私が私になるまでの ~黒江真由、中学生編~ (ろっくLWK)
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プロローグ
〈Follow The Leader〉


おもな登場人物


【低音パート】
 黒江真由
  二年生。ユーフォニアム。この春、他県から曲北中学校に転校してきた。
 長澤水月
  二年生。ユーフォニアム。おしとやかで美人な子。何故か標準語で喋る。
 荒川ちなつ
  三年生。ユーフォニアム。低音パートリーダーで、吹部の部長も務める。
 中島日向
  三年生。チューバ。低音パートの副パートリーダーで、ちなつとは仲が良い。
 伊藤雄悦
  三年生。ユーフォニアム。長身痩躯で、体力が無いことがコンプレックス。
 石川泰司
  一年生。チューバ。サッカー部出身で、この春から吹奏楽を始めた。
 三島玲亜
  一年生。ユーフォニアム。小学生の頃からマーチングをやっていた。


【吹奏楽部部員】
 秋山ゆり
  三年生。アルトサックス。小学校の頃に他県から引っ越してきた。
 秋山楓
  二年生。クラリネット。ゆりの妹で、姉のことが大好き。
 佐藤和香
  三年生。オーボエ。四角いメガネが個性的なドラムメジャー。
 草彅雅人
  二年生。トロンボーン。真由とは同じクラスの寡黙な男子。
 小山杏
  三年生。トランペット。ちなつや日向らとは小学校時代からの付き合い。
 松田奈央
  二年生。トランペット。杏の直属の後輩でカラリと元気な性格。


【その他】
 永田栄信
  曲北吹奏楽部顧問。個性的な人物だが、音楽に関する指導力は確か。
 戸嶋真理子
  真由のクラスの担任。担当教科は国語。既婚。
 進藤早苗
  二年生。真由のクラスメイトで卓球部所属。









私が私になるまでの
~黒江真由、中学生編~
















 ごう、という音と共に、窓の外の景色が一瞬で暗闇へとすり替わる。今まで見ていたものはもはや、遥か彼方へと流れ去ってしまった。次にこの窓に映るのはどんな景色なのだろう。そんなことを考えながら、手元の写真帳へと視線を移す。

 四角形のフレームに収められた画の中には、たくさんの笑顔、笑顔、笑顔。それは思い出といっしょにシャッターで切り取った大切な宝物の数々だ。例えあの日々がもう過ぎ去ってしまったものなのだとしても、こうして形に留めておくことが出来ればそれは、確かに自分がそこに居たことの証になる。そんな一枚一枚を積み重ねてこうして厚みを増してゆく写真帳は、つまり自分にとっては。

「お待たせ」

 顔を向けると、そこにはお弁当のカラを捨てて来てくれた母の姿。「うん」と返事をして、真由(まゆ)は写真帳をパタンと閉じた。

「どうだった? 真由のお弁当」

「おいしかったよ。牛タンも食べ応えあったし、それに紐を引っ張ったらお弁当が温まるのもすごいよね。ああいうお弁当見たの初めてで、面白かった」

「そう、なら良かった」

 真由の反応に気を良くしたのか、母はにっこりと柔らかい笑顔を浮かべる。

「ずっと座りっぱなしで疲れてない?」

「ぜんぜん大丈夫。お母さんは?」

「私も平気。あと一時間ぐらいで着くから、もうちょっとの辛抱ね」

 ガタゴト、と車両が小さく揺れる。埼玉で一度乗り換えてからの数時間、この新幹線に乗っていくつもの県境を跨いできた。近年新しい型に切り替わったらしい車両の乗り心地はけっこう快適で、ここまでの旅程にも疲れはほとんど感じていない。真っ黒に塗りたくられた窓にそっと手を当ててみると、車体が風を切って進む振動が伝わってくる。こうしている間にも、車両はものすごい速度でトンネルの中を突き進んでいるのだろう。

 ここまでに車窓を通じていろんな風景を見てきた。ビルの立ち並ぶ大都会の街並み。草木生い茂る山中。まばらな家屋やビニルハウスを擁するのどかな田園の平原。目的地が近付くにつれ緑色の割合は減り、それと入れ替わるようにして、山陰に白いものが残っているのを見掛ける機会も増えてきた。まるで巡る季節を遡っていくみたい。そう思った時、真由の体はひとりでにふるりと震えてしまう。

「新しいところでも楽しいこと、いっぱいあるといいな」

 くす、と吐息を漏らした母は果たして真由のことを可笑しがったのか、それとも一抹の憐憫を垂れたのか。ややあって、母は真由をなだめるように微笑みかける。

「きっとあるわよ。楽しくしたい、って真由がそう思えば」

 そのとき、窓の外がぱあっと明るくなった。

 思わず目をすがめた真由が次に見たのは、真っ白な絨毯を敷き詰めた山々の連なり。空はどこまでも抜けるような青色で、そこから燦然と降り注ぐ陽光が、分厚い雪に覆われた辺り一面を鮮やかに照らし出していた。折り重なる峡谷の底を遥か眼下に眺めながら、車両はまるで天上へと伸びゆく道を歩いているみたいにゆっくりと進んでいく。あまりにも幻想的な世界。それを見た真由の胸が、とくとくと高鳴りを打ち始める。

「どう? いいところでしょ、秋田も」

「うん」

 頷く自分の声が高揚感に上擦る。新しい場所での、新しい生活。これからここでどんな出来事が待っているのだろう。自分はここでどんな日々を過ごしてゆくのだろう。そんなふうに期待と不安に胸を疼かせる真由を、その光景はまるで優しく迎え入れるかのように、どこまでも美しくきらきらと輝いていた。

 

 

――国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。

 いつかどこかで読んだ小説の書き出しを、そのとき真由は思い出していた。

 

 



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1.転入、セットアップ
〈1〉出会いの季節


「起立、礼。先生さようなら」

「はい、さようなら」

 帰りのホームルームを締め括るあいさつと共に、学ランとセーラー服の集団が一斉に散らばっていく。そんな中で真由はいったん椅子に腰をおろし、ふうと一つ息をついた。

 転入から二日が経ち、真由も今のところは無難に過ごすことが出来ていた。新入生たちを迎える入学式も無事終わり、明日からは通常日程での授業が本格的に始まることとなる。新天地での生活もまずまず順調な滑り出しと言えるだろう。とは言え、まだまだ不慣れなことも多い。新しい学校、新しい担任、新しいクラスメイト。そんな多くの『初めて』に囲まれて過ごす日々にいちいち緊張してしまうのは、いかに転校歴の豊富な真由と言えど、さすがに仕方のないことだった。

 校舎のあちこちから生徒たちの賑々しい声が聞こえてくる。放課後を迎え、校内のあらゆる部活が一斉に動き始めたからだ。自分も行かなくちゃ。ホームルームで配られたたくさんのプリントと教科書を鞄にしまい込んでいたその時、チョンチョン、と誰かが真由の肩をつついた。

「お疲れー、真由ちゃん」

「あ、お疲れ」

 (しん)(どう)()(なえ)。隣席の彼女はこの二年三組に編入された真由へ最初に声を掛けてくれた女子であり、真由にとっては秋田で出来た最初の友達、ということになるだろう。

 初対面の真由に「わがんねごどあればなんでもきいでけれな」と秋田弁全開で話し掛けてきた早苗は、しかしこちらがポカンとしているのに気付くや否や「分からないことがあったら何でも聞いてくれていいからね」とにっこり笑顔で言い改め、二重の意味で真由の緊張と困惑を解きほぐしてくれたのだった。以後も彼女は事あるごとに学校や地域のことを説明してくれたり、同級生たちの交わす秋田弁トークの翻訳をこなしてくれてもいる。つまりはとても面倒見の良い子だった。

「どうだった? ウチの校歌」

「びっくりした。始業式の時は斉唱パートだけだったから半信半疑だったけど、ホントに早苗ちゃんの言った通り、すごく長い校歌だったね」

「でっしょー、私も去年の入学式は焦ったもん。これいつ終わんだー、って」

 当時を再現するように憔悴のポーズを取ってみせた早苗に、真由は思わず苦笑してしまう。でもその気持ち分かる、という、今の苦笑は一種の共感によるものだった。

 真由の転入した市立大曲(おおまがり)(きた)中学校、通称(きょく)(きた)、その校歌は異様に長かった。世間一般、校歌というものは全体を通しての演奏時間もせいぜいニ、三分程度の尺であることが多い。だが曲北の校歌は斉唱パートの他に男女別々の独唱パートや語り手までもが配されており、歌詞についても『人は何のために生きるのか』『どう生きるべきなのか』といった重苦しいテーマを文学的な語り口で主張するという、まるで歌劇か何かのような構成となっている。その総演奏時間、およそ十一分。過去数度の転校を繰り返してきた真由ですら、これほどまでの超大作校歌を擁する学校になど未だかつてお目に掛かったことが無い、というほどだ。

「んだから何も知らない一年生なんか、ようやく一番終わって『やったー』って思ってたとこにジャンジャジャーンって二番始まって、そこでショック受けてやられちゃうってワケ」

「新入生の列からバタンとかドカンって音してたね、そう言えば」

「毎年何人かは貧血起こして保健室行きになるんだってさ。まーでも、校歌でアワ食ってたら身ぃ持たないよ。文化祭んときなんか、三年生全員で四十分くらいある曲を歌わされっからね。しかも立ったままで」

「かなりすごいね、それ」

「何百人って規模で大合唱するワケだし、スケールは確かにすんげえよ。ただ生徒視点じゃ他の出し物の準備がある上にそっちの練習もしねえとだから、『めんどくせー』って感じだけどさ」

 からからと笑った早苗が「さあて時間だ」と時計を見たのを合図に、真由も席を立ち鞄を背負う。と、忘れてはならないのが、廊下にしつらえられているコート掛けのところに立てて置かれた黒いハードケースだ。縦に七十センチほどの大きさがあるこの物品は今朝持ち込んだ真由の私物であり、さすがに教室の中には置き場がなかったため、やむなくここでお留守番させていたのだった。把手を掴んでぐいとケースを持ち上げ、真由は早苗のあとを追う。

「早苗ちゃんはこれから部活?」

「うん。新入生の勧誘したり、来月のでっけー大会に向けて練習したりでチョー大忙し」

「そっか。早苗ちゃんは卓球部だったよね、確か」

「んだよー。愛用のラケットはシェイクハンド型、得意技はシュートドライブです」

 シュッシュッ、とラケットを持っている()()で早苗の腕が宙を切る。その姿がどこか滑稽に見えてしまうのはきっと、真由が卓球にそれほど詳しくないからだろう。

「卓球部には何人くらいいるの?」

「十四人。ホントはもう二人いたはずだったんだけど、進学塾行くからって先輩たちが退部しちゃってさ」

「中学校になると、そういう人も出てくるよね」

「でもあんま人数少ねえと団体戦のメンバーもきつくなるからさ。今年の勧誘目標は十人ぐらい、ってミーティングでも話してるトコ」

「じゃあ勧誘がんばらないとだね」

「つってもカンタンじゃねえけどなあ。曲北の一番人気はやっぱ、吹奏楽部だし」

「それも昨日言ってたね。とにかく部員の数がすごいって」

 早苗から聞くところによれば、曲北の生徒数は新一年生を合わせておよそ八百人。これだけでも地域市郡の中学校としては目を瞠るような規模なのだが、中でも吹奏楽部の部員数はゆうに百数十人を誇り、校内人気堂々の第一位なのだそうだ。単純計算すれば、全校生徒の五人に一人は吹奏楽部員、ということになる。無論、それだけ部員数が多いのには相応の理由があるのだが。

「だから新入生勧誘して来いって言われても、宙ぶらりんな子がなかなか見つかんねくて大変なわけよ。あー、吹奏楽部から何人かおすそ分けしてくんねえかなあ」

「みんな入る部活は自分で決めてるわけだし、難しいんじゃないかな」

「だったら掛け持ちでもいいから」

「それは禁止されてるんでしょ?」

「がくぅー」

 大仰にうなだれてみせる早苗の振る舞いが可笑しくて、真由はくつくつと喉を鳴らした。分かりやすいリアクションと共にころころと忙しなく表情を変えるのは、早苗の美点と言って良い。それは彼女といち早く打ち解けられた要因のひとつでもある。

「で、やっぱ真由ちゃんも?」

「うん。せっかく誘ってくれたのに、ごめんね」

「まあしょうがねえべ、転校してくる前から決めてたんなら。でもそれじゃやっぱ、そのケースの中身って?」

「そうだよ」

 ケースを揺すってみせると中でゴトリと音がする。それは真由の体格からすれば、ちょっぴり大きくて重い。けれど今ではこの重さにもすっかり慣れてしまった。外装に付いた幾つかの小傷に当初はいちいちショックを受けていたものだけれど、それも今では一緒に時を重ねたしるし、という気さえしてしまう。こういう感情のことを、きっと人は『愛着』と呼ぶのだ。

「私の宝物。ユーフォニアム、っていうんだ」

 

 

 階段のところで早苗と別れ、それから真由は一階の職員室へと向かった。生徒数が多いのに比例してか、職員室はずいぶんと広く席数も多い。これだけ職員の数がいれば、自分のような転校生でなくとも卒業までに一度も関わることの無い教師が何人かいてもおかしくなさそうである。さてお目当ての先生はいずこ、と真由が周囲を見回していると、職員室の端、応接スペースを区切るパーテーションから「こっちこっち」と女性教師が顔を出した。さっそく真由はそちらへと向かう。

「案内ありがとうございます、()(しま)先生」

「いいのよ。顧問の先生ももうすぐ来るだろうから、とりあえずここさ座って待ってて」

「はい」

「それじゃ私はこれで。何かあったらいつでも気軽に相談してな」

 柔らかく微笑み、そして女性教師は自分の席へと戻っていった。戸嶋()()()。彼女は国語の教師にして二年三組、つまり真由の所属するクラスの担任だ。

 初めて真理子にまみえたのは始業式の少し前、転入手続きのため母と一緒に初めて曲北を訪れた時のこと。かつては自分も器楽系クラブに所属していた、という真理子はそれ以来何かと真由のことを気に掛け、事あるごとに親身な対応を尽くしてくれている。優しさと頼もしさを兼ね備えた大人の女性。どこかシンパシーを覚える、そうした人間性と経歴を有する真理子が自分の担任になってくれて良かった、と真由は心から思っていた。 

 応接スペースはさして広くはなく、小さなテーブルを挟む形で二人掛けのソファが二つ置かれているだけだった。その片側に座った真由は忘れないうちにと、鞄から一枚のわら半紙を取り出してテーブルの上に置く。

「いやあ()りい悪りい、お待たせ」

 待つこと数分。慣れない職員室の空気にそわそわしながら座っていた真由のところへ、一人の男性教師がパタパタとサンダルを鳴らしながらやって来た。真由はソファから起立し教師に会釈する。中肉中背、おおよそ中年ほどの見かけに、どこか不敵さを感じさせる強い眼差し。実際に会うのは今日が初めてだが、彼の容貌はネットの記事などで何度も目にしてきたものに相違ない。界隈では有名人、と言って差し支えないその人物をいざ目の前にして、自分の体が少しだけ強張っているのが判る。

「初めまして、(くろ)()真由です」

「戸嶋先生から伺ってるよ。吹奏楽部顧問で音楽教師の(なが)()(えい)(しん)です。よろしく」

 気さくに名乗り、それから永田が手を差し伸べてくる。うっかりその手を握り返しそうになった真由は、違うそうじゃない、と慌ててテーブルの紙を引ったくった。

「吹奏楽部に入部を希望します。よろしくお願いします」

 入部届。そう書かれた紙を受け取ると、永田は記入内容にざっと目を通していった。

「はい、黒江真由さんの入部届、確かに受理しました」

「ありがとうございます」

「ついでにちょっと聞きてえこともあるから、立ち話もなんだし、まあそこさ座れ」

 先立って対面のソファへ腰を下ろした永田の勧めに従い、真由は再びそこへ着座する。永田はシャツの胸ポケットからメモ帳を取り出し、えーと、と言いながら数枚ページを繰った。

「黒江は前の学校でも吹部だったって?」

「はい。ユーフォ自体は、小学四年生の頃からずっとやってきました」

「てことは今年で五年目か。自前の楽器も持ってるってハナシだっけな。今日は持ってきてるか?」

「はい、ここに」

 テーブルの横に置いてあったケースを指差すと、んむぅ、と永田が満足そうに喉を鳴らす。

「実はちょうど去年、ユーフォ吹いてたやつが退部しちまって、一本抜けててなぁ。そこに黒江が入ってくれんのは大歓迎だ。学年ごと二本ずつになれば全体のバランスも取れっからな」

「はあ」

「それに二年のもう一本が――あぁ、まあ、それはいいか」

 永田は何かを言い掛け、そのまま引っ込めた。もう一本が、何だろう。直に訊くのは憚られ、真由はそのまま永田の次の言葉を待つ。 

「黒江はうちの吹部のこと、どんくらい知ってる?」

「転校前からマーチングの大会動画で観てたりはしました。いわゆる強豪校、ですよね」

「その呼ばれ方はあんま好きでねえな。まあ結果から見れば、そう言われんのも仕方ねえけど」

 額の辺りをぽりぽりと指で掻きつつ、永田が何かを思案するように口角を歪める。すみません、と謝りかけた真由を押しとどめるように、彼はこちらに向けて手の平を小さく挙げた。

「それは良いんだ。ただ一応確認がしたくてな、そういう環境に黒江は途中から入ることになるわけでよ。入部前の想像とは違ってしんどく感じることも多いかも知れねえけど、大丈夫だが?」

「はい。一生懸命がんばります」

「へば良いな」

 へば、って何? 心の中で首をかしげる真由の目の前で、永田は笑顔で両手を広げ、高らかにこう告げた。

「曲北吹奏楽部へようこそ、黒江。さっそく上さ行くべ。そろそろ前準備終わってミーティング始めてる頃だ」

 はい、と返事をして鞄とケースを手に取り、真由は立ち上がる。いよいよ始まる。その喜びと緊張感に、背骨の辺りをびりりと静電気のような感覚が駆け上がっていった。

 

 

「二年三組、黒江真由です。群馬から引っ越してきました。前の学校でも吹奏楽部で、担当楽器はユーフォでした。まだ右も左も分かっていないので、皆さんにいろいろ教えていただきたいと思ってます。よろしくお願いします」

 ひとしきりの入部挨拶を終えた真由がぺこりと頭を下げると、その場にいた部員たちから一斉に大きな拍手が鳴らされる。永田に連れられ入った第一音楽室の中では、想像以上にたくさんの部員たちがひしめき合っていた。これでもまだ新一年生は参加していない、というのだから驚く他はない。今ここにいる人数だけでも、フル編成のバンドが二つは組める。それが溢れ返る大人数の吹部部員を初めて目にした真由が抱いた、率直な感想だった。

「っつうワケで、今日から仲間が一人増えることになりました。せっかくの経験者だし楽器持ちなんで、黒江にはそのままユーフォを担当してもらおうと思います。転校してきたばっかで色々と不安も多いと思うんで、みんな仲良くしてやって下さい」

「はい!」

「転校生の紹介は以上。後は荒川(あらかわ)、いつも通り頼むな」

「はい」

 荒川、と永田に呼ばれたショートヘアの女子部員が返事と共に立ち上がった。その手には金色のユーフォが抱かれている。

「今日の活動は予定通り、新入生の勧誘とパート練習になります。入部希望と見学の子がいたら、ここか各パートの練習場所まで案内して下さい。各パートリーダーは見学者の対応とパート分けテストについての説明など、昨日打ち合わせした通りに動いて下さい」

「はい!」

「今日は六時終了なので、十分前にはここに集まってミーティングをします。いつものことだけど時間に遅れないことと、練習で使った教室の片づけをちゃんとやること。新入生の手本になるよう、当たり前のことを当たり前にきちんとしましょう」

「はい!」

「では練習を始めます。今日も一日よろしくお願いします」

「よろしくお願いします!」

 てきぱきと指示を飛ばす荒川は、もしかしなくても吹部の部長を務めているらしい。解散! という力強い号令を合図に、部員たちは各々の集合場所へと散り散りになっていった。真由もまた低音パートのところへと合流する。その場にいた十名ほどの中で、最初に声を掛けてきたのはさっきの荒川だ。

「よろしく。私は荒川ちなつ。三年二組で、吹部の部長やってます」

「よろしくお願いします、荒川先輩」

「荒川でもちなつでも、どっちでも呼びやすい方でいいよ。それで黒江さんのことなんだけど、友達や後輩のこと『さん』とか『ちゃん』付けで呼ぶのって苦手でさ、私。だから『真由』って、下の名前で呼び捨てにしたって良い?」

「勿論です。好きに呼んでください、ちなつ先輩」

 真由の快い承諾と返礼代わりの下の名呼びに、ちなつは受領の意を示す白い歯を覗かせた。その面相の上には勝気に吊り上がった瞳がぎらりと輝いている。言動の頼もしさと、群衆をぐいぐい引っ張る力強さ。およそ大所帯を束ねるリーダーというものはかくあるべし、という要素を彼女は兼ね備えていた。

「それと私、部長の他に低音パートリーダーも兼任してんだけど、忙しいもんでパートのことは基本的にこっちに任せてっから。普段の練習に関して大抵のことは、コイツに聞いてけれな」

 ちなつが差し伸べた手の先で、ショートボブの女子が恭しく一礼する。真由とほぼ同じ身長でスレンダーなちなつに比べ、その女子は縦にも横にも二回りほど大きかった。

「三年五組の(なか)(じま)()(なた)です。担当楽器はチューバで、忙しい部長さんの代わりに副リーダーとして低音パートの指導を受け持ってます。よろしくね、黒江さん」

 瀟洒にはにかむ日向のやたらかしこまった挨拶に、真由はすっかり委縮してしまう。とその時、「ちょっとちょっとー」と横からちなつが割り込んできた。

「ヒナぁ。そうやって初対面の時だけいい子ブリッ子すんの、いい加減やめれって」

「ブリッ子でねえってー。これが私の地なんですぅ」

「まーたウソばし言って、コイツ」

 どん、とちなつが拳で日向の肩を小突き、日向が「ぶう」とほっぺを大きく膨らませる。周囲から笑いがこぼれているところを見るに、どうやらこちらが彼女本来の姿なのだろう。ノリも人当たりも良さげな日向の振る舞いには、真由も素直に好感を抱くことが出来た。他に数名の先輩たちの紹介を経た後で、今度は細身の男子部員が一歩前へと進み出る。

「三年七組、()(とう)(ゆう)(えつ)。担当楽器は黒江と同じユーフォだ」

「よろしくお願いします」

「よろしく。それと、俺のことは『ユウ』って呼んでけれ」

「ユウ、ですか? でもさすがに、先輩にそれはちょっと」

「先輩後輩とか、そういうの気にしねくて良いがら」

 しばし困惑していた真由を見かねたのか、あー黒江ちゃん、と日向が口を挟む。

「こいつ、自分の『雄悦』ってフルネームがジジ臭くてヤダ、って駄々こねてるだけだがら。ウチらみんなして名前か苗字のどっちかで呼んでるし、黒江ちゃんも何とでもお好きにドーゾ」

「おいヒナ、余計なこと言うなって」

「分かりました。じゃあ慣れるまでは、伊藤先輩で」

「待て黒江、だがらユウだって」

「話も丸く収まって良かった良かった。したら次、二年どうぞー」

「人の話聞けって!」

 けらけらと笑い声を上げた一同に混じり、真由もこっそり笑みをこぼす。男子部員の地位が低いのはどこの吹部でも変わらないものらしい。ちょっぴり内気ではあれど人付き合いが悪そうでもない雄悦に対し、いい人ではありそうだ、と真由は率直な感想を抱く。

 続けて二年生のパート員とも一通り挨拶を交わした後、ふと真由はあることに気が付いた。

「そう言えばさっき永田先生に、二年生のユーフォ吹きが私以外にもう一人いる、って聞かされてたんですけど」

 紹介された面々の中に、該当する人物はいなかった。真由の呈した素朴な疑問に、日向とちなつは「あー」と何かを言い淀む。

「ソイツなんだけど、なんか家の用事あるらしくてさ。今日は部活休むって」

「そうなんですか」

「明日はちゃんと部活に来ると思うから、そん時に本人と直接ハナシして」

 分かりました、と返事をしつつ、真由はちなつの席の隣に置かれた空の椅子をちらりと見やる。自分と同学年のユーフォ吹き。真由の同僚となるその子は果たしてどんな人物なのだろう。仲良く出来るといいな。そんな事をぼんやりと、胸の内に思い描きながら。

「さ、自己紹介も済んだことだし、そろそろ練習始めるべ。準備できたらいつもの教室に集合」

「はい!」

 日向の一声に皆で返事をし、低音パートの面々は各々支度を始めた。ケースを地面に寝かせ、真由は金色のロックに手を掛ける。パチン、という気持ちの良い音と共に外れるロック。持ち上げた蓋の内側にはいつも通り、きれいに磨き上げられた銀色のユーフォニアムが横たわっていた。

 

 

 

 入部一日目の練習を無事に終え、帰途に就いていた真由はぶるりと体を震わせる。辺りはすっかり薄暗い。さすがに雪はすっかり溶けてしまっているけれど、時折吹く風は春と言われてもにわかには信じがたいほどに冷たかった。道理でその辺の樹々に、桜の花はおろか芽吹きさえも見当たらなかった筈だ。桜前線がこの辺りを通過するのは、まだ当分先のことなのだろう。

 周囲の生徒たちがみな制服姿で歩く中、自分一人だけがコートを着るのはどうにも気後れしてしまう。さりとて何の対策もしないと体調を崩してしまうかも知れず、転校して日の浅い身としてはそんな事態に陥るのも極力避けたい。明日からは内側に何か一枚着込もう。そう心に決めつつ渡りかけた橋の上で、ふと顔を向けた先の景色に、真由は思わず足を止めてしまう。

「うわあ、」

 街のど真ん中を流れる一本の川。その流れの先にそびえる大きな山。その稜線からは僅かに夕陽が顔を覗かせていて、山肌を掠めてこぼれ来る朱色の光は川面の波に弾かれ、いくつもの煌めきを放っていた。濃紺とオレンジが織り成す色彩の幻想。初めて見たはずなのに、目の前の光景に何故だか強烈な懐かしさを覚えてしまう。今度ここからの眺めを撮ってみよう。そんなふうに思った時、夕陽は山際に飲み込まれるようにとぷりと姿をくらました。

 日没の瞬間を見届けてから、停まっていたつま先を再び家路へと向ける。橋を渡り川沿いの堤防道路をしばらく歩くと、やがて閑静な住宅街の一角に少し古びたアパートが見えてきた。ここの二階の一室が黒江家の新しい住まい、つまりは秋田の地における真由の我が家、というわけだ。ただいま。玄関のドアを開けて帰宅を告げると、室内にはおいしそうな匂いが漂っていた。

「お帰り。先に着替えておいで」

 奥のリビングから母の声が響く。うん、と返事をして真由は靴を脱ぎ、家へと上がった。

 これといって特徴のない2DKの間取り。玄関に接した短い廊下のすぐ右手側にはトイレや浴室などがあり、正面方向がリビング代わりにしているダイニングキッチンと両親の寝室、そしてトイレと反対側の左手側が真由の自室となっている。六帖ほどのこぢんまりとしたフローリングの部屋、そこにはまだ引っ越し用の段ボールがいくつか積み上がったままでいた。そのうち機を見て整理しようとは思うのだが、半分くらいはいつも封を切らぬまま押し入れの肥やしとなってしまう。我ながらズボラなことだと思いつつも、それはそれで次の引っ越しをするときに荷造りの手間が省けて良い……というのは、これまでの人生で積んできた真由なりの経験則みたいなものである。

 ともかく部屋着に着替えよう。そう思ってタンスから取り出したTシャツを頭からかぶったまでは良かったのだが、裾が胸のところでパツンとつっかえたことに、真由は閉口してしまう。おかしいな、去年の秋まではちゃんと着られたのに。いかに成長期とは言え、こうして毎年のように体型が変わってしまうのは少々いただけない。ついでにブラも若干キツくなってきている。近いうち、まとめて新しいのを買っちゃおうかな。そう考えながらガサゴソとタンスの中身を引っ掻き回し、どうにか体に合いそうなものを見繕う。

 着替えを済ませてリビングに出ると、奥のキッチンでは母が鍋をおたまでかき混ぜているところだった。香ばしいにおいに鼻が自ずと反応してしまう。おみそ汁と焼き魚。特に好き嫌いのない真由にとって、母の手料理は何よりのごちそうだ。

「お母さん、これ学校からのプリント」

「後で見るから、テーブルの上に置いといて」

「はーい」

 テーブルに数枚のプリントを置き、それから真由は夕食までの暇潰しにと、リビング中央に設置されたテレビの前へと腰を下ろす。たまたまやっていたのはローカルニュース番組で、複数人のキャスターたちが桜の開花予想や各種催事など地域の話題を取り上げているところだった。

「……次に、県内の各小中学校では今日から明日にかけ、入学式が行われています。今日はそのもようを特集してきました」

 黄色い帽子をかぶり、真新しいランドセルを背負って元気にあいさつする男の子。着慣れない学生服に身を包み、緊張した面持ちの女子生徒たち。大から小まで様々な新入生たちの姿が画面に映し出される。どきどきしてます。授業についていけるか不安です。お友達いっぱい作りたいと思います。そんな瑞々しいコメントが出る度、その気持ちわかるよ、と真由は心の中で相づちを打つ。

「ただいま」

 その時ちょうど玄関から、帰宅を告げる父の声。黒江家の夕食は特別な場合を除いていつも父と母、そして真由の一家三人が揃った時と決まっている。おかえり、と返事をして立ち、真由は食卓へと向かった。

 

 

 父の仕事の都合で秋田に転居することが決まったのは、今から二週間ほど前のこと。突然と言えば突然かも知れないが、真由にとっては慣れっこでもある。山口、和歌山、静岡、東京、群馬。物心ついてからの記憶だけでも、黒江家は数年ごとに全国単位の転居を繰り返してきた。父がそういう職種なのだから仕方がない。大きくなった今ならそう言えるのだけれど、幼かった頃はせっかく出来た友達と離れ離れになるのが辛くて悲しくて、わんわん泣いたりもしていたものだった。

「今日から部活だったんだってな。どうだい、初日の感想は?」

「すごく楽しかったよ。先輩たちも優しいし、みんな上手いし。こっちに転校してきて良かった」

 そうかそうか、とすっかり上機嫌な父がグラスに景気よくビールを注ぐ。泡を立てて満たされる金色の液体。その味わいがいかなものであるかを、真由はまだ知らない。

「これもお父さんのおかげだね」

「そう言われると、父さんも頑張り甲斐があるなあ」

「あらあら。すぐ調子に乗るんだから、お父さんは」

 三人家族の賑やかな会話に食卓は華やぐ。短い周期での転校を強いられる娘を不憫に思ったのか、両親は真由に二つの贈り物をくれた。一つは真由の愛器である銀色のユーフォニアム。これは中学に上がる時に入学祝いを兼ねて母に買ってもらった。そしてもう一つは、ある程度ではあるのだが、転入先の学校を好きに選べる権利だ。

『秋田に行くなら大曲北中がいい。吹奏楽の強いところなんだって』

 そんな娘の希望を、父は二つ返事で了承してくれた。これが父の通勤にかなりの負担を掛ける選択であったことは、もちろん真由にだって分かっている。けれどこのことに関してだけはいつも、真由は一切の遠慮をしなかった。親の気遣いには素直に甘えておくべきだ。それを無碍にしてしまうのは却って親不孝なことだと、そう思うから。

「そうそう。今日のお買い物中、お隣の奥さんとばったり会ってね」

「ああ、柴田さんね」

「それでちょっとの間話し込んでたんだけど、秋田には『ボダッコ』っていうすごく塩っ辛い鮭があるんですって」

「塩辛い鮭? 普通の塩鮭じゃなくて?」

 父が怪訝な顔つきをしながらグラスを仰ぐ。

「私もそう思って訊いてみたんだけどね、何だか全然違うらしいの。しょっぱさがすごくご飯に合うから是非食べてみて、ってお勧めされたから、今度買ってきてみるわね」

「塩辛い鮭かあ。酒にも合うといいな」

「またお父さんはすぐそうやって、お酒の話に持っていく」

「だって、せっかく酒どころの秋田に引っ越してきたわけだしさ。美味い酒には美味い肴が欲しくなるもんなんだよ」

「そう言ってこないだも飲み会でべろんべろんになって、職場の方にご迷惑かけたばっかりじゃない」

 呑み過ぎもほどほどにしてよ、と母の窘めを受けた父が、少しばかり居心地悪そうにぼりぼりと襟首の辺りを掻く。酒好きの父は毎夜のごとく晩酌を欠かすことが無い。いつぞやも健康診断で注意すべき事項があったらしく、そのことを母に咎められたりもしていた。

「でもボダッコもそうだけど、説明されないと全然意味の解らない言葉って、やっぱり何処にでもあるものね」

 話題を切り替えた母に、うーん、と父も唸り声で応じる。

「秋田弁ってけっこう難しいよな。発音は割と聴き取りやすい方だと思うけど、言い回しに特徴があるっていうか」

「お父さんの職場でも、やっぱりそういうことってあるの?」

「大半は地元の人だからな。それでも『んだのが』が『そうなのか』だとか、『へば』が『それじゃあ』っていう意味だってのは、ここ一週間でようやく分かってきたかな」

 それを聞いて、なるほど、と真由の中で一つ合点がいく。あの時永田が『へば良いな』と言っていたのはきっと、『じゃあオッケーだな』と確認するような趣旨の発言だったのだろう。

「私はまだ全然分かんない」

「そのうち分かるようになるよ。クラスの友達や部活の仲間と会話してるうちに、自然と慣れていくさ」

「そうだね。私も早苗ちゃん達から教わりながら、少しずつ覚えていくよ」

 お茶碗に残っていたひと口ぶんのご飯を頬張り、ごちそうさま、と手を合わせる。自分の食器を自分で洗ってから、真由は再び部屋へと戻った。

 机に向かい、明日の授業に備えて教科書をパラパラ眺めつつ、部活でのことを振り返る。練習初日となった今日、真由には一度に大量の楽譜が与えられた。目分量にして数十曲分のそれらは全て、今後の演奏会や大会などで吹くことになる曲目。うち数曲は来月に迫る本番に向け、優先的に練習を進めるようにと申しつけられた。今までとは比較にならない量をこなすだけの習熟スピードと、一曲一曲を高い質に仕上げるべく道を究め続ける姿勢、その両方が曲北では求められている。そこに一年遅れで入る形となった自分は、今はただがむしゃらに追いすがるしかない。

 そんな環境に気後れするような気持ちを、しかし真由は全くと言って良いほど抱いてはいなかった。上手い人たちの中に身を置くことで、自分もそこへ至ろうと一生懸命練習し、ユーフォの腕を磨いていく。それは今の真由にとってこの上もなく幸せなことなのだった。

 

 

 

 それは翌日の放課後、今日も練習を始めよう、と真由が楽器ケースに手を掛けていた時のことである。

「あなたが黒江真由さん?」

 後ろからの呼び声に不意を突かれ、真由の身が竦む。漉いた和紙のように透明で、新雪のように穢れのない声。さりとて今の声色に思い当たる人物はいない。恐る恐る真由が振り向くと、そこに立っていたのはやはりと言うべきか、全く見覚えのない女子だった。

「あ、はい。あの」

「緊張しなくていいよ。私もあなたと同じ二年生」

 ほら、と女子は自身の胸元の名札を指差してみせた。校則により曲北の全生徒が付けることを義務付けられているプラスチック製の名札には、それぞれの学年を表すカラーマークが刻まれている。彼女の学年色は真由のそれと同じ、赤色だ。

「二年八組、(なが)(さわ)()(つき)。昨日は部活休んでて挨拶できなかったけど、噂は聞いてるよ。これからよろしくね」

 簡単に自己紹介を済ませ、水月が手を差し伸べてくる。よろしく、と握手をした真由に、彼女はフワリと無垢な笑みを向けた。それはあたかも鏡を見ながら何度も練習したみたいな完璧さで、綺麗さと可愛さの良いとこ取りをしたような彼女の端正な造形を最大限に活かし切るものだった。

「黒江さんもユーフォ?」

「も、ってことは、長澤さんも?」

「そう。これでユーフォの二年は私と黒江さんの二人になる、ってことだね。それと、私のことは『水月』でいいから」

 黒く艶深いさらさらのロングヘア。人当たりの良い物腰。そして、ユーフォ吹き。そんな水月に真由がある種の共感を抱いてしまったのも、きっと偶然では無かったのだと思う。お返しにこちらも下の名で呼ぶことを許可してあげると、「嬉しい」と目を輝かせた水月が両手で真由の手を、いま一度ぎゅっと握り締めた。

「仲良くしようね、真由ちゃん」

 それが水月との、最初の出会いだった。

 

 



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〈2〉曲北吹部、本格始動

 一般的な話、吹奏楽部の練習は大きく三つの形態に分類される。まずはロングトーンやリップスラーといった基礎訓練を踏まえつつ、与えられた譜面を譜面通り吹けるようになる為の曲練などを行う個人練習。次に、パート単位でどこかの教室などに集まり、曲を合わせながら出来ていないところを確認していくパート練習。そしてバンド全員で曲を合わせ、指揮者との打ち合わせを踏まえながら音楽を作っていく合奏練習。この三つだ。日によってメニューや時間配分は違えど、これらを繰り返して技術を磨き曲を突き詰め、部員たちは本番の舞台に臨む。

 こうした大まかな練習のかたち、それはどこの学校でもそう大きくは変わらない。違いが出るのは量と質、つまり練習にかける時間の多寡と、練習そのものの内容だ。どんな学校であれ、生徒である以上は朝から晩まで楽器を吹いている訳にもいかない。限られた時間の中でより良い音楽を作る。その為には量と質、この二つの問題をより高い水準でクリアしていくことが求められるものである。

「チューバ全員、今のとこアタック弱い」

「はい」

「コンバスは片方遅れてる。自覚あるやつ、ちゃんと合わせれよ」

「はい」

「へば今のとこもう一回、全員で」

 パート練習の時間中、多忙かつ不在がちなパートリーダーのちなつに代わって指導を受け持っているのは、副パートリーダーの日向だ。ミスをきちんと拾い的確に修正をする彼女の指導力はなかなかに高い。それはパートの面々も既に認めているらしく、彼らは日向からの注意を素直に聞き入れすぐさま演奏へと反映させてゆく。そんな速度感で進められる曲北の練習環境に加わったばかりの真由はまだ、どうにか彼らについていくのが精いっぱいという段階である。

「ユーフォは二年二人の音がぐちゃぐちゃしてる。ちょっと一人ずつやってみるべ。まずは黒江ちゃん」

「はい」

 返事をして、真由は素早く楽器を構える。

「三、四、」

 日向の指揮に合わせ、指定された箇所を吹く。そんなに難しい譜面ではないし大筋では吹けていると思ったのだが、真由の演奏を聞き終えた日向は総譜(スコア)を眺めたままの姿勢で「うーん、」と微妙そうな唸り声を上げた。

「形は出来てるけど、音のハリが弱ええな。ボソボソ喋ってるみたいに感じる。教室ならそんな気にならねえけど、体育館のフロアで吹くときはもっと通る音出さないと、観客席の奥まで届かねえよ」

「はい」

(おん)(しょく)はキレイだから、割れねえように気ぃ付けつつもっと音の通りを意識してみて。んじゃ次、水月」

 日向への返事も無く、のそりと水月が楽器を構える。彼女のユーフォは真由のそれとは対照的な黄金色、いわゆるクリアラッカー仕上げの管体だ。少し凹みや傷みも見えるその表面を艶めかしく輝かせ、ユーフォのベルが小さく呼吸を整えるような篭り音を洩らす。

「三、四」

 さっき真由が吹き上げたところを同じように、水月のユーフォの音がなぞっていく。それから僅か数小節分を聴くうちに、気付けば真由の眉間にはしわが寄っていた。走り気味なリズム。終始上擦り加減のピッチ。どこかフタが掛かったようにくぐもっている音色。端的に言って、譜面を渡されて二日目の自分よりも、水月はずっと下手だった。スタッカートやレガート、クレッシェンドにデクレッシェンドといったアーティキュレーションの類についてもまるでデタラメなその演奏の酷さたるや、楽譜上の指示記号を守る気が全く無い、とさえ言えそうなほどだ。

「丸っきりダメ。こんなんパートでいちいちやってたら、ナンボ(どれだけ)時間あったって足んねえべ」

「すみません」

「謝んねくていいがら、一通り出来るようになるまで個人練してこい」

「はい」

 ちなつに代わってパートの出来不出来を預かる責任感ゆえなのか、練習中の日向は普段のそれと比べてかなり手厳しい。水月に対しては特にそれが顕著で、端々の口調にもずいぶんトゲが感じられる。一方の水月はツンと澄まし顔を保ったままで、日向からのきつい指摘にもまるでダメージを受けていないかのようなそぶりだった。

「他のみんなはさっきのトコからもう一回合わせるべ。大会まであんま時間ないし、集中してこう」

「はい!」

 返事をして速やかに楽器を構えつつ、真由はここから日向を越した先にある教室の戸へと寸秒意識を割く。他のパート員たちが次の一奏に向けて集中する中、黙って一人そっと教室を抜け出る水月。彼女が廊下へ出る瞬間、その手に抱えられたユーフォが鈍く冷たい紅色の輝きを放つ。燃えるような夕焼けに染められた室内と、暗い影に沈み込む廊下。二者の対比は寒気がするほど鮮やかだった。

 

 

 見学しに来た新入生たちを日向が部室へ案内している間、低音パートの練習は小休憩、ということになった。楽器を脇に置いた真由が一息ついていたところに「お疲れー黒江ちゃん」とパート員たちが声を掛けてくる。

「どうよ、我らが中島先生のレッスンは」

「ああ、はい。けっこう厳しいですけど、でもダメなところをちゃんと指摘して貰えるのでありがたいです」

「ありがたい、かぁ。さっすがって感じだな」

「さすが、って?」

「だって上手えんだもん、黒江さん」

 自分が、上手い? 思いがけず先輩からお褒めの言葉をいただけたことに、真由の心理は照れと慄きの間を行き来する。

「まだ楽譜渡されて二日目なのに、良くそんな吹けるよなー。ずっとユーフォやってたの?」

「そう、ですね。小四の時にクラブに入って、ユーフォはその頃からです」

「あー納得。いわゆるキャリア組ってやつか」

「それ、キャリアの使い方間違ってね?」

 どっ、と場の一同から溢れ出る笑声。休憩中だからというのもあるだろうが、厳しい練習の中にもこうした微笑ましいやり取りがある。その事実は真由にしてみれば、ちょっとしたカルチャーショックですらあった。ともすればそれは、強豪校と呼ばれるところではほんの僅かな隙さえ許されないものなのでは、といった先入観がどこかにあったせいなのかも知れない。

「にしても、自分の楽器持って全国渡り歩くとか、カッコいいな黒江。さすらいの天才ユーフォニストって感じで」

「いや。渡り歩くっていうか、それは父の仕事の都合で引っ越してるってだけなので」

 それに天才でも何でもないですし、と真由は心の中で呟く。人から褒められることに慣れていない真由にとって正直なところ、こういう状況はただただ居心地の悪さを覚えるばかりだ。

「こりゃあマーチングでもメンバー一直線だべ。負けてらんねえなあ、雄悦も」

「うっせぇ」

 チューバの男子に揶揄され、機嫌を損ねた雄悦がプイとそっぽを向く。あれ? と真由は疑問に思った。

「どうしてですか? 伊藤先輩もとっても上手だと思いますけど」

「ただ吹くだけならな。でもコイツ体力()くてさ。座奏はともかくマーチングだとヘロヘロんなっちゃって、それでいっつも楽器持たねえでガードやらされてんの」

「そうなんですか」

 確かに雄悦は標準的な男子に比べてちょっと、いやかなり痩せていると言える。頬骨の張りやフォークみたいに細長い手指も肉付きの無さゆえのもので、学ランの袖から覗く手首などは何かの拍子にぽきっと折れてしまいそうですらある。スレンダーという意味ではちなつのそれにも通ずるところがあるのだが、彼の場合はなまじ身長があるだけに、そのか弱げな痩躯がより際立つものとなっていた。

「言っとくけど今年は違うがらな。去年から毎日欠かさず腹筋と腕立てやってらし、登下校中にジョギングもしてるしよ」

「んだば聞くけど、腕立てと腹筋は一日ナンボずつやってんのよ?」

「……二十回」

「学校から雄悦の家までって、何キロあんだっけ?」

「……三百メートル」

「んなの、やったうちに入んねえべ!」

 チューバの先輩男子が雄悦の頭を遠慮なしに平手打ちし、教室にはまた大きな笑いが起こった。叩くなで! と雄悦が憤慨の声を上げる。と、そこにちょうど案内を終えた日向が戻ってきた。

「たっだーま。何か楽しそうなハナシしてるみてえだけど、まぁた雄悦がバカなこと言ってらったんだべ」

「俺じゃねえって。こいつらが勝手に俺のこと()()()呼ばわりしてきて」

「ただの事実だねが。そんなムキになることねえべ」

「事実って、お(めえ)なあ」

 日向はちなつのみならず、雄悦にも相当に口さがない。それは常日頃からのものであり、恐らくは彼らの付き合いの長さがそうさせていることを、真由も昨日からの観察でおおよそ窺うことが出来ていた。

「さあて。バカ話ばっかしてねえで、今日は一通り吹けるとこまで仕上げちゃうべ」

「はい」

「おい日向!」

 ぶんむくれる雄悦を置き去りにしつつ、パート員たちは再び楽器を構える。集中と弛緩。そのメリハリをちゃんと付けることは、練習の能率を上げることに少なからず寄与しているのだろう。いざ練習を開始すればみな真摯に目の前の為すべきことに取り組み、厳しい指導によって短時間のうちにもどんどん音を向上させてゆく。そうやって、低音パートは刻々と確実に上達を遂げていった。ただし、一人を除いて。

 真由はチラリと隣の空席を覗き見る。長澤水月。結局その日の練習が終わるまで、彼女は教室には戻って来なかった。

 

 

「真由ちゃん、今日帰りって空いてる?」

「うえっ?」

 その水月が練習上がりに突然こんなことを言うものだから、真由があたふたしてしまったのも無理からぬことだろう。こちらの間抜けな反応を面白がるように、水月は口からこぼしたクスクスという音を手で覆う。さらには周囲のパート員がギロリとこちらを睨むのが視界の端に映ったせいで、真由の混乱にはますます拍車が掛かってしまう。

「えっと、今日は、ちょっと」

「何か用事でもあるの?」

「用事っていうか、居残り練習しようかなっていうか」

 ほら、と水月に示すつもりで真由が視線を遣ったその先では、部としての活動を終えた後にも関わらず、続々と部員たちが楽器を手にして教室棟へ向かう姿があった。

 曲北ではこんなふうに、帰りのミーティング後の居残り練をするのが半ば常態化しているらしい。こんな状況を前にして、しかも今日が初対面の人間に突然こんなことを言い出すなんて、水月の考えがさっぱり読めない。そういう気持ちもあるにはあったが、それより何より真由自身、まだクリア出来てない課題がいくつもある。中途入部のような立場の真由としては少しでも多く練習を重ね、なるべく早く周囲に追いつきたいと思っているところなのだ。

「そんなの明日でも出来るよ。ねえ、今日だけでいいからこのまま一緒に帰らない? 親睦を深めるつもりで」

「でも、大会近いって言うし、新入生ももうすぐ入って来るから油断してられないし」

「それなら明日から頑張ればいいじゃない。お願い真由ちゃん、今日だけ私を助けると思って。ね?」

「うーん……」

 返答に窮し、真由は改めて音楽室を見渡す。居残り練に向かう部員と下校する部員とはちょうど半々、といった按配だ。もっとも人によっては塾通いや家の事情など、残りたくても残れないということだってある。そもそも居残り練習自体、強制されているわけでもない。その意味では水月の言い分の方が筋が通っているとも言える。しばし熟考し、やがて真由は心を決めた。

「わかった。それじゃ今日だけね」

「ありがとう。真由ちゃんってほんと優しい」

 ふわりと満開の笑みを浮かべ、水月は上機嫌で帰り支度を始めた。あれだけ強引に迫っておいて優しいも何もあったもんじゃない。そう思いつつも、一方で真由が気にしていたのは、他のパート員たちが水月へと向ける冷ややかな視線だ。アイツもう帰んのか? あのザマで居残りしなくて本当に大丈夫なのかよ。彼らの目つきは明らかに、そういった類の思惑を内包していた。

「真由、もう上がり?」

 と、そこに通りがかったちなつが二人に気付いて声を掛けてきた。その手にユーフォや楽譜ファイルを抱えているところを見るに、彼女もまた居残り練の為にいつもの教室へと向かう途中らしい。

「すみません。今日はちょっと」

 何となく先に帰ることを咎められているような気がして、つい真由はちなつに頭を下げてしまう。

「いいっていいって。べつに残って練習せえ、って言いてえわけじゃねえし」

「でもその、何て言うか」

「居残り練なんて、やりてえ奴がやりてえ時にやれば良いよ。全然吹けてなくて周りさ迷惑掛けてるってんなら話は別だけど。――で、水月も帰んの?」

 一瞥をくれながらそう尋ねたちなつに、はい、と水月はさも当然とばかり頷いてみせる。

「さっき日向に聞いたよ。今日はずっと個人練してたらしいけど、出来てねえトコは吹けるようになったんだが?」

「まあ」

「へば明日の練習は大丈夫なんだな?」

「多分」

「そ」

 温度感の無い二人のやり取り。あまりの空々しさに、傍で見ていた真由はその身をぶるりと震わせてしまう。

「まあ良いけど。本番にさえ影響無けりゃ」

 視線を逸らし、ちなつは鼻白んだように口をへの字に結ぶ。その仕草は水月に『どうなっても知らないよ』とでも告げているみたいだった。

「そんじゃ私も行くから。帰り気をつけてな、二人とも」

「は、はい。お先に失礼します」

 背中に刺さるちなつの視線が痛い。そこから逃れるように、真由は碌に挨拶もせず先を行く水月のあとを追って、そそくさと音楽室を出た。

 とんとんとん、と階段を下りながら真由は考える。水月に対するちなつの一連の物腰は、厳しさというよりもまるで突き放しているかのような感触だ。それが部長として吹部を牽引する立場ゆえか、はたまた愛情の裏返しとでも呼ぶべきものなのか、真由にはどちらとも言い切れない。ただ少なくとも、愛想も素っ気もない水月の態度をちなつが快く思っていないことだけは明白だった。

 正面玄関から一歩外に出たその時、夕風がぱさぱさと真由のスカートを撫でつける。今日は薄手のインナーを着込んでいるおかげで、外気の低さもそれほど気にはならなかった。一方の水月はと言えば、彼女の形良いふくらはぎをすっぽり覆ったハイソックスだけが、辛うじて冬の名残りを思わせる装いをしている程度だ。他の子も皆そんな感じで過ごしているし、やはり北国の人間は寒さに慣れているものなのだろうか? などと考えていたところ、不意に水月が「ねえ真由ちゃん」と問い掛けてきた。

「真由ちゃんのお家ってどの辺にあるの?」

「どの辺って言われても、まだ引っ越してきたばかりだから良く分かんないけど」

「学校から見て、北と南で言えばどっち?」

「えっと、南かな。帰りの途中で橋を渡るんだけど、そのとき右手側に夕陽が見えるから」

「じゃあそっち寄りの方角に歩けば、真由ちゃんにとってそんなに遠回りにはならなさそうだね」 

 折角なんだし、少し寄り道していこ。そうして水月にいざなわれるがまま、真由はしばらく見知らぬ通りを歩く。立ち並ぶ家屋や商店はいずれも外壁がくたびれ、正面をぴしゃりと覆うシャッターにはところどころ錆びが出来ていた。それらの間隙を縫うようにそびえ立つ新築の家屋や建物が、却って街の景観を損ねているような気さえしてしまう。そこにはきっと、時代と共に変わりゆく人々の暮らしぶりが映し出されているのだろう。留まる景色を横目に見つつ、二人は『止まれ』と書かれた赤い標識のふもとにある白線を軽々とまたぐ。

 道中の話題はいたって取り留めの無いものばかりだった。どんなテレビ観てる? とか、趣味はなあに? とか、いかにも知り合って間もない者同士が交わす、当たり障りのない会話。そこに、部活に関するものは一つとして無かった。

「ところでさ、真由ちゃんのヘアスタイルって、すごくフェミニンって感じだね」

「そう?」

「これだけ長いのにふんわりしてて、毛も一本一本細くてツヤツヤしてて。お手入れ大変じゃない?」

「ううん。ふつうに洗って乾かすぐらいで、特に気を遣ったりはしてないけど」

 己が胸元に掛かる栗色の髪を、真由はおもむろに掴み取ってみる。自分では特段優れているとも思っていなかったのだが、未だかつて毛質に悩まされた覚えが無いのも確かだった。そんな真由が長い髪を保っているのはただ何となくであり、特にこだわりなどがあったわけでも無い。いつの間にかそうするようになって、いつの間にかそれが当たり前になっていた。ただそれだけの事だ。従って、もしも今すぐこの髪をばっさり切ったなら――そんな自分を想像するのもちょっと難しい。

「えー、絶対ウソ。何もしてなかったらすぐパサパサになっちゃって、そんな綺麗にはまとまらないよ」

「ホントだってば。強いて言うなら、お母さんと同じシャンプー使ってるってぐらい」

「じゃあきっとお母さんがこだわってるんだね、真由ちゃんの代わりに」

「どうなのかなあ。お母さん、私よりも髪短いし。それに銘柄とか全然見てないから、よく分からない」

「私なんて真っ黒でストレートだから日本人形みたい、ってよく言われるんだよ。髪質も太くて硬いせいで、どう頑張ったって真由ちゃんみたいにオシャレな感じにはならないもん」

 いいなあ、と呟く水月が、真っすぐに切り揃えられた自身の横髪を指でつまむ。――謙遜にも程がある、と真由は思った。腰の下まで届きそうな水月のさらさらロングヘアは毛先まできっちり瑞々しさが保たれていて、水銀灯の下を通る度にきらりと美しい天使の輪を描き出している。これほどのコンディションを保てているのに己を卑下するだなんて、相手によっては嫌味とさえ捉えられかねない行為だ。

「ね、こんど真由ちゃんのお家で使ってるシャンプー教えて? 私も試してみたい」

「別に良いよ。水月ちゃんが使って効果があるかまでは分からないけど」

「やったあ。やっぱり持つべきものはロングヘア友達だね」

「なんだかヘンな友達じゃない? それ」

 こんな会話をしながら歩くうち、やがて二人は駅前通りへと辿り着いた。二〇〇五年に近隣の市町村が合併して誕生したこの(だい)(せん)()は秋田県南部に広がる(せん)(ぼく)平野の大半を占め、人口およそ八万人と、県内の市郡としてはそれなりの規模を有する地方都市である。その中核となっているのは、ここ旧(おお)(まがり)市の市街地ど真ん中に位置する駅前通り。新幹線の発着駅であるJR大曲駅から伸びるこの通りには様々な商店が軒を連ねており、数年内には近くに大きな病院も建つ予定なのである――と、これらは全て転校初日に早苗らクラスメイトから聞かされた、この街に関するあらましだ。

「なんて言ったところで、都会から来た真由ちゃんからしてみれば、全然大したことない田舎町だろうけど」

「そんなこと無いよ。それに群馬だって、みんなが思うほど都会って感じじゃないから」

「そうなの?」

「まず空港無いし、東京行くのだって近そうに見える割にそこそこ時間かかるし。あと私のいたところは田んぼとか森とか、自然もふつうに多かったよ」

「ふうん」

 こちらの言葉をあまり真に受けていないのか、水月の反応は乏しいものだった。

「でも真由ちゃんってなんか、都会の人、って感じする」

「そうかな」

「群馬の前にも色んなところを転校して回ってた、って言ったよね。きっと東京にいたこともあったんでしょ」

「良く分かったね。東京には二年くらい居たよ」

「他に大きい街だなって思ったところはある?」

「静岡と山口、かな。どっちも一年くらいしか住んでなかったけど」

「そういうところに住んでたら、オシャレなお店とか楽しいイベントとか、身の回りにいっぱいあったんじゃない?」

「いっぱいかどうかは分からないけど、それなりにはあったかも」

 たどたどしい真由の述懐をどう思ったのやら、あーあ、と水月は両手を頭の後ろに組んだ。 

「いいなあ真由ちゃんは。私も都会に転校するか、都会の家に生まれ育ちたかったな」

「そんな良いものでもないよ。転校するたび新しい環境に慣れるのもたいへんだし、都会は都会で窮屈なことも多いし。あ、でも、色んな所で友達が作れるのは良いことかな」

「そんなの、どうだっていいよ」

 ひゅるりと吹いた風が、恐ろしく冷たい。ぞわりと身ぶるいした真由は反射的に水月を見やる。路傍を見下ろす彼女の虚ろな瞳はその時、玄冬に凍てつく湖面に映った黒雲みたいな色をしていた。

「あ、誤解しないでね。今のは真由ちゃんのこと言ったワケじゃないから。真由ちゃんとは友達になれて嬉しいって思ってるよ、もちろん」

「……なら、良かったけど」

 水月の真意がもう一つ汲み取れない。今の発言にしたって、果たして額面通り受け取って良いものかどうか。判断に窮する真由の柔らかい唇がぱくぱくと空気を啄む。会話の取っ掛かりを見失ったまま、気付けば真由は水月と駅舎前の交差点を曲がり、『花火通り商店街』と書かれたアーチ状の看板をくぐっていた。

「ねえ真由ちゃん。こうして私と喋ってて、違和感ない?」

 ふぇ?! と真由は素っ頓狂な声を上げてしまう。水月の唐突な質問。それはほとんど、薄々思っていたことを見事に言い当てられたようなものだった。

「い、違和感って、何が」

「だから、私の口調。真由ちゃんが聞いててヘンに感じたりしないかっていう」

 そこまで言われてようやく、ああそうか、と真由は落ち着きを取り戻す。自分のことばが訛ってはいないか。水月が尋ねているのはそういう類のことだった。

「全然。ふつう過ぎて意識もしてなかった」

「ホントにそう思う?」

「イントネーションも普通だし、私が聞いててもちゃんと意味分かるし。すごく自然で、逆に今まで気付かなかったぐらい」

「良かったぁ」

 満足、とばかりに水月が胸の前でポンと掌を合わせる。

「自分なりに努力はしてるんだけど、ネイティブの人からしたら『なんかヘン』って思われるんじゃないかな、ってちょっと不安だったの。でも真由ちゃんがそう言ってくれるのなら、きっと大丈夫だね」

「方言とか外国語ならともかく、標準語にネイティブなんてあるの?」

「テレビ局のアナウンサーは全然訛ったりしないでしょ、あれがネイティブだよ。標準語を喋れるように訓練された人たちなんだから」

「なのかなあ」

 真由は首を傾げる。標準語の起源については知りもしないが、少なくともアナウンサーが標準語を用いるのは全国津々浦々の視聴者に情報や意図を正しく伝えるため、と真由個人は考えていた。その理屈からすれば、標準語のネイティブとはすなわち日本人全員、ということになるのではないか? そんなものをやや薄い根拠で意識していることと言い、オシャレに気を遣っているらしき振る舞いと言い、ひょっとして水月は芸能界デビューでも志しているのだろうか……などと、ついそんなことを勘繰ってしまう。

「でもどうしてそんなこと気にするの? 他の子はみんな普通に方言で喋ってるのに」

「だって、訛ってるのってダサいでしょ」

「ダサくはない、と思うけど」

「ダサいよ。だって、」

 何かを言い掛けた水月が口をつぐむ。だって、の続きが気になった真由が追って尋ねようとしたちょうどその場所で、水月の足がぴたりと止まった。

「ちょっとここで休もっか」

「あ、うん。別にいいけど」

 商店街通りを一つ外れた小路の先。そこは河原の堤防になっていて、植えられた木のふもとにはいくつかの木製ベンチが置かれていた。ベンチの表面を軽く手で払い、それから水月はポケットからハンカチを取り出して座面へと敷く。真由もそれに倣ってハンカチを敷き、二人は並んでベンチに腰を下ろした。

「見て、あの山」

 水月の指し示す方角にあるのは、昨日の帰り道に見た大きな山。昨日と違い、西の空は既にとっぷりと暮れている。真由の本来の登下校路である(おお)(もり)(ばし)はその手前にあり、ここから見るとちょうど河流から山裾を切り離すかのようにそこへ横たわっていた。

「私たちの足元を流れてるこの川は(まる)()川って言うんだけど、そのずうっと下流の向こうに見えるあの山が(ひめ)(がみ)山。毎年夏の終わりに、あの山のふもとにある()(もの)川の河川敷で、大きな花火大会があるの」

「聞いたよ。大曲の花火、だよね」

 それは早苗や他の同級生から、大仙市の見どころの一つとして話に聞いていたことだった。全国各地から七十万人以上もの観客が一斉に集い行われる、日本有数の花火競技会。職人たちが腕によりをかけて作った花火を夜空に打ち上げ競い合う、それはそれは見事な大会なのだそうだ。

「だけど、この街が賑やかなのはその時だけ。後はご覧の通り何にも無い、ただの小さな田舎町」

 水月の声のトーンが徐々に落ちていく。日没に追いすがるように山の稜線からこぼれる光の帯を、真由はただじっと眺めた。

「観光地でも何でもないこの街には、そのたった一日のお祭りしかない。真由ちゃんもここに来るまでに通ってきた商店街、見たよね?」

 ためらいがちに真由は首肯する。洋服店や菓子鋪、酒屋に手芸店。いくつもの店舗が軒を連ねる商店街のほとんどは、錆び切ったシャッターですっかり覆われてしまっていた。

「学校帰りに友達とゲームセンターで遊ぶとか、雰囲気の良いカフェでお茶するとか、そういうことはこの辺じゃ全然できないの。郊外のショッピングモールにならそういうお店もあるにはあるけど、下校ついでにちょっと寄れるような立地でもないし、自転車で行くにしたって遠いしね」

「そうだね」

 引っ越し直後の家財調達、その折に真由は件のショッピングモールを訪れていた。自宅からは車でおよそ十五分。とてもじゃないが、歩きで行きたい距離ではない。

「花火以外には大きな催し事も産業も無い。あるのはせいぜいお米作り。ホントにつまんない街だな、って思う。地元で生まれ育った私でさえそうなんだから、きっと都会から来た子は飽き飽きしちゃうんじゃないかって。どう? 真由ちゃんは」

 ジャリ、と水月の靴底が地面を擦る。聴覚に爪を立てるその音はまるで、問うた相手に沈黙など選ばせやしない、とでも告げているみたいだった。

「私は……正直言うと分かんないかな。あんまりそういうことに興味ないし」

「そう」

「それに音楽が好きだから、帰りがけに遊んだりするよりもユーフォ吹けるほうが楽しいって思うタイプだし」

「そうなの?」

 突然、水月が身を乗り出してこちらを覗き込んできた。その距離があまりに近かったもので、真由は思わず仰け反ってしまう。

「真由ちゃんと私って、ホントに似てるね」

 似てる? どこが? 内心湧き出た困惑を表に出さないよう努めると、嫌でも表情がこわばってしまう。一方の水月はと言えば、そんな真由のぎこちなさにはさほど関心が無かったようで、くすりと吐息を洩らしながら小さく丸い肩をすくめていた。

「私もユーフォを吹くのは好きなの。何にも無い退屈なこの街で、楽しいと思えることって言ったらせいぜいそれくらい。だから部活も楽しくやりたいなあって思ってる」

「そう、なんだ。楽しいのは良いこと、だよね」

 そう紡いだ唇の端が苦々しさに引き攣る。さっきの部活での様子を見れば、とてもじゃないがそんなふうには思えない。もしも水月が本気でユーフォを、音楽を楽しいと思っているのだとしたら、せめてもう少しはまともに吹けるようになっている筈だ。とは言え、頭ごなしに相手のことを否定すべきではない。そうした思いから、真由は本心とは裏腹な言葉を述べざるを得なかったのだ。

「でしょ? 苦しいとか辛いとか、そういう気持ちでする音楽って何か違うと思うの。私は楽しく音楽やりたいし、きっとそう思ってる人だって沢山いるはずだよね。私と真由ちゃん以外にも」

「そこまでは分かんないけど。でも、楽しくないことをわざわざやろうとする人は、あんまりいないと思う、かな」

「だよね。ホント良かった、真由ちゃんが私の気持ちを分かってくれる人で」

 我が意を得たり、と言わんばかりに水月が顔を綻ばせる。それを見た真由の内側ではしかし、不服の念がぶくぶくと大きく膨らむばかりだった。

 字面だけを切り取って見れば、水月の言うことは真由にも共感できるところが大いにある。音楽は楽しむためのもの。少なくとも自分は楽しいと思うからこそ音楽をやっている。だがしかし、同じ『楽しむ』という言葉であっても、水月と自分のそれには何か齟齬があるような気がしてならなかった。いまいち歯車が噛み合っていないというか、どこかでボタンを掛け違えているというか。そういう異物感のようなものが、さっきから奥歯の辺りでこりこりと小さく蠕動している。

「一緒に楽しく音楽やっていこうね、真由ちゃん」

 もやもやの正体を掴み切れぬまま、その思考は水月の完璧に整えられた笑顔によってたちまち押し流されてしまう。「そうだね」と返す真由の心中は、川面に立った波濤のように忙しなく揺れ動くばかりだった。

 

 

 

 

 それから一週間ほどが過ぎ、真由が曲北での生活にもようやく慣れ始めた頃、吹部は入部式の日を迎えていた。

『面食らうなよ黒江ちゃん。当日はこの広ーい音楽室がパンパンになっから』

 という日向の言も、こうして目の前の光景を見ればなるほどと頷けるものがある。二、三年生だけでも既に百名近い大人数だというのに、そこへ加えて今この場にいる新入生はゆうに五十名を超えていそうだ。それだけの人数を一気に収容した事によって、第一音楽室はほとんど芋洗いの様相を呈していた。

「はーい、一年はそっちのほうに固まって座ってくださーい。上級生はこっち、ピアノ側さ立って並べー」

 上級生と新入部員を隔てる僅かな面、というよりほぼ線と呼んで良い隙間のところでは、ちなつが声を張り上げて部員たちを誘導していた。他校のそれと比べてかなり広めに造られている筈のこの第一音楽室も、一旦こうなってしまえばもう一部屋欲しくなるぐらいに狭く感じられる。ぎゅうぎゅう詰めとなった人いきれの只中で、どうにか斜め挿しに体を収めるスペースを確保した真由は、すぐ目の前に立つ水月の艶めいた後ろ髪をそれとなしに見つめていた。

 一緒に下校したあの日、水月とはほどなくしてベンチのところで別れ、それぞれの家路に就く運びとなった。聞けば彼女の家は駅を挟んで我が家とは正反対の方角だったらしく、それならばあの河原まで来たのはかなり大幅な寄り道であった筈なのだが、そんなことは水月にとってさしたる問題では無いみたいだった。

『今日は真由ちゃんとお友達になれたことが、何よりの収穫だったから』

 そう語る水月の蠱惑的な笑みを、真由は今でも忘れることが出来ずにいる。あの日以来、水月からは帰りを誘われることも無く、また真由自身も居残り練習や何やらで帰りの時間が遅くなりがちだった為に、再び水月と帰りを共にする機会はついぞ訪れなかった。クラスも異なる二人の接点は部活のみ。その間も水月は相も変わらず、日向の注意を受けては個人練のためにパートの輪から外れる日々を送り続けていた。そんな彼女は果たしてあの日の言葉通り、『楽しく音楽をする』日々を送れているのだろうか? それがどうにも理解しがたい。

「全員中さ入った? まだ廊下にはみ出てる子いねえが?」

「オッケーです、部長ー」

「よし。へば先生、お願いします」

「はいよ」

 よっこらせっ、と永田が音楽室の壁を辿るようにして、新入生の真正面に立つ。

「えー新入生の皆さん、まずは入部おめでとうごさいます。吹奏楽部顧問の永田栄信です」

 いつぞや真由に言ったのとほぼ同じ文句を口にして、永田は新入生の群れをぐるりと見渡した。

「既に知ってる人も多いんだろうけども、我が曲北吹部はマーチングバンド全国大会において、直近三年連続で金賞および最優秀賞をいただいております。その実績からか、外部の人なんかは我々のことを『強豪校』と呼ぶ向きもあるようですけども、」

 そこでおもむろに振り返った永田が、ギロリとこちらに視線を向けた、ような気がした。動揺した真由は慌てて目を逸らす。強豪校という呼ばれ方は好きではない。入部届を直接手渡したあの日、永田はそのように述べていたからだ。

「今年入部した皆さんの中にも、全国トップの吹部でがんばりたい、って思ってる人は多いんでねえかと思います。もちろん我々の目指す目標は今年も全国金賞、最優秀賞です。んだけども、それはあくまで目標の一つであって目的ではありません」

 新入生たちがにわかにざわめき立つ。目標と目的。良く似た二つの言葉を区別するものは何なのか。それは中学に上がったばかりの彼らのみならず、真由にとっても難解な問い掛けだった。

「曲北吹部の目的は演技演奏を通じて、観た人の心を芯から揺さぶるようなものを作ること。それが出来なければ芸術じゃありません。何となく楽器吹いて、何となく()がったねーで終わってたら、これはただの自己満足です。人前でパフォーマンスをするがらにはそうで無くて、自分たちの持ってる何かを目の前の相手にきちんと伝えてこそなんでねえか、と先生は思ってます」

 それはとてもシンプルで、力強い言葉だった。彼の語気に当てられてか、あるいは冒されてか、ほのかに浮き足立っていた新入生たちの目の色が見る見るうちに赤熱していく。

「全国三連覇なんてのは、この目的さ向かって先輩たちが精いっぱい努力してきた、その結果に過ぎません。音楽は勝ち負けでない、というのは良く言われてらども、観てる人はその良し悪しをハッキリ付けます。残酷なようだけど、それは厳然たる事実です。要は自分たちだけでなく、観てる人にも『これが最高だ』と思われるようなパフォーマンスが出来れば、結果として後から賞が付いてくるってことです。大会の結果はあくまで目標。観てる人全員を最大限に感動させる音楽をするのが目的。これを意識して、ここにいる百三十七名全員、一丸となって頑張っていきましょう」

 永田が語りを終えると同時に、ちなつが事前の打ち合わせ通り「せえの、」と小声で音頭を取る。

「よろしくお願いします!」

 上級生一同から送られた大合唱。それは歓迎の意を示すと共に、新入生たちの覚悟を促すための宣告でもあった。引き続いて部長以下、吹部を取り仕切る幹部たちの簡単な自己紹介を経た後、式の次第は淀みなく新入生のパート分けへと進行していく。

「では各楽器の希望者は、パート単位でそれぞれの教室さ移動してもらいます。各パート定員があるので希望者の多いところは振り分けのために簡単なテストをしますけども、それについては各パートリーダーの指示に従って動いて下さい。所属が決まり次第、パート内での自己紹介と楽器決めをやることになります。それも各パートリーダー、打ち合わせ通り動くようお願いします」

 ちなつの適切な指示によって、大軍勢とも形容できる人の波が音楽室から廊下へとどんどん掃けていく。我らが低音パートの列にくっついて来たのは男子が一人、女子が四人。大漁、と一般的な吹部なら呼べそうな人数でも、大元の部員数が倍以上にもなる曲北にあっては少なく感じられるから不思議なものだ。

「さて、低音パートは毎年希望者が少ねえから、お互いの自己紹介すんのは他のパートのテスト結果待ちね。それまでの間はソコさ座ってちょっと待ってて」

 低音パートの練習場所である教室に着いてすぐ、日向は新入生たちに最初の指示を出した。それを受けた彼らは「ハイ」と素直に返事をし、教室の隅に椅子を並べて姿勢正しく着座する。彼らの見守る前で真由たち上級生はいつも通り音出し等の基礎練習を開始し、それからパートでの音合わせ、曲練習、とメニューをこなしていく。自分もやがてはこの輪に加わることになる、と期待に胸を膨らませているであろう新入部員たちの双眸はみな一様に、煌星(きらぼし)のごとく輝いていた。

 そうこうしている内に、他パートからこぼれてきた新入生が一人二人、とやってきた。彼らの受け入れを済ませた日向がチラ、と教室の壁掛け時計を見やる。パートごとに分かれてから三十分。そろそろ他パートの人員もあらかた定まった頃だろう。実のところ、パートの割り振りは今日までの仮入部期間で大半が内定済みであり、パート分けテストという名のふるい掛けもあくまで補助的に行われているに過ぎなかった。もっとも「入部そのものの可否をテストで決める」なんてことが無いだけ、曲北はまだマシなのかも知れないが。

「じゃあ一年生、こっち来て。そろそろ自己紹介始めっから」

 日向に案内された一年生が席を立ち、黒板の前に並ぶ。上級生たちも椅子の向きを変え、彼らと対面するかたちとなった。

「それでは改めまして、新入生の皆さんの低音パート加入を上級生一同、歓迎します。これから順に自己紹介をしていきますので、低音パート! って呼ばれたらすぐこのメンバーで集まれるように、全員の顔と名前をしっかり覚えて下さいね。ではトップバッターは低音副パートリーダーのわたくし、中島日向から……」

「日向ってば、まぁた初顔相手にブリっ子してら。いい加減やめれ、ってこないだちなつに言われたばっかだべー」

「こぉらー。言わねば分がんねえのに言うなってー」

 突如として繰り広げられる上級生同士の漫才にどっと笑いが起こり、それにつられるようにして新入生たちからもくすくすと笑みがこぼれ出た。こうして日向本人から始まった自己紹介は三年生、次に二年生、と先日の順序通りスムーズに行われてゆく。「んじゃ次ー」と日向に指差され、真由はおもむろに席を立った。

「二年の黒江真由です。実はこの春転校してきたばかりなので皆さんと同じく新米みたいなものですが、先輩として胸を張れるよう精いっぱい頑張っていきたいと思ってます。よろしくお願いします」

 真由が一礼すると、一同からは盛大な拍手が返ってくる。転校してからこっち、何度自己紹介をしてきたかも分からない。その度に緊張を強いられるのはもはや生来の気質ゆえ、と真由は半ば諦めの境地に立っていた。

「二年、長澤水月です。よろしくお願いします」

 続く水月の挨拶はいたって簡素で短いものだった。新入生はともかく上級生たちの拍手はまばらで、中には水月から露骨に顔を逸らす者さえもいる。個性派揃いながらも連帯感の強い低音パートの中で、水月だけが明らかに一人ポコンと浮いている。パート内に蔓延しているそんな空気を、さすがの真由でさえもここ数日のうちに察しつつあった。

 ともあれ上級生の自己紹介はこれにて一段落、お次は新入生たちが自己紹介をしていく番だ。端から一人ずつ起立し、名前と出身校に加えて自分のキャリアを述べてゆく。どこそこ小のマーチングバンド出身。楽器歴何年。そんな申告が続々と出てきたことに、真由はちょっとした感動すら覚えてしまう。地域柄なのか何なのか良く分からないが、学区内に幾つかある小学校から曲北に入学した新一年生のうち実に八割ほどがマーチング部上がり、残る二割も座奏バンドや合唱など何かしら音楽の心得あり、というのは何気にすごいことである。これほど多くの経験者が新入部員として入ってくるのなら、曲北吹部の層が分厚くなるのも道理と言えよう。だがそうかと言って、必ずしも強豪吹部に入部するのが経験者ばかりであるとは限らない。例えばそう、彼のように。

「一年一組、(いし)(かわ)(たい)()です。小学校ではサッカー部だったすけど、中学では全国制覇を目指してみたいと思って吹奏楽部に入部しました。音楽は全くの初心者ですが一生懸命がんばりますんで、よろしくお願いします!」

 教室いっぱいに彼の元気な声が響く。スポーツ刈りの頭髪に浅黒く日焼けした肌、そしてぶかぶかの学ランに身を包んだ泰司は、低音パート新入生で唯一の男子だった。いかにも元気いっぱいのやんちゃ小僧、という彼の成長途上な見た目と溌溂とした表情に、真由もなんとなく『かわいい男の子だな』という印象を抱く。

「じゃ、これから具体的に希望楽器を決めて、それぞれ練習を――」

 と日向が言い掛けたところで、「すみません!」と勢いよくドアが開け放たれた。そこに立っていた女子の名札には緑色のマーク、つまりは泰司たちと同じ新入生の学年カラーが施されている。硬そうな髪を頭頂部で括りつけたその子の容姿はあまりに個性的で、髪型だけをあげつらうならば『横倒しになったヤシの木』という表現がピッタリだな、と真由はこっそり思う。

「テスト受けてきた子?」

「はい。ホルンパートのテストが終わって、その、こっちに来ました」

「そっか。ちょうどいま一年の自己紹介してたとこだから、あなたもこっちさ並んで」

「はいっ」

 日向の出迎えを受けた女子がおずおずと新入生の列に加わる。彼女はテストに落選し、ホルンから低音へと回されてきた。今の受け答えはそういう意味を言外に含んでいた。

「一年四組の()(しま)()()です。小学校ではマーチング部でフリューゲルホルンを吹いてました。低音楽器は未経験ですけど、一生懸命練習しますんで、どうかよろしくお願いします」

 ぺこりと玲亜が頭を下げ、一同からは歓迎の拍手が注がれる。こうして全パートの人員配置が確定し、それと共に、曲北吹部の本格的な活動の日々が幕を開けることとなった。

 

 



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〈3〉新しい後輩と 新しい先輩と

「ハイ、じゃあそのまま吹いてみて。せーの、」

 真由の合図に伴って、泰司が大口径のマウスピースに力いっぱい息を吹き込む。けれどそこから出てきたのは『フスー』という、風船がしぼむときのような侘しい音だけだった。

「もうちょっと唇をしっかり閉じて。ただ息を吹くっていうより、閉じた唇の真ん中からブー、って息をこぼれさせるイメージで」

「は、はい。すいません」

「大丈夫、コツさえ掴めればすぐ出来るようになるから。気を取り直してもう一回やってみよう」

「はい」

 低音パートの所属員が確定した直後、一年生たちの担当楽器も当人の希望に基づいて比較的スムーズに決められた。チューバには泰司と他二人。ユーフォには玲亜ともう一人。音楽的には経験者である玲亜もユーフォは初めてということで、彼女たちには現在雄悦がつきっきりで楽器の説明と運指のレクチャーを行っている。他の子たちの受けている指導内容は、腕に覚えのある者ならさっそく曲練、そうでない者はまず基礎的な音出し、と個々のキャリアによりけりだ。

『ウチらも他の子さ色々教えないといけねえし、それに黒江ちゃんって教えんの上手そうだからさ。()りいけど頼むな』

 そんなこんなで日向から宛がわれたのは、全くの初心者である泰司に初歩中の初歩、すなわちマウスピースを鳴らすことを手ほどきする役目である。そのぐらいだったら、と真由は二つ返事でその依頼を引き受けた。ユーフォ一筋でやってきた自分にはチューバの本格的な奏法など正直サッパリ分からないが、そんな自分でも音楽的に基礎レベルのことならどうにか教えられる。とりわけ金管楽器同士は音を鳴らすための基本原理が共通しているので、マウスピースを鳴らすだけなのであれば指導するのもそんなに難しいことではない。

 マウスピースを鳴らせなければ楽器を鳴らすことは出来ないし、楽器を鳴らせなければロングトーンやスケールといった基礎練習にも移れない。こと金管楽器において、『鳴らす』という行為は必須のものでありながら、楽器にも触れたことのない初心者にとっては最初の関門、といったところでもある。この点は息を吹き込めば音が鳴るリコーダーとは少々勝手の違うところだ。

「うはあ、ダメだ、全然出ねえ」

 何度か息を吹き込んだ後、泰司はマウスピースから口を離して宙を仰いでしまった。これは言葉で説明を続けるより、実際にやってみせた方が早いか。そう思った真由は泰司にいったんマウスピースを下ろさせる。

「いい? ちょっと見ててね」

 (ブイ)の形にした指を口に当て、『ブー』と唇を震わせてみせる。それを見た泰司の口から、おお、と感嘆の声がこぼれた。

「こんなふうに唇の両端をちょっと張って、真ん中あたりを小刻みに震わせるの。ずっと鳴らすのが難しかったら、最初は『ブッブッブッ』って断続的に鳴らすつもりで吹いてみるのもアリだよ」

「分かりました、やってみます」

 真由と同じように指を唇へとあてがい、泰司は肺の容量の限り、目いっぱいまで息を吸い込んだ。

「そこで一度息を止めて、唇の両端をきちんと締めてるか、自分でチェックしてみて。そうそう、良い感じ。それじゃそのままで、まずは思いっ切り」

 泰司が全力で息を吹く。彼が唇の力加減を僅かに変えた時、びぶっ、と短く唇が振動した。

「そうそう、それだよ。今の感じ」

 ほはぁ、と緊張を解いた泰司が不思議そうに己の指を見つめる。もう一度やらせてみると、今度は『ブー』と長く唇を鳴らすことが出来た。

「上手上手。あっという間に感覚掴んじゃった。センスあるね、石川くん」

「あ、ありがとうございます」

 真由の手放しの賞賛を受けた泰司の顔がぽうっと赤く染まる。出来ないことが出来るようになる、というのは誰しも嬉しく感じるものだ。初めてユーフォに触れた時のことを思い出し、真由の頬も自ずと緩む。

「今のが『バズィング』っていう、金管楽器を鳴らすときの唇の動きなの。感覚を忘れないうちに、今度はマウスピースでやってみようか」

「はい!」

 ひとたび感覚を掴めば後は自転車に乗るのと同じ。あれだけ難航していたマウスピースの吹き鳴らしも、今の泰司はそつなくこなせるようになっていた。思い通りに楽器を吹くためにはまだまだ覚えるべきことが山ほどあるのだけれど、それはこれから時間を掛けてじっくり身に付ければ良い。ファーストステップさえきちんと踏めれば、あとは本人の努力次第だ。

「慣れないうちは大変だと思うけど、楽器が吹けるようになってくるとどんどん楽しくなってくるよ。私に教えられることだったらいつでも聞きに来てもらって良いから、これからも一緒にがんばろうね」

 泰司を勇気づけるようににっこり微笑んであげると、ポカンとした泰司は一拍置いてから「よ、よろしくお願いします!」と慌てたように頭を下げた。彼のそんな初々しさが、真由には眩しいくらいだった。

 

 

 新入生たちが各々要領を得てきたところで、いったん練習の手を止めさせた日向がおもむろに教壇へと向かった。真由も他の部員たちも楽器を置き、黒板の前に立った日向へと視線を注ぐ。

「これから新入生の諸君に、我が吹奏楽部の年間活動スケジュールをざっと説明したいと思います」

 チョークを手に取った日向はまず最初に『五月 マーチングフェスティバル』と、大きな白文字をカツカツと黒板に刻んでいく。擦れて砕けたカルシウムは粉となり、ささめ雪のように受け皿へと舞い落ちる。

「当面の活動目標は来月、大型連休中に行われるこのマーチングフェス。って言っても一年生はいきなり参加すんのは無理だから、この時点ではどっか他の空いてるトコで音出しとかステップとか、基礎錬を中心に取り組んでもらうことになるけどね」

 五月の連休。それを聞いた真由は、教室の掲示板に貼られたカレンダーへと目を向ける。今は四月の半ばであり、ということはどんなに多く見積もっても、直近の大会本番までは残すところ三週間ちょっとしかないことになる。

「んで、ここで代表推薦を受けると大きく飛んで、十一月のマーチング東北大会に出場することが出来ます。東北大会でも代表選抜されればその次の月、十二月に埼玉で行われる全国大会に出場決定です。全国大会では金銀銅の三つの賞の他、金賞の中で一番得点の高かった学校に最優秀賞が贈られるんだけど、その全国最優秀賞を獲るってのがウチら曲北の最大目標ってワケ」

 口頭で説明を続けながら、日向は五月の項から大きく距離を空け、十一月、十二月の項にそれぞれ行事を書き足す。

「ついでに言っとくと、マーチングの大会には二種類あります。一つは吹奏楽連盟の主催するマーチングコンテスト、略してマーコン。もう一つはJMBA主催のマーチングバンド・バトントワーリング全国大会。で、ウチらが参加すんのはこっちのJMBA主催大会ね」

 日向がそこまで説明した時、「質問です!」と泰司が勢いよく手を挙げた。

「JMBAって何の略っすか?」

「良い質問だぞ石川っち! JMBAってのは『全日本マーチングバンド協会』の英語表記から、その頭文字だけを抜き取った呼び方なのさ。つまりはジャパーン(J a p a n)マアチーン(M a r c h i n g)バンヌ(B a n d)アスシエイシュン(A s s o c i a t i o n)、略してJMBA、ってワケ」

 日向の得意げな解説に、一年生たちは何とも微妙そうな反応を示した。言葉の意味はともかくとして、今の怪しげな発音はツッコミ待ちなのか素でやってるのか、もう一つ捉えがたい。

「えと、二つの大会の違いって、主催団体以外に何があるんですか?」

 泰司とは別の子からの、空気を入れ替えるみたいな質問。それに日向は「んー、」と口元に拳を当てる。

「ウチらも詳しく知ってるわけじゃないけど、大まかに言えば開催時期と大会の規定だね。マーコンの場合は九月の都道府県大会から始まって十月に支部大会。全国大会は十一月の後半、と大体一ヵ月刻みになってます。大会規定については制限時間の違いだけでなく『規定課題』ってのがあって、演技の途中に決められた動きを必ず取り入れないといけません。あとはフロアに立てる人数にも制限があって、確か一団体八十人までとか、そンた感じ」

 ほうほう、と一年生たちが揃って頷く。

「対するJMBAのほうには小編成と大編成っていう二つのくくりがあって、私らの参加する中学校の部大編成はドラムメジャー、つまり指揮者を含めて五十五名以上のメンバー構成でフロアに立つことになります」

「へば、部員は全員本番さ出れる、ってことですか?」

「あくまで原則としては、だけどね。諸事情で不参加とか、出るには出ても虚弱体質なせいで楽器吹かずに毎回旗持ち、ってやつもいるし」

「いや、いま俺の話いらねえがら」

 日向のジト目へふくれっ面を返す雄悦のさまに、他の三年生がククっと笑いを噛み殺す。

「というわけで、ここまでがマーチングに関しての説明となります。十月以降の大会では一年のみんなもフロアに立つかもなんで、ステップや(エム)(エム)っていう基礎的な動き方については各自、秋までにしっかり身に付けといて下さい」

 はい、と一年生がはきはき返事をする。小学生の頃にパレード演奏をこなした経験のある真由も、マーチングの用語や本格的な動きについては未知の領域も多い。彼らに負けぬよう練習しなくては、とこっそり決意を新たにする。

「それとマーチング以外では、七月から吹奏楽コンクールが始まります。こっちは順当に勝ち上がっていけば七月中旬の地区大会から八月の頭に県大会、八月後半には東北大会、んで十月末に全国大会、って感じで日程がビチビチに詰まってんだけど、全国まで行けた場合はマーチングとほぼ同時並行の練習日程になっちゃうね」

 さっき飛び越えたスケジュールの空白部分にコンクールの日程が書き加えられていく。日向の筆跡が存外整っていることに幾ばくか感心しつつも、真由はその日程をざっと振り返ってみた。来月初旬にマーチングの秋田大会。六月から九月まではコンクール関連。秋の中頃から初冬にかけてはマーチング東北・全国大会。こうして見ると、一年間のうち半分以上は種々の大会ですっかり埋め尽くされる恰好だ。

「コンクールも目標はもちろん全国金賞なんだけど、こっちにゃ()ええ学校がウヨウヨしてっから、今んとこ最高記録は東北止まりってカンジです。けどコンクール用の練習は演奏技術や表現力を磨くためにも大事だし、マーチングにゃ関係ねえべ、って気持ちでダラっと練習してたらダメだがらね」

「はい」

「あとは十月の文化祭と年の暮れに吹部の定期演奏会、冬は冬で年始すぐのアンサンブルコンテストに三月の新人演奏会、と参加行事は目白押しです。他にも合間合間にいろんなイベントでのパレードや招待演奏なんかも入ってくるんで、ぶっちゃけ年間の休みはほとんどありません」

「うえぇー。サッカー部より厳しくねえすか、それ」

 泰司から悲鳴の声が上がる。文化部なのにそこまで忙しいとは、運動部出身の彼には思いもよらぬ事実だったのかも知れない。

「まあ、曲北でウチより忙しい部は他に無えと思うで。去年なんか、まともに休めたのはお盆と年末年始くらいだったもん」

 マジブラックだよねー、という声が先輩たちの間から洩れ聞こえる。さすがにここまでではなくとも、吹奏楽部がそれなりに年間通して多忙であることは、真由もそれまでの経験から知っていた事だ。朝練や居残り練も含めれば拘束時間はかなり膨大になるし、レギュラー選考やコンクールといった内外との競争も少なくないために、練習そのものの濃度も自ずと高まることとなる。『体育会系文化部』とはまさに、吹部のそういった実情を的確に表した言葉なのである。

「なモンで、短い期間でどんどん新曲を覚えたり大会ごとに練習内容を切り替えたり、っていうのは当たり前のことになります。うかうかしてるとあっという間に周りから置いてけぼり喰らうし、みんな上手くなるために必死こいて練習するんで取り返すのも簡単じゃありません。人数制限のあるコンクールでは勿論のことだけど、全員参加が原則のマーチングでも、実力不足と判断されれば本番さは出られねえことだってあります」

 そこで一瞬、チラリ、と日向が水月に視線をやった。水月はそれに顔色一つ変えることなく、黒板の辺りをぼうっとした顔つきで眺めるばかり。少し気になるその間は他の何かに変換されることもなく、続く日向の発言によって流されていった。

「年間のスケジュールがこれだけ詰まってるってことと、それをこなしていけるようにしっかり腕を磨くこと。この二つを意識して毎日の練習に取り組んでいって下さい。私からの説明は以上。みんな、良いかな?」

「はい!」

 日向の問い掛けに一年生たちが大きく返事をしたのをもって、小休憩は終了と相成った。再び楽器を構えた部員たちは、各自取り組むべき課題へと向かい真剣に練習を重ねている。真由もまたメトロノームの刻みに合わせてユーフォを鳴らし、膨大な数の楽曲を一日も早く吹きこなせるよう己の音を研ぎ澄ましていった。少しでも彼らに追いつく為に、少しでも早く追いつけるように。

 

 

 ばしゃばしゃ、と蛇口から流れ落ちる水にマウスピースを浸し、カップの内側をていねいに指ですすぐ。クリーナーとブラシを使ってパイプの中までしっかり洗い上げたあと、ポケットから取り出したミニタオルで表面に残った水滴を拭き取る。毎日やっていればこういう作業もすっかり手慣れたものだ。入念な洗浄によってきれいになったマウスピースは、今日もつるりと美しい銀鈍色の輝きを放っていた。

 今日の居残り練習はこれにて切り上げ。楽器の手入れも一通り終わらせた。さて、教室に戻って後片付けをしよう。そう思っていた真由を「あの、」と誰かが呼び止める。きょろきょろと辺りを見回し振り返ってみると、一人の女子生徒がミルク色のハンカチを手にしてそこへ立っていた。

「これ、もしかして黒江さんの?」

 あ、と真由はその模様に見覚えがあることに気が付く。どうやらさっきミニタオルを取り出そうとした時、ハンカチまで一緒に引っ張られて落っこちてしまったらしい。すみません私のです、と半ば泡を食ってハンカチをひったくり、ぐしゃりとポケットに突っ込む。と、目の前の女子は突然クツクツと唇を震わせ始めた。

「あの、えっと?」

「ああごめんごめん、なんか思ってた反応と違ったもんで。気にしないで、悪い意味じゃねえから」

 そうは言われても、と思いつつ、真由は面識のないその女子の名札にじっと目を凝らす。盤上に引かれたラインは青色、三年生の学年カラーだ。こちらの名を知っていることからして吹部の先輩だとは思うのだが、ひと口に先輩と言ってもあまりに数が多すぎて、挨拶もしたことの無い人の顔や名まではさすがに覚えていなかった。

「って、黒江さんは私のこと知らねえよな。こうやって話すのだって初めてなんだし」

 真由の視線に気付いた女子が、自分の名札をつまんで真由へと向ける。

「私、(あき)(やま)ゆりっていうの。アルトサックス担当の三年生。よろしくね黒江さん」

「ああ。すみません失礼しました。よろしくお願いします、秋山先輩」

 真由は内心安堵する。これが事実上の初対面なのであれば、ゆりに関して全く見覚えが無かったのも至極当然のことだ。初の接触に緊張を抱いていたのは向こうも同じだったようで、セミロングの髪を気恥ずかしそうに撫でたゆりが、えっと、と上目遣いにこちらを見る。

「私も他県からの転校生組だったから、って言っても転校してきたのは小学生の頃だけど。それで黒江さんのこと、ちょっと気になっててさ」

「気になる、ですか?」

「慣れねえ土地で生活する大変さって、実際に引っ越ししたことのある人でないと分かんなかったりするでしょ。そういう経験、私にもあったから」

 ゆりはにっこりと、少女漫画の登場人物みたいに長く伸びた睫毛を伏せて微笑む。

「もし何か困ったことあったらいつでも言ってな。力になれるか分がんねえけど、私で良かったら相談に乗るからさ」

「はい、お気遣いいただいてありがとうございます」

「堅っ苦しいこと言わねったっていいよ。同じ転校生のよしみってことで」

 ゆりの醸し出すおっとりとした純朴さを例えるなら、まるで森の木陰に佇む淑女みたいだった。最初は何事かと思わされたが、心優しい人であることはどうやら間違いないみたいだ。今の時点で特に困りごとがある訳では無いものの、ゆりの温かい気遣いの心が嬉しくて、真由もふわりと笑みを返す。

「――あ、」

 とその時、視線を外したゆりが微かに目を瞠った。

「ごめん私、教室に忘れ物してたの思い出した。へばまんずね、黒江さん」

「あ、はい。お疲れさまです」

 そそくさと小走りに立ち去るゆりの背中を怪訝な気持ちで見送ってから、真由ははたと疑問を抱く。

「ヘバマンズネ、って、何?」

 あれは一体どういう意味だったのか。先日学んだ通り『へば』というのが『それじゃあ』なのであれば、後に続くマンズネの意味によってゆりの発言の趣旨は大きく変わる。まあとりあえず? それとも不味いね? その翻訳を試みる上で必要となる秋田弁の語彙力が、このときの真由には圧倒的に不足していた。

「あの、」

 あらゆる可能性を脳内で模索していたその時、再び背後からゆりの声がした。いつのまに後ろに、と思いつつ振り返ると、そこにはゆりをほんの一回りほど小さくしたような見かけの女子がそこに立っていた。

「黒江さん、今、お姉ちゃんとハナシしてたよな」

「はい?」

 お姉ちゃんって誰? ハナシって何のこと? 質問の意味が良く分からず、真由は女子に尋ね返す。

「お姉ちゃん、と言いますと」

「だがらさっきの人、秋山ゆり。あれ、私のお姉ちゃん」

「じゃああなたはもしかして、秋山先輩の妹さん?」

「おっと、そう言やまだあいさつしてなかったっけ。私、秋山(かえで)。吹部のクラリネット担当で、ゆりの一つ下の妹」

「ああー、なるほど」

 ようやく彼女の素性が知れたことで、真由の体から強張りがほどける。それにしても、と真由は改めて楓をしげしげと眺め回した。長い睫毛に柔和な顔立ち、そして鎖骨までかかったセミロングの髪。紛らわしいことに、この近さで見ても瓜二つと言って良いほど、楓の風貌は姉のゆりと酷似していた。ほんの僅かな身長差以外に見つけた姉妹の相違点はと言えば、楓が髪をポンポン付きのゴムバンドで横結びにしていることと、ゆりに比べて胸の自己主張がずいぶん激しいことだ。

「秋山先輩の一つ下ってことは、秋山さんは私と学年同じなんだね」

「んだね。あーそうそう、秋山、だとお姉ちゃんと区別しづらいと思うがら、私のことは楓って呼んでもらっていいよ」

 よろしく、と握手を求められた真由は何の気なしに楓の手を握る。彼女の細く冷たい指が探るように手の甲へと絡みついてきて、そのくすぐったさに真由の肩はぞわりと震えてしまう。

「それで黒江さん。さっきお姉ちゃんとどんな話してらったの?」

「どんな、って別に、私がうっかり落としたハンカチを拾ってもらって、そのついでにちょっとお話ししてただけだよ」

「そのちょっとっていうのは、具体的には?」

「具体的にって言われても……あ、そう言えば、困ったことあれば相談に乗るよって、そんな感じのこと言ってたかな」

「あのお姉ちゃんが、そんなこと言うなんて」

 信じられないとでも言うかのように、楓は手で口を覆う。

「えーと、ごめん楓ちゃん。私もさっき秋山先輩と会ったばっかりで、話が良く見えないんだけど」

「あ、こっちこそごめん。一人で先走って相手を置いてけぼりにすんの、私の悪りいクセで。他の友達からもちゃんと順序立てて喋れ、っていっつも注意されてんだけど」

「はあ」

「えっと、つまりな。お姉ちゃんが同じパートでもない後輩の子にあんなふうに話し掛けんのって、私今まで見たこと無かったの。普段は自分から話し掛けたりもしねえし、家に友達連れてきたことだって全然無いぐらいで。まして相談に乗るだなんて、普段のお姉ちゃんならまず言い出さないってぐらい、これはすごいことなんだよ」

 ふすん、と鼻息を荒くした楓の双眸が、磨き上げられた水晶玉みたいに光っている。よほど強い関心事に巡り合ってしまった時、えてして人はこういう眼差しをその対象へと向けるものだ。

「どうかな。私だけとは限らないし、楓ちゃんが見てないところで仲良くなってる人もいるんじゃない?」

「無えよ、それは。だって私、四六時中お姉ちゃんのこと観察してんだもん。学校でも家でも」

「それはそれであぶ、じゃなくてその、すごいね楓ちゃん」

 危ないね、という言葉が思わず口から出そうになるのを寸でのところで押し留める。真実は時として人を傷付けるものだ。そのぐらいはある種の社会常識として、真由もとっくに弁えている。

「だからね黒江さん、お姉ちゃんのこと、どうかよろしくお願いします!」

 何のためらいもなく、楓がガバリと頭を下げてきた。これにはさすがの真由も面食らってしまう。

「え、ちょ、どうしてそうなるの」

「私、前から心配してて。誰かお姉ちゃんの面倒見てくれる仲良い友達でもいればなあ、ってずっと思ってたんだ。お姉ちゃんがあんな心開いてる感じすんの、黒江さんが初めてなの。きっと黒江さんと仲良くなれればお姉ちゃんだって嬉しいと思う。だがらお願い。どうかお姉ちゃんと仲良くしてあげて下さい」

 そんなこと言われても、と真由は返答に窮してしまう。大体の話、楓の願いがゆりの思惑に沿ったものかどうかも疑わしい。他人の心遣いが当人には余計なお世話、ということだってままあるものだ。けれど目の前の楓はお辞儀の姿勢を崩さぬまま、熱の籠った視線だけをこちらへと注いでいる。そのあまりの必死さにこちらも何も言えなくなり、しばし互いにじっと目を合わせ続ける。

「お願い」

 重ねて懇願されたのをトドメに、真由はとうとう根負けしてしまった。これは『うん』と言うまで引き下がってくれそうにない。そう直感して渋々ながら承諾すると、途端に楓はパアッと表情を明るくした。

「でも秋山先輩とは学年もパートも違うし、それで急に馴れ馴れしくするのもヘンだと思うから、あくまで関わりがあった時にちょっとずつって感じになると思うけど」

「それで良いよ、全然良い! ありがとね、黒江さん」

 歓喜する楓がこちらの手を掴み取り、勢いよく上下に振り始めた。痛い。腕がもげる。真由のそんな心の悲鳴は当然のことながら、楓にはちっとも届かなかった。

「私も黒江さんとは仲良くしたいな。また今度どっかでゆっくり話そ。へばまんずね!」

 最後まで一方的なやり取りを残して、楓は竜巻のように猛然と立ち去ってしまった。それを見送った真由の全身にどっと疲労が襲い掛かる。傍目には似た者姉妹、とでも呼べそうなゆりと楓だが、全般的に落ち着いた雰囲気の姉に比べて妹は積極的かつ大分そそっかしい性格をしていた。お願い云々は置いておくとして、姉妹どっちと付き合うのが気楽かと問われれば、自分なら迷わず姉の方を選ぶだろう。そうと思ってしまうほど、楓の放ったファーストパンチは真由にとってあまりに強烈なものだった。

 それにしても、と真由は考え込む。ゆりも楓も去り際に同じことを言っていた。

 ヘバマンズネ。

 あれも秋田の方言か、はたまた姉妹特有の合言葉か何かなのか。曲北に転校して早十日あまり、真由の知らないことはまだまだ多かった。

 

 

 

「『まんず』っていうのは『ひとまず』『とりあえず』って意味に(ちけ)えかな。んだがら『へば、まんず』って組み合わせると、『それじゃあひとまずこれにて』って感じの言葉になるワケ」

 明くる朝の教室。昨日の疑問が抜けぬまま一夜を過ごした真由は早速とばかり、登校してきた早苗にその意味を解説してもらっていた。

「それってつまり、仲の良い友達に『さよなら』じゃなくて、『じゃあな』とか『またね』って言うのと同じなのかな」

「そうそう、そゆことだね」

 早苗のおかげで大まかな意味は理解できた。噛み砕いて言うなれば、『へばまんず』は秋田弁における別れ際の感嘆詞あるいは定型句、ということだ。昨日からの疑問がようやく腑に落ちて、真由はすっきりした胸を撫で下ろす。

「こうして早苗ちゃんから聞く度に思うことだけど、秋田弁ってけっこう奥が深いよね」

「どうだろなー。私らは普通に使ってるがらあんま意識してねえけど。あ、でも小学校ん時の先生は漢字とかローマ字に直せば分かりやすい、って言ってたっけな」

「わざわざ他の言葉に直すの?」

「うん、例えばこんな感じで」

 机からB6サイズのノートを取り出し、早苗がそこに幾つかの方言らしき文字列をしたためていく。その中から『おばんです』という語句をシャーペンで指しつつ、早苗は秋田弁講座を再開した。

「これは夜、人ん家に行った時とかに使う挨拶の言葉なんだけど、月のきれいなお晩です、っていう昔の挨拶から来てるんだって。『こんにちは』の語源が、(こん)(にち)は良い天気ですね、だっつうのと似たようなもんだね」

「あー、これはすごく解りやすい」

「他にはこれ、アホって意味の『ホジナシ』。これは漢字にすると『本地無し』で、この本地っていうのは仏教用語の『真理』みたいな意味だらしいのよ。それが無いからつまりアホ、だとか」

「なるほど。音だけだと分かりづらいけど、こうやって漢字ベースで考えると意味が通る気がするね」

 だべー、と言いつつ早苗は引き続きノートに種々の秋田弁を並べていく。ねまる、したっけ、おざってたんせ。それぞれの言葉の横に訳語や解説が付けられると、それはちょっとした翻訳字典のようですらあった。

「あと秋田って雪多くて(さみ)いがら、それでなるべく口動かさなくても喋れるような発音に進化した、って話もあったっけな」

「それで『そうだね』が『んだね』になったり、『そうなのか』が『んだのが』になったりしたってこと?」

「実際どうだかは分がんねえけどね。でもそういうふうに考えてけば、ああ何となくニュアンスで理解出来んな、って感じもするべ?」

「言われてみると、確かに」

「よしよし。へば、これでキミも今日から秋田弁マスターだ!」

「いや、まだその域にはちょっと達してないかな」

 いくら何でもそれは段階を飛躍し過ぎだ。苦笑いを浮かべる真由に、早苗は「謙虚ですなー」と言いつつ口元をにやつかせる。

「それでも私らはテレビとかネットの影響で、かなり訛り抜けてる方だけどね。じいちゃんばあちゃんたちの会話とか聞いてると(すんげ)えで、ワッケ分かんねえ単語ばっか出てくるし」

「あ、それ、前いたところの友達も言ってたよ。年配の人の話し言葉って訛りが強いから、全然意味が通じないんだって」

「でしょー。うちのばあちゃんなんて、女なのに自分のこと『おら』って言ったりするし。オメエは地球育ちの戦闘民族か! ってなるもん」

「そのツッコミのほうが意味分からないよ」

 あはは、と二人が笑い声を上げたところでキリも良く、スピーカーから始業時間を告げるチャイムが鳴り響く。周りで遊んでいたクラスメイト達も席につき、ほどなく担任の真理子がホームルームのため教室へとやって来た。

「先生おはようございます」

「おはようございます。今週から委員会の活動が始まりますが、それに向けて所属する委員会を決めるためのアンケート用紙を配ります。それぞれ第一希望と第二希望の委員会を書いて、明日のホームルームまでに用意しておいて下さい」

 そう告げて、真理子は持ってきたプリントの束を最前列の生徒へと配った。先頭から後列へと順々にプリントが手渡しされていき、前席の男子から無言で寄越されたプリントを真由も受け取る。

「ありがと」

 それに返事もせず、男子はぶっきらぼうに姿勢を直した。(くさ)(なぎ)(まさ)()。真由の一つ前の席に座るその男子を一言で述べると、あらゆる意味で個性的な人物だった。

 常に目の辺りを鬱蒼と覆い隠す、ゆるいパーマが掛かったような癖っ毛の頭髪。細く尖った眼差しと頬骨の張ったきつめの相貌。周囲との会話も最低限レベルで、授業中に当てられた時以外では彼のくぐもった声を聞いたためしが無い。仲の良い友人というのもクラスの内外を問わずいないらしく、休み時間になるといつもどこかへフラリと出かけてはチャイムが鳴るまでにフラリと戻って来る。だからと言って周囲から邪険にされるでもなく、まるでそうあるのが当然とでもいうように、彼はただ一人きりで教室の片隅にひっそりと存在していた。

 真由自身は別段、彼のことが気になっていたわけでは無かった。どんなクラスにも一人はいる、一匹狼タイプの少年。彼に関して抱く認識はせいぜいその程度。ただ一つだけ、そこに付け加えるべき情報がある。雅人は真由の同級生というだけでなく、同じ吹部の部員でもあった。

 

 

 

 

 

 

 桜の芽がようやく膨らみを見せ始めた頃、真由も部の練習にかなり対応できるようになってきていた。来週の連休を迎えるとマーチングフェスまで残り数日。現在はそれに向け、体育館で動きと音を合わせる全体練習に取り組んでいるところだ。

(ワン)(ツー)(スリー)(フォー)、」

 ドラムメジャーの打ち鳴らすスティックの音に合わせ、フォーメーションを組んだ隊列が体育館に線引きされた演技範囲、すなわちフロアの上を一斉に動き始める。レフトターン、ライトターン、ボックス、クロス。その動きは既に基礎練習の域ではなく、『コンテ』と呼ばれる隊の動きを書き割った台本に沿ったもの、即ち本番用の演技動作となっている。つまるところ、ほんの数週間前に転校してきたにもかかわらず、真由は来たる五月の本番にメンバーとしてフロアに立つ前提で全体練習に参加していたのだった。そんな思い掛けない真由の大抜擢には、ちょっとした事情がある。

『……二年の長澤に関してですが、諸々の事情から、長澤は今回のマーチングフェスには参加しないということになりました』

 それはつい先日のこと。メンバーにコンテが配られさあこれから本格的に練習開始、というミーティングの場でにべもなく、永田は部員たちにそう告げた。その諸々の事情、とやらが何なのかは永田も水月も明かさぬまま。とにもかくにもコンテが仕上がってしまっている現状、今から代役を立てるにしても間に合うかどうかと部員たちがざわめく中、真由を代役にしてはどうか、という案を上げた人物がいた。それは誰あろう、部長兼パートリーダーのちなつだ。

『同じユーフォだし、他のパートの子を無理くり入れるよりは良いんでねえかな。真由は動きも良いし飲み込み早いから、残りの練習期間でも全然間に合うって』

 部長で実力者のちなつにそう言われてしまえば、自分なんかに否やを述べる権利などあろう筈も無い。かくして急遽メンバー入りすることとなった真由ではあったが、かと言って曲北は昨年度全国トップの学校、今回のメンバーもほぼ全員がその時の出場経験者。この水準を当然のものとして日々錬磨されてきた面々に昨日今日で追従するのも、そう容易いことではない。

 基本姿勢。踏み出しの足の角度。ラインキープ。複雑なコンテの暗記。そして演奏本体。真由とて決してマーチング未経験というわけではないのだが、曲北では一つひとつのことに求められる水準が段違いに高く、少しでも気を抜くとどれかがすぐ疎かになってしまう。本番が近い中、自分が足を引っ張るわけにはいかない。集中しなくちゃ。一つ指摘を受ける度に体の隅々まで意識の根を張り直し、求められた動きをひたすらこなし続ける時間がしばらく続く。

「井上さん、ラインはみ出てる。自分一人の感覚で動かねえで、他の人との位置関係をもっと意識して」

「はい!」

 頭上から注がれた指摘に、部員の一人が声を張って返事をする。体育館側面の二階にはキャットウォークと呼ばれる細い通路があり、そこには角ばったフレームのメガネを愛用する三年の女子、()(とう)(のど)()が立って部隊の動きを監督していた。彼女は普段オーボエを担当しているが、マーチングの時にはこうして全体の動きを統率すると共にコーチとしての役割を兼ねる指揮者、即ちドラムメジャーを任されていた。

 一般的にドラムメジャーの役職はその性質上、部を率いる立場である部長が兼任することも多い。しかしながらそれでは部長の業務が二重三重に膨れ上がってしまい、多忙なちなつの負担があまりに大きくなってしまう。それを避けるため、今年は部長職とドラムメジャーをそれぞれ別の人間に振り分けることにした……というのが現在の曲北の体制であり、小学生の頃にもドラムメジャーを務めた経験を持つという和香がこの任を宛がわれた大きな理由の一つでもある。かと言って無論、層の厚い曲北で他を押しのけ彼女が選ばれたのは、単にそれだけが理由ではない。

「全員、ちゃんと歩幅意識。ムーブ後に位置が決まってればいいってワケでねくて、ムーブ中も統一感のある動きになるよう注意して。今のままだと線が伸びたり縮んだりで、全然揃ってるように見えません」

「はい!」

「あと、ムーブにばかり気を取られて肝心の演奏が小ぢんまりしてます。動きだけあれば良いってんなら楽器要りません。本番ではここより遥かに広いハコで吹くことになります。雑な演奏すればすぐにバレるし、それでムーブもダメだと観てる側からしても『何してえんだコイツら』って印象にしかなりません。フロアに立つ以上、観られてるってことを常に意識しましょう」

「はい!」

 和香の指導力はさすが、ドラムメジャーに指名されるだけのことはある。部員たちが「まあこんなものか」と思う程度の微細なズレですら見逃されることは無く、隅から隅まで容赦のない指摘が次また次と飛ばされる。その度に各員の動きはキッチリ修正され、隊列は速やかにあるべき形へと整えられていった。

「んじゃもう一回Fから、演奏アリで行きます。(ワン)(ツー)、」

 楽器を構え、真由は深く息を吸う。十字型に並んだ隊列が時計の針のように互い違いで交差し、横二列になった後にフロア手前へ向けて行進をする。さっきから何度もやっているこのムーブがなかなか上手に決まらず、練習はこの部分を徹底的に反復していた。

「黒江さん、交差の時に下向いてる。ここから見てると一人だけ不格好で目立つよ。目線は客席、いつも笑顔で。それ忘れねえで」

「はい」

 大きく返事をし、真由は顎を伝う汗を体育着の袖で拭う。交差の一瞬、前の人とぶつからないよう僅かに目線を下げただけのつもりだったのだが、その一瞬ですらも和香のレンズにはしっかり捕捉されてしまっていたようだ。本当に僅かな油断も曲北では許されない。そういう緊張感の連続とハードな反復練習による疲労の蓄積は、真由のみならず部員たちの心身を加速度的に消耗させてゆく。

「ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ」

 背後からものすごい息切れの音が聞こえてくる。振り返ると、そこでは立ったまま膝に手をつき体を屈める雄悦の苦しげな姿があった。元々がかなりの痩躯で見るからに体力に乏しい彼は、青ビョウタンよろしくちょっと動いただけでもすぐバテてしまう。これにはさすがの真由でさえも『大丈夫なのかこの人は』と思わずにおれなかったほどだ。額をびっちょりと脂汗にまみれさせ、足腰をがくがく震えさせながらも、雄悦は雄悦なりに全身全霊で練習についていこうと必死のようだった。

「へば十分休憩にします。休憩明けに一度最初から通してみるんで、不安な箇所があったら今のうちにパートで確認しておいて下さい」

 はあー、と疲労の籠った吐息が一斉に飛び出す。水を飲みに行く者、凝り固まった体をストレッチでほぐす者、ステップやムーブを他の人にチェックしてもらう者、と余暇の過ごし方は人それぞれだ。真由もまた余念なく、さっき注意された箇所を日向に観てもらいながら動きの再チェックをする。

「三、四、――うん、今はいい感じ。楽器吹いてる時に前のめりにならねえよう、肩と背中の張りに気い付けてみて」

「分かりました。ありがとうございます」

 念のため一人で同じ動きを繰り返し、正しい動きの感覚を身体に刷り込む。本番までの練習時間は多いようで少ない。周りに迷惑を掛けないためにも、限られた時間の中で一つずつを着実に身に付けていかなければ。そう思っていた時、ポーン、と、どこからか高く澄んだ金管の音色が響いてきた。あまりに綺麗なその音色の源泉を、真由は無意識のうちに目で辿る。

 出どころは金色のトロンボーン。それを吹いていたのは雅人だった。直立の姿勢で巧みにスライドを操る彼が息を吹き込む度、ベルからは暖かみに満ち溢れた音がぽろぽろとこぼれ出す。低音から高音まで豊かな響きを保ち、正確な発音でもって音の束を切り分ける。そんな高度な演奏を事も無げに繰り広げる彼の技量の高さは明らかに、中学生のそれを逸脱していた。

「上手いべ、アイツ」

 気付くとちなつがすぐ隣に立っていた。彼女も真由と同じく、その視線を雅人へと固定している。

「アイツのこと、真由は知ってる?」

「はい。同じクラスなので、一応は」

「雅人って親が音楽マニアらしくてさ。だから小っちぇえ頃からピアノ教室通ってたり、自作の曲を軽音同好会の連中におろしたりしてて。曲北じゃいろいろ有名なの」

「そうなんですか」

「他にも小学校から音楽やってるって子はいるっちゃいるけど、アイツぐらい上手いヤツはいねえんだ。去年入部してからずっとボーンのファースト張ってんのも納得、って感じだよね」

 それはつまるところ、雅人は全国トップレベルを誇る曲北の中でもエース級の腕前を持っている、ということだ。楽器の上手さに学年なんか関係ない。以前誰かがそう言っていたのを真由は思い出す。音楽に限らずどんな分野にもそういう人間はいるものだが、今までの真由にとってそれはただの普遍的事実に過ぎず、自分の生涯にはおよそ縁遠い存在だと思っていた。生まれながらに環境と能力とに秀で、それを伸ばす努力を惜しまず、常人を遥かに超える結果を叩き出す、それこそが俗に『天才』と呼ばれる人種なのだろう。

「羨ましいな」

 そう呟くちなつの瞳は雅人を通り越して、どこか遠くを見ているみたいだった。何故彼女が雅人を羨ましがるのか。その瞳の先に何を映し出しているのか。窺い知れぬちなつの心境を、この時の真由はただ黙って見送ることしか出来なかった。

 

 



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〈4〉最初の事件

 荒川ちなつ。曲北三年、吹部部長。低音パートリーダー。ユーフォニアム奏者。

 そういった諸々の肩書きはしかし、ちなつがどんな人物なのかを語る上ではただの符号に過ぎない。彼女自身の多忙さも相まって、これまで肩を並べて練習する機会の少なかった真由はちなつのことを良く知らずにいた。と言うよりは、新しい環境に慣れることで頭がいっぱいだったせいでちなつ個人に意識を割く余裕が無かった、と表現する方がより正確なのかも知れない。

「あれ真由、今日は残り?」

「はい。まだちょっと苦手なフレーズがあって」

「早めに潰しておきたいってかあ。感心感心」

 ニヒリ、とちなつが開いた口の端に犬歯を覗かせる。その笑顔はいつも弾けるように明るくて、真由は立ち眩みさえ覚えそうになってしまう。そんな彼女がユーフォを構える姿勢たるや、あたかも一切の隙がない武術の型を見ているかのような印象だ。ちなつの毛穴という毛穴から神経という名の細い糸が無数に伸び、それは手の内に収まったユーフォを抱き込んで体と同化させている。そう形容しても良いくらい、吹く時の彼女の姿からは持ち得る全ての集中力をユーフォへと注ぎ込んでいるのが見て取れた。

 一拍置いて、ちなつが唇を震わせる。角の取れた真ん丸な粒の音。それがベルから広がり瞬く間に教室中へと響き渡る。張りと芯のある力強さ。細やかなフレーズを精密に吹き上げる丁寧さ。今まで真由が聴いてきた中でも、ちなつの演奏技術は指折りと言って良い。少なくとも曲北の中でなら間違いなくトップレベルの奏者だと断言することが出来る。甲乙はともかく吹部内でちなつに匹敵し得るのは、恐らく雅人ぐらいのものだ。

「うん、良いと思うで。張りもあって瑞々しい、健康的かつ色気たっぷりなオナゴの肌ってカンジ」

 隣で聴いていた日向の評に、ちなつは「その例え、全然意味分かんねえんですケド」と苦笑を交えて文句を垂れる。この二人は毎日居残り練をするのが習慣らしく、彼女らが他の部員よりも先に楽器を片付ける姿を、真由はこれまでにただの一度も見たことがなかった。

「ちなつ先輩と日向先輩は、いつもこんな遅くまで居残り練をなさってるんですか?」

「いっつもっていうか、まあ半分は必然ってカンジな」

 真由の問いに答えたちなつが、諦観と自嘲に彩られた表情を浮かべる。

「帰りに部室の戸締まりしねえとってのもあんだけど、事あるごとに部長ー部長ーって呼ばれたり会議だ何だって出掛けたりで、普段はなかなかパート練出来ねがったりするべ? まともに練習できる時間なんて、全体練習と居残り練ぐれえしか無くてさ」

「んで私はそんなお忙しいちなつ様のために、こうして毎日居残って音合わせに付き合ってあげてるってワケ。ああ美しきかな、女同士の友情よ」

「付き合ってる、って言う割にはからかってる時間の方が多くね?」

 芝居がかった日向の物言いにちなつがズバズバとツッコむ。二人のこうした仲睦まじいやり取りを、真由は転入後から今日までのこの短い期間だけでも幾度となく目にしていた。

「だってちなつ上手えんだもん、私がアレコレ言わねくても勝手に一人でどんどん改善しちゃうし。でも音合わせに関しちゃ相手がいねえと、さすがに一人だけじゃ練習になんねえべ?」

「んーまあ、それは否定できねえかも」

 照れるように耳の後ろを掻きつつ、ちなつは日向の言い分をやんわりと認めた。

「それにしたって、お二人とも大変ですよね。ただでさえ色んな業務や指導で忙しいのに、居残り練までってなると帰りも遅くなっちゃいますし、それに勉強のほうも、」

「ぐわっ」

 急にみぞおちの辺りを押さえ、ちなつがうずくまる。どうしたんですか、と慌てて覗き見ると、彼女の表情は悶絶の形にひどく歪んでいた。ひょっとしてどこか具合が良くないのか。「あーあ黒江ちゃんやっちゃったー」と追って日向が責めるせいで、真由の焦燥はますます強まる。

「やめれ真由、それは私に効く」

「え、えっと。なんかすいません」

「ちなつは勉強キライだもんなー」

 冗談っぽい日向の声色。直後にガバリと身を起こしたちなつも何処かニヤニヤとしていた。そうと気付いた途端、真由の顔がかあっと熱を帯びる。つまるところ、自分は二人にからかわれていたのだ。

「ごめん真由、今のはウソ、ジョークジョーク」

「一瞬本気で心配しましたよ、もう」

「黒江ちゃん安心して、こいつホントは勉強大好きだがら。なあちなつ?」

「バッカ、勉強スキな奴なんていねえべ。やらねばなんねえがら仕方なくやってるだけだって」

「まーた口ばっか。定期テストで毎回五十位以内の秀才が何をおっしゃいますやら」

 膝の上のチューバを腕枕代わりにして、寝そべるようなポーズの日向が『ニシシ』と悪戯っぽく笑う。各学年がおおよそ三百人弱という生徒数の曲北において、その順位はけっこうな上位だと言えるはずだ。

「文武両道、ってことですか、ちなつ先輩は」

「そゆコト。あ、だけどちなつってスポーツはからきしダメだがらなあ。それ考えっと、どっちかって言えば文科系と芸術系で、文芸両道?」

「意味違ってくるべ。文芸だと、小説書くとかそういうのだし」

「それもそっか。へば何だ、文文両道?」

「いったい私は何を振り回してんだ」

「さっすがちなつ先生、頭の回転が早くてらっしゃるぅ。ブンブンだけに」

「アホばっか言って、この調子こき」

 ちなつのチョップが日向のおでこを捉える。あいでっ、と大げさに仰け反る日向のリアクションはとても滑稽で、真由も思わず噴きそうになってしまう。

「お二人はすごく仲が良いんですね」

「まあね。日向とは同じ小学校だったし、低学年までは一緒のクラスだったんだよ。家近いからお互いの家さ遊びに行ったり、クラスでも一緒に絵描いたりしてたっけな」

「へえ」

 んだんだ、と昔を懐かしむように日向が頷く。

「んで、高学年になってクラスは別々んなっちゃったんだけど、一緒にマーチングやんねえか、ってヒナに誘われてさ。それからずっとだから、えっと、もう九年の付き合いってことか」

 ちなつが指折りして年月を数える。それに真由は「凄いですね」と目を丸くした。自分たちの年頃で九年間というのは途方もない長さだ。どんなに仲の良かった友達同士であっても、クラスや部活が別々になることで縁遠くなってしまう事は多い。それに、仮にずっと一緒のクラスや部に在籍していたとしても、それぞれ新しく築いた交友関係によって互いの関わりが薄くなってしまう場合だってある。近いけれど遠い。遠いのに離れない。人と人との絆には色んな形があるものだということを、既に真由は知っている。

「それまでは部活入るつもりなんて無がったんだけどね。せっかくだしやってみれ、って父ちゃんにも後押しされて、それでマーチング部に入ったのが私の音楽人生の始まり」

「けっこう意外です。先輩凄く上手ですし音楽にも詳しいですし、てっきり小さい頃からピアノ教室とかで習ってたんじゃないか、って勝手に想像してました」

「全然。ヒナもだけど、教室のオルガンだって碌に弾いたこと無かったぐれえだよ。ユーフォに触ったのだって、そん時が初めてだったからね」

「じゃあ日向先輩は、どうしてマーチングを?」

「私は姉ちゃんの影響。私の五つ上なんだけど、その姉ちゃんがマーチングやってたの見てて、何か良いなーって思ってさ。もっとも、姉ちゃん本人は中学卒業と一緒に音楽辞めちゃったんだけどね」

「へえ」

「で、いざ四年生に上がってマーチング部に入ろうと思ったまでは良かったけど、クラスにゃ私の他に希望してる子がいなくてさ。一人で入部すんのも怖いなー、って考えてたときにピコーンと来たわけよ。そうだ、ちなつも巻き込んじまおう! って」

「巻き込むって、そんな」

「酷えと思うべぇ真由? これがヒナって女の本性ですよ」

「まったまたぁー、そんなんとっくにご存知でございやしょう。ねえダンナ?」

「おん?」

 日向とちなつがガツリと目を合わせ、それから二人揃ってウハハハハー、と高笑いをする。こうした阿吽の呼吸もきっと、長い付き合いの中で二人が育んできたものなのだろう。真由にはそれが微笑ましくもあり、けれど同時に、ちょっとだけ羨ましくもあった。

「こうしてお二人を見てると、なんか『親友』って感じで、良いですね」

「どっちかって言えば『腐れ縁』かな。もちろん良い方の意味で」

「ちなつもたいがい酷えな。ってか、腐れ縁に良いも悪いもあんの?」 

「あるある。中学に上がる時さ、ウチら二人ともどこの部に入るかーなんて相談、お互いしてねがったじゃん。ンだってのに、よし吹部入ろって思って入部式の日に一人で音楽室行ってみたら、そこでヒナとばったり会ってさ。ここでも? って、そん時思ったもん」

「それってきっと、お二人とも音楽が好きだったから、なんじゃないですか?」

「ん。まあね」

 そう呟いた日向に、おや? と真由は違和感を覚える。そのとき日向はこめかみの辺りを撫でながら、まるで何かを誤魔化そうとするみたいに視線を泳がせていた。そんな日向の様子にちなつは気付いていないようで、満更でもなさげに再び白い歯を浮かせる。

「それからヒナとはクラスは別々だけど、部活ではずっと一緒でさ。去年私が部長になってからも、パートのことお願いしたり居残り練にもこうやって付き合ってくれたりで、私も助かってんの」

「おかげで私の成績は一向に上がんないんだけどね」

「そりゃ私のせいでねくて、ヒナの頑張りが足らないだけですー」

「もちろん頑張りますよぅ。だがら、時々は宿題教えて?」

「だーめ。勉強は自分の力でやんねえと身につかねえぞ」

「あーはいはい、ソウデスヨネー。こういうトコまじドライなんだがら、ちなつは」

 たっぷり一呼吸ぶんの間を空けてから、三人は同時にブッと噴き出した。

「さ、馬鹿言ってねえで練習するべ」

「はい」

 ちなつたちに倣い、真由もユーフォを構え直す。厳しく真剣な練習と休憩中の和気あいあいとした空気。それは楽しくもやり甲斐のある、きわめて理想的なひと時だった。

 

 

 

 マーチングフェスに向けての練習が、日に日に熱を帯びていく。今日も全体練習は体育館で行われているのだが、他の部との兼ね合いもあるため、明日以降は中庭での練習へと移ることになっていた。あとは本番前日に一度、体育館での練習が予定されているだけ。屋外練習は音の反響やアクションを取る際の目測の付け方が本番環境からかなりかけ離れているし、何より天候次第では中止となってしまうため、屋内とは何かと勝手が違う。つまるところ、音や動きをじっくり合わせたり修正したりする機会は今日が実質最後ということになる。

 先輩たちによれば秋田県大会には他に目ぼしいライバル校がいないため、東北大会への推薦枠はほぼ確定と言って良い状況なのだそうだ。とは言え人前で何かを披露する以上、手抜かりがあっていい訳が無い。『目標と目的』という永田の理念に準じるならば、大会で勝ち上がることは単なる目標に過ぎず、会場にいる観客を感動させる事こそが曲北の真の目的の筈である。それは日々の活動や年月の蓄積と共に、部員の大半にもきちんと沁み渡っていた。それが証拠に、近頃の練習ではドラムメジャーの和香だけでなく、部員同士で注意の声を掛け合うことも随分と増えていた。

「真由、まだ上半身曲がってる。体は真正面に固定して足だけ進む方さ向けんの。中途半端な切り替えはカッコ()りいよ」

「はい」

「そんで雄悦、アンタは体揺らし過ぎ。音は外れてるわ歩き方はバタついてるわで、ほとんどゾンビになってんど」

「ハァ、ハァ、……分がってる」

 んぐ、と時おりえづきながら、雄悦がほうほうの体でちなつに返事をする。彼の基礎体力の無さはどうやら筋金入りのようだ。いつぞや言っていた日々の筋トレも、およそ効果が上がっているようには見えない。針金のごとき痩身を汗だくにしながら襲い来る疲労に抗い続ける雄悦を見ていると、そのうち心臓発作でも起こしてしまうのではないか、と真由もだんだん心配になってくる。

「大丈夫ですか、伊藤先輩」

「ぜぇ、ぜぇ、うぇっ。悪りい黒江、今はちょっと、話し掛けねぇ、で」

「だーめだこりゃ」

 息も絶え絶えといった雄悦の様子に、スーザフォンを担いだ日向が天を仰ぐ。「今年こそ演奏する側に立つ」と息巻いていた雄悦だったがしかし、この分だと練習のみならず本番でも一人だけ悪目立ちしてしまいかねない。マーチングは全員で作り上げるものであり、それ故にたった一人が挙動を乱してしまえば、それは全体の構成そのものの破綻をも引き起こしかねないのである。

「おーい雄悦ー。もうギブアップだがー?」

 彼のそんな苦境は、当然ながら見逃される筈も無かった。二階のキャットウォークから、メガホンを口に当てた永田が雄悦に声を掛ける。

「大丈夫っす。まだ、やれます」

「無理すんな。コンテ通りには動けてっから、雄悦は楽器構えたまま音出さねえで歩ぎさだけ体力使え。分がったかー?」

「……はい」

 それは体力不足の雄悦を慮っての措置か、はたまた不確定要素を切り捨てるための容赦ない裁断か。真意はともかく、永田の決定を黙って受け入れるしかない雄悦の表情が苦々しく歪む。

「荒川、それと黒江。ここはユーフォ二本でやる。雄悦の音が減る分、もうちょい音張れるがー?」

「私は大丈夫です」

 永田の問いにちなつは即答を返した。彼女に続くその前に、真由はそっと胸へ手を当ててみる。この心臓がどくどくと強く脈打っているのは、決して体を動かした直後だからというだけの理由では無いだろう。

 自信などは何処にも無かった。ここで期待に応えられなければ、全体に影響を及ぼすことになる。それを怖いと思う気持ちは当然のようにある。失敗して恥をかくよりだったら自分に出来ることだけを粛々とやっていた方が何倍もマシだったと、後で後悔する時が来るのかも知れない。

 けれど。

「できます」

 答えは挑戦一択だった。元よりその為に曲北を選んだのだ。やりたいと思ったことを貫き通す上で、迷う事なんて一つもない。ならば後はやり切るだけ。ただそれだけだ。強い意志を瞳に込めて、真由は決然と永田を見上げる。

「良い顔つきだ。本番まであまり時間は無えども、頼んだど二人とも」

「はい!」

 ちなつと声を重ね、真由は大きく返事をする。本番まであと十日あまり。この限られた時間の中で、出来得る限りのことを精いっぱい頑張ろう。拳をぎゅっと握り締め、真由はそう念じていた。

 

 

 

 最初の事件はそんな中で、突如として起こった。

 

 

 

 フェスの出場メンバーが体育館で練習をしている間、それ以外のいわゆる『サポート組』は音楽室で、基礎練習や簡単な曲を用いた合奏練習を行うことになっていた。入部して日が浅い一年生の大半や、水月らごく少数の上級生などで構成されるサポート組。彼らは部長であるちなつの言いつけに従い、今日も滞りなく自分たちの課題に取り組んでいた、筈だった。

「何やってらのよアンタら!」

 耳をつんざく怒号。それが真由の耳に届いたのは、体育館での練習を終えて音楽室へ戻るため階段を上り切ろうとしていた、まさにその時だった。何があった? 真由は残り数段の階段を駆け上がり、角を曲がって急ぎ音楽室へと向かう。

 音楽室の入口ではメンバー部員たちが瘤のように固まり、こわごわと中の様子を伺っていた。真由もまたこそりと彼らの近くへ寄り、状況を掴もうと躍起になる。室内からは何やら言い合いをしているような声こそ聞こえど、ここからではそれ以上の情報を得ることは出来なさそうだ。

「ちょっとすいません」

 どうにか室内の様子を窺おうと、人垣を掻き分け進めるところまで進み、つま先立ちになって首を伸ばす。と、チラリと見えた音楽室の中では腕組みをしたちなつと、彼女に正対して仁王立ちするユーフォの一年生、玲亜の姿があった。二人とも顔を強張らせていて、周辺にびりびりと殺気立った緊張感が漲っている。他のサポート組はみな一様に怯えた表情のままで二人を注視するばかり、止めに入る様子などは特に見受けられない。

「言ったよな私。サポート組はコレ練習しといて、って。ちゃんと基礎練習用のも含めてそれ用の楽譜も全員さ配ってらった筈だよ。なのに何で、別の曲合わせて遊んでんのよ」

「遊んでたんじゃありません。同じ曲ばっかだば飽きるって意見が出て、せっかくだがらちょっと別の曲もやってみようってことンなって、それで吹いてらっただけです」

「それが遊んでるって言うの。そもそも二年は何してんの、後輩がこんな勝手してたらアンタらがきちんと注意せえよ」

「す、すいません……」

 棘の立った口調でちなつが後輩を叱り飛ばす。それは普段の朗らかな彼女とはあまりにもかけ離れていて、ありったけの怒気にまみれた今の姿は、傍観者である筈の真由までもが心の底から震え上がってしまうほどの恐ろしさだった。

「指定された曲以外は吹いちゃダメだなんて、吹奏楽部にそんな決まり無いんでないですか?」

「そういうのは休憩中とか居残り練とか、空いた時間にいくらでも出来るべ。好き勝手すんのをサボりの言い訳にすんな」

「だがら、サボってません。鬼ごっことかトランプやってたワケで無くて楽器吹いてたんですから、吹奏楽部としての活動上は問題なんか無えハズです」

「部としてこういう練習しましょう、って決めたことをやらねえで問題無えワケ無えべ。そういうのをサボってるって言うんだよ」

「へば飽きた時は何とせば良いって言うんです? それでも吹かねねえって言われたって、身が入ってねえのにただ吹いてたって、やってるフリなだけで能率なんか上がんないですよね。それこそサボってんのと何が違うってんですか」

 対する玲亜も負けじとばかり、次第に声量を増していく。一年生が三年生に食って掛かる、というのもなかなか良い度胸をしているとは思うが、しかしこれでは収拾がつかない。そうこうしているうちにもちなつと玲亜は激論を重ね、両者のボルテージはどんどん高まっていく。このままじゃまずい。そう思い始めたその時、トントンと誰かが真由の肩を叩いた。

「何やってるの、真由ちゃん」

 そこに居たのはユーフォを抱えた水月だった。サポート組の水月が何故ここに? と一瞬うろたえた真由の心中を知ってか知らずか、彼女はきょとんとした顔で「これ、何の騒ぎ?」と真由に尋ねる。

「いやその、ちなつ先輩と三島さんが何か揉めてて」

「玲亜ちゃんが?」

 どれどれ、と水月は真由がそうしたように、つま先立ちで部室の様子を覗き込む。どうやら彼女はこの事態について何も知らなかったばかりか、元凶となったサボり行為とやらについても心当たりすら無いらしい。ホントだ、と背伸びの姿勢を解いた水月は、その白く形の良い頬へと手を添えた。

「でもどうしてこんなことに」

「っていうか水月ちゃん、他のサポート組の子たちと一緒にここで練習してたんじゃないの?」

「ううん。私、例によって他所で個人練してたから」

 『例によって』などと自分で言うあたり、水月も水月でなかなか肝が据わっている。いや、今はこんなこと言ってる場合じゃない。ひとまず真由が事の次第を一通り説明すると、なるほどね、と水月は指で顎をさすった。

「あの通りちなつ先輩もすごい剣幕だし、三島さんもぜんぜん譲らないしで、誰か止めに入らないと収まらないと思うんだけど」

「別にいいんじゃない。このまま放っておけば」

「放っておくって、そんな」

「荒川先輩と玲亜ちゃんのどっちかが致命的に間違ってるならともかく、私は玲亜ちゃんの言ってることにも一理あると思うよ。音楽するための部活なのに、みんなで好きな曲を好きに合わせちゃいけないだなんて、それって何だかヘンじゃない?」

「それは……でも、」

「でも、なあに?」

 水月が不思議そうに小首を傾げる。そうまでされても、真由は回答を述べられずにいた。部活ってそんなんじゃないとか、こうあるべきだろうとか、頭の中にはそれっぽい台詞が幾つも浮かんでいる。なのにそれを口に出そうと思う度、心のどこかでブレーキが掛かってしまう。何故なのだろう。自分の中の何かが上手くまとまらない。その感覚はひどくもどかしくて、不快だった。

「でも、お互いの言い分はいったん置いといて、いい加減誰か止めに入らないと。このままじゃ本気のケンカになっちゃう」

「心配ないよ。こうなった以上、そろそろ調停が入る頃だと思うから」

 調停? やけに悠長に構える水月を真由は訝しむ。答えは程なくして示された。

「はいはいはいはい、ここらへんで双方ストップ!」

 音楽室から廊下まで響くほどの咆哮。ちなつと玲亜の間に割って入ったのは、日向だ。切迫極まる両者を掻き分けグイと引き離し、日向はまずちなつへとその渋面を向ける。

「とにかく落ち着け。部長のアンタが大声上げれば他の部員も無駄に怖がるでしょ。騒ぎもどんどん大っきくなるし、悪循環もいいとこだべ」

 そうと言われてようやっと、ちなつは凍りつく周囲の状況に目を向ける気になったようだ。激昂によって忙しなく上下していた彼女の両肩が、首をめぐらすにつけ次第に緩やかさを取り戻していく。

「それと三島ちゃん。さっきまでの話をまとめれば、つまり吹部の部員は練習中に好きな曲選んで好きに吹いたって良いって、そう考えてるってこと?」

「そういう権利は、あると思います」

 毅然とした口調で玲亜が答えると、日向は口に手を当て、んー、と言葉を選ぶように唸った。

「学校によっては、そういう方針で活動してる吹部もあるっちゃあると思う。楽譜と楽器があるわけだし、後は吹く人さえ揃えば合奏だって出来るんだしな。そうやって皆で楽しくやりながら上手くなって、演奏会とかで聴いてる人にも楽しんでもらえるような音楽が出来るんなら、それでも良いんだかも知んないね」

「だったら、」

「だけどそれはあくまで一般論。三島ちゃん、入部式で永田先生が言ったこと覚えてる? ウチらはマーチング全国最優秀賞が目標、お客さんを感動させんのが目的。それに向かって全員一丸でがんばるべって話もした。んだよな?」

 忘れたとは言わせない。そうとでも言わんばかりに日向が語気を強めると、さすがの玲亜も不承不承といった様子でおもむろに頷きを返す。

「けど部員それぞれがアレやりてえコレやりてえって好き勝手してたら、人も楽器もナンボあったって足らないぐらいバラバラんなるでしょ。それだったら、一つの部活にこんだけ人数集まる意味が無い。だがらこそ幹部は色んな人の意見を取りまとめてコレっていう風に方針を打ち出すし、幹部の決定には部員全員が協力して一つの事をやっていく。そうやって初めて集団での活動が成立するもんなんだって、私は思う。そこで我慢しなきゃなんねえ人ってのも出てくるとは思うけど、それも全員がまとまるためにはある程度、仕方の無いことなんでねえの?」

 いたって落ち着いた口調で、かんしゃくを起こした子供をなだめすかすように、日向はこんこんと玲亜を諭す。組織論、と言えるかどうかは分からないが日向の述べる主張、その趣旨は真由にも分からないではなかった。たくさんの人が集まればそこには何らかの軋轢や摩擦が生じる。それらを上手く解消できなければ、集団のまとまりを維持し続けることは難しい。ならば解消のためには個々が我を張るだけでなく、どこかで妥協や譲歩を求められることだってある。そうした諸々の折り重ねの上に保たれるのが秩序というものである筈だ。

「やりたい曲がある時はミーティングとかで提案してくれたっていいし、ちなつの言うように空き時間でやるんだったら誰も文句言ったりしねえ。ちなつの言ってんのは、これをやろうって決まった時間のうちはやるべきことをちゃんとやろう、って話。それを一方的に無視して好き勝手してたら誰だって怒るよ。ちなつだけで無ぐ、私だって怒る。それは解るな?」

「……はい」

「ンだったら良し。とりあえず三島ちゃんは一旦席さ戻って」

 すっかり意気消沈といった様子で殊勝に頷き、玲亜はすごすごと自分の席へ戻っていった。ふう、と日向は一息をつき、それから後方で硬直していたサポート組の一、二年生たちへと向き直る。

「他の一年もいいね。それと、さっきちなつも言ってたけど二年は上級生なんだから、後輩のお手本になるよう練習を主導したり、言うこと聞かない後輩にはビビってないでちゃんと注意すること」

「はい」

「メンバーの皆だって他人事でないからね。気付いた時はみんなで注意し合う。みんながみんなのお手本、って気持ちで取り組む。そういう意識が抜ければ曲北はおしまいだよ。本番も近えんだし、油断しねえようキッチリふんどし締め直していきましょう」

「はい!」

「私からは以上。さあちなつ、とっとと帰りのミーティングやるべ。な?」

「……分がった。ごめん、ヒナ」 

「ホーント頼むで、部長サン」

 やれやれ、と日向が芝居っぽく肩をすくめる。そんな彼女の手際の良さに、真由はひたすら感服していた。どこでどう身に着けたものか知らないが、普段の陽気でおちゃらけた姿からは想像もつかない名裁きっぷりは、真由がこれまで抱いていた日向への人物評価を大きく改めるに値するだけの衝撃があったことは確かだ。

 騒ぎが一件落着したことで部室前に出来ていた人だかりも瞬く間に解消され、部員たちは各々所定の場所へと向かっていく。もうすぐミーティングが始まる。自分も席につこう。そう思って振り向いた真由の目前に立つ人物の口から、その一言は漏れ出した。

「惜しかったなあ」

 真由は我が耳を疑う。魚群の如き部員たちの蠢く只中で、独り言のようにポツリと落とされた水月の澄んだ声だけは、やけにハッキリと聞き取ることが出来た。どう反応して良いか分からず立ちすくむ真由の目には、自分と水月の周囲だけが時の流れから切り離されてしまったみたいに、その他の全てがぼやけた背景としてしか映っていなかった。

「ちょっとお粗末だったね、玲亜ちゃん。あんなバカ正直に歯向かったりして、もう少しうまくやれば良いのに」

 え、とこぼした自分の声が、ほとんど吐息にしかならない。何かを言おうとして、真由は震える顎が言葉を噛み切れていないことに気が付く。

「でも、面白い子だな。これは思いがけない収穫かも」

 ニタリ、と水月の口角が大きく吊り上がった。そのあまりの凄絶さに、真由はまばたきをすることも出来なくなってしまう。不気味に歪んだ彼女の表情は、もとが端正に整っている分、言い知れようのない狂気さえ感じさせる程のおぞましさだった。

 『収穫』とは何なのか。水月は玲亜の中に何を見出したのか。それを問う前に彼女は無言で身を翻し、音楽室の戸口をくぐってゆく。そのたった寸秒の動作がスローモーションでくっきりと、真由の網膜へ刻み込まれていった。

「何してんの? もうミーティング始まっちゃうよ」

 ハッと我に返った時にはもう、廊下に残っているのは真由ひとりだけになっていた。声を掛けてきたパーカッションの三年生に慌てて会釈をし、真由も音楽室の中へと向かう。胸の内をかき乱す残響を、そのまま廊下の端にかなぐり捨てることは、かなわなかった。

 

 

「何なのあの一年。部長に楯突くとか、頭おかしいんでねえの」

「空気読めよな、最初っから素直に謝ってりゃあいいのに」

「『権利はあると思います』って、バッカくせ。何でああいう奴って平然とあんなこと言えんだべ?」

「ちょっとやめれってー。本人に聞こえるで」

 ミーティングを終えて解散となったその後も、部室内の空気は散々だった。そこかしこから小声の悪態が飛び交い、時にはクスクスと嫌味ったらしい含み笑いさえこぼれ出す。そんな状況に、事の張本人である玲亜は相当いたたまれなかったようだ。周囲の嘲罵に曝されながら楽器を片付けた後は人目を避けるようにして、彼女はさっさと部室を出て行ってしまった。

 それまで今日も居残り練をするつもりだった真由はしかし、さてどうしたものか、とユーフォを抱いたまま楽器室の前で立ち尽くす。あんな事の直後にちなつと膝を突き合わせるのはどうにも気が引ける。かと言って今日に限って別の場所で居残り練をするのも、それはそれであからさまにちなつを避けているようなものだ。つまるところ、自分は今日この状況下では「針のむしろ」といった心境で楽器を吹かざるを得ない、ということである。率直に言って、それは嫌だった。

「お疲れ真由ちゃん。そんなとこにボーッと突っ立ったりなんかして、どうしたの?」

 そこへ通りがかった水月が、身を斜めに屈めるようにして下から真由の顔を覗き込んできた。半ば予想通りと言うべきか、彼女は既に帰り支度を整えその背に鞄を負っている。先ほどのあれは何だったのかと思うくらい、今の水月はいつもの水月らしい淑やかな面持ちを取り戻していた。

「まだ楽器しまってないの? もしかして居残り練?」

「しようかな、って思ってたんだけどね」

 真由の言外の意図を向こうも何となく察したらしい。ふうん、と艶やかに光る横髪をいじくりながら、水月はこちらの反応を窺うように意味深なそぶりをする。

「ねえ真由ちゃん。それだったら、これから私といっしょに玲亜ちゃんを追いかけてみない?」

「え、追ってどうするの」

「玲亜ちゃん、絶対ヘコんでると思うの。なのに周りからあんなふうに言われたら、明日部活に来たくないって思ったり、最悪居づらくなって退部しちゃうかも。それってすごく可哀想じゃない?」

「そりゃあまあ、そうだけど」

「だったら、そんな後輩をケアしてあげるのも先輩としての務めなんじゃないかな。私たち二人とも、玲亜ちゃんとは直属の間柄なんだし」

 意外にも、と言うのも失礼な話ではあるが、水月の提案は至極真っ当なものだった。何も音楽的なことだけが吹部の、部活としての在り方ではないだろう。後輩に悩みや問題が発生した時には先輩が面倒を見てあげる。困ったことがあれば仲間同士で話し合って解決を図る。それもまた部活動における大切な一側面、と言われれば否定はしがたい。

「でも私なんかが行ったって、玲亜ちゃんに気の利いた言葉は掛けてあげられないと思うよ」

「いいの、特別なことは何も言わなくて。一人より二人って言うでしょ。私の他にもう一人傍にいた方が、玲亜ちゃんだって納得しやすいだろうし」

「うーん……」

「ね、行こ?」

 水月が袖をぐいぐい引っ張ってくる。この時点でもう、真由は観念せざるを得ない状況へと追い込まれていた。どのみち居残り練をするか否かと悩んでいたところだったし、今日のところはこのまま帰るという選択肢だってある。それに水月の言う通り、もしもこのまま肩身の狭くなった玲亜が退部でもしてしまったら、一連の騒動は随分と後味の悪い結果となってしまう。当の喧嘩相手だったちなつだって気に病むことだろう。だったら帰るついで、とでも思えばいい。自分に何が出来るわけでは無くとも、いま玲亜と話をすることで事態を穏便に収められるのであれば、誰にとっても決して悪くはないことの筈だ。

「分かった、行こう」

 水月に頷きを返し、それから真由は片付けのために楽器室へと入った。ケースを棚から下ろし、管体の手入れを手早く済ませ、藍色の起毛に覆われたベッドへとユーフォを寝かしつける。銀色の管体が描き出す自分の像はもやもやと歪んでいて、それはあたかも定まらぬ己の心境をそこに反映しているみたいだった。

 本当にこれで良いのかな。ううん、きっと良いんだ。そう自分に言い聞かせつつ、真由は両手でケースの蓋をそっと閉じた。

 

 

 二人が玲亜を捕まえたのは、それから五分もしないうちのことだった。もっと離れたところに行ってしまったかも、という当初の予想に反して、玲亜は校門を出てすぐのところを一人でとぼとぼ歩いていた。薄暮れの空にはどんよりと灰色の雲がかかり、辺りは深夜のごとく真っ暗。そこにぽっかり浮かぶ玲亜の煤けた背中は、指でトンと突けば音も無く崩れ去ってしまいそうなほどに儚げだった。

「三島さん!」

 後ろから真由が声を掛けると、玲亜はビクリと肩を震わせ、それからおずおずと振り返った。

「黒江先輩。と、長澤先輩」

「ごめんね急に。その、私たちもいま帰りなんだけど、三島さんが前にいるのが見えたから」

 とりあえず追いついたまでは良かったものの、傷心の玲亜にどう声を掛けるべきかは全然考えていなかった。下手に追い打ちを掛けることの無いよう、真由は探り探りで慎重に言葉を選ぶ。

「ええっと、さっきのことなんだけどね。もし私たちで良ければ、話を聞くぐらいなら――」

「すみませんでした!」

 極めて勢いよく、二人に向かって玲亜が頭を下げる。目の前で大きくスイングしたヤシの木頭が鼻先を掠め、「うお、」と真由は小さく仰け反ってしまった。

「あの、私って昔っからこうで。後先とか周りのこと何も考えねえで思ったことすぐ口走っちゃうんです。自分でも悪りいクセだって分がってんですけど、カッとなってしまうとどうしても我慢できねくて」

 プリーツスカートの裾をぎゅっと握り締め、玲亜が声を絞り出す。

「さっきだって中島先輩に言われて、やっと皆さんに迷惑掛けたってことに気付いて。ホントもう、自分が嫌んなります。私のせいで空気悪くしてしまって、すみませんでした」

「いや、私たちは別に、そんなふうには思ってないから」

 ひたすら謝罪の言葉を述べる玲亜を前にして、真由はすっかりしどろもどろになってしまう。反省しているのは良いとして、まさか彼女がここまで自分を卑下するような自己解釈をしていたとは。そんな玲亜に何を言えば良いか分からず、窮した真由は助けを求めるつもりで水月に目配せをする。それに小さく笑みをこぼした水月は、後ろ手を組みながら「そうだねえ」とおもむろに前へ進み出た。

「玲亜ちゃんが自分で思ってる通り、さっきの態度は良くなかったと私も思うよ。中島先輩が言ったことの繰り返しになるかもだけど、少なくとも相手の言うことを真っ向から否定したのは間違ってる。あれじゃあ荒川先輩だって引っ込みがつかなくなって当然だよ」

「……はい」

「でも、玲亜ちゃんも今は充分反省してるんでしょ?」

「それは、もちろんです」

「だったらそれで良いんじゃないかな。誰にだって失敗はあるんだから、あんまり自分を責めちゃダメだよ」

「でも私、皆さんに申し訳ねくて。何より、しょうもねえことで迷惑掛けた自分に腹立ってて、」

「あんまり難しく考えないの。明日のミーティングの前にでもみんなの前でちゃんと謝れば、それで良いよ。玲亜ちゃん自身も今後は同じ失敗を繰り返さないように気を付けて過ごしてれば、そのうちみんなも忘れちゃうから。ね?」

 はい、と返事をした玲亜の鼻が、グズリと滲んだ音を鳴らす。

「実を言うと私たち、玲亜ちゃんのことが心配だったの。あんなことで挫けちゃったら気の毒だな、って真由ちゃんと話して、それで二人して追いかけて来たんだよ。ねえ真由ちゃん?」

「あ、と、うん。そう」

 やにわに水月から同調を求められ、焦った真由は関節の外れた人形みたいにコクコクと首を縦に振ることしか出来なかった。

「この通り、玲亜ちゃんにはちゃんと味方がいるんだよ。今日の件は気にしないで、これからも一緒に楽しく部活やっていこう? 私も真由ちゃんも、玲亜ちゃんが困ってる時は惜しまず協力するから」

「はい。……ありがとう、ござい、ます」

 とうとう堪え切れなくなったのか、大粒の涙を幾つも頬に走らせて、玲亜は泣きじゃくり出してしまった。そんな彼女の丸まった背中を「よしよし」と、陶器みたいに美しい水月の手のひらが撫でさする。

 なんて先輩らしいんだ。この時ばかりは真由も、水月の完璧な対応ぶりに驚嘆せざるを得なかった。さっきの禍々しい表情は自分の見間違いだったのかと錯覚してしまうほどに、目の前の水月は慈愛と慮りに満ちた柔和な笑みを湛えている。ちなつや日向とはまた違う種類の理想的な先輩像。それはまさしく、いま目の前に体現されていた。

 

 

 ひとしきり泣き終えたことで、ようやく玲亜も昂っていた感情を鎮めることが出来たらしい。明日からもよろしくお願いします、と二人に一礼し、玲亜は再び夕闇の中へと溶け込んでいった。その後ろ背が向こうの角を曲がるまでを見届けてようやく「うはあぁ」と、真由はたっぷり疲労のこもった息を吐くことを許された。

「ね、上手く行ったでしょ」

「そうだね。実際に三島さんを説得したの、ほとんど水月ちゃんだったけど」

 というか、全部、と言うべきだ。この件に関して自分などは、ただ黙って傍に突っ立っていただけの木偶の坊に過ぎなかった。水月のように玲亜の荒れた心を(くしけず)る言葉を掛けてあげた訳でもなければ、ただ寄り添ってその背を支えてやれたわけでもない。何だったら自分など居ても居なくても、あの場には何らの影響も及ぼさなかっただろう。考えれば考えるほど、そんな気しかしなかった。

「そんなこと無いよ、あれは隣に真由ちゃんが居てくれたから。さっきも言ったでしょ。こういう時は一人でも味方になってくれる人が多い方が、心を開きやすくなるものなの」

「なの、かなあ」

「それに私だって真由ちゃんが傍に居てくれて、とっても心強かったんだよ。一人じゃない、って思えるだけで出来ることってあると思う。特に真由ちゃんみたいな子が味方で居てくれるのって、味方してもらう立場からしたらすごく頼もしいことなんだからね」

「それなら良いんだけど」

 自分みたいな人間のどこをどう頼もしく感じるものなのか、いかんせん自分ではちっとも分からない。何となくばつが悪くなって真由は俯く。と、その視界を遮るように、上体を横に屈めた水月が下から顔を近づけてきた。

「私、本気でそう思ってるから」

 もぎたての果実みたいに潤った水月の唇。それが発音を伴って動く度、洩れ出た彼女の吐息がなめらかに耳をくすぐる。ぞわぞわ、と背骨のすぐ傍をえもいわれぬ感覚が駆け抜け、真由は今にも腰が砕けそうになってしまう。

「じゃあ私もそろそろ帰るから。また明日ね」

 するりと身を離した水月はそのまま「ばいばい」と手を振り、玲亜が向かったのとは逆方向へ風のように去っていった。場にひとり残された真由は立ち尽くしたまま、そっと耳たぶをつまむ。さっきの感触はまだそこにねっとりと、生々しくこびりついている。そう感じた時、不意におへその辺りがジンと熱を持ったのを、真由は確かに認識した。

 それにしても。家の方角へと踵を返し、真由は改めてこれまでの出来事を振り返る。たった一日のうちに、色々な人の二面性を目の当たりにしてしまったものだ。

 いつもは快活で頼もしいリーダーであるちなつの、感情に任せて激昂する姿。

 練習の時は厳しいけれど愉快な人だと思っていた日向の、理路整然と落ち着いた対応。

 先輩に反抗するほど我の強い玲亜の、脆く打ちひしがれやすい気性。

 そして水月の、後輩に対する信じられないほどの包容力。

「人って、分からないものだなあ」

 ぽつりと独り言ちた真由に、ひょう、と一筋の夜風が吹きつける。ずいぶん暖かくなってきたと思っていたのに、そのひと吹きは雨上がりのように冷たくて、せっかく膨らんだ蕾をも断ち切ってしまいそうなほど鋭かった。

 

 



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〈5〉北国の春

「昨日はご迷惑をお掛けして、申し訳ありませんでした!」

 突然の展開に、何事かと部員たちがざわめく。あの騒動から一夜明け、翌日の部活はちなつと共に壇上に上がった玲亜が開口一番、部員たちの前で謝罪のことばを述べるところから始まった。

「あの後、一人になって自分がやったことを振り返って、荒川先輩にはすごく失礼なこと言ってしまったって気付きました。それに私が騒ぎを起こしたせいで、皆さんにもたいへん迷惑掛けてしまいました。これからは決まり事をきちんと守って、もう二度とこんなことは繰り返さないようにします」

「私も、昨日は感情的になっちゃって、みんなにも恥ずかしいところを見せてしまいました。昨日の件で玲亜や私にいろいろ思った人もいると思いますが、二人とも本当に反省してます。これからは部長として信頼されるよう、発言や行動には充分気を付けていきたいと思います」

 本当にすみませんでした、と二人が揃って深々と頭を下げる。それを受ける部員たちの感情も複雑といったところのようだが、他ならぬ本人たちがこうして殊勝な態度である以上、外野がどうこう言うべきではないと感じたのだろう。やがてざわつきは収まり、場の一同は部長の次の発言を待つばかり、という気配に切り替わった。それを感じ取ってなのか、ややあってちなつが顔を上げ、キリリと表情を引き締める。

「自分で言うのも何ですが、ここから改めて本番に向けて集中していきたいと思います。明後日からはもう連休だし、大会当日までの残り時間もそう多くありません。なので残ってる課題を優先的にクリアして、本番ではベストな演技演奏が出来るようにしていきましょう」

「はい!」

「では今日の練習を始めます。よろしくお願いします」

「よろしくお願いします!」

 かくしてミーティングが終わる頃にはもう、部内はすっかり元通りの空気を取り戻していた。今日は外が晴れているので、全体練習は中庭を使って行われる。自分も楽器の準備をしないと。そう思っていた真由が席を立とうとしたところに、「ちょっといい?」とちなつが声を掛けてきた。

「ごめんな真由、昨日は気い遣わせちゃって」

「え? いえ、別にそんなことは」

「ホントは昨日も居残り練したかったでしょ? でも私があんなだったもんで真由に遠慮させちゃったよね。先輩として情けねえな、私」

 ちなつがほぞを噛むように顔を歪めた。彼女が述べた反省の弁を受け、真由は少々呆気に取られる。昨日居残り練をするかどうかで悩んでいたことなんて、その後にあった出来事のせいで、すっかり頭から抜け去ってしまっていた。

「実はあの後、ヒナに散々言われてさ。『ちなつのそういうトコは早く直せ』って。私が喚いて部の空気を悪くすればみんなの士気も下がるし、真由みたく練習しづらいって思う子も出てきちゃうしで、ホント何にも良いこと無えよな」

 どうやらちなつはちなつで日向の忠言によって、自己の言動を省みるきっかけを得られたらしかった。組織のトップにあるべき視野と洞察を彼女が取り戻せていることが、何よりそれを雄弁に物語っている。何はともあれ、これにて本当の一件落着といったところだろう。ちなつと玲亜、二人の間のわだかまりが解消されたのであれば、当然ながら真由にも否やなどは無い。

「私は全然大丈夫です。それより先輩、今日も練習がんばりましょうね」

「んだね。ありがと、真由」

 少し照れたようにちなつがはにかむ。今回の件を経て心境の変化があったのだろうか、清々しいちなつの顔つきには今までよりもほんのちょっとだけ、大人の香りが漂っていた。

「じゃあ玲亜ちゃん、私たちも行こっか」

「はい。今日からよろしくお願いします、水月先輩」

 その一方では、水月が玲亜を伴って楽器室へと向かっていくのが見えた。あの様子を見るに、どうも玲亜は昨日の一件を経てすっかり水月に懐いてしまったらしい。こちらはこちらで実に微笑ましい光景だ。真由は嬉しい気持ちで二人の背を見送る。

 いつも個人練ばかりしている水月も、玲亜という後輩がいることで練習に精を出すようになってくれたら。そうなれば、やがては水月も皆の輪に混じって練習を、音楽を楽しむことが出来るようになる筈だ。きっと、彼女の願いそのままに。

 

 

 

 

 

 

 練習漬けの一週間はあっという間に過ぎ去り、とうとう本番の日がやって来た。出発地である大仙市からバスに揺られることおよそ一時間。土起こしを済ませた田畑に青草繁る原野、カーブだらけの峠道に方々へ伸びる小川、といった自然豊かな道程を経て辿り着いたその先は、県内最大の都市にして県庁所在地でもある秋田市の都会的な街並みだった。

 地元のそれよりも少しばかり背の高いビルが林立する市街道路を抜け、ようやく現地に着いて降車した真由が最初に目にしたものは、本日の会場となる巨大な三角形の建物。県立体育館、と銘打たれたその建物の入口には『第四十回秋田マーチングフェスティバル』と書かれた大きな立て看板が置かれている。周辺には出場者と思しき体操着姿の各団体や腕章を付けた大会関係者らがひしめき合い、まさにフェスティバルの名に恥じぬ賑やかさに溢れ返っていた。

 いよいよだ。そう思ったのと同時に、真由の体が緊張と高揚に小さく震える。

「はーい、曲北吹部はこっち集合ー。手の空いてる人はどんどん楽器運びしてー」

 更衣室で着替えを済ませ戻ってくると、ちょうど到着したトラックのところでは、ちなつが楽器搬入の陣頭指揮を執っていた。真由も他の部員たちと力を合わせ、荷台に残っていた大型楽器を順々に下ろす。トラックいっぱいに満載されていた中身も、ゆうに百名以上もの部員たちに掛かれば何のその。こうして人海戦術で運び出された楽器ケースの山は、広場側で和香の采配によって種別ごとに仕分けされ、あっという間に規則正しく並べられてゆく。

「ハイ注目ー」

 作業を終えひとところに整列した曲北吹部一同の前へ、ちなつが右手を高々と上げながら進み出る。

「もうすぐ本番です。楽器の準備が出来たら、向こうで音出しとチューニングを始めて下さい。時間になったら集合を掛けるんであまり遠くさは行かないこと。それと、サポート組はピットの舞台袖搬入があるんで、時間が来たら忘れずに待機場所まで移動して下さい」

「はい!」

「それじゃ各自、行動開始!」

 ぱん、と鳴らされたちなつの柏手で堰を切ったように、部員たちの波がどっとケースの山へ群がる。真由も自分の楽器を探そうとしていたその時、たまたま別方向からやって来た日向とバッタリ鉢合わせになった。

「いよっ黒江ちゃん。似合ってんじゃん、衣装」

「日向先輩、ありがとうございます。先輩もとっても似合ってますよ」

「はっはっ、お世辞ならよしておくれよ。自分のことは自分が一番良く分かってらい」

 真由なりの気遣いを、日向はすげなく却下する。今回の曲北の演奏者用衣装は軍服をモチーフとして、長袖の白ジャケットに男女とも黒のタイトなスラックスを合わせたものとなっていた。こういうシンプルな衣装はその分、着る者の体格によってシルエットに差が出やすいものだ。

 ちなつや雄悦のように細身で高身長の人なら上手に着こなせるのだろうが、あまり身長に自信のない真由としては『服に着られている』みたいでどうにも気後れしてしまう。それと同じように日向もまた、このユニフォームに対して似たような感情を抱えているのかも知れない。

「それにしてもすごいですよね。去年作ったっていうこの衣装も、秋にはまた新しいものに替えるなんて」

「永田っちの方針だからねえ。選曲もコンテも丸ごとガラッと変えるから、衣装もそれに合わせたものにするんだってさ。テーマの統一感、ってやつ?」

 芸術性の追求を第一に考えるなら、確かにそういう手法もアリなのだろう。けれど都合百人分を超える衣装を年単位で入れ換えるというのは、予算的にもかなりの負担が掛かることだ。これが並の学校ならば、いくら顧問が切望しようがまず通らない。それを可能としているのも、曲北が全国屈指の強豪校として確かな実績を上げているが故、といったところなのだろう。

「ただそのおかげで、毎年変わる自分のスリーサイズを突きつけられる残酷さよ。あー、増えこそすれど、ちっとも減らねえこのハラ肉が恨めしい」

「そんなふうに見えないですよ。日向先輩の場合、柔らかくて美味しそうって感じですし」

「おおん? ムダ肉の一切無い黒江殿がそれを仰いますかァ?」

 つん、と日向に脇腹を突かれた真由は思わず「ひゃんっ」と情けない声を上げてしまう。

「ちょ、先輩、やめてください」

「はー、直に触ったらシュッとなってて、そのくせ欲しいとこだけプルップル。何かだんだんムカついてきたかも。したらここはどうよ、えいっえいっ」

「や、その、くすぐったいですから。お願いですから、やめ、」

「こぉらヒナ、真っ昼間から後輩にセクハラしてんじゃねえの」

 パコンと乾いた音。途端、真由の体の色んなところに伸ばされていた日向の手がするりと解けていく。

「痛っでぇ! ちょっとちなつ、けっこう本気めに叩いたべ、今の?!」

「止めてあげたの。ちょっと間違ったら犯罪行為だぞ、ソレ」

 見ると、うずくまった日向が両手でつむじの辺りを押さえながらじんわり涙を浮かべている。対するちなつはゲンコツを作ったままのポーズで、くずおれた日向のことを見下ろしていた。

「全く。アホなことばっかやってねえで、さっさと楽器出して音出し始めれって。本番までもう時間無えど」

「ちぇっ、分かってますよぅ。全くちなつってば、すぐ手ぇ出るんだがら……」

 ブツクサとぼやきつつ、日向は巨大な二枚貝のような形をしたスーザフォンのケースを目指してとぼとぼ歩いていった。それをしかと見送ってから、真由はちなつの傍へと近寄り「ありがとうございました」と小声で感謝を告げる。

「別にいいって。ああ見えてヒナも本番前で興奮してんだろね。ま、ちょーっと行き過ぎてたから、今回は鉄拳制裁してやったけど」

「でも日向先輩、ちょっとかわいそうでしたね」

「いいのいいの。どうせそのうち一人で勝手にテンション上げて戻って来るし」

 などと邪険な物言いをしながらも、日向の背中を見つめるちなつの眼差しは優しかった。それもきっと、ちなつが日向の人となりを良く知っていればこそなのだろう。ちなつと日向、二人は本当に良いコンビだ。この時期までには真由もそうと確信するに至っていた。

「さあて、私らもそろそろ楽器の準備すっか。今日は目いっぱい頑張ろな」

「はい。頑張ります」

 先を行くちなつに続き、真由も楽器置き場へと向かう。アスファルトの地面にずらりと並べられた大小さまざまな楽器ケースの群れ。その中から、真由は自分のユーフォケースをすぐに見つけ出す。ロックを外して蓋を開けると、昨夜のうちに隅から隅まで丹念に手入れを施したマイユーフォは、今日も深みのある白銀の輝きを放っていた。

 ケースからユーフォを取り出し胸に抱き、まず最初にマウスピースを鳴らして唇を少しなじませた後、それを楽器に付けてB♭(べー)を吹いてみる。――ほんの少し、音が硬いかも。一度唇を離し、その場でゆっくり深呼吸をしてからもう一度。ポーン、と今度は軽やかで気持ちの良い音が出た。引き続いてタンギングやスケール、それから曲のワンフレーズを吹き、普段通りの調子であることを確認していく。

 一通りをこなしてちょっぴり安堵した真由は、ぐるりと辺りを見渡した。ちなつと日向は交互にチューナーを使いながら互いの楽器の調律を行っている。雄悦はステップの最終確認に余念がなく、集団の輪から外れたところでは雅人が一人でメロディのフレーズをなぞっていた。ドラムメジャーの和香はバトンを小脇に挟み、四角い眼鏡のレンズをクロスで念入りに拭いている。「そっちそっち!」「そっちってどっち?」とかしましいやり取りを繰り広げるサポート組の中には泰司や玲亜の姿もある。

 みんなが本番を前に、それぞれのやるべきことに向かって集中し、あるいは尽力している。彼らのそんな姿を見た真由は同時に、体の奥底から何かがこんこんと湧き出てくるのを感じた。曲北吹奏楽部の部員として初めて踏む本番の舞台は、もうすぐそこまで迫っていた。

 

 

 

「――私たちは大曲北中学校吹奏楽部です。今回は『ミス・サイゴン』をテーマに、その物語の一部を音で、動きで、全力で演じます。音楽を通じて感動をお届けしたい。そんな想いを込めた私たちの演技演奏、ぜひ会場中の皆さんに楽しんでいただきたいと思います――」

 司会の代読による自校紹介アナウンスが大口径のスピーカーから放たれる。その間に部員たちは速やかにフロアへ散らばり、各々所定の位置へと着いた。真由もまた前後左右の位置関係を確認し、楽器を胸の高さに構えてその場に静止し時を待つ。

 部員たちの配置を後方から見据えるドラムメジャーの和香とフロントピットの指揮台に立ったスーツ姿の永田とが頷き合う。審判員によって演技開始を示す旗が振られ、永田と和香が腕を上げたのを合図に、部員たちは呼吸を揃えて整然と楽器を構える。緊張がピークを迎える一瞬。全ての準備が万全に整ったことを確認した永田は腕を大きく振り上げ、そして大きく振り下ろした。

 地を刻むようなドラムの連打。荒れ狂う過酷な運命を予感させるファンファーレの総奏(トゥッティ)が雄々しく飛び出し、会場の壁まで突き抜ける。それと共に菱形から始まった布陣は各辺が四つの棒となって散らばり、前後左右にそれぞれ交錯し、横一列になって前進を開始した。スネアドラムとタムの軽快な音が甲高く響き、その次にはグロッケンの疾走感ある音が次々とこぼれ出す。渦を巻くように散りゆく集団の中からソプラノサックスの三年生が一人、フロアの最前線へと進み出た。彼女の独奏によって滔々と歌い上げられるメロディと、その裏で縦横無尽に入り乱れる部員たち。ほんの僅かでも目測を誤れば、上から見た時のバランスは大きく崩れてしまう。和香や永田から何度も受けた注意を頭の中で繰り返しつつ、真由は自分が動くべき線、至るべき点を忠実にキープし続ける。

 曲調が移り変わり、木管が主体となって悲哀を綴るフレーズを美しく歌い上げていく。その合間を縫うようにして旗を持ったガードの面々が艶やかに舞う。ここからはしばらく緩やかなテンポが続き、それと共に歩行速度にも余裕が出る。だがそれは演技上、必ずしも楽なこととは限らない。スローウォークの時ほど間隔の乱れはより目立ちやすくなるからだ。体に叩き込んだ感覚を頼りに場面ごとの最適な距離を保ち、他者の動きに気を配り、フォーメーションを完璧に揃える。機械で測ったかのようなその正確さは、血の滲むような練習の日々に裏打ちされていた。縦へ、横へ、そして斜めへ。一人ひとりの複雑な動きがフロア上に幾つもの模様を描き、それは次の瞬間にまた別の模様へと移ろい、悲しみのメロディと共に連綿として流れ行く時の残酷さを紡ぐ。

 場面はさらに次へと転じる。二重の円を形作ったメンバーが放射状に広がり、その中央でガードの二人が交わるように旗をかざしては離れていく。円の一部に切れ目が生じ、そこから二列になった隊はフロアを後ろ向きに縦断して二又に裂け、その流れは怒涛の勢いでフロアの左右へと別れた。二つの塊にまとまった集団。そのちょうど中間の空隙に、今度は打楽器を担いだ『バッテリー』と呼ばれる集団が躍り出る。地鳴りのようなドラムのけたたましさが息を吹き返し、演奏演技は再び迫力と緊張感を取り戻す。ここからステップは一段と複雑さを増す。前に出した足を横へ直角にスライドさせ、その足を軸として体をぐるりと捻る二百七十度ターン。踏み込みの角度。回転の勢い。そして速やかな静止。それら全てを全員がピタリと一致させると聴衆からは最大級の歓声が巻き起こった。続けて十字の形に並んだ隊列が各々動き、時計の針のように交差する。練習中にみんなが苦戦していたこの箇所は、音量面でも最大級のボリュームが求められるところだ。交差時の姿勢に注意を払いつつも一人分が欠けている音量を補うべく、真由もちなつもありったけのブレスをユーフォへと注ぎ込む。鳴り響く大音声と追いつかない呼吸のせいで頭がくらくらする。けれどここが踏ん張りどころだ。足に力を込めてベルアップの姿勢を取り、真由は音色の美しさを保てるギリギリの音量と共に、足に力を込めて前進を開始する。ここがこのドリルで最も盛り上がる場面、カンパニーフロント。両サイドに分かれたトロンボーン隊のスライドが閃光のように虚空を切る。ガード隊は上へ向かって旗を投げ、それを鮮やかにキャッチする。スーザやユーフォの畳み掛けるような重低音とトランペットを主体とした華々しいメロディ。それらは混然一体に折り重なって洪水のように観客席を駆け巡っていく。ここまで来たら、フィナーレまではあと一息だ。

 出すべき音と為すべき動作に従って、ひとりでに体が動く。それをいま支配しているのは疲労感でもなければ義務感でもなかった。ひたすら純粋に、楽しい。こんなにすごい演奏を、こんなにすごい演技を、自分とみんながつくっている。その実感が燃料となって、尋常では得難いほどの高揚感と多幸感をどくどくと際限なく真由の奥底へと注ぎ込んでいた。その喜びが、とっくに疲れ切っているはずの体を突き動かしていた。もっとだ。もっとすごい感覚を味わってみたい。今までにない高みを。打ち震えるほどの喜びを。そして、最高級の楽しさを。

――全ての演奏演技が終わり、荒く息を吐く真由の耳には文字通り、万雷の拍手が鳴り響いていた。体のあちこちがじんじんと疼き、胸の奥で心臓が暴れ馬のように跳ね回っている。退場の拍子を取るドラムに合わせて足を動かす間もずっと、それらは真由の全身を止めどなく揺るがし続けていた。

 

 

 きっと、この時だったのだと思う。

 自分が『熱病』に冒された、その最初のきっかけとなったのは。

 

 

 

 

 

「……というわけで、我らが曲北吹部は無事、十月の東北大会への代表推薦を頂くことが出来ました」

 堂々たるちなつの宣言に、部員たちはワアア、と拍手喝采をもって互いに喜び合い労い合う。大会は滞りなく全日程を終了し、吹部の一行もまた既に音楽室に戻って帰りのミーティングを行っている最中だった。

「んだけど、ここで浮かれないように。今回のマーチングフェスはあくまで目標への第一関門でしかありません。本番は東北大会以降。そしてその間にはコンクールを始めとする各種演奏会があります。その一つ一つに気を抜くこと無く全力で臨みましょう」

「はい!」

「では永田先生からも一言、お願いします」

「おう」

 壇上に上がった永田はまず「ひとこと!」とお決まりのボケをかまし、それに部員たちがきゃっきゃと無邪気な笑声を上げた。それらがひとしきり収まってから、永田は空気を切り替えるように小さく咳払いをする。

「えー、まずみんなお疲れ様でした。今日の演技演奏ですが、みんな練習してきたことがちゃんと出せてて素晴らしい内容だったと思います。新生曲北一発目の本番としては、非常に良いスタートを切れたと言って良いでしょう」

 予想外な永田のベタ褒めぶりに、真由はちょっぴり拍子抜けしてしまう。こういう強豪校であれば、例えどんなに良い結果であっても顧問からは「あそこがダメだ、ここが出来てない」と苦言が飛び出すのではないか、と思い込んでいたきらいも無くはないのだが。

「んだども、この中には内心悔しい思いをしてる奴や、『もっと良くやれたハズ』って思ってる奴もいるんでねえが、と俺は思う」 

 永田がそう述べた途端、それまでさざめいていた部室はシンと静まり返った。永田の言っていることを最も痛感している者のうち一人は、たぶん雄悦だ。事前にあれほど意気込んでいたにもかかわらず、本番では結局楽器を吹かずにステップだけを行っていた彼の胸中がいかばかりであったかは、察するに余りある。部員目線では完璧だと思えていても観客側の視点で見ればそうではない、というところだってきっとある事だろう。恐らくは、真由自身にも。

「そういう点を今後改善して、最後には各々悔いのないようにするための準備期間を、我々は幸運にも今回授かることが出来ました。これはみんなの頑張りのおかげでもあり、みんなのご家族を含めたたくさんの人たちの支えのおかげでもあります。そのことにしっかり感謝しつつ、今のこの気持ちを忘れずに、これからも目標と目的に向かって邁進していきましょう」

「はい!」

「つーわけで、先生からは以上。年寄りはもうすっかりヘトヘトですんで、職員室でアイスでも食ってきます」

「えぇー?!」

 先生ずりぃー、俺さもよこせー、という諸々の罵声もどこ吹く風、「へばな!」とだけ言い残して永田は軽やかに退室してしまった。成績優秀な吹部の顧問には個性的な人物が多いとは良く聞く話だが、永田もその例に洩れずかなり奔放な性格をしている。あるいはそのぐらいでなければ、全国最優秀賞のような栄冠を手にするのは難しいものなのかも知れない。

「ハーイ、静かに」

 姿を消した顧問と入れ替わるようにして、ちなつが手を叩きながら再び前に出る。

「今日は居残り練禁止で明日は休養日になってるので、みんなも今日は早く家さ帰って疲れをじっくり癒して下さい。くれぐれも休みのうちにハメ外し過ぎて、明後日の練習再開からいきなり病欠なんかしねえように」

 一度口を閉じたちなつが唐突に、チューバパートの辺りをギトリと睨みつけた。それに即応してどこ吹く風とばかり、涼しい顔でカラ口笛を鳴らしながら顔をそむけた日向は、さっきのちなつの物言いからしてどうやら過去に何かをやらかした前科があるらしい。

「とにかく、休める時にはしっかり休むこと。私からは以上ってことで、今日はこれで解散にします。今日も一日お疲れさまでした」

「お疲れさまでした!」

 締めのあいさつと同時に、部員たちは雪崩を打ったように帰り支度を始める。それを眺めるでもなく、真由はしばらくぼうっと座ったままでいた。べつに人混みが解消されるまで待ってから動こう、などと打算していたわけではない。単純に本番で全力を出し切った充足感と疲労のせいで、すぐに動く気力が湧かなかったせいだ。

「お疲れさまでした、黒江先輩!」

 そうしていたところに玲亜と泰司が労いの言葉を掛けにやって来た。お疲れさま、と真由も後輩たちに笑顔を返す。

「すごかったっす、先輩たちの演技演奏! 俺も早く先輩たちと一緒にステージ立ってみてえっす」

「石川はその前に、まず一曲吹けるようになんねえとダメだべ」

「はあ? バカにすんなよ三島。俺だって一曲ぐれえ、もう吹けるようになってるし」

「何よ、その一曲って」

「チューリップ」

 チュー、リッ、プ、と玲亜が嘲笑混じりに復唱する。その悪しざまな態度を見かね、真由は咄嗟に口を開いた。

「ダメだよ玲亜ちゃん、『チューリップ』だってちゃんとした曲なんだから。それに千里の道も一歩から、って言うでしょ? カンタンな曲だってちゃんと吹けるようになっていくのは上達の近道だよ」

「あ……そうですね。調子こいてすいません」

「やーい、黒江先輩に怒られてやんのー」

「うっせ、ホジナシ」

 こんなふうに泰司と玲亜がぎゃあぎゃあ罵り合うのも、いつの間にやら日常茶飯事みたいになっていた。彼らのやり取りは日向たちに比べれば剣呑ながらもどこか微笑ましくて、もしも自分に弟や妹がいたらこんな感じだったのかな、と真由は想像上の光景を二人の姿に重ねてしまう。と、泰司がふと何かを思い出したように「あ、っと」と論争の口をつぐんだ。

「ところで黒江先輩、会場さ居た時にカメラであちこち撮ってたみたいっすけど、先輩って写真が趣味なんすか?」

「ああ、そう言えばみんなには言ってなかったかも。写真撮るの、趣味っていうか、昔から好きなんだ」

 真由はがさごそと鞄を探り、取り出したカメラを泰司に向けてかざす。ずっと昔に父から譲り受けたこのカメラは、真由にとってユーフォに次ぐ宝物だ。このカメラで撮った景色や思い出を数え始めたら、それこそ枚挙にいとまが無い。撮り貯めた写真を余さず現像し写真帳にしまい込むことは、真由の半生における大切な記録作業であり、またある種の儀式でもあった。

「へぇー、フィルム式なんて今どき珍しいっすね」

「デジタル式のも持ってるんだけど、フィルム独特の色が好きなの。っていうか石川くん、良くこれがフィルムカメラだってこと分かったね」

「あ、へへ、いやあ。親父の実家のじいちゃんがカメラ好きで、自慢のカメラコレクションだーっつって色々飾ってんすよ。俺はそんな詳しくないんすけど、じいちゃん家に遊びに行くと毎回とっ捕まって、いろいろ説明されるもんで」

「そうなんだ。もし私が石川くんのおじいちゃんに会ったら、カメラの話で盛り上がれそうだなあ」

「それ、マジっすか?」

「何でオメーが興奮してんのよ」

「三島は黙ってれよ。……んでその、もし先輩さえ良けりゃ、明日にでもじいちゃん家に案内しますけど、どうすか?」

「えっ」

「じいちゃん家、市内にあるんでそんな遠くないですし。先輩がカメラに興味あるって聞けばじいちゃんも大歓迎だと思うんで」

 やけに強く誘ってくる泰司を前に、真由はしばし考え込む。彼のその申し出はありがたいと言えばありがたい。けれど、いくら孫の部活の先輩とはいえ、赤の他人である真由が突然押し掛けるというのもどうなのだろう。それはそれで先方の迷惑になってしまうのではないか。

「せっかくだけど遠慮しておくよ。今度お祖父さまから聞いたカメラのお話、私にも聞かせてね」

「あ、そ、そうっすか……」

「だがら、何でオメーが落ち込んでんのよ」

 うなだれかけていた泰司が、うっせ! と激しく玲亜に吠える。彼の感情の機微はよく分からないが、どのみち自分には関わりの無いことだと信じて疑わぬ真由には、せいぜい場を取り繕うように愛想笑いしておくぐらいしか出来なかった。

「まあこんなホジナシのことは放っといて、私そろそろ帰ります。先輩もゆっくり休んで下さいね」

 きょろきょろ辺りを見渡した玲亜が頃合いとばかり、手にしていた鞄を背負う。帰りに混雑する部員たちもだいぶ掃け、音楽室の中にはまばらに人影が残る程度だった。これならすし詰め状態にならずに学校を出ることもできるだろう。

「ありがと。じゃあ玲亜ちゃん、また明後日」

「本番お疲れさまでした、お先に失礼します」

 キッチリと一礼をし、玲亜は部室を去っていった。あの日以来、玲亜は同級の泰司などには時々口を滑らせることもあれど、こと上級生に対してはちゃんと礼節を弁えた言動を取るようになった。そして気付けば自分も、彼女を『玲亜ちゃん』と下の名で呼ぶ程度には玲亜と打ち解けつつある。あるいはそれもあの子の教育によるものなのか。などと物思いに耽りつつふと顔を上げたそこには、もうとっくに帰ったものとばかり思っていた泰司の姿がまだあった。

「あれ、石川くんは帰らないの?」

「先輩こそ、まだ帰らないんすか」

「私はもうちょっとだけ休憩してからかな。石川くんも今日は疲れたでしょ? 私に構わず先に帰っていいよ」

「え……はい。や、じゃなくて、そ、その」

「どうかしたの? もしかして、私に何か用事でもあった?」

 コトリと小首を傾げながら、真由は泰司をじっと見つめる。

「ええっと、ですね。つまり、俺、俺――」

「俺?」

「……俺、おっおおお先します! お疲れさましたっ」

 急に声を張り上げた泰司は鞄をひったくり、一目散に音楽室を出ていってしまった。あまりに突飛な彼の行動に真由はポカンとしてしまう。もしかして、それほどまでに帰りたいと思っていたにも関わらず、彼は先輩である自分に気を遣って今の今まで帰れずにいたのだろうか。そうなのだとしたら泰司には気の毒なことをしてしまった。後で詫びた方がいいのかな。そんなふうに真由は思案する。

「青春だねぇ」

 一部始終を傍らで眺めていた日向が、訳知り顔でポツリと呟いた。早く帰りたかったであろう泰司と日向の言う青春とに、一体どんな関係が? 謎が謎を呼び、雪だるま式に膨れ上がるこの状況に、真由はますます首を傾げるばかりなのだった。

 

 

 

 真由がようやっと学校を出たのは、ちなつが音楽室を閉めるギリギリ直前のことだった。普段の部活に比べれば格段に早い時間帯なのだが、それでも周辺の家々は茜色の塗料を撒いた後みたく、すっかり夕焼けに染まっている。長いような短いような、とても不思議な一日だった。本番を迎えた後はいつもこうだ。一歩一歩と足を進める度に全身に襲い掛かる疲労感が、何故かいまはひどく心地良い。それを噛み締めながら歩くうち、目の前の公園に広がる景観にはたと気付き、真由は立ち尽くした。

 桜が、満開になっている。

 四月半ばに気温の低い日が続いていたせいか、今年の開花は平年より少し遅めになっている、という県内ニュースを見たのはついこの間。あれから忙しい日々を過ごすうち、気付けば春は足元で咲き誇っていた。これを逃してはならない、と真由は早速鞄からカメラを取り出す。

 カシャ、カシャ、という小気味良い機械音と共に、レンズを通してフィルムへと焼き付けられていく光景の数々。桜はまさに今が花見どきで、枝の上に開いた花弁は幾重にも折り重なり互いにその美しさを競い合っていた。せっかくだし別角度からも撮っておこう。と、もう一度ファインダーを覗いたその時、真由はそこに彼女の姿を見つける。

「……水月、ちゃん?」

 そこには私服姿の水月がいた。ギイギイ、と小さくブランコを揺らす彼女が、真由の呟きに反応したかのようにゆるりとこちらを向く。

「真由ちゃん、お疲れさま」

「どうしてここに、水月ちゃんが」

「待ってたの。真由ちゃんのこと」

 ブランコから立ち上がり、そしてゆっくりと水月がこちらへ近付いてくる。待ってた? そんな真由の疑問にはお構いなしに、後ろ手を組んだ水月は悪戯っぽく目を細めた。

「どうだった? 本番」

「え。うん、楽しかったよ、とっても」

「それなら良かった」

 うっそりと笑みを浮かべ、踵を返した水月はさっきのブランコまで戻り「どうぞ」と手招きをした。それに応じ、おずおずと隣のブランコに腰かける。束の間の静寂。何となく落ち着かない気持ちにさせられ、真由は自分から口を開く。

「ひとつ、水月ちゃんに聞きたい事があるんだけど」

「なあに?」

「どうして今日休んだの?」

 それは決して水月を責める口ぶりにならぬよう、それとなく尋ねたみたいに聞こえるよう、出来る限り声色を選んで発言したつもりだった。対する水月はしかし、しばらく返答をよこさない。沈黙が続く中、二人の座るブランコの鎖だけが赤錆びを剥がされ窮屈そうな音を立てる。

「真由ちゃんはさ、今日の本番に出てみて『楽しい』って、そう思えたんだよね?」

 ようやっと水月が寄越したのは、こちらの質問を無視するかのような問い返しだった。それは水月が答えたくないと思ったからなのか、それとも真由の回答次第で腹の内を明かすつもりでいるのか。どちらともつかず、そして水月への答えを今さっき告げてしまっている以上、真由もまた黙るほかは無い。

「私はね、この景色を真由ちゃん自身が楽しいって思えているのは、とっても素敵なことだと思う」

 ギイ、と鎖が大きく軋む。それはブランコに立ち乗りした水月が地面を蹴って、大きく漕ぎ出した音だった。

「それはきっと特別なことなの。真由ちゃんが真由ちゃんだからこその」

「私が、私だからこそ?」

 水月の言っていることが全然理解できない。それはあるいは疲れのせいで、うまく頭が回っていなかったからなのかも知れない。今はただ、ぎいこ、ぎいこ、と強まる錆めいた金具の音がひどく耳障りだった。

 水月がブランコを大きく引き、はずみをつけて前へと動き出す。その勢いに乗じて飛び出すように、水月の体が宙を舞った。その長い髪をなびかせて。まるで銀河の暗幕をそこへ広げるみたいにして。それを見た真由の手元で、カシャ、と何かが音を立てる。それは自分のフィルムカメラだった。考えるよりも先に指が反応してしまうほどに、その一瞬はあまりにも唐突で、美し過ぎた。

 土埃を立てて水月がきれいな着地を決める。振り向いた彼女は事もなげにつま先でトントンと地面を蹴り、靴についた砂を振り落とした。

「でもね。だからこそ真由ちゃんにはいつか、知って欲しい」

 ゆらり、と水月が再びこちらへ近付いてくる。夕陽を浴びて真っ赤に燃える彼女の髪が眩しくて、真由は思わず目をすがめる。

「そうじゃない人にとっては、その景色がどんなふうに映っているのかってことを」

 自分を覗き込む水月の瞳は、星一つ無い真夜中みたいに真っ暗だった。途端、全身からドッと冷や汗が噴き出す。――我に返った時にはもう水月の姿はどこにも無くて、ただ辛うじて「じゃあね」と去り際に告げたその声だけが、確かに彼女がここに居たことの残滓として、おぼろげな意識の中に漂っていた。

 カメラをぎゅっと握り締め、真由は頭上の桜を見上げる。満開の桜からは僅かに花弁がこぼれ始めていて、この分だと数日の内には散り桜に変わってしまいそうだ。

 雪国の春は短い。その移ろいの早さを思う時、それはまるで今の自分みたいだと、真由はそう感じていた。

 

 



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〈6〉散策、そして邂逅

 大型連休、その最終日。

 吹部の休養日でもある本日、真由は当初どこか家の近所でユーフォでも吹いて過ごそうかと考えていた。しかし本番での高揚感と疲れのせいなのか、昨日のうちに楽器を持って帰るのをうっかり忘れてしまい、現在ユーフォは鍵の掛かった楽器室の奥にある。連休期間ということで永田も学校にいないとなれば、あそこから楽器を引っ張り出すことはもはや不可能と言って良い。

 それならそれでしっかり休んで疲れを癒すのも一つの手なのだが、しかし外はせっかくの晴れ模様、どこにも出掛けぬままというのはどうにも勿体ない気がしてしまう。そうこうしているうちにお昼を回り、尚も時間は刻々と過ぎ去っていく。そろそろ今日の過ごし方について、真由は決断しなければならなかった。

「どうしようかな」

 机の置き時計を一度眺め、もう何度も吐いたその独り言をまたも繰り返す。こんな時にタイミングよく誘ってくれる友達でもいれば良かったのだが、その第一候補である早苗は今日まで卓球部の合宿に参加中であり、第二第三の候補となるクラスメイト達も既に他の子と遊ぶ約束をしていたらしかった。そして彼女たちの中に堂々と割って入るだけの図々しさを、あいにくと真由は持ち合わせていない。

 いっそ、ひとりでもいいか。どうせなら写真でも撮りに出かけてみよう。そう思い立ち、おもむろにタンスの引き出しを開ける。目についたのは去年の秋に買ったひざ丈のプリーツスカート。何だかんだで出番の無いままひと冬を越してしまったこのスカートを、今日こそは履いて出歩く絶好のチャンスと言えよう。これに飾り気の少ないライトグレーのパーカーを合わせ、日よけ代わりにぶかぶかのキャスケットをかぶる。帽子の横から飛び出る長髪のせいで、姿見の中の自分は何だかビーグル犬っぽくも見えたが、別に誰かに見せるつもりでいるわけでもない。今日の装いはこれで決まりだ。

 手早く身支度を整えてから、これを忘れてはならぬ、と机上のカメラに手を伸ばす。とその時、真由の脳裏にゆうべの光景がぶわりと浮かび上がった。燃えるように輝く夕陽。艶やかに舞う桜。そして水月の、暗い深淵を思わせる漆黒。あの瞬間、あの美しさを捉え切ることが、自分には出来なかった。きっとフィルムには手ブレでぼやけた地面の像しか写っていないに違いない。それを己の不安定な心情につい重ねてしまったせいで、真由の胸は僅かに曇る。

 机の上にはフィルムとデジタル、二つのカメラ。しばらく逡巡し、それから真由はデジタル式のカメラを掴み取り、黙ってそれを肩掛けポーチへと押し込んだ。

 

 

 

 黒江家が住まうアパートは、二つの川に挟まれた三角地のちょうど真ん中にある。この二つの川はもう少し下流で一つに合流するのだが、うち片方は登下校の際に渡ることになる丸子川。そしてもう片方、大仙市の中心を南から西へと流れる雄物川は先日水月から教えてもらった通り、夏の花火大会が催される場所でもある。まずはそちらへ行ってみよう。そう決めた真由は住宅街の区画からまっすぐ川の方へ進み、堤防道路へと至る階段を上った。

「うわあ、綺麗」

 真由のいる東岸の向こう側、つまり雄物川西岸の堤防には、桜の木がずらりと立ち並んでいた。快晴の大空から射すうららかな陽気とほの暖かい風、それに運ばれてピンク色の小さな花びらがいくつも舞い踊り、川の水面に長い花筏を形作る。周囲に広がる草木は青々と生い茂り、その奥にそびえる姫神山は実に悠然と、瑠璃色にまぶされた大空にその雄姿を誇示していた。たくさんの色で埋められ、命の躍動に満ち溢れる世界。これを撮らない手は無い。さっそくカメラを取り出した真由は、春爛漫の景色をシャッターで切り取ってゆきつつ、気分に任せて堤防をそぞろに歩く。

 雄物川の東岸は辺り一面を河川敷公園として整備されていた。と言っても特に遊具などは見当たらないのだが、短く刈られた原っぱでは小学校低学年くらいの子たちがボールを追って駆けずり回るなどしている。連休最終日ということもあってか、奥の河原に目を向けると家族連れがバーベキューをしたり釣り竿を振ったり、と様々に余暇を楽しんでいた。どうやらここは華々しいイベントの時のみならず、地域の人々の日常的な生活エリアとしてもきちんと機能しているらしい。堤防道路を散歩中の老夫婦も揃ってにこやかな笑顔で、穏やかな風を浴びながらのんびり歩く姿も実に気持ちよさそうだ。そんな団欒のかたちをそこかしこに見つけながら、真由の散策は尚も続く。

 一応の腹積もりとしては、このまま堤防道路を上流方面へ行き、適当なところで堤防を下って市街地側へ。後は日暮れまでぶらぶらと歩きながら道すがらの撮影スポットを見繕う……と、改めて考えるとかなりアバウトな計画ぶりだった。けれど幸か不幸か、悠長にうろついていられるだけの時間的余裕はたっぷりとある。それに秋田へ引っ越してきてからこっち、自宅と学校を行き来するだけの生活を送っていたせいで、この辺の地理感覚にはまだ疎かった。せっかくの機会なんだし、自分の住む街に詳しくなっておいて損は無い。そんなふうに気を取り直し、時々振り返っては迷わぬように現在地と家との位置関係を確認しつつ、真由は道なりの景色を楽しんでいった。

「あれ、」

 と、しばらく歩いたその先で、ふと真由の耳が何かの音を捉えた。優雅にたわむように奏でられるこの研ぎ澄まされた音色には、少なからず聞き覚えがある。音の出どころは多分、あそこだ。目よりも先に、鍛えられたその耳が、真由の意識をある一点へと運ぶ。堤防道路の脇、芝生の一角に設置された石造りのベンチ。そこでは音高の変化に伴って、細長い金色の管が前後に伸び縮みしていた。そして、その持ち主はやはりと言うべきか、真由の良く知る人物だった。

「こんにちは、草彅くん」

 近付いて声を掛けると、トロンボーンのマウスピースから口を離し、雅人がぬるりとこちらを向く。

「黒江。()して、ここに」

 スライドを畳んで先端の黒い石突きをつま先の上に置いた雅人が、相も変わらずぶっきらぼうに問うてくる。がらがらと掠れた声が実に思春期の男子っぽい。目の辺りを鬱蒼と覆う髪のせいで彼の視線が自分のどこを見定めているのかは分からなかったが、少なくとも真由が真由であることだけはちゃんと認識してくれたようだ。

「天気が良かったからお散歩中。それとついでに、良い景色見つけたら写真撮ろうかなって思って」

 手に持ったカメラをかざすと、雅人はそれを見て納得したのか「あぁ」と低く唸る相づちを打ち、視線ごと顔を川辺へ向けた。同じ二年三組の同級生、であるどころか一つ前の席に座っている雅人とまともに会話をするのは、もしかしなくてもこれが初めてのことだった。

「隣、座ってもいい?」

 そう尋ねると、雅人はしばらく考え込むように口を閉ざし、それから『勝手にどうぞ』とでも言うかのように体をひとつ横へとずらした。空いた座面をささっと手で払い、真由はベンチに腰掛ける。雅人との間隔は、ちょうどユーフォのケース一つ分。それ以上近寄ることを彼は許容していない。そういう気配を何となく、真由は雅人と隣接したその肩越しに感じた。

「草彅くんはここで練習中?」

「まあ。家でも吹けんだけど、何となく外で吹きてえ気分だったし」

「いい天気だもんね、今日。私もホントはユーフォ吹こうって思ってたんだけど、きのう学校に忘れて来ちゃって」

 ドジだね、と自虐してみせた真由に、雅人は何の反応も示さなかった。微妙に気まずさを覚えた真由は、間を持たせる話題の種は無いかと素早く思索した結果、雅人の持つぴかぴかのトロンボーンへと目を留める。

「楽器持ってきたってことは、お家ここから近いんだね」

「そうでもねえ。ウチはもっとあっち」

 最小限の動きで雅人があさっての方角を指差す。それだけでは具体的な距離や位置までは分からなかったものの、彼の言葉と指の角度から、ここから上流方面の遥か向こうに彼の家はあるらしい、と察することだけは出来た。よくよく辺りを見てみれば、ベンチから少し離れた木陰にはトロンボーン用の黒いハードケースと飾り気の少ない通学用自転車が置かれてある。つまりは徒歩で来るのを躊躇う程度には遠くから、雅人は自転車を漕いでここまでやって来たということなのだろう。

「それでもわざわざ来たってことは、ここって草彅くんのお気に入りの練習場所だったり?」

「べつに」

「そっか」

 短いやり取り。そしてまたがる沈黙。いったん途切れた会話の流れに、雅人は続きを継ごうとしなかった。爽やかに吹く風が木々を揺らし、擦れ合った葉っぱがサワサワと涼しげな音を立てる。そうしているうちに雅人はゆっくりとトロンボーンを構え直し、軽く音出しをして感触を確かめてから、曲を奏で始めた。

 ――上手い。いつぞや体育館で一人吹いているのを聴いた時もそうだったのだけれど、真由が純粋にそうと感じるほど、雅人の吹くトロンボーンはとても洗練されていた。張り、深み、滲み、余韻。あらゆる要素はメロディを引き立てるために活用され、汐の満ち引きがそうであるように、真由の耳と心に細やかな波形をかき立ててゆく。時に明るく輝き、時に暗く沈み、それらを繰り返して紡がれる旋律は音量を引き上げた時でさえなお心地良く全身を包み込む。陶酔の後に迎えた演奏の終端、たっぷりのビブラートを伴って最後の一節を吹き終えた雅人に、真由は心からの拍手を送った。

「……よせよ。べつに黒江のために吹いたワケでねえ」

「だって、本当に上手だったから。今吹いてたのって『さくらのうた』だよね。去年の課題曲の」

 ん、と雅人が僅かながらも首肯する。(ふく)()(よう)(すけ)により作られたこの曲はその題名に相応しく、全体を通して柔らかに舞い乱れる耽美な進行を大きな特徴としていた。押しては返し、また押し寄せ、という音の波の連続で織り成される曲調は咲き誇る桜の隆盛と、それを眺める者の心象を綴っているかのようでもある。雅人が吹いたのはこの曲の主題部分、つまりモチーフとなっているメロディの箇所だった。

「今の季節にぴったりの曲だよね。春の曲って色々あるけど、私はこういう穏やかな曲の方が好きだな」

「んだのが。黒江は前の学校でも吹部、だったんだよな」

「うん。前いた吹部で課題曲に選ばれたのは『よろこびへ歩き出せ』だったんだけどね」

 ふうん、と楽器を下ろした雅人はそこで一度、視線を足元の芝生へと落とした。

「なあ、黒江」

 しばし黙した後、雅人がのろりとこちらを向く。

「お前、将来プロんなるつもりあるか?」

「え、いま何て?」

「だがら、プロ」

「ごめん。ちょっと言ってること、よく分からないんだけど」

「ユーフォの」

 少々苛ついたように雅人が語気を強める。将来。プロ。ユーフォの。そこまで言われて真由はようやく、雅人の問い掛けの趣旨を把握する。

「ううん、そんなつもり無いけど。でもどうして?」

「だってお前、上手えねが」

 鬱蒼とした前髪の隙間に見える雅人の細い目が、ギョロリとこちらを覗き込んできた。まるで猫が獲物を捉える時のような、相手を強く射貫く視線。そのとき真由の胸中を占めていたものは、どちらかと言えば、不安に近い緊張の気配だった。

「音色も綺麗で音程もちゃんと取れてる。マーチングの時だって入部一ヵ月でメンバー入りしてるし、他に渡された楽譜だってあらかた吹けるようになってんだろ」

「それは、まあ」

「そのうえ楽器も自分持ちのだし」

「私以外にもマイ楽器持ってるって人はいるでしょ? それとプロがどうとかっていうのとは、あんまり関係ないと思うけど」

「普通はな。でもお前は実際上手え。前の学校の吹部がどの程度のレベルだったか知らねえけど、普通にやっててそんけえ(そこまで)上手くはならねえよ」

 雅人が流暢に会話を紡ぐ。それが真由には何より意外なことだった。こんなに喋る子だとは正直思っていなかった。真由の中での雅人とは、他人と二言三言も喋ればあとはむっつり黙り込んで窓の外を眺めている、そんな社交性皆無な人物だ。その雅人にいきなりこれほどまでの高評価をされること自体、真由からすれば理解不能な異常事態であり、従って彼の言葉を額面通り受け取る気にも到底なれやしない。

「私、そんなにすごくないよ。第一、私よりも上手い人なんて沢山いるし。ちなつ先輩とか草彅くんとか」

「それって比較対象が吹部トップってことだべ? じゅうぶん上等だ」

 自分がその立ち位置にあることを否定どころか謙遜すらもしないあたり、彼は自身の演奏技術に絶対的な自信を持っているらしい。それもある意味羨ましいことだ。

「その理屈で言えば、私よりも先に草彅くんがプロになるべき、ってことになると思うんだけど」

「当然だべ」

 意趣返しのつもりで放ったこちらの軽口に、雅人は強い断定を投げ返してきた。それにみぞおちを抉られて、真由の呼吸はがふりとつっかえる。

「俺はプロになる。なりてえんだよ。そのつもりで、小っちぇえ頃からずっとやってきた」

 ザア、と風がひときわ強く木の枝を揺する。翻った髪の奥に見え隠れする雅人の鋭い眼差しは、さっきの言葉が何より本気のものであることを雄弁に物語っていた。

「ずうっと音楽浸りでやってきて、ずうっとプロになるつもりで生きてきた。俺に才能があるかなんて知らねえ、けど、俺にあんのは音楽だけだ。だから音楽に関することなら何でも、ピアノでも作曲でも、ずっと本気でやってきた。今さら音楽以外の将来なんて、俺には考えらんねえ」

 言葉が出ない。同年代の友人知人に、自分の嘱望する将来をここまで明確に語ってみせた者が今までに一人でもいただろうか。そんな未踏の話題にしばらくの間、真由は返すべき言葉を見い出せぬまま、つぐんだ唇の裏側をきゅっと噛みつぶすことしか出来ずにいた。

「……それじゃ、進路は音大とか?」

「県外の高校。音楽科があるから、そこさ行く。もう親にも相談はしてるけど、そこ出たら音大行って、音大出たらプロになる」

「トロンボーンの?」

「それはこれから決める。でもどうせだったら、俺はトロンボーンのプロが良い」

 雅人の右手がトロンボーンのマウスパイプをぎゅう、と固く握り締める。ぴかぴかに磨き上げられた金色の管体には、そこかしこに僅かなくぼみや塗装欠けが見受けられた。この楽器と共に彼が過ごしてきた年月は、きっと五年やそこらではないのだろう。いまの真由にはそれに比するほどの何かなど、何も無い。

「私は、そこまでじゃないよ。ふつうに部活をやってきて、ふつうにユーフォ吹いてるだけ。好きって気持ちはあるし、出来るだけ長く続けたいとは思ってる。けど、だからと言ってプロになるとまでは考えてない、かな。少なくとも今は」

 吐き出すように、真由は雅人にそう告げる。

「そうか」

 雅人は再び下を向き、それきり黙りこくってしまった。失望、したのだろうか。あるいは単に言葉が尽きただけなのか。焦れったい空気が蔓延るせいでお尻の辺りがむずむずする。けれど、仕方が無かった。いま答えたことが真由の考えている全てであり、他にどうとも答えようがないのだ。雅人の思惑などこれっぽっちも読み取れないが、必ずしも彼の期待に沿う回答を求められていた訳ではないのだろうし、そうする義務も勿論無い。そんなふうに、真由は心の中で自己弁護を繰り返す。

「でも、どうして気になったの? 私がプロになるかどうか、なんて」

 真由の問いに、ふう、と雅人は鼻から息を吐く。それはおよそ周囲の景観にそぐわない、深い愁いの色を帯びていた。

「勿体ねえから」

「どういうこと?」

「なれる奴がなろうとしねえのは、勿体ねえ。ただそんだけだ」

 彼の言わんとしていることがさっぱり分からない。互いに沈黙一択の状況がしばらく続く。やがて雅人はむくりと緩慢な所作で楽器を構え、さっきとは別の曲を吹き始めた。それが『もう喋ることは無い』という彼なりのメッセージなのだと受け取り、真由もまたベンチから立ち上がる。

「ごめんね、練習の邪魔しちゃって。私そろそろ行くから」

「……ああ」

「じゃあまた明日、学校で」

 雅人に手を振り、真由は足早にその場を後にする。後方から鳴らされるトロンボーンの音色は、まるで逃げ去る自分をどこまでも追いかけてくるみたいだった。歩きながら、真由は手のひらをじっと見つめる。果たして自分はユーフォのプロになりたいと思っているのか。あるいはいつの日か、なりたいと思うときが自分にもやって来るのだろうか。それは少なくとも、いまの自分には分からない。

 

 

 

 休み明け初日、練習開始前のミーティングは、これからの活動スケジュールをちなつが部員たちに伝達するところから始まった。

「今後直近の予定としては、今月後半と来月の中旬にそれぞれ駅前イベントのパレードと地区の合同演奏会があります。それ用の楽譜は先月渡してあるんで、各パートきちんと普段から練習して、いつでも合奏で吹けるようにしといて下さい」

 手元のプリントに時おり目をやりながら、ちなつは説明を続ける。昨日は久々にゆっくり羽を伸ばせたが、ここからはまた当面休みなし。土日祝は終日練習か本番かのどっちかという、曲北の日程はまこと事前の予想を裏切らない多忙ぶりだ。

「それと、目下の大きなイベントは夏の吹奏楽コンクールです。今年の課題曲は『ライジング・サン』、自由曲は『聖母に捧げる賛歌』に決まりました。楽譜は後で楽譜係を通じて各パートに配るけど、来月にはコンクールメンバーを決める為のオーディションがあります。他の曲練と同時並行になるんで大変だと思うけど、各自うまく調整して練習時間を確保して下さい。特に一年は、学年だなんだと気にせずしっかり練習しておくこと。でないと後で恥かくよ」

 うえー、と新入生たちが心底嫌そうな声を上げる。オーディション、と言われて気持ちを盛り上げられる人間もそう多くはないだろう。もしいるとすればそれは、雅人のように絶対的自信を持っている人種か、あるいはとことんポジティブモンスターであるかのどちらかだ。

「楽譜係はこのあと音楽準備室で、永田先生からコンクール曲の楽譜をもらって各パートに配って下さい。コンクールについては以上です。それと今週末、近くの高校で楽器ごとに講師の先生を招いた講習会があります。参加を希望する人は後で用紙を取りに……」

 ちなつの声を聞くでもなく聞きながら、真由は左隣をそっと見やる。今日の水月は普段と何一つ変わりなく、退屈そうな顔つきで桃色に染まる指の爪を眺めていた。こうして見ていると、あの桜咲く公園で水月が見せたおぞましいほどの美しさが、夢か何かだったかのように思えてならない。けれど現実にあったことの証明として、真由の中ではあれからずっと水月の声が鈍い残響となって留まり続けている。

『この景色を真由ちゃん自身が楽しいって思えているのは、とっても素敵なことだと思う』

 そして水月はこうも言った。『そうじゃない』人にはこの景色がどんなふうに映っているのか、いつかそれを知って欲しい、と。

 昨日家に帰ってからもずっと、真由はこのことばかりを考えていた。それは何となく、雅人に言われたこととも何か近いことのような、そんな気がしたから。けれどいくら頭を捻ってみたところでちっとも答えには辿り着けず、やがて困憊した真由は全ての思考を身体ごと布団に投げ出し、そのまま眠りに就いてしまったのだった。

 何故、自分は水月や雅人にあんなことを言われるのだろう。何故、あんな目で見られるのだろう。それが解らないのはきっと、他の誰より自分自身を解っていないからだ。そんな思いが今も胸の奥でぶすぶすと燻っているみたいで、荒れ狂う不快さを握り潰すように、気付けば真由は己の胸元を鷲掴みにしていた。

 

 

「すいませーん。低音パートの分の楽譜、お届けに上がりやしたー」

 その一声と共に、分厚い紙束を抱えた女子が景気良く教室の引き戸を開けたのは、ミーティング終了からおよそ三十分後だった。

「おーご苦労」

「なんもッス。ちなつ先輩は今日も不在ッスか?」

「んだ、なんか生徒総会に向けての会議と、来月やる壮行会で応援団の団長と打ち合わせだって。幹部サマは毎度お忙しくて大変そンだなあ」

「またヒナ先輩ってば、ヒトゴトみたいに言ってー。ちなつ先輩に聞かれたら怒られるッスよ。あ、これどうぞ」

 楽譜係の女子から一括して手渡された楽譜の束を、日向はパッパッと手早く選り分け、それぞれの楽器担当者へ配っていく。

「ええと、ユーフォの楽譜はコレとコレだな。んじゃ取りに来てー」

 ユーフォの面々が楽器を置き、日向の下へと集う。渡された数枚の楽譜にはそれぞれ、先ほどちなつが言っていた曲名が記されていた。課題曲はまだ参考演奏などで耳にした機会もあったが、自由曲のほうは真由にもとんと見覚えのないものだ。

「この『聖母に捧げる賛歌』って、音源とかって借りられるんでしょうか?」

「どうだべな、後で備品管理係に聞いてみれば? もし永田っちからCDとか預かってれば、備品として貸し出ししてくれるハズだし」

「分かりました、ありがとうございます」

 もし可能ならさっそく今夜あたりにでも聴いてみよう。日向に一礼してから席に戻り、真由は一度自由曲の楽譜に目を凝らす。参考演奏のイメージに囚われるのは良くないことだが、曲の全容を掴むためには演奏音源を直に聴くのがいちばん手っ取り早い。出来ることならパート譜ではなくフルスコアを眺めながら聴くことで、他のパートとの連携や主題との関わり合いも理解しやすくなる。これは真由に最初に音楽を教えてくれた顧問からの、受け売りと言っても良い教えの一つである。

 せっかくだし、フルスコアの件を楽譜係に尋ねてみよう。そう真由が思い立った時、目当ての楽譜係はさっきまでいた日向の傍ではなく、何故か雄悦のすぐ隣に陣取っていた。

「ドンマイですよぉユウ先輩! こないだのフェスは残念だったッスけど、今からがんばって特訓すれば、秋にはきっとブイブイ吹きながらマーチング出来るようになってるッスから!」

 ユウ先輩。彼女の放ったその語句に、真由は聴き覚えがあった。あれは確か真由が入部したその日、雄悦が自分の呼び名とするよう求めていたものだ。けれど実際には真由を含め誰一人として、彼のことをその名で呼ぶ人物を今日の今日まで見掛けなかったわけなのだが。

「それにユウ先輩は良い音してますし、もしマーチングがダメでもコンクールがあるんスから大丈夫ッス!」

「いや、それ何のフォローにもなって無えがら」

 日向がその女子へ気さくなツッコミを入れる。この様子を怪訝な顔つきで窺っていた真由に気が付いてか、知らないっけ? と日向はおどけた表情を見せた。

「あの子、ウチらと同じ小学校のマーチング部出身なのよ。(まつ)()()()っつって、ペットの二年生。だがら奈央と黒江ちゃんとは同学年、ってことだね」

「そうなんですか」

「そっかぁ、黒江さんって転校してきたばっかだから、私のこと知らねくて当然だよね」

 話を聞きつけた奈央が鋭いスピンでこちらを振り向く。綺麗に揃えたボブカットの髪型と溌溂とした顔つきは、華奢な体格の彼女に良く映えていた。

「よろしく黒江さん。私二組だがら、教科書忘れた時とかいつでも頼ってもらっていいで」

「隣のクラスだったんだ。こっちこそよろしく、松田さん」

「あー、苗字で呼ばれんのってなんかムズ痒い。同じ学年同士なんだし、真由ちゃん奈央ちゃんでいいべ?」

「う、うん。まあ」

 こう見えて奈央はなかなかに図々しい、もとい社交的な性格の持ち主らしい。自分の呼び名を一方的に決められるのはまだしも、相手の呼び方まで強制されるのは雄悦の時よろしく若干ならざる抵抗感を覚えるものがある。そんなことはともかく、クラス外の友人というのは実のところ、とてもありがたい存在ではあった。別に初めっからアテにしているという訳ではなくとも、いざ忘れ物をした時などに頼る先が複数あるのは、それだけで随分と心強いものだ。

「なぁなぁ、真由ちゃんってユーフォ何年目?」

「小四の時からだから、今年で五年だね」

「じゃあ私といっしょだ! 私も小四からトランペットやってて、今年で五年目」

 嬉しい、という気持ちを表すかのように、奈央は笑顔のそばにパアと両手を咲かせる。

「春転校して来ていきなりメンバー入りしてっから真由ちゃんすげえなー、って思ってたけど、ずっとユーフォ一筋だったんだなあ。納得納得。こりゃあユウ先輩も負けてらんないッスね」

「べつに。誰かと張り合うために音楽やってるワケでねえし」

 悪戯っぽい笑顔を浮かべる奈央に、雄悦は楽譜と睨めっこしたままむっつり顔で応じる。傍から見れば後輩のイジりに辟易とする先輩、といった様相ではあるが、それを容認する程度には雄悦も奈央のことを憎からぬ存在と思っているのかも知れない。ちょうど、ちなつと日向のように。

「なんか奈央ちゃんと雄悦先輩って、仲良しって感じだね」

「そうなんだよー。ユウ先輩、小学校の時はトランペットだったからさ。私もおんなじパートだったんで、ユウ先輩とはもう五年もお付き合いしてんの」

「なるほど、それだったら仲が良いはずだね」

「言っとくけど、松田の『お付き合い』ってのはあくまで先輩後輩としてだがんな。カン違いすんなよ黒江」

 雄悦の素早い訂正に、奈央が「ふえぇー?!」と悲しがる素振りをする。

「冷たいッスよぉ先輩。私に手取り足取り腰取りでトランペット教えてくれたのユウ先輩だったじゃないスかぁ。んだのに、そンたドライな言い方さねえったって、」

「あぁもう、うっせぇ。いいがら用事済んだんだば、さっさと自分のパートさ戻れって」

「そうやっていっつも邪険にしてぇ。ひどくないッスか?」

「オメーがキャンキャン(やがま)しいがらだべって。いい加減とっとと出て行がねえんだば、無理くりにでも連れてくぞ」

「ハイハイ分かりましたっ、帰りますよ帰ればいいんでしょ」

 べー、と容赦なしに、雄悦へ向け桜色の舌を突き出す奈央。これも親愛ゆえ、なのだろうか。二人のことを詳しく知らぬ真由にはどうとも言えない。へば失礼しましたー、と奈央は教室の引き戸をピシャリと閉め、疾風のごとく去っていった。その一部始終を見送って、やれやれ、とばかりに大きな溜め息をついた雄悦が再び譜読みに戻る。

「青春だよねぇ」

 二人の様子を見守っていた日向がしみじみと呟く。はあ、とも返せぬ真由は雄悦よろしく譜読みに耽るフリをして、日向の言葉を黙ってスルーした。

 一見して親密そうな二人の間柄。そこに添えられた、青春という煌びやかな言葉の意味。それら全てを真由が正しく理解するのは、もうちょっと後になってからのことだった。

 

 

 帰宅後、夕食を済ませた真由はさっそく自室の机に座り、鞄から二枚のCDケースを取り出した。うち一枚の中身をプレイヤーのトレイに挿げてボタンを押すと、プレイヤーは音を立てて円盤をぺろりと呑み込む。続けて部活後に奈央から貸し出してもらった課題曲のスコアを広げてヘッドホンを掛け、そっと耳に神経を集中させる。

 『祝典行進曲「ライジング・サン」』はまず冒頭、金管を主体としたファンファーレから始まった。(しら)(いわ)(まさ)(ひろ)によって書かれたこの曲は爽やかかつリズミカルな曲調によって織り成され華々しく終幕を迎えるという、いかにも行進曲らしい構成だ。数ある課題曲の中から永田がこれを選んだ理由は様々だろうが、課題曲と自由曲を合わせて演奏時間が十二分以内と規定されているコンクールにあって、演奏時間が三分程度に収まるのも選考の大きな要因であったことは想像に難くない。なお余談ではあるがこの曲、一九九七年度のコンクール課題曲であった(あら)()()()()作の『マーチ「ライジング・サン」』とは名前が良く似ており、しばしば混同されることが多い。この曲について調べようとネットで検索をしていた真由がしばらく勘違いをしていたせいで、参考演奏と曲解説とのちぐはぐさに頭を悩ませていたように。

 課題曲の演奏が終わったところで、次は自由曲の参考演奏へとCDを差し替える。『組曲「聖母に捧げる賛歌」』。新進気鋭の作曲家である(なら)(かわ)(とし)(ゆき)が手掛けたこの曲は全四楽章からなる、ひとりの聖人にまつわる様々な逸話をテーマとした狂詩曲の一種である。

 第一楽章『天上からの使者』は、聖人の誕生を聖母に告げる場面が金管の重奏とオーボエの歌い掛けによって紡がれており、全体的に荘厳な曲調を主とする。続く第二楽章『奇跡の道標』では木管が主体となって緩やかな癒しの曲調を奏で、第三楽章『裏切りと磔刑』では一転して衝撃的かつ悲壮なメロディによって聖人の受難を表し、そして第四楽章『聖人の復活』は大音量での総奏によって圧巻のフィナーレを迎える……というのが大筋の内容。曲自体の難易度も決して低くはないどころか、中学生が扱う曲目としてはかなり難しい部類に入ると言える。技術と表現、その両方に高いレベルが求められるであろうことは、こうしてCDを聴きながらざっとスコアを眺めただけでも十二分に把握することが出来た。

 溜め息と共にヘッドホンを外した真由はいま一度、自由曲のスコアをパラパラとめくってみる。テーマ性を際立たせるためなのか、大量の音符で埋め尽くされた譜面上にはソロの指定もあちこちに散りばめられている。いずれも各楽章を象徴する場面に指定されているあたり、奏者の責任は重大だ。そう思いつつ五線譜を指でなぞっていった先、第三楽章のところでふと真由はその手を止めた。

 第三楽章『裏切りと磔刑』。その象徴的なシーンにはユーフォのソロがある。それを目にして真由が真っ先に思い浮かべたのは、ちなつのことだった。

 曲北はコンクールでも全国金賞を目指している。日向はそう言っていた。であるならば、ソロの選考基準は『各パートで最も演奏技術に優れる者』となる可能性が高い。部内のユーフォ吹きの中ではちなつと同じ三年生の雄悦も上手い部類には入るものの、ちなつのそれは曲北どころか中学生という括りで見たとしても明らかに群を抜いている。となれば、今回のソロにもちなつが選ばれると予想するのは極めて妥当だと言えるだろう。

 そのこと自体には何のわだかまりも無かった。一口にソロと言っても、担当者の決め方には学校によって様々な文化がある。上手い人が吹く。三年生が吹く。希望者が吹く。コンクールでより良い賞を目指すのであれば必然的に選択肢は限られるのだろうが、結果としての演奏に大差が無いのなら、どんな選び方であっても価値は同じだ。少なくとも真由自身はそう考えている。けれど今の真由にはもう一つ、別の思いもあった。

 上手くなりたい。もっと上手くなって、もっと凄い演奏をしてみたい。そしてもう一度あのマーチングフェスでの感動を、いやそれ以上の喜びと快感を、思う存分味わってみたい。そんな衝動がずんずんと胸を強く突き続けている。この想いを満たすために自分がやるべきことは、ただ一つしかない。

 スコアの上に置いた指で、ソロの音符をグイと拭う。乾き切ったインクが指の腹に付くことは無かったけれど、自分のこの溢れる気持ちは、確かにそこへ擦り込まれた。

 

 

 

 

 あんなに咲き乱れていた桜もすっかり散り、若葉の緑が植わる樹木の大勢を占めるようになった頃、部内の空気もまたコンクールに向けて徐々にシフトしつつあった。

「すんません黒江先輩。ここの表記ちょっと分かんないんですけど、教えてもらっていいっすか?」

 個人練の最中、泰司が自分の楽譜を手にして真由のところへ質問に来た。入部時に楽器の吹き方を指南して以来、彼はまるで雛鳥が親鳥のあとを付いて歩くがごとく、度々真由に教えを乞うていた。

「どれどれ……ああ、これは『piu(ピ ウ) mosso(モ ッ ソ)』っていう表現指示記号だね」

「ぴ、ぴぅ?」

「ピウ=モッソ。『より動きを持って』っていう意味なんだけど、実際に使われる上では『それまでよりも速く』っていうのが近いかな」

「速く、すか」

 うーん、と泰司が唸り声を上げる。今の説明だけだと、初心者の彼としては「じゃあどうすれば良いのか」といった心理を拭うにはもう一つ物足りなかったことだろう。だからあえてそのひとつ前の箇所を、真由は指差す。

「直前のここにリタルダンドがあるでしょ? こないだ教えたやつ」

「『だんだん遅く』っすよね」

「そうそう。つまりここは直前にリタルダンドでぐっとテンポを抑えて、次の小節、つまりピウ=モッソのところでテンポを元のよりも少しだけ速める……っていうことなんだけど、解るかな」

「わか、るような、解んねえような。速くっつうのは、具体的にはどれぐらい速くなるんすか?」

「そんなに極端な速さでもないけど。そうだね、まず直前までの速さが大体これぐらいだとして、」

 たんたん、と机を叩いてテンポを示してみせる。つられるようにコクコクと、泰司は首を縦に動かし始めた。

「で、ここでこれぐらいまでリタルダンドして、そのあとのピウ=モッソで、このぐらい」

 一度テンポを緩めたあと、元のテンポよりも僅かに速く机を叩く。泰司はそれに、おー、と納得の声を上げた。

「合奏の時は永田先生次第だから、リタルダンドでもっと溜めたりピウ=モッソでもっと速めたりするかもだけど。練習中はとりあえず、こんな感じでやってみて」

「分かりました、言われた通りやってみます。ありがとうございます!」

 元気の良い泰司の返事に真由もすっかり気を良くする。音楽を理屈のみで説明するのは中々に難しい。それよりは歌ったり音を鳴らしたり、つまり実際にやってみせた方が相手にも伝わりやすい、ということは多々あるものだ。そうして後輩の音楽的成長を手助けできたのであれば、これは教える側の真由としても喜ばしいことである。

「おーい石川っち、あんま黒江ちゃんにばっか刺さんなよ。黒江ちゃんにだって自分の練習あんだがら」

「あ、ハイ! すんませんっ」

 横から日向に注意を飛ばされ、たちまち泰司が畏まる。口調の割に、日向の表情は彼をからかうかの如く、どこかニヤニヤとしていた。

「べつに良いですよ、日向先輩。これぐらいならお安い御用ですし」

 一応泰司を庇うつもりでそう言ってみたのだが、そんな真由に対し日向は実に生温かい一瞥をくれただけで、再び泰司に矛先を向けた。

「大体、()して黒江ちゃんさだけ訊くかねぇ? この私を始め、他にも頼れる先輩方がここさはへっぺぇ居だ(いっぱいいる)ってのに」

「そりゃあ、黒江先輩の教え方が丁寧で解りやしいからっす!」

「私らのはグダグダで解りづれぇってか、コンニャロ」

 日向がこれ見よがしにゲンコツを振り上げると、泰司は「誤解っす! そういう意味でねえっす!」と慌てたように両手を挙げて弁明する。実際問題、真由と比べて上級生たちの教え方がお粗末などという事は決して無く、とりわけ日向のそれは簡潔かつ的確であることの方がずっと多い。

「んだどもまあ、石川の言いてえことも分かる。黒江は教え方上手えよな」

「ンですね。細けえとこまでキチッと解説してもらえますし、前後の繋がりなんかも含めてくれてるんで、あーなるほど、って思えますし」

「あ、はは……」

 雄悦と玲亜にまでそう言われ、無性に照れくさくなった真由はそれをどうにかごまかそうと、自分の髪をばさばさと撫でる。……良い気分でいられるのはここまでだった。

「優しくておっとりしてて、包容力あって。黒江先輩のこと一言で言うとせば、ママ、って感じですよね」

「ママぁ?!」

 一同は驚嘆の声を上げる。玲亜からのママ呼ばわり、これにはさすがの真由もグサリと胸を貫かれてしまった。

「三島ちゃーん。たった一学年上の先輩相手にママ、ってのは流石にどうなのよ」

「あれ? ひょっとして今のって、問題発言でした?」

 きょとんとした玲亜が日向たちを見回している。彼女自身はただ思ったことをそのまま口に出しただけなのだろう。事実、『ママ』と口にした玲亜の声のトーンには悪意などひと欠片も混じっていなかった。本人の性分と照らし合わせてみても、それは分かり切っている。けれど言われた側にしてみれば、今の一言はただただショッキングなものでしかなかった。

「もうちょっと考えてモノ言えよ、アホ」

 泰司になじられ玲亜は一瞬ギロリと睨みを返したが、いやそんな場合じゃない、とでも思い至ったのか、すぐさま真由へと申し訳そうな顔を向けた。

「すいません黒江先輩。また私、悪りいクセで」

「う、ううん良いの別に、気にしてないから。それはそれとしてすいません、私、ちょっとお手洗い行ってきます」

 そそくさと席を立ち、真由は教室を後にする。ほどなくして「アホ!」「ホジナシ!」という痛罵の応酬が廊下に響き渡った。声色からして泰司と玲亜が教室で言い合いをしているのは容易に想像がつくのだけれど、今の真由には後輩二人の衝突を気に掛けるだけの余裕など、少しもありはしなかった。

「はー」

 冷たい水で火照った顔を洗い終え、鏡に映るずぶ濡れな己の面相をしげしげと眺め回す。小学生の時の言い間違い程度ならともかく、この歳になってまさか一歳下の後輩にママ呼ばわりされるだなんて思ってもみなかった。それというのもこの大人しめな顔立ちが悪いのか、それとも髪型が地味なせいなのか。試しに真由は自分の髪を片方ずつ手で束ねてみる。サイドで二つに括られた長髪を垂らす自分。そんな未知なる自分の姿は、直視するのもためらわれるほど似合っていなかった。

「何してんの真由ちゃん」

 あ、と驚いて手を離すと同時に、真由の長い髪がふわりと元通りの形に収まる。おそるおそる振り返ると、手洗い場の入り口には不思議そうな顔でこちらを見やる奈央が立っていた。

「なんか髪いじってたけど、イメチェンの計画?」

「そ、そういうんじゃないよ。何となく気分っていうか、ちょっといじってただけっていうか」

「ふうん?」

 真由の苦しい言い訳に、奈央がコキリと細い首をかしげる。セーラー服の襟元から覗く彼女の首筋は今日も、蝋で作った細工物みたいに白く透き通っていた。

「奈央ちーん、どったの急に立ち止まって」

 後方から飛んできた女子の声に奈央が素早く振り向く。どうやら入口で立ち塞がる奈央のせいで、声の主はトイレに入って来れなかったようだ。

「あっと、すいません先輩。友達とバッタリ会ったもんで」

「友達?」

「こないだ言ってた真由ちゃんですよ、転校生の」

 途端、あー! と、壁に遮られた向こう側の『先輩』が甲高い声を上げる。「この子です」と一歩譲った奈央の陰から、先輩と呼ばれた女子はヒョコっと姿を現した。

「キミがうわさの真由ちんかぁ。うんうんなるほど、見た目といい声といい、奈央ちんの言ってた通りだね」

 その『先輩』は、真由の目線の高さにも頭頂部が届かないほど低身長な女子だった。天真爛漫で可愛らしい雰囲気。あどけない顔立ち。二つ縛りにした色素の薄い猫っ毛。外見だけを取ってみれば、先輩どころか同じ中学生と言われたってにわかには信じがたい。そんな彼女はむっくりと人懐こく微笑み、モミジのように小さな手を真由へと伸ばしてきた。

「アタシの名前は()(やま)(あんず)。よろしくニャ」

「あ、はい。よろしくお願いします」

 流れのままに杏の手を握り返そうとして、いや待て、と真由は自分の手がまだ水に濡れたままだったことに気が付く。慌ててハンカチで手を拭き、それから真由は杏と握手を交わした。

「杏先輩、トランペットのパートリーダーなんだよ。つまり私の直属の先輩、ってワケな」

 奈央の紹介を受けた杏が、にはー、と人懐こい笑みを形作る。パートリーダーというからには彼女もまた相応の実力者である筈なのだが、立ち振る舞いのせいもあってかどうにも事実を受け止めきれない。見た目と立場。杏の有するその強烈なギャップに、真由は大いに混乱してしまう。

「アタシ、奈央ちんとは昔っから仲良いんだ。出身小同じだから」

「じゃあ先輩もその頃から、奈央ちゃんとずっと一緒なんですか?」

「そう! 奈央ちんに手取り足取り腰取りでトランペットを教えたのは、何を隠そうこのアタシだもんねぇ」

 どこかで聞いたようなフレーズを杏がまくしたてる。なるほど、杏と奈央が小学生時代から先輩後輩の関係であったことは、どうやら間違いないらしい。主に発想的な意味で。

「ちーちんとかヒナちんとも仲良しだから、たまぁに一緒に遊んだりもしてんだよ」

「ちーちん、とは?」

「荒川ちなつのことだよー。アタシ仲良い子のことはみんな『ちん』付けで呼んでんの。だってその方が可愛いでしょ? あっそうだ、アタシの中では真由ちんも、もう仲良しっ子だからね」

「はあ、それはどうも」

 何とも言えず、真由は僅かに口の端を引きつらせる。仲良しも何も出会ってまだ数分だというのに。杏はなかなかにアクが強く、それでいてパワフルな性格の持ち主だった。

「こんど真由ちんも一緒にお泊まりで遊ぼうよ。曲北って合宿無いからその代わりってことで、アタシら年イチくらいでプチ旅行してるんだ。他にもいっぱい誘ってみんなでワイワイ過ごすから楽しいよー」

「は、はい、考えておきます」

「やったー!」

 そう言って杏はぴょんぴょんと無邪気に跳ねた。小動物みたいな彼女の仕草は、やっぱり先輩というよりは年下の女の子と表現したほうがふさわしい気がした。

「じゃあ私、そろそろ教室に戻りますので」

「うん、まったねー!」

「練習がんばろな、真由ちゃん」

 笑顔で手を振る杏と奈央に見送られ、真由はようやくトイレを抜け出る。疲れたあ、と息を抜こうとしたその瞬間、「忘れてた!」という声と共にバタン、と背後から大きな音がした。ぎょっとして振り返った真由の目前に飛び出してきたのは、さっき別れたばかりの杏だ。

「こ、小山先輩?」

「苗字は可愛くねえから『杏』って呼んで。ってそうでねくて、真由ちんさ言い忘れてたことあったの思い出した」

 ぜえぜえと息を切らす杏は一度呼吸を整え、それからちょいちょいと、猫みたいな手つきで真由を呼び寄せる。

「何ですか?」

「あんまり大きな声じゃ言えねえから。ほれ、もっと近う近う」

 言い忘れたことって何だろう。膝を曲げ、彼女の口元まで耳を寄せた真由にぼそぼそと、杏はこう耳打ちをした。

「真由ちんとこ、長澤水月っているでしょ? アイツ、気い付けた方が良いよ」

 え? と真由は耳を疑う。顔を上げた真由に、杏はただ意味深な笑みを返すばかりだった。

「それってどういう、」

「あー、洩れそ。悪りいけどその話はまた今度ってコトで!」

 来たときと同じく、杏が脱兎のごとく飛び出し再びトイレへと戻ってしまう。その場に取り残された真由の思考は、ただただ混迷を深めるばかりだ。

 水月に気を付けろ。杏はそう言っていた。

 確かに水月は、彼女は、吹部の活動にも真面目に取り組んでいるとは言い難い。それにときどき不可解な言動を取ることもある。けれど基本的な部分に関して、水月は『普通』の子と呼んで良いはずだ。少なくとも、自分にとっては。なのに杏はなぜ気を付けろなどと言ったのか。そもそも何をどう気を付けろというのか。杏の思惑、それを考えれば考えるほど、真由はただいたずらに不安をかき立てられるばかりだった。

 手洗い場の蛇口から一滴、水がぱたりと零れ落ちる。流し台を鈍く叩いたその音は、決して心地の良いものではなかった。

 

 



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〈幕間1〉草彅雅人は何を思う

トロンボーン(Trombone)
楽器の一種。U字形のスライドを操作して数々の音高を得る低音用金管楽器。十五世紀に大型のトランペットにスライドをつけたものが前身とされていて、イギリスではサックバットと呼ばれた。主として公的な儀式や教会音楽に用いられたが、スライドによって多くの音が出せるため、当時ではトランペットよりも用途が広く、十六~十七世紀には芸術音楽に加えられることが多かった。管弦楽で常用されるようになったのは、ベートーベン以降。
ブリタニカ国際大百科事典







 初めて音楽に触れた日のことを、雅人は良く覚えていない。

 気が付けば自分の周りには音楽があった。

 それが発端であり、雅人の全てだった。

 

 彼の音楽歴を辿ると両親にそのルーツがある。同じ市民楽団に所属していた父と母はそこで出会い、順調な交際を経て結婚し、そして雅人が産まれた。音楽好きであった両親は雅人にも音楽を好きになって欲しいと願い、彼が物心つく前から様々なかたちで音楽に、楽器に触れる機会を与えた。こうした親の寵愛を『干渉』や『強制』と捉える者もいるだろう。けれど雅人はそのことに何の疑問も抱かず、また彼自身の意志によって純粋に音楽を愛好し、すくすくと育っていった。

 リビングの棚にあるアルバムを引き出し、ぱらぱらとページを繰る。そこにはまだ言葉もろくに喋れない頃の自分がピアノに座り、両手で鍵盤を叩く写真がいくつも並んでいる。次のページは七五三くらいの頃のものだろうか。そこではピアノだけでなくバイオリンの弦に弓を当てている姿もあった。雅人が初めてトロンボーンという楽器に出会ったのも、おおむねその頃だ。

 『天使の歌声』に由来があるとも言われるその金管楽器の音色は、中音から重低音域までを網羅し、厚みのある美しさと遠くまで良く通る明瞭さとを兼ね備える。父の知人から譲り受けたトロンボーンはかなり使い込まれていて、ほとんどオンボロと形容して差し支えの無い代物だったが、その音色は幼少にして既に練り上げられていた彼の耳にもとても気持ちの良い感覚をもたらした。

 自分も吹いてみたい。そう思って担いでみた時、幼な子の腕の長さでは十分にスライドを扱うことが出来ず、思うように吹けなくてわんわん泣いたのを今でも昨日のことのように覚えている。あの悔しさもきっと雅人の中では『原点』の一つだと言えるだろう。トロンボーンとの付き合いはそれ以来、今年でちょうど十年目だ。

「草彅、きのう出た新作遊んだ? あれ面白くてよお――」

 こんな同級生たちの話題にはちっとも乗る気になれない。雅人にとってはそんなものよりも音楽の方が、トロンボーンの方が、遥かに遊び甲斐のあるおもちゃだった。高学年になってマーチング部に所属したのを機に親から新品のトロンボーンを買い与えてもらい、それと同時に市内に住む社会人楽団のトロンボーン奏者からより専門的な指南を受け始めた。平素は音楽教師でもある彼に師事したことで、雅人の音楽はより深みを増すと共にいっそう広がっていったのだった。

 

 

 彼の音楽人生に、雑音は常に付きまとった。

「うげ、またあいつソロの練習してる。先輩に気ィ遣うとか知らねえのかよ」

「ちょっとぐらい上手いからって()()()()()すんなってな」

「三年の高橋先輩、トイレで泣いてらったけど。アレってやっぱさあ……」

「当たり前だよ。最後のコンクールで一年なんかにソロ取られたら、そりゃあ悔しいべった」

「あいつ自分で書いた曲、軽音バンドの連中に弾かせたりしてるらしいけど、何ソレってカンジ。アーティスト気取り?」

 そんな耳障りな周囲の声に、いちいち耳を傾けている余裕なんて無い。音楽そのものは雅人に無上の喜びと満足をもたらしてくれるものであっても、その周りで関わる者たちが必ずしもそうしてくれる訳ではないことを、雅人はとっくに解っていた。けれど、それで良いとも思っていた。

 俺の目指す場所に、こいつらは存在してない。

 どこかで縁の切れるような連中にかかずらって時間や余力を損なうのは、何より無駄なことだ。

 そういう思いがほんのひと欠片も無かった、と言ってしまえばウソになる。実際、小学生の頃からずっと、雅人には友達と呼べる存在など一人としていなかった。休憩時間はこっそり持ち込んだミュージックプレイヤーを手にトイレや校舎裏で過ごしていたし、部活中はトロンボーンさえ吹いていられればそれで良かった。休みの日には自室でピアノをいじり五線譜に筆を走らせ、それに飽きたら家の防音室で心ゆくまでトロンボーンを吹き鳴らす。どこにも出かけないし誰とも会わない。それが雅人の日常であり、音楽以外のあらゆるものに、彼が関心を持つことは無かった。そう、あの時までは。

 とある春の日。中学校に上がって数週間、ようやく開き始めた桜の花を窓の外に見つけながら、彼は手洗い場へと続く廊下を歩いていた。ふと雅人の鋭敏な聴覚が、どこかで鳴らされている楽器の音色を捉えた。その音色に、気付けば足は誘われていた。階段を下り、ごみ捨て場から校舎の裏手へと回り、内履きのままで壁伝いに歩き。だんだん音が鮮明になっていき、そして次の角を曲がった時、彼はついに音の出どころを見つけた。

 そのユーフォニアムの音色は、部内の誰よりも美しく整然として、眩く輝いていた。ある時は咲き誇る一輪の花のように。またある時は穏やかな大河の流れのように。たっぷりと豊かな響きがびりびりと全身を刺激し、骨の髄まで満たされる。そんな未曾有の快感を、雅人は確かに知覚した。同時に、心の底から恥じてもいた。これほど上手い奏者がこの曲北にいたことに露ほども気付かなかった、己の不明を。

 ここからは距離と角度の関係上、奏者の顔までは分からない。けれど遠目にもその奏者が女子用のセーラー服に身を包んでいることと、ふわりと風になびく黒い髪を湛えていることだけはハッキリと分かった。そしてたったそれだけの情報で、彼女が何者であるかを特定できるだけの材料は、十分に揃っていた。

――アイツは、吹部の。

 その姿、その旋律、その響きを、己のあらゆる感覚へと刻みつける。胸の内に巻き起こる衝動が、瞬く間に全身を包み込む。あれほど上手いのならば、アイツならば、ひょっとして。知らぬうちに握り締めていた拳の中で、爪がギリリと音を立てて皮膚に食い込んだ。

 

 

 それは雅人が生まれて初めて自分と音楽以外の何かに関心を抱いた、その瞬間だった。

 

 



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2.感情、トゥーザボックス
〈7〉秋山ゆりという人


 あれから暦は進み、現在は六月の初頭。半袖のセーラー服はまだちょっと肌寒いが、それでも気温は日々高まりつつある。この頃になると真由もだいぶ秋田での生活に馴染み始め、それと共に、友人たちと触れ合う機会もずいぶんと増えていた。

「ねぇねぇ真由ちゃん、英語の宿題で分がんねぇどごあんだけど、教えでけねが?」

「あ、ずりぃナミコ。私も英文法教えてー」

「私も私も」

 転校して間もない頃はいつも早苗と二人だったのが、今はこうしてクラスの子たちも気兼ねなしに接してくれる。言うなれば、彼女たちとの間にあった壁が溶け失せる感覚。転校する度にいつも新しく触れ合う人々との壁を感じてきた自分にとって、こうした状況は何よりも嬉しい事だ。そんな真由の心理を見抜いたように、早苗がニヤリと笑みを投げてくる。

「真由ちゃん、すっかり慣れて来たねぇ」

「そう思う?」

「前は方言で喋られる度に『なんて言ってるんだろう』って言いたそうな顔してたのに、最近じゃ私に聞かねっても大体の意味分かってるみてえだし。何より真由ちゃん、ここんとこ楽しそうだもん」

「そうかな。もしそう見えるなら、それはきっと早苗ちゃんのお陰だよ」

「私の?」

「うん。転校してきたばっかりで右も左も分からなかった私に、早苗ちゃんが親切にいろいろ教えてくれたから。そうじゃなかったら私、こんなふうになるまでもっと時間掛かってたと思うもん」

「や、そりゃまあ、良ぐ分がんねえけど」

 早苗が珍しく顔を赤らめている。そんな彼女を周りの同級生たちが、やーい照れてやんのー、とからかい始めた。

「ほ、ホラ! そンたこと言ってねえで、さっさと宿題やろうで。休み時間終わっちゃうべ」

「誤魔化さねえったっていいべー。せっかぐ真由ちゃんが褒めてけでる(くれてる)のに」

「慣れてねえんだって、こういうの」

 早苗が居心地悪そうにボリボリと腕を掻く。卓球で鍛えられた彼女の前腕はかなり筋肉質で、たわみなく張り付いた皮膚にはハッキリとした隆起を認めることさえ出来た。

「真由ちゃんも、いきなり変たこと言わねえでよ。からかわれてるって分かってらったって、落ち着かねえ気分になっちゃう」

「私は素直な気持ちを言っただけだよ?」

「だがら、それが私のキャラさ合ってねえんだって。あーもう、汗だくンなりそう」

 プラスチックの下敷きでバタバタと自分をあおぎ始めた早苗に、真由を含めた友人たちがけらけらと笑い声を上げる。こんな何気ないひと時でさえ、真由にとっては掛けがえのない、大切な思い出のいちページだった。

 

 

「真由。最近、音良ぐなってきてんな」

「ふぇ?」

 放課後の練習中、ちなつが突然そんなことを言ってきたものだから、真由はつい奇声を上げてしまう。向かいにいた日向もまた「んだなぁ」とちなつに同調した。

「入部直後の頃も充分上手がったけど、ここんとこは音もきれいに張ってらし、何より活き活きしてるよな。まるで冬の日本海に揉まれてぴっちり脂の乗ったブリみてえ、っつうか」

「すみません日向先輩、その例え、良く分からないんですけど」

「つうか何でブリなのよ」

「冬んなるとウチの父ちゃんが釣って来るのよ。特に大根と一緒に煮付けたブリがチョー美味えのなんのって」

 日向の父は彼女曰く『バカ』が付くほどの釣り好きなのだそうだ。中島家では週が明ける度に様々な魚が食卓に並ぶのも半ば習慣となっているらしい。真由は魚類全般にあまり詳しくないのだが、日向の解説を聞くだに涎が溢れ出そうになるのを禁じ得ないというほどに、彼女の語る種々の魚料理はどれもこれも美味しそうなものばかりだった。

「他にも沖メバルの塩焼きっしょ。タイの刺身っしょ。アジは唐揚げにしてもいいし、一夜干しがまたうまい。川魚だったらイワナとかアユあたりも――」

「はいはい、ヒナん家の晩メシ情報は今いらねえがら」

「あぎゃっ」

 指折り数え始めた日向の額に、ちなつがベチンと平手を放つ。

「ヒナの意味不明な例え方はともかく、真由がどんどん上手くなってんのは間違いねえよ。やっぱオーディション近付いてきて、気合い入ってるせい?」

「どうなんでしょう。自分ではそういう実感、あんまり無いんですけど」

「もっと自信持っていいって。この調子で、オーディションもコンクールも頑張るべ」

 ちなつに優しく肩を叩かれ、真由は「はい」と強く返事をした。一つ、ちなつに認めてもらえた。そんな実感が真由の全身に強い充足をもたらす。

「さて、パート練までまだ時間あるよな。私ちょっと外で吹いてくっから、また後でな」

「時間までに戻れよ」

「分かってらって」

 そうしてユーフォと譜面台を手に、ちなつは教室を出ていった。このところの練習スケジュールは、合奏のある日を除けばパート練習と個人練の時間が半々、といった按配だ。ここ一ヵ月の指導によるものか、近頃は後輩たちが先輩に質問をする頻度もずいぶんと減ってきている。個人練を教室で行うパート員はおおよそ半数で、残りはちなつのように校舎のあちこちへと散らばり、そこで己の音と必死に向き合っているみたいだった。

 吹奏楽コンクールは出場メンバーの人数に制限がある。曲北がエントリーする『中学校の部』における規定人数は五十名。つまるところ、百数十人あまりを擁する曲北吹部員のうち実に三分の二近くはコンクール本番の舞台に上がれない、という計算になる。それをふるいに掛ける為に行われるのが、来週予定されている部内オーディションだ。

 メンバー選考の一切は顧問である永田の手に委ねられている。彼に認められる為には他を押しのけて上手くなるより他に無い。普段は仲間である吹部の部員同士も、この時ばかりは互いに限られた席を奪い合う競争相手となってしまう。そこに学年の序列や部長副部長といった役職などは、何らの意味も持たないのである。

「……っちゅうのが建前だけんど、まあ実際にはみんな必死こいて練習するもんで、大体は上級生を中心にメンバー構成されんだけどね」

「じゃあ下級生のメンバー入りはほぼ無し、って感じですか?」

「ほぼってワケでもねえけど、去年は十人もいねがったな。低音からはちなつと、あと一応、私」

 すげー、と一年生たちから賞賛の声が上がる。それもそのはずで、日向のチューバの技術は真由の耳で聴く限り、部内でも上位に数えられるほどの腕前である。より上手い者が吹く。その選考基準が絶対のものであることは、日向の事例ひとつを取ってみても明らかだ。

「俺みたいに春から吹奏楽始めたヤツでもいきなりレギュラー獲る、ってこともあり得るっすか?」

「本人のがんばり次第でねえかな。オーディションで石川っちが他の子らよりも上手に吹けりゃ、あとは永田っちの判断次第だし。何にしたって下手くそだと選ばれっこねえのは間違いなしだから、とにかく練習あるのみよ」

「わかったっす! 俺、レギュラー目指してばりばり練習するっす!」

 『レギュラー』という語句に強いこだわりでもあるのか、泰司がめらめらと気炎を上げている。彼に限らず、全員がオーディションを受ける以上、メンバー入りの機会はみな等しく設けられるということでもある。もっともそれを勝ち取るべく練習に邁進しているのは、真由たち上級生とて同じことだ。

「じゃあ私もちょっと、外で吹いてきます」

「あ、黒江先輩っ。もし良ければ俺も一緒に、」

「ダーメだ、泰司は俺らと一緒にここで吹け。黒江にゃチューバは教えらんねえし、オメエはまだ基礎もしっかり出来てねえんだがら、目離しなんねえ」

「そんなぁ……」

 チューバの上級生にダメ出しを食らった泰司がしょんぼりと落ち込む。それにクスリと吐息をこぼしつつ、真由は移動のために手際よく譜面台を畳んで小脇に挟んだ。

「あ、ちょっと黒江ちゃん」

 教室を出ようとしたところで日向に呼び止められ、真由はおもむろに振り向く。

「何でしょうか?」

「もし外で水月に会ったら――いや、何でもねえ。練習がんばってな」

 何かを言い淀んだ日向が、しかしそこでかぶりを振る。言外に滲む日向の気持ちを汲んだ真由はただ、はい、とだけ返事をして教室を出た。

 校舎のどこかでは水月もきっと個人練をしている。コンクールの練習が本格化するにつれ、彼女は終日パートから離れて個人練をするようになっていった。だがどういうわけか、パート練での水月の演奏はいっこうに上達しておらず、皆と合わせてもすぐに日向に個人練を言い渡され教室から去ってしまう。そんな状況にちなつも日向もやきもきしているのを、真由は既に察していた。

『私はみんなについて行けそうもないから。真由ちゃんも私なんかに構わず、練習がんばってね』

 少し前にそれとなく調子を尋ねた折、水月がくれた返答はただそれだけだった。コンクールのメンバーに選ばれるかどうかはさて置き、水月だって吹部の一員であることに違いはない。上手い下手以前の問題として、人間同士の付き合いや親交というものだって部活の大切な一要素ではある筈だ。なのに技量的な意味でも全く伸びを見せない彼女が、加速し続ける部の空気からどんどん遠ざかっているように見えるのが、真由には少し気掛かりだった。

『アイツ、気い付けた方が良いよ』

 杏の言葉が度々脳裏をよぎるのは、そんな現状と重なるような気がしたから。もしも彼女が部内全体を俯瞰していて、このままでは落ちこぼれかねない水月のことを慮っていたのだとしたら? そうだと仮定するならばひょっとして、杏のあの言葉は「ユーフォの同僚として水月の面倒を見てやれ」という意味だった、とも取れる。けれどそれならば、あの場でさっさと意図を告げるだけで事は済んだ筈だ。気を付けろ、という言い回しにも何か引っ掛かるものはあったし、大体がして別パートの杏が日向たちを差し置いて自分なんかに忠告してくる意味が分からない。それとも他に何か隠されたメッセージが、そこには込められていたのだろうか?

 いろいろと腑に落ちない思いに苛まれるところもあるにはあったが、しかしオーディションの期日が刻一刻と迫りつつあるこの状況下では、一つひとつの物事をつぶさに判別するだけの余裕も無い。今は自分のやるべきことに集中しなくちゃ。迷いに燻る己を振り払うように、真由は勢いよく目の前の扉を開けた。

 見上げた先に広がるは、気持ち良く突き抜ける五月晴れの空。中央棟と教室棟とを結ぶこの連絡通路の屋上テラスは、安全性を考慮して設けられた高い柵に囲われている。普通こういった場所は立入禁止であることも多いのだが、曲北ではこの柵に加えて同階の教室からもテラスの様子が見れるためか、課外時間や日没までの間に限り生徒にも開放されていた。周囲に気兼ねなく個人練できる場所を求め、日々校内のあちこちを彷徨った真由が最終的に辿り着いたのが、ここであった。

「それじゃあ今日も、がんばろっと」

 定位置に譜面台を置いてユーフォを構え、まず初めにB♭(ベー)を鳴らす。音を向ける先は、校舎裏手側の向こうに見える姫神山。あくまでイメージ上の話ではあるが、あそこまで届けられるくらい楽器を鳴らし切れれば、どんなに広いホールや体育館であっても十全に音を響かせることが出来るはずだ。次にリップスラーやタンギングといった基礎練習を順番にこなし、それから楽譜ファイルを広げての曲練習へと、真由は己に課したメニューを順調にこなしていく。

 これまでのところ、課題曲についてはとっくに一通りをさらえていると言っても良い到達度にあった。後は自由曲、譜面的に難所の多い第一楽章と、微細な表現を求められる第三楽章が目下の課題だ。これらの一部はオーディションでの指定演奏区域にもなっている。他もまんべんなく吹けるようになっておくのは当然のことだが、まずはいま出来ていないところを重点的に、というのがここのところの練習方針である。

 それから時間を掛けて何度も反復練習をこなし、ひと段落したところで真由はふと腕時計に目を遣った。そろそろ教室に戻らないと。そう思った真由が楽譜ファイルをぱたんと閉じた時にちょうど、その調べは聴こえてきた。

「これ、ユーフォの音? ――すごく、きれい」

 自分の耳が瞭然に、それを聴き分けていた。明るくくっきりとした花芯のような音色と、整然と揃えられた音程。ゆっくりとたゆたう音の一粒一粒が深みのある情感を豊かに描き出す。耽美な憂いをまとった旋律は、深緑の窓辺に佇む貴婦人を思わせる優雅さを密やかに湛えていた。

 鮮やかに駆け上がるパッセージ。色香さえ漂う緩急のつけられたメロディ。このフレーズには聴き覚えがあった。『シシリエンヌ』。ピアノやハープと木管楽器との二重奏で奏でられることの多いこの曲は、ガブリエル・フォーレが手掛けた管弦楽組曲『ペレアスとメリザンド』のうちの一篇である。その主旋律を抜粋する形で、誰かがユーフォで、この『シシリエンヌ』を吹いていた。

 響き方からして、音の出どころは真由のすぐ足元。柵があるせいで誰が吹いているかまではここから窺い知ることはできない。けれどその吹き手が誰であるかを、真由は目視するまでもなく推測出来ていた。だって、これだけ上手にユーフォを吹けるのは部内でちなつ一人しかいないから。――暗がりにふつと埋もれる終止(フィーネ)までを確かに聴き届け、それから真由は屋内へと戻る。

「お、真由。お疲れ」

 教室へと戻る途中、階段のところでばったりとちなつに出会う。ちなつもまた外での個人練を切り上げ、教室へと向かうところだったようだ。

「お疲れさまです、ちなつ先輩。さっきの演奏、とっても素敵でした」

「おん? てことは真由ももしかして、外で吹いでらった?」

「はい。私は渡り廊下のテラスで」

「そっか。あそこまで聴こえてるとは思わねがったな」

 鼻頭を指でこすり、ちなつは視線を上へと向ける。

「あそこって、先輩のお気に入りの場所なんです?」

「まあね。音楽室からもそンたに(それほど)離れてねえから、なんか用事あってもついでに済ませられるし」

「あそこからなら景色も良いですよね」

「んだな。一番きれいなのは、やっぱ春ん時だけどさ」

「ですね」

 春の姫神山。その光景を真由は今でもはっきり覚えている。青々とそびえ立つ山を背後に咲き連なる桜並木の堤防。もしも自分が春のうちにあの屋上テラスを発見できていたなら、きっとあの美しさを毎日のように愛でながら個人練していたことだろう。やがて季節が巡れば、秋には紅葉に枯れた山際の彩りを、冬には純白の雪に覆われた水墨画の侘しらを、それぞれ楽しむことが出来るのだろうか。そんな日々の到来を心に思い描きながら、真由はちなつと二人肩を並べ、廊下を歩いていった。

 

 

 

 

 

 

 六月と言えば梅雨というイメージを持っていた真由だが、予報によると東北北部の梅雨入りは早くとも中旬からになるらしい。そこから雨空は七月の末、下手をすれば八月頭まで続くこともあるそうで、かと思えば八月の下旬にはもう肌寒ささえ感じる夜風が吹くのだという。つくづく北国の夏とは短いものである。

 暦が進むごとにぐずつき模様の天気が増え、それと共にじっとりと湿度も高まりつつある今日この頃、オーディションに向けた練習もいよいよ大詰めを迎えつつあった。この頃になると居残り練はもはや当たり前という空気が部内に蔓延しており、ほとんどの部員たちは自分の演奏を突き詰めるべくひたすらに楽器を吹く日々を送っていた。

「石川っち、そこ音の切り甘いで。全音符四拍なら、次の小節の頭にかかるとこまでちゃんと伸ばし切ること」

「はい!」

「それと(たか)(しな)っち、吹き込もうってがんばってんのは解るけど、それで音程が上擦ってたら何も意味ねえよ。周りの音を良く聴きながらピッチコントロールして」

「はいっ」

 泰司と二年の男子が真摯な面持ちで日向に返事をする。今日の日向やちなつは、主に経験の浅い下級生を集中的に指導していた。何せオーディションまで残り数日。三日に分けられた日程のうち、金管は二日目の予定となっている。もちろん日向ら自身もオーディションを受ける側である以上、他人に教えてばかりはいられない身の上の筈だ。それでも彼女らが合間合間に後輩の進捗をつぶさにチェックする理由の一つには、顧問である永田の示した方針によるところが大きかった。

『コンクールに出られるかどうかってのを、俺はあまり大事なことだとは考えてません。って言うのも出ねえ人らはコンクールの練習なんかしたって意味ないじゃんって思ったり、出る人も他さなんて構ってらんねえってなりがちです。んだけど、()()えば良えで無くて、これを通じて技術を磨くチャンスだっていう風に捉えて欲しい。ここを通り越した先の目的を意識して、そのために何をやるべきかっつうのを一人ひとり考えて行動してみて下さい』

 その理屈は真由にも十分納得できるものがあった。実のところ向上心の強い者を除けば、目標や課題のないまま投げ出されれば何をして良いか分からなくなる、ということも得てして起こりがちなものだ。永田の提言はそうした人間が少なからず出てくることを加味した上で、何故今この練習に取り組む必要があるかを明らかにするという意図があるのだろう。その効果のほどについては、ずぶの素人であった泰司ですらこの一ヵ月あまりでおおよその曲を吹けるようになった、という事実からも窺い知ることが出来る。

「真由、Gのところ、もっと音刻んで。十六分の連続はキチいだろうけど、今のままじゃ形がぼやけて聴こえねえよ」

「はい」

 ちなつからの注意点を、真由はすぐさま色鉛筆で譜面に書き記す。それは身に付くまで忘れないようにするためと、練習時に気を付けるべきポイントを明確にするためだ。不要になった箇所には消しゴムを掛け、新たな注意点が出されればまた書き留める。これを繰り返しながらただただ楽譜と、自分の音と向き合い続け、ひたすらに自分の音楽を磨き上げていく。上達するための方法に近道や裏技などは存在しない。それは必ずしも練習量と上手さが正比例するという意味ではないのだが、とは言えこればかりは積み重ねがものを言うところだ。

「すいません、俺、そろそろお先します」

「うわ、もうそんな時間か。私も今日はこれで上がります。お疲れさまでした」

 後片付けをして教室を出る後輩たち一人ずつに「お疲れ」と、ちなつ達が声をかける。閉校時間が近づく中、教室には若干名が残るのみとなっていた。パート内では比較的練習熱心と言える雄悦でさえ、この時間帯まで居残ることは稀である。

 吹部の部員はみな部活一筋というわけではない。人によっては練習後に塾へ通わなければならなかったり、家庭の事情で門限を決められていたりもする。中学生という立場を考えれば仕方のないことではあるのだが、彼らの中には「もっと練習したい」と内心思っている者も少なからずいることだろう。

「そういうの、真由ん家は大丈夫なの?」

「うちは平気です。お父さんお母さんも楽しいと思うことには全力で取り組みなさい、って言ってくれてますし」

「はー。理解のある家庭ってのは羨ましいねえ」

 ちなつと真由の会話に、日向が肩をすくめながら割り込んでくる。

「うちなんか、今度の期末で成績下がったら部活辞めて予備校さ行げー、って散々どやされててさ。ったくもう、うちの親と黒江ちゃん家のご両親、取っ換えっこしてえわ」

「でも、そうすると全国転勤しないといけなくなりますよ」

「全国かあ、そりゃあキチぃなー。こう見えて私って、生まれも育ちもピュアな秋田っ子だもんなあ」

「ヒナはどっからどう見ても秋田っ子だと思うんですケド。特にピュアでも無え方の」

 完全に呆れ顔のちなつが溜め息混じりに突っ込みを入れる。あによー、と顔をしかめる日向も含め、二人はいたって平常運転といった様子だ。

「そう言えば泰司も、最近は遅くまで残ってんな。大丈夫?」

「ハイ! 俺、昔っからサッカーの練習とかで遅くまでやってたんで、居残りは慣れてるっす」

「いや、親が色々心配さねえが、っていう話なんだけどな。主に成績とかをよ」

 本当に大丈夫かよオメエ、とちなつは幾分困ったように眉をひそめた。彼女のそんな微妙な空気を、しかし当の泰司はまるで意に介していないようだった。

「お袋はガミガミうるせえっすけど、親父はやるならとことんやれって応援してくれてるっす。親父もどっちかっつうと勉強より趣味ってカンジの人なんで」

「ま、程々にしとけや。今は入学したてで周りに楽しいことばっかの石川っちも、二年三年ってなってくると、そのうち親からも担任からも進路だ何だでアレコレ言われるようになるど」

 半ば脅し気味に、日向がその実例を泰司へ語り聞かせる。内申がー、面談がー、という語句が立て続けに並ぶと、はたで聞いているだけのこっちまでなんだか胃もたれしてしまいそうだ。

「でも実際、勉強する暇ないんすよ。家帰って、メシ食って、ゲームして、んで風呂入ったらもう眠くなるんで」

「ちょいちょい泰司。今サラっと言った中で、勉強さ充てれる時間あるって気付いてらが?」

「はぇ?」

 間の抜けた声を出す泰司には、とぼけるつもりなど決して無いのだろう。ちなつも真由もそのことを良く解っているが故に、はあー、とただただ残念な吐息を漏らすしかない。

「そう言えば、ちなつ先輩は成績良いって前に聞きましたけど、毎日居残り練もしてて忙しいのにいつ勉強してるんですか?」

「私? いつって、まぁ普通にだけど」

 んー、と唇に指を当てながらちなつが思案顔をする。

「家帰ってご飯食べてすぐ風呂入るべ。それがら勉強始めて、十二時ぐらいには寝て、そんで五時頃起きてまた勉強して」

「えぇ? 先輩、夜だけでねぐ朝も勉強してるんすか」

「うん。学校は七時ンなんねえば開かねえべ? だがら一時間ちょっとぐらい勉強して、それがら朝ご飯食べて支度して、家出てくる」

「んだがら成績良いワケよ、ちなつは」

 アタシにゃ無ぅ理ぃ、と日向がお手上げのポーズを取る。勉強がキライだと言っていた割に、ちなつはかなりの時間を勉強に割いているらしい。学年五十位以内、という成績もこれならば納得できる。やはり成績の良い人は周囲に見えないところでコツコツと努力を重ねているものなのだ。

「そんだけ勉強しまくってるってことは、荒川先輩ってもしかして(しゅう)(こう)志望なんすか?」

「シューコー?」

 初めて聞く語句に真由は首をひねった。少なくともこの市郡周辺に、そのような名前の高校は無かったように記憶しているのだが。

秋田(あきた)高校っす! 秋田市にある県内トップの頭いい学校で、卒業生は東大だの医大だの、とにかく頭いい大学にバンバン進学してるんすよ」

「へえ」

 泰司のあまり頭の良くなさそうな解説のおかげで、真由もそこはかとなく秋高とやらの凄さを理解するに至る。どんな事柄においても『トップ』という単語はそれだけで、何やらとてつもない、と万人に思わせるだけの強度を有するものだ。

「秋高だとこっから通うのもキツいんで、下宿したり寮に入るって人も多いらしいんすよね。あーいいなあ、俺も早く親元離れて一人暮らししてえ」

「いや泰司。盛り上がってるとこ悪いんだけど、私の志望校って市内の公立の普通科だがら」

 ちなつの否定に、そうなんすか? と泰司は意外そうな声を上げた。県内どころか市内の高校情報にもさして詳しくない真由の頭の上にはポンポンと、ハテナマークが二つほど浮かぶ。

「そこって偏差値はどのくらいなの?」

「あ、いや、そこも頭いいトコなのは確かなんすけど。俺数学ニガテなんで、ヘンサ値っていうのの計算のやり方は分がんねっす」

「えっと。別にいま計算して、ってことじゃないんだけど……」

 ただただ苦笑するしかない真由の隣で、ふー、と日向が自らの前髪を吹き流す。額に留まっている紺色のヘアピンは、どうやら彼女の一番お気に入りの品らしい。汗をかく機会が増えたからか、とりわけ衣替えを迎えてからの日向はいつもこのヘアピンで前髪を括るようになっていた。

「まあざっくり言や、学年百位以内が合否のボーダーってとこ。今のちなつの成績ならまず余裕」

「なんすよ。ンだってのに荒川先輩、睡眠時間削ってまで勉強してるんすか? さすがにそこまでは必要なくねえっすか」

「や、そりゃあその、油断してっと成績なんていつ落ちるか分がんねえし……」

 泰司に詰め寄られ、ちなつは何やら言いにくそうにもごもごと弁解する。その様はどうにもちなつらしくなかった。

「それとも実は公立だけで無ぐ、県外の頭いい私立も併願するつもりとか」

「それは無えよ。受験すんのは公立一本」

 さらなる泰司の問い詰めに、ちなつが眉尻を下げながら答える。私立。そうと聞いて、真由が真っ先に思い浮かべたのは雅人のことだ。音楽科のある県外校へ進学する。以前、彼はそう言っていた。彼と同じように、ちなつほど上手い奏者ならばひょっとして、推薦やら特待生やらでそうした方面への進路が拓けている、なんてこともありはしないのだろうか? 疑問と好奇心を掛け合わせにしたような気持ちがむくむくと、真由の中で膨らむ。

「ちなつ先輩は、進路に音楽系のところを考えたりはしないんですか?」

 それは本当に何気ない一言のつもりだった。けれどその質問にちなつはハッと息を呑み、うろたえたように真由から視線を逸らしてしまう。

「あ……すいません。私、聞いちゃいけないこと聞いちゃったみたいで」

「いや、そういうんじゃねえよ」

 落ち込みかけた真由を気遣うように、ちなつがその手を横に振る。

「たださ。その、私ん家ってさ――」

「さあ、お喋りはそろそろオシマイ!」

 ちなつが何か言い掛けたところで、日向がそれを遮った。ただならぬ圧を伴うその大声に虚を突かれた泰司も真由もビクリと体を震わせ、日向へと目を見開く。

「人の進路の話さ首突っ込んでる余裕なんか無えでしょ。まずは目の前のオーディションに集中。分がったら、練習戻んべ」

「は、はいっ」

「……んだな。練習すっか」

 泰司がいそいそと楽器を構え直す。こうして一同が練習の空気へと戻ってゆく中、真由は楽譜をめくるフリをしながらそっとちなつの様子を窺った。日向を見やるちなつの唇が、ごめんな、と呟くように動いた、気がした。

 

 

 時期的に夜の訪れが遅いとは言え、この時間帯になると外はもう真っ暗だ。教室の片付けを終えユーフォと譜面台を手にした真由は、灯りの乏しい廊下をひたひたと歩く。永田が帰るときには音楽室や楽器室を戸締まりされるため、それまでには居残り練を切り上げなくてはならない。ついさっきまではちなつや日向も一緒に個人練をしていたのだが、二人とも今日は普段より三十分ほど早く教室を出ていってしまった。それはきっと自分の発したうかつな問いのせいだ。そんなふうに自責の念に駆られつつ、真由は廊下の窓に目を向ける。昼過ぎから空を覆った分厚い雲は夜になっても未だ留まっているらしく、そこには月明かりどころか一点の星彩さえ見つけることは出来なかった。

 恐らくちなつには事情があるのだ。公立高校に進学せざるを得ない、あるいは本当に進みたい道に進むことを許されない、そういう何らかの事情が。さっきの自分の発言は、それにうっかり触れかねないものだった。だからちなつは狼狽し、彼女を慮った日向はすぐさま会話を寸断させたのだろう。果たしてその事情とは何なのか。そこは結局分からず終いだったけれど、人間誰しもあえて他人には明かしたくない物事だってある。今後この話題には触れないほうが良い。ちなつの張り詰めた顔を思い出し、その後味の悪さを散らすように、真由は舌先でざらりと歯の裏をなぞる。

 ……それにしても。真由はおもむろに周囲を見渡す。ほとんどの教室は既に照明が落とされ、人の気配もすっかり失せていた。こういうことにはあまり物怖じしない性格の真由ではあるが、とは言え真っ暗な中に一人というのもあまり気味の良いものではない。早く部室に戻って楽器を片付けよう。そう思っていた矢先、どこからかキイキイ響く高周波の音に背筋がびくんとなってしまったのは、あくまで生理的に自然な反応だった。

「何?」

 冷静に聴覚を研ぎ澄まし、音に集中する。初めはコウモリか何かの鳴き声かとも思ったのだが、その音は一定の周期で、同じ形を繰り返し繰り返しなぞるように鳴らされていた。明らかに動物の発する類のものではない。そう確信した真由は一歩一歩、慎重な足取りで廊下を進む。角を曲がったその先、ずっと遠方の教室から僅かに光が洩れている。そこへ近付くだに音は徐々に大きくなった。間違いない。これは、木管楽器の音色だ。

 教室の戸まであと数歩の位置に差し掛かり、真由はようやく音の正体へと辿り着く。半分だけ明かりを付けた教室、そのど真ん中で、明かりを背負った一人の女生徒が一心不乱にアルトサックスを吹いていた。影に覆われているせいで顔までは分からなかったが、彼女が吹いているのは間違いなく、『聖母を讃える賛歌』第四楽章の主旋律であるワンフレーズ。それはきっと、サックスパートに与えられたオーディションの課題区域なのだろう。吹いては戻り、吹いては戻りを何度も繰り返す彼女は明らかに、この箇所のみを重点的に練習していた。

「あれは……秋山先輩?」

 鶴の頭のような形をしたマウスピースから口を離し、ハア、と上に向かって息を吐いたことで照らし出されたその女子の顔は間違いなく、秋山ゆりのものだった。そう言えばあれ以来、ゆりとは一度も会話していない。別にどちらかが避けていたというわけでもなく、会話の切っ掛けもないまま気付けば春が終わっていた、というだけのことなのだが。

 眼が眩しさに慣れてきて、ようやく真由はゆりの姿をハッキリと視認するに至る。そこに浮かぶ彼女の形相はまさしく鬼気迫るものがあった。一度吹いては苛立ちを噛み殺すように顔を伏せ、もう一度吹いては乱暴な手つきでペンを譜面へと走らせる。もう片付けをして下校しないといけない時間だというのに、今のゆりには壁に掛けられた時計など目に入っていないどころか、門限の概念自体が頭からすっぽり抜け落ちてしまっているかのようだ。

 どうしよう、と真由は逡巡する。もう帰りの時間ですよ、と声を掛けるべきか、それとも見なかったことにしてこの場を立ち去るか。どちらにしても、ゆりのこんな姿を見てしまった後では申し訳なさが募ってしまう。

「そこで何やってんの、黒江さん」

「うひゃっ!」

 やにわに背中から声を掛けられ、あまりの驚きに喉から奇怪な音が出てしまった。ばくばく暴れる心臓を必死に手で押さえつけながら、真由は恐る恐る振り返る。

「あ、佐藤先輩」

 闇の中にぼわりと浮かぶ人型の影。かっきり真四角なフレームのメガネには見覚えがある、とまで思った真由はすぐさま目の前の人物の特定に至る。そこにいたのはドラムメジャーの和香だった。マーチングの時には長いバトンを持っていた和香も、今日は担当楽器であるオーボエをその手に握っている。始めこちらを訝しむようにしていた和香は真由の見ていたものに気付き、なるほど、と微かに顎を引いた。

「秋山先輩っていつも、こんな遅くまで練習なさってるんですか?」

「まあな。ひでえ時は永田先生が来るまでずっとだよ。私も時間合うときはそろそろ上がろ、って言うようにしてんだけど、最近のゆりはあンた感じで声も掛け辛くてなあ」

 頬に手を当てた和香が、ふう、と悩ましげに息を吐く。

「同じ三年生だし、アイツの気持ちも分がらなくはねえんだけどさ」

「佐藤先輩、秋山先輩と仲が良いんですか?」

「良い、ってほどでもねえかな。でもまあ木管同士だし、居残り練終わる時間もだいたい同じぐれえだがら、帰り掛けとかに喋る機会はそこそこね」

「そうですか」

「でも、あっちから話し掛けてくることはほとんど無えんだ。苦手みてえでさ、友達作んの」

 すさり、と和香が足を組み直す音がする。こぼれ来る光によって浮き彫りにされた彼女のふくらはぎは、ぞっとするほど艶めかしかった。

「黒江さんはゆりが転校生だったって話、聞いてる?」

「はい。確か小学生の時、でしたっけ」

「んだ、小五ん時。私と同じ学校でね。クラスは違ったんだけどあの子、教室じゃずっと一人で過ごしてたらしくてさ。前の学校じゃ器楽クラブだったって言うから同じクラスだった子が『じゃあマーチングやらねえ?』って誘ってみたけど、そん時は断られちゃったんだって」

「どうしてですか?」

「分がんね。まあゆりにもゆりなりの事情が、何かしらあったんだがも知んないけどね」

 ここでも事情、か。そんな真由の小さな嘆息を、果たして和香はどう受け止めたのだろう。中指でクイとメガネのブリッジを押し上げた彼女は、そのプラスチックレンズ越しに教室内のゆりへと視線を向ける。

「結局、ゆりはそれから卒業までずっと帰宅部だったみたいで。んでも中学に上がって入部式ん時、部室にゆりが居るの見っけてさ、あーやっぱこの子音楽好きなんだなって、そん時は思ったよ」

 和香の指が柔らかく、その手に握られたオーボエのキイを撫でてゆく。ゆりの過去を聞いていた真由は、何故だか息苦しくなってしまう。断絶期間、ブランク。ずっとユーフォを続けてきた真由には、それはとても縁遠いものだ。一度辞めてしまったものを再びやろうとするのにはきっと、とてつもない量のエネルギーが必要になる。ゆりにとってのそれをもたらしたものが何だったのか、真由には勿論分かりっこない。けれど少なくとも、今のゆりはただ何となく楽しい、という程度のことで音楽をやっているわけではない。それは今の彼女の姿を見ていれば、それだけで解ることだ。

「ああ、ごめんな。帰り際引き留めちゃって」

 はたとそのことに気付いたらしく、和香が片手で謝罪のポーズを作った。いえそんな、と咄嗟に発した真由もどう返してよいか分からず、しばしまごついてしまう。

「もう遅いし、私らに構わねえで、黒江さんは先帰ってて」

「佐藤先輩は?」

「私はもうちょっとここで。あの子のキリ良さそうなとこで声掛けるつもり」

「そう、ですか。分かりました」

 廊下の壁に肩を預け、和香はクツとくぐもった吐息をこぼした。それはなりふり構わず練習に没頭するゆりへの呆れか、はたまた仲間を放っておけない己自身に向けた嘲笑だったのか。どちらとも判断のつけがたい和香の態度は彼女とゆり、二人の関係性をそのまま顕わしているみたいだった。

「それじゃすいません、お先に失礼します」

「うん。帰り、気をつけてな」

 和香に一礼をし、踵を返して真由は音楽室へと向かう。その間も教室から、ゆりの吹くサックスの音色が途絶えることは無かった。キイン、と廊下まで突き抜ける甲高いリードミスの音は、まるで泣き叫ぶゆり自身の悲鳴みたいだった。

 

 

 楽器を片付け校門をくぐっても、音楽室の窓には未だ煌々と明かりが灯されていた。ちなつは音楽室を閉めるまでは部室に居る、とピアノの上にノートを広げて宿題をしているみたいだったが、あの分だとまだ誰かしらは残っているみたいだ。ゆりはまだあの教室で練習をしているのだろうか。そして彼女をそっと見守る和香も、また。何となくいたたまれない気持ちを抱えつつ、真由は無言で振り返り家路へと歩を進めてゆく。

「ちょっと、黒江さん!」

 その時グイと、誰かが真由の制服の袖を強く引っ張った。あ、うわ、とバランスを崩した真由は踏ん張りも利かぬまま、ドシンと芝生に尻もちをついてしまう。

「あ痛たた」

「わああ、ごめん黒江さん。私そんなつもりじゃ、」

 痛む腰をさすりつつ目を開けると、すぐそこにはゆり……いやゆりの妹、楓がいた。文字通り目と鼻の先、というその距離感に心臓がどきりとする。こちらの袖を掴んでいるところを見るに、どうやら彼女は倒れ込む真由に巻き込まれて体勢を崩し、そのまま覆いかぶさる形で二人一緒に転倒したようだった。

「楓ちゃん? どうしたの急に」

「シーッ!」

 楓が唇に人差し指を当てたのを見て、真由は反射的に口を塞ぐ。困惑と動揺で身動きが出来ないのをいいことに、楓はそのまま真由を近くの植え込みまで引きずり込み、その陰で再び真由へとのしかかってきた。両手首をがっちりと押さえられた姿勢のままで楓の豊満な二つの膨らみを頬に押し当てられ、真由はすっかりどぎまぎしてしまう。短い袖の奥からはマンゴーのような甘い香りが芬々と漂っていた。

「いやあの。ムネ、胸当たってるんだけど。何これ、何のつもり?」

「いいがら、静かにして」

 息が出来ない。頭がくらくらする。首を四方八方へと動かした結果、どうにか楓の脇から顔を出すことに成功した真由は、呼吸のついでにさっきまで自分が歩いていた正面玄関の通りを覗き込む。と、いつの間にやら音楽室の明かりは消えていて、代わりに玄関には良く見慣れた女子たちの姿があった。

「ちなつ先輩。と、佐藤先輩」

「それと、お姉ちゃん」

 真由と楓は息を潜めて三人の動向を注視する。二人のいる植え込みのすぐ傍を、ゆりたちが並んで歩いていく。いずれも俯き加減で口を動かしている様子もないあたり、会話らしい会話はほとんど無いみたいだった。三人が正門へと向かう角へ曲がったのを確認して、ぷはあ、と楓が息を抜く。ようやく戒めを解かれた真由もまた、じんわりと痛むお尻に手を添えつつ姿勢を正した。

「急にびっくりしたよ。何だったの、一体」

「やはは、ごめんごめん。最初はただ黒江さんと話するだけのつもりだったんだけど、奥からお姉ちゃんたちが降りてくるのが見えたもんで……」

 少しだけ非難の気色を込めた真由の物言いを受け、楓は申し訳なさそうにぽりぽりと後れ毛の辺りを掻く。

「もしかしてこの時間まで、ずっとここで待ってたの? ゆり先輩のこと」

「待ってたっつうか、たまたま黒江さんが通りがかったからさ。私、いっつもここでお姉ちゃんが帰るとこ見てるから」

 相変わらず楓は危なかった。と、それはともかく、話とは一体何のことだろう。そう思った真由は直接楓に尋ねてみる。

「うん。実はね、そのね、」

 何か言いづらそうにもごもごと口を動かし、それからややあって、楓が大きく息を吸った。意を決した彼女の瞳は真剣そのものだった。

「お姉ちゃんのことで、協力して欲しいんだけど。黒江さんに」

 

 



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〈8〉背後より来たる者

 真由は一人っ子だ。

 小さな頃には姉や妹というものに憧れを抱いたこともあるけれど、中学生となった今ではさすがに諦めもついている。だから、と言うわけではないのだが真由自身、兄弟姉妹の機微といったものにはとんと疎かった。もしも自分に一歳下の妹がいたらどんなことを思うのか。その存在をどう感じるのか。何を話し、どう関わり、どんなふうに振る舞うのか。少なくとも真由の想像し得る限りにおいては、それはとても美しく和やかなものであったわけで。

「前にも言ったと思うけど、私、お姉ちゃんのことが本気で心配なの」

 表情を曇らせた楓がこちらへにじり寄ってくる。真に迫った彼女の圧力に囚われ、真由は身じろぎすることもかなわない。

「お姉ちゃん、こんな時間までずっと練習してるでしょ? ここんとこ帰りが遅えの、お父さんもお母さんも心配してて。もう受験生なんだしってしょっちゅう叱られても、お姉ちゃんはお父さんたちに理由とか何も喋らねえんだよ」

「そうなんだ」

「そのせいで、最近は家ん中でも雰囲気悪くなってて。だがら黒江さんからそれとなく聞いてみて欲しいの。何でそんなに根詰めて練習してるの、って」

「私が? 秋山先輩に?」

 そう、と楓は神妙な面持ちで頷いた。

「黒江さんにだったらお姉ちゃんも、もしかして話してくれるかも知んねえし」

「それは別に良いんだけど。そのぐらいの話なら、楓ちゃんが直接聞いた方が早いんじゃないかな」

 姉妹なんだし、と尋ねた真由に楓はしばし沈黙し、それから歪めた唇を重たそうに開く。

「……私、お姉ちゃんとずっと、会話もできてねえからさ」

 思いがけぬその一言に、え、と真由は喉を涸らしてしまう。

「それって学校だけじゃなくて、家にいる時も、ってこと?」

 その質問に楓は言葉なく首肯する。彼女の瞳は哀しみに小さく揺れていた。姉妹なのに。同じ家で暮らしているのに。ひとつも会話がないだなんて、そんな事が有り得るのだろうか。それがどうにも信じがたい。

「どうして? 楓ちゃん、こんなに心配してるのに」

「それが全然分がんねくてさ」

 かぶりを振って、それから楓はぽつぽつと続きを話す。

「私、なんかお姉ちゃんに避けられてるみたいで。私から話し掛けても簡単な返事しかよこしてくんないし、ご飯もわざと時間ずらされてるみたいにお姉ちゃんと一緒になることって無くて。こっちに越してきてからぐらいかな、お姉ちゃんがそうなっちゃったの」

「その頃、何かあったの? 先輩とケンカしちゃったとか」

「なんにも。引っ越してきてすぐ私はマーチング部に入ったんだけど、お姉ちゃんは部活入らなくてさ。どうしてだろうって思ってるうちに、気付いたらこうなってたんだ」

 何かを堪えるときのように、楓がその肘を鷲掴みにする。ゆりと楓は年子、つまり一歳違いの姉妹。ということは秋田に引っ越してきた時、楓は小学四年生だったということになる。もしもこっちの学校が真由のいたところと大差ないのであれば、クラブ活動はちょうどその時期から始めることになっているはずだ。

「お姉ちゃんってああいう性格だべ? 誰か仲良い人にお姉ちゃんのこと聞いてみようって思っても、そういう人が全然いねくて。和香先輩は一緒の小学校だったし、今も吹部で木管同士だからいろいろ気ぃ遣ってくれてるみてえなんだけど、かと言って友達って感じでもねえっていうし」

 それは今しがた和香本人も言っていた事だ。ここまでの話を総合すると何となく、『秋山ゆり』という人物の実像と彼女を取り巻く人間関係が掴めかけてきたような、そんな気がする。

「それで楓ちゃん、ゆり先輩のことよろしく、って私にお願いしてたんだね」

「お姉ちゃんがあんなふうに心開いてたの、黒江さん以外に見たことなかったんだ。だがら黒江さんならもしかしたらって思って、」

 そこまで言い掛けて、ハッ、と楓が息を呑む。

「――ごめん。私、知らねえうちに黒江さんのこと、利用しようとしてらったんだね」

「え、いや、そんなことないよ」

 急に声を落とした楓に、真由は慌てて首を振ってみせる。利用。怜悧で知的なその単語は、こう言っては失礼なのだろうが、楓の人柄には全くそぐわぬものだった。

「でも私、そうなっちゃうぐらいお姉ちゃんのこと心配してるの。お姉ちゃん、前はもっと明るかったし、友達だって普通にいたんだよ」

「へえ」

「楽器だってすんごい上手くて、演奏してる時なんてすっげえきらきらしてて。私もお姉ちゃんと一緒に吹きたい、って思って音楽始めたんだ」

 あの頃のお姉ちゃん、ほんとカッコよかった。そう述懐する楓の瞳は遥か遠くを見つめているようだった。彼女の語る輝かしい姉の姿と、先程垣間見たゆりの熾烈ささえ漂わせる姿。その二つがあまりに乖離し過ぎているせいで、真由は目が眩みそうにさえなってしまう。

「だけどこっちに転校してきてから、お姉ちゃん音楽辞めちゃって。もう一緒に吹けねえのかなってすごく寂しかったけど、中学に上がってお姉ちゃんがまた吹部に入ってくれて。私嬉しかったんだ、今度こそお姉ちゃんと一緒に音楽やれる、そしたらまたお姉ちゃんと仲良くなれるんじゃねえかな、って。でも、」

「でも、ダメだったんだね」

「……うん」

 楓がしょんぼり肩を落とす。何故ゆりはそうまでして楓を避けるのだろう。友人や赤の他人ならばまだしも、実の姉妹なのに。そこがどうしても解らない。けれど同時に、何か重要なことがそこに隠されているみたいに、真由には思えてならなかった。

「分かった、今度私が秋山先輩に聞いてみるよ。なんで毎日こんな遅くまで練習してるのかって」

「ホント?」

「でもあんまり期待しないでね。私と秋山先輩、あれから全然喋ってないし。もしかしたら私にも何も教えてくれないかも」

「ううん、すごく助かる! ありがと黒江さんっ」

「ふぐもっ」

 むぎゅ。突然抱きついてきた楓の胸に頭を挟まれ、真由の呼吸は瞬く間に逼塞してしまう。苦しい。ブラの金具が顔面に食い込んで痛い。パンパン、と楓の二の腕をタップすると、事態に気付いた楓はすぐ腕を離してくれた。

「あぁごめん。私ってばまたつい、勢いに任せて」

 けほ、けほ、と噎せる真由に、楓はただただ平謝りを繰り返す。どうやら彼女の暴走癖も相変わらずらしい。死ぬかと思った、と撫で下ろした自分の胸は楓の実りぶりに、まだほんのちょっとだけ追いついていなかった。

 

 

 

 

「それでは本日より、コンクール出場メンバーを決めるための部内オーディションを開始します」

 本日のミーティング、部室最前に立っているのはちなつではなく顧問の永田だった。黒板にカツカツとチョークを走らせながら、永田が大まかな日程を部員たちに告げる。

「こんだけ人数がいるわけなんで、オーディションは前に話した通り三日かけて行います。初日の今日はクラリネットとフルート、ダブルリード。明日はトランペット、トロンボーン、低音。最終日の明後日はサックスとホルン、それからパーカッションです」

 その配分はおおよそ、部内の人員を三分の一ずつに分けたような格好だった。いかに一人あたり数分程度の短いオーディションとは言え、都合百数十名分ともなると何時間も掛かってしまう。演奏する側はまだしも、それを聴いて良し悪しを判断する永田にとってかなりの負担となることは間違いない。人数の比較的少ないサックスやホルンが最終日に回されているのも、恐らくはそうした諸般の事情によるものなのだろう。

「オーディション終わったやつに次のパートを呼びに行ってもらうんで、それまで他のパートはそれぞれの教室で練習してて下さい。待ってる間は音楽室への立ち入りと、近くでの音出しは一切禁止な。もし吹いてるやつがいたら、罰として皆の前で『ドンパン節』を披露してもらいます」

 永田流のジョークに、部員たちの間からは「笑えねー」と冷ややかな声が漏れた。真由お気に入りの屋上テラスも音楽室付近の屋外であり、区分としては音出し禁止エリアに該当する。今日から三日間は教室での個人練に終始していた方が良さそうだ。

「オーディションの結果は今週末までにミーティングで発表しますんで、それまでは全員出るつもりで今まで通り練習してて下さい。ただ放課後の居残り練は普段よりちょこっと早く切り上げます。それと各パートのソロも今回同時に決めるんで、あとで恨みっこねえように全員全力で演奏して欲しいと思ってます。先生からは以上です」

 説明を終えた永田がちなつに頷き掛け、それを受けたちなつがいつものようにテキパキと、部員たちに次の指示を飛ばしていく。

「それじゃあ初手のクラは部室に残って、先生の指示通り動いて。他のパートは全員さっきの段取りに従ってそれぞれの教室に移動して下さい。パーカスは楽器移動たいへんだと思うけど、そこは自分たちで何とかして」

「そんなあ。殺生だで、部長ぉー」

 パーカッションのパートリーダーがこぼした悲痛な訴え。何処か滑稽なその叫び声に、部員たちの何人かが堪え笑いをこぼす。

()(じゃぐ)こいてねえで、さっさと動げって。誰か手伝える人はパーカスの移動を手伝ってあげて下さい。というわけでハイ、移動開始!」

 パン、と打たれたちなつの柏手に背を押され、クラリネットパートを除く部員たちがぞろぞろと音楽室を出ていく。

「真由ちゃん、私たちも早く移動しよ」

「あ、うん。そうだね」

 移動の準備をしていた真由に、普段の調子で声を掛けてきたのは水月である。マーチングの時は本番欠場すると早々に宣言していた彼女は、ともすれば今回のオーディションさえも欠席するのでは……と内心思っていたのだが、少なくとも今日までその兆候は見られなかった。コンクールに関してはそれなりにやる気があるのだろうか? それとも受けても受けなくても結果は同じ、と高を括っているのか。そんなやくたいも無いことを考えつつ楽器棚から楽譜ファイルを引き抜き、真由はいそいそと教室棟へ向かう。

 いつもの教室には既に低音パートの面々が揃っていた。金管は明日が本番ということもあり、彼らの表情にはまだ幾分かの余裕が窺える。そんな中で泰司だけは何故か妙に、全身からやる気のオーラを燃え上がらせていた。

「いやあ、とうとうこの日が来たっすねぇ。俺、こういうのワクワクするっす!」

「石川くん、今日は何だかすごく元気みたいだけど。オーディション好きなの?」

 真由が問うと、泰司はフフンと不敵に白い歯を覗かせた。元々が日焼け気味で浅黒い彼の顔に、その白さは異様に浮いて見える。

「実力勝負ってカンジするじゃないっすか、オーディションって。小坊ん時もレギュラー獲りとかやってたんで、俺は割と慣れっこっす」

「そっか、確か石川くんって運動部出身だったもんね。それじゃあ試合でも活躍してたの?」

「サッカー部っす。それと公式戦は、万年補欠でした」

 そのとき、自分たちの会話を傍で聞いていた玲亜が「アホくせ」と冷ややかにせせら笑った。それを聞いて泰司はムッとした表情を彼女へと向ける。

「んだよ三島。今の話のどこがアホくせえってのよ」 

「だってさ、レギュラーなれねがったのにオーディションは好きとか、言ってること矛盾してね?」

「別に良いねが。学年順なんかで決められるよりはよっぽど分がりやしい、って話だべ」

「だがらってオーディションはそンた単純なもんでねえよ。だいたい私は、」

「玲亜ちゃん」

 ビシリ、とそこで玲亜を窘めたのは意外や意外、こういう時に一切絡みを見せない筈の水月だった。玲亜が開きかけた口を閉じ、神妙な面持ちで水月へと向き直る。

「ここでそういうことは言わないって、この前約束したでしょ?」

「……はい。すいません」

 しょぼくれた玲亜の肘を「それ見ろ」とばかりに泰司の肘が小突き、それに玲亜がギロリと恨めしい眼差しで睨み返す。この二人は馬が合わないのか、それともケンカするほど何とやらの典型なのか、いまいち良く分からない。

 それにしても、と真由は改めて水月と玲亜に目を向ける。二人はいつの間にやら、自分たちのあずかり知らぬところで相当に親睦を深めていたらしかった。思い返してみると確かに、個人練から水月と玲亜が二人揃って居なかったり、パート練の開始時刻になると二人揃って教室に戻って来たり、という場面を度々見かけてもいる。その間、水月はどこかで先輩らしく玲亜を指導していたのかも知れない。それ自体は悪いことでは無いと言えるし、水月にも先輩としての自覚が生まれつつあるならむしろ良い傾向、の筈だ。しかしその一方で、ちなつや日向は水月のことをどこか訝しむような目つきで見つめていた。

 さて、雑談ばかりもしていられない。明日の本番に備えて少しでも練習しなくちゃ。そう思った真由は肩慣らしの音出しを一通り済ませ、それから曲練に移ろうと楽譜ファイルを開く。

「あれ、」

 瞬間、全身からサッと血の気が引いた。真由の異変を察知してか、日向が声を掛けてくる。

()した? 黒江ちゃん」

「いや、その……楽譜なんですけど、基礎練習用のをまとめてたファイルの方を、間違えて持ってきちゃったみたいで」

「ええ、マジで?」

 話を聞きつけた周りの部員たちも「それヤバくね?」「何とすんのよ」とざわつき出した。念のためファイルを一通り繰ってみるも、やはりそこにはコンクール用の楽譜は一つとして見当たらない。ばたばたと慌ただしい出掛けだったせいか、持ち出す時の確認を怠ってしまった。既に暗譜は出来ているので楽譜が無くとも記憶を頼りに練習することは出来るが、それで変なクセをつけてしまうようなことにでもなっては元も子も無い。

「そんなら私の見る? つっても私の楽譜もメモだらけで大概見にくいけど」

「いえ。お気持ちはありがたいんですけど、さすがにそれはちょっと」

 ちなつの申し出を真由は丁寧に断った。それはちなつの迷惑になる、というだけが理由ではない。部員たちは各々楽譜に自筆でたくさんの注釈を施している。それは練習時の要点や演奏時に意識すべきポイントを明確にするためなのだが、その内容は当然ながら個々によって異なるものだ。従ってちなつの楽譜を見ながら練習したのでは、真由自身のための練習にはなり得ないのである。

「でも、そしたらどうすんの。黒江ちゃんの楽譜、音楽室か楽器室にあるってことでしょ?」

「多分、楽器室だと思います。家に持ち帰る時以外はいつも、ファイルは楽器棚のところに置くようにしてたので」

「楽器室かぁ。オーディション中だし、入れるかどうかも微妙だなあ」

 むうん、と日向が悩ましげに嘆息を洩らす。楽器室は音楽室に隣接しており、中で物音を立てれば音楽室にもそこそこ響く恐れがある。こんなことで他の部員に迷惑を掛けてしまうのはなるべく避けたい。どうしよう、と焦りを募らせていた真由をとうとう見かねたのか、「しゃあねえなぁ」とちなつが楽器を置いて席を立った。

「したら私と一緒に取りに行くべ」

「え。でもオーディション中なのに、良いんですか?」

「永田先生も立入禁止なのは音楽室だけ、って言ってらったべ? こそこそっと入って楽譜だけ取ってくればたぶん大丈夫。それにもし何か言われたって、私が部長権限で何とかすっから」

 ドン、とちなつが胸を叩く。普段から凛々しい彼女の表情が、この時はますます頼もしく輝いているみたいに見えた。

「すみません。じゃあお言葉に甘えて、お願いします」

「いいからいいから。もたもたしてっと練習時間減っちゃうし、サッと行ってサッと取ってくんべ」

「はいっ」

 こうして真由はちなつと二人、楽器室まで戻って来た。案の定というべきか、音楽室の戸はしっかり閉じられ『オーディション中につき雑音&立入禁止』と大きく書かれた貼り紙までされてある。戸には覗き窓もないため、ここからでは室内の様子を窺い知ることもかなわない。だが時おり洩れ聴こえるクラリネットの調べは、まさに今そこでオーディションが行われていることを示していた。一旦周辺の様子を伺ったちなつが音を立てぬよう慎重に、そろそろと楽器室の戸を開ける。

「うん、誰も居ねえ。今のうち」

 小声のちなつに手招きされ、真由は足音を殺して薄暗い室内へと滑り込んだ。低音用の楽器棚を恐る恐る見やると、自分の楽器ケースに立てかけるようにして、目当てのファイルはやはり置き去りにされていた。念のためファイルを手に取りぱらぱらと中身を確認する。課題曲、自由曲、それらの楽譜は間違いなくファイル内に収まっていた。良かった、ちゃんとあった。ひと安心を得た真由はほうと息をつく。

「……次、秋山楓」

「はい」

 そのとき壁の向こうから響いた声に、耳たぶがぴくりと反応してしまう。次はちょうど楓の出番らしい。早く行くべ、と小声で急かすちなつを尻目に真由は音楽室の戸へ忍び寄り、そこで耳をそばだてた。お願いします。そう言って寸秒の間を空けたあと、楓は演奏を開始した。

 淀みなく流れる春の小川のように、朗らかでふくよかな音色。それが楓の音を聴いたときの第一印象だった。細かい音の羅列などものともせず、楓が奏でたクラリネットの音色はその全てを正確に切り分け、流れ去った後にはふんわりと優しい余韻を漂わせる。壁一枚を隔てているとは思えぬほど明確なアーティキュレーション。音の高低だけでなく幅をも感じさせる音色の使い分け。それらが紡ぎ出す立体的な表現で紡がれた音の臨場に、真由はすっかり陶酔してしまう。それは自由曲の第一楽章『天上からの使者』において、後半部に用意されているクラリネットソロのメロディだった。

「よし。んだば次……」

 楓の演奏を聴き終えた永田が別の部員の名を呼ぶ。今の演奏なら間違いなくコンクールメンバーに選ばれる。真由はそう確信した。強豪校である曲北は部員一人ひとりが押し並べて上手いのは当然のことなのだが、その中でも楓の演奏が限りなく上位にあることは疑いようが無かった。

「今吹いてたの、楓か」

 声に気付いて真由が横を見ると、ちなつがすぐ隣で自分と同じようなポーズを取っていた。先輩は音だけで解ったんですか? と真由はちなつにひそひそ声で尋ねる。

「そりゃあ勿論。何たってあの子、入部一年目からコンクールメンバーになってるし、クラの中ではエースみてえなもんだがらね」

「それってことは、つまり草彅くんとかと一緒で、そのぐらい上手いってことですか」

「さすがに雅人ほどじゃ無えけど、二年の中で雅人が金管トップなら楓は木管トップ、って感じだよ。まあ二年は他にも上手え子多いから、うちら三年の間じゃ『今年の二年は豊作揃い』なんて言われてんだけどな」

「そうなんですね。二人とも、すごいな」

「すごいって真由、なに他人事みてえなこと言ってんの」

 ハア、とちなつは呆れ返るように肩をすくめた。他人事ってどういうこと? 真由はコトリと小首を傾げる。

「『豊作』の中にゃ、アンタもしっかり入ってんだがんね」

「私が、ですか?」

 真由は瞠目した。いきなりそんな誉め言葉を貰ったって、そうそう簡単に受け入れられるものではない。現についこの間まで、自分はどうにか周りに追いつこうと必死にもがいているような有りさまだったのだ。今だって追いついたなんて言えるかどうか。そんな思いから怪訝な顔をしていた真由にやれやれと、ちなつが組んだ腕の片方で頬杖をつく。その牡丹みたいに淡く薄いピンク色の唇は、困った時のような形を描いていた。

「真由はもっと自己評価を見直した方が良いで。自分じゃ大したこと無えって思ってても、他人から見るとすげえ、羨ましい、って思われてたりすることもあるもんだがらさ」

 それはひょっとしてちなつから真由への、ある種の警告だったのかも知れなかった。その理由をもう少し深く知っていたならば、きっとこの時の反応は全く異なるものになっていただろう。けれどこの時はまだ、ちなつの評価を過大なものとしてしか受け取ることが出来なくて。だからこんな返事をするぐらいが、その時の真由にはせいぜいだった。

「そんな。私なんか、先輩たちにはまだまだ全然及ばないです」

 おぼつかぬ真由の謙遜をどう取ったのか、微かに眉尻を下げたちなつは「ふふ、」と目を伏せ、それからくるりと振り返った。

「さ、目的のものもちゃんと見つかったんだし、クラの連中が出てくる前に帰ろ」

「は、はい」

 先を行くちなつの背中を追いながら、真由は思い返す。さっきの一瞬、ちなつは今にもくずおれそうなほど哀しげな表情を覗かせていた。それはどうしてだったのか。ちなつは今、何を思っているのか。歩き続けるちなつの後ろ姿と確かな足取りには、それらの手掛かりになり得そうなものなど何一つとして見当たらなかった。

 

 

 

 翌朝。ここしばらくぐずついていた空模様は、しかしまとまった雨をもたらすには至らなかったのだけれど、どうやら今日の夜中からとうとう本格的に降り出してしまうらしい。憂鬱と言えば憂鬱なことだが、雨が降らなければ田畑も潤わず、また巡る季節も順を踏まねば夏本番を迎えることもない。そう思えばこの時期はひとえに我慢を強いられるときなのだと、そういう捉え方をすることも出来ようか。

『では次のニュースです』

 昨日の出来事を扱うテレビニュースをぼうっと眺めながら、真由はスプーンを持つ手を動かしていた。ざりざり、という感触と共に、トーストの表面には鮮やかな(こう)()色が塗りたくられていく。いつもは標準的な苺ジャムなのだが、たまには別のものをと真由が所望した結果、母が買ってきたのは細長い小瓶に入った上等そうなマーマレードジャムだった。

「今日の帰りは早いの?」

「うん。今日がオーディションの本番だから、昨日よりは少し早く帰って来れると思う」

「そっか。それなら今夜はちょっと奮発しちゃおうかな」

 がんばる娘へのご褒美に。そういう母の気遣いが、少し嬉しい。目玉焼きとベーコンを載せたお皿をテーブルに置くと、母は台所に戻ってフライパンを洗い始めた。黒江家の朝ご飯はいつも日毎に和洋半々で、時にはどちらかが二日三日と続くこともあるのだけれど、今朝は真由の希望で洋食にしてもらっていた。

「どう、オーディション。受かりそう?」

「それは分かんないよ。みんな上手い人ばっかりだし、すごく練習熱心だし」

 母に受け答えをしながら、かりり、とトーストに歯を立てる。口中に広がる焼けた小麦の芳醇な香ばしさと、上あごを突き抜ける柑橘の酢っぱさ。ジャムに混ぜ込まれた果皮の苦味は、アクセントと呼ぶには少しばかり強烈だった。

「でもいっしょうけんめい練習してたのは、真由だってそうでしょ?」

「それはそうだけど、」

「だったら自信持って堂々と吹いてらっしゃい。結果なんて後からついてくるものなんだから」

 そういう母の方こそが妙に自信満々で、真由もつい「親ばかだなあ」と苦笑しつつ、トーストの残りをぺろりと平らげる。舌の上に残るマーマレードの強烈な酸味は、まだ寝ぼけ気味の意識をがくがくと揺さぶっているみたいだった。

「ねえ、お母さん」

「なあに?」

「もしもの話なんだけどね。もしも私に妹がいたとしたら、そしたら私、どうなってたのかな」

 続けて手に取ったフォークで目玉焼きの頂点をぷすりと刺すと、そこから飛び出た黄身の奔流が真っ白な裾野をゆるやかに侵略していく。邪道と言えば邪道なのかも知れないが、こうして黄身をまぶした白身をいっしょに食べるのは真由なりのこだわりだ。そのことに共感の意を示してくれる友人に巡り合えたことは、これまでただの一度も無かったのだけれど。

「急にどうしたの?」

 洗い物を終えた母が食卓に着く。脈絡なく変な質問をしたせいだろうか、母は少々心配そうな面持ちで真由を覗き込んだ。

「ひょっとして、学校で何かあった?」

「ううん、そういうんじゃなくて。ただ最近いろんな人の話を聞いてるうちに、私に妹か弟がいたら今みたいな生活じゃなかったのかも、って、ちょっと考えちゃって」

「そうねえ」

 相づちと共に、母はふんだんにバターを塗りたくったトーストを皿へ置いた。熱で溶けだした油脂は狐色の生地にじゅわりと沁み込み、甘い匂いと潤いに満ちた輝きを放っていた。

「もしもそうだったら、真由もお姉ちゃんってことになるから、いろいろ我慢しないといけないこともあったかもね」

「我慢、かあ」

 そう言われて真っ先に頭の中に浮かんだのは、自慢の愛器である銀色のユーフォだった。一年前に買い与えてもらったユーフォは、中学生の真由の財力では到底買える代物じゃない。もし兄弟がいたならば、両親はきっと彼らにも相応の支援をするはずで、それはそのまま親の経済的負担が増すということでもある。そんな状況ではきっと自分も、大っぴらにユーフォをねだるようなことなど出来なかっただろう。

「それでもね、」

 母がコーンスープの入ったマグカップに口を付ける。ほっ、と温まった息を吐き出して、それから母はいつものようににこりと笑った。

「親としてはね、子供のやりたがってることは出来るだけ応援してあげたい、って思うものよ」

 緩やかに湛えられたその笑みに、真由の胸はじんと熱くなる。こうして親の愛情を存分に享受できるのがいかに恵まれたことか。それをこのごろ、真由は意識し始めていた。

 

 

 そぞろに授業時間を過ごし、放課後を迎え、いよいよその時は間近に迫っていた。

「ああ、緊張するう」

 チューバの女子たちがさっきから、手に何かを書いては口の中へと放り込んでいる。普段は様々な楽器の音で賑やかな教室の中も、今は静かに楽譜に目を通したり呼吸を整えて精神統一したりと、誰もが勝負の瞬間を前に思い思いの時を過ごしていた。

「中島先輩は、全然緊張しねえんすか?」

()ったり(めぇ)よ、踏んできた場数が違うんだがら。ってか今頃んなって緊張したってしゃあねえっしょ。晩飯のおかずでも考えながらリラックスせえって」

 後輩の問いに、日向は余裕綽々といった様子で答えている。彼女が落ちる側にいるなどとは、真由も全く思わなかった。日々の練習で培われた日向の技量、それは曲北の音作りにおいてはもはや不可欠な存在だ。オーディションでの演奏の可否はさて置いても、自分が顧問だったらチューバのメンバーにはまず第一に日向を選抜する。日向自身も恐らくは、それに比する程度の自負は持っていることだろう。

「黒江先輩、ちょっと聞きたいんすけど。低音からってだいたい何人ぐれえが選ばれるもんなんすか?」

 昨日はやる気に満ち満ちていた泰司も、さすがにオーディション当日とあっては高まる緊張を隠せなくなっているらしい。どこか強張った面立ちで質問してきた彼に、あくまでも一般的にはって話だけど、と前置きをして真由は予想を立てる。

「他の楽器との兼ね合いにもよるけど、全部で五十人だから、ユーフォとコンバスが二人ずつにチューバは三人って感じじゃないかな。あとは永田先生の振り分けとか去年までの傾向次第だと思うよ」

「なるほどっすね。ちなみに去年はどンた(どんな)感じだったんです?」

「それはごめん、私、去年はいなかったから」

「ああ、そっすよね。すんません変なこと聞いちまって」

「気にしないで」

 これ以上は語れそうもない真由の解説を引き継ぐように、んだなあ、とちなつが尖った顎へ指を添える。

「だいたい真由の言った通りだと思うけど、そもそも曲によっても変わるしな。他の学校じゃチューバとコンバス三本ずつ、って編成もあったりするし」

「へえ、そうなんすか」

「曲北だって、一昨年はユーフォチューバが二本ずつでコンバスは一本しか無がったし。県大会ん時なんか、講評シートさデカデカと『曲に対して低音の圧が足りない!』なんて書いてる審査員もいたっけなあ」

 当時を思い返し、ちなつが苦笑の息をこぼす。

「その年は、結果は何とだったんです?」

「いわゆるダメ金。で、東北大会進出ならず。まあさすがにあん時は部員の数も今ほどじゃねがったしな」

「それって、ちなつ先輩が一年生の時ですよね。当時の部員ってどのくらい居たんですか?」

「七、八十人ぐれえだったかな。うちらの代が入部したとき、上級生は全部合わせても四十人ちょっとしか居ねがったし」

「ええ、そうなんですか?」

 その話題に食いついたのは、意外にも真由と同学年の女子だった。んだ(そうだ)よ、とちなつはその女子に頷いてみせる。

「私らが入ったのって、曲北が初めてマーチングで全国最優秀取った、その次の年だったがらさ。私も当時三年の先輩方からちょっと聞いただけだけど、永田先生が顧問として曲北に来たのが今から四年前で、当初は部内でも色々あったらしいんだよね。反発とか、そういうのがさ」

「反発、ですか」

 今の曲北からは想像もつかない、永田が着任した当時の話。それを語るちなつもまた当事者ではないためなのか、少し自信なさげな顔つきをしている。

「どこでもそうだと思うけど、やっぱ体制が急にガラっと変わんのってけっこう大っきいことじゃん? それまでの吹部はみんなでダラーっと合奏して大会に出て、って感じでゆるーく活動してたんだって。そンでも時々は上位大会さ行けてたらしいし、当時の先輩方にしてみれば思い出作りみてえな感覚で楽しくやれてたんだろうとは思うけど」

 でも、とちなつが拳をきゅっと握り込む。気付けば教室内の全員が彼女に視線を注いでいた。

「永田先生が来て、せっかく音楽やってんだからもっと凄いもん目指そう、ってなって。ソレさ同調した人もいたけど、そうじゃねえ人もいた。それでも一年目はとりあえず皆して頑張ってみるべ、って必死こいて練習したらしいんだけど、その年の最高成績はコンクール県銅賞、マーチングでも東北大会で銀。これじゃ何にも変わんねえじゃんってなって、結局その年のうちに部員の半分近くが一気に辞めちゃったんだって」

「それって、けっこうすごい話っすね」

 ごくり、と泰司が唾を呑む。真由もまた今の話には驚きを隠せなかった。部員が大量に辞めれば当然ながら楽器の本数は減り、音の厚みやパート間のバランス、マーチングでの迫力も大きく損なわれる。そんな状況下で翌年全国のトップに立つなど並大抵の所業では無かったはずだ。華々しい成績の曲北しか知らなかった真由にしてみれば、今の話は吹部のいわゆる暗黒時代、いや黒歴史とでも呼べそうなものである。

「幸いにして、私らのふたつ上の代は小学校でマーチング全国出場経験者って人も多かったからね。辞める人もほとんどいねくて、次の年に二年生に上がったその人たちが中心になって挑んだマーチングでは見事全国出場、しかも最優秀賞。それを聞いて吹部入ろうと思った私らの代が三十六人、そんで今の二年生が五十人弱、っていうふうに大きくなってきたんだけどさ。ま、これが曲北吹部の歴史のいちページ、ってワケ」

 すごい話を聞いてしまった。そういう思いに駆られた後輩たちが一斉に深い溜め息をつく。それとは対照的に、三年生の部員はみな一様に真摯な表情で押し黙っていた。きっと大なり小なり、彼らはちなつと同じように、この話をかつての先輩たちから聞かされていたのだろう。

「私らがこうして『今年も目指せ、全国最優秀!』なんて言ってられんのも、その当時がんばった先輩方や永田先生のお陰だと思う。だがら今の自分たちを当たり前って思わねえで、一人ひとりが自分に出来ることを精いっぱい頑張んなくちゃなんねえんだ、と思ってん、だけど……ごめん、クサかった?」

「うん。かなり」

 急に語調を乱したちなつに、日向が容赦のないツッコミを入れる。うわわ、とちなつは珍しく、その頬を羞恥心全開といった具合に紅潮させた。

「先輩は先輩、うちらはうちら、だべ? あんま背負い込んだって良いことねえよ。結局んとこ、私らは私らの目標さ向かってやってくしか無えんだがらさ」

 いっちょ頑張んべー、と日向が両手でガッツポーズを取る。その快活な仕草にいくぶん場の空気は和らぎ、後輩たちも俯きかけた姿勢を元に戻した。と、ちょうどその気配を読んでいたかのごとく、教室に二度ノックの音が転がり込む。

「お待たせしました。次は低音、ユーフォからです」

 戸を開けたトロンボーンの女子がそう告げると、パート員たちの表情は再び引き締まった。いよいよだ。真由も小さく息を吸い、そして自分に発破を掛けるように「ふう」と一気に吐き出す。胸に抱いたユーフォのピストンを押下して感触を確かめ、そして左手で管をぎゅうと握り締め、

「行くべ」

「はい」

 ちなつの号令と共に決然と、真由は席を立った。

 

 

 

 

 

 

 夜の帳が降りた校舎の中は、すっかり暗闇に包まれていた。オーディションを終えて楽器も仕舞った真由にはしかし、まだやるべきことが残っていた。

 教室棟には今日もあのメロディが鳴り響いている。それを頼りに廊下を歩き、やがて薄明かりの灯る教室の前へと辿り着く。軽く結んだ握りこぶしを戸に近づけたところで、真由はしばし惑う。本当に自分なんかが立ち入っても良いのだろうか。「ここで引き返した方が良かった」なんて、後になって悔やむことになってしまうのではないか。そんな思いに囚われそうになる真由の脳内を、しかしあの時の彼女の儚げな声が、キンと貫いた気がした。

――お姉ちゃんのこと、お願い。

 意を決し、コンコン、とドアをノックする。どうぞ、という声に従って真由は固い引き戸を開いた。

「失礼します」

 中にはゆりが居た。彼女に、訊かなければ。そのために今宵、真由はこうしてこの教室を訪れたのだった。

 

 



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〈9〉どうにもならないこと

「黒江さん? こんな時間にどうしたの」

「すみません、練習中に。少しおじゃましても良いですか?」

「そりゃあもちろん。どうぞ」

 構えていたサックスを下ろしてゆりがこちらに手招きをする。入室した真由は近くの椅子を適当に選び、ゆりのちょうど向こう正面を位置取って腰を下ろした。

「低音のオーディションって今日だったよな。手応えはどう?」

「自分なりに一生懸命吹きました。あとは結果待ちです」

「悪くなかった、ってことみたいだね。それは」

「はい、まあ」

 オーディションは音楽室内の間仕切りされた空間で、永田と一対一の形で行われた。仕切りの外で出番を待っている間、真由はただじっと他の奏者の演奏を聴いていた。曲北のユーフォ担当は各学年二名ずつの計六名。その中でいちばん上手かったのがちなつであったことは疑いの余地も無い。対する真由自身の出来栄えはと問われれば、おおむね中の上と言ったところだろう。あとは永田がその中から何人を見繕うか、それ次第だ。

「それにしても、嬉しいな。黒江さんのほうから私のトコさ来てくれるなんて」

「嬉しい、ですか?」

「サックスと低音は普段あんまり関わり無えし、ひょっとしたらあの日のことももう忘れられてんじゃねえかって、ちょっぴり不安だったもんでさ」

「そんなことありません。転校したてで不安だったので、秋山先輩にあんなふうに声掛けて貰えて私、とっても嬉しかったです」

 真由の素直な言葉に照れくさくなったのか、ありがと、と恐縮するようにゆりが薄くはにかむ。水辺に咲く睡蓮のごとく慎ましやかなその笑顔は、牧歌的な彼女の顔立ちに良く似合っていた。

「それで、今日は何か相談ごと?」

「はい。その、相談っていうか、ちょっと先輩にお聞きしたいことがあるというか」

 いざ話そうと思うと妙に緊張する。汗に滑る拳をぎゅっと握り締め、真由は必死に言葉を選んだ。

「先輩、最近ずっと、遅くまで練習してますよね」

「え? ああ、うん。まあ遅えって言えば、そうだけど」

 予想していた話と違ったからなのか、ゆりは一瞬瞠ったその目でちらりと教室の壁掛け時計を見やった。現在時刻は閉校およそ一時間前。ゆりにはまだまだ早い時間帯に見えているのか知らないが、一般的にはそうではない。

「どうしてこんな遅くまで毎日練習するのかなあって、ちょっと気になったもので」

 追って言葉を重ねた真由にすぐには答えを返さず、ゆりは胸元の楽器保持用ストラップへ手を掛け、まるで何かをためらうようにしゅるりと撫でおろした。

「変、かな」

「いや、あの、変とかじゃないです。ただその、こないだ通りがかった時、先輩がすごく真剣に練習してるのが見えたので。何か理由でもあるのかなって」

「そりゃあまあ、三年生だがらさ。コンクール、今年で最後だし」

 それは確かに至極理にかなった動機ではある。最後だからこそ何が何でも出たい。ゆりに限らず最上級生ならば、誰もがそう思うことだろう。けれどそれにしたって、練習時のゆりの雰囲気にはただならぬものがあった。それは単純に出たいからというだけでなく、何が何でも絶対出なければならない、という強迫観念にでも駆り立てられているかのような。

「秋山先輩はコンクールに思い入れとか、何かそういうのがあったりするんですか?」

「そういうのは、特に何もないけど」

「じゃあ今年の自由曲、絶対に吹きたいとか」

「曲自体は好きっちゃ好きだけど、そこまででも無えかな。割と曲には頓着しねえし」

「あ、はあ、なるほど……」

 問い掛けをことごとく否定され、真由はすっかり言葉を失くした。駄目だ。切り口が見当たらない。どうしてこれほどまでに執念剥き出しで練習に没頭しているのか。その理由をなぜ家族に、楓に、きちんと話さないのか。それを訊き出したいのに、適した文句が思いつかない。ぐるぐると廻るばかりの思考はなかなか次に紡ぐべき一言に行き当たらず、焦りの念からついつい唇を噛んでしまう。

「他に質問無ければ、そろそろいいかな。せっかく来てくれたのに悪いんだけど、明日に向けてもうちょっと追い込みしてえから」

「あ、えと」

「へばね黒江さん。また何かあったらそん時ってことで、」

「じゃあ最後に、一つだけ」

 人差し指を立ててゆりの括りのことばを遮る。もうこれしかない。ごくりと唾を呑み、真由は決死の思いでその一矢を放った。

「先輩、妹さんいますよね。楓ちゃん。私と同じ学年の」

 それを訊ねた時、ゆりの態度には明らかな変化があった。遠慮がちにだが綻んでいた頬がぴしりと凍り付くと共に、平素は黒々としてつぶらな瞳もたちまち胡乱げに曇る。拒絶。彼女の全身から垂れ込めた強い気配は、その二文字を強く想起させるものだった。

「楓ちゃんってクラリネットとっても上手ですよね。昨日たまたま楓ちゃんの演奏聴いたんですけど、あんなに上手いと思ってなかったからびっくりしちゃって、私」

「――それが、何かしたの」

「えっと、姉妹で同じ吹部ってすごく良いな、って思いまして。だからその、先輩が毎日いっしょうけんめい練習してるのも、ええと、もしかしたら楓ちゃんと」

「アイツは関係ない」

 強く息を吐き出すのとほとんど同じように、ゆりが語気を荒げる。彼女はこちらに目を合わせようともせず、しばし浅い呼吸を繰り返していた。

「ごめん黒江さん、私もう練習に戻るから。悪いけど出てって」

「すみません先輩。私、先輩を怒らせるつもりなんかなくて。ただ楓ちゃん、先輩のことを、」

「出てって!」

 ぐわん、という残響が二人きりの教室に跳ね返る。それほどにゆりの一声は凄絶で、叫びにさえ近いものだった。今のゆりからはもうこれ以上、何も引き出すことはできない。そう悟った真由はおもむろに立ち上がり、掛けていた椅子を元の場所へと戻す。

「……すみませんでした」

 最後に告げた謝罪のことばを、果たして彼女は聞き入れてくれただろうか。引き戸を閉めるその瞬間までゆりはこちらを見ようともせず、ただ小さく唇を震わせながら黙って楽譜を見つめていた。ストラップに添えた手を、固く握り締めたまま。

 音楽室までの廊下をとぼとぼ歩きながら、真由は完全なまでの悲嘆に暮れていた。ゆりを怒らせてしまった。あの時点では他に何も思いつかなかったとは言え、どうしてこうも自分は要領が悪いのか。もう少しうまくやれたら良かったのに。そんなふうに最悪の結果を招いた己の愚行を責め苛みつつも、その反対側で真由は一つのことを確信する。楓は関係ない? そんな筈は無い。普段は大人しくて優しいゆりがあれほどまでに取り乱すからには、彼女と楓の間には何かがある。真由の知り得ない何かが、必ず。それこそがきっと、ゆりが死に物狂いで練習に打ち込む理由、そして楓を避けるその決定打とでも言うべき理由なのだ。

 けれど仮にそうだとして、楓にはありのままを伝えるわけにもいかなかった。あれだけ心配している様子だったのに、『ゆりがああなった原因は妹のあなたにあるのかも』だなんて、あけすけに突き付けられたら相当のショックだろう。第一、楓自身は不仲の原因に何一つ思い当たりが無い。そんな彼女が形だけ「ごめんなさい」などとゆりに謝罪してみせたところで、事態は余計にこじれてしまう。楓に向けるゆりの感情、その正体。これを暴かない限り、真由も楓も、次に打つべき手を見出すことなど出来やしないのだ。

 ぱた、と廊下の窓に何かがぶつかる音がする。星一つ見えない夜空から降りてきたそれは瞬く間にいくつもの水滴を描き出し、重力に従って窓の外側を滑り落ちていった。帰るまでには持ってくれると思っていたのに。出掛けに傘を持って来なかったことを今さら悔やんでも、今の真由にはどうすることもできなかった。

 

 

 

「……というわけで、秋山先輩、ぜんぜん話してくれなくって」

「そっか」

「本当にごめん。力になれなくて」

「ううん、黒江さんのせいじゃねえよ。あんま気にさねえで」

 明くる日の昼休憩。楓を階段の踊り場へと連れ出した真由は昨日の経緯を彼女に説明していた。核心部分については上手にぼかし、『練習中のところを邪魔してしまったせいでか、ゆりの機嫌を損ねてしまった』ということにしてある。これも全ては楓のためを思ってのこと。そうとは重々承知していながらも、胸の中ではちくちくと、針の束みたいになった罪悪感が転げ回る思いだった。

「うん、でも、黒江さんにそこまで聞き出してもらえて、私もちょっと納得したよ。うん。納得」

 胸の前で手を組み、釈然とし切れぬ自分自身をなだめすかすように、楓は同じ言葉を繰り返した。

「んだよな。お姉ちゃんにしてみれば今年が最後のコンクールなわけだし、今年こそ出てえって気持ちで一生懸命んなるのもそりゃあ当然だよな」

「今年、こそ?」

「あれ、黒江さん知らねがったんだっけ。お姉ちゃん、去年一昨年とコンクールさ出てねえんだよ」

 微かな動揺に、ひゅっ、と喉が奇怪な音を鳴らしてしまった。ゆりは今までコンクールに出たことが無い。それは自分の記憶している限り、初めて耳にすることのはずだ。

「出てないって、何か事情とかがあってってこと?」

「ううん、単にオーディションで落ちちゃって」

 何でもないような顔で、楓がその事実を告げる。

「曲北って上手え人たくさんいるべ? 私はお姉ちゃんも上手なほうだって思うんだけど、さすがにコンクールってなると人数制限厳しいせいで、今まで選ばれることなくて。それで去年は私とお姉ちゃん、コンクールじゃいっしょに吹けねがったんだよ。残念は残念だったけど、まあマーチングとか他で吹く機会はあったからね」

 カチリ。頭のどこかでそんなふうに、ずれていた歯車が噛み合う感触。いま自分が抱いたこの違和感は何か、とてつもなく大事なことのような気がした。けれどそれに理屈が追いついてこない。手にした網から獲物がすり抜けていくみたいに、答えを出そうとすればするほどこめかみの辺りから思考がこぼれ落ちていく。

「でもそっか。お姉ちゃん、それでたくさん練習してたんだ」

 胸元に反して肉付きの少ない二の腕を抱え込み、そして楓は独りごちた。

「もしもお姉ちゃんも、今年こそ私といっしょにコンクールで吹きてえって思ってくれてたら、嬉しいな」

 真由は何も言わぬままでいた。きっとゆりの方はそう思ってはいない。そんな本音の映る瞳を、前髪の裏側へとひた隠しながら。

 

 

 

 

 

 本格的に雨が降りしきるようになり、校内の室温も若干冷え冷えとする今日この頃。真由たち曲北吹部の部員たちは遂に、オーディションの結果が発表されるその日を迎えた。

「ほんでは今からパートごとに合格者を発表していくんで、呼ばれたら返事をして起立するように」

 永田に視線を注ぐ部員たちの間にははらはらと、言葉に出来ないほどの緊張感が漲っている。運を天に任せるような心境だった真由もまた、自ずと高まる心拍数を抑えられずにいた。誰もが体育座りの姿勢で固唾を飲み、声を殺して、その瞬間が自分の元に訪れるのをじっと待つ。

「繰り返しになるけども、ここでメンバーになったならないってのは全然重要じゃ無えがらな。今日までやって来たことの方がずっと大事で、これからの皆にとってずっと価値のあるものです。現に合奏でもどんどん音が良くなってるし、一人ひとりがちゃんと上手くなったのも解る。今日のこの結果だけで一喜一憂せず、これからも今までと同じようにやっていこうってマインドを全員が持って下さい。いいな、全員だぞ」

「はい!」

「んじゃあ、まずクラ」

 永田は手に持ったバインダーへと視線を落とし、んん、と小さく咳払いをする。

()()(まな)()(くり)()かな()()()()(みつる)()(たけ)()(れい)、」

 矢継ぎ早な永田の呼び声に次々と、三年の部員たちが返事をしながら立ち上がる。どうやら曲北ではこのように、上級生から五十音順に名前を連呼していく方式を採っているらしい。一瞬の間に告げられる当落。ひっそりと喜びを噛み締める者、大きく肩を落とし顔を覆う者、それらは瞬時に隔てられ、明暗の差を色濃く映し出してゆく。

「秋山楓」

「はいっ」

 力強い返事と共に楓がその場に立つ。クラリネットパートの二年生では、彼女の他にバスクラの女子が一人選ばれただけだった。次にフルート、ダブルリード、と発表は淀みなく進められ、その度に音楽室には小さな悲鳴と安堵のため息とが交々に入り乱れる。

「次サックス。(あか)(ざわ)(けい)()

「はい!」

「秋山ゆり」

 その指名にゆりは一瞬声を詰まらせ、それから「……はい」と控えめな返事をした。起立する彼女を一瞥した途端、真由はずぐりと臓腑を抉られる。ゆりとはあれ以来、会話どころか会う機会すらも無いままだった。それはともすればゆりが真由を、真由がゆりを、互いに避けていたせいだったのかも知れない。

「次、ユーフォ。荒川ちなつ、伊藤雄悦」

 はい、と返事をして両者が立つ。

「黒江真由」

「は、はいっ」

 先に二人の名が挙げられたことで、落ちた、と思った真由は一瞬油断してしまっていた。慌てて返事をして立ち上がり、それからこっそりとちなつを見やる。やったじゃん。そうとでも言うかのように、ちなつはこちらへ向けて悪戯っぽく犬歯を覗かせた。

「次にチューバ。()(がし)(こう)(へい)、中島日向。(ふじ)(わら)(たくみ)

「はいっ!」

 チューバの発表では残念ながら、泰司を含む一、二年生の名が挙げられることは無かった。この結果を受けた泰司は事前の意気込みが嘘みたいに、ただ憮然とした表情を浮かべながら座っていた。ともすればオーディションの時点で結果がこうなることを、彼は内心覚悟していたのかも知れない。

 その後も発表は続いた。トランペットパートの杏と奈央は共にメンバー入り。トロンボーンパートでは三年生が座を占める中、二年生からは雅人一人だけが選ばれた。全体を見れば、コンクールメンバー計五十名のうちほぼ大半が三年生、十名足らずが二年生で残りのごく少数が一年生と、それは実力面から見ても順当と言えそうな当落結果だった。

「したら最後に、各ソロパートの担当者だども」

 どきん。真由の体内の管を、ひときわ大きな何かが突き抜けていく。

「オーボエ、佐藤和香」

「はい」

「クラリネット、秋山楓」

「はい」

 おお、と部員たちから感嘆の声が上がる。これは真由としても驚きの結果だった。楓のレギュラー入りは間違いない。そう思っていたのは確かに事実なのだが、それにしてもまさか三年生を押しのけてソロの大役に選ばれるとは。他のクラリネットのメンバーたちが身じろぎ一つしていない辺り、楓の実力がその域にあることは、常日頃からパート内で十二分に認知されているらしかった。

「フルート、(しま)()耀(よう)。ユーフォ、荒川ちなつ。トランペット、小山杏。トロンボーン、草彅雅人」

 はい、と各々が返事をする。さすがに自分がソロに選ばれることは無かった。その事実は大きな衝撃こそもたらさなかったものの、真由の心にじんわりと、さざ波のように広がっていく。

「以上でコンクールメンバーの発表は終わりです。いま起立してる者はこの曲北吹部、全員を代表してコンクールに出ることになります。その自覚と責任をしっかり持ってこれがらの練習に取り組むこと。分がったな?」

「はい!」

 かくしてメンバーの発表は終わった。自覚と責任。その言葉を自分の中でいま一度検めるように、真由は己の胸に手を当てる。ちなつたち三年生にとって最後のコンクール。燃えるように熱く煌めく彼女たちの夏は、まさにこれから始まろうとしていた。

 

 

 あれだけ降っていた雨も、ふと気付けば小康状態のようにぴたりと止んでいた。発表後の練習はいつも通り進められ、きっかり部活終了の時間と共に全員が解散する運びとなった。曰く『今日は俺、早ぐ帰らねねえんだよ』という永田のよんどころない事情ゆえだったのだが、たまにはこういう日があっても良いだろう。

 上達のためには練習漬けの毎日が必要不可欠、などとは真由も思っていない。重要なのは正しい練習法をきっちり積み重ねることと、誤った練習法によって変な癖を付けることの無いよう常に注意を払うこと。質の良いトレーニングを必要な量だけこなす。それは何も音楽に限ったことではない、というのが真由なりの持論でもある。

「じゃーめぐちゃん、またあしたね」

「またあそぼうね。ばいばい」

 通りの向こうで小学生ぐらいの子たちが、そんな会話をしながらめいめい別れていく姿が見える。普段の下校よりもだいぶ早い時間帯とは言えど、辺りは薄い夕闇に呑まれ始めていた。陽が落ち切った後よりもむしろ、このぐらいの仄暗さのほうが却って視界を幻惑されるような気がする。今日ぐらいは寄り道しないで帰ろう。そう決めた真由は校舎裏手の坂をまっすぐ駆け上がり、歩行者専用の細い土手道を目指した。

 丸子川を右手に見下ろしながら歩く、街灯一つ無いこの土手道。居残り練で遅くなることの多い日頃の下校時にはいつも避けているルートなのだが、実は家と学校とを結ぶ最短の道のりでもある。ここから川沿いを上流方向に行けばいつもの橋があり、そこを渡った先で折り返すように向こう岸の川沿いを下れば、我が家はもうすぐそこだ。

「あれ、」

 晩ご飯のおかずを思い描きながら歩みを進めていた時、真由はふと川岸の斜面に二つ分の人影が小さく動いたのを見咎めた。背格好からして曲北の生徒だろうか。そのまま近くを通り過ぎようとした時、ぐす、と何やらすすり泣くような音が人影から洩れる。と同時に、背恰好から影の片割れがちなつであることに気付き、真由は反射的にその場へしゃがみ込む。

「……ホントに良いのがよ。ちなつは、それで」

 しゃくり上げながらちなつに話し掛けているのは、あれは、日向だ。どうして二人がこんなところに? いやそれよりも今は会話の内容が気になる。二人に見えない角度を保ちつつ慎重ににじり寄り、そして真由は近くの茂みに身を潜めた。二人との距離は、耳を澄ませば辛うじて彼女たちの声が届くほどだ。

「うん。もう決めた」

「楽器だって上手いし、マーチングだってすげえのに。それなのに辞めるなんて、勿体ねえと思わねえの」

 辞める? 誰が? 出来得る限り首を伸ばし、僅かな音でも聞き洩らすまいと、真由は己が聴覚に全ての神経を集中させる。あの一言だけでは何も分からない。誰のことを言っているのか、それすらも。

「それでホントに納得できんの? ちなつの父さんも、ちなつも」

「父ちゃんとはもう話してある。私がそれで良いなら父ちゃんは何も言わねえ、ってさ」

「私は、」

 そこで喉に何かを詰まらせ、ひぐ、と日向が泣きじゃくる。彼女の背中を優しくさすった後、ちなつはゆるりと日向の体を引き寄せた。

「ヒナにゃあ感謝してる。私が音楽に出会えたのも、ここまでユーフォ続けてこれたのも、ぜんぶヒナのお陰だもん」

()してよ。ちなつぐれえ凄かったら、もっともっと、凄えとこまで行けるがも知んねえのに」

「……ごめん」

 日向はちなつの肩に顔を埋め、そのままの姿勢で声も無く、ただただ咽び泣くばかりだった。それを草陰から見守る真由は息を吸う音すら殺し、這うような姿勢でその場にうずくまることしかできない。

「でもだがらこそ、残った時間で精いっぱいやりてえんだ。この曲北で、ヒナと一緒に最高の舞台に立って最高の演奏して、それで終わりたい。みんなといっしょに、ヒナといっしょに」

 気付けば辺りは完全に真っ暗になっていた。それでも二人はその場から離れず、従って真由もまた身動き一つ取れぬまま。やがて感情が収まったのか、顔を上げた日向がちなつに小声で何かを告げた。それが何だったのかも、日向に応じたちなつの言葉も、ここからでは何一つ聞き取れない。

「さあ、帰ろ。ヒナ」

「うん。……もう、大丈夫」

 二人は立ち上がり、おもむろに土手の階段をのぼっていく。彼女たちが向かう先は真由が来た道、即ち学校のある方角だ。その人影が完全に見えなくなるところまでをただじっと、真由は見送った。ようやく息を吐いた頃には酸欠でも起こしかけていたのか、脳の中枢がずきずきと鈍い痛みを訴えていた。

 たまたまとは言え、とんでもない話を聞いてしまった。ちなつが、辞める。その衝撃的な言葉が頭に響くばかりで、何を辞めるつもりなのかも、辞めて何がどうなるのかも、自分には全く分からない。だが辞めると言えば、それと日向のあの様子からすれば、それはやっぱり部活の事としか思えなかった。もしも本当に、吹部からちなつが居なくなってしまったら? そんな嫌な想像だけが暴れ馬のように、思考の内側を止めどなく駆け巡っていた。

 

 

 

 しとしと降る雨が鬱陶しい。こんな昏い気持ちで空を眺めるのも、人生初のことだ。

「メンバーへの連絡は以上な。んで次、サポート組の練習の進め方についてですが……」

 今日からは本格的にコンクールモードへ体制移行し、真由たち出場メンバーは音楽室での練習が主となる。合奏の頻度も今までよりも格段に増えるし、県南ブロック地区大会までの数週間で一気にクオリティを煮詰めていくことになるだろう。そんな状況にも関わらず、真由は昨日のちなつと日向の会話が頭から離れぬまま、どうにも集中を欠くありさまだった。

『この曲北で、ヒナと一緒に最高の舞台に立って、最高の演奏して、それで終わりたい』

 脳内にこだまするあの弱々しいちなつの声が、檀上でスケジュールを告げるちなつの凛々しい姿に重なってしまう。ちなつが部活を辞めてしまうかも知れない。そのもやもやを、真由は誰に相談することもできず、あれからずっと抱えっぱなしの状態となっていたのだった。こんなことではいけないと分かってはいるのに、ままならぬ己をどう御して良いかも分からず、もどかしさは時を追うごとに加速するばかりだ。

「じゃあ今言った通り、各自きちんと目標を見失わないようにして、一日一日の練習に取り組んでいきましょう。それじゃ今日もよろしくお願いします」

「よろしくお願いします!」 

 今日もちなつの号令で一日の活動が始まった。部員たちがそれぞれの向かうべき場所へと散り散りになってゆく中、真由は椅子に座ったままで一人、暗く湿った吐息を零す。

 こういうときはひとり個人練でもして気持ちの入れ替えを図るのが一番なのだが、外はあいにくの雨模様。これでは雨風を凌げるだけの庇を持たない屋上テラスも校舎裏も使えない。となると選択肢は屋内のみとなるわけだが、そういった場所の大半は今回コンクールに出場しない他の部員たち、いわゆるサポート組によってあらかた占拠されてしまっている。つまるところ、ひとりきりになれる時間と場所を、今日の真由は確保できそうになかった。

「黒江ちゃん、何かボーっとしてない?」

 そんな真由の憂鬱を察知したかのように、頭上から日向が声を注いできた。昨日の涙が嘘のように、本日の彼女はいたってケロリとしたものだ。

「ダメだでー。本番近いんだから、もっと集中してかねえと」

「はい、すみません」

 殊勝に謝る真由を見て、日向が「やれやれ」と口角を歪める。

「なあ黒江ちゃん、ちょこっと話っこあるんだけども、外さ行がね?」

「え? 別にいいですけど。何ですか、話って」

「そんな不安がらねったって良いって。落ち込んでる後輩にちょーっと喝入れてやるだけだがら」

 さ、行ご。日向に引きずられるようにして真由は音楽室を出る。外、と言うからにはてっきり校舎裏のごみ捨て場にでも行くのかと思いきや、向かう先は玄関や裏口の方角ではなかった。そうして日向に連れ込まれたのは中央棟の一角にある空き教室。ここは現在、社会科の教材などを収蔵するための資料室として使われていた。

「何でか知らねえけどココ、いっつも鍵掛かってないんだよねえ。さ、どうぞ上がってたんせ」

「は、はい。失礼します」

 日向に促され、こわごわ足を踏み入れる。あまり人の出入りが無いせいなのか、薄暗い資料室の空気は思わず咳き込んでしまいそうなほどに澱んでいた。立てかけられた大判スクロールの肩にもびっしりと起毛のようにホコリがまとわりついている。正直を言えばそこは、あまり長時間過ごしたいと思える環境では無かった。

「黒江ちゃん、何でこんなとこさ連れ込まれたか解ってる?」

 カチャリ、と戸に鍵を掛け、それから日向は真由の元へじりじりと近付いてきた。

「う、えと、その」

 どうにも答えられず、真由は視線を彷徨わせる。叱られるのは嫌だが、かと言って「昨日の先輩たちのせいです」などと暴露するわけにもいかない。恐怖と気まずさに板挟みにされたようなこの状況で、真由に出来たのはただただ縮こまるばかりだった。

「プッ」

 と、日向の口から唐突に変な音が洩れ出る。何だ、と思って顔を上げた真由に、日向はけたけたと笑い声を浴びせ始めた。

「何ですか急に」

「いやごめんごめん、黒江ちゃんがあんまりにも怯えちゃってるもんでさ。おかしくってつい、ハー」

「……もしかして私、からかわれてます?」

「そういうつもりじゃ無がったんだって、いやホント。まあまあそうヘソ曲げねえで」

「べつに、怒ってるとかではないですけど」

 とは言え、実のところちょっとだけムッとしたのはここだけの話だ。あーおかしおかし、と滲んだ涙を指で拭いながら、日向は呼吸を整え直す。

「ビックリしたべ? 喝入れるーなんて言われて、しかもこんな人っけの無えトコさ連れ込まれたもんで」

「それは、まあ」

「でも落ち込んでる後輩に、まではマジだけどね」

 そう言って、日向は資料室の一角に置かれた長机に腰を預けた。折り目正しいプリーツのスカートにびっしりとこびりついた灰色の汚れを、どうやら彼女は気にも留めていないみたいだった。

「黒江ちゃんが落ち込んでた原因だけどさ。ズバリ聞いてたっしょ、昨日の私とちなつの会話」

 うぐ、と真由は喉をつっかえさせる。ばれないように極力注意を払っていたつもりだったのだが、どうやら日向はあの時こちらに気付いていたらしかった。

「あの、すみません。盗み聞きするつもりはなくてですね、」

「良いって。まあ動転してたとは言え、よくよく考えりゃあ他の生徒だって通りがかるような場所だったしね。あそこであンた話してらったこっちの方が、不注意っちゃ不注意だったわ」

「いやまあ、それは。でも日向先輩、私がいることにいつ気が付いたんです?」

「んー。誰か居るなあってのは何となく分がってらったんだけど、それが黒江ちゃんだってハッキシ気付いたのはぁ、」

 そこで何故か、ニヤリ、と日向が挑発的な笑みを形作る。

「ちなつに愛の告白してたとき、かな」

「こくはく、っ」

 言われたこっちが赤くなるようなことを、日向はさらりと言ってのけた。その様子を見て日向はまたも愉悦めいた音を鼻で鳴らす。

「ってえのは冗談で、まあ見てたと思うがら正直に言うけど、『帰ろ』っていうちょっと前の辺り」

「あ……はあ、そうだったんですか」

「アレのせいで何つうかさ、黒江ちゃんにもいろいろ余計な心配掛けちゃったかなって思って。それでこの際、黒江ちゃんにもきちんと話しとこうって思ったんだよ」

「それは、ちなつ先輩のことですか?」

「そう」

 すう、と日向の表情が温度を下げる。にわかに高まる緊迫感。覚悟を決めるつもりで、真由もまたスカートの裾を固く握った。

「ちなつさ。アイツ、中学卒業したら、音楽辞めるつもりなんだよ」

「卒業したら、ですか?」

 うん、と日向が小さく首を動かしたのを見て、真由の心の緊張は小さく緩んだ。有り体に言えばそれは、思い描いていた最悪のシナリオからすればまだ許容できる話だ。そうなんだ、とこっそり吐息を抜いた真由に対し、日向の表情は依然として固いままだった。

「ちなつのユーフォの腕が凄えってのは、黒江ちゃんだって良く分がってるよな」

「もちろんです。同じユーフォですし、いつもすぐ隣で聴いてますから」

「それにアイツ、マーチングも上手えべ? それ聞きつけてなのか、他県の私立高校とかからもけっこう声掛かってるらしいんだよ。『ウチさ来ねえか』っていう誘いの声がさ。永田っちからも、もしちなつが希望すんならいつでも京都とか福岡のマーチング強え学校さ推薦するぞ、って言われてんだって」

 それは何とも凄い話だ、と真由は率直に思う。京都や福岡の強豪校、と言われればすぐにその名を挙げられるぐらい、いずれも吹奏楽の世界では有名なところだ。中学と高校の違いこそあれ、過去の実績や公式大会以外での活躍ぶりはこの曲北ですら比較対象にもならないほど凄まじい。つまりそんなところに推されるほどには、ちなつの才能は世に認められたものであるということだ。

「ンだけどちなつはそういうの全部蹴って、地元の高校行くつもりなんだよ。こないだ話してらったべ? アイツの志望校って吹部はあるけどマーチングはやらねえし、そもそも吹奏楽強いとこでも無えんだ」

「何でなんですか。それだけ引く手あまたなのに、ちなつ先輩が普通の高校に行こうとしてるのって」

「それは、」

 そこで日向は口ごもり、迷うように瞳を伏せた。けれどここまで言った以上は中途半端に出来ないと覚悟したのだろう。あんま言いふらさねえでな、と前置きをして、日向が真相を述べる。

「ちなつん家、片親なんだよ。ちなつの母さん、ずっと前に病気で亡くなってさ」

「え、」

 びきん、と全身の血が凍りつく。それは予想だにしていないことだった。ちなつの家庭のことなんて、そう言われれば、今までほとんど聞いたことが無かった。

「それっていつの話ですか。ちなつ先輩のお母さんが亡くなったのって」

「私らが小学校三年生の時だがら、もう六年前。私も最初は何も知らねがったんだけど、ある日の学校帰りにちなつん家の前通りがかったら花輪上がっててさ。家さ帰って親に聞いたっけば、ちなつの母さんが亡くなった、って教えられて」

 肘を掴む日向の指が、薄く日焼けしたその皮膚にめり込む。

「アイツの父さん市内の工場さ務めてんだけど、ちなつの他にまだ小っちぇえ弟も居てさ。周りに頼れる親戚も居ねくて、奥さんも居なくなって、そういう中で苦労する父さんを見てきたがらだべな。アイツは高校卒業したら働きに出て、その稼ぎで父さんと弟に早く楽させてやりてえ、って考えてんだ」

 日向の語るちなつの生い立ち。それがあまりに己の平常とかけ離れていたせいで、思考が全然追いつかない。世の中には少なからずそういう人だっていると頭で解ってはいても、所詮そんなものはただの知識に過ぎない。それがすぐ傍にいる誰かの身に降りかかった現実の事例なのだ、といざ突きつけられた時、真由に出来たのは言葉も無くただ愕然として棒立ちになることだけだった。

「ちなつなら音楽続けてりゃあ、そっちの道だって開けるかも知んねえ。警察とか自衛隊の音楽隊とかなら、音楽しながらでも家族を養っていくことだって出来る。そう言ったんだけどアイツ、未練は持ちたくねえからって。なれるかどうか分かんねえプロの道よりも、安定した仕事に就いて家族の面倒見るほうを選ぶって、ちなつは決めてんだよ」

 日向の目尻に涙の粒が溢れる。それは小窓から差し込むおぼろげな光に照らされ、きら星のように瞬いた。

「勿体ねえよ。あんだけ音楽が好きで、あんだけユーフォ上手くてさ。ああは言ってるけど本人だって、本音じゃ音楽の道に進みてえんだよ。ウチさ遊びに来ればいっつもプロの演奏動画観てさ、『(しん)(どう)さんってすげえユーフォ吹きなんだ』とか『演奏してるトコほんとカッコ良いなあ』なんて目ぇキラキラさせながら言ってるくせにさ。そういうのぜんぶ、自分から諦めて、一人で全部背負い込んで。私は、納得行がねえ。バガだよ、アイツ」

 とうとう堪え切れなくなって、日向は顔を手で覆ってしまった。彼女やちなつの気持ちが自分にも解るなどとはとても言えない。けれどそれとは別に、分かってしまったこともある。

 日頃のちなつへの砕けたやり取り。部活と同じくらい勉強に精を出すちなつをからかいつつも気遣う態度。母親を喪ったちなつを音楽の道に誘い共に歩んだ日々。そして、ちなつの境遇と決断を思って流す涙。それら全ては、日向がちなつにまつわる色んなことを、他の誰よりも知っていればこそだったのだ。

「……ごめん」

「いえ、私はぜんぜん。――大丈夫ですか、先輩」

「うん、まだちょっと、ダメかも。わりいけど、先行っててくれる? 落ち着いたら私も、部室戻っから」

 どうにもいたたまれなくなって、真由はただ無言で戸を開け、静かに退出した。閉めた戸の向こうにいる日向はしばらくそこから動かぬままで、慟哭を押し殺し切れずにいるみたいだった。

 ちなつの真実。日向の本心。いっぺんに膨大な量の情報を受け止めてしまったせいで、真由の心理は未だ対処が追いついていない。けれどその一方で、頭のどこかでは冷静にある一つのことを考え続ける自分が居た。やがては自分自身もこの問題に直面しなければならない、ということもまた、同時に。

 将来。まだ遠いところにあると思っていたそれは、恐ろしいほど近くにあって、途方もなく大きかった。

 

 

 



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〈10〉目いっぱい楽しもう

 最初はピストンを解放して、たっぷり八拍のB♭(べー)。それから(ツェー)(デー)(エス)……と音階を辿ってゆき、いまの自分が出せる目いっぱいの高さまで上がったところで今度はハイ(アー)、ハイ(ゲー)、ハイ(エフ)……と音を下げてゆく。

 ただ出せば良いというものではない。ポイントは綺麗な音を保って安定させること。そのために注意すべき点は山ほどある。その一つひとつにじっくりと向き合い、無用な体のこわばりを取り払い、必要なことにのみ注力する。それらを飽きるほど繰り返してもなお、音磨きの探求は尽きることを知らないのである。

「やっぱり、ここさ居たんだ」

 ガチャ、とテラスの扉を開く音に真由は振り返る。そこにはユーフォを手にしたちなつが立っていた。「お疲れさまです」と挨拶した真由に頷きで応えたあと、ちなつは頭上の青空へとその手をかざした。

「梅雨晴れっつうか、久々にいい天気だもんね。これだったらテラスで吹きたくなる気持ちも分かるわ」

「そうですね」

「せっかくだし、私もここで吹いてっていい?」

「え、と、もちろんです」

 返しの一言がどうにもぎこちない。それを重々承知しながらも、そうするしか真由にはなかった。

 日向によってちなつの事情を聞かされたのはちょうど一週間前。あれから真由はずっと、それとなしにちなつを避けていた。それはちなつの境遇を知ってしまった今、彼女とどう接するべきか、その距離感を測りかねるところがあったから。ちなつは良い先輩だし良い人だ。不用意な発言をして傷付けたりしたくない。そんな思いから、真由は出来るだけちなつと二人きりで過ごすことのないよう、常に傍に誰かを置きながら彼女と接してきたのだった。そう、今日この時までは。

「さて、そんじゃ何吹こうかな」

 基礎練習を終えたちなつはしばしの勘案の後、吹く曲目をこれと決めたらしい。かちゃり、と構えたユーフォが一閃、金色の輝きを放つ。青空にベルを向けて奏でられるちなつの美しい音。悲壮感の中に僅かな安寧を灯すかのようなフレーズは自由曲第三楽章『裏切りと磔刑』、そのユーフォソロだった。

 ひと吹きを終え、ふう、とちなつが汗に滲んだ額を手の甲で拭う。晴れ間の内にもじとりと高まる湿気のせいで、眉の高さに切り揃えられたちなつの前髪は黒くそぼ濡れていた。

「やっぱ気持ち良いな、こういう開けた場所で吹くのは」

「ですね」

 簡単に相づちを打ちつつ、こちらの意図を気取られぬうちに、と真由も演奏の体勢を取る。

「ところで真由、こないだヒナから私のこと、何か聞かされたんだって?」

 不意の一言に心臓を切り裂かれ、息を吸おうとしていた真由は思わず咳き込んでしまった。ぼふ、と間抜けた音を漏らすユーフォのベル。その様子を見て、「くっくっく」とちなつが喉を震わせる。

「な、その、どうしてそれを、」

「あいにく私らってお互いに隠し事が通じねくてさ。すぐ顔に出るっつうか、何となく判るっつうか。んで、さっき教室にいたヒナどご()問い詰めて白状させた」

 事も無げに言いつつ、ちなつは意地の悪いしたり顔を作った。ツウカアの仲とは良く言ったものだ。まだ気管に引っかかっていたものをごほごほと追い払い、真由はようやく呼吸を落ち着かせる。

()りがったね。別に隠すつもりじゃねがったんだけど、いちいち言うようなことでもねえかなと思っててさ。こンた事ならもっと早くに真由さも説明しとけば良かったかな」

「いえ、そんなことは」

「とにかくさ。本番までもうあまり時間もねえし、ヒナから聞いたことは全部忘れて。真由は自分のことさだけ集中してりゃあ良いから」

 な? とちなつが首をすくめてはにかむ。ハイそうします、とはとてもじゃないが言えなかった。小さなことには拘らない主義の真由だが、あんな重い話を綺麗さっぱり記憶から消し去ることなどそう簡単に出来やしない。ましてやちなつの事ともなれば、それは尚更というものである。

「あの、ちなつ先輩。ひとつ質問してもいいですか」

「良いけど?」

「先輩はホントに納得してるんですか。中学までで音楽辞めちゃうこと」

 そう尋ねたのと同時に、ちなつの表情からぶつんと朗らかさが途切れる。ちなつを怒らせてしまうかも。その可能性に恐懼しつつ、それでも真由は内側からあふれ出る感情に突き動かされていた。ゆりの件と言い、近頃の自分はずいぶんと危ない橋を渡ることが増えている。けれど、問わずにいられない。

「日向先輩、言ってました。ちなつ先輩はすごく音楽が好きなんだって。ユーフォが好きなんだって。私もいつか先輩みたく吹けるようになりたいって憧れてますし、だから何となく分かります。先輩がこんなに上手くなるのにどれだけ一生懸命練習してきたのか。どんなにユーフォ吹くのが好きか」

 真由が呼吸を継いだ一瞬、ちなつの細やかな指先がユーフォの管をなぞるのが見えた。その手は微かに、けれど確かに、震えていた。

「私も先輩が音楽を、ユーフォを辞めちゃうの、勿体ないって思います。先輩ぐらい上手だったらきっと、このまま大人になるまでユーフォ続けたらもっともっとすごくなるって思います。なのにどうして、どうして辞めなくちゃいけないんですか」

「……仕方ねえよ」

 無表情のまま、ちなつが視線を落とす。細やかなその全身からは有り余るほどの諦観が滲み出ていた。

「大体はヒナから聞いたべ、うちのこと。父ちゃんが工場勤めで、弟は歳が離れてるって」

「はい」

「父ちゃんと母ちゃんって、ずいぶん若い時に結婚してさ。私が生まれた時は母ちゃんもまだ元気で共働きしてたんだけど、私が小三に上がる年の冬、母ちゃんの病気が見つかって。そん時、弟はまだ三歳の誕生日前だった」

 ぽつぽつと語り出したちなつの桜色の唇をじっと見つめながら、真由は彼女の語るその状況を想像する。三歳、と言えば物心がついているかどうかも危うい時期だ。恐らくちなつの弟は、当時の出来事も母親とのふれあいも、ほとんど覚えていない。ちなつの年頃にしたって、まだまだ甘えたい盛りだったに違いない。そんな折に母が重い病を患ったと知らされて、彼女ら姉弟の心境はいかばかりだったろう。

「それから少しして、母ちゃんは市内の大きい病院さ入院してね。私と弟は毎日父ちゃんに連れられてお見舞い行ってたんだ。でも結局母ちゃんは病気に勝てねくて、半年後の夏に死んじゃって。あのときはもう母ちゃんには会えねえんだって、抱っこも二度としてもらえねえんだって、それがとにかく(つれ)がったなあ」

 ぐず、と鼻を鳴らしたのは他ならぬ真由自身だ。悲しいのは自分ではなくちなつであるはずなのに、それを静かな笑みと共に淡々と語るちなつの姿が何故か、真由の瞳にはひたすら悲しく映ってしまう。

「んだけど、本当に辛がったのは父ちゃんなんだ」

 唇で唇を噛み締め、それからちなつは続きを語る。

「まだ小さい私ら抱えて独り身になって、そんでもがんばって育てねねえ(なきゃ)、って気持ちだったんだと思う。毎朝早起きしてみんなの弁当作って、夜遅くまで働いてから保育園に通ってる弟を迎えに行って、休みの日も欠かさずごはん作って洗濯して風呂の用意して、ってさ。母ちゃんがいれば分担できることを、全部一人で。そんな父ちゃんの背中見てたら私もさ、お姉ちゃんなんだがらしっかりしねえばって思って、それからは父ちゃんの代わりに弟のお迎えしたり、父ちゃんの帰りが遅い時は私が頑張ってごはん作ったりするようになった」

 妻を、母親を失った荒川一家の日常。それはまるで想像の及ばない光景だった。父と母がいるのが当たり前。兄弟が居ないのが当たり前。そういう環境で育ってきた真由とそうでなかったちなつとではきっと、今までの半生で見てきたものが全然違う。

「秋田って仕事少ねえし、父ちゃんも稼ぎ良いワケでねえがらさ。私も弟も欲しいものがあってもほとんど買ってもらえねがった。だけど毎日がんばってる父ちゃん見たら、そんな我が侭言う気になんてなれなくて。だがら部活だって、最初は入るつもりなんて無がったんだ」

「それは小学校のとき、ですか?」

「そう。んだけどヒナに『一緒にマーチングやろ』って誘われて、そん時はすげえ迷った。母ちゃん死んじゃってホントに辛がった時期、ずっと傍に居てくれたのが、ヒナだったから」

 日向の名を口にするとき、ちなつの表情は僅かに温度を上げた。きっと真由が考えてきた以上に、ちなつは日向のことをずっと大切に思っているのだろう。日向のちなつに対する思いもまた、そうであるように。

「だがら思い切って父ちゃんに相談してみたんだ。ヒナに誘われたからマーチング部さ入ってみたい、って。もちろん、ダメだって言われたら潔く諦めるつもりだった」

「でも入部したわけですから、お父さん賛成して下さったんですね」

 うん、と頷いたちなつは少しの間、うっそりと頬を緩ませていた。

「父ちゃん、せっかくだしちなつの好きなようにやってみれ、って言ってくれてさ。すごい嬉しかったしいっぱい感謝もした。その代わりにって私も決めたんだ。家のこともきちんとやって勉強もちゃんとして、そんで音楽も、思いっ切りやってみようって」

「じゃあ毎朝早く起きてる、っていうのは」

「半分は勉強のため。もう半分は一日のごはん作ったり弟の面倒見たり、まあいろいろね」

 その『いろいろ』の中にはきっと、自分などには知り得ぬ沢山のことと、推し量り切れぬ沢山の思いが詰め込まれている。そう感じた真由は、小さく細いちなつの双肩に圧し掛かる、とんでもなく重い何かを見出していた。それは誰にも、恐らくはちなつ自身にさえも、降ろすことを許されない何かだった。

「楽器は学校の備品があったし、部費とかはお菓子ガマンするってことで何とか払ってもらってさ。そのぐらい私にとっちゃユーフォ吹くことがいちばんの遊びで、いちばん楽しい時間だった。友達もいっぱいいたしね」

「日向先輩とか、雄悦先輩ですね」

「そう。おかげでマーチング部に入ってた三年間はホント、楽しい思い出だらけだったよ。その頃にはユーフォ吹くのが大好きんなってて、だからこそ小学校を卒業する時は、すげえ寂しかった」

「どうしてですか?」

「その頃にはもう、小学校卒業したら音楽辞めようって、そう思ってたから」

 そんなちなつの告白も、今はもう驚かずに聞き入れることが出来る。彼女の境遇を思えばそう考えたって仕方ない。

「けど中学上がって、しばらく部活見学もさねえでブラブラしてたらさ。あー、もうユーフォ吹けねえんだな、って急に辛くなっちゃって。たまに聴こえてくる楽器の音とか、同級生が『吹部入る』って話してんのを小耳に挟んだりすると、無性にやりたくなって」

 やっぱりそういうものなのかな、と真由は微かに想像力を働かせてみる。引っ越しの前後などで少しの期間吹けないだけでも「吹きたい」という気持ちは募るものだ。それがその後もずっと続いたらと考えると、当時のちなつが抱いていたであろう感情も幾らかは推し量ることが出来る。

「そうやって悶々としてたの、たぶん父ちゃんには見抜かれてたんだろうな。明日が入部式っていう日の夜に、父ちゃんに言われたよ」

「何を、ですか」

「ちなつのやりたいと思ったことはできる限り応援してやる。父ちゃんのことは心配すんな、って」

 その言葉に一瞬、母の笑顔が脳裏をよぎる。できる限り応援する。ちなつの父がくれたというその言葉は、奇しくもオーディション当日の朝、真由が母に言われたものとそっくりだった。

「その晩は眠れねえくらい悩みまくった。本当にそれでいいのか、自分のことより家のことを考えるべきでねえのか、って何回も自分に言い聞かせた。けど結局、私は父ちゃんの言葉に甘えることにした。おかげで私は今でも音楽を、ユーフォをやらせてもらってる。だからこれまで支えてくれた父ちゃんや皆には、いつかきちんと恩返ししなきゃなんねえって思ってんだよね」

「その恩返しっていうのが音楽を辞めること、なんですか?」

「直接的にはそうじゃねえ。けど、そのための選択肢」

 ふう、とちなつが空に向かって一息を吐く。当然ながら、その遥か向こうに佇む雲は彼女のひと吹き程度ではぴくりとも動じなかった。

「私の志望してる高校ってさ、進学と就職、どっちもそこそこ良いとこなのよ。そこでたくさん勉強して、高校出たら市役所で働きたいって思ってて。ここらへんで安定した仕事って公務員ぐらいしか無えがらさ。そうすりゃ実家暮らししながら家にお金も入れられるし、弟にやりたいことが出来ても経済的に支えてやれる。さすがに社会人楽団で音楽やるような余裕は作れねえだろうし、何年も離れればそのうち吹き方だって忘れちゃうべ? だったらいっそ、ここですっぱり諦めた方がいいよなって、そう思って」

「そんな。そんなの、」

 悲し過ぎます、という一言が胸につっかえて出てこない。それを言ってしまうのは、ちなつの下した決断を一方的に踏みにじってしまうのと同じだ。内なるもう一人の自分がそう警告を発していた。

「どうにかならないんですか。あと三年だけお父さんに甘えて、吹奏楽の強いとこじゃなくてもユーフォ続けて、それで日向先輩の言うように警察や自衛隊の音楽隊を目指すとか」

「音楽隊なあ。そういうとこで音楽しながら暮らせたら、すっげえ理想的だよな」

 くす、と洩らしたちなつの吐息に混じる悲しみ。その色合いは真由の知るどんな色よりも深く、切なく、暗かった。

「実はさ、父ちゃんが勤めてる工場で去年、リストラみたいなことがあってさ」

「え、」

「あぁ安心して、うちの父ちゃんは大丈夫だったがら」

「そうでしたか」

 良かった、と真由は詰めた息を吐き戻す。この上ちなつにまだ受難を与えようと言うのなら、その時こそは運命の神とやらを恨むことになってしまいそうだった。

「んだけどそん時の人員整理で、父ちゃんと同期だった人が辞めることんなっちゃってさ。その話聞いて思ったんだ。うちだっていつどうなるか分がんねえし、ここらへんには高校生向けのバイトのクチだってほとんど無え。もし父ちゃんに何かあったらって考えたら、これ以上父ちゃんにも弟にも負担は掛けらんねえ。だったら夢みたいなことばっか言ってねえで、より確実な道を選ばなくちゃ。……だべ?」

「それで、未練を残したくない、っていうことだったんですか」

「あーあ。ほんとヒナってば人のこと、何でもかんでも喋ってくれちゃって」

 この場にいない日向へわざとらしく悪態をついてみせ、そしてちなつが顔を上げる。

「ユーフォ続けたって、それで食ってけるかどうかも分かんない。趣味でやるにしたってそうする余裕もきっと無い。だったら、どっかで諦める日が来るんだとしたら、せめて自分の意志でここで辞めるって決めたい。だがら決めたんだよ。私の音楽は、ユーフォは、この曲北までだって」

 そう言い切って笑ってみせたちなつの目から、すう、と一筋の雫が垂れてゆく。胸が張り裂けそうになるほど凄絶なその美しさを、真由は一生忘れない。

「あは、何だかメチャクチャ一人語りしてしまった。みっともねえな、こういうの」

 恥ずかしさを誤魔化すときのように、ちなつは指で鼻先をこすった。頬に残る涙の痕もいっしょに。

「そんなわけで、私は全部納得できてんだ。だがら真由が気にすることなんか、何もねえんだよ」

「……でも、できません。忘れることなんて」

 ありのままの心境を吐露する真由に、困ったな、とちなつが苦笑する。

「だったら忘れねくたって良いがら、私ら三年の引退するその日までは、目いっぱい楽しもう」

「楽しむ、ですか?」

「そう。あんまり先のことなんて考えてたらクヨクヨしてばっかりだべ? だがら先のことは後でやるとして、今は今出来ることをしっかりやる。そうやってさ、一緒に最高の思い出、作るべ。何年も何十年も経ってがら振り返った時に、ああ、あん時目いっぱい楽しんどいて良がったなあって、お互いそう思えるように。な?」

 ぽんぽん。健気に微笑んだちなつがいたって柔らかく、真由の肩へと手を掛ける。

「だってさ、全国最優秀だよ? 人生でこんなすげえこと経験できるだなんてそうそう無えよ。最高のメンバーで、最高の演奏を楽しめる。人と楽器さえ集まればそれが出来るんだがら、曲北は音楽を楽しむのに最高の環境だって私は思う」

「最高の環境……」

 その一言に、真由の心臓が小さく疼く。

「私はこの曲北のみんなと最高に楽しんで、最高の思い出を残してえんだ。もちろんヒナとも、真由とも。だがら目いっぱい楽しもうよ。私と、いっしょに」

 瞬間、真由は悟った。あの時あの河原で日向に掛けていたちなつの言葉。想いの核心。それはきっと、これだったのだ。

「……そうですね。私も先輩と一緒に、目いっぱい楽しんでみます」

 真由がそう答えると、ちなつは「よしっ」といつも通りの快活な笑顔を向けた。やっぱりちなつにはこの眩しさが似合う。そう実感した時、真由の体を縛っていた緊迫感もまた自ずと和らいでいった。

「さて、長話しちゃったね。県南大会まであとちょっとしか無えし、張り切って練習するべ」

「はい」

「へば、私そろそろ行くがら」

「分かりました……ってあれ、ここで練習しないんですか?」

 わざわざ移動に移動を重ねなくてもいいのに。そう思って尋ねた真由に、ちなつは「あー、」とあいまいな返事を置いた。

「開放的で良い場所だとは思うけど、やっぱ普段吹き慣れてる所の方が落ち着くし。それに何つうか、今はその、照れくさい、っていうか」

 かあ、とちなつの頬が赤く染まる。普段滅多に見せることのない彼女のかわいらしさに、真由はさっきとは別の意味で胸を射貫かれたかのような心地だった。

「とにかくそんなワケだから私は戻る、以上!」

 それだけを言い捨てるようにして、ちなつはぱたぱたとテラスを出て行ってしまった。一人残された真由は、改めてちなつのことを考える。ちなつがどれだけ音楽を、ユーフォを、そして日向を始めとした仲間たちの存在を大事に想っているか。そんなちなつが部長になったのはきっと必然だったのだろう。けれどそんなちなつが、自らの意志で、愛する音楽を捨てなければいけない。その過酷な現実が本当に苦しくて、やるせなかった。

 出来得ることなら、ちなつには思うがままの道を進んで欲しい。この道を選ぶんじゃなかったと、ずっと遠い未来の彼女がこの時を振り返って後悔しないように。

 やがて足元の方角からいつものように、『シシリエンヌ』の一節が聴こえてくる。真由はそれをこの場所で、ほぼ毎日のように耳にしていた。柔らかな音色に包まれながら、ふと真由は胸に抱き締めたユーフォへと視線を落とす。白銀の鏡面に映し出される自分の顔に涙の痕は無い。ちなつの話を聞いていて胸に込み上げるものはあっても、それで泣くことはなかった。無感情なのかな、私。そんなことを思いながら、真由はじっとユーフォの中の自分自身と向き合う。

 それまではただ何となく、ユーフォを吹くのが楽しかった。どうせなら上手いところで吹きたいと考えていた。だから真由は曲北を選んだし、自ら望んだその環境で一生懸命練習に明け暮れる日々を送ってきたのだ。けれどそれらは行動の過程であって、真由が音楽をする、即ちユーフォを吹く目的ではない。

 何故、自分は曲北を選ぼうと思ったのか。この環境に何を求めたのか。今までぼんやりとしていた幾つかのものが、ようやく何らかの形を取り始めようとしている。そんなふうに真由は思った。

 

 

 

 

 

 

 七月も半ば。灰色の梅雨雲は未だ掃けたり募ったり、と忙しなく往来を繰り返していた。それでも月初めに比べれば、このところは雨脚も徐々に弱まりつつある。早く梅雨が明けると良いな。その日が来るのを心待ちにしつつ、真由は今日も水音の中に傘を差して登校していた。

「おっすぅ真由ちゃん」

「おはよう、早苗ちゃん」

 後ろから追いかけてきた早苗と合流し、いつものように二人並んで歩く。雨の日はお互いの傘がぶつかり合うため、ちょっぴり歩調を合わせにくい。傘の角度と距離感を上手く調節しながら、二人は互いに互いの顔が見えるような位置を保つ。

「吹部、きのう大会だったんだっけ? 結果はどうだったの」

「おかげさまで上位大会進出だよ」

「良かったじゃん、おめでとう」

 早苗の無邪気な祝辞に、ありがとう、と真由も笑顔で返す。コンクール県南大会の結果は金賞、そして秋田県大会への代表選出、という喜ばしいものだった。とは言うものの周囲の部員たちによれば、この結果はマーチングフェスの時と同じくほぼ予定調和的なものであったらしい。県内の吹奏楽事情に未だ少し疎い真由ですら、大会パンフレットに記載された出場校の少なさを見れば、秋田という地域の陰に潜む様々な実情を窺い知れるところはあった。

「ところでさー真由ちゃん。おととい出た数学の宿題ってやって来てる?」

「うん。一次関数のだよね」

「ごめん、それ後で写さして。ゆうべやって来んのウッカリ忘れちゃってさ。数学一時間目だし、まともにやってたら間に合いそうにねくて」

「いいよ」

 真由の快い返事に「サンキュー!」と早苗は手を鳴らした。『勉強は自分の力でやらないと身につかない』なんてのはある種の建前みたいなもので、こういうのは持ちつ持たれつ、というやつだ。

「いやあ、助かるわあ。怒らせっとしつけえんだよカネゴン。あいつ部活ん時にまでチクチク小ごと言ってくるしさあ」

「そっか。(かね)()先生って、卓球部の顧問だもんね」

 んだんだ(そうそう)、と早苗が苦々しい顔で頷く。話題に上った金子という人物は、おおよそ三十代の数学教師である。パンチのかかった天然パーマに強面、そして見た目通りの威圧的な教育スタイル。どこの学校にも一人はいるであろう鬼教師のテンプレートみたいな存在である彼に畏怖とほんの少しの皮肉を込め、生徒たちは金子のことをこっそり『カネゴン』というあだ名で呼んでいた。

「しかも宿題やってねえとみんなの前で立たせてアレコレ言ってくるべ? もうマジ最悪。(はえ)ぐどっかの学校さ転勤さねえかなぁ」

「今年来たばっかりなんでしょ、金子先生って。一年で転勤っていうのもなかなか無さそうだけどね」

「カネゴン来てからウチの部の練習メニューもめっちゃ変わったしさ。春も合宿、夏も合宿、さらに秋冬まで合宿やるつもりだっつうし、土日なんて毎週毎週遠征してまで練習試合だで? 去年まで居た学校じゃそのやり方で東北大会まで行かしたらしいけど、正直うっぜえって生徒(うちら)に思われてるって自覚、ちょっとは持てっつうの」

「あはは」

 早苗の愚痴を真由は愛想笑いで受け流す。と、頭の中に突然ぽこんと一つの疑問が浮かび上がって来た。

「そっか。卓球部って、去年は違う先生が顧問してたんだよね」

「だよ」

「じゃあ去年まではどんな感じだったの? 前の顧問の先生のときは」

「前の? うーん。まあ、上がりの時間は今より早えがったし休みの日も多がったけど、練習自体は普通にやってらったよ」

「大会の目標とか、そういうのは?」

「あんま無がった。去年の顧問って、定年前のジッチャン先生でさ。何つうか、試合で勝つことより普段がらナンボ楽しんで卓球出来るかの方が大事だー、みでンた感じの方針で」

「そうなんだ」

 みでンた、というのは『みたいな』という意味の方言だ。頭の中で即座に翻訳をしつつ滑らかに会話を継続する。この頃の真由はもう、それが自然に出来るまでになっていた。

「じゃあ金子先生が来て、今年は大会で優勝するぞ、っていう空気に変わったってことかな」

「カネゴン本人はな。んだけどウチら全員がそうかって言われっと、正直微妙かなあ。元々私らが卓球部に勧誘された時だって、ライトに汗を流して放課後をエンジョイしよう、って軽い感じのノリだったし。卓球ってどっかそういうイメージあるべ?」

 どうだろう、と真由は首を捻る。あなたの思い描く卓球とは? と聞かれれば、激しく左右に動き疾風の速度でスマッシュを打ち抜く躍動感溢れるスポーツ、というのが真由なりの率直な回答だ。それもあくまでテレビなどから得た知識を基にしたものでしかないが。

「まあ実際入ってみたっけ、さすがに謳い文句通りでは()がったけどさ。それにしたって、カネゴン来てがらはめっちゃ厳しいワケよ。一日三回は全員集められて何かしら叱られる(ごしゃがれる)し、朝から晩まで練習れんしゅうレンシュウで、もうついてけねえーって言ってる先輩らもいるし」

「本当に卓球が好きな人なら、そういうのも楽しめるかもだけどね」

「もちろん上を目指してめっちゃ打ち込んでる部員もいるにはいるけどさ。んだけど個人戦はともかく、団体戦ってなると厳しいべなあ。みんなが優勝狙うつもりで必死こかねえと、他の強え学校にはなかなか勝てねえし」

 ぱたぱたと傘の表面に跳ねる雨滴を、早苗が内側からデコピンで爪弾く。爆ぜた水玉は降り落ちる雨水に混ざり、あっという間にそのアイデンティティを喪失してしまった。

「結局そういうのって、部員側のやる気次第なんでねえがな。ナンボ先生が優秀だっつっても、実際ウチらがやらねえば何にもなんねえ事だしさ。そこも上手いこと持ち上げてくような顧問だば話は別なんだべども、まー大概の先生にゃ無理だかんね」

「だね」

 確かにそうなのだろう、と真由も思う。今までに転校してきた学校でも顧問ごとに性格は様々、指導も様々。それは部員の側もまた然り、だ。部活の空気というものはある意味、そういった諸々の意志がない交ぜになることで、包括的に形作られてゆくものなのかも知れない。

「でもさ、それ考えっと吹奏楽部はすげえでなあ。百人以上も居て、それで全国まで行ってらんだもん」

「団体競技とはまたちょっと違うかもだけどね。音楽って、みんなで音を合わせて作るものだから」

「んだけど、みんなして足並み揃えねえと出来ねえべ、そういうのって。それで結果出すって、やっぱ部員全員の意識が高くねえばダメなわけだし、そこは運動部も文化部も関係ねえんじゃねえかな」

「言われてみると、一理あるかも」

「あーあ、何か羨ましいなあ。そんけえ(それだけ)やる気出せる環境に、私も身を投じてみたかった」

「じゃあ今からでも吹部入る?」

「それはやめとく。せめて日曜ぐらいはしっかり休みてえ」

「言うと思った」

 けらけらと高笑いをする二人の声が雨音に交じる。通りの生垣に咲く紫陽花は色鮮やかに、夏の入り口を辿る季節のちょうど真ん中を飾っていた。

 

 

 

 県南大会が終わったからと言って、真由たち曲北には油断しているいとまなどこれっぽっちもありはしなかった。来週には一学期の期末テストがあり、それが終わればほどなくして夏休みを迎える。雪深い地域だからなのか、秋田の学校は他県に比べて一週間ほど早く夏休みを迎え、その分休み明けも八月下旬へと早まるのだそうだ。そしていざ夏休みに突入すれば、八月の頭に予定されている県大会まではあと僅かとなる。

「県内の中学校で強えのは中央地区の秋田(じょう)西(せい)(さん)(のう)中、それからうちらと同じ県南代表の(よこ)()第三中に、()(ざわ)さ二つある中学のどっちかってとこだな」

 パート練習の小休憩中。教壇の上では日向が県大会のライバル校に関する説明をしていた。それによるとマークすべき学校は五つ。中でも珊王はここ数年連続で東北大会に進出しており、過去には全国金賞の実績もあるのだという。

「そんなに(つえ)えトコなんですか、その珊王中って」

「顧問が有名な人だかんね。まあ秋田の中学校でマーチングの名将が我ら曲北の永田っちだとすれば、吹コンの名将は珊王中のその先生、ってとこだな」

「へぇぇ。なんか秋田って、全国レベルで音楽強いんすね。秋田が強ええのって、てっきり高校サッカーと曲北のマーチングぐれえかと思ってたっす」

「今頃知ったのかい、石川っち。業界のリサーチが足らんぞー」

 素朴な感想を述べた泰司に、チッチッ、と日向がたしなめるように指を振る。珊王中とその顧問のことを真由は勿論知っていた。転校先を選ぶとき、候補として絞り込んでいたのがここ曲北と珊王中だったから。つまりはそのぐらい、珊王も吹奏楽ファンの間では名の知られた全国屈指の強豪校ということだ。

「秋田は高校も吹奏楽強いですよね。(あら)()(みなみ)とか、けっこう評判聞きますし」

南高(なんこう)は他県でも有名だべな。ほぼ毎年全国出てらし、卒業生にはめちゃ有名な音楽家も居るし」

「それと、大曲の場合は一般楽団も強ええんだ。プロの指揮者が来てから全国常連、すげえ時なんか三年連続で全国金獲ってんだで」

 日向の話に注釈を付けるように雄悦が場へ割って入る。こうした会話の輪へ彼が能動的に加わるのも、何気にけっこう珍しいことだ。

「雄悦な、将来その楽団さ入りてえらしいんだよ」

「そうなんですか?」

「まあ、いちおう地元さ残るつもりだし。どうせ音楽やるんだばロクに人の集まんねえとこでやるより、人が揃ってて実績もやる気もあるところに入った方がいいがらな」

「へえ」

 それは自分が曲北を選んだ理由ととても近いものがあった。照れくさそうにぽりぽりと鼻を掻く雄悦に対して、真由は初めて小さく親近感を抱く。

「全国級の団体が小学校がら社会人まで、最低一つずつはあるもんな。実は隠れた音楽強豪県なんだがもね、秋田って」

「スゲエっす。それってつまり、俺もめちゃくちゃ練習してめちゃくちゃ上手くなれば、高校でも社会人でも音楽で全国制覇できるってことっすよね」

「おうよ。石川っちがその気になりさえすれば、ヨボヨボのおじいちゃんになるまで一生全国制覇し続けることだって夢じゃないのさ」

「それ聞いて何か燃えてきました。俺、今まで以上に練習がんばるっす!」

「その意気だ石川少年! 目指せ音楽の星! 少年の未来は明るいぞー!」

「うおー!」

 日向のでたらめな鼓舞に、泰司がすっかり乗せられている。騙されやすい、もとい純粋なのも、時には大事なことなのかも知れない。あくまでも悪い結果をもたらさなければ、の話ではあるが。

「ところでコンクールの話ですけど、県大会では何校が東北代表に選ばれるんですか?」

「毎年四校、だね」

 真由の質問に日向は親指だけ曲げた手のひらを向けてそう答えた。県大会、中学の部の出場校はおおよそ二十。そこから四校ということは、曲北が出場権を得られる確率は概算にして五分の一ということだ。

「まあでもぶっちゃけた話、年によっても波があっから、どこが東北行けるかは全然分がんねえの。去年までノーマークの学校がいきなり県代表ってこともあるし」

「見方を変えれば激戦区ってことですね」

「そうとも言えるかもな。んでも東北行ったら行ったで強ええ学校がゴロゴロしてっから、吹コンの全国はかなり狭き門なのよ」

 そこまででひとしきりの説明を終えたということなのか、やにわに立ち上がった日向が書き連ねた幾つもの学校名を黒板消しでキュッキュ、と手早く消し去っていく。よくチョークを引きずる音が苦手という人がいるが、真由の場合はどちらかと言えば消すときの音に生理的不快感を催してしまう。気持ち悪さに震える襟首をさり気なく撫でているうちに、黒板をきれいに拭き終えた日向が再びこちらを向いた。

「っとまあこんな感じで、吹コンもこっからが本番です。去年の成績なんて何の保証にもなりません。メンバーの人もそうでない人もしっかり練習して、今年来年とより高い目標に辿り着けるようがんばりましょう」

「はい!」

 以上をもって小休憩が終わり、パート員たちは再び譜面台へと向かっていった。真由もまた注意点がびっしり書き込まれた楽譜を広げ、課題の箇所を何度も吹きながら怠りなく確認を進める。上手くなる、その先にあるものが何なのかを、そっと意識の片隅に置きながら。

 

 

 

 

「――したら、今日の合奏はここまで」

 譜面台に指揮棒を置き、永田は総譜(スコア)を綴ったファイルをぱたんと閉じた。

「全体的に音は良ぐなってらども、まだところどころ物足りねえっていうのがあります。もうすぐ終業式。夏休みさ入ればワタワターってやってらうちに県大会当日ンなっちゃうので、時間はあるようでありません。次がらの合奏では、もうちょっとオーバーに音の抑揚を付けることを意識してみるべ」

「はい!」

「特に四楽章のクライマックス、金管は全体的に音の鳴りが()ええがら、各パートはそこを次回までの課題としておいて下さい。んだば、お疲れさんでした」

「ありがとうございました!」

 部員たちが声を揃えて挨拶をする。永田が去った後は部活終了の時刻までここにいるメンバー同士で合わせをしたり、個人で出来ていない箇所をさらうこととなる。

 永田の指導法の一つとして、合奏中には長々と個人やパートのミスを洗い出すのではなく限られた時間の大半を全体の音作りに割く、というものがあった。それを成すためには、曲を譜面通り吹くことにいちいち手間取ってなどいられない。合奏では合奏でしか出来ないことだけをやる。そういう姿勢を骨の髄まで叩き込まれている曲北吹部では、顧問の指導など無くとも細かな部分まで自主的にきっちり仕上げるのが当たり前となっていた。

「ヒナ、四楽章のG、もうちょっと音量出せる?」

「無理無理。これ以上吹げば肺がパンクするって」

「康平と巧は?」

「もうちょっとぐれえなら、何とか」

「へば三人でカンニングブレスの場所調整して、ピークのとこに上手く合わせるようにしてみて」

「へい」

 ちなつの指摘を受けたチューバ三人はさっそく、オメエ何処で吸う、などと談義を始めた。今回のメンバーはわりあい低音楽器の人数が多めに割り振られている。それは取りも直さず演奏上、重低音楽器にはより多くのボリュームを出すことが求められている、ということを意味している。

「私らユーフォは音量より、どっちかって言うと三楽章の指回しのとこかな。真由はまだちょっとおっかなびっくりって感じで音引っ込んでるがら、個人練でもそこ重点でやっといて」

「はい」

「それと雄悦は、まあ何回か注意してるけど、息継ぎん時にヒーハーうるせえの何とかせえ」

「だがら、そんなうるせえ音なんか出してねえって」

「出てらって。息吸う時、マッピに口当てたままめっちゃ吸おうとしてるべ? そのせいでベルからヒョー、ってすげえ音鳴ってらど」

 雄悦のその悪癖は真由も少々気になっていた。周囲の音が大きい時ならさほどでもないのだが、第三楽章のように静かな場面から低音が入っていく際など特に、雄悦の「ヒョー」という吸気音が耳に障ることがある。余力を持って吹き込むためにたっぷり吸い込みたい。そう考える心理も分からなくはないが、そのために余分な音を出してしまうのは音楽的にマイナスであり本末転倒というものだ。

「雄悦の場合、完全にクセんなってるがら。もっと意識して楽器鳴らさねえ息の吸い方、本番までに身に付けておけよ」

「分がったってば。ったく、お袋並みにうるっせえな……」

「何か言った?」

「いえ何も」

 ギロリと鋭いちなつの三白眼に、たじたじといった様子で雄悦が諸手を上げる。彼の性格上、ちなつや日向に真正面から逆らうことは不可能らしかった。

「他にも何ヶ所か気になるトコあるし、今からちょっと個人練の時間にして、その後もっかいチューバと一緒に合わせてみるべ」

「はい」

 返事をして真由は楽器を構え直す。と、

「やほーい。練習がんばってるぅ?」

 妙に気の抜けるようなソプラノボイスでそこへ割り込んできたのは、トランペットパートの杏だった。その後ろには奈央もいる。彼女たちを見て「小山」と、一番最初に雄悦が反応を示した。

「お疲れさまです、ユウ先輩!」

「……おう」

 奈央の挨拶に返事をした雄悦は、しかし何を喋るでもなくそそくさとそっぽを向いた。ユーフォを吹こうとしていたちなつが構えを解いて杏を見やる。

「何したの杏、練習中に」

「いやあ、低音パートが気難しい顔で練習してるもんで、何かトラブルでもあったんだがなーって思いまして。いわゆる敵情視察ってやつ?」

「敵で無えべ、っての。吹部の部員同士なんだがら」

 日向もチューバを下ろし、苦笑を交えながら杏に応じる。そう言えば彼女たちは同じ小学校出身で仲が良いと、以前に杏が言っていた。その時のことをぼんやり思い出していた真由を、杏の視線がぱちりと捕捉した。

「お疲れ真由ちん。どうどう? 調子は」

「お疲れさまです。調子はまあ、ぼちぼちってところですかね」

「そりゃあ大変よろしおすでんなー」

 何よそのデタラメな関西弁っぽいの、とちなつがすかさず杏にツッコミを入れる。

「だって真由ちんがぼちぼちって言ったら、アタシもそれっぽく返さねねえべった?」

「相っ変わらずワケ分がんねえな、おめえ」

 呆れ返るちなつに、きひひひ、と杏は独特な笑い声を上げた。その甲高さは周辺に反響し、真由の抱えるユーフォをもキンと小さく振動させる。

「で、本当の用事は何? だいたい見当はつくけども」

「さっすがヒナちん、察しが良い」

 杏はそう言いつつポケットから折り畳んだプリント用紙を取り出し、それをちなつに手渡した。その用紙、真由から見える側の面には『夏休みの課題図書』と印字されてある。プリントを広げたちなつは表面の印字になど構いもせず、裏側にしたためられた手書きの文面を読み上げていった。

「第六回、小山家主催・夏のバカンス計画in(イ ン)()鹿()。……って今年もやんの? 例のあれ」

「そう、例のあれ!」

 ぴょん、と杏がその場で小さく飛び跳ねる。色々とミニマムな杏のその仕草は、空中に向かってバンザイをするハムスターのそれを強く想起させるものがあった。

「去年はみんなで高原キャンプしたし、今年は海がいいかなって。いつもの親戚んトコならお盆休み中は格安で泊まれるっていうから、そっちで計画してみました」

「でもお盆って、部活のほうは大丈夫なんですか?」

 その時期には差し迫った大会の日程が無いとは言えど、前後の土日はイベントへの出演やらで予定は目白押し。加えて夏休みが明ければコンクールやらマーチングやら、続々と大会の本番が押し寄せてくる。そんなスケジューリングの曲北で、果たしてお盆をゆっくり過ごせるような暇なんてあるのだろうか。そう懸念して横槍を入れた真由に、そこは大丈夫、と日向が手のひらを振る。

「お盆は伝統的に学校ごと閉鎖だし、しかも十二日からの四日間は永田っちの都合もあって部活休みンなるがら。さすがに私らだって休むときゃ休む、ってコトよ」

「そうそう! 旅行も十二日出発の一泊二日で計画してっから、お盆のお墓参りにもかぶらねえよう計算済み。都合良かったらじゃんじゃん参加してよ。あ、もちろんちーちんとヒナちんは強制参加ね」

 悪びれもせず言い放つ杏に、顔を見合わせたちなつと日向は同時に肩をすくめる。どうやら彼女たちは毎回こんな調子で杏に付き合わされているようだ。

「真由ちんもどう? まだ参加者の枠には空きがあるよん」

「でも、先輩たちのお邪魔するのも何だか悪いですし」

「だいじょーぶ、お邪魔になんかならねえって。むしろ参加人数多いほど予算に余裕出るし、その方がアタシも大助かり」

「そうなんですか」

 どうしよう、と真由はしばし考え込んだ。例年お盆の時期は父や母の実家で過ごすことが多い。それはお墓参りだけではなく、日頃滅多に会えない祖父母に顔出しをする意味合いもあった。だが杏たちの旅行に付き合えば今年のお盆は帰省出来ないし、祖父母は元より両親も残念がるだろう。とは言えせっかく先輩から誘われたのにすげなく断るというのも、それはそれで気が引けてしまう。

「えっと、じゃあとりあえず今夜、お父さんとお母さんに相談してみます。決めるのはそれからでも良いですか?」

「ぜんぜんオッケー。参加するかどうかは来週までに決めてくれれば良いがら、じっくり考えてみて」

「分かりました。ありがとうございます」

「良いって良いって。んじゃあ悪りいけどちーちん、低音パートの参加者取りまとめお願いね」

「はいはい。来週まで、ったな。へばそれまでに参加希望者の名前、このプリントさ書いて返すがら」

「はーい。そんじゃあ低音パートの諸君、検討よろしくぅ♪」

 来たときと同じテンションを保ったまま、杏がトランペットパートのところへ戻っていく。

「ユウ先輩、今年も参加するんですよね?」

「ん。ああ、まンず(まあ)な」

「良がったぁ。私、今年も楽しみにしてるッス!」

 失礼します、と一礼して杏のあとを追う奈央。その後姿を、雄悦がどこか複雑そうな面持ちでじっと見つめていた。あれ? と真由は何か心に引っかかるものを覚える。奈央のそれとは対照的に、雄悦の態度はあまり嬉しそうには見えなかった。

「へば雄悦も参加確定、っと。他に希望するヤツいる?」

「俺はパスかなあ。小山のグループ、あんま絡み無えし」

「俺も。親戚回りしてこづかい稼がねねえもん」

「今年のお盆はうちの兄ちゃん帰省して来っから、私も今年は不参加だな」

「あー、()()ん家の兄ちゃん、今年がら大学生だったもんな。咲奈はお兄ちゃんっ子だししゃあねえべ」

 咲奈と呼ばれたコントラバスの先輩が「そういうのでねえって!」と憤慨してみせる。どこぞの家庭と違って彼女のところは兄妹仲が良好らしい。実に麗しいことだ。

「いちおう後でサポート組の連中にも聞いてみるか。真由はひとまず保留、でいいんだよな?」

「はい、すみません」

「いいって、いきなりの話なんだし。それに泊まり掛けになるがら、どのみち親御さんの承諾も貰わねえといけねえしな」

「ですね。その、ちなつ先輩のおうちは大丈夫なんですか?」

「ああ、それならご心配なく」

 あえて仔細を伏せた真由の気遣いを察してくれたのか、ちなつははにかみと共に頷く。

「うちの父ちゃんと杏ん家の父ちゃんって、学生時代の同級生なんだよ。家族ぐるみってほどじゃねえけど、昔からあちこち連れてってくれたりバーベキューに呼ばれたり、色々面倒見てもらってて。毎年の旅行も元はそっから始まったようなもんだし」

「そうだったんですね」

「だがら毎年の旅行のことは父ちゃんも弟もちゃんと分がってくれてて、おかげで毎年楽しい思いさせてもらってる。んだがら真由も気兼ねしねえで、一緒に来てくれると嬉しいな」

「分かりました。明日までには決めておきます」

「うん。良い返事、期待してるで」

 にこりと微笑むちなつはあの日以来、こうして柔らかい表情を見せることもずいぶんと多くなっていた。日頃は颯爽と部長らしく振る舞っているちなつだが、恐らくはこっちが彼女本来の姿なのだ。それを最近になって知った真由は、目の前の花咲く笑顔に心地良いくすぐったさを覚える。

「さあ、そろそろ練習さ戻るべ。お盆休みの前にまずは県大会。ここ抜けて、東北出場決めよう」

「はい!」

 しのぎを削る日々の中にもささやかな一つの楽しみ。それを得た真由たちの活動は、本格的な夏の訪れよりも少しだけ早く、ひたひたと熱気を募らせつつあった。

 

 

 



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〈11〉真夏の海 揺れる心

「ただ今より、第五十五回吹奏楽コンクール秋田県大会中学校の部、表彰式を開始いたします」

 緊張の瞬間が、来た。真由は固唾を呑んで両手を握り締め、ひたすらにアナウンスの声へと意識を集中する。

「一番、(おお)(だて)市立大舘(なん)(よう)中学校、銀賞。二番、横手市立横手第三中学校、ゴールド金賞」

 結果が読み上げられる度、歓喜と哀傷の声がコンクール会場である県民会館のホールにこだまする。果たして自分たちが立つのはどちらの側か。発表の番が近付く度、どくどくと鳴りっぱなしの心音は否応なしに高まり、呼吸は浅くなっていく。

 今日の県大会本番、演奏の出来は真由の自己評価においても決して悪いものでは無かった。少なくとも練習でやって来たことはメンバー全員、十全に発揮することが出来たと思っている。あとは他の学校の内容次第。相対的な評価によって優劣が決まるコンクールの性質上、いくら自分たちが良好な手応えを得ていたとしても、それは必ずしも良い結果を保証してはくれない。

「八番、秋田市立珊王中学校、ゴールド金賞」

 わあ、と会場の一角から小さな歓声が上がる。先日の話にも上がった強豪校の一角、珊王中。彼らは『今年も金が当たり前』とばかり、終始落ち着いた反応を示していた。

「十一番、大仙市立大曲北中学校」

 ぐつり、と誰かが喉を塞ぐような音がすぐ傍で聞こえた。真由も瞼を閉じ、ただ一心に祈り続ける。

「ゴールド金賞」

「よおし!」

 大きく雄叫びを上げたのは雄悦か、それとも他の男子部員か。曲北一同は一斉に安堵の吐息を吐く。ここで金賞を獲れなければ、その中から選ばれる東北大会への代表枠を得ることもかなわない。自分たちの目指す高みに向け、まずは一つハードルを越えたといった按配だ。その後も発表は進められ、参加した二十余りの団体のうち、およそ半数にあたる九校が金賞を獲得する結果となった。

「続きまして、東北大会への代表となります四校を発表いたします」

 ここからだ。一度は弛緩した部員たちの緊張が、再びにわかに高まる。

「では一校目。二番、横手市立横手第三中学校」

 うわああ! という大きな歓声と共に、横手三中と思しき生徒の一団が惜しみない拍手を鳴らす。

「二校目。八番、秋田市立珊王中学校」

 こちらは自他ともに想定通り、といったところだろう。珊王中の生徒たちの拍手は控えめで短く、式の次第を乱さぬ慎ましやかなものだった。それとは対照的に、曲北の面々は強い焦燥感に駆られ始める。残った学校のうち、金賞の団体は曲北を含めて六校。けれど代表枠はあと二つしか残されていない。果たしてその枠の中に自分たちは選ばれるのか、それともここで道が絶たれてしまうのか。こればかりは部員たちの誰にも判らぬことである。

「三校目」

 呼ばれるとすればここだ。十一番、と読み上げられなければその瞬間、曲北のコンクールは終わってしまう。お願いだ。どうか自分たちを、自分たちの名を。アナウンスが次に口を開くまでのほんの数秒、誰もが息を潜め目を瞑り、真由たち曲北はただひたすらに信じ続けたのだった。コンクールでの挑戦が、この先もまだ続くことを。

 

 

 

 

 

 

「……てなわけで、今回は祝・東北大会進出! ってのも兼ねてパーっと盛り上がっちゃいましょう!」

「おー!」

 杏の音頭に乗って、若人たちの元気な声が車中いっぱいに響く。先日の県大会にて見事東北代表に選出された曲北は、ほどなくお盆休みへと突入した。本日から十五日まで、僅か四日間という短い余白のひと時。その初日の朝を迎えた今はかねてからの計画通り、杏の主催する一泊二日旅行のため、希望者と父兄を乗せたマイクロバスがその予定地へと向かっている最中である。

「すいません、おじさんにはいっつもお世話んなっちゃって」

「いいっていいって、こっちこそウチの杏が世話んなってらし。どうせだば大人数でわいわいやった方が賑やかで退屈さねえがらさ」

 運転席のところで、ちなつと杏の父親がそんなやり取りをする。本日の参加者は杏らトランペットパートの女子五名と、低音パートからはちなつ、日向、雄悦、真由、そして泰司の計五名。他のパートからも幾人かが参加しており、そこに父兄まで合わせれば総勢二十名弱と、旅行団はそこそこの規模となった。

 全員がまとまって移動できるようにとマイクロバスを手配してくれた杏の父は、率先して運転手も兼任している。移動手段に宿舎の確保、加えて主催者であることも鑑みれば、この旅行は彼ら小山家のおかげで成立していると言っても過言ではない。

「それにしてもこのお盆休み、いい天気で良がったね。せっかく海で過ごすのに雨降りだったら勿体ねえし」

「そうだね」

 隣の席に座る奈央に相づちを返しつつ、真由もまた窓に映る青空を眺める。視線の先にはいかにも夏らしく、くっきりと天まで伸びゆく入道雲が幾つも連なるようにして力強く泳いでいた。そこへ向けてカシャ、と一つシャッターを切った真由に、写真? と奈央が目を丸くする。

「趣味なんだ、写真撮るの。良いの撮れたらみんなにも配るつもりだから、楽しみにしてて」

「おっ、じゃあ真由ちんは今回の旅の写真係だねー。敏腕カメラマン珠玉の一枚、期待してるよん」

 杏が後席から身を乗り出して絡んでくる。いや杏先輩、と奈央はすかさずそれに応じた。

「真由ちゃん女の子なんですから、マンとは違うんでねえすか」

「それもそっか。じゃあ何だべ、カメラレディ? カメラウーマン?」

 杏が腕組みをして首をひねり始めた。その隣で様子を窺っていたトランペットの後輩が「カメラガールで良ぐねえすか?」と助け船っぽいものを出し、それだ! と納得した杏がシートの上でぽんぽん飛び跳ねる。

「やー、しっかし真由ちんが参加してくれて良がったよ。一時は来てくんねえのかなーって、ちょっと心配だったもん」

「こっちこそ、お誘いいただいてありがとうございます」

 杏の誘いを受けたあの日、家に帰った真由はすぐ両親に旅行のことを打ち明けた。それに両親はあっさりと快諾の意思を示し、今日も「せっかくの機会だから楽しんでおいで」と真由を気持ちよく送り出してくれたのだった。祖父母へは、今度何かの折にみやげ話を伴って訪れるつもりだ。

「ほーんと、理解ある親御さんで羨ましいでな。うちの父ちゃんなんか、勉強は何としてらのよ、おめえももう(さん)(ねん)(へい)なんだし受験のこと考えてらんだべな、とかクチやかましいったらありゃしねえ」

「それはご両親が先輩のことを心配して下さってるんですよ、きっと」

ンったごど(そんなこと)ねえって。あれは勉強さ(かこつ)けて娘をいびり倒してえだけよ、絶対」

 真由が一応の弁護を試みるも、それを日向は大仰に手を振ってすげなく否定にかかった。

「んなコト言ってヒナちん家のお父ちゃん、今回もきちっと差し入れくれたじゃん。迷惑掛けるどもよろしくお願いしますーって」

 そう言って、杏はバスの片隅に置かれた青い大型のクーラーボックスを指差した。日向の父が毎回釣行のお供にするというクーラーボックス、その中には炭酸を始め各種フルーツ、お茶にスポーツドリンクと、実にバラエティ豊かなジュース類がこれでもかと満載されていた。真由も山ほどあるジュースの中から好みの乳酸飲料のボトルを選び取り、こうして旅路のお供にさせてもらっている。父ちゃんの釣り好きもたまには役に立つ、とは照れ隠しを交えた日向の弁だ。

「俺、泊りがけで男鹿行くの初めてなんでチョー楽しみっす。ねえ黒江先輩」

「それは良かったね」

 通路向こうの席から首を伸ばした泰司に、真由は笑顔で応える。彼としても今日の旅行は待ち望んだものであったに違いない。彼は当初、ちなつからの打診に『いやぁ宿題とかあるんで』と難色を示していた。それなのに真由が参加の意思を朝ミーティングの席でちなつに告げたその日、何か心変わりするようなことでもあったのか、一転して泰司は参加希望の意思を強く表明し始めたのだった。

『行くっす、俺も絶対行くっす! 親の反対押し切ってでも参加します』

 果たして何が彼をそこまで駆り立てたのやら。不思議に思いつつ、しかしこれも親睦を深める良い機会だ、と真由は前向きに捉えることにしていた。

「黒江先輩は海で泊まりとか、経験あるっすか?」

「泊まりは私も今回が初めてだけど、小さい頃に日帰りで海に連れてってもらったこともあるかな。去年までは群馬にいたから、そういうのは無かったけど」

「え? 群馬って、海無いんすか?」

 泰司の余りにもな発言に、ええ、と場の空気が固まる。彼の隣席に座る雄悦もまた呆れ果てたように、深々と溜め息をついた。

「石川ぁ。さすがに小学校ん時、社会科の授業で習ったべ。群馬は周りに海の無え内陸県だ、って」

「んなこと習いましたっけ?」

「そンた調子で学期末のテスト、本当に大丈夫だったんだべな、オメエ」

「もちろんっす! うちホーニン主義なんで、テストの結果も通信簿も親には見せてねえっす」

「バァガ。そういう話してるんでねっつの」

 珍しくも舌鋒鋭い雄悦のツッコミに、泰司を除く一同がどっと笑う。この分では日向以上に泰司の進路は前途多難と言えそうだ。と、車中の空気が十二分の温まりを見せる中、

「そろそろ男鹿さ入るどー」

 ハンドルを握る杏の父が皆に向けて進行状況を告げる。ほどなく車窓にヌッと顔を覗かせる、(わら)(みの)を纏った大きな鬼の像。その全容を、真由は上手くファインダーに収めることに成功した。

 大仙市から車で走ることおよそ二時間。先日の県大会でも訪れた秋田市を経由してやって来たここ男鹿市は、日本海に面する秋田県西部にぽこんと突き出た男鹿半島を中心として形成された町だ。いかにも漁港街という趣の男鹿には一つ、全国的にも有名なものがある。さっきの鬼の像などはまさしくそれを象ったものである。

「真由ちゃんも知ってるよね、ナマハゲ」

「もちろん。あれでしょ、『泣ぐ子はいねがー』ってやつ」

 見よう見真似でその一声を口にした真由に、奈央も嬉々として『なまけものの嫁っこはいねがー』と後段の文句を唱える。

 男鹿のなまはげ。それは国の重要無形民俗文化財にも指定されている年中行事。年の瀬を迎える夜、威圧的な鬼の面と藁の衣装に身を包んだ『なまはげ』たちが山から降りてきて家々を訪問し、家中の厄払いをしたり幼な子を始め人々の怠惰を戒める、というものだ。その光景は全国ネットのテレビなどでもまま見かけるほどであり、『泣ぐ子はいねが』の掛け声がなまはげの代名詞として広く周知されるところとなっている。その発祥はここ、男鹿半島のちょうど真ん中にそびえる(きた)(うら)(しん)(ざん)にあるのだという。

「山ン中には神社の隣さ『伝承館』っていうのがあってな、そこでなまはげのデモンストレーションもやってんの。私も幼稚園ぐれえの頃に親さ連れて来られたんだけど、なまはげが大声上げてドシーンドシン、って足踏みしてさ。それがまた超おっかねえんだよ」

「それ、小さい時に見たらトラウマになりそうだね」

「トラウマなんてモンでねえよ。『親の言うごど聞かねえワラシは皮剥ぎ取って喰ってまうどー!』って、大っきい包丁振りかざしながら迫ってくんの。あん時はもうギャンギャン泣いたで」

 当時の光景を思い出してか、奈央が顔を強張らせて両腕を抱き締める。半袖から伸びる彼女のきめ細やかな素肌はぷつぷつ粟立っていた。

「でもなまはげって、そんな風に脅してはくるけど、実は鬼って言うより神様なんでしょ?」

「んだらしいなー。詳しいことは私も知らねえんだけどさ、『戒める』っつうぐれえだし、本当に皮剥ぐつもりで言ってるワケではねえんだべな。まー善いモンだろうが何だろうが、私的にはおっかねえのは御免ッス! ってカンジだけどね」

「あははは」

「……あ、そろそろかも。なあなあ真由ちゃん、こっからしばらく外見てて」

「外?」

「いいから」

 奈央に促されるがまま、真由は再び窓に目を向けてみる。ちょうどトンネル区間に差し掛かった車窓にはただ真っ黒にべた塗りされた景色と、僅かな灯りに照らされ浮かぶ己の顔しか写っていない。いったい何? と訝る真由の視界が数秒後、突如真っ白に反転し。

「おおお!」

 泰司が大きく声を張る。一つトンネルを抜けた窓の外、一面に広がる翠玉色の海。晴天の空に映える日本海はどこまでも美しく、太陽の煌めきを受け止めながらゆったりと波打っていた。数年ぶりに見る大海原、その果てなき広がりは、それ以外の些細なこと全てを丸ごと呑み込もうとしているみたいだった。

 

 

 

 男鹿に入ってからおよそ三十分少々。一行を乗せたマイクロバスは、半島中部の山間を横断する『なまはげライン』を経て()()と呼ばれる風光明媚な港湾の区画を辿り、ほどなく目的地へと辿り着いた。

「お疲れさんでしたー。忘れ物さねえようにな。おう杏、何人か呼ばってよ、中島さん家のクーラー降ろすの手伝えで」

「はぁい。おーい、ラッパ隊集合ー。みんなしてサッサとやっちゃうどー」

「分っがりやしたー」

 バスを降りて外に出ると、むわ、と高まった熱気が真由を出迎えた。けれどすぐそこの海辺が奏でる潮騒はむしろ涼しいくらいに爽やかで、改めて本日の好天ぶりに感謝を告げたくなる心地がする。ほはあ、と浴びる潮の香りを胸いっぱいに堪能し、それから真由は本日のお宿である背後の建物へと振り返る。

 和風旅館といった佇まいの母屋は、外観から察するに築数十年、といったところだろうか。長年の潮風に耐えてきたであろう外壁は少しだけくたびれているが、それがかえって落ち着いた海宿の風情を醸し出していた。こういうところ特有の郷愁的な風情も、それはそれで味わい深いものだ。

「ご到着だがや?」

 荷物をおろした真由たちが玄関前に整列したところで、女将とおぼしき総白髪の女性がひょっこりと玄関から顔を出す。どもども、と杏の父が頭を下げている様子を見るに、この人が杏の親戚とやらで間違いないらしい。

「今年もお世話になります。よろしくお願いします」

 ちなつの挨拶に続き、よろしくお願いします! と皆が一斉に声を張る。

「あやあや、みなさん元気だごど。はい、こちらこそよろしくお願いします」

 ふっくらとした笑顔を湛え、女将はていねいにお辞儀を返した。

「まあ一昨年も来てるから、ちーちんとか三年生のみんなは覚えてると思うけど。お盆休みで他にお客さんもいないし、自分()のつもりでくつろいでって」

「こら杏、あんま調子乗るんでねえ。今回だってホントは休みのドゴ、(かつ)()さんのご厚意で特別に泊めさしてもらってんだがらな」

 素早く父に窘められ、杏があざとく「ふえー」と泣く素振りをする。と、勝枝はおおらかに「良いんだ良いんだ」と杏の父を制止した。

「おらも()げっ子が来てけで嬉しいのよ。杏ちゃんなんて昔っから見ででおらの孫っこみでンたもんだがら、こうやって時々顔見せに来てければ大してありがでえ、ってなるおの」

 いつぞやの早苗の言ではないが、年を重ねた勝枝の方言はかなりの強度だ。真由の秋田弁聴解力ではニュアンス程度にしか把握できない。けれど彼女の物腰は一貫して柔らかく、どこか親しみを覚えるものがある。「田舎のおばあちゃん」などと言っては失礼なのかも知れないけれど、勝枝はそうした柔和な雰囲気に満ち溢れる人柄をしていた。

「まンず狭い(へめえ)どごで大したもてなしっこも出来ねえども、どうかゆっくりしてってたんせ」

「ありがとうございます」

 一同を代表してお礼をしたちなつはこちらを向き、ごそごそとポケットから一枚の紙を取り出した。

「それじゃあ朝やった部屋分け通りに各自散らばって、荷物置いたら着替えてココさ集合ね。貴重な時間を無駄に過ごすことのねえように。お昼までは浜で水遊び。午後からは自由行動の時間です。夕方にはバーベキューをする予定なんで、あんま遠くさは行がねえようにして下さい」

「ちなつぅ、それフンイキ台無し。部活の合宿に来てんでねえんだがら」

 すかさず日向が苦言を呈し、それに一同はどっと沸き立つ。集団行動時に誰かしら取り仕切ってくれる人がいるのはありがたいが、いくら何でも時と場所を弁えた言い回しを心掛けていただきたい、とは真由もこっそり思ったことだ。

 ともあれちなつの指示に従うかたちで、一行はそれぞれ宛がわれた部屋へと荷物を運び入れる。真由の部屋は奈央たちと同じ、二年生の女子同士で固められた四人部屋だった。

「今夜一晩よろしくな、黒江さん」

「こっちこそよろしく」

 平素あまり交流の無いトランペットパートの女子と挨拶を交わした後、女子たちが着替えのために部屋のカーテンを閉めた。真由も持ってきたボストンバッグを開け、フリルのついたワンピースの水着を取り出す。今回の旅行は海水浴あり、と聞いて取るものも取りあえずで持ってきた、このミルキーカラーの水着。去年買ったものだが今後の成長を見越して少し大きめのものを選んだので、サイズは大丈夫なはずだ。着ていたシャツを脱ぎ、七分丈のボトムスを足先でその辺へうっちゃり、プツリと手際よくブラジャーのフロントホックを外し……と、事件はそのとき起こった。

「すんませーん。小山先輩からの伝言っすけど、もう昼飯の支度できてるらしいんで先に食堂さ――って、どわぁ!」

 無遠慮に部屋のドアを開けたのは泰司だった。あまりに想定外な出来事に、その場にいた女子全員の目が点になる。

「きゃああああああ!」

「ちょ、石川ぁ?!」

「ノックぐらいせえっての、このバガぁ!」

「うわ、あ、すんません! や、その、これはワザとでねくて、」

「いいがら見るな! 早えぐ出てけ!」

「痛っでぇ! オレ何も見てないっす、ホントっす!」

 女子たちから手当たり次第に物を投げつけられ、泡を食った泰司はもんどり打って部屋を飛び出し、そのまま廊下の果てまで走り去ってしまった。女子の一人がすぐさまドアを閉め、ったくもう、と剣呑な顔つきで荒く息を吐く。

「ごめん、私がカギ掛けんの忘れてたせいで。みんな大丈夫?」

「私、がっつり穿くとこだったんだけど」

「下着までは見られたかも。真由ちゃんは大丈夫だった?」

「え、うん。多分」

 奈央に問われ、真由は曖昧な返答をする。とっさに胸を覆うのは、間に合った、はずだ。泰司の視線がこちらへ釘付けになっていたのを思い出しつつ、腕の中に隠した己の隆起へと目を向ける。

「あーもう、やらかした。せっかくの旅行だってのに、みんなホントごめん」

「オメエのせいでな無えって。悪りいのはデリカシーのねえ石川なんだがら」

「んだんだ」

 喧々と文句を垂れながら女子たちが着替えを続行する中、どこか落ち着かぬ気分を抱えたままで、真由はワンピースを身にまとった。……大丈夫だと思って家での試着を怠ったことが仇となったかも知れない。去年着たときと比べて、水着は胸のところだけが若干キツくなっていた。

 

 

 

「えー。何やら事故があったようですけども、本人もこの通り心の底から反省してるみたいなんで、このあとは楽しく行きましょう」

 キイーン、と、杏父が持つハンディタイプの拡声器が耳に刺さる音を放つ。昼食を済ませた一行は先の案内通り、宿から道路一つを挟んで真正面に広がる海水浴場の浜辺へとやって来ていた。ちなみに先ほどの一件でめでたく罪人扱いされてしまった泰司は、皆が浜辺に出始めた時点から今の今までずっと、熱気の籠る砂の上に額をくっつけて土下座し続けている。

「こっからは皆さんお待ちかね、海水浴の時間です。ビーチバレーに素潜りにと自由にやってもらいます。ただ、泳ぐときは深いところさ注意するように。特に向こうのテトラポットから先へは絶対行かねえようにして下さい。もし海難事故があったら、夜のバーベキューはおあずけです」

 それはヤダー、と女子の一人が悲鳴を上げる。バーベキューはともかくとして、あまり泳ぎに自信のない真由としても、自力で戻れない距離への遊泳はなるべく避けたいところだった。

「それと魚釣りしたい人はココさ道具を用意してありますんで、各自自由に持ってって下さい。釣れた魚は即捌いてバーベキューの食材になります。石川君にはお詫びのしるしとして、強制で釣りをしてもらいますけども。心優しい人はどうか彼を手伝ってあげて下さい」

 お願いします、と土下座の姿勢を崩さずに泰司が呻く。真由と同室の女子たちはみな一様にそっぽを向いたまま、フン、とけんもほろろの態度だ。

「ではおじさんの長話はこれぐらいにして、さっそく海を楽しみましょう、レッツオーシャン!」

 杏父の掛け声に呼応して、おー、と部員たちの若々しい声が浜辺に轟く。かくして真由たちは迫り来る波打ち際の向こうへと躍り出た。ざぶん、と水面を割る感触と共に、さっきまで夏の日差しにじりじりと焼かれていた肌へ心地良い冷たさが沁みてくる。キャアキャア声を上げてはしゃぐ女性陣と、砂浜の端っこで一人しょんぼりと釣り糸を垂らす泰司。彼のことがちょっとだけ可哀想になり、真由は水上からちらと泰司を見やる。

「真由ちゃん、こっちこっちー、みんなで競争しようよ。一位の人にはスイカ割りの一番大っきいとこプレゼントだって」

「あ、うん」

 奈央に呼ばれ、真由はそぞろに返事をする。とそこに、釣り竿を持った雄悦が泰司のところへと歩いていくのが見えた。彼は彼なりに気の毒な立場となった後輩を憐れんでいるのかも知れない。あるいはごく単純に、女子ばかりの中で男は自分一人、というシチュエーションに居心地の悪さを感じてしまっただけという可能性も否めないが。

「真由ちーん、早くぅ。もう始めちゃうぞー」

「はあい。今行きます」

 いずれにしろ、雄悦が傍に居てくれれば泰司もきっと寂しいと思うことはないだろう。そう考え、真由は杏たちのいる方へとちゃぷちゃぷ水を掻き分けていった。

 

 

 ひとしきり泳ぎを堪能した後は、各々浜辺で体を焼いたり、泰司たちのように釣り竿を持って岸壁を練り歩いたり、と思い思いのひと時を過ごしていた。真由も父兄らに預けていたフィルムカメラを手にし、今はビーチサンダルを履いて湾の一帯を散策しているところだ。

 日が少し傾いて来た湾内はほんわりと朱に染まりはじめ、けれど海から届けられる風は既にほんのちょっと冷たい。念のためパーカーを羽織って来て正解だった。向こうで遊ぶ友人たちへ。湾内を飛び交う海鳥へ。思い思いの景色へレンズを向けながら、寄せては返すさざ波と共に、真由は砂の上へと足跡を刻んでいく。

「こんなところで写真撮影かニャ?」

「え?」

 不意打ち気味の声に真由は振り向く。と、コンクリートで作られた堤防の上から杏がぴょこんと顔を覗かせていた。

「画になるもんねー、夕焼けの浜辺。そんでどおどお? いい写真撮れてる?」

「はい、まあ。先輩こそどうしたんですか」

「父ちゃんたちのお使いだよ。ほれ、あの人たちさっきからあの調子だべ?」

 そう言って、腕に抱えた大量の缶ビールを杏が見せつけるように突き出す。杏の父たちは浜辺の一角にセットしたバーベキューグリルを囲み、子供たちに先駆け昼間のうちから一杯やり始めていた。どうやら持ち込んでいた飲料が切れたところで運悪く彼らに捕まった杏は、その補充をと宿までひとっ走りさせられていたらしい。

「お疲れさまです。っていうか私、気付かずに先輩にそんなことさせちゃって、何かすみません」

「今日はオフなんだし気にしない気にしない。まー、父ちゃんたちのおかげで私らもここに来れてるわけだしね。そのお代がこの程度で済むなら安いもんだよ」

 缶を律義に堤防コンクリートの縁へと並べ立て、その隣に杏がチョコンと腰掛ける。その身にまとったタンキニの水着は、全体的にでこぼこの少ない杏の体型とも相まって、幼げな彼女の可憐さをより強調するものとなっていた。

「真由ちんもココおいでよ。遊びっぱなしに歩きっぱなしで疲れてるべ」

「え、でも飲み物、冷えてるうちに届けなくていいんですか?」

「平気平気、ちょっとぐれえ遅れたって。どうせアッチも呑みっぱなしで、すっかり出来上がっちゃってらし」

「はあ」

 それじゃお言葉に甘えて、と真由は堤防階段をのぼり、天面のざらつく小砂を手で払ってから杏の隣へと座る。ちょうど真正面に見える海と空の境目では、日暮れに向けて傾きゆく太陽がゆらゆらと、水平線に飛び込む前の準備体操をしているみたいだった。

「どう、男鹿は。いいところでしょ」

「はい。自然も多いですし海も穏やかで、なんていうか、ホッとします」

「でっしょー。やっぱ人間、一年に一回ぐれえはこういう場所でのんびりさねえばダメだって、アタシ思うんだ」

 ぱたぱた、と宙にサンダルを遊ばせながら、杏がその視線をうっとりと海辺へ注ぐ。

「秋田って眠くなるぐれえ何にも無えとこだけど、だからこそこういう時間をちゃんと楽しむのが大事なんだよ。自分がどこに帰ればいいか分がんねぐなった時に、ああ、ここさ帰ればいいんだ、って思える場所を作るためにさ」

「自分が帰る場所、ですか」

 杏の言っていることが、分かるような分からないような。真由には今までそういう場所を作った記憶が無い。自分にとっての原風景とは、父が居て母が居て、その中に自分が居て、そんな家族としての景色ばかり。あとは家も地域も学校もてんでんばらばらだ。果たしてこの先何年も経って後、真由がそう思える場所とはやはり父や母の、いつもと同じ家族の中にあるものなのだろうか。それとも。

「……何だか今日の杏先輩、すごく哲学的な感じですね」

「おっ? 真由ちんそれは失礼だなー、アタシはいつだって哲学的で理性的で、頭の切れるオトナの女だよ」

「あ、すいません。私ってばつい、」

「なあんて、冗談だよ冗談。ンだけど色々考えてるのはホント。なんたってアタシ、真由ちんより一歳年上のお姉さんだかんね」

 ほっ、と杏の短い手が砂浜に向かって何かを投げつける。小さくて良く見えなかったが、それは恐らく付近に落ちていた貝殻の破片か何かだった。大した勢いも無いままに、夕暮れへ向かって放物線を描いたその何かは砂につぷりと埋もれ、ただの残骸と成り果てる。

「ねえ真由ちん。最近の水月って、どう?」

「え?」

 唐突な質問にどきりとさせられ、真由は杏を覗き見る。陽が翳り始めたのも手伝ってか、普段は天真爛漫な彼女の表情もこの時はひどく大人びて見えた。

「そう言えば前にも先輩、水月ちゃんがどうこうって言ってましたけど」

「まあアイツとは昔、色々あってさ。それで、どう?」

「どうって言われても、コンクールが始まってからは水月ちゃんとあんまり喋ってないかもです。サポート組とは別で練習することも多いですし、それに練習中は水月ちゃん、周りとあんまり関わらないっていうか」

「他には? 何か気になること無い?」

「特には。あ、でも水月ちゃんって意外と後輩想いな子ですよね。春にちなつ先輩とちょっと揉めてた三島玲亜ちゃん、あの子、水月ちゃんのおかげで立ち直れたんですよ」

「水月のおかげで?」

「はい。あれから玲亜ちゃん、すっかり大人しくなっちゃって。時々は危なっかしいこともありますけど、そういう時は水月ちゃんが注意してくれてるみたいで。今では玲亜ちゃんもすっかり懐いてます」

「そっか。相変わらずだな、アイツ」

 足元に向けて目をすがめた杏のその物言いは、まるで唾を吐き捨てるかのようだった。

「何か、問題でもあるんですか」

「ん。アタシの思い過ごしなら、それで良いんだけどね」

 組み替えた杏の細い足がアスファルトに擦れ、くぐもった音を立てる。彼女の表情はどろりと薄暗い懸念の色をたっぷり塗したケーキみたく、迂闊に触れ得ぬ静謐さを内包していた。

「さってと。ビール、ぬるくなっちゃう前に届けねえとな」

 ふと思い出したように杏が堤防の縁に立ち、大きく伸びをする。

「あ、私も手伝います」

「別にいいよ、こんくらい。真由ちんだって写真撮影の途中でしょ? 呼び止めちゃったりしてごめんね」

「いえ、そんなことは」

「せっかくの旅行なんだし、シャッターチャンスを逃さねえよう楽しんで。へばね」

 両手にたくさんの缶ビールを抱え、よたよたと杏がその場を離れていく。夕陽を浴びるその後ろ姿はほんの少し、見かけにそぐわぬ愁いを帯びていた。真由はそれにカメラを向けることも無く、ただ黙って彼女の行く先を見送った。

 

 

 

 結局、泰司たちの釣果はほぼボウズに終わったらしい。その代わりにと父兄たちが予め用意していた肉や野菜、そして近所の直売所から急きょ仕入れてきた海鮮食品のおかげで、真由たちはお腹をいっぱいに満たすことが出来た。そうして夕食の後片付けにもひと段落がついた頃。

「そろそろいい感じに暗くなって来たし、皆さんお待ちかねの花火タイムです」

「やったー!」

 父兄が事前に買い込んでくれていた花火パックの束。そこにはこの大人数でもたっぷり遊び尽くせる分量の花火が詰め込まれていた。パックからめいめい好きな花火を引き抜き取り分け、そして一同は浜辺のあちこちで火をつけ始める。

「ヒナちーん。ほれほれ、三色スプラッシュ花火だよ。チョーきれいー」

「ばっか杏、火ィこっち向けんなって。やけどしちゃう! ちょっとちなつ、見てねえで助けれってぇー!」

 両手に持った花火の束から青い炎を噴かせながら、杏が逃げ惑う日向を追っ掛け回している。普段なら声を張って杏に注意するはずのちなつも、今日ばかりは他の子たちに交じってきゃあきゃあと楽しそうに笑い転げていた。

「黒江さん、私たちもこっちで花火やらね? 二段変化する噴き出し花火だって」

「うん。この線香花火が終わったら、そっち行くね」

 待ってるからねー、と手を振って同部屋の女子たちが離れていく。手元の線香花火はジジ、と赤い火の玉を保った状態でか細い火花を散らしていた。こうして小さく弾ける線香花火を見ていると、何故だか心がゆったりと凪ぐ。終局を迎える一瞬までの、ほんの僅かな寂寥。それを真由はどうにも愛おしく感じていた。

「ユウ先輩。花火、一緒にやりませんか」

「松田」

 雄悦と奈央の声がする。そう思って真由が何気なく面を上げた、その十数メートルほど先に、二人は居た。幾つかの花火を手に持った奈央と、堤防の壁にもたれかかるようにして座り込んだ雄悦。そこには幾分、緊張の空気が漂っていた。

「そんなとこさ一人でいたって面白くないっスよ。先輩もこっち来て、一緒にやりましょう」

「……悪い。松田、俺な、」

 聞きたくないのに、嫌でも勝手にこの耳が二人の会話を拾ってしまう。急速に強まる不穏な気配。今すぐにでも砂を蹴って奈央のところへ行かなければ、と本能的に真由は思った。けれど、線香花火の小さな火球は未だ指の先でじりじりと燻り続けている。早くしないと落ちてしまう。そんな矛盾した思考が、真由の焦りに拍車を掛ける。

「奈央ちん、そんな暗えとこで何してんの? って何だ、雄悦もいるんじゃん」

「杏、先輩」

 そうこうするうちに、どうやら杏が奈央たちのところへとやって来たようだ。どうしてだろう、二人きりではなくなったというのに、それでも何故だか彼らを見ていると心のざわつきが止まない。手元の花火どころではなくなってしまった真由は、杏たちの動向をただじっと、呼吸を殺して見守る。

「なに二人してしっぽりしけこんでんのさー。あれれ? それとももしかして二人って、いつの間にやらそういうごカンケイ?」

「いや、違うッス先輩。私ら別にそんな、」

「隠さねくてもいいってー。すみに置けませんなぁ、奈央ちんも雄悦も」

 あらあら、とばかりに杏は手のひらを泳がせ二人をからかう。その仕草に奈央は、この距離からでもハッキリそれと分かるほど顔を青ざめさせた。

「ホントそうじゃねえんです。ただ私、ユウ先輩が一人でいたから声掛けたってだけで」

「隠すことじゃねえべった。二人とも小学校の頃からの付き合いだしぃ? ありえるっちゃありえるカップリングだと思うで」

「だからそうでねくて」

「それにしても水くせえなぁ。それならそれでアタシにくらい教えてくれても良がったのに、」

「違うっつってらべ」

 静かに、けれど鋭く雄悦が否定の言葉を投げ掛ける。シンと静まり返る浜辺。()したんだ? と、噴き出し花火の準備をしていた女子たちが一斉に雄悦たちへと目を向ける。そんな周囲からの奇異の目に『何でもないよ』と答えるかのごとく、杏は周囲の皆に向けて肩をすくめてみせた。

「ほーら。他の子らもこっち気になって、花火どころで無ぐなってるでしょ。もう良いがら、雄悦も奈央ちんもこっち来て一緒に花火やろってば」

 ぐい、と杏の手が雄悦と奈央の腕を引く。それに雄悦はきっと反発する、と真由は予想していた。理由はともかく彼は一人で居たかったのではないか、と。けれど意外にも、雄悦は杏に導かれるがまま緩やかに立ち上がり、

「分がった。花火、やるべ」

「うん!」

 元気良く頷いて身を翻した杏と、彼女に諾々と引っ張られる雄悦。そこから二歩分ほど距離を空け、奈央は視線を落としてとぼとぼと、砂浜に刻まれた二人の足跡を辿るように追っていった。

「火元から目ぇ離してると危ねえで」

「え。うわ、」

 その忠言で反射的に、真由は手を身体から遠ざけた。じゅ、という切ない音と共に、縮み上がった炎のしずくが砂の上へと滴り落ちる。危なかった。あとちょっとでも遅かったなら、真由のつるりと無垢な膝頭の上にはお灸の痕みたいなやけどが出来てしまったことだろう。

「どうしたの、ボゲーっとして。黒江ちゃんらしくもねえ」

「日向先輩」

 真由に注意を促してくれたのは、いつの間にか傍に立っていた日向だった。彼女は真由の隣にしゃがみ込むと「私もやろっかな」と、近くの花火セットから線香花火を二本取り出し、うち一つを真由の手に持たせる。

「火ぃ、つけてもいい?」

「は、はい。勿論」

 父兄から借りてきたのか、日向はポケットから拳銃のような形をした着火用ライターを取り出した。カチリ。二人が手に持つ花火の芯にゆらめく炎が近付くと、やがて花火はぷすぷすと白い煙を上げ、暗闇に華やかな光の線を描き始める。

「……先輩は、気が付いてたんですか」

「何の話?」

「奈央ちゃんと雄悦先輩のことです」

「あー」

 火花の行方を気にするそぶりをしながら、日向が生返事をする。真由の脳内ではようやく、奈央と初めて会話した日の出来事が繋がりを見せていた。積極的に雄悦に絡んでいた奈央。つっけんどんな反応を示した雄悦。そんな二人をして「青春」と宣った日向。彼女は知っていたはずだ。奈央が雄悦に、本気で恋心を寄せていたことを。

「まあ付き合い長えからね、ウチら。あの子がそういう気持ちだってのはさすがに解る、っつうか」

 むしろそれに気付けずにいたのは、部内で自分だけだったのかも知れない。今にして思うと、符合する要素は幾らでもあった。部内で奈央だけが雄悦のことを『ユウ先輩』と、彼の希望するあだ名で呼んでいたこと。奈央が男子部員の中で唯一、雄悦だけにじゃれついていたこと。それと今回の旅行に際して、奈央が参加の是非を雄悦本人に直接問うたこと。それら全てをひっくるめて考えれば、彼女が雄悦に好意を持っていない方が不自然で、遥かに考えにくいことだった。

「奈央ってさ、ああ見えて実直っつうか一途っつうか、そういう子なんだよ。小学生の頃からずっと雄悦にくっついて回って、兄貴と妹みでンた感じで面倒見てもらって。だからなんだべな、それから多分ずっと、奈央は雄悦のこと追っ掛けてんだと思う」

 火花の盛りが過ぎ去った線香花火は、じくじく、とむず痒い音と共に小さく赤い玉を形作ってゆく。ほんの一吹きするだけで今にも崩れ落ちてしまいそうなほどに、脆く儚げなひと時の美。それが手の内にある以上、真由はその火の行く末を最後まで見届けるか、それともひと思いに握り潰してしまうか、どちらの選択を取ることも出来てしまう。

「知ってる? 奈央ってさ、中学で吹部入ったとき、初めは低音希望だったんだよ。ま、結局んとこは小学時代の実績を買われてトランペットに配属されたんだけど」

「そう、だったんですか」

「ンだけどそれでも仮入部期間中は低音パートさ居て、雄悦と一緒にユーフォ吹こうとしてらったんだ。だから雄悦だって、ホントは解ってる。奈央がなんで吹部に入ったか。誰を追っ掛けてここまで来てんのか」

「じゃあ、雄悦先輩は、どうして」

「――見てごらん」

 日向がおもむろに人差し指を小さく伸ばした。その先には花火に興じる雄悦と杏、二人の姿がある。さっきまでの険しい表情とはうって変わって、雄悦は時おり杏を盗み見るようにしながら仄かに頬を緩ませていた。そしてその周囲のどこにも、奈央の姿は見当たらない。

 まさか。

 ジジ、というセミの断末魔みたいな音を立て、真由の線香花火からぽとりと火の玉が落ちる。それまで真っ赤に赤熱していた玉は乾いた砂へと吸い込まれ、あっという間に熱を失ってしまった。

「雄悦が好きなのは、杏なんだよ」

 

 



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〈12〉夜空に咲く、大曲の花火

「じゃあ、電気消すよー」

 その声と共に、パチン、と和室の明かりが落とされる。暗闇に包まれた室内では既に全員が布団に潜って就寝の体勢を取っていた。

 今日一日遊び回ってすっかりくたくたなのか、同室の女子たちも遅くまで遊び呆けるようなことはせず、比較的早めに寝静まることにしたようだ。そんな中で真由は掛け布団の端からそうっと、隣で眠っているはずの奈央の様子を窺う。花火タイムが終わり宿に戻って来てからもずっと、奈央はいつもの奈央らしさを取り戻すことは無かった。

『雄悦が好きなのは、杏なんだよ』

 さっきの日向の一言を思い出すだけで、胃の辺りにキリリと尖った痛みを覚えてしまう。傍で見ていた日向ですら気付いているぐらいだ。雄悦をずっと追いかけて、雄悦のことをずっと見てきた奈央が、杏に対する彼の想いを知らぬ筈が無い。仮に今までがそうでなかったとしても、あの様子ではいやでも勘づいてしまったことだろう。そんな奈央の心中を十全に慮ることなど、恋らしい恋をしたこともない真由の身には余るものがあった。

 やがてあちこちから控えめな寝息が聞こえてくる。こうして考えてばかりいたって仕方ない。自分も眠ろう。そう思って布団を被り直したその時、コンコン、と部屋の戸を叩く音がした。こんな時間に誰だろう? 周囲の女子たちは既に寝落ちたか、あるいは寝入りばなを挫かれるのを厭うたか、起きる気配すら見せない。コンコン、ともう一度ノックをされたところでやむなく、真由は布団からのっそり這い出る。

「おっす。あれー? なんで部屋ん中、真っ暗なの?」

 戸の前に立っていたのは浴衣姿の杏だった。寝巻き代わりのそれは彼女の体格にあまり合っていないらしい。だぶついた袖口を、杏はお化けのようにパタパタと遊ばせていた。

「もうみんな寝ちゃいましたよ」

「えー? せっかくの旅行だってのに、みんな寝るの早過ぎね?」

 不満そうな仏頂面を呈した杏がこちらの了承も得ぬままに、小脇をすり抜けどたどたと室内に上がり込んでくる。

「え、わ、ちょ」

「ほれー、みんな起ぎれー」

 杏が蛍光灯の紐をグイと引っ張ると、部屋の中は再び光に満たされた。ううん、とまなこを擦りながら掛け布団をもたげた女子たちが、眠りの淵から自分を強制的に呼び戻した犯人を胡乱げな目つきで見咎める。

「誰よ、いきなり明かり点けたりして。眩しいねが……って杏先輩?!」

「どうしたんすか。私ら、もう寝るどごだったんですけど」

「ジジババじゃあるまいし、せっかく旅行さ来てらのに早寝なんて勿体ねえべ。こういう時はさあ、普段できねえようなことをやんないとって思わねえ?」

「や、良く解んないんすけど。普段できねえことって何すか?」

「だっかっらぁ、こういうトコ来たらやっぱアレっしょ。恋バナ!」

「はあ……」

 相手が直属の先輩ということもあってか、周りの女子たちはもう一つ杏のノリに逆らい切れないようだ。そんな中、真由は未だ布団を被りっぱなしでいる奈央のことが気にかかって仕方が無い。目の前には彼女の恋敵とでも言うべき杏。そしてその杏があろうことか、このタイミングで恋愛トークをしようなどと言い出しているのだから、それは尚更のことで。

「ほぉら、奈央ちんも寝てないで! 起きてみんなと一緒に恋バナしよっ」

 そう告げて容赦なく、杏は奈央の掛け布団をずるりと剥ぎ取ってしまう。真っ白なシーツの上で、奈央は子供がうずくまる時のように、両膝を抱いて横向きに小さく縮こまっていた。

「あや、何したの。ひょっとしてお腹痛いとか?」

「……大丈夫、ッス」

 観念したように腕を解き、奈央がむくりと身を起こす。今起きたという体裁のわりに、彼女の目つきはしっかりと冴えたように焦点が定まっていた。

 

 

「それじゃあ話す順番はクジで決めるよ」

 寄せ固めた敷布団の上で全員が輪を囲むようにうつ伏せとなり、その姿勢で恋バナゲームは開始された。じゃーん、と杏が紙の切れ端で作ったクジを皆の前にばら撒く。

「クジは早いもん勝ち。書かれた番号順に、恋の体験談や好きな人のことについて喋ってもらいまーす!」

「それはいいんですけど、ちなつ先輩や日向先輩はどうしたんですか? もう寝てるんだとしたら、私たちがあんまり騒ぐのってまずいんじゃ、」

「誘ったけど来なかった。ちーちんは勉強中で、ヒナちんはちーちんに『オメエは補習だ』つって取っ捕まえられてたよ」

「あー、そう言えば日向先輩、夏休みの宿題全然やってないって言ってましたね。杏先輩は宿題は?」

「残ってんのは読書感想文と数学の問題集があと二ページ分ぐれえかな。旅行中にやるようなもんでもねえし、今回は持って来なかったけど」

 こう見えて、というのも甚だ失礼ながら、杏は長期休みの際でもしっかり宿題をやるタイプらしかった。真由も後で泣きを見ないようにと一応こまめに手を付けてはいるのだが、残りの分量は杏よりも少し多めといったところである。

「そんなことより、さあさあ、とっととクジ引いちゃって」

 女子たちが次々とクジを引き、真由もそれに倣ってクジを拾う。開くと、そこには丸みを帯びた可愛らしい筆づかいで『3』と数字がしたためられていた。

「一番はだーれだ?」

「私です」

「ミカちんからだなー。へば、ここから恋バナゲーム開始! ルールはかんたん。回答者は他の人からの質問に絶対正直に答えること。もしウソ言ってたって後からバレたら、アタシ謹製のキッツーい罰ゲームをしてもらいます」

 ひぃぃ、と隣の女子たちが怖気立ったように声を上げる。彼女らの様子から察するにもしかして、杏の罰ゲームとはかなりエグいものなのかも知れない。

「じゃあ最初の質問はアタシがするね。トップバッターのミカちん、まずは好きな人の名前をどうぞ!」

「えっと、その。……同じクラスの武内くん、です」

 ミカがもじもじしながら想い人の名を打ち明けると、きゃー、と室内に黄色い声が上がる。杏は進行役を兼ねるつもりなのか、それとも単に好奇心からなのか、「それってどんな子?」「出会いはいつ?」と根掘り葉掘りでトークを促していった。

「――以上です」

「はい、ありがとー!」

 ミカに続いて『メグちん』と呼ばれた女子のトークも終わり、一同がぱちぱちと控えめに拍手をする。ここまでの流れを見る感じ、あまり冷やかされるようなこともなく、意中の彼とのエピソードを聞き出してはキャアキャアはしゃぐという程度でも十分許容されるらしい。

「やー、メグちんの恋バナ、けっこう濃かったねぇ。やっぱ付き合ってる真っ最中だと話の中身もギュって詰まってるっていうか、進んでるよね」

「もう、あんま茶化さねえでけれっす」

「茶化してなんかねえっすー。しっかり勉強させていただきました。てなわけでお次、三番目のひと!」

「私です」

「おお、真由ちんかー。これは期待大だね」

 ふんす、と鼻を鳴らして身を乗り出した杏に同調したように、他の女子も目を輝かせ始める。

「え、えと。どうしてみんな、そんなに前のめりに?」

「だぁってぇ、ある意味この企画の大本命だったんだもん。全国各地を渡り歩いた謎の美少女転校生、きっと色恋沙汰も多かったことでしょう。そんな真由ちんのいま現在気になっている人が今夜、ついに明かされる! さあお聞かせ願いましょー、果たして意中の彼の名は?」

「そんなふうに盛り上げられても。私、今まで好きになった人とか居ないですし」

「あー、黒江さんズッケェ。その手は無しですよね、杏先輩」

「私だってハラ決めて正直に喋ったやつぅ(のにぃ)

「や、そういうんじゃなくて、ホントに居なかったの。いっつも相手のことを良く知る前に転校しちゃってたから」

「んなことってあるぅ?」

「無えべ絶対。一人か二人はいるって、この歳になったら」

「いや、だから、」

 ミカとメグからごうごうと非難を浴びせられ、真由は必死に弁解を試みる。杏もさすがに納得が行かぬとばかり、童顔に似合わぬジト目でこちらを覗き込んで来た。

「ホントにホントぉ? ウソついたら罰ゲームだよ?」

「本当ですって」

「じゃあじゃあ、好きとかじゃないけど気になったって人は? あの子カッコいいーとか、きゃーイケメーン、みたいな」

「そういうのも無いです。ほら、人って見た目によらないじゃないですか。外見の良し悪しで判断してないっていうか、相手のことが良く解らないとそういう気持ちになれないっていうか」

「それだと恋バナになんねえじゃん。だったらせめてさ、こういうタイプの男子が好みとか、それなら何かあるっしょ」

「タイプ、ですか。そうだなあ……」

 杏にしつこく食い下がられ、真由は改めて自分の嗜好性を省みてみる。とにもかくにもそれらしい恋愛経験が一つも無い以上、好きな異性のタイプなど判ろう筈もない。それでも強いてあげつらうならば、こんなところだろうか。

「もし付き合ったりするなら、ですけど、性格の優しい男子ですかね」

「そんだけ? 他には?」

「身長は、私より高いほうがいいかも。それと趣味の合う人かな。音楽好き同士なら、二人で会話しててもあんまり苦にならなさそうですし」

「なるほどねえ」

 したり顔でふむふむと頷き、そして杏は「つまり、」と前置きをした。

「真由ちんの好きなタイプってズバリ、雄悦みたいなやつのことだ!」

 ぎくり、と真由の肋骨が音を立てて軋む。それは決して図星を指されたからではない。杏の声で頭を殴られたかのように、隣の奈央が微かに身じろぎをしたのが分かった。

「えぇー、マジでマジで!」

「同パート恋愛ってやつぅ?」

「いやいや。ご本人には申し訳ないですけど、雄悦先輩はちょっと違うかな。なんていうか雄悦先輩って、エイって力を入れたら折れちゃいそうな感じじゃないですか。さすがにもうちょっと頼り甲斐のある人のほうが良い、っていうか」

 どうにか苦笑を編み込みつつ、真由は必死に平静を装う。それは他でもない奈央のために。そんな真由の取り繕いをどう見たか、ふぅん、と杏は研いたナイフのような猫目をこちらに向けた。

「大人しい顔してけっこうキツいとこあるんだねえ、真由ちん」

「え、そうですか?」

「あるある。もうちっとオクターブに包むかと思いきや、けっこうズブズブって来る感じ」

「杏先輩。それオクターブでねくてオブラートでねすか?」

「あれ、そだっけ。まあどっちでもいいや」

 後輩の指摘を軽々といなし、へば真由ちんの番はこれで終了、と杏は宣言した。そして彼女は周囲にきょろりと目線を配る。

「では四番目――は、何を隠そうこのアタシです!」

「おっ、来た来たぁ」

「私らも隠さねえで喋ったんですから、先輩もマジトークでがっつりお願いしますよぉ」

「任せなさいって。年長者らしいオトナの恋愛観をみんなに教えてあげるわん」

 『オトナ』の部分を強調するように発音を区切り、コホンと杏が小さく咳払いをする。

「それでは発表しまぁす。アタシが今現在気になってる人は」

「気になってる人はー?」

「トロンボーンの、草彅雅人クンです!」

「おおー!」

 皆が興奮気味に歓声を上げる中、真由だけはぽかんと大口を開けてしまう。草彅雅人。杏の口からその名が出てくるとは全くの予想外だった。そんな真由の唖然とした様子に、んん? と杏が目を細めた。

「なになにー、どったのそのリアクション。もしかしてぇ、実は真由ちんも雅人クンのこと気になってたとかぁ?」

「あ、いえ、別にそういうんじゃ。ただ草彅くん、私と同じクラスなもので」

「ええ、マジでマジで?」

 真由の発言に関心を煽られたのか、杏はずずいとこちらに顔を寄せてきた。

「雅人クンってクラスじゃなんた(どんな)ふうに過ごしてんの? 授業中とか普通に受け答えしてる? 給食の好き嫌いってある? 友達は? 家族のことは? 成績いいの? ねえねえねえ」

「ちょちょ、ちょっと待ってください。そんないきなり矢継ぎ早に質問されても、」

「だって知りてえんだもん。チョー気になるしぃ。ねえったらねえ、早う教えてってば」

 前のめりになった杏の追及は、さながらマシンガンの如し、だった。到底捌き切れない真由は大いに泡を食ってしまう。

「ふぇーびっくり。でも、先輩が草彅のこと好きだってのも分がんなくもねえかも。木管の一年の中にも、雅人先輩カッコいいーとか言ってるやついたし」

「ウッソ、誰よそれー」

 当の杏をよそに置いて、女子二人がキャッキャと噂話に花を咲かせ始める。

「クールなとこがたまんねえとか、一人で居るとこ見てっとついつい何とかしてあげたくなるとか、色々言ってらったで。母性本能くすぐられるってやつ?」

「その子見る目あんなぁ。アタシが雅人クンのこと気になって仕方ねえのも、まんま同じ理由だもん」

「えー、でも雅人ってすんげえネクラでねえすか? 私はああいうタイプ、ちょっと苦手」

「私も。それにアイツ、先輩だがらって遠慮したりとか全然しねえし。唯我独尊っつうか、自分以外のことなんかどうだっていいって感じがどうもなあ」

「そこが良いんだよ、いや、それが良いんだよ。分がってねえなあキミたち」

 ちっちっち、と杏が短い指を左右に振る。彼女の審美眼はともかく一般論として、一人孤高に佇む少年、というのは心優しい女子の目を惹くものがあるのかも知れない。いかんせん真由にはさっぱり理解できない話ではあるのだが。

「でも真由ちんが同じクラスだっつうんなら、雅人クンとの仲介役もお願いできちゃいそう。なあなあ真由ちん、アタシの恋愛成就のためにひと肌脱いでくれる?」

「えっと、それは」

 ルビーのように煌めく杏の双眸を前に、真由は少々気後れしてしまう。あれ、これってどういうことだろう。三角。四角。うずまき模様。頭の中にいくつも複雑な図形が浮かび上がり、思考回路を占領しようと暴れ出す。けれど「ねえ」と杏に催促され、ひとまずここは穏便にやり過ごさなくては、と真由は咄嗟の判断を下した。

「えと、そうですね。お力になれるか分かりませんけど、出来ることがあれば」

「やったー! アタシってば恋愛の神様に愛されてるぅ」

 ぴこんと両腕を伸ばした杏はいつもの如く、可愛らしいバンザイで喜びを表現した。無邪気なのは結構なことだが、さてそれにしても、と真由は心の内で一連の状況を振り返る。

 杏は雅人のことが気になっていて、その杏には雄悦が想いを寄せている。この場合のそれはつまり、片思いということになるだろう。そして片思いなのは雄悦だけではない。その彼へと想いを向ける彼女もまた、同じように。決して交わることの無い、一方通行だらけの相関図。果たしてそこに出口はあるのか。夜の窓越しに響き渡る波音が、暗がりに沈む真由の胸中を著しく掻き乱す。

「さて、アタシの恋バナはこんなもんでいいかな。というわけでお待たせ五番目、最後に残った奈央ちんの番です!」

 どうぞー、と杏の小判みたいな手のひらが奈央に差し向けられる。うっそりと微笑んだ奈央は、しかしどこか虚ろな空気を滲ませつつ、およそ本音とは思えぬ告白をさらりとしてみせた。

「好きだって言える人は、私もいねえッス」

 

 

 

 あれからの寝心地は、正直あまり良いとは言えなかった。杏の恋バナゲームがいま一つすっきりしない終わり方をしたせいもあるのだが、それ以上にあの時の奈央の痛々しい姿が、一夜明けた今もまだ真由の胸に突き刺さって抜けずにいる。今朝目が覚めた時、奈央の布団は既にもぬけの殻となっていた。彼女はどこへ行ったのか。何を思いどう過ごしていたのか。ふらりと奈央が戻ってきたのは、朝ご飯も済んで一行が帰り支度を始めた頃になってようやくだった。

「せえの。二日間お世話になりました」

「お世話になりました!」

 玄関のところで皆声を揃え、勝枝に元気よく別れのあいさつをする。勝枝はふくふくと笑い、そして皺を湛えた目尻を柔らかく下げた。

「こっちこそ、孫っこたちが帰って来たみでンたくて面白(おもしぇ)がったんす。これがらも元気(まめ)で居てけれな」

「はい!」

「へば帰りも気をつけて。また遊びに来てたんせ」

「ありがとうございました、勝枝さん」

 父兄らも勝枝に感謝と別れを告げ、続々とマイクロバスに乗り込んでいく。自分も行こう。そう思いバッグを肩に掛けたところで、ちょっとちょっと、と真由は勝枝に呼び止められた。

「お嬢ちゃんだべが? 都会がら引っ越してきた子って」

「あ、はい。都会っていうか、群馬からですけど」

「んだのなぁ。アナタのこと杏ちゃんがら聞いだったのよ。秋田さは、もう大分慣れた?」

「そうですね。まだ解らないことも多いですけど、先輩とか友達とか色んな人に優しくしてもらえて、すごく良いところだなって思ってます。もちろん今回の旅行も」

「あやぁ。そンた風に言ってもらえて、良がったなや」

 満面の笑みを浮かべた勝枝が「ああそう言えば」とばかり、何かを思いついたように手を叩く。

「ところで今年来たってことだば、初めて見るでしょ。来週の花火」

 そうです、と真由は頷く。毎年八月第四土曜日に開催される『大曲の花火』。多くの人から聞かされたそのスケールの大きさと賑わいぶりを、真由はこの夏初めて経験する。果たしてそれはどれほど凄いものなのか。みんなの語る目いっぱいの感動と興奮というものを、自分もちゃんと味わえるだろうか。そういった期待の念に胸をときめかせつつ、真由は近付く期日を以前から心待ちにしていたのだった。

「楽しみにしててけれな、他県がら来たお客さんがたも『日本一の花火だ』どって、毎年毎年見に来るぐれえだもの。見でおけば一生の宝っこンなるよ」

「はい、今からすごく楽しみです」

「へばまた今度。こンたボロっちい(どご)だども、今度はお家の人と一緒に遊びに来てたんせ」

 ありがとうございます、とていねいにお辞儀をして勝枝と別れ、真由はバスへと向かう。またいつかきっと来たい。そう思わせる温かみを、勝枝の笑顔と言葉は確かに有していた。

 トランクスペースに旅行用バッグを収納してからバスに乗り込むと、二人掛けのシートの大半は既に仲の良い子同士で占められていた。そんな中、一人ぽつんと窓際に座った奈央が、ただ静かに海辺を眺めていた。

「今日もよろしくね、奈央ちゃん」

「あ、真由ちゃん。うん、よろしく」

 真由はあえて奈央の隣を選び、そこへ腰掛ける。それは真由なりのせめてもの気遣いでもあった。私はあなたの異変になんか気付いてないよ。だから今日のあなたには何も触れないよ。そういう無害な態度で接することが今の奈央にとって、幾ばくかの安らぎになるのなら。

「全員乗ったな。へば、しゅっぱーつ」

 軽やかに警笛を鳴らし、バスがゆっくりと動き出す。後はこのまま大曲へ帰るだけ――かと思いきや、民宿から歩いて来ることさえできそうな程の短距離で、杏の父は近くの駐車場へとハンドルを切った。

「せっかくなんで、帰る前にちょっと寄り道していぐど」

 どこへ? と思う暇も無いまま駐車場でバスを降り、真由たちはぞろぞろと連れ立ってつづら折れの坂道をのぼる。そこを越えたすぐ目の前ににょっきりと、薄白いコンクリートの建物が顔を出した。

「あれって?」

「ああそっか、真由は知らねえか。水族館なんだよ、ここ」

 そうそう、と後ろにいた日向も真由とちなつの会話に混ざってきた。

「秋田の小学生はみんな、遠足とかで一回はここ来んだよなぁ。あん時は魚なんて大して興味も無がったがら、館内見て回っても『へー、ふーん』って感じしかしねがったけど」

「あれって春の遠足だっけ、それとも秋だっけ?」

「春。ちなつの隣さ座ってた男子がバス酔いしてさ、途中にあった土産屋の駐車場んとこでゲエゲエやってたんだけど、そん時に小脇さ咲いてたスミレ見っけて『キレイだなー』ってちなつと話してたの覚えてる」

「そんなんあったっけ? 良く覚えてんな、ヒナ」

 先輩二人の談笑を聞いているフリをしながら列に連なって歩き、岩礁を模した入口広場を通って館内へと足を踏み入れる。エントランスホールの奥一面に覗く巨大水槽、その中ではいかにも水族館らしく、気持ち良さそうにすいすい泳ぐ大小様々な魚たちの姿が見受けられた。

「へば、今から二時間は自由行動です。ぴったし二時間後にまたここさ集合で。遅刻した人は容赦無ぐ置いていきますんで、くれぐれも時間厳守でお願いします」

「はい!」

 入場ゲート前で集団の輪はいったん解散となった。ほどなくして数人ずつがグループを作り、何見よう、あっち行かね? などと打ち合わせを始める。バスでもペアなのだし、自分は奈央と回ろうかな。そう思って真由が声を掛けようとした時には既に、奈央は杏らトランペットパートの一同に連れられ入場ゲートの奥へと向かってしまっていた。

「真由は誰かと回んねえの?」

 と、そこにちなつが声を掛けてくる。どうしようか。真由が迷うそぶりをしていると、ちなつの背後からひょっこりと日向が姿を現した。

「へば今回は、私らが黒江っちを案内してあげっか」

「んだな。真由はここ初めてだし、どこ見ていいか分がんねえまま一人でうろつくのもつまんねえべしな」

「じゃあお願いします。すみません、先輩方にご迷惑お掛けしちゃって」

「迷惑だなんて思ってねえよ。ま、たまにゃあ先輩風も吹かせませんとね」

「そんな。私、いつだって先輩たちのこと尊敬してますよ」

 苦笑しながら小首を傾げてみせた真由に、ぅおぅ、と日向が胸を押さえて呻く。

「やべえ、黒江ちゃんのそれやべえ。破壊力が強すぎる」

「破壊力って、どういうことです?」

「天然ジゴロってこと。黒江ちゃん、さては自覚なしか?」

「自覚も何も、ジゴロっていうのがまず分からないんですけど」

「良いがら、もうやめてあげて真由。これ以上やられたらヒナが悶絶死しちゃう」

 二人の言っている意味が良く解らない。とにかく行くべ、と慌て気味のちなつたちに連れられ、真由も入場ゲートをくぐった。

 日向らの解説によると、二〇〇四年に内外装を改修しリニューアルされたこの男鹿水族館、その最大の目玉は真っ白な体毛に覆われたホッキョクグマの親子なのだという。つい最近になって一般公開されたというクマ一家の姿を見るためか、まだ開館から間もない時間だというのに館内には多くの先客が訪れていた。

「おわー、カラフルな魚ばっかし。久々に来たけど、ここってこンたに色んな種類の魚いたんだっけか」

「入れ替えとかで新しいヤツ増えてんのかもな。おっ、あのでっけえヤツ、父ちゃんが良く釣ってくるヤツだ。こっちはハタハタ。やっべえ、なんか鍋食いたくなってきたな」

「そういう目で見んなって。ここ生け簀でねくて水族館だべ、真由も引いてらど」

「いやその、べつに引いたりとかでは。ああっとちなつ先輩、あっちに綺麗な魚いますよ、ほら」

 館内にいくつもしつらえられた水槽には、真由の良く知る海の生き物もいればそうでないものもいる。マダイ。シマフグ。ウミガメ。ペンギン。それら一つずつを眺めながら練り歩き、真由たちはマンボウの展示スペースへと差し掛かる。覗き窓みたいに小さめな水槽の只中で、上から糸ででも吊っているかのようにぴたりと動かないマンボウは、その黒いまなこで何かを訴えかけるようにじとりとこちらを見つめていた。

「何かすごいなコイツ。この存在感というか」

 水槽のガラスを指でツンツンとつつきながら、ちなつが眉をひそめる。

「こうやってプカーって浮かんでて普段、どンたこと考えてんだべな」

「ハラ減ったー、メシくれー、とか?」

「それはあり得る」

 日向のもっともらしい見解にちなつは一度頷き、けどさ、と言葉を紡ぐ。

「それかもしかして、こんな狭いところ嫌だー、広い海に返してー、なんて思ってたりすんのかもな」

 そう言われると、マンボウのどんよりとした瞳の奥にはそのような感情が宿っているようにも見えてくる。何となく申し訳ない気持ちになりつつもその場を離れ、次の展示スペースへと移った真由たちを待っていたのは、ふよふよと水槽の中を漂うたくさんのクラゲたちだった。

「わあ、きれい」

 思わずそんな声が出てしまうほど、色鮮やかなクラゲたちが水中のおぼろげな光源に晒すその姿は、えもいわれぬ不思議な美しさを保っていた。しばし見とれ、それから反射的にカメラを探した真由はしかし、こうした場所での写真撮影はいかがなものかと思いとどまる。

「何、真由ってクラゲ好きなの?」

「好きってほどじゃないんですけど、何となく、見ててきれいだなって思って」

「はぁー。私にゃ良く分かんねえけど、美的センスのあるやつが見ればそんなもんなんだべか」

「ちなつは美術の成績、あんま良くねえもんな」

「うっせえ。ヒナだって似たようなもんだべ」

「なんだとコンニャロ」

 やいのやいの言い合う二人を尻目に、真由はただじっとクラゲを見つめる。当然と言うべきか、クラゲは何も応えてくれない。大海原の潮流に逆らうこと無く、その身を任せて一生を漂うクラゲ。彼らの生きざまに何となく、真由は親の都合で転校を繰り返す己の姿を重ねてしまう。

 果たして彼らはままならぬ我が身の運命に何かを想うことがあるのだろうか。それとも単に流されることを楽しんでいるだけなのか。自分は自分の半生を、どんなふうに捉えているのか。そんな思いを抱く自分がちょっぴり感傷的に過ぎることを半ば自覚しながらも、真由はしばらくその場から離れられぬままでいた。

「ほらほら黒江ちゃん。次さ行ごー。ちょうど今出てきたとこだって、シロクマの赤ちゃん!」

 日向の大きな呼び声ではたと我に返る。行かなくちゃ。名残を惜しみつつも、真由はクラゲの水槽からそっと離れた。

 

 

 

 

 それは旅行から帰ってきた、その夜のことだった。

「花火のとき、部活のみんながうちに来たいだって?」

「うん……」

 驚きの声を上げた父は、飲み掛けていたビールのグラスをいったんテーブルへ置いた。その芳しくない反応にグラスよろしく冷や汗をかきつつも、真由はおもむろに頷く。

『今年の花火もみんなして観に行くべ? ちーちんもヒナちんも』

 帰りの車中、この件を最初に切り出したのはやはりと言うか、この手のイベントが好きそうな杏だった。

『別にいいけど、今年はどうすんの。去年まで集まってた(くろ)(さわ)先輩ん家は、さすがに今年は使えねえべ』

『そっかー、しまった。アタシらん家じゃ河川敷から遠いしなぁ』

『俺ん家も会場さ行くってなると、歩きで一時間近くは掛かるっす』

『どっか良いトコねえかな。最悪、現地集合現地解散にする?』

『前それやろうとして、家さ帰れねぐなった先輩が補導されそうになったべ。さすがに危ねえよ』

『アタシらも内申に響くのはマズイもんなー。うーん』

『そう言や黒江ちゃん、前に言ってねがったっけ? 今住んでる家、会場から近えって』

『え、それってマジ? 真由ちん、あの辺さ住んでんの?』

『私の記憶によればだけどな。歩いて十分も掛かんねえんでねえかな、あそこからだと』

『それ最高の立地じゃん。ねえ真由ちぃん。もし良がったらアタシら、花火の晩げにちょこーっとだけおジャマさせてもらいてえなー、なんて』

『いやいや待てって、ヒナも杏も。そんなんしたら真由ん家さ迷惑掛かるべ』

『えーでもぉ、仲間同士で過ごす時間って大事だしぃー。それにアタシ、花火と関係なしに真由ちん家さ遊びに行ってみたいって前から思ってたしぃー』

『猫っ被りして見え透いたウソつくのやめれって、杏。オメエってヤツはホントよぉ』

『お、俺も先輩ん家に行ってみたいっす。いやヘンな意味でねくて』

『石川っちがそンた顔して言ってっと、ますますヘンな意味にしか聞こえねえんですケド。んでも、正直言えば私も黒江ちゃん家には興味あるかな。話に聞いた限りじゃ親御さん、めっちゃくちゃ良い人っぽいし』

『どうせならさ、真由ちんも私らと一緒に会場まで花火観に行こうよ。みんなでまとまって行動すっから迷ったりしなくて良いし、それにやっぱ会場で観る花火って格別だかんね。遅くなる前には引き払うからさぁ。ねえ?』

「……という訳なんだけど」

 仔細を一通り真由が説明し終えると、ふむ、と父は眉間へしわを寄せた。

「まあ何かって時の避難所って意味でも、うちへ来ること自体は別に構わないんだが。ただうちはこの通り広くないし、あまり大人数だと入らないな。何人くらいの予定なんだ?」

「今のところは六人、かな。もしかして後から増えたり減ったりするかもだけど」

 候補を指折り数えながら、真由は父の問いに答える。

「六人なら何とか、ってところか。でも大したおもてなしも出来ないぞ。本当に良いのか?」

「良いじゃないの、あなた。みんなでお祭りに出掛けるのって楽しいものだし」

「しかしな、俺も母さんもここの花火大会は初めてだろ? 俺たちが一緒についていくとしても、もし会場で子供たちとはぐれでもしたら」

「それは却って子供たちの方が詳しいんでしょうし、もう中学生なんだから任せてあげてもいいんじゃない? 下手に大人が出しゃばらなくたって、遅くなる前にはちゃんとみんな家に帰る、ってことだけ約束してもらえれば」

「だけどなあ……うーむ」

 心配性の父がああだこうだ言う一方で、母は一貫して肝の据わった見解を述べている。思えばこういう時、母はいつだって真由の味方をしてくれた。それが年頃の娘に対する同性の親ならでは共感ゆえなのか、それとも娘の人生における様々な体験を応援したいという純粋な親心なのか、真由にはまだ分からない。

「それに真由だって、先輩たちと一緒に近くで観てみたいでしょ? 花火」

 そう母に問われた時、本心を抉り出されたような気がした。みんなと一緒に楽しみたい。素敵な時間をひとつでも多く共有したい。それはちなつと屋上で語らったあの日からずっと、真由が強く願ってきたことだったから。

「観たい」

 真由のその言葉に、それまで悩ましげだった父もとうとう観念したみたいだった。――危ないことだけは絶対無いようにな。ふう、と息を吐いた父は、渋々ながらも承諾の意を示してくれた。

 

 

 

 

 

 

 大曲の花火。それは『全国花火競技大会』という正式名称からも分かる通り、全国から集う花火職人たちの技を審査し優劣を付けることを主旨とした、いわば花火界のコンクール全国大会である。世の中に著名な花火大会は数あれど、競技として花火を打ち上げる大会は全国的にも僅か二つしかないらしい。たった一夜のこの催しに日本中からは花火好きが集い、そして夜空に描かれる炎と煙の美技に酔いしれるのだそうだ。

 それの証左であるかのように、正午を過ぎてからこっち、通りを歩く観覧者と思しき人々の流れは次第にその勢いを増しつつあった。大会の本番は夕方以降だというのに、お昼のうちからも数え切れないほどポンポンと、花火の音が街中に鳴り響いている。さらには会場へと向かう通りのあちこちに屋台が軒を連ね、そこから漂う香ばしい焼き物の匂いがこれでもかと嗅覚を通じて胃袋を刺激してくる。普段の落ち着いた雰囲気とはうって変わって、祭事の気分に浮き立ち活気溢れる街の様相。それらは成る程、いつぞや水月が言っていた通りのものだった。

「今年の来場は何人ぐらいになんのかな。去年で七十万とかだっけ?」

「確かそんくれえ。なんか年々増えてるっていうよな」

「ホントなんだか怪しいけどなあ。っていうか何とやって数えてんだべ、そんだけの人数」

「あれでしょ、双眼鏡片手にかちかちカウンター押してさあ」

「日本野鳥の会?」

「それそれ。そうでもさねえばウン十万なんて数、数え切れっこねえべ」

「でもよ、それやったら重複する人とか出るんでねえ? 絶対十万くれえはサバ読んでるって」

「会場見れば、そんくれえの数は余裕でいるって気もするけどなあ」

 こんなふうに先輩たちがわいわい語るのを小耳に挟みつつ、真由は先立って家までの道を歩いていた。待ち合わせ場所に指定された近所のイベントホール前、そこに集ったのはちなつ、日向、雄悦、泰司の四名。杏と奈央は何やら所用で遅れるらしく、真由の家に直接赴くとの事だった。そんな彼女たちのため、真由はゆうべのうちに自宅周辺の見取り図を書いたメモを渡してある。地元に暮らして長い杏と奈央であれば、あれさえあれば道に迷うということは無いだろう。

「黒江先輩ん家ってどんなトコなんすか? やっぱ総二階のガレージ付きとか、庭で犬飼ってるとか?」

「いや、うちは転勤族だし、そんなすごいところには住めないから。アパートって言ったらそんな感じなんだけど、一応はお父さんの勤め先の社宅、みたいなことになるのかな」

「そうなんっすか。アパートなのに社宅って何かすごいっすね、どんなトコなのかチョー楽しみっす」

「石川っちぃ、はしゃぎてえのは分かんだけどさ、言ってることが支離滅裂んなってるど」

 日向のツッコミに「ぐぇ」と泰司が喉を詰まらせる。こうして皆が楽しく賑わっている中、雄悦だけはどうしてか、ちょっぴり浮かない様子だった。

「どうした雄悦、なんか顔色悪りいぞ。もしかして、たったここまでの歩きでもうバテてんの?」

「んなわけ無えべ。てかヒナ、どんだけ俺のこと虚弱体質だと思ってんだよ」

「どんだけも何も、家から学校までたかだか何百メートルのランニングでひいこら言ってるぐれえだしねぇ」

 冷やかしめいた日向の物言いに雄悦がギリリとほぞを噛む。せっかくの祭日なのだし、険悪な空気になるのはやめていただきたい。と、そこでちょうど、向こうに真由のアパートが見えてきた。あそこです、と指を差して話題を逸らすと、不機嫌そうにしていた雄悦もはたとそちらへ目を向ける。

「思ってたより、なんつうか、普通っすね」

「どんな想像してらったのよ。アパートだ、ってさっき真由が言ってらったべ」

 どこか呆然としている様子の泰司にちなつが呆れ顔を向ける。共用階段をあがり玄関のドアを開けると、そこでは母が出迎えのために待ってくれていた。

「ただいま」

「おかえり真由。そちらの皆さんが、吹奏楽部の?」

「うん。この人がいつも話してる、私の直属の先輩」

 真由が手で示すと、ちなつがやや畏まったような表情をして一歩前へと進み出た。

「初めまして、吹奏楽部部長の荒川ちなつです。いつも真由さんにはお世話になってます。今日はよろしくお願いします」

 皆を代表してあいさつをし、ちなつが丁寧にお辞儀をする。母はそれに「こちらこそ」と朗らかに応じた。

「真由がいつもお世話になってます。狭いところで申し訳ありませんけど、今日はゆっくりしていらして下さい」

「そんな。私たちのほうこそ大人数で押しかけてしまってすみません。お約束通りご迷惑が掛かるようなことはしませんので、どうかご安心下さい」

 真由の母と面したちなつの物腰は何というべきか、対大人のやり取りに場慣れしているといった雰囲気を帯びていた。後になって気付いたことだが、この時のちなつは普段の訛り口調でなく標準語で話すなど、秋田の文化にまだまだ疎い母に合わせた気遣いの姿勢をも覗かせていた。それももしかしたら彼女の育ってきた境遇によるところが大きいのかも知れない。やや大人びたちなつの畏まりぶりを解きほぐすように母がにっこり微笑むと、安堵を得たちなつもまたその表情をホツリと緩める。

「会場に行くのは確か、七時前ぐらいだったわよね?」

 母の問いに、そうです、とちなつが頷きを返す。

「もうすぐ昼花火が始まるんですけど、私らはそれが終わった後の夜花火から会場で見るつもりなので」

「お夕飯も屋台のものだけじゃ足りないでしょう。お口に合うか分からないけど、軽くつまめるものを用意しておいたから、もし良ければ食べてってちょうだいね」

「いいんですか? お邪魔させていただく上にご飯までなんて」

「もちろん。せっかく用意したんだし、食べてくれた方が嬉しいわ」

 母の快い言葉に、ちなつたちは「ごちそうになります!」と元気に頭を下げる。

「本当にすみません、何から何までお気遣いいただいて」

「いいのいいの、私も好きでやってるだけだから。さあ、どうぞ上がって」

 はい、と返事をした一同がぞろぞろと敷居を跨ぐ。引っ越してからこっち、家に招き入れたことがあるのは早苗を始め幾人かのクラスメイトだけ。普段は部活の場で共に過ごす人たちがこうして我が家にいる光景というのは、なんだか不思議なくすぐったさを覚えるものがある。

「いいお母さんだな、真由」

 玄関で靴を脱ぐとき、ちなつは真由にそう耳打ちをした。ありがとうございます、と返す真由に、ちなつがむっくりとした笑みを浮かべる。彼女が見せたその表情には、久方ぶりに触れた母性のぬくもりを噛み締めているかのような質感があった。

「すげえ……いいにおいっす……」

「あっちゃあ。石川っち、完全に夢の国に旅立ってるわコレ」

「でも、確かにいい匂い」

「そうっすよね荒川先輩。ヤッバイっす、俺いま猛烈に感動してるっす。黒江先輩ん家のにおい、最高っす」

「いや、私は料理の匂いのことを言ってんだけど……家って?」

 どうも今ひとつ噛み合わぬ会話を背にしつつ、真由は皆をリビングへと案内する。食卓にはエビチリやら唐揚げやら、母お手製のオードブルがところ狭しと並んでいた。その一部には真由がお手伝いしたものもある。

「おわー、どれもこれもすんげえ美味そう。ヨダレが止まらん」

「こらっヒナ、行儀悪いこと言わねえの」

「母ちゃんみでンたこと言うなよ、ちなつぅ」

 その軽妙な掛け合いに、真由はつい笑ってしまう。そしてそこではたと気付いた。一口に母と言っても、そこには様々な意味合いが存在している。ママみたい、と誰かに言われることは、傍から見れば大して気にするようなものでもないのかも知れない。そうと思ったときにほんの少しだけ、真由の心は軽くなった。

「やあ、どうもどうも皆さん。私が真由の父です」

 皆が食卓についたタイミングで、トイレかどこかに行っていたらしい父がひょっこりとリビングに姿を現した。「お邪魔してます」と頭を下げたちなつに父はやたら改まった最敬礼を返す。祭日だからと昼過ぎから一人お酌を始めていた父は、まだ日暮れも迎えぬうちからすっかり酔っぱらってしまっていた。

「皆さんが遊びに来てくれて、ボクも本当ぉーに嬉しいです。どうか今後ともうちの真由を、黒江真由をよろしくお願いします」

「ちょっと、やめてお父さん。それはさすがに恥ずかしい」

「そうよあなた。選挙に出馬するわけでもあるまいし」

 母の容赦ないひと言に、ブッ、と日向が噴き出す。直後にちなつのチョップがいい角度で日向のこめかみを捉え、「あぎゃっ」ともんどりを打った日向はそのまま床に倒れ伏した。

「もう、お父さんたら。ほらほら、この人の事は気にしないで、皆さんどんどん召し上がれ」

「じゃあすみません。お言葉に甘えて、いただきます」

「いただきます!」

 わいわいと賑わいつつ、各々が小皿に料理を取っては口に運んでいく。うめー、すげー、という声があちこちからこぼれる中、真由もまたサンドイッチと母の作ったベーコンのチーズ巻きを自分のお皿に取り分ける。母に教わりながら作ってみた、ハムと玉子のサンドイッチ。照れくささからあえて皆には言わずにおくことにしたものの、果たしてその売れ行きはいかばかりだろうか。

「これ、めちゃくちゃ美味いよ。これ作んの真由も手伝ったの?」

「はい、まあ。ほんのちょっとだけですけど」

 ちなつへの返答として、真由は指でその度合いを示してみせる。それは謙遜でも何でもなくただの事実だった。母の料理好きは筋金入りで、自分などは逆立ちしたって勝てそうもない。真由は常々そう思っている。

「やばいわー、ホントやばい。こんな美味えもん毎日のように食えんだったら私、将来黒江ちゃんに嫁ぎてえ」

「無理だべ。っていうか楽することばり(ばかり)考えねえで、自分で作れるようになればいいべった」

「それが出来たら苦労しねえよぉ。それに私は、人に作ってもらったものを美味しく食べることに自信がある!」

「後輩の前で堂々とダメな宣言すんなっ」

「あぎゃっ」

 ちなつたちのプチ漫才をよそに、男子二人は黙々と目の前の皿に盛った料理を口に運んでいる。特に恍惚の表情を浮かべたままでサンドイッチを頬張る泰司などは、もはや無我の境地とでも言えそうな具合だった。

「美味えっす……美味えっす……最高っす……」

 何がそんなに最高なのか良く判らないが、ともあれ真由手ずからのサンドイッチも、泰司のお気には召していただけたらしい。そのことには内心感謝しつつも、真由は唐揚げの刺さったミニフォークを口元へと運ぶ雄悦の様子をちらと窺う。食べることは食べているが、どこか気もそぞろといった按配で、彼はさっきからしきりに玄関の方を見やっていた。

「どうかしたんですか、雄悦先輩」

「うん、いや、べつに何も」

「ひょっとして料理、あまりお口に合いませんでしたか?」

「何いー、ナマイキこくなよ雄悦。せっかく黒江ちゃんとお母さんが腕により掛けて、こんなご馳走作ってけだ(くれた)ってのに」

「んでねえって、大したことじゃねえがら。日向もいい加減なこと言うなで」

「大丈夫ですよ日向先輩。雄悦先輩もこう仰ってますし、たぶん私のカン違いです」

 そう言って日向をなだめつつ、真由はひっそりと確信を抱く。雄悦が気を揉んでいるのは料理のことではない。というより料理の味などきっと、今の彼にはどうでも良いことなのだ。雄悦の関心を占めるもの。それはもうすぐここへやって来る。

 ピンポーン。

「お、来たかな?」

 呼び鈴の音に、来訪者を予見したらしきちなつが立ち上がろうとする。いいです先輩、と彼女を制し、真由はぱたぱたと玄関に向かった。

「おばんですぅ。小山ですけど、真由ちんのお宅でしょうか?」

「はい。今開けますね」

 ノブを回して扉を開ける。そこに立っていたのはTシャツにホットデニムと、いたってラフな格好をした杏だった。何に使うつもりなのか、彼女は己の胴回りほどの大きさがあるバッグを肩に担いでいる。そして、

「うわ……」

 杏の後ろに立つ奈央、その装いを一目見て、思わず真由は息を呑んだ。薄紅色を基調とした可愛らしいたんぽぽ柄の浴衣と、機能美に優れる扁平型の小町下駄。くるりとアップにした後ろ髪を留める、桜の花をあしらったかんざし。帯にはきちんと団扇までつけてある。元が華奢な分、和装姿の彼女はまさしく大和撫子と形容するに相応しいあでやかさだった。少し上気した頬に掛かった横髪をスウと指で掬うその仕草には、こう言っては失礼に当たるのかも知れないが、日頃覗かせぬ色香すら漂っている。

「ごめん真由ちゃん。これの着付けさ、思いのほか時間掛かっちゃって」

「で、奈央ちんに付き合って一緒に来たからアタシも遅れちった。みんなは?」

「もう中に入ってます。ご飯も用意してあるので、先輩たちもどうぞ」

「やったー! ちょうど腹ペコでさ。途中の屋台でなんか買おうかなって散々迷いながら、ンでもガマンしてここまで来たんだよ。ただでさえ遅れて行くのに道草食ったらみんなに悪いと思ってニャー」

 おじゃぁしやぁす、と砕けた調子で杏がドタドタと室内へ上がり込む。それを見送ってから、真由は奈央へと視線を移した。浴衣を着慣れていないからなのか、それとも何かを懸案しているのか、奈央は玄関のところに突っ立ったままでもじもじするばかりだった。どうぞ、と追って声を掛けても、奈央はその場から動こうとしない。

「あ、あのな、真由ちゃん、その」

「どうしたの?」

「えっとな、これどう思う? 私の浴衣姿、ヘンでねえ?」

 なるほど、奈央が気にしていたのはそれだったのか。くすりと笑い、そして真由は思ったままのことを正直に伝える。

「すごく綺麗でびっくりしちゃった。奈央ちゃん、浴衣似合うね」

「ホント? お世辞とかでねくて?」

「もちろん。普段の元気な奈央ちゃんも良いけど、今日の奈央ちゃんもお淑やかな感じがして、とっても素敵だよ」

「……良がったぁ」

 安堵と恥じらいをない交ぜにしたみたいに、奈央は顔をうっすら赤らめた。自らが不安に思うほど渾身のおしゃれ、彼女はそれを果たして誰に見せるつもりであったのか。――そんなことは問うまでもない。からころ、と下駄を鳴らしながら玄関へと立ち入った奈央の手を、真由はただそっと優しく導いた。

 

 

 皆で夕食を食べ終えた後は出発までの間、真由の自室で時間を潰すこととなった。入室するなり「おおおお……」と良く解らない感嘆のような声を洩らした泰司のことはさて置いて、日向や杏はさっそくとばかり真由のお部屋チェックに興じ始める。

「思ってたより物が少ねえっつうか、広々してんね。もしかして黒江ちゃんってミニマリスト?」

「そんなじゃないです。ただうちって引っ越しが多かったもので、使わないものは段ボールに入れてしまっておくことが多くて」

「本棚も参考書とか問題集以外には、音楽関係のヤツばっかー。真由ちんって漫画雑誌とかファッション誌とか買わないの?」

「そういうのにはあんまり興味が無くて。ファッション誌も、たまに読むぐらいです」

「ダウト! それぜーったいダウト!」

「うるせえ杏、ちょっと落ち着け」

 いつもの如く跳ね回ろうとした杏を、日向が手短に諫める。何せ六帖しかない真由の自室。いくら家具が少ないとは言え、真由も含めれば総勢七名にもなる大人数を一度に収めるには少々どころでなく窮屈だ。こうした事情から一同は入れ替わり立ち替わりで起き伏しを繰り返し、時には真由のベッドをもソファ代わりにするなどして、各々の過ごすスペースを確保していた。

「おおっ!」

 と、机の本立てに目を留めたちなつが、いくぶん興奮したように唸りを上げる。

「これ、やっぱ真由も持ってたんだ。『たのしいユーフォニアム』」

「あ、そうです。もしかして先輩もですか?」

「もっちろん。ていねいにユーフォの吹き方解説してくれてるし、小学校の頃はずいぶんお世話んなったよ。他にも教本はいろんなの買ったけど、これだけは今でもたまに読んでるってぐらい」

「私もです。ユーフォ吹いてる子って、最初は大抵これですよね。解りやすいけどすごくツボを突いてるっていうか、ユーフォを吹く上でいちばん大事なことが書いてあるような気がして。ときどき初心に返るつもりで読んでます」

「これ書いた進藤さん、演奏もすげえ上手いんだよな。真由も聴いたことあると思うけど」

「もちろんです、CDも何枚か持ってます。せっかくですし、いま流しますか?」

「気ぃ利くねえ。さすが真由」

 お褒めの言葉に恐縮しつつも、真由はいそいそと戸棚から『Euphonium』と書かれた一枚のCDを取り出す。青を基調としたシンプルなパッケージを飾る白銀のユーフォは自分の愛器と同じ型番、同じカラーリングだ。楽器購入の際にそれを意識したという訳ではなかったのだが、このパッケージを目にしたときには心底驚いたものだった。憧れの奏者と同じ楽器を使っているのかも知れない。そう思って飛び上がりそうになるほど嬉しかったのを、真由は今でも昨日のことのように覚えている。

 再生のボタンを押すと共にスピーカーから流れ出る、豊かで抑揚の利いたユーフォの美しい音色。それをじっくり噛み締めるように、ベッドの上のちなつは目を伏せ聴き入っていた。

「ああ、やっぱ良いなあ。進藤さんのユーフォ」

 そんなちなつのことを、日向が少し哀しげに見つめている。きっとちなつのこういう姿を、日向は何度も何度も見てきたのだろう。だからこそ彼女はちなつの本心を知り、そしてちなつの進みゆく道を『勿体ない』と思っている。それを知っている真由もまた、今は日向と同じような気持ちだった。

「他にも進藤先生のソロ演奏集とか、トランペットとのデュオ音源もありますよ。先輩さえ良ければお貸ししますけど」

「マジ? どうしよっかな、うーん」

 腕組みをして悩むちなつに、プレイヤーなら私が貸すで、と日向が気前良く胸を叩く。『姉がいる』と言っていた日向の家にはひょっとして、こういった音楽機材の類もそれなりに置いてあるのかも知れない。

「へば今度頼もうかな。今日はこのあと会場行くし、もしどっかに置き忘れたり壊したりしたらいけねえから」

「分かりました。じゃあ明後日、学校でお渡しします」

 真由のその一言に、明後日? と間の抜けた声を上げたのは泰司だった。

「明後日って、何かありましたっけ?」

「えー石川ちん、そりゃちょっとトボけ過ぎでしょ。明後日からはもう休み明け、二学期開始だよ」

「え。うわ、うわ、やべえすっかり忘れてた」

 杏の指摘を受けた泰司の顔色が、途端にさあっと青ざめていく。彼のそんなただならぬ様子を、目ざとい日向は見逃さなかった。

「やべえ、って石川っち。まさか宿題でも残してんの?」

「ぅえ、っと、まあ。ちょっとだけ、っすけど」

「ちょっとってどんくらいよ」

「いや、それは、そのう」

「いいがら男らしくハッキリ言え」

「はっはいっ。国語の課題が丸々と、英語、数学が半分ぐらい。……それに、他の教科も同じぐらいっす」

「オメエそれ、全然やってねえじゃん!」

 やべえどころの騒ぎでねえべ、と一同が大爆笑する。その賑わいの合間に真由はふと、部屋の隅でひざを折って座る奈央と、その傍らで周囲に話を合わせるフリをしていた雄悦を交互に見やる。チラチラと雄悦に目線を送る奈央。それに対し雄悦は、彼女の浴衣姿に何一つとして触れようとはしなかった。

 

 

 

 それから小一時間ほどが経ち、茜色の夕空が濃い紫紺へと塗り替わる頃。

 

 

『……会場にお越しの皆様に、大会本部よりお知らせがあります。間もなく夜花火の部を開催いたします。開会に先立ちまして、大会委員長よりごあいさつがございます……』

 黒江家を出発し、本日の会場である雄物川河川敷へと移動した真由たちを待っていたのは、人混みなどという言葉さえ生易しく思えるほど圧倒的な群衆の大洪水だった。一キロメートル以上も伸びる河川敷の一面には巨大な桟敷席が築かれ、その背後を飾るように無数の屋台が軒を連ねる。暗闇の中でも視程を確保できるようあちこちに設けられた電飾が煌々と、まるで夜空を彩る星々のようだ。その合間を忙しなく移動する人々はさながら海中の魚群のごとく、互いに押し合いへし合いしながら縦横に行き来している。そんな状況でも危険の無いよう、場内各所に配備された警備員たちは手に持った拡声器で、階段で立ち止まらないで下さーい、ゆっくり歩いて下さーい、とひっきりなしに声を掛けていた。

 これが音に聞く大曲の花火。想像を遥かに超えるその壮大さに、真由はすっかり呑み込まれる。

「さて、こっからははぐれねえように注意しねえとな」

「どうする? みんなして手でも繋いで歩く?」

「小学生じゃあるまいし、そんなの恥ずかしくてやってらんねえべ」

 苦笑に口角を歪めるちなつに、へばこうするべ、と杏は手を挙げた。

「前の人さピッタシくっ付いて、適当に落ち着けそうなトコ探そうよ。もし途中で誰かが居なくなっても、十分経って合流出来ねがったらここさ迎えに来るってことで」

「お。杏にしちゃあ名案じゃん、それ」

「ひと言余計だよぅ、ちーちん。アタシの頭脳はいつだって冴えてんの」

 ぶー、とむくれる杏を「まあまあ」と日向がなだめすかす。そのとき雄悦は少し熱のこもった視線で、愛嬌振りまく杏のことをただじっと見つめていた。

「したら今の採用。とりあえずどっか落ち着いて観れそうなトコ探して、うろついてみるべ」

「おー!」

 こうして一行は堤防道路の大階段を降り、会場へと足を踏み入れる。八月下旬とは言え、川岸から吹きつける夜風の温度は涼しいどころかもはや肌寒い、と表現した方が近かった。それでも歩いているのと場内の熱気のおかげで、今はさほど気にならない。お気に入りのワンピースの胸元をパタパタとあおぎながら、真由は辺りを眺め回す。

「真由ちん、人混み平気?」

「大丈夫です。けどすごく蒸れてて、ちょっと動いただけで汗かいちゃいそうですね」

「今は暑いと思っても晩げになれば冷えっからね。ちょっとでも寒いって思ったら、ちゃんと持ってきたパーカー着ねえばダメだよ」

 珍しく杏が忠告を垂れる。それは家を出るちょっと前、ちなつ達にも指摘されたことだった。上に一枚羽織るもの持ってきな。そう言われて、真由はかさばらないミニバッグにカメラとパーカーを詰め込んである。ボトムスだって保温効果のあるダークグレーのレギンスだ。こうした対策を用意してあるのは他の面々もおおむね同じらしく、彼らはそれぞれ予備の上着をリュックに収納していたり、あるいは腰に巻くなどしていた。

「そういう杏先輩は平気なんです? けっこう薄着ですけど」

「アタシ? アタシは大丈夫。バッグん中さはスウェット上下、それでも足りない時用のブランケットまで完備です」

 にひー、と自慢げに浮かべた杏の笑顔には、彼女に良く似合う八重歯が覗いていた。あの大きなバッグの内容物は全て防寒対策の品だったのか、と真由もようやっと合点がいく。

「雄悦ー、オメエ背ぇ高えんだから、誰かはぐれねえように後ろから見てれよ」

「分がってら」

 最前線を歩くちなつの声に雄悦が手を振って応じる。手を繋ぐまではしないものの、一列になって歩く真由たちはそれぞれ前の人の服や裾、ベルトや肩などを掴んで隊列を保ちながら、来場者の波間をかき分けるように進んでいく。

「どこもかしこも人でいっぱいだなあ。これ去年より観客増えてるんでね?」

「ちなつぅ、まだ見つかんねえの?」

「本当に凄いですね。ここまで人手が多いなんて思ってませんでした」

「黒江先輩はクレープとたこ焼き、どっち派すか? もし良かったら俺、あとで買って来るっす」

「こらこら石川ちん。あんま他所見してねえで、きちんと真由ちんについてってよ。奈央ちんは足元だいじぶ?」

「こっちは大丈夫っス。ユウ先輩、ちゃんと付いてきてます?」

「……おう」

 こんな調子で一団は、さながらムカデのように連なりじりじりと前進を続ける。都合数百メートルは歩いただろうか、やがてちなつが「お、あそこ良いかも」とたむろできそうな場所を見繕い、真由たちはようやっと観衆の本流から抜け出ることを許された。ぶはあ、と疲労の息をついた日向が、手に持っていたジュースのボトルに口を付ける。

「あーヤバイ。移動だけでなんかもう、今日のエネルギー使い果たした気分」

「でも、何とかオープニングに間に合ったな」

 移動中に大口径のスピーカーから聴こえていた主催者挨拶の類も、いつの間にか終わっていたらしい。始まるで、とちなつに肩を叩かれ、真由は会場正面の上空へと目を向けた。開始を告げる号砲の花火玉が硝煙の螺旋を描きながらひゅるひゅると昇っていき、見上げた先の頂点で眩く爆ぜる。ズドン、という強烈な衝撃に、真由の体は芯から揺さぶられた。

「凄い。なんていうか、花火の音に包まれてるみたい」

「そこに一発で気付けるとは、さっすが黒江ちゃん」

 そう言って、日向は打ち上げ場所である対岸のさらに向こう側、黒々とそびえ立つ姫神山の方角を指差す。

「あっちに会場を取り囲むように山並みがあるじゃん? それのおかげで、花火の音がこっちまで反響してくるんだって。ちょうど私らが演奏する時に使うホールみでンた形状、っつうことだね」

「こうやって実際に体感しながら説明されると、すごく納得です。詳しいんですね日向先輩」

「まあ半分以上、父ちゃんからの受け売りだけどな」

 にっかりと笑った日向が再び空へと視線を送った。スピーカーから流れ出す柔らかいメロディに乗せて男性ボーカルの豊かな歌声が場内に響き渡り、それを開幕の合図として大玉の花火が次々と夜空へ打ち上げられていく。

――舞い上がれ、美しく、全ての祈りを、抱き締めろ……二度とない、パノラマを、あなたの瞳に、映し留めて――

「わあ、」

 視界いっぱいに広がる大輪の花、花、花。赤く青く、時に花びらや蝶の形を取って、変幻自在に飛び出す火の粉が数々の模様を描き出す。風圧さえ感じる炸裂音がおなかに響き、それが脳天にまで達した瞬間ビリビリと、言葉にできない不思議な多幸感が体中を満たしてゆく。

 間近で花火を見たことはこれまでにも何度かある。けれど、ここまで強い衝撃を受けたのはこれが初めてのことだった。桟敷席の向こう側が長大な滝のごとき仕掛け花火によって真っ白になるほど光り輝くと共に、オープニングセレモニーの締めを飾る数十発ものスターマインが連続で炸裂し、大太鼓を打ち鳴らした時のような振動が次々と全身を突き抜けていく。期待を遥か上回るその圧巻の大迫力に、会場中からは最大級の歓声と万雷の拍手とが惜しみなく注がれた。

「な、ここまで見に来て良がったべ?」

「はいっ」

 日向に返事をした真由の声が興奮に上擦る。気付けば息を止め、夢中になって花火を観ている自分がそこにいた。

「けど、これで満足すんなよー。大曲の花火にゃあ『大会提供』っつうのがあってさ。今のが可愛く思えるってぐれえ、すんげえ花火がドカドカ上がるんだから」

「これ以上すごいって、ちょっと想像つかないです」

「んだったら、今日は黒江ちゃんの今まで知らなかった世界が開拓できそうだねえ。私もこんな活き活きしてる黒江ちゃん初めて見るし」

「活き活き、ですか?」

 そう言われてぺたぺたと、真由は自分の顔を両手で探る。それを見た日向は愉快そうに含み笑いを漏らした。

「いつもはおっとり大人しいって感じだけど、今はメチャクチャはしゃいじゃって、楽しそうだで。サンタさんからすんごいおもちゃをプレゼントしてもらった小っちぇえ子どもみてえに」

 本当にそんなふうになっていたのか、自分では分からなかった。だが今までにないほど高揚し、感動している、それは否定のしようがない。

「先輩たちは小さい頃からずっと、こんなにすごい花火を観てたんですよね」

「まあ、年に一度のビッグイベントだしな。小学生ぐれえの頃は単にお祭り楽しいーってぐらいにしか思ってねがったけど、最近になってやっと花火そのものが良いなあって思えるようになってきた、かな」

「そうなんですね。何だか私、解った気がします」

「解ったって、何が?」

「ここが、曲北がどうして、マーチングで強いのか」

 音と光の芸術。それは花火の何たるかを端的に表す言い回し。この素晴らしさをこうして毎年のように体感してきた彼女たちの血肉には、音と動きを融合させた美を表現する、そういう文化が脈々と息づいているのだろう。奇しくもそれは入部式の日、まっさらな新入部員たちに向けて永田が語り聞かせた言葉と同じことだった。

『観た人の心を芯から揺さぶるようなものを作ること。それが出来なければ芸術じゃありません』

 それを体現するものが、まさしく目の前にはある。当代最高峰の職人たちによる、火薬と音を用いた刹那の芸術。それを意識の底に刷り込んできた人たちにはきっと、目指すべきものが自ずから分かっているのだと思う。目標と目的。その明確な違いを理屈ではなく実感として、真由は自分の心と体に刻み付けていった。

「第ぃー、九ぅー、号ぉー」

「十号、(しん)(いり)(わり)(もの)(のぼり)()(ばな)(つき)四重(よえ)(しん)(ひき)(さき)(べに)(こう)()。十号、自由玉、『まどろみの星』。創造花火、『たゆまぬ前進、いざ叶えよ、未来のジャパニーズ・ビジョン』。株式会社、ツブラヤエンタープライズ」

 出番を告げる太く渋い男性の声が場内に轟き、その後に続けて花火の内容および演目を女性がアナウンスしてから花火が打ち上がる。このような形式で、大会の次第は矢継ぎ早に進められてゆく。

 一括りに花火と言っても、こうして見ているとその形態は様々だ。ひたすらに大きいもの。二重三重と花の芯が折り重なったもの。弾けた火花がクルクルと回りながら飛び交うもの。動物やキャラクターの絵柄を象ったもの。そのどれもが見どころあって、筆舌に尽くしがたい。なかでも散り際にゆっくり広がり降りる『しだれ柳』の醸す余韻には、胸を焦がされるような思いさえする。

「第ぃー、十ぅー、三んー、号ぉー」

「十号、芯入割物、(のぼり)曲導(きょくどう)(つき)三重(みえ)(しん)変化(へんか)(ぎく)。十号、自由玉、『再生への光』。創造花火、『ジャスト・イン・タイム』。株式会社、小林煙火工業」

「お、次は地元の会社だな」

 ちなつが首を伸ばしたその隣で、どうにか花火のこの綺麗さを上手く写真に収められないものか、と真由は悪戦苦闘していた。夜間の花火撮影にはいろいろと調整を利かせられる方が良い。そう見越して今宵はデジタルカメラを持ち出したわけなのだが、どう設定をいじってもボヤけたような火の玉しか映らず、なかなかこの美しさを思うように捉え切ることが出来ない。そのうち調整を試みるのにも疲れた真由はカメラをミニバッグに戻し、肉眼のみで花火を楽しみ始めていた。写真帳には残せないが、心という名のフィルムにその一瞬一瞬は焼き付いている。きっとそれで良い。花火本来の楽しみ方としては多分、こっちが正解なのだ。

「……煙が晴れますまで、今しばらくお待ちください」

 打ち上げ後にこのような女性のアナウンスが入り、杏が「あーあー」と少々残念そうな声を上げる。

「さっきんトコ惜しかったね。せっかくきれいだったのに、たかった煙のせいで花火埋もれちゃってて」

「しょうがねえよ。風とかの関係もあるべし、こればっかりはな」

 ちなつが手のひらを上へと伸ばす。来たときには吹いていた微風も、いつの間にかすっかり凪いでいた。おかげで寒くないのは結構なことだが、とは言え肝心の花火が煙に埋没して丸っきり見えないのでは元も子もない、とは真由も思ったことだ。

「次の花火上がるまで少し時間掛かりそうですし、何だったら今のうちにジュースとか食いもんとか調達しません? 俺、ひとっ走り行って来るっす」

 率先して腰を上げた泰司に「珍しく気が利くじゃん」と、日向が揶揄めいた誉め言葉を投げ掛ける。ちなつもまた、ぱんぱん、とお尻についた砂ぼこりを払いながら立ち上がった。

「泰司ひとりだと大変だべ。私とヒナも行くから、手分けしてみんなの分買ってこよ。お金は後でワリカンってことで」

「じゃあアタシらは、ここでお留守番!」

 杏と奈央は持ってきたバッグを椅子代わりに『テコでも動かぬ』とばかり、どっかりと座り込む姿勢を決め込んでいる。もっとも、体躯の小さな杏がそこに占める割合は少なかった。そのほとんどは浴衣姿の奈央が窮屈な体勢で過ごさず済むように、という杏なりの配慮だったのかも知れない。

「何か食いてえもんある?」

「アタシ焼きそばー!」

「焼き鳥もあるといいかも。飲み物は、ラムネとかサイダーでもいいよな?」

「したら俺はお好み焼きの方さ行くっす。希望あれば、クレープでも何でも買ってきますよ」

 用意の良いちなつは懐から取り出したメモに各々の希望を記し、そして担当区分ごとにちぎって渡していく。大まかな内訳としては泰司が粉物、日向が焼き物、そしてちなつがジュース類、という分担となった。真由を含めた残りのメンバーは揃って場所確保のための留守番係だ。

「へば行ってくるがら、杏たちは場所取りよろしくな」

「おねがーい」

 人混みの中へと消えた三人を見送って、それから居残り組同士は部のことや学校生活のよもやま話など、しばし歓談のひと時を過ごした。その最中、真由はもぞりと腿をすり合わせる。夜も更け徐々に下がってきた気温と時おり感じる川風のせいで、少し近くなったみたいだ。中空に漂う煙はまだ少しそこに残っていて、次の花火が上がるまでには若干の余裕がありそうだった。

「すみません。私も今のうちにお手洗い行ってきます」

 そう告げて立った真由のスカートを、杏がチョイチョイと引っ張る。

「真由ちん大丈夫? 一人でトイレ行ったりしたら迷っちゃわない?」

「トイレの場所は分かりますから。もしここに戻って来れなくなった時は、あそこの中央案内所の入口に立ってます」

「分がった、あんまり遅かったら誰か迎えに行かせるね。もうそろそろ大会提供の時間だし、()えぐ戻っておいで」

「はい。それじゃ行ってきます」

 杏たちに見送られ、真由は人混みを掻き分けながらその場所を目指す。辿り着いた無数の仮設トイレの前には既に、大勢の人々が列を作り順番待ちをしていた。急ぎたいのはやまやまだが、鞍替えしたところで他所が空いているとも限らない。おとなしく最後尾に並ぶこと十数分。無事に用を済ませた真由は、来た道をそのまま遡って皆のところへ戻る……はず、だったのだが。

「あれ?」

 ここだと思った場所には人影も無く、それどころか真正面の露店の配置も記憶のそれと全然違っている。途中までは合っていると思ったのに、どこかで道を一本間違えてしまったらしい。一度トイレのところまで戻り、そこからおぼろげな記憶を頼りに再び観覧場所までの道のりを辿ってみても、やはり同じところに出てしまう。おかしい。いや、迷っているというのがただの思い込みで、実は案外近くまで来ているのでは。そう思って必死に辺りを注視してみても、そのへんで留守番をしているはずの杏たちの姿は露ほども見当たらなかった。

 どうしよう、迷子になっちゃった。ドンドン、と打ち鳴らされる花火が真由の焦燥感をいやおう無しに加速させる。あれだけ自信たっぷりに心配ないと豪語してみせたくせに、言った傍からあっさり迷ってしまうだなんて。さらに都合の悪いことに、焦ってあちこち彷徨ったせいで、真由は杏と約束した中央案内所の場所さえも良く分からなくなってしまっていた。こんなことなら会場見取り図の一つでも持って来れば良かった、と悔やんでも今さら後の祭りというやつである。

 こうしていたって埒が明かない。どうにか会場全体を見通せるところまで行こう。そう思い立ち、真由はいったん堤防階段へと向かう。

「えっと、最初にあっちから来て、そこから流れに乗ってこっち側に進んできたから……あ、あそこだ」

 高いところからなら位置関係の把握にはさほど苦労しない。現在地から筋二つ分ほどを挟んだ向こう側に『中央案内所』と大きく書かれた電光板があるのを、真由はあっさり見つけることが出来た。このまま下へ降りて大通りを道なりに進めば、杏たちのいる観覧場所へはすぐ辿り着けるはずだ。

 うかうかしていると目当ての大会提供に遅れてしまう。急ごう。目的地を見定めて下り階段へ向かおうと思った矢先、どこからか聴こえくるその声に、真由はふと足を止めた。

「……何して、なんも言ってくんねえんッスか」

 今の声は、ひょっとして奈央? けれど辺りを見回しても、それらしき姿は影も形も見当たらない。そもそもこの騒がしさの中で、どうやってあんなかぼそい声を聞きつけられたのか。ひょっとして幻聴だったのでは? と思い始めたその時、会場とは反対側に当たる堤防下の緑地に明るいたんぽぽ柄が一瞬揺らめいたのを、真由はハッキリと視認した。

 そろりそろりと堤防を降り、近くの物陰に身を潜める。その位置からじっと目を凝らしてみると、少し離れた電柱の下に立つ女性の浴衣柄と全体的な雰囲気から、そこにいるのが間違いなく奈央であることが判別できた。いつになく真剣な表情を固める彼女の前にはもう一つ、背の高い男性らしき人影。暗がりのせいで風貌までは解らない。だがあの背格好は、もしかして。その正体を見極めるべく、真由は闇のど真ん中に向けて己の視覚と聴覚を可能な限り研ぎ澄ます。

「私、ずっと前から今日の花火、楽しみにしてらったんです。今日だけでねぐ、こないだの旅行んときだって。先輩といっしょに楽しい思い出いっぱい作れるんでねえがって」

 堤防が天然の壁となって会場の音を遮ってくれているせいなのか、この距離でも奈央の声はやけにハッキリ聴き取ることが出来る。対する男性の方はぼそぼそと、声量を絞って応答しているみたいだった。何かを喋っているのか。沈黙を貫いているのか。そもそも二人の間で会話が成立しているのか。それさえも、ここからでは分からない。

「今日だって、私なりに精いっぱいおしゃれして、先輩の気持ちをちょっとでも動かせたらなって。――本当は分がってたハズです、先輩も」

「……松田」

 低く、くぐもった男性の声。はっきりと聞き取れたそれはもちろん聴き覚えのある声だった。

「ですよね、ユウ先輩」

 やっぱり。奈央が話していたその相手は雄悦だった。その状況にゴクリと、真由の喉が緊迫の音を鳴らす。

「もう一回言います。私、ユウ先輩のことが、好きです」

 一息に奈央は言い切った。自分のことでもないというのに、真由は己の体がかあっと熱くなるのを感じる。けれど雄悦はそれに身じろぎ一つせず、それどころかこの状況を窮屈に感じているみたいに、何かを言い淀んでいる雰囲気さえあった。

「だけど、本当は私も分かってるんです。私のことなんかユウ先輩、全然見てねえってこと」

 声を落とし、そして奈央がうな垂れる。彼女のそんな姿があまりにも痛々しくて、もう見ていられなかった。だと言うのに視線は勝手にそこへびたりとくぎ付けにされてしまい、瞬きさえもかなわない。

「だがらもういっそ、先輩の口からハッキリ言って欲しいんです。ユウ先輩が誰を好きなのか。何で私のこと見てくれないのか。それさえ言ってもらえたらきっと、私も、それで先輩のこと、」

 諦められる。そんな言葉は、大会提供、という大音声の宣言にざらりと掠め取られた。最高潮に盛り上がった会場の熱気とは裏腹に、この周辺の空気だけがまるで真冬の夜空みたいに冷え切っている。スピーカーから流される重低音の大瀑布。夜空を彩る花火の閃光。そういう周囲の全てが今この場には何一つ影響をもたらさぬかのように、それはひどく静謐なひと時だった。

「本当に良いんだな。松田は、それで」

「はい」

 決然と頷く奈央の手はしかし、ぶるぶると震えていた。顔にも血の気は無い。まるで処刑台に立った囚人のように、直後に迎えるであろう残酷な瞬間を必死に耐え忍ぼうとしているのが見て取れる。雄悦もまた覚悟を決めたのか、スウ、と小さく息を吸うような音が聞こえた。

 もうやめて。奈央も雄悦も、どうか思い留まって。そう願う真由の想いは、けれど二人に届くはずも無かった。

 

 

 

 その日、夜空に咲いた花火は、恋の砕ける音がした。

 

 



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〈13〉勃発

 デスクに座る永田が何かを思案しながら、器用に指でくるくるとペンを回す。ちなつと共に職員室へと来ていた真由は顔を伏せ、じっと沈黙を貫いていた。

「……困ったことになったなぁ」

 ぱちん、とペンを紙の上へ置き、永田は深々と溜め息を吐く。ちなつもそこへ一度目をやり、そしてやるせなさに唇を噛み締めた。ペンが置かれた一枚のコピー用紙。そこには秋から始まるマーチングの練習に向けて組まれたコンテ、すなわち楽隊の動きを指定するための設計図が描かれていた。

 彼らを悩ませるもの。それが起こってしまったのは、今からおよそ一週間ほど前のことだった。

 

 

 

 

 

 

 花火大会の終わりと共に曲北は夏休み明けを迎えた。宿題の提出。級友たちとの久々の顔合わせ。始業式の日にやることは、どこの学校でもそう変わらない。

 八月も間もなく終わりを迎え、九月に入ると学内では文化祭や修学旅行など各種行事に向けての準備が本格化してくる。運動部所属の三年生は大半が夏までのうちに引退を迎えたらしいが、文化部は芸術の秋よろしくこれからが勝負の季節、といったところだ。それは真由たち吹部とて同じ。目下のところでは今週末に迫ったコンクール東北大会に向け、その為の練習がいよいよ大詰めを迎える、まさに佳境とも言える局面だった。

「奈央って、今日も学校休んでんの?」

「んだらしいな。さっき杏にも聞いたけど、まだ体調不良だって」

 パート練習の休憩中、楽器を下ろしたちなつと日向がそんな会話をしているのを、真由は譜面をなぞるフリをしながら聞き耳を立てていた。花火の夜に真由の自宅前で別れたっきり、週明けを迎えてからの三日間。奈央はずっと部活に、いや学校に姿を現さなかった。

「花火の日、なんかヘンなもんでも食って()()()()んだべが」

「そんなワケねえべ、それ言うなら私らだって同じもん食ってたんだし。あたるんだば皆平等に、だべ」

「奈央と私らじゃ胃腸の出来が違うって可能性は無いんですかねぇ、ちなつさん」

「それ自虐と変わんねえからな。っつうか、しれっと私まで巻き込むな」

 こうした会話を重ねているのは何も彼女らばかりではない。実は宿題やってなかった説、季節外れの風邪をこじらせた説、五月病ならぬ八月病説……部員たちはめいめい好き勝手な憶測を立ててはああでもないこうでもない、と一方的に話を膨らませていた。

 奈央の病欠。その真相を知っている真由としては、正直この手の話題には参加しづらい。うっかり口を滑らせれば奈央のプライバシーを損ねることになるし、かと言って丸っきり関わらないというのもあからさまに不自然だ。それは雄悦も同じらしく、奈央の話題が出る度に彼は口を真一文字に結んでむっつりと押し黙るばかりだった。

「まあ、とにかく早ええとこ治って戻ってくるといいな。東北大会まであとちょっとなんだし」

 ちなつのそんな何気ない発言に、カタ、と玲亜の椅子が小さな音を立てたような気がした。反射的に真由が見やると、玲亜はユーフォを膝に置いたまま、ちなつたちから目を背けるように顔を逸らしていた。それは先輩たちの会話にさしたる興味も無かったからなのか、それとも。

「にしても、夏ももう終わりかぁ。なんか今年もあっという間だったな」

 カレンダーを眺めながらしみじみと日向がこぼす。コンクールに海旅行に花火にと、確かに今年の夏は濃密過ぎて、それこそあっという間に過ぎ去ったという感じだった。

「どうだった? 真由ちゃん」

「ふぇ、」

 突然話しかけてきた水月に、真由はおぼつかない返事をしてしまう。他のことに思考を割かれている真っ最中に話を振られたって、何のことやらさっぱり分からない。体裁を整えるように「何の話?」と尋ね返すと、水月はクツリと笑って人差し指を立てた。

「夏の思い出。大勢であちこち遊びに行けたし花火も間近に見れたしで、楽しかったんじゃない?」

 まるでずっと観察していたかのような流暢さで、水月はこちらの心境を言い当ててみせた。少なくとも彼女の居る前では、誰もそこまで具体的な話をしていた覚えなど無かったのだが。一体誰から聞いたのか、と訝しがりつつも、とりあえず真由は彼女に話を合わせる。

「あ、うん、それはまあ。水月ちゃんこそ、どう過ごしてたの?」

「私も楽しんでたよ。家の事情で旅行とかはできなかったけど、今年の花火は玲亜ちゃんと一緒に見に行ったし」

「玲亜ちゃんと? そうなの?」

 意外な面持ちで玲亜を覗くと、彼女は「まあそうです」とでも言うかのように殊勝な頷きをよこした。どちらかと言えば自分のそれは、水月が誰かと花火を観に行く、という行動に対する驚きだ。先の言動からして、てっきり彼女はああいうイベントを忌避しているものだとばかり思っていた。あれだけの人出の中では行き会うことこそかなわなかったものの、あの会場のどこかにはきっと、二人でひっそりと花火を楽しむ水月たちの姿もあったに違いない。

「秋からも楽しいこといっぱいあるし、今度は真由ちゃんも私たちと一緒に楽しめるといいね」

「う、うん。そうだね」

 こわごわと首肯しつつ、緩やかに浮かべられた水月の微笑を、真由はサラリと撫でるように一瞥する。この時の彼女が何を考えていたか。結論から言えば、真由にはちっとも解っていなかった。

 

 

 

 奈央がようやく部活に姿を現したのは、果たしてその翌日のことだった。

「奈央ちゃん! ずっと休んでて心配したんだよ、もう!」

 ひときわの叫声が音楽室をつんざく。それはトランペットパートの女子が発したものだった。他の部員たちもにわかにどよめき声を上げたことで、部活前のミーティングは中断を余儀なくされてしまった。

「ごめんな。迷惑かけちゃって」

 群がる友人たちに、奈央がいくぶん困ったような表情で応対している。元より華奢な子ではあるのだが、久しぶりに見た奈央は頬もこけ血の気もどこか薄く、まさに病み上がりと言わんばかりの相貌となっていた。

「体のほうはもう大丈夫?」

 ちなつも労わるように奈央へ声を掛ける。はい、と小さく返事をして、それから奈央はこんなことを述べた。

「いやぁ、ご心配おかけしてすみません。花火の日に食あたり起こしちゃったみたいで、あれからずっと絶食状態で寝込んでたっス。昨日になってやっと落ち着いたんですけど、念のために一日様子見みたいな感じで家で過ごしてて。もう元気いっぱいなんで、今日からまたバリバリがんばります!」

 快復ぶりをアピールするかのように、奈央が両手でガッツポーズを作る。なんだー。胸を撫で下ろす部員たちが安堵と共に興味の熱を失うさまが、真由にはサーモグラフィで測っているかのように見て取れた。この状況でも未だ浮かぬ顔をしているのは自分と、あとは多分、雄悦ぐらいのものだ。

「おっひさー、奈ー央ちん!」

 ぱたぱた駆け寄ってきた杏が奈央にぎゅうと抱きつく。それは日頃と何ら変わりのない、仲の良い先輩後輩同士のじゃれ合いだった。少なくとも、事情をあずかり知らぬ者の目線からすれば。

「ずっと奈央ちんいなくてアタシ寂しかったよぉ。本当にもうだいじぶ?」

「はい。この大事な時期に何日も部活休んじゃって、すいませんでした」

「なんもだよー。東北大会までまだちょっとあるし、焦らねえで一緒にがんばろ!」

「はい! 私も先輩と一緒に吹けんの、楽しみにしてらったっス」

 奈央の元気そうな回答に、にはー、と杏が相好を崩す。ひまわりを思わせる彼女の明るい笑顔は、この件に関して訳知りの部外者とも言える真由からしてみれば、角砂糖をそのまま噛み潰したかのような甘くどさだった。

「……連絡事項は以上。それでは練習を始めます。今日も一日よろしくお願いします」

「よろしくお願いします!」

 ミーティングも滞りなく終了し、ちなつの号令で吹部はいつも通り本日の活動を開始した。皆がぞろぞろと音楽室を出て行く中、真由は楽器を置いて席を立ち、奈央の元へと向かう。自分でも良く解らない感情が、この時の真由を突き動かしていた。

「奈央ちゃん」

「あ、真由ちゃん。こないだは面倒なってごめんね」

 へら、と明るく笑いながら、奈央は真由にありきたりな謝辞を述べた。こうしていると奈央は本当にいつも通りの奈央、という感じだ。あるいはそう振る舞おうと彼女なりに努めているだけなのかも知れないが。

「体の具合、ほんとに大丈夫?」

「うん、おかげさまで。まあ昨日ようやく固形物食べれるようになったって感じだがら、まだちょっと体さチカラ入んねえとこはあるけど」

「くれぐれも、無理しないでね」

「もちろん。――あ、言っとくけど真由ちゃん家で食べたご飯のせいであたったとか、そういうことは無えよ、うん。多分だけど、屋台で買った焼き鳥か何かが生焼けだったせいだと思うがら」

 気にしねえで、と手を振る奈央に真由は小さく頷く。無論、そんなことは端から心配などしていなかった。もしかしたら全て本当に奈央の言っている通りなのかも知れない。たまたま運悪く食べ物にあたっただけで、長らく学校を休んでいたのもただそれだけの理由だった、という可能性だって否定はできないだろう。

 けれど。

「もし私で良かったら、いつでも話くらいは聞くからね」

「え、」

 奈央の瞳がぎゅるりと揺れる。いまの一言に込めた想いを、果たして彼女は受け取ってくれただろうか。辛うじて笑顔のような表情を保ったままで少し俯き、それから奈央は「じゃあ」と、真由のことを上目遣いで覗き込んだ。

「今日部活が終わってからちょっと、付き合ってもらってもいい?」

 

 

 夕暮れを迎えた表の空気はまだ八月とは思えぬほどの涼やかさで、確実に忍び寄る秋の面影を感じさせるものがある。ヒグラシの鳴き声すらどこか遠く、それは短い夏の幕切れを惜しむかのように、オレンジ色の空へカナカナと残響を放っていた。

 ハア、と息を吹きかけた手をすり合わせながら、真由は正面玄関のところで時間を潰していた。もちろん今日の練習を早めに切り上げ楽器も片付け終えた後のことである。その理由は他でもない、奈央を待つためだ。

『ちょっと杏先輩と話してから行くがら、真由ちゃんは先に玄関で待ってて』

 果たして奈央は杏に一体どんな用事があったのだろう。そんなことに想いを馳せつつ、真由は下校していく生徒たちの姿を一つずつ目で追っていく。夏までにはグループ単位で帰る生徒たちの方が多かったように思うのだが、今日はやけに男女二人が肩を並べて歩く光景を目にする機会が多い。それはひょっとして、部活に目処のついた上級生たちが残り少ない中学校生活を満喫すべく、今までと少し違う関係性へと一歩を踏み出したがためなのだろうか。

「ごめん、お待たせ」

 振り返ると、そこには膝に手をついて息せき切らせる奈央の姿があった。どうやら彼女はあまり長いこと真由を待ちぼうけさせないようにと、音楽室からここまで文字通り駆け足で降りてきたらしい。

「私は全然大丈夫。奈央ちゃんこそ、病み上がりで大丈夫?」

「もっちろん。それより早くしねえとお店閉まっちゃうがら、さぁ行こ行こ」

 まだ肩で息をつきながらも、奈央は真由の手を取り先へ先へと歩いていく。半ば引きずられるようにしながら学校の門を抜け、飲食店の通りを抜け。そうするうちに、いつしか二人は商店街の一角にある小さな喫茶店の前へとやって来ていた。

「ここ、私のお気に入りでさ。お母さんに連れられてけっこう良く来てんだ。さ、入るべ」

 先に立つ奈央が入口のドアを開けると、しゃらりん、と瀟洒なパイプチャイムの音が店内に鳴り響く。

「いらっしゃいませ――ってアラ、松田さんとこの奈央ちゃんだねが」

 カウンターに立つ女主人が、こちらを見るなり商売っ気のない口調に早変わりする。この応対の雰囲気からして、どうやら奈央や彼女の母は本当に常連客か、あるいはそれ以上の親しい間柄として認知されているらしかった。

「今日は一人? 珍しいな、お母さんと一緒でねえの?」

「そうです。あ、でも一人じゃねがった。今日は友達連れて来てて」

「あや、んだったの。まンず中さ入ってゆっくりしてちょうだい」

「ありがとうございます。さ、真由ちゃん。入るべ」

「う、うん」

 奈央の後に続き店内に入った真由は、しゃらりん、とドアを閉める。白塗りで素っ気のない外観とは裏腹に、店内は豪奢なアンティーク調の内装で統一されていた。中学生の自分たちが来るには何と言うか、ずいぶん場違いな気もする。だがそれは恐らく、同級生に鉢合わせしかねない他の場所よりもここの方が奈央にとって何かと都合が良い、という判断の結果なのだろう。

「さあて、今日は何飲もっかな。真由ちゃんも好きなの頼んでよ、今日は私のオゴリだがら」

「それはさすがに悪いよ。私、自分のぶんはちゃんと払うから」

「ダメ。私から誘ったのにお茶代ぐらい奢らねえば、こっちが申し訳ねえし」

「そんなの気にしなくていいって。奢られたりすると却って気を遣っちゃうから、苦手なの」

「んなこと言われたってさあ」

「じゃあこうしよう。今日は奈央ちゃんの快気祝いも兼ねて二人で割り勘、ってことで」

「割り勘かぁ」

 うーん、と奈央はひとしきり悩み、やがて諦めたように苦笑した。

「んだな。そんじゃあ今回は真由ちゃんのお言葉さ甘えて、そうしよっか」

 メニューを開いて頼むものを決めた奈央と真由は「すいませーん」と女主人を呼び、それぞれの注文を口にする。真由はブレンドコーヒーを。奈央はお店いち推しのカプチーノを。晩ご飯前ということもあって、豊富なサイドメニューには二人とも手を付けなかった。それからの数分間、目の前に湯気を湛えたカップが運ばれて来るまでずっと、互いの間に会話らしい会話は無かった。

「お待ちどうさん。なんか二人とも静かだねえ。どういうご関係?」

 女主人の突っ込んだ問いに、真由はぼやけた笑顔を返すのが精いっぱいだった。不自然さを生まないぐらいの絶妙なタイミングで、奈央が女主人に答える。

「部活でいっしょの友達です。今日はこの子さ相談したいことがあって。それでちょっと、お願いなんですけど」

「ああ、はいはい。女同士、二人きりで秘密のお話したいっちゅうことな」

「そンた感じです」

 んだねえ、と頬に手を添え、女主人は数秒ほど何かを思案する。

「もうすぐ店も閉める勘定(かんじょ)だったし、今日はちょっと早めに終わるンて。私も二階さ行ってるがら、二人でゆーっくり話してってけれな」

「すいません。お仕事なのに我がまま言っちゃって」

「なんもだよ、奈央ちゃんのお母さんさはいっつもご贔屓にしてもらってらしな。帰る時でもおかわりでも、用事あればいつでも呼ばってけれ」

 気さくな笑顔を浮かべながら玄関のオープンボードをくるりと裏返し、女主人はカウンター奥の階段をのぼっていった。これでさして広くもない店内は真由と奈央、二人だけの貸し切り状態。辺りに漂うのは眩暈がするほど豊かなコーヒーの香りと、少し弱々しい奈央の気勢だけだ。

「さて。準備も出来たし、そろそろ話そっかな」

 己に発破を掛けるようにひとりごち、それから奈央はカプチーノをひと口すする。

「もしかして真由ちゃんは何となく感付いてんだがも知んねえけどさ。休んでた理由、食中毒じゃねえんだ」

 うん、と相づちを打ちながら真由も奈央に倣い、なみなみと注がれたブレンドコーヒーのカップを口元に近付ける。熱いこと以上に、口の中に広がる強烈な苦みは脳天に突き刺さるほどだった。たまらず真由は近くのポットから砂糖を二つまみほどカップに投入し、添え付けのミルクも黒い湖面が明るい琥珀色になるまでたっぷりと注ぎ足す。ブレンドでさえこれなら、奈央がノンシュガーで飲んでいるカプチーノの苦さは、果たしていかばかりだろう。

「実は私、花火大会ん時に失恋しちゃって」

 切り出しは唐突だった。飲み掛けていたコーヒーが危うく気道に入り込みそうになってしまった真由は、んく、と奈央に頷くフリをして喉の調子を整える。

「んでフラれた理由なんだけど、相手の人にはもう他に好きな人がいるんだって。私のことはただの後輩としか見てねえし好きって言われたって困る、今まで以上の関係になるのは考えられねえ……って、ハッキリ言われちゃった」

 その断り文句は思っていた以上に痛烈で、慣れ親しんだ相手にするものとは到底思えないほどの辛辣さだった。こういう時、目の前の相手にどんな言葉を掛けてあげたらいいのだろう。そんな逡巡をこっそりと抱きつつ、真由は慎重に奈央の様子を窺う。少なくとも今のところ、彼女は悲しみに泣き崩れるわけでもなければ憤りを噴出させるわけでもなさそうだった。

「まあ、フラれたこと自体はそれほどショックでもねくてさ。最初っから分がってたっつうか、私の好きな人をAさんとしたら、AさんがBさんのこと好きなんだなあってのは、薄々知ってたし」

「奈央ちゃんはそれで、諦めがついたの?」

「諦め、っつうのかな。こういう気持ちって」

 どこかさばさばとした面持ちで、再び奈央がカップを口へと運ぶ。どうしようもないつらさや悲しみを抱える人が極度に辛い食べ物を求めるのは、自傷行為にも等しい。そんな話をテレビか何かで目にしたことがある。仮にそれが真理なのであれば、あるいは度を越した苦味というのも似たような効果を持つものなのかも知れない。カップの水位が下がるにつれて徐々に表情を歪める奈央を見ていると、そんなふうにも思えた。

「しょうがねえなあ、とは思うんだよ。AさんとBさんって小学校の頃からずっと一緒でさ。好きんなるのも解るっつうか、やっぱこういうのって理屈じゃないトコあるじゃん? 好きんなっちゃったんだからしょうがねえべ、みたいな」

「それは……何となく」

 未だ恋愛を知らぬ真由に、あまり大それたことは言えない。ただ世間一般の凡例から鑑みて、そうしたことはまま有るものだろう。恋は盲目とは良く言ったものだ。

「でもBさんはBさんで、別の人のことが好きみてえでさ。四角関係、ってやつなのかな、これ。だけど私の状況って、まだAさんのこと好きでいて良いのか、それとももう絶対叶わねえ恋なんだか、それがどうも分がんねくて」

 雄悦が奈央を振った理由。それは必ずしも杏のことが好きというだけではない。後輩としてしか見ることが出来ない、それ即ち、異性としてはこれっぽっちも意識していない。これが奈央にとってどれだけ惨たらしい通告であったかは、真由にだって理解出来る。

 花火の日にあれだけ着飾って、精いっぱいのおしゃれをして。そんな奈央のことを、雄悦はたったのひと言で容赦なく斬り捨てた。そうすることは彼にとってある種の誠意なのかも知れなかった。けれどその通告は奈央にしてみれば、これまでの努力も慕情も何もかもを否定されたに等しい。そして恐らくは、これからも、ずっと。

「もちろんAさんだって途中どっかで気が変わるかも知んねえし、Bさんにフラれて諦めたりするかも知んねえ。けど、なんかさ。自分なりに一生懸命頑張ってたのに、そんなの一切意味無かったんだなあって思ったら何つうか、体が思い通りになんなくて」

「うん。そういうのは解る、気がする」

 報われぬ労苦。実らぬ努力。その虚しさを十全に知っている、とは言いがたかった。そもそも最初から結果を期待するべきじゃない、などというありきたりな正論だって頭では分かっているつもりだ。けれどその一方で、取り組んだことの全てが箸にも棒にも掛からなかったという結末が、どれほど人を打ちひしがれさせることか。そういう人物を前にしてこんな残忍な論理を押し付けられるほど、真由の良心は世間擦れしていない。

「フラれた直後はもうスッパリ諦めよう、考えねえようにして明日からはいつも通りで過ごそうって思ってたんだけど、家さ帰って寝る時になって色んな事が頭ん中でぐるぐるし始めて。自分でもあんなワケ分かんねえ気持ちになるなんて思ってねくて、正直ビックリした。そのまま悩んでるうちに朝んなって、部活行かなきゃって思ってんのに、どうしてもベッドから起きれねがった」

「それでずっと休んでたんだね。部活も、学校も」

「もうこのまま辞めちゃおうか、って考えたりもした。こんな理由で辞めるなんてダメだってのは分かってたけど、だったら何をどう頑張りゃいいかももう分がんねくてさ。昨日までひと口も食べてなかったってのはホントで、部屋がらも全然出れねがったの。病院さは、さすがに行ってねえけどね」

 力無く笑い、そして奈央はグイとカプチーノを飲み干す。彼女のそれに対し、自分のブレンドはあんなに甘く仕上げたにもかかわらず、まだ半分以上も残ったままだった。

「布団かぶって目ぇ瞑る度に、あの日のAさんの言葉が耳に響いてくるんだよ。ンだけど不思議なことに泣く気力も湧いてこねえっつうか、涙がぜんぜん出ねくて。あれ、ひょっとして私、単にAさんに女として見られてなかったってのがショックなだけなんじゃねえの? ホントはAさんのこと、そんな好きでも無がったんじゃね? なんて思ったりしてさ」

「それは、違うよ」

 切り裂くように真由は口を開く。こちらの語気が向こうにも伝わったのだろう。それまで自嘲気味に口角を曲げていた奈央は途端、スッと真顔のような表情に戻った。

「ごめん。先に断っておくけど、私もそんな詳しいから言うわけじゃなくて。でもそんなに好きじゃなかったっていうのだけは、違うって思う」

 自分にとって、色恋沙汰は縁遠い。だから真由は他のことに置き換える。自分にとっていちばん想いを寄せるもの。いちばん心血を注いできたもの。それを失った時、それまでの全てを否定された時、最も辛いと感じるもの。そうなってしまうものを強く思い描きながら。

「きっと、すごく好きだったからだよ。本気で先輩のことが好きだったから、だから奈央ちゃんはショック過ぎて、まだきちんと受け止めきれない状況なんだと思う。だって奈央ちゃん、あんなに可愛い浴衣姿だったのに。あんなに一生懸命になってたのに。それが何一つ受け入れられなかったら、何一つかなわなかったら、絶対辛いはずだよ。本当はぼろぼろ泣きたいくらい、辛い、悲しいって思って当然だよ」

「真由ちゃん……?」

 奈央は呆気に取られたような顔をしてこちらを見るばかり。真由自身、自分が慰めているのか怒っているのか、それすらも良く分からなくなりつつある。けれど堰を切ったように、言葉は次から次へと勝手に溢れ出る。

「あの日の奈央ちゃん、すごくきらきらしてた。浴衣姿、ほんとに似合ってた。奈央ちゃんってこんな綺麗な子だったんだ、って見違えたくらい。先輩の好きな人に気付いたのだって、先輩のことをずっと見てきて、ずっと考えてきたからでしょ。そこまで頑張れたのも、奈央ちゃんが本当に本気で先輩のことを好きだったからだって思う」

 真由がまくし立てる間、奈央はさっきの表情のままでぴたりと固まっていた。もしかしたらこちらの怒涛の勢いに、彼女の中で処理が追いついていないのかも知れない。それでもいい。珍しく、だがこの時ばかりはさすがに、真由は憤っていた。

「例え先輩に通じなくたって、奈央ちゃんが頑張ってきたことが無駄になるわけじゃない。諦めなくちゃいけないかどうかは私にも判らない。けど、その気持ちまで全部無かったことにしちゃいけないよ」

 胸に手をぐっと押し当て、奈央がやおら苦しげに唇を震わせる。思いの丈を吐き出し切って、はたと真由は自分が息を切らすほど取り乱していたことに気が付いた。ごくりと唾を呑んで呼吸を整え、それから残っていたカップの中身をあおる。砂糖とミルクで緩和された苦味の束は既に温く、沁み渡るように咽頭を滑り落ちてゆく。

「……ごめん。なんか、一人で喋っちゃって」

「ううん」

 首を振った奈央はやにわに顔をしかめ、それからしゃくるように喉を鳴らした。

「良いのかな、私。自分なりに精いっぱい頑張ったこと、自分で認めても、良いのかな」

「良いに決まってる。――頑張ったよ、奈央ちゃんは」

「ありが、と。真由ちゃん、」

 声を詰まらせた奈央の眼から、ぼろり、と大粒の涙がこぼれ出る。きっと自身も知らぬ間に封をしていた彼女の感情は、ここでようやくこじ開けられた。

「ごめん、やっぱ私、私……」

 顔を歪め、瞑る瞼に押し出された水滴が、白鷺のような奈央の頬に幾つもの筋を作っていった。真由はポケットからハンカチを取り出し、それをそっと奈央の手に握らせる。そのハンカチで奈央はぐしょ濡れの顔を覆い、そのまま額を打ち付けるようにしてテーブルに突っ伏した。

 私、悔しい。

 引き絞るように漏れ出たその声は間違いなく、奈央の本音だった。

 

 

 あれから程なくして真由と奈央は店を出た。鬱屈していた感情をひとしきり爆発させたことでようやく収まりを付けることが出来たのだろう、その頃には奈央ももうすっかり落ち着いていて、別れ際にはいつものように彼女ならではの元気な様子を窺うことも出来た。

『先輩、じゃなくてAさんのこと、やっぱり今でも諦めきれねえし。けど、だがらってどうなるもんでもねえから、当分は保留ってことにしとこうと思う。でも真由ちゃんのおかげで何か、すげえスッキリしたよ』

 そう会話を結び、へばね、と手を振った奈央の笑顔には未だ、さっき飲んだカプチーノの苦味がほんのりと宿っているみたいだった。これからも彼女は雄悦のことを想い、そして今まで通り雄悦や杏と同じ時を吹部で過ごしていくのだろう。そこに辛さややるせなさといった、今までとは少し違う感情を抱きながら。けれど、この一件を通じて奈央は少しだけ強くなった。そんな彼女ならいつかきっと今日までのことを、輝かしい思い出の一つとして振り返ることが出来るようになる。それは半ばそうであって欲しいという、真由自身の願望をない交ぜにした憶測に過ぎないのだけれど。

 しっとりと夜闇に包まれた街路を歩きながら、真由はずっと考えていた。奈央の『好き』という感情を、自分は自分に理解可能なものへなぞらえて話をした。ならば自分だったらどうだろう。もしも奈央と同じように、好きという感情ごとそれまで積み上げてきた全てを否定されて、全て諦めざるを得ない日が来たとしたら。そのとき自分は潔く諦めをつけることが出来るのか。それともその感情ごと保留にしたり、あるいは好きだったという己の気持ちにすら目を背け、全てを無かったことにしてしまおうとするのだろうか。

「それは、嫌だな」

 何となく口にしたその想いの対象がどれなのかは、自分にも良く解らない。ただ、好きで打ち込んできたことにはいつの日か報われたい、そう願う自分が何処かに居るのも確かだ。それがどんな形であれ、他ならぬ自分自身が納得できるのならそれで良い。だが何一つ報われずに終わるだなんて、そんなのはイヤだ。途中までの道のりがどれだけ険しく大変だろうと構わない。けれど、悲惨な結末だけは迎えたくない。そう思うのはどうにも否定しようのない、己の本心そのものだ。

 おかしいな、さっきまではあんなに奈央ちゃんに感情移入してたのに。そうと気付いて祈る時のように、真由は胸に当てた拳をもう片方の手できつく握り締める。もしかするとそれは贖いの仕草だったのかも知れない。いつの日か、自分が奈央の側に立ってしまうこと。それを明確に忌避する自分がそこに居た。

 

 

 

 一夜明けた翌日の放課後。日直の仕事を終えて教室を出た真由は少しの間、廊下の窓辺からぼうと空を眺めていた。『秋の空は高い』という名文句通り、そこには目の覚めるような蒼天が深々と展開されている。僅かにたなびく雲はまるで何かから剥ぎ取られた薄皮みたいにおぼつかなくて、そう言えば夏空を彩る堆い入道雲をもう何処にも見掛けなくなってしまった、ということに今更ながら気付かされる。一つの季節の終わり際。そこへ向けて大きく伸びをし、改めて真由は今日からのことに思いを馳せる。

 色々あったけれど、奈央もきっとあれで己の気持ちを整理できた筈だ。一件落着とまでは言い難いが、あいにく自分たちは次へと進まなければならない。まずは今週末のコンクール東北大会。そこへ向け、全力で集中する。それでなくとも来月以降はイベント演奏に文化祭へ向けた練習、全国最優秀賞という大きな目標を見据えるマーチングへの備え、とやるべきことが目白押しだ。でも焦ることなんて無い。一つひとつをきちんと頑張っていけばきっと大丈夫。そんなふうに決意を固め、真由はカツリと奥歯を噛み締めた。

 階段をのぼり通路を曲がり、そうしていつものように音楽室のたもとへ辿り着く。そのとき妙に、音楽室の辺りが騒々しいことに気が付いた。賑やかなのは別段珍しくも無いが、今日の喧騒には和気あいあいとした活況の明るさではなく、どこか殺気めいたものが満ち満ちている。なんだろう。嫌な予感を覚えつつそこへ近付くと、ちょうど音楽室入口のところに奈央が立っているのが見えた。

「お疲れ、奈央ちゃん。……何かあったの?」

「真由ちゃん。その、水月ちゃんたちが、」

 水月。青ざめる奈央の口からその名が出てきた時、真由の脳内には強烈に、あの日の杏の言葉がなだれ込んでいた。

 アイツ、気い付けた方が良いよ。

 まさか。その懸念が確信に変わるまでにそう時間は掛からなかった。すぐさま状況を確認すべく、真由は奈央の背を押しのけるようにして室内へ入る。そこにあったのは多くの部員を引き連れた水月と、彼女らに対峙するちなつの後ろ姿だった。

「――言ってることが良く分かんねえ。どういうことなの、水月」

「ですからつまり、こういうことです」

 水月の後ろに居る部員たちは皆一様に、恨めしささえ感じるような鋭い目つきでちなつを睨んでいる。その集団の中には玲亜も居た。彼女らを指し示すように両手を広げ、水月は高らかにこう言い放った。

「先輩たちの押し付ける一方的な活動方針にはついていけません。ですから今後、私たちは独立して活動していきます」

 かくん、と顎がひとりでに落ちるような錯覚。意表を突かれた、と言うより全く信じられないとでも表現した方が、その時の真由たちの心象としてはより正確だろう。

 水月の独立宣言。その日を境に生じた吹部の分断は、曲北吹部のみならず真由の今後にも少なからぬ影響を与えることとなる、最大規模の激震だった。

 

 

 



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〈幕間2〉石川泰司の好きな人

「ただいまぁ」

 雑な一声で帰宅を告げ、それから泰司は足を振って靴を脱ぎ捨てる。その不精な音を聞きつけたか、居間からバタバタと母親が顔を覗かせた。

「こら泰司。靴ちゃんと揃えれって、いっつも言ってらべ」

「うっせえな、どうせ明日また履ぐんだがら別にいいべ」

「そういう話でねえの。大体オメエだば、いっつも母さんの言うごどさ文句ばり(ばっかり)言って。普段がらちゃんとやらねば他所の家さ行った時に恥かくど」

「人ん家さ行ぐ時はちゃんとしてらって。息子に対する信用ゼロかよ」

「オメエがやってねえがらだべった。言われでぐ(たく)ねがったら、普段がらちゃんとやれで」

「分がったってば。やれば良いんだべ、やれば。ったく、ネッチネチうるっせんだよ説教ババアが」

「んだとお? 親さそんた口の利き方して、まンずこのガキはよお」

 これ以上小言を言われる前にと、泰司は玄関で脱ぎ散らかした靴を乱暴に整え「メシまで部屋さ居る!」と叫んで階段を駆け上がった。部屋に入るやいなや鞄をその辺にほっぽり出し、ワイシャツとズボンを脱ぎ散らかして勉強机の椅子にどすんと腰を落とす。わざと階下の母へ聞こえるようにドカドカ物音を立てるのは、不機嫌なときの泰司が取る一種の反抗手段だ。

「はぁー。お袋マジ要らね」

 泰司の母は昔から、こんな調子で息子をどやしつける性分の人だった。さして美人でもなければお世辞にも良いとは言えない性格の持ち主である母のことを、陽気で社交的な父がどうして選んだのかはサッパリ分からない。かつて父に直接聞いた時は『成り行きでそうなった』みたいなことを言っていたのだが、少なくとも自分なら絶対にそんな選び方はしない。泰司はそう心に固く誓っていた。

 俺が選ぶなら。黙って机の引き出しを開け、嵩張るプリントの底へ仕舞ってあった一枚の写真を取り出す。それはつい先日、皆で行った男鹿旅行のときに父親から借りたデジタルカメラでこっそりと撮影した、浜辺で遊ぶ先輩たちの楽しげな姿を写したもの。参加した男子は自分と雄悦の二人だけという旅行だったので、そこにはもちろん水着姿の女子たちが幾人も写っている。けれどカメラのピントはその中央、たった一人にのみ合わされていた。

「やっぱ良いよなぁ、黒江先輩」

 白のワンピース水着に身を包む真由、彼女はいちばん最初にチューバの手ほどきをしてくれた先輩であり、従って泰司にとっては恩人と呼べる存在だ。平素はおっとりとして穏やかな彼女だが、旅行の際には珍しく皆と一緒にはしゃぐ真由の貴重な姿を拝むことが出来た。

 この写真もちょうど、他の先輩たちと波打ち際で水を掛け合って遊んでいるところを捉えたものだ。弾けるような彼女の笑顔は写真の中でさえ、今そこに在る実像であるかのように瑞々しく輝いている。そんな珠玉の一枚を、泰司は持ち帰ったその日のうちにプリンターで現像し、こうして机の引き出しに隠しておいたのだった。

 写真をいったん机の上へ置き、室内を一遍ぐるりと見渡す。壁。ラダーラック。ハンガー。そこにはプロ選手のポスターやユニフォーム、ボールなどのサッカー関連グッズがところ狭しと飾られてある。本棚の小さなトロフィーはサッカー部時代、地区大会の参加賞として部員全員に配られたもの。それ自体は何らのやくたいも無いが、ボールからチューバへと相棒を切り替えた現在となっては、かつてサッカーをやっていたことの証明書みたいなものである。

 学業用の問題集などよりも趣味のものが多勢を占める本棚には近頃、チューバの基礎教本や吹奏楽の特集誌といった音楽関係のものが増えつつある。入部して間もない頃、右も左も分からずにいた素人の自分にそれらを勧めてくれたのも真由その人だ。

『石川くんは初心者だから、最初は分かりやすくて丁寧に解説してある本が良いと思う。これとかこれなら結構とっつきやすいんじゃないかな』

 彼女の柔らかい微笑みを見る度にいつも、ずきん、と胸の奥が疼く。初めは単にきれいな先輩だな、ぐらいにしか思っていなかった。けれどとある春の夜にふと、泰司は己が胸中に宿るその想いを自覚してしまった。

 今までにもクラスの女子に何となく、そういう気持ちを抱いたことはある。けれど、これほどまでに強い情を特定の女子に抱いたのは真由が初めてだ。泰司にとっての真由とは、彼が知り得る限りのどんな女子よりも慈愛に満ち、包容力豊かで魅力溢れる、まさしく理想の女性像を体現したような存在なのだ。

「――オメエら、吹部の女子ん中で誰がいちばん良いと思う?」

 男子部員同士で集まると、えてしてそんな会話が繰り広げられることがある。何故かは分からないが一般的に、吹部は男子の割合が少ない。それは都合百人をゆうに超す大所帯のここ曲北でも同じ。一年から三年までかき集めても男子の総数は十数名、といった按配だ。そんな彼らの間でランク高めな部内の女子、といって名が挙がるのは、おおむねこのような面々だった。

「やっぱ荒川っしょ。クールビューティーって感じだし、顔の美人度だって部内トップクラスだべ」

「俺は日向の方がいいなー。ああいうタイプって見かけは気ぃ強えけど、実際付き合ったら相手に合わせて尽くすと見た」

「あー、確かに中島先輩も良いっすね。けど俺のイチオシはやっぱし木管の秋山先輩ッス」

「木管の秋山って、サックスの?」

「でねくてクラのほうッス、二年の。やっぱ胸でけえのってロマンっすよ、男のロマン」

「オメエそれ胸しか見てねえんで無えのが、日向と言い秋山と言い」

「そんなこと無えッス。けどやっぱ巨乳って憧れッスよ。秋山先輩のなんて、制服の上からでも分かるぐれえ盛り上がってますもん。マーチングのときもぼんぼん揺れてるし」

「どう考えても胸にしか目ぇ行ってねえべ、それ」

「んだけどなあ。もし付き合ったらって思うと、あのそそっかしさはちょっとな。俺だったら姉貴のゆりの方がまだ良いな」

「ウッソでしょ先輩。秋山姉ってなんか地味ぃで暗え感じでねえスか。俺ら二年の間でもあの先輩のこと、あんま良く言ってる奴いねえッスよ」

「あのちょっと控え目で奥手な感じが良いんだって。今はそうでも男を知れば変わる、ってヤツよ」

「んなこと言って先輩、今まで誰かと付き合ったことあるんスか?」

「うっせハゲ。死ね」

「ハゲって、そりゃ幾らなんでもヒデくねえすか」

 周りがぎゃあぎゃあ言い合う中で、泰司は一人『分かってねえな』と嘆息をこぼす。本当に魅力的な女子というものは容姿、性格、器量、と三拍子を兼ね備えているものだ。自分の見る限り、それら全ての条件を満たす吹部の女子はたった一人しか存在しない。

「他に可愛い女子って誰か居だか?」

「居だっけかなー。あっそうそう、美人度って言やあ、金管低音の長澤先輩もっすかね。顔良し雰囲気良しスタイル良しのザ・お嬢様って感じで。バリサク(ウチら)とは全然絡む機会ねえもんで、人柄とかは知らねえっすけど」

「あー、アレな」

「アレは選外。見てくればっか良いったってダメだ、ああいう奴は相手にするもんでねえ」

「はあ。……前から思ってたすけど、何かあったんすか? あの先輩」

「一年は知らねったっていい。それより他にはよ?」

「あの人どうですか? トランペットの小山先輩」

「アレは可愛い可愛くねえってよりマスコット枠だべ」

「体も性格も全部ガキだしな。つか何、おめえ小山さ気でもあんの?」

「いやあ、俺も別にそんな興味は無いですけど。どっちかってば同じトランペットの松田先輩のほうが好みです」

「松田なあー。まあ顔もいいし色白だし、実はけっこう隠れファン多いよなアイツ。ちょっと男っぽい性格で損してるトコはあるどもな」

「あのサバサバした感じが却って付き合いやしくて良いと思うんスけどね。そういう先輩はどうなんスか?」

「いや、俺は特にコレっつうのはいねえけど」

「嘘つけって。コイツさあ、一年の頃からずっと、オーボエの和香さ惚れてんだよ」

「マジッスか?! 和香先輩って、あのドラムメジャーの?」

「やめれ、言うな」

「ああいうメガネの知的美女ってやつに弱えんだべ? 隠さねったって良いって」

「だがらそういうんでねえって。ただ何となく、物静かなとこが良いな、ってだけで。それに顔立ちとか雰囲気とかも割と悪くねえっていうかまあ、その……」

「やっぱ好きなんじゃん」

 ひゅーひゅー、と囃し立てる男子部員たち。そんな彼らのノリに、泰司はいつも適当に合わせているフリをする。その辺りはサッカー部に所属していた三年間によって培われた、いわゆる一つの処世術、というやつだ。

「そう言えばよ、例の転校生。アイツはどうよ?」

 泰司の胸がどきりと弾む。ようやくか、という思いには同時に、誰か他にも目を付けている奴がいるのでは? という警戒心も少しばかり入り混じっていた。

「ああ、低音の黒江? まあアイツもイケてるっちゃイケてるよな。顔立ちいいし、性格美人だし」

「俺はパート違うんで会話したこと無えスけど、綺麗な先輩ッスよね。ただやっぱなー、秋山先輩と比べるともう一つこう、ボリューム的に物足りねえかな」

「だがら、オメエはいったん胸の話題から離れろって」

「おっとりしてて大人しい奴だけど何つうかこう、都会のオンナ、って感じだよな。取っつきにくいっつうかさ」

「あ、それ分かる。だいたいアイツ全然訛ってねえべ? その時点で壁感じるよな」

「悪かねえんだけどさ、うちの吹部ってけっこう女子の顔面偏差値高えし。その中で言ったらまあ、中の上ぐらいって感じ?」

「上から目線ッスねえ」

 一同がゲラゲラと下卑た笑い声を上げる。そこに混じりながらも、やっぱり分かってねえ、と泰司は唾を吐くような心地がした。いざ接すれば真由は決して人を貶すことなどせず、どこまでも懇切丁寧で優しい。それにどこか芯のようなものも持ち合わせていて、温かいながらも的確に人を導いてくれる。そのうえ場にそっと華やぎを添える密やかな存在感を持ち合わせる、これこそが黒江真由という女子の本質的な良さなのだ。そして、そんな彼女が隠し持っているものはこれだけではない。

 過去の追想をやめ、泰司は手元の写真にいま一度視線を落とす。浮かぶ彼女の肢体。うっすらと栗色を帯びる長い髪。細く伸びる手足。絶妙な肉付きの腰回り。着痩せするタイプなのか、普段それほどまでには意識していなかった胸部の、艶めかしい曲線美。その内側に秘められたものを、あのとき泰司は二つの(まなこ)ではっきりと捉えていた。

 男鹿旅行のあの日、女子の部屋にうっかりノックもせず立ち入ってしまったのは確かに迂闊だった。けれど本人の両腕で遮られるまでの寸秒、目測わずか数メートル先に立っていた真由のあられもない姿を、泰司は網膜を通じて己の脳細胞へ鮮明に焼き付けることに成功していたのだった。想像していたよりも遥かに形良く美しくたわわに膨らんだ、真由の白く揺れる双丘。その刹那の映像は動揺と共に激烈なまでの昂奮をもたらす、まさに記憶の秘宝とでも呼ぶべき代物だ。

 チロリ。かさついた唇を舐めずって、それから真由の晴れやかな笑顔へと視点を固定する。それは写真の中の思い出を振り返るためではなく、記憶に基づき構築された自分だけの真由に没頭するため。そうしていると不思議なことに、真由の心地良い声色が耳を揺すってくれるのだ。

『石川くん。あんまり焦らないで、最初はゆっくり丁寧に、ね』

 高揚のボルテージはひとりでにどんどん上がっていく。練習中に掛けられた言葉を想像の真由に重ねながら、彼女の声に導かれるがままに、泰司はただひたすら耽溺する。

『あ、今のすごく良い感じ。その調子でもう一回、ちゃんとできるまで何度でも反復してみよう?』

 真由の甘美な求めに、はい、と返事をして泰司は動作を繰り返す。その度に泰司の鼻腔には、今この場に居ない真由の香りがふわりと舞い降りてくる。

『そこ、もっと強く。……うん、上手上手』

 黒江先輩、黒江先輩、とうわ言のように、食いしばった歯の奥で何度もその名を呼ばわる。あれ、先輩の下の名前って何だっけ。ああそうだ思い出した。真由だ。真由。可愛らしくて清楚で、先輩のためにあるような名前。いつか呼んでみたい。先輩のことを、下の名で。真由先輩と呼びながら、あの微笑みと柔らかさを力いっぱい抱き締めて、あのふくよかさにうずもれて、そして――

『いいよ石川くん、私と一緒に、』

「真由、せんぱいっ」

 ぎりぎりまで堪えた息と共に、全てを吐き出す。……潮が引くにつれ、それまで握り締めていた感情の滾りもまた、するすると萎びていった。

 しばし余韻に浸った泰司はいま一度、写真の中の真由に目を向ける。この笑顔がいつか、俺だけのものになったら。そんな気持ちにこの胸がずきずきと痛むのはきっと、張り裂けんばかりの恋慕と共にほんのひとつまみだけ、彼女に対して抱く小さな罪悪感のせいだった。

「泰司! もうご飯とっくに出来てるよ。早く食わねえんだば片付けちまうど!」

 階下から投げ込まれた母のがさつな声によって、陶酔のひと時はあえなく中断を余儀なくされてしまう。軽く舌打ちをした泰司は「今行くって!」と母に怒鳴り返し、それから渋々ベッドの上に広げてあった部屋着へと袖を通す。

 絶対の絶対に、母のような女とは結婚しない。改めてそう心に誓いながら想い人の写真を元通り丁寧に引き出しへと隠し、泰司はわざと蹴り下ろすようにドカドカと音を立てて階段を下りていった。誰もいなくなった部屋の片隅で、ごみ箱に丸められたティッシュの塊がかさりと虚しい音を立てた。

 

 

 



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3.認識、アジャストステップ
〈14〉不和の空気


「では、失礼します」

 恭しい一礼をしてから颯爽と、水月が音楽室を後にする。彼女に続いてぞろぞろと出て行った部員の数は、真由が見る限り、もはや一団と形容して良いほどだった。

「ど、どういうことですか部長、さっきの」

 事態を良く呑み込めていないのか、一人の部員が顔面蒼白でちなつに尋ねる。ついさっきまでは毅然と水月に対峙していたちなつも、今は困惑と憤懣に彩られたような、何とも言えぬ表情で俯いたままでいた。

「ついてけねえとか独立とか、何かそんなこと言ってらったよね」

「長澤のヤツ、最近おとなしいと思ってたら……」

「けどあの人数、ちょっとやべえっしょ。アイツ、本気で吹部転覆させる気かも」

 部員たちが口々に不安や困惑を述べるせいで、音楽室の中はすっかり恐慌状態となってしまった。真由もまた、何がどうなっているのか、これからどうなってしまうのか、何も分からずただただ愕然とするばかりだ。

「水月ちゃんってば、やっぱり」

 隣にいた奈央がぼそりと呟く。どういうこと? と反応した真由に奈央が何かを告げかけた、その時。

「はい、全員いったん落ち着く!」

 ぴしゃりと鋭い牽制に貫かれ、部員たちは一斉に口をつぐむ。それを発したのは、日向だ。いつの間にかちなつの隣に立っていた日向はまず、動揺する部員たちを押さえ込むかのようにギロリと険しい目つきを投げ掛けた。

「水月たちのことはこっちで何とかするから、みんなは練習に集中して。あと永田っちにも私らが報告するから、とりあえずこの件さはノータッチでいること。分かった?」

「……はい」

 返事をする部員たちの声はしかし、十分には納得できていないとばかりに弱々しいものだった。

「ちなつ」

「え?」

「え、でねえって。練習するべっつってんだがら、部長がちゃんと始めの挨拶さねえば」

「あ……うん」

 いつもより強めな口調の日向に、半ば放心状態だったちなつがぎこちない頷きを返す。事態が事態ゆえか、いつものちなつらしさはすっかり鳴りを潜めてしまっていた。

「それじゃ、練習始めます。今日も一日、よろしくお願いします」

「よろしくお願いします」

 全員が着座もせず、その場で挨拶の文言を吐くだけ。およそミーティングの体を成しているとは言いがたい状況の中、かくして本日の練習は強引に開始された。

「さすがヒナ先輩」

 ぽつりとこぼした奈央の言葉に、あれ、と真由は引っかかりを覚える。

「奈央ちゃん? さっきの水月ちゃんのこともだけど、さすが日向先輩、ってどういうことなの」

「あー、えっとな」

 奈央は少し言い淀み、それからふんぎりを付ける時のように、うん、と小さく首肯する。

「ちょっと長え話になるがら、個人練のついでに喋ることにする。真由ちゃんっていつもどこで練習してる?」

「えと、渡り廊下の屋上にあるテラスだけど」

「へばそこで。いちおう杏先輩に断り入れてから行くから、真由ちゃんは先に行ってて」

「分かった」

 後でね。そう返事をすると、奈央はさっそく杏たちのいるトランペットパートのところへと向かっていった。真由もまた低音パートの先輩たちに個人練の旨を伝えた後、自分のユーフォを抱え、件のテラスへと向かった。

 

 

 それから十分としないうちに、トランペットと譜面台を手にした奈央がテラスへとやって来た。

「ごめん、お待たせ」

 社交辞令的にそんな文句を口にしつつテラスの扉を閉め、奈央はきょろきょろと四方を見渡す。 

「わー、やっぱ三階のさらに上の屋上ってなると高えな。私高所恐怖症だがら、こっから下見たら足竦みそう」

「ごめんね、こんなところで」

「ううん、大丈夫。他に人が来ねえトコのが話しやすいし」

 譜面台を近くにおろした後、うっかり下を見なくて済むようにか、奈央は転落防止の手すりに背中を預けた。

「さて、したら話そっか。水月ちゃんやヒナ先輩、私らが小学生ん時のこと」

「よろしくお願いします」

 かしこまってお辞儀をすると、奈央はそんな真由の様子を面白がるようにくつくつと唇を震わせた。

「私らの出身小って、ここのすぐ近くにある(ひめ)(がみ)小学校ってトコなんだけどさ。真由ちゃんは知ってる?」

「正直言うと、あんまり」

「まあさすがの真由ちゃんでも、小学校のことなんて知らねえよね」

 トランペットのピストンをぱたぱた押下させつつ、奈央がそのベルをある方角へと向ける。

「こっからじゃ見えねえけど、あの辺にあるのが姫神小。曲北は今でこそ全国三連覇で有名になったけどさ、姫小は曲北よりもずっと前からマーチングで全国行ったりしてるトコなんだよ」

「へえ」

「人数はそんな多くねえんだけど、顧問の先生がそういう方針の人でさ。もう大会出るなら絶対トップ狙い、みでンた感じで」

 そこへ狙いを定めるように一度トランペットを構えた後、奈央はくるりと手首を返してセットアップの体勢を取った。キレの良いその所作は、彼女の言葉にウソが無いことの証左でもあるだろう。転校する際、真由が調べたのはあくまでも県内中学校の吹奏楽事情だけだった。以前に高校や社会人の話題が出た時もそうだったが、秋田県全体の音楽文化に関してはまだまだ調査不足の感が否めない。

「まあそん代わり、顧問の先生は永田先生とは比較になんねえぐれえ超スパルタだったんだけどね。そのせいで退部する人とか、中学に上がってからは他の部さ入っちゃう子もけっこう多くて。強豪校って一般的に厳しいってイメージあると思うけど、私らが居た姫小のマーチング部はそういう環境だったの」

「それは水月ちゃんも、ってこと?」

 コクリ、と奈央は真由の問いに首肯した。水月が姫小の、つまりちなつや日向と同じ小学校の出身。その所在地だとして示された箇所は確かに、いつぞや水月本人が述べていた彼女の自宅があるという方角ともおおむね一致する。

「水月ちゃんも私らと同じで、小四のときにマーチング入ってさ。最初は何てことない、大人しめだけど普通の子だなって思ってた。ちなつ先輩とかヒナ先輩はその頃から低音パートで水月ちゃんとも直属の関係だったけど、そん時はまだ先輩がたもけっこう普通に面倒見てた感じでさ。けど杏先輩だけは何でか、時々ちなつ先輩たちに忠告してたみたいなんだよね。『あの子には気ぃ付けれ』って」

「それ私も言われたよ。おんなじことを、杏先輩に」

 杏と水月、二人には何か繋がりがあるのだろうか? そんな真由の疑問に、しかし奈央はふるふると首を振る。

「それが杏先輩、水月ちゃんのことは私がいくら聞いても教えてくんなくて。まあでも入部して最初の一年間は何にも無がったんだよ。だがらその頃には私も、多分ちなつ先輩らも、杏先輩の忠告なんてすっかり頭から抜けちゃってて。だけどそれからしばらくして、部内でちょっとした騒ぎが起こったのね」

「そのトラブルを起こしたのが、水月ちゃんだったってこと?」

 んだ、と肯定した奈央が表情を翳らせる。

「私らが五年生の時に水月ちゃん、大会に勝つためだけの音楽なんて何の意味があるんですか、っつって顧問の先生と衝突しだして。最初はそれだけだったんだけど、他にも厳しい練習に嫌気が差してた子が何人か、それ見て水月ちゃんに同調し始めてさ。そういう子らがまとまって、何つうか、集団ボイコットみたいなことしたんだよ」

「ボイコットっていうと、部活に出ないみたいな?」

「そンた感じ。何日も練習休んで、大会にも出場しません、みたいな」

 小学生の身分でボイコット、というのも随分とまあ凄い話だ。けれどさっきの水月を見た後でなら、それも納得できるものがある。先輩相手に少しも物怖じすることなく堂々と宣言をしてみせた水月。さっきのあの光景を思い出すだに、喉の奥を掻痒感にも似た何かが掠める。

「先生も水月ちゃんたちの反抗にすっかり怒っちゃって、『ボイコットした連中は大会には出さねえ』ってメンバーから外されちゃってさ。それでも当時の部長は何とかしねえと、って思ったんだろうね。毎日練習上がりに水月ちゃんたちのトコ行って、一人ずつ説得して回って。先生とも何とかならねえかって何べんも相談して。それでその年からは、どうしても嫌だって子は無理に練習に参加さねくても良いって方針に変わったんだよ」

「それって、けっこう大きな変化だよね」

「勿論。ただ五、六年の人たちは元々厳しい先生だって覚悟して入部してらったがら、そこまで大きな影響も無がったんだけどね。もろに直撃したのは私らの下の世代。それなら私も練習休みます、しんどいのは嫌だから辞めます、っていうのが相次いで部がスカスカんなっちゃった。そのせいで私らの代ん時、マーチングは東北で銀賞止まりだった」

 手すりから背を離し、奈央が当時を思い返すように遠い目をして空を見上げる。それを黙って見つめながら、真由はいつぞや早苗と交わした部活のあり方に関する話を思い出していた。皆が足並みを揃えなければ団体競技で結果を出すことは難しい。その例に倣って言うなれば、奈央たちの代における姫小の足並みは文字通りガタガタに崩れてしまった、ということだ。

「水月ちゃんはその間、部活はどうしてたの?」

「いちおう部には残ってらったよ。ただ方針転換してからは、自分の都合で部活休むのもしょっちゅうだったけど。顧問の先生もカンカンで、もう最初っから演奏会のメンバーに水月ちゃんは入れないって扱いで。水月ちゃんもそれ分かってて、じゃあ普段の練習も別に来なくていいですよね、っていう感じンなってた」

「それもそれで大胆っていうか、すごい話だね」

「んだもんで、ヒナ先輩とか私らの代では水月ちゃんって要注意人物みたくなっててさ。吹部ん中でもちょっとヘンな空気あったでしょ? 水月ちゃんに対しては」

「それは……うん」

 以前にも時々感じた低音パートの、いや吹部員の水月に対する冷ややかさ。それを認めないわけにはいかなかった。とりわけ全国に行きたいという気持ちでいた子にとって、部を搔き乱した中心人物である水月はさながら戦犯の如き存在でもあったのかも知れない。

「でも、そしたら水月ちゃんはどうして中学でも大会で勝ち上がるような方針の吹部に入ったんだろ。奈央ちゃんたちが中学に上がった時って、曲北はもう全国最優秀賞だったんだよね?」

「それが解んねえの。水月ちゃんも水月ちゃんで、やっぱり去年一年間はおとなしくしてたからさ」

 首を小さく傾げ、奈央は眉根を寄せた。

「吹部にいるのも何かしら理由があるんだがも知んないけど、たぶん誰にも解んねえと思う。そもそも実力不足ってことで大会メンバーからは外されてたし、そういう意味でも今まで大きい影響は無がったんだけどね」

 実力不足。人によっては残酷に聞こえる言葉だが、しかし水月ならばさもありなん、とさすがの真由でも思わずにはおれなかった。演奏もMMも、水月には基礎的な技量がずいぶんと欠けている。もしも彼女があの腕前で本番のメンバーに加わったとしたならば、その様は他の部員と比べてかなり目立ってしまう事になるだろう。それも、悪い意味で。

「水月ちゃんについては大体こんなとこかな。実を言えば私も水月ちゃんとは全然絡み無えから、そんな詳しいわけでもねえんだ。本当はもっと色々教えてあげれれば良がったんだべども、なんかゴメン」

「ううん、おかげで色々分かったよ。教えてくれてありがとう奈央ちゃん。それで、日向先輩のことなんだけど、」

「ああそうそう。てっきり真由ちゃんは知ってるもんだと思ってたんだけど、きっと聞かされてなかったんだよね。ちなつ先輩たちからは」

 何を? と首を傾げる真由へいたって滑らかに、奈央は一つの事実を打ち明けた。

「私らの一つ上の代だった当時の部長ってのが、ヒナ先輩なんだ」

 

 

 一通りの話が終わり屋上テラスを後にする奈央を見送ってから、一人残った真由は彼女から聞いた話をまとめに掛かっていた。要約すると、大体こんなところである。

 今から数年前の姫小時代、奈央や水月は強豪マーチング部に入部した。その翌年、突如として水月が顧問の方針に反旗を翻した。当時の部長だった日向が水月と顧問の間に立って調整や便宜を図った結果、姫小マーチング部はそれまでのスパルタ式をやめ緩い活動方針に転換することとなった。以後姫小マーチング部の趨勢は弱まり、この一件を知る部員たちは水月のことを警戒あるいは忌避するようになった。そしてそれは今も続いている……

 いくつかの謎が明らかになった一方で、まだ不明なところも残されている。そもそも水月はそこまでして、何故今も吹部に在籍し続けているのだろう? 部や顧問の方針と自分の都合が合わない。そういう生徒は他にもいないではない筈だが、そうなった時には概して『退部』という選択を取るものだ。なのに水月の場合、姫小の時も今回も、部内を引っ掻き回してでも部に留まることを選んでいる。彼女がそうまでする理由が、しかし真由にはどうしても解せなかった。

『私もユーフォを吹くのは好きなの』

『だから部活も、楽しくやりたいなあって思ってる』

 あれはいつのことだったか、水月はそんなことを言っていた。楽しく部活をする。そんな素朴な思いを彼女なりに実現しようと行動した結果がこの顛末だ、とでも言うのだろうか。それとも他に何かあるのか。こんな大それた形で体制に異議を唱えなければならないほどの何かが、彼女には。

「全然、分かんない……」

 フル回転させていた頭脳をはたと停め、真由は大きくうな垂れる。自分と水月とでは余りにも思考パターンが違い過ぎる。奈央から聞かされた水月の過去。それはしかし、彼女の真意を探り当てる根拠としては到底足りやしない。

「っと、もうこんな時間。そろそろ教室行かないと」

 ふと腕時計を見やった真由は、思いのほか時間を潰してしまったことに気が付いた。パート練習の開始時刻に遅れたら日向たちにどやされてしまう。慌ててテラスを出ようとしたその時、いつものように足元の方向から『シシリエンヌ』の調べが流れてきた。あんなことがあった直後だというのに、その一切をまるで意に介さぬかの如く、美しくたゆたうユーフォの音色は今日も穏やかなものだった。

 

 

「すいません、遅くなりました――って、あれ」

 駆け足で教室に飛び込んだ真由は、即座に異変を察する。ちなつはともかくとして、この時間にはいつも教室でパート練の支度を始めている筈の日向。その日向の姿も彼女の楽器もどこにも見当たらない。それに代わってという訳ではないのだろうが、お疲れ様です、と出迎えの第一声を掛けてきたのは泰司だった。

「ちなつ先輩たちは?」

「さっきのミーティングの後からずっと見てないっす。ぼうっとしてても仕方ないんで、俺らだけで個人練始めてるトコなんすけど」

「そうなんだ」

 さっきの状況を鑑みるにもしかして、ちなつと日向はどこかで個人練ついでにこっそりと、水月たちの処遇に関する協議を続けているのかも知れない。そちらはそちらでどうなっているのか気掛かりではあったが、何はともあれ遅刻を咎められずに済んだのは不幸中の幸いだ。はあ、と席に着いて楽器を置き、それから真由は畳んでいた譜面台の展開を始める。

「にしても、長澤先輩も三島もえれぇ自分勝手っすよね。練習についてけねえからこっちにゃ参加しませんなんて。特に三島なんか、春に中島先輩から注意されたの全然堪えてねえんじゃねえかって感じだし」

「そう言えば、そんなこともあったね」

「大体アイツ、人の顔見ればすぐ嫌味言ったり文句つけてきたりで、元から生意気なんすよ。だがら周りとトラブってんだっつう自覚も無えクセして、なに馬鹿くせえ事言ってんだってハナシっすよね。先輩だってそう思わねえすか?」

「んー、どうだろ。私の前では玲亜ちゃん、そんな感じでもなかったと思うんだけど」

 憤慨を隠さぬ泰司の言葉で改めて、真由は玲亜にまつわる諸々を振り返させられる。かつてちなつに真っ向から啖呵を切ってみせた玲亜。水月に諭され彼女に懐き、以後はいたって真っ当ないち部員としての立ち振る舞いをしていた玲亜。あれから何ヶ月も経ったせいか、それともこのところの玲亜がおとなしかったからか、春に起きた事件のことなんてすっかり忘れかけていた。

 そう、玲亜がおとなしかったから。

「ちょっと待って」

「はい?」

「玲亜ちゃんがちなつ先輩と言い争いしてたのって、あれいつ頃だったっけ」

「アレっすか? ええと。俺らが入部して間もない頃で、確か先輩たちがマーチングの練習でよく体育館行ってたりした時期だったと思うんで、確か四月の下旬ぐらいだったっすかね」

「それからの玲亜ちゃんって、パート内ではどんなふうに過ごしてた?」

「どんなふうに、ってあのアホ、いっつも俺にしつこく絡んできてマジうざかったっす。ったくアイツ、俺に何か恨みでもあんのかってぐらいで」

「ごめん、そういうことじゃなくて。パート練習中とか個人練とか、特にオーディション終わった後って、玲亜ちゃんどんな感じに練習してたの?」

「え、いや、俺、アイツの練習までは……」

 何故か答えにくそうに泰司が口ごもる。「それなんだけど、」と彼に代わって答えをくれたのは、オーディションでメンバー落ちしたコンバスの二年生女子だった。

「そもそもまともに教室さな(になど)居ねがったよ。パートで合わせる時もズタズタだったがら、注意したらすぐ長澤みてえに個人練してくるって出て行くもんで」

「それって、誰かに言われて?」

「ううん。二人とも自発的に」

 どろり、と胃の底でとぐろを巻くどす黒い苦み。彼女は今『二人とも』と言った。これは言い換えればつまり、玲亜が居ない時には水月もまたそこに居なかった、ということだ。そうやって個人練にかこつけパートから離れた二人が、どこで何をしていたのか。それを類推するのはそう難しいことではない。

「どしたの黒江さん? 何か顔色悪りいけど」

「え、いや、何でも」

 諸々の状況と諸々の情報。それが頭の中で組み合わさるのと同時に、ある一つの恐ろしい想像が浮かび上がってくる。

 そうだ。玲亜も元々は部の方針に懐疑的な人間だった。彼女の場合は直情径行な性格が災いしてちなつと正面からぶつかり合ってしまったわけなのだが、そんな玲亜のことを水月は『思わぬ収穫』と呼んでいた。あの日、水月と二人で玲亜を追いかけ彼女の本音を聞き出したことは、今でも良く覚えている。玲亜がすっかりおとなしい態度を見せるようになったのも、あれを境にしてのことだ。

 そして水月は玲亜を指導し、玲亜は水月に懐き、今や二人は良好な先輩後輩の絆を育んでいる。今の今まで真由はそう思い込んでいた。けれど水月の過去を知った今となっては、その認識が不十分であったことを認めないわけにはいかない。先輩後輩、というのは必ずしも間違ってはいないのだがしかし、それは責任ある年長者として危なっかしい年少者を教え導くという、世間一般にありふれたかたちのものではなかったのだ。

 十中八九、水月は玲亜を懐柔していた。彼女を自分の側へ取り込むために。

 

 

 

 その後のことは少々かいつまんだ話になる。予定されていた合奏練習の直前までパートに顔を出さなかった日向とちなつは、どうやら水月たちのところへ話をしに行っていたらしかった。それが交渉と呼べるものか、はたまた探りを入れた程度なのかまでは定かでないが、水月とその一団……日向曰く『独立組』は事前に教頭を始めとした関係教員たちにも根回しをし、どの部も使っていなかった中央棟二階の集会ルームを根城としていたらしい。

「それで具体的に何人ぐれえだのよ、その独立組さ加わった(かだった)連中は」

「六十八人。コンクールのメンバーでない一年と二年が中心で、特に一年はほとんど全員ってぐらい」

 合奏が終わった後の居残り練習中、さすがに状況を見かねたらしい雄悦の問いに、日向が渋面で答える。計百三十七名の曲北吹部にあって六十八名の離反者、というのは割合的にほぼ半数を占める。幸いにして低音パートからは水月と玲亜以外に独立組へ加わる者は居なかったようだが、パートによってはかなり悲惨な状況となっているらしい。

「で、先生さは?」

「まだ言ってねえ。一応水月たちと話して、その結果次第って思って」

「長澤は何て?」

「取りつく島もなし。もう決めた事ですので後はそちらでどうぞお好きに、だとさ」

 半ば悪態をつくように、日向がとげとげしく水月の口調を真似る。

「やっぱ先生さ相談した方が良ぐねえが? コンクールだって今週末だし、それが終われば今度はマーチングの練習始まるべ。人数足らねえってなったら大会どころの話でねぐなるぞ」

「んだよなあ、やっぱ」

 そんな雄悦たちのやり取りに、ちなつは口を挟まず沈思黙考を貫いていた。その表情があまりにも暗く澱んでいたもので、真由もつい心配になってしまう。

「ちなつ先輩、大丈夫ですか」

「……え。ああ」

 真由の声ではたと我に返った様子のちなつは、しかし苦しげに口角を吊り上げてみせただけだった。こちらに心配を掛けまいとしたのかも知れないが、歪なその表情はおよそ笑顔などと呼べる出来映えではない。そうこうしているうちに日向は腹を括ったらしく、よしっ、という一声と共に立ち上がる。

「こうしてても始まんねえし、永田っちに報告だけはしておくべ。最悪アイツらがマーチングに参加しねえって可能性も考えねえとだし――ちなつ?」

 ちなつはまだ椅子に座ったまま。腕に抱えたユーフォを手放そうともしていない。いつもの彼女なら、日向に急かされるまでもなく真っ先に立って動く筈なのに。

「……やっぱ、言わねえといけねえかな」

「だがら、今そういうハナシしてらったべ」

「あのさ。とりあえずコンクールまでは今の状況でやり過ごして、そんでマーチングの練習が本格化するまでに水月らと何とか話付けるってんじゃダメかな。あの子らの中さはコンクールのメンバーもいねえんだし、無理ってことは無えべ?」

「んなこと言ったって、コンクールまであと何日も無えべ。それにあの子らがもし東北大会さ同席しねえなんて言い出したら、その時点で永田っちにもバレるべった。どっちにしろ遅かれ早かれだぞ」

「そこは私が水月らと交渉する。これ以降は好きにしたって良いがら、東北大会さだけは何とか来てけれ、って」

 さばさばと現実的な見解を述べる日向に対し、さっきからちなつは妙に食い下がろうとしている。この騒動が永田に知れると何かまずいことでもあるのか? 真由ですらもそう勘繰ってしまうぐらい、ちなつの意見は明らかに合理性を欠いていた。

「あのな、ちなつ。そンたこと言ってる場合でねえべ。それにもしヘタに言質取られて、後になってから『あのとき部長が好きにしていいって言ったので私らは知りません』なんて水月らが言い出したら、そん時は何とするのよ? 私らの判断だけで動いて結果マーチングがガタガタんなったら、部長の責任問題なんて言ってらんねえ事態だで」

「それは解ってる。けど先生に相談する前にどうにか上手く解決できれば、これ以上大きい問題にならねえで済むがも知んねえし」

「甘えよ、それは」

 間髪入れず、日向の痛烈なひと言がちなつを穿つ。

「あの水月が主導してんだど? 追従してる連中だって腹括ってんだろうし、ちょっとやそっとで手のひら返すような状況じゃねえ。だったらだったで出来るだけ早く永田っちに報告しとかねえと、今後どうなるかなんて保証はどこにも無えど。それともこの何日間かで独立組全員を説得できる材料が、今のちなつにあるっての? それだけの根拠が」

「それは……」

 返答に窮するちなつの無策ぶりを見透かすように「んだべ?」と、日向は断定口調で強く言い放った。

「現状このままにしておいたら、そのぶん傷口はでっかくなる。それに今こっちさ残ってる部員だって連中の勧誘で引き抜かれる、って可能性も考えねえといけねえ。もしそうなったら大会どころか部活としてだって、しっちゃかめっちゃかになっちまうど」

 日向の主張はまさしく正論をど真ん中で行くものだった。それに返す言葉も尽きたらしいちなつはただ深く俯き、口の端にほんの僅かの躊躇いと、噛み潰せぬほどの膨大な苦悩を滲ませるばかりだ。

「そういう状況でも何とかまとめねえと、っていうちなつの考えは分かる。だけどこうなっちまったらハッキリ言って、私らだけでどうにかすんのは無理だ。とにかく今はこれからの吹部をどうするか、そこを優先的に考えて動かねえと」

「……情けねえ。私、部長なのに」

「だがら、そンたこと言ってる場合でねえべって。部長っつったって所詮は生徒なんだし。ほれ、とにかく永田っちさ報告しに行こ。私も一緒についてくから」

 うん、と頷いたちなつが楽器を机に置き、よろよろと立ち上がる。二人が出て行った後、その場には真由と雄悦の二人だけがぽつんと取り残されてしまった。

「……大丈夫でしょうか、先輩たち」

「まあ、あの二人は付き合い長えから」

 それきり再び訪れる沈黙。よくよく考えてみれば、同じパートなのに雄悦と一対一で会話する機会はこれまでのところ皆無に等しいような状況だった。それに加えて奈央の一件もある。何も喋らないのは居心地悪いが会話をするのもどこか気まずい。そういうこちらの空気を彼もそこはかとなく読み取ってくれたのか、溜め息と共にそっぽを向いた雄悦は、詮方なしとばかりにぼそぼそ喋り出した。

「あいつらは前にも痛え目見てっからな、長澤のせいで。特にちなつは小学校時代からずっと長澤と直属の先輩後輩って関係だし、長澤が部に迷惑掛けてることに対しては負い目みてえなもんもあるんだと思う」

「ちょっとだけ聞きました。先輩たちの小学生時代のお話」

「んだのが。出どころは……おおかた松田辺りか」

「まあ、ええっと」

「別に隠さねくてもいい」

 ユーフォのベルを床へかぶせるように置き、それから雄悦は身を屈めるようにして、細い指を顔の前に組んだ。

「それに対してヒナは現実派っつうか、そういうとこあるがら。ぶつかってるように見えたかも知んねえけど、お互い相手のことは良く解ってるべがら、変な心配はいらねえよ」

「――けっこうしっかり見てるんですね、雄悦先輩。ちなつ先輩たちのこと」

「腐れ縁だがらな。割と」

 真由の指摘に照れくささを覚えたのか、雄悦が組んだ指先で鼻頭をごしごしとこする。

「一つお聞きしたいんですけど、先輩が小学生だった頃って、日向先輩が姫小の部長だったんですよね」

「んだ」

「じゃあ曲北では、どうして日向先輩じゃなくてちなつ先輩が部長になったんですか? 昔部長を務めてたっていう実績もありますし、トラブルがあってもああやって冷静に対応してくれるなら、今ごろ日向先輩が部長になっててもおかしくなかったんじゃないかって思うんですけど」

「そこは聞かされてねえのか。ったく、松田も中途半端に喋んなよな」

 指組みをほどいた雄悦が、やれやれ、と椅子の背もたれに圧し掛かるようにして天井を仰ぐ。シャツの襟から覗く喉仏は、彼が歳相応の男子であることを思わせる出っぱり具合だった。

「状況としては色々あったんだどもな。最終的にヒナがちなつを推したんだよ、自分よりもちなつの方が部長向きだって」

「日向先輩本人が?」

 んだ、と上を向いたままの雄悦が顎を縦に振る。

「元部長のヒナがそう言うもんだがら、うちらの小学校出身の奴らもみんなそれに賛成してな。結局は多数決で、ちなつが部長に決まった。それまではちなつ、気は強えけど今みてえにバンバン前さ出ていくってタイプでは無がったんだ。アイツがああなったのは去年から、部長になってからだ」

 真由がまだ曲北に居なかった時分の話。それが奈央や雄悦の口からぼろぼろと零れるにつれ、真由は次第にちなつたちの、いや、曲北吹部を取り巻く様々な状況をつぶさに把握し始める。

「そっからはちなつがリーダー、ヒナがそのサポートに回る形で、うちの吹部はずっとやってきた。パートのことは勿論だけど、部長としてどう行動すべきとか、どうやって部員たちを引っ張っていくかとか、ちなつは俺らに見えてねえとこで相当ヒナに相談しながらやってきたと思う。俺らだってちなつを部長として認めるようになったのは、冬が終わるちょっと前ぐれえの話だったし」

「それまでは、ちなつ先輩が部長だってことに異論もあったんですか」

「異論ってほどじゃねえけど、ホントに大丈夫かよ、っつう声が挙がったりはしてたな。ちなつもあれで視野が狭えっつうか、こうと思い込んだら突っ走るトコあるし。特に今回みたく、部員間でやばいトラブルが起こった時にめっぽう弱えんだよな」

 それは、何となく解らないでもない。玲亜との口論然り将来への展望然り、ちなつには『こうあるべき』を貫き通す芯の強さと、それ故に柔軟な対応を欠きがちな脆さとが一緒くたに内包されている。頭が固いと言えば聞こえが悪いのだけれど、彼女のそうした気質が良い方面に発揮されているのが普段の状態なのだとすれば、今回のような事例はまさしく悪い方面での発露と言えるだろう。

「そういう時は大体ヒナが仲裁に入って、それで毎回なんとか上手く収めてきた。ンだけど今回は水月が相手だがらな。姫小の時にしたって、ヒナも散々譲歩しまくった結果があれだったし」

「それも聞きました。そうするとつまり、ちなつ先輩が心配してるのって、来年以降の吹部のことなんでしょうか」

「……分がんね」

 にべもなく言い放ち、それきり雄悦が黙りこくったことで、教室は再び沈黙に包まれた。雄悦に対してこれ以上の切り込みづらさを覚える真由は、代わりに日向とちなつの関係性へと思考を巡らせる。

 これまで自分はちなつを理想的なリーダーだと考えていた。より正確に言えばそのリーダーらしさはある種、天性の才覚みたいなものだとばかり思っていた。のだがしかし、それはある一側面の見方に過ぎないものだったらしい。部長としてのちなつの姿は日向によって築き上げられたものであり、その日向はちなつを裏から支え、時には彼女に代わって部員間の仲裁や橋渡しを行うことで、吹部全体を円滑にまとめ上げてきたのだ。言わば日向は吹部における調停者、縁の下の力持ちみたいな存在。そうと知っていたからこそ、ちなつと玲亜が起こした口論に日向が割って入るであろうことを、あの日の水月は確信を以て予測できていたに違いない。

「たっだーま」

 そんな真由の思索を蹴破るように、呑気さすら感じさせる口調で日向が教室に戻って来た。彼女の傍らに、ちなつの姿は無かった。

「おかえりなさい。ちなつ先輩は?」

「帰った」

「帰った、って、楽器も置いたままなのに?」

「厳密に言えば家さ帰ったんでねくて、水月ん家さ行った。いちおう後でココさは戻るつもりだっつってたけど、あんまり遅くなりそうなら私が代わりに片付けとくよ」

 などと言いつつも、日向はちなつのユーフォやら私物やらをぱたぱたとまとめに掛かり始めた。音楽室を閉めるギリギリまでちなつが帰ってくることは無い。恐らく日向はそう読んでいるのだろう。

「で、永田先生は何て?」

 いの一番で雄悦が尋ねたのはそれだった。ユーフォの管内に溜まった水を抜きながら、んー、と日向が小さく唸る。

「まあ最初の反応は、参ったなあ、って感じ。夏休みのうちにコンテも書き終えて衣装も発注してあったから、もしこの状況が続くようだば本気でやべえってさ」

 何でもないような口ぶりで放たれた日向の報告に、雄悦だけでなく真由も内心驚きを禁じ得ない。え、と二人同時に声を詰まらせたのを見て、日向がうんざりしたように鼻で長く息を吐く。

「ちょっとー。まさかこの件がそう簡単に丸く収まるなんて、アンタらまで甘く見てたわけじゃねえべな」

「いや、甘く見てたとかじゃないんですけど、それってものすごく危機的な状況なのではないか、という」

「黒江ちゃん、焦りのあまりカタコトちっくになってるど」

「でもその、実際すごく焦ってます」

「ってか、結論はよ?」

「そう急くなよ、雄悦」

 一旦ユーフォの手入れを済ませ、今度はちなつの譜面台を手際よく畳みながら、日向が続きを述べる。

「とりあえずは、ちなつの案が半分採用。ただし期限は一週間。それまでの間にちなつが独立組と直接交渉して、何とかこっちさ復帰するよう説得する。コンクールについてはどうしようもねえから、最悪独立組が参加しねくても私らメンバーだけで現地入り。んで、もし説得が上手くいかないまま交渉期限が過ぎたら、」

「過ぎたら……?」

「さあてどうすっぺ、だってさ」

 がく、と真由は乗り出していた身を盛大に滑らせてしまった。そのぐらい、永田の判断はこちらにしてみれば『梯子を外された』感がある。雄悦もそれは同じだったらしく、何だそりゃ、と白目を剥いていた。

「焦ったって良いこと無い、ってことでしょ。とにかくこの一週間は粘り強く交渉してみれってさ。んで、来週また報告しに来いと。永田っちとしては自分の方針を部員側に強要したくはねえから、顧問としての判断は本当にギリギリまで据え置きにするって。まあそれも、ちなつが出来るだけ部員同士で話し合って解決したいって言って聞かねがったがらなんだけど」

「そのギリギリっていうのは、具体的にいつまでなんですか?」

「それも分がんね。ただ最終的には独立組が全員マーチングに出ない前提でコンテ書き直す覚悟もある、って」

 絶えず口を動かしつつ、器用にちなつの荷物をまとめ終えた日向は「よっこらしょ」とそれらを小脇に抱える。

「それ聞いてちなつはすぐ水月ん家さ行って来る、って職員室飛び出してさ。だがらまあ、後は連中との交渉次第。正直望み薄だとは思うけどね」

 つまるところ、状況としては限りなく絶望的ということだ。無論、人数が少なくたって大会に出ることは出来る。その中でより上位を目指すことも決して不可能ではない。ただ果たしてそれが本当に、曲北吹部の目的である『観た人の心を芯から揺さぶる演技演奏』となり得るものなのかどうか。離反した側のみならず、残留した自分たちの側にだって、そういう葛藤はある。こんな気持ちを抱えたままで、本当に心ゆくまで自分たちの音楽を突き詰めることなど出来るのだろうか? その自問に対する適切な答えを見出すことが、今の真由にはどうしても出来なかった。

「そんなわけで今日は早く音楽室閉めることになるから、二人もあんま遅くまで居残りさねえで、良いとこで練習切り上げれな。あ、私の楽器は後で片しに来るんでご心配なく」

 へばなー、と言い残し、日向はあっさりと教室を去ってしまった。また二人だけが取り残された教室内は心なしか、夏場とは思えぬ寒々しさだった。

「……俺らも帰り支度、始めるか」

「ですね」

 何より、こんな空気の中ではとても練習になど集中していられない。諦めて楽譜ファイルを閉じた真由の気分は完全に暗澹たるものだった。春の頃には確かに感じていた、音楽をすることに沸き立つような喜びの気持ち。それをここしばらく堪能できずにいることに、真由は心のどこかで、焦げた薪が燻るような感覚を抱き始めていた。

 

 

 

 

 

 

 あれから数日の間、ちなつは部活の合間合間に独立組のところへ交渉に赴き、その度に大した成果もなく戻ってくる、という不毛な日々を繰り返した。それでも足繁く通い続けたおかげか、『東北大会への同行だけはする』という条件を独立組から引き出すことに成功したのはつい昨日のことだ。

 そして現在は部員たちを分乗させた計三台の大型バスが、高速道路をひたすら北上しているさなかであった。年毎に各県持ち回りとなっているコンクール東北大会の開催地、今年は青森市の文化会館がその会場である。東北自動車道を経ること二百キロ超、片道およそ五時間は掛かるこの道のりを当日移動したのでは、部員たちの負担が大きい。そうした配慮から曲北は今回、一日早く青森市に入って一泊し、明日の本番を終えた後は再びバスに乗り夜遅くに秋田へ戻る、というスケジュールを当初から組んでいた。

 既にバスも宿舎も予約を押さえていた中で大量のキャンセル発生ともなれば、様々な方面に迷惑が掛かったことだろう。そうなるのを未然に防げただけでもちなつの努力は甲斐あった、と見るべきなのかも知れない。ただしそれは、彼女の本意とするところでは決して無かったのだろうけれど。

「……こんな空気になるぐれえなら、来ねくたって良がったって気もするけどな」

 そんな誰かの尖った呟きが、カツンと車中に跳ね返る。複数台にまたがって乗車する部員たちを、コンクールの出場メンバーとそれ以外とで選り分けることは難しい。またあからさまに独立組だけを一台のバスにまとめた場合、それはそれで悪い捉え方をされかねないという懸念もあった。結果、意見の対立する者同士が乗り合わせるかっこうとなった都合三台のバス内は、いずれもお葬式みたいにどんよりとした雰囲気に満ち満ちていた。

 いつもなら隣の席同士で会話を弾ませているはずが、今日は誰もが声を潜め、互いに様子を窺いながらひそひそと不満や苛立ちをこぼす。そんな中で何時間も過ごすことはほとんど苦行に近いものがあった。ようやく本日の宿舎に着いてバスを降りる頃にはすっかり身も心も凝り固まっていて、長距離移動はお手のものと自負していた筈の真由ですら、部屋に入るなり「どはあ」と旅行用のボストンバッグに突っ伏してしまったほどだ。

「あれれ、黒江ちゃんにしちゃあ珍しい。しかしまあ、部屋割りがこうなったのは不幸中の幸いってやつだね」

 潰れる真由を尻目に、日向とちなつがそれぞれ自分の荷物をどかりと畳の上に置く。宿の別館にあるこの閑静な和室、本来は四人部屋であるここを、今回真由たちが三人だけで使っているのには相応の理由があった。

 本番を翌日に控える中、メンバーと独立組を同じ部屋に置くのはさすがに精神衛生上よろしくない。そうした顧問判断により、部屋割りはなるべく出場メンバーの同パート員同士で固まるよう再配分されたのだそうだ。そのために急遽必要となった大部屋二つ分の料金は、これもあくまで噂でしかないのだが、やむを得ず永田がポケットマネーで支払ったとのことである。

「この後ってどういうスケジュールだっけ」

「昼メシ食ったあと、二時まで自由行動。その後もう一回玄関前に集合して、近くの公民館で明日のリハ練習」

「で、それさは独立組は来ねえって?」

「同行はするけど手伝いはさねえって。それで妥結したんだし、しょうがねえ」

 どこか事務的なちなつの態度に、フン、と日向が口をへの字に曲げる。

「ちなつ。分がってるべども、今日と明日は目の前のコンクールさだけ集中せえよ。ここまで来たら余計なこと考えたって仕方ねえんだからな」

「言われねったって分がってる」

 あの日以来、二人の会話もこんな刺々しい調子になってしまっている。それは決して二人の見解が噛み合わぬせいではない。あれこれと物言う日向に対し、ちなつがぶっきらぼうに返す。そんな二人のぎこちなさが、息も詰まるようなこの空気を醸成していた。

「さってと。せっかくの旅館なんだし、軽くその辺ぶらついて来よっかな。黒江ちゃんも一緒に来る?」

「ええと、お誘いは嬉しいんですけど、ちょっと移動で疲れちゃって……」

「何ぃ、それは良ぐねえなあ。だったらなおさら外の空気でも吸いに行かねえと」

 気だるげなこっちのことなどまるでお構いなしに、「ホレあんべ(いくぞ)」と日向がぐいぐい腕を引っ張ってくる。いや本当に勘弁して下さい、と抵抗するだけの気力も湧かず、真由は枕代わりにしていたバッグからほとんど強制的に引き剥がされてしまった。

「ほんじゃ私らちょっと出てくるから。悪いけどちなつ、留守番お願い」

「行ってらっしゃい」

 素っ気なく手を振るちなつに見送られ、真由と日向は連れ立って部屋を出た。つかつか進む日向はこの間一言も発さず、また足運びにも迷いの気配は見られない。これはまた例のお説教パターンか。そんなふうに半分諦めの境地で腹を括っていたのだがしかし、廊下の中ほどまで来たところで日向はやにわに真由の腕を放してくれた。

「黒江ちゃん。申し訳ねえけどちょっとの間、一人にしといてくれる?」

「一人に、って誰を? 日向先輩をですか?」

「私でねくて、ちなつの方」

「ああ、」

 そこでようやく、真由は日向の突飛な行動に得心がいく。

「それじゃ日向先輩はそのために、わざわざあんなこと言って私を連れ出したんですね」

「まあね。アイツもここんとこ動き過ぎで疲れてるし、合間合間に休ませねえとカラダ持たねえからさ」

「そういうの、直接ちなつ先輩に言ってあげた方が良くないですか? 今のうちに休んでおけって」

「それやると却って落ち着かなくなるんだよ、アイツの場合。『一人で休め』って言われるよりも『アタシらちょっと出てくる』つって一人で置かれた方が、緊張の糸をほぐせるタイプだがら」

 みょんみょん、と両手で糸を伸び縮みさせるような仕草を見せる日向に、真由もくすくすと微笑する。

「日向先輩はちなつ先輩のこと、良く解ってるんですね」

「まあね。つっても、休ませてえってのは実のところ半分で、私もずっとあそこさ居るのが窮屈だがらでもあるんだけどな」

 頭の上に腕を組み、うーん、と日向が大きく上体を反らす。ボキボキ鳴らされた背骨の音は、彼女の身にもまた多大な疲労が溜まっていることを物語っていた。

「ちなつさ、アイツ、私に遠慮してるトコあるからさ」

「遠慮?」

「人から何かを譲られてる、施しをもらってる、っていうのかな、それを申し訳なく思うような気持ち。もちろん感謝の意識が強えって意味では悪りいことじゃねえんだけど、でもそれも度を越せば、頑張ってきた自分を認めてやれねえ弱さでしかねえんだよな」

 日向の言っていることが解るようで解らない。しばし怪訝な思いに囚われながら、真由は苦渋を深める日向の表情を見やる。

「人のことなんか気にさねえで、自分の思った通りやってみれば良いのに。それが出来ねえの、ホントちなつって不器用なんだがら」

 日向のそれは真由に語って聞かせるというよりは、ほとんど独白のようなものだった。それに気の利いた言葉の一つも返せぬまま、真由はただ俯くことしか出来ない。

「おっと、こっちまで暗くなってちゃダメだでな」

 肩身を狭くするこちらの様子に気付いた日向が、ポケットからじゃらじゃらと何かを取り出す。その中からふたつまみほどを取り分けると「手ぇ出して」と、それを真由に握らせた。

「ほいこれ。ヒナ先輩から黒江ちゃんへの心付け」

「心付け……ってこれ、お金じゃないですか」

「それでジュースでも買っといで。黒江ちゃんもホントは部屋で休んでたかったろうけど、無理やり連れ出しちゃったお詫びのしるし」

「いいですよそんなの。受け取れないですって」

「黒江ちゃんが良くても私が気にすんの。難しく考えねったって良いがら、先輩の言うこと聞いたご褒美ー、ぐらいに思って取っときなって」

「でも」

「でも、けど、禁句。私は杏んとこにでも行って、適当に時間潰すからさ。もし黒江ちゃんもしっかり休みてえって思ったらこっちおいで。移動の時間まで仮眠ぐらいは取れると思うし」

「……じゃあ、お言葉に甘えます。ありがとうございます」

 硬貨を握った手を胸に当てて真由が殊勝にお辞儀をすると、日向が申し訳なさそうに眉尻を下げる。

「悪いね。何の関係も無え黒江ちゃんにまで色々面倒掛けちまって」

「関係無いなんて、そんなこと無いです。私、ちなつ先輩と日向先輩の後輩ですから」

 その一言に込めた想いは、きっと彼女に伝わったのだと思う。日向は珍しく頬を紅潮させ、それと共に嬉しいような恥ずかしいような、という表情をやんわりと浮かべた。

「ありがとな、真由ちゃん」

 へばまんずね、と踵を返し、日向は廊下の向こうへと去っていった。いつもは自分のことを苗字で呼ぶ日向が、初めて名前で呼んでくれた。それがどうにもくすぐったく思えて、自ずと頬が緩むのを感じる。ほんの少しの間だけ一人で嬉しさを噛み締めた後、真由もまた振り返り、ジュースを求めて心当たりのある場所へと向かう。

 自販機は本館ロビーの脇、売店のすぐ傍に併設されていた。先ほど貰った硬貨を投入し、どれにしようかと指を迷わせた末にロイヤルミルクティーのボタンを押す。ガシャン、というけたたましい音と共に取出し口へ転げ落ちた、寸詰まりな円筒缶。それを拾い上げ、結露を始めた表面の印刷をじっと見つめる。奢られるのは苦手なのだが今回ばかりは仕方なかった。だってあそこで受け取らなかったら、却って日向の気を病ませてしまっただろうから。

 さて、これをどこで飲もう。正面ロビーのソファ……には独立組の子たちがたむろしている。彼女たちはこちらに気付いてはいないようだが、一人あの中に加わるのはバスの車中よろしく気が休まりそうに無い。さりとて杏の部屋で日向と過ごすのも、さっきの今なので何となく気が引ける。せめてミルクティーを飲み干すまでの間、どこか一人で落ち着けるところを。そう思ってしばし館内をうろついた真由が辿り着いたのは、本館の外れにある薄暗くて人けの少ない非常階段のふもとだった。

 カーペット敷きの階段に腰を下ろし、ぷしゅ、とプルタブをこじ開ける。飲み口から漂う芳醇な茶葉の香り。まず鼻腔でそれを堪能し、次に口をつけた真由は、舌の上に広がるお茶の渋味とミルクの旨味に小さな安堵を覚えた。たっぷりの糖分に心癒されつつクピクピと缶を煽るうち、疲れに濁っていた体の感覚は徐々に明瞭さを取り戻していく。

「……やめてよ」

 とその時、どこからか聞こえた何者かの喋り声に、耳がぴくりと反応した。方向からして、声がしたのは上階から。どこか聴き覚えのあるその声の出どころへ向けて、真由はそっと目を閉じ聴覚を凝らす。

「だけど、やっぱりどうしても話しておきたくて。お願いだから聞いて、お姉ちゃん」

 今度はハッキリ聴き取ることが出来た。さっきのものと良く似た声色だが、よくよく聞くと抑揚のつけ方や発音の強さが違う。お姉ちゃん。声の主は確かにそう言っていた。これはひょっとして。おもむろに立ち上がり、足音を立てぬようにそろそろと階段をのぼる。

「何の話だか知らねえけど、私、アンタと話すことなんて何も無えがら」

 二人の姿が見えぬギリギリのところまで接近した真由は、そこに身を潜めて会話の行方を探る。ここまで来る頃には、二つの声の主はもはや歴然としていた。階段の裾からちょっとだけ首を伸ばして様子を窺い、そして真由は推測を確信へと変える。

 良く似た姉妹。けれど、全然違う二人。そこで向かい合っていたのはやはり、ゆりと楓だった。

 

 

 



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〈15〉姉と妹 親しき者

 非常口のランプだけが灯された暗い階段。ここから先は恐らく雑具置き場か何か、普段使われていないスペースになっているのだろう。『立入禁止』というプレートをぶら下げたチェーン、その向こう側で、秋山楓と秋山ゆりは真っ正面から対峙していた。フロア半個分ほど低い位置から二人を目撃してしまった真由は、口を押さえて階段の陰に身を隠し、密かに事の成り行きを見守る。

「お姉ちゃんには無くても、私にはある」

 ぶるぶる震える両手を握り締めながら、それでも楓は敢然と姉に物申そうという気迫を見せている。他方、ゆりは心底うざったそうに顔を背けたままで、一つとして相手に向き合う姿勢を示さない。

「私、ずっとお姉ちゃんのこと心配してらったの」

 決然と切り出した楓には、それでもまだ幾ばくかの恐怖心が残っているのだろう。えっとな、そのな、と迷うように言葉を選びつつも、彼女は一つずつ秘めた想いを打ち明けていく。

「私、ずっとお姉ちゃんに憧れてた。お姉ちゃんみたいになりたくて、お姉ちゃんと一緒に吹きたいって思って、それで私もマーチング始めて。だけど小学校の頃はお姉ちゃんと一緒に吹けねくて、私ずっと寂しかったんだよ。その頃からお姉ちゃん、私ともあんま喋ってくれねくなって。何て言うかその、お姉ちゃんが遠くに行っちゃったみたいな気がして」

 必死に言葉を紡ごうとする楓に対し、ゆりはただ不愉快そうな表情で沈黙を貫いていた。彼女のそういった気配を感じ取るのは、あのオーディション前の対話以来だ。びりびりと全身の毛を逆立てつつも、真由はその場に留まり続けることを選ぶ。と言うよりもむしろ、場を支配する圧力と緊迫感のせいで下手に動くことが出来なくなってしまっていた。

「けどこうやって中学ではおんなじ吹部に入って、やっとお姉ちゃんと一緒に吹けるって思って。まだマーチングはあるけど、コンクールじゃこれがもう最後になるかも知んない。そう思ったらせめて明日だけでもお姉ちゃんと一緒に吹きたいって思ったの。ただ吹くんでねくて本当の意味で、お姉ちゃんと一緒に」

「……何よ、本当の意味って」

「だってお姉ちゃん、ずっと苦しそうだから」

 ぎり、と拳を握り込み、そして楓はゆりに一歩近付いた。

「音を楽しむ、って書いて音楽。なのにお姉ちゃん、いつも苦しそうに演奏してる。昔みたいに楽しんでない。私だってそんくれえ解るよ。ずっとお姉ちゃんを見てたから。ずっとお姉ちゃんのこと、心配してたんだから」

 こんなにもいたいけな楓の想いは、しかしゆりにはきっと欠片ほども届いていない。そのことはゆりの態度を見れば明らかだった。それどころか、と真由は息を呑む。今すぐこの場に割って入るべきか。それともこのまま静観を貫くべきか。いずれであっても相応の危険性を孕む選択に、思考は大きく揺さぶられる。

「今までずっとそうして来たけど、でも見てるだけじゃあ結局何にも解決しねえって思った。そんで明日がもう本番でしょ。私、このままじゃダメだって思って。それに、お姉ちゃんにもこのまま終わって欲しくなんかない。私には分かんねえけどお姉ちゃんには何かきっと、コンクールに拘る理由があるんだよね? それ、話して欲しい」

「無えよ、そんなの」

「無いわけない。お願いだからちゃんと話して。私に出来ることがあったら、何だってするから」

「アンタに、出来ること……?」

 それまで氷の温度を保っていたゆりの表情筋が、ぴくりと引き攣ったように歪む。

姉妹(きょうだい)でしょ、私たち。お姉ちゃんが何か悩んでるなら力になりたい。それがお姉ちゃんのためでねくて自分のためだってのは分かってる。軽蔑されたって良い。けど、それでお姉ちゃんが音楽の楽しさをもう一回思い出してくれるなら、私はそれで良い。苦しそうなお姉ちゃんと一緒に音楽やってるの、辛いよ」

「じゃあ正直に言えばアンタ、私の言う通りにしてくれるっての?」

 地を這うように低い声で尋ねたゆりに、もちろん、と楓が顔を輝かせる。それはいけない。反射的に真由がそう声を上げようとした矢先、ゆりの喉から信じられないほどの大音声が吐き出された。

「冗談じゃねえ!」

 怒気に漲る面相。苛立ちに震える奥歯。それは今までに見たゆりの中で最も強い恐怖を感じさせる、修羅のごとき姿だった。

「楓、アンタ本当に何にも分かってねえ。なんで私が楓のこと避けてたのか。なんで私が中学で吹部に入ろうって思ったか、なんで私がコンクールメンバーになるために必死こいてたか! 私のこと心配してた? だったら一つぐれえ言い当ててみせなさいよ。ここまで的外れな態度取って、バカにすんのもいい加減にせえよ!」

「お、姉、ちゃん……?」

 突如として豹変したゆりを前にして、何がどうなっているのかも分からぬまま、楓はただただ恐懼していた。ひとたび噴出させたことで、閉ざすべき蓋を見失ってしまったのだろう。ゆりは内側から煮えくり返る感情を遮ろうともせず、その全てを楓へと叩きつけていく。

「どうしても分かんないなら、何でか教えてあげる。それもこれも全部アンタが居たから。転校して友達もなかなか出来ねくて私が悩んでた時に、アンタはあっさり友達作ってマーチング始めて、毎日へらへら楽しそうにして。それがうざかった。アンタなんかと同じところで毎日一緒に過ごせるかって思って、だから私は小学ん時マーチング部には入らなかった」

 苛烈極まるその告白は、相手にいかほどの衝撃を与えたことだろう。細く筋肉質な楓の脚ががくがく震えているのが、この距離からでも見て取れる。さっきまでの熱っぽさは血の気と共にすっかり引け、その代わりに噴き出た脂汗がべっとりと、彼女の額を包んでいた。

「これも言っとくけど、私はあのまま音楽から離れるつもりでいた。けど中学に上がって吹部に入る気になったのは楓、アンタを見返すため。進学してまっさらな環境から始められたら私だってアンタみたいに楽しくやれる、って思ったの。実際楽しかったよ、アンタが吹部に入ってくるまではね」

「私、が?」

「そう。ブランクもあったし下手くそだったけど、それでも私は楽しかった。学校で、部活で過ごしてる間だけは、アンタのことを意識しなくて済んだから。けどそれも去年、アンタが吹部に入ってきたことで終わった。ただ入っただけじゃない。アンタはその頃から周りに認められて、コンクールでもメンバーさ選ばれて。そのせいで私がどんだけみじめだったか分かる? 姉のくせに妹よりも下手なんだーとか、優秀な妹と比べられて可哀想とか、そんなふうに言われる私の気持ちが」

 ぎりり、と音を立てて剥き出しにされたゆりの歯茎は、血が滲んでいるかと思うほどに真っ赤だった。怒りのボルテージは収まるどころかどんどん高まり続け、ついには目を血走らせながら、尚もゆりは叫ぶ。

「アンタもさぞかし恥ずかしかったでしょうけどね、出来の悪い姉で。心配してる、なんて良く言えたもんだよ。どうせだったら『こんな下手なお姉ちゃんなんかと一緒に吹きたくねえ』ってハッキリ言やあ良いじゃん」

「違っ。私そんな、そんなひどいこと、思ってなんか、」

 がふ、と息をつっかえさせた楓の瞳がじわじわと滲む。彼女のそんないじらしさも、今のゆりにとっては全くの逆効果。それこそ火に油を注ぐようなものだ。

「泣きてえのはこっちだよ。ここまで妹にバカにされて、本当イライラする。だがらアンタとなんか話したくなかったんだ」

 唾するように言い放ち、そしてゆりは楓に肩をぶつける勢いで詰め寄った。

「アンタが吹部に入ってから、私は絶対負けらんねえって思ってた。お父さんお母さんに怒られたって、何としてでもコンクールさ出てアンタのこと見返してやるつもりだった。もう分かったでしょ。私がこうなったのは全部アンタのせいなんだよ、楓!」

「きゃ、」

 ドン、という鈍い音と共に上がった小さな悲鳴。ゆりに突き飛ばされた楓はよろめき、階段の壁に寄りかかるようにして、なおも禍々しい形相のゆりに怯えの視線を向けていた。

「言う通りにしてくれるって? だったら私の前から消えてよ。アンタ見てると腹が立ってしょうがない。自分だけイイ子ちゃんして何にも悩まず生きてきたようなアンタに、こんな私のことなんて分かりっこねえ。分かって欲しくもねえ」

「お姉ちゃん……、お姉ちゃん……」

「それでもアンタが消えねえってんなら、私の方から居なくなる。それでいいでしょ。――もう、私に関わらねえで」

 最後のひと言を吐き捨てたゆりが、こちらへ向かって降りてくる気配。咄嗟に真由は足音を殺して階段を降り、別館につながる廊下の壁へピタリと張り付く。もしもゆりがこちらへ来たら一発でバレる――という絶体絶命の状況ではあったものの、幸いなことに彼女の向かった先は逆方向の本館側。廊下が絨毯張りだったおかげもあって、どうにか足音を悟られずにも済んだ。けれどあの子は、楓は。彼女のことが気に掛かり、真由は再び階段のふもとへと赴く。

「ごめん、ごめんな、お姉ちゃん……私、そんな……そんなつもりじゃ……」

 突き飛ばされたその場にうずくまったまま、人目も憚らず幼な子のように声を上げ、楓は泣きじゃくっていた。あまりに痛々しい結末。こんなことになるなら無理やりにでもあそこで二人を止めておけば良かった。強い後悔の念に苛まれながら、それでも今の真由には、悲嘆に暮れる楓をひとりにしてあげることしか出来なかった。

 

 

 

 水月による分裂騒動。それに伴うちなつの不調。そして秋山姉妹の確執。こうした諸々の問題を抱える曲北吹部は、さながら三重苦の様相を呈していた。こんな状況下では本番前最後のリハーサル練習も満足にこなせる筈が無い。こういう時には顧問から、何か気の利いた言葉の一つでも……そう期待する向きもあれど、結局はそれすらも無いまま、曲北は本番前最後のリハーサルを終えざるを得なかった。

「ヤバいなー。まさか今日になって木管までガタガタんなるとは」

 宿舎の部屋へと戻った日向が開口一番、大げさな溜め息を吐きながら広縁のリラックスチェアにドッカリと座り込む。当然ながらと言うべきか、ちなつは日向に言葉を返さずむっつり黙り込んだままだ。

「明日本番だで? もう立て直せるような状況でもねえし、こりゃ腹括んねえとダメかもな。なあ真由ちゃん」

「え? はい。いやその、」

 唐突に名を呼ばれ、真由はしどろもどろになってしまう。日向に『真由』呼びされるのがまだ慣れていないせいもあるが、こうなった事情を知っている身としてはどうにも返答のしづらい問い掛けであったことも確かだ。

「特にクラとサックスな。あそこがメチャメチャだと今回の自由曲は全然締まらなくなっちゃうし。昨日まではまだマシだと思ってたのに、パート内で何かあったんだべが」

 ぼやく日向をよそに、真由はリハーサル中の秋山姉妹の様子を振り返る。ゆりは憤懣やるかたなし、という様子を隠し切れず、荒ぶるサックスの音色は一切周りと調和していなかった。そして楓の方はと言えば、こちらはもっと深刻だ。定まらぬ音程に加え、ビブラートとは到底呼べない不安定なだけの音圧。いつもなら滑らかに吹きこなす連符でもことごとくつまづき、あまりの惨状を見かねた永田によっていっときの間、代理の人間がソロを吹くよう指名されてしまったほどだ。そんな二人に引っ張られたかのように、木管周りの演奏はほとんど壊滅的な事態となっていた。

「事情聴取じゃねえけど、ちょっと話聞きに行ってガス抜きした方がいいんだがも。どうするちなつ?」

「どうするって、何を」

「だがら今言ったべ。クラとサックス、どうにかした方がいいんでねえかって」

「何ともならねえよ、私なんかが出しゃばったって」

 今日のちなつは何だか随分と投げやりなことを言う。そう真由が思っていると、日向がおもむろに立ち上がり、ずかずかとちなつへにじり寄った。

「今の、どういう意味だ」

 静かに問うた日向に、ちなつは漠然と物憂げな表情を浮かべたままで口を閉ざしていた。

「オメエ部長だろ。こういう時に状況把握の一つもさねえで何とすんの。何だよ、私なんかって」

「だって私じゃ、力不足だし」

「あ?」

「そうだよ。やっぱ私なんかにゃ部長なんて出来っこねがったんだ。部がこんなガタガタになってんのも、それをどうにも出来ねえでいるのも全部、私が部長として頼りねえから。そんな私にこれ以上、何が出来るってのよ」

「ちなつ、」

 日向がその表情を大きく歪める。後ろ向きなことばかりを宣うちなつに少なからず失望の念を抱きそうになったのは、真由とて同じだった。

「私には無理だ。そんな言うんだったら、ヒナが私の代わりに行きゃあいいじゃん。私なんかと違って、ヒナにはそんだけの能力があんだから」

「ふざけんなよ、オメエ――」

「やめてください!」

 ちなつの胸ぐらに掴みかかった日向を見て、堪らず真由は声を張った。これ以上誰かが言い争うところを見るのなんてもうごめんだ。そういう思いで発した強い言葉が、日向をあと一歩のところで踏みとどまらせる。ちなつもまた呆気に取られたように、いつになく険しい顔つきの真由へ瞠目をくれていた。

「お願いですからやめてください。――先輩たちまでそんなふうになってるの、見てて辛いです」

「……ごめん、真由」

「私も。つい、カッとなって」

 ゆるゆるとちなつの襟から指を離し、日向はくたりとその場に座り込んだ。それを見てもう、話さずにはいられない、と真由は意を決する。

「あの、さっきの木管の話なんですけど。実は私、リハ前の散歩中に階段のところで――」

 

 

「……そんなことがあったなんて」

 一部始終を話し終えると、ちなつと日向はそれぞれ得心したように小さな唸りをこぼした。

「それにしたって、まさかあのゆりが、楓に対してそういう風に思ってたなんてな」

「おとなしい子だからね。内側に溜め込んでたっつうか、感情を上手く処理できねがったのかも」

 はい、と首肯し、それから真由は続ける。

「けど私は、楓ちゃんも必ずしも悪くなかったとは言えないのかもって思います。楓ちゃんがお姉ちゃんの、ゆり先輩のことをもうちょっとだけ理解出来てたなら、少なくともあそこまで怒らせるようなことにはならなかったんじゃないかって」

「まあ、そこは結果論みたいなトコもあるけどな。踏み込んだのが楓からだった、っつうだけで、いつどんなキッカケで爆発したっておかしくねえような状況だったんだろうし」

 冷静さを取り戻した日向は、真由の拙い説明でも秋山姉妹の内情を十全に察してくれたようだ。そのことと場が落ち着きを取り戻したことの安堵感から、真由はそろりと息を吐く。

「けどタイミング悪すぎたなあ。せめてコンクールシーズンに入る前か、東北大会が終わってからにしてもらえりゃあ……っていうのは私の偽らざる胸中だな」

「それは多分、私にも責任があります」

 自戒を込め、真由は二人の前で白状する。ゆりの楓に対する憤怒を知ったあの時、自分は楓にその全てを詳らかにすべきだった。例えそれで楓がショックを受けることになったとしても、あるいは姉妹の衝突を早める結果になったとしても。そうすれば楓に、吹部全体に、ここまでの深手を負わせてしまうようなことにはならなかった筈だ。

「そこは今さら言ったってしょうがねえよ。こうなるって最初っから分かってたわけでもねえんだし。真由はあんまり気に病むな」

 そんな気遣いの言葉が出てくる程度には、ちなつの精神状態も普段のそれに近いところまで回復してきたようだ。はい、と返事をした真由はしかし、ゆりと楓のことを思うと未だ複雑さを拭いきれずにいた。

「けど原因が分かったところで、じゃあどうすっかって話だよな。うちも姉ちゃんいるから分かるけど、姉妹喧嘩ってけっこう面倒くせえモンだからなあ」

 ぶはー、と息を抜いた日向が天井の蛍光灯を仰ぎ見る。

「もうこうなったらゆりに直接、とりあえず形だけでも楓さ謝れ、って説得してみるとか?」

「それはどうだべ。確かにゆりがキツいこと言ったのは良くねえって思うけど、そこだけ謝らせたって結局、根底は何も解決しねえわけだし」

「じゃあ楓を思いっ切り慰めて、無理やりにでも立ち直らせるとか」

「それも難しいと思います。楓ちゃん完全に落ち込んじゃってますし、明日の本番までにどうにかなるかって言われると……」

 考えあぐねる三人がほぼ同時に嘆息を洩らす。光明の見えぬ苛立ちからか、日向は「ぐわー」とでんぐり返りを打ち、畳敷きへ大の字に寝そべった。

「ああもう。大体ゆりにしたって、あんま小難しく考えんなって話なんだよな。妹がどうであれ自分は自分。そういう気持ちで居さえすりゃあ、楓のことなんか気に掛けなくたって済むってのに」

「そうかな。私はほんのちょっと解る気がする、ゆりの気持ち」

「どういうことです?」

 尋ねる真由にちなつは小さな苦笑を返し、そしてぽつぽつと、まるで自分語りをするように言葉をこぼし始めた。

「きっとゆりはさ、自分なりに目いっぱい頑張ってきたんだよ。転校でまっさらな環境に来て、友達もいねえところでなかなか周りに馴染めねくて、それでも頑張ろうとして、けど上手く行かなくて。そんな自分のすぐ横をスイスイ、って何の苦もなく通り抜けてった楓のことが妬ましいっつうか、羨ましかったんだと思う」

「……ちなつ」

 身を起こした日向が何かを言いたそうに口を開き、そしてまた閉じる。

「そういうのってあるじゃん? 自分なりに頑張ったのにどうにもなんねえ、ってやつ。何でこんな頑張ったのに報われねえんだ、どうして自分だけこんな思いしてんだ、っていうの。他の人は難なく上手にやってたり、そもそもそんな苦しい思いなんて一つもしてなかったりするの見てさ、ああ、なんで私はこうじゃなかったんだろう、ってゆりは思っちゃったんでないかな」

 ちなつによって紐解かれるゆりの心理。そこにはひとりでにちなつ自身の心理が重ねられている。真由には何故か、そんなふうに思えてならなかった。

「そう思えば思うほど、すぐ目の前で楓が楽しそうにしてんのが、きっとゆりには辛かったんだと思う。本当はゆりだって楓みたくなりたかったんだよ。けど、なれなかった。その辛さをゆりは、楓を憎む気持ちにすり替えた。他の人から見たらバカくせえって思われるだろうけど、でも私は何か、ゆり一人を責められねえ気もする。目いっぱい頑張ったのに何一つ報われねえのって、本当に辛えことだって思うから」

 ちなつのその言葉に真由はハッとなった。努力が報われぬことの辛さ。それはついこの前、悲恋に沈んだ奈央を通じて、真由もまた直面していた問題だったから。

「ごめん、私ちょっと出て来る」

 シンと静まり返った空気を破るように、ちなつが勢い良く立ち上がった。どこへですか? と問うた真由に、ちなつは久しく見せることのなかった明度の高い笑顔を覗かせた。

「ゆりのとこ。それでちょっと二人で話してくる。問題の解決はできねえかもだけど、何か溜め込んでるものを吐き出せるところがあった方が、あの子もちょっとは気持ちが楽になるでしょ。それぐらいだったら私にも出来るかなって」

 そんなちなつの様子に日向は一瞬目を見開き、それから安堵するように、ふつりとその表情を和らげた。

「んだね。そうと決まったら行っといで、部長」

「うん。ヒナ、悪いけど留守番よろしく」

 言うが早いか、ちなつはスリッパを突っかけぱたぱたと部屋を出て行った。その背を黙して見送ったあと、あーあー、と日向が脱力したように喉を鳴らす。

「良かったです。ちなつ先輩、ちょっとだけ希望が見えたみたいな感じで」

「そだねえ。でもまあ、私としちゃあちょっと寂しいトコもあっかなー」

「寂しい、ですか?」

「手の掛かる妹がやっと自立してった、みたいな? 良く解らんけど」

「そうですか」

 きっと日向はちなつの姿勢に彼女の前進を見出したのだろう。それは小さな一歩かも知れなくとも間違いなく、彼女のこれからを大きく左右する一歩になる。そんな確信を抱いていることを、真由は日向の表情から読み取る。

「先輩。私、ちなつ先輩を部長に推薦したのが日向先輩だって、ある人から聞いたんですけど」

「んあ? ちょっと誰よー、そンた大昔の話を真由ちゃんさ吹き込んだの」

「誰なのかはともかく、私それがずっと気になってて。日向先輩がちなつ先輩を部長に推薦したのって、ちなつ先輩なら吹部をしっかり引っ張っていけると思ったから、なんですか?」

「んー」

 すぐに答えぬ日向はポットのところへ這い寄り、ザラザラ、と急須に茶葉を入れた。お湯を注がれた急須からは、香り豊かな日本茶の匂いがふんわりと漂う。

「ほい」

 コトリ、と目の前のテーブルに置かれる二つの湯呑み。日向はそのうちの一つを上から鷲掴みにして無作法にお茶をすすった。真由も湯呑みを傾け、いったん喉を潤してから姿勢を正す。

「これ、他の部員さは絶対言わねえでな。勿論ちなつにも」

「はい」

「私がちなつを部長にした理由はたった一つ。ズバリ、ちなつを繋ぎ止めたかったから」

「繋ぎ止める、ですか?」

 日向から出てきたのはあまりにも予想外な言葉だった。部長になることが、どうしてちなつを繋ぎ止めることになるのか。疑問を抱かずにおれぬ真由を可笑しがるように、日向は一つ含み笑いを落とす。

「ちなつのことは真由ちゃんも、もう大体分かってると思うけど。中学に上がってすぐの頃にアイツが吹奏楽やるかどうか迷ってたの、実は私気付いてたんだ。だもんで、しばらくは仮入部もしないで様子見してた。まあ要するに、ちなつが入る気無えなら私も吹部さは入らないつもりだった」

 日向の湯呑みの中ではゆらゆらと、小さな茶葉の欠片が舞い踊るように波紋を描いていた。それを眺めるでもなく、視線を落とした彼女は湯呑みを茶托へと置く。

「日向先輩はどうやって気付いたんですか、ちなつ先輩が吹部に入るつもりが無かったことに」

「女の勘、ってやつかな。理屈じゃ上手く説明できねえ。ただ何となく、小学校卒業する辺りで、コイツきっと音楽辞めるつもりなんだなって感じてさ」

 それはつまるところ、ちなつの言動や態度の端々からその空気を感じ取っていたということなのだろう。彼女たちの場合は『阿吽の呼吸』と言い換えることも出来るのかも知れないが、実際にはそう容易いことではない。

「そん時さ、ちなつが音楽から離れるかもって思った時。私は、私はね、怖かったんだよ」

「何が、です?」

「ちなつがいなくなっちゃうのが」

 緩慢に漂うお茶の香り。それが場を和ませているのか、日向はいたって落ち着いた口調を保っていた。

「私とちなつは小っちゃい頃からの幼なじみだった。だから何となく、一緒で居るのが当たり前みてえに思ってた。けどちなつの母ちゃんが亡くなって、ちなつが家事とか弟の面倒見るからっつって一緒に遊ぶ時間が極端に減った時、私からちなつが離れてったような気がしたの。仕方ねえことなんだ、ちなつん家は大変なんだ、って何べん自分に言い聞かせても、ちなつがいなくなるのがどうしてもイヤで。だから逆に色んな理由付けて、私はずっとちなつから離れないようにしてた」

 さっきお茶を飲んだばかりだというのに、急速に喉がからからに渇くような錯覚。それは日向も同じだったのかも知れない。特に意識したわけでもないのに、二人はほぼ同時に湯呑みを口へと運ぶ。

「小学校のとき、ちなつをマーチングに誘った本当の理由もソレ。一人で入部すんのが怖かったんじゃねえ。ホントのところ私は、ちなつのいない世界に飛び込むのが怖かった」

「そんな理由で、ですか?」

「おう、そんな理由よ。でも小っちぇえ頃なんてみんなそんなモンでしょ?」

 クツクツと笑い、そして日向がグイと一気にお茶を飲み干す。

「あの頃はそれでも良かった。だけどいざ中学に上がってちなつが吹部に入る気がないのかもって思った時、じゃあ私は何やろうって考えた途端、頭ん中が真っ白になっちゃってさ。びっくりするぐらい何にも無かった。音楽やりたいも、チューバやりたいも、私の中には何にも。今度はそれが怖くなった。こんなカラッポな自分ってちょっとやべえんじゃねえか、って真剣に悩んだぐらい」

 空いた湯呑み。それをころんと爪弾き、日向は自嘲の吐息をこぼした。

「だからちなつが吹部に入る気になった時はさ、嬉しいってより助かった、って気持ちだった。私はまだちなつの傍に居られる、離れ離れにならなくて済む、って。そう、あの時の私は多分ちなつに依存してた。ちなつの居ない自分ってのが解らなかったって言った方が、存外正しいんだかも知んないけどさ」

「それって、今は違うってことですか?」

「どうだろ。案外そんな変わってねえかもだし、変わったつもりでもいざちなつが居なくなったら、やっぱりカラッポな自分に気付いちゃうのかも知んねえな」

 日向が言葉を切った隙に、真由は残っていたひと口ぶんのお茶をごくりと嚥下する。ていねいに茶葉を避けたつもりなのに、舌の上には粉末のようなざらりとした感触があった。

「けど去年、先輩らが引退して次の部長を決めるってなった時、これはいい機会だなって思ったんだ。音楽から離れるつもりでいるのに音楽が好きでどうしようもねえちなつを、音楽に繋ぎ止める。それには楽器だけでねくてもう一つ、何か他に動機みたいなものが必要なんじゃねえかと思った。それが、」

「ちなつ先輩を部長にすること、ですね」

 そう、と頷いた日向が二つの湯呑みを手に取り、のそのそと膝歩きで部屋の隅にそれらを戻す。同じ姿勢で引き返しながら、日向は喋り出した。

「もともと責任感強えし頑固過ぎるくらい真面目な奴だから、人を率いる立場になったらそうそう辞めるなんて言い出さねえべ、っていう打算もあった。でもそれよりも仲間っていうものに意識を向けさせて、仲間と一緒に最高の音楽を楽しむ、そのために部長としてみんなを引っ張っていくっていう体験があれば、ちなつはまたいつか音楽をやりたくなる日が来るんじゃねえか、って」

「でも日向先輩は、それで良かったんですか?」

 真由はあえて日向に切り込んだ。ちなつが音楽を、その仲間たちを大事にする。それは確かに彼女を音楽に繋ぎ止める上では一つの手立てとして有効だろう。けれどその一方で、ちなつが音楽の道を選ぶ時、その傍らに日向がいられるという保証なんてどこにも無いことの筈だ。日向がそれにどこまでもついていく、というのならば話は別だが。

「さて、そこが日向ちゃんの摩訶不思議タイムよな」

 あっけらかんと言い放ち、そして日向がそのまま広縁へと歩いていく。もうすっかり日暮れ時を迎えた窓の外の空は、薄ぼんやりとした茜色に包まれていた。

「それまではどうにかしてちなつを自分の内側に繋いでおきたい、って思ってた。それがどうして外側に繋ごうって思うようになったのか、今でも分かんない。頑張ってるちなつを見てるうちに考えが変わったのか、それとも実は私もどっかで踏ん切りつけねえとって思ってたんだか。だけどいつの間にか、こんなふうに考えるようになってた。アイツは、ちなつはこんなトコで燻ってていいような奴じゃねえ」

「勿体ない。前にそう言ってましたもんね、ちなつ先輩のこと」

「そういう見方が出来るようになった、ってことだよ。子供からだんだん大人になって来て、世の中の色んなことが見えるようになって、自分のこともちなつのことも、そういう外側目線から見れるようになったんだかな。子離れならぬちなつ離れっつうか、上手く言えねえけど多分、そういうコト」

 最後は少しあやふやな物言いで、日向は強引に言葉を結んでしまった。理屈についてはさて置くとして、彼女のその心理は分からないでもない。白から黒へ。裏から表へ。そんなふうにある点を境としてハッキリと変化することが出来るのならば苦労は無い。けれど例えば、幼虫が美しい蝶となる前には蛹の段階を経過するように、人もまたどろどろな半熟の状態を経て確立された誰かに、何かになってゆくのだろう。自分たちはまだ半熟の真っただ中。これからたくさんの経験を経て少しずつ変わってゆく、まさにその過渡期にあるのだ。

「今の私は、ちなつが本当に満足の行く生き方が出来るんならそれで良い、って思ってる。そのために私に出来ることがあるなら力を貸してやりたいし、全力で応援してやりたい。だからちなつ自身がいちばん主体的に動いてくんないとさ、私が困っちゃうってワケよ」

「手助けしたくても何をどう助けてあげたらいいのか、分かんなくなっちゃいますもんね」

「そうそう、そういうこと。真由ちゃんもずいぶん成長したもんだね。いやあ、あの頃が嘘みてえに大っきくなって」

「まだ春からそんなに時間経ってないですよ」

 くすくすと二人して笑い合い、それから日向は「さて」と壁の時計に目をやった。

「そろそろ晩ご飯だし、真由ちゃんは先に食堂行っといでよ。明日は本番なんだし、ちゃんと食ってちゃんと休まねえと体持たねえど」

「先輩はどうするんですか?」

「私? 私はここで待ってるよ、ちなつが帰って来んの」

「そうですか」

「多少遅れたって、私らは部長権限でどうとでもなるからさ。ほら、食いっぱぐれねえうちに行った行った」

「はい、それじゃお先に失礼します」

 手を振る日向に見送られ、真由は部屋の入り口へと向かう。そしてそこで振り返り、

「日向先輩」

「おん?」

「きっと、すごく良かったんだと思いますよ。ちなつ先輩にとって、日向先輩がずっと傍に居てくれたこと」

 直接言うのが照れくさかった真由は、そう言い逃げするようにして部屋を出る。――ありがとう。戸が閉まる寸前、部屋の中から微かにそんな声が聞こえた、ような気がした。

 

 

 

 

 

 

 あれから夕食を経て、ちなつは再びゆりのところへ赴き、夜遅くまで何か話し込んでいたようだった。消灯の時刻になっても部屋に戻らなかったちなつのことを、しかし真由はちっとも心配していない。それは誰あろう日向が第一に、ちなつの心配をしていなかったからだ。

『アイツはもう大丈夫。余計な気ぃ回してねえで、私らは私らのことだけ考えてるべ』

 そう言ってくれた日向には半分申し訳ないのだが、こちらとしてはそうもいかなかった。元を正せばこの一件は自分の不手際から起こったことだ。例えどんな結末を迎えようとも、それに対して自分が毅然と振る舞えるだけの覚悟を持っていたならば、こんなに多くの人が心を痛めることもなかったに違いない。それにちなつに出来るのは、あくまでゆりと膝を突き合わせて話をするところまでだ。本当の意味で問題を解決するためにはもう一つ、果たさなければならないことがある。

「すいません先輩。ちょっとお時間いいですか」

「黒江、さん?」

 それは翌朝、まだ皆が朝食に起き出すよりも前のこと。こっそりとゆりの部屋を訪れた真由は、相談したい事がある、と言ってゆりを中庭まで連れ出すことに成功していた。無言でついてくるゆりを背にして、真由の緊張の念は否応なしに強まる。けれど今さら逃げ出すことなど出来やしない。大丈夫、自分の役割はそんなに難しいことじゃない。そう何度も己に言い聞かせながら敷地内をそぞろに歩き、足元に砂利を敷かれたベンチのところで真由は振り返る。

「あの。相談の前に私、ゆり先輩に謝っておきたくて。オーディションの時、先輩を怒らせるようなことしちゃってすみませんでした」

「え。いや、別にそんな。あん時は私もオーディション前で気が立ってただけっていうか、」

 やにわに謝罪のお辞儀から入ったことで、ゆりはすっかり面食らったようにあたふたとしている。それは半ば真由の算段通りの反応だった。

「あれから私も色々考えて。私にはきょうだいが居ないので、先輩の気持ちが良く解ってませんでした。そのことがずっと引っかかってて、だから、今日の本番の前に謝っておきたいなって思いまして」

「いいよもう。私は気にしてねえし、黒江さんもあん時のことはもう忘れて」

 昨日の激昂ぶりがどこかへ飛び去ってしまったみたいに、今日のゆりはすっかり鎮まっていた。それはきっと夜更けまでとっぷりと、ちなつと語り合ったお陰もあっただろう。ただしそれは必ずしも、ゆりの心の傷が全て拭い去られたことを意味しているわけではない。ここからの発言は慎重に。ゆりから見えない角度で深く息を吸い、そして真由は勢いよく面を上げる。

「それで、相談なんですけど」

「ああ、はい。相談ね」

「えっと、上手く言えないんですけど、これは私の友達の話でして」

 ゆうべから何度も頭の中でシミュレーションしていたのに、いざ喋ろうとすると上手く呂律が回らない。頬の筋肉もどこか強張っている。しっかりしろ。ふとももを指できつく抓ね、その痛みで真由は己を律しようと努める。

「その友達にはお姉ちゃんがいるそうで、その子自身はお姉ちゃんがすごく大好きなんです。けど、とっても不器用な子で。そのせいでお姉ちゃんとすれ違ったりぶつかったりして悲しい思いをしてるんですけど、どうにかお姉ちゃんにその気持ちを伝えたいって思ってるらしくて」

 真由の話が進むにつれ、ゆりの顔つきがだんだん神妙になっていく。それは何を言いたいのかと訝しんでいるのか、それとも或いはこちらの思惑を察してのことか。どっちだって構わない。自分は自分のやるべきことをやるだけだ。

「だけど思い切って気持ちをぶつけてみたら、却ってお姉ちゃんを怒らせちゃったらしくて。もしかしたらその子にも悪いところがあったのかも知れないんですけど、その子はその子なりに必死なんです。だから、その子とお姉ちゃんがどうすればもう一度折り合えるようになるのか、それをゆり先輩から教えていただきたいっていうか」

「つまり、相談の相談、ってこと?」

「そういうことになります」

 用意していた文言を一通り喋り切って、それから真由はじとりとこめかみに浮かんだ冷や汗を隠すように、前髪をいじるフリをした。

「ダメ、ですか?」

「別に構わねえけど、そんな相談、どうして私に?」

「先輩、言って下さったじゃないですか。困ったことがあったら相談に乗るからって。それにこういうことって、やっぱり実際に妹が居る人に聞いてみないと分からないですし。その時に思い浮かんだのが、ゆり先輩だったんです」

 言質。春に掛けられた彼女からの温かい言葉を、すなわち真由はここで利用したのだった。ずる賢いと思われたっていい。これは画策ではなく、あくまでも相談なのだ。同じ姉の立場から、ゆりならどうすれば妹の話を聞く気になるのかという、ただそれだけの。そしてこれが相談である以上、ゆりは必ず真摯な回答をよこしてくれる筈だ。答え自体は何でも良かった。ただそこへ至るまでの思考を通じて彼女が自分を、そして楓のことを、ほんの少しでも客観的に見てくれさえすれば。

 眉を潜めるゆりは考え込むふうでもなく、ただじっとこちらの瞳を覗き込んできた。その目に怒りや憎しみといった感情の色は浮かんでいない。「お願いします」と真由が重ねて頭を下げると、やがてゆりは瞼を閉じ、何かの決断をするように鼻から息を吐いた。

「私の考えで良ければ、だけど。黒江さん、そのお友達にこう伝えてあげて」

「はい」

「きっとお姉ちゃん、今は怒ってなんかねえから。ただ自分の中のもやもやを誰かにぶつけたかっただけ。難しいこと考えないでもう一度話してみようって気になったらきっと、そのお姉ちゃんの方から謝ってくると思うよ。ひどいこと言ってごめん、って」

 そう告げるゆりの表情のあちこちには、この朝焼けの空模様みたいな清々しさと、ほんのちょっと諦観めいた侘しさのようなものが散りばめられていた。クス、と吐息を洩らしたゆりは足元の砂利を確かめるようにつま先を動かし、それからくすぐったそうに身をよじる。

「その子自身には何の悪意もなかったんでしょ? したら悪いのはそのお姉ちゃんの方だよ。本人だってそれは分かってると思う。今頃はきっと、ずっと冷たくしてごめんね、って思ってるんでねえかな」

「ゆり先輩……」

「これはあくまで私の予想な。もし外れたって責任取れねえけどって、そこはちゃんと強調しといて」

「分かりました。絶対ちゃんと伝えます、その子に」

 真由がそう返答すると、ゆりは頭の後ろに手を組んで「あー、」と反り返るように伸びをした。

「全く。人間ってどうしてこう単純なんだべ、たった一晩でこんなあっさり変わっちゃうなんて」

「どういうことですか?」

「こっちの話。何もかもアホらしくなったっていう、ただそんだけ」

 そこまでで『相談』が終わったことを、彼女もとっくに気付いていたのだろう。じゃあね、と手を振りゆりは宿舎へ戻っていく。その後ろ姿を黙って見送りながら、真由は心の中でそっと彼女へ最大級の謝辞を送った。

 

 

 その後、彼女たち姉妹の間に何があったのかは分からない。真由に出来たのは、ゆりから貰った言葉を朝食後に楓へほぼそのまま伝えたこと。それでもなお臆する楓に『きっと大丈夫』と励ましの言葉を掛けてあげたこと。それだけだ。

「フルート、全員揃ってる?」

「メンバーは全員オッケーです」

「クラは?」

「楓がまだ来てません」

 出立の準備を終えた曲北一行が玄関に集合する中、欠員がいないかの点呼において、ゆりと楓だけが何故かその場に居なかった。他は独立組も含めて全員揃っているのに。部員たちからそういう不審がるような声も上がり始め、やむなくちなつが二人の部屋まで様子を見に行ってみたものの、そこにも姉妹の姿は見当たらなかったらしい。

「部屋さいねえってなると、本館のどっか?」

「二人揃って便所かどっかに籠ってるんでねえべな」

「どうする、そろそろ出発の時間だぞ。館内放送でも掛けて貰った方が良くねえ?」

 ちなつを取り囲んだ数名のパートリーダーたちが口々に見解を述べる。そのとき真由は、背後の方に固まっている独立組の集団からこんな声が漏れ出たのを、確かに聴き取った。

 ざまあ見れって。

 昨日のリハでも調子崩してらったんでしょ、合わせる顔が無くて逃げたんだよ、きっと。

 私らのことをぞんざいに扱ってるからこういうことになるんだ。

 さあて、次の交渉で向こうはどう出るんだかな。

 ほとんど怨嗟と言って差し支えないそれらの声に、真由の胃がきゅるりと熱を伴って委縮する。己の内に沸き立つ解析不能なその感情は少なくとも、「肩身が狭い」という類のものでないことだけは確かだ。

「ごめん、みんな先にバスさ乗ってて。私はもっかい館内探してみるから、それでも出発の時間に間に合わねえようなら――」

「あっ、来た!」

 ちなつが決断を下しかけたその時、部員の一人が後方を指差す。その方角からぜえぜえと息をつきながら駆け寄って来たのは、ゆりと楓、肩を並べて走る秋山姉妹だ。

「ごめん、遅れた!」

 その場に着くなり、ゆりは皆へ向けて盛大にこうべを垂れた。遅れてすいませんでした、と楓もそれに続いたことで、それまで雑言を吐いていた独立組もやきもきしていたメンバー達も、皆一様に毒気を抜かれてしまったようだった。

「もう、大丈夫なんだが?」

 ゆりのところに近寄ってその肩に手を置き、ちなつはゆりに尋ねる。

「うん。いろいろ心配掛けて、ごめん」

「全くだで。本番終わったら二人とも、みっちり説教な」

 ニヤリとちなつが犬歯を浮かべる。ゆりと楓は互いの顔を見合わせ、はにかむように苦笑をこぼした。彼女たちのそんな姿はここにいる誰よりも美しく、そして慎ましかった。

「さあ、それじゃ移動します。今日の本番、全員悔いの残らないようにしっかりやりましょう」

「はい!」

 出場メンバーたちが意気揚々とあいさつをする中、独立組はどこか不服そうな表情のまま無言でバスへと乗り込んでいく。その折、真由は一台後ろのバスへ乗り込もうとする水月の姿を見つけた。他の独立組と違い、いたって平常通りといった態度でステップをのぼっていく水月。不遜さすら思わせる彼女のその態度は、いみじくも一つの集団をまとめ上げた首魁らしく、不気味なほどの落ち着きを保っていた。

 

 

 

「はい。えー、どうにか今年もここまで来ることが出来たわけですけれども」

 チューニング室の壇上にて、タキシード姿の永田がメンバーたちに本番前最後の声掛けをする。あと十数分もすれば、自分たちはここではなく本番のひな壇に座ることになる。その緊張みなぎるこの場に居合わせているのは出場メンバー五十名と、楽器や用具の搬入出を補助する僅かなサポート要員だけだった。

「ここんとこ色々なトラブルがあって、正直みんなも混乱してるところが多いんでねえかと思う。こういう状態で本番を迎える、っつうのは先生も音楽人生初のことです。ただあえて厳しいことを言うども、そういう身内のゴタゴタはホールに居るお客さんさは何の関係も無えことです。ステージに立って演奏したもの、それが全てであり、一度出してしまった音には言い訳も釈明も一切出来ません」

 いつになく厳しい口調で、永田は皆の顔を見渡しながら続きを紡ぐ。

「だからこそ本番を迎えたら音楽だけに集中して、全力を出し切る演奏をやらねばなんねえ。みんなの本番は今、この時だけ。後になってから後悔したって取り戻すことは出来ないんです。それは何もコンクールだけで無え。今日ここで悔いのない演奏をすることが、これからの自分にとってきっと大っきな財産になる。そう思って本番、胸を張って曲北の音楽をやり遂げましょう」

「はい!」

「時間です」

「へば移動すっか。荒川、よろしく」

「はい。みんな、行こう!」

 永田から部員たちの誘導を受け継いだちなつが、部長らしく毅然と号令を飛ばす。それに従って部員たちは真っ暗な舞台袖へと移動し、そこで前の団体の演奏を聴きながら本番の時が来るのを待った。さすが各県大会を勝ち抜いて来ただけあって、舞台上の彼らの演奏力は秋田県大会の出場校よりも数段上だ。東北大会のレベルの高さを真由も肌で感じ取る。だが他校は他校、曲北は曲北。ここまで来たら後は振り返ることなく、自分たちに出来る最高の演奏を目指す。やるべきことはただそれだけだ。

「真由ちゃん」

 その時誰かに袖を引かれ、振り返った真由は暗がりに目を細める。よくよく見れば、それはクラリネットを手にした楓だった。

「あのな、真由ちゃん。ありがとう」

「え?」

「お姉ちゃんから全部聞いた。荒川先輩や真由ちゃんに、いろいろ気付かされたって」

 楓はどこか照れくさそうにもじもじと横髪を弄る。いつもと違ってしおらしく振る舞う彼女は、それはそれである種の尊さを覚えるものがあった。

「私は何も。それより、良かったね楓ちゃん。ゆり先輩と仲直りできて」

「うん。お姉ちゃんに謝ってもらって、それで私もお姉ちゃんにごめんね、って。すぐにはお姉ちゃんのこと解ってあげられないかも知れねえけど、これからは自分の気持ちだけで突っ走るんでねくて、ちゃんと相手のことも考えながら動こうと思う」

 えへ、とこぼした楓の笑みは、気恥ずかしさに加えて心からの喜びに満ちていた。そんな彼女の笑顔を取り戻せたことは真由にとっても何よりの報酬だ。

「私、今日の本番、お姉ちゃんと一緒に目いっぱい全力で頑張る。真由ちゃんも頑張ろうね」

「うん、一緒にがんばろう」

 ファイト、とお互いにガッツポーズをし、そして真由は気を引き締める。コンクールの舞台でちなつや日向と共に吹けるのはこれが最後になるかも知れない。だからこそ後悔の無いように。永田からも戒められたその一言を強く胸に刻み、真由は吸い込んだ息を一斉に吐き出す。冴え渡る意識にやる気が漲るのを感じたのと時を同じくして前の団体が演奏を終え、ホールには大きな拍手が溢れ返った。

 下手(しもて)からぞろぞろと暗がりの舞台に踏み入り、曲北の一同は各々の席へと座る。真由の両隣にはちなつと雄悦。前方にはサックスに小さく息を吹き込むゆりや、クラリネットの指回しを確認する楓の姿もある。地区大会から一人として欠けることなくメンバー全員で迎えた今日という日。たった一日限りのこの舞台を大事にしたい。そんな思いに、真由は胸を熱く焦がされる。

「続いての演奏はプログラム十一番、秋田県代表、大仙市立大曲北中学校。課題曲Ⅰ。自由曲、『聖母に捧げる賛歌』。指揮は永田栄信です」

 アナウンスの声が場内に響き、続けてぼうっと明るみを強めたライトが自分たちを照らす。一瞬の静寂。ステージに立つときの高揚感はいつだって新鮮で、たまらない。指揮台に上った永田は一度メンバーをぐるりと眺め、それから手に持った指揮棒を高々と振り上げた。

 トランペットを主体として編まれる厳かなファンファーレ。コラール調の出だしから始まったそれは次の場面で一転、リズミカルな行進曲の様相へと姿を変える。木管の澄み渡ったメロディと共に歩みは進められ、チューバやコンバスがそこへ足跡を残すように刻みを打っていく。

 トロンボーンの勇壮な音色と共に勢いを増すと思いきや、フルートとグロッケンが軽やかにそこへ割って入り、後から追従した木管が金管の力強さに引き戻されるようにして進行は元の場面へと戻る。杏に率いられたトランペットの快活さによって曲は中盤の盛り上がりに達し、そして今度は楓らクラリネットが主体となって穏やかな曲調を描き出していく。

 その合間をひらひらと踊るピッコロの音色。再度金管が勢いを取り戻すと共に全体の音がじわりと強みを増し、三連符をもってトランペットが前面に飛び出したのを合図にリタルダンド。そこから更にティンパニーのロールを経て、階段を踏みしめるようにクレッシェンドしていく。金管中低音のオブリガートが曲を彩る中、夜明けの爽やかさを存分に主張しながら幾つもの楽器が音を重ね合わせ、課題曲の終幕は鮮やかに整えられた。

 楽器から口を離し、真由は楽譜を『聖母に捧げる賛歌』へと差し替える。譜面に入った幾つものメモ。カット箇所を覆う黒塗り。そして、ユーフォソロを指定した記号。そこへは注釈として『ちなつ先輩のソロ!』と明記してある。そのことに悔しさはない。これが彼我の実力の差であり、そうであってもなお、自分はこの曲北の面々に加わって演奏が出来ることを純粋に喜んでいる。音楽は強さじゃない。かつて誰かが言っていたそんな言葉を真由は自分なりに飲み下し、そしてまさに今この時、強烈に実感していた。

 ぷつんと糸を切るような手つきで繰り出された永田の指揮によって、冒頭を飾るフルートとクラリネットのか細い音色が場に紡がれていく。月明かりの夜闇にただひっそりと埋もれるようにして開始された第一楽章『天上からの使者』は、ホルンの呻くような音色を基調に一つずつ丁寧に音を積み上げていき、やがてトランペットとトロンボーンの豊かな響きによって黎明の時を迎えた。一つずつをゆったり詠み上げるように主題を歌う和香のオーボエソロ。そこへ引きずられていくようにサックスがなだれ込み、主題を継承した楓のクラリネットソロがシロフォンを伴って情緒豊かなメロディを奏でる。彼らの背後を支えるようにして金管は重厚なハーモニーを響かせ、聴衆を包み込んでいった。

 続く第二楽章『奇跡の道標』は、緩やかなテンポでもって構成された行進曲のような曲調となっている。しずしずと前進していく金管低音をベースとして、クラリネットの編み上げた心地よい和音の数々が場内を満たしていく。曲のモチーフが少しずつ形を変えて現れては消えて行き、その合間をひゅるりと抜け出でるようにしてフルートソロが涼やかな音で場面を独占する。そこへ連なるクラリネット、サックスの軽やかな足取り。さらに金管までもが加わり、演奏は混然一体のうねりとなってステージを飛び出しあまねく観衆の元にまで届けられた。

 第三楽章はそれまでの希望的な側面とは異なり、ファゴットの奏でるどこか不穏げなメロディから始まる。残酷な運命を打ち鳴らすシンバル。悲痛な叫びを上げるホルン。規律正しく鳴らされるスネアやバスドラムの振動は軍隊のそれを思わせる硬質さを孕んでいた。緊迫感を増しつつも、徐々に曲のボルテージは上がってゆく。木管の甲高い音はさながら悲鳴のように方々を飛び交い、重低音を主体とした破滅的なまでの総奏が観客席を緊張の色でべたりと塗り潰し。『裏切りと磔刑』。聖人の死を目の当たりにした人々の絶望と嘆きを存分に吹き鳴らし、そしてすうっと掻き消えた音色の只中で、隣のちなつが小さく息を吸った。

 無念さをにじませるようにして、しかし滔々と奏でられていくユーフォの美しく深い音色。すっかり聴き慣れていたはずなのに、今日のソロには普段と比べて何倍もの情感と、さっきまでの悲憤すら丸ごと呑み込む優しさとがふんだんに込められている。そんなふうに錯覚してしまうほど、ちなつの吹く主題は極限まで磨き上げられた宝石の如き圧倒的な透明感と輝きを放っていた。ユーフォソロから受け継いだメロディをよりドラマチックに演出する木管の音に乗って、金管の悲哀に満ち満ちた重奏がどっと観客席へなだれ込んでいく。その波濤の最後、微かな残滓を残すような音色で一つずつを丁寧に吹く雅人のトロンボーンソロは、あたかも太陽を失った宵闇のごとき暗澹ぶりだった。

 そしていよいよ最終楽章、『聖人の復活』。暗く哀しみの淵に沈んだところからフルートが、クラリネットが、一つずつ身を起こしていく。柔らかく差し込んだ光のような杏のトランペットソロを受けて木管の連符が細やかに動き回り、鼓動を思わせる音のさざ波を生み出す。柔らかくて暖かい日差しのようなハーモニクスの醸成。耳と息をフルに使い、真由もその豊かな広がりを膨らませていく。一つのフレーズが途切れたのと同時に楓は息を吸い、活き活きとクラリネットのソロを奏で始めた。

 その音は喜びに満ちていた。感謝に溢れ返っていた。ベースを支えるサックスの音色と共に、楓の吹くクラリネットは新しい命を得て天衣無縫の振る舞いを見せる。クラのソロが終わり、重低音は躍進を強調するようにクレッシェンドしていく。最高潮に高まった感情はホール全体を余すところなく席巻し、そして到達した頂点から一気に駆け下りた。

 堂々たる行進を思わせる大音声。高らかに打ち鳴らされるチューブラーベル。神々しさをまとった音の洪水を、自分たちがこの手で生み出している。その感覚を真由はこれでもかという程に味わい尽くす。すべてが渾然一体となったフェルマータの総奏は、完璧と呼ぶにふさわしい見事な一致ぶりだった。ぐるん、と翻る永田の腕に合わせて全ての音はぴたりと(とど)められ、全ての演奏に終止符が打たれる。

 マウスピースから唇を離した真由たち曲北を待ち受けていたのは、会場中から鳴り響く最大級の拍手だった。ちなつも日向も、ゆりも楓も、きっと今は清々しい表情に満ちているに違いない。そして、自分も。鳴りやまぬ拍手を全身で受け止めながら、肩で息をする真由がその時見ていたもの。それは恐らく、ずうっと前から真由が求めてやまぬものだった。

 

 

 

 

「……でも、そんだけ満足の行く演奏が出来ても結果がついてくるとは限らねえ、っつうのが現実の厳しいトコだよなぁ」

 そうぼやきつつ、後席の日向が肩をすくめる。今は既に帰りのバスの車中。表彰式、部の代表としてちなつが手にした曲北の結果は「東北大会金賞」と書かれたトロフィー、それだけだった。

「全国への代表権なし、か。いわゆるダメ金ってやつだけど、でも地区大会からずっとやって来て、今日が私ら最高の演奏だったって思う」

 前の席に座るちなつがしみじみと満足の意を述べた。その気持ちは少なくとも、出場したメンバーのほぼ全員が共有出来ていたに違いない。どこかつまらなさそうに静まり返る独立組はともかく、メンバーやサポートを務めてくれた面々は皆一様に笑いあるいは一様に泣き、互いを讃え合うようにして今日の本番を振り返っていた。

「ゆりのサックス、すげえ良かったと思うで。いつもあんなふうに吹いてたらもっと良いと思う」

「やだ、私なんか全然だって」

「そうやってすぐ謙遜すんの、ゆりの悪い癖だで。もっとこう胸張ってさあ、『やってやったど、えらい私!』って自分を褒めてやんねえと」

 そんなふうに隣のゆりを鼓舞してみせるちなつに、そうだそうだ! と日向も便乗する。すっかり困ったように俯いてしまうゆりの姿を見て、和香はどこか嬉しそうにクスリと吐息をこぼし、それからメガネをずらして眦を拭った。

「なんか、来る時よりもみんな仲良しって感じだね」

「んだね」

 真由もお隣の楓と顔を見合わせ、ふふっと笑い合う。もしかしたら今までの楓は不安に押しつぶされそうな日々の中で、どこか焦っていたような節があったのかも知れない。そう考えてしまうぐらい、姉と和解できた今の楓はひどく落ち着いていて、ゆりとそっくりな穏やかさを基調とした佇まいを獲得していた。

「そうそう……実は私、真由ちゃんに話しておきたいことがあってさ、それで隣の席さ座らせてもらったんだけど」

「わざわざ?」

「まあ実のとこ八割くらいは、単純に私が真由ちゃんの隣さ座りたかったから、ってだけなんだけどね」

 にへ、と照れ隠しのように一度笑い、楓はちょいちょいと真由を手招きする。いつだったかも別の人がこんなことをしたような。淡い記憶をほじくり返しつつ、真由は彼女の口元へと耳を寄せた。

「あのね、真由ちゃんに知っといてもらおうと思って。長澤さんのこと」

「長澤さんって、うちのパートの水月ちゃん?」

 ひそひそと問う真由に楓は無言で頷きを示し、それから再び、こう耳打ちをしてきた。

「ずいぶん前の話だけど、私、長澤さんと仲良くしてた時期があったんだ」

 

 

 



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〈16〉対独立組作戦

 周囲の騒音に紛れ、二人で座席の陰にこそりと身を埋めるようにして、楓は真由に水月との過去を打ち明け始めた。

「私と長澤さんって小学校は別々だったんだけど、去年曲北さ入学した時に同じクラスになったんだ。でね、初めのうちは同じ吹部同士なのにそんな仲良いってわけでもねがったんだけど、ある日突然長澤さんのほうから私と仲良くしたいって言ってきて」

「急に? 何か一緒になるキッカケがあったとかじゃなくて?」

「全然。思い当たることは何も無くて」

 ふるふると首を振り、楓は当時を述懐する。前屈みの姿勢になっているせいか、楓の胸元は夏休み前の頃と比べてもまた一段と張りがあるように見えた。

「その頃は私も長澤さんがああいう子だなんて知らねがったがら、普通に友達付き合いしてたんだ。部活帰りとか休みの日にあちこち遊びに行ったこともあったし、部活の個人練で行き会ったりもしてて」

「その個人練のときって、水月ちゃんとはどんな話をしてたの?」

「ほとんど覚えてねえんだけど、普通にあの曲難しいよねーとか、今度どこそこのお店に行ってみよーとか。そのぐらい、長澤さんと話すことって当たり障りのねえもんばっかだったんだよ。だがら正確には、友達かどうかっつわれても何とも言えねえ感じで」

 既視感にも似た不気味さに背筋が震える。それはまさに、転校直後の真由が水月と交わした会話の内容をそっくりそのまま抜き出されたみたいな重複ぶりだった。

「けど、ひとつだけ心に引っかかってたことがあって。仲良くなって間もねえ頃、長澤さんに言われたことがあったんだ。『こんな片田舎、毎日過ごしててつまんなくない?』って」

「片田舎、」

 それもあのとき水月が言っていたようなことだ。こっそり自身の記憶との照合を進めつつ、真由は楓の話にじっと聞き入る姿勢を保つ。

「そん時は『すごいこと言うなこの子』ってビックリしたけど、でもまあずっと地元で暮らしてきた人ってそういうもんなのかも、とも思ってさ。それに私はこっちさ来て友達もたくさん出来たし、何よりその頃はお姉ちゃんとの事で頭がいっぱいで、そういうの気にしたことも無くて。だがら長澤さんさは『全然。楽しいこといっぱいあるし』って返事したの」

「そしたら、水月ちゃんはどんなふうに反応したの?」

「そこがあんま記憶に無くて。だけど多分、大したことは何も言ってねがったと思う」

 きっと水月ならその時、どこか諦観めいた薄ら笑いと共に「そう」と素っ気なく返した程度だったはずだ。そのさまをありありと思い浮かべたときにはたと、春頃に比べて水月に関する認識をすっかり下方修正しつつある自分が居ることに真由は気付く。

「えっと、それから水月ちゃんとはどうなったの? 今でもずっとやり取りしてるとか?」

「ううん。去年の後半、確かコンクール前ぐらいからかな、その辺りから長澤さんとはあんまり関わらなくなっちゃって」

「どうして?」

「理由は特に。どっちかっていうと、長澤さんのほうが私に飽きたのかも。あんまり話し掛けて来なくなったなーって思ってるうちに、こっちから声掛けても素っ気ねえ感じでさ」

 そこまで喋ってから、楓は急にしょんぼりと肩を落としてしまう。

「さっきも言ったけどその頃は私、お姉ちゃんのことだけ考えてたもんで他に頭が回ってねがったんだ。だがら今になって考えると、もしかして知らねえうちに長澤さんの癇に障るようなことしちゃったんでねえかな、なんて心配もちょっとあってね」

「それは無いと思うよ。いや、何か確証があって言ってるわけじゃないけど」

「真由ちゃんにそう言ってもらえると、ちょっとホッとする。私も私なりに、これからじっくり振り返ってみるつもりだけどね」

 フフ、と微かな笑みを浮かべ、楓は口元に指を組んだ。

「で、もう一つあって。こっちのほうが本題なんだけど」

 念のため、とばかりきょろきょろ周囲を見回してから、楓は真由の耳たぶギリギリまで顔を近付けて来た。本題とは? 彼女の微かな呼気が耳に当たり、そのむず痒さがぞくんと真由の襟足を逆立たせる。

「あれは確か吹部に入って二、三週間ぐれえの時だったと思うんだけど、私と長澤さんが二人して練習してるところに一度、小山先輩が来たことがあったんだ。あのトランペットの小っこい先輩」

 杏が? と驚きに目を剥く真由に、楓は深い首肯を返す。

「何だったの、杏先輩の用事って」

「用事か何かは分がんねがったんだけど、小山先輩、長澤さんさ近付くなり『なんでアンタ、性懲りも無ぐ吹部さなんか入ったの』って。すんげえいがみ顔で」

 ぐわ、と楓が大きく顔を引きつらせる。そのとき彼女が作ってみせた形相はちょうど、夏に見た男鹿のなまはげそっくりだった。

「私はそん時が小山先輩と初対面だったし、言ってることの意味も分がんねがったもんで、当初はひたすらおっかねえ(こ わ い)先輩だなって思ったよ。まぁ割と最近になって、水月ちゃんと同じ姫小だった子たちからアレコレ聞いてさ。小学校ん時にそんなことがあったんなら、普段可愛くしてる小山先輩があんなんなるのも納得かなあって気もしたけど」

 そこまでを聞いた時、ぶわり、と真由の脳内に何かが湧き上がるような錯覚があった。それは以前にも感じたことであり、けれどその時にはあまり深く気に留めていないことでもあった。

 どうして杏は水月を警戒していたのだろう? それも、ちなつや日向らが水月という人物の本性を知るよりもずっと前から。

 先日奈央から聞かされた話によれば、水月が騒動を起こしたのは小学五年生の時。そしてそれ以前、少なくとも姫小のマーチング部内において、彼女を危険視していた者はいなかった。ただ一人、杏を除けば。つまり杏は部活や先輩後輩といった枠組み以外のところで水月と関わりがあり、その時点で既に彼女の本質を正確に知り得ていた、ということになる。そうでなければあんな忠告を、それも確信をもって他人に出来ようはずもない。

 恐らく杏は知っているのだ。水月が何故あんなことをするのか、どうしてそうなったのか、その根源となる、何かを。

()した真由ちゃん? 突然ボーっとして」

「あ、ごめん。今聞いた話、頭の中で整理してて」

 心配そうにこちらの様子を窺う楓に、真由は慌てて謝罪する。深く考え込むあまり、楓のことをすっかり置き去りにしてしまっていた。それに今の推理にしたって、途中からは自分の想像の域を出ないものも多かったように思える。どちらにせよ自分の手には余る案件だ。いったん考えるのはよそう。

「大丈夫? もし今の話でなんか気分悪くしたりしたら、ごめんな」

「ううん、そんなことないよ。むしろ教えてくれてありがとう。だけど水月ちゃんや杏先輩のこと、どうして私なんかに色々話してくれるの?」

「どうしてって? 何だろ。何か自分でも、上手く言えねえカンジなんだけどさ、」

 指の先をもじもじと動かし、そして楓がちらと視線を送ってきた。そのきょろりと輝く瞳の大きさに、真由は思わず心を奪われそうになってしまった。

「何とかしてくれる、っていうのとも違うんだけど。真由ちゃんさ話せば何か良い方向さ進んでいくんじゃねえかって、そんな気がして」

 

 

 

 翌日。コンクール東北大会金賞、しかし全国への出場ならず――という結果を携え戻って来た曲北の部員たちを待ち受けていたのは、何の変哲もない平常通りの月曜日だった。当然ながら部活の大会に代休などあろう筈もなく、部員の前に生徒である以上はこれまた平常通りに授業を受けなければならない。長距離の往復移動に諸々の問題で被った気苦労に本番演奏にと、さすがの真由もぐったりしそうなほど疲労が溜まっている感は否めないのだが、こればかりはどうしようもないことだ。

「――へば問い二、この(エックス)に入る整数を――」

 数学の金子に指名された同級生が黒板の前で問題を解く間、真由は金子の目を盗むようにして漏れ出るあくびを噛み殺す。月の境目と共に夏の盛りが過ぎ去ったことも相まって、ちょっぴり青みの薄まった空と時おり吹く涼やかな初秋の風に撫でられると、どうしても眠気を催さずにはいられない。

 がんばれ。ここさえ乗り越えれば何とかなる。そう自分に言い聞かせつつ四苦八苦しつづけた甲斐あって、どうにかこうにか寝落ちせずに六時間目まで漕ぎつけることが出来た。今日のこの時間割は学級活動、つまり一コマをまるまる充てたホームルームの時間。そしてその中身は。

「それでは文化祭のクラス展示、何をやるかについての会議を始めます」

 担任に代わって教壇に立ったクラス委員長が議長となり、「何か希望はありませんか?」と提案を募る。来月初頭に予定されている曲北の文化祭、そこでは毎年、クラスごとに何らかの出し物をするのが慣例となっていた。もちろん飲食物の提供を行うにはPTAの協力を得なければならないが、そうでない場合はある程度、生徒側の自由裁量に任される。お化け屋敷。クイズ大会。ハンドメイドショップ。演劇発表。様々な案が出された後、最終的にはクラス内での議論を踏まえての多数決を取ろう、ということになった。

「なあなあ、真由ちゃんは何が良いと思う?」

 ゴン、と隣から机を寄せてきた早苗がさっそくとばかり、真由に話を振ってきた。

「私はみんなの意見で決まったものでいいかな。演劇希望の声も多いし、それなら私も音響係か小道具でお手伝いできそう」

「私はコーラ一気飲み競争もいいなあって思うんだけどさ。優勝者へのプレゼント、いまいち良いのが思いつかねくて」

「例えば早苗ちゃんだったら、どんなものが欲しいって思うの?」

「私? そうだなー、もし私が優勝出来たらバリ島の旅、一週間分!」

「それ、もしかしなくても却下になっちゃうと思う」

「だよな」

 けらけらと笑う二人に牽引されたのか、そこに数名のクラスメイトが集ってきた。彼女らにも各々の意見があるらしく、どれが良いかなー、絶対これだべ、などと熱い意見が交わされている。そんな折、ふと真由は目の前の席で、いつものように頬杖をついてぼうっと窓の外を眺めている雅人のことが気に掛かった。

「ねえ、草彅くんは文化祭の出し物、どれが良いと思う?」

 それはほんとうに何気なく、単なる級友同士として議題に沿った声掛けをしただけのつもりだった。ギロリ、とこちらを射貫く目つきで振り返った雅人はしかし、口を開くや否やとんでもないことを言い出した。

「黒江。お前、曲北のユーフォで誰がいちばん上手えと思う?」

 え、と硬直する一同。質問に質問を返したこともさるものながら、雅人の発言は今のこの場に全くそぐわぬものだった。

「あー、えっと。草彅くん、私いま、文化祭のお話をしたつもりなんだけど、」

「そんなんいいがら、俺の質問さ答えれ」

 高圧的なその物言いにカチンと来たのは、自分よりも早苗の方が先だったらしい。けたたましく椅子を鳴らし、「ちょっと草彅」と早苗が席を立つ。

「アンタさあ、空気読めねえにも程があんべ。今はホームルーム中だど。なに部活の話してんのよ、それも真由ちゃんの質問ガン無視して」

「……誰、お前」

「進藤早苗! 同級生のこともろくすっぽ覚えてねえのかよ」

 きょとんとした顔で悪びれもしない雅人と、それにますます激昂する早苗。突如始まった二人の口げんかに、何だどうした、と他のクラスメイト達も気付き、教室内はたちどころに騒然となってしまった。

「お前なんかどうでもいい。俺は黒江さ訊いてんだ」

「だがら、そンた話は部活ん時でも何でも、別で訊けばいいべ。真由ちゃんさ迷惑掛けるようなことすんなよ」

「俺は今訊きてえんだよ。黒江がさっさと答えりゃあそれで済む」

惰弱(だじゃく)こくな、幼稚園児かテメエは!」

「アホくせえ。見りゃあ分がんだろ、幼稚園児が学ラン着て中学さ通ってるわけねえべ」

「そういうこと言ってんでねくて、ああコイツ、ホントもう、」

「草彅君。それと進藤さん」

 真冬に汲んだ水のように冷ややかな一声が、沸騰しかけていた場にぴしゃりと打たれる。それを発したのは担任の真理子だった。教卓の横で成り行きを見守っていた彼女もさすがに事態を見かねたらしい。動きを止めた二人――というよりは早苗一人なのだが――は、おずおずと真理子へ向き直った。

「草彅君は今の時間と関係のねえ質問が黒江さんさあるんだば、それはこの時間が終わってからにすること。それと進藤さんも、カッカして大声上げたらダメでしょ。今は文化祭の出し物について話し合ってる最中なんだがら、二人とももうちょっと周りのことを考えなさい。分がった?」

「……はい」

「すいませんでした」

 穏やかながらも痛烈な真理子のお叱りによって、二人は不承不承ながらに矛を引っ込めた。席に戻った早苗がチクショウ、あんにゃろう、と斜め前の雅人を憎々しげに凝視する。一方、雅人は背後からの視線も叱られたこともまるで堪えていないかのように、再び元通りの姿勢でぼうっと窓の外の空を眺め始めた。そんな彼の無反省な態度に、周囲からは「何なんアイツ」「さっすが雅人、頭のねじブッ飛んでるわ」などと中傷めいた声が漏れ聞こえしてくる。

「さあさあ、みんなも終わったことをいちいち気にさねえで、続きを話し合いましょう。委員長お願い」

「は、はい。じゃあそろそろ意見もまとまった頃だと思うので、今まで出た候補の中から賛成のものに挙手を――」

 こうして元通りの流れで委員長が多数決の段取りを進める中、真由は雅人の質問が気になって仕方がなかった。曲北のユーフォで誰がいちばん上手いか? そんなこと分かり切っている。技量・実績共に鑑みて、ちなつに勝るユーフォ吹きがこの曲北に居る筈がない。それどころか東北、いや全国区の中学生を比較対象としたって、ちなつより優れた奏者などそうそう居やしないだろう。そんな確信は今でも真由の中に揺るぎなく存在していた。自分よりも音楽的に数段上である雅人にだってそのぐらい、とっくのとうに解り切ったことのはずだ。

 だというのに、どうして雅人はわざわざあんなことを尋ねてきたのか。その意図がもう一つ読み取れぬまま、もやりと心に宿る気持ち悪さを堪えるようにそっと舌先を噛む。もしかしてあれは雅人流の皮肉か、あるいはこちらの見識を量ろうとしてのものか。……どっちにしたって深い意味など無いに違いない。掴み切れぬもやもやに無理やり結論をくっ付けて、真由は喉を鳴らし、それら全てを胃の腑へと呑み下した。

 

 

「真由。ちょっと悪いんだけど、今から私さ付き合ってもらって良い?」

 放課後、部活開始のミーティング直後。ちなつからそう請われ、断る理由など無かった真由は快諾した上で念のため、どんな用事かを彼女に尋ねた。彼女の答えはこうだった。

「今から独立組んとこ行こうと思って。今後のことについて水月と、折衝しに」

「そこに私が、ですか?」

「やっぱダメ?」

「いや、ダメってことは無いんですけど。私が行ったところでお役に立てるかどうか分からない、と言いますか」

 と言うより、まずもって何の役にも立たないのは明白だった。ちなつや日向と比べるまでもなく、自分などは集団の先頭に立っての牽引とか交渉だとか、そういうことにはまるで向いてない。そんな自分がちなつと一緒に水月のところに赴いたとて、せいぜいトンチンカンなことを言って場を白けさせるのが関の山というものだろう。

「真由は特に何も喋んなくたっていいから。ただじっとその場さ居て、私らの会話を傍で聞いてて貰えれば」

「けどそれだったら、私よりも日向先輩の方が良いんじゃないでしょうか。日向先輩ならいざっていう時、ちなつ先輩に助け舟も出してくれると思いますし」

「ダメなんだよ、ヒナじゃ」

「そうそう。なんたって私、ちなつ派だかんね」

 日向がおどけるように、その丸い肩をすくめてみせる。

「私だって水月ちゃんからしたら、ちなつ先輩派だって思われそうな気がするんですけど」

「それは無い。私らの見立てが正しけりゃあ多分、水月的に真由は中立ってことになってるハズ」

「どうしてそうなるんですか?」

「それは……んー。まあ微妙な言い回しになるんだけど、真由ちゃんが真由ちゃんだから、なんだよ」

「え、えぇ?」

 二人の言っていることは全く説明になっていない。恐らく十人中十人、誰もがそう思うに違いなかった。目が点になってしまった真由に、日向がすかさず追って言葉を重ねる。

「おっと、カン違いさねえで。今のは私らの捉え方でねくて、あくまで水月の人物評価なら、ってこと」

「まあ、それも私らの推測でしかねえんだけどな。でもそう大きく外れちゃあねえと思う」

「いやいや。先輩たちの仰ってること、まだぜんぜん理解できてないんですけど……」

「今はとにかく私らの言うこと信じて、ただついて来て。それだけで良いから、お願いっ」

 ぱちん、と両手を合わせてちなつが頼み込んできた。こうなるといよいよ真由も大いに困惑してしまう。何をどう考えたって、自分がそこに同席する必要性など全くと言って良いほど感じられない。とは言え、先輩にここまで強く要請されてしまっては、もはや断る理由を見繕うほうが難しい。しばらく悩みに悩み抜き、そして端的に言うなれば、真由は断ることを諦めた。

「本当に、何の役にも立ちませんよ。それで良ければ」

「ありがとう! 恩に着るよ!」

 安堵と喜びの色を帯びる顔を上げたちなつにギュウと手を握られ、うひゃあ、と真由は恐縮してしまう。普段は凛々しくてクールなのに、感情が昂ったときのちなつはどうやら過剰なスキンシップをしてしまうきらいがあるみたいだった。

 そんなこんなでちなつに連れられるがまま、真由は中央棟二階にある集会ルームの前までやって来た。ここが独立組の根城になっていることは以前、日向から聞かされた通りだ。室内からはずいぶん賑々しい声と、多種多様な楽器の音が聴こえてくる。戸の向こうで具体的に何をやっているかまでは不明ながら、どうやら彼らも吹部の分派として、その名に恥じぬ最低限度の活動ぐらいはしているらしい。その戸をちなつが二度ノックすると、内側から「どなたですか」と水月の声で返事があった。

「私、ちなつ。今日も話し合いに来た」

「またですか? もう先輩とお話しするべきことも、だいたい尽きたと思いますけど」

「今日は私だけでねえ。真由も連れて来てる」

「真由ちゃんも?」

 そこで少しだけ間を置き、それからギイ、と木製の戸が開く。

「どうやら本当みたいですね。『お久しぶり』、真由ちゃん」

「どうも、」

 流暢な水月のあいさつに対し、こちらの返礼はどうにもぎこちないものになってしまった。けれどそれ以上に、自分の名を聞いた水月がためらいもなくドアを開けたことに、真由は内心驚きを禁じ得ない。曲がりなりにも目上である筈のちなつには、ドア越しでのおざなりな応対だったというのに。

「それにしても、荒川先輩もずるいですね。まさか真由ちゃんを私との交渉の具にしようだなんて」

「そりゃあ水月の勘違いだよ。心配さねくたって、真由さはただこの場に居合わせてもらうって条件でついて来てもらってるだけだから」

 なるほどなるほど、と唇を指で撫でつつ、水月は値踏みするような視線をこちらに投げ掛けてくる。

「さしずめ真由ちゃんは立会人(たちあいにん)、といったところですか。思いついたのは……中島先輩ですか?」

「私とヒナ、二人だ。アンタなら真由のことは中立の立場だと考えるはずだ、って」

「さすが先輩方。私のことを良くご存知ですね」

 まずは中へどうぞ、と水月に勧められ、ちなつと真由は集会ルームへと足を踏み入れる。教室二つ分ほどを繋げた程度の、音楽室よりも遥かに手狭な空間。そこでは先日離反した独立組の面々がからりと椅子を並べ、各々にアンサンブルのような形態を取っている姿が幾つも見受けられた。

「ほらそこー。アンタいっつも同じ場所で間違えてるよ」

「すいませーん」

「ねえねえ、次はみんなでこの曲吹いてみねえが?」

「あっ、じゃあその次で良いから、アタシこれやりたい」

「今度の合奏、何やるの良いべなぁ。『アルメニ』? 『A列車』? 『シング』も捨てがたいよな」

「ハイハーイ。私『ダイナミカ』やってみたいでーっす」

 そんな風に和気あいあいと会話をしつつ、けれどいざ合わせるとなれば真摯に楽譜へ向かい楽器を鳴らし、各々が各々へ注意し合いながら共に音を磨いてゆく。それまでの伝聞から、てっきり独立組が楽器も吹かずにサボっているものだとばかり思っていた真由は、彼女たちの織り成す練習風景に軽くショックを受けていた。生徒が自律的に集い真っ当に練習するそのさまは、部活動と言うよりもむしろサークル活動のそれだ。

「あっ、部長。と、低音の黒江じゃん」

「なにー? また例の交渉?」

 こちらに気付いた独立組の何人かが、奇異の目と訝しみの言葉を向けてきた。ぱんぱん、と彼女らを制するように、水月がその手を鳴らす。

「みんなは気にしないで練習してて。私、荒川先輩たちとちょっと外でお話ししてくるから、合奏の相談はそれが終わってからね」

「はーい」

「ほどほどにして下さいよ、荒川部長」

 独立組の一人から浴びせられた、揶揄するような『部長』のひと言。それを無視してちなつは水月と共に集会ルームを出た。もちろん真由も二人に続く。

「ここでしたら、静かで良いでしょう」

 水月によって連れ出された先は、校舎裏のごみ捨て場から少し歩いたところにある、庇の下の小さな空きスペース。そこは奇しくも、真由がふだん個人練を行っている屋上テラスの直下に位置する場所だ。いつもこの辺りから美しく響き渡るユーフォの音色、その吹き手は今、演奏ではなく折衝のためにこの場に立っている。

「んで、さっそく話だけど、」

「お話しすることは何もありません。既に重ねた議論を何度もぶり返すのは、お互いに時間の無駄です」

 先手を打って切り出そうとしたちなつを初太刀でばっさり斬り捨てるように、水月はにべもなくそう言い放つ。

「アンタら独立組はそれで良いかも知んねえ。けど私らは、それじゃ困るんだ」

「そちらが困っているのは、私たちとは何の関係もないことです。だいたい何なんですか、独立『組』って? まるで私たちをひと塊の反逆者みたいに」

「それは実際そうだべ」

「いいえ、ぜんぜん事実と異なります。私たちは個々人の意志でもって先輩方の活動方針から離れると決めたんです。無意味な派閥化で対立争いを煽られるのは、正直言って不愉快です」

 表面的には穏やかさを保ちつつ、しかし歯に衣着せぬ物言いで、水月はすぱすぱとちなつに刃を繰り出す。ちなつはそれに負けじと毅然とした態度で水月に臨んでいた。

「じゃあその事実ってのを真由の前で言ってみせてよ。アンタも真由のことを立会人として認めてんだったら、繰り返しでもきちんと説明する必要はあるはずだべ?」

 そこで一度、チラと水月がこちらを見やった。何も言わなくていい。そう条件付けされてここにいる手前、真由は迂闊に口を挟むことも出来ない。仕方ないですね、とばかりに大きな溜め息をこぼした水月は、やや面倒くさそうに薄い唇をこじ開け喋り始めた。あくまで真由に語り聞かせるようにして。

「私たちが独立しようと思った理由。それは現在の吹部における、一方的な支配体制のせいです」

 それはどういうことなのか。続きを促すまでもなく、水月はどんどん言葉を紡いでいく。

「そもそも部活動というものは、生徒たちが自由意思で参加するものです。誰に強制されるものでもなく、また誰も強制する権限を持ちえません。楽器が好き。音楽が好き。何か新しいことを始めたい。好きな曲を奏でたい。人それぞれに動機は様々あると思いますが、その価値はみな等しく外部からの評価や表彰によって優劣を付けられるべきでもない、と私たちは考えています。ここまでで何か反論はありますか?」

「無えよ。とにかく最後まで一通り、ぜんぶ喋って」

「べつに先輩に言われずともそうするつもりですけど。まあ、良いでしょう」

 くす、とあざけるように口の端を歪め、水月は挑発的な視線をちなつに向ける。

「ですが、ここ曲北は大会至上主義のごとき理念を掲げて部員同士の競争を煽り、またその大会においてもより上位の賞を目指すのが当然、という姿勢を部員に強いています。そのために練習すべき曲目や練習量、ひいては成果と言える上達程度まで、事実上縛られているも同然の状態です。それに対する荒川先輩の反論は、みんな入部時に同意している以上、そんなのは言い訳にしかならない――でしたよね」

「んだ」

「ですが私はこう考えます。右も左も分からない無垢な状態で『うちではそれが当たり前』と同意を求められたら、良く分かっていなくても判を押してしまうのが人間心理というものでは無いのか、と」

 つっかえもせずスラスラと、あたかも繰り出すべき文言を初めから脳に打電してあったかのような滑らかさで、水月は自己の主張を読み上げてゆく。

「人によってはそれを『覚悟』と定義するのかも知れませんが、それは本来リスクとリターンを平等に秤に掛けることによって、初めて意味を持つものです。リスクを取る覚悟、リターンを棄てる覚悟、そのどちらかしか示さず、自分たちにとって都合の良い行動や結果のみを相手に求めようとするのは、あまりに不平等かつ姑息なやり方です。こちらが気付かぬうちならまだしも、一旦そのことに気付いてしまえば、契約相手に対する不信感や猜疑心は募る一方になります。それが私たちの味わった思いであり、独立を決断するに至ったそもそもの原因です」

「そこまでは、前回も聞いた」

「だいぶ端折りましたけどね。では今回は立会人もいることですし、その先のお話をしましょうか」

「その前に、私から水月への反論。良い?」

「どうぞ」

 水月は素直に発言権を譲り渡した。それを受け取ったちなつが「まず第一に、」と声を張る。

「さっき水月は部員が縛られてるって言ったけど、そんなことは無い。私ら幹部だって永田先生だって、極力みんなの意見を尊重しながら方針決めや選曲をやってる。そりゃあ全員の意見をくまなく拾うってのは無理かも知れねえけど、でもそのための機会だって設けてあるし、きちんと声上げて意見通してくれれば私らだって一方的に押し付けるようなことはしねえ。でも一度決まったことはちゃんと実現できるように、みんなで力を合わせて頑張ろうっていう、ただそれだけのことだよ」

「詭弁ですね」

 いつだったか、日向が玲亜に語って聞かせた組織論。あの場に居合わせた誰もが納得した筈のその論理を、しかし水月はあっさりと払いのける。

「先ほども言った通り、それはあくまで全員が正しい意思確認のプロセスに基づいて判断し、揃って同意した時のみ通じる話です。現実にはそんな上手い話はそうそうありません。例えばの話、私たちが意見を通せるような場面や状況ですら多数派、もしくは権限の強い人の意思決定によって、議論の俎上に載る前に握り潰されてるんですよ。そう、永田先生や荒川先輩、あなたたち強者の手で」

「それは水月の、いやアンタらの思い込みだ。私らはそんなことしてねえ」

「やれやれですね。無自覚は時として、自覚的であることよりも罪深いものですよ?」

 大げさに両手を広げて肩をすくめ、それから水月は己の黒髪をくるくると指でもてあそび始めた。まるで目の前のちなつをその髪に見立てているかのように。

「ここで言いたいのは、その方針もまた誰も何も決めていない中から自然と湧き出てきた類のものでは無い、ということです。現実にこの春から今日までおよそ半年近く、部活前後のミーティングや荒川先輩への直訴といった形ででも、自分の希望を提言した部員が一人でも居ましたか? 声を上げたがっている子がいたとしても、他の先輩方の存在や寸詰まりなイベントの日程が『個人的要望を言うのは迷惑になる』と、その子たちを思い留まらせていたのでは? 文化祭の曲決めにしても、今年で引退だから、というだけの理由で三年生の希望が優先的に採られてますし、それでさえ不採用になったものも数多いですよね。その可否を最終的に決断してきたのは一体、どこの誰でしょうか」

「それ、は」

「そう。荒川先輩たち幹部の皆さんと、顧問の永田先生です。『みんなの意見を拾う』というのはこの場合、『自分たちに都合の良い意見だけをつまみ取る』のとほぼ同義なんですよ。そして、実際声が上がらなかったのだから他の意見などどこにも存在しなかった、などというふざけた理屈が一切通用しないことは、今のこの結果を見れば一目瞭然かと思います」

 分かりやすく言えば、と水月はここまでの発言を噛み砕き、ちなつの眼前へと吐き出す。

「結局は数の論理と言うことです。ごく少数の力ある人間が、自分たちに逆らいがたい空気を作り部内に蔓延させ、多数をその流れに向かわせる。少数派となった人の意見はそのまま無視、あるいは保留扱い。そうなったら後はもう、皆さんお得意の賛成多数で可決、です。こうして紐解いてみると、なんて野蛮で残酷な決め方でしょう」

 集団秩序。多数決の原理。学校生活や部活動において頻出するそれらの在りようを、水月はことごとく否定してみせる。ちなつはそれに反論をしなかった。いや、それとも出来なかったのか。キッと水月を睨みつけながら握った拳を小さく震わせているだけのちなつの無抵抗さに、傍で見ていた真由ははらはらと焦燥を覚え始める。

「少数派に回ってしまった側の意見なんか拾う必要無い。置き去りにしても構わない。そうやって端に追いやられた人たちのことなんて、多数派は一人も省みてくれません。当たり前ですよね、それで自分たちは順調に回っていられるんですから。しかもそちらには『より大勢を円滑に動かしていく』という大義名分まである。それって見方を変えれば、まるで異論を持つ少数派が多数派にとっての敵か何かみたいじゃありませんか」

「そんなことは無、」

「あります」

 被せ気味に、水月はちなつの反抗を制する。

「春に玲亜ちゃんが荒川先輩とぶつかった時、あれだってそうですよ。あの時中島先輩が仰っていたのが正に、さっき私が指摘したことです。要は集団のために個人は我慢しようね、もう決まったことなんだから余計な口を挟まないでね、というのを手を替え品を替え、それらしく言っていただけ。そしてそれは、荒川先輩が頭ごなしに玲亜ちゃんたちを捻じ伏せようとしたのもまた然り、です。何の力も発言権も持たない一年生が上級生にあんなことを言われたら、どうにも抵抗のしようがなくなってしまう。それ即ち、少数派の意見を強大な力で一方的に封殺しようとした、ということです。違いますか?」

 ぐ、とちなつの喉が苦しみの音を鳴らす。ちなつにそのつもりなど無かった、という弁護は恐らくこの場合、水月の打った先手によってほとんど意味を為さぬものとなっていた。

「それと似た経験は先輩もご存知の通り、私にもありました。バカ正直に真っ向から歯向かえば、力で圧し潰される。音楽がしたくて部活に入ったのに、少しでも文句があるなら部活に来るな、というのではあまりに横暴です。ですから私たちは手段を考える必要がありました。ボイコットやストライキといったものではない、もっと訴求力のある、無視のできない抵抗の手段を」

 その結果がこれ、ということなのだろう。勝ち誇ったような水月の笑みがどんどん凄みを増していく。

「多数派に数で負けないように広く意見を募り、みんなで力を合わせて主張を通す。数に依らず、各々の自由意思に基づいた活動をする。先輩たちと私たちのどちらが正しいかではなく、どちらも尊重されるべき、ということです。今回はたまたま私が矢面に立つ格好となってしまいましたが、本質的には誰が先頭に立ったとしても、私たちの主張は一切変わりません。先輩たちの押し付けにはついていけない。だから独立して活動する。部には引き続き在籍しますし必要に応じて関係各所の許可も取りますが、それについて先輩方の干渉を受ける謂れはありません。また、もしも楽器や楽譜の提供について私たちを差別するようなことがあった場合、然るべき手続きをもって正式に抗議するつもりです」

 と、一気呵成にそこまで喋り切った水月がくるりと翻り、真由を正面に見据えた。

「――ここまでが独立宣言以降の私たちの主張。どう思う? 立会人の真由ちゃん」

「うぇ? えと、そ、そのう」

 何も話さなくて良い、と言われている人間に急に話を振られたって困る。うまい返しが思いつかずうろたえるばかりの真由を見て、水月はこちらの敵意に蓋をしようとするかの如く、まるで邪気のない可愛さ満点の作り笑顔を浮かべてみせた。

「難しく考えなくたっていいの。思ったことを率直に言ってくれれば」

 どうしよう。そう思ってちなつを見やると、彼女は小さく頷きを返した。どうやら自分はこのために本日ここまで引きずり出されたようだ。仕方ない、と腹を括った真由は本番前の緊張を和らげるときのように、短く吸った息を一斉に吐く。

「じゃあ正直に言わせてもらうね。水月ちゃんの言ってること、その、難しくて全然分かんない。けど、他の人からの押し付けや一方的な決め方に不満があって、そうじゃないやり方を水月ちゃんたちが目指してるってところまでは、何となく理解できた気がする」

「うん。だいたい正解」

 クイズの司会者か何かか、というツッコミを胸の内に留めつつ、真由は水月に続きを述べる。

「だけどそれって本当に水月ちゃんたちのグループの、ええと、」

「独立組、で良いよ。どうせ私たちがどれだけ主張したって、そういう見方になっちゃうんでしょ」

「じゃあそう呼ばせてもらうね。その独立組のみんながみんな、本心からそんなふうに考えてるって言うの? 水月ちゃんが首謀者とかっていうんじゃなくて」

「首謀者なんてどこにも居ないよ。案外ひどい言い草するんだなあ、真由ちゃんも」

「う。ごめん」

「やだ、ちょっとしたジョークだってば。まあこうやってちなつ先輩と直接渡り合ってたりしたら、真由ちゃんがそう思うのも無理ないかもね。私が小学生の頃に起こした事件も多分、先輩たちから聞いてるんだろうし」

 からかうような水月の口調がどこか空々しい。彼女の言う通り、姫小での出来事を知ってしまった以上、そうと疑いたくなる気持ちを否定できないのは事実だ。

「そうだね。いっそ私が首謀してあの子たちを洗脳でもしてる、っていうのが真実だったら話は早いよね。私一人だけを降参させれば、それで事態は全部丸く収まるんだろうから」

 けど残念、と水月は人差し指を立て、それを真由の胸元あたりへ突き刺すように向けた。

「さっき説明した通りだよ。一人ひとりがそう思っていた、だから集まった。私がやったのはただ、みんなの意見を取りまとめて賛同する人同士で活動する、その宣言役を担っただけ」

「それは水月ちゃんの言ってた多数派のやり方と、何がどう違うの?」

 真由がそう尋ねた途端、水月の笑みがニヤリと妖しい歪みを帯びる。その質問が垂らした釣り針に掛かるのを待っていた、とでも言うみたいに。

「さっき上で見てきたでしょう? 私たちは個々にやりたいものを、個々が自由に提案しながら活動してる。誰一人として押し付けたり捻じ伏せたりはしない。意見が合わなければ他のグループに行くこともあるし、逆に折り合いや条件をつけて合意しさえすれば、複数のグループが一つにまとまることだってある。いちおう全体合奏の時間は定期的に設けることにしてあるけど、それも吹きたい曲じゃなければ参加しなくたって良いの。出欠だって取ってないし、もし多数派に戻りたいって子がいるならそれにも何も言わない。そこに居るメンバーだけで都度考えて、その時々で出来ることをやって楽しむ。それが私たちの方針で、私たちの考える課外活動のあり方」

 整然と述べられた、水月たち独立組の活動理念。それは真由から見てほとんど瑕疵の存在しない、それこそ理想的な集団活動の形態、とさえ言えそうな光景だった。確かにこのような環境であれば部員たちは不満らしい不満を抱えることもなく、各々の都合に合わせてそれぞれ好き勝手に活動することも可能だろう。みんなで楽しく音楽がしたい。かつてそう語った水月の願望、その本質はきっと、ここにあった。

「でも、それじゃ演奏会とか、そういうのはどうするつもり?」

「そこはまだ協議中、かな。でも今のところ、どうしても出場したいって意見はほぼゼロだよ。仮にそういう子が出場を望むならソロコンやアンコンみたいに少人数で出られるものだってあるし、説得を重ねてより多くの子を引き込む自由だって認めてる。体勢を整えてからどうするかを決める、それで十分間に合うと思ってるの」

「確かに、そうかも」

 あ、と真由は慌てて両手で口に蓋をする。今のはどう見ても、ちなつや日向らに対する反意を本人の前で堂々と唱えたようなものだ。気を悪くされたらどうしよう。けれど意外にもと言うべきか、ちなつは真由の発言になどまるっきり無反応で、ただ黙して水月のみをじっと見据えていた。

「これがマーチングやコンクールみたいに規模の大きな競技会だと、もっといろいろ難しくなってくると思うけど。でも音楽の本当の楽しさって、互いに競い合ってしのぎを削り合ってやっと得られるなんて、そんな血生臭いものじゃない筈でしょ? その点でも、私たちの見解は全員一致してる」

「そのせいで、ちなつ先輩たちとぶつかることになったとしても?」

「誤解しないで欲しいんだけど、べつに先輩たちの活動方針を積極的に妨害するつもりは無いの。結果的にそうなっている部分があるとしてもね。だって、お互いに根本から食い違ってる主張を繰り返し続けるのって、すごく不毛なことでしょう? 私たちは私たち。先輩たちは先輩たち。お互いにやりたいことをやりたいようにやればいい。賛同してくれる人を一人ずつ、根気強く説得しながら集めてね」

 自分はそうした。そうと言わんばかりの口ぶりで、水月は細めた瞳をちなつに突き刺す。

「こうなったことは私に言わせれば全部、これまで幹部と顧問がやってきたことのツケだよ。説明不足、言論封殺、同調圧力。それを当たり前のものとして部を運営していたせいで、陰に燻る反発に気付くことも無ければ何の手を打つこともしなかった。そんな私たちが荒川先輩たちに、多数派に、これ以上何を譲歩したら良いっていうの? 私たちは先輩たちの願望や目的意識を満たすための駒でも無ければ端役でも無い。一つひとつが個の意識を持つ、れっきとした一人の人間なの」

 ここまでの説明を受けて、ようやく真由は事態の全貌を把握するに至る。ただの分断、見解の不一致、なんて生易しいものじゃない。これは一種のクーデターか、さもなければ革命とでも呼ぶべきものだ。部の体制に反発した水月たちの、暴力的でない、しかし決して従うつもりもないという、確固たる意志に基づいての。

「さて、他に意見や反論がなければ、私もそろそろ練習に戻りたいんだけど。――荒川先輩からは、何かありますか?」

「反論は、今は特に。質問ならあるけど」

「何でしょう」

「さっき水月、多数派に戻りたいって子が居れば、それさは何も言わねえって言ったよな」

「言いましたね。そういう子が居るなら勿論、その子の自由意思は尊重するつもりです」

「だったらだ。私らと直接話したいって子がもし居たら、そういう子とハナシさせて欲しい。戻る戻らないはともかくとして、その子たちの考えを直接聞きてえ。文句でも不満でも構わねえから」

「直談判、というわけですか」

 ふむ、と手のひらを唇の先に当て、水月は少しの間考え込む。

「まあ話だけはみんなにしておきますよ。ただ、お断りされたからといって私を恨まないで下さいね。さっきも言った通り、私はたまたま矢面に立ってしまっただけの無力ないち部員です。誰かに何かを強制できる立場でもなし。先輩たちとの面談に応じるも応じないも、全ては個々の判断です」

「それで良い。何た(どんな)ふうに伝えるかは、水月さ任せる」

「ご信用いただけて何よりです。ただ私にも私なりの思惑というものがあるので、過度な期待をされるのは少々荷が重いですが」

 どこまでも人を小ばかにしたような笑みを浮かべつつ、水月はちなつの要求をあっさり承諾してみせた。この展開に際してそれでも彼女が不遜な態度を取っているのは、独立組からそちらへ引き抜かれる者など絶対出てこない、という自信あってのことなのだろうか。それがどうにも不気味に思えて、真由の臓腑にギリリと鈍い痛みが走る。

「真由ちゃんからは?」

「私も、特にない」

「じゃあ、話し合いはこれで終わりにしましょう。お互いに活動があることですし」

 そう言い残して立ち去ろうとしたところで、ああそうそう、と水月が再び真由へ顔を向ける。

「立会人の役目、お疲れさま。どうしてそうさせられたのか、不思議じゃなかった?」

「それは、まあ」

「真由ちゃんが今日この場で立会人に選ばれた理由。それは、真由ちゃんが『外の目』を持ってるからだよ」

「外の目?」

「ですよね、荒川先輩」

 唖然とする真由を無視するように目線を流し、水月はちなつへ問う。それに彼女はおずおずと頷いた。

「水月ならそう考えるんでねえか、って話になった。最初に言い出したのは、私じゃねえけど」

「それが誰なのかはおおかた想像がつきますが、まあこの際置いておきましょう。ではこれにて」

 水月が再び踵を返す。待って、とその背に追いすがるように、真由は声を掛けた。

「外の目、って何? 私がそれを持ってるってどういうこと? 言ってることが全然分かんないよ」

「その話はまたそのうちね。真由ちゃんたちも練習に戻らなくちゃでしょ? あんまり無駄話ばっかりしてると、話し合いを言い訳にして練習サボってるってみんなに思われちゃうよ」

 そうとだけ言って、水月は軽やかに遠のいていった。くすくす、という耳障りな嗤笑を、その場へ置き去りにして。

 

 

 

 

 そして時は現在へと戻る。

 ちなつと真由から全ての報告を受けた永田は、書きかけのコンテに投げ出したペンを指でなぞりながら「んぐー」と大きな唸り声を上げた。

「要するに連中、俺らとは別個に活動していくから、もう構わねえでってことか」

「そういうことになります」

 永田への報告はちなつと真由、二人で交互に担当するかたちとなった。立会人としてその場に同席していた以上、真由にもその義務はある。それはあまりにも膨大な情報量をどちらか一人ではまかない切れなかったがゆえ、相互に補完し合うという意味合いもあったわけなのだが。

「厄介だなや。連中に許可出した教頭からも『部としての体面を保ってる以上、こっちからは口出しされねえ。後は吹部の中でなんとか処理せえ』って叱られちまったし」

 それもそれで随分と無責任な話だ。真由は向こうでふんぞり返っている教頭に冷たい一瞥を投げ込み、それから再び永田を見やる。年齢のせいもあるだろうが、それ以上にこのところの気苦労がたたっているのか、彼の頭髪には白髪が幾つも入り混じっていた。

「んだども、教頭の言い分さも一理あるんだよな。部活ってのは顧問の私物じゃねえ、童達(わらへだ)のやってることだ。間違ったことならちゃんと指導して正すのが俺らの仕事だけども、こういう出方されると頭ごなしには言い辛えトコもあっからなあ」

 太く浅黒い腕を組み、永田が再び黙考の構えに入る。この分ではどうやら教師側からのアプローチによる事態解決は望み薄、と言えそうだ。とは言えしかし。真由は水月の主張を頭の中で再生する。

 自分の目線で見る限り、水月はほぼ盤石の理論武装を施していた。部を辞めるわけでもなければ活動をサボるわけでもない。自由を主張している点を除けば、こちらの活動を妨害しようというつもりも無い。向こうに落ち度が無ければ有効な攻め手を見出せない、という点において、独立組の打った布石は論戦のお手本みたいな完成度だ。それにあれほどの弁舌を披露してみせた水月のこと。仮にこちらが何らかのつつき所を見つけたとしても、あの場ですぐさま穴埋めをしてしまったに違いない。

「こっちも一応最悪の事態に備えて新しいコンテ書き始めてみたんだけどよ、全然ダメだ。用意してた曲と衣装に、この人数じゃあ完全に負けちまってる」

「そんなにですか」

 うむ、とちなつに首肯を返し、永田はバリバリと頭を掻きむしった。

「曲を変えるにしても、今度は衣装との釣り合いも取れねぐなるしな。かと言って今さら返品って訳にもいかねえ。まあ曲と衣装はどうにかするとしたって、それで迫力が出せるか? っつうのが最大の問題だ」

 演奏、衣装、そして動き。それら全てを巧みに使って観衆に強いインパクトと感動を与える。永田の構想するマーチングがそのようなものである以上、この事態を前提として新たに演出を練り上げたとしても、きっと当初のものから相当にダウンサイジングしたものとなってしまうのだろう。そしてそれは多分、彼の考える感動の領域には程遠い。

「まンず、愚痴ばっか垂れ流してるわけにもいかねえ。現状でやれることは全部考えておかねえとな」

 ぱん、と踏ん切りをつけるように、永田はそこで一つ柏手を打った

「幸いにしてマーチング東北大会は十一月頭だし、まだ多少は時間がある。手続きはもう終わっちまってるけど、当日までに連中との折衝が上手くいけば影響は最小限で済むべがらな。それまでの間、とにかく粘り腰で行くしかねえ」

「はい」

「コンテについてはこっちで何とかする。人数が増減したとしてもなるべく練習さ支障が出ねえよう、元々の構成をベースにしながら組んでみる。荒川たちは引き続き、連中の面談と説得に当たってけれ。出来れば協力してくれる奴を他に募って、それぞれ別角度から当たることにするべ」

「分かりました。でももし、上手くいかなかった場合は……?」

「その時は全部、俺が責任をかぶる。それが顧問の役目だ」

 そう言い切る永田の顔は、断固たる決意と覚悟に満ちていた。

「面倒ごとを押し付けるみてえで申し訳ねえども、さっきも言った通り部活は大人のもんじゃねえ、お前方(めがだ)のもんだ。後から振り返って悔いを残さねえよう、出来る限りで良いからやってみて欲しい。それでダメだばその時はその時。お互いにやれるだけやって、泣いても笑っても最後は『()がったな』で終われるよう、頑張ってみるべ」

「はい!」

 力強いちなつの返事に真由も声を揃える。そんな二人に永田は一度温かい微笑みを向け、それから「ふう」と小さく息を抜いた。

「それにしても、六十八人か。これだけ多くの部員からここまでハッキリとNO(ノー)を突きつけられるとは、思いもしなかったなや」

 置いていたペンを再び手に取った永田が、ぱしん、とクリップ側でコンテの紙を叩く。

「今まで皆さは目的意識を持って取り組んで欲しいって思って、実際そう言い続けて来た。んだどもそれももしかせば、俺自身のただの独りよがりだったんだかも知んねえなあ」

 虚しげにそうぼやいた彼の姿には、苦渋の感情をありありと見て取ることが出来た。ちなつも真由もそれに何らの言葉を返すことも出来ず、ただ黙礼して職員室を後にする他は無かった。

 

 

 

「――で、具体的にこれからどうするかっちゅう話だけども」

 本日の活動が終わった後で、ちなつから直々に声を掛けられた面々が空き教室へと集められていた。ちなつと日向はある意味当然として、木管からは和香や秋山姉妹、金管からは雄悦に泰司、それとトランペットの奈央が選抜された。真由も勿論このメンツの中に含まれている。『他の部員たちには出来る限り普段通りの練習を優先して欲しい』というちなつの意向により、杏を始めとする各パートのリーダーたちは今回ここには召集されなかった。今後の活動も見据えれば、それは至極妥当な判断だと言えるだろう。

「永田先生が言うには、独立組の扱いをどうするかの最終判断をするのは、来月の二十日。マーチング東北大会の三週間前ってことで、それ以降だと練習の日程的にももう取り返しはつかねえって」

「今からだと約一ヶ月半、ってとこか。時間はあるようで無えな」

 沈痛な面持ちで親指を噛む和香に、んだね、と隣のゆりも同意を示す。楓と和解を果たしたあの日以来、ゆりとの親睦を深めていたのはちなつだけでは無かったらしい。部の内外を問わず、和香とゆりが二人揃って行動しているところを、真由は度々目撃していた。

「個別の面談はオッケーって話だったよな。んだども、それ全部をちなつ一人でやるのは流石にしんど過ぎるべ」

 日向の率直な意見に、もちろん、とちなつは頷く。

「今回の件、正直私ひとりじゃどうしようもねえって痛感してる。それに私がのこのこ出てったところで向こうも素直には話をしてくれねえと思うし。だがら、今ここに居るみんなさ協力して欲しいの」

「協力は良いども、具体的には何せえっつんだよ? いきなり戻って来いなんて言ったって、反発されるのは目に見えてるで」

 雄悦がそう尋ねると、ちなつは全員を見渡しながら作戦を告げ始めた。

「みんなさお願いしてえのは、あの子らの話を聞くこと。それぞれ不満もあったと思うし、水月が言ってた以外の理由があったかも知んねえ。そういう一人ひとりの声を聞いて、私まで届けて。そこまでしてくれりゃ、後の説得は私がやる」

 胸に手を当て、熱のこもった眼差しを湛えて嘆願するちなつ。そこに「ちょい待ち」と手を挙げたのは、日向だ。

「説得って、アンタそれ一人でやるつもり?」

「んだけど」

「ジョーダンでしょ。七十人近くいる独立組を一人で相手してたら、半分もいかねえうちに期限切れになっちゃうべ。一本気なのはアンタの良いとこだけど、こういう時には冷静にソロバン弾かねえとダメだって、いっつも言ってらべ」

 歯に衣着せぬ日向からの指摘に、うぐ、とちなつがたじろく。

「ちなつの気持ちは解らんでもないし、あの子らに直接伝えてえことだってあると思う。けど限られた時間の中で動かねねえってのを忘れたら、思ってるような結果は出せねえど」

「そりゃあ……うん」

「そんなわけで説得には私も当たるから。まあ半分ぐれえは三島ちゃんに公開説教かました負い目っつうか、そういうのもあるんだけどさ」

「ヒナ……」

「私も、やる」

 日向の果敢な姿勢につられてか、そこで和香が靴を鳴らして立ち上がった。

「木管の子らの聞き取りだけで無くて、説得もやらせて。私だって幹部だし、それに今年が最後のマーチングだがら、ドラムメジャーとして絶対成功させてえ」

「助かるよ、和香」

 感謝の意を述べ、ちなつが和香の手を取る。

「これで説得役は三人か、まあ十分でねえかな。あんま大勢で掛かっても却って態度がばらついたりしかねないし。てなわけで和香、よろしく」

「こっちこそよろしく、日向」

 そこへ日向も加わり、ちなつたち三人で固い握手が交わされた。ありそうで無かったその光景に胸を焦がされつつも、これが部内の分裂騒動という渦中で無ければどんなに良かったことか、と真由は少々複雑な思いに囚われてしまう。

「へば俺は、一年の男子と初心者のヤツら中心に声掛けしてみるっす。説得とかアタマ使うことは苦手なんで無理っすけど、聞き出すぐらいなら何とか出来ると思うんで」

「私も和香といっしょに、木管の子から聞き取りできるかな。って言っても仲良い後輩ってあんま居ねえし、私なんかさ話してくれるかどうかも分かんねえけど」

「大丈夫。お姉ちゃんにならきっと本音打ち明けてくれる子だって沢山いるよ。私もお手伝いするから」

「ありがと楓。それと言いにくいんだけど、出来ればこういうとこでベタベタひっつくのはやめて。恥ずかしい」

「ハッ、ごめんお姉ちゃん。お姉ちゃんの傍に居られんのが嬉しくって、つい」

 活気づく一同の姿に喜ばしさを覚えつつ、その一方で、と真由は教室の片隅に目を向ける。泰司や秋山姉妹もそれぞれ協力の意向を示す中、奈央だけは膝を抱えてぽつんと一人、そこに座ったままでいた。彼女が雄悦と一つところに同席するのもあの花火の夜以来。いたたまれなさも心の痛みも、まだ相当残っているに違いない。それを見かねた真由が何気ない風を装い声を掛けようとしていたところに、のそりと雄悦が奈央の傍へ近付いていった。

「松田」

「え、あ。はいっ」

「金管の女子、頼めるか。俺はこういうのあんまり得意じゃねえけど、お前なら友達多いし色んなやつの話も親身になって聞いてやれると思うから。……頼む」

 雄悦はそう言うなり、奈央に向かって深々と頭を下げた。そこに言葉通りでない意味合いを見出しそうになったのは、果たして真由が二人のことを知り過ぎてしまったからだろうか。少しためらうように一度唇を結び、そして奈央は雄悦へ笑い掛けた。あの日以前に見せていた、彼女らしい快活さで。

「……はい! 任せて下さいッス、ユウ先輩!」

 そんな二人の様子を見て、真由はほんの少しだけ心を緩める。これで何もかもが元通り、という訳にはいかないだろう。けれどここからまた新しい何かを築いていくことは出来る。果たしてそれが望んでいた通りのものではなくとも、あるがままの形として受け入れさえすれば、人と人はお互いに手を取り合って前へ進んでゆける、そういうものなのかも知れない。一度はこじれてしまった雄悦と奈央の関係。目の前の問題解決に向け過去のしがらみを断ち切ろうとしている二人の姿はある意味、これから独立組との折衝に臨もうとする自分たちにとっても決して無関係ではない筈だ。

「へば雄悦には取りまとめを頼もうかな。みんなが聞いて来たことを一覧にして、それを説得役の私らに寄越す。どう?」

「任せれ」

 ちなつの打診に胸を張って、雄悦がその任を引き受ける。これでおおよその体勢は整った。あとは少しでも事態が良い方向へ向かうべく、各々に出来ることを精いっぱい果たすだけだ。

「じゃあみんな、負担掛けて申し訳ねえけど、今言った通りの算段でよろしく」

「おうよ」

「そんで最後の最後に、みんなで笑い合って、最高の結果をもぎ取ろう!」

「おー!」

 こうして独立組への説得とマーチングの全国最優秀賞、二つの大きな目標に向かう曲北の、史上最大の戦いが幕を開けたのだった。期限まであと五十日余り。そこに向けて祈るような思いを抱きつつ、真由もまた自分の為すべきことをいま一度、しっかりと見据えようとしていた。

 

 

 



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〈17〉曲北文化祭

 コンコン、と戸を叩くと、内側から「どうぞ」という返事。拍動を高める胸を押さえて一度深呼吸をし、それから真由は戸を開ける。いつだったかも日向と二人きりで会話した教材保管用の資料室、今回そこで真由を待っていたのは独立組のうちの一人、玲亜だった。

「ごめんね。練習の邪魔しちゃって」

 取って付けたようなこちらの愛想笑いに対し、玲亜はボンヤリとしかめっ面を張り付けたままだ。埃っぽくて息もつけないような空気が二人の間にまたがる。けれどそれに臆することなく、真由は玲亜の真正面に用意されていた椅子へと腰を下ろした。

 さて、彼女からはどんな話が出てくるのやら。居ずまいを正すフリをしながらそっと玲亜の様子を窺う。玲亜は普段よりもずっとひんやりとした雰囲気に包まれながら、しかし微かにそわそわと、椰子の木みたいな頭頂の縛り髪を揺らしていた。

 

 

 

 

「玲亜ちゃんとの面談を、私が、ですか?」

「そう」

 九月も折り返しを過ぎた昼下がり、給食後の休憩時間中に日向の呼び出しを受けた真由は、廊下の片隅でその旨を彼女から告げられていた。

「連日の粘り強い交渉のおかげで、三島ちゃんも箸にも棒にもかかんねえような当初の状況からはだいぶ軟化して来てんだけどさ。それでも踏み込んだ話をしようってなるとすぐダンマリで。それで昨日言われたのが、私らでねくて真由ちゃんさなら喋る、って」

「どうしてでしょう。玲亜ちゃんがわざわざ私を指名するなんて」

「聞きたいのはこっちの方。まあ何となく予想はつくけどね。水月が一目置いてる真由ちゃんだからー、とか」

 本当にそんな理由なのだろうか? もう一つ確信を持てぬまま、真由は何だか宙ぶらりんになったような気分を味わう。そもそもからして、自分と玲亜との関わりはそれほど濃かったわけでもない。彼女が一緒に花火大会に出掛けたという水月と自分とでは、それこそ雲泥の差とすら言えるだろう。彼女と話す機会があったのはせいぜいパート練習中、指導のために幾らか声掛けをした程度のこと。それ以外に彼女とじっくり会話したのは……と、そこで一つ思い当たった真由は「あ、」と小さくこぼした。

「ともあれご指名があった以上、何とか真由ちゃんさ行ってもらいたくて。もし都合悪ければ無理にとは言わねえけどさ」

「いえ、大丈夫です。私もちょっと、玲亜ちゃんに聞いてみたい事がありますし」

 そう答えると「助かるぅ」と日向が両手をすり合わせる。

「で、場所と時間についてなんだけど――」

 

 

 

 

 こういった経緯から、真由は指定された通りの日時に話し合いの場へとやって来たのだった。とは言え先般からの打ち合わせの通り、真由の役割は玲亜の意見を聴き取るところまで。どうやって玲亜を説得するか、なんてことを考える必要は無い。聴き取った後のことはちなつたちに委ねれば良いのだ。その点、臨機応変な受け答えを求められることがないこの役回りは、真由にとって比較的気楽とも言えるものだった。

「さて、じゃあ何から話そっかな」

「その前に、一ついいすか」

 重苦しい雰囲気の中、割とすんなり口を開いてくれた玲亜に「どうぞ」と真由は発言を促す。

「黒江先輩、どうして私と直接話してくれる気になったんですか?」

「玲亜ちゃんに指名されたからだよ? だからこうして来たんだけど」

「先輩は、断っても良かったはずです。直接的には何も関係ねえんですから」

「一応ユーフォの先輩として、そう言われちゃうのはちょっとショックなんだけど」

「それなのに来てくれたのは、『黒江先輩になら喋る』って私が中島先輩さ言ったから、ですよね? つまり先輩は知りたかったから聞きに来てくれたんです。私が何考えてこうしたかを、自分の目と耳で、直接」

 玲亜の口調はこちらの心理を読み当てるかのような確信の空気を帯びていた。興味本位と好奇心。こうまでど真ん中に直球を投げ込まれては、素直にそうと認めざるを得ない。苦笑を浮かべる真由の態度からあらかたを察したのか、玲亜はやや失望めいた鼻息と共に眉間へしわを寄せる。

「じゃあ、どうして先輩さだけは喋る気になったか、ってのは解りますか?」

 彼女にそう問われるのを、真由は薄々ながら予測していた。他にも沢山いる部員たちの中で、玲亜はわざわざ自分なんかを対話相手に指名した。それが全くの無意味である筈は無い。玲亜はきっと真由ならば、いや真由だからこそ、自分の話を聞き入れてくれると考えたのだ。そして彼女がそう考える、その根拠となるものは。

「多分だけど、春の一件でしょ。玲亜ちゃんとちなつ先輩がぶつかって、先に帰った玲亜ちゃんを私と水月ちゃんとで追い掛けた、あの一件があったから」

「……覚えてて、くれてたんですね」

 こくり。玲亜をなだめすかすように真由はゆっくり大きく頷く。正確にはつい最近になって思い出したと言うべきなのだが、勿論そんなことは当の本人に言えやしない。それにあの日の出来事がきっかけとなって、玲亜と水月は親しく交わりを持つようになったのだ。それが今のこの事態に繋がっているのだとしたら、事前に知りようが無かったとは言え、自分がその片棒を担いでいたことになる。この事実から目を背けるのは、玲亜に対してひどく不義理なことのように思えた。

「だけど玲亜ちゃんには私、大したこと何もしてあげられなかったって思ってる。玲亜ちゃんを引き留めに行ったのも正直言えば、二人で行こうって水月ちゃんに誘われたからだし」

「何となく想像ついてました。今回のもですけど先輩って、自分からそういうことするタイプには見えねがったですから」

 そう述べた玲亜の微かな苦笑に、真由は舌の上へほろ苦さを刷り込まれたような気分に陥ってしまう。他人に自分がどう思われているか。それをこうして確認させられるのは殊のほか窮屈で、しんどいものだ。

「でも、私は嬉しかったんです。あの時、誤解されがちな私に声掛けてくれて、すぐ周りとトラブル起こす私みたいなヤツを気遣ってもくれて。そういう人が二人も居るって思えたのが本当に救いだったし、ありがたかったんです」

「玲亜ちゃん……」

「それが誰かに誘われたからだったとしても、黒江先輩は来てくれました。あんな状況なら普通、『一人で行けば』って突っぱねてたっておかしくないです。だから私、水月先輩だけでねくて黒江先輩のことも、あの日からずうっと尊敬してました」

 往時を思い返すみたいに、玲亜はぱちりと瞼を伏せた。孤独の淵で差し伸べられた手のぬくもり。それはきっと彼女にとって他の何にも代えがたい、縋るべき大事な(よすが)だったに相違ない。少なくとも、あの瞬間だけは。

「けど水月先輩には、それ以上に感謝してます。あの人は私に吹部での居場所を与えてくれたんです」

 次に睫毛をひるがえしたとき、見開かれた玲亜の眼にはそれまでとは異なる、強い想念が宿っていた。

「居場所?」

「何にも知らねえ私にこの部のことを教えてくれて。吹奏楽がどういうものかを教えてくれて。一人で居た私を、色んなところさ連れて行ってくれて。初めは()してこんなに気遣ってくれんだろう、何して私なんかにここまで優しくしてくれんだろう、って不思議に思ってました。けど夏休み中のある日、先輩方がコンクールの練習で音楽室さ居る時、外で個人練習してた私のところに水月先輩が来て、言ったんです」

「何を?」

「『見てごらん。ああやって自分たちの思い通りにするためにそれ以外を犠牲にするのが、あの人たちのやり口だよ』って」

 真由は息を呑む。水月が玲亜に述べたというそれは、何をどう解釈しても悪意的に過ぎる物言いだった。

「それ聞いて私、春にあんだけ悩んでたのがバガくせえって思うようになって。大会の為とかコンクールの為とか、そんなんを理由に私らは自分のやりたいことを何一つ自由にやれねえで、それに文句ひとつ言いにくい状況なのは正直すごいストレスでした。でも荒川先輩らにしてみれば、そっちの方が都合が良かった。部を円滑に回すためっていう建前は結局、自分らのやりてえことに私らを巻き込むための体のいい方便だったんだって、その日から考えるようになりました」

 吹きたいと思った曲も自由に吹けない。やりたいと思ったことも満足に提案できない。玲亜は元々そのことに強い違和感を覚えていた。あの時は日向の仲裁や水月と二人掛かりでのケアがあったから一旦手打ちにすることが出来ただけであって、事の本質はそこへ置き去りにされたままでいた。そして水月の関与によって、それは再び目を覚ましてしまったのだ。

「その頃から、周りに居たメンバー落ちの子らも同じようなことを言い始めたんです。うちの吹部は自由が無さすぎる、もっとやりたいこと好きにやりてえ、って。最初は二人三人、って感じだったのが気付けばどんどん増えてきて、私と同じことを考えてる人がこんなに居たんだ、私の気持ちを分かってくれる人がこんな大勢居るんだってなったら、それまでの自分がどんだけみじめだったかって考えさせられました。それと同時に、この人たちの居るところが私の居場所なんだって、そう思うようにもなりました。そういうモンを私にくれたのが水月先輩なんです」

「だから玲亜ちゃんは水月ちゃんと一緒に、私たちから離れて独立組に加わることにしたんだね」

「言っときますけど、水月先輩からは直接誘われたりなんかしてません。みんなで『やろうよ』って流れになったから、私もそれさ手ぇ挙げただけです」

「その流れに、水月ちゃんはどんなふうに関わってたの」

「最初にみんなの前で話を切り出したのは他の先輩方です。その人らと水月先輩との関係は、詳しくは知りません」

 それは恐らく真実だった。良くも悪くも正直者の玲亜のことだ、例え恩人を庇う為であっても嘘をつくようなことなど決してしない。そして玲亜による一連の告白は、『私たちは皆自分の意志で独立を決断した』という水月の主張を裏付けるものでもあった。

「じゃあ今、独立組の活動はその子たちが主導してるってこと?」

「そういうのは無いです。水月先輩からも聞かされてると思いますけど、私らの活動は基本的に自由ですから。合奏の指揮者も交代制で、希望者が名乗り出たりジャンケンで決めたり、その時々によって違います」

「それは本当に玲亜ちゃんたちの望んでいた、楽しい音楽のやり方だった?」

 あえて鋭く、真由はその質問を投げ込む。玲亜はしばし視線を彷徨わせ、そして考えをまとめるように一度、深呼吸と共に天井を見上げた。

「正直なところ、分かりません。あくまで一つのやり方って感じで、いざ動き出すときにそこまで厳密に決めてたワケでも無かったですし」

「そう」

「だけど現状、誰からも不満は上がってないです。みんな吹きたい時に練習に来て吹きたい曲吹いて、帰りたい時に帰って。ハッキリ言ってそれ以前の部活よりもずっと、私らは今のこの体制に満足してます」

 堂々と言い張る玲亜の姿勢に、それもまた彼女の本音だということを真由は悟る。独立組の活動に強要は無い。理念こそあれ目標も目的もそこには存在しない。したがって自己研鑽のために夜遅くまで居残り練習をする必要も無ければ、大して好きでもない曲を吹きこなすために努力を重ねる責務も無い。あるのはただ純粋に楽しさのみを追求しそれに徹することだけ。大きな喜びを作るのではなく、小さな不満を募らせないための構造。それを独立組は発足から蜂起までの過程、そのどこかで組み上げたのだ。

「私が喋りたかったことは以上です。先輩には申し訳ねえですけど、せっかくみんなで作ったこの居場所を壊されたくねえって思ってますし、自分から抜ける気にもなれません」

「分かった。ありがとね、色々話してくれて」

「いえ」

 途端に言葉少なになった玲亜を見て、ふと真由は思う。どうして玲亜はここまであけすけに独立組結成のいきさつを語ってくれたのだろう。玲亜が水月へ個人的な恩義を感じていることと、それに前後して吹部に対する不信の声が彼女の周りに集まったこと。そこに見え隠れする水月の存在。それらはまるで、事件の背景をそれとなくこちらへ匂わせているみたいだった。

 仮に玲亜の語ったことが全て真実であるとして、しかし彼女に見えないところで水月が他の部員にも何かを吹き込み、そして巧みに操ってみせた……そういう可能性を否定する材料にはならない。と言うよりもむしろ、水月は玲亜にしたのと同じような手段を用いて不満を抱く子を一人ずつ丸め込み、時に扇動し、そうして今回の事態へと漕ぎつけたのではないだろうか。何となくではあるが、そんな気がしてならない。

「へばそろそろ練習に戻りますんで、私はこれで」

「あ、ごめん。玲亜ちゃんに聞きたいこと、もう一つだけあった」

 聞き役に徹し過ぎていたためか、真由はうっかりそのことを忘れそうになっていた。慌てて手を伸ばした真由に「何ですか?」と、玲亜が訝しみつつ応じる。

「私としてはこっちが本題なんだけど。玲亜ちゃんは私や荒川先輩とまた一緒に吹くの、もうイヤだって思ってる?」

「……この状況でそれ聞いて、どうするっていうんですか」

「難しく考えないでね。ただ玲亜ちゃんたちが自分たちのやりたい音楽をやることと、私たちと一緒に音楽をすることって、そんなに矛盾してるのかなって思っちゃって」

 それは妥協点を探り出すためではなく、真由の抱える素朴な疑問からのものだった。より高みを目指すための音楽と、純粋に楽しむための音楽。これらは一見相容れるところが無いようでいて実はどこかで繋がっている、そうであるような気がしてならない。楽しさを求めるためには本当に、一切の縛りから脱け出す以外に道は無いのか。このところ独立組からの聞き取りを重ねるうち、少しずつだが着実に、真由はそんな思いを抱き始めていた。

「やっぱ黒江先輩は黒江先輩、ですね」

 ふっと唇を緩め、玲亜が諦観めいた感想を漏らす。どういうこと? と真由は彼女に追って尋ねた。

「水月先輩が前に言ってました。黒江先輩は『外側の人』。だから自分も特別視してるんだ、って」

 またその話か、と真由は内心辟易してしまう。水月の言う『外の目』。それと今の『外側』とは恐らく同質のものなのだろう。さりとてその意味はさっぱり解せなかった。過去はどうあれ、自分はもう曲北の一員だ。既に数え切れないほど他の部員らと合奏を重ね、共に日々を過ごしてきた。転校してきたばかりの頃に比べれば、今は友達も仲の良い先輩後輩も大勢いる。それなのに『外側』とは一体どういうことなのだろう。水月から見て自分には曲北の一員たるに足りない何かがある、とでも言いたいのだろうか。

「あの、先輩?」

「あ、うん。ごめん、何か一人で考え込んじゃってただけ。気にしないで」

「それだば良いんですけど。――先輩にはいろいろご面倒お掛けしちゃって、本当にすみません」

 殊勝にも玲亜がぺこりと首を垂れる。いいよそんな、と真由はとっさに両手を振ってしまった。

「さっきの質問ですけど、私バカなんで何とも言えねえっす。けど、私はもうこっちさ居ることを選んだんで。イヤとかどうとかじゃなくて、また元のように一緒に吹ける日は多分もう来ねえと思います」

「そっか。ちょっぴり残念だけど、でも仕方ないね。玲亜ちゃんが自分でそう決めたんだったら」

 それは真由なりに玲亜を慮った一言のつもりだった。けれど何故か、玲亜はそれにぷふっと含み笑いを返す。

「何かおかしかった?」

「いえ、すいません。ただやっぱり先輩って何て言うか、特別な人なんだなあ、って思って」

「とくべつ、」

 それがどうにもピンと来なくて、思わず真由は首を傾げてしまう。水月と言い玲亜と言い、自分をどういう目で見ているのだ。もしかしてからかわれてる? そう思いつつ真由はじっと玲亜の瞳を覗き込む。ここに来た直後と比べて、今の玲亜の目つきはほんの少しだけ穏やかだった。

 

 

 

 

 それからさらに半月ほどが経ち、冬服に衣替えをして一週間。

「……以上、ステージ発表のトップバッターを務めましたのはマーチング全国三連覇の実力、今やすっかり曲北の顔である吹奏楽部の発表演奏でした!」

 司会役を務める放送部の女子がマイク越しにそう述べると、体育館に集った来場者からたくさんの拍手が送られる。それを浴びる曲北吹部の面々はしかし、どうにも浮かぬ顔をしていた。

「さて、本日午後の部の最後にも吹奏楽部が登場します。三年生全員と合唱部、そして吹奏楽部を合わせた総勢四百名あまりでお送りする曲北祭伝統のフィナーレ『大いなる秋田』、是非ご期待ください」

 今しがたのアナウンスにもあった通り、本日挙行されている曲北文化祭にはもう一度吹部の出番があった。『大いなる秋田』とはそこで演奏する曲の名前であり、正式名称を『合唱とブラスのための楽曲・大いなる秋田』と言う。

 全四楽章構成からなるこの曲は一九六八年、明治百年の記念事業として作曲家の(いし)()(かん)により制作されたものであり、表題通り男女混声の合唱に加えてブラスパートのみの箇所も多く、全編通せば演奏時間は三十分から四十分近くにも及ぶという文字通りの超大作である。とりわけ第三楽章『躍進』の後半部には、ユーフォソロが朗々と主旋律を歌い上げる箇所も備えられている。本日これを吹くのはもちろん、我らが部長にして曲北ユーフォのトップであるちなつだ。

「それではご来場のみなさま、吹奏楽部に今一度、盛大な拍手をお願い致します!」

 司会に促されるがまま鳴らされる拍手の波間を抜け、部員たちは列を成して整然と体育館から撤収する。と、出口に差し掛かったところで、観衆の交わすこんな声が真由の耳元に届いた。

「……うん、まあ、悪くは無がったけどさ」

「ちょっと物足りない、っつうかねえ。去年なんか余裕で百人超えてらったべ」

「ところどころ怪しげ(おかしけ)な箇所もあったし。大会に演奏会にって忙しくしてるせいで、こっちの練習さは身ぃ入ってねがったんでねえの?」

「なーんか期待外れ、って感じだなあ」

 そういう否定的な声を上げているのも一人や二人ではない。彼らは他校の生徒か生徒父兄か、はたまた吹奏楽関係の人間か。曲北吹部の演奏を聴いた上で述べられたこれらの感想は、この賑々しい体育館の中でもハッキリ聴き取れてしまうほど、何人もの人たちが口々に発する忌憚無き評価だった。そしてそれは、部員たちが文化祭というハレの日にも関わらず心沈んでいた理由とも直結している。

 度重なる説得が功を奏し、昨日までに独立組からは三十名近い部員が『体制側』へと戻っていた。それ自体は苦労の甲斐あった、と喜ぶべき事なのかも知れない。けれどそこにも問題はある。不揃いな音の粒。安定しないピッチと音圧。統一感に乏しいアーティキュレーション。一カ月近い乖離を経た結果、まるで練度の異なる部員同士での合奏は、数日やそこらでは到底修正し得ないほどのいびつさを生み出してしまっていた。

 もっと演奏を楽しみたいのに、思うようにできない。そのフラストレーションは確実に吹部の一同を、そして真由自身を、蝕みつつあった。

 

 

 

「本番おつかれー真由ちゃん。次の出番って午後のラストだっけ」

「そう。一時間前にまた音楽室集合」

「へばそれまで、こっちの手伝い頼むな」

「任せて」

 午前の本番を終え、真由はいったん自分のクラスへと戻っていた。先般行われた学級投票の結果、選ばれた出し物は演劇ではなく仮装喫茶と、なんだか無難なところに落ち着いてしまった。曰く「演劇だと練習に時間を割かれて部活や勉強に支障をきたすから」という声が多かったからなのだが、ではなぜ事前の候補にも挙がっていなかった仮装喫茶が、圧倒的多数を占めるほど票を伸ばすことになったのか? これだけは未だに判然としない。

「だけど結果的にゃ、演劇よりこっちのが良がったかもね」

「分かるー。三年のどっかのクラスも演劇やってるらしいし、そっちと被らなくて済んだってのもあるしね」

 級友とそんな話をしている早苗も今は警察官のような衣装で、来客があればせっせと給仕をこなしている。何故か男性用の格好をしているのが謎ではあるが、しかしこうして見ると気性の強めな早苗にはこういうカッチリとした姿が意外と似合っていた。今回用いられる仮装の全ては被服同好会所属の女子が腕によりを掛けて作ったものだ。ある意味プロの仕事というわけであり、その完成度の高さについてはあえて詳しく語るまでもないだろう。

「あ、真由ちゃーん。悪りいけど、そっちの棚からサイダーとお茶持って来てー」

「分かった」

 早苗の指示に従い、真由は奥のパイプ棚から持ってきた二本のボトルを長机の上に置く。客から注文があればここで飲み物を紙コップに注ぎ、給仕役がそれを客席まで届けて料金代わりの半券をもぎる――というのが仮装喫茶の大まかなシステムとなっている。『喫茶店らしく軽食も用意したい』という声も当初は多かったのだが、それは衛生管理の面など様々な事情によりあえなく没となってしまった。

「それにしても真由ちゃんのカッコ、やべえな」

「え? どこかヘンなところある?」

「いやいや、ヘンとかそういうんじゃなくて。なあ」

「ってかマジハマり過ぎ。後で写真撮らしてよ」

「ごめん。撮るのは好きなんだけど、撮られるのは私、ちょっと」

「えー、ずっこい。私らの写真はいっつもパシャパシャ撮ってるくせにぃ」

「そうだそうだー。こんなバッチシ決まってるのに撮らせないなんて不公平だどー」

 早苗たちの揶揄だか何だか良く解らない誉め言葉を、真由はどうにかいなそうと腐心する。真由に宛がわれた仮装は『大正浪漫漂う女学生給仕』をテーマとした振袖と袴、そしてフリルの付いたカチューシャ状の頭飾りに現代的エプロンという、和洋折衷のコーディネート。よくよく見れば袖口などに造りの怪しい部分もあれど、パッと見にそれらしく映る作り込みはさすが専門家といったところである。

「その服もリボンで結った髪もめちゃくちゃ似合ってるし。これ絶対残しといた方が良いってぇ、一生の思い出になるから」

「いや本当に、私の写真なんて撮っても誰も得しないよ。自分で自分の映ってるとこ見ると、何でこんななんだろう、って毎回ゾッとしちゃうもん」

「勿体ねえなあ。私が真由ちゃんだったら、自撮りだけで百枚はいけるね」

「甘いで早苗。私なら千枚は固い」

「何の競争してんだよお前ら。てか注文来てんぞ、さっさと飲みもん持ってげった」

 きゃいきゃいと話に興じていたところを男子にせっつかれ、女子たちは慌ててお盆を片手に教室中へと散ってゆく。仮装のおかげなのかはともかくとして、喫茶店としての売れ行きはおおむね好調だった。意外とこういうの向いてるのかも。そんなことを思いつつ、真由は目の前の紙コップにコーヒーと紅茶をそれぞれ八分目のところまで注ぎ入れる。注ぎ過ぎれば儲けが減り、少な過ぎれば不満が増える。たったこれだけの作業であっても、人の満足を得るにはそれなりの配慮を要するものである。

「ごめーん。誰か手の空いてる人、ちょっと来てけねがー」

 と、そのとき教室の入り口辺りで同級生の女子が声を張った。お客さんのところへジュースを配膳し終えた早苗が同じく大声でそれに応じる。

「何したぁー、ヒロミぃ?」

「それが迷子みてえで。一人でうろうろしてるとこ見つけて声掛けてみたんだけどさ、したっけば行きてえところ分がんねぐなっちゃった、って」

 ここからでは良く見えないが、ヒロミと呼ばれた女子は誰かの手を引いているらしい。迷子? 何とする? という声が方々から沸き、教室内はにわかに騒然となった。

「迷子だば生徒会のとこで迷子案内してらったと思うけど。ヒロミ行ける?」

「アタシ無理。もうすぐ合唱部の出番だがら、そっちさ集合さねえばだし」

「私らもこっちの仕事あっからなあ。どっかその辺でうろついてるヤツ捕まえりゃあ何とかなるかもだけど」

 どうやら現状、手を空けられる者はいないらしい。各々がなるべく校内の出し物を見て回れるようにと細かくシフトを分けていたことが、この局面では裏目に出てしまったようだ。「どうしようか」という困惑の空気が級友たちの間に漂い始めたところで、真由はおずおずと手を挙げる。

「もし良かったら、私が行こうか?」

 吹部のステージ発表も終わり、次の『大いなる秋田』の出番は午後最後。そしてクラスの仕事以外には特に用事も無い。お茶汲み係の自分が少々抜ける程度なら、ここの業務にもそれほど支障は無いはずだ。そう考えて名乗りを上げた真由に、早苗は少し悩んでから「んだな」と決断を下した。

「じゃあ真由ちゃん、悪りいけど頼む。その子のこと案内してやって」

 うん、と返事をして真由は客席の合間をすり抜け、ヒロミの元へと辿り着く。

「お待たせ」

「ごめんな真由ちゃん。へばこの子のこと、お願いね」

 そう言って、ヒロミは繋いでいた手をこちらへクイと寄せる。彼女に連れられていたその迷子は、身なりからしていちおう男子のようではあったが、一概にそう呼ぶにはあまりにも愛らしい外見をしていた。おかっぱみたいな髪型と、自分のみぞおち辺りに頭が来るぐらいの身長。利発に吊り上がったその目元にはどこか見覚えがあるような気もする。歳の頃は小学校低学年、といったところだろうか。彼の前にしゃがみ込み、真由はとりあえず自己紹介をすることにした。

「私、真由。よろしくね、ボク」

「ボクじゃない。ハルキ」

 ちょっとだけ舌っ足らず気味に、けれど見た目よりはしっかりした語調で、ハルキはそう名乗った。

「ごめん。ハルキくん、っていうお名前なんだね」

「春の輝き、って書いて(はる)()。おぼえて」

「うん、ちゃんと覚えた。それじゃ行こっか、春輝くん」

 ヒロミの代わりに春輝の手を取り、そして真由は雑踏の中へと漕ぎ出した。廊下は生徒ばかりでなく一般来場のお客さんで溢れ返っている。なるべく彼に人の波がぶつからないようにと慎重を期し、しっかりと春輝の手を握りつつ生徒会室のある中央棟を目指す。ぷにぷに、と弾力のある春輝の指先が手のひらを押し返してくるのが少し心地良い。こうしているとまるで弟が出来たみたいな気分だ。

「ところで春輝くん、どこ行きたかったの?」

「姉ちゃんとこ」

「お姉ちゃんがいるんだね。どこのクラスかは分かる?」

 その問いに春輝はぶんぶんと首を振った。はらりと乱れた淡い栗色の髪が幼さを強調しているみたいで、それが余計に可愛く見えてしまう。

「じゃあ、お姉ちゃんの学年は?」

「三年生」

「そっか。それならこのまま三階に行った方が良いかな」

 向きを変え、真由は教室棟の端にある階段を目指す。曲北の教室棟は学年ごとに階が分けられており、下階から順にそれぞれ一年、二年、三年のクラスが割り当てられている。ここからなら連絡通路を経由して中央棟に向かうよりは、最寄りの階段を利用して三階まで上がる方が到着は早い。そこで姉なる人物を見つけ出すことが出来れば、話はもっと早いだろう。

「さてと。問題はこの中のどれがお姉ちゃんのクラスなのか、だけど……」

 三年生は計八クラス。春輝の姉なる人物は果たしてそこにいるのだろうか。総当たりしてみるのも良いが、真由のクラスみたいに当番制で回っている出し物だとすれば、時間帯によってはどこかに外出してしまっている可能性もある。こんなことなら生徒会室に直行して呼び出しを掛けてもらった方がマシだったか。少々考えが足りなかったと後悔しつつ、せめて何か一つでも春輝の姉を特定するに足るヒントがあれば、と真由は春輝に尋ねてみる。

「ねえ春輝くん、ひとつ聞いてもいいかな」

「なに?」

「お姉ちゃんの特徴って、どんな感じ?」

「とく、ちょう?」

「例えば髪型とか、身長はどのくらいー、とか」

 んと、と春輝は顎をつまんで何かを考える仕草をする。

「髪は短くて、えと、ぼくとおんなじくらい。それで身長は、まゆおねえさんとおんなじくらい」

 おねえさん。その甘美な響きに、真由の胸はキュンと締め付けられてしまう。もうこの子が私の弟で良い。そんな内なる声に揺さぶられた理性という名のタガが、びきびきと音を立てて崩れ落ちそうになっている。

「他に何か、分かることはある?」

「んっと、えっとね」

「慌てなくていいから。何でもいいの、例えばお家はどことか、お姉ちゃんの好きなものとか」

 逸るあまり言葉を継ぎ切れずにいる春輝をなだめつつ、真由は探りを入れてみる。髪型と身長。それだけで人物を特定するには、さすがにもう三つばかり足りない。

「あのね、姉ちゃん、ふだんはすごくやさしくて」

「うん」

「でも怒るとおっかなくて」

「そうなんだ」

「あと、カレー作るのじょうず」

「へえ」

 その後も何とか粘り腰で聞き取りを試みたものの、返って来たのはこんな情報ばかりだった。そのうち思いつくこともなくなったらしい春輝はむっつりと黙り込んでしまう。これ以上姉について尋ねても、春輝の知り得ない情報はどうやったって出てきそうに無い。どうしたものか。真由はしばし黙考し、そして閃いた。

「そうだ。じゃあ代わりに、春輝くんのことを私に教えて」

「ぼくのこと?」

「そう。春輝くんのことが分かれば、お姉ちゃんに繋がる何かが見つかるかも知れないし」

 もう一度しゃがみ込み春輝に視線をしっかり合わせ、真由はにこりと微笑む。

「ね?」

 その笑顔にやや安堵したのだろうか。ほわ、と春輝の頬が鮮やかに染まったのが分かる。んと、んと、としばしもじもじしてから、春輝は少しばかり緊張したような面持ちで口を開いた。

「ぼく、荒川春輝。姫神小学校の三年生」

「……あれ?」

 荒川。彼が名乗ったその苗字にはもしかせずとも聞き覚えがある。加えて姫小に通う春輝は男の子で、彼には姉がいる。その姉は曲北の三年生であり、つまり春輝とはずいぶん歳の離れた姉弟ということになる――とまで考えたところで、真由は極めて可能性の高い一つの候補に思い至った。

「春輝くんのお姉ちゃんって、何か部活やってる?」

「やってる」

 突っ込んだ真由の問いに、春輝はこくんと頷く。

「その部活のお名前って分かる?」

「分かんない。なんかむずかしい字」

「吹奏楽、って聞いたことない?」

「スイソウ、ガク……?」

 春輝の声量が尻すぼみに落ちていく。この分だと単語を音として聞いたことがあったとしても、その意味まで覚えてはいないのだろう。この路線ではダメだ。そう思った真由は切り口を変えてみる。

「お姉ちゃんがその部活で何をやってるかは知ってる?」

「知ってる。楽器吹いてる」

「その楽器のお名前、憶えてる?」

「えと、なんだっけ。ユー、フォー、みたいなの」

「それって、ユーフォニアム、じゃない?」

「そうかも」

 こうしていると何だか誘導尋問みたいだ。けれどここまで訊き出すことが出来れば、状況はほぼ確定と言って良い。弟が居て、吹奏楽器を扱う部活に所属している、三年生のユーフォ吹き。その条件に合致する人物は、この曲北に一人しか居なかった。

「お姉ちゃんのお名前、もしかして『ちなつ』じゃない? 荒川ちなつ」

 そう尋ねた直後、しまった! と真由の脳内を電撃が駆け巡る。こんな遠回りをせずとも、初めから直球で姉の名を春輝に訊いていれば良かったのだ。尋ね人は見も知らぬ上級生、とハナから思い込んでいたせいで、そのことに全く頭が回っていなかった。私って、どうしていっつもこうなんだろう。機転の利かぬ己を呪わしく思いつつ、アタリかハズレか、といった心境で春輝の反応をじっと窺う。春輝はただただキョトンとした顔で、不思議そうに小首を傾げていた。

「まゆおねえさん、どうして姉ちゃんの名前知ってるの?」

 やっぱり。確証を得た真由は春輝の問いにあえて答えず、たくさんの人が往来する廊下を迷わずに進んでいった。確か、ちなつのクラスは。ちなつにまつわる数多の情報を無理くり脳内から引っ張り出しつつ、真由は春輝と共にその場所を目指す。

 三年二組。そう書かれたプレートの真下に立った真由は、周囲の様子をざっと確認してみた。クラスの出し物は演劇のようで、教室の入り口前に置かれたボードには午前の部の開演時刻が間もなくである旨が記載されている。果たしてそこにちなつは居るのか。意を決して戸を叩くと、「すいませーん」と三年生の女子が顔を覗かせた。

「いま準備中でして。もうすぐ開場の時間になりますんで、それまでちょっと待っててけねぇすか?」

「あの、そうではなくて。私、吹部の黒江って言うんですけど」

「吹部?」

「はい。その、ちなつ先輩はこちらにいらっしゃいますか?」

「ああー、部活の子な。ちなつに用事か何か?」

 短いやり取りで要領を得たらしいその女子はしかし、ごめんな、と真由に向けて手刀を立てる。

「悪いけどちなつ、今ちょっと手ぇ離せねえんだよ」

「もしかして、どこかに外出中ですか」

「ううん、着替え中。すぐ終わるから、それまでコッソリ中で待ってて」

 招かれた手に応じ、真由と春輝は人目をはばかるようにして戸の内側へ滑り込む。窓辺に貼られた暗幕のせいでほぼ真っ暗な無灯火の教室内は、客席側と舞台側とで大きく半分に仕切られていた。

「ちなつー、お客さんだどー。クロエ、だったかな? 吹部の後輩の子」

 そう声を上げながら、応対してくれた女子が教室の奥へと姿を消す。教室後方にからりと並べられた客席用椅子へ腰を下ろし、二人は少しの間そこでじっと待つ。

「ごめん真由、お待たせー。って、これだば何も見えねえ」

 数分ほどして、舞台袖からちなつがひょっこり顔を覗かせた。とは言ってもそう判断できたのは声のおかげであり、暗さのせいで互いに互いの顔も分からない。同じように感じたのであろうちなつの影が壁を辿り、教室の端にある蛍光灯のパネルへと手を伸ばす。パチン、と室内が明るくなった直後「あれ?」とちなつは素っ頓狂な声を上げた。

「ハル?」

「ナツ姉ちゃん」

 それまで真由の手の内にあったぷにぷにがスルリと抜け、春輝がちなつへと駆け寄る。この時のちなつは派手な柄をしただぶだぶのTシャツに、ところどころ虫食いのように穴の開いたダメージジーンズという、やけにボーイッシュな装いをしていた。

「やっぱり、先輩の弟さんだったんですね」

「いや、うん。それはそうと()してこんなとこさ居るの、ハル」

 ちなつに問われ、春輝はやや言いにくそうにむずむずと口元を動かす。

「姉ちゃんの文化祭見にきた」

「見に来たは良いけど、それで何でアンタ、真由と一緒なのよ」

「まいごになって、連れてきてもらった」

「ええ、もしかして一人? 父ちゃんと一緒に来たんでねえのが」

 こくり。小さく首肯した春輝が気まずそうに視線を落とした。

「ダメだべ。ここさ来るなら来るって、ちゃんと前もって姉ちゃんたちに言っとかねえと。いっつも言ってらべ、人さ迷惑掛けるようなことすんなって」

「……ごめんなさい」

 姉のお叱りにしょんぼりしてしまう春輝。その姿が何ともいたいけで、真由はつい口を挟まずにはおれなかった。

「春輝くん、ちなつ先輩のところに来たがってたんです。最初は私も分からなかったんですけど、詳しく聞いてみたら先輩の弟さんかもって思ったので、それで」

「そうだったんだ。ごめん真由、この悪ガキのせいで手間掛けさせちゃって」

「いえ。とっても良い子でしたよ春輝くん。私の質問にもちゃんと答えてくれましたし」

 しょげかえった春輝を慰めるつもりで『いい子いい子』と頭を撫でてあげると、春輝はくすぐったそうに身をよじり、そのままちなつの足元へと退避してしまった。今さらになって人見知りしてるのかしらん? と真由は小さく苦笑を洩らす。いや、姉の前ということもあって、春輝はきっと照れているだけなのだろう。当初のツンツンした態度ももしかして、恥ずかしがり屋さんの裏返しだったのかも知れない。

「それにしても参ったな。私、これから演劇の出番でさ。父ちゃんさは連絡してみるけどすぐには来れねえだろうし、かと言って手の空く子も居ねえから、誰かが春輝に付いて見ててもらうってわけにもいかねえし」

「ぼく、おとなしくしてる」

「だからそういうことでねえってばぁ。オメエがそれで良いったって、こっちはそうは行がねえんだって」

「ひとりでも平気。ここで姉ちゃんの劇見る」

「いやあ、どうしようなあ……」

 額を押さえて途方に暮れるちなつ。それを見て真由は何ともいたたまれない気持ちになってしまう。その気持ちをちなつの悩みの種ごと解消しうる手段を、真由はすぐさま思いついた。

「あの、ちなつ先輩。もし良ければ先輩の出番が終わるまで、私が春輝くんについててあげましょうか?」

 真由のその申し出に、え、とちなつは一瞬瞠目する。

「いや、悪りいよ。真由だってクラスの出し物あるんだべ、そんな恰好だし」

 ちなつのくれた一瞥に、はたと真由は気恥ずかしさを覚える。大正浪漫の女学生給仕。完全に周囲の空気から浮いた現在のこの服装は、下手をすれば劇の役者よりも大いに目立ちかねない。

「こ、こっちは少しぐらいなら平気です。先輩の出番が終わるか春輝くんのお迎えが来るまでなら、クラスのみんなもきっと何とかしてくれますし」

 それは全くの方便というものだった。『春輝を生徒会室に連れて行くまで』という前提で外出を認めてくれた級友たちには追加で迷惑を掛けることになるが、こうまで姉の為にがんばる春輝を見ていると、何だか放っておけないという気持ちにさせられる。それに平素からのちなつの恩義に報いるという意味でも、ここで彼女を困らせたままにするわけにはいかなかった。

「……ホントに、大丈夫?」

「はい」

「じゃあ悪いけどお願い。一応クラスの子にも事情話して、誰か代わってくれそうならその子にハルのお守りさせっから」

「大丈夫ですって。春輝くんとってもいい子ですし、きっとおとなしく観ててくれると思います。ね?」

「うんっ」

 同意を求めた真由に、春輝が両方の拳を握り締めて力強く頷いてみせる。全くこの子は。そんなふうに呆れ返るちなつの表情は、まさしく姉のそれに相応しいしょうがなさと温かみをほんのりと浮かべていた。

 

 

「じゃあここに座って、私といっしょに静かに観てようね」

 父への連絡を終えて再び舞台袖に戻るちなつを見送った真由は、春輝と二人並んで端っこの席を陣取っていた。舞台の前面にはきちんと厚手の幕が張られているなど、自作にしてはなかなか手の込んだ造りだ。その上方に掲げられた看板には『THE・DANCE 青春の煌めき』というペンキ塗りの字が書かれている。恐らくはこれが今回ちなつたちの演じる劇の題名なのだろう。間もなく開場の時刻を迎えるということもあって、「がんばるぞー」「おー!」という掛け声が木組み舞台の奥から聞こえて来た。

「それじゃ入場開始しまーす」

「はーい」

 入口に立っていた受付係の女子が戸を開けると、まさしく堰を切ったようにぞろぞろと人が入って来た。その大半は身なりからして一般客、そして残りは曲北の生徒。恐らくはちなつのクラスメイト達の父兄や友人、もしくは後輩などだろう。数十人ほどの群衆が席に着き、そして再び部屋の照明が落とされるまでの間、春輝は言いつけを守って大人しく座ったままでいた。

「それではこれより三年二組の発表、舞台演劇『THE・DANCE』を開始いたします」

 そのアナウンスに聴衆はまばらな拍手を送る。ズン、という重低音。それを皮切りに、奥から流れ出した音楽に合わせて舞台の幕が上がり――もとい、横にスルスルと開いていった。舞台中央、真っ暗闇の中で膝立ちしている人物へ向けて、直上からスポットライトが注がれる。

「ああマリア。どうして君は、僕の気持ちを分かってくれないんだい?」

 眩く照らされながらその台詞を読み上げたその人物は、なんとちなつだった。真っ白なライトに照らされたった一人冒頭から独白を連ねるその姿は、どう見ても主役のそれだ。

「君が誘ってくれたから、僕はこうしてダンスを始めたというのに。その君が今になって僕を突き放す。一人で踊れという。マリア、君はちっとも解っていない。僕がどんなに苦しんでいるか。君と踊るためだけに、僕がどれほど多くのステップを踏み続けて来たことか」

 天に向かってその手を伸ばし、感情豊かに滔々と、ちなつは観客へ向かって語りかける。抑揚の効いた台詞読みや手足のきびきびした動きなどはまさしく、ちなつの吹くユーフォの音色そっくりだ。音楽を通じて磨かれた表現への姿勢。それをちなつは今、演劇という方向性へ遺憾なく発揮していた。

「……かくして、ロブは恋するマリアのため、ダンスコンテストでの優勝を誓うのでした」

 ナレーションを挟み、大道具の入れ替えを行うため舞台は一時暗転する。どうやら脚本も生徒オリジナルのものらしいが、それにしてはなかなか良く出来ている、と真由は思った。おおよその筋としてはこのようなものだ。

 時は二十世紀半ばのアメリカ。主人公のロブは幼なじみであるマリアに誘われダンスを始めた。うらぶれた街の片隅に二人で刻むステップ。慎ましくも幸せに満ちた日々。けれどある日突然、マリアはロブと踊ることを辞めてしまう。

「あなたとはもう一緒に踊れない。これからはあなた一人で踊って」

 ロブは彼女と踊れなくなったことを嘆き悲しみ、いっときはダンスを辞めようかとまで思い悩んでしまう。しかし仲間たちの支えもあって再び立ち上がったロブは、迷いを振り払うようにダンスの道を邁進する。努力の甲斐あってついに全米ダンスコンテストで優勝し、ロブはプロダンサーという名の未来を掴み取った。これで暮らしは今までよりも遥かに豊かなものとなる。これを機に、秘めたる想いを彼女へ告げよう。そのように期する彼を待っていたのはしかし、マリア本人から突きつけられた別離の宣告だった。

「私のダンスじゃ、プロになったあなたとは釣り合わない。あなたはずっと遠い所へ行ってしまったの。あなたはもう私と踊るべきじゃない」

「どうしてそんなことを言うんだい、マリア。僕はずっと君のためにダンスを続けて来たというのに」

 ロブは悲痛な表情を浮かべ、対峙したマリアへ思いの丈を告げる。

「君の気持ちはナンシーやユンからも聞いた。僕のことを考えて、マリアはそうしてくれたんだろ? でも僕はそうじゃない。僕はマリア、君と二人でいつまでも、ただずっと一緒に踊っていたかっただけなんだ!」

 しかしマリアはただ悲しげに首を振る。

「ロブ、あなたのダンスはもうあなただけのものでは無いの。もちろん私のものでも無い。あなたのダンスは多くの人に勇気と喜びを与える。あなたはもっと凄いところへ行って、そしてもっと多くの人を救うために踊らなくてはいけないの」

「そんなのはごめんだ。僕が誰のために踊るか、それは僕の決めることだ。君にダンスを教えてもらったあの日からずっと、僕はそうして来た。それなのにどうして」

「お願い。分かって、ロブ」

 辛さを堪えるマリアが顔を背ける。彼女の肩を掴もうとしたロブは寸前で、その手を止めてしまう。

「私もあなたのダンスが好き。だからあなたのことはこれからも、ずっと見ている。例えどんなに遠く離れても、私がしわくちゃのお婆さんになっても。もしもあなたが私のために踊るというのなら、私となんかじゃなく、どうかあなたの踊るべき場所で踊って」

「どうしてなんだマリア。今さら一人で踊れ、なんて言われたって出来っこない。僕は君がいたからダンスを続けて来たのに。いつかまた君といっしょに踊るため、ただそれだけのために」

 悲嘆に暮れるロブにマリアは一度振り返り、そして彼女なりの想いをそっと述べる。

「――ロブ、こんな私を愛してくれて、ありがとう」

 マリアがロブに歩み寄り、ロブがマリアを引き寄せ、二人は抱き締め合う。バックに流れるは二人の思い出の曲、『ムーン・リバー』。ロブとマリアは手を取り合い、ただ静かにゆったりと舞う。このひと時だけでも、想いを重ねるかのように。

「さよなら、ロブ」

 曲が途切れる寸前、ロブの元を離れたマリアが駆け出し舞台の上手へと去りゆく。「マリア!」というロブの悲痛な叫びと消音、そして暗転。次に場面が入れ替わった時、そこにはスポットライトを浴びて汗だくになりながらも踊るロブ、いや、ちなつの姿があった。

「マリア。僕はこれからも踊り続けるよ。そうすることが君の望みなら、それは僕の望みでもあるのだから。僕の踊りを待ってくれている人のために。そして君のために。いつまでも、いつまでも、ずっと」

 最後のポーズを鮮やかに決め、弾けるような笑顔を見せたちなつ。それをラストシーンにして幕は下ろされた。カーテンコールで再び登場した役者たちへ真由も春輝も、そして他の観客たちも、万感を込めた拍手を注ぐ。

「ご観覧ありがとうございました。よろしければ出口に置いてありますアンケート用紙に、観劇のご感想を……」

 教室内が明るくなり、来場客の波がぞろぞろと出口の方へ向かっていく。その場に残る熱気にすっかり汗ばんだ額を押さえ、真由はふうと一息をついた。青春の煌めき。そのラストは悲恋と呼ぶべきか、はたまた未来へ希望を灯すものだったのか。うっすらと尾を引くほろ苦い余韻を噛み締めつつ、真由は隣の春輝に声を掛ける。

「すごかったね、お姉ちゃん」

「うん」

 姉の大活躍を見届けた春輝もまた、抑え切れぬ興奮に表情をきらきらさせていた。真由たち以外の客が一通り掃けたところで、お待たせー、と衣装姿のままのちなつが舞台袖から出てくる。

「お疲れ様です。ちなつ先輩が主役だなんて思ってませんでした。前もって言っておいてくれてたら私も他のみんなも、ちゃんと時間取って観に来たのに」

「やめてよ。それが恥ずかしかったから、あえて吹部のみんなさは秘密にしてらったの」

 さっきまでの踊りと羞恥とで顔を真っ赤っかにしたちなつが、ひらひらと片手を振る。

「私も当初は主役なんてやるつもり無がったんだけど、クラスの皆に無理やり押し付けられちゃってさ。吹部でソロやってるぐれえだし舞台度胸あんでしょ、っていう謎理論で」

「でも本当に良い演技だったと思います、お世辞とかじゃなくて。春輝くんもずっと夢中で観てましたよ」

「ナツ姉ちゃん、超かっこよかった」

「あぁもう、真由にもハルにもこんな恥ずかしいトコ見られて。今すぐ消えてしまいてえ」

 ぶしゅう、と頭から湯気を立たせるちなつの姿は、普段めったに覗かせない可愛らしささえ感じさせるものがあった。真由はくすくすと笑いながら、恨めしそうな赤面を弟に向けるちなつと、そんな姉のことを誇らしげに見つめる春輝とを交互に眺めていた。

 

 

 それからほどなくして、三年二組に春輝のお迎えがやって来た。娘と同年代の真由にでさえも「うちの春輝がご迷惑をお掛けして」と平謝りするぐらい人当たりの良さそうなこの男性こそが、話に聞いたちなつの父親。見た目からして永田と同じくらいの歳であるにも関わらず、彼の頭髪に混じる白い線の数は永田のそれよりもずっと多かった。

「へばな、ハル。ちゃんと父ちゃんの言うこと聞いて、大人しく見て回るんだよ」

「だいじょうぶ。姉ちゃんは心配しすぎ」

「オメエな。既にここまでの時点でナンボ多くの人さ迷惑掛けたと思ってんの」

 憚らぬちなつの指摘を上目遣いで受け止めた春輝がおもむろにこちらを向き、何かを言いたそうにもぞもぞと口を動かす。

「……あの、まゆおねえさん」

「どうしたの春輝くん?」

「ナツ姉ちゃんのとこまで連れてきてくれてありがとう。それと、ごめんなさい」

 ぺこりと頭を下げた春輝に真由は目を瞠った。迷惑だなんてこれっぽっちも思っていなかったのだが、その愛くるしい謝罪を前にしてはいよいよもって文句の一つも出ようはずがない。どういたしまして、と笑顔で受け止め、真由は春輝のふわふわな頭を今一度撫でてあげた。

「ちゃんと最後まで静かに劇観てて偉かったよ、春輝くん。この後も吹部の本番でお姉ちゃん大活躍するから、お父さんと一緒に絶対見に来てね」

「うん。見にいく」

 ぷくぷくしたほっぺを微かにたわませ、春輝はほんのちょっとだけ嬉しそうな表情を形作った。勘弁してよ真由ぅ、と肩を落とすちなつの憂いぶりとは正に好対照、といったところだ。

「それじゃ父ちゃん、せっかくの休みなのに悪いけど、ハルのことよろしく」

「時間になったら体育館さ行くがらな。ナツ、黒江さん、本番の演奏頑張ってけれな」

「はい」

「へば行こうか、ハル」

 別れの会釈をするちなつの父親に一礼し、それから真由は「ばいばい、」と春輝に手を振る。ばいばい、と返してくれたあどけない春輝と、穏やかさの中にも哀愁を漂わせる父。二人が手を繋いで去っていくその後ろ姿が、今も目に焼き付いて離れない。

 ちなつの父は想像以上に穏やかな人だった。妻を喪った後、彼は苦労に苦労を重ねながらも男手一つでちなつ達を育てて来たのだろう。そんな日々に積まれた重さが顔に刻まれた数多の皺に滲んでいるみたいで、そのことを思うだけでも真由は言葉に表しがたい感傷を抱かずにはおれなかった。

「ホントごめんな真由。後で春輝にゃキッツく言っとくから」

「いえ、私も春輝くんと一緒に過ごせて、なんだか弟が出来たみたいで楽しかったです。それに、先輩のお父さんにもお会い出来ましたし」

「ああ、うん」

 そこでちなつは一瞬、何かをためらう時のように唇をきゅっと結ぶ。

「真由さは前にも話したっけ、うちの父ちゃんのこと」

「はい。先輩と春輝くんのために、たくさん頑張ってらっしゃるんですよね」

「会ってみて分かったと思うけど、ああいう人だがらさ。仕事から帰って来るといっつもクタクタんなってて。それでも私らのためだがら、って頑張りに頑張り抜いて。そのおかげで今の私があるんだ、って思ったらさ、どうにかして早く楽させてやりてえんだよ」

 ちなつのその言葉を、今の真由は堪えがたいほどの実感と共に受け止めている。それはちなつの家族に会い、彼らの実像をこの目で見てしまったから。そしてその実感は、いつかちなつに言おうと思っていたものを喉の奥へと引きずり込んでしまう。

「あ、ごめん。真由もクラスの当番抜け出して来てたんだよな。ここであんま引き留めてっと不味いね」

「いえ、そんなこと」

「とにかくホント助かったよ。へば、また部室で」

 手を振りながらちなつは背を向け、その場を去ろうとした。

「あの、先輩」

 それでも、どうしても。堪え切れず真由は口を開く。ん? と振り返るちなつに、真由は湧き上がる想いを浴びせた。

「前に私、お母さんに言われたことがあったんです。親としては子供のことを出来るだけ応援してあげたいって思うものだ、って」

 あの日の母の姿。そしてちなつの父の後ろ姿。その二つが不思議と重なって見える。親は誰もが同じ、というわけではないことぐらい分かっている。けれど縁もゆかりも無いはずの二人はほとんど同じことを言っていた。ならばその想いも、子へ注ぐ親としての感情も、きっと。

「その、先輩のお家の事情とかも聞いたので、うまく言えないんですけど。でも実際に会ってみて私、思ったんです。きっと先輩のお父さんもおんなじように思ってるって。先輩が本当にやりたいって思ってることならきっと、その夢が叶うまでお父さんは応援して下さるんじゃないかって」

「真由、」

「だから先輩が本当に後悔しなければ、どんな道を選んでもいいじゃないかって思いまして。や、単に私の感想っていうか、根拠があって言ってるわけじゃないんですけど。ですからつまり、えっと、」

 喋れば喋るほど思考が拡散してしまい、真由は言葉に詰まってしまう。黙するちなつは真顔のままでじっとこちらを見つめていた。鋭い彼女の視線が、だんだん痛くなってきた。

「私、これからもずっと、先輩にユーフォ吹いていて欲しいです。――ご清聴ありがとうございました!」

 最後はほとんど言い捨てるようにして。頭を下げるや否や、真由は脱兎のごとく教室を飛び出す。人いきれの中を小走りに駆け抜けながら、真由はさっきの行動を頭の中で省みていた。

 あんなの、どこからどう見たって自分らしくない。どうしてあんなことを言ってしまったのだろう。いや、言わずにはおれなかったのだ。ちなつのことを、家族のことをより知ればこそ。ちなつにも彼女の家族にも、後悔して欲しくない。苦渋の選択をさせたくない。その想いだけは決して嘘偽りのない真由自身の本心だ。

 ちなつが気を悪くしていなければ良いのだが。そういう懸念がまるきり無かった、と言えば嘘になる。けれど後悔はこれっぽっちもしていなかった。肩で息をつきながら疾走を続ける間、吐息を弾ませる真由の胸には言い知れようのない清々しさが去来していたのだった。

 

 



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〈幕間3〉荒川ちなつと彼女の家族

 そこら中に溢れ返るセミの鳴き声と、白檀の香り。

 ちなつはそれが嫌いだった。

 

 正しく言えば、どちらかだけなら、それほど気になるわけでもない。ただその二つが揃ったとき、ちなつはいつも堪えがたいほどの哀しみを胸に抱いてしまう。そんな哀しさなんてこれっぽっちも知らなかったあの頃の、楽しい思い出に埋め尽くされた日々。あの温かさが自分を包んでくれることは、もう永遠に無い。そう思うだに、胸の内の哀しみはますます膨れ上がっていくばかりで。

「ナツ、準備できたか?」

 玄関の方から父の声がする。着替えを済ませて部屋を出たちなつは、廊下を歩きながら父に返事をした。

「だいたいは。ハルはどこ?」

「先に車さ行ってら。今日が楽しみで待ち切れねがったらしくて」

「しょうがねえな。アイツにとっちゃ、年一回の外食デーみてえなもんだからなあ」

 こちらの感傷などどこ吹く風。そんな弟の現金ぶりにちなつはすっかり呆れ返ってしまう。けれどそれも無理のないことだ。弟の春輝は当時、まだ三歳の誕生日を迎える前だった。その頃の記憶など、今の彼にはほとんど残っていないのだろう。もし仮にあったとて、その比重は自分のそれよりも遥かにちっぽけなものでしか無いはずだ。

「あと他に忘れもん無いよな。持ってくもんは車さ積んだし」

「ライターとかは?」

「ちょっと待てよ。……ああ、テーブルさ置いたまんまでらった。セーフセーフ」

「あっぶな。私が声かけねがったら、また忘れるとこだったじゃん」

「ホントな、いや助かったで」

 煙草を吸わぬ父にはライターを持つ習慣が無い。いつだったかの折にはそのせいで、現地に着いてからわざわざ最寄りのコンビニまで引き返す羽目になってしまった。それは別に、父に煙草を吸って欲しいという意味ではないのだけれど。

「私も支度できたし、へば行こうか」

 先に玄関を出た父に続き、戸締まりをしたちなつもまた車へと向かう。小さい頃からこうして見てきた父の背中。それは年を追うごとに、少しずつ小さくなっているみたいだった。

 

 

 

 毎年のお盆、荒川一家は父の運転する車で外出をする。とは言ってもそれは行楽などではなく、とある場所に家族三人で赴く為だ。

「今日、いいお天気でよかったね」

「良過ぎるけどな。さっきから汗かきまくって、私もうTシャツべっとべとだし」

「ナツ姉ちゃん、今日なに食べる?」

「すぐ食いもんの話か。まあ、私はハルの食べたいものでいいかな。ハルの気分は?」

「ぼくハンバーグ」

「へば今回はファミレスで決定か」

 運転する父の隣がいい、と言っていつも助手席を陣取る春輝に、ちなつは斜め後ろの席からそう受け答えをする。父の車は中古で買ってもう何年にもなるオンボロの軽だ。エアコンの調子が悪いのか、吹き出し口から送られてくる風はうるさいばかりでちっとも涼しくならない。少しだけ窓を開けたちなつはそこから流れ込む外気に顔を晒しながら、うだるほど暑い車内での時間をどうにかやり過ごそうと努める。

「お、河川敷の準備も着々と進んでらな」

 川に掛かった大きな橋を渡る最中、父がその光景をチラリと横目に見る。まもなく開かれる『大曲の花火』。その会場となる雄物川河川敷の周辺では桟敷席やら転落防止のフェンスやら、といった各種の設営が盛んに進められている真っ最中だった。いつもながらに思うのだが、毎年たった一日のためにこれだけ大掛かりなものを拵えては解体する、その繰り返しが少しもったいないような気もしてしまう。これに関して何か妙案はないものか。そう思索するちなつに、ねえねえ、と前席の春輝が声を掛けてきた。

「ナツ姉ちゃん、今年もお友だちといっしょに花火観に行くの?」

「そのつもり。今年はたまたま会場に近いところさ引っ越してきた子が居てな、そこの家にお世話んなろうって計画してるトコ」

「へえ」

「ハルがもうちょっと大きくなったら姉ちゃんと一緒に観に行こうな、花火」

「うん。たのしみ」

 助手席の窓から会場を見下ろす春輝の、その目がきらきら輝いている、という雰囲気をちなつは感じ取る。幼い春輝をあれだけ混み合う花火会場へ連れて行くのは少々どころでなく危ない。そういう判断から父とちなつは、春輝が小学五年生になるまで会場に行くのは禁止、と本人に申し付けてあった。幸いにして家からでも花火を観ることは出来るので、彼もこれまでのところ不平を口にしたりはしていない。だがそれもあと数年で解禁だ。そうしたら春輝を会場まで連れていって、あのとびっきりの空気をたっぷり楽しませてあげよう。そんな思いを、ちなつは心に秘めていた。

「そろそろ着くど」

 エンジンを吹かし、小さな車体がスロープをするする登っていく。その向こう側に目的地は見えて来た。市営霊園。そう書かれた入り口の碑文を見る度、いつも胸がずきりと痛む。駐車場に車を停めた父がトランクから花と供え物を取り出し、ちなつはそれ以外の荷物が入ったビニル袋を手にした。車を降りた三人が目指す場所は、この坂道を登った先にある。

「ナツ姉ちゃん見て。でんせつの剣」

 先を行く二人の後を、春輝はそこらへんで拾った木の枝をぶんぶん振りながらついてくる。

「こらこら。そんな長えモン、人さ向けて振り回したら危ないでしょ」

「こんだけまっすぐなやつ、なかなか無い。おみやげに持って帰る」

「ダーメ。帰る時にはちゃんと元の場所さ返しなさい」

「ちぇー」

 唇を尖らせる春輝の姿に、しかし彼もずいぶん大きくなったものだ、とちなつは妙な感心を得てしまう。初めてここに来た時の春輝はまだ足取りもおぼつかず、道のりの途中でくたびれぐずついてしまっていた。忙しかったあの時の父には頼ることも出来ず、やむなく自分が春輝をおんぶしてこの長い坂道を下ったのも、今となっては良い思い出だ。

「暑っつ」

 額からだらだら垂れる汗を拭いながら、三人は黙々と坂の先を目指して歩く。ぎんぎんと鳴き続けるセミたちの大合唱。次第に強まってくる白檀の香り。ああ、今年もここへ来てしまった。来たくないわけではないけれど、ここへ来るといつもあの日の出来事を昨日のことのように思い出してしまう。それがちなつには、辛かった。

 坂を登ったその先はちょうど山の中腹を切り開いたように、鬱蒼と繁る樹木に覆われた敷地が広がっている。時期が時期だけに、立ち並ぶ墓石の間には他の家族連れの姿もたくさんあった。ふわりと漂う煙の帯。白檀の香気、その源泉。それは方々で焚きしめられる線香から上がったものだ。神妙な気配を帯びる領域の只中を三人は黙して進み、そして目的の場所まで迷うことなく辿り着く。

「今年も来たぞ、母さん」

 黒く小さな御影石に父がそう声を掛ける。荒川家之墓。そう刻まれた石の下には、母が眠っている。ちょうどお盆の中日に当たる六年前の今日、母は病室で静かに息を引き取った。その臨終を、まだ幼かったちなつと春輝は傍で見守っていた。きっと物心もつかぬ春輝には何が何だか解らなかったことだろう。けれど九歳だった自分はあの日起こったこと全て、細大漏らさずしっかりと憶えている。デジタルの録画みたいに一つも色褪せることなく、今もあの時のままで。

「さ、準備しようか」

 発破を掛けるようにそう言って、父は持って来た荷物を然るべき場所へ配置していく。ちなつは少し離れたところにある水道へ桶に水を汲みに行き、その間に春輝は線香の束をロウソクにかざして火を点ける。お墓周りの清掃を済ませた後は墓石に水を掛け、その手前にある小さな香炉の上へ花やお供え物をからりと並べる。ドーナツ。パイナップル。おだんご。それらはいずれも母の大好物だった。

「よし。じゃあナツ、ハル、母さんさあいさつするべ」

「うん」

 三人は立ち並び、墓前に両手を合わせる。どうか天国から私たちのこと見守っていて下さい。母ちゃんの分まで私、父ちゃんとハルのためにがんばります。そんな祈りを、そこへ込めて。

 

 

 

 

 大病に冒されていることを母が医師から告げられたのは、ちなつが八歳になった年の冬のこと。その晩、両親が難しい顔で何か話し込んでいるのを、ちなつは襖の陰からそっと覗き見ていた。

「母ちゃん、病気なんかに負けないからね。ナツとハルのためにも」

 そんな風に笑顔を覗かせた母は、けれど日を追うごとにだんだんと体調を崩していった。初めは週一回だった通院が三日置き、二日置きと狭まっていき、やがては入院へと切り替わった。ちなつは、怖かった。母がいなくなるのが。それを誰かに言ってしまえばそれは本当のことになりそうで、それがなおさら怖かった。だから誰にも言わなかった。母が病気であることを。学校の先生にもクラスの友達にも、そして一番の親友であった、日向にでさえも。

「なあなあ()()()、明日の放課後うちさ来ねえ? 『みん森』のグッズ集め手伝ってよお」

「ごめん。明日はちょっと、おうちの用事あって」

「用事ってなにさー。最近そういうの多くね? 付き合い悪りいど」

「ホントごめん。約束破ったら、父ちゃんにおこられちゃうから」

 そんな言い訳でずっと日向を騙していることに、ちなつはひどい罪悪感を覚えていた。けれど、どうしようもなかった。素直に『母のお見舞いに行くから』と言えば、それは母の病気を喋ったことになってしまう。うっかり喋って、もしホントになっちゃったら。ホントに母ちゃんがいなくなってしまったら。そういう恐怖がちなつの口を固く縛った。代わりに舌の上から滑り出たたくさんの嘘は、きっといつか日向に知られてしまう。大好きな親友に、嘘つきの自分はきっと軽蔑される。そう覚悟もしていた。

「……ナツ。あのな、母さんな」

 深刻な顔をした父のそんな言葉からも、終始ちなつは逃げ回った。聞いてしまえば全てが確定すると思った。だから聞かないようにした。そんなことない。病気なんかに負けないって、母ちゃんは約束してくれた。だからきっと元気になって帰って来る。またあの笑顔で、温かさで、私とハルを包んでくれる。そう信じながらも健気にお見舞いを続け、その度にちなつは、日毎に衰弱してゆく母の酷な現状を直視させられた。

「ナツ、こっちおいで」

 それは例年よりも梅雨明けが遅れ、ようやくセミの鳴き始めた頃。病床の母に抱き寄せられ、長い時間を掛けて、ちなつと春輝は優しく頭を撫でてもらった。その温かさとやせ細った手の切ない感触を、ちなつは今でも確かに覚えている。

「ごめんな、ナツ。母ちゃん、もっといっぱいナツと一緒にいたかった。もっとナツが大きくなるとこ、いっぱいいっぱい見てあげたかった」

 そんな風に謝る母に、ちなつはただ首を振った。だいじょうぶ。母ちゃんはきっと治る。わたし、信じてる。そういう思いを込めたちなつの否定を受け取って、母は静かに泣いていた。

 それから三日としないうちに病院から連絡が来て、父と春輝と急ぎ駆け付けた病室の片隅で、母は少しずつ呼吸を弱めていった。

「駄目だ、まだ駄目だ()(あき)! こんな(ちゃ)っけえ童達(わらへだ)置いて、アンタどこさ行くつもりなの!」

 怒鳴りつけるようですらあった祖父母の悲痛な声は、けれどあの時の母にはもう殆ど届いていなかったことだろう。母ちゃん、母ちゃん、と縋るちなつと春輝に母はうっすらと目を開け、そして何かを語りかけるように僅かに口を動かした。

「母ちゃん!」

 それが母の最期だった。いつもは大きくてあったかいのに、母の元でただ咽び泣く父の背中は小さく丸まって、ひどく震えていた。しめやかにお葬式が営まれ、棺ごと焼かれ小さな壺に入れられて。そうしてやっと、母は家へ帰って来た。仏壇も無かったため座卓で簡単な祭壇を拵え、お墓が建つまでの暫くはきれいな飾り箱に包まれたままで、母はちなつたちと一緒に居てくれた。あのぬくもりはもう、そこに無かったけれど。

「チイコ? チイコいるんだべ! 開けて! 私だよ、ヒナだよ!」

 どんどん、と戸を叩きながら表で日向がわめいている。あれから一週間近く、夏休みが明けてからもちなつは学校を休んでいた。

 母がいなくなってしまった。それは同時に、これまで積み重ねて来た嘘の全てが何の甲斐もなく、がらりと音を立てて崩れてしまったことを意味する。いま日向に会ったって私、どんな顔したらいいの。そう思いながら祭壇の前に座り、ちなつは母の写真が収められた額縁をぼうっと眺めた。不思議なことにあれから何日経っても、どこかで母が生きている、そんな気がしてならなかった。

「いいから開けて! チイコ、何で応えてけねえの!」

 ちなつは腹を括った。これはきっと、嘘をついた罰なんだ。神さまが自分に天罰を与えたのだ。ウソはいけないことだから、だから自分の思いは届かなかったし、日向を怒らせてしまった。せめてごめんって言わなくちゃ。のろりと立ち上がり、薄暗い室内をさまよってようやく玄関へと至る。その間もドアを叩く音はひっきりなしだった。

「チイコ!」

 鍵をかちりと捻ったその途端、ものすごい勢いで戸が開け放たれた。そこに立っていた日向の形相は想像以上に険しくて、ああやっぱり怒ってる、とちなつは歯を食いしばった。

「ごめん、ヒナ。私、その、ずっとウソついてて」

「そんなんどうでもいいよ!」

 絶叫と共にほとんど突進するように、日向がちなつに向かって飛び込んで来た。彼女の体重を受け止めきれずに仰け反ったちなつは、その場にべたんと尻もちをついてしまう。

「私こそごめん。チイコの母ちゃんがそんなことになってたなんて、知らねくて」

「そんなことない。悪いのはウソついてた私だから」

「ウソつかれたなんて私、ちっとも思ってねえ」

 ふるふると首を振り、そして日向がこちらを見据える。その瞳は涙でずぶ濡れになっていた。

「チイコ、気付いてあげれねくてごめん。付き合い悪いなんて言っちゃってごめん。私ただ、」

 それを見た自分の目からも、ぶわりと熱いものが溢れ出た。ああ、日向は、ウソをつかれたことに怒ってここへ来たんじゃない。私のことを心配して、私なんかのことで気に病んで、それでこうして来てくれたのだ。それが解った瞬間、ちなつは急に、それまで抑圧していたものが全てほどけてしまったような気がした。

「ヒナ、ごめん。あの、あのね、」

「うん」

「私の母ちゃんね、母ちゃん、……母ちゃん、」

 そこからはもう、言葉にならなかった。ちなつが大声を上げて泣きじゃくっている間、日向もまた大泣きしながらずっとちなつを抱き留めていてくれた。あの時日向が傍に居てくれて、どれだけ救われたか分からない。二人分の泣き声はその後もずっと、夏空が夕闇に染まるまで途絶えることは無かった。

 母が死んだ。その現実をあの時ようやっと、ちなつは受け入れることが出来たのだった。

 

 

 

 

「――へば、そろそろ行くか」

 祈りを終えた父に首肯を返し、ちなつは春輝の手を取って三人で坂を下りていく。今の家族を、自分たちを、母はどんなふうに見てくれているのだろう。それを本人に問うことはかなわず、従ってちなつはただ想像するより他に無い。けれど、優しくて温かかった母のことだ。きっと元気でいて欲しいと願っているに違いない。だから自分の、今ここに生きる自分のすべきこと、それは。

「どうしたの、ナツ姉ちゃん」

「ん。何でもねえ」

 荷物を積み終え車に乗り込み、そして窓からそっとお墓の方角を見やる。こっちは大丈夫だよ母ちゃん。父ちゃんのこともハルのことも、私がきっと何とかするから。それは日向と二人でさんざん泣き合ったあの日、密かに立てた一つの誓い。もういなくなってしまった母の分まで家族のために生きる。ちなつはそう決めていた。その一方では胸の奥底でのたうち回る己の願望と、必死にせめぎ合いを続けながら。

「ねえハル。ハルには今何か、やりたいことってある?」

 おもむろに春輝へ問うてみる。前席の弟は振り向きもせず、そのままの姿勢で答えてくれた。

「ゲーム。同じクラスのみっちゃんがね、『みん森』の新しいやつ買ったんだって」

「そういうんじゃねくて、こう、何て言うかな。それがやりたくてやりたくてしょうがねえ、っていうやつ」

「しょうがないやつ、」

 問いを復唱した春輝が、うーん、と首を傾げて考える。

「思いつかない」

「そっか。んだよね」

 まだ小学三年生の春輝にそんなものを求めるのは、いささか性急に過ぎたかも知れない。けれどちなつは、いつか彼にも見つけて欲しいと思った。その時には必ず自分が父と春輝を支えてみせる。春輝がやりたい限りを思いっ切りやれるように。そしてそのさまを見た天国の母が、安心して眠っていられるように。

「もし見つかったら、そん時は姉ちゃんさ教えてな。約束だよハル」

「うん。やくそく」

 助手席から伸ばされた短い小指に自分のそれを絡め、ちなつは春輝と誓いを結ぶ。そのとき傍らで運転中だった父の目に、姉弟の姿はどんなふうに映っただろう。春輝の手から微かに漂う白檀の香りが鼻腔に沁みて、ちなつの視界はゆらりと滲んだ。それと同じように今、ちなつの心も揺れている。自分の選ぶ道はほんとうにこれで良いのか。いや、良いんだ。いつか春輝がやりたいことを見つけたとき、一切の憂慮無くその道を選べるように。私の人生はそのために。そう自分に言い聞かせることが、このごろ少し増えている。

「……ナツ」

「ん、なに? 父ちゃん」

「あー、そのな。今日は食べてえもんあったらナツも遠慮さねえで言えよ。ファミレスでねくたって、二人の食べてえもん食べれるトコはある筈だし」

 それは多分、不器用な父なりの気遣いだったのだろう。その気持ちをありがたく受け止めつつ、けれどちなつは目頭を拭い、努めて元気に振る舞った。

「大丈夫。だって私、ハルの姉ちゃんだもん」

 

 

 



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〈18〉大いなる秋田、小さな先輩

「お待たせしました。これより曲北文化祭伝統のフィナーレ、『大いなる秋田』の大合唱と演奏を行います」

 ぺらりと一枚、ステージ横の生徒会役員が演目をしたためた()()()を繰る。様々な催しものが行われた文化祭もいよいよクライマックス。体育館のステージ前にしつらえられたひな壇には、三年生たちと合唱部の部員が各声部ごとに分かれて整然と立ち並んでいる。その前方には真由たち吹部が陣を構え、指揮の壇上には指揮者である永田が大会本番同様のスーツ姿で立っていた。

「えー、皆さまのお陰で今年も無事、こうして『大いなる秋田』をお届け出来ることとなりました。毎年恒例となっております、大人数での演奏と合唱。全員が一丸となって今日まで一生懸命練習してきました。本日はその成果を存分に発揮したいと思っております」

 軽妙な永田の演説にワア、と沸き立つ聴衆。その中にはきっと春輝と彼の父もいるはずだ。親子揃ってこちらに注目しているであろう二人の姿を想像しつつ、真由は隣に座るちなつに視線を送る。さっき部室で会って以降、ちなつは特段の反応を見せることもなく、それには真由も少しばかりではない気まずさを抱えてしまっていた。

『私、これからもずっと、先輩にユーフォ吹いていて欲しいです』

 やっぱりあれは出過ぎた発言だったかも知れない。次第に強まる後悔の念を胸の内で必死に抑え込みつつ、真由はただひたすらに願う。どうかさっきのことがちなつの演奏に影響しませんように、と。

「これだけ大勢で一つの音楽をするっていう機会は、長い人生の中でもそう多くはありません。なので三年生の諸君には、本日の演奏を一生の思い出としてもらいたいと思います。またご父兄の皆様もどうか、お子さんの頑張る姿を温かい目で見守ってあげて下さい。それでは三年生全員と合唱部の歌、吹奏楽部の演奏にてお送りします『大いなる秋田』、どうぞご静聴を」

 あいさつを終えてこちらへ振り返った永田が全員に目で合図を送り、すうっと指揮棒を掲げる。それに合わせて真由もちなつもユーフォを構えた。トータル四十分にも及ぶ一大組曲。それを吹くことの緊張感に、心臓からどくりと勢い良く血流が噴き上がるのを感じながら。

 ゆっくりと二度振られた指揮棒に合わせ、ふわりと生まれたブラスの音色が雲海のように辺りを包む。第一楽章『黎明』はその名の通り、夜明け前を思わせる静謐な展開から始められた。同じメロディを一度繰り返し、そこから次第に音が重なると共に曲は劇的に変化していく。ティンパニーの打音を踏まえて一段上がる音量。金管が吹き鳴らす重厚なその音色は、今まさに顔を覗かせた陽光の神々しさをそこに顕わした。刹那、トランペットによる小刻みなファンファーレ。そこに一つずつ楽器が加わり最初のピークを迎えたと思いきや、あっという間のディミヌエンドでするりと落ち着きを取り戻す。そこからゆったりと左右に揺れる俗謡的なメロディと共に、合唱パートが最初の出番を迎えた。

「我ーがーふるさとーよー、うーるーわしのくーにー、みーのりー豊かーにー、さーちー満てるくーにー」

 女声部の斉唱に続き、今度は男声部の番だ。何回も重ねられた合同練習中、永田の指導によってしっかり鍛えられた彼らの深みある声が、今日という晴れ舞台の館内を席巻する。

「ひーかーり富むうーみー、みーどーり濃きやーまー、とーわにー変わらーずー、とーわーぁにーさかゆーくー」

 ミュートを付けたトランペットが曲の上面を軽やかに撫でた後、男女双方による斉唱のBパートが始まる。『大いなる秋田』は曲の主題と歌詞、その両方ともが秋田の風土を、郷里の美しさと素晴らしさを誇るものとなっている。歌がある間、伴奏を受け持つ楽器群は少しだけ音を抑え込み、しかし主張するべきところでは練習時の指示通り前面に立って合唱を引っ張る。

「いざやー讃えん、とわのーさかえ」

「いざやー讃えん、とわのーさかえ」

 斉唱にて歌い上げた歌詞を女声部だけがそのまま復唱し、そして曲はそこから更なる盛り上がりを見せる。

「高らーかに歌えよ、いーざー」

 転調する旋律。そこに合唱パートが合わさり、燦然たる音の陽光が館内を埋め尽くす。ピークに向けて加速するテンポ。退くことを知らぬかのように高まり続ける音圧。それらが頂点で弾けた瞬間、曲は一気にマーチの体裁へと形を変えた。ここからはブラスの独擅場だ。ホルンやトロンボーンが意気揚々とメロディを張り皆をぐいぐいと牽引する。トランペットの勇ましさは楽隊を鼓舞し前へ前へと推し進める。高音木管が上辺を飾ったかと思えば今度は重低音金管が下から突き上げる。一切の淀みなき快活さでもって前進し続ける演奏の漲りようは、まさに朝を迎えたときに抱く希望や充足そのものだ。下げに掛かる展開を総員ドラスティックに吹き鳴らし、木管の華々しいトリルを着飾った重奏が最後の一音を吹き切るところまで、第一楽章は疾風のように駆け抜けていった。

 続く第二楽章はおっとりと、どこか物悲しく寂しげにたゆたうダブルリードの調べから始まった。和香のオーボエが奏でる主旋律を支えるようにして、真由は場へ垂らすように重々しくユーフォの音を添えていく。

「ねーんねーこー、こーろぉろぉーこー、やーあー」

 ねんねこ、ころろこ。即ち『ねんねんころり』。女声部が担当するその歌詞は背に負った乳飲み子をあやすようにひたすら優しく、深い慈しみをもって紡がれていく。副題に示された『追憶』とは果たして子のものか、はたまた親のものか。そのとき真由が思い描いていたものは、手を繋いで向こうへと歩いてゆく春輝と父、ついさっき見た二人の後ろ姿だった。

「おぉーれぇーのーめんこぉーなぁあばー、なーしーてー泣ーくーうー、なーしーてー泣ーくー」

 可愛い我が子は何故泣くの。そんな苦悩をきっと、親となった者は一度や二度ならず抱えるものなのだろう。ぐすん、という音が観客席から漏れ聞こえ、真由もまた何かがジンと目頭に突き刺さってしまう。それほどまでに儚く美しい子守り歌。恐らくは自分もそんなふうに、父や母の愛情を一身に受け今日まで育ってきた。感情を揺さぶる緩やかで柔らかな歌声のせいで、その想像は狂おしいまでに掻き立てられてゆく。歌唱に追従する伴奏が第二楽章の主題をそっと歌い終えた時、曲はそれまでとはまた別の顔を見せた。

 唐突に叩きつけられた金管の一撃で、それまでの幻想的な雰囲気は一気に砕かれた。荒々しく放たれる木簡群の連続タンギング。十六分音符で刻まれ続ける音の波、その隙間からはグロッケンとピッコロの鋭利な高音に釣り上げられるようにして、それまでとは別のフレーズが飛び出る。

「あられやコンコンまめコンコン、イワシことれたらカゴもてこい、あられやコンコンまめコンコン、ハタハタとれたらタルもてこい」

 豊漁を告げる早口言葉のような歌声。それらは直後の輪唱によって幾重にも重なり合い、(なだ)の如き怒涛のうねりとなって観客席へと押し寄せる。男声部と同時に重低音がそこへ組すると、勢いはいよいよ止まらない。猛然と襲い来る高潮。豪雨のように辺りを跳ね回る飛沫。スネアドラムのロールを契機に波は一気にせり上がり、次の瞬間、遠く沖の彼方へと去っていった。曲は冒頭へ回帰(ダ・カーポ)し、再び紡がれる子守り歌のメロディが柔らかく場内へと沁み渡っていく。それらの構成はきっと、この地に生まれ育った人々が心に抱く、いわゆる一つの原風景と呼べるものだった。そのまま夢心地に意識を埋めるかのようなフルートとクラリネットの旋律を伴って、第二楽章はふつりと幕を閉じた。

 第三楽章『躍進』。まずはスネアを中心としたパーカッションの協奏が飾り、そこからは少々ひょうきんさを感じさせる律動に乗って行進曲が展開されていく。第一楽章とは異なり、少しだけ急ぎ足で。ひらりひらりと身を翻す木管の音と共に金管が素早く駆けのぼり、そして中盤には暗澹たる空気を帯びて。そんな調子で音高とアーティキュレーションの乱高下を繰り返しながらも、行進のパートはあっという間に終わった。タン、タン、タン、とスネアが三たび合図の音を送る。そこから先は秋田出身の音楽家である(なり)()(ため)(ぞう)が手掛けた『秋田県民歌』、つまりユーフォソロのある箇所だ。

 ちなつが静かに息を吸い、そしてゆったりと主旋律を歌い始める。その横で楽器を伏せた真由はただじっと、彼女の奏でる一音一音に耳を傾けていた。まろやかな中にも一本芯の通った音。天高く開く花火のように華々しくも、魂の奥底を揺さぶる雄々しい音。今日のちなつの独奏は、いつにも増して輝きと深みがすごい。それを真由は文字通り全身で感じ取る。一節を吹き終えたちなつの音を模範とするようにクラリネットら木管楽器がメロディを受け継ぎ、次いで他の金管が加わって情感豊かにサビを鳴り響かせる。ブラスパートのみによる贅沢な序奏は、主部をまるまる一本通すかたちとなった。

「秀麗ー、無ー比なーる、鳥海(ちょうかい)(さん)よー。狂瀾ー、吠ーえ立ーつ、男ー鹿半ー島ぉーよー」

 序奏を終えて一番、男声部の精悍な声が歌詞を詠んでいく。ここは男どもの最大の見せ場だから絶対に手抜きさねえように。しつこいぐらい永田にそう注意されていた彼らは今その注文通り、ここぞとばかりに声を張る。

「巡らーす、山やーま、霊気ーをー込ーめぇてー。斧のー音、響かーぬ、千古ーの美ぃ林ー」

 続く二番では女声部が前面に立つ。透明感に優れたアルトボイスと神秘的な雰囲気を纏う大自然の融和。こうして演奏しながら聴いているだけでも、その歌詞は古めかしくも麗しい。これを書いた人はきっと心の底から郷土秋田の美しさを誇りながら、その目と耳と肌で捉えた有るがままをしたためていったのだろう。何度も転校を繰り返してきた自分にとって、そう思える場所は何処なのか。いつか見出せることを信じながら、今だけは彼らと同じこの地に足を着け、真由は演奏に彩りを添えていく。

「見ぃー渡ーすーぅ、広ぉー野-はぁー、渺茫(びょうぼう)ー霞みー、」

 二番もサビに差し掛かり、秋田県民歌の残りはあと僅か。ひと吹きに力を込めるブラスの音が結末に向けぐんぐんと圧を強めていく。

黄金(こがね)ーとー実ぉーりーてー、豊けーきー、あー、きー、たー」

 リタルダンドと共に高らかに郷土を讃え、歌唱パートが第三楽章の出番を終える。そこから打ち鳴らされるドラムロールを経て、曲はまたも楽章冒頭の行進曲まで遡った。ここにおいて繰り返される場面はきっと、つつがなくも忙しない日々の暮らしを表すもの。そんなふうに捉えつつ、真由はさっき吹いた譜面をいま一度同じようになぞっていく。行進曲は立ち止まることなく前へ前へと突き進み、華麗に楽章の終端を迎えた。

 ここまでを吹き終え、真由は痺れ始めた唇をぐりりと噛み込む。あとは第四楽章のみ。頭では解っていても、体はさすがに疲労を隠せない。だがここまで来れた。もうひと踏ん張りだ。楽譜をめくり息を整え、永田の手指が動くのに合わせて真由はユーフォを構え直す。

 第四楽章『大いなる秋田』。主題をそのまま副題として冠されたこの楽章に与えられたテーマは、まさしく本楽曲全編の総括。そして全楽章中この第四楽章こそが最も風変わりかつ変則的な曲でもある。始まりは『黎明』のそれと全く同じでありながら、しかしファンファーレが入るべきところで突如として変容し、異様に速い四分の三拍子に乗ってパーカスが轟雷のような音を打ち鳴らし始める。直後に後方から飛び出したトロンボーンが嵐のような異質さを場に穿ち、それを継承した木管がさらに息の詰まるようなスタッカートを刻み付け、トランペットとドラムとの応酬が全てを吹き荒らす。それまでの明るさや穏やかさとは無縁な狂暴ぶりに誰もが息を呑み、一転スウと冷え込んだ静寂が辺りを支配しきった頃。場面は薄気味悪さすら漂わせる中盤へと移ろってゆく。

 きん、と尖った針の先端を思わせるフルートの超高音。どんよりと翳る灰色の空みたいな木管の重低音。それらはあたかも夜闇に沈んだ雪渓のごとく、決して豊かさばかりではない大自然の脅威にも通ずる底知れぬ昏さと冷厳を諸人にもたらす。その渦中を、細々と揺らめく灯火だけを頼りにして、サックスのおぼつかぬ音色がおずおずと進んでいく。金管もまた地を這うようにして後へと続き、一団は茫洋たる漆黒をしばし彷徨う。出口の見えない闇の向こう、その先に目指すべき地平があるのだと、そう信じて。

 その報せはまず初めにシンバルの衝撃的な炸裂によってもたらされた。続けて息を吹き返すトランペット。産声を上げるコーラス。雲間から差し込む光の梯子のように、それは大地に燦々と注がれ、視界は一気に開けゆく。

 遂にここまで来た。最後の最後で満を持しての登場となった『県民の歌』。第三楽章のそれとはまた異なる趣で郷土を礼賛するこの歌こそが『大いなる秋田』を総括する最終主題だ。さあ行こう。そう告げるかのような永田の笑みに、部員たちも歌唱隊も晴れ晴れとした表情を浮かべながらひと息を吸う。

「あーさ明ーけー雲ーぉのー、いーろー映-えーぇてー、あーぁおーぐー遥ーかなー、やーまーやーまーぁよー」

 それまでの陰鬱さを吹き飛ばす人々の活気。厳寒に冷え込んだ大地を再び熱する春の陽気。そんな空気に満ち満ちたメロディが歌う者奏でる者、そして聴く者全てに生命の躍動を惜しみなく注いでいく。全方位から溢れ出る音の洪水に身を浸しながら紡ぐユーフォの音色。それら全てが真由の全身をびりびりと共振させた。

「あーぁしーあわーせーのー、我ーがーぁ秋ー田ぁー」

 気が付けばもう、二番までもあっという間。それに安堵を覚える自分が、それを惜しむ自分が、ここに併存している。郷土愛。矜持。展望。そのどれとも言えぬ溢れんばかりの感情が渦を巻いて体育館にこだまし、曲はとうとう本当のラストへと至った。

「みーんなーでーみんーなで、進ーもーぉうーよー」

 終わりを告げるトランペットのファンファーレに導かれ、真由は一音ずつに全身全霊を込める。声と楽器、全ての音を渾然一体のものとして華やかに放出される終幕のフェルマータ。永田の指揮某が振りかぶった一打は残響を鮮やかに切り離し、それをもって全編の演奏は締め括られた。

 鳴り止まぬ拍手。奏者たちを褒め称える父兄の喝采。その只中で、真由はただ頭頂を突き抜ける高揚感に吐息を弾ませていた。細かいところを見れば気になる点が幾つもある。完璧な合奏と呼ぶには程遠い。それでも、これほどの規模で一つの音楽を作ることには、言葉では言い尽くせぬほどの何かがある。『大いなる秋田』の演奏を通じて、真由の心と体にはそんな思いがより強く刻まれたのだった。

 

 

 

 

「お疲れさん」

 文化祭の全日程が終了し、長閑な秋の西日もそぞろに傾きかけた頃。部室で後片付けをしていた真由にちなつが声を掛けてきた。お疲れさまです、と応じた真由だがしかし、彼女との間にぎこちなさを覚えずにはおれない。どうにも宙ぶらりんな己の態度を上手いことごまかそうと、真由はセーラー服の襟元あたりに手を這わせる。

「今日はありがとね」

「あ、いえ。春輝くんのことならたまたま偶然が重なったってだけで、そんな大したことでは、」

「ハルのこともそうだけどさ。それだけでねくて、何つうか」

 そこで間を置いたちなつはちょっぴり照れくさそうに、つるりと滑らかな頬を指で引っ掻く。

「あのさ、今日思いっ切り吹いて分かったよ。ああ、私やっぱ音楽が、ユーフォが好きだって。他のどんなことよりもこれが一番だ、って胸張って言えるくらいに」

 それは眩しいくらいにありったけの想いを込めた、ちなつ自身の偽りなき本音だった。え、と息を呑む真由を少し覗き見るようにしつつ、ちなつは言葉を重ねる。

「好きなんだよ私、音楽もユーフォも。どんなに諦めるつもりでいたって、どんなにしょうがねえって思い込もうとしたって、この気持ちにフタすることは出来ねえんだなって痛いほど解った。このまま卒業してそこでユーフォ辞めたら私、きっと一生後悔すると思う」

「それじゃあ、先輩」

 うん、とちなつがはにかむ。窓から注ぐ夕陽を浴びた彼女は今日の演奏がそうであったように、どこまでも煌びやかだった。

「今日家さ帰ったら、改めて父ちゃんと話してみる。もちろん父ちゃんやハルのこと楽させてやりてえ、って気持ちも変わってない。けどそのせいで私が好きなものを我慢したり諦めたりしたら、父ちゃんたちだって喜んじゃくれないよね。多分、母ちゃんも」

 窓の向こうを一度仰ぎ、そこに居るであろう人へ思いを馳せるかのように、ちなつはしばし瞳を閉じた。

「さっき真由に言われて、そう感じた。先のことはどうなるか分かんねえけど、もうちょっとだけ好きなコトするのを許してもらえるなら全力で頑張ってみる。好きなことをこれからも、ずっと続けられるように」

「良いと思います。すごく」

 心からの言葉を、真由はちなつへ捧げる。好きだと思えることをずっと続けていく。例えその夢が叶ったとしても、彼女の前には荊に覆い尽くされた遥か険しい道のりが待ち受けていることだろう。そのことを思えばやはり、彼女は元々考えていた道を歩む方が現実的と言えるのかも知れない。けれど、そんな回答を真に望む者などきっと、彼女の周りには一人とて居やしないのだ。であるならば、ちなつには思ったままの道を進んで欲しい。この選択をして良かったと、ずっと遠い未来の彼女が心から思えるように。

「さて、そろそろ部室閉めっか。明日は久々に練習休みなんだ、真由もゆっくり休んで疲れ取っといてな。週明けからはマーチングの練習も本格化するし、それに独立組との交渉期限も近付いてるから」

「そうですね」

 ちなつの言葉に真由は表情を引き締める。文化祭が終わった、ということは、永田の示した最終判断の日までは残すところ二週間。ここまでの過程を思えば、独立組の全員がこちら側に復帰するのは難しいかも知れない。それでもちなつは、日向たちは、全員揃って大会に出場することを未だ諦めてはいなかった。

「最後にみんなで笑い合えるように、あともうひと踏ん張り、がんばろうな」

 はい、と呼応した真由にちなつはとびきりの笑顔を向ける。あらゆる迷いを振り切った今のちなつは端的に言うなれば、無敵のオーラをその全身に帯びているみたいだった。

 部室の鍵を職員室の永田へ預けた後、正面玄関を出たところで「へば休み明けにな」と別れたちなつの背が遠のいていく。きっとこの後、家に帰ったちなつは父に真なる想いを告げるのだろう。その後ろ姿に心の中でこっそりとエールを送りつつ、ふと真由は思考する。

 音楽が好き。ユーフォが好き。そういう彼女の気持ちには真由も大いに共感できるところがある。けれど少なくとも今の自分には、この道を貫きたい、と強く思い描けるだけの具体的なイメージや熱量は無かった。そんな自分がもしも、今のちなつと同じ立場になったとしたら。現実を見据えるか。それとも理想に邁進するか。そのどちらかを、いつかは自分も選択しなければならない。季節の移ろいと共に刻々とその時が近付きつつあることを、真由はちなつの背中越しに見据え始めていた。

「おっつっかれー、真ー由-ちん♪」

 そうした自分の謹厳なる思惟を容易く切り裂くかのように、『かっとばせー』のメロディに乗せたでたらめな挨拶を伴って、杏がその場に姿を現した。部室の鍵閉めの時には影も形も無く、とっくのとうに下校したと思っていた杏が何故ここに? 軽い困惑を抱きつつも、とりあえず真由は「お疲れさまです」と挨拶する。

「いやあ、良がったよねぇ今日の本番。今まで吹いた三年間で今年の『大いなる秋田』が一番の出来だった、ってアタシ思う」

「それは、何よりですね」

「真由ちんはどうだった?」

「私も楽しかったです。あんなたくさんの人と一緒に歌って吹いて、っていう経験は初めてでしたし」

 んだべー、と相づちを打つ杏のテンションは不自然なほどに高かった。何となく気味の悪さを覚えつつ、しかしあからさまに警戒してみせるのもいかがなものかと判断した真由は、ひとまず杏に歩調を合わせる。

「それにしてもさ、真由ちんとこうやって話すの、何かずいぶん久しぶりだよね」

「ですね。先輩は先輩でトランペットパートの指導があって、私は私で練習の合間を見ながらちなつ先輩たちと一緒に独立組の子と面談してっていう感じで、お互い夏以降は忙しかったですし」

「そうそう! それそれ」

 両手の人差し指をこちらに向けた杏が、にまあ、と昼寝中の猫みたいな表情を形作る。

「部の状況がそうだから仕方ねえんだけどさ、ちょっとバタバタし過ぎてたトコあるじゃん? で、せっかく文化祭も終わったことだし、ここらでパーっと打ち上げしようかと思って。アタシん家で」

「打ち上げですか? これから?」

「うん。まあ思いついたの今なんだけど」

 真由は内心動揺する。それは自分自身が本番の直後でクタクタだからというのもあるが、それ以上にちなつのことを考えたからだった。せっかくちなつが決心したばかりなのに、その決心を進むべき道へと変える絶好の機会を奪うようなことになるのは、あまり得策とは言えない。出来ることなら今夜ひと晩、彼女とその父にはじっくりと話し合いの席に着いていて欲しいところだ。

「あーでも、今からだと皆もそれぞれ都合があったりで、あんまり集まらないんじゃないですかね。今回はいったん見送りにして、次の大会の後とかにまとめてやっちゃうのはどうでしょう」

「集まる? 何言ってんの真由ちん」

 かこん、と首を傾けた杏がその黒い両眼で、真由の瞳の奥底を覗き込んでくる。それはあたかも深淵のように。

「アタシが誘ってんの、真由ちんだけだよ」

「え?」

「だからぁ。文化祭の打ち上げってことで、二人っきりで話そうよ。女同士のタイマントーク」

 くるりと身を翻すその動きに合わせて、杏のスカートが花弁のように広がる。

「あとで家まで迎えに行くから、一回帰って泊まりの用意しといてね。ひと晩かけてじっくり話そ」

「で、でも、どうして私なんですか。それも先輩のお家で二人きり、って」

 すっかり混乱してしまった真由に杏はいたずらっぽく喉を鳴らし、そしてこう告げた。

「聞きたいでしょ? 水月のこと」

 その瞬間、真由の全身が粟立つ。思えばそうだ。忙しさにかまけて、真由はそのことをすっかり忘れていた。杏と水月、二人の繋がり。ちなつや日向もあずかり知らぬ、けれど重要な手掛かりとなり得るかも知れない何らかの過去。それを目の前にぶら下げられた真由にはもう、杏の誘いを断る理由など微塵も無かった。

 

 

 それからおよそ一時間後。事前の約束通り、杏は父親の運転する車で真由を迎えにやって来た。

「今夜ひと晩、娘が御厄介になります」

「いやいや。おら()こそ、ウチの娘のワガママさ真由ちゃんどご付き合わせちまって申し訳ねえっす」

 そんな親同士のお決まりな会話を尻目に、真由は玄関先から共用階段の一階へと降り立つ。と、目の前に停まっていた大型のワゴン車の窓がスルスルと下がり、中から「やほー」と杏が声を掛けてきた。

「あれ? 荷物そんだけ?」

「一泊だけなら、これで充分なんで」

 真由は肩に担いだ小ぶりなバッグを揺すってみせる。バッグの中には替えの下着や寝間着にタオル、それと携行用歯ブラシなど最低限の宿泊用具しか入っていなかった。男鹿旅行の時みたいに水着だ何だと持ち込む必要は無い。今回の目的は杏と話をすること。彼女と水月にまつわる諸々を訊き出すこと。それだけなのだから。

「まぁいっか。父さん戻ってくるまで、先に車ん中さ入って待ってなよ」

 音を立てて電動スライドドアが開き、中列シートにちょこんと座る杏が真由を手招きする。それに従って真由はステップを踏み、杏の隣へと腰を下ろした。

「ところで、先輩のお家ってどの辺にあるんですか?」

「んー? 説明難しいなあ。とりあえず北にある」

「それ、ものすごくアバウトなんですけど」

「まあまあ、着けば判るって。学校までは歩きで三十分ちょい、ってとこかな」

「けっこう距離あるんですね」

「自転車で通ってっから、割とそうも感じねえけどね」

 そんな当たり障りのない会話をしているうちに、杏の父親が車へ戻ってきた。運転席に乗り込んでシートベルトを締め、それじゃ行くどー、とエンジンを吹かす。真由たちの乗った車はゆっくりと動き出し、堤防道路からいつもの橋を渡って電飾灯る夜の通りを進んでいく。

「すみません、わざわざ迎えに来ていただいて」

「ハハ、なんもだよ。むしろ真由ちゃんこそ迷惑してんでねえか? 『ウチさ来い!』なんていきなりコレに言われてよ」

「ちょっとぉ父さん、そんた言い方さねえでよ。それだばまるで、アタシが後輩を無理やり拉致したみてえだべ」

そんたよんた(そのような)モンだべった。オメエ、()のペースさ人どご巻き込むのも程々にせえでな」

 軽口を叩く父親に「むぎー」と声を荒げる杏。こうしたあけすけなやり取りが出来る辺り、杏は親と仲が良いのだろう。そう考えて真由の口角は自ずと緩んだ。我が家も家族関係は良好なので特段羨ましいとは思わないが、これまでに幾つかの家庭の様々な事情を垣間見てきたせいか、小山家がそうであることにある種の微笑ましさを覚えるものはあった。

「あ、見て見て真由ちん。ここがアタシらの通ってた姫小」

 やにわに杏が窓の外を指差した。旧国道と呼ばれる通りの脇に立つコンクリート造りの建物。ここが噂に聞きし杏やちなつたちの母校、姫神小学校らしい。そしてここには水月も居た。当時の彼女たちがどんなだったか、いくら想像を巡らせたところで真由には分かりっこない。

「このルートって、アタシん家から曲北までの通学路なんだよね。だがら通りがかる度に毎朝毎晩、この校舎も見てんだけどさ」

「へえ」

「改めて思い返せば懐かしいな。色々あったっけ、小学校ん時も」

 暗がりに浮かぶ灰色の校舎。それを見据える杏の目つきが、微かに細まる。と同時に前方の運転席から、ああ、と杏の父が溜め息交じりの声を上げた。

「んだったなあ。まあ何つうかな、今が面白ぇ(おもしぇ)んだば良いべった」

「そうそう。昔は昔、今は今、ってね」

 杏と彼女の父とで交わされた、少し神妙な空気を帯びる会話。真由はあえてそこに首を突っ込もうとはしなかった。それは肉親同士のやり取りだから、というのも勿論あったが、それ以上に隣の杏が放つ気配の質感が、いつもと少し違った気がしたから。

 やがて旧国道から一つ曲がり、住宅地の細い路地を進んだあとに大きなバイパスを横断する。ライトを点けた車が夕暮れの田んぼを突っ切り、道なりにしばらく進んだその先で、何軒かの家が立ち並ぶ区画が前方に見えてきた。

「あそこ、あれがアタシん家」

 木造二階建て、築数十年といった趣きの一軒家。周囲は木々と畑に囲まれており、敷地の広さはそれなりにある。それは地方郊外にはさして珍しくも無い小集落の形態だ。錆の目立つガレージの前にゆるりと停まった車のドアを開けるや否や、杏は先立ってぴょんぴょんと降りていった。

 続いて車を降りた真由のすぐ足元で、にゃあ、という鳴き声。見ると、雉柄の毛皮を身にまとった一匹の猫がスンスンと靴下のにおいを嗅いでいた。それを見て、かわいい、という率直な感想が真由の口からこぼれ出る。

「ただいまぁリンゴ。今日はお客さん連れて来たよー」

 リンゴ、と呼ばれてそちらにすり寄った猫を、杏が持ち上げ抱っこする。彼女の腕の中で、ビー玉みたいな二つの目がこちらをきょろりと見据えた。

「先輩のお家の猫ちゃんですか?」

「そう、リンゴっていうの。今年で六歳のメス猫。ほーらリンゴ、真由ちんにあいさつはー?」

 杏の言葉を理解しているのか、それともただの気まぐれか、こちらを見たリンゴは「なーお」と牙を覗かせた。初対面の相手に緊張してはいるようだが、試しに鼻先に指をやっても攻撃的になる様子は見られない。きっと躾が行き届いているのだろう。よろしくリンゴちゃん、とやさしく額を撫でると、リンゴは気持ち良さそうにガラスのごとき双眸を瞑った。

「というわけで、いらっしゃい真由ちん。何も無えトコだけどゆっくりしてってね」

「お邪魔します」

 玄関先でお決まりのあいさつをし、真由は靴を脱ぐ。真っすぐ伸びた廊下の先には居間があるらしく、そこからは照明の光芒と夕餉のにおいがこぼれていた。

 靴を脱ぎ捨てた杏がリンゴを床へ降ろし、さっさと急勾配の階段をのぼっていく。片や、自由を得たリンゴがリズミカルな足取りでまっすぐ居間へと向かう。久しぶりに猫に触れたが、ふかふかで気持ちよかった。あとでもうひと撫でしたい。そんな思惑をこっそり胸に抱きつつ、揺れるしっぽが戸口の向こうへスルリと消えるまでを見届けたその時、「あやあや、」と脇から飛び出したしゃがれ声へと、真由は何気なく首を巡らせた。

「なあんと、めんけぇおなごわらしだごど。どごのおじょっこだべが」

「え、あの」

 廊下の一室から顔を覗かせたこのしわしわのお婆ちゃんは、杏の祖母、いや見かけからして曾祖母といったところだろうか。彼女の発するきつい訛りことば。それは秋田のことにもずいぶん詳しくなったと思っていた真由の自信を軽くへし折る程度には、およそ翻訳不能な代物だった。

「あなた杏のおともだぢ? サッとコさねまって、バアどハナシこさねが」

 辛うじて判別できる単語もあるにはあるが、全体を通して何をどうと喋っているのやら、まるで理解が及ばない。どこの地方でも高齢の人ほど訛りがきつい。いつだったか早苗とも話したことだが、それを真由は改めて痛感せずにおれなかった。

「まぁた大ババ、新顔見ればすぐ声掛けて。お客さん来ても構わねえで部屋さ居れ、って父さんさ言われてらべ」

 と、この状況に気付いて階段の中ほどから引き返してきた杏が、大声で曾祖母をたしなめる。それに曾祖母は、へぁ? と不思議そうな顔をした。

「あぁもう、ぜんぜん耳聞けねえんだから。父さんがー、部屋さ行ってれー! って」

「ああ、はいはい。なんとバンバだばよげンたごどばりするどって、すぅぐごしゃがれでな。部屋さばりいだって何んもやるごどねして、とぜねくてよお」

「もういいがら、大ババは部屋さ戻って、そんまか(そのうち)晩餉(ばんげ)だがら大人しくしてれって。ほら真由ちん、大ババは放っといて行こ行こ」

「いや、でも、良いんですか?」

「大ババ、ちょっとボケ入ってるから。心配さねくたって明日には忘れちゃってるよ、真由ちんごと」

 随分と手厳しい口ぶりで曾祖母をこきおろしつつ、杏はのしのしと階段をのぼっていく。一応のつもりで曾祖母にひとつ会釈をし、それから真由も杏に続いてギシギシ軋む木造りの階段を踏みしめた。

「ごめんねぇ。急に変なこと言われてビックリしたっしょ」

「あ、いえ。変なことっていうか、ほとんど意味分からなくて」

「あれはね、『可愛い子だね、どこのお嬢さん?』『ちょっとこっち来て、おばあちゃんとお話しない?』って言ってたの」

「へえ」

「それと、『ババは余計なことばっかりする、ってすぐ怒られてね。部屋に居てもすることが無くて、寂しいの』って感じ」

「なるほど」

 杏の意訳によって、真由はようやっと先ほどの曾祖母の発言、その全容を把握するに至る。

「寂しい、ですか。おばあちゃん」

「もう九十超えちゃってるからね。知り合いも親兄弟もみーんな死んじゃってるし、そんなもんだと思うよ」

 何でもないような口ぶりで、杏はそう宣った。去り際に見た曾祖母の小さく縮こまった背中。瞼の裏側に今も残るその残像に、真由はしばし人の一生のあり方を考えさせられてしまう。

 家族。友人。仲間。そういった人たちに囲まれて暮らす日々は、真由にとってある意味普遍的なものだ。例え引っ越しで離れ離れになろうとも、移り住んだ先ではまた新たな出会いを迎え、そして新たな関係を築いていくことが出来る。そういうものだとずっと思っていた。けれどそれは当たり前のことのようでいて、いつまでもし続けられるわけじゃない。いつかは自分もあの人のように年老いて、その時には周りに両親も家族も友人もいなくなって、やがて独りきりになってしまうのだろうか。そんな想像に少し、体が震える。

「さて、ここがアタシのお部屋でーす!」

 階段をのぼってすぐのところにある戸を開け放ち、杏が両腕を大きく開く。寸秒、真由はポカンとした。この人のことだから室内には少女趣味全開のグッズが満載だったり、はたまたこちらが恥ずかしくなるほどファニーな装いだらけだったりするのでは、と予想していたのだが、いざ目にした六帖ほどの部屋にはシンプルな勉強机とベッドが一つずつ、それに素っ気の無い収納タンスや本棚が置いてあるだけで、思っていたよりもだいぶ普通だった。

「あれ? 何かリアクション薄くね?」

「へ?」

「さては真由ちん、アタシのことだからもっとヘンテコリンな部屋だって思ってたんでしょー」

「あ、いやいや。そんなことはない、んですけど」

 図星を突かれ、うろたえながらも真由は必死に否定する。この部屋の中にあって杏らしさを感じさせるものと言えば、多少ファンシーな柄のカーテンと掛け布団ぐらい。ともすれば自分の部屋の方が、インテリア的にまだ賑やかかも知れない。こんな落ち着いた部屋で杏が暮らす姿がどうにも想像できなくて、真由は狐か何かに化かされているような気分に陥ってしまう。

「わ、わあ。音楽関係の本とかCD、たくさん持ってるんですねえ」

 多少わざとらしく感嘆の声を上げながら、真由は部屋の隅を飾る本棚へと近付く。それは部屋の件から杏の気を反らすためではあったが、実際に本棚にはクラシックの名盤やら音楽系教本やら、玄人好みするものがところ狭しと詰め込まれていた。

「これ、全部先輩のものなんですか?」

「そだよん。こう見えてアタシ、小っちゃいとき音楽教室通ってたから」

 えへん、と杏が薄めな胸を張ってみせる。

「けっこう多いですよね曲北って。小さい頃から音楽教室通ったりピアノ習ってたり、っていう人」

「そだねー。けどアタシのはそういうのと、ちょっと違うんだ」

「違う、と言いますと?」

「アタシの習ってた先生、東京の有名な音大出た元音楽教師で、プライベートで専門的なレッスンしてた人だったから」

 そう言って杏は本棚から何冊かの本を取り出す。バスティン。ブルグミュラー。ツェルニー。ピアノについては少々疎い真由でさえも、それらの名は一度ならず聞き覚えがあった。

「まあ、たまたま母ちゃんの知り合いに先生の教え子だった人がいて、その人に紹介されたからって縁なんだけどね。小二の春くらいまでちょくちょく通ってたけど、そこで音楽の基礎は大体教わったかなー」

「なるほど。それで、水月ちゃんのことなんですけど、」

「ちょいちょい真由ちん。先走りし過ぎ」

 こちらの質問を遮って、杏は肩をすくめた。

「そんな焦ってどうすんの。夜は長いんだよー? 別に今からそんなおカタい話しなくたっていいじゃん」

「でも、今日はそのためにここへ来てるわけですし」

「だからこそ腰据えて、順を追ってゆっくり話さねえとだよ。それより真由ちん、まだお風呂とか入ってないでしょ?」

「や、まあ、それはその」

「じゃあひとっ風呂浴びてえべ。本番のステージだいぶ蒸し暑かったし。汗くさいまま真面目な話するっつうのも、何かイヤじゃね?」

 そう言われてぎょっとした真由はクンクンと、咄嗟に自分の腕を嗅ぐ。確かに先ほどは家に帰ってすぐ泊まりの準備をしていたため、シャワーを浴びるような暇などはこれっぽっちも無かった。以後は支度を終えたところに迎えの車が来て、それに乗ってここまで運ばれて。……もしかして私、けっこう匂ってる? そんな不安を全開にした真由の表情に、杏がケタケタとおもちゃみたいな笑い声を上げる。

「今のはモノの例えだってばぁ。真由ちんはいつでもいい匂いだよ。けど晩ご飯までまだちょっと時間あんだし、夜じっくり語らうつもりなら今のうち入っといでニャ。母さんさ頼んで、お風呂の支度しといてもらったから」

「ええ? でも、お家の人より先にお風呂入る、っていうのはちょっと」

「真由ちんはお客さんなんだから、ヘンな遠慮なんかさねえで良いの。さっさと入んないとお湯ぬるまっちゃうよー。ほらほら」

「いや、ちょっと、あの、待って下さいってば」

 ぐいぐいと背中を押してくる杏に、真由はバッグを降ろすいとますら与えられぬまま部屋から追い出されてしまう。行動的と言えば聞こえは良いが、杏のこういう強引さはどちらかと言えば、苦手な部類のそれだった。

 

 

「はー」

 他人の家のお風呂というのはどうにも落ち着かない。まして先輩のお宅ともなれば、それは尚更のことだ。あの後すぐ杏によって脱衣所まで押し込まれ、にっちもさっちも行かなくなった真由は覚悟を決めて浴室へと足を踏み入れた。モザイクタイルのあしらわれた床と白塗りの壁面。三方向に出っ張ったスクリュータイプの蛇口ハンドル。そしてシステムバスという呼び名には縁遠い、水色の腰高な浴槽。こういう年代感溢れるお風呂に入るのも、男鹿旅行で泊まった民宿以来かも知れない。

 さてと。湯舟を使うべきかどうかしばらく迷ってから、真由はとりあえず先に洗髪を済ませることを選んだ。一度お湯で軽く流した後、家から持参した携帯ボトルのシャンプーを数滴手に取り十分に泡立ててから、髪をしっかり揉み込むように洗っていく。別に小山家の洗剤を使わせてもらってもいいのだろうが、そうすることは何だか杏に借りを作る行為みたいに思えて、少しばかり気が咎めるものがあった。

「杏先輩、ホントに話してくれる気あるのかなあ……」

 くしゃくしゃ、とふんだんに泡を立てて髪を洗うその間も、真由はそのことが気掛かりで仕方ない。これまでのところ杏に対しては、水月の件をエサに釣られてしまった、という悪印象が強かった。今こうしてお風呂に入らされているのも、もしかして半分くらいはそうこうするうちに有耶無耶にしようという魂胆であって、あの人は最初から何一つ話すつもりなんて無かったんじゃないか。そんな猜疑心がむくむくと鎌首をもたげてくる。

 やはり、のんびりお風呂に浸かってる場合じゃない。さっさと泡を洗い流して、もう一度先輩のところへ話を聞きに行こう。それは真由がそのように腹を括った矢先のことだった。

「真由ちーん、湯かげんどーお?」

 脱衣所の方から杏の声がする。まだ湯船に入ってすらいないので加減も何も無いのだが、シャワーがぬるいということもなかったので、「丁度いいです」と真由は扉越しに返事をした。

「そりゃあ良かった。今は体洗ってるとこ?」

「はい。体っていうか、髪ですけど」

「フンフンなるほど。んじゃアタシも入るね」

「分かりました……って、えっ!?」

 こちらの返答を待たず、後方の扉がギイと音を立てて開く。真由は洗髪の姿勢を保ったままで完全に硬直してしまった。宣言通り入浴にふさわしい恰好で浴室に入って来た杏は、普段の幼げなイメージとは裏腹にきちんと年相応の成長ぶりをしていて――なんて、そんなことに気を取られている場合じゃない。入るってそういう意味? 杏を凝視していたその目にたらりとシャンプーの泡が垂れ入ったことで、うぎゃ、と真由は悲鳴を上げてしまう。

「あ痛たぁっ」

「うわ、すっげー泡モコ。やっぱそんだけ髪長いと洗うのも大変なんだねえ」

 そんなやくたいもないことを言いつつ、ぺたぺたと傍に寄ってきた杏が躊躇なく蛇口のノブを捻る。ばしゃあ、とシャワーヘッドから溢れ出るお湯の玉。それをまともに顔面へ浴びせられた真由の口から「あぶぶぶ」と変な声が出てしまった。おかげで目の痛みが取れた代わりに、今度は顔中すっかりびしょ濡れだ。

「さっさと髪すすいで、したらお互いに背中流しっこしよ」

「へ、平気です! 一人でもできますから!」

「二人してさっさと洗っちゃったほうが良いと思うけどなー、湯冷めさねえうちに」

 休み明けに風邪っ引きだとちーちん怖えよ? と杏がニヤニヤしながら脅しをかけてくる。そう言われれば以前、ちなつが日向を揶揄するようにそんなこと言ってたっけ。……などと真由が一瞬思考を巡らせたその隙に、杏は真由の頭部めがけてシャワーのお湯を解き放った。

「わきゃっ」

「ほーら、きれいきれいにしましょうねー♪」

 何だか杏はおままごとにでも興じるがごとく、人をオモチャにしてその反応を面白がっている節がある。子供っぽいイタズラと割り切れれば良かったのだが、あいにく杏は見かけほど実年齢が幼いわけでもなく、従っておいそれと割り切ることなど出来やしない。本当に年長者なのかこの人は。その微かな苛立ちから、いきり立つ真由は杏の持つシャワーヘッドに手を伸ばし、どうにかこの蛮行を阻止しようと必死に抵抗を試みる。

「もうっ、やめて下さいっ」

「まあまあ、そう目くじら立てねえで」

「先輩が意地悪するからじゃないですかぁ」

「イジワルでねえって。これは私の愛のあかし」

 意味不明なことを言いながら、なおも杏はシャワーのノズルをしつこくこちらに向けてくる。それを真由は両手でガードしつつ、ノズルを杏へと向け返す。そうして二人がきゃあきゃあ言いながらお湯の掛け合いをしていたところに「お姉!」と、誰かの甲高い声が浴室の扉をつんざいた。

「うるっせえがら風呂場で暴れんなって。居間まで聴こえてんぞ」

「あー、ごめーんユズ。調子ん乗っちゃって、つい」

 杏が甘えた声で詫びを入れると、ったくもう、とボーイッシュな声でぼやきながら、扉の向こう側に立っていた人の気配が遠のいていく。

「い、今のは?」

(ゆず)っていうの。アタシの三つ下のきょうだい」

姉弟(きょうだい)、ですか。はあ、」

 杏に弟がいただなんて初耳だ。その驚きがひとたび冷めかけたところでもう一度、真由はまた別の事実に気付いて驚かされる。

「っていうか先輩って、お姉さんだったんですか」

「あっれー? アタシがお姉ちゃんだと何か問題でもあんのぅ?」

「いえ、そういうわけでは」

 大ありだ。そう言ってやりたい衝動を必死にこらえつつ、真由は杏から視線を外す。それにクツリと唇を震わせた杏は、気にしていない風を装いつつ「さて、体洗っちゃおうか」と、目の前のボトルポンプからふんだんに白い洗剤を押し出した。

 

 

 ちゃぷん、と湯面に飛沫が跳ねる。例えこれを掴み取ろうとしても、きっと滴は瞬く間に手から滑り落ちて、湯船へと還ってしまうことだろう。自分の心境も今まさに、それと同じだ。まるで思い通りにならず、どこにも掴みどころを見出せぬまま、向こうには一方的にペースを握られて。そんな苛立ちをぐっと堪えつつ、真由は杏に半ば強制されて二人でいっしょの湯に浸かっていた。

「あー、やっぱお風呂ってサイコーだねえ。一日一回は入んなきゃ、生きた心地しねえもん」

「そうですね」

 湯面にぶくぶくと泡を立てながら、真由はふくれっ面で杏に応じた。さすがの真由でも、ここまでされては多少なりとも不機嫌にならざるを得なかった。『前も洗ったげる』という彼女の申し出だけは断固として拒否したわけだが、それ以外の部位は彼女の手によってしっかり洗い上げられてしまった。いかに後輩相手とは言え、いくら何でも横暴が過ぎやしないか。彼女の誘いに乗って迂闊にここまで来てしまったことをひたすらに悔やみつつ、それでもせめてもの抵抗として、じとりと杏を睨みつける己の眼球に収まりのつかぬ憤懣と疑わしさを込める。

「なぁにその目ぇ。ちょっとからかわれたぐらいで腹立ててたら、世の中渡っていけないよん。真由ちんったらカタいカタい」

「先輩のほうこそ、後輩に対して少し馴れ馴れし過ぎるんじゃないか、って思いますけど」

「やーん、真由ちんに叱られちったぁ」

 怖いニャー、と猫みたいな鳴き声を上げながら杏が浴槽にへばりつく。それを見た真由の頭のどこかで、何かがプツリとはち切れる感触。もうこの人のことなんて放っといて、先に上がってしまおうか。そう思い立った真由が湯舟から上がろうとしたちょうどその時、「あのさあ」と神妙な顔つきの杏がおもむろにこちらへ振り返った。

「本題の前に一つ、真由ちんにお礼言っときたいんだけど」

「お礼、って、何の話ですか?」

「夏頃にひと悶着あったっしょ、うちの奈央ちんと、雄悦との間で」

 杏の口からぽろりと零れたその名に、真由はしばし唖然とする。いつの間に。というかあの二人のいきさつを、杏は知っていたのか。

「モチロンのことよ。奈央ちんはアタシの直属の後輩だし、それに雄悦とも同じ姫小からの付き合いだしね」

「じゃ、じゃあ奈央ちゃん、喋ったんですか。杏先輩に、その、」

「えーとね、奈央ちんからは直接聞いたわけじゃないよ。ただヒナちんとかもそうだと思うけど、まぁ見てりゃあ解るっしょ、ってヤツでさ」

「ああ……」

 言われてみれば確かに、と真由は得心する。奈央の雄悦に対する恋心。それは見る人が見ればすぐそれと解るほどあからさまなものだった。まして転校生の自分とは違い、杏は彼らと同じ小学校、同じマーチング部から続く付き合いなのだ。従って杏には、雄悦と奈央の微妙な関係に気付ける機会などいくらでもあったと見るべきだろう。

「正直さぁ、花火の日にアタシ、すっげえ迷ってたんだよね。奈央ちんの事どうしたもんかー、って」

「どうしてです?」

「だって、あんなカッコで花火行くなんて、これどう考えたって告白する気マンマンでしょーこの子、みたいな。けどあそこでアタシが奈央ちん止めたりしたら、それはそれでまずいじゃん」

「まあ、奈央ちゃんからしたら、雄悦先輩のことを好きなのが他の人にバレてるってことになりますもんね」

「それもあるけど、よりにもよってアタシにゃ止められたくないでしょ? 奈央ちんの立場からしたらさ」

 その言い方に、真由はもやりと渦巻く何かを胸の奥に抱いてしまう。よりにもよって、というのはまさか、ひょっとして。

「先輩、気付いてたんですか? 雄悦先輩の、」

 ためらいの念から尻切れトンボになった真由の問いに、杏の喉が「くひゅ」と変な音を鳴らす。その通り、とでも言うかのように。

「アタシって誰かさんと違ってそんな鈍感じゃねえからさ。あれは小学校の五、六年ぐらいの頃かなー。雄悦がアタシを見る時の目がちょっと違うことに気付いて、あーそうなんだ、って」

 なんてことだ、と真由は戦慄する。杏は雄悦の内なる想いをずっと前から知っていた。そして勿論、奈央が雄悦に向ける想いにも。それ即ち、彼女たち三人の中で杏だけがそのこんがらがった関係性をつぶさに把握できていた、ということでもある。

「でも、だったらどうして旅行の時、恋バナゲームなんて」

「あー、それは話せばちょっと(なげ)ぐなっちゃうかな。まあ半分はアタシの趣味なのもあったけど、簡単に言うと、このまま行けばもうすぐ奈央ちんと雄悦が破綻するって思ったからだよ」

「ちょっと待って下さい。奈央ちゃんが雄悦先輩のことを好きだったのって、あの時よりもずっと前からなんですよね。それなのにどうして急に、」

「あの日の雄悦の態度。あれ見た奈央ちんが、雄悦の気持ちに気付いちゃったから」

 ぐ、と真由は喉を詰まらせる。男鹿旅行の夜、浜辺で興じた花火のひと時。あそこで二人語らっていた奈央と雄悦のところへ杏が近付き、杏に誘われるがまま雄悦は奈央を置き去りにした。それが失敗であったことを認めるみたいに、杏は薄いはにかみを浴室の天井へと向ける。

「正直、もちっと注意すべきだったなーって後から反省したよ。最初は面白半分っていうか、テキトーに焚きつけてからかってやろうって程度にしか考えてなかったもんでさ。だけどああなった以上は、どっかでこの件に収拾付けねえとって思って、それで急遽やる予定もなかった恋バナゲームをやることにしたの」

「それは奈央ちゃんに、雄悦先輩のことが好きって言わせるため、ですか?」

 真由の問いに、杏は「ううん」と首を振る。

「小山杏は雄悦のことなんか何とも思ってない。そう奈央ちんに思い込ませるため」

 ぴちゃん、と将棋の一手を指すかのように、杏はお湯の上面を指で叩いた。雄悦の想いに応える気が無いことを奈央に分からせる。それが果たして奈央の心を救う術となり得たのだろうか。その後の成り行きを思えば、十分な効果があったとは言い難い。むしろあの日あの時、奈央はこう思っていたのではないか。

「私の気持ちはゲームだからってポロッと喋れるほど軽くなんかない、って?」

「……先輩ってもしかして、超能力者か何かです?」

「大したことじゃねえでしょ。話の流れからしたら、絶対そういう想像になるし」

「いや、なりませんよ普通」

 震える自分の体を真由はギュウと抱き締める。熱いお湯に浸かっている筈なのに、ひどく怖気がする。言うまでもなく、畏怖の対象は目の前の杏だ。小さな体の内側で、宇宙よりも大きなことを考えている。そんな風に思ってしまうぐらい、こちらの思考を軽々と読んでみせた杏のことが不気味でたまらなかった。

「だけどそれでもどうにかして、アタシが雄悦に対して何の気も持ってねえってことを奈央ちんに示す必要はあった。もちろんド直球じゃなくね。そうしねえとあの子、本気で居場所失くしてただろうからさ」

「居場所、ですか」

 うん、と頷いた杏の顎がお湯に沈み込む。

「好きな人の恋愛対象が、自分の直属の先輩。それってすっげえしんどいでしょ。フラれた後で雄悦のこと忘れようとしても、アタシの顔見る度にイヤでも思い出すことになる。そんなアタシがもしも雄悦のことを好きで、そのうち両想いになってくっついたりでもしたら。そんなん想像するだけでも、奈央ちんにしてみりゃ堪んないよ」

「でも先輩は雄悦先輩のことなんて、何とも思ってないんですよね。恋バナゲームの時にも言ってたじゃないですか、先輩が好きなのは草彅くんだ、って」

「あーそれね。ごめん、あれウソ」

「う、ウソ?」

「実は雅人クンのことは、それこそ好きでも何でもねえの。まあ色んな意味で有名人だし、そっちの意味で気になってるってのはホントだけどさ」

 あまりにも正直過ぎる杏の回答に、真由は開いた口がふさがらない。大体がして、『ウソをついたら罰ゲーム』というルールをあのとき定めたのは、他ならぬ杏自身だったではないか。そんな非難を滲ませたこちらの視線を、杏はカラカラと笑って躱した。

「だーかーらあ。あんま真面目になりなさんなってぇ、あの恋バナゲームそれ自体はどうでも良かったんだし。それにウソ云々だったら奈央ちんだってウソついてたわけでしょ。アタシもついてたんだからおあいこ、ってことでいいじゃん」

「いや、でも、他の子たちとか。それに奈央ちゃんが真剣に悩んでた時に、恋愛絡みでウソを言うのは」

「あまりにも誠意が無い。そう言いたいんだよね?」

 杏の冷たい声色にドキリとし、真由はおずおずと首肯する。本当にこの先輩は得体が知れない。からかったりウソを言ったり、かと思えばいきなりみぞおちを抉ってきたり。あまりにも翻弄されっぱなしの状況に、だんだん視界がグラグラしてきた。

「まあ、その報いはあったけどね。アタシがあそこで失敗した時点で後はもう、延々罰ゲーム状態よ。もうどうやったってこの流れは止めらんないなーって思ったし、だからいっそのこと奈央ちんには思いっ切りフラれて、それで早々に吹っ切ってもらった方がいいかなって考えたワケ」

「奈央ちゃんの恋を応援するっていう選択肢は、無かったんですね」

「出来るワケないって。結果が分かり切ってんのに、そ知らぬフリして『奈央ちんがんばれー』なんて、これほど人をバカにした話も無いでしょ。出来たとしても、それが通じるのは奈央ちんが雄悦の好きな相手に気付くまでだよ」

 濡れた手を左右に振りながら、杏が苦笑する。

「どうせ知らんぷりするなら最初っから、それこそ誰の気持ちも知らぬ存ぜぬで押し通すしかなかった。そのためにはアタシ自身、別の誰かを好きってことにしちゃうのが一番手っ取り早かったの」

 それは確かにそうなのかも知れない。とどのつまり、この閉じられた関係の中で誰かが誰かに実らぬ恋をした、その時点でどうあがいても最低一人は傷付くしかなかったのだろう。雄悦が杏に想いを寄せているのを目の当たりにした後で、その杏から自分の恋を応援されるなど、奈央にしてみれば屈辱以外の何物でもない。少なくとも杏はそう考え、そして彼女なりの配慮でもって奈央と向き合っていたのだ。

「ま、そこで計算外だったのが雄悦のバカさ加減だけどね。アイツったら相当手ひどいフリ方してくれちゃって、おかげで奈央ちん三日も学校休んじゃってさ。こればっかりはどうしようもなかったとは言え、マジで怒っちったよ。雄悦ってホント女心分かってないよねぇ」

「それは……まあ、何と言いますか」

「でもそこで真由ちんが上手くケアしてくれて、あれから奈央ちんもすっかり元気んなってさ。アタシとしてはチョー助かったって思ってる。そうなるのを予め期待してたってワケではなかったけど、やっぱり真由ちんってアタシらに無いものを持ってんだなあって、そん時改めて思ったんだ」

「先輩たちに無いもの、って?」

「ちーちんに聞かされてない? アタシが真由ちんのこと『外の目』って言ってたの」

 杏の放った一言に、真由はごくりと息を呑む。外の目。それはあの日、ちなつに連れられ水月との直接交渉の場に立たされた折、別れ際に水月の口から出た言葉。それと、ちなつはこうも言っていた。『最初に言い出したのは私じゃねえけど』。つまりその『外の目』とやらを真由が持っていて、ゆえに水月との交渉の場における立会人に相応しいとちなつに進言したのは、目の前にいる杏その人だったということだ。

「ふぇー、あんま長風呂してたらのぼせてきたかも。そろそろ上がろっか」

「え、でも、」

「気付いてないと思うけど、真由ちんも顔真っ赤んなってるよ。これ以上入ってたら湯あたりしちゃうって」

 杏にそう言われて、はたと真由は時間の感覚を取り戻す。話に夢中で忘れていたが、長湯と呼ぶにも程があるというぐらいにはたっぷり湯浴みをしてしまった。窓の外も夕闇を通り越してほぼ真っ暗。慌てて湯から上がろうとしたものの、途端にくらりと眩暈を覚えた真由は壁面に片手をついてしまう。

「ほれ見なって。話の続きは晩ご飯食べて、ゆっくりしてからにすんべ」

 ざばあ、と湯船から這い出した杏が先に脱衣所へと向かう。そんな彼女の背に、あの、と真由は声を掛けた。

「一つだけ、今のうちにどうしても聞いておきたいんですけど」

「何かニャ?」

「先輩自身はホントのところ、どう思ってるんですか。雄悦先輩のこと」

 そう質問した時、振り返った杏はくしゃりと表情を歪めただけだった。それは本心を言いづらくてなのか、或いはどこまでも見当外れな真由のことを残念に思ったからなのか。どちらとも判別がつけ難かったのもきっと、自分がすっかりのぼせてしまっているせいなのだろう。真由にはそう思い込むしかなかった。それはその後に続いた、皮肉の言葉でさえも。

「今までの話で分がんねがった? やっぱ鈍感だなぁ、どっかの誰かさんは」

 

 

 

 

 お風呂から上がって少し縁側で涼んだ後、真由は小山一家の夕食の席へ招かれた。真由を除いても杏に柚に彼女らの両親、それと祖父母、と家族六人が囲む食卓というのはかなり賑やかなもので、そうした団欒の中で食事をするのも真由には随分と久しぶりのことだった。

「え。柚くん、じゃなくて柚ちゃんって、妹さんだったんですか」

「そだよ。じゃなかったら何だと思ってたの? 柚のこと」

「別にいいって。アタシこんな見てくれだし、いっつも男子に間違われてばっかいるし」

 ふて腐れるでもなくあっけらかんとしながら、柚が目の前の大皿に盛られたから揚げをひょいひょいと口に運ぶ。姉と顔立ちの似ている柚は、しかしベリーショートな髪型とTシャツにハーフパンツといういでたちのお陰もあって、真由の目には完全に男子としてしか映っていなかった。

「まあ、真由さんみてえにどっからどう見ても女子って人から言われる分には、アタシも悪い気しねえけどね」

「これ柚、年長者さ生意気な口の聞き方するもんでねえ」

 父の窘めに、柚はツンと唇を尖らせ反抗の意を示す。見た目に違わぬこの気の強さ。それを目の当たりにした真由は、杏のそれともまた異なる芯のようなものの存在を柚の内に見出していた。

「柚って小っちゃい時からずーっとこうなんだよねー。音楽好きなところはアタシに似て、今も姫小でマーチングやってんだけどさ」

「べつに、お姉さ影響されたワケでねえし。それに音楽やるのが女子らしい、なんて時代でもねえべった。アタシは自分が好きだから音楽やってるだけ。それとお姉とは関係ねえもん」

「まったくコイツは。誰さ似て、こんた口の減らねえ娘に育ったんだか」

「そりゃもちろん父さんさ、だべ。この人も昔っから口が先に生まれて来たみてンたく、べらべら喋ってばっかでよお」

「何い。オメエのそういうとこが良い、どって嫁っこさ来たのはお(かあ)だべ。()の責任ヒトさ押し付けるよンたごどばり言って、はぁー」

 今しがたの小山夫妻の言い分、より正しいのはどちらだろう。そんな推理を働かせつつ、真由はエビフライをかぷりと噛み千切る。総菜ものではない揚げたてのエビフライはとても香ばしくて、ぷりぷりとしたエビの身は齧れば齧るほど口の中で旨味の大輪を咲かせた。

「おかわりもあるから、遠慮さねえでどんどん食べてけれな」

「ありがとうございます。とっても美味しくいただいてます」

「まぁ、ほんとにお行儀良い娘さんだごど。ウチもこれからもっと厳しく躾さねえばダメだがや」

「ハア? じょーだん。お母がこれ以上口うるせぐなるかと思ったらウンザリも良いとこだで、なぁお姉」

「なぁー」

「オメエ()、そンたとこだけ姉妹仲良く息合わせんでねえって」

 親子の遠慮なき罵り合い。それは自分の家庭には殆ど無かった光景で、ほんのちょっとだけ羨ましい、と真由は感じてしまう。ちなみに杏たちの曾祖母は「立って歩けないから」という理由で、この食事の席には来ていない。その代わりに曾祖母のご飯や諸々の面倒を見るべく、杏の母や祖母がちょくちょく席を外していることを、真由はそれとなしに察していた。

「ごちそうさまでした」

 お皿に盛られたごちそうを一通り食べ尽くし、真由はたっぷりの満足感と共に両手を合わせた。片付けぐらい手伝おう、と空になった食器を台所へ持ち込んだ真由を「いいのいいの」と杏の祖母が制する。

「真由ちゃんはお客さんなんだがら。そンた気い遣わねえで、アンちゃんと部屋でゆっくりしててけれ」

「でも申し訳ないです。お皿洗いなら家でもやってますし、せめてお手伝いぐらいは」

「あやぁ、なんと気持ちっこ優しいお嬢さんだごど。おら()さ貰いてえぐれえだなや」

 祖母の大袈裟な感銘ぶりに、ええ、と真由は困惑してしまう。

「ババったら、そうやって遠回しに孫を貶すのやめてよぉ。アタシ泣いちゃう」

「言われでぐねがったらアンちゃんも、たまにゃ食器洗いぐれえしてみれって」

「やだぁ。どのみち一人暮らし始めたら、イヤでもすることになるもーん」

「あれ? 先輩の進学先って県外とかなんですか?」

「大学とかの話だよぉ。このへんで県外進学の高校なんつったら、スポーツ特待とかそういう特殊なやつ以外まず無えから。まあ親戚の姉ちゃんみたく下宿して吹部の有名校さ進学する、って道もあるっちゃあるけど、そうまでして強ええトコ行きたいわけでもねえし」

 それにアタシって地元愛に溢れてるからー、と杏は目をくりくりさせながらあざとく物申す。その真偽はともかく、彼女が当面実家に居着くつもりでいるのは間違いなさそうである。

「真由ちゃん、ほんと良いのよ。食器の片付けぐれえチャッチャと出来ちゃうから。それにほら、まだ晩酌終わんねえ男共も居だし」

 ハァ、という溜め息と共に杏の母は居間を指差した。なるほど確かに、真由の父にも劣らず酒好きらしい杏の父と祖父は、どこからか持ち出した一升瓶を交互に傾けては盃を煽っている真っ最中だった。もちろん肴になるものも卓上にはちりぽり残されている。あの分だと、彼らの食器が片付くのは当分先のことになりそうだ。

「お母もババもこう言ってることだし、私らは部屋さ行こ? ホラ真由ちん」

「それじゃあすみません、今夜はお言葉に甘えさせていただきます」

 有り余るほどの申し訳なさを抱えつつも、真由は自分の使った食器をシンクの端に置いた。杏の母も祖母も、本当に心優しい人たちだ。けれどだからと言って、何もしないではいられない。明日の朝食こそは、ちゃんと後片付けを手伝わせてもらおう。そう心に思い描きながら。

 かくして杏と共に彼女の部屋へと戻った後は、杏お勧めの吹奏楽曲を鑑賞するなどしつつ、しばしまったりとしたひと時を過ごした。その間あえて本題に触れなかったのは、向こうから喋る気になるまでは杏の好きにさせておいた方がいいと、今日一日の経験を糧にそう考えたからだ。

「さあてと。お腹も落ち着いてきたし、夜も更けてきたしで、そろそろ頃合いかな」

 ぼふん、とベッドに腰を下ろした杏が真由に手招きをする。ようやっとその時は来た。今日ここへ来た意味。それを真由が得る瞬間は、もうすぐそこだ。

「教えてあげるよ、水月のこと。それと、真由ちんのこと」

 

 



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〈19〉向き合うべき時

 電気を消した部屋の中で、掛け布団がもぞりと動く。その内側に収まっているのは真由、ともう一人、このベッドの主たる杏だ。

「あの、杏先輩。どうして私たち、いっしょのベッドで寝てるんですか?」

「だって私の部屋狭いんだもん。布団もう一枚敷くスペースなんて無いしぃ」

「それにしてもその、部活の先輩といきなり添い寝するというのは何と言いますか、緊張が半端ないって言うか」

「なぁにー? もしかして真由ちん、私のこと意識しちゃってるのぉ?」

「ヘンな意味抜きで意識しますって、こんな状況」

「けっこうウブだねぇ。天然ジゴロみたいなくせして」

「何ですか、その天然ジゴロって。あとどさくさに紛れてヘンなとこ触らないで下さい」

「狭いんだからしょうがないニャー。ほれほれ、もっとくっつかないと布団からはみ出ちゃうよん」

 どうせだから寝る体勢で……と布団に入ってからも杏はずっとこんな調子で、寝かせる気どころか話を切り出す様子も見せやしない。それにこちらもだんだんと目が冴えてきて、満腹感から催した眠気も今ではすっかり何処へやら、といった按配である。

「ちょっとぐらいはみ出たって平気です。それよりそろそろ、話をして下さいよ」

「話って何の?」

「ですから、さっきのお風呂場での続きです」

「ああそうそうお風呂場ね。えーと、何だっけ?」

「杏先輩」

 至近距離でじとりと睨み付けた真由に、しょうがないにゃあ、と杏は諦めたように一つ息を吐く。

「それじゃあ眠れない真由ちんのために、おとぎ話でもしよっか。むかーしむかしあるところに」

「もうそういうの良いですから、ちゃんと話を、」

「あるところに、二人の女の子がいました」

 真由の掣肘をものともせず、杏は頼んでもいないおとぎ話を朗々と述べ続ける。

「二人はずうっと小さい頃から近所に住む仲良し同士でした。物心が付くより前から一緒だった二人は親の勧めで同じ音楽教室に通い始め、いっしょにピアノを習ったりしました」

 ふつ、と杏の表情からそれまでの浮つきが失せたことを察し、真由もまた黙り込む。親の勧め。音楽教室。ピアノ。それらのキーワードは、最初にこの部屋に入ったときにも聞かされたものだ。現実と虚構、二つを結ぶ奇妙な符合。杏の語ろうとしているそれは恐らく、ただのおとぎ話などでは無かった。

「とても腕のいい先生だったおかげもあって、二人はどちらもピアノが上手になりました。保育園に入ってもいっしょにピアノ弾いて遊ぼうねって約束するぐらい、二人は音楽もお互いのことも、大好きでした。けれど残念なことに、保育園に入ったと同時に二人は離れ離れになってしまいました。それもそのはず、二人は年齢が一歳違っていたのです」

 あざけるように、杏はほうと柔らかい吐息を漏らす。それは世の仕組みを知らぬ幼子の時分には無かったも同然で、けれど学年という仕切りに慣れ切った今では当たり前となってしまった大きな隔たり。仲良しの二人を別ったものは、そのたった一個分の数字の差だった。そういう経験をした記憶の無い真由ですら、彼女たちが味わったであろう悲哀の多寡を慮ることぐらいは出来る。

「でも、それで二人の仲が引き裂かれたわけじゃありませんでした。何故なら保育園が終わって家に帰れば、二人はまたいつもの通りの仲良しこよしでいられたからです。音楽教室に行っても会えるしお互いの家でだって会える。もう一年経ったら保育園の中でだって会える。そんな二人の関係に、不自由なことなんて何一つありませんでした。そう、二人のうち片方が、小学校に上がるまでは」

 語り部に徹する杏を、真由はじっと凝視する。杏の瞳は目前の真由ではなくもっとずっと遠く、例えばそう、遥か昔を見つめているみたいだった。

「小学校に上がったその子はある日、クラスメイトにこう言われました。アンタ私らと付き合い悪いよね。お稽古してるか何か知らねえけどお高く止まってんじゃねえの? ――女の子は無視しました。無理に仲良くする必要なんてない。イヤなことを言う子となんか別に付き合わなくたって良い、と」

 暗闇の中で翳りゆく杏の表情が、遂には月影のように温度を失う。それをただじっと見守りながら、真由はおとぎ話に耳を傾け続けた。

「女の子のそういう態度がきっと癇に障ったのでしょう、それから何日もしないうちに、女の子はクラスメイトたちから無視されるようになりました。それだけじゃありません。机の中には見たくもないお手紙。上履きの中には刺さると痛いもの。ランドセルには給食の残飯。……一人ではなく何人もがそうしていることを、女の子はある日、クラスメイトたちの陰口を聞きつけたことで知りました」

「ひどい、ですね」

 真由の率直な感想に、くす、と杏は口元を綻ばせる。

「けど今になって考えれば、その女の子も悪かったのです。はじめの時点でクラスメイトを無視したのは彼女の方だったのですから。でもその時の彼女は辛くて悲しくて、学校に行くのがたまらなく嫌で。だから女の子は度々、唯一の友達だったもう一人の女の子の前でわんわん泣きました。別に何かして欲しかったからじゃなく、あの子なら私の気持ちを解ってくれると、そう思ってたから」

 でも、と杏の声色がさらに一段落ちる。

「もう一人の女の子はそれを聞いて思ったのでしょう。『そんなひどいことする奴らはあの子の友達なんかじゃない』と。次の日、嫌々ながらも女の子が学校に行ってみると、状況は一変していました。自分がされたことをそっくりそのまま、クラスメイトの子たちがされていたのです。教室中を余すことなく。それどころか直接関係していなかった子の机や上履き、ランドセルまで全て」

 その光景を想像し、真由は恐怖にぞっとする。誰がやったか、なんてことは問うまでも無かった。けれどそれを本当に、小学校にも上がっていないその子が、たった一人でやり遂げたというのか。その事実が、何よりも恐ろしい。

「当然、どうしてそんなことが起こってしまったのか、とクラスで問題になりました。コイツが仕返しをしたに違いない、と女の子をなじる子もいましたが、それは無理だという結論になって真相は分からぬまま。結局この一件は担任からの『友達同士でこういうことをしてはいけません』というお決まりの説教で、全員がケンカ両成敗みたいになりました。その日の放課後、女の子はすぐにもう一人の女の子のところへ行きました。彼女はいつも通り音楽教室でピアノを弾いていました。何事も無かったかのように、涼しい顔をして」

 目が眩むほどの歪さ。言い知れようのない不快感。その光景は思い描くだけでもあまりに不気味で、異質だった。中学生の自分でさえそうなのだ。小学校に上がりたての無垢な少女であれば、それはいかばかりだっただろう。

「女の子は平然と言いました。『あーちゃんひとりだけがこまってるなんて、そんなのおかしいよ』『みんなのために、だれかひとりがくるしむのなんて、まちがってるよ』。確かにそうなのかも知れません。でも、そのために皆を苦しめるのも、同じくらい間違ってる。そう思ったあーちゃんは言いました。『みーちゃんだっておかしいよ』『わたし、そんなことしてほしいっておもったわけじゃない』」

 『あーちゃん』と『みーちゃん』。彼女たちは日頃から互いをそう呼び合っていたのだろう。彼女たちの繋がり、その深さを、呼び名は何よりも強く表していた。

「みーちゃんはきっとショックだったのでしょう。あーちゃんのためを思ってしたことなのに、そのあーちゃんから拒絶されたことで、みーちゃんは暫くあーちゃんに口をきいてくれませんでした。けれどあーちゃんは間違ったことを言ったつもりは無かったし、いつかはみーちゃんも分かってくれて、そうすれば二人は仲直りできると思っていたのです。そう、一年遅れてみーちゃんが小学校に上がる、その時までは」

 そこで一度ためらうように、杏が唇をぎゅっと噛み締める。それは話の核心に触れることへの緊張感からか、それとも。

「あーちゃんが二年生になっても、クラスメイトからのいじめは裏でずっと続いていました。あーちゃんは時々学校を休んだり、行けても保健室までだったりで、そのままだと不登校になっていたかも知れません。音楽教室にも怖くて行けなくなって、お父さんやお母さんには毎日のように『わたし、しにたい』『しにたい』とばかり言っていました。そんな時です。一年生になったばかりのみーちゃんが学校で、事件を起こしてしまいました」

「事件?」

「あーちゃんをいじめていた主犯格のグループ、その子たちがやっていたことをビデオでこっそり撮影したみーちゃんは、それを学校中の教室、職員室にばら撒いたのです」

 あまりの衝撃に、真由は息をするのをしばし忘れてしまった。小学一年生にしては反撃の方法が狡猾すぎる。けれど彼女ならば、それもあり得る。そのとき真由が抱いたのは、みーちゃんの行動に対する奇妙な得心と、それを遥かに上回る畏怖の念だった。

「こうなるともう、学校の先生たちも周りの大人たちもあーちゃんの問題を無視できなくなりました。いじめっ子たちは校長先生に呼ばれて酷く叱られ、その子たちのお父さんやお母さんがあーちゃんの家にまで来て何度も謝ってくれました。担任の先生までごめんなさいと言ってくれて、クラスにはあーちゃんの味方をしてくれる子が何人も出来ました。けれど、みーちゃんがやったことはすぐに知れ渡り、そしてみーちゃんは逆に他の大人たちから叱られてしまいました」

 どうしてそんなことに、などとは真由も思わなかった。仮にあーちゃんをいじめていた側を悪とするならば、彼女らに対してみーちゃんがやったことは正義でも何でもない。悪をもって悪を制する。漫画か何かなら美談のようにして終わる話であっても、こと現実においては社会のルールがそれを許してはくれない。

「あーちゃんは申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。でも、みーちゃんが良くないことをしたというふうにも思っていて、だからみーちゃんに何て言えばいいのか分かりませんでした。ある日久しぶりに音楽教室で会ったみーちゃんに、あーちゃんは思い切って言いました。『もうこんなことやめようよ。やられたことをやり返したって、みんなイヤな気持ちになるだけだから、みんなで仲良くすることを考えようよ』と」

 喉が小刻みに震える。指先は針金を通したように動かない。動作を拒否した瞼はすっかり凝り固まっていた。それでも先を問うその声は、勝手に真由の口から飛び出てしまう。

「それで、みーちゃんは……?」

「みーちゃんは言いました。『あーちゃん、みんなに染められちゃったんだね』『わたしの好きだったあーちゃんは、もういないんだ』。あの子にとって、みーちゃんにとって集団とは、個人をぐしゃぐしゃにして自分たちの内側へと溶かし込む坩堝(るつぼ)みたいなものでした。そこに溶け込ませようとする者も、自ら溶け込もうとする者も、み-ちゃんは許せなかった。あーちゃんは『みんな』に壊された。『みんな』のせいで、あーちゃんは自分が壊れる道を選んだ。みーちゃんはそう考えたのです」

 胃液が逆流しそうになるのを真由は必死に堪える。生理的嫌悪感。理屈では説明し切れないみーちゃんのおどろおどろしさが、ただ聞いているだけの自分すらをもずぶずぶと蝕んでいく、そんな感覚が確かにあった。

「その日以来、あーちゃんとみーちゃんが会話をすることはなくなりました。あーちゃんは音楽教室を辞め、それからはクラスの子たちとも、いじめていた子たちともそれなりに仲良く過ごすようになりました。クラスの誰もがかつて起こったトラブルなんて綺麗さっぱり忘れ去り、あーちゃんが処世術を覚えて昔みたいに誰かに怯えて過ごすこともなくなった頃、あーちゃんとみーちゃんは小学校のマーチング部で再会を果たしたのでした」

 めでたしめでたし、とはならなかった。その話に相応しい結びは容易に思いつくことが出来る。

「そして現在に至る、ですね」

「そう。次に会った時、アタシはアイツを水月、向こうはアタシを小山先輩、って呼ぶようになってた。それがあーちゃんとみーちゃんの、アタシと水月の物語。それからアタシはずっと水月を警戒してた。集団の輪に入れば、きっとアイツは牙を剥く。ところ構わず手段を選ばず噛みついて、必ず集団をズタズタにする。そういう奴だって知ってたから」

「杏先輩はそれを日向先輩やちなつ先輩に、何度も忠告してたんですよね」

「絶対に絶対とまでは言えねえから、遠回しな警告だったけどね。真由ちんに『水月に気い付けれ』って言ったのもそう。何より水月は、アイツは真由ちんみたいな子には必ず目ぇ付けるはずだって、そういう傾向があったから」

「傾向?」

「そう。集団の内側からじゃなく、外側からものを見て働き掛けられる人間。それには物理的な意味で外から来た人間の方が期待値が高い。アイツはそう考えてた。だから他県からの転校生とか集団に染まらないタイプの子を見かけると、水月は片っ端から声掛けてたの」

 それを聞いて、真由の中に一つの解が浮かび上がる。秋山楓。彼女は水月と親しくしていた時期があった、と言っていた。それは多分、楓がかつて他県からの転入生であったことを水月が誰かから聞いて知ったからだ。水月は集団の内に属さない人間性を楓に求めて接近を図り、やがて離れていったのだろう。楓が己の期待に値しない人間だと見切りをつけた、その時点で。

「アタシや水月の言う『外の目』ってのは、つまりそういうこと。客観視、って言っちゃえばすごく陳腐に聞こえるけど、でも実際に自分たちのことを完全に客観的に見れる人間ってそうは居ないっしょ?」

「っていうか、居るんですか? そんな人」

「まさか」

 杏はふるふると、枕の上で首を揺する。 

「誰でもいろんな人間関係の中に生きてる以上、自分の損得勘定や思い入れで判断したり、自分の立場を決めてそこを軸にして動いたりする。多かれ少なかれ、ね。完全な中立で、完全な独立。そんなことは絶対にあり得ない。そのあり得ないものをずっと、アイツは求めてる」

「何のために、ですか」

「そこは分かんない。けど多分、水月は知らしめてえんだよ。私ら集団の内側にいる人間に、お前らのやってることはこんなに無様でみっともねえ、ダサい馴れ合いなんだ、ってさ」

「水月ちゃん自身が、その内側にいるにも関わらず?」

「そう。今のがまさに真由ちんの持ってる『外の目』ってやつ」

 何となしに口をついて出た真由の一言に、杏が強い反応を示す。

「完全な客観視なんてあり得ない。それは水月だって分かってるはず。それでも水月がそこに拘るのは、自分が内側の人間である以上、どうあがいたって結局は内ゲバにしかならねえから。だから水月はずっと待ってた。外側の視点を持ちながら集団の中に入って、内側から集団そのものを変えていける力を持ってる、そういう人間を」

「それが、私?」

 こくり、と杏が無言で頷く。それを鵜呑みにする気には全くなれなかった。自分はそんな大それた人間じゃないし、そもそも言われるほど客観的な思考の持ち主でもない。自分なんて、ただの音楽好きな転校生。それだけでしか無かったはずだ。

「ところがそうじゃねえんだよ。ただ外から見てるだけじゃダメなの。それじゃ単なる傍観者でしかない。外から見てギャーギャー言うだけの人間なんて、水月からすりゃゴミッカスみてえなもん。人を動かすにはそれに見合うだけの力が要る。人を変えるにはそうさせるだけの何かが要る。自分でも気付いてねえと思うけど、そういうものを確かに持ってる真由ちんだからこそ、水月は真由ちんのことを特別視してんだよ」

「いまいちよく分からないんですけど……力っていうのは、具体的に何なんですか」

 怪訝を超えて混乱の域に達しつつある真由の問いに、杏は小さく息を吸ってから答え始めた。

「まず当たり前に、その集団の中で一目置かれる能力があること。真由ちんは吹部の中でも上から何番目ってくらいに上手い、いや上手くなった。ユーフォのトップはちーちんだけど、もしちーちん以外の誰かがトップ張るってなったら、吹部のみんなが全員一致で推すのは間違いなく真由ちんだよ。別に楽器の上手さに限らず、他の能力でも良いんだけどね。それと、人に刺さる何かを持ってること。どれだけ能力があったって、心に何にも響かねえ話なんて誰も聞いちゃくれない。良い意味でも悪い意味でも、人を刺せる人間にはそれだけ無視しておけない存在感っていうのがある」

 杏の説明は真由の想定の遥か斜め上をゆくものだった。それが自分のことを言っているのだと意識すればするほど、なんだか杏の手で自分をばらばらに解剖されているみたいでひどく落ち着かない。客観視というならそれこそまさしく、真由は杏の客観によってその人間性を裁定されていた。それが合っているか否かではなく、ただ純粋に他者から下される評価というものに、真由はすっかり脅えてしまう。

「それだけの影響力があったら普通、部の中心的存在になったり、ちーちんみてえに幹部になったりするでしょ? けどそうじゃない。どっか遠巻きにものを見ながら、うっかり近付いた人の心に深く刺さって、その人をガラっと変えちゃう。そういう人間が一人でも集団の中にいると、集団そのものがどんどん影響されて変わっていく。言い方は少し悪いけど、そういう『毒』みたいなもんを真由ちんは持ってるの」

「毒、ですか」

 その言葉の意味するところを真由はしばし考え込む。毒。そんな剣呑なものを自分が持っているという杏の言い分は、率直に言えば認め難いものがあった。

「でも水月ちゃんたちの独立に、私は一言も声を掛けられませんでしたけど。もしも先輩の言う通りなら、いの一番に私を引き込もうとする筈なんじゃないですか?」

「そこがアタシにも分かんないんだよね、アイツが何を狙ってんのやら。でももしかしたら水月にとって、今回の騒動はアイツの本当の目的を果たすための手段か、あるいはただのエサなのかも知んない」

「エサ……」

「ま、それはアタシの何となくの勘なんだけどさ。でももしそうだとすると、水月がこっち側に復帰する子を引き留めずに放置してんのも、アイツの目的がそこには無いからなのかもね。何にせよ一人でも多く引き戻せるんならその方が、アタシらとしてはありがたい限りだけど」

 アタシら。何気ない杏の言い回しは限りなく、彼女がちなつ側の人間であることを証明していた。そしてそれと同時にふと、真由はあることに気が付いてしまう。

「どしたの真由ちん?」

「あ。いえ、その、何でも」

 うっすらと浮かんだその思考を、真由はひた隠しにする。杏はちなつ派、いやひいては体制派と呼んで良い立場だ。そんな人物にこんなこと、言えるはずがなかった。

 「引き戻せた方が良い」だなんて、本当に言い切れるのだろうか。嫌だというならそのままにしておく方が、その子にとってもちなつ達にとっても、実は良い結果をもたらす場合だってあるのでは? そういう考えが、杏の話を聞けば聞くだに、ヘリウムを注入した風船のようにどんどん膨らむ一方だ。集団とは何なのか。個人とは何なのか。それと向き合っていたようでいて、その実もやもやするばかりの思考に解を与えることを、自分は知らず知らず先送りにしていたのかも知れない。ひとたび答えを下せばそれは、ちなつや日向にとってとてつもなく不都合なものとなり得てしまうが故に。

「ふぅん」

 考え込む真由の表情から何を読み取ったか、杏が意味深に口角を吊り上げる。

「な、何ですか?」

「べぇっつにー。ただ思っただけ。真由ちんはやっぱ真由ちんなんだな、ってさ」

「はあ」

 アタシらとは違う、ってね。そう呟いた杏の意図が最後まで、真由にはちっとも分からなかった。けれどそれで良い、と今は思える。自分一人の力では全てを解明し切れない、自分自身の存在理由。それはきっと今みたいに多くの他者を通じて少しずつ気付かされ、あるいは与えられるものなのだと、そんな風に感じたから。

 

 

 あの後は雑談めいた話を少ししたぐらいで、ほどなく杏はぐっすりと寝落ちてしまった。日頃は子供っぽく振る舞っていても、彼女にはパートリーダーとしてトランペットの子たちを指導する重責もあれば、勉学に励み進路に臨む学生としての本分もある。その小さな体に背負わされたものは幾つもあり、そのうちの一つに水月との因縁があるのだろう。睡魔に意識を奪われる間際、彼女はこう言っていた。

『水月と仲直り? 出来るワケねえよ。アタシとアイツはもう全然違う方向に進んでいって、ぜんぜん違うところに立っちゃった。どっちが良い悪いって話でもねえし、それにどうやったって、昔みたいには戻れない』

 過ぎ去りゆく時の中で、人は絶えず変わっていく。それは周囲の関係をも巻き込んで。かつて深く繋がり合っていた者同士も時間の経過と共に離れたり、それまでとは違う関わりのかたちになってしまったりすることだってある。例えどんなにそれを望まなくとも。人間とは、人生とは、そういうものだ。雲間から零れるおぼろげな月明かりを浴びながら思索を繰り返していると、どうしてもそんな達観めいた考えが頭の底から滲み出てしまう。

 寝つけぬままベッドから這い出し、窓辺から見える近くの一軒家にそっと視線を注ぐ。そこはついさっき杏から教えられた、水月の家。もうずいぶん遅い時刻だというのに、二階の一部屋にだけ煌々と明かりが灯っている。あの部屋に水月がいるのだとしたら、そしてこんな時間まで起きているのなら、彼女はいま何を思っているのだろう。吹部の分裂。組織の瓦解。それらの大混乱を引き起こした水月の本当の狙いとは、一体何なのだろう。

 そして自分は、何をどうしたいのだろう。真由はなおも考え続ける。これまでいろんな問題にぶち当たり、その度にいろんな人の話を聞いていろんな人の傍に立って、自分はそれらのことにばかり追われてきた。だがいずれの場面においても、その真ん中に自分は立っていなかった。それこそが水月の言う『外の目』の本質なのかも知れない。曲北吹部に、この問題に、自分はどう関わるか。その視点が真由には欠けていた。あるいはそうあることを水月は望み、ともすれば自分自身すらも、自分を責任無き傍観者の立場に置いておきたかったのかも知れない。

 けれど今は、少し違う。

 誰が何と言おうが、自分は間違いなく曲北吹部の一員。ならばこれは他人事では無く『自分事』として取り扱うべき問題なのだ。その答えはあとちょっとのところまで出掛かっている。それが他の誰かにとってどんなに不都合な回答でも。別の何かの火種となってしまおうとも。真由が真由としてそこに存在する限り、答えを出さずにいることは出来ない。自分が本当に求めているもの、それを心の底から貪欲に求めたいと思うのならば。

 

 

 

 翌朝、目が覚めてから杏とはこれといった何かがあった訳でもなく、とりとめの無い会話に終始した。一家揃って朝ご飯をいただいて。柚を交えて三人で音楽談議に花を咲かせ。そうして昼を迎える少し前には来た時と同様に、杏の父が運転する車に乗って真由は小山家を後にした。玄関先で杏の母や祖父母に見送りしてもらったとき、奥の部屋からひょこりと顔を覗かせた曾祖母の少し寂しげな顔が、真由の心を強く捉えた。

『なんとめんけぇおじょっこだなや。どごさ行くのよ? バンバさみやげっこ、買って来てけれな』

 もしかして曾祖母は、自分のことを孫か曾孫だとでも思っていたのかも知れない。さよならおばあちゃん。誰にも聞こえぬほどの小声で別れを告げた真由に、曾祖母は慈しむような笑顔を向けてくれた。例え彼女が明日には真由のことを忘れてしまうのだとしても、曾祖母が見せたあの皺深い微笑みを、真由はきっと忘れない。

「じゃあ真由ちん、明日からの部活もよろしくねーん」

「お世話になりました」

 能天気に別れのあいさつを告げる杏と父をきちんとお辞儀で見送って、それから普段と変わらぬ足取りで共用階段を上がり、ちょっぴり新鮮な気持ちで自宅の玄関ドアを開ける。おかえり真由、といういつも通りな母の調子に、真由は強い安堵感を覚えた。

「ただいま」

 そう言える自分がここにいる。自分を形作っているものは、自分一人じゃない。ここには父がいて母がいて、ちなつや日向がいて、泰司や雄悦や玲亜がいて。自分を取り巻くたくさんの人たちの中にはもちろん水月だっている。その人たちに自分というものをほんのちょっとずつ定められて、黒江真由という人間は存在しているのだ。

「どうかした?」

 少し怪訝そうに母がこちらを窺っている。何でもないよ、と返事をして真由はバッグを玄関先に降ろした。ゆうべ心を決めてからというもの、時を経るごとに胸の内を覆っていたもやが一つずつ晴れてゆくのを感じる。それを言祝ぐかのように、蒼に深まった空は雲一つなく悠々と、見渡す限りに広がっていた。いずこからか漂う稲穂と金木犀の香りが、秋の深まりをふわりと真由に教えてくれた。

 

 

 

 

「独立組、残り十四人、か」

 あれからおよそ十日。ちなつ達の度重なる説得により、残っていた独立組のさらに半分以上が体制派への復帰を表明していた。けれどちなつの表情に余裕などは全く無い。期限までは今日を除いても後三日。そのたった三日間で、曲北はこの騒動に何らかの決着をつけなければならないのだ。残るは水月を筆頭として、独立組の立ち上げに主導的な役割を担ったとみられる二年生数名、そして彼女らに恭順を誓う一年生たちがおおよそ十名、という構成になっている。

「まあ残るべくして残った連中、っつう感じだね。こんだけ時間も回数も掛けて説得を重ねてきたってのにアイツら、テコでも動かねえって態度だし」

 はー、と日向が額に手を当て、和香やゆりも悩み果てたように俯く。本日の練習が終わった後も、対策会議はいつものメンバーで行われていた。これまでは一人説ければ何人かは芋づる式に引き戻すことが出来たのだが、さすがに現在もなお残る主導グループの面々は岩盤のごとき堅固ぶり。生半な説得など到底通用するものではなく、中には完全なる没交渉に陥っているケースもあるぐらいだ。

「これ以上は個別説得も限界でねえが? どっかで妥協するか何かして、連中の方針そのものを変えさせるようにさねえば、文字通り話になんねえべ」

 雄悦の意見は確かに的を射ていた。ちなつ達の説得とは、とにかくこっちの熱意を粘り強く伝えることと、個々の要望を聞き入れやすい体制づくりの機会を設けることを確約する、というやり方だ。これにより半分くらいは情にほだされ、もう半分ぐらいは新体制への希望を持って説得を受け入れてくれたのだが、残る十四名にその手は全くと言って良いほど通用しなかった。

「永田先生も説得してるって話だったけど、そっちはどうなってんの?」

「全然ダメだって。やっぱ連中、上からモノ言われるのは大っ嫌いって感じだから。むしろ逆効果になってるのかも知んねえ」

「そっかぁ。まあ、ちなつ達の話ですら全然聞かないぐれえだしなあ」

 期待に沿わぬちなつの返答に、ゆりががっくりと肩を落とす。

「マーチングの練習もそろそろ実害ってレベルで支障出始めてるしな。フォーメーション組むときに前後の目測がチグハグだと合わせにくいし、こっちでもちょっと指導し切れねえ」

 和香が悩ましげに頬杖をつき。それを見るちなつもまた青白い吐息を口からこぼれさせる。今年のマーチング、永田が書いた当初のコンテは日本神話をモチーフとして楽曲と衣装を揃えたものであり、全員の動きもそれを強く意識したものとなっていた。当然ながら全員参加を前提としたそのコンテは、メンバー同士の緻密な連携を前提として成り立っている部分も数多くある。

 今のところの練習では欠けているポジションを『本来はそこに人がいる』ものとして組み立てているのだが、このまま本番を迎えるとそこにポツンと穴が空いてしまうことになる。何より前後のメンバーが動きを合わせる上で目安となるものが存在しないため、全体として見ればズレや乱れと捉えられかねない違和感を生じさせていた。

『もし復帰が間に合わねえば、そん時は修正コンテを出す。それで練習がギリギリ間に合うのが交渉期限までだ。あとは一日だって余裕は無え』

 修正コンテ。それはつまり、復帰の見込めないメンバーのことは諦める、という最後通牒。このことはもちろん独立組の十四名にも通達済みである。彼女らは「それならそれで勝手にすれば良い」と、まさにけんもほろろの姿勢を崩さない。修正案がどんなものになるかは分からないし、それが永田の当初構想していたクオリティとほぼ同等かそれ以上のものである保証もどこにも無かった。

「もうさ、早めに決断した方が良いんでねえの。こっちだって練習さねねえんだし、東北だって絶対抜けられるって決まってるワケでもねえんだしよ」

「諦めんの早いッスよユウ先輩。あと三日あるならギリギリまで粘ってみませんか? 私、仲良かった子が一人いるんで、こうなったらダメ元で説得に行ってみるッス」

「奈央の気持ちは分かんなくもねえけど、今はやめとけ。独立組もかなり意固地になってる。下手に色んな人間が出て行けば数で潰しに来てるって思われて、最悪交渉打ち切りにもなりかねねえ」

「だけど現状、荒川部長や中島先輩があれこれ言ってもほとんど話し合いになってねえんですよね。私もお姉ちゃんと一緒で何とか出来るならしたいって思ってますけど、ここまでどうしようもねえんじゃ、もういっそ部員全員で総当たりするとかしか、」

「だから楓、そのやり方が何より独立組の反発を買ったんだって。ある意味でいちばんワリ食って来た子たちだし、私はその子らの気持ちもちょっとは分がんなくもねえから、強硬策には反対」

「でも今からじゃあ、じっくり説得してるような時間もねえすよ。いい加減諦めた方が良くねえすか?」

 侃々(かんかん)諤々(がくがく)の激論は、なれど一向に収拾つかず。個々の焦りと苛立ちも相まっていよいよ八方塞がりの様相を呈しつつある。このままではどうするかを決める前に、残り三日を食い潰してしまいかねない。そんな状況を前にして、いきおい募る焦燥感は各々の意見を先鋭化させ、肝心の結論を遠ざける一方だ。

「どうすんの、部長?」

「どうするっすか、荒川先輩?」

「どうしよう、ちなつ?」

 となると当然、最後の審判を部長であるちなつへ委ねるべく、皆の声がそこへ収斂する。充分過ぎるほど悩み、苦渋の表情を浮かべたちなつが貝の如く閉じていた口をとうとうこじ開けようとした、その時。

「全員静かに!」

 パシン、と大きく日向が手を鳴らした。一瞬で黙り込む一同。焦れた熱が失せ、場はシンと静まり返る。

「いくら部長ったって、そう簡単に答えなんか出せるわけねえべ。みんなと同じようにちなつだって毎日ウンウン唸りながら必死で考えてる。その上で出来ることを一つずつ、今日までやってきたんだ。今ここで焦ったって良いことなんか何も無えよ」

「けど日向、」

「和香の言いてえことは分かる。その気持ちもな。だけどそれだけじゃ、この状況は動かせねえ」

 きっぱりと日向に言い切られ、和香は再び押し黙ってしまう。あるいはそうなるべく、日向は機先を制して和香の発言を封じたのかも知れなかった。

「とにかくもう遅くなっちまったし、今日はこれで解散にして、明日またどうするか話し合おう。それまで一晩、それぞれ案を練ってくるべ。結果がどうなろうが少しでも後悔さねえように、さ」

 最後は柔らかく諭すような日向の口調、それによって一同は渋々ながらも納得させられたようだった。とは言え、希望を見出せる余地がほとんど無いことに変わりはない。たった一晩で何が出来るというのか。誰もがそう思っていたであろうことは、彼らの顔を見れば一目瞭然だった。

「……じゃあ、お先します」

「お疲れさまです」

 鞄を背負い、雄悦たちはめいめい帰途に就いてゆく。自分も帰ろう。楽器を片付け鞄を背負った真由は、まだ残っていたちなつと日向にあいさつをしようと近付いた。

「すみません、お先に失礼します。お疲れさまで――」

「真由ごめん。ちょっとだけ、私さ付き合ってくれる?」

「え? はい、別にいいですけど」

 そう返事をすると、ちなつと日向は何かを確認するかのように頷き合った。その流れはひどく奇妙で、真由は何とも落ち着かない気分にさせられる。

「じゃあ私はお先。真由ちゃん、よろしくな」

「はい、お疲れさまです、日向先輩」

 こちらが別れの挨拶を言い切るよりも早く、鞄をひったくるようにして日向はさっさと音楽室を出て行った。キンと耳鳴りがするほど静まり返った音楽室、そこには真由とちなつ、二人だけがぽつんと取り残される格好となった。

「それであの、何の用事ですか?」

「んー、なんか外の空気吸いてえ気分。ちょっと外さ行こうよ。話ならそこでも出来っからさ」

「ええっと、まあ、分かりました」

 はぐらかすようなちなつの口ぶりには、明らかに何らかの思惑が浮かんでいた。真由はさらに嫌な予感を加速させる。さりとて今さら帰るなどと言い出す訳にもいかず、結局はちなつに付き従うより他は無かった。

 

 

 中央棟から連絡通路を抜け、教室棟の一角から内履きのまま外へ出る。秋も深まって来たために外はもう真っ暗で、機械室を含めると四階建ての教室棟がそこにのろりとそびえ立っているさまは、どうにも薄気味悪い。どうしてちなつはわざわざこんなところを話し合いの場に選んだのだろう。真由はこっそりと首を傾げつつ、「んーっ」と疲労を抜くように伸びをするちなつを見やった。セーラー服の裾から覗いたおへそのくぼみが、何とも言えず艶めかしい。

「悪りいね、こんなとこまで付き合わせちゃって」

「いえ、それは別に」

「それにしても、空気が冷てくて気持ちいいな。もう十月も後半だもんな」

「ですね」

 本当は寒いと言った方が良いぐらいの体感気温なのだが、ここへ連れ出した張本人であるちなつにそれを言うのは何だか申し訳ない。そう思いつつ、真由は後ろに回した手をそっとすり合わせる。

「もう遅い時間だし、あんま長く引き留めるつもりはねえから、結論から言うで」

「はい」

「真由。水月んとこさ行って、直接話して来てもらえねえかな?」

 ちなつがとんでもないことを言い出した。仰天した真由の瞳孔がキュウとすぼまる。

「は、は、はい?」

「だから、真由に水月んとこさ行って欲しいって――」

「あの、それは分かりました。そういうことではなく、どうして私が水月ちゃんと?」

「ずっと考えてたんだ。どうすれば独立組の子らを説得できるか。自分なりに出来ることも全部やって来た。けど水月や玲亜や残りの子らは私の話なんか聞いちゃくんねえし、あれ以上の話もしてくんねえ。私じゃダメなんだよ。もちろんヒナでも、和香でも」

「だったら私なんか、なおさらダメだと思うんですけど」

「そんなこと無え。前にも言ったけど、水月は真由の話なら聞く。それと同じように、真由さだったら水月が本当は何を求めてんのか、何のためにこんなことしてんのか、それをアイツは話すんじゃねえかって気がする」

「それは、どうなんでしょう」

 曖昧な返事をしつつも、真由はその裏側で考え込む。先日の杏とのやり取り、その中で杏は真由が持っているものについて語ってくれた。もちろん自分自身、未だに半信半疑なところはある。単に杏が見込み違いをしているだけで、実は自分に対する水月の関心などとっくのとうに失われている、なんてことだってあり得るかも知れない。けれどもしも水月が自分の持っているらしき『外の目』とやらを認めていて、未だ何かしらの関心を抱いているのだとしたら、その場合は。

「今まで連中と面談を重ねてきて、水月以外の子らもかなりの部分で水月の思想に共鳴してる、って感触がある。あれを覆すのは並大抵のことじゃねえ。だからここに来て交渉は一進一退になっちまってる。みんなからアイデア募ったって多分、これってものは出て来ねえと思う。残り日数もあと僅かだし、頼みの綱はもう真由しかいねえんだよ」

「それってもしかして、日向先輩から言われたんですか。そんなふうに」

「その通り」

 真由の指摘をあっさりと認め、ちなつは固い表情で俯く。

「ヒナも、水月とやり合えんのはもう真由しかいねえって考えてる。水月との話次第では、真由だけがこの状況をどうにか動かしてくれるんじゃねえか、って」

「そんなの無理です。大体、吹部がどうなるかが私一人の行動で決まるだなんて、そんなこと」

「そこまで重く考えなくていいって。私は水月を説得してくれって言ってんじゃねえ。もちろん解決して来いなんてことでも無い。ただ話をしてきて欲しい、ってだけなんだ」

 正面に立ったちなつがこちらの肩をがっちりと掴んでくる。力の籠った指先が食い込んで、少し痛い。

「結果がどうなろうと私は真由を責めたりしねえし、他の子さもそんなこと言わせねえ。このことだって私とヒナ以外の連中には秘密にしておく。明日部活始まったら真由はすぐに水月んトコ行って、それでアイツと話してくれさえすれば良いの。私らのことも吹部のことも、なんも考えねえったって良い。直接話をして、そんで真由の思ったままをその通り、水月に言ってやって」

 お願い。そう言って頭を下げたちなつの足元にぽたり、と雫が滲む。己の無力。報われぬ労力。そうした不甲斐なさを今、ちなつは噛み締めている。後輩に頼らざるを得ないこの状況に忸怩たる思いでいる。それを自分ごときがどうにかしてあげよう、などと考えるのはおこがましいことだ。けれどだからと言って何もせずにいられるほど、憔悴したちなつを前にして何の感情も抱かぬわけでは無かった。

「分かりました。その、話すだけで良いなら、何とかやってみます」

「――ありがとう」

 ぎゅむ、とちなつが抱き着いてきた。「わひゃあ」と変な声を出しかけた真由は慌ててそれを押し留める。

「真由が居てくれて良かったってホント思ってる。なのにごめんな、何の力にもなれねえどころか、こんな面倒ごとまで押し付けちまって」

「いえ、大丈夫です。大丈夫ですから。それよりあの、いくら女同士でもこの体勢はまずい、っていうか」

「あ、ごめん。つい」

 どぎまぎする真由からすぐに身を離し、ちなつは今さら恥じらうようにしばし視線を泳がせた。ブドウみたいに爽やかな彼女の香り、その残り香が自分の襟元からほわりと漂うせいで、顔がかっかと熱くて仕方ない。

「へば悪いけど頼むで。練習始まってすぐなら水月もどっかで個人練してると思うから、そん時を狙って一対一の方が話しやすいと思う」

「そうですね……でも、水月ちゃんって普段どこで個人練してるんでしょう」

「さあ。私もヒナも、アイツが個人練してるところは見たこと無えんだよな。んだけど、少なくともここでは無えと思う」

「どうしてですか?」

「だってここ、私がふだん個人練してる場所だから。ってか、ここ以外でやってないっつうか」

 ああなるほど、と真由は思った。ちなつがいつもここで個人練をしているのであれば、ここに水月が来たことが無いと知っていたって当然の話だ。……そう考えた直後、脳から溢れ出すどろりとした違和感の塊。待て。何かがおかしい。咄嗟に真由は、背後にそびえる真っ暗な校舎を仰ぎ見る。

()した?」

 ちなつが不思議そうな顔でこちらを覗き込む。悪いがそれになど構ってはいられなかった。鉄筋コンクリートで形成された校舎の壁は高く分厚く、それに遮られれば如何に明るく芯の通ったちなつのユーフォと言えども、その音色がこの建物の向こう側にまでまともに届くことは無いだろう。例えばそう、真由がいつも個人練をしている連絡通路の屋上テラス。ここから教室棟をまるまる一棟隔てたあんなところへは、特に。

「先輩、いま、普段ここで個人練してるって言いましたよね」

「そうだけど」

「前に言ってませんでしたか? 春の時は眺めが良いところだ、って」

「うん。この時期は紅葉もまだだし、ちょっと殺風景だけどね。ほら、あそこ見て」

 ちなつは目の前に広がる裏庭を指差した。住宅街の通りに面するその先にあるのは、道に沿って植えられた何本もの広葉樹だ。

「春んなるとさ、あそこの桜が一斉に咲いて、辺り一面桜吹雪になるんだよ。それ見ながらユーフォ吹くのがすんごく気持ち良くて。それに夏は夏で西日が届かなくて涼しいし、冬の晴れ間にはちょっと寒みいけど空気がきらきら光るのがキレイで、って感じで年中楽しみがあるんだ。おかげで一年の頃からずっとここで吹いてるうちに、気が付いたらここでしか個人練しなくなってたんだよね」

 楽しそうに語るちなつを前に、真由の膝がガクガクと震え出す。ひと息吐いて吸うごとに呼吸がどんどん浅くなる。脇腹に滲んだ汗が氷の玉みたいに冷たい。ちなつの一言一言、それら全てが、これまで大前提として真由に張り付いていた絶対的なその認識を、ブルドーザーみたいな勢いで押し剥がしてゆく。

「だからちょっと意外に思ったんだよね。こっからあのテラスんとこまで私の音が届いてる、なんて思ってねくてさ。そっちからの音は丸っきり聴こえねがったけど、真由はあそこで個人練してるって言ってたもんな?」

 その通りだ。自分はいつもあそこで個人練をしている。だからこそ有り得ない。極限の動揺に攣りかけた顎を制するように手で口を押さえ、試しにぱくぱくと動かしてみてから、真由はちなつに問うた。

「先輩、『シシリエンヌ』って曲、知ってますか」

「『シシリエンヌ』?」

「そうです、フォーレの」

 フォーレ、ね。そんなふうに顎をつまんだちなつの顔つきを見て真由は悟る。彼女が次に、何と答えるかを。

「知っちゃあいるけど、木管とかピアノの曲だよな、あれって。それがどうかしたの?」

 その答えは完全に予想通りのものだった。そして、完全に想定外のことだった。なんてことだ。真由は今にも膝から崩れ落ちそうなほど、完膚なきまでに打ちのめされてしまう。真由? とこちらの異変を察したちなつの声も、もう耳には入らなかった。

 ちなつがここでしか個人練をしていないのなら、そして『シシリエンヌ』を知識としてしか知らぬのなら、この結論に間違いはない。いつものテラスで階下から聞こえていた演奏。毎日のように聴いていたあの美しい音色。明らかに部内随一と言えるほどの上手さと、それを冠するに相応しい人間。それらを真由は根拠らしい根拠も無しに、頭の中で勝手に結び付けてしまっていた。この目で見たわけでもないのに。ちなつがそれをあの場所で吹いているところを、実際確認したわけでも無いというのに。

 

 

 

 けれど、だと言うのならば、あれは一体誰だったんだ。

 ちなつだと信じて疑わなかった、あの流麗なユーフォの調べの持ち主は。

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日、放課後のチャイムが鳴ると同時に、真由にとって勝負の時がやって来た。

「あれ? 鞄忘れてるど真由ちゃん。部活さ行くんでねえの?」

「今日はその前にちょっと用事があって。じゃあね早苗ちゃん、また明日」

「お、おう。また明日」

 ポカンとしている早苗ら級友へ一方的に挨拶を告げ、真由は一目散に廊下へと出る。その目的はもちろん、この校舎のどこかで個人練をするであろう水月を探し出すためだった。

 管理の関係上、独立組の子たちが使っている楽器も平素は楽器室にて保管されている。水月はそこからケースごと楽器を集会ホールへと持ち出し、そこで支度をしてから個人練習を開始するはずだ。そこに自分は居合わせない方が良い。周りに人目の多いこの導線上では、水月は何だかんだと理由をつけて一対一での対話を避けようとするかも知れない。そう考えた真由は適当に教室棟の三階をうろついて時間を潰す。水月にとっての『敵』が多いこの階には、彼女もそうそう足を踏み入れない筈だ。放課後の雑踏、廊下の端から裏庭を見下ろす窓辺。そこに寄り掛かった真由はふと視線を落とす。その先にあったのは、ゆうべちなつと二人きりで話をしたあの場所だった。

 正直、今でもにわかには信じがたい。いつもテラスで聴いていたあの素晴らしい演奏が、ちなつのものでは無かっただなんて。けれど数々の傍証が真由に、この厳然たる事実を突きつけてくる。全てはお前の思い込みに過ぎなかったのだ、と真由をなじってくる。だがちなつで無ければ、では誰なのか。次に真由が思い浮かべたのは雄悦だが、しかし彼の演奏はちなつのそれと比べれば一枚、いや二枚は確実に落ちる。本人に聞かれたら気を悪くするだろうが、あの『シシリエンヌ』の物憂げな優雅さを吹きこなすのは雄悦の技量では到底不可能だと断言できる、それほどまでの差があるのだ。

 ……もうやめよう。際限なく惑い続ける己の思考を、真由はかぶりを振って打ち払う。こんなこと考えている場合じゃない。今すべきことは水月と話をすること。そしてその結果をちなつ達のところへ持ち帰ること。それだけだ。他のことは後でゆっくり考えればいい。それを態度で示すように、振り返った真由はもう後ろを見ることはしなかった。

 やがて、校舎のあちこちから楽器の音が聴こえてくる。時刻的にそろそろ練習前のミーティングも終わった頃。校内に散らばった部員たちが音出しを始めたのだろう。恐らくは、水月たち独立組も。そう思った真由はまず初めに集会ルームへと足を向けてみる。水月がどう動くかは不透明だが、そこに彼女がいないと分かれば一つ、それ以外の何処かで個人練をしているということが確定するからだ。

 かくして数分後。無事に集会ホールの前まで来たはいいものの、さてここからどうすべきか、と真由は立ち往生していた。

「どうにかして中の様子、見れないかな……」

 木製の戸に窓は無く、ここからでは室内を窺うことは出来ない。だが外から覗こうにもここは二階。忍者か何かならいざ知らず、壁面を伝って窓のところまで辿り着くことなど出来ようはずもない。となれば少し離れたところから注視して、ドアが開いた瞬間に中の様子を可能な限り観察する。今出来ることと言ったらせいぜいそのぐらいだ。

「こんなとこで何してるんですか、黒江先輩」

「ひゃあ!」

 急に真後ろから声を掛けられ、びっくりした真由はバネ仕掛けのように素早く振り向く。そこに居たのはユーフォのケースを手にした玲亜だった。

「今日も誰かと面談ですか?」

「あ、や、違うの。そうじゃなくて、ただみんながどんな練習してるか気になっただけ、っていうか……」

 これから自分がしようとしていることは、もちろん玲亜にだって知られない方がいい。真由は冷や汗をだらだら流しながらも必死に取り繕う。けれど玲亜はこちらの不自然な反応を一瞥すると、何かを読み取ったかのように小さく笑った。

「水月先輩だったら、この時間はもう個人練さ行ってると思いますよ」

「うえ、っと、そうなんだ」

「どこで吹いてるかは分かんないんですけどね。水月先輩、個人練は一人になれるとこでやりたいからって言って、いっつも私らとは別行動してますし」

「いっつも? 玲亜ちゃんは水月ちゃんと一緒に吹いたりしないの?」

「たまになら一緒になることもありますけど、そういうときは水月先輩の方から私のところさ来てくれるんです。なもんで、私の方からは一度も。けど無理に聞き出すのも良くねえかなって思ってるんで、先輩の個人練の場所もどんな練習やってるかも知らないまんまです」

 やはりと言うべきか、玲亜も水月の所在を把握しているわけでは無さそうだ。がしかし、「この集会ルームに水月はいない」という貴重な情報は得られた。しかも個人練をする際、水月は一人でいることが多い、とも。この分なら水月と一対一で話をするのもそう難しくはなさそうだ。個人練の時間が終わる前に彼女を見つけ出すことが出来れば、の話ではあるが。

「ありがとう玲亜ちゃん。それじゃあ私、用事あるから行くね」

「あ、黒江先輩!」

 ばいばい、と手を振りかけた真由を玲亜が呼び止める。

「何?」

「えっと、その、もしもの話ですけど、ひょっとして黒江先輩、」

 そこまでを言い掛けた玲亜はしかし、何故か口をつぐんでしまう。どうしたの? と追って尋ねた真由にしばらく惑うそぶりを見せた玲亜は、やがて何かを諦めたように寂しく微笑んだ。

「あの日、先輩に訊かれたこと。もう先輩らと吹くのイヤだと思ってるか、っていう」

「ああ、」

 それはずいぶん前、玲亜との面談で真由が最後にした質問だった。あれからたった一ヶ月ほどしか経っていないはずなのに、何だか遠い昔のことのように思えてしまう。それというのもきっと、曲北に来てから起こった出来事の一つひとつがあまりにも濃密過ぎたせいだ。

「あん時は私、いっしょに吹ける日はもう来ねえと思うって答えました。今でもそう思ってます。けど私、私は黒江先輩とだったら、またいっしょに吹きたいです」

 彼女のあまりの真っすぐさに一瞬、真由の肺は呼吸を忘れてしまう。それほどまでに、玲亜が繰り出した純粋な感情からなるその一手は、こちらの気持ちを丸ごと鷲掴みにしてしまうだけの確かな力を持っていた。

「ありがとう。私もまた玲亜ちゃんといっしょに吹きたいって、そう思ってるよ」

 投げ返された直球を受け止めた玲亜もまた、気恥ずかしそうにはにかむ。例え立場が違っていても、想いが同じなら、いつかは。真由はそう願わずにはおれなかった。

 

 

 

 ずっと早足で歩いていたせいか、すっかり息が上がってしまった。頬から垂れる汗を制服の袖で拭い、真由はボソリと独りごちる。

「……見つからない」

 教室棟の周辺。正面玄関先の前庭。体育館の裏手。遠いところから順を追って捜索範囲を狭めるように練り歩いてきたのだが、水月の姿はおろか吹いている音すら聴こえやしない。これでもまだ広い敷地の半分ぐらいしか回れていないという事実がまた、焦りと疲労を一段と色濃くさせる。郡内屈指のマンモス校。それは今まさに物理的な意味で、真由を苦しめていた。

 そうこうしているうちに水月も個人練を終え、集会ルームに戻ってしまうかも知れない。出来れば一人で居るところに行き合わせる形を取りたいのに。でなければきっと、水月は独立組の練習を盾にその場から動かない。そう考えるのは真由の勘とも言える何かだった。

 兎にも角にも、今まで捜索してきた範囲に水月が居ないということは分かった。着実に絞り込めてはいる。次はまだ行ってないところを重点的に探してみよう。そう思い角を曲がったところで、突如として真由の目前に黒い学ランが飛び込んできた。

「わわ、」

 一瞬視界に映った金色の細長い管。明らかに楽器の一部と思しきそれにぶつかりそうになった真由は、咄嗟の判断で身を捻って衝突をかわす。その拍子にバランスを崩して転倒しかけた真由の手首を、学ランの男子ががしりと掴んだ。

「大丈夫か」

「はい、ボーっとしててすみませ……あ。草彅、くん」

 そこにいたのはトロンボーンを抱えた雅人だった。うっかりして転びかけた自分を、彼がすかさず引っ張り起こしてくれたのだ。こちらが体勢を立て直すや否や、すぐに雅人は手を放してくれた。手首に残る圧迫感をさするようにして散らしつつ、真由はほうと安堵する。自分を助けた雅人の手指は、男子らしいごつごつとした感触だった。それが予想外に頼もしいと思ってしまったせいか、あるいは単に危機一髪な状況を脱したことからなる高揚感によるものか、いずれにしても自分の心拍がドクドクと早まっているのが分かる。

「何した。そんた急いで」

「ううん、何でもない――ん、だけど」

 最初はごまかそうとしたのだがしかし、はたと真由は思いつく。このまま一人で探すのには限界がある。いつぞや日向も言っていたが、限られた時間の中で成果を出そうと思うのならば、時には人手を頼ることだって必要だ。それがどんな目的であるかを明かさなければ、誰を探しているのかぐらいは言ったって差し支えない。それに雅人ならばあらゆる意味で、方々へ言いふらすような真似もしないに違いない。

「実は水月ちゃんを探してて」

「水月って、ユーフォの長澤か」

「そう。いま個人練に行ってるらしいんだけど、場所が分かんなくて。水月ちゃんが個人練してそうな場所、草彅くんは心当たりない?」

 真由のその問いに、雅人はしばし胡乱げな目つきでこちらを睨むばかりだった。知っているのかいないのか、どっちかだけでもハッキリさせて欲しい。そんな思いに駆られた指がぐりぐりと手の内を引っ掻いてしまう。

「黒江。前も訊いたけど、曲北のユーフォで誰がいちばん上手えと思う?」

 は? と真由は一瞬呆気に取られる。確かにいつぞやもそんなことを訊かれた覚えはあるのだが、ちなつ以外に誰がいると言うのか、とあの時は思っていた。いや、そもそも今はそんな話などしていない。やっぱり雅人は相も変わらず草彅雅人でしかなかった。だが一刻一秒を争う現状、彼に理解を求めて説き伏せる、その手間暇ですらも惜しいというのが偽らざる本音だ。

「ごめん。そういう話なら後にしてもらって、」

「分かんねえなら教えてやる。ついて来い」

 一方的にそう告げて、雅人はふらりと歩き出した。こんなことしてる場合じゃないのに。けれど何を言っても雅人が足を止めそうな気配は無い。その背中に何か確信めいたものを感じ、真由は黙って彼の後を追う。そのうちにとある楽器の唄声が、微かにだが聴こえ始めた。

 周囲の風景には見覚えがあった。ここは前に一度通ったことがある。このまま進めばどこに辿り着くか、それも知っている。そしてそこを調べることを、真由は知らず知らずのうちに避けていた。だって、そこにいるはずが無い。そこにいるのが彼女であるはずが無いのだ。彼女には、そんなことは不可能なはずで、だから。願わくば彼の進む先がそっちであって欲しくはないというのに、雅人の足はそこへ向かって躊躇なく進んでいく。

 階段を下り、ごみ捨て場から校舎の裏手へと回り、内履きのままで壁伝いに歩く。歩を進める度、音はだんだん鮮明になる。このフレーズは真由たちも普段行っている基礎練習用のコラール。そしてこの柔らかく響く特徴的な中低音は、真由の良く知る金管楽器特有のものだ。耳で拾った情報を頭の奥で判別しつつ次の角を曲がった時、とうとう真由は音の出どころを見つけてしまった。

 いた。

 秋風にさらりと揺れる黒い長髪。学校指定のセーラー服。彼女が胸に抱く金色の物体は、間違いなくユーフォだった。そして彼女が立っている場所。それは連絡通路の裏手であり、校舎の至るところから死角になる位置であり、屋上テラスのちょうど真下に当たるところ。譜面台を前にして光り輝くユーフォを抱き、彼女はそこに立っていた。風がやむと共に髪のなびきが収まり、隠されたその相貌が露わになる。

「水月、ちゃん」

 それは今の今までずっと探し求めていた人物。この場に最もいて欲しくなかった人物。彼女はまだこちらに気付いてはいない。ふう、と一度息をつき、楽器を構え直した水月が静かに息を吸う。その集中力と気迫は、ちなつのそれに勝るとも劣らぬほどの質感を周囲に放っていた。

「そのまま黙って聴いてろ。俺がなんであんなことをお前さ訊いたのか、すぐに分かる」

 角に身を寄せたまま、雅人が小声でそう告げてきた。真由は、聞きたくなかった。雅人の言葉も。水月の音も。聞いてしまえばこれまでの全てが呆気なく崩れ去ってしまう。積み重ねてきたもの全てが甲斐なく色褪せてしまう。それはあたかも撮り貯めてきたフルカラーの思い出たちが、セピア色に塗りたくられた記録写真となり果ててしまうのと同じように。

 水月のユーフォが奏で出す曲。それは紛れもなく、これまで何度もテラスで聴いた、フォーレの『シシリエンヌ』だった。

 

 



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〈20〉長澤水月

 管楽器の演奏を評価する際、そのポイントは幾つかある。

 まずは音程。高すぎたり低すぎたりすれば違和感があるし、音ごとにまちまちだと統一感が損なわれる。正しい音程、というのも言い方としては微妙だが、少なくとも調ごとに理想的な音程を保っていることは独奏において重要だと言える。

 次に音の形。これも平板であっては面白味がない。強弱は元よりテヌートやスタッカート、マルカートといった表現を緻密に使い分け、その旋律が持っている旨味とでも呼べるものを存分に引き出す必要がある。歓喜。憤怒。悲哀。愉悦。全ての表情は音のコントロールが細やかであればあるほど、より詳細に描き出されてゆく。

 他にも注意すべき点は幾つもある。けれど最も大事なのは、それらを駆使して音楽を『歌う』こと。極論するならば演奏とは、楽器を使って『歌う』ことなのだ。これが出来なければ、どんなに高度な技巧を張り巡らせてあっても音楽をしているとは言えない。それは真由が今まで読んだ数多の教本やプロ奏者が著したコラム、数多の指導者が残した言葉に余すところなく埋め尽くされていた。口で言うほど簡単なことではない。『歌う』という感覚が解らぬままに楽器を吹いている人など、全国どころかこの曲北にだって両手で数え切れないぐらいいるのだから。

「すごい……」

 思わずそう零してしまうほど、真由は完全に圧倒されていた。水月のユーフォは、まさに歌っていた。明るくくっきりとした花芯のような音色と、整然と揃えられた音程。ゆっくりとたゆたう音の一粒一粒が深みのある情感を豊かに描き出す。耽美な憂いをまとった旋律は、深緑の窓辺に佇む貴婦人を思わせる優雅さを密やかに湛えていた。鮮やかに駆け上がるパッセージ。色香さえ漂う緩急のつけられたメロディ。いつもと違って間近で聴いている分、音の厚みは数倍にも増して感じられる。びりびりと振動する骨に沁み込む麗しい音の波動。信じられないのは、これがあの水月の奏でた音楽であるということ。ただその一点だけだ。

「これで分かったろ、黒江なら」

 暗く湿った口調で雅人が確認を促してくる。それは水月がここにいることについてではない。この曲北で誰が一番上手いユーフォ吹きか。いつかの彼の問いに対する答えは、二人の目の前にあった。

「水月ちゃんがあんなに上手いだなんて、思いもしなかった」

 それはこの上なく率直で、残酷な評価だった。だってそうだろう。パート練の時の水月はいつだって、お世辞にも上手いとは言えない演奏ぶりだった。いや、それも今にして思えば少し違う。水月は、彼女はずっと、皆の前では下手であるかのように振る舞っていたのだ。本当の自分自身を覆い隠すように。そうでもなければこんな演奏、一朝一夕に出来よう筈もない。目の前に展開された水月本来の演奏は、あのちなつの音すら遠くに霞んでしまうほどの美しさで、豊かさで、上手さだった。

「まさかとは思ったけど、その様子じゃ本気で知らねがったんだな。長澤がここで練習してんの」

「それは……うん」

「黒江、いっつもこの上で吹いてんだろ。だからお前なら分かってるもんだと思ってた」

「全然分かってなかった。だって、」

 だって。その続きが一向に口から出てこない。思えば水月を探しているとき、何故ここを候補から外してしまったのか。それは恐らく、ここに居るのが水月であるはずが無いと、そう思い込みたい自分が心のどこかにいたからだ。ちなつでも雄悦でも無い。だがそれ以上に、水月という可能性はもっと無い。そうして自分は無意識のうちに本当の答えを遠ざけ、ありもしない幻の答えに縋ろうとしていた。それはユーフォ吹きとしてのプライドか。それとも、水月に対して内心レッテル貼りをしていた己の醜さを認めたくなかったからか。真由自身にもどちらなのかは分からない。

「俺が初めて長澤が吹いてんのを聴いたのは、去年の春だ。上手え奴は一通りマークしてたつもりだったけど、アイツだけが完全に想定外だった。最初は期待してたけど、人前で吹く時のアイツはいっつも下手くそで、わざとやってるってすぐに分かった」

 雅人の喋り声はぼそぼそと地を這うような低さだった。その唇の裏側に、彼が白い歯を食いしばっているのがちらりと見えた。

「ハラ立つだろ。あんなに上手く吹けんのに、それを周りの連中には徹底して隠してる。まるで自分の演奏は自分だけのものって言ってるみてえにな。俺にはアイツの考えが理解できねえ。上手え奴がそれに相応しいところに行かねえのは、自分の才能を無駄遣いしてんのと同じだ」

 苛立ちを隠そうともせず、唾棄するように雅人は言い放った。才能の無駄遣い。彼のその言葉の意味するところを、真由も連想せずにはおれない。水月にとっての音楽とはきっと、吹部の為のものでもなければ独立組の為のものでも無い。ともすれば聴衆や審査といった概念すら縁遠い。――楽しく音楽をする。水月の言うその地平に、自分たちなどは存在していなかったのだ。そう、最初から。

「でも、期待って? 水月ちゃんに対してってこと?」

 真由はふと沸いた疑問を雅人に尋ねてみる。ああ、と雅人はおもむろに俯いた。

「あのぐらい上手え奴なら、ひょっとして俺みてえにプロになりてえとか、それで()くても音楽を突き詰めてえとか、そういうふうに考えてるんじゃねえかって思った。そういう奴は俺の周りさは居ねがったがら。だから長澤なら、アイツなら、その」

 つんのめったように雅人が口を閉ざす。その続きは、何となく察することが出来た。

「水月ちゃんなら草彅くんのことを理解してくれると思った、ってこと?」

「……まあ、端折って言えば」

 図星を指された恥ずかしさからか、視線を外した雅人が珍しく頬を赤くしている。間近にいた真由でさえ僅かにそうとしか判断できないほど、おぼろげに。

「けど実際は丸っきり逆だった。俺はアイツみてえなことはしねえし、したくもねえ。アイツもアイツで俺のことなんかきっと解りっこねえ。俺と長澤で共通してんのは、音楽に関する能力だけ。そう割り切ってからはもうアイツに期待はしなくなった。今でも勿体ねえとは思ってるけど」

 その一言に、真由はかつての記憶を急速に巡らせる。

「それで草彅くん、あのとき私に言ってたんだ、勿体ないって」

 春の河川敷。あの日雅人がこぼした言葉を、真由は自分に向けたものだとばかり思っていた。けれどそうではなかった。雅人は多分、真由を通したその奥に水月を見ていたのだ。なれる奴がなろうとしないのは勿体ない。かつて水月に抱いたその思いを真由へと重ねた雅人は、だからあの時問うたのだろう。資質があるにも関わらず、お前は高みを目指さないのか、と。

「……長澤も吹き終わったみてえだな。俺は帰る」

 じゃりん、と雅人が靴底を擦らせ一歩後ろに下がる。演奏を終えた水月は楽器を下ろし、今は譜面台の片付けに掛かっていた。彼女と一対一で話をするなら今しかない。色々と衝撃的ではあったものの、このチャンスをもたらしてくれたのも雅人の案内があったればこそだ。

「ありがとうね、草彅くん」

「べつに。黒江に礼言われる筋合いなんて無えし」

 真由が小さく会釈をすると、雅人はプイとそっぽを向いてしまった。照れているのか。それとも気取っているだけなのか。そのひねくれっぷりに、やっぱり男の子なんだなあ、と真由は喉を震わせる。

「へばな、黒江。――お前がどこを目指すか知らねえけど、長澤みてえに自分の持ってるもんを誤魔化すようなことはすんなよ」

 去り際に雅人が放った忠告らしきものは少しだけ、耳に痛かった。そう。真由はこれまで自分の内にあるものや自分を取り巻くもの、それらをちゃんと認識していなかった。いや、より正しく言えば、しているつもりになっていた。

 自分だけのユーフォを持っていること。親が積極的に応援してくれること。人より抜きん出て上手いこと。音楽に熱中できる上質な環境と条件とが揃ってこの手の内にあること。全ては当たり前でも何でもない、『特別』なこと。それを十全に理解しているとは言い難い。けれど曲北に転校してから今日までにあった数々の出来事が、その自覚を少しずつ、かつ強烈に促してきた。だからこそ思う。自分自身が『特別』ではなくとも、今ここにこうしていられること、それ自体がもう既に『特別』なのだと。

「あれ、真由ちゃん?」

 角を曲がってきた水月がこちらに気付いて目を丸くした。相対した真由は水月の瞳を正面に捉え、切り出す。

「水月ちゃん。ちょっと話したいことがあるんだけど」

 

 

「それで何? わざわざこんなところに来てまで話したいこと、って」

 さっきまで水月が吹いていた場所。真由はあえてそこを対話の場所に選んだ。改めて訪れて気付いたことだが、中央棟から完全に裏手となるここの周囲には全くと言って良いほどひと気が無い。遠く離れた向こうの広場で野球部員たちがノック練習をする姿が、辛うじて見える程度だ。他に生徒のいる気配も無ければ、季節を彩る桜の木ですら周囲に一本も植えられてはいない。こんなわけで大変殺風景ではあるものの、誰かと一対一でじっくり話をする分には、ここは校内のどこよりも最適な場所だと言えるだろう。

「いつもここで吹いてたの、水月ちゃんだったんだね。すごく上手くてびっくりしちゃった」

「ああ、知られちゃったんだ。せっかく誰にもバレないようにしてたのに」

「だけど、本当は水月ちゃんも分かってたよね。吹いてたのが誰なのかまではともかく、それをずっと私が聴いてたってことは」

「もちろん。上の方からいつも真由ちゃんの音が聴こえてたからね」

 つまり水月は、頭上のテラスに真由がいることを知っていた。雨の日も風の日も、とまでは行かずとも、真由がテラスで吹く時にはいつでも足元から『シシリエンヌ』を奏でる水月のユーフォの音が聴こえていた。それはその逆もまた然り、というわけである。

「あんなに上手いのに、どうして普段はわざと下手に吹いてるの?」

「わざとじゃないよ。あの曲だけはずっと前から吹いてるから得意っていうだけで、それ以外の曲はまともに練習してないから、みんな知っての通りメタメタなの」

「嘘だよね。それ」

 ずぶり、と真由は水月を突き刺す。本心という名の棘で。

「同じユーフォ吹きだから分かるよ。水月ちゃんの演奏、細かいところまでしっかり表現できてたし音もすごくキレイで、何より歌ってた。ああいう演奏は単に一曲を毎日吹いてるからってだけじゃなくて、もっと底のほうから音楽そのものを理解してないと出来っこない。本当は他の曲だって、その気になれば同じくらい上手に吹けるんじゃないの?」

 真由の詰問に対し、水月はそれを歯牙にも掛けぬどころか、むしろあざ笑うかのように口角を歪める。

「だとしたら何だって言うの? 人にとって、見えないものは無いのと同じ。だからみんなの見ていたものが事実であり全て。ただそれだけだよ。真由ちゃんだって内心こう思ってたでしょ? 『長澤水月はユーフォが下手だ』って」

「思ってた。ついさっきまでは」

「あ、そっか。真由ちゃんにバレちゃった以上はもう、こんな言い訳も事実としては通用しないことになるんだね」

 くつくつ、と喉を鳴らす水月の悪びれもしない態度に、真由はどうにも不快感を抱いてしまう。けれどここはグッと堪えなければ。ともすれば水月はこの状況を有利にする為にこちらを挑発し、激昂させようとしているのかも知れなかった。

「じゃあハッキリ言うね。そう、私はその気になれば、どんな曲でも大抵はみんなより上手に吹ける。だって私は小さい頃からずっと音楽を、ユーフォをやって来たから。伊藤先輩よりも荒川先輩よりも、そして、真由ちゃんよりも」

「どのくらい小さい頃からなの、それ」

「既に誰かさんから聞いたかもだけど、私って幼稚園ぐらいの頃から音楽教室に通っててね。そこの先生が元々ユーフォ専攻だったの。最初はピアノだけだったけど、小学校に上がって少ししてからユーフォも習い始めて、今でも週に三日は通ってる。楽器は先生のを借りてるけどね」

 ということは、彼女のユーフォ歴は今年で八年、という計算になる。真由で五年、ちなつで六年というキャリアからすれば、水月のそれは一日の長どころの話ではない。それも専門家の薫陶を受けているのであれば尚更のことだ。

「自分と誰かを比べてどうこうなんて言いたくないんだけど、本音を言うなら同年代で私より上手い、って思える人にはまだ出会ったことが無いかな。でもそんなの全然大したことじゃないでしょう? こんな片田舎の、それもたまたま全国三連覇してるだけの学校っていう、小っちゃな括りの中での話でしかないんだから。日本中や世界中にどれだけユーフォを吹いてる人がいるのかって考えたら、私なんか井の中の蛙も良いとこだよ」

「それだったら私が保証するよ。プロの人とかを含めるんじゃなければ、私が聴いた中では水月ちゃんがいちばん上手かった」

「それ、全国を渡り歩いてきた真由ちゃんに言われると信憑性あるね」

 ありがとう。恭しい水月の態度はもはや嫌味とすらも思えない。謙遜を装った不遜。それは長年に渡り彼女が培ってきた技量と、それに根差した絶対的な自信によって裏打ちされている。

「でもどうして他の人の前ではワザと下手に吹くの? 水月ちゃん言ってたよね、楽しく音楽やりたいって。だったらそんなことしないで、普段から上手に吹いたら良いのに」

「じゃあ逆に訊くけど、どうして上手に吹かないといけないの?」

 人を食ったような質問返しに、真由はただ黙して水月の言葉を待つ。それは決して即妙な答えを思い浮かべられなかったからではない。

「合奏をするとき、みんなで音を合わせるよね。その基準ってどこにあると思う? 答えは『集団』。誰でも無いの。そこから外れた人だけが無条件に間違ってると言われて、集団に溶け込めた人は無条件に合ってると言われる。チューニングひとつ取ってもそう。基準音が四四〇ヘルツなのか四四二ヘルツなのか、それともそれ以外であるべきか。そういうことまで考えながら音楽をやってる人が、この曲北に何人いると思う?」

 真由の喉がグツリと鳴る。よほどの音楽好きならいざ知らず、学校の部活レベルであればそこまで拘っている人間などそうは居ない。尚もダンマリなこちらの様子を軽く窺ってから、水月はまた口を開いた。

「曲の中での一音一音にしたって、チューナーを使って針が真ん中に来れば良し、で終わってる人だっているよね。でもそれじゃあ合奏にはならない。自分の耳を使って音を合わせろ。これは真由ちゃんだって良く解ってると思う。じゃあ何に? っていう話になった時、それまで漠然としていた『集団』が急に実体を表すんだよ。まるで空に浮かんだ雲が凝集して一つの形を取るみたいに」

 尚も口をつぐみながらも、胸の内で真由は頷かされる。音を合わせる。それは集団音楽では至極当然のものとして言われることだ。『自分だけが正しい』という吹き方をしても、それは合奏をする上では単に輪を乱すだけの行為でしかない。歪んだハーモニー。不揃いな音。そういうものを生む人間は、時として犯罪者のように扱われてしまうことさえもある。

「誰も本当の正しさなんて見ていない。ただ何となくボンヤリとそこにあるだけの総意が、結局は正しいものとされてしまう。それが音楽的に間違っていたとしても、集団のエゴにしか過ぎないのだとしてもね。そういうの、すごく馬鹿らしいって思う。あんなものの中に、私の求める音楽の楽しさなんて存在しない」

「でもその為に指揮者が、永田先生がいるんじゃないの? 私たちだけじゃまとめ切れないものをまとめるために」

「そうだね。だからこそ指揮者には圧倒的な正しさが求められる。音楽的により良い方向へみんなを向かわせる、そのための指導と監督を尽くす。それが出来る人は名指揮者って呼ばれるし、そうでない人はただのメトロノーム代わりか、集団の前に立ってラジオ体操をしてるだけの無能者に過ぎない」

 水月の口調がだんだん辛辣さを帯びてきた。ここが正念場だ。ちなつがそうであったように、下手に反論すればたちまち水月のペースに呑まれてしまう。口を固く真一文字に結び拳を握り締め、真由は水月の放つ言葉の刃にただただ身を晒し続ける。

「だけど仮に凄腕の顧問だって必ずしも絶対じゃないし、そもそも部活や部員は顧問の所有物なんかじゃない。顧問が右と言ったら右。左と言ったら左。言ってることが合ってるかどうかなんて有無も言わせない。そういう部活も世の中にはあるって聞くけど、私に言わせれば愚の骨頂だよ。そんなのは素直に従う部員たちがいてくれるから成立してるだけ。従わない部員が多ければこの通り、呆気なく瓦解してしまう」

「永田先生のやり方がそういうものだった、ってこと?」

「まさか。今のはあくまで一例としての話」

 水月はやんわりと手を横に振って否定の意を示す。その裏で真由は考えていた。これと似たような話を以前、早苗とも交わしたことがある。部活の在り方は部員側のやる気次第。いかに顧問が優秀であっても、それに部員一人ひとりが応えなければどうしようもない。異なる二人の口から出たほぼ同一の見解。そこにある種の真理があることを、認めない訳にはいかないのかも知れない。

「私が姫小や曲北でわざわざ部活に入ってたのは、先生たちの音楽的な能力はきちんと評価してたから。全国トップなんて結果はどうでも良くて、音楽指導の内容が正しいものであれば、私はそれで良かった。楽しく音楽ができる場さえあれば、ね。でもそれはあくまで音楽についての話であって、集団組織としての部活については話が別だった」

 ぎり、と音を立てて水月の白い指がユーフォの管を握り締める。己の感情をそこへ籠めるかのように。

「正しくない人たちによる正しくない方針。立場の強い者が立場の弱い者を虐げるやり方。そういうものを私は何よりも嫌った。上手い下手なんて、そんなのどうでも良いじゃない。誰もが良いって思える方法を選んで、各々が満足できる道を邁進した方が、個々の満足度は圧倒的に高い。そしてその判断基準となり得るものは、上手さでもなければ地位や実績でもない。一人ひとりの自由な意志で、一人ひとりが決めるべき」

 上手さなんて関係ない。その文言を実際に上手い人間が言ってのけるのを、真由は初めて経験する。水月の主張はその域に届かぬ者を一撃で打ち砕くほどに残酷で、異論の余地も無いほどに圧倒的な破壊力を秘めていた。

「だけど人間って弱い生き物でしょう? より強いものになびく。より高いものに組み敷かれる。そして、半ば無思考にそれを是としてしまう。そういうことはこのちっぽけな部活の中だけじゃなく、世間のあちこちに溢れ返ってる。みんなちっぽけな枠の中で、誰が作ったかも分からない序列に唯々諾々と従ったり、本当に正しいかどうかあやふやな方針に寄りすがったりして生きてる。酷いのになると、自分がそういうものに染められてることにすら気付きもしない」

「そんなことって有り得るの?」

「有り得るよ。例えば方言、あれは典型的な例」

 黒真珠みたいな水月の双眸が一瞬、張りつめた弦のように細まる。

「人間誰しも、生まれた時から訛っているわけじゃない。親や家族といった周りの人たちの喋る言語を聴きながら育って、ああそういうものなんだ、って本能的に学習しながら自分でも使うようになって、気付けば訛り言葉を使うのが当たり前になる。他県から来た子であっても数ヵ月もすればある程度聞き取れるようにはなるし、そのうち周囲と同じように方言で会話し出したりもする。中にはそうじゃない子もいるけどね、真由ちゃんみたいに」

 うっそりと、夜闇に浮かぶ灯し火のような笑みを水月は浮かべる。彼女が言外に真由と対比した人物はきっと、楓やゆりだったのだろう。事実、当初は自分も秋山姉妹が他県からの転入生であったなどとは露ほども意識していなかった。知識としてその経緯を踏まえてはいても、真由の認識上における現在の彼女たちはれっきとした秋田の人間。そう判断する材料の一つが彼女たちの訛った言葉遣いにあったことを、今となっては否定のしようも無い。

「それ自体はすごく小さなことだよね。でも、そういったことの一つ一つが個人を蝕んでいく。周りに同調するのが当たり前、っていうふうに個人を染め上げていく。気付きもしてないならともかく、自分でも分かっていながらそうするのって、すごくダサいことでしょ」

 なるほど、と真由は一つ得心する。初めて水月と一緒に帰ったあの日、彼女が方言についてやけに悪しざまな物言いをしていたのはこれが理由だった、というわけだ。

「ちょっと考え過ぎ、って気もするけど」

「そうかもね。でも真由ちゃんにはこの理屈、完全に否定できる? 意識的にせよ無意識的にせよ、人は集団に染まっていく。それは本来、自分の生きやすいフィールドを作るために生まれつき備わった、人間の本能なのかも知れない。偶然立たされたフィールドで自己を生存させるためにうまく立ち回ろうとする、人間の理性が為せる業なのかも知れない。どちらにしても人は集団へ溶け込むために、まず自分をそこへ合わせようとする。人は一人では生きられないから」

「そこまで分かってて、なのにどうして水月ちゃんは、集団を否定するようなことをするの?」

 真由の質問に、ふつ、と水月は小さく息を抜いた。そのままこちらから視線を外し、彼女はあさっての方角を眺める。つられて真由も見たその先には、晩秋の色に枯れ始めた姫神山の中腹が広がっていた。

「簡単に言えば、それで誰もが生きやすくなれるわけじゃないから、かな」

 赤く淡い山の頂点。その遥か向こうを見据える水月の瞳が、ぼうと虚ろな形を取る。

「その人が本心から集団が大好きで、集団の在り方を受け入れて自分からそこへ飛び込むのなら、それはそれで良いと思う。誰がどこに属するのか、その選択に他人が口出しする権利なんて無い。けど実際には多かれ少なかれ、みんな何処かで妥協したり諦めたりしてる。例え自分自身の手で生み出したとしても、自分に百パーセント合致する集団なんて存在するはずが無いから。それもその人が許容できる範囲のことならまだいい。私が許せないと思っているのは、その人の本音や願望、譲れない欲求を殺してまで内側に溶け込ませようとする、集団そのものの持つ空気」

「それって、杏先輩のことがあったから?」

「話しちゃったんだ、あの人。まあいずれはそうなるかなって気もしてたけど」

 やれやれ、と軽蔑の意思を隠しもせず、水月は大げさに肩をすくめた。

「私の中であの一件は集団社会に付きものの、よくあるトラブルの一例でしかないの。あの頃の小山先輩は登校拒否する程にまで追い詰められてた。ホントはクラスの子たちと仲直りなんてしたくなかったし、今みたいにあざとく振る舞ってまで他人と馴れ合う気質なんて持ち合わせてなかった。あの人を変えたのは、従わなければそこまで追い詰められるっていう集団への恐怖、言わばトラウマみたいなものだよ」

「杏先輩自身は、そんなふうには捉えてなかったよ」

「だろうね。あの人の中では私の方が間違ってたことになってると思う。あくまで今のあの人の視点では、の話だけどね。集団に迎合して生きやすい立場を得た代わりに、それまでの自分を見失っちゃったあの人はもう、あの頃の小山先輩とは違う。今のあの人の姿を『あーちゃん』に見せたら、『あーちゃん』はどんなことを思うんだろうね」

 くつくつと水月は嗤う。それはまるで、この場にいない杏に向けているかのように。過去の杏、その正確なところを知らぬ真由はただ黙り続けるほかは無い。

「集団という漠然と大きいものを前にして、人ひとりはちっぽけで弱い存在。だから逆らうことなんて許されない。受け入れて、自分の方を変えるしかない。それが当たり前、みたいな流れを、私はおかしいと思ってる。でも力ずくで反撃したんじゃ、それ以上の力で潰されちゃう。そういうことを私は過去の一例ずつから学んだの。そう、あーちゃんの時も」

「どういうこと?」

「あの人、言ってなかったでしょ。こんな田舎の学校だからね、あのとき仕返しをしたのが私だったって噂は人づてに、先輩の同級生たちにもすぐ広まった。その後の私がどうなったか、真由ちゃんなら大体想像つくんじゃない?」

「それは……そんなことになったなんて、聞いてなかった」

 頭をよぎる凄惨な光景に、真由はごくりと唾を嚥下する。杏はそのことを知り得ていたのだろうか。いや、仮に誰かから聞き及んだとしても、彼女には自分に代わる暴威の対象となった水月を庇ってやることも、愚行を繰り返す級友たちを窘めることも出来なかったはずだ。もしそんなことをしてしまえばその時は、一度は逸れた刃が再び自分に向けられることになるのだから。

「あ、誤解しないでね。私はそんなの全然平気だったし、あの人みたいに屈することもなかった。ただそのことから学んだだけ。真っ向から反撃するのは愚かなやり方。それで何かを変えられるわけじゃない。もっともっと頭を使って、集団が集団である以上どうにもできないような方法を取らなくちゃいけない、ってことを」

「その方法っていうのが姫小でのボイコットとか、今回のやり方だっていうの?」

「そういうこと。前にも話した通りで、小学校の時はまだまだ未完成だったけどね」

 今回は違う。水月はそう言いたかったのだろう。吹部に投げかけた波紋。その後の影響。試行錯誤の末に水月が辿り着いた一つの解として、今回の独立騒動は圧巻の成果を挙げたと言わざるを得ない。

「それを実現するために、首謀者なんてものはいない方が都合が良かった。あくまで表面上だけであってもね。だから私は徹底して裏で動き続けた。反体制的な立場の子に次々声をかけて、その子たち同士が寄り合える状況を作って、あの人たちとは違うやり方でもう一つの集団を作った。縦ではなく横に繋がった集団、先輩たちが独立組と呼んでいたそれを、私は『共同体』って呼んでる」

「キョウドウタイ?」

 それは吹部のような組織と何が違うのか。湧き上がった疑問に、水月はすぐさま答えを寄越した。

「共同体には学年も指導者も存在しない。みんなが平等なの。平等だからこそ、個々の意見が最大限に尊重される。イヤだと思ったことをイヤだと言える環境が、やりたいと思ったことを自由に提言できる空気が、あそこにはある。集団なのに個が犠牲にならないまとまり。部活が学校活動の枠組みにあることもうまく利用して大人たちでさえ口出しできない状況を作るの、けっこう大変だったんだよ」

 少し自慢げに、水月は滑らかな曲線を帯びるその胸を張ってみせた。申し訳ないが、彼女の苦労を慮ってやる気分にはなれない。それが真由の偽らざる胸中だった。

「そこまでして果たしたい目的だったの? 水月ちゃんにとって、その共同体っていうのを作るのは」

「目的、とは違うかな。共同体を作ったのはあくまで手法の一つでしかないし、私自身そのやり方に拘ってるわけでも無いからね」

「杏先輩も同じこと言ってた。水月ちゃんの目的、本当は他にあるんじゃないかって」

「あの人ヘンなところで勘が良いんだなあ。そのくせ自分からは関わろうとしないんだもん、卑怯だよね。まあ本人がのこのこ出しゃばって来たところで、私も私で取り合おうとはしなかっただろうけど」

 ぎとり、と水月が狂気を孕んだ愉悦の形に口角を吊り上げる。収穫、と玲亜を呼ばわったあの瞬間と、そっくり同じ形に。

「真由ちゃんは何だと思う? 私の本当の目的」

 水月に問われ、しばし真由は頭の中の情報を整理する。今までに水月がやってきたこと。杏が言っていたこと。自分のような人間を『外の目』と呼ぶ理由。それらを自分なりにまとめ上げ、捻り出した推論は。

「……水月ちゃんは組織を、集団を変えたい。その為に今まで色んなことをしてきた」

「うん」

「そして水月ちゃんは私に、ううん、私の持ってるものにずっと興味を持ってた。それが集団の在り方を変えることに繋がる、そう考えてたから」

 そう、と水月は素直に頷く。その先を促すかのように。

「変える意思と変える手段、両方を揃えることで吹部という集団がどうなるのか、それを水月ちゃんは見たかった。単純に集団を荒らすんじゃなくて、今までと違うかたちに集団の在り方を変えるために。そして同時に、結果を客観的に見てくれる人が欲しかった。ちなつ先輩たちを含めて自分たちのやってることが本当に正しいことかどうか、それを中立の立場で見てくれる誰かに、裁いてもらうために」

「ご名答」

 ぴん、と伸ばした人差し指をこちらに向け、水月はしたり顔を覗かせる。

「真由ちゃんは『外の目』を持ってる。そして真由ちゃんは外側から働きかけて組織を、集団を変えられるだけの素養を持ってる。それは単に壊すこととは違うの。きちんとした変革のために必要なのは、誰もが納得せざるを得ないほどに圧倒的な正しさ。それを集団にもたらす存在が、必要だったから」

「じゃあ、私のことを立会人って呼んだり、あえてちなつ先輩たちの側に置いておいたのも、」

「私と違って真由ちゃんには、特に何かしてもらう必要は無かったの。真由ちゃんがただそこに居てくれるだけで、真由ちゃんに影響された人たちはどんどん変わっていく。って言うより、真由ちゃんの存在そのものが周りの人に変わることを余儀なくさせる。つまりはそれだけ、真由ちゃんは私たちにとって異質な存在なんだよ」

「異質、って」

「悪い言い方に聞こえたらごめんね。でも事実なの。凝り固まった空気の中で、それが当たり前みたいになってる人たちを変えるには、良い意味で異質な風を送り込まなくちゃいけない。それなのに、そういう人が私たちの側に居たら意味がないでしょ? かと言って先輩たちの側に取り込まれるようであってもダメだった。組織に属しながら中立。いずれにも敵対せず変革を促す。そういう人が現れるその時を、私はずうっと待っていた」

「――私が曲北に転校して来たことで、それは達成された?」

「今ここに真由ちゃんが居て、こうして私と話をしている。それが何よりの証明」

 水月がその長い睫毛を伏せ、つかつかと歩み寄ってくる。対する真由は身じろぎもせず、ただ黙って彼女の接近を受け入れる。

「集団の力で丸め込む、押し潰す。それが出来ないと分かれば、最後にはこうして個人と個人のやり取りになる。その時に一方的な説得じゃなく対等な話し合いの相手として、『外側の人間』である真由ちゃんが選ばれる必要があったの。自分たちのやり方じゃダメなんだ、って先輩たちに分からせるためにね。結果はご覧の通り。真由ちゃんは私たちにとっても荒川先輩たちにとっても中立で、特別な存在になった」

 いつの間にか、自分がそんなところに立たされていたなんて。そのことに真由は身の毛もよだつ思いがする。自分なんてただの転校生。ただの音楽好き。そうした自己意識とはかけ離れたところで、周囲の人間は真由に対して様々な思いを抱き、そして様々な捉え方をしていた。

「こういう状況を展開することが私の狙い。あとは真由ちゃんが答えを出してくれれば、それで私の目的は達成される。どうだった真由ちゃん? 今までのことを全部見てきて、やってきて、その上でいま私たちに、吹部に、何を求めてる?」

「私は、」

 反射的に答えようとして、真由は一旦それを飲み込む。中途半端なことを言っちゃだめだ。いま問われているのは自分の本心であり本音。嘘やごまかしは通用しない。そのことを肝に据えるように、真由は大きく息を吸い、そして眼前の水月へと焦点を合わせ直す。

「私は正直、水月ちゃんの言ってることも分からなくない。個人には個人の自由があるし、組織に絶対合わせなくちゃダメ、なんて理屈も存在しないと思ってる」

「そうだよね」

「だけど、そのために組織を無理やり変える必要まではないと思う。もしイヤなら、その組織や環境から別のところに行けばいいって、そういう考えはしちゃいけないの?」

「誰でもそれが出来るならね。でも現実は、そうじゃない」

 見て、と水月は両手を広げる。そこにあったものは山に川、草木に田んぼ、そして畑。すっかり見慣れた秋田というこの地における、ありのままの光景だった。

「この狭くてちっぽけな田舎町で、取れる選択肢なんてそう多くはない。ほかを選べる人はまだ幸せなの。属するかはみ出すか、多くの人にとって選択はそのどちらかだけ。この環境から抜け出すことさえ許されない。そういう状況の中で、それでも『好きに選べ』なんて言うのは酷なことだよ」

「だったら、はみ出しても良いんじゃないの? 誰かのために別の誰かが犠牲になる、それって結局は水月ちゃん達がしてきたこととそう変わらない筈、だよね」

 ここで真由は意図的に、水月の肚を突く一言を放った。思わぬ反撃に少しは動揺したのか、彼女の表層に張り付いていた涼やかな微笑がフツリと失せる。

「集団のすることは絶対正しいだなんて、私だって考えてない。けど集団に属することでしかできないことをやろう、って思ってる人だっている。そういう人たちのやりたい事を犠牲にしてまで個人を主張するなら、その人たちとは別のところで別のやり方を模索する自由だってきっとある。だから、水月ちゃんたち独立組のことも半分ぐらい、しょうがないって思ってる部分もある」

「もう半分は?」

「私、最近思うの。せっかくこれだけ多くの人がいて、これだけ上手い人がたくさんいるんだったら、もっとすごい音楽ができる筈だって。なのにこういう問題でゴタゴタしてたら、それが出来ない。たくさんの人が居ればそれだけ凄いことが出来るはずなのに、半分ずつになったら半分ずつのことしか出来ない。それが私にとってはすごく苦痛で。やりたいことがやれないっていうのがこんなに嫌なことだなんて、実際そうなってみるまで思いもしなかった」

 それは春以来、真由がずっと思ってきたことだった。皆で音を合わせる喜び。より質の高い演奏をする楽しさ。いつの間にか、真由はそういうものを心の奥底で追い求めるようになっていた。集団音楽は皆で行うもの。そんな当たり前のことが、とてつもなく尊い行いだと思えるほどに。最高の環境で楽しむ合奏。そんな一瞬を存分に味わい尽くせることが、この上ない喜びだと感じられるほどに。なのに今はそうすることが許されない。それが真由にはただただ勿体なくて、苛立たしくて、悲しかった。

「独立組のみんなだって、反発はしてもこうして吹部にいるんだもん。音楽が好きで演奏が好きって思いは同じでしょう? だったら私たち、力を合わせればもっとすごいことだってきっとできるよ。私はそういう音楽がしたい。無理強いはできないけど、レベルの低い演奏をして満足できればそれで良いって、そういう音楽に私自身が満足できないの」

「驚いた。真由ちゃんでもそんなこと考えるんだね」

「だから私の気持ちは半々。正直な話、この気持ちを叶える一番の正解は水月ちゃんの言う正しさなのかも知れない、って思うこともあるよ。けど、その正しさを誰かに押し付けたり引っ掻き回したりしてまで自分の考えを通したいとまでは、私は思ってない」

 一歩、水月へと詰め寄る。互いに額をこすり合わせるほどの距離。真由も水月も、そこから決して退かない。

「どっちが正しいかじゃなくて、私自身が思ってるのはそれだけ。私は玲亜ちゃんとも水月ちゃんとも、本当に本気で吹いてる音に合わせてみたい。でもどうしてもそれができなかったら、無理にどうこうする必要なんて無いって思ってて。人に合わせるのって嫌いじゃないし。それに、もしも私の目的のために誰かに道を譲る必要があるんだったら、私は自分からそうする方を選ぶと思うから」

「真由ちゃんの目的?」

「そう。うまく言えないけど、私が音楽をする、目的」

 ざあ、と体内を風が駆け巡るような感触がする。それは真由がこれまで経験してきたことの全てであり、自分以外の誰かがもたらしてくれたものの全てであり、それらを踏まえた上でなお己の中に息吹く、混じりっ気のない感情そのものだった。

「みんなで楽しく音楽がしたいな。きっとそれが、私が音楽に求めてるものだから」

 その結論に、真由は遂に到達した。自分が音楽をする理由。それは将来のためでもなければ示威のためでもない。与えられた環境に耽溺するためでもない。ただ目の前の一奏一奏を楽しむこと。それも今、この場にいる皆と一緒に。

「……それが、真由ちゃんの出した、答え?」

 無表情を保ったままの水月は、しかしどこか呆気に取られたような空気を帯びていた。そうだよ、と真由は水月の反応を伺う。

「変、だった?」

「そのみんなの中に、私や玲亜ちゃんも入ってるってこと?」

「そう思うのは、おかしいことかな」

「私の考えも分かった上で、私たちの主張も聞いた上で?」

「玲亜ちゃんは、私と一緒に吹きたいって気持ちはあるって言ってくれた。私にとってはそれだけで充分。水月ちゃんがどう思ってるかは分からないけど、水月ちゃんだってユーフォを吹くのは楽しいんだよね。それにあんなに上手いんだし、だったら私は水月ちゃんとも一緒に吹いてみたい。本気で吹いてる水月ちゃんと」

 目測にして十センチ足らず。その至近距離で、真由はじっと水月の瞳を見据える。それまでほぼ不動だった水月の視線がほんの僅かに移ろったのを、真由は見逃さなかった。

「でも、無理強いはできない。水月ちゃんが水月ちゃんの目的のためにこれからも動くなら、私は私の目的のために、自分のやるべきことをする。『外の目』がどうとかそんなの関係ない。だって、私は私だから」

 しばし、両者は膠着する。口を真一文字に結んだ水月は何を思っているのか。同じような表情をしている自分は水月の言葉を待つべきか、それとも口を開くべきか。そんな思考がじとりと真由のこめかみを這いずっていく。

「やっぱり真由ちゃんは真由ちゃん、なんだね」

 別々の人から何度言われたか分からないその不明瞭な一言を合図に、水月はスッと身を引いた。

「羨ましいな。私も真由ちゃんの視点からここを、みんなを、見てみたかった」

「どういうこと?」

「真由ちゃんがそんなふうに言えるのは、真由ちゃんがいつでもここを出て行ける人間だから、ってこと」

「そんなの、みんな同じじゃない? 進学したり就職したりで地元を離れたりするわけだし」

「そういうことじゃないの。きっといつか真由ちゃんにも分かるよ。それが私の言う『外側』の、本質的な意味だから」

 最後に浮かべられた水月の微笑は、少しだけ寂しそうだった。その意味は分からずとも、真由は何となく察する。水月はきっと誰よりもこの地に、この環境に身を置くことに縛られている。だからこそなのだ。選ぶことではなく変えることに、彼女が拘っていたのは。

 

 

 

 果たして、それから三日が過ぎ。

「いよいよ今日か」

 ぽつりと落としたちなつの呟きを、真由は確かに聞き留める。あれ以降、独立組に関して事態が好転するような動きは、全くと言っていいほど無かった。

『……というわけです。すみません』

 あの日、水月との話し合いが終わってすぐに真由はちなつのところへ赴き、事の全てを報告した。水月の想い。自分の想い。最終的には平行線となってしまった二人の対話に、何らかの希望的な成果があったという手応えも無い。ハナからそれを求められていた訳ではなかったにせよ、どこか歯痒さが残っているのもまた事実だ。そんな真由にしかし、ちなつは優しく微笑んで労いの言葉をくれたのだった。

『十分だよ、真由が水月と話してくれただけで。もうこれで打てる手は全部打った、って思えるから』

 あれはきっとちなつなりの、「後悔は無い」という想いの表れだったのだろう。無理に説得を続けても、もう進展は望めない。そんな幹部たちの最終判断により、ここ数日は独立組への交渉もほとんど行われなかった。

 そして今日は十月二十日。予め定められた独立組復帰の猶予期限、最終日。その通達が今まさに、永田の口から述べられようとしている。

「あー。みんなも大体分かってると思うけど、秋から部内で起こってたことについて、これから喋らせてもらうな」

 いつになく硬い面持ちで、永田はそう前置きをした。

「今回の件ではそれぞれが、いろんなことを思ったり考えたりしたと思う。それについてまずは顧問として、みんなに謝らせて下さい。全ては俺の指導力不足、その一言に尽きます。本当に、申し訳ありませんでした」

 指揮台に手をついて、永田が深々と頭を下げる。ややもすればショッキングと言える顧問のそんな姿に、一同はにわかにざわめいた。

「正直、俺自身も今まで『部活ってこういうもんだ』みてえに高を括ってたっつうか、自分の考えをみんなさ押し付けるのが当たり前、ってなってたとこがあったんじゃねえかと思う。曲北さ赴任してきた四年前に、そういう思いは痛いほど味わったと思ってたんだけどな。いつの間にか『つもり』になってたんだがも知んねえ。そういうことを改めて今回、俺は学ばせてもらいました」

 それはいつぞや、ちなつが低音パートの皆に語って聞かせた話と符合していた。顧問の交代に伴い変化した部の空気。より高みを目指して練習に励んだ部員たち。そして、実らなかった結果。絶望し退部していった部員たち。永田にとっても苦い経験であったことは、想像に難くない。全国三連覇を成し遂げた気鋭の指導者。そうした輝かしい名声の影には、彼もかつては挫折を経験した一人の人間に過ぎない、という痛ましい事実が土中の遺跡みたくうずもれている。

「目標と目的。みんなさは何度も口酸っぱく言ってきたども、それが部活全体を縛るものになってしまったら本末転倒なことです。それについてグダグダ言い訳するつもりはありません。みんなさ伝えたいことをきちんと伝えるのが指導者である俺の役割であって、それが出来ねがったのは純粋に俺の力不足だった、ということです」

 部員たちを見渡す永田の眼差しは、どこまでも真摯だった。真由もちなつも日向も、その場にいる者はみな一様に唇を固く閉じ、俯き加減の姿勢で永田の声に耳を傾ける。

「そして本日この場にて、マーチング東北大会に向けて、俺は顧問として一つの決断をさねえばなりません。本音を言えば、本当に悔しいって気持ちでいっぱいです。んだども顧問として、みんなを指導する大人として、その責任も何もかも全部含めて受け止めねねえと思ってる。一つ覚えてて欲しいのは、こうなったのは部員の誰かのせいだとか誰それの考えがおかしいとか、そういうものでは無いってことです。みんなには音楽を、部の活動を楽しむ権利がある。そのことが頭から抜けてた俺が、誰よりも一番悪いです」

 そこで今一度、永田は深々と黙礼した。それに合わせて白髪交じりの頭髪ががさりと揺れる。敗北宣言。永田の発言をそう捉える向きもあるだろう。けれどこの場にて彼の一言一句を、微かに震える声を直に聞いていた者には、彼を非難できるただ一つの余地もあろうはずが無い。少なくとも、真由がそうであったように。

「この気持ちは独立した十四名の部員に対しても、同じように持ってます。だがら彼ら彼女らを切り捨てるっていうつもりは毛頭ありません。活動する場所や内容が別れてしまっても、彼らが吹部の一員であることは何も変わんねえ。それでも決断を下すにあたって、後のことは全部、顧問であるこの俺が引き受けます」

 シンと静まり返った音楽室。その冷え込んだ空気に部員たちの翳りはより深まる。人数の多寡の問題ではない。誰が離反し誰が残ったか、などという話でもない。部内が分裂したまま最終決定が下されてしまう。そのことに対する歯痒さ。あるいは本当にこれで良いのか、という迷い。そうしたものが今のこの場を支配していた。すう、と永田が小さく息を吸い、噛み締めていた唇を開く。

「本日からの練習をもって、曲北吹部は――」

 永田が決断の一言を述べ切ろうとしたその時、コンコン、と軽やかに音楽室の戸がノックされた。

「失礼します」

 あの声は。そう思ったのは真由だけではなかった。いの一番に立ち上がったちなつがまっすぐ戸口へと駆けつけ、勢い良くドアを開く。しばし小声でのやり取りがあった後、ちなつが一歩引いたそこへおもむろに姿を現したのは、水月だった。

「長澤?」

「水月、ちゃん?」

 それを見た部員たちからどよめき声が上がる。いや、水月だけではなかった。後に続いてぞろぞろと入ってきたのは玲亜を含めた計十余名、独立組の残り全員だ。

「お話の途中すみません。少しよろしいでしょうか」

「あ、ああ。良いども」

 つんと尖った氷のような水月の態度に、永田は少々気圧されつつも頷きを示した。それを受けて水月たちは指揮台の前へ横一列に並び、部員たちへと向き直った。

「私たち十四名。本日を持ちまして、皆さんの活動に再び合流します」

 ええっ、と方々から奇矯な声が上がる。水月のもたらしたその一言に、永田もちなつも日向も、和香や杏も、そして真由でさえも、みな目を見開いて驚きを隠せずにいた。

「はじめに断っておきますが、皆さんの活動方針に対して完全に賛同しているとか、こちらの考えを改めたというわけではありません。私たちの主張については今年度の大会が全て終わってから、改めて協議していきたいと思っています。ただ過日の相談中、私たちの間でマーチングを楽しむことについての見解が全員一致したため、今回に限っては皆さんと合流し活動することにした、というだけのことです。無論、そちらに拒否されるようであれば、私たちからはこれ以上何も言うことはありません」

 相変わらず流暢な水月の発言は、しかし部員たちにはにわかに受け入れがたいものだった。あの水月が? なんで今さら? 虫が良い。勝手すぎる。音楽室のあちこちから漏れ出るそれらの批判めいた雑言に、水月本人は眉一つ動かすことなく、ただ凛として直立不動を貫く。

「意思決定はそちらにお任せしますので、多数決でも指導者裁量でも、どうぞお好きな方法で決めて下さい。では私たちはこれで、」

 などと一方的に話を締め括ろうとした水月に、ずかずかとちなつが近寄っていく。鬼気迫る彼女のその表情に、真由は一触即発の危険すら感じ取った。はらはらとして一同が成り行きを見守る中、ちなつは物凄い勢いで水月の手を掴み取り、それから両手で固く握り締める。

「ありがとう」

 こわばる顔の一端からこぼれ出たのは、そんな感謝の一言。こういうやり方、水月は嫌うかもだけど。続けて動いた彼女の口の形には、そんな音が混じっているようにも窺えた。

「今日が判断の最終期限。その日にこの子たちが戻ってくると言ってる以上、こっちがそれを受け入れない筈は無い。んだよな、みんな?」

 敢然とした姿勢で部員全員に問い掛けるちなつは明らかに、その場の一人に至るまでこの決定に有無など言わせやしない、という気勢で自らをラミネートしていた。……はい。かぼそい声がぽつぽつ上がったのを見逃さず、パン! と日向が鋭い柏手を打つ。大親友からの頼もしい援護射撃を得て、ちなつがひときわ声を張る。

「決まりです。私たちはみんなの復帰を歓迎します。今日からは気持ちも新たに、目の前の東北大会に向かってお互いイチからがんばりましょう」

「はい!」

 独立組の面々がちなつに力の籠った返事をする。彼女たちの表情は人により様々で、必ずしも全員が全員、この決定を心から喜ばしいものと捉えている訳ではないらしいことは見て取れた。だがその眼差しはいずれも真剣そのものだ。果たして彼女らは今、どんな思いを抱えてこの場に立っているのか。それもきっと、一人ずつ異なっている。ひと絡げにすることなんて出来ない。気迫さえ感じさせる玲亜の佇まいを目にして、真由はそう考える。

「みんなも、いいね」

 ちなつが再び部員たちへと向き直る。

「今日までのことは全部水に流して、なんて、簡単には行かねえかも知んないけど。みんなが部活に入った時の気持ち、音楽を始めたときの気持ちを思い出しながら、改めて今日からの練習に取り組んでって欲しいです。本番まで泣いても笑ってもあと三週間。それぞれが悔いの無いように、自分たちのやりたい音楽に向かって全力を出し尽くし、精いっぱい楽しみ、そして最後は全員笑顔で終われる、そんな吹部でありたいと私は思います。そのために、みんなの力を貸して下さい」

 姿勢を正して一礼するちなつに、部員たちももはや異論を挟む気など無いようだった。あったとしても、この空気の中ではとても手を挙げられなかったことだろう。はい! という総員の大合唱をもって結論が下された後、永田と互いにぺこぺこ頭を下げ合った十四名の部員たちが各々の席へと散らばっていく。水月はその間ずっと、ちなつに対してどこか胡乱げな、というよりはふてくされたような目つきを投げ掛けていた。集団を扇動してまとめ上げる。それは水月が最も忌むであろう手法。だがその強権的な手法によって今回、彼女ら独立組の復帰はあっさりと受け入れられたのだった。

「それじゃさっそく今日のミーティングを始めます。予定していた全体練習はいったん延期にして、まずは戻ってきた子を中心に基礎の動きの見直しから――」

 永田との打ち合わせを手短に済ませたあと、急遽改訂となった練習スケジュールをちなつがいつもの調子で告げてゆく。それを横目に見つつ低音パートのところまで歩いてきた水月が、ふう、と真由の隣の席へ腰を落ち着けた。入室からここまでずっと注がれていた真由の視線にふと気付いたのか、あるいは初めから感知していたのか、ほどなくして水月がゆるりとこちらを向く。

『これで満足?』

 そう言いたげに肩をすくめた水月に、真由はクスリと微笑を返す。水月はきっと、真由の結論を最大限に尊重してくれたのだ。だからこそ彼女は今ここにいる。彼女がその手で引き剥がした全員を伴って、真由の傍らへ舞い戻っている。もしも水月が悪意で他者を踏みにじるだけのさもしい人間だったなら、こんなにも嬉しい驚きを自分にもたらすことなど絶対しなかった筈だ。今まで一つも分からないと思っていた、長澤水月という子の本質。それを真由はこの時、本当にほんのちょっとだけ、理解することが出来たような気がしたのだった。

 

 

 

 

 

 

(ワン)(ツー)(スリー)(フォー)、」

 スティックを握る和香の音頭でマーチングの練習は滞りなく、しかし徹底的に進められていく。何せ今まで欠員のある状態で、とりあえず形だけラインを揃えてきたような状況だ。そこにこれから動きを合わせようという面々が加わったことで、練習は実質イチからのやり直し。全体の練度としてもまだまだ本番を迎えられる状態に無い。しかし過ぎ去る時間は待ってはくれず、連日の猛練習は一週間という日にちをあっという間に食いつぶしてしまった。東北大会まで残り二週間弱。唯一の希望は旧独立組の面々が、意外なほど意欲的な姿勢で練習に取り組んでくれていることだ。

「罪悪感じゃねえけど、ほんのちょこっとだけ反省するみてえな気持ちがあんのかもね。連中にも」

 そんな日向の見解が、果たして的中しているかどうかは分からない。けれど真由は思う。彼女たちが熱心に練習するのはきっと、水月を見ているからだ。復帰後の水月はそれまでとはまるで異なっていた。本当の自分自身を覆い隠すためにわざとしていた下手な演奏や演技。不真面目とすら言えた練習姿勢。それらの全ては鳴りを潜め、今の彼女は本来持っていたであろう音楽的、いや芸術的能力を皆の前でいかんなく発揮している。整然たる動作に秀麗な演奏。マーチング練習においても彼女の有するポテンシャルは、並の域を遥かに凌駕していた。

「すげー。長澤ってあんなに上手(うめ)がったのか」

「あんな騒動起こしたりさねえで、最初っからあんだけ吹いてりゃなあ」

「もう、それは言わねえっこ、って話んなったべ。それよりウチらもアイツさ負けねえよう練習さねえば」

 復帰後たったの一週間で、水月の技量の高さは誰もが認めるところとなっている。それは長らく本調子を出せずにいた部員たちにとって、ある種のカンフル剤になったとも言えるかも知れない。かつての話は置いておくとして、今は誰もが水月の技量と能力の高さを認め、彼女に負けじと今まで以上に練習に打ち込み、自分たちのパフォーマンスを限界まで磨くべく部員同士で切磋琢磨している。無論、それは真由とて例外ではない。

「水月ちゃん、さっきやった箇所ってどんなふうに吹いてる? 私が吹くとどうしても音が割れちゃって」

「それは音量を出すことに気を囚われ過ぎてるからだよ。ただ大きく吹くんじゃなくて、きれいな音を遠くに通すの。口や喉、体のどこかに変な力が掛かってるとそれが出来ないから、意識をずっと向こうに置いてそこを目指して吹いてみて。吹いてる時の自分の状態をチェックしながら、こんなふうに」

 マウスピースに唇を当てた水月が、ポーン、と鮮やかなハイトーンを響かせる。要求された音量を保ちつつもしなるように柔らかでクリアな音の波紋が、水月を中心として体育館中へと広がった。その美しさとインパクトに「おおー、」と部員一同が感嘆を洩らしてこちらを振り向く。

「こりゃあちなつも負けてられませんなあ。まさかのダークホース出現で曲北ユーフォトップの座もピンチ、ってか?」

「アホ言うなって。コンクールじゃあるまいし、部員同士でそんなん競い合ってもしょうがねえべ」

 ゴン、とちなつが日向に軽めのチョップを叩き込む。この二人のやり取りもまた相変わらずではあるのだが、ようやく真の実力を見せた水月に対し、ちなつはどこか嬉しそうでさえあった。

「だって、こんだけ上手え奴と一緒に吹けんだもん。最高だべった?」

 そう語るちなつの言葉に、嘘偽りはひとかけらも無かった。彼女は今、純粋に楽しんでいるのだ。全身全霊でもって、最高の環境で最高の音楽を、最高のメンバーと一緒に。それは真由とて同じである。

「けど雄悦先輩はヤバいっスねー。どんどん後輩に追い抜かれて、内心焦ってるんじゃないっスか?」

「あるワケ無えべ。てか松田、いい加減オメエも自分の練習さ戻れって」

「今は休憩兼個人練の時間ッスよ。どう過ごしたって私の自由ですぅー」

「くっそ、ハラ立つ。おう小山ぁー、コイツそっちさ持って帰れよぉ」

「やーだよん。そんな困ってんだったら、雄悦が自分で何とかすればぁ?」

「ぐぬぬ」

 杏に軽くあしらわれた雄悦が歯噛みをする。あれ以降がどうなったのかはさて置き、この三者の関係もいろいろと吹っ切れはしたようだ。雄悦に対しても以前と変わりなく明るい振る舞いを見せる奈央の姿に、真由はほんの少し心の重荷をおろしたような感覚を抱く。

「秋山先輩、あのう。なんか私のサックス調子おかしくて……」

「どれ、ちょっと見せて。――ああ、タンポ緩くなってんね。前交換したのっていつ?」

「えっと、ちょっと分かんないです」

「したら早めに交換した方がいいかもね。来週楽器屋さん来るって言ってらっけし、そん時に相談した方が良いと思う。もし取れたりして修理さ間に合わねさそうだったら、とりあえず糊つけて仮留めしてみて」

「分かりました、後でやっときます。ありがとうございます!」

「すいませーんゆり先輩。こっちもこっちもー」

「ああハイハイ、今行くなー。そっちは()したの? ……」

 体育館の片隅では、後輩からの相談にゆりが甲斐甲斐しく応じる姿があった。秋以降の彼女は仲間や後輩たちと、ああして和気あいあいと過ごす姿を見せる機会がずいぶんと増えている。それも恐らくは秋以降、彼女の身に纏う雰囲気が変わったからだ。そんな姉を遠くから誇らしげに眺める妹、楓との関係と共に。

「ハイハイ石川っち、まだそこ曲がってる。基本の足さばきがなってねえよ」

「すいません! もう一回お願いします」

 片やこちらでは泰司が、スモールステップで刻むように周囲と位置合わせをする足さばきの練習に熱を上げている。泰司もこの一年の特訓を通じてようやっと基礎中の基礎であるグライドステップは習得したようだが、それ以外の高度な足運びや上半身まで使った演技動作についてはまだおぼつかないものも数多い。泰司に限らず他の部員たちにも、小さな瑕疵はいくつか見られる。そうした技術的なブレをどこまで圧縮できるかが、今後の曲北にとっての大きな課題となってくるだろう。

「また石川は中島先輩さ迷惑掛けて。そんぐれえ一発で覚えれって」

「うっせえ。こっちゃ真剣にやってんだ、アホは黙ってれ」

「アホはどっちだ、教え(おへ)られた基礎の応用も碌すっぽ出来ねえで。このホジナシ」

 進捗芳しくない泰司を心持ち愉快そうにいじる玲亜は、さすが小学校からのマーチング経験者と言うべきか、この一週間で大体のムーブをそつなくこなせるようになっていた。それもあるいは水月へ、真由へ、その他の諸々へ抱く感情に駆られてのことなのかも知れない。練習で音合わせをする際、いつも少し嬉しそうに微笑む玲亜のことを、真由もまた愛おしく思わずにはおれないのだった。

「さあ、そろそろ休憩終わり。みんな形は出来てきてるけど、勝負はこっからです。今日は全体で一回通して、問題点をきっちり洗い出していくよ」

「はい!」

 快活に放たれる和香の号令。体育館にこだまする返事。それらはどこまでも元気良く、果てなく快活に響いた。各々のやるべきことに取り組み、真剣になって音楽を究める。それは確かにしんどいことなのだけれど、少なくとも真由にとっては楽しさに満ち溢れた時間であり、曲北に転校して以来ずっと求めていたものでもあった。

 

 

 

「お疲れ真由ちゃん。今日もここにいたんだね」

「あ、水月ちゃん」

 東北大会を数日後に控えた、とある日の放課後。珍しいことに、いつもの屋上テラスで個人練をしていた真由のところへ水月が姿を現した。

「今日は下で吹かないの?」

「たまには上で吹くのもいいかなって思って。久しぶりに天気も良いし」

 水月がゴールドラッカーに塗られた自分のユーフォを構える。それは彼女のマイ楽器、では無く部の備品。吹ければいいから特に自分用って拘るつもりは無いの。そう言って憚らぬ水月は、けれどいつも時間を掛けて丹念にそのユーフォを手入れしていた。軽く音出しをして、それから水月はふとこちらに視線を寄越した。

「真由ちゃんも一緒に吹く? 『シシリエンヌ』」

「いいの?」

「真由ちゃんなら耳コピでも、もうあらかた吹けるようになってるだろうし。合わせて吹いてみようよ」

「じゃあ、お言葉に甘えて」

 真由も自らのマイ楽器である銀色のユーフォを揚々と構え、三、四、と二人で呼吸を揃える。前奏を軽やかに吹く水月。彼女の音の名残りをなぞるようにして、真由は主旋律を歌い上げてゆく。すると水月の辿る譜の形はたちまち伴奏のそれに差し変わり、水面に波紋のステップを描くがごとく音を刻みつつ、時として麗しいハーモニーを生みながら、どこまでも丁寧に真由のメロディを支えていった。

 その息遣い、指運び、強弱や形状の繊細さ、ビブラート。こうして同じ曲を二人でいっしょに吹くと良く分かる。音の一粒一粒まで神経を注ぎ込んだかのような水月の音色に、自分のそれはまだまだ遠く及ばない。

「やっぱり水月ちゃんはすごいね」

「そう?」

「音の質感が私と全然違うし、何より楽器で歌ってるって感じがする。私は水月ちゃんの真似して吹くのが精いっぱい」

「単純に吹き慣れてるかどうかの違いもあると思うけど。そのうちにこのぐらい吹けるようになれると思うよ、真由ちゃんならね」

「本当にそう思う?」

「真由ちゃんがそこまで努力すれば、の話だけど」

 くす、と笑いながら取り出したハンカチで、水月はたおやかにマウスピースを拭う。こうしていれば水月はなんの邪気もない、それこそ一級品の美少女と形容して差し支えのない容姿と物腰をしていた。

「そう言えば、水月ちゃんに前から聞いてみたかったんだけど」

「何?」

「どうして『シシリエンヌ』なの? いつも吹くのって」

「ああ、」

 マウスピースを拭き終えたハンカチを片手で器用に畳み、水月はそれをポケットにしまい込んだ。

「この曲にまつわる由来や歴史はいろいろあるんだけど、そんなものより私、この曲にすごく都会的な空気を感じるの。とっても落ち着いていて知的で、けれどどこか寂しげで。そういうものに惹かれたんだと思う。最初にピアノ教室で教わってからずっとこればっかり弾いてて、気付けばユーフォでも吹くようになってたんだ」

「そうなんだ」

「真由ちゃんはどう思う? この曲」

「私? そうだなあ……」

 顎に指を当て、真由はしばし考える。『シシリエンヌ』に関するイメージ。聴いていた場所が場所なだけに、そのほとんどは目の前に広がる姫神山の裾野だったりするのだが、こんな野暮ったい回答をきっと水月は求めてはいないだろう。一度再考し、やがて頭に浮かんだ答えを、真由はあえてそのままに述べる。

「森の奥にある泉のほとりでそっと佇んでる女性、って感じ。落ち着いてて知的なのは水月ちゃんの解釈と同じなんだけど、寂しさっていうのとはちょっと違ってて」

「ふうん」

「どっちかって言えば、都会の喧騒を離れて過ごす静かな時間を一人でこっそり楽しんでる、そんなイメージかな。あ、でもだとすると都会の女性ってことになるから、その点ではやっぱり水月ちゃんの解釈と似たようなことになるのかも」

 そこまで真由が喋った時、ぷふっ、と水月が小さく噴き出した。それまで引き攣ったような不敵さを纏う微笑しか浮かべることのなかった彼女の、不意を突かれて思わず出したみたいに自然な笑顔。それを真由は初めて目の当たりにする。

「なんか面白いね。曲の解釈が私と真由ちゃんとで、似てるようで全然違うのって」

「そうかな?」

「それとも真由ちゃんだから、なのかな。そんなふうに物事を見られるのは」

「分かんない。けどきっと私だけじゃなくて、一人ひとりに聞けばそれぞれ違うイメージを持ってると思うよ」

「そう、なのかもね」

 何かを言いたげな水月の顔が、しかし何を言うでもなく、するりと山裾の方角へ向けられる。彼女に倣うようにして、真由もまた紅の彩りを繁らせた山々の稜線を目で追っていった。

 さっきの発言、真由はそこに自分なりの想いを込めたつもりだ。自分は『外の目』でも何でもない。それは水月や杏がそう言っているだけであって、本当は誰もが一人ひとりの視点を持ち、一人ひとりの考えを持っている。己の視点や思考が他の誰かと比べて異質なものであったとしても、それは決して特別なことなんかじゃない。本当の『特別』はもっと他に、ありふれた自分たちの身の回りに、きっとある。

「じゃあ私、そろそろ行くね」

 そんな真由の切なる想いを、果たして彼女が汲んでくれたかは分からない。水月は少し寂しげな視線を一度投げ掛け、それを巻き取るように背を向けた。

「あ、水月ちゃん」

「どうしたの?」

 水月が再び身を翻す。ふわりと舞った彼女の黒い長髪が、ちょっぴり肌寒い風の吹く虚空に波を描く。

「まだお礼言ってなかった。ありがとう、私の希望、かなえてくれて」

「……何の話?」

「だから、私の結論。みんなと楽しく音楽がしたいって言ったからだよね、水月ちゃんが戻ってきてくれたの」

 水月は少しの間微動だにせず、ただ黙ってこちらを覗き見るようにしていた。ややあって「ふ、」と唇を緩めた水月はいつもの水月らしく、いくぶん嘲笑めいた表情を真由へと向ける。

「言ったでしょ? あれは私たちの見解が一致したからそうしただけ。それ以上の理由なんて無いよ」

 ただそれだけを言い残して颯爽と、水月はテラスを立ち去ってしまった。けれど、と真由は思う。独立組のあの短期間での翻意。それに水月が関わっていない筈が無い。これは推測にしか過ぎない話ではあるのだけれど、水月は部へ復帰を促すようにそれとなく、独立組の子たちへ何らかの働きかけをしたのではないか。それが頑なだった独立組の考えを翻させ、全員揃って部に復帰するという選択を取らせ、今日へと至った。きっとそんなふうであったに違いない。そう考えることで今はもう、真由は心に抱いていた水月へのわだかまりをほとんど払拭するに至っていた。

 今の水月は、ただの仲間。そう、同じ目標に向かって練習を共にする、真由の大事な仲間だ。

「さあ、練習がんばらなくっちゃ」

 再び楽器を構え、目の前の譜面に沿って音を出していく。全ての問題にひとまずの決着が付けられた今、真由たち曲北がすべきことはほぼ一点に集約されていた。その一点を突き詰めること。それは真由自身、無上の喜びとも言えるひと時を堪能するのとほとんど同義だった。

 

 

 

 秋の空が移ろい、やがて空から白いものが零れ落ちてくる。

 それが積もり積もって大地をすっかり覆う頃、曲北はついにその日を迎えた。

 

 



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〈21〉巡る季節

 ごう、という音と共に、窓の外の景色が一瞬で暗闇へとすり替わる。こうして新幹線の車窓から外の景色を眺めるのも何度目だろう。そんなことを考えつつ、真由は鏡のごとく己の顔を反射するそのフレームから静かに目を逸らした。

 春、この秋田新幹線に乗って大曲へとやって来てから、早いものでもう九ヶ月。この間、いくつもの出来事があった。その全てを言葉だけで語り切るのは難しい。いくつかはご自慢のカメラに収め、ファインダーで捉えることの出来なかったものは心のフィルムへと焼き付けてある。それらは秋田で歩んできた真由の道程そのものであり、ここに真由が居たという確かな証でもある。日を追うごとに少しずつ嵩を増してゆくそれらのものは、つまり自分にとっては。

「ただいまー。ってあれ、いつになく神妙な顔して何かしたの?」

「ううん、何でもない」

 隣席の人物がお手洗いから戻ってきた。思索を中断した真由は一度、彼女へと柔和な笑みを向ける。ふう、と嘆息を漏らしながらそこへ腰を下ろしたのは、夏の旅行でもバスの車中を隣席同士で過ごした相手、即ち奈央だった。

「にしても、新幹線のトイレって落ち着かねえよね。狭いし、ぐらぐら揺れるし」

「そう? 私はあの狭さがちょうど良いって感じで、却って落ち着くけど」

「単純に慣れてねえのもあんだろうけどね。私、新幹線ってこういう時以外乗ったことねえから」

 早くホテルさ着かねえかなー、とぼやきながら、奈央がシートのリクライニングをいきなり全開に倒す。「ちょっとー」という後席の女子からの非難にも彼女はどこ吹く風、といった按配だ。

「あとどんけえ(どのぐらい)掛かんのかな」

「さっき仙台を過ぎたところだから、ここから福島と栃木を抜けてでしょ。んー、あと一時間ちょっとくらいかな、多分」

「さっすが真由ちゃん、詳しい」

「さすが、って言うほどでもないと思うけど」

 謙遜しつつ、真由は再び窓を覗き込む。トンネルからトンネルへとまたぐほんのひと時、冬の気配に染まった枯色の山肌が真由の視界に飛び込んできた。

 

 

 

 あの日から今日までの間にあったことを話すと、ざっくりとした要約になる。

 十一月、つまり先月初頭に宮城で行われたマーチング東北大会にて、曲北は無事に全国大会への出場権を獲得するに至った。ただし、本当に無事だったかと問われればどうとも言えない。秋の一件からごたついた代償か、今年の曲北は東北大会最優秀賞の栄誉にあずかることが出来なかった。

『結果は結果、素直に受け止めよう。そのぶん東北大会で出来なかったことを全国でぶつけるつもりで、これからの練習がんばっていきましょう』

 結果発表後、帰りのバスに乗り込む直前。駐車場に集合した部員たちへちなつが告げたその言葉は、吹部の新たな目標となった。全国金賞だとか四連覇だとか、そんなことはどうでもいい。本番の舞台を見守る聴衆に、自分たちの目指す音楽をありったけぶつける。そしてその心を最大限に揺さぶる。永田が語り続けたその言葉も、今の部員たちには少しばかり違う意味を持つものとなっているのかも知れない。各々の思い描く音楽のあり方。例えそれが一つに揃っていなくても、共に目指した方角へ向け異なる道を突き詰めれば、辿り着くところはきっと同じだ。

「それにしても、この大会で先輩たちももう引退かあ。なんか寂しくなるような、ちょっとホッとするような」

「ホッと?」

「ああ、まあホラ、私っていろいろあったじゃん。その、さ」

「あ、うん」

 彼女が言外に覗かせたものを真由は察する。そう言えばあれ以来、奈央の雄悦に対する想いには何らかの変化でもあったのか、或いは未だ胸の奥に秘めたままでいるのか。忙しい日々が続いたせいもあって、彼女にそれを聞く機会はとんと訪れないままだった。

「最近は、どう?」

 真由もまた言葉を濁しつつ、奈央へそのことを尋ねてみる。うん、と小さく頷いた奈央は真由に耳打ちするように、ぽそぽそと小さな声で喋り出した。

「あれからもいろいろ考えたけどね。やっぱ私の気持ちが残ってるうちは、自分じゃどうしようもないなって思って。だがら変に意識さねえで、もうしばらくこのまま行くことにしてるの」

「そっか」

「もう自分からあれこれアプローチしたりはさねえけどね。相手も人間だがら気が変わるかも知んねえし、それに、そうこうしてるうちに私の方が先に良い人見つけるかもだし」

「奈央ちゃんならきっと大丈夫。自信持って」

「へへ、あんがと」

 はにかんだ口の端からこぼれる白色が眩しい。これから春までの僅かな期間をきっと、奈央は少し痛む胸の傷跡と共に過ごし、そうして想いを抱えたまま雄悦たちを見送るのだろう。その先の未来がどうなるかは、彼女自身にしか解らないことだ。

「あの時はホント、真由ちゃんさもいろいろご迷惑おかけしまして」

「いやいや、そんなことないから」

「その代わり、もし真由ちゃんが恋愛がらみのことで悩んだりしてたら、今度は私が相談に乗ったげるからさ」

「恋の先輩として?」

「そう、経験豊富な先輩として!」

 エヘンと胸を張る奈央に、思わず真由は苦笑してしまう。

「せっかくの申し出は嬉しいんだけど、当分のところ予定は無いかな」

「えー、何して? まさかもう付き合ってる人がいるとか?」

「ないない。意中のお相手ならいるけど」

「え、うっそ。誰? 部内の男子? それとも同じクラスとか。あ、もしかしてまさかの草彅?」

「ううん。残念だけど全部ハズレ」

 首を振り、真由は両手を構えてみせる。そのかたちを見て奈央もすぐに「お相手」の正体に気付いたらしく、あ、と小さく得心の声を漏らした。

「今はユーフォのことで頭がいっぱいだから、私」

 

 

 さすがにここまで南下すると、灰色のアスファルトの上には雪の欠片も見えやしない。大曲駅から新幹線に乗ること二時間半。一面真っ白の雪景色から、紅色の枯れ野へ。季節を遡るように変化する車窓の景色を見送って、曲北の一同は埼玉県大宮駅へと降り立った。ここからは手配されていた貸切バスに乗って宿舎まで移動し、そこで明日の本番に向け英気を養うこととなる。

「はい、割り振り通りにバスの前さ移動して。荷物積んだらどんどん乗ってー。他の利用客さ迷惑かけねえように、素早く動いてー」

 こうして部員たちの前で陣頭指揮を執るちなつの姿も、あとちょっとで見られなくなる。そんな感傷が胸を突き抜けていくのを感じつつ、真由は指示に従ってバスへと乗り込む。新幹線で過ごす時間を共にしたのは奈央だったが、今回バスで相席になったのは奇遇と言うべきか、水月だった。

「よろしく」

「こちらこそ」

 互いに恭しくあいさつを交わしながら、真由と水月は肩を並べてシートに座り込む。窓際席の水月はどこか物憂げな様子で、一言交わした後はただずっと窓の外を眺めていた。そんな彼女の醸す空気に憚られ、真由もまたそれ以上声を掛けずにおく。以前ならばいざ知らず、今はこうして彼女と沈黙の時を過ごしていても、特段苦痛に感じたりはしない。

「不思議だな」

 いよいよバスが動き出す、というそのタイミングで水月がポツリとこぼした。何が、と真由が問うと水月はおもむろに首を動かし、狐のように尖った眼をこちらへ向けてきた。

「こうして私がここにいることが」

「それ、不思議な要素ある?」

「大ありだよ」

 窓枠のところで頬杖をつきながら、ふう、と水月は緩く息を吐き出す。

「私、音楽って人と競い合うものじゃないって昔から思ってて。だからコンクールだとか賞レースとか、そういうものにはずっと不参加だった。マーチングの大会だってそう。曲北が原則全員参加だって聞いてたから下手なフリしたり、ありもしない用事を作ったりして、毎回舞台に上がらないようにしてたのに」

「それなのに今回は参加することになっちゃった、ってわけだね」

「おかげさまでね」

 皮肉めいた台詞を吐きつつも、しかし水月の目はそのことをさほど厭うているわけでもない、そんな安穏たる色に満ちていた。相手が機嫌を損ねていないことにちょっとだけ安堵しつつ、真由は前からずっと気になっていたことを彼女に尋ねてみる。

「ねえ水月ちゃん。水月ちゃんはこれからどうするの」

「どうするって? ここまで来ておいて大会に出ない、なんて選択肢は、さすがの私でも取らないよ」

「そうじゃなくて、将来のことっていうか。水月ちゃんすごく上手いし音楽のことだって詳しいし、その」

「プロを目指すのか、って言いたいの?」

 心臓を杭で穿たれたような衝撃に、「え、あ、」と真由は喉から漏れる枯れた空気だけをパクパクと啄んでしまう。間髪入れずに向こうから差し込まれたその問い返しは、心中で用意していた言葉そのものだった。一方、水月は読みを的中させたことに愉悦を覚えたのか、ふふん、と目を閉じ鼻から息を抜く。

「そういうのにも興味は無い。私にとって音楽は、どこまで行っても自分のためのもの。それに前にも言ったけど、この曲北の中だけならともかく、自分の才能が全国レベルで高いところにあるなんて思ってないの。プロにはそう思える人がなれば良い。例えば、草彅雅人くんみたいに」

 その名が水月の口から出てきたことに、真由は少しドキリとする。

「水月ちゃん知ってたの? 草彅くんの、プロって、えと」

「知ってたっていうか、有名でしょ。彼がプロになるつもりだっていう話。まあ、単なるうわさ話だけどね」

「あ……ああ、そうだったんだ」

 微かに上擦る己の声を、真由は必死に抑え込んだ。この分だと、どうやら水月は雅人と直接対話したことは無いらしい。そう言えば雅人も雅人で、水月とは直接話をしたことは無いと語っていたような、どうだったっけ。いずれにしても雅人の心情やら何やらをうっかり暴露せずに済んで良かった。平静を装いつつ落ち着きを取り戻そうと、真由はこっそり胸に手をあてがう。

「でも実際、彼って上手いよね。音楽全般にもすごく詳しいみたいだし、ピアノも弾けて作曲も出来るっていうし。もし本当にプロを目指すとしたら、草彅くんなら努力次第でなれるんじゃないかな」

「意外。水月ちゃんでもそんなふうに、他の人を評価することってあるんだね」

「あくまで一般論的な見方としてね。それに多分だけど、私と草彅くんとじゃ音楽観が全然違うし。彼が本気でプロになりたいかどうかなんて聞いたこともないけど、彼のなりたいと思ってるものと私が言ってるものがイコールだなんて保証はどこにも無い。どっちにしたって、私にとってはどうでもいいことだよ」

「そっか」

 水月のその推察は果たして正鵠を射ていた。水月と雅人。二人はきっと互いに反りが合わないであろうことを感知し、ゆえに互いに干渉すべきでないという結論を弾き出していた。それは同じくらいの音楽的能力を有するがゆえか、はたまた正反対なようでいて実は似た者同士だからなのか。

「それにプロになるってことは、自分のためだけの音楽じゃ済まないってことでしょう? そういうのが私に向いてるって、真由ちゃんは思う?」

「思わない」

 正直にそう告げると、水月は苦みの無い笑顔と共に「だから、」と続きを述べる。

「もし私がこれからもずっと音楽を続けるとしても、それは一般的な意味でのプロっていう形じゃない。そんなものに囚われなくたっていいの、私にとっての音楽は。将来や誰かのためみたいな実益に繋がらなくても、だからって培ったものに価値が無いわけじゃない。それを楽しいと思える自分がいる限りはね」

「そこは同意できる、かな。ほんのちょっとだけ」

「そういう真由ちゃんこそ自分の将来、どうするつもり?」

「私?」

 唇に指を掛け、真由はしばし考え込む。お前はプロになるつもりがあるのか。かつて雅人に問われた時にはまだよく分からない話だった。その後に日向からちなつの生い立ちと志望動機を聞かされて、真由はいつか自分にも将来を決めなければならない日が来ることを悟った。あれから幾星霜。明確な答えは未だ出ていない。けれど少なくとも、何一つ考えていなかったあの頃とは違う。ころころと転がすうちに一回り二回りと膨らむ雪玉のように、そのイメージは少しずつだがゆっくりと、真由の中で形を成しつつあった。

「私は、」

 真由がその思いを水月に打ち明けようとした、その時。

「うわあ、でっけぇ。あれですか先輩」

「んだよ。私も初めて見た時は、おんなじリアクションしたっけなぁ」

 車内の空気が沸き立っていることに気が付き、何事かと真由は周囲を見渡す。その戸惑いぶりを見かねたように、水月が「あれだよ」と窓の外を指差した。

「全国大会の会場。つまり明日私たちが立つことになる舞台、だね」

 街の一角を占拠する巨大な銀色の建築物、それがちょうどバスの窓から真正面の位置にドンと居座っていた。埼玉の大型アリーナ。有名アーティストの公演なども開かれるためテレビ等で見たことは何度かあったが、この距離で実物を目の当たりにするのはこれが初めてだ。前面に向かって張り出した庇のような構造。曲面と直線を大胆に取り入れたデザイン。そして、まだ見ぬ内部。明日、自分たちはそこに立つ。これまでやってきたことの全てを聴衆へと届ける。そう思い描いた時、真由の体はぶるりと熱く奮い立った。

 マーチングフェスティバル全国大会。春に掲げた目標の一つであり、最後の大一番。その時はもう目前に迫っていた。

 

 

 

 

 市内のホテルを宿舎とする曲北一同はその夜、特に決起集会やミーティングを開くといったこともせず、それぞれが思い思いの時間を過ごした。そうしよう、と決めたのは他でもないちなつだ。部長としてではなくいち個人として、と前置きしたちなつは皆が集った夕食の席、その終わり際にこう述べた。

『ここまで来た以上、みんな一人ずつが思ったり考えたりしてることがあると思う。今回はそれを大事にしよう』

 彼女のその言葉に部員たちは賛同の意を示し、夜はあっという間に更けていった。真由と同室になった同学年の女子は「明日は万全の体調で最高の演奏してえから」と一足先にベッドに潜り、今はぐっすり夢の世界を謳歌している。そんな彼女の慎ましやかな寝息とは裏腹に、何故だか今日に限ってちっとも眠気が湧いて来なかった真由は、気晴らしついでに館内を一人そぞろ歩きすることにした。

 カーペット敷きの長い廊下をゆっくり踏みしめながら、真由はぼんやり考え事に耽る。本番前日に寝つきが悪いだなんて、らしくもない。柄にもなく緊張しているのか。いや、胸から次々湧き上がるこの気持ちは『高揚』と呼ぶべきものか。自分でも判別しがたいその衝動が何なのかを手探りしながら一歩、また一歩。

 そうしている内にほど良く疲れを感じ始め、そろそろ眠れそうかな、と思った矢先。ぼう、と向こうの薄暗いフロントロビーに浮かぶ幾つかの人影を、真由は確かに見とがめた。

「……いよいよ明日かあ」

「なんかこの一年、あっという間って感じだったな」

「んだね」

 そうっと近くまで忍び寄ってみると、ロビー隅のスペースにちなつ、日向、和香、ゆりの三年生四人組が寄り合うようにして立っていた。彼女たちも寝るに寝付けず、館内をうろつくなどしているうちにああして自然と集まったのだろうか。話し声こそ密やかながら、四人の会話はずいぶんと弾んでいるみたいだった。

「ゆりはどうだった? 曲北での三年間」

「私? んだなぁ」

 ちなつの尋ねに、ゆりは少し考え込むような仕草をする。

「今年の夏までは、辛いことの方が多かったかな。『部活辞めたい』とかってのとはちょっと違うけど。でもここに居るのが苦しくて、もう何もかんも全部捨てて逃げ出してえって思ったときは、何度もあった」

 穏やかな表情を浮かべるゆりに、ちなつや和香は静かに頷くのみだった。それは恐らく、ゆりの個人的事情も鑑みた上での反応なのだろう。

「けど、秋からは今までで一番おもしれがった。ああ、吹部さ入って良がったな、ここまでやって来て良がったなって思えることがいくつもあって。こういう気持ちで明日を迎えられるのが信じらんねえってくらい。それまで全部ひっくるめたら、最高の三年間だったよ」

 少し気恥ずかしさを交えた笑顔でそう述べるゆりに、ちなつたちは柔らかい視線を注ぐ。

「和香は?」

 次に話を振られた和香は「んだなあ、」と一度考えるように呟いてから、メガネの位置をくいと指で直す。

「私は去年の秋、ドラムメジャー任されたべ。小学校ん時に経験あったから、って理由で推薦されたのは分かってたけど、それでも私は不安だった。こんなすげえ部活で指導するなんて大役、私に務まるんだべがって」

「サトちゃんがそんなこと考えてたとは。いっつもビシビシ指導してて、そんな素振りなんか少しも見せねがったじゃん」

「こらっヒナ。ハナシ遮んなってば」

「いいの。みんなさはそういう姿見せらんねえって、いつも気い張ってたし。それでここまで来れてさ、ああ何とか自分なりにやり切れたんだなあって、今はそんた感じ」

「その気持ち、ちょっと分かる。私も曲北吹部の部長だがら、って自分さ言い聞かせてたトコ、いっぱいあったから」

 お疲れさん。ちなつと和香は互いをねぎらい合い、くすくすと笑声を響かせた。

「中島さんは?」

「うぉ、同年(タメ)のやつから『さん』付けされると違和感がすげえ。頼むからゆり、もっと気楽に『日向』って、下の名前呼び捨てにしてけねえ?」

「ヒーナぁ。ふざけてねえで、こういう時ぐれえ真面目にやれー」

「いいべー。こういうのは性分の問題なんだってば」

 仕切り直すように小さく咳払いをし、それから日向は珍しく、その顔つきをキリリと引き締める。

「正直に言えばな、私、入部してからずっと色んなことさ縛られてらったなって思う。もちろん楽しいには楽しかったし、人並みにしんどい思いもしてきたけどさ。そういうんでねくて、自分じゃねえ誰かのために、っていうのがずうっと続いてたっていうか」

「それ自体は別に悪いことじゃねえんじゃねえかな。中島さん、でねくて日向の、それこそ性分みてえなもんなんだろうし」

「かもね。んだけどずっとそればっかじゃダメなんだって、最近そう考えるようにもなってさ。人同士で寄りかかるんでねくて支え合うのが大事っていうの? なんか、言葉にしようと思うと上手く出てこねえな」

「依存とか自己犠牲じゃねくて、共存共栄、みでンた話?」

「そう、多分そんた感じ」

 和香の付けた注釈に大きく首肯し、そのあと日向は一瞬チラリとちなつを見やる。

「まあそういう気持ちになってからは、自分のことをもっと良く見て考えた方がいいなあって思うようになって。そうなれたのも、吹部での三年間があったおかげっちゃおかげなのかな。んー、自分の気持ちまとめんのは難しいから、これ以上はパスで!」

「なんだそりゃ」

 苦笑するちなつの顔もしかし、普段のそれよりはずっと穏やかだった。んでちなつは? と日向に促されるとちなつは一旦目を伏せ何かを考え、それから日向たち一人ひとりと視線を交えていった。

「私はさ、この三年間を目いっぱい楽しもうって思って、入部式から今日までずっとやって来た。後から振り返ったとき悔いのねえように、最高の思い出をいっぱい作って、この三年間で全部出し切ろうってつもりで。まあ和香じゃねえけど、部長に推薦された時はかなりプレッシャー感じてたんだけどね」

 ちなつのその一言から悪戯っぽく逃れるように、プイッと日向が顔を背ける。

「けど今となってはそれも含めて、私にはすごく貴重で、他に替えらんねえ時間になった。自分がホントに大事に思ってるものが何なのか、何を道しるべにこれから歩いてったらいいのか、それがやっと解ったっていうか。曲北吹部に入ってなかったら私、きっとそういうものと出会えねえまま卒業しちゃったと思う。だから今は『この三年間に感謝!』って気持ちでいっぱいだよ。勿論、みんなに対しても」

 ちなつの瞳は外からこぼれる夜景の光を映してか、ここからでもそれと判るほどにきらきらと輝いていた。何かを言いかけた日向はそのまま押し黙り、和香とゆりも湧き上がる感情を堪えるかのように目頭を押さえ俯く。

「泣いても笑っても明日が最後。みんなで全力出し切って、最後まで笑顔でいられるように、がんばろう」

「うん」

「私も、目いっぱいがんばる」

「やり切ろうな、最後まで」

 そこまでを見届けて、真由はそっと場を離れた。今は先輩たちのこのひと時を大事にしてあげたい。そういう思いを抱きつつ来た道を引き返し、再びカーベット敷きの床に足音を沈ませながら、こっそりと決意を新たにする。明日は持てる限りの力を尽くそう。これまでの全てを出し切って、思いっきり楽しんで、そして最後は、笑顔で。

 

 

 

 

 翌朝を迎え、ばたばたと準備を整えた一同は昨日同様に三班に分かれ、それぞれバスに乗り込んだ。本番のステージに上がる予定時刻までは残り幾ばくも無い。緊張感に包まれた車内は口数も少なく、各々が自分の中で高まりゆく思いと静かに向き合っているみたいだった。

 いざ会場に着いてからの動きは速やかに。昨日は歓声すら上がった大型アリーナの外観や構造も今日は特に触れられることもなく、バスを降りた曲北の面々は日頃の訓示に従って整然と場内へ入り、更衣スペースでステージ衣装に着替える。

「前から謎だったんだけど、今回のコレって平安モチーフ? それとも古墳時代とか?」

「何だべな、頭にかぶってるのは烏帽子(えぼし)ってやつだと思うけど」

「違うらしいで。これは漆紗冠(しっしゃかん)とかっていう名前だー、って歴史好きな先輩が言ってた」

 その名はさすがに真由も知らなかったものではあったが、要はそれほど古い年代の装い、ということなのだろう。日本神話をテーマとした今年の選曲、それに合わせた新衣装。春の大会で着用した軍服もあれはあれで良い出来栄えだったが、今回の衣装にこうして袖を通してみると、これもこれでやけに細かいところまで手が入っているように感じられる。ひらひらと袖を翻しながらフロアを舞った時の見栄えの良さは、東北大会にて既に実証済みだ。早くこの素晴らしさを会場の聴衆へお届けしたい。あっと言わせてみせよう。部員たちの誰もがそうした挑戦的な野心を胸の内に抱えつつ、手抜かりの無いよう細部までしっかりと装いを整える。

「はーい、曲北吹部はこっち集合ー。手の空いてる人はどんどん楽器運びしてー」

 手早く着替えを終えたら、お次は楽器の搬入。今回も陣頭指揮を執っているのは部長のちなつだ。いつもの流れに従って見慣れたトラックの前へと集合した一同は、荷台に満載された楽器の山を手分けして降ろしていく。真由もまた自分の楽器ケースを受け取り、少し離れたところでその蓋を開いた。銀色に光るマイユーフォ。事前の入念な手入れによって隅々まで磨き上げられたそれは今日、ここ一番の光沢と煌めきを帯びている。

 今日もよろしく。そう心の中で告げてから、藍色の起毛に覆われたベッドからユーフォをゆっくり抱き起こす。冬の外気に冷えた管体を少し温めるように指でさすり、空のケースを所定の場所へと置いて、真由はみんなのところへと戻っていく。

「じゃあ今からチューニングの時間まで、音出し開始」

 場内の音出しスペースへと移動した曲北の一同は、ちなつの号令に従って一斉に各々の楽器を慣らし始める。真由も軽く唇を動かし準備運動をしてからマウスピースを楽器に差し込み、本日最初のひと息を吹き込んだ。薄曇りの空へと送るB♭(ベー)の音。楽器や自分の調子に問題が無いことを一つずつ確認しながらB♭(ベー)から(ツェー)(ツェー)から(デー)……と順々に鳴らしていく。その後もタンギング、スケール、指回しなど普段通りの基礎練メニューを一通りこなし終える頃には、ご自慢のユーフォもすっかり温まっていた。

「じゃあそろそろ時間なんで、チューニング室に移動します」

 会場の外から再び会場の中へ。目まぐるしく移動を繰り返すうち、真由はなんだか時間の感覚がおかしくなってしまったような錯覚に襲われる。あるいはそれだけ自分が心の平静を欠いているということなのか。先へ先へとどんどんコマ飛びしてゆく景色の数々。本番の最中にはそうはならないで欲しい。せっかくの楽しい時間を矢継ぎ早に過ごして終えてしまうのは、勿体ないことだから。

 ひとつ前の団体が扉の奥でチューニングしている間、真由はゆっくりと深く息を吸い、そしてひと吹きに吐き切る。それは緊張を殺し集中を取り戻すためのルーティーン。しとり、と落ち着きの気配が体に宿るのを感じ取ったのとほぼ同時に、目の前の扉が開け放たれる。

「お待たせしました。大曲北中学校の皆さん、チューニングのお時間です」

 ドア係の女子がそう告げたのを合図に、部員たちは一斉に室内へとなだれ込んだ。なにせ百人超の大所帯、それなりの大きさがあるこのチューニング室であっても、全員を収容するとなるとほとんど寿司詰めの様相となってしまう。そんな中でも部員たちはチューナーを貸し借りしながら器用に調律を進めてゆき、入室から五分と立たぬ内に全体での音合わせもしっかり完了させてしまった。こういうところはさすが経験豊富な曲北、とでも言うべき手際の良さだ。

「さて、んだば残りの時間は恒例の永田演説となるわけですけども」

 などとおどけつつ部員たちの前へ登壇した永田は、本日も大会用衣装である漆黒のタキシードをびしりと着込んでいる。さまになっているのは認めるが、欲を言えば微かに見える無精ひげがやや減点要素、といったところか。こういう時くらいしっかり剃れば良いのに。内心そう思いつつ、真由は直立の姿勢で永田を注視する。

「前に言ったことあるか分かんねえけども、実はわたくし永田、こう見えて皆さんと同じ曲北吹部の出身です」

 永田がそう宣言すると、軽く一拍を置いてから、ええ?! と驚嘆の声が全員から飛び出す。

「当たり前の話、在籍してたのはもう何十年も前だどもな。その頃の曲北はまだ古っしい旧校舎でよお。部員も今なんかよりずっと少ねくて、俺らはくたびれた備品の楽器で毎日練習してました」

「いや、その話、私ですら初耳なんですけど。先生が曲北のOBだったってことも含めて」

 未だ顔をひきつらせたままのちなつに、肝抜かしたべ、と永田は底意地の悪そうな笑顔を浮かべた。

「その頃の顧問は伊藤(いとう)辰伸(たつのぶ)という先生で、俺なんかより何倍もおっかねくて、まンず厳しい先生でした。練習に身ぃ入ってねえと必ず見抜かれるし、ちょーっとミスっただけでもすぐ『何やってらのやソゴォー!!』って叱られ(ごしゃがれ)てよお。んだども面白えとこもあって、不思議な魅力のある先生でな。俺ら部員はみんな先生さ懐いてらった」

 その頃を思い返しているのだろう。永田は遠くを見るときのように、その双眸をすがめた。

「んで俺らが三年になったその年、曲北吹部は創立以来初めてマーチングで東北突破、ほんで全国大会に出場しました。それがすんげえ嬉しくてな、感動して興奮しまくって。全国での結果は大したことねがったども、帰りのバスん中でみんなして感極まって、先生と一緒んなってわんわん泣いてよお。思えばそん時だな、俺も辰伸先生みてえな指導者になりてえ! って思うようになって、それからは音楽教師、吹部顧問になることを目指して、昼も夜も勉強漬けのそりゃあもう勤勉な学生生活を送ったもんです」

 そこはさすがに少しばかり誇張が過ぎるのでは。などと思った部員たちの含み笑いが、そこかしこから漏れ出る。

「それから何年か経って、念願かなって教職に就くことが決まって、俺はイの一番で辰伸先生のところさ挨拶しに行きました。先生みてえな指導がしたくて俺も教師になったんだ、見ててけれよ先生、ってな。そん時に先輩教師のアドバイスとして辰伸先生から頂戴した言葉を、俺は今でも時々思い出すことがあります」

 と、言葉を切った永田が一つ息を吸い、それから妙にいかめしい表情を形作る。それが「辰伸先生」とやらの形相を真似ているらしきことに真由が思い至ったのは、寸秒の後のことだ。

「いいか栄信。教師って職業はな、生徒さ教え(おへ)るのが仕事でねえ。生徒から教わって、生徒と一緒になって伸びていくのが俺達(おらだ)の仕事だ。どこまで行ってもそれさえ忘れねえでれば、オメエだばいつかきっと立派な教師になれる。そうなったら、また俺んトコさ挨拶に来い。――それが先生からのアドバイスでした」

 するりと元の表情を取り戻し、永田は部員たちを見渡した。一人ひとりにしっかりと注がれたその視線には、慈愛と感謝、あるいは敬意や憧憬、そうした類の念を織り交ぜたような感情が、ふんだんに込められていた。

「実を言うとな、今年辺りまた辰伸先生のトコさ挨拶しに行くべか、って考えてたところだった。見たか先生、俺も先生みでンた教師に成れたど! って言うために。全国三連覇っちゅう結果出して、最高の音楽を作ったっていう自負もあったしな。あんだけお前方(めがた)さは『目標と目的を履き違えるなよ』『結果より大事なものがあんだがらな』なーんて偉そうなこと言ってたクセによ」

 それは決して、永田の示威意識や承認欲求といった心理を満たすためだけでは無かった筈だ。憧れる恩師の手によって育てられ、恩師と同じ道を歩み、結果見事に大成した。そういう自分の姿を見せることで彼は、恩師を喜ばせてあげたかったに違いない。

「先生……」

 気遣うように口を開きかけるちなつを、いいんだ、と永田は手で制する。

「まあ、要はそんだけ俺が未熟者だったってことです。結果に引っ張られて、俺ん中のどっかさ慢心みでンたモンがあったんだかもな、と今では思います。こんな体たらくで、もしも得意な顔して挨拶になんか行った日にゃあ、きっと先生に手一杯叱られ(ごしゃがれ)てらったべな。そンたもんで鼻(たげ)ぐすんな、イチから出直して来い! ってよ」

 永田は口を真一文字に結び、湧き上がる苦みを噛み締めるように沈黙した。心の恩師。その厳しさと愛の深さは永田の中で、今も当時のままに息づいているのだろう。受けた指導と鞭撻を、彼自身が忘れずにいる限り。

「それを教えてくれたのが、今ここにいるみんなです。顧問として教師として情けねえと猛省する一方で、俺は心の底からお前方(めがた)さ『ありがとう』って言いたい。今日はそのみんなに、そしてみんなの演技演奏を観てくれる会場中の人たちに、今まで積み上げてきた全部を最大限楽しんで欲しいと思ってます。目標も目的も結果も何もかも全部忘れて、今日はみんなの音楽をありのまま、ステージの上で思いっ切り(おもっきし)爆発させましょう」

「はい!」

「ほんでは以上を持ちまして、年寄りのしょっぺえ話を終わります。ご清聴ありがとございました」

 最後もまたおどけるそぶりと共に話を締めた永田に、ぱちぱち、とちなつが拍手を送る。その輪は次第に広がり、やがては部員たちのほぼ全員が惜しみなく手を叩いた。真由から見える範囲において拍手をしなかったのは水月と雅人、この二人だけだ。まあ、この二人はこういう人間なのだし仕方ない。真由はこっそり呆れ笑いをこぼす。

「時間です」

 チューニングの終了を報せるドア係の一声。へば行こうか、と動き出した永田の後に続き、部員たちはぞろぞろと列を成して、開かれた扉の外側へと歩んでいった。

 

 

 メインアリーナへと続く長い通路。本番直前の待機位置であるここは、コンクールのホールで言えばちょうど舞台袖に当たる場所であり空間だ。そのすぐ先では前の団体が今まさに演技演奏を行っている真っ最中であり、それも間もなくフィニッシュを迎える頃合いとなっていた。

「やっべ、今頃んなって緊張してきた」

「そういう時は、手のひらに『人』って書いて呑み込めばいいらしいで」

「バガ。効くわけねえべ、そんな迷信」

「それより深呼吸だ深呼吸。ほらアタシと一緒に、すー、はー、って」

 そんな小声がそこかしこから聞こえる中、真由はそれらとは対照的に落ち着きを取り戻していた。というよりも、本番が近付くにつれてわくわくする気持ちの方が勝ってきた、というべきなのかも知れない。やっと全てが揃った。やっとこの時が来た。早く。一刻も早く。そんな気持ちが次第に色濃くなっていくのを鋭敏に感じ取りながら、真由はただ静かに待機を続ける。

 部員全員が一人も欠けることなく、本番の舞台に上がる。

 きちんと練習を重ね仕上げた万全のコンディションで、演奏に臨める。

 最高峰の舞台で、最高のメンバーと最高の演奏を思う存分楽しめる。

 それらは真由が曲北吹部に入部して以来、一つとして得られなかったものばかりだった。そしてその度に少しずつ、求める気持ちを強めてきたものだった。今ようやく、全てが叶う。これからのたった数分間で、それら全てを味わい尽くすことになる。ついさっきまでぼんやりとしていたこの内なる思いも、今ならキッパリ断言できる。これは『期待』だ。永らく求め続けていたものを遂にこの手にする、その瞬間が来ることへの。

「どうしたの、真由ちゃん」

 小さく握りこぶしを構える真由に気が付いてか、すぐ隣にいた水月が小声で尋ねてきた。

「いつになく固くなってる感じだけど。ひょっとして緊張でもしてる?」

「ううん、緊張じゃないの。とうとう来たんだ、って思って」

 ふるふると首を振った真由に、水月は笑顔を保ったままでスンと小さく鼻を鳴らす。

「それは皆で揃って全国のステージに、ってこと? それとも真由ちゃんの言う、最高の演奏を楽しめる場に?」

「どっちだろ。自分でも良く分からないけど」

 胸に手を添え、真由はそっと目を瞑る。どっちなのか、あるいはそれ以外の何かなのか。混ぜた絵の具みたいになっているこの気持ちを、今は正確に切り分けることは難しい。

「でもここまで来た以上、思いっきり楽しみたいって気持ちではいる、かな」

「ふうん」

「そういう水月ちゃんは?」

「私?」

 今さら何を訊くつもりなのか、と言いたげに、水月は横髪を指でくるくるといじってみせる。

「こうやって本番の舞台を前にして緊張したり意気込んだりするか、って話なら、そういうのは特に無いよ。私にとっての本番はいつもの練習と同じ。ただ吹くべきを吹く、それだけだから」

「それはそれで何て言うか、肝が据わってるって感じだね」

「誰かや何かのためにやってることじゃないからね。結果や見返りを期待してないし、場所が変わったぐらいでいちいち緊張したりもしない。だったら後に残るのは、吹きたいように吹くっていう気持ちだけ。そう思わない?」

 こう述べた水月には、どうやら嘘の念など無いらしい。平静さに満ちた表情。震えの一つも見せない手指。どこを取っても彼女はいつも通りの長澤水月、そのものだ。

「そう言われるとなんだか、そういう姿勢で臨んだ方がいいかもって気がしてくるね」

「やろうと思ってするようなことでも無いとは思うけど」

「どうかな。良く言うでしょ、練習は本番のように、本番は練習のように。って」

「私のとはちょっと違うんじゃない? ソレ」

「でもどっちも一回一回、演奏の機会を大切に、って意味では同じだよ。心構えとしてはすごく理想的だと思う」

「まあ真由ちゃんがそう思う分にはご自由に、だけどね」

 何やら含みのある言い方をして、水月はひらひらと片手を振った。彼女の言いたいことはもちろん真由にだって分かっている。水月の音楽はあくまで彼女の為だけのもの。それは真由の音楽観とは必ずしも一致するものではない。けれど『自分の為に音楽をする』という部分は、真由の中にも少なからずある。その気持ちは顔も知らぬ誰かの為、ゆかりも無い何かの為、などといったふわふわしたものよりも、なお強く。

「だから今回は私、水月ちゃんにあやかってみる。誰よりも自分自身がたくさん音楽を、演奏を楽しめるように」

「そう」

 意気込む真由に水月はそっけない返事を寄越した。そして僅かな沈黙のあとで、

「じゃあ私も今回だけ、特別に」

 何? と小首を傾げる真由に、水月は咲き誇る花のような笑顔を向けた。

「自分の為だけじゃなくて、真由ちゃんの為に吹いてあげる。ほんのちょっとだけね」

「水月ちゃん」

 二人はしばし顔を見合わせ、こくりと頷き合った。とその時、通路の向こうで盛大な拍手が鳴り響く。どうやら前の団体が演技演奏を終えたようだ。人と物が動く音。それらが鎮まる気配。いったん掃けたフロアへ次に乗るのは、いよいよ自分たちだ。

「さあ、行くべ」

「ちょい待ちちなつ。本番前の掛け声とかしなくていいの? こうなんか、曲北ファイトー! とか、We are(ウィー アー) 曲北! みたいなさ」

 この土壇場で日向が最前列のちなつを呼び止める。それに対し、別にいいよ、とちなつは首を振った。

「そんなことしなくたって、私らは私ら一人ひとりの音楽を思いっ切りぶつけりゃいい。そしたらきっと、『聴く人の心を大きく揺さぶる』っていうパフォーマンスができる。もし出来なかったとしたって、それはそれでいい。みんなが後悔なく全力で楽しみ切ったって気持ちにさえなれれば、それが私らにとって何より最高の結果だよ。ね、みんな?」

「はい!」

 待機通路を揺るがす総勢百三十七名の返事。それでもう十分だった。こうしている今も、個々にはそれぞれの思惑があるのだろう。意識や感情を向ける対象もきっとばらばらだ。でも、それで良い。何もかもが一つにならなくたって良い。各々の求めるところを達成するために、全員が力を合わせて一つのことに取り組む。それはただそれだけで、ほんのちょっとした奇跡みたいなものなのだから。

 先を行くちなつと和香に導かれるようにして、真由たちは暗い通路から眩いステージへと足を踏み出した。途端、視界に飛び込んでくる圧倒的なほどの観衆、観衆、大観衆。二階席の隅々まで満場の人々によって埋め尽くされた今回のステージは、真由がこれまで踏んできた数々の舞台の中でも空間規模、収容人数、共に間違いなく最大級のものだった。

「待ってたぞー曲北ー!」

「今年も最高のパフォーマンス頼むぞー」

 こぼれ出す歓声の幾つかは、曲北の父兄たちの声援かも知れない。あるいは純粋に曲北の名演に期待を寄せるファンのものだろうか。いずれにしても、気後れするようなことはこれっぽっちも無かった。ユーフォを構えて意気揚々と足を運び、真由はピタリと所定の場所へ着く。

「続いての団体は東北代表、秋田県大仙市立、大曲北中学校吹奏楽部の皆さんです」

 アナウンスの声が高々と場内に響く中、メンバー全員が配置に着いたことをドラムメジャーの和香と永田が頷きで確認し合う。シンと鎮まる場。今からたった数分間の演技演奏は、このメンバーで行う最初で最後のものとなる。その刹那たりとも、悔いの残るものには決してしない。そう願う部員たちは一人残らず、これから迎える始まりの一瞬に向けて極限の集中を保っていた。彼らを一望してにっこりと笑みを浮かべた永田が両手を高く上げ、二拍を空振った後に大きく振り下ろす。

 轟雷のごとき銅鑼(タムタム)の大音声。ひょろりと舞い上がり舞い下りるピッコロとフルートの音色が、続けて和音階のメロディーを紡ぎ始める。大小の太鼓群が複雑怪奇なリズムを刻む中、楽隊は四方に散らばり入り乱れ、まさしく混沌と形容するにふさわしい無規則な行進をひたひたと繰り返した。勿論これは予め練られた通りの動きであり、一見して無軌道なようであっても全ては計算し尽くされたものだ。やがて黎明を迎えるように金管が音を重ねるに連れ、バラバラだった人の波が徐々に何らかの形を取ってゆく。それは全員で描き出す、太陽とも向日葵とも取れる大輪の姿。オープニングを飾るこの場面を大人数での総奏が華々しく盛り上げたことで、会場からは最初の大喝采が沸き上がった。

 (いい)(じま)(ただ)(とし)作曲、『天地開けし時 ~神と人と、言祝ぎの詩』。今年永田が選んだこの曲は、先述の冒頭部から終わりまで一貫して和の曲調で構成されており、全編を通じて華やぎとあでやかさに満ち満ちている。それはあたかも春に芽吹く桜のように。夏の夜空を彩る花火のように。秋の閑寂に映える紅葉のように。冬に大地を覆う白雪のように。移ろう四季のイメージを顕わす変幻自在のメロディに合わせて一糸乱れぬムーブを繰り出し続けるメンバーたちは、互いの位置を目印にしながら複雑な図形を体現していく。前へ後ろへ。右へ左へ。ステージをまるごと一つのキャンバスに見立て、刻々と遷移するフォーメーションによって砂絵のごとく万化する像の数々。その一つひとつの場面に観衆は興奮の声を上げ、また感嘆の吐息を漏らし、諸手を挙げて応えてくれた。

 スネアの軽快な音に合わせ、一群となっていた楽隊が二つに、二つが四つに、と分散を始める。サックスの情緒豊かな旋律に乗ってクラリネット部隊は二人一組で円を描きながら前に進み、それが聴衆の耳目を集めた隙にトランペットの一団が中央へ並び、波を切り裂くようにベルから甲高い音を響かせる。彼らを起点として他の楽器たちは鈴生りに後を追い、ステージの手前側で折り返して再び奥側へと後退した。ラインを崩さぬように感覚を研ぎ澄ましつつも、演奏が疎かにならないように。注意すべきポイントを頭の中で復唱しながら、真由もまた正面を向いたままで一歩ずつ、足を後方へ運んでいく。

 完璧なる精度でバックムーブを終えた一同がその場で足を止めた時、わあ、と観客席は沸き立った。ステージ手前へ向けて大きく裾野を広げる山、それは日本一の象徴たる富士のかたち。部員たちの整列によって生み出されたその描線の間隙を縫い、雲に見立てた長い旗を手にしたガード部隊がフロア中をところ狭しと駆け巡る。この場面に合わせてセンターボックス、すなわち正面観客席のど真ん中に向かって放つ、金管全軍の重厚なサウンド。それらはアリーナを地面から揺さぶる強烈な響きで観衆を圧倒した後、次の場面に向けて速やかに音量を絞り込まれていった。

 木管によって滔々と紡がれる幻惑のメロディ。その只中に、トロンボーンの雅人とユーフォのちなつがしずしずと歩み出る。曲北金管、エース二人による渾身の独奏。ゆらりと伸びたトロンボーンのスライドが前後する度、そこからは柔らかくも昏い音がぽろぽろとこぼれ、それに呼応するかのように奏でられたユーフォの調べは嘆きの色を帯びていた。と、彼らの前にピッコロやクラリネット、それとバッテリーによる小気味良い律動がひらりひらりと舞うように躍り出る。仄かに明るみを帯びるソリスト二人の音色。一転、周囲の楽器たちも息を吹き返し、続々と音量を上げてゆく。地鳴りと見紛うばかりに打ち鳴らされたパーカッションのクレッシェンドが最高潮に達したとき、トランペットとホルンの力強いファンファーレが場を席巻した。闇が明けるのを待ちわびていたかのように、トロンボーンとユーフォの各隊は勢いよく前面へ飛び出す。それを合図に総員が渦を巻き、そこから列をなし、全員が勢揃いして前進を開始する。

 華美を最大限に強調したメロディが花吹雪のように、場内を鮮やかに舞う。活き活きと動く部員たちの表情は朝露をまとった若草を思わせる瑞々しさを帯び、とめどなく流れ続けるその足並みが大河のうねりとなって、ステージ上を駆け巡る。生命の躍動と喜び。それを音で体で、持てる全てを尽くして表現しようとする部員たちは、この時確かに一つに溶け合っていた。それが真由の心を強く打つ。とくとくと速まる胸の律動に全身を焦がされ、あるいは自ら生み出す熱に脳天まで浮かされつつも、日々の練習で徹底的に刷り込まれた動作は絶えず無意識のうちに繰り出されていく。すぐ隣で鳴らされるちなつの力強い音色。反対側で奏でられる水月の優雅な音色。そのちょうど中間に自分がいる。それが嬉しくてたまらない。楽しくて仕方ない。と同時に、こうも思ってしまう。終わりたくない、と。

 曲もいよいよ終盤を迎え、楽隊は俄かに加速を始めた。それまでより倍近く速いテンポであっても、人同士の間隔はほんの少しも乱れてはならない。それには一人ひとりの歩幅や楽器ごとの形状の違いを把握すること、数え切れないほどの反復練習で体に刻み込ませた距離感に従うこと、そして何より、全員が互いの動きを信頼することが必要不可欠である。滑らかに淀みなく。そうやって曲線状に行進する部員たちが縦に横にと重なってゆき、やがて鳳凰の形を取って大きく両翼を広げた時、場内の興奮はピークを迎えた。ここを過ぎれば曲もまた徐々に、けれど確実に、終止(フィーネ)へと近付く。

 ああ、もうすぐ終わるんだ。その切ない実感が真由の脳裏にひしめく。こんな経験をすることが、これからの人生に何度あるのだろう。いや、そうじゃない。何度だって味わえばいい。そうなるように。そうあるように。他ならぬ自分自身が選ぶことをやめさえしなければ、楽しくありたいと願い続ければ、この瞬間はいつかまた必ず訪れる。全開の演奏をこなしながらもそんなことを思えるだけの心の余裕が、何故かこの時の真由にはあった。十字に交錯してからの二百七十度ターン、次の一歩を折り返して逆二百七十度ターン。その両方を華麗に決め、最後は全員がステージの中央へと結集し、仰角を揃えたベルアップを決めて、会場全体にこれでもかとクライマックスの大音声を浴びせてゆく。その場でステップを刻みながらユーフォへありったけの息を吹き込み、気の遠くなるほど長いフェルマータを突き抜けて。最後の一音、永田の指揮と和香のバトン、そして百三十七名の音はその一点に集約した。

 はあ、と一息ついた真由の意識が次に捉えたのは、会場を余すところなく包む拍手と喝采。歓喜の声。熱狂と興奮。感動の嵐。自分たち曲北が、いや一人ひとりが追い求めてきたものは、果たしてこれだったのだろうか。答えは各々の中にしかない。けれど眼前に広がるこの光景を見て真由は思う。自分たちの想い。それはきっと、この人たちに伝わったのだと。

 

 

 

 本番での演技演奏と、表彰式の場で告げられた本大会の結果。

 それを物語るのは賞の色やトロフィーの大きさなどではなく、本番終了後の記念撮影に並んだ部員たちの晴れやかな表情と、それを撮った真由の手元と心に残る、思い出の写し絵たちだった。

 ちなつ。日向。雄悦。和香。ゆり。楓。杏。奈央。玲亜。泰司。雅人。永田。名を挙げ切れぬほどたくさんの部員たち。そして、真由と水月。

 時おり涙を交えつつも、最後はみんなが笑顔でいる。それは彼らにとって他のどんなことよりも意味のある、宝物とさえ断言できる、最高の結果そのものだった。

 

 

 

 

「ああ真由。そのな、ちょっと話があるんだが」

 その日の夕食、真面目な顔をした父がこんなふうに話を切り出した。あれから月日は流れ、堆く積もった雪に押し潰されそうだった秋田の冬もようやく終わりを迎えようとしている。ついこの間には三年生の卒業式も無事終わり、来たる新年度に向けて曲北吹部が新たに打ち立てた方針のもと活動を始めようとしていた、その矢先でもあった。

 父と母、二人の表情と気配。それを見て察せぬほど、自分のことを鈍いとは思っていない。というよりは、こういう状況を何度も踏まえてきたが故にイヤでも分かってしまう、と言った方がより正確だろう。ごめんねみんな。そう心の中で呟いて、真由は父と母に尋ねた。

「いいよ。――次は、どこ?」

 

 

 

「北海道?!」

 真っ先に仰天の声を上げたのは泰司だった。他の部員たちも唖然としたように口を開け、あるいは受けた衝撃の大きさに血相を変えている。彼らの顔を見渡しながら、真由は自分の口でしっかりと、その事実を告げた。

「はい、父の転勤で。なので修了式を最後に皆さんとはお別れになります。一年間という短い間でしたが、皆さんといっしょに音楽をすることが出来て、とっても充実した毎日を過ごすことが出来ました。今まで本当に、ありがとうございました」

 ぺこり、と真由がお辞儀をした後もしばらくの間、音楽室はざわつきが止まなかった。そんなー。いくら何でも急すぎ。黒江さんいなくなったらどうなんの。そんな声が少なからず漏れ聞こえたことに、真由は寂しさと申し訳なさの間にほんのちょっとだけ嬉しさを見出してしまう。別れを惜しんでくれる程度には、自分という存在は彼らに受け入れて貰えていたのだ、と。

「残念なことだけどもな。仲間が一人、せっかく部に馴染んできたところでいなくなっちまう、っつうのは」

 指揮台に座った永田がぼりぼりと頭を掻く。今朝がた職員室でこの件を伝えた時も、永田は「そうか」とだけ呟いた後、何かを考え込むように黙り込んでいた。

「修了式までってことは、あと一週間ぐれえか」

「はい。父の仕事の都合上、今月末までには向こうに行かないといけないらしくて。引っ越しの準備もしないとなので、部に出られるのはそれまでになります」

「家庭の事情だからな、それはしょうがねえ。とにかくそういうわけだ。みんなも急な話でびっくりしたべども、黒江を気持ちよく送り出してあげましょう」

 はい、と返事をした部員たちも、この時ばかりはいつもの元気を失っているみたいだった。壇を降りてパートの輪に戻った真由を、早速とばかり「真由ちゃん!」「先輩!」と、パート員たちが取り囲む。

「ごめんねみんな、驚かせちゃって」

「驚いたなんてモンでねえっすよ。せっかく先輩と仲良くなれたのに」

「あたし、真由ちゃんが居てくれるからパーリー引き受けたんだよ。それなのにこんなことになるなんて、あたしこれから何とせば良いの」

「いや、オメエの都合はどーでもいいべ。んだども残念だな、真由ちゃんとだった来年も絶対良い音楽できる、って思ってたのにさ」

「黒江先輩、行かないで下さい!」

「ハッ、そうだ。黒江さんが誰かの家に下宿すれば転校を回避できるのでは?」

「無理だべそれは、常識的に考えて」

 方々から投げかけられる言葉を捌き切れず、あ、えと、と真由は狼狽えるばかりだ。とその時ふと、パートの輪から少し離れたところで沈痛な面持ちをして俯く玲亜と泰司の姿が視界に入った。彼らにも一応ひと言を、と真由は人垣を抜け出し二人の傍へと向かう。

「玲亜ちゃんも石川くんも、びっくりさせちゃってごめん。そういうわけだから、私がいなくなった後の低音パート、よろしくね」

「あ。ハイ。……その、黒江先輩」

「なに?」

 玲亜の唇がわなわなと震えている。それが大きく開かれたとき、そこから出てきた言葉は予想だにしないものだった。

「すみません! こうなるって分かってたら私、あの時あんなことしてねえで、もっと先輩といっしょに吹ける方を選んでたかも知んねえのに、」

「玲亜ちゃん」

 どうやら今回の報せを聞いて改めて、玲亜は過去の自分が取った選択の重さを振り返ってしまったらしい。彼女が独立組へと加わっていた折、真由と共に吹けなかった期間はゆうに三ヵ月近くにも及んだ。いや、コンクールだ何だといった時期まで含めればもっとかも知れない。真由が過ごした一年のうち実に四分の一、と考えれば確かに、決して短くはない空隙の月日。でもそんなの、今さら取り返しようもないのに。そう内心では思いつつも、真由は傷心の玲亜へ努めて優しく声を掛ける。

「それはしょうがないよ。私だってつい昨日知らされたんだし、それにウチっていつもこうなの。秋からは玲亜ちゃんとも一緒にたくさん吹けて、おかげですごく楽しかった。だから玲亜ちゃんも気に病まないで」

「……はい」

 涙に濡れる目尻を拭い、玲亜は不承不承といった様子ながらも頷きを返してくれた。真由もそれを見て微笑む。そう、過去は取り返しようがない。決定してしまった事実もどうやったって覆せない。真由は思う。自分が可能な限り欲しいがままを得られるのも、それを支えてくれる親のおかげ。だからこれはその代償みたいなものなのだ。少なくとも、自分が親の庇護下にいるうちは。

「ありがとうございました黒江先輩。短い間でしたけど、本当お世話んなりました」

「いやあえっと、そういうのはまだちょっと早いから。あと一週間はここにいるし」

「わっ、そう言えばそうだったすよね。変な勘違いしちゃってすいませんっ」

 思わず真由は苦笑してしまう。この一年を通じて精神的にずいぶん成熟したと思っていたのだが、彼女のそそっかしさはまだまだ抜け切らないようだ。だが玲亜のそんなところも今は、とてつもなく愛おしいと思ってしまう。

「あ、黒江先輩、あの、あの……」

 一方、泰司はうわ言のようにぱくぱくと口を動かすばかりで、一つも言葉が出てこないらしかった。今回の急報、どうも彼には相当なショックを与えてしまったみたいだ。何だかんだで先輩が急にいなくなるというのは心細いものだろうし、それに部活云々を抜きにしても、せっかく仲良くなった人間との別離に際して寂しさを覚えるのも当然だろう。そう思って真由は真由なりに、彼の心情になるべく寄り添える言葉を選んだ。

「大丈夫。石川くん、去年入部した時と比べたら見違えるくらい上手くなってるから、春からはきっと良い先輩になれるよ。玲亜ちゃんとは同じ学年同士なんだし、もっと仲良くした方がいいかなって思うけど。努力家の石川くんならまだまだ上手くなれる筈だから、自信持ってこれからもがんばって」

「いや、あの、そうでねくて……あ、ハイ」

 玲亜のそれに比べ、泰司の返事は何だか歯切れの悪いものだった。何だろう、と小首を傾げつつも、真由はそれ以上気にしないことにする。泰司が時おり変な反応を示すのも今に始まったことではない。それに急な話で気が動転しているせいもあることだろう。きちんとした別れの挨拶は後日、双方落ち着いてからでも十分間に合う。

「それに後一週間はみんなと一緒だから。最終日まで悔いのないよう、みんなで演奏楽しもう。ね?」

 振り返った真由が問いかけると、しょぼくれていたパート員たちも諦めをつけるしかなくなったのか、おもむろに顔を上げる。

「……んだな、んだよな」

「落ち込んだって何にもならねえし、それよりだったら残った時間でいっぱい音合わせて楽しんだ方がいいでな」

「んじゃさ、修了式の日にみんなしてパーっと黒江さんのお別れ会やろ! お菓子持ち込んで飲んで騒いで、ほんで合奏して」

「あ、いいねそれ」

 え? 思いがけぬ提案に真由は目を丸くする。

「せっかくだから先輩たちにも来てもらうわ。私、日向先輩に連絡してみる」

「こうなったら吹部を挙げて盛大にやったるべ」

「吹部を挙げてって、他のパートの先輩らは何とすんの?」

「ラッパの奈央ぼうにでも言っとけば、小山先輩づてに広まるっしょ。あの人お祭り好きだし」

「お祭りってそれ、なんか真由ちゃんさ失礼でね?」

「しんみりするよりマシだべって。そうと決まれば早速オラ、永田先生さ許可貰いに行ってくる!」

「ちょ、ちょっと、みんな」

 当の本人を差し置いて、パート員たちはどんどんお別れ会とやらの計画を打ち立てていった。この行動力こそが曲北の原点、などと言えば聞こえは良いが、いざ自分のこととなるとすっかり恐縮してしまう。ありがたいような、そこまで大ごとにして欲しくないような。けれど真由が口を挟むいとまも与えられぬまま、「GO!」という掛け声と共にパートの面々は一斉に散らばっていった。

「……ありがとう」

 その一言には自ずと万感がこもった。と、ふと隣を見ると、そこにはまだ玲亜と泰司が残っていた。しまった。もう誰も残っていないと思ってうっかりしていた。慌てて真由は場を取り繕おうとする。

「え、ええと。なんだか申し訳ないね。みんなに迷惑掛けちゃって」

「そんなん気にしないで下さい。皆さんきっと先輩とちゃんとお別れしたい、っていう気持ちからのモンだと思いますし。もちろん私らだってそうです」

「うん。私も嬉しい、みんなそう思ってくれてて」

「それはきっと水月先輩だって同じだと思います。ここに居れば、の話ですけど」

「……そうだね」

 真由は玲亜と共に、パートの一角に置かれっぱなしの椅子をちらと見る。その席の主である水月。彼女はあれ以来ずっと、この部に不在のままだった。

 

 

 水月が退部届を提出したのは、全国大会を終えて秋田に戻った曲北吹部が次に活動を再開した、その日のことであった。

 家庭と進学の都合上。表向きの退部理由はそういうことらしいが、もしかしたら水月は水月なりに、部へ混乱を招いたことに責任を感じていたのかも知れない。いや、元々部の活動に興味なんか無くて、やりたい事をやり遂げて満足したから辞めるだけなのでは。そうした様々な憶測が部員たちの間で飛び交う中、真由は残念さと仕方無さのほぼ中間みたいな気持ちでもって、その報せを受け止めたのだった。

 水月が自分で決めたことなら、わたしにそれを止める権利は無い。言葉にしてしまえばひどく冷たく聞こえるけれど、そう思っているのを真由自身、否定することは出来なかった。それに、引き留めることが必ずしも彼女のため吹部のためになるとも限らない。各々の信じた道を各々の往きたいように往く。それもまた誰もが不幸にならない解決策の一つであることを、今の真由は知っている。

「けど結局その長澤さん、退部はしてねえんでしょ?」

「うん、永田先生が水月ちゃんを直接引き留めたみたい。どんな話になったのかは良く分からないけど」

 朝、いつもの通学路で久しぶりに早苗と肩を並べた道中にて、真由は彼女にその顛末を語り聞かせていた。そもそも水月の退部理由にしたって部員同士での噂話に過ぎない。真実を知るのは水月と永田、当人たちだけ。二人がどんなやり取りをしたのかさえ、蚊帳の外にいる自分たちは知り得る筈もないことである。分かっているのは水月が未だ吹部に籍を置いていること、そして今現在、彼女の取り扱いは『退部』ではなく『休部』であること。この二つだけだ。

「どうなんだろうね。部さ戻ってくる気あるんだば、たまに顔出しぐれえはすると思うんだけどな」

「そういうことは全然。どこかでばったり会ったらそれとなく聞いてみよう、って思ってたんだけど、不思議と水月ちゃんに会う機会も無くて」

「三組と八組だからなぁ。合同授業でも一緒になんねえし、こんだけ生徒数多い学校だと会わねえ時ってとことん会わねえんだよね」

「それに、こういうことになって自分から言いに行くっていうのも、なんかヘンな感じがしちゃって」

「まあ、しょうがねえんでねえの。同じ八組の子だって吹部にいるべし、それとなしに本人さも伝わるって。もしも真由ちゃんがどうしても、その長澤さんって子さ言っときてえコトがあるってんだったら、そりゃあ直接会って言った方がいいとは思うけど」

「そう、だね」

 水月に言いたいこと。改めて問われてみると特段思い浮かぶものも無い。お世話になりました。ありがとう。いい思い出だよ。そう思っているのは間違いないのだがしかし、水月相手だとどこか皮肉めいて聞こえるというか、空々しさが混じる感もある。もし目の前に水月が居たとして、彼女に何をどう言うべきなのか。離れて久しい二人の隙間が、そこに紡がれるべき言葉を見失わせている、そんなもどかしさに駆られる思いがする。それが真由が水月に直接別れを告げられずにいる原因の一つでもあった。

「にしても、せっかくいい友達が出来たと思ったのに、いなくなっちゃうんだなぁ真由ちゃん」

 あーあ、と組んだ両手を頭の上に載せながら、早苗が天を仰ぐ。ごめんね、と言いたい気持ちはあった。でも転校は自分の意思ですることじゃない。親の仕事の都合なのだから、謝ったところでどうにもならないのだ。だから真由は別の語句を選んで伝える。

「ありがとね早苗ちゃん。私のこと、転校して来てからずっと面倒見てくれて」

「いいよいいよ、そんなん。改めて言われると照れくせえし。それに真由ちゃんさ秋田のこと教えてあげんの、私も楽しかったしさ」

 カラリとした笑顔で早苗はそう告げた。それがどんなにありがたかったか、とても言葉で言い尽くせるものでは無い。転校して最初に出来た友人が誰あろう早苗であったことは、真由にとって間違いなく僥倖と呼ぶに値するものだった。

「真由ちゃんが北海道に行っても、私らずっと友達でいようね」

「もちろん。向こうで良い写真撮れたら、早苗ちゃんにも送るね」

 そんな約束を交わし、二人は微笑み合う。離別は悲しみばかりをもたらすわけじゃない。そこに自分が居たという証がこうしてまた一つ、この地に刻まれていくのだから。

 

 

 

 

 

 それからの一週間はまさしく光陰矢の如し、だった。

 修了式の後でクラスメイトたちが開いてくれた、ささやかなお別れ会。そして部活では部員たちの企画による、真由だけのための送別会。その両方で一人ひとりから温かい言葉をもらい、互いに別れを惜しみ、またの再会を誓い合い。寂しいけれど楽しいそれらのひと時は、全て余さず真由の手でファインダーに収められ、シャッター音と共にフィルムへと刻まれていった。

『で、出発っていつ? 明日にはもう発っちゃうとか?』

『三日後です。荷造りとか、まだ準備があるので』

『じゃあそん時も私ら見送りに行くよ。どうせ高校の入学式までヒマだし』

『ちなつもそんまか(そのうち)出発だけどな。どうせだば、ついでにちなつの分もやっちゃう?』

『要らねって。今回は真由が主役なんだがら、きちんと送り出してあげるべ』

 そう言ってくれたちなつ達にも感謝の念は尽きない。あの時、転校先を曲北に選んで本当に良かった。段ボールの蓋をガムテープで留めながら、真由は当時を振り返る。こんなに濃密な日々を過ごせるだなんて、転校前には思ってもみなかった。決して楽しいことばかりじゃなかったけど、たくさんの発見や気付きがここにはあった。真由自身、思い知らされたことも沢山ある。今もまだ明確な答えが出ていない問題も多い。その一つひとつが糧となるのか、無為に流れ去ってしまうのか、それはこれからの自分次第だ。

「へばお預かりします。この便の到着は明日になりますんで」

「はい、よろしくお願いします」

 荷物を満載した引っ越し業者のトラックを見送って、それから改めて、今日まで暮らした住まいをすみずみまで眺める。こっちに来た時には既に荷物の山だったおかげで、がらんどうの部屋を見るのはこれが初めてだった。こうして見ると思っていたより広い気もする。家族揃ってごはんを食べた居間。いつも母がぴかぴかに磨き上げていた台所のシンク。ちょっと作りの古いお風呂とトイレ。両親の寝室として使われていた和室。そしてこの一年、自分の部屋として最も多くの時を過ごした六帖の洋室。その一つひとつに『ありがとう』と『さよなら』を告げて回り、全てを終えて真由は玄関に立った。

「もう良いの?」

「うん」

「じゃあ行こっか。お父さんも、時間になったらあっちで待っててくれるって」

 今回も自分たちに先駆けて、父は既に現地入りしている。前回と異なるのは、先に送った荷物をほどきながら自分たちの到着を待ってくれているわけではなく、自分たちも父と一緒に現地で荷物を受け取ることになる、という点だ。それはひとえに前回と今回とで移動の手段が異なるから、ではあるのだが。

「真由が掛ける? 玄関のカギ」

 うん、と頷き、真由は母の手から銀色の鍵を受け取る。こうしてこの戸に施錠をするのもこれが最後。そのことに微かな感傷を抱きつつ、真由はドアノブに鍵を差し込み、そしてくるりと捻った。

 

 

 市内のちょうど中央。この五月に竣工する予定の白く巨大なこの建物は、地域医療の中核を成す総合病院を含む複合施設となるらしい。その敷地内にあるバスターミナルには既に、見知った顔がいくつも揃っていた。

「やっほう真由。約束通り、見送り来たよ」

「ちなつ先輩、日向先輩。ありがとうございます」

 真由は深々と頭を下げる。今日来てくれた低音パートの関係者は、直属の先輩であった彼女たちだけ。他は雄悦も含め、この場に居ない。けれど寂しいなどとは思わなかった。彼らとは先日の送別会できちんと惜別の挨拶を済ませてあったし、互いの関係性も鑑みれば、自分なんかの見送りにわざわざ面倒を掛ける方が却って忍びない。

「まだ時間少しあるんだべ。今のうちに真由は他の子とお別れ済ませなよ、私は最後でいいがらさ」

「はい、そうします」

 続けてちなつが、あの時はお世話になりまして、と母に別れの挨拶をし始める。それを真由がボーッと眺めていた折、真由ちゃん真由ちゃん、と少し離れたところで日向が手招きをした。

「何ですか?」

「まだ言ってなかったなーって思ってさ、私の進路」

「あ、そう言われれば」 

「私さ、マーチングやってる高校に行くことにしたんだよ。別に私立でも強えとこでも何でもねえけど、何つうんだろな。自分が今までちなつのために吹部に居ただけなのか、それとも実は音楽が好きだから吹部に居たのか、それをもう一度確認したくってさ。ちなつとは別々の学校になっちゃったけど、まあだからって友達じゃなくなるワケでもないしね」

 日向の表情は実に清々しかった。彼女もまた誰かや何かに依存せず、確立された自分の人生に向き合おうとしているのだろう。日向の進む道にも幸多かれ、と真由は願う。

「良いと思います。高校に行ってもがんばって下さいね、先輩」

「私がそういう気持ちになれたのも真由ちゃんのおかげ、本当に今日までありがとね。真由ちゃんも体さ気ぃ付けて、向こうでもがんばって」

 手を振る日向に迷いの色は見られない。はい、と返事をした真由に、日向はニッカリと白い歯を覗かせた。

「真由ちゃん、絶対(ぜってぇ)手紙送ってな。私も絶対(ぜってぇ)返事書くから」

「あ、松田さんずるぅ。私だってゼッタイゼッタイ真由ちゃんさ手紙書くもん」

 次に声を掛けてきたのは奈央と楓という、少々意外な組み合わせだった。同学年だし女子同士だしで確かにあり得なくもないのだけれど、それにしたって今までこの二人が交流していたことなんてあったっけ。そうと訝しむこちらの曖昧な反応を読み取ってか、「忘れちゃったの?」と楓が腰に手を当てる。

「秋の会議で私ら、それぞれ金管と木管の意見窓口係になったじゃん。去年までの反省から、もっと部員たちの声を聞いて幹部や先生に伝えるっていう」

「ああ、そう言えば」

「それで私と松田さん、ときどき行き会って情報交換したりしてんの。まあ話してる内容はそれだけじゃねえんだけどね」

「そうそう」

 と、奈央が楓の肩越しにずずいと身を乗り出してきた。

「楓ちゃんから聞いたよ、真由ちゃんの活躍ぶり」

「え。活躍って、そんな」

「私も松田さんから色々聞かされてビックリしたよ。さっすが真由ちゃん! って」

「もう、そんなこと無いから」

 二人が褒め殺してくるせいで、真由はすっかりしどろもどろになってしまう。この期に及んでもまだ、自分を良く言われることには酷い抵抗感があった。これが自分なのだからどうにもしようが無い。そんな開き直りを、半ば胸のうちに抱きながら。

「真由ちゃんは私らの恩人だからさ、なんか困ったことあったらいつでも相談して。今度は私らが真由ちゃんの力になるよ」

「じゃあ、その時が来たらよろしく」

「まっかせなさい! 私と楓ちゃんが手を組んだらもう怖いもん無しだよ、なー楓ちゃん」

「うんうん。どんな問題でもスパっと解決してみせっから、そん時ゃ()()に乗ったつもりで安心して頼ってね」

 それはそれで別の何かが怖い気がする、などとはさすがに言えなかった。じゃあね、と軽めに挨拶を交わし、それから真由はキョロキョロと辺りを眺める。残念と言うべきか当然と言うべきか、今日ここにもあの子の姿は見当たらない。このままお別れ、というのも少し寂しくはあれど、しかし彼女の気持ちを尊重するならこれまた仕方の無いことだ。

「どしたの真由ちん、なんか探し物?」

「あ、いえ、別にそういうわけでは」

「ひょっとしてぇ、アタシのこと探しててくれたとか?」

「先輩のことじゃなくて――ってうわ、杏先輩!?」

 一歩後ずさりして真由はおののく。視界の高さから一段下のところでは、ぴこぴこと杏の頭頂部が上下に動いていた。ついさっきまではそこに居ないと思っていたのだが、いつの間に。すぐ詫びを入れた真由に「気にしてないよ」と、杏は平手をぷるぷる翻す。

「さすがに今日が最後だかんね。真由ちんとは(しとね)を共にした仲のワケだし、ちゃんと見送ったげなきゃーって思って」

「ヘンな言い方しないで下さい。別にそういうことがあったわけじゃないですし、」

「ふぅぅん? 『そういうこと』がどういうコトだか、真由ちん知ってるんだぁ?」

 杏に鋭く突っ込まれ、は、いやそれは、と真由の顔は茹でだこみたいに火照ってしまう。その反応を見て杏はケタケタと笑い転げた。

「ジョークジョーク。実は預かりものがあってさ。真由ちんに渡してくれ、って」

「私に、ですか?」

「ほい、確かに渡したよ。返事は本人に直接してね」

 杏が取り出したのは小さな封筒、と思しき紙製の包みだった。気持ちを落ち着かせつつ包みを受け取り、真由はぺらぺらと裏表をひっくり返してみる。差出人の名や誰宛てのものか等は一切書かれていない。ただの折り紙、と言われれば信じてしまいそうなほど、それは素っ気も何もない装丁だった。

「誰からですか?」

「開けてみりゃ分かるってさ。ここでってのも何だから、後で移動中の暇つぶし代わりに開けてみなよ」

 杏にお使いを頼めるような人物。しばし考えてみたものの、心当たりはサッパリ無かった。そもそも中身が何なのかも分からない。ただこの異常な軽さからして、お菓子や小物の類でないことは明白だ。杏に言われた通り後で開いてみることにして、真由は包みをスカートのポケットにしまい込む。

「あー、慣れないお使いしたから肩凝った肩凝った。奈央ちーん、ちょっとマッサージして」

「はいッス! うわ先輩、思ったよりも凝ってるッスね。疲れ溜まってんスか?」

「そりゃもう当ったり前よー、なんたってアタシ、気遣いのできるオトナの女だもんね。あーそこそこ、もちっと強めにグイグイやっちゃって」

 杏の要求に応じて飛んできた奈央が、甲斐甲斐しくも先輩の肩をもみもみしてあげている。何だかんだでこの二人が良好な関係を保っているのも微笑ましいことだ。などと思って杏たちを眺めていると、そうだ忘れてた、と楓が突然声を張った。

「私もお姉ちゃんから伝言頼まれてた。真由ちゃんに」

「ゆり先輩から?」

「うん。お姉ちゃん、お別れが辛くなるから見送りには来ないって。でも真由ちゃんのことはずっと忘れないでいるから、いつかまた秋田に来ることがあったらいつでも会いに来てけれ、ってさ」

「そうなんだ」

 真由はついつい苦笑してしまう。寂しさも無くは無いけれど、本人が直接言いに来ないあたりがどうにもゆりらしい。

「じゃあ私からも。その日を楽しみにしてます。今までたくさんのお気遣い、本当にありがとうございました。――って、ゆり先輩にお願い」

「分かった。帰ったらお姉ちゃんに伝えとくね」

 えへ、とはにかんだ楓の柔らかい表情は、秋山姉妹の現在を何よりも雄弁に物語っていた。ゆりと楓。二人はこれからも支え合い想い合い、時にはぶつかり合ったりもして、姉妹としての関係を保ち続けてゆくことだろう。きょうだいとはそういうものなのだ。一人っ子の真由にそれを教えてくれたのは、他ならぬ彼女たちである。

「ところで真由、バスの時間ってそろそろ?」

「ええと、あと十分くらい、です」

 ちなつに問われ、真由は壁の時計で再確認をした。今回の引っ越し、移住先である北海道へは空路を用いての移動となる。空港までのバスの乗車時間等を含めれば、移動に掛かる時間は三時間とちょっと。そこだけ見れば短い旅路に思えるが、物理的な距離では概ね四百キロ超の大移動だ。大人ならばまだしも、学生の身である自分たちにとっては途方もない隔たりと言えよう。

「じゃ、トリは私がいただいちゃっていいかな。私もみんなと大体同じことしか言えねえけど」

 周囲を見回し、オホン、とちなつが咳払いをする。トリなどと冗談めかしてはいるけれど、きっと彼女は最後まで部長らしく皆に遠慮していたのだろう。と言っても、今のちなつは『元』部長なのだけれど。

「ありがとう真由、曲北に、ウチらのとこに来てくれて」

 ちなつからの別れの言葉はまず、手放しの感謝を真由に告げるところから始まった。

「真由が来てくれてから毎日がすっげえ楽しかった。真由がいてくれたおかげで、私ら本当にいろんなものを貰えたと思う。そのおかげで私も他のみんなも今ここにこうやって居られる、ってぐらいに。おまけに、マーチング全国四連覇、っていう最高の思い出まで付けてもらってさ」

「そんな。私の方こそ、皆さんにお世話になりっぱなしで」

「今日ぐらいは謙遜ナシで素直に受け取りなって。私さ、ホントに感謝してる。真由がいなかったら私、ずっと自分を騙したまんまだった。それは他のみんなだってきっとそう。真由がここに来てくれたから、ここに居てくれたから、私らはみんな自分と向き合えるようになったんだよ。だから本音言うと、真由がここからいなくなっちゃうのはすげえ寂しい。例え通う学校が違ったって、すぐ傍にいりゃあ会いたい時にいつでも会いに行けんのに、ってさ」

 ぐすん、と鼻をすすったのは誰だったのか。ちなつの顔もまた笑顔と泣き顔のちょうど中間にあるような、えもいわれぬ形を取り始めていた。

「でも、真由が居たことは私らみんなの中にしっかり刻まれてる。真由が居てくれたことを、真由と過ごした毎日を、私らは絶対忘れやしない。そうしたら離れてたって、何も関係無いんだよね。だから真由にも覚えてて欲しい。ここに私らが、曲北のみんなが居たってことを」

「はい。ぜったい、忘れません」

「そんでまたいつか、どっかで会おう。音楽を楽しむ者同士として、それにふさわしい最高の場所でさ」

 約束。その言葉と共にちなつが差し伸べた手を、真由は固く握り返した。そのぬくもりから離れる時、耐えがたいほど狂おしい感情が胸に押し寄せる。それはちなつも同じだったのだろう。彼女の目尻から大粒の涙がぽろりと溢れるのを、ほんのり滲む視界の中央で、真由は確かに捉えた。

「あー、それにしたってウチの男子どもは一人も来てねえのかよ。ったく、甲斐性無し共め」

 ぼやくフリをしながら、ちなつはプイと顔を背けた。その顔を見た日向は一瞬目を見開き、それからちなつのことを、どこまでも優しく温かいまなざしで見守っていた。

「あ、来た」

 向こうを眺めていた杏がぽつりと呟く。男子が? と皆が一斉に目を向けたその先からは、赤い塗装を施されたバスが一台、のろのろと徐行運転でこちらへと向かって来ていた。定刻通り、間違いない。もうすぐ自分は母と一緒にあのバスに乗って、一年間暮らしたこの地を、大曲を離れることとなる。

「いよいよか」

 詰まったような声色で日向が独りごちた。それを合図にしたかのようなタイミングで、真由は手荷物を詰めた鞄を肩に掛ける。中から一つ、フィルムカメラだけをそっと抜き出して。

「じゃあ最後に、みんなが揃ってるこの場面を一枚、撮ってもいいですか?」

「え? いやいいけど、真由抜きで?」

「そうですけど」

 当然とばかりにちなつへ頷きを返した真由へ、ちょい待ち、と今度は日向が絡んでくる。

「なんかヘンでね? こういうのって普通、旅立っていく人が他の誰かさ撮られるもんじゃねえの」

「いや私、自分が写真に写るのは億劫っていうか、何というか」

「最後くらい良いべった。お母さんさ撮ってもらって、あとで私らにも送ってちょうだい。それでみんなの思い出にしよ。な、ちなつ」

「んだな。ヒナにしちゃあ珍しく名案」

「一言余計だ、オノレ」

 二人が漫才を繰り広げているうちに、他の皆もぞろぞろと真由の周囲に集ってくる。えっと、あの、などと言っているうちに撮影の体勢はすっかり整ってしまい、どうにもならなくなった真由は渋々カメラを母へと託した。

「……お願い」

「はいはい。みんな準備いい? あ、端っこのあなた、もうちょっと真ん中に寄って。そうそう、いい感じ。それじゃ行くわね。はい、チーズ……」

 そんなふうに母がシャッターを切ろうとした、その瞬間。

「先輩!」

 ばん、とターミナルの戸が勢いよく開け放たれる。そこに立っていたのは荒く息をつく泰司と、遅れて彼の後ろから駆け込んできた玲亜だった。突然すぎる闖入者のお出ましに、一同は呆気に取られる。

「すいま、せん。家出るの、遅くなって、めいっぱい、走って、来ました」

 泰司が嘘を言っていないのは、彼の姿を見れば一目瞭然だ。まだ早春だというのにシャツが張り付くほどすっかり汗だくになっている。二人とも来てくれたの、とねぎらいの言葉を掛けようとした真由に、しかし玲亜はふるふると首を振った。

「二人でねくて別々です。コイツとはついさっき、そこの角でバッタリ会っただけで」

「いやいや三島ちゃん、真由ちゃんの『二人とも』ってのは、そういう意味で言ってんじゃねえと思うんだけど」

「え? ああ……ンだったんですか。私またてっきり」

 苦笑交じりに突っ込む日向の言葉も、それにあたふたとする玲亜の慌てぶりも、今の泰司にはまるで耳に入っていないみたいだった。まだ苦しそうに浅い呼吸を繰り返しながら、しかし泰司はその視線だけをガッチリと真由に固定していた。あまりの迫真ぶりと必死さに染まり切った彼の形相は、まるで怒ってすらいるようにも見える。

「えっと、大丈夫? 石川くん」

「あの、俺、どうしても黒江先輩に、伝えてえことあって。ギリギリまで、迷ってたんすけど、いま言わねえばダメだって思って、それでここに」

 おお、と後ろの一同が色めき立つ。ナニゴト? と真由は思った。

「その、こういうこと初めてで、どう言ったらいいか分かんねえんすけど、」

「うん」

「俺、俺っ、黒江先輩のこと、」

「私のこと?」

「先輩のこと、ずっと、ずっと……」

 長い沈黙。ごくり、と固唾を呑むような音が真由の後方からこぼれた。わたしのこと、ずっと、何だろう。そう思いつつ泰司のことをジッと見つめ続けていると、いよいよ顔を真っ赤にした泰司は息苦しそうに唇をぱくぱく開閉させたあと、

「……ずっと、応援してます。向こう行っても、がんばってくだ、さい」

 言いたいことがようやく言えたからなのか、泰司は全身から力が抜けたように緩慢な所作で一礼をした。ありがとう、と彼のことばを受け取った真由がふと後ろを振り返ると、真由以外のみんなは呆れたような、あるいは信じられないものを見るような冷たい目つきを泰司に注いでいた。ヘタレ、と一言述べた玲亜に珍しく噛みつこうともせず、それからも泰司はずっとうな垂れたままでいた。

「じゃあ、そこの二人もこっち来て撮っちゃいましょう。ほらほら並んで」

 状況がひと段落したと見てか、母が手早い誘導で二人を列へと加える。はいチーズ、の声と同時にぱしゃりと焚かれるカメラのフラッシュ。続けてもう一枚を撮影したところで、ロータリー状の道路を一周してきたバスはちょうど停留所に停車した。

「じゃあ皆さん、お世話になりました」

「こっちこそ」

「さよなら、なんて言わねえよ」

「また会おうね」

「ありがとな、真由ちゃん」

「今年の夏も秋田さおいでよ。みんなして遊ぼっ」

「ああ、先輩、まっ真由先輩!」

「黒江先輩、ありがとうございました」

 それぞれが別れの言葉を述べ、その全てに見送られながら母と二人、バスに乗り込む。窓の外側まで集ってくれたみんなに、真由は窓を開けて手を振ることで応えた。

「ありがとうございます。またいつか、」

「うん、またね!」

 フオン。軽やかな警笛を鳴らし、バスはゆるりと動き出した。次第に遠ざかるちなつ達の姿。それが完全に見えなくなるまでずっとずっと、真由はこの目で追い続けた。

「いい人たちだったわね、吹部のみんな」

 うん、と首肯し、座席に座り直した真由は母に預けていたカメラを受け取る。いくつもの思い出が詰まったこのカメラ。内側のフィルムが最後に宿したものは、その中でもとびきりの宝物だ。これから真由がどこへ行こうと、そこで何をしていようと、これだけはいつまでも色褪せることは無い。

「私、良かった。秋田に来て、曲北のみんなと出会えて、」

 無意識のうちにこぼれ出したその想いの吐露を、母は沈黙と柔らかな笑みでもってただ受け止めていてくれた。しばし経って後、ようやく感情が収まってきた真由はほう、と一つ息を吐く。

「ところでさっき、何か貰ってなかった? 小山さんって人から」

「あ、そう言えば」

 母に言われるまですっかり失念していた。ポケットをごそごそ探り、真由は件の紙包みを取り出す。杏から託されたそれは封筒と呼ぶにしても厳重な糊付けがされていて、光に透かして覗いても内側に別紙の影すら見えやしない。本当に中身なんてあるのだろうか。ぴりぴり、と折り目の一端から丁寧に包みを剥がしてみる。と、そこにびっしりと文字が書かれていることに気付いた真由は、引き続き慎重に糊付けを剥がしていった。

 正体はほどなくして判った。それは包みではなく、それ自体が内折りにされた、A4サイズほどの用紙を埋め尽くす手紙そのものだった。

「……拝啓、黒江真由様」

 それこそペン字の上級者みたいに均質な筆致でしたためられた、やけに流暢な定型句。それを目にした瞬間、差出人が誰なのかはすぐ思いつくことが出来た。途中で杏に盗み見されないようにとでも思ったのかも知れないが、それにしたって随分と手の込んだことをしてくれたものだ。送り主の顔と声を思い浮かべながら、真由はさっそく主文へと目を走らせる。

 

 

 

 拝啓 黒江真由様

 早春のみぎり、黒江様におかれましては益々ご健勝のことと存じます。

 さて過日、黒江様のご一家ご栄転ならびにご転校の件、人づてに知りました。黒江様とのお別れに胸が張り裂けそうな思いではございますが、本来直接ご挨拶に伺うべきところをこうしてお手紙のみで済ませる非礼、なにとぞお許しくださいませ。

 

 思えば黒江様と初めてお会いして以来、私はずっと黒江様に期待しておりました。黒江様ならばきっと、この曲北の小さな集団を変えてくれる。黒江様こそが私の望み続けていた人物である。勝手ながらそう願っておりました。それは同時に、あなたならば私の考えを、思いを理解して下さる、そういう期待でもあったことを今となっては否定できません。

 そして私の願望、あるいは狙い通り、黒江様は本当にたくさんの変化を曲北の集団にもたらしました。それは必ずしも私の理想そのものとは限りませんでしたが、そんなことはどうでも良いことでした。結果がどうあれ、黒江様が私の思い描いていた存在であったことには間違いありません。その点において私は私の目的と念願を果たすことが叶ったのです。けれど一つだけ、誤算もありました。

 

 覚えていますか? マーチング全国大会の会場で黒江様に、私が誰かの為、何かの為に吹くことは無い、と申し上げたことを。

 あれは本心からの言葉でした。今もその思いは失われていません。けれどあの時、あの一度だけをあなたの為に吹こう。そう思って吹いた時、どうやら私自身もまた黒江様の毒に冒されてしまったようです。

 本番が終わって喜びに打ち震えるあなたの姿を見た時、結果発表に感極まったあなたの姿を見た時、そしてあなたから直接『ありがとう』を言われた時、私はほんの少し、本当にほんの少しだけですが、誰かのために吹くのも悪くないと、そう思わされてしまいました。

 

 今はまだ自分の気持ちに整理が付かず、したがって黒江様にお会いすることはできません。ですが今しばし自分を見つめ直し、あの時感じた思いが本物であるという確信が持てた時、私はまた誰かのため何かのため、再びユーフォを吹いてみようと思います。そしてその遥か先で、いつかあなたにもう一度お目通りし今日の非礼をお詫びする機会がありますことを、今はただ願ってやみません。

 乱文乱筆失礼いたしました。新しい土地でもどうぞお体にお気を付け下さい。そして願わくば、こんな情けない人間がここに居りましたことを、どうか黒江様の心の片隅にでもお置き下されば幸いに存じます。

敬具

 

 平成二十六年三月某日  長澤水月

 

 

 追伸 この手紙は読んだらすぐに破り捨てて下さい。もし手元に残されましたら、末代まで呪います。

 

 

 

 最後の一文まで水月らしい。そう思いつつも真由は手紙を丁寧に折りたたみ、そっと懐にしまい込む。それは彼女に対する真由なりの、たった一度きりの反撃だった。

 いつの日か、何処かで水月と再会する時、その日までこの手紙は大事に取っておこう。そして時が来たら彼女にこの手紙を見せて、こう告げてやるのだ。『確かに読んだよ』と。しらばっくれさせはしない。果たしてその折、彼女はどんな顔をするだろうか。水月はどんな水月になっていることだろうか。それを見られる日が来るのが、今から楽しみでしょうがない。胸に芽生えた小さな嗜虐心にクツリと喉を震わせて、ふと真由は窓の外へと目を向ける。

「あれ、」

 県南部から日本海へ向けて流れる雄物川。その支流に当たる(たま)(がわ)を渡る大きな橋の歩道に、一人の少女が立っていた。――あれはもしかして。背格好を見てそう思いながらも迅速に、真由は手元のカメラを窓の外の少女へと向ける。

 ちょうどバスが少女の横を通り過ぎる瞬間、真由は目撃した。陽光に包まれた姫神山と広大なる川面、その二つに挟まれた天地中間の位置で、美しく輝く少女の横顔。風になびいた彼女の長く艶深い黒髪が、銀河の暗幕を広げるかのように波を描く。その瞬間ひとりでに、カシャ、と真由の指がシャッターを切った。まさにあの日、夕暮れ迫る春の公園で、あの子をぼうっと見ていた自分がそうしてしまったように。

 湧き上がる満足感に真由はこっそりとはにかむ。――今度は捉えた。構えていた手を下ろし、少し震えるその指でカメラの表面をゆっくりと撫でてみる。これはきっと、直接会いには来れなかったあの子なりの餞別だったのだ。例え向こうにそのつもりなど無かったとしても、或いは全くの別人だったとしても、だったらだったで別にいい。あれは確かに水月だったと、自分さえそう思っていられれば、それで。

「ねえ、お母さん」

「なあに?」

「次行くところも楽しいこと、いっぱいあるといいな」

 そう述べる真由の晴れやかな表情から、母も何かを感じ取ったのだろう。言祝ぐような笑みを浮かべると共に、母は言った。

「きっとあるわよ。だって真由が楽しみたいって、そう思ってるんだから」

「うん」

 ときめきに弾む胸に手を当てながら、膝の上のカメラを見つめる。これからも思い出は増え続けるだろう。そう、今のこの気持ちを、真由が忘れずにいる限り。

 

 

 



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エピローグ
〈Company Front〉


 写真帳をぱたんと閉じ、そこで真由は一息をついた。

「ごめんね。私ばっかり喋っちゃって」

「ううん、全然構わないよ。真由ちゃんの昔の話聞けておもしろかったし」

 本当はちょっと語るだけのつもりが、気付けばずいぶん長々と喋ってしまった。そんな真由の詫びに、目の前の彼女はふるふると首を振ってみせる。友人宅に招かれて、二人きりでのお泊まり会。向こうにとっても忙しいであろうこの時期にあえてそれを提案してくれたのも、彼女の方からだった。

「それにしても何ていうか、人に歴史あり、って感じだね。そういう経験があったんなら、真由ちゃんがこういう感じなのもちょっと納得できるかも」

「こういう感じ?」

「うまく言えないけど、自分のことより他との調和を重んじるっていうか、結果より過程を大事にしてるっていうか」

「そうかな。多分だけど、結局は自分のためにしてることだよ。変な軋轢を生みながら吹くよりもわだかまりなく吹いた方が楽しいって思ってるから、そのための選択をしてただけで」

 そう。真由にとって、集団か個人かといった線引きに意味などない。真由はただ純粋に皆で音を合わせる喜びを、より質の高い音楽を奏でる楽しさを、ひたすら追求していたいだけだった。それが他のどんなことよりも自分を満たしてくれるから。

「でもそれだけでも上手く行かないっていうのを、ここのみんなに改めて教えてもらったって思ってる」

「そう言われると、なんか心苦しい」

 悶えるように身をよじらせた友人に、真由は短く苦笑を返す。あれから幾つかの学校を渡り歩き、新しい出会いと経験を重ね、その度に真由は少しずつ自分の考えとスタンスを修正してきた。それはここに来てからも同じだ。

 自分はまだまだ未熟。だからこそ、変われる。もしも自分が誰かに影響を与えているというのなら、それはその誰かもまた自分に影響を与えてくれているということでもある。こうして人は互いに影響し合い、互いをちょっとずつ変えていく。自分たちがそうであったように。

「私ね、みんなと仲良くしたいって思ってるの。私自身、音楽に対して求めてたものに繋がってるから。そのために出来ることを私なりにしてきたつもりだった。原点があそこに、曲北にある」

「こっちに転校して来てすぐの頃、真由ちゃんが言ってたことだね。あの時は全然分かんなかったけど、うん、こうやって昔の話を聞いた今なら何となく分かる」

「それがみんなにはもしかして、私が自分を犠牲にしてる、って映ったかも知れない。苛立たせちゃうこともたくさんあったかも。けど、それでも私には、そういうつもりなんてこれっぽっちも無かったの。みんなが納得した上で最高の合奏が出来れば、私はそれで十分だったから」

「うん」

「ごめんね。今考えればそれもこれも全部、私の独り善がりだったよね」

「そうじゃないよ。私だって、ヘンにこだわってた。真由ちゃんの事もうちょっと色々分かってあげられてたら、もっと違う答えだって出せたはずなのに」

 やっぱ私ってダメなやつ。自己を卑下する一言と共に、友人がぼふりと枕に顔をうずめる。そんなことないよ、と真由は言ってあげたかった。すれ違う日々に悲しみを抱いたこともあるし、どうして伝わらないんだろうと思い悩んだ夜もある。けれど今は、こうして互いに歩み寄ることが出来ている。それこそが真由の求めていたものなのだから。……けれどありのままを言葉にしても、きっと彼女は納得してくれない。だから真由はあえてこう告げる。

「本当はね、少し嬉しかった」

「何が?」

「一緒に撮ろうよ、って、あのとき言ってくれて」

 ああ、と身を起こした友人が、何かを思い返すように視線を上へと向けた。あの時撮った写真は今も真由の机の上に飾られている。もちろん同じものを焼き増して写真帳にも収蔵してあるのだが、ここのところは見たいと思ったときにいつでも見られるようにと、真由はいくつかの写真を目に付くところへ置くようにしていた。思い出の一ページに自分を加えてもらえた瞬間を、その時感じていたことを、ずうっと忘れずにいるために。

「それまで私、ひょっとして嫌われてるんじゃないかって不安だったの。そんなわけ無い、ってつばめちゃんからは度々言われてたんだけど」

「そう思われても仕方ない態度取っちゃってたからね。本音言うと、こんな上手い子が来てヤバい、って焦ってたのもあったし」

「私だって、ヤバいって思ってたわけじゃないけど、でも上手い子だなって思ってたよ。だから最後のオーディションでも私が選ばれるはず無い、って確信してた」

「何それ。ふつう逆でしょ、確信するなら」

「そうかな。……うん、そうかもね」

 くすくすと二人で無邪気に笑い合う。そんな時間がいま目の前にあることもまた、真由には奇跡のようにすら感じられる。

「私、多分これからも、こういう気持ちを大事にしながらユーフォを続けていくんだと思う。ひょっとしたら他の人には損してるって思われたり不思議がられたりするかもだけど、私は私の求めるものを、みんなから教わったやり方で、これからもずっと追っていきたい。きっとその先にみんなが、曲北の人たちだけじゃないみんなが待ってるって、そう思うから」

「私も。どこまでユーフォ続けられるか分かんないけど、私なりの音楽は突き詰めてみたいって思ってる。そしていつか『特別』になりたい。(れい)()みたいに」

 天に向かって伸ばしたその手を、友人はきゅっと握り締めた。そう、歩む道が異なるだけで、行き着く先はきっとこの子も同じ筈だ。いつの日かそこで再び出会ったとき、恐らくはこの子がそうであるように、ちなつや水月やたくさんの友人たちもまた心から音楽を楽しんでいることだろう。各々が信じるやり方で。各々の見出した答えに基づいて。

「ねえ。真由ちゃんが引っ越しちゃう前にもう一回どっかで吹かない? 例の曲」

「あ、いいね。(かなで)ちゃんと()()ちゃんにも声掛けて、みんなで一緒に吹こうよ。何だったら私、家から録音機材持っていくし」

「本格的だね」

「せっかくだから残しておきたいの。最高の人たちと合わせる、最高の音」

 求めていたものがここにある。それを記録するのは真由の(さが)だ。それらは後から振り返った時、確かにそこに自分が居たことのこれ以上無い証。手元の写真帳と互いの心に刻まれた沢山の思い出がそうであるように、これを己が内に宿し続ける限り、撮り貯めた証の数々もまた決して色褪せはしない。

「じゃあ、そろそろ攻守交替。今度はそっちの番だよ」

「ええ、私?」

「こっちばっかり話すのも不公平だもん。私が私になるまでの物語は、これでおしまい」

 くすりと笑い、そして真由は相手に促した。

「私に教えて。久美子(くみこ)ちゃんが、久美子ちゃんになるまでの物語」

「ええと、そうだなあ」

 バトンを渡された友人――久美子は、しばし記憶を探り出すようにウンウンと唸っていた。どこから話したものやら、とでも考えているのだろうか。よし、と腹を括った久美子が一度頷く。その様子をあたたかい気持ちで眺めながら、真由は手元の枕を胸に抱き、久美子の声にそっと耳を傾けた。それはあたかも、幼な子がおとぎ話を聞く時のように。

「あれは、私たちが中学三年生のとき。コンクールの府大会でね――」

 

 

 

 これは、誰かが誰かになるまでの物語。

 そして誰かの音楽が幕を開ける、その瞬間までの物語。

 

 

(To be continued in 『Sound! Euphonium』)









 この物語はフィクションです。登場する人物、団体、その他名称などは、実在のものとは関係ありません。
 また、この作品は「宝島社」刊行の小説「響け! ユーフォニアム」およびこれを原作としたTVアニメの二次創作物であり、全ての権利及び許諾等は、原作者である武田綾乃先生、宝島社、響け!製作委員会に帰属します。
 

「響け! ユーフォニアム」に心からの愛と感謝を込めて。  
 二〇二〇年 七月某日  わんこ(ろっく)


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