料理人は希わない (首吊ヶ浜 麻縄)
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ANOTHER STARTING LINE
春咲小紅


 十数年前、高校を卒業して最初に思ったのは『これから、いったい何が私を縛るのだろう』というものだった。周りでサルみたいな声で泣いているような、タピオカと援助セックスで脳が腐っている、馬鹿な女子とは十中八九真逆な思考であった。

 

 高校生活が楽しくなかったわけではない。死んでいるように教室の隅で分厚い推理小説を読み、たいして頭もよくないくせに「オレは皆と違う」と、周りとの差をつけようとする陰キャだったわけではない。

 

 週末にはショッピングモールの映画館に流行りのスリラー・ムービーなんかを見に行ったり、県立公園でバスケットボールをしたりをするぐらいの友達はいた。

 

 彼女は作らなかった。義務でもないんだ、別にいなくても死なない。などと言って作ろうとしなかったのもあるが、私には女の縁がなかった。

 

 男衆とばかり飲んで遊んでばかりしていたら、アッという間に卒業だ。後悔をしていないのは確かだが、青春のひと柱を構成するのは恋愛だろう。もったいない、という言い方をされれば、それなりに渋い顔はする。

 

 私が良ければ、それでいいのだ。

 

 高校卒業から程なくして、カフェを開いた。進路としては、一応『就職』だろう。子供の頃からサ店のマスターみたいな仕事に、ひそかに憧れていたのだ。

 

 普通のサラリーマンなんかにになるのは、なんとなくカッコ悪いと思った。友人からは、よく意外だけど似合っているなんて言われる。まあ、まんざらでもない。

 

 カフェ自体は、もともと屋敷然としていた家をちょいとばかし改造したようなモノだ。胸を張って『立派だろう』といえるような店ではないが、近所での口コミから意外にも広がり、今となっては平日でも、閑古鳥が鳴くようなことはそうそうないぐらいの店になった。

 

 昼間には、とうに還暦を迎えて第二の人生を歩みだした、もとい暇になった老人たちがおしゃべりをしに。夕方は、勉強や部活でくたびれた学生が羽休めに来るようになった。

 

 一見さん以外お断り、的な細かいアレなんかも特にないし、気安く入れる雰囲気が割とウケのよくなった原因だろうか。

 

 最近世間で流行っているらしい『ガールズバンド』の子なんかも、たまに見かけるようになった。街中のチラシに載ってるような子だ、一目見たら分かる。

 

 ちょっとした有名人である彼女たちも、普通の高校生らしく、騒がしい放課後のティータイムを過ごしているのを見ると、なんだか懐かしく思えてくる。昔は私もよく友人たちと放課後にファミレスやファストフード店に寄っては、日が沈むまで先公の愚痴や胸の大きいクラスの女子の話などに花を咲かせていたものだ。ろくな花じゃあないな。

 

 今もこうして、女子高生相手に接客をしているが、人目を引くようなギターを背負う彼女もまた、ガールズバンド界で仲間と切磋琢磨し合う仲なのだろう。

 

 何を隠そう、今、私が接客をしつつ料理を振る舞っているのは、カフェ『シェリー』。私の店である。

 

「ごちそうさまでした! 美味しかったです!」

「1,000円のお預かりですね。490円のお釣りになります、ご確認ください」

「はい! ありがとうございますっ」

「はい、ありがとうございました」

 

 うちの店は、電子レジスターがないので、大体は算盤で代金を勘定する。

 

 数年前までは暗算だったが、どうせなら確実なほうがいいだろうと、わざわざ令和の世の中で算盤を売っているところを見つけたところまではいいのだ。いいのだが、普通に電卓とかそこらへんでよかったんじゃないかというのは、その店の電子レジスターに私の野口英世が2枚ほど吸い込まれてからのことだった。

 

 コインケースの硬貨を整理しながら、ふと昔を振り返ってみると、大したスリルもない平坦な半生だという簡潔な感想だけが出てきた。

 

 自分のしたいことはできているし、私は現に、いまのところの自分の人生に満足しきっている。スリルのある冒険も、淡い恋もないが、それでいいのだ。それがいいのだ。

 

 青空に、名前も分からない雲が雑に散りばめられた、一年中空を記録したら晴れの日の大半がこんなんだろうという、言ってしまえば普通に通り過ぎる日常を、私は望んでいる。

 

 気取っているように見えるかもしれない。周りの山あり谷ありの人生を見て僻み、平気なふりをしているだけかもしれない。

 

 だが、それでもいい。どうせ『運命の出会い』だとかいう、漠然とした、都市伝説みたいな話には縁もゆかりもないだろう。

 

 探しに行こうともしていないし、当然といえば当然なのだろうが。

 

 店の中の最後の客を見送り、思い切り伸びをする。

 

 単調作業は苦ではないが、年だろうか、腰が少し痛い。ストレッチしてから寝ると、体の老化を防いだり安眠効果があるんだったか。なんてどこかのTVで言っていた話を思い出し、ふと入口のほうに目を向けてみると、ちょうど年季の入った木製のドアに取り付けられたチャイムが音を立てた。新しい客だ。

 

「いらっしゃいませ」

 

 どんな客が来るのかと思えば、そいつはドアチャイムをかき消すほどの音を立て、なんだか矢鱈に勢いよく入ってきた。うちの近くの学校だったか、『花咲川女子学園』の上品な灰桜色の制服がよく似合う子だった。

 

 腰ほどまである艶めいた金髪が、開いたドアから入る、暮れかけた太陽の光に照らされる。店のドアは、西日に直接当たるつくりになっているのだ。

 

 背中から漏れ出す光は、後光にも見える。その瞳は、それに負けじと目映く輝いている。彼女はひとつ大きく鼻息を吹いてから、元気よく挨拶をしてきた。

 

「こんにちはっ! 開いてるのよね?」

「まあ」

「じゃ、貴方がよく見えるように、そこのカウンターに座ってもいいかしら!」

「はぁ、どうぞ」

 

 街でみたことがある子だ。ガールズバンドのボーカルだったか、名前は忘れたが、街中のゲリラライブでバク転なんかをしていたか。

 

 男みたいなのはいるわ、なぜかクマの着ぐるみがDJをしてるわ、ガールズバンドの中でも異端児に数えられるべきであろうシロモノを披露していた。

 

「素敵なお店ね。落ち着く雰囲気だわ!」

 

 そう言いながらも、身体を左右に揺らしては店中を眺めているけど。

 

 落ち着きのない彼女を見ながら食器類を整理していると、窓のほうから、何とも言えない、一人で風呂場にいるときのような、落ち着かないもどかしさのような何かを感じた。

 

 数秒後、私は『納得、事態を飲み込む』まではいかないが、『理解、把握』はした。彼女の後ろのほうにある内倒し窓の向こう、つまり外に、黒いサングラスに黒いネクタイ、黒いスーツに身を包んだ、よく言えば統一感のあるファッションの人物がこちらを覗いている。

 

 目線こそサングラスに防がれて分からないが、窓ガラスに穴が開きそうなほどこちらを凝視していると、割と自信を持って言っても文句は言われないであろう。

 

「お嬢さん、後ろの人に心当たりは?」

「ああ! 『黒服の人たち』ね! 友達みたいなものよ!」

「……なんですって?」

「それより、貴方もあたしのことを『お嬢さん』って呼ぶのね? あたしは『弦巻こころ』っていうの! ちゃんと名前で呼んでちょうだい?」

 

 推測の域を軽く飛び越えるぐらいには、自信のある解釈だが、この人は巷で噂の『弦巻財閥のご令嬢』だ。後ろのハンターのような明らかに怪しい人は、SPみたいなものか。いや、かの範馬勇次郎みたいに、衛星か何かで日ごろから命を狙われているわけではないだろうが。

 

 ここも一応都内だ。街を歩いていれば、ちゃんとした有名人や大富豪の100人や200人はいるだろう。さして頭からひっくり返ってイッパツマンみたいに「シビビーン!」と驚くほどのことではない、のだろうが。

 

 自分で言うのもアレだが、何故こんなミシュラン0.05つ星ぐらいの、ドのつくローカルなサ店に来たのだろう。ここらではそれなりに長く営業しているし、人気がないってことでもないが、私からすれば所詮は趣味の枠を出ないような店だ。

 

 自分の料理の修行や単なる自己満足に、客の笑顔がついてくる。個人の営業なんて、そんなものだと私は思っているがね。

 

「畏まりました。こころさん」

「ふふっ」

「……ご注文は、お決まりでしょうか」

「そうね! ミルクでも貰おうかしら! ちょっとお腹もすいたし、お任せでデザートも!」

「お、お任せですか。え……うん……はい、承りました」

 

 普段から外食なんて、これでどうやって腹を満たすんだっていうちっこいフランス料理しか出さなかったり、皿の周りに謎にソースをまき散らしている、オシャレをどこかで履き違えている店にしか行かないのか。弦巻のお宅は。マジでああいうとこは、3本ぐらいのパスタをアホみたいにでっかい皿で出してくるからな。教育に悪いまである。

 

 私がいつも行かないこじゃれた店で失敗した話は置いておいて、『お任せ』なんてのは今まで営業してきた注文の中に無かったわけで、少しばかし戸惑ってしまった。注文がいつもメニューの中から来るとは限らない、ってことかよ。どういうことだよ。それにしても、ミルクって。どうせお嬢様なら、キリマンジャロブレンドとかぐらい言ってみせてほしかった。5歳かよ。

 

 いや、決して作れないというわけではない。この私にこなせなかった注文は、今までに一度だってないんだ。ジビエまで用意したことのあるサ店をなめるなよ。

 

「ふん・ふん・ふ~ん♪ ふふん♪」

 

 ここ数年で最大級には頭の中で困惑している私を尻目に、こころお嬢様はキテレツ大百科の『はじめてのチュウ』を、ご機嫌に、それも割と上手く口ずさんでいらっしゃる。古いよ。いまどき静岡県民しか、そのアニメは知らないと思うよ。気に入らない料理を出せば、私は貴女のお父様あたりに食い扶持と趣味をつぶされかねないというのに。

 

 これはさすがに、ちょいと気合を入れないとかもな。普段より余計に緊張感をもって接客をさせてもらう。

 

「ミルクはホットですか?」

「冷たいやつがいいわね!」

「甘さは?」

「そのまま!」

「苦手な食べ物は?」

「ないわ!」

「そりゃけっこう」

 

 私は、偏見お嬢様あるある『クソ贅沢な環境で育ってきたので、好き嫌いが激しい』がないことに少し安堵し、まず後ろにある冷蔵庫からミルクを取り出す。

 

 食器棚の奥から、この店で一番高級感のあるティーカップを出し、私のできる最高の打点からミルクを注ぐ。昔、杉下右京の見様見真似で取得した、友人同士の飲み会の一発芸にしか使ったことのなかった技だが、まさかこんなところで役に立つとは。当のお嬢様は、もちろん大はしゃぎ。満足した様子で、杉下ミルクを啜っていらっしゃる。

 

 次は問題のデザートだ。これには、7年前に裏メニューとして我が店に実装されたものを提供させてもらう。

 

 エプロンをいつもよりキツく締めたのち、ボウルをふたつと盛り付け用の皿ひとつ、そしてボウルとはまた別の調理用の容器をひとつ、泡立て器、小さじを出す。

 

 食材として用意するのは、マスカルポーネチーズ150グラム、新鮮な生卵をひとつ、乳脂肪分低めの生クリームを300ミリリットルほど、ハチミツ、砂糖5グラム、ブランデー小さじ一杯ぶん、ココアパウダー適量、あとはお好みの果物をお好みの量だけ。

 

 

 

 LESSON1.マスカルポーネチーズと、卵から取り出した卵黄を、片方のボウルでダマにならないように泡立て器で混ぜる。このボウルはAとする。

 

 LESSON2.水滴等のついていない清潔な容器に生クリームを入れ、そこにハチミツを目分量でドサッと追加。同じように泡立て器を使い、こちらは手早く混ぜる。この容器はBとする。

 

 LESSON3.Bにブランデーを小さじ一杯ぶん入れて混ぜる。これをもう一回繰り返す。泡立て器を持ち上げてみると、クリームがとんがる。

 

 LESSON4.使っていなかったほうのボウルに、AとB、さらにLESSON1で使わなかった卵白を入れて、泡立つように勢い良くかき混ぜる。その後、砂糖も入れてさらに混ぜる。ボウルを持っている手も回すと、なお良し。このボウルはCとする。

 

 LESSON5.盛り付ける皿にCの中身を出し、ココアパウダーを適量振る。あとは果物を乗せるとさらにうまい。今回は私のチョイスで、イチゴを乗せている。多分、果物の中では一番合う。

 

 

 

 こうして、私の自信作、黄金のクリームで出来たイタリアン・デザートが完成した。さっき言ったイタリアンの店からパクった、もといリスペクトを込めて拝借した、うちのとっておきの裏メニューだ。いつもなら、それこそ息を吸って吐くように、いともたやすく作れる料理なのだが、カウンター席から入ってくる好奇の視線に少々緊張せざるを得なかった。

 

「お待たせしました」

「まあっ! とっても美味しそうね! クリームが光っているわ!」

「そいつは『ロマノフ』です。所謂、ティラミスの上位互換のようなもので、ロシアのロマノフ王朝時代に皇族や貴族に好んで食されてきたことから、そう呼ばれています」

「『ロマノフ』……さっそく食べてみるわ! いただきますっ!」

 

 彼女が、デザート用の小さなスプーンをロマノフの上から入れると、その力を拒絶することを知らない黄金色のクリームが真っ二つに割れる。すくってみても、その材質は固体とも液体ともとれないようなシロモノで、溶けるようにスプーンの端からクリームが垂れる。常に笑顔の口角を崩さない、オーバーワークな口元に運ばれ、ぷるんっという擬音が似合う唇でスプーンごとロマノフを口にする。

 

 私はというと、この料理に至っては自信しかないので、優雅に自分のブルーマウンテンを淹れつつ、彼女の反応を見守っていた。

 

「……んんんん~~っ♪」

「そのリアクションは?」

「すっごく美味しいわっ!!」

「ベネ(よし)」

「なめらかを極めたようなクリームに、このちょうどいい甘み! イチゴの甘酸っぱさがマッチしすぎているわね!」

 

 思ったより真面な感想、というか、もはやタダの絶賛をもらい、なんだかちょっと恥ずかしくなってしまった。

 

「そうっすか」

「照れないでいいのよ、貴方はすごい人なんだから! んん、本当に美味しいわねっ」

「気に入ってもらえたなら、何よりです」

 

 また、昔のことを思い出した。私は小学生の頃から料理が好きで、当時住ませてもらっていた施設のキッチンを借りて、友人や職員さんに振舞っては、その笑顔を見るのが好きだったのだ。いつも無愛想な人でも、ふとしたときに見せる笑顔を、私は『料理』という形で引き出せた。

 

 目の前で美味しい美味しいとロマノフを頬張っている彼女も、もちろん笑顔だ。といっても彼女の場合は、通常の表情が笑顔で固定されているようなのだ。これがまた面白くて、さっきまでのきりっと口角の上がっている『THE 笑顔』というより、口元が緩々になっているのだ。なんというか、とろけるような笑顔をしている。

 

「えへへっ」

 

 私の目線に気付いたのか、こちらを見てさらに顔を緩めるこころお嬢様。完全に溶けきっていらっしゃる。

 

「貴方も食べる?」

「はい?」

「だから、貴方にもこの幸せを分けてあげたいのっ」

「あ、あぁ、そういう。私はいつでも食べられるので、結構です」

「イヤよ! あたしは、今! 幸せを共有したいのよ! ……えっと……」

「私ですか? 『財部 庵廿郎(たからべ あんじゅうろう)』といいます」

「庵廿郎! どうせなら、あたしと一緒に食べましょ! きっと庵廿郎も笑顔になるわよ! だってさっきから、表情が全く変わらないんですもの! きっと笑顔を我慢しているに違いないわ!」

「元からこんな顔なんですけどねえ」

 

 そうは言いつつも、機嫌を損ねてはいけない。彼女はお嬢様である前に、一人の客だ。私はブルーマウンテンを持ったまま、カウンターの外に出て、彼女の隣に立つ。

 

 改めて近くで見てみると、まあ見事に整った容姿をしていることに、イヤでも気づかされる。

 

 見開かれた金糸雀色の双眸は宛らドール・アイのように輝いており、服の上からでも分かるルックスの良さが、現実味を遠ざける。食器を持つ指、しゃんと姿勢正しい腰、その下で振り子のようにご機嫌に揺れるおみ足。

 

 どれも少し握っただけで崩れてしまいそうなほど、に華奢かつ端正でありながらも、芯に刻まれた立ち振る舞いから来る上品な雰囲気は、ひとつの財閥のお嬢様であることをきちんと主張している。それにしても、メイクをしているようには見えない。なのに、その御顔を見てみると、なんとまあキメ細やかな肌と、長い睫毛が目立つ。

 

 弦巻こころは、人に造られたかのように美しかった。ああ、それこそ人形のような。

 

「庵廿郎! あーんっ」

「ん??」

 

 突然、彼女が喘いだわけではない。右手のソーダスプーンに乗せられるだけのロマノフを、私の口の前に差し出してきたのだ。

 

「家ではやっちゃダメっ! って言われてるケド……私たちだけの秘密よ? はい、幸せのお裾分け! 受け取ってちょうだい!」

「…………」

「どうしたの? もしかして、お腹がいっぱいなのかしら? それとも、自分では食べられないの?」

「そういうことではございませんが……えぇ~……」

 

 今のは、明らかに嫌な態度を表に出した困惑ではなく、先生が集会の時に出す言葉を考えているときと同じ用法の「えぇ~」である。今の状態で言えば、もじもじ、というよりも、たじたじ。

 

 どうやら、このくらいのレベルのお嬢様になると、高校生になっても『間接キス』も知らないらしい。言論統制でもされてんのか。この街には、白いポストは置いていなかった気がする。。

 

 私がこのくらいの年の頃は、手を繋ぐのでさえ付き合ってからという風潮が主だったのに。まあ繋いだことないから、あんまり詳しくは分からないんだけど。

 

 正直この私、財部庵廿郎、未成年や児童に性的な興奮や恋愛感情を覚えるような悪趣味な性癖は、一切として持ち合わせてはいない。どころか、もはや性欲も枯れている。精巣が仕事をサボっている。でなければ、こんなに可憐で美しい彼女を見て、無事でいられるわけがない。そりゃもう色々とヤバい。

 

 だが、今の私には女性関係はどうでもいいというか、必要ないとすら言える。だとしても、このイベントは避けることができないだろう。さっきも言ったが、客の機嫌を損ねてはいけない。いやでも、未だに窓に張り付いた弦巻家のスーツが気になる。お嬢直々にもらっているのだ、少しは大目に見てくれ。やりたくてやってるんじゃあないんだ。頼む。殺さないで。

 

 かのTHE BLUE HEARTSも歌っていた。どうにもならないことなど、どうにでもなっていいことだ。言葉はいつもクソッタレだが、私とてちゃんと考えてはいるのだ。

 

「よろしいのですか」

「遠慮することないじゃないの! さあ、食べてっ!」

「はい、では」

 

 彼女の手に握られたスプーンを受け取ろうとし、軽く引っ張ったところ、彼女はここにきて初めて笑顔を崩し、キョトンとする。意地でも直接食べさせるつもりだな。色々察した私は、色々観念して、口でロマノフを『直接』受け取りに行った。私が、客がいなくてよかったと思ったのは、開業以来初めてのことだった。涙さえ流れそうになった。これもまた初めてのことであった。

 

 フリーザ編で挫折し、恐怖に絶望したベジータのような気持ちであった。

 

 舌に、彼女の体液のついた甘いクリームと、イチゴの粒がのっかった。冷たいスプーンが、上下両方の唇で、付いたクリームを落とすかのように引き抜かれる。唾液が、解け、混ざり、合う。寸分の狂いもないほどに、予想通り、大変美味である。

 

 もっとゆっくり味わいたいところだが、誰に証拠隠滅するというのでもないのに、カップに残ったコーヒーを飲み干す。まだ彼女の唾液が口の中にあると思うと、落ち着かないったらありゃしない。

 

「自分で言うのもなんですが、上手くできていますね」

「でしょっ! ふふ、これで『共有できたわね』!」

「『幸せ』を、ですか?」

「そうよ! あたしの見ている景色、貴方にも見せてあげたかったんだもの!」

 

 その笑顔からは、悪気が微塵にも含まれていないと確信できたが、私から言わせてもらうと、余計に『たち』が悪い。ほかの人にもこんな所業をしているのか。そこら辺の男子高校生なら、勘違いや自意識過剰というレベルではないほどに、俺に惚れていると信じざるを得ない。

 

「ごちそうさまでしたっ」

「はい、お粗末様でした」

「庵廿郎! あたし、驚いたわ! 貴方は人を笑顔にする天才だわ!」

「かも、しれませんね」

「でも、笑顔にはならなかったわね。やっぱり、出し惜しみしているんじゃあないの?」

「別にそんなことは……」

「笑った庵廿郎、きっとすっごく素敵だと思うのよね」

 

 その言葉の意味、真意などは分からないが、どうやら私の作ったロマノフを気に入ってくれたことには違いはない。私の料理で笑顔になってもらったからには、相手が誰だろうと、まあ、どちらにしろ嬉しいというやつだ。食べている時の顔は、少なくとも、たいへん幸せそうなものであった。

 

「お金はいくら払えばいいかしら?」

「ロマノフとミルク、あわせて750円です」

「じゃあ、『チップ』で……はいっ! このくらい置いていくわね! お釣りはいらないわ!」

 

 綺麗に片付けられた、うちの中でも特に高級感のある皿の横には、紙幣が三枚重ねられていた。それも、きちんと3人の福沢諭吉が見えるように。最初に頭に浮かんだのは、『欧米か!』という、何のひねりもない突っ込みだった。

 

 いや、750円とチップを足してコレか。オーバー・キルや過払い金なんて話ではない。

 

「待ったッ」

「心配しないで! あたし、この店気に入ったの! また近いうちに、いや、明日にでも来るわ!」

「いや違くて。こんな量はさすがに受け取れませんよ、って話です」

「あら、足りなかったかしら?」

「……十分『すぎる』ンすよ」

「なら満足はしてもらえたみたいね! あと、あたしには『敬語』なんて使わなくってもいいのよ? こころ、って呼び捨てにしてもらえたりすると、すっごく嬉しいわ」

 

 噂によると、ひとつの空港を所持しているとの逸話がある弦巻財閥のご令嬢に、タメ語とは。私もでっかくなったものだ、などと気休めを言っている場合ではない。畏れ多いどころの話ではないぞ。ハッキリ言って、めちゃくちゃに気が引ける。

 

 どうせ、こんなに庶民にフレンドリーな彼女のことだ。きっと、少しでも私みたいな一般庶民のそばに寄って、観察でもしたいのだろう。彼女にとって、この街など、所詮アリの巣観察キットみたいなものだ。知らない存在に、どうせすぐ飽きる癖に、興味を示している。

 

 飽きたら何時でも捨てられるという権力、財力の大きさが、腐っても私たちより上の存在であることを実感させる。

 

 とは言いつつも、ドラマの悪役みたいな態度でもないし、もてあそんでいる的な意図は、これっぽっちも感じない。『目』を視れば判る。

 

「あの」

「ん?」

「また……来るのかい」

「当たり前よ!」

「なら次は、食べたいものを考えてくるといい。和食や中華から、フレンチにイタリアン、何でもいいから」

「!! 分かったわっ! さっそく考えなきゃ!」

 

 元気よく答えると、彼女はわくわくしたような様子で、店のドアを開ける。

 

「ありがとうございました」

 

 私がマニュアル通りの台詞を口にすると、なぜかもう一度、こちらに顔を向け、今日一番の笑顔を見せた。もちろん、その笑顔は額縁に入れて玄関に飾れるほどに綺麗なものであった。

 

「ありがと、庵廿郎っ」

 

 店に入ってきたときとは違い、日は暮れているが、相変わらず後光のさすような笑顔。風になびく髪の毛とスカートが、それこそ絵画のように映え、美しい以外の言葉が出てこなかった。

 

 この小一時間、弦巻こころという人物に対して『可愛い』と心から思うことは終ぞなかったが、『綺麗だ』という感想は何十個だって出てくる。彼女ひとりで美術館でも開いたらいいんじゃあないか、などと考えながら、スプーンをくわえる口元を隣で眺めていたのは秘密だ。

 

 もし、私が料理人ではなく画家だったなら、間違いなく彼女のフルヌードを描いていただろう。私が料理人ではなくアーティストだったなら、一晩で彼女のことを詠う詩を書きあげていただろう。頭に鮮明に残る、見目好い顔は、当分の間は忘れることなどできそうにない。

 

 私は、カウンターに置き去りの30,000円を無造作にポケットにしまう。その横の食器を、厨房の中に戻って洗い、パイプ椅子に座って一息つく。

 

「こころ、か」

 

 誰に言うでもなく、店の天井に向かってつぶやくと、長らく使われていなかった表情筋が、口の端を無理やり吊り上げる。

 

 あそこまで喜んでもらってしまっては、料理の出し甲斐のありすぎる客だ。腕が鳴る。と思いつつも、その感情に少し納得がいかない私もいた。おかしい。彼女に『店に来てほしい』のは、明らかな事実なのに。

 

 

 To be Continued.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




Rough Illust…
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セーラー服を脱がさないで

 

 物心ついた時には、周りには施設の職員の大人たちと、同じく親のいない子供たちだけしか居なかった。それから中学を卒業するまでは、施設で他の孤児と共同生活を送っていた。私みたいに、うまく友人関係を作って何一つ不自由ない学校生活を送ったグループもいれば、私のルームメイトのように『親に捨てられた忌み子』なんて、大層なレッテルを張られたいじめられっ子たちもいた。

 

 私は、仙台の孤児院『天使の園』の前に、小さな籠に入れられた状態で眠っていたという。施設を出る直前、職員の人が話してくれたことを、今でもよく覚えている。親は既にいなかったらしく、この世で私の親の顔を見たものは、ひとりとしていない。それが悲しいだとか、特別扱いしてくれだとか言うわけではないが。

 

 それぞれ細かい理由こそ違えど、あそこにいたのは同じ『みなしご』だ。口にはせずとも、施設にいる多くの子供たちは、固い絆で結ばれていた。見た目だけを気に入られ、金持ちの養子に行ったものもいた。独り立ちに備えて、身分を偽り、夜な夜なバイトに行くものもいた。そして、周りの目やいじめに精神を病み、ついに耐えられず自ら命を絶つものだって…。

 

 十五の頃に、施設を出て高校に入った。奨学金と施設の支援、さらに住み込みで働いていた西早稲田の銭湯『旭湯』の給料でカツカツの生活を送っていた。高校は嫌いではなかった。友人と遊ぶのは、今思い返しても楽しかった思い出ではあるし、勉強は苦手ではあったが、社会に出てもきちんと生きることのできる人間であり続けることの必要性を私は知っていた。せめて、親としての使命を放棄することなく、自分のストレス発散なんてくだらない理由で弱者をいたぶるようなヤツにはなりたくなかった。それで誰かの家族や友人を奪うなんて、あまりにも呆気なさすぎるから。

 

 なんだか偉そうに言ってしまったが、若気の至りでいいちこ一気飲みをするような男の過去など、話半分で流してもらって構わない。

 

 要するに、十二の時に身投げをした、私の人生の中において最大の親友は、トラウマを植え付けるには十分すぎることをしでかしたというだけだ。事実を詳しく語ることさえ憚られるような話だ、大きすぎる何かを一人で抱えていたことは明らかであった。彼が最期に話したのは、何か自分の将来に対する、ただぼんやりとした不安だった。文豪が自分の作品のクオリティに絶望して、服毒するような、気高い死に方ではなかった。でも、この先ずっと、私の記憶に確かに刻み付けるような、何かを訴えかけるような、そんな死に方だった。

 

 かといって、周りの人物にわざわざ闇を打ち明けて回っては、同情を誘ってハーレムを作るようなことはない。共学になった女子高のヒマで怠惰そうな主人公みたいに、カタカナで『ユルサナイ』だとか呟いている適当なヤンデレに依存されている場合ではないのだ。アニメじゃない。本当のことなのだ。人生を無理にドラマチックにする必要はない。作者の代弁ってわけじゃあないが、他作品のゴミの掃溜めと一緒にされるのはごめんだ。

 

 そういえば、ヤンデレとメンヘラはどこが違うんだろう、なんて考えていると、もう昼になっていた。店内では、休日にランチを食べに来た客がいつも通り賑やかに過ごしている。見慣れた顔も、知らない顔も、私の料理の前では純粋に食事を楽しむお客様だ。この普通とは言わないまでも、平坦な人生のなかで自信を持って『生きがい』なんて言えるのは、料理ぐらいしかない。唯一の特技くらいは、自慢したっていいよな。そのほうがいいとも言える。アイデンティティーを大事にするということは、自分自身を大切にして生きるということだ。角をとられないまま育っていくということなのだ。

 

「こんにちは~っ」

「いらっしゃいませ」

 

 アイデンティティーの塊が来店してきた。見事に角もついている。

 

「ねえねえ、前に作った『アレ』って、もっかい作れるかな?」

「勿論。今はもうレギュラーメニュー入りしてるから」

「やったぁ~! じゃ、それでお願いしますっ!」

 

 戸山香澄。ガールズバンドのボーカルにして、ガチの電波女。この店の常連だ。高校になってから始まった話ではなく、店を開いた当初からよく家族と来てくれていた。というか、私がこのカフェー『シェリー』を開いた頃には、まだ生まれていなかったが。前に来た香澄の妹さんによると、完全に近所のオッサンとして見られているらしい。だろうな。

 

 戸山一家は、開店当初から家族ぐるみで口コミを広めてくれた、私と『シェリー』の恩人と言っても過言ではない。二人いる娘も、今になっても友人を連れて来てくれる。

 

 先ほど言った妹も、最近小遣いが増えたらしく、高校の友達とよく来てくれるのだが、私のかつてのバイト先と同じく『旭湯』で、これまた同じく住み込みで働いている子が来たときは驚いた。名前は聞いていないが、岐阜から上京してきたらしい。あそこのおばあちゃんは優しくてよく笑うだの、床が滑りやすいだのと話が弾んだことは記憶に新しい。

 

 香澄は中学あたりから髪型を変え、少し明るい髪を角のようにセットしている。どうやってセットしているのか、うちに雨宿りに来るときも、汗をダラダラかいている時も、その形が崩れることは今まで一度たりとも無かった。どうやって形をキープしているのか未だに分からない。本人曰く、『星の髪型は企業秘密なのでーす!』だそうだ。理由に関しては、昔にキャンプ先で星の鼓動がなんとか言っていたな。少し信じ込みやすい、たまにスピリチュアルでポエミーなことを言う子なのだ。不思議ちゃんキャラってほどでもないが。その代わり、彼女のお母さんに似て、笑顔が明るく、素直で優しい子だ。

 

 人の幸せがあれば飛び跳ねて喜び、人の悲しみがあれば泣きながら悲しむ。麦の重さに苦しむ人がいれば助け、けんかがあれば腹が減るだけだと宥める。たとえ数学のテストの点数が低くとも、私は、感情が豊かで、そんな風に人を思いやれる彼女を尊敬している。本人に言うと、それだけで半世紀は引きづられそうなので、絶対に言ってやらんがな。

 

 なんて昔を振り返りながら、香澄に見守られて、数週間前の料理を再現する。ほんの少し、改良はしてあるが。

 

「お待たせいたしました」

「わーい! いただきまーっす! …ほぇ? 味付け変わった?」

「赤ウィンナーを入れてみた。苦手だったか?」

「ううん、好きだよ。なんか特別な感じするじゃん!赤ウィンナァァーッ」

「そうか」

「ふふ、美味しいよっ」

「…知ってるよ」

 

 この前の『お嬢様』に負けず劣らず、作り甲斐のあるってモンだ。

 

 私も一休みしようと、厨房のパイプ椅子に座って、水道水を一杯入れたコップを口につけようとしたときだった。店の窓の外に、見覚えのある人影が見えた。『黒い服の人たち』だ。三人ほどが、またこちらを覗き込んでいるかと思うと、こちらに一枚のフリップを見せてきた。東海オンエアが大喜利で使うような、手に持つタイプの白いフリップには、マジック・ペンの太い文字で、こう書いてあった。

 

 『こころお嬢様を

宜しくお願い致します』

 

 シェフじゃあないんだがな、などと思いながらも、私は『黒い服の人たち』にサムズアップしておいた。近くの客が割と困ってしまっているのは、私のせいではない。彼女たちも中に入ってくればいいのに。そこらへんは、SPとしての意地なのだろうか。

 

「庵廿郎~っ!!」

 

 来るか来るかと身構えておいて正解だった。案の定、ドアを勢いよく開けて入ってくるのは、先日見たばかりの金髪の少女だった。噂をすれば影、の類の迷信は信じていないほうだが、今回に至ってはタイミングがピッタリだ。

 

 弦巻こころ。前に来店してくれたっきりなので、会うのは二回目だ。

 

「あ!? こころん~!」

「香澄! この店を知っていたのね?」

「…お?」

「紹介するね! 同じ学校の、弦巻こころちゃんだよっ!」

「知ってる」

「うんうん、知ってるのかぁ……なんですとぉっ!?」

 

 今日のこころの服装は、私服だろうか、簡単な恰好…今風に言えば、ラフな服装であった。大き目な赤と白のホリゾンタル・ストライプのTシャツに、ホット・パンツを合わせたようなショート丈のサロペット、手には赤いリボンのついた髪留めを巻いている。靴はビーチ・サンダル。おじちゃん、最近の服の流行りなんて知ったこっちゃないパーカー族なんだが、さすがに幼すぎるという印象だ。あと、5月にしては涼しすぎるぐらいなのではないか。私だったら風邪をひくか腹をこわすこと請け合いだろう。別に誰に保証するってわけでもないが。

 

 子供は風の子、天気の子。外で遊ぶのはけっこうだが、そのスタイルで、その服装かあ。

 

「つい先日、知り合った」

「ま、マジすか…」

「マジだ」

「香澄も、最近知ったの?」

「いや、小学校の頃から来てるよ」

「このお店、そんなにやってたのねっ!? 驚いたわ! そのうえ香澄とも知り合いだなんて、聞いてないわよ庵廿郎!」

「言ってないし、聞かれもしなかったからな」

 

 まあ、似た者同士が揃ったものだな。

 

「香澄は何を食べていたのかしら?」

「『オムライス』だよ~っ」

「オムライス…いいわねっ! 庵廿郎! オムライスをひとつ頼むわ!」

「はいよ。これ、お冷」

 

 こころは、カウンターの一番奥にある香澄の特等席の隣に座る。そこに、私が口をつけようとしたものの、まだ一滴も飲んでいない水道水を渡す。

 

 さては、こいつ『いま食べたいものを直感で』決めたな。香澄はもう完食してるし。まあ、何でも作ると言ったのは私だし、この店においてメニューは飾りのようなものだ。その気になれば二郎系ラーメンだって出してやる。今来ている客の料理は出し切ったし、ちゃちゃっと作るか。

 

「こんな店があるなら、もっと早く教えてほしかったわ! 香澄!」

「ありゃ? 言ってなかったっけ?」

「そうよ! この前、たまたま違う道でお家に帰っている時に、この店を見たの! そしたら、頭の中にビビッ! ときたのよ! 電気みたいなのが!」

「おぉぉ~っ、キラキラドキドキだねっ! ギュインギュインのズドドドドだよ!」

「まさにソレよっ!」

 

 二人は『波長』が合っている友人なんだ、ということは分かるが、なんつー会話してるんだよ。擬音だらけだし。桐生戦兎じゃないんだから。

 

 というか、珍しいこともあるものだ。先述した、『旭湯』で働いているという客と偶然会ったように、一部の地域で長く営業をしていると、こんなことが稀にあるのだ。四季によって移ろい行く街並みと、そこにある確かな思い出。出ていく人もいれば、入ってくる人もいる。街は決して、変わることを拒まない。少し離れた新宿みたいな大都会だって、こんな下町だってそうだ。広告や小さなビル下のチェーン店。電車のラッピング、垂れ流されている流行りのJ-POP、街路樹。

 

 とにかく、ローカルな店だからこそ、こんな風にバッタリ誰かと会うこともあるということだ。

 

 ノスタルジック、とでも言うべきだろうか。感動……感情が動かされる、というわけではないが、こういうのが『感慨深い』ってヤツなんだろうなというのは、なんとなく分かる。実際に戸山一家が、新しく生まれた妹を連れてきたときは、泣くとまではいかないが、さすがに『ほう…』ぐらいは感じた。元から感情を表に出すという行為が苦手なうえに、普段から何を思うでもなくボンヤリ暮らしている私とはいえ、感情がないわけじゃあないんだ。ラーメンズのコントを見たときなんか、心の底から笑うこともある。

 

 さて、窓の外の彼女たちの期待を裏切らないモノを作らなくっちゃあな。

 

 用意する食材は、白米一人前、冷凍のグリンピースを少々、玉ネギ4分の1コ分、赤ウィンナー5本、生卵3個、トマト缶をひとつ。牛乳を大さじ1杯、バターは大さじ3杯、コンソメとケチャップとオリーブ油を適量。ニンニクをふた欠。塩、コショウ、味の素、砂糖などの調味料。

 

 

 

LESSON1.ニンニクをみじん切りにする。包丁で潰してから入れると風味がつきやすい。フライパンでオリーブ油とニンニクを香りが出るまで炒める。そこにコンソメとトマト缶を入れて混ぜたのち、砂糖や塩コショウで味を調える。バターを溶かし、ソースを完成させる。

 

LESSON2.玉ネギをみじん切りにしておく。赤ウィンナーは2本を残して斜めにスライスする。

 

LESSON3.フライパンでニンニクを中火で炒め、バターと玉ネギを入れる。玉ネギが透き通る程度に炒めたら、切っておいたほうの赤ウィンナー、解凍していないままのグリンピースを入れてさらに炒める。

 

LESSON3.全体的に色が変わってきた段階で、先にケチャップをビャッと入れる。目分量でけっこう。またある程度炒め、米やコショウ、味の素を適宜入れていく。米をほぐし、全体にケチャップが馴染んだら、皿に盛る。

 

LESSON5.ボウルに卵を割って入れ、溶き卵にして、味の素少々を入れる。フライパンにバター大さじ一杯を中火で溶かし、溶き卵を全て入れる。菜箸で卵全体をかき混ぜる。このとき、フライパンを火から少し離して、適当に温度調整をする。

 

LESSON6.半熟になったところで、敷いた卵を半分に折るように固め、フライパンの端っこで形を整える。焼き終わったら、閉じた口の部分が上になるように、LESSON3の米の上に乗っけてやる。

 

LESSON7.残った赤ウィンナーに切り込みを入れ、所謂タコさんウィンナーを作り、ある程度炒めてから、オムライス本体に添える。上からLESSON1のソースをいい感じにかける。

 

 

 

 ちょっと手の込んだ、プチ贅沢『オムライス』の完成だ。ソースを手作りしたり、そばにちょっとした飾りを置いておくだけでも、なんとなく特別ッ! って雰囲気の料理になる。細かい努力を怠ることはない、自分のできる範囲で趣向を凝らしてみると、達成感はもちろん、普通のものと比べても一目置かれる料理になるはずだ。毎回やるのはめんどっちぃので、たまにはやってみちゃおうかなァ~♪ ぐらいの気持ちでいい。

 

 オムライスで言えば、ビーフシチューやハヤシライスをかけたり、卵の形をハートにしてみちゃったりすると、特別感が出る。一番手軽なのは、ケチャップで卵の上に文字を書くやつだな。SNSでもよく見るアレンジだ。

 

 カウンターで、文字通り目を光らせて待っているこころの前に、オムライスを出す。

 

「お待たせしました」

「来たわっ! …あら? オムレツがそのまま乗っているのね」

「こころん、上のオムレツに、うっすら線があるでしょ? そこをナイフで切ってみてよ!」

「こうかしら?」

 

 香澄がうちのオムライスのギミックを紹介し、こころはそれに従って、真上のオムレツの閉じ口に、これまた上品にナイフを入れる。すると、縦長のオムレツが開き、中身の半熟の部分が出てくる。蝶が羽化するときのサナギのように、縦に綺麗に割れ、ケチャップライス全体に覆いかぶさる。卵液はあふれ、トロトロの表面が店内の照明を乱反射し、輝く。まるで恒星が如く、自分から光っているようにも見える。

 

 この技を完全に習得するのに、3日ほど毎食オムライスだったことがある。数日間にわたって、口の中と部屋からケチャップライスの匂いがとれなかった覚えがあるので、マネはしないでほしい。せめてオムレツだけ作ったほうがいい。寝られないから。

 

「…はぅっ……」

「ネッ! すっごいでしょ!」

 

 こころは、今まで見たことがない仕掛けだったのだろうか、驚きつつも息を吐いて、開いてゆくオムレツの部分をしばらく見つめていた。その後、右手に握った大き目のスプーンを端っこに突き立てると、すくったケチャップライスと卵を一気に口まで運ぶ。

 

 一通りかみしめて飲み込み、また一息つく。そして、立て続けに二口三口と

 

「…おいひいわっ」

「おお、こころんがこんなにも真剣な顔を…って、あ゛ーっ!? タコさんウィンナー! ずるいずるい~っ」

 

 皿の隅に置いてあるタコさんウィンナーを、すするように口にするこころを見て、席を立って涙目でこちらを見る香澄。その口に、さっき余分に作っておいたもう一つのタコさんを突っ込んでやると、あち、あち、と言いながらもはふはふしながら食べる。

 

「お前が駄々をこねるところまでは予測済みだ」

「んふふ、さすがはマスターだね」

「よせやい」

「これ、タコさんだったのね。火星人かと思ったわ」

 

 もうひとつのタコさんウィンナーをスプーンの上に乗せ、まじまじと観察するこころ。いち財閥の家で、こんなの出ないよな。ましてや令和の一般家庭でも、絶滅危惧だと聞く。こんな少しの切り込みに、ほんの少しの手間に、意味があるというのに。

 

「やはり、見たこともなかったか…」

「ええ。ウィンナーも何故か赤いし。これが美咲の言っていた『赤ウィンナー』ね、初めて食べたわ」

「えっ、それ自体も?」

「そこは予測できなかったみたいだねえ」

「タコさんウィンナーの料金追加するぞ」

「ごめんなちゃい…」

 

 結局、マナーを守ることを完全に忘れた様子のこころは、10年間ジャングルで動物たちに育てられた野生児みたいな食べ方で、オムライスを平らげた。皿についたトマトソースまで、丁寧にスプーンですくいとっている。

 

「ごちそうさまでしたっ!」

「すごいスピード…」

「ブーメラン映えてるぞ」

「え、刺さってるんじゃないの!? 生えてるの!? 体内から生成された!?」

「いや、インスタ映えの方の『映えてる』」

「あんま難しいボケしないでよぉ!」

「…ふふっ」

 

 こころは、食べている時の至って真剣な顔から、また笑顔に戻っていた。ただ、今回はまた見たことのない、通常時ともロマノフ完食時とも違う笑顔だ。通常の笑顔のようにきりっとしているわけでもなく、かといって先日のように表情筋仕事してませんみたいなのでもない。口角すら少ししか上がっていないというのに、これもまた笑顔に見えるのも不思議な話だ。所謂Cタイプ。いや、誰も言ってはないんだけどさ。

 

 満足や歓喜といった幸福系の感情が、あらかじめ多く用意されているのだろう。用意どころか表に出すことが難しい私からすれば、うらやましいってんじゃあないが、楽しそうだなと思う。見ていても、やはり笑顔というものは心地の良いものだ。彼女のバンドのスローガン(?)である『世界を笑顔にする』という言葉も、彼女自身が笑顔について、笑顔のすばらしさについて良く知っているからなのだろう。この今にも寝てしまいそうな目を見れば分かる。真冬の朝、こたつに入ってあさりの味噌汁を飲んだ時のような笑顔だ。

 

 なんだろう、そもそも彼女自身に対して詳しくないのもあって、上手く説明ができない。

 

「庵廿郎っ」

「なんだ」

「……また、来るわね。ありがとうっ」

「あ、私もごちそうさま! また近いうちにポピパのみんなと来るよ~!」

 

 ゆっくりと席を立ち、例のごとく三枚の紙幣を皿の横に置き、出ていこうとするこころ。それになんとなくついていく香澄。私はいったんカウンターから出て、ドアを引いてこころの手首をつかむ。振り返ると、こころは何故か目を大きく見開いて、こちらと目を合わせる。

 

「今更だが。うちにチップの制度はないからな。今度は野口英世あたりを持ってこい」

「ええ、そうするわ! でも渡してしまったものだわ、そのお金は受け取ってちょうだいっ!」

「…マスター、大胆なとこあるなあ……」

 

 こころが外に出た直後、『ゴクローさん』というフリップを見せ、リムジンに帰る『黒い服の人たち』。だから、シェフじゃあないんだってのに。好きでもてなしてるんだし、いいんだけどさ。

 

 そして、こころが置いていった紙幣には、こちらを向いて微笑むベンジャミン・フランクリンがたたずんでいた。後ろの客が軽くどよめいているのが分かった。別に先日のチップで軽く一か月ぶんの料金はもらったさ。なんなら彼女に対してだけサブスク制度を導入してもいいほどだ。

 

 いやしかし、いくら満足してほわほわしてたからといって…。

 

「ドル札かよ」

 

 

 

To be Continued...

 



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太陽の欠片

 布団の中には、妖怪がいる。

 

 かの『呪怨』が走りとなり、『アナベル死霊博物館』にまで伝わった、昨今のジャパニーズ・ホラーの定番とも言えるシチュエーションだが、私は本当に布団の中には何かがいるんだと思う。

 

 勿論、私は映画好きとして多数のホラー作品を見てきたのだが、幽霊や妖怪の類は全くと言っていいほど信じていない。あんなに昔から、オバケとかいう伝説もどきが熱狂的な信仰をもらっているのは、単に人間の『目に見えなかったり、存在もしないものに惹かれる』という性質、というか人間史上におけるバグのせいだろう。

 

 宗教だって、ほとんどが神などの『目に見えないもの』を信じているというものだろう。ジャンヌダルクのような人間でもなければ、確信を得られる事象を見聞きすることはないだろうに。無宗教からすれば、目に見えないものに命をかけて、さらに監視もされているなんて、生きる目的がハッキリしていて生きやすそうだなんて思ってしまう。どうやっても私は、透明なものを信じるなどという不透明な話に、嫌気がさすと思う。

 

 本とは、聖書をはじめとした、聖典を広めるために生まれたという。日本の古事記なんかも例外ではない。そんなものを生み出してしまうぐらいに、宗教とは大きな存在だ。別に、神を否定するってんじゃあないってことは、この場で言っておかなければいけないだろう。

 

 何が言いたいかというと、私が今朝、布団からなかなか出られなかったのも、妖怪のせいだということである。

 

 どんなことがあろうと、誰に会うだとかの約束をしていても、起きたばかりの時は本当に何もしたくない。20代から50代の日本人100人を無作為に抽出して実験した結果、9割がそんな気持ちに襲われるという、どこかの大学の研究結果があったらいいのに。あるわけではない。いざという時の言い訳にしたい。

 

『ほらぁ、あてぃしB型だからさぁ~』って言って遅刻してくるヤツとかがいるじゃあないか。アレだよ。『あと5分で着く!』と言って1時間後に来るヤツと同類のな。

 

 特に月曜日の朝なんかは、八十度寝ぐらいしないと気が済まない。開店準備のため、定休日である第二・第四土曜日以外は、6時あたりには必ず起きている私ではあるが、今日はなんだかヤケに頭がボーっとしている。

 

どのくらいかというと、歯磨き粉とニンニクチューブを間違えてしまったほどだ。おかげで3回、普通に歯を磨くことになってしまった。口の中がまんべんなく二郎系ラーメンを食べた直後みたいになり、さらに気分がヘコんだことは言うまでもない。だとしても、店を開けない理由には到底なりはしない。私自身、店は開きたいし。

 

 高校生の頃は、白紙の課題と偉そうな先公に半ば逆切れしかけつつも、友人と脱衣麻雀をするためだけに学校へ足を運んだものだ。あの場には10人余りの男衆しかいなかったが。あの後、何故か勢いでホテルに行った友人ふたりが、学年イチのバカップルになったのは誰も予想できなかっただろう。周りも周りで、毎日のように補修を受けているようなヤツばかりだったが、そのカップルのことを素直に祝福していたのを、今でもよく覚えている。

 

 あの頃は皆が、先生に従うような馬鹿になりたくなかったのだ。だって、正しいことしか言ってこないから。

 

「ふぁあ」

 

 昔のことをよく思い返すようになったな。

 

 私が子供の頃は世の中がきれいでよかった、などと老害のような台詞を吐くような私ではない。未来に行きたいだの、過去に戻りたいだの、そんな言葉は今までの時代を生きてきたすべての人たちへの冒涜であり、今からの日々を生きていく自分たちへの侮辱だ。

 

 私たちは、決まった時代で生まれて、決まった時代で生きて、決まった時代で死んでいく。原爆よりも非人道的な発明は、タイムマシーンだ。

 

 瞬間瞬間を必死に生きることこそ、一番美しい。どんなに醜くでこぼこな道でも、極めて平坦でつまらない道でも、道は道。私が歩んできた道も、ドラマチックなんて欠片もなかったものだが、生きてきたことには変わりない。運命の出会いがなかったなんて理由は、人の人生を否定する大義名分にはなりゃしない。

 

 ああ、頭が働かないと、思考もまとまらない。話したいことが次から次へと出てくる。

 

 口内のニンニクを完全に落とし、顔を洗って、服を着替えた。調理器具を準備し、机もひととおり拭いた。あとは、店の入口の『Closed』の看板を『Open』に裏返すだけだ。大きな欠伸をし、伸びをしてから外に出ると、もはや見慣れた金髪が立っていた。

 

「おはよう、庵廿郎っ!! 今日は一番乗りよ!!」

「あー、あー…大きな声が頭に響くよ…」

「ふふ。おねむさんね」

「やっぱし、そう見えるかィ」

 

 私の目の前にVサインを出し、満足そうにニヤケるこころ。ひとしきり頭をかいてから、よもや朝一番で会うとは思わなかったな、これは高カロリーだぞぉ、なんて思いながら看板をひっくり返す。振り向くと、朝日が直接目に入って、反射的に目を細める。

 

「でも、どんなに眠くても挨拶は元気よくしなくっちゃあダメよっ?」

「ん、いらっしゃいませ」

「違うわよ! ほら、朝のあいさつ!」

「…なるほどな……おはようございますッ」

 

 いつもの2倍ぐらいの声を出して、そりゃあ見事に深々ァ~ッと、こころに『お辞儀』の姿勢をとる。上半身を前に90度倒す、謝罪を示す最敬礼より上の『お辞儀』の姿勢だ。

 

 彼女と私自身のプライドにかけて言わせてもらうが、弦巻こころは何ひとつ間違ったことを言っていないので、私はちょっと面倒くさい顔をして頭を下げるしかないのだ。

 

 オムライスを提供した日からも、彼女は何回か店に来てくれた。そのたびにチップを断るという日々を過ごしていたのだ。そういえば、普通のお客からも彼女のことを認知し始めた人たちが、ある程度出てきた。彼女が弦巻家のお嬢だと知ってのことだが、彼女のほうから他の客に触れ合うことが多いので、今じゃ近所の可愛い子ぐらいの認識だ。ここら辺に弦巻財閥の大型開発による立ち退き命令なんかでも出ない限り、彼女が孤立することはないだろう。バンド仲間も引っ提げて、店の中で賑やかに食事を楽しんでいる様子を見ている限り、やはり彼女なりに、周りも巻き込んで満足しているらしい。香澄と話しているのも、よく見かける。

 

 これでも、いろいろ心配はしていたのだ。

 

「そう! 挨拶は大事よ!」

 

 さてとそろそろ頭を上げてみようかと思った瞬間、後頭部の髪に、なにやら慣れない感触が伝わってきた。頭を左右に撫でまわされるような。いやこれ本当に撫でられてるな。と察したときにはもう遅い。

 

 おおかた『そうするだろうな』と思ったとおり、こころは私の頭を手で左右から包み込んだのち、指を髪に食い込ませて、わしわしと洗うように撫でている。気付いていたらとうのとっくに避けていたのだが、なにせ人に頭を撫でられるなんて経験が、『人生に一度もなかった』もので。困惑なんてものではない。

 

 よく考えてみなくとも、今年でもう35歳。いまさら人生で初めての何かを経験するなんて、中々無いものだ。新鮮かと言われれば、映画やドラマなどで見つくしたシチュエーションではあるし、そうでもない。特に貴重な経験でもなさそうなのが、なんだか悔しくはある。

 

 悪い気持ちはしない、というのが素直な感想である。もう少し鬱陶しく、癖のある行為かと思っていたが、案外すんなり受け入れられるものだ。食わず嫌いってわけではないし、そもそもの『機会』がなかったわけであって、この行為に不快な感情を抱いていたってことでもない。

 

「庵廿郎の髪は、犬みたいね!」

「荒れてるのか?」

「ううん、撫で心地がいいの」

「はあ。そういうものなのか」

 

 よく分かってはいないが、適当に相槌をうっておいた。

 

 なんとか彼女の手の中から頭を出し、脱出。ご近所に見られたときには、うちの店が風俗だの、パパ活の庵廿郎だの言われてしまうかもしれん。言われるだけでは済まない。店を閉め、この街から出ていくほかないだろう。

 

「で、平日の朝から何の用だ。遅刻するぞ」

「? この店に来るのは、食べ物を食べに来たときぐらいよ?」

「いやまあ、そうなんだけれども」

「ふふんっ、今日は『モーニングセット』を食べに来たのよっ!」

「……ほう」

「どうしたの?」

「貴女の家ほどのモノを出せるとお思いで?」

「安心してっ! お家で出る料理も美味しいけれど、庵廿郎の料理は特段ハッピーになれるんだから!」

 

 無駄に休日の昼間に、無駄に高いシフォンケーキと紅茶をたしなんでいる…で、あろう、こいつの家のことだ。私の朝食であるカップヌードルとは大いに違って、もうなんか、ぐわーっとした豪華なもの食べてるんだろうな。私は、自分の料理にはとことんこだわらないので、どれだけ豪華でもコーンフレークやオートミールが関の山だ。

 

 人々は朝食に夢を見すぎている。病的に痩せたり、スタイルを維持するのならともかく、普通の朝食なんて『T・K・G』でいいのだ。偉い人たちほど朝食も質素だという。実際、アメリカの起業家であり、ツイッターのCEOであるジャック・ドーシー氏は、固ゆでの卵に醤油をかけて食べるのを好んでいる。ロシアの大統領で知られているウラジーミル・プーチンも、オムレツかポリッジにフルーツジュースを合わせているシンプルなものらしい。イーロン・マスクやビル・ゲイツなんかは、食べないことすらあるらしいし。

 

 せめて朝食ぐらいは、と贅沢するのも、日々に彩りを加える要素かもしれない。私もたまにチキンラーメンに粉チーズを入れたりするし、食への探求は終わることのない自由研究みたいなものだ。が、SNSなんかでドヤ顔するような、大したものではないんだぞ、ということだ。

 

「うちもれっきとしたカフェーだ。モーニングぐらいメニューにあるさ」

「じゃ、それをひとつちょうだいっ!」

「はいよ」

 

 まったく、朝でも笑顔を絶やさずに、ご苦労なこった。せいぜい遅刻しないように、テキパキ作ってやるかな。それも、喫茶店やカフェーではド定番のメニューをな。

 

 食材は、好きな厚さの食パン1枚、生卵ひとつ、ベーコン3枚、キャベツとレタスを4分の1玉、小さ目のニンジンとキュウリ1本。バター、マーガリン、サラダ油、コールスロー・ドレッシング、マヨネーズをそれぞれ適量。

 

 

 

LESSON1.キャベツ、レタス、皮をむいたニンジンをスライサーで千切りにし、キュウリも端を切り落として斜め薄切りにする。食パンは半分にカットし、トースターに入れて焼く。バターはまだ塗らない。

 

LESSON2.切った野菜たちをボウルにまとめ、マヨネーズとコールスロー・ドレッシングを適量入れ、野菜がしんなりするまで手で混ぜる。

 

LESSON3.卵を茶碗などに割り、溶き卵にする。サラダ油を敷いたフライパンでベーコンを強火で焼いていく。少し油がはねてきたら、卵をベーコンの上にかける。

 

LESSON4.フライパンを前後に揺らし、菜箸で卵を混ぜる。スクランブル・エッグを作るように、焼きつつほぐしつつを繰り返す。

 

LESSON5.先ほど2と4で作ったサラダとベーコン・エッグ、さらに焼きあがったトーストにバターを塗って皿にそれっぽく盛り付ける。

 

 

 

 30分もかからずに、家でも簡単にできる『モーニング・セット』の完成だ。私の場合は、既に野菜などをカットしておくので、仕込みはほぼほぼ抜きだが、およそ10分程度で出来た。手間といえる手間もかかっていないので、うちの中でも比較的軽く作れるメニューだ。ゲートボール大会に出るじいちゃんが、勝負飯として食べていくこともある。

 

「お待たせしました」

「これよ、これっ! 本で見てから、ずっと庵廿郎の作ったモーニングが食べたいと思っていたの!」

「ふうん。絵本以外にも読むんだな」

「最近、美咲に借りてるの! 少女マンガって言うのかしら…ぼくたま? とか!」

 

 美咲…黒髪の、大人しめな子だったか。『ハロー、ハッピーワールド!』のメンバーは、ちょいちょい店に来てくれるので、覚えつつある。メンバーをまとめるしっかり者で、商店街のマスコット・キャラクターにして、バンドのディスクジョッキー、DJをつとめている。スポブラでもしていそうな、色気に気を使わないイメージだったが、少女漫画なんて読んでるのか。

 

 というか、その年代でぼくたま持ってんのかよ。ぼくたまは色あせない名作だとは聞くが、近い年にやってた『姫ちゃんのリボン』とか『ママレード・ボーイ』も持ってそうだ。花より男子はドラマでメジャーになりすぎたし。私がそこらへんで読んだのは、漫画版の『耳すま』だ。そう、天沢聖司がヴァイオリン職人を目指していない世界線のアレだ。映画版を見たときは、見た目はおろか普通に設定まで変わっているのについていけなかった覚えがある。あっちはあっちで気に入って、5回ぐらい見たが。はてさて、実写版はどうなることやら。

 

「いただきますっ」

 

 まず彼女が手をつけたのは、皿の手前にあるトースト。マーガリンよりバターのほうが慣れていると思ったが、読みは当たったか。

 

「んふ、あつっ」

「冷ませ」

「ふー、ふーっ…はむぅ」

「……どうだ」

「ん! 美味しい!」

 

 ヨシ。

 

 サラダをフォークで少しすくっては食べ、ベーコンエッグをはふはふしては食べ、またトーストを頬張る。理想的な三角食べだ。にしても、本当に美味しそうに食べる。何回見ても、何回来ても。味のもとのもとを隠し味に入れた覚えはないのだが。うちの客でも、こんなに美味しそうに、かつハイスピードで食べるのも彼女ぐらいだ。

 

「ミルク、いるか?」

「う~ん…そうね。『コーヒー』がいいわねっ」

「えッ、あんた飲めるのかい」

「驚くほどのことかしら?」

「か、角砂糖は?」

「ブラックでお願いするわ!」

「…………ッ」

 

 ハッキリ言って、かなり驚いた。出会った日の『ミルクを頂戴』は、あくまでもデザートに合うものを選んだだけ。普段の幼めな言動、性格から、勝手に先入観を抱いていた。こんなやつがブラックコーヒーなんて単語を発するだけで、私の中では軽く号外モノである。飲めてもシロップとミルク50杯ずつだよ、でもそれもうミルクティーだよねアハハ、みたいな感じになると思っていたのだが。

 

 納得のいかない話ではない。ここ数日でもう何回言ったか忘れたが、彼女は一応、といってはなんだが『お嬢様』である。それなりの淑女だかレディーだか、ガガだか、ボーンディスウェイだかの教育ぐらい受けてはいるだろう。あまり自分の自慢をしなかったり、喋り方からも育ちはそれなりどころではないほどに良いことが分かる。そういえば、字もかなり綺麗だった。どことなくあふれる上品なオーラに、自分の中で勝手に説明がついた。何気ない日常の身のこなしが、彼女をレディーたらしめる要素となっていたのだ。

 

 SPがついてるぐらいだし。今日も窓から『黒い服の人たち』が無言で『早くしろ』とのフリップを見せながら、こちらを凝視している。あんたら、中の音声とか聞こえるのか。今夜は盗聴器の確認必須だな。

 

「オリジナル・ブレンド・コーヒーだ」

「……美味しいっ! 酸味が控えめね!」

「苦味とコク重視だ」

 

 そうこうしている間に、皿の上から料理は消え、コーヒーも飲んでしまった。こころは今回もすっかり満足した笑顔で、私が出したナプキンで口を拭う。

 

「学校、何時から始まるんだ?」

「もう少しね」

「行かないのか」

「言ったハズよ? あたしは、この店の料理も好きだけど、雰囲気だって気に入ってるの!」

「ふうん」

 

 そう言いながら、いつものように代金をカウンターに置いていく。今度は野口英世、日本円だ。しかもモーニングが650円、コーヒーが350円で値段もピッタリ。

 

「庵廿郎も、好きよ」

「ほぉ……? …ふぅん……」

 

 危ない。反射で動揺しかけた。

 

 見たか。こういうやつなのだ、弦巻こころは。すぐに好きとか言っちゃう。女子校じゃなけりゃ、誤解する男子、もとい被害者もそれなりの数になっていただろう。

 

 一通りモーニングを食べ終わり、優雅に一休みしながら時計を見ていた彼女を、私はじっと見ていた。口の端に、ベーコンの欠片がついていたのだ。別に、いくらこころが美人だろうと、我を忘れて見とれることなんてしない。細かいところが気になる性分なのだ。が、そんな私のほうに振り向いて、名指しで『好き』だなんて言われてみろ。おまけに、ベーコン付きとはいえ、満面の笑みだ。

 

 違うんだ。ああ、違うとも。未成年に欲情なんてしないとも。このくらいの年齢は、香澄で見慣れているし。だが、こんなに改まって、割と真面目に好きだと言われれば、少しはビクッとしてしまうだろう。彼女のほうはというと、目が合って一瞬ハッとしたような顔をしたのち、目を細め、閉じた口の両端を緩やかに上へ向けた。心なしか、耳が紅くなっている。私も、今頃そんな感じだろう。顔と耳が、熱い。

 

 しばらく、こころは私の目を見たままだった。私のほうも、何故だか目を離せずにいた。気まずくって、少なくとも私からは何も言い出せずにいた。なんとか腕を動かし、緩く微笑む彼女の顔に手を伸ばし、口元についたベーコンをとろうとする。彼女は、私の右手の指が顎についた段階で、ゆっくり、ゆっくりと瞼を閉じた。

 

 口元を軽く拭き取るだけすると、私は焦って、思わず猛スピードで席を立ってしまう。何をするでもなしに立つのは不自然だろうと、頭を冷やすという意味でも、コップにミルクを入れるために冷蔵庫のほうへ向かう。

 

「分かってるわ」

「なにが」

「なんでも?」

 

 終わったかと思うと、彼女はちゃっちゃと席を立った。いつもより少しだけそっけない態度でいて、しかし満足げな表情をしていた。満腹になったときとは、また少し違うような笑顔だ。

 

「さすがね、庵廿郎」

「なにがだ」

「なんでもっ?」

 

 私がミルクを一気飲みして振り返ると、彼女は既に店を出ていく間際だった。もう一度目が合い、ヤバいと思った私は、すぐに顔も合わせずに見送ろうと思った。客とはいえ、なんだか一生見ていられるような気がして、少し怖かった。実を言うと、先ほどの流れで、女の子の顔を初めて触ってしまった。あんなに見つめあうのだって。恋愛的な意味ではないにしろ、真剣に好意を伝えられるのだって。これが最初で最後かもしれないことを、1日に何回もされては、冷静なんて言葉ごと忘れるさ。

 

 しかし、ドアを開けた途端に見えた景色が、ふたたび私をその場に張り付け、硬直させた。実質的な『磔刑』だ。

 

 季節は5月。春も過ぎようとしていた立夏。朝の涼しげな空気と、外に置きっぱなしにした缶ビールみたいにぬるい風。その風向きに素直に従い、サラサラとした金髪と制服の布がなびき、流れる。身体の7割ぐらいを占めているんじゃあないか、と思うほど長い脚が露出する。膝の上、太ももの付け根。いつもは見えないような部分があらわになる、それだけだ。高校の時、女子のスカートなんざ何回もまくり上げた。だが、違うんだ。こんなレベルじゃあない。ここまで惹かれるのは初めてだ。

 

 桜田淳子の『サンタモニカの風』が、頭の中で流れる。乱れた髪を、耳にかけるしぐささえも美しい。少しバターに濡れた唇が薄いピンク色に光り、長い睫毛が揺れている。甘い、甘い匂いがした。アナ・スイの香水だろうか。いや、ブルガリか。どちらにしろ、心地の良さと、臓器ごと飛び出そうな動悸が、私の脳髄ごと酔わせに来るようで、息切れさえするような気持ちだった。

 

 夢見心地である。

 

「また、来るわ」

「ああ。いつでも、待ってる」

 

 咄嗟に口から出る言葉が、信じられなかった。私だって、今だって。

 

「ふふっ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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初恋

店がある下町から離れて、同じ都内の豊島区。周りには、既に見慣れてしまったビル群が偉そうに立っている。待ち合わせ場所にあったアイアン・ガーデン・チェアに座り、そこら辺のカフェで適当に買ったフラペチーノを啜る。初めて入った店だが、案外ハズレではなく、いい感じの甘さだ。しつこくない。ちと気合を入れすぎたスーツが鬱陶しいが、とりあえず今は甘い飲み物を飲んで落ち着くしかない。

 

 公園では小学生ぐらいの子供たちが走り回り、その横では私と同じか、少し下の年のママさんたちが楽しそうに、オーバーリアクション気味に話している。私も若いうちに結婚していれば、あのぐらいの年齢の子供が出来ていたのだろうか。

 

 結婚や出産、家族を持つなんて話は、ほとんど考えたことがなかった。なんだか、これからも独り身で『シェリー』のマスターを続け、独身貴族という肩書を背負って、料理を作り続けてくたびれていくような気がしていたのだ。

 

 だが今となっては、ああやって家庭を築くのも悪くはないんじゃあないかと思えてきた。恥ずかしいことに、今更になって、少し羨ましく思えてきたのだ。手の届かないものを欲しがっているだけなのかもしれないし、思っている以上に面倒くさく、大変だろうとは思う。けど、親子二世代で店をやるのには少しだけ憧れている。息子が出来たとき、どうやって接していいのかは分からないが。

 

 うまく人と接したり、話したりができないわけではない。だが、家族への接し方、褒め方や叱り方、愛し方なんて分からない。どこに行っても教えてもらえるでもなし、なんだか幸せな家庭とやらを保障してやれる自信がない。私にできるのは、所詮、美味しい料理を作るぐらいのことだ。

 

 最近、だんだん分かってきた。私は親がいないあまりに、本物の親子で暮らすという経験をしてこなかった。施設の人たちは、決して悪い人というわけではなかったが、どこか放任主義気味だったし、本気で私を叱る人は、私の人生の中で一人もいなかった。間違うこともあったけれど、全て吸収して、なるべく怒られないように育ってきたのもあるかもしれない。

 

 愛というものが、どういう形をしているのかは、映画の中で知ったつもりでいた。触ったこともないくせに。

 

 メッセージアプリの着信が来た。香澄からのものであった。『デート、楽しんできてね!(サムズアップの絵文字)』とのことだが、私は彼女に今回のことを話した覚えもないし、デートと実感したこともない。

 

「おまたせ」

「……こころ」

「さ、行きましょうっ!」

 

 待っていた人物が、ようやくやってきた。恐らくコイツが、香澄に『デート』などと話したのだろう。

 

 弦巻こころは、先日『モーニング・セット』を食べに来た際に、自分の電話番号を千円札の下に置いて、帰っていったのだ。それに気づいたのは終業時間後のことだった。私はすぐにその番号を街の電話帳で調べ、本人のものであることを確認して電話をかけると、やはりこころ本人が出た。

 

『もしもし?』

『ああ、こころか。こちら庵廿郎だ』

『庵廿郎! かけてきてくれたのね、嬉しいわ!』

『何のつもりだ?』

『電話番号を交換したかったのよっ!』

『マンガに書いてあった方法で、か?』

『よく分かったわね! あ、そうそう、庵廿郎に話があったのよ』

『料理のリクエストか?』

『違うわよ! …次の土曜日、空いてるかしら?』

『定休日だから、店はやっていないぞ』

『ならいいわ! その日、南池袋公園の駐車場前に来てくれる?』

『はぁ。行くのはいいが、何かあるのか? ハロハピのライブか?』

『……あたしと、デートしてちょうだいっ』

 

 という感じで、デートと称した何かに付き合わされることとなった。マンガに影響されたのだろうか、彼女なりのジョークなのか。休日にショッピングモールを回ったり、水族館に行ったり、一緒に食事をするらしい。どちらにしろ、スキーにも行かないようじゃあ、デートとはとうてい呼べないな。

 

 こころの服装は、見たことの無い私服だった。ピンクのフリフリがついたノースリーブで、上に黄色いパーカーをゆるく重ね着している。髪型はいつもの何も施していない状態から一変して、位置高めのツインテール。下はアイボリーホワイトのハイウエスト・ショートパンツに、靴は赤いスニーカー・ブーツといった私服だ。前回のサロペットと違って、なんだか年相応のオシャレな恰好をしている。

 

 私はというと、色とりどりの羽が舞い散る絵柄が刺繍されたポールスミスのジャケットに、中にはペイズリー柄のポロシャツ。ボトムスにワンタックのジーンズ、靴はア・ベイシング・エイプのエナメルのスニーカーだ。帽子はジェームズロックのキャスケット。ちょいとばかし動きづらいが、オシャレは我慢。『Checkmate』のモデルみたいに、うまく着こなして見せる。

 

「まずはご飯にしましょう! あたし、もうお腹がペコペコなの」

「近くにフレンチがあるぞ」

「いいえ、そこのレストランにしましょう!」

 

 そう言ってこころが指をさしたのは、日本中のどこにでもあるような、よく見るファミリーレストランだった。

 

「いいのか?」

「庵廿郎が一緒ならいいのよ! それに、あのハンバーグ! すっごく美味しそうよっ!」

「なら、いいんだけど」

 

 美味しくないってわけでもない。実際、私もたまに行くが、あそこのから揚げやポテトはビールと本当に合う。風になびいて揺れる、それなりに年季の入ったノボリに写っているハンバーグだって、悪くない。というか、普通に食べる分には美味しい。料理人が言うんだ、間違いない。

 

 店内はそれほど混んでおらず、こころと雑談しながら15分ほど待っていると、スンナリと入れた。席は全面禁煙。安心する響きだ。来年度に開催されるオリンピックに向け、路上喫煙の取り締まりや、分煙の取り組みが強化しているそうだ。偉いおじちゃんたちも、全員が全員吸ってないわけじゃあないと思うんだけどな。だとしたら、自分から退路を塞ぐことになる。ああかわいそうに、お国のためにヤニカスは死ねというのか。実際に、タバコはそれなりに経済を回しているというのに。まあ、私はすぐにむせてしまうから嫌いだけど。

 

 こころはエビフライの乗ったハンバーグとコーンポタージュ、私はマルゲリータピザとから揚げを注文した。

 

 流石に酒は飲まん。今日は電車で来たし、私自身はザルなので、ベロベロの酩酊状態になることはよっぽどないとしても、こころがいる前で飲むのはなあ。この後もどこかに行くみたいだし、アルコールの匂いが隣でしているのも、少し申し訳ない。どうしても角ハイボールに惹かれてしまうが、ツマミだけ食べて気を紛らわそう。それよりも。

 

「それで足りるか?」

「このくらいが、ちょうどいいのよ!」

「私がおごろうと思ったのに」

「そんなの、なおさら悪いわ? あたしが全部出すわよっ!」

「それこそダメだ。大人としてのメンツってもんがあるんだ、オッサンに出させてくれ」

「庵廿郎はオッサンというより…何でもないわ」

「何を言いかけた!?」

 

 そうこうしているうちに、テーブルの上に料理が揃った。

 

 弦巻家で食べ慣れているであろうハンバーグとは、作る人も、調理にかかる時間も、食材さえグレードが下のものを、こころは嬉しそうに食べている。いい笑顔だ。ときどきこちらを見たかと思えば、ニヤニヤしながらまた食事に戻る。私の料理は、できるだけ国産のものを使っているぐらいしかこだわっているところがない。腕前がどうとかの問題もあるだろうけど。私、実は料理得意だし。カフェーのマスターみたいなことやってるし。

 

 私もそろそろ食べてみようと、頼んだマルゲリータを一口食べてみる。一瞬目を見開き、そのまま二口三口と食べる。食べ口からチーズが結構伸びたので、驚いた。もちろん味もそこそこ、いや、うまい。私の窯焼きのピザには及ばないが、なにしろこの味でこの値段。コスパがいいな。

 

「そんなに美味しいか?」

「ええ!」

「そうか」

 

 私の料理以外で、ここまで笑顔になっているのは、なんだかちょっと悔しい気もする。いつもは垂れてきた髪を耳にかける仕草がよく見られるのだが、今回はツインテなので、安定してバンバン食べて、ドンドン飲んでいる。本当によく食べてよく飲んで、よく育っていると思う。待っている途中にも3回ぐらいドリンクバーに行っていた。

 

「から揚げ、食べるかィ」

「いいの?」

「酒が恋しくなるだけだ」

 

 彼女は私の皿から、から揚げをつまんでは食べ、また自分のハンバーグも食べ、合うのかどうか分からないメロンソーダを飲む。本人は至って幸せそうなので、私がとやかく言うことではないと思うが。

 

 にしても、酒が欲しい。確かメニューに、レモンサワーもあったよな。ジョッキの生もあるし、ぜひフライドポテトと一緒に飲みたい。ここのポテトは、食感がよく、かつ中身も詰まっている。食べていて楽しい。祭り・縁日の屋台にあるような、もちもちのラスポテトとはまた違った美味しさがある。一口にフライドポテトといっても、種類はけっこうあるもので。その気になれば形も変えて、自分だけのポテトも作れるかも。

 

「庵廿郎、お酒を飲めるの?」

「これでも35だ。若く見えたか?」

「いえ、そうじゃなくて」

「あ、はい、そっすか」

「お酒が好きなの?」

「まあ、週5で飲んでるしな。そこまで酔っぱらうこともない」

「だったら飲みましょうよ! あたしは庵廿郎に、笑顔になってほしいわ!」

「…いいのか?」

「ええ! その代わり、あたしに笑顔を見せてっ!」

 

 とうぶん先になりそうだぞ、と私は髭をこすり、レモンサワーとフライドポテトを頼んだ。もちろん、自費のつもりだ。目の前にいる彼女の金を借りて飲むほどクズではないからな。焼酎をドリンクバーの飲み物で割るのもいいな。平日の昼は飲み放題もやっているようだ。

 

「お待たせしましたぁ~」

「き、来たッ」

「けっこうな量ね! ソーダみたいで美味しそうだわ!」

「飲ませんぞ」

「とらないわよ!」

「いや、そういう意味じゃなくて……まあ、いいか」

 

 このレモンサワーは、生のレモンを直接絞って、果汁を入れてはじめて完成するというものだ。ゴマをするときに、すりこぎごと用意してくれる店がたまーにあるが、それと似たようなものだろう。半分にカットされたレモンを、レモン絞り器にかけてやると、果汁がこれでもかというぐらいに零れてくる。

 

 手の果汁を舐めとって、いよいよサワーに手を付ける。缶を開ける音から楽しみ、自分で作ったツマミを食べ、お気に入りの怪獣映画を見ながら飲むのもいいが、たまには外でこうやって飲むのもいいかもな。こころに見守られ、最初の一撃を口に含む。

 

「……~ッ」

「どうかしら?」

「うっまい…」

「ほんとにっ!?」

「ああ…マジでうまい、うん」

 

 心の奥で、どこか味には期待していなかった自分もいた。こういう外で飲むっていう機会は、雰囲気を飲むようなものだ。多少味が悪くとも、居酒屋で飲んでるときなんてのは特にだが、大概許せてしまう。だが、このレモンサワーは『違う』。あまりにも美味い。私はあまり一気に何割も飲まないのだが、まあグイグイといける。一気しろと言われたら喜んでしまうぞ、こんなの。

 

 外で、しかも真っ昼間から飲んでいるというシチュエーションからして、もう美味いのに。こんなに美味しいものを出されたら、毎定休日来てしまう。

 

「くぅっ、ポテトが合う」

「…ふふふっ」

「ん? どうした」

「今の庵廿郎、幸せそうな顔してるわ」

「うっそだァ」

「本当よ! …ほぉら、素敵な笑顔♪」

 

 家では美味さのあまりに少しニヤつくことはあるが、そんなに笑っていただろうか。なんだか納得はいっていないが、向かいの席から少し乗り出して、私の顔を両手で包み込み、こちらをじっと見るこころの顔だって、あまりにも幸せそうだ。目を細めて、眩しいものでも見るかのように微笑んでいる。暖かい手だ。小さいし指だって細いが、手のひらまで肌が綺麗だ。

 

 顔から少し下に目をやると、なんともすらっとした胸鎖乳突筋。首元で美しい曲線を描いている鎖骨が飛び出ており、更に奥には逆さの双丘が垂れている。

 

 睫毛の揺れるたび、瞬きをするたび、また彼女に釘付けになっている。私自身そろそろ自覚しはじめた、というか自覚しないことを諦めたのだが、こいつはどうやら中々可愛いらしい。

 

「あたし、いつも貴方に料理を作ってもらってばかりだったでしょう? だから、こうやって一緒に幸せになりたかったの」

「ロマノフひとくちで、十分だっちゅーの」

「でも、今の貴方は、あたしの見てきた庵廿郎の中で一番ハッピーな顔よ」

「へっ、そうかい」

 

 自分の口角が上がったのが、分かった。

 

「庵廿郎のほっぺ、すっごくあったかいわ!」

「こころの手はヒンヤリしてて、気持ちいい」

「よくしゃべってくれるようになったわね、庵廿郎」

「ちょっと気分がよくなってきたみたいだ」

「そうなのね!」

 

 私の顔から手を離すと、こころは自分のハンバーグの最後の一切れをフォークで刺し、こちらに差し出してきた。何も言わないが、口の真ん前まで運んできたあたり、前回と同じく、食べろということらしい。

 

 他の客に見られるのは恥ずかしいが、ギリ親子だと思ってもらえるだろう。ちょうど肉がツマミに欲しかったところだ。あまり周りに見えないように、手で隠し、一瞬で口にハンバーグを含む。

 

 ……クソっ、悪くない。デミグラス・ソースのうまみと酸味、ひき肉の舌触り、食感、そして満足そうにしている彼女。来てよかった、と思ってしまった。

 

 

 

 

 



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悲しみよこんにちは

 フンボルトペンギン。ペンギン目、ペンギン科、ケープペンギン属に属する鳥類、要はペンギンの一種である。フンボルト海流沿岸部に分布していることから、その名前がついた。協調性が高く、激しく争うことも少ない。泳ぎの速さは、時速およそ4キロから11キロ。潜水時間は観測されている中で最長165秒。エサはサンマやイワシ、一部の地域ではスルメイカを食べていたともされている。

 

 と、目の前の水槽に貼られたプレートに書いてある。

 

 私がこんな専門的な知識など、知るわけがないだろう。魚のさばき方ぐらいなら知っているが。

 

 今日もどこかで同種が絶滅危惧になりかけているのに、野生を忘れた水族館の呑気なペンギンたちは、飼育員に撒かれた魚を丸呑みする。向こうの水槽では、青い都会の街並みを飛ぶペンギンというコンセプトの展示があり、客の前や上を、自由気ままに泳ぐペンギンが見られる。

 

 ペンギンという生き物は、実に計算された見た目をしている。泳ぎやすいフォルムだとか、そういう意味ではなくて、かわいらしい見た目だという意味だ。シンプルなカラーリング、豊富なバリエーション、ペタペタと歩いたり嘴で体を掻く仕草。どこか愛らしく、それでいて天敵のいる海に飛び込む勇気も兼ね備えた生き物と言える。

 

 さぞ商品化はしやすいだろう。

 

「綺麗ね」

「ああ」

 

 彼女が水槽から目を移して、こちらを向いて微笑んだ。考え事をしていたもので、碇ゲンドウみたいな受け答えになってしまった。

 

 昼飯を食べ終わってから、彼女に連れられて来たのは、ショッピングモールやレストラン、ホテルに展望台、軽いテーマパークまで付いた複合施設の水族館だ。こころが以前に『ハロー、ハッピーワールド!』のメンバーと来たことがあるらしく、流行りのバーチャル・リアリティーのデバイスで遊べるところまであるらしい。

 

 プランは完全に彼女に任せているので、まさかこんなオシャレでナウいところに連れてこられるとは思っていなかった。

 

「その時、花音がペンギンさんをね……」

 

 こころはまた、ペンギンたちが泳ぐ姿をじっと見て、楽しそうに仲間との思い出を話し始める。そして、ご機嫌にツインテールを揺らしてこちらに寄ってきて、パーカーに通した細い腕を、それとなく私の腕に絡ませる。二の腕あたりに柔らかい感触が、鼻には柑橘系の匂いがそれとなく伝わる。

 

 こちらを見ていないとはいえ、息遣いがほんのちょっと荒くなっている。無理をしているとまではいかないが、いつもとは様子も変であることは、確かだ。単に興奮しているだけだと思うが。

 

 ポケットの中に突っ込んでいる手へ、彼女の手が絡まる。普通に手を握るのではなく、指と指を組み合わせるつなぎ方。強固に絡み合って、ちょっとやそっとじゃあ離れないように見えるが、お互いが離れればいともたやすく解けてしまう。儚くも、ひと時の仲を取り持つ、俗にいう『恋人繋ぎ』だ。

 

「お土産、買うか?」

「ええ! 美味しいお菓子が欲しいわっ! ペンギンさんのぬいぐるみもあるかしら?」

「ああ、それも買おう」

「庵廿郎」

「なんだ」

「楽しいわね」

「…………ああ」

 

 二階の土産屋の中には、この水族館にいる海洋生物のほとんどが可愛らしくデフォルメされたぬいぐるみから、リアルな魚の模型、サメの歯のストラップまで、幅広い品がラインナップされていた。客層のほとんどは、家族連れである。

 

「何か、欲しいものはあるかしら?」

「……そうだなあ」

「あたし、このぬいぐるみがいいわっ!」

 

 手に抱えているのは、結構大き目なケープペンギン。目の真上に薄いピンクのラインがあり、身体の白い部分にはゴマをまき散らしたような模様があるのが特徴だ。

 

「そうか。私が出そう」

「買ってくれるの?」

「少しは払わせてくれ。さっきだって結局、5杯も奢ってもらってしまったし。思い出作りというのも、お前となら悪くない」

「……じゃあ、庵廿郎! このキーホルダーを買ってちょうだいっ」

 

 こころが、ストラップのコーナーから持ってきたのは、小さなマリンアクセサリーだった。

 

 どちらも手に巻き付けるタイプのミサンガ・ブレスレット。ひとつは、船の舵と錨のアンティーク・アクセサリーがついた、シアン色のもの。もうひとつは、同じアクセサリーのついているイエローのものだ。

 

 それらを手に持ったまま、こころは私の背中に手を回す。抱きしめたのだ、俺を。胸の下あたりに頭をうずめて、ひとしきり深呼吸してから彼女は上を向く。彼女の頭を覗き込むようにして下を向いていた私と目を合わせた。

 

「このアクセサリーを、庵廿郎との思い出にしたいの」

「そうか」

 

 私はキャスケットを目深におろし、自分の顔が熱くなっているのを確かに認めた。同時に、自分の中の感情と、置かれている状況を理解し、把握した。とっくに理解なんてしていたのかもしれないし、その感情を抱えて過ごしてきたのは確かなことであった。

 

 しょうがない。恥ずかしながら、この年にして経験が全くないので、経験則とやらには則ることができないのだが、恐らくこの感情はそう簡単には消せない。消そうとして、すぐにできるようなことではない。

 

 認める。私は、弦巻こころに惚れこんでいる。彼女の髪に、瞳に、体躯に、言葉に、仕草に。言ってしまえば、全てが好きだ。

 

 この気持ちをどうやって表していいのか、これが恋と呼べるのか。迷ってしまって、その思いを勘違いして、曲解した思いで彼女を傷つけるのが嫌だった。分かったところで、親も恋人もいなかった私は、どうやって彼女に接していいのかが分からなかったのだ。

 

 私はただ、彼女に、弦巻こころという一人の女性に、幸せになってほしかった。たとえ私の腕で、彼女が眠るようなことは二度とないとしても。

 

 ただ、気持ちに気付いてからも、苦悩や葛藤はあった。もし、私が彼女の笑顔を奪ってしまうようなことがあったら。社会的にまずいことを前提にして付き合ったりした場合、責任を背負うことは当たり前なのだが、彼女自身に被害が及んでしまう。この先、家にも勘当され、学校での居場所もなくすかもしれない。彼女に一切爪痕を残さない方法を、私は知らない。私は、愛し方さえ分からない。愛のカタチさえ、未だにつかめないままである。

 

 しかし、気づいたのはそれだけでは決してない。私は、愛し方を身に着けていたのかもしれない。彼女の身を案ずる気持ち、お節介を焼いてしまうようなもどかしさ、相手が幸せになれるのなら自分も幸せという理想。

 

 一時の気の迷いで構わない。そんなくだらないものに身を任せられるのは、恋の感情に酔いしれている時ぐらいだ。

 

 複雑で、端的で、それでいて中々認識することができない。

 

 これが、初恋なのか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふふっ」

「楽しそうだな」

「もちろんっ! あたし、こうやって貴方と遊ぶのが、ずーっと楽しみだったんだもの!」

「そうか。私も楽しい」

 

 典型的な『夜景の見える高級レストラン』だ。少女漫画で見たまんまの、いつかの恋愛映画で見たような、そんな場所。夢にでも出てきそうな景色の中、実感が湧かないまま、私はこれまた高級そうなワイングラスに口づける。

 

 少し、窓の外を見てみると、数えきれないほどの明かりが灯る摩天楼が見下ろせる。それよりも高い、高層ビルの最上階のレストランからは、もっと多くの光が瞬く星空にも手が届きそうである。

 

 ぼうっと夜景を見つめていると、雪のように真っ白なクロスの敷かれたテーブルに、また白く、大きな皿に、こぢんまりとした冷製パスタが運ばれてきた。

 

 口にその半分を含んでみると、味も少ししか分からなほどに冷たく、そしてやはり、あまりにも小さかった。こうしていると、何年も前のことを思い出す。ハッキリ言って、あまりいい思い出ではないが。

 

施設にいた友人と、カフェーの開業記念日に、こんな店に来たことがある。正直、全く味を感じない割には量も少なく、そのくせ見た目だけはアート然としたイタリアンに腹が立った。そのあと、至って普通の牛丼チェーン店に行って、大盛の牛丼を食べて『小人用の店に用はない』と笑いあっていたものだ。

 

 今回も料理の質や盛り付けのセンス自体は認めざるを得ない。まずいわけではない。むしろ美味しい。依然として、腹に対しては物足りないが、とっくに料理を平らげて、私の食事を微笑んで見つめているこころは満足げだ。

 

「家族さんと、来たことがあるのかい」

「よく私の誕生日に来てるの! …特別な場所よ」

 

 好きな人が、幸せになってくれる。彼女も、ひょっとして同じことを考えていてくれたのだろうか。思い出を共有したいと、少しでも思ってくれたのか。

 

 私のことが好きだなんて、自惚れるつもりはない。しかし、少しでも私といることを幸せにしてくれたら。

 

「こころ」

「なぁに? 庵廿郎」

「……私も、思い出の場所にしていいだろうか」

「!! もちろんよ!私と庵廿郎で、何回もここに来ましょう! それから、他にもたっくさん行きたい場所があるの! そこがぜーんぶ、貴方との思い出の場所になるの! それって、とっーてもわくわくするでしょう!?」

「ああ。どこへでも行こう」

 

 涙も零れんばかりの、たいそう幸せそうな笑顔だ。それを見ている私もまた幸せで、嬉しくて。好きな人の幸福は、まるで人生のツキが一気に回ってきたような、この世の幸せを全てこの場にかき集めたような僥倖だった。

 

 あの店で、あの時、こころに会えたこと。何回も、私の料理を食べに来てくれたこと。こうして、私をデートに誘ってくれたこと。愛を知らない私に、愛とは何かを教えてくれた人。

 

「そうだ、庵廿郎の家にも行きましょう!」

「家は、いつものカフェーだぞ」

「違うわ! 貴方のお父さん、お母さんに会いに行くの! 庵廿郎の『家族』に会いたいのよ!」

「………家族、か」

 

 私に、家族なんて呼べる存在は、一人としていやしない。でも、貴女となら、家族だって作れる。私がさせてもらえなかったことを、私の子孫と呼べる人にしてあげたい。少しでも、この愛のすばらしさを、共有できたなら、それはとてもスゴイことだと思った。押し付けてでも、この愛をあげたい。

 

 家族とは、とても素晴らしいものだと思っただけだ。

 

「なあ、こころ」

「ん? 何かしら?」

「好きだ」

「………えっ、えっと!」

 

 気持ちに正直になった結果がこれだ。告白の仕方など調べていないし、シチュエーションや言葉選びが正しいのかなんて分からない。でも、私が抱いた気持ちは、この一言だけで伝えられるようなものであった。

 

「あ、あたしも!!」

「?」

「……あたしだって、好き…よっ」

 

 胸のあたりが、頭の奥が、腹の底が、ドクンと鳴る。私とこころは、同時に席を立つ。

 

 こころの目からは、大粒の雫が零れ、滴る。白い頬をゆっくりと伝い、また出てきたもうひとつの雫と合わさり、下の皿に落ちる。私は、はじめて彼女の泣いている顔を見た。その姿は、ガラス細工よりも透き通って見えた。

 

 涙こそ出てはいるが、その顔は、とても好い目にあったことの後のように、かなり吹っ切れていた。そして、いつものように、いい笑顔をしていた。綺麗で、可憐で、世界一可愛い。

 

 彼女はこちらに顔を近づけ、目を閉じて、少し唇を尖らせる。

 

 気づけば周りの客も、立ってこちらに拍手を送ってくれている。『キス』、ベェゼなんてのは見たことはあるが、やはり自分がする側になると、どうやって唇をくっつけていいのかも分からないし、緊張も並々ならぬ大きさだ。心臓の鼓動が、早く、大きくなっているのが分かる。

 

 こころが、足をテーブルに乗せ、こちらに大胆に乗り出す。私も彼女の顔に手を携えて、ほんのちょっとだけ口の先を伸ばしてみる。心臓の音が、聞こえてしまわないだろうか。ああ、閉じた瞼も、突き出したピンクの唇も、全てが愛おしい。どうにでもしてくれ。今は、この瞬間は。

 

 

 

 刹那、窓ガラスの割れる音。脳裏へ一直線に走る衝撃。

 

 

 

LESSON1.あとから知ったことではあるが、実は弦巻家に個人的に恨みを持っている者が、こころの出先をつけていた。かつては親が溺愛しているこころの命を奪ってやろうと考えた。そのうち、こころに惹かれていった。

 

LESSON2.電車内で、同行者の私の靴にGPSを付けておく。私の向かった先に、ちょうどこころがいたので、自前のL96A1──スナイパー・ライフルでビルの屋上から狙撃しようとした。

 

LESSON3.そこにいた私が、こころとキスをしようとしていたので、自分の中の『好き』に気付けなかった狙撃者は、咄嗟に私のほうを撃ってしまう。

 

LESSON4.私の頭を弾丸がかすめた。こころは、私の体をゆすって、ひたすらに何かを叫ぶ。

 

LESSON5.今度は顔をゆがめて、泣き叫んでいる。表情が豊かなところも好きだ。ここで私の意識は、完全に途切れる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 仮に、このLESSONの果てに出来上がる何かに名前をつけるなら、『愛の行く先』だろう。

 

 



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終わらない歌 ~1001のバイオリン~

 誰に催促されるでもなく、ふっと意識が目覚める。固く瞑られ、目脂の気になる瞳を手でこすろうと、両手をあげる。そのまま目のあたりに手を持ってきて、左右にこする。全くと言っていいほど、腕や足は痛くなかった。そのかわり、身体を動かす度に、後頭部に鋭い、無数の針が刺さっているような痛みが走る。

 

 瞼をあげようとするも、眩しさのあまり、反射的に目を閉じる。少しづつ目を開けていくと、知らない天井があった。光は天井の照明ではなく、左側から入ってくる日差しだった。キツい消毒液と、マスクを着けたばかりの時のような匂いが漂う。外を見ると、街並みが見下ろせるぐらいの高さのビルにいるようだった。向こう側に霞んだ、東京スカイツリーが見えた。雨が降り、空は黒く曇り、雷が鳴っている。この世の終わりを先取りしたような景色だ。

 

 最悪の目覚めと、頭の痛みにイラつくなか、私はまたしても昔のことを思い出していた。

 

 入院するのは、久しぶりだった。十数年前、旭湯でバイトをしつつ、通っていた高校で、施設の友人がいじめられていたのに腹が立った。確か、校舎の裏でタバコを吸っていた10人ほどを相手に、ひとりで殴り掛かった。最後のひとりと相打ちになり、あいつら諸共病院送りになったんだったか。

 

 あの頃は、みんな誰かの喧嘩に自分まで熱くなり、従うことなど知りたくもなかった。自分の強さを知りたいあまりに、誰かを傷つけることでさえ、強がりのひとつだった。

 

 一か月ほどの入院のおかげで、学園祭にも出られなかった。前年度も交通事故で軽いケガをし、結局私が出られたのは、卒業を間近に控えた三年生の時の学園祭のみであった。二年の時は確か、準備に顔を出しはしたものの、先公に謹慎を言い渡され、また家で療養を続けた。一発ブン殴ってやりたかったが、謹慎期間が引き延ばされるのは御免なので、大人しくしておいた。

 

 もう一回、数時間ほど寝た。看護師が起こしに来て、色々な事情を、一気に説明してくれた。私は、とある男の標的に巻き込まれただけであったこと。頭を銃弾がかすめたのと、ガラスの破片が少し刺さっただけで、間一髪で外傷だけで済んだこと。あの場にいた人たちはみんな無事だったこと、など。

 

 冷静になってみて、いろんな不安が浮かんできた。私は、大事な人を守れたのだろうか。店に空き巣は入っていないだろうか。ガスを止められてはいないだろうか。

 

 それから一週間ほど入院し、廃人のような生活を送っていた。これほどゲームが欲しいと思った時期はなかった。高校の時は、ドラクエやプラモデルで時間を潰していたっけな。

 

 休日には、施設や高校時代の友人が来てくれた。籠に入ったフルーツやコンビニのエロ本を持ってきてくれたり、思い出話に花を咲かせたり。相手が女子高校生だということこそ言わなかったが、恋人が出来たことを伝えると、看護師さんに壁ドンされるぐらいに大きな声で驚かれた。

 

 ケガの原因については、頭の打ちどころが悪かったと説明しておいた。デート終わりに滑って、そのまま頭を強打、って感じに。

 

 退院した日は、友人たちとそこら辺の居酒屋へ飲みに行った。5軒ほどハシゴしただろうか。自由になった反動で飲みすぎて、珍しく泥酔してしまい、家まで友人のひとり(酒は飲まない主義らしいが、単純に弱いだけである)に車で送ってもらった。

 

「すまない」

「いいのいいの! にしても、どうしてあんなに飲んでたんだ?」

「入院中のストレス解消だよ」

「とてもそれだけじゃあないと思うんだケドねェ」

「気にするな。たまにはそんなときもある」

「で、あれが彼女さんかい? 随分子供っぺえ、って言っちゃア失礼かな」

 

 まさか、こころが。とは思ったが、こころが家から随分離れたうちの店まで、こんな夜遅くに来るはずがない。そうは思いつつも、帰りを待っているこころのビジョンを、思い浮かべずにはいられなかった。少し、甘えたかったのかもしれない。

 

「あっ!? ………マスター…なの?」

 

 見慣れた角頭と、星のアクセサリーを首に光らせる少女が、私の店の前で立っていた。戸山香澄だ。

 

 友人の車から降りた私のもとに駆け寄るなり、目を潤わせた香澄は、零れそうな涙を強く拭いてから私に抱きつく。こうして直接的に濃厚な接触をするのは、香澄がまだ幼稚園に通っていた時ぐらいだろう。帰りたくないと、私の足にすがりついて泣いていたものだ。

 

 今回も、何故か泣きそうになってはいるが。

 

「…何故、ここにいる」

「えへへ……退院したって聞いて。一番に会いたかったから。というか、入院したなんて聞いてなかったんだよー! 学校のこころんから今日聞いてね…」

「こんな時間までいる必要は、なかったというのに」

「でもでも、無事なマスターが見たかったんだもん!」

「嬉しいのだが、今日はもう遅い。私がこんなんだから、送っていくことはできないが、帰りなさい」

「……あのね、マスター」

「なんだ」

「今日は、ここに泊ってもいい?」

 

 『既に家に許可をとったので、今日は帰らないつもりでいた』とのことで、このままでは野宿をすることになってしまう香澄を、仕方なくと言ってしまってはなんだが、とりあえず家に入れた。

 

 5月とはいえ、それなりに夜は寒い。外で待っていた香澄がくしゃみを繰り返していたので、暖かい飲み物を出すことにした。粉末のミルクココア、電気ケトルで沸かしたお湯を用意する。香澄がコーヒーを飲めないのは、もう何年も前から知っているから。

 

 

 

LESSON1.マグカップに、小さじ3杯のココアを入れる。そこにケトルのお湯を120ミリリットルほど入れる。

 

LESSON2.後ろから、香澄が抱きついてくる。私の服の中に手を入れてくる。

 

LESSON3.香澄は、数えきれないほど前から、私のことを好きだった旨を明かす。私は手をどけさせ、こころと両想いであることを明かす。

 

LESSON4.その場で号泣してしまった香澄の頭を撫で、慰める。手を振り払われるも、一時間後には大人しくなる。

 

 

 

 泣き崩れた香澄に、もうすっかり冷めて湯気もでなくなったマグカップを差し出す。口を付けて、ゆっくり飲み、一息つく。まだしゃっくり交じりの呼吸で、必死に落ち着こうとしている。

 

 こんな酷なことを言ってしまって、傷つけてしまって、本当に申し訳ないと思っている。いっそ、嘘をついて抱いてしまえばよかった。元通りの関係には戻れないかもしれない。いや、元から私の思っていたような関係ではなかったのだが。常連のカフェーのマスターが、小さいころからいた近所のただのオジサンが、好きだったなんて、私は思ってもみなかったのだから。

 

「すまない」

「あ、謝らないでっ。ごめんね、突然言っちゃって……ビックリ、したよね」

「ああ、それはもう」

「ううっ、なんだか二人きりだって考えると…抑えられなくって」

「よく、我慢してたな。私は1か月も持たなかったというのに」

 

 私は、こころに想いを伝えたときの事を思い返した。もし、あの時レストランで、こころにフラれていたら。もちろん、こころ自身が好きになった人と幸せになってほしい。それが私にとっても幸せなのだが、それなりにショックは受けるだろう。その時、香澄に今さっきみたいにズボンの中をまさぐられてみろ。襲いはしないが、簡単に落ちるだろう。

 

 それもまた、愛だと思うから。形がどれだけ歪でも、香澄が私に持っていてくれたのは、確かな愛だと思うから。

 

「でもっ!!」

 

 香澄は、ソファーから立ち上がると、再び零れそうになった涙をこらえるように、両手で自分の頬を叩く。頭をぶんぶん振って、私を潤んだ目で見つめる。

 

「私っ、マスターが…庵廿郎さん、が……幸せになるように、応援してるから!」

「………そう、か」

「こころんと、幸せにね」

 

 ひとりの少女の初恋を、こんなやるせない形で終わらせてしまったことに、自分自身が嫌になる。だが、こんな形に、私がしてしまったことに、責任を持たなければならない。いま、私は愛の『負の部分』を知った。

 

 やはり私は、何も知らなかったようだ。

 

 私はベッドに香澄を寝かせる。最初のうちは、悪いよと何回も言っていたが、泣き疲れていたようで、数分後にはすぐに寝てしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 入院中、こころの電話番号に何回も電話をかけた。出ることは一回もなかったし、見舞いにも来なかった。香澄の証言から、学校に来ていることは確かだが、どうも会話や無事の確認がとれない。

 

 翌朝、起きて決心をした。シャワーを浴びて、歯を磨き、スーツを着た。彼女のもとに持っていくロマノフと、香澄の朝ご飯を作る。ロマノフの皿をラップに包み、朝ご飯と置き手紙をリビングのローテーブルに残す。

 

 未だかつて使ったことのない『臨時休業』の看板をドアにかけ、保冷剤の入った、テイクアウト用のパッケージにロマノフを入れ、店を出る。支度をしている頃には、もう午前9時頃だったはず。日曜日の、この時間なら既に起きているだろう。きちんと正装で来たし、『黒い服の人たち』にも認知されている。なんとかなるだろう。

 

 とりあえず、高いところから街を見ようと、ショッピングモールの屋上の展望台に向かおうとしていた、その時。渡ろうとしていた道路に、猛スピードで黒塗りの車がやってきた。もはや見慣れた、弦巻家のリムジンだ。

 

「財部様、乗ってください」

「『黒い服の人たち』…」

「こころ様のところへ、お送り致します」

「あ、あぁ。どうも、ありがとうございますッ」

 

 自動で後部座席のドアが開くと、中に大勢の黒服さんたちがいるのが分かった。なんだか落ち着かんが、そんなことを言っている場合ではない。さっさと乗り込んで、送ってもらおうじゃないか。

 

 車内は、車に揺られてもびくともしないような、無言の黒服さんたちが座っているだけだ。よく見るようなミラーボールや、カラフルで目のチカチカする照明もない。静かすぎるというのもあるが、久しぶりに会うもんで、落ち着かない。

 

 最初に車内で口を開いたのは、どこか見覚えのあるポニーテールの黒服さんだった。

 

「財部様」

「えっ、はい」

「こころ様が危険に晒されるなんてことは、ましてや……暗殺未遂…など、今回が初めてでした。弦巻家に仕える者として、そして、貴方の恋人を守るものとして、あんなことにも気づけなかったなんて。情けないです」

「いや、いいんすよ。こころも私も、死ななかったわけだし」

「お気遣い痛み入ります。こころ様が誰かに惚れる、ましてや接吻を試みる。これも初めてのことでした。いつも家に帰ってきては、ご主人や私たちに、楽しそうに伝えてきてくださるのです」

「へェ。こころ、そんなこと……」

「前回のデートで、モブフラッシュで想いを伝えるとのことでしたが…貴方に、先を越されてしまいましたね」

 

 もし私が先に『好きだ』と言っていなかったら、周りの人間が急に踊りだしたりしていたのか。

 

「予算もそれなりにしたでしょう。なんか、スイマセン」

「いいんです。お嬢様が、自分なりの言葉で告白をすることができなかったら、その企画ごと中止でしたから。お嬢様なりの、覚悟のあらわれでしょう」

「………こころ…」

「今、お嬢様は部屋にこもりがちになっています。笑顔も減っていますし、食事も進んでおりません」

「ロマノフ、持ってきて正解だったみたいですね」

 

 車が、弦巻家の豪邸の門をくぐるのが、窓から見えた。もうそろそろで、こころに会える。数日間会わないだけで、ここまで緊張するとは。そういえば、彼女は3日も経たずにまた店に来ていたな。1週間も会わないなんてことはなかったはず。

 

 でも、その緊張よりも、不安のほうが大きい。彼女が笑顔を減らすなんてのは、『らしくなさすぎる』。

 

「ええ………その、財部様がよろしければの話なのですが」

「なんです?」

「今度、貴方の料理を食べてみたいのです。お嬢様の尾行をしているうちに、やはり、その…食べたくなってしまって。店に行かせてください。今度は黒服ではなく、ひとりの人間として」

「頼む必要なんて、ありませんよ。少なくともうちの店では、誰だろーと料理を食べられて、笑顔になれる。私の料理、きっと気に入ってもらえると思いますよ」

「は、はいっ」

 

 玄関の前で降ろされた私は、引き続き黒服さんたちに連れられて、こころの部屋へ向かっていた。

 

 外国の様式らしく、靴を脱がずに豪邸に足を踏み入れる。

 

 正面には、大きな階段。白い柱で支えられた2階の廊下が見える。玄関、というかロビーはかなり大きな吹き抜けだ。花柄の赤い壁に、床もまた深紅、カーペットのような素材だ。広すぎるぐらいの空間で、自分が小人みたいに感じた。階段の上、これまた大きなステンドグラスを背に、一人の男がこちらを見下ろしていた。

 

「何ですかアレ」

「ご主人です。振舞い方にはお気をつけて」

「…うっそぉ」

 

 私たちのほうに向かって、ゆっくりと歩いてくる、ご主人。もとい、弦巻こころの父。その顔は、自信に満ち溢れたような笑顔だった。

 

 屋敷の壁より、蛍光色に近い、明るい赤のスーツを着ている。ただのスーツではない、宇宙世紀の軍服みたいに、金と黒のエングレービングが襟と裾についている。人中あたりから顎にかけて、伊藤博文を彷彿とさせる髭が生えている。こころと同じ色の金髪だ。赤い彗星を意識したファッションなのだろうか。

 

「財部庵廿郎くんッ!」

「は、はい」

「まずは、私の元・部下の無礼を詫びよう。すまなかった」

 

 一旦歩くのをやめ、深々と頭を下げられた。突然のことなもんで驚いたが、こんな格好をしていても、この屋敷の主だ。礼儀正しいのも頷ける。

 

「いえ、この通り無事なので」

「よく来てくれた。歓迎しよう」

「……そりゃ、どうも」

「ときにッ!!」

 

 突如叫んだかと思うと、足を速め、階段の途中でジャンプしたかと思えば、驚くべき跳躍力で向かってくる。空中で2回ほどひねりを入れ、私の背後1メートルもないところに着地する。びっくりして尻もちをついてしまった。

 

 後ろを見てみると、黒服さんたちは既にいなかった。こうなることを知っていたな、あの人たち。明らかにヤバい人じゃあないか。私より年上なのに、どうしてここまでアクロバティックなパフォーマンスができるんだ。

 

「…君は、こころに惚れたそうだね」

「は、はい。そりゃもう本気で」

「その堂々とした姿勢、まさしくガチだねッ! まあ、私が育てた娘だ。無理もないな!」

「認めて、くださるのですか」

「ああッ!! ふたりには、是非幸せになってほしいと思っている……さあ、ここからが本題だ」

「はぁ」

 

 顔の距離をぐいぐいと近づけてきた、常に笑顔を崩さないこころの父親。私は思わず、後ろに身体が行き、たじろいでしまう。

 

「結婚願望とかは、あるのかね」

「……ええ。あの子と一緒に暮らしたいです」

「なら、うちで暮らすのはどうだい!?」

「へッ?」

「君については、調べさせてもらったよ。昔から両親がいないようだね。養子とまではいかなくとも、私たちのもとで暮らそうではないかッ! ここなら料理のための設備や材料にも困らないだろうッ! 店はもうやらなくていい! 親代わりとなって、世話をすることを誓おう! なんなら、跡継ぎにだって考えてもいい!」

 

 要は、店をたたんで、この豪邸で暮らそうということか。三食おやつ付きはおろか、可愛い娘付きだ。こころと、この屋敷で暮らす。働かなくとも、世話は一生してもらえる。というか、この弦巻家の跡継ぎ候補にもなれる。悪いことは、一見してひとつもないように思える。

 

「嫌です」

「そうかそうか! やはり私たちと……えぇ!?」

 

 『だが、断る』。最初の『店をたたんで』という部分からして、気に食わん。

 

「私の料理は、決して『誰かのもの』ではないのです。店は続けたいですし、ぽっと出の私がそこまで深入りするのが、正しいとは思えません」

「親が、恋しくはないのか?」

「…ハッキリ言って、普通の家庭はめちゃめちゃ羨ましいッ! だが、その苦しみを忘れず、『普通であることの幸せ』を与えたい! こころのことは!! 『私自身の手』で幸せにしてみせますッ!!」

「………ふふ、私も坊やだったということか。チャンスは最大限に生かすのが、私の主義なのだが……あえて言おう! この弦巻醍勲(だいくん)、感動したぞッ!!」

 

 そう叫ぶと、こころの父親、醍勲はその場で指パッチンをする。

 

 すると、足元が急にガクンと揺れる。見ると、なんとロビーの床が丸く窪んでいる。ざっと半径10メートル。そして下がった足場は、そのままエレベーターのように下がっていく。

 

「どこに!?」

「地下室だよ。この部屋で、こころが待っている」

「…壮大すぎる」

 

 地下室なんて、階段でコソコソ行くからいいんだろ。なんて考えている場合ではない。この先で、こころが待っている。そう考えると、なんだか緊張よりも、嬉しさのほうが勝ってきた。

 

「さあ、存分に楽しむがいい! 私の娘のナイス・バディをッ!」

「誰が!」

「当たらなければ、どうということはない! フハハハハハ……」

 

 そう言って、彼はエレベーターでまたロビーへと上がっていった。

 

 本当に変な人だった。溜息をつき振り返ると、あの屋敷からは想像もつかないほど、普通の部屋があった。豪華ではある。かなり高級なホテルの一室のような内装だ。

 

 その部屋の隅にあるダブルベッド。並みのシングルベッドに、こころは座っていた。水族館で買ったペンギンのぬいぐるみを両手で抱きかかえており、服装はへそのあたりが透けているようなネグリジェ。手にはまた、水族館のマリンアクセサリーを巻いていた。本当に笑顔は消えており、こころなしか痩せている。目の下にはクマさえできている。

 

 彼女は私の顔を見るなり、ハッとしたような表情になる。ひとしきり驚いた後、顔中をくしゃくしゃにして、こちらに歩いてくる。手を広げてやると、彼女のガラスのような目からは遅れて涙が出てきて、私の胸に飛びつくまでには、涙が止まらなくなっているようすだった。

 

「ごめんなさいっ…ごめんなさい………!」

「こころ、謝らないでくれ」

「あたしが………あだしがッ! いるがら……ッ」

「違う。貴女のせいじゃあない」

 

 声は極めて弱気に聞こえた。いつもの自信満々で、私に楽しいこと、嬉しいこと、思いの丈を打ち明けるときの至福に満ちた表情さえ、跡形もなく消えてしまっている。整った顔立ちぐらいしか。以前のこころの面影はないと言っても過言ではない。

 

「だって、そうじゃない!」

「私は恨んでもいない。むしろ、守らせてほしいとまで思っている」

「あたしと一緒にいたら、貴方は死んじゃうかもしれないのよ!!」

 

 そう言って顔を上げたこころの顎を、私はやさしく手でつかまえる。メイクはボロボロ、髪も乱れており、よっぽど落ち込んでいたのが分かる。

 

 リップの隙間から見える、いつも通り、素の薄ピンク色の唇。私は、自分の唇を、そこに重ねる。

 

 あのとき出来なかった『はじめてのチュウ』だ。

 

 口どうしをくっつけただけなのに、今までの色んな思い、感情、そしてありったけの『スキ』の感情が伝わり、そして伝えられたような気がした。見開かれた、涙に潤う金糸雀色の瞳が、ゆっくりと瞼に隠れていく。睫毛どうしがぶつかりそうなほどに、私たちは密着する。

 

 何時間もの間、このままでいたような気がした。私は唇を一旦離し、持ってきたロマノフをあげようと思った。しかし、彼女は私の両手首をつかむと、床にゆっくり、ゆっくりと倒していく。

 

「ありがとう、庵廿郎」

「こころ、愛しているよ」

「……本当に、ありがとう。それと、ごめんなさい」

「いいんだ。それより、ちゃんと食べてないな?」

「の、喉を通らなくって…」

 

 紙製のパッケージから、ラップに包まれた皿を取り出す。初めて会った日とおなじ、イチゴが乗ったロマノフだ。

 

「こころのために持ってきたんだ」

「まあっ、あの日の………」

「口を開けて」

「? ……ふふっ。私たちだけの秘密ね! あーん!」

「そうだ、あーん」

 

 幸せを共有する、だったかな。自分の景色を相手にも見せてあげたり、幸せのお裾分けをする。なんだか、あの時はそこまで響かなかった言葉が、気づけば心に染みている。

 

 そうか。

 

 とっくに、愛を、教えてくれていたんだな。

 

 彼女の前にスプーンを差し出しながら、私は思わず「フフ」と口に出していた。自分の顔は見えないが、おそらく私は清々しいほどの笑顔が浮かべているだろう。

 

 こころは金色のクリームを口に含むと、ゆっくりと噛みしめるように味わい、そして飲み込む。喉あたりが一瞬膨らむ。直後おなじみの、口元を緩め、目を細めた笑顔になる。至福の微笑。この人のために料理を作ってもいいと思えるような、あの時と同じ笑顔だ。

 

 揺れる睫毛。ピンクの頬。つやめく唇。細い指。何から何まで、あの時と一緒。

 

「んん~~っ♪」

「美味しいか?」

「当たり前じゃないっ!」

 

 唯一違うのは、嬉し涙が流れていることぐらいだろうか。

 

 彼女と、またキスを交わした。何故か口に広がる、甘すぎるぐらいの味と幸福は、クリームのものではないことは分かる。

 

「庵廿郎。好きよ」

 

 ああ、愛おしい。

 

 

 

 

 

 

 

 




お粗末さまでした。


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番外篇:キスしてほしい

お下劣です。R15くらいの気持ちで書きました。気分を害されるようでしたら、早め早めのブラウザバックを推奨します。


 運とは、風の流れのようなものである。一旦自分のほうに向けば、勢いがつく。

 

 高校時代にやった賭け麻雀では、周りを含め、ぶっこ抜きや燕返しといったイカサマも使っていたが、結局アガれる手はそこまで大きくはなかった。ところが成人してから、近くの雀荘で何年間か打っていると、まあ揃う。図書館エクゾディアぐらい揃う。

 

 タンヤオだろーがトイトイだろーが、ドラがひとつもなかろーが。一回アガってしまえば、勢いがつく。そのまま乗り切ってしまえば、ゴリ押しで勝てるときもある。

 

 風がこちらに吹く瞬間は、決まっているわけではない。だが、いつかは必ず来る。ふたつの紐が絡み合って、縄が出来ているように、悪いことの次には、いいことが来るのだ。

 

 ところが最近、どうもうまくいきすぎている気がするのだ。いいこと続きで、なんだか気味が悪いぐらいに。字一色と大四喜と四暗刻でトリプル役満って感じだ。麻雀を例えに出すのは、単純にマイブームだからである。各自検索なり何なりしてほしい。

 

「ありがとうございました~っ!」

「お会計、1,100円になります」

「……仲良く、できてるみたいだね」

 

 レジに立つ私とこころを見て、微笑をたたえる香澄が数枚、コインを青いトレーに置く。

 

「当たり前じゃない! あたし、庵廿郎のことが大好きだものっ!」

「こころ、お前っ」

「ううん。いいんだ、マスターの好きな人だから」

「香澄……」

「……感情、表に出すようになったね! よかった、笑ってるマスターが見られて!」

「そうか。よかった」

「そうよ! 笑顔は本ッ当に素晴らしいものよ!」

「だよね~! 笑顔が一番!」

 

 この二人の仲に亀裂が入ったりすることがなくて、一安心だ。いや、だな。私を奪い合わないで! とかいう自意識過剰から来る心配ではなくって。単に、この広い世界の人口の半分を占める男性の中の、たった一人を、たまたま二人が好きになってしまったというだけの話だ。

 

 本当に、稀なことだろう。こちらから一歩も動いていないのに、あちらからは二人も舞い込んできてくれた。

 

 香澄には、今も申し訳ない気持ちが若干残っているが、当の本人はいつも通りみたいだ。私のほうも、ゆっくりと元に戻していく努力をしていかなければな。自分に都合のいい、ハッキリ言ってしまえばクズ男の開き直りのように見えてしまうが、ならば私は、これしかないとハッキリ言ってしまおう。

 

「じゃ、また来るね~!」

「ああ。待ってる」

「ありがとうね~っ!」

 

 あの夜、こころを迎えに来た日から2ヵ月。私たちはもっと近くにいるようになった。休日は、こうして店の手伝いに来てくれる。平日の帰りだって店に寄ってきてくれるし、たまに『ハロー、ハッピーワールド!』のミーティング会場としても使ってくれる。

 

 月1ほどの頻度で、黒服さんやお義父さんたちも来てくれる。多めにチップを置いて行ってくれるのは、こころそっくりだ。私の料理を食べたときばかりは、あの仏頂面の黒服さんたちも、サングラスを外して素敵な笑みを浮かべてくれる。揃いも揃って美人ばかりなのは、多少驚いたが。来てくれる度に少しづつ仕様が変わっている服装も含め、こういうトコにこだわりたい人なんだろうな。醍勲さん。

 

 そうこうしているうちに、ラストオーダー時間を超え、閉店時間になった。表にある看板を『Closed』にし、こころと台所に並んで食器を洗う。家庭科の時間にやったらしく、最低限の要領は得ている。

 

「クーラー、寒くないか?」

「平気よっ」

「そうか」

 

 洗い物が終わると、外していたお互いのペアリングを指にはめあう。店の手伝いをしに来てくれる時の恒例行事だ。

 

 ひととおりの片付けが終わり、私とこころは二階に上がり、コーヒーを飲んでソファで一息つく。今回は渋さ重視の『シェリー』特製オリジナル・ブレンドだ。こころは両手で、マグカップに残った最後の一滴まで飲み干すと、私の肩に頭を寄せる。

 

 こちらに上目遣いで目線を寄越し、目を細めて口角を広く、上にやる。天使か、もしくは女神の微笑み、とも。

 

 ここから覗ける金髪のつむじ、潤った唇、瞼から伸びている睫毛。Tシャツの襟から見える曲線美の極みとも言えるような鎖骨と、布と布に縛り上げられた白い胸の谷間がY字になって私の硝子体へと映し出される。

 

 この財部庵廿郎、ここ数年は性欲と呼べる何かを背負わずに生きてきたつもりなのだが、こころのカラダの柔らかそうな部分を見ていると、どうも悶々としてしまうというか、ちょっとぐらい触ってみたりしちゃってもいいのかなあ、なんてエロ親父的思考にならざるを得ん。実際問題、ハグやキスの何回かは少なからずあるものの、直接的なセックスと呼べる行為に及んだことは、一度としてない。

 

 今日みたいに、うちへ寝泊まりすることも、逆に彼女の家に泊まらせてもらうこともある。なんなら、お互い抱き合って寝る。手を後ろに回して、身体を密着させて。

 だがそれでは、性欲が復活した私のリヴァイアサンさんが首をもたげかねないのだ。威力はまさにゴールデンフリーザ。復活という名に相応しいデスビームを放つ。

 

 誰でもいいわけではない。ただ、彼女と一緒に寝ると、神龍が股間の玉ふたつで出てくるというだけなのだ。なんなら今も、チンピクの領域には突入している。

 

 一応、それがバレたことはない。彼女はぬいぐるみや抱き枕を用意してやると、一瞬で寝られるという特技を持っている。おかげで私の海綿体が盛り上がろうと、サークルやモッシュやダイブが起こるほどアガろうと、気づかれることはない。朝も私のほうが早く起きるので、そちらの対策もバッチリだ。

 

「寝るなよ。まだ夕食がある」

「あら、そうだったわね!」

「パスタにするか? それともハンバーグ?」

「そうねえ……」

 

 店とは違った、2階の一般的な家庭用台所をウロウロし、品定めをするこころ。食料も、作る場所も、1階の『シェリー』とは差別化してあるのだ。

 

 1分ほど、たっぷり悩んだ彼女の手には、カップ麺が握られていた。ヌードルというか、ラーメン系ではなく、正方形の発泡スチロール容器。スーパーで100円未満で売られているような、派手なパッケージをしている大盛のものだ。最近ハマッていて、5つほど床下収納に入れてあったのだ。

 

「これっ!」

「……食べたこと、あるのか?」

「美咲が学校で食べてるのは見たことがあるわ! 焼きそばのようなものでしょう?」

「まあ、似てはいるな」

 

 一口に言っても、色々な定義、さまざまなイメージが出てくる。基本的には、スープのないラーメンと、ゴマ油やラー油、醤油、酢などの調味料と混ぜ合わせる料理としての認識が強い。カップ麺なんかのそれは簡易版で、いろいろな油をミックスしたソースをかけるぐらいのものだが。具は主にチャーシュー、メンマ、刻みネギなど、ラーメンとそこまで変わらない。最近ではニンニクを入れるのが主流になってきている。

 

 油を主とした調味料を混ぜ合わせた麺類ということで、その料理は『油そば』と呼ばれている。

 

 うちでも何度か学生さんに作ってやったことはあるが、具の仕込みに少し手間がかかるだけで、あまり面倒くさい調理工程ではない。具なしならば、麺をゆでて調味料をかけて、ハイ完成といった感じだ。

 

「いいのか?」

「いいの!」

「じゃ、これで。お湯沸かしといてくれ、1100ミリリットル」

「はーいっ!」

 

 本人がゴキゲンそうなので、私としては何でもいいのだがネ。

 

 とは言うものの、今日はいつもよりアレンジを加えてみることにした。袋麵にファミチキを乗せるような、簡単なものだが。

 

 一人前として用意する食材は、カップ麺の油そば。ニンニク、ラー油、酢、青ネギ、刻み海苔、柚子胡椒、ブラックペッパーだ。薬味や調味料、具の分量は全てお好み。なんなら好きな調味料をつけ足してもいい。自分好みの油そばを作る気持ちで行こう。

 

 

 

 

 LESSON1.お湯を適宜沸かす。その間に青ネギを小口切りしておく。

 

 LESSON2.容器にかやくとお湯を入れて、時間になるのを待つ。

 

 LESSON3.時間になったら、ふたの網の部分を開けて湯切りをする。

 

 LESSON4.油そば側についてきたソースを含め、調味料を入れる。申し訳程度に、ニンニクは専用の絞り器でつぶす。

 

 

 

 

 いつもより手間をくわえた、私特製ブレンドの『油そば』だ。もう、見るからに味が濃い。ニンニクと柚子胡椒のスパイシーな香りが、部屋一面に漂う。

 

「お待たせしました」

「なんだか、嗅いだことはないけれど、すっごく美味しそうな匂いがするわっ!」

 

 おろしたり潰したニンニクの匂いは、人類の遺伝子レベルで染みついているのだと思う。私も小学校のときにニンニクチューブの中身を味見したときは、鼻孔に入ってくる得体の知れない刺激と、その美味さに衝撃を受けた。なんでもアリなのがまた強い。

 

 こころは興味津々といったようすで麺を混ぜつつ、今まで見たことのないものへのチャレンジに、目を輝かせている。彼女にとってこの食事は、県外で見かけたラーメン屋に、あえてレビューを見ずに入っていくような、所謂『冒険』なのだろう。

 

「いただきます」

「いただきまーすっ!」

 

 麺を箸で混ぜ、その中の数本をつまみ、口でつかむ。一気に息を吸うように啜ると、あっという間に、麺で口の中がいっぱいになる。

 

 ひとことでしょっぱい、辛い、酸っぱいなどという感想ではまとめられないような味だ。それぞれの調味料の主張が伝わり、混ざり、分かれ、ぶつかり合う。そしてまた混ざる。飛び抜けて伝わる風味は、柚子胡椒とニンニクといった、匂いが特徴的なものだ。奥歯でブラックペッパーがはじけ、また違ったラー油の辛さも感じられる。ネギの食感が心地いい。

 

 割とジャンキー、というかスクラップ、いやガーベージに近いようなシロモノを出してしまったが、こころはちゃんと油そばの本質を味わえているだろうか。ローテーブルの向こうで正座して食べている彼女のほうを見てみる。

 

「はふ、ちゅるっ、んぐ」

「……聞くまでもないと思うが」

「おいひいわっ!!」

「元気があってよろしい、花丸満点だ」

 

 笑顔を浮かべる暇もなく、口いっぱいに麺を頬張り、熱そうにも一生懸命咀嚼してみているようだ。

 

 手に巻いていたヘアゴムを髪にあてがい、慣れた手つきで簡易的なポニーテールをつくる。家系ラーメンの店やフードファイターの番組でも見られる、臨戦態勢のようなヤツだろう。

 

「んっ、むぐ、ずるる、はぐっ」

「じゅっるる、んぐっ、んぐ」

 

 オノマトペを詰め込んだみたいな、賑やかな食事だが、交わされる言葉はほとんどない。目の前の容器に入ったものを味わい、楽しみ、胃の中に片付けることだけを目的として、食事の時間を過ごしている。マナーも品性もあったものじゃあないが、そこにあったのは確かな満腹感と、混ざりあった味の数々に対しての満足だけであった。

 

 途中、私は席を立ち、麺を口に含んだまま台所に向かった。食器棚から大き目のどんぶりを出し、その中いっぱいに白飯を盛る。冷蔵庫からはマヨネーズと粉チーズを取り出し、リビングのローテーブルの真ん中に置く。

 

 彼女は何かを察したかのような笑みを浮かべ、残り半分ほどの油そばにたっぷりのマヨネーズと粉チーズをぶっかける。俗にいう、『味変』だ。餃子の小皿にラー油を足すような、油そばとしてはメジャーな味付けだ。マイルドな味わいになるだけでなく、これほどまでの油たちを摂取している背徳感というスパイスまで付いてくる。

 

 私は人さし指を立てた手を、顔の前で左右させ、「ち~っちっちぃ」と首を横に振る。

 

 そして白飯を手に取り、油そばの容器に残った調味料と、マヨとチーズをどんぶりにまとめて『潜影蛇手』。混ぜて混ぜて、油たちを絡ませると、いい意味で身体に悪そうな色のご飯が出来上がった。

 

「まあっ」

 

 手で口をおさえて驚く彼女の目の前で、ある程度のご飯を発泡スチロールの容器によそい、一気に箸で口の中へとかきこむ。最後の一粒まで入れ、ゆっくり、ゆっくりと咀嚼。それにならって彼女も、ご飯を容器へ入れ、まだ余っているそばと絡ませて口へ放り込む。

 

 思わず、心の底からの笑みがこぼれた。

 

 それから何分経っただろうか。飯を口に入れては笑い、噛んで飲み込んでは笑いを繰り返していた。テーブルの上から食べ物がなくなった時には、既に私たちはフローリングに倒れていた。口角は未だ下がらないまま、お互い黙って余韻を感じている。それは、ある意味での食事の楽しみ方における、最上級に位置するものであった。

 

 リビングに沈黙が続くなか、最初に油まみれの口を開いたのは、こころの方からだった。

 

「予想以上だったわ……」

「こういうのも、アリだろう?」

「もちろんっ!」

 

 私は這いずるようにソファに移動し、寝転ぶ。そこに勢いよくこころが飛び込んできて、私の身体の上にかぶさる形で抱きつく。

 

 この年代の少女にしては十二分に軽いほうではあるのだろうが、腹に来る衝撃としてはまあまあの威力に情けないうめき声を出しつつ、それでも両手を背中に回してやる。サラサラとした髪が顔にかかって、くすぐったくもあるが、悪くはない。むしろ割と心地いい。

 

「お風呂、入らなきゃ」

「ああ、いってらっしゃい」

「…………あのね」

 

 私を抱きしめる力が強まる。彼女は至って真剣な声で、耳元でささやく。

 

「一緒に入らない?」

「……んん?」

「あたし達、一回も一緒にお風呂に入ったことがないじゃない。だから、その」

「あ、ああ。言いたいことは分かる」

 

 不意打ちだ。というか闇討ちに近い。坂本龍馬や犬養毅の感覚だ。

 

 ああ、私としても入りたくないわけではないさ。何回かイメージ・トレーニング、もとい妄想はしてきた。そりゃあ彼女の『オゥ! モーレツゥ♡』なボディが、一糸まとわぬ姿で見られるのなら、興奮しないわけがない。

 

 しかし、彼女の通っている高校の校則や、弦巻家の者の何か条があるとかは知ったこっちゃないが、条例というものがあるのだ。淫行がどうとかいうバカげたものだ。

 

 法律でこそ裁かれることはないが、条例に逆らえばそれなりの懲役や罰金なんかもあるだろう。なにより、社会的に死ぬ。こころが私と付き合っていることを軽々しく口外するような人間だとは思っていないが、まあ心配ではある。近所にこころの嬌声が聞こえることだけは避けたい。この家、地味に壁が薄めなんだよな。

 

 というか、まだセックスすると確定したわけではない。『牙狼剣を押し込め!』に過ぎない演出だ。常識的に考えれば、油そばを知らない彼女が、性行為を知っているはずがない。

 

「そうだな、たまには悪くない」

「……その、なんていうか」

「ん?」

「庵廿郎は、あたしの身体を見て、えっちな気分になってくれるかしら?」

 

 当たり前だ!!! と叫びたかった。見なくてもなるわ。

 

 薄々気づいてはいたが、やはり『そういうこと』の知識も多かれ少なかれ持っていたようだ。誘い方が、映画で見たものとまんまソックリで、現実味を帯びていなかったのもあるが、やはり彼女に対しての印象に左右された。

 

 とても性行為とかに対しては詳しくなさそうな彼女のことだ、親と一緒に入る感覚なのだろう。もはや私が彼女とセックスしたいだけだとも思っていた。

 

「するさ。好きだから」

「そ、そう! あたしも、なるしっ」

「えっ、それは」

「ちが、違くて! あたしは庵廿郎が好きで、だからぎゅーってしてる時も、お腹のとこがね……」

 

 涙目になりながら弁解する彼女の口に、私の唇を重ねる。彼女は一瞬黙ると、一生懸命キスをし返してくれた。それも驚くことに、あちらから口の中に舌を入れて。

 

 ひたすらに、舌の先で口内をかき回す。不器用だが、必死に、私もやられてばかりでは申し訳ないと、舌を絡ませてみる。

 

 感想としては、ここまで気持ちのいいこととは思わなかった、というものだ。所詮雰囲気を盛り上げるためのレクリエーション程度にしか思っていなかったが、頭の中がとろけるような感覚だ。これだけで満足してしまうほど、気持ちいい。

 

 ずうっと、そのままでいたような気がする。そのうち彼女は、唇を離して、おでこ同士をくっつけた。照れながらも、まっすぐにこちらを見てくれている。

 

「大人のキス、よ。お風呂で、続きをしましょう」

「……ああ。私、初めてなんだが」

「あたしもよっ」

 

 彼女は、頭をかく私に抱きつき、風呂場方面へ半ば強引に連れて行こうとする。息遣いだって既に乱れているし、顔もすりすりと私の身体に摺り寄せている。

 

 このエピソードに、見る意味なんてのはないだろう。その場で経験した事がすべてであって、他人に見せびらかしたり、アルバムに綺麗に飾ることもない。しかし、もし仮に、このエピソードを何年も先まで覚えていることになるとしたら、やることなんて限られてくる。

 

 お互いの初々しさをほほえましく見守るか、赤面した顔を覆ってその場で転がることぐらいのモンだ。ニンニクの味しかしないディープ・キスを思い出しながら。

 

 

 

 

 

 




弦巻こころは、こんなこと言わないと思います。


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