結城友奈は勇者ではない (mn_ver2)
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結城友奈は勇者ではない
異変


ゆゆゆのアニメを観てガチ感動したから勢いで書きました。
このアニメはもう少しシリアスになれると思うんだよね。


「はい、これで終わりですね」

 

 最後に胸に聴診器を当てられ、友奈は無意識に呼吸が浅くなってしまう。別段やましいことなどない。これは必要な検査なのだから。

 

「ありがとうございました」

 

 友奈は検査室を出た。特に異常はないとだけ伝えられ、ほっと胸をなでおろす。左腕に触れる。採血で注射されたところがチクリと痛む。すでに日は落ちかけ、オレンジ色に室内が彩られている。

 窓の外を眺めると、なんの変哲もない、ありふれたいつもの街があった。そのありがたさと普遍さに、つい熱いものがこみ上げてしまう。

 

「私達が、守ったんだ……」

 

 襲来すると知らされていたバーテックスを友奈たちは全て倒した。最終決戦は文字通りの死闘で、勇者システムの満開を使用してなんとか撃破に成功した。

 この病院に友奈と同じように検査を受けた他の勇者たちがいる。後で談話室で合流しようと話し合っている。皆、無事だといいのだが。

 休憩室に入ると、すでに風と夏凛がテレビのニュースを眺めていた。ニュースの内容は、樹海でバーテックスによって侵食された現実世界への影響――世間的には謎の事故として処理される――についてだ。

 

「お、友奈も診察終わったのね」

 

「はい! ばっちり血まで抜かれて……って、風先輩、その目は……?」

 

 友奈は驚く。なんと風の左目には眼帯がされていたのだ。何らかの異常があったのかと不安に思っていると、突然風は立ち上がった。

 

「ふっふっふ……。聞きたいか? そう、これは暗黒戦争にて魔王と戦った際、奴を討った時に――」

 

「左目の視力が落ちてるんだって」

 

 かっこいいポーズまできめて流暢に語っていた風を夏凛の冷たい指摘によって中断させられた。まるで可愛いいたずらがバレてあたふたする子供のようだ。

 

「いやちょっと言わないでくれない⁉ せっかく魔王と戦ったニヒルな勇者って設定が台無しじゃないの⁉」

 

「視力が……落ちた? もしかしてバーテックスが何か……」

 

「うん? ああ違う違う。戦いの疲労によるものだろうって。勇者はすごく体力を消耗するからね。ちゃんと療養したら治るってさ」

「そうなんですね、よかったぁ」

 

「そりゃあねぇ、バーテックスを一気に七体も倒しちゃったんだからね! 身体が疲れるのも当然よ!」

 

 これまでの襲来はだいたいが単体だった。しかし今回は七体と向こう側も本気でかかってきていたことがわかる。

 正直に言うと、誰かが犠牲になってもおかしくない戦闘だった。それが全員無事に帰ってこられた。

 もう勇者として戦う必要はなくなったのだ。神樹様から与えられたお役目を終え、これからは普通の女子中学生として生きる。勇者ではなくなったが、『勇者部』として誰かを助ける活動はできるのだ。

 勇者を通じて夏凛も新たに勇者部に入部したし、これからが楽しみでたまらない。

 と、ここで樹が東郷の車椅子を押しながら談話室に入ってきた。

 

「樹ちゃん、東郷さん!」

 

「私達も検査、終わったわ」

 

「これで皆集まったわね。樹ぃ、注射される時泣かなかったでしょうねぇ?」

 

 にししと口角を上げながら風が樹をいじる。しかし樹ははにかんだ笑顔を見せるだけで、何も返事を返さない。そのことを疑問に感じた風が「樹?」と名前を呼ぶ。

 

「樹ちゃん、声が出ないみたいです。勇者システムの長時間使用からの疲労らしく、すぐに治るだろうとのことですが」

 

「私の目と同じね……」

 

「えっと……すぐに治るんだから大丈夫だよ! お医者さんもそう言ったんだし! ね、お祝いしようよ! バーテックス全部倒したんだし!」

 

 なんだか空気が悪くなりそうな気がして、それに耐えきれずに友奈が声を上げる。いち早く反応を示したのは樹だ。声が出せないから代わりに頭を縦に振っている。

 友奈はひとりで下の階に下り、売店でありったけのお菓子とジュースを購入する。大食らい(特にうどん)の風のことを考慮した妥当な量だ。両手にどっさりと詰め込まれた袋を下げなから戻る。机の上に広げ、「じゃーん!」と言ってみせる。

 

「これはまた、すごい量買ったわね」

 

「夏凛ちゃん用に煮干しのお菓子もあるよ」

 

「わかってるじゃない」

 

 適当に目に映った煮干しのお菓子。どんなものなのかよく見ずに買ったが、『煮干しの――』とあれば夏凛はきっとなんでもOKしそうだ。飲み物を全員に配り、友奈はコホンとひとつ咳払いをする。

 

「皆さん、飲み物を持ちましたかー? では、勇者部部長から乾杯の一言をお願いします!」

 

 急に指名された風が目を点にしながら慌てふためく。

 

「あ、あたし⁉ ほ、本日はお日柄もよく」

 

「真面目か!」

 

 夏凛が誰よりも速いツッコミを入れる。さすがは勇者部のツッコミ担当だ。誰も風にそのような堅苦しいものは求めてはいないし、むしろ軽いノリを求めているのだ。

 

「まあこんなお硬いのはあたしには合わないわね。それじゃあ皆よくやった! 勇者部の勝利を祝って、かんぱーい!」

 

 風に続いて全員が「かんぱーい!」とジュースを高く掲げる。

 友奈が選んだのは、すっきりレモンジュースだ。プシュッ! と栓を開け、一気に喉奥に流し込む。酸味の効いた味がじわりと広がり、一瞬だけ渋い顔になる。

 

「友奈ちゃん、すごい顔していたわ。大丈夫?」

 

「う、うん。思ったよりレモンが強くて。東郷さんも飲んでみる?」

 

「いいの? ――ハッ⁉ これはもしかしなくても間接キスッ! ほ、本当にいいの?」

 

「東郷さんは大げさだなあ。私はそんなの気にしないよ」

 

 煮干し菓子を齧りながら夏凛がこちらをジト目で眺めている。何かツッコミたげな様子だが、口にしようとはしない。

 友奈から受け取ったジュースを東郷が飲む。間接キスというなんとも極上の至福に頬を紅潮させる。もしかするとバーテックスの撃破より遥かに達成感を得ているのではないだろうか。

 

「あーそうだそうだ。皆に渡すものがあるんだった」

 

 風はそう言うとあらかじめ用意されていたダンボール箱を開け、中から携帯を取り出して全員に配る。前に使っていた携帯は病院に入るときに回収されている。

 電源を入れて、何が変わったのかを確認する。すると、いつも利用していたSNSがなくなっていることに気づく。それをいち早く指摘したのは東郷だった。

 

「あれ? あのアプリをダウンロードできませんね」

 

「それね、もう使えなくなってるみたいなの。どうやら勇者専用らしくてね。あたしたち、もう勇者ではなくなったから。戦いも終わったんだし」

 

 確かにアプリをダウンロードできなくなっている。使い慣れていたからこそ喪失感は大きいが、代用のSNSならいくらでもある。

「ということは、戦って死ぬ心配はもうないってことだね!」

 

「……変なこと言うわね友奈。そうよ、戦う必要なんてないんだから、毎日楽しく生きていこうぜ!」

 

「でも風先輩、最近いろいろ忙しかったから受験勉強あまりできてないんじゃないですか?」

 

 ここ最近、勇者部の活動にプラスして勇者としての戦闘もこなしている。一年二年組にはもちろん学業に影響がある。例えば宿題がぎりぎりで締め切り間際の漫画家のような、修羅の如き心持ちでこなす。そして授業中は現世と夢の間を全力反復横飛びする。そのような生活、三年生だとどうなるかなど、考えるまでもない。

 

「ぐ、はッ! 痛いッ! 心が痛い……!」

 

 樹が死んだ顔で風を憐れんでいる。家でも一緒にいる妹様の様子から全員が察する。

 

「まあこれから頑張ったらいいじゃないの。風はそんなことでへこたれないだろうし」

 

 煮干しを咥えたまま器用に夏凛がぼそりと呟いた。昔なら絶対に言わないようなことを口にしたのだ。場の空気は停滞し、視線が夏凛に集中する。

 

「夏凛……あんた……」

 

「な、なによ……」

 

「……もう一度検査してもらったほうがいいんじゃない?」

 

「なんでよ⁉」

 

「だっておかしい! いつもツンツンにツンでツンな夏凛がそんな優しい言葉を言うはずがないわ! もしかしてバーテックスに頭をやられたのでは⁉」

 

「なわけないでしょ!!」

 

 談話室での突発的なお菓子パーティーは、スタッフに注意されるまで続いた。

 

 

「退院は明後日だって。早く学校に戻りたいなあ」

 

 撤収し、潔くそれぞれの病室に帰っていく。一人では移動が難しい東郷の車椅子を友奈が押す。先程は夕日が美しいほどに輝いていたが、あっという間に曇りがかっている。雨が降り始めるのも時間の問題だろう。通路には二人以外、誰もいない。

 

「私はもう少し検査に時間がかかるみたい」

 

「そっか。一緒に退院したかったのに、残念だなあ」

 

 退院して、また一緒に新しいスタートをきりたかったが、それができないという事実は仕方ない。せめてその日が来るまで友奈も退院しない、とすると病院に迷惑になってしまう。名残惜しいが、学校で東郷を待つことしかできない。

 見下ろした東郷の黒髪は絹のように綺麗で、つい触れたくなってしまうほどだ。無意識に手が伸び、あと数センチで触れそうになるが、その寸前に声をかけられる。

 

「ねえ、友奈ちゃん」

 

「なあに?」

 

「身体、どこかおかしいところない?」

 

「え?」

 

 唐突に奇妙な質問を投げかけられる。その意図がわからず、沈黙が流れてしまう。

 

「あの戦いの後、風先輩は目を、樹ちゃんは声、夏凛ちゃんは頭を……これは冗談だけど、何かしら不調が出ている。私の思い違いかもしれないけど、もしかしたらと思って」

 

「じゃあ……東郷さんも何か?」

 

「いいえ、私のはまだわからない。でも近々何かわかるかもしれない。それは友奈ちゃんも同じ。今この時点で、何かおかしなところ、ない?」

 

 病院に来てからのことを振り返る。疲労しきっていて何も考えられなかったが、身体が不自由に感じたことは特になかった……はずだ。

 その後もある程度の疲労が抜けたあと、検査に引っ張りだこになったものの、その間も不自由はなかった。極めつけは「特に異常はありませんね」との医者からの言葉だ。まさか嘘を言うはずがない。もし嘘だとしても誰よりも自分の身体は自分が一番よく理解できるはずだ。その自分が何も問題ないと感じているから、東郷の言っていることに合致する事例はない。

 友奈は首を振る。

 

「ごめんね、思い当たらないや。でもお医者さんも治るって言ってたんだからきっと治るよ!」

 

「そうね……きっとそうよね……」

 

 東郷の不安そうな口ぶりが友奈の心を締めつけた。もう勇者は終わったのだ。いつまでもあんな現実離れした生活からは離れてもらいたい。いつまでも勇者に引きずられてほしくない。それは東郷に限らず、風や樹、夏凛にも言えることだ。

 その不安をどう解消していいかわからなかった友奈は、ふと考えついたことを試してみた。車椅子を押すのをやめ、後ろから優しく抱きしめたのだ。

 

「友奈、ちゃん……?」

 

「――大丈夫。大丈夫だから。もし……もし、嫌なことがあったとしても、絶対に私達なら大丈夫。だって勇者部は、困っているひとを助ける、だからね。それがたとえ同じ勇者部の人でもだよ」

 

 ゆっくりと手を伸ばし、東郷は友奈の手を握った。その力は強く、友奈もまたしっかりと握り返す。

 

「……うん、ありがとう。やっぱり友奈ちゃんは優しいね」

 

「えへへ、そうかな? 嫌なことがあったら教えてね。絶対に助けるから。逆に私に嫌なことがあったら……私のこと、助けてくれる?」

 

 ここで初めて東郷が振り向く。その表情は本当に悲痛で、不安に押し潰されそうだった。しかしそれは杞憂だよ、と。そう諭す友奈の言葉が何よりも救いだった。

 もし友奈の身に何かが起こった時、必ず今の東郷のように不安になるだろう。だからこそ、今度は友奈の救いになりたいと心から願った。

 そして、安心させるように。

 

「もちろんよ」

 

 と優しく答えた。




非日常は終わり、日常が始まる。
しかし非日常の手は伸び、何かを盗み去った。
なればこそ、日常の崩壊は目に見えている。

反響がそれなりにあったらor気が乗ったら続きを書きまーす


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縋る

虚しくも幻想は砕け散る。

もう少しだけ書いてみますね。


 授業終了のチャイムが鳴る。

 友奈含めて生徒たちは先生と神樹様に礼をして今日を終える。

 東郷のいない一日というのはあまりに退屈なもので、学校で数日間過ごしているような感覚だった。気がつくと東郷の座っていない席をぼんやりと眺めていたせいで、黒板の板書が所々抜け落ちてしまった。これはクラスメイトに見せてもらえばいいだけだが、同時に集中できていないのだと戒める。

 勇者部にひとりで行くのは久方ぶりだ。いつもなら東郷の車椅子を押し、そのグリップの感触がずっと手に残っているはずなのに、それがない。友奈は手をにぎにぎとさせながら部室のドアを開けた。

 

「結城友奈、来ましたー!」

 

「ああ、お疲れさん」

 

 すでに部室は犬吠埼姉妹が入り浸っていた。

 樹は読書をし、風は椅子を反対向きにして座り、風量『強』の扇風機の前で「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」とだらしない声をあげて遊んでいる。エアコンのないこの部屋では、今日のような夏休み前など、暑い日になると扇風機が神に近しい存在とある。それを占領している風はいただけない。すかさず主導権を奪取しようとしたが、その前に風の眼帯が変わっていることに気づく。

 

「あれ、風先輩……その眼帯……」

 

「ふっふっふ……カッコいいでしょー」

 

「くぅーー、チョーカッコいいですっ!」

 

 真っ黒のものに変わっており、端に小さく花が刺繍されている。厨二病的な見た目だが、これがどこか可愛らしさを表現している。友奈はあえてそこには触れない。

 

「あれ、夏凛はサボり?」

 

 風がドアを開けて廊下を見回す。やはり夏凛の姿はなく、残念そうにため息を吐く。

 

「まだ来てなかったんですか?」

 

「ぐぬぬ、サボった罰として今度来たら腕立て伏せ千回させよう」

「夏凛ちゃんならできちゃいそう……」

 

 すると風は扇風機の前から退去し、仁王立ちして煮干しを咥えた動作のままフン、と鼻を鳴らしてサプリを飲む素振りをする。

 

「『朝飯前よ!』とか言いそうだわ、ホント。……ん? なに、樹」

 

 樹は声が出ないから、誰かに気づいてもらうまでずっと待っていた。急いでスケッチブックに文字を書き込むと、こちらに反転させた。

 

『かりんさん何か用事があったんでしょうか』

 

「あーそうかもね。あとでSNSで訊いてみるか」

 

「そのスケッチブックは……なるほど、声の代わりってことだね」

 

『はい』

 

 ……とても不便そうだ。話せないとこれほど手間のかかる手順を踏まなければならないのか。友奈は努めて顔を出さないようにしながら「筆記能力が抜群に上がりそうだね」と言うと、樹は微笑んでくれた。

 友奈は風が退いた扇風機の前をさり気なく占領し、その恩恵を受ける。

 

「今日は夏凛と東郷がいないのかー。うーん、今日は衣装についていろいろ話したかったんだけどなあ」

 

「……いしょう?」

 

「文化祭の演劇のやつよ」

 

「ハッ⁉ 忘れてました!」

 

 何も考えていなかった。今日は普通にどこからか届いた依頼をこなすだけ、と思っていたから完全にそのことを失念していた。

 

「最近は勇者の活動が忙しかったからねぇ、しょうがないといえばしょうがないけど。でも三人かー。三人で話し合ってもあまり意味ないからまた今度にするか」

 

 演劇の話となれば、自然と脚本や配役などの話題も浮上してしまうのは間違いないだろう。しかしそれを三人だけで完結してしまうのは今ここにいない二人には失礼だろう。

 

「じゃあ他になにかすることは?」

 

「ちょっと待ってね……」

 

 ポケットから携帯を取り出し、風は勇者部への依頼一覧を数十秒眺める。そして明るく言った。

 

「ないね! 猫の飼い主も見つからないし、剣道部からの依頼は夏凛指名だからパス、ホームページの更新は東郷がいないから無理だし。ないないづくしね」

 

 やれやれと肩をすくめた風は椅子に座ると、だらんと机とキスしているのではないと勘違いされるほど顔を預ける。樹もそれを真似してだらける。

 

『することがないね』

 

「今日から大忙しになると思ったけど、実際そうでもなかったわね……もういいや、今日は全力でだらだらしよう!!」

 

 そこに部活としてあるべき姿はなく、しかし本当にやることがないと観念した風は扇風機を自分の横に置いて全力でだらだらし始めた。

 友奈は一瞬それでも探せば何かやることがあるのではないかと考えてみたが、やはりなかったため、ふたりに混ざって机に突っ伏すことにした。

 

「風先輩、扇風機取るのずるいですよー」

 

「いーのよ。私部長だから。私部長だから!」

 

「ずるいっ! 権力の悪用だー!」

 

『お姉ちゃん、ずるい』

 

 この部屋は勇者部の部室だが、元は家庭準備室だ。物置部屋であり、そこにわざわざエアコンを設置してくれるはずもなく、こうして扇風機戦争が度々起こる。

 結局三人は扇風機の首を振ることで均等に風が行き届くようにして終戦を迎える。

 しかし眠りに落ちてしまう……なんてことにはならない半端な温度であることに変わりはなく、そのせいで半端なだらだらになってしまう。これならいっそ、今日は部活を終わらせてしまっては、とも考えたが、規則として部活動の時間は守らなければならない。それにこうしている間に新たな依頼が来るかもしれない。

 

「何かが足りない……そう、東郷のぼた餅が足りないッッ!!」

 

 突然、風が立ち上がって叫んだ。

 それに驚くことなくふたりは風を見上げる。心身ともに脱力しきったのだ、何がきても動じない。

 そしてすかさず樹が『食べ物なんだね』とツッコみ、いいタイミングで風のお腹が鳴る。今日は何も運動していないはずなのにどうして腹が減るのかがまるでわからないが、風は乾いた笑いを漏らす。

 

「さ、さあて、そろそろ時間だし、今日はこのへんで解散にしましょうか。樹、今日は夕食うどんにするけどいいよね?」

 

『お好きにどうぞ』

 

「っしゃ!」

 

 握り拳を振り上げて風がガッツポーズを決めた。それでもふたりが特に動じることはなかった。

 あれほど蒸し暑かった部屋はずいぶんとマシになり、さっきまで溶けたアイスのようになっていた樹も生気を取り戻している。

 風がパソコンでホームページには何か連絡が来ていないかを最終確認し、扇風機と一緒に電源を切る。照明も消して、部屋の鍵を閉めた。

 

「じゃあこれで今日は解散ね。あたしたちはこれを職員室に届けてから帰るわ」

 

 そう言い残し、鍵を指先でくるくると回転させながら風は樹と職員室へ向かっていった。その後ろ姿を見届けながら、友奈は東郷のお見舞いに行こうと考えた。

 夏凛がサボり……というのはあり得る可能性だが、樹の言うとおり何か用事があったのかもしれない。数日連続で休まれるとさすがに疑わざるを得なくなるが、今はそこまで深く考える必要はなさそうだ。

 東郷なら、ひとりでずっと病室にいると寂しがるだろう。前は皆がいたから良かったものの、一人になるとどんな思いをするのかなんて誰にだってわかる。

 足は自然と病院へ向かう。

 夕日に照らされ、自分だけではなく道行く人々の身体が淡いザクロ色に見える。その中でも友奈自身が一際濃い色彩を放っているようだ。それに見惚れていたせいで、足元の段差に躓いて転んでしまう。

 

「いてて……」

 

 周りの目がなんだか恥ずかしく感じ、友奈は急ぎ足で病院のロビーに駆け込んだ。受付に立ち、東郷の面会を申請すると、すぐに受理される。これほどスムーズなのは、もしかするとこの前の談話室でのことで顔を覚えられてしまったからなのかもしれない。

 病室に入ると、彼女はベッドから身体を起こしてパソコンで何やら作業をしていた。

 

「東郷さん、お見舞いに来たよー!」

 

「友奈ちゃん、来てくれて嬉し……って、膝、血が出てるじゃない。大丈夫?」

 

「ん?」

 

 東郷に言われ、友奈は膝を見下ろす。確かに右膝を擦りむいて血が出ている。傷の存在に気付いた時、今更冷たい痛みを感じる。

 

「あ、ホントだ。でも大したことないし、血も止まってるから大丈夫だよ!」

 

「一応ここは病院だし、傷口を洗ってもらうくらいは……」

 

「まあ……そうだね、帰りにしてもらおっかな。それより東郷さん、何調べてるの?」

 

「えっと……これはちょっと……」

 

「なになに? 人には見せられないものかな〜?」

 

「そ、そんなことは……」

 

 ベッドを汚さないように近づきながら友奈は東郷に尋ねた。しかし東郷は隠すようにパソコンを閉じてしまう。友奈がもう一度問いかけても苦笑して誤魔化そうとしている。そんな風に隠されてしまうと尚更知りたくなる。まさに『やるなよ⁉』の理論と同じだ。

 

「どうしても、ダメ?」

 

「うっ……。こ、この国についてのことよ。神世紀以前のものも含めて、歴史、文化、ならびに思想、特殊性などを学ぶことで未来に生きるものとしての心構えを再認識するの。その先に豊かな心を――」

 

「な、なるほど」

 

 友奈の上目遣いにあっさり陥落した東郷が渋々と語り始めるが、途中から完全に万歳モードにチェンジしていた。熱が入ると軽く数時間は口が止まらないので、早めに話の腰を折らなければならない。

 

「何言ってるのか私には全然わからないよー」

 

「あ……ごめんなさい、つい」

 

 早口になりかけていた東郷の万歳モードはここで打ち止めにされ、我に戻った。

 

「ううん、全然大丈夫だよ! でもやっぱり東郷さんと話してる時が一番楽しいかなー。だって楽しいし。……うん? なんかループした? まあいっか! 楽しければいい!」

 

「ふふふ、やっぱり友奈ちゃんらしいわね」

 

 荷物をベッド横の床に置き、友奈は備え付けの椅子を東郷の隣に座れるように置いて腰を下ろした。東郷の横顔をまじまじと眺めると、気恥ずかしそうにそっぽを向かれてしまう。

 今日は学校でこんなことがあった、部活ではやることがなくて最後までだらだらしていた、なんてとりとめのない会話が弾む。

 東郷がいないとホームページの更新ができないと言えば光の速さで車椅子を引き寄せてベッドから降りようとするし、東郷のぼた餅が食べたいとと言うと光の速さで車椅子を引き寄せてベッドから降りようとする。友奈はそれをなんとかぎりぎりで思い止まらせることができた。

 

「退院したら毎日ぼた餅作るわ……」

 

「わーい、嬉しい! でも毎日だと疲れてしまうよ?」

 

「いいえ、友奈ちゃんのためなら朝昼晩だって!」

 

 荒い息を吐きながら手を握られ、妙に早口に東郷に言い寄られる。友奈は毎日三食ともぼた餅になる想像をすると、さすがに身体に悪そうだ。

 

「それは胃がツライかな……あはは」

 

「そ、そうね。少し差し出がましいことだったわ」

 

「でもすごく美味しいから楽しみなのは本当だよ。無理しなくても、普段通りでぜんぜん大丈夫」

 

「友奈ちゃん……うん、そうだね」

 

 どうやら入院生活のせいで時間を持て余しているようだ。勇者部の皆といることができない。そもそも東郷だけ期間が長いのは違和感が残る。犬吠埼姉妹より遥かに軽症……むしろ無傷だから誰よりも早く退院してもおかしくないはずだ。

 友奈にはその疑問を晴らす考察を立てることができない。友奈にとって医者の言うことは絶対であり、疑う余地などどこにもないのだ。東郷は脚が悪いし、その辺りの大事をとってということかもしれない。そう友奈は締めくくった。

 

「……友奈ちゃん、私、左耳が聞こえなくなってたんだ」

 

 その言葉の意味を咀嚼するのに時間がかかってしまう。ようやく理解できたところで、友奈は僅かながらも自身に不安を抱いてしまう。現在身体に不調をきたしているのは、当時満開した三人だ。友奈も超巨大な御霊を破壊するために満開した。

 疲れて身体に異常が出たのならば、夏凛と友奈にしの兆候が現れるはずだ。五人全員が死力を尽くしてバーテックスを倒したのだから、その疲労の度合いの差異は大きくない。

 左耳が聞こえないという状態がどのようなものか想像しにくいが、不安定さに悩まされてしまうだろう。

 

「そっか……」

 

「ごめんね、不安にさせるようなことを言ってしまって。でも、誰かに伝えるべきだと思ったの」

 

 自然と手が伸び、東郷の手を掴み取った。「ぁ」と東郷の口から声が漏れたが、友奈はそれを無視して強く指を絡ませた。自分に症状が現れた。それに対する恐怖は感じられなかった。逆にどこか素直に受け入れているようにも見える。

 

「友奈ちゃんは何か変化あった?」

 

 友奈は顎に手を当てて数秒考えてから答えた。

 

「ううん、ないよ。東郷さんも心配することないよ! だってお医者さんも治るって言ってたから!」

 

「そうね。……時間も遅いし、そろそろ帰ったほうがいいんじゃない?」

 

 時間を確認すると、すでに六時を回っていた。家に帰らないと夕食に遅れてしまうし、何より学校の宿題すら手つかずの状態だ。期限が明日のものだっていくつかある。もう少し一緒にいたかったが、残念ながらそれはできそうにない。

 

「うう……帰りたくない。東郷さんともっと話したい……今日だって東郷さんがいなかったから満足に学校生活ができなかった……」

 

「そんなに? でももうすぐ私も学校に行けるようになると思うから待っててね」

 

「やったー! じゃあ東郷さん、また今度ね!」

 

 友奈は荷物をまとめて元気よく部屋を出ていった。走ったのか知らないが、すぐにスタッフに注意される声が聞こえてくる。

 くすりと笑った東郷はようやくパソコンを開くと、勇者部全員の名前が一覧化されたデータに新たな情報を入力する。これは戦闘後にそれぞれが負った障害だ。友奈、夏凛を除いた三人の障害が記載され、友奈の話から、犬吠埼姉妹は今のところ回復の兆しがないことがわかっている。

『結城友奈︰症状なし?継続』と入力する。夏凛は恐らく何も心配する必要はないはずだ。その理由にある思い当たりがある。皆も薄々気づいて入るだろうが、誰かが言い出さなければなあなあに日々を過ごしてしまうことを恐れた。最悪の状態になった時、何も話し合っていなければ収集が不可能になると考えたからだ。

 東郷は携帯を手に、ある人物へと電話をかけ、右耳に当てた。そこに先程まで友奈と話していたような明るさはなく、暗く沈んでいた。

 

 

「もう少し時間かかりそうだからテレビでも観てなさいな」

 

 麺を湯がきながら風は樹に言いつける。麺の量は四人前。当然、風は三人前を食べる。勇者部での活動(今日はだらけただけ)のあと、受験勉強もきちんとこなさなければならない。しっかり頭を使ったあとは、しっかりと栄養を取る。その中でもうどんは格別であり、本人はこれさえあれば受験は乗り越えられると信じている。

 頷いた樹はソファーに座り、テレビを観始める。キッチンからは見えないが、聞こえてくる声からしてクイズ問題だろう。

 麺の湯がき方、その時間などは自己流で極めた。毎回食感ならば量産型うどん店より次元の桁が格上だと確信している。

 あとは麺を丼に移しかえるだけだ。

 するとポケットに入れていた携帯のバイブレーションに気付いた。名前を見ると、東郷からだ。電話に出ながら、肩と頬の間に器用に携帯を挟んだ。

 

「わ た し だ」

 

 うどんがもうすぐ食べられる。そんな期待からか無意識にハイテンションのまま第一声を放ってしまった。

『もしもし、風先輩。夜遅くにすみません』

 

 会話をしながら丼に麺を移し終え、だしも注いでお盆に載せて机に運ぶ。

 

「無視された……。で、どうしたの?」

 

『満開の後遺症について風先輩は何か知っているのかと思って……』

 

「満開の後遺症? ちょっと待って」

 

 軽く流せないほど、聞き捨てならない言葉を聞き、風はこの場で話を続けるのは不味いと思った。

 二人分の丼をすでに用意してしまった。先に樹に食べさせておくとして、自分の分は後になりそうだ。東郷の話を後回しにするわけにもいかなかった。

 通話をミュートし、樹に声をかける。

 

「樹ー、先に食べといてー」

 

 テレビを切り、椅子に座って食べ始めた樹を尻目に風は一旦外に出た。後遺症と聞いて真っ先に思い浮かんだのは樹の声だ。本人にこの話を聞かれるのは辛くなるかもしれない。

 

「ごめん。で、なんだっけ?」

 

『私、左耳が聞こえなくなってるんです。風先輩たちは目と声でしたよね』

 

 当然のカミングアウトに、風は自分の指先が冷たくなるのを感じた。ふたりとはまた違った障害だ。そもそも障害はどうして起こる? 樹が戦闘中に喉をやられたなんてことはなかったし、風は目に傷を負っていない。東郷だって同じだ。どのような原理で障害が発生したのかがわからない。

 そうなると、東郷の言う『満開の後遺症』という不穏な響きが事実ではないかと思ってしまう。しかしそれを肯定することはできないし、したくなかった。

 東郷の入院だけ長引いたのは、障害の特定が出来なかったから? なら友奈は? となる。彼女の障害は今のところ確認されていない。これは満開の後遺症への反証となるはずだ。

 

「そうか……。つまりそれって満開をしたら何かしらの後遺症が出るってこと? でもそれだとおかしいはずよ。友奈はいつも通りピンピンしてるじゃない」

 

『はい。だから私の仮説が間違っているかもしれません。ですが本人が気づいていないだけ、という場合もあります』

 

 或いは意図的に隠しているか。勇者部五箇条に『悩んだら相談』とある。皆に迷惑をかけられないから、なんてことを考えているかもしれない。しかし持ちつ持たれつの関係でいいのに、そういったところに妙に敏感だったりする。とはいってもあの東郷にも話さないほどだ。おそらく本当に気づいていないだけだろう。

 

「ごめん、こんなことになって」

 

『風先輩が悪いわけじゃありませんよ。それより大赦から何か聞いていませんか?』

 

「ううん、何も」

 

 答えながら、後で大赦にメールを送って事実確認をしようと決心する。

 

『大赦の方々も知らなかったのでしょうか……』

 

「きっとそうなんだろうね」

 

『時間が経てば、身体の調子だってきっと良くなりますよね』

 

 友奈も同じようなことを言っていた。それくらいしか言えることがないからだ。だからといって風にそれ以上のことができるのかといえば否である。風もまた、曖昧な情報の中で錯綜する迷子なのだ。

 

「当たり前よ。医者だってそう言ってたし」

 

 当たり障りのない言葉をばら撒くことしかできない。

 

『とにかく、大赦からの返答を待つしかないですね』

 

「そうね」

 

『あともうひとつ。これはお願いなのですが……』

 

「ん? なに?」

 

『……友奈ちゃんを、監視してくれませんか?』

 

「…………うん?」

 

 何やら犯罪臭のする言い方だ。風のこれまで神妙だった心境がぐらりと揺らいだ。

 

「えっと……それはどういうことかな?」

 

『あ。いえ、別に変な意味ではありません。ただ友奈ちゃんが心配なんです。もし満開が障害を患う条件なら、友奈ちゃんも当てはまります。これまでの言動を見るにそのような挙動はありませんが、それでもやっぱり私は――』

 

「うん、わかった。東郷の言いたいこと、よくわかった」

 

 東郷のそれ以上の発言を敢えて邪魔した。どれだけ医者という絶対的な人物の言葉を得られたとしても、安心しきることなんて絶対にできないのだ。いつもならできていたことができなくなる。その恐怖は言葉で言い表せないほどだ。

 それが許容量をオーバーすると、一気に溢れ出てしまう。そうなると手をつけられなくなってしまう。

 

「東郷なりに皆のこと心配してくれてるのね。ありがとう」

 

『そんな……。私はまだもうしばらく学校に行けません。なので一番面倒見のいい風先輩ならと思って』

 

「オーケー。部員の体調管理はしっかりと部長がしておくわ。だから東郷、大船に乗った気持ちでいなさい」

 

 なるべく東郷を安心させるように諭す。勇者部で一番年長者なのは風だ。ここで取り乱してしまっては、後輩たちに示しがつかない。

 

『はい……ありがとうございます。では友奈ちゃんのこと、お願いします』

 

「任せなさい! んじゃ、切るわよ」

 

『はい』

 

 通話を終了する。

 うどんはもう伸びてしまっているだろう。樹もすでに食べ終えているはずだ。いつもなら大急ぎで食事に戻るところだが、今はどうしてもそんな気分にはなれなかった。

 どうしても受け入れられないこと。あり得る、可能性があると否定しきれないこと。勇者としてのお役目が終わり、いざ日常生活に戻れる、となった途端にこれだ。まるで勇者という影に足元をすくわれているような違和感だ。

 壁にもたれ、背中を擦りながら地面に座り込む。そして奥歯が割れるほど強く歯を食いしばる。

 

「満開の後遺症って、なんなのよそれ…………」

 

 そう呟き、紅い空を仰いだ。

 しかし、いっそ清々しいほど澄みわたった雲が視界に収まるだけだった。




不安、心配は募るばかりか伝搬する。
希望に縋る。しかしその後ろ姿はさぞ滑稽だろう。

前回同様、反響があったらor気が乗ったら書きまーす


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些事

あらすじ
東郷「友奈ちゃんを監視する」

感想返しは更新の合図です
基本三人称で書いていますが、時々練習で一人称に変更することがあるかも。


 そもそもホームページがどうやって作られているのか。どうやって更新や管理などを行っているのか全くわからない。だからこれまで東郷にすべてを任せていた。東郷が欠けたことによって勇者部は小さくない打撃を受けた。致命的ではないものの、早急な対策が必要だ。

 友奈は東郷のベッドの上にHTMLの本を広げる。何もできないからといって何もしないわけにはいかない。何かができるようになるために、学ぶべきだと友奈は考えた。

 しかし英語ばかり並べられたタグ一覧とにらめっこをしても、理解するには難しい。わかりやすくイラスト付きで説明もしてくれているのだがいまいちだ。東郷の有能ぶりには驚かされる。

 友奈が東郷の病室に入り浸るようになってから数日。まだ退院できていない。どう見ても元気そうに見えるが、医者がまだと言っているからまだなのだろう。

 相変わらず夏凛は部活に来ないし、最近の勇者部の活動は停滞している。サボりとみて間違いないだろうが、連絡をとってみても既読無視されるからどうしても心配になってしまう。せっかく勇者のお役目が終わったのに、全員が揃わなければ真の意味で終わったとは言えないのだ。

 

「ん……そろそろ帰ろっかな」

 

 時計を見上げ、友奈はスッと立ち上がった。膝には絆創膏が貼られていて、つい東郷はそれに目がいってしまう。

 

「怪我、治りそう?」

 

「全然大丈夫! 本当は今すぐ剥がしてたいほどだもん」

 

 絆創膏の上から軽くペチペチと叩いて問題ないことをアピールする。だがせっかくできたかさぶたを傷ついてしまわないか心配だ。

 

「剥がすのはちゃんと治ってからだからね」

 

「はーい。じゃあ東郷さん、またこの本借りるね」

 

 鞄に分厚い本を入れて、肩に背負う。

 

「ええ。でも……別に無理してパソコンの勉強しなくていいのに」

 

「いやーそれがね? やることがなさすぎて。だからいい機会だと思って」

 

 風が的確に指示することができても、今は人材が限られている。

 突然の勇者部員たちの一斉入院だ。部長は眼帯を。もう一人は声。さらにもう一人は未だ入院中。これだと誰でも何かがあったのだと悟るし、そんな得体のしれない部活に何かを頼むなんてことはあまりする気が起こらないだろう。これまでの活動の成果がなければ信用は底に落ちていただろう。

 このまま何も活動できなくなる、というのは最悪の結末だ。それだけは避けたいと皆心の中で思っているはずだ。

 

「退院したらお休みした分しっかり働くわ!」

 

「その頃にはパソコンの扱いは私のほうが上手になってるかもだよ〜?」

 

「そんなまさか。気をつけてね、友奈ちゃん」

 

「うん、バイバイ!」

 

 また、友奈が帰ってしまった。

 笑顔で見送った東郷はパソコンを開き、今日の分のデータを入力する。全員の症状が改善されることはなく、ただいたずらに時間が過ぎていくだけだ。友奈のことだって、まだ特定できていない。このような言い方だと間違いなく友奈も後遺症があるみたいな断言となってしまうから申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまうが、それでも東郷は自分の考えが間違ってはいないと思っている。

 あまりに焦れったい日々だ。風の報告だと、特にいつも通りだったと。では何だ? 身体的な遺症ではないのだろうか。一番考えられるのは記憶喪失。しかしこれはすぐに候補から外される。今日の友奈との会話で矛盾が生じたりすることなどなかったからだ。

 医者ではない東郷には、これ以上のことはわからない。考えるにはもっと情報が必要だ。そのためにも早く退院して友奈の側にいなければならない。

 一人の時間はやはり寂しい。退院の日が待ち遠しい。ずっとベッドに寝転がるだけの生活はすでに飽きてしまった。

 ……少し、疲れてしまった。いくら友奈が大事だとはいえ、自分自身が倒れてしまっては意味がない。今日はもう、大人しく寝ることにした。

 

 

 キーボードとは、実に扱いにくいものだ。だいたいどうして基準が英文字なのかわからない。そのせいでわざわざローマ字打ちをしなければならない。そこまで文句を言うためにはこれを考えた人に会う必要があるが。

 両手の人差し指でゆっくりとタグを入力する。その後に命令を書いて確認する。命令は無事に実行され、友奈はホッと息をついた。

 

「どう友奈? パソコンできそう?」

 

「すごく難しいです……。東郷さんのありがたみを身にしみて感じます……」

 

 ノートに現在の勇者部が活動できそうなことを列挙していた風は様子を見ると、何やら暗号の羅列のような画面に思わず目頭を抑える。これを長時間やっていたら目が悪くなってしまいそうだ。今日はもうこの辺にしたら? と言い聞かせながら、今日もすることが無かったと振り返る。

 樹も暇なあまり読書の時間になってしまっている。

 

「夏凛がいたら少しは回るんだけどね……」

 

『心配ですね』

 

 相変わらず連絡はない。

 学校が終わったらすぐに帰ってしまうのが最近だ。休憩時間に遭遇しても明らかに視線を合わせまいとしていたのは知っていた。

 勇者部として、部員の悩みは解決してあげたい。もしかするといい迷惑と思われてしまうかもしれないが、何もやらずにとても悪い結果が残った、より何かをやって悪い結果が残った、の方が幾分か気が楽だ。

 

「私、夏凛ちゃんを探してきます!」

 

 部長に伝えると、友奈は部屋を飛び出した。

 やはり三人だけでは物足りないのだ。夏凛は完成型勇者として大赦から派遣されてきた。そうだとしても、今では勇者部の部員であり、誰もその事実を疑わない。

 もし事情があって勇者部を抜けたいと考えているのだとしても、きちんとそれを伝えに来てほしい。

 向かう先は夏凛の家。この前誕生日会をしたから場所は知っている。あの時、夏凛は偽りなく楽しんでくれていた。それを共有した友奈たちもまた楽しかったのだ。一緒に学校生活を楽しく送りたい。そのためには夏凛が必要不可欠なのだ。

 夏凛の住む家はマンションの一室だ。階段を上がり、目的の場所まで移動する。すると、玄関の前でひとりの男性が立っていた。白い仮面をしていて、白い袴に身を包み、さらに黒い長帽子を被っている。奇妙な雰囲気を醸し出している。男性がインターホンを押すと、数秒してから部屋の主がドアが開いた。

 そして友奈はその名前を叫んだ。

 

「夏凛ちゃん!」

 

「友奈⁉」

 

 夏凛だけでなく男性もこちらを見ている。しかし、なりふり構わず接近する。

 

「部活に行こう、夏凛ちゃん!」

 

「な、なんでよ」

 

「皆待ってるから!」

 

「私は待ってないし……」

 

「あ、そうだ。この人はどちら様?」

 

「無視っ⁉」

 

 男性は170以上はあるだろう。一連のふたりの会話に反応を示すことなくじっと立ち尽くしているだけだった。

 

「こいつは大赦の人。んで私の兄貴」

 

「兄貴? てことはお兄さん⁉ いつも夏凛ちゃんがお世話になっています! 私は讃州中学勇者部、結城――」

 

「はい。存じております、勇者様」

 

 それは、水色の声だった。

 男らしい低い声ながら、細い糸のように真っ直ぐなものだった。

 畏まったように深くお辞儀をされ、友奈は困惑する。

 

「……私はもう部活には行かない。今日は兄貴にいろいろ訊きたかったから呼んだの。友奈にも必要な話だし、家上がりなさいよ」

 

 そう言って夏凛は催促する。

 兄との貴重な時間を邪魔していいのかと疑問に思ったが、夏凛からいつものツンツンした空気ではなく重いものを感じ、友奈は大人しく従うことにした。

 部屋の中は相変わらず簡素で、ランニングマシーンがリビングを占拠し、重りがゴロゴロ転がっている。夏凛は椅子に腰掛けると、机の上に置かれていた煮干しの袋に手を伸ばす。友奈と男性はソファーに座った。

 

「なんで部活にもう来ないの?」

 

「バーテックスを全部倒したからよ」

 

 煮干しをぽりぽりと齧りながら夏凛が答えた。

 

「え? それって関係あるの?」

 

「大ありよ。あのねえ、私は完成型勇者として大赦から派遣されたのよ。勇者部に入部したのも活動をスムーズにするため。もうバーテックスは倒した。だからもう用はないの」

 

「そんなことないよ夏凛ちゃ――」

 

「連絡が来たの、東郷から。風たちの身体がおかしくなってるって。満開したからなんとかって」

 

 満開してから異変が起きた? 友奈はこの瞬間、夏凛に言われるまでその可能性を考えていなかった。ただ疲労からきているのだと信じきっていたからだ。もちろん友奈だって一生分くらいの疲れが溜まったが、三人はもっと疲れたのだろうと思っていた。やっぱり自分はまだまだだと未熟さすら痛感していたほどだ。

 

「でもそれっておかしいよ? だって――」

 

「……なによそれ。あれだけ息巻いていた私が一番活躍してないみたいじゃない! 屈辱よ! あんたたちが悪いわけじゃないのはわかってる。でも、こんな自分が惨めで情けなくて堪らない!」

 

 机に拳を激しく打ち付ける。

 煮干しの袋をぐしゃりと握り潰し、顔を紅潮させながら夏凛は自分の兄を侮蔑と嫌悪の目で睨み付けた。

 ずっと微動だにしなかった男性の指がピクリと動いた。

 

「……ええ、あいつらは私より凄いわ。認める。ずっと前から訓練して備えていた私とは違ってぽっと出のくせにバーテックスをすべて倒したのよ。……ははは、まったくどうなってんのよこの世の中は。だからこそ、私はあいつらのために何かしてやりたくて兄貴を呼んだの」

 

「夏凛ちゃん……」

 

「あんたもよ、友奈。あんた含めて全員尊敬してるわ。勇者としてではなくそれ以前に」

 

 夏凛の嘘偽りのない真っ直ぐな思いに友奈は胸の奥が熱くなるのを感じた。今までは風のストッパーとしてその存在感を発揮し、戦闘では常に前に躍り出ようとしていた。

 皆に今の夏凛の言葉を聞かせてやりたい。そうすれば、絶対にもっと夏凛のことを好きになってくれるはずだから。

 

「本当は心の中で笑ってるんでしょ、兄貴。活躍できなかった奴が何を偉そうにって」

 

「滅相もありません、勇者様。我々はあなた方が身を粉にして戦うおかげで生きているのです。辱めようなど微塵も……」

 

「なら満開についてすべて話しなさいよっ!」

 

 袋を投げつける。中の煮干しが散乱し、床にばら撒かれる。さらに夏凛は男性に肉迫し胸ぐらを掴み上げた。

 

「……犬吠埼風、犬吠埼樹、東郷三森の不調は把握しています。現在調査中で、今日明日にでも結果が送られるはずです」

 

「そんなこと訊いてない。満開のことをすべて話しなさい。……これは勇者としての要求よ」

 

 重苦しい空気になり、友奈は喉が乾燥しきっているのに気づき、唾液を飲み込んだ。

 夏凛が始めに言った通り、これは聞いておかなければならない話だ。同時に見たくはない、家族の喧嘩だった。

 男性は妹にここまでされてもいたって冷静だった。その反応に苛立ちを隠せなくなった夏凛は乱暴に突き放す。

 

「以前にお伝えした通りです」

 

「本当に? 信じていいの?」

 

「……はい」

 

「じゃあその気色悪い仮面を取って直接私を見て言って。仮面越しでしか発言できない奴の言葉なんて信用できない。それを通してでしか私を見れなくなったのね。…………女々しくなったわね、お兄ちゃん」

 

「………………」

 

 男性は押し黙ったままだ。しかし、ごくりと唾をのむ音が聞こえた。夏凛は難しい顔をし、友奈を見た。しかし友奈は口をはさむことができない。これは勇者の話でもあるが、兄妹間の話でもある。だいたい偶然出くわした身だ。言うべき言葉が簡単に見つからない。

 

「そう……できないのね。じゃああんたの仮面、強引にでも剥いでやるわ」

 

「おやめください勇者様……!」

 

 制止を無視し、夏凛は再び掴みかかる。男性は逃れようとソファーから立ち上がるが、夏凛は決して逃がさなかった。男女差、対格差があろうとも勇者としてのキャリアを積んだ夏凛の力によって押さえつけられてしまう。膝を床につかされ、容易に手が仮面に届く高さになる。仮面の縁に指をかけて剥がそうとするが、男性は頑として仮面を抑えつつ夏凛を遠ざけようと抵抗している。

 友奈はもう、我慢できなかった。

 夏凛の気持ちは痛いほどわかるが、だからといって人が嫌がっているのに強引にするべきではない。咄嗟にふたりの取っ組み合いに乱入し、夏凛に向けて声を張った。

 

「ダメだよ夏凛ちゃん!」

 

「放しなさい友奈! こいつは無理にでもやらないと……!」

 

「勇者部は人のためになることを進んでやる、だよ! でもこれは違う!」

 

「ごめん、友奈。もう私は勇者部じゃ……!」

 

 あと少しだ。すべての指が縁を捉え、あとは力任せに引っ張るだけ。友奈が間に入ってきたせいで混乱状態になっているが、これさえできれば仮面を剥がせ、ずっと勇者様呼ばわりしていた男の素顔を晒させられるのだ。

 今まで鍛えていた力は伊達ではない。夏凛はなりふり構わず一気に手を振り払った。それと同時に比較的力の弱い友奈が弾き飛ばされてしまう。

 友奈はドタタ、とたたらを踏んでバランスを崩す。

 

「わっとっと……」

 

 なんとか立ち直りができそうになって最後の一歩、床に散らばった煮干し達に足を滑らせてしまう。友奈の「あっ」と一言とともに、側に置かれていたランニングマシーンの角に鈍い音を響かせて頭を激しく打ちつけてしまった。

 熱い鈍痛が爆発し、それからゆっくりと足の指先までじんわりと染み渡る。視界が一瞬チカチカと弾け、何も見えなくなった。友奈は強く目を閉じ、開いた。きちんと夏凛と男性の姿を捉える。男性の仮面は剥がされ、素顔が見えている。容姿はかなり美形で、どちらかというと、男性が夏凛に似ていると言うべきだろう。

 ふらりとランニングマシーンの手すりを掴んで立ち上がる。夏凛が息を呑むが、構わず友奈は口を開いた。

 

「勇者部はね、別にバーテックスを倒すためだけにできたわけじゃないんだよ? 夏凛ちゃんが私たちのことをあんな風に思ってくれてるの、すっごく嬉しかった! 勇者部は、夏凛ちゃんもいてこそ『勇者部』なんだよ! だから――」

 

「何言ってんの友奈! 受け身も取らずに……! あ、あ、あ……頭……」

 

 夏凛に真っ青な顔で指をさされる。

 言いたいことはわかっている。手を伸ばして後頭部に触れ、確認する。

 血だ。

 だが大した出血量ではないし、あとでしばらく水で流すだけで止まるだろうと判断する。しかし流石に血に濡れた手で触れるわけにはいかないから、反対の手で夏凛の手を掴んだ。

 

「だから勇者部に来てよ! 夏凛ちゃんがいないと部室は寂しいし、私、夏凛ちゃんのこと好きだから!」

 

 最高の笑顔を向ける。夏凛は自分にもはや場所はないと思っているかもしれないが、それは激しい思い違いだ。皆夏凛のことが好きだし、夏凛も皆のことが好きだ。なら答えは決まっている。勇者部を辞める理由なんてどこにもないのだ。

 しかし夏凛は動揺を隠せていない。

 

「わ、わかった! すっごくわかったら救急車! 兄貴、早く呼びなさいよ!」

 

「すでに手配しています」

 

 仮面を被りなおした男性はそれだけ言い残すと、家を出て行ってしまう。

 夏凛が急いで棚からタオルを取り出し、水で濡らしてから友奈の頭に当てた。「横になって!」と覇気迫る表情で一方的に言われ、黙って横になった。さらに言われるがままに頭を膝に乗せられてしまう。

 

「……本当にごめん友奈、私のせいで。痛む?」

 

 頬を優しく撫でられる。思わず身震いしてしまう。

 

「痛い……けど、大丈夫だよ」

 

「その……私は本当に勇者部にいていいの?」

 

「もちろん! まだ信じきれないなら直接じゃなくても電話でもして訊いてみればいいよ」

 

「は、恥ずかしいからそんなことしないわよっ!」

 

 その数分後に救急車が到着した。その頃にはすでに血は止まっていた。わざわざ呼んだのにとても申し訳ないが、丁重にお断りしようとしても夏凛含めて隊員たちにも説得され、渋々と乗り込んで搬送された。

 救急車に乗ったのはこれが初めてで、なんだかとても新鮮な経験だった。病院に着くまでずっと、夏凛は友奈の隣にいた。

 

 

 友奈の処置を終える頃には勇者部全員が病院に到着していた。

 診察室から出てきた友奈の頭にはネットが被せられていて、気恥ずかしそうに小さく手を振る。

 

「あんた大丈夫なの⁉」

 

 風が驚くべきスピードで近寄ってくる……よりも先になぜか車椅子の東郷が友奈のもとに舞い込んだ。両腕を捕まれ、そのままぎゅっと抱き寄せられる。たわわなMountainを押し付けられ、友奈は一瞬気が飛ぶ。

 

「大丈夫友奈ちゃん⁉ 頭打ったんでしょう? 記憶飛んでない? 違和感はない? 痛みはない?」

 

 確かに怪我は痛かった。しかし過度な運動さえしなければ問題ないと医者に言われているし、安静にしていればいいだけの話だ。

 

「どこも悪くないよ。もー、東郷さんは大げさだなー」

 

『でも本当に何もなくて良かったです』

 

 樹がスケッチブックを見せてくる。風はすっかり安心しきった様子で背中を叩いた。

 

「樹の言う通りよ。送り出したあたしたちの身にもなってみなさいな。それはもう言葉にできないくらい心配するわよ。……で、夏凛。久しぶりね」

 

 風に視線を向けられ、夏凛はひと回り縮こまったように萎縮する。もじもじといつもに比べて別人のような動きだ。

 

「久しぶり、ね。皆。その……えっと……ごめんなさい。私の独りよがりな考えで勝手にサボってしまって。それに、友奈を怪我させてしまった、し……」

 

 掠れるような声で喋り始め、後半にいたってはもはやよく聞き取れなかった。俯き、いたずらがバレて観念した子供のように誰かの言葉を待っているようにも見えた。

 友奈は優しく声をかける。

 

「夏凛ちゃん。私は全然怒ってないけど、それでも悪いと思ってるのなら、あれを皆に訊いてみてよ」

 

「あれって?」

 

「ほら、膝枕されてた時に言ってたのだよ」

 

「えっっ⁉」

 

 東郷が友奈の隣でこの世の終わりのような顔をしている。おそらくお化け屋敷に出演したら間違いなくトップレベルだ。

 夏凛が顔を上げる。皆は絶対に夏凛のことを邪険に扱ったりなどしない。これまでずっとひとりで勇者になるべく生きてきたのだ。他人を遠ざけ、または自ら離れるような生き方はきっと辛かったはずだ。

 

「私はもう勇者じゃなくなった……。でも、それでも私はまだ勇者部にいていいの……?」

 

 ぽつりと疑問を漏らす。

 すると全員が豆鉄砲を食らった鳩のような顔をして、中でも風は笑いをこらえるのに必死になってしまう。目尻に涙を溜め、夏凛の肩を二度叩く。

 

「……なによ、そんなことで今までうじうじしてたの? あんたいつも自信たっぷりって顔してるくせに、そういうのには敏感なのね」

 

「な、なによ! 今までこんなことなかったんだから仕方ないじゃない!」

 

「そうね。それは悪かったわ。でも、夏凛あんた考えすぎよ。あたしは夏凛がいて楽しいし、皆もそう思ってる。じゃあもうこれ以上の理由なんて必要ないわよね?」

 

「――――。そう、なの?」

 

「なーにバカなこと言ってんの! そうに決まってんでしょ! 私達を見なさいな! これがあんたを嫌がってる様に見える?」

 

 夏凛は風、樹、友奈、東郷とそれぞれ目を合わせる。誰もが嫌な顔ひとつせずに笑顔を向けてくれた。それがどうしようもなく嬉しくて、夏凛は心の奥底で熱いものを感じた。

 嬉しさと恥ずかしさが入り混じった感情が渦巻く。顔を赤くさせ、背を向ける。

 

「なんか、恥ずかしいわ……いやホント恥ずかしいわ……! あー死にたくなってきた! 不覚よ!」

 

 事態をややこしくしていたのは夏凛の思い込みだった。それが晴れた今、これまでの行動を思い返して悶え死にそうになっているのは友奈たちから見ても容易にわかる。

 最初から難しく考えることなんてなかったのだ。最初から勇者部は夏凛を受け入れていた。友奈にとってなくてはならない存在で、五人揃ってこそ勇者部だと思っている。だから誰も欠けてほしくない。いざこざが起こり、怪我もしてしまった。しかしこれは夏凛の心配に比べると、なんでもない些事に過ぎないのだ。

 

「でも良かったでしょ、夏凛ちゃん」

 

 と友奈が言うと。

 夏凛は顔だけこちらに向けて。

 

「……そうね」

 

 とだけ返事をした。




五人は揃い、新たなスタートを……スタート、を……を、を、を、を、を、を、を、を、を、を、を、を、を、を、。

夏凛ちゃんに兄がいると言うことで登場させてみた。性格とかは知らんから許してクレメンス。
今話は『少しだけ』シリアスしましたね。
評価や感想頂けて喜ばしい限りです。


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杞憂

前回のあらすじ
にぼし「美少女に踏まれるなら本望」

何を散華したのか、ヒントは散らばっています。


「そうよ、もうここで活動したらいいじゃない!」

 

 と、病院からそれぞれ解散する時、風が手を叩いて言った。談話室はすでに先客がいて、今は東郷の病室でだらだらしている。

 わざわざここに来る手間はかかってしまうが、これならば全員が集合することができる。そうすれば勇者部として活動することができる。……パソコンは持ち運べないが。

 友奈の怪我は入院するほどでもなく、頭のネットさえしていればいいぐらいだ。少し外見がスーパーに売ってる果物の保護ネットを思わせるせいで、恥ずかしくないと言ったら嘘になる。

 

「でもそれじゃ迷惑にならないかな?」

 

 以前小走りで帰ろうとしてスタッフに怒られた友奈の記憶が蘇り、これ以上迷惑をかけるわけにはいかないと考える。

 

「友奈の言う通りよ。ただでさえキャラの濃い連中が集まってるんだから、この前みたいに注意されるに決まってる」

 

「……それあんたも含まれてるわよ、夏凜。あーでもその通りね。やっぱりそういうのは良くないか。大人しく東郷の退院を待つべきね。その間、夏凛様ご指名の依頼が多いからじゃんじゃん働いてもらうわよー」

 

「げえっ!」

 

 さっきまで重苦しかった雰囲気が嘘のようだ。今までサボっていた分のツケとして、数日では捌ききれない量の依頼が来ていたのは友奈は知っている。いつものツッコミ役としての夏凛は健在で、微笑ましい光景を眺めているだけで友奈は純粋に喜びを感じた。

 と、ここでドアをノックする音が聞こえた。東郷が「どうぞ」と言うと、ひとりの看護婦がバインダーを持って入ってきた。

 

「東郷さんに退院の手続きをお願いしたいのですが……」

 

「私……退院できるのですか?」

 

 東郷がベッドから身体を起こして問いかける。

 

「はい、明日にでもできますよ。もう日常生活に戻っても問題ないと判断されました」

 

「やったね東郷さん! これなら」

 

「ええ、これで私も完全復帰ね。ちょうど夏休みに入るし、皆でいっぱい遊びに行きたいな」

 

 そうだ、これから楽しい思い出をたくさん作らなければならないのだ。皆と勇者として活動したのはかけがえのない記憶として残っているが、それはまた別の話。

 子供の本分は遊ぶことだと言われているし、目一杯やり尽くしたい。まだまだ、もっと楽しいことがしたい。

 友奈は東郷の手を取りながら風に言った。

 

「行きましょう風先輩! 海でも山でも! ううん、どっちも!」

 

「よろしい!」

 

 鼻の穴を広げた風が息巻いて携帯をポケットから取り出して高く掲げる。その意味はわからないが、本人はとても上機嫌そうだ。

 

「ここに大赦からのメールがありまーす。『勇者様の皆様、お役目ご苦労さまでした。つきましては慰安旅行のご案内をお送りします』って! そして驚け諸君ンンッ! なんと宿がすっごいいいとこらしいぞ!! もちろん料理も……じゅる、フゥッッ! ハァッ! ハァッ!」

 

『お姉ちゃん』

 

 まだ実物をお目にかかれていないのに風はすでに目の前に存在するかのような眼差しで虚空を見つめている。さらには箸を持つ仕草をして空気を食べようとしている。

 あまりの悲惨さに樹が半泣きで風のエア食事を止めに入った。それを友奈たちは白い目で眺めるだけだ。

 

「ま、当然よね。私達は世界を救ったんだから、逆に足りないくらいよ。一生分の煮干しが妥当な報酬ね」

 

 腕を組んだ夏凛も同様に風ほどではないが妄想の世界に突入しているようだ。視線が上の空のように見えるが、どう見ても空を泳いでいる煮干しを眺めているが如く。よだれが垂れそうになっていることに気づき、現実世界への帰還になんとか成功する。

 この場でまともな人間はふたり(・・・)しかいない。

 

「楽しみだね、友奈ちゃん」

 

「うん!」

 

 と返事をしたところで今日は解散となった。

 

 

 夏休み突入までの残りは、どこか無気力だった友奈の生気が蘇った。というのも、東郷が退院して日常を送れるようになったからだ。クラスメイトたちとの会話も十分に楽しいものだが、やはりものひとつ足りないところだった。それからこれまで溜まっていたタスクの処理も無事完了し、スッキリした状態で夏休みに突入することができた。

 夏休みの宿題はすでに四分の一ほど片付けている。少し早めに提示してもらった先生には感謝しかない。おかけで余裕を持って合宿もとい慰安旅行にいけるのだから。

 送り迎えはすべて大赦の人がやってくれる。表向きは部活の合宿となっていて、そのおかげで学校から移動費や宿泊費などの補助としてお金をもらっている。とはいっても騙しているようで申し訳ない気持ちになってしまうから、せめて違う形で使おうと話し合い、樹の提案のもと全額寄付することに決定した。

 風は少し腑に落ちない様子だったが。それは食費にあてたいという欲望からきているのは暗黙の了解だ。

 当日にはもちろん友奈の頭のネットも外している。もともと浅い怪我だから二日ほどで完治した。

 目的地に着き、きちんと大赦の人に感謝の言葉を言ってから車を降りて地を踏む。

 まず、潮の香りが鼻腔を刺激した。そして夏打から当然なぶっちぎりの暑さと同時に、視覚的な涼しさを感じた。駐車場から海を一望する。これを写真に撮るだけで満足して帰還できてしまうほど圧巻な光景だった。

 この海水浴場の両端が遥か向こうまで続いており、人がゴマ粒のように見える。中にはビーチボールをして遊んでいる人たちもいる。まるで、絵に描いたような魅力的な海だった。

 

「見よ! 青々とした空! 透き通る海! 心が喜んでいるのがよくわかるわ! そしてッ!」

 

 一歩先に進んだ風が両腕を広げて言った。

 

「――女子力の塊であるわ、た、し」

 

 くねくねと腰を曲げてセクシーポーズをとる風を勇者部は白い目で見つめる。

 

「「「………………」」」

 

「ちょっとなにか言いなさいよね⁉」

 

 顔を真っ赤にして叫ぶが、それを無視して夏凛が「さっさと用意するわよ」とてきぱき荷物を分担し始めた。そして風には一番重いクーラーボックスを持たせる。

 

「部長だからこれくらいしてもらわないと」

 

「そうか……女子力の前に先輩力が問われるのか」

 

 とはいっても砂浜はすぐそこで、特に苦労することなく友奈たちは到着して荷物を広げた。シートを広げ、クーラーボックスを重りにして押さえながら皆でタープテントを張る。あっという間に設営が完了し、近くに用意されている更衣室で水着に着替えた。

 

「ふぅー、暑いねー東郷さん」

 

「そうね……溶けてしまいそう」

 

 東郷がいつも使っている車椅子は海水浴場での使用を想定していないため、大赦に用意してもらった専用車椅子を使っている。

 実に至れり尽くせりで、逆にやりすぎではないかと友奈は思ってしまうほどだった。ちょこっとだけ金持ちのお嬢様のような気分で、少しの我儘ならすぐに叶えてくれそう。

 

「日焼け止め、ちゃんと塗らないとね! 塗ってあげようか?」

 

 日差しが肌に直に照りつけているのだ。紫外線だとかでこの前学校の資料で見た、西暦の時代にいたという、黒い外国人のようになってしまわないか心配だ。くっきり水着の跡が残ってしまうのはあまりに恥ずかしい。

 すでに夏凛は自分で日焼け止めを塗り終えていてストレッチを始めている。犬吠埼姉妹は互いに塗りあっている途中だ。

「ええ……ええ! 是非お願いするわ! だから私も友奈ちゃんに塗りたい!」

 

「す、すごい気迫だね……」

 

 鼻息を荒くしてやや興奮気味に言う東郷に、友奈は小さく笑った。今のもそうだが、過剰に反応してくる時があるからそれだけが唯一東郷の理解出来ない点だ。

 日焼け止めクリームを手に出し、友奈は前屈みになった東郷の背中に満遍なく塗っていく。せっかくきれいな肌だからもったいないと思いながら隙間なく丁寧に塗り終える。

 

「前もお願いするわ」

 

「それは自分でやろうね⁉」

 

 口惜しそうに自分のできる範囲を塗り終えたのを確認し、今度は友奈が背中を塗ってもらう番だ。

 しかし車椅子の構造上、手を伸ばしても効率よくできない。

 

「友奈ちゃん、私の膝の上に座って。それならやりやすいわ」

 

「でも……重くない?」

 

「そんなことないわ。さあさあ早く」

 

 友奈は心配しながらも積極的な催促にしぶしぶと膝の上に腰を下ろした。なにやら後ろで気温よりも熱い息を吐いている。その吐息が背中にかかり、友奈は口を横一文字にしめる。

 東郷のしなやかな指が背筋をゆっくりと撫で下ろす。塗り拡げているようには感じられず、むしろ「あっ……」と反応してしまう。しかしそれを無視して東郷の手は友奈の身体全体を絡め取るように触れた。左腕、左手、右腕、右手そして両脚も塗るわけでもなくただ触れられる。

 やがて満足したのか、すぐさま日焼け止めを塗り広げて終えた。なんだか抵抗すらしなかった自分自身が恥ずかしくて、東郷に顔を見られまいと努めた。

 

「はい、おしまい」

 

「東郷さんの手つき、いやらしかった……!」

 

 なるべく体重をかけないようにゆっくりと膝上から腰を上げた友奈は残りの自分でできる範囲を塗りながら言った。

 

「気のせいよ。早くストレッチして入ろう。ほら、もう風先輩たちが泳いでるわ」

 

 確かにすでに海に入り、元気に夏凛と水泳競争を始めている。さすがは完成型勇者といったところか、バタ足で立つ水しぶきが風の比ではない。

 樹は砂浜に座り込んで遊んでいる。

 一緒にラジオ体操をした後、車椅子の後部グリップを握って砂浜を走らせる。タイヤが砂にとられて進みにくいが、普段の車椅子と比較すれば天と地の差だろう。その辺り、大赦には感謝である。

 

「よし、これで私の勝ちね。風、かき氷奢りよろしく〜」

 

「ぐぬぬぬ……! おのれ! ……ん? いや? ふと考えてみれば私が負けるのも仕方ないかもしれないわ」

 

 腕を組んでふんぞり返る夏凛と変わって悔しそうに地団駄を踏む風だったが、突然すかした顔でクーラーボックスに手を伸ばして中からジュースを取り出しながら言った。

 

「水の抵抗よ。いやーこれは仕方ない。だって夏凛のほうがスラッとボディーなんだから抵抗が少なくて当然だったワ。対して私はほら、ね?」

 

 わざとらしく胸を主張する仕草を見せつける。すぐにはその意味を理解できなかったが、数秒考えて結論に至り、顔を真っ赤にさせた。

 

「ぬぁんですってええぇ!!」

 

 怒り心頭になり、風を追いかける。風はもちろん逃げようとするが、砂に足を取られて転んでしまい、容易く捕らえられて関節技を決められている。

 

「い、いこっか東郷さん。樹ちゃんも入る?」

 

『はい』

 

 これは夏凛を挑発したのが発端であるため擁護のしようはなく、樹のフォローが入ることはない。「ぐおおおお……」と女子力が砕ける声を聞きながら友奈たちは海に足をつけた。

 そのまま奥まで進み、胸のあたりまでの深さになったところで車椅子を樹と交代する。そして友奈は海に潜って底に何か面白いものがないか探し、あるものを拾い上げた。

 名前はわからないが、赤いワカメのような葉っぱだ。表面がツヤツヤしていて、きちんと綺麗にしたら押し花に使えそうだ。

 

「見て見て、東郷さん! これすごくキレイ!」

 

「ほんとだ、すごいね。もっといっぱい集めたらもっとキレイになるわ」

 

「よーし、いっぱい見つけるぞー! 樹ちゃんも交代しながら探す?」

 

 樹が了解と親指を上げる。

 海の中で目を開けるのはなかなか緊張するもので、普段家の風呂で潜ったりして遊んでいる友奈にとってもこれは拭い去れない。しかしイルカショーの人だって巨大な水槽の中でイルカたちと目を開けながら連携しているし、できることにはできることはわかっている。

 視界はボヤけるが、目についたなんとなく赤いものを。樹と交代しながら飽きるほど採集し、最終的には東郷の膝下が溢れかえるほどになってしまった。

 友奈たちは大きな達成感に喜びつつも、風の目に入らないように気をつけながらクーラーボックスに保管する。樹曰く、『これワカメっぽいわね。食べれる? って言いそうだから』らしい。妙に説得力のある妹の危惧に、ふたりは激しく首を縦に振った。

 

 

 用意された宿はこれまで見たことのないほど豪華なものだった。案内された五人一部屋も圧倒的な広さで、倍の人数が入っても問題ないほどだ。

 水着から着替えるまでに海水を流すためにシャワーを浴びてはいるが、これは簡易的なものであるため、早速露天風呂で遊びの疲れを癒やす。浴衣に着替えた友奈達を次に待っていたのは、恐るべき料理の数々だった。

 蟹料理。それも脚が数本、などではなくひとり一匹だ。さらに見た目の体積も大きくたっぷり身が入っていることは間違いないだろう。さらに、中央には伊勢海老がどん! と存在感を主張している。

 

「――――――」

 

 風が目を点にし、砂漠でオアシスを発見したかのような震えた足取りで席につこうとする。

 しかしよだれが垂れ、それを拭おうとする素振りすらない。完全に食事モードに入ってしまった風の腰に掴みかかって樹が止めに入る。

 ハッ! と自我を取り戻した風は、いたずらがバレた子供のようにぺろりと舌を出した。

 

『お姉ちゃん……』

 

「…………。やぁねぇ演技よ演技!」

 

「いや樹に止められてなかったら絶対食いついてたでしょ!」

 

 素早いツッコミが夏凛から入る。たとえどこであろうとキレは落ちない。改めて席についた友奈たちはあまりに豪華な食事に絶句する。

 

「すごい高待遇だね……」

 

 東郷がごくりと喉を鳴らす。

 

「そりゃそうよ。そもそも大赦が用意した宿なんだし、これはご褒美だと思えばいいのよ。……樹」

 

『はい』

 

 夏凛に名前を呼ばれただけでその意図を察した樹は暴走寸前の女子力の塊を止める。誰かどう見ても発作を起こしているようにしか見えない。

 

「はやく食べよう! 風先輩も限界みたいだし!」

 

「そうね、さっさと食べましょ。では」

 

「「「いただきます!」」」

 

 友奈が初めに箸を伸ばしたのはイカの刺し身だ。醤油につけて、口に運ぶ。市販のものとは次元の異なる美味さ、そしてコリッとした食感に思わず目を瞑って呻く。

 蟹の身もぷりぷりしていて美味しく、この世の絶品を集めたのかと錯覚するほど豪華な食事に、もう日常生活に戻れないほど舌が肥えてしまうと確信する。

 一方風はすでに蟹を半分以上食べ尽くし、その食いっぷりから女子力とは何かなどと哲学に突入してしまいそうだ。

 

「どうしよう……」

 

 しかし友奈の表情が一変し、曇ってしまう。いち早く反応した東郷が声をかける。

 

「どうしたの友奈ちゃん?」

 

「この料理はすごく美味しいんだけど、なんだか口元が寂しいんだ。……ごめんね、自分でも何言ってるかよくわからなくって。そう……東郷さんのぼた餅が食べたい気持ちになってきたの」

 

「――――――」

 

 東郷が目を見開き、硬直する。

 ピシ、と場が凍りついた。しかし風は食事を止めていないが。

 東郷はゆっくりと箸を置き、側にある車椅子を引き寄せようとする。だがそれを夏凛と樹が止めに入る。ふたりが全力でよを出してようやく押さえつけられるほど興奮は頂点に達している。

 

「やめなさい東郷! あんたここからどれだけ距離あると思ってんの⁉」

 

「行かせて! 今すぐ行かせて!! 友奈ちゃんがぼた餅を食べたいって言ったのよ⁉ それだけで十分よ!!」

 

 言ったらどうなるかを予想せずに口にしてしまった友奈が発端ではあるが、考えなしの発言がこれほどまでに人を変えてしまうことに驚きつつも、戯れ合う三人を眺めるのは楽しかった。

 とはいっても放置するわけにはいかないから鶴の一声で東郷の暴走を止め、その後は談笑しながら時間をかけてすべてを完食した。

 

 

 この部屋の窓からは街頭の光は差し込まず、明かりを消してしまえば光源は月の光だけになってしまう。しかしながらすぐそばに誰かがいる、という状態は緊張してしまう。意識するなというのは無理難題で、風はまだ完全に眠りに落ちることができずにいた。

 食事は非常にうまく、うどんといい勝負だったと言えるだろう。腹は七分目ほどだが、十分満足した。

 恋バナをし、いつも常備しているストックを初耳の夏凛に語り聞かせ、最後は東郷の本気の怖い話で幕を締める。

 明日にはもう帰ってしまうのだと名残惜しさを感じていると、ふと誰かに腕を突かれた。

 寝ぼけでいるのかと一度は無視するが、また腕を突かれる。明らかに意思のある行為に、風はその指を摘んで「誰?」と声を殺して問いかける。

 

「私です。少し時間、いいですか?」

 

「……東郷か。こんな時間になによ? あたしも寝たいんだけど」

 

 顔はよく見えないが、東郷は対面で寝ていたはずだ。

 

「すみません。ですが今どうしても話したいんです」

 

「はいはいわかったわ。ちょっと待ってて」

 

 隣で寝ている樹を起こさないように立ち上がり、東郷が車椅子に乗るのを手伝ってから部屋を出た。自動販売機の前のベンチに腰掛け、眠そうに目を擦る。

 

「ふああぁぁ……それで?」

 

「友奈ちゃんのことです。何かおかしなところなどありましたか?」

 

「ああ友奈ね。そうね……。ない、わね」

 

 今日は一日中勇者部の全員が一緒にいた。学校だと移動教室のすれ違いと、部活の時しかしっかりとコミュニケーションをとれない。

 東郷に依頼されたことはよく覚えている。それは友奈を監視することだ。日常生活に支障をきたしていないか。もしくは明らかにおかしな様子ではないか。一緒に行動して、特に不審に思われることは一切なかった。

 そしてこの合宿という名の慰安旅行は、東郷にとって友奈の不調を特定する絶好の機会だったといえる。

 

「実は今日、友奈ちゃんの全身を触ってみたんです。ですが感覚が衰えているなどの症状はなく、恐らく外見的なものではないと私は思っているのです」

 

「触れた⁉ お風呂の時⁉ いやその時はしてなかったから日焼け止めを塗るときにでもやったのか」

 

 時間は深夜だ。

 東郷の友奈ラブは周知の事実としてもそこまでの行動に及ぶとは思わず大きな声を出してしまった。口元を抑えつつ、廊下に誰もいないことを確認する。

 

「……でもさ、東郷の思い違いなんじゃない?」

 

 投げかけられた言葉が、重くのしかかる。

 

「え?」

 

「だってさ、あたしたちのは疲れから来てるんでしょ? で、夏凛と友奈はそこまで疲れなかった。そういうことなんじゃないの? 大赦だって治るって言ってるし。……そうよ。それを癒やすためにこの旅行があるわけだろうし」

 

「それは確かにそう……ですけど、やはり腑に落ちないこともあります。夏凛ちゃんがお兄さんに満開のことを尋ねたのを聞きましたよね? 大赦が何かを隠しているとも」

 

 友奈が病院に運ばれ、その経緯を夏凛から聞いている。当然その中で兄妹間のいざこざがあったこともだ。兄がいたのは知らなかったが。

 

「…………」

 

「私はどうしても信じきれないのです。信じたくても、なぜかできないんです。ずっと信じて治るのを待っていましたが、一向に兆しはなく、不信感が募るだけです。もし友奈ちゃんも同じように何か不自由なことがあったら、私はその力になりたいんです……」

 

「東郷、あんた友奈に対して何やってるのかわかってるの?」

 

 風はまっすぐに東郷を見つめた。立ち上がり、両肩を掴む。表情は強張っていて、僅かに不快感を覚えていることがわかる。

 

「――あんたはね、友奈の粗さがしをしてるのよ」

 

「いえ……そんなことは……」

 

「あるわ。だってそうでしょ? 本人はあんなに元気に過ごしているのよ? あれのどこに不調があるっていうの? ある前提で勘ぐられる友奈の気持ちを考えた?」

 

 東郷の目は泳ぎ、口を開閉させる。

 

「友奈を心配する気持ちはよーくわかる。正直見てて危なかっかしいところあるし。……でも、あたしたちがいないと何もできないわけじゃないはずよ。少しは友奈のこと、信じてやったらどう? ……大赦も同じように。こんなに私たちを良くしてくれたんだから」

 

 目を細めつつも、風は東郷の肩を強く掴む。

 難しい議題だ。さらに安易に触れてはならない議題でもある。

 勇者部として……それ以前に長い間ずっとプライベートでも友奈と一緒にいた。友奈のひととなりは親の次に一番知っていると胸を張れるほどだ。

 ずっと不自由な生活を助けてくれた。それだけではなく友奈という人柄にも惹かれた。だから困ったことがあれば助けてやりたいと思っていた。そして今の風の言葉で気づいた。

 ……ああ、私は過保護だったのだと。

 しかしこの在り方が間違っているとは思っていない。これこそが友奈への想いであり、普遍のものだからだ。

 ……が、今回はいき過ぎたことを認めざるを得ない。知らないうちに友奈を助けようとする自分像に酔っていたのだ。

 

「すみません……自分のことばかり考えて動いていました……。少し頭を冷やします。ですがやはり私は友奈ちゃんが心配なのは変わりません」

 

「謝る必要なんてないわ。あたしも別に心配するのをやめろなんて言わないけど、そこまで血まなこになることはないんじゃない? って言いたいだけだから。でももうあたしは友奈の監視を止める。ひとりをずっと見るなんてできないし。それに、私は部長だから皆を等しく見ないとね。――ただし樹は除く」

 

 最後の一言だけやけに早口で風が締めくくる。

 

「……その一言がなければよかったんですけどね。そこが女子力の壁というところでしょうか」

 

「グっ」

 

 いつもならストレートなツッコミをくれる夏凛と代わって冷静に痛いところをつく東郷のツッコミはクリティカルヒットしたようだ。

 腹を抑えてよろめく素振りをしながらはははと笑った。

 

「いやー東郷のツッコミもキレてていいわね。さて、話はもう終わりかしら? すっかり目が覚めてしまったけど眠いっちゃ眠いし」

 

「そうですね。戻りましょうか」

 

 重い雰囲気にはなってしまったが、互いに矛をぶつけ合うことにはならずに済んだ。

 静かに部屋に戻り、気をつけつつ東郷が車椅子から降りるのを手伝ってから、風も布団をかぶった。

 まだ暗闇に慣れていない目は樹の可愛らしい寝顔を見ることができた。これが自分の妹だとはまるで思えないほど可愛い。

 そっと手を伸ばし、その頬に触れる。

 そして。

 

「絶対に治るからね、樹」

 

 と言い聞かせた。

 ……しかしそれは、自分自身に対してのものでもあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………………………」




ジェットコースターってありますよね?
あれの何が面白いのかというと、頂点まで上がって、車両が前傾姿勢になるまでの間に感じる極度の緊張感だと自分は思います。
……ちなみに今、頂点にいます。

その楽しみは虚構であり、現実は常に上手くいかず。

それではまた次回。


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安息

前回のあらすじ
何事もほどほどにね☆


「…………は?」

 

 夏凛は呆けた顔をしながらも自然と拳を強く握りしめた。

 風に呼び出され、友奈たちが部室に入ると、見慣れないものがあった。机の上の開かれたスーツケース。そしてその中にあるのは、かつて使っていた携帯……大赦に回収されたはずの勇者デバイスだ。

 

「風先輩、これって……」

 

 友奈がゆっくりと尋ねる。

 

「バーテックスの生き残りがいたらしいの。……ホント、帰ってきたばっかなのにいきなりでごめんね」

 

「先輩が悪いわけじゃありませんよ」

 

 そう言いながら友奈は携帯を手にとった。普段使っているものは手に少し収まりきらない大きさだったから、すっぽり収まるこれのほうがなんだかんだ慣れている。手慣れた操作で電源を入れ、起動する。

 すると突然、精霊の牛鬼ともう一体が画面から飛び出してきた。猫のような姿で、手足がメラメラと燃えている。

 

「わわっ⁉ この子は新しい精霊なのかな?」

 

「あーそれね。あたしもなんか一体増えてたのよ」

 

 携帯を操作して呼び出すと、確かに狗神と見知らぬ精霊が出現した。

 つられて東郷たちも携帯を手にして精霊を呼び出すと、夏凛以外は増えていた。東郷は元々三体いたため、これで四体目だ。

 煮干しを齧りながら夏凛は眉をひそめて不満を口にした。

 

「私だけ増えてないってどういうことなの?」

 

「わからない。たぶんあんたが完成型勇者だからなんじゃないの? あたしらはトーシロだから戦力増強すべきって判断されたのかも」

 

「それならまあ……納得かも。敵の一斉攻撃を凌いでみせたんだもの。生き残りくらい、お茶の子さいさいよ!」

 

 友奈たちの勇者としての力は初めに比べて大幅に上昇した。封印の儀すらままならなかった頃と比べると雲泥の差だ。

 胸元に飛び込んできた牛鬼の頭を撫でながら、友奈は未だ浮かない顔をする東郷を見た。夏凛兄妹の喧嘩の時からずっとこのような調子だ。現場にいたからこそわかるが、夏凛の兄が言っていたことは……おそらく嘘だ。しかし何を隠して嘘を言っているのかまではわからない。

 

「大丈夫だよ東郷さん。夏凛ちゃんの言う通り、私たちは強いんだから勝てるよ。……それに、何があっても私は東郷さんを守るから」

 

「…………ありがとう」

 

 今考えるべきことは、バーテックスだ。もちろん文化祭についての話し合いもしたいが、たとえ生き残りであろうと神樹様と接触すれば全てが終わる。優先順位的に仕方のないことだ。

 

『それでお姉ちゃん、いつ来るの?』

 

 綿のような緑色の精霊が樹の頭の上でぽんぽん飛び跳ねている。

 

「次の新月から四十日の間って予想されてるそうよ」

 

『結構長いんだね』

 

 樹は精霊を摘んでスケッチブックの上にのせる。一気に精霊たちが増え、今やちょっとした動物園のよう。その分騒ぎ出すと簡単に収拾がつかなくなってしまうことが難点だ。

 バーテックスの襲来にはまだ時間がありそうだ。その間に新しい精霊たちのことを知っておかなければならない。すでに東郷は四体すべてを従え、「整列!」と号令をかければ嘘のようにピシッと横に並ばせられるほどだ。

 

「さっき夏凛も言った通り、あれだけの猛攻を防いだんだから、今度は楽に倒せるはずよ。とはいっても油断は禁物。……勇者として今度こそ本当に最後のお役目。しっかり果たすわよ!」

 

 腕を高く突き上げて叫んだ風に続いて友奈たちも「おー!」と声を張る。旅行の時はずっと抜けていたが、いざという時はこうして我を主張する風の横顔が、友奈には眩しく見えてしまった。

 

 ……が、あれからバーテックスが襲来することはなく、新月を迎え、さらに夏休みが終わって二学期が始まってもこれといった動きはなかった。勉学に励み、部活で依頼をこなす何気ない生活が続いている。

 精霊たちの世話に焼かれながらも賑やかな日々を過ごせている。犬吠埼姉妹と東郷は抱えた不自由を受け入れながら普段通りの生活を送れている。しかし、それでも樹とのコミュニケーションは困難で、常にスケッチブックを持ち歩いていないと意思疎通ができないレベルだ。筆談するにしても長い文章を書くと時間がかかってしまう。風をはじめ、友奈たちもなるべく簡単に答えられるように話をふるように心がけている。

 それに風は受験生だ。勉強が忙しくなり始めているのは誰の目から見ても明らかだった。

 運動部は夏の前から最後の大会が始まり、これに敗退したら三年生は終わり、というのがセオリーだ。だが勇者部には大会なんてものはないし、そういった明確な区切りも存在しない。きっと卒業する最後まで在籍するだろう。

 なるべく風の負担を減らしてやりたい……というのが友奈の思うところだ。だから、近々襲来するバーテックス戦ではできるだけ風には戦わせずに終わらせたい。

 

「そういえばあんたたち、バーテックスが来てもちゃんと戦えるんでしょうね? 私は鍛えてるからいいんだけど」

 

 椅子の背もたれに全力でもたれる夏凛がそんなことを言った。今日の勇者部の活動はなく、文化祭に向けて話し合いをしただけだ。

 

『きたえてはないですね』

 

 樹が気まずそうにしながらスケッチブックをこちらに向ける。夏凛以外の全員に元から体を鍛える習慣はなく、せいぜい登下校で歩くことと、体育の授業が主な運動の機会だ。

 もちろん例外なく友奈もそれに当てはまっている。

 

「戦えるよ! 鍛えてはないけど!」

 

 勇者としての実力は確実に上がっている。連携もよく取れているし、あとはコンディションの問題だ。元気いっぱいに返事をするが、夏凛はどこか納得いかないような顔だった。持っていた煮干しの袋に手を突っ込み、鷲掴みした煮干しを口に放り込む。

 

「っ。ふぅ。わかってるとは思うけど、これで最後なんだから私は慢心せずにやりきりたいの」

 

 風はそれに「そっか」とだけ応えると、窓を開けて顔を出した。若干強い風が吹いていて、髪が大きく靡く。大きく息を吐くと、こちらに向き直った。

 

「まあ……そうね。大赦にあんなに良くしてもらったんだからちゃんと目に見える形で返さないとね」

 

「ですが鍛えるといってもどうするのですか……?」

 

 今日の活動記録をパソコンに入力し終えた東郷が疑問を投げかける。

 

「そんなの、私の家に来たらいいじゃない。あらかた道具は揃ってるんだからみっちりしごいてやるわ!」

 

「それって筋肉痛になりそうな予感が……」

 

「甘いわよ友奈! 筋肉痛になるってことは、筋肉が鍛えられてる何よりの証拠! 私の勘では来週くらいに来るからそれまでにあんたたち全員を仕上げてみせる!!」

 

 妙に気合が入っている。拳を握り、決意に満ちた表情でふんすと鼻を鳴らす。

 ……夏凛が勇者部の活動をサボった日を思い出す。誕生日を祝おうとしたができず、代わりに家に突入してそこで行ったこと。本人は嫌々だったが、最後にはすっかり楽しんでくれた。今では自分から家に誘うようになり、微笑ましい限りだ。

 

『でも勘って?』

 

「女の勘よ」

 

「――知ってる? 女の勘は悪い意味でよく当たるそうよン」

 

 音もなく夏凛の背後をとった風が語り、夏凛は猫のように高く飛び跳ねて後ずさる。

 

「うわあああ⁉ もう、びっくりするでしょうが!」

 

「あはは! 今の動きは凄かったわ。これなら安心ね」

 

 こうなったら簡単にバーテックスを倒せるほど鍛えてもらおうと考え、具体的にどのようなことをするのか尋ねようと口を開いた、その時だった。

 手元の携帯から聞き慣れたアラーム音が鳴り響き、激しく震え始めた。

 突然、心臓がわけもなく鼓動が早まる。指先が冷たく痺れる。友奈はぎこちなく首を動かして窓から外を見下ろした。

 まだ外で部活をしていた学生たちが完全に動きを止める。これはまるで時間停止のそれだ。

 

「……なんてタイミング。でも上等よ! 殲滅してやるわ!」

 

 夏凛の頼もしい言葉に、友奈の緊張はほぐれた。

 ……そうだ、友奈は極度に緊張していたのだ。これほどのことは、今までなかったのに。何からくるものなのかわからない。……きっとちゃんと戦えるかという不安から来ているのだろう。

 彼方から虹色の景色が迫りくる。胸に手をギュッと押しあて、大きく息を吐いた。

 そして、大丈夫と自分に言い聞かせた。

 

 

 張り巡らされた無数の虹色の根のひとつの上に友奈たちは現れた。向こう岸の壁から生き残りがやってくるはずだ。相変わらずステージが複雑すぎて、根が森のように入り組んでいる。敵が巨大なら発見しやすいが、小さければ困難だろう。

 後ろを振り向けば、遥か遠くに神々しく輝く新樹様が聳え立っている。あそこにバーテックスに到達されると終わりだ。

 

「敵は一体。数分で森を抜けます」

 

 敵の現在位置を携帯で確認した東郷が報告する。

 

「……よし。これで最後よ。皆、いくわよ!」

 

 風の号令で全員が携帯の勇者システムを起動させて勇者服を纏う。

 久しぶりの勇者服に友奈は足を軽く動かし、拳を開閉させて順に違和感がないかを確認する。そして最後にバシッ! と両拳を打ち合わせた。

 手の甲に刻まれた桜の模様を見ると、満開ゲージはゼロだった。

 

「よぅし! じゃあまたあれやろうか」

 

 皆の前に出た風が言うと、東郷が「了解です」と言いながら隣の夏凛の肩を掴んだ。何をするのか察した夏凛も「ほんと好きね」と言いながらも樹の肩を掴む。そして樹は友奈の肩を掴んで……と、最後に風と円陣が出来上がった。

 

「勇者部ファイト!」

 

「「おー!!」」

 

 バーテックスが森を抜けたのを確認すると、東郷を筆頭に索敵を開始する。しかしそれもほんの数秒で視認する。砂煙を高く巻き上げながら駆け抜けるバーテックスがいる。

 大きさは人間と変わらず、首と両手首を拘束板で繋がれている。目を細めて観察していた風が口を開く。

 

「ん? あれってこの前樹が倒したやつじゃない?」

 

「もしかすると、二体でいるのが特徴のバーテックスかもしれませんね」

 

「ということは、二体でセット。双子みたいなものかな? ……よぉし! 結城友奈、行きま――」

 

「待って!」

 

「!」

 

 鋭い風の命令に動きを止めた。

 すでに身体はいつでも戦える状態だ。対して風はまだ武器すら構えていない。友奈は疑問に思いながらも聞き返した。

 

「どうしたんですか風先輩?」

 

「い、いや……ちょっと……ね?」

 

 歯切れの悪い返事だ。それに目が泳いでいる。数分前まではあれほど威勢があったのに、急にしおらしくなっている。

 左手が顔に伸び、左目の眼帯に触れている。

 たぶん無意識の行為なのだろう。しかしそれで友奈はわかってしまった。心のどこかで恐れているのだ。戦うとまたどこか身体がおかしくなってしまうのではと。樹と東郷もどこか尻込みしている節がある。

 風を休ませよう。まだ不調が治っていないのがその証拠だ。これはふたりも同じ。夏凛となら問題なく倒せるはずだ。

 友奈は自身の満開ゲージを確認してから夏凛に声をかけた。

 

「夏凛ちゃん行くよ!」

 

「ええっ⁉」

 

「待ちなさい友奈! これは――」

 

「風先輩たちは後衛にまわってください! 私と夏凛ちゃんで仕留めます!」

 

 風の静止を無視して友奈は勢いをつけて大ジャンプした。その後を夏凛が続く。

 上空からならバーテックスを見下ろすには最適だ。すばしっこさが売りであることは知っている。だからここは奇襲して大きな一撃を与えるのが最善手だ。

 落下予測と敵の移動予測に計算なんて不要。おおよその勘で事足りる。

 

「夏凛ちゃん、合わせて!」

 

「ええ!」

 

 圧倒的高所から純粋な落下エネルギーをぶつけるべく、夏凛と拳を合わせてバーテックスの背中に重撃を食らわせる。

 ガゴ! と重い衝撃が空気を震わせ、横殴りの一撃がバーテックスを大きく吹き飛ばした。

 追撃の一手を加えるべくすかさず肉迫した友奈は右半身を仰け反らせて腰を捻る。

 

「勇者……パ――」

 

 友奈の基本は超接近戦での拳撃で、敵の懐に踏み込む超アタッカー。当然そのリスクはつきものだ。

 手を拘束されているため、容易に起き上がれずバタバタと暴れまわっているところをチャンスと見て繰り出す拳。だが、バーテックスの恐るべき反応速度によって、無防備な脇腹をギリギリで展開された精霊バリアと一緒に蹴り飛ばされる。

 バリアによって阻まれていたとはいえ、身構えることすらできずに受けた超攻撃。衝撃が内部に届き、一瞬だけ呼吸ができなくなり、激痛が襲う。さらに内臓が押し上げられ、不快感にえづく。しかし喉元までこみ上げた胃液は吐き出すまいと着地するまでに無理やり飲み込んだ。

 ……気持ち悪い。

 背中を激しく打ちつけ、肺から強制的に空気を吐き出されて意識が明暗するも、すぐに立ち上がる。

 激痛が走り、今もじんわりと全身に広がっているが死んでいるわけではないからまだ戦える。

 夏凛に名前を叫ばれるより「大丈夫!」と大声で叫んでから持ち場に戻る。すでに夏凛によってバーテックスの両脚は切断され、封印の儀を始める用意は整っていた。

 

「あんた絶対大丈夫じゃないでしょ⁉」

 

 目を見開きながら近寄ってきた夏凛が脇腹を優しく触れられる。まだ痛みを殺しきれてはおらず、鈍痛が走る。

 すでに風と樹もバーテックスを囲うように位置取りをして封印の儀を始めようとしている。最後の足掻きとばかりに暴れるが、東郷の精密な超遠距離射撃によって頭部を吹き飛ばさ、止めの一撃とばかりに風が大剣の面の部分で叩きつけた。

 

「先に樹に援護させようと思ったけどいらなかったわね。動ける? 友奈」

 

 こちらからは見えないが、風が親指を立てて東郷にサインを送る。

 

「そんなに触られたら痛いよ夏凛ちゃん。でも大丈夫! こんなにピンピンしてるから!」

 

 何度か飛び跳ね、さらにボクシング選手のように数発ジャブを繰り出す。

 

「なら……いいけど」

 

 心配そうな視線を浴びせながらも夏凛は自分の持ち場に戻っていく。

 駆け足でバーテックスの正面に向き直った友奈は封印の儀を実行する。風が大剣を地面に突き刺して掛け声をかけ、精霊を呼び出す。するとバーテックスの足元に模様が現れ、周囲を四色の花びらが螺旋状に舞い上がり始めた。

 身じろぎひとつしなくなったバーテックスの輪郭が淡く発光し始め、うなじ辺りから心臓ともいえる三角錐の形をした御霊が――。

 

「ええええ⁉ 何よこの数ーー!!」

 

 夏凛が叫びながら一歩引く。

 予想を裏切られ、現れた御霊の数は数えることができない。瞬きの間に地面はサッカーボールサイズの御霊で溢れかえってしまうほどだ。こうなってしまっては単体攻撃ではなく範囲型攻撃で一気に殲滅しなければならない。この場でそれができそうなのは……隙間を狭くした籠のようにワイヤーを編むことのできる樹だ。

 咄嗟に喉を上りかけた『い』の音を必死に飲み込んだ。

 風は思いとどまる。勇者としての力を振るうことでまた何か良くないことが起こるのではないという恐怖があった。下手に満開ゲージを溜めることは危険なことかもしれない。

 樹に任せなくても、新たな精霊の力を使えば自分にだってきっとできる。風はみんなに聞こえるように声を大にして言った。

 

「締めは私にやらせてもらうわよ!」

 

「いいえ、ここは私がいくわ」

 

 しかし、ここで夏凛が宣言を妨げて一歩前に出た。風は今まで誰にも見せたことのないような形相で吠えた。

 

「か、夏凛! やめなさい! 部長命令よ!」

 

 必死に呼び止めようとしても意味はなく、夏凛は両手に剣を持ち、構えをとった。

 

「ふ、ふん! もともと私はあんたたちの助っ人で来てるのよ? そんな律儀にあんたの命令に従ってたまるもんか!!」

 

 ふたりが言い合いをしているうちにも恐るべきスピードで御霊が増加し、現実世界への侵食が進行する。これ以上時間を無駄にすればいくら風や樹、夏凛でも一掃することができなくなってしまう。

 ……友奈は自身の体調を確認する。風たちのように異変を感じる部位はない。強いて言うなら足蹴りをくらった脇腹がまだ痛むだけだ。

 たとえ症状が現れても時間が経てば治ると大赦は言っている。なら臆することはない。

 ……勇者であれと、勇気を持って一歩を踏み出す。

 もう一体の精霊を呼び出し、その力を纏う。しかしその様子を樹に気づかれてしまうが、声が出せないから止めることはできない。

 ごめんねの意味を込めて微笑みかけ、友奈は高く飛び上がった。

 

「勇者……キッーーク!!」

 

 足に炎を集中させ、一直線に御霊の発生源に飛び込む。すると地面が赤く燃え広がり、広範囲を圧倒的な熱量で灼き尽くす。耐えきれなくなった御霊は虹色のノイズとなって消滅し、バーテックス本体も砂になってその身体を崩壊させた。そして周囲には焼き焦げた跡だけが残った。

 空へ上っていく残滓を仰ぎ、携帯を手にとって無事にバーテックスを封印出来たことを確認する。これで本当に終わりのようだ。

 ヘドロのように重苦しい息を吐き出してから携帯をしまう。

 

「……終わったね。うん、『なせばなんとかなる』ね!」

 

 友奈の周りに皆が集まり、第一声をかけたのは風だった。

 

「友奈! なんとかなったものの、勝手は駄目じゃな――」

 

 最後まで口にすることはなく、風は友奈の右手の甲を見て硬直している。手を翻して見てみると、満開ゲージが溜まっていた。

 それを見て全員が言葉を失うが、友奈は努めて陽気であろうとした。あはは、と小さく笑って右手を後にまわす。

 

「ご、ごめんね先走っちゃって。新しい精霊の力を試したくてつい。海よりもふかーく反省してます!」

 

 かっこよく額に手を当て、兵隊がするようなポーズを取る。

 すると東郷が、友奈の身体をぺたぺたと海で日焼け止めを塗ってくれた時と同じように全身に触れた。

 

「東郷さん⁉ くすぐったいよ⁉」

 

「大丈夫友奈ちゃん? 身体は平気?」

 

「うん、大丈夫! 元気そのものだよ! 皆に怪我なく終わって良かった……!」

 

 満面の笑みを浮かべながら樹の頭を撫でる。花びらが舞い上がり、奇妙な感覚に襲われる。実際に経験したことがあるわけではないが、例えるなら幽体離脱するような感覚。

 ……現実世界に戻されるのだ。

 これで勇者のお役目はすべて終えた。あとは帰って文化祭の話し合いがしたい。さらにこれは高望みだが、またもう一度この前のような旅行に行かせてほしい……なんて思いながら友奈はそっと目を閉じた。

 

 

 そこは見慣れた学校の屋上ではなかった。

 ちょっとした社があり、申し訳程度にお賽銭箱がちょこんと前に置かれている。

 不安げに周囲を見回すと、東郷がひとつ上の壇上で右往左往していた。

 

「東郷さん!」

 

「友奈ちゃん!」

 

 互いに身を寄せ合い、安堵する。

 ここがどこなのか、ヒントとなる建造物がないかを探していると、奥にひしゃげた大橋があるのを視認した。

 

「あれって大橋だよね? だとしたら私たち結構遠くの場所に飛ばされたっぽい」

 

「そうね。……あれ? 私の改造版でも電波が届かない……? そんなまさか……」

 

 東郷はパスワードを入力しても起動しそうにない自分の携帯とにらめっこをしている。友奈も同じようにパスワードを入力しても動じる様子はなかった。

 

「どうやって帰ろう……? タクシーとか? でも私たちいまお金持ってないし……」

 

 ポケットを漁っても出てくるのはハンカチとティッシュだけだ。普段から財布を持ち歩くことすらない中学生には厳しい話だ。目配せしても当然東郷も首を横にする。

 

「別にいいんじゃないかしら? 歩いて帰ろう友奈ちゃん。時間はかかるだろうけど、その分長く一緒にいられるじゃない」

 

「おお! 確かにそうだね! じゃあ行きますかー!」

 

 東郷の車椅子の背後にまわり、グリップを握る。反転して気をつけて段差を降りようとした時、社のさらに後ろの方から声が聞こえた。

 

「ちょ、ちょっと帰るのは困るなーわっしー。せっかく呼んだのに〜」

 

 甘い甘い、脳が蕩けそうなほどのんびりとした声だった。おそらくこちらに向けられたものだ。友奈は警戒しながら車椅子を押し、声のする場所へと向かう。

 社の影になって今まで見えていなかっただけで、角度を変えて覗くと、大きなベッドが姿を現した。そして少女がひとり、ポツンと身を預けていた。全身を包帯に巻かれ、口元と左目しか素肌を晒していない。病衣を羽織り、穏やかな表情でこちらを見つめている。

 

「こんにちは、わっしー。結城友奈さん。私と会うのは初めてだよね?」

 

「そう、ですね」

 

 友奈はなるべく目を見て返事をする。まじまじと見つめるような真似はしない。それはかえってこの少女に失礼だろうから。

 

「あ、まだ名乗ってなかったね。私は乃木園子っていうの〜。よろしくね〜」

 

「は、はい。よろしくお願い、します……?」

 

「早速なんだけど結城さんに訊きたいことがあって〜。私の姿を見て、どう思った?」

 

「――――」

 

 突拍子のない残酷すぎる質問に、友奈はぴくりと眉を動かした。

 右手の指先にはめられたパルスオキシメーター。サイズの合っていない病衣。もしかして四肢が欠損しているのかと考えたが、影が落ちている様子はない。しかしこうして遭遇して、今に至るまで身じろぎひとつしていないのだ。単にそういう人間なのか、それとも文字通り指先すら動かすことができないのか友奈にはわからない。

 たった数歩で接触できる距離なのに、その何倍も遠くに乃木がいるように見えてしまう。だが目を離すことができなかった。これは先程抱いた乃木に対する不敬ではなく、もっと別の何かだ。この違和感を言語化することができない。乃木になんて答えればいいのかわからない。

 わからなくて、できなくて、わからない。できない。できない。わからないからできず、またできないからこそわからない。だからできない。でもわからないから当然であって、ならばできないのも当然だ。ならできればいいのに、できない。だからわからない。できないからって無理しても結局はわからないからできないに戻ってくるのだ。そしてわからない。できない。

 その狭間、また無限ループに囚われ、胸につっかえるもどかしさをすっきりさせることができず、喉の通気口が細くなり、呼吸が浅くなる。

 ……しかしながら、これだけはわかる。できる。答えられる。

 

「特に…………。いえ……ちょっと頭の中がごちゃごちゃして……わからないです」

 

 となぜか自分自身にもわからないまま嘘を吐いた。




前傾姿勢に入りました。あとは堕ちていくだけです。

どこかで知ったことですが、大丈夫って言う人ほど大丈夫じゃないらしいですよ。

今度こそすべてが終わった。
結局、彼女たちは大人に振り回される、十年と少ししか生きていない可愛くて愛くるしい子供に過ぎないのだ。

頑張って答え合わせまでは書きたい。
ではまた次回――


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堕ちる

前回のあらすじ
愚かな願いは徹底的に叩き潰される


 情報は統合され、乃木の中でばらばらのピースがあるキーワードを共通項として組み合わさる。これまで大赦の使者を通して伝わっている断片的な情報だけでは不確かなものが、確かなものへと変化を遂げる。

 そして、友奈の自信のなさそうな言葉遣いが最後のピースとなった。

 

「……なるほどね、わかったよ(・・・・・)

 

「えっと……何がですか……?」

 

 不安そうに尋ねる友奈はどこか乃木の反応を窺っているようにも見える。

 しかしその双眸はしっかりと乃木を捉えていた。

 

「ううん、なんでもないよ。とにかく、呼び出しに成功してよかったよ、わっしー」

 

「その……わっしーって、鷲? それにこんなところにベッドがどーんと……。東郷さん……知り合い?」

 

 東郷は無言で乃木を見る。

 わっしーとは東郷を指す言葉なのか。だとしたらふたりは知り合いのはず。こうして出会ったことで何らかのアクションを起こすのではと考えたが、どうやらその様子はない。

 それどころか。

 

「……いいえ、初対面だわ」

 

 と言い切った。

 すると乃木は溜め込んでいたものを吐き出すような素振りを見せ、その後に誤魔化すように力なく笑った。

 

「あははは……わっしーっていうのはね、私の大切なお友達なんだぁ。いつもその子のことを考えてて口に出ちゃうんだよ。ごめんね?」

 

 軽い声だったが、悲痛な訴えがあった。これに何を返せばいいのかわからず、東郷はただ無言で首を振るしかなかった。

 

「あの……どうして、私達を……?」

 

 普段なら決して近寄らない場所。そしてそんなところに友奈たちを呼び出した乃木。

 まるで正体がわからず、ほぼ友奈は質問しかしていない。

 

「そこの社の中にある祠、あなたたちの学校の屋上にもあるでしょ? バーテックスとの戦いが終わった後なら、それを使って呼べると思ってね」

 

「……バーテックスを知っているんですか?」

 

「うん。こんなのだけど、一応先輩になるのかな。私も勇者として戦ってたんだ。ふたりのお友達と一緒に」

 

 自慢げに顎をくいっと上げ、少し誇らしげに言った。

 友奈は今一度乃木の容態を見て、返すべき言葉が凍りついてしまう。だって、まるで死んだようにベッドに佇んでいるだけで、とても勇者に見えないからだ。それに、とても幸せそうに見えない。

 

「バーテックスが先輩を怪我をさせたんですか?」

 

「ああ……んーん、違うよ。私、これでもそこそこ強かったんだから」

 

 断言を避けるかのような言い方に友奈は疑問を抱く。

 戦って、怪我をする。これは考えれば簡単にわかることだ。乃木は先代の勇者であり、しかし今でも寝たきりの状態。これほど怪我の治療が遅れる要因が何なのか、まったくわからない。

 東郷に目配せをすると、どうやら同じ考えのようで、難しそうに首を傾げる。

 

「――そうだ、ふたりとも、満開はしたんだよね? わーって咲いて、わーって強くなるやつ」

 

 勇者システムの真骨頂、満開。満開ゲージを消費してさらなる力を引き出すもの。友奈の場合、両腕に巨大な義手アームが装備され、爆発的な膂力を得た。

 あのシステムは非常に魅力的だ。もう戦うことはないが、知っていれば初めての戦闘からガンガン使いたかったと思うほどだ。

 

「しま、した。わーって強くなりました」

 

「私も……しました」

 

「そっか……。じゃあ、咲き誇った花はその後どうなると思う? 満開の後に散華という隠された機能があるんだよ。――ふたりはどこか、身体が不自由になったはずだよ」

 

「――――」

 

 隣で東郷が鋭く息を吸い込んだ。左耳に手を伸ばしている。乃木の言葉に刺激されたようだ。

 しかし友奈はいまいち実感できない。なぜなら友奈には散華というものが発動していないからだ。

 薄々は気づいていたこと。満開したから不自由になったのでは、という信じたくない、可能性でしかないと隅に追いやった戯言。それが掘り起こされたのだ。

 しかし、友奈には乃木の言っていることが間違っていると確信があった。それは何よりも友奈自身がその反証だからだ。

 

「私は不自由になってません! だから乃木さんの言うことは違うと思います!」

 

 頑として主張する。東郷が散華というふざけた機能のせいで左耳が聞こえなくなったなんて、あまりに酷すぎる。何も悪いことをしていないのにこの仕打ちはあんまりだ。

 勇者のお役目が終わり、東郷はこれから普通の学生として生きていかなければならないというのに。

 それに、瀕死になるほどのものではないからいずれ完治されるはず。

 

「――知らない、わからないっていうのは、純粋な子たちには致命的なんだよ。今の結城さんのように」

 

 しかし呆気なく否定される。それでもと食い下がらずに食らいつこうとしたが、乃木の柔和ながらも言いくるめるような視線に押し黙ってしまう。

 爪が皮膚に深く食い込むほど固く拳を握りしめ、下を向いた。

 

「……それが散華。神の力を振るった代償。神樹様に供物として捧げるの。ひとつ花が咲けばひとつ花が散る。ふたつ花が咲けばふたつ花が散る。その代わり、勇者は決して死なないんだよ」

 

「死なない……?」

 

「で、でも、死なないなら良いこと……なんですよね? ……じゃあ、その怪我は……」

 

「うん。結城さんの考えている通りだよ。満開を繰り返して、こうなった。もう何を散華したのかすら全部把握できないほどね」

 

 友奈が満開したのは一度きり。だから散華したものはひとつ。だが友奈自身はそれが何かわからない。こうして乃木が目の前で落ち着いた様子で語っているが、その壮絶さは容易に『理解できる』とは言えない。

 東郷が小刻みに身体を震わせている。カタカタと車椅子を震わせている。友奈は今すぐ安心させるために抱きしめたい気持ちをぐっと堪えて前を見た。

 

「でももう大丈夫なはずです! バーテックスは全部倒しました! だからこれ以上傷つく必要はないんです!」

 

「それは凄いよね。私達の時は追い返すので精一杯だったから。……これで終わりならいいのにね」

 

「失った部分はそのままなんですか? 皆は、治らないんですか?」

 

「治りたい、よね……。私も治りたいよ。自分の脚で歩いて友達をぎゅっと抱きしめたいよ」

 

 そう言って瞼を伏せる乃木は、哀愁を漂わせた歴戦の勇者のそれだった。戦い抜いた、勇者の成れの果て。かけるべき言葉が凍りつく。

 そして、静かに左右と後ろの階段からぬっと姿を見せたのは、夏凛の兄とまったく同じ服装の男たちだった。つまり大赦の人間。仮面越しではあるものの、友奈たちを目で捉えているのは間違いない。

 無言でただ見られるだけだっが、友奈は僅かの恐怖も感じることはなかった。

 

「――この人たちを傷つけたら許さないよ? 私が呼んだ大切なお客様だから」

 

 有無を言わさない冷徹な言葉に、男たちが一斉に乃木の方を向く。先程までの柔らかい印象はない。

 

「あれだけ言ったのに、会わせてくれないんだもん。だから自力で呼んじゃった」

 

 すると、返事をするわけでもなく男たちは膝を地面についたのだ。さらに頭も下げる。

 大赦とは、神樹様に最も近い組織のはずだ。そのような人たちがこれほどまでに乃木に遜る奇怪な現場を見た友奈と東郷は動揺を隠せずにいた。

 

「……私は、半分神様みたいなものだからね。崇められちゃってるんだ。すごいよ。なんでも世話してくれるんだ」

 

 優しく微笑んだ乃木の姿は痛々しかった。

 

「悲しませてごめんね。このシステムを隠すのは大赦の思いやりでもあるんだよ。でもね…………」

 

 次第に声がしゃくり上げ、嗚咽を含み始める。

 ……乃木は涙を流していた。

 ぽろぽろと落ちる涙を手で拭うことすらできず、本当に何もできなくなってしまった勇者なのだと散華の実態を突きつけられる。

 

「私は、はやく言ってほしかったなぁ……そうしたら、もっともっと、友達と遊んで……。だからこうして伝えたかったの……」

 

 止まることのない涙を見て、友奈は苦虫を千匹噛み潰した顔をする。感情が高ぶり、胸の奥からじんわりと熱いものが身体全体に広がる。

 先に動いたのは東郷だった。自分で車輪を動かして、乃木の隣に移動し、拭えない涙を代わりに拭った。

 すると乃木は弱々しく微笑んだ。

 

「……ありがとう。そのリボン、よく似合ってるね」

 

 乃木が見ているのは、東郷が後ろ髪を纏めている、水色を基調とした可愛らしい大きなリボンだ。

 東郷はリボンをそっと手に乗せつつ、ついに耐えきれなくなった涙を流し始める。

 

「このリボンはとても大切なもので……でも、ごめんなさい。誰にもらったなのか思い出せなくて……」

 

「うん……うん……。仕方ないよ……」

 

 おとぎ話の勇者とは。

 人々の期待を背負い、仲間たちと協力して強大な悪を倒す者。そして最後は人々から褒め称えられ、その名は後世に語り継がれる。

 ……が、実際の勇者はまったく違った。人々はバーテックスの存在すら知らず、仲間は身体機能を捧げてどんどん人間性を失っていく。最後には乃木のようになり、人知れず表の世界から消え去る。

 理想は理想でしかなく、現実は非情であり、その牙は容赦なく罪のない友奈たちの喉元に食らいつく。

 いくら追及しても、勇者の散華はとても尊い犠牲である、というのが大赦側の最終的な結論になるだろう。

 涙は流れない。生きているのならば、まだ希望はある。だからきっと、まだ涙を流すべきではないと思う。

 

「結城さん……どうか絶望しないでね」

 

 乃木の最後の言葉に、心が妙にざわめいた。

 

 

 SNSで三人から届いていた怒涛の通知に気づいたのは、大赦の用意した車で家に送ってもらったあとだ。

 とりあえず無事であることを伝え、友奈は風に個人で『明日話したいことがあります』と連絡を送った。あまりに唐突で、大きくて制御しきれない情報をまずは風と共有することが東郷との結論だ。

 もちろん乃木の言っていることがすべて事実であるという保証はどこにもない。しかし言動から見ても演技ではないだろう。あれで演技なら女優の道は約束される。

 自室のベッドに身を投げ、枕に顔を埋める。今日は久しぶりに戦闘したから肉体的に疲れた。制服のままだが、パジャマに着替えるのも億劫だ。食欲はあるが、今何かを食べてもきっと鉛のようにしか感じられないだろう。

 ……『知らない』という恐ろしさ。満開による散華の機能を知らなかった友奈たちには致命的な大打撃になる。

 知ろうとするべきなのか。机の上で戯れる精霊たちを横目に友奈は寝返りを打つ。

 

「……ねえ、私は何を散華したの?」

 

 無意味な問いかけなのはわかっている。精霊が言葉を発するはずがない――夏凛の精霊は例外――のだ。どうしようもない不安をぶつけてみただけだ。案の定二体の精霊は何も応えず、ふよふよと浮遊して友奈の枕元に着地して頬ずりをしてくるだけだ。

 これが友奈を安心させるためか、ただ愛嬌を振りまいているだけなのかわからないが、勝手に前者だと決めつけて精霊たちを胸に抱き寄せる。

 

「知るべき……なのかな?」

 

 今一度ここ最近の自分の振舞いを思い出しても、特に引っかかる点は当然ひとつもない。唯一あるとすれば、今日の戦闘で前に出すぎて皆を心配させたことだ。でもこれは風たち三人にできるだけ戦ってほしくないという願いから湧き出た行動だ。何もおかしいことではない。

 知らないほうがいいのではと思ったり。現状周りの友人関係を除いた友奈単体としては幸せに生きている。だから知ることで深く傷つくのなら、知らないほうがいいのでは。

 しかしいつか知る時が来れば、それを甘んじて受け入れる。その覚悟があるか。

 三人は受け入れ、生きている。だが捧げたものがもう一生戻らないとなるとどうなるのだろう。

 

「怖くはな、い……」

 

 友奈は自分の指先が震えているのに気づいた。咄嗟に反対の手で覆うも効果はなく、両手が震え始める。これが意味していることがわからなかった。どうすればいいかわからず、目をギュッと瞑って収まるのを待つ。

 ……次に目を開くと、朝だった。

 朝食はいつも通り、ヨーグルトだけ食べた。

 

 学校では意外なことに、風たちが詰め寄ってくることはなかった。きっと事情を察してくれた風がふたりを押し留めてくれたのだろうと考える。何事もなく放課後になり、友奈と東郷は屋上で風を待つ。

 どうしようもない絶望を話したところで結局友奈たちに何かができるわけではない。もちろん供物を取り戻す方法は探したいが、糸口は見つけられない。

 

「友奈ちゃん、大丈夫?」

 

「え?」

 

「顔色悪いように見えたから。昨日はちゃんと眠れた? それに最近はお弁当半分も食べてないし……」

 

 睡眠はきちんととれている。食事は喉を通らない日が続いている。食欲はあってもその許容量が大幅に減少している。弁当の半分ですら満腹を超え、時々我慢できずにトイレで吐いていた。

『それ以上は必要ない』と身体が拒否反応を示しているような気もするが、そもそも最近戦闘がなかったから食欲が落ちているのだ。

 友奈は口元を緩めた。

 

「気のせいだよ東郷さん。それよりも風先輩がどう受け止めるかを考えよう」

 

 それから少しして風が屋上のドアを開けてふたりの前に現れた。その顔つきは強張り、いつもの陽気さはあまり感じられない。

 

「あたしだけを呼んだってことは、簡単には話せないことなのよね? 友奈、東郷」

 

 ふたりは黙って首を縦に振り、昨日の出来事をすべて話した。

 オブラートに包むことなく、目にしたもの、聞いたものをありのままに伝えた。

 

「勇者は死ねない……? 満開の代償として身体機能の一部を捧げる……?」

 

 オウム返しのように主要部分を繰り返し、それきり風は黙りこくってしまう。空は灰色の雲に覆われ、神妙な空気が流れる。

 

「じゃあ、身体はもう……元には戻らない?」

 

「はい。事実、乃木園子の身体は……」

 

 思い出すのは文字通り指一本動かすことすらできない、芋虫と化した先代勇者。東郷は最後は言葉を濁し、断定を避けた。

 その言い草で察したのか、風は難しい顔をして柵に腕をのせ、校庭を見下ろした。小雨が振り始めているが、それでもサッカー部は練習が活気づいている。

 逆に勇者部はどうだろう。旅行であれほど楽しんでいたというのに、この落差は。そもそもあれは慰安などではなく、祀られていた? そう考えればある程度の納得はいく。

 

「でも友奈は――――」

 

「…………」

 

「ぁ、ごめん……」

 

 容易に踏み込んではいけない領域だった。友奈の曇る表情を見て、激しく自責する。

 間違いなく散華したのに、それが未だ何なのかわかっていない。これ以上に恐ろしいことがあるだろうか。……いや、ない。

 唇を噛み締めた風は素直に引き下がり、気まずそうに視線を逸らた。

 

「……あたしだけに話してくれてありがとう。樹と夏凛にはこのことはまだ言わないでおいて。まだ事実ってわかったわけじゃないし、変に不安を煽りたくないから」

 

 中途半端な雨は中途半端に友奈たちの心までも濡らした。

 足どりはいつも通りだが、背中は悲壮さを物語っていた。それを見届けることが辛くなった東郷は車椅子の向きを変えた。

 それでも友奈は、風が屋上から消えるまで目を離さなかった。

 

 

 友奈たちの話は信じない。それが風の結論だ。なぜならそんなに酷い話があるはずがないからだ。世界を救ったのにこのような仕打ちは絶対にないという独りよがりな考え。

 ふたりの報告のせいで悶々とした時間を過ごすことになり、今もどうしようもないむしゃくしゃな気分だ。

 この前大赦に送ったメールに返信はない。最近は時間があれば受信ボックスを覗くようになってしまった。

 樹を寝かしつけ、今日の自分の受験勉強を終わらせ、台所で手鏡を手に取る。恐る恐る眼帯を捲りあげて左目の様子を確認する。しかし映るのは普段と変わらない色褪せた瞳だった。

 医者の言葉を信じ、大赦の言葉を信じた。時間の経過とともにこの症状は治癒されるだろうと。

 

「なんであたしたちがこんな……」

 

 ……理不尽だ。

 しかしそう考えてしまえば、友奈たちの言うことを信じることと同義だ。だからといって今日の友奈の様子を見て放っておくわけにはいかない。

 誰もが不安になっている。中でも最も危ないのは友奈だと思った。もし本当に散華とかいうふざけたものが事実で、それを知ってしまった時どうなってしまうのか。まるで想像できない。

 いつもの樹への保護欲に似たものを感じ、咄嗟に電話をかけた。もう十二時を回り、日が改まっていた。五コール目になっても反応がないからさすがにもう寝たか? とこちらから切ろうとしたその時、友奈が電話に出た。

 

「もしもし?」

 

『もしもし、どうしたんですかこんな時間に?』

 

「ああ、ごめんこんな時間に。いや……まあ……友奈のことが心配でさ」

 

『……あはは、そうですか。ありがとうございます風先輩。最近は色々なことが一気に押し寄せてきて、ちょっと疲れてるんだと思うんです』

 

 電話越しの友奈の声はなんだか元気が足りないように感じた。とはいっても夜だし、大声で話すと家族の迷惑になるから声を抑えているだけかもしれない。

 

『そうね……ごめんね、こんなことになっちゃって。友奈は……その……怖くない?』

 

 前に東郷と行ったこととまったく同じことを風は口にしていた。どうしても罪悪感が拭えないからだ。意図的に勇者たりうる人物を勇者部に入部させたせいで、このような事態に陥っている。すべての元凶は風であるといっても過言ではない。

 

『何がですか? 別に――。ああ、散華のことですね。どうなんでしょう。私はまだ――』

 

 とまで言いかけ、突然激しい雑音が会話を取り乱した。おそらく携帯を落としてしまったのだろう。友奈の慌てる声が遠く聞こえた。

 

『あわわ、ごめんなさい風先輩! 携帯落としちゃいました!』

 

「全然気にしてないわ。……怖いのはあたしも本当のところ思ってるから。もしひとりじゃ我慢できなかったら誰かに話しなさいよ? 別に勇者部メンバーじゃなくて親でもいいし。どちらかというとそっちの方が力になってくれるかも」

 

『ありがとうございます。やっぱり私、勇者部に入ってよかった……!』

 

 その言葉に、少し心が楽になった。友奈を元気づけようと電話をかけたのは風なのに、これではまるで逆だ。

 どんな時でも勇者部の元気担当の友奈には敵わない。

 

「……ありがとう。明日から土日なんだからいっぱい休みなさい。今まで溜め込んだ疲れをパーッとふっ飛ばすのよ。それでまた、月曜に元気な姿を見せなさい」

 

『はい! 風先輩も休んでくださいね。ほどほどに勉強も!』

 

「うボぁッ!」

 

 思いがけない友奈の奇襲に風はよろめく。人生最大イベントのひとつ。あんたも来年あたしと同じになるのよ、と言おうとしたが、それはやめておいた。ここは後輩の受け皿になるべきだと喉から出かかった言葉の羅列を飲み込む。

 

「じゃあ切るわね。おやすみ友奈」

 

『おやすみなさい』

 

 通話終了ボタンを押し、風は棚からコップを取り出して水を注いだ。一気に喉奥に流し込み、大きく息を吐き出す。

 実は供物だとか散華だとかは空想の産物で、友奈たちには悪いが、激しい思い込みでしかないことを願う。

 これで全部……全部が終わった。これ以上失うものがあってはならないのだ。だからこそ、樹の声が戻ってくることを頑なに信じ続ける。

 信じ続けるしかない。

 

 

 日曜日、東郷に呼び出され、友奈と風は東郷の家に招待された。友奈は隣接しているから見慣れているが、風は正門前で棒立ちし、呆けた顔でその立派さに圧巻されている。

 しばらくすると使用人に東郷の自室に案内された。

 ドアは格子戸で、部屋のすぐ外は観賞用の美しい植物が見え、振りかざす太陽の光と相まって実に趣がある。部屋の家具もすべて木製でできていて、見た目も簡素だ。車椅子だから他の椅子は必要なく、スペースが広く見えるのも理由のひとつだろう。

 

「それで用ってなんなの? あたしと友奈だけって」

 

「ちょっと、ふたりに見てもらいたいことがあるんです」

 

 そう言って東郷は机まで移動して引き出しを開けた。そしてある物を取り出す。

 

「東郷さん……?」

 

 友奈は不安げに声をかける。

 ……それは、刃渡り二十センチほどの小刀だった。鞘を抜き、鈍色の刃を覗かせる。東郷は震える呼吸を整えた。

 なんとも言えない緊張が走り、何をしようとしているのかまるでわからない友奈と風はただ見守るだけだった。

 すると突然、右手で柄を掴み、峰を左手で押さえて自らの首に押し当てようとした。

 風は止めに入ろうとしたが当然間に合わず、刃が首の皮を裂く刹那の差で防いだのはどこからともなく現れた東郷の精霊だった。首と刃の間に割り込み、張ったバリアが激しく弾けるが、力ずくでもこれを東郷は突破しようとしているのがわかる。

 

「あんた、何しようとしたのかわかってんの!!」

 

 風が怒りに任せて怒鳴る。他人の家だからという遠慮など無視して、詰め寄ろうとした。

 しかし東郷はなんの反応も示さず、小刀を首から離した。すると精霊はバリアを消す。

 そして東郷が次にとった行動は誰にも予測することなんてできるはずがなかった。

 

「――ごめんね、友奈ちゃん」

 

「ぇ……?」

 

 柄を親指と人差し指で挟み、直角に構える。そして目にも止まらぬ速さで投擲した。

 咄嗟に東郷に近い風が手を伸ばすが届かない。友奈が見た東郷は、何かに縋るかのように必死に見えた。

 ――勇者として鍛えられた命中精度は寸分も狂うことなく、小刀は友奈の胸元へ吸い込まれるように飛んだ。




現実を突きつけられてもそれは違うと否定する。それはまるで駄々をこねる子供のようだ。

次、答え合わせ。
ここまでは頑張って書きたいね。

それではまた次回


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現実

前回のあらすじ
その無知は引き剥がされる。

答え合わせ。


 ――小刀、一閃。

 過たず捉えた友奈の胸。

 しかし、それは端末から飛び出してきた牛鬼によって東郷の時と同じようにバリアによって防がれた。

 小刀が床に突き刺さり、友奈はそれをまるでサーカスの演目に驚いたような目で見下ろす。

 命を懸けた戦いを経験しているからこそわかる。今の投擲は、命中すれば友奈を絶命しうるものだった。

 風は無言で東郷の手加減することなく頬を張った。……誰も見たことのない憤怒の形相だった。バチン! と甲高い音が鳴り、さらにその胸元を掴み上げた。強引に車椅子から立たせ、床へ投げ捨てる。

 

「……あんた、見損なったわ。帰ろう友奈」

 

 風が友奈の手を取り、部屋を出ようとする。

 いつも友奈好きを公言しているはずなのに、今の行動は到底許しがたいものだった。これは警察沙汰にも発展する。呼ぶべきかどうか頭の隅でチラついたが、そんなことをまともに考えられないくらい混乱してしまっていた。

 自殺を試み、さらにそれに失敗したからといって友奈に手を出したのだ。

 

「――待ってくださいっ!」

 

 東郷の大きな声に、風はそれ以上の声で叫んだ。

 

「待たない!! あんたみたいな狂った奴の近くに友奈をいさせるわけないでしょ⁉」

 

「お願いです! 私の話を聞いてください!」

 

「誰があんたの言葉を信じると思ってんの!! それ以上口を開いたら黙らせるわよ⁉」

 

 激しい言い争いが続く。東郷は必死に腕を伸ばして床を這いつくばり、車椅子に手を伸ばそうとしている。しかしそうはさせないとばかりに風は車椅子を蹴り飛ばした。そして急いで友奈を廊下へと押し出そうとした。しかし友奈は今ひとつ状況が理解できていないようだ。「え? え?」と困惑しながら風の覇気迫る勢いに流されている感じだ。

 

「ちょ、ちょっと風先輩?」

 

「家に……! いや隣接してるからダメか。じゃああたしの家に来なさい! ついでに今日は泊まって――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「えっと、風先輩はなんでそんなに怒ってるんですか? 東郷さんに手を上げるなんて駄目ですよ。ちゃんと謝らないと」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………………………………………………………………………………、は?」

 

 これまで頂点に達していた怒りや困惑、悲しみの混じった感情が一気に冷めるのを感じた。

 友奈はよくわからないといった調子で風を問い詰める。もしかして風のやっていることの方が狂った行動なのかと錯覚してしまいそうだった。

 その間に風から離れた友奈は蹴り倒された車椅子を起こし、自分を殺そうとした東郷を抱きかかえて丁寧にそれに乗せたのだ。常軌を逸する行動にパニックになり、風は現実を疑う。

 今、ひょっとすると悪い夢を見ているのではないか、と。いやしかし朝食にうどんを四杯も平らげたから意識はしっかりしているはずだ。

 助けられたはずの東郷は顔を伏せ、嗚咽を漏らし始める。ぽたぽたと床に涙が落ち、場の混乱に拍車がかかる。

 その目の前に友奈は膝を付き、赤くなった頬に手を伸ばしながら覗き込むように様子を窺った。

 

「東郷さん大丈夫?」

 

 その屈託のない優しすぎる言葉についに東郷の我慢が限界を突破してしまった。

 友奈の手の上に自分の手を重ねて泣き叫ぶ。

 

「大丈、夫じゃ……ないよ……ッ! 友奈ちゃん……! どうして……!」

 

 ぐいっ、とそのまま強引に引き寄せられ、頭が東郷の胸に収められる。まだ状況が理解できない友奈はされるがままだ。

 

「どうして友奈ちゃんは……さっきのを避けようとしなかったの……」

 

 東郷と友奈の距離はある程度離れていた。だから何かしらの反応――回避行動をとったり、身をすくめたりできたはずだ。しかし友奈はそのような行為は一切せず、逆に比較的距離の近い風の方が反応速度が速かった。

 勇者としての戦闘経験ならば、勇者システムによって身体能力が強化されていなくても直感的に反応できるはずだ。

 なのに友奈は何もしなかった。東郷の本気の、人殺しになり得る攻撃に対して完全に無防備を晒し続けたのだ。あまりの異質さが逆に東郷の中のある仮説が現実味を帯びる。

 

「勇者は死なないから……だと思うけど……?」

 

「っ……! それはおかしいよ……友奈ちゃん…………」

 

 ――さも当然のように語る口から、人間として致命的に欠けた『何か』がついに姿を現した。

 

「友奈……何、言ってるの……?」

 

 風もぼんやりと『何か』を認知することができた。言葉にできない不明瞭な欠落。しかしそれなくして人でない決定的なモノ。

 散華をするものとしての候補はずっと四肢か五感のいずれだと東郷は予想していた。実際自分自身と犬吠崎姉妹はこれに当てはまっているからだ。友奈もその例に……と思っていたが、それはより悪い意味で裏切られた。

 凍りついた風の顔つきが溶けることはなく、ふらふらと近づいて友奈の両肩を掴んだ。

 

「自分がおかしいってわからないの……?」

 

「おかしいって……え? 私はいつも通りですよ? 結城友奈、昨日は元気に休んだので今日は元気百倍です!」

 

「――――――」

 

 ……風は何も言葉をかけられなかった。

 言葉が見つからない。どうしようもないこの絶望を表現するに相応しい言葉が見つからない。

 身体的に何を捧げたのかはわからないが、大まかになら完全に理解した。その残酷さもだ。これは、三人の散華などまるで甘えのようにすら思えるほどだった。

 顔をくしゃくしゃにして上を仰ぐ。

 

 ……ああ!

 ……ああ!

 いったいあたしはなんて酷いことをしてしまったのだろうか!! 勇者部に招き入れなければこんなことにはならなかったはずなのに!! すべて、すべてあたしの責任だ……!!

 

 許されない罪を、たかが中学三年生がどうやって償おうというのだろう。

 そのまま身体を引き寄せ、普段樹にするよりも遥かに力強く友奈を抱き締める。 そして友奈の服を汚してしまうことなどお構いなしに顔を埋めて大声で泣いた。

 

「ぅ、あ、あああアあアアア――……ッ!! ごめん! 本当にッ……ごめんな、ざい!!」

 

 十年と少ししか生きていない少女には、こうして感情を爆発させて謝り続けることしかできない。その中で、自分は大した力のない、ただの子供であることを思い知らされる。

 勇者だなんて大層なお役目を頂戴しようが、満足に罪の償い方すら知らない未熟な子供なのだ。

 

「え? え? なんで泣くんですか⁉ なんだかふたりともおかしいですよ?」

 

 振りほどくこともせず、友奈はひたすら必死に謝り続ける風をたしなめるように頭を撫でながら東郷に助けを呼んだ。しかし東郷は泣きじゃくるばかりでまるで力になってくれそうにない。

 ようやくただならぬ事態であることをなんとなく理解した友奈は陽気な態度をやめ、落ち着いた口調で話しかけた。

 

「どうしたの、東郷さん」

 

「試すために殺そうとしたりしてごめんね……! でも、友奈ちゃんが何を散華したのか私っ、わかっちゃた……!」

 

「気にしないでよ東郷さん。それより私の散華がわかったんでしょ? いいことだよ」

 

「よくない! 全然良くないっ!」

 

 大きく頭を振り、どこまでもわがままを突き通そうとする幼い子供のようだ。普段の東郷なら絶対にしないようなことを今、大切な友奈の前でしている。……それも友奈の言葉を否定してまで。

 嫌だ嫌だと激しく首を振る東郷を尻目に、本棚の上に飾られている写真立てを見た。数枚は勇者部全員を撮ったものだが、それ以外はすべて友奈単体のみか、東郷と一緒に写っているものだった。

 そして自分がどれほど大切に思われているかを知る。思われているからこそこれほど泣いている。

 言うべきか、言わざるべきか。その判断に苦しんでいる。いつまでも抱え込んだままではきっとどっちにとっても辛くなる一方だ。だから今ここで吐き出させてあげよう。

 

「……いつか知るよりも、今知るほうが気が楽になると思うから、できたら教えてほしいな」

 

 すると風は身体を引き離して懇願するようにお願いしてきた。

 

「やめておきなさい……。お願い。これは知らないほうがいいのよ……」

 

「でも、いつまでも逃げるわけにはいきません。いつかは向き合わないといけないから、なるべく早いほうがいいと思います」

 

 知らないまま過ごしてきたツケを未来で払わされるより、今知り、徐々に受け入れるほうがよっぽど楽だ。

 

「そう……。友奈は『強い』のね」

 

「そんなことはないですよ。……さあ、東郷さん。教えてくれる?」

 

 親友に散華を告げるということは、確信があり、揺るぎないものであるという意味を含む。この余命宣告のようなことを果たして容易に口にできるだろうか。惨たらしくも慈悲に満ちたこれを、いったい誰がしようものか。

 ……しかし、だからこそ(・・・・・)東郷は意を決する。

 誰よりも大切な親友のためにどんな残酷なことでもしてみせる。これからずっとその障害に対して無知だあり続けるより、たとえ傷つけてでも早期に未来で成長しきる癌を切除してみせようという愛ゆえに。

 奥歯が割れそうになるほど力強く歯を食いしばる。そして、言った。

 

「友奈ちゃんは……危険を認識することができない。だから頭を打っても平気だし、バーテックスに蹴られてもすぐに立ち上がった。痛みを本能的な『痛み』として認識できない」

 

 ふとこの間完治したばかりの頭の傷に意識が向く。

 これは夏凛を説得するときに不慮の事故によって負ったもの。しかしこの時はそんなことより夏凛の方が大切だった。

 危険がわからない……? 東郷の言っている意味がよくわからなかった。そんなことはない。一昨日のバーテックス戦だって、気をつけていたから大きな怪我もせず完勝できたのだ。強烈な足蹴りを一度腹に受けたがそれだけだ。

 痛かった。痛覚がないとかそういったことはない。痛かった。でも大丈夫だ。なぜならその怪我が致命傷ではないから。その場で動けなくなるほどのものではないから。動けるのならすべては軽症で、大丈夫だ。

 ……。

 …………。

 ………………。

 ………………、…………どこがおかしい?

 

「痛いものは痛いよ? 痛いからこそ……から、こそ……えと……そう! 我慢するんだよ!」

 

「……虚勢を張るのはやめよう友奈ちゃん」

 

 東郷に手を握られた。そしてそのまま引き寄せられる。風の熱情の抱擁から離脱し、すっぽりと膝上に頭を乗せられた。

 優しく頭を撫でられた。一度。二度。三度。

 

「でもね、本当はその程度のものじゃないの。もっと深いところ。私が友奈ちゃんを殺そうとしても何も抵抗しなかったわ。命の危険なんだよ? おかしいよ。……友奈ちゃんは死に鈍感になってしまったのでは? 言い換えると、生きようとする本能……意志を散華した。思い当たること、ない?」

 

「いや、そんな――――――――…………。あっ」

 

 虚ろな弾丸に頭蓋を貫かれたような長いラグの後に、脳汁が泡となって熱く弾けた。

 思い当たる節が、あった。

 あまり食事がとれなくなった。

 寝るつもりがなくても気づいたら朝になっていた。

 うまく言葉にできないことがあった。

 恐怖を感じなくなった。でも勝手に身体が震えるようになった。

 怪我をしやすくなった。

 どれも満開をした後に起こったことだ。でもこれらは偶然で、たまたまそういう気分、もしくは体調が優れなかっただけだと無意識に自己補完していた。

 これらすべては生きる意志を失ったから、というひとつの原因に帰結する。でもこれだと奇妙な点がひとつある。

 

「でもっ、それだったら私はもう死――」

 

「何かを無くしてもそこに繋がる回路は生きているの。私の左耳は無意識に音を聞こうとするし、風先輩は眼帯をしているけどものを見ようと目を開いている。樹ちゃんは声が出ないのに声を出そうとする時がある。……私達は惰性でこれまで通りの生活を送ってるのよ。でもいつかは無いことに慣れてしまって……。だから……だか、らっ」

 

「……私が今生きているのは、なんとなく生きているだけ(・・・・・・・・・・・・)ってこと?」

 

 東郷は無言で頷いた。

 それは生きているふりをしているのと同義だ。同時に、その回路の接続先が完全に死んでいることが確認されたら……つまりその状態に慣れ(・・)てしまえば断線される。これは友奈にとっては死への直結を意味する。

 文字通り、人でなし(・・・・)なのだ。

 その事実にようやく気づいた時、友奈は初めて恐怖を知った。表層的な中身のない恐怖ではない。本能に訴えかけるものだった。その瞬間、指が震え始めた。それだけではない。身体全体が小刻みに震え始めた。

 全身から冷たい汗が吹き出し、視界はいつの間にか滲んでしまっていた。呼吸がうまくできない。ひとつまみ分の空気を貪るように吸う。

 これはきっと、最後の本能。残った僅かな欠片を束ねて送られた最後の危険信号。

 

「私、死ぬの……? それは、い、嫌だ……。東郷さん、私死んじゃうの? 嫌だよ……怖い……。怖いよ……! 助けてっ!!」

 

 必死にしがみついた。

 両腕でがしりと東郷の両脚を掴み、スカートにぐちゃぐちゃな顔をなすりつけた。涙と鼻水でスカートを濡らす。

 必死に生にしがみついた。

 何度も何度も東郷は頭を撫でる。

 何度も。

 何度も。

 そして溢れんばかりの感情を爆発させた。

 

「うん……! うん……!! 絶対助ける!! 何があっても友奈ちゃんを助けるよ!! あの時そう約束したから!」

 

 夕陽の暖かい光が差し込む病院の廊下、あそこで友奈が語りかけてくれたこと。つい数日前のことだ。忘れるわけがない。忘れてたまるか。

 あの時互いに助け合うと約束を交わした。友奈がどこまで真剣に受け止めたかはわからないが、東郷にとってこれは誓いだった。

 上半身を曲げて友奈の頭の上から覆いかぶさる。全身を使って包み込むことで友奈の慟哭をすべて受け止めた。

 優しく。優しく。どこまでも無限に受け止める。

 そして、泣き疲れた友奈が眠りに落ちてもずっと抱きしめていた。

 

「…………東郷、ごめん」

 

 風は目を赤くしながら謝罪を口にした。

 

「謝る必要なんてありません。寧ろ私を殴ってでも友奈ちゃんを助けようとしてくれたことにお礼を言いたいくらいですよ」

 

 起こさないようにゆっくりと身体を起こし、涙と涙が乾燥してかぴかぴになった顔が覗かせる。当然東郷のスカートも濡れていて、あとで洗わないと、とくすりと微笑む。ティッシュで友奈の顔をキレイに拭き取り、ベッドまで風に運んでもらう。

 

「私や友奈ちゃんのように、精霊は私達の意思に関係なく活動します。これは死なせないためではありますが、勇者という役割に縛り付けるためでもあると思うんです」

 

「ごめん…………ごめん」

 

「謝らないでください。先輩も知らなかったんですから、仕方ないですよ」

 

 誰も知らなかったから仕方ない。免罪符なようなものだが、大赦のせいだと都合よく責任を押し付けることで心の平穏をギリギリで保たれている。どれだけ言葉を言い繕ってもそこに戻ってきてしまう。やるせなさに心に影がさす。

 

「友奈のこと、あたしにも守らせてほしい。できることなら何でもするから」

 

 風が穏やかな寝息を吐いて眠る友奈の前髪に触れる。桃色の髪は絹のように柔らかく、さらさらと指をすり抜ける。

 なんとしてでも守りたいという、強い願い。

 絶望と責任。

 部長として、先輩としてできることは何か。それは少しでも部員たちを安心させること。

 嫌なことが起こってほしくないから、旅行のとき東郷を非難した。だが今となってはそれは正しい行動ではなかった。正しかったのは東郷だった。

 どこまでも自分はだめだと思う半面、独りだけでは大したことはできないと気付かされる。

 ……だからこそ、勇者部の皆で。

 

「……絶対に助けてみせるわ」

 

 可愛らしい寝顔を見ながら、風は決意を口にした。

 

 ◆

 

 目を覚ますと時計はすでに四時を回っていた。およそ二時間ほど寝ていた計算になる。

 飛び起きた友奈は手を誰かに握られているのに気づいた。

 東郷だ。車椅子の背もたれに背中を預けながら船を漕いでいた。起こさないようにゆっくりと手を移動させ、肩を揺さぶる。風の姿はない。もう帰ってしまったのだろう。

 

「東郷さん。東郷さん」

 

「んっ……」

 

 まだ眠りから覚めないようだ。艷やかな唇がもぞもぞと動き、一度頭を上げたかと思うとそれに特に意味はなく、再び船を漕ぎ始める。

 今度は頬を摘む。そのまま横に引き伸ばす。柔らかい頬は餅のように伸び、つい友奈は小さく吹き出してしまった。

 もう少し伸ばせるかな? と面白半分に試そうとした時、東郷が目を見開いた。たっぷり十秒ほど見つめ合う。

 

「あっと……」

 

 東郷が『にっこり』とそれはそれは慎ましい笑顔を浮かべる。

 友奈も笑顔を返すが、口元が引きつっている。

 

「ゆ〜う〜な〜ちゃ〜ん?」

 

「ご、ごめんなさーい!」

 

「仕返しよー!」

 

 東郷に襲われる。

 むにむにと執拗に頬を摘まれ、みょーんと伸ばされる。伸縮を繰り返し、満足して解放される頃にはすっかり頬の筋肉が緩くなってしまっていた。

 ベッドから起き上がり、頬をほぐしながら大きくノビをする。

 

「そろそろ帰ろっかな」

 

 明日は学校だ。これから日常生活が再開される。

 散華の正体を知ってしまい、どうしようもない絶望を感じたが、今やすっかり気分が良い。

 生きているふりが終わってしまえばその時点で死だ。正直なところ現実味がなく、むしろ楽観視すらしている。

 要は生きていればいいのだ。常に生きているという確信を抱き続けていればいいのだ。……が、ただそれだけの意識する必要すらないはずのことが、友奈にとってはとてつもなく困難なことだ。

 

「送っていくわ」

 

「送るっていってもすぐ隣だよ?」

 

「いいのいいの。私がしたいから」

 

「じゃあお願いするね」

 

 いつも通り東郷の車椅子を押して部屋を出て、外に出る。夏が終わったものの、まだ残暑は続いている。湿気はないが、シンプルな暑さは健在だ。

 

「……友奈ちゃん」

 

「なに?」

 

 頭だけこちらに振り向いた東郷は諭すように語りかける。

 

「精霊が守ってくれるから勇者は死なない。だから友奈ちゃんも死ぬことはないはずよ。でもいつまでも勇者ではいられないから、そのうちに解決策を探してみせる」

 

「……ありがとう」

 

 あらん限りの感謝を込めて、ただ一言に集約させた。それだけですべてを伝えるには十分だった。

 死がわからない。

 今になって振り返るとあれほど泣きじゃくっていた自分が馬鹿に思えてきた。そこまで大げさにならなくていいのに、と。

 石畳の地面を通り過ぎ、正門をくぐる。すぐ左隣の家こそが友奈の家で、『結城』と表札がある。

 

「じゃあね、東郷さん。また明日」

 

「ええ、また明日」

 

 これだけは、何があっても変わることのない会話だった。身体の髄まで染み付いた不変のもの。

 車椅子のグリップを離し、東郷に背中を見せて家に帰る。特に何らおかしなことなどない日常だ。しかし、それは突然聞こえてきた鋭い悲鳴によってかき消された。

 何事かと振り向けば、ひとりの男性が女性からかばんをひったくろうとしていたのだ。女性は懸命に抵抗するも虚しく、かばんを強奪されてしまう。

 白い帽子にマスク、上下に黒のスポーツウェアを着た男性はそのまま走り去ってしまう。

 そして友奈の身体はあの男性を追うべく勝手に動いていた。

 

「友奈ちゃん待って!」

 

 東郷の呼び声が背中に刺さる。しかし友奈は止まらなかった。これは勇者としてなどではなく、人として当然のことをするべきだと思ったからだ。

 

「行ってくる!」

 

 踵を返して追いかける。勇者として鍛え上げられた基礎体力を舐めてもらっては困る。それにここ一帯は網羅している。

 友奈の追跡に気づいた男性が走る速度を上げる。運良く青になった横断歩道を全力で走り抜け、商店街に入り込む。そこで店頭に立ち並ぶ商品棚を乱雑に薙ぎ倒す。

 棚に陳列された商品が次々に道端に広がり、足場が減るも華麗な足さばきで通り抜ける。店のスタッフに「ごめんなさい!」とだけ叫んで男性の後を追う。

 しだいに息が上がってきたのか、友奈の耳に聞こえるほど激しく呼吸する。対して友奈の体力はまだもうしばらくもちそうだ。劣勢になったのに気づいた男性は咄嗟に裏路地に身を投げる。

 同時に友奈はしめた、と有利を悟った。その道は比較的横幅の狭い道。身体の小さいこちらのほうが動きやすい。

 向こうも飛び込んでから気づいたようだ。しかしところどころ壁に肩を擦りながら逃げ続ける。距離は確実に近くなっている。あと三メートルほどだろうか。もう少し近づけば手を伸ばしてかばんに手が届く。

 そろそろ友奈にも体力の限界が近づいてくる。全力疾走でここまで走るのはかなり消耗させられた。だがこれでもう終わる。

 距離が近づく。手を伸ばす。裏路地はあと数メートルで終わってしまう。ここで捕らえなければ精神的疲労もピークに達して逃してしまいそうだ。

 呼吸は荒れたものになり、乾燥した空気が喉奥を刺す。視界は目の前の男性一点に絞られる。

 限界まで手を伸ばす。残り数センチもない。

 

 ――いける!

 

 そう確信した友奈は力を振り絞り、飛びかかる勢いで力強く地面を蹴った。腕を振り、かばんの紐を掴もうとした。

 

 ……だがそこで裏路地は終わってしまった。

 

 右に急なターンをした男性に対応できず、その手は紐を掴むことができなかった。全力を出したのに捕まえられなかったという落ち込みが、一気に友奈に襲いかかる。そしてそのまま勢いを殺せず、真っ直ぐに数メートル進む。

 せめてもう少し特徴を覚えておこうと最後の足掻きとして男性の姿をもう一度捉えようと顔を上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……視界いっぱいに車の車体が飛び込んできた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ここは……車道だった。

 友奈は勢い余って車道に飛び出してしまったのだ。今頃男性は上手く撒くことができたと歩道を歩いていることだろう。

 

「ぁ」

 

 と口の端からそんな声が漏れた。

 運転手の顔がよく見える。三十代くらいのメガネをかけた真面目そうな女性だ。その顔は驚きに彩られている。

 ああ、これが走馬灯というものだろうか。今までの思い出がほんの一瞬で溢れ出す。幼稚園の思い出。小学生の思い出。もちろん家族の思い出。そして中学生の思い出。なにより、人生で最も濃密な時間を過ごした勇者部の思い出。どれも名残惜しいものばかりだ。

 世界がスローモーションに感じる。しかしここで東郷の言葉を思い出した。

 

 ――精霊が守ってくれるから勇者は死なない。

 

 ならそこまで重く受け止める必要はない。今にでも精霊が現れて強力なバリアで守ってくれるはずだ。

 ついに世界のスローモーションは終わり、等倍になって再生される。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――そして、精霊は現れなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 刹那、腹部に鉄の塊が衝突した。

 身体の中で聞こえてはいけない鈍い音が響いた。友奈の華奢な身体は軽々と宙へ跳ね上げられる。平衡感覚を失い、上下左右がわからなくなる。気づけば地面に倒れていて、ようやく自分が轢かれたことを理解した。

 指先ひとつ動かすことができない。灼けるような熱を孕んだ激痛が全身を蝕む。頭蓋が割れ、脳汁が飛び出しそうだ。耳の奥、目の奥、口の奥が熱い。視界は赤く染まり、ものがよく見えない。ただ、鼻腔を刺激する鉄分の匂いがして、自分が血溜まりに沈んでいることがわかる。

 これは致命傷だ。そして同時に大きな疑問を抱く。それは、なぜ精霊が現れなかったのかということ。

 心臓の鼓動が恐ろしい速さで弱まるのを感じる。ついに目を開けるほどの力も尽き、瞼を下ろす。

 世界が救われたことを知らない盗人は今日も盗みを働く。

 世界が救われても勇者は勇者であろうと人のために行動する。

 ………………………………………………………………………………ああ。わかってしまった。

 

 死を認識できない人が人の生活……生をどうして守れるのだろうか。人でなしが人を守ろうなどと、なんとおこがましいことか。

 つまり。

 すでにあの時から。

 友奈が自分を人でなしとわかってしまった時から。

 もう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 結城友奈は勇者ではない(・・・・・・・・・・・)




DEAD EN――

答え合わせ。
生の意志。渇望。
つまり、友奈ちゃんはリビドーを散華しました。

当初の目標のところまで書けたのでこれにて完結とします。
が、ゆゆゆがもっと広まってほしいからランキングに載るか自分の気分が乗ったら続くかも。

では、お疲れ様でした!


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それでも
Result


たくさんの方たちの感想や評価、嬉しい限りです。ランキング入ったのかな? 毎日チェックしてるわけじゃないから知らんけど。
さて、本題ですが、DEAD ENDと断言していないので続けます(愉悦)
目標は一期終了まで。
テーマは『それでも』です。


 生を知る。死を知る。

 その先に死の回避を求め、生の謳歌を切望する。が、それが理解できない。

 ……見渡す限り、水銀の海だ。

 覗き込んでも底がどこまで深いのかなんてまるでわからない。

 そして何を思ったのか、身を投げ出した。

 粘性の高くはない液体だが、途端、全方位から押し潰されるような圧力に苦悶の声を漏らす。やがて肺の中の酸素が足りなくなり、駄目とわかっていても身体が空気を取り込もうと口を開いた。

 当然水銀は肺を満たし、ずしりと身体の重量が増す。不快感にえづくことすらできずに手足をがむしゃらに動かす。

 

 ……深く、もっと深く。

 

 地獄だ。

 沈むほど水圧は容赦なく身体を押し潰す。出鱈目に呼吸をしてもポンプ式で水銀を身体に取り込むだけだ。血がすべて鉛に変換されたように重い。

 

 ……深く、深く。もっと深く。

 

 地獄だ。

 メキメキと骨が軋む。この痛みをどうやっても発散させることができない。水銀の重みがのしかかり、ついにまったく身動きすらできなくなる。

 

 ……深く、深く、深く。もっと深く。

 

 地獄だ。

 

 ……深く、深く、深く、深く。もっと深く。

 

 地獄だ。

 

 ……深く、深く、深く、深く、深く。もっと深く。

 

 地獄の底へ。なお深く。意識が霧散しようとその身はゆっくりと沈んでいく。

 

 …………深く、深く、深く、深く、深く、深く、深く、深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く深く――――…………。

 

 長い時を経て、ついに底へ到達する。

 すでにモノと化した肉塊は命の残り火を燃やして手を伸ばす。何が目的で底を目指したのかわからない。そもそもどうしてこんな場所にいるのかもわからない。それでも釈然たる意志があった……かもしれない。それは失われた何か。思い出すことはできない。

 そして、爪の剥がれた指先が底に触れた瞬間。

 パシャ! と肉塊は水風船のように弾けた。

 

 ◆

 

 深いまどろみから這い上がる。

 友奈は眩い光に気づき、ゆっくりと目を開けた。視界が霞がかり、よく見えない。左の人差し指の先に何かを挟まれている。おそらくこの前乃木園子のしていてものと同じ、パルスオキシメーターだろう。そしてさらに断続的にピ、ピ、と腕に繋がれた機械音がリズミカルに聞こえる。

 首を動かすと、淡い人影が四つ見えた。しだいに意識が覚醒し、視界も明瞭になってくる。

 人影の正体は勇者部の皆だった。友奈が目覚めたことに気づいて慌ただしくなり始めている。

 ぼんやりと四人の顔を見て、一言目を発する。

 

「あ~っと……」

 

 腑抜けた言葉だったが、それだけでも四人は友奈の無事に震え、今にも涙が決壊しそうだった。そして起き上がろうとして、友奈は妙な違和感を覚える。身体に力が入らない。寝ぼけているのかもしれない。もぞもぞと布団の中で少し身じろぎをして友奈はその正体を探る。

 そして、ゆっくりと顔を上げた。その顔は驚きに彩られていた。

 

「あ、れ……。右腕……うご、かない。右の、脚も…………」

 

「「――――――」」

 

 右腕の感覚が何もない。まるでただ肩の先にくっついている肉の重りだ。手首に触れ、軽くほぐしても触れられているという感覚がない。自分の一部ではないものを触っているかのよう。右足についても同様だ。次第に混乱が頭の中を支配し、息が荒くなる。

 半ば夢中になって全身に触れ始める。どこか変になっているところはないか。ただの肉の重りになってしまったものはないか。左脚、首、鼻、腹、口、うなじ――。

 

「友奈ちゃん!!」

 

「ウ、あッ――」

 

 東郷に左手を掴まれ、ようやく半狂乱に陥っていた友奈はビクッ! と身体を震わせて動きを止めた。病衣が汗で肌に貼り付き、白い顔で東郷を見上げた。

 

「変だよ、東郷さん……これ、なに……」

 

 東郷には何を言っているのか一瞬わからなかったが、友奈の視線で気づくことができた。動いていない右腕を、懸命に動かそうとしているのだ。肩のあたりがぷるぷると震え、額から球の汗を噴き出している。

 どうしようもない現実に東郷はもちろん、誰もが言葉を発することができなかった。水を打ったように静まり返り、友奈のぶつぶつと呟く声だけ虚しく聞こえる。

 これまで当然のようにできていたことができなくなる。この不快感はおよそ言葉に表現できるものではない。

 静寂を突き破って口を開いたのは風だった。

 

「……覚えてる、友奈? あんたは……一昨日車に轢かれたの。それで脳梗塞を起こして右半身のっ、麻痺が……っ」

 

 顔を背けながら、塊を吐き出すように語る。

 しかし口元がキュッと引き締まり、後が続かない。

 そして耐えきれなくなったのか、その場に泣き崩れてしまう。嗚咽を隠すことなく漏らし、ポロポロと涙を流す。

 

「あの時私が帰ってなければ……! そうすれば、こんなことには……っ!!」

 

 絶対助けると約束したその直後にこんな理不尽なこと……。あまりにも……酷い。約束はその日のうちに破られ、どうすることもできない後悔は一生風に付き纏うことだろう。

 立場を代われるものなら喜んで代わる。しかしそんなことはできやしない。どれだけ自分勝手な願いを抱いても、現実は辛い事実を突きつけるのみ。

 

「友奈ちゃん……精霊はどうしたの? 守ってくれるはずなのに」

 

 東郷が核心に迫る質問をする。すると友奈はベッド横の台に手を伸ばして携帯を取って少し操作をした後、画面をこちらに向けた。

 画面には警告とともに『勇者の精神状態が安定しないため、神樹との霊的経路を生成できません』と赤い文字が並んでいる。

 つまり神樹とのパスが繋がらないというのは、勇者に変身するための力を神樹から授かることができないという意味だ。

 友奈は勇者ではなくなった。だから精霊に守護されることなく車に轢かれた。

 東郷の目が見開かれる。散華の内容を教えたことで友奈の精神を大きく揺さぶったからに違いなかった。知ってしまったことへの絶望。これがその結末だ。

 

「勇者じゃなくなったけど、もう戦う必要ないから大丈夫だよっ。それに、死んだわけじゃないしね」

 

 しかし友奈は先程までの影の差した雰囲気とは打って変わって、ケロッとした陽気な口調で語り始める。

 東郷は発狂しそうになった。

 右半身の麻痺に気づき、それに『慣れる』までがあまりに早すぎる!

 これは友奈の超ポジティブさが原因などではない。

 これすらも(・・・・・)散華の影響を受けてしまっているのだ!!

 二年前の東郷は動かない下半身を受け入れることができるようになるまで長い時間を要した。だが友奈は五分も経たないうちにそれへの関心が薄れてしまっているように見える。今、そんなに陽気でいられるはずがないのに! どうして! どうして⁉

 東郷の中で悲痛の叫びが反響する。

 

「何言ってんのよ友奈……。なんか……言葉にできないけど……なんかおかしいわよ……?」

 

 友奈の急激な変化に異常を感じた夏凛が動揺混じりの声で問い詰める。

 

「そんなことないよ夏凛ちゃん。右腕も右脚も動かないのはびっくりだけど――――ぁ」

 

 ようやくここで友奈も自分が何を言っているのか気づいたようだ。ゆっくりと四人の顔色を窺い、ぎこちない動きで風の名前を呼ぶ。

 

「風、先輩……」

 

 風は青ざめた顔で、まともに会話すらできないほど落ち込んでいた。樹に支えられて立つのが精一杯というほど。何度も何度も絶望に叩きつけられた。その度に勇者部さえつくらなければと激しく自責している。

 どれほど残酷なことがこの場で起こっているのかをぼんやりと理解した友奈は言葉を詰まらせる。

 

「と、東郷さん……」

 

 困惑した顔で助けを求められ、東郷は瞬時に行動を始めた。

 これ以上友奈と誰かを会話させるのは良くない。友奈の無意識に吐き出すボロが互いに心を傷つけるだけだ。それに何より、感情的な夏凛と最年少の樹に友奈の異変、さらに言えば散華の存在を知られてはならない。今より酷い地獄はなんとしてでも避けなければならない。

 凍りついた顔の筋肉を無理やり動かし、東郷は催促する。

 

「友奈ちゃんは……友奈ちゃんは、起きたばかりで疲れてるのよ。だから今日の面会はこのあたりにしましょう」

 

 半ば強引ではあったが、あまりの風に樹が心配そうに肩を貸すことで空気は解散という方向に流れ始める。部長でこれなのだ。東郷には想像できないほど大きな後悔をしている。今はそっとしておくべきだ。そしねあとで何らかのフォローを入れなければならない。

 

『また来ますね』

 

 と最後に樹がスケッチブックをこちらに向けた。

 夏凛はまだ腑に落ちなさそうな様子だったが、まだひとりだけ居座るわけにもいかず、後に続いた。

 

「……ありがとう、東郷さん」

 

 最後にふたりだけになると、友奈はぽつりと呟いた。

 

「……ごめんなさい、友奈ちゃん」

 

 たくさんの想いを込めて、それだけ口にする。

 

「え、なんのこと?」

 

「全部」

 

 友奈は簡単に壊れてしまいそうな微笑みを浮かべた。

 

「……でも散華の内容を聞こうとしたのは私だし、東郷さんの声を無視して追いかけたのも私。自業自得なんだ。だから東郷さんや風先輩が謝る必要なんてどこにもないんだよ」

 

「でもね友奈ちゃん。違うの……違うのよ。私たちはもう、ただの勇者部に戻りたいだけなの。なのに……こんなことって……っ!」

 

 耐えきれなかった。

 友奈も壊れてしまいそうだったが、東郷もまた壊れてしまいそうだった。何に縋ればいいのかわからなくなってしまった。大赦の言葉を中途半端に信じ、結果として友奈は普段通りの生活を送れなくなってしまった。樹も風も、そして東郷もだ。

 どうすればいいか、わからない。何をどうすればこの状況を少しでもいい方向に向けられるかわからない。ただ一方的に神樹からお役目という餌に釣り上げられ、酷使され、捨てられたのだ。ここからどうすればいいか、もう何もわからない。

 

「ごめんね、友奈ちゃん! 私、もう、わからなくなっちゃったよ……!!」

 

 この悔しさをどうやって晴らせばいいのだろう! この代償を一生背負ったまま生き続ける自信などないというのに!

 東郷は幼い赤子のように泣き喚く。

 皆の前では努めて冷静であろうとしたが、ふたりきりになるともう我慢できなくなってしまった。決壊する。頭の中がぐちゃぐちゃだ。

 顔を伏せ、どこにもぶつけられない悔しさを叫ぶ。不安やストレス、絶望。

 もはや、東郷は限界だった。

 

「……生きているんだから。生きているんだから、まだ諦めちゃだめだよ、東郷さん。勇者部五箇条、ひとつ。なるべく――」

 

 どうして友奈がそこまで強くあれるのかがわからない。まるで不死鳥だ。何度でも立ち上がり、生きようと羽ばたく姿は、なんとも犯し難い神々しい存在だった。

 

「――あきらめ、ない……っ!」

 

 裏返った声で東郷は続きを口にした。

 すると友奈は優しげに「顔を上げてよ」と語りかけた。大人しく顔を上げると、友奈は左手を東郷の頭の上に乗せた。そして撫で始める。

 

「私も諦めないよ。生きることを。曖昧なままじゃなくて、きちんと生きる理由を持つんだ」

 

「理由って……?」

 

「まだわからないのが本当のところ。あはは……。でもね、必ず見つけてみせるよ」

 

 これは治らない傷の舐め合いに過ぎないのかもしれない。

 一生治ることはないとわかりきっている。それを誤魔化すように、遠ざけるように耐え忍ぶのがどうしようもなく悲しい。

 いつしか荒んでいた心は落ち着きを取り戻し、代わりに撫で続けていた友奈の腕はピリピリと痺れてしまった。

 まだ目元の赤い東郷は熱い抱擁を交わした。

 暖かい人の熱だ。それに心臓の鼓動を感じる。これは生きている何よりの証拠で、もう友奈をこれ以上傷つけないと再び誓いを立てる。

 

「私、頑張るから。東郷さんも頑張ろう。ね?」

 

「うん……! うん……!」

 

 これではどちらが励ましているのかわからない。

 病室を出る東郷の背中を見届けた友奈は、さらに静まり返った空間でひとり悔しさを滲ませた。あのような強がりを言ったものの、不安は根付いている。

 携帯の勇者変身機能はやはり無言を貫いたまま。唯一機能するのは、勇者たちの居場所を知らせるGPSのようなものだけ。

 そっと身体の向きを変えようとするが、右腕が変な向きになってしまう。それを見て友奈はやるせなさとともに携帯をスリープモードにした。

 ……不意に、寒さを感じた。

 きっと汗が冷えたものなのだろうと、友奈は深く布団を被った。

 昼過ぎだというのに、食欲はまるで無かった。

 

 ◆

 

 目を覚ますと夕方だった。

 友奈は隣に立つナースの存在に気づいた。

 その脇には車椅子がある。

 

「結城さん、車椅子の調整に来ました」

 

「あ、はい」

 

 促されるがままに、友奈はベッドから起き上がろうとした。しかし上手くできず、介護されながら車椅子に腰掛けた。両腕が動けば東郷のように自力で車輪を動かせるのだが、それすらできないため左側の肘掛けの先にレバーがついている。座枠の下にバッテリーが設置されている。

 移動できるようになるという喜びを感じると同時に、人間性を剥奪されたという屈辱を味あわされる。

 無意識に拳を強く握りしめる友奈に気づいたナースは、気まずそうに車椅子のグリップを握り、通路へ連れ出した。

 

「テストをしに屋上に行きますね」

 

「……わかりました」

 

 エレベーターに乗って屋上に上がり、ナースにドアを開けてもらって外に出た。病院の屋上は自殺防止のため基本的には封鎖されるものと思っていたが、どうやらそうではないらしい。実際ドラマなどではよく見るシーン。鉄格子は二メートルを超えるほどあり、登ることすら不可能だ。

 二日ぶりに吸う外の空気のはずだが、どうしてか数年ぶりに感じてしまう。

 ナースの指示に従って、バッテリー横のスイッチを入れる。すると唸りをあげて電源が入り、レバー下に緑色のランプが点いた。

 レバーを前に傾けると、モーター音が低く鳴ってゆっくりと前進を始める。男子なら喜びそうな機械だ。

 

「どうですか?」

 

 左右、バック。問題なく動作することを確認した友奈は「大丈夫です」と返事する。これから一生お世話になる相棒だ、近いうちに名前をつけてやらないといけない。

 鉄格子の前まで移動して夕焼けを眺める。

 

「……うん? こんなところに人なんて珍しいな」

 

 聞き慣れない男の人の声に友奈が後ろを振り向くと、ひとりの男が屋上に入ってきていた。

 ひょろりとした体型に、痩せこけた頬。達観したかのような目をしていて、灰色の浴衣を着た中年の男だ。

 第一印象は、おかしな人。

 男はゆったりとした足取りで友奈の横に並ぶと話しかけてきた。

 

「見ない顔だね。最近入院したのかい?」

 

 だが決して悪い人ではなさそうだった。とても穏やかな声で、第一印象は最速で外見だけおかしな人、に更新された。

 

「はい。車に轢かれてしまって……」

 

「そっか。……それは残念だったね」

 

 友奈の車椅子を見下ろしてすべてを察した男は、それ以上踏み込むことはなく当たり障りのない返事に留めた。

 

「えっと……」

 

「ああ、僕のことはおじさんとでも呼んでくれ」

 

「おじさんは、どうしてここに?」

 

 すると、おじさんは懐に手を入れて煙草を取り出した。しかしすぐさまナースに注意され、いたずらがバレた子供のような顔で大人しくしまう。

 

「すまないね。考え込むときは煙草を吸う癖があって」

 

「ここで煙草は駄目ですよ」

 

「確かに君の言うとおりだ。……ここにいる理由だったね。そうだね……」

 

 おじさんは目を細め、遠くを見つめながら言った。

 

「僕は昔、無理をしすぎてね。身体が弱ってしまって今は隠居してるんだ。この病院によく通院している」

 

「でも、なんとなくですけどすごく強そうに見えますよ?」

 

 戦いの経験があるからこそわかる。

 人だろうとバーテックスだろうと、強いものにはそれなりのオーラを感じるものだ。そしておじさんからも微かに同じものを感じる。全盛期だとどれほど強かったのだろうか。

 しかしおじさんはかぶりを振った。

 

「ははは、お世辞はいいさ。僕はそんな大層な人間じゃないよ」

 

 乾いた笑いを漏らすと、それきり黙り込んでしまう。

 もしかして言ってはいけないことを言ってしまったのではと罪悪感を覚えるが、どうやらそうではなかったらしい。

 おじさんはまじまじと友奈を見つめ、優しい目をして訊いてきた。

 

「お名前は?」

 

「讃州中学二年勇者部、結城友奈です!」

 

「元気でいいね。……ああ、あそこの中学か。それにしても初めて聞く部活だ。どんなことをしているんだい?」

 

 無邪気に尋ねるおじさんに、友奈は答える。

 

「人のためになることをする、です!」

 

「――――――」

 

 肉の削げ落ちた頬がぴくりと小さく痙攣した。そして少しした後、おじさんは微妙に口角を上げて微笑んでみせた。

 

「そうか。結城さんはとても素晴らしいことをしているんだね。それでどんなことをやっているのかな?」

 

「清掃活動や幼稚園でのレクリエーション、それと他の部活の助っ人にお店のお手伝い! あとは……」

 

「す、すごくたくさんのことをしているのか」

 

 驚いた表情でおじさんは話に聞き入る。

 とても聞き上手な人で、友奈はぽんぽんと聞かれたことに答えていく。

 

「逆におじさんは普段は何しているんですか?」

 

「僕? そうだな……」

 

 剃り残した髭をさすりながら考える素振りを見せる。

 

「家でのんびりしているね。あとは息子の料理を楽しみに待つくらいかな」

 

「息子さんがいるんですか?」

 

「うん。料理が恐ろしいほど上手でね。おかげで舌が肥えてしまったよ」

 

 愉快に笑うおじさんを尻目に、友奈は街の風景を一瞥する。

 紅く染まった風景を見下ろすと、なんとも言えない感動に身体が震えた。

 このおじさんがこうして幸せを噛み締められているのは、友奈たちが死にもの狂いでバーテックスと戦って勝利を収められたからだ。

 

 ――今になってようやく、自分たちのやってきたことの成果を実感した。

 

 焼き爛れそうだった心が、少し救われた気がした。

 陽だまりのような暖かさが胸を包まれ、友奈は嬉しさを感じる。

 ……そうだ、私たちのやったことは無駄などではなかったのだ。救われたことを知らなくても、人々は友奈たちが勝ち取った『今』を生きている。

 折れた勇者にとっても、他人の幸せはこれ以上ない救いなのだ。

 勇者の欠片がまだ微かにでも残っているのなら。

 勇者という夢をまだ抱いているのなら。

 

「おじさんは今、幸せですか?」

 

 と簡単な質問に。

 

「――ああ、幸せだよ」

 

 と屈託のない真っ直ぐな答えが返ってきた。

 

 ◆

 

 乃木園子はゆっくりと目を開いた。

 ……誰かが、来た。

 三日前の結城友奈の交通事故はすでに耳に入っている。勇者の資格はなくなったらしいが、この前の慰安旅行同様、大赦の温情によって素早く搬送、処置されている。車いす生活を余儀なくされたらしいが……果たしてどう受け止めるか。いくら天真爛漫なあの子でもそのショックは計り知れない(・・・・・・)。その様子を仲間がどう見るかも注意しなければならない。

 この場所は一般的な病室などではなく、もっと異質なもの。乃木のベッドを中心として社が建てられ、その周りを無数の赤い護符やら札やらが埋め尽くす。床。壁。天井。全てにだ。唯一足場のあるのは、ベッドへと続く一本道のみ。

 薄暗い明かり。

 ……そこにぽつんと乃木は独りでずっと生きている。

 この場に神として祀られ数年。身動きのできない神など果たして神足りうるのか。まるで辱めを受けているようにも思えるこれが、いつまで続くのか。

 ……なんて考えても無駄で、散華したのだから、この芋虫生活は乃木の命が尽きるまで続く。

 細く息を吐き出し、やって来た人物の名前を呼んだ。

 

「やっぱり来たんだね、わっしー。……いや、東郷さん」

 

 車輪の軋む音とともにやって来たのは、鬼のような形相の東郷だった。




折れる。折れる。折れる。
それでも、勇者たちのおかげで生きている命がここにある。

それではまた次回


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再起

ミスって一度誤投稿してしまった笑

前話を投稿した後、おかげさまでランキングに載ることができました。ありがとうございます。すまない、全部の感想にgoodボタン押せなかった……。

つい先日、『ここしゅき』ボタンが実装されたようです。『ここしゅき』な文章を長押しすると最大10回『ここしゅき』できるそうです。適当にこの小説で『ここしゅき』ボタンを試してみてください。スマホ版でのみできます。

前回のあらすじ
勇者たちの奮闘は無駄などではなかった


 東郷がこの場所を突き止め、身ひとつでやって来た目的など考えるまでもない。

 乃木は観念したかのようにため息を吐き、東郷の顔を視界に収めた。

 

「……私のことはわっしーで構わないわ。二年間の記憶は飛んでいるけど、その間、私は鷲尾家の人間として勇者のお役目に務めていたのだから」

 

 一方的に告げられる言葉に、乃木は驚きつつも悲しみを感じる。一度目に友奈とともに会った時とは打って変わって穏やかな再会ではないからだ。

 そしてそこまで自分のことを調べ上げるのは、並大抵の執念深さではないはず。今、それと同等以上のものを東郷は乃木に向けている。

 

「……すごいね、わっしー。そこまでわかったんだ」

 

「記憶も、この脚も、散華で失った。そうでしょう?」

 

「うん、その通りだよ」

 

 あっさりと躊躇なく乃木は肯定する。

 

「そして私は東郷の家に戻り、友奈ちゃんの家の隣に引っ越した。……これも」

 

「大赦に仕組まれたこと。結城さんは勇者の適性値が一番高かったからね。それにわっしーが刺激を受けることを期待していたんだと思う」

 

 淡々とした答え合わせだ。しかしそれも終わり、互いに無言の時間が流れる。

 東郷は一瞬だけ顔をしかめてそっぽを向く。そして次の話題を言い出すか否かを悩んでいると、乃木の方から言葉を投げかけられた。

 

「……本当はこんなことを聞くために来たんじゃないんだよね?」

 

「……ええ」

 

 乃木には東郷が何を言いたいのか手に取るようにわかる。

 落ち着きがない。それを誤魔化すように指で肘掛けの縁を撫でる動き。

 そして先日の件。

 乃木は話を切り出すのを静かに待った。

 

「友奈ちゃんが治る方法は?」

 

「ないよ」

 

「っ」

 

 これも淡々とした冷たい返答だった。

 東郷は唇の橋を噛み締め、力強く拳を握る。

 友奈と別れてそのままの足でやって来た。無鉄砲だったことは理解している。

 しかし以前も同じことを言われたからわかってはいたはずだが、やはり今一度告げられると心に来るものがある。

 しかし東郷としても、何が何でも友奈が散華したものを返還してもらわなければならない。

 すでに友奈の自滅機構は作動している。タイムリミットがあとどれくらい残っているのかすらわからない。まだしばらくはもつと思われるが、明確にいつだなんて余命宣告のようなものは考えたくない。

 

「神樹様に直談判すれば……!」

 

「無理だよ。逆に怒りを買うだけ。……わっしー。この世にはね、どうにもならないことがあるんだよ……」

 

「私は、こんなの認めない!」

 

 大きくかぶりを振って東郷はあらん限りの声で叫んだ。無駄に大きい部屋の中に響くその声は、ほんのりと赤い暗闇にゆっくりと呑まれる。

 

「…………」

 

 この『どうしようもないこと』とは、友奈の死である。

 生きる意志のない者に生きる資格なし。

 これが現実。現に身体は自壊しようとしている。起きている間も、寝ている間も常に己との生存競争を強いられているのだ。負ければ死。

 進行を遅らせるには、友奈自身が生きようと足掻かなければならない。だがそれが上手くできなくて八方塞がりな状態だ。できたとしても、それはほんの気休めでしかない。根本的な解決には至っていない。

 死は避けられない。

 絶対に助からない。

 

「わっしーにとって、結城さんがどれだけ大切な人なのかは胸が苦しいほどわかる。でもね……でもね……」

 

 誰もが安易に口にできないことをしようとするが、それを東郷は遮った。

 

「お願い。その先は言わないで」

 

 喉につまらせた『諦めて』という言葉を、ゆっくりと胸の奥に押し込む。

 乃木だってこのような残酷なことは言いたくない。親友を失う苦しさはこれ以上ないほどよくわかる。どれだけ長い時間が経とうともその傷が完全に癒えることはない。だからといっていつまでも先延ばしにしていては、その分のツケに耐えられなくなる。

 

「私のこと、恨んでもいいんだよ?」

 

 辛いことだけを一方的に押し付ける態度は、友奈生存への希望を完膚なきまでに砕いた。

 本来ならば殴りかかられてもおかしくない数々に、怒りは頂点に達しているはずだ。

 なのに、東郷は嗚咽を漏らしながら答えた。

 

「……それは、ないわ。あなたも被害者のひとりなのだから……」

 

「………………ありがとう」

 

 それきり、静寂が訪れる。

 ふたりは沈んだ表情で互いを見つめた。

 どちらも救いようのない被害者だ。東郷はそもそも乃木を追及したところで何か有益な情報が得られるなんて希望的観測はそれほど抱いていなかった。

 胸に溜まったヘドロを吐き出したくて音ずれたに過ぎない。ようは八つ当たりに近い。わかってはいても、どうしてもそうしなければ気がすまなかった。

 この苦悩をひとりでは耐え忍ぶことができないから。

 先に静寂を突き破ったのは乃木だった。

 

「大赦の隠していること……結界の外の真実、知りたい?」

 

 それは、悪魔の囁きだった。

 東郷はごくりと唾を飲む。

 

「この前は満開システムについてだけ話したからね。今度は時間もあるし、他のことも話せるんだけど」

 

 そう言って柔らかい苦笑を浮かべる。

 これは地獄への招待だ。

 乃木は東郷の反応を窺う。

 再び肘掛けの縁を撫で始め、難しい顔をする。

 大赦が隠していたものは、満開システム。この内容は非人道的なものだった。そしてさらにまだ隠していることがあると言われて、それをどう受け止めればいいのか。

 昔から、家でも学校でも神樹の張った結界の外には出てはならないと耳にタコができるほど言い聞かされていた。だからずっと前から暗黙の了解として頭の中にあった。

 その理由……隠していた内容とは、きっと満開システムと同等以上の衝撃を受けるに違いない。

 今ですら地獄だ。

 ただ四肢や五感などが散華するならまだここまで猛烈に焦る必要はない。だが友奈の散華のせいで、事態は急速に解決しなければならない状況に陥っている。

 その上さらに地獄を知るか?

 乃木がなんだか善性の悪魔に思えてならない。身動きすら取れないはずのに、その眼光に帯びるなんとも言えない圧迫感にえづく。

 もし聞いてしまったら、とんでもない後悔と絶望をするだろう。しかし、友奈のタイムリミットに比べればマシだと確信できる。

 落ちるところまで落ちよう。その果てに、何があるかは未来の自分に託す。

 東郷は頬に力を入れ、乃木の双眸を捉えて教えを乞うた。

 

「――教えてほしい」

 

「……わかった」

 

 善性の悪魔の口から吐露される、これまでの常識を真っ向から否定する事実に東郷は卒倒しそうになった。

 しかし乃木家はもっとも大きな権力を有する家系だ。当然そこに大赦の息は強くかかり、集約する情報量は圧倒的。それに身を呈して東郷たちを呼び出して満開システムのことを話してくれた。

 信用に値する。

 とはいっても真実はどこまでも残酷で、予想の通り、聞かなければどれだけ幸せなのだろうと本気で後悔した。

 

 

 食事が喉を通らない。

 眠気を感じない。

 眼球が痙攣する。

 動かない半身に苛立ちを隠せない。

 左手でも使いやすいように用意されたフォークを手にも取ろうとしても、できなかった。もっと詳細に語れば、無意識に動かそうとした右手が命令をきかないのだ。

 わなわなと肩を震わせて左手で右の手首を力強く握る。

 

「――――――は」

 

 と自嘲する。

 お腹が痛い。これが空腹からくるものなのか、ストレスからくるものなのかわからない。

 もしこの場に鋸があれば、躊躇いなく友奈は自分の手足を切り落としているだろう。どうせ痛覚もない。無くなったほうがいつまでも付き纏う、くっついているだけという不快感から解放される。

 メリットしかない。

 ならば今すぐやろう。

 ナースコールを押して人を呼んで、「鋸はありますか? あれば貸してくれませんか?」と訊けばいいだけ。バーテックスを倒すより遥かに簡単な作業だ。

 

「――違、うっ」

 

 目を剥き、やつれた友奈はぎりり、と歯を食いしばる。

 友奈は今、戦っているのだ。

 敵は虚ろな自分の心。生を踏みしめる死の足。

 苦しい。

 まるで幽霊と対峙するような実感のない戦い。こちらからは何もできないのに、向こうから一方的に嬲られる理不尽。

 勝ち目はんてない。

 足跡すらなく、どれだけ近づいてきているのかを把握すらできない。

 ……地獄だ。

 ふと、ドアをノックする音が聞こえた。時間的に学校が終わった頃だから勇者部の誰かが来たのだろう。

「どうぞ」と言うと、ドアをスライドさせて入ってきたのは制服姿の樹だけだった。てっきり全員来るかと思ったが、そういうわけではないらしい。

 

『こんにちは』

 

「こんにちは樹ちゃん。皆は?」

 

 少し前までは筆談をするのに時間がかかっていたが、今ではだいぶ筆が速くなった。

 さらさらとペンを走らせ、スケッチブックをこちらに見せる。

 

『一年生以外、学年集会でした』

 

「なるほどね」

 

 樹はカバンを床に置き、側の丸椅子をベッドの横まで運んで腰を下ろした。友奈の右手首が赤く腫れているのを見て一瞬だけ眉をひそめる。そして食事に手がついていないことに気づいて指差した。

 

「ごめんね樹ちゃん、食欲ないんだ」

 

 力ない意思表示に、樹の表情が僅かに陰る。

 どれもフォークで刺して簡単に口に運べるように考えられたものばかりだ。丁寧に一口サイズに切り分けられた豆腐ハンバーグや、レタスで丸められた野菜たち。

 しかしどれも時間が経過しているのがわかる。湯気は立っていないし、ドレッシングは乾いている。

 

『食べないと』

 

「でも……」

 

 すると、今度は大急ぎで文字を書き始めた。できた文章は汚く見えた。

 

『お願いします。食べてください。私が食べさせますから』

 

 話せるはずがないのに、幻聴のように樹の言葉が聞こえる気がした。今まで樹とのふれあいで形成された友奈の樹への人物像が、ここでならこう言うはずと、無音でぱくぱく開く口に合わせてアフレコする。

 その優しい気遣いは、決して断れるようなものではなかった。

 お腹が痛い。きゅるる、とタイミングよくお腹が鳴るが、これが空腹なのか判別ができない。

 しかし樹にはわかったようだ。朗らかな笑顔を浮かべると、友奈の代わりにフォークを手にしてハンバーグを刺し、手を添えながら口元へと運んできた。

『あーん』と催促されているのがひしひしと伝わってくる。樹は純粋な善意で友奈の世話をしようとしてくれている。

 ここで本当に食欲がないと拒絶するとどうなるかなんて想像はできる。事実、友奈がここに運ばれてから口にしたものは、今日の朝に一口だけ口に含んだ牛乳のみだ。これだけでは育ち盛りの中学生にはまるで足りないということはわかりきっている。

 食事を取らないから身体が弱ってきていることはなんとなく理解している。でも、やっぱり……。

 

 ――いや、ここで拒絶してはならない。

 

 樹はしだいに表情を曇らせ始める。フォークの向きが下に下がり始める。

 形は違えど、これも戦いだ。

 それにやはり、樹の善意を無下になんてできるわけがない。

 友奈はぱくりと食らいついた。ゆっくりと咀嚼して冷え切った肉の味を噛み締めてから、ごくりと喉奥に押し込んだ。

 ……美味しかった。味だけではない。心も満たされる感覚。

 冷えているのなんて問題ではない。人の優しさに触れられることへの感動や感謝に打ち震えた。

 樹がぽかんと口を開け、呆けた顔で友奈の顔を見つめている。

 不意に、頬に熱いものが伝う感覚に気づいた。

 手で目元を拭うと、その正体は涙だった。

 

「あ、あれ?」

 

 自分でこの感情を口にすることができなかった。鼻の奥がじんわりと熱を帯びる。

 

『美味しかったですか?』

 

 と訊かれた友奈は唯一言語化できるもので返事した。

 

「……ありがとう」

 

 樹は頬を赤らめて大きく頷いた。

 簡単なことだった。何も難しいことを考える必要なんてない。こうして友奈を支えようとしてくれる人がいるのだ。

 樹はもちろん、風も夏凛も、そして東郷も。持ちつ持たれつの関係。それが勇者部五人の絆。

 なんだか突然に、無性に気恥ずかしさが友奈を襲った。頑張って流れる涙を拭おうと躍起になっていると、樹からハンカチを手渡される。

 その口はどうぞと言っていた。

 

「ありがとう」

 

 同じ言葉を口にし、友奈はハンカチでそっと拭き取った。

 年下に慰められるのはとても恥ずかしいことのはずなのに、樹になら、と安心してしまう。

 そして樹はまた何かをスケッチブックに書き始める。

 

『お姉ちゃんは今、すごく落ち込んでます。何か心当たりはありますか?』

 

 友奈はカッ! と全身が熱くなるのを感じた。

 言えるはずのない内容をどうやって誤魔化せばいいのかとほんの数秒で何度も頭の中で自問する。

 風には樹と夏凛には言わないようにと厳命されている。しかしその本人があのような状態だ。ふたりに教えてしまっては……より負担になるだけだ。もう簡単に隠し通せるレベルではなくなってきている。

 これは必要な嘘なのだ。と同時に、大赦が必死に満開システムのことを公表しようとしなかった理由が身に染みてわかった。

 

「わからない。でもたぶん、部長としての責任とかだと思うな」

 

『それはお姉ちゃんも言ってました。でもそれだけではないような気がして』

 

 胸を抑えて悔しそうに樹は囁く。

 

「…………」

 

 ――これが嘘を貫くということ。

 しかし友奈にはこれ以上見て見ぬふりなんてできなかった。友奈の根っこの人間性は口を閉じていられなかった。

 ……乃木園子は『教えてほしかった』と涙を流しながら言っていた。あの時、他人事と切り捨てられない感情が湧き上がったのを覚えている。

 最後の最後まで隠されて後悔や無念の果てに散るより、残酷であっても早いうちに現実を知り、それと向き合いながら生きていく。これが乃木の語っていた願いだった。

 もう勇者として活動する必要がなくても関係ない。勇者として知る義務があるはずだ。

 初めて聞く衝撃の事実を果たしてどう受け止めるか。

 風にとっては絶対に避けたい事態に至らないための安全策。だがこれはよくないと友奈は結論づけた。

 風のやっていることは、大赦と同じことだから。

 決意する。

 顔を上げ、樹の眼を捉える。

 樹も友奈の雰囲気から察したのか、顔を強張らせる。

 

「あのね樹ちゃん、本当は――」

 

 続きを言おうとしたその時、樹の携帯から軽快な鈴の通知音が鳴った。

 なんて悪いタイミングだ。一気にふたりの緊張がほぐれてしまう。樹は小さく肩をすくめると、その通知を確認した。すると樹の顔がみるみるうちに青ざめた。

 

「どうしたの樹ちゃん?」

 

 携帯の画面を見せつけてくる。

 いつも勇者部が利用しているSNS。その樹と風の個人チャット。何気ないやりとりが綴られているが、最新の履歴には。

 

『大赦をぶっ潰してくる』

 

 とだけ、何やら不穏な文章が並んでいる。

 慌てて樹は電話をかけるが、一向に出る気配はない。最終手段としてGPS機能で風の居場所を探り始めた。

 

「…………?」

 

 風の場所は自宅から少し離れたところ。猛スピードでどこかへ一直線に移動しているようだが、この速さはおよそ人が出せるものではない。車ならまだなんとか納得できそうが、道路を走っている様子もなくただ真っ直ぐ進んでいる。

 もしかして……風は……。

 

「勇者姿で移動してる……?」

 

 突如、病室内を緑の花びらが待った。

 突風に友奈は思わず腕で顔を守る。収まった頃には、勇者に変身した樹が真剣な眼差しで窓の外を見据えていた。

 

「樹ちゃん!」

 

 手を伸ばす。しかし届くはずもない。ベッドから降りて近付こうとしても、満足に歩くこともできない友奈には樹を止める手段はなかった。唯一あるとすれば、勇者になって――。

 ……だが、友奈は勇者ではないから不可能だ。

 樹は突風で荒れた布団を友奈にかけ直すと、優しく微笑みかけて何かを呟くと、窓を開けて勢いよく飛び出してしまった。たぶん『行ってきます』と言ったのだろう。あとには鼻腔を撫でる僅かな花の匂いが残った。

 友奈は呆然と樹が飛び去った方向を眺める。携帯を手繰り寄せて変身ボタンをタップするが、予想通り、ブザー音とともに赤く画面が点滅するだけだ。

 大きくため息を吐き、悔しいが風のことは樹に任せることにした。

 

「言えなかったなぁ……」

 

 虫が入ってきたら困る。

 ベッド横に常に備えられている車椅子に乗り移る。コツも掴めたからだいぶスムーズにできるようになった。要は腰を勢いよく浮かすことにコツがある。

 電源を入れて、手元のレバーを押し倒す。

 窓を閉めたあと、もう一度ベッドに移動するか考えて、やめておくことにした。ついでだから散歩がしたい。今友奈が樹たちにできることは何もない。できることといえば、はやく車椅子の生活に慣れることだ。

 ナースコールを押して、食事の片付けをお願いする。そのまま外……屋上に出ることにした。何度かこの病院にはお世話になっているから、構造は大まかに把握できている。

 最短ルートかはわからないがとりあえず屋上に到達した。

 ドアノブを捻って外に出ると、昨日のおじさんが格子に背中を預け、煙草を吸っていた。

 違う点といえば、黒いスーツを着ているということのみ。

 友奈に気づくと慌てて煙草の火を消した。ジト目で見つめられ、おじさんは気まずそうに笑った。

 昨日とは打って変わって、スーツを上手く着こなすおじさんの横顔がなんだか男らしく見えた。

 

「や、やあ」

 

「……報告しますよ?」

 

「それだけは勘弁してくれ。最悪この病院を追い出されてしまう」

 

 冷や汗をかきながら懇願するおじさんを見て、ゆうなは見逃してあげることにした。しかし「次見たら知りませんからね」と忠告する。

 静かな風が吹いている。おじさんは最後の一服ができなかったのが名残惜しかったのか、僅かに口先をすぼめる。

 

「そのスーツ、どうしたんですか?」

 

 どこかの新聞の広告に載っても違和感の無さそうなレベルの佇まいに、友奈はふとそんなことを訊いた。

 

「今日息子の学校で文化祭があってね。それに行ってきたんだ」

 

 それがスーツである理由と結びつくような気がしなかったが、楽しそうに話しているから特に突っ込むことはしなかった。

 

「中学生ですか?」

 

「いや、高校生だよ。クラスでクレープ屋の出し物をしていたんだ。いやぁ、あれは美味しかった。時間があれば家でも作ってほしいくらいだね」

 

「本当に料理が得意なんですね……。もしかして料理人とかを目指されているんですか?」

 

 するとおじさんはかぶりを振った。

 

「そうではないと思うよ。……それより結城さんのほうこそどうしたんだい? すごく調子が悪そうに見えるけど」

 

「そんなこと……」

 

「あるよ。なぜなら今にもひび割れてしまいそうだからね」

 

 今の友奈をもっとも的確に表現する言葉だった。

 友奈は鋭く息を吸った。しかしおじさんの双眸はすべてを見透かしているように思えて、加えて短く喘ぐ。

 どれだけ言い繕うとしても無駄な気がして、それならいっそ話せる範囲で話そうと気が変わった。

 

「私は勇者じゃなくなってしまって、それにこんな身体になってしまって……友達を助けにも行けなくて……正直、ぐちゃぐちゃな気持ちなんです」

 

「ん? よくわからないけど、君は勇者部なんだろう? なら勇者じゃないのかい?」

 

「違うんです。その勇者じゃなくて……」

 

「………………ああ、そっちの勇者(・・・・・・)か」

 

 おじさんはひとり納得して空を仰いだ。

 そして肺に残っていた最後の煙草の煙を時間をかけてゆっくりと口から吐き出した。淡い灰色の煙はゆらゆらと空へのぼり、色褪せ、消える。

 

「だいたいは知っているよ。大赦と神樹とやらに認められた無垢な少女たちが、世界を守るために戦っているんだろう?」

 

「知ってるんですか?」

 

「ああ。君たちほどは知らないけど、ある程度のことは」

 

 だいたいの一般人は神樹様を認知していても、勇者の存在は知らないはずだ。長い間ずっと神樹様の庇護のもと生きていると教えられている。なのにこの人はそれだけでなく、勇者の選出条件も理解している。

 おじさんは、誰?

 

「おじさんは、誰ですか?」

 

 友奈は無意識に身構えた。

 しかし返ってきたのは全くの予想外のものだった。

 

「――僕はね、正義の味方になりたかったんだ」

 

「……へ?」

 

 思わず呆けた声を漏らしてしまった。しかしおじさんは真剣に語る。

 

「君たち勇者とはやり方は違えど、僕なりに皆を守ろうと奔走した。でもそれは茨の道で、人としてやってはいけない悪業を積み上げてきた」

 

「悪業……?」

 

「人殺しさ」

 

 おじさんは地平線の向こうを遠い目で眺め、次に友奈を見た。

 ――底知れぬ恐怖を感じた。おじさんの目は、バーテックスが与える恐怖を遥かに凌駕していた。

 身体中の血がすべて瞬間に沸騰させられるほどの熱さを感じる。ピリピリと指先が震える。

 次元の桁が違う。それもひとつやふたつ程度ではない。圧倒的な威圧感。

 勇者姿なら倒すことはなんとかできそうだが、代わりに何かを持っていかれる確信があった。これがおじさんの正体。底知れぬ闇を今、覗いているのだ。

 

「たくさんの後悔をした。でも、それ以上の人々を救った。僕はね、大勢の他人を救うためなら喜んで身近な人間を殺すような男なんだよ」

 

「……………………………………………………、っは」

 

 ようやくおじさんが向こうを向いた。それが呼吸の許可だったかのように友奈は必死に呼吸を再開する。

 

「僕は誰に否定されても信念を貫いた。君はどうだい?」

 

「私、は――――」

 

「神樹に認められなくなったから勇者はもうやめるのかな?」

 

「それはっ、違います!」

 

 友奈は勇者を辞めたくてやめたのではない。こんな人でなしが人を救えるはずがないと考えた結果、勇者である意義を失った。

 

「君は何がしたい?」

 

 友奈は友達を助けたいと本気で願っている。でも勇者ではない友奈には助ける力がなくて困っている。

 

「友達を……助けたいです」

 

 おじさんを見上げ、友奈は精一杯の感情を込めて言った。

 友奈は何を考えて勇者部に入ったのか。風に東郷と一緒にスカウトされ、『人のためになることをする』という活動に魅力を感じたから入部した。

 

「なら、そうすればいい」

 

 おじさんが再び友奈を見た。

 その眼差しは、先程の身の毛もよだつようなものではなく、優しさに満ちたものだった。

 おじさんは勇者ではないが、正義の味方として人々を助けようとしていた。その手法は知らないが、おじさんはそれが間違いではないと自信を持っている。

 なにも友奈たちだけが人を救えるわけではない。

 勇者の資格などなくとも、できることはいくらでもあるのだ。

 

「――――――――――――――――ああ」

 

 ……簡単なことだった。

 神樹に認められなくなったから勇者ではなくなった?

 違う。そういうレベルの低い問題ではない。

 おじさんが言いたいのは、友奈が勇者でありたいかという単純なものだった。

 勇者部に入部した当時のことを思い出す。

 活動した日々を思い出す。

 幼稚園でレクリエーションをした日、先生に「ありがとう」と言ってもらったこと。

 迷子の猫を探し出し、飼い主に届けた日、その人に「ありがとう」と言ってもらったこと。

 商店街のある店を手伝った日、店長に「ありがとう」と言ってもらったこと。

 他の部活の練習に協力した日、キャプテンに「ありがとう」と言ってもらったこと。

 挙げだせばきりがない。

 今まで、それほどたくさんの『ありがとう』に包まれて友奈たちは勇者部として中学生活を送ってきた。

 ……助けられた人たちにとって勇者部員たちは、他でもない勇者(・・)だったのだ。

 

 結城友奈は勇者ではない。

 

 ――それでも、勇者部に入部した時からずっと、結城友奈は皆にとっての勇者(・・)なのだ。

 

 だから神樹様の意志なんて関係ない。

 友奈が勇者としてやるべきことやるだけ。

 そこには、勇者部としての勇者、結城友奈がいた。

 

「たとえ自分のことが信じられなくなっても、今まで君のしてきたことを知っている人たちは君を信じてくれるはずだよ。だから何度でも立ち上がれるはずだ――」

 

 それきり、おじさんの動きは完全に静止してしまう。

 同時に聞き慣れたアラーム音が聞こえ、何が起きているのかを瞬時に悟った。

 樹海化警報だ。

 しかし、バーテックスはすべて退けたから二度とこの音が鳴るはずがない。目の前に現れた携帯を確認すると、『特別警報発令』といつもと違った文字が並んでいる。さらに警告の帯がその背景に何枚も伸びる。

 どうやらただごとではなさそうだ。

 彼方の方で虹色の侵食が始まる。カーテンのように横に大きく広がりながら大地をのみこむ。

 これによって皆と合流できるはずだ。そこで友奈は皆に高らかに宣言してみせよう。

 私は、勇者だ! と。

 顎ひげがきれいに剃られている正義の味方に深々と頭を下げる。

 

「……ありがとうございます、おじさん。私、頑張ります」

 

 結局この人の名前は最後までわからなかった。

 でもそれでいい。

 そんなものはなくても、友奈とおじさんの繋がりは強固だ。

 ……でもやっぱり知りたいという興味はあるから、これが終わったら訊くことにしよう。

 正面を静かに見据える。

 そして虹に飲まれる瞬間、ぐっ、と握り拳を作り、友奈は腹の奥底から声を張った。

 

「――讃州中学二年勇者部! 結城友奈!! 行きますッ!!!」




それでも、結城友奈は勇者である

ではまた次回!


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Not alone

つい最近ゆゆゆいの存在を知りまちた。

前回のあらすじ
すでに結城友奈は勇者だった


 離人感とともに、友奈は樹海に出現した。

 数日ぶりの樹海は相変わらず薄暗い世界で、光源がわからない。しかし地面がひときわ明るく見える。原理はよくわからないが、とにかく平らな場所に出現することができてよかった。傾斜の激しければすぐに車椅子が倒れてしまう。

 周囲を見回し、二十メートルほど前方に樹が立っているのを視認した。そのすぐ側に風と夏凛もいる。

 

「おーい!」

 

 三人は友奈のいる根とは違うものだからその間を移動できない。だからこちらから声をかけて気づいてもらうしかなかった。

 どうやら一度で気づいてもらえたようで、軽やかに飛翔して友奈のもとに着地する。

 ……何やら風の様子が何やらおかしい。目が血走らせて激昂している。興奮を抑えきれないのか呼吸も荒い。

 

「風先輩……?」

 

 心配そうに声をかけると、風はゆっくりと顔を向けた。

 友奈の変わり果てた姿を見たからか、顔を歪めて懺悔するかのようにその場に膝をついた。そしてぽろぽろと涙を流し、しゃくりあげながら話し始めた。

 

「ごめん、友奈……全部……全部あたしが悪いんだ……。勇者部に入れなければ、こんなことにはならなかった……」

 

「風先輩……」

 

「……でも、大赦だけは許せない。あいつらが満開システムを隠したせいで樹の夢が壊された。絶対にぶっ潰す」

 

 血を滲ませながら風は握り拳をつくる。耳障りの悪い歯ぎしりをして、何度も何度も地面を殴りつける。

 いったい友奈のいない間に何が起こったのかわからない。

 

「友奈……あんたはあたしと大赦に怒っていいのよ。生きる意思を散華したせいでッ……残りが、もう……!」

 

 散華、という言葉に夏凛と樹が如実にわかりやすい反応を示した。

 この瞬間、風は満開システムのことをふたりに話したのだと悟った。泥のような空気が場を支配する。夏凛は友奈をチラチラと様子を窺っている。

 あの時、病室で友奈が言い損ねてしまったことを言ってくれていたのか。しかし雰囲気は最悪と言える。

 樹海化しているのだから、バーテックスが襲来するのは間違いない。それなのに三人の士気はドン底にまで落ち込んでいる。

 このままではいけない。そう思った友奈は風の前まで車椅子で移動した。

 

「私は何も怒ったりなんてしませんよ。だって、仕方のなかったことですから」

 

「仕方なくなんて、ないでしょ……!」

 

「今の私の発言も『そういうこと』かもしれません。でも、もし初めから散華のことを知っていたとしても、私たちはきっと満開していたはずです」

 

 仕方ない。

 という言葉はあまりにも便利すぎる。これは免罪符になりえるものだ。そのせいで仕方ないと大赦と神樹によって、無垢な少女たちは搾取され続けてきた。

 もうたくさんだ。終わらせよう。不信と不安を爆発させ、怒りに囚われた風はそう考えて暴挙に出たのだろう。

 勇者として奮闘した結末が、これ。

 悲しみにくれるのも無理もない。しかし残念ながら、友奈にはその気持ちを真に理解することができない。

 ……だが。

 それでも、これだけは誰に否定されても胸を張って主張することができる。

 

「私は、勇者部に入ったおかげで皆と仲良くなれた! すっごく楽しかった! 毎日が楽しみで楽しみで仕方なかった! まだ子供だけど、人生で一番楽しい日々だった!! 私のこの気持ちは、絶対に嘘でも間違いでもない!!」

 

「……友奈……なんであんたはそんなに強いのよ……っ」

 

 風がその場に泣き崩れる。

 樹海で泣き声だけが神樹の聳える遥か向こうにまで虚しく響き渡る。

 友奈は子供のようにただ喚き続ける風の頭を撫で続けた。

 

「……風先輩はどうですか? 私たちとの日々は楽しくなかったですか?」

 

「楽しかったに、決まってるじゃない……!!」

 

 風は、そう大きく叫んだ。

 勇者部のすべての起点は風からだ。

 人のためになることをしようと活動していた五人は眩しいほど輝いていたはずだ。それを否定する人なんて、この世には絶対にひとりもいない。

 だから友奈は風に怒りや憎しみの感情などは一切抱いていない。むしろ、個性的ではあるが、そんな皆と出会うきっかけをくれたことに感謝しか抱いていない。

 だから風の友奈への大きな罪悪感はいらないのだ。

 友奈は手を胸に当てる。

 

「……樹ちゃんも、夏凛ちゃんも、よく聞いて。私は、私の今までの行動を人のせいにすることはない。――私は、勇者だ!! だから不屈!! だから死なない!! だから誰も私のことを気に病む必要なんて、ない!!」

 

 喉が張り裂けんばかりの精一杯の宣言。

 勇者の資格を剥奪された友奈が、私は勇者であると神樹の領土、樹海で高らかに宣言してみせた。

 これはある種のけじめだ。大赦の勇者と、勇者部の勇者を明確に分離させるための自己暗示。

 樹と夏凛は難しい顔をしながらも、友奈の心を全身で受け止めた。風は肩を震わせてまだ泣き続けている。部長としての重荷やストレスなどをある程度解消できたかもしれないが、まだ動く気配はない。

 ……そういえば、東郷がいない。

 風を慰めるのに意識が向いていたせいで東郷の存在を二の次にしていた。急いで携帯で居場所を探すと、壁の上に点とともに東郷三森の名前があった。

 一度全員合流しよう。それからやって来るバーテックスに備えて――……。

 初めに異変に気づいたのは夏凛だった。

 樹海は神樹の領土だから生命の位置は一瞬で特定できる。その情報を携帯で確認できるから潜伏などへの抑止となり、正面勝負が強制されていた。

 だが、今携帯に表示されている壁の向こうから押し寄せる敵の座標がわからない。ただ赤い波が広範囲に渡ってじわじわと接近しているだけだ。

 基本的に、バーテックスの表示は赤い点でされる。

 ということは、これはただの波などではなく――。

 

「これ、全部敵……?」

 

 夏凛が呆気にとられた様子で遠くの壁際の空を仰いだ。

 瞬く間に空を白が覆い尽くす。夏凛が絶句する。目を凝らして見れば、ピーナッツのような形をしていて、全面に突き出した大きな口をガチガチと開閉を繰り返している。

 数えるのが馬鹿らしくなるほどの数。とてもではないが倒せるとは思えない。完全な劣勢から始まる戦いは初めてだ。

 しかし何より東郷との合流が先。それに、友奈は東郷にどうしても言わなければならないことがある。

 

「夏凛ちゃん、東郷さんの所に連れて行ってくれる?」

 

 夏凛は厳しいという表情を隠さなかった。

 友奈を上から下まで見下ろして。

 

「危ないわよ」

 

 と端的に告げる。

 

「わかってる。でも、それでも行かないといけないの」

 

「……わかった。私から絶対に離れないで」

 

「うん。樹ちゃん、風先輩をお願いするね」

 

 樹が大きく頭を縦に振る。

 敵がこちらに気づいて攻撃を仕掛けてくるまではまだ時間がありそうだ。東郷を呼び戻して作戦を練るには十分だろう。五人揃えば何か活路を見いだせるかもしれない。

 車椅子の車輪を固定モードに切り替える。そしてそれを両脇から掴んで持ち上げた夏凛が地面を蹴り、高く跳躍した。振り落とされないように友奈は肘掛けに懸命にしがみつく。

 壁に近づくと、何が起こっているのかが判明した。

 壁の一箇所に大穴が空いているのだ。そこから大量の敵がなだれ込んできている。

 夏凛と目配せをして、先に進もうと意思を共有する。

 二度ほど大跳躍をしてようやく壁まで到達することができた。一気に上まで上がり、ゆっくりと車椅子が降ろされた。

 東郷が……すぐそこにいた。

 複数の迎撃用の機構を周囲に展開している。

 こちらに背を向けたまま、壊れた壁から次々に侵入する敵のうち、接近してくるものだけを無言で撃ち落としている。その正確さは百発百中。東郷はその場から一歩も動く様子はない。

 

「東郷、こんなところで何やってんのよ。皆があっちで待ってるから合流するわよ」

 

「…………」

 

 東郷は無言を貫く。

 

「ねえ、聞いてるの?」

 

「…………」

 

 夏凛の呼びかけを無視する東郷は、誤魔化すように迎撃のスピードを上げた。止むことのない光線が猛威を振るい、圧倒する。

 明らかな無視に熱があがった夏凛がにじみ寄って肩を掴もうとしたその時、東郷の口からとんでもない言葉が吐露された。

 

「壁を壊したのは……私よ」

 

「……はあ? 何言ってんの。ほら、はやく行くわよ」

 

「冗談ではないわ。私の意思で壊したの」

 

 夏凛の腕がゆっくりと降ろされた。僅かに眉をひそませたあと、右手に刀が現れる。

 そしてそれを躊躇なく東郷に向けながら、静かな怒気を孕めて質問した。

 

「――本気? それ、どういう意味かわかってんの?」

 

「ええ、わかっているわ。わかっているからこそ――、ぇ。ゆ、友奈、ちゃん……?」

 

 振り向いた東郷はその場にいるはずのない友奈に、目に見えて動揺する。

 勇者でない友奈が樹海に召喚されるはずがない。これは明らかにおかしいことで、友奈にとって危険でしかない。これでは東郷の計画の後味が悪くなってしまう。

 

「東郷さん……今の、本当?」

 

 友奈に問われ、東郷は力の抜けていた拳をギュッと握りしめた。

 

「そうよ……。私はわかっているからこそやったの」

 

 そう言い残すと、東郷は踵を返して壁のさらに向こう側へと飛んでいった。地平線が見えるほど遠く広がっているはずの空間だが、それが一定の距離に達すると東郷の姿が消えてしまった。

 反射的に追いかけようとした夏凛だが、一度友奈の元へと戻る。

 東郷が消えたということは、今目の前にある無限の地面は偽物で、カモフラージュされている。つまり、何かを視覚的に隠している。

 東郷が迷うことなく飛び込んだから害はないだろうが、未知の領域に足を踏み入れるとなるとどうしても臆病になる。

 どこからが景色の切り替わりなのかわからないまま、じりじりと夏凛は車椅子を押す。

 

「大丈夫だよ、夏凛ちゃん」

 

 頭だけ後ろを振り向いて安心させようと声をかけてくれた友奈に励まされ、夏凛は思い切って境界を超えた。

 魂すら焼かれそうな突風を感じ、ふたりは思わず目を瞑る。そして次に目を開けると、とんでもない世界がそこには広がっていた。

 一面、赤。朱。紅。

 どこまでも煮えたぎるマグマのような、どうしようもない世界がそこにはあった。

 それだけではない。樹海に侵入してきた倍以上の白い敵が悠々と空を飛んでいるのだ。それらはランダムに浮遊したり、群れをなしたりしている。そして群れは気味の悪い動きを繰り返しながら互いに絡み合い、ひとつの形に凝縮されていっている。まだ完成してはいないらしいが、赤く光沢を放つ巨大な体躯は、どこからどう見てもバーテックスのそれだった。

 

「なに、これ……」

 

 友奈の口から掠れがかった声が漏れる。

 これ以上、現実を表現する言葉が思い当たらなかった。

 夏凛の手が震えているのが、グリップ越しに背中に伝わる。

 これは……何だ。

 

「――外の世界はもう終わっているの。そしてバーテックスは十二体ではなく十二種類いて、無限に私達の世界に攻撃してくる」

 

 目の前で待ち構えていた東郷がこちらに振り向いた。その目尻には涙が溜まっている。

 神樹様によって守られている領土はほんの一欠片で、それ以外はすべて敵。袋のネズミもいいところで、少しでも本気を出されると容易く友奈たちの世界は圧倒されるだろう。

 

「私たちは何度も戦い、満開を繰り返し、人間性を取り上げられ、その果てに……あんな……!」

 

 乃木園子の姿が友奈の脳裏をよぎる。

 バーテックスが無限に襲来してくるということは、勇者が無限に出撃しなければならないということ。この終わらない戦いで一方的に傷つけられ、打ち捨てられるのは無垢な少女たち。これまでも、そして、これからもこの地獄は続く。

 

「そうやってボロボロになって、それでも戦って……皆が傷ついていくのを見ていられない!」

 

 両手に銃が現れ、引き金に指をかける。

 狙いは、壁。

 これ以上穴を開けられると、取り返しのつかない損傷になってしまう。今ですらキャパシティーを大きく上回っているのに、本当にどうしようもなくなってしまう。

 じゃりぃぃん! と二本の刀を鳴らして夏凛は吠えた。

 

「やめなさい東郷!」

 

「どうして止めるの⁉ もう方法がこれしかないの……!」

 

「私は、大赦の勇者だから……」

 

「その大赦があなたをただの道具としてしか見ていなかったのよ?」

 

 東郷の指摘することは事実で、これまでの大赦の対応といい思い当たりがありすぎる。今の言葉をすぐに否定できなかったのが何よりの証拠だ。

 夏凛は押し黙り、口の端を強く噛む。

 東郷の気持ちは……誰よりもわかる。なんて言葉が友奈には言えない。それは東郷のことを支持することになってしまうからだ。

 神樹様の加護が消えれば人類の滅亡は明らかだ。東郷はこれを故意に実行しようとしている。

 一筋の涙がつう、と流れたのを友奈は確かに見た。

 東郷の決意の硬さに、友奈の安易な擁護や反対なんて霞がかるだけだ。

 

 しかし。

 だが。

 それでも――。

 

 友奈にもまた、どうしても譲れないものがある。

 逃げてはいけない。現実としっかりと向き合うべきなのだ。

 レバーを倒し、友奈は前に出た。

 

「――東郷さん」

 

「止めないで友奈ちゃん。わかって! もうこれしか……!」

 

「わかってあげない」

 

 友奈は凛とした態度で即答した。

 カチカチと震える東郷の手が止まる。そして、ゆっくりと力無く下に降ろされた。

 悲痛な表情でこちらに振り向く。

 

「どうして……ッ!」

 

「東郷さんのほうこそ、どうして! 私たち、約束したよね! 助け合うって! でもこれは違うよ!」

 

 東郷にとって何よりも大事な約束であったのなら、友奈にとっても大事でないはずがないのだ。

 東郷は精霊が護ってくれるとわかっていたからナイフを投擲した。

 しかし今回は違う。

 皆のために……友奈のために死を許容しようとしているのだ。

 この考えは友奈の生きようとする願いを真っ向から終わらせるものに他ならない。

 

「っ! でもっ! それでも! 外の世界がこれじゃどうしようもないのよ!」

 

「私は……東郷さんを止めるよ。東郷さんも止めるつもりはないんでしょう? ……だから、喧嘩をしよう。ぶつからないとわからないことだってあるんだよ。私は全力で東郷さんを止めて、わからせる!」

 

「その身体で……どうやって私をわからせるの!」

 

 勇者でない友奈におよそ反応できない速度で東郷は銃を撃った。

 それは車椅子の足元を崩し、バランスを失った車椅子が倒れて友奈は地面に投げ出された。

 

「東郷!!」

 

 夏凛が強く名前を叫ぶ。

 

「今の一発にも反応できないのに、私を止められるはずがないでしょう!」

 

「――できる!!」

 

「「――――」」

 

 鋭い一声に、東郷も夏凛も静まり返った。

 地面に倒れ、蛆虫のようにもぞもぞと身じろぎする友奈が懸命に左腕と左脚を動かして上体を起こした。

 無限の赤の世界を眺め、次に東郷を見上げる。

 そして静かに囁いた。

 

「……それでも」

 

 友奈はあの約束を今でも鮮明に覚えている。

 東郷が傷つく仲間を見たくないと言うのなら、友奈もまた、東郷が今まさに傷ついている様を見過ごすことなんて絶対にできない。

 苦しむ人を助けるのに、果たして大赦の勇者である必要があるのだろうか。

 否! 断じて否!

 宣言したはずだ!

 結城友奈は勇者であると!

 ならばそれに見合う、誰にも負けない強い意志をここに示せ!

 友奈の中にある、勇者でありたいという願い。人のためになりたいという願い。それらをすべてかき集め、虚ろとなっていた勇者という像へピースとして当てはめていく。

 すんなりと心地よいほどに欠けた部分が補われてゆく。ひとつ、またひとつと隙間が埋められ、確固たるモノが形を成し始める。

 ――しかし、まだ足りない。

 勇者像を友奈自身に投射することができない。その妨げとなるのが、人でなしであると思い込んでいる結城友奈だ。

 ……おじさんの言葉を思い出す。

 助けたい。救いたい。とても簡単な理由だけで十分だ。

 すでに結城友奈は勇者であって、自分を見失っていただけに過ぎない。

 自己を再認識し、もう一度立ち上がる。

 今が、その時だ。

 

「――それでも、私は勇者だから!!!」

 

 赤の世界にも遠く遠く木霊するほどの声量で友奈はその意思を示した。

 同時に人でなしの虚像を拳で力任せに殴りつけると、硬質な音とともに砕け散った。

 その瞬間、友奈の左手に突如出現した携帯がすっぽりと収まった。その画面はすでに切り替わっていて、勇者への変身ボタンが今か今かと存在を主張している。

 友奈はそれを躊躇なくタップした。

 すると、桜の花びらが周囲を力強く舞い上がった。

 それが引くと、そこには勇者姿の友奈が堂々と二本の脚で立っていた。麻痺してしまった右半身の補助として桜の枝木が絡みつき、その代用としている。

 

「友奈ちゃん……」

 

 だが、やはりまだ慣れてはいないようだ。ぎこちない動作で腕や脚を動かしたりして確認をし始める。そうして身体が慣れたのか、一歩、二歩と前に踏み出した。

 東郷が顔をくしゃくしゃにして声を荒げる。

 

「どうして、友奈ちゃんはそうやって……!」

 

「何度でも言うよ。私は勇者だから、東郷さんを助けるんだ」

 

 右手の指に絡みついた枝木を軋ませて握り拳がつくられる。

 

「私は本気でぶつけて、その上で助ける。それが嫌だったら東郷さんも本気でぶつけてきて。これは、喧嘩だよ」

 

 一歩近寄る度に、東郷が一歩引き下がる。

 弱った東郷に容赦することなく友奈は歩を進める。距離は確実に近づいている。残り約五メートルほどか。

 そしていざ殴りかかろうとしたその瞬間、左からの衝撃が身体を揺さぶった。夏凛が飛びついて来たのだ。そしてそのまま友奈の身体を抱えて壁の中へと勢いよく跳躍した。

 その意味は刹那の間に理解した。友奈の立っていた位置に敵が雪崩のように押し寄せていたのだ。もし夏凛の横槍がなければと思うとゾッとする。

 樹海へと戻ってきたふたりは、追撃にやってきてそのまま侵入してきたバーテックスの猛攻を掻い潜りながらなんとか着地に成功した。根がいい具合に生えているおかげで影になり、居場所がバレる心配はない。

 下から顔だけバーテックスの姿を覗きあげると、下半身の射出口のような部位から絶え間なく白い敵を生み出しているのがわかる。

 

「ちょっと友奈、顔出しすぎ!」

 

「うわっ!」

 

 夏凛に服を引っ張られて友奈はたたらを踏んで引き下がった。

 先の奇襲で東郷とははぐれてしまった。樹海に入る瞬間、東郷も現場を離脱していたのは視認できたがどこにいるのかわからない。もしかするとまだ壁の付近にいるのかもしれない。

 神樹様を東郷ひとりの力で倒すことは恐らくできないはずだ。だから今やるべきことは、バーテックスを排除すること。

 交代して夏凛が顔を出して壁の様子を確認する。すると今度は新たに四体のバーテックスの侵入を許していた。

 悠々と侵攻する姿はまるで我が領土とでも言わんばかりだ。五体となれば流石にこちらが不利だ。夏凛は心の中で舌打ちをして友奈を見た。

 どういう過程があったのかは知らないが、友奈は勇者として復活した。復帰早々悪いが、酷な戦闘を強いられることになるだろう。

 複雑そうな心境を視線から受け取ったのか、友奈は小さく微笑んでみせた。

 

「大丈夫だよ、夏凛ちゃん。ちゃんと戦えるから」

 

「でもバーテックス五体もいるし……ふたりだけじゃ……流石に犠牲なしにはいかないわよね」

 

 後方の戦闘音が微かに聞こえてくる。風と樹が無限の敵を迎え撃っているのだろう。

 もし夏凛たちがバーテックスの侵攻を許してしまうとどうなるかはわかりきっている。

 つまり、ふたりだけでなんとしてでも敵を食い止め、なおかつ勝たなければならないのだ。

 それはもう暗に満開の必要性を仄めかしているのと同じだ。もちろん友奈もそれをわかっているはず。

 

「この場所はいずれバレるわ。そしたら戦闘は避けられない。覚悟は……いい?」

 

 真剣な面持ちで問うが、友奈は陽気に「大丈夫!」と答えてみせた。

 

「そんな軽い話じゃ……!」

 

「わかってるよ。死ぬわけじゃないしね。で、も……うん、わかってるよ。覚悟はできてる」

 

 舌が痺れたような友奈の言い草は、夏凛の覚悟をより一層強固なものにした。

 友奈は今も散華と戦っているのだ。その恐怖を誰よりも一心に浴びているのにさらに満開を重ねようとしている。

 正直、何度満開することになるのかは想像もできない。だが、絶対に友奈に満開をさせすぎないという決意が漲った。

 

「……いくわよ」

 

「うん」

 

 影から一気に飛び出し、数段上の根に登り、バーテックスたちの前に躍り出た。

 敵の存在に気づいたバーテックスたちが向きを変え、ふたりを捉える。

 右肩の満開ゲージを見つめ、夏凛は深く息を吐いた。

 そしてふと、携帯である画像を見始めた。それはこの前、夏凛の家で誕生日会をやった時のものだ。プレゼントを渡されて、恥ずかしがりながらも受け取る三角帽の夏凛自身が映ったものだ。

 

「あっ! それいい写真だね」

 

「ちょっと! 勝手に覗き込むなぁ!!」

 

 肩からひょっこり顔を覗かせた友奈に驚きつつ、手を振って遠ざけた。

 

「それ、大切に保存してくれてたんだ。嬉しいな」

 

「まあ……別に」

 

 口を尖らせながら恥ずかしさを誤魔化し、携帯をしまって両手剣を手に持った。

 バーテックスたちから殺意が向けられる。無意識に身体が震える。しかし、右手を暖かいものが包み込んだ。

 友奈だ。友奈が夏凛を安心させようとしてくれているのだ。

 

「ありがとう……友奈」

 

 右の刀で空を斬り払う。そして我を大きく見せながら高らかに名乗りを上げた。

 

「さあさあ! ここからが大見せ場!! 遠からん者は音に聞け!! 近くば寄って、目にも見よ!!」

 

 すると、友奈が両腕に力を入れた。そして胸いっぱいに空気を吸い込み、ありったけの声量で声を張った。

 

「讃州中学二年勇者部部員! 勇者、結城友奈!!」

 

 夏凛は胸が急激に熱くなるのを感じた。圧倒的な不利な状況だが、それでも絶対に負けないという自信に満ち溢れた。

 

「同じく、三好夏凛!!」

 

 大赦の勇者ではなく、勇者部の勇者として夏凛は名乗る。

 東郷も友奈も、誰かが傷つくのを見たくないのと同じように、当然夏凛もそれを抱いている。

 夏凛が勇者部と関わった期間は長いとは言い切れない。所詮は既存の勇者たちの戦力増強として派遣された人間だ。別に事務的な関係だけで良かったはずだ。しかしどうしてこうなったのだろう。半ば強引に活動に参加させられることが多々あったが、皆と過ごした日々は何よりも濃密で……楽しかった。

 だからそんな仲間たちを守るためにも、大赦の、ではなく勇者部の勇者であることがこの場では必要だ。

 

「今こそ、私たちの実力を見せる時ッ!」

 

「この先に進みたくば、私たちの屍を越えて行け!!」

 

 友奈に続いて夏凛も大声量で応える。

 闘志が燃え盛る。ひとりならきっと怖がってしまっていたかもしれない。

 だが、ひとりではない。

 友奈が一緒だから。

 それだけで、無限の力が沸き起こる。

 

「いざ! いざ! いざ、いざ尋常に――」

 

 友奈の鼓舞に、夏凛が声を重ねる。

 

「「――勝負!!」」

 

 そして、ふたりは力強く地面を蹴り上げた。




かつて、先代の赤の勇者はひとりで複数のバーテックスを迎え撃ったという。
しかし今回は違う。ひとりじゃない。

外の世界はすでに終わっていて、救いはない。
それでも、勇者は立ち上がる。

では、また次回!


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負けない

戦闘シーンが想像以上に長引いた笑

前回のあらすじ
勇者はひとりではない

右半身麻痺の友奈が勇者になったらどうなるかという脳内設定資料
なんて痛々しい! 誰だ! こんなことを考えたのは!(棒読み)

【挿絵表示】




 自分のものではなくなった右腕が、右脚が間接的にだが動かせる。巻き付く枝木が友奈の意識を汲み取り、反映させることによって柔軟な動きを可能としている。微小のラグは拭えないが、慣れの問題だ。

 大きく宙に跳び上がった友奈と夏凛をバーテックスより先に襲ったのは、白い敵の群れだった。バーテックスよりサイズは小さいが、やはりふたりより遥かに大きい。

 グググ、と枝木が軋みながら拳をつくらせる。

 大きく腰を捻って右半身を仰け反らせ、鋭く息を吐いて友奈は拳を前に突き出した。

 

「勇者……パーンチ!!」

 

 それは敵の顔面を砕く。

 友奈の右腕には感覚はないため、『殴った』という認識ができない。無性なムズ痒さを覚えながら友奈はさらに襲いかかる敵を殴りつける。

 友奈の死角から襲う敵を夏凛は逃さなかった。ぎらりと光る鈍色の刃を振るって一刀両断。

 このままではジリ貧だ。いま最優先でしなければならないのはバーテックスの殲滅。雑魚敵に構っている暇はない。

 

「行くわよ友奈!」

 

「うん!」

 

 ……後ろめたさはある。

 次は何を失うかなんて誰にもわからない。散華に皆はたくさんたくさん苦しめられた。それに……友奈は一度折れた。

 しかし、今は違う。

 戦う覚悟を示した。代償を背負う覚悟もした。

 だから!

 こいつらを倒して、東郷さんを――守る!

 

「「満、開!!」」

 

 地面の奥の奥、さらに奥底から虹色の糸が無数に伸びた。それらは友奈と夏凛に集約し、神樹様の力が通常時よりもさらに多く注がれる。

 白い戦場に、神々しい輝きが爆発した。その光はバーテックスではなく、我々こそが強いのだと主張しているかのよう。

 それと同時にふたつの巨大な花が咲き誇る。

 花から生まれるは、ふたりの勇者。

 ……これが満開。勇者の力をより引き出す奥の手。

 友奈の両脇には巨大なアーム、夏凛には刃渡り二メートルほどの刀を持ったアームが四本も現れている。目に見えて強化された装備。そして全能感に打ち震える。

 ここからは短期決戦だ。満開にも持続時間はあり、それは明確なタイムリミットがない。だからいつ解けてしまうのかわからないのだ。一度満開が解ければ散華……身体機能を奪われる。

 先に敵を倒すか、それとも満開の繰り返しで自滅するかのデスマッチ。

 ……一秒すら惜しい。友奈の満開は一回だけにさせたい。そのためには素早い連携と確実に敵を屠る力量が必要だ。

 

「そこを……どけええええぇぇぇっ!!」

 

 夏凛が巨大な刀を横方向に大きく斬り払う。

 それだけで斬撃が実体を持ち、遠くまで飛んだ。そして眼下に広がる敵の群れがほぼすべて、ただの一撃のもとに消し炭となる。

 だがまだ生き残りがいる。夏凛は無限に生成したの刀を超広範囲に射出する。白の空が瞬く間に夜空の色を取り戻し、バーテックスへの道が見えた。

 拳を握りしめた友奈がその道を一直線に加速する。下半身から雑魚敵を吐き出すこいつを倒せば、残りのバーテックスに集中できる。

 加速は十分。障害となるものはなし。バーテックスは友奈の速度に追いつけていない。

 ……いける!

 

「ぉぉぉおおおおおおお――……っ!!」

 

 右の拳を突き出して、スピードをのせた渾身の一撃を真上から叩き込んだ。その身体は思ったより柔らかく、貫通して御霊ごと壊し、下に突き抜ける。

 咄嗟に見上げると、さああ、と砂のように身体を崩壊させ、やがてバーテックスは完全に消滅した。

 これで一だ。

 ふたりとも満開はまだ解けていない。

 次に近いのは……扇子のような反射板をいくつも周囲に展開している赤いバーテックスだ。夏凛も同じことを考えていたようで、先に突撃する。

 上段からの振り下ろし。しかしこれは全面に盾として展開されることで通らなかった。

 

「友奈!」

 

 それ以上の言葉は不要だった。

 盾を足場に一度ジャンプし、再び刀を構える。その間にタイミングよく友奈が盾を殴りつけて粉砕。防御を突破する。

 完璧な連携。

 夏凛はリズムを崩すことなくニ撃目できちんと敵を討ち取った。身体が崩壊するのを確認してカウントする。

 これでニ。

 一分も経たないうちに残り三体まで減らすことができた。流れは完全にこちらだ。このスピード感さえ維持できればそれぞれ一度の満開で終われる。

 ……空気の動きが変わった。

 夏凛はそれを過敏に感じ取る。振り向くよりも先にアームの一本を後ろに振り払った。すると認識外から襲いかかったサソリのような鋭い棘が、装甲すら貫いて深々と突き刺さった。

 途端、急速に赤い侵食が始まる。これは樹海の根を焦がすものと同じもの!

 

「こんのッ……!」

 

 刀で尻尾を切断しようとするも、ギリギリ刃が届かない。みるみるうちに侵食は進み、肩にまで届かんとした瞬間、友奈の強打によってバーテックスを一時的に引き離すことができた。

 反撃に出ようと夏凛は奥歯を噛み締めたが、ここで一度満開が解けてしまう。

 パリンッ! と軽快な音とともに装備が一瞬にしてもとに戻り、落下を始める。その間に白い帯が夏凛の右腕に巻き付く。その瞬間、右の方より先のあらゆる接続が絶たれ、力無くぶらりと垂れ下がった。

 これが、散華か!

 友奈たちを苦しめたモノ。泣かせたモノ。この余計な供物のせいで、どれだけ傷つけれたことか……!

 急速に恐怖が湧き上がる。それよりはやく、怒りが加速度的に埋め尽くした。

 

「く、そおおおおおぉぉ!!」

 

 友奈たちの犠牲を少しでも減らせるのならば!!

 いくらでも持っていけ!!

 着地と同時に体制を整え、もう一度地面を蹴り上げる。

 

「こいっ!!」

 

 夏凛が叫ぶと、神樹様がそれに応えて虹色の糸が背中を力強く押した。

 それは、地獄への片道切符。

 もう一度満開の花が咲き誇り、追加装備が再び出現する。

 バーテックスが狙いを定め、今度こそ夏凛の息の根を止めようと死の棘が鋭い音とともに迫り来る。

 しかし、そうはさせまいと友奈がその間に割って入り、左手に貫かせることで受け止めた。直接身体を傷つけられたわけではないからダメージはないが、強烈なフィードバックに脂汗を滲ませる。患部から広がる侵食は恐ろしいスピードでアームを呑み込み始める。

 ……装甲がもたない。小さな亀裂が無数に走り、友奈は目を見開く。このまま破壊されれば、勢いで友奈自身に棘が刺さる。満開ゲージによる精霊バリアがあるものの、なるべく消費したくないという葛藤が生まれる。

 ――ここで手放せ。

 本能がそう告げた。

 感覚的に、あと数秒で破壊され、満開が解けると悟る。手放せば避けられる。

 しかし。

 これは、チャンス! 敵の動きを封じ込む絶大なチャンスだ! 逃してたまるものか!

 左手を握り、暴れまわる尻尾の動きを黙らせる。それだけでも目に見えて後戻りのできない損傷へと悪化する。亀裂はより深くなり、広がる。そして一部分が侵食と破壊に耐えきれずに破損する。

 これだけでは夏凛が上手く狙いを定められない!

 右手で強引に尻尾を掴んで身体を手繰り寄せ、夏凛の前に差し出した。同時にガゴッ! と重くて鈍い音が鳴り、大部分が弾け飛ぶ。

 これ以上友奈にできることは、夏凛を信じることのみだった。

 

「夏凛、ちゃん……ッ!」

 

「友奈あああぁぁぁ――!!」

 

 夏凛が吠える。

 速く――もっと速く! コンマの世界に干渉して一条の光の如く飛翔する。

 四本の刀、すべてを下段に構えた斬り上げ。その音速を超えた一撃は、バーテックスの身体を綺麗な切断面を残して斬り裂いた。トドメとばかりに剣撃飛ばしで御霊を斬り伏せる。

 これで三。

 そして片方のアームを失った友奈の満開が解け、落下する。

 すると、後頭部から左目のあたりにかけて帯が伸び、途端に片方の視界が消え失せた。右目だけでも見えるには見えるが、体感とのズレがある。

 花が散る。

 色褪せ、弱り、朽ち、散る。

 黒ずみ、花弁をすべてを失った残りカスはぽとりと最期には虚しく落ちる。

 散華というシステムを初めて友奈は認識した。これから一生、もう、片目が見えない。

 散華の重さを、今更ながら知った。

 だが! これで死ぬわけでは……な、い! だから…………。

 ――違う。目的を間違えるな。これは生きるための戦いだ。

 まだ友奈は戦える。枝木が友奈の意識を読み取り、着地体制を取るべく滑らかに伸縮して右半身を調整する。地面に着地し、じんわりと衝撃が全身に逃げるのを待ち、一気に肺に空気を流し込んでから再び夏凛の元へと飛ぶ。

 残りニ。

 夏凛に襲いかかる針の嵐。

 咄嗟に反応して刀を振る。眩い火花を散らして悉くを弾くが、すべてというわけにはいかず、アームに次々に突き刺さる。それによって出力が落ち、意識とのシンクロが鈍くなる。

 

「くっ!」

 

 このままでは数の力に押し負ける。速やかに頭を一時離脱に切り替え、高く上昇する。この状態からむやみに突撃しても被害が大きくなるだけだ。しかしバーテックスの追撃は止まず、少しでも動きを止めれば蜂の巣にされてしまうだろう。

 空を赤が舞う。

 三次元的な移動は夏凛の平衡感覚を容赦なく抉り取る。今、どの方向を向いているのか。下か? 上か? それともバーテックスに向かっている?

 棘が数本、夏凛の鼻先を通り抜けた。精霊バリアは確実に主人を傷つけるものしか防いでくれない。狙われている恐怖と自分の位置を正確に把握できない恐怖。唇を噛みしめると、じわりと血が滲んだ。

 どこかで一度、ターニングポイントとなる一手を打たなければならない。

 すると突然、巨大な花が空に咲いたのが視界の端に映り込んだ。それと同時に棘の猛攻が嘘のように止む。次に、強烈な衝撃波が夏凛を叩きつけた。

 動きを止め、その発生源を見る。

 すると、再び満開した友奈が豪快にアッパーをきめていた。それだけでは留まらず、次々と目にも止まらぬ速さで拳撃を繰り出す。

 一撃。ニ撃。三撃。四撃。五撃――!

 バーテックスの身体は原型が残らないほど歪められる。まだ友奈の猛攻は止まらない。

 割り。砕き。壊し。潰す。

 一撃一撃が重く、打撃音が樹海全体を激しく揺らす。バーテックスは抵抗すらできないまま蹂躙され、ついに御霊を剥き出しにした。

 

「勇者……キーック!!」

 

 高く跳躍し、前にした時と同じように二体目の精霊の力で脚に炎を纏わせる。落下のエネルギーを加算させ、流星の如く煌めく軌跡を残して加速し、御霊を熱爆発により完全に破壊した。

 これで四。

 友奈はほう、と熱い吐息を吐き、胸に手を当てたあと、落下してくる夏凛にVサインを送った。夏凛の満開は落下中に解け、右脚に帯が巻き付いている。

 友奈は落下ポイントにいち早く到着し、夏凛を優しく受け止めた。

 

「ありがとう」

 

 夏凛を下ろすと、剣を杖代わりにしてぎこちない動作でバランスを保つ。

 その無残な姿に友奈は思わず悔しさを募らせるが、残念ながらまだそれに構う余裕はない。

 

「うん。それより最後の敵はどこにいるんだろう?」

 

「最初は間違いなくいたはずよ。まさか私たちを通り過ぎて――」

 

 そう言って、夏凛が後ろを振り向いた瞬間だった。砂漠の地面に潜伏していた最後のバーテックスが突然姿を現し、虚を突いて脇から襲いかかってきた。

 友奈にとって緊急離脱することはなんの問題もなかった。しかし今の夏凛には無理だ。アドレナリンがどくどくと脳内に溢れ、電撃が走る。最適な行動を刹那の間に導き出す。

 左腕のアームを伸ばしてその華奢な身体を後ろに押し飛ばす。それだけで避ける時間はすべて使い切ってしまった友奈は右腕を斜めに構えてガードの姿勢をとった。

 クラゲの触手に似た複数のものを、根を抉りながら友奈を強打する。ズレた視界によって誤った予想がされていた。地面ごと殴り上げられては流石に友奈も対処のしようがなかった。

 肺が押し潰され、空気が強制的に逆流する。意識は白黒する。

 構える姿勢が悪かった。宙へ放り上げられた友奈は、自分の判断が誤っていたことにようやく気づいた。そもそも両眼が健在という前提で成り立つものだったのだ。

 そしてそのまま二本三本と迫る追撃に対処しきれず、ほぼ無防備な状態で攻撃を許した。

 アームでの防御も角度が悪く、側面からの攻撃に対して威力を殺しきれなかった。

 脇腹で残った力をアームを通じて受け止める。

 

「か、フ……ッ!」

 

 ぐにゅ、と嫌に生々しい音が鳴って内臓を強く圧迫され、吐き気を催す。胃液が喉元までこみ上げ

 、酸味の効いた味が広がるが友奈はなんとか奥に押し戻した。

 しかし足元からすくい上げは反応できず、遠くに弾き飛ばされてしまった。

 この勢いを止められない! ぐるぐると出鱈目な回転を友奈はなんとか静止させようとするが、うまくいかない。

 満開が解ける。

 左脚を帯が巻き付き、短く悲鳴を上げる。

 早急な戦線復帰は不可能と判断。残りの一体は夏凛に任せるしかない。

 

「あとは……!」

 

 お願い……!

 平衡感覚が狂い、意識が暗闇に閉ざされる。

 その直前、赤い花が大きく咲いたのが見えた。その光は暖かく、包まれるようだった。心の底からぽかぽかして、友奈は安堵した。

 夏凛ならできる。

 だって、完成型勇者だから……!

 友奈は夏凛の勝利を信じ、ゆっくりと目を閉じた。

 

 ◆

 

 友奈が遥か向こうまで飛ばされる。

 ここで敵を食い止められるのは夏凛しかいない。……友奈はとてもよくやってくれた。もしひとりだけだったら、何回満開することになっていたかわからない。

 チームプレイにおいて、コミュニケーションは必須だ。しかしその境地。極めたところにあるものは、言葉すらほぼ不要の、まさに以心伝心に至るものだ。

 名前を呼ぶだけで、すべてが伝わった。

 名前を呼ばれるだけで、すべてが伝わった。

 これまでの日常。楽しみ。そして悲しみも嘘などではなく本物だった。すべてを共有し、すべてを分かりあったからこそ、あのような完璧な連携を可能としたのだ。

 左手に刀を握りしめる。腰を上げ、刀を地面に突き立てて身体を起こす。バランスがうまくとれない。

 勇者としての友奈の想い、しっかりと受け取った。ならば今度は夏凛が想いを口にする番。

 夏凛は咆哮した。

 

「私は!! 勇者部のために戦う!! 大赦のためではなく、かけがえのない、あいつらのために!!」

 

 友奈と同じ、右半身をすべて持っていかれた。これが友奈が味わっていた不自由。

 ……当然こんな状態では満足に戦うことなんてできない。

 でも、満開すれば戦える。

 戦闘中にずっと感じていた舌の痺れはもうなくなっていた。

 満開への抵抗が薄れてきている? 違う。逆だ。

 今、満開してでも戦わなければならない局面なのだ。

 致命的な代償を受け入れる覚悟を友奈と示し合った。その言葉通り、友奈は決して引けを劣らぬ勇敢な戦いを見せ、脱落した。

 自問する。

 果たして夏凛の戦いぶりは勇敢だったか、と。

 否だ。

 勇敢であったと自身を認めるのは早い。かつて勇者という尊い存在に憧れ、ストイックに生きた夏凛はここで『よく頑張った』と認めてしまうのか? 認めるのは、敵をすべて退け、勝鬨を上げた時のみ!

 

「満、開!!」

 

 三回目の満開。

 それは、三度の散華。三つの身体機能を捧げるという誓い。

 速攻で終わらせる! 以前友奈は満開した経験があるから身体が慣れ、持続時間が長かった。しかし夏凛は違う。今日初めて満開し、連発している。

 定着は浅く、持続時間が把握できない。ここで夏凛が戦闘不能になったら終わりだ。だから一気にきめる!

 飛翔する。

 音速を超え、光速をも超え、神速の域へ。

 時間の合間を、一条の線が無音で縫う。

 刹那、バーテックスの触手はその全てを斬り落とされていた。

 夏凛はどこにもいなかった。

 しかし、身体を斬られたという事実が敵がいるという何より証拠。

 音が静かに轟く。段階的に音圧が膨らみ、バーテックスは警戒を強める。

 白く細い音がソラを裂き、極寒の突風がバーテックスの切断面を舐める。

 次の瞬間、無限の剣撃に襲われていた。

 目視不可。対処不可。回避不可の絶対的な包囲網に囚われていた。

 ……赤がいた。

 赤がバーテックスの周囲を恐るべき速度で飛び回り、乱舞を繰り出しているのだ。その速度はおよそ認識できるものではなく、一撃一撃が必殺の絶技。

 為す術もなく一方的に蹂躙される。文字通り肉塊の少しも残らず、御霊も細切りにされ、刃の嵐の後には再び静寂が戻り、何も残っていなかった。

 これで五。

 赤の剣神がソラに鎮座していた。

 この樹海で最強の存在は、赤の剣神。

 過去、未来において最も最強の存在は、赤の剣神。

 そう誇示してかのような堂々とした佇まいだった。

 ゆっくりと刀をソラに掲げ、囁く。

 

「私たち勇者部の……勝ちよ」

 

 そして満開が解ける。

 途端、暗闇にすべてを覆われて、夏凛は左手を伸ばした。しかしそれは虚空を掴むだけで、みるみる落下していく。

 

「まだ……友奈を拾って……それから東、郷を……」

 

 見えない。何も見えない。動けない。

 満開時に力を使いすぎてしまったようだ。身体の節々が痛い。

 まだやることがあるのに。助けないといけない人がいるのに。

 何もできない。

 ああ。

 ああ……。

 ――三好夏凛は、ここで脱落してしまった。

 

 ◆

 

 犬吠埼風は、樹の夢……歌手になる夢を壊されたことを許せないでいた。家に電話がかかり、オーディションの一次審査の通過を知らされた時は死にたくすらなった。

 どうして……どうして散華で捧げるものが声なのだろうか……! 代われるものなら喜んで代わる。でもそれができないのが悔しい!!

 友奈に勇者部を感謝されたのはとても嬉しかった。ならば、このやるせなさはどうすればいいのだろう。

 根の影で膝を抱え込み、小さくなって俯く。

 すべてが嫌になってしまった。信じていた大赦に裏切られて絶望しても立ち上がろうとする皆に申しわけなさと、どうしても立ち上がれない自分に絶望する。

 これではまるで風が一番年下みたいではないか。目の前で戦っている妹は、姉を守るために戦っているのだ。

 ……誰だ、妹を守るのが当然と常日頃から謳っていたバカは。

 

「ははは……あたしか」

 

 乾いたら笑いが漏れる。

 馬鹿らしい。愚かで無責任で、いざとなったら守られる始末。これでは姉失格だ。

 無数の緑色の糸が敵を絡め取る。樹がくいっ、と手首を小さく捻れば糸が食い込んでその身を裂く。

 敵はまだまだ樹の隙を窺っていて、息をつく暇すらない。ステップを踏んで特攻を回避する。同時に糸を伸ばして捕らえ、ハンマー投げのように振りながら周囲に群がる敵を一掃する。

 音の無い戦闘。

 ただ衝撃音と、糸が鋭く伸びる音しか無い。奇怪な戦闘。しかし樹は膝をつかない。

 ……何かを叫んでいる。

 普段なら絶対に大声なんて出さないのに、必死に何かを叫んでいるのが風にはわかった。

 

「樹……」

 

 ……守れなかった。

 友奈を守れなかった。

 その時間その場所にいなかったから仕方なかった。すでに帰っていたから仕方なかった。現場にいない風が何かできたわけがない。だから風に非は一切ないのだ。

 どうしても、脳裏をちらりとよぎるのだ。

 もしあの時帰っていなかったら、と。そうすれば友奈を無理矢理にでも止められていたはずだ。そんなifのお話。

 ……悔しい。

 わかってはいるものの、悔しいのだ。

 部長として部員を守ることができなかったという事実が肩に重くのしかかる。それを容易に振り払うことができない。それほどの重みがある。

 樹が的の体当たりに跳ね飛ばされる。

 精霊がバリアを張って首からの落下だけは免れた。

 

 ……あたしはいったい、何をしている。

 

 そう、ぼんやりと考えた。

 樹がよろよろと立ち上がる。これ好機と敵が雪崩のように樹を仕留めようと迫る。

 両腕を構え、しっかりと敵を見据えた。闘志は未だ尽きず、二本の脚でしっかりと地に立っている。

 そして樹は口を開いた。

 

「私が……お姉ちゃんを守るから!!」

 

「――――――――!!」

 

 聞こえぬはずの声に、風はバッ、と顔を持ち上げた。

 今の言葉は……幻聴? いいや、幻聴だ。なぜなら樹は話せないから。では耳に届いたこれはいったいなんだ?

 たとえ誰もがそんなものは聞こえなかったと言おうが、風は絶対に聞こえたと言い張ろう。

 だって聞こえたから!

 樹を想う気持ちが引き起こしたものなのかもしれないが、そんなことはどうでもよかった。

 ……そして我に返る。

 今一度問う。

 

 ……あたしはいったい、何をしている。

 

 友奈の時はその場にいなかったから仕方ないと言い訳できたかもしれない。しかし今、最愛の妹が傷つきながら戦っている。そして風は目の前でただ力の抜けた抜け殻のように座り込んでいるだけ。

 動けるはずだ。なのに動こうとしないこの体たらくはなんだ。

 病院に駆け込み、悲惨な姿になった友奈を見た日のことを思い起こす。絶望に、心の底から震える。

 あの時、死にたくなるほど後悔したはずだ。

 

 守れなかったと――

 また――

 同じことを――

 繰り返す――

 つもりなのか――!!

 

 すでに大剣は手の中にあった。

 地面を蹴り、一気に肉迫する。

 敵の群れが樹を圧倒する、その直前に風は割って入り、大ぶりの大剣を振った。

 

「はあぁッ!」

 

 樹の前に風は立ち塞がった。その背中は頼れる部長であり、姉のもの。樹はギュッ、とその背中に抱きついた。

 

「……ごめん樹。もう、あたしは迷わない。どれだけ絶望しても……それでも、あたしは勇者だからね」

 

 負けられない。遥か前方では友奈と夏凜がバーテックスを迎え撃っている。あっちはきっと、風たちよりも熾烈な戦いになっているはずだ。

 なら、風と樹はここを守らなければならない。携帯で東郷の位置を確認すると、壁のところにいるようだ。

 まずはこの白い敵たちを蹴散らさないといけない。

 大剣を構える。

 腕を構える。

 姉妹は一心同体。

 ひとりではなく、ふたりなら――。

 犬吠埼姉妹は勢いよく飛び出した。

 

 ◆

 

 一方、三好夏凜は夢を見ていた。




失ってでも戦う。しかしそれは東郷を悲しませるだけ。
それでも、友奈はすべてを終わらせたくない。死にたくない。
だって、皆との毎日が何よりも愛おしいから。

では、また次回!


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いつかの夢

ゆゆゆいプレイはしないんだけど、ストーリーだけようつべで見始めたよ!

前回のあらすじ
ふたりの勇者がその身を捧げて戦った。
そして、赤の勇者は夢を見る。


 ……兄の匂いは、いったいどんなだったのだろう。

 そんなことはどうでもよくなって、とうに記憶の果てに追いやられてしまった。一緒にいた時の記憶はあるが、時々ぼやけることがある。長い間会うことがなかったから、時間が赤錆のようにこびりつき始めているのだろう。思い出そうとすればじゃりじゃりと記憶が擦れ、それ以上の努力を妨げるのだ。

 ……夏凜にとって、兄の存在は大きなものだった。

 

「夏凜……オレは大赦の人間になるよ」

 

 親よりも先にそう伝えたことを、今でもよく覚えている。当時の夏凜には大赦とはとても偉い人たちの集まりで、世界を守るために様々な活動をしているという知識しかない。

 だから、素直にすごいと思った。

 立派な御役目を頂戴できる人間になるのだと、幼い夏凜は兄を誇りに思った。

 別に何をさせても完璧な人間、などといった少女漫画によく出てきそうな男ではなく、苦手な食べ物があったり美意識に疎かったりと……まあ同年代の男としてはそれほどの魅力はない。

 そんなことを言ったら傷ついて泣いてしまうからずっと胸の奥にしまいこんでいる。

 しかしやることはきちんとやる人間だ。

 でも、どうしても夏凜にはわからないことがひとつだけあった。

 大赦に住み込みで働くことになった兄が家を出る日、ついに我慢できなくなって、ドアを開けた兄の背中に『頑張って』や『いってらっしゃい』といった言葉ではなく、

 

「どうしてお兄ちゃんは大赦の人になりたいの?」

 

 という素朴な疑問を投げかけた。

 兄の足がぴたりと止まる。両親はわかりきったような表情で何も言わない。それが夏凜をより不思議にさせた。

 まるで自分だけ知らないような恥ずかしさを感じた。俯き、頬を膨らませて不愉快であることをわかりやすく表現している。その幼さの滲み出る可愛らしい言動に兄は微笑を浮かべた。

 そして夏凜の頭に手を乗せ、優しく撫でる。

 

「たぶん、皆は世界のためだとか言うだろうけど、オレは違うんだ。オレは――」

 

 兄の姿がブレる。

 ノイズが走ったように、赤錆が隅から手を伸ばしてこれ以降の記憶の再生は難しいと残念そうに停止させようとしてくる。

 夏凜は手を伸ばす。必死に伸ばす。昔の夏凜にはまったくわからないことだった。でも、今ならわかる気がするのだ。だから答え合わせがしたい。

 だから!

 だから――!

 無慈悲に錆ついた記憶は終わりを告――。

 現実へ引き――され――。

 叫んでも――兄は――ず。

 ……やはり、兄の匂いはわからなかつた。

 

 ◆

 

 夏凜の朝ははやい。

 朝五時に鳴る目覚し時計よりはやく起き、華麗なフォームでベッドから降りる。

 パジャマから数秒で運動着に着替え、歯磨きをしながら今からする鍛錬を脳内シミュレートする。

 ここはひとりで住むことを想定されたごく狭い一室。トレーニングマシンを一台しか置けないのが辛いところだ。

 朝食は七時。それまでに食堂にいないと抜きにされてしまう。当然夏凜はそんなヘマはしでかさない。

 ズレないようにしっかり腕時計を手首に巻き、ランニングシューズを履いて部屋を出た。

 通路にはホテルのように一部屋一部屋が並んでいて、それらすべてに夏凜と同じ年頃の女の子たちが下宿している。

 起こさないように注意を払いながら音を殺して小走りで階段まで向かう。

 一段飛ばしで一階まで降り、エントランスから弾丸の如く外へ飛び出した。レンガで舗装された海岸沿いのランニングロードを颯爽と走る。

 朝は比較的涼しいから気持ちの良い走りができる。同じようにランニングする年寄りや青年たちを見られるだけでも刺激を受ける。

 昨日同僚に教えてもらった歌を口ずさみながら、リズミカルな走りを意識。

 別に夏凜はタイムを少しでも縮めようと励んでいるわけではない。そうなってくると本来の目標から外れてしまうからだ。

 目標はシンプルで、体力をつけること。

 誰だって運動を始めたばかりだと最高のパフォーマンスができる。しかし体力が尽きればそれができなくなる。それをなるべく先延ばしにするために毎日走るのだ。

 タイムは昨日と比べると少し遅くなったが、特に気にする必要はない。汗で張り付いた運動着が夏凜のボディラインをくっきりと写し出す。食生活の充実していない夏凜の身体は細く、簡単に倒れてしまいそうに見える。しかし実は筋肉は引き締まっていて、体力はもちろん筋力もそれなりにある。腹筋を割ってしまうと何か大事なものを捨ててしまいそうな危機感から、そこまではしていない。

 

「……ふぅ」

 

 宿舎に戻り、ウォーターサーバーで喉を潤す。次は修練場で素振り千回の予定だ。腕時計を確認すると、十分注意時間に余裕はある。素振りをした後、シャワーを浴びて朝食に向かう。脳内でフローチャートが組み立てられ、夏凜はさっさと行動に移そうと修練場の扉を開いた。

 広さは四十畳ほどで、基礎訓練などで主に利用される場所だ。畳が敷き詰められていて、剣道場に改名するべきではと夏凜は密かに考えている。

 

「…………あ」

 

 夏凜は僅かに硬直した。

 ひとりの少女が夏凜より先に修練に励んでいたのだ。

 顔立ちはくっきりとしていて、何事にも無感動といった雰囲気を醸し出している。しかしながらこうして朝練をしているということは、夏凜と同じ真面目で努力を惜しまない人間であるのだ。

 そして夏凜が硬直したのは、ただ人がいて驚いたわけではない。その人物が、自他共に認める勇者候補のライバルだからだ。

 二本の木刀を持ち、しなやかな剣さばきで人型の練習台に剣撃を浴びせる。動きは洗練されていて、無駄なものはほぼない。指摘できることがあるが、してしまうと不機嫌になるだろうから止めた。

「調子どう?」とか、「朝食なんだろうね」とか、そんな他愛ない会話をする仲というわけでもない。ただ事務的な会話しかした記憶がない。

 だから夏凜は「おはよう」とだけ言って挨拶を済ませ、トレーニングを始めるために備え付けの木刀を二本手に掴んだ。

 すると突然、少女は汗を拭いながらこんなことを言い出した。

 

「……三好夏凜。少し手合わせしない?」

 

「は?」

 

 それは思わぬ誘いだった。

 もし眠気が冷めていなかったら、冷水よりも効果的な言葉だろう。

 夏凜はじっと少女を見つめた。

 

「なんでよ」

 

「あれだけいた勇者候補はその半分以上が脱落して、もう両手で数えられるほどしか残っていない。それに適正試験の回数も最近増えてきているような気がするわ。……そろそろ勇者が選定されるのよ、きっと」

 

「…………」

 

「だからここで明確にしておきたい。あなたと私、どっちが強いのかを」

 

「……そう」

 

 ここまで夏凜に対して直接的な言葉を投げかけるのは初めてのことだった。

 それにしても言っていることは最もだ。およそ週一くらいだった適性試験は今では週三になっている。それに今日、新たに一人が落とされた。

 初めはあれほど賑わっていた寮は静まり返り、夜になると取り留めのない会話が聞こえてきたのだが、それもない。夏凜の両隣の人もいなくなったおかげで昼夜問わずトレーニングマシンを利用できている。

 

「あなたも同じ事を考えているでしょう?」

 

「そんなこと、正直どうでもいいわ。……でも、言いたいことができたから相手してあげる」

 

「ッ。ずいぶん余裕なのね」

 

 火照った身体を今一度引き締める。戦闘モードに切り替えて、呼吸を整える。

 先代の赤の勇者は二丁の大振りの戦斧を武器としていたという。その最期は詳しく聞かされていないが、果敢に三体のバーテックスに立ち向かい、そのすべてを追い払ったらしい。その鬼神の如き戦いぶりは、きっと想像を遥かに上回るほど壮絶なものだっただろう。

 だから新たに選出される赤の勇者も、接近戦が得意な武装になると大赦は言っている。

 この木刀は……軽い。もし勇者になれば、これよりもっと重い金属の武器を手に戦場を駆けることになる。だからこの木刀は自分の身体の一部のように扱えなければならない。

 

「ランニングし終えたばかりだけど、ハンデなんていらないわよ」

 

 腰を低く落として構える。目の前の少女に打ち勝つには、徹底的にわからせる必要がある。中途半端に倒しても間違いなく立ち上がるはずだ。

 力強く相手を見据える。

 ……本気だ。恐らく向こうもただ倒すだけでは終わらないと思っているのだろう。つまりこの戦いは、どちらかの心が折れるまで終わらない。まだ朝で、これからまた訓練があるというのにこれでは響いてしまう。

 しかし、それよりもこの戦いのほうが重要だ。今後の訓練に臨む心持ちに関わってくる。

 

「シッ!」

 

 先に動いたのは少女の方だ。重く畳を踏み込んで一気に肉迫する。上段からの振り下ろし。夏凛はそれを急激なステップを踏んで回避し、丸出しの脇腹を狙って木刀を叩きこむ。しかしそれは咄嗟に逆手に持ったもう一本の木刀によって防がれた。カンッ! と甲高い音が響くが夏凛はさらに一太刀を入れる。これも狂いのないタイミングで弾かれる。

 今の夏凛の動きは、普段少女が見せる隙を重点的に狙ったもののはずだった。一撃目は反応が難しいが、その直後の側面が極端に甘くなる。それを突くつもりだったが、できなかった。それはつまり、夏凛がどのように動いてどのタイミングで攻撃するのかなどをすべて脳内でシミュレートし、その対策を考えているということだ。

 ……私を研究し尽くしている!

 横の薙ぎ払いは容易に受け流され、お返しとばかりに鋭い剣撃が返ってくる。回避に集中すれば、回避先の位置を未来予知しているのではないかと思えるほど恐ろしく正確な軌跡がなぞり、頬を掠める。

 夏凛はより一層神経を研ぎ澄ませ、意識はより深みに沈む。

 感覚神経が張り巡らされるような錯覚に陥る。今や木刀の先端までが夏凜の身体と一体化している。

 間合いを詰める。牽制の薙ぎ払いを上半身をくねらせて躱し、鋭い突きを放つ。回避または受け止めることができないと瞬時に判断した少女は腕を当てて軌道を逸らした。

 もしこれが実戦で、夏凜が切れ味の高い武器を使っていれば間違いなく腕はズタズタに引き裂かれていた。しかし今は模擬戦に過ぎず、そんなことはどうでもいい。

 相手の動きの一部分ではなく、全体を俯瞰するように見ろ。腕の曲がり具合、重心の動き方から次の行動を予測しろ。

 躱す。弾く。弾く。振る。躱す。振る。躱す。連撃に圧倒されてはいけない。針の穴のような極小の隙間に糸を通すような繊細さで反撃する。

 やがて少女の方からバックステップで距離をとった。

 

「大したことないわね。防戦一方じゃない。攻めない勇者なんて不要よ」

 

 少女はそう吐き捨てるように言った。

 

「……あっそ」

 

「…………そんなに私のことが嫌いかしら?」

 

「そんなことはないわ。でも、あんたの在り方は好きじゃない」

 

 手に滲む汗が手首を伝い、腕の産毛に触れる感覚までも鮮明にわかる。

 

「それが嫌いってことよ」

 

「あんたのどこまでも真面目な姿勢はいつも私を奮い立たせてくれた。あんたがいなければ、私はここまで強くなれなかったかもしれない」

 

「そっくりそのまま言い返すわ」

 

 もう一度木刀を構え直し、鋭く息を吐き出した。

 肩の力を抜いて、脱力する。わざとらしく気を抜いた様子に少女は小首を傾げた。

 ――刹那、夏凜はノーモーションで一気に接近した。

 完全に虚を突かれた少女の対処が間に合うはずもなく、下段からの振り上げを真正面から叩き込んだ。

 半端な命中ではなく、確実にダメージを与えられたという感触。そして夏凜は立て続けに追撃を加える。

 なぜ両手に武器を持つのか。それは、重い一撃をコンセプトとする大剣や戦槌とは異なり、攻撃の手数を主としているからだ。

 膝。下腹部。肩。横腹。腕。そのすべてに正確に木刀を叩き込む。

 

「卑怯、よ……! そんなっ!」

 

 出鱈目な振り回しをして夏凜を引き剥がした少女は痛みに呻きながら文句を言った。

 

「卑怯? 何言ってんの? あんたもしかして、敵が正々堂々と勝負してくれると思っているの?」

 

 ここでは対人などで基礎的な攻撃方法などが学ぶことができる。その内容は申し分なく、勇者としての土台を築くには最適だろう。しかし所詮は対人で培ったものでしかなく、「こうするだろう」という勝手な憶測で動いてしまう悪癖がついてしまう。敵は人外だ。ここで学んだことだけでは満足に戦闘などできるはずがない。

 呼吸をするたびに、乾燥した喉をじゃりじゃりと空気が通り抜ける。

 少女は奥歯が割れるほど強く歯を食いしばり、いつもの済まし顔とは打って変わり、戦意を剥き出しにして夏凜の懐に潜り込んだ。

 

「――なんだ、あんたいい顔するじゃない」

 

「はあッ!」

 

 決して安易な踏み込みではない。向こうから間合いの届く距離に飛び込んできたということは、こちらも一撃を与えられるということでもある。

 怯えるな。

 ぶぅん! と重い唸り音と共に木刀が夏凜の脇下を捉える。これは防御のリズムを完全に崩した一撃だった。瞬時にこれを捨てることに決め、次の一手として首元を狙う。ここで意識を刈り取り、終わりにする!

 脇腹にクリーンヒットする。鈍い痛みが一気に全身に行き渡り、木刀を持つ手の力が一瞬だけ弱まった。

 

「ぐッ!」

 

 しかしまだこちらは終わっていない。すでにニ撃目を繰り出そうと振り上げている少女の前へと、敢えて一歩を踏み出した。そして最小限の動きのみで最短経路を辿り、ガラ空きの首元へ剣撃を叩き込んだ。

 

「ア゛ッ!」

 

 濁った声が漏れる。

 当たりどころが悪ければ怪我をさせてしまうものだ。夏凜は力が抜けてその場に崩れ落ちた少女を見下ろす。

 意識はちゃんとある。ただ、今の一撃で意識が僅かに飛んだのだろう。

 

「ほら、立ちなさい。まだ負ける気はないんでしょ」

 

「ええ、その通り……よ!」

 

 落とした木刀を拾い上げ、そのまま振り上げる。

 それを力の流れをずらすように弾きながら接近した。

 足首を狙った振り下ろしは既のところで回避され、さらに木刀を上から踏みつけられる。

 とった! とでも言いたげな獰猛な笑みを浮かべたのを夏凜は見た。完全に前のめりになり、頭を前に差し出している状態だ。柄でうなじを突けるほどの超至近距離。ここから踏みつけを力づくで押し退けてカウンターへ転じることはないはず。

 しかし相手は夏凜。余裕を持った一撃ではなく、確実な一撃を。

 両の木刀を振り下ろす。これにて完勝――。

 

「――甘いわよ」

 

 夏凜がそう囁くと、この局面でなんと両手から木刀を手放してみせた。

 咄嗟に武器を手放すというとんでもない行動に少女は目を剥く。

 ここでどうしてそんな判断ができる⁉ 普通なら無理にでも足をどけようとするでしょう⁉

 ガラ空きになった真正面を夏凜のアッパーが突き抜け、顎にクリーンヒットした。身体が数センチ浮き上がるほどの力強い一撃のもとに、少女は床に大の字に倒れる。

 夏凜は熱い吐息を吐くと、倒れた相手の身体を抱き起こす。

 

「ほら、起きなさい」

 

「自、分で……」

 

「軽い脳震盪起こしてるでしょ。私に掴まりなさい」

 

 肩を貸しながら部屋の隅にあるベンチに座らせた。時間を確認すると、朝食まで残り十五分ほどになっていた。そろそろ顔を出しに行かないとまずい頃合いだ。床の転がった木刀を拾い上げて片付けながら運動着の匂いを嗅いだ。

 ……たぶん大丈夫だろう。

 

「……あなたのほうが強いなんて認めないから」

 

 興奮が落ち着いたのか、少女はいつも通りの真面目キャラな声色でぽつりと呟いた。

 殴られた顎がまだ痛むようで、ゆっくりと擦っている。

 

「ふん、そんなこと言ってる時点で負けてんのよ、あんたは」

 

「…………」

 

 冷たく返された少女は押し黙ってしまう。

 もし本気で夏凜を打ち負かそうとしたければ、肩を貸そうとしたあの瞬間が最大の隙だった。言い換えれば負けを認めるかどうかのジャッジだったのだ。それを少女は甘んじて受け入れ、借りた。

 あそこで夏凜は攻撃されるのを期待していたのかもしれない。完全に無防備を晒した顔面に一発殴りを入れられたのに……しなかった。

 そんな卑怯な攻撃を、少女は許容しなかったのだ。

 

「そんなことどうでもいいわ。さっきも言ったでしょ? あんたは純粋な力の強さを『強さ』として考えているようだけど、私は違う。そりゃあ一騎当千の奴らが集まったらそれぞれが無双して敵無しなのは当然。でもね、私達は勇者になるのよ。仲間たちと協力してなんぼでしょう。……孤独な勇者なんて、私はごめんよ」

 

「……仲間に縋るなんて、弱い人のすることよ」

 

 ライバルはどうやら夏凜の考えは理解できないようだ。しかし同様に、夏凜もライバルの考えを理解できない。

 人間性の全く違った二人。どちらが神樹様に選ばれるかは、大赦にもわからない。どちらも勇者になるため、それこそ人生を捧げる覚悟で腕を磨いてきた。

 純粋な力の強さだけが強さではない。とはいっても戦場で結局モノを言うのはこれだ。蟻が象に敵わないのと同じように、弱者は絶対的強者にいかなる策を弄しても徹底的に、無慈悲に踏み躙られる。

 

 ――それでも夏凜は否定するのだ。

 

 脳震盪はマシになったようだ。立ち上がったライバルはいつものクソ真面目な仏頂面に戻っていた。

 踵を返し、先に修練場を出ようとしたその背中にしっかりとした意思を示す。

 

「――弱くて結構よ。だからこそ、私は『強く』あるの」

 

 少しだけ肩がぴくりと動いた。立ち止まり、こちらを一瞥してから部屋から出て行く。

 やはり感情のいまいち読めない表情だったが、夏凜には悔しさを滲ませているように見えた。

 

 ◆

 

「そんなこと、あったわね……」

 

 ぼんやりと夢見る夏凜はぼそりと呟いた。

 ああ、でも。

 夢を見ている場合ではない。

 はやく。

 はやく立ち上がって、友奈と東郷を助けに行かなければ。

 でもできない。

 右脚、無反応。右腕も無反応。それにさっきからずっと暗闇の世界だ。

 

「……目、持っていかれたか」

 

 満開したのは三回。つまり散華したのは三回。

 ひっきりなしに聞こえる戦闘音が耳にしっかり届く。今すぐにでも助太刀に向かいたいが、盲目の勇者にできることなんて、ない。満足に歩くことすらできないのに何ができるというのか。

 もう一生夏凜は勇者として戦えないだろう。この戦いを終えたら呆気なく勇者の資格を剥奪され、かつてのライバルにバトンが渡されることになるはずだ。

 

「……ま、いっか」

 

 夏凜が言うのもなんだが、実力は確かなものだった。友奈たちとすれ違いやいざこざは避けられないだろうが、なんとかやっていけるだろう。

 頑張った。夏凜はここまでボロボロになるまで頑張ったのだ。だからもう、何もかも捨てて休みたい。

 いつもなら絶対に考えないことを考えているのに気づき、自嘲する。

 もう一度目を瞑り、夢を見よう。

 そうすればいつの間にか戦闘は終わっているはずだ。そうして皆に後を託し夏凜は休むことにした。

 

 ――刹那、兄の言葉が聞こえた。

 

 懐かしい、声。

 仮面を剥がしてやろうと掴みかかった時とは全く違う、優しくて包容力のある言葉。

 ああ、確かにこんな声だった。

 家族、というものを夏凜はよく覚えていない。勇者になるべく家を発った日からずっと、親と離れ離れの生活を送ってきた。だからきっと、無意識に家族の暖かさなんてものを求めていたのかもしれない。

 胸の奥がぽかぽかする。今までずっと放置され、冷え切った何かに手が伸ばされる。

 樹海に雨なんて降らないのに。

 どうして左の袖はこんなにも濡れてしまっているのか、完成型勇者の夏凜はすぐにわかってしまった。

 これは……喜びだ。

 ずっとずっと、妹として兄に甘えたいという子供っぽい欲求が刺激されたことの喜びだ。

 そして。

 あの日兄が言った最後の言葉が、錆が剥がれるように鮮明に蘇った。

 夏凜の頭に手を乗せ、優しく撫でる。

 

『たぶん、皆は世界のためだとか言うだろうけど、オレは違うんだ。オレは……目の前のちっぽけで大切なもののためにって言うよ』

 

 そう言って、兄はニカッと白い歯を見せつけた。

 胸元に抱き寄せられ、夏凜はされるがままに頭を押し付けた。

 ……ほんのりと甘いクッキーの匂いがした。

 

 ◆

 

 夢を見る。

 果たして今のも夢だったのか。

 ……いいや、そんなことはない。あれは紛れも無く現実で、兄の姿を見た。でも夏凜は盲目のはずだからあれはきっと……強い想像が呼び出した偶像?

 そして今の夏凜は夢を見ている。両足で立ち、前をしっかりと視認できている。ここは……和室だろうか。

 ……赤子の鳴き声が聞こえる。男の子か女の子かはわからない。

 それを、縁側に座った少女があやしているようだ。外の庭を眺めながらリズミカルにゆっくりと身体を揺すっている。夏凜よりもひと回りほど身体が小さく、おそらく小学生くらいだろうと予測する。

 その様子をぼんやりと観察していた。

 

「あー、すみません。もうちょっとだけ待ってもらっていいですか?」

 

 こちらに背を向けたまま話しかけてくる。

 こんな記憶は知らない。場所も知らない。それに……目の前の少女は、誰だ?

 

「え、ええ」

 

 流されるままに頷き、夏凜はやがて赤子が静かに吐息を立てて寝るまで静かに待つことにした。

 少女が子守唄を歌い始める。しかし微妙に音程がズレていたりとまるでなっておらず、手助けすることにした。

 あくまで少女のリズムを崩さないように、鼻歌で音程を取れるように補助する。まだ完璧にはならなかったものの、幾分はマシになり、おかげで赤子を眠らせることに成功した。

 すると突然、すべての景色が波のように遠くへ引いてしまった。夢だからと納得はできるが、だとしても目の前の超現象についていけず、思わず反射的に腕を前に出した。

 そしてゆっくりと目を開くと、赤い戦闘衣を身に纏った少女が立っていた。少し長めの髪を後ろで結んでいて、ちらりと八重歯を覗かせるボーイッシュな子だ。

 

「さっきはありがとうございました。おかげで弟をあやせました」

 

 丁寧にお辞儀をして感謝を口にする。

 

「あ、弟なんだ。……で、それよりあなたはなんなの?」

 

 ふわり、と幻想的な景色が広がった。

 光の奔流。

 これらが星雲の如くどこまでも遠くに伸びている。

 そよ風のような、打ち寄せる波のような不思議な音が聞こえ始める。自己意識がこの景色に溶けて同化する感覚。

 およそ普通に生きていれば決してできない体験に、夏凜は思わず息を呑んだ。

 

「そうですよね。あたしたち初対面ですし。では、こほん。改めまして……」

 

 わざとらしく咳払いすると、

 

「初めまして! あたしの後輩っ!」

 

 と、先輩は陽気に笑ってみせた。




記憶の再演。
それは、過去を今一度振り返るもの。
たとえ勇者としての自分を否定されても、
それでもと三好夏凛は声を張る。

恐らく次の次くらいで終わります。
ああ! 最後はどう終わるのだろう!

ではまた次回!


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想い

ゆゆゆ三期決定おめでとう!

前回のあらすじ
三好夏凛は勇者である


 ――薙ぎ払う。

 正面に群がる雑魚敵、その悉くを薙ぎ払う。

 風が大剣を振って前面の敵を一掃し、その隙に樹がワイヤーを螺旋状に伸ばして領域を確保する。その繰り返しでひたすら前に進む。

 敵の軍勢などなんとやら。破竹の勢いで侵攻する姉妹は止められない。

 友奈も夏凜も離れ離れになり、どちらも全く動く様子がないことはすでに携帯で確認済みだ。

 つまり……もう動けない。再起不能ということだ。

 目指すは壁の上にこちらを見下ろす東郷。これ以上の壁の破壊は何としてでも避けなければならない。今や動ける勇者は二人しかいないのだ。

 まずは東郷を無力化し、そのあと星の数ほどの雑魚敵をすべて倒す。言葉にするのは簡単だが、途方もない苦難だ。

 それでも、必ずや成し遂げてみせる。

 それが勇者としての意地の張りどころだから。

 地面を蹴る。

 

「ついてきなさい樹!」

 

 返事はない。

 しかしその代わりにすぐ側をついてくる。

 たったそれだけで無限の力が湧いた。

 速攻だ。この勢いが殺されれば終わり。その前に東郷のもとにたどり着いてみせる。

 ……樹のワイヤーによって開かれた空間を貫く力が必要だ。ただ目の前を敵を蹴散らす力ではなく、どこまでも突き進むものだ。

 雑魚敵が蠢き始め、空間を埋め尽くそうとする。

 その前に!

 走りながら大剣を水平に構え、口を限界まで開けて「は、あ、あ、ああ――……」と肺からゆっくりと空気を吐き出し、一気に吸い込んだ。

 

「狗神ッ!!」

 

 風の呼びかけに答え、精霊の狗神がどこからともなく現れ、頭の上にちょこんと乗った。

 そして。

 地を裂くほどの大咆哮を轟かせた。その威勢に敵の動きが若干鈍くなる。同時に大剣がその姿を変え始める。

 刀身はみるみる細くなり、先端がどこまでも伸びる。二倍、三倍と留まるところを知らず、先が見えなくなったあたりでようやく止まった実感を得た。

 超長ロングレイピアとなった大剣がうねりを上げて緑の閃光を撒き散らす。その集約が極大となった瞬間、風は目を見開いた。

 今っ!

 力を解放する。溜めた力を爆発させ、それを推進力として稲妻の如く空気を穿ちながら翔び立つ。樹が腰に抱きつき、一緒に空を駆ける。

 それは、一筋の光線。どこまでも伸びる光線。……風の意志が、形となったもの。

 今度こそ絶対に後悔したくない。友奈の二の舞はなんとしてでも防ぐという誓い。

 荒ぶる渦がレイピアを中心として発生し、樹海の空気をザクザクと切り裂き、あらゆる敵を近づけさせない圧倒的な力を見せつける。

 その迎えは、東郷の本気の迎撃だ。

 マシンガンのような連射速度でスナイパーライフルを撃ち続ける。しかし弾は渦に呑まれ、まるで効果はない。

 十分接近することに成功した風は強化状態を解除し、落下しながら大剣を構えた。

 

「東郷おおおぉぉぉ――!!」

 

 精霊が守ってくれるから勇者が死ぬことはない。だから強い衝撃を与えることでしか勇者を無力化できない。

 ……一瞬、躊躇いが生じた。

 もし、東郷の精霊バリアが発動しなかったら、と。友奈の件もあって、どうしても頭から離れない。もし風が大剣を振り下ろし、精霊が現れなければ東郷は肩から両断されるだろう。それは望んだことではない。

 ――咄嗟に東郷が銃をガード用に突き出したのを見た。

 最悪、東郷を傷つけてしまうかもしれない。

 それでも、風はやらなければならないのだ。

 手加減無しでいつもバーテックスに対するのと同レベルの膂力で振り下ろした。

 そして、予想通り東郷の精霊がバリアを張り、風は心の中で安堵した。

 

「壁の外を見てください! 世界はこんなことになっているんですよ⁉」

 

 東郷が声を荒げる。精霊バリアは言い換えれば絶対不可侵の領域に等しい。このまま強引に押し潰すことはできないと判断した風は大人しく距離を取った。

 東郷の指摘通り、開いた穴から外の世界が見える。どうしようもない、地獄のような赤がどこまでも広がっている世界。

 ……確かに、突然こんなものを見せつけられて正気を保てるはずがない。風だってこうして虚勢を張って表情に出していないだけで、恐ろしい真実に泣き出したいところだ。

 

「この有様を見てもわからないのですか⁉ 大赦のやり方が! 勇者の在り方が! いかに悲惨なものなのかわかるでしょう⁉」

 

「でもこれ以上壁を破壊するのは駄目よ!!」

 

「私達がどれだけ頑張ってもこの現状は変えられない! これが一番穏やかな終わり方なんです!!」

 

 今も樹が巨大な穴から次々と侵入しようとする敵を、ワイヤーを何度も何度も飛ばして防いでいる。とはいっても巨大すぎる穴は樹一人でカバーできるものではなく、次々と包囲網を突破される。

 東郷が銃を構える。手はカタカタと震えていて、大粒の涙を流す。

 気持ちは……痛いほどわかる。現人類は袋のネズミもいいところで、敵がその気になればすぐに絶滅させられる。

 だからといって、心中を図るのは許されない。

 風は力強く叫んだ。

 

「それでも! 勇者部の部長として、あんたを止める!」

 

「どうして……友奈ちゃんも風先輩もわかってくれないんですか⁉」

 

 狼狽する東郷の隙を見計らった樹がワイヤーを伸ばして腕を拘束する。

 反射的に樹を見て、次に胸元の満開ゲージを見た。

 ここが最大の隙!

 

「歯を食いしばれええぇぇぇッ!!」

 

 懐に詰め寄り、大剣の面の部分で東郷を力任せに打ち付ける。

 

「あうっ!」

 

 一切の回避行動を制限された東郷は身体を吹き飛ばされ、神樹様の領域外へと消えた。しばらくしたら戻ってくるだろうが、それまでの時間稼ぎとしては上々だ。

 樹が段差を飛び降りて風の元へやって来ると、何かを言いながら上を指さした。

 その方向を見ると、あれほど夢中になって侵入しようとしていた敵の動きが止まっていた。

 

「どういうこと……?」

 

 もう樹海に興味が尽きて活動を停止しているのだろうか。……いや、そんなはずはない。そもそもそれこそが敵の目的なのだから。

 そして、眩い光が風たちの視界を覆い尽くした。

 

「なに⁉」

 

 光源は外の世界の方からだ。慌てて縁側に立って下を確認しようとすると、『それ』から姿を現した。

 それは、両舷に光線銃を複数門備えた戦艦。その上に両手を広げて凛と立つ東郷がいた。

 ――満開だ。

 以前の戦いで友奈と一緒に宇宙へ飛び出した乗り物だ。しかし満開をすれば……!

 ……それほど、東郷の意志は硬いということか。風は眉をひそめながら上へと上昇する東郷を見上げる。

 

「ふたりとも、退いてください……!」

 

「退くわけ、ないでしょう!!」

 

 東郷の満開がいつまで続くはわからない。だがあの戦艦を落とせば機動力を大きく削ぐことができる。

 まずはそれからだ。

 樹を一瞥すると、頼もしそうに頷いた。

 

「……ごめんなさい」

 

 そう小さな声で謝ると、駆動式砲門をすべて前面へ向けた。

 

「!!」

 

 全砲門が開かれ、エネルギーを充填して極大の一撃が放たれる。

 咄嗟にふたりは前に躍り出て防ごうとするが、圧倒的な力に耐えきれず、数秒と持たずに押し負けてしまった。

 満開状態の勇者に敵う道理などないのだ。同時に勇者としてのスタミナも底をつき、変身も解けて地面に落下する。

 ふたりの小さな抵抗をものともしない一撃は神樹様に向かうが、途中でまるでなかったものとされるように一瞬にして跡形もなく消されてしまった。後には多色の花弁がふわりと舞うだけ。

 

「……そう。やはり勇者の力では無理なのね。でも……」

 

 もともと東郷たち勇者に力を与えているのは神樹様だ。そんな親殺しは許されるものではない。

 しかし、バーテックスなら――。

 活動を停止していた敵が動き始める。樹海への侵入ではなく、外へと自ら向かう。その先には一体のバーテックスが生を与えられようとしていた。

 赤く輝くその外見は、以前最後だと思っていた戦いで苦戦を強いられたバーテックスのものだ。

 蠢き、混ざり、形を成す。

 ゆっくりと移動を始め、東郷の戦艦とともに樹海に侵入する。

 それと同時に合体が完了し、見知ったあの姿へとバーテックスが生まれた。

 友奈も夏凜も、風も樹ももう動けない。

 もう、誰も東郷を止める者はいない。

 巨大な輪から伸びる十字の棘。その中心に小さな火球が生成される。

 ゴウッ! と凄まじい爆音を轟かせて一気に巨大化した。そして太陽を思わせるそれは無慈悲に発射された。

 風が悲痛の絶叫をする。しかし限界を迎えた身体はこれ以上動かない。ふたりの頭上を高速で通り過ぎ、火球は真っ直ぐに遥か向こうの神樹様へと進む。

 

「ああ……これですべて終わる……」

 

 東郷は心の底から安心し、ゆっくりと目を閉じて世界と別れを告げた。

 

 ◆

 

 左目の視界、喪失。

 左腕しか、動かない。

 意識を取り戻した友奈は驚くほど冷静に散華の内容を理解した。

 うつ伏せから仰向けに姿勢を変えるだけでも時間がかかる。ごろんと根の上に横たわった友奈は空を見上げた。

 携帯は側にあるが、手が届かない。

 

「…………」

 

 ……何もできない人間になってしまった。今後の未来を捧げてしまった。

 

「はは、は……」

 

 ガサガサした笑いが溢れる。

 死へのカウントダウンを刻む針の音が聞こえる。そのスピードは次第に早くなり、友奈に焦りを与える。

 ……生きなければ。でも、こんな惨めな姿でどうやって生きていけばいいのかわからない。皆を守るためにここまで頑張った。そのことに後悔なんてない。寧ろ誇らしいとさえ思っている。

 だがそれでも五体満足で生きている人を見ると、コンプレックスに悩まされてしまうだろう。それだけが心残りだ。

 針が進む。

 まだ、友奈は皆を守ったとは言えない。

 東郷をまだ止められていない。想いをまだぶつけていない。壁から侵入する敵をすべて倒していない。

 風の絶叫が耳に届いた。

 ふと聞こえた方向に首を向けると、新たなバーテックスが破壊の一撃を放つ瞬間だった。

 止めなければ。

 左腕を伸ばし、携帯に手を伸ばす。

 しかし届かない。

 根に爪を食い込ませて身体を動かす。そしてもう一度伸ばすがまだ届かない。

 焦る。

 

「私、が……!」

 

 早くしなければ。今勇者にならなければならないのだ。死に物狂いでひたすら身体を動かす。爪が割れ、肉に食い込んでも友奈は止まらなかった。

 ここで倒れている場合ではない。たとえ身体の自由が奪われても、それでも友奈にはするべきことがある!

 

 もう一度立ち上がれないのならば――

 ――結城友奈は死んでしまえ(・・・・・・・・・・・)!!                                                                                                          

 

 針が。針が。針が。針が。針が。針が――。

 ……進んだ。

 後戻りできない、致命的な負荷を受容する。

 亀裂の入った虚ろな生……その熱が急速に低下し始める。肉体と精神がずれ、ゆっくりと乖離する奇妙な感覚に襲われる。

 それでも、喉の奥から力を絞り出して咆哮する。

 皮膚の剥げた指を何度も擦りながらついに携帯を手に取る。素早く勇者アプリを起動して変身ボタンをタップした。

 どこからともなく桜の枝木が友奈の右脚と右腕に巻き付く。そしてさらに新たに不自由になった左脚にも巻き付いた。

 高く飛び上がり、火球の前に躍り出た友奈は叫ぶ。

 

「勇者――パーンチ!!」

 

 放った拳撃は火球の中央をしっかりと捉えて相殺した。

 激しい爆発を背景に友奈は風の前に着地する。

 ギチギチと枝木がしなり、友奈の手足をきつく締め上げる。

 

「……まだ、私は倒れるわけにはいかない。まだ私にはやることがある!」

 

 前を見据える。

 

「行くよ、東郷さん!」

 

 東郷は友奈を静かに見下ろす。様々な感情が入り混じった表情で砲門をこちらに向ける。その背後のバーテックスが雑魚敵を生み出して友奈に襲いかかってきた。

 友奈は地面を蹴り上げて突撃を躱してバーテックスに接近する。

 

「来ないで!」

 

 東郷が友奈を撃墜せんと次々に砲が火を噴く。

 同時に独立型攻撃ドローンも展開させて光線の雨を降らせる。

 ただの一撃も直撃を受けてはいけない! これ以上のバーテックスの攻撃を防がなければならない!

 雑魚敵を足場にしてギリギリの回避を繰り返しながらじわじわと距離を詰める。

 後ろ髪を光線が掠める。

 それがどうした。

 枝木の端が僅かに焦げる。

 それがどうした!

 頬を掠めた。

 それが……どうした!!

 確実に想いをぶつけろ! そして確実に想いを受け取る! それが今、友奈と東郷の間に必要なコミュニケーションだ!

 

「満開!」

 

 思考にノイズが走る。

 一瞬だけ彩度が失せ、モノクロの世界が見えた。結城友奈を構成する全てに亀裂が走り、小さな欠片が散る。

 

「ハ――ぐ――ッ!」

 

 神樹様の恩恵を受け、今一度神の力を身に宿す。

 肉体的なものではなく精神的なダメージに嗚咽を零しつつも友奈は突き進んだ。あらゆる障害を文字通り殴り飛ばし、バーテックスの特徴的な球部分を全力で殴りつける。

 鈍い打撃音が響き、爆散する。その中から現れた四角錐の御霊も破壊しようと進もうとした時、東郷の射撃によって阻害される。

 

「止めないで友奈ちゃん。もう終わりにしよう……楽になろう……」

 

「東郷さん、何も知らずに暮らしている人もいるんだよ? 私達が諦めたらだめだよ! だってそれが――」

 

「勇者だっていうの⁉」

 

「そうだよ!!」

 

「――――――」

 

 迷いの無い即答に東郷は肩を小刻みに震わせながら押し黙る。

 友奈の脳裏にあの人の背中の寂しそうな背中が浮かび上がった。一般人ながらすべてを救おうと頑張った男性。外見より歳をとっているように感じるほど疲労を溜めた男性。

 でも結局すべてを救うことは不可能で、切り捨てるという選択をとった悲しい人。

 ……だが、友奈は違う。友奈は絶対にそんなことを許容しない。勇者部の勇者として、それを為すための力があるのだ。

 だからこそ、友奈は自信を持って言える。

 

「他の人なんて関係ない! 一番身近な人を守れないのなら、勇者になる意味なんてない!」

 

「ある! あるったらある! 私が! 東郷さんを守るから!」

 

「そんな出鱈目、信じられないよ! あのまま病院で寝ていれば良かったのに。そうすれば穏やかに終われたのよ」

 

 全砲門からの一斉射。

 咄嗟に腕をクロスさせて防御態勢を取る。圧倒的な熱量に力負けして地面に叩き落とされる。

 剥き出しの御霊に敵が急速に集まり始め、修復を開始する。それは赤く輝き、地獄の炎を想起させる。

 

「なら信じさせるだけ!」

 

「そんなこと言ったって、最後には大切な気持ちや記憶を忘れてしまうんだよ⁉ そんなの大丈夫なわけないよッ!!」

 

 東郷の虚しい慟哭が樹海に木霊する。

 ……恐れているのだ。戦いはいつまでも続き、仲間がひとり、またひとりと人間性を喪失してしまうことを。

 左手の拳を力強く握りしめる。

 苦悩はわかる。嘆きもわかる。

 それでも、これ(・・)はわかってあげない。

 

「忘れない! だからこそ、私の想いを受け取って!!」

 

「……だからそれが、消えてしまうのよ!! 今流している涙の意味だってもうわからない!!」

 

 しゃくり上げながら東郷が吠えた。

 同時に乱射を始め、辺り一面を燃え上がらせる。

 東郷の過去にどんなことがあったのか知らない。どんな経験がそこまで駆り立てているのか知らない。でも、その悲しみの連鎖を今ここで断ち切らなければならない。

 

「嫌だよ! 怖いよ! きっと友奈ちゃんも皆も忘れてしまう!」

 

 力を振り絞れ。

 身体の感覚が遠のく。既に左腕以外のものは死んでいるから限られているが、それらとはまた違った、間接的に自分を操作しているような奇妙さだ。

 枝木が友奈の意思を汲み取り、地面を蹴り上げた。そして無防備を晒す東郷へと一気に肉迫する。

 砲台を鷲掴みにして攻撃を食い止める。

 すぐ目の前の東郷が鋭く息を呑んだ。

 追加装備とのリンクを解除して戦艦に乗り込む。狙いは真っ直ぐ。船上を駆け、拳を振りかざす。

 

「受け取れ!!」

 

 それは頬を確実に捉え、重い打撃音が響いた。

 東郷は泣きじゃくりながらその場に膝をついた。だがまだ終わっていない。友奈は肩を掴み、ゆっくりと立ち上がらせた。

 

「……私の想いはぶつけたよ。今度は東郷さんの番だよ」

 

「………………」

 

 互いに無言で見つめ合う。そして何秒か経ったかわからなくなった頃、ようやく決意を固めた東郷が友奈の顔面に拳を殴りつけた。

 手加減なしの本気の一撃。たたらを踏んで後ずさるが、それでも友奈はしっかりと二本の脚で立ち続けた。

 

「東郷美森の想いは、こんなに弱いものなのか⁉」

 

「……………………ッ!」

 

 この程度の一撃など、全く心に響かない!!

 初めに言った。これは喧嘩だと。だからどちらかが負けを認めるまで続けなければならないのだ。

 目を真っ赤に腫らしながら東郷は追加の二撃目を放つ。

 それでも友奈は倒れない。

 三撃。

 それでも倒れない。

 四撃。

 それでも倒れない。

 五撃。

 それでも倒れない。それどころか殴る力が弱まっている。最後の六撃目は優しく接触する程度のものだった。

 そのままずるずると力なく再び東郷は友奈の前に崩れ落ち、顔を俯かせて泣いた。

 友奈は片膝を突き、東郷の細い身体を放さんばかりに抱き締めた。

 

「東郷さんの想い、ちゃんと伝わったよ。ありがとう。それでも私はわかってあげない。そのためにも、絶対に忘れないって約束する」

 

「本当……?」

 

「うん。絶対に。何があっても忘れない。だから東郷さんも私のこと、絶対に忘れないでね」

 

 そう友奈は耳元で囁いた。

 

「うん……! もう、私をひとりにしないで……!」

 

 息が詰まるほど強く熱い抱擁を返される。

 きちんと想いを伝え合った。だからわかりあえた。この地獄のような世界でも、身近な人と間違いなく互いを忘れないというだけで、側にいてくれるというだけで十分なのだ。

 ――ぶわりと吹いた熱風がふたりを一気に現実へと引き戻す。

 修復中だったバーテックスがついに復活したのだ。しかしその姿は先程と同じものではなく、友奈が退けた火球よりも少なくとも十倍以上巨大なものへと変化していた。御霊を核として生成された、絶対破壊の権化。

 それが、ついに解き放たれる。

 

「あいつを止めるよ、東郷さん!」

 

 急いで装備とのリンクを復活させて戦艦と並んで樹海を飛翔する。

 その大きさは壮観で、とてもふたりだけでは止められそうにはない。だとしても必ず止めなければならない。

 

「止まれええええぇぇぇぇぇぇぇッ!!!!」

 

 手をかざし、火球を受け止める。しかし勢いが全く衰える様子はなく、どこまでも押され続ける。

 熱に晒され、枝木が燃え尽きる。まだ神経の通っている左腕だけで奮闘するがまるで意味がない。

 力の入れ過ぎで脳が圧懐しそうだ。本能的危険信号のない友奈に無意識のストッパーは働かず、どんどん出力が上昇する。

 ……そしてついに。

 切れてはならない決定的ななにかが灼け尽きた。

 唐突に電源の切れた機械のように満開が解除され、鼻血を流しながら落下を始める。

 

「友奈ちゃん⁉」

 

 東郷の叫びも聞こえない。

 友奈はどこまでも……どこまでも落ちていった。

 

 ◆

 

 プールの後の国語の授業のような感じだ。

 つまり、眠い。ふと気を抜けばすぐさま意識を刈り取られるような。

 友奈は重い瞼を上げて辺りを見回した。

 

「ここ……どこ?」

 

 色とりどりの超巨大な根が張り巡らされた空間。

 こんな場所は知らない。そもそも直前まで何をしていた?

 ……頭が痛い。

 そして気づく。左脚が動かない。

 右半身はこの間の事故で麻痺した。もしかして変な姿勢で寝ていたから痺れているだけか? そう思ったが痺れている感覚もないし、寧ろ感覚そのものがない。

 さらに視界がなれたからわかったが、左目も見えない。

 

「どういう、こと……?」

 

 おかしい。何か、おかしなことが起こっている。

 どうして、すぐ近くに太陽のようなものがあるのだろう。それはじりじりと移動していて、ずっと向こうに霞がかっている巨大な樹を目指しているようにも見える。

 

「東郷さーん? 皆? どこ?」

 

 こんな変なところからはやく帰りたい。

 この前食べた東郷のぼた餅が美味しかったから近々またご馳走してもらう約束があったことを思い出す。知らぬ間に流していた鼻血を傷だらけの左手で拭き、なんとか上半身を起き上がらせる。

 ……友奈は知らない。

 これこそが散華であることを。

 リビドーを失った。

 左目を失った。

 左脚を失った。

 そして四回目の散華。その内容は。

 勇者として戦ってきた日々の記憶だ。

 突然、友奈は力無くトサッ、と倒れ込んだ。

 その理由がわからず友奈はきょとんと首を傾げる。

 何度も立ち上がった。皆の為に勇者であろうとし、結城友奈は勇者となった。しかしそれは諸刃の剣でしかなく、文字通り友奈自身の命を燃料として燃やすことで活動できていた。生を実感しようと足掻く行為こそ、惰性の生を享受することと同義だというのに。だから既にリビドーを散華した時には、どう抵抗したところですでに結城友奈は終わっていたのだ。

 つまりはもうタイムリミットであるということ。無理をせずに穏やかに過ごしていればここまで寿命を早めることは無かったというのに。

 自分の身に何が起こっているのかわからないまま友奈は死ぬ。

 疑問が絶えない。間違いなくこの身体が死を迎えようとしているのがわかる。だがその理由がわからない。

 声が出せない。指先一つ動かせない。何もできない。

 しだいに意識が暗闇に閉ざされる。

 知らない場所で、知らない理由で死ぬなんてそんな寂しいことがあるのだろうか……。

 無慈悲に刈り取られる生は、萎んだ花のよう……。

 今にも友奈の生は燃え尽きそうだった――。

 

 ◆

 

「後輩? 私が?」

 

「そうですよ。諦めかけてる後輩がいるから激励の言葉をかけようと思ったんですよ!」

 

 夏凜は目の前で先輩と名乗る、間違いなく年下の少女を懐疑的な目で見下ろす。

 少女は「うーん」と可愛らしく顎に手を乗せて考える素振りをしたあと、ポン、と手を叩く。

 

「実はなんて言おうかまだちゃんと考えてなくて。なので今考えました! まる」

 

 そう言うと少女はゆっくりと近づいてきた。

 そして目の前に立つと、少しだけ悩むような顔をした後、「ちょっと膝をついてください」と言われた。

 どうしてそんなこと……と言いたかったが、なんとも言えぬ雰囲気に知らず知らずに夏凜は従った。

 膝をつくと夏凜の頭はちょうど少女の胸の高さになり、嬉しそうに頷くと優しく抱き締められた。

 

「……今まで、よく頑張ってくれました」

 

「――――」

 

「でも、まだやることがある。そうでしょ?」

 

「無理よ……だってもう、目が見えないし……」

 

 そうだ。盲目になったから夏凜はもう立ち上がれないのだ。

 だからこうしてすべてが終わるまでずっと夢を見続けているのだ。

 だが少女はそれを許さないようだ。そっと頭の上に手をのせられ、撫でられる。

 

「……いや、まだ戦えるはずです。本当に戦えなくなるのは、死んだときだけですよ、後輩」

 

「…………」

 

「あたしが酷なことを言っているのはわかってます。それでも、立ち上がらないといけないんです」

 

 抱擁から解放され、夏凜は無言で立ち上がった。しかしまだ腑に落ちていない様子だ。

 すると少女は目を剥いた。

 

「あたしの後輩だと言うのならば! 言った言葉に責任を持て!! そして必ず貫け!! それがあたしが教えられる唯一の根性ッ!!」

 

 小さな身体からおよそ発せるとは思えないとてつもない迫力に夏凜はピリピリと身体が震えた。

 

「……だって、夏凜さんは完成型勇者なんでしょう?」

 

 ぽん、と右手を胸に押し当てられた。

 

「……そう、ね」

 

 目が見えないのなら音を聞き分けてみせろ。

 耳が聞こえないのなら気配を感じ取ってみせろ。

 それくらい、完成型勇者ならできて当然ですよね? と言わんばかりの安い煽り文句を言われた気分だ。

 しかしそれだけ言われて何も動じないはずがなかった。少女の手を上から重ね、力強く握った。

 ついに、夏凜の両眼から熱く透明な雫が溢れた。

 

「私、もう一度……立ち上がれるのかな」

 

 答えは速やかで不動のものだった。

 

「もちろんです。皆が夏凜さんを待っていますよ!」

 

「そっか。ありがとう」

 

「あー。あともう一つお願いがあるんですけど……」

 

 少し照れ恥ずかしそうに少女は頭をぽりぽりとかく。

 

「園子と須美……ああ、今は東郷か。ふたりのことをお願いしてもいいですか? あいつら、あたしいないと駄目なんで」

 

 そう言ってへへへ、と笑った。

 その二人の名前を、夏凜は知っている。勇者としての訓練を受けていた頃、資料を読んで知った先代勇者の名前だ。

 乃木園子と鷲尾須美。そしてもう一人いたという。しかし三人目は御役目の途中に命を落とした。

 ああ、そうか。つまり、目の前にいるこの少女は、先代勇者なのか。

 こんな小さな身体で、まだ勇者システムも万全じゃない状態で戦い抜いたという歴戦の……。

 ふと夏凜は少女を抱き締めていた。

 意外なことに驚いたのか、恥ずかしそうにじたばたするもやがて大人しくなった。

 

「わかった。あんたのお願い、しっかりと受け取ったわ。だから安心しなさい」

 

「――ああ、良かった。ありがとうございます」

 

「……じゃあ、行くわ」

 

 夏凜は少女を放した。

 すると思い残すことがなくなったのか、しだいに身体が光の残滓へと分解され始める。

 

「あんた……」

 

 少女は、右手を広げ、胸に押し当てた。

 

「……大丈夫。あたしがいなくなっても、思い出は、いつもここにある」

 

 夏凜も同じ動作をして言葉を紡いだ。

 

「ずっと、ずっと、私たちの中に」

 

 そしてにこりと微笑んで、少女は最後の言葉を発した。

 

「またね!」

 

 

【挿絵表示】

 

 

 そして身体のすべてが分解され、あとには何も残らず、夏凜一人だけが残された。

 

「……ありがとう、三ノ輪銀」

 

 ぽつりと感謝を口にした。

 あんたのおかげでもう一度立ち上れる。

 想い。願い。祈り。

 確かに受け取った。これらを胸に、もう一度戦場へ舞い戻ろう。

 そして皆を。

 守ってみせる。

 

 ――三好夏凜は夢から醒めた。




何を散華するかは全て私の思うがまま。主人公、ついに死――

それでも戦い続けた。
ならば、破滅は目に見えていた。

次で終わります。
ではまた次回!


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結末

前回のあらすじ
想いよ――

これで最後。結構長いです。


 夏凜は友奈たちとは違う。

 具体的には勇者としての想いがまるで違う。

 友奈たちはある日突然勇者に目覚めた女子中学生に過ぎない。対して夏凜はずっと前から勇者になるべく鍛錬に鍛錬を重ねる日々を送ってきた。

 ……年季が違うのだ。勇者になりたいと渇望し、努力してたったひとつの席を自力でもぎ取った実力者だ。誰もが認め……神樹様のお墨付きを頂けるというこの上ない名誉。

 だから夏凜は誰よりも胸を張って誇ってもいいのだ。

 私こそが本当の勇者なのだと。

 でも、それは間違いだった。確かに夏凜の在り方も勇者だったが、友奈たちが在ろうとする『勇者』は平凡で日常的ではあるものの……夏凜と同等以上に輝いていた。それを羨ましいとも思った。

 きっと、今もまだ戦えているのはそんな普通な動機なのだろう。

 

「勇者部、五箇条……ひと、つ。なるべく、あきらめ、ない……!」

 

 ゆっくりと立ち上がる。右脚が言うことを聞かないから上に伸びた根に背中を擦らせながらが精一杯だ。

 手に掴んだ刀を杖代わりにのろのろと歩く。果たしてこんな惨めな姿で助太刀できるのか。

 否。否。できる。

 先程からひっきりなしに聞こえる轟音が戦場を教えてくれる。灼熱の風が肌を撫で、ピリピリと痙攣する。

 三ノ輪銀に後を託された。

 ならば、それを最後まで守り通すことが託された者として……後輩としてやるべきことだ。

 それに、なんといっても……。

 

「この私が! あいつらに遅れを取るわけないんだから――ッ!!」

 

 聴覚を頼りに夏凜は飛び立つ。

 東郷と風の踏ん張る声が聞こえるから間違いなく戦場だ。左腕だけで刀を構え、大きく振りかぶった。もし邪魔な助太刀ならその時また指摘してくれるだろう。まずは一太刀!

 

「そこかーー!!」

 

 何を斬っているのかわからない。しかし熱くて巨大なものであるという認識はできた。それに直進運動をしている。斬るというより受け止めるだけで精一杯だ。

 

「夏凜⁉」

 

 風の驚く声がすぐ左隣から聞こえる。

 

「私はまだ戦えるわ!!」

 

 力を貸してください、神樹様!

 満開。

 追加武装を展開し、巨大なアームで最大出力を維持する。これまで生きてきた中で最も力を出していると確信できるほどだ。

 

「樹と友奈は⁉」

 

「樹ちゃんは隣! 友奈ちゃんは受け止めてる間に変身が解けたわ!」

 

 友奈は……頑張った。

 満開を繰り返し、勇者として何一つ恥のない戦いをした。ふたりでバーテックスに名乗りを上げる時、この上ない闘志を感じた。もし友奈以外の誰かだとこれほどのものではなかっただろう。

 

「押し返せッ! 勇者部――」

 

 風の雄叫びに三人が呼応する。

 

「「ファイトオォォォーーっ!!」」

 

 四人の力が限界を突破し、火球を包み込むほどの大きな花が咲き誇る。

 勇者となって身体強化が施されているものの骨が割れるほどの負荷を受け続け、夏凜たちは呻きを漏らす。やがて地面を大きく抉り取りながら火球の勢いを食い止めることに成功した。

 しかしやっと受け止めることができただけでそれ以上のことができない。誰かひとりでも火球の中の御霊を破壊しようと動けば……いや、誰かひとりが少しでも力が抜けたら均衡が崩れてしまう。

 

 誰か、あとひとり……!

 

 樹海を埋め尽くすほど大量の虹色の花びらが舞い上がる。

 勇者部は、最後の希望の名前を叫んだ。

 

 ◆

 

 聞き覚えのある誰かの声で名前を呼ばれた気がして、結城友奈は微かに目を開いた。

 風前の灯火。電池の切れかけた機械。

 死に体の友奈がそれでも目を開けたのは何かの奇跡だったのかもしれない。

 ……これは奇跡だ。

 針はもう時を刻まない。すでに役割を終え、灰となって消えているからだ。

 

「――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――、が」

 

 熱を感じる。

 自己を情報焼却しようとしているのか、ゆっくりと全身を蝕み始める。

 何も動かせない。唯一動かせるはずの左腕、その指先一つすら動かせない。肉体が命令を受け入れず、意識が断線する。ほぼ完全に意識と肉体が乖離している状態だ。

 怖い、という感情があった。

 しかしなぜ、と一蹴する。

 自分という存在が小さくなってきている。すでに身体の大部分が自分のものではない無になっている。

 抵抗する苦悶さえ満足にあげられない。

 

「――――――――――あ、あ」

 

 この侵蝕を止める術を友奈は知らない。というよりそもそもそんな術はない。だからどうしようもない。

 じわじわと心までも犯され、初めから朦朧だった意識が希薄になってくる。

 

「――――――――――、あ、ぐ」

 

 駄目だ。

 もう無理だ。

 抵抗しようとする意志が失せる。

 痛みはない。あくまで穏やかな死。

 何かをしなければならないという使命があるはずなのに、それが思い出せない胸のつっかえ。

 そして結城友奈の物語はここで終わりなのだと一方的に告げられる。

 その通りだ。終わろう。すべて終わろう。

 ここからの大逆転劇? そんなものはない。人の人生は呆気なく終わることだってある。友奈がそのひとりだったに過ぎないのだ。

 結城友奈は諦めた。死を受け入れることにした。

 目を閉じ、儚い命が消えるのをじっと待つ。

 そして、この世では決して見ることのできない素晴らしい景色を目に焼き付けようとした、その瞬間。

 

「――助けて、友奈ちゃん!!」

 

「――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――、ぁ」

 

 記憶の濁流が発生した。

 何かの後、病院の通路で交わしたふたりだけの約束。どれだけ記憶が灼かれても、間違いなく覚えている。

 東郷が助けを求めている。

 連なって仲間の呼ぶ声が友奈の奥底――魂に届いた。

 何を約束した。

 結城友奈は誰を守ると約束したんだ。

 

「っ――――ぐ、ふっ…………!」

 

 忘れていた呼吸を再開する。しかしそれにも毎回喉にナイフを突き立てるほどの覚悟が必要だ。というより友奈に呼吸など必要なのだろうか。酸素を肺いっぱいに取り込まなくても活動はできるかもしれない。しかしどちらにせよ生命活動はすでに終わっていて、この足掻きは誤差に過ぎない。

 白く溶ける。結城友奈を構成する何もかもが終わりつつある。それでも、まだすべてが終わってはいない。結城友奈は確かにここに存在している。

 あれはほんの数日前の出来事だったか。

 

「――ッ、あ……! ぐ――!」

 

 淡いオレンジ色の夕陽が射し込む通路。カラカラと車椅子を押す友奈に振り返った東郷の決意に満ちた表情は今でも鮮明に覚えている。

 なんだか懐かしいように気もする。

 ――冗談じゃない!

 ここで倒れない。まだ倒れてやらない。

 なんとしてでも動かなければ。

 大切な人が名前を呼んでいる。

 それに応えなければ。

 

「あ――――あ、あ」

 

 ……立ち上がれ。約束を守るために。

 誰かの涙を……見た気がしたんだ。

 

「ああ――、ああ、ああ――――」

 

 立ち上がれ。大切な人を守るために。

 誰かの慟哭を……聞いた気がしたんだ。

 友奈の知らないところで苦しみ、泣いていたのだ。どのくらい泣かせてきたのかも判らない。

 

「あ――ああ、あああっ、お」

 

 立ち上がれ――!

 ……そう。だからこそ、助けないと。

 ……また、友奈以外の人の前でも、心から笑えるように。

 

「ぁぁあああッ! あああぁぁぁ――――……!!」

 

 いつの間にか握り拳がつくられていた。

 再燃する。

 命を文字通り燃やし尽くせ。それでも足りないのなら、燃やして残った灰さえも使ってなお燃やせ。

 記憶を失った##は勇者に変身する方法を知らない。だから携帯の変身機能なんて知っているはずもなく、神樹様との接続を断っている状態だ。それでどうやって助けに行くのか。

 そんなもの、知るものか。助けるったら助ける! それが####だ!!

 

「うオオオおおおォォぉぉ――ッ!!」

 

 が魂の雄叫びをあげると、両脇から満開用の追加武装が姿を現す。

 身体の中身がぐちゃぐちゃになり、##は全能感と共にそれ以上の喪失感を覚えた。

 ボロボロと『####』という人物概念まで崩壊する。鋭い破砕音が脳裏に響いた。心臓の音はとうに聞こえなくなっているのに、何がこの身体を突き動かしているのかすら不明。

 

 ――これ即ち、自分自身のエネルギーを由来とした満開。

 

 身体も意識もはっきりと認識できる。

 なんのためにここにいるのか。

 知らない。

 なんのためにこうなったのか。

 知らない。

 それでも。

 今##がすべきことは明確に判っている。

 

「――助ける!!」

 

 ダンッ! とアームを地面に叩きつけて高く飛び上がる。制服姿だった##は瞬く間に戦闘衣へと変化し、弾丸の如く火球へと飛翔する。

 

「私は! 讃州中学勇者部!! 勇者、####――!!」

 

 誰かの為になることをする。それこそが勇者の本質であり、##の願いでもある。

 枝木が軋む。ぶちぶちと筋肉組織が千切れそうになるほど力強く絡みついた腕を突き出し、その中央を撃ち抜いた。

 

「勇者――パーンチ!」

 

 豪炎がぶわりと高く巻き上がった。

 その衝撃は樹海全体を叩き、付近の根を穿つ。

 そのまま内部に侵入し、吹き荒れる熱風の中を##はものともせず突き進んだ。

 秒速百メートル以上の豪風が容赦なく押し出そうとしてくる。しかし負けてはいられない。そもそもこの火球がどういったもので、なぜ東郷たちが必死に食い止めているのかなんて知らない。しかし必死に助けを求めていた。ならばそれ以上の理由なんて必要ない。

 ずっと遠方にある金属質な四角錐。あれが何なのかわからないが、重要な部位……コアかなにかであることは直感的に理解できた。

 顎に力が入る。

 歯をギリギリと鳴らした。

 身を削る豪風に、限界を迎えた装備がついに壊れる。勇者姿が解除され、また制服姿に戻ってしまう。途端、今までカバーされていた衝撃が##を襲った。

 

「グ――――ア――――ッ」

 

 呻く。

 圧倒的な力の前にこれまでの勢いが一瞬にして殺される。

 今にも押し潰されそうだ。頭蓋を割る風。全身を灼く風。四肢を砕く風。眼球が乾ききりそうだ。

 容赦なく吹き付ける風に人程度の抵抗など、敵うはずもない。だからここまでだ。そう言って諦めることもできる。

 だがそうはしない。

 

 勇者部五箇条、その一。

『なるべく諦めない』

 

 だからまだ諦めない!

 前へ。

 それでも前へ――!

 

「ぉ、ぉ、ぉぉおおおおおおお――ッッ!!」

 

 負けるな! 必ず打ち勝て! これは##だけの戦いではない。皆の救いのための戦いだ!

 喉の奥底から声を出し、泥臭く##は進む。四肢は左腕しか動かせない。懸命に腕を伸ばし、コアを目指す。それ以外の思考はすべて灼けた。それ以外に割けるリソースもない。生死を超越し、ただ真っ直ぐに進む一筋の光となる。

 限界の限界、その先まで。

 あと少し、もう少し!

 声が聞こえる。それが誰の声で、誰のことを言っているのかわからなくなった。しかし、鼓舞されているのはわかった。

 突風を掻き分け、確実に距離を詰める。

 届け! 届け! 届け!

 そしてついに到達する。

 人ならざる、人の範疇を超えた業によって立ち上がってここまで至った##の手がついに届く。

 ……その果てに、人差し指がコアに触れ

 

「――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――」

 

 ◆

 

 授業の終了を告げるチャイムが鳴った。

 一日の授業が終わったことからの解放感か、教室ががやがやし始める。

 東郷はいそいそとペンやら消しゴムやらを筆箱にしまうと、ふと隣に首を振った。

 そこには水筒のお茶を飲んでいる友奈がいて、喉の上下をぼんやり眺めていると、視線に気づいて小首を傾げながら訊いてきた。

 

「ん? どうしたの東郷さん?」

 

「いつも可愛いなって、思って」

 

「もう。東郷さんのほうこそだよ。ほら、部室に行こ?」

 

 朱色に頬を染めながら友奈は白い歯を見せつけてくる。

 東郷はかばんに荷物を丁寧に入れた後、手慣れた手付きで車椅子の車輪のロックを解除した。友奈は後ろにまわるとグリップを握り、教室を出た。

 放課後ということもあり、教室に残って談笑にふける人や一目散に帰ろうと陸上選手並みの速さで廊下を駆ける人、部活の用意を持って、仲間たちとじゃれあいながらグラウンドへ向かう人と様々だ。

 

「そうだ、東郷さんは昨日のテレビ観た? 動物の可愛い映像がたくさんある番組だったんだけど」

 

 やや興奮気味に話す友奈の様子に、東郷はくすりと笑った。

 

「うんうん。猫の水浴びとか可愛かったね」

 

「そうそう! あれすっごく可愛かったよね! 犬みたいにぶるぶるってする仕草とか!」

 

 そう言って頭を振って真似をしてみせたが、勢い余って桜の形を模した髪飾りが飛んでいってしまう。

 

「あわわわ!」

 

 慌てて飛んだ髪飾りを拾い上げると恥ずかしそうにえへへと舌を出した。

 それが東郷の理性を木っ端微塵に吹き飛ばしかけた。猫よりも何万倍可愛い仕草は、東郷にだけ向けられたもの!! そう、不特定多数にでもなく、勇者部の皆にでもなく。東郷ただひとりに!!

 今サーモグラフィーで観測されたら身体は赤色を超えて驚きの白色を映すことだろう。

 咄嗟に鼻に触れて鼻血が出ていないかを確認した後、平然を装って話しかけた。しかし開ききった瞳孔が落ち着けていない何よりの証拠だ。

 

「変な友奈ちゃんだね」

 

「そうかも。お、着いた着いた」

 

 家庭準備室を借りて東郷たちの所属する勇者部は活動している。

 友奈が勢いよくドアを開けると、何も考えずに椅子に座って煮干しをちびちびと齧っていた夏凜が驚いて、持っていた袋を落として中身をすべて床に広げてしまった。

 

「ああっ! 私の煮干しが⁉」

 

「あーっと……。さようならー!」

 

「こら、友奈! 逃げるなあっ!」

 

 友奈が逃げ出す前にはすでに動き出していて、あっさりと夏凜に捕まって部室へ連行される。

 樹が机の上にタロットカードを広げると、あまりよろしくない結果が出たようで、「友奈さん、大人しく諦めましょう」とため息交じりに告げた。

 

「許して夏凜ちゃんんんん……!! 煮干し代は弁償するからああぁぁ……」

 

 頭を拳でぐりぐりされ、友奈が若干涙目になる。

 

「そっちは心配ないわ。カバンの中にあと三袋あるし。ふう、すっきりした」

 

「ぐべっ」

 

 解放された友奈はその場にぐったりと崩れ落ちた。

 そして奥から顔を僅かに覗かせた風から号令がかかり、皆はいつもの黒板の前に用意されていた椅子に腰掛けた。

 風が腕組みをすると、できる秘書っぽい仕草でない眼鏡をくいっと指で押し上げて紙を読み上げた。

 

「えー、今日の活動を発表するわ。夏凜に剣道部から依頼が来てるから行ってもらって……あら、友奈もね。うんじゃあふたりはそゆことで。東郷は溜まってきてる事務の処理。あたしと樹はいくつかの教室の備え付けの箒とかの掃除道具がボロくなってきてるらしいからその買い出しね」

 

「りょーかいです風先輩! 行こう夏凜ちゃん!」

 

「はいはいっと」

 

 ビシッと敬礼をした友奈が夏凜の手を握って颯爽と部室から出て行こうとする。

 東郷はそれを見てじぇらしーを感じた。

 

「ま、待って! 荷物とか色々用意してないでしょーが!」

 

 ドア目前のすんでのところで立ち止まった夏凜が友奈を宥める。

 

「……東郷、ステイステイ」

 

 風の耳打ちに東郷は我に返る。

 

「大丈夫ですよ風先輩」

 

「いやいや、大丈夫じゃないでしょ。どう見ても目つきが飢えた狼のそれだったわよ。友奈が好きなのはわかるけど、静かに見守ってやりなさいな。まあ子離れみたいな感じ?」

 

 今ここに銃があれば迷うことなく友奈を唆す(東郷判断)煮干し中毒者を撃ち抜いていただろう。

 

「子、子離れって……⁉ いや、まあ友奈ちゃんは私にとって子のような存在でもありますけどやっぱりそれ以上の……」

 

「はい、惚気話はまた今度ねー」

 

「惚気話ではありません⁉ ただ友奈ちゃんについて語っているんです!」

 

「語るのならあたしが樹について先に語らせて。六時間でいいわ」

 

 さも当然のように、残念だけどこれだけで勘弁してあげるわ、といったニュアンスでさらっととんでもないことを言ってのけた。

 

「はい、そういうのはまた今度ねーお姉ちゃん」

 

 しかしそれは第三者の登場によって阻まれた。

 今から愛しの妹が如何に愛くるしくて可愛いのかを語ろうとしていた風の興奮が一瞬にして吹き飛んだ。

 

「……あい」

 

 力ない返事をして妹に連れて行かれる姉のどれだけ滑稽なことか。「じゃあ行ってきますね」と樹が言い残して部室を後にする。

 そしてようやく用意ができた友奈と夏凜は、運動着を詰め込んだカバンを背負った。

 

「先に行ってるわよ」

 

 そう言って夏凜が部室を出て行く。

 

「待って夏凜ちゃん! ――じゃあ行ってくるね、東郷さん!」

 

 これも東郷だけに向けられた笑顔。その喜びを精一杯噛み締めながら手を振った。

 

「うん、行ってらっしゃい」

 

 そして友奈も出て行き、東郷一人が残った。

 

 ◇

 

「…………」

 

 ゆっくりと瞼を上げる。大きな欠伸をすると、透明な滴が頬を伝うのを東郷は感じた。うす暗い室内を照らすため、ベッドから降りて立ち上がり、壁に手を当ててのろのろと歩いて引き戸を開けた。すると朝日が差し込み、つい手で顔を覆う。

 あれは……夢、か。

 あれは理想の世界。大赦やバーテックスが存在しない世界。そこで東郷たちは何気ない毎日を享受するのだ。

 とても……とても幸せな夢だった。

 結局あの後友奈は見事火球を破壊し、神樹様の危機は脱した。そして東郷たちは神樹様から解放され、勇者としての力を失った。それと同時に満開時に捧げた供物……人間性が返還され、これからは供物を求めることはなくなったという。身体に馴染むまではまだもう少し時間がかかるだろう。東郷たちの努力は無駄ではなくて、変えられたこともあったのだ。

 涙を袖で拭った東郷は私服に着換え、朝食を食べ、お見舞いのぼた餅をタッパに詰めて自分の足で病院へ向かった。

 手すりにしがみつきながら通路を歩き、ようやく目当ての病室の前に立つ。コンコン、と二回ノックをしてスライドドアを開ける。

 すると中には一台のベッドがぽつんとあって、その上で身体を起こしてぼんやりと窓の外を眺める友奈の姿があった。

 

「友奈ちゃん、お見舞いに来たよ」

 

 反応はない。

 側の椅子に座り、ゆっくりと手を握っても一切の反応を示さなかった。それに伝わってくる温度も生きているのか疑いを抱いてしまうほど冷たい。まるで燃え尽きた灰のようだ。

 虚ろな瞳は恐らく外を見ているだけで『見てはいない』。口は力無く開かれ、だらだらと涎を垂らしている。

 何が友奈に起こったのかは誰にもわからない。ただ植物人間のように倒れ伏せている状況があの日からずっと続いている。

 布巾で友奈の口元をそっと拭いながら東郷は心の中で嘆いた。

 どうして私たちは健全を戻りつつあるのに、友奈だけ一向に意識を取り戻す気配すらないのか、と。そしてこれは差し出がましい我儘でもあるが、どうして友奈の右半身の麻痺も治してくれなかったのだと。医者によると麻痺は治っていないという。これまでずっと世界を守るために戦い抜いたのだ。だから少しくらい褒美のようなものをくれてもいいのではないか。

 ……後味の悪い結末。

 悔しい。

 どうしようもなく悔しい。

 でも泣かない。泣かないって、勇者部の皆で決めた。誰も悪くないし、誰も自分を責める必要なんてないと。

 でも、それでも、どうして東郷は考えてしまうのだ。

 あんなことをしなければ、と。

 後悔と悔恨が入り混じった表情を浮かべながら友奈の身体を抱きしめた。しかし、やはり限りなく実物に近い人形のような抱き心地に東郷の心は重くなるばかり。

 

「…………散歩、しよっか。友奈ちゃん」

 

 車椅子を近くに寄せて、友奈の身体を抱き上げる。自発的な食事を取ることもないから体重は落ちる一方。今や木の葉にも劣らないほどだ。

 これまでは友奈に車椅子を押してもらっていたが、それが今となってはポジションが逆転し、複雑な心境なのは否めない。

 無言で病院が保有する外の広場へ出た。そこには友奈と同じように入院している患者たちが日向ぼっこをしたり、遊んだりととても賑やかな様子だった。

 東郷は木陰になっているベンチまで移動し、車椅子の車輪をロックする。

 

「どう? 友奈ちゃん。外、ぽかぽかするでしょ」

 

「…………」

 

 普段の友奈なら嬉しそうにはしゃぎまわる姿が容易に想像できるのに、無反応という反応が何よりも残酷だった。

 

「ぼた餅……つくってきたんだ。だから食べてくれるかな?」

 

 タッパを開き、食べやすいように一口サイズに整えたぼた餅を摘んで口元に運んだ。

 しかし予想通りと言っていいものかわからないが、自ら口に含もうとする仕草は見られない。試しにぐいっと唇に触れさせても変化はなかった。

 

「そっか……美味しくつくれたと思ったのに……残念だな…………っ」

 

 代わりに東郷がぼた餅を食べると、僅かにしょっぱい味がした。

 いったい、いつまでこんな鉛のような日々が続くのだろうか。勇者部は誰一人欠けてはならないのだ。五人がいなければ成立せず、満足に機能しない。

 擦り切れる思いで目覚めをじっと待つことしかできない。それでも、何日、何ヶ月……いや、何年だろうと待ち続けよう。

 

「おーい東郷!」

 

 ふと顔を上げると、風がこちらに手を振っていた。その傍らには樹と夏凜もいる。

 三人ともまだ完治とはいかないものの、着実に以前の身体を取り戻しつつあるのが見てわかる。

 

「こんにちは」

 

「うむ」

 

 三人は友奈を取り囲むように立ち、樹がポケットから押し花で作られた緑色の栞を優しく友奈の手に持たせた。

 

「友奈、さん……これ、押し花……」

 

 まだぎこちない声色だが、しっかりと言葉を発している。しかし眼前の樹なんてまるで見ていないといった風で、その様子を苦しげに感じた夏凜が顔を背けながら「……畜生」と悪態をつく。

 粘性のある重苦しい空気が流れ、誰もが口を閉ざしてしまった。

 その時、ひとりの男性が下駄の音をカツカツと鳴らしながら近づいてきた。灰色の袴を羽織り、明らかに広場の人々から浮いている男性だ。頬が痩せこけていて、その視線は間違いなくこちらに向いている。

 

「やあ、こんにちは」

 

 それは、外見とは裏腹にとても優しげな声だった。

 

「こ、こんにちは……?」

 

 風が代表として疑問混じりの返事をする。病院の私有地だから変な人ではないと思われるが、風の中ではその境界線を全力で反復横飛びしている状況だ。

 男は僅かに眉を上げ、微妙に剃り残っている顎髭を擦った。

 

「君たちは結城さんのお友達かな?」

 

「はい、そうですけど……」

 

「そうか……君たちが結城さんの言っていた友達か」

 

 男は目を細め、四人をゆっくりと見回す。

 

「友奈と知り合いなんですか?」

 

「少しだけね。数回話をしたくらいさ。この前話していたら突然いなくなってしまって、それはもう驚いたよ。魔法か何かかと思った」

 

 きっと樹海化の影響だろう。その瞬間、神樹様に認められた者以外の時間が静止するから、さながら瞬間移動のように感じてしまったのだろう。

 

「ところで結城さんはどうしてそんなにぼんやりしているんだい?」

 

 男は先程から微動だにしない友奈を見ながら疑問を口にした。

 

「それは、ですね…………」

 

 風は言い淀む。

 それは自分たちへの現状の再認識であり、とても辛いことだ。

 何度も口を開こうとしては閉じるを繰り返す風を見て、男はある単語を言い放った。

 

「――散華、かな?」

 

「どうしてそれを……⁉」

 

 目の前の男はどう見ても一般人だ。

 勇者ではないし、大赦の人間でもないはず。それなのになぜつい最近まで風たちすら知らなかったことを知っているのか。

 

「同業者とでも思ってほしい。結城さんは勇者って言ってたから君たちも恐らく勇者なんだろう? なら僕には言わなければならないことがある」

 

 すると男は風たちに対して深く頭を下げたのだ。

 その意味がまるでわからず、風を含めて全員がその姿を目に焼き付けた。なんだかこれほど卓越したお辞儀を初めて見た。

 

「僕たちの知らない間に世界を守ってくれてありがとう。君たちのおかげで、僕たちは今を生きていられる」

 

「――――」

 

 その言葉はなんだか、様々なものが込められているのを感じられた。四人の胸の奥が熱くなる。

 これまで文字通り全てを捧げて戦ってきたことに意味があったのだと。絶望と後悔しかなくとも、こんなにちっぽけな感謝がどれだけ絶大であるのかと。

 頬に熱いものを感じながら東郷は友奈に囁いた。

 

「友奈ちゃん……私、他の人なんて関係ないって言ったの……間違いだったよ……!!」

 

 ぎゅっと友奈の服を掴み、甘える子供のように啜り泣き始めた。

 

「あとこれも言っておかないと。この前結城さんに最後まで言えなかった言葉を。……たとえ自分のことが信じられなくなっても、今まで君のしてきたことを知っている人たちは君を信じてくれるはずだよ。だから何度でも立ち上がれるはずだ。……それが、勇者っていうものなんじゃないかな」

 

 友奈の耳に届いているかわからない。はっきり言うと届いていないだろう。

 それでも、この言葉が勇者たちの魂に届いてくれますように。もちろん、友奈の魂にも。

 友奈は見ての通り心あらずといった様子だが、いつまででも待ってくれる人がいる。だからこそ、いつか必ずそれに応えてくれるはずだ。

 それこそが、友奈の掲げた勇者像なのだから。

 

「おーい親父! こんなところにいたのかよ……」

 

 ひとりの青年が肩で息をしながらこちらにやって来た。日本人にしては珍しい赤毛のツンツン頭で、一瞬外国人かと思ってしまいそうだ。年は恐らく風より上の高校生くらいだろう。

 

「すまない、知り合いと話してたんだよ」

 

「知り合い? この子達のことか?」

 

 そう言ってまじまじと見つめた後、少し申し訳なさそうにぽりぽりと頭をかきながら言った。

 

「ありがとう、親父の相手をしてくれて。また今度会うことがあったらその時はまたお願いしていいか?」

 

「私達で良ければ……」

 

「あれだ、親父が変なこと言い出したら遠慮なくガツンと言ってくれていいからな」

 

「いえいえ、そんなそんな!」

 

 風が僅かに頬を紅潮させながら慌てて手を振る。

 そして最後に好青年なオーラたっぷりに笑顔を向けると、「ほら、帰るぞ親父!」と男を連れて帰っていった。

 

「……ところで、今日の夕飯は揚げ出し豆腐がいいな」

 

「家に豆腐あったっけな……このままスーパーに寄って買うか。あとついでにあの子も呼ぼう。たぶん食べたことないだろうし。メイドがふたりついてくるだろうからその分も」

 

「それならもうどうせだからあそこの姉妹も呼んだらどうだい?」

 

「いいけど……そしたらあいつが来て小言を言われるんだろうなぁ……。あ、腹ペコ王様の相手させていればいっか」

 

 そんな他愛のない話をしながら、ふたりは向こうへと消えていった。

 なんだかとても幸せそうな家族で。姿が見えなくなっても、風はいつまでもその背中を見届けていた。

 

 ◆

 

 来る日も来る日も勇者部は友奈のお見舞いに来た。どんな僅かなことでもいい。友奈が目覚めるきっかけになりたいという痛切な願い。

 その度に己の無力さを痛感する。病室を出る直前は頑張って友奈に笑顔を向けるが、直後は暗く沈んでしまう。

 とうに夏が終わり、秋を迎えようとしている。窓から見える外の風景も一変し、緑色から黄緑色が目立つようになった。

 ……文化祭も近い。勇者部は劇をすることになったが、四人だけではどうしてもしまりが悪い。友奈の分の役はキープしているものの、いつ目を覚ますかなんて誰にもわからない。

 今日は東郷だけが見舞いに来た。

 毎回ぼた餅を手に希望を抱くが、一度もそれが叶ったことはない。食べてもらえないのに腕だけが上達するばかりだ。樹が友奈に倣って始めた押し花も、両手に一杯になるほどたくさんになった。これまではシンプルなものしかできなかったが、今では多少複雑なものもできるようになった。

 もうすでに友奈を除く全員が以前の身体を取り戻した。それなのにまだ……。

 今日は劇の台本も持ってきた。

 文化祭まであまり時間がない。最悪、友奈を抜きにして進めなければならない。それはなんとしてでも避けたいのが勇者部の総意。

 いつも通り広場に連れ出し、いつも通りベンチに腰掛ける。そして台本を広げると、音読を始めた。

 

「勇者はどれだけ傷ついても、決して諦めませんでした。すべての人が諦めてしまったら、それこそこの世のすべてが閉ざされてしまうからです」

 

 よくある物語だ。

 テンプレ。量産型。コピー。そう思われても仕方のない物語。でも、誰でも知っているような物語だからこそ人々の心に訴えかけることができる。

 

「自分が挫けないことが何よりの励ましになるのだと信じていました。それを馬鹿にする人がいました。意味が無いと言う人もいました。しかし勇者は明るく笑い、へこたれることはありませんでした」

 

 しだいに想いを重ねてゆく。

 東郷の隣にいる勇者は文字通り何度も立ち上がった。きっと、勇者部の誰もがこの少女こそが一番の勇者であると口を揃えて言うことだろう。

 この少女を起点として勇者部はここまで頑張ってこれた。バーテックスを倒し、世界を救う。

 これがよくある王道の物語と言わずしてなんと言えよう。

 

「皆が次々と魔王に屈し。気がつけば、勇者は独りになっていました。それでも勇者は戦うことを諦めませんでした。諦めない限りっ、希望が終わることは……ないからっ……です!」

 

 我慢の限界だった。

 嗚咽を含み始め、後半は上手く言葉にすることができなかった。

 友奈は勇者であって、東郷も勇者だ。だから決して諦めない。

 友奈の帰還を。

 

「何を失っても……それ、でも……! それでも私はっ! 一番大切な友達を、失いたくない……ッ!!」

 

 意志とは反して涙が止まらない。視界が淡くぼやける。

 ぽたぽたと台本の上に落ち、文字が滲んでしまう。諦めないとしても。いつまでも待ち続けるにしても。

 この孤独は。この後悔はずっと付き纏う。

 勇者であっても、それ以前に人間なのだ。この胸の苦しみに耐えられる強さを東郷は持ち合わせていなかった。

 男に感謝を告げられた。その言葉を東郷たちにではなく、誰よりもこの勇者にきちんと聞かせてやりたかった……!

 

「嫌だ……! 嫌だよぉ……っ! 寂しくても! 辛くても! ずっと私といてくれるっていったじゃない――!!」

 

 くしゃくしゃになった台本に顔を埋め、東郷はこれまでにないくらい泣いた。

 殴り合って、想いを伝え合って。それで約束を交わしたのに。真っ先に破るなんてずるい……!

 胸が苦しい。この張り裂けそうな痛みをどうすればいいのかわからない。

 あの笑顔を。何気ない表情を。元気な姿を見たい。ただそれ一心で東郷はひたすら願った。

 ……そよ風が吹き、地面に落ちた枯れ葉が舞い上がる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それでも、東郷の声に応えることはなく、友奈が目覚めることはなかった。

 秋が過ぎ、文化祭が終わり、冬を迎えても。

 それでも友奈が目覚めることはなかった。

 それでも呼び声に応えられない。

 それでも友奈の魂には届かない。

 

 ……それでも、暗い水銀の底から這い上がれない。




溺死End?

私はテーマ通りきちんと物語を書くことができたでしょうか?
ちなみに文中にある『それでも』は単なる接続詞ではなく、重みというか、意味を持たせています。

これにて一期中盤以降は終了。十数話程度しか投稿しませんでしたがそれは文量で補ったからヨシ! 反響があれば続くかも。
それではお疲れさまでしたー!


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私達は人間である
老婆と友奈


二期スタート
テーマは【私達は人間である】です

二万字超えなので注意


 人は神より下でなければならない(・・・・・・・・・・・・・・・)

 ただ神の恩恵を授かる小人であれ。

 西暦という時代では人が世界の中心となっていたが、神世紀は違う。

 神なくして生きること能わず。

 神――神樹様の庇護のもと、当たり前な日々を謳歌せよ。一度領域外へ出ようものなら致死性のウイルスによって即座に死滅させられるだろう。

 だからこそ、神の業の下に人は在れる。

 ゆえに。

 神を汚してはならない。

 神を貶してはならない。

 神を疑ってはならない。

 恐れよ。崇めよ。平伏せよ。

 そしてゆめゆめ思うな。

 

 ……人が、神の業に辿り着こうなどと。

 

 ◆

 

 薄暗い研究室。無造作に並べられた机。その上には何枚も研究資料がばら撒かれている。

 友奈はたくさんある机のひとつの下に潜り込み、じっと息を殺しながらちらりと顔を覗かせた。

 視線はこちらに背を向けた小太りで中年よりな男に向けられる。一向にこちらに気づく気配はなく、なにやら機械いじりに熱中しているようだ。

 ハンドサインで三メートルほど離れた相棒に『クリア』と送ると、すぐさま『了解』と返ってきた。相棒でもあり、ライバルでもある。ならば意思疎通の速度と精度は言うまでもない。

 男の見た目からして運動……戦闘は不得意そうだ。これならば制圧は容易い。しかし慢心は禁物。大切なお役目を頂戴しているのだ、手を抜くことは許されない。

 友奈は腰のポーチからグレネードを手にとってピンを外した。そしてそれをボーリングの球を投げる感覚で男の足元へ転がした。

 

「ん?」

 

 硬質な音に気づいた男が作業を中断し、後ろを振り向いた。

 刹那、炸裂音が轟く。

 これは殺傷武器ではなく、甲高い音を爆発させ、相手の意識を掻き乱すもの。音爆弾だ。

 それが合図となり、友奈と相棒はバネに弾かれたように飛び出した。たたらを踏んだ男の懐に一瞬で潜り込み、友奈はその喉元に拳を叩き込む。

 

「げごっ!」

 

 押し潰された蛙のようなうめき声を漏らし、男は意識を白黒させる。そこを逃さず相棒は追撃として足を蹴り払う。重力に従って地面に倒れ込んだところを友奈がとどめの一撃と言わんばかりに馬乗りになって、その胸に拳撃を繰り出した。

 

「――ふっ!」

 

 分厚い皮下脂肪に包まれてはいたが、それでも友奈の鍛え抜かれた拳の一撃を防ぎ切ることはできなかった。内蔵を強く圧迫し、今度こそ男は気を失った。

 短く息を吐くと、友奈は「制圧完了」と呟く。

 だがまだこれですべてが終わったわけではない。友奈は新たにポーチから鉛筆サイズの棒を取り出すと、端の部分にあるボタンを押した。すると勢いよく棒が伸び、矢の形へと変形した。

 本来であれば弓に番えて……が正しい使用方法ではあるが、今回は比較的簡単に制圧できたため遠距離で射抜く必要はなかった。

 友奈は矢を握ると、男の胸に突き立てた。

 一般的な矢であれば心臓を貫いて死を与えるが、これは違う。物理的な干渉ではなく、精神的な干渉をするものである。矢が刺さった瞬間、男を中心に花びらが舞う。そしてそれらが螺旋状に一メートルほど上昇したあと、一気に朽ちて霧散する。

 この矢は神樹様の特別な力を宿している。これに射抜かれた者は永久に昏睡状態に陥る。そこから復帰できるかどうかは神樹様次第らしい。

 ともかくこれでようやくお役目の半分が完了だ。

 

「どう? あった?」

 

 顔を上げ、友奈は相棒に尋ねた。

 相棒はウェーブのかかった黒い長髪を艷やかに靡かせると、自信満々に鼻を鳴らした。

 

「ええ。きっとこれね。ここまで精密なドローンは見たことがないわ。でも弥勒ならもっと素晴らしいものを作れるわ」

 

 そう言って弥勒――弥勒蓮華が見せてきたのは、金属で作られた蜂だった。遠目から見るとまるで本物との違いがわからない。これに彩色されれば、手にとって凝視してもドローンだと気づけないだろう。

 作ったらアウトだよ、と心の中で諭しながら友奈は相棒と一緒に他に何かないか探そうとした。

 

「友奈、ちゃんと報告はしておいた?」

 

「……あ」

 

「これだから友奈は。弥勒が処理しておくから報告しなさい」

 

「わかったよレンち」

 

 そう言うと、友奈は耳に装着している通信機に触れて通信を開始した。

 

「シズ先輩。友奈です。対象人物の処置完了。現在捜索中で、目標物と思われるものを発見しました」

 

 すると通信ではあるあるのノイズが入ることもなく、滑らかな関西弁で返事が返ってきた。

 

『了解や。目標物は破壊して、関連資料もすべて焼却しといてな』

 

 シズ先輩なる人物は友奈と蓮華の一つ上、中学三年生だ。どうしてか、かつて存在した関西圏でよく使われていた方言で話す癖があり、その始まりは漫才が好きだかららしい。シズ……桐生静は後方で神樹様の力を祝詞によって付与させている所謂サポーター役だ。対してふたりはアタッカーというべきか。

 

「わかりました!」

 

『おん。あと、対象人物は一応誰かに発見されるところにおいといてな。流石に放置して死なれるのはあかんからな』

 

「もちろんわかってます」

 

 昏睡状態だからその場から男が動くことはない。放っておけば誰にも気づかれずにひっそりと死ぬだろう。

 だがそれは友奈たち【鏑矢】の意図しないものだ。

 これには死なせないという名目は当然として、見せしめという意味も含まれる。排除対象となった人間はこうなるぞという脅し。言い換えれば抑止とも言える。

「またすぐに連絡します」と言い残して通信を終了させた友奈は、蓮華が机の上に置いたドローンを拳で叩いて砕いた。もしかしたらどこかに量産されたものがあるかもと念入りに探してみたが、どうやら今のひとつだけらしい。恐らく試作品だったのか。

 

「……ふう。とりあえず資料はこれで全部ね。ふむ……完全自律型ドローン? 人による操作が不必要ってことね」

 

 興味深そうに蓮華が資料に目を通している。とはいっても大量にあるから速読のような感覚で読んでいるだけだ。それでも内容を僅かでも理解できるというのは流石としか言いようがない。友奈なら数字の羅列を読んだだけでお手上げだ。

 

「ドローンは破壊したよレンち。あとはそれを焼却して終わりだね」

 

「ええそうね。――平和を脅かす者を、弥勒たち【鏑矢】は許さない」

 

「……四国に平和を。永久の安寧を」

 

 蓮華が資料に火を放つと、勢いよく燃え上がった。パチパチと火の粉が爆ぜ、完全に燃え尽きて灰が残るまでふたりは無言でジッと見下ろしていた。最後にコンピューターを蓮華の蛇腹剣で破壊した後、男を地下の研究室から地上に運び出して、適当に脇道に横たわらせる。

 これで赤嶺友奈たちの今回のお役目は完了した。

 

 ◆

 

「いやーふたりともお疲れさん。大赦への報告はうちがしとくからシャワーでも浴びとき」

 

 鏑矢としての役割を与えられた三人には寮が与えられている。

 二階構成で、一階は友奈と蓮華でシェアし、二階は静が独占している。静は今どきの日本人としてはなかなか見ない容姿で、白髪、黄金色を思わせる瞳。そして若干猫口なのが特徴的だ。

 大きく深呼吸をした友奈は机に乱雑にポーチなどを投げ置くと、側のソファーに身を投げた。

 

「はあ〜」

 

 とだらしない声を上げ、柔らかいソファーの恩恵を全力で堪能する。

 

「弥勒が先にシャワーを使わせてもらうわ。いいわね友奈?」

 

 蓮華がそう言うや否や、友奈の返事を待たずに身を包んでいたスーツを半脱ぎして上半身を晒した。このスーツは下着を着ずに裸の上に装備しているのがデフォルトだから、当然蓮華の上半身は裸だ。

 だが蓮華は恥ずかしがる素振りなど見せず、寧ろ「ハン!」と鼻を鳴らしてドヤ顔でこちらを見る。

 

「ロック……ちゃんと洗面所で着替えーなー。それに人前でぽんぽん裸になったらいかんで」

 

「心配は不要ですシズさん。弥勒の身体は誰に見せても恥ずかしくないので」

 

 蓮華は自信満々な表情を見せつけ、踵を返した。

 

「いやそういう問題ちゃうやろ……」

 

「そんなことよりシズ先輩、このスーツ、もっとこう……なんとかならないんですか?」

 

 先月くらいからお役目に従事するときはこれをデフォルトとするように言いつけられている。

 以前はダークカラーな学生服を思わせるもので、過激な運動にも適応していた。しかし新たな戦闘衣はぴっちりと身体に張り付くスーツで、そのせいで身体のラインがくっきり浮き上がってしまう。蓮華は先程の態度を見ればわかるが特に気にしている素振りはない。しかし友奈は違う。常日頃から鍛錬に励み、鍛え抜かれた肉体を有しているにしても、やはりどうしても年相応の恥ずかしさというものがある。さらにややSFチックなデザインが厨二心をくすぐる。

 スーツの端をつまみながらジト目で静を見た。

 

「機動力とかうんぬんを考慮した結果がそれらしいねん。うちもよう知らんけど特別な繊維で編み込まれてるからダメージもある程度吸収してくれるんやって」

 

「えー本当ですかー?」

 

 対人戦に特化しているとはいうものの、相手にする人間は全員鏑矢に敵うはずもなく、一方的に蹂躙されるだけだ。だからこれといって戦闘という戦闘はしたことがなく、もちろんダメージを実感したこともないからその効果はいまいち信じきれない。

 しかし汗をかいても中で蒸れたりしないのは友奈にとって唯一素晴らしいと思える点だ。

 

「……まあ、どっからどう見てもエ○ァンゲ○オンのプ○グ○ーツやけどな」

 

 ぼそりと静が呟いた言葉を友奈は聞き逃さなかった。

 

「○ラグスー○?」

 

「いやなんでもないで」

 

 しばらくするとシャワーの音が聞こえてきた。

 友奈も一刻もはやく汗を流したい、と切望したがだからといって蓮華のシャワーに乱入するのはきっと迷惑だ。……いや、もしかするとなんだかんだ蓮華は器の大きい人間だから「ふっ、この弥勒の完成された裸体を拝みに来たのね? いいわ。気が済むまで弥勒を見なさい?」なんて言いそうだ。そんな想像が鮮明に脳内再生された。

 鏑矢として選出され、この寮を与えられて一年と少しが経っている。初めの一年は戦闘訓練……その中でも対人に特化した訓練にひたすら励んでいた。しかもそれを見てくれるのは、バーテックスの初襲来の時、勇者となって最後まで戦い抜き、――今では終末戦争と呼ばれる――今も存命の乃木若葉様なのだ。もはや四国に生きる人間ならば子供から大人まで必ず全員が知っているほどの人間だ。

 つまりそれだけの重みを友奈たちは背負っているのだ。プレッシャーは常に背中に張り付いている。しかしそれでも最後までやり抜く。

 そう、友奈たちは誓ったのだ。

 だが鏑矢と聞こえは良いが、実際は平和を脅かす存在を裏で狩る、汚れ仕事専門の役職だ。勇者などといった、表の世界で凛と咲く花のような輝かしさは微塵もないドス黒い掃き溜めに過ぎない。

 しかも平和を脅かす方法はなにもひとつではない。様々なアプローチがあり、その尽くを鏑矢は排除しなければならない。

 

「あ、せや。ロックが戻ったらまた言うけど、明日は大赦の招集かかってるから行くで」

 

 ふと忘れ物を思い出したように、突然静が予定を入れてきた。

 裏の世界で暗躍する忍者と言ったほうが友奈たちの仕事を表現するには最も相応しい。

 なので大赦に呼ばれるとしても、送迎はもちろんご立派な歓迎もない。重鎮から直接お言葉を頂戴してそれで終わりだ。なんとも色の欠けるものだが、そういうものであると三人とも割り切っている。

 机の上に置かれた友奈の装備を凝視しながら静は言葉を続ける。

 

「そのプラグス……スーツの感想が聞きたいんやそうやで。言葉で伝えるだけでもええやろけど、製作者の人も来るらしいから実際に動いてるとこが見たいって言うてる」

 

 友奈は今一度自身の身体を見て振り返る。

 今回のお役目の途中でスーツ特有の皮膚との擦れを感じることがなかった。まるで全身を膜に覆われているような感覚で、ありのままの動きができたと思われる。

 ……服を着ていない、と言えば一番わかりやすい説明。身体の筋肉の伸縮に合わせた柔軟なスーツの伸びは目を見張るもので、まるで全裸で動き回っているのとは遜色ないレベルだ。

 静は猫のように小さく笑うと、台所に立った。

 

「ふたりとも今日は疲れたやろし、うちが今日は晩飯作るわ」

 

 普段は蓮華が料理を担当しているが、気まぐれで静が代わりにやることもある。しかしそうなるとほぼ絶対にウスターソースやらケチャップやらを使って味の濃い料理を作ろうとするのがややネックだ。

 街で焼きそばやたこ焼きを食べたことがあるが、静のつくるものはそれらの比ではない。『時々』だから許容できるが、『それなりの頻度で』となるとさすがに味覚が死んでしまう。

 しかし蓮華に負けじとも劣らず、静のつくる料理は普通に美味しい。

 友奈は勢いよくソファーから飛び上がると要求を口にした。

 

「はい! じゃあハンバーグでお願いします!」

 

 しかし冷蔵庫の中身をチェックした後、残念そうに首を振る。

 

「うーんそれは無理やな。材料足らん。でもキムチあるから豚キムチするわ」

 

「豚キムチですか? たぶんそれ初めてですよね?」

 

「ふたりに振る舞うんは確かにそやなー。まあ期待しとき。ロックほどではないにしろ、それなりの腕はあると思ってるから」

 

「そんなそんな! 料理を作ってくれるだけでもすごくありがたいですよ! 私なんて料理すらできないので……」

 

 激しく首を振り、友奈は下を向いた。

 筋肉に生き、筋肉を愛して生きてきた友奈にとって、食事とはエネルギー摂取以上の意味はない。最悪プロテインだけでも満足できてしまうほどやや中毒になってしまっているまである。

 もし静や蓮華がおらず、友奈だけで寮生活と思うと身震いする。なんだかこの生活で自分が養われているような感覚に陥る。部屋の整理や家事全般などほぼすべてをこなしてくれる蓮華に、年上で事細かに世話を焼いてくる静。ふたりは友奈の保護者かなにかのようだ。

 ふと自分がふたりに何でもいいから貢献できているのだろうかと考え込んでしまう。

 するとフライパンで豚肉を炒めていた静が口を開いた。

 

「……ええんやで、アカナ。それが普通なんや」

 

「え……?」

 

 普段なら決して出さないような穏やかな声色に、驚愕とともに友奈は顔を上げた。

 

「キャラが濃いから圧倒されてるだけやと思う。なんやかんや世話好きなんよ、うちらは。せやから気にすることはなんっもあらへんで。それに、アカナにはアカナにしかできんことがあるしな」

 

「私にしか、できないこと……?」

 

 手慣れた動作でフライパンを傾け、絶妙な火加減で炒める。木ベラを素早くスライドさせ、具が混ざる。その様子はさながら厨房裏の料理人のようだ。

 そして出来上がった豚キムチを三人分の皿に盛り付けた。ついでに冷蔵庫からサラダを別の皿に移し、冷凍されていた白米を電子レンジに放り込む。

 友奈も何か手伝おうと台所に立った。とはいっても箸を用意する程度しかできない。

 

「せや。アカナは鏑矢のムードメーカーや。うちとロックだけやったら絶対ピースの凸凹が合わへん。さすがのお喋りなうちでも黙りこくってしまうかもしれん。でもアカナがいるから、ピースなんて関係なしにありのままでそれぞれ接することができるんやで」

 

「シズ先輩……」

 

 女子中学生がたった三人でシェアハウスをするというのはあまり聞かない話だ。

 疎外感やホームシックを感じたりというのはやはりどうしてもあり、ふとした時に考えてしまうものだ。親の温もりを直接この身に感じたい、と。

 だがお役目の真っ最中。そう簡単に実家にほいほいと帰ることはできない。

 だからこそこの三人で協力して生活しなければならないのだ。その中に友情を育み、その先に絆となる。

 

「どや? 今の結構先輩っぽかったやろ?」

 

 配膳しながら友奈は口をすぼめて答えた。

 すでにかいた汗はスーツの機能によって外に排出され、乾いている。

 

「今の一言がなければ。でも……ありがとうございます」

 

「アカナは大切な仲間やからな。いくらでも守ってやるで。……ってもいつも後方支援やけどな!」

 

 陽気にははは! と大声で笑い、盛り付けた皿を次々にテーブルに運んでくる。完成した豚キムチはとても食欲をそそる色合いで、友奈は思わずごくりと生唾を飲んだ。

 はやくシャワーを浴びたいという気持ちが一瞬で、はやく食べたい、に置き換わった。

 スーツ姿のままだが構わない。ちょうど都合のいいタイミングで友奈のお腹が鳴り、僅かに頬を赤らめながら椅子に座った。

 

「あとはロックやな。そろそろあがると思うけど……」

 

 向かい合って座った静が浴室の方を見ながらぽつりと呟くと、まさにジャストでドアが開いた。まさかのタイミングに静は「ワオ」と感嘆を漏らす。

 そして浴室から出てきた蓮華の姿はなぜかバスタオルを首に巻くだけで、他は生まれたままの姿だった。

 

「いい匂いがすると思ったら、シズさんが作ってくれたのですね。ありがとうございます」

 

「いやそれよりロック、着替えはどうしてん」

 

 すると蓮華は自身の裸体をまじまじと見下ろした後、

 

「問題ないわ!」

 

 と仁王立ちで自信満々に言った。

 静が「そうはならんやろ……」と悲壮感のある呟きを漏らし、友奈とともに長いため息を吐いた。

 

 ◆

 

 鏑矢は大赦の中でもある程度の地位の人間しか存在を知らない。ゆえに三人の大赦本部へ入る時は『見学』とか『学校の課外活動』などという適当な理由をつくっている。どうせ頻度も月に一度あるかないか程度だから、下位の役職の人間に不審がられることはないだろう。

 カバンを背負った友奈たちはラフな格好で正面ゲートを潜ると、大袈裟なほどだだっ広いエントランスに出た。大企業の一階に必ずいそうな受付嬢がカウンターの裏に立っているのが見える。その受付嬢はとびきりの美人で、メガネをかけた理知的な顔立ちをしている。

 大赦に属する人間が全員が全員あのよくわからない仮面をつけていると思われがちだが、大赦本部そのものの運営に携わっている人間はどうやらそうではないらしい。神樹様への信仰心が厚く、また四国の防衛に従事する人が仮面をつけている。だいたいこんな法則だと友奈はおおまかに理解している。

 

「こんにちは。どのようなご用件でしょうか?」

 

「うちら、『予約した』者です」

 

「わかりました。上に到着をお伝えしておきます」

 

「はい、ありがとうございます」

 

 静の裏のある言葉を瞬時に理解した受付嬢は、にこやかな営業スマイルを向けた。

 何度も来たことがあるから行くべき場所はわかっている。静を先頭に三人は目的の場所へと足を運ぶ。

 スーツ姿の人とすれ違う度に二度見されるが特に気にする必要もない。大赦を見学することなどは付近の小中学校ではよくあることだ。そしてその目的は、大赦が四国の防衛や運営を行っていること、またそれらは神樹様の下で成り立っているという刷り込みのためである。神世紀になり、これらの教養が必修となったものだ。毎日用意された神棚を神樹様にみたてて拝をする徹底ぶり。

 結局のところ、神樹様は素晴らしい神様だ! ということを理解させたいのだ。

 友奈にとって昼前のこの時間はたいてい筋トレに勤しむ時間だ。いつも使っている重りの取っ手が金属製だからその部分が錆びてきて困っている。だから今日は錆取りの買い出しに行きたかったのだが……急な呼び出しとなれば仕方ない。

 友奈が短く嘆息していると、蓮華が子首を傾げながら口を開いた。

 

「友奈、寝癖治ってないわよ」

 

「え! うそ⁉ どこ⁉」

 

 慌てて頭を手で押さえるが、どこが寝癖になっているのか把握できない。人がたくさんいる場所でそんなものを見られていたとは顔から火が出る案件だ。

 お手洗いに駆け込もうと咄嗟に判断するが、それより先に素早い動作で蓮華が自分のカバンから櫛を取り出し、友奈の頭に添えた。

 

「まったく。仕方ないわね、友奈」

 

 やれやれと言わんばかりに肩をすくめると、あっという間に友奈の寝癖を治してみせた。

 

「ありがとうレンち」

 

「弥勒のライバルにはきちんとしてもらわないと困るわ」

 

 蓮華にライバルと認められている以上、それなりの格好というか、気品というものは兼ね備えなければならない。これまでそういうのには疎かった友奈は、蓮華によって矯正されているといえる。

 

「返す言葉もございません……」

 

 ワックスのかけられた木製の床は年季を思わせる色合いで、しかしながら老朽化しているようには見えない。その辺り、大赦という組織は隅々までしっかりしているのだとひしひしと感じる。

 和式の廊下を通路を進むこと数分、ようやく目的の部屋に到着する。

 そこはちょっとした庭が隣接していて、そこはよく巫女の舞の練習に使われる。三人が部屋に入ると、すでに役人が八名ほど待機していて、その内の代表のひとりがこちらに気づいた。

 

「鏑矢の皆様、お待ちしておりました。お迎えできなかったことを心から謝罪いたします」

 

 そう言うと役人たちは頭を床に擦りつけた。仮面をしているから表情がわからないが、どうせ仕方のないことなのだからわざわざ気に病む必要なんてないのに、と友奈は思った。

 

「あーいいですよそういうのは。それより本題に入りましょう」

 

 静は役人たちの顔を上げさせるとさっさと本題に移らせた。世辞や前座などが聞きたいわけではないという静の本音が垣間見える。

 

「はい。先日お伝えしたとおり、新武装での戦闘データを直接とらせていただきます。桐生様には祝詞による弥勒様と赤嶺様への力の付与をしていただき、また付与のない場合も同じように戦闘データとして頂戴します」

 

「わかりました。ほら、ふたりとも。着替えるで」

 

 役人の指示どおりに部屋の隅にある仕切りの向こう側に移動すると、そそくさと友奈たちは着替えた。

 友奈と蓮華は昨日も着たスーツに、静は通常の巫女装束だ。ふたりは軽く足踏みをしてスーツのズレがないかを確認した後、蓮華が役人から木刀を受け取り、庭に移動した。庭にはすでに鍛錬用の人形が少なくとも二十体以上、ランダムに設置されている。

 友奈の基本戦法は拳による超近接戦闘だが、蓮華は蛇腹剣を主に武器としている。一応備えとして持参してきてはいるものの、さすがに人形を斬られるのは困るのだろう。

 静が縁側に立ち、祝詞の詠唱を始める。これは神樹様の力を友奈たちに付与するために必要な工程だ。

 役人たちのデータ採取はすでに始まっている。ビデオカメラやパソコン、手書きのメモなど。様々な手法で絶え間なく仕事を始める。その真剣な空気への早変わりに、友奈も意識を切り替えた。

 しだいに力の流れが全身を帯び始める。生暖かいスライム状の液体が、うなじのあたりから広がる感覚。思わず身震いしてちらりと横目で蓮華を見た。蓮華は澄ました顔で落ち着いており、友奈の視線に気づき、微笑を浮かべた。

 

「弥勒に見惚れる気持ちはわかるけど、それはあとにしなさい」

 

「あ、うん」

 

 そうじゃないんだけどなー、というツッコミをゴミ箱に捨てて、力が十分に行き届いたことを確認した。

 数度ジャブを繰り出せば、通常時より明確に速度が上昇しているのがわかる。これも貴重なデータだ。見せつけるように動き回り、少し長めにウォーミングアップとした。

 蓮華も準備は万端のようで、いつでもいけるわ、と顔が主張していた。

 

「どのように動いてもらっても構いません。個別で動くも良し、連携して動くも良し。――では始めてください」

 

 開始の指示が下った瞬間、ふたりは力強く地面を蹴り上げた。

 常人の目に留まるかどうかのギリギリの速度。加速世界の中で、まず友奈は一番近い位置にある人形を目標とした。

 まるで重力を感じさせない軽やかな走りで肉迫すると、すでに作られている握り拳を突き出した。

 まずは一発! 本気の一撃――!

 ガンッ! と鋼鉄を叩く音が強く響いた。やはりと言うべきか、ただの人形ではなかった。限界まで強固にされた人形の右胸が深く沈む程度で、完全な破壊には至らなかった。なるべく破壊して欲しくはないだろうが……まあ許してくれるだろう。

 すぐさま次の目標に意識を変え、友奈は鋭く息を吐いて拳に力を集中させた。

 気持ちの良い打撃音が耳に届く。蓮華を一瞥すると、ヒットアンドアウェイで次々と恐るべきスピードで木刀を人形に叩き込んでいる。

 ……対抗心が燃えた。

 ……気づけば目につく人形のほとんどに木刀の打ち込まれた跡がある。この瞬間、友奈の中で己にひとつ、勝負を課した。

 それは、蓮華より多くの人形に攻撃すること。その方が断然やる気が上がる。

 身体も十分暖まった。ギアをひとつ上げ、稲妻の如く庭を疾走する。脳がスパークし、目に見えて反応速度が上がる。

 拳を人形の横腹に食い込ませる。そのまま一息つく間もなく頭を鷲掴みにしてアクロバティックに飛び上がり、少し離れた次の目標へ迫り、蹴りを入れようと――!

 

「――もらったわ!」

 

 そりより早く、蓮華の木刀が滑らかな軌跡を描いて人形に炸裂した。

 咄嗟に腰をひねって体勢を整え、友奈はすぐさま目標を変更する。

 ライバルを煩わしく思う暇があるのならば少しでも多く数を稼げ。それをもって勝つのだ。

 邪魔し、邪魔され、それでも圧倒的な速さでふたりは次々と人形たちに一撃を入れて回る。

 そしてほんの開始二分ですべてが破壊寸前にまで嬲られていた。連携なんてまるでなく、獰猛な獲物の奪い合いになっていたがスーツの動きを見るには十分なデータがとれた。

 相変わらず表情の読めない仮面だが、役人の声色からなんとなく嬉しそうではあることはわかった。

 

「とても素晴らしい動きでした。こちらとしても申し分ないほどのデータをとることができました。これらをもとにさらに高性能なものの開発に専念できます」

 

「その……あんなになっちゃたんですけどいいですか?」

 

 滅多打ちにされた人形たちを見て、友奈は濁しながら尋ねた。

 あれだけの強度があったのだ。一体一体のコストは決して低くはないはずだ。しかし役人は落ち込むどころか逆に嬉しそうだ。

 

「まったく問題ございません。四国の秩序を守るための出費と思えば安いものです。それでは次は桐生様の祝詞なしでの動きを見させていただきますが、その前に休息は必要でしょうか?」

 

「不要よ。友奈もいいわよね?」

 

 蓮華の即答に友奈も頷く。

 

「うん、そうだね。まだ全然動けるよ」

 

「……ちなみに」

 

「ん?」

 

 蓮華が後ろを振り向き、人形たちを指差してサムズアップする。

 

「今の勝負、弥勒の勝ちよ」

 

「ぐぬぬ」

 

 やはり蓮華もそのつもりだったか。友奈がそれを意識したのが遅かったため、その点で勝敗がついたと言っても過言ではない。何事も勝負事にしようとする蓮華の友奈に対するライバル心は並大抵のものではない。

 大人しく負けを認め、切り替えることにした。

 静による力の付与が解除され、ほう、と熱い息を吐く。肩をゆっくり回して僅かに溜まった疲労を抜き、次に備える。

 

「次も同じようにすればいいんですか?」

 

 友奈が尋ねると、役人は庭に転がる人形に顔を向け、むず痒そうに首を傾げた。

 

「そうですが……ここまで損傷したものをもう一度使うのは……」

 

 友奈たちの戦闘力は予想以上だったようだ。嬉しい誤算ではあるが、それはそれで問題で、用意されていたフローチャートとは異なってしまう。

 ならばいっそ模擬戦でどうですか、と提案しようと友奈が口を開いた瞬間、部屋にひとりの老婆が入って来た。

 黒の袴に身を包み、その辺りの一般人よりも美しく背筋を伸ばした姿勢はいっそ見惚れるほどだ。そして堂々とした足取りで縁側に立つ。すぐ側にいた静がその人物の顔を見るや否や目を丸くする。

 

「――ほう。元気そうで何よりだな、お前たち」

 

 それは威厳に満ちた、まるで衰えを感じさせない声だった。そのまま下駄を履いて庭に下りると、友奈はもちろん、普段から目上の人間だろうと決して敬意を払わない蓮華も素早く頭を下げた。

 

「そんなに畏まるな。私はお前たちがいると聞いて顔を出しに来ただけだ。顔を上げてくれ」

 

「……はい、乃木様」

 

 乃木――乃木若葉へ尊敬の眼差しを向けながら蓮華は顔を上げた。

 初代勇者、その唯一の生き残り。終末戦争の後も、四国防衛のための地盤を築く大赦に力を貸し続けた偉人。

 そして、友奈たちの師匠である人だ。

 若葉はふたりの間を通り過ぎ、その後ろの人形の山々に近づく。ひとつひとつ傷跡を見たあと、「ふむ」とだけ呟いた。

 

「お前たち、少し腕が鈍っているんじゃないか? 最近は比較的容易な戦闘ばかりしていると聞くぞ」

 

 若葉の目が届かなくても、お役目ややむを得ない事情がない限り、鏑矢として一日たりとも鍛錬を欠かしたことがない。寧ろ蓮華と競うように明け暮れるほどだ。

 だが指摘されたことは事実で、戦闘という戦闘を実戦として経験することはめっぽう少ない。だから知らず知らずのうちに腕が落ちていたのかもしれない。

 またそれを実際に見たわけではなく結果だけを見て気づくことのできる慧眼はやはりと言える。

 若葉は部屋に戻ると、記録したデータを顎に手を乗せながら眺める。

 伝説の勇者がいるだけでこの場の空気は変質している。先程までは苛烈な熱を帯びていたが、今ではそんなものは初めから無かったと錯覚しそうなほど冷たい針のような緊張感に満たされている。

 友奈はいつの間にか手汗を滲ませていた。蓮華も微動だにせず若葉を見据えている。

 

「そうかそうか。これは静の祝詞ありのデータか。それで今からなしでするのか……」

 

 数度視線を友奈たちとデータの間を往復させると、役人のひとりからメモ用のペンを借りてもう一度庭に下りた。その表情は楽しげで、何を考えているのか友奈にはすぐにわかってしまった。

 若葉は勇者時代、好戦的な勇者だったと聞く。それも敵を捕食するほどに。歴史上の偉人は頭のネジが数本抜けているとよくあるから、若葉もその一人であることは間違いないだろう。

 ペン先をこちらに向け、乃木は頬に皺を寄せながら言った。

 

「これでお前たちの相手をしてやろう。祝詞ありだと、さすがの私も下手をすると負けるからな(・・・・・・・・・・・・)

 

 やっぱりな、と友奈は口を横一文字に結んだ。

 しかし格好はどう見ても戦えるようなものではない。動きにくい服装に、下駄。武器はただのペンだ。どう考えても不利。さらにこちらはふたりだ。一般人ならば若葉が負けると一瞬で決めつけるだろう。

 だが、『これで』ちょうどいいハンデなのだ。

 何度も若葉の太刀筋を見て、もしくは身に受けているから知っている。洗練された剣技は蓮華ですらまったく真似できない。「これは……さすがの弥勒も困難よ」と音を上げるほど。軌跡など目で追うことすら不可能で、手元が僅かにブレる程度。全く動じていないように見えるのだ。だから蓮華との間で『朧斬り』なんて呼んでいる。

 つまり過剰と思える自信にはきちんとした背景があるのだ。

 友奈は身を引き締めた。

 

「すごい自信ですね。負けたら何をしてくれますか?」

 

 蓮華が試すように尋ねる。

 幾秒か考える素振りを見せ、「うどんを奢ってやろう」と言った。

 おお、と感嘆を漏らす友奈だが、すぐさま。

 

「私が勝ったら静の奢りでうどんを食べに行こう」

 

 と言った。

 

「ええええぇぇぇ⁉」

 

 庭に身を乗り出して静が狼狽える。まさか全く無関係のふたりの戦闘に自分が土俵に引きずり込まれるとは思っていなかったようだ。

 しかし「お前が鏑矢の中で一番偉いんだから当然だろう」と若葉の言葉に一蹴される。お財布事情にマリアナ海溝よりも深くため息を吐く姿に友奈は小さく吹き出した。

 

「さあさあ。静の財布が懸かっているぞ。これはやるしかないよな? 赤嶺。蓮華」

 

 リスクとリターンの重みが若葉と静ではまるで違うが、そこは目を瞑ろう。結局どれだけ言い繕っても戦闘狂な部分が隠しきれず、実際この駆け引きにそれほど意味はない。万が一若葉が負けたとしても、三人分のうどんを奢る金なんて小さじ一杯分にも満たないのだ。

 

「――なら、やるしかないですね」

 

「そうだ」

 

 物分りのいい蓮華の返事に、子供のように無邪気に若葉が応える。

 それと同時に蓮華は腰を低く落として木刀を構えた。

 

「友奈。わかってるとは思うけど、たとえ師匠だろうと勝つわよ」

 

「もちろん。どうせだからとびっきり美味しい高級うどんを奢ってもらおうね!」

 

 そうだ。それくらいでないと割に合わない。しかしそんなことを言ってしまうと逆に静が高級うどんを奢らなければならない可能性が浮上し……静の生気が抜ける顔が容易に想像できたからここで思考は彼方へ押しやった。

 無音が庭を支配する。三人が無言で剣気を纏う様に、役人たちは生唾を飲むことすら許されなかった。ただ、普通に生きていたら絶対にお目にかかれない戦闘が見られるのだという確信があった。

 風が止み、友奈は足先の角度を僅かに変えた。爆発的な加速で一気に若葉へ急接近する姿勢が取れたが、それに対する反応はない。

『よーいどん』なんて掛け声は不要で、すでに模擬戦は始まっているのだ。

 そうして睨み合いが十秒ほど経過した時、唐突に蓮華が動いた。

 若葉の武器はただのペン。蓮華の持つ木刀のほうが圧倒的にリーチが長い。故に優位に戦闘が進められると判断したのだ。若葉は半歩だけ下がり、ペンを構えた。

 下駄特有の硬い足音が短く響いた。

 祝詞によって身体強化がされていないとはいえ、ふたりの動きは洗練されている。下段からの斬り上げが若葉に迫った。

 ペンを前に出す。そして側面部分で受け止め……るのではなく、力の流れを絶妙な加減でズラし、最小限の力で初手を受け流した。

 躱されることなど百も承知。年老いても伝説の勇者様、一筋縄でいけるはずがないと理解している蓮華は息をつく間もなく苛烈に連撃を繰り出す。

 プラスチック製のペンに当たっているはずなのに、その打撃音が一向に聞こえない。ふたりの足運びの音が聞こえるだけの演舞のよう。

 

「ふっ!」

 

 若葉の背後に回った友奈はそのガラ空きの背中めがけて急接近する。

 だが、まるで後ろに目があるのではと疑いを抱いてしまうレベルで正確に把握され、寸前のところで横にシフトした。

 その結果蓮華と鉢合わせになり、正面衝突――。

 ……伊達に同じ釜の飯を食い、鍛錬に明け暮れたわけではない。

 言葉など不要。視線を交差させるだけで互いの考えを一致させる。

 咄嗟に友奈は反転し、勢いはそのままで身体を蓮華に投げた。蓮華は木刀を手離して友奈の背中を受け止め、全力で押し返す。

 

「ほう」

 

 若葉が短く唸った。かん高い下駄の音が鳴り、袴が大きく靡いた。

 その余裕ぶった顔を一変させてやる!

 歯をキリキリと鳴らす。歯の間から空気を吐き出し、友奈は全身の力を拳に込めた。

 その瞬間、若葉の表情が明らかに変わった。驚愕といったものではなく、哀愁のような……どこか懐かしさを感じさせる表情の機微は友奈にはわからなかった。

 

「ぁ――」

 

 と漏らした掠れ声が聞こえた。

 

【挿絵表示】

 

 しかし友奈はそれを無視してそのまま拳を突き出した。肺に溜めた空気を一気に吐き出す。

 だがそれは人間業とは思えない滑らかな動きで紙一重で回避される。だからといって大人しく引き下がる友奈ではない。

 鋭く空気を吸い、泥臭く喰らいつく。力強く地面を踏みしめ、重心を投げ出してまで急激な方向転換をする。

 その勢いを殺さず、追撃の一撃を放った。

 

「はぁッ!」

 

 回避の直後に晒す無防備な隙。その刹那に一撃をねじ込む――!

 若葉が目を細める。

 心臓にまで透かして届きそうなその眼力に、拳の軌跡が歪められた気さえした。

 さらに背後にまわった蓮華の木刀が振り下ろされている。切っ先が首筋をなぞる。絶対不可避の挟み撃ち。

 ……やはりというべきか、まだ緊迫したこの状況でも動いた。何度も一歩、いや二歩先をいかれる。

 若葉がペンを逆手に持ち替え、右腕を後ろに回す。先程と同じように剣筋を逸らし、左手で友奈の拳を受け止める。

 前からの追撃。後ろからの奇襲。全力で放ったふたりの攻撃を若葉は防ぎきってみせた。

 

 ――これすらも防ぎきるか……!

 

 友奈は目を剥いて若葉を睨む。

 なんという化け物じみた反応速度。そして正確さ。

 だがこれこそが勇者。

 肉体が衰えてもなおその技量が衰えているようにはまるで思えない。

 全盛期だったらと考えるだけで身震いする。

 だがまだ終わっていない。次の一手を今すぐ打たなければならない。

 友奈と若葉はこれ以上にないほど無防備となった。

 対して蓮華はまだ動ける。風を切り、間合いに潜り込む。それでも、もしここでさらに木刀を振ったとしても若葉はきっと反応するはずだ。逆の信頼。だからこそ、友奈は限界の身体をなお動かす。それは重心を倒して若葉に衝突する。

 蓮華の攻撃に備えようとしていた若葉のバランスが崩れ、今度こそ避けようのない完全な隙を晒した。

 

 ――とった!

 

 友奈と蓮華は確信する。

 刹那、若葉の右腕がブレた。

 友奈が瞬きをして。次に目を開くと、蓮華の手元に木刀はなかった。手首から痺れが足先まで伝わり、蓮華は顔を歪める。

 蓮華の振る速度が音速ならば。

 若葉の振る速度は、光速。

 少し遅れて木刀が上から落下し、乾いた音が静まり返った庭に響いた。

 

 ――是、朧斬り。

 

 まさに不可視の一撃と言わずになんと言う。まるで反応できなかった蓮華が状況に追いつく頃にはすでに遅く。一息ついた若葉はしがみつく友奈を背負い投げ、武器を失った蓮華の腹に拳をめり込ませた。

 時間にして三秒にも満たなかった。

 

「私の勝ちだな」

 

 そう言って、若葉は毅然たる態度で若葉は袴についた土埃を払った。

 

「連携は良かった。だがそれだけだ」

 

 淡々とふたりを評価する若葉の言葉は機械的で、だからこそ身に染みて己の未熟さを思い知らされる。

 

「「乃木様、ありがとうございました!」」

 

 友奈と蓮華が頭を下げる。

 若葉が直接戦闘の指南をしてくれることは今後ほぼないと思っていい。もう歳は八十後半。それでいて四国のために様々な活動をしているのだ。もうゆっくり余生を楽しんでもいいというのに。

 その辺りは真面目な性格が滲み出ているのだろう。

 下駄を脱いで部屋に上がった若葉が振り返った。

 

「ああ。あと約束通りうどんは静の奢りだ。明日の昼、迎えを送るから待っていてくれ。楽しみにしているからな、静。はははは!」

 

 魂の抜けた静の肩を叩き、愉快そうに笑いながら部屋を出ていった。

 友奈は後で神樹様に静の財布の無事を願おうと心に固く誓った。

 

 ◆

 

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!」

 

 リビングでブリッジしそうな勢いで転がりまわっているのは静だ。寮に戻ってきてからずっとこんな調子だ。

 ソファーの上でひとつの氷嚢を共有しながらテレビを見る友奈と蓮華はちらりと先輩を見下ろす。

 

「あかんンンンンンッ! うち、一文無しになるわああああああああっ!! 高級うどん店⁉ んなとこ行ってみ!! 財布がぱーどころかマイナスになるで⁉」

 

 完全に被害者な静に申し訳なさを感じるふたりだが、何か優しい言葉をかけようものなら逆に火に油を注ぐことになってしまいかねない。だから静が落ち着くまでこうして静観するしか道を選んだ。

 

「――いや待てよ? 乃木家、その頭領様のためにうちの財布がさよならバイバイするんやったら本望ちゃうか?」

 

 何やらマズい悟りを開き始めた静はもう見ていられなくて、つい友奈は口を出してしまった。

 

「シズ先輩、私達のお金も使っていいですから……。私達が負けたんですし……」

 

 親の世話が介入しない寮生活では、友奈たちの資金源は鏑矢として大赦から得られる給料だ。中学生が給料を得るのは法的によろしくないと思われがちだが、大赦は超法規組織だ。だからその辺りは問題ない。しかしながら中学生であるということは事実。多額の金を与えるのはいささか問題があるため、ある程度は大赦によって保管されている。それが与えられるのは鏑矢を引退した時だ。水道代や光熱費などは大赦が負担してはくれるが、逆にそれら以外はすべて友奈たちでやりくりしなければならない。

 切実なお金事情の結果、いつも手元に残るのは世間一般と比べたらまあまあ多いお小遣いレベルだ。静の嘆きは察するにあまりある。

 

「いやここは先輩として……! って言いたいけど、正直そんな余裕ないからなあ……お言葉に甘えさせてもらおかな」

 

「ふっ。心配には及びませんシズさん。弥勒家が全力で援助しますので」

 

 友奈に氷嚢を太ももに当ててもらいながらだとなかなかに痛快だ。

 蓮華の家は比較的裕福である。静の負担をすべて受け持っても痛くも痒くもないだろう。

 

「いや、そこまでいったら恩返しとか言ってごっつい要求されそうな気ぃするからほどほどでええよ」

 

 一定のリズムで氷嚢を押し付け合うふたりを眺めていると、もうどうにでもなれ、と投げやりな気持ちになってしまった。節約に節約を重ね、さらに友奈の中毒レベルのプロテイン摂取を控えさせればいいだけだ。友奈は涙目になるだろうが、背に腹は変えられない。

 ふと、インターホンの音が鳴った。

 誰か来たようだ。

 

「友奈、行きなさい」

 

「ええ〜。今冷やしてるんだからレンちが行ってよ」

 

「…………」

 

「……ならばこれね」

 

 無言で蓮華が手を差し出すと、友奈も同じようにして応じた。

 じゃんけんだ。

 

「「さいしょはグー、じゃんけんぽい」」

 

 軍配は蓮華に上がったようだ。鼻を鳴らして氷嚢を独占する。静は(将来の)精神的ダメージが大きくて立ち上がれない。友奈はしぶしぶとソファーから立つとモニターをチェックした。映り込むのは白い仮面だ。枝が何本も伸びる大樹を模したシンボルがデザインされていて、すぐに大赦関連だとわかった。

 しかしこんな夕暮れ時に何の用だろう。うどんの件は明日だったはずだが。

 

「誰やったん?」

 

「大赦の人っぽいです」

 

「ひえっ」

 

 咄嗟に財布を大事そうに抱える静を尻目に友奈はリビングを出る。

 

「私が出ますね」

 

 玄関のドアを開けると、寮の前には高級そうな黒塗りの車が停められていた。

 

「えっと……こんばんは。なんのご用件でしょうか?」

 

「はい。赤嶺様に乃木若葉様が対話をご所望です」

 

 男はそう言うと深々と頭を下げる。

 どうやらうどんの話ではないようだ。それについ数時間前会ったばかりなのにもう一度……?

 

「私だけですか? レン……弥勒さんや桐生さんは?」

 

 男は首を横に振った。

 ついでに後部座席の窓が開く。なんと中には若葉がいて、こちらに手招きしている。とはいってもさすがにそのまま乗り込むのは良くない。ホウ・レン・ソウだ。

 

「すみません、すぐ戻ります!」

 

 踵を返して玄関に戻り、大声をあげた。

 

「私、ちょっとでかけてくるー!」

 

 わかったわ、と蓮華の返事がリビングから返ってきた。今の友奈は部屋着だが、別に外に出ても恥ずかしくない格好だ。

 携帯のバッテリーを確認した後、大急ぎで外に出る。男に促されるがままに乗り込み、車は静かに発進した。

 すぐ隣に若葉がいるという状況に緊張が隠せず、もじもじと身じろぎする。そんな様子を感じ取った若葉は微笑を浮かべた。

 

「緊張しすぎだぞ赤嶺。別にとって食ったりするわけではないぞ。ただちょっと付き合ってほしいところがあってな」

 

「どこですか?」

 

「ちょっと……な」

 

 どうも歯切れの悪い返答だ。

 外を眺める若葉の瞳は、なんだか陰鬱だった。勇者様でもこのような顔をするのかと思いつつ、これ以上の詮索は止めておいた。

 若葉が口を開くのはそれきりで、目的地につくまで誰かが話すことは最後までなかった。友奈はこの閉鎖空間でどうしようもない沈黙に爆発しそうだった。

 車を停め、運転手が到着したことを知らせた時には、喉に刺さった魚の骨が取れたような解放感を得た。

 そこはドーム型の小さな白い施設だった。大きさはおよそ学校のグラウンドより少し小さいくらい。若葉が無言で降り、友奈もそれに続いた。運転手は車内に残るようだ。

 誰でも入ることのできる施設で、ドアといったものもない。周囲を囲うように柱が立ち、見下ろし型のステージのように、段差が中心部に向かって何段も連続している。

 

 ――五つの石碑が寄り添うように、隅の方にぽつんと並んでいた。

 

 ひとつひとつのサイズはたいしたことはない。高さは一メートルもないほど。しかしそれらの存在感は決して無視できないものだった。

 若葉の足は迷うことなく石碑へと向かった。一段一段ゆっくりと段差を下り、その前に立つ。

 背面だからわからなかったが、いざ正面から石碑を見て、友奈は思わず息を呑んだ。

 

『土居球子』

『伊予島杏』

『郡千景』

『高嶋友奈』

『上里ひなた』

 

「――――これ、は」

 

 若葉と共に戦ったという勇者様たちの名前。

 全員が全員、今後永遠に英雄として語り継がれる人物の名だ。

 そして思う。

 これはもしかして――。

 

「――ああ。今お前が思っているので間違いない。ここは……そういう場所だ。骨はそれぞれの家族のところに納められている。ここにはない」

 

「――――――」

 

 若葉が重い言葉を吐き出す。

 友奈はそれに反応することができなかった。いや、どう反応すればいいのかわからなかった、が正しい。

 

「赤嶺。鏑矢のこと、どう思っている?」

 

 唐突な質問だった。

 友奈は目をぱちくりさせる。

 

「どう、とは……?」

 

「……ああ、聞き方が悪かったな。すまない。――お前は鏑矢のお役目に胸を張れるか?」

 

 失礼ながら、何を馬鹿な、と思った。

 鏑矢は誇りあるお役目だ。神樹様に選ばれるというこの上ない栄誉。それに四国のために必要とされることが嬉しかった。だから友奈はこれを快諾したのだ。そのおかげでキャラは濃いものの、弥勒蓮華と桐生静というかけがえのない仲間も得ることができた。どこも不安要素なんてない。

 

「はい! 張れます!」

 

「そうか。そうか」

 

 それに対して若葉の返事には含みのあるように感じられた。

 

「では赤嶺。どうして西暦からまったく文明が発展していないか、わかるか?」

 

 神世紀が幕を開けて七十年と少し。確かに昔に比べて文明が発展しているとは言い難い。せいぜい携帯の容量が増えたり、テレビ画面の質が向上したりはしているものの、明確な人類の発展と言えるわけではない。

 

「いえ……わからないです」

 

 首を横に振る。すると若葉は気難しそうに唇を歪めた。

 

「それはな、我々人間が神樹様と同じステージに立つことを恐れているからだ」

 

「神樹様が?」

 

「そうだ。もし文明の発展がいくところまでいけば、神樹様のエネルギーを完全に解明する未来が来るかもしれない。そうなると人類が自らそれを模倣し、独自に生きようとするだろう。また違った発展だと、勇者システム以上の力を生み出す未来が来るかもしれない。そうなると神樹様の力なしに壁の外のバーテックスどもを蹂躙し、逆にこちらから攻め入ることができるだろう」

 

 希望的観測であることは否めないが、真っ向から否定できるわけでもない。若葉の言う未来は可能性としては決してゼロではない。遠い未来……それこそ百年単位で先の話なら、実現できる可能性はある。

 

「神樹様は我々に従順な生き方をしてほしいんだ。だからこれを脅かすものを排除したいと考えている。例えばテロまがいなことはもちろん、過度な文明の発展に繫がる技術進歩。それらの排除を代行するのがお前たち鏑矢だ。どれだけ美麗美句を並べても、この根底は覆らない」

 

 昨日のお役目は研究資料の破棄、研究者の処分だった。これは若葉の言葉を借りると、紛れもなく過度な発展に繋がるものだ。それに使いようによっては、自律型ドローン、それも超小型だから誰の目にも留まらずに壁の外へも飛んでいける。そうすると真実を知ってしまう。

 これまで友奈はお役目ごとの意義までは考えたことがなかった。結果論だけに着目し、その意義を知ろうとしなかった。

 頼られているということに喜びを感じ、上手く駒として操られていたのだ。そこはまだ人生経験の浅い女子中学生だから仕方ないところも多少ある。

 鏑矢が汚れ仕事であることは重々理解している。一度引き受けた以上、後戻りはできない。それに先程答えたとおり、この仕事に胸を張れる。

 友奈は力強く答えた。

 

「それでも、私はやります」

 

「……そうか」

 

 若葉の顔が晴れた。

 手を伸ばして友奈の頭に乗せると、わしわしと撫でた。

 

「でも赤嶺。よく覚えておいてほしい。私達は人間だ。決して愛玩動物などではない。だからこそ、人間だけが持つ唯一無二のもの――可能性があるということを頭に入れておいてくれ」

 

「……わかりました」

 

「頼んだぞ」

 

 肩の荷が下りたような安堵の表情を浮かべた若葉は『上里ひなた』の前で腰を落とした。

 愛おしそうにひとつひとつを見つめ、柔らかい笑みを零す。

 

「ここはつい最近完成したばかりでな。……まあ皆をきちんとした形で弔いたいという私の我儘なんだがな」

 

 若葉は持ち寄ってきていたカバンからフードパックに入った骨付鳥を手に取ると、下にそっと置き、石碑を水気のないしわしわの指で優しく撫でる。

 

「……今日はな、ひなたの命日なんだ」

 

 独り言のように話を切り出した。

 

「そう、ですか……」

 

 上里ひなたという人物は、自称若葉の保護者だったらしい。過保護に過保護を重ね、ついには若葉は私が育てたと宣言したほどという。

 なかなかに強烈な巫女と聞いている。

 

「あいつ、誰よりもはやく逝ったんだ。まだ欠陥の多い勇者システム、その補助に身体が耐えられなくてな。戦いが終わって一月もしない内に逝ってしまった」

 

 声は僅かに震えている。

 今若葉はどんな記憶が頭をよぎっているのだろうか。上里ひなたとの何気ない日常だろうか。それとも亡くなる直前だろうか。

 

「よく『私がいなくなったら誰が若葉ちゃんを……』って言いながらぼろぼろの身体を起こそうとしたんだ。ははは……。まったく……どれだけひなたは……世話好きなんだろうな……」

 

「…………」

 

「……………………………………………………ひな、た」

 

 無限に思える沈黙のあと、それを突き破れないほど弱々しい声で名前を呼んだ。

 ゆっくりと膝から崩れ落ち、顔を俯かせる。

 

「わたし、私、は……お前がいなくても、ひとりで身の回りのことができるようになったんだぞ……。服を自分で選べるようになったし、朝もちゃんとひとりで起きられるようになった……。お前の子守唄がなくても眠れるようになって、耳掃除も自分でできるようになった……。どうだ……? すごいだろう? お前がいなくても、私は生きていけるんだ……。それに、お前が経験していないこともたくさんした。殿方と契りを交わし、夜を明かし、子を成して、子育てをした。今では孫に囲まれるまでになった。今の私をお前が見たら……間違いなくショックで倒れるだろうなぁ……。私、頑張ったんだぞ……? 今までずっとずっと、頑張ったんだぞ? だから、よく頑張ったですねって……お疲れ様ですって、褒めてくれたっていいんじゃないか…………? なあ頼む。お願いだ……。いっぱい褒めてくれよ、ひなたぁ……」

 

 嗚咽を含む声は、海の方から吹き込んでくる潮風によって掻き消される。ポロポロと大粒の涙を流す。石碑に泥臭くしがみつき、火がついたように泣き喚く。

 その慟哭に、友奈は目頭が熱くなるのを感じた。

 そこに勇者、乃木若葉という人間はいなかった。

 旧友の死を嘆き、子供みたいに感情を爆発させる老婆がいた。

 友奈はただその姿をじっと見下ろすことしかできなかった。なんて声をかければいいのかわからず、若葉が収まるまでじっと待った。

 五分ほど泣き続けたあと、ようやく立ち上がった若葉は友奈に向き直った。その顔は真っ赤に腫れ上がり、涙の跡が皺と皺の隙間に残っている。

 

「少しお願いがあるんだが、いいか?」

 

「……なんでも言ってください」

 

「今だけ……私のことを、若葉ちゃんと呼んでくれないか?」

 

 断る理由なんてどこにもなかった。

 きっと、このために友奈をここまで連れ出したのだろう。

 違和感は蓮華との模擬戦の時、ふと見せた複雑な表情だった。そこできっと、若葉はある人物を友奈を通して見てしまったのだろう。

 ならばやることは決まっている。

 両腕を広げ、笑みを浮かべる。

 そして。

 

「若葉ちゃん」

 

 と語りかけた。

 

「――――――――――ああ」

 

 ひび割れた声が若葉の口から溢れた。

 

「ああ…………友奈」

 

 若者以上の生気が瞳に宿る。目は見開き、ひいていた涙が再び流れ始める。

 だらしなく口を開けたまま友奈に躙り寄り、腕を背中に回して抱きしめた。

 

「友奈……友奈……」

 

 なんて細い身体なのだろう。鼻の先が熱くなった友奈はしっかりと抱き返しながら思った。

 肉は削げ落ち、皮と骨だけだと勘違いしてしまいそうだ。

 

「皆……皆、逝ってしまった。戦いが終わってすぐに衰弱して逝ってしまった。どうして私だけ生き残ってしまったんだろう。そんなことばかり考えてしまって、それでお前たちに会うのが怖くなって、足が震えて、今まで一度も墓に行けなかった。こんなに苦しい思いをするのなら、私もお前たちと一緒に逝きたかった……!」

 

 若葉が生き残ったのは偶然か必然かなんて誰にもわからない。しかし若葉にとってこれは幸せそうなことではなく、寧ろ呪い……枷でしかなかった。

 七十年としばらく。気の遠くなるような月日。孤独ではないが、孤独な日々を悲しみとともに送ってきた。誰もが若葉を敬う日々。だが、対等の立場で見てくれる人間は誰ひとりとしていなかった。それが何よりも苦しかった。辛かった。

 歳のせいだろう。こんなにも弱気になってしまっているのは。もうきっと命も長くはない。数年のうちに人生の幕が閉じるだろう。

 

「不甲斐ない私を許してくれ。このような場を設けないと満足にお前たちを弔うことすらできない、どうしようもなく馬鹿で、愚かで、弱い私を許してくれ……!」

 

 肩が涙と鼻水でぐちゃぐちゃに濡れてしまった。しかし友奈はそんなことは気にかけずに若葉の背中をあやすように撫でた。

 

「大丈夫だよ若葉ちゃん。許す。ぜーんぶ許す。私も、皆も、若葉ちゃんには幸せに生きてほしいって願っているから。安心して。私たちはずっと昔から、側にいるよ」

 

「いいのか……? 私は幸せになっても、いいのか……?」

 

「もちろんだよ。もう、若葉ちゃんはドが付くほど真面目だから、誰かに言ってもらわないと止まらないしね」

 

 友奈の知らないところで、それこそ友奈の生まれるずっと前からこの老婆は四国のために奔走していたのだ。その心労は簡単に『わかる』なんて言ってやれない。乃木家は大赦の中でも絶大な権力を有する家系へとのし上がった。これも老婆のおかげ。永遠かどうかはわからないが、末永い繁栄は約束された。だからもう、安息が与えられるべきだ。普通の老人が過ごす、穏やかな日々が与えられるべきなのだ。

 

「そうか……そうか……っ! ありがとう……! ありがとう……っ!」

 

 号泣のスイッチが入った老婆はずっと泣き続けた。

 その悲しみをすべて受け止めよう。

 その苦しみをすべて癒やそう。

 そして。

 その後悔をすべて許そう。

 友奈は『友奈』ではないけれど。

 せめて、その老いた心が救われますように。

 いつまでも友奈は背中を撫で続ける。やがてすすり泣きが止まり、泣き疲れて眠りに落ちるまで、いつまでも……いつまでも…………。




プラグスーツなのはただエチチだなあって思ったから
のわゆのストーリーは知らないから許してネ

――####に救いが欲しいですか? 欲しくないですか?

それではまた次回


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友奈

のわゆ買おうかな。時間あるし。
前回二万字も超えたのはやりすぎたかも(今回一万字超え)

前回のあらすじ
――####に救いが欲しいですか? 欲しくないですか?


 あれほど美しい紅葉も目移りし、しだいに肌寒い日が増え始める。乾燥肌に保湿クリームを塗り、厚着をする。外出し、ふと手に吹きかけた息が白くなる。

 ……もう冬だ。

 まだまだ序盤だが、これからはもっと寒くなり、雪も降るようになるだろう。

 学校の用意を済ませ、外に出た東郷は隣接する家を一瞥する。

 

「…………」

 

 そこにあの子はいない。

 今もずっと、病室で寝たきりの生活が続いている。文化祭でやるはずの劇で、勇者役の友奈が抜けたことによる穴は大きかった。だいたい部活動で劇をするときは、風が魔王、友奈が勇者をするのがデフォルトになっていた。

 堂々と人前に立って演技ができるというのもあるが、時々アドリブを入れるのがまた面白く、この配役は不動のものだった。

 だからこそ、今回の劇は非常に厳しかった。代役は夏凛が務めることになった。しかしぎりぎりまで判断を保留したつけがまわり、夏凛には相当無理を強いてしまった。それでもなんとかやりとげてくれたことには感謝しかない。

 

「……学校」

 

 そうだ、学校に行かないと。

 ぼんやりしていた頭を振り、切り替える。いくら友奈のことが気がかりだとしても、そればかりに気を取られて学業を疎かにするわけにはいかない。そんなことは友奈だって望んでいないはずだ。

 独りで学校への道を歩く。

 もし友奈が隣にいてくれたら、と毎回考えてしまう。

 かじかんだ手を暖めようと手を握ってくれそうだ。そしてニカッと白い歯を見せて「これなら寒くないね!」なんて言いそうだ。平行世界、なんてアニメや漫画でよくあるものは信じないが、もし本当にそれが存在しているのならば、友奈が健在な世界だってあるのかもしれない。

 ……認めよう、これは現実逃避だ。

 受け入れてはいる。受け入れてはいるが……どうしても完全に、とはいかない東郷の思いだ。それほど友奈への思い入れは強いものなのだ。

 無言の登校に慣れつつある。だからこそ、『寂しい』という気持ちは強まりばかりだ。

 あの声をもう一度聞きたい。あの笑顔をもう一度見たい。そんな願望が溢れて止まらない。でも不意にそれを口にし始めると、その場に膝を抱えて泣いてしまいそうだ。だがそれをぐっと堪えて今を生きている。きっと友奈は必ず目を覚ますと信じて。

 気が付けば校門前に到着していたようだ。

 俯いていた顔を上げて空を仰ぐ。

 すると、静かな排気音とともに一台の白塗りの車が校門の前に颯爽と現れた。車の知識のない東郷にも、それが高級車であることはすぐにわかった。

 そうこう考えている間に助手席のドアが開き、ひらりとスカートを靡かせてひとりの少女がくるりと器用に一回転しながら飛び降りた。

 ブロンズ色のロングヘアを特徴的な結い方でまとめていて実に可愛らしい。

 

「じゃじゃじゃーん! 乃木さん家の園子だよ〜! ヘーイ、わっしー! 驚いた〜?」

 

 と、元気いっぱいに笑顔を振りまいて東郷に手を振った。

 散華から解放されたのは、なにも東郷たちだけではなかった。ひとりでは何もできないイモムシ生活を余儀なくされていた園子にも身体機能が返還され、完全復活を果たしたのだ。

 

「――――そのっち」

 

 ここは校門前だ。他の学生たちだっている。そんなに派手な登場をした子に名前を呼ばれて恥ずかしいのか、わなわなと肩を震わせ始める。

 とてとてと目の前まで近づいた園子が東郷の周囲をぴょんぴょん跳ね回る。

 

「どうしたのカナ? 私に会えて嬉しいのカナ? わっしーと同じクラスなんだよ〜、えへん!」

 

 煽るような言動についに東郷は我慢の限界を迎えた。

 

「そのっち……!」

 

「わわっ」

 

 園子を両手で捉え、力強く抱きしめた。

 東郷の散華ももちろんなくなっている。つまり両脚だけではなく、小学生の頃に勇者としてお役目に就いていた記憶も蘇っているのだ。

 あの情熱的で、残酷ながらも決して忘れてはいけない大切な思い出。それは中学生となって勇者部で活動していた記憶と同等以上に宝物である。

 二度と忘れない。忘れてたまるものか。

 そう強く願った瞬間、あの時友奈の言っていた約束を真に理解できたような気がした。

 友奈の言っていたことは、まさに『これ』なのだと。ただの我儘の中にある、純粋で不動のもの。

 理論じみた理由なんていらない。そんなものを超越した人の想いこそが何より根幹にあるのだ。

 

 ◆

 

「勇者部入部希望のぉ〜、乃木園子だぜー! 二年前大橋の方で勇者やってたんだぜ!」

 

 勇者部の部室に突入するや否や、大声量で園子が拳を突き上げた。猫の枕らしきものがリュックに入りきらず、頭と尻尾がはみ出ている。

 いつも通りにぼしを頬張っていた夏凛が突然の来訪者、しかも先代勇者の登場に思わずぽろりと手からにぼしを落とした。

 

「乃木園子……⁉」

 

 園子は礼儀正しくお辞儀をし、「よろしくお願いしまーす」と付け加えた。するとちょうど角度的によく見えるようになった猫枕がこれ見よがしに自己を主張する。

 

「えへへ、またわっしーとお勉強ができるなんて嬉しいなぁ。居眠りしそうになったら注意してね!」

 

「常日頃から授業中は居眠りしないようにするのよ。でないとその枕は取り上げるわよ?」

 

 人差し指を立てて東郷は釘を指す。その効果は抜群で、園子は目に見えて態度を豹変させた。

 

「そ、それだけはどうかご勘弁を……! サンチョがいないと私、安心して寝れな……ハッ!」

 

「寝る気満々じゃない……」

 

「時すでにお寿司、おっと……遅しであったか……」

 

 口は災のもととはまさにこのこと。ぺろりと可愛らしく舌を出して誤魔化そうとした園子に、タロットカードで遊んでいた樹が小さく吹き出した。

 どうやらふたりの会話が面白かったようだ。古くからの親友だからこそのふわふわした言葉のキャッチボールにハマった。

 

「あははは。乃木さんと東郷先輩はとても仲がいいんですね」

 

「園子でいいよいっつん〜。私とわっしーは運命の糸で結ばれてるんよ〜」

 

「い、いっつん?」

 

 なかなか奇妙な呼び方をされてオウム返しをする。つい手元が狂い、シャッフルしていたカードを机の上にばら撒いてしまう。

 

「うんうん。あ、ちなみにふーみん先輩に、にぼっしーだからね!」

 

 ひとりずつ独特なあだ名を速攻で決めてしまった。だが夏凛はどうやら納得がいかないようだ。

「ちょ、ちょっと!」と園子のペースに会話が進むのを遮った。

 

「なんて私がにぼっしーなのよ⁉」

 

 すると園子はにんまりと口角を上げた。

 

「にぼしを食べながら言われても……ねぇ?」

 

 指摘されて、気づく。片手ににぼしの大袋。園子が部室に入ってきた時からずっと呼吸をするかのように摂取していたのだ。そこまでして言い逃れはできまい。

 

「そうよ夏凛。あんたのアイデンティティはにぼしとサプリなんだからそこを強く推さないでどうするの」

 

 追撃を風が加える。

 

「推さないわよ!」

 

「え〜? ホントでござるか〜?」

 

 にやにやと気持ち悪い顔を近づけてくる風に女子力のなんたるやを説こうかと本気で考えたが、そうすると風が泣いてしまいそうな気がしたから止めておいた。

 樹がタロットカードで園子がやって来たことによる勇者部を占う。

 丁寧に混ぜて選びだしたカードには司祭長を象った絵が描かれていた。すると興味の湧いた園子がスッとカードを覗き込む。

 

「それなになに?」

 

「タロットカードです。今ちょっと占ってみたんです」

 

「ふむふむ。じゃあこの神官さんみたいな人はどういう意味なの?」

 

「意味は人生の転換、ですね」

 

 他にも意味はたくさんあるが、主に用いられるのはこれらだ。園子はその結果にとても気に入ったようで、興奮して声を荒げた。

 

「おー! 私が来たことで皆の人生を変えるんよ〜! よぉーし、くらえにぼっしー! にぼしが食べられなくなるビーム!!」

 

 ウ○ト○マンの腕をクロスさせて放つ必殺技を真似して「ビビビビー!」とセルフ音声をつけて夏凛に襲いかかる。

 

「ちょ⁉ くらってたまるか!!」

 

 本当にそんなもので変わるわけがないのににぼしが関わると本気になるのが夏凛だ。狭い部室の中だろうとビームから逃れようと動き回る。さすがとしか言いようがない。にぼっしーの名は間違いなく相応しい。

 

「……異端の意味もあるんだけどね」

 

 逆位置の意味。

 樹のポツリと呟いた声はふたりの騒々しさに掻き消された。やがて風の一喝でふたりの追いかけっこは強制終了させられる。

 園子の精神年齢は樹より低そうだ。だがしかし、同時に夏凛もそれと同等のレベルであることが判明してしまった。

 

「ところでふーみん先輩。今日は勇者部なにをするんですか?」

 

 今日は勇者部がすることはもう特にない。したといえば学校掲示板のネタを考える程度だ。というのも、前から依頼を受けることを減らしているのだ。それは勇者部への信頼を下げることに繋がってしまうが、友奈の見舞いに比べたら些細なものだ。

 

「今日はもうないのよ。だからこれから友奈の見舞いに行こうと思ってる。来てもらって早々で悪いけど、どう? 来る?」

 

 つい一昨日は伸びてきた髪を切るのに美容室に連れて行った。昨日はお湯で濡らしたタオルで身体を拭いた。

 ……友奈はもはや、生きる人形だ。

 自分の意志はなく、誰かにすべてをしてもらわなければならない抜け殻。

 いつもいつも、何かきっかけになればと話しかけるが効果はまるでない。

 園子は表情を改めると口を開いた。

 

「うん、行くよ。呼び出したあの日以来だしね」

 

「そのっちが来てくれたらきっと友奈ちゃんも喜ぶわ」

 

「そうだね」

 

 まだ部活の終了時間を迎えていないが、今日はこれで終わりだ。電気を消して、戸締まりをする。最後に風が部室の鍵を閉めた。

 

「それじゃあいきますか!」

 

 学校から病院までは徒歩で行ける距離だ。時間はおよそ十五分ほどで、談笑しているとあっという間に到着してしまった。受付に立つと「ああ、結城さんのですね」と二つ返事でスムーズに面会手続きをしてくれる。

 エントランスの端の方のベンチに腰掛けて手続きが終わるまで待つ。端を選んだのはヒーターがすぐ近くにあるからだとか、ここぞとばかりに女子力を全開にした風が主張する。

 数分もしないうちに許可が降り、五人は病室へと向かった。

 ドアを開けると、やや肌寒い風が出迎えた。暖房は控えめで、友奈のベッドを取り囲むように立った。

 ……友奈はぼんやりと天井を見上げていた。

 

「はいこれ、椅子ね」

 

 風が手際よく全員に椅子をまわし、腰を下ろす。

 東郷は微笑を浮かべた。

 

「こんにちは友奈ちゃん」

 

 手を伸ばして張りのない頬を優しく擦る。やはりいつも通り生気を感じさせない冷たさで、ふと負の感情を抱きそうになり、すぐさま手を離す。

 

「今日は起きてるから、たくさん話しかけられるわね。友奈を知ってる人が増えたことだし、こうして私達が側にいてあげるだけでも何かしら刺激になってくれると嬉しいんだけど……」

 

 台の上に積み上げられた押し花の山を一瞥した風が、母性を感じさせる穏やかな口調でそう言った。

 

「なってるわよ。絶対に。この完成型勇者が言うんだから間違いなしよ。……あと、友奈が目を覚ますようにサプリを流動食に入れたいって申請したのにまだ許可下りないんだけどなんでかしら。もう一回訊いてみようかしら」

 

「どんなサプリですかそれ……」

 

 樹の冷静なツッコミが入る。

 前半はとてもいいことを言っていたのに後半は馬鹿丸出しになっている。思わず感激した風だが、光の速さで掌返しをした。

 

「もちろん友奈を起こすサプリよ」

 

 素人の食事提案なんて脊髄反射で却下されるのがオチだろう。しかし面と向かって否定しなかったのは、おそらくその時の夏凛の真剣な想いを簡単に突っぱねるのに罪悪感を覚えたからかもしれない。

 

「友奈ちゃんは……そうだね、ゆーゆって呼ぼうか。久しぶりだね」

 

「友奈ちゃん。この子がそのっちよ。大橋で会った子。覚えてる?」

 

 視線は一貫して上を向いたままだ。園子の言葉にも特に反応を示すことはなかった。

 しかし園子は諦めなかった。

 ポケットに手を突っ込み、古びたミサンガを出した。元は黄色だったのだろうか、今は色褪せ、やや黒ずんでいる。

 それを友奈の手首にそっと結んだ。

 

「これは私のご先祖様……初代勇者様が晩年に作ったとされるものだよ。たっくさんのご利益があるはずだから、それがゆーゆにもありますように」

 

 そう言って友奈の手を包み込み、強い願いを込めた。

 その行為にたとえ意味がないとしても、どれだけ人を想うかは当人の勝手だ。

 何度でも立ち上がった不屈の心。今は凍りつき、絶対零度の冷気を放っているが、いつの日か、太陽のように明るい輝きを放ちますように。

 

「――そのっちは……その、何か知らない? 友奈ちゃんについて」

 

 東郷の唐突な核心をつく質問に、三人は僅かに身を強張らせた。

 園子は大赦の中でも絶大な権力を持つ家系だ。さらに元勇者という肩書きもある。ならば上の方で秘匿されている情報も何か知っているのではという探りだ。

 少しだけ難しそうな顔をし、その次に目を細め、口を開いた。

 

「そうだね……三つ、わかっていることがあるよ」

 

「三つも……。それってなんなの、乃木」

 

 驚きとともに風は続きを求める。

 

「これは知ってるかもだけど、ふーみん先輩たちのこれまでの戦闘はデータとして端末に記録されているの。今後の勇者システムの改良及び将来の勇者のために」

 

「まあそれはわかるわ。で?」

 

「もちろん前回の戦闘もデータを取っていたんだけど…………ないの」

 

「ないって、何が?」

 

「ゆーゆのが、途中から」

 

「は?」

 

 それの意味しているところがわからず、風は呆けた。

 

「ないって、どういうことですか?」

 

「例えばいっつんが勇者になってどんな活動をするとしても、戦闘データではなくてもログとして残る。じゃあ普段通り生活するとして、それはログに残る?」

 

 数秒かけて例え話を樹が理解した瞬間、目を見開き、鋭く息を呑んだ。

 

「つまり……友奈さんはどこかのタイミングで勇者として戦っていなかった、ということですか?」

 

「その通り。三度目の満開の後、データがないの。ロストとかじゃなくて、そもそも存在しない」

 

「で、でも! 友奈さんは最後、バーテックスを倒してくれました!」

 

「それはわかってる。でも皆はゆーゆがどうやって倒したのか、見た? 報告によるとすっごく大きい火球を食い止めるので精一杯だったとあるけど」

 

 あの時、視界いっぱいに広がるのは赤だった。

 角度的にとても友奈の姿を視界に捉えることは難しかった。

 

「見て……ないです。でも、友奈さんの声ははっきり聞こえました」

 

「オーケー。今のが一つ目だよ。じゃあ次、にぼっしー。バーテックスって生身の人間に倒せる?」

 

 話を振られた夏凛は即座に答えた。

 

「無理ね」

 

「うん。勇者じゃないとバーテックスは倒せない。さらに言うと、満開状態じゃないととても戦えなかったんだよね? さらに直前まで満開していた。じゃあつまり、ゆーゆは散華が原因で勇者システムを使うことができず、それでも神樹様のエネルギーを借りずに自分の力だけで再び変身、満開したことになる。これが二つ目」

 

「そんなことって……できるの?」

 

「できないよ」

 

 園子は冷徹に返した。

 一段と細くなった友奈の手首を見る。

 

「でも、ゆーゆはやってみせた。それはきっと、神樹様に依存しない、人間の新たな可能性の断片なのかもしれないね」

 

 人は神樹様の恩恵に大きく依存している。

 勇者システムなんてその象徴だ。だがそういった既存のシステムを否定し、人が自ら新たなルールを敷く。これを言うなれば、神樹様からの親離れだろうか。

 東郷と一緒に空を駆け、攻撃を受け止める中で脱落した友奈は本来、そこで『終わり』だったのだ。人の許容できる負荷を遥かに超え、すでに下ろされた撃鉄。不可避のタイムリミット。自滅。

 砂時計そのものが破裂してしまった。

 だがそれでも立ち上がり、最後バーテックスを倒した。

 

「三つ目は……何? そのっち」

 

「今までのことでなんとなく察しているかもだけど、ゆーゆの今の状態は、散華ではないということ。散華は供物として神樹様に捧げられるものだからね。ゆーゆの場合は捧げる対象がない。というより、散華なんて生易しいものではないと思う」

 

 利用できるリソースで限界までパフォーマンスを向上させようとした結果が、非人道的な悪魔の満開システムだ。要はバランスの均衡を保つのが大赦の開発部の絶対的な前提だ。

 天秤が正に少し傾けば、少し負に傾ければ良い。正に大きく傾けば、大きく負に傾ければ良い。こうしてバランスが保たれる。

 しかし友奈はその天秤の考慮を無視して極限まで正に傾かせた。ならばその反動として極限まで負に傾いたに過ぎない。

 そして不可避の代償として友奈は植物人間になった。

 沈黙のあと、風が重々しい口を開く。

 

「……治るの?」

 

 園子は首を横に振った。

 

「わからない。そもそもこんなことは絶対にありえないから、誰にもどうなるかわからない」

 

「そっか。なら大丈夫ね」

 

「え?」

 

 ぴくりと肩を震わせ、驚愕とともに風を見た。園子の一連の説明は正直、皆が抱いていた淡い希望を完膚なきまでに叩き潰すような衝撃的な内容だったはずだ。

 しかしなぜか風は笑ってみせたのだ。その意味がまるで理解できず、園子は疑問を隠せなかった。

 

「誰にもわからないんでしょ? じゃあ希望はあるってことじゃない。なら私たちはいつも通りこうして友奈に語りかけて、信じるだけよ」

 

「――――」

 

 それは、逞しい言葉だった。

 胸の奥が熱くなる。犬吠埼風という人間は、このような人間だったろうか。満開システムのことを知り、我を忘れて暴れまわった過去があるというのにまるで別人だ。

 三人を見ると、言うまでもないといった様子で頷いている。

 園子は先程までの暗い態度だった己を恥じた。

 

「ふーみん先輩って、『強い』ですね」

 

「ええそうよ、私は強い。でも皆も強い。そこんとこ、覚えておいてね」

 

「はい、ふーみん先輩」

 

 私がいない間、こんなに頼もしい仲間がいてくれたんだね、と園子は安堵とともに東郷を見る。視線に気づいた東郷に「どうしたの?」と訊かれるが、「ううん、なんでもないよ」と答える。

 ミサンガをつけた手首をもう一度手に取り、自分の額に押し当てる。

 この柔らかい手がこれまで敵を悉く殴り、打ち負かしてきたのだ。たったひとり、剣や銃といった武器ではなく己の拳を武器としてこれまで戦い抜いた。それに最大級の敬意を込めた。

 

 ◆

 

 面会時間は何も長時間できるわけではない。

 病院側の定刻毎の友奈の看病があるからその時間には退室させられてしまった。

 どうしても名残惜しい。もっと一緒にいたいと言う気持ちが止まらないが、その道のプロである人達の言葉には従うしかない。

 冬の午後は日が落ちるのが早く、すでに薄っすらと夜の帳が下り始めていた。寒さも際立ち、信号待ちしていた樹が小さくくしゃみをする。

 

「……くしゅん」

 

 すると恐るべき反応速度で風が樹を抱き寄せた。

 

「寒いのね樹ぃ! 大丈夫! お姉ちゃんが暖めてあげるからねえぇぇ!! 今日の夕食は温かいうどんにするわ!!」

 

「お姉ちゃん、ここ外だよ。恥ずかしいよ……」

 

「はあ……姉バカね」

 

 夏凛がやれやれと肩を上げて嘆息する。

 信号が青になり、横断歩道を渡る。その先は三つの分かれ道で、それぞれ犬吠埼姉妹、夏凛、そして東郷と園子に別れる。

 

「あれ? 東郷の家はそっちじゃないでしょ」

 

 いち早く気づいた夏凛が疑問を口にする。園子は苦笑いした。

 

「わっしーと色々お話したいんよ〜。長いブランクがあるからね〜」

 

「ああそうなの。あんまり遅くなりすぎないようにしなさいよ」

 

「にぼっしーりょーかーい!」

 

「にぼっしー言うな!」と赤面するのを見て楽しそうに声を上げて笑う。この瞬間、園子の中で夏凛はからかいキャラとしての地位が確実なものとなった。

 三人と別れを済ませた後、特に目的地もなく東郷と園子は歩き始めた。

 商店街を抜けて、偶然見つけた名前も知らない公園に足を踏み入れる。そして適当なベンチに腰掛けた。

 

「二年、かあ……」

 

 ぽつりと園子が呟いた。

 振り返ればあっという間だが、過ぎゆく間は苦痛だった。元々ぼんやりするのが好きだから大丈夫だったものの、もしこれが園子ではない誰かが同じ目にあったらどうなっていただろうか。

 自分では文字通り何もできない状態が長期間に渡って続く苦悩。時間に捨てられたような、周りだけが進む世界。知らないうちに身体が成長し、嫌というほど時間を意識させられる。

 

「わっしーは、いい仲間を見つけられたんだね」

 

 そう言って柔らかい笑みを浮かべた。

 東郷は園子の手に指を絡ませる。

 

「ええ。とっても大切な仲間たちよ」

 

「そっか……良かったぁ。その言葉だけで、私はもう十分だよ」

 

 小学生の頃に三人で勇者をやっていた記憶は完全に取り戻している。あの時の絆は決して引き裂かれないものだった。そして今の仲間たちもそれは同じだ。

 だが園子には前者の絆しかない。だから、失った時をゆっくりでもいいから取り戻してほしい。それと、皆の良さを知ってもらいたい。逆に皆にも園子の良さを知ってほしい。

 だって、本当は園子も最初から東郷と一緒に勇者部に入るはずだったのだ。散華さえなければ。

 

「本当はね、羨ましかったんだ。わっしーが勇者部で楽しそうにしてるのが」

 

 告白する。

 絡ませた指に力が入る。突然の行為に胸が高鳴り、東郷は頭を横に向けた。

 

「私は蚊帳の外、大赦越しにしかわっしーたちのこと知ることができなかったからね。もし私が勇者部にいたらどんな面白いことが起こるかなーって想像することもよくあったよ」

 

「そのっち……」

 

「ごめんね、責めてるわけじゃないの。ただやっぱり、そんな子供っぽい願望は少なからずあった。でも大丈夫。私が入部したからにはもう安心安全! 毎日がエブリデイな、ワクワクドキドキ盛りだくさんにするんだから〜!」

 

 目を輝かせて貪欲な野望を語るそのっちは、以前から何も変わっていなかった。腕を突き上げてやる気満々だ。振り回される部員たちには先に謝っておかないといけないかも、と東郷は心の中で思った。

 もうあと数分で夕日は完全に沈み、夜になるだろう。静まり返った公園で、錆びついたブランコがそよ風に揺られて鈍い金属音を鳴らす。夏凛の忠告を思い出し、そろそろ帰ろうか、と口を開きかけたその時。

 

「それと……また近いうちにミノさんに挨拶しに行こう。焼きそばを作って、また三人で食べようね」

 

 園子が囁き声でそう言った。

 

「……そうね」

 

 こうしてふたりは再会したのだ。しかしまだ最後の一人と会えていない。ずっとあそこで待ってくれている。だから迎えに行って、「ただいま」と伝えることでようやく全員が揃ったことになるのだ。

 今はもうこの世にはいない……超巻き込まれ体質のボーイッシュな少女を想い、遠くを眺める。

 

「……帰ろっか」

 

「うん」

 

 頷いた東郷は指を絡ませたままベンチから立ち上がった。

 来た道を戻ろうと視線を上げる。それと同時に、視界に入り込んだひとりの少女に目が釘付けになった。

 

「――――――ぁ、ああ」

 

 その少女は洋服メーカーのロゴがプリントされた買い物袋を下げ、歩行者用道路を歩いている。

 赤みがかった桜色の髪。特徴的な髪飾り。横顔。雰囲気。

 ――間違いない。

 無意識に体が震え、ぶわりと勢いよく汗が発生する。心臓が早鐘のように打つ。呼吸が浅くなり、それ以外のことが考えられなくなる。

 この耳朶に響く鼓動は、一刻も早くそうである(・・・・・)ことを確定させなければならない。そんな使命感に襲われた。

 そんな焦りもあってか、いつの間にか東郷は駆け出していた。

 

「わっしー!」

 

 園子の声でも東郷は止まらなかった。

 行ってしまわないうちに早く呼び止めなければ。

 

「――友奈ちゃん!!」

 

 全力でその名を呼ぶ。

 すると友奈がこちらに気づいて足を止め、首を振った。

 

「へっ?」

 

「友奈ちゃん――!!」

 

 勢いはそのままで、友奈をこれでもかと力強く抱き締めた。甘い芳香のような花の香り。東郷は熱い感情を抑えきれずに雫を流しながら胸に顔をうずめた。食いしばった歯の間から嗚咽を漏らす。それは友奈の服を否応なく濡らした。

 

「よかった……! やっと……やっと目が覚めたのね……っ!」

 

 しかし、友奈の様子はなんだか奇妙だった。釈然としないような、いまいち東郷の言っていることが理解できていないようだ。

 何も反応してもらえないことを不思議に思った東郷は顔を上げた。

 そして友奈から放たれた一言は、東郷の喜びを一瞬にして吹き飛ばすものだった。

 

「えっと……どちら様です、か?」

 

 やや他人行儀な態度で友奈はそんなことを言った。

 

「――――――――は?」

 

 石化の魔法でもかけられたかのように東郷の動きが止まった。

 友奈は気難しそうに東郷を引き離そうとする。

 

「わ、私よ……東郷美森よ!」

 

「え? いや、知らないです……」

 

 それでも知らないと言う。もしかして何らかの原因で記憶喪失になってしまっているのか? いやそもそも前提がおかしい。友奈が目覚めているのなら、両親の次に連絡が来るはずだ。

 つまり、友奈は人知れず病院から抜け出したことになる。どうやってそんなことができたかなんてわからないが、とにかくその話は後だ。

 

「思い出して! あなたは結城友奈よ!」

 

 友奈の肩を掴んで揺さぶる。

 しかし嫌がるような素振りを見せるだけで、まるで効果がない。

 

「ユウキ友奈……? 誰ですかそれは?」

 

 やはり記憶喪失であることは確定だ。東郷は速やかに病院に連絡することに決めた。とにかく友奈が目覚めてくれることにまず喜ぶべきだ。もう一度友奈を抱きしめたいという衝動を抑えつつ、電話しようと携帯を手にした東郷を友奈は訝しむような目で見ながら不意に言った。

 

「私、高嶋友奈ですけど……」




それは、ありえない邂逅

それではまた次回!


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赤嶺友奈

まだのわゆ買ってない
ところで文字数ってどれくらいが読みやすいんだろ

前回のあらすじ
それは、ありえない邂逅

ちなみに前回の補足を述べると、樹ちゃんの占いが正史と変わっています。
↑結構重要


 お金は命より重い。

 そんなフレーズをテレビで聞いたことがある。今更ながら、相違ないと釜玉うどんを啜る静は切に思った。

 

「はははは、まさか高級うどん店に本気で行くとでも思ったのか? お前の財布事情くらいだいたいは把握しているさ。まったく、大げさな奴め」

 

 上機嫌に語る若葉のうどんはすでに空だ。まだ静を含め友奈、蓮華も半分ほどしか食べていないというのに。

 昔からうどん好きとして有名だが、その話は真実だったようだ。麺のしこしこ感、だしの旨みなどをそれぞれ丁寧に評価しながら口に運ぶ様はまるで歴戦のうどん職人の如く。思わずその饒舌な解説に静たちの箸を持つ手が止まるほどだ。

 静の財布からは代金として三枚の紙幣がさよならばいばいする。痛手といえば痛手だが、致命的というほどでもない。若葉の寛大深さに心から感謝するのだった。

 

「友奈、もっとちゃんと噛んで食べなさい」

 

「はんへる! はんへるはら!」

 

 ハムスターのように麺を口いっぱいに含めても説得力はまるでない。時間をかけてゆっくり咀嚼した後、ニンマリとドヤ顔をしても無駄。蓮華にジト目で見つめられて大人しく観念する。

 

「ここのうどんはとても美味しいですね」

 

 香川に住むのならうどん好きは必須。美味しいうどん屋一覧は静の脳内にリスト化されて保存されている。だがここは知らなかった。

 

「時々大赦から抜け出してこうやってうどん巡りをするのが趣味でな。それでここを見つけたんだ」

 

 まあその後怒られるんだがな、と補足する。

 今回はきちんとしたお出かけだからそういった心配はない。しかし若葉は偉大なる元勇者様、外には息のかかった人間が待機している。もしかすると、そのような閉塞感から解放されたくて抜け出したりしていたのかもしれない。

 

「そうだお前たち、学校はどうだ? ちゃんと過ごせているか?」

 

 急カーブで投擲された話題になぜか友奈が顔をしかめた。

 対して蓮華は得意顔で鼻を鳴らした。

 

「もちろんです。運動能力は当然、学業も弥勒は常にトップ。そうですよね? シズさん」

 

「せやな。たまに復習がてらうちもロックに教えてもろうてるしな。逆にアカナは……」

 

「……モ、モチロンダイジョウブデスヨ?」

 

 妙に片言になった友奈はぶわりと冷や汗を吹き出して明後日の方向に目を向ける。必死なジェスチャーに鋭い眼光で若葉に睨まれると、急にしおらしくなった。

 

「友奈は問題ね。だってこの前の定期テスト、平均点ギリギリだったもの」

 

「あーんもうレンち! 言わないでよー!」

 

 涙目で泣きつく友奈は犬のようで、頭をグリグリと胸に押し付ける。それを嫌がることなく真っ直ぐに受け止める蓮華に静は苦笑する。

 

「なに? 赤嶺はそんなに勉強が苦手なのか? 勉強は大事だぞ。将来に深く関わってくるからな」

 

 正論のコンボを喰らった友奈はストレートでノックアウトする。

 脳筋の友奈には物事を筋道を立てて論理的に考えることが苦手だ。感覚派、と言ったほうがしっくりくるかもしれない。だから数学や理科など、基礎を理解していなければならない科目では壊滅的な被害を受けてしまう。

 

「うう、わかってはいるんですけど……」

 

「赤嶺。鏑矢のお役目も大切だが、それが終わった後も人生は続くんだからな」

 

 確かに鏑矢を勤める具体的な期間は提示されていない。数年ほどだろうと友奈は勝手に想像していた。しかしながらその間にも勉強は学生の本分としてまとわりつく。いざご苦労様と言われて放り出された時、何もできない馬鹿な人間に生きる術などたかが知れる。

 

「善処します……」

 

 普段から蓮華による家庭教師をしてもらっているが、これからはさらに頻度を増やしてもらうことを心に決めた。

 ふと静が周りを見渡せば、客が誰一人いなくなっていることに気づいた。それもそうだ、誰もが知るあの若葉様がいるのだ。そこらのただの有名人ならばサインなどを求めに……なんてことがあるかもしれないが、若葉にはそれすら恐れ多い貫禄がある。それに外からの痛いほどの監視にも息苦しさを感じたのだろう。

 店員たちも盲目的に作業台の整理をして緊張を紛らわそうとしているのがわかる。

 静の心配を機敏に察知した若葉は、さすがに長居するのは迷惑だろうとさっさと店を出ることにした。

 

「ほら、赤嶺、蓮華。食べるのが遅いぞ。そろそろ帰ろう」

 

「それは乃木様がはやいだけでは……」

 

 蓮華がやや腑に落ちない様子だ。しかし若葉は「何を言う」とおいてから、

 

「お前と赤嶺がイチャイチャしている間に静はすでに食べ終えているんだぞ」

 

 と透かした顔でそう言った。

 

「イ、イチャイチャなんて……」

 

「……まさかお前たち、自覚してないのか?」

 

 ふと食事中のことを振り返る。

 特に……イチャイチャに該当するようなことをした覚えはない。ただ友奈が汁を零さないように注意したり、少なくなってきたお冷を入れてあげたり、口の周りに飛んだ汁を拭いてやったりしただけだ。

 当然のことだ。

 果たして何のことを言っているのか蓮華には理解できなかった。

 

「いや、まあそれはそれでいいが……静、会計に行くぞ。ふたりははやく食べておけよ」

 

 よくわからない顔をするふたりを放って伝票を持った静を連れて会計に立つ。

 素早くレジを打った店員に金額を告げられ、静が苦渋の思いで財布に手を伸ばそうとすると、なぜか若葉がそれを遮ってきたのだ。

 

「えっと……乃木様……?」

 

「これで。多い分は迷惑料だ。受け取ってくれ」

 

 若葉がスッとトレイに置いたのは一万円札だ。提示された金額の倍以上。店員が目を丸くすると、有無を言わさず若葉は「では」と言い残して静の手を引いて店を出た。

 高齢の老婆なのに、その姿にデート時の彼氏のような既視感を覚え、いつの間にか頬を仄かに朱色に染めてされるがままになってしまった。

 

「あの……なんでですか? うちが払う約束だったんじゃ……」

 

 そうだ。だから静はちょっと憂鬱な気分になっていたのだ。しかし若葉と食事ができるというこの上ない喜びで帳消しにしていた。

 

「年下に、それも子供に本当に食事を奢ってもらうわけにはいかないからな。初めからこうするつもりだったんだよ」

 

「ありがとう……ございます」

 

「そうだ。子供は素直が一番だ」

 

 そう言って若葉は静の頭をがしがしと撫でた。

 外で待機していた人が車へ案内する。そこに遅れて友奈と蓮華が走って来た。

 

「友奈、ちゃんと飲み込みなさい」

 

「わはっへるよへんち。んっ、く」

 

 よほど大急ぎで食べたのだろう、友奈の頬はまだ膨らんでいた。胸を数度叩いて飲み込むと満足そうに笑みを浮かべた。

 

「シズ先輩、ご馳走様でした!」

 

「お、おう」

 

 真っ直ぐな感謝に、つい静は曖昧な反応をする。

 

「弥勒からも、ご馳走様でした」

 

 少しむず痒い感じがして静は若葉を見たが、黙っておけと言わんばかりに小さく首を横に振った。

 その後駐車場に停めていた車に乗り込んで発進する。付添人兼運転手、助手席に若葉、後部座席に三人が座っている。

 目的地は友奈たちの寮だ。なんだか至れり尽くせりで申し訳ない気がするが、それを言うことこそ迷惑というものだろう。静は先程食べたうどんの感想を長々と語る若葉の話を聞きながらそう考えた。

 そしてふと、あることに気づいた。

 

「あれ? 乃木様、その髪飾りって手作りやったりしますか?」

 

 静が指摘したのは可愛らしい黄色の花の形をしたピンだ。後頭部に留められていたから今まで気づかなかったが、今になってようやく気づいた。

 若葉は照れ臭そうに「あー」とピンに触れる。

 

「まあその通りだ。私にも時間ができたからな。こうした楽しみを見つけるのもいいだろう」

 

 そう言うと若葉は後ろを振り返って友奈を見た。そして互いに笑顔を浮かべる。年老いてもやはり女の子。その笑みは純粋だった。

 若葉は先日友奈と出かけてから、大赦の重役から数歩引いたポジションに就いた。これまでが多忙な日々だったから暇を持て余しているのだろう。

 友奈との間に何かがあったのかと聞こうとしたが、それはふたりだけに留めさせておいたほうがいいと思って開きかけた口を閉じる。

 そうこうしているうちに、あっという間に寮に着いた。低いエンジン音が止まり、一時停止のウィンカーがリズミカルに鳴る。

 ドアがスライドし、三人が降りる。

 

「乃木様、今日はありがとうございました」

 

 蓮華が丁寧に頭を下げる。それにふたりも続く。

 

「もとはといえば私が誘ったんだからな。それと……えー……これをお前たちにやろう」

 

 いつもの堂々とした態度なんてまるで見る影もないほど恥ずかしげに差し出したのは、三つのミサンガだった。市販のものと比べるとどうしても見劣りはするが、それぞれ赤、青、白を基調とした丁寧な作り込みであることは容易にわかった。

 

「さっきのピンもそうだが、最近こういったものにハマってな。出来はあまり良くないが……どうか貰ってはくれないだろうか」

 

 友奈たちは互いの顔を見合わせた。

 これは……なんて素晴らしいものなのだろうか。これはどれだけお金を積んでも決して手に入れることのできないものだ。ミサンガそのものにそれほど価値はない。売っても大した額にはならない。だが、伝説の勇者様がわざわざ友奈たちのために手作りをしてくれたのだ。

 それは信頼の証。年の差はあるものの、そんなものは関係ない。

 手渡されたミサンガを手渡された三人はそのまま手首に結んだ。ちゃんとそれぞれのイメージカラーにまでしてくれて、感謝以外の言葉がない。

 

「……一生大事にします」

 

 確かめるように指を手首に這わせ、友奈は静かに歓喜の震えを鎮めた。

 なお一層鏑矢としてこれからも頑張ろうと心に強く決意した。

 若葉はさらにもうひとつ黄色のミサンガを手にし、自身の手首に結んだ。

 

「これでお揃いだな」

 

 手を空にかざしてそう言った。

 同じように三人も手を上に伸ばした。そして笑い合う。

 同時に日は完全に沈み、暗闇が空を覆い尽くした。……否、ただの暗闇ではない。

 滑らかな質感をもった、静的な炎を宿す黒だった。無数の星が輝き、自己を主張し始める。

 どこまでも広がる、無限の夜空。

 この日は、絶対に忘れられない日になる。

 そう友奈たちは確信した。

 

 ◆

 

 深呼吸をして心を落ち着かせる。

 スーツの感度は上々。先日の戦闘データを参考に、微調整されたことによってさらなるスーツとの一体感を得たのだ。それはつまりより服を着ていない感覚となるわけだが、この際容認する。

 スーツを着て活動するということは……お役目だ。

 今回は前回とは変わって制圧する組織の規模が大きい。当然その分難易度は跳ね上がる。

 朝露の濡れる雑草をかき分け、ほとんど誰も住まなくなった旧スラム街に出る。ここは昔、四国に逃げ込んできた外国人たちが居住する区域だった。しかし文化の違いや現地人のしがらみなどが原因で関係が拗れに拗れ、結果衝突の末にここら一帯は人の住みつかない廃墟と化した。

 もし誰かがいたとしても、それは死体か廃人のどちらかだ。

 だからこそ、ここを拠点としたのは敵にとっては最高で、友奈たちにとってもある意味最高だ。

 崩壊した建物の下に下敷きになっている死体を見下ろす。圧に耐えられずに口から内蔵が飛び出している。眼球は飛び出し、乾燥しきっている。長い時間が経ったのだろう、皮膚はどろどろに溶けて気持ちの悪い汁を滲ませ、異臭を放つ。

 思わず友奈は顔を歪ませるが、蓮華はそれを無視して歩を進める。

 ……そうだ、友奈たちがするべきことは目の前の死を嘆き、悲しむことではない。

 鏑矢は人の善性を主としていない。神樹様の治める世に悪をもたらす者を粛々と始末する影だ。

 物陰に身を潜め、友奈は手首のミサンガを確認して、スーツの伸縮を確かめながら口を開いた。

 

「……レンち、あれどう見る?」

 

 視線の先には明らかに貧しそうには見えない、戦闘に特化した格好をしている男がふたり、学校の旧校舎の校門を守るかのように見回っている。

 

「ビンゴね」

 

「だよね。それになんとなくだけど……」

 

「ええ、弥勒にはわかっているわ。佇まいはそれほどだけど、纏っている雰囲気が違う。……精霊付きね」

 

 蓮華が目を凝らして男たちを観察する。

 精霊は本来ならば勇者にしか力を貸さないはずの機構もしくは超生命体だ。それを配備……しかもただの巡回にという事から組織の強大さを思い知らされる。

 倒すことはそれほど困難ではないが、おそらく同クラスの人間が中にはうじゃうじゃいるだろう。強いとはいえ物量で襲われれば友奈たちでもひとたまりもない。

 静によれば、この校舎の内部構造は把握しているものの、間違いなく改装されているだろうとのこと。確かに旧校舎で何かをするのは機材やら部屋割などといった問題が山積みのはずだ。

 とにかく正面突破はするが、ゴリ押しは最善手ではなさそうだ。ここはステルスでいこうと蓮華と方針を固める。

 物陰から無音で飛び出し、男たちの視界に入らないように素早く移動を繰り返す。飛び込んだのは物置小屋だ。ここからが最も男たちに近い場所だ。

 息を殺して、機を窺う。

 呼吸を最小限に留めて気配を限りなく殺す。

 手汗を誤魔化すように拳を開閉する。

 蓮華はいつでもいけそうだ。蛇腹剣を構えてすでに狙いを定めている。

 ふたりが完全にこちらに背を向ける。

 

 ――今!

 

 しかし、即座に無力化すべく地面を蹴ろうとした友奈の足が誰かの手に掴まれた。

 絶対に蓮華ではない。では誰だ……!

 血相を変えて振り向いた友奈の目に写ったのは、掠れた呼吸を繰り返す廃人の男だった。髪も顎髭も何年処理していないのか、顔が見えない。

 気配のない友奈たち以上に気配のないこの男に、今の今まで気づくことができなかったのだ。

 口元がもごもごと動くのを見た瞬間、友奈はなんの躊躇いもなく男の顔面を拳で殴りつけた。すると間もなくくぐもった声を漏らして倒れる。

 ……今ここで騒がれては困る。

 

「…………」

 

 蓮華が無言で外を確認する。友奈の素早い対応によって気付かれずに済んだようだ。ほっ、と安堵のため息を付き、今度こそ飛び出した。

 駆ける音に気づいても既に遅い。

 目の前に迫った鏑矢の一撃――!

 しかし、瞬時に姿を現した精霊が緑色の正六角形のバリアを展開する。精霊の外見はどちらも同じ、九尾に酷似していて、闇色の焔がメラメラと揺らいでいる。

 ……なるほど、量産型か。さらにどう見ても正規のものではない。ねっとりとした水臭い匂いが急激に強くなる。

 まったく、人工的なのがぷんぷんする。

 しかしこの程度では友奈たちの敵ではない。所詮は劣化品の量産型。ふたりの奇襲を防ぐほどの防御力が足りず、いとも簡単にバリアを破壊される。そのまま追撃してふたりを黙らせる。そして誰にも見られないような場所に適当に移動させる。

 ここからは時間の勝負だ。校門を守る門番だからおそらく定期連絡などがあるはずだ。そこで必ず異変に気づかれる。それまでに今回の目標人物と目標物を処分しなければならない。人物は頭の中に入っているが、校舎に偽造したこと施設が何をしているのかまでは把握できていないのが辛いところ。具体的に何がアウトなのかがわからないからだ。

 巧妙なカモフラージュで神樹様による直接的な監視をも歪める技術を持つ……。一筋縄ではいかなさそうだ。

 

「行くわよ友奈」

 

「うん」

 

 稲妻の如く校舎に侵入する。

 ぶぉぉぉん、と低い唸り音が校舎内を満たしている。

 たとえ監視カメラなどでその姿が映ったとしても、はっきりと捕捉されることはない。ただ赤と青が映り込むだけだ。

 身を隠すための遮蔽物などは特に見当たらない。小綺麗にされた通路、ちょっと未来感を想起させる純白に友奈はつい呼吸が止まる。

 壁にプリントされている部屋割りを通り過ぎる刹那の間に見た。地上二階から地下鉄二階までの構造で、瞬時に目的地を変更した。

 

「レンち、下に行くよ」

 

「わかったわ」

 

 友奈は蓮華と顔を見合わせる。

 ここまで敵と一度も遭遇していない。果たしてこれが幸運なのかどうかはわからないが、女の勘というのは悪い意味でよく当たる。そうではないことを願いつつ、唯一地下に降りられるエレベーターに乗り込んだ。地下二階のボタンをタップすると静かな駆動音が鳴って下降を始める。そして同時に規則正しく電子音が鳴る。

 その間にそれぞれのスーツの状態を確認する。一度静に連絡を入れようとするが、ジャミングが放たれているのか、通信機の感度が良くない。

 

「なんだか順調だね、レンち」

 

 この調子だとスムーズにお役目を全うできそうだ。

 蓮華はわずかに口角を上げると当然とばかりに鼻を鳴らした。

 

「この弥勒がいるのよ? 順調じゃないわけがないわ。……それよりこの音、なんだか耳障りね」

 

 蓮華が気にしたのは、先程から静かに時を刻むように鳴る電子音だ。人間が無意識に嫌がる音、というものがあるらしく、おそらくそれに該当するであろう音だ。

「どうにかして止められないかしら」と呟いて音源を探り始める。そして目に止まったのは、隅の方に転がっていた可愛らしい熊の人形だった。音はその中から聞こえる。

 人形に耳を当てて確信を得た蓮華が背中のチャックを開いて中からあるものを取り出した。

 ……それは小さなデジタル式の目覚まし時計だった。表示されているものは時刻ではなく、カウントダウン。残り十秒ほど。

 戦慄を覚えて蓮華が咄嗟に裏を向けると、びっしりと爆薬が詰め込まれていた。

 普段から冷静な蓮華が激しく瞬きし、喉をつまらせて喘いだ。

 

「――レンち!!」

 

 叫ぶ。

 友奈の呼び声に我に返った蓮華は爆弾を投げ捨て、蛇腹剣でふたりの足元を切り裂いた。

 ふたりは自由落下を始め、間もなく頭上で爆発が起きた。爆音と爆風がふたりの落下速度を後押しする。

 ふたりともなんとか手を伸ばしてロープに掴むことに成功する。だが勢いはまだ止まりそうにない。しゅうううう! と熱い煙を手から生じるのを見て友奈は改めてスーツの素晴らしさを実感した。通常の手袋などだったら摩擦によって掌の皮はもちろん、肉すら抉れてしまっていただろう。

 爆破された残骸が上から降り注ぐ。底までは十メートルもない。さすがに底に降りて残骸のすべてから逃れる術はない。

 今すぐにこの状況を打開しなければならない!

 下顎に力が入る。

 ふと、反対側の壁にある地下二階の乗場戸が視界に入った。頭の中でスパークが発生し、一瞬で次の行動を身体にインプットさせる。

 

「レンち、続いて!!」

 

 ロープから手を放して壁に飛び移る。両の足をしっかり接触させて膝を曲げる。弾丸のような速度で乗場戸に接近し、拳を握りしめた。

 

「ふッッ!」

 

 拳撃。

 ひしゃげた乗場戸から中に飛び込む。続いて蓮華もギリギリのタイミングで友奈の隣に転がってきた。

 一拍おいて、背後で大爆発。

 

「助かったわ、友奈」

 

「……いや、それはまだだよ」

 

 顔を煤を拭いながら言った友奈の言葉の意味がわからなかった蓮華だが、乱れた髪をたくし上げながら顔を上げると「ああ、なるほどね」と囁いた。

 地下二階に到達することはできた。しかし目の前に広がるのは敵、敵、敵。

 数十は軽く超えるだろう。数えるのが嫌になるほどだ。外で黙らせた門番とは明らかに強そうな奴らがこんなに。

 友奈は乾いた笑いを漏らした。

 

「どうしたの、友奈」

 

 不思議そうに蓮華が尋ねる。

 

「いやぁ別にね? こういうの、久しぶりだなぁって思ってさ」

 

 若葉の言葉を思い出す。

『お前たち、腕が鈍っているんじゃないか?』という現実を突きつけるシンプルな言葉の羅列。確かにここ最近、特に困難なことはなかった。

 だからこそ、このような背水の陣のような状況を無意識に望んでいたのかもしれない。力を持ち余している友奈はどこかで本気で暴れてみたいという願望があった。

 つまり、これは好機なのだ。

 

「必ず突破するわよ、友奈」

 

「もちろん」

 

 意識を戦闘用に切り替える。

 友奈たちの雰囲気が変わったことを機敏に察知した敵が構える。

 骨までしゃぶりつくしそうな獰猛な笑みを浮かべ、友奈は自身のスイッチを入れる一節を口にした。

 

「――火色舞うよ」

 

 ぶわり。

 覇気を纏う。

 一直線に敵のど真ん中へと共に飛び込む。四方から迫る攻撃のすべてを蓮華が弾き、友奈がその空間を縫って拳撃を繰り出す。それだけでは留まらず、拳によって巻き起こされた風が後方の敵までをも吹き飛ばした。しかし敵も一筋縄ではいかない。精霊の力で強化された膂力は決して無視できない。

 ばたばたと敵が倒れる中、見るからに只者ではない男が爆発めいた速度で友奈に肉迫した。固く握りしめる拳に精霊の力のブーストがかかり、炎が宿る。

 

「くッ……!」

 

 咄嗟の判断で友奈は上半身を逸らした。男の拳はギリギリの届かず友奈の首筋を激しく撫でるだけに終わった。溢れた火花が空中に軌跡となって眩く描く。

 凍えるほどの冷や汗とともに男を見上げる。身長は二メートルに迫り、今の攻撃といい、単純な力比べだとこちらが劣勢だろう。

 蓮華の援護は望めそうにない。雑魚を蹴散らすのに精一杯で、とても余裕があるようには見えない。

 深くため息を吐く。友奈はこの興奮を抑えられそうにない。

 それに……。

 

「鏑矢にも、精霊とか……欲しいなぁッ!」

 

 勇者しか使えない精霊を使っているのはズルい。

 そんな子供じみた嫉妬っぽい何か。幼い子供がカッコイイ、もしくは可愛いものに魅入られ、欲しがる感覚と全く同一のもの。

 二条の線が交差する。

 互いの拳が激しく衝突し、大量の火花が放射状に撒き散らされる。豪風が空気を叩きつけた。

 直後、手首から肩にかけてばぐん! とスーツが少しだけ膨らんだ。耐久値を上回る力にスーツが自動的に反応したのだ。だがそれでも足りなかった。腕に無数の裂傷が走り、鮮血が噴き出す。

 劇的な痛みに眉を顰めるが、ここで押し負けるわけにはいかない。

 

 ……なんだろう、楽しいのだ。

 これほど本気でやり合うというのが久しぶりで、この高揚感をついぞ忘れていた。

 

 自然と友奈は笑っていた。

 男はそんな友奈の気味の悪さに反射的に距離を取った。

 

「なんで今離れたの? 私はもっとあなたとやり合いたいのに」

 

 今度はこっちが押し切ってやる……!

 その男以外、眼中になかった。間に割って入ってくる雑魚を殴り、受け止め、蹴り、障害をすべて排除する。

 細い右腕を突き上げ、血が滲むほど拳を強く握りしめた。

 男も覚悟を決めたのか、鋭い呼吸に切り替え、ステップを踏んで数度空打ちする。たったそれだけで五メートルほど離れた位置の友奈に風圧が届いた。ビリビリと身体が震えるのを感じながら、それ以上の興奮を覚える。

 男は全身に炎を纏い、ゆらりゆらりと肩を上下させると空間も同じように揺らいだ。

 目を細め、男を見据える。

 飛び出したのは同時だった。

 男は赤い流星を、友奈は紅の直線を描いた。

 互いの拳を打ち合わせる。

 激突。

 瞬間、地下全体を揺るがすほどの大きな衝撃が発生し、天井に並べられた青白の蛍光灯のほぼ全てが割れ、落下した。

 

「ぉぉオオオッ!!」

 

 腹の底から声を発し、友奈は目を剥く。

 スーツの肩の装甲がついに耐えきれずに粉々に砕け散る。それでも友奈は決して力を抜かなかった。負けじとさらに出力を上乗せし、耳朶に響くのは己の心音だけになった。

 視界が赤に染まる。肺が酸素を求めて暴れている。しかし、まだだ。まだこの拮抗は続いている。しだいに指先の感覚が無くなっていく。腕、肩と伸びて――。

 

 ……あ、マズい。

 

 と思った瞬間、男の首が緩やかに横にスライドし、ぼとりと床に落ちた。

 

「あ、え?」

 

 状況がつかめない友奈の隣に息を切らした蓮華が着地する。

 

「よくやったわ。友奈があいつを引き受けてくれたおかげで弥勒は雑魚を全部始末できたわ」

 

「あ、うん」

 

 なんだか呆気ない終わりだった。というのも友奈が夢中になっていたからで、その間に蓮華が有象無象の相手をしてくれていたのだ。そして最大の隙を晒していた男の首を刎ねた。ただそれだけだ。

 最後までやりたかったという気持ちがなくもないが、恐らくあのままだと押し負けていたかもしれなかった。

 

「ありがとうレンち」

 

「ふんっ! 当然よ。ほら、行くわよ」

 

 血糊を綺麗に拭き取った蓮華が蛇腹剣を鞘に収める。

 地下二階はまだここだけではない。蛍光灯がほぼ無くなったせいで薄暗くなってしまったが、まだ奥に続く通路が確かにある。罠などがないか、友奈がその辺の残骸を投げ入れてみるが、特にこれといった反応はない。

 通信機の光を強くして床を照らす。誰の気配もない通路を二人は歩き、ついに行き止まりに行き着いた。そこには古臭いドアがポツンとあった。

 蓮華が錆びついたドアノブに触れ、ドアを開いた。

 ……中はたった七畳ほどの小部屋だった。

 壁、天井とところ狭しに数式やらデータやらを記した紙が貼り付けられている。そしてその先に、安楽椅子に座った年老いた男性がいた。

 すぐ隣に友奈たちが立つまで気が付かなかったようだ。冬眠から覚める動物のようにゆっくりと頭を持ち上げると、柔らかい笑みを零した。

 

「……やあ、こんにちは」

 

 酷く弱々しい声だった。

 声色からして瀕死であることは明白だ。きっと数日のうちに絶命するだろう。白髪の老爺は小さく欠伸をすると、思い出すように語り始めた。

 

「……なるほど、君たちが執行者なのか。どんな恐い人が来るのかと思っていたら、これは驚いた。こんなべっぴんさんが来るなんて」

 

「それは……どうも」

 

 友奈が歯切れの悪い返事をする。

 なんだか肩透かしを食らった気分だ。これまでだとここまで追い詰められれば必死の抵抗をしてきたのだが、この老爺にその素振りはまるでない。

 

「さあ、煮るなり焼くなり好きにするといい……この勝負は、ほんのちょっぴり早かった君たちの勝ちだ。……でも、最後にひとつだけ言わせておくれ」

 

 達観した目でふたりを見つめた。

 

「君たちはこの歴史を受け止めているか? バーテックスとやらのせいで我々人類は前に進めていない。私には……四国を取り囲む壁が檻のように見えるよ。……一度でも、こんな歴史を変えたいと思ったことはないかな?」

 

 老爺の眼差しは真剣なものだった。

 あまりに唐突な話で、ふたりはすぐに返答を用意することができなかった。

 うろたえる様子を見て「は、は、は」と力なく笑う。そして涙を流し始めた。

 

「…………ああ、僕はここまでのようだ。ごめん、よ……お前を助けて、独り占めしようなんて、僕は……なんて………浅はかだったのだろう……」

 

 それきり、老爺の胸が上下することはなかった。

 果たして誰のことを言っていたのかはふたりに知る由もない。だが、熱烈な想いを抱いていたことは間違いなかった。

 友奈が目元の涙を拭き取り、開いた目を閉じてやった。

 

「――目標人物の死亡を確認。続いて目標物の捜索を開始。レンち、シズ先輩に報告お願い」

 

 事務的に告げ、友奈は心を殺して部屋の捜索を始めた。

 比較的狭い部屋だから、それっぽいものがきっと当たりなのだろう。しかし探せども探せどもなかなか『それっぽいもの』は見当たらない。

 机の上にはノートやペン、消しゴムがあるだけ。床に転がる何かの残骸もヒットしそうではない。

 最終手段は全て燃やしてしまうことだが、目標物がそれでも焼け残ってしまうことはあってはならない。だからできれば先に見つけておきたい。

 

「報告終わったわ友奈。それで? あった?」

 

「いや、全然わかんない。戸棚とかも全部調べたけどそれっぽいのはないね」

 

 結構部屋が荒れてしまった。老爺に少し罪悪感を抱くが、捜索を止めるわけにはいかない。

 

「一旦燃やす? その後でもう一回来て、焼け残ったのを砕くとか」

 

「そうだね、そうしよっか」

 

 この人どうしようか、と蓮華に訊くために友奈は老爺に近づいた。そしてある違和感に気づいた。

 左の手首にしている腕時計だ。アンティークなデザインながら、秒針分針などがデジタル表示された一見すると奇妙な腕時計。

 不意に、興味が湧いた。普段からそんなものを持ち歩かない友奈はそのデザインに魅了された。犬や猫に触れるのと同じ感覚で手を伸ばし、ついに触れた。

 瞬間、腕時計がひとりでに動き出した。老爺の手首から離れ、蜘蛛のようにカサカサと友奈の腕に移ると、勝手に手首に巻き付いた。

 

「ひゃっ⁉ な、何これ!」

 

 ただ触れただけなのに、そこから自動的に手順が踏まれてゆく。

 続いて友奈を包み込むように数字のインデックスが無数に出現した。それらは仄かに白い光沢を放ち、じわじわと友奈の身体を分解し始める。

 偽装していたと思われるディスプレイにはすでに針などは表示されておらず、神世紀七十二年と表示が切り替わり、さらにその年から恐るべきスピードで数字が減少し始める。

 これは、マズイ。そう直感的に悟った。

 

「友奈!!」

 

「レンち!!」

 

 異変に気づいた蓮華が手を伸ばすが、どう頑張っても届かない。

 そしてついに数字がゼロを下回り、チン、と軽快な音が鳴った。

 ちらりと友奈の目に入った時計のディスプレイには、

 

 ――A.D.2018 丸亀城

 

 とだけ表示されていた。




時間遡行。過去の改竄。
この友奈ちゃんはちょっと戦闘狂。

それではまた次回!

【Infomation】※Caution!
▼この物語に揺らぎを観測
▼正史からの大きな乖離を確認
▼不確定要素が多く、B、H、Nのいずれにも収束されないことを確認
▼対処法を思考中……思考中……
▼該当する対処法、特殊な事例であるため、なし
▼静観を選択。ただし明確な介入を観測次第、処分
▼執行者を検索中……該当者あり
▼対象者:赤嶺友奈
▼執行者:征矢(そや)
▼終了


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歴史

【速報】のわゆ買った(まだ読んでない)

前回のあらすじ
時を超える。
誰がために。何がために。


 赤嶺友奈が細分化され、それらが別の時間、別の場所で再構築される。薄く引き伸ばされて、伸び切ったゴムのように一瞬で元の形に戻る。

 まず友奈が感じたのは、言葉にできない不快感だった。激しい船酔いに似た感覚。頭がくらくらして視界が定まらない。それに吐きそうだ。

 若干えづきつつも額に手を押し当て、視界を確保する。

 ここは……どこ?

 どこかの……部屋? それも広い。長机が複数並べられていて、いい匂いもする。恐らくここは食堂だ。

 いやでもそんな馬鹿な。友奈はさっきまで個室レベルに狭い部屋にいたはずだ。腕時計が光って……それで……。

 レンち……そうだ、レンちはどこだ。

 

「レン、ち……」

 

「あぁん? レンチ? 何言ってんだお前? なあ杏ぅ、こいつ捕まえた後で医務室に運んだほうがいいんじゃないか? ……ちなみにレンチってなんだったっけ?」

 

 誰かが友奈の声に反応する。垢抜けて飄々とした声。蓮華ではない。

 だんだんと視界が明瞭になる。目の前には恐らく小学生であろう小柄な少女がいた。ブラウンヘアで後ろで二つ括りにした、わんぱくさがこれでもかと主張している髪型だ。

 机の上に視線を見やると、どうやらうどんを食べていたようだ。どうりで口の端にネギがついているわけだ。

 なかなか話そうとしない友奈に痺れを切らした少女がペットのように吠えた。

 

「おいお前、何モンだっ! いきなりタマの後ろに現れて! 友奈そっくりの見た目でも騙されないぞ! ……ハッ! まさか新種のバーテックスか⁉」

 

 そう言うと野生動物並みの素早さで席から立ち上がって少女は友奈から距離を取った。

 どうやら敵意を向けられているようだ。それにこのペッ……少女だけではない。その他にも五人が友奈をジッと見据えていた。

 数度瞬きを繰り返し、ぼんやりとしていた視界が完全に正常に戻った。

 

「……ぁ、え?」

 

 しっかりと認識できるようになった友奈が見たのは、どこかで見たことのある顔ぶれだった。実物……実際に面と向かったことがあるわけではない。

 そう……写真だ! 若葉に昔の写真を見せてもらった時に写っていた人たちだ!

 友奈は目を見開く。さらに、紫髪の少女を守るように後ろに追いやっている人物に、非常に強い既視感を覚えたのだ。

 纏う雰囲気があの人と全くの同一。顔立ちもそっくりで、凛としたカッコよさがある。

 そしてその人物の名を、友奈は確かめるように口にした。

 

「乃木、様……?」

 

 目に見えて驚愕したその人物は、キッ! と友奈を睨みつけた。その眼力たるや凄まじく、冷水を浴びせられたように友奈の背筋はピシリと伸びきる。

 

「お前は何者だ? ここは関係者以外立入禁止のはずだが? それにその格好……この辺りでは見かけないし、友奈にそっくりなのが何より怪しい。場合によってはこの場で取り押さえさせてもらうことになる。……もう一度問おう。お前は何者だ?」

 

 声が詰まる。

 模擬戦でもこれほどの気迫を放つことはなかった。いつでも飛びかかれるように姿勢をじわじわと変えているのがわかる。

 この人たちは……間違いなく初代勇者様たちだ。それに巫女もいる。果たしてこれは現実なのか? 自分の頬をつねり、現実であることを確認する。では、これはどういうことだろう。まさかとは思うが、自分は過去の世界にいるということなのか?

 

「えっと、は、初めまして。鏑矢の赤嶺……友奈です」

 

 やや強張った声で自己紹介をする。

 ここで紛らわしいことを言うのは回避しなければならない。

 奇妙な腕時計によって過去に飛ばされた……と解釈していいのだろうか。ふと手首を見ると、普通に時間を表示しているだけで今はなりを潜めている。

 若葉は小首を傾げた。

 

「鏑矢……? 聞いたことがないな。それに赤嶺友奈だと? 下が高嶋と同じじゃないか。友奈、知り合いだったりするのか?」

 

 高嶋、と呼ばれた少女がピクリと肩を震わせた。

 席から立ち上がり、友奈の真横に立った。身長も全く同じ。真正面から見ると本当に鏡写しのようだ。高嶋は友奈を頭のてっぺんから足の先までじっくり観察した後、可愛らしく手を顎に当てて考える素振りを見せた。

 

「うーん……初対面だと思うよ。でも世界には全く同じ顔の人が三人いるって言うし、その人がたまたま『友奈』だっただけじゃないかな?」

 

 容姿は全くの瓜二つ。違いがあるとすれば、友奈と比べて肌が白いことだけだ。

 

「高嶋さん。それは結構天文学的な確率だと思うわ。超激レアイテムのドロップ率より遥かに低い。それにまだこの人が敵かもしれない」

 

 そう言って肯定しようとする高嶋を諭したのは……おそらく郡千景だ。クールでゲーム好きな人だったと若葉から聞いている。

 とにかく、誤解を解かないと。

 でも。

 ……ああ、マズい。

 まだ酔いが覚めていないようだ。足元がふらつく。それに急に胃から内容物がこみ上がってきた。咄嗟に友奈は近寄ろうとする高嶋に腕を突き出して静止を呼びかけた。

 口元を手で抑える。何か虹を吐き出す受け皿がいる。ここで床に虹を広げるのはバッドパーフェクトだ。さらには勇者たちの前。そのような恥は晒せない。

 そしてふと目の前のうどんの器に目がつく。

 考える暇などなかった。

 我慢の限界だった友奈は咄嗟に器を掴むと、そこに虹を吐き出した。

 誰より早く反応したのはペット――土居球子だ。

 

「ギャーーーー!! タマのうどんがああああぁぁぁ!!」

 

 きゃんきゃん泣き喚く球子は魂が抜けたように空を仰いだ。それを受け止めた少女は憐れむような顔をした。

 

「ああ……たまっち先輩。だから今日の運勢が最悪って出てたんだね……」

 

 この子は伊予島杏という名前のはずだ。

 傷ついた球子を宥めるように頭を優しく撫でる。

 吐いたからか、少し気分が楽になった。しかし口内に残った酸味が気持ち悪い。一度うがいでもしてスッキリさせたい。それに爆発せんと暴れるこの緊張を収まらせたい。

 

「す、すみません……お手洗いに行かせてもらってもいいですか……?」

 

 勇者様たちの前でこのような無様を晒すのは恥ずかしいことこの上ないが、この状態で会話などこちらも向こうも望まないだろう。

 恐らく勇者たちとのファーストコンタクトのスコアはバッドだろう。

 どこの馬の骨とも知らない友奈の呼びかけだ、そうすぐに名乗り出る人などいないと思ったが、すぐさま高嶋と若葉の後ろにいた――上里ひなたが手を上げた。

 

「私が連れて行ってあげるよ! 放っておけないもん!」

 

「体調不良なら私が診たほうがいいでしょう」

 

 しかし健気な立候補に目を剥いたのは千景と若葉だった。必死の形相でそれぞれの愛人を抱き寄せて友奈から距離を取らせる。

 

「駄目よ高嶋さん! 知らない人と一緒なのは危険よ! 私もついていくわ!」

 

「もし突然襲われたらどうするんだひなた。付き添いとして私も一緒する」

 

 どちらも心からの心配から来ている言葉なのだろうが、これほど警戒されているのかと友奈に突き刺さる。仕方ないことは仕方ないが、あの勇者様たちにそのように思われるのは悲しい。

 だが若葉から聞いた通り、本当にこのペアは相思相愛なのだと理解させられた。

 上里からもらったお手拭きで口元を拭き、四人に連れられて友奈はお手洗いへと向かう。

 トイレは小綺麗にされていて、自動センサーに手を差し出すと水が流れた。ここは七十年以上昔のはずなのに、特にこれといって歴史を感じさせるものは何一つなかった。これが老若葉の言っていた、『人類の進化』を神樹様が恐れた結果なのだろう。

 どうやら過去の世界というのは間違いなさそうだ。ちらりと鏡越しに背後の四人を見るが、その姿は間違いなく初代勇者様だ。

 頭の中でどうやって自分のことを伝えようか考えながら友奈は口の中をゆすいだ。

 

「それにしても赤嶺……さん? のそのスーツ、本当に珍しいですね。それはどういったものなのですか?」

 

 不思議そうに尋ねてきたのはひなただ。

 ようやく気分がスッキリした友奈は口元を拭って傷ついた自分のスーツを見下ろした。

 戦闘後というのもあり、所々切り傷などが目立っている。右肩の装甲はなくなっているし、胸部装甲も一部亀裂が走っている。

 すぐにでも大赦に修繕を依頼したいところだが、期待できない。

 

「これは鏑矢のお役目の時に着る戦装束なんです」

 

「でも傷だらけですよ?」

 

「ついさっきまで戦闘があったので……」

 

 戦闘の興奮は今は冷めきっている。普段ならお役目を終えた後は蓮華と手当したり、もしくは疲労が溜まった部分を互いにほぐし合ったりするのだが、それはできそうにない。

 

「戦闘ですか? それはちなみに……」

 

「人ですね。私たち鏑矢は人との戦闘がメインなので」

 

「どう見てもプラ○スーツじゃない」と千景がぽつりと呟く。確かそんなことを静も言っていたような気がする。

 お手洗いから出て先程の食堂へ戻り始める。歩く友奈の周囲を完全警戒の形で囲む。息苦しいが仕方のない対応と言えるだろう。

 と、ここで高嶋がぴょんと友奈の前に跳ねた。

 

「質問質問! 赤嶺ちゃんはどうやってここに来たの?」

 

「えっと……それは……」

 

 腕時計のよくわからない機能が勝手に起動して、気がついたらここにいました、なんて言えばすぐさま危険人物認定されてしまう。もし友奈も蓮華たちといるときに突然知らない人が現れて、このベルトで過去に来ましたなんて言われてもすぐに受け入れるはずがない。

 どう答えようか悩んでいると、若葉がパン、と手を叩いた。

 

「そういうのは後で皆の前で聞こう。赤嶺さんもその方がいいだろう?」

 

「そ、そうですね、乃木様」

 

 若葉は様付けして呼ぶことに疑問を感じているようだ。少し首を傾げるが、まあすぐにわかるだろうと水に流す。

 食堂に戻ってくると、友奈が吐いた器はすでに片付けられていた。まるで連行されるかのように友奈は六人が座る席へと誘導され、空いている席に座らせられた。

 

「あの……誰が私のを片付けて……」

 

 恐る恐る友奈が尋ねると、ほんわかしていそうな少女が名乗り出た。

 

「ああ、それは私が片付けておきましたよ」

 

「そうなんですか。ありがとうございます、伊予島様。すぐに自分でやっておけばよかったのに、わざわざ……」

 

 すると名前を当てられた杏は目を見開いて驚きの声を上げた。

 

「ええっ! どうして私の名前を知っているんですか⁉」

 

 そういえばそうだった! こちらは自己紹介はしたが、向こうはまだ誰もしていない! なのに名前を呼ばれるなんて恐怖以外の何物でもない。

 案の定球子が机を叩き、身を乗り出して友奈を問い詰めた。

 

「おいお前、やっぱり怪しいぞ! なんで杏のことを知ってるんだよ!」

 

 無意識に口にしたことが災いした。逃げ場があれば今すぐにでもそこに逃げ込みたい衝動を堪えつつ、しかし今ここで球子の睨みから逃げてはいけないという葛藤の間で揺らぐ。

 

「それは……ですね……ええっと」

 

 ……疑いの目が向けられている。

 数人は違うよう――恐らく好奇の目――だが、答え方によってはすぐにでも押さえつけられるだろう。冷や汗を感じ、友奈は様子を窺いながら口にした。

 

「私……実は未来から来たって言ったら……信じます?」

 

 沈黙が食堂を支配した。滑らかな空気が場を吹き飛ばす。球子に至っては不意を突かれたのか、鳩が豆鉄砲を食らった顔になっている。

 友奈は口を横一文字に閉じて、早鐘のように脈打つ心臓が口から出てくるのを我慢するのに必死だ。ごくりとつばを飲み込み、これが良い回答だったのかと自問する。

 突然現れ、こんな突拍子のないことを言われてはいそうですかと納得するような警戒心皆無の人なんているわけが――。

 

「そーなんだ!! じゃあ未来人ってことなんだね!! ビックリしたよ!!」

 

 残念ながら、いた。

 高嶋は興味津々という目で友奈を見つめ、興奮が抑えられないとばかりに立ち上がった。

 

「すぐに信じるのはだめよ高嶋さん。嘘かもしれないわ」

 

「うーん……そうかなー? 私はそうは思わないけど……」

 

 友奈は失礼ではあるが、高嶋の純粋さに呆れ返ってしまった。あまりにも真っ直ぐすぎて、これからが心配になってしまうほどだ。

 対してひなたは難しそうな顔をする。

 

「それは驚きましたねえ……。未来人ですか……では何か私達が信じられるものを教えていただけませんか?」

 

「わかりました。ではそうですね……まずあなたは上里ひなた様、次に乃木若葉様、伊予島杏様、土居球子様、郡千景様、そして高嶋友奈様。合っていますよね?」

 

「……本当に驚きました。まだ私達の存在は秘匿されているはずなのに、初対面で言い当てるとは」

 

 なんとか話は良い方向に進んでいるようだ。確かな実感を覚えた友奈は、このまま穏便に皆の警戒を解くべく頭をフル回転させる。

 しかしまだ納得していないのは若葉だった。腑に落ちないような表情を浮かべ、怪訝な目で友奈を見据える。

 

「待てひなた。もしかしたら大社の中のスパイが我々のことを漏らしている……とかあり得るかもしれない」

 

「いいや、タマはまだ信じないぞ! バーテックスが人に化けてるとしか思えん!」

 

 球子は明らかに友奈を敵対視しているようだ。腕を組み、獣の眼光で友奈を射抜く。

 

「ご、ごめんなさい赤嶺さん。たまっち先輩、たぶんさっきのを相当気にしているみたいです……」

 

 飼い主のように球子を宥めながら杏は代わって謝った。勇者に謝られるなんて異常事態に友奈は動揺を隠せなかった。

 

「そ、そんな! 私が吐かなければ良かったんです。なので伊予島様が謝る必要なんてこれっぽっちもありません!」

 

 そうだ。虹を吐くのは避けられなかったとしても、場所を変えることはできた。

 出だしとしては悪い意味でほぼ満点。それにその処理までさせてしまうなんて泣き顔に蜂だ。

 ……後ろめたいことばかりで萎縮してしまう。

 

「ところで、さっきお前が言っていた鏑矢ってなんだ? そこのところも知りたい」

 

 若葉が質問する。

 友奈が若葉のように表立って戦うことは決してない。

 勇者は世界を守るためにバーテックスと戦う存在だ。しかしその対極に位置するのが鏑矢だ。人々の脚光を浴び、期待を背負って戦いに赴くのとは異なり、鏑矢は闇の世界で粛々と世界を脅かす人間を始末する。

 

「鏑矢とは厄を祓うお役目です。平和を脅かす人間を人知れず討つ。要するに……そうですね、忍者のようなものだと思ってください」

 

「討つって……殺すのか?」

 

「……敵対勢力は場合によってはそうしますが、目標人物は殺しません。特別な矢で身体を貫き、昏睡状態に陥らせます。そこから助かるかどうかは神樹様しだい、という感じですね」

 

 そう言うと友奈は腰のポーチからあの老爺に使わなかった矢を取り出した。続いて折りたたみ式の、サイズが拳大の弓も。ボタンを押して鉛筆ほどの長さから矢の長さへと伸ばす。弓は数度折り畳まれた状態から、生体ロックを解除すると自動的にボディーを組み立てて弓の形をとった。一般的なものとは違い、やや機械質な造りなのが特徴的だ。矢尻の形は花弁を想起させる。

 杏が変形する勢いに驚いて大きく身体を後ろに引く。

 机の上に差し出して「矢尻以外はご自由にどうぞ」と言った。しかし知らない人物が持っていた得体の知れないもの。さらにはこれに貫かれたら昏睡状態になるという恐るべき機能付き。容易に手を出すのはやはり気が引けるようだ。先程は素直に友奈の言葉を信じた高嶋でも手を出しあぐねている。

 やっぱり駄目だったか。まだ友奈に対する信用はそれほど蓄積されていないようだ。半ば諦めた様子で矢を戻そうとしたその時、誰かのしなやかな細い指が矢を手に取った。

 千景だ。

 警戒といった感じではなく、むしろ興味津々にべたべたとおもちゃを欲しがる幼稚園児のように観察し始めた。

 

「お、おい千景。危険だぞ」

 

 若葉の静止も聞かず、遂には弓にも手を出して番える仕草すらしてみせた。その目は『何かカッコイイもの』を見つけた中二病患者のそれだった。

 

「どうですか? 郡様」

 

 友奈に声をかけられて我に返ったのか、若干頬を染めて一式を机の上に置きなおした。

 

「こ、これは高嶋さんのために安全を確認していたのよ。別にカッコイイからとかではないから」

 

 とてもわかりやすい説明だ。友奈は笑みを浮かべて高嶋を見ると、どうやら同じことを考えているらしく、笑みを返してくれた。

 次に矢に触れたのはひなただ。その中でも特に矢尻を念入りに調べている。巫女だからそういったものには敏感なのかもしれない。ひと通り調べ終えたひなたは疲れた様子で息をついた。今ので巫女としての力を使ったのだろう。

 出会ったときからずっと、柔らかそうな印象だったひなたが真剣な眼差しで友奈を見つめた。まるでメデューサに睨みつけられたかのようにその場に固まった。

 

「――確かに、この矢には神樹様の力が宿されています。これは大社の人間であるという何よりの証拠です。本当に未来人かは置いておくとして、悪い人ではないことは間違いありません」

 

 緊張が解かれた。

 忘れていた呼吸がようやく再開した。この極度の緊張は初めて老いた方の若葉と会う時と同じくらいだ。

 ありがとうございます、と言おうと口を開くが、それを遮ってひなたは「ですが」と付け加えた。

 

「未来人だとしたら私たちがこれからどうなるか……拡大解釈するならば、世界の運命を知っているわけですよね?」

 

 当然の問題だった。

 この時代はバーテックスによって人類の大半が滅ぼされる寸前の世界だ。そしてそれを知っているのは、この場に友奈だけ。

 

「…………はい」

 

「教えていただくことはできますか?」

 

「…………」

 

 タイムパラドックス。過去の改竄。

 創作物でよくある話。

 それを言ってしまうとどうなる? 若葉以外がこの戦争が集結したあと、衰弱死するなんて現実を受け入れられるはずがない。それを口にすることで、それぞれのモチベーションなどに大きく影響し、歴史が大きく変わってしまうかもしれない。

 時間を跳躍した者として、そういった問題には慎重にならなければならない。

 鏑矢としての使命は時代が変わろうが友奈の中で継続している。

 それは四国の平和を守ること。これは勇者と鏑矢との間に埋めることのできない大きな差はあれど、志は同じはずだ。

 果たしてここで友奈の一存で未来を打ち明け、歴史を打破すべく動くことはいいのだろうか? そんなことをすれば、歴史に消され――。

 

「……わかりました」

 

「え?」

 

 思考の沼から呼び戻される。

 今の何でひなたは納得したのいうのだろうか。友奈は考えに耽っていただけだというのに。

 

「大丈夫ですよ。簡単にそんなことは言えませんもんね。それに今、赤嶺さんは本当に悩まれている顔をされていました。それだけでもう、十分ではありませんか?」

 

「あ」

 

 ハッとして周りを見回すと皆、もう友奈を警戒することはなくなっていた。

 高嶋は「ほらね! 赤嶺ちゃんは悪い人なんかじゃなかった!」と元気いっぱいに言った。

 

「……ありがとうございます、勇者様方」

 

「様付けとかいらないよ! だって堅苦しいし! 皆のことは普通に下の名前で呼んでよ。その方が仲良くなれるからね!」

 

『そんな』のそ、まで口から出かかって、それは今放つべき言葉ではないと友奈は舌の上で転がして飲み込んだ。

 未来で伝説として語り継がれる勇者であっても、そんな肩書さえなければその辺の一般的な女子中学生と何ら変わらないのだ。友奈はそんな当たり前のことを忘れていた。

 ずっと、尊敬というフィルター越しでしかこの人たちを見ていなかった。何の運命かは知らないが、こうして勇者たちと出会えた。話し合って、わかり合えた。そして空想上の人物などではなく、友奈と同じただの人間だということを気付かされた。

 だから友奈が言うべき言葉は恐縮ではない。

 

「……ありがとう、皆」

 

 皆との距離を縮めるには、まずは言葉から。

 帰る手段は今のところまだわからないが、それはゆっくり考えよう。腕時計が鍵なのは間違いなく、それがどうすればもう一度起動するかを突き止めなければならない。

 赤嶺友奈という異端児の見方をなんとか良い方向に収束したことに安堵してもいいはずなのに、若葉は表情を崩すことなく次の問題を口にした。

 

「さて、こうして疑いも晴れたことだし、次は赤嶺を大社にどう説明するかだが……」

 

 勇者たちに友奈のことは理解してもらえたが、大赦になるとそう簡単にはいかないだろう。なにせ大人たちの集団だ、頭の硬い人から良からぬことを考える人がいるかもしれない。

 時間遡行をしてきたとでも口にすれば瞬く間に保護という建前の監禁直結ルートなんてあり得るかもしれない。

 そんな悪い想像を膨らませていると突然、勇者たちのスマホが同時に大音量のアラーム音を発した。

 あまりに唐突のことで、友奈を含めて全員が電撃が走ったように身体を強張らせた。

 

「これはなんの通知?」

 

 友奈がそう疑問を口にすると、全員があり得ないとばかりに視線が友奈に集中した。

 空気が針のように鋭く尖った雰囲気に変質したのを肌で感じ取る。

 

「これは樹海化警報です、赤嶺さん。バーテックスが来るということです。……私たちの初陣です」

 

 ひなたの説明を咀嚼して理解するのに数秒かかった。そしてこの時代の現実を突きつけられる。

 ……そうか。この時代は戦争をしているのだ。バーテックスがどういったものなのかは老若葉から耳にたこができるほどよく聞かされた。

 

「そっか……じゃあ皆の出番ってことなんだね?」

 

「いえ……それが……」

 

 ひなたが言葉を濁す。

 何か問題があるのだろうか。もしかして友奈が現れたことで早速歴史に影響が出始めたのだろうか。

 

「恐らく赤嶺さんも戦うことになると……思います。通常なら樹海化警報が鳴ると、勇者と巫女以外の時間は全て止まるの」

 

 端的に非常な事実を口にしたのは杏だ。苦しそうに眉をひそめながら伸び切ったうどんの器を倒すと、中身が溢れることはなく、完全に同化して転がるだけだ。

 

「え? じゃあ私も勇者ってこと? でもそんな……私は鏑矢だし、同じ戦装束もない。だから勇者の力なんてとても……」

 

 鏑矢は対人特化で、バーテックスとの戦闘を想定していない。あくまでこのスーツは対人用のもの。いくつも特別機構が備わっているものの、根本的に力は勇者に及ばない。だから戦いとなってもまともなパフォーマンスができるとは思えない。

 

「せめて祝詞があれば少しは……」

 

「祝詞、ですか?」

 

「うん。いつもはシズ先輩……ああ、私たちの巫女なんだけどね。その人が神樹様の力を付与してくれるんだけど……」

 

 祝詞のあるなしではスーツの出力も、友奈自身も戦闘力が大幅に変わる。しかしここには付与する静はいない。

 

「それならひなたさんにお願いできませんか? 同じ巫女ですし、もしかしたら……」

 

 しかしひなたは難しそうな顔をするばかりだ。

 

「……とても難しいですねえ。祝詞といって色々なものがありますから。赤嶺さんとの時代とはきっと違いますし、既存のものでは思うような効果を発揮できないかもしれません。もちろん当たりがあるかもしれませんが」

 

「それでもいいよ。ひなたちゃん、お願いできるかな?」

 

 ひなたは若葉の実質的な育ての親? だ。ならば障害無しに信用することができる。巫女との関係は絶大な信頼関係の元に成り立たなければならない。

 それに湧き上がる興奮……闘志は止められそうにない。なにせ勇者たちと一緒に戦うことができるのだ。これ以上の喜びが果たしてあるだろうか?

 

 ――いや、ない!!

 

 史実でも初陣で勝利を収めていた。たとえ全く戦闘に加わることがなかったとしても、歴史的瞬間を目の当たりにできるというのは言葉にできないほど貴重な場面だ。

 

「……わかりました。ですが赤嶺さんはバーテックスとの戦いは知らないようなのでなるべく後方で待機して、若葉ちゃんたちに戦闘は任せるようにしてください。いいですね?」

 

「了解!」

 

 ふと窓の外を見やると、光の波が地平線の向こうから押し寄せてきている。多色の花びらが舞い、あっという間に丸亀城の外堀まで埋め尽くす。

 若葉が立ち上がった。大きく一度だけ深呼吸をし、胸を張り、拳を突き上げて力強く声を張る。

 

「行くぞ勇者たち! 私たちの初陣、見事勝利を掴み取るぞ!!」

 

 その姿はいっそ惚れ惚れするほど勇ましかった。蓮華と一緒に訓練を見てもらう時、よく喝を入れられたことがあった。その時の雰囲気とよく似ている。

 友奈は勇者たちと同じように拳を掲げ、鬨の声を上げた。

 手首のミサンガが目に写る。

 同時に、光の波に呑まれた。




憧れ。尊敬。伝説。
勇者たちとの共闘は果たして――

本当は戦闘シーンを組み込むつもりはなかったけど、のわゆ買ったからそりゃあね。
のわゆ読むのと挿絵描くから次は遅くなるかもー。ちなみにすでに一枚はできている。

それではまた次回!

【Infomation】
※Emergency!
※Emergency!
※Emergency!
▼赤嶺友奈の明確な介入を観測
▼直ちに対象人物を処分せよ
▼執行者:征矢を派遣……Error!
▼征矢はこの時代に存在しないため、迅速な派遣が不可能
▼強引な派遣は征矢が折れる可能性あり。猶予もなし
▼検討中……検討中……
▼対象人物が神世紀72年に帰還次第処分、もしくは征矢の整備が完了次第派遣、処分
▼終了


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高嶋友奈

のわゆ読んだ感想
我「え……?」

めっちゃカッコよかったから友奈&若葉【切り札ver】を描くと固く誓った。挿絵には使わないけど
今回は戦闘シーンに超気合を入れた。戦闘シーンは文章力の見せ所! はっきりわかんだね!

前回のあらすじ
歴史への干渉


 眩い光が爆発する。

 友奈が反射的に腕で顔を覆い、次に見たものは直前までいた丸亀城の食堂ではなかった。

 植物のような根がすべてを覆い尽くし、空は暗く、星はない。地表は仄かに光を放っていた。唯一丸亀城周辺の城下町は根が張られておらず、建造物の肌が剥き出しになっている。

 これが……樹海化。

 友奈は完全にこの異質な光景に圧倒される。

 神樹様がバーテックスが襲来した時、一部だけ壁を消してそこから敢えて侵入させるシステムだと知識にある。これによって戦場をこちら側が指定でき、有利な立ち回りができるのだ。

 これから本当に戦争が始まると思うと、普段の鏑矢としてのお役目に臨む前の緊張などより何倍も大きなものに、押し潰されそうになる。

 

「大丈夫赤嶺ちゃん? 私達が守ってあげるから安心してね!」

 

 そんな友奈の肩をポンと叩き、前に出たのは高嶋だ。

 振り返ると周囲には高嶋以外誰もいない。

 

「みんなの居場所はスマホでわかるよ」

 

 そう言ってスマホで操作をすると、マップが表示された画面を見せてくれた。

 確かに全員の名前が光点として少し離れた位置に点在している。数分で合流できそうだ。

 

「それにしても樹海化ってすごいね。ぜーんぶ樹になっちゃったよ」

 

 まさに異界。バーテックス戦にのみ用意された戦場。

 つい鏑矢としての冷徹な意識に切り替わりそうになったが、既のところで留められた。一度この状態に入るとお役目柄、そう簡単には解けない。

 

「高嶋ちゃんもこれ、初めてなんだよね? 怖くないの?」

 

 初陣のはずなのに物怖じする様子のない高嶋に友奈は訊いた。

 

「そうだね……本当は怖いよ? 怖いけど、誰かがやらなきゃいけない。それがたまたま私だっただけ。でも皆と一緒だから大丈夫!」

 

 両腕を曲げて、元気いっぱいにそう答えた。

 同時に高嶋のスマホが短い通知音を発した。自身有りげな表情が一瞬にして強張り、顔を上げて遠くを見据えた。友奈もその方角へ視線を向ける。

 ……海の向こうから、白い点が宙を漂いながらゆっくりとこっちに接近しているのが見えた。勇者の五感は強化されてはっきり見えるが、友奈にはぼんやりと見えるだけだ。距離は恐らく五キロメートルほど。数は……遠くてわからない。少なくとも一体だけではない。

 

「高嶋さん!」

 

 ここで小走りで合流してきたのは千景と若葉だ。

 ふたりの前にたどり着くと大きく息を吐いた。

 

「ふたりとも! 合流できてよかった! あれ? アンちゃんとタマちゃんは?」

 

「いえ……それがまだみたいなのよ」

 

 千景がスマホで位置を確認すると、どうやら球子と杏が一緒にいるようだ。一応ここに向かっていることも確認できる。

 そしてふたりもバーテックスの姿を肉眼で確認してきゅっ、と唇を結んだ。

 そんな勇者たちの緊張を見て、友奈は何ができることはないかと考えた。恐らく戦力面では全く頼りにならない。かといって戦術面……というほど頭がいいわけではない。できるとしてもそれは対人用に頭に叩き込まれた戦法や知識ばかりだ。

 この初陣の勝敗を予め伝えることはできるが、それが慢心に繋がってしまう可能性がある。若葉は問題ないだろうが、球子が心配だ。

 

「いやー悪い悪い! ちょっと遅れてしまったー!」

 

 ここでバツの悪そうに笑いながら球子が杏を引き連れてきた。すでにどちらも武器を手にしていて、球子は円形の盾の周りに刃が並ぶ旋刃盤、杏はクロスボウを抱えている。

 ようやく全員が揃った。

 若葉は腰に携えていた刀を鞘から抜くと、遠方の敵へと剣先を向けた。

 

「……よし。これで全員揃ったな。赤嶺はひなたの指示通り後方で待機。我々はバーテックスどもを打ち倒す」

 

 すると千景がやや試すような煽り口調で口を開いた。

 

「もちろんあなたがリーダーなのだから先頭に立ってくれるんでしょうね?」

 

 その一言は、高まっていた士気をダウンさせるには十分だった。球子と杏が怪訝そうな顔で若葉の反応を窺う。

 

「もちろんだ。だがチームワークも当然大切だ」

 

 敵はすぐそこまで迫っている。

 若葉はこの時をずっと長い間待ちわびていたのだ。以前……小学生の頃、クラスメイトたちが何もできずにただ喰われてゆく残酷さを目の前にした。己の無力さを嘆いた。

 だが今は違う。力がある。

 バーテックスを屠るための力がある。

 まだ小さかった身体も成長し、単純な膂力もついた。

 

『何事にも報いを』

 

 これが乃木家の生き様。

 今こそ、あの時の報いを受けるときだ。

 

「でも、どうかしら? あなたが思うように全てが上手くいくわけではないのよ?」

 

 千景は若葉のことがとことん気に入らないようだ。少し楽しそうな表情を浮かべると視線を杏へと送った。

 それにつられて全員が杏を向く。

 

「ぁ……う」

 

 ……杏は身体を小刻みに震わせ、自分の肩を抱いてその場にうずくまっていた。視線に気づくと、より一層小さくなった。

 ……怯えているのだ。

 友奈を除くこの場の誰もが杏の成績が悪いことを知っている。実技ではまるで力を発揮できていないのをよく目にしている。体力がない。気合がない。戦うことに恐怖を感じているのだ。だから、もし戦闘で……最悪の場合が起こるとすれば、それはきっと――。

 そんなことは前から皆薄々感じ取っていたはずだ。そして今、現実として戦う時が来て、こうして杏は崩れた。

 

「ふたりが遅れてきたのはこれが原因なのでは? そんなので果たしてチームワークなんて言えるのかしら? あなたにこのチームの――」

 

 痛いところを針でチクチクと嫌らしく突く。

 若葉は……若葉はリーダーとしてここで何か言わなければならない。しかし、そんな都合のいい言葉が咄嗟に浮かぶことはなかった。

 千景に良いように言われて、反論すらできない。これではリーダー失格――。

 

「……千景さん、それは言いすぎだよ」

 

 ここで、ずっと静観を決め込んでいた友奈が口を開いた。

 まさかの介入に驚きつつも、千景は友奈に向き直った。若葉に対して言えていた嫌味が止められたからか、やや不満気だ。

 

「あなたには関係ないはずよ。ましてや勇者でもない人に言われる筋合いはないと思うのだけど」

 

「確かに私はぽっと出の部外者だけど、そんなのは関係ない。ひとりの人間として、千景さんの言い方は酷いって言っているの。杏ちゃんは――弱くないよ」

 

「…………そう」

 

 未来人である友奈の言葉に意味があると悟ったのか、千景は大人しく引き下がった。

 記録でも伊予島杏がどういう人間であるかは知っているし、老若葉が誰よりも詳しく語ってくれたから知っている。

 どのような戦い方で、どのような日常を送っていたのか、こと細かく。

 だから友奈は知っている。杏は決して弱い人間ではない。毎日の訓練だって、たとえ成績が悪くても決して逃げ出さずに顔を出した。

 これは杏の強さだ。

 だがこれを切に語り聞かせることは友奈の役割ではない。

 友奈が若葉を見る。

 その意味を理解した若葉が杏に歩み寄った。

 

「杏。顔を上げろ。たとえ怖くても立ち向かわなければならない時がある。でも、それでも立ち向かえない人がいることを私は知っている。お前はお前のペースで、勇者として頑張ってくれ」

 

「……は、はい」

 

 差し出された手を取って立ち上がる。

 友奈はそれを暖かい目で見守った。

 

「よぉし! じゃあ皆でいくよー! 勇者になーる!!」

 

 高嶋の元気な掛け声で、友奈以外の全員がスマホで勇者システムを起動させ、勇者装束を纏い始めた。それぞれの足元で花弁がぶわりと舞い上がり、イメージカラーを貴重とした装束へと変身する。

 若葉は蒼。

 友奈は桜。

 千景は紅。

 球子は橙。

 ……が、杏だけがどうしてか変身できていなかった。

 焦りつつもう一度画面をタップするが、エラーが吐き出されて変身できない。

 勇者システムは勇者自身の精神に大きく左右されると聞いている。気分が高揚していればしているほど強くなる、みたいな効力はないが、逆に意志が弱い場合はきちんと勇者になれないというのはこれも老若葉から聞いている。

 

「ご、ごめんなさい……」

 

 勇者として今戦わなければならないのに、そもそも勇者になれない。その悔しさと恥ずかしさが混じり合った顔の杏は目尻に涙を浮かべた。

 千景のやっぱり、といった視線が突き刺さる。しかし、それを押しのけて若葉が根気強く話しかけた。

 

「気にするな。お前のペースでと言ったからな。赤嶺と一緒に後方で待機していてくれ。お前の分も、私たちが倒してくる」

 

「ありがとうございます……」

 

 杏が友奈の隣に立った。

 

「……おい、赤嶺の友奈。一応その格好でも少しは戦えるんだよな?」

 

「うん、そうだよ」

 

 低い声で尋ねてきたのは球子だった。

 戦えない杏を、よりにもよってあまり信用できない友奈の側に置くことが心配でならないのだろう。真剣な面持ちで目の前ににじり寄ると、友奈の胸を軽く叩いた。

 

「さっきまでお前のことをよく思ってなかったし、正直今もあんまりだ。だからこんなの勝手だってわかってる。それでも、杏のこと……頼む」

 

「必ず」

 

 友奈も真剣に返す。

 この戦いに完全に不干渉というつもりはない。頭にあるのは、歴史としてこの時期にこんな戦いがあって勝敗はどうなった、のような知識だけだ。もちろん老若葉の体験談もあるが、それによって全てを事細かに知り尽くせたわけではない。

 もし誰かに危険が迫れば、友奈は未来人という遵守しなければならないルールを破ってでも飛び出すつもりでいる。

 返事に満足したのか、球子はニカッ、と白い歯を見せた。

 

「頼んだぞ! あと、杏もこいつのこと守ってやれよ!」

 

「うん!」

 

 杏の元気な返事に今度こそ安心した球子は背を向け、待っていた若葉たちの後を追った。

 

 ◆

 

 バーテックスの大きさは軽自動車ほど。それがおよそ五十体ほど空に浮いている。距離にして約二キロ。どのようにして浮遊しているのか全く不明だが、独自の推進方法でもあるのだろう。

 そして、間違いなく若葉たちの存在に気づいている。跳躍して比較的高い建造物の上まで移動した四人は昂ぶる闘志を抑え込んだ。

 若葉はゆっくり目を瞑り、短い瞑想の後、カッと見開いた。

 

「宣言通り、私が先陣を切って奴らを叩き斬る。皆は溢れた奴を頼む」

 

「了解! 頑張ろうね、ぐんちゃん!」

 

「ええ、高嶋さん」

 

 刀身が光に反射して鈍色に輝く。

 同時、若葉は大きく跳躍した。

 勇者の力とは常人離れしたもので、あれほど遠く離れていたバーテックスたちとの距離が一気に縮まった。もうあと数メートルのところで若葉は刀を下段に構えた。

 バーテックスたちは飛んで火に入る虫と勘違いした若葉を取囲み、喰らおうと群がる。

 本当は真逆、若葉こそが火だ。烈火の如く轟々とあらゆるものを燃やし尽くす執念の塊だ。

 

「おおおおおッ!!」

 

 若葉に喰らいつく……それより前にその白いブヨブヨした身体を一刀のもとに両断する。まるで豆腐を斬るかのようなあまりの切れ味にほくそ笑んだ。

 いける! こいつらを倒すためだけにずっと身体を鍛え、この闘争心を燻ぶらせてきたのだ。今ここで存分に暴れさせてもらおう!

 突撃してきたバーテックスを避けながら刀を振るう。その剣筋に捕われれば最後、逃れることは叶わない。

 

「この刀の錆になりたい奴からかかってこい! 来ないのならばこちらから行くぞ!!」

 

 刀身から蒼色のスペクトルを輝かせて肉薄する。

 視界に映る敵のすべてを捉え、その全てを屠らんと柄を握る手に力を込める。

 大きく口を開けて若葉を飲み込もうとするバーテックスに、水平に構えた刀をめり込ませる。刀ごと持っていかれそうな抵抗に、若葉は喉から声を絞り出して打ち勝つ。

 綺麗な断面を残して文字通り上と下が別れた死骸を蹴り上げ、一瞬だけ目くらましの代わりとする。その隙に群れの背後に回り込み、一方的な蹂躙を見せつける。

 じゃぎッ! と重く硬質な斬撃音。

 続いてバーテックスの砕けた歯が飛び散る。

 負けるわけにはいかない。人類の命運を若葉たちが背負っている。それに、報いを受けさせなければならない。

 報いを!

 報いを!

 報いを!

 

「――今日が! お前たちの初敗北の日だ!!」

 

 そう、刀を掲げて高らかに叫んだ。

 

「友奈、タマたちも行くぞ!」

 

 若葉の鬼神の如き戦いぶりに触発された球子が旋刃盤を構えながら飛び出した。

 

「オッケー! 近接戦闘は任せて!」

 

 高嶋の武器は、己の拳のみ。

 両手の赤い手甲が煌めく。

 全員がリーチのある武器に対し、超接近戦のエキスパートを勤める。すなわちチームの超絶アタッカー。

 鋭く呼吸を整え、肺に酸素を送り込む。一歩、二歩とステップを踏んで勢いよく飛び出した。

 

「はぁッ!!」

 

 身体の中で力を爆発させ、それをバーテックスにぶつける。

 狙いは醜悪な前頭部!

 拳撃!

 鈍い音が轟いた。

 高嶋の一撃はバーテックスの身体を大きく陥没させ、その余波が周囲の空気を震わせる。ビリビリと身体を硬直させたバーテックス、その内の一体の下腹部に伸びる触手のようなものを掴み、ぐい、と強引に手繰り寄せた。

 ヨーヨーのように手元に飛び込んできたところを――。

 殴る。

 殴る。ただひたすらに殴り続ける。そして元の形すら残さなくなったところで、もう一度触手を掴んで地面に叩きつけた。

 咄嗟に意識を切り替えた高嶋は、背筋が凍るほどの悪寒を感じ取り、その場から大きく後ろに跳躍した。一拍遅れて、元いた場所にバーテックスの群れが地面を抉る勢いで突撃してきた。

 ……本能的な危険察知ができなければと思うとぞわりと身震いする。

 その間にも高嶋を無視して奥へと突き進む複数のバーテックスを見上げた。浮遊する高度は、いくら高嶋が高くジャンプしても届きそうにない。

 声を張り上げて助けを呼ぶ。

 

「タマちゃん! 上のやつお願い!」

 

「任せタマえ!!」

 

 返事は即座に返ってきた。

 高嶋の後ろで控えていた球子がまだ樹海化されていない建造物を次々と飛び移りながら電波塔の頂に立つ。じゃりじゃりと旋刃盤についている刃がゆっくりと回転を始める。

 それは一瞬にして残像が現れるほどの速度になり、鋭利な音を吠える。巻き起こす風が地表で砂塵が舞う。球子の姿は、風を司る勇者のように見えた。

 

「行くぞッ! 覚悟ぉ……しやがれええぇぇぇ!!」

 

 華麗なフォームをきめて旋刃盤を投擲した。訓練によって球子の命中精度は格段に上昇している。ましてやのろのろ接近する標的に当てることなど、造作もない!

 案の定旋刃盤が外れることはなく、綺麗な弧を描いて吸い込まれるように高高度にいるバーテックスたちを切り裂く。

 

「よしっ!」

 

 手首を捻れば、巻き付いたワイヤーで旋刃盤を手繰り寄せる。その過程でも二体を背後から斬りつけて墜落させることに成功した。そしてそれを高嶋が追撃して倒しきる。

 電波塔から降りた球子は次の目標を探すべく移動を始めた。若葉は相変わらずの覇気で敵を斬り続けている。

 恐らくそろそろ半分をきるか? 球子は全体を俯瞰してそう考える。間違いなく撃破数が多いのは若葉だ。一番前で敵の大多数を引き受けているのだから。球子たちはこうして逃したのを倒しきるだけでいい。

 ……旋刃盤の回転は止まらない。高嶋の許容ラインを突破した数体が球子に押し寄せる。

 右肩に力を入れ、旋刃盤を投擲する。先程は固まっていたから連続で一掃できたが今回はまばらだ。旋刃盤も万能というわけではない。手元から離れている間に別のバーテックスから攻撃が迫る。咄嗟の判断で回避に成功するが、まだ旋刃盤が帰ってきそうにない。

 それにここは周囲に身を隠せるような遮蔽物もない平地だ。高嶋と若葉からの距離も遠く、助けを呼べそうにない。

 

 ――死。

 

 今更になって理解した。

 球子はこの戦いをどこかで楽観視していた。いくら口を酸っぱくして指導教員に言われても。チーム内でそのことについて話す機会があっても。球子はそれを一蹴していた。

 自分が死ぬはずがないだろうと甘いことを考えていた。

 本当の本当に死ぬのではと悟るまで、どこか現実味のないフィクションのように考えていたのだ。

 己の浅はかさを痛感する。

 そう言っている間にも劣勢に立った球子を仕留めようと追加のバーテックスが群がる。

 

「そんな……ここでタマが……ちくしょう……!」

 

 悲痛の声は、誰にも届かない。

 

 ◆

 

 不意に、友奈の身体に力が湧き上がった。

 この感覚は……祝詞の効果を受けているときと似ている。しかし静のものとは異なり、流れ込む力が身体に馴染むのが難しい。まるで入り口を探しているかのようだ。ひなたが友奈に祝詞を付与しようと奮闘している。

 杏はまだ怯えている。その場に座り込むことはやめたが、皆が戦う様子を見ながらわなわなと肩を震わせている。戦えない自分に憤りを覚えているのか、口元は引き締まっている。

 

「赤嶺さん、私って本当に弱くないのですか?」

 

 そんなことをぽつりと呟いた。

 友奈は火照る身体を燻ぶらせながら答えた。

 

「弱くないよ。だって今もこうして戦いから目を背けていないでしょ? それが何よりの証拠だよ」

 

「そうですか……。ずっと……悩んでいました。どうして私が勇者になったんだろうって。皆の役に立てないのに、私に価値があるのかなって」

 

 胸元で杏が握り拳をつくる。

 その悩みは至極当然のものだった。当時平和を享受していた人間に、突然武器を取って戦えなんて言われてもなかなか動けないのが実情だ。

 そんなもの、自衛隊に任せてしまえとでも放棄されてしまうのがオチだ。その中でも、戦うことを宿命と定められた勇者になってしまったのはこの上ない不幸なのだろう。

 

「私は……どうでしたか? 私はちゃんと、この先勇者をできていましたか?」

 

 縋るような物言いに、友奈は眉を一瞬だけ顰めた。

 杏は自分の未来を知りたがっている。きっと、友奈の言葉を聞いて安心したいのだろう。

 私は大丈夫、ちゃんと勇者ができているのだという安堵を得たい。そんな願望がひしひしと伝わってきた。

 だからこそ、そんな他人任せな質問を蹴り捨てる。

 

「――それは教えないよ」

 

「……え?」

 

 イエスかノーの答えが返ってくると思っていたらしい杏は困惑を隠さなかった。

 

「もし私が本当は悪い人で、嘘のことを言ったとしても、きっとそれを信じるんでしょ? ……他人に依存してしまうようなことを訊いたらダメだよ。それは絶対、杏ちゃんのためにはならないから」

 

 お役目柄、友奈は仲間以外の言葉を素直に信じたりすることはない。初対面の相手だと特にそうだ。鏑矢に就いたばかりの当初はそのせいで痛い目に遭いかけた。しかし蓮華のおかげで難を逃れた。

『騙して悪いが』は一番心にダメージが大きい。

 突きつけられたくないことに直面させられたからか、杏は俯いてしまった。しかしすぐさま顔を上げた。

 

「そう、ですか……ありがとうございます」

 

「杏ちゃん?」

 

「私、赤嶺さんに『弱くないよ』って言ってくれたとき本当は嬉しかったんです。あれってもう、答えているのと変わりませんよね?」

 

「あー……確かにそう言われると……そうかも」

 

 そして、友奈に付与されかけていた力がついに宿る。入り口を見つけて一気に身体に流れ込んでくる。その勢いにピシリと痛みが走るが、それはすぐに収まった。

 感覚としては、静のものより少しばかり下位互換。格段に基礎能力は向上しているが、鏑矢としての実力を最大限に発揮できるレベルには至っていない。しかし勇者たちと同じような速度での移動はできる。

 

「あれ……? タマっち先輩、囲まれてる……?」

 

 杏の視線に合わせると、確かに球子が孤立していた。その周囲にはバーテックスが群がっている。どう見ても劣勢で、苦しい戦いをしているようだ。

 

「マズい! 助けに行かないと!」

 

 友奈は未来人であるということを捨てて助けに入るべく談笑から戦闘へと素早くモードを変えた。

 しかしそれを杏が呼び止めた。

 

「待ってください! 私も行きます!」

 

「でも――」

 

 杏は心が不安定だから勇者に変身できないはずだ。ここで大人しく待っているように伝えるべく口を開きかけたが、真剣な眼差しにつぐんだ。

 意を決したように強く友奈を見つめた杏は叫んだ。

 

「行きます!行かせてください! 私はタマっち先輩を守りたいから!! これだけは……絶対に変わらない想いだから――っ!!」

 

 瞬間、杏のスマホが一際輝いた。

 躊躇う素振りもなく画面をタップすると、身体が無数の花弁に包まれた。次の瞬間にはそこに引っ込み思案の弱い杏はいなかった。

 

 ――勇者、伊予島杏。

 

 クロスボウを片手に、自動生成された矢が音もなく装填された。

 これまでの怯えきった態度など幻覚だと言わんばかりに杏は声を張り上げる。

 

「私が助ける!!」

 

 地面を蹴り、超高速で杏は球子の元へと飛ぶ。慌てて友奈も後を追う。

 鮮明に敵の姿を捕捉すると、空中でクロスボウを構え、すでに照準をも済ませてトリガーを引いた。

 ばつんっ! と力強く発射音が響いた。

 放たれた矢は無防備を晒す球子に迫るバーテックスの身体を深々と貫く。続いて連射された矢もその全てが白い身体を抉り、消滅させた。

 だがまだ生き残りがいる。先手を越された友奈は着地するとすかさず球子の前に躍り出た。

 人体のどこを打ち抜けばどのような効果が期待できるのかは頭に叩き込んでいる。しかし人外を相手にするのは話が別だ。

 未知の生物と戦うという恐怖はある。しかし、それは球子を守らねばという強い使命感の前に吹き飛んだ。

 しっかりと大地を踏みしめてバーテックスの前に立ちはだかった。

 

「――こい!!」

 

 バーテックスの敵意が友奈に向けられた。

 靭やかに身体を震わせると、バーテックスたちが一斉に襲いかかってきた。

 だがその速度はあの場所で対決した、精霊付きの大男に比べると屁でもない!

 強化された身体が超反応で突撃を回避する。戦術的ではない単純な動き。やはり人ではないからそういった理性は持ち合わせていないようだ。ならば友奈でも十分対処可能。

 落ち着いて派手に晒す横腹に渾身の拳を叩き込む。

 

「ふッ!!」

 

 表面組織には柔らかさがあるが、中身も柔らかい、ということはなかった。だがこれは逆に良い。打撃の反発力がある方が拳を素早く引っ込められるからだ。

 穿つ!!

 耳障りの良い音を鳴らしてバーテックスの横腹が深く沈み込んだ。

 

「――伏せろ、赤嶺!」

 

 突如、鋭い指示が飛んだ。

 友奈はさらにもう一発繰り出そうとしていた拳を戻し、その場に伏せた。

 刹那、僅か頭上を旋刃盤が舐めるように通り過ぎた。後には綺麗に真っ二つにされたバーテックスに残骸が転がり、改めて勇者の力を思い知らされた。

 

「ひえ〜」

 

 もし指示が聞こえていなければ今頃友奈の身体は上と下でおさらばしていた。

 冷や汗をかいた友奈のもとに息を切らした球子が駆け寄ってきた。むず痒そうにはにかみ、ないマイクでマイクチェックをしてもまだ心の用意ができなかったようだ。

 しかしこのままではよくないと「ぬあああああああ!!」と叫ぶと自分の両頬を叩いた。

 

「杏! それに……ぁ赤嶺!」

 

 そして恥ずかしそうにぽりぽりと頭をかいてからもう一度「ぬああああああああああ!!」と叫んだ。今までずっと疑っていた友奈にどう言葉を投げかければいいのかわからなかった。

 ……ようやく落ち着きを取り戻した球子は普段のわんぱくさのない、大人しげな顔をして口を開いた。

 

「ありがとう……お前たちが来なかったらたぶんタマは……だからありがとう。赤嶺も。お前のこと、完全に見直したぞ」

 

「ふふふ、球子ちゃんはそんな顔もするんだね」

 

 小悪魔風に面白半分でからかってみると、予想以上の反応が得られた。みるみるうちに顔を真っ赤に変え、ぽこぽこと殴りかかってきた。

 

「な、なななな……!! この野郎! やっぱりタマはお前は嫌いだ!」

 

「うわああああタマっち先輩、命の恩人になんてことをー!!」

 

 涙目で友奈の身体を揺さぶる球子に杏が抱きつくという地獄絵図ができあがった。

 

 ◆

 

 ……いったい、私は何をしているのだろうか。

 

 千景は大鎌をふるいながらそんなことを考えた。戦いが始まっても、千景はどうしてもその場から動くことができなかった。

 あれだけ他人を嘲るような発言をしていた癖に、いざとなると手の震えが止まらなかった。足がすくんで一歩も踏み出せなかった。今は高嶋が元気づけてくれたから戦えているが、それでも悔しさを完全に拭うことはできなかった。あれだけ消極的だった杏が果敢にバーテックスに立ち向かい、さらに異邦者の友奈も勇気を出して戦闘に加わった。

 なのに、この体たらくはなんだ。チームの中でただひとりの上級生だというのに。

 

「ぐんちゃん! 自分の力を信じて! 絶対にできる! 私もついてるから!」

 

 先導する高嶋の後ろで千景は思案する。

 ……屈辱だった。遥か前方で、たったひとりで戦う若葉の姿は悔しいがカッコよかった。リーダーだった。逆にチームの不和を生み出していたのは千景自身に他ならない。

 バーテックスを斬り捨てると、どうしてこの程度の敵に怯えていたのかがわからなくなった。そしてさっきまでの自分が恥ずかしくなる。

 ゲームだと常にコントローラーを中継してプレイヤーを操作しているが、今のこの状態を表現するならば、コントローラーのないゲームをしているような気分だ。よりリアルに、より現実を離れて。

 近年話題になり始めたVRゲームの行き着く終着点とでも言うべきだろうか。

 痛みも、恐怖もゲームならない。しかし斬れば斬るほど自分が恐怖に打ち勝っていっていることを実感できるし、それに何より高嶋が傷ついてほしくない。

 負けじと高嶋の隣に出てバーテックスを斬る。

 斬撃。切断。剪裁。

 斬られた身体が霧散し、次々と客がテーブルに並びに来る。それを千景は高嶋との阿吽の呼吸で捌く。

 脳が沸騰しそうだ。だが身体に帯びる熱が千景をより高みへと導く。

 自分の勇者としての力を信じきれていなかった。しかし今は違う。大鎌で断つ時の手応えが肩まで伝わり、興奮を覚える。

 それに。

 

「ナイスぐんちゃん! ほら、やればできるでしょ!」

 

「そ、そうね」

 

 敵を倒す度に高嶋が褒めてくれる。これ以上嬉しいことはない。

 極限まで高まる胸の高鳴り。改めて千景は高嶋友奈という眩しい存在に惹かれた。

 暗く沈んだ水の底からも、この人ならきっと救い出してくれるだろう……。

 

 ――ふと、千景は違和感を覚えた。

 

 バーテックスの数を両手で数えられるくらいにまで減ると、一旦勇者たちとの戦闘を中断し、複数体が一箇所に集まり始めたのだ。

 撤退……? いや違う。こちらに背を向ける様子はなく、文字通り『一箇所に集まった』。自身の身体を粘土のようにぐちゃぐにゃに変形させ、赤く発光する。そうしてひとつの個体へと結合した。

 その姿は生物とはまるで思えないものだった。

 生理的嫌悪感を刺激する奇妙な棒状のボディ。それを中心軸として、朱色の装甲板らしきものがゆっくりと回転している。

 明らかにバーテックスとは別個体。

 

「あれは進化個体です! 皆さん、気をつけてください!」

 

 杏の素早い報告に、離れたところで通常個体と戦闘を継続している若葉以外の全員が顔を強張らせた。勇者たちは当然だが、友奈もこれを知っている。近い未来、これよりも遥かに強いバーテックスが出現するのだが、それは今は考慮する必要はない。頭の片隅に追いやって思考をクリアにした。

 まず先手を打ったのは杏だった。この中で一番遠距離を攻撃できるのはクロスボウ以外他にない。それに様子を窺う意味もある。

 細い指をトリガーにかけ、しっかりと照準を合わせて引き絞った。

 ドドン! と発射口が火を噴いて連続で矢が放たれる。移動先を考えた偏差射撃。間違いなくこれは命中ルート――。

 装甲板が急激に高速回転を始める。そして軸から飛び出すと、螺旋状に滑らかに自律移動して矢を防がんと並んだ。

 矢はその装甲板に接触すると、火花を撒き散らしながらその軌道を反転させた。

 

「ッ⁉」

 

 矢の雨が杏に降り注ぐ。

 

「下がれ!」

 

 と、ここで間一髪で滑り込んだ球子が旋刃盤を盾に変形させてそのすべてを弾いた。

 もし球子が間に合わなければ、間違いなく……。

 

「あ、ありがとう。タマっち先輩」

 

「おう! さっき助けてもらったお返しだ! お返しじゃなくてもお前を守るぞ。しっかし、装甲板かと思ったら反射板なのかあれ……」

 

 旋刃盤を見ながら冷静に考える。

 恐らくあの反射板は並大抵の攻撃では破壊できそうにない。球子の武器ではたぶん絶対的に破壊力が足りない。もしくは反射板を展開していない方角から攻めるべきか。

 いや、そもそもいま判明したのは反射板だけで、本体はまだどんなことをするのかわからない。何もしないただのコアのようなものだと気が楽になるのだが。

 そう考えているうちに、球子の頭上を二つの影が通り過ぎた。

 高嶋友奈と赤嶺友奈だ。

 

「赤嶺ちゃん、いくよ!」

 

「邪魔なものは、壊す!!」

 

 今の攻防で、友奈はこのバーテックスには単純な攻撃方法はないと睨んだ。進化体とはいえ、まだまだ発展途上。こいつは防御に特化した進化形態なのだろう。

 ふたりの友奈が腰を捻り、拳を固める。落下のエネルギーもプラスされ、その速度は星落としとなる。

 

「オオオオオおおッ!!」

 

「勇者――パーンチ!!」

 

 衝突。

 激しい不協和音が轟き、風圧がビリビリと樹海の根を震え上がらせた。

 しかし破壊することは叶わず、傷一つもつけられていない。

 

「「一回で駄目なら、何度でもッ!!」」

 

 高嶋が呼吸を整え、勇者としての切り札を発動させるべく心を集中させた。その間に友奈は重い一撃を繰り出し続ける。

 切り札……それは神樹の内部に概念記録として登録されている無数の精霊、そのうちの一体を身に宿して莫大な力を得る手段。

 検索……今この場に高嶋に最適な精霊……。単発の力が圧倒的に高いもの、もしくは連撃に特化したもの。

 ……数件ヒット。

 その中で高嶋友奈という人間に合致するものをフィルターにかける。

 そして選び出されるは、暴風を象徴する精霊。

 その名も――

 

「――来い、『一目蓮』ッ!!」

 

 高嶋の中で力が爆発する。

 桜色の勇者装束に目に見えて変化が起こる。身体の周囲に白い帯が伸び、髪飾りが片目を覆い隠すほど巨大化し、両の拳に暴風が纏わりつく。

 友奈はその変化に目を見開いた。

 

『友奈が一撃の拳撃を加えれば』『高嶋が二撃の拳撃』『友奈の一撃』『高嶋の二撃』『友奈の』『高嶋の』『友奈の』『高嶋の』『一撃』『二撃』『一撃』『二撃』『一撃』『二撃』『一撃』『二撃』『一撃』『二撃』『一撃』『二撃』『一撃』『二撃』『拳撃』『拳撃』『拳撃』『拳撃』『拳撃』『拳撃』『拳撃』『拳撃』『拳撃』『拳撃』『拳』『拳』『拳』『拳』『拳』『拳』『拳』『拳』『拳』『拳』『拳』『拳』『拳』『拳』『拳』『拳』『拳』『拳』『拳』『拳』『拳』『拳』『拳』『拳』『拳』――――!!

 

 加速。加速! 加速――!!

 どこまでも天井知らずに速度が増す。友奈は祝詞付きだからここまでついてこられたとはいえ、ついに高嶋の速度に追いつかなくなった。

 スーツが擦れて破けそうになっている。拳が真っ赤に腫れ上がり、神経が剥き出しにされているかのようだ。両腕が痺れ、足腰が立たなくなり、ついに反射板から落下する。

 受け止めたのは、杏だった。

 豊満な胸部に包まれ、やや複雑な気持ちになる。

 

「大丈夫ですか、赤嶺さん⁉」

 

「あたたた……大丈夫だけど……流石に疲れたよ……」

 

 見上げると、未だ衰える様子のない高嶋が拳を放つ。放出されるエネルギーが周囲の空間を飽和させ、暴れる風となって吹き荒れる。

 止まらない。

 ぴしっ。

 と、僅かな亀裂が入った。瞬間、爆風がより一層暴れた。

 風が反射板を刺す。叩く。砕く。貫く。灼く。

 そしてついに、高嶋の渾身の一撃が破壊する。

 ……金属がへし折られるような硬質な音と共に、さあああ……、とバーテックスは消滅した。

 これで残るのは、若葉が相手をしている一体だけだ。

 切り札はその名の通り、最終手段だ。まだ勇者システムが完全に確立されていない現在、安易に手を出すべきものではない。人の身にどのような負担をもたらすか判明していないという不明瞭な部分もあるからだ。

 それを、高嶋は知っていながら行使した。

 

「本当は私が先にするつもりだったんだが……」

 

 リーダーだから、その安全性を確かめるためにも前々から一番に使うのは私だと意気込んでいたが、すでに終わったことは仕方ない。

 最後の一体が大口を開けて最後の抵抗とばかりに若葉に襲いかかる。だが、それを小さくステップして躱し。

 

 喰らいついた。

 

 少し硬いこんにゃくのようで、喰いちぎるには難しくなかった。食感はコリコリとしたもので、しっかり歯で身をすり潰した後、ごくりと飲み込んだ。

 

「……不味い。ふやけたイカのようだ」

 

 きちんと食レポまでした若葉を見て一同が顔を引つらせる。

 天然属性は周知の事実だったが、まさかこのような暴挙に出るとまでは思いにもよらなかった。

 

「さ、さすが乃木若葉サマ。こっわ〜い」

 

 場を和ませようとふざけてみせた友奈の声もどこか浮ついている。

 

「乃木さん……それはちょっと……」

 

 千景が嘆息し、

 

「……タマ、若葉の恐ろしさがよ〜くわかった。まる」

 

「そ……そうだね」

 

 と球子と杏が呆れ返る。

 勇者たちの初陣は勝利を収め、若葉の宣言どおり、バーテックスにとって初敗北の日となった。

 

 ◆

 

 樹海化が解け、地面を埋め尽くしていた根が消滅する。世界はもとに戻り、いつもの光景へと変化した。

 そして、若葉たちはもう一度食堂へと集合した。ちなみにきちんと皆の手元には熱々のうどんが並んでいる。料理人の人に友奈の存在を知られないようにうまく立ち回ってのうどんゲットである。代金は若葉に払ってもらった。友奈が『ひなたちゃんの前で「バーテックスの味はどうだった?」って訊くよ?』と耳打ちすると快く財布の紐を緩めてくれた。

 話のわかる人で助かる。

 

「……さて。樹海化の前に話そうとしていたが……赤嶺をどうするかだ」

 

 若葉が友奈を一瞥する。

 だいたい友奈が樹海化の影響に巻き込まれなかったのは、未来で友奈が神樹に認められているからだろう。

 だがそんなことはどうでも良くて、勇者でないはずの者が樹海に入り込み、その上で戦果を上げたという事実に着目しなければならない。

 これは明確な歴史への介入だ。まだ大社には戦闘の詳細な報告はもちろん、赤嶺友奈の存在も報告していない。しかしバレるのは時間の問題で、今後も樹海化が起きれば否応なく合流してしまうだろう。

 だから友奈と大社との衝突は避けられない。

 

「もう正直に話してみればいいんじゃないですか? 未来人であることだけは伏せて。恐らく今回の戦いは他の巫女たちに神託として知られているでしょうし。このままでは赤嶺さんの住む場所すら得られないですよ? もし私たちのうちの誰かの部屋に居候をさせるにしても、いつかはバレます」

 

 ひなたはとんとん拍子で事実を並べた。

 

「だがひなた。そんなことをしたら赤嶺の存在はどうなる? 今晩にも大社は戦いの勝利と同時に私達のことを世間に公表するつもりなのだぞ」

 

 勇者はこの時代では五人しかいない。そうでなければならない。

 なのにもうひとり現れたとなると、大問題へと一気に昇華することは目に見えている。

 大社が友奈を公表するしないて言えば、恐らくしないだろう。その上で裏で友奈を勇者として扱い、戦力として抱き込もうとする可能性はある。なにしろ高嶋友奈と瓜二つだ。何かを勘ぐるには十分すぎる理由だ。

 

「もしこの時代にいるのなら、私の部屋でよければいいですよ。赤嶺さんには本当に感謝していますし」

 

「な、ななな、杏⁉」

 

 突拍子のない提案に誰よりも驚いたのは球子だった。

 

「タマは認め……! いや……でもまあ助けてもらったしな……」

 

 なぜ杏の部屋に住むのに球子の許可が必要なのかわからないが、友奈がこの時代で生きる道筋は見えた。

 それでも根本的な解決策、『大社にどう説明するか』がまだ曖昧だ。こればかりはたかが中学生の浅知恵では妙案が思い浮かばないのか……。

 

「――じゃあさ、私の双子ってことにしない? そしたらそれを理由に私と住めるし、大社も悪いようにはしないはずだよ?」

 

「高嶋さん⁉」

 

 勢いよく椅子から立ち上がった千景は運悪く膝を角にぶつけ、苦虫を万匹噛み潰したような顔をした。

 

「……悪くないですね。ではそういう方向でいきましょうか。若葉ちゃんもこれでいいですか?」

 

「うむ。友奈の双子で、今まで理由があって別居していた。で、樹海化のおかげで再会した。こんな設定だろうか」

 

「そうですね。友奈さんもこれでいいですか?」

 

「「オッケー……あ」」

 

 つい赤嶺の友奈も反応してしまった。声も全く同じで、それがなんだか面白くて吹き出してしまった。

 

「あははは! 赤嶺ちゃんとならやっていけそう! 絶対楽しい日々になるよ!」

 

「そうだね! よぉし! 頑張るぞー!」

 

 えいえいおー! と元気よくふたりが腕を突き上げた。

 その瞬間、友奈の手首から鋭く空気の抜けるような音が鳴った。咄嗟に視線を下に向けると、あの腕時計が奇妙な機械音を垂れ流しながら、デジタル表示されていた時計がかき消された。

 そして『Time Limit!』と代わりに表示され、次に現在の時代であるA.D.2018と白い文字が浮かび上がった。さらに女性の機械音声が『任意の数字を入力してください』と再生された。

 別の簡易ディスプレイが中に現れ、

 

『神世紀――』

 

 と未来の年号が。

 これは考えなくてもわかる。また時間遡行をしようとしている! 高嶋たちはまだ状況を理解できていないようだ。

 今ここで元いた七十二年と言えば友奈は帰ることができる。落ち着いて冷静になろう。ひとまず深呼吸をしよう。間違えないように気を付けなければなら――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「数字ぃ? じゃあ三百で! 今日のタマのラッキーナンバーだからなっ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そう上機嫌で言ったのは球子だった。まだ心の準備もできていなかった友奈は全身から汗が噴き出た。横入り音声を認識した腕時計は即座に反映し、ディスプレイに『神世紀三百年』と次に飛ぶ時代が確定された。

 数字のインデックスが友奈の足元から舞い上がり、瞬時に失敗したと理解する。

 入力された年は友奈のいる時代よりも遥かに先、二百年以上も未来だ! どんな世界に放り出されるかなんて想像すらできない!!

 今度は簡単に飛ばされてやらない! 友奈は腕時計を外すべくガチャガチャと弄り始めた。

 

「赤嶺ちゃん!!」

 

 高嶋が手を伸ばして腕時計に触れる。

 

「は、放して! 放さないと……!」

 

「でもそれ今すぐ外したいんでしょ⁉」

 

「そうだけど……!」

 

 だが一般的なものとは構造が違っているせいでどうやって外すのかまるでわからない。手首に巻き付いたときもこいつはひとりでに動いた。意思とは関係なく振り回される。機械生命体のト○ンス○ォーマーかと本気で疑ってしまう。そしてふたりの健闘は虚しく、ついに追加人員と認識された高嶋も一緒に身体が分解され始めた。

 まずいまずいまずい!!

 間違いなく人生で一番焦りを覚える。これは夜中に人目を盗んでプロテインを摂取しようとしたが、それを蓮華に見つかったとき以上に焦っている。

 これは過度な歴史介入だ。依然として腕時計を外そうと頑張ってくれている高嶋には悪いが引き離そうとするも、すでに食堂という空間から切り離されていた。

 あ、これはダメだ。

 急速に思考が停滞し、賢者状態に入った友奈は全身の力を抜いた。

 

「高嶋ちゃん、もう……」

 

「あ、あれ⁉ 皆は……⁉」

 

 ようやく置かれた状況を理解した高嶋はようやく手を放した。

 いったい帰れるのはいつになるのか……。投げやりな気分になった友奈は、観念したように空を仰いで長い長いため息を漏らした。

 

 ◆

 

「……ゴホっ。一足……遅かったか」

 

 ◆

 

 そしてふたりは時を越える。

 そこは、結城友奈が守り抜いた世界。

 そこは、結城友奈が目覚めぬ世界。

 三人の友奈が揃い、天の神への戦力が

 がががががががか戦がが力ががが、ががかガががが、がが。かガガガガ。ガガがががががかガガ、ガ、ガガガガ。ガガガガガガガガガガガガガガガガ、ガがががががガか――――――




赤嶺友奈は土居球子に救われた

お疲れ様でした
これで友奈’sが一つの時代に集結。キャッキャウフフなことになるといいなあ!
ドキドキな展開を頑張って広げるつもりですー^^
ここで【プロローグ】が終了です。長かった……笑

それではまた次回!

【Information】
▼征矢の派遣に成功。しかし赤嶺友奈が神世紀三百年に飛んだため処分失敗
▼強引な派遣により、征矢の再派遣に整備が必要
▼処分対象人物に高嶋友奈を追加
▼終了


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初めまして。さようなら

前回のあらすじ
高嶋友奈
赤嶺友奈
結城友奈
集結
ゆゆゆ世界、加速


 天地が逆さになったのか?

 平衡感覚がかき乱されて地面に這いつくばっていた赤嶺は、二度目になってもやはり慣れない時間遡行に激しく喘いだ。ぐわんぐわんと頭が痛む。気分は……悪い。しかし前回と同じように吐き気までは催していない。

 目一杯呼吸をした後、力の入らない腕でなんとか身体を起こす。

 ここは……どこだろう。比較的はやく視界を取り戻した赤嶺は、狭い裏路地に投げ出されていることを理解した。過疎な場所で、周囲には目撃者はいない。それにここは人目にもつかず、出現した場所は幸運と言えるだろう。頭を横に傾けると、裏路地を抜けた先には道路が伸びていて、車が走っていることが確認できる。

 スーツの傷ついた部分からひんやりとした風が入り込み、身震いした。まだ夕方頃だというのにこの寒さというとこは、おそらく季節は秋……いや、冬だろう。

 すぐ側の壁に寄りかかり、途端、一緒について来てしまった高嶋の存在を思い出す。腕時計を外そうと尽くしてくれたのに、こんなことになってしまってとても申し訳ない気持ちでいっぱいだ。

 

「高嶋、ちゃん……」

 

 視界が不明瞭だ。

 それでもなんとか隣に倒れていた高嶋を発見して抱き寄せた。

 刺激を受けたからか、小さい呻き声とともに薄っすらと目を開けた。

 

「赤嶺ちゃん……? ここ、どこ?」

 

「……ここは神世紀三百年のどこか。高嶋ちゃんの時代から三百年先の未来だよ。……大丈夫? 気分はどう?」

 

 ゆっくりと周囲を見回した後、高嶋は赤嶺に身体を預けた。やや呼吸が荒く、顔色も悪い。

 

「ごめん、ちょっと悪いかも……。それに……寒い」

 

 高嶋にとってはこれが初の時間遡行だ。身体が慣れていないのだろう。すぐに平常に戻るはずだが、それでもバーテックスとの戦闘を終えて半日も経っていない。勇者の皆と一緒にお風呂には入ったものの、疲労が抜けたわけではない。

 奇想天外なことが起こりすぎて流石の赤嶺も疲れてしまった。だがここで眠りに落ちるのは駄目だ。スーツによってなんとか体温調節ができる赤嶺はいいが、高嶋は別だ。服装は夏服で、半袖で長い靴下を履いているわけでもない。

 高嶋は小刻みに身体を震わせ、なんとかして暖まろうとしている。

 

「移動しようか。どこか身体を暖められる場所に」

 

 すると、赤嶺に身を寄せていた高嶋が急に立ち上がった。

 まだ不調が治まっていないのに、と宥めようとしたが、それより先に高嶋が言った。

 

「……いや、それはダメだよ。そんな格好で外を歩いたら怪しまれることくらい、私にだってわかるもん」

 

「まあ……そうかも」

 

 どこぞのコスプレと勘違いされても仕方のないスーツ。それを中学生がしているところを目撃されれば間違いなく目に止まる。最悪通報でもされて警察に御用となることもあり得る。

 それはなるべく避けたいところ。問い詰められて、大昔の個人情報を話しても八方塞がりになるだけだ。

 

「私が服を買ってくるよ! お金もあるから! それまで赤嶺ちゃんはここで待っててくれる?」

 

 スカートのポケットから、可愛らしい花が刺繍された財布を見せつけながら高嶋が提案する。

 果たしてひとりで行かせていいのか考え込んでしまう。ここは遥か未来。さっき通り過ぎた車から察するに、文明レベルが飛躍的に進歩しているわけではなさそうだ。

 しかし高嶋友奈という人間はあまりに純粋すぎる。赤嶺の未来人であるという告白をなんの疑いもなく信じてしまうほどだ。千景が過保護気味になるのも仕方ない。老若葉の伝聞でも相当だが、過去に飛び、実際目にすると壮絶だった。

 

「……わかった。気をつけてね。変な人に絡まれないように」

 

「大丈夫! そういうのはぐんちゃんに口を酸っぱくして言われてるから!」

 

 あまり説得力のないセリフだが、そう言って高嶋は路地裏から飛び出た。その後ろ姿を心配そうに見つめる赤嶺は、待っている間、これからについて考えることにした。

 まず目的を明確に。

 目的は、もとの時代に帰ることだ。

 そのためには腕時計が必須で、これを本来の役割である通常モードから時間遡行をさせる――ドライブモードと呼称する――モードへと移行させなければならない。しかしその方法は不明で、何がトリガーとなるかわからない。一度目は腕時計に触れた時。二度目は本当に突然。【Time Limit!】とオーバーレイ表示されていたから、もしかすると別の時代に留まるのには時間制限があるかもしれない。この予測を今回にも適応するならば、また制限を迎えると勝手にドライブモードになるはずだ。

 今は完全に電源が落ちているようで、今なら外せるかと思って試しに弄ってみると、まさかのあっさりと外れてしまった。

 

「えぇ……嘘ぉ」

 

 確認しても円形の表面には特にこれといっまた細工はなく、普通の腕時計と構造は同じように見える。

 別に赤嶺は専門家ではないから詳しいことはわからない。だから今後機械に詳しい人と会うことがあれば、その時に訊けばいい。

 ひとまず第一にすることは、高嶋との情報の共有と、目的の一致だ。

 腕時計を腰のポーチにしまい、赤嶺はカラスたちが横切る赤い空を見上げるのだった。

 

 ◆

 

 東郷は友奈そっくりの少女の言葉に目を見開いた。落ち着いて高嶋友奈という人間を観察すると、違和感を覚える点はいくつかあった。

 まず服装だ。制服なのはわかるが、明らかに讃州中学のものではない。それに、纏う雰囲気も微妙に違う。

 どうやら人違いだったようだ。虚しさが胸の中をを支配し、熱が急速に冷めていくのを感じながら東郷は謝ろうとした。

 

「高嶋友奈…………え……? いやそんな……」

 

 その時、隣の園子がゆっくりと言葉を発した。これまで見せたことのない驚きの顔で高嶋を見つめる。

 

「あの……もしかして乃木を知ってますか……?」

 

「乃木? 若葉ちゃんのことですか? はい、知ってますよ!」

 

「――――」

 

 まず、神世紀において、初代勇者の名を呼ぶときは必ず『様』をつけるのが一般的だ。それを下の名前に『ちゃん』をつけ、まるで友達のように呼んでみせた。

 普通ならば失礼極まりないとなるはずだが、この少女にはそうはならない。

 なぜなら高嶋友奈とは西暦の末に生きた人物であり、

 

「――初代勇者様」

 

 であるからだ。

 ……いいや、もしかするとこれは園子の思い込みがすぎただけで、この推測は間違っているかもしれない。そもそも過去の人間がここにいるということはあり得ない。

 しかし友奈にあまりに似ている。西暦以降、産まれるときに特定の行為をした人間に『友奈』という名がつけられる。それは他ならぬ高嶋友奈の没後にできた慣習だ。だから特別な名を持つ結城と似ているというのは、これ以上にない証拠。

 それは、高嶋が未来へ飛んだ事実が確かならばという土台のもとに成り立つ。

 

「そうですかー。じゃあ乃木若葉様が初陣で敵に呑み込まれたって秘密、知ってますか?」

 

 だからカマをかけることにした。

 すると高嶋はおもろしろおかしく笑ったあと、

 

「あははは! そんなことはないよ! 若葉ちゃんは逆にバーテックスを食べたんだから!」

 

 と言った。

 ――間違いない。

 乃木若葉が初陣でバーテックスを食べるなどという怪行動は歴史には刻まれていない。それは勇者としてあまりよろしくないものだったからだ。その事実を知っているのは、当時一緒に戦っていた勇者たちと、現在まで言い伝えられた乃木家の人間だけだ。

 園子は確信と同時に困惑に支配された。

 これはどう考えても異常。大赦に感知されれば光の速さで大問題になることは火を見るより明らかだ。

 

「高嶋さん……高嶋様は西暦の人間ですよね?」

 

 園子の質問に、水を打ちつけたような静けさが流れた。

 突然確信をぶつけられ、高嶋は目に見えて困惑し始める。反応からみるに当たりだ。とても演技には見えない。

 

「私は乃木若葉の子孫、乃木園子といいます。もし本当に高嶋様が初代勇者様ならば、今のこの状況は看過できません。まずは状況を把握するために色々とお話を聞きたいのですが……」

 

「確かに若葉ちゃんの面影があるような……。で、でも知らない人の言葉をすぐに信じちゃ駄目ってさっきも釘を刺されて……!」

 

「それは誰にですか?」

 

「ひ、秘密。でも……子孫なのが本当なら、信じていいんですか?」

 

 懐疑的な物言いなのは仕方ない。突然東郷に抱きつかれ、友達の子孫と名乗る人に問いただされるなんて。

 いったいいつからこの時代にやって来たのかはわからないが、一刻も早く詳細を聞き出さなければならない。

 東郷はようやく直面している事態を理解できたらしく、目を丸めた。

 

「……そのっち」

 

「まず事実を受け止める。その後で経緯を考えるの。……じゃあ高嶋様。今困っていることはありませんか? その手伝いをさせてください。それで私達が信じられるかどうかを判断していただければ」

 

 絶対にこの場から高嶋を離してはならない。そんな焦燥に駆られた園子が食い下がる。

 差し出がましかったか? 少し強引に踏み込んでしったのではと口走った後でミスを悟った。園子らしからぬ言動に東郷は眉をピクリと上下させるが、無言を貫く。

 しかし、悪い方向には進まなかったようだ。

 

「じゃあちょっとだけ……でも私だけじゃ決められないのでついてきてもらっていいですか?」

 

 もちろんと園子は首肯した。

 高嶋に遭遇するまでは帰ろうと考えていたが、それはすでに吹き飛んでいる。

 

「わっしーはどうする? これ、すごく大事になると思うけど」

 

「ついていくわ。だって友奈ちゃんに似た人が困っているんだもの。それに私は勇者部だから、ね?」

 

 東郷の二つ返事を得た園子は高嶋にナビをお願いする。さきほどから手にぶら下げている洋服店の買い物袋が気になるが、それを追及するのはやぶ蛇だろう。

 夏服なのにふたりよりも元気に歩き始めた高嶋の後ろについていく。と、ここで唐突にいたいけな突風が吹き、高嶋のスカートの裾が優しく持ち上げられそうになった。その瞬間、恐るべきスピードで手で押さえつけたことにより、ラッキースケベが降臨することはなかった。

 

「見ました?」

 

「見てません」

 

 タイムラグなしに返す。

 初代勇者部様の下着を覗きこもうなどとあまりに恐れ多いことは流石の園子も自重できる。それ以外ならと問われると場合によると答える。

 やがて人の密集地帯から離れ、人がまばらに歩く歩道を進む。さらにそこを突き進んだ先に、裏世界へとつながっていそうな薄暗い路地裏へと案内された。

 髪を金色に染めた青年たちが、ガンを飛ばしながらのっそり姿を現すかと偏見の塊を抱いた東郷は思わず身構えてしまう。

 しかしそんなことはなく、路地裏に足を踏み入れると、ひとりの少女が壁にもたれて静かに佇んでいた。横顔しか見えないが、陶器のような小麦色の肌に、高嶋よりも彩度の低い髪色……桜色で、眉がつり上がっている。その容姿を評価するならば……『日焼けした結城友奈』が相応しい。

 そして、なにより気になるのはその格好だ。スクール水着のようなぴっちりスーツに身を包み、それでいて肩や胸などに装甲のようなものが張り付いている。どう見ても水泳用ではないことは明白だ。

 少女は三人の存在に気づくや否や、獣じみた反応速度で飛び上がって距離を取った。敵意の滲んだ鋭い眼差しをこちらに向け、いつでも攻撃できるぞと密かに告げている。

 

「誰?」

 

 ドスを効かせた声。

 園子と東郷は反射的に身構えた。

 一瞬にして場が邪険なものへと変化する。

 しかし。

 

「待って待って! 赤嶺ちゃんストップ!」

 

 両者の間に割り込んだ高嶋が両手を突き出して止めに入った。すると案外すんなりと赤嶺と呼ばれた少女は姿勢を崩した。だがいつでも攻勢に出られると言わんばかりの眼差しを向けてきている。

 

「大丈夫、この人たちは悪い人じゃないよ。乃木……園子さんだっけ? その人が若葉ちゃんの子孫っていうの」

 

 すると赤嶺は限界まで肩を上げると、とてつもなく長いため息を吐いた。十秒ほど続くレベルの驚くべき肺活量。

 まだ警戒は解いていないようだ。

 

「そんなご都合展開、本当にあると思ってるの? だとしたら相当おめでたいよ?」

 

「むぅ。ちゃんと私も考えたもん! 考えた上で、連れてきたんだから! それにほら、私たちここに来て少ししか経ってないし」

 

 頬を膨らませて主張する高嶋を酸っぱい顔で聞く。さっそくこちらから情報を与えてしまっているんだよなあ、とひとりで行かせたことを後悔しつつ東郷と園子を一瞥した。

 

「まあ……ブロンズヘアの子が乃木園子なのかな? じゃあ、あなたは誰?」

 

 腕を組んで壁にもたれかかる。横目で睨むように東郷を見る。

 園子と同じように初代勇者の子孫……というわけではなさそうだ。若干ひなたに似ているかと思ったが、纏っている静かなオーラのベクトルが異なる。

 

「私は東郷美森です。そのっちと同じ部活に入っています。あなたのお名前を伺っても?」

 

「……赤嶺友奈だよ」

 

「赤嶺……友奈……」

 

 ひと目見たときから、そうである可能性はあっただろう。

 上の名前は違うが、下は同じ。

 結城友奈。

 高嶋友奈。

 そして赤嶺友奈。

 ふと隣の園子のほうを見やると、難しそうな顔で赤嶺を観察していた。

 

「そのっちは赤嶺さんのこと知ってる?」

 

 赤嶺家は東郷でも知っている。大赦の中でも乃木家などには及ばないものの、力のある家系だ。さらに、園子のほうが東郷よりも遥かに知識があるはず。しかしいまいちピンときていないようで、首を傾げたままだ。

 

「うーん、赤嶺友奈という人間なら知ってるよ。でも、どんなことをした人なのかはわからない。私も大赦の中ではある程度の地位はあるけど、それでも知らないこととか普通にあるしね」

 

「それはそうだよ。そういう御役目に就いているからね。教えてって言われても言わないよ。あ、高嶋ちゃんには言ったけど、それは初代勇者様だから。ふたりには絶対に教えないでね」

 

 正直にふとした時に口走ってしまいそうな危惧はあるが、忠告するしないでも大きく心持ちが異なる。

 

「それで? どうしてこのふたりを連れてきたの?」

 

「助けてほしいからだよ。このままじゃ私たち、野宿だし……」

 

 二度目の長いため息。

 悪意なく情報を垂れ流しているのはわかっている。指摘されたことが事実であることもわかっている。しかしタイミングだ。

 これ以上話させると不都合が生じると判断した赤嶺は高嶋の手を掴んでこちらに引き寄せた。

 

「……まあ、今言われたとおりだよ。私たちは本当についさっきここに飛ばされたばかりで右も左もわからない状態。そんなのでも助けてくれるの?」

 

 園子と東郷を赤の他人と思っているように、高嶋、赤嶺も赤の他人と思われている。懸命に媚びてすらいないのに助ける理由がないはずだ。

 ふたりの口元を見る。視線の動きを見る。些細な指の動作まで見る。そこから機微を感じ取り、嘘を見抜こうと目を凝らす。

 一歩前に出たのは東郷だ。僅かに表情を曇らせたが、すぐに改める。

 

「もちろん助けます。だってそれが勇者部ですから。でもそれとは別に……どうしてもあなたたちが友奈ちゃんに重なってしまってしまうという理由もあります」

 

「ふむふむ……この時代にも『友奈』がいるんだね?」

 

 すると東郷の反応は明らかに変化した。

 

「ええ、勇者結城友奈が」

 

 それは決してブレない、芯の強い言葉だった。観察しても嘘偽りを疑わせる素振りはまるでない。

 

「ふーん、この時代にも友奈も、勇者もいるんだ。でも正直理由なんてどうでもいいよ。助けてくれるなら遠慮なく助けてもらう。それで? どうやって?」

 

 東郷はポケットからスマホを手に取ると、画面を手慣れた速さでスワイプさせる。

 

「友達を呼びます。『悩んだら相談』。ですから」

 

 それから十分ほど後、やって来たのは夏凛と風だった。寒さのせいでふたりとも鼻の先が赤い。暖まろうと手に吹きかけた息が白くなる。

 もう夜だ。空はすっかり暗くなり、骨をも凍らせそうな寒風が寂しい音を奏でながら静かに吹いている。

 おーさみさみ、と率直な感想を述べた風はマフラーに鼻まで埋める。裏路地に入る角で東郷と園子を見つけると、夏凛と並んで小走りで近寄ってきた。

 

「待たせたわね東郷。ごめん、樹はもう遅いから家に置いてきたわ」

 

「いえいえ、こちらこそ遅い時間にすみません。風先輩」

 

「なーんか人気のないところね」

 

 夏凛が辺りを見回しながらそんなことを言った。

 

「んで? どしたの?」

 

 飄々とした物言いの風を、園子は口を結びながら真剣な眼差しで見つめた。たったそれだけで『ちょっとしたこと』ではないと悟り、すぐに態度が変わった。

 

「どうしたの? 部長に話してみなさい」

 

 園子と東郷は互いに顔を見合わせるとひとつ頷き、踵を返した。

 

「ふーみん先輩、にぼっしー。これから見せるものはとんでもないことだから、心の用意をしてね」

 

「とんでもないって……まあ、わかったわ。あとにぼっしー言うな」

 

 裏路地への角を曲がる。するとそこには購入した私服に着替えていたふたりの友奈が待ち構えていた。

 東郷は目を見開く二人を見ながら、高嶋を見た瞬間の自分もこんな感じだったのかと客観的に見せつけられる。

 

「「――――――」」

 

 ふたりを見た風と夏凛が完全にフリーズする。解けたかと思いきや、懸命に言葉を発しようとしてもできず、ぎこちない動作で指先を動かすだけだった。

 

「友、奈……? あんた、目が覚めたのならはやく言いなさいよ……」

 

 風が震える足取りで一歩前に踏み出すと、速やかに高嶋の前に赤嶺が立ちはだかった。

 

「……なるほどね。あなたたちはよほど結城友奈という人間に思い入れがあるようだ。でも残念。この子は結城友奈ではないよ」

 

「は……? いや、どう見ても友奈でしょ。それにあんたも……友奈……?」

 

「私は神世紀七十二年からやって来た赤嶺友奈。こっちは西暦からやって来た高嶋友奈――初代勇者様だよ」

 

「ちょ、ちょっと待って……追いつかない……乃木、どうなの?」

 

 額に手を当てて後退った風が振り返って園子に真偽を確かめようとする。

 

「全部本当だよ。方法は知らないけど、ふたりは過去から未来に来てしまったそうなの」

 

「そんなことってSFとか映画だけの話でしょ……? 初代勇者様? 話が飛躍しすぎて……」

 

「――あっそ。だいたいわかったわ。どう対応したらいいのかわからなくて私達を呼んだのね」

 

 夏凛は風とは違ってかなりドライな反応だった。

 

「いい判断よ。で、私たちにどうして欲しいの?」

 

 東郷はもちろん、園子もあまりの順応ぶりに驚愕する。

 これは予想しておらず、宥めるのに少し時間を要すると考えていた。風は感情の突起が激しい人物だから、狼狽するのは予想できていた。夏凛はマシな方かと流していたが、新たな性格の一端が見られた。

 

「ふたりの保護を。それも大赦には知らせず、なるべく私達で」

 

 園子の端的な回答に、夏凛が少し考え込む。

 

「……園子の家はどう考えても無理。東郷は親に迷惑がかかる。対して私と風は……ってことか。なるほどね」

 

 驚くほどの頭の回転の速さに勇者部からの夏凛への評価が上がる。

 

「でも高嶋と赤嶺? はいいの? 見ず知らずの私たちの家に入るとか」

 

「春とかだったら野宿で凌ぐのもありだと思ったんだけどね。でも冬だし。それに私も高嶋ちゃんも疲労しているから休む場所が欲しい。対価はもちろん払う。『友奈』という名前があなたたちに効果があるのならそれに乗っかるしかない。背に腹は変えられないからね」

 

「あんた、絶対友奈より頭良いわ」

 

 冷静に状況を分析し、またそこから脱しようとするために最適な方法を模索する論理的思考力。友奈にもこれくらいしっかりしていればな、なんて心の中で淡く笑った。

 

「いいんじゃない? どうする風? 離れ離れで泊めるのはあまり良くないでしょうから、どっちかの家にってことになるけど」

 

 ようやく落ち着きを取り戻した風は肩を脱力させると、重々しいため息をついた。

 部長として冷静に対応しなければならない場面を、ひとつ下の夏凛にすべて肩代わりさせてしまった。樹がいたら、幻滅されていたかもしれないという自嘲を含ませる。

 結城友奈は目覚めていない。そこは決して違えてはならない事実だ。そこに瓜二つの少女が現れればそれは『そう』考えてしまうだろう。

 改めて己の認識の甘さを恥じた。

 園子も言ったはずだ。そう簡単な話ではない。

 

「とりあえずあたしの家に来なさいな。ここは年長者に任せておきな……あ、ふたりはたぶん中学生よね? 何年?」

 

「「二年」」

 

 学年を確認した風は軽く咳払いをした。

 

「こほんこほん、ではもう一度。とりあえずあたしの家に来なさいな。ここは年長者に任せておきなさい!」

 

 胸を張って風は威勢よく言いきった。

 樹には突然で悪いが、きちんと説明すればわかってもらえるはずだ。それに人数が多いほどきっと楽しいはずだ。

 部屋は少し窮屈にはなるが……まあどうとでもなるだろう。

 

「じゃあそういうことでいいわね? 私は犬吠埼風よ。えー、高嶋と赤嶺だっけ? ついてきて!」

 

 ◆

 

 翌日、友奈の病室には東郷が訪れていた。

 ぼた餅の入ったタッパを手に、友奈の横たわるベッドの横に立つ。それを側の棚に置くと、鉄パイプの椅子を手繰り寄せて腰を下ろした。

 

「…………」

 

 これまでずっと、ほぼ毎日語りかけた。聞こいてくれているという保証はない。それでも語り続けた。

 

「昨日ね、私の家に大赦の人が来たの」

 

 赤嶺と高嶋を連れた風と別れ、夏凛と園子とも別れ、ずいぶんと遅い帰宅を待っていたのは両親だけではなかった。

 

「遠い所に行ってくる。もう、戻ってこれないくらい、遠い所へ」

 

 友奈の顔に優しく触れた。

 相変わらず生気の感じさせない冷たさに思わず歯噛みする。そもそも友奈をこのような目に遭わせたのは東郷だ。

 だから、償いをしなければならない。風の気遣いは、あまりにも東郷には残酷だった。

 皆は……優しすぎる。本当はあの時責めてくれてよかったのだ。……寧ろ責めてほしかった。そうすればこのやるせない気持ちも少しは楽になっていたかもしれない。

 それが今になって機会を与えられた。これに応えなければならない。ならないのだ。

 目にかかった前髪を払いのけ、東郷は顔を近づけた。

 

「……さようなら友奈ちゃん。せめて、あなたがいつか目覚めますように」

 

 そして、キスを友奈の額に落とした。

 ……甘い甘い果実の味がした。これまでの人生で味わった中で極上のものだった。

 最期の別れにはもったいないほどで、東郷は様々な感情が混じり合いながらも踵を返し、病室を出ようとドアに――

 

「――ぁ。あ、ぁ――――」

 

「――――!?」

 

 突然聞こえた掠れ声に、東郷は息を呑んだ。

 振り返ると、友奈がこちらに手を伸ばし、顔を向けていた。

 濁った目からは大粒の涙を止まることなく流し、何度も何度も意味をなさない音を発していた。その姿はまるで、東郷を引き止めるかのようだった。

 

「……ッ! 友奈、ちゃん……!」

 

 思わず戻ろうと衝動的に身体が友奈の方に向いたが、奥歯が割れるほど強く噛み締める。

 もう決まったことだ。東郷はもう二度とここには戻ってこない。

 そう、決めたのだ。

 

「ああ――、ぁぁあ――」

 

「……ごめんね。それでも行かないといけないの」

 

 握った拳から血が流れる。

 小さく頭を振った東郷は、顔をくしゃくしゃにしたまま、今度こそ病室をあとにした。

 ……安置されていた友奈のスマホが淡く発光する。数か月放置されているからもちろん充電は切れているはずだ。花弁を撒き散らしながらスマホから出現したのは牛鬼だった。ぱたぱたと小さな翼を羽ばたかせながら友奈の頭上を三周ほど飛び回ると、友奈を見下ろす形でその場でホバリングする。

 その表情からは何を考えているのかは誰にも分らない。

 すると唐突に牛鬼は友奈に背を向けた。そのまま壁をすり抜け、どこかへ飛び去ってしまった。

 何を考えているかはわからないが、明確な目的地があるような、迷いのない去り方だった。

 

 ◆

 

 結城友奈を……返して。

 

 ……これは欠片だとか、残滓だとかそのような形のあるものではない。

 燃やしても燃やしても。

 斬っても斬っても。

 絶対に残ってしまう『何か』。名前のないそれは、もはや人の認識を超えている。

 ##は底をたゆたう。

 生きたいと願った。でも、駄目だった。

 結城友奈の肉体は終わり、こうして『何か』は人から剥離され、囚われる。

 視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚。

 その全てが感じられない。擬似的な死の状態で、ずっと……ずっと##は在る。

 壊れそうだった。果たして自分が何であるかすら忘れそう。

 だからこそ、強く願うのだ。

 

 結城友奈を、返して。

 

 これが唯一自我を保つ方法。

 結城友奈。その名前は、讃州中学の二年生で、勇者部に所属する勇者である人物の名前……のはずだ。

 忘れるな。忘れるな。

 ##が忘れてはならないものは他にもある。

 約束を……した。それが誰とのものだったのか、ふやけて思い出せない。でも、とても大切であることは覚えている。

 

 ――削ぎ落とされる。

 

 より人らしさ……人間性が削られていく。氷が溶けるようにじわじわと。あとに残るのは何だろう。それが##にとってはあまりにも恐ろしいことだった。

 この水銀の底に沈んでからずっと、自問自答を繰り返す。

 私は何だ?

 結城友奈とは誰のことだ?

 他に何を、覚えている?

 

 ……不意に、妙な喪失感を覚えた。

 

 それは、初めて##に届いた人間的な感覚だった。

 同時に、今、目覚めなければならないことを理解した。

 なんとしてでも、絶対に。

『何か』に対して必死に鞭を振るい、行動を起こさせる。

 上昇する。

 しかし幾重にもフィルタリングされたようにまったく思うように進めない。だが諦めない。

 上昇するたびに人間性が恐ろしい速度で削られていく。しだいに、なぜ無理をしてまで底から這い上がろうとしていたのかまで忘れそうになってくる。

 ……馬鹿らしくなった。意味を見いだせなくなった。やっぱりもうやめよう。

 

 ……いや、違う!

 結城友奈は諦めない人間のはずだ!

 ここに至ったのならば必ず理由がある! だから、それを完遂させるのが今の自分がやるべきことだ――!

 

 上へ。ひたすら上へ。あとどれくらいなのかわからない。

 気合を入れろ。根性を見せろ。

 だが、##の力ではついに到達することができなかった。もう、本当に動かせるものがどこにもない。

 ……それでも、もう少しだったという直感があった。

 つまりここが##の限界だ。どれだけ足掻いてもここ止まり。ひとりの力では絶対に無理であることがわかってしまった。

 

 でも、もし##を上から引き上げてくれる『誰か』がいたら――

 ##に結城友奈を与えてくれる『誰か』がいたら――

 人の可能性が##を超越させ――

 もしかすると、もう一度戻ってこられるかもしれない――

 

 そのような人物に心当たりなんてない。

 それでも、奇跡が起きるのならば――

 そんな淡い希望を抱きながら、##は再び底へと沈んでいった。




誰か――!
####を救い出してくれる、誰か――!!

それではまた次回!


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三人の友奈

前話の時点で勇者システムが凍結、回収されてたの忘れてたから一部訂正したよ

前回のあらすじ
東郷さんが消えた


 三百年という途方もない月日が流れても、どうやら四国の人間の衣食住にこれといった劇的な変化はない。

 高嶋はテーブルに出されたうどんを見下ろしながらそんなことを思った。

 

「我が家の食事は一にうどん、ニにうどん、三四にうどんで五もうどん!」

 

 リズムに乗った風が四人分の器をどん、とテーブルに揃え、楽しそうに鼻歌を歌いながら席についた。

 風の妹らしい樹は小さく笑みを浮かべている。赤嶺と高嶋が一番訊きたいことをよくわかっているかのような含みだ。

 いや、だとしても訊かなければならない。そうでなければこの驚愕を収められそうにないからだ。

 赤嶺は顔を引きつらせながらついにそれを口にする。

 

「風さん、どれだけ食べるつもりなんですか……」

 

 器は四人とも同じはずなのだが、どう頑張っても風のものだけうどんの盛られ方が規格外だ。麺が異様に高く積まれ、変に箸で突けば瞬く間に崩れ落ちそうなほど。

 汁なんて麺に埋もれて見えない。

 

「うん? このくらい普通よ普通。あ、もしかして赤嶺も同じくらい食べたい? いいわよ〜」

 

「いえ、別にそこまではいいです……」

 

 空腹ではあるものの、そこまで食べてしまえば流石に戻してしまいそうだ。行儀良くうどんを啜る高嶋と樹を尻目に再び口を開いた。

 

「……ありがとうございます。私たちにこんなに良くしてもらって」

 

 すでに三分の一を腹にしまった風は丁寧に口に含んだうどんを喉奥に押し込んだ。

 

「いいのよ別に。人が多いほうが楽しいしね。確かにちょっと部屋が窮屈に感じるかもしれないけど、まあそこは勘弁」

 

「そんなそんな。泊めてもらっているのに、これ以上のことなんて望みませんよ」

 

 腕を振りながら赤嶺が恐縮な態度を取るが、対して高嶋は善意を最大限に受け取っている。樹と並んでうどんを一杯食べきると、「もう一杯!」と器を掲げた。

 

「風さんのつくるうどんはすっごく美味しいですね! うどん愛が伝わってきます!」

 

「お、言ってくれるじゃない! 褒めてもうどんしかでないぞ〜」

 

 上機嫌になった風がおかわりを入れに席を立つ。

 今一度犬吠埼姉妹の家を評価するならば、二人暮らしにしては有り余る広さだ。もともとこの家は二人暮らしを想定したものではないと容易に理解できる。

 それに親がいないのも気にはなる。親と暮らし、養ってもらうのが一般家庭のあるべき姿だ。……訳ありなのは間違いないだろうが、人様の敷居に土足で上がりこむことはしてはならない。これは礼儀でもある。

 赤嶺はコシのある麺を啜りながらついそんなことを無意識に考えてしまう。

 人を見て、そこから何か付け入る隙や弱点を探ろうとする癖が出てしまった。この人たちは善意で泊めてくれているのだ。疑いを持つことこそ失礼と言えよう。

 

「ところで、風さんの言う勇者部って、どんな部活なんですか? 私、ずっと気になってました!」

 

 おかわりを受け取った高嶋はそんなことを口にした。

 ネギをまぶした樹は指先をくるくると回しながら理知的に答える。

 

「勇者部とは、人のためになることを勇んでする部活です。勇者としての戦いはもちろんですが、こっちが本当の活動なんです」

 

「そうなんだ! どんなことしてるの?」

 

「幼稚園での劇や、ゴミ拾いといったボランティアですね」

 

 ふたりの会話を聞きながら赤嶺は勇者としての在り方は多様性を得たのだと理解した。

 西暦の時代で勇者とは、人々の上に立ち、輝きを放つ存在だった。バーテックスとの戦いにのみ尽力する人たち。身近な人物と触れ合う機会はあれど、それを主とはしない。

 同じことを考えたのだろうか。高嶋も考え込むような素振りを見せ、赤嶺を一瞥した。

 すでにうどんを食べ終えた風は、流し台に器を運んで洗い始める。

 

「私も手伝いますよ、風さん」

 

 急いで残りのうどんを胃に流し込み、赤嶺は風の隣に立った。予備のスポンジを手に洗剤を含ませ、数度握って泡を出す。

 普段は料理に片付けまで全て蓮華に任せっきりだが、料理スキルが残念な赤嶺でも片付けならば少しはできる。さすがに家事が本当に何もできないのは救いようがないのでその辺りはきちんと弁えている。

 

「別にやらなくていいのに。全部私がやっとくから」

 

「駄目ですよ。何もしないのに泊めてもらうなんてできません」

 

 食い下がってくる赤嶺に観念した風は肩をすくめると、「じゃあお願いするわ」と折れた。

 すでに手は動いているし、これが事後承諾のとり方というわけだ。

 

「じゃあ私も手伝います! 何かできることありませんか?」

 

 赤嶺に触発された高嶋が威勢よく手を上げた。

 

「じゃあ……そうねぇ……お風呂まだ焚いてないから浴槽洗っといてくれる?」

 

「りょーかいです!」

 

 すでに浴室の場所を記憶している高嶋は、器を流し台に運ぶとそそくさとステップを踏んで向こうに消える。

 一番遅く食べ終えた樹はなんだか萎れているように見える。そんな様子にいち早く気づいた風は、手を止めて樹に向き直った。

 

「どうしたの樹! お腹痛いの? 眠いの? それともうどんが口に合わなかった?」

 

 身体中をぺたぺたと触るやや大げさな反応だが、樹はふるふるとかぶりを振った。

 

「ううん、違うの。今気づいたんだけど、私、身の回りのこと全部お姉ちゃんに任せっきりなんだなあって。それがなんか変な気分で」

 

 高嶋の消えた方向を見やり、寂しそうに微笑む。

 

「気にすることないのよ。私が好きでやってくれてるんだから。それに高嶋だって自分から進んでやろうとしているんだし」

 

「でも……」

 

 樹という人間はどうやら引っ込み思案でお姉ちゃんっ子らしい。それは赤嶺でなくとも看破できる。

 樹にとって、高嶋と赤嶺とのあまりに突然の出会いで、困惑するのも無理はなかった。しかし風の鶴の一声であっさり納得してしまうほど全信頼を姉に向けている。

 素晴らしい信頼関係だと内心思いながら、赤嶺は諭すように言った。

 

「大丈夫だよ樹ちゃん。本当に手伝ってほしい時はちゃんと言ってくれるはず。その時は、妹としてしっかりお姉ちゃんを支える。私はふたりのことをそこまで詳しく知らないけど、この少ない時間を一緒に過ごして、これだけは間違いないと思う」

 

「赤嶺さん……」

 

 ちょっと踏み込みすぎたか? しかし樹の反応は別に嫌悪感を示すものではなかった。

 嬉しそうに小さく微笑むと、樹は自分に言い聞かせるように頷いた。

 

「ありがとうございます。なんだか友奈さんに言われてるみたいで、すごく心がぽかぽかしました。……ああ、ごめんなさい」

 

「いいよ、別に。たぶん私よりも高嶋ちゃんの方が結城さんに似てると思うし」

 

「樹はまだ宿題残ってるんでしょ。さっさとやってきなさい」

 

「はーい」

 

 お姉ちゃん力により、とててと自室へと駆け込んだ樹を見届けた風は再び食器洗いに戻った。

 赤嶺の家系は沖縄が出身だから、比較的肌に色がある。高嶋と瓜二つの人のことを思うと、果たして見分けがつくのかと先のことを考えていると、ふとある疑問が脳裏をよぎった。

 黙々と手を動かす風にそれをぶつけてみた。

 

「風さん、結城友奈さんってどんな人なんですか?」

 

 風は一瞬だけ手を止める。

 

「うーん……そうねぇ……。とっても強くて、良い子よ。私なんかよりずっとね」

 

 僅かに頬が綻んでいた。

 どこか記憶を呼び起こすような遠い目をしながら言葉を紡ぐ。

 

「皆のために何度でも立ち上がって、『勇者』として戦い抜いた。……誰よりも強いわ、あの子は。今はこの間の戦闘で入院してるけど、必ず退院するって、私たち勇者部は信じてる」

 

「…………」

 

 それはもう、ただ友達のことを語る様子などではなかった。

 もっと深い……そう、尊敬だ。

 その慈しむような口ぶりは、赤嶺には簡単に一言で表せる類のものではなかった。水が勢いよく泡を流し、布巾で丁寧に水気を拭き取った。

 

「明日土曜だし、友奈のお見舞いに来る? あんたと高嶋が良ければだけど。勇者部が皆揃うし、その時に経緯とかも色々訊きたいし」

 

「もちろんいいですよ。私も結城さんに会ってみたいですし」

 

 ようやく皿洗いを終え、風と赤嶺は小綺麗に器を並べてソファーに腰かけた。

 スマホを片手に、風は手慣れた速度で指をスワイプさせ、勇者部の連絡アプリを起動させる。可愛らしいアニメーションが再生され、瞬時に部屋が表示される。

 そこに明日のお見舞いの時間を送信し、園子を筆頭に脊髄反射じみたスピードで了承の返事が返ってきた。しかしその中でひとりだけ、朝から用事で参加できない旨のメッセージが送られてきた。

 送信者の名前は東郷。友奈大好き筆頭がまさかの返事に、風は思わず二度見した。

 その様子を見た赤嶺は画面を覗き込んだ。

 

「どうしたんですか?」

 

「いやあね、東郷が明日のお見舞いに行けないって言ってるのよ。珍しいわね……」

 

「そうなんですか?」

 

「それはもう。誰よりも速く病院に着いて、誰よりも友奈のことを想ってるくらいよ」

 

 そも暗黙の了解だと言わんばかりだ。

 東郷とはあの時遭遇した大和撫子のような人物のはず。高嶋に対する千景のように、友奈に対する東郷という関係性があるかもしれない。

 と、ここで浴槽の掃除を終えた高嶋がリビングに帰ってきた。風と赤嶺を捉えるとソファーへダイブしてくる。ふたりは咄嗟に両端に避け、空いた中央スペースに「ぐべっ」と顔から突っ込んだ。

 

「ふたりとも酷いよ~」

 

 きちんと座りなおした高嶋は頬を膨らませて不服を口にする。

 

「ぐんちゃんなら受け止めてくれた」

 

「それはそうだよ」

 

 赤嶺の素早いツッコミ。

 きっと千景なら息を荒くしながら鼻の下を伸ばすことだろう。容易に想像できる。

 

「そうそう。今赤嶺にも話してたけど、明日友奈のお見舞いに来る?」

 

「友奈って、結城ちゃんの友奈?」

 

「そそ」

 

 特に考え込むような素振りも見せず、高嶋は「行きます!」と即座に返した。

 窓の外で、半円の月が綺麗な輝きを放つ夜だった。

 

 ◆

 

 集合時間は伝えたとおり、夕方だ。

 風たちが病院の受付場所に着いたときには、すでに夏凛と園子がベンチに二人仲良く座っていた。

 風が声をかけると振り返り、こちらに手を振ってくれた。

 

「ごめーん、待った?」

 

「ううん、全然待ってませんよ〜。ねーにぼっしー」

 

「だからにぼっしー言うな」

 

 このやり取りはもはや通過儀礼にまでなっている。「はいはい」と風はいっそ清々しいほどの受け流しでスルーすると、改めて受付の前まで皆で移動する。

 もう慣れたやり取りだ。受付の人は手際良く手続きを済ませようとして流すように風たちを見回すと、明らかにおかしいものを見たかの目で二度見、いや三度見ほどして高嶋と赤嶺を凝視する。

「親戚です」と風の女子力(?)ゴリ押しになんとか突破はできたものの、怪しまれる目は変わらなかった。さすがに通報とかそのようなことはされないだろう。

 特に医療もこれといって目まぐるしい発展を遂げているわけではなさそうだ。赤嶺は自分の時代と比較しながら風の後ろを歩く。

 そういえば、鏑矢の御役目は原則過度な発展の阻止だ。この時代の技術力が鏑矢の努力の賜物だというのならば、赤嶺たちから次の世代へとバトンが渡され、それが何百年も続いていることになる。つまり今もどこかで闇に紛れて活動する鏑矢がいるはず。

 だが、それを確かめる術はない。

 ……ふと、夏凛が赤嶺と高嶋をちらちらと見ているのに気づいた。赤嶺は口を開いた。

 

「何か?」

 

「いや……別に? ……いや、違うか。どうだった? 風の家に泊まって」

 

 出だしは歯切れの悪い返事だったが、ぼそりと改めると、やや緊張を滲ませて訊いてきた。

 どう? というのはとても投げやりな訊き方だ。良かったよ、なんて当たり障りのない返事をするのはいくらなんでも言葉足らずになってしまう。

 なるべく事細かに話そう、と善意たっぷりで記憶を掘り起こしながら話した。

 

「風さんはとてもお母さん気質だったよ。樹ちゃんを寝かしつけたあと、来客用の布団で寝てる私達まで寝かしつけようと来たんだから。私達別にそこまで幼くないのに。それにわざわざ私達の服も洗濯してくれたし。私のはスーツだからさすがに無理だったけど。いやぁ、もう本当に至れり尽くせりだったよ」

 

「そ、そうなの」

 

 まさか模範解答のような返事が来るとは思っていなかったのか、夏凛は若干引き気味に相槌を打った。

 と、ここで赤嶺の裾が誰かにちょいちょいと引っ張られた。誰かと振り返れば犯人は樹で、手を口に当てて耳元で囁いた。

 

「寝かしつけられたなんて言わないでくださいよ〜」

 

 間違いなく樹は妹キャラだが、風とは二年差、赤嶺とはたった一年差だ。それなのに背中を擦られ、眠りに落ちるまで寄り添ってもらうというのはやはり恥ずかしいということか。しかし満更でもなさそうな表情だったのを知っている。

 ごめんごめん、と平謝りしていると不意に園子が足を止めた。

 どうやら目的の病室に到着したようだ。ドアの横には確かに結城友奈様と印刷された名札がネームプレートに挟まれている。

 この時代の友奈はいったいどんな人物だろうか。せめて高嶋よりはしっかりした人であることを期待する。

 

「結城ちゃんがどんな子か楽しみだね!」

 

 目をキラキラさせながら無邪気に語りかけてきた高嶋に同調し、胸を高鳴らせる。

 園子がドアをノックし、横にスライドした。続いて風、樹、夏凛と入り、最後にふたりで一緒に部屋に足を踏み入れた。

 そこには、ひとりの少女がベッドに背中を預け、ひっそりと佇んでいた。纏う雰囲気は枯れた植物のようで、高嶋とは真逆だった。

 お見舞いに来たというのに、こちらを見向きもせずにぼんやりと天井を見上げている。シミ一つないというのに、何がそこまで興味を引いているのか。

 その双眸には光は宿らず、心ここにあらずといった感じか。乾燥しきった唇。痩せこけた頬。色味のない肌。

 それによく見ると、涙の跡が頬に薄っすらと残っている。

 どう考えても、ただの怪我などではなかった。

 

「友奈はね、こないだの戦闘で無理をしたそうなのよ」

 

 そうぽつりと話し始めたのは風だ。

 少し崩れた布団をかけ直すと、優しく眉毛にかかった友奈の前髪をかき分け、涙の跡を丁寧に指で拭う。

 

「ホントはあんたたちと話をさせてやりたいけど、ちょっとそれは無理。ごめんね」

 

「…………」

 

 高嶋も何を言えばいいか咄嗟には思い浮かばないようだ。風の言葉をゆっくり咀嚼しながら友奈の顔を見下ろしている。

 見れば見るほどその容姿はそっくりだ。予想通りと言うべきか、高嶋の方に似通っている。

 空調の低い唸り音だけが病室を支配し、たっぷりと沈黙で満たされる。

 そして次に口を開いたのは夏凛だった。

 

「どうしたの、赤嶺」

 

 眉を寄せながら、友奈を貪るような眼力で見ていた赤嶺はハッとして表情を戻すと、なんでもないとかぶりを振った。

 夏凛はその不気味さにやや訝しげに見つめたが、気のせいだと視線を移す。

 思っていたより症状は重い。まだ高嶋は西暦で一度しか戦っていない。それも、はっきり言って、戦績はひとりで前線に立った若葉のほうが遥かに良い。他の皆は若葉が逃したものを確実に仕留めるだけで良かった。

 だからこれといって絶大な負荷はなく、挙げるとするならば高嶋の切り札のみ。

 だから、戦闘による怪我に対してあまりリアリティを感じていなかった。

 具体的にどのような経緯でこうなったかは知らないが、目の前に傷ついた勇者をつきつけられて、何も思わないはずがなかった。

 だが不思議なことに、不穏な空気に包まれていないことに気づく。

 ……そう、誰ひとり暗い顔をしていないのだ。

 それが何より疑問を強める。

 そんな高嶋の隣にぴょこん、と園子が立った。

 

「なんでって顔をしてるね、たかしー」

 

「た、たかしー?」

 

 些か奇妙な呼び方だ。

 若葉とは打って変わってどこかふわふわした感じで、雲のように掴みどころのない少女。あの生真面目遺伝子がこの少女に行き着いたと聞けば果たしてどんな顔をするだろうか。

 

「私たちはゆーゆを信じてる。だから下を向かないんだよ。結城友奈は勇者だって、皆は知ってるから」

 

 ……若葉なら純粋に育った子孫に喜ぶことだろう。

 真っ直ぐな瞳は友奈を捉え、手首に結ばれたミサンガに優しく触れる。

 

「……皆も揃ってることだし、そろそろあんたたちのこと、聞かせてもらってもいいかしら」

 

 そう言い放ったのはパイプ椅子を運んできた風だ。しかし数がひとつ足りず、起立を保つことにする。部長にそんなこと、と園子が食い下がるが、いいのよと風は丁重に断った。

 これまで赤嶺と高嶋は先に説明しなければならないことをすっぽかして転がり込んだ身だ。風たちのお人好しさというのもあるが、それでも感謝すべきことであるのは事実。

 とはいっても赤嶺にはどうしても話してはならないことがあるので、そこだけは伏せさせてもらう。

 当然、高嶋はお口チャックだ。

 西暦に飛ぶまでをぼかして、そしてこの時代に飛ぶまでのある程度の詳細を語る。念の為共闘したことは省く。

 全員が無言で聞き入ってくれたおかげで、スムーズに語ることができた。

 説明を終え、少し時間をおいて言葉を発したのは夏凛だった。

 

「どう考えてもその腕時計が原因なのはわかるけど、どこにあんの?」

 

「ここに。まだ私もちゃんとわかってないから気をつけてね」

 

 ごそごそとポケットを弄って言われたものを手に掴み、全員の前に差し出した。

 すると高嶋が小さく息を呑んだ。

 

「外れたの⁉」

 

「うん。この時代に来てすぐに」

 

 何の躊躇いもなく腕時計を手に取ったのは樹だ。興味深そうにまじまじと裏に返したりして専門家のように細かい機構まで覗き込む。

 もしかして知られざるスキルがここで発現かと思いきや、目を回して早々ギブアップしてしまう。

 

「ご、ごめんなさい。何か役に立てると思ったんですけど……」

 

「いいよいいよ。その気持ちだけでも十分ありがたいから。逆にそんな簡単に理解されたらこっちが驚くよ」

 

「確かに……そうですね」

 

 樹は占いといったオカルト的な類が得意だと聞き及んでいる。そういったものとは真逆の機械いじりなど、文系が難解な数学に挑むのとほぼ同じだ。

 それと同時にとても純粋な子だと改めて認識させられる。

 もちろん蓮華や静も表裏のない性格だが、裏の世界に生きている。人の悪意に触れ、その尽くを文字通り叩き潰してきた。だからこそ、樹のような少女は赤嶺にはあまりに眩しすぎた。

 ……もし。

 もし、赤嶺が鏑矢にならなければ目の前でにへらと笑う樹に対して素直な反応を返すことができるのだろうか。

 そんな儚い問いかけは、友奈の頭上で泡のように弾け、消えた。

 

 ◆

 

 ……昨日もうどんではなかったか?

 空になった夕食に使った器を洗いながら、赤嶺は犬吠埼家の食事事情を考察する。

 香川県民だからうどんが好きなのはまあわかる。赤嶺は沖縄出身の血筋だが、プロテインと同じくらいうどんが好きだ。

 しかしながら限度というものがあり、三食全てがうどんに固定されるのはどうかと思われる。この家にはうどんしか食料がないのか? 調べてみたいという衝動に駆られるが、さすがに人様の家を探るような真似はできない。

 ……だが風のつくるうどんは普通に美味しいので、文句はない。

 この異常とも言える執念は並大抵の香川県民ではない。

 と、ここで一緒に風呂に入っていた樹と高嶋が上がったようだ。ドライヤーのけたましい音がこっちにまでよく聞こえる。

 すべての器の水気を拭き取った赤嶺に風は口を開いた。

 

「次、お風呂入っていいわよ〜」

 

 しかし赤嶺は首を振った。

 

「いえ、風さんが先に入ってください。私はちょっと散歩に行ってきます」

 

「散歩ってあんた、今何時だと思ってんの」

 

 風が視線を左に振ると、時計は十時を指している。

 こんな夜遅くに、しかも女の子がひとりで外を出歩くのは危険だと言わんばかりの目だ。しかし赤嶺は鏑矢。そういった障害などものともしない強さを持ち合わせている。

 自信満々に口角を上げ、腕に力を入れて力こぶを見せつける。

 

「大丈夫ですよ風さん。私、こう見えて結構強いんですから」

 

「ホントに? ホントのホントに大丈夫? 過去の人間を匿ってる身としてあんたに何かあったら歴史とか変わるんじゃないの? よくわかんないけど」

 

「すぐに帰ってきますよ。この辺りの地理を知っておきたいっていうのもありますし」

 

「じゃあ……気をつけるのよ。外は寒いから温かい格好しときなさい。カイロがあるからそれを……。あとは懐中電灯……」

 

 お母さん気質を発揮する風を置いて、颯爽とリビングから姿を消した赤嶺はそのまま玄関から外へ飛び出していった。

 そして入れ替わるようにパジャマに着替えた樹と高嶋がリビングに入ってくる。

 

「お風呂上がりましたー!」

 

「ましたー!」

 

 高嶋に続いて樹が報告する。

 樹が一直線に向かったのは冷蔵庫。バタンと開けると、キンキンに冷えたミルク瓶を一本手に取り、ゴム栓をきゅぽん! と抜くと、腰に手を当ててぐいっと喉に流し込む。

 その姿はさながら中年のおじさんのようで、樹の名誉のために高嶋はツッコもうとした口を閉ざす。

 風はテレビをつけ、ソファーにだらしなく寝転がってぐだぐだしている。

 そういえば、赤嶺がどこにもいない。

 

「赤嶺ちゃんは?」

 

 すると風がこちらに首だけ向ける。

 

「散歩行くってどっか行ったワ」

 

「ええ〜!」

 

 驚きの声を上げるが、すぐさま宥められる。

 

「まあでも確かに強そうだからいいんじゃない? だって赤嶺も……あ、勇者だっけ?」

 

「違いますよー! 赤嶺ちゃんは……!」

 

 か、と言いかけてギリギリのところで口をつぐんだ。赤嶺に鏑矢であることは言わないように強く言いつけられているのだ。出会ってほんの数日の仲だが、約束は守らなければならない。

 

「ところで――」

 

 風が話題を変えようとしたその時。

 唐突に高嶋のすぐ横の壁から、妖怪のようにぬるっと何かが通り抜けたのを見た。

 思わず短いを悲鳴を上げて後退る高嶋だが、妖怪は磁石に吸い寄せられるように接触する。

 外見はぬいぐるみサイズの少し赤みがかった白い牛。小さな羽を懸命にパタパタ羽ばたかせながら高嶋に鼻先を擦り付けてくる。

 

「牛鬼⁉ なんでここに……?」

 

「友奈さんの精霊だったよね……?」

 

 驚きを顕わにしたのは犬吠埼姉妹だ。

 高嶋はなんのことかわからなかったが、精霊、と聞いて少なくとも害のあるものではないとほっと胸をなでおろす。

 

「これが精霊なんですか?」

 

 牛鬼を抱き上げた高嶋はマシュマロのように柔らかい頬を指先で突きながら尋ねる。

 西暦時代では精霊は身体の中に宿し、それを現実世界に表出させることで絶大な力を得ている。だから、精霊の外見はまったくの認識外にあると思っていた。

 これが長い月日が流れ、このように変化したのか。

 顎をくいくいと擦ると牛鬼は人懐っこく高嶋に甘えてくる。

 

「勇者システムは凍結、スマホも回収されたはずでしょう? なのになんで……?」

 

 風が掠れ声で呟く。

 前回の大規模戦闘後、大赦の手にきちんと渡ったはずだ。なのに精霊が勇者システムが組み込まれていないスマホに潜んでいた? それも、誰の指図の受けずに精霊自身の意志で?

 精霊は主を死なせないために独立行動を取ることができる。それは『誰か』が証明してくれたはず。

 しかし主のもとを自ら離れるなんて行動は、あまりに不可解で、常軌を逸している。

 それに高嶋の前に姿を見せたというのも理解できない。この時代に飛んできたのはたった一日前のことだ。それなのに会ったことのない高嶋を補足、接触なんて到底考えられない。

 

「……何が起こってんの」

 

 明らかにこれは異常事態だ。早急に大赦に報告……いや違う。もしかすると散華のように何か隠蔽されているものかもしれないから一旦保留だ。

 こういうのに詳しいのは園子だろう。いやいや、いっそのこと全員に話したほうがいい。

 

「園子と夏凛、帰ってきたら一応赤嶺にもこのことを伝えないといけないわ」

 

「これってどういうこと……お姉ちゃん」

 

 樹が牛鬼と戯れ合う高嶋を尻目に唇を震わせる。

 

「わかんない。ただ、私たちだけで何とかするべきではなさそう。一度皆に話しておかないと」

 

 ふたりの一連の会話が耳に届いていた高嶋は不思議そうに首を傾げる。

 そして指をガジガジと牛鬼に噛みつかれたまま、ある疑問を言い放った。

 

「あれ? あの人は……? 同じ勇者部の人。ほら、黒髪の……ええっと……そう! 東郷さん!」

 

 ◆

 

 冬の夜は極寒だ。

 凍てつく風が容赦なく赤嶺に吹き付け、つい身震いする。雪が降っていないだけまだ比較的マシだ。

 スーツを着てこなかったのが災いしたか。しかしそんな姿で外に出ようものなら風に全力で止められていただろう。

 かじかんでいた指もだいぶ温まり、四肢に熱が籠もる。鋭く息を吐き出し、白いモヤを残して地面を蹴る。

 人影の少ない道を疾走する。目指すは午後にお見舞いに行った病院。息一つ切らすことなく到着すると、ぐるりと外周をまわる。

 わかってはいたものの、やはり夜は開かれていないようだ。点々と部屋の明かりが確認できるが、それは恐らく夜勤のものだろう。

 正面から乗り込むのは不可能。

 となれば、侵入だ。

 祝詞の付与がない友奈の身体能力でも、病院を囲うようにあるニメートル超えのフェンスを猫のように静かに登ることができる。

 指に熱い息を吹きかけ、腰を低く落として、いざ――

 

「こんばんは、お嬢さん。こんな時間にひとりで出歩くなんて感心しないな」

 

「――⁉」

 

 不意に、落ち着いた声をかけられた。

 全身に帯びていた熱が爆発する。

 反射的に息が止まり、素早く距離をとった。話しかけられるまで、存在に気づけなかった。

 薄暗い街灯の明かりに照らされ、ゆらりと現れたのは、灰色の袴を来た男性だ。推定年齢、四十前半。見るからに痩せ細っている身体。マッチ棒のようだ。下駄をカツンカツンと静かに響かせて接近してくる。

 これほどわかりやすい音なのに、なぜ気づけなかったのか。

 赤嶺の中で、この男に対する警戒度が一気に最大まで引き上げられる。

 

「何の用ですか?」

 

 僅かに敵意の孕んだ声で尋ねる。

 すると男は顔を微動だにせず答えた。

 

「物凄い形相で走る君を見かけてね。それに、君の顔は僕の知り合いによく似ている」

 

「だからなんですか? 何をしようと私の勝手です。あなたの方こそ、こんな遅い時間に何をしているのですか? 私が大声で助けを求めれば変質者(・・・)になってしまいますよ?」

 

「なに、ただの散歩さ。恐らく君は、結城友奈さんに会いに来たのかな? でも夜に会えないことはわかりきっているはずだ。……でもその様子だと、夜がいい(・・・・)とみた」

 

 饒舌に語る物言いが気に食わない。

 なぜならば、男の言うことはすべて当たっているからだ。

 少し意識を戦闘用に切り替えてみようかと集中した瞬間、身体の芯まで凍りつくような悪寒を覚えた。

 男は一歩も動いていない。細く白い風がふたりの間を吹き抜けるのみ。

 

 ――排除するか?

 

 刹那の間に思考する。

 相手は動きにくい格好をしている。しかし今の赤嶺では余裕をもって無力化することは難しそうだ。それにこの男、一見だらしなさそうに見えるが、隠しきれていない覇気が只者ではないと如実に語っている。

 老若葉に似たものを想起させられ、赤嶺はごくりと生唾を飲んだ。そして頬が極僅かに強張っていることに気づく。

 恐らく無力化はできる。

 しかしこちらもただでは済まない。

 これが思考の末に出た結論だ。

 ほう、とため息を吐いて赤嶺は一切のやる気を打ち捨てる。

 興が削がれた。

 赤嶺の意思を感じ取ったのか、男の顔は穏やかなものへと変化する。

 善人なのか悪人なのか判断がつかない。しかし……この男とはあまり関わりを持つべきではないと本能的に悟る。

 

「……懸命な判断だよ」

 

「そちらこそ」

 

 赤嶺は踵を返し、男に背を向ける。

 そして病院から遠ざかり、夜の闇に溶け込み、幻のように消えた。




高嶋チャンのおかげで1日足らずで東郷の消失に気づくことができた
この後正史では東郷を救いに行くはずだが、友奈がいない。果たしてこのままで大丈夫なのか
それになんだか色々と不穏な空気が漂っている……

それではまた次回!


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覚醒

前回のあらすじ
東郷がいない。
友奈もいない。


 ……いったいいつから東郷美森の消失に影響されていた?

 分厚いマフラーを首に巻き、大赦本部から出てきた園子は表情を曇らせる。

 風から連絡があったのは真夜中だ。グループチャットに書き込まれたある人の名前が、園子を初め、勇者部全員の記憶から呼び起こされた。

 いや違う。呼び起こされたのではない。例えるなら、『東郷美森のいない世界』として補完されていた記憶が強引に砕かれたような感覚に陥ったのだ。

 友奈はいつもひとりで登下校していたし、皆が平等に友奈と接していた。

『そう』記憶していたはずだ。そこに東郷という人間は片鱗も関わりを持たない。

 冷たい風に煽られ、思考が冴える。

 街を歩く園子は銀色のスーツケースを片手に、通りかかったタクシーを呼び止め、風と樹、そしてふたりの友奈の住むアパートへと運転してもらう。

 暖房の効いた後部座席に乗り込み、マフラーとコートを脱ぐ。かじかんだ指のせいでコートのボタンを外すのに少しだけ手間取ってしまった。

 東郷が消えたのは恐らく本当に昨日のことだ。なぜならドミノ状のように次々と思い出してくる記憶の中に、一昨日まで東郷がいたことが確認できているからだ。

 ……ならば。

 ならば、なぜ高嶋は気づけたのか?

 園子にはそれが最大の謎だった。園子自身、告白すると何もきっかけがなければ気づくことはできなかっただろう。二年前からずっと親友だったはずなのに、それがどうしようもなく悔しい。

 唇の端を強く噛み、血を滲ませる。

 同時に悲しくもある。

 なぜ、誰にも言わずに消えてしまったのか。勇者部ならば何が何でも引き止めるはずだ。

 だからこれはただの行方不明などではない。何らかの思惑が入り混じったものだ。そうでなければ東郷が存在しないものとして扱われるはずがないのだ。これは一種の記憶改竄。それも超大規模で、恐らく四国にいる人間全員に施されていると考えていい。

 そんなことができるのは大赦、そして神樹様くらいだ。

 でもその大赦も知らないと言う。今思えば彼らも記憶改竄の影響を受けていたのだ。となれば、知っているのは神樹様のみということになる。

 神樹様からは、信託という形で巫女と呼ばれる少女に、テレパシーのような感じで一方的に送られてくるという。だからこちらから逆に話しかけるといったことは不可能で、距離の遠さを実感させられる。

 そもそも勇者部に巫女はいない。大赦内に巫女は在中しているが、派遣されることはない。

 どちらにせよ、誰かに頼る、という選択肢はないものと考えるべきだ。

 アパート前に到着し、精算を済ませた園子はやや早足で犬吠埼姉妹の家に向かう。エレベーターで上昇し、インターホンを押す。

 数秒後、施錠されていたドアが開き、樹が顔を覗かせる。いつもは髪の左右を髪留めで留めているはずだが、今はしていないようだ。

 

「こんにちは〜いっつん」

 

「こんにちは、園子さん。夏凛さんももう来てます」

 

 樹に案内されてリビングに入ると、すでに勇者部が全員揃っている。しかし居候しているはずの高嶋と赤嶺がいない。

 

「あれ? たかしーと赤嶺ゆーゆは?」

 

 友奈に関することだ、いるだろうと思っていたが、どうやら見当違いだったようだ。

 

「ああ、高嶋は友奈のお見舞い。赤嶺は行きたいところがあるって出かけたわ」

 

 風はそう言うと園子の脱いだコートを受け取り、ハンガーにかける。

 そして椅子に座ると、重々しいため息を吐いた。

 

「……どうだった?」

 

 その質問は、全員に向けられたものだ。

 しかしそれぞれの顔色から返事は滲み出ている。

 誰も、東郷の痕跡を見つけることができなかったのだ。東郷の家に向かった夏凛は娘などいないということになっていて、学校に向かった風と樹は、学校に東郷という人間が在籍していないことも確認済みだ。さらには部室に飾られている記念写真などからも消え、不自然な空間ができていた。

 これほど完璧な消失は、逆に信憑性が増す。

 

「……何よ、質の悪い虐めみたいじゃない」

 

 眉をひそめながら夏凛が苦しそうに囁く。

 ……これからなのに。

 友奈が目覚めないことを抜くと、ようやく、本当の平和が訪れたのだ。もう勇者として戦うことはない。満開して、これ以上傷つくことはない。外の世界のことはともかく、この小さな幸せを噛み締めながら過ごしたい。普通の女子中学生として。

 そう、願ったはずなのに。

 悔しい。とてつもなく、悔しい。

 でも、これをどこにぶつけたら良いのかすらわからない。

 

「クソッ……クソ」

 

 何かに当たり散らしたい衝動をグッと堪え、搾り出すように悪態をつく。

 行き詰まり。これが中学生にできる限界。

 しかし、ここには園子がいる。大赦において、絶大な権力をもつ乃木家の子孫が。

 先程から異様な徐ろに存在感を放っていたスーツケースをテーブルの上に置いた。気にしてはいたものの、園子が話題に持ち上げるまで触れないでいたせいか、一斉に注目を集めた。

 

「もう、これしかないようだね」

 

 留め具を外し、ケースを開ける。

 中に入っていたのは、形状記憶スポンジに丁寧に収められた、三台(・・)のスマホだ。

 

「――――え?」

 

 呆けた声を漏らしたのは、他でもない園子だった。

 三台? それはおかしい。四台のはずだ。大赦で神官から勇者システムの内蔵したスマホを徴収した時、間違いなく四台あったはずだ。それは事前にきちんとこの目で確認している。

 一度も目を外すことなく、常に手に持ってここまで慎重に運んできた。園子の知らない間に盗み出すなんて絶対不可能だ。

 

「……ゆーゆのが、ない」

 

「ありえないでしょ、そんなの」

 

 そう言いながらスマホを手に取った風は、すかさず勇者アプリを起動させて東郷と友奈の位置情報を探る。

 ……どちらも反応はなし。

 この場にいる四人分の点が集中しているだけだ。索敵範囲を広げても、やはりふたりの座標情報は現れない。咄嗟にスマホを切り替えて友奈のお見舞いに行った高嶋にメッセージを送る。

 高嶋のスマホは百年単位で昔のものだが、容量や処理速度は少し劣りはするものの、この時代でもそこまでの不自由もなく使うことができる。アプリもインストールできるし、Wi-Fiのある場所ならば普通に通信することだって可能だ。

 どちらかというと、西暦からあまり進歩していないというのが正しいだろう。

 程なく『結城ちゃんは寝てます』と返事が返ってくる。

 緊張から解かれた風は安堵の息を吐く。

 友奈の身に何かが起こるなんて最悪の出来事が起きていなくて本当に良かった。

 

「ゆーゆのスマホはあとで考えよう。それよりわっしーのほうが大事だからね」

 

 話題を切り替えた園子が指を鳴らすと、一体の精霊がしゃららん、と軽快なエフェクト音と共に姿を現した。

 つぶらな瞳、烏を思わせる力強い漆黒の翼。

 園子が複数体保有する精霊の一体、烏天狗だ。

 友奈はともかく、東郷が認識できないということは、人の認識外にいるということだ。

 つまり……。

 

「壁の外、ですか」

 

 ぽつりと樹が予測場所を口にする。

 その瞬間、風が目に見えて不機嫌になった。

 壁の外の現状を知っているのは何も風だけではない。しかしあの時、東郷に諭された絶望的な景色が脳裏にこびりついて離れないのだ。それに時々夢に見てしまう。

 またバーテックスが壁の結界を超えて襲いかかってくるのでは、と。そして勇者として再び立ち上がり、戦いに身を投じなければならない。その中で満開をし――。

 ……東郷の言っていたことは、正しい。

 でも、それを否定した風たちも正しい。

 結局は、正義のぶつかり合いだったのだ。

 あれは、勇者部の中での意見の食い違いから起こったもの。小さな問題が解決しただけで、根本的な問題解決には至っていない。

 まさに敵の群生地帯。そこに行くなんて、はっきり言うと、正気の沙汰ではない。

 

「――行くしかないわよ」

 

 そう言い放ったのは、静かに目を閉じていた夏凛だった。

 

「もし友奈がいたら、絶対に助けに行くって言う。だから私は行く。友奈が目覚めた時に東郷がいなかったら、きっと悲しむと思うし」

 

 目を細め、小さく笑った夏凛はスマホに手を伸ばす。しかし、その手首を掴んで止めたのは風だった。

 

「待って。今の私達は無知じゃない。部長として、おいそれとあんたたちを戦わせるのはいかないの。だから、ちゃんと考えて」

 

 以前は何も知らなかったから憂いなく背中を叩けた。だが今は違う。きちんと覚悟を抱かなければ勇者になることは部長が許さない。

 甘い覚悟のせいで死ぬより酷い後悔をしてほしくないという情けでもある。

 それでも、夏凛は食い下がった。優しく風の手を払いのけると、今度こそスマホを手に取る。

 

「覚悟はできているわ。私は、勇者になる」

 

 その目に迷いといった類のものはなかった。もしあれば無理矢理にでも取り上げるつもりだったが、どうやらそんなことはせずに済みそうだ。

 続いて樹が。

 

「私も行きます。勇者部は、誰一人欠けちゃ駄目なんです。それに……東郷先輩のぼた餅、また食べたいですから」

 

 と優しく微笑んでスマホを取る。

 

「わっしーとは唯一無二の大親友。それ以上の理由は、いらないよ」

 

 皆、覚悟は揺るがなかった。

 本当のところはわかっていたが、たとえ結論が変わらなくても、前置きとして風の問いかけはどうしても必要だった。

 しかし、そのおかげでより一層覚悟は深まったようだ。

 それぞれの面持ちをしっかりと目に焼き付けた風は、やれやれとばかりに肩をすくめた。

 

「仕方ないわねぇ。私も行くわ。それでちゃんと、東郷を連れ戻すわよ!」

 

 風の掛け声に合わせて勇者部は拳を上に掲げる。

 友奈は当然不参加。もし目覚めていたら、真っ先に助けに向かおうと躍起になるだろう。その溢れんばかりの想いは、東郷を連れ戻すことで確実に繋いでみけよう。

 風は自分に固く誓った。

 

 ◆

 

 一度行ったことのある病院だから道もだいたいは把握している。

 少し迷子になりかけたが、なんとか辿り着いた高嶋は受付のロビーで手続きを交わし、こうして友奈のお見舞いに来ている。

 友奈の親戚というポジションで来るのも見苦しい気もするが、馬鹿正直に血縁関係にはないなんて言えない。

 眠気に誘われそうな温かい空気に、高嶋はひとつ、大きくあくびをした。

 それに反応した牛鬼が同じ動作をする。

 短い通知音が鳴り、ふと卓上を見やると、『東郷を助けに壁の外に行く』と風のメッセージがバナー表示されている。

 眠気が吹き飛ぶ。

 一回目をギュッと瞑った後、メッセージを開いて『待ってます』と素早く指をスワイプして入力、送り返した。そしてスリープ状態にすると、穏やかな寝息を立てて眠っている友奈に視線を落とした。

 見れば見るほど自分に似ている。双子の姉妹だと言われても違和感がない。

 

「結城友奈、か……」

 

 高嶋は友奈のことを何も知らない。

 風から聞いたこと以外、何も知らない。人間性などはなんとなく想像できているが、実際に面と向かって話したことがないのに、果たして何がわかるというのだろうか。

 高島の中で絶対的に不変のもの。それは、

 

 結城友奈は勇者である。

 

 ということ。

 昏睡状態になってからもう二ヶ月を迎えようとしているらしい。腕に刺さっている針先から点滴で栄養を摂っているだけの身体は痩せ細っていく一方。腕なんて棒のようだ。右手首の黒ずんだミサンガなんて、結び目を解く必要もなく簡単にすり抜けそうだ。

 東郷を助けに皆、行ってしまった。

 友奈のことを誰よりも大切にしている少女。もしかすると、高嶋に対する千景のようなポジションなのかもしれない。

 いつも隣にいてくれた人。どんな時でも一緒にいてくれて、支えてくれた人。苦しみも、悲しみも、共に分かち合える人。

 ふと向けられた優しい笑顔に、どれだけ助けられたことか。それはきっと、友奈にも当てはまることのはずだ。

 勇者部は友奈の覚醒をずっと待っている。どれほど深い絆で結ばれているかなんて知らない。ほんの数日前に転がり込んできた部外者にはその深さを測ることなんてできない。

 若葉や球子、杏にひなた、そして千景。ようやく少し親睦が深まった程度だが、これからなのだ。これから絆を育み、バーテックスに負けない屈強さを手にするのだ。

 西暦には西暦の絆が。

 神世紀には神世紀の絆が。

 だから、『勇者は全員が揃ってこそ』なのだ。

 

「起きて……結城友奈。皆があなたを、待ってるよ」

 

 ありったけの願いを込めて、高嶋友奈は結城友奈に囁いた。

 

 ◆

 

 誰かに肩を軽く揺さぶられたような気がして、##は薄っすらと目を開けた。

 どうやら自室の勉強机でうたた寝をしていたようだ。それにしても、なんだか随分と長い間、眠りに落ちていたような気がする。

 でもその内容がどうしても思い出せない。まるで水を掴もうとするもどかしさに似ている。

 ##は口元の涎を拭い、まだ解けていなかった最後の一問をさっさと解く。これで宿題は終わりだ。

 

「これでよしっと」

 

 ふと時刻を確認すると、夕方を迎えたくらいだった。

 勉強中はスマホを見ない。だが終わった今なら大丈夫。電源を入れると、数件のメッセージが届いていた。開くと、風が明日の部活のことを連絡していた。

 すでに樹、園子、夏凛の順で了解の返事が返ってきている。##も了解の可愛らしい猫のスタンプを送ると、椅子から立ち上がる。

 

「おっとっと」

 

 どうやら長時間座っていたせいで、ちょっとして立ちくらみが来たようだ。

 たたらを踏み、頭を振る。

 そして次に目に飛び込んできたものは、どういうわけか樹海だった。

 突風が前髪を揺らし、突発的に吹いてきた方向を見る。すると風と樹が勇者装束を纏ってバーテックスと戦っている姿が遠くに見えた。

 これは……そうだ。初めてのバーテックスとの戦闘だ。

 記憶がチクチクと刺激される。

 何も考えず、反射的に勇者に変身しようと下顎に力を入れた瞬間、視界の端にちらりと一人の影が映り込んだ。

 車椅子に座っている誰か。全体像が霞がかって、特徴が掴めない。

 どうしてここに? という疑問を振り払って##は声を張った。

 

「そこの人、逃げて!」

 

 瞬間、水墨画のように友奈を取り囲む景色が溶け、ある場所を象った。

 仄かに眩しいオレンジ色の陽射しに##は思わず顔を手で覆う。左手の窓から差し込んでいるのは夕焼けだ。

 そして自分の両手に何かゴムっぽいものを掴んでいる。視線を手元に落とすと、車椅子のグリップを掴んで押しているようだ。車椅子の主は前を向いている。

 やはり姿はよく見えない。目を凝らしても、同じように霞のせいで、この人が誰なのかがわからない。

 不意に、自分の口から滑らかにその人物に話しかけた。意志とは関係なく、まるで自分ではない誰かを演じているかのよう。

 

「私に嫌なことがあったら……私のこと、助けてくれる?」

 

 すると、その人はこちらを振り向いた。

 途端、激しいノイズが全身を駆け巡った。身体中の血管がぶつんと千切れるような不快感にえづく。

 

「もちろんよ」

 

 そう優しげに答えた人の顔は、やはり##にはどうしてもしっかり視認することができない。

 また景色が消え失せ、樹海に戻ってくる。しかし先程とは違って、壁に大穴が開けられている。そこから無数のバーテックスが雪崩込み、状況は切迫している。

 いつの間にか勇者に変身していたようだ。枝木がギチギチと##の右半身を締め上げる。

 頭の中がぐちゃぐちゃだ。脳みそをミキサーでかき回されているよう。これ以上の思考……行動……生命活動を終わらせるべきだと訴えかけられている。すでに##の限界は超えていて、人としての限界を大きく上回っている。

 満開した##は、壁を開けた犯人の戦艦に乗り込んだ。

 咄嗟に展開したドローンの迎撃を華麗な身のこなしで回避し、間合いを詰め、『誰か』の懐に潜り込む。そして、手加減なしの拳撃を顔にめり込ませた。

 すると、ずっと覆っていたモヤが一気に晴れた。

 青を基調とした勇者装束。吸い込まれるほど美しい黒髪の少女。

 目を真っ赤に泣き腫らしながらこちらを見上げる少女を、それでも##は思い出せなかった。

 ようやく見ることができたのに、少女が誰なのかまったくわからない。

 わなわなと肩を震わせた##は。

 

「あなたは……誰?」

 

 と漏らした。

 またもや景色が消え、ついに完全な暗闇に包まれる。

 あらゆる感覚が消え失せ、擬似的な死亡状態になる。水銀の底でたゆたう##。

 ……あれは、何だったのだろう。

 記憶が。

 思い出が。

 ゆっくりと蝕まれる。

 どうしても思い出せない。

 絶対に忘れないと誓ったこと。

 それを忘れてしまうのなら、もう……##に意味はない。

 自分が誰だったのかも、とうに忘れ去った。

 では、私は、何だ?

 自身を構成しているのは、果たして、何だ?

 この存在は、何だ?

 急速に自身に対して意味消失が行われる。

 自己を問い、自己を疑う究極の自問自答。自己破壊のアポトーシス。不可逆的な自滅衝動。

 いなくなろう。消えよう。一刻も早く、##は失せなければならない。

 ないはずの拳を振りかざす。これは、デストルドーの意志力が生み出した、死の一撃。

 それを大きく振りかぶり――

 自身に降ろそうと――

 

 ◆

 

「――――!!」

 

 友奈がぴくりと眉を動かした。

 それに、少しずつ、少しずつ、肌に血の色味が戻ってきている。モニタリング装置が、体温が上昇中であることを示している。

 鋭く息を呑んだ高嶋は友奈の手を力強く握った。それを額に押し当て、今までで一度もないくらい強く願いを込める。

 

「お願い……起きて……!!」

 

 先程から明らかに反応を見せている。

 静かだった寝息がしだいに大きくなり、唇を小さく震わせる。

 微弱だった心音も、正常に戻ろうと激しく躍動している。

 ……しかし、そこまでだ。

 数分間覚醒状態が続いたが、ただの気まぐれだったのか、それが収まり始める。反応がしだいに小さくなり、高嶋は慌てて叫んだ。

 

「待って! 待って!! 駄目! 今起きないと!」

 

 手に脂汗を滲ませながら根気強く友奈に語りかける。しかし高嶋の声は届かず、友奈の熱が冷めていくばかりだ。握る手がゆっくりと死人のような冷たさに戻りつつある。

 今、目覚めるか否かの瀬戸際に友奈はいるのだ。そこから引き上げるのが、この場にいる者の役割!

 高嶋にできることはこうして必死に呼びかけることだけ。これが本当に届いているかわからない。でも、この熱烈な気持ちはなんとしてでも伝えなければならない。

 何度も語りかける。我を忘れ、何度も声援を送る。

 それでもやはり熱は急速に失われていく。

 だが己の無力を嘆く暇なんてない。本当に最後の最後まで諦めない。諦めてたまるものか――!

 ここが病院であることなんてどうでもよくなった高嶋は、スタッフに聞かれて怒られることなんて気にせずに、あらん限りの声量で、もう一度叫んだ。

 

「あなたが私と同じ、友奈なら! 勇者、友奈なら! 立ち上がってみせてよ――!!」

 

 ピッ。ピッ。ピッ。

 その音は、ずっとリズミカルに鳴っていたモニタリング映像。それに変化はない。

 ……現実は非情で、友奈にそれ以上の変化が起きることはなかった。手首を掴みながら膝から崩れ落ちる。

 これでも駄目だったか。自分の力不足に高嶋は嗚咽を漏らした。

 

 だが。

 

 高嶋の呼び声に、さっきまでずっと友奈の頭上でホバリングしていた牛鬼がなぜか反応を示した。

 高嶋の顔の横に飛ぶと、慰めるように頬ずりをしてくる。

 

「牛鬼……?」

 

 牛鬼は高嶋に背を向けて再び友奈の頭上に飛び上がると、今度は降下を始める。友奈と接触すると思われた瞬間、激しく桜色の燐光を散らしながら、友奈の体にゆっくりと溶けて沈んでいく。

 その超常的な光景に、高嶋はただ圧倒されるしかなかった。

 完全に身体が呑み込まれる寸前、こちらを見る牛鬼のいつもと変わらない瞳は、

 

 ――任せて。

 

 と言っていた。

 

 ◆

 

「……起きて、結城友奈」

 

 それは、力強くて温かい声だった。

 途端、消滅せんと迫った拳が幻のように消え失せる。

 胸が猛烈に熱くなるのを感じた。

 しかし火傷などといったものは一切なく、寧ろ心地良いものだった。気づけば、何でもなかった存在に、肉体が与えられている。

 自身を見下ろし、試しに少し身体を動かしていると、驚くほど馴染む。

 

「……起きて、結城友奈」

 

 もう一度、声が投げかけられる。

 上からだ。上から声が聞こえる。##が虚ろな顔を持ち上げると、微かな光が差していている。手を伸ばしてみるが、距離は気が遠くなり程離れていて、届かない。

 でも、あそこから聞こえる。この薄暗い虚無の空間から抜け出すには、あそこを目指さなければならないと本能的に悟る。

 

「……起きて、結城友奈」

 

 その声は、自分の声に瓜二つだった。

 まるで自分に鼓舞されているようだ。身体に血が巡り、青白かった肉体は瞬く間に健康的な色味を取り戻す。世界に色彩が宿り、先ほどから差していた光が桜色だと認識する。

 

「――皆が、待ってるよ」

 

 記憶が付与される。

 知らない情報までが、海馬に投射される。これは##のものではない。しかし、鮮明な記憶が##の崩壊寸前の記憶を驚くべき速度で補っていく。

 健気で弱気だけど、いざというときは身体を張る子。

 食べることが大好きで、包容力がある子。

 常に自分に自信を持ち、引っ張ってくれる子。

 ふわふわしていて、どんな時でも明るい子。

 ふたりの友奈。

 そして。

 忘れないと誓い合った、黒髪の子。

 静止していた心臓が静かに脈を打ち始める。全身に力が入り、##は生の実感を得る。

 

「私は……誰?」

 

 久方ぶりに言葉を紡ぐ。

 

「あなたは讃州中学勇者部、結城友奈」

 

 光は速やかに返事を返す。

 

「何のために私は立ち上がるの?」

 

「誓いを守るために。東郷さんを、救い出すために」

 

「私は……讃州中学勇者部、結城友奈……?」

 

「そう。忘れないで。あなたが大切にしていた人たちを」

 

 行かなければ。

 起きなければ。

 友奈はもう、自分を忘れない。友を忘れない

 たとえ神が仲を引き裂こうとしても、決して千切れない強い繋がりをここに。

 上昇する。

 水銀の重みなどものともせずに友奈は水面へ向かう。

 両手で懸命にかきわけ、光に向かう。

 その先に、誰かがいた。

 真っ白いシルエットが発光していて、誰かまではわからない。でも友奈に手を指し伸ばしている。

 もうすぐで届く。

 こちらも手を伸ばしながら距離を詰める。

 そしてついに、友奈の手が――

 

 ◆

 

 牛鬼が唐突に友奈の身体から弾かれたように飛び出した。

 慌てて受け止めた高嶋は、急にこの病室を満たした異様な空気に肩を震わせた。

 急いで友奈の元に戻り、変化に気づいた。

 昨日の、生気のない骸のような雰囲気とは打って変わって、明らかに魂が宿っている。失われる寸前だった熱が再燃し、肌は完全に赤みを取り戻している。

 

「あ――」

 

 高嶋の口から掠れ声が漏れる。

 目頭が熱くなるのを感じた。

 そして。

 友奈の口が僅かに開き、閉じ、開きを繰り返し。

 ゆっくりと。ゆっくりと瞼が持ち上げられた。

 照明に照らされた友奈の瞳にまだ意志の光はまだ見えない。しかし、生まれたばかりの赤ん坊が手足を伸ばすような、ゆっくりとした速度で光が宿る。

 喉を上下させ、呼吸音が口から漏れる。しんと静まり返った病室を、友奈の第一声が震わせる。

 

「…………ぁ、あ」

 

 続いて宝石を思わせる瞳がぐるりと周囲を見回し、高嶋と目が合う。

 なんと声をかければいいかわからない高嶋は口をぱくぱくと開閉させる。

 それを見る友奈は緩やかに口角を上げた。

 

「あなたが私を呼んでくれたんだね……ありがとう」

 

 牛鬼は嬉しそうに大きく翼を羽ばたかせて友奈の膝上に乗り、主の帰りを待っていた犬のように執拗に頭をぐりぐりとお腹に擦り付ける。

 

「うん……うん。牛鬼もだね。ありがとう」

 

 するとよほど嬉しかったのか、牛鬼はその場でホバリングして宙返りをした。

 そしてどこからともなく現したスマホをごとんと友奈の上に落とした。

 友奈はそれを左手で受け取る。

 満開システムによる散華、完治を確認。

 右半身の麻痺は満開によるものではないため完治せず。

 高嶋は友奈が眠っている間の出来事を知らないため、記憶の欠落あり。補われたのは、髙嶋友奈が勇者部と接触してからの記憶のみ。

 東郷の消失。勇者部による捜索が瞬時にインプットされる。

 冷静に状況を理解した友奈は高嶋に向けて言った。

 

「高嶋ちゃん」

 

「は、はい!」

 

 思わず裏返りかけた声が出てしまった。

 遥かに年上っぽく感じられる佇まいに、つい高嶋は敬語で反応してしまう。覚醒したばかりだから仕方ないとはいえ、だとしても友奈の纏う雰囲気は、言葉にできない畏敬に近いものを孕んでいた。

 

「東郷さんを……助けに行ってくる。ごめんね、色々お話したいけど、またあとで」

 

「あ、うん。でも……大丈夫?」

 

 まだ覚醒して数分も経っていない。それにどう見ても健康体とは言えない。自力で身体を動かすことすら容易ではないはずだ。

 

「ありがとう。でも大丈夫。私は絶対に東郷さんを助ける。……高嶋ちゃんも一緒に来る? 途中までだけど。ここに来て日は浅いけど、近くで帰りを待つくらいは良いはずだよ」

 

 付与された記憶を頼りに友奈は語りかける。

 東郷を助けたいという思いはその強さに限らず高嶋にもある。ならば待つ資格は十分にある。

 

「じゃあ……お願いしようかな」

 

「うん、任せて」

 

 すでに牛鬼が寄越したスマホの画面には、変身ボタンが表示されている。友奈はそれを痩せ細い指でタップする。

 途端、友奈を中心に花弁が舞い、懐かしい勇者装束を身に纏った。遅れて右半身を補助する枝木が伸びて手足に巻き付く。

 何度か右手を握っては開いてを繰り返して正常を確認した友奈はベッドから降り、側の窓を勢いよく開けた。

 そして高嶋に近づくと、膝の裏に手を伸ばして後ろに倒れさせる。

 

「きゃっ」

 

 もう片方の手で上半身を受け止め、俗に言うお姫様抱っこで高嶋を抱えた。

 そのまま窓から顔を覗かせると、勢いよく飛び出した。なるべく人目につかないように背の高い建物を中継して大ジャンプを繰り返す。絶好調ではない友奈でも、あっという間に病院から遠ざかっていく。

 腕に抱かれた高嶋は素直に景色を見下ろす勇気がなくて、小さく蹲っている。

 数分もしないうちに、大橋まで辿り着いた。内陸側には白いドーム上の建物。その中には英霊の名前が連なる慰霊碑がある。壁への最短距離を通った結果だ。

 さすがに壁の外まで連れていくわけにはいかないため、ここで髙嶋をおろした。強風に煽られたせいで少しだけ髪型が崩れてしまっている。髪飾りがなければもっと荒れていただろう。

 慰霊碑の横を通り過ぎ、潮の香りが強くなるのを感じながら友奈は大きく呼吸を整える。

 じゃあ、行ってくると伝えた友奈は脚に力を込めようとした。

 すると、右手前方、約十メートルほど離れた位置にある盛り上がった岩石の上に膝を立てて座り込んでいる一人の少女が目に入った。

 そして向こうもこちらに気づいたのか、滑らかな動きで高さ三メートルはあろう岩から素早く降りて、こちらに歩いてきた。

 ……奇妙な格好だ。

 赤黒いスーツ。肩や膝、肘などに装甲が張り付けられていて、普通のスーツとは思えない。

 その色は闇夜に紛れるのに相応しそうだ。しかし今は昼下り。こうして堂々と友奈たちの前に姿を現した少女は穏やかに微笑みかけた。

 

「赤嶺、ちゃん……? なんでそんな格好してるの……?」

 

 高嶋の問いに少女――赤嶺は答えない。

 代わりに丁寧に挨拶をしてきた。

 

「始めまして、結城友奈さん。あなたを信じて待ってたよ。私は赤嶺友奈。あなたの先輩にあたるね」

 

「うん。初めまして。赤嶺ちゃんのことは、ある程度なら知ってるよ。でもごめんね。話したいことがたくさんあるけど、今は急いでるから後でいいかな?」

 

 このまま直線で大ジャンプをすると赤嶺にぶつかってしまう。

 それを避けるために、友奈は三歩ほど右に移動した。

 すると、赤嶺も同じように移動する。

 友奈が首を傾げる。

 ……ああ、こういうのはよくあることだ。歩道で通行人とぶつかりそうな時、横に避けたら相手も同じ方向に避けてしまう現象。

 今の赤嶺のはきっとそれだ。

 もう一度友奈は右に動く。

 そして、赤嶺も右に動いた。

 赤嶺の表情が改められる。

 

「…………」

 

「…………ちょっと、退いてもらえないかな?」

 

 赤嶺は満面の笑みを向けると、

 

「もちろん、嫌だよ♪」

 

 と抑揚よく言い放った。

 瞬間。

 場の空気が一転し、地獄にも負けない灼熱の炎が息巻いた。

 高嶋はその変化の度合いについていけない。胸の内に重い鉛が落とされたような感覚に短く喘ぐ。

 目の前の小麦色の少女は、敵だ。

 友奈の目が変わったのをいち早く察知した赤嶺は態度を急変させ、目を剥き、視線だけで殺せるほどの眼力で友奈を睨みつける。

 赤嶺が両肩を大きく震わせると、数段構造になっている肩の装甲がじゃりいいん! と鈍い金属音を奏でてズレ、両腕を覆う。膝も同じように、脚全体を装甲が覆う。

 胸部装甲も展開され、腹部ほぼ全域を黄金色が埋め尽くす。

 手首の膨らんだ部分を握りつぶすと、手の部分に液体金属が流れ、指の背の部分にたどり着くと、板状に凝固する。

 これは、スーツの機能を攻勢を極限まで解放したもの。

 西暦組との共闘でも見せなかった、赤嶺の本気。

 高嶋が鋭く息を呑んだ音が聞こえる。

 

「――結城友奈。目覚めて早々で悪いけど、もう一度眠りについてもらうよ」

 

 敵意を剥き出しにした赤嶺は、ドスの効かせた声でそう言った。

 

 




この章で初めに語られた言葉、覚えていますか?
樹ちゃんの占い、覚えていますか?

それではまた次回!

【Infomation】
▼高嶋友奈による明確な干渉を観測
▼征矢に辞令、高嶋友奈及び赤嶺友奈の処分
▼Error! 征矢の整備が未完了。残り13%
▼整備完了次第派遣
▼終了


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決闘

前回のあらすじ
結城友奈。赤嶺友奈。
衝突。



 潮風が鼻腔を刺激する。

 磯の香り。

 海の香り。

 すぐそこには海があって、その向こうには壁がある。さらにその向こうにはバーテックスが無限に闊歩する赤の世界がある。

 そして、友奈はどうしてもそこに行かなければならない。

 風たちと一刻も早く合流して、東郷を助けに行かなければ。

 しかし。

 目の前の硬い装甲に身を包んだ赤嶺を打倒しなければ、それは叶わない。

 友奈は怪訝そうに喉を鳴らした。

 

「どうして、私の邪魔をするの?」

 

 溢れんばかりの気迫を、極限まで押し殺した質問。

 友奈には赤嶺に邪魔される理由に心当たりなんて微塵もない。そもそも赤嶺とはこれが初対面で、互いのことをよく知らないはずだ。ずっと寝込んでいた友奈が、赤嶺に果たして何ができたのか。

 赤嶺は大きく深呼吸をし、胸を膨らませ、冷たく返す。

 

「あなたが神の業に手を出したから。人を超越し、神を脅かす存在だから」

 

「……ごめん、何を言ってるのかよくわからない」

 

 神の業?

 聞き覚えのない単語だ。それに脅かしたという覚えもない。

 赤嶺の言っていることは的外れで、友奈には理解できないことだ。もしかしたら話し合いで分かりあえるかもしれないと思い、両手を上げて無抵抗をアピールしながら慎重に一歩進む。

 しかし、赤嶺は拳を握り、戦闘の体制をとる。

 ……どうやら、話し合いはできないようだ。

 

「本当にわからない? あなた、二回もやってみせたんだよ? 病室であなたを見た瞬間、わかった。だって臭いがぷんぷんしてたもん。人ならざるものがね。具体的なことは知らないけど、初めはきっと、風さんが言ってた戦闘での時かな。それで次は……こうして目覚めた」

 

 赤嶺の指摘に、友奈は言わんとしていることをなんとなく理解し始める。

 皆を助けるため、勇者としての記憶を満開の代償として散華した友奈は、神樹のエネルギーを借りずに再び満開をした。

 つまり、自分を消費して神に迫る力を得た。

 それは明らかに人にはできない所業。それを神の業というのは誇張し過ぎだとは思うが、恐らくそのことを言っているのだろう。

 

「……そうだとして。赤嶺……ちゃんが私を邪魔する理由にはならないんじゃないかな?」

 

 すると赤嶺は小さく笑い、やれやれとばかりに肩をすくめた。

 

「あなたたち勇者は光だ。民衆の前に立ち、諸人を魅せてやまない、いと尊き存在だろう。でも、光あるところ、影もある。私は……影だ。勇者がバーテックスという敵を討つのなら、私は人間という敵を討つ。それが、鏑矢の御役目」

 

 ……そうか。

 つまり赤嶺友奈という人間は、友奈とは違って、裏の世界で暗躍する執行者というところか。

 友奈はずっと、表の世界しか眼中になかった。それが普通で、せいぜい映画などでそういった裏の世界をテーマとしたものを観る程度だ。

 いざ、その世界の人間が友奈の前に立ちはだかるとなると、その威圧感は凄まじいものである。

 ただ愚直に外敵に立ち向かう勇者とは対極の存在。様々な思惑が入り乱れる、薄汚い暗闇で粛々と敵を討つ人間。

 それが赤嶺友奈。

 その肉体は対人にのみ鍛え抜かれ、今、友奈に全力が向けられようとしている。

 

 ……勝てるか?

 

 一瞬、そんな愚かなことを考えてしまった。

 すぐにその甘い考えをくしゃくしゃにして投げ捨てる。

 

 勝つ以外、ない。

 

 頑張るとか、全力を尽くすとか、逃げ道を残すような言い方は不要だ。

 勝つ。

 必ず勝つ。

 それが友奈に与えられた試練だ。

 

「やめてよ赤嶺ちゃん! 仲間同士でこんなことは駄目だよ!」

 

 懸命に仲を取り繕うとするのは高嶋だった。

 二人の間に割って入り、悲痛な表情で訴える。

 

「仲間……?」

 

 しかし赤嶺は言葉を学んだロボットのように高嶋の言葉を反復した。そしてもう一度「仲間……」と呟くと、薄ら笑みを浮かべた。

 

「私の仲間はレンちとシズ先輩だけだよ? 別に成り行きでこうなっただけで、あなたを含め、この時代の人たちを仲間だなんて微塵も思っていない。……どうやら、根本的な認識のズレがあったようだね。もし私の邪魔をするのなら、高嶋ちゃん、あなたも黙らせないといけなくなる。別に処分対象ではないから、できればそれは避けたい」

 

 バーテックスとの戦闘中にも見せたことのない、殺意の込められた視線に射抜かれ、高嶋は心臓を鷲掴みにされたような感覚に陥った。

 所詮はこの程度だ。

 光の人間に確固とした意志があるように、影にも意志がある。それは捻じれ、歪み、淀んだもの。その濃度は圧倒的だ。人の悪意に触れ、人の善意を疑う。

 数度、抵抗しようと足を踏み留まらせようと身震いするが、高嶋にはどうやら耐えきれなかったようだ。非常にゆっくりとした動きで身を引き、ふたりから距離を取る。

 

「高嶋ちゃん、下がって。赤嶺ちゃんは私に用があるから。手出しはしないでね」

 

 こくりと頷いた高嶋は、胸に手を当てる。

 こんな……人間同士で争うことなんて許されるはずがない。西暦では皆が力を合わせ、バーテックスという脅威から逃れるべく力を尽くしていた。

 ……止めなければならない。高嶋の人間性なら絶対にそうしていた。喧嘩なんて……それも、見知った人同士の喧嘩なんて、絶対に見たくないからだ。

 しかしこのふたりの喧嘩は、喧嘩ではない。

 決闘だ。両者の想いをぶつけ合う戦い。

 ふたりの目は本気だった。時を超え、本来なら出会うはずのない三人の友奈がここに集う。

『何か』が起こるだろうとは思っていた。でも、こうなるとは思わなかった。

 だからこそ、高嶋はこの決闘の行く末を黙って見届ける決心をした。

 どちらも全力で応援したい。しかしそれでは矛盾してしまう。

 丸亀城に突然現れ、球子のうどんの器に虹を吐くというこれ以上のない印象深い登場を果たした赤嶺。

 短い時間、たった一度の共闘だったが、高嶋たちのため、共に命を懸けてくれた。その在り方は、決して正しくないなんてことはない。

 だって、一緒に人類を守るために戦った、仲間なのだから。

 心神喪失状態だったが、大切な仲間を助けるために再び立ち上がった結城。

 勇者として、ずっと頑張ってきたことを高嶋は知っている。実際に目にしたわけではないが、風と樹が熱心に語る人物像は、間違いなく勇者だった。

 友奈が一歩を踏み出す。

 今度は話し合いを求めにではない。

 決闘に応じるためにだ。

 友奈のスイッチが切り替わったことを肌で感じとった赤嶺は股を広げ、スーツの繊維が悲鳴を上げるほど力強く拳を握った。口の端から細く吸い込む呼吸音が、場の空気を黙らせる。

 両者の視線が交差する。

 長い時間見つめ合った後、友奈が先に口を開いた。

 

「私は……勇者、結城友奈。悪いけど、あなたがどんな気持ちでその御役目を果たしているかは知らない。もし私の前に立ちはだかるというのなら、押し通らせてもらうよ」

 

 対する赤嶺は穏やかに肺に溜め込んだ空気を吐いた。

 身体から熱気を漏らしながら、五秒後の爆発に備える。

 

「私は鏑矢、赤嶺友奈。四国に平和を。永久の安寧を。――火色舞うよ」

 

 強い意志の籠もった声で、そう言った。

 そして、爆発。

 音も無く赤嶺は地面を蹴り上げた。

 フェイントなどない、シンプルな突進。

 分厚い装甲に覆われた赤嶺に衝突されては、さすがの勇者姿だろうとダメージは避けられない。

 足首を捻り、急回転で身体の向きを変えて回避に徹する。

 友奈のいたところを赤嶺が通り過ぎる。

 その横っ腹に先制の一撃を喰らわせようと、左腕に力を込め――

 恐るべき反応を見せたのは、なにも友奈だけではなかった。

 あれだけ猛スピードだった勢いが、力強く踏みつけられた一歩によって急停止する。その力たるや、地面に蜘蛛の巣状の亀裂を走らせるほど。

 隙を晒すと先読みして回り込んだ友奈が晒す隙。まだ殴りのモーションにすら入っていない、柔らかい腹部のど真ん中に、鋼鉄の一撃が吸い込まれた。

 

「う、ブ……ッ!」

 

 拳が友奈の腹に深く沈み込む。

 素早く引き抜いた赤嶺は追撃を繰り出そうとするが、なんとか次に反応できた友奈のガードによって阻まれる。

 カウンターを危惧した赤嶺はステップを踏んで友奈から離れた。

 友奈は腹を押さえながら数歩よろめき、苦しそうに身悶えする。そしてついに我慢できなくなり、喉元まで込み上げていた胃の内容物を吐き出してしまう。

 しかしそれは胃液だけ。酸味の効いた味が口内に広がり、喉が灼けそうになる。

 勇者装束によるダメージ軽減がなければこの程度では済まなかった。

 倦怠感を覚えつつも、友奈は再び構える。

 今の一合で理解させられた。

 赤嶺は、強い。

 

「普通なら、祝詞のない私では勇者に到底勝てない。……でも。今のあなたなら十分のようだね」

 

「…………っ」

 

 アドバンテージは赤嶺の方が遥かに上。それに対人に特化した人間だ。

 不利な相手。不利な状況。

 一見友奈に勝ち目などないように思われる。

 ……実際、ない。ここからどうにかして赤嶺を打ち負かすビジョンが友奈にはどうしても浮かび上がらなかった。

 思うように身体に力が入らない。歯を食い縛りながら『敵』を睨み上げる。

 雷撃めいた速度で足蹴りが迫る。その狙いは友奈の左脚。立つことを奪うつもりだ。

 咄嗟に跳躍することでこれを回避。そして、落下エネルギーを加算した一撃を真上から頭蓋に振り下ろす。

 しかし、赤嶺は頭上で腕をクロスさせることでガードした。

 衝突。

 鈍い音を響かせ、装甲に小さな亀裂が走る。祝詞無しでも勇者の攻撃を防ぐことには成功したが、完封というわけではもなさそうだ。

 見れば、右肩の装甲が一部、不自然にない。左の腹部も同じように少しだけ裏のスーツを剥き出しになっている。

 友奈に立ちはだかる前、すでに一戦したのか?

 ……いや、そんなことはどうでもいい。友奈が唯一付け入る隙があるなら、そこだ。

 友奈の視線に気づいた赤嶺は極めて静かに怒りを露わにした。御役目直後に時間遡行をし、さらに西暦の戦いに巻き込まれ、一度もスーツのメンテナンスをしてもらえなかった弊害。

 それが、友奈に勝機を与えてしまった。

 だが今更どうにかなることでもない。

 ただ、目の前の『敵』を倒す。

 それだけだ。

 

「――フッ!!」

 

 赤嶺の姿がブレる。次に姿を現したのは、友奈の背後だった。なんとか反応できたが、そこまでだ。

 

「くッ、あ……!」

 

 どん、と背中を押され、あっという間に両腕を羽交い締めにされる。

 ギリギリと段階的に締め上げられ、友奈は脂汗を滲ませながら苦悶の声を漏らす。

 赤嶺は艷やかな声で耳打ちした。

 

「病み上がりを襲うのは卑怯、なんて思わないでね? 私達鏑矢は敵を倒すためならあらゆる手段をとる。毒に人質。……それに拷問だってね。だからこんなに優しくしてあげるのは、同じ『友奈』だからなんだよ?」

 

「放、して……!」

 

「放さないよ? このまま両腕をへし折って、両脚も砕いて、それから眠らせてあげる。これがあなたへの罰」

 

 さらに力が込められ、左腕の痛みが鋭く全身を巡る。

 快調ではない友奈に赤嶺を振り払う力がない。ゆっくりとゆっくりと骨が嫌な音とともに軋むのを知覚しながら思考を加速させる。あえて右腕を折らせ、強引でも引き剥がそうかと脳裏をよぎった――その瞬間。

 右腕に巻き付いていた枝木が、突然伸びた。

 そして友奈の意志とは関係なく活動し、赤嶺に迫る。

 

「っ⁉」

 

 その動きから対した威力があるとは到底思えなかった。しかし、そのあまりに想定外の動きに、赤嶺は戦慄を覚えた。

 つい反射的に友奈を解放してしまう。

 距離が開く。しかし今から急反転して迫っても十分届く距離だ。

 

「おおおおおッ!」

 

 初めて明確に晒した赤嶺の隙!

 これを逃がすことは、決してあってはならない!

 必死に手を伸ばし、胸の装甲の縁を掴んだ。そのまま力任せて引き千切る。

 べぎャッ! と歪んだ音が響き、胸から臍辺りまでを一気に剥ぎ取った。

 これで腹の防御はほぼなくなった。

 

「っ! このッ……!」

 

 ――拳が迫る。

 頭だけはなんとしてでも守らなければならない。ただでさえ覚醒しきっていない頭への強打は致命傷だ。

 霞み、消えそうな意識をかき集めて集中する。脳裏に電撃が走る。

 既のところで攻撃を防ぎ、反撃とばかりに赤嶺のガラ空きの腹に渾身の一撃を叩き込んだ。

 初めて明確な敵意を抱いて繰り出した人への攻撃。

 

「ふ――ぐ――!」

 

 顔を一瞬だけ歪めるが、それでも赤嶺は攻撃を続けた。

 目にも止まらぬ速さのラッシュ。

 そのすべてを見切り、回避もしくはガードすることは不可能。大ダメージになりえるものだけを命懸けで守り、他は捨てる。

 肩。喰らう。

 頭。防ぐ。

 腹。中央ではないから喰らう。

 頭。防ぐ。

 腹。中央だから防ぐ。

 腕。喰らう。

 苦し紛れの反撃は呆気なく躱されてしまう。その返礼として倍の拳が返ってくる。

 繰り出される一発一発が鋭く、とてつもなく重い。気の遠くなるような猛攻に、ふっ、と意識が飛びかける。

 

 ――負けるな!!

 

 覚醒する。

 己を奮い立たせる。

 赤嶺の指の背の金属が、日に照らされて鈍色に光沢を放つ。対して友奈が放ったのは、感覚の死んでいる右手だ。枝木がしなり、拳を強制させる。激突した衝撃で、地面が僅かにめくれ上がる。

 同時、明らかに指の骨が破砕された軽い音が耳朶に聞こえた。

 

「「ぉぉぉおおおおオオオオ――ッ!!」」

 

 ふたりの咆哮。

 限界の限界。

 シンプルな力勝負なら、勇者姿の友奈の方に軍配が上がるはず!

 友奈の確信通り、ついに赤嶺の拳に打ち勝つ。その勢いで顔面にめり込ませようと意気込んだが――その通りになることはなかった。

 赤嶺は自らの足を軸に、友奈の力を利用して時計回りに回転するというアクロバティックな動きをしてみせた。

 目を剥く友奈。

 一周し、ガラ空きの右脇腹、そこにありったけの力を込めて赤嶺が打ち抜く。

 

「ハアッ!!」

 

「は、ズ――!」

 

 身体が数センチ持ち上げられ、後方に吹き飛ばされた。

 背中を地面に強打し、肺に残っていた空気が強制的に吐き出され、仰向けに倒れる。

 ……痛い。とても……痛い。

 目がチカチカする。身体中が擦り傷と打撲だらけだで、ズキズキと痛みが襲う。

 僅かに鉄の匂いが鼻に届く。

 久しぶりの激痛に、友奈はすぐに起き上がることができない。バーテックス戦でも、精霊が自動的にバリアを張ってくれたから痛みはそれほどでもなかった。

 だから今の一撃は、とても、効いた。

 冷たい空気が気管を容赦なく灼く。

 朦朧とする意識。物体の輪郭がボヤケて見える。

 ……ああ、まずい。動けない。

 身体の節々がこれ以上はやめておけと友奈に警告している。

 でも、動かなければ。

 

「あなたのその枝木、すごく気持ち悪い。不愉快だ」

 

 そう呟いた赤嶺は、汚物を見下すような目で友奈を見下ろす。

 ひとりでに伸びていた枝木は、気味悪く友奈の身体の上を不規則に動き回って、首に張り付き、頬にまで伸びる。

 

「……これで終わりだよ」

 

 腰のポーチからなにやら棒状のものを手に取る。そしてスイッチを押すと、その長さを倍以上に伸ばした。

 いったい……何を持っている?

 しかし、あれにやられたら終わると直感した。

 棒を構えながら、敵が躙り寄ってくる。

 本当にもう動かない。全身から力がみるみる抜けていく。もう呼吸をするだけで精一杯だ。指の先まで痺れて、上手く身体を動かせない。

 そもそも無理な話だったのだ。あらゆる点で勝っている相手に勝つなんてことは。

 

 ――いや、違う。

 ――私は勇者、結城友奈。

 ――ならば、立ち上がれ。そして目の前の敵に……打ち勝て!

 

 結城友奈が目覚めた理由。

 それを、忘れるなッ!!

 

 撃鉄が起こされ、友奈はガリッ! と下唇を噛んだ。

 動け!

 動け!

 動け!

 今動かなければ、絶対に負ける。

 仲間を救いたいという思いを抱き、人を超えて目覚めたのに、それが無駄になってしまう。

 冗談じゃない……!

 友奈の想いを踏みにじるようなことは、絶対に許さない!

 赤嶺はただ友奈を処分対象としか見ていない。鏑矢が具体的にどんな御役目なのかなんてどうでもいい。ただその在り方に従っているだけに過ぎない。

 だが友奈は違う。友奈には必ずやり遂げなければならないことがある。

 つまり。

 

 赤嶺友奈の意志ではなく、結城友奈の意志が何よりも優先されるべきだ――!

 

 ばぐん! と枝木が目に見えて膨らんだ。その変化は、友奈の傍らで片膝を付き、今まさに矢を振り下ろさんとした赤嶺の目にも映った。

 枝木が強引に右半身を動かし、浅く上下する友奈の胸に矢が突き立てられる寸前から緊急離脱する。

 

「――――」

 

 赤嶺は膝をついたまま、わなわなと肩を小刻みに震わせながら顔を俯かせる。

 そして。

 

「――殺す」

 

 と、小さな声でぼそりと呟いた。

 ゆっくりとした動きでなんとか立ち上がった友奈をキッと赤嶺を睨みつける。

 傷はまだ癒えない。殴られたところが痛み、絶え間なく意識を狩り取ろうとしてくる。

 でも、立ち続ける。

 それが勇者だ。

 簡単には倒れない。

 

「……負ける、もんか。私は……皆に後押しされてこの領域に至った。だから、これを捨てるつもりは……ない。これは人間の可能、性……未来への希望だよ」

 

 ぶわり。

 赤嶺の怒りのオーラが押し寄せる。

 どっと汗が吹き出したのを友奈は感じた。

 

「希望……? ふざけないでよ。そんなことを考える奴が湧いたから天の神に粛清された。人間に可能性なんていらない。人間は人間として生きて、死ぬべきだ。お前は――異端だ」

 

「……それでもいいよ。私は、これが正しいって、信じてるから」

 

 今一度、闘志に火をつける。

 いくら綺麗事を並べても、結局ここでものを言うのは純粋な力のみ。己の主張を張り通したければ、力を以て証明しろ。

 立ち上がったはいいものの、状況は変わらない。こちらは満身創痍。向こうにはたった一発しかダメージを与えられていない。

 もう一度装甲の剥げた赤嶺の腹に勇者パンチを喰らわせることができれば、きっと勝てる。

 逆に、こっちは一度でも殴られたら今度こそ立ち上がれなくなる。意志力だけでは立ち上がれなくなってしまう。そこに追撃を受けて、負けて、終わる。

 赤嶺も同じようなことを考えたのだろう。

 殺伐とした目でこちらを睨みつけてくる。友奈も、負けじと眼光を鋭くする。

 すでに友奈の視界には赤嶺しか存在しなかった。それ以外の情報はすべて排除されている。音も、風や海の音なぞ一切聞こえない。

 赤嶺の荒い呼吸音だけが鼓膜を震わせている。

 意識は奥深くに溶け込み、世界は静まり返る。

 友奈は大きく息を吸い込み。

 そして、全力で吼えた。

 

「負けない! 絶対負けないッ!! 人間の可能性を否定するような奴なんかに! 私は……負けないッッ!!」

 

「ここで死ね!! 結城友奈あああアアァァァッ!!」

 

 

【挿絵表示】

 

 

 肉迫。

 刹那の間にふたりは目と鼻の先にまで急接近する。

 これは、どちらが先に攻撃を与えられるかで勝敗が決まる。

 そして。

 友奈より先に拳を突き出したのは赤嶺だった。

 どれだけ威勢良く吼えても、速度がほんの少しでも上がるわけではない。

 狙いは胸の中央。あれだけ一方的に殴りつけ、傷つけた。友奈の呼吸のリズムも、とうに狂っている。

 心臓の鼓動は間違いなく弱くなっている。目覚めてからなんのリハビリもせずに、これほど過激な戦闘。身体が耐えられるはずがないことは明白。

 回避などという無駄な労力を一切排除した友奈はノーガード。その胸に、あっさりと鉄でコーティングされた拳が吸い込まれる。

 

「ぉぉおおオオッ!!」

 

 耳障りのいい打撃音。

 確実に命中した。

 

「――――――こ、フッ」

 

 苦しげに顔を歪ませて呻く。

 そして友奈の呼吸はそれを最後に止まり、心音も止まる。瞳孔が極限まで開かれる。

 赤嶺は殺ったと確信を得る。

 拳から心臓の完全な停止を感じ取る。

 もし矢で眠りにつかせたとしても、必ず友奈は神の業によって再び目覚める。だから、根底から……生命を断つこと以外、できることはなかった。

 力の抜けた身体がゆっくりと赤嶺に倒れてくる。これ以上骸を傷つけるのは、同じ顔だからか、夢見が悪い。

 せめてもの慈悲として受け止めようと、両腕を広げる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しかし。

 友奈の右脚が、直前で踏みとどまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「は――⁉」

 

 高嶋の介入⁉

 いや違う!

 高嶋はずっとこちらを黙って見守っているだけだ!

 ならば、これは、どういうことだ……⁉

 確実に、絶対的に、不可逆的に殺したはず。なのに! なぜ!

 

「――牛、鬼!!」

 

 狼狽し、急いで離れようとする赤嶺の懐に潜り込んだ友奈が濁った声で精霊の名を叫ぶ。

 するとどこからともなく現れた牛鬼が友奈の右手に浸透し、宿る。

 眩い光を放ち、満開ゲージがひとつ、飛び散った。

 轟ッ!

 燃え盛る炎を赤嶺は瞳の奥に灼きつける。それと同時に、焔に炙られても燃えない、薄汚れた黄色いミサンガが映り込んだ。

 

「――――――――――――――――ぁ」

 

 そのミサンガ――

 私――

 知ってる――

 

「勇者……パアアアアアァァァァンチ!!」

 

 あらゆる動作が停止した赤嶺の身体に、死を超越した友奈の渾身の一撃が打ち込まれた。

 その瞬間、桜色の波動がひときわ大きく轟き、絶大な規模の爆発が遥か天まで駆け上った。

 それに巻き込まれた赤嶺は海辺にまで吹き飛ばされ、どさりと落下した。

 数秒待つが、起き上がってくる様子はない。どうやら気絶したようだ。

 勝った。

 そう確信した友奈はついにその場に崩れ落ちる。心臓の再鼓動に、服に皺ができるほど胸を抑える。

 駆け寄ってきた高嶋に肩を借りながら、なんとか立ち上がる。

 

「……お疲れ様、結城ちゃん」

 

 荒い呼吸を繰り返し、ようやく身体を落ち着かせた友奈は絞り出すように言った。

 

「うん……ありがとう。でも、まだ、やることが……あるから」

 

 そう。

 これが本命ではない。ただ障害を退けたに過ぎず、これから友奈は東郷を助けに行かなければならない。

 本当ならここで強引にでも押し留めて病院に帰らせることができる。今のボロボロの友奈なら、高嶋でも容易だ。

 でも、ここは背中を押すべきだ。止めるのは、友奈を侮辱することと同義。

 

「赤嶺ちゃんは、私に任せて」

 

 こくりと無言で頷いた友奈は、ふらりと高嶋から離れると壁の方角へと向かって跳躍し、みるみる姿が豆粒ほどの大きさになる。

 後には、仄かに光を放つ炎の残り火が、揺らぎ、消えるだけだった。

 

 ◆

 

 高嶋が海辺に赤嶺を探しにやってくると、すでに赤嶺は起き上がっていた。

 友奈が消えた水平線の向こうをぼんやりと見つめ、足元に届いた漣を足先で叩いて遊んでいる。

 

「赤嶺ちゃん」

 

 ぴたりと遊んでいた足を止める。そして後ろを振り返った赤嶺の顔は、負けたとは思えないほど清々しいものだった。

 その理由が高嶋にはわからなかった。「手を貸そうか?」と尋ねると、「お願い」と素直な返事が返ってくる。

 肩を貸すと、装甲が身体にあたって少し痛かった。でもそれを口にせずに高嶋はさっきまでいた場所へと運んだ。

 

「うん、もう大丈夫だよ」

 

 そう言った赤嶺はとことこと後ろへ……英霊碑へと歩を進める。

 

「ちょっと……来てくれる?」

 

 やはり何がしたいのかはわからなかったが、敵意や害意といったものは特に感じられない。寧ろ本当に心の底からお願いしているように聞こえた。高嶋はにこやかに笑顔を向けると、

 

「うん、いいよ」

 

 と答えた。

 そこは高嶋が知らない場所だった。墓石のように整然と並ぶ石碑には、人の名前が深々と刻まれている。

 赤嶺はまるで初めから目的地があるようにずんずん進む。高嶋はその後ろを着いていく。

 ぱっとすぐ真横に立つ石碑に視線を振ると、

 

『三ノ輪銀』

 

 とある。

 そしてついに赤嶺の足が止まる。そこにある六つの石碑は隅の方にひっそりと佇んでいるが、隠しきれていない存在感が高嶋の無意識を刺激した。赤嶺が腰を落として愛おしそうに眺める石碑には、高嶋のよく知っている人たちの名が刻まれている。それだけではない。どういうわけか、自分の名前もあるのだ。

 舌が痺れ、どんな反応をすればいいかわからないところに赤嶺が口を開いた。

 

「ここはね、四国を守った英霊たちが集う場所だよ。ここに骨はないけど、想いが詰まってる。世代が変わり、担う人が変わった。想いは継がれ、今に至る」

 

「…………」

 

 さっと顔を動かす。

 友奈との戦闘の時の覇気迫る顔とは打って変わって、とても穏やかだった。

 

「私ね、ここで乃木様……若葉ちゃんに言われたんだ。人間の可能性を忘れるな……って。それを、あの瞬間、思い出したの」

 

 自分の手首を見下ろしながらぽつぽつと言葉を紡ぐ。そこには老若葉からもらった赤色のミサンガが結ばれている。

 友奈の手首にもあった黄色いミサンガは汚れていたが、間違いなく老若葉のものだった。

 どういった経緯で友奈の手に渡ったのから知らないが、途方もないほど長い年月が過ぎても、しっかりと現代の勇者へと引き継がれていたのだ。

 

「若葉ちゃんがそれを?」

 

 手芸なんて細かい作業、高嶋には全く想像できない。若葉がそんなことをしようものなら保護者ひなたが手とり足取り、それこそおんぶにだっこレベルになるはず。

 なんだか面白くて、くすりと笑った。

 

「うん。私とレンち、シズ先輩に作ってくれてね。すごく大切なモノなんだ」

 

 赤嶺は桜色の髪を軽く揺らした。

 そして真面目だった顔から一転して、小さく笑ってみせた。

 

「でも……あーあ、初めて御役目失敗しちゃったなぁ。レンちが知ったらなんて言われるんだろ……」

 

 ライバル宣言されている蓮華から「フッ! 駄目ね友奈」と勝ち誇った顔で言う姿が簡単に想像できる。

 今のこのスーツだって、蓮華が見たら目を丸くするだろう。早くメンテナンスに出しなさいって怒られて、お風呂に入りなさいと言われてなぜかわからないが、背中まで流されて、しまいにはベッドで子守唄まで歌ってくれそうまである。

 そしてふと。

 帰りたいなぁ、なんてことを考えてしまった。

 

「赤嶺ちゃんは私のことを仲間じゃないって言ったけど……私は赤嶺ちゃんのこと、仲間だと思ってるからね。それは若葉ちゃんたちも同じことを思ってるはずだよ」

 

 それは、赤嶺にはない、とても純粋な言葉だった。高嶋は少し寂しげな笑顔を浮かべ、自分の石碑、その名前の部分をなぞる様に撫でる。

 蓮華と静は違う。仲間としての方向性が違う。強固な絆で結ばれているが、それは人目に入らない暗い底で培われたもの。

 高嶋の言う仲間とは一風変わっている。

 

「私は影だよ? 勇者様と本当に仲間になんて……」

 

「そんなの関係ないよ。わかりあえる。絶対にね。だって、私達は人間だから」

 

「――――」

 

 真剣な物言いに、否定を重ねようとした赤嶺は息を呑んだ。

 その言葉にも、聞き覚えがある。

 あの情景が脳裏に色鮮やかに蘇る。赤嶺に語り聞かせた老若葉の目には、期待というか、希望というか、そういった前向きな想いが込められていた。

 あの瞬間、老若葉は赤嶺に託したのだ。

 これからを生きる者へ、これからの未来を。

 それに、たった今気づいた。

 顔が急激に熱くなる。

 眩しかった。

 隣に立つ勇者様は、これほど眩しい存在だったのか。赤嶺はポロポロと大粒の雫を落としながら高嶋を見上げる。

 

「あ、赤嶺ちゃん⁉」

 

 慌てて駆け寄った高嶋に介抱されながら赤嶺は立ち上がるが、すすり泣きが止まらない。

 

「そっか……この時代がすべての人間にとって、人生の転換点……ターニングポイントってことなんだね……」

 

 嗚咽を含みながら赤嶺は今更になって気づいた事実を吐露する。

 新しい時代を切り開くために、古い時代の者が障害として立ちはだかる。それが、今の決闘だったのだ。

 あらゆる時代において、先を行こうとする者は古い考えを持つ者たちに阻まれてきた。それでも乗り越え、登りつめ、『今』がある。

 

「私は……乃木様の言葉を、今、真に理解したよ。だから……ありがとう、高嶋ちゃん――初代勇者様」

 

「……赤嶺ちゃんの未来でどんなことがあるのかは知らない。でも、そう言ってもらえるなら、私達が命懸けで戦った意味はあったんだね。その証拠として――ね?」

 

 そう言って辺りを見回す高嶋。

 その中に、『赤嶺友奈』の名前も確認できた。教えてあげようと口を開きかけたが、赤嶺はすでにその石碑に視線を向けていた。

 その表情には複雑な感情が入り混じっていて、とても横から何かを言うことはできそうになかった。

 ここに名前のある人物ひとりひとりがそれぞれ、想いを受け継ぎ、全うし、そして次世代に託した。その営みこそが、何よりも美しく、大切であることを忘れてはならない。

 いずれは赤嶺も鏑矢を引退し、次の人間へと未来を託す。そうして歴史は刻まれていくのだ。

 

「……さて。そろそろ行こっかな」

 

 涙はすでに止まった。

 元気よくそう言った赤嶺は、ボロボロになった装甲をそれぞれに収納させて背を向ける。

 

「行くって、どこに?」

 

「さあ? 負けたとはいえ、本気で殺そうとしちゃったからね。もうあそこにはいられないよ」

 

 いちおう風の家から出るときに着替えとして高嶋が買ってくれた私服と、風からもらったお金がある。それらはバッグに詰め込んでこの建物の外に置いてある。

 コンビニとかがあることは確認しているから食いつなぐことに問題はないだろう。あるとすれば、夜になるとぐっと冷え込む外で寝ることだ。

 それはスーツを着ればなんとか凌げるはず。

 

「そんなことしなくていいんだよ? ちゃんと謝ろう? 私も一緒にごめんなさいしてあげるから」

 

 しかし赤嶺はかぶりを振った。

 

「御役目に失敗した人間に意味なんてないよ」

 

 それ以上の慰めは受け付けないとばかりに赤嶺はカツカツと足音を響かせながら建物から去っていく。

 

「あ、でも結城ちゃんには悪かったって伝えておいてくれる?」

 

「もちろんだよ」

 

 その背中は少し寂しそうで、つい反射的に高嶋は声を投げかけた。

 

「待ってるから! また戻ってくるって、信じてるから――っ!」

 

 返事はなかった。

 振り向きはしなかったものの、代わりに軽く手を振ってくれた。そして階段を登り、脇にあったバッグを片腕で背負う。

 振り向こうかと一瞬だけその仕草を見せるが、途中でやめた。

 そして丘を登っていき、樹木の影へと姿を消した。

 ……今はこれでいい。

 高嶋は赤嶺のいなくなった方向をじっと見つめる。

 本来なら出会うはずのない人間同士の戦いは、赤嶺よりさらに未来の人間の勝利に終わった。

 だが、ここから本来の正史が始まる。

 この決闘の傷が、歴史に影響しなければいいのだが……。

 そんな不安を、高嶋は感じずにはいられなかった。




ゆゆゆいでも決闘シーンはあったけど、もっとガチ感が欲しいという歪な願望から今回の構想が生まれたよ
久しぶりに挿絵使ったけど、あと数枚は頑張って描きあげたい
応援よろしくね!

障害を乗り越え、理由を果たす

それではまた次回!

【Infomation】
▼赤嶺友奈の歴史干渉を観測
▼征矢の整備、終了
▼辞令。赤嶺友奈、高嶋友奈を処分せよ
▼終了


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浸食

そういえばあんまり特殊文字使ったことないな~

前回のあらすじ
鏑矢を倒し、東郷を助ける


 勇者システムは大きく変更。

 満開ゲージをひとつ消費することで精霊バリアが発動する。五つすべて消費することで満開が可能。散華はなし。その代わり精霊バリアが発動できなくなる。この時攻撃が直撃すれば命に関わる。

 満開ゲージは既存の回復方法ではなく、リチャージ式。回復速度の遅さから、実質一回の戦闘での使用回数には上限がある。

 勇者システムの改善点を伝え、安堵する部員たちを尻目に、園子は友奈のことがどうしても頭から離れなかった。

 棚に上げたものの、友奈のスマホがなくなるという異常事態。優先度は自身も言った通り東郷の方が高いが、それ以上に気になるのは友奈の方だ。

 

「皆、準備はいいわね?」

 

 部長の確認に、互いの顔を見つめ合い、頷う。そして画面をタップして勇者装束を身に纏った。

 するとそれぞれの精霊が勢いよくスマホから飛び出してきた。風の狗神は顔面に直撃。樹の木霊はちょこんと頭の上に乗り、夏凛の義輝は堂々と腕を組みながら顔の横でふよふよと浮かぶ。

 感動の再会は短めに済ませ、四人の勇者は颯爽と外へ飛び出した。

 正直、もう二度と勇者になることはないと思っていた樹は、両サイドを括っている髪飾りが飛ばないように細心の注意を払う。

 それもただバーテックスを迎え撃つのではなく、こちらから敵の巣窟に向かうというのだ。はっきり言うと正気ではないが、とっくに自分たちは正気ではなくなっているのかもしれない。

 そんな結論の出ない思考を、樹はぶんぶんと頭を振って放り捨てる。

 吹き付ける風は少し肌寒いが、どうってことはない。静かに着地をし、直後大ジャンプ。それを数回繰り返せば海辺まではすぐだった。

 流石に海から壁までをひとっ飛び……というわけにはいかず、一、二回ほど海を航行している漁船の甲板に失礼して経由させてもらう。

 船長のおじさんと目があった気がしたが、「すみませーん!」と園子の謝罪とともに、あっという間に壁方面へと飛び去る。

 植物組織の壁の上に華麗に着地すると、園子は向こうに広がる水平線の彼方を仰いだ。孤島などがまばらに点在し、何気ない普通の光景が広がっている。

 ここからさらに数歩進めば、この壮観な光景が吹き飛び、バーテックスの世界――絶望という表現が最も相応しい『赤』がどこまでも延々と埋め尽くしているなんて想像したくない。

 普通なら一般人は壁に上ることを禁止されている。監視は徹底され、二十四時間体制で巡視船が近辺を巡回している。致死性のウイルスを防ぐとされている壁にわざわざ接近する物好きはあまりいないが、極まれに事案が発生することもあるという。

 その場合の対処法は園子でも知らない。

 

「ここから先は本当に危険だから、気を付けてね」

 

 園子の忠告に一同が頷く。

 すると、しゃららん、と軽やかな音とともに出現させた二振りの刀を手に持った夏凛が勇んで前に進み出た。その瞳には燃え滾る熱さを宿している。

 

「私が先に行くわ」

 

「大丈夫? にぼっしー?」

 

「ええ。私は完成型勇者だからね。それより、私に遅れないようにしなさいよ!」

 

「サプリはちゃんとキめた?」

 

 怪しげな物言いに夏凛は若干眉をひそめたが、すぐに表情を戻す。

 

「なんかやばい言い方に聞こえるけど……まあいいわ。任せなさい!」

 

 頼もしい掛け声に、園子は穏やかな笑みをこぼした。それぞれの武器を構え、いつでも先頭に突入できるようにする。筆頭は夏凛として、壁からさらに奥へと歩を進めた。

 瞬間、夏凛の姿が白いベールがかかったように次第に薄れていき、消えた。それに続いて全員が足を踏み入れる。

 すると世界は嘘のように赤に塗りつぶされ、身体の芯をも焼き尽くすような熱気が勇者部のメンバーを出迎えた。

 今足をついているこの場は、神樹が形成した……確保した領域。その外壁は黄金の輝きを放ち、大量の細胞壁のようなものが隙間なく並んで成り立っている。

 東郷を食い止めるために一度ここに侵入したことはあるが、やはり改めて眺めると心に来るものがある。

 

「……」

 

 風が人知れず喉を鳴らす。

 

「お姉ちゃん……」

 

 樹が不安げに両手を胸に当てて寄り添ってくる。

 それを風は無言で受け入れ、力強く抱き寄せた。

 

「で、わっしーがどこかというと……」

 

 いつものふわふわした口調はなく、真剣に呟いた園子はスマホで東郷の現在位置を探る。

 ……東郷のタグを確認した。

 園子たちの点が集中している位置から遠方、バーテックス界の方角に目的の点が存在している。

 

「わっしーいたよ! ほら!」

 

 ぴょんぴょん跳ねながら園子は画面を見せつける。

 

「ホントだわ! じゃああとは連れ戻すだけね! で……具体的にはどこに……」

 

 園子のスマホを覗き込みながら夏凛は座標が指し示す方向へ視線を持ち上げた。

 地面と呼べるかわからない赤のマグマから轟々と屹立するプロミネンス……バーテックスが一定の群をなして縦横無尽に浮遊している空……

 そしてそのさらに上……。

 

「は、はあああああああ⁉」

 

 夏凛が口をあんぐり開けて驚愕のままに叫ぶ。

 座標が示す位置は、ある場所を指していた。

 それは、巨大で、色のない……完全に黒の球体。

 その周りを嵐の如く赤色の風が渦巻いている。距離は遥かに離れているが、それでも力強さはピリピリと身体にまで伝わる。

 ……ブラックホール。

 これが、相応しい表現だろう。

 スマホと視線を往復させて確認しても間違いはなかった。

 達観した目でブラックホールを仰ぎながら、風は評論家のように理知的なコメントを口にする。

 

「うわー、失踪した奴がブラックホールになってるとか李徴もびっくりよ」

 

「そうですねー」

 

 園子に肯定され、評論家もどきは誇らしげに胸を張った。実は中身のない相槌に似たものであることはわかってない。

 こほん、と咳払いをした風は改めて遥か遠方のブラックホールを見据える。距離は目算で三キロほどか。しかしあそこへ行く手立てがない。強化された勇者の脚力でも流石に届くことはできない。

 途端、園子のスマホに警戒のアラームが鳴った。

 東郷の点の周囲に、星座の名を与えられたネームドのバーテックスたちが複数体出現している。存在に気づかれたようだ。身体の方向を変え、こちらをじっと見据えている。

 しかし襲ってくる様子はない。代わりに、大量の雑魚敵が押し寄せて来た。

 前回の戦いで嫌というほど目に焼き付けた白いピーナッツ型の敵を、また相手にしないといけないのかと内心で吐き捨てた夏凛を筆頭にそれぞれの武器を構えた。

 横幅三十メートル、奥行き二十メートルほどで、四人で戦うにはやや足場が狭い。敵に熱中しすぎて足場を踏み外すなんてことは避けなければならない。

 なるべく内側……神樹側に寄って迎撃を始める。

 樹がワイヤーを手首の射出口から素早く放つ。まるで意志が存在しているかのような滑らかな動きで敵を拘束すると、そこを力強く飛び跳ねた風が大剣の大振りで一網打尽にする。

 

「お姉ちゃん!」

 

「らあぁッ!!」

 

 鋭い刃先が敵の身体を豆腐のように切り裂き、生を失い、霧散する。

 そのふたりの背後を駆けながら、夏凛は自身の周囲に召喚した刀をずらりと並べる。二本を両手にとって投擲する。

 赤い軌跡を描いて、頭部を深々と貫き、敵を二体屠る。

 

「……チッ」

 

 舌打ちする。

 夏凛の刀は広範囲攻撃には向かない。満開すれば縦横無尽に空を飛翔して無双できるが、そんなことをすれば風が……。

 

「私が!」

 

 夏凛の前に素早く躍り出たのは園子だ。紫色の裾を激しく靡かせながら槍の後部をとん、と地面に突く。するとチリチリと燐光を撒き散らし、槍が発光する。同時に槍が驚異的な速度で伸び、全長十メートル以上へと変身した。

 

「やあああああ!!」

 

 遠心力を根底から否定する速さで右から左へ、全身を使って大きく振った。

 力の宿った刃が触れるとその場で爆発を起こす。それに周囲も爆風に巻き込まれ、ただのひと振りのもとに大多数を倒してみせた。

 さすが先代の勇者。

 思わず感嘆の声を漏らした夏凛は負けじと刀を構える。

 

「これ、あそこまで行かないとジリ貧よ!」

 

 風の鋭い指摘が飛ぶ。

 ここでいくら戦っても向こうからこっちに来てくれるわけではない。そうしてくれるとありがたいが、その場合、神樹への被害がどうなるかわからない。

 ならばどうやって行く?

 方法ならひとつだけ思い当たる。

 それは、満開。

 満開すれば全員空を飛び回ることができる。しかしそれは現実的ではない。飛ぶためだけに満開はあまりにリスキーだ。持続時間の問題だってある。

 だがどれだけ考えても他の方法が思い浮かばなかった。

 歯噛みした風は苦しさを滲ませながら提案しようとした、その時。

 

「私の船で飛ぶよー!」

 

 飛び出したのは園子だった。

 槍も元の姿に戻り、三人の前に立ち、さらに前に大きく跳躍した。

 まだ倒しきれていない敵が、自ら身を差し出しに来た園子を喰らおうと一斉に集中する。

 思わず風は連れ戻そうと身体を動かそうとした。

 しかし。

 

「満、開!!」

 

 バーテックス界にまで届いた神樹の力。風たちの背後から虹色の糸が無数に伸び、園子の背中を押し上げる。

 瞬間、光の爆発。そして、紫の巨大な花が力強く咲き誇った。

 同時に発生した豪風に敵が一瞬にして吹き飛ばされる。

 中央に浮かび上がるは、鋭い刃を両脇に複数本並べ、オール代わりに弧を描く船。その甲板に、白の目立つ装束へと変化した園子が堂々たる姿で立っていた。

 思えば東郷も戦艦だったし、先代の勇者の満開装備は風たちのシンプルな追加武装とは違って、より重量の増したパワフルな乗り物系武装という規則があるのかもしれない。

 

「乗って乗って〜。わっしー行きの船だよ〜!」

 

 陽気に乗船を促す園子に、風は腑に落ちていない顔で声を張り上げた。

 

「あんた! いきなり満開して精霊の加護が無くなるじゃないの!!」

 

 返答は極めてシンプルで残酷なものだった。

 

「私の時は加護なんてなかったから大丈夫だよ〜」

 

 風たちのこれまでの戦いでは精霊の加護が必須級だった。敵の攻撃を生身で受けることはあまりに危険。勇者を絶対に死なせないという精霊のルールの元に、比較的安全に戦闘ができていた。

 が、今はそれがない。

 守りの制限回数は五回。それ以上はない。

 覚悟はしたものの、命に関わるとなるとつい身構えてしまう。

 追及しようと口を開きかけたが、風は無駄なことだと諦め、さっさと跳躍して乗船した。

 園子は必死なのだ。当然風たちも必死だ。

 ならもう、言うことはない。

 そもそも甲板は園子専用で、そこに三人が乗り込むとなるとあまりスペースはなかった。園子の後ろに立った三人は、改めて船という武装に驚かされる。

 帆の代わりに二重構造の黄金の輪がそれぞれ逆回転し、オールがリズミカルに空を漕ぐことで浮遊している。

 

「皆乗ったね〜? じゃあ行くよ〜!」

 

 乗船を確認した園子が元気よく掛け声をする。

 船の後部が仄かに紫色の閃光を帯び始め、輪の回転が速まり、目に見えて出発する寸前なのがわかる。

 目指すはブラックホール。東郷のいる極点へ。

 しかし船が莫大な推進力とともに飛び立とうとした、その瞬間。

 

「――待って! 私も連れて行って!!」

 

 と、新たな人物の声が甲高く響いた。

 誰もが知っている元気な声。

 バーテックス界に突風と共に侵入してきた人影はそう言うや否や、地面を蹴り上げて高く飛び上がった。

 着地点は園子の船。静かに片膝をついて着地すると、ゆっくりと顔を上げた。

 ずっと病院で心を失っていた少女。

 

「友、奈……!」

 

 夏凛がかすかな声を零した。

 そして確かめるように頬に手を伸ばし、触れる。

 ……人の暖かさがあった。死んだように眠っていた時の冷たさとは違う、生の温度があった。

 途端、夏凛の中でずっと燻っていた感情が爆発した。

 顔を伏せ、ふるふると身体を小刻みに震わせる。そして、あらん限りの力で強く抱きしめた。友奈の肩口に顔を埋めながら、声を震わせた。

 

「ずっと……待ってた」

 

 友奈の優しい瞳が瞬きした。

 

「うん……遅くなって、ごめんね?」

 

「……いいのよ。私たちはあんたが絶対に目を覚ますって、信じてたから。だから……おかえり」

 

「……ただいま」

 

 囁き返した友奈は、背中をぽんぽんと軽く叩く。

 夏凛は少しだけ目を端を赤くさせながら抱擁を解いた。

 その間にも園子の船は今度こそ出発し、雑魚を蹴散らしながらブラックホールへと向かう。

 

「おかえりなさい友奈さん! 本当によかったです……!」

 

 船から振り落ちないように縁側の手すりに捕まりながら、樹が目尻に涙をためる。

 皆にはとても悲しい思いをさせてしまった。あのままいつまでも起きなければ、ずっと皆の心に影を落としたままになってしまう。

 だから、あそこで声をかけてくれて嬉しかった。届けてくれて嬉しかった。

 高嶋には心から感謝しなければならない。

 

「おかえり友奈。退院祝いとかしたいとこだけど、ここに来たってことは、だいたい事情は高嶋から聞いてるってことでいいのよね?」

 

 風が長い髪をばさはざと靡かせながら顔だけを友奈に向ける。

 

「はい。東郷さんを助けに行くんですよね? そのために私は目覚めたので」

 

「……そっか。起きたばかりだから無理のない範囲で……って、あんたなんでそんなにボロボロなのよ?」

 

 友奈の勇者装束は土汚れが目立ち、腕に擦り傷やらがたくさんついている。

 これは赤嶺に殺されそうになった――実際は本当に殺された――からだなんて言えば事態がややこしくなるだろうと思い、友奈は適当に「ちょっとだけ運動してから来たんです!」とはぐらかした。

 

「――ゆーゆ、私のこと、わかるかな?」

 

 紫色の球体を掴む両手を広げる園子は、こちらを振り向かずにそう尋ねた。

 高嶋から受け取った記憶と、以前大橋で東郷と一緒に呼び出された時の姿、雰囲気を照らし合わせる。そして友奈ははきはきと話した。

 

「あなたは乃木園子さんだね?」

 

「うん、そうだよ。会うのはこれで二回目」

 

 船は加速する。

 あれほど小さく見えていたブラックホールは目前にまで迫っている。

 

「ゆーゆが寝ている間に勇者部に入部しました〜! これからたくさんお話しようね〜」

 

 プロミネンスが船体のすぐ横まで吹き上がった。

 横顔の園子の顔が赤色に照らされてはっきりと見えた。

 

「うん! わかったよ園ちゃん!」

 

「おお! 園ちゃん! これまた面白い呼び名だ〜」

 

 嬉しそうにうんうんと頷いた園子はぐぐぐ、と身体に力を入れて前斜姿勢になった。すると船体が前のめりになり、より一層速度が上がる。急速に上へと持ち上がることによる慣性……Gに身体が下へと押し付けられる。

 闇より更に深い闇。そんな球体の下半分から上は見えない。赤い砂塵のような巨大な輪が球を中心に広がっていて、簡単に突入できそうにない。

 だが突入する。

 限界まで加速した船がそのままの勢いで輪に突っ込む。

 ズガガガ! と激しい揺れが襲い、船が壊れてしまうのでは夏凛が小さく悲鳴を上げる。すると園子は「進め!」とさっきまでのふわふわした物言いとは真逆の、揺るがない意志を秘めた声を張った。

 揺れはさらに激しくなる。特に上下の揺れが酷い。柱などにしがみつかないと一瞬で放り出されそうだ。

 話そうとすればその瞬間、舌を噛んでしまうだろう。樹なんて既に甲板から足が浮いてしまっている。

 やがて、船の頭を高く突き出し、赤い雲を巻き上げながら輪の上へと飛び出た。揺れはだいぶ収まったものの、今度はブラックホールの超時空の影響が出始める。景色が移動ぼかしがかかったようになり、自分の手先すら曖昧になる。

 

「うわわっ! これどうなってるの⁉」

 

 片膝をついて、なんとか揺れを凌いだ友奈は目をゴシゴシと擦る。

 距離にして、中心部まであと三百メートルほどだろうか。このスピードなら数十秒で到達できる計算だ。

 

「よし、いけるわ!」

 

 風が真剣な眼差しで前方を見据える。

 しかし、突如全方向から園子の船と同じように、雲を巻き上げて見知ったネームドのバーテックスが複数体現れる。狙いは言うまでもなく友奈たち。ここから先には行かせないとばかりに高速で接近してくる。

 大剣を手に取り、眉をひそめる。

 

「こんなとこまで追いかけてくるなんて厄介ね……」

 

 ここでまともに戦うことはまず不可能。追尾を振り切るので精一杯だ。

 

「私が東郷さんを助けに行くよ!」

 

 園子の前に出てそう宣言したのは友奈だった。中心まであともう少し。

 

「友奈、あんた大丈夫なの⁉」

 

 風が心配そうに声をかけるが、友奈は強く答える。

 

「大丈夫です! それに私は、東郷さんを絶対に忘れないって約束したので!」

 

 それ以上の反対意見は出なかった。

 念のため風からアップデートされた勇者システムの説明を受ける。

 顔を綻ばせた園子は股を広げ、力強く立つ。

 すると、船のオールの部分が眩い閃光を輝かせ、鳥の翼を思わせる形へと変形し、さらに増速した。

 それでも背後を執拗に追いかけてくるバーテックスは振り払えない。

 

「ゆーゆの邪魔は、させないよ!!」

 

 ガコン! と両翼が大きく震え、百を優に超える光線が打ち出される。それはまるでスパイ映画に出てくる侵入対策の赤外線のよう。威力は低いものの、十分牽制にはなる。バーテックスに何本も命中するが、ダメージは微弱。しかし速度を落とすことには成功して、一気に距離を広げる。

 

「ゆーゆ! 今! わっしーをお願い!」

 

 園子の瞳の奥に宿る、願い。

 友奈はそれを目に焼きつけた。

 枝木が折れた骨など知らぬとばかりに拳を作る。感覚が生きていれば痛みに呻いていたところだが、右半身麻痺という状態に今は感謝だ。

 

「任せて。必ず連れて戻ってくるから……!」

 

 頷く。

 そのために友奈は目覚めたのだから。

 障害を乗り越え、理由を果たす。

 東郷を殴った。東郷に殴られた。

 そして、分かり合った。

 約束をした。

 ならば、今こそそれを守る時。

 ついに船が球体の真上に到達する。

 黒。真の黒。色のない、黒。

 見下ろすだけで呑み込まれそうな錯覚。そこに、今から飛び込む。

 園子が安堵した顔でさらに光線を放つ。白光を背景に、友奈は躊躇いなく飛び降りた。

 重力に吸い寄せられ、友奈の身体は一気に加速する。

 身体を極限まで小さくさせ、負荷を軽減する。

 具体的な到達点がどこなんてわからない。でもそこに東郷は必ずいる。

 呼吸がつらい。舌が喉に張り付き、小さく咳き込む。

 排出と吸引のバランスが釣り合っていない。

 満開ゲージひとつ、弾けた。

 友奈の前に現れた牛鬼が精霊バリアを張る。

 それと同時に、園子の迎撃から逃れたバーテックスがぬうっと友奈の背後に現れた。

 ――まずい。

 ここで少しでも身体を動かせば瞬きの間に結城友奈という存在は肉片も残らず消されてしまう。

 これは、友奈が先に特異点に到達するか、バーテックスが友奈に追いつくかの競走だ。

 しかし、ひしゃげるような大きな轟音が耳に僅かに届いた。

 眼だけを動かして音のした方向を見ると、身体を不気味に凹ませたバーテックスがいた。それでも執拗に友奈を追うが、ベコン、ベコン、とさらに凹み、友奈と同じくらいのサイズになったところで閃光を撒き散らし、消えた。

 

「……」

 

 満開ゲージがひとつ、弾ける。

 意識が薄れる。酸素が足りなくなった肺が暴れる。

 満開ゲージがひとつ、弾ける。

 残りはひとつだ。

 初めのひとつめは赤嶺を倒すときに使った。

 消費ペースが速い。

 ギリっと奥歯を噛み締める。

 意識がぼやけてくる。酸素の足りなくなった肺が暴れる。

 苦しい。瞼の裏でチカチカと景色が弾ける。

 このままでは、死――

 だが。

 友奈の悪い予感が的中することはなかった。

 右手に結ばれたミサンガが、突然眩い光を放ち始める。これは友奈が目覚めた時からすでにあったものだ。誰に結ばれたのかも知らない。悪いものなのかもしれないと思ったが、そんなことはなかった。

 光は白から青へと変化し、友奈を包み込む。不快感などといったものは一切なく、寧ろ暖かい……心地よさがあった。呼吸は安定し、熱い吐息を吐く。

 それだけではない。背中に熱を感じる。途端、ばさりと何かが広がった。視界の端に、ちらりと青色の羽毛が映り込んだ。

 

「――――」

 

 なに、と問うことはしなかった。

 大きく翼がはばたくと、落下スピードが目に見えて上がった。さっきまでの息苦しさはない。逆に、友奈の胸に安心がじんわりと広がる。この翼は、それほど頼もしかった。

 赤の流星は、青の流星へ。

 そしてついに、特異点へと到達する。

 その証拠に、落下していたはずなのになぜか上へ急上昇する感覚に襲われた。平衡感覚を失い、少し酔いかけたところで異変は収まる。友奈は頭を押さえてなんとか平然を取り戻す。そして状況を確認しようと周囲を見回すと、すぐ真横には自分の身体があった。臍にあたる部分から桜色の臍帯が伸び、自分の身体の臍へと繋がっている。

 肉体はそこにある。意識はなくその場を漂っている。では、今の自分はいったいなんだ?

 手を見ると、肌色ではなく、もっと彩度が高い。臍帯と同じ色。全身はほぼ裸体で、動かないはずの右半身も自由に動かせる。

 

「ゆ、幽体離脱~~⁉」

 

 青い加護はなくなっているが、別に苦しさなどはない。

 完全な黒へと飛び込んだはずだが、内部はまた別の宇宙が広がっていた。宇宙、という表現が正しいかはわからないが。

 無数の光が、勇者の目でも捉えきれない速さで直進する。

 東郷の姿は……ないようだ。ここから更に明確に目指すべき場所が見当たらない。どうしたものかと悩み始めると、遥か頭上で、チカッ、と赤い閃光が輝いた。

 

「……?」

 

 そして、流星群が友奈へと降り注いだ。

 

「っ⁉」

 

 回避なんてとてもできない。

 殆どは通り過ぎていくだけだが、いくつかは友奈の身体に命中する。

 

「あうッ!」

 

 痛みはなかった。 

 しかし、強烈な不快感が患部を中心に広がる。見れば、樹海の侵食と全く同じ現象が起きている。精神体が赤く灼け、炭化する。

 まだ一部分だけだからいいものの、これが全身にまで広がったら、おそらく終わる。この精神体は終わる。

 そうなれば、そこでたゆたう肉体は、一生ここに取り残される。

 ……それは、だめだ。

 第二波が迫る。

 これも避けられない。

 嵐の如き流星群は友奈の元へと容赦なく殺到する。

 侵食は広がる。

 そして次に、大量の水泡がゆっくりと通過していく。今度は接触してもダメージを受けることはなかった。それによく見ると、水泡には東郷の顔が映っている。その表情は暗く沈んでいて、友奈はつい手を伸ばす。

 すると景色が移り変わり、東郷の記憶だろうものが再演される。

 大赦からの使者。

 東郷が壁を破壊したことによって、結界外の炎の勢いが強まっていること。

 奉火祭と言う名の生贄。

 苦悩。

 決断。

 そして、心神喪失状態の友奈との別れ。

 

「東郷さん……」

 

 ……ずっと、負い目を感じていたんだね。

 確かに壁を破壊したのは東郷で、この選択は自業自得と言ってもぐうの音も出ない。

 でも、はいそうですかと大人しく引き下がれるはずがない。

 だからこれは子供っぽく我儘だ。仕方のないことだと諦めるという選択肢はもちろんあった。しかしそんなことは勇者部の誰一人として思わない。

 だって、東郷がいて、皆がいて、ようやく勇者部なのだから。

 友奈はこうして帰ってきた。

 なら、次は東郷の番だ。

 

「ここで倒れる、もんか……!」

 

 ここで倒れたらすべてが無駄になってしまう。

 神の業に至り、目覚めたこと。

 赤嶺友奈を死に物狂いで打倒したこと。

 園子に東郷を任されたこと。

 すべて、すべてが無駄になってしまう。

 背負っているのだ。

 だからこそ、友奈は諦めない。

 それが友奈である所以。

 胸の中で想いを爆発させる。

 こんな障害なんて、知ったことか。

 東郷を助けるためなら、人を超え、その悉くを乗り越えてみせよう。

 そのためなら、もしまた赤嶺に戦うことになってもいい。

 だから!

 だから――!

 

「何度でも、助ける――!」

 

 ◆

 

 激しい酔いから覚めた感覚に、友奈は小さく身震いする。

 四方を見回すと、友奈は明らかに今までいたところとは異なる場所に浮かんでいた。宇宙空間のような雰囲気ではなく、どこまでも広がる無機質な世界。気になることといえば、遥か頭上に目のような模様が確認できることのみだ。それがなんとなく不気味で、まるで本当に見られているような気すらする。

 ふと肉体を確認するが、これは大丈夫のようだ。臍帯はまだ繋がっている。

 場面が変わったということは、何か進展があったとみていいだろう。目以外に何かないかと周囲をぐるりと迂回していると、大きな鏡が目に入った。

 大きさはだいたいサッカーゴールより少し小さいくらい円状。全体的に黒ずんでいて、鏡は友奈を映さない。

 それだけではない。

 鏡には何か黒い物体が埋め込まれている。用心しながら近づくと、それは人の形をとっている。さらに慎重に接近を続けると、その正体が、友奈の探していた人物のものだと気づく。

 

「と、東郷さん……っ!」

 

 喜び反面、苦しさが一気に胸中を支配する。

 目の前に立つと、トレードマークのながい黒髪は煤け、勇者装束も色味を無くしているのがよくわかる。

 石像だと言われても疑うことができないほどだ。

 息は……していない。しかし身体は僅かながら生の熱を帯びている。

 

「こんな……酷い……」

 

 そして気づく。

 鏡の背後に、何かがある。首を横から出して後ろを見ると、恐ろしい光景が飛び込んできた。

 メラメラと激しく燃える炎が、延々と誰かを灼いているのだ。

 その姿は、今の友奈と同じ精神体に似た人物で、どう見ても東郷の精神体であることは間違いなかった。

 奉火祭とは、炎に身を捧げて天の神に許しを乞う儀式……だったはず。かつて西暦のお割にも行われたとされる儀式。

 しかし、こんな残酷なことが……あっていいのだろうか。

 仕方ない、仕方ないと免罪符を自分たちに発行して世界を背負わせることは、果たして本当に正しい行いなのだろうか。

 

 私たち人間は、

 果たして、

 このままでいいのだろうか?

 

 ……いや、今はそんなことを考える暇はない。

 とにかく東郷を助け出さなければ。

 

「東郷、さん……!」

 

 鏡に手を触れる。

 瞬間、水面に沈むかのようにあっさりと手が沈み、同時に身体の芯まで鋭い痛みが走った。

 

「ッ!」

 

 反射的に手を引き戻す。

 赤く侵食されたりといった、外見に変化は特にない。

 それなら、今の痛みは何だったのだ?

 気を取り直してもう一度鏡に手を入れようとした。 すると、今度は唐突に右半身が言うことを聞かなくなった。

 

「⁉」

 

 精神体だから自由に動かせていたはずなのに、今になって、なぜ……?

 どれだけ力を入れようとしても右肩や、右脚の付け根に届くとそれは完全に消えてしまう。

 ついには、意志とは反して鏡から離れようとし始めた。

 

「ちょっ、ちょっと……」

 

 何が起こっているのかさっぱりわからない。でも右半身は明確な意思を持っている。

 しかしこのままでは東郷から引き離される。それは友奈の意図することではない。

 意志力を振り絞り、再び鏡の前へと移動し、今度こそ左手を中に沈み込ませた。

 

「ウッ、ぐ……あぁっ……ッ゛!!」

 

 神経を裏返しにされて、丁寧に針で刺されるような耐え難い苦痛に友奈は悶絶する。

 

「帰、ろう……! 東郷さんッ……!!」

 

 それでも強引にさらに奥へと沈ませる。肩まで鏡に呑まれて、ようやく東郷の背中をがしりと掴んだ。

 あとは引き抜くだけ。

 その時、胸に猛烈な熱が発生した。ドロドロに溶けた鉄を押し付けられる、この世のものとは思えない痛みに目を見開いて絶叫する。

 よく見れば、友奈には理解できない何かの紋様が東郷から自分へと乗り移り始めている。

 だが放さない。絶対に放さない。たとえ一秒後にこの身が滅んでも放さない。

 それこそ、死んでも絶対に助ける。

 喉が灼ける。張り裂ける。潰れる。

 気合からなのか痛みからなのかわからない獣の叫びを絞り出しながら、ついに鏡から東郷を引き抜くことに成功した。

 しっかりと東郷の身体を抱き締めながら、安堵の息を吐く。

 痛みも急激に引き、酷い脱力感に襲われる。

 よかった、と東郷の顔を覗き込む。

 鏡の奥では精神体を灼いていた炎の勢いがゆっくり小さくなっていき、やがて完全に消えた。

 これでもう東郷を苦しめるものはいない。助け出すことに成功した。後は帰るだけ――

 ……爆発が起きた。

 起爆現場は友奈の胸の紋様。

 乗り移りが完了したことで、真の効果が発動したのだ。

 一瞬にして友奈は侵食される。全身は赤く染まり、一度友奈と言う存在は汚染される。

 表面は赤く爛れ、内部も文字通り完全に焼却される。

 痛みなどとという次元とは桁が違った。絶叫すら声すら満足に上げられなかった。身体が震える。これに絶えることなんてとてもできない。

 灼ける。

 全て。

 灼ける。

 結城結城。

 灼ける。

 死。

 灼ける。灼ける。灼ける。灼ける。灼ける。灼ける。灼ける。灼ける。灼ける。灼ける。灼ける。灼ける――

 

 ◆

 

 眩しい光が、瞼を閉じていても嫌になるほど差し込んできた。

 東郷はゆっくり、ゆっくりと、瞼を上げると、そこには信じられない光景が広がっていた。

 

「あ、東郷さんが起きたよ!」

 

 そこは病室だった。

 顔を覗き込んでいた友奈が元気に叫ぶ。

 するとスペースを区切るカーテンが開かれ、ぞろぞろと勇者部の面々プラス高嶋が東郷の寝るベッドを取り囲むように立った。

 

「こ、ここは……」

 

 ぎこちない動作で首を動かして周囲を見渡す。

 

「わっしー!」

 

「その……っち」

 

 心配そうな表情を浮かべる園子は、一瞬東郷に抱きつきたい衝動に襲われたが、なんとか踏みとどまった。

 

「助けて……くれたの……? でも、そんなことをしたら世界が火に……」

 

 ややおぼつかない声色だ。

 それに対して風は少し鼻を鳴らした。

 

「事情は聞いたわよ。火の勢いは安定したから、もう生贄は必要ないってさ」

 

「まさか、私の代わりに誰かが……」

 

「違うわ。普通ならごっそり生命力を奪われて死んでたはずなのに、あんたがタフだから生き残ったって話。それで御役目はご苦労さんってことよ。そこに私達が間に合った」

 

「どこも異常なしだそうです! 健康体そのものですよ。しばらくは入院しないといけないそうですけど」

 

 樹の元気な声。

 皆が本気で東郷を心配していたのだ。

 助けるために神樹の領域外にまで出て、東郷を連れ帰ったのだ。ブラックホールは東郷がいなくなったことで完全消滅している。

 説明は東郷の耳にあまり入ってこなかった。視線はずっと、友奈の方を向いている。

 きらりと瞳の奥で感動が渦巻く。

 

「友奈ちゃん……目覚めたんだね……よかった」

 

「うん。東郷さんを忘れないって……守るって、約束したから。だから、こうして目覚めた。でも私ひとりじゃできなかった。高嶋ちゃんに感謝だよ!」

 

「あんたに最初に気づいたの、高嶋なんだから」

 

 夏凛にそう言われ、高嶋はそんなことは……と頭をポリポリかいて照れている。

 

「……そう。高嶋さん、ありがとうね」

 

「どういたしまして。これで勇者部は全員揃ったね!」

 

「あれ……? でも、ほら、えっと……赤嶺さんは?」

 

「あー、赤嶺ちゃんはちょっとお出かけしてるの。たぶん近いうちに帰ってくると思う!」

 

 すると風が心配そうな顔をした。

 

「ちょっとそれ大丈夫なの? 家出ってことじゃない? 何かあったの?」

 

 高嶋は難しい表情を浮かべながら視線を友奈へと送った。

 助けてほしいということだろうか。

 ここは潔く助け舟を出そうと友奈は口を開いた。

 

「大丈夫ですよ。だって、赤峰ちゃんは私と高嶋ちゃんよりしっかりしてますから!」

 

「それ、あんたたちが自分のことを馬鹿って言ってるのと変わらないけどいいの? というか友奈あんた、赤嶺と会ったんだ。私達に合流する前か」

 

「別に友奈がそう言うのならいいんじゃない? あながち間違いでもないし」

 

「夏凛ちゃん! それは聞き捨てならないよっ!」

 

 妙なところで反応した友奈が夏凛に突っかかる。

 

「はあ⁉ ちょっ! ちょっと助けないさいよ高嶋ぁ!」

 

「いやーこれは夏凛ちゃんが悪い、うん」

 

 がおー、と夏凛に被りつく様は完全に義輝と牛鬼の再現だった。病室は温かい笑い声に満たされ、風の「騒ぎすぎよ」との注意でようやく収まった。

 

「これからはいっぱい楽しもうねわっしー! 目の前に迫るはクリスマス! 大晦日! そしてぇ〜、お正月〜!」

 

「乃木、あんた遊ぶことばっか考えてるでしょ」

 

「ありゃりゃ、バレてましたか〜」

 

 えへへ〜と照れ笑いする園子。

 そんな馬鹿をやる日常がやけに嬉しくて、東郷はより馬鹿なことをしてしまった自分を大いに恥じた。

 仲間を置いて一人で勝手にどこかに消えてしまうなんて、なんと罪深いことか。

 友奈を待っていたのに。目覚めた時に誰よりも待ちわびていた東郷がいないなんてことは、あってはならなかったのだ。

 目尻に涙が溜まる。

 そして、ありったけの感謝を込め、口の端を綻ばせて言った。

 

「ごめんなさい。それと……私を助けてくれて、ありがとう」




正史ではようやく2話が終わったくらいです笑
ここからシリアスがラッシュしますが、より上位の鬱を目指します

勇者部は揃った
鏑矢が消えた
そして、征矢が来る

それではまた次回!

















































































 酷い熱にうなされる。
 もしかしたら知らず知らずに呻いていたかもしれない。風呂場で確認した胸の紋様。どう見ても悪いものであるのは確定だろう。
 友奈はぼんやりと目を開ける。
 パジャマは汗でびっしょりだ。掛け布団も気持ち悪い。
 それに、身体がとてつもなく熱い。今すぐに水風呂にでも浸かりたい気分。
胸がじくじくと疼く。原因はこれか? ギプスというのは面倒なもので、固定された姿勢から全く動かせない。あの後医者に診てもらったが、やはり右手の骨は折れていた。
 ……喉が渇いた。
 酷い口渇感に激しく咳き込む。
 意識が朦朧とする。
 着替えるか、水分を取るか。
 決断は一瞬だった。
 側に立て掛けてある車椅子に手を伸ばし、いつもの倍以上の時間をかけて乗り移る。
 視界も悪い。これは電気をつけても改善されない。
 自室を出て階段へ。両親はぐっすり寝ているようだ。
 階段は友奈が長い間入院している間に改造されたようだ。手すりの部分に金属製のレールが取り付けられていて、そこに車椅子の接合部を繋げる。そして接続を確認すると壁のボタンを押す。
 するとやや高い唸り音が鳴って、ゆっくりと友奈を車椅子ごと下の階へと運んでくれた。
 この改造費用はすべて大赦持ちだという。相変わらずこういった部分はとても手厚い手当だ。
 家内もだいぶバリアフリーなリフォームがされていて、特に難儀することもなく冷蔵庫の前にたどり着く。
 もちろんこのリフォーム代も、大赦持ちだ。
 パッ、と台所の電気をつけて、手元を明るくする。外で鳴いている虫の声が僅かに家の中にも聞こえる。普段なら何とも思わないはずなのに、今日はなんだかホラーっぽい感じがしてつい身震いしてしまう。
 速く飲んで寝よう。ああ違う。速く飲んで、パジャマを着替えて寝よう。でも着替えるのは時間がかかるし、はっきり言うと面倒だ。
 ドアを開けて、お茶の入ったニリットルサイズのペットボトルとコップを順番に卓上へと移す。
 キャップを開けるのも一苦労だ。
 なんとかコップにお茶を注いで口元へと運び、一気に喉奥に流し込んだ。すんなりと冷えたお茶が喉を通り、蘇生感が全身に広がる。
 後で催すことなんてどうでもいいとばかりにおかわりをして渇きを癒やす。
 普段から飲んでいるはずなのに妙に美味しく感じた。四杯飲んだところでようやく渇きは満たされた。
 深夜に一人っきり。なんだか怖い。
 速く部屋に戻ろう。
 ペットボトルとコップを直してそそくさと戻ろうとレバーを掴んだ時、異変が起きた。
 ギプスに何か違和感を覚える。その正体を探ろうと視線を落とすと、ギプスが妙に盛り上がっていた。
 病院でガチガチに固められたはずだ。何度も叩いて石のような硬さだと笑った記憶がある。
 だからそう簡単に変形するなんてことはあるはずがないのだ。
 部屋の時計が静かに時を刻む音がやけに大きく聞こえる。心臓の動悸が激しくなり、何が起こっているかわからないという恐怖がじわじわと広がる。
 そして、それがついに訪れる。
 不意に、あれだけ固められたギプスの二の腕付近で亀裂が走った。亀裂は瞬く間に広がり、ガリッ! と一部を吹き飛ばした。
 いったい自身の身に何が起きているのか。恐る恐る友奈は生まれた穴を覗き込んだ。

「――⁉」

 そこには、枝木が生えていた。
 気味悪く蠢きながら窮屈なギプスから出ようとしていたのだ。

「ひっ」

 口から小さな悲鳴が漏れる。
 これは、なんだ。
 枝木がギプスから這い出て、恐るべき成長スピードで肘辺りまで一気に伸びて巻き付く。
 それだけではない。

「……ッ、ガっ!」

 右の腰に、すり潰したような鈍い痛みが走る。
 身体の中から何かが伸びているのがすぐにわかった。
 咄嗟にパンツを下ろして確認すると、そこからも枝木が生えてきている。幹が血に濡れ、べっとりと肌に血が広がる。腕の血も脇を通り、服に染み込み、赤一色になる。
 びちゃびちゃと血を撒き散らしながら、激しく友奈の身体の上で枝木が蠢く。
 気持ち悪い気持ち悪い痛い気持ち悪い痛い気持ち悪い気持ち悪い痛い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い痛い気持ち痛い悪い気持ち痛い悪い気持ち悪い痛い気持ち痛い悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い痛い痛い気持ち悪い気持ち悪い気持ち痛い悪い痛い気持ち悪い気持ち悪い痛い気持ち痛い悪い痛い気持ち悪痛い痛いい気持ち悪い痛い気持ち悪い痛い気持ち悪い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
 痛い! 痛い!痛い!
 この強い嫌悪感と悍ましさに耐えきれず、流し台に吐く。

「お、エ゛ッ!! うぶ……っ!」

 まだ収まらない。
 親に助けを求めようとしても恐怖と痛みで声が出ない。その間にも枝木は伸び、友奈の身体を絡め取る。次々と傷口から溢れてくる幹に、血が出るほど左手で拳を作って必死に耐える。

「フーー! フーー!」

 止まらない。友奈は死ぬほどの苦痛に無言で耐え続ける。
 やがてついに、友奈ができる我慢の許容を大きく上回る。
 一秒後に発せられる絶叫で迷惑がかからないように右肩に噛み付く。歯が肉に食い込み、ぶちっ、と少し千切れる。じわりと血の味が広がったが、そんなことはどうでもよかった。
 そして一秒後、友奈はくぐもった絶叫を漏らした。


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征矢

関係ない話だけど、やっとのわゆ絵が完成した!

前回のあらすじ
E:天の神の祟り
E:?の呪縛


 犬吠埼家は今日もうどんである。

 赤嶺は宣言どおり、夜になっても帰ってこない。念の為用意していた赤嶺の分のうどんをぺろりと平らげた風は口直しにうどんをおかわりする。

 高嶋の膝の上に乗った牛鬼は高嶋の服の袖を噛んでいる。どういうわけかとてもなつかれていていて、こうして友奈の元を離れて高嶋に張り付くことがある。

 もうふたりも特に口出しもしない。可愛いマスコットキャラ的な扱いになっている。

 

「高嶋、赤嶺はホントに帰ってこないの?」

 

 これでもかとうどんを盛られた器をどん、と置いて風は尋ねた。

 

「そうですね……連絡しようにもそもそも赤嶺ちゃんはスマホ持ってませんし……」

 

 今時中学生ならば大体はスマホを持っている。もはや人間社会に浸透した三種の神器の一つ。人によってはこれなくして満足に生活すらできないまである。

 もし赤嶺が持っていればメッセージを送ることができるが、反応してくれるとは正直思えない。いつ帰ってくるかわからない。しかし必ず帰ってくる。そんな漠然とした予感はあった。

 とはいってもそもそもの原因はきちんと話していない。適当に誤魔化してはいるが、所詮はその場凌ぎでしかない。

 友奈に確認すると、「私が次の機会に話すよ!」と頼もしい一言をもらったが、果たして皆がどう受け止めるのか。そこが問題だ。

 

「赤嶺さんはなんだか掴み所のない感じがしてましたね……」

 

 うどんの上にネギを大量をまぶしながら樹が呟く。実質赤嶺が犬吠埼家にお世話になったのはたった数日。それだけで人となりを掴むというのは難しい。

 

「赤嶺ちゃんはしっかり者で、何を考えてるかわからない時もあるけどね」

 

「高嶋さんは少しだけ西暦の方で一緒にいたんですよね? この前、赤嶺さんは勇者じゃないって言ってましたが、何の御役目に就いてるんですか?」

 

 妙に鋭い。

 疑いを持たれているわけではなく、本当に純粋な質問のようだ。

 風も気になるとばかりにうどんを口に含んだまま大きく頷く。

 

「うーん……ごめん、言わないでって強く言われてるから言えないなあ」

 

「そうなんですか……残念です」

 

「あ、でもでも! 結城ちゃんが皆が集まった時に話すって言ってたから明日にでも聞けると思うよ!」

 

 両手を顔の前で振って付け加える。

 

「ああそっか。明日は月曜日でしたね。そしたら学校で……ってなりますけど、高嶋さん、学校に来れないのでは?」

 

「高嶋が学校に来たら、ドッペルゲンガーだ! って騒がれること間違いなしね」

 

 風はにししと面白おかしく笑うと、手際よく器を流し台へと運ぶ。

 その後樹、高嶋の順に食べ終え、ふたりの器も風が食洗機に入れてスイッチを押した。

 と、ここでタイミングよく風呂が沸いた通知音が鳴り、軽やかな歩行で樹が浴室へと消える。

 続いて風も自室へと向かった。しかし数秒ほどでリビングへと戻ってきた。重そうに抱える両手には参考書やらが積み上げられている。

 

「樹も言ってたけど、ちょっと真面目な話、どうする? あんたも一応は中学生なんだから、勉強とかはしたほうがいいと思うんだけど」

 

 机の上にそれらを広げる風はいたって真剣な顔だ。

 

「そうですね……もし結城ちゃんに似てなかったら、そのあたりの問題がなくなって皆に合流しやすくはなりますけど……。でも、そもそも学費とかはどうなるんですか?」

 

 メガネケースからシンプルなフレームのメガネを取り出して耳にかける。それだけでなんだか風が理知的な少女へと変身したように見える。

「なんでメガネ?」て訊くと、「勉強してたらちょっと悪くなった」とのこと。

 受験生となれば忙しさは段違いだ。それに先日の騒動もあり、遅れを取り戻さないといけない。

 

「お金の問題は心配しなさんな。口座にどっさり入ってるから問題ないわよ」

 

「いやそんな、私のためなんかにそこまでは……!」

 

「高嶋が思ってる以上にあるわよ〜。なんせ大赦は超法規組織だし」

 

 親指と人差し指で丸をつくり、いくつかそれを横に並べる。その数は桁を表していて、風の並べた数に高嶋は息を呑んだ。

 

「それに、初代勇者には帰っても頑張ってもらわないといけないからネ」

 

「……でもやっぱり、学校には行けないと思います。だから、私の学年に合った教材があればそれで大丈夫です」

 

「ん、そか。わかった。じゃあ明日の帰りにでも良さそうなの一緒に買いに行こっか」

 

 問題集を開き、さらさらとノートの上を風がペン先が滑らかに走るのを眺める。

 家の中では常に気を配り、気前のいいお母さ――これは言ったら怒られる――お姉さんという印象を強く持つが、机に向かって真剣に問題に取り組むさまはなんだか絵になる。

 高嶋は風の学力を知らないが、これが受験生というものなのかと認識させられる。

 勇者という身でありながら、受験生でもあるという板挟みのような構図。

 思えば千景も風と同じ学年だ。少人数制だから普段は丸亀城で一緒に授業を受けているが、だからこそ明確な学年の違いというものを感じることがなかったのだ。

 今、眼前で頑張って勉強している風のように、千景も頑張っているのだ。

 そう考えると、自然に口元が緩んでいた。

 風は気づいていないようだ。難しそうに眉尻を傾け、参考書とにらめっこを始める。

 内心で風に応援の言葉をかけ、高嶋はそっとリビングを出ていった。

 

 ◆

 

 月曜日がブルーマンデイと言われる理由は、端的に述べると憂鬱だからだ。土日と休みを経て学校という急激な坂は学生にはキツイ。

 しかし勇者部はその真逆だ。

 それは、東郷が帰ってきたからだ。勇者部が今度こそ全員揃ったことは何よりも喜ばしいことだ。

 東郷に車椅子を押されながら、友奈は部室のドアを勢いよく開ける。

 

「結城友奈、ただいま到着しましたー!」

 

「同じく東郷美森、到着しました」

 

 部室にはすでに四人が集結していて、クリスマスツリーの飾り付けが行われている真っ最中だ。樹の高さは天井にはいちおう届かないくらいで、どうやって運んできたかは聞かないでおく。去年はもっと小規模だったが、おそらく園子が乃木家の力をふんだんに使ったのかもしれない。

 主に樹と夏凛が脚立を使って星やボール、リボンなどを丁寧に飾り付けている。

 園子は風と机を向かい合わせにして受験勉強を見ている。あまりセンスの光らないメガネをかけて懸命に手を動かしている。視力が落ちたのだろうか。

 

「あれ? 友奈あんた、そんな厚着せずに脱いだらいいのに」

 

 作業中の手を止めた夏凛が不思議そうに子首を傾げる。

 暖房が効いていて寒さなんてないはずなのに、友奈は上にコートを着込んでいる。授業中もこのスタンスを貫き、先生に風邪を疑われたほどだ。

 

「い、いや、大丈夫だよ。私、寒がりだからさ」

 

「流石に暑いんじゃない? まあ……それでいいならいいけど」

 

 車椅子を手動モードから電動モードに切り替え、左手でレバーを倒して東郷の手元を離れる。樹と夏凛の足元の段ボール箱に箱詰めされた飾りに手を突っ込み、手が空いたふたりに素早く飾りを手渡す。

 一緒に脚立に登って手伝いたいところだが、友奈の身体ではそれは不可能だ。

 

「ありがとうございます」

 

「はい、夏凛ちゃんも」

 

「ん、サンキュ」

 

 テキパキと見栄えが良くなっていくクリスマスツリーをぼんやりと見上げながら、友奈は来たるクリスマスに思いを馳せる。

 新たな部員が加わり、さらに過去から同じ友奈がふたり。高嶋によると、赤嶺は姿をくらませたと聞いているが、今何をしているのだろうかとぐるぐると頭の中でそんなことが駆け巡る。

 文字通り死闘を繰り広げたわけだが、御役目柄敵対しなければならない関係だとしても、赤嶺友奈という人間をもっと知りたい。ただの女子中学生としておしゃべりしたいという欲求が強くあるのだ。

 そう考えている内に、高嶋との約束を思い出した。

 この場に高嶋がいない――そもそも容易に来れないからだが――が、別に構わないだろう。

 

「あのね、赤嶺ちゃんのことなんだけど」

 

 切り出すタイミングは絶妙だったようだ。

 園子に丸付けをしてもらった風がガッツポーズをキメたまま友奈の方を見る。

 

「ああ、それ気になってたやつね。高嶋が友奈が話すからーって言ってたわ」

 

「そうそう、そのことです」

 

 高嶋とは違って、まだ深いところまでが全く読めない人物。その一端が聞けるとなれば皆の手がピタリと止まって視線が友奈に集中する。

 目覚めてから高嶋を抱いて海岸まで飛んで、赤嶺と対面、決闘。流石に一度殺されたところまでは伏せ、それ以外はなるべく詳細に語った。

 想像以上に刺激の強い話だったことは、それぞれの表情から読み取れる。

 ややあって、ぽつりと言葉を発して静寂を破ったのは東郷だった。

 

「同じ友奈でも、赤嶺さんは特異な人ってことね……」

 

 続いてコメントしたのは風だ。

 メガネをしたままだから、なんだか頭の良さそうなコメントに聞こえる。

 

「まあ家にいた時から友奈とはまた違った友奈だなーとは思ってたけど……対人特化っていうのが流石に驚きね……」

 

「私もそれ、気になった。ゆーゆ、鏑矢って確かに言ったんだよね?」

 

「う、うん……そうだけど、園ちゃんはなにか知ってるの?」

 

 少し考える素振りを見せた後、園子は指先で空をかき混ぜながら言った。

 

「鏑矢っていうのは、矢尻に鏑っていう道具をつけて放つことで音を鳴らす矢のことだよ。昔、戦闘の合図としても使われてたみたい。他には部屋に飾って邪を祓う縁起のいいものとしても親しまれるよ」

 

 園ペディアがスラスラと意味を解説する。

 おぉ〜、友奈が感嘆するのも束の間、園子が難しそうな顔をする。

 

「たぶん、赤嶺ゆーゆはどちらかという後者の意味から来ているのかなぁ。神の業? っていうのに手を出したからゆーゆは狙われた。一回しか見たことないけど、あのスーツはすごく高性能に見えた。赤嶺ゆーゆの考える邪を祓うというのは、神の業を認めないこと……かな? それに発言から考えると鏑矢というのは複数人いるから、何らかの勢力に属している可能性が高いね」

 

 いつになく真剣に思考の底に沈もうとする園子を風が声をかけて浮上させる。

 

「なんか物騒な話ね。じゃあ赤嶺がどこにいるか分からないってことは、また友奈の前に現れるってことでしょ? 危険じゃないの」

 

 装飾のボールを片手に持って弄びながら夏凛が淡々と事実を口にする。

 それだけで部室は静まり返る。

 相手は対人特化の人間。覚醒したばかりの友奈より少し強いくらいならば、勇者の力でねじ伏せることは可能だろう。しかし友奈を除いてこの場の全員が対人のたの文字すら知らないド素人だ。

 バーテックスとの戦いで身体が慣れているとはいえ、遥かに小さい標的を相手に戦えるか? それに、友奈と同じ顔に武器を振るえるか?

 精霊の加護もないらしいから、当たりどころが悪ければ一撃で肉だるま。

 非常に戦いにくい相手だ。さらに、勇者に変身しなければ満足に活動できない友奈を守りながら、だ。

 

「私が守るわ。友奈ちゃんを」

 

 そう瞳の奥に決意の色を濃く現しながら東郷が友奈の後頭部を両腕で覆った。

 

「私はずっと、友奈ちゃんに守られてばっかりだった。だから今度は私が必ず守り抜く。たとえ人が相手でも、友奈ちゃんと同じ顔でも戦うわ」

 

「東郷さん……ありがとう。でも、もし本当に戦うことになってもあまり傷つけないでほしい……。赤嶺ちゃんは、根は優しくて良い子だと思うから」

 

「うん、わかった」

 

 東郷の抱擁に、左手を重ねることで熱く応える。ふたりの姿はなんとなしに想い合う恋人のように見えて、四人は横一文字に唇を結ぶ。

 ようやくふたりが離れることで場の雰囲気は息を吹き返し、ここぞ横槍の入れ時とばかりに園子が口早に話す。

 

「とりあえず私は大赦で鏑矢について調べてみるよ」

 

「じゃあ私とお姉ちゃんは高嶋さんと一緒に探しに……いえ、お姉ちゃんは受験勉強しなきゃだから、私と高嶋さんですね」

 

「それ言わないで、メンタル死んじゃう……」

 

「受験生は勉強を頑張るの!」

 

 樹に強気に言われ、泣き喚く一歩前のような顔をして渋々机に向かう風。

 それを尻目に確認した樹は大きくひとつ頷く。

 

「ううう……でも来週は樹の歌のショーがあるから頑張らないと」

 

「違うよお姉ちゃん! ショーじゃなくて街のクリスマスイベント! 学生コーラスだよ!」

 

 なんと樹は学校代表として、来週街で開催される毎年恒例の学生コーラスへの参加県を頂戴したのだという。友奈の知らない間に樹の好きなことができて、成長を実感する。

 ちらりと風の目の端に輝く涙を心の中で憐れんだ友奈の視界に、ふと壁に飾られたスローガンが映った。

 それは、勇者部五箇条。その中の一つ、

『悩んだら相談』

 が脳裏に何度も反復する。

 同時に二つのことが電撃の如く友奈の中を駆け抜けた。東郷を助け出したときに胸に刻まれた気味の悪い紋様、そして――。

 嫌なことを思い出したせいで喉を詰まらせ、小さく咳き込む。

 それを上から重ねるように咳払いをして誤魔化した。

 

「ちょっと、相談なんだけど……!」

 

 やや上擦った声。

 もう一度視線が友奈に集まる。

 思ったよりも強い声が喉奥から絞り出され、若干驚きつつも友奈は続けようとした。

 

「あのね、あの日本当は――」

 

 しかし、それ以上言葉が紡がれることはなかった。

 世界は灰色がかる。

 時の流れは変わらないが、色彩の無くした時空で、赤い揺らぎが発生した。

 発生源は、風たち全員の胸の位置。制服の上からでもはっきりと見て取れた。誰もこの異常事態に気づいていない。不思議そうに不意に止まった友奈の説明を待っている。

 本当に誰も気づいてない……?

 胸の奥底につっかえた塊を吐き出すような苦しさに眉間に皺を寄せる。小さく喘ぎ、友奈はひとりでに拳を握る。

 そして、見る。

 じわりとあの歪な紋様が、風たちの胸に刻まれている。それが何を意味するのかは、考えるまでもなかった。

 

「――――」

 

 これ以上この話題を持ち出そうとすれば、取り返しのつかないことになるという根拠のない確信が友奈の勇気を挫いた。

 

「ええっと……もし借金を友達がこっそり肩代わりしたら、どんな問題が起こるでしょうか!」

 

 恐怖に怯えながら友奈は全員の紋様を確認する。

 ……どうやらすでに消えているようだ。悪い予感は通り過ぎ、深い安堵とともに胸を震わせながら息を吐く。

 

「何よそれ?」

 

 なかなか辛辣に言う夏凛。

 

「学級新聞に載せる問題……かな……? あはは……私にもわからなくて……」

 

「うーん、社会学の実証問題?」

 

 より難しい言葉を持ち出し始められてはさらに本質が複雑になってしまう。かといってこのまま言い続ければまた今のような事態になってしまいかねない。

 ――余計な口を出すな。

 そう言われているような気がして、友奈の心臓はきゅうう、と締め付けられる感覚に陥った。

 ……安易には相談できない。

 和気あいあいと笑顔を浮かべて駄弁る皆を見ながら、友奈はより一層胸を痛めた。

 

 ◆

 

 前回大赦本部に訪れたのは、勇者システムのインストールされたスマホを徴収するため。そんなことを言えば乃木家は車を出してくれなかっただろう。

 しかし今回は違う。

 ただ、シンプルな『質問』がしたいだけだ。文面だけだと誤魔化される可能性が高い。だから直接面と向かって聞きださなければならない。

 高級黒塗りの車から降りた園子は大赦本部のゲートを潜る。

 ゲートは二重構造になっていて、門番は重装備と軽装備の複数人が周りを巡回している。いずれも黒光りする銃を携帯していて、どれだけ厳重なのかが窺い知れる。

 もし侵入者が入れば、二重ゲートで閉じ込め、銃で一斉射撃……だと思われる。

 園子がゲートの前に立つと、警備所でパソコン作業をしていたひとりが慌ただしく手を動かし始める。

 そして、ゲートが重々しく左右に開かれた。

 顔パスである。

 もしそっくりさんが現れたらどうなるかと疑問を抱くが、ゲートの上に設置しているカメラが人物認証しているのだろう。

 エントランスに入れば、皆ぎょっとして園子に視線が集中する。乃木家の人間に向けられるものは畏敬にも似たものだ。しかし受付嬢の肝は大したもので、ちょこんとカウンターより少し頭を出す園子を変わらない営業スマイルで迎えた。

 

「こんにちは乃木様。今日はどのようなご用件で?」

 

「私と話せる、なるべく位の高い神官を出して。訊きたいことがあるの」

 

「承知しました。少々お待ちください」

 

 受付嬢は奥へと消える。

 このエントランス――大赦本部は神世紀初頭に大社から名称を変更する際に大規模な改築が行われたそうだ。一般的な、コンクリートなどで塗り固めるといったことはせず、なるべく木造りを主眼に置いている。木特有の、癒しを与える香りが鼻腔をくすぐる。さらに、何百年経っても老朽化が目に見えることもない。

 近年耐震工事だとか何とかで騒がしい世間だが、そういった工事をしたという記録も特にない。そこは神樹様の加護だか巫女の力だかは園子にはわからない。

 その辺りは大赦を改名する際に大きく貢献した御先祖、乃木若葉に訊かなければ。

 奥から受付嬢が戻ってきた。

 ぼんやりしていた園子は、急いで表情を戻して返事を受け取る。

 

「第参会議室でお待ちです。案内は――」

 

 結構です、と丁重に断る。

 大赦に二年も部屋に籠っていたのだ。移動することはできなかったが、暇を持て余した園子の頭には本部の構図は頭の中に入っている。

 迷いのない歩行で指定された部屋へ向かう。すれ違う神官たちは白い裾を靡かせて仰々しく頭を下げる。

 気持ちのいいことであるのは否定できないが、こうまでされると勇者部で対等な立場で接してくれる友奈たちにはやく会いたいという欲求が急激に膨らむ。

 一般的な女子中学生としての日常が欲しい。

 第参会議室の前に立ち、木製の引き戸を横にスライドさせて中に入る。会議室は質素な造りで、椅子や長机がぽつんと置かれているだけだった。引き戸の反対側の壁は抜けていて、その先に庭が広がっていて、砂利が波のように綺麗に敷き詰めて水の流れを表現する、枯山水の形式だ。

 庭師が砂かき棒でリズミカルに砂利に溝を刻む音は、非常に耳障りが良い。園子に気づくと、庭師は深々と頭を下げて木々の向こうへと消えた。

 視線を右に振り、存在感が希薄だった神官を視界に入れる。

 女の神官だ。

 白い装束に身を包み、白い仮面で顔を覆う。相変わらず大赦の正装はセンスを疑う。ホラー映画に登場しても違和感が仕事をすることはないだろう。

 そんな場違いなことを考えながら園子は前を見据えた。

 部屋は静まり返り、園子は僅かに喉を鳴らす。

 

「本日もご健康でなによりです、勇者様」

 

 忘れるはずもない声。

 仮面の上から垂れ下がる前髪を揺らす。

 園子は堂々とした足取りで中へ進み、椅子に座った。用意されていた茶碗に注がれていたお茶を啜る。

 苦い。

 顔をしかめた園子は和菓子で口直しをする。

 

「苦かったですか? もしそうなら別のものを用意しますが」

 

「だ、大丈夫だよ。私だって大人になったんだから」

 

「まだ成人式を迎えてないはずでは?」

 

 なんて失礼な。

 頬を膨らませて否定する。

 

「自分を大人だと思えば、その瞬間大人になるんだよ……あ、もちろん子供でもあるよ」

 

 都合のいい主張だが、これが子供の特権とばかりに自己を納得させる。

 ……別にこんなくだらない話をしに来たわけではない。

 

「……」

 

「……」

 

 神官もわかっているはずだ。わざわざこうして直接話そうとするということは、それほど大切な話があるのだと。

 さっきまでの当たり障りのない会話はあそびのようなものだ。

 静かに園子は質問をした。

 

「――鏑矢って、なに?」

 

「……」

 

 押し黙る。

 待つ。

 たっぷり十秒ほどしたあと、神官がゆっくりと言葉を吐き出す。

 

「なぜそれを?」

 

「はぐらかさないで。知ってるかどうかを訊いてるの。知ってるなら教えて」

 

「……」

 

「私、あんまり余裕がないの」

 

 赤嶺が再び友奈の前に現れるという危険性は依然として拭えない。驚異的な回復力で明日にでも、なんてことがあるかもしれない。

 鏑矢と名乗った以上、園子たちはその御役目について知らなければならない。たとえそれが赤嶺への有効打にならなくても、寄り添うことはできるかもしれない。

 友奈が東郷にお願いした、傷つけないでという願い。それを守りたい。

 

「……やはり、赤嶺友奈と接触したのですね?」

 

「まあね。その様子だと、高嶋友奈……初代勇者様のことも把握しているようだね」

 

 口ぶりから察するに、赤嶺と勇者部でどのような関係が築かれたかまでは把握しきれていないようだ。

 実質四国の統治は大赦が行っている。西暦の時代に存在した政府は廃れ、ここまで台頭した。多少強引な手法をとっても大赦の元ならば黙認される。

 できるだけ情報を聞き出す。

 それが、園子の勝利条件だ。

 

「ええ。両名がこの時代にやって来た瞬間から神樹様は知覚しています」

 

「そうなんだ。じゃあまわりくどい話はいらないよね? ……もう一度聞くけど、鏑矢って、なに?」

 

 微かに怒気の孕んだ質問。

 仮面で表情は窺えないが、間違いなく仮面の裏で変化があったように見えた。

 これまで微動だにしなかった神官が庭の方に身体を向けた。

 

「……人は神より下でなければならない。ただ神の恩恵を授かる小人であれ」

 

 突然飛び出した聞き慣れないフレーズに、園子は眉を潜める。

 

「神を汚してはならない。神を貶してはならない。神を疑ってはならない。恐れよ。崇めよ。平伏せよ。そしてゆめゆめ思うな。人が、神の業に辿り着こうなどと」

 

「――――」

 

「……もう、おわかりですよね?」

 

 的確な言葉だった。

 それ以上の言葉は不要……それどころか、蛇足になる。園子の優れた頭脳はほぼ完全に鏑矢とは何かを理解した。

 お茶はもう、苦くなくなっていた。

 

「ゆーゆは以前の戦いで神の業に手を出した。でも入院している間、誰も襲ってこなかった。赤嶺ゆーゆが鏑矢であることは疑いようはない。なら……」

 

 もしかしたら赤嶺は人知れず襲おうとしていたのかもしれない。しかしそれは園子が本人に訊かない限り知る術を持たない。

 だからこそ、これは核心に触れる質問。返答次第では友奈に迫る危険が一気に高まる。

 

「……この時代の鏑矢はどこにいるの? そのルールに従うなら、普通に考えてゆーゆを襲っているはずだけど」

 

 そう、これが真に訊きたかったこと。

 勇者部の皆は赤嶺友奈という単体の脅威として鏑矢を認識しているが、本質はそこではない。

 鏑矢に目を付けられたという点だ。そもそも赤嶺は過去の人間だ。ならば当然、現代に存在する鏑矢の標的にもならなければおかしい。赤嶺の戦闘能力は巫女による祝詞の付与によって強化される。

 赤嶺がいつの時代の人間かまではわからないが、鏑矢の基礎システムは勇者システムを流用したもののはず。少なくとも何らかのアップデートがされているとみなければならない。

 それこそ、戦闘能力の向上だったりだ。

 しかし、答えは全くの予想外のものだった。

 神官がこちらを振り向く。やはり仮面越しでは表情はわからないが、間違いなく目が合っていると確信できる。

 そして口を開く。

 

「鏑矢計画は第二世代で頓挫、破却されました。以降二百年以上……現在に至るまで、鏑矢は存在しません」

 

 ◆

 

 苦しい。

 強い飢餓感に赤嶺は喉を詰まらせる。

 一番安い、コンビニで買った塩お握りを貪る。

 赤嶺は己を恥じると同時にほぼ空になった財布の中に指を突っ込む。手提げのビニール袋には残り一つの焼きおにぎりと、大量のプロテイン。

 今になって、蓮華に料理全般を丸投げしていた理由を痛感した。

 つい目に入った、陳列されたプロテイン。連鎖的に視線は横へ滑り、目につくものを片っ端から買い物かごに突っ込んだ。

 衝動買いである。

 これでどうやって生活していくのか。

 ひもじい。

 昨晩は人気の無い橋の下で夜を明かした。スーツを着ていれば極寒の寒さなんてなんのその。快適とまでは言えないが、十分生きていける。

 もうここは赤嶺の活動拠点となりつつある。すぐ眼下の川はそこまで汚くないし、最悪この水を啜るつもりでいる。

 しかしプロテインではさすがに生存不可能であることは赤嶺もよく理解している。

 脳内蓮華がやれやれと肩をすくめている。

 お金がないのは大問題だ。何かしら働き口を得なければならない。しかし中学生を雇ってくれるところなんて……新聞配達とか?

 走って届ければ自分の鍛錬にもなるから一考か?

 とりあえず今日は食いつなげた。明日にでも動き始めようと口の端についた米粒をぺろりと舌を伸ばして口に含んだ、その瞬間。

 赤嶺の意識が一瞬にして切り替わった。

 全身に鳥肌が立った。

 グッと身が引き締まる。

 自分の胸に赤い斑点……光点が当てられているのを見た。

 脳を介する必要はなかった。

 

「――――」

 

 脊髄反射で右腕を胸の前に斜めに突き出し、装甲を張る。

 じゃりいいん! と装甲同士が擦れて鋭く鳴る金属音と、ドン、とどこかで響いた耳をつんざく重い射撃音は、全く同じタイミングだった。

 刹那、腕ごと持っていかれそうな力を受ける。歯を食いしばり、一際激しく散る火花が、橋の下を昼のように明るく照らした。

 勇者の拳撃にも耐えたはずの装甲が、たった一発の銃弾で完全に破壊されてしまう。破砕音を爆発させて欠片が地面に散らばる。なんとか弾丸は防ぎきることには成功したようだ。

 その辺に転がっているはずの弾を確認して種類を特定したいが、夜だから足元も暗く、さらにまた第二射がすぐに来るかもしれない。

 離脱を選択した友奈は素早い動きで橋の上へと駆け上がり、撃たれたと思われる方向を睨みつけた。

 腰のポーチから投げナイフを三本指に挟んで五十メートルほど離れた脇道、その木々の茂みに投擲すると、三つの硬い音が連続して返ってきた。

 少し離れているから、距離減衰を考えると、別にそれで倒せるとは思ってない。

 しかし居場所を掴めたから良しだ。

 ガサガサと茂みが大きく揺れ、赤嶺の命を狙った人物がのっそりと姿を現した。

 街灯に照らされ、急接近するでもなくゆっくりとした足取りでこちらに向かってくる。

 ……少女だ。

 身長は……赤嶺より少し高い。推定年齢は同じくらい。濃い褐色肌で、輝きを放っているのではないかと錯覚してしまうほどの純白の髪。容姿はバイザーで隠れていてわからない。

 

「いやー怖いねぇ……」

 

 敵の姿を今一度観察し、赤嶺は率直な感想を口にする。

 驚くべきことはふたつある。敵が両手に抱えている得物はどう見ても対物ライフルだ。少なくとも十キロもあるそれを軽々と持ち運ぶ時点で相当である。

 それともうひとつ。

 ……あの光輪はなんだ?

 少女の背中の部分には歯車の歯をびっしりと敷き詰めたような物体が浮遊? している。その色は深い蒼色で、少女がそもそも人間かどうか疑わしくなってくる。それに頭部付近の黄金の装飾? も気になる。

ガコン、とリロードして空薬莢が排出される。

 

【挿絵表示】

 

 互いに言葉は交わさない。

 しかし赤嶺は指の背に金属を纏わせ、いつでも戦闘できるぞと無言で威嚇する。

 距離が十メートルを切ったところで、少女は突然足を止めた。

 自己紹介か何かするのかと思い、相手の出方を伺っていると突然、驚異的な速度でこちらに銃口を向けた。

 

「は⁉」

 

 身体を横に投げ出す。

 発射音が轟き、赤嶺のいたところを弾丸が突き抜ける。突風が横髪を大きく揺らす。

 そして、

 

「――ふむ、流石は鏑矢だな。不意打ちが無理なら、まあこれも無理だろう」

 

 と、初めて言葉を発した。

 ややアルトがかった低い声。

 同時に対物ライフルから手を放すと、しゃららん、と花弁と共に消滅した。

 その様子を見て赤嶺は只者ではないかもしれない、から、只者ではない、へと評価が引き上げられた。

 対物ライフルは立ったまま狙撃できるような代物じゃないのに! その二本のスパイクは何のためにあると思ってんの!

 

「突然物騒だね。何の用かな?」

 

 そう、心を静かにして問うた。

 少女は冷たい声で返す。

 

「お前は消えなけれらならない。……わかるだろう(・・・・・・)?」

 

 いやらしい言い方だ。

 

「まあね。歴史の修正力ってところ?」

 

 答えない。

 つまり肯定という認識でいいのだろうか。

 

「土居球子には手を焼かされたよ。あんなことを言わなければあそこでお前を処分できたというのに。おかげで私もこの時代に飛ぶ羽目になってしまった。しかも高嶋友奈も一緒ときた。……よくもやってくれたな」

 

 この少女が言っているのは恐らく、時間遡行の直前。赤嶺が七十二年と言おうとしたところ、球子がラッキーナンバーだから三百年、と口を挟んだことだろう。

 つまり、あそこで球子の言葉がなければ、まちがえないように丁寧に年を設定しようとしていた赤嶺は殺されていた、ということになるのか……?

 

「それはお疲れ様。お互い苦労してるっぽいね。せっかくだし今からどこか食べに行かない? ほら、初対面だからさ」

 

 気を紛らわそうとジョークを投げかける。

 もちろんお代はそちら持ち。雀の涙しかない財布は使えない。

 しかし当然の如く反応は良くなかった。それどころかみるみる機嫌を悪くしてしまったようだ。

 キュッと結んでいた口が開かれる。

 

「すぐに終わらせてやる」

 

 後ろの光輪が回転し、少女の両手に双剣が収まる。刃渡り三十センチほど。街灯の光に反射して鈍色の光沢を放つ。

 

「女の子がそんな怖い言い方したら駄目なんだよ」

 

「鏑矢がよく言う」

 

 少女が鼻を鳴らす。その動作で、不意に蓮華を思い出してしまう。

 しかしどう見ても外見は似ても似つかない。口調は蓮華のものを固くした感じ。

 こいつは蓮華ではない。

 ただの敵だ。

 殺すべき敵だ。

 

「はやくお前たちを殺さなければ、この時代は……破綻する。取り返しのつかないことになる。お前たちは死ぬよりも酷い後悔に襲われる」

 

「ふーん、でも死にたくないから抵抗させてもらうよ? ちなみにお名前を伺っても?」

 

「お前に名乗る名はない。赤嶺友奈と高嶋友奈の処分が完了するまで、私はお前たちを追いかけ、必ず殺す」

 

 そう言って、少女は切っ先を赤嶺に向けた。

 殺しのスイッチを入れる。友奈は赤嶺を無力化しようとしていたが、この敵は違う。明確な殺意を持っている。

 少女が双剣を地面に水平にゆっくりとした動作で斬り払うと、刃にボウッ! と炎が纏った。

 それは反則でしょ⁉ と目で訴えながらも赤嶺は呼吸を整えて心を殺し、獰猛な眼で敵を睨みつける。

 そして。

 ふたりは同時にレンガの地面を蹴った。




ずーっと以前から存在を匂わせていた人物がようやく満を持して登場
スネーク風に言うと、「待たせたな」

歴史の修正が始まる

それではまた次回!


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恐怖

ゆゆゆいとは違って、このssの赤嶺チャンは鏑矢としての側面が強い
今回はキリがいいので、いつもより少しだけ短め

前回のあらすじ

歴史に介入する者、命を差し出せ


 そもそもこいつはどれだけ強い?

 赤嶺は熱を放つ刃が鼻の先を通り過ぎるのを見ながら冷静に考える。

 こいつは名乗らなかったから適当に『敵』と呼称しよう。

 肉迫からの第一撃は、刃に対して垂直に繰り出された右の拳によって相殺する。

 ぎぃいいん! と鈍い音が滑り、続けざまに振り下ろされた二本目の剣は、左腕を突き出して装甲で受け止めた。

 普通の服ならば、パチパチと爆ぜる火の粉が燃え移って大惨事になるが、このスーツはその限りではない。

 逆に冷え切った身体を温めるにはもってこいだ。

 

「おおおッ!」

 

 まずは一撃。

 赤嶺の拳は敵の横腹をあっさりと捉える。

 別段特殊な防御機構があるわけでもなさそうだ。

 肋骨を砕く確実な感触があった。

 敵は口を歪めて大きく後ろに飛んだ。

 

「弥勒蓮華とは違って、そのスーツはなかなかに凶悪だな」

 

 相当の痛みを感じているはずだが、敵は涼しい顔で冷静に赤嶺の戦闘能力を評価する。

 スーツの損傷、軽微。しかし度重なる戦闘によって無視できないダメージが蓄積している。

 敵の手の内がまだ明らかになっていない。まずはそれを白日の元に晒させるか、それとも賭けで短期決戦を臨むか。

 赤嶺は熱い息を吐いて沸騰しそうな脳を冷やす。

 

「……レンちを知ってるんだ。まあ歴史を修正する人なら知ってて当然なのかな。……そういえば、私がもしここで死んだらどうなるの? それこそ『取り返しのつかないこと』だと思うんだけど?」

 

 ここで赤嶺が消えれば、それこそ本末転倒だ。

 あの部屋で腕時計をつけ、蓮華と不意の別れになり、そのまま永遠となってしまう。

 それだけは、駄目だ。

 そもそもの根底、目的を忘れるな。

 目的は、神世紀七十二年に帰還すること一点にある。腕時計の原理を解明し、もう一度起動させる。そして帰るのだ。自分がいるべき時代へ。

 そのためにもまずは、この敵を乗り越えなければならない。

 その障害は、双剣の放つ火に照らされた口元に不敵な笑みを浮かべた。

 

「心配はいらない。部外者であるお前はここで死ぬが、あの時代のお前が消えるわけではない」

 

 なるほど。

 なら今の危惧は杞憂に過ぎないのか。

 ここでの死は、過去の赤嶺友奈を消滅に直結するわけではない。

 ……でも。

 

「だからって、ハイそうですかって命を差し出すわけ、ないでしょう?」

 

「もちろんわかっているとも。だから、私が殺してやるのさ」

 

 リーチの短い双剣では難しいと考えたのか、双剣を消滅させて一振りの直剣を手に収める。

 どれだけ武器隠し持ってるの? と突っ込みたくなるが、もしかしたらあらゆる武器を網羅している可能性すらある。

 倒すのは一苦労するかもしれない。しかし大きなダメージは与えられた。優位性はこちらにある……と考えたい。

 動いたのは赤嶺だ。赤黒いスーツは闇夜に紛れて敵の視界に捉えられにくい。緩急をつけて苛烈なステップを踏む。

 普段なら目を見て外れたかどうかを確認できるが、敵の目はバイザーに隠れているから判断が難しい。

 ならば、完全に後ろをとるだけ。

 顔だけを左右に振る敵の背後に回る。

 ――とった。

 急激な方向転換。口の端から鋭く息を吐き出し、拳に渾身の力を込める。腰の横に添えた腕の筋肉が盛り上がる。

 背骨を砕かれれば流石の人外野郎もダウンするだろう。

 そう思っての拳撃。

 ついに敵がこちらを振り向くことはなかった。

 しかし手首を器用に捻り、直剣を背中へとまわした。

 衝突。

 金属同士が激しくぶつかり合い、脳髄を沸騰させるほどの鈍い音が爆発する。

 

「はあああああっッ!!」

 

 直剣にヒビを刻んだところで勢いは消えるが、赤嶺は素早く切り替えて正面に飛び込んでラッシュを放つ。

 一発一発に殺意を込めて、目を剥いて吼える。

 敵の腕、腹、顔面、命中。抵抗はなし。

 最後の一発は胸のど真ん中。友奈を殺したものとまったく同一のもの。

 即ち。

 是、命を断つ拳撃。

 ズパン! と冷え切った空気に音を叩きつける。

 

「グ、ぉ……」

 

 ここで初めて敵がダメージを受けたリアクションを見せた。口を歪めて苦悶の声を漏らす。

 だが殺すまでは至らなかった。友奈は元々身体が弱っていたから有効であっただけで、この敵は健康体そのもの。

 そして同時に、赤嶺はある違和感を覚え始める。

 

 ……こいつ、あまり強くない?

 

 直剣を振るう太刀筋にキレがない。

 老若葉は愚か、蓮華にも遠く及ばない。振り出しを見ながら回避することもそれほど難しくない。

 それにこちらの攻撃はだいたい当たる。隙が大きい。動作の一つ一つが大振りで、簡単に懐に潜り込める。

 奇妙な感覚に、赤嶺は怪訝な表情を浮かべる。

 自分が強くなったのか? それとも敵の強さはこれがデフォルトなのか?

 友奈よりも弱い。それに、この身に届く殺意は薄められたカルピスのようだ。不透明で、淡くて、スッと喉元を通り過ぎる感覚。

 本来ならもっと鮮明で、他のものを寄せ付けないほど色濃く、かつ喉を詰まらせるほど鋭かったり、ねっとりしたものでなければならない。

 この程度で、殺しにやって来ただって?

 ――舐められたものだ。

 友奈は赤嶺の本気の殺意を向けられ、さらに殺しても立ち向かってきた。恐らく神の業によって蘇生したからそこまでは流石に求められないが、それくらいの気概は見せてみろ。

 殺す。絶対殺す。

 これまで半端だった殺しのスイッチが必要以上の力で押し込まれて壊れる。

 

「お前、本当に私を殺すつもりなの? だとしたら失望だよ。私を過小評価したね? その罪は命で償ってもらおう」

 

 感情を殺した白い声で乱暴に言い放つ。

 

「そいつは心外だな。だが、それでいい(・・・・・)

 

「?」

 

 妙にあっさりと受け入れる敵。何を考えているかまったくわからない。恐らくこいつは人間的な何かが欠落している。

 ゆらりと不気味に身体を震わせ、敵はゆっくりと足を踏み出す。直剣の先端を地面にガリガリと擦りながらだ。チリチリと赤い火花が敵の足元に生じる。

 赤嶺はぐっ、と力を溜めた後ろ足を爆発させて一撃を叩き込む。

 そのバイザーが気に食わない。変にカッコつけたようなデザインが無性にイライラさせる。まずはそれを木っ端微塵に破壊して、裏に潜む顔をもぐちゃぐちゃにしてやる。それから丁寧に、愛でるように殺してやる。

 滑らかな曲線を描いて拳が吸い込まれる、直前――

 

「――⁉」

 

 それだけは超反応で直剣の側面部分を向けて受け止められた。

 しかしついにヒビが全体にまで広がり、破片を撒き散らしながら崩壊する。

 

「その眼は影を写している。虚ろで、内には何も宿さない空っぽな抜け殻。そう、自分でも思わないか? ……自分が酷い顔をしているって、気づかないか?」

 

「は?」

 

 何も場違いなことを、と思った。

 この眼は殺すと決めた時にするもの。それに光などあるものか。ドス黒くて、歪。心を殺して相手の生を奪い取る刃となるために必要なものだ。

 熱く滾った身体から、白い蒸気が焔のように揺らぎ出る。鼻の穴を大きくして深呼吸、興奮のを少し落ち着かせる。

 

「酷い? 何を言っているの? 殺しに温情など不要。それはわかっているはずだよね?」

 

「いいや? 殺しにも色々な種類があるとも。愛情のある殺し。ふと激昂に駆られた殺し。どうしようもなくて悔しさ混じりの殺し。お前はそんな『殺し』を知らない。ただ敵を目的達成のための障害としか思わないお前に、これらはわからない。案外、安っぽい刑事ドラマも馬鹿にはできないぞ?」

 

「……私、ドラマとか特に興味ないんだけど」

 

「ものの例えだ。とにかく、お前は殺しに無頓着すぎる。その根本的な思考を剥がさなければならない」

 

「なに私の先生にでもなった気でいるの? 気持ち悪いんだけど。私より弱いくせに、偉い奴ぶってさ」

 

 とことん嫌な奴だ。

 赤嶺の逆鱗すれすれを爪先が触れないように掠める絶妙な歩み寄り。それが余計に腹立たしい。

 殺しに感情はいらない。鏑矢は、殺す時は殺す。そう、蓮華と静、さらには老若葉とも誓いを立てたのだ。悪を祓う矢となり、粛々と御役目を全うする。

 敵は再び双剣を手にする。そして手を払えば、ボウッ! と今度は炎を纏う。敵も実力差はよくよく理解できているはずだ。

 しかし引き下がらない。敵の闘志は未だ衰えるところを知らず、寧ろ初めよりも気迫を感じる。

 なぜだ。無理とわかりきっている戦いに、なぜ挑む。

 赤嶺ならば、逃げる。

 逃げて、今一度態勢を整え、今度こそはと強く胸に刻む。

 その愚かさは命を投げ出すのと同義だ。

 赤嶺は怪訝な顔でゆっくりと歩を進める。

 

「逃げなよ」

 

「逃げないさ」

 

 速やかな返事。

 そのいっそ清々しいほどの態度がつくづく気に食わない。

 この一合で終わらせる。

 そう、決めた。

 敵の腕に力が入ったのが、よく見えた。

 佇んでいる。欠片も闘志が淀むことはなく、赤嶺が応じないことなどないと、微塵も疑わない素振りで、そこに。

 ――ここで、赤嶺にはふたつの選択肢がある。

 それは、敵を殺すか、それとも情けをかけるかだ。

 しかし後者は間違いなく敵が受け入れないだろう。だから必然的に選択肢は絞られる。

 それに、ここで逃してもまた必ず襲い掛かってくるだろう。それこそ、今の赤嶺と友奈の関係のように。

 

「あーもう。煩わしいなあ」

 

 ガシガシと頭をかき毟り、苛立ちを隠さずにそう言い放つ。

 敵は無言だ。

 赤嶺を待っているのだ。

 

「……クソ」

 

 悪態をつく。

 次で、必ず赤嶺が勝つ。

 憶測や確信などではない。

 これは確定だ。

 それでもなお挑む理由がやはりわからない。どうせ尋ねてもうやむやにされそうだ。

 ……生きる。

 生きなければならない。この身がこの時代の異分子だとしても、ここに赤嶺友奈という存在は確かにあり、鏑矢としての誇りもある。

 そして、いずれはもう一度友奈とも対面しなければならない。

 あの戦いで得た『何か』をきちんとしたものとして理解したい。

 それが、叶う気がするのだ。

 だから、生きる。

 そのために、殺す。

 敵を睨む。既に双剣の間合いに赤嶺は入っていた。

 足を止める。敵も足を止め、面と向かって睨み合う。

 これだけ接近しても、容姿はわからない。

 しかしバイザーの裏で言葉にできない強い意志の存在は、間違いなかった。

 

「……私は征矢。ただ敵を殺すためだけの矢。鏑矢、赤嶺友奈。今一度警告しよう。ここで死ね。さもなければ――」

 

「――うるさい。お前が死ね」

 

 突貫。

 炎々と燃え盛る、朱の軌跡を描いて二本の刃が正確に赤嶺の首筋に流れてくる。

 それを、走りながら勢いよくスライディングすることで回避。

 初撃がこうなることなど敵も想定済みだ。待ち受けるのは鋭い蹴り上げ。それは脚を折り曲げてすねに展開している装甲で受け止める。

 ぶぉん、と重い音と共に敵……征矢の足先が衝突する。

 瞬間、全身に激しい揺れが波となって頭頂部まで何度も押し寄せてきた。ぐらりと視界がブレる。

 だがすぐさま平静を取り戻して右の拳で地面を殴りつけて立ち上がる。

 ……見える。双剣の炎という光源が、己の位置を、征矢の位置を正確に照らしてくれる。タイミングをズラして迫る死。

 遅い。その剣筋はすでに見切っている。

 交差させて腕の装甲で弾き飛ばす。

 膂力もこちらが上。呆気なく双剣は征矢の手元から離れ、回転しながら高く舞い上がる。

 

「温い!」

 

 大きく仰け反り、赤嶺の目の前で晒した隙。

 お得意の武器生成も間に合わないほどの速度で征矢の身体を滅多打ちにする。鋼鉄でコーティングされた拳は次々の征矢の肉体を打ち、内臓を壊し、骨を砕く。

 

「あ、ガ……!」

 

 征矢はされるがままだ。赤嶺の覇気迫る勢いにまるで反応できない。

 そして。

 重力に従って落ちてきた双剣をキャッチ、下からの斬り上げて右の肩口から下を切断する。

 びちゃり、と肉の落ちる音と悶絶する声が混ざる。

 まだ止まらない。

 もう片方で、深々と胸に突き立てた。

 狙いは心臓。間違いなく捉えている。剣越しに重い感覚が手に伝わる。

 双剣の炎は征矢の肉を灼き、焦げる匂いが鼻につく。先端は背中から突きつけている。

 伝う血はあっという間に黒くなり、「コホッ」と征矢が乾いた咳をした。背後の光輪も次第に光が弱くなり、完全に神々しさが失せると灰となって消える。

 胸の剣はそのままにし、一旦距離を取り、血まみれの身体を睨み上げる。

 普通の人間であるのならば、今ので絶対に死んでいる。

 だが、征矢はそうではなかった。

 まだ生きている。しかしどう見ても致命傷であることは明らか。

 ごぽりと口から大量の血を吐き出した征矢は、不穏な笑みを口の端に浮かべると、残された左腕を伸ばして柄を掴み、勢いよくそれを引き抜いた。

 ほぼ炭化した血肉が飛び散り、赤嶺の頬に付着する。

 

「――――」

 

 いったい……何をしている?

 それは、死を早めるだけだ。

 

「は、は、は、は、は――」

 

 笑っていた。

 ひとつの音を発する度に血を吐きながら、笑っていた。

 本当に、楽しそうに、笑っていたのだ。

 全身の毛が逆立つ。

 さっきまで、言動や素振りなどからこいつが嫌いだったが、今は違う。

 同じ人間として……同じ生き物として嫌いだ。相容れない存在だ。生理的嫌悪というのはまさにこういうことを指すのだろう。

 一秒でも長く征矢を視界に入れたくなかった。すぐにでもその首を断つために自然と脚に力が入っていた。

 でも、しなかった。

 それはなぜか。

 それは、恐怖していたからだ。

 赤嶺は鏑矢に就いて初めて、恐怖を感じた。

 

「ハ、ハハハ、ハハ、ハハアアアァァァ――!! あかみねぇェ……ゆうなあああぁァァッッ!!」

 

「――――ひ」

 

 征矢が構える。

 まだ戦おうというのか。

 もう一度殺さないといけないという強い使命感に駆られた時に、身体がずっと小刻みに震えていたことにようやく気づいた。

 不味い。今、最高のパフォーマンスができる自信がない。

 ……戦いたく、ない。

 あってはならない考えが脳内を駆け巡った。

 もし蓮華がいれば鼓舞してくれるだろうが、ここにはいない。赤嶺独りだけだ。誰も赤嶺の背中を押してくれない。

 距離は十分離れている。征矢は燃える剣を振りかざしているが、間合いからは遠い。とはいっても今の征矢は異常だ。およそ人間ではない。

 刹那の間に空間を縫って距離を詰められるかもしれない。

 安定しない物腰のまま構える。カチカチと刃先が小さく鳴る。心無しか、纏う炎の勢いも弱くなっている気がする。対して征矢のものは一際熱く燃えている。

 ……その身の毛もよだつ佇まいは、まさに化け物……獣だ。

 

「HAHAHAHAHAHAHAHA――!!」

 

 その声は、人のものではなかった。

 やや化け物の咆哮が混じったような奇怪な哄笑が闇夜に野太く響く。

 そして剣が振り下ろされ――

 

「――――、は?」

 

 ――自分の首を横に貫いた。

 

「ぇ、は?」

 

 何を……したのだ?

 あまりに衝撃的すぎて、赤嶺は数秒その場から動けずにいた。

 やっと理解した赤嶺の先には、仰向けに倒れる征矢がいた。

 まだ哄笑を続けている。

 

「RRRRRR――」

 

 いや、嗤って……いるのか?

 次第にノイズがかり、哄笑はただの高音の高周波となり……やがて聞こえなくなった。

 それでもゆっくりと征矢の口元が動いているのが見える。

 醜悪に歪ませ、大きく嗤っている。

 口からは夥しい量の血を吐き、あっという間に自分の身を血の海に沈める。

 

「…………」

 

 赤嶺は『それ』から目が離せなかった。

 視線が固定される。なぜなのかも、わからない。

 ギロリ、とバイザー越しに目が合ったのを直感した。

 骨の髄まで凍りつくすような恐ろしい視線に、赤嶺は吐き気を催した。

 

「……うッ」

 

 そして再びひび割れた音が聞こえる。

 

「お前、と……高嶋友奈は……必ず殺す……」

 

「…………死ね」

 

「それは……私に辞令が下った瞬間、確定されている……」

 

「死ね……死ね」

 

「だから、安心しろ……私はお前たちに、愛情のある殺しを与え――」

 

「死ね!!」

 

 右手に握る双剣の片割れを躊躇いなしに、豪腕を振って投擲する。

 吸い込まれるようにそれは話し続ける征矢の口を貫き、大きく縦に裂いた。

 

「死ね! 死ね! 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね……死ね!!」

 

 語彙力のない幼い子供が必死に罵るような口ぶりで、赤嶺はひたすらそう叫び続けた。

 そこまでして、やっと征矢から視線を外すことができた。

 後ろを向き、足早にその場を去ろうとする。

 あの橋の下の拠点は、捨てよう。ここにはもう一秒たりともいたくない。ここにいると、この恐怖をもう一度思い出してしまいそうだから。

 

「ぞれでいい……! ぞれ゛で、いい゛……ッ!!HAHAHAHAHAHAAAAAAAAああぁぁァァ――!!」

 

「ッ!!」

 

 振り向いてしまう。

 そこにはさらに大きく嗤う、征矢の姿があった。ぱっくりと顎まで縦に裂けた肉が大きく開いている。歯が欠け、舌は千切れている。

 だが、それ以上のことをすることはなかった。

 ゆっくりと、ゆっくりと征矢の装束の特定の部位が放つ光が淡くなっていく。

 そして完全に消えると、それに連動するように、征矢の活動も停止した。

 死んだ……のか?

 赤嶺は小さじ一杯分の浅い呼吸を何度も繰り返しながら警戒しながらにじり寄る。身体に刺さっていた双剣はすでに消えている。

 横腹を爪先で軽く蹴る。

 ……反応はない。

 どうやら本当に死んだようだ。

 かといってこのままにしておくわけにもいかない。鏑矢は基本、矢で昏睡状態にした者を見せしめとして人目につく場所に放置するが、今回はその逆だ。

 ……死んだと思われるが、それでも念には念を。

 ポーチから小袋に入った燃料を征矢の身体に撒く。そして両の拳を擦り合わせて火花を生じさせ、骸は炎に包まれた。

 炎に照らされた自身の姿をぼんやりと見下した赤嶺は、

 

「……気持ち悪い」

 

 と吐露する。

 血色に染まったスーツ。

 鏑矢としてのの御役目でこのようなことは何度かあった。でも、今回は違った。

 べっとりと付着した血があまりにも汚れているように見えて、とうに骨になっていた骸を脇道へと力いっぱい蹴り飛ばし、閃光の如きスピードで川へと飛び込んだ。

 川の水で取り憑かれたようにゴシゴシと血を洗い流す。水を掬い上げ、浴びるように頭からかぶる。急速に体温が下がるが、そんなことはどうでも良かった。何度も何度も。指先の感覚がなくなっても続けた。

 怖かった。

 それを、冷たい水で流せるなんて、根拠のない願望を抱いて。

 でも、そんなことができるはずもなく。

 あの恐怖が。あの哄笑が耳にこびりついている。

 あんなの、人間ができるものではない。

 そうして、いつの間にか赤嶺は川の中に膝を突いていた。

 そっと頬に流れる暖かいものを指で拭う。

 ……誰もいない。

 赤嶺を支えてくれる者は、誰もいない。

 蓮華も静も、ここにはいない。二百年以上も昔にふたりはいる。

 ここで、自分は独りであると赤嶺はようやく気づいた。

 歯の隙間から嗚咽を漏らし、両手の中に顔を埋め、止められない雫を流し続けた。

 知らない時代に放り出され。刺客に恐怖を植え付けられ。もう二度と征矢が現れることはないが、長い時間をかけないと、この心の傷は癒えないだろう。

 でも一人では。独りでは……。

 

「怖いよ……助けて、レンち、シズ先輩……」

 

 救いを求めるか細い声が過去に届くはずもなく。ただ冷たい夜風に晒され、霞み、消えていくだけだった。




征矢、討伐
鏑矢、孤立

それではまた次回!


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前回のあらすじ
PTSDほどではありませんが、赤嶺チャンは心に傷を負いました

なんか知らんけど今回は文量多いけど許してネ!


 ――まだ、時は来ていない。

 

 無言で座禅を組み、完全に無の境地に至ろうとしている男は静かに自身に言い聞かせる。

 ここは大赦本部の、神官専用のとある修練所。同じような白い装束を纏う神官たちが、男と同じような姿勢で瞑想している。

 神官は巫女のように神樹様から神託を授かることはできない。

 世界を変えるのは大人ではない。子供だ。

 では神官の存在意義は?

 子供さえいれば、神樹様との交流を任せきりにし、他の業務……子供にはできないことを代行するような仕組みにすればいいはず。

 しかしそれはもう、神官ではなくただの役人だ。

 

 ――まだ、時は来ていない。

 

 より深く。より高く。

 男の精神は沈んでいく。

 大赦という組織は、尊く、犯し難いものでなければならない。つけ入る隙を見せてはならない。神聖でなければならない。

 だからそれらを永遠に証明、維持するにはどうすればいいか。

 答えは簡単。神樹様への信仰を強く持つことだ。

 この世界はもはや信仰なくして生きるに能わずというレベルにまでなっている。それは小学生……いやもっと前、幼稚園児にも擦りつけられていることだ。毎日部屋の神棚に祀ったレプリカを神樹様と見立てて拝をしたり、神樹様の素晴らしさを説いたりと徹底した教育が施される。

 だがそれは一般人に向けてのものであり、神官たち大赦に勤める人間は違う。

 さらに高い次元……神樹様と共にあろうとする強い意志が重視される。

 そうすることによって、大赦としての在り方がより強固になってゆく。三百年も継続しているからこれは断言できる。

 大昔の江戸時代、徳川幕府は二百六十五年続いたという。それと比べるとやはり大赦の運営は間違ってはいないのだろう。

 そう、間違ってはいない。

 ……しかしそれは、何を判断基準にしたものだろう。

 ぷつぷつと男の肌から汗が噴き出し、身体からじわじわと熱気が放たれる。修練所の温度が上がり、異変に気づいた周囲の神官たちがぎょっとして男を見る。

 だが男はその視線に気づかない。

 微動だにせず座禅を組む姿は毅然としていて、呼吸音は静かなはずなのに、やけに響く。

 大赦の体制はほぼ完璧と言っていい。

 これからも四国は大赦を中心とした運営が為されるだろう。

 不変の日常が、これからも永遠に続く。

 人は神樹様の庇護化で生き続ける。

 だから。

 

 ――まだ、時は来ていない。

 

 ようやく男の瞑想が終わる。

 ゆっくりと精神を身体に浮上させる。いつの間にか修練所はむさ苦しいほど熱気に包まれていて、ゆっくり四方を見れば、自分以外誰もいないことに気づく。

 脚をほぐしながらその場から立ち上がり、修練所を立ち去る。体型は痩せ型だからか、鍛え抜かれた筋肉は装束の下に隠れている。

 男は神官としての地位が特別高いわけではない。与えられたふたつの御役目は、おいそれとは口にできない。つまり極秘だ。

 それに片方の御役目は、つい先日から始まったものだ。

 他の神官たちに混じって埃一つない廊下を歩き、男は自身の個室に入る。広さは与えられたものにしてはやけに広く、幅、奥行きともに十メートルほどある。

 左手には大きく口を開ける溶鉱炉。そこからレールが敷かれて作業台へと続いている。右手には、整然と武具が壁に並べられている。

 まだ滾る熱を放出するために仮面を取り、装束を脱いでいつもの作業着を着込む。

 耐熱仕様の黒い羽織を上半身に斜めにかけ、右半身は裸体を晒す。ようやく覗かせた筋肉はただ隆起しているだけでなく、分厚い。

 本来ならばこの羽織をこのように半端に着込んだりするものではなく、耐熱仕様というオプション通り、熱を防ぐものである。

 身体に弾け飛ぶ火花程度、熱くはない。それどころか、その火花の加減でどの程度の手応えなのかがわかるまである。

 男は神官であり、鍛治師でもある。

 これがひとつめの御役目。

 とはいっても、何かを生み出したりするより、すでにあるものを修繕、もしくは改良したりすることに特化している。

 男にこの羽織なんて本当は必要ない。全身を駆動させて打つだけではなく、全身で武具の出来を感じるのだ。

 実のところ、武具を管理するだけでいい。そういう御役目だ。だから、別に鍛治師にならなくても良かったのである。

 羽織の懐からくしゃくしゃに丸められたメモ書きを取り出し、内容を確認する。

 

「……動き出したか」

 

 そう呟くと、男は部屋のさらに奥、ロックのかけられたドアの前に立つ。これを開ける権限を持つ人間は片手で数えられるほどしかいない。

 特別な鍵を鍵穴に差し込み、右に回す。

 カチッ、と微かな音と共に、何重にもかけられたロックが高速で解除されてゆく。

 ドアを開け、薄暗い部屋へと足を踏み入れる。

 すると、それに反応して足元の両脇から弱い光が手前から奥に向かって点灯する。

 ロックはまだ解除されている途中だ。二十メートルほど前方に、行く手を防ぐように、人の太さくらいの柱が幾本も屹立している。それらはすべて精霊の力を応用したもので、白いオーラを纏っている。

 それらが滝のように上から失せてゆく。次に祝詞が赤くびっしりと刻まれた柱たちが臼を回すのに似た重々しい音を鳴らし、ゆっくりと地中へと沈んでいく。

 そこまで厳重に守られていたものがようやく姿を表す。

 ……鎮座するは、七つの白いモノリス。

 右に四つ、左に三つとグループ分けされている。

 それぞれの前には武具が浮遊していて、その眺めに男はつい感嘆を漏らす。

 右には生太刀、旋刃盤、手甲、クロスボウが保管され。

 左には弓と戦斧、槍が保管されている。

 これらの武具はすべて、男が手入れしたものだ。どれも国宝級……いやそれ以上、人類の宝。これ以上にない名誉と責任が男にはある。

 コツ、コツ、と足音を鳴らし、男はそのうちの一つの前に立つ。

 

 ――赤い手甲。

 

 それにゆっくり手を伸ばし、触れる。

 すると浮遊力を失ったそれはすっぽりと手の中に収まった。

 サイズは非常に小さい。男のゴツゴツした拳にはとても入らないだろう。

 だがそんなことは関係ない。

 なぜなら、男がこれらの武具を使用することはないからだ。あくまで使用者のために、最高の状態を維持させることが、男の御役目だ。

 そのためだけに鍛治師の称号を得た。

 

 ――まだ、時は来ていない。

 

「でも、備えることはできる」

 

 踵を返し、歩を進める。

 男には『時』を呼ぶ力はない。

 だから待つことしかできない。そもそも、『時』が来るかどうかすら怪しい。

 だが待つ。

 待ち、備えることしか男にはできない。

 再び柱がせり上がり、重力に抵抗する水のように薄っすらとオーラがかかり、厳重にロックがかけられる。灯りは消され、完全な暗闇と静寂に包まれる。御役目を全うした武具たちはもう一度眠りにつく。

 そうして、男は保管所を後にした。

 

 ◆

 

「鏑矢計画は第二世代で頓挫、棄却されました。以降二百年以上……現在に至るまで、鏑矢は存在しません」

 

「――――え?」

 

 今、とても大切なことをさらっと言われた気がした。

 続けて説明を続けようとする神官に待ったをかけ、数秒だけ呆けた園子は急いで言葉の意味を咀嚼する。

 

「それって、どういうこと? 第二世代で頓挫って、何があったの?」

 

「わかりません。なにせ大昔の話ですので。それについての記録はすでに抹消されており、知る者は誰ひとりいません」

 

 抹消とはあまりに不穏な言葉遣いだ。

 大赦の情報統制は、バーテックスという存在を消せるほど徹底されている。一般人に恐怖を与えないための必要な手段であることは理解できるが、それを本当に実現させたということに大きな意味がある。

 つまりその気になれば、大赦は歴史を捏造することが可能なのだ。

 だから、記録がないということは、そうしなければならない理由が確実にあったことを意味する。

 

「……そう。赤嶺ゆーゆは第二世代なの?」

 

 神官はかぶりを振る。

 

「いいえ、第一世代です」

 

「仲間は『レンち』と『シズ先輩』のふたりだけ?」

 

「本名は明かせませんが、それで正しいです」

 

 すんなりと情報を開示する神官。

 いくら園子にも容易には開示されない情報もあるはずだろうが、この辺りはまだ大丈夫なようだ。

 それに一度、園子はこの神官に嘘をつかれている。世界を守るため仕方ないとはいえ、そのせいで満開を繰り返し、散華を繰り返し、芋虫生活を余儀なくされた。

 いまさらそれを責めるつもりはない。

 だが、もう一度嘘をつこうものならどうなるか、神官はよくわかっているはずだ。

 これから園子は失われた時間を取り戻す権利がある。しかしそのために退けなければならない障害にどう対処すればいいかわからない。

 

「鏑矢を止める方法は?」

 

「ありません」

 

「赤嶺ゆーゆを殺す以外の方法は?」

 

「ありません」

 

「…………」

 

 八方塞がりだ。

 殺せば間違いなく友奈の危険は去る。それは頭では理解している。

 でも人殺しなんて、絶対にできない。

 友奈の言っていた通り、根っからの悪人ではないのは素振りからなんとなく見て取れる。もしかするとそれは演技なのかもしれない。

 友奈の信頼は無意味なのかもしれない。

 でも、『友奈』だから。

 そんなとってつけたような希薄な理由だけで、様々な葛藤をしている自分に園子は気づいている。

 

「私は、ゆーゆを守れるのかな?」

 

「それについての返事は、差し控えさせていただきます」

 

 あくまで自分でなんとかしろということか。

 一応、訊きたいことは訊けた。

 ゲットした情報も悪くない。

 赤嶺にとっては未来のものが含まれるため、慎重に扱わければならないものもある。

 

「……わかりました。ありがとうございました。今日はこれでお邪魔します」

 

 完全に冷めたお茶を喉奥に流し込んだ園子は椅子から立ち上がり、神官に深々と頭を下げた。

 神官はこちらに向き直り、そんな園子を無言で見据える。

 その様子はドラクエで言えば、動く石像。

 園子が部屋に入ってから、神官は身体の向きを変える以外、一切の身じろぎも、所作もなかった。

 

「……乃木園子様」

 

 悲しいが、恐らく向こうから話しかけてくることはないだろう、と思いながら部屋を出ようとした瞬間、園子の背中に声がかけられた。

 驚き反面、嬉しさが胸中にじんわりと広がる。

 振り向いた園子は努めて冷静に返事をする。

 

「なにかな?」

 

 過去にいくら仲が良かったとしても、今は勇者と神官。その立場は弁えなければならない。

 だがそのように最初に距離をとったのは神官の方からだ。

 

「…………」

 

 ここで初めて神官が僅かに身動ぎする。

 腕の裾が少し揺れるだけだったが、園子にはそれだけで十分嬉しかった。

 またあの頃に戻れたような気がして、つい口元が綻ぶ。

 それを見た神官はまたもやたっぷりと沈黙を含ませた後、

 

「……どうか、お仲間を大切になさってください」

 

 とだけ、無機質であったものの、明確に感情を込めてそう言った。

 神官は酷く後悔しているかもしれない。あの時、まだ小学生だった園子と当時の東郷に、満開の代償を予めきちんと話しておけば。

 未来は……歴史は変わったかもしれない。

 でも、これでいい。

 今更どれだけ過去を悔いたとしても、時は無慈悲に刻み続ける。未来はあっという間に訪れ、そのまた先の未来がすぐにやって来る。

 だから、前を向くのだ。後ろばかりではなく、前を。そうしなければ、人は進めない。いつまでも過去に執着するのは、たぶん、違うから。

 園子は笑顔で答えた。

 

「うん、ありがとう!」

 

 ひらひらと手を振り、今度こそ園子は部屋を出た。

 あれだけ長い時間、話をしたのはとても久しぶりだ。

 本部を出て、門をくぐり、すぐ側で待機していた乃木家の車に乗り込む。

 帰って、情報をまとめよう。

 園子は顎に手を当てて思案に潜り込む。

 鏑矢は赤嶺友奈一人だけ。

 現代には鏑矢はいないため、これからは赤嶺の動向にのみ注意を払えばいい。

 有効打になるものはまだないが、覚醒したばかりの友奈に負けたことから、力で抑え込むことは可能。

 しかし相手は対人特化。対バーテックスの勇者とは違って、相性が悪い。

 ……と、ここでふと新たな疑問が浮かび上がった。

 あの場で思いつき、訊けばよかったと後悔しつつも、ぽつりと口にする。

 

「――あれ? じゃあ、今、鏑矢の代わりをしているのって……何だろ」

 

 ◆

 

 分厚いコートを着込む友奈は、自分の右腕を執拗に擦りながらぼんやりと考える。

 自身の身に起こっているふたつの異常。これらをなるべく隠し通りたい。

 ……いや、隠し通さなければならない。

 余計な心配事は増やしたくない。

 もし病院に行っても、大赦と繋がっているから、流れるように園子の耳に届くだろう。

 ようやく勇者としての御役目は完全に終わり、今度こそはというところにふたりの友奈が過去からやって来て、勇者部を掻き回している。

 良い意味でも、悪い意味でも。

 この果てにどんな結末を迎えるかなんて、友奈にわかるはずもない。

 もどかしさと不安に押し潰されそうで、グッとギプスを握る手に力が入る。

 友奈は優しいから。誰にも嫌な思いなんてしてほしくない。

 だから、口を閉ざすのだ。

 

「友奈ちゃん?」

 

「ん? なに東郷さん?」

 

 ゆっくりと顔を持ち上げた友奈を、東郷は心配そうにこちらを見つめていた。

 

「さっきの話、聞いてた?」

 

 ……まるっきり聞いてなかった。

 ぼんやりしすぎるのは良くないな、と思いつつバツの悪い顔で口を開く。

 

「ごめんごめん、クリスマスツリーを見てたからあんまりちゃんと聞いてなかったよ〜」

 

 完成したクリスマスツリーは見事なもので、恐らく風が手を伸ばしてジャンプしてもてっぺんには届かないだろう。

 飾り付けも非常にバランスがよく、偏りがない。あまりの出来に、あとで写真を撮ってスマホのホーム画面にしようかと思いつく。

 

「私の家の電灯のことよ。昨日急に切れてとても困ったの」

 

「そりゃ災難ね。私のとこなんかエアコンが壊れてさ。寒いってのに、ほんとツイてないわ」

 

 そう言って肩をすくめた夏凛は、「ま、完成型勇者だから問題なかったけどね!」と付け加えてすでに我が物となった椅子に腰掛けて足を組む。

 その素振りの堂々たるや、勇者部の古参だ。

 

「東郷はともかく、夏凛はまあ大丈夫でしょ。夏凛だし」

 

 何やら含みのある言い方で風が夏凛をどやす。

 

「はん! 当たり前よ!」

 

「じゃあ寒中水泳とかも余裕そうね」

 

「よ、余裕よ!」

 

 顔が引きつってるから恐ろしく説得力がない。

 今の一幕を録画して改めて見せつければほぼ間違いなく顔をトマトのように赤くするだろう。

 

「あ、そういえば不幸の話といえば、私達もあるわよね、樹ぃ?」

 

 風に言われ、弾かれたように顔を上げた樹はぶんぶんと音が鳴るほど力強く頭を振った。

 

「お姉ちゃん言わないで! それは恥ずかしいからっ!」

 

 若干涙目で口を塞ごうとする樹だが、それを面白おかしく受け止めながら風は楽しそうに言った。

 

「流れ的に言っちゃおっと。昨日ね? 高嶋と三人で高嶋の教材を買いに行ったのよ。んで、帰ってきたら樹に預けてた鍵を失くしちゃっててさ。家の前で私達凍え死ぬところだったわ」

 

「うわあああああ……!」

 

 恥ずかしい話を暴露された樹はついに爆発し、ぽかぽかと姉の胸を叩き始めた。

 皆不運だねー、なんて話のネタにして楽しんでいるが、友奈はそんな真っ直ぐに聞き入ることができなかった。

 こんな偶然が、それも四人に同時に起こるなんてことがあるのだろうか。いや、ない。

 原因はどう考えてもあの現象だ。

 皆の胸に浮かび上がった、あの歪な紋様。

 強い喉の渇きに襲われる。

 ガサガサとひび割れた気道を、タワシでゴシゴシと擦られる嫌な感覚。崩れた一部が胸に支えて、苦しい。

 あんなことを言わなければよかったのだ。

 ずっとひた隠しにしていれば、皆は毎日を幸せに生きていられる。

 自罰的な友奈は己を強く責めた。

 あの時の無知な自分の肩を掴んで引き止めたいと切望する。

 

「そうそう、友奈。あんたの牛鬼、返しとくわね」

 

「へ? ああ、はい。ありがとうございます」

 

 いつの間にかクリスマスツリーのてっぺんの星をガジガジと噛んでいた牛鬼を風が三脚を使ってそっと腕に寄せて降り、友奈に手渡した。

 

「思うんだけど、なんで牛鬼は高嶋のとこに行くのかしらね。特に知り合いでもないはずなのに。友奈は何か知ってる?」

 

 友奈の左腕にすっぽり収まった牛鬼を、鑑定士のように凝視しながら風が尋ねる。

 

「いやーわからないです……。たぶん、高嶋ちゃんと私が似てるからじゃないですか?」

 

「……まあきっとそうね。案外精霊もアンポンタンなとこあるのね」

 

 その言葉に、牛鬼はさっまでのナマケモノにも劣らない気怠さを滲ませていたが一転、凄まじい速度で風の頭に飛びついた。

 聞き捨てならなかったのだろう、牛鬼は咀嚼するべしと大口を開けて食らいつく。

 

「うわぁっ⁉ ちょ! ちょっと! 離れなさいよ!! 悪かった! 私が悪かったからぁっ!!」

 

 しがみついた牛鬼を引き剥がそうとして暴れる風。しかし不注意故に足の小指を机の脚にぶつけてしまい、梅干しよりも皺を深くしながらその場に無様に尻餅をつく。

 その様子が夏凛には大受けしたようで、腹を抱えて目尻に涙を滲ませながら指を指す。

 

「ぷふっ! あははははは!! あー最高! まだ早いけど、これが初笑いでいいわ!」

 

 満足したらしい牛鬼はのろのろと小さな羽を羽ばたかせて風の頭から離れ、友奈の肩に留まった。

 

「か〜り〜ん〜」

 

 ゆらりと立ち上がった風は『にっこり』と笑みを浮かべながら目尻を拭う夏凛ににじり寄る。

 

「ちょ、な、なによ……」

 

 不穏な気配につい反射的に身構える。

 その判断は正しかった。

 心なしか、視線は夏凛のかばんに向いている。そこから仄かに香る、ある食材に狙いを定めてロックオン。

 

「笑ったな? あんたの煮干しを全部食べてやるー!」

 

「はああああああ⁉」

 

『煮干≒命』を貫く夏凛にとって、風の発言は命に関わる大事件だ。

 電撃の如きスピードでかばんに手を伸ばして胸元に手繰り寄せる。それを引ったくろうとする風とでもみくちゃになっているところを、樹はため息混じりの息を吐く。

 

「お姉ちゃん、もう中三なんだから……」

 

 賢妹は黙って見届けることに決めたようだ。

 

「そうですよ風先輩、煮干しを食べたところできっと、家に山ほどあるでしょうし」

 

 少し内容が違う東郷の指摘が飛ぶ。

 と、ここでドアをスライドさせて遅れながら園子が部室に入ってきた。

 白いふわふわしたコートに身を包み、より一層園子の雲のような印象を強くする。

 

「園子、参上だぜ〜!」

 

 そう朗らかに挨拶して振る右手には、なぜか包帯が巻かれている。

 

「園子さんも……! その手どうしたんですか……⁉」

 

 慌てて駆け寄った樹が心配そうな声で言った。

 大きな怪我ではないが、東郷、夏凛、犬吠埼姉妹と続くと自然と予感はしていた。

 

「んん? ああこれは今朝ポットで火傷しちゃって……えへへ。でも大丈夫だよいっつん。こうすれば……」

 

 患部を隠すように、持参していた枕兼サンチョの口に突っ込む。

 

「ほら、これで完璧〜。観測されなければ、それはないようなもの。つまり、シュレディンガーの猫なんだぜ〜」

 

 難しい言葉を引っ張り出した園子は、意気揚々といつも通りの明るさで振る舞ってみせる。

 ……胸が痛い。

 友奈は無意識に視線を胸元に落としていた。身体を灼かれるような痛みではなく、もっと深く、痛いもの……精神的な激痛が走る。

 ほぼ確定だ。

 あのことを伝えようとしたことが間違いだったのだ。

 申し訳なさが、友奈をその場からどこか遠くへ行ってしまいたいという悪い願いを助長させる。

 

「友奈ちゃんは何もなかった?」

 

 今度は聞き逃さなかった。

 また同じ繰り返しをしたら怪しまれるかもしれない。

 チクチクと絶え間なく刺激する針の痛みを押し殺しながら、掠れ声で答える。

 

「う、うん。何もなかったよ」

 

「良かった。友奈ちゃんまで何かあったら、いよいよ神社でお祓いでも考えないといけなくなるわ」

 

 本当は事態は東郷が思っているより大事……だなんて、口が裂けても言えない。

 

「そうだね……っ」

 

 差し障りのない曖昧な返事をして頑張って作り笑いを顔に貼り付ける。

 色彩が失せ、皆の胸元に赤い紋様が浮き上がる時の怖さはまだ肌に染み付いている。

 だが、これではいけないというのもよく理解している。このままではいけない。取り返しのつかないことになるかもしれない、と。

 勇者部は、もちつもたれつな関係でありたい。

 誰かの悩み、苦しみは皆で解決する。

 風も、東郷も、そうやってぶつけ合って、分かりあった。

 膝の上に乗り移った牛鬼が、風の頭を囓った感触を思い出すように口をもみもみと波打たせている。

 そして友奈の視線に気づくと、ゆっくりと顔を垂直に傾けてこちらを見上げた。

 そのつぶらな瞳に意志らしきものは感じられないが、なんとなく心配されているような気がした。

 今日は心なしか、体調があまり良くない。

 室内でも常にコートを着込んでいるのも原因の一つだろうが、明らかにそれだけではない。

 自分でも気づかぬ間にぼんやりしてしまうことがある。視界が滲み、音が霞み、次第にそれが気持ちよくすらなり始めてしまうのだ。

 瞼を開きながら眠りに入ろうとしている、といったところが的確な表現だろうか。

 授業中なんて何度このようなことがあったことか。先生が時々チョークを黒板に力強く押し付ける音がなければ、友奈はずっと上の空だった。

 ……やっぱり、話すべきなのか?

 途端、恐怖がどっと溢れ出す。言った結果、どうなるかが怖い。

 でも、もしかしたら皆の不運は本当に偶然で、友奈の精神状態の不安定さがマイナス思考に偏らせようとしているだけかもしれない。

 友奈はきっと、難しく考え過ぎなのだ。

 勇者部五箇条、そのひとつ。

 悩んだら相談。

 この悩みを……苦しみを打ち開ければ、絶対に助けてくれる。

 それが、勇者部だから!

 

「風先輩!」

 

 今日初めて出た、張りのある声。

 少し自分でも驚く。

 

「ん? なに友奈?」

 

 ホワイトボードに今日の部活予定を書こうとペンを握る風がこちらを向く。

 一度、ごくりと喉を鳴らす。

 喉を通ろうとする言の葉を、半ば無理やり押し出してなんとか口から放つ。

 

「少し、お話があるのであとで時間いいですか?」

 

 これから部活が始まるから、話すのは終わってから。

 今日の部活動は、他の部活から友奈に届いた要請以外、特に何もすることがなかった。

 当然の如く要請は拒否させてもらい、事務作業をする東郷の隣に用事があるわけでもないが、車椅子を固定する。

 カタカタと東郷の靭やかな白い指がキーボードを叩く耳障りの良い音が、部室に静かに響く。

 モニターの角を噛む牛鬼を一定の周期で友奈が引き剥がす。

 

「東郷さんはすごいなぁ」

 

 ふと、そんな感嘆を漏らすと、東郷は柔らかい笑みを浮かべて友奈に向けた。

 

「そんなことないわ。友奈ちゃんだって、ちゃんと勉強すればこれくらいできるよ」

 

「ええ〜できるかな〜。……あれだよね、東郷さんって英語とかは嫌いだけど、そういうプログラム? とかはすごくできるんだね」

 

「うっ……ッ」

 

 どうやら痛いところをついてしまったようだ。

 勇者部のブログを更新しているようだが、以前友奈が借りたHTMLを使っているのようだ。しかし友奈の知らないタグをスラスラと打ち込んでいく姿は、まるでできるプログラマーっぽい。

 傍から見れば、英語を毛嫌いしている人間とはとても思えない。

 

「あ〜っと……」

 

 自分の失言を悔いてもすでに遅い。

 わなわなと狭い肩を震わせる東郷が、勢いよく立ち上がった。

 

「ああ、どうしてプログラムは全部英語なのかしら……! ここは日本! ならば、すべて日本語に統一されるべきよ……っ!」

 

 明らかに発作がでている。

 壊れたロボットのように激しく頭を振って取り乱す東郷を、友奈は「どうどう」と馬に言うセリフで宥める。やがて平穏を取り戻した東郷は普段通りのお淑やかな口調で平謝りする。

 

「ごめんなさい友奈ちゃん。私としたことが、つい感情が昂ぶってしまったわ」

 

「だ、大丈夫だよ。それに東郷さんがいないと、勇者部のデジタル分野は危ないからね。本当に感謝してるんだよ? こんなにいいデザインでホームページを作ってくれて、それに皆の写真も、ほら」

 

 友奈が指差したのは、ホームページのトップ画面。

 勇者部の全員がホワイトボードの前で並んだ写真。もちろん先日加入した園子もいる。六人ともとてもいい笑顔で、つい魅入ってしまう。

 アクセス数も申し分ないほどで、程よい量の依頼が学校の外から舞い込んできている。

 これのおかげで、勇者部は外部との繋がりを得ることができているのだ。

 その過程で街の皆と関わる中で、勇者としての自覚を強く持つことができた。だから、バーテックスたちとも戦えて、打ち勝てた。

 

「楽しい?」

 

 前髪を揺らした東郷に、不意にそう尋ねられる。

 難しいことを考える必要はない。皆が揃って、毎日バカをやっているが、そんなのでいいのだ。そんなので、十分に、楽しいのだ。

 あの痛みが、あの記憶が徐々に現実感を失っていく。

 ――あまり引きずり過ぎたら、駄目だよね。

 先程の急造の仮面ではない、心からの微笑みを意識して、ようやくなんとか完成させることができた。

 それを、東郷に向けた。

 

「うん、楽しいよ」

 

 すると東郷はどこか安心したような顔で、ゆっくりと腕を友奈の頭に回した。

 

「ぁ」

 

 ちょっとした驚き混じりの声も、東郷の腕の中に隠れる。

 そのまま抱き寄せられ、友奈はされるがままに東郷の柔らかい胸元に頭を擦り寄せた。

 人の……暖かい心臓の鼓動がとくん、とくんと顔全体で感じる。その音はキーボードを叩く音なんかよりも遥かに落ち着く。

 

「たくさんたくさん傷ついたけど。もう、傷つかなくていいからね。私が……私たちが友奈ちゃんを、絶対に守るからね」

 

 そんな無知の言葉が、友奈の心にぐさりと深く突き刺さる。

 でも、余計な心配はかけたくない……。

 ……いや、いいや。

 今、東郷が言ったではないか。

 助けてくれると。その言葉を、友奈は信じるべきなのだ。

 悪いことを……考えていた。

 友奈は仲間を信じようと……頼ることを極度に恐れていた。

 風が帰ってきたら、ちゃんと話そう。

 すごく心配されるし、迷惑もかける。

 それでも、友奈は仲間を信じ、頼る。

 そう、決めた。

 

「ただいま〜! っと、oh……」

 

 その部長様はちょうど帰ってきた頃だった。元気いっぱいドアを開けて入ってくるや否や、完全に己の最高とも最悪ともとれるタイミングに、風はその場で数秒だけ呆けてしまう。

 

「ほほーう、お熱いですなぁ〜」

 

「ふ、風先輩っ⁉」

 

 東郷が慌てふためきながら、咄嗟に友奈を解放する。

 ゆっくりと頭を持ち上げた友奈は、状況を理解すると、みるみる顔が赤くする。今の東郷との一幕はイチャイチャに属するものだときちんと理解できているようだ。それを発見されてしまうのは、やはり恥ずかしい。

 

「いいのよいいのよ。あんたたちのことだからだいたいわかるし。誰にも言わないから」

 

 そう言いながらやれやれと肩をすくめて中に入ってきた風は、ホワイトボードに書かれた予定を消す。

 

「すぐに樹も帰ってくるわ。夏凛はもうちょいかかると思う。東郷、皆が帰ってきたら勝手に終わっといてくれる?」

 

「わかりました。あの……風先輩は?」

 

「ちょっと友奈とお話よん。恋人借りてくわ〜」

 

 けらけら笑いながら風は友奈の車椅子の後ろに回る。

「押してあげるわ」と言われ、友奈は「ありがとうございます」と速やかに車椅子を固定モードから手動モードに切り替える。

 グリップを握り、東郷の隣から引き離される。東郷が少し寂しげな色を浮かべたような気がして、友奈はすかさず口を開いた。

 

「また明日ね!」

 

 別れの言葉は効果てきめんだったようだ。

 一気に晴れた顔になって、東郷もこちらに手を振ってくれた。

 そして、風に連れられ、部室を後にした。

 恐らく風に車椅子を押してもらうのは、これが初めてだ。

 

「ごめん友奈。私の押し方、大丈夫? 揺れとかさ」

 

「全然大丈夫ですよ! すっごく丁寧に押してるの、わかりますよ!」

 

 速度はゆっくりだ。さらに、やや緊張しているのか、グリップ越しに手の震えが背中に伝わる。

 それだけで、友奈への気遣いがよく伝わってくる。そういった優しさはお姉ちゃん気質というか、なんというか。

 とにかく、大切にされているというのはとても嬉しかった。

 廊下を抜けて、校舎裏に出る。

 肌寒さは言うまでもなく、赤い夕焼けは、それをかき消すほど煌々と光を放っている。

 赤いハイライトを背に、風は友奈の前に回り込んだ。

 

「んで? 話ってなに? 悩み事?」

 

「えっと……」

 

 喉が詰まる。ぐっと胸に左手を押し当て、言おうとずっと考えていたセリフを絞りだそうともがく。

 が、いざ本番となると、すんなり言葉が出てこない。

 

「まさか……恋愛相談? いや、それはないか。東郷が怒るし。そもそもあんたたちデキてるし」

 

「い、いやそんなことは……」

 

「え〜ホントでござるか〜?」

 

 面白そうに友奈を弄った風は、腕を組みながら身体を振ると、目許を緩めた。

 

「そんなことより、何。言ってみ」

 

 とても頼もしい言葉が、潤滑油となった。

 するりと喉を通り、苦しみを……悩みを打ち明ける。

 

「実はあの日……スマホを返してもらった日……東郷さんを助けたから、実は、その私が天……!」

 

 それ以上先は、どれだけ勇気があっても、できなかった。

 またしても奇怪な現象がやって来る。

 色が失せ、何もかもが失せ、風の胸に『あれ』が見えた瞬間、友奈は完全に悟った。

 これは、呪詛だ。

 言ってはならない呪いの言葉。

 凝視する必要なんてない。

 そんなことをするまでもなく、風の胸に浮かび上がるあの紋様は、巨大だった。昨日の勇者部全員のものとは比較にならないものだ。

 言い……過ぎた、のか……!

 目を見開く。

 すでに紋様は消え失せている。それは風に呪いが浸透してしまったことを意味していて、友奈は大きく顔を歪めた。

 

「ん?」

 

 風が不思議そうに友奈の顔を覗き込む。

 勇気は急激に萎み、朽ちた。

 みるみる顔が青ざめていく友奈は、懸命に続きを誤魔化そうと言葉を探る。

 

「天……天気を調べて、晴れていればお外でクリスマスパーティーがやりたいなーって……! 園ちゃんも入部したから歓迎会っていうのも含めて……!」

 

「あーなるほどね〜」

 

 納得顔でうむと風が頷く。

 なんとか誤魔化すことには成功したようだ。

 

「んじゃあさ、ちょうどクリスマスの日に樹のショーがあるから、その後ってのはどうよ。乃木にも協力してもらって、どでかく盛り上げるのもアリかもねー」

 

 こんぐらいでっかいクリスマスケーキを! と風が両腕を限界まで広げて主張する。ついつい食べられないですよー! とツッコみたくなったが、風の胃袋は四次元ポケット並みだ。もしかしたらもしかするかもしれない。

 話題を反らすことには成功したようだ。あれこれ構想を出し合っていると、すでに三十分ほど経っていた。さすがにこれ以上外にいると風邪を引きかねないし、風があとで皆に提起するということで一旦落ち着いた。

 

「それじゃ! 気をつけて帰るのよー!」

 

 そう言い残して風は背中を向けて颯爽と校舎の中へ帰っていった。

 その背中を見届けながら、友奈は何度も心の中でごめんなさいと呟く。

 この車椅子は電動だから一人で帰ることは問題ない。だから、今日は一人で良かった。

 もし誰かと一緒だったら、泣いてしまいそうだったから。

 手動モードから電動モードに切り替えると、低いモーター音が唸り始める。友奈は正直、この音はあまり好きではない。

 ……ふと気づけば牛鬼がいない。スマホの中に閉じこもったのだろうか。最近は常に姿を現しているから、不意にいなくなるのはなんだか慣れない。

 水気を失った枯れ葉が、友奈の頬を掠めて飛んでいった。痛みはなかったが、鋭い冷たさが素早く全身に広がった。

 この冷たさは、友奈の罪に比べれば何ほどのこともない。

 そう、ひたすら自分を責めながら、友奈はレバーを押し倒した。

 

 ◆

 

 ああは言ったものの、何から何まで園子に頼るわけにはいかない。

 友奈の言う通り、園子の歓迎会も含めてなのだから、当人に用意をさせるのは気が引ける。

 スーパーの帰り、前かごにどっさりと食材を詰め込んだ風は自転車を押しながらどう計画するかを思案する。

 カラカラと自転車の車輪が回転する音がとてもリズミカルで、そのリズムに合わせて樹が口ずさみ始める。

 

「良いよ樹ちゃん! とっても綺麗な声だよっ!」

 

 風の後ろで樹の自転車を押す高嶋が、熱血顧問くらいの興奮で樹を褒める。

 

「いい調子ね。でも寒いからあまりやらないほうがいいわよー。樹のイベント、楽しみにしてるんだからコンディションは最高にしといてもらわないとね」

 

「もー私のじゃないよ〜。……でも、うん。ありがと」

 

 橋を渡ったところで、風は話題を切り出した。

 

「そうそう、樹のショーが終わったらそのままクリスマスパーティーがしたいんだけど、どうかしら。高嶋も」

 

「それはいいですね! でも……いいんですか、風さん? 私、勇者部員じゃないですけど」

 

 高嶋と勇者部との交流は、はっきり言ってあまりない。犬吠埼姉妹とは仲良くなれたが、東郷と夏凛の人柄は正直なところ、掴めていない。

 友奈とはある程度は話ができる。

 風は後ろを振り向くと、「なーに言ってんの!」と陽気に前置きして、

 

「勇者部じゃないと参加できないって誰が言ったのよ。それに、部長の私が言ってんのよ? それ以上の理由なんて必要ないわ」

 

  「――――」

 

 高嶋の世界は、この時代に来てからというもの、犬吠埼家の家だけという小さなものだった。そこから広がりを得られるのは、大きなチャンスだ。

 すでに形成された勇者部というグループに混じれるかという少し不安な気持ちは否定できないが、きっと大丈夫だろう。

 

「じゃあ……参加させてもらおうかな」

 

「よし! そうと来たらさっそく、皆にイベント告知よー! ますます当日が楽しみになってわ〜!」

 

 ちょんちょん、と肩を突かれて高嶋は横に顔を振った。

 すると、樹が絶妙な苦笑いを浮かべていた。

 

「ん? どうしたの樹ちゃん?」

 

「たぶんお姉ちゃん、クリスマスパーティーという建前でいっぱい食べるつもりなんですよ。それにきっと、年末年始も食べるから、地獄絵図が今からでも想像できるなーって」

 

「なるほど。じゃあダイエットメニューを今から考えなきゃだね」

 

「そうなんですよ。手伝ってくれます?」

 

「もちろんだよ!」

 

 風に聞こえないくらいの声量で同盟を交わすふたり。

 風の異次元の胃袋は同棲しているからよく理解している。食いしんぼにとってはビッグイベントであることは間違いない。

 そして賢妹の慧眼はすでに姉の未来を見ているという。

 なんという完成された姉妹だ。

 アパートがそろそろ見えてくる。

 歩行者信号が青になり、風が左右をしっかり確認してから自転車を押し始める。

 

「今日は温かいスープとかにしようか。最近うどんばっかで流石の高嶋も胃が疲れてるんじゃない?」

 

「告白すると、そうですね……嫌ではないんですけど、口が寂しくなるっていうか……」

 

「それじゃそうしましょっか。樹もそれでいいわよね?」

 

「うん、お姉ちゃんの料理なら何でも良いよ」

 

「樹……樹いいぃぃぃ!!」

 

 後ろ姿だから本当に泣いてるのかわからないが、とても感極まっていることは間違いなさそうだ。

 高嶋と樹が苦笑いをする。

 その時。

 車道を猛スピードで疾走する一台の車が曲がり角から現れた。そのままスピードを落とすことなく交差点に入り込んでくる。

 夕焼けの陽にも負けないほど赤い大型車両が、赤信号に遅れて気づき、耳障りなスキール音が鳴らして歩道に突っ込む。

 その先には、泣き真似をする風。

 音に反応してぱっと顔を傾けるが、すでに車は目と鼻の先だった。

 風の瞳孔が極限まで開かれる。

 すると、風の端末から犬神が現れた。

 風の前に立ちふさがるように前に飛び出し、精霊バリアを張る。

 しかし、それでも車の勢いを殺すことは叶わず……もしくは呆気なくバリアが破砕音とともに壊れた。

 その異常事態に、風は二重の意味で戦慄する。

 バーテックスの攻撃を防げるほどの強度を持つはずの精霊バリアが、こんなにも容易く突破されるなんて、おかしい。

 

 ――死。

 

 これが光の速さで脳裏をよぎった。

 こんな大きな鉄の塊が猛スピードで接触すれば、絶対に軽症では済まない。

 友奈の場合は時速三十キロメートルという法定速度が定められた道路だったから右半身麻痺で済んだ。

 だが、明らかにこの車はその倍は出ている。

 コンマ秒後に訪れる衝撃に備えて、風の身体が強張る。

 そして、ぎゅっと、瞼を強く下ろした。

 ……しかし、最悪の事態になることはなかった。

 風のスマホからさらにもう一体の精霊が現れる。

 二体目の精霊……鎌鼬だろうか?

 だがシルエットが違う。

 鎌鼬は翼なんて背中から生やしていない。

 現れたのは、牛鬼だ。風のスマホに潜んでいたのか。友奈と二人きりの時に乗り移ったのか?

 なんで⁉ という風の驚きは、牛鬼の展開した精霊バリアによって吹き飛ばされた。

 張られたのは犬神のものなんて比にならないほど強靭なバリア。一般的な、半透明なものとは違う、明らかに重みがあり、そこにあるという確かな実体を感じさせるほど存在感が圧倒的だった。

 二度目のバリアは、金属を容赦なくひしゃげ、車の頭を正面から押し潰すほど強かった。あれほどスピードを、完全に制動距離をゼロにして停止させた。

 

「――――っ」

 

 一拍遅れて、風は尻もちをついた。

 支えを失った自転車が横に倒れ、前カゴの中に入っていた卵パックの中身がほぼ割れてしまう。

 だが、そんなことはどうでもよかった。

 

「お姉ちゃん!!」

 

「風さん!!」

 

 ふたりが走り寄ってくる。

 樹に抱きしめられても、現実味を帯びない空虚な目で、眼前の車を見る。

 小刻みに身体を震わせ、ゆっくりと樹の背中に腕を回す。

 そして次に、風の両目に涙が溢れる。

 慎重に、慎重に樹の肩に顔を埋めたあと、恐怖を吐き出すために、ありったけの声量で泣き喚いた。

 その声に反応して、近くを通りかかった歩行人がぞろぞろ集まってくる。

 それでもただひたすらに風は泣き、妹に縋り続けた。

 役目を終えた牛鬼は風の無事を確認すると、どこかへ飛び去っていったのを高嶋は見た。

 急いで救急車にコールをかけながら、高嶋は上擦った嗚咽をぐっと押し殺す。

 

 ――犬吠埼風は、事故に遭わなかった。




もし牛鬼に助けられなかったら、結城チャンは言い過ぎたので風先輩は重症もしくは死亡していました
今回はふりかけのように伏線を散りばめましたが、果たして回収できるのか……

風は事故を回避した
ならば、樹のショーが待ってるぜ!
次はほのぼの回を(たぶん)お約束できるぜ!
不本意だけど! 不 本 意 だ け ど !

それではまた次回!


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愛の歌

今日でちょうどこのssを投稿し始めて半年が経ちましたー!
正直ここまで続くとは自分でも思わなかったけど、執筆も、挿絵も頑張るよ! だからもうしばらく付き合ってね(ドス黒いにっこり)

前回のあらすじ
風は牛鬼に守られ、祟りの被害を免れた


 後悔と自責に、友奈の心はきつく締め上げられる。

 食事は満足に喉を通らず、まるで鉛のようだった。

 目を閉じれば、風に打ち明けようとした情景が瞼の裏に嫌でも映り込んでくる。そこから逃げようとひたすら強く目を瞑り、数度頭を振る。

 やがて疲れ切ったのか、友奈は頭を抱えながら自分の机に突っ伏した。

 ……なかったことにしてしまいたい。なかったことにして、今日は皆といつも通り楽しく過ごした。そんな一日だったと捏造したい。

 不可能だとわかっていても、そう願わずにはいられなかった。

 意味もなく足の指に力を入れ、この虚しさを誤魔化そうとする。

 そしてふと、スマホから通知音が鳴った。

 まだスリープ状態になっていなかったところをひょいと手に取り、指をスワイプさせてトークアプリを開く。

 一風変わったUIが展開する。左上に円が広がり、その縁を沿うように送られてきたメッセージが流れてくる。

 通知は樹のものだ。

 

『今、高嶋さんと病院にいます。お姉ちゃんが車に轢かれそうになって、大事をとって』

 

 その報告は、友奈の心をかき乱すには十分すぎた。

 

「――――あ」

 

 視界がぐにゃりと滲む。

 過度に自罰的になっていた友奈には、車に轢かれたと書かれているように誤解してしまう。

 呼吸が恐ろしく浅くなる。

 右半身の以上を隠すために覆う毛布のせいで、身体が火照っていたはずなのに、唐突に身体が氷水に晒されたのでないかと錯覚するほど一気に体温が下がる。

 

「あ……あ、あ……」

 

 夏凛、東郷、園子と樹のメッセージが来ることを知っていたかのような恐るべき速さで病院に向かう旨の返事をする。

 しかし友奈はすぐに動けなかった。

 手が震えすぎて、文字が上手く打つことができなかったのだ。

 その間にも園子から友奈宛に個人でメッセージが送られてくる。

 

『もう車で出てるから迎えに行くよ。一緒にわっしーも拾う』

 

 頼もしい申し出に、友奈はゆっくりと深呼吸をする余裕が生まれた。

 まだ震えは治まらないが、なんとか文字は打てる。

 

『おねがい』

 

 とだけぎこちない指さばきで端的に返した後、もう一度樹のメッセージを読むことで、ようやく風が轢かれたわけではないと誤解が解ける。

 それだけで幾分か心が軽くなる。呼吸の温度も平常に戻り、それを確認するために時間をかけて深呼吸を繰り返す。

 少し、落ち着いた。

 でもやはり、原因は……自分にある。

 変な気を起こさなければ良かった。なんでも相談すればいいなんてことは世の中、通用しないのだ。

 毛布をベッドの上に乱雑に放り、ハンガーにかけていたコートに腕を通す。

 インターホンの音が遠く耳に聞こえた。

 窓の外を見なくても東郷だとわかる。

 行かないと。

 謝らないと。

 そんな焦燥感が友奈を突き動かす。

 両親に出かけることを伝え、リフォームされた階段の手すりに沿ったレールに車いすを接続して下の階に下りる。

 玄関を出ると、寒風に晒させる東郷が、素手に白い息を吹きかけながら待っていた。その顔は恐ろしいまでに白く、友奈は改めて事の重大性を認識する。

 

「友奈ちゃん!」

 

 喉が冷えたのか、吐き出された声は掠れている。

 

「東郷さん……園ちゃんが車を出してくれるって……」

 

 友奈の声もどうしてか、糸のように細い。

 すると東郷は友奈に歩み寄ってくる。車いすを押してくれるのかと思って電動から手動モードに切り替えた。

 しかし東郷が後ろに回り込むことはなく、正面に立つ。裾を指まで伸ばし、その羽毛の部分でそっと友奈の頬を包んだ。

 ふわふわした感触に、「ぁ」と声が漏れ、顔を上げる。

 

「東郷、さん……?」

 

「友奈ちゃん、酷い顔だよ……?」

 

「え……?」

 

 家を出る前に鏡で顔を確認するのを忘れていた。そういえば髪も整えていない。

 それほど酷い顔だったのだろうか。目覚めた日から異常が身体に起こり始め、そのせいで心が摩耗しているのかもしれない。

 だからといってそれを口にすることは、何があっても許されない。

 はねているところがあったのだろう、後ろに手をまわした東郷が手櫛をする。

 

「あ、ありがとう」

 

「気にすることないわ。それよりも本当に大丈夫? 風先輩は怪我はしてないようだし、別に無理して行く必要はないよ?」

 

「いや、それは――」

 

 ダメだ。

 それは逃げでしかない。

 風が轢かれかけたのは友奈の責任だ。

 これは罪だ。

 誰にも言えず、だからこそ誰にも断罪されない孤独の罪。

 

「それは、ダメ。絶対に行くの」

 

 寒さを溶かすほど熱を帯びた声に、東郷はややあったあと、静かに頷いた。

 そこにちょうど、ひときわ目立つ乃木家の車が法定速度ギリギリのスピードでふたりの前に現れた。助手席の窓が現れ、園子がぬっと顔を覗かせる。

 

「二人ともいるね? 乗った乗った!」

 

 有無を言わせない鋭い指示に、ふたりはすばやく乗り込む。車はきちんと友奈にも対応していて、速やかに後部座席に入った。

 病院まではあっという間で、到着するまで誰一人口を開くことはなく、沈黙が車内を支配した。

 大急ぎでエントランスに入ると、そこにはケロッと呑気に煮干しを啄む夏凛が、待合室の椅子に腰かけていた。その両隣には樹と高嶋も一緒だ。

 

「いっつん! ふーみん先輩は⁉」

 

 振り向いた三人ゆっくり立ち上がり、その内の夏凛が激しく動揺する園子を丁寧に宥めながら口を開いた。

 

「大丈夫よ。ピンピンしてる。笑って診察室に入ってったから問題ないわ。そろそろ出てくると思うけど……」

 

 風が入っていったらしい診察室のドアに首を伸ばすが、ちょうどタイミング良く風が出てくることはなかった。

 樹も高嶋も、そこまで深刻な表情を浮かべているわけでもない。本当に夏凛の言う通り、そう過剰に心配する必要はなさそうだ。

 とはいっても直接風に会わない限り完全に緊張を解くことはできない。三人は神妙な顔になる。

 

「……そういえば。友奈さんが牛鬼をお姉ちゃんに貸してたんですか?」

 

「え? 貸してた? いや逆だよ? 返してもらったはずだけど。ほら」

 

 スマホをタップして精霊を呼び出す。

 するといつも通り何を考えているかわからないのほほんとした顔の牛鬼が姿を見せた。パタパタと羽を動かし、友奈ではなく高嶋の頭の上に乗った。

 

「私? 結城ちゃんのほうだよ?」

 

 抱き上げて友奈の頭に乗せようとするが、どうやら今は高嶋のほうがいいようだ。数度引き離しても戻ってこようとするのだ。

 ついに諦めた高嶋は友奈と顔を見合わせ、同じタイミングで首を傾げる。

 

「うーん、やっぱり何回見ても、精霊が実体を持ってるのは驚きだよー。そうそう、牛鬼が風さんを助けたんだよ! すっごいバリアでずがーんって車を止めたの!」

 

 擬音混じりの解説だが、なんとなく言いたいことは伝わってくる。

 

「牛鬼が? ……ああでも確かに。ちょっとの間だけど私の手元にいなかったな……とにかく、牛鬼には感謝だね」

 

 猫にするように牛鬼の顎の裏を指で擦ると、満足そうにぐったりと高嶋の頭の上で手足を広げた。

 誰も口にはしないが、どうも最近、牛鬼がやたらと高嶋に肩入れしている気がする。

 牛鬼は友奈のものだ。

 言い方に少々語弊があるが、精霊というものは主人のために力を行使する存在でなければならないはずだ。

 それなのに、単独行動がやけに目立つ。それも高嶋に対してのみ。これはもう、先日風が言っていた、容姿が似ているから、だけではとても説明がつかないレベルだ。

 

「もちろん牛鬼には感謝ですけど……ありがとうございました、友奈さん?」

 

「え?」

 

 樹の唐突な感謝の言葉に、友奈の思考は一瞬にして引き上げられた。

 

「もし牛鬼がいなかったら、お姉ちゃんはひかれてました。だから、ありがとうございました」

 

 深々と頭を下げた樹に、友奈はすぐに「頭を上げてよ!」とか、「どうしたしまして」なんて言葉をかけることができなかった。

 そんなに感謝をされる必要なんてないのに。

 とてつもなく大きな罪悪感。

 原因は友奈にあるというのに、これではまるでマッチポンプだ。

 ようやく顔を上げた樹の目には薄っすらと涙が浮かんでいる。

 ……やめて。

 そんな目で私を見ないで。

 余計に苦しくなるから。

 でもそれを顔に出すわけにはいかないから、差し障りのない返事に留めておいた。

 そうしている内に診察室のドアが開き、中から風が姿を表した。

 夏凛の言った通り、自分で歩いているし、特に異常はなさそうだ。

 こちらに気づいた風は陽気に手を振った。

 

「皆いるのね。悪かったわ。大した怪我でもないのにわざわざ」

 

「お姉ちゃん! 本当に心配したんだから!」 

 

 駆け寄った樹に抱きつかれた風は、いつもなら感極まって泣くところだが、今回は違った。

 しっかりと抱擁を返し、ふたりが互いに納得するまで長い時間、確かめ合うように身体をくっつける。

 その姿が友奈には辛くて、まるで闇が光に灼かれる感覚だ。

 

「……うん、そうね。ホント、何事もなくて良かったわ。それもこれも牛鬼のおかげで、友奈のおかげでもあるわ」

 

 だから、それが苦しいというのに。

 何も知らない無垢な感謝こそが、友奈にとっては澄んだ毒でしかないのだ。

 

「入院とかの必要もないってさ。普通にこのまま帰って問題なし!」

 

 元気いっぱいな風の宣言に、勇者部の一同が安心する。

 ……皆の顔を直視することができない。

 自分の顔は果たして、ちゃんと仮面を被っていられるだろうか? 今だけは猛烈に大赦の仮面が欲しい。

 表情を隠してしまいたい。裏に溢れんばかりの『ごめんなさい』を隠したい。気を抜いてしまうと、すぐに剥がれてしまいそうだ。

 東郷の助言に従って、家で大人しく震えていれば良かったのかもしれない。

 だんだん友奈の目に映る光景が遠くへと引き伸ばされ、客観的に映像を眺めているような錯覚に陥る。

 何も。何も友奈の口から話せない。適当に話を合わせることしかできない。

 そうするだけではどうにもならないことなんてわかりきっているのに、この苦しさから一刻も早く逃れたいと強く願ってしまう。

 右腕に『生えた』枝木も、原因はまったく不明だ。祟りとは違ってトリガーが何かはまだわかっていない。このまま静かにしてくれればいいが、やはり根本的な解決にはならない。

 これについても、誰かに伝えようとすると怒り狂って侵食を進めるかもしれない。

 気づいてほしいけど気づいてほしくない。矛盾した懇願はいっそう友奈の心をゴリゴリと擦り減らす。

 風が樹の歌唱イベント後にクリスマスパーティーを開催すると言っていたが、その内容は友奈の耳から耳へ突き抜けるだけで、頭にはまるっきり入ってこなかった。

 

 ◆

 

 綿のように柔らかい雪がしんしんと降っている。

 ふと手を伸ばして――自力で手袋をすぐに外せないからそのままで――落ちてきた雪を乗せると、触れた感触がないのに冷たさが手袋を通して広がり、あっという間に水滴に溶けてしまう。

 友奈は顔を持ち上げて空を見上げ、次に眩い光を放つイルミネーションに彩られた通りを奥まで見据える。

 

「寒いね〜結城ちゃん!」

 

 そう言ったのは、マフラーを口許まで上げた高嶋だ。グリップを握り、友奈の車椅子を押してくれている。

 

「そうだね〜すごく寒くて凍えそうだよ〜。でもお腹にカイロ貼ってるから大丈夫!」

 

 そう言って友奈は自身の腹部を擦る。

 歩道をゆっくりと進む二人に、樹を除いた勇者部の全員が合流してきた。

 風の手には買い物袋が下げられている。どうやら目当ての品は購入できたようだ。

 満足そうな表情を浮かべて風が近づいてくると、高嶋が口を開いた。

 

「何買ったんですか?」

 

「樹へのクリスマスプレゼントよん。中身は〜んふふ〜私しか知らないのよね〜」

 

 少し気持ち悪いほどにやにやする顔で風が身をよじりながら大切そうに袋を胸に押し当てる。

 クリスマスプレゼントという英単語に口許をきつく締めて反応を示す東郷だが、ここはなんとか押し留まる。

 

「そういうあんたたちは何してたのよ?」

 

「散歩です! ねー結城ちゃん!」

 

 弾かれたように顔を上げた友奈は目尻を緩めて色とりどりの街を一望する。

 

「そうだね。すっごく綺麗なイルミネーションだもん、しっかり目に焼き付けなきゃ損だよ! 高嶋ちゃんの時代もこんな感じだったりするの?」

 

 記憶を掘り下げる高嶋は眉をハの字にして数秒考えたあと、元気よく答えた。

 

「ここまで豪華ではないかな〜。でも、毎年若葉ちゃんたちとクリスマスパーティーをしていたよ! 確かこの前は……そうそう、ぐんちゃんの部屋でゲーム大会したな〜」

 

 思い出に浸りながら語る高嶋に、友奈たちはやはり初代勇者とはいっても、何の変哲もない女子中学生であることを改めて実感させられた。

 西暦の末期は文字通り世紀末と表現に相応しい状況だったと聞き及ぶ。

 その中でも泥臭く生き残ろうとした当時の人間たち。彼らの先頭に立って命懸けで戦った伝説の少女のはずだが、どうしてか、そんな箔のついた評価からはまるで想像できない立ち振る舞いだ。

 それと同時に、遠い過去に置いてけぼりにしてしまった仲間たちを思い出したのだろう、高嶋はぼんやりと視線を無辺世界へ向ける。

 きっと、帰りたいと考えているのだろう。しかしその方法なんて、たかが中学生にわかるはずもない。

 たったひとつの手段、腕時計はどこかへ消えた赤嶺が持っている。

 どうにかして赤嶺ともう一度接触、そして懐柔して共に帰還する方法を探りたい。

 

「そろそろ行ったほうがいいんじゃない? もう三十分切ってるし」

 

 スマホで時刻を確認した夏凛がそう言った。

 声につられてそれぞれが確認すると、確かに時間が迫っている。風のプレゼント選びに費やされたが、友奈が車椅子であることを考慮しても、今から向かえば十分間に合うはずだ。

 高嶋から友奈の車椅子を押す役を東郷に代わる。

 

  「そうね。なるべく歌唱隊の人たちに近いところで場所を取りたいね。そのっちもそれでいい?」

 

「おーけーおーけー。もし場所が取れなかったら乃木家が『力こそパワー』理論で席を取ってやるんだぜ〜?」

 

「そのっち?」

 

 やや戒める顔になった東郷に、園子は「あはは〜」と小さく笑う。

 

「冗談だよ〜。ささ、レッツゴー!」

 

 樹の出演する学生コーラスは教会を模した建築物の前で行われる予定だ。

 室内でやったほうがいいのでは、というのが風たちのシンプルな疑問だが、雪の降る外でやるほうがなんだかんだで風情があるのだそうだ。

 賑やかな人だかり。大人から子供まで、皆楽しそうに笑顔を浮かべている。

 時々ボランティアなどで交流を持った人たちと鉢合わせすることがあったが、簡単な挨拶だけに済ませて先を急ぐ。

 目的地の広場には余裕を持って到着することができた。まだ人は過疎のようだが、まばらに居座っている人たちはビデオカメラを用意したりと、明らかに友奈たちと同じ観客のようだ。

 

「ところで、たかしーの言う『ぐんちゃん』って、誰のこと? 勇者たちと一緒にゲームだなんてすごく仲が良いんだね?」

 

 済ました顔をしながら背負っていたリュックサックからプロが使うような大きなカメラを取り出した園子が、レンズの汚れ具合を確認しながら尋ねた。

 

「え? ぐんちゃんはぐんちゃんだよ? 勇者だけど?」

 

「…………んん?」

 

 レンズを布で拭いていた手が止まる。

 そのまま少しの間フリーズした園子はゆっくりと顔を持ち上げた。

 

「郡千景って名前なんだけど……?」

 

「いや? 聞いたこと……ないね……?」

 

 園子が友奈たちに目で知ってる? と尋ねられるが、全員が首を横に振る。

 

「でも、大橋のところにある英霊の碑にはぐんちゃんの石碑が……!」

 

 どうやら認識の齟齬が起こっているようだ。

 高嶋が珍しくやや感情的になりながら大切な人の存在を主張する。

 頬が紅潮し、大きな白い息を吐き出す。

 

「ああ、あれは乃木家と上里家が権力を使って強引に建てたものらしいよ? 勇者は四人。たかしーと乃木若葉、土居球子に伊予島杏。そう伝わっているけど」

 

「……もしかしたら、長い年月が経ってるから、記録がきちんと残ってないんじゃない? 今の大赦ってずさんだからそういうところが抜けてしまったのかもしれないわ。良くないことだけど」

 

「夏凛ちゃん……。でも、そんなのはやっぱり、悲しい」

 

 悲しげに瞼を下ろす。

 この場で、高嶋のみが郡千景という少女がどんな人間であったかを知らないなんてことは、あまりに虚しいことだ。

 具体的に勇者としてどのような生き様を刻んだかなんてまだ高嶋にはわからない。

 

「…………」

 

 園子は難しい顔をしながら何やら思案に耽っている。

 しだいに観客たちがぞろぞろと集まり始め、開演五分前になった。雰囲気のある古い木造の扉を開けて、建物から出てきた開催者がなにやら話し始めているが、耳に入らなかった。

 なんて言って励ませばいいのかわからないのだ。

 東郷にカメラの使い方を教授してもらっていた風が高嶋に歩み寄る。

 高嶋は勇者部に所属していない。でも、部長として……いや、それ以前にこの場で一番年上だからこそ、ここは風がやらなければならない。

 これから樹の学生コーラスがあるのに、落ち込んだ気分でいられるとこちらも空気が悪くなってしまうから、という保身的な理由はないと言ったらそれは嘘になる。

 

「高嶋」

 

「風さん……?」

 

 名前を呼ばれ、高嶋はおずおずと顔を上げる。

 

「なら、残せばいいじゃないの。高嶋自身が。西暦に帰って、そんで戦い抜いた後、郡千景って人を誰よりも記憶して、あんたが後世に伝えようと努力すればいい。口で伝えてもいいし、なんなら本にしちゃえばいい」

 

「――――」

 

「そうすれば、絶対に誰かの記憶には残るはずだから」

 

 呼吸が震えた。

 犬吠埼風という人間を、改めて勇者であると認識させられた。

 この人には、聖母のような包容力がある。巫女のひなたは高嶋にとって、保護者のような印象で、何かあれば優しく受け止めてくれる存在だ。

 だが風は違う。

 堂々としていて、なおかつ……そう、力強い。

 この感じはひなたにはない。

 胸の奥深くからじんわりと仄かな暖かさが広がり、全身を覆った。

 ぼっと顔が熱くなった。

 

「風あんた……すごくいいこと言うじゃない! さすがは部長ね! ちょっと見直したわ!」

 

「む。ちょっとって何よ、ちょっとって」

 

 驚いた素振りを見せて言い放った夏凛の言葉は風には不服だったようだ。

 聖母から一変、閻魔大王が背後霊として憑いているのではないかと錯覚するほどの雰囲気を放ちながら夏凛ににじり寄ろうとする。

 しかし、それは高嶋の熱のこもった言葉によって静止させられた。

 

「……ありがとうございます。風さんの言う通りですね。未来を知っているのなら、それを変えればいいんだ! うん! 私、西暦に帰ったらぐんちゃんの本を書くよ!」

 

「おお〜それはいいね〜」

 

 がっついたのは園子だ。

 そしてそこから物書きとは何かを饒舌に語るかと思いきや、「うむうむ、たくさん励むと良い。応援してるんよ〜」と若干園子らしくない浅い踏み込みで終え、そそくさとカメラのメンテに戻ってしまう。

 その様子を見ていた東郷は友奈にそっと耳打ちした。

 

「友奈ちゃん。私は友奈ちゃんの功績をいつか本にしてみせるわ」

 

「ええ⁉ 東郷さん、そんなことできるの⁉」

 

「できるできないじゃない、やるの! 流石にそのっちの文章力には劣るけど……必ず書いてみせる!」

 

 妙な誓いを立てた友奈は嬉しさと恥ずかしさが同居した絶妙な表情を浮かべた。

 東郷の非常に高い行動力は、壁を壊したりブラックホールになったりと、十分すぎるほど証明されている。

 もしかしたら本当に実現させてしまうかもしれない……。

 

「あ! 出てきたよ!」

 

 友奈が指を指した先には、ちょうどタイミングよく扉から白い衣装に身を包んだ歌唱隊が並び始めていた。

 予め樹から立ち位置は聞いている。そこから逆算して、最も樹を見やすい場所取りができている。

 東郷と園子がカメラ、風がビデオカメラとそれぞれの機器を手にしっかりと被写体を捉える。

 三十代後半の女性指揮者が回れ右をし、観客に向かって一礼する。

 そして正面に向き直ると、さっと両腕を肩くらいの高さまで上げた。

 それに反応した少女たちは少し股を開き、顔の筋肉を緩めた。普段見ることのない樹の表情の移り変わりは、しっかりとカメラとビデオにおさめられている。

 行われる学生コーラスは全部で三曲ある。

 楽器といった類いは一切ないアカペラだ。

 有名なクリスマスソングの旋律が、クリスマスイブの夜空に遠く響き渡る。アカペラだからこそ、声の限りに奏でる透き通った歌声。

 歌声に質量なんてあるはずがないのに、それに重みがあって、ふわふわと観客たちに降り注いだ。それに、優しい優しい……熱がある。

 時を忘れて友奈が歌声に聞き入っていると、誰かの手が左手の上に重ねられた。

 

「……!」

 

 首を横に振る。

 高嶋だ。

 心地よさそうに両目を閉ざして穏やかな表情を浮かべるその横顔は、やはり友奈に瓜二つで、鏡を見ているようだ。

 こちらに気づいた高嶋は、睫毛を揺らしてこちらを見た。  

 

「いい歌だね。なんだか……心に溜まった汚れが洗い流されるみたい」

 

「そうだね……」

 

 ただの人間として、この旋律を心のままに受け入れよう。冷たい大気を震わせる歌声に身を任せよう。

 友奈はあの日からずっと張り詰めていた緊張を、ようやく解くことができた。

 今だけは……今だけは、全てを忘れてしまおう。

 そう自分に言い聞かせる。

 そんな感情を引き出す、天使とも思える歌声だった。

 滞りなくプログラムは進行し、三曲目に入った。十分に癒やされた観客たちは最後の曲を聞き逃すまいと一層と身を引き締める。

 風ももちろんそのうちの一人だ。

 三曲目は少し特殊で、独唱で歌うパートがそれぞれに与えられている。風が一番注目しているのは、樹に与えられたパート……それが終盤の締めであることだ。

 失敗すればすべてが駄目になってしまう大役が果たして務まるのかと一時期は悩んだが、いつまでも姉の背中に隠れないという樹の意志が、風の胸に熱烈に届いた。

 だから風は、『耳をかっぽじって』以上のレベルで一音たりとも聞き逃さないため、念入りに念入りに耳掃除をして来たのだ。

 それぞれの独唱パートが順番に回ってきて、ついに終盤……樹の出番がやってくる。一歩前に出た樹は小さな唇を震わせ、胸を大きく膨らませた。

 一瞬だけ、風と目があった。

 その目は、とても力強かった。

 樹の声帯から流れるように発せられる歌声は、プロに比べると、やはり上手いとは言えなかった。所詮は少し歌が上手い女子中学生止まりでしかない。

 しかしそれでも、歌声に込められたものはとても尊かった。

 

 ――それは、愛。

 

 純粋で清らか。穢れの無いこれほど美しいメロディを人間の喉が奏でられるのは、奇跡だ。

 風から啜り泣きが聞こえる。なんとかビデオカメラは樹の方を向いているが、手が震えてまともに録画できていないだろう。

 そしてふと、友奈の頬を熱い一筋の線がつう、と通ったのを感じた。

 涙だ。

 こんなところを見られたら恥ずかしいと思って目元を袖で拭ったが、涙は止まることなく溢れ続ける。

 気づけば風だけでなく、夏凛と高嶋も静かに涙を流していた。

 きゅっ、と口元を引き締めつつ、ただただ目の前の樹の立ち姿に釘付けになる。

 実際、樹に与えられた独唱パートはあまり長くなかった。しかし、観客たちを感動の渦に落とし込むのには十分すぎるだった。

 全プログラムが歌い終わっても、すぐに拍手は起こらなかった。沈黙がゆっくりと広場を通り過ぎたあと、ようやくするべきことに気づいた観客たちが、割れんばかりの拍手を爆発させた。

 友奈たちも例に漏れず、現実に引き戻されながら無意識に手を叩き、最後は歓声を上げながらその熱は極限まで昂ぶった。

 

 ◆

 

「じゃあ、樹の学生コーラスお疲れ様会、高嶋の懇親会、乃木の勇者部入部歓迎会、友奈の退院祝、クリスマスパーティー全部ひっくるめて『パーティー』開始よぉー!」

 

 イエーイ、と勇者部と高嶋の上機嫌な声が犬吠埼家に響いた。

 ほぼすべての料理が風の手作りで、ローストチキンは園子が用意してくれたものだ。ちなみに金額は開示してくれなかった。高すぎて言えないのか、単にそんなものに意味はないと言いたいのかまではわからない。

 香ばしい匂いを背景に、数度は涎を拭ったであろう風の袖についての言及は止めておいた。

 ともあれ食卓にはこれでもかと料理が所狭しに並べられ、ちょっとしたバイキングになっている。

 全員にはもれなくサンタの帽子を強制着用だ。

 

「これ意味あんの?」

 

 夏凛が帽子を脱ごうとするや否や、風の鋭い注意が飛んだ。

 

「駄目よ! 特に深い理由はないけど、その方がなんかいい雰囲気っぽいから駄目よ!」

 

「な、なによ……というか、テンションおかしいわよ風」

 

 勢いにしぶしぶ脱ぐのを諦めた夏凛が指摘すると、みるみる内に、なぜか風が涙目になった。

 あ、マズイと察するが、すでに遅かった。

 

「そりゃそうよ! だって、だってぇ樹がぁ! あんなに人を感動させる歌を歌うなんてぇぇええ!! もう……もう私の生涯に一片の悔いもないわぁっ!!」

 

「もうお姉ちゃんったら!」

 

 風のリアクションは大袈裟だが、樹を除いて誰ひとり暴走を止めようとはしなかった。

 録画した樹の独唱パートは何度もテレビ画面に映され、もう何度リプレイしたかもわからない。

 羞恥に顔を染めつつも、べた褒めされて嬉しいのか、樹の風を責める言葉は弱々しくなり、やがて消えてしまう。

 

「ささ、冷える前に食べましょ食べましょ。者共座れぃ!」

 

 二人用のテーブルではさすがに七人を抱えることはできない。風が急遽押し入れから小さな円上のテーブルを引っ張り出し、そこに料理をいくつか移す。

 

「友奈は東郷とでっかい方のテーブル使っちゃって。予備の椅子がふたつあるから……そうね、乃木と高嶋、あんたたちが座りなさい」

 

「私なんかより樹ちゃんのほうが……」

 

「なーに言ってんの。高嶋も主役のひとりなんだから、そこはでーんと座っとけばいいのよ。あ、東郷は言うまでもないわよね」

 

 友奈の利き手は動かないからといって左手で食べられるわけではない。

 だから。不謹慎ではあるが、つまり東郷は友奈に永久あーんする権力を得ることができたのだ。

 これまでは学校の昼食でしかその御役目は与えられなかったが、こうしてまたとないチャンスは恐悦至極である。

 全員がしっかり席につき、取り皿を与えられたところで準備が整う。

 溢れんばかりのりんごジュースを入れた紙コップを風が高く掲げる。

 

「それでは諸君! 色々としっちゃかめっちゃかな事態が起こって、今も全てが解決したわけじゃないけど、それはそれ。これはこれということで! とりあえずかんぱーい!!」

 

 かんぱーい! と全員が唱和する。

 それぞれが予め目をつけていた料理に手を伸ばして口に運び始める。

 その中でも風は期待を裏切らないというか、掃除機並みの吸引力で次々と料理を胃に送り届ける。

 

「はい、友奈ちゃん。あーん」

 

「あーん」

 

 小分けしたローストビーフを箸で友奈の口元に運ぶを繰り返す。そのやりとりに当事者も、それ以外も恥ずかしさを微塵も感じていない状況に高嶋が驚きを隠せずにいると、園子がそっと囁きかけてきた。

  

「そういうものなんだぜ、たかしー?」

 

「へ? あ、うん。なんだか、堂々としててすごいなーって思って」

 

 友奈と東郷はまさに以心伝心というか、夫婦のようというか。

 思い返せば高嶋も千景とよく行動をともにする節があるし、客観的に見れば、ふたりと同じように思われることもなくはない……?

 ふと風が立ち上がると、部屋の奥へと消えていった。

 もしかして食べすぎて吐いてしまうのか? と全員が思いきや、綺麗にクリスマス仕様で包装された、手のひらサイズの箱を持ってきた。

 ああ、と暗黙の了解で口を閉じるが、樹はそうではない。

 

「え、それなに? お姉ちゃん」

 

 何やら含みのある笑みを浮かべながら風は樹の手を取ると、その上にちょこんと箱を置いた。

 

「開けてみ」

 

「これって……」

 

「いいからいいから。ほら」

 

 言われるがままに樹は丁寧に包装を剥がし、箱を開ける。

 

「これは……」

 

 中にはひとつの髪飾りが入っていた。

 ある花を模したデザインで、それは――。

 

「マリーゴールド?」

 

 黄色のそれを手に取った樹は、ゆっくりと煌くそれを撫でる。

 マリーゴールド。その花言葉は、『健康』。

 そして、『変わらぬ愛』。

 

「そうよ。樹へのクリスマスプレゼント。……あと、学生コーラスの大成功、おめでとう」

 

 樹の手から一旦髪飾りを預かった風が、今付けている古いものから付け替える。

 そしてうんうんとファションデザイナーのように満足げに頷き、一緒に持ってきていた手鏡を向けて変化を確認してもらう。

 鏡とにらめっこをする樹に初めに感想を投げたのは東郷だった。  

 

「すごく似合ってるわ樹ちゃん。まるで花の妖精のようね」

 

「い、いやそれは大袈裟ですよ……でも、ありがとうございます」

 

 どうやら気に入ってもらえたようだ。花のような笑顔を振りまいた樹は何度も髪飾りに触れて、その感触に喜びに浸る。

 

「えへへ……嬉しいな。ありがとう、お姉ちゃん……!」

 

 そう、目尻にうっすら涙を浮かべながら、樹は感謝を口にした。

 

 ◆

 

「あーつっかれた」

 

 風に持たされた大量のタッパーを詰め込んだリュックを背負い、夏凛はエレベーターに乗り込む。余った料理はもれなく同じ一人暮らしの夏凛がほぼすべて持って帰ることになった。有り難くはあるが、消費するのに数日はかかるだろう。

 ……楽しかった。

 

「楽しかったな……」

 

 思った言葉が口に出てしまった。

 エレベーターの中という究極の閉鎖空間にいるはずなのに、つい誰にも聞かれてないか見回してしまう。

 勇者部と高嶋の親睦はより深まったと言えるだろう。赤嶺という脅威はまだ存在しているが、いつまでも神経を張り詰めていると、どこかで破綻してしまう。

 だから樹の学生コーラスといい、クリスマスパーティーといい、非常に良い息抜きになったのではないだろうか。

 ごうん、とゆっくりとした速度で上昇するにつれ、夏凛の遠い記憶が呼び起こされる。

 それは、兄がいて、親がいて。一緒にクリスマスを楽しむ記憶。

 今ではもう、あれをもう一度なんてことはきっとできないだろう。大赦に入って兄は変わったし、それを夏凛はよく思わなかった。

 決定的な決裂は、やはり強引に仮面を剥がした時だろう。

 二度と交わらない平行線。一度たりとも傾きの変わらない、同じであっても見向きもしない永遠の二本のライン。

 

 ――馬鹿みたい。

 

 夏凛は、勇者部の皆を大切にしたいと心に決めたのだ。

 それは、先代の赤の勇者との約束だから。

 エレベーターが止まる。扉が開き、外の冷たい空気が夏凛の肌を刺す。

 

「うう〜さっむ」

 

 小さく身震いしながら、懐から家の鍵を出す。

 すぐ左に曲がって直進。数メートル進んだところが夏凛の家だ。

 かじかみそうになった手に白い息を吹きかけながらドアの前に立ち、鍵穴に鍵を差込もうと――。

 

「ん?」

 

 視界の端に見慣れないものが紛れ込んでいる。

 コンクリート質の灰色の地面ではなく、なにやら茶色っぽい……箱。いや、ダンボールだ。サイズは大きい。

 ゆっくり首を横に振る。

 確かにそこにはダンボールがあった。

 

「――――」

 

 だが夏凛が驚いたのはそれについてではない。ただのダンボールなら、隣人がゴミ出しのために仮に置いているだけかもしれないと考えることができる。

 そのダンボールの中には、なぜか人が小さく体育座りをしていたのだ。

 頭上の電灯は淡く、誰かまでは具体的に判別できない。

 そういう趣味をお持ちの物好きか? とも考えるが、一応注意喚起くらいはしておいたほうがいいだろう。そう結論づけて夏凛は正体不明の人物に近づいた。

 俯いていて、顔がわからない。

 

「あの……」

 

 夏凛の声に反応して、その人物は気怠そうに顔を持ち上げた。

 ようやくその全身がよく見えるようになる。

 

「ああ……家、そっちか……。ちょっとズレちゃったな……」

 

 少しやつれた声色で返事をする。

 小麦色の肌。桜色の髪。

 それに、某アニメのキャラが着用しそうな黒光りするスーツ。

 ……赤嶺友奈だ。

 その手には、ダンボールの切れ端に『拾ってください』の弱々しい文字。

 

「赤嶺友奈……⁉」

 

 咄嗟に夏凛は後ろに飛んで距離を取る。

 なぜこんなところに⁉ という疑問はとりあえず捨て置く。てっきり友奈の前に現れると予想していたが、それはこちらの強い思い込みに過ぎなかったようだ。

 戦闘に発展するところまで想定し、荷物を置いてスマホを手に取る。いつでも勇者に変身できるぞと仕草で脅しつつ夏凛は静かに問うた。

 

「私に何の用よ」

 

 裏に熱を隠した冷たい声。

 赤嶺はダンボールの中で蹲ったまま、手元の『拾ってください』をこちらに向ける。

 

「戦うつもりはないから……その、ちょっと、ね……」

 

「なによ、ちょっとって……まさかあんた、拾ってくださいって……家に入れろってこと⁉」

 

 こくりと赤嶺は力なく頷いた。

 その返答に、夏凛は楽しかった気分から一転して怒りに肩を震わせた。

 

「嫌に決まってるでしょ! 聞いたわよ。あんた、友奈を傷つけようとしたんでしょ! そんな奴のためになんで私が施しを与えないといけないのよ⁉」

 

「お、お願い……」

 

 この赤嶺の態度だって、演技かもしれない。

 弱っているように見せて、油断して近づいたところを……という可能性は拭いされない。

 

「知らない! あんたなんてそこでずっと凍えていれば良いわ!」

 

 踵を返し、夏凛は鍵を開けて家の中へ消えてしまった。

 赤嶺は静寂に包まれた通路で、ひとり膝を抱える。見上げれば、冷たい雪が勢いを増して振り始めていた。当然赤嶺のもとにも雪は届けられ、容赦なく温度を奪っていく。

 スーツを着ていれば防寒はバッチリだ。でも、雪がスーツ越しの肌に触れる度に、人としての暖かさが奪われていくような気がして、赤嶺の心細さがより肥大化していく。

 やはり、誰もいない。

 赤嶺を見てくれる人は、誰一人いない。

 こんならしくない真似、しなければよかった。

 あの橋の下でひとり、寂しくクリスマスをやり過ごしていればよかった。

 そうすれば、心の傷はかさぶたで塞がれていたかもしれない。

 どうして自分で抉るような真似を……。

 一筋の涙が、赤嶺の頬を伝った。

 ……不意に、暖かいものが上から被せられた。それはもこもこしたボアジャケットだった。

  

「――立ちなさいよ」

 

 声が聞こえた。かなり素っ気ない物言いだ。

 怯える小リスのように顔を上げると、こちらに目を合わせようとしない夏凛が立っていた。

 

「三好、夏凛……? どうして……?」

 

「聞かないでよ。私の気が変わらないうちにさっさと立ちなさいよ」

 

 夏凛の有無を言わせない指示に赤嶺は従おうとして脚に力を入れたが、上手く立ち上がることができなかった。

 なぜなら何時間もずっと、ここに座り込んで夏凛を待っていたのだから。

 ぐだぐだする赤嶺にしびれを切らした夏凛は、「ああもう!」と両脇に手を伸ばして立ち上がらせる。

 

「あっつ! あんたもしかして熱出してんの⁉ そうならそうとはやく言いなさいよ! んもー! 仕方ないわね!」

 

 夏凛は苛立ちを隠さずに吼えつつも、その場にしゃがみこんだ。それがおんぶをしてやるという意思表示であることはさすがの赤嶺でもわかった。

 身体を預けるには少し小さい背中だったが、この時はどうしてか、蓮華と同じくらい頼もしく目に映った。

 

「……ありがとう」

 

 そうぽつりと呟き、赤嶺は夏凛の背中に全体重を預けた。重くはないかなどと考えたがそれは邪推だった。軽々と赤嶺の身体を持ち上げると、自分の家へと連れこむ。

 

「……まったく、私もとんだお人好しになったわね」

 

 その呟きはドアに吸い込まれて消える。

 後に残った、夜の帳の落ちた薄暗い雪景色が、ふたりを静かに見届けた。




勇者部と高嶋チャンはクリスマスをたくさん楽しみました!

次から、ずっと以前から脳内で燻ぶらせていた鬱ラッシュを開始させます
遺言と墓、それと鬱になる用意を

それではまた次回!


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粛清

えー、リアルが鬼忙しいので今回は更新がいつもより遅くなりました
たぶん次も遅くなると思います。許してネ!

あと、ツイッターにssのURLを貼ったらサムネ表示ができるようになったので、それ用にメインビジュアルの絵を描きました。このssをいい感じに表現できてる……はず!

【挿絵表示】


前回のあらすじ
(赤嶺チャン以外)クリスマスを楽しみました!


「は〜。なんなのよもう。まったく」

 

 最近、独り言が多くなったような気がする。

 一人暮らしだったから話し相手なんていない。必要とも思ってもいない。

 そう、自分に言い聞かせていた。

 勇者部は楽しい。勇者部はもう夏凛の居場所となった。

 しかしそこが絶対的なホームではなく、家に帰れば独りであることを嫌でも思い知らされる。

 だから口がどうしても寂しくて、独り言をぼやくようになってしまったのかもしれない。

 ぐったりと寄りかかる赤嶺を背負いながら玄関で靴を脱ぎ、居間の前を過ぎて浴室へ運ぶ。

 赤嶺の体重は思ったより軽く、むしろおんぶしているとスーツの硬い部分が腰にゴリゴリ当たって意外に痛い。

 それに……臭う。

 いったい何日シャワーを浴びてないのか知らないが、この鼻につく臭いは夏凛を少々不機嫌にさせた。

 しかもそれだけではなく、僅かに鉄分の臭いもする。

 やってらんないわ、などと内心で毒づき、浴室の扉を開けながら訊いた。

 

「あんた、その……スーツ? 脱げる?」

 

 スーツは見るからにボロボロだ。

 肩や胸に張り付いている装甲らしきものはほぼ剥がされていて、電灯に照らされた脇腹をよく見ると、血のようなものがこびりついている。この付着の様子から考えると、返り血だろうか?

 顔色はどう見ても悪い。今の赤嶺と勇者部との敵対関係上、絶対に訊かなければならないことがあるものの、夏凛はそれを一旦棚に上げた。

 赤嶺はふるふると小さく首を横に振る。

 じゃあ脱がせるしかないか、と今一度スーツを余すことなく眺めるが、一体どこから脱がせばいいのかわからない。

 ぺたぺたと身体中を触れてゆくと、手首のドーナツ状に膨れている部分のどこかのスイッチか何かに触れたらしい。

 しゅうう! と空気を鋭く吸い込む音と同時にスーツがやや膨らみ、背筋に沿って切れ目が入り、そこから赤嶺の背中が覗きだした。

 悪戦苦闘しながらようやくスーツを脱がせることができた夏凛は、一緒に脱がせた下着と一緒に選択籠に放り込んだ。

 そして。

 

「まあいっか」

 

 と自身も生まれたままの姿になって浴室に入った。もともと帰ったら風呂に直行しようと考えていたところだ。狭さはあるものの、そこまで問題はない。

 赤嶺をバスチェアに座らせ、その間に手早く浴槽の電源を入れて『追い焚き』のボタンを押す。

 残り湯もそれほど使ってないはずだ。だからそれほど時間はかからないだろう、とほぼ確信しながら画面を見ると、残り十分と表示された。

 これなら全然大丈夫だ。

 

「身体汚いから洗ってあげるわ」

 

 シャワーを出して、冷水から温水に変わったのを確認してからうなじの辺りに浴びせる。

 ぶるりと赤嶺の身体が小さく震えるが、それを無視して夏凛はシャワーを浴びせる。

 余すことなく頭からも浴びせ、髪が顔に張り付く。熱を出してるのに温水をかけて大丈夫なのか? と今更ながら気づいたが、まあいいだろうと一蹴する。さすがに湯船に浸からせるのはアウトだろうから、身体を洗うだけに留める。

 汚いし、臭う身体でこの家に居座られては困る。

 タオルに石鹸の泡を染み込ませ、ゴシゴシと背中を擦る。四国ではあまり見ない褐色の肌。とても健康的で、ハリがある。以前慰安旅行の時に勇者部の皆で温泉に入った際、友奈の裸体を見ている。

 陶器のような、滑らかな肌だったことは覚えている。対して赤嶺は、明らかに肌の裏に鍛えられた筋肉の存在が自己を主張している。

 鍛錬を欠かさない夏凛は、その見事な筋肉美に思わず感嘆の息を漏らした。明確に隆起させない程度に鍛える微妙な加減は、まさに見事としか言えない。

 

「……何も聞かないの?」

 

 シャワーの音にかき消されそうなほど小さな声で褐色の少女が尋ねた。

 背中、脇腹、腰、と洗い終え、夏凛は正面を向かせた。

 

「そりゃあ今のあんたに訊いてもあんまり意味ないでしょ。ちゃんと熱が引いて、それから根掘り葉掘り訊いてやるから覚悟しなさい」

 

 夏凛の眼前に広がる赤嶺の双丘。

 明らかに友奈より……大きい。言うまでもなく夏凛よりも。

 何がここまでの差異を生み出したのか。世の中は非情である。などとどうしようもない劣等感と敗北感を抱きながら首筋にタオルを伸ばす。

 

「……ありがとう」

 

 目元を伏せながらそう言った赤嶺の感謝の言葉は、やけにしっかりと耳に届いた。

 

「ホントはあんたのことなんてどうでもいいけど。外で凍え死んだって全然構わないんだけど。でもそれじゃあ友奈が悲しむから、仕方なく……仕方なくこうしてやってるのよ。だから、感謝するなら私じゃなくて友奈にしなさい」

 

 本心は違う。

 今口にしたことも一応事実ではある。しかし夏凛は人間だ。

 同じ人間を助けるのは当然のことである。ましてや勇者部であるのなら尚更だ。

 それを表に出さないのは夏凛の性格からして仕方ないとも言える。

 丁寧に前面も洗い終え、泡を流す。

 ちょうどそこで浴槽に湯を張れたようだ。軽快な音楽が鳴り、夏凛は浴槽の蓋を開けた。

 

「どう? あんたは入る? やめておいた方がいいかもしれないけど」

 

「いや……入りたい。ここしばらくは川の水で汗を流してたから。温かくなりたい」

 

「川ぁ⁉」

 

 この時期に川の水を浴びていたなんて論外だ。

 いくら家出しているとしても、銭湯に行くことだってできたはずだ。もしかしてそういった生活面はめっぽう頭が回らない? 三人の友奈の中で最も聡明な方だと思っていたが、少しばかり評価を改めなければならないかもしれない。

 

「あんたバカ? なんでそんなことすんのよ。無一文じゃなかったのは風から聞いてるから、いくらでも対策あったでしょ」

 

 ふらりとバスチェアから立ち上がった赤嶺は「先、もらうね」と断ってから、足先をゆっくり湯に沈め、そのまま全身を浸からせた。強張った身体から、反射的に「あああ……」と喘ぎ声が出る。

 

「お金、ほぼ全部プロテインに使っちゃって。ポーチの中にあと十八円しかない」

 

「…………はあ〜」

 

 バカだ。

 赤嶺は、バカだ。

 友奈もバカだがベクトルが違うだけで、大差はないようだ。

 十秒くらい長い溜息を吐いた夏凛は自分の身体を洗い終えて、なるべく湯が溢れないように細心の注意を払いながら湯船に沈める。

 じんわりと全身に広がる熱に、ぶるりとひとつ身体を震わせた。

 もともとこの浴槽はひとり用と想定されていたものだから、狭さは想像以上のものだ。あまり身じろぎすることもできず、脚を限界まで伸ばせば赤嶺の身体に触れてしまう。

 体育座りして小さく縮こまった状態の赤嶺はそんな夏凛のもどかしさを指摘した。

 

「気にしなくていいよ。ここはあなたの家で、あなたのお風呂なんだから」

 

 そういう問題じゃないのよ! と喉までこみ上げた塊をグッと押し戻した。

 熱で頭が茹で上がっているからだろうが、少しは羞恥を感じてほしいものだ。今更ながら『一緒にお風呂に入る』などという選択をしたことを激しく後悔する。

 どうしてこんなことを考えてしまったのだろうとのたうち回りそうになり、足先がつい赤嶺の腰に触れてしまった。

 

「ぁ」

 

 急いで足を引っ込める。

 弾かれたように顔を上げると、不意にふたりの視線が完全に合わさった。

 赤嶺の火照った顔は妙に妖しくて、艷やかだった。

 狙っているのか⁉ と身構えそうになるが、熱を出しているのに湯船に浸かっているのだ。そうなっても仕方ないだろう。

 変な気分になってしまいそうだ。

 こっちが気を弱くするとなんだか『そう』思われてしまうかもしれない。

 あくまで赤嶺は敵だ。友奈を攻撃した敵だ。

 ここは私の家! 私のお風呂!

 そう自己暗示をかけて堂々と脚を伸ばす。

 脚が赤嶺に触れようが構うものか。心を無にしてただ風呂という恩恵を授かるただの人間となるのだ!

 しだいに赤嶺も膝をずっと抱えるのが億劫になったのか、抱えていた腕の力が抜けた。解放された脚がゆっくりと伸び、夏凛の腎部に触れた。

 

「…………」

 

「…………」

 

 反応……することができなかった。

「ななな何すんのよ⁉」と脚を振り払おうと思えばできた。でもしなかった。できなかった。

 赤嶺が病人だから、という自分勝手な言い訳で自分を納得させながら赤嶺の様子を窺った。

 赤嶺は瞼を下ろして上を仰ぎ、完全に脱力した状態だった。滑って溺れるのではないかと少し心配したが、それはなんとか大丈夫なようだ。

 全力で久々の風呂を堪能しているようだ。時々気持ち良さそうな声をだらしなく漏らしてもぞもぞと身じろぎする。

 その度に夏凛の心の平穏は容赦なく削られる。

 意識してしまうからやめなさいよね⁉

 しかし赤嶺はまるで無邪気な子供のように幾度もこのループを繰り返した。

 

「ちょっと……そろそろ上がりたい」

 

 そう告白してきたのは、すぐのことだった。

 赤嶺の顔は明らかに辛そうで、夏凛はこれまで溜め込んだものを吐き出しながら勢いよく立ち上がった。

 今になって思えば、こんな思いをするのならさっさとひとりで上がっていれば良かったのだ。なのに、わざわざ赤嶺のことを心配して付き合っている自分がいる。

 かぶりを振った夏凛は、ひとりで立てない赤嶺の両脇を下から掴んで立ち上がらせ、浴槽の蓋をしたあと、一緒に浴室から出た。

 バスタオルで身体の水気を拭き取ってやり、自分のパジャマを貸し与える。

 そして自室のベッドへと運んだ。

 敵に対してなぜこれほどまでに親切にしているのか。そんなことをずっと考えながらも、夏凛の口は自然と動いていた。

 

「何か食べる? お粥とか?」

 

「……お願い」

 

 穏やかな吐息を漏らす赤嶺を尻目に、夏凛は今一度自分は何をしているのだろうと振り返る。

 

「わかった。ゆっくり休みなさいな」

 

 大量のタッパに保存してある余り物を適当にレンジでチンして出せばよかったのに、どうしてそこまでするのか。

 敵なのに。

 どうして。どうして。

 そんな疑問ばかりに頭が支配されて、夏凛の思考はループ状態に陥りそうになった。

 最終的に、今日はクリスマスパーティーをしたから浮かれているのだ。だからこうして敵にも甘い対応をしてしまっているのだと自分をなんとか納得させようとする。

 

「……ありがとう」

 

 部屋を出ようとした夏凛の背中に、そう弱々しい声がかけられた。

 ぴたりと足が止まる。

 

「――――ふん」

 

 今の「ふん」が照れ隠しであることは認めざるを得ない。

 どれだけ言い繕っても、夏凛がここまで赤嶺に施すのはなぜか。

 それはきっと、夏凛が人肌恋しいと感じているからだ。

 心のどこかで嬉しいと感じている自分がいる。我が家という絶対的な孤独の領域に、他人がいる。

 そんな慣れない状況ではあるが……嫌ではない。

 本当に私は変わってしまったのね、と含みのある笑みを口の端に浮かべ、夏凛は今度こそ部屋を出た。

 

 ◆

 

 ……とはいっても、いつまでも赤嶺を家においておくわけにはいかない。

 ホウレンソウ。

 報告に連絡。そして相談だ。

 グループチャットで報告した次の日の昼には、勇者部全員と高嶋が夏凛の家に押しかけていることとなった。比較的広いとは言えない夏凛の家が肩幅狭く感じてしまう。

 なにせ、以前家に突入された時よりふたりも増えているのだから。さらに友奈の車椅子はスペースをとってしまう。

 コップも残念ながら全員分はなく、ひとりだけ紙コップで済ませる。

 ちょこんと風の隣に座る樹の髪には、昨日プレゼントされたばかりの髪飾りがつけられていて、とても可愛らしい。

 

「悪いわね、高嶋」

 

「ううん、大丈夫だよ。それにしても夏凛ちゃんの家って……」

 

 興味深そうに四方を見やる。

 おそらく次に発するコメントはニパターンだと夏凛は即座に悟る。

 

「トレーニング器具でいっぱいだね! やっぱり鍛えるのが好きなんだ〜。あ、だからいつも煮干しを持ってるんだね」

 

 ちょっと狭いね、と言われなかったのは、率直に言わずにオブラートに包もうとした結果かもしれない。

 ランニングマシンを始めとして、腹筋を鍛えるためのローラーや台などが散見している。そのせいでさらに部屋の狭さに拍車がかかっているのだ。

 せめて家に入れる前に、少しくらい片付けておけば良かったなどと今更後悔しながら自室のドアに視線を向けた。

 それに気づいた友奈は静かに話を切り出した。

 

「赤嶺ちゃんは……そこにいるの?」

 

「そうよ。今は寝てる……と思う。でも熱出してるから念の為、入るのは私を含めて三人までで。当然、言うまでもなく友奈はここにいるのよ」

 

「どうしてもだめ?」

 

 ぐ。

 なんという上目遣い。

 しかし夏凛は邪な考えを振り払い、それでも首を振った。

 

「だめ。もし赤嶺に突然襲われても何もできないでしょうが」

 

 正論をぶつけられた友奈は食い下がろうとするが、隣の自称保護者に宥められ、その場に留まらせる。

 

「じゃあ私がいくわ」

 

 そう名乗り出たのは風だ。コップの飲み物をごくりと喉奥に流し込むと、いつになく真剣な眼差しで夏凛を見つめた。

 

「もちろん穏やかな尋問になればいいけど、もし赤嶺が敵意を剥き出しにしてきたら、私は鏡のように接する。それ相応の覚悟を持たないといけないはずよ。私は――」

 

 手に取ったスマホをタップし、勇者装束を身に纏った。

 そして赤嶺がいるであろう部屋を、目を細めて睨む。

 場は異様な空気に包まれた。すぐ隣の部屋には敵がいる。敵性は高いが、しかしながら完全にそちらに傾いてわけではない。 

 たかが数日間、ひとつ屋根の下で暮らしただけで、赤嶺の何がわかったのだろう。鏑矢という、風たちにはまるでわからない御役目に就く、過去の人間の何が。

 価値観も、考え方も違うはず。

 しかし、だからといって赤嶺のすべてを理解を示すわけにはいかない。この時代にはこの時代の在り方がある。それには従ってもらわなければならない。

 もしそれが受け入れられず、すれ違いから争いに発展したら――。

 赤嶺を――。

 

「私には、ある」

 

 重みのある言葉で、自分を含めて全員に語り聞かせるような口調で言った。

 

「だから行くのは私と夏凛だけでいい。ホントは私だけが一番いいけど、目は多いほうがいいからね」

 

 さすがに狭い部屋で武器を持つのは危険極まりない。一旦大剣を消した風は心の平穏を維持させようと深呼吸する。

 覚悟は決めた。いざとなれば赤嶺を斬る。

 人を傷つけるという許されざる罪を、風は背負う。だって、赤嶺がもし敵意を顕わにして、今度こそ友奈を襲おうとすれば、どうなるかわからないからだ。

 

「ふーみん先輩。私も一緒に行かせてください」

 

「……乃木」

 

 園子の抱える精霊は二十体を超えると聞いている。

 以前風が暴走して大赦を潰そうとしたとき、大赦側は対抗策として園子に迎撃させようとしていた。それも、つい最近知ったことだ。風の十倍以上の精霊がついているのだ。戦力差は圧倒的だ。

 園子が本気を出せば、風は赤子のようにねじ伏せられるだろう。

 赤嶺を無力化するにはもってこいの戦力だ。むしろ過剰とも言える。

 しかし。

 

「いいえ、駄目よ。これは単なる戦力の問題じゃないの。わかるでしょ?」

 

「でも……皆、口にはしないだけで、本当は赤嶺ゆーゆと話がしたいと思ってる。だからにぼっしーの家に来たんですよ? だってそうじゃないと、わざわざ危険なところに来ないですから」

 

「…………」

 

 園子の言うことはもっともだ。

 昨晩の夏凛からのメッセージには肝を冷やされたが、誰も行かないという選択肢は選ばなかった。あの時はある種の集団心理が働いていたから『行く』と返信したかもしれないが、今こうして全員が場に揃っている。

 それに、誰も嫌そうな顔をしていない。

 そのことに風は今更気づいた。

 

「いや……いや。それでもだめ。これは部長命令よ。あんたたち全員、人が良すぎる。もしもがあれば、躊躇いは命に直結するのよ」

 

 ……頼もしい仲間に恵まれたものだ。

 だからこそ、風は瞳の奥に暖かさを灯しながらも絶対命令を下した。

 

「……ふーみん先輩も人が良すぎますよ」

 

「…………まあ、そうかもね」

 

 夏凛を連れてドアの前に立つ。

 少し錆が隅についているドアノブを回し、慎重な足運びで中に入る。

 部屋はカーテンが閉められているせいで薄暗い。それに、どことなく夏凛の匂いがした。そりゃあ夏凛の家だから当然か、と風は身を引き締め直してベッドの方へ身体を向ける。

 そこに赤嶺はいた。

 それも、上半身を起こして、まるで誰かの入室を待っていたかのように佇んでいた。

 やっと来たか、と言わんばかりの顔をこちらに向けると、口の端に微笑を浮かべた。

 夏凛より前に立った風は、しっかりと目を見つめた。

 

「久しぶりですね、風さん」

 

「なんだ、起きてたんだ」

 

「それはもちろんですよ。すぐ隣であんなに賑わってて、起きないはずないじゃないですか」

 

 即座に敵対、とはならないで済みそうだ。

 まだ眠そうな赤嶺は間延びするあくびをすると、ゆっくりと視線を振った。

 

「ここは私にとって敵地。それに楽にはなったとはいえ、私の体調は優れない。もし私がここから逃げようとしても、スーツが手元にないし、勇者サマたちにあっという間に押さえつけられる。私のすべては風さんたちに掌握されてる。……まあ、詰み、だね」

 

 冷静に自分の置かれた状況を把握して、勝算なしと結論づけた赤嶺は、肩をすくめてみせた。

 

「確認することはただひとつよ。答えによっては……わかってるわよね?」

 

「もちろん。正直なところ、今どうして生かされているのかすらわからないまであるからね」

 

 いつでも動けるように体制を取っている風を、肉食獣の眼で睨みつける。

 しかしすぐさま柔和なものへと変化させた。

 

「あんたはまだ友奈を襲うつもりでいる?」

 

「……結構どストレートに訊いてくるんですね」

 

「たぶんあんた、回りくどいの好きじゃないでしょ?」

 

「そうですね」と相づちを打ち、表情が強張らせた。すぐ隣の部屋では友奈がいる。

 それは赤嶺にもわかっている。耳を澄ましてもひそひそ話すらまったく聞こえない。おそらく息を殺して耳を壁に当てているのだろう。

 それはそうだ。

 赤嶺をどうするかをこれから判断する大切な局面だ。気にならないはずがない。

 だから敢えて、赤嶺は不敵に微笑んでみせた。

 

「もしそうだって言ったら?」

 

 次の瞬間、風の手には大剣が収められていた。

 凶悪な刃が、赤嶺の反応を大きく上回る速度で顎下僅か数センチの高さにまで持ち上げられる。

 最小限の力だけで容易く首を切断できそうな切れ味に、ごくりと生唾を飲む。

 

「じょ、冗談だよ〜」

 

 白けてみせるが、それでも風は大剣をさらにほんの数ミリ上に向けた。

 自然と赤嶺の顎が持ち上がり、選択を誤ったと認識させられる。

 

「冗談で済ませられると、本気で思ってる? あんた」

 

「…………」

 

「ちょっと風、やりすぎよ!」

 

 ここまで静観を貫いていた夏凛が慌てて止めに入ってきた。

 肩を掴んで宥められた風は、ゆっくり大剣を下ろし、そして消滅させた。

 

「あんたの気持ちはわかるけど、激情に駆られるのはやめなさい。それがたとえ赤嶺の作戦じゃないとしても、事は冷静に判断するべきよ」

 

 思い当たる節がある風は、少しだけ顔を歪ませた。

 樹の一次オーディション合格の電話がかかってきたときの記憶がフラッシュバックする。

 そう、あの時は肥大化してどうすればいいかわからない悲しみを、ぶつけなければならないという一心で暴れ回った。

 ……二の舞はしない。

 大きく深呼吸をして、心を落ち着かせる。

 

「悪かったわね、赤嶺。じゃああんたはもう友奈を襲う意志はないってことでいいのよね?」

 

 目元を伏せ、赤嶺は口を横一文字に括る。

 そしてたっぷりと沈黙を含んだ後、神妙な表情で、重々しく口を開いた。

 

「……わからない、というのが私が今出せる答え。私は鏑矢で、人の世を脅かす人間を討つのが御役目。だから結城友奈は処分しなければならない。でも……私は……悩んでる。所詮私は過去の人間。この時代に生きていない人間が、歴史に干渉していいのかって、悩んでる。実際、西暦の初陣に参加してしまったし、障害として結城友奈の前にも立ちはだかってしまった。そのせいで――」

 

 突然、赤嶺が苦しそうに顔を歪める。

 途中で言葉を詰まらせ、自分の身体を抱き締めて小さく蹲った。

 今の言葉のどこに、赤嶺が苦痛を感じる部分があったのだろうかとふたりは顔を見合わせる。どちらかというと赤嶺が風たちに……友奈に危害を加えようとしたのだ。ここで被害者面をするのは虫が良すぎるのではないか。

 二人が知らないだけで、赤嶺には征矢に襲われた恐怖が身体に深く刻みつけられている。

 

「……私には誇りがあった(・・・)。若葉様に鍛えられ、レンちとシズ先輩と一緒に、誇りを持って御役目に取り組んできた。でも、今の私はその土台が揺らいでいる」

 

「土台って……あんたの言う神の業のこと?」

 

 夏凛の問いに赤嶺は小さく頷く。

 

「この時代は、きっとターニングポイントなんだ。人が神の恩恵に縋っていた時代からの脱却。……私は過去の人間だから、それが受け入れられない。今の私には、どっちが正しいのかわからない。私を助けてくれる仲間はどこにもいない。だから私は……! 私は……どうすればいいのか、わからなくなっちゃったよ」

 

 あまりに弱々しい訴えだった。しだいに赤嶺の顔に影が差し、前髪に目元が隠れてしまった。

 ふたりは言葉を失う。

 友奈と高嶋とは違っていつも澄まし顔な印象が、こうもあっさりと崩れ落ちてしまう。

 赤嶺はなんとか顔を持ち上げると、寂しそうに笑顔を向けた。

 その目尻に、雫の煌めきをふたりは確かに見た。

 なんて脆いのだろう。

 何かの間違いで指先が触れてしまうだけで壊れてしまいそうだ。

 友奈という人間は、明るくて、前向きで、優しくて、皆の輪を取り持つ存在だ。

 高嶋も似たような人柄だ。

 しかし赤嶺はどうだろう。同じ『友奈』であることに変わりはない。顔も似ているし、体格だって同じだ。

 もはやなんらかの繋がりがあるとしか思えないレベルで似ている三人の性格も、もしかしたらほぼ似通っているのではないか。

 そう考えるなら、赤嶺も本当は、友奈と高嶋のように天真爛漫な人間ではないのだろうか。

 それが、鏑矢という御役目に就いたことによって暗い個性が増長されて、女子中学生らしさというものが失われている、と考えられる。

 でも風は知っている。赤嶺という人間は、決して完全な悪ではないということを。

 

「――あんたは、助けてほしいの?」

 

「…………」

 

 赤嶺が少しばかり目を見開く。

 

「助けてほしくないのなら、自分のスーツを持って、腕時計を置いて今すぐ出ていきなさい。敵をこれ以上保護する理由なんてないから。そして、二度と私達の前に……友奈の前に現れないで」

 

 自分でも非情な言い方であることは風も自覚している。夏凛も何か言いたげな顔をするが、風の言うことに間違いがないから何も口を挟めないようだ。

 そう、まだ赤嶺は『敵』だ。

 それは覆しようのない前提。

 疑念が晴れないのであれば、共にいる意味がない。そしてこれは、最善の解決法だ。

 赤嶺が曖昧な答えを返すのならば、風も曖昧な答えを返すしかない。

 

「助けは……いらない。私の仲間はここにはいない。遠い過去にいる。戻り方もわからない。だからもう、私には……何もない」

 

 答えは拒絶だった。

 対して風は無表情を貫く。

 たっぷりと沈黙が流れる。

 無表情のまま、風は冷たく言い放った。

 

「そう。じゃあ出て行きなさい」

 

 有無を言わせない鋭い指示に、赤嶺はまだ熱っぽい身体を動かしてベッドから立ち上がる。

 

「夏凛、赤嶺のスーツある?」

 

「ええ……ちょっと待ってて」

 

 夏凛が一旦部屋から出る。

 そして十秒ほどで戻ってきた手には綺麗に洗われたスーツがあった。

 

「なんか装甲みたいのがあるし、そんなの洗濯機に突っ込んだら壊れるからとりあえず表面の汚れだけは落としておいたわ」

 

 手渡されたスーツを広げ、その綺麗さに驚きつつ、ぽつりと感謝を口にする。

 

「ありがとう」

 

「気にしないで。あ、ポーチの中から腕時計は取ってあるから。あとその寝間着は返してもらうわよ。下着は……あー、これは情けよ。そのままあげる」

 

 言われるがままに寝間着を脱ぎ、スーツを身に着けた赤嶺は伸縮を確かめる。

 

「これは私からの情け」

 

 そう言った風は、自分の財布から千円札を抜き取って、赤嶺の手に握らせた。

 

「流石に無一文で行かせるのは夢見が悪いからね」

 

「いいんですか?」

 

「いいのよ。でも、私たちがあんたにするのはここまでよ。これからはあんたひとりの力でこの時代を生きなさい。どんな困難にぶち当たっても、私達は感知しないし、助けもしない。いいわね」

 

 教え諭すように、丁寧に赤嶺に確認を取る。

 万が一の間違いがあってはならない。

 顔を震わせながら小さく頷いた赤嶺は千円札をポーチにしまった。

 赤嶺がカーテンを開ける。

 ようやく部屋に太陽の光が差し、赤嶺の褐色の顔が照らされる。よく見ると、両頬に細い筋がつう、と通った跡がある。

 ついさっきできたものではない。

 泣いていたのだ。

 夜。

 ひとりでずっと。

 ふたりの視線に気づいたのか、赤嶺は慌ててゴシゴシと目元を拭う。

 

「……じゃあ。短い間だけど、お世話になりました。……さようなら」

 

 ひび割れた顔で小さく別れを口にした赤嶺は部屋から出ようと歩を進める。その後ろを、ふたりが玄関から去るまで付き添うべく身体の向きを変えた。

 その瞬間。

 

「待って! 私はこんな結末、認めない!」

 

 力強い拒絶の声とともに、赤嶺がドアを開けるより先に、誰かが開け、部屋に侵入してきた。

 桜色の髪を靡かせ、堂々とした足取りで赤嶺の前に立ちはだかる。

 赤嶺はもちろん、風も夏凛も息を詰まらせた。

 

「高嶋⁉」

 

 夏凛が侵入者の名を呼ぶ。

 しかし高嶋はそれを無視して赤嶺の肩を力強く掴む。そして叫んだ。

 

「赤嶺ちゃん! 私、あの時言ったよね⁉ 私達のことを仲間だと思っていなくても、私達は赤嶺ちゃんのこと、仲間だと思ってるって! 鏑矢だからとか、勇者だからとかそんなの関係ない! 私達は人間だから、絶対にわかりあえるって!! 」

 

「でも……」

 

「でも? そんな言葉はいらないの! 風さん言ってたでしょ⁉ 助けてほしいかって! 赤嶺ちゃんに手を差し伸べたんだよ!なんでそんなに頑固なの! 変にカッコつけようとしないで! 助けてもらうことがそんなに無様なの⁉」

 

 それを聞いた途端、赤嶺は激しく首を振った。

 

「いいの……いいの! 私はこれでいいの! 結城友奈を処分することが私の御役目! でも失敗した! もう二度と奇襲すらできない! 失敗は許されないのに! だから私はもう、鏑矢として終わったの!」

 

「そんなこと、知ったもんか!!」

 

 高嶋がいっそう高く吼えた。

 その威勢に赤嶺は萎縮する。

 

「ここは私達にとって、未来の世界! 私達が必死に紡いだ歴史の果て! ――私達の御役目は、とっくの昔に終わってるの」

 

 そして、「そうでしょう?」と炎のような熱量を秘めた声で囁いた。

 

「――――」

 

 赤嶺は呼吸を忘れ、両眼を見開いた。

 高嶋とは、根本から、考えていることが違っていた。

 どんな時代にいたとしても、赤嶺は『鏑矢』であろうと行動していた。常に周囲を警戒し、もし事が起きれば、それを速やかに処理すべしという信条を抱いていた。

 四国に平和を。

 永久の安寧を。

 高嶋の方を掴む力が強張り、すぐに緩んだ。そして次に、腕を背中に回し、抱きしめられた。

 少なからず赤嶺は嫌悪感を抱いた。

 別に強引に引き剥がそうとすればできた。しかしすぐさまに背筋から頭の天辺までを貫いた、嫌悪感を上回るほどの安心感に、赤嶺の腕が痺れた。

 

「だからさ、そんなにつんけんしないで助けてもらおうよ。赤嶺ちゃんが敵じゃないってさえ言ってくれれば、私たちは絶対に赤嶺ちゃんを受け入れるから」

 

 そうだ、友奈を殺そうとさえしなければ、こんな状況にはならなかったし、普通に犬吠埼家でうどんを啜っていたはずだ。

 赤嶺の在り方はこの時代に飛ばされ、粉々に砕かれた。

 誰も信じてはならない。誰にも心を許してはならない。そう自分に言い聞かせて今日までなんとか生きた。

 だがもう限界だ。

 風からもらった千円でどこか遠くへ行って、そこで野垂れ死ぬ。そんな破滅願望さえ抱いていた。

 ……赤嶺の唇から、いっそうかすかな声が流れ出た。

 

「いいの?」

 

「いいよ」

 

「……!」

 

 答えたのは高嶋ではなかった。

 声のした方向に顔を向けると、そこには少しだけ車体を部屋に突き出させた友奈がいた。

 穏やかな面持ちで、高嶋と赤嶺の抱擁を眺めていた。その瞳には安堵の色が染み込んでいる。

 次に言うべき言葉に悩んでいるのか、友奈は喉を鳴らし、背中をまっすぐ伸ばした。

 

「だって私たち、本当は赤嶺ちゃんが気になって仕方ないんだもん。赤嶺ちゃんが家出したって聞いたとき、すごく心配した。喧嘩してすぐだったけど……それでも、心配した」

 

「それは、私が『友奈』だから?」

 

『友奈』という名前だったから、友奈は思い入れを強くしたのか。それは……よくあることだ。

 表層しか見ずに、その裏……その人の『本当』を知ろうとしない典型的な流れだ。

 しかしそれを打ち破る、あなたという人間だからこそというフレーズも知っている。

 優しい友奈ならそう言うだろうと、わかりきった返事を赤嶺は静かに待った。

 だがその予想は容易く裏切られた。

 

「そうだよ。だって、私が赤嶺ちゃんと顔を合わせたのはこれで……たった二回目だもん。赤嶺ちゃんのこと何にも知らないのは当たり前だよ。だからこそ、友奈って言う名前はすごく強い印象が残った」

 

 すんなりと肯定されたことに、心臓が僅かに跳ね上がる。

 友奈の言っていることは間違いなく正論で、赤嶺もまた友奈のことをまったく知らない。どれくらいかというと、知り合いにも達していないレベルだ。

 処分する人物を知る必要はない。知れば知るほど思い入れが強くなってしまうからだ。それは弱さにつながり、つけこまれ、やがて死に至る。

 最小限でいいのだ。

 蓮華と静の二人だけでいい。

 でも、そのふたりは赤嶺の側にはいない。

 しかし代わりに、友奈たちが側に立ってくれると言っている。

 ……信じていいのだろうか。

 赤嶺は友奈を見つめる。

 すると友奈は口元を緩め、こちらに手を指し伸ばしてきた。光に当たっているせいなのか、赤嶺の目には、その手が神々しく映った。

 

「だから私は赤嶺ちゃんのことが知りたい。赤嶺ちゃんにも、私のことを知ってもらいたい。それじゃあだめかな?」

 

「…………」

 

「私は助けたい。自分は一人だなんて言わないで。私に、赤嶺ちゃんを、助けさせて」

 

 ――なんて。

 ――なんてまっすぐで、曇りのない瞳なのだろう!

 疑いや畏怖といった色が一切ない。

 ただただ言葉通り、助けたいという気持ちが前面に押し出されている。

 気道が震える。吸い込む空気が生暖かい。

 難しいことなんて全てすっぽかした、素直な気持ち。

 赤嶺には、それがなかった。

 友奈は異端だ。神の業に手を出した咎人。殺さなければならない。

 しかしずっと昔に赤嶺の御役目は終わっている。だから、ここでは御役目に縛られなくてもいい……?

 誇りはズタズタにされた。

 もう、友奈を殺そうと簡単に気持ちを切り替えられない。

 赤嶺の目的は、元の時代に戻ること。それまでの足掛けとしてでもいい。赤嶺には心の拠り所が必要だ。

 

「……さい」

 

 消えそうなほどか細い声が、赤嶺の口から溢れた。

 

「助けて、ください。私に仲間をください。私に、居場所をください」

 

 ゆっくり。ゆっくりと手を伸ばす。指を限界まで伸ばす。

 暗闇から光へ。助けを求め、勇気を振り絞って泥臭く。

 友奈は無言で車椅子を前進させる。

 風と夏凛、高嶋が脇に避け、そこを低い駆動音とともに進み、赤嶺の前で止まった。

 迷いのない澄んだ瞳が赤嶺を映す。そして真剣な表情から一転、柔らかい笑みを浮かべ。

 

「もちろん」

 

 赤嶺の手を力強く受け取り。

 

「私たちは、同じ人間だからね!」

 

 と元気に言った。

 

 ◆

 

 赤嶺の敵としての警戒を解くことができたのはとても大きなことだ。

 高嶋の必死の訴えと、友奈の差し伸ばす手がなければ、赤嶺は出ていくことになっていただろう。

 ショッピングモールのベンチに座る高嶋は、たい焼きの尻尾の部分に大きく齧り付く。すると、口の中にほくほくした熱さが広がり、中の空洞から黄色のクリームがじわりと溢れてくる。

 あんこも捨てがたいが、なんとなくクリームを選んだ。

 

「高嶋ちゃん、ちょっと一口もらっていい?」

 

 そう尋ねてきたのは左脇の友奈だ。

 すでに自分のたい焼き――あんこ――を半分を食べ終え、目をキラキラさせて高嶋の持つたい焼きを見ている。

 

「あー、私も高嶋ちゃんのが欲しいなー」

 

 棒読みでそう追撃するのは、右脇でにやり顔をする赤嶺だ。今高嶋が齧ったのは、クリームがまだ出てこない『あそび』のような部分だ。ここからが美味しいところなのに。この友奈、策士……!

 まあでも、あんこも食べられるからいいか、と自分を納得させてふたりにたい焼きを左、右と順番に差しだした。

 首を動かして、クリームのたくさん含んだ部分を頬張る。なんだか餌付けをしているようで複雑な気分だが、「「美味しいー!」」と重なるのを見ると、それは吹き飛んだ。

 あれから二日が経ち、赤嶺の熱も完全に引いた。

 てっきり犬吠埼家に戻ってくると誰もが思っていたが、予想とは反して夏凛の家に留まる事を選んだ。理由は単純明快で、トレーニング器具があるからだそうだ。有り金を後先考えずにプロテインに貢ぐほどだ、夏凛の家はよほど魅力的に見えたのだろう。

 夏凛が呆れながら言うには、プロテインと煮干しの論争が繰り広げられ、結局は家主権限で煮干しで押し切っているらしい。

 それも一回や二回ではないという。音楽バンドの解散理由としてよくある『方向性の違い』が早くも露見しているのは不穏な予感がするものの、まあなんとかやっているから大丈夫だろう。

 今日は友奈ズでお出かけだ。

 ついていくと我儘を言い始めて友奈にしがみつく東郷を引き剥がすことに苦労したが、それはそれで面白い一幕だったかもしれない。

 そんなことを振り返りながら高嶋はふたりのたい焼きを一口ずつ頂戴する。程よい甘さが舌の上でじんわりと解け、つい頬がとろんと溶けてしまう。

 そのまま残りをあっという間に平らげたふたりは満足そうにお腹をポンポンと叩き、互いに顔を見合わせて笑った。

 

「ちょっとお手洗いに行ってくるね」

 

「じゃあ私が手伝うよ」

 

 スムーズに助けを申し出た赤嶺が友奈の後ろにまわり、車椅子のグリップを握った。友奈も一切警戒することなくモードをチェンジさせ、赤嶺にすべてを委ねる。

 食べるの速かったなぁ、なんて考えながら高嶋はようやく最後の一口を放り込んだ。

 当面の課題は、腕時計の仕組みの理解だ。どうやってもう一度時間遡行をすることが可能になるか。それがわからなければ、ふたりは永遠に帰ることができない。

 今の居場所は決して悪くないが、本当の居場所はここではない。

 若葉にひなた、杏と球子。そして千景。皆が高嶋を待っているはずなのだ。だから、帰らなければ。

 行き交う人々をぼんやりと眺めながらじっとふたりの帰りを待つ。

 傍から見れば三人は三つ子に見えていたかもしれない。赤嶺は褐色肌だから違和感は強烈なものだろうが、人々からは微笑ましく映っていたはずだ。

 せっかくショピングモールに来たのだ、樹と風に何かプレゼントを買うのもありかもしれない。……とはいってもお金は風からくれたものだが。

 まあ、いつもありがとうの感謝の気持ちが伝わればいいだろう。

 そうとなったら決まりだ。

 バネに弾かれたように高嶋は顔を上げた。

 

「…………?」

 

 そして気づく。

 今さっきまで賑わっていた人々の喧騒が、一切聞こえない。それどころか、恐怖を感じるほど静かすぎる。

 さらに一時停止になったように、誰一人として動きを停止させている。

 異常な状況とこれまでの記憶を擦り合わせ、これが樹海化の影響であると理解する。

 しかしそれはおかしい。

 バーテックスとの戦いは終わったと聞いている。

 これは誤作動か?

 それとも高嶋が知らないだけで、樹海化以外の、何かしらの現象が起こっている?

 高嶋のスマホは古いため、警報が通知されることはない。

 とにかく、友奈に聞かなければ何もわからない。

 まだトイレにいるはずの友奈に聞くべく、勢いよく立ち上がる。

 

「……牛鬼の対策はバッチリだな。――心配しないでいい、高嶋友奈。お前は何も考えなくていい」

 

 誰かの声が、背後から聞こえた。

 友奈ではない。赤嶺でもない。ややアルトかかっていて、身体の芯に重く響く声だ。

 振り返った高嶋の視線の先に、ひとりの少女がいた。滑らかな歩行でこちらに近づいてきている。

 なかなか見ない格好だ。

 高嶋の知る勇者装束とは少し違う。バイザーで顔を隠していて、短い白髪が艷やかに揺れる。濃い褐色の肌を際立たせる白い装束。それになにより、背後の巨大な光輪? のようなものが何よりも強い印象を抱かせる。

 この状況下で動くことができるということは、巫女か勇者だけのはず。外見からして巫女ではなさそうだから、きっと勇者だろう。

 少し気難しそうな人だ、なんて思いながらも高嶋は少女に話しかけた。

 

「初めまして! あなたも勇者……ですよね? これって樹海化で合ってますか?」

 

 少女の歩みは止まらない。

 

「ああ。樹海化で合っているとも。ところで、その理由をお前は知っているか?」

 

 抑揚のない声。まるで幽霊と話しているような感覚だ。

 

「いえ……わからないです。あなたは知っているんですか?」

 

「もちろんだとも」

 

 光輪が淡い光を放ちながら回転する。

 少女の表情が窺えない。しかし仄かに薬品のような……普通人間が発するはずのない化学臭がする。

 

「本来ならこの樹海化は発生しないはずだった。……三人の友奈。天の神への特攻を有する、勇者適性のある友奈が三人。しかもふたりは過去の人間ときた。これは明らかな叛逆の意思表示と思われて仕方ない。当然天の神は怒り心頭さ」

 

「何を、言っているの……?」

 

 舌が痺れる。

 本当に目の前の少女は勇者なのか?

 勇者たちは勇者部に集っているはずだ。友奈たちがこの少女の存在を把握しているなら、これまでで何らかの接触はあったはずだ。

 ……今、もしかしてとんでもない事態が起こっているのではないか?

 少女の歩みは止まらない。

 

「まだわからないか? 原因はお前と赤嶺友奈にあると言っているんだ。だが安心しろ。さっきも言った通り、お前は何も考えなくていい。ただ、ここからいなくなれば(・・・・・・・・・・)すべて解決し、天の神の怒りも鎮まるだろう」

 

いなくなる(・・・・・)って……?」

 

 少女が高嶋の前に立つ。

 背丈は高嶋より拳一つ分ほど高い。

 バイザーの放つ燐光は暗い深海よりなお深い闇を映していて、高嶋はつい呆けてしまう。

 不意に、胸の中心に何か硬いものを押し付けられたのを感じた。

 

「死んでもらうってことだよ」

 

 首を下に傾け、押し付けているものの正体を暴こうと凝視する。

 黒い光沢をギラギラと放つそれは――。

 

「――――」

 

 何であるかを理解した。

 いや、理解してしまった。

 だがそれはあまりにも遅すぎた。

 刹那、死の冷たさが一気に全身を支配する。

 咄嗟に身体を投げだそうとするも、脳からの命令を四肢が受け付けるより先に、少女は冷徹に引き金を引いた。

 どん、と破裂するような音。瞬間的な激しい響きが、静寂なショッピングモール内で遠く反響した。

 撃ち出された弾丸は、無慈悲に寸分の狂いもなく高嶋の心臓を捉えた。

 

「――、か、ふっ……」

 

 絶対零度の冷たさが胸を刺し、直後、猛烈な熱……激痛が爆発する。

 そしてこれはダメだと即座に悟る。

 視界が定まらない。

 呼吸が急激に浅くなり、生の鼓動が停止する。

 ……最後にしっかりと映ったのは、いつまでもこちらを無言で見下ろす、死の光だった。

 高嶋の身体が倒れる。

 少女――征矢は倒れた高嶋の胸に弾丸をさらに二発撃ち込む。

 それだけでなく、念には念をとばかりに、額に最後の一発を放つ。

 後頭部から脳髄が放射状に撒き散らされ、高嶋の身体は最後にびくんと大きく震え、血の海に沈んだ。

 拳銃を放ると、地面に落下する前にしゃららん、と闇色の花弁と共に消え去る。

 征矢の靴先が、色濃い血色に染まる。

 そして、静かに征矢は口を開いた。

 

「――高嶋友奈、処分完了」




鬱は始まったばかりです

それではまた次回!


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開戦

前回のあらすじ
高嶋友奈の処分完了。残る処分対象は、赤嶺友奈

脳内戦力設定は、
征矢<赤嶺(祝詞無)<<<高嶋<赤嶺(祝詞有)<友奈たち≒切り札<<<満開



 それは、友奈には聞き慣れない音だった。

 強烈な炸裂音。ショピングモールでそんなことがあるとすれば……風船が割れる音くらいしかわからない。だが、炸裂後の余韻からしてそうではないと風船である可能性を捨てる。

 ただ、それが只事ではないことはすぐに理解できた。

 多目的トイレにいた友奈と赤嶺は、すぐに樹海化が起こったことに気づくことができなかった。

 少しの間が空いて、二回、一回と続けざまに聞こえた音は、なんの音であるかは友奈でも完全に理解できた。

 そして、ようやく遅れて樹海化警報の通知が友奈のスマホからけたましく鳴り始めた。しかしその場にはすでに赤嶺の姿はなく、常人離れしたスピードでドアを開けて飛び出した後だった。

 友奈も急いでスカートを腰までたくし上げて、車椅子を動かして音のした場所へと向かう。

 実際に樹海化するまでには幾ばくかの時間がある。それまでに起こった『何か』を確かめなければ。そんな強い焦燥感に駆られる。

 また、自分のせいで嫌なことが起こったのではないかという恐れ。今日は誰にも呪いのことは話していないはずだ。しかし友奈が知らないだけで、もしかするとトリガーとなる言動をしていたのかもしれない。

 心がきゅうう、と締め付けられるのを感じながら友奈は手元のレバーを倒す。

 どくんと強く心臓が脈打つ。血流が普段の倍近くの速度で全身を駆け巡り、身体がどっと熱くなる。

 冷たい手汗が滲み出て、レバーを握る手の感覚が希薄になる。

 音のした場所は――高嶋のいる場所は、そこの左右の曲がり角を左に曲がった先だ。店頭で賑わっている人々の一瞬を3Dで切り取ったような空間を友奈は進み、曲がり角を曲がる。

 そして、変わり果てた高嶋の亡骸が視界に飛び込んできた。

 

「――――――――――」

 

 血溜まりの中心に、力の抜けた高嶋。そしてそれを、自分が血塗れになるのを構いもせずに抱き起こす赤嶺の姿があった。

 丁度開いていた瞼を、赤嶺がそっと手を顔にかざして下ろしてやる瞬間だった。

 

「高、嶋……ちゃん――――?」

 

 死ん……でいる。

 間違いなく、死んでいる。

 額を貫いている穴が後頭部まで続き、脳の一部がそこから流れ出ている。

 夥しい血を見たことによるショックや吐き気などといったものは、友奈にはいっさい生じなかった。

 代わりに、友奈の中で一切の思考が停止した。

 赤嶺は念の為持ち歩いていたであろう戦闘用スーツに着換え、優しく腕に亡骸を抱えながらある一点を獣のような獰猛な眼力で射抜いている。

 友奈もそれにつられ、視線をぎこちない動きで持ち上げる。

 その先には、異様な雰囲気を纏う、ひとりの少女がいた。

 およそこの辺りでは見ない格好をしている。勇者装束……とは少し違ったデザインだ。

 少なくとも友奈の知る人物ではない。初対面だ。

 樹海化が発生しても動いているから、この少女は神樹の恩恵を受けているはずだ。もし違うのならば、それは天の――。

 

「結城友奈、か。安心しろ。お前は殺さない。どうぞ、これから起こる戦闘に励むといい。私は応援しよう」

 

 そう、滑らかな物言いで少女は友奈に語りかけた。

 だがそれでも友奈はすんなりと受け取ることができなかった。

 なぜなら、少女の足先が明らかにそういう色付けをされたわけではない、赤い着色がされているからだ。

 

「着替えながら急いで来たけど……これは、どういうこと?」

 

 肥大化して抑えられなくなりそうなほどの殺意をなんとか押し留めて赤嶺が少女――征矢に問うた。

 すると征矢は何を馬鹿なことを言っているのだという風に答える。

 

「あの時言っただろう? 辞令が下った時点で、お前と高嶋友奈の死は確定しているのだと」

 

「でも……でも、お前は私が確かに殺した。灼いて、骨にまでした。砕いて、その辺の脇道に蹴散らした」

 

 そうだ。

 片腕を斬り落とし。首を貫き。

 確実に殺した。どうしようもなく、絶対的に。

 なのに征矢は目の前でピンピンしている。そんなこと、誰が予想できただろう。

 決闘での友奈の蘇生とはまるで訳が違う。完全な肉体の復活。

 現実的にあり得るはずがない。この世の理に真正面から喧嘩を売っているようなものだ。

 完全に安心しきっていた。

 征矢の襲撃はもうないと頭から除外していた。そのせいで高嶋を今、失った。

 何の為に念を押してスーツを持ってきていたのだ。

 

「殺した程度で私が死ぬと?」

 

 両手を広げ、健在であることをアピールする。

 赤嶺は憎たらしい敵を見据えて歯噛みした。

 

「あなたが、高嶋ちゃんを……その……こ、ころ……殺した、の?」

 

 樹海化警報の通知はとうに鳴り止み、今は電話のコール音がけたましく鳴り響いている。

 相手は風だ。

 しかし、手元のスマホの振動をそのままにして友奈は震える声で尋ねた。

 

「ああ、殺したとも。高嶋友奈と赤嶺友奈はこの世界にいてはならない。そのしわ寄せがこの樹海化だからな。もし今すぐ赤嶺友奈が死ねば、天の神も赦して手を引いてくれるかもな?」

 

「そんな……殺さなくても……きちんと話し合って――」

 

「――はあ。お前は実に馬鹿だな。赤嶺友奈より話が通じない。そんな脳内お花畑な次元の話をしているのではないのだが」

 

 明確な侮辱。

 征矢の凍てつく声に、友奈の喉はきつく締め上げられた。

 その間にも樹海化は進み、極光の波が世界を覆い尽くす。

 思わず目を閉じ、次に開けたときには、友奈たちは青く太い根の上に立っていた。

 植物特有の香りが仄かに匂い、遥か遠い前方を見れば、東郷によって破壊されたはずの壁が修復されている。

 

「これ以上お前と話をする必要はない。さあ、勇者として敵を倒してくるといい。……まあ、その身体でどこまで持つかは知らんが」

 

 じろりと友奈の身体を睨んで率直な感想を述べる。まるで透視されているような感覚だ。右半身麻痺のことを言っているのか、それとも天の神の祟りと謎の枝木のことを言っているのか。

 もう用済みだとばかりにひらひらと手を振ると、征矢は踵を返して歩き始める。

 

「来い、赤嶺友奈。もう少し後方で殺し合おう。邪魔は入ってほしくないからな」

 

「いいよ。何度でも殺してやる。何百でも、何千、何万回でも」

 

 高嶋の遺体をそっと置いた赤嶺は、友奈に「高嶋ちゃんをお願い」とだけ言い残して征矢の後を追っていってしまう。

 ひとり取り残された友奈は、ようやく電話のコールに応える。

 

『ああ……! やっと繋がったわ! 今全員でそっちに向かってるんだけど、赤嶺と高嶋はそこにいる⁉』

 

「…………」

 

『友奈……?』

 

「っ…………ぁ、た、かし……」

 

 思うように口が動かせない。すぐ側に高嶋の死体があるという現実が、今になって友奈を襲い始めたのだ。

 あまりの恐怖に、歯をガチガチと鳴らす。

 ひとつまみ分ほどの呼吸を繰り返すのが精一杯で、まともに話したいことが話せない。

 もうどれくらいの量の血が流れたかわからないほど根を血色に染めていた。

 強い鉄の匂いが鼻腔を刺激し、友奈は顔を苦痛に歪めた。

 

『友奈⁉』

 

 電話と、少し離れた距離から同じ声が重なって聞こえた。

 バネに弾かれたように顔を上げた時にはすでに、勇者装束を纏った風に樹、東郷と夏凜が友奈のいる根より高い位置に伸びている根から飛び降りてきていた。

 血相を変えて友奈に駆け寄ろうとした東郷の勢いが、一瞬にして消し飛ばされた。駆け足から力のない歩行へと代わり、そして友奈の前で緩やかに停止した。

 青ざめた顔は友奈の更に後ろ、血溜まりに倒れている高嶋を向いている。

 

「ぇ。これ。どういう……?」

 

「高嶋ちゃんが、殺され、ちゃった……」

 

「バーテックスに……?」

 

 違う、人だ。

 まだバーテックスは一体も壁の内部には侵入していない。

 

「知らない人が……」

 

 それだけ口にすると、一気に直前の記憶が溢れる。

 

「あ、赤嶺ちゃんが、その人と向こうで殺し合いをするって……!」

 

 流れに逆らわず、しどろもどろになりながらもなんとか状況を説明する。

 東郷は、続いて頑張って具体的に話そうとする友奈を押し留めるように小刻みに震える手に、そっと指を絡めた。

 

「落ち着いて……落ち着いて、友奈ちゃん」

 

 柔らかいふたりの指が絡み合い、「真似をして」と囁いた東郷の深呼吸の動作を、ゆっくり繰り返して友奈は心の平穏を取り戻した。

 その間に夏凛が高嶋を抱き上げて近くまで運んでくる。

 

「――誰よ」

 

 夏凛はマグマの如き熱を孕めてそう言った。その目には憤怒の色が濃く滲んでいる。

 

「向こうに行ったのね? 赤嶺の加勢に行くわ」

 

「待ちなさい夏凛!」

 

 二振りの刀を両手に今にも飛び出しそうな夏凛を、風が肩を掴んで引き留める。

 振り返った夏凛は、隠し切れない怒りを爆発させた。

 

「なんで止めるのよ! 高嶋を殺した奴を放っておけるはずがないでしょ⁉」

 

「……違うの。これ、見て」

 

 風が差しだしたのはスマホの画面だ。

 しかし夏凛はそれを振り払って進もうとする。

 

「なんなのよ!」

 

「いいから! ……いいから、見て」

 

 有無を言わせない鋭い睨みについに折れた夏凛が、若干急かすようにスマホの画面を覗き込む。

 すると、みるみる内に顔が真っ青になり、目を見開いた。

 

「⁉」

 

 銃弾の速度でその場から跳躍し、遠くを見渡せる上の根に移動して壁を見据える。

 すでにバーテックスは侵入していて、白という恐怖の色が空を埋め尽くしていた。

 だが夏凛が戦慄したのはそこではない。

 くっきりと遠目でも視認できる、強大なシルエット。星座の名を頂戴した、進化型のバーテックス。

 

 それが、十二体(・・・)

 

 夏凛のスマホの地図アプリにもしっかりとそれぞれの名前がタグ付きで表示されている。

 綺麗な横並びで侵攻する背後を、圧倒的な量の極小の赤点が埋め尽くしている。

 これほどの猛攻は、初めてだ。

 東郷が壁を破壊したことによって侵入してきた時の比ではない。今まで手を抜いていたのかと思ってしまうほどの、物量でものを言わせた侵攻。

 とてもではないが、夏凛たちで相手取ることは無理だ。

 ひとりひとりの戦闘力はあっても、それは『個』である。

 分散して範囲を補っても、とても超高範囲をカバーしきれない。

 夏凛の隣に立った風と樹が、悲壮感を醸し出しながら仰ぐ。

 

「私だって……今すぐに赤嶺を助けに行ってやりたい。助けるって、そう約束して迎え入れたから。でも、悔しいけどそんな余裕はないわ」

 

「クソ……クソッ!」

 

 血が滲むほど固く拳を握りしめた夏凛は、苛立ちを隠すことなく地面を力強く踏みつけた。

 

「……急ぎましょう。一秒でもはやくバーテックスを全部倒して、赤嶺さんを助けに」

 

「……そうね」

 

 樹の冷静な言葉に頭を冷やされ、夏凛は自分の肩に刻まれた満開ゲージを見つめた。続いてじりじりと距離を詰めてきているバーテックスたちを眺める。

 ……満開の使用は避けられないだろう。

 そうすれば精霊バリアは張られなくなり、敵の攻撃の防御手段は己の肉体のみ。いくら勇者装束で身体強化がされていても、直接的なダメージは絶対に避けられない。

 それは樹もわかっているだろう。頬を強張らせて緊張を見せている。

 背水の陣。

 この状況に最もふさわしい言葉だ。

 下の根では、東郷が友奈に優しく語りかけていた。

 決意と覚悟を胸に、長い銃身を担ぎ上げる。

 

「友奈ちゃんはここにいて。それで高嶋さんを見てちょうだい」

 

「それはダメだよ……こんなに多くのバーテックス、ひとりでも戦力が多い方が……」

 

「今の身体の友奈ちゃんに戦ってほしくない。……こういう時くらい、守らせてくれてもいいんじゃない?」

 

 知っている。鮮明に覚えている。

 守りあうという約束。幾度もチカチカと発光する眩い星。

 それを果たすために、友奈は目覚めた。

 その恩返しといった形がしたいのだろうか。

 しかし友奈は戦えないわけではない。

 戦う意志がある。勇者アプリを起動させれば、勇者に変身できるはずだ。

 東郷だって、下半身が麻痺していても必死に戦っていたではないか。

 樹海化が始まった瞬間、この展開を友奈は予想していた。

 東郷が不自由な身体の友奈を戦わせないように説得する展開を。

 分厚いコートの下の、右腕のギプスをそっと撫でる。

 先日ギプスを突き破って生えた枝木の感触がコート越しでもはっきりとわかる。

 正直、今まで誰にもバレなかったのは奇跡といえる。細心の注意を払っていても、どこかでボロが出て一気に『秘密』が暴かれるのではという恐れがあった。

 それを隠すために、友奈も初めは東郷の進言に大人しく従おうと考えていた。

 だが、そんな他力本願ではこの侵攻を阻止できない。前回は死闘だったが、今回のほうがさらに死闘だ。

 精霊バリアの回数制限が設けられたことで、難易度が嘘みたいに跳ね上がっている。おいそれと攻撃を受けることはできない。

 ……戦うしかない。

 それはつまり、もう自分から『秘密』を暴露するしことと同義だ。

 覚悟を決めろ、結城友奈。

 やらずに後悔するよりも、やって後悔するほうが、何倍もマシだ。

 

「ごめん、東郷さん。そのお願いは……聞けない。私も東郷さんと同じくらい守りたいって思ってるから。私のわがまま、受け取ってほしいな」

 

 そう、ほろりと小さな笑みを零した友奈は。

 ゆっくりと。

 車いすから。

 四肢を動かし(・・・・・・)

 立ち上がった(・・・・・・)

 

「――――」

 

 その様子を見た東郷は信じられないものを見た風に動きを停止させた。

 こちらを見下ろしていた風たちも、一切の思考が吹き飛ばされた顔になる。

 友奈の右半身麻痺は、リハビリしても完治しないと診断されたはず。それなのに、まるでそれは悪い夢だったかのような滑らかな立ち上がり。

 数度動作を確認するように足踏みをして、右肩を一周二周と大きく回し、再び東郷を見た。

 その目は少しだけ、寂しげだった。

 

「……ごめんね。今まで嘘をついてて。本当は東郷さんを助けに行った次の日には、全部治ってたんだ」

 

 そう言うと、友奈は着込んでいたコートを脱ぎ捨てた。

 明らかに肌色ではない有機物が、ギプスから伸びている。

 そして、動かないはずの右の拳に力を込める。すると有機物――枝木が、不自然に蠕動しながら右腕の浸食範囲を広げ、ついには固い材質で作られているはずのギプスを粉砕してみせた。

 同時に鮮血が吹き出し、友奈は鋭い苦悶の声を漏らした。

 今か今かと解放を待ち望んでいた枝木は、あっという間に友奈の右腕を覆い尽くす。それだけではなく、胴体を伝って腰にまで先端を伸ばす。

 

「友奈ちゃん!」

 

 東郷の悲鳴混じりの声。

 想像以上の激痛に耐えきれず、友奈はその場に片膝をついた。

 伝播する痛みを、奥歯が割れるほど噛み締めてなんとか耐え抜くことができた。

 支えようと差し伸ばされた東郷の手を、ねっとりと血に塗れた手でとる。

 

「ありがとう……大丈夫だよ。これくらいなら、我慢できるッ、から」

 

 友奈の顔の横に牛鬼が音も無く現れる。

 主人の傷はいざ知らず、いつも通りの呆けた顔だ。

 

「牛鬼。高嶋ちゃんをお願い。これ以上、傷つけられないように」

 

 この戦闘はこれまでになく激しいものになる。

 その余波に巻き込まれて高嶋の骸がこれ以上汚されるのは決して許してはならない。

 力のこもったお願いを聞き入れた牛鬼は友奈に背を向け、ふよふよと浮遊して高嶋の頭上で停止した。

 これで安心だ。

 ここ最近、牛鬼には精霊としての枠組みを超えた何か強い意志のようなものが存在しているのではないかと友奈は密かに予感している。

 特に高嶋がいる時に、その力を発揮する。

 明らかに牛鬼は高嶋に対して何らかの思い入れがあると見ていいだろう。

 だからきっと、牛鬼は高嶋を守ってくれるはずだ。

 信頼を牛鬼にすべて預ける。

 だから、お願い。

 友奈の想いが伝わったのか、牛鬼が一瞬だけこちらを見た――ような気がした。

 二体目の精霊、火車を呼び出す。

 同時にスマホが左手に収まる。

 画面は眩い光を放ち、勇者の胎動を待っている。

 

「……私は、勇者になる!」

 

 親指で画面をタップする。

 そして花弁が激しく舞い、次の瞬間には勇者装束を纏った友奈が毅然とした佇まいで立っていた。

 ……装束の下で、胸の紋様が(ひず)み、赤く疼いた。

 

 ◆

 

 赤嶺には征矢に対する恐怖が根深く刻まれている。

 こうして征矢の後ろについて歩いているが、背中がガラ空きだ。不意打ちで攻撃し、仰け反ったところで首を掴み、力任せに折る。時間にして二秒を切る。

 シミュレーションは完璧だ。

 だが、それを実行に移すことができなかった。

 額から流れる脂汗。

 静かに乱れる呼吸。

 何ひとつ、赤嶺は平然を保つことができない。

『恐怖』が目の前にいるのだ。

 人間とはまるで思えない最後の一幕が、目を閉じれば瞼の裏にありありと映し出す。

 これを拭えない。なかなか取れない赤錆のようなしつこさが海馬に深々と埋め込められていて、抜き出せない。

 

「――さて」

 

 十分離れたところで征矢は落ち着いた様子でこちらに向き直った。

 

「隙だらけの私に攻撃を仕掛ける気概くらい見せてほしかったが……なんだ、鏑矢としてだいぶ垢抜けたな」

 

「……」

 

「まあそうしないとやっていけないだろうな。鏑矢なんて存在、とっくの昔に終わってるしな」

 

「……なんだって?」

 

 ピクリと赤嶺の眉が釣り上がる。

 今、聞き捨てならない言葉を耳にした。

 赤嶺は驚愕をひた隠しにして返す。

 

「当然だろう。この世界の暗部を任せるなんて、ただの子供には荷が重すぎた。場合によっては人を殺すんだ。いくら心が鍛えられても、精神年齢は子供のままだ」

 

 征矢の言っていることは間違っていない。

 赤嶺も、そういった危険性は十分に理解している。理解した上で、鏑矢の御役目を頂戴することを決めたのだ。

 老若葉は鏑矢という御役目にあまり良い印象を持ってはいなかった。とうに大赦の看板キャラとしてのキャリアは終わり、余生をのんびり過ごす老若葉。ゆえに、もはや大赦のやることに口出しする力はほぼ失われている。

 しかしそれを言い出したら、人外のバケモノと命懸けで戦っていた老若葉はどうなのかとなってしまうから、特にその話題に触れることはなかった。

 

「お前は? 私と対して変わらないでしょう?」

 

「私は問題ない」

 

「なら私も大丈夫なはず。あそこに建てられた石碑の名前が何よりの証拠だと思うけど?」

 

 英霊之碑で自身の名前の存在は確認している。

 あそこには、偉業を成した人物の名前が英霊として刻まれている。

 蓮華に静の名前も確認済みだ。

 立派に御役目を成し遂げたという大赦も認める功績である。それを疑う余地などあるはずがない。

 

「それは当然だ。お前たちは偉業を成した。その意味はとてつもなく大きい。――大きすぎた」

 

「もったいぶらないでよ」

 

「どうして詳細を話さないといけない。お前には関係のないことなのに」

 

「は? 意味がわからないんだけど?」

 

「いいか? 良い事を教えてやろう」

 

 そう言うと、征矢は肩の力を抜いてひとつため息をついた。

 

「歴史は常に最前線を歩んでいる。だから未来は変えられない。過去を無かったことにもできない」

 

 何を言っているのかいまいち理解できない。

 赤嶺はその意味を咀嚼しようとするが、これは罠なのではと勘ぐる。

 過去と未来は繫がっている。歴史はその結果として紡がれるものだ。

 西暦での初戦に参戦してしまったが、それほど大きく貢献したわけではない。『赤嶺友奈が西暦時代にも存在した』という歴史が存在していないことが、その証だ。

 

「歴史を変える変えないで悩んでいるのなら、それはお門違いだ。なぜなら、お前の世界の郡千景は最後まで御役目を全うし、この世界の郡千景は穢れに負け、途中で殉死したのだから。……異世界からの干渉は許されない。歴史を紡ぐのはいつだって、そこで生きる人々でなければならない」

 

「――――」

 

 すらすらと語った征矢の言葉を、赤嶺はすぐには理解できなかった。

 それを誤魔化すように、バイザーが放つ、仄かな燐光を睨みつける。

 そして、これ以上話すことはないとばかりにガシャン! と装甲を展開。意識を戦闘モードに切り替え、目をすぅ、と細めた。

 ぱっと見たところ、以前から姿形に変わりはない。あの奇怪な光輪と、左右に伸びる羽のような形状の物体は健在だ。

 赤嶺の雰囲気が変わったことを察知したのか、征矢は背後の光輪を輝かせ、ある武器を手に収めた。

 それは、ひと振りの太刀だった。

 ただの太刀ではない。

 鞘からゆっくりと、空気すら裂く音と共に鈍色の光沢を放つ刀身が抜き放たれる。

 その洗練された美しさに、つい赤嶺は息を詰まらせ、小さく喘いだ。

 

「そんな……馬鹿な……ありえない……」

 

 それを知っている。

 一度、西暦で目にしている。これを使ってあの人が戦っていた記憶が、強く残っている。

 生大刀だ。

 

「今、お前が思っているので間違いない。しかしこれはレプリカだ。力を宿しているわけでもない。本物には遠く及ばないが……十分に使える。……あの男め。修繕の方が得意だと言う癖して、しっかりしている」

 

 遠くで激しい戦闘音が響き始める。

 どうやらバーテックスとの戦いが始まったようだ。様子は見えないが、誰も援護に来ないあたり、相当余裕のない戦いが繰り広げられているのだろう。

 ……恐怖に打ち勝て。

 

「……なあ」

 

「……なに?」

 

「そんなに私が怖いか? さっきから身体も声も震えているぞ?」

 

「――――ッ!」

 

 嫌いだ。こいつが、嫌いだ!

 触れてほしくないことを、触れほしくないタイミングで平然と口にするその態度が大嫌いだ!

 殺す! 絶対に殺す!

 何度蘇生しようが、そっちが諦めるまで、何度でも殺してやる。

 鏑矢としての冷徹な側面を呼び起こす。

 こいつにだけは、容赦なく殺意を剥き出しにしていい。

 高嶋を殺したのだ。偶然とはいえ、巻き込まれて三百年後の世界に飛ばされただけなのに。

 高嶋は赤嶺より遥かに心の強い少女だ。だからこそ勇者として混沌の西暦で戦い抜くことができたのだ。

 過去に残してきた仲間たちのことをずっと想っていたはず。

 帰りたい、と。

 でも、そんなことを皆の前で口にすることは一度もなかった! 折れて、泣いて、無様だった赤嶺を鼓舞してくれたのも高嶋だった!

 友奈たちよりも、高嶋が一番『強い』勇者であると赤嶺は知っている。

 

「――火色舞うよ」

 

 殴る。まずは殴る。

 征矢の強さは理解できている。祝詞の付与のない赤嶺でも余裕を持ってやりあえる。

 落ち着いて対処すれば、もう一度殺せる。

 鋭く空気を吸い込み、一息に赤嶺は征矢の懐に潜り込む。同時に太刀の間合いへと入る。

 当然征矢も柄の部分を握り締めて下段に構える。

 左腕の装甲を向ける。これで太刀を受け流して右の拳でその憎ったらしい顔面に食らわせてバイザーを砕いてやる。

 両の指に施した、鋼鉄のコーティングで……!

 距離にして一メートル未満。

 まだ征矢が太刀を振るモーションはない。赤嶺の突発的な動きに反応できていない。

 やはり、征矢は弱い。

 いける。

 そう確信した瞬間。

 

「……火色舞うよ」

 

 征矢の艷やかな口から、赤嶺と同じセリフが囁かれた。

 いや、これは精神的な揺さぶりだ! 無視しろ!

 しかし、次の瞬間に起きた出来事は赤嶺のこれまでの思い込みを正面から打ち破るものだった。

 まずは、征矢の手元がブレる(・・・)

 そして、太刀が消えた(・・・)

 

「!?」

 

 軌跡なんてものは、もはや赤嶺の目には見えなかった。

 不可視の剣撃が、差し出された左手首の装甲に触れる感覚を……感じられなかった。

 一閃が、まるで豆腐を斬るような呆気なさで装甲を断ち。

 左手首の骨をも、いっそ惚れ惚れするほどの綺麗な断面を残し。

 切断された左手が、握り拳のまま飛ぶ。

 それだけに留まらず、刃は赤嶺の胸を大きく切り裂いた。

 

【挿絵表示】

 

 僅かに遅れて、とてつもない衝撃が赤嶺を吹き飛ばした。真紅の液体を撒き散らしながら、身体が高く宙を舞う。

 驚愕すら遥かに超えた感覚に襲われながら、赤嶺は床に墜落し、大量の鮮血が周囲に散った。

 明らかに前回よりも強くなっている。それこそ、あの戦いがお遊びだったような気すらした。

 振り上げた姿勢のまま、征矢はこちらを見下ろす。

 生大刀には、血糊がべっとりと染み付いている。

 そして悠然と呟いた言葉が、かすかに赤嶺の耳に届いた。

 

「――是、朧斬り也」

 

 赤嶺の知っている、あの人の、剣技。




鏑矢【赤嶺友奈】<<<<<<<征矢【旧名:####】

それではまた次回!


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激戦

前回のあらすじ
鏑矢【赤嶺友奈】<<<<<<<征矢【旧名:####】
赤嶺友奈、左手首切断


 悠々と侵攻するバーテックスの大群は壮観で、友奈たちは改めて物量の差を思い知らされる。

 四国以外の(恐らく)地球全土がバーテックスの世界になっているのだ。ほぼ無尽蔵に発生するバーテックスたちは、四国の人口と比べることすらわけないほど膨大な数である。

 横に並んだ六人は静かに遠くを臨む。

 樹が胸元で、小さく拳を握った。

 

「皆。わかってるとは思うけど、この戦いは長引けば長引くほど私達に不利になるわ。だから短期決戦を提案する。出し惜しみ無しで始めっからぶっ飛ばす。満開して、速攻で片付ける」

 

 大剣を肩に担いだ風は、静かに案を提示した。

 今のところ、バーテックスたちに戦略的な動きは見られない。ネームドのバーテックスたちがさらに合体して超強力になる可能性は防ぎたい。もしかすると十二体がひとつに合体する可能性だってある。六体が合体することで、宇宙規模の御霊を生み出していた。

 もし十二体の合体を許せば、満開しても勝ち目がなくなってしまうかもしれない。

 それを防ぐためにも、速攻で。

 さらに、一刻も早く高嶋の遺体の安全の確認、そして赤嶺を助けに行かなければ。

 勇者は六人。単純計算でひとり二体倒せばいい。しかし、雑魚敵の相手も同時にしなければならない。満開の持続時間がどれほどかわからないが、それまでにネームドを。

 それさえできれば、あとは残った雑魚敵の相手をするだけでいい。

 

「ふーみん先輩に賛成です。ここは一気にずがががーん! と一掃するほうがいいと思います」

 

 風に追随したのは園子だ。

 全員が一度は満開の経験がある。おおよその持続時間も体感でわかるはずだ。

 しかし満開するということは、満開ゲージをすべて消費することを意味していて、それ以降は精霊バリアが発動しない。

 残る掃討戦ではより慎重に戦わなければならないだろう。

 ぐっ、と園子は槍を握る。

 アップグレード前ならば、精霊たちの力を無尽蔵に行使して無双、なんてことができたが今は叶わない。

 口惜しいが、ないものねだりはできない。

 

「大丈夫! だって、勇者経験者がふたりもいるんだぜ〜? そうだよね、わっしー」

 

 東郷……以前の名を、鷲尾須美。

 そしてもうひとり、本当は先代の勇者がいた。

 果敢にバーテックスに立ち向かい、精霊の力も、満開も使用せずに三体を撃退して殉死した勇者。

 その名は、三ノ輪銀。

 もし生きていれば、ここには夏凜ではなく銀が立っていたかもしれない。

 しかしそれは、夏凜が勇者として勇者部に来ないということだ。

 ……それは、違う。

 東郷は自然と、右隣の夏凜の手を握っていた。

 普段なら驚いて「何よ⁉」と恥ずかしがりながら嫌がる素振りを見せるが、今回はそんなことはなかった。

 言葉はなかった。

 しかし、ぎゅっと握り返された強い感触が何よりの返事だった。

 

「ええ、もちろんよ。私達は必ず勝つ。一匹たりともバーテックスを神樹様に辿り着かせない」

 

 過去を一切合切捨てるとまでは言わない。

 時々振り返って、思い出に耽り、懐かしむくらいはいいだろう。そして後悔することも、別にいいだろう。

 でも、それに固執するのは駄目だ。

 最も大切にすべきは、過去ではない。今だ。今を大切にできない人間に過去を覗く資格などなく、未来を臨む資格もなし。

 夏凜というかけがえのない存在は、過去から導かれた捨てがたい『今』なのだ。

 そして当然、友奈も。皆も。

 

「風先輩。円陣を、組みましょう」

 

「……私が言おうと思ったけど、まさかあんたが先だとはね。ええ、もちろんよ」

 

 本当なら今すぐにでも飛び出してバーテックスを倒さなければならない。

 しかし、円陣という時間の無駄にしか思えない前振りは、どうしても必要な手順だ。気合を入れるといった目的ももちろんあるが、勇者部としての己を再確認するためでもある。互いを信頼し、信用する。

 ただの一人も欠けてはならない。

 皆、無事でいてほしい。

 そんな切実な願い。

 六人で円陣を組み、両隣の肩に腕を伸ばす。すると東郷の手に人の肌ではない硬い感触が返ってくる。

 友奈の枝木だ。

 生えてきた時の血はまだ乾いておらず、赤く塗れた幹を袖が擦る。

 

「ごめんね東郷さん。私の血がついちゃって」

 

 申し訳なさそうな横顔で謝る友奈に、東郷は首を振った。

 

「気にしないで。これを友奈ちゃんの最後の流血にする」

 

 手に付着した血を感じながら、強く、強く誓う。

 何度でも友奈を守ると。

 何度も助けられた。

 だからそのその恩返し、などではない。東郷自身がそう思うから。願っているから、見返りなんてものもいらない。ただ、友奈には元気に生きてほしい。それだけだ。

 きっと友奈も同じようなことを東郷に対して思っているだろう。

 絶対的な信頼関係。たとえ神であろうとこの繋がりを断つことはできない。

 いや、させない。

 東郷は一層腕に力を入れた。

 

「それじゃあいくわよ! 勇者部――!」

 

 ファイトォ!! と六人の力強い鬨の声が樹海に響く。

 円陣を解き、ぐっと脚に力を込める。

 そしてめいっぱいその場から大きく跳躍した。

 満開ゲージをすべて消費する、時間制限ありのシステム解放の名前を高々と吼えた。

 それぞれのイメージカラーの巨大な花が、ここに私達がいるぞとばかりに、煌々と咲き誇った。

 

 ◆

 

 痛みには慣れていたはずだった。

 しかしそれは、愚直な思い込みであると痛烈に気付かされた。

 鏑矢として戦う以上、怪我は避けられない。最後に蓮華と一緒に臨んだ御役目でも、大男との一対一でこれでもかと痛みを味わった。しかしそこで身体がすくんで萎縮したりすることはなかった。戦意が削がれるなんてあるまじきことはなかった。

 普段から蓮華との鍛錬で打ち合っていたし、老若葉に足腰が立たなくなるまで文字通りボコボコにされることなんて、数えるのが嫌になるほど経験した。

 だから痛みには耐性があると勘違いしていた。

 真の痛みとは、これほどのものなのか。

 業火ががむしゃらにしゃぶるように赤嶺の身体を貪り、左の手首と大きく切り裂かれた腹部からどくどくと恐ろしい速度で血が流れている。

 いつしか感覚すら希薄になってきて、生命の危険すらあると鈍くなった思考が本能で悟る。

 もしかすると内臓にも刃が届いているかもしれない。

 ……今は敵の目の前。すぐにでも立ち上がらなければならない。

 だがそれをすぐさま行動に移すことができなかった。

 闇に虹をぶち込んだような暗色の空を見上げながら、赤嶺は今になって襲ってきた戦慄に息を詰まらせる。

 数秒前に起こった出来事がフラッシュバックする。その中で、ふたつのシーンが強く頭に響いた。

 

『火色舞うよ』

 そして、

『朧斬り』

 

 確かに征矢はそう言った。聞き違えるはずがない。

 そして間違いなく、征矢の放った朧斬りは本物である。

 元々は老若葉の剣技。勇者時代でもこれを放っていたのかは知らないが、誰にも再現できない絶技のはず。

 大赦のイメージ向上の一環として昔の老若葉が演舞を披露する際、朧斬りを放つ場面がいくつかあった。本人はノッたからだと言って健康的な皺を重ねながら笑っていたが、どう見ても複数回催されたそれらの様子を録画した動画では、必ず一回は披露していた。

 ということは毎回なんだかんだノッていたのだろう。

 もちろんそれを直に見る人々がいるわけで、伝説の勇者の放つ剣技だ、誰しも真似したくなるのは当然。

 相当な人数が朧斬りを修得せんと躍起になっていたのを知っている。真似したものを動画に撮って、動画サイトに投稿することなんてざらにあって、当然赤嶺もその中のいくつかを興味本位で見たことがある。

 

『全然駄目ね。速度も滑らかさも、まるで若葉様に及ばない』

 

 画面を覗き見した風呂上がりの蓮華が、裸でタオルを首にかけたままそう辛辣にコメントしたのを覚えている。

 確かに赤嶺の目からしても上手く言語化はできないが、違うと確信できる。なぜなら最も間近で何度も見たことがあるし、何度も身体に打ち込まれたことがあるから。

 ……だからこそ、征矢の朧斬りが本物であると、身体が直感的に感じ取った。いっそ恐ろしいほど、しっくりきた。

 視界の上部でチラリと死の光が映り込む。

 瞬間、赤嶺は死に物狂いで首を曲げて頭を横に動かした。

 その直後、左耳の端を浅く裂きながら生大刀が一秒前まで赤嶺の頭があったところに突き立てられた。根を大きく穿った剣先に、まだべっとりと付着している血が重力に従って流れる。

 それだけに留まらず、ズガガガッ! と大きく根を抉りながら頭蓋を割らんと迫る刃を、強引に上半身を動かすことでギリギリ回避。その勢いのまま立ち上がり、バックステップで大きく距離をとった。

 

「そのまま寝ていれば良かったものを」

 

「ゴ、ふ……ッ」

 

 どこまでも冷たい物言い。こいつに感情といった類はあるのか。

 赤嶺は咄嗟に言い返そうとしたが、上手く舌が回らず、ひび割れた音が喉から漏れた。

 つい反射的に咳き込むと、胸のあたりの痛みが再燃して蘇る。

 その後、ようやく損傷に反応したスーツが左手首の出血を抑えるために、ギュウウと血管を圧迫するべく傷口付近の部分が引き締まった。

 腹部の方は……駄目だ、上手く機能しないようだ。中途半端な引き締まりになっている。度重なる傷によって不具合を起こしているのだろう。自分の身体を見下ろして確認すると、なんとか致命的なレベルの流血は食い止められている。どちらかというと手首のほうが甚大で、スーツによる処置がなければ時間経過で出血多量による死亡は避けられなかっただろう。

 喉にこみ上げた粘性のある液体を口に含み、地面に吐き出す。よく見ればそれは赤黒く、どうやら征矢の剣撃は肺にまで至っていたようだ。

 どうりで呼吸がしにくいと思った。

 

「……お前は、誰?」

 

 自分でも驚くほど掠れた声で赤嶺は尋ねた。

 朧斬りをここまで自分のものにできるとは、もうこれは老若葉本人としか思えない。

 脳裏でスパークが弾け、征矢との出会いからの記憶を呼び起こす。植え付けられた恐怖も同時に鮮明に蘇る。心の痛みを堪えながら老若葉と比較する。

 が、そもそも時が経ちすぎているし、なにより容姿がまるで違う。明らかに別人だ。

 ならば、あとひとつの可能性。これも今の理由で簡単に否定できるが、ある予感が肌をピリピリと刺激している。

 

「私は鏑矢、赤嶺友奈。お前はずっと征矢って名乗ってるけど、それは御役目の名前でしょ? 本名はなんなの?」

 

「…………」

 

 これまで余裕そうだった征矢の表情が、ここで初めて強張った。

 緩やかに上げられていた口角が下ろされ、バイザー越しにでもわかるほど絶対零度の視線が突き刺さる。

 

「…………」

 

「……弥勒蓮華は私が殺した。あろうことか、処分対象を守り、匿おうとした。これは許されない行為だ。鏑矢としての規律を破った弥勒蓮華を処分するには十分すぎる理由だった」

 

 人の口からこれほど色のない声を出すことができるのか。それほど征矢の語る口調は淡々として、金属の歪む音のようにも聞こえた。

 

「……桐生静も私が殺した。第一世代の鏑矢は解散し、桐生静は第二世代の巫女となり、御役目に就いた。だが、これも駄目だった。子供に闇は務まらない。心が歪み、狂気に落ちた執行者たちと巫女を、私が一人残らず、優しく殺した」

 

「赤嶺友奈は?」

 

 もうすでに理解はほぼできている。それを補強し、確固とするための質問。

 そうであってほしくないという儚い希望を、密かに胸に抱きながら。

 

「赤嶺友奈が殺した。鏑矢を殺し、その後も神樹に仇為す者を殺した。殺して、殺して、血の匂いが身体の芯に染み付くまでひたすら殺し続けた。いつしかその功績が認められ、祭られ、『赤嶺友奈』の心身は神樹に取り上げられた。代わりに征矢の名を与えられた」

 

「――――」

 

 予感は的中した。

 こいつは征矢、赤嶺友奈だ。

『火色舞うよ』なんてユニークなフレーズを用いたのにも納得できる。しかし殺意の質がまるで違う。次元が違う。

 研ぎ澄まされた切っ先にすら思える、氷の刃。これが相応しい表現だろう。

 

「だから私は死なない。死んでも新たな私が抽出される。いつまでも四国の守護者として戦えるように」

 

「お前は……それでいいの?」

 

 征矢は生大刀の腹の部分を肘裏に挟み、血糊を綺麗に拭き取った。そしてブォン! と低い音を鳴らして振り払った。

 たったそれだけで物質化した斬撃が飛んできそうな錯覚に陥り、思わずくぐもった音が漏れる。

 

「それでいいのか……だって? そういった考えを私は持ち合わせていない。ただ四国の平和を守る機構。それが私だ。人の心なんてものは、とうの昔に捨てた」

 

「そんなの……酷すぎるよ……」

 

 自身の末路がこのような……このような酷いことになるなんて、赤嶺には到底受け入れがたいものだった。

 自身の未来。

 四国を運営する歯車となり、永久に生き続ける。果たしてこれを予期できただろうか。

 血に汚れ、人の悪を討ち、平和を守る。

 それは鏑矢と何も変わらない。だがそのベクトルが異質だ。鏑矢はまだ人としての尊厳が保たれていた。少ないが仲間がいた。絆があった。普通に生きていたらまず経験しない壮絶な戦闘に心がやつれることもあったが、蓮華と静がいつだって癒してくれた。同じように赤嶺もふたりを癒した。

 だが征矢にはない。

 人として扱われていない。ただ対象者を殺すためだけのシステム。

 仲間がいない。これほど寂しいことが果たしてあるだろうか。

 ずっとひとりで二〇〇年以上、孤独な戦いを続けてきたなんて、およそ人の所業ではない。神樹が介入しているのならば、それは大赦も一枚噛んでいることを意味している。

 中学生の少女にこのような仕打ちが許されていいわけがない。老若葉の鏑矢新設への危惧は、こういう危険性を孕んでいたからではないからだろうか。

 勇者の慧眼は、ずっと先の未来を見通していたのかもしれない。

 盛者必衰。大昔の時代の書物にそんな言葉がある。大赦という組織はもう、そういうレベルにまで落ちている。

 ある感情が、ふつふつとこみ上げてきた。

 その出口はたったひとつ。

 

「……なぜ泣く?」

 

 征矢が心底不思議そうに呟いた。

 赤嶺は真っ赤に腫れた目元をゴシゴシと拭い、毅然とした態度で言い放った。

 

「お前の……あなたの在り方があまりにも悲しいからだよ。人の命をここまで弄ぶ神樹と大赦に怒っているからだよ」

 

 ここまで腐ってしまったか。

 以前口にした通り、この時代はターニングポイントを迎えている。今の四国の運営体制に異を唱える者が出てきている。その最たる例が友奈たちだ。

 初めは真っ当な運用ができていたのかもしれない。しかし年月が過ぎるごとに大赦の信念は捻じ曲がり、歪なものへと変容していった。

 

「そんな目で私を見る必要はない。確かに私の旧名は赤嶺友奈だが、だからといってお前も私と同じ運命を辿ると定まったわけではない」

 

「でも、私がそうなる可能性は十分にある。でしょ?」

 

「そう悲観するな。あくまで私はお前の可能性でしかない」

 

「私に……何かを期待しているの?」

 

 征矢の言い方はまるで、赤嶺に警告しているようにも受け取れた。

 別の可能性の示唆。それは征矢という結末以外の何か。

 

「………………まさか」

 

 そう、失笑混じりに答える。

 相変わらず剥き出しの殺意は変わらないが、凍てつく声色の奥に微かな灯火が宿っている……ように見えた。

 もしかしたら。

 もしかしたらまだ、征矢の中に僅かながら人の心が残っているかもしれない。

 単なる思い違いかもしれない。迷惑千万だと思われるかもしれない。

 でも、今、赤嶺は征矢の心を見出したという確信には遠く至らないが、可能性があると悟った。

 征矢に対する恐怖が完全に払拭されたわけではない。指先の震えはまだ止まらない。それが恐怖からか、血を失いすぎたからなのかは赤嶺にも把握できていない。

 でも、恐怖以外にある感情が浮かび上がった。

 ……憐れみ。

 じんわりと全身に熱が染み込み、赤嶺はまだ戦えると己を奮い立たせた。

 悲惨な末路を迎えた自分自身を目覚めさせる。

 淡くなりかけていた景色が、くっきりと輪郭を取り戻した。残る右手をポーチに伸ばして小刀を……いや、矢を取る。

 この場ではリーチの長いこちらのほうが良い。攻撃方法は刺すしかないが、長い柄は征矢の剣筋を反らすのに使える。

 先端のスイッチを押せば、鉛筆サイズだった矢が伸びて十分なリーチを獲得する。

 威圧感を放つそのバイザーの裏でどんな顔をしているのだろう。それは、砕くか剥がないとわからない。

 赤嶺は凛とした力強い声で言い放った。

 

「改めて名乗らせてもらうよ。私は鏑矢、赤嶺友奈。……征矢、赤嶺友奈。私はあなたに決闘を所望する」

 

 すると、征矢の口元がグッと引き締められ、バイザーの光が光量を増した。

 それは、愚かな挑戦者に対して、圧倒的強者の醸し出す余裕が滲んでいるように見えた。

 

 ◆

 

 バーテックスたちの視線が友奈たちに一斉集中した。

 まだ合体する動きはない。

 個の限界という弱点を突くため、バーテックスも戦略を変えたのか。

 満開と同時に巨大な追加武装が出現し、六人の戦闘力を劇的に向上させる。

 ここからは時間との勝負。満開中にすべて倒せば僥倖。風の言う通り、短期決戦だ。

 両脇から伸びる金属質の豪腕とのリンクを確認し終えた友奈は、誰よりも速く敵へと飛翔した。

 まず狙いを定めたのは、以前の戦いで猛烈な矢の雨を振らせていて苦戦を強いられた、射手座の名を冠するバーテックスだ。こいつを放置しておくと、複数枚の反射板を持つ蟹座のバーテックスと完成された連携で苦しめられることは間違いないだろう。

 逆に射手座を仕留めることさえできれば、同時に蟹座もほぼ無力化できたと言っていい。 友奈の狙いを察知したのか、二体は急速に身体の向きを変えて友奈を墜とさんと息巻く。

 縦に身体の長い射手座には、人の口腔を模した部位が上部と下部の二段に分かれている。その内の下段の口が大きく開かれたのを友奈は見た。

 上段ならば、巨大な単発の矢が放たれるが、下段はその逆で、無数の矢が放たれる。

 瞬時に背後を確認し、反射板を自分の周囲でぐるぐると回転させてすでに準備が完了している蟹座の存在を視認する。

 予想通り。

 友奈は素早くその場でぐるりと一回転すると、射手座への飛翔を更に加速させた。

 偏差角度の修正を完了させた射手座の攻撃が始まる。甲高い発射音が凄まじい重なりのせいで、音割れするほどの轟音とともに友奈を墜とさんと無数の矢が降り注ぐ。

 今の友奈は枝木の補助がなくても自由に身体が動かせる。補助だと脳から送られた信号に枝木が反応するのにどうしても若干のタイムラグが存在する。たったコンマのことだが、それは戦闘においてあまりに致命的な弱点だ。

 巨大アームの重量など全く意に介さない、電光石火の如き速度ですべての矢を躱しきる。

 しかし本命はこの次。蟹座による反射だ。

 素早く視線を振って後方確認。自身の巨腕で視界が一部遮られるが、反射板がずらりと横一列に並んでいることを視認。

 ジジッ! と遠方へと飛んでいった矢が反射板に接触したことによる火花を激しく散らしながら、背中の無防備を晒す友奈に迫る。

 

 ――来た!

 

 到達まではまだほんの少し時間がある。

 それより先に、射手座に辿り着く!

 右腕のアームを限界まで伸ばしながら、友奈は脳裏にちらつく被ダメージのリスクという恐怖を払拭する。

 矢を放った後の硬直時間が終わる前に、なんとか上段口腔の端に指を引っ掛ける。そのまま強引にこちらに手繰り寄せ、反転する。

 幸いなことに、口が開閉するような構造にはなっていないようだ。都合がいい。

 ぐるんと力任せに振ったそばから、一拍遅れて矢の雨が迫り来る。それを、射手座を盾としてやり過ごす。

 空気を裂く鋭い音と、外殻を突き破る音が混ざった異音が友奈の耳朶に叩きつけられる。

 自身の攻撃を浴びるとは思わなかっただろう、射手座は怒りを抱いたのか、激しく身体を捩らせて拘束から抜け出そうとする。

 

「くッ……!」

 

 こいつを自由にさせることは絶対に駄目だ!

 射手座の遠距離射撃は、他で戦っている皆にとって最も危険な攻撃だ。不意を突かれてやられる、なんてことは絶対にさせない!

 

「おおおおおッ!」

 

 両指をそれぞれ口の端に突っ込み、友奈が上になって地面へと突き落とす。

 抵抗はより激しくなり、口の前に顔面を晒す友奈を貫こうと奥で光が迸った。

 瞬時に生成される巨大な矢。発射されるまでほんの二秒しかなかった。

 

「!!」

 

 咄嗟に首を全力で右に傾けたすぐ真横を矢が突き抜ける。

 冷たい死の感覚が右頬から浸透するのを感じつつ、友奈は勢いを止めないまま地面に叩きつけた。

 衝撃が波となって頭長まで何度も圧に襲われる。それをグッと堪えながら拳を振りかざした瞬間、遥か頭上で衝撃音が発生した。

 同時に友奈は自分の失策を悟った。上空からレーザーポインターを向けられる感覚。先程の矢は、苦し紛れでも何でもなかった。

 あれは……仕込みだ!

 上を見上げる猶予なんてない。回避運動もする余裕もない。咄嗟に腕をクロスして頭上にかざす。この巨腕の硬さならば、なんとか防ぎきれるはず!

 コンマの後に迫る衝撃に備えるべく、下半身にグッと力を込めて待ち構える。しかし来るべきものは、来なかった。

 

「友奈――――!」

 

 黄色の流星。

 身体に合わない、三メートル以上にも及ぶ超巨大な大剣を掲げた風が、友奈と矢の間に割って入る。

 

「はあああああッ!!」

 

 身体を限界まで捩じり、大剣を振った。

 空気をかき混ぜながら放たれた膂力任せの一撃は、飛翔速度とのシナジー効果で爆発的な力を生み出す。

 矢と面部分が接触した瞬間、閉塞空間の中で空間ごと揺さぶられる衝撃が友奈を強打した。次に、物体同士が激しく擦れる耳障りな轟音が、放物線を描く火花と共に発生した。

 そして、友奈のすぐ脇に軌道のズレた矢が深々と突き刺さった。

 

「風先輩!」

 

「あいつは私がやるから、そいつは頼むわ!」

 

「はい!」

 

 ベストタイミングで助けに来てくれた風に続けて感謝を口にしようとしたが、すでに風は蟹座へ向かっていた。

 ……とても広い視野を持っている。

 まだダメージで動けない射手座に意識を移しながら友奈は考える。自分は目の前の敵のことしか考えていなかった。だから思考が浅くなり、裏を取られ、最悪の場合に直結する可能性があった。

 やっぱり、風先輩は皆の部長だ。

 射手座を仕留めたら蟹座に、というつもりだったが、風に任せて大丈夫だろう。だから、誰かの援護に行こう。

 アームの出力、最大。

 久々に動かす右腕の感覚、異常なし。

 全身、天の神の祟りと枝木以外、異常なし。

 

「勇者――パンチ!」

 

 振り下ろされる巨人の拳。

 それは地面に押さえつけられた射手座のひび割れた側面を寸分の狂いもなく打ち抜いた。鋭い破砕音が連続し、亀裂が広がる。

 そのまま致命的なダメージへと昇華し、全身を陶器のように瓦解させながら砂状の粒となって消えた。

 撃破完了。大きく一息ついたタイミングで風が蟹座を撃破する。

 ゆっくりと大剣を肩に担ぎ直した風がこちらを見下ろす。

 

「私は樹のとこに戻るから、友奈は夏凛の方をお願い!」

 

「東郷さんと園ちゃんは?」

 

 すると風は苦笑いを浮かべながら顎で向こうを指した。促されるままに視線を動かすと、樹海の空を縦横無尽に駆ける二機の機体があった。

 青の戦艦。

 紫の方舟。

 制空権は我らにありと言わんばかりに、圧倒的機動力を見せつけてそれぞれのネームドを翻弄しつつ、雑魚敵をビーム射撃で一掃する。方舟がターゲットとなれば、戦艦がその巨躯を活かして体当たりしてでも狙いを逸らさせ、阿吽の呼吸で連携を保っている。

 

「すごいわね~。満開装備、すごすぎでしょ」

 

 無意識だと思われるが、俳句のようなコメントをした風を尻目に、友奈は「行ってきます!」と言い残して夏凛の元へ向かう。

 夏凛が対峙していたのは、山羊座の名を冠するバーテックス。

 蛸を思わせる四本の脚。決して長くはないが、太い。うねうねと蠕動するあれの直撃を受けたらどうなるかなんて考えたくもない。

 

「夏凛ちゃん! 援護に来たよ!」

 

 友奈の声が届いたのか、夏凛は両脇に出現させた数十本の小刀を投擲して牽制しつつ、友奈の隣まで後退した。

 

「サンキュー! 助かるわ! こいつ、すっごくやりにくい!」

 

 このバーテックスには見覚えがある。

 夏凛と初めて会った時だ。可憐な剣さばきであっという間に倒されたと記憶している。奇襲だったことも理由として挙げられるが、あまり強い印象を持っていない。だが夏凛が額に汗を滲ませているから、バーテックス側もそれなりの用意……学習といったものが行われていると考えるべきかもしれない。

 そうなると奇妙な点がある。

 それは、一体も神樹に向かっていないことである。バーテックスの最優先事項は神樹に到達して破壊すること。別にわざわざ勇者の相手をする必要なんてないはずだ。

 確実に障害を潰しておきたいというのならわかるが、それならば勇者の撃破役と神樹を目指す役とで別れればいい。

 なのに、どうして非効率な手段をとる?

 バーテックスにある程度の知性があることはわかっている。しかし人間にはまだ及ばないからこのような短絡的な作戦に出ている……?

 いや……いや。数の力で迫ろうと、満開した勇者の前ではあまり意味がないとわからないほど知性は低くないはず。

 学習速度が遅いなんてことは考えにくい。

 もしかすると、私達は大きな見落としを――。

 

「――マズい! 飛んで!」

 

 夏凛の鋭い指示に、友奈の思考は現実へと引き戻される。

 見れば、山羊座が脚をうねらせながら四方へ伸ばし、ゆっくりと回転している。あれが何かの前兆であることは間違いない。

 夏凛の指示通りにその場から飛ぶ。

 瞬間。

 自身の身体を地面に激しく打ち付け、長重量を活かした、隕石の落下にも負けない強い衝撃波を生む。

 根が軋む痛々しい音が響き、細いものは場合によっては砕けてしまう。

 なるほど、夏凛の言葉の意味もわかる。

 確かに地に足をつけて戦うのはあまりに不利だ。

 

「接近したらあの脚に襲われるし、それでも強引に突っ込んだらあの気持ち悪い舌の裏から毒吐くし、前なら精霊バリアで無視できたけど……私も友奈もちょっと相性が悪いわ。ここは東郷か園子に代わってもらうしかないようね」

 

 悔しさを顔に現しながら夏凛は友奈に言った。

 当のふたりは、平衡感覚が狂うのではないかと心配になるほどアクロバティックな飛行を続けながら雑魚敵と一緒にネームドを相手取っている。

 恐らく今、ふたりの脳内には大量のアドレナリンが分泌されているはずだ。あの勢いを殺し、「手伝って」なんてとても言えない。

 

「ううん、この敵は私達が倒す。ひとりで無理ならふたりで。……それに、夏凛ちゃんとなら、絶対に負けないからね!」

 

 まだ散華システムのある時、覚悟を固めて共に戦った感覚を思い出す。あれをもう一度再現できれば、絶対に勝てる。

 

「できるよね?」

 

 そう問いかけた途端、ルビー色の瞳が大きく見開かれる。直後、そこに決然とした光を宿し――。

 

「ええ、当たり前よ」

 

 と言い切った夏凛の頼もしい横顔を目に焼き付けつつ、眼前の山羊座を見据える。

 ……やはり、時間を与えてもバーテックスが神樹へ向かおうとする素振りは見せない。それどころか、まるで友奈たちを待っていたかのようにその場でふわふわと浮遊している。

 こちらを圧倒できると考えているかもしれない。

 だとしたらそれは大きな間違いだ。

 それを、今、見せつける。

 息を腹の底まで吸い込み、拳を作りながら友奈は吼えた。

 

「行くよ、夏凛ちゃん!」

 

「ええ!」

 

 ふたりの飛び出したタイミングと、山羊座の移動の開始が重なった。

 

 ◆

 

 音なんてものはすでに遠のき、希釈されてよく聞こえない。

 というのも、もう何千発目かわからない光線の発射で東郷の耳はイカれてしまったからだ。

 視界を覆い尽くす閃光のべールの向こうに天秤座の姿を捉える。

 すでに三体のネームドは倒している。後は、天秤座と、夏凛と友奈の相手どる山羊座、そして風と樹が対峙する水瓶座のみ。

 

 ――いける。

 

 風の提案した満開による短期決戦は最適解だった。直感的にもうすぐで満開が解ける予感が脳裏をチラつかせるが、なんとかそれまでにネームドは全て倒せそうだ。

 射線を確保。

 全砲門、展開。

 八つの砲門から迸るエネルギーを一点に収束。

 戦艦の前面で膨張する、巨大なエネルギー弾が今にも爆発しそうだ。ただそこにあるだけで、戦艦を墜落させんと迫る雑魚敵を一瞬で蒸発せしめる。

 偏差角度、確定。

 誤差修正、完了。

 

「撃てええぇぇッ!」

 

 轟ッ! と何十倍にも圧縮された音圧が樹海を激しく叩きつける。

 まさか船底を真上に向けたままという非常に不安定な姿勢のまま放つとは思わなかったのだろう、天秤座の反応が遅れた。

 その名の通り、左右に伸びる天秤を模した部位を高速で回転させて空気の流れに干渉し、迫る光球の軌道を逸らそうと図る。

 しかし光球そのものが放つ風圧を相殺しきれず、完全に逸らすことはできなかった。莫大なエネルギーの塊が、天秤座の身体の六割を抉る。そしてそのまま遥か後方へ飛んでいき、大量の雑魚敵を巻き込みながら大爆発を起こした。

 撃破には至らなかった。しかし、あとほんのひと押しがあれば倒せる!

 

「そのっち!」

 

 反射的に相方の名を呼ぶ。

 こうして満開状態で肩を並べて戦ったのは、二年ぶりだ。散華の存在を知らなかった当時は、じわじわと取り上げられる人間性に怯えながら戦っていた。

 でも、今は違う。

 後ろめたいことは何もない。存分に、安心して園子に背中を預けられる。

 果たして東郷の声が聞こえていたのかはわからない。

 しかし、ガコンと方舟の尾翼の数枚が剥がれたことが、返事であると理解した。きっと園子も同じように耳がおかしくなっているだろう。

 でも、言葉を交わさずとも、互いに何を求めているのかがテレパシーのように伝わるのだ。

 剥がれた尾翼は、まるで意志を有しているかのように飛翔し、即座に失った身体の再生を始める天秤座を、上下左右から串刺しにした。

 それが最後の一撃となり、見慣れた退場エフェクトを発生させながら消失する。

 どうやら他の皆もほぼ同じタイミングで撃破したようだ。

 東郷が安堵のため息をつくと、ちょうど傷だらけの戦艦が消失して自由落下が始まる。ギリギリ満開が解ける前に全てネームドを倒せたことは喜ぶべきことだ。

 鮮やかな着地を決めた東郷に、同じように満開の解けた友奈が熱い抱擁をする。

 

「お疲れ様、東郷さんっ!」

 

 すかさず東郷も抱きしめ返しながら、「お疲れ様、友奈ちゃん」と耳元で囁く。

 

「大物を倒しただけで、またバーテックスは残ってるんだから気を抜かないでよね」

 

 ふたりを注意するわりには、ずいぶんとのんびりした徒歩で友奈に遅れて近寄ってくる。

 それに続いて風と樹も集まってきた。

 

「良かったです! みんなが無事で……! あとは白い敵さんだけですね!」

 

 少し疲労が溜まったのか、樹が肩を大きく上下させて呼吸しながらも喜びを隠せない声色で言った。

 

「そうだね樹ちゃん! あれ? 園ちゃんはまだ満開続いてるんだね?」

 

 五人に落ちる影は、園子の方舟によるものだ。横から顔をひょっこりと覗かせた園子はえっへんと自慢げに笑みを浮かべた。

 

「私はこの中で一番満開経験者だからね。皆より定着するのさ! あ、でも流石にもう少ししたら解けると思うから、それまでに私が倒せるだけ倒すんよ〜!」

 

 ブラックネタよ、と東郷はツッコもうとしたが、上機嫌の園子にそれを伝えるのは少々憚られた。

 そんな東郷の様子に気づいたのか、園子は安心させるように笑みを浮かべた。

 

「大丈夫だよわっしー! すぐ戻ってくるからー!」

 

 そう言い残すと、方舟の尾翼を鳥のように滑らかに動かし、高く飛翔した。

 さっきまで園子たちにあれほど猛烈な攻撃をしていたというのに、ネームドを倒されて気力が削がれたのか、非常にゆったりとした速度で神樹に向かい始める。

 すでに数は初期より半分以上減らしている。この調子ならば、問題なく勝利を収めることができるだろう。あともう少しで赤嶺の援護に行ける。

 高嶋を殺した人物が果たして話し合いに応じるタイプの人間かはわからない。最悪、以前の赤嶺のように敵対関係になる可能性だってある。

 こちらの仲間が殺されたのだ、およそ穏やかなやり取りにはならないだろう。

 真下を覗けば、もう五人は動き始めていた。

 園子も意識を切り替えるべく、グググ、と方舟を角度を変えて射程の内に捉える。

 刹那。

 視界の端で、チカッ! と小さな閃光が弾けた。

 場所は目算でニキロ以上先。恐らく壁辺り。

 

「うん……?」

 

 注意が一瞬そちらに向く。

 そして、瞼を瞬かせる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 次の瞬間、勇者の目を持ってしても目視不可能な速度で迫った一体の矢が、園子の方舟を大きく抉った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――――――」

 

 反応なんてとてもできなかった。

 気づくと園子の身体は宙へ投げ出されていた。 同時に満開も溶け、大きくひしゃげた方舟が消失する。

 ここで園子の中でひとつの大きな疑問が浮かんだ。園子を襲った矢ではない。それを放った者の正体だ。

 今の一撃、もし園子が直前で船体の角度を傾けていなければ間違いなく方舟ではなく園子に直撃していた。……死んでいた。

 冷たい刺激がゾクゾクと背筋を撫でる。

 雑魚敵にそんな攻撃ができる奴がいるなんて聞いたことがない。

 自由落下を続ける園子は壁側を睨み続ける。

 すると、ぬっと赤いシルエットが新たに樹海に侵入するのが見えた。

 

 その数、十二。

 

 戦慄。

 園子は喉の奥で激しく喘いだ。

 

 ◆

 

 方舟による攻撃が来ないと思えば、甲高い衝撃音が響き渡った。

 東郷が音のした方角を見上げると、なぜか園子の方舟が黒煙を上げながら墜落していた。

 

「そのっち!!」

 

 吹き飛んだ小さな身体が自由落下する。咄嗟に銃を投げ捨て、持ち場を離れた東郷は無我夢中で園子を受け止めるべく疾走する。

 なんとか落下直前に間に合い、キャッチに成功。降ろそうと姿勢を傾けるが、園子の様子がおかしい。

 身体を小刻みに震わせ、瞳には絶望の色が滲んでいる。

 

「大丈夫? そのっち」

 

「わっしー……」

 

 力のない返事。

 血の気が失せた顔を、園子はぎこちない動きで持ち上げる。

 

「あっち……」

 

 白い指が、壁を指す。

 東郷は指し示す方角に、赤いシルエットを見た。それも一体や二体ではない。

 しだいに赤は部位ごとに彩度を変化させ、本来の色を獲得する。

 ネームドのバーテックスが十二体。十二種類いることは知っていた。だから無限に樹海に攻めてこられる。だが、これほどスパンが短いのは明らかに異常!

 絶対に侵攻するというどす黒い欲求すら感じてしまう。

 そして、東郷は戦略的敗北宣言を悟った。

 

 ――やられた!

 

 第二陣は、今東郷たちが倒した構成と全くの同一。しかし、これを退けられるかとなると、即答できない。……いや、不可能かもしれない。

 第一陣は、勇者の力を削ぐためだけの、消耗戦だったのだ。

 現にまんまと策にはめられた勇者部は満開し、満開ゲージを使い切ってしまった。

 奥歯が軋むほど歯噛みした東郷は、一枚も二枚も上手だったバーテックスたちを睨み上げた。

 精霊バリアは発動しない。

 だから、ダメージを受けることはほぼ死に直結する。

 そのあまりにも大きすぎるリスクを背負いながら、先程と同じように動けるか?

 体力の消耗も無視できない。

 これは――。

 敗北のふた文字が浮かび上がる直前、肩を誰かに叩かれた。

 思わずぴくりと震わせて後ろを振り向くと、そこには真剣な顔をする風が、バーテックスを見上げていた。

 樹は恐怖に怯え、風の腰に頭を押し付ける。

 友奈と夏凛は呆然としている。

 

「……私の作戦ミスだわ。これは、覚悟を決めないといけないようね」

 

 第二陣は勇者の力を削いだ第一陣とは違い、こちらには目もくれずに真っ直ぐに神樹へ向かっている。

 合体してくれればまだ落ち着いて対処できるが、やはりそのような気配はない。一刻を争う事態だ。

 

「――やるわよ」

 

 肩から手を離し、大剣を担いだ風がそう短く言い放った。

 決意に満ちた瞳は、士気の低下した勇者部を鼓舞する。

 

「絶対に犠牲者なんか出さない。出すもんか。――これが終わったら、私が美味しいご飯、いくらでもご馳走してやるわ!!」

 

「風先輩……」

 

  東郷にはそれが痩せ我慢にしか見えなかった。事実、樹を抱き寄せる腕が震えている。

 人間だから。恐怖を感じて当然なのだ。だが、それに負けないと必死に皆を励ましている。自分自身をも。

 ……ここで膝をついてどうする。

 勇者は諦めない。

 それを、いったい何度体現してみせた。

 不可能を可能にする。そういった力は、人間だからこそ。

 ようやく今になって東郷は園子を降ろした。 

 そのままの足取りで友奈の元へ歩み寄る。

 友奈も決意を固めたようだ。瞳の奥にメラメラと焔を宿しながら東郷を見つめる。

 

「大丈夫だよ、友奈ちゃん。私達ならきっとやれるから」

 

「うん。この戦いに勝って、風先輩に美味しいもの、いっぱい食べさせてもらおう!」

 

 もしかしたらうどんのフルコースなんてこともあるかもしれない。しかし、それでもいい。

 皆でわいわいして楽しむ時間こそが東郷たちの守るべきものなのだから。

 

「東郷さん、援護はお願いね」

 

 無邪気にそう言った友奈は一番に飛び出していった。その後に続いて東郷も飛び立つ。

 

「夏凛」

 

「なによ」

 

 風の呼び声に、夏凛は少し不機嫌そうに答える。

 

「もし怖いのなら、先に赤嶺のとこ行ってて。私達でなんとかするから」

 

 そんな余裕なんてあるはずがない。寧ろ圧倒的に人手不足だ。

 

「はあ⁉ ふざけん――」

 

 な、とまで舌の上に乗りかかっていたが、風の表情を見てその塊は滑るように喉奥に落ちていった。

 一度も見たことのない顔だった。夏凛を安心させようとしているのか、清々しいほど穏やかだった。

 しかしどうしても夏凛にはそれだけの意味が含まれていない気がしてならなかった。

 それこそ、死期を予感したような――。

 

「ここから逃げ出しても、絶対に誰もあんたを責めない。誰が死んでも、私達が負けてもその原因をあんたに絶対に押し付けない。それほど危険だってことくらい、わかるでしょう?」

 

「まあ、ね」

 

「乃木、あんたもよ」

 

 ぼんやり友奈と東郷の向かった方向を見上げていた園子は、静かに槍を握りしめた。

 

「私は戦うよ。……二年前、私はわっしーと世界を守るためにたくさんのバーテックス相手に命を懸けて戦った。細かい状況は違うけど、とても似てる」

 

「無理はしてないのね?」

 

「してないです。あの時は私はひとりだった。でも今はわっしーだけじゃなくて、皆がいる。だから頑張れる」

 

「わかった」

 

「じゃあ――行ってきま〜す!」

 

 いつも通りのほほんとした口調で朗らかに言って、園子は戦場へと舞い戻った。

 

「……まあ。風の言う通り、私は怖いと思ってるわ」

 

 そう呟いた夏凛は小さく笑った。

 

「夏凛……。わかったわ。じゃあ――」

 

「――バーテックスどもを誰よりも多く倒して、あんたたちに褒め殺される未来が怖いわねっ!! 私は完成型勇者! あんたたちより強いのは当然! なら! 誰よりも戦績を上げるのも当然! だから、あんたこそそこで親指しゃぶって待ってなさい!」

 

 じゃりぃん! と刀を構えた夏凛は、獰猛な笑みを口の端に浮かべて力強く飛び去っていった。

 

「樹、いける?」

 

 まだ風の腰に抱きついていた樹はやや赤くなった目を擦りながら頷く。

 

「うん。私も……戦う。絶対にお姉ちゃんを守るから」

 

「ありがとう。絶対に私の側から離れないでね。私も、樹を絶対に守るから」

 

 赤嶺の援護にはまだもうしばらく行けそうにない。

 どうか無事にいてほしい。

 そう願いながら、風は樹とともに地面を蹴り上げた。

 

 ◆

 

 戦闘パターンは覚えている。

 まずはさっきと同じように射手座から仕留める。そう順序を組み立てた友奈は一直線にこちらを無視する射手座へと飛翔する。

 整然と横に並んだ十二体のバーテックスは、寄り道することなく神樹へ向かっている。

 まるでこちらに気づく気配はない。

 先手必勝!

 拳を作りながら、上半身を大きく反らして力を込める。

 

「勇者――」

 

 拳撃を繰り出す直前、風の流れが変わったのを察知した友奈は急制動して着地することを選択した。

 結果、それが正解だった。

 予備動作のない急転換をした射手座が、第一陣とは比べ物にならない速度の矢を下段の口腔から放ったのだ。まだ距離が開いていたから余裕を持って回避できたが、もしこれ以上接近していたらと思うとぞっとする。それほど発射されるまで時間と矢の速度が段違いに向上していた。

 もしかして十二体すべてが、完全上位互換……?

 思考する時間が、敵に隙を与えてしまった。

 山羊座が、その巨躯など幻想だと勘違いしてしまうほど素早く射手座の背後から姿を表す。四本の脚を広げる前兆すら見せず、地面に身体を叩きつけて地震を起こす。

 マズイ、と思ったときには既に遅かった。

 足元が大きく揺らぎ、立つことすらままならなくなってその場に尻をつく。

 動けない友奈の目の前で、嘲笑うかのように射手座の上段の口腔の奥で光が迸り、矢が生成された。

 

「――――ぁ」

 

 死ぬ――。

 と予感した瞬間、射手座の横顎に、後方から放たれた東郷の狙撃が突き刺さった。

 数秒の隙。

 これを無駄にはできない。地面に手を付き、生まれたばかりの子鹿のように震わせながら両の脚で立つ。

 一刻も早く離脱を――。

 その瞬間、友奈の中で赤い爆発が起こった。

 

「ガ――――!」

 

 生肌の上を、ムカデが這いずりまわるような生理的嫌悪感。その跡が燃えるように熱を発生させる。

 これは……天の神の祟り……!

 肺に溜め込んだ空気が、粘り気のある液体に変化した錯覚に陥り、一時的に呼吸ができなくなる。

 なんとか立ち上がることができていた身体のバランスも崩れ、再び倒れる。

 そこをみすみす逃すはずもなく、体制を立て直した射手座は今度こそ友奈を貫こうと、照準を定める。

 そうはさせないと東郷の狙撃が飛んでくるが、前に躍り出た蟹座の反射板によって呆気なく弾かれてしまう。

 完全に孤立した友奈。

 これ以上の援護は誰からも望めない。

 ……死ぬわけにはいかない。

 なんのために散華を克服したのか。

 それに、まだ生きる理由も見つけられていないのに――!

 まだ、死ねない!

 頭の中で、白が爆ぜる。

 枝木が友奈の意志を汲み取った。それが何を意味するのか、今の友奈には分からなかった。

 同時に、人影が友奈の前に現れる。長い髪を大きく靡かせ、射手座の射線に飛び込む。危ないから逃げて、と友奈は伝えようとしたが、喉からは掠れ声が溢れるだけだった。

 人影が地面を蹴り上げて飛翔する。そして、肺いっぱいに空気を吸い込み、大きく叫んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――来い、一目連!!」




戦う。戦い抜く。
たとえ圧倒的不利な状況でも、幾度となく逆転してみせた。
だから今回も、大丈夫。
みんなで一緒に乗り越えよう。

それではまた次回!


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死戦

前回のあらすじ
バーテックス第二陣
敗北濃厚の中、颯爽と現れたのは――


 牛鬼の主人は結城友奈である。

 そう刷り込まれてこれまで友奈に力を貸していた。しかし今、牛鬼の中で何かが大きく揺らいでいる。

 その正体は牛鬼にもわからない。しかしこれは高嶋を見た瞬間に誕生し、今なお引きずっているものだ。

 核に楔が打ち込まれた感覚。決して先端が尖っているわけではない、むしろ逆にこちらが離すまいと無意識に引き止めている気すらする。その理由がわからない。

 この楔を辿った果てに何があるのか。それが知りたい。

 だから牛鬼は高嶋とともにいることを選択した。高嶋を知り、高嶋という人間性を知るために。

 その中で、魂の共鳴のような現象を幾度も観測した。だから友奈を神の業に至らせることができた。風を天の神の祟りから守ることができた。

 すでに冷たくなった、文字通り血の気の無い高嶋の身体を見下ろしつつ、牛鬼はバリアを展開する。これは主人である友奈に指示されたからだ。しかし、恐らく指示されていなくても牛鬼は自身の判断で高嶋を守ろうと動いていただろう。

『牛鬼』という妖怪には、人を助けるとその身代わりとしてこの世を去るという伝承がある。

 つぶらな瞳はじっと高嶋を見下ろす。

 まだ激しい戦闘は続いているようだ。凄まじい轟音が、だいぶ離れているはずのここにまではっきりと届く。

 精霊として主人のことは心配だ。

 天の神の祟り。

 そして、神の呪縛。

 ふたつの呪いを身に宿しているのだ、戦うなどもってのほか。今すぐ勇者状態を解除させ、一刻も早くちゃんとした機関に診せなければならない。

 ……でも、それが結城友奈の決断ならば。

 ……牛鬼もまた、決断しなければならない。

 静かに高嶋の胸の上にちょこんと乗る。ずっと音叉のように共鳴し続けていた魂の振動。すでに片方は壊れ、二度と鳴らない。

 死んでいるのだからそれは当然。

 だが牛鬼は今、高嶋を救うと決断した。

 手法? そんなものは知らない。でも、どうしてかはわからないが、できると思った。

 なせば大抵なんとかなる。

 ただ、救いたい。そんな純粋な願いだけで十分だ。

 この共鳴も、もうしばらくすれば消え失せてしまうだろう。そうなれば、核に引っかかっていた楔が引き剥がされ、ずっと抱いていた疑問は二度と解決されることはない。

 その疑問とは……なんだろう?

 ここで初めて、牛鬼は人間らしい思考を巡らせた。

 高嶋は過去の人間。牛鬼が知るはずもない人間。だが、どうしても見覚えがある。視界に入れる度に、狂おしいほど懐かしくて、嬉しさですべてが満たされる。これまで、どうしてもわからなかったもの。

 これは……ああ、そうだ。

 カチリと最後のピースがあまりにも綺麗にハマったせいで、これ以上ないカタルシスを感じる。羽を大きく震わせて、答えに到達できたことに歓喜する。

 この感情を言い表すのに最も適切な言葉が、ようやく浮かんだ。

 

 それは、愛だ。

 

 自分への愛。

 鏡写しのように向けられた、愛。

 魂の震えが増幅する。

 すると、骸となったはずの高嶋の身体が淡く発光し始める。牛鬼はその様子をジッと見届ける。

 さらさらとどこからともなく桜色の花弁が周囲を舞い始め、幻想的な光景を生み出す。

 それでも牛鬼はまだ動かない。

 そしてついに自身の魂の臨界点に到達した瞬間、牛鬼を中心として、遥か空に届かん光の柱が高く屹立した。

 樹海に発生する、神の業すら子供の悪戯に思える現象。

 これ即ち、完全なる死者蘇生。

 牛鬼はゆっくりと、自身の身を高嶋の中へと沈み込ませていった。

 

 ◆

 

 決闘を申し出たはいいが、はっきり言って勝機なんてまるで見えない。雲を掴むのといい勝負だ。

 赤嶺は矢を構えながら征矢の返答を待った。

 

「……クク」

 

 醜悪に口の端を上げ、嗤いを零す。

 巨木の軋むような異音で、征矢は抑えきらなかった嗤いを爆発させた。

 

「ク、ハハハハハハッ!! お前が? 私を? ハハッ! 面白いことを言う! 実力差はわかるだろう? 逃げてもいいんだぞ? 結城友奈たちに合流して、混戦に持ち込めばいい。そうすればバーテックス共も私を攻撃する。そうすれば隙が生まれるかもしれないというのに!!」

 

 その作戦は確かに考えた。だがすぐに却下した。

 ただでさえ赤嶺と高嶋の介入のせいでこの戦闘が発生したのだ。バーテックス、征矢、勇者の三つ巴に発展することだけは駄目だ。

 やがて嗤いが収まった征矢は、すらりと血色に光る刀身を見せつけるように構えた。

 

「まあ、いい。何があってもお前を殺せばいいだけのこと。万が一殺されても、私は何度でもお前の前に現れる。長引けば長引くほど辛くなるのは……どっちだろうな?」

 

「…………」

 

 嫌味ったらしい物言いも健在。

 余裕ぶった態度は、圧倒的優位に立っているからとれている。そもそも初戦のときからおかしかった。征矢はあの時、殺されに来たのだ。殺されることでがたのきた古い自分を捨て、新たな自分を手に入れる。本来ならわぞわざ赤嶺の前に現れずに最初から新しい征矢が襲撃すれば良かったのだ。なのに敢えて弱い自分を殺させることで、征矢は弱いと錯覚させた。

 とんでもなく悪趣味だ。

 だからこそ、二戦目の一合で油断していた赤嶺に大打撃を与えることができた。征矢の作戦に、まんまと引っかかった。

 首筋を浮かび上がらせるほど強く顎に力を入れた赤嶺は、地面を高く蹴り上げた。

 矢で貫いたとしても、恐らく昏睡状態にさせたりすることはできないだろう。元々この矢に宿る力は神樹由来のもの。神樹の加護を強く受けている征矢には何の効果も期待できない。だからシンプルに、物理的な攻撃手段として矢を使う。

 朧斬りを放たれたら終わりと思え。

 征矢の生大刀はレプリカだが、スーツの装甲をあっさりと一刀両断するほどの代物だ。一瞬たりとも意識から外すな!

 まだ普通の剣撃ならば、神樹の力を宿しているこの矢でギリギリ受け止められる……はず!

 対して征矢は驚くほど滑らかな動きで太刀を上段に構え、愚かな挑戦者を迎え撃たんと待ち続ける。

 相手がどうしようもない強者であることは百も承知! でも、だからといって負けるわけには……死ぬわけにはいかない!

 初撃の薙ぎ払いは容易く太刀で受け流される。高い音がジャリッ! と滑り、勢いのまま赤嶺は征矢の脇を突き抜ける。続けざまに振り下ろされた死の刃を、紙一重で回避する。

 なんとか、見える!

 極限状態で脳に届けられた視覚情報の処理が、現実での動作にギリギリ追いついている。脳の温度が急激に上昇してオーバーヒート寸前だが、まだ、頑張れる。命がけでキープし続ける。

 征矢とその近辺の地形の情報だけを入力として、それ以外のものはすべて排除。これ以上入力情報を増やせば、瞬く間に脳が瓦解する。

 

「おおおおッ!!」

 

 雄叫びとともにこちらから懐に潜る。

 気合で負けてはならない。あらゆる点で征矢より劣っていることはどう足掻いても覆らない事実。泥水を啜る気概でどうにかして勝利の兆しを見出さなければならない。

 矢の先端部分でしかまともな攻撃できないのは非常に痛いが、今はこれしかない。

 最小限の動きで躱される。そして迫る太刀。

 

「くっ!」

 

 大丈夫、まだ見える。

 限界まで腰を捻らせることで、刃は首を浅く撫でるだけに終えた。しかしたったひと振りで終わるわけがないだろうとばかりに剣撃の嵐が続けざまに赤嶺を襲う。

 一撃もくらうわけにはいかない。すべてを見切り、回避しなければ、死。

 瞬間、赤嶺は洗練された意識下で、迫り来る嵐を見る。

 情報が濁流のように押し寄せ、脳の中で小規模の赤い爆発があちこちで起きる。血がどろりとそこで爆ぜ、一瞬だけ処理が遅れる。

 足りない部分は本能で補う!

 獣じみた不規則な動きで回避し、なお処理を続ける。

 完全に同一時間に放たれたと錯覚するほどの複数の剣撃を既のところで回避。回避先を予測されて放たれても、回避――!

 視界が濁り、脳が灼け切りそうな熱に苦悶するも、なんとかすべてをやり過ごせた。

 嵐は過ぎ去り、太刀を再び構えた征矢は感心深そうに呟いた。

 

「……ほう」

 

 鼻から血を流す赤嶺を見て、言葉を続ける。

 

「思ったよりやるな。しかし顔が必死なのがよくわかるぞ?」

 

 死の緊張からか、逆にテンションが上がってきた赤嶺は獰猛に笑ってみせた。

 

「はッ! そりゃそうだよ。私とあなたじゃ力の差は圧倒的だもん。必死にならないと死んじゃうしね」

 

「そうか。そうか」

 

 征矢は感心深そうにそう呟くと、すう、とバイザーの光が細めた。それが赤嶺に対する警戒度を上げたサインであると直感的に悟り、ごくりと喉を鳴らした。

 これほどの緊張を感じたことは恐らくない。鏑矢として何度も失敗の許されない御役目をこなしてきたが、それ以上であると断言できる。

 大量の血を失ったというのに、身体が燃えるように熱い。

 友奈や高嶋とは違って、戦闘狂な気質があるとなんとなく思っていたが、どうやらそれは間違いではないようだ。

 いつもならストッパーとなる蓮華と静はいない。

 だから、今は、全力で、戦える。

 ガチッ! とギアを数段上げ、血走った眼で征矢を睨む。

 ここでの勝利条件は、征矢を殺すこと。だが相手が未来の自分自身と知ってしまった以上、どうしても躊躇いが生じてしまうだろう。それだけは間違いない。

 だから、殺さずに征矢の心に訴えかけることこそが、真の勝利条件だ。

 できるか?

 いや、やるのだ。

 電撃にも負けない速度の薙ぎ払い。

 咄嗟に矢を縦に構えて受け止める。

 両者が接触した瞬間、爆発的な火花が飛び散り、ふたりの顔を照らした。チラリと矢の状態を確認するが、僅かに傷が入っただけで、耐久度は問題ない。

 しかし……なんという力!

 思考の一切までもが吹き飛ばされそうな暴力的な一撃。本来ならば両手で添えて受け止めるべきなのだが、左手がない今、非常に不安定な体制で受け止めるしかない。

 太刀が翻り、V字を描きながら今度は右腕を切り落とさんとする。

 もしここで回避、受け止めようとしてもまた反則めいた動きで次の一撃が繰り出されるだけだ。鼻血が口に入り、鉄の味が舌の上に広がるのを感じながら、敢えて一歩前に踏み込んだ。

 

「ふッ!!」

 

 装甲を薄く切り落とされても怖じ気かずに征矢の目と鼻の先へと急接近し、矢を突き出す。

 しかしこれは予想通りと言っていいべきか、右足を半歩下げて身体の向きを変えることで回避される。普段ならここから左の拳で追撃を――といった流れに繋げるが、それはできない。

 同じく赤嶺の攻撃パターンを誰よりも熟知している征矢は口元に薄ら笑みを浮かべる。すでに次の一撃は振るわれている。

 狙いは首。

 このタイミング、この角度。脳がオーバーヒート寸前の赤嶺には追いつけない処理。防御までの時間は、ない。

 ()った。

 そう征矢は確信した。

 しかし。

 

「あああああぁぁッッ!!」

 

 赤嶺は左腕を動かし、完全に想定外な一撃に反応できなかった征矢の手首を、出血の止まりかけていた切断面で強打した。

 

「なに⁉」

 

 ここで初めて征矢が驚愕の声を漏らす。

 最大の武器である拳、その片方を無力化した。だから驚異の半分は削げたと安堵していた。

 それこそが、赤嶺が征矢に迫ることができる、唯一の手段!

 太刀が手元から離れ、高く弾かれる。

 手元の武器を失った征矢の顔が、バイザーに隠されていなくても容易にわかる。肉が大きく抉れてぐちゃぐちゃになった手首の激痛に大きく顔を歪ませながらも、赤嶺は矢を突き出した。

 狙いは心臓。前回あれほど歪に足掻いたのだ。心臓を傷つけられるくらいでは死なないはず。

 だがこれも回避される。赤嶺の遠く及ばない反応速度で躱され、装束を先端が切り裂き、胸に一筋の赤い線を刻むことしかできなかった。

 そして今度こそがら空きになった腹に、征矢の拳が深く沈み込む。

 巨人の一撃を受けたかのようなとても御しきれない衝撃に後方まで飛ばされ、背中から激しく落下する。

 そのすぐ目の前に、弾かれた生大刀が根に突き刺さった。

 

「がふ、ッ……!」

 

 クソ! これだけやっても掠り傷しか負わせられないのか!

 斬られた胸の傷が疼く。乾いて固まりそうだった血糊が、再びどろりとスーツの上を伝い始める。さらに、遅れてついに肺に血が溜まったのか、手を当てて咳払いをすると、赤くなっていた。

 

「……く、そ」

 

 悪態をつきつつも、力の入らない身体に鞭を打って立ち上がらせる。

 

「……少し、見直したぞ。お前の評価を改めねばならないようだ」

 

 そう静かに言った征矢は、手首にこびり付いた赤嶺の肉を丁寧に指に摘んで捨てる。

 

「……そういえば」

 

「ん? なんだ?」

 

 今またすぐに攻撃に出られるのはマズイ。呼吸が安定していないし、集中が薄れたのか、脳の熱が全身を蝕み始めている。冷却が間に合っていない。

 チリチリと意識が断線する。この状態で戦闘を続行することは可能だが、間違いなく動きにキレがなくなる。そうなれば死へ一直線だ。

 だから、今はどうしても全身を休めるための時間が必要だ。

 

「どうして、あなたは結城友奈を……殺さないの? 一応鏑矢の、御役目も引き継いでるんでしょう? なら、神の業に手出しした罰は与えなければいけないと、思うんだけど」

 

 なんとか意味をなす言葉を発するくらいには脳は無事なようだ。発音に問題があるようで、少しどもってしまう。

 

「もちろんお前の言う通り、神の業に至ろうとする者、至った者は殺さなければならない。たとえ勇者であってもな。でも結城友奈は違う。この後のために必要だから、殺す必要はないのだよ」

 

「この後……?」

 

 いったい何のことを言っているのだ?

 今回は例外ではあるものの、そもそもバーテックスの侵攻は波が収まっていると聞いている。

 友奈が必要になるのは……勇者としての力?

 

「それは……また、バーテックスの侵攻が、始まるってこと?」

 

「違う」

 

「教えてくれたって……いいんじゃない? 未来の私」

 

 わからない。

 バーテックス以外の驚異があり、それに対抗するためには友奈の力が不可欠……という理解まではできた。しかし、その驚異が何かわからない。

 ああ、頭が割れるように痛い。これ以上の深い思考は冷却中の脳に悪影響だ。

 だいたい十数秒ほど稼げたか。熱は少しだけマシになった。さっきのやりとりでスーツの止血作用は完全に死んだようだ。流れる血は収まりそうにない。

 だがまだ死ぬほどではない。数時間は持つだろうと読みつつ、重たい頭を持ち上げた。

 まるでそれを待っていたかのように佇んでいた征矢の手には、いつの間にか新たな生大刀が握られていた。

 なるほど、別にレプリカはひとつだけではないようだ。

 赤嶺が弾いた一本目は僅か一メートル先。すぐに掴むことはできる。しかしそれを征矢が許してくれるのか。

 

「さて、お待ちかねの朧斬りだ。お前にとって思い出深い剣技で終わりにしてやろう」

 

 緊迫した空気が征矢から放たれる。本当に業風のようなものが吹き付けられる感覚に膝を付きそうになってしまうが、どうにか歯を食いしばって耐える。

 戦意は尽きていない。まだ戦える。

 再び征矢に立ち向かおうと左脚を半歩前に差し出した、その瞬間。

 遠く離れた前方で、巨大な光の柱が空に伸びた。

 確かな質感を持った、神の降臨を思わせる閃光は赤嶺のみならず、征矢の動きまでも止めた。

 樹海でこのような現象が起こるなんて聞いたことがない。若葉たちと戦った時も、決してあのようなものは見なかった。

 何かが起きようとしている。しかし、赤嶺にはそれが悪いことではないと、自分でも理由はわからないが安心することができた。

 対して征矢は、手に血管を浮かび上がらせるほど力が入り、柄の一部を割った。赤嶺とは違って、良い印象は持っていないようだ。

 柱の方向へと身体を向け、狂気じみた叫びを樹海に轟かせた。

 

「牛鬼……お前……そこまでして自分を救いたいか(・・・・・・・・・・・・・・)――――!!」

 

 隙を見た!

 恐らくもう、これ以上の隙を晒すことは二度と無いはずだ!

 今こそ……今こそ、己に打ち克て!

 脊髄反射で赤嶺は地面を蹴る。目の前の生大刀を掴み、引き抜いて肉迫する。

 

「――!!」

 

 征矢が遅れて反応する。

 咄嗟にバックステップをして距離を取ろうとする。

 知っているとも。どうせその態勢からでも太刀を構えて降るまでは一瞬なのだろう。

 瞬きすらしていないはずなのに、すでに朧斬りのモーションに入っている。

 普通なら、もう絶対に回避は間に合わない。すでに間合いの中に飛び込んでいる。だからこそ、赤嶺がするべきことは、回避ではなく、攻撃! それもただの攻撃ではない。

 太刀を腰に携え、鋭く息を吸う。

 何度も。何度も見た。

 老若葉の動きをトレースしろ。蓮華が毎日夜遅くまで修得せんと練習していた様子を眺めていた記憶を掘り起こせ。

 別に完璧じゃなくてもいい。

 だから、少しだけ。少しだけでもいいから、あの領域に足を踏み入れろ――ッ!

 

 無音。

 

 あらゆる動きが粘性を持ったように、ゆったりとした速度に落ちる。

 直後、ふた振りの太刀が消え失せ。

 空間を裂く太刀筋がふたつ、刹那の間に交差した。

 ふたりは背中を向けたまま、姿勢を保つ。

 そして、ぼとりと肉が落ちた。

 落ちたのは赤嶺の左腕だ。肘まで斬られた切断面から真紅の雫を撒き散らす。それだけではない。腰のポーチも切断され、左腕と共に根の下へと落ちていった。

 ついに脳が限界を迎えた赤嶺はその場に膝をつき、前のめりに倒れた。

 しかし、赤嶺は勝ち誇ったような顔をしていた。

 次に、征矢の右脇腹から左脇にかけて巨大な傷が走る。内臓をのきなみ切り裂いた一撃は、征矢の口元から血を流すのには十分すぎた。

 

「ぐ、ぅ……」

 

 太刀を地面に突き立てながら征矢は口に溜まった血を吐き出した。

 だがそれでも、戦闘不能にまで持っていくことはできなかった。傷口に触れ、べっとりと深紅に染まった手を無言で見下ろした。

 そして、ずるずると力なく太刀を引き摺りながら征矢は赤嶺の横に立った。

 

「なる、ほど……。威力を抑えて、代わりに速度を上げたのか……。我ながら、よくやるものだ……」

 

 言葉を発する度に口から溢れる血を征矢は手で拭う。

 

「は、はは、は……」

 

「だが、そこまでのようだな。出血量も……決して無視できない」

 

「まあ、ね」

 

 太刀の切っ先を赤嶺の首にあてがう。

 赤嶺はもう、指先ひとつ動かせない。全身の感覚がない。こうして思考力を保っていることすらいっそ不思議なほどだ。

 確かに征矢を倒すことはできなかった。あと数秒後に高嶋と同じように殺されてしまうだろう。

 でも、もうそれでもいいや、と思えるほど満足感に満たされていた。なぜなら、誰にも成し得なかった朧斬りを、不完全ではあるものの再現することができたのだから。圧倒的強者に、一泡吹かせることができたのだから。

 

 どう! レンち! 私はレンちにできないことをやってみせたんだよ……!

 

 悔しそうな蓮華の顔を想像するだけで面白い。

 実際に見ることは叶わなさそうだが、赤嶺友奈という人間がこの剣技を修得することが可能とわかったのだ。これほど嬉しいことがあるだろうか! それにその完成型がすぐ目の前にいる。

 もう、悔いることは何もない。

 薄っすらと目を開け、こちらを見下ろす征矢を見上げる。

 まだ生大刀は振り下ろされない。

 それどころか、なぜか切っ先を首から離した。

 

「……?」

 

「…………よく、私に打ち克った」

 

 向けられた言葉は、これまでの深海の底を思わせる冷たさとは真逆で、暖かさに満ち溢れていた。

 

「…………ぇ?」

 

 唐突な態度の豹変ぶりに、思わず呆けた声が出る。

 そんなことはない。一撃は与えられたが、確実に負けた。現に今、首を刎ねようとあてがっていたではないか。

 征矢はこちらに背を向ける。

 そしてそれ以上何も言わず、根から降りて姿を消してしまった。

 いったい何だったんだ……。

 意識が薄れる。助かったという安堵が急速に広がる。極度の緊張状態から解き放たれた赤嶺は、そのまま泥のように眠った。

 

 ◆

 

 征矢に穿たれた穴を、光の波が洗い流す。

 とうに止まった心臓に、誰かが動き出せと呼びかける。

 どくんと血流が再開する。

 血の気が失せていた高嶋の顔が、徐々に赤みを増す。次に、誰の補助も受けずに自発的に胸を上下させはじめる。

 そして、極めてゆっくりと瞼が上げられた。

 

「…………ぁ、れ?」

 

 高嶋が目覚めると、そこには知らない天井があるわけではなく、夜が広がっていた。

 知っている、植物特有の緑色の香り。

 

「どうして生きて……私、殺されたはず、じゃ……」

 

 ぎこちない動きで上半身を起こす。

 周りを見回し、ここが樹海であることを悟る。

 そうだ、高嶋は樹海化警報がなった後、知らない少女に殺されたはずだ。

 なのに、どうして。

 ここは死後の世界……?

 

「……高嶋友奈」

 

 ふと名前を呼ばれ、高嶋は反射的に後ろを振り向いた。

 そこには忘れるはずもない人物が立っていた。他でもない、高嶋を殺した少女だ。

 

「ひ」

 

 無意識に喉から恐怖の音が漏れ、脚を使うことすら忘れて腕を必死に動かしながら距離を取ろうとする。

 しかしよく見ると少女の身体は血に濡れている。斜めに大きく突き抜けた赤い傷は、どう考えても重症だ。

 

「お前を殺すことは保留にする。牛鬼に感謝するんだな。それと……お前たち人間の力を……生き様を、私に見せてくれ。私はそれで判断する」

 

「え……?」

 

「見ろ」

 

 そう言うと、征矢は壁側の方を指差した。

 少し見にくいが、バーテックスたちと勇者たちが戦っているのを視認できる。

 

「助けに行ってやれ。来たくて来たわけではないのは知っている。でも、お前の責任なのは確かだ」

 

 そうだ。少女は高嶋に『赤嶺と高嶋が来たからこの襲撃が起こった』と言っていた。確かにバーテックスの襲来は終わっていると聞かされていたし、ならば言っていることは事実なのだろう。

 でも――。

 

「赤嶺ちゃんは? あと、私手甲持ってないから、戦えない……」

 

「どちらも問題ない。私よりも重症だが、赤嶺友奈は私に勝った。まだ誰も死んでいない。手甲は、お前の呼びかけに応えるだろう」

 

「なんで、そんなに優しいの?」

 

「…………」

 

 高嶋の問いに、少女は口を閉ざした。

 すぐに返答は返ってこなかった。それどころか、誤魔化すように踵を返す。

 何か言い残すのかと思いきや、それすらなくどこかへ消えてしまう。

 命拾いした……と考えて良いのだろうか。

 少なくとも殺意と呼べるものは感じられなかった。まるで別人のようだった少女を訝しみながらも高嶋は言われた通り、友奈たちの加勢に行く。

 赤嶺の状態の確認は優先事項だが、バーテックスを倒すことのほうが最優先事項だ。

 ポケットからスマホを取り出し、勇者アプリを起動させる。

 高嶋の手に手甲はない。

 西暦の時代に置いてきてしまった。若葉は常に生大刀を持ち歩いていた。心掛けは見上げたものではあるものの、高嶋はそれを真似しようとは思わなかった。

 若葉の抱く考えを否定するつもりはない。そういう価値観を否定するのはこっちの価値観を押し付けるだけになってしまう。

 高嶋は、日常と非日常をきちんと区別したい。

 だからせめて、普通の女子中学生としてあれる時は、精一杯満喫する。

 それが導いた今の状況を後悔はしない。

 赤嶺に、すでに私達の御役目は終わったと言ってしまった。でも、赤嶺は鏑矢として少女と戦い、勝った。

 ああ、そうだ。

 今だけは、大昔に終えた御役目を呼び起こそう。

 初代勇者の力、ここに見せよう。

 

「私は――勇者になる!!」

 

 ◆

 

 大赦本部、その地下深くに眠る歴代勇者の武器たち。

 八つのモノリスが鎮座し、それらの膝下で長年の眠りにつく武器たち。

 そのうちの一つ、赤い手甲が己が主の呼び声に応えんと振動を始める。たとえ大昔に死んだ英雄であろうと、武器は声の主をきちんと理解し、力を貸すべく深い眠りから覚め、そして桜色の花弁となって消えた。

 

 ◆

 

 両の拳が熱くなるのを感じた。

 ――三百年の時を経て、初代勇者がここに覇権を示す。

 勇者装束を纏った高嶋は、自身の腕に懐かしい手甲がガッチリと装備されていることを確認した。

 この手甲は、確かに自分のものだ。しかし違和感を覚えるのは、恐ろしいほど新品同様であることだ。自分で手入れは欠かさなかったが、どうしても微小な擦り傷などは残ってしまっていた。

 なのにこの美しさは、長い間、誰かが高嶋たちが戦った歴史を維持しようと頑張ってくれていた賜物だろう。

 ……高嶋の戦意が跳ね上がる。

 地面を蹴る。

 高く飛翔した高嶋は、初めて見る奇怪な化け物に目を剥く。

 

「なにあれ……?」

 

 白いブヨブヨしたバーテックスは多数確認できるが、それらよりも遥かに巨大なバーテックスが十二体、悠然と浮遊している。

 強い。

 直感的に悟った。

 恐らく、通常状態ではまず太刀打ちできない。切り札を利用してようやく土俵に上がることを許されるレベル。

 そして見る。

 ふたつの口腔を持ったバーテックスの前に、友奈の姿がある。何が起こったのかはわからないが、身動きが取れない。そこにトドメを刺そうと今にも矢を放とうとしている。

 

「させないッ!」

 

 鮮やかに友奈の前に着地した高嶋は、拳に力を入れながらすぐさまジャンプする。

 そして、叫んだ。

 

「――来い、一目連!」

 

 神樹の概念記録にアクセス。

 該当精霊、ヒット。

 現在、一目連は凍結中。

 よって憑依不可。

 牛鬼による絶対権限の行使。

 凍結解除。

 さらに牛鬼によるフィルタリングにより、憑依時に発生する魂の穢れを浄化。

 憑依、実行。

 

 凄まじい風が吹き荒れ、高嶋の身を包む。装束も暴風を想起させるデザインへと変化し、風を纏った拳が射手座の横顎に炸裂した。

 ズパン! という衝撃音が轟き、放たれた矢の軌道が逸れた。それは友奈の頬を掠め、根を穿ちながら遠方へと飛んでいった。

 確かな感触が伝わるが、高嶋は歯噛みした。ダメージというダメージを与えられているような感覚がしない。

 一筋縄ではいかないなと考えながら高嶋は友奈の前に舞い戻った。

 

「大丈夫、結城ちゃん!」

 

「高嶋、ちゃん……?」

 

 掠れ声で友奈は名前を呼んだ。

 まるで生き別れた家族を見るような目で高嶋を見上げる。

 

「え、なんで……死んだはずじゃ……?」

 

「あー。いや、それはちょっと私にも……あはは」

 

「良かった……生きていてくれて、良かった……! それと、助けてくれてありがとう……!」

 

 射手座の追撃の矢が飛んでくる。

 動けない友奈の手を取った高嶋は急いでその場から離脱し、風と樹の側に着地する。

 ふたりに目を丸くされるが、今はそれに反応する時間は取れない。

 

「高嶋あんた……!」

 

 風が感極まった面持ちで高嶋を迎える。

 

「ただいま。風さん、樹ちゃん」

 

 力なく倒れこんだ友奈を優しく介抱しつつ、言葉を続ける。

 

「色々言いたいことはあると思うけど、それはあとにお願いします」

 

 どう考えても只事ではない何かが起こっているのは高嶋にも容易にわかった。あれだけのバーテックスが一斉に攻めてきているのだから。

 有無を言わさない物言いに、風と樹は頭を縦に振る。

 

「少し休んでて、結城ちゃん」

 

「でも私が休んだら……」

 

「いいから。いっぱい頑張ったんでしょ? だから今は休んで、落ち着いたら加勢に来て」

 

 友奈の長い睫毛が上下に震え、ゆっくりと頷いた。

 

「うん……わかった」

 

 樹に友奈の介抱を任せた高嶋は、先に戦いに行った東郷と夏凛、園子に加勢すべく移動を始める。

 

「風さん、状況は?」

 

「最悪ね。バーテックスの第二陣があれなんだけど、第一陣で満開してしまったからもうあいつらを倒す力はあんまり残ってない。それにパッと見だけど、第二陣のほうが強い。こんなの言いたくないけど、このままだったら負けるわ」

 

「もう一回満開したらいいんじゃないですか?」

 

 風は頭を振った。

 

「ううん、できないの。前なら連続使用はできたんだけど、アプデが入ったから満開は一回しかできない。数体なら満開なしでもたぶん倒せるけど、数が数だからね。一度にすべてを相手にできないから、もし一体でも神樹様に到達されたら……」

 

 その先は言わなかった。

 しかし言わなくてもわかるわよね? と目で訴えかけてくる。

 見れば、夏凛と園子、後方の東郷の奮闘でなんとか防衛ラインの突破は防げているが、次の瞬間に呆気なく突破されてもおかしくない。

 それほどひっ迫した状況だ。しかしジリジリとラインが下がっているし、三人とも十二体のバーテックスに牽制をして侵攻を遅らせるので手一杯だ。

 さらに雑魚敵の対処も重なって、怒涛の防衛戦になっている。とても攻勢には出られない。

 圧倒的に数で負けている。しばらくすると樹と友奈も戦線に復帰できるだろうが、だからといってとても逆転できるとは思えない。

 神世紀の勇者は、これほど壮絶な戦闘を繰り広げていたのか……!

 西暦とはまるで比べ物にならない。恐らくあの巨躯を誇るバーテックスたちは、初戦で見た雑魚敵の集合体、そこからさらに進化した最終バージョンなのだろう。

 たぶん今の高嶋では勝てない。一目連では火力不足だ。まだ一度も宿したことはないが、三大悪妖怪のひとつ、酒呑童子の力でならなんとか勝てるかもしれない。

 それほどにも実力差は開いている。

 しかし神世紀の勇者たちは、通常状態で最終進化型とやり合っている。

 自分がこの襲来の原因の一端を担っているというのに、なんて無力なのだ。

 どうすればいい。愚直に戦場に飛び込めば、間違いなく高嶋は足手まといにしかならない。

 嘆く時間があるのなら、戦う方法を探すんだ。

 懸命に高嶋は考え始める。

 一目連の力で暴風を起こす?

 これは駄目だ。規模が小さいから一体しか動きを封じられない。それだけではなく、下手をすると味方の邪魔をしてしまいかねない。

 ならば酒呑童子だ。酒呑童子なら、火力の根本的な上昇が見込める。個の力は風たちと同レベルになるだろう。

 だがそれでも足りない。

 数の差は覆らない――。

 瞬間。

 電撃の如き思考が爆ぜ、回路を伝い、頭の中でひとつの最適解が導き出された。

 

 ――ある。

 風たちにはできなくて、高嶋にしかできないことが、ある。

 

 高嶋にバーテックスを倒すことは難しい。でも、風たちがそれをやってくれる。

 だから、その助けとなればいいのだ。

 高嶋は真剣な口調で尋ねた。

 

「数を抜きにして、風さんたちはあの敵を倒すことはできるんですか?」

 

 質問の意図がわからなかったが、高嶋の顔を見て、すぐに風は表情を改めた。

 

「たぶんできるわ。間違いなく私達の知ってるネームドより強いけど、できる。……いや。絶対に倒してみせる」

 

「わかりました。行ってください、風さん。すぐに合流します」

 

 有効打になる何かを保っているのだと悟った風は、ただ頷き、高嶋を信じて戦場へ飛び込む。

 そこから少し離れた所に着地すると、一目連の憑依を解除した。

 そしてすぐさま別の精霊への呼びかけを始める。

 今必要なのは、単純な戦力ではない。

 数だ。

 あれだけのバーテックスを食い止められる、数の力が必要だ。

 それを発揮できる精霊を、高嶋はひとつだけ知っている。

 

 神樹の概念記録にアクセス。

 該当精霊、ヒット。

 現在、該当精霊は凍結中。

 よって憑依不可。

 牛鬼による絶対権限の行使。

 凍結解除。

 該当精霊と高嶋友奈の内包する心象が異なるため、憑依不可。

 

「ッ……!」

 

 駄目か……!

 そもそもこの試みが的外れであることは重々承知している。

 勇者システム、その奥の手である切り札についての説明で、自身と合致しない精霊は何をしようと憑依させることはできないと聞いている。

 しかし今はどうしてもこの精霊の力が必要なのだ。

 だから――諦めない!

 なぜ生き返った!

 知らない!

 誰に生き返らせてもらった!

 それも知らない!

 でも、高嶋友奈がここに生きているということは、誰かに生きろ(・・・・・・)と背中を押された、何よりの証拠!!

 なら、できることは精一杯やるべきだ!

 再び高嶋は強く、強く念じながらアクセスを重ねた。

 

 神樹の概念記録にアクセス。

 該当精霊、ヒット。

 該当精霊と高嶋友奈の内包する心象が異なるため、憑依不可。

 

 どうしても、駄目なのか……?

 どれだけ足掻いてもできないことがあるくらい、高嶋にもわかっている。

 努力は必ず報われるなんて言葉が幻想であることも知っている。西暦の時代では誰もが必死に生き抜こうとしていた。でも、それらは呆気なくバーテックスたちに蹂躙され、壊され、殺された。空を見ることに恐怖を抱くようになった人々を見て、力になれない己の無力をどれだけ嘆いたことか。

 だから、せめて手の届く範囲では絶対に誰にも傷ついてほしくないと願った。そんなささやかな願いすら叶えてもらえないのか……?

 諦めに傾き始めた高嶋の思考が、時間を一瞬、停止させた。

 色も音も消え失せた世界で、あることが起きた。

 まず、身体の、あるいは心の奥底から発生した小さな灯火が、凍り始めようとしていた意識に焔を伸ばそうとする様を自覚した。

 胸の中央から、両肩、両脚を通り、それぞれの指先へと。強張った身体を、燃えるような熱さが包んだ。

 そして気づく。これは自分が発したものではない。我が身に宿る誰か(・・)が発した熱だ。

 そして再び、時間が動き出した。

 いつの間にか、どこからか発生した光の奔流が高嶋の周囲へと流れ込んできていた。よく見れば、右脇に光の粒子が集結し、何かの形を成そうとしていた。

 徐々に光のシルエットは色を獲得し、黒光りする長い柄となり、地面から上へと伸びていく。

 それに右手を伸ばして触れた瞬間、これ以上ない熱が宿った。

 高嶋に触れられたことにより、さらに形成する速度が上がった。

 不意に、懐かしさと嬉しさが胸の中で爆発する。

 この『武器』の主人を、一瞬で理解した。

 不意に、後ろから誰かに抱きしめられる温かい感触が広がった。顔を横に振ったが、誰もいない。

 でも、確実に誰かに抱きしめられている。

 不思議と嫌な気持ちにはならなかった。寧ろ心地よくて、どうしてかは自分でもわからないままあの人の名前を呼びそうになった。

 高嶋の耳元で、誰かが囁きかけた。

 それを聞いた高嶋は強張った頬を綻ばせ、「ありがとう」と呟いた。

 そして、必ず成功するという確信とともに、もう一度だけ神樹にアクセスした。

 

 未登録英霊記録、起動。

 英霊記録名、TKG。

 TKGの干渉により、高嶋友奈に適した心象への該当精霊の一時的な変換、完了。

 憑依、可能。

 さらに牛鬼によるフィルタリングにより、憑依時に発生する魂の穢れを浄化。

 憑依、実行。

 

「力を貸して――」

 

 これは、あの人の専属精霊。

 本来ならば、絶対に不可能な憑依。

 西暦に帰っても二度と同じことはできないだろう。

 感謝を。たくさんの、感謝を。

 力強く柄を握りしめる。

 ひとりじゃない。高嶋を優しく抱きしめてくれているあの人がいるから、絶対に大丈夫。

 そして今にも溢れんばかりの想いを込め、高嶋はこの身に降ろす精霊の名を高々と吼えた。

 

「――七人御先!!」

 

【挿絵表示】

 




――高嶋さんのためなら、喜んで力を貸すわ

【Infomation】※Danger!
▼牛鬼の消滅により、大満開の可能性、絶望的
▼征矢に謀反の可能性あり

それではまた次回!


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終戦

前回のあらすじ
七人御先高嶋


 高嶋の身体を、白くて優しい熱がそっと包み込む。それに身を任せると、瞬く間に勇者装束に変化が現れた。

 淡く発光を始め、弾ける。

 すると装束は桜色ではなく、純白の長いものへと変わっていた。深紅のラインが走り、被ったフードには魅入るほど美しい彼岸花が咲く。

 七人御先、憑依完了。

 一目連とはまた違った感覚が全身を巡り、高嶋は深呼吸をすることで落ち着かせた。

 右手にはあの人――郡千景の武器である大鎌、大葉刈が収まっていて、ギラリと光沢を放つ凶悪な刃が自己を主張する。

 

「――来い」

 

 そう低く呟いた瞬間。

 高嶋の背後に白い炎を燃え上がらせながら六人の自分自身が現れる。

 影分身などではない、正真正銘の高嶋友奈本人だ。

 自意識を持ち、言の葉を話し、斬られれば痛む。

 パワーアップしたからといって、当然これから立ち向かうバーテックスに勝てるとは思っていない。そもそもそれを想定しているわけではない。

 きっと、何度も殺されるだろう。

 しかし問題ない。

 一人でも生きていればまたすぐに七人へと増える。七という絶対数は保たれ、すべてがほぼ同時に殺さない限り『高嶋』は不死身である。

 死ぬのは怖い。正直、この精霊はとてつもなく悪趣味な精霊だと思う。なぜなら死を是としているからだ。

 そう考えるだけで頬が強張り、一瞬だけ気の迷いが生じてしまう。死という未知はあまりに恐ろしく、竦んでしまいそうになる。

 ……でも、同じ心を持った別の自分が必ず後を継いでくれる。『自分』は死ぬが、自分は生きていてくれる。それだけでいい。

 まだ高嶋は千景が七人御先を宿して戦う場面を見たことがない。千景も近い将来、この恐怖と戦うことになるのだと思うとやるせなさでいっぱいになった。

 それと同時に、千景のことをまたひとつ知ることができたと嬉しくもあった。

 だから、いつか千景がこれを使った後は精一杯癒やしてあげようと心の中で固く決意した。

 

「行くよ」

 

 七人が音も無く飛び立つ。

 すぐに分散し、対応が限界となっている風たちに合流する。

 

「風さん、援護に来ました!」

 

 水瓶座の攻撃を受け流した風は尻目に高嶋の姿を見て「助かるわ!」とだけ短く返そうとしたが、外見の変わりようにギョッとこちらを二度見する。

 

「何あんたその格好……って、えええええ⁉ あっちにも高嶋……こっちにも高嶋がいるじゃない⁉」

 

 夏凛の援護に向かった者がいれば、野放しになっているバーテックスの足止めに向かう者など、六人がそれぞれで判断して動いている。

 戦闘疲れで幻覚を見ているのではと風は何度も目を擦って現実を直視する。

 

「倒すことはできないですけど、私達が絶対に足止めします。だから、お願いします」

 

「わ、わかったわ。ありがとね。すごく助かる」

 

「絶対に生きて勝ちましょう!」

 

「ええ!」

 

 そう言って改めてバーテックスたちに顔を向けた瞬間、どこからか放たれた射手座の矢が、高嶋の首から上を吹き飛ばした。

 

 ◇

 

「――――ぁ、え?」

 

 あまりに突然のことに、風はその場で四秒ほど動きを止めてしまった。

 激しく血色の液体を撒き散らしながら、穿たれた頭部がどこかへ飛んでいった。

 そして高嶋の身体が大鎌を落とし、ゆっくりと地面に倒れ込む。首から夥しい量の鮮血を流しながら、ピクピクと痙攣する身体を呆然と見下ろす。

 一切の思考が停止し、戦場で肩の力を抜いてしまう。

 どう反応すればいいかわからなくて、ただこの絶望を爆発させようと、胸から込み上げる叫びを口から吐き出そうと――。

 

「――大丈夫です、風さん! 私は死んでません!!」

 

 と、別の高嶋がすぐ隣に着地した。

 訳がわからないまま呆ける風を落ち着かせようと、ガチガチに固まった肩を掴む。

 

「私のはそういう精霊なんです! だから落ち着いてください!」

 

「いや、でも……」

 

 そう掠れ声で呟きながら側に倒れていた高嶋を視線を落とせば、すでに首無し遺体は灰となって消えていた。

 

「確かにそこの私は死にましたけど、『私』は死にません! だから安心してください!」

 

「こんな戦い方で、本当にいいの?」

 

 ここが戦場ということも忘れて風は戦慄を覚えながら問うた。

 あの高嶋は紛れもなく本人だった。本人が七人いる。それ自体はとても心強いのだが、七人のそれぞれが自己を持っているというのはあまりに……あまりに残酷すぎる。

 

「風さんの言いたいことはわかります。でも、西暦の勇者システムは古いので、どうかわかってください。それに私達がほぼ同時に全員やられない限り、私は大丈夫です」

 

「…………死んでも大丈夫だとしても、なるべく死ぬのは駄目よ。絶対に。わかった?」

 

 風と視線が合わさる。

 そこから感じられるのは、憐憫や不安といったマイナス要素ばかりが混ぜられたようなものだった。でも、その中に僅かながら『願い』を見た。

 

「わかりました」

 

 自分の胸に言い聞かせるように、手を胸に当てながら高嶋は力強く答えた。

 水瓶座の水球攻撃が飛んでくる。あの中に捕らわれれば呼吸を奪われ、すぐに殺される。前回、風がこれに捕らわれた時は満開することによって抜け出せていたが、今はそれができない。

 すべて飲み干す、なんて子供っぽい考えもなくはないが、それでもとても不可能な量の水だ。

 ふたりは一旦後退し、その間に高嶋は他のネームドの牽制に向かう。

 夏凛と一緒にもう少しで一体目を撃破しそうな自分自身を一瞥した後、身体の両脇から湾曲して伸びる二本の角が特徴的なバーテックス――牡牛座を睨む。

 誰にも邪魔されていないことにつけ上がったのか、いざ参らんと侵攻速度を上げている。

 ――行かせない!

 激しく裾を靡かせながら急接近する。鎌の扱いは千景ほど完璧ではない。しかし、千景が鍛錬していたのを側で見守っていた記憶を呼び起こす。洗練された鎌の捌きに何度見惚れたことか。どう動けば次の動きに繋げられるか。より高い攻撃を繰り出せるか。それを目に……脳に焼き付けている。完全なる再現にまでは至らないが、それでも十分扱えるはずだ。

 ブォン、と重々しい音を鳴らして大きく振りかぶる。恐らく角は硬くて容易には切り裂けないはずだ。だから、堂々と真正面から斬りかかる!

 

「はああああッ!」

 

 牡牛座がその巨体に見合わない反応速度で身体の向きを急転換し、角の方をこちらに向けた。苔に覆われたそれと接触した瞬間、金属板を引き千切る様な耳障りな衝撃音が高嶋を叩きつける。同時に指先から鈍いフィードバックが足先まで伝わり、顔を歪める。

 続いて高嶋を敵と認識した牡牛座が、その頭頂部にある黄金の鈴を鳴らした。発生したのは不協和音。さっきの衝撃音とは次元の桁が違う、人が聞いてはならないものだ。

 あらゆる動作を停止させられつつ、鎌を手放して両手を耳に当てながら、力を振り絞って牡牛座を蹴り、距離をとる。地面に着地した高嶋は、あともう少しあそこにいたら、鼓膜は破壊され、脳へのダメージは避けられなかったと分析する。

 だからといって距離が離れていてもまだ耳をつんざく音は聞こえている。

 これでは接近できない。

 歯噛みした高嶋の隣を――。

 

「――私が行きます!」

 

 と、幼さをまだ色濃く残した頼もしい声が通り抜けた。

 頭を振れば、短いブロンズヘアを揺らして樹が飛び出していた。牡牛座に右腕を向け、手首のリング状の装備から無数のワイヤーを射出させる。それらは音圧をものともせずに真っ直ぐ進み、ガッチリとその巨躯を絡めとり、一時的に不快音が止んだ。

 

「くっ、う……ッ! 高嶋さん、鈴を!」

 

 余裕そうな態度を一変させて暴れ始める牡牛座を額に脂汗を滲ませながら樹が抑え込んでいるが、どう見てもあと数秒で小さな身体ごと宙へ投げ出されそうだ。

 

「わかった!」

 

 掌を開けば、静かに大葉刈が収まる。

 根にクモの巣の亀裂を走らせるほど鋭い跳躍とともに、高嶋は牡牛座へ肉迫する。意図を察した牡牛座がありったけの力で拘束から逃れようと足掻くが、「やあああああ!!」と樹の気合で地面に叩き落とす。

 そこを、鈴を掲げる植物質の土台を根元から一刀両断した。

 その瞬間、ついに樹の拘束から抜け出され、角を振り回して怒りを撒き散らす。

 さすがにこれについていけない高嶋は一旦後退して樹の隣に立った。

 あとはお願い、と言葉を投げかけようとしたとき、続いて樹は声を張った。

 

「――友奈さん、お願いします!」

 

 声につい反応を示してしまいそうになった高嶋は喉に上ってきた返事を奥に押し戻した。

 なぜなら、自分のすぐ脇から自分自身――いや、違う。友奈が真剣な顔で飛び出したからだ。

 戦線復帰を果たした友奈はまだ暴れている座へ向かって勢いよく飛翔する。

 

「勇者――パアアアアアンチ!!」

 

 友奈の放った拳撃は、牡牛座の堅強な身体を大きく砕いた。致命傷を負ったことによって御霊が露出し、そこを樹の無数のワイヤーが貫通することで撃破が完了した。

 

 ◇

 

 空へ砂粒らしき物質が舞い上がるのを見上げる。

 どうやら向こうの高嶋は樹、友奈と協力して座の撃破に成功したようだ。それだけで勇者たちの負担は格段に下がる。

 すでにここに至るまで高嶋は十一回殺されている。そしてその半数以上はこのネームドによるものだ。

 自然と鎌を掴む力が強まる。ぎりりと気難しそうに睨む。

 明らかに他のネームドとは異なる威圧感を放ち、大きい巨躯は、絶望の権化を想起させる。死霊に足首を掴まれているような感覚に陥り、空気を貪るように吸う。

 四方に伸びる先端。正面に突き出た球体、その両脇に生えている牙が高嶋を嘲笑うかのように上下する。

 別にこの挑発に乗ったりする必要はない。そもそもこのバーテックス――獅子座は、高嶋より圧倒的に強い。まず勝ち目がない。酒呑童子の力を宿しても恐らく掠り傷程度しかつけられないだろう。

 落ち着け。躍起になってはならない。まだ戦線は安定していない。下手に突撃してこの拮抗状態を悪い方向に崩してはならない。

 

「たかしーー!!」

 

 遠くからの呼び声が段々近づいてくる。

 高嶋をそう呼ぶのはひとりだけだ。

 隣に立った槍使いの少女は、普段ののんびりとした様子とは真逆の、剣呑な雰囲気を醸し出している。

 

「園ちゃん! 戦況はどうなの?」

 

 肩で息をしながら園子は口を開いた。

 

「なんとか戦線は保ててるよ。いっつんとゆーゆが復帰したから、皆も少しは余裕がある。この調子なら勝てるかもしれない。でもそのためには――」

 

 そう言った園子は、すう、と目を細めて追憶とともに堂々と鎮座する獅子座を見据える。

 過去に園子は獅子座と対峙している。

 今回の戦闘の第二陣だって、二年前のあの時とまったく同じ展開だ。予想できたはずだ。確かに風は年長で部長であるが、勇者としての経歴は園子の方が上だ。

 風の全員満開という提案を安易に推してしまった。

 ずきりと胸に小さくも忘れられない痛みが走る。

 脳裏に二年前の最終決戦の記憶が蘇る。

 圧倒的な数のバーテックスをひとりで倒しきるために、何度も満開を繰り返し、文字通り何度も人間性を捧げた。

 何度も。何度も。

 しかし今度は満開すらできない。

 果たしてその状態で獅子座を撃破できるのか。

 もし超火球が発射されたら、今の園子たちに受け止める術は無い。

 でも。

 それでも。

 

「――あいつを倒さないとね」

 

 負ければ全てが終わる。

 

「あいつはすごく強いから、たぶんふたりだけじゃ無理。もう少し人数が欲しいから、全力でここに食い止めて――」

 

 言い終える前に、園子の横にふたりの高嶋が着地した。

 

「うん、これなら攻勢に出られそう」

 

 三人の高嶋と園子は無言で頷き合うと、勢いよくその場から飛び出した。まず獅子座に自身の命を脅かす的であることを明確に認識させなければならない。これまで高嶋は一方的に遊ばれていた。その遊びで何度も殺されている。

 四人に興味を失ったのか、獅子座は身体の向きを変えて神樹の方へと向かっていく。

 第一陣では、勇者の力を削ることを目的とし、神樹に目もくれずこちらに突貫してきていた。しかし第二陣は違う。あくまで最優先は神樹に到達することであり、勇者の排除は必要に応じてといった感じだ。

 

「こっちを向けええぇぇ!」

 

 園子が槍を高くかざすと、穂先が幾つかに複製されて鋭く射出する。それらは一切の回避行動を取らない獅子座の球体部分へと深々とすべてが突き刺さった。

 果たしてバーテックスに痛覚があるのかはわからないが、微微ながらもダメージが入ったものの侵攻は止まらない。

 獅子座の真正面に三人の高嶋が躍り出る。フードで目元が隠れ、大鎌はこれから魂を刈り取らんと歓喜するかのように、刃先が黒い光沢を放つ。

 まさに、死神。

 それが三人。

 これも防御姿勢をとらない獅子座の球体へと寸分の狂いもなく振り下ろされる。

 ガギィン! と硬い音が爆発し、鎌は呆気なく弾かれてしまう。

 

「ッ!」

 

 硬、すぎる……!

 傷とも言えない微小な傷をつけただけに終わる。

 高嶋は瞳の奥に驚愕と反抗心を滲ませつつ、一度鎌を手放した。

 園子の穂先はまだ刺さったままだ。やはり西暦と神世紀の勇者では根本的な戦力に大きな差がある。穂先を階段として駆け上がりながら、三人の高嶋は拳に力を込めた。

 

「勇者――パアアアアアンチ!!」

 

 またしても硬い感触。

 豆腐でダイヤモンドを殴っているような感覚だ。

 でも!

 一度で無理なら、何度でも!

 六つの拳が振りあげられる。赤い手甲が煌き、赤い流星の如き速度で拳撃を打ち込む。

 拳の嵐。

 激しい打撃音が地表にいる園子の身体を叩く。

 それでも獅子座へのダメージは少し球体が凹んだだけで、まだ反撃もされない。

 完全に道端に転がる虫けらのような扱いをされている気分だ。

 カッと熱くなった高嶋は渾身の一撃を繰り出そうと血が滲むほど拳を固く握りしめたが、そこで行動は終わってしまった。

 突然、獅子座の後部にある棘の生えた巨大な輪が左右真っ二つに分断される。その間には赤いマグマのような空間が生成されていて、高嶋は警戒しながら様子を窺う。

 現れたのは赤く発光する雑魚敵の群れだった。このような攻撃手段は初めてだ。……いや、これは高嶋への攻撃などではなく、ただの増殖行為に過ぎないのかもしれない。

 すぐさま高嶋へと殺到する雑魚敵を回避、もしくは迎撃しながら距離を取り、地面に着地した。

 すると間もなく園子が走ってきた。

 

「ネームドはもう五体倒せたらしいよ! たかしーのおかげで、このままならいけるかもしれない!」

 

 希望を見出し始めた園子は煤だらけの顔を緩めながらそう言った。

 しかし高嶋の表情は険しいままだ。

 

「でもあのバーテックス、勝てるの? 私じゃ無理だけど、園ちゃんでも難しいと思う」

 

「わからない。私もあれと戦った時は満開してたから……通常装備で勝てるかはわからない。でも、あとひとりかふたりほどいたらいけると思う」

 

「……待てる?」

 

 そう短く訊いた言葉の意味は、それまでこの強大な敵を食い止められるかというものだ。

 確かにあと数人勇者がいれば獅子座は倒せるかもしれない。しかしそれは、獅子座を高嶋と園子でこの場に縫い付けることができればという前提の上で成り立つ。

 ネームドの数は減らせているが、まだ防衛線が解消されたわけではない。さらには雑魚敵だっている。後方で狙撃体制を長時間維持している東郷の精密な射撃と、樹のワイヤーによる広範囲捕縛がなければ対応がまるで間に合わないのだ。

 分散している四人の高嶋も、死亡もしくは致命傷を受ければ自動的に消滅し、新たな高嶋が抽出されている。精神の摩耗は正直なところ、激しい。

 別に感覚のすべてを共有しているわけではないが、消滅した――濁した表現だからもっと直接的な表現をすると、殺された高嶋の想いや残滓などといったものが僅かながら、流れ込んでくるのだ。

 ああ、まただ。

 何度も自分自身に託される。

 それらの数だけ高嶋の心は強くなる。意志は固まり、より強固になる。託された願いを無為にしないためにも、この戦いには必ず勝たなければならない。

 獅子座の侵攻は止まらない。あともう少し進めば、戦線が崩壊する。それはあちらも気づいているだろう。必死に迎撃を続ける勇者たちを見下す絶対的強者のように、その場で移動を停止させた。

 

「止まった……?」

 

 高嶋はチャンスだと素早く判断し、鎌を握って三人同時に飛び出した。

 しかしその全員が一瞬にして蒸発した。

 

「たかしーーッ!!」

 

 現れるは、太陽を思わせる巨大な火球。

 獅子座の前方へ熱が収束し、プロミネンスが噴き出す。

 距離が離れているのに、ここまで届く熱が園子の睫毛をチリチリと灼く。

 恐れていた事態だ。

 今の勇者たちにあれを食い止められるとは考えにくい。放たれれば、終わり。樹海の地面を根こそぎ燃やし尽くされ、神樹への一本道ができてしまうだろう。

 新たに現れた高嶋が園子の傍らに降り立ち、戦慄したまま獅子座を見上げる。

 

「やられた……! あれでまだ攻撃ですらないなんてッ!」

 

「ああ……あれは……マズイね。うん。すごーくマズイ」

 

 恐らく勇者全員が束になれば、ギリギリ受け止められるかもしれない。しかしそれは絶対にできない。もし敵が獅子座だけならばこの選択肢を迷うことなく採用していた。

 勇者たちが一点集中している間に他のネームドの牽制がなくなってしまう。

 いじらしい攻撃だ。しかも、それを勝機を見出し始めた今にするというのが非常に厄介だ。

 

「――園ちゃんは誰か呼んできて」

 

「え?」

 

 それは、思いもしないお願いだった。

 つい呆けた返事をした園子を無視して言葉を続ける。

 

「私があれを受け止める。その間に、誰かと一緒に瞬間火力で倒して」

 

「何言ってるのたかしー! そんなの無理だよ! ひとりで――」

 

「『私達』で、食い止める」

 

 強い決意の漲った宣言は、これ以上園子の追及を受け入れないとばかりにピシャリと締め切った。

 来い、と高嶋が呟くと、その背後に六人の自身が出現する。

 七人の高嶋は堂々たる歩行で前に進み、火球を睨み上げた。極限まで巨大化した火球が発射されるまでは、あと数秒後だろう。

 明らかにキャパシティを上回っている。いくら不死身だといっても、この膨大な熱量を直に受け止めて無事でいられるはずがない。数回だとかそんなレベルではない。何十回も死を重ねることになる。

 そんな酷いことをさせるわけには――。

 

「行って!」

 

 という叫びと、火球が発射されたのは全くの同時だった。

 有無を言わせない高嶋の命令に、園子の身体は勝手に動き出していた。

 園子を見届けた高嶋たちは、股を大きく開き、迫る太陽を受け止めるべく両腕を前に突き出し、吼える。

 

「絶ッッッッ対に受け止める!!!」

 

 接触。

 瞬間。

 高嶋の数人が熱に耐えきれずにその肉体を蒸発させる。そして熱だけではない。勢いも殺さなければならない。

 大きく後ろへと押される過程で、脚の肉がぐちゃぐちゃに潰れ、剥き出しになった骨で根に突き立てででも、高嶋たちはなお受け止め続ける。

 

「ォ、ォ、ォォオオオオオオオオ――……ッ!!」

 

 死んで。

 死んで。

 死んで。

 すぐさま抽出される自分が死へと身を投げる。

 顔面が灼かれ、皮膚が爛れて眼球が干からびようとも、最後の一瞬まで力を振り絞る。

 地獄の時間は続く。

 もう何度殺されたのかもわからない。

 魂が擦り切れ、ふっ、と全身から力が抜けそうになる。

 いや、まだだ!!

 皮膚の下の筋肉組織を剥き出しになった高嶋は己に喝を入れ直した。

 ここで負けることは許されない!

 西暦の自分が命がけで繋いだ人の歴史!

 それを、こんなところで終わらせてはいけない!

 ギリリ、歯を食いしばると、炭化した歯の一部が呆気なくボロボロと崩れる。

 少しだけ火球の勢いが弱まってきているような気がする。

 でも、高嶋の死のペースは落ち着かない。それどころか、消失と抽出のバランスが保てていない。消失のほうが幾分か上だ。

 保険として一人だけこの場から離れさせるか?

 否!

 これは、高嶋のすべてを用いて食い止めなければならない。妥協は、一片たりともしてはいけない。

 腰の骨が砕け、バランスが崩れ、一気に炎に包まれる。

 それを尻目にいよいよ本当に危うくなってきた消失のペースに危機感を覚える。初めは七人だったのに、今では三人しかいない。抽出のスピードがまるで間に合っていない。

 このままでは――!

 その時。

 ノイズの走る視界に、ちらりと長い黒髪が映り込んだ。

 

「――――」

 

 身体中の水分をほとんど消失した高嶋の口はひび割れ、音を発することができなかった。

 続いて他の高嶋のもとへも、プログラムコードのような文字列が螺旋状に降り注ぎ、それが高嶋と同じ装束を身に纏う少女となった。

 白いフードに顔が隠れてよく見えないが、これが誰だなんて考える必要もなかった。

 

 ――負けないで。

 

 ポン、と肩に優しく手が乗せられる。たったそれだけで、無限の力が湧いたような気がした。

 火球の暴力的な熱とは違った、仄かに心に届く安らかな熱が全身を巡り、あらゆる傷が回復する。同時に人影が高嶋の前に立ち、火球の熱を完全にカットする。

 抽出の均衡が保たれる。

 一気に七人……いや、十四人へと増えた、七人御先を宿した少女たちが今一度受け止めんと目を剥いた。

 勢いはほとんど殺せている。

 あとは。

 両手を広げ、鎌を持つ。

 十四人が持つ、十四の鎌。

 それぞれの高嶋が隣の少女へと微笑みかけ、鎌を振るう。

 そして、火球はあっという間に細切れにされ、樹海全体を激しく叩きつける爆発となった。

 視界が開け、倦怠感に襲われつつも前方の獅子座を見据える。どうやら園子は夏凛を呼ぶことができたようだ。ふたりが縦横無尽に獅子座を翻弄し、最終的に撃破したのを見て、もう七人御先の力を借りる必要はないと、憑依を解除する。

 

「……ありがとう、ぐんちゃん」

 

 と囁く。

 感謝を告げられた千景は優しい笑顔を向け、光の残滓となって消えていった。

 残るネームドは……三体。

 それらは園子たちに任せればいいだろう。

 まだ戦いは終わっていない。

 東郷の応援に向かうべく、高嶋は呼吸を落ち着かせて飛ぶ。

 雑魚敵の掃討だ。そのためには、数の力も悪くはないが、確実に敵を屠る圧倒的な火力が必要だ。

 だからこそ、選ぶ精霊は――。

 

 神樹の概念記録にアクセス。

 該当精霊、ヒット。

 現在、酒呑童子は凍結中。

 よって憑依不可。

 牛鬼による絶対権限の行使。

 凍結解除。

 さらに牛鬼によるフィルタリングにより、憑依時に発生する魂の穢れを浄化。

 憑依、実行。

 

「――来い、酒呑童子!」

 

 鬼の力を我が物に。

 両腕の手甲が巨大化し、より凶悪に、掠っただけでも容易に切り裂けそうな切れ味の爪が伸びる。

 象徴的な鬼の角が頭部に現れる。

 

「グ……!」

 

 脳の奥で赤い爆発が起こる。

 三つもの精霊を連続して憑依させるのは無理があったか。体力も限界に近い。告白すると、あまりの疲労に四肢がうまく動かせない。

 でも戦う。

 戦う意志があり、守らなければならないものがある。

 それ以上の理由は、いらない!

 敵の群れへと突っ込み、鬼の拳を振り下ろす。

 完全な奇襲となった高嶋の一撃は、多くの敵を巻き込んで破壊する。

 ようやく高嶋を認識した敵が殺到する。それらを回避し、あるいは手甲で受け止めながらすべてを受け流し、カウンターを入れて殲滅する。

 しだいに四肢の感覚が薄れてきたところに、敵の体当たりを受けてしまう。

 

「あがッ!」

 

 隙を晒した高嶋を喰らおうと敵が押し寄せる。それらの何体かは東郷の狙撃によって落とせたが、残りは白い歯を見せつけながら肉迫する。

 爪に齧られて先端が折れる。頭を激しく打ち付けられ、一瞬意識が飛ぶ。

 半ばヤケクソになりながら放った拳は大きく口に咥えられる。そのまま噛み砕かんとギギギと不穏な音を軋ませるが、もう片方の拳を突っ込み、顎を砕き、口を裂いて投げ捨てる。

 距離を取った高嶋の姿は満身創痍で、今にも倒れてしまいそうだ。

 しかし鬼を宿した瞳に戦意の衰えはなく。

 また竦みも一切無い。

 これこそが、初代勇者!

 初代勇者、高嶋友奈!

 

「私の屍を越えて――」

 

 いや、違う。

 かぶりを振る。

 ここから先は何があっても通してはならない。それこそ、たとえ死のうとも。

 だからここで放つべき言葉はこれではない。

 爪を見せびらかすように前に差し出す。目を極限まで開き、気迫だけで敵を殺さんと睨む。

 そして。

 

「死 ん で も こ こ は 通 さ な い !!」

 

【挿絵表示】

 

 

 と、魂の雄叫びを上げた。

 ヘイトは完全に高嶋に向いた。残る数十体の敵が一斉に押し寄せる。東郷の狙撃にあまり期待してはいけない。動き回る高嶋に誤射してしまいかねないため、確実な場合しか撃ってはくれないはずだ。

 砕いて。割って。壊して。

 この時だけは、あらゆるものを破壊する悪鬼となろう!

 獣のように四肢を使って素早く動き回り、背後を向けた敵に爪を振り下ろして切り裂く。

 

「私は!」

 

 拳! 爪! 拳! 爪! 拳!爪!

 

「初代勇者、高嶋友奈だああああああああああああああッ!!!」

 

 恐れをなせ!

 我が鬼の力の前に、その命を差し出せ!!

 三百年前から送られてきた、この積年の意志を受け取れ――!

 拳が割れる。肉が裂け、皮膚を突き破って中手骨がむき出しになる。血液の霧を散らせ、目も眩むような激痛に顔を歪める。

 しかして手甲は未だ健在! ならば、まだまだ戦える!

 とうに四肢の感覚なんて消え去った。腕の骨が折れているのかすら分からない。

 両手の指も、何本かはただの肉塊に成り果てている。

 でも動かす!

 意識が白黒する。

 腹部に敵の体当たりが命中し、ドス黒い血を口から大量に吐き出しながら地に倒れる。

 視界は赤く染まり、心臓の鼓動が弱まってきていると自覚する。

 だがまだ死んでいない。

 ……酒呑童子は大の酒好きだったという。そこに付入られ、鬼の力を封じる神酒を飲まされ、気を緩めたところで首を刎ねられたと言い伝えられている。しかしそれだけでは死なず、首だけになっても最後の命を振り絞って刎ねた人間に喰らいついた。

 だから! 高嶋友奈も、この程度で終わるわけがない!

 ごぷり、と口の端から血の泡を噴き出しながら立ち上がろうと――。

 

 ――どこからか飛来した矢が、高嶋の太腿を深く貫いた。

 

「あ、ぐ……ッ!」

 

 この矢は……友奈を殺そうとしたあのバーテックスのものか!!

 体制を崩す。

 そこを、一体の敵が大口を開けて迫った。東郷の狙撃を食らっても、絶対に食い殺すとばかりに動きは止まらなかった。

 右の肩口に喰らいつかれる。完全に右腕が敵の口内に収まり、戦慄を覚える間もなく、ガリッ! と上下の歯が合わせられた。血に濡れた装束を引き裂き、腕の肉に食い込む。そのまま呆気なく骨へと到達し、軽くて乾いた音が響いた。

 

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッッ!!」

 

 すべての痛みを超越した痛み。

 空を仰ぎ、口が裂けそうなほど限界まで開けて絶叫する。

 涙か血なのかわからない液体を流しながら視線を落として睨みつける。その間にも他の敵が高嶋の背後を通り抜けようとしている。

 ダメだ。東郷に近づけさせるわけにはいかない。遠距離特化の東郷に近接戦闘は極めて危険だ。

 死んでも通さないと……言ったはず!!

 

「ガアアアアあああッ!!」

 

 強引に腕を引き抜く。肉がブチブチと千切れる不快な音が鳴り、ついに砕けた上腕骨を突き出したまま引き抜くことに成功する。

 右腕はお前にくれてやる!

 左の拳で頭部を掴み、握り潰す。

 腹の中から自分右腕を取り出し、最も前に進んでいる敵へと投げつける。

 もう人間らしい移動方法すらできない。わからなくなってしまった。三本の手足を使い、獣よりも醜い動きで残る敵に迫る。

 攻撃も出鱈目だ。

 爪で貫き、それを振り回して周りを巻き込み、確実に屠る。

 手を広げて地面に叩きつけ、喰らいつく。

 その行動に意味はないが、理性を捨てた、本能にのみ従った生物の原初的行動なのかもしれない。

 いつしか敵はすべていなくなっていて、高嶋は己の勝利を悟った。

 

「…………」

 

 もう、喜ぶ元気すらなかった。

 ただ、感傷に浸るくらいしかできない。

 恐ろしい速度で血が流れる。これを止める手段もない。

 びちゃりと血の海に倒れ込んだ高嶋は、死の予感を自覚しながら、ゆっくり、ゆっくりと瞼を下ろした。

 

 ◆

 

 東郷は左肩と耳の間にスマホを挟みながら通話を試みた。戦闘中であることは承知しているが、最優先で伝えなければならないことがあるからだ。焦りが汗に滲む。

 スコープを覗けば、今ちょうど園子と夏凛が射手座を仕留めたところだ。残るのはあと蠍座だけ。

 全体を俯瞰し、蠍座以外いないことを念の為確認した。

 

『どうしたの東郷』

 

 出たのは風だ。

 出てくれたことに安堵しながら東郷は口早に報告した。

 

『高嶋さんが重症を負っています! 赤嶺さんも!』

 

 高嶋は今の今まで援護していたから状況はわかっている。赤嶺の状態も確認済みだ。

 ふたりとも決して楽観視できる傷ではない。どう見ても命に関わるものだ。一刻も早く病院に届けなければ……死ぬ。

 

『わかった。こっちはある程度余裕があるから乃木と夏凛に行かせるわ。蠍座は私と樹で倒しておく。あんたは友奈と合流して索敵。もしバーテックスがいなければ私達に合流して』

 

『わかりました』

 

 そういえばさっきから友奈の姿が見えない。

 戦闘していれば簡単に発見できるが、そういった様子はない。

 スコープでの視認はさっさと諦めて勇者アプリでの位置情報で探る。友奈のタグは北東百メートル辺りにいることを確認して、大まかな目安を定めてもう一度スコープを覗く。

 すると友奈の姿を確かに確認した。

 しかしなんだか様子がおかしい。その場に倒れて身悶えしている。苦しんでいるようにも……見える?

 別にダメージを受けた形跡は見られない。だが何かがあったのは確かだ。

 ライフルを消し、大急ぎで友奈のもとへと駆けつける。

 やはり流血などはしていないが、どう見ても苦しんでいる。

 

  「どうしたの友奈ちゃん⁉」

 

 返事はない。

 ただうめき声を漏らすだけで、まともな反応を返してくれない。

 なるべく身体を揺さぶらないように上半身を抱き上げ、もう一度声をかける。

 

「どこか痛いの?」

 

 それでも反応はない。しかし小刻みに震わせながら手を胸の上に乗せている。

 胸に何か怪我をしたのか?

 東郷は友奈の胸部装甲をずらし、その正体を探ろうとした。白い装束をぺらりとめくり、目に飛び込んできたものに、思わず喉の奥が詰まったような不快感に襲われる。

 

「――――、ぇ?」

 

 現れたのは歪な赤い紋様。それは現在進行形で友奈の身体を蝕み、侵食を広げている。

 この紋様……見たことがある。

 あらゆる情報が脳内で交差し、ある予想へと導かれる。

 でもそれを到底受け入れられるはずもなく。

 

「なに……これ」

 

 と、掠れ声で呟くことしかできなかった。

 

 ◆

 

 蠍座の最も警戒しなければならないのは、尻尾の先の針だ。あれに触れられると、幾つも繋がって尻尾となっている球体タンクに貯蔵されている毒が付与されるからだ。

 大剣で針による突き刺し攻撃を受け流しながら風は叫んだ。

 剣から両腕に伝わる強烈な反動が、肘、片方から背骨にまで突き抜ける。

 

「樹!」

 

「うん!」

 

 風の背後から横に飛び出した樹がワイヤーを射出して蠍座を拘束。そのまま大きく放物線を描いて地面に叩きつけた。

 

「ナイス樹!」

 

 第二陣のネームドは第一陣より強い。

 それは風も樹もわかっている。反応速度や耐久力が底上げされ、驚異が増している。たとえ最後だろうと油断は決して許されない。

 針を振り回し、ワイヤーを断ち切って高速から逃れた蠍座は再び風たちに立ち向かう。今の動きをとっても振り回す速度は格段に早い。

 

「東郷と友奈は……まだか」

 

 流石にもう合流したと思われるが、予想より少し遅い。園子には高嶋、夏凛には赤嶺の介抱を指示してある。

 溜まった疲労を吐き出すように息をつくと、大剣の柄を握り直した。

 

「お姉ちゃん……どうする?」

 

 樹がやや不安げな面持ちで尋ねてくる。

 

「ホントは東郷と友奈を待ったほうが確実だけど……あいつらも疲れてきたでしょうから、ここは私達で倒そう。樹、いける?」

 

「もちろん。お姉ちゃんについていくよ!」

 

「嬉しいこと言ってくれるわね!」

 

 大剣を右肩に担いで、風は地面を蹴り上げて蠍座へと一気に接近する。懐に入るのを許そうとしない針の攻撃が迫るが、既のところで板状に変形させたワイヤーがそれを弾いた。

 サンキュー樹! と心の中で感謝を口にしながら大剣を地面に平行に構える。狙うのは三本の腕でバカでかいタンクを抱えている下半身だ。

 

「せあああああああッ!」

 

 一条の線がチン、と走る。

 一拍置いて腕が一本切り落とされる。さらに根の側面に着地した風は肘を曲げ、バネの要領で再び飛翔し、さらに腕を一本切り落としてみせた。

 支えを失ったタンクは、その中身を零しながら地面へ落としてしまう。

 大きく身体のバランスを崩した蠍座が、傾いた姿勢のままでよろよろと浮遊しながら風と樹に接近してくる。その間にも自己修復は始まっていて、赤い閃光を弾けさせながら腕のシルエットを伸ばし始めている。

 それまでに仕留める!

 

「チャンスよ!」

 

 風は獰猛極まる雄叫びを上げ、鋭い眼光を宿しながら最後の一撃を放とうと足に力を入れた。

 

 ――第二陣のバーテックスは、第一陣より強い。

 

 だから、この蠍座の弱々しい動きがブラフであることを見抜けなかった。

 突然、蠍座の姿勢が正常に戻った。さっきまでの傷が嘘だったかのような、緩急の差に風は反応できなかった。素早く接近した蠍座が目にも止まらぬ速度で地面を根こそぎ穿ちながら横に薙ぎ払いを放つ。

 驚きに喘ぐことすらできない風の背中を、樹のワイヤーが遥か上空へと投げ上げた。

 

「――お姉ちゃん!!」

 

 風の身体はそのまま蠍座の頭上へ落下する。

 超正確な投げ上げに感謝しながら風は大剣を上段に構え、今度こそ雄叫びを上げて振り下ろした。

 

「これで終われえええええぇぇぇッッ!!」

 

 落下のエネルギーが加算された風の一撃は、蠍座の身体を一刀両断した。タンクの毒を浴びてしまわないように距離を取りつつ、きちんと撃破されたことを確認する。

 荒くなっていた呼吸を落ち着かせるべく、深呼吸を繰り返しつつも確実に蠍座の姿が見えなくなるまで視線を変えないまま後ろに下がる。

 これで敵はすべて倒した。

 今回のMVPは間違いなく高嶋だろう。どういう理屈なのかは知らないが、七人になったことで戦線の維持ができた。さらに獅子座の相手までもしてみせた。

 初代勇者の底力を見せつけられた。

 そしてもちろん、樹もだ。

 さっきの一撃、樹の咄嗟の行動がなければまともにダメージを食らってしまっていただろう。

 

「助かったわ、樹。ありがとう」

 

 風のすぐ後ろにいる樹に話しかけた。

 しかし返事がなかった。

 ……と、ちょうどいいタイミングで園子に夏凛、東郷と友奈が戻ってきた。確かに園子と夏凛におぶられている高嶋と赤嶺は重症だった。ふたりとも、腕がない。

 友奈も東郷におぶられているが……特にこれといった傷は見受けられない。

 ああ、確かに三人の友奈のことは決して無視できないが、樹の返事がないのが気になる。

 園子が死んだ顔でこちらを見ている。

 夏凛が呆然と立ち尽くしながらこちらを見ている。

 東郷が口を小さく開け、悲痛に顔を歪ませながらこちらを見ている。

 

「どうしたのよあんたたち。そんな顔して。今すぐ病院に友奈ズを病院に連れて行くのよ。ほら、樹も」

 

 再び呼びかけるが、それでも返事はなかった。

 そして気づく。三人は風を見ているのではない。風の足元を見ているのだ。

 その視線に導かれるがままに、目元を下ろしてそこを見る。

 そこに確かに樹がいた。

 地面に倒れていた。

 仰向けで。

 

 でも、

 なぜか、

 樹の下半身が無かった。

 

「……樹?」

 

 よく、状況がわからなかった。

 今更ながら靴先に赤い何かが付着していることに気づく。

 

「――ぁ?」

 

 夥しい量の血が池を作っていた。

 鼻につく血の匂い。

 それでもなお、風は樹に語りかけた。

 

「ほら樹……立って。今から友奈たちを病院に届けて、それで……おいしい料理をいっぱい御馳走するって……約束したじゃない。樹にあげた髪飾り、まだ一回しか飾ってるの見たことないんだからお姉ちゃんにもっと見せなさいよ。だからほら……立って。帰るわよ」

 

「風先輩……!」

 

 東郷が顔をくしゃくしゃにしながら風の名を呼ぶ。

 ……厳密には、何が起こったのか風は頭では理解している。蠍座の薙ぎ払いが迫った時、樹は風のすぐ側にいた。だから風の緊急離脱を可能にさせることができたのだ。

 でも樹自身は?

 風を投げ上げるのが精いっぱいで。

 自分の位置はそのままで。

 逃げることができずに。

 樹の虚ろな目がゆっくりと動いた。その目元には涙の痕があった。

 風と目が合う。

 樹の唇が動く。

 

「よかっ……たぁ……」

 

 そう言って安心したように頬を綻ばせ、ほっと息を吐いた。

 そしてごぷ、と血を吐き出して。

 ゆっくり、ゆっくりと瞳から生の光が失われた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 樹が死んだ。

 

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生きて

前回のあらすじ
・戦闘に勝利
【友奈】天の神の祟り+神の呪縛が発動
【高嶋】右腕断裂により重傷
【赤嶺】左肘切断。内臓損傷の重傷
【夏凛】軽傷。精神的ダメージ大
【園子】軽傷。精神的ダメージ特大
【東郷】軽傷。精神的ダメージ特大
【樹】風を庇って下半身断裂により殉死
【風】軽傷。精神的ダメージ超絶特大

・征矢に謀反の可能性あり
・牛鬼の消失により、大満開の可能性――絶望的
・高嶋、手甲と大葉刈を入手


 けたましい警報が鳴り響いたのは突然のことだった。

 樹海化の予兆があり、勇者たちのスマホに警報を発していたことを男は知っている。

 別に男は樹海化に伴う勇者たち以外に対する時間停止の措置の例外というわけでもない。だから、いつの間にか勇者たちの戦闘は終わっている。もし刹那の先に無が訪れたのならば、それは勇者たちの敗北を意味する。

 だからこそ、生きているということは、戦闘に勝ったという証拠に他ならない。

 男の管理する部屋は大赦の中でも特に秘匿されている秘密の部屋。この警報はこの部屋と、上層部にしか伝わらない。

 さっさと警報を切った男の傍らで、汚い作業台の上の、散らばった作業道具の中から内線電話が鳴った。

 やはり整理整頓は大事だな、と痛感しながら道具をかき分け、受話器を耳に当てた。

 

「ええ。……はい。今のは誤報です。恐らく樹海化によって何らかのセンサーが反応してしまったのでしょう。申し訳ありません。こちらで調査し、二度と起こらないように善処したします」

 

 ……確かに、この警報はもう二度と鳴らない。

 定型文のような謝罪を口にした男は、相手のこれ以上の追及に取り合わないとばかりに通話をこちらから切った。

 高嶋友奈と赤嶺友奈の来訪により生じた、本来ならあり得ないバーテックスの襲来。具体的には、力のある『友奈』が三人も存在していることに憤慨した、天の神による粛清だ。

 そして、これに勝利を収めた。

 それ事態はとても素晴らしいことだ。世界を守るという御役目を立派に果たしてくれた。しかしながら天の神の怒りは今頃最高潮に達しているかもしれない。

 そうであるか否かは――。

 こつん、こつん、と軽いながら存在感を放つ足音が背後から近づく。

 男は振り向くことなく、作業台の整理をしながら足音の主に声をかけた。

 

「おかえり。どうだった?」

 

 すると足音は男のすぐ後ろでぴたりと止まった。そしてすぐ脇にある錆びたパイプ椅子に腰を下ろし、熱っぽい吐息を吐いた。

 

「駄目だった。高嶋友奈は一度殺せたが、牛鬼に蘇生させられた。赤嶺友奈との一騎打ちにも負けた。……ああ、認めよう。完敗だ」

 

「なんだって?」

 

 想定とは真反対の戦闘結果に、眉をぴくりと動かした男はようやく振り向く。

 するとそこには、腹部に大きく斜めに走る斬撃の跡が痛々しく刻まれている征矢の姿があった。

 そんな馬鹿な。

 男は仮面の裏で短く喘いだ。

 征矢の戦闘力は遥かに高い。神世紀の勇者たちより少し強いくらいだ。さすがに満開されると敵わないが、まだ勇者システムの発展しきっていない時代のふたりならば容易に処分できるはず。

 男は訝しみながら問うた。

 

「手を抜いたか? 赤嶺友奈」

 

「その名で私を呼ぶな」

 

 凍てつく殺意を乗せられた眼力に、すぐさま男は手を抜いたわけではないと理解した。

 

「……傷は深そうだな。一旦器を変えるために死んだほうがいいんじゃないか?」

 

 赤嶺友奈に征矢は弱いと思い込ませるために、わざわざ弱った器で殺されに行ったのは稀なことだ。

 そもそも征矢の運用方法としては、多少の傷ならば治療すればいいが、後に響く傷なら捨て、神樹から抽出される新たな器に乗り換える。

 だからこそ不思議だ。

 なぜ征矢は赤嶺友奈に勝てなかったのか。

 間違いなく両者の間には天と地の差ほどの戦力差がある。それに征矢にとって、赤嶺友奈は過去の自分だ。しかしながら異世界の自分でもあることはわかっているはず。

 ならそこで葛藤が生まれるはずがない。

 葛藤なんて人間らしいことは許されない。

 それが征矢だ。

 人間を捨て、四国という閉塞した鳥籠の中での平和と安寧を維持するための歯車、機構。

 

「いや……このままでいい。一応軽く手当はしたが、まだ曖昧だ。だから『整備』を頼む」

 

 このままでいい?

 男は装束を脱いで上半身だけ裸体を晒した征矢の身体を見ながら呆然とする。

 明らかに征矢に何らかの変化が起こっている。はっきり言って男にとってどうでもいいことだが、なかなか興味深いことではある。

『整備』をするべく男は汚れた手を流し台で綺麗にしてから棚から医療用バッグ下ろし、征矢の前にふたつめのパイプ椅子を置いて座った。

 ガーゼはすでにドス黒く染まっていて、流血も完全には止められていない。

 つう、と小麦色の腹に血が伝うのを尻目に男はガーゼを一気にすべて剥ぎ取った。

 

「ッ」

 

 一瞬だけ口を歪めるが、すぐさま仏頂面に戻る。

 征矢は人間ではない。備品だ。

 だから治療ではなく整備という。

 姿形は少女そのものだが、その裸体に男の情欲が刺激されることはない。人間ではないのだから。

 

「内臓は?」

 

「たぶん、肺と心臓。そこまで深くはないはずだ」

 

「念の為確認させてもらう」

 

 ぱっくり割れた傷から腹の中に手を突っ込み、なるべく丁寧に探る。肋骨に触れないように細心の注意を払いながら、目標の臓器に指先が触れる。

 征矢の口元から血が滴るが、気にせずにチェックする。

 

「……ああ、もう自然治癒が始まってる。放っておけばだいたいは治るだろう。手術になったらさすがに私の専門外だからな」

 

 手を引き抜いた男は最後に征矢の腹を手早く縫合した。

 赤く濡れた手を洗いながら、歴代の勇者たちの武具がある保管庫へと続くドアへと視線をやる。さっきの警報は間違いなく武具の喪失によるものだ。

 まだ上には悟られていないが、早いうちに偽物をセットしておく必要がありそうだ。

 では喪失したのは何か。

 それは言うまでもなく初代勇者、高嶋友奈の手甲だ。

 今回の侵攻は間違いなく発生すると男にはわかっていた。ふたりの友奈がこの世界、この時代に現れたことを大赦が認知した瞬間からわかっていた。

 だからそのために備えた。

 高嶋友奈に最高な状態の手甲を使ってほしいから。これは男の鍛冶師としての願いであり、意地でもある。

 

「――まだ、時は来ていない」

 

 男は独り言を漏らし、怪我人だとはまるで思えないほど平然と歩き回る征矢を観察する。

 ちょこちょこと征矢専用に用意された武具を手にとっては感触を確かめ、また別のものへと目移りさせる。まるでおもちゃ屋に来てはしゃぐ子供のようだ。

 

「お前は私を責めないのか?」

 

 男の問いに、手甲のレプリカを腕にはめようとしていた征矢の動きが止まる。

 

「高嶋友奈のために動いていた私を、責めないのか?」

 

 すると征矢は怒りを見せることなくすらすらと答える。

 

「責める必要なんてない。お前はお前のやるできことをやった。高嶋友奈も同じだ。お前の仕事は武具の保管と私の側付き……寧ろ忠実にこなしているではないか」

 

「その結果、お前は失敗した」

 

「…………」

 

 失敗。

 それは征矢にとってはあまり重い言葉ではない。失敗しても、次があるからだ。ボロのきた器だと殺されることはある。しかし命ある限り……命を失っても御役目は継続する。だから征矢に失敗という言葉は存在するが、それはただの経過に過ぎず、最終的には必ず成功する。

 

「樹海化のどさくさに紛れた奇襲は失敗に終わった。これで勇者様たちも警戒を強めるはず。次はそう簡単にはできないぞ」

 

「その通りだな。だから私は、ふたりを見極めることにする」

 

「――は?」

 

 とても征矢の口から出ない言葉に呆けた声を零した。

 そんな男を無視して征矢は踵を返し、保管庫へのドアのロックをあっさり顔パスした。そして悠々たる足取りで地下へと降りていく。

 その後ろに続いて男は保管庫へと入る。階段を降り、霊的な封印の施されている柱たちが地中に沈み、静かに佇むモノリスたちが姿を見せる。

 生のない無機物のはずなのに、放つ威圧感は覇者のそれに近しい。本能による危険を刺激する、剣呑な雰囲気がふたりを出迎える。

 それをものともせずにすたすたと歩き、ふたりは空白となったモノリスの前座の前に立つ。

 ……ない。

 やはり高嶋友奈の専用装備だけがなくなっている。歴代の勇者たちの武具に囲まれながら、今更ながらなんという重大な御役目に就いたのだと男は振り返る。

 

「あいつの前に初めて姿を見せた時……ふと、懐かしい記憶が蘇った。死んでいた回路に電流が走った感覚だ。もうほとんど灼けて、朧げだったが。恐らく、楽しかった……のだと思う。でも、私にはそれがよくわからなかった」

 

 べっとりと血糊のついたバイザーの奥で征矢はどんな目をしているのだろうか。男には測りかねた。

 視線を振り、次は本物の生大刀の目の前へと移動する。そして触れようと手を伸ばすが、既のところで動きを止め、迷った素振りを見せてから、手を引く。

 

「私は征矢だ。ただ罪人を殺すためだけにある矢。これから先ずっと、私はこの気持ちの正体を理解できない。赤嶺友奈はただの処分対象……そう割り切っていた」

 

「今は違うと? ――それは許されない。お前は赤嶺友奈を殺し、高嶋友奈も殺さなければならない。御役目の放棄は重大な罪だ。大赦に……神樹様に対する罪だ」

 

「――私のことをとやかく言える立場か?」

 

 鋭い指摘に、男は唇をキュッと閉めた。

 

「お前だって、上には口が裂けても言えない隠し事……計画があることを知っている。私がそれを見て見ぬふりをしていること、忘れるなよ? お前はこの二百年としばらく、私の側付きをした者たちの中で最も奇怪で、狂った男だ。だからこそ、その行く末に興味がある」

 

 それは男も同じだ。

 二百年以上前に生きていた赤嶺友奈という人間が、何を想って人を捨て、征矢に『堕ちた』のかについての興味は尽きない。別に最後まで明かされなくても構わないが、知ることができるのならば是非知りたいものだ。

 ……しかしもう、そんな当時の想いなど覚えているはずもない。

 

「お前のやろうとしていることは、逆に人類を窮地に立たせることになるかもしれない。――あいつが泣くぞ? 地獄がお前を待っている」

 

「……それじゃあ物足りないな。私の罪を償うには。でもこれは私が始めたことで、そもそも時は来ないかもしれない」

 

 鮮明に覚えている。

 男がなぜ大赦に席を置いたのか。それを果たすために、緻密に計画を練り上げた。

 しかし征矢の口ぶりからしてすべてバレているのだろう。その上で、見逃してくれている。それほど征矢は男のすることを面白がっているのだろう。

 

「来るさ。喜べクソガキ。時は――きっと来る」

 

 征矢の揺るぎない言葉に、男もまた、『見て見ぬふり』をしてやろうではないかと決め込む。

 薄暗いバックライトに照らされた征矢の姿は、どこかに捨ててきたかつての少女であった頃の自分に想いを馳せているのだろうか。

 ……いや、そんなことはないか。

 低く喉を鳴らした男は、手甲のレプリカをモノリスの前にそっと納めた。

 

 ◆

 

 樹の下半身は、上半身の転がる根のすぐ下に落ちていた。風は大事そうにそれを抱え、できるはずもないのに肉が剥き出しになってぐちゃぐちゃになった切断面を合わせ、心臓マッサージをしようとした。

 夏凛と東郷と園子に止められるが、必死に三人を払い退けながら、言葉にならない声で喉が裂けそうになるほど風は絶叫を放ち続けた。

 その後樹海化が解け、大赦による迅速な後始末が行われた。三人の友奈は速やかに病院へと搬送され、樹の葬式と火葬の段取りがトントン拍子で決まっていった。

 その頃には何もかもの気力が失せた風は、首を縦に振るか、もしくは横に振るかでしか意思表示ができなくなってしまった。

 ……先代勇者、三ノ輪銀の葬儀の規模は大きかったという。当時は神樹館小学校の全員に勇者であることが公表されていた背景があったからか、大人数が集まっていた。

 しかし今の代……犬吠埼樹の葬儀は今入院している友奈たちを除いて東郷、夏凛、園子。そして大赦関係者たちのみという非常に小さな規模で執り行われた。これは風の意志である。

 純白の装束に身を包んだ勇者たちは棺を囲むような配置で座る。

 僧侶代わりの神官の長い祝詞が終わる。小さなホールのため、声は反響していた。そして次に勇者としての御役目に勤めたことへの感謝を述べた後、手向ける用の花を勇者たちに順に手渡す。

 唯一の家族である風が一番かと思いきや、初めに受け取ったのは夏凛だった。面食らいながらもちらりと目だけを隣の風へと動かすと、人間なのか? と疑ってしまうほど生気の抜けた佇まいで座っていた。

 なるほど、確かにこれは神官も渋るわけだ。

 腰を上げて一歩一歩、爪先から踵の先までしっかりと踏みしめながら棺の前まで歩いた。

 そして二秒程前を向いたまま動きを止め、覚悟を決めた夏凛は頭を下に向けた。

 小さな棺の中には安らかに眠っている樹の姿があった。溢れんばかりの花に囲まれ、まるで生きているように見える。

 あれだけ血塗れだった身体も綺麗にされ、しっかり死化粧も施されている。そして上半身と下半身が繋がって見えるようにきちんと配慮もされている。とても丁寧に樹の遺体を手入れしてくれたのだと内心感謝するが、同時になぜそれほどの気遣いを初めからしてくれなかったのだと、もう発散しようのない怒りがこみ上げる。

 満開の影響を最も醜悪に受けたのは樹だった。歌手になりたいという大きな夢のため、歌のオーディションに応募し、その一次選考に突破したばかりだというのに散華として神樹に声帯を取り上げられた。

 辞退は避けられなかったが、またチャンスはある。だというのに。

 悔しくて悔しくて、流れる涙一粒一粒に様々な感情が入り混ざる。

 ……思い出す。

 三ノ輪銀に託された想いを。

 それを、台無しにしたのだ。

 何が完成型勇者だ。

 何が皆を守るだ。

 何が! 何が……ッ!

 愚鈍で、馬鹿で、救いようがない。

 あの時の自分を殴りつけてやりたい。調子に乗るな、と。その慢心は激しい後悔によって返上させられるわよ、と。

 何分立ち尽くしていたのかは夏凛自身もわからなかったが、それを咎める者は誰もいなかった。

 いつの間にか食いしばっていた口の端から血が細く流れていた。手で拭い、花を手向けて自分の位置に戻る。次は東郷、園子と順に続いた。ふたりはこれで仲間を見送るのは二度目になる。その胸中は夏凛には決して理解できないだろう。

 とても長い時間をかけてふたりは花を手向けた。終えたふたりの目は真っ赤に充血していて、それだけではなく、強く握りしめたせいか、拳から血を滴らせていた。

 最後に風の順がやってきたが、相変わらず生気の抜けた表情の変わらないまま、まるで事務作業のようにさっさと終わらせてしまった。

 

「――――」

 

 夏凛は何か言おうと思った。だが、ガサガサに乾ききった喉が言葉の塊を押し上げることはなかった。そのまま神官によって滞りなく終わり、葬儀が終了し、火葬されることとなった。

 流石にこれに夏凛たちが介入することは許されなかった。

 骨壷への納骨は風の手によって行われ、二日後には犬吠埼家の墓に樹の骨が納められた。

 ……どうすればいいのかわからなかった。家にいても夏凛は何もすることができなかった。日課のトレーニングをする気力すら沸かず、初めてサボった。

 これでもまだマシな方だろう。そう夏凛は自分を分析する。

 あれだけ友奈好きを公言している東郷が今日は友奈の見舞いに行っていないという。これは明らかに異常事態だ。園子もいつもの陽気さを失っている。また、それらに誰も何も言わないことも異常事態だ。

 勇者部の活動も暗黙の了解で停止している。しばらくの間はとても再開できるとは思えない。

 ボサボサの髪のまま、寝間着の夏凛はベッドにぽすんと倒れ込んだ。心は氷のように冷たいのに、布団だけは暖かく出迎え、包んでくれる。

 樹は妹分のような存在だった。だからこれからもずっと、そんな関係が続いてほしいと思っていた。

 なのに。

 

「……ごめん、なさい。樹」

 

 薄暗い私室がぐにゃりと滲む。

 激しすぎる悔しさと後悔に自罰する気力すら起こらない。

 

「……ごめんなさい、三ノ輪銀」

 

 枕に顔を埋め、ただこの気持ちを発散するしか今の夏凛にはできなかった。

 

 ◆

 

 泥のように、汚れて濁った深いまどろみから浮かび上がる。白い天井がぼんやりと視界に飛び込み、どうやらここは病院であることを悟る。

 友奈は強烈な倦怠感と共に、目を擦ろうと腕を動かした。

 

「……あ、あれ?」

 

 動かない。以前のような麻痺になったわけではない。動くには動くが、ほんの少ししか上げられないのだ。

 友奈の動きを妨げる何かの正体を探るべく頭を下に向けると、腕をベルトで固く拘束されていた。ベルトはベッドの骨にきつく巻き、血流が圧迫されるのではと思うほどだ。

 さらに腕だけではない。脚もガッチリと拘束されている。訳のわからないまま身動ぎするが、ビクリとも動かないし抜け出せそうにない。

 これではコールボタンも押せない。

 ……ところで、皆はどうしているのだろう。こうして生きているいうことは、あの戦いに勝ったわけだ。

 方法は全く不明だが高嶋も生き返ったし、万事良しだ。

 約束通り、風に美味しいご飯をご馳走になることを楽しみにしながら呑気にもう一度寝ようと大きく欠伸をしたところで、病室のスライドドアが静かに開き、誰かが中に入ってきた。

 東郷かと思えばそうではなく、大赦の仮面を被った女神官だった。思わず身構えてしまう友奈だったが、拘束されたままではどうしようもない。

 神官は友奈に身体を向けると深くお辞儀をし、すぐそばにパイプ椅子があるにも関わらず床に手を突き、もう一度深く頭を下げた。

 神官たちの、勇者への仰々しい態度は今に始まったことではない。人類を救うことができる唯一の存在だとしても、勇者はただの子供だ。ぺこぺこ頭を下げる大人というものにはやはり慣れない。

 

「か、顔を上げてください」

 

「はい」

 

 顔を上げた神官は友奈に断りを入れて椅子に腰を下ろした。

 ……初めて会う神官だ。樹海化の後に園子に呼ばれた時に一緒にいた神官たちとは違った雰囲気を纏っている。氷のような冷たさ。じわじわと背筋が凍える錯覚に陥り、友奈は無意識に身体を捩らせる。

 

「友奈様の拘束は、何度も暴れまわったためだと医療従事者から聞き及んでいます。もう平気そうなのでベルトを外します」

 

 不穏な言葉について訊き返そうとしたが、あっという間に神官は友奈の拘束を解いた。確かめるように両肩を回そうとするが、妙な違和感を覚えた友奈は自身の腕を改めて見下ろした。

 

「何、これ――」

 

 病衣を着せられているが、その右腕部分が盛り上がっている。それだけなら以前と変わらないから別に問題はない。しかし驚愕したのはそのことではない。身体を侵食する枝木がさらに生えているのだ。もう手首まで伸びていて、分厚いコートを羽織っていても、誤魔化せそうにないほどまでに。またさらに右脚の付け根辺りまで侵食が進んでいる。

 痛みといったものはないが、明らかな身体の変化に恐怖を感じた。

 

「侵食の痛みに耐えようと暴れていたそうです。何度も鎮静剤を投与され、今日、ようやく落ち着いたとのことです」

 

「そう、だったんですか……」

 

「仕方ありません。今の友奈様は天の神の祟り、そして神の呪縛の板挟みになっているのですから」

 

「神の呪縛……?」

 

 聞いたことのない単語だ。

 しかしそれが何のことを指しているのかは考えるまでもなかった。天の神の祟りは間違いなくこの身に深く刻まれた紅い紋様のことだ。これのせいで皆に不幸が訪れた。これについて話そうとした風は車に轢かれかけた。

 そして神の呪縛とは、恐らくこの枝木。右半身麻痺となった友奈を助けてくれていたが、今は逆に苦しめている。

 そんなことを考えたせいか、腕に鋭い痛みが走り、眉を顰めた。

 

「急ぎ友奈様にお伝えしなければならないことがあります」

 

 無色の声でそう言った神官は仮面越しに友奈を見据えながら続ける。

 

「三百年続いた神樹様の寿命が近付きつつあります。このままでは近いうちに神樹様は枯れ、外の炎に四国は呑まれてしまいます」

 

 突然突き詰めかけた危機に、友奈は数秒の間だけ白黒させる。言葉の意味を咀嚼し、理解した瞬間、両手を伸ばしながら神官に言った。

 

「ちょ、ちょっといきなりすぎます! それに……そんなのは駄目です!」

 

「仰る通りです。なので我々は人類が生き延びるため、ある方法を見出しました。――それは、神婚です」

 

「しん……こん? それは……なんですか?」

 

 訝しげな表情を浮かべる友奈に神官は説明する。

 

「神たる神樹様と結婚することを神婚といいます。純潔なる乙女との番を得ることで、神樹様の力は強化されます。そして人は神の一族として迎え入れられ、共に生きられるのです。これにより、世界の平和と安寧が確かなものとなります」

 

「それで皆が助かるんですか……?」

 

「はい。また、神婚した少女は神界へとその身は召され、俗界との繋がりが断たれます。つまり、死ぬということです」

 

「――――」

 

「そして、その結婚相手に神樹様は友奈様を神託で示されました」

 

「へっ?」

 

 つい呆けた声が漏れてしまい、友奈は無意識に右腕の枝木に触れた。明らかに人の肌ではないごつごつした感触が掌に伝わる。それだけではない。枝木は確かな温かさを持っているのだ。普通の植物ならありえないこと。

 ……人の温かさ。

 これは完全に友奈の身体と一体化している。

 

「なんで私を……?」

 

「友奈様が心身ともに神に近い御姿であり……神の業に手を出した人間であるからです。本来ならかぶ……征矢案件ですが、この状況においては最も適した人間であるかと。恐らく天の神の祟りも同じような理屈でしょう」

 

 聞きなれない単語が出てきたが、友奈にはもうそれについて訊くほど余裕がなかった。

 

「神の呪縛……人に神の業は本来振るえません。ですが友奈様は行使された。その代償がそれです。友奈様を蝕むふたつの呪いは互いに敵対するもの同士。片方が肥大化すれば、もう片方も肥大化する……いたちごっこのように侵食が進んでいます。もしもう一度勇者へ変身すれば、その瞬間が友奈様の最期となります」

 

 抑揚のない一方的な宣告。

 以前から祟りには散々苦しまれてきていた。

 高熱にうなされ。文字通り心臓を鷲摑みにされるような激痛に耐え。誰にもこの苦しみを共有できず。悶々とした日々を過ごしてきた。初めは胸の中央にぽつんとあっただけなのに、今では紋様が腹部全体まで広がっている。日に日にその激しさは増し、生命力をじわじわとやすりのように削られているという感覚が漠然とある。だからといって解決法なんてなく、最期まで寄生する最悪の呪いでしかなかった。

 このまま何もしなければ間違いなく死ぬ。これは確定だ。どんな最高の医療を受けたとしても助からない確信がある。

 ならば。

 この少ない命を皆のために使うことが一番合理的で、勇者として正しい行いではないのだろうか……?

 神官の説明は終わったようだ。今は友奈の反応を窺っている。初めから感情のない声色で色々と説明してくれていたが、果たしてこの人は何を考えているのだろうという疑問が浮かび上がる。友奈に「人類のために生贄になって死ね」と言っているのと同義なのだ。良心は揺れないのだろうか。

 友奈は真っ直ぐに神官の顔を見据える。やはり感情の機微はまるでわからない。

 ……いや、無用な詮索だったか。

 仕方ない(・・・・)

 この言葉が免罪符であることはわかっている。

 でも、覚悟を決めるために僅かでもいい、時間が欲しい。

 

「どうか、我々人間をお救いください。慈悲深い選択を」

 

 椅子から立ち上がり、もう一度額を床に擦りつけて乞う神官を見下ろしながら友奈は苦々しく口を開いた。

 

「すみません……。わかりました、なんてすぐには言えないです。だから少しだけ時間をください」

 

「高嶋友奈様と赤嶺友奈様はこの病院にいるので、集まるならここがよろしいかと。まだ目覚めてはおりませんが」

 

「え? ふたりも入院しているんですか⁉」

 

 唐突な事実に、ここが病院であることを忘れて甲高い声を上げてしまう。

 確かにあの戦闘は壮絶を極めるものだった。友奈もこうして入院しているからあまり人のことを強く言えないが、怪我人が出てもおかしくなかった。しかしふたりで済んだのは幸いだった。

 安堵の息をつこうとしたが、それより先に神官が言葉を続けた。

 

「高嶋友奈様は右腕断裂、赤嶺友奈様は左肘から先を切断と内臓損傷。ふたりとも命の危機がありましたが、ひとまず峠は越えました。犬吠埼樹様については、犬吠埼風様を庇って殉死。先日火葬を済ませ、犬吠埼家の墓に納骨されました」

 

「――――、え?」

 

 喉の奥で、友奈は激しく喘いだ。

 

 ◆

 

 グループに送られた友奈からのメッセージを見ても、東郷には僅かな喜びしか沸き上がらなかった。喜ぶ気力なんてどこかへ消え去ってしまった。

 神世紀三〇一年の出だしとしては最悪だ。

『話したいことがある』とあるからには行かなければならない。しかし、どうしても気が進まなかった。というより、申し訳なさでとても顔を合わせられない、というのが正しいだろう。

 樹が死んだなんてとても言えない。いったいどれだけ友奈が悲しむだろう。想像すらしたくない。部屋着から着替えるだけでもいつもの十倍近く時間がかかってしまった。心もどんよりとした重苦しく、呼吸をするだけでもひと苦労する。

 風は……来ないだろう。

 昨日心配になって夏凛、園子と一緒に訪ねたが、まるでただ息をしている芋虫のようだった。

 大好きな食事すらとった形跡はなく、カーテンは締まりきっている。薄暗いリビングでソファーにうずくまりながらクリスマスにビデオカメラで撮った樹のソロシーンを何度も何度もリピート再生していた。手にはリモコンと、数日前にプレゼントしたばかりの花飾りを握りしめて。

 もう目も当てられない状態だった。

 痩せこけた頬を見て、東郷はただ涙を流すことしかできなかった。

 ちゃんと食べてるか? 風呂は入っているか? などといった夏凛の質問に無言で頭を横に振るだけだった。

 だから無抵抗の風にご飯を食べさせ、風呂に入らせ、昨日はそれだけにした。まるで介護をしているような気分だった。

 家を出るとすでに玄関前に乃木家の高級そうな車が停車していた。フロントドアガラスが下に降り、やややつれた園子が顔を出した。

 

「送るよ、わっしー」

 

 声に元気がまるでない。

 小さく頷いた東郷は自動で開いたドアを見て、中に乗り込んだ。病院までは一切の会話はなかった。

 受付で面会の許可をもらい、友奈の病室へと歩を進める。

 高嶋と赤嶺は未だ昏睡状態。搬送された当時は出血量がひどく、一刻を争う状況だった。樹の死のショックでまともに動けない東郷たちからふたりと友奈を引き取られ、乗せられたストレッチャーを瞬く間に真っ赤にしながら運ばれていくのを呆然と見送ることしかできなかった。

 そしてふたつの血の跡が道を作っているのを見て、我に返ったのを覚えている。

 高嶋と赤嶺というイレギュラーはこれで完全に大赦の認知下に置かれる。もうどうなるかわからない。明日にはこの時代の異分子として処分されるかもしれない。バーテックスの襲来のどさくさに紛れて一度は高嶋を殺した征矢という少女が再び現れるのは間違いない。

 だがその対策を考えられるだけの余裕なんてなく、重症の二人を連れだす事なんてとてもできない。

 完全に打つ手なしだ。

 東郷と園子はドアの前に立った。

 中から夏凛の声が聞こえる。

 園子がノックをすると、友奈の声が返ってきた。

 

「どうぞ」

 

 中に入ると、上半身を起こした友奈と夏凛が重い空気を滲ませている。

 そして東郷の視線に気づいたのか、友奈は小さく笑いながら右腕に布団を被せて隠した。

 

「……こんにちは、友奈ちゃん。目覚めてよかったわ」

 

「うん、こんにちは東郷さん」

 

 そして沈黙が訪れる。園子はどう話をきりだせばいいかわからず、何度も口を開閉させては影を落として俯いた。

 それを静かに見ていた友奈はゆっくりと口を開いた。

 

「大丈夫。全部知ってるから」

 

「! そっか……」

 

 弾かれたように園子は顔を上げる。

 

「昨日神官さんが来てね、それで教えてくれたの。樹ちゃんのことは……残念だったね」

 

 友奈は樹の死に際を見ていない。いつの間にか戦闘は終わっていて、いつの間にか樹が死んでいて、いつの間にか葬儀まで終わっている。

 仲間を見送ることすらできなかった苦しみを三人は想像することができなかった。

 この病室の空気が粘性を持ったように重い。気道を通り、肺にどすんと落ちてくる感覚だ。

 

「……でね、話なんだけど」

 

 そうだ、友奈から話があるということで集まったのだった。できれば全員が本調子に戻ってから――がいいのだろうが、それを待たないということは、それほど急ぎの話なのだろう。

 しかしそれを遮ったのは他でもない東郷だった。

 

「待って、友奈ちゃん。その前にどうしても訊きたいことがあるの」

 

「ああ……うん、あれのことだよね。ぼんやりだけど、覚えてる。……そっか。見られちゃったんだね」

 

「あの赤いのは、何?」

 

 もがき苦しむ友奈を介抱しようとしたときに見てしまったモノ。どう考えても縁起の良いものではなかった。禍々しく、見ているだけでこちらの気分が悪くなってしまうほどのあの赤黒い紋様。どう言えばいいのか考えている……ようだ。弱弱しく微笑み、ヘドロを吐き出すように言った。

 

「あれは……ごめんね、言えない」

 

「どうして? 絶対良くないものだよね?」

 

 よくわからないが、友奈は安心した顔で東郷の胸のあたりを見ている。その意味は東郷にはわからない。

 

「ごめんなさい。本当にどうしても言えない。もうたくさん迷惑をかけた後だから、これ以上かけられない」

 

 いつになく真剣に話す友奈の固い意思を感じ取り、東郷は追及を一旦止めることにした。

「それで話なんだけど」と前置きした友奈は神官に伝えられたことを、祟りの話には触れずに、三人に全てを話した。

 到底受け入れがたい内容ではあったが、横やりが入ることもなく、説明が終わる。

 

「……私はこの神婚を受けようと思うの」

 

「いやいや、それは駄目でしょ」

 

 すぐにそう否定したのは夏凛だった。

 握り拳を震わせ、痛切な顔のまま口を開く。

 

「なんで友奈が犠牲にならないといけないのよ。樹が……樹がいなくなったばかりだってのに。神婚なんてする必要ないわよ、絶対に」

 

「でも方法がもうこれしかないの。神婚しないと世界が終わっちゃう。だから私は――」

 

「違う! そういう話じゃない!」

 

 肩をわなわなと震わせていた夏凛がついに我慢の限界に達し、語気を荒げて立ち上がった。

 

「なんでこんな目に友奈があわないといけないのよ⁉ 仲間を失って、悲しむ間もなく次はお前が犠牲になれって、ふざけんじゃないわよ!!」

 

「夏凛ちゃん……」

 

「友奈も友奈よ! なんでその神官に怒らなかったの⁉ なんで殴りかからなかったの⁉ それだけ酷いことを言われたって、なんでわからないの⁉ 神の呪縛とやらで先が短いとしても、だからって今すぐ命を投げ出す必要ないでしょうが!」

 

 肩で息をしながら夏凛は友奈の目を射抜く。友奈の瞳には困惑と迷いが混じり、その向こうに透明な雫を流す夏凛が映っている。

 

「にぼっしーの言う通りだよ。大赦がそう言ってるだけで、もっと考えたら他の方法があるかも知れない。だから早まったら駄目だよゆーゆ」

 

 両手でかき分けてふたりの間に割って入り、一旦場を落ち着かせようと園子が緩衝材となって働きかける。

 

「それに神婚って響きもなんだか不穏だし、人が神の一族として迎え入れられるってどういうことなんだろう。人類という種が概念的存在に変質? 進化? するのかな? それって、私たちは人間の形を……在り方を維持できているのかな?」

 

「そんなこと私に言われても……わからない。でも、大赦の人たちが……大人の人たちがいっぱい考えて見つけた答えが神婚なら、もう本当にこれしかないんだよ。それに私たちはただの子供だし、神婚よりもいい案があるとは思えない」

 

「……」

 

 確かに、と園子は内心で頷くしかなかった。

 もし友奈に「じゃあ今すぐ何か案を出せる?」と尋ねられても最善策を提示することができない。そこらの中学生よりは頭が回ると自負してはいるが、思考を巡らせてもいい案なんて浮かぶはずもなかった。そもそも神である神樹、その寿命を延ばすなんてことがただの人にできるわけがない。人が長年にわたって培った物理法則や科学の一切を無視した超常存在の生命力に介入するなんてまず不可能。だから通常ではない手段を取るしかない。

 だからこその、神婚。

 どれだけ脳をフル回転させても大赦と同じ結論にいきついてしまう。

 伏目になった園子の視線は自然に友奈の下半身に向く。掛け布団がかけられていてもよくわかるほどの異常な盛り上がり。友奈の枝木の侵食は脚にまで及んでいる。

 車椅子から立ち上がった時はこれほど悪化していなかった。

 問題は山積みだ。高嶋と赤嶺、征矢、神樹の寿命。そして友奈。そのどれもが解決できていない。

 苦虫を万匹噛み潰したような顔をしながら園子はそれでも否定しなければならない。

 

「流石に私もすぐに代案を提示できない。でも、たかしーや赤嶺ゆーゆ、ふーみん先輩たちと一緒に考えたら、きっといい案が浮かぶはずだよ。だから――」

 

「でもそれじゃあ私の時間が――! ぅ、ぁ」

 

 額に脂汗を垂らした友奈が園子の言葉を遮るが、突然苦しげに呻いた。極限まで瞳孔を開き、園子を……いや、園子の胸部を見ている。

 

「大丈夫……?」

 

 激しく呼吸を繰り返す友奈を見かねて咄嗟にナースコールを押そうとしたが、友奈が勢いよく出した右手が手首を掴むことで止められた。

 

「――――」

 

 右腕は見るに耐えないものへと成り果てている。裾から野太い枝木が顔を覗かせ、友奈の指に絡まっている。それはまるでお前を絶対に離さないという意思表示にも感じられる。

 

「ごめんね、ちょっと取り乱しちゃった。……うん、もう大丈夫……ごめんね」

 

「ゆーゆは神婚に前向きかもしれないけど、私たちはあまり良いものだとは思えない。それだけは、わかってほしい」

 

「……うん。でも、やっぱり私の決意は変わらない……と思う」

 

 そうぽつりと漏らした友奈は小さく微笑んだ。

 瞬間、東郷の平手が友奈の頬を叩いた。

 病室に響く甲高い音が、手加減のない本気の一発だったと語る。

 

「わっしー⁉」

 

 園子の戸惑いの声を無視して、これまで静観を貫いていた東郷があまりに突然のことに動きを停止させた友奈の胸ぐらを掴みあげた。そして鼻の先まで顔を近づけさせると、力強く言い放った。

 

「――生きなさい!!」

 

「!!」

 

 友奈が目を見開く。

 

「たとえ短くても、ちゃんと生きて、それから死になさい!!」

 

「そんなことしたら世界が……」

 

 なよなよする友奈を揺する。

 

「どうしようもないことはわかってる! そのっちはああ言ったけど、たぶんもう神婚しか手がないのもわかってる! でも! それでも! 簡単に自分の命を投げ出そうなんて考えないで! 私にもう、仲間との悲しい別れをさせないで!!」

 

「――――」

 

「もちろんこれは私の我儘よ。皆のために戦うのが勇者。私たちは……勇者。でも、皆のために喜んで命を差し出すのは勇者じゃない。自己犠牲で悦に浸る偽善者よ。私がそうだったから、よくわかるの。……生き汚くたっていいじゃない」

 

 大局的な『善』は、友奈が神婚することだが、局所的な『善』は、友奈が最後まできちんと人として生き抜くことだ。

 どちらの善もこれ以上にないほど正しい。正しさと正しさの争いに結論なんて出せるはずがない。だからその狭間に苦しめられる。

 東郷は視界を涙で滲ませながら友奈の身体を優しく抱きしめ、

 

「あの時の答え、今、聞かせて」

 

 と耳元で囁いた。

 あの時と言われ、友奈の肩がぴくんと跳ね上がり、即座に思い出した。

 車に轢かれて、病室で目覚めた後のことだ。右半身が動かなくなって、それをリビドーの消失のせいで歪な受け入れ方をしたせいで皆に怪しまれた。そこを東郷が助け舟を出してくれて、ふたりきりになった時だ。

 生きる理由。そう確かに友奈は言った。

 でも、その答えを出せないほど目まぐるしく日々は過ぎていった。

 結局は答えを見いだせないまま、だらだらと今に至る。

 まだ『なんとなく』で生きているのかな、と自嘲してしまう。

 しかし、続けて発せられた東郷の言葉が、そんな友奈の後ろめたい気持ちに熱を灯した。

 

「もしまだ見つけられてないのなら――私を理由にして。私のために生きて。私も、友奈ちゃんのために生きるから」

 

「ぁ――――」

 

 何かがピシッ! と瓦解した。

 鋭い破砕音が脳内で響いた。

 焦って、もがいて、避けられない死をどう迎えるかばかり考えていた。

 でもそうじゃない。そうじゃないのだ。

 あまりに利己的で、あまりに馬鹿なことを考えていた。確かに神婚すれば人類は救われるだろう。

 それを東郷たちはどう思うのだろう? 心の底から友奈の献身を喜んでくれるのだろうか?

 否。断じて否である。

 逆に勇者部の誰かが神婚するなんて言い出そうものなら、友奈はなんとしてでも食い止めようとするだろう。

 今まさに、東郷たちがそうなのだ。

 薄く開いた口から、ひび割れた声を漏らす。

 

「いいの……?」

 

 すると東郷は迷いなくはっきりと答えた。

 

「いいの。人として終わるのなら、それでもいいじゃない。どれだけ言い繕っても……それが悪だとわかってても、そうしてしまうのが人間なのだから」

 

 東郷の抱き締める腕に力が入る。

 枝木の硬い感触が伝わるが、構わないとばかりにさらに力を込める。

 

「私のために、生きてくれるの?」

 

「うん。だから友奈ちゃんも、私のために生きて。残された時間を、たくさんたくさん楽しもう」

 

 友奈は胸の内で感情の爆発が起こりそうになりながら視線を夏凛と園子に見やった。

 ふたりは友奈に頷き掛けている。

 ……ああ、どうしてこんな簡単な答えを見つけられなかったのだろう。

 友奈が皆を想うように、皆も友奈を想っているのだ。

 その事実にようやく気づいた。

 

「……死にたくない」

 

 本心を吐露する。

 そっと両腕を伸ばし、東郷の細い腰に手を回す。

 視界のすべてが――七色の光に満たされ、滲み、ぼやける。

 ボロボロと熱い雫が流しながら、友奈は一生懸命自分の想いを口にした。

 

「本当は死にたくなんてないよ……だから生きる。東郷さんのために、生きるよ」

 

 東郷の白くて柔らかい指が、そっと友奈の涙を拭う。そしてにこりと微笑みを向けた。

 人類の絶滅を受け入れるのは遥かな重荷だ。人ひとりが背負うにはあまりに大きすぎる。

 だからこそ、皆で。

 残された僅かな時間であろうと、生きよう。苦しくても、悲しくても、生きよう。友奈は、友奈の生きるこの世界が好きだ。

 矛盾だと指摘されたって構わない。人間とは、矛盾だらけの生き物である。

 後悔のない最期を迎えられるとという確信が友奈の中にはあった。

 なぜなら。

 ふたりの流す涙が、これほどまでに温かいのだから。

 

 ◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 次の日、友奈が病院から姿を消した。




物語の終焉は近く
絶望の嵐は勢いを増すばかり
それでも勇者たちは【人間】を貫く

それではまた次回!


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お姉ちゃん

前回のあらすじ
鬱、加速
友奈、失踪


 その報告は、突然園子からグループメッセージに送られてきた。

 

『いなくなった』

 

『ゆーゆが』

 

 よほど焦っていたのか、五秒ほど遅れて主語を後付けした。

 友奈とどう過ごそうか計画を練っていた東郷は反射的に身体を動かし、コールボタンを押していた。ワンコール目が終わらないうちに相手が出た。

 

「どういうこと、そのっち⁉」

 

 もしもし、なんて悠長なことは言ってられなかった。電話の向こう側から何やら慌ただしい音が聞こえる。

 

『わからない! ちょっと色々お話しようと思ってお見舞いに行ったんだけど、いなかった! 今大赦に直接出向いて確認を取る! わっしー、ゆーゆが行きそうなところわかる⁉』

 

 園子の余裕のない口調は、状況がどれだけ重大であるかを如実に物語っている。

 友奈がいなくなったのは……いったいどういうことだ。

 友奈は高嶋や赤嶺と違ってちゃんと目が覚めているし、怪我こそあれど、無理をすれば歩き回れるはずだ。強いて言うならば、外出するには些か目立つ外見であるくらいか。

 誰にも言わないで消えるなんてことがあるのだろうか? それも、生きると約束したまさに次の日に。

 大急ぎで外に飛び出た東郷はすぐ隣の結城家のインターホンを押す。ピンポーン、と東郷の焦る気持ちを弄るような間延びした軽快な音の後、友奈の母親の声が聞こえた。

 

「友奈ちゃんはいますか⁉」

 

 しかし。

 いないわよ? と裏を感じさせないシンプルな答えが返ってくる。

 そんな馬鹿な。踵を返して東郷は走る。白い息を吐き、呼吸をする度に冷たい空気が喉を灼いても、無視して走る。

 ポケットに手を突っ込み、スマホで夏凛に電話をかける。ニコール目で電話に出た夏凛に東郷はとぎれとぎれに言った。

 

「夏凛ちゃん! 突然で悪いけど、学校に、友奈ちゃんがいないか、確認してきてくれる⁉」

 

 ダウンの擦れる音や道路を走る車の音などで声が聞き取りにくかったかもしれない。

 しかしそれは杞憂に過ぎず、すぐに返事が返ってきた。

 

『わかった。あんたは友奈の家確かめた?』

 

「ええ。でもいなかった……!」

 

『風には……いえ、駄目ね。今から行ってくる。切るわね』

 

 通話を終え、スマホをポケットにしまった東郷は人気のない通路へと走り込み、一旦上がった息を整える。

 喉が乾燥しきったせいでイガイガする。軽く咳き込んだだけで余計に喉が痛くなり、強引に我慢する。家を出たときは身体は冷えていたが、今はとても熱い。このダウンが余計にそれを加速させている。

 そうして再びスマホを手に取り、今度は電話ではなく勇者アプリを起動させた。そのまま勇者への変身し、建物の屋上へ一気に飛び上がってから一直線に北の方角へ向けて飛ぶ。

 少々寒い格好だが、火照った身体なら大丈夫……と思い込んでいた東郷はすぐに後悔する。

 流れる空気抵抗が、冷たい!

 ぞわぞわ、と急速に身体の熱が冷やされ、鳥肌が立つ。

 そもそも樹海化されていない状態での活動は想定されていない。単純な防御力なら格段に向上しているが、温度に対する機能は備わっていない。

 でも、勇者の状態で移動したほうが手っ取り早い。

 暖かい息を両手に吐きかけ、やがて大橋へと辿り着いた。そのまま走って英霊之碑のドームへと足を踏み入れる。

 

「……いない」

 

 誰もいない。

 整然と並べられた石碑たちが冷たい風を静かに受け止めているだけだ。

 過去の英霊たちに敬意を込めて一礼してからその場を去り、東郷はさらに海の向こう、壁まで飛ぶ。

 これは可能性の一つだ。自分がそうだったように、何らかの要因で皆に黙って壁の外に行ってしまった……なんてことがありえるかもしれない。

 昨日はああしてきちんと相談して心の家を曝け出してくれたが、実はあれが全てではなかったかもしれない。友奈を疑うような真似をして心苦しいが、背に腹は変えられない。

 もし東郷の危惧した通りだったら、救い出したあと、たくさん怒らなければならない。

 潮の匂いに鼻腔を刺激されながら飛翔を続け、ついに壁の上に立つ。相変わらず向こう側はなんてことない水平線を見せているが、これは幻想で、数歩進めば地獄の業火に包まれた世界が視界に飛び込むだろう。

 大丈夫。ちょっと確認して、すぐ戻るだけだ。

 もし友奈がいたとしてもひとりで先走らず、皆に報告することを優先しなければならない。

 胸に手を当てて深呼吸を繰り返す。そして心を落ち着かせた東郷は一息に外への足を踏み出した。

 瞬間、冬だったはずの寒風など嘘のような熱風が東郷を出迎える。卒倒するほどの数のバーテックスが我らが領土であると主張しているかのように群をなして飛んでいる。

 念の為東郷と同じようにブラックホールになっていないか確認しようと空を見上げるが、それらしきものは見当たらなかった。

 まだバーテックスは東郷の存在には気づいていない。手際よくスマホを手に取り、勇者アプリの勇者たちの位置情報を探る機能を使う。いてほしい、といないで、という矛盾した願いを抱きつつ探索が終了した画面表示を薄目で見下ろす。

 

「……いない」

 

 安心していいのかわからない結果を受け止めつつ、そそくさと壁の内側に戻る。

 そして、地面に膝を付き、頭を垂れた。

 あとは夏凛と園子の報告を待つだけだが……。

 それから数分足らずでふたりからメッセージが飛んでくる。どちらも『いなかった』という報告だった。東郷も指を動かして同じ言葉を送信した後、悔しさを滲ませながら地面を拳で叩きつけた。

 もちろんそんなことをしても友奈が返ってこないことはわかっている。でも、この胸に燻ぶるやるせなさを発散させずにはいられなかった。

 不安。悔しさ。悲哀。

 最近それらに苦しめられることが多すぎる。僅かでもいい、友奈の寿命が尽きるまでの時間を精一杯過ごそうと願っているだけだというのに。

 なぜこうも理不尽にすべてを取り上げられてしまうのだろう。

 

「友奈ちゃん、どこに行ったの――……!!」

 

 そんな東郷の叫びは潮風に晒され、揉みくちゃにされて虚しく消えるのみだった。

 

 ◆

 

 それから三日経っても友奈の手がかりは何一つ見つけられなかった。

 それに、高嶋と赤嶺もまだ目覚めない。傷は無事塞がれたが、失ったふたりの片腕はもう戻らない。そして危惧していた征矢の襲撃もない。

 流石に病院だから征矢もそこまで手荒な真似はできない……のだろうか?

 夏凛は並べられたふたりのベッド、その間にお見舞いとして置かれた花の水を入れ替えに椅子から立ち上がる。

 心音図は一定のリズムを刻み、重なる電子音が、暖房のかかった部屋に静かに響く。

 花瓶を掴んだ夏凛はふたりの寝顔を数秒見下ろしてから病室を出た。

 

「……袋小路ね」

 

 打つ手なし。

 風は樹の葬儀後から特にこれといった動きはなし。相変わらず抜け殻のような生活を送っている。一昨日確認しに行ったら、ボサボサの髪のまま樹のコーラス映像を死んだ魚のような目で観ていた。

 東郷と園子は友奈の捜索に奔走。正直大赦に攫われたのではという予想があったらしいが、園子曰く、位の高い神官に問い詰めても本当に知らなかったとのこと。

 ならどこに行った?

 ……わからない。

 水を入れ替えた夏凛は花瓶を元の位置に戻し、整理しきれていない情報に脳が圧迫されそうになりながら椅子に腰掛ける。

 約束を反故にし、自罰に陥る夏凛にはどうすればいいかわからなかった。

 

「……頑張ったわね、あんたたち」

 

 遥か昔からこの時代に飛ばされ、頭の中がごちゃごちゃになりながらも、最終的にはきちんとした『自我』を示した。

 赤嶺も、こんなになるまで頑張ってくれて……。

 と、そう考えてしまえばしまうほど夏凛は自責を積もらせる。

 それを振り払うべく、あるいは誤魔化すべく頭を振った。そして呼吸を整え、壁の時計を見る。

 まだ昼を少し回ったくらい。

 ……何か行動を起こすべきだ。

 そう夏凛は考えた。どんな小さなことでもいい。何か、できることを。

 その果てにあることを思いつく。

 これは誰かのためではない。自分のためでしかない。でも、今の自分には必要なことだと結論づけた。

 病院を出て、走る。

 家に戻って自転車という手もあったが、それすら考えられないほど夏凛は必死だった。

 走って走って、喉が砂漠のように乾燥しきっても走り続けた。

 やがてある場所に到着する。

 そこは、人類のために戦った英雄たちの眠る場。

 英霊之碑。

 身体から蒸気を起こしながらドームの縁に立った夏凛は息を整え、ゆっくりと下へ続く階段を降りる。

 四方に頭を振りながら、目指すべき人物の石碑を探し、その前に立って優しく撫でた。冷たい風を受ける石碑はとてつもなく冷たかったが、どこか温かい気がした。

 

「……三ノ輪銀。私の、先輩」

 

 夏凛のスマホは元々は赤の勇者……三ノ輪銀のものだったらしい。その想いは夏凛へと引き継がれ、今に至る。

 だからあの時、幻かなにかはわからないが、三ノ輪銀に会うことができたのかもしれない。

 だからこそ、まずは――。

 

「――ありがとう。あなたのおかげで、私は立ち上がれた」

 

 根性を叩き込まれた。自分より小さな少女に、勇者の真髄を叩き込まれた。

 あの激励とも言える一喝がなければ夏凛は絶対にもう一度立ち上がろうなどと考えなかっただろう。

 だから、感謝を。

 そして。

 

「ごめんなさい。私、約束、守れなかった……!」

 

 そう掠れ声で呟き、冷え切った地面に両膝をついた。さらに両手で顔を覆い、どうしようもない感情を爆発させた。

 

「皆を守るって誓ったのに……! なのにッ! 樹を失ってしまった……! ごめんなさい……!う、あああああああ――……!」

 

 苦しい。とても苦しい。

 慰めてほしいわけじゃない。責めてほしいわけでもない。どっちもしてくれる聖人なんていないことはわかりきっている。

 でも、こうして心に溜まったヘドロを吐き出さなければ前を向けない。次に進めない。

 勇者としての自我を失ってしまいそうで怖かった。

 頬を伝う透明な雫が、銀の石碑の前にポタポタと止まることなく落ちる。

 視界を滲ませつつ、夏凛は顔を上げた。

 途端、夏凛は幻を見た。

 目の前に、誰かの拳があった。

 目を擦って改めて見ても、その幻が消えることはなかった。

 

「――――」

 

 密かに裁定者を求めすぎたゆえか……?

 拳はそのままゆっくり近づいて来て、夏凛の胸を強く小突いた。

 物理的な接触はなかった。しかし、夏凛はなぜか尻もちをついてしまった。

 

「え……?」

 

 呆けた顔のまま、触れられた部位……心臓の真上に自身の手を重ねる。

 そこにはなぜか、仄かな熱が宿っていた。実はただの体温だった、なんて勘違いかもしれない。

 でも、それでもいい。

 思い込みだっていい。

 夏凛は今、確かに、

 

『諦めるな』

 

 と言われた気がしたのだ。

 もちろん樹の生を、ではない。

 もう失ったものは返ってこない。いくらだって悲しみに明け暮れてもいい。泣いて泣いて、目を真っ赤に泣き腫らしてもいい。

 しかし、そこでずっと足踏みすることは許されない。

 なぜなら、時間は個人の感情など顧みず残酷に進むからだ。

 尻を蹴りあげられたような気分だった。

 まだ全てが無駄になったわけではない。まだ守るべき者たちがいるのだから。

 また失うかもしれない。それは十分にあり得る話だ。

 しかし、守ろうとして守れなかったのと、守ろうとしなくて守れなかったのは雲泥の差だ。

 結局は自分のエゴなのかもしれない。

 くだらない正義感に縛られているのかもしれない。

 だからどうした。

 夏凛は皆を守ると約束した。

 それを帳消しにすることは、決してない。

 なぜなら夏凛は勇者であり、人間なのだから。

 涙はもう止まっていた。

 吹き付ける寒い風も、夏凛の心を凍らせることはもうできない。

 次にやるべきことは、もう決めた。

 夏凛はしっかりとした足取りでその場から去っていった。

 その頼もしい背中を見届ける者がいたかどうかは、誰にもわからない。

 

 ◆

 

 孤独の巣窟の前に、赤の勇者が立つ。

 インターホンを押すが、反応はない。

 まあ……わかってはいたけどね、と内心で頷いた夏凛はまさかとは思いつつドアノブに手をかけた。そしてそのままひねる。

 すると、なんの抵抗もなくドアは開かれた。

 驚きに息を呑みながらさっさと中に入ってしっかり鍵をかける。

 ……樹の歌声が聞こえてくる。また、あのビデオをリピートしまくっているのだろう。

 夏凛は玄関で靴を脱いで上がりこみ、リビングへ入る。

 前から変わらずソファーの上で、予想通り風はビデオに釘付けになっていた。

 

「風……あんた、鍵くらいしなさいよ。もし知らない奴に入ってこられたらどうすんのよ」

 

 風のくすんだ目がこちらを向く。が、すぐに視線をもとに戻す。

 ふと台所に目をやれば、流し台に洗っていない箸やらが乱雑に散らばっている。前に来たときに、少しでも気分が楽になればと置いていたインスタントのうどんがいくつか減っている。しかし食べたあとのゴミはそのまま放ったらかしだ。

 女子力の塊とも言える風の面影は、ない。

 それにしても、カーテンを閉め切っているせいで暗い。夏凛は風の家の中をまるで自分の家のようにズカズカと歩き回り、カーテンを力いっぱい開けた。

 すると今までほぼ無反応だった風が、「う」と眩しそうに喉から声を絞り出す。

 テレビ画面の明るさが自動調節され、丁度樹のソロパートが始まるところだった。

 夏凛は喉を鳴らすと、風の隣に腰掛けた。

 ビデオ映像は微かに震えている。撮っているのは風だったはずだ。感動に嗚咽が混じっていて、なんだか風らしいとも言える。

 そうして一周して、リピートされるというところで夏凛はおもむろにリモコンを手に取り、再生を停止させた。

 途端、風は血相を変えて夏凛を睨みつけた。しかしそれを無視して話を切り出した。

 

「友奈が、いなくなったの。ここ数日の間、私たちで探し回ったけど手がかりもない」

 

 風は口を閉ざしたままだ。

 

「今日私がここに来たのは他でもない、あんたをもう一度立ち上がらせるためよ」

 

 そして目元のくまの酷い風を見据えながら、力強い声で言った。

 

「立ちなさい、風。それで私を……私たちを、助けて」

 

 濁った目を数度瞬かせた風は、ゆっくりと頭を横に振った。

 そして夏凛の手からリモコンを取り返そうと手を伸ばしたが、呆気なく振り払われた。

 再びキッ! と夏凛を睨む。だが夏凛もその眼力に臆することなく睨み返した。

 

「別に私はあんたを慰めに来たわけじゃない」

 

 そうだ、東郷や園子だったら絶対に優しい言葉を投げかけて風を元気づけようとするはずだ。

 でも夏凛にはそんなことができない。なぜなら人とのコミュニケーションはあまり上手くないし、言葉選びも上手くないからだ。

 だからといって責めに来たわけでもない。それは違う。一方的に責めるのは間違っている。責めるのなら、夏凛たちも同罪だ。

 もっと上手く立ち回っていれば、もっと強ければ、なんて後悔はいくらでもあるだろう。

 ならば――。

 

「立ち上がりなさい。前を向きなさい」

 

 しかし風は駄々をこねる子供のように頭を振る。

 

「私たち皆、樹の死を悲しんでる。でも、どれだけ嘆いても、苦しんでも樹は返ってこないのよ。そこんとこの現実をしっかり見なさい」

 

 夏凛の口から放たれる言葉は全て、風にとっては高純度の毒でしかない。

 案の定、苦しそうに呻きながら風は頭を抱えた。ガシガシと頭をかきむしり、小さく身体を丸める。

 しかし夏凛は止まらない。

 

「私は天国にいる樹が悲しむから、なんてありふれた慰め文句は言わないわよ。今生きているのは私たちで、樹は死んだ。樹にばかり固執しないで、私たちもちゃんと見なさ――」

 

「あんたに、私の悲しみなんてわからないわよ!!!」

 

 数日ぶりに発した風の声は、怒声だった。

 やや上擦っていて、糸が絡まったような掠れ声。

 手を伸ばして夏凛の胸ぐらを掴む。そして力任せにグイッと引き寄せ、血走った目で夏凛を視界に収めた。

 しかし、夏凛はその手首を掴むと、強引に風を床に押し倒した。

 まさか反撃されるとは思っていなかったのだろう、風は呆けた顔で見上げた。

 

「わかるはず……ないでしょうが!!」

 

 近隣の迷惑になることなんで考えずに夏凛は吼えた。

 

「私があんたと出会って過ごしたのなんてほんの一年もない! でもあんたは樹と十年以上も一緒にいたんでしょ⁉ そんなの、積み上げられた愛が私なんかにわかるはずないでしょ!! 私に同意を求めるな!! 私に救いを求めるな!! 私は、あんたの尻を蹴り上げるだけよ!!」

 

 それでも、風は目尻に涙を溜めながら反抗した。

 

「じゃあ……じゃあどうすればいいのよ……! もう嫌! 全部、嫌! 何もしたくない! このまま消えてしまいたいのよ、私は!」

 

「そんなことは許さない。立ちなさい」

 

「嫌……」

 

「立ちなさい」

 

「嫌!」

 

「立てッ!!」

 

「――――」

 

 有無を言わせない一方的な命令に、風は口をつぐんだ。

 長い間掃除されていなかったせいだろう、床のホコリが巻き上げられる。それを大量に吸い込んでしまった風は乾いた咳をした。

 窓から差す陽光が、肩で息をする二人を淡く照らす。

 少し、強引すぎたか?

 夏凛は俯く風を見て後悔する。立ち上がってほしい一心でこうして言葉を投げかけたが、逆効果だっただろうか?

 やはり東郷と園子と一緒に三人で説得するべきだったか――。

 しかし、その心配は杞憂だった。

 ぽつりと懺悔するかのように、風が口を開いて話し始めたのだ。

 

「棺の中の樹を見た時……なんだ、まだ生きてるじゃないって……思ったの。でも私の手に持つ花や、記憶が樹は死んだって押し付けてきたの。そんな受け入れられないことばかりが振りかかって、ふと、私が誰かわからなくなっちゃった」

 

「…………」

 

「火葬した後の骨上げ……私、本当はできなかった。遺族も親族もいないから私一人でやってたんだけど、骨を拾い上げる度に寂しさが強くなって、途中で泣き崩れちゃった。大声で泣き喚いて、後は神官にやってもらったの」

 

 ぽつ。ぽつ。

 床に風の涙が落ちる。

 ぐぐぐ、と拳に力が入り。

 腕を小刻みに震わせ、嗚咽を漏らし始める。

 

「酷いお姉ちゃんよ、私は。だって、妹を満足に弔ってやることすらできないんだから」

 

「…………」

 

「笑ってもいいのよ」

 

「笑わない。笑う奴がいたら私が殴ってやる」

 

 一切のタイムラグのない、素早い返事だった。

 いつになく真剣な表情の夏凛を見た風は弱々しく吐息を吐く。

 しんと静まり返った空間。樹がいなくなったことによる変化はあまりに大きい。主を失った部屋に目をやると、ドアは開いていて、当時から何一つ変わっていない。そのままを風はずっと残しておきたかったのだろうか。

 今一度先輩としての威厳なんてどこかへ消えた風を見下ろす。

 皆が皆、全てが自分にとって良い方向に事が進むことなどあり得ない。困難にぶつかって、もしくは壁に阻まれて、どうしてもそこから前に進めなくなることなんて数えるのが嫌になるほどあるだろう。

 理不尽に何かを取り上げられることも。

 でも、それが生きるということだ。

 藻掻いて藻掻いて、その果てにどうしても立ち上がれないことだってあるだろう。風は今、その瀬戸際に立っている。

 だから、なんとしてでもこっち側に引き寄せる。

 それが夏凛のやるべきことだ。

 風の懺悔はすべて受け止めた。ならばこちらの番だ。罪を独白し、風と同じ場所に立つのだ。

 

「……私は、皆を守るっていう約束を破ったわ」

 

「そんなこと言ったら、私だって……」

 

「そうでしょうね。ええ、そうよ。私だけじゃなくて、東郷たちも同じようなことを考えてるでしょうね」

 

 単純でわかりやすい約束ほど、重い。

 それを嫌というほど思い知らされた。

 三ノ輪銀に怒られる覚悟はしている。どれだけ罵られてもいい。それだけのことをしてしまった自覚がある。

 でも。

 

「でも、そこでへこたれるわけにはいかないのよ。だって、守るべき人は樹だけじゃないから。東郷に園子、友奈、高嶋に赤嶺。それに風、あんたもよ」

 

「…………」

 

「そして今、いなくなった友奈のために私たちは全力で探してるの。もしあんたの大切な人の中に友奈……それと私たちが含まれているのなら……助けて」

 

 いくら樹の死を乗り越えたとしても、友奈の失踪は夏凛の精神を容赦なく削っている。

 嫌な予感はある。

 最悪の事態だって想定しないといけない。でも、それが怖い。もし……もし、そうなってしまった時、また立ち上がれる自信が持てないからだ。

 いつしか夏凛は顔が熱くなっていることを感じた。リビングに暖房は効いてないはずなのに、おかしい。

 視界が滲む。

 そのまま、心の中で強く祈りながら吐露した。

 

「助けて、風……!」

 

「――――」

 

 どれだけの時間が流れたのかはわからなかった。途轍もなく長い一瞬だったかもしれない。

 風は泣き腫らした目でこちらを見上げている。

 すっ、と風が立ち上がる。

 ゆっくりと。ゆっくりと歩き、夏凛の前に立つ。

 そして。

 

「夏凛」

 

 耳元で囁かれたような感覚に、肩がピクリと跳ね上がった。

 目元を拭い、淡いエメラルドのような二つの瞳が、至近距離から夏凛の目を捉える。

 ガサガサの唇が動き、続く囁きが夏凛の耳に届いた。

 

「今日は、帰って」

 

 これ以上の言葉は受け付けないという、はっきりとした拒絶だった。

 

「……うん」

 

 それきり、夏凛が風に何かを言うことはなかった。風が持ってきたティッシュで鼻をかみ、涙の跡を拭かれ、促されるがままに玄関に導かれる。

 首元がもこもこしたコートを羽織り、靴を履く。とんとん、と爪先で地面を叩いた後、ふと後ろを振り向いた。

 

 「…………」

 

 出過ぎた真似だったか。

 今になって、恥ずかしさで悶死しそうだ。

 記憶領域のフォルダ、黒歴史に新しいデータが蓄積される――なんてことを考えると、胸に鋭い幻痛が走る。

 無意識のうちに顔を歪めながら夏凛は口を開こうとしたが、風の顔を見て、やっぱりやめた。

 言おうとしていた言葉を訂正しよう。

 今、風に投げかけるべきは――。

 

「また、明日ね」

 

 白い歯を見せつけて、夏凛はそう言った。

 

 ◆

 

 まず、赤嶺の視界に飛び込んできたのは白だった。

 視界がボヤけていて、よく見えない。天井であることはわかる。でも、犬吠埼家の家でも夏凛の家のものとは少し違う。

 まあ、間違いなく病院だろう。

 そう結論づけた後に目元を擦ろうとして、気づく。

 

「あ」

 

 左肘から先が、ない。余った裾が垂れ下がっている。

 霞んでいた意識が一気に覚醒する。

 ガバッ! と上半身を持ち上げ、素早く状況を理解する。

 予想通り、ここは病院。そして赤嶺の隣には高嶋が眠っていた。

 高嶋のベッドサイドには、戦闘に使われていた武器が丁寧に置かれていた。手甲と、大鎌。前者は本人のものだから言うことはないが、大鎌――大葉刈に至っては疑問が湧く。記憶が正しければ、あれは千景の武器だったはず。

 西暦の勇者たちの武器にはそれぞれ霊的な力が宿っているという。しかし、大葉刈が主人ではない高嶋の元に姿を見せたのはどうも納得がいかない。

 ……そういった考察はあまり得意ではない。

 思考を放棄した赤嶺は、次に身体の鈍痛を感じた。恐らく征矢に斬られた内臓がまだ完治しきっていないのだろう。傷が開くといったことはなかったが、激しい動きなどはあまり身体によくないようだ。

 ぽすん、とベッドに背中を預けた赤嶺はもう一度眠ろうと瞼を下ろす。

 友奈たちに会って戦闘結果を確認したいところだが、こういう何もない時間も悪くない。甘んじてこれを堪能しようと自分を許す。

 ……ぷに。ぷに。

 誰かに頬を突かれている。

 ぷにぷにぷにぷに。

 ちょっと、しつこい。

 

「んんー……」

 

 大きく頭を振った赤嶺は素早く相手の手首を掴み、眠りに落ちそうだった意識をもう一度覚醒させて見開く。

 

「いた、いたたたたた……」

 

 するとそこには、さっきまで眠っていたはずの高嶋がこちらを見下ろしていた。

 

「あ、ご、ごめん」

 

 無意識に力を入れすぎたようだ。

 慌てて手を離そうとした赤嶺はふと気づいた。

 高嶋の指が一本、ない。

 薬指がない。

 左手は包帯でぐるぐる巻きにされ、見るに痛々しい。

 

「?」

 

 それに、不思議そうに小首を傾げる高嶋の右腕がない。肘すらなく、肩口からなくなっている。

 

「良かった〜。やっと起きたね、赤嶺ちゃん! まあ、実は私もさっき起きたばかりだったんだけど」

 

「そっか……」

 

「……酷い怪我だね。大丈夫?」

 

「大丈夫……ではないかな。でも、そんなこと言ったら高嶋ちゃんだって」

 

 腕を失うとは想像を絶する不自由を強いられる。自然と高嶋の視線が赤嶺の左腕に落ちる。

 

「でも、私たちが生きてるってことは、戦いには勝ったってことだよ。そこは喜ばないと!」

 

 無性に食欲が湧いてきた。

 この飢餓感から察するに、数日間は寝たきりになっていたはずだ。

 うどんは捨てがたいが、肉。肉が食べたい。ガッツリ食べて、太ることなんて考えないでお腹いっぱいになるまで食べたい。

 今ならストッパーの蓮華もいないし、絶好の機会だ。

 

「私たち、起きたわけだからナースコールをして知らせたほうがいいよねー?」

 

 ナースコールボタンを探しながら高嶋が尋ねてきた。手伝ってやりたいのは山々だが、あまり動けない赤嶺は「そうだね〜」と返した。

 あの戦闘はふたりがこの時代にやって来たから発生したものだと征矢は言っていた。

 ならば、まだ生きていると知った敵は果たしてこのまま大人しく引き下がるのだろうか?

 いいや、そんなはずはない。赤嶺ならより準備を整えてから今度こそはと襲う。

 何が何でも、必ず殺すという強い殺意とともに。

 だからこれですべて終わり、というわけではない。

 寧ろ、最優先でやらなければならないことが明確になった。それは一刻も早く元の時代に帰ること。そうすればこの時代に及ぼす影響は収まるはずだ。

 そのためにも、はやく腕時計を直さなければ。

 

 ――刹那。

 

 赤嶺は病室の空気が変わったのを感じた。

 高嶋も感じたのだろう、見つけたナースコールのボタンを押す手前で弾かれたように顔を上げる。

 窓は締め切っているはずなのに、なぜか冷たい風が舞い込んでくる。

 その元を辿るように視線を横に振った。

 すると、窓は開いていた。そして部屋の角の方に静かに佇む死の影がいた。そこだけ隔絶された世界のように薄暗く、ふたりの見知った光が揺らぎ、存在を主張している。

 咄嗟に戦闘態勢に移ろうとした赤嶺だが、腹部の痛みに動けない。高嶋は咄嗟にベッドサイドの手甲を手にとって構える。

 カツ、カツ、と侵入者は乾いた足音を鳴らしてこちらに近づき、三メートルほど離れたところで足を止めた。

 生唾を飲む音は、果たしてどちらが鳴らしたものか。

 次に息を呑む。

 ……まずい。

 赤嶺は額に脂汗を滲ませる。

 侵入者……征矢は僅かに口角を上げた。バイザーから放たれる光は、まるで死へ誘う焔。

 あの時、赤嶺に一瞬だけ向けられた優しい態度が気のせいとしか思えないほど、純粋ながらも粘性のある殺意。

 すると征矢は微笑を消し、超然とした表情でしばしふたりを見る。

 そしてゆっくりと告げる。

 

「――私がここに来た理由は……言うまでもないな?」




――時、来たれり
男はそう悟った。

【Infomation】
▼征矢の運用システムの変更を検討開始

それではまた次回!


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叛逆

前回のあらすじ
征矢、三度目の正直

【Infomation】
▼Hへの収束は絶望的
▼B、N、B(new!)へのいずれかに収束されると推測
▼終了


 征矢の「わかるだろう?」と言わんばかりの開き直ったような態度に、高嶋と赤嶺は生命の危険を察知する。

 心臓が早鐘のように脈打つ。無意識に呼吸が乱れ、指先が痺れる。どっと汗が吹き出る。

 高嶋に至っては、一度殺された身だ。受けている精神的ストレスは絶大なものだろう。

 勇者装束に身を包み、臨戦態勢に入る隻腕の高嶋の顔は強張っている。ギチギチと手甲をしならせ、眉をひそめながら征矢を見据えている。

 対して征矢は手ぶらだ。……いや、それは語弊を招く。征矢の背後に浮遊する圧倒的な存在感を主張する光輪が、征矢にとって武器の貯蔵庫である。

 あれが回転すれば、瞬く間に武器が手に収まる。本物ではないが、歴代勇者の武器のレプリカが。それもいくつでも。

 ナースコールを押して異常を知らせるか?

 赤嶺は思考を巡らせる。

 駄目だ。今の高嶋は目の前の征矢で頭がいっぱいで、さっきまで押そうとしていたナースコールのことなんて抜け落ちてしまっている。だからといって赤嶺が代わりに押しに行くなんて余裕はない。その間に殺されるのがオチだ。

 まず前提として、赤嶺は征矢に勝てない。

 辛うじて相打ちといっていい結果になったのは、光の柱という予期できない横槍が入ったからだった。あれがなければ間違いなく殺されていた。

 祝詞さえ付与してくれれば戦闘力を向上させることはできるが、それでも征矢に届くかわからないほど力の差は歴然としている。

 西暦には上里ひなたという巫女がいたが、どうやら現代の勇者たちには巫女がバックについていない。

 つまり、どう足掻いても赤嶺の戦闘力はゼロ。悔しいが、動けるのは高嶋だけだ。

 

「逃げて! 赤嶺ちゃん!」

 

 そう振り向きざまに叫んだ高嶋は征矢に殴りかかる。

 ダメだ、と呼び止めようとした言葉が赤嶺の口から飛び出すことはなかった。

 なぜなら、瞬きの間に戦闘は終了したからだ。高嶋の身体はゴム弾のように吹き飛び、すぐ後ろのベッドを巻き込んで激しく衝突してひっくり返す。

 征矢の両腕には、高嶋と同じ手甲。

 起きたばかりで圧倒的強者に戦いを挑むことなんて無謀だ。赤嶺と友奈との決闘を思い出すが、すぐに振り払う。友奈のあれは特例だ。神の業のおかげで赤嶺に打ち勝ったのだ。

 怪我が悪化していないか不安になったが、そんなことはなかった。

 ひしゃげたベッドの骨を掴んで高嶋は上半身を起こす。

 両者の差は極めて大きく開いていることは身をもって思い知らされただろう。歯噛みした高嶋は征矢を睨む。

 征矢は装束についた埃をのんびりと振り払うと、一歩前に進み出る。

 

「来ないで」

 

 ドスを効かせた声で赤嶺が告げる。

 すると征矢はぴたりと脚を止め、赤嶺に頭を向けた。そしてゆっくりと右腕を持ち上げる。右手の指は銃の引き金にかけるような形になっていて、次第に光が収束して銃のシルエットとなる。地面に対して腕がほぼ水平に上がるまでには、それは青白のスナイパーライフルとなった。

 東郷の、武器。

 狙いは赤嶺の額。

 征矢は口を固く閉ざしたままだ。

 そして永遠と錯覚しそうな一秒が過ぎ、低い声で言った。

 

「生きたいか?」

 

「……なんだって?」

 

 突然の問いに、赤嶺は目を白黒させた。

 てっきり「言い残すことは?」などといって決り文句が投げつけられると思っていたが、その真逆だった。

 征矢の表情は窺えない。

 

「生きたいか、と訊いているのだよ、赤嶺友奈」

 

 再び発せられた問いに、赤嶺は静かに答える。

 

「……生きたいよ。それはもちろん、生きたい。こんなところで死んでたまるもんか」

 

 溢れんばかりの意思力を込めて言い放った答えを受け取った征矢は、ふっ、と右腕を降ろした。

 何事か? と疑問が湧き上がる。そのままライフルも消し、次に左の掌を開いた。すると今度は先程の巨大なシルエットより遥かに小さなシルエットが出現し、ある形を取り、色を獲得した。

 それを見たふたりは息を呑む。

 

「なんで、それが……⁉」

 

 征矢の掌には、赤嶺の持っていたはずの腕時計がちょこんと乗せられていた。

 あれはふたりが元の時代に帰るために必要不可欠のものだ。しかし狼狽する赤嶺は瞬時に平静を取り戻す。

 征矢の策に乗ってはいけない。

 腕時計は武器ではないし、あれは間違いなくレプリカだ。

 腕時計による時間遡行は、過剰な文明発達にカテゴライズされる。だから鏑矢に発展しすぎた道具を使用する権限がないように、征矢であっても使用は基本的に禁止されているはずだ。そもそもレプリカが時間遡行という技術をもコピーできているかは不明だが。

 しかしだからといって無視するわけにはいかない。征矢がこうして見せつけるというのには意味がある。

 そもそも征矢に腕時計は見せていないはずだ。あるとすれば、丸亀城で若葉たちと一緒にいたところを見られることくらいか。

 だが丸亀城は関係者以外の者が入ることはできなかったはず。そう簡単に赤嶺に接近はできないだろう。ならばレプリカなんて作れないはず。

 では、どうして今、征矢の手に腕時計がある……?

 

 ――直後、戦慄とともに目を見開く。

 

 そして尋ねようとした赤嶺の声より、どうやら同じく勘付いたらしい高嶋の震え声が先だった。

 

「本物……?」

 

 すると征矢は口角を上げた。

 

「その通り。これはレプリカではない」

 

「どうして、持ってるの……?」

 

「別に初めから盗むつもりではなかったんだがな。偶然赤嶺友奈のポーチから落ちたから拾ったのさ。……確かにあの時負けたが、勝ったとも言えるか。ポーチの中からポロッとな」

 

 記憶が呼び起こされる。

 最後の一合。

 未完成ながらも限りなく再現された朧斬りで征矢の身体を切り裂いた時、赤嶺の肘先が切り落とされた。そのまま征矢の生大刀は、腕時計をしまったポーチをも断ったのだ。

 当時の赤嶺はそんなことに気を向ける余裕がなかったが、十分ありえる。

 赤嶺のスーツは並大抵の刃物では傷一つつけられないが、征矢の攻撃はその限りではない。

 やられた……!

 赤嶺は致命的な弱点を敵に譲ってしまったのだ。

 

「返して」

 

 顔を歪めながら要求する。

 すると。

 

「ああ」

 

 と、あまりにあっさりと腕時計を投げ渡された。

 

「え――?」

 

 ぽすん、と掛け布団の上に落ちたそれを見下ろし、次に征矢を見る。

 あまりに呆気なく返してくれたことに驚きを隠せない。数度腕時計と征矢とを見返し、赤嶺はもう一度「え?」と呟いた。

 

「犬吠埼樹が死んだ」

 

 そして征矢はあまりに悪いタイミングで樹の死を告げた。

 

「え……?」

 

 三回目の言葉は、二回よりも激しく赤嶺の心を嬲った。

 もう困惑なんて隠せない。咄嗟に嘘をつくなと否定してやりたかったが、まるで赤嶺の発言を遮るかのように征矢は言葉を続けた。

 

「結城友奈が失踪した。神樹に誓って、私は真実を述べている」

 

「質の悪い……嘘だよね? 私は、そんなに嫌らしい性格になっちゃうの?」

 

 そうは言いながらも、征矢の言葉は嘘ではないという根拠のない確信があった。御役目柄、人の嘘を見抜く能力には長けていると自負している。しかし、そのような力を用いいらずとも、なぜかそれが真実であるとわかってしまった。

 

「私は真実を述べている」

 

 繰り返し答えた征矢はさらに言葉を重ねた。

 

「犬吠埼樹が死んだのは、お前たちのせいだ。この時代に来たから、本来なら起こるはずのない襲来が起こり、犠牲が出た」

 

「…………」

 

「全員、薄々気づいているだろう。細かい理由まではわかってないかもしれないが、お前たちが来てから様々なことが起こっている。私の派遣もそのうちのひとつだ」

 

「…………」

 

「お前たちに……お前に、この責任がとれるか? 赤嶺友奈」

 

「…………」

 

 ……答えられない。

 ただ顎に力を入れて、押しつぶされような重圧に耐えることしかできない。

 本当は答えられるが、それは途方もない罪をであることを自白するようなものだ。

 すべての発端は、赤嶺が警戒心を緩めて老爺の腕時計を起動させてしまったことにある。あれさえなければ、こんなことにはならなかった。

 

「ああ、私は責めないから安心しろ。私は異世界人のお前たちを殺すだけ。責めるのは、この世界で生きる人たちがやってくれる」

 

「……責任、か」

 

 ちらりと高嶋を見やる。

 戦意は衰えていないようだが、身体がついていかないらしい。

 高嶋に責任はない。

 なぜなら、本人の意志とは関係なく巻き込まれただけだからだ。

 

「ここで、選択肢をふたつ提示しよう」

 

 高嶋、赤嶺を交互に見た征矢は人差し指と中指を立てた。

 

「ひとつ。今すぐその腕時計を使ってそれぞれの世界へ帰れ。もともとは往復分しかなかったようだが、こちらでメンテナンスはしたからちゃんと二回だけ動く。ここでの記憶は持ち帰れるし、その怪我も無かったことになる」

 

 とても素晴らしい提案だ。

 ずっと前から目標としていたことがこんなにもあっさりと、それに敵から提示されるとは思いもしなかった。

 しかし。

 赤嶺は表情を曇らせる。

 

「ふたつ。今すぐここで死ね。もし責任を感じているのなら、その首を差し出せ。記憶は持ち帰れないが、元の世界への影響はない。私はひとつ目を勧めるが」

 

 こちらも悪くはない。

 もしこのまま惰性でこの世界に滞在しても、皆に責められるだけだ。特に風に至ってはなんて言われるか想像できない。

 正直なところ、発狂して殺しにかかられてもおかしくない。それほど樹を溺愛していたことは知っている。このまま姿を眩ませたい、という後ろめたい気持ちが溢れそうだ。

 責任を放棄して、逃げるように元の世界に帰る。これが最もリスクの少ない選択だ。ここは異世界。誤差の範囲だが、赤嶺の世界とは少し違った歴史を歩んでいる。だから『別物』として扱うことができる。

 でも、そう簡単に割り切れるはずがない。たとえ異世界だとしても、ここで生きている人たちは間違いなく本物なのだ。それをよく理解している。

 なら逃げるわけにはいかない。

 ぎこちない動きでベッドから下りた赤嶺はゆっくりと征矢の前まで歩き、膝をつく。そして頭を垂らす。

 それを意思表示と見た征矢は「そうか」と短く呟き、手に生大刀を収める。

 

「お前は、そっちを選ぶのか」

 

 その確認は、何か表面的なものだけではない含みを匂わせる。

 

「……そうだよ。でも、高嶋ちゃんだけは元の時代に返してあげて」

 

 死の刃が赤嶺の首元にあてがわれる。

 

「いいだろう」

 

 静かに目を閉じ、赤嶺は来たる死を受け入れるべく心を落ち着かせる。

 太刀が振り上げられる。レプリカとはいえ、思い出深い武器に殺されるとはなんて皮肉なことだろうか。窓から差し込む陽光に照らされ、切っ先が鈍色に光る。

 さっき生きたいと言ったばかりなのに、この掌返しはいかがなものだろうか。伏目に赤嶺は自嘲した。

 未来の赤嶺友奈が、過去の赤嶺友奈を見下ろす。

 バイザーの奥に隠れた目が何を語っているのかは赤嶺には分らない。ただ、死を跪いて待つだけだ。

 床のビニルシートが、ぼんやりと征矢を映す。そして、生大刀が振りかざされる。

 鋭利な刃が、白い軌跡を宙に引きずりながら赤嶺の首へと迫る。

 時間にして一秒にも満たない、刹那の世界。

 装甲をも容易く絶つ必殺の一振り。

 頸椎なんて豆腐のように切断されるだろう。

 切っ先がうなじに触れ、命を絶とうとする、その寸前。

 黒光りする新たな刃が視界外から乱入した。

 銀色の太刀を迎撃し、凄まじい量の火花を撒き散らす。

 発生した衝撃は、征矢と赤嶺の距離を引き離し、後方へ押しやった。倒れ込んだ赤嶺が誰かに受け止められる。傷の疼きを右手で押さえながら、顔を少し右に動かした。

 どうやら赤嶺は高嶋の左肩に頭を預けていたようだ。

 

「そんな簡単に死ぬなんて言ったらだめだよ」

 

 そう戒めるように言われ、つい視線を逸らしてしまった。

 しかしそんな赤嶺の顎を高嶋はくい、と指で持ち上げて逃げ場を無くした。

 

「逃げないで」

 

 熱のこもった朱色の瞳に吸い込まれる。

 

「私たちの世界に帰ることは確かに逃げだよ。でも、今ここで殺されるのも逃げだと思う。そもそもこの人の言っていることが嘘かもしれない。もし本当だったとしても、ちゃんと謝ろう。許してくれなくても、ちゃんと誠意を見せようよ」

 

「――――」

 

 怖い、と思った。

 犬吠埼風に向き合うのが怖い。

 風は覚悟さえ決めれば、人殺しをしてしまうかもしれない人間だ。それに、大赦を本気で潰そうとさえしたことがあるという。

 風の在り方は鏑矢に向いてはいないが、赤嶺より冷徹な側面がある。

 征矢の追撃は来ない。また距離を詰めようとさえしない。

 

「赤嶺友奈は死を望んでいる。なら、余計な手出しをするべきではないと思うが?」

 

「そんなの関係ない。私は赤嶺ちゃんに死んでほしくないから助けただけ。――そう簡単に人間は死んだらだめなの」

 

 西暦で生きていたからこそ言える、説得力のある言葉。

 高嶋の鋭い眼力に貫かれるが、それでも征矢は食い下がる。

 

「数えられないほど人を殺して回った私にそんなことを説くのは無駄なこと。それに『自分』に殺されるのだ。まだマシな死に方だろうさ」

 

「自分……?」

 

「そうか。お前はまだ知らなかったのだな。私の旧名は赤嶺友奈だ」

 

「え――?」

 

 高嶋は胸元の赤嶺を見下ろす。

 そして征矢を見る。

 面影はまるで感じられない。精巧に造られたロボットのような感情のない言動。闇落ちとも言える成れ果てた姿。どうしてこの時代まで生きているのかという至極まっとうな疑問なんてものは二の次だった。

 

「どうして、自分を殺そうとするの?」

 

「確かにそいつは私だが、異世界の私だ。別に特別な情を抱く必要はない。もう、なくなった」

 

「?」

 

 首を傾げる高嶋を尻目に、赤嶺がよろよろと立ち上がる。ベッドの骨を震える腕を伸ばして掴み、自立する。

 大きく、大きく肩を上げて深呼吸をする。そしてふうう、と空気を吐き出すと、蟻のような速度で征矢に向けて歩き始めた。

 また殺されに行くのかと高嶋は反射的に止めに入りうとしたが、不意にこちらを振り向いた赤嶺のなんとも言えぬ力強い目を見て、思いとどまった。

 一歩、二歩と進み、征矢の目と鼻の先に立つ。

 征矢からの攻撃はなかった。微動だにせず到達を待っていたのだ。

 数秒間見つめ合った後、赤嶺はゆっくりと口を開いた。

 

「ごめんね、こんな私で」

 

 謝罪だった。

 

「…………」

 

「子供に闇を背負うのは無理って、あなたはこの前言ってたよね? だからレンちを殺して、シズ先輩も殺したんだよね?」

 

 赤嶺の知らない歴史。いずれ歩むかもしれない未来。しかしその道を歩み、極点に至ったのは赤嶺友奈……自分自身であり、征矢なのだ。

 胸に込み上げるこの感情はなんだろう。頭の足りない赤嶺にはこれを言葉にすることができなかった。

 

「…………」

 

「生きるって、なんだろうね? あなたは考えたことある?」

 

「いや、ない」

 

 清々しい否定。

 

「そうだよね。だって私が今までそうだったもん。それでも私なりに考えてみたんだけど……」

 

 ヤマアラシの棘に触れるような精細さで指を伸ばす。

 抵抗はない。そのままゆっくりと腕を上に伸ばし、征矢の頭頂部に触れた。

 あまり手入れされていないのか、赤嶺より短く切り揃えられた短髪は少し硬い。そして……血の匂い。

 本当に征矢はたくさんの人々を殺してきたのだろう。四国の安寧を害する人々を、神樹の慈悲を与えるか否かすら経由せず、殺した。

 それに……なんだか少しだけ甘酸っぱい。熟れたザクロのようだ。

 そっと髪から手を退け、半歩引く。

 バイザーの裏に隠れている瞳をしっかりと見据えながら、赤嶺は続きを口にした。

 

「やっぱり、わからないや!」

 

 そう、いっそ清々しいまでに強く笑ってみせた。

 

「わからないのか」

 

「うん、わからない! とりあえず生きてさえいれば、良い事は絶対にいっぱいある! 悲しいことも辛いこともたくさんあるだろうけどね。正直なところ、生きる理由とかそんな哲学っぽいこと、皆そんなに考えてないでしょ。まあ考える人もいるだろうけどさ。少なくとも私はそういう人間ではないと思う、うん」

 

 きっとこれからも生きるという永遠の命題は付き纏うだろう。

 鏑矢は人殺しを主にしてはいないが、許容はしている。静はないが、赤嶺と蓮華はすでにその経験がある。

 人の命を断つとは、耳元で飛ぶ蚊を殺すことよりもずっと深い業を背負わされることになる。

 その人にいるかもしれない家族の心をも殺しているのだ。

 その度に生と死について考えさせられる。

 初めて人を殺した時は、頬についた飛び血がどれだけ洗っても取れない錯覚に陥ったのを覚えている。タワシで皮膚が抉れるほど擦り、静と蓮華に止められた。

 血が顎を伝う自分の姿を鏡で見て、生の実感を得た。別段そこから血に酔う殺人鬼になったわけではない。きちんと己を律し、心のケアをして平常運転に戻った。

 

「――だから。私はやるべきことをやる。高嶋ちゃんに怒られて目が覚めたお馬鹿さんだけど、これは私の意志。ちゃんと向き合う。私の罪と。許してもらえなくても風さんに謝って、そして結城ちゃんを探し出す。その後で帰る。それならいい?」

 

「ダメだ」

 

 そう簡単に許してくれるはずがないことくらい、わかりきっていた。

 征矢に再び殺意のスイッチが入る。本能と理性が同時に大音量で警鐘を鳴らし、つい反射的に距離を取りそうになったが、それをぐっと堪えて負けじと睨みつける。

 ここで怖気づいてはならない。背を向けてはならない。

 すると征矢は口を開いた。

 

「しかし……理由を聞こう。なぜだ? なぜ逃げない? 逃げてもいいのだぞ? 高嶋友奈はああ言ったが、お前たちもまた異世界人同士。無視すればいいというのに」

 

「もちろん逃げたいに決まってるよ。どこまでも逃げて、楽になりたい。でもそれじゃだめなの。一生その後悔を引きずることになる。頭から離れなくなる。呪いになって、私の背中に張り付く。……すべてがすべて、都合良く事が進まないことなんて私も嫌というほど知ってる。だからこそ、何もせずに後悔するより、何かをして後悔するほうが遥かに良いって、私は思うよ」

 

「――――」

 

 僅かに息を呑む音が聞こえた。

 

「これじゃあ、だめ?」

 

 そう尋ねてからたっぷり一分ほどしたあと、征矢は乾いた唇を舌で濡らした。

 

「……そうか。そうか。お前は、私なんかよりずっと強いんだな……」

 

「?」

 

「……いや、なんでもない」

 

 頭を振った征矢は表情――バイザーで隠れているから口元だけだが――を改めた。肩を脱力させ、大きく深呼吸する。

 そして、

 

「お前を、信じていいのか?」

 

 と掠れ声で尋ねてきた。

 嫌味ったらしい、常に上から目線、絶対零度といったこれまでの赤嶺への態度とは一変した問い。

 戦いに勝ち、こちらを見下ろしながら言葉を投げかけた時と非常によく似ていた。

 ここで返答を誤ってはならない。そんな漠然とした直感。

 敵だというのに、こんなことを言っていいのか? という疑問はあるが、そんなものを気にする必要はない。

 なぜなら、ふたりは同じ赤嶺友奈。

 だから、無駄な遠慮など不要。

 

「私を、信じろ」

 

 そう、力強く命令口調で告げた。

 開かれた窓から風が流れ込み、赤嶺と征矢の髪を激しく靡かせる。

 

「……はは、ははははは!!」

 

 笑ったのは征矢だった。

 馬鹿にするような嗤いではなく、心の底から面白おかしく笑う、少女のような。

 

「な、なんで笑うのさ……」

 

「いや、いや。面白いなあと思ってな。私って、こんなに愚かで、馬鹿で、浅ましくて――真っ直ぐなんだなって」

 

「…………」

 

「ははっ」

 

 後ろ頭に手を回してぽりぽりとかいた征矢は背後の光輪を回転させた。そして現れたのは武器ではなく、二台の、何の飾り気のない黒色のスマホだった。

 そのうちの一台を赤嶺に差し出す。

 

「これは……?」

 

「お前たち用の勇者システムだ。この時代に合わせてアプデされている。お前たちは予想しないイレギュラーだが……あの男、どれだけワーカーホリックなんだ?」

 

 もう一台は高嶋に投げ渡され、なんとかキャッチする。

 

「いいか? これは一度しか使ってはいけない。神樹とのパスを強引に繋いだものだから、感知されたらすぐに断たれる。ここぞという時だけ使って変身しろ」

 

「私はともかく、どうして高嶋ちゃんの分まで……?」

 

「時が来たからだ」

 

「時……?」

 

 なにやら中二臭いフレーズだが、いたって真剣な征矢の態度を見て表情を強張らせる。

 

「間もなくターニングポイントが訪れる。寿命の近い神樹を確実に滅ぼそうと、天の神がじきじきに降臨する。人には、進化するか、絶滅するか、生き残るかの三つの結末が用意されている。大赦も必死だ。そんな今だからこそ、あの男は明日にでも行動に出る」

 

「……私たちはそこまで付き合う必要は一応ない、よね?」

 

「もちろんだ。犬吠埼風に謝り、結城友奈を連れてこればもうこの世界に用はない」

 

 すでに歴史に大きく介入したのだ、今更というのもあるが、そればかりは憚られる。

 それほど重要な戦いになるのなら、赤嶺と高嶋は参加するべきではない。早々に帰還すべきだ。これはやるべきことではない。

 しかし、やりたい、助けになりたいという想いはある。

 幸い、ふたりの行動を邪魔する敵は、こうして味方……と言っていいかはわからないが、少なくとも敵意を向けられることはなくなった。

 

「でも付き合うよ、最後まで。だってもう、結城ちゃんたちとは友達になったんだもん。助けるのは当然のことでしょ?」

 

「わかった。そうするといい。私は、今ここでお前たちを害さないと約束しよう。そして、結城友奈は私が必ず連れ戻してやる」

 

 征矢の口ぶりはまるで友奈の居場所を知っているかのようだった。

 もしかして、人質として征矢が友奈を攫っていた? と疑問が浮かぶが、「お前の今考えているのは間違っているぞ」と言われ、大人しく思考を振り払った。

 

「じゃあ、結城ちゃんはどこにいるの?」

 

 そう問うたのは、念の為警戒を維持したままの高嶋だ。

 大鎌を握り、距離は開いているものの、一瞬で詰められるぞと半身になって暗に示す。

 

「言ったらお前たち、そこに行こうとするだろう。だから言わない。結城友奈なしに次の戦いに人間の勝利はない。それに……もしも……もしもだが、破し――」

 

 そこから先を征矢が口にすることはなかった。

 突然、外から豪快に窓を割ってふたつの人影が飛び込んできたのだ。

 この病室は三階にある。一階ならわかるが、そう簡単に入ってこれるはずがない。征矢は身体強化されているからできたのだ。

 ……ということは。

 

「はああああッ!!」

 

 ガラスの破片が舞う中、ソプラノ声の雄叫びとともに槍による鋭い突きが征矢に向けて放たれる。それを、一瞬で出現させた旋刃盤を盾として防ぐ。

 槍の穂先と接触し、ガギイィン! と甲高い音を爆発させる。さらに追撃とばかりに放たれた乱れ突きをも、今度はさらにもうひとつ、両手の旋刃盤で防ぎきる。

 だが狭い病室はただでは済まなかったようだ。

 床や天井が激しい攻防のせいで鋭い傷が何本も走り、蛍光灯のランプが割れて電気が爆ぜる。

 そして不意に赤嶺の身体を誰かが抱きかかえ、高嶋と一緒に部屋の隅へと追いやった。

 ふたりを遠ざけたのは、勇者姿の東郷だった。

 

「ふたりは傷つけさせない!」

 

 そう高々と吼えたのは、同じく勇者姿の園子だ。征矢を睨みつけ、槍を向けたまま躙りよる。

 

「今すぐ消えて。二対一だから私達の方が有利だよ」

 

 病室は超閉鎖空間だ。

 赤嶺と高嶋のふたり用だから多少広さはあるが、それでもステップを二回踏むだけで端から端まで届いてしまう。

 ここでの戦闘はあまりに不向きだ。始めてしまえば病室は数秒で破壊され、さらには一般の怪我人が発生してしまうかもしれない。

 それだけは征矢も避けたいと考えている。

 あくまで大赦、ひいては神樹に属する存在だから人を庇護する立場でなくてはならない。単純な戦力ならば拮抗することはおそらく可能。

 さらに征矢は暗部だ。そう簡単に人目に触れてはならない。これは鏑矢の時から変わらないルールだ。

 

「…………まあ、この辺りでいいだろう」

 

 そう呟いた征矢は肩の力を抜き、旋刃盤を消した。とりあえず矛を収めた……と考えるべきだが、園子の敵意がまだ消え去ることはない。

 力強く睨まれた征矢はちらりと赤嶺と高嶋に目配せをしたあと、園子に背中を向ける。

 数歩だけ歩き、何かを言い残そうとしたのか、ぴくりと身体を震わせて動きを止める。しかし振り向くことはなかった。床に散らばったガラス片を踏み鳴らしながら進み、ついに割れた窓から外へと飛び出した。

 園子はその後を追うことはなく、窓際まで行って、征矢の姿が完全に見えなくなるまで変身を解かなかった。

 

「ふたりとも大丈夫?」

 

 手を差し伸べた東郷は心配そうに尋ねる。

 

「う、うん。大丈夫だよ。助けに来てくれてありがとう。でも、なんで?」

 

 東郷たちは良心で助けに来てくれたのだ。ここは素直に言っておくべきだろうと赤嶺は判断した。

 しかし不思議だ。

 結局ナースコールを押せなかったのに、どうしてふたりは征矢が襲ってきたことを知覚できたのだろうか。

 

「ああ、それはそのっちの精霊をこの部屋に忍ばせていたのよ」

 

「その通りだよ〜。変に動いて発見されないように、監視しかできないんだけど……満開ゲージの回復も少し遅くなっちゃうし。急いで来たんよ〜」

 

「そうだったんだ……全然知らなかったよ」

 

 すると今まで姿を消していたであろう精霊が一体、高嶋のすぐ脇下から現れる。

「わあっ⁉」と飛び跳ねる高嶋を尻目に精霊はふよふよと浮かび上がり、園子に受け止められた。

 

「監視に特化したのはこの子だけ。ゆーゆに何らかの害を加える人なんていないと思ってたから、監視をつけることは考えてなかったよ……。もしそうしていれば、変わってたのかな……」

 

 悔しがる園子はグッと握りこぶしを作る。

 

「決めつけなのはわかってるんだけど、やっぱり大赦じゃないかって思ってわっしーともう一度乗り込んだんだ。でもやっぱり本当に知らないみたいだった」

 

 高嶋が赤嶺に目配せをする。

 園子と東郷は征矢を敵視している。

 とはいってもふたりも征矢と和解したのはつい数分前の出来事だ。だから友奈を連れ戻すという言葉に対して信憑性が薄いと指摘されるのは当然だろう。

 だがどうだ。

 これほど辛そうな顔をしている友達……仲間の力になりたいと思わないわけがない。

 気休めにしかならないかもしれないが、希望は与えるべきだろう。それに縋りすぎないようにほどほどに、ではあるが。

 果たして、何が征矢の心境をあそこまで変化させたのだろうか。『絶対殺す』を剥き出しにした初対面だったことはよく覚えている。

 二〇〇年以上という途方もない年月を、四国のために戦い抜いた。肉体が衰えることはなく、しかし心は摩耗し尽くした『赤嶺』は何を考えたのだろう。想ったのだろう。

 人の心は壊れ、腐り、朽ちたと思っていた。しかしそれは違った。

 信じていいのかと訊かれた時、間違いなく征矢の機微に触れた気がした。

 征矢は何か赤嶺に期待しているのではないだろうか? あの冷たい金属質なバイザーの裏で、何を見極めたのだろうか?

 ……それは、次に会った時に確かめればいい。

 割れて大きく口を開いた窓から、冷たい風が流れ込んでくる。病衣は比較的薄着だから肌寒さを感じつつも、右の拳を胸の上に乗せながら赤嶺は話し始めた。

 

「あのね、征矢のことなんだけど……」

 

 この熱烈な想いが、きっとふたりに信じてもらえると信じて。

 

 ◆

 

 翌日、赤嶺と高嶋の病室は言わずもがな変更されることになった。

 以前と同じ、ふたりでひとつの部屋。そしてふたりの傷は、激しい運動さえしなければ動き回ることは許されるまでに回復した。

 高嶋は「勇者は根性! だからね!」と言ったが、赤嶺の「私は勇者じゃないんだけどね……」というコメントに対して「じゃあ赤嶺ちゃんも勇者だよ!」とよくわからない判定を受けた。

 すでに東郷と園子とは情報の共有を済ませているが、夏凛と風はまだだ。昨日はもう遅かったから伝えることができなかったが、一応グループで招集はかけたため、新しくなった病室に来るはずだ。既読数は友奈を除いて全員分がついている。すでに風を除いて全員が揃っているが、果たして風は来るのだろうか。夏凛曰く、絶対来るとのこと。夏凛もまた皆の知らないところで頑張っていたのだ。

 高嶋が入手した大葉刈は折りたたみ式になっているものの、外見があまりに危険すぎるため布袋に包まれている。

 ヒーターの低い唸り音。そして、ベッドサイドに置かれた芳香剤からはラベンダーの香りが漂う。

 それを音が聞こえるくらい大きく鼻で吸った園子は、表情を崩しながら感嘆する。

 

「あ〜」

 

 昨日の覇気迫る言動とは対極の朗らかさに高嶋は苦笑しつつ、左手を開閉させる。

 酒呑童子の力を身に宿して戦った際、巨大化した手甲の内側で血肉がぐちゃぐちゃになっていく感覚はあった。

 さすがは三大妖怪のひとつ。フィードバックは想像を絶するものだった。その結果が薬指の損失。残っている四本の指はなんとか原型を保てているレベルで、物を掴むことすら難しい。

 赤嶺の首を落とそうとした征矢の振り下ろしを防げたのは奇跡と言っていいだろう。

 錆びついたロボットのような鈍い動きで拳を開閉させ、さっと頭を持ち上げる。

 するといつの間にか東郷がその様子を見ていたようだ。少し申し訳なさそうな顔をした後、ぽつりと呟く。

 

「ごめんなさいね、そんなことになってしまって」

 

「まあ……不自由ではあるけど、帰ればなかったことになるから大丈夫だよ」

 

 征矢の言葉は信用してもいい……だろう。

 帰還するのは、恐らく皆でうどんを啜っている瞬間のはずだ。それが突然高嶋の片腕がなくなれば、大騒ぎになることは間違いない。

 赤嶺だってそうだ。

 

「それに、昨日言ったけど、あの戦いは私達が原因なんだからそこまで気に病む必要はないよ。むしろ私達がみんなに謝らないといけないのに」

 

 すでに情報は共有されていて、樹が死んだこと、友奈が行方不明であることが事実と理解している。また東郷たちには征矢が鏑矢の次世代であり、赤嶺友奈本人であることが共有されている。

 

「風は……ダメね。やっぱり来ないか」

 

 ドア横に立ち、指先で腕を突いて待っていた夏凛は痺れを切らしたのか、そう言い放つとぱっと向きを変えてドアから離れた。

 同時に強い煮干しの匂いが近寄り、赤嶺は一瞬だけ口をすぼめた。

 夏凛、どれだけ煮干し食べて来たの⁉ と思わず聞きそうになったが、そこまでふざけることができそうにない空気に変わり、押し黙る。

 

「じゃあそろそろ始めましょうか。風がいなくてもやることは変わらないわ。友奈を見つけ出し、その後神婚とかいうふざけた儀式をやめさせることが最優先。征矢が友奈を連れ戻すって言ってるけど、一応私達の方でも友奈を探す。いいわね?」

 

 普段とはまるで違った風格を醸し出しながら仕切り始める夏凛に一同は頷く。まるでリーダーである風の人格が乗り移ったような滑らかな声に、誰も夏凛が仕切ることに異議を申し立てることはなかった。

 

「大赦にはいないし、かといって壁の外にもいない……正直もうお手上げだわ。でも、この四国にいることは確実よ。それに……身なりも結構目立つから、人の目に触れたら記憶に残るはずよ」

 

「それは確かに考えたけど、聞き込みをするにも人手が足りないよ」

 

 冷静に現実的な否定をする園子に対し、夏凛は頼もしげに鼻で笑った。

 

「人手が足りないなら、増やせばいいのよ」

 

「?」

 

「珍しく頭が回らないわね、園子。私たちは勇者部! 人のためになることを勇んでする部活! あるじゃない。私たちが長い時間をかけてたくさん振りまいてきた恩が」

 

「――! そっか!」

 

 顔を跳ね上げて目を見開いた園子は、夏凛言わんとしていることが理解できたようだ。

 勇者部は勇者としてバーテックスから世界を守る御役目を担っているが、それは別側面の話。本来はボランティア活動を主軸に置いた部活だ。

 その中で、たくさんの人々と触れ合い、手伝いをした。「ありがとう」を言われた数なんて星の数ほど!

 

「今こそ、その恩を返してもらう時よ」

 

 差し出がましいお願いになるかもしれないが、大半の人は応じてくれるだろう。自意識過剰気味ではあるが、それなりに良好な関係は築けていると思っているからこそできること。

 猫の手……は借りられないが、同じ人間の手ならいくらでも借りられる。これなら捜索する効率はぐんと上がり、その分だけ神婚を防ぐ手立てを考える余裕が生まれる。

 身近に助けてくれる人がいたというのに、どうしてそのことを失念していたのだろう。短絡的な思考に陥っていた園子は自身を戒めた。

 

「じゃあ方針はそんな感じでいいかしら? 東郷はチラシを作って、そんで私たちが配りまくる。それに意味がなかったとしても、これが耳に届いた友奈がひょっこり帰ってくるかもしれないし」

 

 そうだ、希望は必ずある。

 樹はもういない。でも、友奈はまだ確実に生きている。征矢も友奈の居場所は知っているようだからそう信じていいはずだ。

 そして――。

 

「…………」

 

 高嶋の視線に気づいた赤嶺はこくりと頷いた。

 できれば風がいる時に話したかったが、塞ぎ込んでいるのなら仕方ない。怪我が完治してから――とはいっても明日にも退院できるだろう――また改めて風の家を訪ねればいい。

 説明の機会は、今が最もベストなタイミングだ。

 どんな罵倒も受け入れる心の準備は、三人が来る前に済ませている。

 罪と向き合うのだ。無自覚な罪ではあっても、赤嶺が原因であることは違いない。その当たり前の事実から目を背けてはならない。

 大きく息を吸い込んだ赤嶺。汗を滲ませた手でぎゅっとシーツを握りつつ、懺悔を始めようとした、まさにその時。

 

「えっ⁉」

 

 と東郷が驚愕の声を上げた。

 早速チラシを作るためにレイアウトを決めようとしたのか、スマホを見ながらただ事ではない様子で画面に見入る。

 

「どうしたのよ東郷」

 

 夏凛の声に肩を跳ね上げた東郷は、ゆっくりと画面をこちらに向けてきた。

 画面にはネットニュースが流れていて、見出しには大赦関連の一文がこれまた大きく書かれている。

 細かい文字などは距離が離れているから目を凝らさないとよく見えないが、そこではないと東郷は下へとスワイプさせ、記載されているリンクをタップした。

 すると何かの情報が乱雑に散りばめられているサイトへと飛んだ。そしてそこにはあり得ないものが雪崩のように記載されていた。

 さらにタイトルにリンク付けがされていて、さらに別のサイトに飛べる仕組みになっているようだ。

 しかもそのタイトルがあまりに危険極まりないもので、園子ですら動揺せずにはいられなかった。

 

『壁の外の真実』

『天の神』

『勇者』

『精霊』

『大赦の神官至上主義』

『初代勇者』

『郡千景』

『徹底された隠蔽』

『勇者御記』

『満開と散華』

『切り札』

『バーテックス』

 

 これらはほんの一例だ。

 どれだけ下にスワイプしても最下部に到達しないほど圧倒的な情報量。

 これらは明らかに一般人の知らない……いや、知ってはならない知識だ。誰かのいたずらとも考えられるが、これほど正確なタイトルをつけるのはいたずらレベルでは到底不可能だ。

 試しにそのうちのひとつをタップするが、すでにリンクが切れているのか、もしくは消されたのかはわからないが飛ぶことができない。代わりに別のものをと試すと今度は飛ぶことができた。

 そこに記載されていた情報は紛れもなく真実で、おいそれと一般人に公開してはならない情報であることは明白だった。

 

「――――」

 

 ……絶句。

 これは明らかに削除対象とされる情報だ。

 だが、この圧倒的な情報量! すでに大赦は削除すべく動き出しているようだが、まるで間に合っていない!

 質はまちまちなものもあるが、量で殴っているようなこの暴露サイトはとんでもない事件を引き起こそうとしている。……などと考えている間に次々にリンクが断たれてゆく。元サイトが消されるのも時間の問題だろう。

 これが一時の波乱になるとは考えられない。すでにネットニュースにまでなっているのだ。東郷以上にネットに詳しい者たちはすでにすべての情報を保管し、独自の方法で公開なりするだろう。それらはまた誰かの目に触れ、ピラミッド構造のように拡散される。

 園子はあまりの策士っぷりに舌を巻く。

 誰がやったのかはわからないが、ネットに蔓延る有象無象の情報、その本質は質ではない。量だ。すべてが目に入らずとも、大多数が人々の記憶に残すことができればそれが勝利だ。

 自分のスマホで確認すると、やはりというべきか、SNSや動画投稿サイトで早速拡散されている。

 大赦の局所的なネットの支配力を、大局のネット民の拡散力が上回ったのだ。

 そしてがららら、とスライドドアが開かれる。

 全員が頭を横に振れば、その側には風が立っていた。

 昨日夏凛と言い合いをした時のボサボサの格好がまるで幻だったような可憐な佇まい。しかもそれだけではない。その横には男……白い装束に身を包む男もいた。特徴的な仮面を被っていて、風よりひと回りもふた回りも大きい体格だ。

 大赦関係者だ。

 

「ごめん、皆。遅くなったわ」

 

 と、風は手をひらひらと振った。

 赤嶺の心臓がどくんと強く脈打つ。全身の汗が一瞬にしてどこかへ吹き飛んだのを知覚した。

 僅かに口角を上げた夏凛は、やれやれと肩をすくめながら言った。

 

「……遅いわよ、風。それでその人は?」

 

「ああ、この人はなんか夏凛に用があるらしいから途中から一緒に来たの」

 

 今どき、何の用で?

 大赦関係者ならば今ネットで起こっている大規模なテロともいうべき事件を知っているはずだ。いや、公開されたのがついさっきくらいのはずだから、まだ知らない……のだろうか? 風はいつもどおりの様子に戻っているが、同じく知っているようには見えない。

 病室に入ってきた風は一度全員を見回したあと、深々と頭を下げた。

 

「ごめんなさい。ひとりで塞ぎ込んで、すごく迷惑をかけてしまったわ。でも、もう大丈夫。まだ完全に受け入れたわけではないけど……これからゆっくり、時間をかけて乗り越えようと思う」 

 

 たっぷり十秒ほどして頭を上げた風は、次に夏凛に身体を向けた。

 

「それと夏凛――ありがとう」

 

 屈託のない純粋な感謝の声をかけられた夏凛は素早くそっぽを向いて口早に言った。

 

「ふ、ふん! まあ? グズグズしてる部長に喝を入れてやるのも部員の役目だし? そ、それよりその人誰よ?」

 

 すると男は無言のまま足を踏み出し、夏凛の前に立つ。放たれる圧に多少身じろぎするが、負けじと睨み上げる。

 男が腕を上に持ち上げ、仮面に触れた。そして外す。現れた顔を見て、夏凛は鋭く息を呑んだ。 

 

「兄、貴……」

 

「久しぶりだな、夏凛」

 

 数ヶ月前、満開について問ただそうと家に呼んだとき以来の再開だ。

 だがなんだか……様子が違う。まず第一に身体付きが目に見えて変わっている。屈強な肉体が装束を着ていても強く主張しているし、顔立ちも彫りが深くなり、より男らしさが滲み出ている。

 もし夏凛がこの前と同じように仮面を剥ごうと飛びかかっても軽くいなされそうな気がした。

 いや、いや。

 そもそもなぜこんな時に来たのだ。

 まさか、友奈を発見したのだろうか?

 そんな淡い希望を抱きつつ、それを勘ぐらせないように強気な姿勢で尋ねた。

 

「何しに来たのよ、兄貴」

 

 久しぶりに妹に会えたことが嬉しいのか、男は顔の表情を緩める。それを見て夏凛は磨き抜かれた鏡のような瞳がほんの少し揺れる。

 しかしすぐに顔を改めた男は、何度か黒曜石の瞳を数度瞬かせ、

 

「――時が来たんだ」

 

 と答えた。




天の神の襲来は刻一刻と迫りくる

あと数話くらいで完結するよ。挿絵は4枚ほどを予定

それではまた次回!


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お兄ちゃん

くめゆ買いました。これから読みます

前回のあらすじ
征矢は寝返り、叛逆が始まる


 高嶋と赤嶺は、征矢が同じようなことを言っていたことを思い出した。

『時が来た』と。

 それが何を意味するのかはわからないが、少なくとも大きな転換点であることは間違いなさそうだ。

 

「夏凛以外はオレと初対面だね。自己紹介をしておくよ。オレは三好春信。夏凛の兄だ」

 

 小首を傾げる夏凛から視線を外した男――三好春信はふたりを見た。

 

「君たちはオレとあいつの関係を聞いているよね?」

 

 あいつ、とは征矢のことだろう。

 そう気軽に呼べるということは、春信と征矢には何らかの関わりがあるとみていいだろう。

 しかし言ったは言ったが、それがなにがどういった意味であるかまでは説明を受けていない。互いに顔を見合わせて肩をすくめたのを見た春信は嘆息して片手を額に当てた。

 

「まさかあいつ……説明してないのか?」

 

「されて……ないです。だよね、赤嶺ちゃん?」

 

「うん」

 

「そうか。……まあ、オレが始めたことだからオレが説明するのが道理、か」

 

 そう呟いた春信は外した仮面を夏凛に預ける。

 駄々をこねることなく素直に受け取った夏凛は呆然と兄を見る。

 

「どこから説明したものか……そうだな、オレの大赦での御役目について話そうか」

 

 静かに息を吸った春信は赤嶺と高嶋を一瞥してから続けた。

 

「オレの御役目は征矢の整備や、鍛治師の真似をして武器の作製することだ。……とはいっても基本的に贋作ばかりだけどな。つまるところ、オレは征矢の側付きをしている」

 

「……え、ちょ、ちょっと。どういうことよそれ」

 

 即座に突っかかってきたのは夏凛だ。

 困惑しすぎてさっきまでの凛々しさを失っている。自分を落ち着かせようと呼吸を整えた後、改めて問うた。

 

「どういうことよそれ。っていうことはつまり何? 私たちを苦しめた征矢の手助けをしていたっこと?」

 

「その通りだよ」

 

 瞬間、夏凛は警戒の色を強めた。

 たとえ兄であろうと、敵の助けていたなんて事実は到底許されるはずがない。

 赤嶺と高嶋がどれだけ傷つけられたか、春信はわかっているのだろうか。そう考えると怒りがふつふつとこみ上げてくる。

 ……他人事だ。他人事ではあるものの、それが身内の人間が加担していたなんて聞かされては無視できるはずがない。

 キッ、と春信を睨みつけ、敵意の含む声色で尋ねた。

 

「……じゃあ、兄貴は私達の敵なの?」

 

 水を打ったように場の空気が静まり返る。

 自然と園子たちもスイッチを警戒モードに切り替えた。そして瞬時に現状の理解と、敵対が確定したときのシミューレションを始める。

 体格では遥かに勝っていて、さらに単純な筋力でも上なのは明白。

 しかし変身さえすれば無力化することは容易いだろう。

 神官だから戦闘力は低いと見るべきだが、なにせ征矢の味方をしていたのだ、何らかの方法で肉体をさらに強化している、なんてことがありえるかもしれない。

 春信も女子中学生……勇者たちの疑惑の視線に気づかないはずもなく、宥めるように言った。

 

「前はどちらでもなかった。でも、今は味方だよ」

 

「どういうことよ、いまいち曖昧ね」

 

「もうオレは大赦から抜ける……いやもう抜けたんだ」

 

「は……?」

 

 そしてなんの前触れもなく投下された爆弾は、夏凛を含め、一同を驚愕させた。

 

「今ネットを騒がせているあろう暴露はついさっき、オレがやった。もう拡散の勢いは止まらないだろう。大赦への非難は避けられず、窮地に立たされることになるはずだ」

 

 そう語る春信の目には、言葉にし難い確固たる決意の炎が宿っていた。

 狂気に落ちたゆえの行動ではないようではあるが、今告白したのは紛れもない情報漏洩で、大赦の中でもトップシークレットに属する情報たちだ。しかも大赦の前身である大社の頃の、さらに検閲前の記録もその中には含まれていた。どうやってそんな大昔のものを入手したのかという強い疑問を東郷は問いたださずにはいられなかったが、訊いても無駄、もしくは無意味であると悟った。

 そんなもの、想像を絶する方法以外、何があるのというのか。

 そう。

 つまり、訊くことすら恐れ多いことなのだ。他人の死に物狂いの努力にずかずかと踏み入るのは失礼極まりない。

 だから、東郷が震え声で訊けたのは、

 

「それでは大赦の存続が危うくなるのではないですか……?」

 

 という当然の結論だった。

 もう火消しなどといった対応では防ぎきれないフェイズに至っている。メディアでは夕方にはこれらの情報をもとに特集を組むことは間違いない。そうなれば公開時にネットを見ていなかった人々も気軽にその存在を知ることとなる。

 そうなればさらに大赦の肩身が狭くなる。

 

「危うくなるどころじゃないよ。ほぼ間違いなく大赦は潰れる。もうカウントダウンに入っているよ」

 

「――――」

 

 端的に言い放った宣告に絶句したのは、他でもない風だった。

 一度大赦を潰そうとした風は、結局直前に踏みとどまった。しかし春信は最後までやってみせた。仕込みにどれだけ時間を費やしたのかはわからないが、計画を実行して、こんなにすぐに達成することができた。

 尊敬や畏敬の念とは違った、畏怖のこもった視線を風は向ける。

 

「どうして、そんなことをしたんですか?」

 

 風の原動力は樹の不遇に対する怒りだった。しかし春信はとても怒っているようには見えない。

 そんな感情に走った行動ではないことは明らか。

 窓越しのからっとした冬空を見上げ、短い沈黙の後にただ一言のもとに言い切る。

 

「……人が真に神の下から離れるためだ」

 

「神って……神樹様からですか?」

 

「いいや、違う。神といっても何も神樹様だけじゃない。天の神だって神だ」

 

「そんな……でも、どうやって……?」

 

 神の元から離れる。

 言葉で言うのは容易いが、そう簡単に……いや、不可能に近い。

 まずは神樹の庇護から脱しなければならない。四国は神樹という超巨大な樹木の内部に存在し、外界から守られているのだ。そのような技術をまず現時点で人類は有していない。

 さらに、もし……もしその問題が解決すれば、次に立ちはだかるのは天の神だ。西暦では神樹の力では歯が立たずに敗北したというのに、それを上回る力を得ることができるのだろうか。

 

「わからない」

 

 わかりきっていた答えだった。

 しかしすぐさま春信は改める。

 

「言い方が悪かったね。今の人類にはわからない、が正しい答えだ」

 

 つまり今の人間には不可能であることをあっさりと認めた上で、今ではない、遥か未来にこの問題を託す……悪い言い方をすれば丸投げしてしまおうということか。

 しかしそうなれば春信が大赦を潰すべく情報漏洩を故意に引き起こしたのとはどうも風の中では結びつかない。

 が、園子と赤嶺はその真意に気づいたようだ。ふたりはすう、と目を細める。

 

「わかったの乃木?」

 

「まあ……はい。たぶんわかりました。でも私からじゃなくて、直接聞いたほうがいいと思います」

 

 この場で理解が追いつかないのは風と夏凛、東郷、そして高嶋だ。

 

「うん、オレが話すよ。まずはそうだね……オレが言った、『神の下を離れる』ためには、大赦は邪魔なんだ」

 

「邪魔って……大赦は皆の為に色々なことを頑張ってくれています! その言い方は、ちょっと良くない気がします……!」

 

 真っ先に春信の言葉を否定したのは高嶋だった。そう言われると想定していたのだろう、春信は素早く返す。

 

「高嶋様……初代勇者様はそう思われるかもしれない。でも、夏凛たちは違う。そうだろう?」

 

 話を振られた夏凛は難しそうな顔をして明後日の方を向く。

 満開。散華。

 これらの非道さをひた隠しにされた苦しみは計り知れないものだった。

 そんな夏凛を見て、高嶋は押し黙ってしまう。

 

「高嶋様の時代はまだマシだったのかもしれない。でも、今の大赦は在り方が歪だ。それは夏凛たちが身をもって知ったはず。……次に赤嶺様。あなたの御役目はどういうものだったかな?」

 

「四国の平和と安寧を揺るがす驚異を排除すること、です」

 

「もっと具体的に」

 

「……テロ、そして神樹様と同じステージに立つ足がけになるかもしれない技術革新を防ぐこと」

 

「その根底にあるものは?」

 

 深堀りを重ねられた赤嶺は微かに眉を動かす。

 

「……神を脅かさないこと」

 

「その通り」

 

 春信が深く頷く。

 石碑の前で老若葉の言っていたことが、どうやら正解だったようだ。

 

「大赦は狂信的に神樹を崇めている。おふたりはおわかりかと思うけど、神世紀が開始して三百年、多少の進歩はあれど、目に見えた技術革新は起きていない。――わかるかい? 三百年という年月は、西暦で言うと蒸気機関から電気への移行――人類にとって大きな進化に匹敵する。それが、大赦によって抑圧されたんだ」

 

 まず初めの時間遡行は七十年だった。丸亀城に現れ、赤嶺はジャンプ直後の車酔いに似た感覚に陥り、気分を悪くして吐いてしまった。

 口をゆすぐためにトイレに連れて行ってもらった時、確かに違和感がなかったという違和感(・・・・・・・・・・・・・・)があった。七十年という月日なんてまるで嘘のような普通のトイレだった。

 とはいってもトイレが進化なんてのは大げさだと思ってその時は重く受け止めていなかったが、神世紀三百年に飛んで、ようやく気付かされた。

 この時代の生活水準が、赤嶺の当たり前(・・・・)と何も変わらないことに。

 

「…………」

 

 赤嶺が固く口を閉ざす。

 春信の言う技術革新。それを防ぐことが赤嶺の御役目なのだ。第二世代で鏑矢は終わり、以降は征矢が肩代わりしていた。

 

「神樹様の下になんてものは建前で、オレたちは神に飼われる愛玩動物でしかない。それは果たしていいのか?」

 

 赤嶺には、春信が老若葉の幻影を映した姿のように見えた。

 強い既視感に頭が痛くなる。

 

「だからオレはその象徴である大赦を潰した」

 

「……罪は感じてないのですか?」

 

 訊ねたのは園子だ。

 大赦といえば乃木家。脊髄反射で辿り着く繋がり。そのご子女の目の前でしてみせた豪語。到底見過ごすわけにはいかず、場合によっては報告も視野に入れなければならない。……いや、すで大赦で解析が進められ、犯人は春信であると断定されているかもしれないが。

 数度瞼を瞬かせた園子はじっと春信を見据える。

 

「これが罪であるかどうかは、四国の人間に委ねるよ。もしオレの行いが善なら、二度と再起できないように大赦は根っこから刈り取られ、新しい時代が始まる」

 

「悪だったら?」

 

「大人しくお縄について、ひっそりと罪を償おう。だが。神に翻弄されるのはあなたも忌避したいはずだ。それに結城友奈様の件もある。オレのやることは悪だとお考えかな?」

 

「それ、は……」

 

 そう簡単に答えられる問題ではない。

 天の神のせいで銀が死に、樹も死んだ。

 神という存在は、矮小な人間のあらゆるものを、呆気なく奪っていく。

 乃木家の総意ならば悪と答えるだろうが、園子はすぐに同調できない。

 

「何事にも報いを……それが乃木家の生き様だったね。あなたは、神に報いようとは思わないのか?」

 

「――――」

 

「オレは報いたい。でもオレにはその力がない。だから、遥かな未来、神を討つ――破神(はしん)を為しえる誰かの誕生のために、この生を捧げると決めたんだ」

 

 期待する事象が本当に起こるかどうかするわからない賭け。リリースするのは人生。リターンは自身に返ってくることはない。

 ……破神。

 ……正気の沙汰とは思えない。人はその行動に何らかの見返りを求めるのが基本だ。園子たちの勇者という御役目は秘匿されている。だから見返りはない。そういった観点では確かに春信と変わらないが、相違点は、勇者は一時的なものであることだ。

 並大抵の覚悟では春信のような決断はできない。……そう、とっくの昔に春信は正気ではなくなっているのだ。

 春信は小さく苦笑した。

 

「でもオレの策はまだ完全じゃない。ほぼ八割ほどは決してはいるけど、決定打に欠けている」

 

 そんなはずはないと園子は脳内で即答する。

 春信の策は完璧だ。

 なぜ、今行動に出たのか。

 何をもって『時が来た』と判断したのか。

 もし時が来ていない状態で行動を起こしても、暴露サイトは本来の効力を発揮することはなかったはずだ。

 ネットの全ては大赦に掌握されている。ネット検閲の力は非常に強い。それは大赦が三百年も存続しているのが証拠である。平常時なら瞬く間に暴露サイトは消され、それに気づいた者による二次的な拡散も防がれていただろう。

 しかし今の大赦は平常ではない。

 その原因は間違いなく友奈の失踪だ。

 もし友奈以外だとここまで騒ぎ立てることはないだろう。なにせ神婚に必須の人間だ、友奈を大赦の認識下に置かなければ安心できない。

 大多数を友奈の捜索に当て、足元が不注意になったところを襲う。

 なんともジャストタイミング。

 説明するだけで長い時間を要してしまったようだ。風と一緒に入ってきたのがだいたい四時半だったはずだ。顔を持ち上げて壁際にかけられた時計を確認すると、すでに五時を回っている。

 唇が乾燥したのか、春信は舌で一度湿らせてひとつ咳払いをした。

 

「その決定打として、君たち勇者の力を借りたい。大赦の歪な在り方を説き、四国の皆をこちら側に引き寄せるために……どうか」

 

 そう言って、深々と頭を下げた。

 大赦の人間が頭を下げる場面は園子たちも飽きるほど見てきた。咄嗟に「頭を上げてください」なんていつもなら言ってしまう言葉は誰の口からも出なかった。そうして十数秒が過ぎた頃、春信の妹が口を開いた。

 

「頭を上げなさい」

 

「……ああ」

 

 ゆっくりと頭を上げた春信を待っていたのは、強い平手打ちだった。

 硬い頬への一発は、決して大した威力ではなかった。しかし春信は殴られた頬をそっと擦ると、その端正な容貌をくしゃっ、と歪ませた。

 物理的なダメージより、精神的なダメージの方が大きかったのだろう。

 

「……知ってる? 兄貴の用意した武器が赤嶺の左腕を斬ったのよ?」

 

 夏凛の声は微かに震えている。

 赤嶺の左の肘先に鋭い幻肢痛が走った。

 

「………………知ってる」

 

「兄貴の用意した武器が、高嶋を殺したのよ……?」

 

 高嶋の胸に幻の弾丸が穿たれた。

 次いで頭を撃ち抜かれる。

 

「………………そうだな」

 

「兄貴の造った武器が、私のとても大事な仲間を傷つけた。兄貴が直接やったわけではないことはわかってる。でも、そうなる可能性はわかっていたはずよね? そんなこと、私が喜ぶはずがないって、わかってたわよね?」

 

「すべて、承知の上だ」

 

「っ!」

 

 全身の毛を逆立たせた夏凛は、自身の頭の高さくらいの兄の胸ぐらを掴み、引き寄せようとした。

 しかし。

 

「――――」

 

 ビクともしない。

 以前取っ組み合った時は、こちらの力がある程度通用していた。だが、今はまるで力が足りない。数度試しても、屈強な身体を一ミリとも動かすことができなかった。

 潔く諦めた夏凛は、鉛を吐き出すように言った。

 

「……私の知らないところで、いっぱい頑張ったのね。こんなに身体、強くなっちゃってさ」

 

「ああ」

 

「身近な私を守るために大赦に入ったんじゃなかったの……?」

 

 春信が家をあとにする前、当時の幼い夏凛に語りかけた言葉を思い起こす。

 

「そうだよ。今もオレは夏凛を大切に思っている。でも本当は勇者になってほしくなかった。裏で工作して候補から外そうとしたこともあった。……でもできなかった。あの時の夏凛は、勇者に選ばれることこそが、生きる理由だったのだから」

 

 春信に指摘され、夏凛はすぐに反論することができなかった。

 事実、当時の夏凛は勇者に選ばれることが生きる目的と化していた。そのために泥臭く努力をした。

 そして掴み取った名誉ある御役目。

 ……なぜ勇者を目指したのか?

 それは、兄への反骨心だ。四国を牛耳る大赦に就職した出来のいい兄と比べられながら育った夏凛は、いつの間にか兄に対して憎しみとは違うものの、妬みに近いものを抱くようになってしまった。

 その中で勇者の素質を見いだされればもう止まれない。家族との確執の果てに、勇者になる道を選んだ。その結果、『勇者』という苦しみを突きつけられた。

 でも後悔はしていない。なぜなら、こんなにも素敵な仲間に出会えたのだから。

 

「なんで、そんなに変わってしまったの?」

 

 刺々しい問いに、やや力のない返事。

 

「そうだな……変わったっていう自覚はあるよ。たくさんのことを知って、思い知らされて、苦しんで、諦めて――オレはそうやって大人になった」

 

「悲しいわね」

 

 妹には兄の言うことを完全には理解できなかった。だから、ゆっくりと咀嚼しながら呟く。

 空虚な穴を抱えて、ぼんやりと生き続ける。そういう選択をしなかっただけでも良かったのかもしれない。

 

「それが生きるってことさ。全員が全員、そうというわけではないけどね。大赦を潰したのは、夏凛たちが二度と苦しめられないようにするためでもあるんだ」

 

 まだ赤みのあった片頬の色はすでに戻っていた。

 きっと春信も、『仕方ない』と踏ん切りをつけて行動していた大人の一人に過ぎないのだ。ただ周りとはベクトルが違って、それが大赦を潰すという結論に至った。

 時計の秒針が時を刻む音だけが、病室を支配する。

 皆、夏凛が次に放つ言葉を首を伸ばして待っている。夏凛の言葉こそが、勇者たちの総意となるのだ。

 代弁者は細く空気を吸った。

 春信は静かにこちらを見上げる彼女を見下ろす。

 

「……兄貴の話には乗らないわ」

 

 拒絶の言葉だった。

 なおも硬い言葉は続く。

 

「私には兄貴も大赦の人間と同じように見える。私たちを道具として扱うような感じ。前から何も変わってないわ」

 

「――――」

 

 この返事を頭の片隅に想定していたのか、春信にそこまで落ち込むような態度は見られなかった。寧ろ逆で、安堵したような……どこか満ち足りたような面持ちだった。

 

「――でも」

 

 喉の奥深くで言の葉が詰まる。夏凛はそれを押し出そうと絞り上げた。

 そんな様子に春信の眉がぴくりと動く。

 

「ありがとう」

 

 そう言うと、優しく微笑みかける。

 

「今はまだ兄貴のことはわかってやれないし、許してもやれない。でも……いつの日か、昔みたいな関係に戻りたいって思ってる」

 

「…………」

 

「兄貴にやらなければならないことがあるように、私たちにもある。それは、どうかわかってほしい」

 

 瞠目した春信は、すぐさま柔和な表情になると、

 

「――ああ、わかったよ」

 

 と言った。

 もうこれ以上話すことはないとばかりに春信は背を向けると、静かにドアへと歩き始める。

 無言で見届けていた夏凛は、取っ手に手を伸ばしたところで叫んだ。

 

「お兄ちゃん!」

 

 ぴたりと足を止めた春信が、ゆっくりと身体を反転させる。

 咄嗟に出た言葉が『兄貴』ではなくなっていたことに気づく。皆の前で言ってしまった恥ずかしさに、夏凛は朱色に頬を染める。しかし両手でぺしぺしと叩いて恥を振り払い、力強く言い放った。

 

「頑張って! 私も、頑張るから……!」

 

 妹の声援に深く、深く頷いた春信は口許を緩めた。

 

「……ありがとう。結城友奈は征矢が必ず連れ戻すから、来たる決戦に備えて英気を養っておくんだよ。それと……どうか死なないでくれ」

 

 願いを込めてそう言い残すと、今度こそ病室から去っていった。

 スライドドアがガララと音を立てて閉まる寸前まで背中を見届けた夏凛は、長い長い吐息をついた。

 僅かに喉を上下させ、短く笑う。

 そしていつも通りのさばさばした口調で言った。

 

「悪いわね、うちの兄貴が色々」

 

「い、いや、別にいいのよ? ほら、兄妹の仲を見せつけられた感はあるけど」

 

 風が歯痒さを前面に押し出しながら返す。まさか連れてきた人が夏凛の兄だとは思わなかったのだろう。

 そこから口論に近いものが発生したことに多少なりの罪悪感を抱いてしまう。

 

「あの……風さん!」

 

 その呼び声は赤嶺から発したものだった。

 声色から、ただの世間話、ということではないと風にも察することができた。もう何を話そうとしているのかすらわかっているのだろう。肩を一度小刻みに震わせた風は、数日前まで自失していたなんて嘘のようなしっかりした態度で赤嶺に向き直った。

 それを見た赤嶺は小麦色の顔に皺を寄せて短く喘ぐ。

 しかし、意を決したのか、鼻で大きく呼吸をして、話を切り出した。

 

「……風さん。樹ちゃんが死んだのは……私がこの時代に来たせいです」

 

「…………」

 

「許されることではないことはわかっています。でも……ごめんなさい」

 

 そうか細い声で言って、頭を下げた。

 それに続いて高嶋も同じ動作をした。

 

「私からも……ごめんなさい」

 

 じっと無言でふたりの謝罪を受け止めた風は、右手を頭の高さまで上げて、そして自分の頬を張った。

 

「「⁉」」

 

 鳴り響いた音に、ふたりはもちろん、東郷たちも驚愕した。

 さらに風はもう一発、反対の頬を張る。

 その行動の意味はまるでわからなかったが、風の中では何らかの結論がついたらしく、「よし!」と威勢よく気合を入れた。

 真っ赤な頬のままふたりのベッドの間に立った風は、母性を感じさせる穏やかな口調で言った。

 

「あんたたちに罪はないわよ。だって別に樹を殺そうとしたわけじゃないんでしょう? それにこの時代に来たのも本当に偶然。なら、どこにも罪なんてない」

 

 それは、許しなどといった話の以前。

 罪の存在を否定する言葉の羅列だった。

 

「……実を言うと、少し前まではあんたたちのこと、憎んでた。あんたたちさえ来なければ……って。たぶんあの時に遭遇したらきっと殺してた。それくらい、憎んでた」

 

 誤魔化すことなく告げられた今は無き殺意に、赤嶺と高嶋は喉を締め付けられるような感覚に陥った。  

 

「いえ……いえ……! 風さんは私を憎んでいいんです! むしろ憎むべきです……!」 

 

 しかし、風はゆっくりと頭を横に振る。

 暖かい声は止まらない。

 

「いいのよ赤嶺。私がいいって言ってんのだから、いいに決まってるでしょ。それに……一時的な感情のせいで人殺しになりたくないからね」

 

 そう言って、胸に右手を押し当てる。

 まるで過去の過ちは繰り返さないという意志の現れに見える。

 

「苦難を乗り越えてこその勇者。そうでしょ?」

 

「そう……ですか」

 

「ええ。あんただって、私から見たら立派な勇者よ。胸を張りなさい」

 

 赤嶺友奈は勇者ではない。

 赤嶺友奈は鏑矢である。

 勇者の存在意義が失われた時代からやってきた、時代背景の異なる部外者。風達に受け入れられた後でも、どこか疎外感があったのは否定できない。眩しい皆の笑顔を見る度に、自分は影だったのだと思い知らされる。

 ああ。でも、高嶋はあれだけ必死に励ましてくれた。

 友奈に負け、石碑に囲まれて泣いていた時。

 征矢による処刑をすんでのところで救ってくれた時。

 ああ。

 ああ!!

 勇者とは、何と眩しい存在なのだろうか……!

 感極まり、身体を小刻みに震わせる赤嶺にそっと風が腕を伸ばす。そっと頭部を両腕が覆い、胸に抱き寄せられるのをされるがままに受け入れる。

 真に打ち解けた赤嶺は右腕を風の腰にまわす。

 そして。

 

「……はい」

 

 と蚊の鳴くような声で返事した。

 

 ◆

 

 大赦本部に入るには、二十四時間に渡って厳重な警備がされている正門、もしくは西門をくぐるしかない。

 荷物の配達にやってきた青年から、地位の高い神官まで、皆がここを通る。平等にして絶対の門。

 しかしその中に征矢は含まれない。そもそも大赦の中でも特に秘匿されている存在。バイザーで顔を隠した少女が通ろうものなら、不審者認定を受けて間違いなく門番に引き止められる。

 だからこそ、征矢しか使用しない特別な裏道がある。それは地下に掘られた坑道を潜って中に入り込む、怪盗も驚愕の侵入方法だ。

 実際には侵入ではなく、正当な入館であるが。

 土が崩れないようにアーチ状に組まれた木が並び、その下を征矢はひとりで歩く。

 長さはおよそ五十メートルほど。掘ったのは征矢自身だ。流石に土木業者に頼むことなんてできず、かといって歴代の側付きにできる作業でもないから自身の手で、というわけだ。

 征矢に就いて初めての御役目が土木作業だなんて笑い話だ。赤嶺が聞けば鼻水を吹き出して大笑いするだろう。

 それっぽい大きさの石を積み上げた階段を登り、錆びれた扉を開ける。ギギギ、という妙な軋みが鳴り、時の流れを感じさせられる。

 この坑道の出口は春信の作業部屋へと直通している。普段は巧妙にカモフラージュされていて、何かのミスで誰かがこの部屋に侵入してもこの扉の存在がバレることはない。

 部屋の中は真っ暗で、征矢は壁に手を這わせながら照明のスイッチを探した。

 そしてそれらしき突起物に触れると、躊躇いなく押す。

 すると微かに天井の証明が明滅した後、パッと一気に明るくなった。

 

「――――」

 

 征矢の目に飛び込んできたのは、作業台の上に整然と並べられたレプリカの数々だった。

 どれも新品で、光に晒され、芸術品のような光沢を放っている。

 槍。戦斧。弓。

 クロスボウ。旋刃盤。手甲。太刀。大鎌。

 大鎌は歴史の闇に葬り去られた郡千景の武器。オリジナルが手元にないのに、よくも再現してみせたものだ。

 不意に征矢は光輪を出現させるが、現れた途端、光輪は炭化したようにどす黒く変色して、床にボロボロと崩れ落ちた。

 

「……まあ、そうなるな」

 

 大赦、ひいては神樹に反旗を翻したのだ。神樹とのリンクを断たれるのは当然の措置と言っていいだろう。

 つまるところ、身体能力の向上も臨めず、今の戦闘力は祝詞なしの赤嶺にも負けるほど落ち込んでいる。

 続いて視線を振ると、ある扉が開かれていることに気づく。

 オリジナルの保管庫へと続く道が解放されているのだ。好きに使うといい、というメッセージだろう。

 開けたのは間違いなく春信だ。昨日勇者たちと面と向かったのは知っている。どんな会話をしたのかまでに興味は持たない。

 征矢はゆっくりとかぶりを振った。

 

「……私にはそれに触れる資格がない」

 

 氷の微粒子に似た言葉を零しながら作業台に向き直り、冷たい息を吐き出す。

 これらすべてを持っていくことはできない。だから、一番手にしっくりきて、持ち運びしやすいことを重視しなければならない。

 

「…………」

 

 そうして征矢が選んだのは、手甲と、太刀だった。

 

「ふ」

 

 ほとんど脊髄反射で手が伸びていたことに、口角を上げて笑う。

 しっかり手甲を両腕にはめ、帯刀ベルトを腰に巻きつけて太刀を携える。

 用意はこれですべて揃った。

 征矢は初めて廊下へ続くドアの前に立ち、躊躇いなく蹴破り、弾丸の如く飛び出した。

 やはり友奈の捜索に全力を費やしているのか、人気は全くない。数人の神官たちとすれ違ったが、声をかけられるより速く走り去る。

 閑散としている通路を疾走しながら、灯台下暗しとはまさにこのことだな、と鼻で笑う。

 目指すは北方面。かつては園子が神として祀られていた、本殿を模した特別な部屋。そこに友奈は幽閉されている。

 友奈がそこにいることは、征矢と春信を含め、大赦のトップ数人しか知らない。恐らく神婚の直前まで手元に置いておく算段だったのだろう。しかしその過剰なまでの行動が隙を晒し、春信の暴露を許すこととなった。

 とはいえ、神婚が成立すればそんなことはどうでもよくなるとでも考えているのかもしれない。

 直後、けたましいサイレン音が大音量で鳴り響く。

 堂々と大赦の中を走ったのだ、これは仕方ない。耳を劈くサイレンを無視しながら最短距離で駆け抜ける。

 流石に大赦の内部に神社をまるごと持ってくる、なんてことはできないため、鳥居、参道、拝殿、本殿と順に配置されていて、本来あるものがいくつかショートカットされている。

 床の両隅から上に向けられた照明に鳥居が照らされている。赤く佇んでいるそれは、征矢には血塗られた巨大な墓石に見えた。

 頭を振ってくだらない思考を捨てた征矢は一直線に鳥居をくぐると、ワックスのかけられた木目の床から一変して、オニキスのように金属質の光沢を放つ参道を突っ走る。

 あとは拝殿を越えて本殿に潜り込み、友奈を連れ出すだけ。

 

 ……だというのに。

 

 征矢の十数メートルほど先に、何者かがいる。

 それもひとりではない。複数人。

 さらに正確に言うと、三十二人の少女たちが征矢の到達を待っていたかのように立ちはだかっているのだ。

 その中からひとり、リーダー格と思われる少女が前に進み出る。

 

「――止まりなさい、侵入者」

 

 凛として力強い命令に、征矢はとりあえず従うことにした。

 足を止め、やや上がった呼吸を整える。

 黒いシルエットだから全体がよく見えないが、征矢には彼女たちが何者であるかなど、わかりきっていた。

 遅れて、参道を照らす両隅の照明が手前から順に点く。まずは征矢を。続いて少女たちを照らした。

 征矢と似たような戦衣に身を包み、全員がバイザーで顔を隠している。違うところといえば、征矢の禍々しい外見とは正反対の緑を基調とした落ち着いた外見であることだろうか。

 ……ああ、きっとこいつらは何も知らないのだろうな。

 そう小馬鹿にするように笑う。

 それが気に食わなかったのか、少女はやや不快感を露わにしながら言い放つ。

 

「何を笑っているのかしら」

 

「……いいや? 随分と手厚いお出迎えだな?」

 

 嫌味と受け取った少女はベージュ色の髪を左右に揺らし、ムッと口を曲げた。

 

「今すぐ引き返すというのなら、私たちは何もしないわ。でも、もしそこから一歩でも足を踏み出――」

 

 忠告を言い終えない内に、素知らぬ顔で征矢は一歩、二歩、さらに欲張って三歩と進んでみせた。

 

「――――」

 

 口を開いたまま硬直した少女はすぐさま表情を引き締め直すと、膨れ上がる戦意を放出させた。

 征矢は肩をすかす。

 

「おっと、すまない。よく聞いてなかった。もう一度言ってくれないか? 急いでいるから手短に頼むぞ?」

 

 相手の精神を逆撫でするのは征矢の十八番だ。しかしどうやらリーダーは少し沸点の低い人間だったらしい。

 グググ、と握り拳を作る音がこちらまで聞こえた。首筋が浮かび上がる。相当強く歯噛みしているのだろう。

 素早い動きで銃剣を征矢に向けたリーダーは、溢れんばかりの気迫を押し殺した絶対零度の声色で、

 

「我ら防人――あなたをここで倒す」

 

 と告げ、ダン! と片足を強く踏んだ。

 すると、背後の仲間たちがそれぞれの武器を構える音が響き、見事な連携で素早く戦闘態勢に入る。護盾隊八人が横並びになって盾の底部分を地面に打ち付け、その背後にリーダーと同じ武器を持った十六人の銃剣隊がその矛先を一斉に向ける。

 衝突は避けられなさそうだ。

 サイレン音はすでに鳴り止んでいる。

 この場を支配するは、膨張し続ける互いの戦意のみ。

 傍から見れば……いや、どう見ても征矢は悪者に見えてしまうだろう。

 悪を討つヒーロー。そんな構図が出来上がってしまっている。

 いいだろう、と滾る興奮。

 説得は不可能。何を言っても通じない相手と判断。ならば殴る。殴って退ける。

 征矢は意識を戦闘用に切り替え、獰猛に、

 

「――ふはッ」

 

 と笑ってみせた。




友奈救出作戦、開始――

それではまた次回!


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ありがとう

前回のあらすじ
友奈救出作戦を開始した征矢、防人と対峙


 固い地面を高く蹴り上げ、征矢は一気に防人たちに肉迫した。

 横一列に隙間なく並ぶ護盾隊たちの完成された連携は見事なもので、ステップを踏みつつ、その中で仕掛ける微妙なフェイントにも引っかからずに位置を微調整している。

 盾の強度はどれくらいか。

 後ろの銃剣隊に動きはない。

 ならば。

 腕の筋肉を隆起させ、渾身の一撃を叩き込む!

 拳と盾が接触した瞬間、激しい衝撃が征矢の身体を揺るがした。盾は想定どおり硬く、大したダメージは与えられていない。手甲への反動も問題なし。戦闘に支障なし。

 盾を構えていた少女のひとりが「ひゃあああ!! 死ぬ――!!」という情けない声で叫ぶが無視。戦衣によって神樹の加護を受けているとはいえ、防人たち単体の戦闘力は勇者より劣っている。今の弱体化した征矢でも、なんとか撃破は可能と推測。

 しかし防人の利点は、量産型という性質にある。弱い敵だろうと、数の力で叩きのめされる。気を抜けばあっという間に袋叩きにされてしまう。

 護盾隊の背後で、八つの光が迸るのを見る。アクロバティックな動きでその場から離脱した直後に発射音が轟き、征矢のいた場所を光弾が空気を裂きながら通り過ぎた。

 パッと見たところ、実弾ではない。対バーテックスではないため、侵入者を無力化することを前提としているということか。

 二班に別れていた銃剣隊の第二射をも回避した征矢は、硬質な参道を踏み鳴らしながら今一度接近を試みる。

 先程のはちょっとした力試し。今度は護盾隊の壁を突破してみせる。

 同じ思考だったのか、リーダーが素早い指示を飛ばした。

 

「指揮型の二番と銃剣型の偶数番号は前に出て迎撃! 残りは護盾隊の後ろで構えッ!!」

 

 了解! という力強い返事が長い参道に木霊し、征矢の前に指名された防人たちが立ちはだかる。

 なるほど、接近と遠距離で挟みこもうということか。

 切っ先を一斉に向けられた征矢は臆することなく集団に踏み込みつつ、鞘からジャリッ! と太刀を引き抜いた。

 防人の戦衣にはある程度の防御力が備わっているため、過剰に力を込めない限り殺してしまうことはない。

 低姿勢を保ちながら下段に構え、放たれた突きを躱し、少女の脇腹を斬り上げる。刃は皮膚に到達することなく、戦衣に大きな切り傷を刻むのみだった。

 実質ダメージはなし。手加減が過ぎたようだ。しかし斬られた、という事実に少女の口元に目に見えて恐怖が浮かんだ。

 防人たちは対人に特化しているわけではない。確かに便利屋としては最高に使い勝手の良い集団だが、番人の代わりをさせるのはいささか酷というものだろう。

 ……とはいっても、防人以外に適任がいないのが現実だが。

 四方から迫る攻撃を察知。

 左からの攻撃を太刀でいなしながらそのうちの一人に急接近する。

 

「ッ!」

 

 息を呑む音が聞こえたが、甘いとばかりに征矢は少女の腹に拳を深く沈み込ませた。

 

「ハ――――!!」

 

「が――、グっ――!」

 

 身体を数センチ持ち上げるほどの威力に、少女は胃の内容物を吐き出しながらその場に膝をつく。

 刹那、エネルギーを充填するような白い音が鼓膜に届き、咄嗟に身体を後方に投げ出した。

 直後、待機していた銃剣隊からの光弾が征矢を襲い、その内の数発が腕に命中した。

 骨にダメージが入ることはなかったが、何度も喰らえば間違いなく折れる。

 神樹とのリンクが断たれていなければ、この程度の相手など朝飯前に片付けられるのだが。小さな音で舌打ちした征矢はリーダーを睨みつけた。

 

「とおおおおおおおッ!!」

 

 上ずった、戦場に似合わない雄叫びを上げて一息ついたところを強襲したのは、胸元の番号が『20』と刻まれている少女だ。長いブロンズの長髪を靡かせ、機動力を奪おうとしたのか、脚を狙った低い薙ぎ払いが迫る。

 太刀を下に向け、受け止める。そのまま流れるように赤い火花を放射状に生じさせながら鍔まで滑らせ、目と花の先まで顔を近づける。

 

「はっ! ここであなたを倒し、弥勒家の功績にして差し上げますわ!!」

 

「…………」

 

 弥勒、とは。

 またなんとも懐かしい言葉だ。

 もう顔も声も思い出せない、かつてパートナーだった少女がそんな名前だった。

 

「何を笑っているんですの……?」

 

 隙あり。

 脚を蹴り払い、地面に倒す。

 

「おわっ⁉」

 

 そして眼前に差し出された頭部を蹴ろうとして――。

 またもや銃撃によって阻止される。

 首を刎ねることもできたが、防人は別に処分対象ではない。

 敵の銃撃も賞賛に値するもので、征矢の回避するであろう位置に光弾を放つというなかなかに嫌らしいことをする。そのおかげで腹に一発だけ受けてしまう。

 

「うッ」

 

 内臓が強引に形を変えられる感覚。

 不快感と痛みにえづきながらも、瞬時にターゲットを切り替えて肉体に喝を入れる。

 目指すは護盾隊の壁に守られるリーダー。あいつさえ落とせば、連携力は目に見えて低下するはずだ。

 全方向から迫る刃を、上半身を限界までのけぞらせることで回避。続いて正面から降り注ぐ光弾の雨を太刀で切断。

 近づけさせないとばかりに前に立ちはだかる少女たちを斬り、殴り、防衛ラインを強引に突破する。

 鎮座するは、八つの盾。さっきとは違って盾が巨大化し、パズルのピースが組み合わさるように接合されている。

 食い破る――!

 目を見開き、納刀した征矢は腹の底から吼えた。

 

「オオオオオオッ!!」

 

 上半身を捻じり、渾身の拳をぶち込む――!

 ガガァン! と鉱物同士が激しく衝突するような爆音が響く。

 続いて発生した衝撃が腕を伝い、頭頂と足先へと伝播する。

 そして。

 堅牢な盾に、軽い破砕音。

 一部が穿たれ、破片を撒き散らしながら拳大の穴が開く。覗けば、中でこちらを見据える防人たちがいる。

 だがまだ中には入れない。

 一度で駄目なら何度でも。必ず破壊し、護盾隊を潰す。

 二度目の拳を振りあげようとした征矢に、再びお嬢防人が飛んでくる。

 

「させませんわ!!」

 

 振り下ろされた銃剣を、手甲で受け止める。

 重い。

 咄嗟に判断し、受け流す。

 威勢はいいが、この少女は攻撃が単調で、わかりやすい。積極性は評価するべきだろうが、実力が見合っていない。

 征矢の横を突き抜け、晒した横腹を殴ろうと――!

 

「てえええぇぇッ!!」

 

「!!」

 

 指揮型の鋭い号令。

 轟く発射音。

 反応速度ギリギリで腕を交差し、征矢は光弾を受け止める。

 

「あ、グ――!」

 

 神樹の加護を失った征矢にはこの攻撃の威力を軽減しきれない。専用の装束だけでの防御では、些か不足している。

 歯を食いしばって耐えきったところを、隙ありと見た防人たちが一斉に襲いかかる。

 ここで勢いづけさせてはならない。そうなった瞬間、征矢の敗北は濃厚となる。

 顎に力を入れ、呻きながら飛びかかる防人たちを、圧倒的な剛力で斬り払う。

 

「はああッ!」

 

 その一振りは、何人かの防人の戦衣をも裂き、血色の液体を高く巻き上げた。

 防人たちとの距離が開き、護盾隊の鉄壁への道が見えた。

 ガチン、と重々しい音を立てながらスイッチを殺人モードへ切り替える。あの鉄壁を破るには、生半可な力では不可能だ。弱体化した今、全力でなければいつまで経っても突破できない。

 刃についた血糊を払い、下半身に力を入れる。そして一秒後に爆発的な加速で駆け出す。

 納刀。

 拳を構える。

 狙うは損傷させた部分。あと一、二回殴れば通り抜けられるほどの穴になる。

 鋭い呼吸で肺に酸素を送り込み、視界をクリアにする。

 一瞬だけ呼吸を止め、全神経を拳に集中させる。

 そして二度目の拳を叩きこもうとしたその瞬間、壁の中から指示が聞こえた。

 

「――シズク、行って!」

 

 壁の一部分だけ急速に接合が解除され、人ひとり分の空白が生まれる。そこから人影が素早く飛び出し、ノーモーションで征矢に急接近し、脇腹を斬りつけた。

 装束にダメージあり。

 衝撃は大きく、その小さな体躯にしては想像の上をいく膂力だった。

 思考を切り替えて開けられた穴から中に入り込もうとしたが、すでに再び接合されていた。

 

「……チッ」

 

 舌打ちした征矢は、飛び出してきたひとりの防人を見据える。

 日本人にしては珍しい銀髪だ。肩まで短く切り揃えられた髪型は征矢に似ている。

 それに……赤嶺と同じ、戦闘狂の雰囲気を感じる。

 

「随分とド派手に暴れまわるじゃねぇかよ、なあ? 俺も混ぜろよ」

 

 なかなかに気性の荒そうな言葉遣いだ。

 首元あたりのプレートを確認すると……『9』。『8』までが指揮官型のはずだから、それらを抜くとトップに強いということだ。

 バイザーをしていても、その裏で獣の目をして征矢を睨んでいるのがわかる。

 こういうのは大概、煽りに過剰に反応すると相場が決まっている。

 

「退け、雑草(・・)

 

「――――」

 

 最大限の侮辱の言葉。

 するとシズクと呼ばれた少女は目に見えて反応を示し、口元の笑みをすう、と消す。

 続いて、憤怒のオーラが爆発した。

 

「お前……それ、意味がわかってて言ってるな?」

 

 暴走しそうな感情を強引に押し込んだせいか、細く、低い声。

 

「その足りない頭で少しは考えてみたらどうだ?」

 

「じゃあ侮辱と受け取るぜ。俺たちと似た格好したって、もう定員オーバー。仲間にはできないからな」

 

「お前たちの戦衣……私がモデルなのだが」

 

「んなこと、知るかよッ!!」

 

 素早く太刀を構えた征矢は踏み込んでくるシズクを迎え撃つべく意識を集中させた。

 瞬間、征矢の前後から光弾が襲いかかる。

 その場から跳躍して回避するが、それよりさらに高く飛んだシズクに銃剣を叩きつけられた。

 

「オラアアァッ!!」

 

「ッ!」

 

 足場がないため、受けた力を地面に逃せない。

 参道に叩き落された征矢は、足の筋肉のダメージを許容しながら両足での着地を試みる。

 あれだけ硬そうだった参道の床がクモの巣状に亀裂が走り、それでも衝撃を殺しきれずに征矢を中心に床が激しく割れた。

 そして、一瞬だけがくんと下半身の力が抜ける。続いて脚の付け根に燃えるような熱さを感じ、痛みが爆発した。

 思わず歯噛みした征矢だが、呼吸をすることすら許さないとばかりに前後から光弾が飛来する。

 感覚の鈍くなった両足でダダン! と割れた地面の欠片の端を踏みつけてせりあげさせる。

 直後、轟音が鳴り響き、征矢を守る壁が木っ端微塵になった。

 遅れて、シズクの落下エネルギーと速度を加算した振り下ろしが落ちてくる。

 受け流しは不可能! ゆえに、手甲を上に向けて防御!

 その刹那の後に、圧倒的な衝撃と、大量の火花を発生させた。

 さらに地面が深く抉られ、小規模のクレーターが形成された。

 せめぎ合いは僅か二秒で終了し、征矢が力押しで負ける。激しく損傷した手甲の破片を撒き散らしながら大きく後ろに飛ばされ、がくりと膝をついた。

 

「護盾隊は防御姿勢を解除して外にいた防人のバックアップ! 他は私に続いて突撃!!」

 

 最大の隙と判断したリーダーは力強い命令で防人たちを指揮する。

 征矢と対峙していた前衛はカバーに来た護盾隊たとの後ろに隠れ、リーダーを含む温存されていた少女たちが勢いよく飛び出してくる。

 指揮型が七、銃剣隊が八の計十五人。

 数では圧倒的に不利。

 脚に負荷がかかりすぎたせいか、感覚が薄れている。それにさっきの落下攻撃を受け止めたことによる腕の震えが止まらない。

 勢いは向こうに傾いてしまった。

 ……勝てる。

 そんな確信を胸に十五人は征矢に迫っているのだろう。

 ……だが!

 征矢もまた、ここで勝たなければならない理由が、ある!

 なぜ赤嶺と高嶋を見逃した!

 なぜ神樹と大赦を裏切った!

 その理由は、ただひとつだ!

 それを果たしてもらうために、何としてでもここを突破しなければならないのだ。

 

「ク、ぉ」

 

 動け。動かせ。動いてくれ。

 ゆらりと鬼火が灯るように立ち上がる。

 もうあとほんの数メートルに接近した防人たちを視界に収める。

 バイザーの光が、煉獄の篝火のように燃える。

 そして。

 

「――火色舞うよ」

 

 と自己暗示をかけ、本気の一端を解放する。

 まず、一番近くにいた三番の少女の剣撃を紙一重で回避。背中を向けたまま腕を伸ばし、その首根っこを掴む。遠心力を利用してぐるりと一回転し、目についた標的に向けて力任せに投げつける。命中こそしなかったが、明らかな動きの変化に防人たちの動きが若干鈍くなる。

 敵の間合いで気を抜くなど、愚か!

 上半身を地面に水平にしながら疾走、次なる目標の苦し紛れの振り下ろしを、抜刀術でいなしながら急接近。そしてカウンターを叩き込んで、後ろのふたりを巻き込みながら吹き飛ばした。

 征矢が防人より圧倒的に優位に立てるのは、対人に特化しているという点のみ。

 さらに、その年季が違う!

 せいぜい十数年程度しか生きていない奴らに、殺しに殺しを重ねた征矢の研鑽に辿り着くはずもなし!

 あらゆる戦い方を習得した征矢に、敵なぞなし!

 

「ッ! 体制を立て直す! 護盾隊の奇数番号、来て!」

 

 リーダーが征矢の豹変ぶりを見て、見誤ったと早急に判断して立て直しを図る。

 だが、もう遅い。護盾隊と距離を取ったのがそもそもの誤りだ。対バーテックスとして、巨体を想定した戦術を身体に叩き込まれている。

 しかし敵は征矢のみ。身体もバーテックスより遥かに小さい。数の暴力を持ち出すのは当然の判断ではあるが、相手が悪い。

 混乱に紛れて包囲網を突破。応援に向かおうとした護盾隊たちを一網打尽に打ちのめす。固まって巨大な壁を作られると厄介だが、それさえなければ対応策はいくらでもある。

 大きな盾を持つため、機動力は低い。だからステップを踏んで相手の重心を移動させ、完全に低くなった瞬間に仕掛ける。

 ここは斬撃ではなく、拳撃が有効だ。

 素早いジャブにまるで反応できない護盾隊たちは瞬く間に征矢の拳にダウンさせられ、ほんの数秒で四人がその場に崩れる。

 そして、守りが薄くなった元前衛へ駆ける。残りの護盾隊では、とてもカバーしきれない範囲だろう!

 

「お――オオ――!!」

 

 ありったけの力を込めて、拳を突き出す。

 硬質な衝撃音が炸裂し、攻撃を受け止めようとした護盾隊のひとりを紙切れのように吹き飛ばす。

 上がった息を整える間もない。

 肺が酸素をよこせと暴れまわる。

 脳は赤く発熱し、融解しそうだ。

 だがまだ止まるわけにはいかない。

 護盾隊の後ろで体制を整えていた銃剣隊を、反撃をものともせず一方的に蹂躙し、ギアを上げた征矢の動きにまるでついていけないさっきのお嬢防人も気絶させる。

 最後に残ったふたりの盾持ちのうち、ひとりを殴るが、もうひとりは「死ぬ! これ絶対死ぬやつ! お助けええええええ!!」と泣きじゃくり始めるという予想外の反応をされたため、つい動きが遅れてしまった。

 

「――させないッ!」

 

 合間を縫って乱入してきたのはリーダーだった。素早い斬り上げが手甲に命中し、征矢の上半身が大きく仰け反る。

 確かこの少女の名前は……楠芽吹、だった気がする。

 そんなことをようやく思い出した瞬間、援護として大量の光弾が飛来してくる。

 被弾を覚悟で身体の角度を微修正し、あえて背中に光弾を受ける。衝撃を受けた征矢はそのまま速度へと変換し、息を呑む芽吹の懐に潜り込む。

 

「フぅッ!」

 

 鋭く息を吐き出しながら腹の中心を狙う。

 しかし。

 ブーストがかかったような急速に腕が動いて銃剣に防がれる。さすがの反応速度だが、芽吹の代わりに砕かれた銃剣の破片が高く舞い上がる。

 防人は素手での戦い方を学んでいない。武器が壊れ、大きく体制を崩した芽吹に対して征矢はすでに追撃せんと反対の拳を握っている。

 だが、直前で放たれた光弾が両者の間に落ち、身体を衝撃で吹き飛ばした。

 一見味方を巻き込んだ誤射に間違われるかもしれないが、征矢は素直に良い助けだったと認める。芽吹と距離の近すぎる征矢だけを狙うのは難しい。下手をすると芽吹に当たってしまうかもしれない。だから、攻撃ではなく、妨害することを主眼に置いたのだ。

 そんなことを一瞬で決断した、『9』の防人の頭の回転は厄介だ。

 

「楠!」

 

 シズクが自分の銃剣を投げ渡す。綺麗な弧を描いてそれは芽吹の手に渡り、立ち上がった芽吹は額から伝った脂汗を手で拭った。

 その間にも征矢は対象を即座に変更して残りの防人たちを処理していく。てっきりそのまま一対一が続くのだと思いこんでいただろう。気が抜けていたところを一網打尽にする。

 あっという間に、芽吹とシズクのふたりだけか残った。

 

「なんなんだよ、お前!」

 

 倒れる仲間たちを見たシズクが憤りを露わにして怒鳴る。

 あまりに抽象的すぎる問いに、征矢は適当に返した。

 

「邪魔だから排除させてもらっただけだが?」

 

「そうじゃねぇ! お前の動きは……なんかこう……変だ! 人間を相手にしているような感じじゃない!」

 

「……生憎、無駄話をしている暇はなくてね。もう勝敗は決しているし、行かせてもらおうか」

 

 数の力というアイデンティティを失った防人に、もはや征矢を止めることはできない。ふたりの実力はすでに把握している。

 もう、敵ではない。

 おもむろにふたりを無視して歩を進め始める。

 

「行かせねえッつってんだろ!!」

 

 通り過ぎようとした真横のシズクがそう叫んで征矢に挑む。

 しかし。

 

「温い。遅い。浅い」

 

 雫が落ちる静音のような落ち着いた声で呟きながら、シズクの攻撃をいなし、カウンターとして強烈な蹴りを下腹部に深くめり込ませる。

 

「ぐ、ぅ……!!」

 

 高く身体を蹴り上げられたシズクは固い地面に背中から激しく落下し、肺の中の空気を吐き出す。それきり立ち上がらない。

 殺してはいないから、痛みで身体が動かないのだろう。苦悶の声を漏らしながら身動ぎしている。

 歩く。

 ヴゥン、とバイザーの放つ燐光が芽吹にはどう見えているのだろう。

 歩く。

 コツ、コツ、と前に進み、芽吹の眼前に立つ。

 無言で見合う。

 

「…………」

 

「…………」

 

「……退け」

 

「断るわ」

 

 即座に拒否が返され、征矢はその返事として拳を胸に叩き込む。だが、ギリギリのタイミングで間に割り込ませた銃剣を器用に斜めに構えることで直撃は免れた。

 ズバン! と爆音めいた衝撃音が鳴り、銃剣が大きく歪む。それを見た芽吹は口の端を力強く引き締めた。

 素早く腕を引いた征矢は、殴る素振りを見せて途中で急停止するなどといったフェイントを交えて連続で攻撃する。

 一度や二度は騙されずに反応してみせたが、回数を重ねるごとに反応がズレていき、しだいに誤差が積もる。そしてついに致命的な遅れが生じ、征矢の攻撃が芽吹のバイザーを打ち砕いた。

 粉々になった金属片が、高い音を奏でて地面に散らばる。

 芽吹は右手で眉間のあたりを押さえ、よろりと後退った。

 破片が頭の皮膚を裂いたのか、血を流している。半分だけ露出した顔に怒りや憎しみといった類の感情は見いだせない。ただ、虚しさというか、悲しみというか、そういった対極の感情が滲んでいた。

 

「退け」

 

 改めて征矢はさきほどと同じように告げた。

 

「……断るわ」

 

 と芽吹も同じように回答した。

 

「どうせお前たちは、この先に何があるのか知らされていないのだろう」

 

 もう征矢を止めることができないと内心ではわかっているのだろう。

 仲間たちは誰も立ち上がれない。

 圧倒的な個の力を見せつけられ、潔く敗北を認めるのもリーダーとしての責務でもある。

 芽吹はすでに息も絶え絶えだ。身体に溜まった熱を放出しきれていない。もう俊敏な動きは難しいだろう。

 

「まあ、そうね。でも、大赦のトップが勇者ではなく、私たちにここの死守を命じたのよ。大赦が信用できないのは確かだけど、この先にあるものを盗まれたら、世界が終わるっていうのなら、守るしかないじゃない」

 

「ふふ、ふ」

 

「何がおかしいの?」

 

 芽吹は心底不思議そうに首を傾げる。

 

もの(・・)、か。そうか……大赦はそういう認識でいるのだな」

 

 瞬間、芽吹は自分の本能だけではなく、理性までもがメーターが振り切れる勢いで危険信号を発するのを感じた。

 今すぐにこの『悪』の目の前から消えなければ、確実に殺される。そんな明確な予感。

 気道が引き締まり、呼吸が詰まる。

 苦しそうに貪ろうと空気を求めた芽吹の腹には、いつの間にか征矢の拳が深くめり込んでいた。

 

「ハ――、ズ――!」

 

「……私を倒したければ、二〇〇年後に出直してこい」

 

 僅かに硬直した芽吹は、口からごぷりと胃液を吐き出し、ゆっくりと膝から崩れ落ちた。

 防人、排除完了。

 ……いや、それは少しはやいか。

 身体の向きを変えた征矢は、地面にうつ伏せに倒れているある防人の元へと歩く。

 氷を思わせる滑らかな鞘走りの音とともに生大刀を引き抜いた征矢は、高く切っ先を振りかざして――

 

「うわああああ!! はい起きます今起きましただから殺さないでえええぇぇぇ!!」

 

 そう叫びながら恐るべきスピードでうつ伏せから正座へと姿勢を変えた防人番号『32』の少女は、ビクビクと身体を震わせながら征矢の反応を窺う。

 

「お前は私に立ち向かわないのか? 後ろから襲いかかるかと思っていたが」

 

「いえいえ滅相もありません! あなた様の強さはじゅーぶん! めぶに勝つほど超超強いってことがわかりましたので、雀ごときに勝てるはずなんてありません! ちゅんちゅん!」

 

 とてつもなくキャラの濃い防人だが、邪魔するつもりはないという意志は気持ち悪いほど伝わってくる。

 それに若干よいしょも混じっているし、媚びへつらってきているのも明らか。少し頭に来たから殴ろうかと思案するが、無駄な時間だと大人しく太刀を収めた。

 

「……仲間は全員殺してない。数時間ほどすれば動けるようになるから安心するといい」

 

「は、はいぃぃ!! どうぞ先にお進みください!!」

 

 信念とか意地とか、そういったものはどうやら欠片もないらしい。どうしてそんな人間が防人になったのか不思議に思いつつも、征矢は踵を返してその場から去った。

 参道を最後まで走り抜けると、拝殿が大きく口を開けて建っている。中に入り、木の匂いの強い畳の上を走り、裏から抜ける。

 すると次に征矢の前に姿を表したのは、剣呑な雰囲気を放つ巨大な黒い箱としか表現しようのない本殿だった。本来ならば春日造や流造といった形式であるべきなのだが、それらを一切無視した簡素な黒い立方体。

 重々しい巨大な赤い扉にはどうやら鍵はかけられていないようだ。

 自身の両手を見下ろした征矢は、手甲の一部が欠けていることに気づく。

 防人たちとの戦闘で無傷だったわけではない。軽傷というレベルですらないが、ダメージは確実に受けている。だが、友奈を抱えて飛ぶくらいの力は十分残っている。

 両手で扉に触れた征矢は、ゆっくりと力を込めて押し開けた。

 あまりそれほどの抵抗を受けるでもなく、少しの力で扉は開いた。

 中は薄暗く、地面から仄かに発光する赤い光だけが頼りだった。地面には護符や札らしきものが乱立し、なにもないスペースは通路となり、それは一直線に簡易的な社へと続いている。その中央、木製の台座の上に、友奈が眠っている。

 神の呪縛……人の領域を超え、神に近づこうとした罰。

 初めは枝木によって腕が妙に盛り上がる程度で済んでいたが、一度勇者に変身してしまったという原因もあり、今や右半身の六割以上を侵食されている。以前は補助をしていたらしいが、今や関節部にも枝木が絡みつき、歩くことすら困難……いや、歩けないだろう。

 白い装束に身を包み、逃げられないようにするためか、鉄製の首輪がつけられ、それに繋がれた鎖は社に接続されている。このような身体だから逃げられるはずがないというのに。

 神の業に触れた友奈は、まさに神に近い存在。ゆえに安置……なんて生温いもので、これでは――

 

「監禁、だな」

 

 征矢の呟きに反応したのか、友奈の整った睫毛が揺れ、薄っすらを瞼を持ち上げた。

 

「誰……?」

 

 ここでどういう生活を送ってきたのはよくわかるほど血行が悪い。

 大事な生贄だからなるべく丁重に世話してはいただろうが、精神的な世話はまるっきりしていないのがまるわかりだ。

 まだ視界がボヤケているのか、左手で目を擦ると、征矢を凝視した。

 

「あなたは……」

 

 きちんと征矢を視認した友奈は逃げようと身体を捩る。しかし右半身が満足に動かせないため、繋がれた鎖の重い音が虚しくなるだけで距離を取ることができない。

 無言のまま太刀を振り上げる。

 身体を縮めた友奈を無視して、白い軌跡を真下に落とした。

 断たれたのは凶悪な鎖だった。

 硬質な音を鳴らしながら床に散らばった欠片を見下ろす友奈に征矢は言葉を投げかける。

 

「お前を救い出しに来た」

 

「え? あ、ありがとう……?」

 

 いまいち状況を理解できていないようだが、一から全てを説明する時間は残念ながらない。

 もう今日中にでも天の神が降臨するはずだ。

 しかしながら友奈の征矢への認識は、『高嶋を殺した敵』で停滞している。

 咄嗟に抵抗しようとした友奈だったが、征矢は鎖の切れ端を掴むと、グッとこちらに引き寄せた。

 

「痛っ!」

 

 首輪に引っ張られて寄せられた友奈は眉を曲げる。

 

「黙って、助けられろ」

 

「…………」

 

 一切の口答えを許さない高圧的な物言いに、友奈はやや恐怖混じりにこくりと頷く。

 肩を貸して歩くのは効率が悪い。

 いっそのこと身体を抱え上げて荷物を運ぶ要領でやったほうがいい。

 そう思って友奈の右手を掴もうと手を伸ばして――

 

「――――ぁ」

 

 動きが止まった。

 あらゆる思考も強制的に中断させられ、完全に意識がある物に釘付けになった。

 視線の先は、友奈の手首。

 そこに汚れたミサンガがあった。

 黒く変色してはいるが、まだ黄色だったという名残が残っている。

 しかしどうしてか、征矢にはそのミサンガが元はどんなデザインだったのかを鮮明に知っているのだ。

 それだけではない。

 確か、自分も赤色のミサンガを持っていたような……。

 灼けた記憶の残骸がかき集められ、継ぎ接ぎだらけの幻影を生み出す。

 頭が……割れるように痛い。

 額に手を当て、征矢はその場でぐらりと大きくよろめいた。

 結果的に、それが征矢の命を救った。

 太い光線が、征矢の頭部の真横を通り過ぎ、本殿の壁を盛大に破壊した。

 咄嗟に友奈を台座の後ろに押しやった征矢は素早く後ろに振り返った。破壊された壁から差し込む光が、命を狙った者のシルエットを映す。

 その正体は……征矢自身だった。

 構えたクロスボウの先端から、発射後の燐光を迸らせている。

 

「…………」

 

 それも一人ではない。

 さらにふたり、開かれた扉から本殿に入り込んで来た。

 言わずもがな、強い。

 神樹の加護の無くした征矢とは逆に、奴らはたっぷり加護を受けている。

 

「……量産型、か」

 

 確かに征矢が反旗を翻した今、四国の平和を守る者がいなくなる。

 だからといって、神樹に反抗する可能性があるため、再び新しい征矢を抽出することは危ぶまれる。

 だからこそ、思考領域を制限することで質は落ちるものの量を増やしたといったところか。

 とはいっても強さは征矢より遥かに上。

 もし友奈を抱えて穴の空いた壁から逃げ出そうとしても、一瞬で撃ち落とされて死ぬ。

 ぶるりと身体が震える。

 ……死期を悟る。

 征矢にとっての死は、新たな生へのループだった。

 しかし今はもう違う。死ねばそこで終わる。征矢は、そこらの人間と何ら変わりのない存在に成り下がったのだ。

 ……何が残せたのだろうか。

 二〇〇年以上もの途方もない長い年月の間、ひたすら人を殺し続けた征矢は、いったい何を残したのだろう。 

 四国の平和。

 いや……いや、これは征矢としての在り方を貫いた結果でしかない。

 征矢自身が考え、貫こうとしたものは、何一つない。

 

 ――ならば。

 

 ここで何かを残そうではないか。

 未来に残る、希望を。

 征矢は怯える友奈を見下ろす。

 

「……大丈夫だ。私が必ず仲間の元に連れて行ってやる」

 

「どうして……私を助けてくれるの?」

 

 友奈には征矢の心変わりが理解できないのは当然だ。

 出会い、言葉を交わしたのはたった一度きり。果たしてそれだけで何がわかるのだろう。だから、征矢は不器用に返す。

 

「心変わりしたからだ」

 

 溢れ出る剣気を纏いつつ、社を出て通路に立つ。

 敵も、征矢が戦闘の意思表示をしたとしてそれぞれの光輪を回転させて武器を構える。

 防人とは違って、こいつらは殺してもいい。

 鏖殺だ。

 必ずやこいつらを殺し、結城友奈を連れ戻す。

 生大刀を構えた征矢は、落ち着いて呼吸し、排除すべき敵を睨んだ

 そして。

 

「……私の名は赤嶺友奈。いずれ地獄の門を叩く歯車だ。現在の停滞より、未来への飛翔を願う歯車だ。だからこそ――結城友奈は私が頂く」

 

 と、牢固(ろうこ)とした意志に満ちた声で赤嶺は言い放った。

 

 ◆

 

 医師からのお墨付きをもらい、赤嶺と高嶋は退院することになった。

 たったの一週間程度の入院だったが、来たる天の神を打倒すべく、一刻も早く皆に合流しなくてはならなかった。

 もちろん勇者部が退院祝いとして全員揃い、それぞれに私服が貸し与えられた。

 使い物にならなくなった赤嶺のスーツは持ち帰るとして、一応そう表に出てはならない代物だから、処分方法を考えなければならない。

 

「ふたりとも大丈夫なの? 動けるのはいいけど、やっぱり完治ってわけでもないんでしょ?」

 

 病院から出た一同の先頭に立っていた風が、後ろ向きに歩きながら訊いてくる。

 

「大丈夫です! 動けますし、戦えます!」

 

 そう元気に答えてみせた高嶋は、脚を高く蹴り上げてみせた。

 

「こら、中見えるからやめなさい」

 

「あ、ごめんなさーい」

 

 風の指摘にぺろりと舌を出すと、園子に持ってもらっている布袋に視線を振った。中には大葉刈が入っていて、高嶋がこの前の戦いで入手した郡千景の武器だ。

 手甲は風に持ってもらっている。

 

「私はいつでも戦えますよ。あの人からアプデしたやつを貰いましたし」

 

 そう言って赤嶺はジャージのポケットから征矢からもらったスマホを取り出した。

 スーツがもう使えない今、このスマホで勇者アプリを起動させるとどんな変身が起こるのかは正直興味が湧くが、それより鏑矢という暗部が勇者という表舞台に上がることになるとは思いもしなかった。

 風は顎に手を乗せながら悩むように言った。

 

「夏凛のお兄さんって、もしかしなくても結構すごい人だったりするのかしら? いや、征矢の側付きなんて御役目に就いているから当然か」

 

「勇者システムの違法改造なんて、バレたらただでは済まないですよ。恐らく、上の階級であることと、夏凛ちゃんのお兄様の技術によってできた芸当かと思われます」

 

「東郷……あんた妙に詳しいわね。まさかあんた……」

 

「さ、さあ? 風先輩が何を言いたいのか、私にはまるでわかりませんね……」

 

 しらを切る東郷を尻目に、「まあいいわ」とあっさり見逃した風はタクシーを呼ぼうとスマホでタクシー配車アプリを起動させようとした。

 

「高嶋はうちに来るよね? 赤嶺はどうする? 夏凛のとこに戻る?」

 

 赤嶺は数秒ほど夏凛と見つめ合って、小さく笑った。

 

「はい! 夏凛の家のほうがトレーニング器具がいっぱいあるので!」

 

「……あんた、うちの煮干し全部食べる気でしょ。そんで、『あ、ごめんごめん。代わりにプロテイン買ってくるよ!』なんて言ってさらっとプロテインを持ち込もうと考えてるでしょ」

 

 夏凛の完成された推理に、赤嶺はぎくりと肩を震わせる。

 

「そんなわけないじゃん? 人の家にお世話になるからそんなことするわけないじゃん?」

 

「どうだか」

 

「ん。じゃあ赤嶺は夏凛のとこってことね。りょーかい」

 

 ひとり頷いた風は今度こそタクシーを呼び寄せようとした。

 その時、しばらく口を閉じていた園子が急に歩道の向こうに身体を向けて警戒心を露わにした。

 

「――誰か来る」

 

 道路を行き交う人々の姿が消える。

 冗談ではなさそうな園子の面持ちに、全員が同じようにスイッチを切り替えた。人目に触れるのはよくなさそうだから、人気のない裏地へと移動する。

 園子が注視していたのは、空だ。

 空から豆粒サイズの何かがこちらに急速に接近してきている。それはしだいに大きくなっていき、その影が人型であると視認する。

 さらに接近し、ついに園子たちの前に着地した。

 人であるのは間違いなかった。

 しかし全身が血だらけで、白い装束が真っ赤に染まっている。

 ゆっくりと顔を上げた人物を見て、赤嶺は呟いた。

 

「……征矢」

 

 征矢は赤嶺の声に反応して顔をこちらに向けた。

 ……片腕がない。さらに、腹に拳大ほどの大穴が空いている。

 征矢はぎこちない動きで歩くと、錆びついたロボットのような動作で後ろに抱えていた少女をこちらに差し出した。

 最後に見たときから随分外見が異様に変わってしまっているが、結城友奈本人で間違いなかった。

 東郷は急いで征矢の元に駆け寄り、友奈を受け取った。友奈はどうやら意識があるようで、「東郷さん……」と久しぶりの友の名を呼んだ。

 征矢はまだ動く。

 ボロボロの身体を動かし、自分の力でほんの数メートルの距離をとても長い時間をかけて歩いて赤嶺の前に立った。

 

「いや……やられた、よ」

 

 今にも切れかけの電球のような声で征矢は言った。

 

「約、束通り……結城友奈を……連れ戻した、ぞ……」

 

「ありがとう……こんなになるまで、頑張ったんだね」

 

「気にする、な……これは……私の意志で始めた、叛逆なのだか……ら」

 

 荒い息を吐いた征矢は激しくえづいたあと、夥しい量の血を地面に吐き出した。

 腹の空洞からは今もどくどくと恐ろしい勢いで血が失われている。

 あっという間に征矢の足元に血溜まりができ、目の前の赤嶺の足元にまで届いた。

 

「お前は……ミサンガを持っては……い、ないか?」

 

 それは、唐突な質問だった。

 全く関係のない話に思えたが、赤嶺は正直に答えた。

 

「持ってるよ。これでいいかな?」

 

 ポケットを弄って征矢の前に見せたのは、赤色のミサンガ。

 それを見た途端、征矢の態度が目に見えて変化した。

 まず、「あ、あ……!」とひび割れた声を漏らし、次にミサンガに触れた。血に濡れるのもお構いなしに、赤嶺はそれを素直に差し出した。

 長い間、征矢は大事そうに手の中に包み込み、小さく背中を丸めた。

 

「繋がった……全部、繋がったよ……」

 

 そして、囁いた征矢の、亀裂の走っていたバイザーが、ついに壊れる。

 金属片が血溜まりに落ち、素顔が晒される。

 征矢の顔は、赤嶺は微妙に違っていた。

 同一人物だから瓜二つだと思っていた赤嶺はしばし瞠目した。

 征矢は澄んだ緑色の瞳を数度瞬かせ、視線を向けてくる。

 

「頼みを……聞いてくれないか……?」

 

「何でも言って」

 

 征矢は今にも割れそうな笑みを浮かべながら頼みを口にした。

 

「レンちと、仲良くしてね」

 

「うん」

 

 赤嶺は力強く頷く。

 当然だ。

 自分の時代に帰還した後でも、いっそ気味悪く思われるほど付き纏おう。

 しかし蓮華は器の大きい子だ。なんだかんだ、赤嶺のことを拒絶しないことを知っている。

 

「シズ先輩を、大切にしてね」

 

「うん」

 

 赤嶺は力強く頷く。

 それも当然だ。

 鏑矢は静のバックアップなしに機能しない。

 猫口の先輩が時折かましてくるセルフ漫才にはいつも楽しませてもらっている。

 

「赤嶺友奈は、私より弱いから、守ってあげてね」

 

「うん」

 

 赤嶺は力強く頷く。

 もちろんだ。

 赤嶺は弱い。ひとりだとすぐにプロテインを買い占めて金欠になるような馬鹿だ。何度も泣いた。その度に前を向いた。

 征矢は微笑を浮かべたまま、輝きの薄れかけた瞳のまま、名前を呼んだ。

 

「赤嶺、友奈」

 

「うん」

 

「約束してほしい……私のようにならないで……レンちとシズ先輩とずっと一緒にいて……人の心をどうか、どうか失わないで……」

 

「わかった」

 

 再び力強く頷いた赤嶺は、言葉を続けた。

 

「だからもう泣かないで、友奈(・・)

 

「――っ」

 

 征矢はボロボロと涙を流していた。

 赤嶺の言葉は短いが、声色は誠実で、その顔は真剣。一瞬たりとも視線を外さない。

 自分が泣いていることに気づいた征矢は涙を拭おうと片腕を持ち上げたが、それより速く赤嶺は征矢の身体を抱きしめた。

 それがトリガーになったのか、感情の蓋が全開した征矢は脇目も振らず弱弱しく泣き叫び始めた。

 

「う、ああ、あああ――……」

 

 赤子のように泣く征矢を、一同は黙って見ていた。

 赤嶺はそんな征矢を自分の肩にしっかりと寄せた。

 

【挿絵表示】

 

「約束する。絶対にあなたのようにはならない。仲間を大切にして、最後まで御役目を全うするよ」

 

 数多の平行世界、人の道を踏み外した赤嶺友奈の願いが、ついに届く。

 過去の自分との幾たびもの殺し合いの末に手に入れた、『自分自身』への希望。

 

「ありがとう……ありがとう……!」

 

 征矢の口から感謝の言葉が紡がれる。

 そうしている内に、やがて立つ力すら失い、その場に崩れ落ちた。それを優しく支えながら赤嶺は地面に膝をついた。

 身を乗り出し、征矢の前髪をかき分けて後頭部をそっと抱いた。

 

「私と、あなたは……もう違う人間だ……だから、嬉しい」

 

 征矢は、どこか遠くを見詰めながら、満ち足りたような笑みを浮かべた。

 

「私は、何か残せたかな……? 未来に、何かを残せたかな……?」

 

「ちゃんと残せたよ。あなたの願い、全部私が引き継ぐ。だから、これから生きる私の記憶も、思い出も、あなたのものでもあるんだよ」

 

「そうか……嬉しいな……。ふふふ……向こうで、若葉様や、レンち、シズ先輩にたくさん……たくさん、怒られてくるよ……」

 

 しだいに透き通っていく征矢の声は、赤嶺の心……いや、魂を優しく震わせた。

 

「友奈……友奈……どこにいるの……? 見えないよ……」

 

 生の光を明滅させている征矢の瞳が彷徨う。

 

「ここにいるよ」

 

 頬を伝う涙をそっと拭ってやりながら赤嶺は囁いた。

 

「ありが、とう……友奈」

 

 征矢が囁き返す。

 徐々に軽くなっていく征矢の身体を、逃がすまいと強く抱く。しかし消失の進行は止められず、みるみる軽くなっていく。

 やがて紙に触れているような軽さになったところで、征矢は最期の言葉が、静かに木霊した。

 

「この、世界を……たくさん、愛して――」

 

 目尻に溜まった涙が、雫になって地面に落ちる寸前に光の粒となって消えた。

 穏やかな笑みを赤嶺に向けつつ、ゆっくり、ゆっくりと、征矢……赤嶺友奈は両の瞼を閉じた。

 半壊したバイザーが何度か明滅を繰り返すが、ついにその光は小さくなっていき、やがて消えた。

 

 ◆

 

 征矢の身体とが光の粒となって消え去るまで、赤嶺はその場所に跪き続けた。

 征矢の持っていた赤嶺のミサンガが落ち、血溜まりに沈む。

 ミサンガを掬い上げた赤嶺は、それを手首に通した。

 最期のあの少女らしい笑みを絶対に忘れないと心に深く刻み込んだ赤嶺は、ゆっくりと立ち上がった。

 思考は驚くほど鮮明になっている。

 振り向けば、友奈たちがどう言葉を投げかければいいかわからない顔でこちらを見ていた。

 だから、こちらから話す。

 

「結城ちゃん。征矢は……あの子はどうだった?」

 

 東郷に支えられながらなんとか立っていた友奈は、真剣な眼差しで赤嶺を見た。

 そして頼もしい声で言った。

 

「……とても強かったよ。あの子も私たちと同じ、勇者だった」

 

「そっか。その言葉だけでも、きっと喜んでくれると思う」

 

 ちょうどその時、聞きなれたサイレン音が全員のスマホからけたましく鳴り響いた。

 驚きつつ各々のディスプレイに視線を落とすが、なにやらアニメーションがおかしい。『特別警報発令』の帯が何重にも伸びるが、突如画面にノイズが走り、やがて雑音にサイレン音がかき消されてしまった。

 続いて、大地を揺るがす大きな揺れが四国全体を襲う。

 震度はさほど大きくはないが、異常事態であることは明らか。倒れそうになった友奈を東郷と、さらに夏凛が加わって支える。

 

「大丈夫、友奈⁉」

 

「う、うん。ありがとう、夏凛ちゃん」

 

 その内激しい揺れは消えたが、次に甲高い高音が超広範囲にわたって鳴り響く。

 それは、奏でられる災禍の調べ。地面そのものが……四国が、泣いているようにさえ聞こえた。

 鼓膜を突き破るほどの大音量がようやく収まったところで、その正体がついにこの世界に顕現する。

 海の向こうのソラに、黒点が次々に浮かび上がる。それらは染みとなり、驚異的な速度で空全体を灼くように覆いつくす。

 四国を、侵しているのだ。

 陽光が断たれ、瞬く間に四国がうす暗い闇に閉ざされる。

 

「何よこれ……」

 

 風が掠れ声で呟く。

 

「何って、そりゃあ……天の神に決まってんじゃないの」

 

 答えた夏凛の声は小刻みに震えていた。

 春信が近いうちに天の神がやってくるとは言っていたが、いざ実際にその時がくると、急に現実感が喪失した。まるでスクリーン越しにSF映画を観ているような感覚と言えばもっとも理解しやすいだろうか。

 

「と、とにかく行くわよ!」

 

 なんとか平静を取り戻した夏凛の言葉に深く頷いた勇者たちは勇者アプリを起動させて大橋の方角へと向かう。友奈は東郷、高嶋は風、赤嶺は夏凛に抱えられて飛び立つ。ごうごうと唸る風切り音に負けじと、三人に負荷をかけない範囲内でトップスピードで飛ぶ。

 その間にも侵食はさらに進み、四国を囲む壁を白く溶かしながら天の神が姿を現す。

 二年前の最終決戦で破壊された大橋の残骸の上に降り立った勇者たちは、その様子を静視する。

 その巨躯、水平線を埋め尽くし。

 灰色の雲をたくし上げ、緩やかに侵攻す。

 その形状は円盤にて、真紅の光を散らす。

 征矢の殺意など、子供だましにさえ思えるほどの圧倒的な威圧感。

 まさしく、神。

 天を治め、人という種を断たん、絶対神。

 

 ――天の神、降臨。




過去の呪いから解き放たれた少女は、ようやく深い眠りにつく

人は神より下でなければならない
ただ神の恩恵を授かる小人であれ
神なくして生きること能わず
神の業の下に人は在れる
ゆえに
神を汚してはならない
神を貶してはならない
神を疑ってはならない
恐れよ。崇めよ。平伏せよ
そしてゆめゆめ思うな
……人が、神の業に辿り着こうなどと

脳内予定では、あと2話で終わります
それではまた次回!


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決戦

前回のあらすじ
天の神、降臨

後半以降はどうか『花冠』を聴きながら読んでほしい


 絶望。

 破滅。

 終焉。

 死。

 あらゆる言葉でも表現しきれない超存在――天の神。それが、通り過ぎた跡を赤く異界化させながら悠々と四国に侵入してくる。

 四国を背に、勇者たちはついに自ら出陣した最後の敵を見上げる。

 

「……でっか」

 

 と、最初に頭の悪そうな感想を呟いたのは風だった。

 しかしすぐさま真剣になると、皆に言った。

 

「いい? これが本当の本当に最後の戦いよ。神婚を防いで、天の神もなんとかする。一見すれば笑っちゃうくらいの無理難題だけど、それをしなければ四国は……人類は終わるわ」

 

 樹海を進む天の神は、人間などその辺の蛆虫としか思っていないだろう。

 愚かで、矮小で、身勝手な生き物。

 しかし、人間はそんなマイナスイメージばかりではない。命という儚くも尊い輝きがある。人が人に想いを、祈りを託し、これまで織られてきた数多の歴史。

 思わず目を背け、なかったことにしてしまいたくなるような醜い惨劇があったのは言い逃れのできない事実。だが、それ以上に暖かさに溢れた人情があったことも、また事実である。

 神樹による樹海化が発動する。

 虹色のもやが展開され、七色の花弁を巻き上げながら内陸に一気に押し寄せる。

 その瞬間、勇者以外のあらゆる人間の活動が強制的に停止させられ、植物質の物体に覆われる。

 もう、天の神に立ち向かえるのは、樹海化が起きても活動できる勇者のみ。

 大赦の人間も、春信も力を貸してはくれない。

 勇者たち自身の力でなんとかしなければならないのだ。

 武者震いなんてできるはずもなかった。

 これまで世界の命運をかけた決戦を幾度もした。

 だが今回は違う。

 世界の命運をかけるだけではない。

 人と神の在り方を問う決戦でもあるのだ。

 

「……わかってるとは思うけど」

 

 と、風は前置きをして横に並ぶ勇者たちに縋るように言った。

 

「お願い。絶対に死なないで」

 

 ここで頭を縦に振らないわけがわかった。

 樹という大きすぎる犠牲をようやく受け入れ始めようとした矢先だ、当然の言葉だった。

 

「どうしますか、風先輩?」

 

 友奈を一旦地面に座らせた東郷は、警戒態勢に入り、ライフルを構えている。

 

「あいつに攻撃よ。まずは様子見。でも、そんなにのんびりしてられそうにないわね――来るわよ!!」

 

 円盤の一部で、光の柱が屹立する。

 その瞬間、巨大な火球が生成されて勇者たちに目掛けて発射された。

 急いで友奈を再び抱えた東郷を始めとして、全員がその場から離脱する。

 一拍後に、耳をつんざく轟音と爆風が東郷たちを激しく叩きつけた。辺り一帯は灰色の焦土と化し、戦慄を覚えながら別地点に着地する。

 あれは、獅子座の攻撃と全く同一……!

 それだけではなく、火力が全くの異次元!

 獅子座のものが太陽と評するならば、天の神は、まさにベテルギウス、アンタレス!!

 今のは確実に狙われた攻撃だった。

 ということは向こうはこちら……強いては友奈を認識していている。

 天の神の勝利条件は、友奈を殺し、神樹を破壊することだ。

 

「東郷! 友奈を!」

 

 夏凛は赤嶺を背中に抱えながら叫びに近い声で言った。

 

「ええ! わかってるわ!」

 

 あんなものをまともに受けたらただでは済まない。精霊バリアを張っても無傷でいられるかどうかすら怪しい。

 友奈を遠ざけるべく、東郷が一人離れて後ろに大きく後退する。

 友奈は何もできない自分に悔しさを滲ませながら、ぎゅっと左手を握る。

 

「心配しないで、友奈ちゃん。必ず私が守るから」

 

 そう頼もしい声をかけた東郷の横顔は、いままでの中で最も勇ましくカッコよかった。

 骨の髄を震わせるような重低音を大爆音で響かせながら、天の神が友奈を追うべく再び侵攻を開始する。

 

「させないよ!!」

 

 立ちはだかった園子は、槍の穂先を高々と空に掲げる。そして東郷との相対距離を確認するべく後ろを振り向き、途端、目を見開き、叫んだ。

 

「わっしー! 後ろ!!」

 

「え?」

 

 衝動的に振り向いた東郷が目にしたのは人間の形をしたものだった。

 いや、それではあまりに抽象的すぎる。具体的に言うならば――

 

「征矢……?」

 

 五十メートルほど後方の根の上に、死んだはずの征矢の姿がある。

 そういえば、赤嶺が言っていた。

 征矢は神樹に属する機構。何度死んでも、新しい征矢が抽出されるのだと。

 だからあれは……味方だ。

 天の神は規格外の敵だ。味方は一人でも多いほうが頼もしい。勇者たちに心の安堵がもたらされる。

 友奈のために命をかけて戦ってくれたのだ、今回も力を貸してくれる。そうに違いない。

 安心しきった東郷は手を振って声をかけようとしたが、それより速く、友奈の悲鳴に似た声が飛んだ。

 

「敵だよ!!」

 

 それが証明されるかのように、征矢と同じに姿をした者たちが次々と現れる。それも一人や二人ではない。数十人単位で群れるように根の上に立った。

 全くの同一人物が大量に並ぶという異様な光景が、勇者たちの人間的な感覚を刺激する。

 

「あの人は最後、自分自身と戦ってた。……たぶんクローンみたいなのだと思う。だからあれは間違いなく、敵だよ」

 

 友奈が本殿で見たのは、腕を斬り飛ばされても、腹をクロスボウで貫かれても果敢に立ち向かった、征矢の姿だった。

 たった一度しか言葉を交わしたことのない友奈を救い出す為に、最後の生を使い果たした勇者。

 命の輝きがそこにはあった。

 明確な意志を宿し、未来のために尽くした勇者だった。

 しかしどうだ、あの征矢たちには命の輝きが見えない。ただ呆然と佇む使徒でしかない。

 赤嶺の腕の中で死んだ征矢はもうどこにもいないのだ。その事実を受け止め、向こうに立つ征矢たちとは別物と捉えるべきである。

 この戦いにおいて、敵は天の神だけではない。

 神樹までもが勇者部の敵にまわっている。友奈が誘拐され、強引に神婚に持ち込まれるとそこで終わりだ。

 女神官は、神婚をすることで人間は人という呪縛から解き放たれ、神樹と共に生きることができるという。言い換えれば、神による恣意的な人間の進化だ。

 

 ――そんなこと、あってたまるか。

 

 友奈はギリリと力強く上下の奥歯を噛み合わせる。

 いったい神は、どれだけ人を弄べば気が済むのか。

 神の一存で種の存続を突きつけられる現実を、どうして文句一つ言わずに受け入れなければならない。そんなの、上位者によって運命を定められる愛玩動物だ。

 征矢たちが動き出す。

 前後に敵。

 逃げる場所はない。

 

「私が、結城ちゃんを守ります」

 

 そう言ったのは、夏凛の背中から降りた赤嶺だった。

 征矢にもらったスマホを手に、意志を固めて風に申し出る。

 数秒ほど思考を巡らせた風は、首を振って天の神と視線を往復させる。

 

「あいつの戦い方は、私が一番熟知してます。それに、天の神も相手取らないといけない……二手に別れるのが無難だと思います」

 

「でもあんた、片腕じゃ……」

 

「対人なら自身があります。適材適所ってやつですよ」

 

 それでも食い下がろうとした風だが、敵はどうやら待ってくれないようだ。

 征矢たちは一斉に距離を詰め始め、天の神も侵攻を再開する。

 素早く結論を出すべく、風は赤嶺の進言を通すことにした。

 

「……わかった。東郷と赤嶺、あとは……」

 

 友奈の護衛に他に誰が適任かを考えようとしたが、即座に高嶋が手を上げた。

 

「私も結城ちゃんを守ります! 私の精霊の力でなら、数の問題も解決できます!」

 

「まあ……その通りね。じゃあ私と夏凛、乃木で天の神の注意を引いて、少しでもダメージを与えるわよ」

 

 全員が頷いたのを確認した風は、「それじゃ、行動開始!」と力強い号令を発し、それぞれの役目を果たすために動き始める。

 天の神のいる方角に飛び去った三人を見届けた残りの勇者たちは、後ろを振り返ってもう間もなく殺到するであろう征矢の軍団を見据える。

 スマホの電源を入れた赤嶺と高嶋は、手早く唯一インストールされている勇者アプリをタップして装束を身に纏う。

 ふたりの周囲を大量の花弁が包み込み、すぐさま変身が完了する。高嶋は特に外見の変化がなかったが、赤嶺は違った。

 神世紀七十二年から持ち込んできたスーツではなく、勇者たちと同じような装束へと変化していた。

 思わず感嘆の息を漏らすが、すぐさま表情を改める。

 胸の前で拳に力を込めると、静による祝詞の付与時よりも遥かに大きな力を実感した。

 

【挿絵表示】

 

 これが、三〇〇年という気の遠くなるほど長い年月の間、人が勇者システムの改善を図った賜物。

 確かに征矢の言う通り、戦闘力はこの時代の基準に底上げされているようだ。

 そうして高嶋と並んで友奈と東郷の前に立つ。

 

「東郷さんは結城ちゃんの隣にいてあげて! 私と赤嶺ちゃんで防ぐから!」

 

 頼もしい申し出だが、東郷は歯切れの悪そうに返す。

 身体的ハンデを背負うふたりを前線に立たせるのは些か危険だ。

 

「そんな……私が前に出たほうがいいわ」

 

「東郷さんは後方支援をお願い。私と赤嶺ちゃんは、超近接アタッカーだから! それに私には――」

 

 しかし首を横に振った高嶋は刃の部分を根に沈み込ませていた大葉刈を掴み引き抜く。

 そして高々と振りかざすと――

 

「――手を貸して、七人御先……ぐんちゃん!!」

 

 と叫ぶ。

 すると、高嶋の装束にさらに変化が現れ、フード付きの白い外套が身体を包み、高嶋の同一人物が六人新たに出現する。

 それだけではない。

 プログラムコードのような文字列が空から降り注ぎ、それらは七つの人の形をとり、やがて高嶋と同じ格好をした黒髪の少女が七人出現する。顔はフードで目元まで隠していてよく見えない。そのうちの一人が高嶋に耳打ちをすると、嬉しそうに「うん、ありがとうぐんちゃん!」と屈託のない笑みを向ける。

 計、十四人の七人御先がここに集う。

 

「す、すごい……」

 

 へたりと座り込んでいる友奈はそんな初代勇者の切り札を見て感想を口にする。

 ここで友奈にできることはない。ただ、東郷たちに守られるだけの存在だ。もし勇者に変身すれば、祟りと呪縛の板挟みで即座に死ぬ。

 どうすることもできず、力になれないことが悔しい友奈は眉を顰める。

 

「大丈夫……大丈夫だよ、友奈ちゃん。私達が絶対に、守り抜いてみせるから」

 

 ここで余計な否定をすることはできない。以前は右半身の麻痺がすでに治癒していたことを隠していて、それを明かし、戦闘に加わった。

 しかし今回は戦闘をすることすらできないのだ。それに、巻き付く枝木は友奈の補助ではなく、足枷でしかない。

 ぐっと「でも」の言葉を堪えた友奈は、

 

「……うん」

 

 と東郷の言葉に素直に首肯した。

 なるべく邪魔にならないように東郷に身を寄せながら、押し寄せる大群を静かに見渡す。

 高嶋の七人御先による数の差はある程度補えはしたが、それでも猛然と迫る征矢たちの数には遠く及ばない。

 だが。しかし。

 任せるしかないのだと、友奈は苦い顔をした。

 

 ◆

 

 遥か天蓋を覆う、神。

 風と園子、夏凛は底面で超広範囲に広がるうねるピンクの紋様と、その中央にコアのようにも見える禍々しい赤い球体を睨む。

 

「たぶん、あれが御霊みたいな感じよね。なんだか瞳みたいにも見えるわ」

 

「同感。神サマの美的センスは人間には絶対できないでしょうね。私の女子力より下であることは間違いないわ」

 

「…………」

 

「そこは肯定しなさいよ⁉」

 

 軽口を叩き合う風と夏凛を尻目に、園子は冷静に状況を分析する。

 天の神はネームドのバーテックスを統べる存在だから、攻撃方法はそれぞれ十二体の権能を行使して行うと想定するべきだろう。

 夏凛はあの瞳を御霊のようだと言っていたが、それに望みをかけるしかない。球体を中心として、周囲を十二、十二と二重構造のようにして小さな球体が埋め込まれている。恐らくそこから権能を引き出す……のだろうか。

 バーテックスの第二波のような戦術的敗北はもう二度と許されない。これまでの人生で最も思考する園子を一瞥した風が、真剣な口調で尋ねる。

 

「乃木の考えてることはだいたいわかるわ。満開、でしょ?」

 

「そうですね……でも、だからといっていつまでも温存して使い時を失うのはハイリスクです」

 

 満開の持続時間は個人で大きく異なる。園子は小学生の頃に何度も満開をしたことによって身体に定着しているが、夏凛と風は違う。

 ならばここは園子が……となるべきかもしれないが、園子の追加武装は巨大な方舟だ。敵の攻撃が当たりやすい。

 しかし天の神の注意を引くという目的はそれで達成できる。

 

「私が先に満開するわ! いいわね!」

 

 と、有無を言わさない宣言をしてみせたのは、すでに決意を固めている夏凛だった。

 天の神が進むだけで発生する風圧が、三人に恐怖を与えんと襲う。

 天の神を相手に満開状態でどこまで太刀打ちできるのかすらわからない。さらに満開が解けたあとも、精霊バリアの張れない状態で戦い抜くことになる。規格外の攻撃に、無防備を晒すのはあまりに危険だ。

 にぼっしー。

 そう引き止めようとした園子は、既のところで思いとどまった。その小さくも頼もしい背中が……園子の大親友、今はもう亡き銀の姿と重なってしまったからだ。

 不意に懐かしさと激しい苦痛を思い出し、気道が狭まった。呼吸が浅くなり、喉が微かに震える。

 この一幕がなんだか、死に飛び込む直前のように幻視してしまい、どうしてもあの情景が脳裏をよぎる。

 行かないで、と自然と手が伸びる。

 園子にはこの入り混じる感情をどう抑え込めばいいかわからなかった。出口が見当たらない。

 だが。今こそ、その記憶を乗り越える時ではないか。

 出口が……答えが見つけられないならば、作りだせばいい。

 伸ばしていた腕をゆっくりと降ろした園子は、緊迫した口調ながらも、

 

「うん、任せる。盛大にぶちかましちゃって!!」

 

 と威勢よく背中を叩いてみせた。

 

「ええ! 任せなさい!!」

 

 ニッ、と白い歯を見せた夏凛は、両手に刀を構え、地面を高く蹴り上げて空へと飛び立った。

 その後ろに園子と風が続く。

 

「我ら勇者部の底力を、とくと見よ――!!」

 

 満開。

 赤く染まった樹海に七色の根が煌々と輝き、束ねられた力の奔流が夏凛の背中を押し上げた。

 瞬間、巨大な花が咲き誇る。

 それを察知した天の神が、瞳をギョロリと動かす。

 赤の剣神となった夏凛は、出現した四本のアームを広げながら一気に上昇する。

 

「友奈には近づけさせない!! ――覚悟!!」

 

 相対距離、約四〇〇メートル。

 数秒で接触できる。

 近づくほどに空間の熱量が増し、夏凛の肌がチリチリと灼かれる。天の神はまだ何もしていない。ただそこに存在しているだけで、空間の事象を置換しているのだ。

 周囲の球体のひとつが、閃光を放つ。

 そして瞳は迫る夏凛を見下ろす。

 

「――来る!」

 

 咄嗟に判断した夏凛は背後のふたりに注意を呼びかける。

 それに素早く反応したふたりは、散会して距離を取る。

 音速を遥かに超えた速度で降り注いだのは、一本の巨大な矢だった。

 射手座の権能だ。

 超反応でアームをクロスさせ、巨大な刃で受け止める。

 直後、ダイヤモンドすら容易く砕くほどの大衝撃が夏凛を襲った。激しく脳が揺さぶられ、視界が飛び、意識を手放しかける。

 アームが嫌な軋み音を鳴らすが、強引に身体を捻ることでなんとか逸らす。頬の皮を浅く裂いた後、太い根を数本ほど穿ちながら地面に深々と刺さる。

 赤い鮮血が飛び散らせた夏凛は、戦慄とともに目を見開く。

 精霊バリアが、機能していない。

 どうして。

 そういえば、風に似たような出来事があった。牛鬼に助けられたが、犬神の精霊バリアが歩道に突っ込む車を防げなかったことが。

 それに似たような現象が起こっているのだろう。

 まずい。そうなれば、夏凛以外の全員にもその可能性があるのではないか。何が要因なのかはわからないが、天の神に何かしら関係があるかもしれない。

 となれば、なおさら天の神を進ませるわけにはいかない。死力を尽くして、自分に釘付けにさせるのだ。

 しかしながら夏凛のことは下で這いずり回る羽虫のような扱いだ。夏凛は、自分を無視して侵攻する天の神に向かって吼えた。

 

「私を……見ろおおおおぉぉぉッ!!!」

 

 その声が、己を鼓舞する。

 それだけではなく、夏凛の胸の奥底で魂が震えるのを感じた。

 魂。

 それがやがて、なぜか内部でふたつに分裂する。そのうちの片方は遥かに大きく、近づくだけでこちらが染められそうなほど、赤い魂。

 ひとつは間違いなく夏凛のもの。では、新たに生まれたこの魂は……誰のものだ?

 

『負けるな!!』

 

「!!」

 

 声が……聞こえた。

 やや幼さが残っているが、魂の震えを増幅させる、力強い声。

 轟ッ! と激しく火の粉が散るのを感じる。それは一瞬にして夏凛の身体を熱く燃え上がらせ、闘志をさらに滾らせる。

 まだ落ちない羽虫を今度こそ撃ち落とすべく、天の神の第二射がくる。

 射手座の権能、その二。

 矢の嵐。……いや、嵐というのはあまりにも控えめな表現で、正すならば……そう、流星群だ。

 視界を埋め尽くす死の星々。

 普通ならば、まず逃げに専念するべきだろう。

 だが。

 ここで一歩も引いてはならない。

 夏凛から意識を目移りさせてはならない。満開していない風と園子では回避はあまりに困難。

 

 だからこそ、突っ込む!!

 

 星を斬り落とす。

 六本の刀は、我が肉体!

 無我の領域で刀を振るう。眩い火花を撒き散らしながら善戦するが、それでもすべてを捌ききれない。

 腕を裂き、太腿を裂き、横腹を裂く。

 尾を引きながら血が噴き出し、痛みに顔を歪める。

 流星群の過ぎた後の夏凛はすでにボロボロで、アームも少しばかり損傷してしまっている。勢いも殺され、ふらふらとその場に滞空するだけで精一杯になるほどダメージが大きい。

 すぐさま追撃は来ないようだ。断線しそうな意識を繋ぎ止めながら、夏凛は今度こそと俯いた頭を持ち上げる。

 そして不意に、聞き慣れた音が耳に届いた。ガガガ! と硬質な物体同士が衝突する音だ。それは下の方から聞こえた。

 僅かに視線を降ろした夏凛が見たものは、過ぎていったはずの矢がなぜかこちらに反転して迫ってきている。その奥にちらりと見える反射板を見て、すべてを理解した。

 蟹座の、権能。

 

「ク……ッ!」

 

 駄目だ。まずい。

 防御をするための時間がない。もちろん回避もできない。

 死の予感が首筋を舐めて――。

 瞬間。

 夏凛の視界いっぱいに、黄色の閃光が広がった。

 その閃光は一瞬にして実体を獲得し、ふた振りの刃となり、武器となる。

 さらにそれらを夏凛のものではない二つの手が、現れた武器……戦斧の柄を握った。

 そして。

 凄まじい衝撃とともに矢と戦斧が接触し。

 ひときわ眩しい閃光が炸裂した。

 夏凛の前に突如現れた人影は、亜麻色の髪を揺らし、こちらに振り返る。

 

「あん、た――」

 

 その人影は、いつしか出会った少女の姿をしていた。

 言葉を失い、呆然とする夏凛に少女は吼える。

 

『ぼさっとするな、後輩!!』

 

「!!」

 

 どくん、と心臓が跳ね上がる。

 反射してきた矢をすべて防ぎ切った少女は半透明の身体を動かし、夏凛の肩をぽん、と叩いた。

 

「三ノ輪、銀――」

 

 そのまま銀はふわりと僅かに上昇すると、遥か天に座する神を見上げる。

 そして次に、頭をこちらに向けた。

 

『ここで負けるわけにはいかない。そうですよね? 夏凛さん』

 

 そう言って、ニカッと少女らしい天真爛漫な笑みを浮かべた。

 ――再び身体に力が湧き上がる。

 どういった原理なのかは知らないが、わざわざ先代の勇者様が、後輩のためにこうして現実世界に姿を見せたのだ。

 ならば、それに応えるのが完成型勇者の意地の見せ所!

 ……樹を失った。

 でも、立ち上がった。

 失意のどん底にいた風の尻を蹴り上げ、こうして最後の戦いに臨む。

 守るべきものは、ここにあり。

 夏凛の大切なものは、ここにあり。

 今度こそは……今度こそは、絶対に守り抜く!!

 

「ええ……ええ! その通りよ!!」

 

 柄を握る手に力を入れ、鼻の先が猛烈に熱くなるのを感じながら返事した。

 天の神は目障りな羽虫を排除できなかったことにが不快だったのか、次こそは殺さんとばかりに瞳の紋様が朱く輝く。

 

「ミノ、さん――……ッ!」

 

 今にも爆発しそうな感情を孕んだ呼び声が、ふたりの耳に届いた。

 声のした方角を見ると、そこには顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにした園子が、満開して方舟に乗った状態でこちらに接近してきていた。

 ふたりの真横で急停止すると、方舟から園子が飛び出す。

 

「ミノさああああああああああん!!!!」

 

 銀の小さな身体をこれでもかときつく抱きしめ、胸に深く顔を埋める。

 その様子をやれやれと肩をすくめた銀は、優しく園子の頭の上に自分の手を乗せて撫でた。

 ここが戦場であるにも関わらず、園子は大声で咽び泣く。

 

『でかくなったなあ、園子。その調子じゃ須美も……って、須美は向こうにいるのか』

 

「ミノさん……生きてたの?」

 

 わななく唇から溢れた質問。

 すると銀はやや悲しみを滲ませ、そっとかぶりを振った。

 

『いいや、あたしはあの時に死んだよ。これは……なんだろうな。神樹様に英霊として登録された、あたしの残滓みたいなもんかな、たぶん』

 

 曖昧な回答だが、園子にとってそんなことはどうでもよかった。

 目の前に銀がいて、こうして会話ができる。それだけでもう、十分なのだ。

 

「あの時、一緒にいてあげられなくて、ごめんね……!」

 

『いいんだよ、園子。いいんだ』

 

 銀よりも小さな子供のように、顔を真っ赤にして泣き続ける園子を撫で続ける。

 

『あたしを想ってくれて、ありがとう』

 

「当たり前、だよ……!」

 

『あたしのために泣いてくれて、ありがとう』

 

「泣かないわけ、ない……ッ!」

 

『生きていてくれて、ありがとう』

 

 我慢、できるはずなんてなかった。

 

「う、ぁ、あああああ! ああああああ――――……!!」

 

 二年。二年の時を経て、死んだはずの親友がこうして言葉が届く。

 嬉しくて嬉しくて、何がなんだかわからないまま感情を撒き散らす。

 後悔があった。

 あの時、もっと上手くやっていればバーテックスの攻撃を回避し、銀と一緒に撃退に臨めていたはずなのに。

 どれだけ後悔しても時が巻き戻るわけでもないし、残酷なまでにどんどん過ぎ去っていく。

 だから、赤嶺と高嶋が過去から来たと聞いたときは、啓示だと悟った。

 原理は知らないが、赤嶺の持つ腕時計を使えば、あの瞬間に戻れる。

 そうすれば銀を死の運命から救い出すことができるのだと。

 ……盗もうと良くない考えを抱くことなんて、一度や二度ではなかった。

 でも結局は過去に戻ることはなく、こうして今に至る。

 銀を救えるなら、他にもう何もいらないとまで考えていた。ふとあの瞬間を思い出して枕を濡らしたことなんて数えられない。

 しかし園子の中では、果たして過去に戻って銀を救うことが正しいことなのか、それとも間違っていることなのか、いつしかわからなくなってしまっていた。

 ……過去を改竄することは、今まで積み上げられてきた人類史の冒涜であるような気がしてならなくて。

 そんな整理のつかない考えが、ゆっくりとほぐされて、どこかへ吸い込まれるように、霧散していった。

 園子の涙に濡れる銀の身体に匂いはなかった。

 銀を構成しているのは生身の肉体ではなく、神樹由来のリソースだ。

 

『ははは。泣き虫になったなぁ、園子』

 

 食い縛った歯の間から嗚咽を漏らし、涙を次々と雫に変える。

 きらきらと光が揺れて、視界がぼやける。

 

「そんな言い方っ……ずるいよぉ……」

 

 そんな園子の弱々しい囁きは、突然発生した轟音にかき消される。

 これ以上団欒の時間は与えないとばかりに射手座の権能が再び発動する。

 ソラから降り注いでくる攻撃にいち早く気づいた銀は、素早く園子を引き離して夏凛の前に躍り出る。

 風は夏凛が注意を引いているおかげで標的にはなっていないようだ。

 

『あいつがラスボスなんですよね? 一泡吹かせてやりましょう! 夏凛さん!!』

 

 戦斧を交差させた先輩は後輩に呼びかけると、物怖じする気配なく、寧ろ望むところだと言わんばかりに一気に上昇を開始する。

 その背後を夏凛が追う。

 数多の流星を激しい衝撃音と衝撃波を発生させながら受け止め続ける銀は、果敢にソラを目指す。

 僅かに振り向いた銀は夏凛を待ったりはしない。横に並んでなんかくれない。前に立つ。

 厳しく、しかしながら信じるような……試すような面持ちだった。

 ここまで先輩がお膳立てしてくれているのだ。後輩がその小さくも頼もしい背中を見て成長するのは必然。

 ならば死に物狂いでついていってやる。

 赤く輝く六本の刀を構えた夏凛は、銀を見上げた。

 それを見た銀は、微かに口元を綻ばせた。

 

『行くぞ、後輩! あたしに遅れるなよ!!』

 

「そっちこそ、遅れるんじゃないわよ!!」

 

【挿絵表示】

 

 ソラを駆け上がる、二条の赤き流星。

 天の神の攻撃を踏破し、ついに刃が間合いに入る。

 ギュルリ、と瞳に刻まれた歪な文様が蠢く。

 

「『オオオオオオオッ!!』」

 

 ふたりの赤の勇者がついにコアに一太刀を入れる。

 だが、まるで効かない。鈍い斬撃音が轟くのみ。

 破壊不能オブジェクトを攻撃したような、絶対的な硬さだ。

 一筋縄にはいかないことは予感していたが、まさかかすり傷一つつかないのは些か厄介だ。

 銀はともかく、満開状態でこれとなると、どうすればいいかわからない。

 しかし、だからといって諦めるわけにはいかない。

 視界の端で、新たな光が迸る。

 全方位から迫る、蠍座の権能。

 毒をたっぷり貯めたタンクの先の針はとても危険で、触れただけでも毒が全身にまわる。

 しかし天の神によれば、その数、まさに百を超える!

 意識がコアに向いていたふたりを貫かんと空気を重く唸らせながら針が迫り――。

 ふたりの小柄に大穴を開けることは叶わなかった。

 まず、方舟の尾翼がじゃりいいぃん!! ととぐろを巻きながら飛翔して針を破壊し。

 そして。

 どこからか、シュ!! とまるで重さを感じさせない静かで軽い音とともに飛来してきた幾千ものワイヤーが、すべての毒タンクを絡め取り、切断することで蠍座の権能を完封してみせた。

 

 ◆

 

 赤嶺は、もうすでに何人目かわからない征矢を殴り倒し、疲労の溜まってきた身体に喝を入れ直した。

 質より量をとったせいか、征矢ひとりひとりの戦闘力はそれほど高くない。というのも、赤嶺と高嶋の戦闘力が底上げされたおかげだ。

 春信の用意周到ぶりには頭が上がらない。

 とはいえ、次から次へと征矢が抽出され、友奈を奪い取ろうと襲いかかる。神樹も寿命が間近だからか、必死であることが伺える。

 高嶋の精霊による力がなければ、あっという間に数の力で押し負けていただろう。隻腕かつ指の一本欠けた高嶋と、赤嶺の知らない黒髪の少女とで二人一組のペアとなり、それが合計七組いる。

 高嶋の基本的な攻撃手段はやはり拳だ。そして場合によって大鎌を握る。

 しかし、やはりあの身体で自由に降ることはできないようだ。あくまで拳で届かない距離を補う程度のものだ。

 だからこそ、ぐんちゃんと呼ばれる少女の動きは、高嶋にできない動きを完璧にカバーしてみせている。

 黒光りする大鎌はまるで命を刈り取らんと涎を垂らしているように見える。

 征矢を斬りつけて血飛沫を上げる姿は、死神そのものだ。

 

「赤嶺さん、下がって!」

 

 東郷の鋭い指示が飛び、赤嶺は対峙していた征矢の集団から大きくステップを踏んで後退する。

 その瞬間、上から降り注ぐ砲撃によって、半径五メートルほどの同心円状にいた征矢たちを蒸発させた。

 中心を東郷と友奈とし、それを全方位から接近防ぐために囲うようにして防衛線を展開している。

 赤嶺の新たな装束は、これまで愛用していたスーツとは違って、特有の機能などは備わっていない。しかし防御力は圧倒的で、弱い攻撃ならば傷一つつかない。

 できればこの装束を過去に持ち帰って技術をコピーしたい、と考えてしまうが、今はそんな場合ではない。

 わらわらと向こうから幾らでも湧いてくる征矢たち。

 あれらは中身のない……魂のない器でしかない。赤嶺の腕の中で息絶えた征矢が成れ果てだというのならば、あれらは虚ろな人形だ。

 人間を思うがままに操り、操り、操った果てになお操る侮辱の最高潮。

「私のようにならないで」と願った彼女が、最も苦しむであろう運用。

 とはいえこのままではジリ貧だ。赤嶺も高嶋も体力が無尽蔵にあるわけではない。単純な耐久戦へとずるずる引き込まれているが、果たして征矢たちがいつになれば完全にいなくなるかなんてわからない。神樹のエネルギーが尽きれば当然いなくなるが、それは同時に人類の破滅を意味する。

 夏凛たちが天の神を食い止めている間に、なんとかして活路を見いださなくてはならない。

 ――転機が訪れる。

 赤嶺たちの頭上に赤い稲妻が走り、一直線に神樹へと伸びる。

 バチバチ! と耳障りな音を響かせながら空間に刻まれた裂け目が開き、外の世界と同じ光景を映し出す。さらにそこから、雑魚敵が圧倒的な物量で押し寄せてきた。

 是、獅子座の権能。

 

「まずい!」

 

 焦りを感じながら赤嶺は咄嗟に防衛線を下げる判断をする。

 

「高嶋ちゃん! 固まって!」

 

「了解!」

 

 この戦いは神樹、天の神、勇者による三つ巴戦だ。

 敵の敵は味方という展開が発生するわけもなく、戦場は大混乱に陥る。二次元平面のみを警戒しておけばよかった状態から一変し、上空から大口を開けて迫る雑魚敵の対処もしなければならない。

 最悪の展開に東郷は歯噛みする。

 ライフルを掃射して数を減らそうとするが、その代償として征矢たちへの注意が疎かになる。赤嶺と高嶋を無視して、友奈を殺すことに主眼を置いた突撃。

 対して神樹側も雑魚敵を倒しつつ、友奈を強奪する。

 加速度的に激化する戦場。

 体力も気力も容赦無く削られていく中、赤嶺はふと、左隣を通り過ぎようとする征矢のひとりを見た。

 行かせない!!

 咄嗟に気怠くなった身体を動かして、その首根っこを掴もうとした。 

 ――が、届かなかった。

 

「――――ぁ」

 

 届かなかった、というより、そもそも伸ばした左腕の先に自分の手がないのだ。

 そのことに気づいたのは、東郷の足元で小さく蹲る友奈に接触された瞬間だった。

 目まぐるしく状況が変化していく中、それは取り返しのつかない失態となる。

 素早い速度で友奈の腕を掴み、東郷から引き離した征矢は、バケツリレーの要領で一気に距離を引き離した。

 

「東郷さん……!」

 

 友奈の悲鳴に、遅れて気づいた東郷が目を見開く。

 形勢が完全に逆転し、我に返るまでの数秒間でもう遥か遠くまで連れて行かれている。

 雑魚敵たちも即座に身体の向きを変えて猛然と進む。

 

「――満開!!」

 

 躊躇う時間すら惜しかった。

 煌めく巨大な蒼い花。

 出現した戦艦に乗り込んだ東郷は、覇気迫る表情で叫んだ。

 

「乗って! 友奈ちゃんを追うわ!!」

 

 七人御先を解除した高嶋と赤嶺が素早く戦艦に乗り込むと、一気に加速した戦艦が、樹海の空を切り裂くように飛翔する。いかに征矢とはいえ、距離はすぐに詰められた。しかしクロスボウや弓で絶え間なく対空射撃してくるせいで、上手く地面に着地できない。

 このままではいずれ神樹のもとに到達されてしまう。

 

「私が行きます!」

 

 そう宣言したのは高嶋だった。

 

「行くって、どうするの?」

 

 赤嶺の問いに高嶋は、

 

「蹴散らす」

 

 とだけ端的に答えると、戦艦から飛び降りた。

 そして。

 

「――来い、酒呑童子」

 

 鬼の力を我が身に宿す。

 ……されど注意せよ。

 我が腕は隻腕。

 敵のど真ん中に飛び込むそれ即ち自殺行為と心得よ。

 それでも――

 

「もちろん、承知の上!!」

 

 ゴキ、ゴキ、と手甲が歪に変形し、凶悪な武器と変化する。地面に巨大な影が落ち、征矢たちは鬼を見上げる。

 

「ガアアアアッッ!!」

 

 咆哮。

 落下しながら左腕を高く振りかざし、着地寸前に地面を殴りつける。

 瞬間、空気と大地を揺るがすほどの衝撃を生み、敵を震撼させる。

 鋭く口の端から空気を吐き出した鬼は、前傾姿勢をとって爆発めいた初速度で駆け出す。

 鬼を屠ろうと集う征矢たちを一網打尽にしつつ、爪を地面に食い込ませ、獣の如き動きで樹海を駆け回る。

 ここで高嶋が友奈を救おうとする必要はない。それは赤嶺と東郷が代わってくれる。

 高嶋がここでなすべきことは、少しでもふたりの負担を減らすことだ。

 ならばこの高嶋、喜んで暴れまわろう!!

 

「かかってこいッ!! ふたりの邪魔は、私がさせないぞ!!」

 

 おお、鬼どもよ!

 ご覧あれ!

 ここに、鬼の頭あり!!

 神に歯向かう、鬼ぞあり!!

 愉快!

 実に、愉快なり!!

 

 爪を振るえば、征矢の身体を細切れにし。

 脚で蹴り上げれば、征矢の顎が消し飛ぶ。

 まとわりつかれれば、その喉元に喰らいつく。

 じわりと血の味が口の中で広がるのを感じながら、段階的に高揚する戦意を爆発させる。

 やがて高嶋を脅威と認識した征矢たちが一斉にサブターゲットとしてようやく排除せんと襲う。

 これで六割程度の注意は引けた。天の神側の敵は対応できないが、それは東郷たちがやってくれるだろう。

 視界いっぱいに広がる征矢たちを見て、高嶋は地面を蹴り、負けじと立ち向かった。

 

 ◇

 

 征矢たちの動きが変わったのを見て、東郷は素早く判断を下す。

 

「強行突破するわ!」

 

 雑魚敵はすべて、友奈を抱える征矢を目指している。そのおかげでこちらへの攻撃は対空射撃だけだが、それもいつまで持つかわからない。砲台も半分ほど破壊され、黒煙を巻き上げながら徐々に高度を下げつつある戦艦。墜落するのは時間の問題だ。

 このまま地面に衝突させてしまうと、爆発は避けられない。さらにその余波で友奈を傷つけてしまうかもしれない。それに、友奈を取り返せても、その後に待ち構えるのは征矢だけではない。

 自滅機構、発動。

 砲台から溜めたエネルギーを一点に収束させ、天の神によって生み出された空間を、自滅に生じる極大爆発で消し飛ばすのだ。

 蒼の極光となったエネルギー弾が臨界を突破し、自壊のタイミングを見計らい、

 

「総員、退艦!」

 

 という東郷の号令に従って一緒に戦艦から飛び降りる。

 その後、緩やかに高度を上げていった戦艦が赤い稲妻の狭間に突っ込んでいき――

 白い爆発が起き、無限の光と音が飽和した。

 断裂された稲妻がブチん、と裂け目を閉じたのを確認しつつ、地面に着地する。友奈まで目算でおよそ三十メートル。すぐに追いつける。

 幸い征矢たちも雑魚敵の対処で手一杯のようだ。

 だからといって余裕があるわけでもない。神樹との距離ももう間近だ。なんとしてでもそれだけは阻止しなくてはならない。

 疾走するふたりはまるで弾丸の如く。

 混戦状態の合間を縫うようにして走り過ぎ、ついに友奈を抱える征矢の前に辿り着いた。

 征矢はふたりの到達を勘付いたのか、神樹の目の前で立ち止まり、ゆっくりとこちらに振り向いた。

 

「……友奈ちゃんを、返して」

 

 上がった息を整える前に東郷は、必死さを隠しつつ告げる。

 

「断る。結城友奈と神樹様の神婚なしに、人類が生き残る手段はない」

 

 プログラムされた命令をただ述べているだけの岩石のような声。

 話が通じる相手だとはもとより想定していない。早々に対話を切り上げた東郷は、力づくで友奈を取り返すべくライフルを構えて前に出る。

 ぞろぞろと集まってくる征矢たちに攻撃してくるような素振りはまだない。

 もし友奈を一歩でも神樹の方向に近づけさせようものなら迷いなく発砲するつもりだ。

 

「私の言葉は神樹様の言葉と心得るがいい。人よ。人の子よ。なぜそこまで必死になる。たった一人の犠牲で、すべてが救われるのだ。人間はそのような損得勘定すらできない生命ではないはず」

 

「損とか得とか、そんな話じゃない!」

 

「では、何ぞ」

 

 そんなの、わかりきっている。

 神は人の機微を理解できない。

 人を守ってやろうという慈悲深さはあるが、それが必ずしも喜ばれる手段ではない場合がある。

 その極みが、これから行われようとしている神婚である。

 

「大切な友達を、助けるためよ!」

 

 そう東郷が叫ぶが、征矢には未だその真意が届いていないようだ。

 質問が重なる。

 

「結城友奈が神婚しなければ人は終わる。お前たちの行いは、人類の破滅に直結する。それでいいのか」

 

「それも嫌よ」

 

 答えを即座に返す。

 問答を交わすにつれ、征矢のバイザーの光量が増す。それに共鳴するかのように、他の征矢たちも同じようにバイザーが光り、異様な光景を生み出す。

 友奈を改めて担ぎ直した征矢は、憐憫とも言える声色で東郷を諭し、踵を返した。

 

「……お前たち人の在り方は歪だ。どうして矛盾していることがわかっていながら、そのどちらも貫こうとする。――不可解だ。ならばこそ、神樹様が迷い、苦しみ、嘆きからすべてを救ってくださるというのに。穏やかで平和な世界で、いつまでも生き続けられるというのに」

 

「待って!!」

 

 咄嗟にライフルを掲げて胴体を狙って引き金を絞る。

 しかし発射された光弾は、突如として現れた、見慣れた精霊バリアによって阻まれた。

 

「どうし、て……⁉」

 

 東郷が驚愕したのは、弾が防がれたことだけではない。

 防いだ精霊が、他でもない東郷の専属精霊だったからだ。

 それだけではない。味方であるはずの風や園子たちの精霊たちまでもが徒党を組み、征矢……神樹側の味方をしているのだ。

 

「助けて……!」

 

 友奈が必死に枝木に蝕まれていない左腕を伸ばして助けを求めている。

 飛び出した赤嶺が拳撃を繰り出すが、甲高い衝突音が響くだけで、大した傷すら与えられない。

 連れて行かれる。

 大切な人が。

 生きようと約束しあった大親友が、連れて行かれる。

 駄目だ。

 絶対に、駄目だ。

 神樹の中へ飛び込まれたらすべてがお終いになる。友達を犠牲にしてようやく成立するような世界なんて、滅びてしまえばいい。

 半狂乱になりながら赤嶺と一緒にバリアを拳で叩き続けるが、まるで歯が立たない。皮膚が裂けてしだいに感覚が無くなってきて、ついにその場に膝をついてしまう。

 精霊たちは未だ超然とその場に浮遊し、愚かな人間を見下ろす。

 ……園子と、銀と、東郷。

『ずっと一緒にいようね』という、小学生の時に約束。しかし、これが守られることはなかった。

 だから、もう二度と同じ後悔は繰り返したくない。

 それがたとえ、神に背くことになろうとも。

 だがその結果がこれだ。

 神の力を前にして、人間は何もできない。

 圧倒的な超存在の膝下で、顔色を伺うことで生存を許されている。それが人の現状だ

 悔しさと無力さに、強く握りしめた両の拳から血が滴るのにも気付かず、東郷は叫んだ。

 

「私達は人間だから!! 人間だから、この在り方は……間違ってなんかない……!!」

 

 いつだって正しい選択なんてできるはずがない。合理的な判断によってすべてが決断され、運営される世界に果たして喜びや慈しみなどといった感情は存在しているのだろうか。

 寄り道をして。間違って。すれ違って。

 そうした非合理を積み上げることは、決して悪ばかりではない。

 それが、人間の特性でもあるのだ。

 

 ――だからこそ。

 ――人は、すべてが正しい必要はない。

 

 不意に。

 背後からそよ風を感じた。

 俯いていた顔を上げた東郷の背中を、ぶわりと力強くなった突風が撫でる。

 そして、ひとりの少女が嵐を連れ、東郷と赤嶺の元に飛び出してきた。

 

「勇者……パアアアアアアンチ!!」

 

 憑依状態が解除されたボロボロで血塗れの少女――高嶋がそう叫びながら突き出したのは、『右腕』だった。

 右腕に実体はなく、白い不定形の光が集結して腕を象っている。

 手甲すら装備していないのに、精霊バリアを突破できるはずがない。

 しかし。

 ぴしっ。

 ぱきっ。ぱきっ。

 あれほど強固だった精霊バリアが激しく波打ったかと思うと、亀裂が走った。それは瞬く間に全体に広がり、鋭い破砕音と共に破壊された。

 その音が耳に届いた、あと数歩で神樹の内部に踏み入るところだった征矢の足が止まる。

 

「東郷さん。赤嶺ちゃん。立って」

 

 差し出された手を握って立ち上がったふたりは、バリアのその先に歩を進める。

 征矢たちは東郷たちを無視することはなく、まるで三人の到達を待っているかのように静かに佇んでいる。

 

「高嶋ちゃん、腕……」

 

 赤嶺が掠れ声で尋ねる。

 バーテックスに食い千切られたはずの腕を左手で擦りながら、小さく微笑む。

 

「ああ、これはちょっと、ね」

 

 はぐらかされたが、それ以上追及することはやめておいた。

 征矢は友奈を優しく地面に横たえさせると、高嶋に問うた。

 

「なぜ、バリアを破壊できた?」

 

 すると高嶋は白い右腕を掲げ、鈴のような音色で答えた。

 

()が、高嶋友奈だからだよ」

 

「お前は――そうか。お前は、この世界の……」

 

 高嶋の横顔はあまりに凛々しかった。

 

「神樹様。どうかお答えください。人間は、そこまで弱い生物なのですか? 神樹様の力がなければ生きていけない、非力な生き物だとお考えなのですか?」

 

 まるで高嶋ではない、誰かが乗り移ったたかのような大人びた言葉遣いだった。大人びた、というのはまだ少し控えめで、さらに具体的に表現するならば、精霊などといった、人智を越えた存在のような雰囲気を放っているのだ。

 征矢はやはり感情のない灰色の声で答える。

 

「――弱い。だからこそ、人は神の下でなければならない。ただ神の恩恵を授かる小人であれ」

 

「それは神樹様の一方的な思い込みでは? 大赦による徹底された隠蔽工作によって、人間の可能性はすべて潰されました。しかし今、その究極が、まさに目の前にいます。私達は人間です。成長し、進化するのが人間です。それを、どうか抑圧しないで頂きたい」

 

「…………」

 

 征矢はじっと友奈を見下ろす。

 友奈はぎこちない動きでなんとか立ち上がるが、枝木のせいで関節が上手く曲げられず、転倒してしまう。

 

「あ、うっ」

 

 征矢は手を貸さない。

 赤嶺が前に出る。

 征矢は動かない。

 すでに三人は大人数に囲まれている状況だ。その気になればすぐにでも無力化できるという意志表示か。

 友奈の側に駆け寄った赤嶺は、肩を貸すことでなんとか立ち上がらせる。

 

「人よ。人の子よ。いずれ『私』に至るであろう、異世界の、過去の私よ。鏑矢であるお前は神樹様のご意思を理解できるはずだ。何故、反抗する」

 

 ほんの三歩ほどの距離に立つ征矢を、赤嶺はじっと見つめる。

 赤嶺は口を開く。

 

「さあ? なんでだろうね? 私、脳筋だからそんなのわかるわけないじゃん。それは一番、お前が知ってるはずだと思うけど?」

 

「――――」

 

「でもね、これだけは確かなことがひとつだけあるよ」

 

「それは、何ぞ」

 

 背を向け、東郷の下に戻って行く赤嶺と友奈。

 ちらりと僅かに振り返った赤嶺は、

 

「教えない。だって、お前はあの子じゃないから。あの子の願いはもう、私のものだから」

 

 と答えた。

 

「……そうか」

 

 征矢はそれきり、赤嶺と会話をすることはなかった。

 途端、不思議なことが起きた。

 樹海の底から黄金の粒子が溢れ始め、それらが宙を漂う。そして、しだいに樹海全体が発光し始め、幻想的な光景を生む。

 さらに征矢たちの背後に鎮座する神樹にも変化が起こる。枝木の端の方から、ゆっくりと、その神々しい輝きが色褪せ、黒ずんでいく。

 もう、本当に寿命が近いのだ。

 神樹にリンクしている征矢たちがひとり、またひとりと灰となり、風に晒され、消えていく。

 

「問おう。結城友奈」

 

 それでも征矢は、依然として平静を貫いたまま口を開く。

 友奈は疼く祟りと呪縛の苦痛に耐えながら目を凝らして征矢を見上げる。

 

「――お前は、何を願う?」

 

 世界の行く末を問うのには、あまりに短すぎる問いだった。

 あと数分もしないうちに神樹は完全に朽ち果てる。そうなれば樹海化は解け、天の神による蹂躙が意識のある一般人たちを殺し尽くすだろう。

 友奈は大きく深呼吸した。

 脳に酸素が行き渡り、思考が鮮明になる。

 神の業に触れたことで変わった物語。

 苦しみ、悩んで、泣いて。

 犠牲もあった。

 それでも立ち上がり、人間であろうと足掻いた。

 神からすれば、それは些細な抵抗にしか見えなかったのかもしれない。

 でも、友奈は。

 友奈たちは。

 真剣だった。

 本気だった。

 だから答えなんて初めからわかりきっている。

 背後に立った高嶋が、白い手で友奈の背中にそっと触れる。

 瞬間。

 友奈の身体を通して温かい七色の波動が全方位に放たれる。着地点で、それらは人の形をとった。波動は留まるところを知らず、まだ溢れる。現れた人影は、最後の一人となった征矢を囲むように立つ。

 その数、数えること能わず。

 これらは、西暦の終末戦争から今まで、四国を守るためにその身を捧げた英霊たちの記録、残滓である。

 ひとりひとりが強い意志を持ち、愛する世界を守らんと奔走した少女たちである。

 彼女たちの願いが、想いが、祈りが、今、ここに集う。

 この中には、悲惨な死を遂げた者がいるかもしれない。幸せを感じながら人生を終えられた者がいるかもしれない。何も知らないうちに巻き込まれ、苦しめられた者がいるかもしれない。自ら四国の平和のために志願し、その生を捧げた者がいるかもしれない。努力して努力して、それでも報われなかった者がいるかもしれない。

 多種多様の、様々な背景のある少女たちはしかして同じく、ある目的のために必死に生きたのだ。

 流れ込んでくる、記憶。

 喜び。悲しみ。涙。苦しみ。笑い。

 そのすべてを友奈は見る。

 いつしか、一筋の涙が流れていた。

 止まらない。全然止まらない。

 両の目から流れ続けるこの熱い感情は、友奈のものだけではない。皆のものだ。

 

 ――頑張ったね。ありがとう。

 ――あとは、任せて。

 

 そう、胸の内に語りかける。

 目元の涙を拭ってくれたのは、赤嶺と東郷だった。

「ありがとう」と感謝を告げた。

 それから赤嶺の肩を離し、自分の力のみで立つ。

 歩く。

 その動きはとてもゆっくりで、今にも転倒してしまいそうだ。

 誰も手を貸さない。

 口を閉じ、白くなっていく地面をしっかり踏みしめながら友奈は確かに自らの力で歩く。

 歩く。

 そうして征矢の目の前に到達した友奈は、己の胸にそっと手を押し当てつつ、残り僅かな命の灯火を激しく燃え上がらせるように力強く答えた。

 

「――私達は人間である。だから、人間であることを願う」

 

「わかった」

 

 返事もあまりに短かった。

 しかし、征矢が手を差し出した。

 友奈も同じように手を差し出す。

 双方から伸びた手が触れ合う。

 その瞬間、征矢の身体は灰にはならず、白い波動となって友奈の身体に流れ込んでくる。

 さらに、友奈と征矢を囲んでいた光の少女たちも再び波動へと変換され、友奈へと収束していく。

 友奈を満たしていく。

 そして――――。

 

 ◆

 

 神樹が、崩壊する。

 友奈を奪い、強引に神婚へ持ち込ませるために征矢を大量に抽出したことで生命力を削っていた神樹の寿命が、ついに尽きる。

 約三〇〇年もの間、人々を見守り、守護していた神が終わる。

 大きな地響きが樹海を激しく揺るがし、神性を喪失した巨大な樹木が根本から折れ、ゆっくり、ゆっくりと倒れる。

 黄金の粒子が大量に巻き上がる。精霊たちが塵となって消える。

 その中心に、巨大な桜色の蕾がひとつだけ、ぽつんと佇んでいた。

 最後の力を振り絞り、神樹は蕾にすべてを注ぎ込む。樹海の底から伸びてきた、幾千、幾万本の黄金の糸が蕾へと伸びている。

 

 そうして。

 ついに。

 蕾が花開く。

 

 神樹の力が尽きたことにより、樹海化が解け、四国の活動が再開する。

 目覚めた人々は驚くことだろう。巨大な円盤が現れたと思えば、一瞬にして世界が赤く変質しているのだから。

 しかし、それだけではない。

 ソラに、巨大な花が咲いている。

 それは絶望とは真逆の、希望を人々に与える。

 

 友奈は薄っすらと瞼を開ける。

 満開すら遥かに凌駕した全能感に打ち震えながら、自身の外見の変化を見下ろす。

 征矢に似た光輪。

 右腕の手甲はやや巨大化し、神々しさを増している。

 黄金の装飾。

 白い装束。

 是、満開に非ず。

 是、大満開也。

 煌めく花の上に立つ友奈は、続いて心臓を貫かんばかりの激痛に顔を歪める。

 女神官は、もしもう一度勇者に変身すれば、その時が最期だと言っていた。

 祟りと呪縛に急速に蝕まれる。肌の上を蠕動しながら這い上がる蛆虫のような身の毛もよだつ感覚。

 元より友奈自身も残り少ない寿命なのだ。

 あと数分も持たないと冷静に分析する。

 天の神は友奈を脅威と認識したのか、重低音を鳴らしながら接近してくる。コアを深い赤色に変色させ、憤怒のオーラを渦巻かせている。

 神樹がいなくなったことにより、天の神の第一目標は達成せしめた。

 しかし、友奈という新たな脅威の誕生は、さすがの天の神も予想だにしなかったろう。

 右腕を強引に動かせば、皮膚を引つられながらも、絡みついた枝木が割れた。右脚は必要ないから無視。しかしながら折れた端から、再生しようと組織が膨れ上がり始める。再び覆われるまでまだ幾ばくかの時間はある。

 これで拳撃を放つことができる。

 今こそ、人々を苦しめてきた最大にして最後の敵を打倒する時。

 右腕を高く掲げる。

 渾身の力で叩き込むべく、意識を集中させる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しかし、その途中で何故か友奈は腕を下ろしてしまう。

 その様子を見ていた三人は戸惑いを隠せない。

 このままでは、駄目だ。

 友奈はそう判断した。

 大満開の力はとてつもなく強大だ。ネームドのバーテックスならば、何の苦労もなく一撃で倒せるほど。

 そしてこの力は、天の神にも通用する。

 もし攻撃すれば、きっとダメージを与えられる。

 これは確信ではなく、確定だ。

 大打撃を与え、四国から撤退させることができるだろう。

 しかし。

 それは違う、と友奈は首を振る。

 友奈の成し遂げたいことは違うのだ。それでは人は自由になれない。一時の平和が訪れるだけ。

 友奈が求めるのは、人が、人らしく生きることのできる世界。

 そこに神は不要だ。

 だからこそ、この力ではまだ足りない。

 

 ――破神(はしん)には、まだ足りない。




私達は人間である
神に振り回される時代は、もう終わりにしよう

次で終わります
それではまた次回!


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破神

前回のあらすじ
人の世界を取り戻せ


 神。

 それは人の上に立つ、絶対的存在。

 いつから存在していたかすら不明だが、遥か古代、それこそ人が知性を得て社会的行動をとるようになる以前から存在しているであろう存在。

 いつだって神は人を見ていた。

 時には恵みを与え。

 時には罰を与え。

 時には試練を与え。

 西暦になると神の存在は希薄になり、人間の発見した物理法則のもとに世界は運営され、目まぐるしい発展を遂げることとなる。

 果たして人間の何がいけなかったのだろう。

 いったい何が神の逆鱗に触れたのだろう。

 大赦も神樹も、それについては一切言及しない。

 きっと、神の領域に足を踏み入れようとしたからなのだ。

 だから罰として、天の神は世界中の人々を殺した。

 生物というのは、いずれはひとり立ちするものである。父と母に育てられ、成長し、自分の力で生きていく。

 それは神と人間の関係にも当てはまる。

 もう、十分育てられた。

 今こそ、神の元から離れる時。

 友奈は決意した。

 

 ◆

 

 危ない! と思った。

 天へと駆け上がる小柄な少女と夏凛に迫る蠍座の権能。

 樹はあれに殺された。

 自然と風の身体に力が入る。喉が詰まり、僅かな嗚咽が漏れる。

 二度と同じ光景は見たくない。

 風を再び立ち上がらせてくれたのは他でもない夏凛だ。恩人を、全く同じような形で失うわけには――いかない!

 そうよね、樹!!

 その時、風の横に緑の閃光とともに、スマホが姿を現す。

 

「――――」

 

 これは樹の遺品として常に持ち歩いていたスマホだ。

 それが、今になって、なぜ。

 すでに持ち主である樹はいないため、勇者アプリは起動しない。そもそも電源すら入れていないはずだ。

 疑問を抱く風を無視し、そのスマホはさらに光量を増す。

 やがて、ディスプレイ画面から目を見張る勢いで数えられないほど大量のワイヤーが放射状に飛び出した。

 途中で鋭角に折れ曲がったり、綺麗な弧を描いたりと様々な挙動をしつつも、その全てが園子の攻撃によって針を破壊された蠍座の大量の毒タンクへと飛びつく。

 そして幾重にも絡ませて切断したのを見た風は、全身が急激に熱くなった。

 世界の輪郭が曖昧に見え、とても言い表れぬ喜びに震える。

 熱い雫が頬を伝うのに気づかないまま、風は喉が裂けんばかりに妹の名前を呼んだ。

 

「樹……っ!!」

 

 姉の声に反応したのか、さらにワイヤーの本数が倍になって勢いを増す。

 次に天の神が行使したのは乙女座の権能だ。波状の歪みを超広範囲の空間に刻み、そこから大量の小型爆弾を投下する。

 今、最大戦力を有しているのは風ではない。満開の力なしでは恐らく天の神にダメージを入れられない。だから、皆が攻撃に集中できるようにサポートすることこそが風の役割!

 必ず防ぐ!

 意志が伝わったのか、ワイヤーが束ねられ、小型爆弾を迎撃するべく、一本の鋭利な棘が生成される。

 

「落とせ!!」

 

 風が手を大きく振り下ろすと、棘は緑色の尾を引きながら超高速でその悉くを貫いてみせた。

 肥大化し、続けざまに生じる大爆音に片眉を上げつつ、風は三人に精一杯の応援をした。

 

「いっちゃいなさい!」

 

 果たして声が聞こえたのかはわからないが、目に見えて三人の俊敏さが向上した。

 小さい方の赤い少女と夏凛は阿吽の呼吸で攻撃を繰り出す。

 風の知らない少女だ。

 しかし長年組んでいたパートナーのような非の打ち所のないコンビネーションだ。

 メインアタッカーはふたりに任せて、機動力の最も高い園子がふたりの援護にまわる。

 尾翼を大きく羽ばたかせてソラを飛び回り、天の神が次々に繰り出すネームドバーテックスの権能を風と連携して撃ち落とす。

 ふたつの赤は懸命にコアに斬撃を繰り出すが、それでもダメージを与えられない。

 すでに何撃目かすらわからなくなってきている。

 

「なんなのよこいつ……っ! 硬すぎ、でしょ……ッ!!」

 

 夏凛が隠すことなく悪態をつくと、目に入りかけた汗を拭う。

 そもそも夏凛たちと天の神のスケールがあまりにも違いすぎる。コアを守ろうとする防御行動すらしていない。

 夏凛たちを攻撃するこれは、ただの反射的行動に過ぎないのだ。その証拠として、天の神は速度を落とすことなく神樹を目指している。ふと後ろを振り向けば、征矢たちと戦闘を繰り広げていたはずの東郷たちがいない。

 つまり、何かしらの事故が発生し、友奈が連れ去られたことを意味している。

 片腕のない高嶋と赤嶺ではやはり荷が重かったか。

 咄嗟に追いかけようとした夏凛に叱責が飛ぶ。

 

『あたしたちの役割を間違えるな!』

 

 そう言って背中を叩いたのは、目をニッと笑わせた銀だ。

 そうだ。ただ信じるしかないのだ。

 必ず神婚を防いでみせると。また逆に夏凛たちも信じられている。

 それを無駄にしてはならない。

 獅子座の権能。

 灼熱の恒星が、降ってくる。

 切断は巨大すぎてまず不可能。防御に頼ろうとしても、精霊バリアが機能しないため、回避一択。

 樹海にダメージが与えられれば、現実世界に自然災害としてフィードバックされる。夏凛は苦虫を万匹噛み潰すような顔をした。

 だが、落ちていく恒星に立ち向かう、風の姿がある。

 

「はあああああああ……!」

 

 満開ゲージをひとつ散らせた風が、大剣を何倍にも巨大化させて両腕の筋肉に力を込める。

 ワイヤーが幾重にも重なってネットを編み出し、恒星を受け止める。

 しかしいくらワイヤーが強度が高くとも、完全に落下エネルギーをゼロにすることはできない。

 鈍い断裂音が続けざまに響き、ワイヤーネットが突破される。

 その下で、迎撃準備を完了させた風が、全長一〇〇メートルは優に超えるであろう大剣を振りかぶっている。

 

「私の女子力全開フルスイング、おみまいしてやるわ――!!」

 

 限界まで下半身に力を入れる。

 すると両足首まで重みで地面に沈み込む。いきんだせいで世界から音が消失し、視界いっぱいに恒星の赤が広がる。

 空気を根こそぎ混ぜるようにして振るわれる大剣は一見遅く見えるが、そこに込められるエネルギーは測り知れない。

 ブォォン! と全身を震わせる重い音ともにエネルギーが極点に至った大剣の面部分と恒星が――

 衝突。

 そして、樹海を揺るがす衝撃。

 

「ぐ、ゥ……っ!」

 

 重、い……ッ!

 風は千切れ飛びそうなほどの衝撃をもろに受ける両腕に、負けるなと激をかけながら歯を食い縛る。

 満開ゲージをさらにもうひとつ散らし、身体能力……特に筋力を底上げする。

 精霊バリアが発動しないことは夏凛の例を見ているから理解済み。

 もしここでせめぎ合いに負ければ、大剣は半ばから折れ、風の肉体は爆発に呑まれて一瞬で蒸発する。

 だから風にはもう、退路がないのだ。

 

「う、ぁ、ぁぁあああああッ!!」

 

 またさらに満開ゲージを消費する。

 それでも足りない。

 自然現象とも呼べるこの星落としを打ち返すには、まだ足りない!

 残り二つのゲージも躊躇いなく使い、風の筋力はかつてないほど強化される。

 だが、星に対抗するには、それでも、まだ……!

 腕の筋肉組織が嫌な音を立てているのが脳裏に響く。骨の軋む音も。

 いったい何秒呼吸を停止していたのだろう。

 しだいに視界の端から血色の赤がじわりと滲み始め、肉体に酸素が十分に行き渡っていないことを悟る。猛烈に脳が熱くなり、耳からどろどろに溶けた脳みそが溢れてきそうだ。

 しかし今、ひと呼吸をするために一瞬でも力を緩めれば、その瞬間に押し負ける。

 なるべく樹海に傷を与えたくないというエゴであることは認めざるを得ない。この攻撃を無視することで起こる現実世界へのフィードバック。起こるかもしれない事故はなんとしてでも防ぎたい。

 だが、どうしても勝てない。

 意識が霞んでゆき、ついに腕の力が抜けそうになった、その時。

 風の両手にそっと誰かの手が添えられた。

 風よりもひとまわり小さな手だ。

 

「――――」

 

 視界が定まらない風には、その輪郭をはっきりと捉えることができなかった。

 何もかもを灼きつくすような熱ではなく、温かくて優しげに満ちた熱が、一瞬にして感覚が希薄になった風の身体に活力を与えた。

 現れた影はこちらに頷きかけ、顔を近づけると耳元で、

 

『ここに、いるからね』

 

 と囁き、霧散した。

 

「いつ、き……」

 

 両眼を見開き、次いでくしゃりと顔を歪める。

 目尻に涙が滲み、光の粒となって舞い散る。

 直後――

 

「おお……おおおおおお!!」

 

 風の喉から裂帛(れっぱく)の気合が迸り、両腕を振り抜き、ついに星を打ち返した。

 それは一直線にソラへと駆け上がり、コアへと吸い込まれるように命中した。

 視界が白熱し、聴覚が飽和するほどの恐るべき規模の大爆発を引き起こす。

 空を滑空していた夏凛、銀、園子を容赦なく地面へと叩きつける爆風。

 しかしながら天の神に与えられた傷は、表面を僅かに黒く焦がすのみ。

 これが、初めてダメージと言っていいものだった。

 未だ収まらない痺れに顔を顰めつつ、風は天の神の次の出方を伺う。

 なんという、耐久力。

 絶対に神樹に近づけさせない、と初めは息巻いていたが、その自信が今、揺らいでいる。

 風がそんなマイナスな思考に陥ろうとしていた時、不意に銀の身体の端の方からゆっくりと光の粒子へと変換され始めた。

 それにいち早く気づいたのは園子だ。

 

「ミノさん⁉」

 

 悲壮な叫びに反応した銀は、自分の身体を見下ろすと、呑み込み顔で小さく笑った。

 

『あー、そろそろ神樹様の寿命が尽きるんだよ。きっと』

 

 その言葉に続いて、樹海の奥の方から黄金の輝きを放ち始め、七色の根を金色に染めながらゆっくりと壁方向に向かって変化が現れ始める。

 鋭く息を呑んだ園子は、方舟から飛び降りて一心不乱に銀に抱きついた。

 

「待って! 駄目! 行かないでっ!! まだわっしーにも会ってないのにさよならするなんて駄目!!」

 

 やれやれとばかりに肩をすかした銀は少し寂しげに嘆息した。

 

『そうか。そうだよな。こうして奇跡が起きたんだから、せめて須美の泣き顔を拝んでから逝きたいな』

 

「そうだよ! 絶対わっしー喜んでくれるから!」

 

『ああ……でも。ここを離れるわけにはいかないし、今から向かっても間に合うか……』

 

 そう言っている間にも銀の身体は分解されてゆく。

 掠れ声で「待って! 待って!」と繰り返す園子はぺたぺたと銀に触れて空中に解けてゆく粒子をくっつけようとするが、まるで意味を為さない。

 そしてついに。

 奥からひときわ強い光が四方八方に拡散し、一瞬だけ樹海を白く染め上げた。

 同時に、四国の要であったはずの神樹がゆっくりと倒れる。その様子を四人は黙視する。

 神樹――地の神の結束が解け、それぞれに分かたれたことによって樹海の維持が困難になり、根が消失し、見慣れた町並みが表出化する。

 それは同時に一般人たちの時間停止が解除されることを意味している。

 いったい何が起こったのか。

 神樹が消失したということは、神婚の阻止に成功したわけであるが、目を見張る夏凛たちの視線の先には、まだ形が保たれている樹海の底から無限の黄金の糸が伸びる。

 その伸びた先には、巨大な蕾が出現している。

 神樹のエネルギーをありったけ受け取った蕾がついに満開する。

 満開時に空に咲く花なんてまるで比にないらないほど神々しく、力強い。

 世界が誕生を祝福するかのように花弁が舞い上がる。

 

「行きなさい!」

 

 そう言い放ったのは、刀の柄を握り直した夏凛だった。

 

「時間がないのなら、はやく東郷のとこに行ってやりなさい。天の神なら、その間私が足止めしてやるわ……といっても、初めから本当にできていたのか怪しいけど」

 

「にぼっしー……」

 

「世界の危機だからって感動の再会をお預けさせるほど私はわからない人間じゃないのよ。もしこの判断が最悪の結果を招いたとしても……私は間違って無いって、確信できるわ」

 

「……ありがとう」

 

「さっさと行きなさい! 私の気が変わらない内にね! ……あ、風はもちろん私とここに残るのよ」

 

「わかってるわい」

 

 自身の胸に手を乗せた夏凛を見た銀は、同じ動作をする。

 深く頷いた園子は、銀の手を握って再び方舟に乗り込んで最大戦速で崩壊した樹海を駆け抜ける。

 間に合うように必死に祈りながら、方舟の操縦桿代わりに浮遊する両脇の宝玉を強く握る。

 ほんの数秒で倒れた神樹の跡地に到着し、銀を抱きかかえながら、呆然と空を見上げる東郷の下に飛び降りる。

 

「わっし――!!」

 

 呼び声に気づいた東郷と、その横にいた赤嶺と高嶋がこちらを振り向く。

 

「そのっ……、い、いえ――銀⁉」

 

 目を剥く東郷はおぼつかない足取りでふらふらと歩き、すでに三割ほどの身体を喪失した銀の頬に、割れ物に触れるかのような繊細な手付きで手を添えた。

 

「銀、なの……?」

 

『おうとも! さっきまで向こうで夏凛さんと一緒にどんぱちやってたんだぜ!』

 

 そうサムズアップしてみせた銀を見る東郷の目尻にはあっという間に涙が溜まった。

 そのまま滝のように流し、嗚咽を漏らす東郷は銀の小さな身体を力強く抱いた。

 

『おおう……須美もでかくなったなあ……色々と』

 

 少し窮屈に感じた銀は僅かに息を詰まらせながら率直な感想を述べる。

 とはいえ、銀の時間はもう残されていない。神樹が崩壊した今、銀を構成するリソースはいつ消えてもおかしくないのだ。

 やや団欒の方向に向かいかけた空気を、銀は表情を改めることで修正した。

 

『須美。園子。もう時間がないから、これだけ言わせてくれ』

 

 東郷の抱擁から解放された銀は、ふたりに手を差し伸べた。

 ふたりはもうほとんどが崩れかけているそれをとった。

 

『あたしは、お前たちに会えて本当に嬉しかった。最高に輝いていて、幸せだった。だからあの時の責任とか、そういうのを感じてほしくない。前を向いてほしい。お前たちには未来があるんだからさ』

 

「銀も……銀も、私達と一緒に……!」

 

『駄目だ、須美。それだけは、駄目だ』

 

「どうして……!」

 

『もうあたしは死んでるから。本当はこうして会話ができるなんてすごく奇跡なんだぞ?』

 

 わかっている。

 わかってはいるものの、どうしても願望を抱いてしまう。

 突然、何かしらの不思議パワーが銀の肉体を完全に復活させてくれるのでは、と。

 それは完全なる死者蘇生。征矢も似たようなシステムだったはずだ。

 しかしもはや神樹にこれ以上の力は行使できず、銀の受肉なんて到底不可能だろう。

 

『あたしがいなくなっても、記憶や思い出までもが消えるわけじゃない。あたしという人間は、お前たちが忘れない限り、お前たちの中で永遠に生き続ける』

 

 泣きじゃくる東郷と園子の掴む手をゆっくりと引っ張り、自身の胸に押し当てさせる。

 これは夏凛にも伝えたことだ。

 ボーイッシュな笑顔を浮かべた銀は、

 

『あたしの中にも、お前たちの中にもあるんだから。ずっとな』

 

 と言った。

 

「ありがとう……銀」

 

『ああ! 園子も、これからも須美と仲良くやっていけよ?』

 

「も、もちろんだよ……!」

 

『んじゃ、本当にお別れの時間だ。もう、あたしがお前たちの前に現れることはないだろう。だから、またね、とは言わない』

 

 手を離し、ふたりから一歩引いた銀は大満開へと至った友奈を見上げ、僅かに口角を上げた後、片手を肩の位置まで上げて――

 

『ばいばい』

 

 と別れの言葉を言った。

 ふたりが涙に濡れる瞼を瞬きさせた時にはすでに、銀はもうそこにはいなかった。

 微かに残りの粒子が舞うだけで、ついに最後のひと粒が空気に解ける。

 その様子を最後まで見届けた二人は、

 

「「ばいばい」」

 

 と笑みを浮かべながら別れを告げたのだった。

 

 ◆

 

 地上で感動の一幕が終わるのを待っていた友奈は、いざと顔を持ち上げる。

 破神を為すためには、まだこの力では足りない。神樹という統合樹からのエネルギーの供給だけでは。

 右腕を高く掲げた友奈は、鍵を回すように腕を回転させた。

 途端、神樹の倒れた跡地から巨大な桜色の光の柱が、天へと屹立した。

 轟音とともに伸び上がった光は樹のシルエットとなりながら、赤に染まった空を貫く。それだけではなく、天の神よりも遥かに高く――、それこそ宇宙へと到達するほど伸びたところで何かに衝突したかのように光が四方八方に拡散する。

 拡散した光は枝木となり、ソラを覆い尽くす。緑の葉を蓄え、四国全土に影が落ちる。

 緑と光は地平線を埋め尽くし、それに留まることなく彼方へと広がり続ける。

 これぞ、神の業の極地。

 温かみと人情に溢れた、

 神へと至る、

 人の業。

 

 神よ……地の神たちよ!

 人間の世界を築くため、どうかあなたたちの全てを、私に与え給え――!

 

 ◆

 

 誰一人いなくなった大赦本部、友奈が監禁されていたであろう本殿にいた春信は、破壊された壁から突如桜色の光が差し込んできたのを見た。

 征矢がここでどれほどの死闘を繰り広げたのかは、本殿の崩壊度合いから容易に察することができる。強固な素材で固められた床や天井はボロボロに割れ、乾ききった血溜まりを見下ろした春信は、光の正体を探るべく壁に近づき、そして瞠目する。

 巨大な円盤はソラに健在であり、あれなるは、まさに天の神。

 尚更春信は困惑した。

 なぜ、オレは今動けるのだ? と。

 そして瞬時に悟る。神樹がいなくなったのだと。

 人類の敗北を悟った春信は、しかしてならばこの光はなんだと不思議に思う。

 そして気づく。

 天の神などよりも遥かに巨大な……それこそ、四国のすべてを覆い尽くさんばかりの巨大な樹の存在に。

 あまりに規格外過ぎてすぐには気づけなかった。無意識に仮面を外し、唖然とした口のまま天を仰いだ。

 緑……いや、葉だ。

 光と、葉が四国を覆っているのだ。

 そよ風が吹き、顔を撫でる。

 植物特有の、落ち着いた香りが鼻腔を優しくくすぐった。

 その瞬間、春信のこれまでの練り固まっていた思考が解されるような感覚に襲われた。

 

 オレは今まで……何をやっていたのだろう。

 

 大人になっていく中で、子供の頃に抱いていた純粋さ、わんぱくさ。

 とうの昔に捨てた懐かしい感情が胸中で渦巻く。

 それでも春信の信念は揺るがない。

 しかしながら、この揺らぎを与えてくれたことには感謝しなければならない。

 短い期間だったが、共にお役目についたあの少女のことを想いながら、春信はあの樹に奇跡を願った。

 お前もこの光景を見ているのか、と。

 どこからか吹いた風が、そんな男の願いを空へと送り届ける。

 

 ◇

 

 女神官は勇者たちの次にもっとも天の神に近い位置――海岸沿いに建てられている英霊之碑でひとり静かに佇んでいた。

 他の神官たちは神樹の下へ召されようと大赦本部の、自然広がる大広間で祈りを捧げている。

 信仰の厚い者から神樹に召されるというが、恐らくもう全員が灰となり、黄金の稲穂へと姿を変えていることだろう。

 しかし神樹はいなくなり、稲穂となった神官たちの意識はどこかへと消え去っただろう。

 では、なぜ女神官は彼らと行動を共にしようとしなかったのか。

 ここに女神官以外の人間が来ることはないというのに。

 それは、心のどこかで、人としての在り方について思う所があったからなのかもしれない。

 仮面はとうに暴風によって吹き飛ばされた。

 感情の窺えなかった素顔が明らかになる。

 空は無限の光に埋め尽くされている。その中では、天の神ですら矮小な存在にすら見えてしまう。

 それほどまでに、圧倒的で、極大な存在。

 かつて、年端のゆかない小学生たちが勇者の御役目を頂戴した。その結末は悲惨としか言い表せなかった。

 三ノ輪銀が死に、犬吠埼樹が死んだ。

 仕方のない犠牲と割り切ってしまう、こうも歪な世界が存在して良いのだろうか。

 と、今の勇者たちならそう言うだろう。

 この様子だと神婚も不成立なのだろう。

 だからこそ、あの光の樹はいったい何なのだろうと女神官は疑問に思った。

 ここで初めて、女神官は神樹以外のものに心から祈った。

 

 どうか、真の平和が訪れますように。

 

 女神官は、涙に濡れる瞳で懸命に空を見上げ、祈った。

 それは銀色の風となって、空へと届けられる。

 

 ◇

 

 屋敷の縁側に腰を下ろしていた衛宮切嗣は、ソラで対立する赤と緑をただ静観していた。

 裾に腕を突っ込み、袴に下駄という脱力しきった格好で見上げている。

 そこにドタドタと騒がしい足音を鳴らして切嗣の横に立ったのは赤毛の青年、衛宮士郎だ。

 

「親父! なんかやばいことが起こってる! さっさと逃げるぞ!」

 

 血相を変えて詰め寄る士郎を一瞥した切嗣はのんびりした口調で諭した。

 

「いや、その必要はないさ」

 

「はあ? そんなわけないだろ……ああ、セイバーの宝具ならあのよくわからない円盤をぶっ飛ばせるからか」

 

 同時に常人離れした速度で中庭に飛び出たのは、西洋寄りな顔立ちの少女だった。カジュアルな普段着から一変、即座に銀色の甲冑を纏い、風の纏う剣を握り、ソラを睨み上げた。

 剣を振り上げると、魔力が剣に集中し、光の奔流がセイバーを中心として舞い上がり始める。

 

「セイバー!」

 

「シロウ! 下がってください!」

 

「……いや。止めるんだ、セイバー。君の宝具でもあの円盤を撃ち落とせないくらい、わかるだろう」

 

「…………」

 

 少しだけ苦そうに眉を寄せたセイバーは、ゆっくりと剣を下ろした。

 

「な、なんでだよ! セイバーならあんな奴倒せるんじゃないか⁉」

 

「ならセイバーに訊けばいいさ」

 

 と言って話を振られたセイバーは、残念そうに首を横に振る。

 

「すまない、シロウ。確かに切嗣の言う通り、私の聖剣では傷をつけられるかすら怪しい。英雄王ならできるかもしれませんが……」

 

 とはいっても英雄王ギルガメッシュはここにいない。というより、あの円盤をどうにかしてくれと頼んでも、あの絶対俺様系王様が一つ返事で了承してくれるはずがない。

 だというのに、切嗣はいっそ気味が悪いほど穏やかな表情だ。セイバーはそんな様子を訝しみながら問うた。

 

「なら、どうするというのですか?」

 

 すると切嗣は天を指差した。

 

「……祈るのさ」

 

 天には、広大な緑が広がっている。

 それらは、凛々しく立つ大樹から無限に伸びる枝木から生えた、葉である。

 驚きや恐れといったものはなかった。

 屋敷に入り込んでくる切嗣の痩せた頬を撫でたそよ風に、あの少女の匂いを感じたからだ。

 太陽のような、あの少女の。

 

「セイバーと士郎も祈るといい。あの樹にね」

 

 それだけ言うと、切嗣は静かに瞼を閉じる。

 ふたりはなんとも言えぬ気持ちになりながらも、顔を見合わせ、士郎、そしてセイバーの順に祈り始めた。

 その祈りは、遙か空へと届けられる。

 

 ◇

 

 楠芽吹は初めて見る空に驚愕しつつも、恐れることはなかった。

 千景殿。

 天の神が降臨した際に、一緒になって四国に侵入してきたバーテックスたちを迎え撃つために建てられた、大橋と並んで数えられる四国の霊的国防装置のひとつ。

 今はもう見る影もないほど破壊され、ボロボロだが、その役割を見事果たしてみせた。

 防人たちもただでは済まず、例外なく皆が満身創痍だ。

 大赦本部で相手取った侵入者には敗北し、本殿への侵入を許してしまった。何を盗まれたのかまでは芽吹も知らない。しかし今思えば、あの侵入者は完全な悪人といった感じではなかった気がする。

 なぜなら、こうして防人全員を軽傷だけで無力化してみせたのだから。

 もしかしたら、この戦闘を予期して加減してくれていた……?

 あり得なくは……無いかもしれない。

 

「びゃああああああ〜〜!! 終わりだぁあああああ!! 世界の終わりだああああああ!!」

 

「少し黙りなさい、雀」

 

「ぢゅん!!」

 

 ひとつ軽い拳骨を頭上に落とし、静かになった雀に嘆息してから改めて空を見上げた。

 天の神のさらにその上の空を支配する、無数の枝木。青々と生い茂る葉は、あまりにも美しかった。

 

「……見惚れる光景ですわね」

 

 そう呟いて芽吹の横に立ったのは、ボロボロになった弥勒だった。

 

「そう、ですね。あれは何だと思います?」

 

「そうですわね……きらめき……でしょうか」

 

「少し痛い言い方ですけど、なるほど。そう言われるとそんな気もしますね」

 

「さり気なくディスっていませんこと⁉」

 

 目くじらを立てる弥勒を軽くあしらった芽吹は、呆然と空を見上げているしずくに近づいた。

 

「……楠。あれは、人の……想いの結晶」

 

 少し難解な表現を口にしたしずくは、戦衣についた土埃を払った後、ゆっくりと腕を持ち上げて指差す。

 

「楠は……何を想う? 何を祈る?」

 

「…………」

 

「私は……死にたくない。楠たちと、いつか防人じゃなくなっても一緒にいたい。幸せになりたい。シズクも私と同じように幸せになってほしい。皆に幸せになってほしい」

 

 すべてを挙げたしずくは両手を合わせ、祈りの仕草をとった。

 

「た、たくさんあるのね」

 

「別にひとつじゃないといけない決まりなんてない。そうでしょ?」

 

「……そうね」

 

 芽吹はしずくと同じ動作をして、祈ることにした。

 隊長に続いて、すぐさま他の防人たちも祈りを捧げた。

 芽吹は、神に振り回される時代が終わりますように、と祈った。

 弥勒は、この世界が終わりませんように。それと弥勒家が再興しますように、と祈った。

 雀は、死にたくない、と誰よりも強く祈った。

 皆も同様にそれぞれの祈りを捧げる。

 それらはしっかりと、空へと届けられる。

 

 ◇

 

 人々は一瞬にして空を赤く染めた天の神に恐れおののく。

 人の種の終わり、来たれり。

 これまで神樹と大赦によって徹底して規制されていた情報が春信によって暴露されたことにより、人々はあれが天の神という存在なのだろうと漠然と予感した。

 人を絶滅させようと、自ら推参する。

 しかし、突然空が拡散する光に上塗りされる。

 その中心となる光の大樹は、神樹よりもさらに神々しく人々の目に映った。

 だからこそ、それに対して自然と身体が動いていた。

 

 それは、祈ることだ。

 

 それぞれの胸中に宿る想いは異なっていたが、祈りと願いは同質で、強さは同じだった。

 老人たちは、この愛する世界が存続するように祈りを捧げた。

 大人たちは、愛する者たちが笑える世界のために祈った。

 子どもたちは、明日も友達と一緒に遊べますようにと祈った。

 この世界に生きる人は、何も全員が全員、善人ではない。悪人だって同じ。

 ボロアパートに住む男も例外ではなかった。

 眠たげな瞼を擦りながら、今にも割れそうなガラスの引き戸を開ける。

 無造作に伸びた顎髭に触れた後、もう一度瞼を擦って意識を覚醒させる。

 男が見たものは、この世の終焉と言ってもいいほどのカオスだった。

 血色のペンキがぶちまけられたような空。

 そこを悠々と進行する、異様な雰囲気を放つ円盤。

 俗世に疎い男でもあれは知ってる。

 さんざんメディアで騒がれていた存在、天の神だ。

 ついに死ぬときが来たのか、と男はあっさりと現実を受け入れる。

 男は盗みで生計を立てている。

 罪に塗れた人生。

 そういえば、あの少女はどうなったのだろう、と記憶の片隅が呼び起こされる。

 確か女性のバッグを掠め取り、その現場を目撃された中学生くらいの少女に追跡された記憶。

 なんとか振り切れたものの、その直後に耳に届いた衝撃音は、間違いなく車と激しく接触した音だった。

 男の僅かに残っていた良心がちくりと痛む。

 その時、一瞬にして空に緑の光がさああ、と広がった。

 それを見た瞬間、男は数年ぶりに心が感動に打ち震えるのを感じた。

 胸の内がきゅうう、と熱くなる。頬を熱いものが伝うのにも気づかず、知らず知らずに両手を合わせて空に祈りを捧げていた。

 実のところ、その内容は空っぽだった。

 でもそれでも良いと思った。

 ただどうしても、心を揺れ動かしてくれたことに、感謝がしたかった。

 足を洗うか、と男は改心した。

 罪人にも等しく、祈りを届ける権利は与えられる。

 

 ◇

 

 世界から隔絶された四国を包み込む、広大な大樹。それに、地上から空へ巻き上げられる祈りや願い、あるいは想いが数百万の花弁となって、届けられる。

 それらは一つ残さずすべて受け入れられる。

 数多の星ぼしすら霞むほどの極大まで集約されたエネルギーの光が、四国の辺境から順に、波となって葉を揺らしながら、ある場所へと流れ始める。

 それは、大樹の中心。

 神の業をも超え、真に神へと至らんとする、結城友奈の、天へまっすぐ掲げられた右腕へと。

 

 ◇

 

 高嶋はそんな超現象を見上げていた。

 酒呑童子を身に宿し、征矢の軍団を力でねじ伏せていく内に、いつの間にか誰かに意識を乗っ取られていた。

 しかし今、乗っ取っていた何者かが消えようとしていた。

 徐々に身体の制御が変換される。白い右腕もゆっくりと消えてゆき、ついに、完全に高嶋の中からいなくなった。

 そして悟る。

 今消えた存在こそが、自分を蘇生してくれたのだと。

 光の波動は次第に大きくなり、友奈の元へと集っていく。地上から絶え間なく空へと届けられる花弁はただの花弁ではない。

 人々の心の力が結晶化したものなのだと直感する。

 あまねく天蓋に伸びる枝木は注がれる力のせいか、目に見えて活力が上がり、一際強く光を放つ。

 この世界は、今、祈りに満ちているのだ。

 

「結城ちゃん……!」

 

 高嶋は友奈の名を叫び、両手を上にかざした。

 たとえ異世界の、それも過去の人間であろうと、祈ることは人の特権だ。

 だから、この祈りも、どうか届いて――!

 

 ◇

 

 赤嶺は涙を流していた。

 神の業に手を出した罪として処分しようと対峙した時、友奈はこれを『人の可能性』だと言っていた。

 もう、それを否定する理由も、気力も赤嶺にはなかった。

 なぜなら、友奈の生み出したこの景色が、あまりに美しすぎたから。

 この世界に来てから、泣いてばかりだ。

 赤嶺は自分を笑った。

 笑いながら、泣いた。

 隣の高嶋の真似をして赤嶺も右腕を高く掲げた。

 結城ちゃん。

 あなたを、心の底から信じるよ。

 

 ◇

 

 東郷と園子はすでに泣き止んでいた。

 銀との別れはもう済ませた。

 銀は言った。思い出はいつまでもここにある、と。

 互いの胸に上に手を置いたふたりは、それぞれの呼び方で友奈の名を叫んだ。

 その声は実体を得る。

 

 ◇

 

 夏凛と風は満身創痍の身体を互いに寄せ合っていた。

 もう指先ひとつ動かせない。荒い呼吸をしたまま、敵わなかった神を見上げる。

 天の神は未だ健在。しかし、その侵攻は停止している。

 それは天の神をも超える圧倒的な侵食。

 それは天の神のような悪逆の侵食に非ず。

 確かな温かさに満ちた、優しい緑の光。

 友奈だ、とふたりは瞬時に直感した。

 あとは、お願い……!

 縋る気持ちで祈りを捧げた。

 

 ◇

 

 勇者たちの祈りは、すでに消えたはずの牛鬼が小さな羽を羽ばたかせることによって、無事に届けられた。

 

 ◆

 

 ついに祈りの力がひとつになる。

 地からは神樹の結束が解かれてそれぞれの土地へと戻っていった神々の承認――神威が四国の地中に張り巡らされた根から汲み上げられる。

 光が枝木の端を白く燃やしながら収縮し、ついに炎が中心へと集う。

 大樹はすべて燃え尽き、瑞々しい最後の葉が一枚だけ宙に残る。

 そして、練り上げられた人と神のエネルギーの集大成はただ一滴の水滴に凝縮される。

 葉脈に従ってジグザグに進みながら重力に引き寄せられて下に落ちてくる。

 葉の先へと到達した水滴が、ゆっくり、ゆっくりと雫となって滑り落ちる。

 一瞬だけ七色に煌めき、友奈の掲げる純白の手甲へ目掛けて落ちる。

 これなるは、人の身には有り余る一滴。

 如何に神の業に触れた友奈といえども、ただでは済まない。勇者ではなくなり、そもそも人間ですらなくなる。

 変質する。

 

 それこそ――

 神の業の先。

 即ち。

 人から誕生せし、真正の神へと。

 

 一メートルにも満たない落下をついに果たした雫が手甲に触れた、その瞬間――。

 世界が白く染め上げられ。

 結城友奈という人格は、一瞬にして神格によって塗りつぶされた。

 人の感覚を超越し、全てを鮮明に知覚することができる。

 四国に存在する、生物無生物の森羅万象を、友奈の脳が理解する。

 全身が星の輝きに包まれる。

 すでに樹海は完全に喪失し、友奈の生み出した光の大樹もない。

 ここに存在する神は、結城友奈と天の神のみ。

 ふわりと地上に降りた友奈は、その傍らに座り込む東郷を見下ろす。

 

「友奈、ちゃん……」

 

 その姿は、神といえどもあまりに痛々しい姿だった。

 勇者アプリを介していないとはいえ、神樹の力を全開で享受しているのだ。当然、神の呪縛と天の神の祟りはこれでもかと言わんばかりに友奈を犯す。

 急速に成長した枝木は友奈の首を絡めるように伸び、顔の右半分を埋め尽くし。

 赤く歪な紋様は、いっそう赤あかと光を放ちながら左半分へと領域を広げる。

 

【挿絵表示】

 

 しかしそれに苦しむことも呻くこともなく、友奈はやや寂しそうな表情を浮かべた。

 

『東郷さん』

 

 それは、人の声ではなかった。

 口を開くこともなく発せられたのは、神の声だった。

 細くありつつも、二度と忘れられないほど美しい、オーロラのかかるような声。

 人工的、自然的にも発生しない音の羅列が東郷だけでなく、周りにいた高嶋と赤嶺、園子の身体の中に深く染み込んだ。

 

『これを、あなたに』 

 

 続いて友奈が握っていた左手を開くと、そこには黄色のミサンガが乗せられていた。

 それを見た赤嶺はハッと友奈を見上げる。

 対して友奈は静かに微笑むだけだった。

 たったそれだけでも赤嶺のすべては友奈に釘付けとなってしまう。それほどの神の威光だった。

 東郷がおずおずと差し出した手にミサンガを落とすと、友奈は四人に踵を返した。

 

『行ってくる』

 

 それだけ告げると、思い切り地面を蹴る。

 この世界に神は不要である。

 天の神は当然として、神へと到達した友奈も例外ではない。

 ゆえに。

 ――この一撃に、神の力をすべて注ぎ込む。

 友奈が展開した白銀の世界を侵そうと天の神も全力を出す。自身を中心に異界化を加速させ、瞬く間に赤く染め直す。

 さらに、己の存続の危機を察知した天の神はコアから超高出力の光線を放った。

 爆発的な加速でソラへと駆け上がる友奈はそれを正面から受け止める。

 神となったとはいえ、その身体構造は人間と全く同じだ。体躯の差という圧倒的なハンデを背負う友奈は些か不利。

 純粋な力としての光線は、友奈の加速を殺そうと容赦なく降り注がれる。

 しかし、負けじと下顎に力を入れた友奈は、雄叫びを上げながら猛然と天の神に抗う。

 手甲に埋め込まれた七つの宝玉が輝きを放ち、友奈の足元にブースターとなる陣が七つ展開され、さらに爆発的な加速を得る。

 そうしてコアまであと数十メートルとなったところで、さらに光線の力が強まる。

 まっすぐに突き出した右腕も超高火力には耐えられず、じわじわと押されてゆく。

 負けられない。

 負けない。

 負けてなるものか。

 破神なくして人に自由は訪れない!

 そのためには……天の神、お前が邪魔だ!

 その瞬間、時間がどこまでも引き伸ばされるようなゆったりとした感覚に襲われた。

 そして、見る。

 視界の端から、大きく翼を羽ばたかせてこちらに接近してくる青い鳥の姿を。

 それもただの鳥ではない。とてつもなく巨大なのだ。さらにその背中には数十人ほどの少女が乗っている。

 鳥は友奈の真横にぴたりと追随した。

 少女たちのうちのひとりが、宙を浮遊してゆっくりと友奈に近づく。

 友奈と瓜二つの容姿で、髪飾りを友奈とは逆につけている少女だ。

 

『ありがとう。異世界の私と仲良くしてくれて。私も嬉しいよ』

 

 続いて接近してきたのは、ふたりの少女だった。ひとりは金髪で小柄、とても活発そうな子。もうひとりは、黒髪で百七十センチほどありそうな高身長で、目元がやや気怠げな子だ。

 なかなか面白い凸凹コンビ。

 

抜本塞源(ばっぽんそくげん)! 我々『友奈』は君に最大限の力を貸そう!』

 

『あのよくわからんクソ神をぶちのめしてやれ。リリ奈の言う通り、私も力を貸すぞ』

 

 さらに現れたのは、友奈も見慣れた人物だった。

 バイザーで顔を隠し、白銀短髪の少女。

 征矢……旧名、赤嶺友奈だ。

 赤嶺はそっとバイザーを外すと、優しげに微笑みを向けた。

 

『お前がどんな選択をしようが、私達はそれを支持する。……せっかく私が助けてやった命だ。無駄にはするなよ?』

 

 そして彼女たちは友奈に触れ、力を貸し与えると姿を消した。

 あの鳥の上にいるのは、全員が友奈だと直感する。

 高嶋友奈を始めとして、天の神に対する特効となる呪いを有した友奈たち。神世紀が始まって今日までに生まれ、死んだ友奈たち。

 姿形、雰囲気などは個人によって様々だが、全員共通して似た顔立ちだ。

 全員が鳥から離れ、友奈の背中に順番に触れ、力を与えて消える。

 最後のひとりの力が友奈の中に馴染んだ瞬間、この上ない活力が漲った。

 誰もいなくなった鳥は、友奈の下へ回ると、光を放ちながらその姿を変え、八つ目の青いブースターとして支えとなった。

 いける。

 友奈は確信とともに、上を向いた。

 

 結城友奈は勇者ではない。

 

 ゆえに『勇者パンチ』と叫ぶのはここでは不適切だろう。

 でも。

 友奈に力を与えたあらゆる存在は、総括して間違いなく『勇者』だった。

 だから。

 その功績を借りることにする。

 極光を乗り越え、ついに拳の間合いへと入った。

 

【挿絵表示】

 

 両眼を見開く。

 友奈は上半身を限界まで拗じらせると、目を剥き、世界が割れんばかりの大声量で叫んだ。

 

『勇者……パアアアアアアアアアアアアンチ!!!!』

 

 突き出した拳は、寸分の狂いもなくコアに吸い込まれた。

 激突。

 巨大な閃光と爆音が立て続けに世界を震わせる。

 硬質な抵抗があったが、それをものともしない強さで、ついにコアを破壊する。

 それだけではない。結束が強制的に解かれ、個々となって天へ還ろうとする神々を逃がすまいと、拳の先から桜色の奔流が無限に拡散する。

 それらは煌めく流星の如く天を駆け、人の関与できない領域まで上昇しようとしている星たち――神核のすべてを正確に撃ち抜き、不可逆的に破壊する。

 

 これぞ、星落としならぬ、神落とし。

 またの名を、破神。

 

 あまたの爆発が天を支配し。

 発生した強い閃光が飽和し、世界を昼に負けないほど明るく照らした。

 その後に現れた空は、血のような空ではなく。

 どこまでも青々とした空が広がっていた。

 天の神によって四国外の世界に行われた事象の書き換えも消失し、赤の世界が徐々に霧散していく。

 同じように友奈の中からも神気が喪失する。

 人であったという記録が恐るべき速度でかき消され、事象の書き換えが完了する。

 これにて。

 破神、完遂。

 

 ◆

 

 すべての力を使い果たした友奈の顔には、すでに天の神の祟りは完全に消え失せていた。

 ふらふらと高度を下げながらようやく地上に着地すると、崩れ落ちるようにその場に倒れた。

 

「友奈ちゃん!」

 

 血相を変えた東郷が傍らで膝をつき、無我夢中で友奈の身体を抱き起こした。

 

「!!」

 

 そして目を見開く。

 友奈の肌はすでにマシュマロのような柔らかなものではなくなっていて。

 何か硬質なものに変化しようとしている。

 それこそ、分厚い木肌のような――。

 力を失った友奈にはもう、神の呪縛に抵抗すらできない。

 瞬時に右腕の枝木が再生し、瞬く間に何重にも巻き付く。それだけでは飽き足らず、全身をも驚異的なスピードで侵食している。

 

「あ、ああ……友奈ちゃん……友奈ちゃん……!」

 

 何をどう処置すればいいかわからない。

 駆けつけた園子がとっさの判断で枝木の一部を槍の穂先で切断するが、切断面からすぐさま再生が始まる。

 その間にも勇者たちが友奈の下へと集まってくる。

 

「ど、どうなってんよのこれ!」

 

 風と肩を貸し合い、足を引きずりながらなんとか辿り着いた夏凛は徐々に悪化していく友奈の容体に激しく狼狽する。

 すると、今まで閉じていた友奈の瞼が持ち上げられる。生気の薄れてきた瞳は、ゆっくり時間をかけて全員を見渡す。

 まだ神気の纒っている友奈の唇が微かに震える。

  

『大丈夫……私は死なないよ』

 

「で、でも友奈ちゃん、身体が……!」

 

『そうだね。この身体はもう終わる……でも、死ぬわけじゃない。私は、東郷さんたちをいつまでも見守り続ける……』

 

 左腕を伸ばし、友奈は涙を流し続ける東郷の頬にそっと触れた。

 そして次にミサンガを握り締める手の上に自身の手を重ねる。

 

『ああ……泣かないで、東郷さん。前を向いて、人の世界を強く生きて――』

 

 東郷を含め、誰も言葉を発することができなかった。

 何かに引っ張られるように身体を起こした友奈は、最期に顔のほとんどを枝木に覆われたまま、東郷たちに満開の笑顔を向けた。

 瞬間、今の今まで燻っていた枝木の成長が爆発する。

 ずるりと剥けるように植物組織が何重にも覆いかぶさって伸びていく。

 空へ向かって伸びていく。

 伸びて――。

 どこまでも――。

 伸びていって――。

 

 ◆

 

 神世紀三〇一年一月三十日。

 昼下がり。

 天の神の撃破からちょうど一週間となる。

 神樹はいなくなり、地の神も完全に消失した。

 世界は完全に人の定めた法則、システムによって運営されることになる。

 また、春信による情報漏洩のせいで大赦は世間から袋叩きにされ、大赦の解体は確定した。今後は春信をトップとして新たな組織が編成されることになる。

 今日は勇者部員たちの怪我も完治し、久しぶりに部室での集合日である。

 

「よーし! 全員揃ったわ! 色々ごたついてたけど、やっと落ち着いてきたわね〜!」

 

「だいたいはあんたの受験勉強なんだけどね。私立がもう近いんでしょ?」

 

 鋭い夏凛の指摘に風は「まあね」と視線を逸らしながら応じる。

 なんとこの場に勉強道具を持ってくるという勤勉ぶりを見せつけてくるほどだ。よほど風は内心焦っているのだろう。しかしずっと長い間年下の園子先生におんぶにだっこで勉強をつきっきりで教えてもらったのだ。園子曰く「やらかしさえなければ私立も公立も十分射程範囲なんよ~」とのこと。

 しかし今日は大切な日だ。

 東郷と園子とで二束の花束を用意してある。準備は完璧。

 そう、今日は高嶋と赤嶺とお別れの日なのだ。

 

「えー、こほんこほん」

 

 わざとらしい咳払いをした風は、自分の筆箱をマイク代わりにして話を切り出す。

 

「高嶋と赤嶺、過去から来た勇者たち。突然未来に来て色々困ったことはあったでしょうけど、それでも私達をいっぱい助けてくれてありがとう」

 

「……私、最初は皆の敵だったんですけどね」

 

「いいのよそういうのは。もう仲間なんだし」

 

「……はい、風さん」

 

 最初は敵だった。

 結局言えずじまいだったが、神の業に触れた人間を一度は殺した。

 さすがに今それを言えば東郷の周囲の気温がマイナスに転じるという確信があったため、赤嶺はこれを墓場まで持っていくことにした。

 ……?

 そういえば、誰を殺したのだったっけ?

 赤嶺の頭に浮かんだ疑問は、滑らかな風の司会進行によってどこかへ吹き飛んだ。

 

「高嶋も短い間だったけど、家族のように感じられたわ。もし帰らなくていいなら、本当に家族になってほしいくらいよ」

 

「あはは……それは……ごめんなさい、風さん」

 

「ま、そうよね。悪いわね。変なこと言っちゃって」

 

 バツの悪そうに笑った風が一歩引くと、変わって東郷と園子が前に出た。その腕には乃木家がそういったものに明るい専門の人に選んでもらった、色とりどりな花束がある。

 

「たぶん持ち帰れはしないと思うけど、どうか、この気持ちだけでも受け取って」

 

 微笑みながら東郷から差し出された花束を高嶋へ、園子から赤嶺へと送られる。

 ふたりは花に顔を近づけてその匂いを嗅ぐと、今にも溶けそうな顔になった。

 

「ありがとう。ここでの記憶は、帰っても絶対に忘れないよ」

 

 自分の胸を抱くように腕を寄せた高嶋がそう言うと、赤嶺に目配せをした。

 言わずもがな、時間遡行をするための腕時計の準備のことを指している。

 片腕だから一旦園子に預け、ポケットを弄って腕時計を取り出す。

 

「兄貴がくれた操作方法のやつ、ちゃんと読んだでしょうね」

 

 夏凛に少しだけ小馬鹿にされたような気がして、つい赤嶺はムキになって答える。

 

「もちろんに決まってるじゃん」

 

「有り金全部プロテインに捧げる奴が言ってもねぇ……」

 

「ぐぬぬ……」

 

 否定できないのが悔しい。

 羞恥に頬を染めながら赤嶺は「ちゃんとできるから!」と夏凛に見せつけるように手際よく腕時計の側面ボタンを操作してドライブモードに移行させる。

 時代はすでに春信によって設定済み。ジャンプするのは二回分だけだ。これはジャンプ回数が残っていれば鏑矢案件になってしまうことを避けるためでもある。

 ヒューマンエラーのないようにきちんと確認画面がオーバーレイ表示されている。それぞれの時代を指差し確認をしたふたりは深く頷くと、躊躇いなく【確認】をタップした。

 その途端、ふたりを包み込むように数字のインデックスが大量に出現し、仄かな光子が舞い上がる。すかさず園子に預けていた花束を受け取った赤嶺は、実行されてゆく時間遡行シーケンスを静かに待つ。

 そうして最終段階に入り、ふたりの身体が分解され始める。

 

「ありがとうございました!」

 

 と高嶋は最後にお辞儀をし。

 

「ありがとうございました。それと夏凛、実は隠してたけど、夏凛のベッド下にあった煮干しファミリーパック、あれ全部私が食べた」

 

「はああああああ⁉」

 

 と最後の最後に特大爆弾が投下されて叫ぶ夏凛に、

 

「ごめんね!」

 

 と可愛らしく舌を出し、逃げるように赤嶺は姿を消したのだった。

 

 ◆

 

 高嶋は椅子に座っている。

 二度目の時間遡行といえど、やはりすぐには視覚や聴覚を取り戻すことができずにいた。

 かぶりを振り、ぼやける目を擦ろうとして、気づく。

 右腕がある。バーテックスに喰われたはずの右腕が、ある。

 懐かしい感覚に半ば興奮しながら肩を回していると、すぐ目の前から声が聞こえた。

 

「だ、大丈夫か友奈?」

 

 久しぶりに聞く声。

 しだいに聴覚だけでなく、視覚も平常に戻っていく。

 そこは、見慣れた場所だった。

 すぐ眼前には心配そうに若葉がこちらの様子を窺っている。

 そうだ。

 赤嶺と時間遡行をする直前、皆でうどんを食べていたのだった。確か初陣で勝利を収めて、これから赤嶺をどうするかで話し合おうとしていた……だったような気がする。

 杏に球子、若葉、ひなた。そして千景が友奈に視線を向けている。

 

「あ、ああうん! 大丈夫! この通り元気百倍!」

 

「本当によかったわ……それで赤嶺さんは……何処に行ったのかしら。変なエフェクトみたいなのが出てきて、消えてしまったけど」

 

 安堵の表情を浮かべた千景は続いて高嶋の隣の椅子に視線を向けた。

 そこには主のいない椅子がぽつんとあるだけだった。

 千景たちは、高嶋が赤嶺たちと短くも濃密な時間を過ごしたことを知らない。

 それを語るのは……すべてが終わってからでもいいだろう。

 だから。

 

「赤嶺ちゃんは……自分の時代に帰ったよ」

 

 と、高嶋は慈しむような顔で言ったのだった。

 

 ◇

 

 赤嶺は呆然と立ち尽くしていた。

 これで時間遡行は三度目。

 四度目はもうないだろうと思いながら復帰した赤嶺は冷静に状況を思い起こす。

 そう……老爺の作った腕時計に触れたのだった。すべてはここから始まったのだ。

 

  「友奈⁉」

 

 普段なら絶対にしないような驚愕の色を滲ませる蓮華が赤嶺の肩を揺さぶる。

 咄嗟に何を言えばいいのかわからなかった。だから赤嶺は、いつまでも、いつまでも蓮華の顔を、そのサファイア色の瞳を見つめ続けた。

 狭い個室には埃ひとつなく、ただ無音の時間が訪れる。

 ようやく我に返った赤嶺は目を瞬かせると、目の前の蓮華を熱く抱擁した。

 

「ゆ、友奈?」

 

「…………」

 

 ……鏑矢という存在はこの時代には必要である。

 神世紀が始まって、まだ百年も経っていない。人の考え方などは徐々に変化していくものだが、赤嶺の時代では、その領域に至るにはまだ早い。

 だから、これからも赤嶺は鏑矢として裏の世界で暗躍する人間に徹するつもりでいる。

 それでも。

 遥か未来では赤嶺のような存在が必要なくなることを嬉しく思うのだ。

 

『あー、すまんなぁええ雰囲気のとこ。で? 結局対象物は確保できたんかいな?』

 

 水を指すように耳のインカムに静の声が聞こえてきた。

 ふたりはバネに弾かれたように距離を取ると、互いに小さく笑った。

 そして赤嶺は静に報告した。

 

  「対象物は発見しました。でも、壊れていました。これより帰投します」

 

 ◆

 

「行っちゃったわね」

 

 そうぽつりと言ったのは、穏やかな表情を浮かべた風だった。

 ふたりのいた場所にはやはりというべきか、花束が寄り添うように落ちていた。

 それらを拾い上げた東郷が、机の上に乗せようとして――。

 

「あれ? わっしーがなんでそれ持ってるの?」

 

「え?」

 

 園子が不思議そうに指差したのは、東郷の右手首。そこに結び付けられている黄色のミサンガだった。

 園子はもう一度「あれれ?」と子首を傾げながら、

 

「それご先祖様が作られたすごく貴重なものなんだけど、私、わっしーに上げたかなぁ……?」

 

 と言った。

 今思えば、東郷もこのミサンガを入手した具体的な経緯を覚えていない。

 

「そのっちが私にくれたんじゃないかしら?」

 

「んん? んんん? そう簡単に人にあげるようなものじゃないんだけど……でもわっしーの手元にあるってことは、私があげたのかな?」

 

 互いにふわふわした結論を出したところで、今まで黙りこくっていた夏凛が火山の噴火の如く叫び声を上げた。

 

「赤嶺あいつ――! 私のッ! 私の大切にとっておいた煮干しをッ! ぜん……全部、食べたああああああああ⁉」

 

「はいはい、煮干しは今日の帰りにでも買えばいいじゃないの」

 

 冷静なツッコミを受けてもなお憤怒の収まらない夏凛を無視して風は話を切り替えた。

 

「そういえば、どうする? 『あれ』の名前」

 

 窓の外を見やる風の動作につられて全員が視線を外に投げる。

 讃州中学から遠く離れた海岸のあたり。そこには大きな大きな大樹が堂々と聳え立っている。

 全長は測りしれず、専門家によればかつて旧世紀に存在していたらしい富士山よりも高いという。

 それほどまでに、巨大。

 天の神を倒したのはあの樹ということになっている。勇者たちが戦う最中に神樹の寿命が尽き、そこから新たにあの樹が生え、人智の及ばぬ攻撃で倒した。

 当時の風たちの記憶は曖昧だが、確かにそう言われるとそんな気がする。満開でもまるで歯が立たなかったところを、あの樹は助けてくれた。

 勇者たちには天の神と戦った功績として、あの樹を命名する権利を春信から与えられたのだ。

 

「とはいってもねぇ……後世に残るものなんでしょ? そんな大役、普通中学生に任せるかっちゅーの」

  

「でも世界の存亡を懸けて戦ったんですから当然の権利だと思いますよ、ふーみん先輩」

 

「まあそれはわかるんだけどねぇ……」

 

 と悩みに悩んでメトロノームのように左右に身体を振り続ける風。

 

「なら『完成型の樹』に決定ね!」

 

「あ、却下」

 

「なんでよ!」

 

 即座に取り下げられた夏凛は、半ば八つ当たり気味に風に噛みつく。

 そんな中、東郷のただ一言の囁きが部屋に静かに響いた。

 

「ユウキ……」

 

「わっしー?」

 

「皆の勇気が成し遂げたこと。だから、『勇気の樹』なんてどうかしら。略しても勇樹(ゆうき)になるし」

 

 その言葉はなんだか、口というか、脳が聞き慣れた音の響きだった。全員の動きが停止し、一様に「勇樹……」と呟く。

 

「いいんじゃないかな」

 

 最初に首肯したのは園子だった。

 

「これまでの私達。これからの私達にぴったりな言葉だよ。それになんといっても語呂がいい!」

 

 近日中にも探索隊が編成されて、四国の外へ向かうという。すでに近畿地方の存在は確認されていて、兵庫県、そして大阪府までとりあえず目指す計画らしい。

 あの樹――勇樹は神樹のように人々に恵みをもたらさない。ただそこにあるだけの巨大な樹。

 これからはお前たち自身の力で生きていけととでも主張しているような気すらする。

 そんな超然と屹立する勇樹を東郷は窓から見上げる。

 今までほぼすべての資源を神樹に頼っていた人類が、果たして激動の時代を生き抜くことができるのか。……正直、そう簡単ではないだろう。人は美しくも醜い生き物である。資源争いや領土の奪い合いが起こるかもしれない。

 人は変化を求められる時、すべてがすべていい方向に事が進むわけではない。

 でも希望はある。

 まだ見ぬ世界。

 新たな世界。

 可能性の広がる世界。

 

 その名も。

 未来。




▼この物語はBitterENDへと収束しました

これにて【結城友奈は勇者ではない】は完結となります

今までありがとうございました
私の活動報告で感想とこれからについてぼやいてるからマイページに飛んで是非読んでネ!


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ターニングポイント


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縺雁燕縺ッ谿コ縺励↓謨代>繧呈アゅa縲∬。?縺ォ谿峨★繧玖??°?


 乃木若葉が老衰で亡くなった。

 神世紀七十五年六月九日のことだった。

 終末戦争の最後の生き残り。勇者として仲間が次々に落命していく中、敗北はしたものの、最後まで戦い抜いた生きた伝説。

 葬儀は大赦を中心とし、四国全土を巻き込んだとてつもなく超大規模で行われた。

 数日に渡って続き、終わっても一月ほど連日メディアの報道が続いていた。

 乃木家はもちろん、大赦も大忙しだ。

 なにせ我らがトップがいなくなったのだ。

 御役目を退き、家で静かに暮らしていたとはいえその影響力は凄まじい。

 しばらく数年は混沌に混沌をぶちまけた日々が続くだろう。現大赦トップの上里霞と若葉の夫、乃木修二郎氏(旧名は睦月修二郎)が指揮を取っているが、彼は若葉よりひとつ年下なだけで、そう何年も期待はできない。上里霞は聡明な女性ではあるものの、母である上里ひなたと比べるとどうしても劣る。

 どれだけ彼女が有能な人物であったのかを毎日思い知らされる、辛い日々を送っていることだろう。

 そこに若葉の死。

 これは霞の処理能力を大きく上回る事案であり、今後しばらくは大赦は最低限の運用しかしないだろう。

 さらに注意するべきは、ひなたによって奪取した巫女至上主義を、未だ内心では不服に感じている一部の神官たちがここぞとばかりに反旗を翻さないように牽制もしなければならないことだ。

 プラスして、バーテックスに関する情報も四国から抹消する壮大な計画も遂行しなければならない。

 バーテックスという人間にはどうしようもない天敵を『知らない』ことで、四国の平和と永久の安寧をもたらすのだ。

 そんな激動の波に大赦直属の暗部――鏑矢の少女たちも否応なく呑まれるのだった。

 

 ◆

 

「レンち……最近元気ないんじゃない?」

 

 時刻は深夜一時を過ぎたくらい。

 だらだらしながら宿題に取り組んでいたのが主な原因ではあるが、ここまで遅くなるとは思わなかった。

 友奈はノートの上に溜まった消しカスを集めながらそう尋ねた。

 すぐ隣の机に友奈と同じように向かい、自習に取り組んでいた蓮華はやや重たげに頭を持ち上げてこちらを見た。

 

「そんなことないわ。こうして友奈が終わるまで待ってあげられるほど心の余裕があるのだから。……でも、さすがの弥勒もそろそろ眠いわ」

 

「頭が上がりません……」

 

 気のせい……だろうか。

 半年ほど前に、四国を道連れにして大量心中を図ろうとしたテロ組織を潰す大きな御役目を成功させたばかりだ。

 この功績は大いに讃えられ、若葉たち勇者の名が刻まれた英雄之妃に同じように友奈たち三人の石碑が建てられることが決まっている。

 とはいえあの御役目はこれまでにないほど過酷を極め、向こうの人間を何人も殺し、こちらも痛手を負った。すでに完治はしているものの、あの時の情景が、目を閉じた時に不意に瞼の裏に蘇るのだ。

 血を血で洗う煉獄のような戦場。

 人の死骸がポイ捨てされたゴミのようにそこら中に転がり、吐き気を催す酷い匂いが嗅覚を麻痺させる。

 あんな御役目はできればもう二度とゴメンだ。

 大きなあくびをひとつすれば、それを見た蓮華も大きくあくびをした。

 

「そろそろ寝よっか」

 

 やや疲労が溜まったように見える瞼を擦った蓮華は、

 

「そうね」

 

 と力なく返す。

 リビングに降り、洗面台の前に立って二人で並んで歯を磨く。

 歯ブラシでシャカシャカと耳障りの良いリズミカルな音を鳴らし、口をゆすいでふたりは再び部屋へ戻る。

 その間にちらりと静の部屋のドアの隙間から光が漏れてはいない。どうやらもう寝ているようだ。

 明日からは平日……つまり学校が始まるから早く寝ないと、と思いながら明日の時間割を確認して、ベッドに寝転ぶ。

 ベッドは二段式で、上が蓮華。下が友奈だ。

 特にこの決定に不満はない。正直どっちでもいい。

 外で野良猫どうしが威嚇しあう鋭い鳴き声が聞こえる。そして喧嘩が始まったのか、ひときわ高い声で鳴く。

 

「ちょっとうるさいね。追い払ってこようかな」

 

 友奈が低く呟くと。

 

「放っておきなさい。追い払っても、きっとどこかで喧嘩の続きをする。はやく終わらせてあげたほうがお互いにも良いわ」

 

 と止められた。

 

「うん」

 

 しばらくすると耳障りな鳴き声が止んだ。

 どちらが勝ったのかはわからないが、知る必要はない。降参するまでやりあったのか、殺すまでやりあったのか。もし後者ならば、明日の朝、家の前には無残な猫の死骸が残るはずだ。

 友奈はごろりと寝返りを打ち、瞼を閉じる。

 若葉は鏑矢たちの指南役を勤めてくれた。年老いた身体に鞭を打ち、友奈たちを鍛えあげた。

 結局蓮華も友奈も朧斬りの真髄を解明することはなかった。

 朧斬りは、ここで途絶えたのだ。

 これからも世に出るであろう『朧斬り』はすべて偽物である。だがそれを大赦はわざわざ指摘してまわることはないだろう。

 だってわかっているのだから。

 あの絶技は若葉にしか許されない剣術なのだと。

 

「友奈」

 

 上から蓮華の声が聞こえる。

 

「どうしたの?」

 

「……弥勒たちは、いつまでこの御役目に就くの?」

 

 勇者は無垢な少女にしかなれないと言われている。その境界線は何だろう。年齢? 友奈と蓮華は今年で中学三年生。静に至っては、高校生一年生だ。少女というより青年というべきだろう。

 勇者と鏑矢の共通点は、神樹から力を与えられて身体能力を大きく向上させることだ。

 しかし鏑矢は果たして『無垢な少女』なのだろうか?

 人と戦い、御役目を全うするためならばどんな汚い手でも使う。テロ組織撲滅の時は捕虜を拷問にかけたことがあった。

 拘束椅子に座らせ、指の爪を一枚一枚剥がした。

 それでも吐かなかったから、剥き出しになった指の肉を槌で叩きつけた。

 それでも吐かなかったから、足の爪の間に針を深く突き刺した。

 それでも吐かなかったから、性器を灼いた。

 それでも吐かなかったから、鼻を切り落とした。

 それでも吐かなかったから、片目をくり抜いた。

 それでも吐かなかったから、電流を流した。

 加減がわからず、そのまま死んでしまった。

 二人目もウマク情報を聞き出せないまま死なせてしまい、四人目でようやく聞き出せた。

 ……果たして、鏑矢は『無垢な少女』なのか?

 

「……レンち?」

 

「いえ……なんでもないわ。忘れなさい」

 

「……」

 

 テロを阻止してからというもの、蓮華の様子が何やら変だ。妙によそよそしさがあるというか、何事にも即座に『弥勒にお任せ』スタイルだったが、時々遠慮することがある。

 そしてなにより、どこかへひとりで出かけることがある。

 その行き先は一切教えてくれない。静にもだ。

 後をつけてみようかと考えたこともあるが、恐らくバレるし、本当に知られたくないのならば、さすがの蓮華でも怒るかもしれない。

 ジッと見上げるが、映るのは木目の刻まれた床板だ。

 それきり蓮華から声をかけられることもなくなったため、しだいに友奈の眠気が強くなってくる。

 瞼が重くなってきて、気づくと視界は闇に閉ざされていた。

 なんだかレンちと心の距離が離れてきた気がするな、なんて寂しい気持ちになりながら、意識を眠気の誘われるがままに委ねるのだった。

 

 ◆

 

 鏑矢とはいえ、中学三年生であるふたりには義務教育として学校に通わなければならない。

 静はそのまま大赦に就職する、という道もあったが「いやぁ、もしかしたらやりたいこと見つかるかもしれへんやん?」と高校に進む道を選んだ。

 蓮華の用意した朝食を食べ、登校の用意を済ませた三人は、ひとりとふたりに別れた。

 

「ほな、またな」

 

 そう陽気に手を振って静は自転車に跨って颯爽と姿を消す。

 

「私たちの学校も自転車通学オッケーならいいのにね」

 

「シズさんの高校は少し遠いから仕方ないわ」

 

 ふたりの通う中学は徒歩二十分ほど。

 少し鏑矢の力を発揮すれば五分とすこしで到着するが、無闇に人前で披露するものではない。

 ふたりは暗部。

 闇に沈み、敵を討つ影でなければならない。

 そういえば猫の死骸、なかったな。

 友奈は今更ながら気づきつつ、蓮華と並んで登校する。

 友奈たちが在籍している学校は大赦の息がかかっているわけではない、本当に普通の中学校だ。

 同じ年頃の男女とすれ違い、校門前に立つ先生と挨拶を交わして下駄箱で靴を履き替える。

 大赦の計らいか、それとも偶然なのかは不明であるがふたりは三年間ずっと同じクラスだ。

 学校では赤い糸出結ばれているのではと噂されているが、それは間違いだろう。

 どちらかというと、蓮華が友奈を引き離さないという認識のほうがしっくりくる。

 だが、流石に席が隣……とはならない

 教室に入り、自分の席に座った友奈は引き出しに教科書やら筆箱やらをしまいながら今日の時間割を思い起こす。

 ここは……『日常』だ。

 もし鏑矢の御役目に就いていなければ、友奈は毎日こんな生活を送ることができているのだろう。

 目の前の女子たちが好きな俳優について語っているが、友奈にはなにひとつわからない。

 知らない人の名前で盛り上がっているところをぼんやりと眺めるだけ。

 

「赤嶺さんは誰が好きなの?」

 

 友奈の視線に気づいたひとりが話題を振ってくる。

 しかし。

 

「うーん、難しいなぁ。とりあえず筋肉がすごそうな人なら誰でもって感じかな?」

 

 とやや誤魔化すように当たり障りのない返事をすることしかできない。

 

「流石『筋肉ですべて解決する党』の党首だね!」

 

 ……そんな党を結成した記憶はないのだが。

 いつの間にか存在していることになっている。

 確かに友奈が熱く語れるのは筋肉についてだし、それを語り始めるとしぼんだ風船のように女子たちは興味を失うだろう。

 この人たちは人が死んだところを見たことが……

 というより、血を見ることすら珍しいだろう。

 人は生物のピラミッドから離脱した超越者であり、生物であるからこその生き残りを懸けた争い――命の奪い合いを行う必要性はなくなった。

 それに神樹の庇護もある。

 人のさらに上に神があり、そのおかげでこの平和に見える日常を謳歌できるのだ。

 非日常と日常の狭間で揺れ動く人としての理性。

 私は善か、それとも悪か。

 友奈は自分の手の匂いをかぐ。

 血の匂いはない……と思う。

 血を知りすぎて、血に慣れてしまった友奈には、この匂いが果たして普通なのかどうかわからなくなってきている。

 朝礼が始まってもいないのに、蓮華はすでに机の上に一時間目の教科書を広げ、自習をしている。

 蓮華は高校を受験するつもりでいるらしい。

 なら一緒に……と便乗しようとしたが、「これは自分で決めなさい」と突っぱねられた。

 思えば、人生のターニングポイントで他人の決定に便乗するなんて決断は、あまりに愚かだった。

 如何なる要因があろうと、決断するのは自分自身でなければならない。

 でも、友奈はまだ決めかねている。

 もうしばらくすると夏休みに入り、受験勉強は本格化する。決断を先延ばしにするほど後々苦労することになる。

 

「……はあ」

 

 頬杖をついた友奈は窓の外を見詰める。

 チャイムが鳴り、担任の先生が教室にやってきたことで朝礼が始まる。

 一時間目は理科。

 暗記だけではなく、理解が必要な科目。

 公式を覚えていればあとはどうとでもなる数学とは違って、様々なバリエーションがあるから厄介で、苦手だ。

 授業が始まっても先生の説明は上の空で、とりあえず板書をしながら落書きをしているとあっという間に授業が終わる。

 勉強は苦手だ。

 だが、これらがいったい何の役に立つのだというありふれた疑問はぶつけない。なぜなら友奈はそれをきちんと理解しているから。

 ようは地頭を形成するためだ。馬鹿だと頭のいい人間に狡猾に騙され、搾取される。そんな場面を何度も目にしてきた。

 だからといってもやはり苦手だ。

 まずやる気が起きない。

 好きでもないことをこんなに必死に取り組むことが苦痛なのだ。これから筋トレをしている方が遥かに有意義だ。

 こんな調子だと受験なんて夢のまた夢だな、と嘆息すると、四時間目の終わるチャイムが鳴った。

 他愛のない話をしながら蓮華と一緒に昼食を食べ、残りふたつの授業をのりきる。

 それが終わればあとは帰るだけだ。

 生徒たちの九割以上がなんらかの部活に属しているが、当然友奈と蓮華は帰宅部だ。クラス内で役職に就いているわけでもないので、終礼のあとはさっさと帰るのが通例である。

 今日授業で出された宿題はすべてメモしてあるから大丈夫、最悪蓮華に聞けばいいだけのことだ。

 

「レンち〜帰ろ〜」

 

 と話しかける。

 しかし、蓮華は少しだけ迷うような素振りを見せて口を開く。

 

「弥勒は用事があるから、今日はひとりで帰りなさい友奈」

 

「……うん」

 

 ……まただ。

 最近、ひとりで帰ることが増えてきている。嫌だとかそういうわけではないが、寂しさを感じるのは否定しない。

 せめてなんの用事があるのかだけでも教えてほしいが、頑なに教えてくれない。

 恐らく、よくひとりで出かけるのと同じ理由なのだろう。

 頻繁に鍛錬に遅れてくるし、面と向かって言うのは気が引けるから言っていないが、蓮華は鏑矢としての心構えが薄れてきている気がしてならない。

 それとなく注意したことがあるが、上手く茶を濁されてしまう。

 帰ると、時間は五時になる少し前。

 静はまだ帰ってきていない。

 制服から運動着にはや着替えした友奈はトレーニングルームに入る。

 鏑矢に与えられたこの家は三人にはやや広い。そのおかげで使われない部屋がいくつかあり、そのうちのひとつを友奈はトレーニングルームとして占領している。

 整然と並べられた器具は友奈の心に安らぎを与える。フレームの金属光沢を見るだけでも、パブロフの犬のように筋肉がよだれを垂らす。

 今日はチェストプレスを使おう。

 そう決めた友奈は重りをセットする。

 この前は確か二十九kgをクリアしたから、今回は三十kg。

 鏑矢の力は使わないで、自分自身の力で鍛える。神樹から力を供給されるとはいえ、それに頼りきりなってはならない。

 あらゆる状況になっても任務を遂行するのが責務である。これまで一度も発生したことはないが、もしかすると静による祝詞の付与が無効化される、なんてことがあってもおかしくない。

 台座に跨った友奈はシートに背中をつけ、両手でグリップを握る。

 肘を伸ばしながら、勢いに任せないように気をつけながら重りを持ち上げる。

 

「は……ふ、ん……」

 

 このとき意識しなければならないのは、肩甲骨を動かさないようにしっかりシートに背中をくっつけることだ。

 限界まで持ち上げたところで、今度は肘を曲げて重りをゆっくり下ろす。

 友奈はトレーニング中は基本的に音楽を流したりはしない派の人間だ。

 音は統一された意識をかき乱す。どれだけ美しい音色の羅列であろうと、音である以上友奈にとって邪魔でしかない。

 だからこそ、この部屋は最高の環境と言える。ひとりでこれだけの器具を自由に使うことができ、大赦に申請すれば、向こうが費用をすべて負担してくれる。

 神か? と思った。

 考えてみれば、大赦は神直属の組織だった。

 額から球の汗を吹き出しながら、持ち上げて、下ろすの動作を繰り返す。

 満足したところでチェストプレスを終わりにする。水筒の水を荒々しく喉奥に流し込み、次はシンプルに腹筋しようかと悩んでいたところで、「ただまー!」と元気な声が玄関から聞こえてきた。

 すかさずドタドタと騒がしい足音をたてながら廊下に飛び出した友奈は帰ってきた人物を迎えるため、全速力で駆け抜ける。

 

「おかえりなさい、シズ先輩!」

 

 その人物……静は猫のような小口を開いて笑った。

 高校生になった静の制服は友奈のものとは違って、『深碧色』を基調としたブレザーを羽織っている。そういえば昨日、「そろぼちこれ着てたら暑いわ」とかなんとか言っていた。

 

「ただまーアカナー。あんた、そんな汗まみれで家ん中走り回られたらたまらんわ」

 

 自分の姿を見下ろせば、タオルで汗を拭かなかったせいで肌に運動着が張り付いてしまっている。

 それにもう夏のような気候に突入している六月、熱いなか自転車を漕いで汗だくになって帰ってきた自分を待っていたのが同じく汗だくになった友奈となると、その絵面のインパクトは言うまでもない。

 

「ちゃんと汗は拭いとかんと風邪ひくで? あと、ちゃんと水分補給もしときや」

 

「はぁーい」

 

 流れるような保護者ムーブをする静は靴を脱いで上がりこむ。「そろそろエアコンつけるべきか? まどちょっとはやいやろか? 電気代までは大赦も負担してくれへんし……」と独り言をぶつぶつ呟きながら洗面所へと移動する。

 

「あれ? そういやロックは?」

 

 と、ひょっこり頭だけ出して友奈に尋ねる。

 

「用事らしいです」

 

「そっか……ロックなんか最近……そんなんが多いな。アカナはなんも知らへんのよな? うーん……」

 

「…………」

 

「知ってるか? 最近ロック、パンダのぬいぐるみ買っとったんよ。いやぁ、ロックもやっぱ少女趣味あんねんな〜」

 

 と楽しげに笑い、そう言い残した静は今度こそ洗面所に消えた。

 静は年長者であるがゆえに、二人の面倒をみなければならないと思い込んでいるのかもしれない。

 親元から離れ、子供三人だけで過ごす日々というのは楽しみにしていたし、実際楽しいわけだが、それねりに苦労も存在する。基本的に親がやっていた家事はすべて自分たちでしなければならないし、電気代や食費、さらにはスマホ代といった様々な出費のことも考えなければならない。

 家事は友奈と蓮華(ほとんどが蓮華)で担当しているが、そういった金銭面では静がすべてやりくりしてくれている。

 本当に頭の上がらない仲間だ。そして恩人であり、尊敬すべき人でもある。

 

「……続きしよ」

 

 今日は夕方以降に蓮華と打ち合いをする予定だ。

 もう少しだけトレーニングをして、あとは宿題でもしながら蓮華の帰宅を待とう。

 トレーニングルームに戻ろうと洗面所の横を横切った瞬間、静に投げられたタオルをキャッチする。

 

「ありがとう!」

 

 タオルを首にかけた友奈は、顔の汗を拭きながらトレーニングルームへと消えた。

 

 ◆

 

 それから数日が経った頃、久々に大赦から御役目が言い渡された。

 その内容は基本的に本部に招集された静にのみ言い聞かせられる。

 それを、帰宅した後に伝言という形でふたりに伝えられる。

 リビングは普段の明るい空気なんてまるで幻だったかのような青い静けさに包まれ、冷房をつけているわけでもなしに温度が低く感じられる。

 猫目をより一層すう、と細めた静は通達書を読み、眼下で膝をつくふたりに御役目の内容を告げる。

 

「ある人工知能が開発されようとしている。これは人の脳を完全にコピーし、そこに知性を発生させようとする、従来とは異なった人工知能である。もしこれが実現されれば、既存のものより遥かに高性能となり、人類の知的文明は飛躍的に発展する。しかしこれは大赦の望む人類の発展ではない。またいずれ大赦に害をなす恐れがある。故にこれを排除する」

 

「執行対象は?」

 

 と友奈が無色の声で尋ねると。

 

「コピーする脳は成熟していない子供のものが一番効果的と言われ、さらには想定しうるコピー時の負荷にも耐えなければならない。それをクリアできる者こそが今回の執行対象である」

 

 通達書の一番下の部分に視線をずらした静はその名を口にする。

 

「執行対象者、沖波ゆう」

 

「――!」

 

 蓮華の肩が僅かに跳ね上がる。

 通達書に挟まっていた沖波ゆうの顔写真を静がこちらに見せる。

 

「この者を処分し、またAI技術を破壊せよ。研究員たちは放置して良し。作戦開始時刻は明日マルヒトマルマルとする。以上」

 

 日常のスイッチを切り、非日常のスイッチを入れる。

 目の色を変えた友奈は作戦のために必要な情報を静から聞き出す。

 

「その施設の位置、規模、あと警備の状況をすべて教えてください」

 

「了解」

 

 すらすらと語られる詳細を一文字たりとも聞き逃さずに頭に叩き込む。

 テロ組織撲滅の時は正面から乗り込んで力こそパワー理論でねじ伏せた。特別な矢で昏睡状態――封印する必要はなかったため、文字通り全員殺した。

 今は早朝だから、作戦開始時刻まで余裕がある。大急ぎで学校に休む旨を伝え、蓮華とともに仕事衣装……静が事あるごとにプ○グスーツやん、とコメントするバトルスーツを用意する。

 余すことなく手で触れ、欠陥、不備などがないかを念入りにチェックする。

 次いで装備庫でポーチに詰め込む武器をチョイスする。あくまで隠密行動であるため、殺傷武器はなるべく選ばない。しかし念の為拳銃を一丁は必ず持参する。

 スモークグレネードや投げナイフなどをポーチにしまい込み、静から渡された施設の見取り図をリビングの机に広げ、これを参考に三人で作戦を練る。

 

「レンち、ここはどう攻めたらいいと思う?」

 

 友奈がペン先で指したのは正門だ。

 情報によれば、ここには厳重な警備が敷かれている。擬似精霊による強化人間はいないようだが、その数が鬼門だ。

 しかし蓮華は上の空だ。

 

「……レンち?」

 

 はっと顔を上げた蓮華は瞬時に思考を巡らせる。

 

「……ああ、悪いわね友奈。そうね……ひとりひとり相手にしたら時間がかかるし、潜入がバレるかもしれないから、付近で大爆発でも起こせば……いえ、それも駄目ね。せいぜい引っ張り出せて三、四人。半分遠く及ばない」

 

 そして困難、と結論づける。

 

「じゃあ正面からじゃなくて側面からやろうな。外壁は十メートルを軽く越えとるから、たぶん祝詞付与したジャンプでも簡単には超えられんはず。鉤縄がいるな。ポーチに余裕があるんやったらそっちの線でいったほうがええんちゃうか?」

 

「そうですね。じゃあ鉤縄が弥勒が持ちます」

 

「あと、内部の警備はそれほど厳しないわ。赤外線レーザーが張り巡らされてる通路があるけど、そこさえ突破すればあとは楽チンや」

 

 元々この施設は研究するためだけに建てられたものであり、ゆえに侵入者に対する防衛機構は設けられていない。

 つまり、今回の御役目の難易度をゲーム的に表現するならば、イージーだ。

 少し面食らうが、久しぶりの御役目としては丁度いいくらいだろう。

 ならばこそ、完璧にこなさなければならないのだ。

 

「沖波ゆうのいる部屋は三階の……ここや」

 

 ペン先で突く部屋を記憶。

 脳内で最短ルートを計算する。

 

「侵入ルートは……こうだね」

 

 壁をよじ登って侵入すると想定したルートをペンでなぞる。

 蓮華も無言で頷くと、やや遠慮がちに尋ねた。

 

「その……対象者はまだ子供です。処分するのは少し……人道的ではないのではないですか?」

 

 すると静はゆっくりと顔を持ち上げた。

 僅かに首をひねり、真顔だった静の顔が有無を言わせない辛辣なものへと変化する。

 

「ロック……最近うちもアカナも思っとったけど、少し角が取れすぎちゃうか? うちらは厄を祓う矢や。そこに人の感情の機微が介入することは許されん。鏑矢としての在り方を違えたらいかん。わかったか?」

 

「――――」

 

 諭された蓮華は俯き、押し黙る。

 鏑矢は厄を祓う矢。それこそが友奈たちの御役目。ゆえに放たれたが最後、必ず敵を射抜くサジタリウスの矢。

 人の意志が入り混じれば、その軌跡は揺らぐ。

 軌跡が揺らげば敵を正確に射抜けない。

 

「そんなことを言うようならロックは参加させられん」

 

「い、いえ大丈夫です。弥勒はやれます」

 

「…………」

 

 静が蓮華を見詰める。

 その澄んだ眼は間違いなく蓮華を品定めしている。この御役目に参加させるべきか否か。

 静は巫女であると同時に鏑矢の監督役を兼ねている。友奈と蓮華それぞれのコンディションを鑑みて適切なアドバイスもしくは対応をするのが役割だ。

 ふたりを俯瞰的な目で捉えることができるのは巫女だからこそであり、それを見誤れば御役目の失敗に直結する恐れがある。

『巫女』であるだけでは暗部のサポーターなど勤まらないのだ。

 しばらくした後、静は肩の力を抜いた。

 

「……わかった。絶対に気を抜いたらあかんで。うちはこれから矢となり、人の心を閉ざすんや」

 

「……はい」

 

「よし、それじゃあ細かいところ詰めていくで」

 

 手を鳴らした静は、挙げられた情報を纏めつつ手順を並べていく。

 それらを一言一句逃さないように頭に叩き込みながら、どうしても不安そうな顔に見える蓮華から友奈は目を離せないでいた。

 そうして時は過ぎ、日にちが変わり、作戦開始時刻が迫る。

 バトルスーツに身を包んだふたりは、侵入箇所となる高さ十メートル強ほどのコンクリートの外壁から一般道を挟み、少し離れた草むらで待機している。

 六月の夜は比較的湿度が高くて蒸し暑いが、このスーツにはそういった不快感を除去する機能が備わっている。

 そして甲冑のような分厚さもないのに高い防御力を持ち、たとえ繊維を裂いて肉体にダメージが入って出血しても、止血するべく勝手に患部付近を圧迫してくれる。

 耳元のインカムから静の関西弁が滑らかに聞こえる。

 

『あと三分で作戦開始時刻や。ええか? 正直そこまで難しい御役目やないけど、だからこそ完璧にこなしてやろうやないか』

 

「はい。そろそろ祝詞の付与をお願いします」

 

『了解や』

 

 友奈の要求に快く応えた静が、低い声で祝詞を唱え始める。

 告白すると何を言っているのかさっぱりわからないが、一分ほど詠唱は続き、そして身体を急激に白い熱が燃え広がり、身体能力の底上げを実感したところで祝詞の付与が完了したと判断する。

 隣の蓮華に目配せをすると、無言で頷きが返ってくる。

 

「……祝詞の付与を確認しました。いつでも行動開始できます」

 

『了解。――では、間もなくマルヒトマルマルになるため、カウントダウンを始める。…………五、四、三、二、一……作戦開始』

 

 静の号令に合わせ、ふたりは爆発めいた飛び出しで草むらから飛び出した。

 一瞬にして一般道を横切り、蓮華が友奈の前に出る。

 ポーチから素早く鉤縄を取り出すと、超高速で回転させながら外壁の天辺に向けて投擲する。

 見事な弧を描いて闇夜に飛んだ鉤爪は、しっかりと角に引っかかり、それを確認した蓮華は躊躇いなく大ジャンプする。

 ジャンプだけではとても飛び越えられないため、足りない残り数メートル分は鉤縄を使ってよじ登る。

 蓮華が登りきったのを目視した友奈も続いてジャンプする。

 風に煽られて靡く鉤縄をなんなく掴み、猫のように素早く駆け上がる。

 鉤縄をすぐにポーチにしまった蓮華と頷きあうと身を投げだして落下する。

 どすん、と重い音をたてて着地するのは三流以下だ。友奈たちは膝を上手く曲げて衝撃を殺しつつ音もなく着地する。

 ふたりが降り立ったのは中庭だ。鬱蒼と生い茂る木々は手入れをしていない証拠。身を隠しつつ建物に接近するにはもってこいの遮蔽物だ。

 窓を凝視すると、研究者らしき男が複数通路を行き来している。

 静の言っていた赤外線レーザーのある通路をショートカットするには、今は使われていないらしい裏出口を使う他ない。

 気づかれないように滑らかな動きで南東部の裏口にたどり着くと、蓮華はそっとドアノブに触れる。

 よほど使われていないのか、雨風に晒され、さらには手入れもされていないせいで赤錆が目立っている。

 

「これはハッキングしても無理ね」

 

 持ってきたハッキング用小型ボックスは不必要のようだ。蓮華が代わりに手に持ったのは二本のペン状のもの。両者はワイヤーで繋がっている。

 片方のペン――その先端の吸盤をドアにセットする。そしてワイヤーの長さを調整してもう片方のペンのボタンを叩くと、きゅるる、と設定された長さまでワイヤーが巻き取られ、ピンと張り。その後自動で吸盤付きのペンを軸としてキレイな円をなぞる。

 その軌跡には赤い線が走っている。

 

「いけたわ」

 

 蓮華がペンを引っ張ると、一緒になってドアの一部がごっそりキレイにくっついてきた。

 できた穴は鍵ごとえぐり取ることに成功したようで、友奈が人差し指でちょん、と触れれば裏口が開かれた。

 

「ガバガバすぎて面食らいそうだね」

 

「ええ、そうね」

 

 この施設で研究している人たちは決して悪人などではない。

 ただ極めたいだけなのだ。人工知能という分野を発展させ、明るい未来をもたらしたいと願っているだけの、なんら無害な人たち。

 だからこそ、自分たちが大赦に排除されるなんて夢にも思っていないのだろう。

 これだけ警備が甘いということは、鏑矢という存在――文明を過剰に発展させることに対する抑止を知らないのだろう。

 

「侵入成功。速攻で片付けます」

 

 友奈が耳元のインカムで静に報告する。

 

『了解。そこからやと先にシステムの方を破壊したほうがええ。サーバールームの案内はいるか?』

 

「大丈夫です。全て頭に入ってます」

 

 サプレッサー付きの拳銃を構えてサーバールームへと向かう。

 深夜であるため巡回は少ない。今はまだ運良くエンカウントしていないが、時間の問題だ。

 今友奈が集中しなければならないのは監視カメラの存在だ。自分たちの姿が映り込む前に破壊する。後ろについてくる蓮華は巡回の警戒だ。

 目まぐるしく駆ける友奈は、しかしながら正確に監視カメラを撃ち抜く。

 頭を交互に振り、視界に目標物が写り込んだ時にはすでに引き金は引かれている。

 警備室では突然切れた監視映像に目を剥いていることだろう。

 以下に警備が甘いとはいえ、よってたかられれば些か厄介だ。

 つまり、もうタイムアタック状態に突入しているのだ。

 蓮華が銃でゴム弾を放つが、友奈はそれを一切無視して突き進む。どうやら巡回を発見したらしい。

 ゴム弾を食らった男は身体を大きく仰け反らせる。そこに追撃の拳撃を腹にめり込ませる。

 

「ご、は……!」

 

 男はそのまま放置。

 奥の奥に進んだところで目的のサーバールームが目前に迫るが、ドアは堅牢そうなロックで阻まれている。

 今から丁寧にハッキングしてこじ開けるなんて時間はさらさらない。

 ゆえに。

 友奈は拳銃をしまうと、走りながらグググ、と右の拳に力を入れる。眉を寄せ、舌顎に力を入れる。

 

「――シッ!!」

 

 食いしばった口の両端から鋭く息を吐き出した友奈は、拳を雷撃の如き速度で突き出した。

 ズガガアァン!! と豪快な破壊音が響き渡り、ドアを吹き飛ばす。サーバールームの広さはせいぜい子ども部屋くらいで、そこにところ狭しに並べられた機器。

 空調の低い唸り音が聞こえる。

 

「レンち!」

 

 針で刺すような呼び声に、蓮華は既に片手に握りしめていたグレネード二個をサーバールームに転がす。

 即離脱。

 爆発を待つ必要なんてない。

 即座に身を翻して階段に直行。二段飛ばしで沖波ゆうのいる三階へ向かう。

 そして幾ばくかの時間が経過すると、グレネードの炸裂音が耳に届く。同時にサーバールームに設置していたであろう火災報知器がけたましく鳴り響く。

 

「AIの破壊に成功。これより沖波ゆうの処分に向かいます」

 

 三階に駆け上がった友奈はすかさず静に報告する。

 

『了解。だいぶスムーズやな。アカナらの状況は常にモニタリングしてるからな』

 

 友奈たちの疾走は誰にも止められない。

 遅れながらやっと警報が鳴り、三階に偶然いた巡回たちがふたりを止めようとするもまるで歯が立たない。

 暴風の如く向かってくる少女を止められるだけの力なんてあるはずもなく。付近いた研究者たちを巻き込みながらボロ雑巾のように吹き飛ばす。

 黄色の照明に照らされたビニル床を蹴り上げて二十メートルほどで、あからさまに『らしい』部屋にたどり着く。

 

「ねえ、友奈」

 

 ここのドアにはロックなどはされていないはずだ。さっさと中に入って対象者を処分しようと意気込んでドアノブに触れたところで、蓮華から声がかかる。

 

「ん? 何?」

 

「……いえ、なんでもないわ」

 

「……そう」

 

 改めてこれ以上の妨害者が現れないことを確認してから部屋に入った。

 照明は消され、真っ暗だ。

 頼りになるのは窓から差し込む淡い月光の光だけだ。

 動向が開き、薄暗い視界が確保されてゆく。

 内装は一般的な子ども部屋と同じで、勉強机や本棚、ベッドが設置されている。

 てっきり非人道的な扱いをされているかと想像していたが、どうやらそうではないらしい。もしかすると劣悪な環境が脳に何らかの悪影響を及ぼすかもしれないと考えての処置といったところか。

 ベッドのシーツが膨らんでいるからきっと熟睡中なのだろう。子供は夜遅くまで起きてはいけない。……友奈たちも子供ではあるが。

 静から提示された資料には九才だと記載されていた。小学三年くらいということになる。

 友奈はそっと矢を手に握りしめる。鉛筆サイズの長さだが、端のボタンを押すと、メカニックに変形してサイバー感の溢れる矢となる。

 これで身体を貫いてやると、物理的な接触ではなく、オカルトチックな効果が発動して昏睡状態に陥らせる。そこから目覚めるかどうかは神樹次第。

 沖波ゆうは何も悪いことをしていないただの実験少年だ。いつになるかはわからないが、きっと神樹様はお許しになるだろう。その時までは……おやすみなさい。

 シーツに手を伸ばし、ゆっくり捲る。どうやら全身を潜らせて眠る珍しいタイプのようだ。

 起こさないように。

 せめて知らない間にすべてが終わりますように、と。

 これは情けだ。

 しかし、すやすやと穏やかな吐息をたてて寝ていると思いきや、少年は完全に完全に目覚めていた。

 かたかたと身体を震わせながら蹲り、小さな身体をさらに小さく丸めている。

 

「ひゃ⁉」

 

 シーツが捲られたことに気づいたのだろう、少年は短い悲鳴を上げた。

 ……確かに起きていても仕方ないかもしれない。グレネードの炸裂音はいかに熟睡していても叩き起こされるほどの大音量だったのだから。

 

「まあ……起きてるのなら仕方ないか」

 

 さっさと矢で貫いて終わりにしよう。

 何も見ないまま、知らないまま、恐怖に怯えるといい。何もしないなら何もしないままでいい。抵抗されるより遥かにマシだ。

 なんでこんなこと、と悲しんでいるのかはわからない。だって何も言わないのだから。

 案外簡単だったな、と思いながら矢を振りかざす。

 矢尻の先端が月光に照らされて白く輝く。

 帰ったらすぐ寝よう。大赦にスーツのメンテを依頼するのは起きてからでいいや。なんて抜けきった考え。

 そしてシュッ! 細い音とともに振り下ろす。

 

 

 

 

 

 だが。

 矢尻が少年の脊椎に接触する寸前、完全に意識外からの横槍が矢を部屋の隅に弾き飛ばした。

 

 

 

 

 

 硬質な音が響き、矢が落ちる。

 友奈は数秒だけフリーズし、振り下ろす動作のまま、一切動かずに口に開いた。

 

「何をしているの、レンち?」

 

 横槍は、友奈の背後から飛んできた小刀の一閃によるものだ。

 沈黙が流れる。

 場の空気は変質し、友奈の背中から闇色の圧が波状に放出されたかのように蓮華は幻視する。

 

「…………」

 

「何かのミスなのかな? でも、どう考えても今のは私の邪魔をしたように感じられたんだけど」

 

「…………」

 

 蓮華は答えない。

 

「レンち」

 

 ゆっくりと友奈は後ろを振り返る。

 蓮華は今までに見たことのないような悲痛な表情で友奈を見詰めていた。

 普段ならば「どうしたの⁉」と驚くところだが、今はそうならない。

 立ち上がった蓮華は友奈を無視し、蹲る少年の背中に両手を優しく乗せると、顔を近づけて囁いた。

 

「――ゆう、起きなさい。大丈夫よ」

 

 なぜか蓮華の声に反応した少年は、おずおずと頭を上げる。

 便りなさそうな垂れ目。どういう環境で育ったのかは知らないが、どちらかというと根暗で引っ込み思案のように見える。

 記録にある顔と一致。

 間違いなくこの少年は沖波ゆうである。

 少年は蓮華、友奈と順に視線を交互させたあと、擦り寄るように蓮華に身を寄せる。

 それを拒むことなく蓮華は抱擁している。

 よく、状況がわからない。

 しかし少年が片腕に抱いているものを見て、友奈はすべてを理解した。

 

「……それ、あげたんだ」

 

 それは、パンダのぬいぐるみだった。サッカーボールほどのサイズのぬいぐるみ。静の言っていた、通販で購入したものだろう。

 友奈の氷のような視線に気づいた少年は喉から割れそうな悲鳴を上げる。

 つまり――。

 

「その子と面識があるんだね?」

 

 蓮華はぎゅっと少年を抱き寄せたまま友奈を睨みつけた。

 無言は肯定とみなす。

 なるほど、だから蓮華はここ最近ずっとどこかへ消えていたのか。

 どうやって知り合ったのかはわからないが、昨日今日の絆ではないことは見てわかる。

 少年の脳の活性化のために、時々施設の外に出て遊ばせているという情報がある。恐らくその時か。

 

「レンち。これがどういうことかわかってる?」

 

 これは重大な違反だ。

 仲間の妨害、さらに処分対象を守ろうとするその行動は言い逃れできない罪である。

 

『ロック、今ならうちらもちょっとしたミスということにしといてやる』

 

 静の通信が入るが、それでも動じない。

 

「友奈は何とも思わないの? この狂った世界に」 

 

「狂った? どこも狂ってなんかないよ。この世界は大赦によって運営される。神樹様のご意思を頂戴できる巫女によって運営されているのだから、狂いも何もない」

 

「でも、こんな小さな子供を手にかけるのは間違っている!」

 

 初めて見た蓮華の顔。

 初めて友奈に向けた敵対の視線。

 互いに睨み合う。

 時を刻む秒針の音のみが己の存在を肥大化させている。

 鏑矢は暗部だ。

 闇に生きることを刻まれた歯車でなくてはならない。

 錆つき、狂いを生じさせようとしているのならば取り除かなかではならない。

 狂っているのは世界ではない。

 蓮華の方だ。

 素早く銃を引き抜いた友奈は躊躇いなく照準を蓮華の額に向けた。

 

「その子を、離せ」

 

 ドスの効かせた声で命令する。

 蓮華は少年を自分の後ろにやり、立ちはだかる。

 

「人がより良い未来に向かおうと努力しているのに、どうして大赦はそれを抑圧する? ……ええ、理由はわかってるわ。わかってるけど、受け入れられない。……弥勒は、この世界の在り方が間違っていると思う」

 

「レンち、それ以上はいけない」

 

「若葉様たちが命がけで守った四国が、こんな……ッ! こんな不自由であっていいわけがない! 確かにテロ組織を排除するのは納得できる。放置すれば罪のない人々が危険に晒されるから。でもこれは違う!」

 

 語気を荒げ、叫ぶようにして心情を吐き出すその様は、あまりに見るに耐えなかった。

 

「レンち!!」

 

 安全レバーを外す。

 引き金に指をかける。

 照準は依然として蓮華の額を捉えている。

 あと数ミリ人差し指を動かすだけで弾丸は発射される。

 いくら身体能力が向上しているとはいえ、これほどの近距離で放たれれば反応できない。

 

『ロックの祝詞を解除。……ロック。これでも抵抗するか?』

 

 インカムから静の最後通達が言い渡される。

 

「お姉ちゃん……」

 

 少年が目尻に涙を溜めながら唯一味方である蓮華を見上げる。

 

「……必ず弥勒が助けるから、安心なさい」

 

 穏やかな表情で諭し、頭に手を載せて優しく撫でる。

 

「今のレンちに私は止められない。私のレンちの仲だ、今すぐにその子を渡すのなら私はこの一幕に目を瞑ってあげる。もしそれが嫌なら――」

 

 あらゆる顔の筋肉を殺し、ただ一点、裏切り者になろうとしているパートナーに殺意の孕んだ睨みを向ける。

 

「――殺す」

 

 鏑矢は暗部である。

 勇者たちのようにどこまでも仲良しこよしの二人三脚で進まない。

 必要とあらば友奈は蓮華を見殺しにする。そこに人の情といったものは一切介入されない。

 蓮華の場合も同様だ。

 心を殺し、ただ御役目を遂行するのみ。

 

「友奈、あなたもわかるはず。AI技術は破壊したわ! それでもう十分でしょう⁉ 見せしめになった! ゆうが使われることはない!」

 

「ううん。大赦はその子も処分するように命じた。だから予定に変更はなし。三秒以内に渡せ。さもなければ撃つ」

 

 これは決定だ。

 やっぱり撃てない、みたいなやり取りはない。

 裏切り者には死を。

 それがたとえ、長い間、共に御役目を遂行してきたパートナーであろうとも。

 

「三」

 

「友奈、お願い……!」

 

 動じない。すでにカウントダウンに入っている。

 友奈が応じるのは背後の少年を差し出したときだけ。

 蓮華がどれだけ必死に訴えても、それはただの雑音でしかない。

 

「二」

 

「こんなの間違ってる……!!」

 

 間違っているのは蓮華の方だ。

 今すぐ寄越して。

 ……お願い。

 

「一」

 

「――友奈!!」

 

『アカナ!!』

 

 引き金を引く。

 銃口から火を噴いて放たれた銃弾は、寸分の狂いもなく放たれる。

 それは友奈の狙った通り真っ直ぐに飛び。

 蓮華の額の中央からやや右を撃ち抜いた。

 ニメートルも離れていない超至近距離で離れたせいか、弾丸の勢いは止まらず蓮華の脳髄を放射状に撒き散らしながら後頭部から突き抜ける。

 びしゃ! と生々しい音とともに脳髄が壁を血色に彩る。

 力の抜けた蓮華の身体が崩れ落ちる。背後の少年は蓮華の返り血にまみれ、声にならない声で絶叫した。

 障害は排除した。

 瞬きの間に少年に肉薄した友奈は口に手を突っ込んで黙らせる。

 余った手で矢を拾い上げ、今度こそ貫く。

 途端、矢は対象者を認識し、大量の花弁を螺旋状に舞い上がらせる。それらはすぐに色褪せ、朽ち、少年は深い深い眠りに落ちた。

 これにて御役目完了。

 耳元のインカムに触れて友奈は感情を押し殺した声で報告する。

 

「AIの破壊、沖波ゆうの処分、完了しました。その際、弥勒蓮華が妨害したためやむなく処分しました。遺体を持ち帰る余裕がないので放置します」

 

『………………おん』

 

 なんとも言えない曖昧な返事が返ってくるが、それに何かを言う余裕は友奈にはなかった。

 蓮華の遺体から鉤縄を盗み取り、拳で窓を割る。

 去り際に。

 

「………………ばか」

 

 とだけ悲痛な顔でそう小さく言い残し、友奈は離脱した。

 

 ◆

 

 鏑矢の後始末を大赦が行うことがよく時々ある。

 大抵はきちんと処分できたかを確かめるため。警察と大赦は密接な関係にあり、こういう場合は対応が警察から横流しされてくる。

 だが今回は『不審者の少女』を回収するのがメインの後始末である。

 蓮華の裏切りは大赦へと報告されている。事実と認定されるのは時間の問題だろう。そうなればテロ組織を撲滅した名誉だけが存在する弥勒家は、間違いなくその力を大きく失う。

 つまり没落だ。

 これを復興させるには気の遠くなるほどの年月を要するだろう。

 友奈と静は蓮華の葬儀に出席しなかった。

 大赦から禁止されているわけでもない。ふたりは自分の意志で、行かないと決めたのだ。

 裏切り者にかける情などなし。

 中学校でも蓮華の死が伝えられる。

 表向きでは交通事故になっているらしい。

 クラスメイトたちは友奈と蓮華がただならぬ関係であることを知っているがゆえに、どう言葉をかければいいかわからない。

 ……それでいい。かえってそのほうが友奈には心地良い。

 誰かに優しくされるのが無性に怖い。

 日常を侵食する非日常に、人間性を貪り喰らわれているような気がして、怖いのだ。

 誰にも話しかけないでほしい。

 誰の心にも触れたくない。

 家に帰ると、いつもと違って広く感じられる。蓮華がいなくなったことによる変化のひとつ。

 学校の宿題がわからなくて、ふと顔を横に振ってもそこに教えてくれる人はいない。

 静の部屋にまで行って教えてもらう。

 それでいて日々の鍛錬は怠ってはならない。

 以前より没頭する友奈の逞しくも小さな背中は孤独を物語っていて、静は何も口出しできない。

 静の目には、友奈が必死に何かから逃げようとしているように見えて。

 それから数カ月が過ぎた九月の下旬、大赦からあることが通達される。

 

「アカナ……うちら、解散やって」

 

 弱々しく語る静の表情に明るさはない。

 友奈も薄々気づいているが、静の巫女としての力が弱まってきている。あと数年もしないうちに力を完全に失うだろう。

 

「そうですか。まあ、そうなるでしょうね」

 

 静はともかく、仕方ないとはいえ友奈は仲間殺しの業を背負っている。

 その心情はそう簡単に推し量ることができない。不安定な二人をこのまま鏑矢として運用するのは不可能と大赦は判断したのだ。

 

「これまでの御役目の成功報酬は、すでに作られたうちらの口座に振り込まれるそうや。数年は遊んで暮らせるほどらしい」

 

 基本的に給料として与えられる金は中学生だからという理由でその殆どをカットされている。

 そのカット分が鏑矢を引退する時に与えられるのだ。

 使い捨ての消耗品。それが友奈たち鏑矢の末路だ。

 それらすべてをひっくるめて。

 

「……どうでもいい」

 

 と静に聞こえない声量で呟いた友奈はその後も続く静の説明にじっと耳を傾ける。

 鏑矢の御役目について一切の口外を禁じるとか、メンバーで会ってはならないとか色々。

 それから数日のうちに、鏑矢は正式に解散した。話によると、すぐにでも第二世代の鏑矢が編成されるらしい。

 ただの女子中学生になった友奈には、もはや関係のないことだった。

 

 ただの……女子中学生……?

 

 実家に送り返された友奈はこれから普通に学校に通うことを義務付けられる。

 転校した先の学校では思うように馴染めなかった。

 同世代の子どもたちとどう接すればいいかわからなくなってしまっていた。

 所謂コミュニケーション障害である。さらに、唐突に変化した『日常』という環境がどうしても受け入れられず、非日常との大きな乖離に苦しむ。

 拳銃で唯一無二のパートナーを撃ち殺した時の手の感触が今でも鮮明に残っている。ふと気づけば、手が勝手に引き金を引く動作をしている。

 ふと自宅の洗面所で鏡を見れば自分の顔は血塗れになっていて、半狂乱になりながら水で洗いながそうとする。

 それが幻覚だと気づいたのは親に力づくで止められた後だった。

 無理だった。

 耐えられなかった。

 表世界は友奈には適合しない。

 この胸を掻き毟りたくなるほどのもどかしさ、もとい苦しさを発散させる方法はただひとつしかない。

 億単位で振り込まれている自分の銀行口座の通帳を手に、深夜ごろに家を飛び出た。

 もう正常な判断すらできないほど追い込まれていた。

 電車に乗ることなんて考えつかないほど混乱し、真冬の外を走る。凍てつく風が喉を痛めるが気にならない。

 走って。走って。

 体力が尽きても、何かに突き動かされるように走って。

 夜が明けた頃、ようやく大赦本部に到着する。

 年頃の少女がしないような狂気の張り付いた顔をした友奈はすぐさま不審者認定をされて取り押さえられる。

 独房へ連れて行かれて数時間、友奈の前にひとりの女性が現れた。

 

「赤嶺さん、いったい何の御用でしょうか」

 

 現大赦トップ。

 上里霞。

 友奈の記憶では確か六十歳前後だったはずだ。

 しかしながら、母親から引き継いだ煌めくアメシストの髪をきゅっと後ろで纏める姿は凛々しい。

 顔立ちは父親のほうが強いのか、キリッとした鼻や目元は美しさというより、逞しさが際立っている。

 

「鏑矢を引退なされる時、大赦に近づいてはならないと約束したはずですが」

 

 霞の瞳がすう、と細くなる。

 そこに滲むのは疑問と困惑が入り混じりつつもそれを誤魔化すような鈍色。

 友奈は傷ついた喉から獣のような嗚咽を漏らし、激しく咳き込む。

 さらに数度咳き込んだあと、ひび割れた声で友奈は言った。

 

「私を、戦わせてく、ださい」

 

「どうしてですか? あなたはもう戦う必要はないのですよ? これから普通の生活に戻れるというのに」

 

「ッ!!」

 

 素早く立ち上がった友奈は覇気迫る顔で独房の檻を掴む。ガシャン! と錆びついた金属音が鳴る。

 その眼力に、霞は数歩たじろぐ。

 

「お前がッ! お前が私をこんな身体にした!! もうあんなつまらない生活はできない!! 苦しい!! 苦しくて苦しくて気が狂いそう!! 私を戦わせろ! 私のこの飢餓を満たせ!! それがお前のするべき私への贖罪だ!!」

 

 まさに、狂気。

 赤嶺友奈はとうに正気ではない。

 口の端から唾液を撒き散らしながら吠えるその様はバーサーカーそのもの。

 

「――――」

 

 霞は瞠目しながら荒い呼吸を繰り返す友奈を見下ろす。

 過去の御役目のデータを鑑みるに、赤嶺友奈は戦闘狂の気質がある。それが鏑矢の活動のせいで過剰に刺激され、後戻りできなくなったといったところか。

 子供に暗部は務まらない。

 務まったとしても、心は荒み、ひび割れて砕ける。あとに残るのは人間性を喪失した抜け殻だ。

 血走った眼球は今にも眼窩から飛び出しそうだ。

 霞は毅然とした態度のまま問う。

 

「もう一度鏑矢になりたいということですか?」

 

「違う! 違う違う違う違う……違うッ! そんなのどうでもいい!」

 

 頭を掻きむしる友奈を前に霞は極めて落ち着きを保つ。

 

「そうですか」

 

 しかしながら即座にその顔を柔和なものへと変化させた。

 慈悲であるかのように、優しく、穏やかに、微笑んだ。

 

「ちょうどいい『お仕事』があるのですが……どうでしょう? すでに何度か御役目を遂行してもらったのですが、第二世代の鏑矢は赤嶺さんたちより少し劣っていまして、なかなか手出しできない組織があるのです。前々から大赦にいらないちょっかいを出すので不快でしてね? 『お掃除』してもらおうかと」

 

 それは、地獄への誘惑。あるいは悪魔の囁き。

 イヴに知恵の実を取るよう唆した蛇。

 元暗部だからこそできるドロドロに濁ったダークな依頼。

 友奈の目の色が変わる。

 燦々と妖しく輝く目はまるで大好きなお菓子を目の前にした幼い子供のよう。

 

「やる。やる! やらせて! それ、私にやらせて!!」

 

 霞は心底ほくそ笑む。まだ深くない頬の皺が浮かび上がる。

 母であるひなたも、表向きは世間一般から聖女と敬われるほどいと素晴らしい人柄を見せつけていた。しかし裏の顔は、四国の平和と安寧を維持するために修羅に堕ちる覚悟を済ませた鬼であった。

 娘もそれと全く同じ道を進む。

 上里家だからこその力と、霞自身の巧みな根回しと話術によって言いくるめ、傀儡にする。

 とはいえ友奈をもう一度鏑矢に任命することはできない。立ち位置で言うならば、鏑矢が闇とすると、友奈は彼岸の果てから涎を垂らしながら闇を欲する狂人だ。

 こんな得体のしれない少女をおいそれと裏に放つことすらできない。ゆえにパートナーや巫女の補助も不要。

 独房から連れ出した友奈に与えられたのは新たな戦装束だ。

 友奈の知るぴっちりスーツではなく、白を基調とした布繊維で編まれたらしき戦装束だ。

 爪先で弄るが、当然と言うべきか傷ひとつつかない。

 

「これは……?」

 

「大赦が秘密裏に開発していた勇者服のレプリカです。勇者たちは巫女による祝詞の付与なしでも強大な力を発揮していました。それにはまだ遠く及びませんが、これを着ることによって格段にパワーアップが望めます」

 

「具体的にはどれくらい?」

 

「桐生さんの祝詞付与時よりほんのちょっぴり強いくらいですね」

 

 友奈は嬉しそうに口角を上げた。

 

「……素晴らしい」

 

「それと、赤嶺さんは鏑矢ではないのであの矢をお渡しすることはできません。なので、処分方法は――」

 

「――殺せってことだね」

 

「はい」

 

「いいよ。やってあげるよ。今すぐにでも」

 

 乗り気の友奈ははやくはやくと霞にせがむ。

 だが霞はそれを手を伸ばして制止する。

 

「待ってください。敵の情報も何も知らないじゃないですか。今持ってくるのでそこで着替えて待っていてください」

 

「えへへ。そうだった」

 

 無邪気に答えた友奈を地下に放置し、素晴らしい駒を手に入れたと歓喜に打ち震えながら急いで霞は液晶タブレットを持ってくる。

 再び地下に戻ってきた頃には既に友奈は着替え終えていた。

 雪に濡れてビチョビチョになった私服は地面に乱雑に脱ぎ捨てられている。

 

「悪いけど、私の服処分しといてくれる?」

 

 友奈の小麦色の肌と対比するかのような純白の装束はあまりに似合いすぎた。

 霞は、つい死の天使が現実世界に降臨されたのではと錯覚してしまう。

 言い換えるならば。

 

「……死装束」

 

 そう、掠れ声が溢れた。

 タブレットをスワイプさせ、ほんの数分ですべてを頭に叩き込んだ友奈は、天使のような微笑から非情なものへと表情を急変させる。

 

「いけます。どちらかと言うと殺すほうが簡単なので、いつもより楽です。武器、借りていきますね」

 

 卓上に並べられた武器をいくつか手に取る。メイン武器は拳銃。サブは予備を含めて小刀をいくつか。

 

「それだけでいいんですか?」

 

「大丈夫。阻む障害はすべて破壊し、敵を全員殺す」

 

「あと、これを」

 

 そう言って霞が友奈に手渡したのは硬質な金属でできたバイザーだった。シンメトリーに走る模様からは微かな燐光が漏れている。

 

「暗視などに使えます」

 

 受け取った友奈はゆっくりとバイザーを顔にはめる。

 その姿は鏑矢より冷酷な執行者のようで、霞はそれを見てきゅうう、と心臓の躍動が収縮させる。

 

「頑張ってください」

 

 何か声をかけてやろうと激励の言葉をかける。

 

「……がんばる?」

 

 初めて聞いた単語のように友奈は口にし、霞の方を振り向く。

 

「お前は私達のこと、何もわかっていなかったようだね。私達は常に死に物狂いで御役目に身を捧げてきた。……甘い。だからお前はひなた様に劣るんだぞ」

 

「――――」

 

 霊界から響く声。バイザーの光は紫にゆらゆらと揺れる。

 霞の患っているコンプレックスを容赦なく指摘され、思わず苦虫を噛み潰した顔になる。

 

「それじゃ」

 

 本部の裏口から勢いよく飛び出した友奈は、死装束を赤く彩り夕方には帰還した。

 御役目は、数カ月のブランクがあったとは思えないほど非の打ち所がなく完璧に遂行された。

 

 ◆

 

 きっと、再び闇に舞い戻ったのに明確な理由はないと思う。

 ただ逃げたくて。

 あの日の記憶から。

 大好きだったパートナーを撃ち殺した、あの忌まわしき記憶をどうにかして紛らわしたくて。

 殺しを殺しで塗り潰し。

 積み重ねた業の果てならば、いつしか薄れて忘れてしまうことができるような気がして。

 友奈は逃げたのだ。

 蓮華と真摯に向き合おうとしなかったのだ。

 つまり今の友奈のこの未来は、罪。

 たくさんの人を殺した。

 数え切れないほどの人を殺した。

 大人はもちろん、非力な女子供であろうとも容赦なく殺した。

 心地よかった。殺せば殺すほど、血が友奈の背負う罪を洗い流してくれる感覚が何よりも。

 血と脂にまみれた全身からは死の匂いが漂う。

 そうして半年が過ぎて。

 神世紀七十六年六月二十六日。

 友奈はある御役目を霞から頂戴した。

 

『鏑矢の皆さんを殺してください。彼女たちは先日の御役目に失敗し、拠点、それに身元がバレてしまっています。どうやら皆さんは気づいておられない様子です。このままでは大赦の繋がりを知られてしまう可能性があるので、一刻も早く『口封じ』をお願いします』

 

 御役目に人の感情を割り込ませることはない。

 ただ御役目を全うする歯車であれ。

 第二世代の活動拠点は友奈たちが使っていた家をそのまま使用していた。

 怒りなどといった感情は湧かない。

 友奈は今、歯車だから。

 執行者は巫女を除いて三人だった。

 流石というべきか、友奈の襲撃を察知したようで、深夜でもしっかり迎撃してきた。狭い廊下での攻防。

 三対一だと有利はこちらにあると思いこんでいるのだろう。だがしかしこちらは殺すことのみに特化した立ち回りで翻弄する。

 完全に友奈の死角から刀一閃。

 それは間違いなく友奈の首を刎ねる『はずだった』。友奈が人間離れした超反応で回避しなければ……である。

 左足を軸にして急速回転。回転の速度と重ねた強烈なアッパーをカウンターとしてまともにくらい、顎が千切れ飛び、血が盛大に噴き出す。

 

「あぐ、がああああ⁉」

 

 刀を手放し、よろめく鏑矢の懐に潜り込んだ友奈は手に握りしめた小刀で心臓を深く貫く。

 悲鳴もなく絶命した鏑矢を荒々しく投げ飛ばす。

 仲間を殺されたことに激情したのか、勇ましく友奈に突貫してくる。

 

「――鏑矢に必要なものは、心を殺すことだよ」

 

 いつでも冷静であれ。

 自身を人と思うな。

 放たれた銃弾はバイザーに命中するが、傷ひとつつかない。

 にたり、と口の端を歪めると、ふたりに恐怖が溢れる。

 駄目だ。

 まるで駄目だ。

 怯えたらそこで負けだ。

 こいつらは鏑矢に相応しくない。

 血で満たされた通路を走り、一瞬で友奈は距離を詰める。恐怖のあまり反応が遅れた一番手前の鏑矢の首を小刀で刎ねる。

 ごとり、と重い音が地面に落ちる。

 

「うわぁぁぁあああああ!!」

 

 涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにした最後の一人がこちらに背を向けて逃走を開始する。

 

「どうして逃げるの?」

 

 予備の小刀を投擲すれば、足首に命中して無様に転倒する。

 びちゃ! と仲間の血でできた池に顔から突っ込む。

 友奈はゆっくり歩いて立ち上がろうとする鏑矢に近づく。髪を乱雑に掴み上げて立ち上がらせる。

 友奈は疑問を口にした。

 

「どうしてここまで弱いの?」

 

「ひ、ひぃぃいいいい⁉」

 

 どうやらまともな問答もできないようだ。

 反撃という選択肢すら浮かばず、逃げようと必死に四肢を暴れ回らせている。

 これは諦めるしかないようだ。

 可愛らしく小首をかしげた友奈は鏑矢の首を両手でゆっくり、ゆっくりと絞める。

 

「か、カ……グ……! ヒュっ!」

 

 やがて窒息で死ぬよりも先に骨を折ってしまいます、だらんと友奈の腕を掴んでいた手がだらりと重力に従って力無く下に垂れる。

 執行者はこれで全員始末したが、あとは巫女が残っている。

 装束を真っ赤に染めた友奈はリビングに入る。

 

「あんたは……アカナ、なんか……?」

 

 巫女服のままソファーでくつろいでいたのは静だった。

 友奈の動きが、ここで初めてぴくりと止まる。

 

「そうか……お互い、堕ちるとこまで堕ちたなぁ。どうや? 最後に一緒に漫才でも観ぃひんか?」

 

 そう言いながらパッケージに入っていたであろうDVDの穴に人差し指を入れてくるくる回して遊ぶ。

 

「…………」

 

「……まあ、観ぃひんか」

 

 卓上にDVDを置いた静はにへらと笑った。

 

「なんでうちがまた巫女をやってるんか不思議に……いや、理由なんて必要ないよな。『そういう事実』があって、そんでアカナは『何らかの理由』でうちらを処分しに来た。ただそれだけの話そうなんやろ?」

 

「……はい」

 

「こんな末路、ロックが見たらどう思うんやろうなぁ。死人に口無しとはよく言うけども、考えずにはいられん」

 

 萎れた静は虚空を見つめる。

 残念ながらその先に蓮華はいない。

 蓮華は土の中に骨となって埋められているのだから。

 

「まあでも」

 

 そう低く呟いて立ち上がりながら、静は懐から調理用包丁を取り出す。

 

「うちも死にたくはないからな。せめて抵抗くらいさせてもらうで? ……まさかうちらの飯つくるためにアカナが初めてロックに買ったこれを、こんなふうに使うときが来るとは思わなかったわ」

 

「…………」

 

 憂いの眼差しで包丁の切っ先を撫でた静が腰に構えて突撃してくる。

「やあああああ!!」とやや頼りない雄叫びをあげて距離を詰めてくる。

 踏み込みが浅いし、あまりに遅い。時間がどこまでも引き伸ばされているみたいだ。

 しかし。

 

「な、なんでや……⁉」

 

 静が驚愕とともに友奈に問うた。

 少し身体を移動させるだけで回避できるはずの包丁のひと刺しが、友奈の下腹部に突き刺さったのだ。浅いが、間違いなくダメージは入っている。

 

「…………」

 

 友奈は答えない。

 しかし痛みに頬を引つらせる。

 

「……シズ先輩。今までありがとうございました」

 

 それだけ言って。

 友奈は左腕で優しく静の身体を抱き。

 右手に構えていた小刀で静の胸を躊躇いなく深々と貫いた。

 

「う、ぐ……!」

 

 静は苦悶の声を口の端から溢れさせるとその後間もなく絶命した。

 家にあったものをすべて焼き払うため、キッチンでガス漏れを起こさせ、故意に火事を起こす。

 パチパチと爆ぜる火の粉。

 激しく燃え上がる懐かしい家。

 楽しかった思い出。

 忘れてはならないはずの記憶。

 すべて。

 すべて。

 すべてすべてすべて。

 灼けていく。

 灼けていく。

 

 これにて。

 御役目、完遂。

 自分が果たしてどういう存在なのか、わからなくなってしまった。

 友奈の頬を、熱い何かが伝った。

 

 ◇

 

 鏑矢がいなくなったことで、大赦直属の暗部が消えた。

 第三世代が編成されるかと思いきや、霞は首を横に振った。

 

「いいえ。鏑矢計画はこれで完全に中止します。子供に闇は務まりません」

 

 その後友奈は滝行を命じられた。

 そんなもので私は清められないと突っぱねたが、有無を言わせない霞の命令口調に渋々従う。

 白い薄布のみとなった友奈は静謐な空気が包み込む滝の下で数時間、滝に打たれ続けた。

 その間にもこれを唱えろと言われた清めの祝詞を何度もループして唱え続ける。

 話によれば神樹と向き合うための前準備としてこうして身を清めるらしいが、こんなもので友奈の心は清められない。

 ひび割れた硝子の心はどれだけ冷水に打たれても、暖かさに包まれても二度と戻らない。

 いつもの装束に着替えた友奈は、霞に導かれて大赦本部の秘匿領域――神樹の祀る御神体のある場所へと連れられる。

 そこは平坦な丘になっていて、その中央でなんとも言えぬ神聖さを放つ巨木が一本、静かに佇んでいる。

 何度も踏まれたのだろう、人の作り出したけもの道を歩く。

 

「赤嶺さんには、四国の守護者となってもらいます」

 

 突然よくわからないことを言われ、友奈はぽかんとした顔をする。

 

「赤嶺さんさえいれば、鏑矢は必要ありません。それがこの一年と少しで証明されました」

 

 静たちを殺したあとでも友奈はひたすら殺し続けた。

 いつしか本来鏑矢が遂行するべき御役目もこなすようになっていった。

 

「これから赤嶺さんを神樹様に祀ります。赤嶺さんの心身は神樹様のものとなり、不死となるでしょう」

 

「……」

 

「赤嶺友奈という存在は消えます。代わりに『征矢』の名前を授けましょう」

 

 征矢。

 確か戦場で実際に使われていたという、殺すための身の使われていた矢の名前だったはずだ。

 

「私の意志は尊重されないんだね?」

 

「赤嶺さんは戦いたいのでしょう? でしたらこれは最高の環境だと思いますが」

 

「そうだけど」

 

 せめて滝行に連れ出される前に事前説明くらいはしてほしかった。

 友奈はやや不満げに霞を睨みつけた。

 だが拒否はしない。

 征矢となって四国の守護者となることに了承する。

 

「それは良かったです。では、神樹様にお手を触れてください。それで契りは交わされます」

 

 御神体は、仄かに白く発光していた。

 木というのはだいたい焦げ茶色のはずだが、そこは人の人智を超える神。その辺りの常識は通じないのだろう。

 神樹に近づくごとに自然と頭を下げろと本能に訴えかけてくる何かの存在をぼんやりと感じ取る。

 人は神の前では立っていることすらままならないと言われているが、まさにこれのことを指しているのだろう。

 しかし、友奈は神の言いなりになるために自身を捧げるわけではないのだ。

 神への抵抗。

 霞が目を見開く。

 足取りが重くなっていくが、決して頭は下げない。

 神の赦しなんてものはいらない。

 誰の赦しも。

 自分の、自分に対する赦しも。

 そうして神樹の目の前にたった友奈を出迎えるように、白い触手が何本も伸びてきて、友奈を優しく包み込んだ。

 神といえど、やはり生き物か。

 友奈の身体の内側から白い熱が拡散し、『赤嶺友奈』という存在そのものを分解していく。それらは余すことなく神樹に吸収される。

 その内、友奈の自意識も白く。

 白く、白く染め上げられて――。

 そして――。

 

 ◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『約束してほしい……私のようにならないで……レンちとシズ先輩とずっと一緒にいて……人の心を、どうか失わないで……』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――閃光!!

 

 ◆

 

 ここ(・・)ではないのか⁉

 友奈は強いデジャヴに眉を寄せる。

 目の前には蓮華。その背後には処分対象である沖波ゆう。

 

『ロック、今ならうちらもちょっとしたミスということにしといてやる』

 

 少年は怯えながら蓮華のポーチを震えながら掴んでいる。

 ここで赤嶺友奈と征矢の決定的なターニングポイントが発生していたのだ。

 友奈は蓮華を睨む。

 

「友奈はなんとも思わないの? この狂った世界に」

 

「…………」

 

「こんな小さな子供を手にかけるのは間違っている!」

 

 初めて見た蓮華の顔。

 初めて友奈に向けた敵対の視線。

 互いに睨み合う。

 時を刻む秒針の音のみが己の存在を肥大化させている。

 鏑矢は暗部だ。

 闇に生きることを刻まれた歯車でなくてはならない。

 錆つき、狂いを生じさせようとしているのならば取り除かなかではならない。

 狂っているのは世界ではない。

 蓮華の方だ。

 素早く銃を引き抜いた友奈は躊躇いなく照準を蓮華の額に向けた。

 

「その子を、離せ」

 

 ドスの効かせた声で命令する。

 蓮華は少年を自分の後ろにやり、立ちはだかる。

 

「人がより良い未来に向かおうと努力しているのに、どうして大赦はそれを抑圧する? ……ええ、理由はわかってるわ。わかってるけど、受け入れられない。……弥勒は、この世界の在り方が間違っていると思う」

 

「レンち、それ以上はいけない」

 

「若葉様たちが命がけで守った四国が、こんな……ッ! こんな不自由であっていいわけがない! 確かにテロ組織を排除するのは納得できる。放置すれば罪のない人々が危険に晒されるから。でもこれは違う!」

 

 語気を荒げ、叫ぶようにして心情を吐き出すその様は、あまりに見るに耐えなかった。

 しかし今の友奈なら蓮華の言いたいことが嫌というほどよくわかる。

 神世紀三百年を必死に生き抜いた勇者たちの背中。あの記憶がありありと友奈の瞼の裏に蘇る。

 

「レンち!」

 

 友奈は猶予すら与えず引き金を引いた。

 狙いは額ではなく、左の肩口。

 回避するほど距離の離れていない状況で外すはずもなかった。

 銃弾は蓮華の肩に命中し、激痛に顔を歪める。

 その隙を逃さない。

 刹那の間に肉迫した友奈はさらに蓮華の無防備な腹に、追撃として渾身の拳撃を沈み込ませる。

 

「か……ハ……!」

 

 巨人の一撃の如き衝撃は、祝詞を解除された蓮華には耐えきれないものだった。

 僅かな硝煙の香りが、部屋を満たす。

 さらに続いて矢を拾い上げ、蓮華の後ろに立ち尽くす少年の胸にこれを突き立てた。

 瞬く間に処分エフェクトが発生し、少年は眠るように目を閉じた。

 

「友奈ぁぁあああッ!!」

 

 喉が張り裂けんばかりの大声量で蓮華が叫ぶ。

 普通ならすぐに起き上がれないはずなのに、さすがは蓮華といったところか。

 胸ぐらを掴みあげられ、壁に押し付けられる。

 

「なんてことを……! この子は……ゆうは……ただ大人の事情に巻き込まれただけの子供なのよ! どうして……! どうして……!!」

 

 声は次第に上擦ったものになり、最後には嗚咽を含んだ涙声になっていた。そして蓮華は力無くその場に膝をついた。

 

「……レンちは間違ってないよ」

 

 と、ぽつりと友奈は口を開いた。

 

「なら!!」

 

「でも、この時代ではその考えは間違ってる。人は自由じゃないといけない。それは私も合ってると思う」

 

 友奈は征矢の死に際に約束したのだ。

 征矢の願い。

 征矢の祈り。

 征矢の想い。

 そして。

 征矢の後悔。

 そのすべてを友奈は引き継ぐ。

 そう、約束したのだ。

 だから、これから未来を生きていく友奈のすべては友奈のものであり、同時に征矢のものでもある。

 蓮華を立ち上がらせた友奈は小刻みに震える身体を優しく抱き締めた。

 

「ごめんね、レンち。すごく怒ってるよね? いいよ。怒っていい。私を許さなくてもいい。でも、どうか……どうかこれだけはわかってほしい」

 

 引き離そうとする蓮華を逃すまいと友奈はいっそう強く抱き締めた。

 

「私達にはそれをなす力がないの。神樹様の庇護化にある以上、絶対に不可能なの。でもその考えは、ずっと、ずーっと未来の誰かが継いでくれる。絶対に叶えてくれるから」

 

 破神を成し遂げた勇者たち。

 あの時代こそが、蓮華の求めている自由な世界。異世界ではあるものの、ああして実現した。ならば友奈たちの世界でも十分可能性がある。

 友奈は一足先に見せてもらった。あの世界ならば、蓮華も満足してくれるだろう。

 でもふたりはそれを目の当たりにすることはない。すでに死んでいる。

 しかしながら、蓮華の想いを誰かに託すことはできる。それが色褪せることなく何百年も受け継がれれば、決して夢物語ではなくなるはずだ。

 

「そんなの……そんなの無理よ。信じられない」

 

 弱々しく囁く蓮華を友奈は否定する。

 

「じゃあ、私を信じて。人が自由になる未来が来ることを信じている私を、信じて」

 

 きらきらと涙で瞳を輝かせる蓮華は、頼もしい友奈の顔を視界に収める。

 蓮華の狼狽ぶりから、沖波ゆうとは相当親密な関係であったことは推察できる。

 しかしこれは、今現在、絶対的地位を確立している大赦による命令なのだ。

 これには逆らえない。

 トップが上里ひなたから霞に変わったことで、早速大赦に綻びが生じ始めていることも否めない。それが長い年月を経て、積み重なることで人々の不満を買い、独裁が終わるのだ。

 

「………………わかったわ」

 

 湧き上がってくる感情をすべて含めた、四文字の音の羅列。とりあえずは飲み込む、という趣旨の、完全了解ではない返事。

 それでいい。

 友奈は小さく微笑んだ。

 完全に理解してもらうには、それこそ長い時間を要するだろう。

 いいのだ。それでいいのだ。

 理解者はパートナーである友奈はすべてを受け止める。その涙も、慟哭もすべて。

 その願いを忘れろとは言わない。

 しかし残念ながら、蓮華には願い叶わぬまま生きてもらうしかない。

 人の抱く願いが、すべて叶うことなんてない。どう頑張っても叶えられないものなんていくらでもある。

 叶うのならば、終末戦争で勇者たちは天の神を破っている。

 そういうことなのだ。

 ……ただ、願いを抱くことは誰にでもできる。誰かに語り聞かせ、託すこともできる。

 そうして人という種は途方もないほど長い年月――歴史を紡いできたのだから。

 

 ◇

 

 これは、そんな遥か過去のお話。

 成り果てた少女が、過去の自分に願いを託すことでほんちょっぴりだけ歴史を変えた、小さな小さなお話である。




「ありがとう」

ということで、活動報告の通り、次から(たぶん)【白鳥歌野は勇者ではない】を始めます。いつから始めるかはわからないけど


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