。

 

「や、やっぱり普段通りでいこうぜ」

「そ、そうだね!」

 

 笑いかけてくれる一条君の厚意に甘え、私は俯きながら頷き返す。

 そこからは、自由行動と言うものの、基本的には皆である程度固まって回ることになった。

 明日花ちゃんと手を繋ぎ、一条君や千棘ちゃん達と一緒に歩く樹君。

 その後ろ姿を私は少し引いたところから、るりちゃん達と一緒についていく。

 暫く時間が経っただろうか。

 るりちゃんが屋台で買ったものをたくさん食べる様子に、どこにそんな量のカロリーが消えていくの、と隣で羨ましがっている内に、ある人物の姿が見当たらないことに気付く。

 その子と最も近くにいたであろう子に居場所を尋ねてみる。

 

「風ちゃん、春を見てない?いつの間にかいなくなって……」

「それが……私もさっきはぐれちゃって」

「う~ん、大丈夫かな、あの子……」

 

 どうやら目を離している間に、春とははぐれてしまったようだ。

 あの子は、何故だか分からないけれど、フラフラとどこかに行ってはすぐに迷子になってしまうことがしばしばある。

 今回も多分その類のものだろう。

 恐らく一人だろうけど、花火の時間も割と近くなってきてる。

 探しに行くかどうか迷っていると、浴衣姿の彼がこちらに近づいてくる。

 

「春が一人ではぐれたらしいって本当か、小咲?」

「う、うん、そうみたい、樹君」

 

 樹君はやれやれといった具合に口元を少し曲げた。

 しかし、またいつもの澄ました凛々しい表情に戻る。

 

「オレが春を探してくる」

「え、でも……」

 

 そしたら、あなたと一緒にいられない。

 

「こんなところで女の子一人は、ちょっと危ない気がするし、探すなら男のオレが行った方がいいだろ」

 

 樹君は理性的に、合理的に状況を把握して、筋の通った説明をしてくれる。

 けれど、私の個人的な感情がそれを引き留めようとする。

 

「じゃ、じゃあ、私も一緒に行く!」

「駄目、小咲には頼み事がある」

「頼み事?」

 

 私の試みは樹君にすぐに却下されたかと思えば、頼み事とは。思わず私はキョトンとする。

 

「オレが春を探しに行ってる間、明日花と一緒にいてくれないだろうか。幸い桐崎さんとかにも可愛がられてるけど、頼めるとしたら君だけなんだ」

「私、だけ…?」

 

 樹君が、君だけ、なんて言うのだから、私はときめいて心臓が加速してしまう。

 

「そう。だから、任せてもいいかな?」

 

 樹君の真っ直ぐな眼差しが、私の瞳を貫いてくる。

 

「…うん、分かった。花火までには戻ってきてね」

「ああ」

 

 川が流れるがままに、樹君はそのまま私達から背を向けて、人ごみの中へと紛れて行ってしまう。

 樹君の姿が見えなくなった後、私は明日花ちゃんの元まで歩み寄る。事情を伝えて、私は樹君の代わりに明日花ちゃんの手を取る。

 

 ――――樹君に、頼られた。頼ってもらえた。

 

 そのことだけで私の心はポカポカと温まる。

 私と手を握る明日花ちゃんがこちらを見て笑顔を振り向けてくれるのに対し、私もその嬉しさを表すように微笑み返した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 祭りもいよいよ中盤戦へと差し掛かっているようで、賑やかさも一層増してきている。

 私は人ごみに溢れた道の真ん中にいくつかあるベンチの一つに座り、自分に失望しながらへたれこんでいた。

 風ちゃんに連れられ、皆と少しだけ離れて出店を見回っていた。

 けれど、私がご飯を買いに行くと言って、風ちゃんとも別れたきり、完全にはぐれてしまって独りぼっちだ。

 ここがどこかも分からないし、通信が悪くて連絡も取れない。

 やってしまった。迷子になってしまった。

 せっかくのお祭り気分も台無しだ。

 それに、お姉ちゃんや一条先輩にあんなこと言っておいて迷子になってる。

 何とも自分が情けなく、恥ずかしい。

 樹先輩なら、私の王子様なら、私の事助けに来てくれるかな……。いや、ダメダメ!こんなことで弱気になってどうする、春!

 とはいえ、この人だかりの中で知り合いを見つけられるとも……。

 

「そこのお嬢さん、可愛いね~。俺達とどっかで遊ばない?」

 

 声がする方向を見上げると、大学生くらいの男性が二人。私の目の前まで来ていることに気付く。

 

 こ、これって、俗に言うナンパってやつじゃ……!

 

 私は途端に怖気づいてしまい、わなわなと口を開けなくなってしまう。

 

「まあまあ、とにかく一緒に遊ぼうよ」

 

 男性のうちの一人の手がこちらへと段々と伸びてくる。

 怖い、やだ、助けて、樹先輩……!

 私はぎゅっと目を瞑る。

 

「悪い、待たせたな」

 

 聞きなじんだ落ち着きのある声がするので、目をゆっくり開ける。

 白の細縞の入った灰色の浴衣を着た樹先輩がそこにやってきていた。

 

「なんだ、彼氏持ちの子か」

「だな、行こうぜ」

 

 彼らよりも一回り背の高い樹先輩に気圧されたのか。男性二人は逃げるように群衆の中へと消えていった。

 彼らがいなくなったのを確認して、樹先輩はジト目をしながら、惚けている私の方へ顔を向ける。

 

「……高校初日以来、二回目だな。こういうの」

「す、すみません!!あのままだったらどうなってたか…。樹先輩、また助けて下さりありがとうございます……!」

「ほんと、どっかに連れていかれてなくて良かったよ」

 

 樹先輩は目を閉じてほっと一息つくと、そのまま私のすぐ隣に腰かけた。

 見つけてもらえたこと、助けてもらえたことですっかり安心しきった私は、先輩が側にいるのを見て、急に心臓の音の高鳴りを感じずにはいられなくなる。

 

「先輩、よく私のこと見つけられましたね」

「春、確か風ちゃんと一緒に、オレらとは逆方面に行ってただろ。だから、風ちゃんに言われて小咲に確認してから、急いでこっちまで回ってきただけのことだよ」

「そうですか……」

 

 よく見ると、樹先輩の首元には汗がうっすらと滲んでいる。

 表情では見せないけど、私のために、頑張って探し回ってくれたんだ。

 そう思うだけで、胸がどこかきゅんとしたり、心が何だかくすぐったかったりする。

 それに今日は、いつもの制服姿や私服姿とは違い、浴衣姿の樹先輩。

 ただでさえ和風が好きな私には効果抜群だ。

 もう、この人はどんだけ私のことを好きにさせるつもりなんですか。

 そんなことを脳内で繰り広げていると、樹先輩はおもむろに口を開く。

 

「さて、皆も心配してるだろうし、そろそろ向かおう。立てるか?」

 

 樹先輩は立ち上がって、穏やかな表情で私のことを見てくれる。

 

「きょ、今日は立てますよ!ほら、この通り!」

 

 私は、前とは違うと樹先輩にアピールするかのように。わざとらしく大げさに、バッと立ち上がって見せる。

 

「よかった。じゃあ、ほら」

「ふえ?」

 

 私の様子を見て微笑む樹先輩は、私の方へ右手を差し出してくる。

 そのまま有無を言わせず私の左手をそっと掴む。

 

「またはぐれたら困るだろ。皆のいるところまではこれで我慢しな」

「は、はい……」

 

 人でごった返している通りに向けて歩き出す樹先輩。

 私は火照らせた顔を隠すように、俯きながら口を紡いでついていく。

 また樹先輩と手を繋ぐことができるなんて、夢みたいだ。

 先輩の手は変わらず、頼もしくて、大きくて、優しくて、とても安心する。

 今日二人きりになれるとは露とも思ってなかったので、こうして想い人と二人きりになれてしまうと、ついわがままなことも考えてしまう。

 急いでるんだろうけど急ぎ過ぎないように。

 歩幅をゆっくり合わせてくれる樹先輩に私は言葉をかける。

 

「樹先輩、申し訳ないんですけど……」

「どうした?」

 

 樹先輩は足を止めて、私へ訝しげな表情を向ける。

 

「あれ、やってみたいです」

「あれ?」

 

 私が控えめに指差す方向には、水風船を子供用プールにプカプカと浮かべる屋台がある。

 先輩と二人きりで一緒に、お祭りを少しの時間でも楽しみたい。

 

「いいよ、やろうか」

「やった!やりましょう、先輩!」

 

 私のそんな思いを汲んでくれたのだろうか。

 樹先輩は相好を崩して、その屋台へと先輩の手を引く私についてきてくれた。

 店主の方から釣り針をもらうと、私達は二人隣り合わせで腰を下ろして、水風船を取ろうと意気込む。

 けれどこれが中々難しく、上手くいかない様子でいる私を見かねて、樹先輩がお手本を見せてくれる。

 爽やかに笑みを浮かべてやり方を教えてくれる樹先輩。

 取れた水風船を得意気な顔をして見せてくれる樹先輩。

 私が教えられた通りにできるか優しく見守ってくれる樹先輩。

 どの先輩も素敵だ。

 私が慎重に慎重に吊り下げた釣り針は、水風船へしっかりと引っかかる。

 

「取れた!!やりましたよ、樹先輩!」

「よかったな」

 

 水風船を取り上げることができた喜びと嬉しさで、私は胸がいっぱいになった。

 私はそれを大っぴらに見せびらかすように、樹先輩の方へ体を傾けた。

 樹先輩もこちらを見やり、頬に手を当てながら目尻を下げている。

 そんな先輩が愛おしくなって、私はまた顔を綻ばせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「花火、とっても綺麗だったな~!」

「そうだったよね~、明日花ちゃん」

「うんうん!ハート型のやつとかスゴかった!!」

 

 花火も打ち終わりを迎え、帰路につく人も次々と出てきた。明日花は感激して、テンションが上がりまくっている。オレ達は今日の花火大会のことなどでワイワイと立ち話をしていた。

 迷子の春を見つけ、花火が打ち上がる前に皆と合流できたので、花火は皆で揃って見ることが出来た。

 出来たのだが、思ったより合流には時間がかかってしまった。

 明日花の面倒を任せていた小咲には、遅いよとか、心配したよとか、若干小言を言われた。

 何せ二人で皆と合流を目指す途中、春が、水風船などであんまり楽しそうにはしゃいだり、大判焼きなどをあんまり美味しそうに頬張ったりするものだから。

 こっちも春のそんな様子を見るのが楽しくなってきてしまい、ついつい所々で寄り道を繰り返すことになってしまった。

 些細なことであっても、その嬉しさや楽しさを、表情や体全体で表現することのできる。そんな人が今のオレには眩しくも羨ましく映る。

 

「おーい、皆~!これやらない?」

 

 集が手に線香花火の袋をいくつか持って、皆へ呼びかける。今回の花火大会の最後のイベントということで、皆もそれぞれ思い思いに袋から線香花火を持ち出していく。

 

「お兄さん、どうやったらいいの?」

 

 向かいに座り込む明日花がオレにそう尋ねてきた。

 向こうの方には楽達がいる。

 こちらにはオレの両隣に右が春、左が小咲と気づいたら陣取られていて、春と小咲の隣には風ちゃんと宮本さんもいる。

 

「ほら、こっちに近づけてみな」

 

 言われた通りに近づけてきた明日花の線香花火の先に、オレはすぐ側に置いてあったライターで火を点ける。

 

「あ、火点いた!ど、どうしよ、お兄さん」

「そのまま、なるべく揺らさずに。そうそう」

 

 流石、聞き分けの良い子だ。

 教えた通りに線香花火を持ち、火の玉がパチパチと飛び回る様子を興味深そうな目で見つめる明日花を見ながら、オレはほっと一息つく。

 両隣の二人も、それぞれの親友と線香花火を楽しんでいるようだ。

 全く、オレが今となっては教える側の立場になるなんて、想像もしなかった。

 

 5,6歳の頃の夏だろうか。

 凡矢理にいて、まだ当時大学生の明香里に連れられて、どこかの花火大会に行ったっけ。

 あの時、花火のはの字も、屋台のやの字も知らなかったオレは、明香里にとことん色んな所に連れ回された。

 水風船の取り方も。線香花火の火の点け方も。花火大会におけるその他諸々のことも。

 思い出してみれば、全部あの人に教わった。

 こういうのを人に教える時、あなたもこんな気持ちになりましたか。

 是非とも明香里には尋ねてみたい。

 

 すると、花火大会に来る前に頭に浮かんだ、花火はいつ振りだろう、という疑問がここに来て再び浮かんできた。

 花火大会のような大袈裟なやつで言えば、一昨年から昨年への年越しに二人で見たカウントダウンの花火である。

 だが、花火という括りで言うなら、去年の今頃に遡る。

 少し体調も良くなってまだ動けた明香里の誘い文句に捕まり、宵の口に病院を抜け出してすぐ近くの公園で隠れるように。

 これまたどこに隠してたのか知らない線香花火の袋から、一つ一つ取り出して火を点けあった。

 今右手に持っている線香花火の踊る様子を見ながら、オレはそんなことを思い出す。

 

 ――――線香花火って私みたいよね。

 ――――何ですか、藪から棒に。

 

 明香里は突然に、よく分からない比喩を平然と持ち出すことがあった。

 

 ――――夏の蝉と一緒よ。

 

 オレが分からなそうに目を点にしていると、あの人はヒントをくれる。

 

 ――――また来年もこうしてましょうよ。

 

 オレは上手い返しが思いつかず、子供じみた願望を言うに留まった。

 

 ――――ええ、あなたがそう言うなら。

 

 暗がりでぼんやりとしか見えなかったあなたは、どんな表情をしてたっけ……。

 

「お兄さん」

 

 明日花の声掛けにハッとして、オレは現実の世界へと引き戻される。

 見渡すと何故か、明日花も。隣にいる小咲も春も。それどころか風ちゃんや宮本さんも。心配そうな、困惑してそうな表情をオレに向けていた。

 

「どうして泣いてるの?」

「え?」

 

 左手で左頬に触れると、目から流れ出してきたものが伝うのを感じる。

 触れていない右頬から雫がこぼれ落ちると同時に、オレの持っていた線香花火の玉も地面へとポトリと落ちていった。

 

 




 
 第十七話『ハナビデ』をご一読下さり、ありがとうございました。

 いかがだったでしょうか?

 些細なことでも、ふとした時に涙が出ちゃうこととかありますよね。

 それでは、また次のお話で。


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第十八話 ハナシテ

 第十八話にお立ち寄り頂き、ありがとうございます。

 それでは。


 盛夏を思わせる日差しが地面を強く照らし続けており、外はうだるような暑さだ。

 クルクマや秋海棠が花を咲かせ始める八月になった。

 お姉ちゃんや樹先輩達と花火大会に行ったのも、随分と遠くに感じてしまう。

 あの時、明日花ちゃんの気がかりそうな呼びかけで樹先輩の方に目を移した時、泣きそぼつ樹先輩の姿がそこにはいて、私は不意を打たれて狼狽えてしまった。

 触れてほしくないように、何でもないようにとぼける先輩を見て、私は理由を問いただせずに何も言うことができなかった。

 だって、あの時の先輩は、それ以上口を出せば、触れてしまえば、そのまま音を立てて崩れていってしまいそうなくらい、悲しそうで辛そうな表情をしていたから。

 楽しかったはずの花火大会での記憶は、嘘みたいにそのことで埋め尽くされてしまった。

 私もお姉ちゃんも、花火大会の後の数日は、樹先輩のことが心配で、どうして涙していたのかを考えてばかりで、浮かない表情をしていた気がする。

 自分達だけではどうにもこうにも頭を抱えてばかりだったので、風ちゃんやるりさん、お母さんにも相談してみた。

 

「今は……、あまり気にしないであげたほうがいいんじゃない?」

 

 風ちゃんは、まじまじと手元にあるチェキの画像を覗いている。

 

「そっとしといてあげるのが一番じゃないかしら」

 

 るりさんは、暑さに唸りながらバニラのアイスクリームを口にする。

 

「そういうのは待ってあげなさい。樹君ならその内話してくれるんじゃない?」

 

 お母さんは、台所で洗い物をしながら、いつもよりも穏やかな口調で言う。

 三人とも結論としては同じようなので、それらを踏まえて私とお姉ちゃんは改めて二人で話し合った。

 結局のところ、樹先輩とはいつも通りに接したり、こちらから遊びに誘ったりしていくことに落ち着くことになった。

 

 例えば、樹先輩を水族館に誘ってみた。

 チケットは四枚あり、もう一人に一条先輩が連れて来られたけど、大事なのは樹先輩が私達の誘いに乗って来てくれたことだ。

 その日は、入口付近のパネルで記念撮影をしたり、館内の綺麗な水槽に収められた生物達をたくさん眺めたり、賑やかなイルカショーを見に行ったりして、とにかく楽しんだ。

 帰り際に樹先輩から貰ったお土産のストラップは、私の通学鞄に取り付けられている。

 

 また、明日花ちゃんとも一緒に、先輩たちも含めて、樹先輩のお家へ遊びに行った。

 事前に了承は得ていたので、押しかけて来た私達を、樹先輩はいつもと変わらない穏やかな表情で迎え入れてくれた。

 皆でたくさんボードゲームやテレビゲームをしたり、勉強を進めたりしたっけ。

 

 この前なんかも、図書館で夏休みの宿題を終わらせようとしてたはずなのに、桐崎先輩と橘先輩の料理対決に巻き込まれたことがあった。

 桐崎先輩の持ってくる奇天烈な料理や、それを食べて吹っ飛んだりする一条先輩を、呆れたような笑みで眺める先輩の姿が見れるだけで、私は胸を撫で下ろしていた。

 

 近々では皆で海に行く予定もあったのだが、一条先輩が盲腸になって入院することになってしまった。

 なので、その予定は中止になり、今日は一条先輩へのお見舞いに、お姉ちゃんと一緒に向かっている。

 

 図書館以来、樹先輩とは会えていない。

 海に行く予定も、話が出た時点で先輩は断っていたそうだ。

 花火大会以来、振り返った通り先輩とは会っていたけど、私やお姉ちゃんは先輩から避けられているような気がする。

 花火大会の件で、私やお姉ちゃんに対して気まずく感じてしまっているのかな。

 それとも、私達の想いがあなたに伝わってしまったのかな。

 あなたとの距離を詰めたいのに。あなたにもっと近づきたいのに。

 夏休みもあと少しで終わっちゃいますよ、先輩。

 私は心の内で樹先輩に呼びかけるようにして、辿り着いた病院の屋内へと入った。

 

 

 

 

 

 

 

 

「じゃーね、一条君。また来るからお大事にね」

「サンキューな、小野寺。それに春ちゃん」

「安静にしてくださいよね。それではまた」

 

 春と一緒に一条君のお見舞いを終えた私は、扉を閉めてナースさんがまばらに行き交う廊下を歩き出す。

 海に行く予定が中止になっちゃったのは残念だけど、一条君が大変そうで心配だったし、今日元気そうなのも確認できて良かった。

 一条君のことはこれでひとまず安心なのだけれど、問題なのは樹君の方だ。

 花火大会のあの日以来、樹君は私や春と一緒にいるのを避けがちになっているような気がする。

 もう少ししたら夏休みも終わって二学期が始まるというのに、樹君のことでモヤモヤが晴れないままなのはよろしくないように感じる。

 それにあの日以来、樹君の表情はいつものように澄ましているのに、どこかそこには憂いがあるようで、何か悩んでいそうに見えた。

 一体樹君は何に悩んでいるのだろう。

 その悩みらしきものがきっと、幼い頃でも見たことがなかった、あの日の樹君の涙に繋がっているはずだ。

 夏休みが終わる前に一度でもいいから、樹君と会って話がしたい。

 その時に樹君から聞き出せるなら聞き出して、少しでも樹君の力になれたら……。

 

「ね、ねぇお姉ちゃん」

 

 私がつい考えを巡らしていると、春がある病室の前で立ち止まり、驚いたようにして病室前の名札を指差している。

 名札には『二階堂知佳』と記されている。

 

「え……、まさか知佳さんの事じゃないよね?」

「わ、分かんないよ……」

 

 寝耳に水のことで、私も立ち止まって呆然としてしまう。

 もし知佳さん本人だったら、樹君は、明日花ちゃんはどうしてるのか。

 

「あら、あなた達。これから二階堂さんのお見舞いかしら?」

「え、いや、その……」

 

 黒髪ロングなナースのお姉さんが声をかけてくれるが、私達はどう返答すればよいか分からずまごついてしまう。

 

「二階堂さん!可愛らしいお嬢さん方がお見舞いに来てくださいましたよ!」

 

 そんな私達の様子は露知らず、ナースのお姉さんは扉を開けてしまう。

 なので、私も春も恐る恐病室の中へと顔を覗かせる。

 

「あら、ほんとに可愛らしいお客さんだこと。いらっしゃい、小咲さん、春さん」

 

 そこには、本を片手にこちらへとにこやかな笑みを浮かべる知佳さんの姿があった。

 私達は招かれるがままに、知佳さんの元まで駆け寄る。

 

「ち、知佳さん!一体どうされたんですか!?」

「そうですよ!どうしてここに……!」

「ちょっと貧血で倒れたようでね。私も年よね」

 

 慌てた様子で迫る私達に、知佳さんは本を枕元に置きながら、平然と話す。

 

「そんな心配なさらくても大丈夫よ、お二人さん。あと二、三日もすれば退院できると言われてるわ」

「け、けど、いつから……」

「いつからと言われたら、一週間くらい前かしら。樹が一緒にいたから助かったわ」

「そ、そうなんですか……」

 

 一週間前……。図書館で皆と夏休みの宿題を終わらせた次の日くらい?

 樹君の姿を最後に見た日だ。

 

「い、樹先輩や、明日花ちゃんはどうしてるんですか?」

「あの二人なら元気にしてるわ。樹には、明日花のことでも、他のことでも色々と面倒かけてしまったけどね……」

 

 知佳さんはそれだけ言うと、少しばかり表情を曇らせる。

 

「実はね……、昨日は明香里の一周忌だったのよ。本来は私がやらなきゃいけないことを、あの子に任せきりにしちゃって。幸い、自宅であの子達だけだし、僧侶の方の相手などをするだけで済んだけどね」

「そう、だったんですね」

 

 昨日は明香里さんの命日だったようで、尚更私は、樹君に対する不安と心配の気持ちが加速度的に高まってくるのを感じる。

 

「樹の事が心配かい?」

 

 そんな私の感情を読み取ったのか、知佳さんはそっと尋ねてくれる。

 

「も、勿論、心配です!最近会えてなかったですし、それに……」

「それに?」

「何だか、私も春も、樹君から避けられているようで……」

「へぇ……、全くあの子は」

 

 やっぱりまだまだ子供ね、と知佳さんは溜息をついてから、手元を見つめて口元を緩める。

 

「こんな可愛らしい御姉妹をこれだけ心配させるなんて、退院したら樹には説教が必要ね」

「いや、でも樹先輩にも、先輩なりの事情とかあるでしょうし……」

「駄目よ、春さん。お二人がどれだけ不安に思ってたか、どれだけ心配してたか、あの子に直接会って伝えなさい。お二人とも、本日のご予定は?」

「私もお姉ちゃんも、今日はもう予定ないですけど……」

「あら、それなら」

 

 それだけ言うと、知佳さんは机の上から自分のスマホを持ってくるように春に伝えるので、春が言いつけ通りに知佳さんの元までスマホを持っていく。

 すると、知佳さんは電話帳を開くと、通話ボタンを押し、スピーカーをオンにして、口元に人差し指を添え、静かにするようにとジェスチャーを送る。

 

「はい、もしもし。知佳さん?」

「あ、もしもし、樹かい?」

 

 何コール目かした内に、樹君の落ち着いた声が聞こえてきた。

 まさか、とは思ったけど、本当に樹君に直電するなんて……。

 

「どうしたの、いきなり電話を寄こすなんて。何かあった?」

「いや、もう昼過ぎでしょ。お昼どうしてるかしらと思って」

「昼なら、簡単にサンドイッチ作って明日花と食べたけど」

「ならいいわ」

「何それ」

 

 知佳さんと話す樹君の声は、なんだか気を軽くしてるようで、私には微笑ましく聞こえてくる。

 

「改めて、昨日はお疲れ様。少しばかり大変だったでしょ」

「ああ、誰かさんが先週貧血でぶっ倒れたせいだけど」

「あらあら、それはご苦労様なことです」

「全く、この人は……」

 

 知佳さんにひらりと躱されて、樹君の呆れるような声が届く。

 

「話を変えるけれど、昨日見舞いに来たあなたは、随分と久しぶりに晴れやかだったわね。お悩みも、だいぶ良い方向に進んだかしら?」

「そう、だね。自分の中でようやく整理できつつあるかな」

「良かったわね、声色も明るくなったわ」

「そう?そんな気はあまりしないけど。それに、やらなければならないこともあるし」

「小咲さんと春さんのことかしら?」

「ああ、明香里のことも自分の中で落ち着き始めた今、あの二人とはどうしても話をする必要がある」

 

 言われる通り、確かに樹君の声はこの前と比べたら、明るくなった感じはしていた。

 けれど、知佳さんから私と春の名前が出され、樹君からも話をする必要があるなんて真剣なトーンで言われてしまえば、私達はドキリとして思わず声が出てしまいそうになる。

 

「ええ、そうね。ところで、お二人とは、いつお話するつもりなのかしら?」

「近いうちに必ずするよ。これ以上引き延ばしても良くないし」

「だそうよ、お二人さん」

「「え」」

「ちょ、え……だそうよって。それに、二人の声も……え?」

 

 知佳さんにいきなり振られるので、私達も思わず声が出てしまった。

 私達の存在を通話越しに今知った樹君が一番驚いているのだろうけど。

 

「ま、待って。知佳さん、病室にいるはずだよな?それが、一体全体、どうして、小咲と春と一緒にいるんだ?」

「あらあら、樹にしては随分な慌てようね」

 

 私達もこれほどあたふたする樹君の声を聴いたのは初めてかもしれない。

 にやにやと笑みを浮かべる知佳さんにつられて、私もにやけずにいられなくなる。

 

「樹先輩、今日は一条君のお見舞いに来てて、その帰りに偶々知佳さんの病室を見つけてしまいまして……」

「ああ、な、なるほど。そういうことか……」

 

 笑みを隠し切れない春が事情を伝えると、樹君は一つ溜息をつきながら納得したように言う。

 

「まあまあ、樹。家にいるんでしょ?これからお二人をそちらに寄越すから、あとは若い者同士でお話なさい」

「え」

「「ち、知佳さん!!」」

 

 今日の予定を聞かれた時点で嫌な予感はしていたけど、まさか本当に知佳さんがそんなことを言いだすとは思ってもみなかったので、私も春も顔を真っ赤にして知佳さんに詰め寄る。

 

「お二人も、樹も。早く会ってお話がしたいんでしょう?だったら、今日この後がいいんじゃないかしら」

 

 あっけからんとして、知佳さんは悪戯な笑みを浮かべている。

 

「……小咲に春。本当に家に来るのか?」

 

 そこへ恐る恐るといった感じで、樹君が尋ねてくる。

 

「うん……行くよ。私も樹君とお話がしたい」

「私もです。先輩とお話がしたいです」

「そうか……。知佳さんの家で待ってる。着いたら教えて」

 

 その言葉を最後に、樹君との通話は途切れてしまう。

 私達は急いで自分たちの荷物を手に取り、知佳さんへと深々とお辞儀を返し終えてから、駆け出すように病室を飛び出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 時刻は既に21時を回ったところである。

 遊び疲れた様子の明日花を部屋のベットまで運び終えたオレは、階段を下りた先のリビングに向かう。

 そこには、いつもであればいるはずのない、パジャマ姿の姉妹が吞気にお茶を楽しむ様子があるので、今日何度目か分からないくらい信じられない気持ちになる。

 

「樹君、お疲れ」

「……まさか、今日こんなことになるなんてな」

「それは私達も同じ気持ちですよ、樹先輩」

 

 小咲も春も絨毯の上に腰を落ち着けているので、いつものようにソファに腰掛けるのは忍びなく感じ、オレも二人の顔がちゃんと見えるよう絨毯の上に座る。

 知佳さんとの通話のおかげで、今日小咲と春を家に招いて話をすることに決まってから、どうして今日二人がこの家に泊まることになったのか。

 どうにも、小咲達がこちらに向かう途中に菜々子さんへ連絡をしたら、そのまま今日は泊っていけ、といったニュアンスのことを言われたらしい。

 その勢いに押されて、二人が用意を持ってこの家に来てしまったので、オレは断るにも断れなくなってしまった。

 小咲も春もなんだかとても楽しそうにウキウキとした様子あったし、オレには彼女達に不安や心配をかけていたことが電話でも伝わってきてしまったし、今日ばかりは仕方ないだろう。

 明日花も含めて四人で、夕飯の食材の買い物に行ったり、ボードゲームなどで遊んだり、夕飯を一緒に作ったりと、盛りだくさんな午後を過ごした。

 元気よく遊びに誘ってくる明日花と、何かと一緒にいたがる小咲と春のせいで、普段より多少は疲れたが、こんな賑やかな日もあって良いじゃないか、と開き直った。

 何より、明日花も楽しそうだったし、小咲と春も実に嬉しそうな様子を見せてくれたから、何でもよくなってしまった。

 しかし、本題を忘れたままではいられない。

 明日花もこの場からいなくなった今、二人と話をするのはこのタイミングだろう。

 オレは姿勢を正して、二人の方へと向き直る。

 

「さて、そろそろ二人に話したいことがあるんだけど」

「う、うん」

「は、はい」

 

 小咲も春も、心構えはしていたみたいだが、いざ口に出されるとドキリとしたような反応をする。どこまでも姉妹である。

 

「話す前に、確認したいことが一つあるんだ」

「確認したいこと?」

「何ですか、樹先輩?」

「二人は、オレの事、どう思ってるの?」

「「え、ええええ!??」」

 

 オレの言葉を聞いた途端に、二人揃って面白いくらい、リンゴのように赤面してしまう。

 

「悪い、こういうのは先に相手に聞くより、自分から言うべきだよな」

 

 オレが大げさに両の手を広げて言うと、いよいよ二人は身を固くしてしまう。

 

「じゃあ、小咲からな」

「う、うん」

 

 膝の上で拳をぎゅっと握る小咲に、オレは視線を寄こす。

 

「小咲は、小学生の頃から、お人好しかってくらい優しいし、よく話を聞いてくれるよね。おっちょこちょいなところもあるけれど、誰に対しても分け隔てなく接することができるし、おっとりとして穏やかな雰囲気もあって、一緒にいて心地いい。オレは、そんな小咲と一緒にいる時間をとても気に入ってるよ」

 

 オレの言葉を、小咲は頬を赤らめながら、真剣に目を合わせて聞いてくれる。

 

「次に、春」

「え、あ、はい!」

 

 呼ばれて背筋をピンと伸ばす春が微笑ましく思える。

 

「春は、結構オレを慕ってくれるよね。色々頼ってもらえて、先輩冥利に尽きるのだけども。君は活発で、いつも感情がコロコロと表情や仕草に現れるから、近くにいてその様子を見てると、とても楽しいし、心が安らぐような気もするんだ。こう見えて、春からはたくさん元気を貰ってるかな」

「そ、そんな、ありがとう、ございます……!」

 

 春は俯きながらも、けどどこか口元を緩めて嬉しそうに言う。

 オレも二人の姿を捉えて、きっと笑みを浮かべていただろう。

 しかし、オレはその表情を少しづつ真剣なものへと変えていく。

 

「それでね、そんな素敵な二人と過ごしている内に、オレの中でも、二人の存在がだいぶ大きくなってきてさ。明日花の事や、お昼の弁当も頼んじゃったり……。小咲の事は幼馴染で、春の事は後輩、としか見ていなかったんだけれど、最近になって、それだけでは収まらないような気がしてきたんだ」

 

 オレは二人の事をしっかりと捉えながら、言葉を紡いでいく。

 小咲と春は、頬の色をそのままに、静かに真剣にオレを見つめてきている。

 

「だから、そのこともあって、二人との距離感を測り損ねてた。二人のことをちゃんと考える期間が欲しかった。避けがちだった理由にも当たる。心配かけさせてごめんね」

 

 二人は申し訳なさそうにするオレを見てか、黙って首を横に振る。

 

「樹先輩が…、そんなに私達の事を考えてくれてたのなんて、今初めて知りました……」

「そうだね……、私達はてっきり、なんで花火大会の時に泣いてたんだろうって考えてたから、そのことで……」

「ああ、だから、今日は話したいんだ。……小咲と春は、オレの中では特別な存在になりつつある。そんな二人だから、オレのことで随分と心配して、オレのことを少なからず想ってくれている二人だから、ちゃんとオレのことを話しておきたいんだ」

「うん、聞かせてほしい」

「聞かせて下さい、先輩」

 

 真っ直ぐと意志を持った瞳を浮かび上がらせ、オレと目を合わせてくる二人を見て、オレは軽く息をつき、心を落ち着かせる。

 

「今から話すのは、オレについてはもちろん、これまでずっとオレが心を砕いてきた人についてだ」

 

 それだけ言うと、頭の中で堆積してきた明香里との記憶を掘り出して、オレはその記憶の数々を巡る旅へと向かっていった。

 




 第十八話『ハナシテ』をご一読下さり、ありがとうございます。

 いかがだったでしょうか。

 次回は過去編です。

 それでは、また次のお話で。


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第十九話 アノヒト

 第十九話にお立ち寄り頂き、ありがとうございます。

 それでは。


 初めて明香里と出会ったのは、物心ついて間もない頃だった気がする。

 

「わーー!!なんと可愛らしい!!あなたが樹ね!」

 

 確か、あの時は父の仕事でニューヨークにいて、他の同年代の子供と比べると感情表現が乏しかったはずの幼子のオレは、留学しに来たという大学生のあなたを、妙に目に焼き付けてしまった。

 ウェーブをかけたセミロングの黒髪も、スラリとした脚を露わにする丈の短いスカートも、紅々として健康的な唇も思い出せるのだが、特に印象的だったのは、ルビーのようにキラキラと光り輝く瞳だ。

 

「目、キレイ」

 

 オレが明香里に最初に発した言葉は、ポツリと呟くような一言だった。

 

「ふふっ、ありがと!」

 

 明香里はそんな小さなオレと目を合わせて、そのままオレを抱き上げた。

 レモンのような、すっきりとして甘酸っぱさのある香りに忽ち包まれる。

 そして、オレが再び明香里と顔を合わせると、明香里はルビーの瞳を煌めかせながら、太陽のような笑顔を振り向けてくれた。

 思えばこの時からだ。あなたを頭の片隅で考えずにはいられなくなったのは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 父のニューヨークでの仕事も終わり、オレは両親の生まれ故郷でもある凡矢理の町で小学生時代を過ごし始めた。

 外資系に勤める父、一方で世界各国を飛び回る人気歌手の母親という、忙しい両親とは会えないことも多く、幼い頃から寂しいとばかり思っていた。

 学校から家に帰ってきても一人だったので、わざわざ歩いて知佳さんのお家に行くこともしばしば。

 でも、両親のことは嫌いというわけではなかった。

 父も母も一緒にいられる時間は、オレとなるべく多くの時間を過ごそうと尽力していたように思えたし、誠実な父は温厚で、クールな母は優しい。

 ただ、その二人から時間を奪う、仕事というのが恨めしかった。

 それに、明香里との時間が恋しかった。

 明香里の留学は一年間だったけれど、あなたはまだ幼いをオレの世話をしてくれて、色んな所へ連れて行ってくれた。

 オレはその当時のあなたに言われて、明香里お姉さん、と呼んでいたっけ。

 天真爛漫、自由闊達なあなたに手を引かれて歩く時間は、両親と一緒にいる時とは違って、なんだか雲の上を歩くような浮遊感や、何とも離しがたいような感覚を覚えさせてくるものだった。

 

 留学が終わって以来、あなたとはめったに出会えなくなってしまった。

 オレが六歳になった頃、あなたは同じ大学の男性と学生結婚をし、その二年後には明日花を産んで、職場先のイギリスのロンドンで暮らし始めてしまったそうだから。

 向こうでの写真を知佳さんの家で見せてもらっても、その度にオレは、あなたがどんどんと物理的にも精神的にも離れていってしまうようで、苛立ちや嫉妬を抱いていたんだろう。当時はそんなこともよく分からないでいた。

 

 けれど、小学生のオレの寂しさや苛立ちを和らげてくれたのは、学校の男友達二人と、和菓子屋の娘だった。

 

 無鉄砲だがお人好しの楽と、お調子乗りでお喋りな集とは、クラスメイトとして、勉強を教えあったり、一緒に遊んだりして多くの時間を過ごした。

 楽のお家がヤクザだから、としても関係なかった。自分から口を出さなかったオレに、一番に話しかけてくれたのは楽であり、集もそこに絡んできてくれた、と記憶している。

 

 小咲とは、小学三年生の時だろうか。たまたま立ち寄った和菓子屋で売り子姿の彼女と出会った。

 年も近いこともあって何かと話をするようになったオレ達は、気づけば親しい友達同士になり、オレはまるで離れゆく明香里の影を追うように、気ままに小咲を色々と連れ出してくことが増えていく。

 そんなオレにも小咲は嫌な顔一つせず、いつもニコニコと笑みを浮かべてオレの手を取り、穏やかで優しくオレに接してくれた。

 

 しかし、三人のおかげで自分という殻に閉じ込まらずに、楽しくは過ごせていた小学六年生の終わりに、転機が訪れた。

 明香里が実は暫く前に離婚をして、明日花と二人でロンドンに残ったまま暮らしているということを、知佳さんから聞かされた。

 ちょうど父がまた海外を、母と同じように飛び回ることが決まったのと、ほぼ同じ時期であった。

 その二つを知って、オレはある決断をした。

 楽や集と共に凡矢理中学校へ通うのではなく、単身でもロンドンのスクールに留学する。

 何故なら自分も違うところへ行ってみたくなったし、それよりも何よりも明香里に会えるから。

 このことを両親や知佳さんに話すと、存外に不思議なくらい話がトントン拍子で進み、何と明香里や明日花の家に三人で暮らすことになった。

 この時のオレは、親しかった三人と別れることは悲しかったけれど、また明香里に会えること、明香里と過ごせることに喜びと期待ばかりしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 春休みの間に、知佳さんとともにロンドンへ渡った。

 彼女らの家は、セントジョンズウッドのすぐ北にあるスイスコテージという、閑静で日本人駐在者も多い住宅街にあった。

 玄関のベルを鳴らすと、返事をする女性の声が聞こえたと思えば、忽ち扉が開かれる。

 

「いらっしゃい!お久しぶりね、樹。それにお母さん」

「……お久しぶりです。明香里お姉さん」

「大きくなったわね。ささ、荷物も届いてるし、入って入って」

 

 本当にいつぶりだろうか。

 髪型こそ少し短くしてショートボブになっていたが、変わらず煌めくルビーの瞳や、漂ってくるレモンの香りがひどく懐かしかった。

 背丈はオレが150cmを少し越したくらいであったが、すっかり明香里と同じ目線の高さになっていて、奇妙な感じがしてならない。

 でも、やっぱり、会えてその姿が見れただけで、途端に自分の身体が自分のものじゃなくなるくらい固まってくるほど、とても嬉しい。そう、嬉しかった。

 そのまま家の中へとあなたにぐいぐいと手を引かれながら、オレはその後ろ姿をただただ見つめてしまう。

 しかし、次の瞬間、突如とした不安がオレを襲う。

 ロンドン行きが決まる前に、知佳さんから聞かされていたことがあった。

 

「樹、どうしてあなたが明香里達と一緒に過ごすことを認めたと思う?」

 

 夕日の映える縁側で、隣に座る知佳さんが真剣そうにそんなことを言うので、オレはキョトンとしてしまう。

 

「分かんない、なんで?」

「それはね、明香里のことをちゃんと見てほしいからよ。あの子は旦那とは嫌な別れ方をしたみたいだし、明日花のこともある。それに……」

 

 ――――あの子の体調のことがたまらなく心配なのよ。

 

 知佳さんに言われるまで浮かれきった気持ちでいた自分は、突然地球の重力を一身に受けたみたいに、その気持ちを落ち着かせることになった。

 こういう事は、オレには荷が重くて、役不足なことなのかもしれない。

 けれど、オレは迷うこともなく決めてしまったのだ。

 これからのことに決意するように、明香里に握られている手を、オレは強く握り返す。

 あなたはそれを感じ取ったのか、こちらに振り返りフッと微笑んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ロンドンでの暮らしは思ってたよりも早く慣れた。

 アメリカ英語とイギリス英語の発音の差異にこそ、初めの内はスクールや買い物でも苦労したが、それほど時がたたない間に適応できた。

 平日はスクールまでバスを行き来し、スクール先では授業を真面目に受けて、新たに出来た同世代の知り合いと昼食を食べ、休み時間にサッカーをして、またバスで家まで帰る。

 そして、その帰りの途中で明香里の代わりに、幼稚園のようなところで預けられている明日花を迎えに行く。

 最初にオレと会った四歳の明日花は、明香里の後ろに隠れてもじもじとしていたが、一緒に遊ぼうとお人形遊びなどに誘うと、パッと笑顔を咲かせて瞬く間に懐いてくれるようになった。

 家に明日花と二人の時は、大抵元気に遊びに付き合わせてくる明日花のせいで、結構多くの時間を取られた。

 けれど、まるで明香里のようなルビーの瞳と眩しい笑顔を、明日花はこちらに真っ直ぐ向けてくるので、オレもノーとは言えず、何だかんだでその時間をとても楽しんだ。

 

 一方で、明香里の方はというと、普段は仕事に出ていて、いつも夕方には買い物袋に食材を抱えながら帰ってくる。

 仕事帰りの時は、いつも少し疲れている表情を浮かべてはいたのだが、明香里は三人で夕食をとったり、休日にどこかへ出かけたりする時は、また天真爛漫なその姿を見せていた。

 あなたは大学生の頃、何でも感情のままに表情や身体を動かして、良く言えば感情表現豊か、悪く言えば騒がしかったのだが、一緒にまた過ごすようになったあなたは、すっかり大人の女性の雰囲気を漂わせ、柔らかな笑みを浮かべてばかりだった。

 明日花のいない一人やオレといる時には、その笑みを張り付けたまま、目の奥では思慮深く何かを考えているような、けれどやっぱり考えていないような表情をすることもあり、あなたが遠いどこかへ行ってしまいそうな気がして、オレはついつい見つめてしまう。

 

「何見つめてるの?」

「あ、いや、何でもないですよ」

「いつもそうやって言ってるじゃない」

「言ってません」

「意地になっても駄目なんだから」

 

 そう言って明香里はオレの額をコツンと突くと、自室に戻ってマホガニー材でできたアコースティックギターを持ち出して来て、またソファの上に座る。

 こうしてあなたにギターを教えてもらう時間ができる。

 

 最初に明香里がオレの前でギターの弾き語りをしてくれた時は、確かそれは幼い時だけど、心が飛び跳ねそうなくらい興奮して、ため息をつくほど演奏中のあなたが美しくて、演奏が終わった瞬間、感想を聞かれる前に拍手をして、オレもギターをやりたいと口走ってしまった。

 あれ以来、あなたが幼いオレを背後から包み込んでギターの弾き方を教えてくれた時間が心に沁みついてしまい、小学生の時にも学校と習い事の数々に埋められていない時間を見つけては、また教えてもらおうと練習していたっけ。

 それがこの生活でも気分屋の明香里次第で叶い、あなたと過ごす時間の中でも特にお気に入りの時間であった。

 上達していくギターや母譲りの歌声をあなたから褒められるのは嬉しいし、演奏するあなたの微笑んだ表情から揺れる髪、滲む首元、流れる指先を、まじまじと見つめていても小言を言われることがない。

 

 他にも明香里から教えてもらうことはたくさんあった。

 あなたは体調を崩しやすく、病院に定期的に通っていて、時折横になることもあったので、家事全般は自分でも勉強しつつあなたから教えてもらい、一定水準以上はこなせるようになったと自負できる。

 特に料理では、あなたと一緒に台所に立って作業を行うのが心地よく、和風ハンバーグとかオムライスとかを教えてもらったし、お粥を作ることも度々あった。

作った料理がその都度、あなたの口から美味しいと言われると、心が浮き立つようだった。

 

 それに、あなたは人間関係の機微に関して非常に敏く、オレや明日花の感情の揺れも気づけば察知されるし、オレがスクール先で疑問に思った人の行動について、情報を与えるだけで解に到達してしまうほどの洞察力があった。

 オレも大人のあなたみたいに分かろうとして、スクール先のクラスメイト同士の関係などを注視したけれども、てんで分からないことの方が多かった。

 まるで一種の超能力みたいだと、一度オレは明香里に尋ねたこともあった。

 

「そういうわけでもないと思うけど……。私達の親族はそういうことに目敏いらしくてね」

 

 レモンサワーの缶の飲み口に視線を落としながら、明香里は柔らかな笑みを浮かべる。

 

「私も、本当かなって疑ってたんだけど、その内に人のあれこれに気づくようになって驚いたの。きっと樹も、近い将来そうなるわよ」

 

 いや、やっぱり超能力みたいじゃねえか、と当時は心の内でツッコミを入れたが、今となってはそれも理解できる気がする。

 そうやって周りの些細なことが驚くほど鮮明に、くっきりと分かりやすく頭の中へと入ってきたのは、あなたがいなくなってしまってからだった。

 明香里と明日花と過ごして二年近くが経った春休み前、あなたが突然倒れて入院を余儀なくされた時、担当医だという方からあなたの余命が一年半もないと告げられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「こんにちは、明香里さん。窓、開けますね?今日は外の空気が頗るいいんですよ」

「ええ、そうみたいね、樹。学校の方はどう?」

「今日も、クラスメイトと一緒に授業を受けてランチしてきました。明香里さんは?」

「私も変わらずよ。ぐーたらと寝そべってるわ」

「それでいいんですよ」

 

 明香里が入院生活をしてから、オレは学校が終わると、こうしてあなたの病室を毎日欠かさず訪れるようになった。

 余命のことを告げられたあの日、ベットの上で申し訳なさそうに縮こまって横になる明香里に、気が動転していたオレは激しく怒り散らしてしまった。

 あんなに怒りとか心配とか不安とか安心とかが一斉に表出したのは、それまでのオレにとっては初めての事だった。

 ごめんなさい、と叱られた生徒みたいに涙目で俯く明香里の姿を目にして、ようやく我に返ったオレは、一番辛いのはあなたに違いないのだと思い直し、今度はこちらから謝り返した。

 どうにも、明香里の抱えている病は治療法がなく、ロンドンのこの病院でしか進行を遅らせる治療を受けられず、それに数年前から通っていたのだと、担当医は言う。

 けれど、今回明香里が倒れたことを受け、いよいよ入院生活を余儀なくされるほど病が進行し始めたらしく、絶対安静が命じられるようになった。

 どうやら知佳さんには病気のことを言っていたようで、入院生活を始めた明香里のところにやってきて話をし、間もなく小学生になる明日花を、知佳さんの下に行かせることが決定した。

 母親と会えなくなることで明日花はワンワン泣いて悲しがったし、一連の話し合いを聞いていたオレも、面倒は自分が見るからと反対したのだが、

 

「いいの。ただでさえ私のことで神経を割いてくれる中学生のあなたが、明日花のことまでってなれば手が回らなくなるわ」

 

 言葉はやんわりとしているが、きっぱりとした表情で明香里は言う。

 

「これ以上あなたに負担をかけたくないの。それに、段々と弱っていくだろう母親の姿を見せるなんて、私には……」

 

 明日花の母親である明香里本人からそう聞かされては、彼女達の家族でもない親戚のオレが口を挟める余地などないような気がしてしまい、結局はあなたの意向を飲んでしまった。

 こうして、オレは明香里と明日花の住んでいた家で一人暮らしのような状態になり、入院する明香里のことを見守るような立ち位置に落ち着くこととなった。

 この生活自体も、明香里や知佳さん、それに両親を熱心というよりかは半ば強引に説得したようなものだったので、オレはこれまで以上に勉学や家事などのことへ力を注いだ。

 そういえば、明香里の呼び名も、明香里お姉さんから、明香里さんに変わっていた。

 

「さて、樹。今週はどんな曲を聴かせてくれるのかしら」

「ああ、今日のやつは、中々いい感じに仕上がりましたよ」

「へえ、楽しみだわ」

「はい、ちょっと待ってくださいね」

 

 オレは運んできたギグバッグから、明香里のアコースティックギターを取り出す。

 明香里の見舞いに行き始めてから、自分の作った曲をこうしてあなたの前で披露することが段々と増えていった。

 演奏中に明香里の方を見やると、あなたは愛しそうに柔らかな笑みを浮かべてこちらを見ているので、オレはうっかりそのまま見つめてしまいそうになる。

 明香里のことを少しでも元気づけようとかで始めたことだったが、気づけばオレにとっても欠かすことのできない一種の確認事項のようなものとなった。

 その頃には自分自身の中で幼い頃から抱いていた、明香里に対する気持ちも段々と自覚できるようになっていった。

 気持ちを自覚してくると、オレの場合、妙な恥じらいというものが無くなって、大胆なことを言ったりしたりすることに躊躇わなくなり、そのことでもきっと明香里のことを困らせたり、戸惑わせていたことだろう。

 そういうことを続けていると、明香里に目を合わせてみても直ぐに目を逸らされるし、持ってきた果物を食べさせようとしても自分で食べるからと断られるようになり、その時は度々がっかりしていたことを思い出せる。

 

 オレが15の誕生日を迎えた年明けの冬の日、その頃病状も安定していた明香里は珍しく外泊を許されたので、家で二人きりで祝うことにした。

 久しぶりに二人で、食材やケーキの買い物をし、台所で隣並んで料理をし、くだらないことを話しながら食事をして、ギターを演奏しあった。

 いよいよ就寝という時にオレは、一緒に寝ませんかと明香里に尋ねた。

 明香里はうっすらと耳を赤くして、少し考えこむようにした後、あなたらしくなく控えめに頷き、オレからの頼みを了承してくれた。

 明香里のベットで二人並んで横になっていると、あなたが肩をトントンと叩くので、そちらの方を見ると、あなたは起き上がって真剣な表情をしている。

 オレも黙って起き上がり、明香里と向きあうように体勢を変える。

 

「どうしたの、明香里さん」

「樹は、若草のような子よね」

 

 これまでも突拍子もないことは聞いてきたが、今回はその中でも最上級に見当もつかなかった。

 

「……それはまた、どういうことですか」

「……大学生の時に、あなたと一緒に過ごした頃ね。表情のほとんど変わらないあなたが、私が色々と連れ出す内に、嬉しいとか楽しいとか段々と感情を出してくれるようになったのよ」

「そう、でしたかね」

 

 自分では意識してもなかったことだったので、聞いてる内にむずがゆくなってくる。

 

「ええ、まだ幼くて、若く瑞々しいあなたを見ていると、まだ芽を出して間もない若草そのものと重なってね。私はあの頃から、あなたのそんな姿に心惹かれたわ。今でも、新しい様々な感情を目覚ましていくあなたは、まるで若草のようなの」

 

 薄暗がりの中、瞳を赤く煌めかせ微笑みをたたえる明香里に、つい魅入ってしまう。

 

「……そういうことですか。けど……、どうして、改まった表情でそんなことを?」

「それはね、あなたにとっての春は、まだこれからってこと」

 

 明香里は生徒に言い聞かせる先生のように嘯く。

 

「……言ってる意味がよく分かりません」

 

 本当はどんな意味なのか分かっている。

 

「今の内は分からなくてもいいの」

「嫌です。教えてください」

「駄目」

「教えてくれ」

 

 逃げていこうとする明香里を逃さないよう、オレは語気を強めていってしまう。

 

「……ダメなのよ。樹、自分のしようとしてること、分かってるの?」

「分かってます」

 

 怒った振りをして叱りつけようとする明香里にオレは対抗するように、この先の事なんてちっとも分かりやしないくせに意地を張る。

 

「いいえ、分かってないわ。あなたのしようとしていることは……、これから何年も、何十年も……、もしかしたらずっと、あなたを苦しめ続けることなのかもしれないのよ……

 むくれていたはずなのに、明香里は言葉を紡いでいく内、オレの身を案じるかのように瞳を揺らした。

 

「後悔だけは絶対にしませんよ」

 

 たとえそうなったとしても、それが今確実に断言できることだ。

 

「……どうして、そこまで」

 

 消え入りそうな声で、明香里は動揺を隠せない様子でオレを見つめる。

 

「……物心ついたあの時から、あなたがずっと、心に焼き付いて離れないんです。オレの心の中心に、あなたがいる気がしてならないんです」

「……そう、なの……」

「はい」

 

 オレは偽らないありのままの事を、真っ直ぐに届くようにと明香里に伝える。

 瞳をさらに揺らしたあなたは、一度目を閉じて俯いたと思えば、次の瞬間にはそれまでとは少し毛色の違う、何かを覚悟したような表情になるので、オレは思わずドキリとしてしまう。

 

「……樹」

「はい」

「明香里と呼んで」

「……明香里」

「もう一回呼んで」

「明香里」

「そのまま、じっとして」

 

 言われるがままに、明香里へ向き合ったまま、オレはじっとする。

 すると、明香里がオレの頬から顎先をなぞるように優しく触れてきたと思えば、そのままあなたは顔だけをどんどんと近づけてくる。

 あなたのルビーの瞳と思いがけずぶつかる。

 赤い、近い、朱い、近い、紅い。

 

「目、閉じて」

 

 目を閉じれば、すっかり視界は真っ暗だ。

 自分の唇に、別の柔らかな感触がした。

 あなたから漂う香りと同じように、レモンのような甘酸っぱい味がする。

 お互いの息遣いを感じながら、冷気が肌をじりじりとさせる長夜に、オレは身を任せるようにして意識を手放した。

 

 




 第十九話『アノヒト』をご一読下さり、ありがとうございます。

 いかがだったでしょうか?

 それでは、また次のお話で。


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第二十話 ハチガツ

 第二十話にお立ち寄り頂き、ありがとうございます。

 過去編も今回で落ち着きます。 

 それでは。


 日光が部屋を明るく照らし出し、小鳥のさえずりも聞こえてくるようになった早天、肌寒さが身に沁み込むのを感じながら、オレは台所に立って朝食の用意をしている。

 コンソメスープを作っているのだが、コンロの火のお陰で若干温まることも出来て、肌寒さもさっきよりはマシになってきた。

 すると、後ろからふと柔らかな感触がすると思えば、途端に何かで目を覆われる。

 

「だ~れだ」

 

 まだ少し寝ぼけてもいるんだろうか。普段よりも調子高く甘ったるい声で、あなたはオレの耳元で囁く。

 

「だ~れだって……、そんな古典的な」

「だ~れだ」

 

 呆れたようにオレが言っても、あなたは同じ調子でリピートしてくる。

 

「……明香里」

「正解!おはよう、樹」

「おはようございます」

 

 目隠しが外されたオレが後ろを見やると、すっかりオレの腰に手を回してすりつくように、ルビー色の目をうっすら細めて、柔らかな笑みを浮かべる明香里の姿があった。

 この時にはオレの身長も180cm近くなってきており、一回り以上に明香里よりも大きくなってしまったので、完全にあなたを見下ろしてしまう形になっている。

 少しつま先を立てているあなたの愛くるしくて尊い姿に、呆れていたオレも口元を思わず綻ばせて挨拶を返す。

 

「何か手伝おうかしら?」

 

 コトンと小首を傾げるように、明香里は尋ねてくる。

 

「いや、そこにサンドウィッチとか作ってありますから。コーヒーとそれを運んでくれるだけでいいですよ」

「はーい、分かりました」

 

 二人で台所に立って朝ごはんを作るのでも良かったかな、とオレはもったいなく思いながら、コップにコーヒーを注いでいく明香里を眺める。

 コンソメスープもいい感じになってきた。

 オレはスイッチを切り、近くに置いていた食器に出来上がったスープを注ぐ。

 

「樹、一人の時はどこで食べてるの?」

 

 お皿を両手に持ちながら、明香里がそんなことを聞いてくる。

 

「テレビでも見ながら、ソファに腰掛けて食べてますよ」

「なら、そこで食べましょう」

 

 明日花も含めて三人でいた時は、食卓用のテーブルと椅子の置いてあるところで食べていたのに、一体どんな風の吹き回しだろうか。

 それに、ソファは一人で座るには充分な大きさであるが、そこに二人座ってしまえば自然と肩を付け合わせなくてはいけないというのに。

 朝から大胆なお方だなと思いながら、オレは二人分のコンソメスープを台所から持っていくと、テレビのリモコンや雑誌などが置かれていたテーブルの上は、いつの間にきちんと整理されていて、朝ごはんのセットが丁寧に置かれていた。

 明香里はこっちよとでも言いたげに、ソファの一人分に空いているスペースにトントンと手を叩いている。

 オレも微笑みを返しソファへ腰掛けて、テーブルの上にスープを置く。

 

「それじゃあ、いただきましょう。手を合わせて」

「はいはい」

「「いただきます」」

 

 こんなことを律儀な小学生みたいに、お互いの顔を見合わせて行うものだから、馬鹿らしいような気がしてきて、オレとあなたは吹き出してしまう。

 一人でいる時は気だるげにテレビのニュースでもつけて、ソファにどっさりともたれてご飯を口にして朝を過ごすのだが。今日はテレビの電源もつけずに、ソファにもあまりもたれないで、あなたとの二人きりの時間を享受する。

 特段何かを話し続けることはせず、むしろお互いに口を開かない時間の方が多かった。けれど、肩を通して明香里の温もりが伝わり、時折頭をオレの肩に乗せてくるあなたと顔を見合わせる度に、何ともいえないくすぐったいような気持ちになって、また微笑み返しあう。

 あなたとだけの、穏やかで、静かで、温かな時間が、ゆったりと流れていく。

 思えば、あんなに自分の心が満ち足りていくようなことは、それまでの人生において初めての事だった。

 けれど、こうした時間が間もなく終わってしまうこと、訪れなくなってしまうことに、オレも明香里も確実に気づいていた。

 だから、少しでもそんな時間が延びるようにと、せっかく淹れたコーヒーや、しっかりと温めたコンソメスープが、冬の冷気で全く冷え切ったしまうようになるまで、オレとあなたはお互いにのんびりとそれらを口に運んでいく。

 結局、そのようにソファでお互いに身を寄せ合ったあの時間はその先訪れることなく、夏の終わりにあなたは遠い遠いどこかへと旅立ってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 傾き始めた日差しが鋭く歩道のアスファルトを照りつけ、蝉の鳴き声がまるで励ましあうようにそこかしこの木から響き渡っている。

 やがてアスファルトの道も終わりを告げ、砂利道をなるべく音の立てないように踏みしめていくと、あなたの名前の書かれた墓石の前まで辿り着く。

 

 今日は、明香里がこの世からいなくなって一年が経った日。

 午前中にお坊さんに知佳さんの家へ来てもらい一周忌法要を行って、一度明日花とともに明香里の所に訪れたのだけれど、今日ばかりは一人きりであなたを訪ねずにはいられなかった。

 立ってあなたを上から見下ろしてしまう形は忍びなくて、オレは女王陛下に部下がへりくだるように片膝を下ろす。

 180㎝を越していった自分の姿と、つま先立ちしようとする明香里の立ち姿を隣並べて想像してみると、どっちがいよいよ年上なんでしょうねとあなたには失礼なことを口に出しそうで、ふと笑みが込み上げてきてしまう。

 きっとあなたは「それって私が若く見えるってことかしら?」って都合よく解釈してくれて、意地悪なオレの口撃もさらりと躱すのだろうけど。

 そうして緩んできそうな頬をまた引き締め直すように、オレはあなたをしっかりと正面で捉え直す。今日はあなたに話しておかなくてはならないことが多くあるから。

 

 さあ、改めて先程ぶりですね、明香里。

 まず、改めてあなたと交わした五つの約束を確認しましょう。

 

 一つ目に関しては、今の所上手くいっていると伝えることができそうです。

 

 知佳さんはこの前貧血で倒れてしまったが順調に回復してきているし、精神面も流石おばあちゃんだから落ち着いていて、相変わらず明日花のことをきっちり育て上げようとするし、オレのことも見てくれているのでとても頼りにしています。

 明日花の方は、いつだって元気に駆け出していくので、高校生のオレが振り回されることも多いです。けれど、キラキラと曇りなく輝くルビーの瞳と眩しく照らしてくる笑顔を見ていると、幼少期のあなたに出会えたような気がして、つい嬉しさと不思議な懐かしさが込み上げてたまに視界がぼやけてしまうので、困ることもあります。

 そんな二人は、あなたにとってだけでなく、今のオレにとっても大切な人達であるので、約束通りちゃんと見守っています。

 

 二つ目ですが、これはいつもとあまり変わらないので簡単に済ませましょう。

 

 父と母とは、高校生になって実際に会えるのはまだ片手で数えるほどもないですけど、この前なんかは久々に東京駅の方で三人揃って食事をしました。二人ともあなたが想像するような変わらぬ仲良し具合でしたし、お互いの近況報告もパソコン通話では言えてなかったことまで言い合えて、非常に実りある時間でした。

 両親とは、変わることなく良好な関係を築けているのかな、と感じます。

 

 三つ目になりますが、これもあなたのところに来た時はいつも話してることですね。

 

 こっちに戻ってきてからはとても賑やかな友人たちに囲まれているので、毎日退屈せず楽しみながら過ごせています。

 鈍感で直進的だけどとんでもないお人好しの楽や、ふざけてばかりだけどいつも周囲に目を配っている集とは、小学生時代のように親友みたいでいられています。

 普段の面子で言えば、元気で人当たりも良く友達想いな桐崎さんや、勉強を教えあったり様々なことで純粋な一面を見せる鶫さん。自分の恋に猪突猛進する一方でポンコツなところもある橘さんや、さばさばとしているが面倒見の良く英語の本を貸しあう宮本さん。

 他にもクラスメイトの皆や何人かの後輩もいるけれど、これだけオレが多くの人と関わっているというのは自分よりもむしろ、あなたの方が驚いているのかもしれませんね。オレの英国での人付き合い自体があなたの事ばかりで、やや希薄になっていたのもあるでしょうけど。

 とにかく、学校の友人関係も今の所順調にいっています。

 

 四つ目は五つ目とも関わるのでもう少し後にしましょう。

 さて、あなたとの五つ目の約束は『特別に想える誰かを見つけなさい』でした。

 

 実は今、自分にはもったいなく感じてしまうような、素敵な女の子二人、しかも姉妹の二人に、明らかな好意を寄せられています。

 その二人っていうのは、小学生の頃に知り合った小咲と、その妹の春の事です。あなたを訪れるたびに話していたから、ご存じでしょう。

 万が一に勘違いであれば、オレを盛大に笑ってくれて構いませんよ。

 けれど、いつかあなたも言ってましたよね。人のあれこれが突然見えてくるような、一種の超能力みたいなやつです。あなたがいなくなってから、あなたほどではないですが、オレも段々と感じ取れるようになってきました。

 きっと二人から寄せられるものも、勘違いではないと断言できます。

 

 それを踏まえた上の事ではありますが、今のオレはまだ、小咲と春へ明確な答えを持ち合わせることができません。

 何故って、これまでずっと、オレはあなたに心を掴まれてしまっていましたから。

 あなたは自分のことなんて忘れても忘れなくてもいいとか言ってましたけど、オレにとってあなたが簡単に忘れることなどできない人だというのは、お互いに分かってましたよね。なのに、あなたの次の言葉は先程の五つ目の約束だったので、当時のオレには到底考えることができませんでした。

 けれど、この一年あなたのいない季節を重ねる内に、この五つ目の約束もいつの日にかは果たさなくてならないと感じました。

 結婚も離婚も経験したあなただから知っていたんでしょうけど、隣にただ寄り添い、自分と何かしらの想いを通い合わせていて、ふと何気ない日常の中で思い浮かんでしまう、そんな人が一度でも自分にはいたという経験のあるのは、非常に厄介ですね。

 

 あなたのいない今を生きる自分が、いつもそこにいたはずのあなたがそこにいないのを感じるたびに、他では埋めがたい何かをなくしたような気持ちになり、途端にどうしようもなく孤独な気がしてきて、淋しくなって、悲しくなってしまう。

 朝にあなたのいない台所やリビングを眺める時、ギターを演奏している最中にあなたが目の前にいるように思える時、明日花がこちらを振り向いてあなたそっくりの満面な笑みを見せる時、オレは何故だかわからない内に、涙が溢れて頬を伝うのを感じます。

 この前線香花火をした時なんて、明日花だけでなく、小咲や春達も見ているような前でやってしまいました。

 全く、情けないことこの上ないですよね。勿論、後悔なんてちっともしてはいませんよ。ただ、自分ではどうしようもないような、感情のうねりや身体の反応が起こるんです。こんなに胸が苦しいことだとは、想像以上でした。

 

 なので、四つ目の約束である『自分自身を大切にしなさい』はあんまり守れているような気がしていません。いや、恐らく守れていないでしょう。

 この一年、あなたを忘れまいとしながら、一足でも早く大人になろう、あなたみたいな大人になろうと、肩ひじ張って背伸びして、精一杯色んなことに取り組んできました。

 けれど、知佳さんにも言われてしまいましたが、どこかで無理を重ねていて、ため息をついたり疲れてしまったりすることが多くなりました。そんな時にまた切なくって悲しくって涙が出たり、あなたのギターに触らずにはいられなくなりました。

 やはり、見えないあなたを心の中心に置いたままで、あなたを追いかけてしまうのはこれ以上良くないみたいです。

 

 なので、あなたのことはこれから、写真をアルバムに挟み込むように、心の隅の方で大切に、忘れないように保管しておきます。実際にそうできるのは、もう少し先のことになるかもしれませんが。

 そして、あなたとの約束を全部守るために、自分自身のことをもっと気安く扱いながら、あの二人のことも真剣に考えて答えを出します。

 こんなことばかり、夏休みの間中の約一ヶ月間、時には寝ずに考えていたんですよ。

 駄目なんだから、ってきつく言ってくれても構わないんですよ。

 

 ……明香里。ここまで長いこと、オレの胸の内を聞いてくれてありがとうございます。

 でもね、明香里。今日の内に一つ、オレはあなたに言わなくてはならないことがあります。

 思えば、自分の口からあなたへと想いをはっきり伝えるような言葉を、出してないというか出さないようにしていたし、あなたの方からも、その扇情的な紅い唇からそのような言葉が飛び出ることは、結局最後までありませんでした。

 知佳さんの影響もあってか、古典の感情表現や人の有り様を好んでいたあなただからこそと言えるだろうし、そんなあなたに聞かされてきたオレも影響を受けていたのかもしれないんですが。

 

 オレにとって、あなたは家族以外の初めての知り合いであり、色んなところへ連れて行ってくれた年上のいとこ違いで、何でもないことで笑いあえる親友みたいで、ギターや家事の楽しさを教えてくれた師匠のような人で、それに……。

 挙げればキリがないように感じてしまうくらい、あなたはオレにとって一言では言い括れないような存在でした。

 けれど、15を迎えて、あなたと共に一夜を過ごしたあの日、それ以前でもそれ以降でも、オレからあなたへとただ伝えたかった言葉があった。

 だから、この言葉をこれからの変わり目を合図するように、ただ一度あなたにだけ向けて伝えますので、ちゃんと聞いて下さいね。

 

 周囲に人の気配がしないこと、蝉の鳴き声が止んでいることを確認すると、オレは目を薄く瞑り深呼吸をして、こちらへと煌めくルビーの瞳を向ける明香里を思い浮かべた後に、目を合わせるように開く。

 

「明香里……。オレは、あなたを、心から、お慕い申し上げておりました……」

 

 これだけ言い終えて暫くしてから、オレは静かに立ち上がり、そこから明香里の方を一度も振り向かずに、砂利道の音を立てながらその場を後にする。

 やがてアスファルト舗装のところまで来ると、ふと知佳さんのところへ行って報告しようと思い立ち、オレは靴の進む先を知佳さんが入院する病院へと向けた。

 天気の移り変わりやすい夏の夕方にしては、入道雲も夕立雲も何もなく、空の青さがただただ澄みきっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 目を開けると、障子の隙間から陽光が滲み出ていていて、朝の到来を感じる。

 オレはソファから起き上がり、障子をずらして縁側まで出れば、庭が明るく照らし出されており、そよ風が撫でるように吹いてくる。

 暑さが後退してきて、綿を包むがくが開く、処暑の季節が到来し始めたのが感じられるので、今年の夏も間もなく終わりを迎えるらしい。

 

「さてと」

 

 手を結んで上に大きく伸びをしてから、若干散らかしたままのリビングを片づけて、洗面台で寝癖を直したり歯を磨いたりした後に、台所で腕組みをしながら立つ。

 明日花や小咲、春はまだ寝てるだろうし、起こしに行くのもまだいいだろう。

 彼女らもいるし、飲み物は紅茶かレモンティーにしておいて、朝食はスクランブルエッグとかフレンチトーストにしようかな。

 そんなことを考えていると、よたよたと階段を下りてくる音がするので、そちらに目を向けると、眠気眼をこすりながら、髪もいつものように結ばずに伸ばしたままな春の姿が見えてくる。

 

「おはよう、春」

「あ、おはようございます、樹先輩……」

 

 挨拶をしあうと、何故だか春は顔をどんどんと赤らめさせていく。

 

「す、す、すみません!!」

 

 慌てたように春は、洗面台の方へとあっという間に消えてしまう。

 全く、あのままでもう少し寛いでいても、オレなら気にしないのに。

 けれど、春の方は恥ずかしい姿を見せてしまったと考えてるかもしれないから、何かしらフォローを入れておくのが良いだろう。

 暫くか経ってから、オレが先にスクランブルエッグを作っている最中、春が壁を隠し立てにするように、こちらをもじもじと覗き込んでいるのに気づく。

 気づかれたのが分かったのか、普段見るアシンメトリーのサイドテールに髪を束ねた春は、まだ顔をほんのりと赤くしながら台所へと入ってくる。

 

「さ、さっきはいきなり、騒がしくしてすみません」

 

 案の定、申し訳がなさそうに春は俯きがちに言う。

 

「大丈夫。普段朝に春がどんな感じか垣間見れて、ちょっと面白かったし」

「もう!何言ってるんですか、先輩!」

 

 オレが揶揄うと、今度は顔を上げ興奮気味に春は向かってくるので、そうやって少々勝気に見える目で頑張ってオレを見上げるその姿が、微笑ましいものに感じる。

 

「それで、樹先輩。何か手伝えることはないでしょうか」

 

 オレが宥めている内に、ようやく落ち着いてきた春が尋ねてくる。

 

「フレンチトーストって作ったことある?」

「ありますよ」

「そしたら、トーストにつけるための下準備をやっておいてくれるかな?」

「分かりました!」

 

 警官みたく片手で敬礼した後、置いてあったエプロンを着た春は、ボウルを取り出して牛乳や卵、砂糖を混ぜていく。

 春が卵を綺麗に割るのを見て流石だなと思いながら、オレは出来上がったスクランブルエッグを四人分のお皿に盛り付け、乾燥パセリをその上に少し散らす。

 

「このフライパン使いますね」

「ああ」

 

 オレが冷蔵庫に手を伸ばし飲み物を取り出そうとしてると、下準備が終わったらしい春がもう一つ用意してあったフライパンを持っているので、オレもすぐに了解する。

 紅茶とレモンティーの入った容器をテーブルの上に置き、オレは使い終わった用具を洗い直しつつ、フライパンの前で鼻歌を歌いだしそうなくらい楽しそうな表情でいる春のことを見やる。

 そういえば、春の身長って、明香里と同じくらいの高さだったと改めて気づく。

 

「樹先輩」

 

 フライパンの上でトーストが出来上がりつつあるのを眺めながら、春はいきなり呼びかけてくるので、オレは心の内で少しドキリとしてしまう。

 

「どうした?」

 

 オレが平静を装い春に尋ねてみると、春は静かで柔らかな表情を浮かべる。

 

「その、ですね。二人でこうして一緒に料理するのって、楽しいなあと思いまして」

「そうだね、楽しい」

 

 ささやかな笑みを浮かべる春に、オレも笑みを返して応じる。けれど、春はまだ何かしら言いたいようだ。

 

「樹先輩、私……、昨日もお伝えしたんですが、あなたの事が堪らなく好きです」

 

 春の気持ちは分かっているし、昨日のこともあったが、こうも唐突に正面切って真っ直ぐに言われると、オレも何と言葉を返していいか分からなくなる。

 

「勿論、先輩から昨日話していただいたこともありますし、こんなこと言っても、先輩を困らせるだけだって分かってるのに……。ただ、二人でこうした時間を過ごしてると、やっぱり伝えずにいられなくて……」

 

 春は耳元まで真っ赤にしながら、必死そうに自分の想いを伝えてくれる。

 

「春、申し訳ないが、昨日言った通り、まだ――――」

「ええ、分かってますよ」

 

 オレが断りを入れようとすると、春も分かってると言いたげに割り込んできた。

 

「樹先輩が私達の事考えてくれて、答えが出るまでいつでも待ってますから」

 

 春は花を咲かせるような笑顔をオレに振り向けた後、出来上がったフレンチトーストをお皿へ乗せに行ってしまう。

 オレはその姿に呆気に取られて、ただお皿に盛り付ける春の様子を見つめる。

 すると、階段の方から今度は、二人分の足音がのそのそと近づいてきた。

 

「樹君、春、おはよ~……」

「うう、トイレ……」

 

 小咲と明日花がまだ眠そうに、小咲が明日花を連れてくるような形でやってくる。どうやら、お手洗いに行きたい明日花に、小咲が叩き起こされたのだろうか。

 そんな二人の様子を眺めて、オレと春は顔を見合わせて、仕方ないなといった感じで微笑みあう。

 こうして残り少ない夏休みの朝の時間が、穏やかに流れていった。

 




 第二十話『ハチガツ』をご一読下さり、ありがとうございます。

 いかがだったでしょうか。

 感想等、心よりお待ちしております。

 次回からは、二学期が始まります。

 それでは、また次のお話で。


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第二十一話 シンニン

 第二十一話にお立ち寄り頂き、ありがとうございます。

 今日から二学期です。

 それでは。


 背中とシャツの裏を汗で張り付かせるほどの、うんざりするような暑さは影を潜め始め、初秋の爽やかな風が程よい感じで体に吹き付けるようになった。

 今日から多くの小中高で新学期が始まるということで、道行く先でまばらに見た小中高生には、楽しかった夏休みを名残惜しむような、これからの日常への回帰に辟易するような表情が映る。

 そんな通りすがりの彼らに同情しつつ、オレは別の意味で煩わしさを抱えて、久々の校門をくぐり抜け、一番乗りに教室へ辿り着いてから、荷物を置くだけで足を止めずに、職員室へと真っ直ぐ向かう。

 オレは廊下をなるべく急ぐように歩きながら、昨日小咲と春の家に明日花と遊びに行ってた時に突然やってきた電話の相手とその内容を思い返しては、再会に喜ばしさを覚えると同時に、これからまた面倒なことになりそうな厄介事を孕んだような気持ちとに挟まれ、心を乱さないよう深呼吸をする。

 職員室へと入ると、先生方も新学期への準備等に追われてか慌ただしく、それでいて再び始まる生徒達との関わりに早くも倦怠感を覚えている雰囲気だ。

 

「あーー!!樹ちゃんだ~!!」

 

 そんな職員室の空気に吹き飛ばしてしまうかのように、清涼感溢れる若く女性らしい高い声が届いてくる。

 呼ばれたオレは集まり始める視線を無視するように、こちらに無邪気に手を振ってくる声の主の元まで黙って向かう。

 やがて、並べられたデスクの目的地に辿り着くと、そこには副担の福田先生ともう一人、スーツ姿でピシッと決めてきた様子である女性の姿がある。

 

「お久しぶり、樹ちゃん!元気してた?」

「おはようございます。そして、お久しぶりです、(ゆい)さん。まさか、こんな形でお会いできるとは、思ってもみませんでしたよ」

「アハハ、私も~」

 

 首元をスッキリ見えるくらいに、青みがかった黒髪のロングヘアを頭の後ろで纏めて、トレードマークのようなカチューシャで髪留めをする奏倉羽(かなくらゆい)さんは、手を顎先につけてにこりと笑う。

 小学生の頃、楽と集の三人で遊んでる時にたまに楽のお姉ちゃんみたいな人として、オレは羽さんと知り合った。何度か一緒に遊んだこともあるが、羽さんは良い学校に行くという理由で転校していった一方で、オレがイギリスに住み始めた時に、既に飛び級を重ねて大学に通っていた羽さんと会ったのは中々に驚いた記憶がある。羽さんとオレがこうして顔を合わせるのは、それ以来およそ四年弱だ。

 

「にしても、本当に大きくなったわね~樹ちゃん!身長どれだけ伸びたの?」

「夏休みに病院で一度測ったら、182cmありました」

「ええ!?そんなに!!」

「奏倉先生、それに宮森、そろそろ……」

 

 オレと羽さんが身長が伸びたかどうかなどくだらない話をしていると、さすがに見かねてこれまで静観していた福田先生から、困ったように断りが入れられた。

 羽さんもついうっかりみたいな表情を浮かべた後に、元々正していた姿勢をさらに正して、眼鏡をくいと上げこちらを捉える。

 

「樹ちゃん、昨日話した通り、今日からあなた達のクラスの担任を務めることになったから、これから改めて宜しくね!」

「はい、こちらこそご教授のほど、宜しくお願いしますよ」

 

 折り目正しく言葉を向けてくる羽さんに対して合わせるように、オレも背筋を伸ばして軽くお辞儀を返す。

 その様子を見て一息ついた様子の福田先生は、縒れていたTシャツの襟を少し正して、この後のクラスの皆との対面までの流れを淀みなく説明してくれる。

 うんうんと生真面目に聞く羽さんを横目に見ながら、オレは福田先生の話を聞き通しつつ、頭の中で楽達が羽さんを見た瞬間にどんな顔をするのか、想像にふけっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「キャ~!!奏倉先生よ~~!」

「おはよーございます!!」

「お荷物お持ちします!!」

「おはよ~今日も皆元気だね~」

 

 教室の前方では十人くらいの人だかりが出来ていて、皆が嬉々とした表情を浮かべながら、教室へとやって来る人物を迎えている。

 羽さんは今日も身だしなみをばっちり整えて、まさしくデキる女感を見事に演出しながら、颯爽と教室に登場してきた。

 

「……あんたのお姉さん、ものの一週間で凄い人気ね」

「昔から人に慕われる質ではあったけど、ここまでとは……」

「さすがだね~羽姉は」

 

 通学鞄を机にどさりと置きながら、桐崎さんは前方で繰り広げられる賑やかしさを首だけ横に流す。楽も机に腰掛けて、呆気にとられるようにその様子を眺めている。集はからからと、可愛い女の子を見る時と同様のにやけ顔で相槌を返す。

 

「本当それ、おかげでオレも前よりかは気楽だよ」

「一学期の時は皆、何かあれば樹君に集中してたもんね」

 

 楽の隣でオレも、まるで自分の仕事を押し付けてやったように軽口を叩く一方で、オレの若干斜め後ろにいる小咲は、穏やかな口調で応じてくれる。

 

「今やこのクラスどころか、学校中のアイドルみたくなってるもんな~」

「先生達にも既に一目置かれてるらしいしな」

「へーそうなんだ」

 

 にやけ面のまま明るい調子で言う集に、オレも羽さんを訪れるにつれて変化していく職員室の様子をそのままに伝えていく。

 実際羽さんが来てからは、クラスメイトから呼び寄せられるのも羽さんと二分してきているし、きっちりと仕事もできて愛想の大変良い羽さんのおかげで、オレに限らず福田先生や、多くの生徒や先生の助けになってるようだ。

 オレから見れば、羽さんは少し頑張り過ぎだなとうっすら気にしていたのだが、観察している内に本当に要領が大変よく、対人でも素でああなので、今では杞憂だったと感じている。

 この一週間を振り返りすっかりと感心して、いまだ数人の女生徒に囲まれて笑顔を絶やさない羽さんを眺めていると、気づけば何人かの男子達が、血の涙でも流さんとばかりに楽へと押し寄せてきていた。

 

「羨ましいぞてめー一条!!!」

「こんな素敵な先生と一つ屋根の下などとー!!!」

「だからオレが知るかって!!」

 

 狙った獲物を捕り逃さない肉食動物のように、困惑する楽を取り囲むクラスメイト達を見ながら、オレは助けを求める視線を流す楽に、こればかりは諦めろと目を横に振って返す。

 

「いいな~毎日一緒なんだろ~~?」

「幼なじみのお姉さんと共同生活なんて禁断だよ禁断……!」

「はあ!?ちょちょちょアホかお前ら!」

 

 にやにやとくだらない妄想でも浮かべているんだろうか。性が関わると興奮する年頃の男子高校生みたく、迫りゆくクラスメイト達に楽は必死に否定を入れようとしている。全く、一緒に暮らしているくらいで動じずにいられるなんて、彼らはいつ頃になるのか。

 斜め後ろから、じとりとした視線をにわかに感じる。きっとこれは気のせいに違いない。

 

「いくら幼なじみとは言え、オレ達は本当の姉弟みたく育ってきたんだぞ。今更異性として見れるワケねーだろ!」

「えー?そういうもんかー?」

 

 恥じらいつつ、しかし語気を強めにして、楽は尤もらしい理由をつけて否定をするので、色めき立っていた男子達も、首を傾げながらだんだんと落ち着き始めた。

 

「…………本当に?」

「……あ?何疑ってんだよ」

 

 一方で、この一連の出来事ををじっと猫目になりながら聞いていた桐崎さんが、疑わしそうに楽へと尋ねる。先程まで突っかかられて疲れた様子の楽は、呆れたようにして返す。

 

「楽ちゃ~~ん!」

 

 普段のクラスの雰囲気へとそのまま流れていきそうなタイミングで、人だかりからようやく抜け出してきた羽さんが、いかにも困ったといった感じで楽を呼ぶ。

 

「お弁当貰うの忘れちゃった」

「ああ、はいコレ」

 

 手を合わせて申し訳なそうにする羽さんに、楽は準備良く鞄から弁当の入った袋を、さっと取り出しては造作もなく渡す。

 すると、羽さんが何か気づいたように、楽の髪の方へと上目遣いで視線を送る。

 

「も~楽ちゃんたら寝グセついてる」

「バッ……だから学校でベタベタすんなって……」

 

 楽よりかは2、3cmほど背の低い羽さんが、右手をスッと伸ばして楽の寝癖のついた髪の毛に触れる。両手で盾するように楽はしているが、顔を赤らめるばかりで羽さんの侵攻を食い止められないでいる。

 実際には、よくできたお姉ちゃんが可愛げのある弟をあやすように。そうでなければ、付き合い始めのカップルみたいに映りそうなやり取りが、教室中央それもクラスメイト眼前で繰り広げられるので、中には羨ましそうに見つめる者や、頬を赤らめ目を背ける者。戸惑いを隠せずにいられない者や、烈火のごとく怒りを燃やす者など、様々な反応が二人へと向けられていく。

 

「キィェエエェェエェ~~~!!!」

 

 その中で音割れしそうなほど甲高い声が響き渡り、何事かとオレはその方向へ目を向ければ、般若のごとく顔を歪めながら怒りの形相で楽を守る形で、羽さんの前に立ちはだかる橘さんの姿がある。

 

「ちぃよっとお姉さ~ん?教師と生徒がベタベタするのはよろしくないのではありませんかぁ??」

「ハッ!確かにそうね!」

 

 怒気と恨み節を言葉尻にどんよりと含ませている橘さん。思えば、こんな呪怨めいた橘さんなんて、見たことがないかもしれない。橘さんは一方的に、羽さんを嫌ってでもいるのだろうか。

 そんな橘さんを見ても私ったらと囁く羽さんは、素でおとぼけた感じで眼鏡に手をかけて、「先生モード解除~♡」と言うと、眼鏡を外して椅子を持っていき、楽をそのまま無理矢理そこへ座らせていく。

 

「はい楽ちゃん、じっとしてて~」

「ちょ、いいって!!」

「わいに理屈は通じんとよかー!!?」

 

 周りの人なんかお構いなしに羽さんは、いたって当たり前のことかのように楽の髪に手をかけて寝癖を直そうとする。

 そろそろ楽の胃に穴が開きそうなのも、橘さんの血圧が天元突破しないためにも、オレはこの場を収めようと羽さんへと近づく。

 

「羽さん、楽だって高校生なんだから、寝癖くらい自分で直せますよ。それに、次の授業もまもなくですし」

「……そうね、私ったらつい普段の感じで」

 

 頬を人差し指でかきながら、羽さんはちょっとばかし名残惜しそうに楽から離れる。楽の方はというと、ようやく一息ついて椅子を元の位置へと戻しに行った。

 

「橘さんも、あんまりギャーギャー言わない」

「け、けれど宮森さん!この人は、この人はですね……!」

「落ち着いて。楽のためにも、ひとまず収めてくれない?」

「ぐっ……!そういうことでしたら」

 

 怒りで我を失いそうになるくらい動転していた橘さんも、楽の名前を出せば落ち着きを取り戻してくれる。橘さんがこうなった場合は、取り敢えず楽の名前を使うとどうにかなると、経験的に得てきていたし今回も上手くいきそうだ。

 

「そうだ、樹ちゃん」

 

 クラスの皆もそれぞれ散開して、次の授業の準備に取り掛かり始めた頃、オレは羽さんに呼び止められる。

 

「このあとの英語の授業なんだけど、また英会話の相手役頼まれてもいいかな?」

「またですか、いいですけど」

「ありがとう!じゃあ教科書65ページのLesson5のところ見ておいて!」

「はい」

 

 よろしくね~といった感じで、羽さんはまた別の生徒に声をかけられつつ、教壇の方へと向かっていく。オレもそれを見送った内に、窓際のいつもの席へ戻り、引き出しから教科書とノートを取り出す。

 オレは教科書をパラパラと開き、今日の授業内容を確認しようとすると、リュックサックにしまわずに机に置いたままのスマートフォンから通知音が鳴った。

 

 スマホをマナーモードに切り替えてから、メッセージの内容を確認してみる。『今日もまた中庭集合ね』とだけ、簡素にお昼の場所を伝える文面だけ送られている。送り主は小咲のようだ。

 小咲の方をちらりと見やると、こちらに目配せをしてニコニコと笑みを貼り付けたままの姿がそこにあるので、オレもやれやれと思いながら電源を切り、リュックサックのポケットへと雑っぽくスマホを流し込む。

 

 ふと空いた窓からそよ風が吹くので、窓の外へ目を向けると、一年生のようだ。体育のためにグラウンドへぞろぞろと出てきている。その中にこちらの教室を見上げてきている春の姿が、隣連れ添う風ちゃんとともに目に入ってしまう。

 春はこちらへ元気よく右手を大げさに振っている。まるで小学生みたいに無邪気。春を見つめて微笑む風ちゃんと同じように、オレも今、口元を緩めて笑みを浮かべているのだろうか。オレも彼女らへささやかに左手を振り返す。

 春は満足したように白い歯を見せたと思えば、風ちゃんに一声かけて、既に先生を中心に集まり始めてた人だかりの中へと、急ぐように駆け出していく。

 今日が快晴なのもあってか、学校のグラウンドはまるで海の砂浜みたいに、白く鮮やかにオレの目に映ってきた。

 夏休みを経て二学期になっても、小咲と春からのお弁当は変わらず継続している。

 

 




 第二十一話『シンニン』をご一読下さり、ありがとうございます。

 いかがだったでしょうか。

 私はどうしてか21という数字を、とても気に入っています。
 なので、今回が二十一話目ということもあり、気分を一つ変えて、二十一時に投稿してみました。

 それでは、また次のお話で。


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第二十二話 ウタガイ

 第二十二話にお立ち寄り頂き、ありがとうございます。

 それでは。


 手をつないで仲睦まじい様子で隣歩く大学生同士のカップル。可愛い目をしたトイプードルを連れている貴婦人。小学生くらいの兄妹二人をすぐ後ろから微笑ましく見つめる夫婦。

 二学期が始まって最初の休日、午前にして街中の人通りは大いに賑わい、行き交う人達にも心なしか豊かな表情が浮かぶ。

 私はるりちゃんと、『女子校生にオススメ!地域のランチ特集』と題した、女性向き雑誌のページを次々とめくりながら話合わせている。

 

「小咲、ここなんかどう?」

 

 ページをめくる手を止めたるりちゃんが指をさす、写真と文字の列が適当に配置された見開きのページを眺める。どうやら喫茶店のようで、数重にも重なったパンケーキの上にアイスクリームがたっぷりと乗ったスイーツを売りとしてるらしい。

 

「いいよ、行ってみよっか」

 

 私はアシンメトリーでサイドに流している髪をかき上げ、表情こそ全く変わらないが目を輝かするりちゃんに応じる。閉じた雑誌を私の手提げバッグに押し込んで、私達は目的地へと歩みだす。

 甘いものも好きなるりちゃんはきっと、あの大盛りのパンケーキを食べるんだろうな。るりちゃんのように、食べるものがどこかへ消えていくなら私も食べてみたいけど、私の場合はそのままお肉になっちゃうから控えよう。うん、そうしよう。

 自分のお腹をさりげなく触りながら、私は街中から少し外れて川沿いの道にやってきているのに気づく。右手には西洋風の柵で仕切られた向こうで川がゆるやかに流れていき、左手には広く公園が見えていて道沿いにはユリノキが延々と整列している。

 

 すると私には、ついこの前の夏休みに、春と一緒に樹君のお家に泊まった次の日の朝がふと思い出される。

 起きてきた明日花ちゃんにどうしてもとせがまれ、私は重い瞼を懸命に開けようとしつつ、階段を転ばないよう慎重にリビングへ降りていくと、そこには既に春と樹君の姿が台所にはあって、フレンチトーストなどの朝食がきっちりと用意されていた。

 そっか、私よりも先に起きて、二人で朝ごはん作ってたんだ……。私は明日花ちゃんをお手洗いに連れて行ってから、洗面台の鏡に映る眠そうな自分と向かい合わせている内に、樹君とこんな朝から一緒にいた春が羨ましく、こんな時間までスヤスヤと眠りこけていた自分を詰りたくて仕方なかった。

 私だって、樹君と一緒に二人きりで、朝の時間を過ごしたかったな。私が料理をちゃんとできるなら、春みたいに樹君と台所で隣並んで立てるのかな。

 そんなことをうじうじと頭で並べ立てていると、隣歩くるりちゃんに肩をトントンと叩かれた。

 

「どしたの小咲。そんなボーっとして」

「え、いや、何でもないよ!」

 

 びくりと肩を震わせ驚く私に、るりちゃんは怪訝そうな目で見つめてくる。

 

「全く、どうせ宮森君のことでも考えてたんでしょ?」

 

 るりちゃんは発する声も表情も崩さずに、平然と私の考えていたことを言いのける。

 

「……どうして分かるかなあ」

「あんたが最近考えてることなんて、そればっかりじゃない」

「そ、そんなわけじゃ……、いや、そうかも……」

「そうなのよ」

 

 るりちゃんは腕組みをしながらも歩く速度はそのままに、少し斜め下へと視線を流して、言葉を選びながら慎重に続けていく。

 

「……あんまり想い詰めすぎても、宮森君の場合は逆効果じゃないかしら。いくら待つ身だと言っても、小咲は今まで通り宮森君と接してあげればいいんじゃない?」

「そう、だよね」

 

 事情を知るるりちゃんの諭すような言葉に、私は一応肯定の返事をするものの、心のどこかでそれを素直に受け取れきれない自分がいるような気がしてならない。一度堰を切って流れ出したこの想いを、いくら私自身が抑え込もうとしても、もうその流れやうねりを食い止める手段を、私は持ち合わせていないのである。

 これから、私達二人の事を、真剣に目を向け、考えて、答えを出す。

 そう言った彼の、揺るがない決意のこもった、あの鮮やかな黄緑の瞳に真っ直ぐ射抜かれて。私はますます、あなたの隣に寄り添い、あなたと一緒にいたいと強く強く想うようになってしまった。

 

「ん?あれって……」

 

 すると、腕組みしてたはずのるりちゃんが前方へ指をさし、驚いたような目を向けるので、私も釣られてその方向を見渡す。

 公園の中から続く、川をまたいだレンガ造りの橋を渡り始める男女の姿がそこにある。女の人が引っ張っていくように前を歩いていて、男の人が後ろから渋々ついて行ってるという感じで。二人とも、私の知ってる人物だ。

 どうして二人でいるの。思ってもいなかった光景に、危うくそんな言葉が口をついて出そうになってしまう。

 昼休みに三人でお弁当を食べている時、私は羽先生が妙にあなたに親しい様子が気になって、あなたに羽先生とはどんな関係なのか聞いた。「楽経由の昔からの友人だよ」と、あなたが事もなげに言うのでほっとしてたけど、それでもやっぱり私は気になっていた。

 

 笑顔で後ろを振り向きつつ歩く羽先生に、あなたは何か言ってるようだ。まもなく二人は、短い橋を渡り終えるところまで来ている。

 私が今の羽先生のことを、まだよく知らないからなのかもしれない。けれど、私ってこんなに疑い深かったっけ。あなたが別の誰かと一緒にいるだけで、こんなにも心が掻き乱されてしまってたっけ。

 すると、また公園の方から、橋を渡り終えていく二人の後ろを、二人の少女が身を隠すようについていこうとする姿が見える。何とかしてバレないように止まっては歩き、歩いては止まるを繰り返す二人の姿が、私には滑稽に映って思わず笑みがこぼれてしまう。

 やっぱり姉妹だから、考えてることも同じようになっちゃうよね。

 

「るりちゃん、私達も後をつけよう」

「ええ、付き合ってあげるわ」

 

 私の唐突な勧誘にも、るりちゃんはさも当然かのように乗っかってくれる。

 今度何かお礼をしなくちゃなと頭の隅で考えながら、私達は橋を渡っていく春と風ちゃん、そしてその先を行っているであろう羽先生と樹君を目指した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 土曜のお昼前というのもあって、街ゆく人々は平日でよく見るサラリーマン姿や学生服でなく、皆それぞれ思い思いの私服姿で身を包んでいる。

 そんな中、私は風ちゃんと一緒に、テラス席もいくつかある外観の素敵なカフェのお店へと入っていく樹先輩と、最近先輩達のクラスに新任としてやってきた奏倉先生を、やや遠めから見送っていく。

 

 秋の季節に合いそうな服を探しに、風ちゃんとショッピングモールへと向かう途中、私は偶然にも公園で、樹先輩と奏倉先生が出会うのを目撃してしまった。急いで物陰に隠れて彼らの様子を窺っていると、二人がそのまま公園から川へと続く道を出ていこうとするので、「後をつけよう」と言う風ちゃんに私は大きく頷き返し、樹先輩達を追いかけ、今に至る。

 奏倉先生のことは、樹先輩とお姉ちゃんと過ごす昼休みの時間に聞いていたし、実際に校内で何度か見かけて綺麗な人だと思っていたが、まさか樹先輩と奏倉先生が二人でいる姿を目にするとまでは想像してなかった。

 

「入って行ったね、どうする?春」

「うん、どうしようね、風ちゃん」

 

 私と風ちゃんは店内を覗き込むようにしながら、店の前の通りで立ち往生してしまう。

 

「入ればいいじゃないの」

 

 すると突然、後ろから女性の呼びかける声が聞こえてきて、私は思わず体が飛び跳ねるくらい驚く。振り向くとそこには、普段通り落ち着いた表情をしたるりさんの姿があって、さらにその後ろにはお姉ちゃんが、困ったような笑みを浮かべながらこちらに顔を覗かせていた。

 

「あはは、私達も樹君や春達の姿が見えて、後をつけて来ちゃった」

 

 頭を手のひらで何度か触りながら、お姉ちゃんは忍びなさそうに言う。るりさんの方はというと、「ちょうど私達が目指してたお店じゃない」と呟いて、私達を引き連れて店内へ入っていこうとする。

 どうやら目的が同じらしい私達四人は、るりさんをそのまま先頭に、黒のエプロンに身を包んだブロンドヘアの女子大生らしき店員さんの案内を受けて、樹先輩と奏倉先生がいる所とちょうど隣のテーブル席に陣取る。

 幸い、ファミレスでもよく見るような仕切りがテーブルごとにあるのに加え、樹先輩はこちら側に座っており、尚且つ二人はメニューを見合わせていたので、私達はバレることなく忍び込めた。私とお姉ちゃんが樹先輩と背中越しに、風ちゃんとるりさんがその向かい側に座る形となった。

 先程の店員さんに注文を聞かれ、私やお姉ちゃんの代わりに風ちゃんが飲み物を頼んでくれる。私がオレンジジュースで、お姉ちゃんはカフェラテ。風ちゃんはエスプレッソを頼んだみたい。るりさんだけがどうやらアイスコーヒーだけでなく、この店のオススメらしいパンケーキを頼んでいる。

 私達がようやく落ち着き始めた頃、向こうの方も注文が終わったようなので、私やお姉ちゃんは樹先輩達の会話に耳を澄ませていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「樹ちゃんごめんね、付き合わせちゃって」

「いいですよ。オレも昼過ぎまで空いてますし」

 

 すまない様子で言う羽さん。今日の彼女は、先生用の伊達眼鏡はしていない。長い黒髪を伸ばしたまま、白のワンピースの上にチェリーピンクの薄手カーディガンを羽織っている。大気が冷えてきたとはいえ、日中はまだ夏日に迫るような日が続く九月初旬の時期には良く適した服装であろう。

 

「けれど、まさか公園で会うなんて、羽さんは何してたんですか」

 

 昼下がりに明日花のところまで行くまで、午前中は陽の光も程よい公園のベンチで読書して過ごそうとしていたが、その最中に羽さんに声をかけられた。

 

「ちょっと楽ちゃん達についていっててね。ほら、千棘ちゃんとの定期デートってやつ」

 

 教室でもよく見せるような明るい笑顔を照らしながら、羽さんはこちらに目を合わせてくる。

 

「ああ、なるほど。よくもまあ、人のデートについて行けますね」

「ちょっと用件があってね、どうしても」

 

 ほんのり意地悪く言ったつもりだったが、羽さんはその表情をちっとも崩さない。

 どうしても。楽達のデートに。この人は楽達に無理言って一緒に行ったみたいだ。羽さんが彼らについていく理由なんて、たかが知れてるのだが。

 

「あなたの事だからどうせ、楽と桐崎さんの関係を確かめに行ったんでしょ」

「あら、樹ちゃん知ってたの」

「知ってたも何も、会って初日に気づいて、教えられましたし」

「そうだったんだ。私、今日知ったよ」

「そうですか?彼らのニセコイ関係に勘づかない羽さんではないですよね」

 

 きっと聡い羽さんの事だから、当たりをつけていたはずだ。楽と桐崎さんの関係を確かめるのも用件の一つではあったのだろうけど、向こうで何度か会っていた頃に聞かされていたオレには、もっと重要な用件があったに違いないと感ぜずにはいられない。

 

「そこで、わざわざこんな所でオレとお茶するほど、重要な用件があったんでしょう?例えば、楽の事で桐崎さんに言いたい事があったとか」

「……ほんと、驚くほど鋭くなったのね、樹ちゃん」

「純粋で真っ直ぐな所のある羽さんなら、やりかねないなと」

 

 それからというもの、羽さんは一転真剣な雰囲気を纏い、桐崎さんに自分が楽を好きだと直接伝え、堂々と恋のライバル宣言をしてきた事を教えてくれた。

 オレ達がいるクラスの担任をすると電話越しに連絡してきた時も感じたが、羽さんのこうと決めたらこうという時の行動力は群を抜いている気がする。

 

「……というわけで樹ちゃん。これからまた、楽ちゃんの事で相談すると思うから、その時はよろしくね」

「もちろん、分かってますよ」

 

 店員さんが飲み物を持ってくる間中、楽について惚気話もいくつか交えながら話していた羽さんが途端にそんなことを言うので、聞き流し始めようかと思ったオレは気を取り直す。

 羽さんがロイヤルミルクティーに対し、オレは相変わらずレモンティーを頼んだ。ストローに口つけた後、羽さんが今度はオレに聞きたいことがるように、エメラルドグリーンの瞳をくるんと光らせる。

 

「そういえば樹ちゃん、明香里さんのことは大丈夫?」

 

 羽さんに会えば必ず聞かれるだろうと想定してはいたが、実際にその名とともに尋ねられると、セメントがコンクリートになるように、オレは身が固まるのを感じてしまう。去年の今頃だろうか。あんまり切迫した感じで来た羽さんからの電話は、今でもその驚きとともに鮮明に思い出せる。

 

「大丈夫、なんでしょうか。最近随分と前向きになってきてますが、そうだと言い切れないです。どうにかしないといけませんが、まだかかりそうです」

「そっか、そんな割り切れるような事じゃないもんね……」

 

 小咲や春から好意を寄せられるようになってから、彼女達が自分にとって何なのか考え始めたとともに、何より明香里のことを改めて見つめ直し、オレはようやくうごめき続けていた気持ちを整理していくことができている。

 ただそれでも、まだとても落ち着かせることのできない想いが、心の至る所にバラバラと散らばっているようで、全部が時間の経過とともに片付け終わるかなんて、今の自分にはあまり想像しきれない。

 

「樹ちゃん。何か困ることとか、話したいことがあったら、いつでも私に話してもいいから。大切な人を亡くした痛みなら、少なからず分かってあげられるかもしれないし」

「……あなたの場合とはだいぶ違いますが、その心意気だけでも有難いです。ありがとうございます、羽さん」

 

 悲しそうだけど懸命に目で訴えてくる羽さんは、ご両親を亡くしているようで、兄弟はおろか親戚もいないらしく、天涯孤独の身であるということを、一度向こうで楽に何故想いを寄せるのかを尋ねた時に耳にした。

 今では叉焼会とかいうマフィアの首領であり、うちのクラスの担任としてしっかりやっているみたいだが、そこに至るまで何度も心折れてしまいそうな事があっただろうと、彼女の顔つきや線の細さから察する。

 それでも、こうしてオレに言葉をかけてくれるあたり、羽さんの人の好さが如実に表れている。

 

「ところで、樹ちゃん」

 

 微笑みをたたえる羽さんは、話題を変えようと明るい調子で尋ねてきた。

 

「どうして楽ちゃんや集ちゃんのように、私のこと羽姉って呼んでくれないの?」

「理由言ったことありませんでした?」

「うん、多分聞いたことない」

「どうして今更そんなこと聞くんですか」

「純粋な疑問として気になっちゃって」

 

 ミルクティーを嗜む羽さんは、片目を閉じウインクをかましてきた後、いかにも聞きたそうにオレの返答を待っている。

 

「単純なことです。オレのお姉さんは、明香里ただ一人だけですから」

「そっか、樹ちゃんらしいね」

 

 氷が解けていくレモンティーの様子を見つめながら答えるオレに、羽さんは納得したように頷く。羽さんがこんなことを聞くのも、お姉さん気質で、親しい年下の男子にはそう呼んでもらいたいという願望が、きっとどこかに潜んでいるからだろう。

 確かに羽さんは二つほど年上の女性で親しくはあるが、自分のどこかに頑固な部分が存在して、オレはとても羽姉とは呼ぶ気になれず、その代わり羽さんという呼称で妥協している。

 時計をちらりと見る。12時を少し超えたあたりだろうか。そろそろ明日花から電話がかかってくる頃だろう。

 テーブルに置いていたスマホから着信音が鳴る。オレはすぐに手に取り、画面を確認してから、通話ボタンを押す。

 

「……もしもし、お兄さん?」

「もしもし、明日花。13時にはそっち行くから。それと今一緒に、羽さんがいるんだ。明日花覚えてる?」

「え、もしかして羽お姉ちゃん?!」

 

 代わって代わってと電話越しから、元気よくせがむ明日花の声が通るので、オレはスマホから耳を離しながら、羽さんへと目配せをする。羽さんも嬉しそうに頷くのを確認してから、オレはスマホを羽さんへと渡す。二人が楽しそうな声色で話すのを眺めながら、オレは残っているレモンティーを飲み干す。

 この店のレモンティーは、中々すっきりとしていて味も好みに近かった。店内の雰囲気も落ち着いてるし、今度は読書しにまた来てみようか。

 気づくと二人の通話も終わったようで、羽さんは上機嫌にオレのスマホを差し出してくる。

 

「いやー!まさか明日花ちゃんに覚えてもらえてるなんて!早く明日花ちゃんにも会いたいなあ」

「その内会えますよ。皆とも数度遊んでますし」

「そうなんだ!楽しみにしてるわ」

 

 心弾むようにニコニコと笑みを浮かべる羽さんを見てると、明日花の事でここまで嬉しそうにしてくれるのが、何故だかオレに誇らしさを感じさせる。

 

「さて、そろそろオレは出ますよ」

「うん、今日はわざわざ付き合ってもらってありがとね、樹ちゃん」

「こちらこそ、久々に羽さんとこうしてお話が出来て、良かったです」

 

 オレは自分の代金を出すために、財布を取りだそうとバッグの中へと手を伸ばす。

 

「待って!私が誘ったわけだし、ここは年上に任せて!」

「いいんですか?」

「うん!楽ちゃんの事も話せたし、今日は私の奢りということで」

「……では、ゴチになります」

 

 取り出しかけていた財布を再びバッグの中へとしまいながら、お姉さんオーラ全開で領収書を手に取る羽さんに、オレは軽くお辞儀をする。

 羽さんもミルクティーを飲みきり、お互いに帰り支度が済んだところで、オレは最後に羽さんと確認したいことがあった。

 

「ところで、羽さん」

「うん?」

「何か……気づいてることありません?」

「……そうだね、橋のあたりからかな」

「さすが、叉焼会の首領でいらっしゃる」

 

 羽さんから橋という単語が出た途端、突如として後ろの座席が慌ただしくなるので、逃がさないようにオレは立ち上って振り向く。

 

「ね、四名のお嬢様方」

 

 背中合わせのところにいた小咲と春は、自分達のバッグを持ち出しかけてわなわなとしている。風ちゃんは、えへへすいませんといった感じで笑みを浮かべ、宮本さんはというと、残りのパンケーキを食べ切ろうとした痕跡が口の周りに広がっていた。

 

「ご、ごめんなさい、樹先輩!つい気になっちゃって……」

「樹君、ごめんね。羽先生も、すいません……」

 

 ひどく申し訳なさそうに春と小咲の二人が、立ち上がってこちらへと頭を下げる。

 

「全く……、これで分かったろ。羽さん、面倒かけてしまいすみません」

「私は構わないよ。誤解が解けるならそれでいいし」

 

 羽さんならこう言ってくれると思ったからこそ、敢えて橋からカフェまでの道すがら、彼女達につけられている事と恐らくの理由を、手短に話しておいたのだが。

 

「にしても、樹ちゃんもモテモテね~!まさか小咲ちゃんやその妹さんから、追いかけられるなんてね~」

「……ええ、有難いことに」

「小咲ちゃん、それに春ちゃん?だっけ。お聞きになってた通り、私は楽ちゃんの事が好きで、樹ちゃんとは友人同士だから、そこは安心していいからね」

「は、はい!お邪魔してしまい、本当にごめんなさい!」

「こちらからも、申し訳ありません……」

 

 ニンマリ顔の羽さんがご機嫌な様子で、とんとんと話を進めていくので、オレは感謝の念を密かに送る。顔から火が出るように真っ赤な小咲と春が、再びお辞儀を返すのを見つめてから、オレは彼女達に声をかける。

 

「ともかく、勝手に疑われるのは困るが、そう疑わせたオレも多少悪い所があった。二人とも、悪かったな」

「そんな、樹君が謝る事じゃないよ!」

「そうです!私達がそもそも勝手に……」

「駄目。友達同士なら、ふざけるなの一言で済ませるけど、今のオレ達はそういう関係性じゃない。過失があってもなくても、ちゃんと言っておく必要がある」

 

 食い下がってきた二人を押しとどめるように、オレは続けざまに言葉で制す。

 

「言ったろ?二人の事、真剣に考えるって。待たせる身ながら申し訳ないけど、必ず近い内に答えを出すから。だから、もう少しおとなしくいてほしい」

 

 そこまで言うと、小咲と春は顔の色をさらに濃くさせ、俯いてコクリと首を縦に振るので精一杯のようだ。待ってくれる彼女達のためにも、自分の中で気持ちがもっとはっきりしてくる時が来るのを願う。

 

「宮本さんも、風ちゃんも。付き合わせてすまない」

 

 後ろで立ち上がったままの二人にもオレは詫びを入れる。二人とも、こちらこそ申し訳ないといった感じで、一言加えて口に出してくれる。

 

「そしたら、さすがにもう行きますね。明日花も待ってるので。お先に失礼します」

 

 気づくと時刻もいよいよ迫ってきているので、オレは少し早口で捲し立てた後、五人を置いてそのまま店の外へと出た。

 小咲と春、二人への答えを出す事。そして、その後どうしていくのか。

 明日花に学校の勉強を教えつつぼんやりとでも考えようと、オレは休日のせいで歩行者の数が比較的多い通りをかき分けて進みながら、明日花の下へと足を忙しなく動かした。

 




 第二十二話『ウタガイ』をご一読下さり、ありがとうございます。

 いかがだったでしょうか、感想や評価お待ちしております。

 それでは、また次のお話で。


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第二十三話 ヨリミチ

 第二十三話にお立ち寄り頂き、ありがとうございます。

 今日は小咲の回です。

 それでは。


 外から小鳥のさえずりが聞こえてきて、ベットから起き上がった私は部屋の窓を開けると、空には青空を背景として羊雲が仲良さそうに群れを成している。

 涼しげで穏やかな風を感じながら、あと数日したら雨が降るかもと私はうすらぼんやり考えて、両手を結んで大きく上へ上へと伸びをする。今日からまた学校だ。宿題はちゃんと昨日の内に終わらせてるから、朝の時間は少し余裕がある。体を伸ばした後、私は再びベットへと腰を落ち着かせる。

 

 一昨日は樹君に迷惑をかけてしまった。

 樹君と羽先生が二人でいるのを追いかけてカフェへと入り、二人の話に耳を傾けるまでは露ほどにも思わなかった。

 けれど、会話を聞いてる間に、私はなんて愚かなことをしているんだろうと、疑いばかりで頭がいっぱいいっぱいになってた自分が、とても情けなく恥ずかしく感じた。

 樹君も羽先生もやんわりと諌めてくれたけど、それでも勝手な思い込みで行動を起こしてしまったこと。それに、自分達からあれだけ待つと言っておきながら、明香里さんのことや私達の事で悩ませている樹君に、その決断を焦らせるようなことをしたこと。

 想いを寄せる身としては失格級なんじゃないかと、自分の愚かしさが嘆かわしくて、私は思わず深くため息をついてしまう。

 それでも、待ってほしいと伝えてくれた樹君のためにも、彼を好いている自分のためにも、今日からまた心を正し、お弁当を食べたりするなどして普段通り樹君と接しよう。

 そうと決まればと思い立ち、私は学校の支度を始めつつ、いつも以上に気合を入れておにぎりを握ろうと、部屋のドアノブをガチャリと回し台所を目指した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 太陽が段々と登ってきて、夏服姿に囲まれたこの教室も、朝方の心地よい涼しさは何処へやら、窓を開けていないと暑さを感じるくらいになってきた。

 英語の教科書やノートがなおざりに机の上で開かれたまま、教壇の上にて何とも流暢な英会話を繰り広げる想い人と羽先生の姿を、私は会話の中身を何とか聞き取ろうとしながら、ただただじっと見つめている。

 

「キャーー奏倉先生カッコイイ~」

「先生、若いのに授業も上手でステキ~」

「何より美人だしな!オレ、このクラスでホンット良かった~」

 

 教室のあちこちから羽先生を手放しで称賛する声が聞こえてくる。羽先生の授業はまだ受けて二週目だけれど、実際どの授業も面白くて分かりやすいし、特に今やってる英語の授業なんかは、そのネイティブ顔負けの発音で、多くの生徒を魅了している。

 このように、羽先生が男女問わず、クラスメイトから歓声を浴びるのはいいのだ。ただ気になるのは……。

 

「けど、やっぱり宮森君カッコイイよな~」

「そうね~、顔も声も頭もいいし、背も高いし……」

「うちのクラスの皆の事気遣ってくれるし~!」

 

 所々で固まっている女生徒の間から樹君へと、熱い眼差しとともに色のついた言葉を向けられる。その様子が、私の心の内をとてもむずがゆくし、頭の中を掻きむしってくるような気がしてならず、私はスカートの裾をきゅっと固く結んでしまう。

 

「にしても、ああいうの見ると、宮森ってほんとすげえよな」

「だな~。あいつにはなんか敵わない気がする……」

「分かる。男のオレでも、惚れちまいそうだもん」

 

 男の子の間から、樹君に対してこのような声が出るのは構わない。むしろ、樹君の良さが同性の間からも認められているようで、私は勝手に誇らしさすら感じるのだから。

 ただ、そうした声が女の子の間から巻き起こると、途端にさっきのような嫌な感じに絡めとられてしまうのだ。

 実際、樹君はその才覚と容姿、人望で、クラスの内だけでなく外からも、男女の別を問わず広く皆に慕われている。

 小学生の頃の背丈が同じくらいで、あどけなさの残る姿とは比べ物にならないほど、成長を遂げたあなたの姿を見てると、私は胸が繰り返しときめいてしまいながら、いつも私達の近くにいるはずのあなたが遠い存在のように思えて寂しい気持ちにもなる。

 

 樹君は、モテる。それも、非常に。

 色んな女の子があなたに好かれようと、それぞれがアプローチをかけに行って、何とかしてあなたに言い寄ろうとするのだ。中には私よりも、背が高かったり、スタイルが良かったり、む、胸が大きかったりする子もいたり……。

 けれど、樹君はまるでそれらを意に介さないというか、敏い彼の事だから彼女達の好意すら見透かしているようで、上手いこと頑なに躱し続けている。

 るりちゃんから耳にした話だけれど、一学期の頃から樹君は、度々学年問わず告白を受けてるらしく、それら全てを断り続けているのだとか。そのようなことを聞くと、例え噂話とはいえ、樹君から真剣に考えると言われている自分が、他の女の子とは違うという優越感というか、樹君にとって自分は特別な存在なんだという気がしてきて、思わず顔がにやけてしまいそうになる。

 

「宮森君、ありがとう!席戻っていいよ」

「どうも」

 

 教科書での会話文も一区切りしたのか、羽先生がニッコリと笑みをたたえて、樹君に労いの言葉をかける。澄ましていた樹君も少し表情を崩して、「次は別の人にも回してくださいよ」と一つ小言を残し、窓際の自分の席へ颯爽と戻っていく。

 何人もの女子生徒がその姿に引き寄せられており、また嫌な感じがしてしまうけれど、私も樹君を目で追いかける一人なので、矛盾めいた自分が可笑しくなって、ついクスッと笑ってしまう。

 授業の方は会話文も終わり、羽先生が注意すべき文の単語や文法事項について、美しい字で板書を勢い良く進めていく音が聞こえてくる。

 私は羽先生が懇切丁寧に説明してくれている様子を眺めながら、右手で軽く持った教科書に目を通した後に窓の外へ視線を移した樹君を、ちらりと横目でしばしば見る。

 最近のあなたは、授業で先生が話している間でも、まるで何かを探すように、何かを待っているように、窓の外を見つめる時間が多くなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 本日の授業も事もなげに終わり、運動部の掛け声が学校の敷地内あちこちから響き渡り始めた頃、委員の仕事を終えた私は教室へ戻ろうと、校舎と校舎を繋いだ、中庭にある渡り廊下を歩く。

 二台並んだ自動販売機の手前に差し掛かった辺りだろうか。花壇も幾つかある広い中庭で植えられたサルビアやペチュニアを眺め、一人佇む樹君の姿が、中庭と渡り廊下の交差するところの近くにある。

 二人きりでお喋りするチャンスかも。

 そう思い私は、想い人へと駆け寄り声をかけようとする。

 

「宮森君!!お待たせ!!」

 

 すると、中庭の向こうから、快活そうな女の子の声が聞こえてくる。私はドキリとして、咄嗟に自販機へ身を隠し、顔を出し過ぎないように覗き込む。

 駆け寄ってきた女の子は肩で息をしながら、樹君へとその上気した顔を向ける。少し外ハネのあるショートボブ。うちのクラスのバレー部の木下さんだ。

 

「ごめん!こんな、呼び出しておきながら、待たせちゃって!」

「構わないよ。それより木下さん、部活の方は?」

「バレー部は、月曜だけ午後練ないから、大丈夫……!」

「ああ、そうなのか」

 

 急いで走ってきたからか、それとも緊張して強張っているのか。木下さんは顔を紅潮させたままである。クラスの女子の中でも最も背が高い170㎝中盤の彼女でさえも、樹君と並んでは少し小さくて、上目遣いで樹君のことを見つめている。

 

「それで、どうしても話したいことって?」

「う、うん!じ、実はね……!」

 

 この辺りの時間は人通りが少なくなるこの場所で、彼らと私だけが周りの世界から、さらに疎外されていくような感覚を覚える。

 

「一学期の時、数学の小テストが、何度かあったでしょ?私、数学苦手で、他の友達と一緒に、宮森君に教わりにいったよね……」

 

 ただでさえ遠くの運動部の声が聞こえるくらい、静けさで包まれているのに、より深く静かになっていく。

 

「そしたら、宮森君、嫌な顔一つせず、時間を割いて、親切に教えてくれた。それで、小テストの結果が返ってきて、これまでにないくらい良い点数取れて、本当に嬉しくって、宮森君に報告しに行ったの」

 

 嬉々とした表情を浮かべて、答案用紙を抱え持つ木下さんの姿が、私の中で思い出される。

 

「そこで、また今度も教えて、ってダメ元で頼んでみたら、宮森君は、私の目を見て、もちろん力になるよ、って答えてくれた。私ね、あの時から……」

 

 心臓の鼓動がどんどんと加速して、息が漏れ出しそうになってしまう。これ以上先のことを聞きたくないのに。嫌というほど克明に、一つ一つの言葉が染みこんでくる。

 

「あの時から、宮森君のことが、好きになった。教室でも君のこと目で追いかけちゃうし、部活の時でも君のこと考えたり、君と会えない夏休みは寂しかった……。宮森君、私と良ければ、お付き合いしませんか?」

 

 若干震わせながら、けれど熱のこもった声で、木下さんは思いの丈を樹君へとぶつける。木下さんは、そして樹君は、今どんな表情をしているのだろう。二人の姿を陰から覗き込むこともできず、私は自販機の裏でへたり込んでしまっている。

 

「ありがとう、勇気出して伝えてくれて。けれど、木下さんのその気持ちに、オレは応えることができない」

 

 どれぐらい間があったんだろう。きっと数秒のことだけど、口を開いた樹君は、静かで悠揚たる声で、きっぱりと木下さんの想いを断ち切る言葉を告げた。

 

「……そっか、やっぱり……。宮森君って、これまでも、他の子も皆断ってるんだもんね。……でも、どうして?」

 

 自分の気持ちを精一杯伝えて、それを一言でさっぱり返されてしまったものだから、木下さんはがっかりした声色であるけれど、その中には半ば諦めていたかのような笑みもそこに含まれている。

 

「……オレには、これまでずっと、追いかけてきた人がいる。今だって、その人のこと、探してしまうことがある。だからかな、そのことに心傾いていて、木下さんには申し訳ないけど、君の彼氏にはなれないんだ」

 

 樹君のはっきりとした口調が、私の耳の奥まで流れ込んでくる。樹君だけが見えているあの人のことを思い浮かべては、私は胸がどんどん苦しくなって、重ねていた両手をより強く固く結んでしまう。

 

「そうなんだ……。ありがとう、答えてくれて。……数学で分かんないとこあったら、その時はまた、クラスメイトとして、教えてくれる?」

「ああ、頼まれたら」

「うん……!じゃあ、また、教室でね……!」

 

 それだけ最後に絞り出すように言って、木下さんは中庭の向こうへと走り去っていったようだ。私も気の抜けたように、胸の前で握っていた拳をほどいて、左手は日陰でひんやりとした地面に、右手はオーバーヒートしそうな心臓に当てる。

 

「さて……、いるんだろ、小咲」

「え……?!」

 

 足音なんてちっともしてなかったのに。ため息を一つゆっくりとしようとした私の上から、樹君はキリッとした眉を困ったように下げながら、こちらを覗き込んでいる。

 

「ど、ど、どうして……!?」

「小咲、オレに声かけようとしてたろ」

 

 この人には、どこかに別の目でもついているのだろうか。私が盗み聞きしてたことを樹君は最初から分かってたようで、ばれないように息を殺していた私は、途端に羞恥心が湧き上がってくるとともに、こっちは必死に焦っていたのにと毒づきたくなる。

 自分は今、すごく安心したような表情をだらしなく浮かべているのか。それとも、恨めしくじとりとした視線を遠慮なく向けているのだろうか。当人の私でも分からない。

 

「小咲、このあと時間空いてる?」

 

 すると、樹君がすっと手をこちらに伸ばして、いつもの澄ました顔で尋ねてくる。あなたの鮮やかなブライトグリーンの瞳が、私の中で渦巻くものを吹き飛ばしてしまいそうで、思わず私は目を逸らしてしまう。

 

「空いてるけど、どうして?」

 

 まるで王子様の手を取るお姫様のような気分で、私は樹君の手を取り、立ち上がって目を逸らしたまま尋ね返す。

 

「ちょっとお茶しない?」

 

 落ち着きのある声が私の身に降りかかるので、ハッとして私は樹君の方に振り向く。樹君は穏やかに、柔らかくした表情をこちらへ向けている。

 あなたのお誘いなんて、私には断れるわけない。

 私は首だけ縦に振ると、「行こうか」とだけ言って、樹君が教室へと足を向けるので、私は遅れを取らないように後をついていく。

 あなたは無意識なんだろうけど、あなたのような人がその顔をするだけで、何人もの女の子が勘違いするんだよ。ほんとズルいんだから。私にばかり向けていればいいのにと考えてしまうのは、さすがに厚かましすぎるかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 まだ夕方と言うには早い時間で、店内は大学生辺りの若者が多くを占めている。ボサノバミュージックが心地よく流れていて、とても落ち着きのある雰囲気で……。いや、この店はつい一昨日来たばかりのカフェだ。

 

「レモンティーにしようかな、小咲は?」

「え、どうしようかな……」

 

 テーブルで向かい合う樹君はメニュー越しに、この店オススメだと言うパンケーキを見つめる私の方を覗き込んでくる。樹君はいつも、レモン系の飲み物ばかり飲んでいる。

 

「食べたいの、それ?」

「あ、いや、そういうわけじゃ」

 

 だってこれ全部食べちゃったら、太っちゃうかもだし……。あんだけ食べてどこか知らないところへ消えていくるりちゃんや千棘ちゃんが、心底羨ましくてたまらない。

 

「そしたら、一緒に食べよう」

「え、ええ!?いいの?!」

「オレも食べてみたいし。小咲、飲み物は?」

 

 まさか一緒に食べられるとは思ってなかったので、すっかり興奮気味となった私が、上ずるような声でアイスティーと答えると、樹君は店員さんを呼びつけて注文をする。

 店員さんがこれまた、一昨日の女子大生の方だったので、私は下を向いてなるべく顔を見られないように縮こまってしまう。

 注文が終わって店員さんが厨房の方へそそくさと掃けていくと、樹君はリュックサックに手を伸ばして本を取り出す。そして、そのまま栞を引っ張って、続きを読もうとする前に、樹君は何かに気づいたように私へと視線を戻す。

 

「小咲、明日の宿題やった?」

「あ、まだだよ。樹君は?」

「オレは予習で終わらせてある」

「さ、さすがだね……」

「分かんないとこあったら、聞きなよ」

「うん」

 

 それからというもの、お互いに口を開かず、各々のすべきことやりたいことに取り組み始める。樹君は澄ました顔をさらに際立たせて読書に集中しているので、私が聞きに行かない限り、会話は発生することない。

 けれど、樹君と二人きりで、同じ空間でお互いの事を気にしつつ、決してお互いを蔑ろにすることのない、暖かで穏やかなこの時間が私は小学生の頃から好きだ。

 教科書で指定された宿題を解きながら、目の前で本を読む樹君の表情や仕草を追う。さっき、教えて、と私が頼もうとする前に、聞きなよ、と樹君は言ってくれた。先程の木下さんとのこともあって、そのことが私をどうしようもなく喜ばせる。だって、樹君にとって、頼まれなくても頼まれてくれるような存在だと私に思わせてくれるから。

 いくつか宿題の分かんない所を聞く内に、頼んでいた飲み物とパンケーキがやってきた。るりちゃんの時も思ったけど、本当にここのパンケーキは、塔のように大きくそびえて見えて、二回目でも感嘆の声を漏らしてしまう。パンケーキを二人でナイフやフォークを用い、それぞれの取り皿に分けてから、私達はそれを何度も口に運び頬を綻ばせる。

 

「あ、小咲」

 

 しばらく食べ進めた後、樹君が何かに気づいたように私に声をかける。

 

「どうしたの?」

「口元にクリームついてる」

「え、ほ、ほんと?!」

 

 二人でパンケーキを食べるのが嬉しくって、つい夢中になっていたからだろうか。私は頬の温度が上昇するのを感じながら、口元に手をあてて確認しようとする。

 

「悪い、冗談」

「え、え、どっち??」

「ついてないよ」

「ええ~何でそんなこと言ったの」

「いや、あんまり夢中で食べてるから」

 

 そう言って、まるでいたずらが成功した小学生のように、意地悪な笑顔を樹君は私に向ける。高校生ではこれまであまり見られなかったけど、小学生の時に時折見せてくれたその無邪気な笑顔を、あなたは最近になって少しづつ見せてくれるようになった。

 その笑顔をする時の樹君は、私の中にある小学生の私を明るく照らしてくれるだけでなく、今の私が樹君にとって気の置けない存在だと私に示してくれる。この笑顔を春よりも他の誰よりも、一番に知っているのはこの私なのだ。

 

 やっぱり私は、自分の力の限りを尽くして、愛しい彼のことを支えたい。

 樹君からいつそのことを話されるかは分からない。今日の木下さんのように、私は樹君の唯一の存在、彼女になれないのかもしれない。それに、樹君は非常にモテるから、いつだって弱い私は不安だし怯えてしまう。

 けれど、目の前で食べ終わったお皿を他所に、満足そうにまた本の続きを静かに読み始めた樹君を見つめていると、そうした懸念も消えてなくなりそうなくらい、私はお腹の奥がじんと熱くなるように感じて、心がポカポカと暖められていく。

 私はまだ途中パンケーキを食べてる途中なので、その味をゆっくりと堪能した後に、再び中断していた宿題の続きに取り組み始める。

 そうして、月曜の寄り道は、傾いた太陽が地平線の向こうに隠れきってしまうまで、穏やかに続いていった。

 

 




 第二十三話『ヨリミチ』をご一読下さり、ありがとうございます。

 いかがだったでしょうか。

 感想や評価お待ちしております。

 次回は春の回です。

 それでは、また次のお話で。


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第二十四話 シュウウ

 第二十四話にお立ち寄り頂き、ありがとうございます。

 予告通り、今回は春回です。

 それでは。


 黒板の上に立てかけられている時計の短い針があと数度動けば、本日の授業の終わりを告げるチャイムが高らかに鳴り響く。

 地理の教科書を片手に、白髪が目立つ初老の男性教師の、物静かにその内容を読み上げる声だけが空しく教室に広まる中、私は今にも陥落しそうな瞼を力ずくで引き上げながら、時計の針よ早く動いてと内心で叫ぶ。

 この日最後の授業というのもあって、クラスの皆も疲れてきているのだろうか。半数近くの生徒が教科書を枕に、それぞれの夢の世界へと旅立ってしまっているようだ。右隣にいるポーラさんも、早い段階から完全に机に突っ伏している。

 もちろん、オスマン帝国がどうたらこうたら、抑揚もなく淡々と語る先生のせいが一番の原因だけれど、教室の空気を普段よりもどんよりとさせる、灰色の雲も影響しているに違いない。私は黒板から窓へ目を移して、昼前から空一面を覆うそれを恨めし気に眺める。

 

 どうやら、朝見た天気予報によると、近々日本列島が秋雨前線の影響を受けるために、天気が崩れがちになるそうだ。最近はお天気の良い日も続いていたし、それに秋雨前線と聞くと、いよいよ夏の季節が終わってしまう感じがしてきて、私はどんどんとテンションを下げていくのと同時に、物悲しい気持ちにもなっていく。

 高校生になって初めての夏休みは、日数で言えばまだ十日ほど前のことであるが、私には既に遠い昔のように感じる。楽しいことや悩んだこと、嬉しいことも悲しいことも、一ヶ月と少しの間に沢山あった。そういうのを色々経験してきて、入学したての頃に比べたら、私も少しは大人に近づいている気がする。パンツ一つにしても、クマさんはもう卒業したし。

 

 そして、その中心には必ず樹先輩がいた。先輩がいなければ、こんなにも心を揺り動かしてくるような夏休みは無かったに違いない。あの時助けてもらってから、私はずっとあなたに惹かれっぱなしで、何度だってあなたのことを思い浮かべてしまう。

 そういえば、この前は嬉しかったな。体育の時間でグラウンドに出て、樹先輩達のいる教室を見上げると、偶然にも樹先輩と目が合った。私はつい浮足立って手を大きく振ると、先輩も柔らかく笑って、ささやかに手を振り返してくれた。こう振り返ると、やっぱり私はまだまだお子様みたいで、可笑しくてにやけてしまう。

 

 すると、学校中へ響き渡るくらいに、終業を教えるチャイムの音がようやく聞こえてくる。猫背気味の先生が教科書をパタリと閉じ、授業終了の旨を伝えて教室を出ていくと、まるで野に放たれたように、クラスメイト達は活気を取り戻して、各々の次の活動場所へ次々と向かっていく。

 

「お疲れ、春」

 

 すっかり元気になった彼らを見送りながら、引き出しの中や机の上にある教科書類を鞄に押し込んでいる私に、風ちゃんが上体を傾けて横から尋ねてきた。

 

「風ちゃんもお疲れ~」

 

 帰り支度をする手を止めないまま、私はすかさず風ちゃんに振り向いて応じる。

 

「春はこれから帰り?」

「そうだね、雨降ってきそうだし。風ちゃんは?」

「私は少し図書室に寄ってからかな。また明日ね、春」

「うん、また明日」

 

 それだけ言うと、風ちゃんはにこりと笑い、鞄を持ってそのままこちらに少し手を振り、教室の外へと出ていった。風ちゃんはこういう日、よくよく図書室で読書や勉強をしに行く傾向がある。私も何度か、暇をつぶすために連れ添ったことがあるので分かる。

 そうだ、ポーラさんは。そう思い、右隣の席へ目を移すと、机の上も中も既にものけの殻のようだ。あんだけぐっすりだったにも関わらず、ポーラさんはこの短時間であっという間に、気配を消してどこかへ行ってしまう。

 帰りの挨拶ぐらいはしたかったなと残念に思いながら、私も荷物を全て鞄にしまい込んで教室を後にする。天気予報では18時頃から雨と言っていたはずなので、これくらいの時間であれば、傘を持ってきていない私でも雨に降られる心配はないはずだ。

 

 昇降口まで辿り着き、上履きから外靴へと履き替える。そして、下駄箱に上履きを押し入れ、玄関口の方に足を向ける。

 しかし、玄関口まで出てきて顔を上げた私はようやく、雨が降り始めてきている事に気付く。校門の方へ傘をさして歩く人達が通り過ぎていくのを眺めながら、私はせめて折りたたみ傘でも持ってくるべきだったと後悔する。たまに物忘れは起きることだけど、こうしたことに限って望ましくない状況で起きるので、私は憎らし気に曇天の空模様を睨む。

 

「どうした、春」

「あ、樹先輩」

 

 私が溜息を一つつこうとしていた所に、いつもながらの凛々しい表情で、樹先輩が後ろから声をかけてくれる。その右手には、丈夫そうな黒色の長傘が握られている。

 

「これから帰りだろ?」

「そ、そうなんですけど、傘忘れちゃって……」

 

 まさかこのタイミングで樹先輩と会えるとはちっとも思ってなかったので、私は胸の高鳴りをはっきりと感じ、応答するにも口どもりがちになってしまう。

 

「なら、送っていこうか?」

「え?」

「オレも今日は用事ないし、せっかくだから」

「い、いいんですか?!」

「ああ、いいよ」

 

 そう言うと、樹先輩は隣までやって来て、ボタンを外し黒色の傘をさす。つい数秒前まで、図書室まで戻って風ちゃんと一緒に帰ろうと考えてた私に、まさか樹先輩の傘に入れてもらえるというラッキーチャンスが来るとは。

 

「そしたら、行こうか」

「は、はい!!」

 

 右手でその大きめの傘を持ち、樹先輩は右隣に私が十分に入り込めるようなスペースを空けてくれている。ドキドキが抑えられない私は、前のめりな返事をしながら、その勢いでそこへ飛び込む。

 樹先輩はこちらを見て少し口角を上げたように見えたけど、すぐにまた落ち着きのある表情に戻って、校門の方へと歩き出す。私も遅れないようについていこうとするが、樹先輩は覚束ない私の歩調にゆっくりと合してくれる。

 玄関口から校門までの道の真ん中あたりまで来ると、私もだんだんと落ち着いてきて、こちらをどこか羨ましそうに見つめてくる視線をいくつか感じ始めた。

 

「樹先輩、いいんですか?噂になっちゃうかもですよ」

 

 小鳥が囁くような声で、私は樹先輩へ耳打ちする。私からすれば、樹先輩と私がそういう仲であると噂が立ってしまうのは、恥ずかしくもあり光栄なことであるのだけれど。

 

「噂は噂だし、気にしないよ。そう言う春は?」

 

 落ち着き払った表情をちっとも崩さないまま、樹先輩は静かな声で私に尋ね返す。今度は問われた私が、反射で顔を熱で灯してしまう。

 

「わ、私も、気にしませんよ!」

「なら、いいじゃん」

 

 慌ててまごついた私を見て、樹先輩はまるで悪戯っ子のような笑顔を振り向けてくる。きっと先輩は、私の内心で考えてたことを見透かしているようだ。

 樹先輩が、皆からモテるからいけないんですよ。一昨日お姉ちゃんから聞いた木下さんの話を浮かべながら、そんなことを口に出して突きたくなる。あなたは周りの男のと比べても、一際大人びていて、色んなところが優れているから、周りの思春期真っ盛りの女の子達が放っておくはずがないんです。

 やがて校門を通り抜け、住宅街の通学路を進んでいくにつれ、目に見える学生の数もまばらとなっていく。視線や雑音からも逃れて、いよいよ樹先輩と二人だけになれる。

 

「樹先輩、ありがとうございます」

「どういたしまして」

 

 私は今更ながらに、樹先輩へとお礼の言葉を述べる。先輩は目線を前に向けたまま、穏やかな声で応えてくれる。

 

「こちらこそ、今日もお弁当ありがとう」

「いえいえ、いつも美味しいと言ってくれて、作るこっちも嬉しいです」

「特にポテトサラダ。今度作り方教えてほしい」

「はい!是非お教えしますよ」

「じゃあ、それはまた今度な」

 

 二学期になってからも、私はおかず、お姉ちゃんはおにぎりといった感じで、樹先輩にお弁当を作って持っていき、お昼に三人で一緒に食べている。改めてまとめると、こっちの方が噂になってそうだが、気にしない。

 樹先輩は、いつも本当に美味しそうにモグモグと、私の作ったおかずを食べてくれて、時折料理上手だと私を褒めてくれるので、最早お弁当作りは私の中でも、より一層の重大事項になっている。

 お姉ちゃんの方も、昨日のお弁当から妙に気合が入っている。けれど、その気合いが空回りしているようで、握るだけのおにぎりに様々な調味料を混ぜ込んで、それを食べた樹先輩に渋い顔をさせて謝るという光景を、二日続けて見ている。明日からはさすがに、お母さんに頼んで監視役をさせよう。

 

 空は相変わらず灰色で、雨はその勢いを止めることなく、私達の周りの地面を打ちつけている。まるで本当に二人だけでいるような世界に思えてくる。

 樹先輩は、他の女の子とは全く違うように、私とお姉ちゃんのことを扱ってくれる。そのことが私を、胸を張りたいほど誇らしくも、言いようもないほど嬉しくもさせるのだ。二人で想いを告げたあの日以来、樹先輩が私達の事を真剣に考えてくれて、意識してくれてるのだと思うと、私は先輩への愛しさが堪らなく溢れてくる。

 このまま真っ直ぐ帰っちゃうのは、なんだか違う気がする。私はゆっくり隣歩いてくれる樹先輩に、意を決して口を開く。

 

「樹先輩!」

「どうした?」

「少し寄り道しながら帰りません?」

 

 ただでさえ送ってもらってる身なのにこんなこと頼んだら、さすがに図々しい子だとか思われてしまわないだろうか。こちらに顔を向ける背の高い樹先輩に、私は不安の色を隠しながら見上げる。

 

「いいよ、どこ行く?」

 

 柔らかい笑みを含んだ優し気な表情で、樹先輩が了承してくれるので、私はほっと安心して、思いついていた場所を引っ張り出す。

 

「この近くに、少し歩くと公園がありますよね?」

「ああ、あそこか。そしたら、そこに寄ろう」

「はい!」

 

 今日の学校の出来事についての話を交えながら、新たな目的地となった公園へ向けて、私達は足並みを揃え歩いていく。喜びでテンションが上がり、心なしか私の歩く速度はほんのり増していた。

 やがて数分もすれば、公園の入り口まで辿り着くので、雨でも落ち着けるような場所があるかどうか、園内の歩行路を巡っていると、池のそばに六角でベンチ付きの洋風東屋が見えてきた。

 

「あそこにしようか」

「そうしましょう」

 

 幸い先客はおらず、私達は傘を閉じて屋根の下に入り、それぞれ荷物を置いてベンチに腰掛ける。座る位置もまた傘の下にいる時と同じで、私が右、樹先輩が左だ。

 

「何か飲む?」

 

 この東屋の程近い所にある自販機へ視線を誘導しながら、樹先輩が私に提案する。結構な時間一緒にいてくれるみたいだと、私は脳内で小躍りするくらい、勝手に喜んでしまう。

 

「そうですね、何があるか一緒に見ません?」

「そうだな」

 

 二人立ち上がり、また傘をさして、自販機の手前まで行けば、あっと樹先輩が何かに気づいたように言うので、隣歩く私は覗き込むように尋ねる。

 

「どうしました?」

「これ、学校のやつと一緒だなって」

「ほんとだ、言われてみればそうですね」

 

 よく全体を見渡せば、外装も中身もそっくりそのまま学校のやつと一緒で、私も少なからず驚きの声を漏らす。

 

「あれにしようよ、春」

 

 樹先輩があれと言って手を向ける方向を私も見てみると、そこにはいつの日か私が勧めた抹茶ラテの紙パックがある。

 

「今度は一緒に抹茶ラテを飲もうって、約束してたろ」

「お、覚えてくれてたんですね……」

「だから、二人でそれにしない?」

 

 覚えてくれていると期待していても、実際に樹先輩の口から出してもらえると、こんなにも嬉しいなんて想像以上で、私はすっかり茹蛸のように顔になって、何度も頭を頷かせる他ない。

 今回は残り一本しかないということは起きず、二人とも無事に抹茶ラテを手に入れることができた。東屋の席まで戻り、私達はそれぞれ腰を落ち着けていく。

 

「うん、やっぱり美味しい」

「ですよね!私、この味ほんと気に入ってるんです!」

 

 樹先輩はストローから口を離し、どこか感心するような声で紙パックを眺めるので、私もそれに前のめりで反応を示して、再び抹茶ラテの味を確かめる。

 香りもよくて、甘さの中にも抹茶の苦みが感じられて、言いようのない深みを感じるというか……。私は脳内で、この抹茶ラテに対する称賛の声を並び立てていく。

 

 私は樹先輩をもう一度盗み見ると、先輩はストローを口でくわえながら、雨で無数の波紋が水面に映される池の方を、切れ長の目を細めて何かを考え込むようにじっと見つめている。

 一体何を考えているんだろう。先程までの浮かれた気持ちを一旦置いて、私はそのまま樹先輩を見つめてしまう。しっかりと表れている耳、少し高くて細めの鼻、女性のように艶のある頬。改めて目を凝らすと、樹先輩の端正な横顔にうっとりして、何も考えられなくなりそうになる。

 すると、樹先輩も、見つめる私にようやく気付いたようで、ハッとしたように眉毛を上に動かしたと思えば、目をふと閉じてから、飲んでいた抹茶ラテを手元に置く。そんな樹先輩もカッコよく見えてしまう私は、相当な惚れ込み具合に違いない。

 

「春はさ、雨についてどう思う?」

「雨について、ですか……」

 

 樹先輩は唐突にそんなことを言うので、私も普段は考えない雨の事について、顎に手をやり考えてみる。

 

「雨が降ると、洗濯物とか干せないし、傘がないと濡れちゃうから、困ります」

「ハハハ、そうだよな」

「それに……、雨の日は何だか、気分が落ち込みます」

「それもあるかも」

 

 改めて雨についてと言ったら、私の中ではそんなに良くないことばかり思い浮かんでしまう。今日に関しても、樹先輩と会うまでは雨が恨めしかったし。私の言葉を聞いた樹先輩は、口角を少し引き上げて相槌を返してくる。

 

「樹先輩は、雨の日の事、どう思ってるんですか?」

 

 この話を持ち出してきた張本人がどう答えるか、私は気になって尋ね返す。樹先輩は私から視線を外して、再び池の水面に目を向ける。

 

「そうだな……、嫌いじゃないよ」

「……と言いますと?」

 

 たいていの事はハッキリ口にする樹先輩にしては珍しく、○○ではないと形容するので、私はさらに気になり前傾になっていく。

 

「オレもね、前までは春みたいに、雨に対する心象は良くなかったけれど、ある事がきっかけで、雨の日も悪くないなって」

「……明香里さんですか?」

「それもある、けど」

「けど?」

「一番は、雨上がりにいつも現れた、猫のおかげかな」

「猫……ですか」

 

 樹先輩は凛とした姿を一切崩さないまま、収まることのない雨脚が池に踏み入れていくのを眺めている。あなたを変えてきたようなことなんて、大概明香里さんが主たる原因だと私は思い込んでいたので、猫という言葉に思いがけず戸惑いを示してしまう。

 

「そう、猫。しかも、ロンドンではあまり見られない、三毛猫でね。オレは、たまたま通りがかった路地裏で、水たまりと戯れる彼女と出会った」

 

 日本だと三毛猫ってポピュラーなイメージがあっても、海外ではそうでもないんだと感心しながら、私は樹先輩の話に耳を傾けていく。

 

「あれは確か、去年の今頃かな。その頃のオレはよくよく一人で、人と話しても気の晴れないばかりだった。けれど、初めて会った彼女に何を思ったか、オレは近寄って話しかけた」

 

 樹先輩が私とお姉ちゃんに、明香里さんの話をしてくれた時のことを思い出す。明香里さんがいなくなってから、一体樹先輩はどんなことを思いながら過ごしていたんだろう。

 

「ロンドンの雨って、量はそれほどだが、一日に何度も降ったり止んだりするんだ。それ以来、オレは雨上がりの時を見計らって、彼女に会いに行った。行けば必ず彼女はそこにやってきて、オレの話を黙って聞いてくれた」

 

 あの頃の樹先輩が、どれほど傷心していたのかなんて、私には想像が及びつかないことだ。けれど、間違いなくその三毛猫の彼女が、当時の先輩の心を和らげてくれる存在だったのは明白であった。

 

「いよいよ日本に戻る時、オレは彼女を連れていこうと、また雨上がりにいつもの場所で待った。でも、いくら待っても彼女は来なかった。次の日も、その次の日も。まるで私の役目は終わったとでも伝えるように」

 

 懐かしそうに、一方で寂しそうに笑いながら、樹先輩は頬杖をついて、川の向こう岸のさらに遠くを見つめている。そんな先輩が、切なさに包まれているように見えて、私は勝手にうら悲しい気持ちになる。

 

「もちろん、会えなくなって、とても残念だった。それでも彼女は、雨降る中で何かを、誰かを、想い馳せて待つ楽しみを教えてくれた。彼女のおかげで、孤独に苛まれてたオレは、ぎりぎり踏みとどまれた気がする」

 

 そう言う樹先輩は、一転して柔らかく穏やかな笑みを浮かべていくので、私はその表情の移り変わりにときめいてしまう。

 すると、知ってか知らずか、空模様もいつの間にか青空の部分が増えてきていて、強めに降っていた雨がピタリと止む。

 樹先輩はすっと立ち上がり、雨避けとしていた東屋から出て、一定の間隔を空けて置かれた丸太と紐で囲まれた、池のほとりまで近づいていく。私も慌てて東屋を離れて、樹先輩の背後を追いかける。

 

「……この雨も、どうやら驟雨だったらしい」

 

 私から背を向けたまま、樹先輩は池一面を見通して、呟くようにそう告げる。

 

「せ、先輩。しゅううって、何ですか?」

 

 樹先輩の言葉の中で聞いたこともない、しゅううという単語がわからなくて、私は恥ずかしながら先輩に尋ねてしまう。

 

「驟雨は、にわか雨や通り雨、夕立のことを指すんだ。夏の季語でもあるよ」

「へぇ、そうなんですか……」

 

 突然降りだしてはやがて止む雨達を、まとめて表現できる言葉があると、樹先輩から優し気な声遣いで教えられて、私は感嘆の声を漏らす。

 

「……夏もいよいよ終わりだね」

 

 独り言とも取れるくらいの囁きをしたと思えば、樹先輩はすぐ後ろにいた私へゆっくりと振り向く。

 

「さて、寄り道の続きと行こうか、春」

 

 いつしか空は青が制空権を得たみたいで、オレンジがかる陽の光が私達を照らし出してきていた。

 まるで待ちわびていたものが来た感じで、澄みきっていくような朗らか笑顔を浮かべる樹先輩の姿が目の前にある。これまでより自然だと思えるような樹先輩の笑顔や佇まいを、私は初めて見た気がして、全身の血流が勢いを増していくのを感じながら、まじまじと先輩を見つめてしまう。

 樹先輩越しに見える池のさらに向こうでは、七色の虹が段々とその姿を映し出してきていた。

 

 




 第二十四話『シュウウ』をご一読下さり、ありがとうございます。

 感想や評価等あれば、楽しみにお待ちしております。

 それでは、また次のお話で。


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第二十五話 ソウダン

 第二十五話にお立ち寄り頂き、ありがとうございます。

 それでは。


 高校二年生の私、小野寺小咲は今、自分の進路のことで悩んでいる。

 将来の夢とか、私のしたいこととか、一体なんだろう。お母さんは和菓子屋の家を継いでほしいと言うけれど、私には私が本当にやりたい、私にしかできない仕事というのが、この世のどこかにあるんじゃないかと、甘い期待を抱いてしまう。

 先週の木曜から今週の水曜まで週をまたぎ、学年ごとに先生との個人面談が行われていたのだが、いよいよ高二の秋ともなると、自然とそれは進路に関する相談となり、以来私は漠然とした自分の進路を思い悩むようになった。

 

 自分だけではどうにも行き詰ってしまうので、ひとまずは親友のるりちゃんに相談してみた。

 そのるりちゃんからは、「知るか!!んなもん自分で考えろ!!」と初めはドスを効かされたけれど、和菓子屋の事も聞いてくれたし、るりちゃん自身の翻訳家という夢も語ってくれるなど、結局は親身になって相談に乗ってくれた。

 最後には、もっと色んな人に相談してみることも勧めてくれ、るりちゃんは冷めてるように見えて、実は面倒見のいい素晴らしい親友だと、改めて私は感謝の思いで胸を一杯にした。

 

 次に、鶫ちゃんに相談を持ち掛けてみた。鶫ちゃんは少し考え込むようにしてから、A3用紙にびっしりと色々なグラフや文章を記したものを、まるでプレゼンテーションでもするかのように、合理的で理路整然とした説明を私に与えてくれた。

 キラキラとした瞳を浮かべながら、「もう一日頂ければ……」と鶫ちゃんに言われた時は、自分の事でそれほど労力を使わせるのは、さすがに忍びなくて断ったが、鶫ちゃんの正確な分析力には、私も感嘆の声を上げずにはいられなかった。

 

 そして、その次に私は、先程まで千棘ちゃんのところにも相談をしに行った。千棘ちゃんも進路のことで、将来やりたい事や、自分には何に向いているか、分かんないでいるみたい。

 何でもできそうな千棘ちゃんであれば、どんな凄い仕事に就いたとしても、その姿が想像できてしまうけれど。

 そんな千棘ちゃんとの話の中で、千棘ちゃんの口から役割という言葉が出てきた。お母さんから教えてもらったそうで、人にはそれぞれ役割があるから、それをよく見極めなければならないのだとか。

 

 役割……、私にもあるんだろうか。でももし、それを最後まで、見つけられなかったら、一体どうすればいいんだろう。……ダメだ、分かんにゃい。頭の中がぐるぐると回り過ぎて、なんだか猫みたいな言葉遣いになってしまう。

 商店街の路地裏にある、お気に入りの秘密の場所で、私は腰上辺りの高さまである鉄柵にもたれ込みながら、深めのため息を一つ吐き出す。今の私がしたい事なんて、そんなの、樹君と……。

 

「……あ」

 

 すると、下の階段の方から声がするので、私は枕にしていた手をどけて、声のした方向を見下ろす。

 

「あれ、おっ……、小野寺……!?」

「一条君……!」

 

 そこには口を大きく開け、すごく驚いた様子を浮かべた一条君の姿があって、私も鳩が豆鉄砲を食ったような表情を返してしまう。一年生の頃、一条君のことが好きだったあの頃、千棘ちゃんの誕生日プレゼントを二人で選びに行った際、一条君にも教えたくてこの場所を紹介していた事を、私はふと思い返す。

 階段を上がってきた一条君は、そのまま私と人一人か二人分のスペースを間に空け、私と同じように鞄を地面に置き、両手で鉄柵をもたれるように掴む。

 

「……ぐ、偶然だね。よく来るの?ここ……」

「まぁ、たまに……、せっかく教えて貰った秘密の場所だしな……」

「そっか……」

 

 どうやら一条君は、私の知らないうちに、何度となくここを訪れているようだ。以前の私だったら、一条君とこうして偶発的に会えて、なんと幸運なことだと舞い上がっていたんだろうか。けれど、今の私には、想いを寄せている別の男の子がいる。

 委員長の樹君は来たる文化祭に向け、クラスの出し物の準備などで忙しく、進路の相談もできずじまいだ。けれど、恋する本人に私のしたい事をぶちまけてしまえば、それこそ彼から重い女みたいに思われてしまいそうだし、敢えて相談しない方がいいかもしれない。

 そこで、せっかくの機会だから、一条君に進路における相談をしてみることにする。他人の事をまるで自分の事のように真剣に考えてくれる一条君なら、きっと一緒になって懸命に何か導き出してくれるかもしれない。

 あらかた自分の悩んでいる内容を通してみると、一条君は頷きを何度か返しながら、悩むように眉を少し下げて腕組みをする。

 

「確かに先の事決めんのは難しいもんなー」

「でも一条君、公務員になるんでしょ?ちゃんと目標があって偉いよ」

「いや、んな事ねーよ。オレが公務員目指してんのも、あの家を継ぎたくないってことから始まってるし」

 

 唇を尖らせるようにして言う一条君を隣見ながら、私には数度訪れたことのある、一条君のお家が頭に思い浮かぶ。

 

「ちゃんと安定してて胸を張れる仕事ってだけで、具体的に何やりたいかとか、そこまではまだ……。そういう意味じゃ小野寺と一緒だよ」

 

 私と一緒か……、一条君も一条君なりに、何やりたいか悩んでいるのか伝わってきて、私は勝手に共感を覚えてしまう。

 

「ちなみに、小野寺は何を基準に凡高を選んだんだ?」

「え!!」

 

 どういう訳か一条君から、突然に高校を選んだ理由を問われて、私は背筋へ大量に汗を感じるほど焦りだしてしまう。

 

「え、と……、家から近い、から……」

 

 だって、凡矢理高校を選んだのって、元々は一条君が凡矢理高校に行くと耳にしていたからで……。

 

「え?でもすべり止めだった尾鳥女子の方が全然近いはず……」

「うぐっ!?……まぁまぁその話は置いといて」

 

 何とか適当な理由をつけるも、一条君に痛いところを突かれてしまい、私は無理矢理にでも誤魔化していく。

 

「とにかく、もう高二の秋だし、そろそろ将来の夢とか決めないとだよね!」

「うーん……オレはそんな焦んなくていいと思うけどな」

 

 気持ちばかり先走って、話を力づくで戻そうとする私に、まるで熱したアスファルトに打ち水をするように、一条君はハッとするような一言を述べる。

 

「そもそも、将来やりたい事を決めんのに期限なんてねーんだし。もし高校の内に決まんなくても、大学の内とか、それこそ和菓子屋を手伝ってる内に、何か見つかるかもしんねーだろ」

 

 将来やりたい事を決めるのに期限なんてないというのは、一条君の言う通りな気がしてきて、その言葉が焦りがちな私の心に沁み込んでくる。

 

「じっくり探せばいいんじゃねーか?多分だけど、出来る事も出来ねー事も、今全部決めちまう必要なんてねーんじゃないか?」

 

 一条君は彼らしい前向きな笑顔を浮かべて、顔は正面を向けたまま、目線だけ動かしてこちらを見やる。その通り、やりたい事が見つからないなら、見つかるまで探せばいいだけの、単純な話なのだ。

 

「あ!それにもし、オレに何か手伝える事がありゃあ手伝うしよ!」

 

 さっきまでのカッコイイ感じが薄れ、なんだか照れ臭そうに一条君は、自分の頭をかきながら伝えるので、それもまた一条君らしいなと思い、私はクスリと笑みがこぼれてきそうになる。

 些細な事をきっかけに洞察力を生かし、まるで魔法のように最適解を導き出して、人の心を喜ばせてくれる樹君に対し、一条君は、例え事情が分からなくても、まるで自分の事のように一緒に悩み考えて、真っ直ぐ人の心を溶かしてくれる。

 二人は過程においてまるで違うけれど、どちらも人に対する優しさを持つ、素敵なところが共通しているんだな、と私はおぼろげにそう感じる。一条君に心の内で感謝の思いを抱きながら、私は一条君に尋ねてみたいことを口に出す。

 

「……じゃあ、一条君は、私が何になってたらいいなって思う?」

「そうだなー、ちょっと分かんねーけど……」

 

 一条君は先程までの照れ臭そうな感じを落ち着かせて、また腕組みをし直して考え込む。またしても考えさせるようなことを聞いて、私は一条君に少し申し訳なく感じる。

 

「小野寺は、何かなりたい物はねーのか?全然現実的なやつじゃなくていいからよ」

「え、そ、そうだね……」

 

 眉間に若干皺寄せていた表情を緩めて、一条君はこちらに顔を向け、少し笑って私に尋ね返してきた。なりたいもの、もしくはなってみたいもの、現実的じゃなくてもいいのなら……。

 

「私は、お嫁さんになりたいな……」

「そうか……、お嫁さんね……」

 

 私は、本人の前では思い切って言えそうで、けどやっぱり決して言えないような、とんでもないことを口走る。一条君は、何故か少ししょんぼりした感じで、鉄柵へ随分ともたれ込んでしまう。

 

「小野寺、優しいし、きっといいお嫁さんになるんじゃねえかな?」

「そ、そうかな……、でも、私料理とか出来ないし……」

「そんなもん……、料理できる奴を旦那にすりゃいいんでね?」

 

 どこか凹んだ様子なのは解せないけれど、一条君は私の事を後押しするような言葉を伝えてくれる。それに少なからず勇気をもらえ、私はニッコリと笑みを浮かべて、一条君の方を振り向く。

 

「……フフッ、そうだね。じゃあ、そうしてみようかな」

 

 それでこの相談は最後になり、一条君ともほどなく解散して、私はお家までの帰り道となる商店街をゆるゆると歩く。金曜のこの通りは、翌日から休日になる学生などを中心として、普段以上に活気に満ち溢れているような気がする。

 私の将来やりたい事はまだまだはっきりしてはいないけど、いつか必ず見つけるために探していこう。そうは言っても、いいお嫁さんにはなりたいし、加えて今は樹君とのこともある。

 

 お昼の時間でさえ、樹君が文化祭の準備に行ってしまうのもあり、最近樹君と時間を共にする機会があまり訪れず、私は進路のことも相まってやきもきしている。それに、先週の木曜辺りから、樹君の雰囲気が少しずつではあるが、私の見ている感じ、妙に真剣味を帯びてきているような気がしてならない。

 せっかく、夏休みの終わり以降、樹君はより自然な様子で、段々と私の知っている以前の彼らしさが出てきていたのに。そんなに、最近の進路相談や文化祭の準備が、樹君に負担を強いているのだろうか。いや、恐らくそれは違っていて、きっと私と春との事で、何かしら進展があったのかもしれない。

 もうすぐ、樹君を巡る私と春との間の関係性も、何かしらの変化を見せる兆候なのではないか、とも私は考えてしまう。

 もしそうなった場合、樹君からは私へどのような答えが提示されるのだろう。これまでの樹君と春も交えた出来事を振り返ると、何となく、何となくだけど、少し自信を失くしてしまいそうで、不安な気持ちが溢れてくる。それでも、例え可能性が低くとも、私は樹君から良い返事が聞けるのを期待してしまう。

 やがて私は、お家までようやく辿り着き、引き戸の玄関扉をガラガラと開けて、中へ入り丁重に靴を脱ぐ。

 

「あ、おかえり!お姉ちゃん」

 

 すると、笑みを浮かべながら、私服姿ですっかりオフモードの春の姿が、ひょっこりと廊下の方から覗き込んでくる。

 

「ただいま、春」

 

 私もそんな可愛らしい春に、そっと微笑みを作り返して、そのまま自分の部屋へと向かう。普段よりか散らかっていて、窓を閉め切っていた部屋の蒸し暑さを感じ、私は荷物を机の上に置いてから、窓のカギを外して勢い良く開く。

 昼の長さと夜の長さが一緒になる、秋分の日もいよいよ近づいて、越冬をするために多くのツバメ達が南へと渡っていくのを、私は部屋の窓からうっすらと目にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ここ最近空を覆い尽くして、とめどなく雨を降らした雲達は後退していき、ニュースの週間天気予報でも、晴れマークが増えてきた休日の今日この頃、天には見事なくらいお日様が顔を覗かせている。

 お昼も食べ終えて、オレはリビングのソファに身を預け、宮本さんから借りた英語版小説をのんびりと読む。その一方で、向こうの縁側に座り込み、日に照らされた庭の風景を描こうとする明日花の後ろ姿を、オレは幾度なく見やる。なんでも図画工作の授業で、自分のお気に入りの風景を描く、という課題が出されたようだ。

 

「樹、お茶できたわよ」

「ああ、ありがとう、知佳さん」

 

 家の普段着が和服と古風な知佳さんは、お茶を入れた急須と二人分の茶碗を、丁寧にお盆の上にのせて、テーブルまで持ってくる。

 

「この前の進路相談、ついていってやれなくて悪いね」

「いや、知佳さんも忙しいだろうし、構わないよ」

 

 急須から茶碗へ、出来上がったお茶をゆっくりと注ぎながら、知佳さんは少し申し訳なさそうに述べる。進路相談と言っても、先生と対面でお話しするくらいだし、生徒本人だけでも十分に済むことだから、気にする必要もないのだけれど。

 オレは注ぎ終えられた茶碗をそっと手に取り、やけどしないよう慎重に口をつけていく。苦味のある中で優しさのこもる味がするお茶は、秋の涼しさも感じさせてくるこんな日に、ポカポカと心と身体を温めてくれる。

 

「進路の方は、何か変わりある?」

「いや特に変わりない。前に話した通り」

 

 知佳さんは自分で淹れたお茶を嗜みながら、淀みない口調でオレに尋ねてくる。これからの事なんて、突然に大きく変わることもあるかもしれないが、今の所は暫定的に、オレは高校生活後の道先を決めてはいる。

 

「そういえば」

「どうしました?」

 

 思い出したように調子を上げて、知佳さんは茶碗をトンと置き、小首を傾げながらこちらへと目を合わせてくる。

 

「お二人のことは、どんな感じ?」

 

 まだ半分以上残っているお茶の、底の方で立ち上がっていた茶柱が揺れ動く。オレはそれを見つめた後に、口を袖で覆う知佳さんへ顔を向ける。

 

「……答えは出てる。後は、いつ、どう伝えるか、かな」

「あら、そうなの。思うより早かったわね」

「そうでもないよ」

「いつ、お二人には話を通すんだい?」

「近々には必ず」

「そう」

 

 知佳さんはオレから目を離して、ふっと柔らかく微笑んでから、再び自分の茶碗に温かなお茶をじっくりと注いでいく。自分の中である程度の方向性が定まったはいいものの、実際に二人それぞれにどう伝えるかは、存外に決めかねている。来週には、高校生活の中でも大きなイベントの一つ、文化祭が差し迫っているというのに。

 

「お兄さ~ん!おばあちゃ~ん!描けたよ~!!」

 

 オレが本に栞を挟んで、ぐるぐると考えていた所へ、縁側にいる明日花の、快活で無垢な呼びかけが聞こえてくる。相変わらず、明日花のそんな無邪気な姿が、オレには眩しくも羨ましく映る。

 明日花に一声かけてから、オレは本をソファの上へ置き去りにし、柔らかな表情を浮かべたままの知佳さんに見送られ、明日花の待つ縁側へ向かう。

 

 先程のことは、後で一人の時に、もう少し頭を冷やして考えよう。さて、明日花画伯の描く絵は、如何ほどであろうか。

 これ見よがしに示してくるドヤ顔の明日花を尻目に、オレは画用紙に描かれた庭の風景を眺める。色と線が大雑把と思えるほどに、くっきりと塗り分けられた、何とも明日花らしい絵がそこには広がっている。

 これくらい自分の気持ちがどんどんはっきりしていれば、どれほど悩まずに済んでいただろうか。絵を見てくだらなく夢想するオレを詰るように、秋の日差しはより鋭利に、オレと明日花のいる縁側へと差し込んできた。

 

 




 第二十五話『ソウダン』をご一読下さり、ありがとうございます。

 感想や評価等、お待ちしております。

 次回から、いよいよ文化祭です。

 一週間後に投稿を予定しています。

 それでは、また次のお話で。


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第二十六話 ミスコン

 第二十六話にお立ち寄り頂き、ありがとうございます。

 文化祭の前編です。

 それでは。


 吹いてくる風が涼やかに感じられる秋空の下、制服姿や仮装姿の高校生に交じり、私服姿の一般客も敷地内へ多く立て込んできて、学校全体はこれまでに類を見ない賑わい様である。

 普段ならお休みになる土曜の本日、凡矢理高校では文化祭が行われる。既に校舎内外でも、各クラスによる熱烈な客引き合戦が始まっており、教室ではそれぞれ最終準備に忙しなく追われていた。

 

「うわ~~やっぱり本番は緊張するね~!」

「まぁ、気楽に楽しもーよ」

 

 大きな紫色のとんがり帽子を被る魔女役の私は、興奮を抑えるようと胸に手をやりながら、吸血鬼ドラキュラのマントを羽織って隣立つ風ちゃんに呼びかける。うちのクラスは、出店として定番物であるものの、お化け屋敷を教室に構えていた。

 

「ガオ~~春~血ぃ吸ってあげようか?」

「もぉ~そのノリ何回目なの~?」

「だってせっかくヴァンパイアなんだもん~」

 

 自分の趣味に合った配役で、普段よりもテンション高めのホラー好きな風ちゃんは、メイクでつけた牙と長い爪を立てて、私にニコニコとおどけて見せる。私は呆れたように返しながらも、このやりとりを飽きもせず楽しんでしまう。

 教室の向こうの方では、猫の耳や手をはめたポーラさんが、準備そっちのけで一人大盛り上がりしており、近くの男子達から準備を手伝うようにと咎められている。

 

「もう先輩は誘ってあるの?」

「あ、そうだった。今から行ってくる!」

 

 改めて教室内の様子を眺めていたら、風ちゃんからハッとさせられる一言をかけられたので、私はそこで風ちゃんとは一度別れ、樹先輩達のいる二年C組の教室へ急ぐ。やがて、二年生の教室が立ち並ぶフロアまでやってくると、聞き知った女性の声を耳にする。

 

「あ!春ちゃんじゃない!おっはよー!」

 

 ようやく姿がはっきりしてくれば、そこにはデジタルカメラを片手に、不思議の国のアリスのコスプレを身に着けた桐崎先輩がいる。その似合い具合とあまりの容姿端麗さに、私はひたすらキュンキュンして、先輩を褒めちぎってしまう。

 なんでも、先輩達のクラスはコスプレ喫茶なるものをやるらしい。照れたように頭をかく桐崎先輩から、私はそう教えられた。

 そして、桐崎先輩が「見つけた!」と言って指差す方には、もじもじと恥じらいを見せながら、くのいち姿の鶫先輩がこちらへ段々と顔を覗き出す。桐崎先輩もそうだが、鶫先輩のコスプレも中々に似合い過ぎている。

 

「なんだなんだ、あ、おはよう春ちゃん」

「いや~それにしても皆さん、よくお似合いで」

 

 私達が鶫先輩の事で暫く騒いでいると、教室の扉がガラリと開けられ、武士姿で帯刀した一条先輩と、西洋の甲冑に身を包む舞子先輩がやってきた。

 

「集、お前よくこんだけの衣装用意できたよな」

「んふふ~~人徳ですよ人徳」

 

 どうやら、先輩達のクラスのコスプレ衣装は、舞子先輩が全部用意したようだ。その一方、舞子先輩にしては大人しく、まともな衣装が多いので、鶫先輩が舞子先輩へ口を尖らせていく。そうして、舞子先輩が人差し指を立て弁解しようとした背後から、東洋の甲冑をしたるりさんの蹴りが入る。

 

「ウソをつけ。私と宮森君で先に検閲しておいたのよ」

 

 るりさんはそのまま倒れた舞子先輩を片足で踏みつけ、桐崎先輩は輝くような表情で、鶫先輩は丁寧にお辞儀をして、るりさんへ感謝と労いの言葉をかける。私と一条先輩は、彼らの様子を困ったように見つめるしかない。

 向こうではウサギの着ぐるみを着込む橘先輩が、衣装係と思しき同じクラスの女子に、もっとかわいいのがいいと文句を垂れている。そういえば、樹先輩やお姉ちゃんは、どこにいて、どんなコスプレをしているんだろう。

 

「ほら小咲、いいかげん出て来なさい」

「ヤダよ~!この格好スッゴく恥ずかしいんだから~!!」

 

 気づくと、るりさんが教室の一隅にかけられたカーテンの裏へ手を伸ばして、その裏にいるらしいお姉ちゃんを、無理矢理引っ張り出そうとしている。

 

「あ、あれ!?春!?どうしてここに……」

 

 白いフリルのついたカチューシャに、編み上げられた黒のブーツ、そしてメイド服のようでいて、膨らんだスカートが特徴のロリータ・ファッション。それらに身を包み、うっすら涙目のお姉ちゃんが、まるで天使か女神の降臨が如く現れ、私達は声にもならない悶絶と歓声を上げる。

 

「あれ、小咲?まるでメイドさんみたいじゃん」

 

 すると、盛り上がっていた私と一条先輩の背後から、探し求めていた愛しの声が聞こえてくる。そこへ振り向けば、シルクハットとダークグレーのスーツを着込み、左手にステッキを持つ英国紳士な樹先輩がいる。

 まるでシャーロックホームズみたいで、私は先輩にうっとりと魅入ってしまい、先輩のおはようにも、囁くように頷き返すばかりだ。

 

「あ~~!樹君笑ったでしょ~!?も~も~も~!」

「笑ってない、笑ってないって」

 

 そんな私の隣を通り過ぎるようにして、お姉ちゃんはくつくつと笑う樹先輩へ向かい、ぽこぽこと先輩を繰り返し叩く。普段見ないお姉ちゃんのいかにも子供じみた攻撃に、樹先輩は苦笑いを浮かべながらも、どことなく楽しそうに両手を盾として防御する。

 

「樹先輩、どこに行ってたんですか?」

「少し先生と打ち合わせ。そう言う春は?」

 

 胸がどこかチクチクした私は、樹先輩とお姉ちゃんにずかずかと近づき、割り込むようにして先輩に尋ねてみる。樹先輩はお姉ちゃんの攻撃を抑えつつ、目元を和らげて私に今度尋ね返す。

 

「私は……、先輩達をうちのお店に誘おうと思って」

「そっか、今日明日花も来るみたいだし、後で行くよ」

「は、はい!是非来てください!」

 

 樹先輩から前向きな返事が聞けて、言い淀みながら答えていた私は、それだけで嬉しさに包まれてしまう。私はなんて単純なのだろうか。いまだ涙目であるお姉ちゃんと、この様子を眺めていた一条先輩達にも、私は勧誘の一声をかけてから、自分の教室へと時折スキップして戻る。

 クラスの教室まで辿り着くと、待ってましたとばかりに、風ちゃんが何やらチラシのようなものを後ろに持ちながら、私の下へさささっと近づいてきた。

 

「春、上手くいった?」

「うん、バッチリ誘えたよ」

「よかったね。そういえばさ春、言い忘れてた事があるんだけど」

 

 風ちゃんは穏やかな表情を崩さないまま、後ろに隠していたそれを取り出してくる。

 

「今日午後からミスコンあるの知ってるよね?」

「え?うん、知ってるけど」

「春もそれエントリーされてるから」

 

 想像していた以上の内容に、私は驚きのあまり思わず吹き出してしまう。風ちゃんは面白そうに、にこやかな笑みを浮かべている。

 

「なんで!!?」

「私が勝手に申し込みました~」

「だからなんでよ!!?」

「だって、この学校で一番かわいいのは春だから」

「い……いやいやいや、何言ってんのそんな訳――――」

「それにほら、これ見て春」

 

 困惑と混乱で頭に血が上っている私を受け流しつつ、風ちゃんは私にそのチラシを差し出してくるので、私は乱暴に受け取って中身へ目を通す。そこには、それっぽい前置きと、特別審査員として一条先輩と桐崎先輩の名前がある。

 

「春、その下見て」

 

 こちらへ顔を覗かせる風ちゃんの言葉通り、私はさらに下に書かれていることを眺めると、ミスコンの優勝賞品の正体に気付く。

 

「春なら絶対良い所まで行けるよ。それにもし優勝すれば……」

 

 風ちゃんがかけてくれる言葉をうっすら耳に通しながら、私は心の中で無理無理と何度も唱えてみたものの、微かに浮かんだ妄想に僅かばかり期待を寄せてしまう。どうせ人前で恥を晒して、予選で落ちるのなんて分かっているのに、参加だけはしてみようという気持ちだけは湧き上がってくる。

 風ちゃんにも言いくるめられ、私がひとまず参加はしようと決めたその時、いよいよ校舎内に一般のお客さんが大挙して押し寄せてくる。これから長い一日になっていきそうな文化祭は、まだまだ始まったばかりだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 普段は集会や授業で使用される体育館も、今日ばかりは外観が各クラスの宣伝ポスターなどで埋め尽くされ、中に入れば多くの人でごった返して、空席が見当たらないほどである。

 群衆が目を向ける壇上では、ミス凡矢理コンテストなるものが開催されており、先程から出場者が次々と現れては、舞台袖に消えていくを繰り返していた。今は確か、人数も二桁に入り始めた頃だろうか。

 自称女性評論家兼本コンテスト実行委員長の集による、軽快で熱のこもった司会・解説と、それに振り回されがちなゲストの楽や桐崎さんを遠目に見やる。オレは、壁に近い所で立ち見のまま、自らをこの場に呼び出してきた人物の到着を待つ。

 

「先輩、お待たせしました」

 

 すると、前方から人混みをスルスルと抜けて、ヴァンパイアのコスプレに身を包む件の人物がやってくる。

 

「呼び出してすみませんね」

「構わないよ、風ちゃん」

 

 やがてオレの下まで来ると、風ちゃんはにこやかな表情のまま、一つ謝りを入れてくる。頼まれた時は驚いたものの、断る理由などなかったし、何より気になるから来たのはオレの方なのだが。

 

「明日花ちゃんと一緒じゃないんですか?」

「ああ、明日花は今頃、知佳さんといる。お化け屋敷、かなり楽しんでたよ」

「そうですか、楽しんでもらえて、何よりです」

 

 午前中にクラスを観察及び監督した後、真昼からここに来るまでの間、オレは元気活発な明日花に連れ回された。幾つかの出し物を見て回ったが、立ち寄った中でも、春と風ちゃんのクラスのお化け屋敷は出来も中々で、明日花だけでなくオレもその演出などを大いに楽しんだ。

 

「それで、春が出てるって本当?」

「はい、もうそろそろだと思うんですが……」

 

 風ちゃんの頼みもあってここに来たのも、全ては春が、このミスコンに参加するというのを知ったからである。恐らく、自分からではなく、風ちゃんに勝手にエントリーされたのだろう。けれど、それでも尚、この大観衆の前に立つことを決めた春を、オレはどうしても気にかかり、他に仕事を任せて来てしまった。

 

「それでは次の方参りましょう。エントリーNO.12、ご入場ください……!」

 

 11番の方が掃けていくのを確認し、集が慣れた感じで、次なる登場者へ呼び掛ける。そして、舞台袖からは、自分のお店とは少し違う、和装の売り子姿をした春が、恥ずかしそうに歩いてくる。登場の瞬間、会場はこれまでの出場者の中でも、トップクラスの盛り上がりを見せる。

 

「あの服、私が作ったんですよ」

「凄いな、春によく似合ってる」

「良かった、後で春に伝えておきます」

 

 風ちゃんがさも得意げに言うので、オレは思ったままの感想を正直に伝える。それを聞いて、風ちゃんはさらににこやかになっていく。やがて、舞台中央に辿り着いた春に、係の人からマイクが渡されて、学年と名前を述べるよう促される。

 

「え……えーと……、一年A組、小野寺春です。よろしくお願いひま、あっ」

 

 案の定、春はこのようにド緊張で、口が回らないようだ。しかし、それがむしろ功を奏したのか、会場はさらに火がつき、所々から春を後押しする声が挙がっていく。

 

「フフッ春ったら、本当に自分がモテないと思ってるみたいで」

「そうか?この盛り上がりからして、結構人気な気がするけれど」

「そうですよ、ほら、例えばそこの人達とか……」

 

 風ちゃんが笑って指差す方向を見やると、思いの外近くで、アイドルの追っかけのような男子集団が、柔道部にいそうな団長の号令の下、春の応援のために一致団結しようとしている。

 

「まぁ、あんな人達には春は渡さないですけど」

「ハハッ、確かにそれは言えてる」

 

 掛け声の合わせ具合から、彼らの春に対する熱意と団結力を垣間見たが、風ちゃんの棘のある一言に、オレも苦笑して首を縦に動かさざるを得ない。

 舞台上では、春が自己紹介やアピールを、集から促されていた。両手でがっちりマイクを握った春は、自分の家が和菓子屋を営んで何やらかんやらと、ただの店の宣伝をしていて、それに気付いた春に会場からは温かい笑いが巻き起こる。

 

「では特別審査員の一条さんは、何か質問などありませんか?」

「は!?え……えーと……」

 

 すると、集から突然に、楽の方へとマイクが向けられていく。楽は戸惑い気味で、緊張も多少解れたはずの春も、また肩をびくつかせる。オレは、楽が何か天然な質問をかまさないでくれよと、念を押すように願う。

 

「コホン……え~とでは……、恋愛するなら年上と年下どっちがいいですか?」

 

 あんの馬鹿野郎。オレは口に出さないまでも、楽へと悪態をつく。春は見て取れるほど動揺し、横にいる風ちゃんは、お腹と口を抑えながら吹き出す。会場にいる男子諸君は、期待した目で春の回答を心待ちにする。

 

「と……としうえ?」

「おおーっと!!春さんは年上の男性がお好みで!!僕もこんな後輩が欲し~い!!」

 

 目線を斜め右上にしながら、浮ついた表情の春がそう答えると、途端に会場から歓声が広がり、集からは適当な相槌がノリノリで打たれる。春の出番はそこで終了し、彼女は舞台袖へと疲れたように出ていく。あとで楽と集には、より忙しめの片付けを割り当ててやろう。

 それからも、きちんと整えてきたものの謎に一言すら喋らなかったポーラさんや、水着姿を披露して一発レッドカードを喰らった橘さんなど。大会は予想以上の盛り上がりを見せて、無事に予選の終了を迎える。

 いよいよ、集の口から本戦出場の五名が続々と発表され、出場者が舞台へ現れる。その中には、しっかりと春の姿もあるので、当然入ってるんだろうと高をくくっていたオレも、一息ついて喜ぶ。風ちゃんも嬉しそうに名前を呼びながら拍手して、応援団もお祭り騒ぎの様子である。

 

 そして、本選のアピールタイムが、その都度始まっていく。春も随分と落ち着きが出てきたようで、審査員からの質問にも春らしく、素直で丁寧な対応をしていく。このまま行けば、贔屓目無しでも、春がきっと優勝を果たすだろう。

 こうして、アピールタイムも間もなく、終わりを迎えようとした所で、唐突に集からアナウンスが入り込む。特別シード枠から最後の出場者が登場するらしい。物凄く嫌な予感がして、オレは向こうの舞台袖を隈なく注視する。

 

「凡矢理七英雄が一人、小野寺小咲さんで~~す!!」

 

 勿体ぶった間を置いて掛けられた集の一声と同時に、見知った甲冑姿の誰かに押し出されるようにして、小咲が壇上へと姿を現す。当の小咲本人も、何が何やらという感じで困惑しているが、会場からはこの日一番の盛大な喚声が起こる。

 引き返そうと袖の方へ戻ろうとする小咲だが、どうやら宮本さんに食い止められ、とうとう集から学年と名前を尋ねられてしまい、会場が完全に聞く構えになる。宮本さんも集も、何とも強引に小咲の逃げ場を打ち消していく。

 

「え……えーと……二年C組の小野寺小咲と申します。どうぞよろしくお願いひま、あっ」

 

 目も当てられない奇跡の姉妹シンクロに、オレは被っていたシルクハットをより深く沈める。会場からも大きな笑い声が巻き起こり、小咲は湯気でも立ち上るんじゃないかというくらい、真っ赤な顔をしてどんどんと縮こまっていく。

 しかし、小咲も学校の中でこんなに人気だったのかと思うほど、特に春応援団も含めて男子生徒を中心に、質問を重ねる中でその視線をひとしきり集めている。

 

「では最後に、会場の皆さんに向けて、とびっきりの笑顔を!!」

「ええ!?」

 

 最後に集から爆弾級の無茶ぶりを言われて、ただでさえ動揺しっぱなしの小咲は非常に困った様子になる。しかし、結局は彼女なりの精一杯を尽くした満面の笑顔を作り上げ、数多くいる男子のハートを鷲掴みにしていく。

 館内は歓声で響き渡り、春応援団も大多数が胸に手をあてて、風ちゃんからはどこかイラついたような空気を感じる。きっと楽も今頃、机に突っ伏して悶えているに違いない。オレは、杖代わりとして持つステッキを、力強く握り直す。

 そして、全ての審査が終了したとのアナウンスが入り、結果発表が始まる。会場内は騒めきながら、まだかまだかと発表を待つ。

 

「……おや?な…なんとこれは……!!獲得票数第一位は同数票により、小野寺小咲さんと春さんが選ばれましたーー!!!」

 

 何と結果は同率一位で、小咲と春が並んでしまったので、会場内はミスの座が一体どうなるのかと、今度は別の意味でざわざわとする。

 ここまで大会を仕切ってきた集の説明によれば、再び二人のみで衣装変更し決勝戦を行い、アピールタイム後の決選投票で、ミスの座が決められるようだ。小咲と春はそれぞれ係員に肩を掴まれ、中央を境に各サイドの裏方へと引きずり込まれていく。

 

「それでは準備のため、一時休憩にしたいと思います。皆様しばしご歓談を~~」

 

 集のかけ声を皮切りに、群衆は一定の緊張を解いて、これまでの感想を語り始めたり、一度お手洗いや屋外へと出ていったりする。

 

「先輩、行かなくていいんですか?」

 

 舞台の裏へ向かおうとする風ちゃんが、オレに顔を合わせて尋ね込んでくる。

 

「いや、オレはここで待ってるよ」

「……そうですよね、ではまた後で」

 

 少し残念そうな表情を一瞬見せた後、風ちゃんは春の所へと駆け足気味に向かう。オレは壁際まで寄って、壁を背もたれにしながら、深く被ったシルクハットを脱いで、目の前に広がった騒々しい光景を眺める。

 今回のミスコンは、本人達が意図したことでないにせよ、形上では二人が争うことになってしまった。小咲と春がこの状況をどう考えているかによって、彼女達のミスコンの意味合いはとても異なってくる。

 それ故に、この局面でオレが二人に、何かしらのコンタクトをするのは違うだろうし、すべきではない。それに、この結果がどうなろうとも、オレの中の答えは何もかも、変わりを見せることはないのだ。

 15分の休憩はあっという間に過ぎ去って、置かれた座席には人々が所狭しと陣取っていく。近くの春応援団もまた、団長を中心に改めて気合を入れ直す。脇にある扉からは、風ちゃんがこちらへ駆け寄ってくる。オレは、右手で弄んでいたシルクハットを、まるで重石のように頭に深く被せた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 舞台から連れられた先の、選り取り見取りな衣装部屋に押し込められて、私は座ることもできずに、ぐるぐると頭を悩ませながら、ただウロウロと部屋の中を徘徊している。

 すると、ドアの方からコンコンとノックの音がしたと思えば、扉がそのままガチャリと開くので、私は勢い良くそちらへと目を移す。そこには、いつもの強引な感じで、私をこんな状況に追いやってきた、甲冑姿のるりちゃんの姿がある。

 

「小咲、衣装は決まったかしら?」

「それどころじゃないよ、るりちゃ~ん!!」

 

 平然とした顔つきで尋ねてきたるりちゃんに、私は反抗や憤りを示すよりも先に、駆け寄って泣きついてしまう。

 まさか、ミスコンに出場させられるとは思ってもなかったし、それに、何でよりによって、これから決戦投票を行う相手が春だなんて。ただでさえ、樹君との事で自信失くしてきているのに、その渦中の春が立ちはだかるので、私はどんどん憂鬱になっていく。

 

「あ~あ、なんでこんな事に……。るりちゃんホント強引すぎだよー……」

「泣き言言わないの。それに優勝賞品もかかってるんだから」

 

 るりちゃんは右手に持つ、何が入ってるか怪しげな紙袋ではなく、左手で大会のチラシを私に渡してきた。受け取った私は、初めてその内容に目を通すと、商品の内容に愕然とする。

 

「……それで少しは、やる気になったかしら?」

「い、いや、そうだけど、でも……」

「四の五の言わない。私も副賞ほしいんだから」

 

 副賞は確か、おかし一年分とか、そんな事が書かれている。食いしん坊さんな、るりちゃんらしい。いや、それとは別に、私は正賞のことで、樹君の事を思い浮かべて、さらに動揺してしまう。やる気は確かに芽生えたけれど、意気地なしの私は泣きべそをかく。

 

「うう~~、衣装だってどれ選べばいいんだろう~」

「それならね、服は用意してあるから、さっさと着なさい」

「ええ!?るりちゃんが選んだの!?ちょっと待って、またどうせおかしな服……」

「はいコレ」

 

 るりちゃんは今度こそ、その怪しげな紙袋を手渡してくる。これまでのるりちゃんによる諸々の所業を振り返れば、私がそう疑っても仕方はないことのはずだ。私は恐る恐る中身を覗くと、存外にるりちゃんにしては、控えめなテイストのチョイスだと感じて、私は訝しげに顔を上げる。

 

「え?これでいいの?私はまぁ、助かるけど……」

「いいから早くしな、もうそろそろ時間だよ」

 

 そう言ってるりちゃんは、表情をちっとも変えないまま、この控室から出ていこうとする。一方で、ドアを開けてこちらを振り返り、「頑張りなよ、小咲」と最後に、応援の一言を残して行ってしまう。

 ……やっぱり、るりちゃんは頼りになる人だ。こうして敢えて、私にこんな無茶ぶりさせるのも、自分からは中々動き出せない、私の性格を頭に入れてのことだろう。るりちゃんに後でありがとうを言おうと、私は心の中で決意してから、彼女の用意してくれた服に身を通す。

 果たして、こんなオーソドックスタイプのセーラー服が、本当に良いのかどうか分からないけれど、私は自分のことを良く知る親友を信じてみることにする。

 賞品のことを知ってしまえば、いくら情けない私だって、今回ばかりは勝ち取りたくなる。きっと春も、今回の賞品が何か分かった上で、参加しているに違いない。春には悪いけれど、樹君とのためにも優勝したい。

 

 いよいよ最終審査の時間がやってきて、司会を務める舞子君から、私の名前が先ず呼ばれる。私はさっきみたいに慌てないよう、なるべく自然なように見せながら、壇上へと歩き出す。

 すると、会場からは大きな歓声が巻き起こって、舞子君の一層に熱がこもった実況が耳に入り込んでくる。私自身にはこれのどこが良いのか、ちっとも見当がつかないのだけれど、反応からしてかなりの高評価のようだ。さすがるりちゃんだと、私はまた心の中でお礼を言う。

 

 次に、そのままの勢いで、舞子君は春の事を呼ぶ。しかし、いくらか時間が経っても、春の姿が現れて来ない。舞子君も再び呼びかけているが、春は一向に出てくる気配がないので、会場内も一体どうしたのかと騒めきたてる。

 私には、樹君と一緒にいる時の、本当に楽しそうな春の姿が脳裏に浮かぶ。

 私達は運悪く、同じ人を同時に好きになったけれど、その前に私は、春のたった一人のお姉ちゃんである。妹があんな表情を見せていれば、一緒に嬉しい気持ちになってしまうし、その幸せを願ってしまうのだ。

 だから、このままこんな形でミスコンが、終わりを迎えてしまうかもしれないのは、私には物凄く居心地が悪いものであるし、何より春がそうさせる気はないだろう。きっと春は現れると、私は両手に包んだマイクをぐっと握り締める。

 

「すみません!!お待たせしました!!」

 

 とうとう失格の判定が下されようとした時、舞台袖から力強い声が聞こえてきた。私だけでなく、会場全体がそちらへ注目すると、そこには、ウェディングドレスに着飾った春の姿がはっきりと映し出される。

 私はわが妹のあまりの可愛さにすっかり身を固め、胸をときめかせて今すぐにも抱きしめたくなったが、その一方で、この場において、その衣装で現れてくる春の度胸強さと心意気に、羨望と嫉妬が入り混じった眼差しを向けてしまいそうになる。

 春は春で、壇上に登った時は恥ずかしさに溢れ、顔を真っ赤にしていたけれど、私が隣近くにいるのをようやく認識すると、どこか羨ましそうで悔しそうな視線を向けてくる。私がそう思うように、春も私の事を可愛いと思ってくれてるのだろうか。

 ついに、ミスコンの最終審査が始まっていく。いきなり、好みの男性を聞かれたのは驚いたが、そこからは、100万円あればどうするとか、行ってみたい国とかなど、当たり障りのない質問が続くので、私と春もそれぞれの回答を紡いでいく。

 

「それでは、最後の質問です」

 

 そして、最後の質問まで辿り着くので、私は内心ほっとしながら、すぐにどんな質問が来るか身構える。

 

「現在好きな人はいらっしゃいますか?」

「「ええぇえ!!?」

 

 しかし、私達に尋ねられたのは、それこそ今最もタイムリーで、私達の核心をつくことなので、私と春は共々、驚きと戸惑いの声を挙げてしまう。目の前には、何百人もの人達が、私や春の回答を、期待したような目で見てきている。

 

「どうですか?小咲さん」

「わ、わ、私は、そんな……」

 

 観衆の前で公言するのを恐れたのか、それとも、春のウェディングドレス姿に戦意を削がれたからだろうか。そこまで言うに留まって、私は二の句を告げられなくなってしまう。

 

「では、春さんはどうですか?」

「えっ……私は、その…………」

 

 黙りこねた私から、質問の矛先は春へと移り変わる。会場全体の視線に曝された春は、言い淀むように下を向きながらも、やがて緊迫感から解かれたような、柔らかで優しい表情をして顔を上げる。

 

「います」

 

 瞬間、観衆は皆しんと静まり返り、私はただただまじまじと、春の見たこともないくらい美しい横顔を眺める。

 

「……その人は、きっと、今もこの会場のどこかで、こんな私のことを、見守ってくれてると思います。私は今日、その人に見てもらいたくて、このコンテストに参加しました」

 

 春がそこまで言い切ると、まるで水を打ったように、地響きでも起きてるんじゃないかと思うくらい、会場が本日一番の大盛り上がりを見せる。収ることのない興奮の渦の中、審査の終了と投票の旨を伝えるアナウンスが、やたらと私の耳にはすんなり入ってくる。

 つい三ヶ月か少し前の頃なんて、お風呂で私に泣きじゃくっていたのに。知佳さんに尋ねられては、いつも肩を強張らせていたのに。どうして、あなたはいつの間に、これほど頼もしく、強くいられるようになったのか。

 言い終えて心なしかホッと一息ついた春を、私は広まる尊敬と羨望の念を込めながら、隣より呆然と見つめる。振り返ってみると、樹君が絡んだことになれば、あんな時やこんな時も、春は私よりも真っ先に反応していたよね。

 

 やがて、舞子君から集計結果が出たと、高々にアナウンスがされ、会場のお客さん達は再び静まり返る。結果なんて、火を見るよりも明らかなことだ。僅差だと告げられるが、実際には埋めがたい差がついたと、私は自分を詰るように唱え、ミスの栄冠に輝くであろう人物へ、どんなお祝いの言葉をかけようかと思案する。

 数秒ほどの間が置かれて、ついに、ミスに選ばれた人物の名前が読み上げられ、会場からは割れんばかりの大歓声と、健闘を称える祝福の言葉が、私の隣立つ人物へと一身に注がれていく。当の本人は、整った顔立ちを破顔させて、嬉しそうに輝くような笑顔を浮かべている。

 私は心からおめでとうと思い、マイクを置いて惜しみない拍手を重ねながら、この場のどこかできっと、一連の流れを見届けた人物に思いを馳せる。

 私達の関係の変容も、後はアクセルを踏めば発進する車みたいに、もうすぐそこまで迫ってきていた。

 

 




 第二十六話『ミスコン』をご一読下さり、ありがとうございます。

 感想や評価等、お待ちしております。

 次回は後編ですが、続けて明日に投稿を予定しています。

 それでは、また次のお話で。


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第二十七話 コクハク

 第二十七話にお立ち寄り頂き、ありがとうございます。

 文化祭の後編です。

 それでは。


 爽秋の夕陽が、辺りをオレンジ色に染め上げ始めた頃、お祭りみたいな校内の盛り上がりは一度落ち着きを見せ、各人が割り当てられた片付けに談笑しながら取り組んでいる。

 片付けも程々に済ましてもらい、私は想い人との合流場所である屋上へと、疲労で重たい脚を何とか引き上げて、階段を一段一段ゆったりと昇る。幾何もなく、屋上へと出る扉の前に辿り着くと、私は二度か三度、深呼吸を繰り返してから、ドアノブを捻り回す。

 屋上へと出れば、公立高校としては珍しく、何脚かのベンチとちょっとした家庭菜園のようなものが配置されている。周りを見渡せば、この場には幸いにも、目的の人物が一人だけ、ベンチに腰を預けて、遠くの住宅街を眺めて座っているのが見えた。

 私が意を決してそろりと近づいていくと、あと数メートルといった所で、あなたは唐突にこちらへ振り向き、澄ました表情で見つめてくる。

 

「来たか、小咲」

「うん、待たせちゃってごめんね」

「待たせたのは、オレの方だろ」

 

 澄ました表情を崩すことなく、樹君は私の視線を捉えてくる。もうその一言だけで、いくら鈍い私でも、この後に樹君から話されることが分かってしまう。

 

「か、片付けの方は、大丈夫?」

 

 臆病な私はまだもう少し、本題には入りたくなくて、だいぶ逸れたようなことを言いつつ、人一人分空けて、樹君の左隣へ座る。

 

「大丈夫、他の皆に頼んできた」

「そ、そっか」

 

 ほんの少し口角を上げて、樹君は何でもないように、一言で済ませてしまう。そりゃあそうか、これまでクラスのために頑張ってきた、委員長の樹君の頼みだもん。

 

「そう言う小咲の方は、大変だったな」

「へ、私?」

「ミスコン、出てたろ」

「あ、うん、そうだね……」

「感慨深かったよ、まさかあの小咲が、あんな人前に出るなんて……」

「そうかな……?」

「そうだよ、頑張ったな」

「いや、それほどでも……」

 

 やめて、私の事、褒めたり、労ったりするの、やめて欲しい。あなたにそんなこと言われると、土壇場で踏み切ることのできなかった、こんなに意気地なしで情けない私が、どうしようもなく嬉しい気持ちになっちゃうから。

 結局だんまりしてしまった私が、頭を下へ下へと俯かせていると、樹君がおもむろに口を開く。

 

「それでさ、小咲。今日呼んだのは――――」

「待って!!!」

 

 いよいよ樹君からの答えが振りかかってくると感じた瞬間、私は自分でも驚くくらいの大きな声を出し、立ち上がって樹君の言葉を制止してしまう。口を挟まれた樹君も、さすがに目を点にしてこちらを見ている。

 

「ご、ごめんね……。でも、あなたから言われる前に最後……、最後だけでも、私から言わせてほしいことが……」

 

 もうこれ以上引き戻せないところまできた私は、懇願するように樹君へ呼びかける。樹君の方も、こちらの思いを汲んでくれたのか、口を真一文字に閉じたまま、私へ向き合うように席を立つ。

 

「私ね、小っちゃい頃からずっとね、自分から誰かに、声かけたりとか、出来なかったの。だからかな、幼い頃の約束に、思いを馳せてばっかだったの」

 

 幼少期に家族旅行で出かけた先の場所で、私はある男の子と何か重要な約束を交わし、『あなたは錠を、私は鍵を』と合言葉に、肌身離さずその鍵を持ち歩いた。今思えば、何かあればその事ばかり考えていた。

 

「そんな私の前に、樹君が現れたの。初めの頃、声をかけてきたあなたに、私は相槌を返すばかりで……。でも、あなたはこんな私と、一緒に話してくれて、色んな所に連れて行ってくれた」

 

 私の脳裏には今でも鮮明に、店内へと一人で入ってきた樹君の姿が思い浮かぶ。

 樹君は商品をさっと選び終えて、お手伝いを休憩して座っていた私の隣に腰かける。同年代でまだ小3なのにしっかりしているな、と最初は感心したものだ。それで、つい見つめてしまっているのが樹君にばれて、お互いに話すようになったっけ。

 そんな始まりから、樹君は私にとって、いなくてはならない存在になっていった。あなたのお陰で、私は約束だけに縛られることなく、内気すぎな自分を少しづつ変えていくことができた。学校でも、それ以前より多くの友達ができたし、何より、樹君と過ごす穏やかな時間をいつだって楽しみにしてた。

 

「それからなの、少年なあなたに、想いを寄せていったのも。……高校でまた出会えて、一度は一条君に傾いたこの気持ちもいつしか、青年になったあなたに、すっかり奪われちゃった」

 

 樹君から突然に別れを告げられた時は、頭が真っ白になってしまった。樹君が私の前から姿を消した後、もう本当に二度と会えないと悲しみに暮れる中、私は中学校で一条君と出会った。

 そのまま一緒の高校に追いかけるように進み、一条君があの約束の男の子かもしれないという証拠が次々に出てきて、周りの女の子もどんどん現れて、今度こそ離さないようにしたいと思った矢先、樹君が再び私の前に現れた。

 背が高く、声は低くて、はるかに大人びた雰囲気を醸し出す樹君だったけど、昔とちっとも変わらないところもあって。それが見える度、私はあの頃の気持ちがどんどんと甦って、私は再びあなたに恋をするようになった。

 

「今ではもう、あなたを考えない日なんて、ない。普段の澄ました表情も、さりげない気遣いも、昔のいたずらな笑顔も……、あなたの全部が、私の心を魔法のように溶かしてくるの」

 

 樹君は本当に、不思議な人だ。まるで私よりも私を分かってるみたいに、いつも私が一番喜ぶこととか、ためになることをしてくれる。そんなことばっかりするから、私はすっかりあなただけを追いかけてしまう。

 

「……だけど、私は……、明香里さんのように、大人な女性で、あなたを導くような人じゃない……」

 

 けれど、私の知らないずっと前から、樹君にも追いかけている人がいた。

 初めてそれを知った時、樹君のフィルム越しにはそれまで、私はまるで助演女優のように映っていたと知って、樹君をそうさせた明香里さんへの激しい怒りと怨みを感じ、それを内に秘めたまま、夜も寝付けなかった。

 ただそれは、今の自分ではとても明香里さんに敵わない失望と絶望を、既にいない明香里さんに、どうしようもなく当てつけているだけだった。

 

「それに……、私は、春のように、可愛らしくて、純粋素直で、真っ直ぐな力強さなんて、ない……!」

 

 樹君を追いかけるのは、私だけに限ったことではない。

 私の妹でもある春は、私に追いつけ追い越せといった感じで、ただひたすら純粋真っ直ぐに、樹君へとひた走っていく。明香里さんの話を聞いても、何も言えないままの私を置き去りにして、春は樹君と向き合っていた。

 今日のミスコンだって、樹君に対する春の気持ちの強さを、これでもかと強烈に見せつけられた。

 

「でも、そうであっても……!私は、樹君のことが、大好きなの……!!樹君のことを、隣で、支えたいの……!たとえ私が、あなたにとって、そんな存在になれなくても、樹君には、もう遠くになんて、行ってほしく、ないの……」

 

 樹君の事で、敵わないと思ってしまっている人物が、私には明々白々に二人も存在する。だとすれば、やはりこの場が、自分の我儘な気持ちを、樹君に受け止めてもらえる、最後のチャンス、なのかもしれない。

 そう思うと、言葉にも躰にも、火傷しそうなくらい熱がこもって、私の王子様を正面でばっちり捉えているはずなのに、視界が歪みに歪んできて、その輪郭も覚束なくて、ついには零れ落ちてくるものを、必死で拭おうとすることしかできなくなる。

 

「…………小咲」

 

 嗚咽を漏らし続けていた私がある程度落ち着くまで、どれくらい時間が経ったのだろう。口を閉じたままじっとしていた樹君が、静かな声で私の名前を呼ぶので、私はぐちゃぐちゃな面を上げる。

 

「ありがとう。オレの事を、これだけ想ってくれて」

 

 樹君は澄ました表情を少し暗めに浮かべながら、それでも私の眼をしっかりと捉えていて、言葉を淡々と紡いでいく。

 

「オレにとっても、小咲は、ただの友達では言い表せない、特別な存在の内の一人なんだ。けれど、君の好意を受けて、小咲の存在というのが、引っかかったんだ」

 

 特別な存在、と樹君の口から聞けるだけで、さっきまで泣き腫らしていたのに、初心な私は嬉しさを感じてしまう。目元を拭いながら、私は樹君の言葉に集中し直す。

 

「小咲が告白したあの夜の日も、オレは判別しきれなかった。友達と言うには、軽すぎるんだ。異性の女性とも……、改めて見えなかった。じゃあ小咲って、一体オレの何なんだと」

 

 確かに友達と言うには、あまりに深くお互いを踏み込んでいる。一方、結果として異性には見られなかったことが分かり、私は中々にショックを受けるけれど、話は続いているので、引き続き耳を傾けていく。

 

「小学生の頃からの仲だからかな。小咲の事ばかり考えてみても、突き詰めていけば、そこには必ず、安心だとか、落ち着くだとか、そんな言葉に辿り着く」

 

 安心感や落ち着く感じは、私も強く同意できる。樹君と一緒にいたり、見てもらえたりする時間は、常々そんなことを感じてきた。

 

「……小咲は、家族の中では、お姉ちゃんだよね」

「う、うん、そうだけど……」

 

 突然に樹君から、二人の間では当然の事実として、前から認識しているはずの事が、確認のように尋ねられるので、私も戸惑い気味に答える。

 

「オレにとっては、導き出した小咲の存在って、妹のような存在なんだ」

「私が、妹、のような存在……?」

 

 樹君の衝撃的に思えるような発言を聞いて、私は反射で首を傾げてしまうが、強ち全く頓珍漢なことでないように、私自身は感ぜざるを得ない。

 

「そうだ、と言っても、到底受け付けてくれなくていい。けれど、オレは小咲と過ごす、ゆっくりと包まれるような時間が気に入ってるし、君はおっちょこちょいだから、何かと気にかかってしまう」

 

 私はこれまでずっとお姉ちゃんとして育ってきたので、他の誰かから、しかも頼りにする愛しの人から、妹だと言われれば、当惑の気持ちを隠すことはできない。

 でも、樹君が私に向ける表情や言葉、樹君との出来事の数々が思い出される内に、樹君が兄で、私が妹という図式を仮定すれば、あらゆる事が説明できてしまう。

 

「そっか……、樹君にとって、私は妹みたい、なんだ」

「……ああ、これがオレの答えだ」

「そうなんだ……」

 

 当の私自身が、私と樹君の関係性を当てはめるものとして、その答えに納得をしつつある。こうして樹君を想う気持ちの元まで辿れば、それはまるで兄を想う妹の気持ち、だったのかもしれない。

 

「今後、オレは小咲をそう位置づけるし、それを一切ぶらすつもりはない。小咲の力になれることは、必ず力になる。後はこの先、こんなオレとどう接していくかは、小咲次第だ」

 

 依然として真剣な眼差しを崩さない樹君からは、きっぱりとその決意が私に伝えられる。樹君へあんだけ言っておいて、土壇場になると及び腰になってしまう私は、樹君から拒絶される結末さえ頭に浮かべていた。

 だから、樹君が妹のように大切にしてくれるなら、私からすれば望外の結果なのである。

 

「……妹って言われて、驚いたけど……、こんな私でも、特別な一人として、そう思ってもらえて、遠く離れずにいてくれるなら、私はそれでも、凄く嬉しい」

 

 私はまだ震える唇から、虚飾なんかじゃない、心からの気持ちが伝わるようにと、樹君へ言葉をゆっくり生み出していく。

 

「だからね、樹君さえ良ければ、これからも仲良くして欲しいの」

「……ああ、心得た」

「うん、またよろしくね、樹君」

「こちらこそ、よろしくな、小咲」

 

 ここまでくると、私もようやく口角を上げて樹君と向かい合うことができて、私と対面する樹君も若干ではあるが、柔らかな表情を浮かべつつある。

 辺りはすっかり黄昏時になって、今日という日を照らしていた太陽は、地平線の彼方へと消えかかっている。もう少しすれば、西の空から広がる夕焼けの赤さも失われていく。

 

「さあ!もうすぐでしょ?」

「そうか、そろそろだな」

「春が待ってるよ、行ってあげて」

「……そうだな、小咲は?」

「私は……もう少しここにいる」

「……分かった」

 

 私が樹君の背中を押し出すように急かすと、樹君はしっかりとした足取りで、一度も振り向く事なく、扉の向こうへと行ってしまう。

 立ってばかりの脚をようやく休めるように、私はベンチに再び腰かけ、樹君の座っていた場所を手でなぞりながら、この後の樹君と春の二人にエールを送る。

 また太陽が顔を覗かせれば、これまでとは異なる日々が続いていく。十分に暗さが広まるまで、段々と赤から藍へと、空の色が映り変わるのを私は眺め通した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 見上げればそこには、暮色騒然の景色が一面に広がっていて、夜の暗さもあと数刻もすればじきにやってくるだろう。

 体操着を着た生徒がぞろぞろと増えてきたグラウンドの中央では、学校祭実行委員の面々が最後の仕上げだと、後夜祭の一端を担うキャンプファイヤーの準備にいそいそと取り組んでいる。

 人の高さを超すような井桁型の薪組みは、構造全体が燃え上がり大きな火柱を生み出し、後夜祭のみで扱うとすれば、デメリットである短時間利用すらメリットに変えるほどの魅力を生み出す。

 委員の責任者であろう人物が、火のついたマッチを完成したそこへ投げ込むと、忽ち中から炎が現れて、空を目指すように燃え上がっていく。その過程を周りで取り囲む人達の間からは、すぐさま喚声が巻き起こる。

 人混みを少し避けた所で眺めていたオレも、すっかり夜の暗さに包まれた中で燦然と映る火柱を見ながら、この後に始まるイベントの約束を取り付けてきた人物をじっと待つ。

 

「……樹先輩!!」

 

 すると、背後から透き通る声で、目的の人物がオレに呼びかけるのが耳に入ってくる。オレは振り向いてみると、体操着で半袖姿の後ろに手を組んでいる春が、ちょうど教室の窓側から廊下側の間くらい離れた位置にいた。

 

「結構待たせちゃいました?」

「いや、そんなに待ってない」

「そうですか、良かったです」

 

 ほんのり頬を赤らめながら、後ろに組んだ手をそのまま、春が照れくさそうに歩み寄ってきて、オレと隣立つ場所まで入ってくる。間もなく、向こうにいる委員の子達から、後夜祭の主目的とも言っていい、フォークダンスが始まるとの号令がかかってきた。

 

「それでは先輩……踊りましょうか」

「……そうだな」

 

 顔を合わせてくる春に、オレは燃え盛る炎を見つめながら相槌を打つ。そして、二人並び歩いて、開始を待つ人だかりの中へ入っていく。周囲の男女からは完全に注目の的になったようで、視線を一身にオレらは集めているが、気にしても仕方ない。

 

「……また噂になっちゃいますね、これは」

「そうかもな、ミスの誰かさんが、大勢の前で指名したから」

「えへへ……すいません」

「反省する気ないだろ」

「流石にばれてますか」

 

 ミスコンでたくさんの視線に囲まれたばかりだからか、春もオレと同様に視線を意に介することなく、ただ嬉しそうに照れ笑いを浮かべてばかりでいる。

 ミスコンを勝ち抜いた春は、大盛り上がりを見せる観客からの惜しみない拍手と、両手で抱えないといけない程のトロフィーとともに、毎年恒例らしい優勝賞品を手にした。

 その本賞品こそ、『後夜祭のフォークダンスにて一緒に踊る男性を指名できる券』、というものだった。

 いよいよ校内放送を通して、ミュージックがスタートする。踊り始めた周りの人達に遅れを取らないよう、オレは春のすぐ後ろへと回り、差し出してきたその色白で、か細い両の手を握る。一体この手には、どれだけの力が込められているのだろうか。

 

「先輩、踊り上手ですね」

「向こうの学校でも、こんなことあったから」

「そうなんですか……」

 

 オレは、手を握ってから大人しくなり始めた春をリードするように、手足を用いて音楽にしっかりとリズムを合わせていく。初めてらしい春も、上手いことオレについてきてくれる。

 

「……樹先輩、ありがとうございます」

 

 すると突然に、踊り始めてから前だけ見て顔を隠し通していた春が、真っ赤にした耳元は見せたままお礼を述べてくる。

 

「決勝の前に、風ちゃんから、聞きました。服、似合ってたって。あれで、頑張って勇気出せました」

「そうか……」

 

 どうやら、春の決勝での思い切りの良さを、関わるつもりでなかったオレは、間接的とはいえアシストしてしまったようだ。

 

「それに、こちらから指名したとは言え、こうして踊りに付き合ってくれて、私、とても嬉しいです」

 

 ここにきて、春はついぞこちらに顔を振り向かせ、眩しくて花が咲いたような笑みを見せてくれる。オレはその表情に見入ってしまい、危うくリズムを崩しかけた。それを見た春はクスクス笑い、今度は自分でオレをそのまま引っ張っていこうとする。

 

「……ほんと、よくあんな大勢を前に、公開告白みたいなのできたな」

「……いいじゃないですか。言ってやりたかったんです」

「さすが、ウェディングドレス姿で出てきただけあるな」

「うっ、あれは、ちょっと、今でも恥ずかしいです……」

 

 至らない所を見られてどことなく悔しさを感じていたオレは、勢いに乗っていく春を再び赤面させるのに成功し、その気持ちを沈めて満足した気持ちを得る。春も覚悟してあの服装で来たのだから、一言くらいは感想を言ってあげなければ。

 

「けれど、あの姿の春は、素晴らしかったよ」

「……本当ですか?」

「ああ、とびきりな」

「そう、ですか、えへへ……」

 

 顔を前に戻してしまったものの、春はまた嬉しそうにして、喜びの声をささやかに上げる。目に映る春の整えられたうなじが、あどけない少女に潜む女性らしさを感じさせて、オレは顔の見えない彼女の浮かべる表情を想像してしまう。

 心なしか、春がオレの手を握る強さは、どんどん増してきている気がする。また改めて、春のこの小さな体には、どれだけの想いと力強さが込められているのだろうかと、オレは思案してしまう。

 

「春、この後少し、時間大丈夫?」

「大丈夫ですけど……、どうしてですか?」

 

 これだけひたむきで真っ直ぐな春に、ここまで色々と示され続けては、いよいよオレも腹をくくるべき時が来たのかもしれない。

 

「春に、伝えたいことが、あるんだ」

 

 不思議そうに顔を覗かせる春に、珍しく緊張してしまうオレは、その理由を喉の奥から送りだす。

 辺りでは陽気なミュージックが絶え間なく流れ続け、仲睦まじそうな男女の組同士がそれぞれのフォークダンスを楽しんでいる。この文化祭の長い一日にも、もう直に終わりが近づいてきていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 キャンプファイヤーなどで盛り上がった後夜祭にも終わりが告げられ、お祭りみたいな一日を名残惜しむように、校内の生徒達は次々と各々の家路を目指していく。

 明かりのついた教室も段々とその数を減らしていく中、私は樹先輩に従い、暗がりに包まれる中庭を突き抜けて、電灯がまばらについた渡り廊下の自動販売機の前まで来ている。樹先輩は100円玉を二枚入れて、同じボタンを二回続けて押す。

 

「はい、優勝おめでとう、春」

「あ、ありがとうございます!」

 

 樹先輩は取り出した内の一つを、私に遠慮なく差し出してくる。私のお気に入りの、紙パックの抹茶ラテだ。奢ってくれた先輩の厚意に痛み入りながら、私はありがたくそれを受け取る。

 

「樹先輩も、すっかり気に入ってくれましたか?」

「……ああ、そうだな」

「ふふふ、嬉しいです」

 

 お互いに乾杯をした後、ストローをくわえて抹茶ラテを飲む樹先輩を私は眺めながら、夜の学校に二人きりでこうして、先輩と一緒の時間を過ごせて喜びを感じる。一方で、わざわざここに来た本当の理由を、私は早く教えてほしくなってしまう。

 

「そしたら、春、もう感づいてるだろうけれど」

「……はい、何となくは」

 

 ストローから口を離し、凛々しく綺麗な顔立ちの樹先輩が、こちらへ振り向いて目を合わせてくる。

 

「春からの告白、の返事をこれからするんだが」

「はい」

 

 心臓の鼓動がどくどくと体を強く打ちつけ始めるのを感じつつ、私はとうとうこの時が来たと身構えてしまう。

 

「その前に、聞きたいことがあるんだ」

「……あ、はい、何でしょう?」

 

 そのまま本題へ入っていくと思った矢先、樹先輩から唐突に尋ねられるので、緊張で身を固めてしまった私は肩透かしを食う。けど、このおかげで気持ち少し、体の固さが解れたような気がする。

 

「春はさ、どうして、明香里の話をし終えた後、堪らなく好きとか言えたの?」

「え?」

「……あんな話したら、小咲みたいに呆気に取られるか、それこそ気味悪がられると思ってた。だから、知りたい、どうしてか」

 

 私が想像もしない質問に素っ頓狂な反応を返す一方で、樹先輩はさも真剣そうに、ブライトグリーンに輝く瞳とともに私へ投げかけてくる。

 

「だって……、凄い、じゃないですか。ただ一人の人を、ずっと想い続けたなんて」

 

 明香里さんの話をしていた樹先輩が、私の頭の隅々から思い出される。あの時の樹先輩は、悲しそうで辛そうだったけれど、時折嬉しそうに幸せそうな表情も浮かべていた。そんな樹先輩を見ていて、私もひどく胸を痛めた覚えがある。

 

「確かに、年こそ離れてますが、誠実で、真摯な樹先輩だから、そこまで想えた訳で……。私からすれば、そういう意味で、より信頼できるし、それに……」

 

 明香里さんはバツイチの人で、明日花ちゃんというお子さんもいた。当時の樹先輩は、今の私より年下だ。そんな二人の関係は、世間一般で見れば、歪に見えるかもしれない。

 けど、それは偶々、想いあったお互いが少し年の差があっただけで、二人を結んだ絆は、一般の人同士とも変わらない、むしろそれ以上のものであったはずだ。

 

「可愛い所だなって、素直で一途な人だなと思えて……。ってすみません、男の人に可愛い、とか言っちゃって」

 

 イメージとしては、飼い主の帰りを大人しく待つお犬さんが浮かぶ。失言をしてしまったかもしれないと私は、横に流していた目線を慌てて樹先輩へと戻す。

 

「いやいい、ありがとう、答えてくれて」

 

 樹先輩は右の手のひらを盾にしながら、視線どころか顔まで横にして、中庭の方へと向いてしまっている。耳元も赤いように感じる。もしかして、先輩の照れる仕草、見つけちゃったかも。

 

「オレは……、物心ついたその日から、明香里という人を、追いかけ続けてきた」

 

 顔だけでなく体もそちらへ向けた樹先輩は、穏やかな低い声を普段より落として中庭の遠くを見やる。その瞳の見つめる先には一体、誰を探しているんだろうか。

 

「ずっと、ずっとだ。ふとすれば、明香里の何かが、頭に過ぎる。気づけば、明香里が感じられる何かに、触れている。無意識のうちに、明香里の振りを、している」

 

 言葉を紡いでいく樹先輩に、切なさを覚えた私は何も言えないで、知佳さんのお家で写真越しに見た、明香里さんを頭に思い浮かべる。

 

「まるで悪夢だと、思うこともある。いくら他人の事がみえても、明香里のいない世界で、明香里の棲んだオレの心は、暗闇に覆われた。あの人になろうと、そればかりに囚われた」

 

 お姉ちゃんの言ってた気の張った感じも、知佳さんの言ってた背伸びした感じも、きっと今の樹先輩の言葉で全て説明がいく。私は一度、明香里さんという人に、会って話をしてみたかった。

 

「けれど、こっちに戻ってから、一筋の光が差した」

 

 すると、先程までの悲しみの伴った雰囲気から、樹先輩の表情はまさに光が差し込んできたように、前向きなものへと移り変わっていく。

 

「その光は、昔のオレに似た、一人の少女だった。若く瑞々しく、素直で活発で、色んな感情を目覚めさせて……、まだ芽を出してばかりの、若草のような子だ。……もちろん、春の事だよ」

 

 表情を柔らかくしていく樹先輩は、瞳の奥を微かに揺らしたと思えば、改めてこちらへと向き直る。

 先輩の事はいつだってかっこいいと思ってるけど、暗がりの中から自販機や電灯の光で浮かび上がる先輩は、一種の美しさを兼ね備えていて、私はすっかり魅入ってしまう。

 

「春は、オレの持たない物を持っている。それは、力強さとも言えるし、眩い輝きとも言える。君といれば、新しい自分を、見つけられる気がするんだ」

 

 樹先輩の方こそ、私にはない物を多く持っている。初めて会った時から、先輩は私にとって王子様であり、尊敬と憧れの対象だ。先輩と一緒にいるおかげで、私は私の知らなかった自分自身をたくさん発見できた。

 

「それに、ころころと表情を変える春は、傍で見て楽しいし飽きない。花が咲く春の笑顔は、太陽みたいに眩しい。春と一緒に飲む抹茶ラテは、こんなにも美味しい」

 

 私の視界は既にぼやけてしまっているけど、温かく愛しそうに語る樹先輩を、何としてもこの目に焼き付けておきたくて、溢れてくるものをこらえきれないながら必死に見つめる。

 

「……長くなった。待たせてばかりで申し訳ない。告白の返事は、イエスだ、春。こんなオレでも、隣にいて――――」

 

 言葉の続きを待ち切ることができずに、想いを通り越して身体が動き出してしまった私は、そのまま樹先輩の胸元へと飛び込んでしまう。先輩は驚いたようにしながら、頼りがいのある身体で私の事をしっかり抱きとめてくれる。

 

「うぐっ……うえっ……あり、がとう、ございます、先輩……!!」

 

 伝えたいことは山ほどあるはずなのに、嗚咽の止まらない私は、自分を選んでくれた事への感謝を一言と、樹先輩の背中に回した両腕に目一杯力を込めることしかできない。先輩は左手を私の背中に、右手は私の頭の上に触れて、優しく宥めるように撫でてくれる。

 私を覆う体操着からは樹先輩の香りが色濃く漂ってきて、先輩への愛しさを押しとどめることなどできずに、私はさらに先輩を強く強く抱きしめてしまう。先輩はそれを嫌がらずに、むしろ先輩の方も力強く私の事を引き寄せてくれる。

 私が泣き止むのをしばらく待ってから、改めて泣き腫らした目で樹先輩を見上げると、先輩は穏やかな表情と微笑みを浮かべて私を見つめ返している。明かりのついた教室も、気づけば既に一つすら残ってない。

 

「……樹」

「え?」

「これから、そう呼んでほしい」

「……分かりました、い、樹……」

「もう一回」

「……樹」

「うん、よろしい」

 

 先輩は私を抱きとめた両手を離したと思えば、今度はその大きな右手で、私の左手をそっと包んできた。私は先輩をこれから呼び捨てにすることに、喜びと戸惑いを同時に抱えながら、先輩の手のひらの暖かさと頼もしさに身を預ける。

 こんなに幸せな気持ちに、なっていいんだろうか。

 

「遅くなったし、家まで送るよ、春」

「はい!一緒に、帰りましょう、樹」

 

 夜の闇に覆われた中庭の道を、私達は隣並んで歩き出す。樹にとって私が光であるように、私にとっても王子様のあなたは、私を照らし出してくれる光そのものだ。

 この夜が明ければ、希望に満ち溢れた新しい日々が始まる。そのことに大きな期待を寄せながら、今はこの手を固く繋いでいる幸せと喜びを嚙み締めて、私は樹に自分の身体をくっつけるように寄り添った。

 

 




 第二十七話『コクハク』をご一読下さり、ありがとうございます。

 感想や評価等、お待ちしております。

 もう数話ほど続くかもです。

 それでは、また次のお話で。


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第二十八話 オフタリ


 第二十八話にお立ち寄り頂き、ありがとうございます。

 予定では、残すところあと四話です。

 それでは。


 文化祭の週間は過ぎ去り、日曜と振替休日の月曜を挟み、十月へと入った火曜からまた、学校では通常授業が始まる。先週末のお祭り気分から打って変わり、何気ない日常の生活が戻ってくることに、安堵する者よりも気だるげに思う者が多いに違いない。

 私もその内の一人となるはずだったが、実際そんなことはなくて、今日の登校には高校入学以来、最もワクワクしてフワフワするような出来事が待っている。

 待ち合わせの場所と時間を改めて確認し、私は一人で作ったお弁当を通学鞄に入れ、お母さん達に行ってきますの挨拶をした後、玄関を開けて勢い良く外に出る。

 朝の陽気が明るく商店街を照らし出しており、吹いてくる風は涼しさを感じさせるので、カーディガンを羽織ってきて正解だと私は独りでに頷く。

 しばらく歩いていくと、商店街の通りの終着点まであと少しの所で、柱に背もたれするようにして、本を片手に読書している想い人が佇んでいた。私は駆け足気味にその人の下へと向かっていく。私の足音が聞こえたんだろうか、あなたは本のページに栞を挟み、こちらに穏やかな笑顔を浮かべて振り向く。

 

「先輩!おはようございます!」

「ああ、おはよう、春」

「お待たせ、しちゃいました?」

「う~ん、少し?」

「すいません……」

「時間通りだし、謝ることない」

「そうですか……?」

「そう、オレが楽しみで早く来たんだし」

 

 リュックサックに本をしまい込んで、柔らかな表情に微笑みを浮かべる樹を、私はこんな幸せあって良いんだろうかと、頬を抓りながらウットリと見つめてしまう。本当は約束の時間より早く来ようとしたけど、何せ二人待ち合わせて学校に行くなんて初めてなものだから、色々と支度準備に時間がかかり過ぎた。

 

「そしたら、行こうか」

「え、あ、はい!」

 

 ぼんやりとしていた私の目を覚ますように、樹が学校の方へと歩き出そうとするので、遅れないように私は急いで先輩の右隣に張り付く。

 気づけば、樹が左で私が右にいるのが、私達二人の中で暗黙の了解になっている気がする。何だか樹と二人並ぶ時は、あなたの右側にいないと私はもう落ち着かなくなってしまう。

 

「い、樹は、いつから待ってたんですか?」

「そうだな、30分前、くらいかな」

「なるほど、じゃあ私は明日――――」

「いや、いい、定刻通りでいい」

「そ、そうですか……」

 

 そんなに早くから来ていたんだったら、その分もう少し一緒にいれたと思えば、少し勿体なくて残念だ。けど、これで明日私がさらに早い時間で来たら、樹に小言を言われそうだし、明日は15分前くらいには頑張って準備しよう。

 翌日の自分にリマインドするよう頭にメモした私は、背丈が一回り大きくて、綺麗で端正な横顔を見せる樹を、バレないように盗み見る。相変わらず歩く速度は、私のそれにさり気なく合してくれる。すると、樹の所在ない右手が目に映り、私はある衝動に駆られてしまう。

 

「どうした、春」

「あ、いや、違うんです、これは」

 

 衝動のままに動いてしまった私は、自分の左手で樹の右手に触ってしまい、慌てて弁解を試みようとする。樹は最初不思議そうな顔を浮かべたと思えば、直ぐに少し口角を上げ、その大きな右の手のひらで、私の小さな左手を包み込む。

 

「学校の近くまで、いいな?」

「は、はい……」

 

 私も随分と大胆な方だと自負してるが、樹だって大概である。学校に着くまでにそんな事され続ければ、私の心臓はオーバーヒートを起こしてしまうかもしれない。

 もう一度、空いている右手で自分の頬を抓る。うん、大丈夫、ちゃんと現実世界だ。樹の手のひらは、頼もしく、暖かくて、安心する。

 

「今日の授業は、どう?」

「そうですね……、あ、二限に体育があります」

「いいじゃん、何するの?」

「女子は、またサッカーです」

「グラウンドで?」

「はい、グラウンドで」

「春が活躍するの、窓の側から見ておくよ」

「そ、そこまで期待される程じゃないですよ!」

「ははっ、悪い悪い」

「もう、困ります。ふふっ」

 

 こんな日常の何気ない会話で、私達は可笑しくなってつい笑ってしまう。あなたとこうして朝の時間を一緒に過ごせることが、未だに信じられないくらいに、とても素晴らしく、こんなにも喜ばしい。

 グラウンドに出たら、樹のいる教室に向けて、また前みたいに大げさに手を振ってみようかな。そしたら、きっと窓際に席を構えるあなたは、微笑んでささやかに手を振り返してくれるのだろう。

 また一つ、樹との楽しみが増えたことを嚙み締めながら、ほの暖かな日光が降り注ぐ学校までの道なりを、私達は二人並んでのんびりと隣歩いていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 授業の終了を告げるチャイム音が、眠りこけた教室を貫くように甲高く鳴り響く。

 体育の疲れもあって、ウトウトと机におでこをくっつけそうになっていた私は、おかげでぱっちりと目を覚ます。待ちに待った、お昼の時間がやってきた。

 

「行ってらっしゃーい、春」

「うん!また後でね、風ちゃん!」

 

 事情をよく知る風ちゃんに一言告げてから、私は急ぐように朝作ってきた自分用のお弁当を持って、先輩との待ち合わせ場所である中庭のベンチまで一目散に向かう。

 廊下で屯する人達の間を縫うようにかき分けていき、陽の光が元気よく照らす中庭まで出ると、すかさず樹の姿があるかどうか確認する。

 いくつかあるベンチを見ても、まだ樹はここに来ていないようだ。やった、今度は私の方が早い。樹よりも一足先に着いて待つ番になった私は、適当に空いているベンチへと上機嫌に腰掛ける。

 まだかな、樹まだかな。次々と往来していく生徒達を眺めながら、私は鼻歌まじりに先輩の到着を待つ。そして、数分経った後、感心したように樹が自分のお弁当箱を持ちながら、私の座るベンチへと歩み寄ってきた。

 

「早かったな、春」

「チャイム鳴って、すぐ来ました!」

「急ぎ過ぎても良くないぞ、怪我するかもしれないから」

「こけたりしませんよ、もう」

 

 急ぎ過ぎたら私がドジを犯すとでも思っている樹に、私は頬を膨らませながら口を尖らせる。私だって高校生なのだから、余計な心配しなくても、そんなおっちょこちょいなんて犯しません。じとりとした目をして、私は先輩を見上げてみる。

 

「悪かったよ、お昼食べよう」

「分かればいいんですよ」

 

 少し申し訳ないように言いながら、私の左隣に大人しく座る樹に、私は腕組みをして大げさに胸を張る。樹とのこうしたやり取りも実に楽しくて、私はまた気分を良くした。

 樹からの提案で、今日からお昼の時間も二人きりだ。七月の初め辺りからこれまで、学校の昼休みは三人でいたけど、ここにお姉ちゃんの姿はない。お弁当だって、お姉ちゃんの作ってくれるおにぎりもない。

 そんな事を思えば、弁当箱を包んでいた袋の結び目を解いた私は、朝からこれまでの全ての幸運を手放しでは喜べなくなって、あとは蓋を開けるだけの弁当箱を持ったまま固まってしまう。

 

「食べないの、春?」

 

 隣では訝しげにこちらを見ながら、樹が弁当箱を既に開けて箸を持ち、いつでもいただきますをする態勢になっている。先輩のお弁当箱は、私よりもやや大きくて四角く、ご飯とおかずが丁度半分に仕切られていた。

 

「……何でもないですよ!さあ、食べましょう!」

「……そうだな」

 

 きっと私が少し逡巡してた理由にも、樹なら気づいてしまっているに違いない。けど、その彼がお姉ちゃんの名前を出さないのは、私の事を気遣ってくれているからだろうか。それとも、お姉ちゃんにどこか申し訳ない気持ちがあるからだろうか。

 私達は二人で手を合わせていただきますをし、お互いの弁当にありつく。私と樹はお互いのおかずを何度か交換しながら、その度に味の感想を伝え合う。

 私の作ったおかずを樹は理由も込めて褒めてくれるので、私は作ってきた甲斐があったと頬を綻ばせる。樹の作ったおかずも美味しいと感想を伝えれば、樹は「よかった」と安心したように表情を柔らかくするので、私はそんな先輩に口元を綻ばせる。

 樹とのこのような時間が、私達の関係の続く限り、この先も何度だってやってくると思えば、今こうしている時間にも満たされていくような気持ちに、さらに温かみと明るさが加わってくるみたいで、私はとても幸せに包まれた気分になる。

 でも、新しく得た物と引き換えにして失った物に、後ろ髪を引かれてしまうような、何か心残りが色濃く残っているような気持ちが私にはあって、どこかモヤモヤと霧がかったままな部分も連れてきてしまう。

 隣で私の作った自信作の卵焼きを、樹は美味しそうに頬張ってくれる。せっかく二人でいられるこの長閑な時間に、こんな事を尋ねてみてもいいんだろうか。

 

「小咲の事が、気にかかる?」

「ふえ?」

 

 卵焼きの残りを口に運ぶ前に、樹が表情も何も変えず唐突に言うので、私は驚いて腑抜けたような返事をしてしまう。

 

「確かに三人の時も、あれはあれで良かったよな」

「そう、ですよね……」

 

 朝に私が台所でおかずの盛り付けをしている所で、お姉ちゃんが真剣そうにおにぎりを握っていた様子が脳裏に浮かぶ。料理が壊滅的なお姉ちゃんが、それでも出来そうな事に頑張って取り組んでいたのを、誰より私は知っている。

 

「けれど、関係が変わるって、こういう事も含めてだ」

 

 一度箸に持っていた卵焼きを弁当箱の空いたスペースに置いて、樹が表情を普段の凛としたものにしてきっぱりと言う。

 

「それに、二人で弁当食べるよう言ったの、小咲だし」

「え、お姉ちゃんが、そう言ったんですか?!」

「ああ、わざわざ電話まで寄越して、『二人で食べなよ~』って」

 

 実は今日からの二人でのお昼休みは、お姉ちゃんが提案していた事だと知って、私はたらいを頭にぶつけたような衝撃を受ける。

 

「だから、有難く、この時間を過ごさないとな。オレらのためにも、小咲のためにも」

 

 そう言った樹は置いてある卵焼きを、再び箸でさっと掴んで口に運び、またモグモグとお昼の続きに入っていく。

 もし私が逆の立場であったら、お姉ちゃんのような気遣いを自分から出来たのだろうか。やっぱり、お姉ちゃんはいつだって、お人好しでいながら、尊敬できるお姉ちゃんだ。私は樹の事はもとより、お姉ちゃんの事も大好きなのだと、改めて感じた。

 心の中でお姉ちゃんにありがとうと感謝しながら、まだまだ未熟者な私に活を入れるよう、私は自分の両頬をパチンと叩いて樹の目を丸くさせた後、その隙に樹の弁当からプチトマトを奪ってそのまま口に放り込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 文化祭明け初めてだった本日の授業も普段通りに平然と過ぎ去り、飼育係の仕事も済ませた私は、通学鞄を持って昇降口までやって来る。さすがにこの時間ともなると、廊下や下駄箱にもあまり人の姿が見えない。

 そんな事を思いながら靴を履き替えていると、階段の方から聞き馴染んだ声が私の名前を呼ぶのを耳にして、咄嗟に私はその方向へ振り向く。その人物はほっとした表情を浮かべて、小走りでこちらに近づいてくる。

 

「……お姉ちゃんも、これから帰り?」

「そうだよ、一緒に帰ろう」

「……うん」

 

 そういえば、お姉ちゃんも委員の仕事があったんだっけ。よりにもよって今日、お姉ちゃんと二人きりでお家に帰るとは思ってもみなかった。面食らった私は戸惑いながら、何だか気まずいような気持ちも出てきて、控えめな返事をしてしまう。

 やがて急いで靴を履き替え終えたお姉ちゃんと、並ぶようにして校門の方へと向かっていく。グラウンドや体育館からは、文化祭期間の休みを挟んで再開した部活動が、いつも以上に張り切って声を出し合っている。

 学校からも出て、行く人の数もまばらになった住宅街の道を歩いていく内に、だんまりとしていたお姉ちゃんがようやく口を開く。

 

「春、朝はちゃんと樹君と待ち合わせた?」

「う、うん、先輩待たせちゃったけど……」

「ふふふ、樹君、待ち合わせとか早いから」

 

 面白そうにニコニコと笑みを浮かべるお姉ちゃんに対して、私はどんな表情をして返せばよいのか分からず、しどろもどろになってしまう。

 

「お昼はどうだった?一緒に食べれた?」

「うん、お昼も、二人で食べれた」

「楽しかった?」

「そう、だね、楽しかったよ」

「よかった」

 

 質問攻めにしてくるお姉ちゃんに、私は顔をなるべく見られないように俯きながら答えてしまう。よかったとは、何がよかったのだろうか。私はこのままではいけないと思い立ち、今度は自分からお姉ちゃんに尋ねてみる。

 

「お姉ちゃん!お昼の事、なんだけど」

「どうしたの?」

「今日、先輩と二人きりで食べるよう、お姉ちゃんが提案したんだって、聞いたよ。どうして、そんな提案できたの?」

「そうだなぁ……、せっかく二人がそういう仲になったんだし、二人でいられた方がいいでしょ?」

 

 お姉ちゃんに目を合わせて尋ねてみると、お姉ちゃんは少しだけ困ったような笑みを貼り付けて、優しいお姉ちゃんらしいもっともな理由で返してくる。

 

「それに、私は春と違って、樹君とはクラスも同じだし、一緒の教室にいるのだから、それでいいんだよ」

 

 今度はまたにっこりとした柔和な表情をして、お姉ちゃんがしっとりとそう述べる。私はそんなお姉ちゃんを見て、二の句が告げられなくなってしまう。

 

「もしかして、春。私の事、心配してくれてる?」

「え」

 

 すると、顔を若干俯かせて地面ばかり見ていた私に、いつの間にやらお姉ちゃんが近づいてきていて、ずいっと私にその整った可愛い顔を覗かせてくる。

 

「大丈夫だよ、私は。そりゃあ、自分の描いてた通りじゃないけど……」

 

 お姉ちゃんは柔らかな表情を崩さないまま視線を落として、驚き固まる私につらつらと語りだしてくれる。

 

「樹君や春の姿や、これまでの私を改めて振り返ると、納得してきちゃってね。今、というか、これから、二人とはそんな関係でもいいかなあって」

「そ、そうなの……?」

「そう、心配なんてしなくていいんだよ、春」

 

 文化祭を終えて家に帰ってからすぐ一緒にお風呂に入った、あの夜のお姉ちゃんを私は思い出す。私の前に屋上で話したという樹とのやり取りを、たびたび笑いながら、でも目元が腫れた跡が残ったまま話すお姉ちゃんが、私にはぼんやりと映った。

 

「私の心配するより、樹君を見てあげて。樹君に一番近いのは、春なんだから」

 

 瞳を潤ませてばかりな私が、途切れ途切れになりながら樹との話をし終えた後の、嬉しそうに喜んでくれたお姉ちゃんの姿が脳裏に過ぎる。お姉ちゃんは、いつだって私のお姉ちゃんでいてくれる。

 

「……分かった、先輩の事、しっかり支える……」

「うん、ちゃんとしてないと、私がまた樹君に迫っちゃうよ」

「え、えぇえぇえ?!」

 

 樹みたいな悪戯な笑みを浮かべて、お姉ちゃんは決意を新たにする私を脅かすような事を口走るので、私は泡を食ったように驚きの声を上げてしまう。

 

「ふふふ、冗談。頑張りなよ、春」

 

 呆気にとられた私を置いて、お姉ちゃんは楽しそうに笑いながら、道の先へと行ってしまう。やがて、お姉ちゃんはくるりと振り向き、放心したままの私に急かすような事を言って呼びかけてくる。

 そんなお姉ちゃんは、仲秋の夕景に流れ込んでくる鮮やかな茜色で染め上げられ、より一段とその美しさを増したような気がした。

 

 





 第二十八話『オフタリ』をご一読下さり、ありがとうございます。

 感想や評価等、お待ちしております。

 それでは、また次のお話で。


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第二十九話 ワカッタ


 第二十九話にお立ち寄り頂き、ありがとうございます。

 今日から6月ですね、早いものです。

 それでは。


 十月も下旬に差し掛かり、朝にカーテンを開けて窓へ目を移せば、その白さからいよいよ霜が降りてきたことを悟り、晩秋の季節を強く感じられる。

 本日から三泊四日で、桐崎さんの言葉を借りるならば、高校生活の中でもトップオブトップの大イベントらしい、京都への修学旅行が始まる。

 生徒達は各自でボストンバッグやキャリーケースなどの、持ち合わせてきた大掛かりな荷物を一度置いて、間もなく予定している新幹線の登場を今か今かと待ち合わせていた。

 ところが、クラスの点呼を取ってみた所、見知った二人の姿がそこにはない。羽さんにその旨を伝えた後、こちらからもその二人に連絡するが、どちらも似たような理由で遅刻して来るらしい。

 全く、集合時間に遅刻して来るくらい、道行くおばあちゃんやおじいちゃんの手助けをしてしまう。あの問題児な二人は、極度のお人好しな点が共通している。

 やれやれとため息をつき、ちゃんと向こうで合流できることを祈りつつ、オレは他の皆と一緒に新幹線へと乗り込む。

 新幹線内の座席はクラスごとで割り当てられており、誰と座るかは同じクラスの中で自由であるが、オレは集とともに二人座席へ腰かけた。

 

「いや~、始まりが新幹線とは、ワクワクしてくるね~樹」

「……ああ、そうだな」

 

 通路側にいる集が早速ポッキーの箱を開けようとしながら、窓際で過ぎ去っていく景色を眺め始めるオレに調子よく声をかけてくる。オレらの前方では、四人座席にして桐崎さん達を始めとする女子勢が、やいのやいのと騒ぎ始めている。

 

「にしても、楽と小野寺は大丈夫かね」

「大丈夫だろ。遅れてても、二本後に来るんだから」

「けど、あの二人だから、何かありそうじゃない?」

「……分かる、それだけ少し心配だな」

 

 そう、いくら二本分の遅れとはいえ、楽と小咲のコンビである。真っ直ぐ従えばいいようなルートも、あの二人なら色々と曲がりくねってしまっても、何ら不思議な事ではない。それが例え、新幹線に二時間乗って京都まで行くとしても、だ。

 

「そういや、樹~」

「どうした」

 

 差し出してくるポッキーと一緒に、集はオレに何か尋ねたいことがあるようだ。どんな事を聞かれるか予想しながら、オレはポッキーを一本受け取る。

 

「最近、小野寺の妹とはどうよ~?」

「ああ、春とは変わらず、仲良くやってるよ」

「くぅ~~羨ましいぞこいつ~~」

 

 やっぱり、聞くならそれだと思った。ニタニタとした顔つきで身体をくねらせ、根掘り葉掘り聞き出そうとする集をあしらいつつ、オレは窓から見える多摩川や鶴見川を遠目に見遣り、今は一限の授業を受けているだろう春の事を思い浮かべる。

 この修学旅行に行く前、一緒には行けなくて寂しいからと言って、春はオレにある課題を出してきた。それは、修学旅行中のリアルタイムな写真を送ってきてほしい、というものだった。

 

――――気分だけでも、樹と一緒に旅行できたら、なんて……。

 

 言葉に出してから両手をあわあわと体の前で動かし、頬をリンゴのように赤くさせた春の姿が思い出される。全く、何とわがままで純情なお姫様だろうか。あんな彼女にそのような事を言われてしまえば、オレとしてもやらないわけにはいかない。

 ひとまず、駅での集合写真や新幹線の車内の様子は送信済みで、向こうからもいいねのスタンプが返信されているので、オレは次なる写真は何にしようかと思案する。

 

「ところでさ、樹」

「今度は、何だ?」

 

 新横浜での一時停車から新幹線が走り始めてすぐ、集が再び何か尋ねてきそうなので、オレはコンセントに充電器を差し込みながら応じる。

 

「どうして小野寺じゃなくて、小野寺の妹なんだ?」

 

 どことなく真剣なトーンで集が言うので、オレは充電器を思いの外強く押し込んでしまう。車内はクラスメイト達がワイワイ盛り上がっているので、この会話はここの間でのみにしか耳に入らない。

 

「急にどうしたんだ、あの時は何も聞かなかったのに」

「その時は楽もいたからねえ、ここでならいいかなと」

「……なるほど」

 

 既にオレと春がそういう仲であるのが校内に知れ渡るよりも前に、オレは楽や集に一度、春との事を伝えている。オレと明香里との事も、色々と端折った部分はあるが、大まかなことは話した親友二人だ。皆より先に報告だけでもしておくのは、二人に対する義理だと感じたが為である。

 オレがその話をしてみれば、楽も集も大いに喜んでくれたが、楽には知られていなくて、一方で集だけが感づいている事があるのだ。

 

「それで、どうしてなんだ?」

 

 如何にも興味津々に鼻息を荒くして、集がオレに迫ってくる。こういう時の集は引き延ばすと面倒なので、オレは手短に済ませられるよう、脳内でまとめてあるものをそのまま口に出す。

 

「……そうだな、春となら、新たな自分が、新たな関係が築けそうだなって」

「……というと?」

 

 顎に手をやりながら訝しげにする集を横目に、オレは話を淡々と続けていく。

 

「小咲とは、幼友達のイメージが染みついてしまって、どうしてか妹のようにしか思えないんだ」

「ふむふむ、それで?」

「けれど、春とは、他の誰かとも、明香里とも違う、感情が巻き起こるんだ。春となら、新しい何かを見つけられると確信してる」

「新しい、何かねぇ……」

 

 相槌を打っていた集が、今度は考え込むように目線を落とすので、オレも頃合いだと感じて話を区切りにいく。

 

「簡単にだが、こんな所でいいかな」

「うん、答えてくれてありがとな、樹。参考にするよ」

「ああ、是非そうしてくれ」

 

 結局のところ、キョーコ先生に想いを寄せていた集が、聞きたかったことには答えられたようなので、オレは一息ついて窓の向こうを眺める。

 すると、よく晴れた空の下に富士山が堂々とその姿を現しているので、オレはすぐさまスマホに手を伸ばし、微調整してからシャッターボタンを押す。そして、そのままメッセージアプリに向かい、今頃休み時間のはずの春へその写真を送信する。

 既読が忽ちついて、春からは「綺麗です!!」という文面とともに、クマさんが目を輝かせているスタンプが送られてくる。自然と口角をうっすら上がるのを感じながら、オレはドヤ顔をかますペンギンのスタンプを送り返した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 窓の外にはいくつもの山や田んぼの長閑な景色が広がっており、私はバスの後部座席に揺られながら、一条君と一緒にそれらをうすらぼんやりと眺めている。

 

「……多少時間はかかるけど、さすがにトラブルは起きんだろ」

「そうだね……」

 

 若干疲れたように腰を落ち着ける一条君に、私もまたトラブルが発生しないか不安に思いつつ頷き返す。

 私と一条君は、修学旅行初日の今日、二人揃って遅刻をしでかしてしまい、皆より二本遅れた新幹線で向かうことになった。

 ところが、名古屋駅に着いた際、太平洋側にある温帯低気圧の影響とやらで、強風の為に一時運転見合わせがアナウンスされた。運休を危惧した私達は、先生に相談しないで、JRに乗り換えをし改めて京都を目指すことにした。だが、今度は人身事故が起きてしまったらしく、今はバスに乗り換えて、三度京都を目指している。

 せっかくの修学旅行なのに、どうして私と一条君には、これほど不運が重なってしまうのだろうか。そんな事を恨めし気に考えていると、走り始めたばかりのバスのエンジンが頼りない音を立てたと思えば、車掌さんからエンジントラブルが発生したと知らされる。

 私達は仕方なくバスから降ろされて、次はどうしようかしらと途方に暮れる。ここまでハプニングが連発すると、最早驚くというよりも、むしろ可笑しくって楽しさが出てきてしまう。

 そして、頭を捻らせた一条君が導き出したタクシーという、次の手段を思いついたのと同時に、一条君のスマホから演歌の着信音が鳴る。時刻は既に正午に差し掛かろうとしていた。

 

「もしもし?」

「楽か、今、どこにいる?」

「ああ、樹、実はだな……」

 

 電話の送り主は、樹君のようだ。

 今頃、彼らは京都駅に既に着いていて、市内観光を始めているはずだ。一条君がこれまでの経緯を一通り説明し終えると、電話の向こうからはどうしてか全く応答がない。一条君が新幹線の説明をし始めた辺りから、樹君は黙りこくっているのだが、どうしたのだろう。

 

「……おい、電車で降りた駅の名前は?」

「え、確か、醒ヶ井ってとこ、だったよな、小野寺!?」

「あ、う、うん!そんな名前だったよ!」

 

 電話越しから伝わるほど、ドスの利いた低い声で樹君が尋ねてくるので、一条君と私は額に冷や汗をかく。まずい、滅多な事では腹を立てない樹君が、怒っている。

 

「……今すぐそこへ戻れ。バスでも徒歩でもタクシーでも何でもいい。次に、また在来線に乗って米原で乗り換えろ。運転見合わせでも絶対に待て。各ポイントで必ず連絡を寄こせ。……ワカッタ?」

「「は、はいいぃぃ!!」」

 

 静かな口調で命令してくる樹君が恐ろしすぎて、一条君と私は恐怖心で震え上がりながら、軍司令官の前で怯えたおす二等兵みたいな返事をしてしまう。

 

「……先生にも伝えとく。あ、それと二人共、着いたら説教な」

 

 樹君が最後にそれだけ宣告すると、通話はぷつりと途切れてしまう。私と一条君は、京都に着いた後を想像しないよう、空元気に振る舞いながら、醒ヶ井駅まで呼び寄せたタクシーに乗って戻る。

 駅のホームにあるベンチに座り、コンビニで買ったお昼を食べてしばらく待つと、運行再開を知らせるアナウンスが告げられ、とうとう電車がやってきた。そして、樹君の言う通り、一駅分乗ってから米原駅で無事に乗り換え、今は京都駅まで小一時間の電車旅である。時刻はとうに、八つ時も過ぎていた。

 

「……すまん小野寺。樹の言う通り、大人しく待ってりゃあ、新幹線で今頃京都だったかもしれねえのに……」

「気にしなくて大丈夫だよ。こんなにトラブル続きで、ハチャメチャなヘンテコの旅、他じゃ味わえないし、楽しいよ?」

「そ、そうか……」

 

 申し訳なさそうに視線を下げる一条君にそう感じてほしくなくて、私は素直に感じた事を正直に伝える。何だかんだでやっぱり、ここまでのドタバタは一条君といたからこそ、楽しいと思えるわけだし。一条君の表情は一瞬明るくなったようだったが、また霧がかったものとなる。

 

「いや、やっぱりすまん。せっかく観光とか、樹と回れたかもしれねえのに」

「……どうして」

「え?」

「どうして、そこで樹君の名前だけ出てくるの?」

 

 いくら鈍い私でも、今のはさすがに気になるよ、一条君。やってしまったという表情を隠せない一条君を逃がさないよう、私はまじまじと見つめ続ける。

 

「……実は、あん時、見えてたんだ」

「何が?」

「……七夕の短冊。小野寺、樹の彼女になりたいとか書いてあったろ」

「そう、なんだ……」

 

 一条君が、私の短冊の内容を知っていたのを知り、私は驚くというよりはむしろ、あれだけの状況になれば、そりゃあ見えるのも仕方ないよね、という気持ちになる。それに、その願い事は、あの時も別のにしたけど、今となっては……。

 

「……一条君」

「どうした?」

「私ね、樹君にはもう、フラれてるんだ」

「……は?え、え?マジ?」

「……うん、大マジ。ホントだよ」

「い、一体いつ……?」

「文化祭の日だよ。ミスコンの後」

 

 もう三週間以上前になるのだと、私は時の流れの速さにたじろぐ。彼と春との間で変化した関係にも少しずつ慣れてきて、自分でも納得がいってるからだろうか、今ではすっかり馴染んできているような気もする。

 

「夏休みもあと少しの所で春と一緒に、樹君に告白したの。しばらく返事待ちだったけど、樹君に選ばれたのは春だった……」

 

 最近の春の生き生きとした姿が浮かぶ。この前は少し悩んでもいたようだけど、私と一緒に学校の帰り道を共にして以来は、想いを寄せる人の隣にいれて本当に幸せそうな表情を浮かべている。樹君との事を私にも少しづつ話してくれるので、お姉ちゃんとしては、そんな春の様子に安心している。

 

「私だって、樹君の事、春よりも長い間、好きだったのに……。頑張ってみたけど、敵わなかったな……」

 

 けど、一人の女性としては、まだどこか羨ましくて恨めしい気持ちが残ってしまって、そのような視線で春を無意識に眺めてしまったりする。こんな事、誰にも話してなかったのに、不思議と一条君には流れで話せてしまった。

 

「こんな話されても、困るよね。ごめんね、聞いてもら――――」

「そんな事ねえよ!!」

 

 気づけば私が樹君との事を話してばっかだったので、申し訳なく思えて謝ろうとすると、一条君から遮るような大きな声が飛ぶ。幸い、平日のこの時間は、同じ車両に乗っている人が全然いない。

 

「結果がどうでも、小野寺は樹を好きだったんだろ!?……それに向けて、懸命に頑張ったんだ。堂々と胸張って良い、と思うぜ」

「あ、ありがとう……」

 

 熱の入った一条君に励まされてしまい、私はまた申し訳ないと思うのと同時に、肯定してくれることへの感謝の念を込めておく。一条君は、本当に心が優しい人だ。

 

「それに……、悪い小野寺。今から、困るような事、言っちまう」

「……何?」

「オレ、小野寺の事が、好き、だったんだ。ずっとだ。こんなことずっと、いつだって言い出せなかった」

 

 隣の一条君は体ごとこちらに向いて、その真っ直ぐで意志の強い瞳で私の事を貫いてくる。

 何を言い出すのかと思えば、唐突に一条君から好きだと伝えられるので、私は頬を赤らめながら、その続きを逃さぬようにしっかりと聞く耳を立てる。

 

「小野寺が樹を、好きだって知ってから、ようやく、自分が小野寺をどんだけ好きなんだって気づけたんだ」

 

 失って初めてあったものが大切だと気づくのと一緒で、一条君は私の事をそう感じてくれたのだろう。私だって小学生の時、樹君がいなくなって初めて、自分がどれだけ樹君に懐いていて、好いていたのを思い知ったのだから。

 

「今すぐなんて、無理は言わねえ……。だけど、小野寺の気持ちが、こういうことに前向きになったら、その時はオレの事、少しは考えちゃくれねえか……?」

 

 誰かのために真っ直ぐ突き進む時みたいに、かっこいい瞬間に見せる真剣な眼差しを、一条君はひたむきに私へ向けてくる。そこでまたようやく私は、この瞳も好きだったのだと、何度目か分からないくらいに気づいてしまう。

 

「……まだもう少し、時間かかるかもよ?」

「いつまでも待つよ。それまでにオレも、色々とけじめをつける」

「そっか……」

 

 まだまだズルい私の言葉に、迷いなく一条君は応えてくれる。今は眩しすぎて、あなたの顔を真っ直ぐに見ることが出来ず、別の人の顔が頭に浮かんだりして、思わず目を逸らしたりしてしまう。

 ただそれでも、止まっていた歯車にまるで新しい歯車がはめ込まれて動き出すように、また新しい何かが私の心を動かし始めたような気がした。

 





 第二十九話『ワカッタ』をご一読下さり、ありがとうございます。

 感想や評価等、お待ちしております。

 彼らの修学旅行はきっと楽しいものとなったでしょう。

 それでは、また次のお話で。


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第三十話 オトマリ

 第三十話にお立ち寄り頂き、ありがとうございます。

 それでは。


 食欲の秋、スポーツの秋、読書の秋。様々な形容をされる秋の季節も、間もなく月の変わり目を迎えて、次の季節へとバトンタッチしようとしている。

 昨日の夜中から雨が強弱を変えながら降り続け、窓にはたくさんの雨粒がくっついて、重力に身を任せて地面へと向かっていく。そうして地に辿り着いた彼らは、先に土やコンクリートの心地を堪能する仲間に合流し、共に水たまりを作り上げている。

 ソファに腰かけて薄いカーテン越しに外の様子を眺めるオレは、昼下がりも過ぎた時間にそんなくだらない事を考えつつ、段々と激しさを増す風雨に一抹の不安を覚える。そこで、最近目を通していない天気予報を確認しようと、テーブルの上にあるリモコンへと手を伸ばしていく。

 

「樹、すみません。この問題、ちょっと分かんなくて……」

「お兄さん!この漢字の読み方、教えて!」

 

 すると、まるでシンクロでもしてるのかとツッコミたくなるくらい、テーブルにしがみついて背を向けていたはずのお嬢様方二人が、ほとんど同じタイミングでそれぞれの教科書を片手に尋ねてきた。

 オレはリモコンに伸ばしかけた腕を引っ込め、オレから見て右手前にいる春を、若干早かったであろうと思い呼び寄せる。春が嬉しそうに右隣へ腰かける一方で、左隣にはブーブーと文句を垂れつつ恨めし気に見つめてくる明日花が左隣に位置取ってくる。

 彼此こんな事が逆の場合も交えながら、何時間か繰り返し何度か続いている。同時に聞かれても、順番待ちで不満な顔をされるのも、困るのはこちらなのだが、如何せん彼女達が尋ねる瞬間は被ってしまうのだ。

 今日は十月最後の土曜日で、明日からは十一月初めの日曜日が待っている。

近頃はどうもイベントが多かったためか、前回の中間テストで危機感を覚えたらしい、いや実際に点数が中々危なかった春が、勉強しましょうと熱心に誘ってきたことが発端であった。

 

「へえ、こう解けばいいんですね!ありがとうございます、樹!」

「どういたしまして」

 

 春はうんうんと悩んでいた様子から、霧が晴れたように明るい笑顔をオレに向けてくる。彼女の右手には、この前の修学旅行でお土産として買ってきた、小粒の苺玉付きのいかにも和のテイストなシャープペンシルが握られている。

 早速使ってくれているようで、こちらとしてはほっとするし嬉しさが湧いてくるが、途端に逆サイドで待たせている明日花の視線を感じて、すぐさま明日花の方へと身を移す。

 すっかりお冠だった明日花も、自分の順番が回ってきたのを受けて、いつものような溌溂な表情を浮かべていく。知佳さんがどうやら土日は地方へ仕事に出かけてしまったので、春と二人の勉強会は明日花も交えて三人で午前中から続いている。

 明日花に漢字の読み方を教え終わり、二人がまたテーブルと睨めっこを始めたのを見届けた後に、オレも側に置いていた理科の教科書を手に取る。

 理科に関しては、他の科目と比べてみると、出来がさほど良くない。この前の中間でも理科が足を引っ張り、総合で桐崎さんに二点差で負けたがために、ジュースをおごる羽目になった。

 特に理科の範囲で挙げるならば、化学の電極を使った実験の話とか、生物の体内環境の話とかが、どうにも理解しづらくて覚えきれない。これでは医者には向いてないだろう。文系志望だから、それほど気にすることでもないかもしれないが。

 前回授業でやったページがどこだったか思い返しながら、オレは教科書越しから真剣に机に向かって勉強している春と明日花の二人の姿を眺める。

 

 すると、ふとあの頃の、明香里と明日花と三人で過ごしていた頃の、何でもない休日の風景が思い起こされてくる。

 元気にお絵描きをする明日花、スクールの課題に追われるオレ、それを後ろのソファから雑誌片手に眺める明香里。明日花のいる場所は変わらなくて、今の春の位置にオレが、オレの位置には明香里がいた。

 あの時のあなたは一体どんな気持ちで、まだ幼いオレ達を眺めていたんだろう。それは全く異なるかもしれないが、海辺にゆっくりと波が流れ着いてくるような、この穏やかな気持ちは、あなたも少なからず感じていたのだろうか。

 今、熱心に問題を解こうとする春をオレが向ける視線と、あの頃、頭を悩ませながら課題に取り組むオレをあなたが向ける視線は、きっと似たようなものに違いないとオレは勝手に推し量ってしまう。

 

 気づけばオレは教科書のページをめくらずに、春の華奢な後ろ姿をまじまじと見つめてしまっている。普段はまだまだ少女であどけない所が垣間見える春だが、時折驚くくらい肝が据わっている事もあったり、こちらがどきりとするくらい可憐な表情を見せたりもする。

 春とのこの関係も一か月が過ぎたが、彼女と会って一緒に時を過ごす度に、全く新しいことが見つかったり、これまであまり気にかけなかった事が気になったり、普段の日常の一コマでも愛しさが感じられたり、そういった事が格段に増えてきた。

 春の首元の女性らしさを感じさせる、よく整えられたうなじが目に入り込んでくる。衝動からついついそれに触れてしまいたくなる手を、これ以上は歯止めが利かなくなると無理矢理に教科書に強く掴ませる。

 流石に熱が入り過ぎだと、一度明日花の方にも目を向けて心を沈めてから、オレは再び教科書中の目的とするページを目指す。ぱらぱらとめくった先でようやく、前回の授業内容だった天候の話に辿り着く。

 天候の範囲については、理科の授業の中でも気に入っている箇所だ。雲のでき方とか、季節ごとの気圧配置とかは覚えていても楽しいと思えるし、不思議と頭に入ってくる。

 そういえば、彼女達に尋ねられる前に、自分がしようとしていた事をここで思い出し、オレはリモコンを手に取って急いでテレビの電源をつける。今はちょうど時刻の変わり目なので、BS辺りで天気予報をやっているに違いない。

 

「現在、太平洋沖を北上していた台風22号は、間もなく関東地方に上陸する見込みで……」

 

 非常に落ち着きのある声で情報を伝えていく女性アナウンサーとは異なり、オレは驚きのあまり開いた口が塞がらない。

 どうりで雨や風が強くなってきたなと思ったら、そういうことかと頭で理解する一方で、同じくニュースを聞いて驚きの声を上げる二人、特に春に視線を移す。

 

「春、お家に帰らなくて大丈夫か?」

「そうですね……、まさか台風来てるなんて……」

 

 天気予報見てなかった、と残念そうに呟く春を見て、いきなりこの時間の終わりを告げられた名残惜しさが感じられて、オレも胸にざわつきを覚える。

 

「春お姉ちゃん、帰っちゃうの?」

「そう、だな。今の内に帰っておくのがいい」

「えぇ~~そんな~……」

 

 乗り気ではないのにそんな言葉を吐く自分に苛立ちを感じる一方で、明日花は心底残念だという表情をして、帰り支度を始めようとする春をどうにか引き留めにかかる。春は春で困ったような笑みを浮かべて、明日花を宥めようとしている。

 オレも春に行かないでくれと言えるなら、春はどんな表情を見せてくれるのだろうか。けれど、明日花みたいに自分の我儘を押し付けられるほどもう幼くはないし、それに責任を全て背負えるほどの大人でも残念ながらない自分は、その一言を押しとどめてしまう。

 そうやってまだまだ未熟な自分に腹立たしさを抱いると、春のスマートフォンから着信音が、静かになった空間に鳴り響く。春の声の様子から、どうやら電話の送り主は菜々子さんのようだ。春を家まで送るのに、オレは上着を取りに行こうとする。

 

「え、ちょっ?!そんな、お母さん!!」

 

 すると、春が随分と慌てた様子で声を上ずらせたと思えば、スマホを片耳から外して所在なさげに、頬を赤らめて申し訳なそうな表情で、リビングを出ていこうとするオレに顔を覗かせてくる。

 

「い、樹、すみません、大変申し上げにくいんですが……」

 

 そんな春の様子を見て、菜々子さんが春に伝えた内容と、これから春にお願いされるだろうことに、オレは半ば諦めの念と呆れたような視線を向ける。

けれど、内心では巻き起こり始める喜びを押さえつけて、何とか言葉を紡ぎだそうと一生懸命な春を、オレは微笑ましく見守り始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「おい、明日花。走行中にバナナを捨てるな」

「わーい当たった!春お姉ちゃん今だよ!」

「ごめんなさい!樹!」

「ちょ、春まで、甲羅をぶつけてくるな」

 

 台風が上陸したらしい屋外では、今も激しく雨や風にさらされている一方で、私は子供から大人まで幅広い人気を誇るレースゲームにて、明日花ちゃんとともに樹へ情け容赦のないアイテムの嵐をぶつけている。

 レースの結果は明日花ちゃんが一位で、私が四位。私達の攻撃の後もCPUからの被害を受けた樹は、最後も後ろから無敵状態のCPUに撥ね飛ばされながら十位でゴールした。

 

「いえーい!また一番だ!」

「明日花ちゃん、凄い速いね。樹は……、ドンマイです」

「一体何故だ、どうしてこうも、事故に巻き込まれる」

 

 右隣に座る明日花ちゃんが連戦連勝でご機嫌なのに比べて、困惑したように行き場のない思いを吐露している左隣の樹を、私は何とか宥めようとする。こんなことが何やかんやで夕食を食べた後、小一時間続いている。

 台風が来るという天気予報を目にして、私はひどく残念に思いながら樹のお家を後にしようとしていたが、お母さんからの電話の一言で状況は急転してしまった。

 

――――あんた、今日はそのまま泊っていきなさい。

 

 それだけ伝えたら高笑いを残して、お母さんは電話を切ってしまったものだから、私はやれやれといった感じでこちらを伺う最愛の人に頼らざるを得なくなった。

 私は忍びなく思いつつ、けど実際は踊りだしそうな心臓を抑え、樹にお願いしてみると、彼も明日花ちゃんも快く私の頼みを受け入れてくれた。お陰で急遽お泊まり会のような形で、こうして三人でゲームに興じることができている。

 

「悪い、そろそろ抜ける」

「あ、いつものやつか。了解、お兄さん」

「いつものやつ?」

 

 時刻は21時をもう少しで迎える辺りだろうか。ゲームをやめてここから立ち去ろうとする樹を、明日花ちゃんの言ってたいつものやつが気になる私は呼び止めてしまう。

 

「バイト。前いた学校にいる留学生の後輩達のメンターみたいな」

「え、凄いじゃないですか!?」

「いや、勉強教えたり、相談事を聞いたりしてるだけだよ」

「へえ~!!ビデオ越しにやるんですか?」

「ああ、今日は一時間と少しで終わるかな。先に寝てていいから」

 

 樹はそれだけ言ってリビングから出ていって、自分の部屋へ向かおうと階段を昇っていく音が遠ざかっていく。私は自分の事だけでなく他の誰かの面倒を見る樹に感心しながら、改めて私と明日花ちゃんに付き合わせてしまった事を申し訳なく感じてしまう。

 

「大丈夫だよ、春お姉ちゃん。お兄さん、いつもあんな感じだから」

「そ、そうかな?」

「うん!そうなの!」

 

 私の心を読んだかのように、明日花ちゃんはルビーの瞳を輝かせて、花の咲いたような笑顔を私に向けてくれる。樹と普段この時間を共にしている明日花ちゃんが言うのだから、私もその言葉を信じることにする。

 

「そうだ!そしたら一緒に、お風呂入ろ!春お姉ちゃん」

「うん、そうしよっか」

「行こ行こ!」

 

 この時間でもまだまだ元気満々な明日花ちゃんに手を引かれて、私は普段振り回されているであろう樹の姿を思い浮かべつつ、遅れないようについていく。

 そして、私はある重大な一つの事実に気づいてしまう。こんなことになると思ってなかったから、着替えの用意も無いや、どうしよう。

 すると、脱衣所まで辿り着くと、書置きの紙切れと一緒に、上下の揃ったパジャマ用のワンピースが置いてある。

 

――――悪い、こういうのしか無かった。

 

 樹らしい流れるような綺麗な字を見て、いつの間に用意したんだろうと私は不思議に思いながら、愛しの王子様の心遣いに深く感謝の思いを抱く。

 明日花ちゃんのちょっかいや水鉄砲遊びに付き合わされつつ、三十分以上浴槽でじっくり身体を火照らせてから、のぼせ上ってしまう前にお風呂を後にする。

 そして、バスタオルで念入りに身体を拭き終えてから、樹の用意してくれた服に袖を通してみる。サイズがちょっと大きいように思える。見た感じ着た感じ新品のようなので、樹のお母さんが着ていなかった服なのかな。

 こうして女の子用の服を用意してくれて嬉しいのだけれど、もう少しわがままな事を言っていいのなら、男物でも樹の着ていた服が良かったなとも思ってしまう。

私はまだ熱が冷めきってないみたいの頭に、髪の毛を乾かすついでにドライヤーをCOLDにする。

 

「春お姉ちゃん!私の髪乾かしてー!」

「うん、いいよ」

 

 こちらに勢い良く駆け寄ってくる明日花ちゃんの頼みに応じて、私は自分の前に明日花ちゃんを座らせ、ドライヤーを片手に明日花ちゃんの髪に触れる。

 初めて会った時よりは、少し髪が伸びただろうか。こうして明日花ちゃんの世話をしていると、本当にお姉ちゃんになったような気分になる。

 

「ありがとう、春お姉ちゃん」

 

 不思議にそんな事をうっすら考えていると、こちらに背を向けて表情が分からない明日花ちゃんから、樹みたいに落ち着きのある静かな声が聞こえてくる。

 

「お兄さん、お母さんと暮らしてた時からね、私の事良くしてくれるんだ」

 

 お母さん、という単語が聞こえてきて、私は思わず明日花ちゃんの髪を手を止めてしまう。明日花ちゃんはそのままの調子で言葉を続けていく。

 

「お母さんと一緒のお兄さんは、何だかいつも幸せそうにしてた。私もそんな二人といれて幸せだったんだ」

 

 あの一枚の写真越しに加えて樹から聞かされただけの明香里さんの姿と、その傍らに佇む樹がどんな表情を浮かべていたのかを、私は足りない頭で想像してみる。

 きっと今だって、これからだって、樹は明香里さんの事を忘れない。その際に私は樹に、何をしてあげられるのだろうか。

 

「けど、その時以来なの、お兄さんが誰かといてあんなに幸せそうなの。きっと、春お姉ちゃんのおかげだよ」

 

 悩み始めてしまいそうな私に、明日花ちゃんは明るい調子で教えてくれる。自分だけじゃない、明日花ちゃんから見た樹がそう見えるなら、私は樹にとってそういう存在になれているのだと感じられて、私は涙腺が緩むのを頑張ってこらえようとする。

 

「だからね、これからもお兄さんをよろしくね、春さん」

 

 名前呼びが変わったことを気にも留めないで、私はドライヤーを放り出して明日花ちゃんを後ろから抱きしめてしまう。明日花ちゃんはびくりと驚いていたけれど、回された私の腕にすぐにそっと触れる。

 

「……任せて。樹も、明日花ちゃんも、一緒に幸せでいてほしいから」

「うん、ありがとう」

 

 抱きしめる強さを増していく私を、包み込むように受け止めてくれる明日花ちゃんは、小学生には似つかわしくない大人の雰囲気を感じさせる。明香里さんはこれ以上もっと大人な女性だったと思えば、私はまだまだ子供だなと勝手に反省してしまう。

 抱きしめた腕を解いてから、私と明日花ちゃんは二人で樹を待つことにしようと決めて、二人で隣寄り添ってバラエティー番組を楽しむ。

 時刻が23時を迎える前に、ようやく樹がタオルで濡れた髪を拭きながらリビングへと入ってくる。

 

「あれ、二人とも起きてたんだ」

「はい、樹の事、待ってました。ね、明日花ちゃん」

「そうだよ!ねー春さん」

「……そっか、けどそろそろ寝ないとな」

 

 私達がこれまで以上に仲良くする様子を見て、樹は思うところがある表情を浮かべたと思えば、少し口角を上げてこちらを見つめ、お休みの時間だと伝えてくる。

 

「お兄さん、その事なんだけど」

「どうした、明日花」

「今日、三人で一緒に寝たいなあ、なんて」

「……何だって?」

「そ、そうだよ!?何言ってんのさ、明日花ちゃん!」

「えーー、二人は一緒に寝たくないの?ね、春さん?」

 

 明日花ちゃんがとんでもない発言をしたと思えば、今度は悪戯っ子のような笑みを浮かべて私に詰め寄ってくる。あたふたと手をあれこれ動かす私の視界に、こちらの返答を気にしている樹が飛び込んできてしまう。

 

「そ、そう、だね、もし、樹さえ、よろしければ……」

「だってさ、お兄さん?」

 

 私は恥ずかしさのあまり顔を覆いたくなる一方で、樹に判断を任せてしまうようなズルいことをしてしまい、申し訳ない気持ちも湧き上がってくる。けれど、どこか期待を寄せるように、樹の返答を心待ちにしてしまう。

 

「……分かったよ、一緒でいい」

「わーーい!じゃあ歯磨きしよーっと」

 

 明日花ちゃんは元気よく洗面台へと向かい、私と樹を二人きりにして置いていってしまう。私と樹は一言も言葉を発せないまま、お互いに明日花ちゃんと同じように就寝準備をしてから、樹の部屋まで明日花ちゃんに手を引かれてしまう。

 樹の部屋に入るのはこれが初めてではないけれど、これまでとは全く違う状況で樹の存在を強く意識しちゃって、自然と緊張感が出てきてしまい、身体はどうしてか固まったままだ。

 私は右で樹が左で明日花ちゃんを挟むようにして、三人で川の字になってベッドに寝そべる。すると、さっきまで溌溂としていたはずの明日花ちゃんが、途端にあくびをしたかと思えば、そのまま目を瞑り、あっという間に寝息を立て始めてしまうではないか。この間、僅か3分である。

 どうすんの、どうしよう、どうしてくれんのさ。

 三人で話している内に、この異常なまでの鼓動の速さとか、固まった身体を解そうと思っていたのに。ついつい私は、明日花ちゃんに恨めし気な視線を向けてしまう。

 

「自由気ままだろ、この子。困らせて悪いな」

 

 すると、反対側で横になっている樹先輩が、明日花ちゃんの頬をツンツンと突き、穏やかな口調で声をかけてくれる。不思議だ、樹のそんな声を聞いただけで、雲が流れていくようにあれだけの緊張がどこかへ消えていく。

 

「そんなことも、ないですよ。私の方こそ、今日は樹を、たくさん困らせちゃいました」

「ああ、困ったよ。でも、こんな日もいいんじゃないかな」

「そう、ですね……」

 

 すっかり深い眠りについてしまった明日花ちゃんの頭を優しく撫でると、樹は微笑みをたたえて、そのブライトグリーンの瞳を私に合してくる。

 ああ、やっぱり、そうやって樹に見つめられるのが、私は大変気に入っているようだ。ドーパミンがどっと溢れ出してくるようで、私はあなたへの愛しさを押しとどめられなくなりそうになる。

 気づけば、私は知らず知らずの内に、樹へ自分の左手を差し出していたようで、樹は何も言わずにただ私の手を、大きくて頼りになる右手で包み込んでくれる。

 

「樹は……、明香里さんとも、こんなことありました?」

「……ああ、何度かはな」

「私とも、こんなこと、これからも出来ますかね?」

「出来るよ、何度だって」

 

 そうやって樹は私の大好きな表情を浮かべたまま、私との繋がりを離さないようにしっかりと固く結んでくれる。きっと笑顔を返しているだろう私も、どこかへ行ってしまわないように樹の手のひらを強く握り返す。

 雨風の音も段々と静かになっていく中、横になり目を瞑る樹の向こうには、マホガニー材のアコースティックギターが壁に立てかけてある。

 まだまだ至らないところばかりで、樹を困らせてばかりの私ですが、それでもあなたがいつも、前を向いてられるよう、幸せにいてくれるよう、あなたの隣に寄り添って生きていきます。

 そう決意を左手の先の先まで強く込めながら、私は意識を夢の世界へと手放していった。

 

 




 第三十話『オトマリ』をご一読下さり、ありがとうございます。

 感想や評価等、お待ちしております。

 次回で最終回です。

 それでは、また次のお話で。


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第三十一話 ハルノヒ

 第三十一話にお立ち寄りくださり、ありがとうございます。

 今回で最終話となります。

 それでは。


「特別に想える誰かを見つけなさい」

 

 ここは一体どこだろう。自分のベットの上でも、知佳さんのお家でも、イギリスにいた頃の家でもない。

 目を開けばそこは真っ白な世界で、起き上がってみれば、どうやら駅のプラットフォームのようだ。声のした方を向けば、そこには随分と見知っているのに、もう会えないと思っていたはずの人物の姿がある。

 

「あら、お目覚め?ぐっすりだったわよ、あなた」

「あ、明香里……?!どうして、ここに……?」

「さあ、どうしてでしょうね」

 

 まだ当惑気味で駅のベンチに座ったまま動くことのできないオレに対して、明香里は凛とした表情を顔に貼り付けたまま、とぼけるようにそんな事を言う。

 線路沿いに立つあなたとオレとの間は、学校の廊下の幅程度にしかないはずなのに、どうしてもこれ以上近づいてはならないと、心も体も金縛りにあっている。

 

「……約束」

「え?」

「約束、守ってくれてるのね」

 

 顔色一つ変えないまま明香里は、オレの目を真っ直ぐに見つめてくる。相変わらず輝きが色褪せないルビーの瞳は、こんな時でさえ綺麗だと感じてしまう。

 

「取り付けた身としては、安心できるわ」

「それは、そうですよ、あなたとの約束なんですから……!」

「ええ、そうね」

 

 ここでようやく明香里は初めて、固くしていた頬を緩めたような気がした。あなたにそんな暖かく優し気で、でもどこか淋しさが伴う表情を見せられては、オレも何かしなければという気持ちが湧き上がってくるが、変わらず身体を動かすことがない。

 遠くからは汽笛の音が甲高く響いたと思えば、見えなかったはずの列車がいきなりそこに現れたような気がして、驚きに包まれるしかない間に、列車は停車位置へピタリと止まってしまう。

 

「そろそろ、お時間かしら」

 

 明香里はそれだけ言うと、また表情を凛としたものにして、オレに背を向けて開いた扉の向こうへ足を踏み出そうとする。

 

「待ってくれ!!まだ、あなたに伝えたいことが……!」

 

 きっとこれが最後のチャンスに違いない。あなたへの思いの丈を全てぶつけられるのは、今この瞬間しかないような気がして、オレは必死に手を伸ばして明香里を呼び止めようとする。

 

「駄目よ、樹」

 

 叫び出さんかとするオレの口を、瞬間移動でもしたかのような素早い動きで、こちらに戻ってきた明香里が人差し指で押さえつけてくる。

 

「私に伝えきれなかったその想いは、私に伝えるんじゃない」

 

 オレに助言を送ったり諫言をしたりする時にいつもしてくれたみたいに、明香里は諭すような落ち着きのある声とともに、赤で満ち溢れたその瞳を突き刺してくる。

 

「その熱は、あなたの春に、余すことなく伝えなさい。若草は同じ若草と一緒に、立派なものになってね」

 

 初めて会った頃の太陽みたいな満面の笑みで、明香里はそれだけ伝え終わると、すっきりとして甘酸っぱいレモンの香りだけ残して、列車に乗り込んでいってしまう。

 駅には発車を知らせるベルがけたたましく鳴り響き、列車は音を立ててゆっくりと動き始める。扉越しにうっすら見えるあなたは、こちらに嬉しいようで悲しいような笑みばかり浮かべて、こちらにささやかに手を降っている。

 列車の向かう先には、この真っ白な世界をさらに照らし出してくる強烈な光が現れる。それを見た瞬間、テレビの電源をコンセントから切ったみたいに、オレの意識はぷつりと途絶えてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 目を覚ませば、いつも見る天井がそこにある。

 部屋はすっかりカーテン越しから伝わってくる、暖かで穏やかな陽光に包まれており、昨日までの台風の荒れ模様からはとても想像のつかないくらいだ。

 隣では明日花が気持ちよさそうに、まだ夢の世界を楽しんでいるようだ。規則正しいリズムの寝息を立てる音だけが、目覚めたばかりのオレの耳に入ってくる。

 すると、右手が途端に寂しげに置かれてあるのを感じて、オレは思わず右に勢い良く顔を振り向ける。明日花越しにいたはずの、春の姿がそこにはない。

 今日はどうやら、春の方が早起きをしたみたいだ。

 オレは明日花を起こしてしまわないよう、静かにベットから起き上がってから、大人しく自分の部屋から出て、音を立てないまま階段を下り、洗面台へと忍び足で向かう。顔を洗い、歯磨きをし、僅かな寝癖を少し直して、春がいるであろう台所を目指す。

 台所やリビングに繋がっている、洗面台に近い扉は開きっぱなしのようだ。オレは壁の側に張り付いて、中の様子をバレないように覗き込んでみる。

 そこには、オレのエプロンを勝手に拝借しておきながら、鼻歌まじりで上機嫌に鍋の様子を微笑んで見つめる春の姿がある。

 外から流れ込んでくる陽の光のせいだろうか、恐らくスープの香りの良さのせいだろうか。台所で春が調理しているだけのはずなのに、この光景が他の何よりも美しく愛おしく感じられて、オレは春の整った横顔から目が離せなくなる。

 しばらく隠れるように眺めてばかりな事に気づいて、さすがにこのままではいけないとオレは思い立つ。相変わらず鼻歌で歌ってばかりで夢中な春に気づかれないように近づき、背後につくと後ろから包むように目元を両手で隠してみる。

 

「わわ、何ですか」

「だーれだ」

「……ふふっ、さあ、どなたでしょう?」

「答えないと、離してあげない」

「離してもらわなくても、良いですよ」

「そしたら、オレも名前で呼んであげない」

「それは、困りますね……」

「さあ、答えて。だーれだ」

「はいはい、おはようございます、樹」

「ああ、おはよう、春」

 

 オレが手を離すと、少し頬を膨らましたようにしながら、どことなく嬉しそうで優しい笑みを浮かべた春が、こちらに顔だけ向いて見上げてくる。

 背が一回り小さくて、オレにすっぽりと入り込んでしまいそうな春のそんな仕草が、どうしようもなく愛しさで溢れていて、オレは離した両手をそのまま春の腰へと回してしまう。

 両手を回され抱きつかれたことで、春は一度びくりと驚いたように体を跳ねさせはしたものの、そのまま何も言わないで受け入れてくれて、お玉を持たない手でオレの両手を確かめるように優しく触れる。

 

「樹って、こんなに甘えん坊さんでした?」

「いいじゃんたまには、こんなオレでも」

「はい、その通りですね」

 

 オレは春の頭に自分の顎を乗せる一方で、春はどこかくすぐったいようにはにかみながら、オレの両手に置いていた手を今度はオレの頬に触れさせる。

 

「ねえ、春」

「何ですか?」

「恋って、焚き火するみたいだ」

「……と言いますと?」

 

 オレの突拍子もない発言に、さすがの春も訝しげな様子で尋ねながら、目線は間もなく出来上がりを迎えるスープに向けている。

 

「一度火を起こせば、暫くは激しく燃え上がる。けれど、その火を絶やさないためには、燃料の薪をくべ続けないといけない」

 

 オレは春の頭からどいて、代わりに右手を離したらそのまま、綺麗で艶のある春の髪を梳くようにして撫でる。

 

「だからさ、どんな些細な幸せや喜びも、お互いに拾い集め続けよう。それが出来れば、きっといつまでだって君と一緒にいれる」

 

 いつも表情をころころと変えながら、それでいて大事なところはしっかりと見落とさないでいてくれる春の姿が思い浮かぶ。何もかも見通せてしまえる明香里とは違う、春の春らしい良さをオレ自身が見失わないように決意しながら。

 

「オレはそうでありたい。オレは春を、愛しているから」

 

 先程まで見ていた夢の内容が思い出せたようで、やっぱりどんな感じだったか思い出せない。けれど、これでいいのだ。望むものは今、目の前に実在してくれているのだから。

 

「私の方こそ、あなたを愛しています、樹」

 

 この世で最も大切だと思える人物からの返答に、オレは思わず零れだしてきそうなものを懸命にこらえようとする。抱き留めていたはずの彼女は、オレの両手を外してスープをそっちのけにこちらへ振り向く。

 目に涙をためながらも、今まで見た中でとびきりの笑みを浮かべる春を見て、オレは自然と顔を近付けていく。春も春で物欲しそうな視線を送った後に目をそっと瞑り、つま先立ちをして少し背伸びしようとする。

 やがて、お互いの唇が触れ合い、春の柔らかな感触が伝わる。カシスオレンジのような、豊かな香りと優しい甘さが広がってくる。

 明香里、オレにもどうやら春が来たようです。駄洒落なんかじゃありません。正真正銘の春が到来しました。

 この後、階段を勢い良く駆け下りてくる足音が聞こえ、お互いに離れてからしばらくぎこちなさが解けなかったのを、朝食中に明日花から何度も突っ込まれてしまうのは、また別のお話だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 心地よい陽気に包まれて、今年もまたこの季節がやって来る。

 間もなくお昼を迎えるだろう時間に、私は時計の方を何度か確認しながら、厨房でお店に出す商品となる和菓子の餡を練っている。

 

「春~!そろそろ上がりな!」

 

 すると、廊下の方から暖簾越しにお母さんがそう呼びかけてきたと思えば、そのままこちらへと駆け寄ってくる。

 

「ほらほら、愛しの彼が帰ってくるんでしょ?」

「そうだね、じゃあ後は頼むね」

 

 お母さんはニヤニヤと笑みを浮かべて、恋バナもよろしくねなどと言うから、私は軽く赤面しつつ、自分の部屋に戻り作務衣姿から、昨日長時間悩んで考えていた今日のための服に着替える。

 持っていくものもちゃんと確認してから、階段を下りて裏の玄関から出ていこうとする。そうして靴を履き終えた時に、背後から声をかけられる。

 

「春さん、お兄さんによろしくね」

「ありがとね、明日花ちゃん。行ってくるよ」

「はい、楽しんできてね」

 

 ちょうど休憩中だったらしい明日花ちゃんに見送られて、私は玄関の引き戸を開けて外に出る。今年の春から大学生になる明日花ちゃんは、高校生の頃からうちの和菓子屋へ熱心にバイトに来てくれるので、私達は彼女の存在に非常に助けられている。

 お店は何店舗か変わったとはいえ、小さい頃からあまり変わりを見せない商店街の通りを抜けていき、その出口までやってくる。そこからは、高校の頃の通学路とは反対方向にある駅に向かって、急ぎ足で歩き出す。大丈夫、この調子でいけば、あなたが着く前に間に合う。

 十分ほど歩いた後に、待ち合わせ場所である凡矢理駅の北口まで辿り着く。私は時計をもう一度確認してから、オブジェのある広場の中央で周囲を見渡す。よかった、どうやら私の方が先みたい。

 上を通る線路を眺めていると、東京方面からの電車が一本やってきたのが見えた。もうしばらく経たない内にあなたと会えると思えば、私はこの歳になっても胸の高まりが抑えられなそうで、また付き合い始めたばかりの高校生みたいになってしまう。

 次々と改札から人々が出てくる中で、探し求めていた人物がそこに紛れながら、こちらへと真っ直ぐに向かってくるのが見えて、私は嬉しくなって大げさに手を振ってしまう。

 そんな私を見たあなたは、いつもの澄ました表情を朗らかに崩して、ささやかに右手を振って私に応えてくれる。

 

「おかえりなさい、樹」

「ただいま、春。相変わらず、分かりやすいな」

「えへへ、つい嬉しくて……」

「嬉しいのは、オレも一緒。髪、また少し切った?」

「あ、気づいちゃいました?」

「そりゃあ、気づくだろ」

 

 そう言う樹は、少し前髪が伸びたような気がする。私は樹の勧めと和菓子作りのために、高校2年生の辺りに風ちゃんにお願いし、思い切ってショートヘアーにしてもらった。今日の髪だって、昨日の内に風ちゃん頼んで少し切ってもらった。

 

「よく似合ってる。いいんじゃないか」

「あ、ありがとうございます……」

 

 これはまた今度、風ちゃんにお礼を差し上げないとな。私が初めてショートを見せた時から、樹はこの姿をとても気に入ってくれている。

 

「さ、行きたい場所があるんだろ。案内してよ」

「はい!早速向かいましょう!」

 

 樹はそう言って右手を差し出してくるので、私は喜んでその手を取り、駅を後にして本日の目的地へと向かい始める。

 

「仕事の方はどうでした?」

「ああ、久々の遠出だったけれど、上手くいったよ」

「そうですか!良かったです!」

 

 普段はこの町を拠点にしている、敏腕のファイナンシャルプランナーとして働く樹は、今回珍しく一月ほどシンガポールの方へ遠出しに行った。だからだろうか、以前よりもさらに逞しさを増して、すっかり貫禄すら漂うくらいまでになっている。

 交通量の多い大通りから逸れて、人の数がまばらになりがちな住宅街へと私達は入っていく。

 

「そういや、あの二人。この前もまた相談しに来てさ」

「お姉ちゃん達ですか……」

「ああ、結婚式の段取りどうしようってさ……」

 

 お姉ちゃんと一条先輩が二人揃って樹に泣きつく様を、私は容易に想像できてしまい、早くも二人のドタバタな将来を案じ始めている。

 樹が高校三年生の頃の夏に、どうやら先輩達を巡る約束の一件が終着したらしく、その辺りからお姉ちゃんと一条先輩はお付き合いを始めているが、何かと樹に相談しては説教を喰らってるみたい。お姉ちゃんから聞いた話ではあるけれど、それでも面倒を見る辺り、樹も充分彼らに近いお人好しな気がする。

 結婚かあ……。樹と出会ってから、彼此十年になろうとしてるけれど、そんな話は一度もした覚えがないし、互いに寄り添いあっている関係がずっと続いてきているから、あまり深くも考えたりしてなかった。

 二人それぞれに浮いた話も一度もないし、いっそのことこのまま事実婚みたいな感じでもいいんじゃないかと思ってしまう。一方で、周りの知り合いが結婚していく様を見ていると、やっぱりそういうものに憧れてしまうもので。

 今日の夜に二人でいる時に、さらりと聞いてみようかな。

 そんなことを考えていると、目的地の公園に辿り着く。私は樹の手を引きながら、よく整備された芝生の上にシートを敷き、二人でくっつきながらそこへ腰を落ち着ける。

 周りを見渡せば、数多くの桜の木に包まれており、少し離れたところでは花見をする人達で賑わう。空も快晴で、絶好の花火日和となっている。

 

「よく、こんな場所見つけたな」

「この前散歩してたら、通りがかったので」

「へえ、そうなんだ」

「ええ、折角ですし、お昼にしましょ」

「春のお弁当?」

「勿論ですよ~。デザートに石衣も持ってきちゃいました!」

「おお、気が利くね、さすが春」

「もう十年くらい一緒にいますからね」

「そうだよな……」

「はい……」

 

 私はバッグに入れてきた弁当箱の袋を取り出しながら、桜を見上げて感慨深そうにする樹の横顔を盗み見る。相変わらず羨ましいくらい端正な横顔と、綺麗なブライトグリーンの瞳が、私の心をぎゅっと締め付けてくる。

 

「あのさ、春」

「何です?」

 

 すると、何か思い立ったように、樹が自分の手持ちのバッグに手を伸ばして、その中を探し物があるかのように漁り始める。

 

「この前の誕生日、一緒にいてやれなかったろ」

「そ、そうでしたけど、仕方ないじゃないですか……」

「それでもだ。寂しい思いをさせたんだ、悪かった」

 

 樹も私もすっかり大人の年齢になって、手に職を持っているからこそ、そればかりはやはり起こり得ることなので、樹に何も落ち度なんて無いと思う。けど、寂しかったのは事実なわけで、このように言ってくれるだけでも私としては嬉しい。

 

「それでさ、思ったんだ。オレも、ちゃんと示すべき時だって」

 

 真剣な口調で樹はそう言うと、ようやくバッグの奥深くに眠っていたらしい探し物を見つけて、ほっと一息ついている。そんな姿が私には可愛く見えて、愛おしい。

 

「春、渡したいものがあるんだ――――」

 

 樹はその大きな手のひらに収まってしまいそうな小箱を、わざわざ大事そうに両手で包んで差し出してくる。もう初心な高校生ではない私は、その箱の中身が分かってしまい、どういうわけか独りでに涙が溢れてきてしまう。

 春、それは出会いの季節でもあり、別れの季節でもある一方で、新たな始まりの季節である。

 暖かな風が桜の枝を微かに揺らし、私と樹の間を縫うように流れて、その訪れを穏やかに教えてくれた。

 




 最終話『ハルノヒ』をご一読下さり、ありがとうございました。

 三ヶ月続いたこの物語も、これにて幕を閉じます。

 裏話とかは、活動報告に載せるつもりです。良ければご覧下さい。

 また、何かリクエストなどありましたら、お気軽に教えて頂いて構いません。

 感想や評価等、お待ちしております。

 最終話までお付き合い下さいました方々、繰り返しになりますが、今作をお読み頂きありがとうございました。

 それでは、また次のお話で。


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