未来の本因坊 (ノロchips)
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1話

※囲碁界をディスるような表現がありますが、創作であり、完全に私の妄想です。実際の囲碁界とは全く関係ありません。

※今作でのタイトルホルダーおよび本因坊とは、いわゆる七大棋戦のものであり、ヒカルの碁でいう桑原本因坊が持つものを指します。女流タイトルである女流本因坊とは別物です。


 ――改めまして本因坊位獲得、おめでとうございます。

 

「ありがとうございます」

 

 ――率直に今の気持ちをお願いします。

 

「正直まだ実感はありませんが、今までの努力が素晴らしい結果に繋がったという事を嬉しく思っています」

 

 ――本因坊というタイトルについて、どのように思っていますか?

 

「多くの偉大な先人の努力が刻まれた、とても権威のある称号です。本因坊の名を頂けたことを大変誇りに思います」

 

 ――タイトル獲得の報告を、誰に最初にしたいですか?

 

「一番に伝えたいのは両親です。今まで色々な事を教え、育ててくれた感謝の気持ちと一緒に報告したいです」

 

 ――ありがとうございます。それでは最後に女性初の本因坊として、一言お願いします。

 

 

 

 それまで記者の質問に笑顔で淡々と答えていた女性は、その問いに対して一呼吸置き、真剣な面持ちで口を開いた。

 

 

 

「これまでの囲碁界は男性棋士が常に先頭を走り続け、女流棋士が棋戦で陽の目を見ることはありませんでした」

 

「女流棋士の実力は軽んじられ、私達を囲碁普及の為のマスコット扱いする声さえあります」

 

「私はそういう人達に知ってもらいたいんです。女性だって男性と同じように戦える、同じ棋士なんだから、と」

 

「今回、私が本因坊という素晴らしいタイトルを獲得出来た事が、そのきっかけになってくれたら、と思います」

 

 

 ――ありがとうございました。それでは以上で星川彩(ほしかわあや)新本因坊の記念記者会見を終了とさせて頂きます。

 

 

 

 

 

 

 

 記者会見が終わり対局場の外に出ると、私の同期の女流棋士が待っていてくれた。

 

「やったね彩! おめでとう! 女性初のタイトルホルダーだよ! しかも本因坊!」

「うん、ありがとう! あー、ホント疲れたよ」

「それはこっちの台詞だっつの! アンタの碁、心臓に悪すぎ。見てるこっちが疲れたよ!」

 

 うっ……確かに自分でも随分危なっかしい碁だったと思うけど。しょうがないじゃん、形勢悪かったんだから。無理して攻めないと足りなかったんだもん。

 

「記者会見……見てたよ。私もちょっとスッキリした。これで女流の見方もちょっとは変わるかもね。でも、アンタこれから大変だよ?」

「え? なんで?」

「なんでって……せっかくタイトル獲っても、彩がこれから不甲斐ない碁を打ったり、簡単にタイトル失ったりしたら、やっぱりマグレだったとか期待外れとか言われちゃうでしょ? これからもっと頑張らないとね」

 

 改めて言われるとプレッシャーだなぁ……やっぱりちょっと大きく言い過ぎたかな?

 ……ま、いいか。私の本心だし、思った事を言っただけだし。

 

「ま、アンタがダメでも私がタイトル獲って代わりに女流の力を見せつけてやるんだけどね!」

 

 同期だけど年は1つ上。親友であり、姉のような存在でもある彼女の気遣いが私は嬉しかった。

 

……まあそっちが始めにプレッシャーかけてきたんだけどね。

 

 

 

 私は常々この世界の男女差別に疑問を持っていた。それはプロの世界、というよりも囲碁界全体に広まっている風潮だ。

 子供の頃に出場した囲碁大会で私が決勝で男の子に負けた時、涙を流しながら準優勝の賞状を受け取る私に大会の主催者が言った。女の子なのによく頑張ったね、と。

 中学で入部した囲碁部で初日に部長を倒してしまった時、検討で悪手を指摘したら、女の癖にと暴言を吐かれた。部活はその日に辞めた。

 プロになってからも同じだった。高段の男性棋士に勝っても、三大棋戦にリーグ入りしても、聞こえてくるのは女流最強、女流に敵なし。そんな声ばかり。

 私は悔しかった。勝っても負けても、女という理由だけで自分を正当に評価して貰えないような気がして。

 

 囲碁は頭を使う競技だ。体を使うスポーツではない。子供と大人が対等に戦える。だったら女だって男に勝てない訳がないはずなのに。

 しかしプロの棋戦では明らかに男性と女性で優劣が出来てしまっているのも事実。過去、七大棋戦において女性はタイトル挑戦者にすらなった事は無い。その事実がある以上、やはり対等とは言えないのかもしれなかった。

 

 それなら……プロという最高峰の舞台で女性が結果を残せば少しはこの見方が変わるはず。私がタイトルを取れば囲碁界を変えられるはず。

 その想いで日々勉強し、努力を積み重ね……今日やっとその夢が叶った。

 

 そして今日ここからがまた新たなスタート。日本の棋戦だけでなく、世界に私の、女流棋士の実力を見せつけてやるんだ。

 

 

 

 祝勝会には師匠、同門の兄弟子、同期の棋士など多くの人が集まってくれた。私の記者会見での発言をからかわれたりしたけれど、それ以上に私の本因坊獲得を祝福してくれた。

 

 飲み慣れないお酒に身を任せ、久しぶりに酔うという感覚を味わった。最後にお酒を飲んだのは棋聖戦リーグの降格が決まった時だったかな。あの時とは全く違う、幸せな酔いだった。

 

 タクシーで一人暮らしのアパートに到着し、実家の両親に電話をした。私が何かを言う前に向こうから

 

「おめでとう、お疲れさま」

 

 と言ってくれた。今までの苦労と感謝の気持ちが溢れ出してきて……ありがとう、と涙声で返すのが精一杯だった。

 

 

 

 布団に入り、目を瞑る。対局後はあまり実感が無く、ふわふわしたような気持ちだったけれど、色々な人に祝福されてようやく達成感が湧いてきた。

 

 女性初のタイトルホルダー、女性初の……本因坊。私が歴史に名を残したんだ。

 

 

 幸福感と心地よい疲労感に包まれて、私は意識を手放した。



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2話

 …や……あや……彩! 起きなさい! 着いたわよ!

 

 私を呼ぶ声がする。聞き慣れた、懐かしい声。その声に呼ばれるがままに私は目を開けた。

 

「おかあ、さん……?」

 

 目の前には母の姿があった。……久しぶりだなあ。最後に会ったのは今年のお正月だったかな。

 

 あれ……? 何でお母さんがいるの? 昨日は自分のアパートで寝たはずなんだけど。

 というかここは何処? 私の家じゃない。これは……車? お父さんの? なんで?

 

「お母さん、なんでいるの?」

 

 未だはっきりしない意識の中、私は率直に尋ねた。

 

「あらあらまだ寝ぼけてるの? 着いたわよ、引っ越し先に」

 

 引っ越し先? ますます意味がわからない。混乱する中、後部座席のドアが開けられ、お母さんに手を引かれて私は車外に降り立った。

 

「ここが私達の新しい家よ」

 

 目の前にはまだ真新しい、けれど何処にでもあるような二階建ての住宅。もちろんこんな家に見覚えはない。

 本当にどういう事なんだろう。だんだん不安になってくる。そんな私に母が微笑みながら

 

「急に新しい所に引っ越して来て不安でしょうけど、彩ならすぐに友達もたくさんできるわ」

 

 そう言って私の頭を撫でてくれた。

 ああ懐かしいな、この感じ。小さい頃によくこうやってお母さんが撫でてくれたな。

 そういえば、お母さん何て言うか……若返ってる? お父さんも。顔のしわが少ないし、白髪も無い。それに目線が低いような……

 

「明日から新しい小学校に行くんだから、今日はゆっくり休んで早起きしないとね?」

 

 え……? 小……学校……?

 

 お母さんの言葉の中に聞き逃せない単語があったような……

 恐る恐る私は振り返り、車の窓ガラスを覗き込んだ。

 

 

 ……そこには6年生の時に買ってもらった、お気に入りのワンピースを着た子供の自分が映っていた。

 

 

 

「これは一体……」

 

 未だ現状が把握できず、私は自分の部屋で立ち尽くしていた。

 

 

 とりあえず、状況を整理してみよう。

 

 私の名前、星川彩。

 年齢、この前24歳になったばかり。

 職業、囲碁の棋士。先日女性初の本因坊位を獲得。

 現在地、東京都。私の新しい引っ越し先らしい。

 

 さっき改めて鏡で確認したけれど、私の容姿は見慣れた大人のそれではなく、小学生の頃のものになっていた。

 頬をつねっても目が覚める気配は無い。どうやら本当に夢ではないようだった。

 

 

 夢じゃ……ない。そう実感した瞬間急に立ちくらみがし、そのまま私はベッドに倒れこんだ。

 子供に戻った? 小学校6年生の私に? でも私はこの時期に引っ越しなんかしていない。高校を卒業して初めて東京に住むようになったんだ。それまではずっと地元に住んでいたのに。

 

「意味わかんないよ……」

 

 何でこんなことに。せっかく本因坊になれたのに。やっと私の夢が叶ったのに。まだまだこれからだったのに。

 神様がいるとしたら、なんで私にこんな仕打ちをするんだろう。こんなのあんまりだよ。

 

 私は枕に顔を押し付けながら、声を殺して泣いた。いつしか私はそのまま再び眠りに落ちていった。

 

 

 

 目が覚めると部屋は既に薄暗くなっていた。部屋の電気を点けて辺りを見渡す。ベッドや机などの私物こそ昔使っていた物だったけれど、部屋の構造に全く見覚えはない。やっぱり夢ではなかったようだった。

 改めて突きつけられた現実に半ば諦めにも似たため息がこぼれる。そんな中、ふと部屋の隅を見るとそこには使い古された折り畳みの碁盤が立て掛けてあった。

 

「私の碁盤だ……懐かしいな。確か9歳の誕生日に買ってもらったんだよね」

 

 見慣れた傷跡、毎日のように使っていた大切な私の宝物。慈しむように碁盤に触れる。そうしたらなんだか少し元気が出たような気がした。

 

 

 ……うん、そうだ。うじうじしててもしょうがない。私には囲碁がある。プロにはまたなれるし、本因坊にだってきっとまたなれるはず。こっちの世界で女性の力を見せつけてやればいいじゃないか!

 それによく考えれば若返るなんて普通は出来ることじゃないし、せっかくだから昔出来なかった事をやり直すっていうのも悪くないかもしれない。……前向きに考えてみよう!

 

 現実をすぐに受け入れる事は難しかったけれど、私はこの世界と向き合ってみようと思った。

 

 

 

 一階に降りると台所からお母さんの声がした。

 

「彩、起きたの? ごめんね、ご飯もうちょっと時間かかるんだけど」

「うん、大丈夫だよ」

 

 お母さんに返事をすると、私は居間でテレビを見ているお父さんのもとに向かった。

 

「お父さん、ご飯まで一局打たない? 早碁で」

「ん? ああ、いいぞ。彩も大分強くなったからな。そろそろ2子にしてみるか?」

 

 そっか、この頃の私はお父さんと2子くらいの実力だったんだ。でも、

 

「互先で打とうよ」

 

 今の私は曲がりなりにも本因坊なんだよね。流石にお父さんに石を置けなんて言えないけど。

 

「互先か、まあ石を置かずに打つのも勉強になるからな。じゃあそれで打つか」

 

 そう言うとお父さんは自分の足付き碁盤を引っ張り出してきて、私との間に置いた。

 

「……彩が黒か。それじゃ、お願いします」

「うん、お願いします」

 

 

 お父さんとの久しぶりの対局はほぼ互角の形勢で進行していった。全力で打つと流石に怪しまれるだろうから、所々緩めたりしているけれど。

 だけどお父さんは決して弱くない。実力はアマ七段格。そこらの人には負けないだけの棋力がある。

 私は小さい頃からお父さんに囲碁を教わって育ってきた。プロになって私が負けることはなくなったけれど、それでも尊敬する師匠の一人である事は変わらない。

 

 黒と白、双方譲らず終局。結果は、

 

「黒の半目勝ち、か。まさか負けるとは思わなかったよ。いつの間にこんなに強くなってたとはなぁ」

 

 ……あ、あれ? 白の半目勝ちにしたつもりだったんだけど。計算、間違ってないよね?

 

「お父さん、これ白の半目勝ちじゃない?」

「ん? ……黒53目。白47目、コミを5目半入れて52目半。黒の半目勝ちで合ってるぞ?」

 

 ……あっ、しまった! そういえばこの時はまだコミは5目半だったんだ。いつもの癖で6目半で計算してたよ。

 

「あ、あはは……ホントだ。今日は冴えてたのかな。いつもより上手く打てた気がするよ、うん」

「……ああ、いい碁だったぞ彩」

 

 何とか怪しまれずに済んだかな。コミが変わっている事をすっかり忘れてた。次からは気を付けないと。

 

 でも、打ってみてわかった。すごく楽しかった。やっぱり私は囲碁が大好きなんだ。他に誰も知っている人がいない世界でも、お父さんとお母さん、そして囲碁があれば私はきっと頑張っていけるんじゃないかな。

 

 

「それに早碁だったからお父さんにもミスがあったしね。ほら、ここ。ここはオサエるよりも、我慢してノビたほうが……」

「しかしこの変化は……いや、無いか。そうだったかもしれないな……」

「二人ともいつまでやってるの! ご飯冷めちゃうわよ!」

 

 二人で熱中して検討していたら、さっきからずっと呼んでいるお母さんに叱られてしまった。

 

 

 

「彩、そろそろ時間よ。準備出来たの?」

 

 階下からお母さんの声が聞こえる。今日から私は新しい小学校に通うことになるのだ。

 子供服を着てランドセルを背負う、鏡に映る自分の姿はどこからどう見ても小学生だ。うーん、それでもこの歳でランドセルはさすがに抵抗があるなぁ。

 

 ……いや、ダメだ! 昨日この世界で頑張るって決めたじゃないか。私は子供! 小学6年生!

 

 大人としてのプライドを振り切って、私は母のもとへと向かった。

 

 

「さ、着いたわよ。ここからは一人で行けるわね?」

「うん。行ってきます、お母さん」

 

 お母さんに見送られて私は校門を潜り、職員室に向かった。そこで先生方に挨拶し、担任の先生に連れられて自分のクラスに向かう。

 ここまで見た感じは過去に私が通っていた小学校とほとんど大差ない、ありふれた学校という印象だった。

 だけど一つだけ気になる事があった。それはこの学校の名前。

 

 ――葉瀬小学校

 

 私が大好きだった囲碁の漫画に同じような名前があった。もっともそこでは中学校の名前だったと思うけれど。

 まさか実在する地名だったとは。魚の名前から付けられたものだとばかり思ってたよ。じゃあこの辺には岩名とか浜地とか海王なんかもあったりするのかな? ……はは、さすがにそれは無理があるか。

 

 程なくして教室に辿り着いた。先生に言われた通りにドアの前で待機をする。中にいるのは私より一回りも小さな子供達。それでも、少なからず自分が緊張しているのがわかった。

 ……外見は子供でも、私の精神年齢は24歳。ボロが出ないように上手く対応しないと。

 

 そんな事を考えている内に先生に呼ばれ、私は教室へと足を踏み入れた。

 

 

「星川彩です。短い間ですが、皆さんよろしくお願いします」

 

 ぺこりと頭を下げ、挨拶をする。教室のみんなの拍手の中、私は先生に指定された自分の席に着いた。

 やっぱりこの時期の転校生が珍しいのか、色んな所から視線を感じる。……特に男子からの。

 

 自分で言うのもなんだけど、私は容姿に関しては悪くないんじゃないかなって思ってる。実際に結構な数の男性に告白された事もあるし、プロになってからも……まあいわゆる美人棋士として一般雑誌に取り上げられた経験がある。

 もっとも恋愛に関しては私の中の優先順位が、囲碁>>>>>恋愛なのでほとんどが恋愛対象外だったし、付き合い初めても3ヶ月と持たずに別れてしまうのだったが。

 そして、そんな私に何時しか不名誉なあだ名が付けられた。……囲碁馬鹿女、残念美人、と。

 

 べ、別に悔しくないもん。いつか私の事を理解してくれる人が現れるんだから。

 

 

「……さん……星川さん」

「……はっ!」

 

 自分を呼ぶ声でようやく我に帰った。どうやら隣の席の女の子が私に話しかけているようだった。

 

「ご、ごめんね。ちょっと考え事してて。えっと……」

「こ、こっちこそごめんね。急に話しかけたりして」

 

 顔を赤らめて私に謝る、その子はとても可愛らしい女の子だった。癒されるっていうか。

 ……性格も良さそうだし、いい子が隣の席でよかったなぁ。何処かで見たことあるような気がするけど。

 

 女の子は改めて向き直って、まだクラスの子の名前を知らない私の為に自己紹介をしてくれた。

 

 

「私は藤崎あかり。あかりって呼んでください。お隣同士だし、これからよろしくね」

 

 

 藤崎……あかり?

 

 葉瀬小学校……藤崎あかり……? いや、さすがに偶然でしょ? 確かに見た目もそっくりだけど、別に珍しい名前って訳でもないし。

 

 ……はっ! また意識が飛んでいた。あかりが不安そうな顔で私を見つめている。いけないいけない!

 

「改めまして星川彩です。私の事も彩って呼んでください。よろしくね、あかり」

 

 あわてて私が返事をすると、あかりはほっとしたような顔で私の手を取り、

 

「うん! よろしくね、彩!」

 

 そう言って微笑んだ。

 

 

 びっくりした……一瞬本当に漫画の中に来たのかと思ったよ。偶然って怖い。

 

 私がこれを偶然と決めつけられるには理由がある。ここが漫画の中の世界なら、この教室にいるはず。この漫画の主人公である彼が。

 しかし教室中を見渡してもそれらしき人物は見当たらない。あれだけ特徴的な容姿だ。居たらまず見間違うはずがない。

 だからこそ偶然なんだ。同じ名前の小学校に、同姓同名のそっくりさんがたまたま居た。それだけなんだ。

 

 そうして私の紹介もそこそこに、朝のホームルームが終わろうとしていた。

 その時、廊下からけたたましい足音が聞こえた。誰かがものすごい勢いで廊下を走っているんだろう。その音は段々と大きくなり、教室の前で止まり……扉が開かれた。

 

 

「お、遅れてすいません!!」

 

 

 

 先生が呆れた声で言う。

 

「進藤くん、また遅刻ですか?」

 

 

 進藤……?

 

 

 隣の席からため息と共に呟きが聞こえる。

 

「もう……ヒカルったら」

 

 

 ヒカル……?

 

 

 

 

 あかりより少しだけ小さな身長。

 中性的な顔立ち。

 そして金髪メッシュの前髪。

 

 

 私が知っているがままの進藤ヒカルがそこにいた。

 




互先(たがいせん):ハンデ無し。双方五分のガチンコ勝負。

コミ:囲碁は先攻が有利なので、公平を期すために互先で先攻(黒)が後攻(白)に与えるアドバンテージ。日本の棋戦において、ヒカ碁連載当時は5目半。現在は6目半。便宜上設定された仮想の半目により引き分けが発生しない。今作では5目半で統一。

現在のルールだったら~とか言い出すと、今回のように勝ち負けがひっくり返ってしまう事もあり得るので、その辺は余り触れたくないです。


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3話

 漫画の中からそのまま出てきたような進藤ヒカルと藤崎あかり。そして二人は幼馴染みで家も隣同士。これだけの事実を突きつけられても、私はどうしても信じる事が出来なかった。

 自分が漫画の中にいるだなんて。非現実的にも程がある。……まあ、子供に戻っている時点で大概なんだけど。

 よく考えれば私はこの世界について何も知らない。単に過去に戻っているだけなのか、それとも根本的に違っている世界なのか。

 という訳で、私は帰宅後すぐにパソコンを点けて、インターネットでこの世界について調べる事にした。

 

 

 結論から言うと、この世界はかつて私が過ごした過去とほとんど同じといってよかった。

 当時のニュース、流行りの曲、芸能人、テレビ番組。それら全てに覚えがあり、私は心底安堵した。

 ただ、疑いを晴らす為には絶対に確認しておかなければならない事がある。

 

 私は日本棋院のホームページで棋士一覧を確認し……絶句した。

 

 

 この当時無類の強さを誇っていた現名誉棋聖の名前も、十段のタイトルを保持していたはずの私の師匠の名前も、私が倒した前本因坊の名前もそこには無かった。

 代わりにディスプレイに表示される見覚えのある名前。

 桑原本因坊、一柳棋聖、座間王座。そして……塔矢行洋名人。

 

 もはや疑い様も無かった。

 

 

 パソコンをシャットダウンし、そのまま私はベッドに倒れ込んだ。

 余りにも衝撃的な現実に私の精神はすでに疲労困憊だった。タイトル戦より疲れたかもしれない。

 

 ……まさかここが本当にヒカルの碁の世界だなんて。

 

 

 

 あれ……? よく考えたらこれって凄いことなんじゃないの? だって私が大好きだった漫画の登場人物と囲碁が打てるんでしょ?

 

 進藤ヒカルと打てる。塔矢アキラと打てる。当代最強の棋士、塔矢行洋と打てる。

 

 本因坊秀策と……打てる。

 

 私が現代の棋士の代表としてこの世界の人達と戦う。その未来を想像しただけで、興奮が収まらない……!

 

 

 すごい……! なんかすごく楽しくなってきた!

 

 こうしてはいられない、情報を集めないと!

 

 佐為はもうヒカルに憑いているのかな? 今は11月。確か原作は秋頃に開始してたと思うから、ちょうど今くらいだろう。

 塔矢アキラとは碁会所に行けば打てるのかな? 確か塔矢名人の経営する碁会所のはずだから、ネットで調べてみよう。

 プロ棋士と打つには自分もプロにならないといけない。塔矢名人は確かあと二年くらいで引退してしまうはず。時間は限られている。最悪ネット碁を使ってでも打たないと。

 

 さっきまでの疲れなどどこ吹く風、私は勢いよくベッドから飛び上がった。

 

 

 

 500円玉を握り締めて、私は浮かれ気分で歩いていた。もちろん目指すは塔矢アキラのいる碁会所だ。

 彼はプロになった後ではきっと碁会所に足を運ぶ回数が減るだろう。逆に今だったら高確率で碁会所にいるはず。打つんだったら今しかないと思う。

 それに今の彼の様子から現在の時間軸を推測することもできるだろうし、そういう意味でも真っ先に会っておきたい人物だった。

 そうと決まれば善は急げ。早速ネットで碁会所の場所を調べると、なんと私の家から徒歩10分程の距離だった。私はお母さんに頼んでお小遣いを貰い、すぐに向かうことにしたのだった。

 

 

 程なくして私は碁会所に辿り着いた。いるかな、塔矢アキラ。いなかったら恥ずかしいけれどそのまま帰ろう。小学生に500円は大金だし。

 不安と期待を胸に私は碁会所の扉を開けた。

 

「あら、可愛いお客さんね。ここは初めてよね?」

 

 中に入ると、すぐ横のカウンターに立っているお姉さんが優しく話しかけてくれた。確か市河さん、だったかな。

 

「はい。あの……私、塔矢アキラくんと打ちたいんですけれど……」

「あら、そうなの? ふふ、アキラくんのファンなのかしら?」

「えっと……はい、そうなんです」

 

 うん、塔矢アキラは漫画の中でも好きなキャラだし、ファンと言っても過言ではないよね。

 

「アキラくんなら奥にいるから。私も一緒に頼んであげる」

 

 やった! どうやら居るみたいだった。

 

「お手数をお掛けしてすみません。ありがとうございます。あ、席料はおいくらでしょうか?」

「子供は500円よ。まだ小さいのに礼儀正しい子ねぇ」

 

 まあ実際は24歳の大人なんですけど。

 

 

 端正な顔立ちにおかっぱ頭。間違いなく塔矢アキラだった。

 真剣な面持ちで碁盤に向かって棋譜を並べている。内容は……現代風の至って普通の碁だ。少なくとも佐為と打った碁ではなさそうだった。

 佐為に負けた後の彼はずっとその棋譜を並べていたはずなので、どうやらまだ対局は行われていないらしい。

 

「アキラくん、今大丈夫かな? この子今日が初めてのお客さんなんだけど、アキラくんと打ちたいらしいの。良かったら一局打ってあげてくれない?」

 

 市河さんの申し出に少しだけ戸惑った様な顔を見せたけれど、すぐに彼は笑顔に変わり、

 

「いいですよ。打ちましょうか」

 

 そう言って向かいのイスを引いてくれた。

 なんて紳士っぷり。本当にこの子は小学生なんだろうか。

 

 

「勉強中に無理を言ってごめんなさい。私、星川彩って言います。小学6年生です」

「塔矢アキラです。ボクも6年生だよ」

「あ、同い年なんだ。じゃあ塔矢くんって呼んでもいいかな?」

「うん。よろしく星川さん。じゃあ始めようか。星川さんの棋力はどれくらい?」

 

 棋力、か。本因坊を獲った私は九段への昇段が内定しているんだけど、さすがに正直に言うわけにもいかないし。

 

「えっと……プロに3子でいいって言われたお父さんに互先で勝ったよ」

 

 もちろんお父さんはそんな事を言われたことはない。でも低段のプロ相手ならお父さんは3子で何とかやれると思うし。プロである私のお墨付きだ。うん、嘘はついていないはず。

 

「そうなんだ。ボクも父と3子で打ってもらってるよ」

 

 どちらもプロ相手に3子の手合いだけど、残念ながらその意味合いは全く違う。

 お父さんが3子で戦えるのは低段棋士相手の話であって、少なくとも名人クラスを相手に3子では太刀打ちできない。

 お父さんと塔矢くんでは低段棋士と名人ほどの差があるということだ。

 

「せっかくだから互先で打ってくれない? 塔矢くんと打てるなんて滅多にないことなんだし。……ダメかな?」

 

 私=お父さんと仮定するならば、塔矢くん相手には置き石2、3個って所だろう。実力差は大きいけれど、遊びの手合いならばそれほど無茶な注文でもないはずだ。

 幸いな事に塔矢くんは私の提案を受け入れてくれた。ニギリの結果、私が白。

 

『お願いします』

 

 対局が始まった。

 

 

 

 まだ20手程しか進んでいない序盤だけれど、これだけでも彼の相当な棋力が伝わってくる。

 盤面全体をしっかり把握して、大きい所に的確に石を放ってくる。状況判断も正確だ。

 なるほど、確かにプロ入り確実と言われるだけはあるね。下手なプロなら喰われてしまうかもしれない。

 

 だけど私にはわかってしまった。

 本来ならもう一歩深く、厳しく追求するべき場面で、彼はその一歩を踏み込んでこない。読みが甘いんじゃない。明らかに緩めて打っているんだ。

 確かに3子分の実力差がある対局者がまともに戦えば一方的な展開になりかねない。きちんと碁になるようにと、私の事を思っての事なんだろうけど。

 

 このくらいの歳の子は何よりも勝つことが好きだ。特に同世代相手に対しては、いい碁を打って負けるよりも、勝利という結果を求める。私もそうだった。

 でも彼は違うんだろう。少なくとも同世代に自分のライバルなんていないと思っている。自分が先頭に立って導く立場だと自覚している。

 ライバルとしのぎを削って。勝って喜んで、負けて涙を流して。そうやってお互いが高みに昇る。そんな相手は自分にはいないと決めつけてしまっているんだ。

 

 私は悲しくなった。まだ小学生の子供が、囲碁を楽しむ事もできずにこんな碁を打っていることが。

 彼に知って欲しかった。あなたにはヒカルがいる。私だっている。囲碁は一人じゃ打てないんだ。それに気付けばもっともっと強くなれる。

 

 だから、そんなつまらなそうな顔で囲碁を打たないで……!

 

 私の白石が黒模様の中央に放たれた。

 

 

 ―――

 

 

「ありません……」

 

 アゲハマを盤上に置き、塔矢くんが投了を宣言した。

 俯いたまま顔を上げない。終局の挨拶をし、石を片付けても、彼は心ここにあらずといった感じだった。

 

「ありがとう塔矢くん。ワガママ言っちゃってごめんね。でも……次は最初から全力で打ってくれると嬉しいな」

 

 そう一声かけて私は席を立つ。返事はなかった。

 佐為の時と一緒だ。多分今は何を言っても届かないんだろう。

 

 

「あら、もう帰るの?」

「はい。今日は楽しかったです」

「そう? よかったわ。また遊びに来てね。あ、そうだ今度子ども囲碁大会があるのよ。良かったら見に行ってみたら?」

 

 帰り際に市河さんが私にチラシを渡してくれた。ああ、ヒカルが死活を指摘して怒られた大会か。うん、行ってみようかな。

 

「時間があれば遊びに行ってみようと思います。ありがとうございました」

 

 市河さんにお礼を言い、私は碁会所を後にした。

 

 

 

 気持ちが高ぶってつい勝ちに行ってしまった。本当は勝ち負けの碁なんて打つつもりじゃなかったのに。我ながら大人気ない事をしちゃったなぁ。

 でも、塔矢くんほどの才能のある子にあんな顔で碁を打って欲しくなかった。本当は誰よりも囲碁が好きなはずなんだから、もっと囲碁を楽しんで欲しかったんだ。

 

 ……ま、この後ヒカルとの対局もあるんだし、私が余計な心配をする必要もなかったのかもしれないけどね。

 

 

 

「星川さん!」

 

 不意に自分の名前を呼ばれ、振り返るとそこには息を切らした塔矢くんの姿があった。

 

「塔矢くん? ど、どうしたの……?」

「……ごめん。さっきは何も言わなくて。それに……」

 

 乱れた息を落ち着かせ、彼はゆっくりと続けた。

 

「手を抜くなんて事をして……本当にごめん。キミは、ボクなんかよりずっと強かったのに……」

 

 声が震えている。ここまで全力で走ってきたから、という訳じゃないんだろうな。

 

「……ねえ塔矢くん。さっきの碁、どうだった?」

「え……?」

 

「私、すごく楽しかったよ。最初は手を抜かれてたみたいで残念だったけど、途中からは塔矢くんの全力の手にどう答えようかって必死で考えた。……塔矢くんとあの一局を打ち切れた自分が本当に誇らしかったよ」

 

 私のありのままの気持ち。その言葉に彼は顔を上げ、私の目をしっかりと見つめた。

 

「ボクも……楽しかった。ボクの全力の一手に、それ以上の手でキミは答えてくれた」

「ボクはまだまだ弱い。けど、もっと強くなって、今度はキミの一手に答えてみせる! だから……」

 

 私は笑顔で頷いて彼に答えた。

 

「うん、また打とうね!」

 

 

 塔矢くんと別れた後の私の足取りは、家を出た時よりも更に軽やかになっていた。




ニギリ:互先において黒番と白番を決めるための手段。一方が適当な数の白石を握り、もう一方が1個あるいは2個の黒石を提示する。意味合いとして、1個は奇数、2個は偶数。白の握った石数に対してそれが合致すれば指定した側が黒番。外れたら握った側が黒番。


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4話

※葉瀬中創立祭を文化祭と勘違いしていたため、誤字脱字含め、3話に若干の修正が入りました。勉強不足で申し訳ありません。


 私が転校してきてから数日が経っていた。

 二度目の小学校生活は、私がクラスに溶け込める様にあかりが積極的に他のクラスメイトとの橋渡しをしてくれたおかげで、とても順調だった。

 転入当初は小学生としてやっていけるか不安だったけれど、多分私はこのクラスに受け入れてもらえたんじゃないかと思う。本当に彼女には頭が上がらない。

 11月も終わろうとしていたそんなある日、ヒカルが救急車に運ばれたというニュースが飛び込んできた。

 

 いよいよ来た。佐為がヒカルに憑いたんだ……!

 

 

 

 進藤ヒカルももちろん打ってみたい相手ではあるけれど、それは今の彼じゃない。佐為の教えを吸収し、塔矢くんと共に強くなった未来の彼だ。プロになればヒカルとはこれからたくさん打てる。

 でも佐為は……消えてしまう。遅くともヒカルの中3の春、今から2年とちょっとで。

 それまでには何としてでも佐為と対局をしなければ。この世界に来た以上、佐為と打たないなんて考えられない。

 

 だけどこれは言う程簡単な事じゃない。何しろ佐為はヒカルにしか見えないんだ。あなたに憑いている幽霊と打ちたいです、なんて言えるはずもない。

 加えて、ヒカルが囲碁にのめり込んでしまった後は、打つのは基本的にヒカルだ。佐為はヒカルを見守る立ち位置になり、滅多な事では打つことがなくなる。

 でもそれは、逆にまだ囲碁に興味を持ってない今のヒカルなら、対局する機会さえ作ることができれば、佐為と打つことも可能という事だ。

 問題はどういう方法で彼と打つかだ。さすがに転校してきたばかりの私がいきなり、それも囲碁の誘いをするなんて不自然すぎる。

 出来ればごく自然に彼と対局する状況が欲しい。この時期に何かそういうイベントが無かったかな……

 

 私は必死で原作の内容を遡った。大好きな漫画とはいえ、最後に読んだのはずいぶん前。中々思い出すことができなかったけれど、

 

「あった……! これだ。ここなら違和感なく打てる!」

 

 私はすぐさまパソコンを立ち上げ、キーボードを叩き、(囲碁教室、白川プロ)と検索した。

 

 

 

 ほとんどがお年寄りの中で、金色の前髪の少年の存在感は大きく、すぐに彼を見つけることができた。偶然にも私の隣の席みたいだった。きっと年齢が同じという事もあって隣同士にしてくれたんだろう。

 

「あれ? 星川じゃん」

「ヒカル? 何してるのこんなところで」

 

 白々しく私は返事をする。ちなみにあかりと仲良くなった私は、ヒカルともそれなりに接する機会が多くなり、名前を呼び捨てにできるくらいには親しくなっていた。

 

「何ってここは囲碁教室だろ? って言うか、お前囲碁なんかやるんだ?」

 

 囲碁なんかとは何だ。囲碁は楽しいんだぞ。ヒカルだってすぐにハマっちゃうんだから。

 

「私からしたらヒカルが囲碁をやってることの方が驚きだよ」

「まあオレは……成り行きで? そんな事よりよかったよ知り合いがいて。周りは年寄りばっかりなんだもん」

「うん、私も安心した」

 

 ヒカルがここにちゃんといてくれて、本当に安心したよ。

 

 

 

 教室の内容は初心者向けの基礎講座だった。基本ルールに始まり、ハネ・ノビなどの石の動き、そして簡単な詰碁など。ヒカルは退屈そうに講義を聞いていた。

 まあ、しょうがないよね。ヒカルは囲碁にまだ興味がないし、今は佐為のために仕方なく来てるだけなんだから。好きじゃない事に関心を持てって言う方が無理な話だ。

 

 やがて講義が終わり、いよいよ待ちに待った対局の時間がやって来た。

 

「ヒカル、私と打とうよ」

「対局かあ。オレ疲れちゃったしそろそろ帰りた……」

 

 言いかけてヒカルの口が止まった。何やら耳を押さえながらうんざりした様子で後ろを見ている。佐為にごねられてるんだろうな。

 

「あーわかったわかった。一局だけな?」

 

 私に言ったのか、佐為に言ったのか。どちらにしろ、結果的に私はヒカルと対局をする運びとなった。

 

 

 

 さて、ここまでは順調だ。後は確実に佐為に出てきてもらうために、もう一押し。

 

「ヒカル、私と賭けしない?」

「賭けぇ?」

「うん。ヒカルが勝ったら、明日から一週間の宿題を私がやってあげる。私が勝ったら……そうだなぁ、給食のデザート一週間分ってのはどう?」

 

 ヒカルは少し驚いたような表情を見せたが、やがて口元を緩ませて、

 

「ああいいぜ。宿題一週間分だからな。忘れるなよ!」

 

 私の提案を受け入れた。

 

 

 

「私、白でいいかな?」

「ん?いーよどっちでも。それより早くやろうぜ」

 

 私が白を申し出たのには理由がある。

 黒を持ったら負けたことがない。原作で佐為が言った台詞だ。もちろんコミの無い時代の話なので、黒がはっきり有利なのは間違いないのだけど、それでも物凄い話だ。

 だからこそ私は白を持った。佐為を相手に白番でコミ無し、つまり盤面勝ちを目指す。それが私の今回の目標だ。

 

「じゃあ始めよっか。お願いします」

「おう、お願いします」

 

 ヒカルが覚束ない手つきで黒石を置く。

 

 右上スミ小目……か。

 

 

 ――この瞬間に私は確信していた。この威圧感、迫力。とても囲碁を知らない小学生が出せるものではない。

 

 佐為が、本因坊秀策が、私の目の前にいる。

 

 

 

 『歴史上最強の棋士は?』 その質問に対し、多くの人が答える。本因坊秀策、と。

 私はそうは思わない。歴史上最も強いのは、いつだって今を生きる人達だ。

 確かに本因坊秀策は偉大な人物。数多くの名局を作り上げ、彼が囲碁界に残した功績は計り知れない。

 けれど、彼の時代から150年の時が経ち、その間も囲碁は絶えず進化を続けてきた。より最善の、最強の一手を求めて、多くの布石や定石が研究されてきた。

 歴代最強に過去の人物の名前を挙げる事は、現代の棋士、そしてこれまでに囲碁に人生を捧げてきた全ての人々を冒涜する行為だ。

 そして今、私は現代の棋士を代表してここにいる。少なくともこの時点の佐為に負けることは絶対に許されない。

 

 絶対に、勝って見せる。

 

 私は力強く星に石を放った。

 

 

 

 佐為が指導碁を打つんじゃないかと心配していたけど、私の打ち筋や気合いから感じるものがあったのか、緩めている様子はない。

 既にヨセに差し掛かっている。ここまでは白がはっきり良い。このペースで行けば、コミ無しでも十分残りそうな感じだ。

 ただ、ここからも全く油断は出来ない。序盤の布石の段階で、私はスピードで勝る現代風の打ち筋でかなり優勢に立ったけれど、その時のリードは徐々に詰められてきている。

 

 でも私もヨセは得意だ。ここからはそう簡単に詰めさせない。

 

 佐為が長考しているのか、しばらくヒカルの手が止まっていたが、やがて再び黒石が盤面に放たれた。

 

「っ……!」

 

 その一手に思わず息を呑む。考えてなかった手だ。

 今度は私が長考する番だった。一見深入りしすぎの様な黒石。しかし白の勢力を紙一重ですり抜けて切り込んできたその一手を咎める術を、私はどうしても見つけることができなかった。

 

 ダメだ……取れない。こんな手があったなんて。……この抉られは痛い。白地がかなり減ってしまった。

 

 ……でも、まだやれる。ここまで来たんだ。負けてたまるか!

 

 私は負けじと必死に黒石に向かっていき……そして終局を迎えた。

 

 

 

 結果は盤面で、持碁。

 

「勝てなかった……か」

 

 私は大きなため息と共に呟いた。

 

「なあ、これって引き分け?」

 

 ヒカルが私に尋ねてくる。

 

「えっと……」

 

 コミがあれば白の5目半勝ち。仮にコミ無しの手合であったとしても、持碁は白勝ちとされている。現行のルールで考えれば、白の勝利と言って何ら差し支えない結果なのかもしれない。

 

「……うん、そうだね。引き分け」

 

 でも、私にはとてもそんな事言えなかった。中盤以降はこちらがはっきり押されていた上に、勝勢の碁を持碁にまでされてしまったのだから。

 やっぱり佐為は強かった。もし佐為が現代の囲碁を学んだら、悔しいけれど今の私では敵わないだろう。

 

 ……ま、しょうがないか。いつかもう一度佐為と打った時は、今度こそ勝ったって言えるような碁を打てるように頑張ろう。佐為と同じように、私だってまだ成長できるんだから。

 

 私が決意を新たに顔を上げるとそこには、

 

「君たちは、一体……」

 

 驚きを隠せないといった表情の白川先生が立っていた。

 

 やばっ……見られた!? まずいよ、こんなの初心者囲碁教室に通っている子供の打つ碁じゃないもん!

 

「き、棋譜ですよ。棋譜並べ! 上達するには強い人の棋譜を並べるのが良いって聞いたんで、二人で覚えてきたんですよ!」

「ほ、本当に? いや、初心者が丸々一局の棋譜を暗記するってだけでも十分すごいんだけどね。それにしても……黒と白、両者の棋風が違いすぎる。黒は秀策流、白は現代囲碁のお手本……いや、それよりもっと……」

 

 ……うん、これヤバイよね。だって秀策流と現代碁の棋譜なんて普通ありえないもの。やっぱり棋譜並べは無理があったかな。

 

「とにかくこんな棋譜は見たことがない。よかったら誰の手合いなのか教えてくれないかい?」

 

 ……はい! 本因坊秀策と、12年後の本因坊の棋譜です! ……って言えるか!!

 横ではヒカルがポカンとした表情をしているし、ここで更に余計なこと言われたら一巻の終わりだ。これ以上詮索される前に……かくなる上は!

 

「ヒカル、帰ろう! 先生、ありがとうございました!」

「お、おい引っ張んなよ星川!」

「あ、ちょっと……」

 

 白川先生の返事を待たずに、私たちは勢いよく教室を飛び出していった。

 

 

 

「もー何なんだよ急に」

「あはは、ごめんね。そんなことより今日は楽しかったよヒカル」

 

 ヒカルの愚痴を私ははぐらかすように笑った。

 

「じゃあ私そろそろ帰るね。また明日学校で」

「あ、待てよ星川!」

 

 ヒカルに背を向けようとした私に声がかかる。

 

「お前って……囲碁強いの?」

 

 それは単なるヒカルの疑問なのか、それとも彼の後ろにいる佐為が言わせたものなのか。

 

「……まあ、強いんじゃない?」

「強いって、どのくらいだよ」

 

 私はヒカルに向かって笑顔で答えた。

 

「本因坊秀策くらいかな!」




黒を持ったら負けたことが無い。

こんな逸話があるそうです。

「秀策先生、本日の碁はいかがでしたか?」
「ああ、黒番でした」

黒番=勝ちが最早常識だったみたいです。どんだけだよ。


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5話

主人公視点だけだとどうしても佐為が表現できないので、補足で視点変更をしてみました。前話と続けて読んでいただけると助かります。見づらくなってしまい、すみません。



 この世界にはプロ棋士と呼ばれる囲碁を打って生活をする職業があるらしく、ヒカルが連れてきてくれたこの囲碁教室は、プロの先生が一般の人に囲碁を教える場なんだそうだ。

 教室は多くの人で賑わっていたが、そのほとんどはお年寄り。ヒカルは自分以外に子供がいない事にため息をついている。

 そんな時一人の少女がヒカルの隣に座った。この子は見覚えがある。確かヒカルの学校のクラスメイトだったはず。

 

 うんうん、良かった。このような小さな子も囲碁を嗜んでいるんじゃないか。囲碁に対する情熱は過去も未来も同じなんですねぇ。

 

 

 程なくして教室が始まる。教えている内容は本当に基礎の基礎。それでも私は再び囲碁に触れ合えたことに喜びを隠せなかった。

 ……それなのに肝心のヒカルときたら。つまらなそうな顔で講義を聞き流しているようだった。

 

 ――ヒカル! 先生の話はちゃんと聞かないとダメですよ! ……ほら、あの子を見習って!

 

 ヒカルが囲碁に興味を持ってくれるのにはまだ時間がかかりそうだった。

 

 

 

 

 

 先生の講義が終わり、周りの人達が机の上に碁盤を広げ出す。

 

 もしかして今から囲碁が打てるんでしょうか……! 

 そんな私の期待通り、周囲から聞こえ始める碁石の音。そして隣に座る少女がヒカルに話しかける。

 

 「ヒカル、私と打とうよ」

 

 ――打ちましょう打ちましょう! ……え? ヒカル、帰りたいって……

 

 ――やだ、やだー! 私打ちたい! ヒカル、お願いしますぅぅ!!

 

 必死に頼み込む私に折れてくれたのか、ヒカルは一局だけ打つことを約束してくれた。

 

 

 

 ふふふ、やっと囲碁が打てる。ヒカルのじーちゃんとは結局打てませんでしたからね。

 おや、何やらヒカルが彼女と話をしているようだ。……賭けですって?

 

 ヒカルは悪い顔でそれを承諾し、私に言ってくる。

 佐為、頼んだ! 絶対負けんなよ! と。

 

 もう、ヒカルってば本当に現金なんだから。

 ……まあ、いいでしょう。囲碁で賭けをするなんていささか気に入りませんが、それも向こうが言い出した事。ちょっと痛い目に合うのも勉強です。

 

 

 彼女が白を持ちたいと言うので、私が黒番。

 

 ――いきますよ、ヒカル。右上スミ小目!

 

 ヒカルが私の扇子が指し示す場所に石を置く。

 しかし彼女は次の手を打たずに、じっとこちらを見つめていた。

 

 ヒカルを……違う。

 私を……見ている……?

 

 彼女はやがて意を決したように石を掴み、力強く盤面に放った。

 

 

 

 ――これは……!

 

 その一手自体は単なる星打ち。至って普通の手。

 しかし彼女が放ったその一手から伝わってくる。歴戦の強者と同じ、あるいはそれ以上の気迫が。

 

 私は認識を改めた。

 痛い目に合わせるとは言ったものの、こんな小さな女の子相手に本気を出すつもりなど全く無かった。

 彼女の力量に合わせて指導碁を打ち、結果的に数目負けてもらおうと思っていた、けれど。

 

 ――どうやら見誤っていたようですね……

 

 彼女は指導碁などを打って勝てる相手ではない。私に言っている、全力で来いと。

 

 私は歓喜に打ち震えた。

 

 現世での最初の対局で、これ程の者と戦えるなんて……!

 

 

 ―――

 

 

 黒と白、双方45目。結果は持碁。

 彼女は悔しそうな顔で盤面を見つめている。勝てる碁を勝ち損なったと思っているんだろう。

 

 隅、辺、中央、全てを睨んだ鮮やかな布石。

 効率よく地を拡げ、私の打ち込みにも動じず、最小限の被害で反撃してきた。

 偶然見つけることが出来た手筋で追い付くことは出来たが、負けに等しい引き分け。

 私が黒を持って勝てなかった。

 

 これが、現代の碁……!

 神よ、感謝します……私は、まだまだ強くなれる!

 

 ――ヒカル! お願いします! どうかもう一局だけ……あ、あれ……?

 

 彼女に引きずられるように退室して行くヒカル。私はそれについていく他なかった。

 

 

 

 

 ――ヒカル、ごめんなさいね。勝つことができなくて。

 

「ん? あ、あぁ。いーよ別に」

 

 ――怒って……いるのですか?

 

「そんなんじゃねーって……何て言うかさ、さっきの対局」

 

 ――はい。

 

「正直オレ、囲碁なんか全然わかんねーし、お前らが何をやってるのかなんて一つも理解できなかったけど」

 

「あいつ……すごくかっこ良かった。オレもあんな風に打ちたいって、ちょっとだけ思った」

 

 ――ヒカル……

 

「本因坊秀策ってお前の事だよな? あいつそれくらい強いって言ってたけど、お前ってやっぱり有名人なんだ」

 

 ――……どうでしょうね。彼女のような子に自分を知ってもらえているのは嬉しいですけれど。

 

 ――それに……悔しいですが、彼女は恐らく私よりも、強い。

 

 

 ――ですが、次こそはきっと勝って見せます……!

 

 ――だからヒカル、お願いします! どうかまた彼女と対局をさせて下さい!

 

「えー、やだよ。お前にはわかんないだろうけど、ただ言われたままに石を並べるのって、すごく疲れるんだぞ」

 

 ――そ、そんなあ……ヒカルぅぅ!

 

 

 

「だからさ」

 

「オレちょっとだけ覚えてみるよ、囲碁」

 

 

 ――……え?

 

 

「佐為、オレに囲碁を教えてくれる?」

 

 

 ――ヒカル……はい、もちろんです! 一緒に頑張りましょう!

 

 

 

 ……あの子には感謝をしないといけませんね。

 

 

 

 

 

「それにしてもさ」

 

 ――ハイ?

 

「あれだけ強いくせに初心者のオレに賭けを持ちかけるなんて……アイツって結構腹黒いんだな」

 

 ――は、はは……そうなのかもしれませんね……

 

 

 ―――

 

 

 なんか今失礼な事を言われたような……

 ま、いいや。そんな事より今日はいい日だったな。念願の佐為との対局も実現したしね。

 

 勝てなかったのは悔しかったけれど、いい碁が打てたんじゃないかと思う。

 それに何だかんだ言っても、私にとっても本因坊秀策は尊敬する人物だ。彼の棋譜だっていくつも読み漁ったし、打ち筋も研究した。

 そんな彼の囲碁を直に体感することができたんだ。正直、かなり感動したよ。

 

 ……これから佐為は現代の囲碁を学んでどんどん強くなってくる。私も負けないように頑張らないと!

 

 

 

 

 塔矢くんと打てたし、佐為とも打てた。私はその事に対する満足感でいっぱいだった。

 

 でも、この時私はまだ気づいていなかった。この二局が、ヒカルの碁の世界を大きく歪めてしまったという事に。

 



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6話

 12月も終わりに近づき、世間はいよいよ年末、といった雰囲気になっている。

 

 塔矢くんと初めて会ったあの日以来、私は彼とは打っていない。

 小学生のお小遣いなんてたかが知れたもので、一回500円の席料は、正直なところ私にはかなり厳しかった。

 いくら囲碁馬鹿女の異名を持つ私でも、お小遣い全てを囲碁に当てるなんてことはさすがに出来ず、自分のお財布事情と相談すると、月に2回行ければいい方だった。

 

 実際は今月の頭に1回だけ碁会所には行っていた。

 その日は運悪く碁会所に塔矢くんはいなかった。初めて行った時のように、塔矢くんがいなかったら帰らせてもらおうと思って気楽な気持ちで行ったのだけれど。

 

「お、おい。あの子……」

「ああ、アキラくんに勝った子だよ!」

「えっ! あの子が!?」

 

 塔矢くんに勝った私は知らない内に有名になっていたらしく、入った瞬間に碁会所中の注目を浴びてしまった。

 もはやこの空気の中で、やっぱり帰りますとも言えず、私は泣く泣く市河さんに500円を支払うことになったのだった。

 携帯電話が無いことがどれほど不便かという事を、痛いほど感じさせられた。

 

 

 ちなみに碁会所のお客さん数人の、

 

「アキラくんが女の子に負けたのか……」

「女の子なんかにねぇ」

 

 という発言が私の逆鱗に触れたため、彼らに対局を申し込み、一刀両断にしてあげた。

 大人気ない? 今の私は子供だもん。

 

 

 

 そして今日、私は碁会所に向かっている。今日もし塔矢くんがいなければ年内に彼と打つことは叶わない。

 今日こそ打てるといいんだけどな……

 

「あら、彩ちゃん。いらっしゃい」

「こんにちは、市河さん」

「この前は驚かせちゃってごめんね。今日はアキラくんいるわよ。奥で棋譜を並べてるわ」

 

 よかった……今日はいるみたいだ。

 

「この前に彩ちゃんが来た時に、自分がいなかった事をアキラくんすごく後悔してたのよ」

 

 そうなんだ。ちょっと嬉しいな。

 

「じゃあ私、早速打ってきます! あ、これ席料です」

 

 市河さんに500円玉を渡し、塔矢くんの方へと向かっていった。

 

 

 市河さんの言った通り、塔矢くんは相変わらず真剣な様子で棋譜を並べていた。

 

「こんにちは、塔矢くん」

「星川さん! 来てくれたんだ……」

 

 私の顔を見て、塔矢くんが笑顔に変わる。

 

「この前は本当にごめん……せっかく来てくれたのに」

「ううん、私が急に来たんだもん。いなくてもしょうがないよ」

 

 本当に塔矢くんが謝ることじゃないのに。こういう律儀な所が彼らしいのかもしれないけど。

 

「終わった事はもういいって! 今日は打てるんだからさ」

「そ、そうだね。じゃあ早速打とう!」

 

 そう言って、塔矢くんは碁盤の上を片付けだした。

 

 

「さっき並べてたのって、私と打った時のやつだよね」

「……うん。あれからボクは、あの時自分が手を抜いてしまった事をずっと後悔していた」

「ボクの思い上がりで、キミとの一局に傷をつけてしまった。……でも、やっと今日またキミと打つことができる」

 

「今日こそ、本当に全力で戦ってみせるよ」

 

 そう言って私をまっすぐに見つめる。……不覚にもちょっとだけドキッとしてしまった。

 

 

 

 ニギリを行い、私が黒。お互いに碁笥を交換し、私が蓋に手を掛けたその時、

 

 ――カランッ……

 

 突然甲高い音が響いた。塔矢くんの手から碁笥の蓋がこぼれ落ちた音だった。

 

「あ……ご、ごめん……」

 

 そう言って、落ちた蓋に手を伸ばす塔矢くん。その手は、震えていた。

 

あ……あれ? このシーンどこかで見たことが……っていうか、それをする相手、私じゃないよね?

 

「おまたせ。じゃあ始めようか。星川さん……?」

「あ……う、うん。お願いします」

「お願いします」

 

 塔矢くんに促され、私は雑念を振り払うかのように黒石を掴んだ。

 

 

 ―――

 

 

 結局この日は塔矢くんと四局打った。私の全勝という結果だったけれど、時折見せる彼の鋭い一手に何度か私もヒヤリとさせられた。

 

「今日はありがとう塔矢くん。楽しかったよ」

「うん、ボクも楽しかった。悔しいけどボクはまだまだキミには及ばないみたいだ」

「そんなことないよ。前よりもしっかり対応されて、私も結構危なかったんだから」

 

 恐らく以前の私との対局からずいぶん打ち筋を研究したんだろう。たった一局なのに、本当に大したものだ。

 

「もう今年は来れないと思うから、また来年だね」

「うん。……ボクはここでキミを待ってるから。また打とう」

「うん。じゃあね、塔矢くん」

 

 そう言って私は塔矢くんに背を向け、碁会所の入り口に歩き出した。

 

 

 

 塔矢くんと打てたのは嬉しかったし、彼が以前よりも伸び伸びとした碁を打っていたのも喜ばしいことだ。

 でも、違和感が拭いきれない。震える手で碁笥の蓋を落とすシーン、あれはヒカルと囲碁部の大会で再戦した時のだ。そしてヒカルもまた、プロでの塔矢くんとの対局を前に同様の事をしている。

 自分の目標とする相手を前に、恐れながらも立ち向かおうとする意思がそうさせたもの。

 塔矢くんが私にそれをしたということは……

 

 ある可能性に辿り着いたが、私はそれを振り払った。

 だって彼のライバルはヒカルなんだから。彼と共に高みに昇っていけるのはヒカルしかいないんだから。

 

 私で良い訳がないんだから。

 

 

 

 

 

「彩ちゃんが次に来るのは来年かな? よいお年を」

「はい、市河さんもよいお年を。あ、そうだ」

 

 私が今日ここに来たのはもう一つ目的があった。

 それは確認。年が明ければすぐに子ども囲碁大会だ。そしてその日はヒカルと塔矢くんの二度目の対局の日でもある。

 もう年末のこの時期、さすがに一回目の対局は済んでいるはずだ。

 

「ここ最近、私以外に子供が来ませんでしたか?」

 

 その質問に、市河さんは斜め上に視線を傾けながら少し考えた後、再び私に向き直ってこう言った。

 

 

「来てないわよ。最近来た子供は彩ちゃんだけ。それがどうしたの?」

 

 

 ―――

 

 

 ヒカルが来てない。塔矢くんに……会っていない。

 もちろん原作は詳しい日にちまでは表記されていないのだから、もしかしたら明日会うのかもしれない。年が明けてから打つのかもしれない。……けれど。

 

 私は自分の胸の中の違和感がどんどん大きくなっていくのを感じていた。

 

 

 



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7話

投稿が遅れてしまい本当にすみませんでした。
たくさんのお気に入り登録、本当にありがとうございます。


 年が明け、冬休みも終わり、既に学校が始まっていた。

 

「はぁ……」

 

 新年早々だというのに、私は机に頬杖をついてため息を漏らしていた。

 その理由はもちろん、年末の碁会所での出来事。ヒカルが、塔矢くんと打っていなかったという事実。

 

 ヒカルがプロを志すようになったのも、何より囲碁が強くなりたいと思うようになったのも、塔矢くんの存在があったから。

 塔矢くんにとってヒカルは、初めて同世代で自分が追いかけるべき相手。そんなヒカルの存在が彼を更に成長させた。

 ヒカルには塔矢くんが、塔矢くんにはヒカルが必要なんだ。

 

 ……私が本当に打ちたいのはそんな二人なんだ。

 

 だからこそ、ヒカルと塔矢くんが出会っていないかも知れないという現状を思うと、私は気が気でなかった。

 私の思い過ごしならいいんだけど……

 

「どうしたの、彩? なんか元気ないよ?」

 

 そんな私に、隣に座るあかりが心配そうな顔で話しかけてきた。

 

「そ、そうかな……?」

「何か悩み事でもあるの? 私でよければ相談に乗るよ」

 

 そう言って私を気遣ってくれる。本当にいい子だな。

 ……でも、あかりか。聞いてみようかな。

 

「あかり、ヒカルの事でちょっと聞きたいんだけどさ」

「ヒカル? どうしたの?」

「この前、囲碁教室でヒカルに会ったんだ。それで最近はヒカル、囲碁やってるのかなって」

「え? 彩も囲碁やってたの?」

 

 私が囲碁の質問をすることが予想外だったのか、驚いた様子のあかり。まあ、囲碁はお年寄りの遊戯ってイメージがあるだろうからね。

 

「……あ、ごめん。ヒカルの事だよね。うん、最近囲碁を始めたみたいなんだ」

「囲碁教室にもよく通ってるみたいだし、この前はおじいちゃんの所に……碁盤? っていうのをおねだりしに行ったみたいだよ」

 

 やっぱり何かおかしい。ヒカルは囲碁教室にそんなに頻繁には行かなかったはずだし、ヒカルが碁盤を手に入れるのはまだ先。

 何より、この時点でヒカルは囲碁に興味がないはずなのに……

 

「……そっか。ありがとね、あかり」

 

 未だ心配そうにしているあかりをよそに、私の思考はますます深みに嵌まっていくのだった。

 

 

 ―――

 

 

 いつまでも悩んでいてもしょうがない。思いきって本人に聞いてみよう。

 

「ヒカル、今ちょっといいかな?」

「……? ああ、いいけど」

 

 そう言ってから私は気づいた。……一体なんて聞けばいいんだろう。単刀直入に、塔矢アキラくんと打ちましたか?なんて流石に不自然だ。

 話しかけておいて用件を言わない私にヒカルは不思議そうな顔をしている。不味い、早く何か言わないと……!

 

「……あ、そうだ! オレもお前に用があったんだよ。お前さ、子ども囲碁大会って知ってる? 今週末にあるんだけどさ」

 

 次の言葉に悩んでいた私に、逆にヒカルからの質問が投げかけられた。

 

「え? う、うん知ってるよ」

「あ、知ってるんだ。もしかしてお前その大会見に行くつもりだったりする?」

「まあ……行こうかなって思ってたけど」

「じゃあちょうどいいや。良かったら一緒にその大会見に行かねえ? オレもちょっと気になってたんだけど、こういうとこ行ったことないし、一人じゃ不安だったからさ」

 

 まあ元々大会には行くつもりだったし、ヒカルが誘ってくれるのは嬉しいけど……

 でも、今はそれどころじゃないんだ。ヒカルがちゃんと塔矢くんと打ったかどうか確認しないと……!

 

 ……って、あれ?

 

「ヒ、ヒカル! 何で大会の事知ってるの!?」

「な、何だよ急に!? ……貰ったんだよ、囲碁大会のチラシ。去年の年末くらいにさ」

 

 大会のチラシは碁会所で貰える。ということは……

 

 ヒカルは碁会所に行っている。塔矢くんと、打っている。……やっぱり私の思い過ごしだったんだ。

 私は心の底から安堵した。本当に、よかった……!

 きっとヒカルが囲碁に興味を持ったのもたまたま早まっただけなんだろう。うん、それ自体は全然悪いことじゃないしね!

 

「おい……星川?」

「え? あ、ああ。大会ね! えっと……」

 

 改めて考えてみると、少しだけ迷う。本来この日はヒカルと塔矢くんの対局の日だし、私がヒカルと一緒にいるっていうのはどうなんだろう。

 でも……ま、いいか。帰り際に適当な場所で別れれば問題ないよね。今回の件も結局私の思い過ごしだったんだし、もう余計なことは気にせずに楽しんでもいいんじゃないかな。折角のヒカルからのお誘いなんだしね。

 

「いいよ。一緒に行こっか」

 

 私はヒカルの誘いを快諾したのだった。

 

 

 

 

 

 そして日曜日、私はヒカルと一緒に日本棋院を訪れた。

 

 私達は対局の様子を眺めながら、ゆっくりと会場内を回っていた。

 どの子も真剣な表情で囲碁を打っている。まだ粗削りな彼らの碁は、私から見れば少なからずミスも見受けられるけれど、ひた向きに碁盤に向かうその姿が小さかった頃の自分に重なり、私の胸に懐かしい気持ちがこみ上げてくる。

 

 ……私も同じくらいの頃、この場所で囲碁を打っていたんだ。でも、決勝で負けちゃったんだよね。あの時は本当に悔しかったなぁ。

 

 昔の思い出に浸っていた私の目に、偶然とある盤面が飛び込んできた。

 この子、ずいぶん悩んでるみたいだけど……ああ、左上の死活か。

 えっと、この形は……1の二が急所だね。受け間違えると黒死んじゃうよ?

 

 しかし私の心配も空しく、その子は長考の末、一路下の1の三に石を打ってしまった。

 うーん、惜しい。その上なんだよね。

 

「惜しい! そこじゃダメだ。その上なんだよな!」

 

 口に出していないはずの私の心の声が、隣にいるヒカルから聞こえてきた。

 

「ちょ、ちょっとヒカル!」

「あっ……やべ……」

 

 自分のしてしまった事に気付き、口を抑えるヒカル。だけど時既に遅し。

 

「君達っ!!」

 

 ……って何で私まで!?

 

 そんな心の叫びが伝わるわけもなく、ヒカルと共に強制退室させられた私は、原作通りのありがたいお説教を受けることになってしまったのだった。

 

 

 

 そして30分間のお説教の末に、ようやく私達は解放された。

 

「もう……本当に気を付けてよヒカル」

「はは、悪い悪い。つい口が滑ってさ」

 

 そういえばヒカルはここで死活の口出しをするんだった。すっかり忘れてた。

 ……それにしてもさっきの局面、確かに少しだけ手が止まる所だ。あれを即答とは……やっぱり佐為はすごいな。

 

 

「これからどうしよっか。もう会場には入れないだろうし、ちょっと早いけど帰る?」

 

 大会はまだ見ていたかったけれど、退室させられてしまった私達は、さすがにもう会場には入れてもらえないだろう。

 仕方なく帰宅を提案する。ちなみに大会に来る前に、私はこっちで用事があるという適当な理由をつけて、現地解散をする約束となっていた。せっかくヒカルと大会に来たのに、これでお別れというのも何だか寂しいような気もするけど、まあこればっかりは仕方ない。

 

 しかし、ヒカルから返ってきた答えは、私が思ってもいなかったものだった。

 

「えっと……星川、今からオレと一局打ってくんない?」

 

 

―――

 

 

 ――ヒカル、ありがとうございます! まさかこんなに早く彼女と再戦できるなんて!

 

「……あー、今日はアイツとはオレが打つからさ。お前は寝てていいよ」

 

 ――……えっ?

 

「オレもさ、お前に教わってから結構囲碁楽しくなってきたし、そろそろお前以外の奴とも打ちたいんだよ」

 

 ――……ヒカル、あなたが囲碁を好きになってくれた事は、私としてもとても嬉しいんですけどね?

 

 ――でも昨日、『明日はまたアイツと打てるなー』って言って、私に社会の宿題をやらせましたよね。……あれは?

 

「別にお前に打たせるとは一言も言ってねーし」

 

 ――酷いっ! ヒカルの鬼っ! 悪魔っ!!

 

「いいじゃねーか。元々来るつもりじゃなかった大会に連れてきてやったんだから」

 

 ――大会だってヒカルのせいで全然見れなかったじゃないですかぁ……

 

「あれはお前が答えを言っちゃうからだろ」

 

 ――ヒカルがお喋りなのがいけないんですっ! ……大体、今のヒカルじゃあの子に一捻りにされてオシマイですよ!

 

 

「いいんだよ別に」

 

「この前アイツと打ったのは佐為だ。だから今のオレはアイツの目には映っていない」

 

「今日は負けてもいいんだ。その代わり、今のオレの姿をアイツに覚えさせてやる」

 

 ――ヒカル……

 

「だって、アイツはオレの……」

 

 

 ――……わかりました。ヒカルがそこまで彼女の事を想っているのなら、仕方ないですね。

 

「悪いな。お前ともいつか何とかして打たせてやるからさ」

 

 ――本当ですか!?ヒカル、約束ですよ!

 

「まあ……そのうちな!」

 

 ――ゼッタイですからね!

 

 

 ―――

 

 

 棋院には一般客用の対局施設が設けられている。基本的には有料だけど、今日は子ども囲碁大会ということで、小学生までは半額となっていた。有難い限りである。

 

「ヒカルから囲碁のお誘いがあるなんて思わなかったよ。どうしたの急に?」

「んー……最近囲碁がやっと面白くなってきたからかな」

 

 少し照れ臭そうに頬を掻きながらヒカルが言う。

 面白く……か。そんな何気ない言葉が、私はとても嬉しかった。ちょっと前まで囲碁なんかって言ってたヒカルが、その面白さに気づいてくれたのだから。

 

 ……って事は、もしかして今から私と打つのは佐為じゃなくてヒカルなのかな?

 

 どちらと打ちたいかと言われれば、それはもちろん佐為だ。あの時の対局は本当に楽しかったし、出来ることなら何度でも、と思える程の素晴らしい時間だった。正直な所、ヒカルに対局に誘われた時も、また佐為と打てるんじゃないかと期待した事は否定できない。

 それでも、囲碁を好きになってくれたヒカルが自分の意思で私と打ちたいと言ってくれるのだったら、一人の碁打ちとして、彼の頼みを無下に断ることなんかできないし、そんな自分の欲求以前に喜んでヒカルと打ちたいと思う。

 

「ヒカルと打つのは、囲碁教室の時以来だね。あの時はヒカルが予想以上に強くてびっくりしたよ」

「よく言うぜ。あの対局、ホントは引き分けなんかじゃなかったんだろ」

 

 あれ、バレてる。……そういえば囲碁教室に通ってるんだもんね。もうコミくらい知っててもおかしくないか。

 

「私囲碁には結構自信あったんだけどさ。初心者だと思ってたヒカルにあそこまで追い詰められて。それで勝ったなんて言えなかっただけだよ」

「あれは……偶然だよ。オレ、今日はあの時みたいに上手く打てないかもしれないけどさ……」

 

 そう言って目を伏せるヒカル。

 

 囲碁は運の要素がほとんど介入しないゲームだ。一手一手にその人の実力が如実に反映される。『偶然』初心者が上級者と互角に戦えることなんて無いに等しい。

 ちょっと考えればヒカルのこの発言がおかしい事なんてすぐわかる。他の人なら不審に思うだけだろう。でも、私にはヒカルがどんな想いでこの言葉を言ったのか、なんとなくわかった。

 きっと、自分だけの力で私と打ちたいんだ。ありのままの自分の碁を見てもらいたいんだ。

 

 佐為ではなく、ヒカルの碁を。

 

 ……だったら私も、そんなヒカルの想いに精一杯答えてあげよう。

 

 

「うん。どんな碁でも、ヒカルと打つことに変わりはないよ」

 

 その言葉にヒカルは顔を上げ、ほっとしたような表情を見せてくれた。

 

 

 

 私とヒカルの『初めての』対局が始まった。佐為の教えを受けているとはいえ、まだ囲碁を覚えて間もない。その打ち筋は稚拙と言わざるを得なかった。

 けれど、その一手一手から、こう打ちたいというヒカルの気持ちがしっかりと伝わってくる。まだそれを形に出来るだけの実力は伴っていないけれど、少なくとも上手の私に対して手が縮んでいる様子など微塵も感じられない。

 

 ヒカルは、本当に囲碁を楽しんでいた。

 

「ここまでだね。うん、良かったんじゃない?ちゃんと囲碁になってたよ」

「うーん……ここはもうちょっと上手く打ちたかったんだけどなあ」

「あ、ここか。そうだね、ここはキられちゃうと苦しいから、やっぱりツイでおいた方が良かったかな」

 

 私のアドバイスに真剣に耳を傾けるヒカル。そういった姿勢は囲碁に強くなるためには欠かせないものだ。

 そんなヒカルの姿を見ていると、今まで感じたことの無いような温かい気持ちに満たされて、自然と笑顔になっている自分に気がついた。

 

 これまでの私は、自分が強くなることだけを目指して囲碁を打ってきた。この世界に来てからも、強い人と打ちたい、打って勝ちたい。そんな事ばかり考えていた気がする。

 ……でも、こうやって何も知らなかったヒカルが囲碁を好きになってくれた事を実感したり、強くなっていく姿を傍で見守るっていう事にも、また別の嬉しさや楽しさがあるのかもしれない。

 佐為や私の師匠も、もしかしたらこんな気持ちだったのかな。

 

 ……そういえば、あの時はたまたまの一言で片付けてしまったけれど、今思うと少しだけ気になってくる。

 

 ヒカルは何でこんなに早く囲碁に興味を持ったんだろう。

 

「ヒカル、一つ聞いていいかな?」

「ん? 何だよ」

「ヒカルって囲碁教室の時は……何ていうかさ、あんまり楽しそうじゃなかったじゃん? 対局も最初は渋ってたし」

「でも、今日のヒカルはすごく囲碁を楽しんでたよね。少なくとも私にはそう見えたよ」

「さっき最近囲碁が面白くなったって言ってたけど、その時からちょっと気になってたんだ。何かあったのかなって」

 

 私の質問に、ヒカルが驚きと恥ずかしさが入り交じったような表情に変わる。気のせいか、顔が赤らんでる様にも見える。

 ……あれ、聞いちゃいけないような事だったのかな?

 ヒカルはしばらく所在なさげに視線を動かしていたが、やがて私に向き直って静かに口を開いた。

 

「……オレ、囲碁教室でお前と打った時は、確かに囲碁なんか好きじゃなかった。対局だって、正直面倒臭いと思ってた」

「でもそんなオレなんかが見ても、あの時のお前は……その……凄く、かっこよかったんだ」

「石を打つお前の指先は、本当に光ってるみたいで。オレもあんな風に打ちたいって、思った」

「……だからオレは囲碁を覚えようと思ったんだ」

 

 驚いて言葉が出なかった。私みたいに打ちたい、か。……はは、そんな事言われたの初めてだよ。

 

「今日の碁は、オレは前みたいにうまく打てなかったし、お前がオレに合わせて打ってくれてたのもなんとなくわかった」

「……でも、いつかきっとお前みたいに強くなってやる。今のオレの実力じゃそんな事言う資格なんてないけど、お前はオレのライバルだって、いつか絶対に認めさせてやるからな!」

 

 しっかりと私を見つめて、ヒカルはそう言った。

 

 

 私が……ヒカルのライバル?

 私みたいに打ちたい。そして私に追い付くために強くなりたい。ヒカルのその言葉は、正直凄く嬉しかった。

 

 ……でも、その相手は塔矢くんじゃないの?私なんかで、本当にいいの?

 

 私はヒカルに返事をすることができなかった。

 ヒカルはヒカルで、感情のままに発した自分の言葉が今になって恥ずかしくなったのか、私から視線を逸らし気まずそうにしている。

 どちらとも次の言葉を発する事が出来ず、しばらく無言の時間が流れる。それに耐えきれなかったのか、先に沈黙を破ったのはヒカルだった。

 

 けれど、ヒカルが発した次の言葉に、私の思考回路は凍り付かされる事となる。

 

 

「その……なんだ、今日はありがとな! 囲碁教室で大会の事を聞いた時はどうしようか迷ってたけど、お前とも打てたし、来れてよかったよ!」

 

 

 

 え………?

 

 今……なんて?

 

 思わず耳を疑った。ヒカルは囲碁教室でこの大会を知った? 碁会所じゃなくて?

 

 じゃあ……

 

 

「そ、そうだ! お前こっちで用があるんだったよな。うん、じゃあオレ先に帰るよ!」

「あ……」

 

 慌ただしく立ち上がり、掛けてあった上着を手に取るとヒカルは私に背を向けて走り去った。

 遠ざかるヒカルの背中を私はただ見つめていることしかできなかった。

 

 

 ―――

 

 

 ヒカルと塔矢くんは出会っていなかった。理由なんて考えるまでもない。全部私のせいだったんだ。私の自分勝手な行動が、彼らの未来を壊してしまったんだ。

 

 ヒカルは私に追いつきたいという想いから囲碁に目覚めた。だから仮に今後彼らが打ったとしても、ヒカルは塔矢くんをライバル視しないだろうし、佐為が打たないヒカルに塔矢くんが惹かれる事もない。

 

 強くなった二人と打ちたい。それがこの世界での私の目的だった。でも今はそれが叶わないかもしれない事より、私なんかのせいで大切な友達の才能が花開くことなく終わってしまう事の方が……ずっと怖かった。

 

 

 



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8話

「君っ!」

 

 一人立ち尽くしていた私の耳に突然声が響いた。声の方向に視線を向けると、見覚えのある男性が私に駆け寄ってくる姿が映る。

 さっき死活を口出しした時に私達を連れ出した人だ。どうやらその声は自分に向けられた物のようだった。

 

「よかった、まだいた。……一緒にいたもう一人の子は?」

「彼はさっき帰っちゃいましたけど……」

「そ、そうなのかい?……仕方ない、君だけでもいいからちょっと一緒に来てくれ!」

「えっ……?」

 

 何だろう、また怒られるのかな。さっき十分注意されたはずなのに、なんでわざわざ探してまで?

 少しだけ疑問に思ったけれど、この場でそんな反論ができるわけもなく、私は彼に連れられて対局室を後にしたのだった。

 

 

 ―――

 

 

 連れて来られたのは、先程お説教を受けた部屋だった。

 面倒臭いな……今それどころじゃないのに。

 これから再びお小言を聞かされる事を想像するだけでうんざりしてくる。……まあ、私達が悪いんだけどさ。

 

  しかし開かれた扉の先にいたのは、私が想像もしていなかった意外な人物だった。

 

「緒方先生!連れて来ました!」

「ほう……彼女が」

「あ、いえ。死活を指摘した子はもう帰ってしまったらしいので、一緒にいたこの子に来てもらったんです」

 

 緒方先生……? ああ、そっか。確か緒方先生も会場にいたはずだ。あの死活を即答したヒカルに注目していたんだっけ。今回は一緒にいた私が捕まっちゃった訳か。

 

「わざわざ来てもらってすまないね。……ああ、別にさっきの事をまた注意しようとかそういう事じゃないんだ。ただ、一緒に居た君の友達が口出ししてしまった死活、あれはプロでも一瞬手が止まってしまう程のものでね。聞いた話によると、君の友達はチラッと見ただけで即答したらしいじゃないか。――恐らくプロでも限られた人間にしか出来ない芸当。アマの、しかも子供がそんな事をしたと聞いて、名前も聞かずに帰してしまった事を後悔していたんだよ」

 

 まあ確かにあれを即答できたら、もうアマのレベルじゃないよね。気になるっていうのもわからない話じゃない。

 

「良かったら君達の名前を教えてくれないか?」

「え……? 私もですか?」

「ああ。もし私達が今後彼とコンタクトを取る機会があった時、いきなり自分の名前を出されたら彼も不審に思うだろう? でもその時に君の名前も出せば、彼もある程度は信用してくれると思うんだ。……まあ、こればっかりは強要できる事じゃない。あくまで君さえ良ければの話さ」

 

 確かに普通は見ず知らずの人に、自分の名前ならまだしも、友達の名前なんて軽々しく言えるものじゃない。

 でも私はこの人を知っている。したたかで野心家で、お世辞にも真っ直ぐな性格とは言えないけれど、囲碁に関してはどこまでも真摯な人だと知っている。彼なら私達の名前を悪く扱う様な事もきっとないだろう。

 

「私なら構いませんよ」

「ありがとう。感謝するよ。君、何か書くものを」

 

 近くにいた職員がボールペンとメモ用紙を手渡す。緒方先生の準備が出来たのを確認し、私は口を開いた。

 

「一緒にいた友達の名前は進藤ヒカル。私の名前は、星川彩です」

 

 淀みなく動いていた緒方先生の手が、私の名前を聞いた瞬間にその動きを止めた。

 

「星川……彩?」

「は、はい。そうですけど……?」

「そうか、君が……フッ、これは思わぬ所で見つかったもんだ。――ちょっとここで待っていてくれ。君に会わせたい人がいるんだ」

 

 私にそう言い残すと、緒方先生は席を立ち、部屋の外へ出ていった。

 

 緒方先生は私の事を知っているような口振りだった。一度も会ったことのない私の事を知っている理由なんて、考えるまでもなく塔矢くん繋がりだろう。

 塔矢くんに勝った私に、ヒカルの代わりに此処にいる私に、この時この場所で会わせたい人物。

 

 まさか今から来るのって……

 

 そして待つこと数分、再び現れた緒方先生と共にいたのは、

 

「……君が、星川彩さんか」

 

 塔矢行洋……! やっぱり……

 

「は、はい。初めまして、塔矢先生」

「ああ、初めまして。君の事はアキラから良く聞いているよ……アキラに、勝ったそうだね?」

「ええ、まあ……」

 

 やっぱりこの話題か。……あれ?この展開って、もしかして……

 

「……アキラには2歳の頃から碁を教えている。実力は既にプロレベルだ。だからこそ、アキラに勝った子供がいるなど、私には信じられなかった」

 

「君の実力が知りたい。座りたまえ」

 

 さっきまでずっと悩んでいたあの二人の事。今から少しの間だけ、忘れようと思った。

 

 

 ―――

 

 

「石を3つ置きなさい」

 

 置き石3つ。原作でのヒカルと同じ条件。

 相手は、名人位を始めとして現在三冠。近い将来五冠にもなる日本最強棋士、塔矢行洋。悔しいけれど自分より格上なのは認めざるを得ない。

 でも、私だって本因坊を獲ってトップ棋士の仲間入りを果たしたんだ。流石に3子は手合い違いもいいところだろう。

 3子局ならきっちりと固く打てば、勝つことはさほど難しくないのかもしれない。けれどそんな形での勝利なんて、何の意味もない。

 今この機を逃せば、塔矢先生と打てる機会は当分訪れない。考えたくないけれど、将来プロとして戦う前に引退してしまう事だって無いとは言えない。だからこそ私は、折角のこの一局を無駄にしたくなかった。

 

「塔矢先生、お願いがあります。私の定先で打って頂けないでしょうか」

 

 その言葉に塔矢先生はぴくりと眉を動かした。緒方先生は驚いたように目を見開いている。

 

「不服かね? ……確かに3子は私とアキラが打つ時の手合いだ。アキラと打って勝っている君には3子は手合い違いになるかもしれない。だが、本来私は君が本当にアキラを倒す程の打ち手なのか確認したかっただけだ。それを確かめるにはアキラと同じ手合いで打つのがいいと思うのだが?」

 

 確認……? じゃあ、塔矢先生は本気で打つつもりがないってこと?

 ……そんなのってないよ。だったら3子だろうと互先だろうと最初から無意味じゃないか。私はそんな対局を望んでいたわけじゃないのに……!

 

  本心では自分でも気づいていた。私だってプロだったんだ。プロが子供相手に本気で打つ事の方が、よっぽど大人気ない事だってのも十分わかっている。

 でもこの時私の頭の中にあったのは、全力の塔矢先生と打ちたい、それだけだった。……無礼は承知の上だ。

 

「……3子で打ったら、私には絶対に勝てませんよ」

 

 塔矢先生の顔が、更に鋭くなったような気がした。

 

「き、君っ! 失礼だろう!」

 

 側にいた職員の人が声を荒げる。当然の反応だ。子供がプロに、しかも名人に吐いていい言葉じゃない。

 なおも私に詰め寄ろうとする彼を、塔矢先生は右手で制した。

 

「……いいだろう。そこまで望むのならば、君の先番で打ちなさい」

「ありがとうございます。……本気で、打って下さいね」

「無論だ。だがこの手合いを望んだ以上、君にもそれに見合った碁を打つ責任がある。わかっているだろうね?」

「……もちろんです」

 

 そうだ。ここまで言ってしまった以上、絶対に情けない碁を打つわけにはいかない。

 確かに塔矢先生は私より格上。でも私だって碁を打つ以上、誰が相手だろうと負けるつもりなんてない。

 持てる力の全てを、塔矢先生にぶつけてやる……!

 

 

 ―――

 

 

 塔矢先生との対局にあたり、私は一つの作戦を立てていた。それは自分だけの武器を使うことだ。

 私にあって塔矢先生に無いもの、それは言うまでもなく未来の知識。12年という歳月は、囲碁の歴史から見れば短い様に思えるかもしれないけれど、その間も確実に囲碁は進化している。

 私が今敷いているこの布石。開発当時はバランスの取れた優秀な布石として一世を風靡したが、その後欠点が指摘され、廃れていった古い型の物だ。当然この世界でもこの布石を使っているプロなどほとんどいないだろう。

 しかしこれから数年後、欠点への対策が見つかり、この布石は再び大流行する事になる。私の時代でも、プロアマ問わず多くの人が愛用している。

 当然それを知らない塔矢先生は弱点を突いて攻めてくる。だけどここをハズして打てば……

 

 中盤に差し掛かる頃、盤面は黒が優勢となっていた。攻めをかわした黒に対し、そこに手を掛けた白がやや出遅れた形だ。

 流れは私だ。このまま押しきってやる……! そう思った瞬間、白が放った一手に私の手が止まった。

 これは……ボウシ? 当然打ち込んでくるものだと思っていたのに。

 黒がこれを受ければ左辺が一気に安定する。白からの打ち込みの味も消えてしまう。黒としては望み通りの展開だ。白が負けている事を考えても、決して良い手には見えない。

 仮に白のこの手が緩手だとしたら、ますます黒が優勢になるばかりだ。塔矢先生程の人がそんな手を打つだろうか? でも、この局面では黒は受けるのがベストの選択に思えるけど……

 注文通りに受けて、左辺を黒地にする。しかし数十手後、私は自分のその一手こそが緩手だったと思い知らされる事となった。

 

「これは……!」

 

 ボウシからの白に睨まれて各所の黒が動けない。それどころか中央に進出しようとした私の石が完全に働きを失っている。こんな展開になるなんて……

 気付けば終盤には形勢はかなり押し返されていた。とはいえ、盤面ではまだ黒が良い。ヨセでミスをしなければ十分に勝てる。

 でもそれは、定先手合いでの話だ。コミがあったら恐らく出し切れない。……1目半程、足りない。

 ヨセは複雑だけれど一本道。塔矢先生が間違えなければ、ヨセではもう追い付けない。これ以上打った後だと本当に手遅れになってしまう。……勝算は薄いけれど、白地に入っていくしかない!

 

 しばらく長考した後、私は意を決して白地に飛び込んで行った。

 

 

 ―――

 

 

「……負けました」

 

 塔矢先生に頭を下げ、私は投了を宣言した。

 白地に打ち込んだ私の石は結局全て飲み込まれ、それどころかそこから波及した攻め合いによって、私の黒地まで荒らされる結果となってしまった。……もうコミ云々の話ではなく、碁が壊れてしまったのだ。

 あれだけ大口を叩いておいて、結局はこの様。序盤のリードだって塔矢先生が布石の改善を知らなかったから作れただけ。……私の完敗だった。

 

 私は立ち上がり、再び塔矢先生に頭を下げた。

 

「ありがとうございました。塔矢先生と打てて本当に嬉しかったです。……失礼な発言の数々、本当にすみませんでした」

 

「……もういいから、顔を上げなさい」

 

「でも、私はっ……!」

 

「ここまでの碁を打たれたんだ。私が言うことは何もない。それに、打ち込んできたこの手も一歩間違えれば私がやられていた。……だが、わざわざこんな所に打ち込まなくても、盤面では十分黒が良かった。君はそれがわからない打ち手では無いはずだ」

 

「……恐らく君は、互先で私に勝ちに来ていたんだろう?」

 

 バレてる……名人に互先で勝とうとするなんて、やっぱり失礼だったかな。

 

「なるほど……アキラが君を気にするのもわかる気がするよ」

「えっ……?」

 

 急に出された塔矢くんの名前に思わず顔を上げる。

 

「先程も言ったが、アキラは既にプロになるだけの力がある。プロとして戦っていく覚悟も十分に持っている。だがその反面、このままプロになって行くのをどこか躊躇っていたようでね。――そんなアキラの様子が最近変わってきたんだ。何か迷いが吹っ切れたような、それは私と打つ碁にも表れていた。何かあったのか聞いてみたところ、出てきたのが君の名前だった」

 

 塔矢先生の表情は、対局中の厳しいそれとは打って変わって、とても穏やかなものになっていた。

 

「アマチュアの、しかも同い年の子に負けたというのに、とても嬉しそうな顔で話していたよ。……彼女を追いかけていけばもっと強くなれる、彼女となら自分はもっと高みに行ける、とね」

 

 塔矢くんが、そこまで私の事を……じゃあ碁会所でのあの仕草も、やっぱりそういう事だったんだ。

 

「アキラはきっと君の様な、自分と対等以上に戦えるライバルがずっと欲しかったんだろう。他の子の才能の芽を摘んでしまわないようにと、アキラにはなるべく同年代の子とは打たせないようにしていた。けれど、そんな私自身が危うくアキラの才能を潰してしまうところだった」

 

 そう言うと塔矢先生は椅子から立ち上がり、私に向かって深々と頭を下げた。

 

「君には本当に感謝している。どうかこれからもアキラの良き好敵手でいてやってほしい」

 

 それは名人・塔矢行洋ではなく、子を想う一人の父親の姿だった。

 

「……はい。私にとっても塔矢くんは大切なライバルですから」

 

「……ありがとう」

 

 そして塔矢先生は顔を上げ、私の目を見つめて言った。

 

「君の力は想像以上だった。近い将来間違いなく君は私の前に立つだろう。私の持つタイトルを脅かす存在となって」

 

 

「……プロの世界で君と再び戦える事を楽しみにしている」

 

 

 ―――

 

 

 本来ヒカルと塔矢くんこそが、お互いを追いかけ、ライバルと認め合って強くなっていく筈だった。

 でも二人は結局出会うことはなかった。……私のせいで。

 

 彼らの想いが私の中に甦ってくる。

 

 

 ――ボクは、君を待っているから……

 

 ――お前はオレのライバルだって、いつか絶対に認めさせてやるからな!

 

 

 だったら、私は……!

 

 

 

 

 その日の夕食の席で、私は両親に向かって告白した。

 

「お父さん、お母さん。話があるんだけど」

「どうした彩?急に改まって」

 

「私、プロ試験を受けたい……!」

 

 

 だったら、私が二人を導いて見せる。彼らの才能に見合うだけの存在になって。 

 私を追いかけて、原作よりもっともっと、強くなってもらおうじゃないか。

 

 その時こそ、私の願いが叶うんだから……!

 

 

―――

 

 

「彼女、どうです?」

 

「……聞くまでもないだろう?」

 

「まあ、そうですね。私もアキラが同い年の女の子に負けたと市河さんに聞いたときは、にわかには信じられませんでしたが……まさかこれ程の実力の持ち主だったとは」

 

「フッ……我々もうかうかしていられないという事だな」

 

「ええ……アキラだけでなく、彼女、そしてあの死活を即答した進藤ヒカルという少年……」

 

 

「来るのかもしれんな……新しい波が」




定先(じょうせん):ちょっとだけ黒が有利なハンデ戦。黒は白にコミを支払わなくても良い。

大まかなハンデ設定は、互先<定先<2子局<3子局……みたいな感じです。


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9話

 プロ試験を受けたい。私のその申し出に、取り分けお母さんはあまり好意的ではなかった。

 囲碁を趣味にしているお父さんはともかく、囲碁のいの字も知らないお母さんにとって、碁打ちという職業はあまりにも不透明過ぎたんだろう。

 何よりプロ試験は夏から秋に掛けて行われる。夏休み中はともかくとして、中学一年という大事な時期にそのために学校を休むという事をお母さんは良しとしてくれなかった。

 

 

「まあ俺も最近彩がどんどん強くなってるのは知ってるし、お前ならもしかして、と思わない事もないんだが……お母さんもお前の事を心配して言ってるんだよ。それだけはわかってやってくれ」

「うん……わかってる。でも……」

 

 でも、今の私には時間がないんだ。

 塔矢くんは間違いなく今年のプロ試験を合格してくる。彼より遅れてプロになるわけにはいかない。……それに、塔矢先生だって私を待ってるんだ!

 

 私は必死に食い下がるものの、お母さんもそう簡単に首を縦に振ってはくれない。

 とはいえ、私もこういった展開になるだろうな、という事はある程度予想していた。

 

 それは私が一度通ってきた道だったから。昔、私がプロ試験を受けたいと言った時も、お母さんはやはり簡単には頷いてくれなかったから。

 ……ならばこの状況を打破するためには、かつての私と同じ事をすれば良いという事だ。

 

「じゃあ……院生から始めさせてくれない?」

「……何なの、院生って?」

 

 聞き覚えの無い院生という単語に、お母さんは怪訝そうな表情をする。

 

「囲碁のプロを目指す子供が集まる……塾みたいな所だよ。私がそこで優秀な成績を修めたら、プロ試験を受けるのを認めてくれないかな?」

「塾……ね」

 

 過去に私は院生を通ってプロになった。そこで1組の1位まで登り詰めた結果、お母さんはプロ試験を受けることを許してくれたのだ。

 それに、院生という言葉は知らなくとも、塾という身近な単語ならば、囲碁を知らないお母さんも理解を示しやすいはず。

 ……私の事を心配してくれているお母さんを騙している様で、少しばかり心苦しくもあるけれど……背に腹は代えられない。

 

 お母さんはしばらく考え込んでいたけれど、やがて小さなため息と共に私に向かって口を開いた。

 

「……わかったわ。私は囲碁の事は全然わからないけれど、彩が囲碁が大好きだって事は十分知っているつもりだし」

「お母さん……」

 

 その言葉に胸が熱くなる。囲碁は知らなくとも、私の囲碁への想いをお母さんはちゃんと理解してくれているんだ。

 

「その代わり、そこで彩がプロになれるだけの実力をきちんと私達に見せること!そうしたらプロ試験を受けるのを許してあげる」

「……ありがとう! 約束する。私、絶対に院生で一番になってみせるから!」

 

 何はともあれ、こうして私はプロになるための第一歩を踏み出すことが出来たのだった。

 

 

 幸いな事に1月には院生試験があった。今から院生になれば、夏までには十分に1組のトップまで辿り着けるはずだ。

 調べた所、その次の院生試験は4月のため、この機を逃せばプロ試験までに院生として成績を残す時間はかなり限られてしまう。

 私はすぐさま願書を取り寄せ受験の手続きを行ったのだった。

 

 

 ―――

 

 

「院生師範の篠田です。それではこれから院生試験を開始します」

 

 

 1月の末日、私は棋院の一室で院生師範の篠田先生と向かい合っていた。

 試験の内容は、先生との対局、終わった後は棋譜を見ながらの質疑応答、といった流れだ。

 

「始めに言っておくけれど、これは勝負ではなく君の力を見るための対局だから。緊張せずに自分の力をしっかり出して下さい」

「はい。よろしくお願いします」

 

 

 私が2子を置き、先生との対局が始まる。

 

 先程篠田先生が言った様に、これは勝負ではなく指導碁。あくまで院生としてやって行けるかどうかを見るためのものだ。

 だからこの場では全力で勝ちを掴みに行くような碁を打つ必要なんてない。あくまで先生の手に対して、模範的な打ち筋で応える事が大事なんだ。

 

 そして過去にプロとして何局もの指導碁を、指導する立場として打ってきた私にとって、それは造作も無い事だった。先生の手が何を問いかけているのかも、何を求めているのかも、私にははっきりと解るのだから。

 

 ――私はここに打ちました。次はキリを狙っていますよ?

 

 ――はい、なら私はここを先に利かせて、先手でキリを防ぎます。

 

 私の打つ手に、先生は時折満足げに頷きながら対局は進行していく。

 お互いの石が意思を持って対話する。囲碁の本質を体現したその一局は、盤面に美しい模様を広げていった。

 

 

 

「……ここまでにしようか。うん、よく打ったね」

 

 私が2子分のリードをきっちりと保ったまま終盤を迎え、小ヨセに入ろうかという局面で対局は打ち切りとなった。

 先生のその言葉から察するに、手応えアリ、といった感じだろうか。

 

「それじゃ棋譜を見せてもらおうか」

 

 そう言って篠田先生は私が提出した棋譜を取り出し、それらに目を通し始めた。

 院生試験には提出用に棋譜が3枚必要になる。そして今回の院生試験用に私が用意した棋譜は、お父さんと塔矢くんとのものだった。

 

 私がこの世界で打った相手は、お父さん、塔矢くん、佐為、ヒカル、塔矢先生の5人。

 

 まず佐為とヒカルの棋譜は使えない。対局相手に本因坊秀策なんて書けるはずもないし、流石にまだ初心者のヒカルとの対局は参考にならないだろう。

 塔矢先生との棋譜もダメだ。院生試験の棋譜にトッププロの名前を勝手に出すなんて流石に非常識だし、塔矢先生にも迷惑が掛かってしまう。

 消去法で残るはお父さんと塔矢くん。とはいえ、二人ともアマチュアとしては申し分無い実力者だし、彼らとの棋譜なら何の問題も無いだろう。

 そして二人と打った対局の中でも特に良かったと思える3枚を、私は提出用の棋譜として採用したのだった。

 

 篠田先生はしばらく食い入るように棋譜を見つめていた。自信はあるとはいえ、こういう無言の間というのはやっぱり少しだけ緊張してしまう。

 そして待つこと数分後、棋譜を読み終えたのだろうか、篠田先生は一呼吸ついて私に向き直って問いかけた。

 

「1つ聞きたいんだけど、この対局相手の塔矢アキラ君というのは……もしかして塔矢先生の?」

 

 ……まあ、その辺はもしかしたら聞かれるかなとは思っていた。天下の塔矢名人、その息子の名前だしね。

 

「はい。私が遊びに行っている碁会所が塔矢先生の経営している所なので、たまに打ってもらっているんです」

「……やはり、そうですか」

 

 私の答えに篠田先生はそう一言返すと、再び何かを考え込む様に押し黙ってしまう。

 

 な、何か不味かったのかな?今回の塔矢くんとの棋譜は私が一番良いと思ったものを選んだつもりだし、彼の評価を下げるようなものでも無い。正直院生のレベルは十分に越えているはずなんだけど……

 そうは思っても、無言で考え込む篠田先生を見ていると不安な気持ちは押さえられない。そんな想いが顔に出ていたのか、先生は私の視線に気づくと慌てたように顔を上げ、

 

「……あ、いや、問題がある訳じゃないんだ。――いいでしょう、来週の手合いから参加しなさい」

 

 院生試験の合格を私に告げてくれた。

 

その言葉に、安堵の気持ちからか自然と肩の力が抜けてくる。どうやら私の心配など杞憂の様だった。

 

「あ、ありがとうございます!これからよろしくお願いします!」

 

 良かったぁ……うん、流石にプロのタイトルホルダーが院生試験に落ちるとか笑えないからね。

 

「それではこれで院生試験は終了です。気をつけて帰りなさい」

「はい。ありがとうございました。それでは失礼します」

 

 私は再び篠田先生に頭を下げ、お母さんの待つ喫茶店に向かうべく、部屋から退室して行ったのだった。

 

 

 ―――

 

 

 今思えば指導碁の時から私は何か違和感を覚えていたのかもしれない。

 

 どれだけの才能の持ち主であろうと、子供の碁は粗い。ましてや院生試験、プロと打つ指導碁。そんな状況に手が縮み、平常に打てずに不合格になった子供達を私は何人も見てきた。

 

 しかし彼女は結局最後まで私の一手に完璧に答え続けて見せた。

 完璧に――そう、まるで私の考えている事などお見通しかの様に。

 ……正直、本当に子供なのかと思ってしまう程だった。

 

 そして極めつけは彼女の持参した棋譜。その中にあった塔矢先生の息子、塔矢アキラ君の名前。

 戦いにおける読みの力、そして勝負所を見極める大局感。既にプロ級の力を持ち、プロ入りは確実とされている彼の棋力は、噂に違わぬものだった。

 ……そして彼女は、そんな彼の完全に上を行ったうえで勝利していたのだ。

 

 単純に考えてもプロレベルの実力の持ち主。そして直に対局した私の考えが正しければ……彼女はまだ全力を出していない。

 自分の教え子になる以上、あまり言うべき事では無いが、正直彼女の力は院生の範疇に収まるものではない。

 あれだけの子が成長しプロとなったら、一体どれ程の棋士となると言うのだろうか。

 

「……全くすごい子が出てきたものだ」

 

 前途ある子供の溢れんばかりの力を見せつけられ、そんな彼女の未来を思うと、私は自然と顔が綻んでしまうのを押さえきれなかったのだった。

 

 

 



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10話

 私が院生になって早くも1ヶ月が経とうとしていた。順調に白星を積み上げ続けた私の今の順位は2組の3位。来月の成績発表時には、1組への昇格が期待できる位置まで辿り着いていた。

 そして今日の午前の対局も無事勝利し、白星を記入するべく私は成績表の前に立っている。

 成績表に羅列された院生の名前。その中には当然私の見知ったものも多くあった。

 伊角慎一郎、和谷義高、本田敏則、福井雄太……院生編の主要人物として描かれた人達の名前がそこには書かれている。

 

 だけど今は原作でヒカルが過ごした院生時代よりも一年近く前。当然、その時とは異なった点もあるわけで。

 

 

「彩、また勝ったの? アンタほんと負けないわねぇ。院生になってからずっと勝ちっぱなしじゃない」

「……あっ、奈瀬さん。奈瀬さんも勝ったの?」

「うん、何とかね。これで私もようやく1組に上がれそうだよ」

 

 奈瀬明日美。原作では恐らく1組中位程の成績であった彼女も、この時点ではまだ2組。とはいえ、現在1位で今日も勝利を納めた彼女は、まず間違いなく次の成績発表時には1組に昇級するだろう。

 彼女は私の院生での初めての対局相手だった。それ以来、彼女は院生の先輩として何かと私の事を気遣ってくれる。

 中学2年生で年は私よりも2つ上。もっとも、実際の精神年齢は私の方がずっと上だし、私から見れば彼女はまだまだあどけなさの残る少女だ。

 ……にも関わらず、ウマが合ったと言うべきなのだろうか、私は自分でも驚くほど自然に彼女と付き合うようになった。

 

 小学生として数ヶ月を過ごした事により、知らず知らずの内に精神が退行してしまったのか、とも思った。

 ……けど、何よりも。

 

 似ているからなんだろう。

 

 プロとして、嬉しい事も、辛い事も、いつも一緒に分かち合ってきた私の親友の姿に。

 私がこんなにも奈瀬さんと過ごす時間を心地よく思うのは、かつての私が一番心落ち着けた一時と同じ様に感じられるからなんだろう。

 

「それじゃ今日もお願いしていいかしら?さっきの対局、少し疑問に思った局面があったのよね」

「うん、私が教えられることなら!」

 

 昼食を食べながら一緒に午前の対局の検討。これも院生になって以来、すっかりお馴染みの物となっていた。

 

 

 ―――

 

 

「……なるほどねぇ。毎度毎度、彩の読みの深さには感心させられるわ」

「そんな事ないって。奈瀬さんの打ったこの手だって立派な一着だよ。むしろこの手に満足せずに、疑問を持てたってのは凄い事だと思うな」

「じゃあその疑問にあっさり答えられるアンタは一体何なのよ……」

「えっ? ……い、いや、まあこの辺は知ってるか知らないかだけだし……」

 

 

 こうやって院生手合いのある日には、私達は決まって検討や対局を繰り返していた。

 そんな日々の中で、私は彼女に対してある思いを抱いていた。

 

 ……実は奈瀬さんって、相当勿体ないんじゃないかな、と。

 

 

 囲碁に強くなるための一番の近道、それは強い人にたくさん打ってもらう事に他ならない。だからこそ院生にだってプロの師匠を持つ人は決して珍しくない。

 原作でプロになった人達も皆そうだ。

 佐為に師事していたヒカル、名人を父親に持つ塔矢くん、森下門下の和谷、九星会に所属する伊角さん、プロ棋士の指導碁を受け続けてきた越智。

 そういった人達は皆プロの、あるいはプロに等しい実力者と打ち続けているんだ。私もまた、当時タイトルホルダーだった師匠の元に院生時代から弟子入りしており、そういう点ではかなり恵まれた環境にあったと言える。

 けれど、聞けば奈瀬さんはプロの師匠どころか、師事する人すらいないそうなのだ。

 いくら才能があろうと独学で強くなるには限界がある。原作ではあまり実力があるようには描写されなかった彼女だけれど、そういった事情を考慮すれば、それもある意味仕方のない事なのかもしれなかった。

 

 そしてこの1ヶ月、奈瀬さんと一緒に囲碁の勉強を続けてきた私は、彼女の飲み込みの良さに少なからず驚いていた。

 年下にあれこれ言われるのは、このくらいの歳の子は嫌がるものなのかもしれないけれど、少なくとも奈瀬さんに限ってそんな事は無く、囲碁に対してのそんな素直な姿勢も相まって、私の教えた事をどんどん吸収していった彼女は、初めて私と打った時に比べて格段に成長していた。今日の検討での一手にしたって、昔の奈瀬さんだったらきっと気付けなかっただろう。

 

 私の教えを受けて着実に強くなっていく。

 ――そんな奈瀬さんを、私は少なからず誇らしくも思っていた。

 

「……彩、何か良い事でもあったの?顔がにやけてるわよ?」

「ふふ、別に何でもないよ。……あ、そろそろ時間だね」

「ホントだ、もうこんな時間。……余計なお世話かもしれないけど、一応アンタは昇級ラインギリギリなんだから、自分の心配もしなさいよ?」

「うん、ありがと。勝って一緒に1組に上がれるといいね」

 

 お互いの勝利を誓い合って、私達は再び研修室へと戻って行った。

 

 

 ―――

 

 

 そして翌週、成績更新の日。いつものように研修部屋に入ると、研修室の片隅、院生順位表の前には人だかりが出来ていた。ある子はそれを見て喜び、また別の子は肩を落としている。

 結局あの日の午後も私と奈瀬さんは共に勝ち星を手にすることが出来た。そうなると、既に昇級圏内だった奈瀬さんは確定だろうけど、問題は私だ。

 

 逸る気持ちを抑えながら、彼らに倣って人だかりの中に飛び込もうとする私に、後ろから声がかかった。

 

「よう、いよいよ上がってきたな星川」

 

 振り向くとそこには声の主、和谷義高が居た。

 

「おはよう和谷。……あ、じゃあもしかして」

「ああ。昇級おめでとう。……って言っても、お前なら時間の問題だったんだろうけどな」

 

 ……良かった、私も上がれたんだ。

 もちろん私の立場から考えれば、院生内での昇級なんて通過点の1つにしか過ぎないけれど、奈瀬さんとの約束通り、一緒に1組に上がれた事が私は素直に嬉しかった。

 

「けど今日からはオレ達1組が相手だからな。2組と同じ様に簡単に勝ち続けられると思うなよ?」

 

 喜びに浸っている私に、和谷が釘を刺すようにそう言う。

 言われてみればそうだ。今日からいよいよ1組での対局が始まる。院生上位ともなれば限りなくプロに近い実力の持ち主達だ。私もある程度本腰入れてかからないと。

 

「確かにそうだね。でも、私も負けるつもりは全く無いからね?」

「お、言うじゃねーか。……ま、2組とはいえここまで全勝だもんな。実際1組にもお前との対局を楽しみにしている奴は結構いるんだぜ」

 

 和谷の言う通り、院生になって以来、私は全ての対局に勝ち続けている。その為か、2組ながら私は院生の中でもある程度注目される存在になっていた。

 とはいえ、研修手合ではもちろんなりふり構わず勝ちに行くような碁を打つ事はなく、正しい石の形や流れに沿った打ち筋を心がけている。いわゆる正統派ってやつだ。仮にもプロだった私が、伸び盛りの子達の自信を無くさせるなんてあってはいけない事なんだから。

 そんな私の配慮もあってか、未だ無敗ながら院生内での私の評価は、『結構強い奴が入ってきたな』ぐらいに止まっている様に思う。

 まあいずれはプロになって上を目指すのだから、実力を隠そうなんて事は別に思ってないけれど、下手に力の差を見せつけて化け物扱いされるのも嫌だし、これはこれで良かったかな、とも思っている。私と打つのを楽しみにしてくれる人がいる事の方がずっと嬉しいしね。

 

「もちろんオレもその一人だからな。お前との対局は……来週か。せいぜい首洗って待ってろよ?」

 

 うん、今から本当に楽しみだよ。

 

 

「……ちょーっと和谷? 盛り上がってるとこ悪いんだけど、来週の事なんかより今日の心配をした方がいいんじゃないの?」

 

 聞き慣れた声と共に、肩に腕を回される感触。振り返れば、私の肩越しに和谷をジト目で見つめる奈瀬さんの姿があった。

 

「あ、おはよう奈瀬さん。そうだ、私も1組に……」

「知ってる。さっき成績表見てきたからね。おめでと、彩。……そんな事より」

 

 私への祝福の言葉もそこそこに、奈瀬さんは再びジト目に戻って和谷に視線を向ける。

 

「よ、よう奈瀬。どうしたんだよ。……今日、何かあったっけ?」

「何かあったっけじゃないわよ! アンタの午前の相手、私なんだからね?」

 

 勢いよく捲し立てる奈瀬さんに最初こそ気圧され気味の和谷だったけれど、次第に悪戯そうに笑みを浮かべながら言葉を返す。

 

「へー、そうなのか。じゃあ今月は白星スタートできそうだな!」

「……ふーん、言ってくれるじゃない。セ・ン・パ・イ?」

 

 そう言うと奈瀬さんは和谷に歩み寄り、私の時と同じ様に和谷の首に手を回す。少し違うのは……

 

「ちょ、待てって……あだだだ! ギブギブ! 冗談、じょーだんだって!」

 

 奈瀬さんのヘッドロックを受け、悶絶する和谷。うーん、あれは痛いね。

 

「星川、見てないで助けてくれ!」

 

 和谷の必死の懇願に、私は親指を上に向けて笑顔で彼に答えてあげたのだった。

 

「ドンマイ!」

 

 

 ―――

 

 

 程なくして篠田先生が研修室に入ってくる。先程まで散々としていた子達も、皆一様に指定されている自分の席に着き始めた。

 

「あら、彩は私の隣なんだ」

「そうみたいだね。お互い頑張ろうね奈瀬さん」

 

 偶然にも私の隣の席は奈瀬さんだった。お互いこれが1組でのデビュー戦。相手が上位の和谷という事を考えると、流石に少し厳しい相手かもしれない。でもここ最近の奈瀬さんの成長ぶりならば、決して悪い戦いにはならないはずだ。

 

「おー痛って……くっそ、こうなったら中押しで負かしてやるからな」

「ふーんだ。やれるものならやってみなさいよ」

 

 早速盤外戦を繰り広げている二人を微笑ましく見守っていると、私の対面側の席に座る人影が目に入る。

 そういえばヒカルの院生時代とは異なる点は他にもまだあった。それは……

 

「ちっ、コイツが相手か……」

 

 私の1組デビュー戦の相手、真柴充の存在だった。

 




次はもっと早く更新したいです(当社比)


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11話

 対局は私が比較的緩やかな布石を選択した事もあり、序盤から真柴さんが黒番のアドバンテージを生かして積極的に仕掛け、私がそれをシノぐ展開となっていた。攻めっ気の強い棋風なのかな、という印象だ。

 

 ……でも、ちょっと強引過ぎるんじゃないかな。相手だって受け続けてくれる訳じゃないんだし。

 

 囲碁は双方が正しく打つことを前提とすれば、全局的には互角に分かれる様になっている。局所的に片方が戦果を上げようとすれば、その分だけ他の場所で隙が生じ、後々手痛い反撃を受ける羽目になる。

 その例に違わず、薄みを守らずひたすら稼ぎに来た代償として、中央の黒石は実の所相当危険な状態になっている。私の読み通りならば、次に守らなければ中央は……落ちる。

 

 けれどそんな私の思惑を他所に、彼が選択した次の手は……スベリ。またしても地を取りに来る一手だった。

 

 ……まだ地で頑張っちゃうのか。中央が危ないのは百も承知だろう。それでも守らないのは、シノぐ算段があるって事なのかな。

 ま、関係ないか。どちらにしろここまで荒稼ぎされたら、私にだってもう中央を叩くしか選択肢はない。それでもダメだったら、素直に敗けを認めるだけだ。

 中央を殺せば勝ち。シノがれれば負け。間違いなくこの一局は作り碁にはならないだろう。ここからは一手のミスで私も負けかねない。こんな碁になるのも、1組ならではって所かな。

 

 行くよ真柴さん。逃げられるものなら……逃げてみなよ!

 

 

 ―――

 

 

 ……中央で生きようにも外を切られて欠け目。連絡の手段も、それまでひたすら手厚く打ってきた白の壁に阻まれて目処が立たない。ここまで来れば誰にだってわかる。黒は完全に詰んでしまっていた。

 

「……負けました」

 

 絞り出すような声で真柴さんが投了を宣言する。

 いくら地合で先行してても、流石に中央が丸々死んでしまっては碁にならない。投了もやむ無しだ。

 

 彼もまた1組上位であり、何より原作では今年の試験を通過してプロになる筈の人。確かに今まで対局した院生の中では、頭一つ抜きん出た力の持ち主だった。

 ただ今回の様な打ち回しでは、格下相手には通用しても上手には付け入る隙を与えかねない。もちろん前半で稼ぐだけ稼いで後半はシノギ勝負、そういった棋風もあるけれど、それには正確な読みに裏付けされた危機管理能力が必要不可欠なんだ。……先々は何とも言えないけれど、少なくとも現状では、プロで戦って行くにはもう一つ実力不足の様に思う。

 

 それでも悔しげに盤面を睨み続けている真柴さんの姿を見ていると、プロであった名残か、それとも元々の性分なのか、ついついお節介な気持ちが込み上げてくる。

 

「……真柴さん、幾らなんでもこの手は打ち過ぎだよ。只でさえ危なっかしい形なんだからさ、ここに白が来たら流石に守らないと」

 

 勇み足で負けてしまったとはいえ、攻めに対する着眼点は光るものがあったし、院生上位に見合った力量は十分に感じ取れた。

 

「ここはさ、ノゾキが利いてるから先手で守れるでしょ?これだけでそう簡単に死ぬ石じゃなくなるし」

 

 結果だけを見て落ち込んで欲しくなかった。今回の敗戦だってきっと無駄にはならないはずなんだから。

 

「最悪こっちを切っちゃえば多少損でもフリカワリになるし、前半の貯金を考えれば少なくともすぐに投げるような展開には……」

 

 運だけでプロになれるはずがないんだから。これを糧に出来るだけの器は間違いなくあるはずなんだから。

 

 

「……るせーな」

 

「えっ……?」

 

 

「うるせーんだよ! そんな事お前に言われなくたってわかってんだよ!」

 

 

 それまで無言で俯いていた真柴さんが突然堰を切ったように声を上げた。周りで対局をしていた他の子達も、何があったのかと揃ってこちらに視線を集める。

 

「勝ったからって偉そうにベラベラ講釈垂れやがって!」

 

 ……あらら、怒らせちゃったか。よく考えれば小学生にこんな風に言われるのはやっぱり気持ちいいものじゃないし、皆が皆奈瀬さんみたいに受け入れられる訳じゃない。……私もちょっと喋りすぎちゃったかな。

 

「調子に乗ってんじゃねーよ! ガキのくせに……」

 

 まあ負けて癇癪を起こす子だって今まで何回も見てきたし、悔しいのは囲碁に対して真剣な証だ。ここは優しく諭して大人の対応を……

 

 

「……女のくせに!!」

 

 

 ―――

 

 

『最近入ってきた星川って奴、結構やるらしいぜ』

 

 そんな噂を耳にしたのは今から半月くらい前の話だったか。何でも院生になって以来、負け無しの奴がいるらしかった。

 とはいえ、まだ入って間もない上に所詮は2組での話。然程気にする様な事でもないとタカを括っていた。

 

 けれどそいつは次の週も、その次の週も勝ち続け、気が付けば僅か1ヶ月で1組に上がろうかと言う所まで成績を上げていた。

 もちろん全勝で1組へ昇級するような話が今まで一度も無かった訳じゃない。ただそういった連中は、ほぼ例外無く1組でも勝ち上がるような奴等だった。仮にコイツがそういった連中と同じだとしたら、それは即ちプロ試験での自分の大きな障害になり得るという事。……流石にもう楽観視は出来なくなった。

 

 院生には伊角さんという自分より明らかに格上の人が居る。本田や足立に小宮、和谷にだって勝てる保証はない。その上、いよいよ今年のプロ試験に塔矢名人の息子が出てくるなんて噂もあるくらいだ。

 今回の試験は間違いなく例年以上に厳しくなる。他の奴等だってそれはわかっているはず。なのに一部ではアイツが上がってくるのが楽しみなんて言い出す奴もいる始末。

 

 ……バッカじゃねーの。俺達はプロになるためにここに居るんだぞ。ライバルなんて一人でも少ない方がいいに決まってんだろうが。

 

 俺だってもう来年は17歳。院生でいられるのもあと2年。プロ棋士になるという夢に見切りをつけ、現実と向き合わなければいけなくなる時は確実に近づいている。

 諦めたくない。プロにさえなれれば今までの努力が報われる。これからもずっと囲碁の事だけを考えて生きていける。

 

 

 ……だからこそ気に食わなかった。まだ小学生、何度でもチャンスが残っているコイツが。

 何よりも、俺とは決定的に違う点があったから。それは……コイツが女だという事。女には女流採用試験という男には無いプロへの道がある。院生で上位に食い込める実力があれば、そっちで受かる事だって十分に可能なはず。俺よりもずっとプロになれる可能性は高いはず。

 

 俺には時間がないのに。それなのに、自分の夢の邪魔をするコイツが、腹立たしいほど妬ましく……怖かった。

 

 

 ―――

 

 

 流石にそれだけは聞き流す事は出来なかった。

 女だからという理由で正当に評価してもらえず、そしてそれを見返すために強くあろうとしてきた私にとって、それは一番聞きたくなかった言葉だったから。

 

「っ……!」

 

 怒りの気持ちはもちろんあった。だけどこの場で同じ様に感情を吐き出すほど子供じゃない。彼だってその場の勢いで言ってしまったのかもしれないのだから。

 ただ一方で、そこまで言われて黙っていられない、その言葉だけはどうしても否定したいと叫ぶ、大人になりきれない自分も確かに居た。

 

 感情の板挟みに合って咄嗟には声が出なかった。

 そんな私に代わって、

 

「アンタねえっ! いい加減にしなさいよ!」

 

 想いを吐き出した人がいた。

 

 

 

「奈瀬……さん……?」

「取り消しなさいよ!女のくせにって言ったこと!」

 

 対局中にも関わらず立ち上がり、激昂する奈瀬さん。いつも明るくて、勝ち気だけど優しい、そんな彼女が見せた初めての姿だった。

 

「何よ女のくせにって……強い人が上に行く、そんな世界に男も女も関係ないでしょ!」

 

 怒りを露にし、そしてどこか悲痛な表情で叫ぶ。それは一番言いたかった、私の心の叫びそのもの。

 

「……彩に謝りなさいよ! アンタが負けたのは実力が足りなかったから、それだけじゃない!」

「くっ……うるせーな! 余計な口、挟むんじゃねーよ!」

 

 ただ、真柴さんも黙ってはいなかった。顔を真っ赤に染めながらそう言い放つと、奈瀬さんを両手で強く突き飛ばす。為すすべなく後ろに倒れ込む奈瀬さん。その先には……

 

「あっ……」

 

 音を立てて散らばる碁石。先程まできっと奈瀬さんが必死で食らいついていたであろう戦いの証が、やっとの想いで1組に昇級した彼女の大切な一局が……壊れる。

 瞬間頭が真っ白になった後、倒れ伏す奈瀬さんを見てはっきりと自分の頭に血が上っていくのを感じた。

 

「こ……このっ……!」

 

 もう黙っていることなんて出来なかった。大人とか子供とか、そんな事以前に、奈瀬さんが傷つけられた事が、彼女の大事なものを壊された事が、何よりも許せなかった。

 真柴さんを睨み付け、今にも彼に詰め寄ろうとしたとしたその時、

 

「何をしているんだね!」

 

 耳に入った大きな声が私を制止させた。こちらに歩み寄ってくる篠田先生の声だった。

 

「いい加減にしなさい! 他の子達はまだ対局中なんですよ!」

 

 そう言って二人を叱り付けると、篠田先生は崩れてしまった碁盤と、手を止めてこちらを注視する他の子達を一瞥して小さくため息をつく。

 

「真柴くんと奈瀬くんは今から私の部屋に来なさい。君達は対局を続けること。いいね?」

「……ま、待って下さい! 違うんです、私が……」

 

 未だ思考回路の整理がつかない中、反射的に制止の声を上げる。こんな事になってしまったのも私と真柴さんが原因なんだ。奈瀬さんは私を庇ってくれただけ。叱られるべきなのは私なんだから。

 

「いーのよ。アンタは関係ないんだから、そこで待ってなさい。……先生、行きましょう」

 

 けれど奈瀬さんはその言葉すら否定し、そしてこれ以上詮索されるまいと、篠田先生を促すように研修室の出口に足を向ける。

 

 私は結局それ以上言葉を発することも出来ず、部屋から出て行く奈瀬さんを見ている事しか出来なかった。

 




使わないつもりでしたが、使っちゃいました。女流採用試験。世界観が壊れると思った方、申し訳ありません。

一点補足なのですが、女流採用試験は2003年から年齢制限が無くなりましたが、それ以前は「満15歳以上」という制限があったそうです。ヒカ碁の時系列も考慮し、本小説中においてもこの年齢制限を設けたいと思っています。

早い話、現在の主人公や奈瀬には女流採用試験の受験資格が無いという事です。


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12話

10話冒頭の回想っぽい何かを削除しました。お恥ずかしい限りです。その代わり暇で暇でどうしようもない時に補足で回想回でも書こうかなと思います。


「奈瀬さん!」

 

 師範室の扉が開き、そこから出てくる奈瀬さんの姿を見た私は、その声と共に一目散に彼女のもとに駆け寄った。

 

「彩……? 何よ、研修室で待ってなさいって言ったのに」

「だって……」

 

 そうは言われたものの、あのまま研修室で奈瀬さんの帰りを待っているだけなんて私には到底出来なかった。

 最もその想いのままに駆け出した所で、結局彼女を待つ場所が研修室から師範室の前に変わっただけに過ぎなかったのだけれど。

 

「……真柴さんは?」

「アイツはまだ中で絞られてるわ。事情を説明したら私だけ帰された。……ま、流石に今回の件は向こうの一方的な言いがかりだしね」

 

 その言葉に胸を撫で下ろす。少なくとも、奈瀬さんが罰を与えられるような事にはならなかったのだから。

 でも……

 

「ごめんなさい、奈瀬さん。私のせいで……」

 

 私はまず彼女に謝らなければ気が済まなかった。私を庇ってくれたばっかりに、彼女の大切な一局が壊れてしまったのだから。

 

「ああ、アレ? ……いーのいーの! どうせ形勢悪かったし、和谷に参りましたって言うのも癪だったしね!」

 

 対局を見ていない私には、本当にそんな内容だったのかどうかはわからない。でも、必死に感情を押し殺しながら明るく振る舞う奈瀬さんの姿を見て、その言葉が私を気遣っての物なのだという事は、何となくわかった。

 どんな内容だったとしても、例え敗色濃厚な展開だったとしても、本当は自分の納得するまで打ちたかったはず。……まだ対局は続いていたのだから。

 奈瀬さんの気遣いは嬉しかったけれど、結局私の彼女に対する罪悪感は薄れる事は無かった。

 

 

「……そんな事より、さ。驚いたでしょ?」

 

 私の心情を察してか、話題を逸らすように奈瀬さんはそう口にする。

 ……何の事? なんて、聞くまでもなかった。

 

「うん……ちょっとだけね。どうしたのかなって、思ったよ」

 

 その事に関しては私も気になっていたから。だって……

 

 ――女のくせに。

 

 その言葉に対して彼女が叫んだ想いの丈。あれはまるで……

 

「あはは。ま、あそこまで派手に言っちゃったしね。……でも、アンタになら言ってもいいかな」

 

 そう言って奈瀬さんは私に視線を向けると、少しだけ躊躇いがちに、それでも何かを決意したかの様に、口を開く。

 

「……私ね、昔からずっと思ってたんだ。どうして女は男の人に勝てないんだろうって――」

 

 

 

 

 女というだけで始めから下に見られてしまう事。

 それを実力で見返すことの出来ない自分の不甲斐なさ。

 

 悔しげな表情で言葉を、想いを紡いでいく奈瀬さんから、私は目を離すことができなかった。

 

「でも……正直言って半分諦めかけてたんだ。私も自分なりに精一杯努力をしたつもりだった。それでも、結局男の人との差は縮まる所か、広がっていくばかりだったから」

 

 その気持ちは私には痛いほど理解できた。

 男女の棋力の差は、大人になるにつれて益々顕著になっていく。強くなりたい一心で、必死に努力した結果がその現実では、心が折れてしまうのも仕方がないことだ。

 

「ねえ、彩はどう思う? やっぱり……変かな? こんな考え方」

 

 俯きがちにそう私に問いかける奈瀬さんの表情は、どこか怯えてるようにすら見えて。それはきっと、自分の想いを同性である私に否定されるのが怖かったからなんだろう。

 

 

「……そんな事ないよ」

 

 そんな彼女の痛々しい表情が辛くて、悲しくて。……私がそう答えるのに躊躇いはなかった。

 

「そんな事ないよ。女だって男の人と対等に戦える。私はそう思ってる」

「彩……」

「大人も子供も、男も女も関係無いよ。皆が平等に戦える。……囲碁ってそういうゲームだもん」

 

 彼女も私と同じだった。悔しい想いを抱えながら、現実に押し潰されそうになりながらも、必死に戦って来たんだ。

 私だって何度も心が折れそうになった。現実を受け入れようと思った事だって一度や二度じゃない。

 

 それでも私なら言える。努力の先にある結果は、男も女も変わらない事を知っているから。他の誰が何と言おうと、私だけは知っているから。

 だから、もし奈瀬さんが私と同じ想いを持っているのだったら。私と同じ辛さや悔しさを味わって来たのだったら。

 ……そんな彼女の支えになってあげたかった。それが出来るのは、私しかいないんだから。

 

「私達だって、頑張れば何処までだって強くなれる。……本因坊にだってなれるんだから!」

 

 

 

「ほ、本因坊って……本気で言ってるの?」

「もちろん」

「……アンタだって知ってるでしょ? 女流は七大棋戦のタイトルどころか、挑戦者にすらなった事はないのよ?」

「そんなの関係ない。そんな事、私達の可能性を決めつける理由になんかならないよ」

 

 私の言葉に呆気に取られた様子の奈瀬さん。確かに本因坊なんて言われても簡単に信じるなんて出来ないかもしれない。只の絵空事と思われたかもしれない。

 それでも未来で私が本因坊を獲った事、それだけは紛れもない事実なんだから。

 

「はは……あははは!」

 

 不意にそれまで黙り込んでいた奈瀬さんが、突然声を上げて笑い出した。

 

「……笑わないでよ。私は大真面目なんだからね?」

「ごめんごめん。そういう事じゃないの。何か……嬉しくてさ。私以上のバカがいてくれた事が」

「ばっ……!」

「うん、まあ流石にいきなり本因坊とか言われてもピンとこないけどさ。……アンタが言うと、本当に出来ちゃうような気がするよ」

 

 そう言いながら私を見つめる奈瀬さんの表情からは、もう先程までの悲壮感は消え去っていた。

 

「……ありがとね、彩。アンタがそう言ってくれる事が、私は何よりも嬉しい」

「奈瀬さん……」

「だったらさ……見せつけてやろうよ、女の子の力。アンタみたいな子がいてくれるんだったら、私はきっともう迷わないから」

 

 その言葉が震える程に私の心に響く。

 嬉しかった。私が彼女の支えになれた事が。そして、彼女もまた私の支えになってくれている事に気づいたから。

 

 ……この世界にもいたんだ。『あの人』の様に、私と一緒に歩いてくれる人が。

 

「だから……約束。私か彩、どっちかが絶対にタイトルを獲る。今はアンタの方が強いかもしれないけど、私だってもっともっと強くなってやるんだから! うかうかしてたら、私が先にタイトルを獲っちゃうんだからね?」

 

 ……強気な所まで本当にそっくり。そんな奈瀬さんの姿に、自然と笑みがこぼれてくる。

 

「……笑わないでよ。私だって大真面目なんだからね?」

「あはは、ごめんごめん。……うん、約束! でもその前に――」

「……その前に?」

「まず私達はプロにならないとね? タイトルの話なんてそれからだよ?」

「うっ……」

「それ以前に、まずは1組で勝ち上がれるようにならないと話にならないよね?」

「ううっ……」

「……先は長いよ、奈瀬さん?」

「……わかってるわよ。でも、もう決めたんだから!」

 

 そう、先は長い。乗り越えなきゃいけないことだってきっとたくさんある。タイトルを獲ったって終わりじゃない。

 

 それでも、奈瀬さんと一緒なら私はこの世界でも頑張って行ける。タイトルにだって、その先にだって、きっと手が届く。そんな気がした。

 

 

 ―――

 

 

 ふと耳に飛び込んできた扉の開く音。そちらに目を向ければ、篠田先生と共に師範室から出てくる真柴さんの姿があった。

 

「奈瀬くん、星川くん。……ちょうどよかった」

 

 そう言うと、先生は真柴さんを連れて私達の方に歩み寄ってくる。

 彼に対する様々な想いから、無意識に体が強張っていくのがわかった。

 

「ほら、真柴くん」

 

 篠田先生にそう促され、何ともバツの悪そうな真柴さんだったけれど、

 

「……悪かったよ」

 

 私達から視線を逸らしながらも一言そう呟いた。そんな相変わらずな真柴さんの態度に、篠田先生はやれやれといった様子でため息をついている。

 

「……真柴くんの事、許してやってくれないか?十分に反省しただろうし、彼も彼なりに色々と悩んでいたんだ」

「どういう……事ですか?」

 

 篠田先生はチラリと真柴さんの方にに視線を向ける。気まずそうな表情をしながらも、彼は特に言葉を発する事もなく、再びこちらから視線を逸らした。

 それを肯定の合図と受け取ったのか、私達に向き直り、篠田先生は静かに語り出した。

 

 

 

 ――プロになりたいという強い願い。

 それとは裏腹に、余りにも不確かで、先が見えない将来への不安、焦り。

 そして……

 

「きっと……君が羨ましかったんだろう」

 

 

 真柴さんが先生に打ち明けたのであろうその感情。それは多かれ少なかれ院生の誰もが……いや、きっとプロを目指す全ての人達が持っている。なまじ実力があるが故に、彼のその想いは人一倍なのかもしれない。

 ……私には彼を頭ごなしに否定することなんてできなかった。私だって知っているから。そういった感情にまみれて、歯を食いしばって前に進み続けて……それでもプロになれなかった人達を。

 そして、彼の感情に火を付けてしまった発端が自分にもあるのだと自覚してしまったから。

 

「……わかりました。許す、なんて一方的に言える立場じゃ無いですけど……」

「まあ……私はさっきも謝ってもらいましたし……彩がいいって言うんだったら」

 

 私に同調するように奈瀬さんもそう口にする。もちろん彼女に手を上げた事、そして彼女の一局を壊されたことに何も思わないわけじゃない。それでも奈瀬さんがいいと言うのだったら、きっともう私が口を出す様な事じゃ無いんだろう。

 

「良かった。……それじゃ、君達は先に戻っていなさい。私もすぐ行くから」

 

 私達の言葉に篠田先生はホッとしたようにそう言うと、再び師範室に戻っていく。

 そんな中、一段落したとはいえやはり私達と一緒に戻るのはまだ気まずいのだろうか、真柴さんは私達に先んじて研修室に向かって歩き始めた。

 

 

 

「……ねえ真柴さん。真柴さんはどうしてプロになりたいの?」

「……は?」

 

 そんな彼の背中に私はそう一声かける。怪訝そうにこちらを振り返る真柴さん。

 もしかしたらこれも余計なお節介なのかもしれない。……それでも、私はどうしても彼に言っておきたかった。

 

「プロになったって楽しいことばかりじゃないよ。……ううん、多分今よりもっと辛い思いをするかもしれない」

 

 上を見ればキリがない。下からは毎年どんどん強い人が出てくる。そんな世界に身を置いて、一生戦っていかなきゃいけない。

 

「確かにプロになれれば世界が変わる。汚い言い方をすれば、囲碁を打つだけでお金が貰える。でも、私達がプロを目指す理由って、そうじゃないでしょ?」

 

 タイトルが欲しいから。名声が欲しいから。もしかしたらそう言う人だっているかもしれない。私や奈瀬さんのように女性の力を示したいって人もいる。

 でも、そんな人達全ての根幹にあるのは、きっと共通して持つある気持ち。

 けれど、道の途中で絶望して、そんな道を選んでしまった事を後悔して、いつしかその気持ちを無くしてしまう人だっている。

 

 ……忘れて欲しくない。私達が囲碁を覚えて、魅せられて。その時に感じた想いは皆同じのはず。

 そんな囲碁に一生携わっていけるから。それこそが私達がプロを目指す理由なんだから。

 

「私達がプロを目指すのは――」

 

 

 ―――

 

 

 冷静になった今なら、改めて自分がどれだけ情けない事をしてしまったのかが解る。年下に喚き散らして、女に手を上げて。八つ当たり以外の何物でもない。

 ……全くどっちがガキなんだって話だ。

 

 あの時の俺がそんな事をしてしまった本当の理由。それは偉そうに解説された事でも、相手が年下だった事でも、ましてやそいつが女だからでもない。

 ……ただ単純に怖かっただけなんだ。コイツの存在が、はっきりと自分の障害になると理解してしまったから。

 

 

『強い奴が上に行く』

 

 そんな事、プロを志した時からずっとわかっていたはずだった。

 それでも、院生で結果が残るようになって、朧気ながらもプロの扉が見えてきて。……あと一歩が届かなくて。

 

 多分、いつからか俺は囲碁を打つ意味を見失っていたのかもしれない。

 プロにさえなれればそんな不安から解放されると信じて、『プロになるため』だけに囲碁を打っていたのかもしれない。

 そうじゃなかった筈。俺がプロになりたいと思った理由。それは……

 

 

「……囲碁が好きだから、か」

 

 

 誰にも負けたくない。どこまでだって強くなりたい。そして、大好きな囲碁で人生を全う出来たらどれだけ素晴らしい事なんだろうか。

 子供ながらに思ったその想いこそが、俺がプロを目指す原点だった。

 そんな気持ち、ここ最近ずっと忘れていたような気がする。

 

 結果だけを求めて、他人の失敗を喜んで、強い奴に怯えて。

 ……そんなんじゃ仮にプロになれたって生きていける訳無い。

 自分より強い奴がいるんだったら、そいつに勝てるまで努力すればいい。そうやって俺はここまで強くなってきたはずなんだから。

 

「……もう一回、師匠に1から鍛え直してもらうかな」

 

 アイツの、星川の言った事に丸め込まれているような気がするのがどうにも癪だったが、囲碁の実力は認めざるを得ない。悔しいけれど完敗だった。

 

 ……ま、それでもアイツが気に食わないことには変わりないんだけどな。

 

 

 ――最後まで偉そうな口叩きやがって。……まるで自分がプロを知ってるみたいじゃねーか。

 

 

 ―――

 

 

「何か……ちょっと意外だったわ」

 

「何が?」

 

「私の時もそうだけど、アンタも言う時は言うんだなって。いやー、てっきり只の囲碁大好きのお子様だと思ってたからさ!」

 

「お……お子様……」

 

「囲碁はとんでもなく強いけど、何て言うか成長を囲碁に吸い取られてるみたいな? あははは!」

 

 

 中学二年生に面と向かって子供扱いされる私って一体……。流石に少しは大人びて見られてると思ってたのに。

 

 一応、私あなたより10年長く生きてるんだけどなぁ……

 



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13話

「彩、今週の土曜日って空いてる?」

 

 私があかりにそんな事を言われたのは、卒業を間近に控えた3月の初めの事だった。

 

「え? 空いてるけど、それがどうしたの?」

「ホント? 昨日お母さんがケーキ屋さんの割引券くれたんだ。友達と一緒に行ってきなさいって。結構有名な所なんだよ?」

 

 ケーキ……? 今、ケーキって……

 

 あかりが何気なく発したその単語に、条件反射の如く私の全神経が注がれる。

 

「ほら、私達もうすぐ卒業でしょ? 今まで二人で遊びに行った事とか無かったし、彩さえよければ……」

「行く!」

「えっ……?」

「絶対行く! 今週の土曜日ね?」

「う、うん……」

 

 勢いよく詰め寄る私にあかりは少々困惑した様子だ。

 

 ……でもそれも仕方ない。何を隠そう私は大の甘党、特にケーキには目がないのだ。

 

 

 子供の頃から甘いものが大好きだった私。特にプロになって以来、その甘党っぷりは二次関数的に上昇していった。

 家の冷蔵庫にはプリンやらシュークリームやら、必ず何かしらのスイーツが常備してあったし、対局で勝った日なんかには、一切れ1000円近くもするケーキを、平然と3つ4つ買って帰るなんて日常茶飯事だった。

 

 囲碁は思考のゲームであり、その性質上脳のエネルギーを大量に消費する。限られた時間内で何百何千通りもの展開図を考えなければいけないプロの対局、特にタイトル戦ともなれば、一局で体重が2・3キロ落ちるなんてザラにある話。そしてそれを補う為の手っ取り早い手段、それが糖分補給だ。

 もちろん趣味嗜好は人それぞれだろうけど……私に言わせれば、碁打ちに糖分は必須なのだ!

 

 打って変わって現在、小学生として分相応のお小遣いで細々とやっている身であり、碁会所の席料等の出費も考慮すると、私が甘いものの為に使えるお金など微々たるもので、特にケーキなんて単価の高い物にはそうそう手を出すことなどできない。

 プロの時と比較すれば体は昔ほど糖分を求めていないのかもしれない。それでも、そんなかつての私の記憶が、精神が、この体にも叫ぶのだ。……甘いものが食べたい! と。

 

 そんな折、あかりからのこのお誘い。美味しいケーキがお手頃価格で食べられる。……私が食いつかないはずがなかったわけで。

 

「じゃあ土曜日、駅前に1時半でいいかな?」

「おっけー! あかり、大好きだよ!」

「……あはは、喜んでもらえて嬉しいよ」

 

 苦笑するあかりを尻目に、既に私の脳内はどのケーキを食べようか、なんて考えでいっぱいだった。

 

 

 ―――

 

 

 そんなこんなで当日。

 

 昼下がりのティータイム、モダンな雰囲気漂う落ち着いた内装の洋菓子店。その片隅で、私は恍惚の笑みを浮かべていた。

 

 ヤバい……殺人的だ。美味しすぎるでしょコレ。こんな店が近くにあったなんて。……決めた、プロになったら絶対ここに通いつめてやる!

 

「幸せそうだね、彩」

 

 密かな決意を心にする私に、あかりがそう話しかける。

 

「超幸せだよ。私囲碁の次にケーキが好きだもん。あかり、ホント誘ってくれてありがとね」

「うん、それはいいんだけど……」

「どうしたの?」

「その……そんなに食べて大丈夫?」

 

 躊躇いがちにあかりが指差す先には……私の目の前に重ねられた、既に空となった2枚のお皿があった。

 

 

 

 あかりがくれた割引券にはこう書かれていた。

 

『お一人様3個まで割引いたします!』

 

 余りにも甘美で残酷な誘惑だった。割引価格で3個もケーキが食べられる。しかしそれは、1個のケーキすら購入を躊躇われる私のお財布事情に大打撃を与えることも意味していた。いくら割引されようと、3個も注文すれば通常の2個相当の値段になるからだ。

 確かにお小遣いが入ったばかりの今なら3個買うことも可能だ。でもそれをしてしまえば、残りのほとんどの日々を甘味断ちするという地獄の様な苦行が待ち構えている。

 

 悩んだ。ひたすら悩んだ。そしてその末に、ついに決断を下した。そんな私の背中を押してくれたのは、私の世界で偉い先生が残したある格言。

 

『囲碁は人生の縮図である』

 

 ……そう、囲碁も人生も一緒。守ってばかりではダメ。行く時に行かないと勝てない。攻め時を見誤るなんて棋士として恥ずべき行為だ。……そして、今がその時なんだ!

 

「いちごショートとチーズスフレと季節のフルーツタルトください!」

 

 

 

 そして今、幸福感に満ち溢れた私には一欠片の後悔もなかった。自分の選択は間違っていなかった。心からそう思える。

 

「全然余裕だよ。本気出せばもう2・3個だって……」

「そういう事じゃなくて……大丈夫なの?……体重とか」

「体重?」

「あ、別に彩が太ってるとかじゃなくて、むしろ痩せてて羨ましいなぁなんて思ってるんだけど……その、気にならないのかなって」

 

 あわててそう取り繕うあかり。……体重、か。確かに普通の女の子にとっては一番の悩みの種だ。あかりもそういうのを気にする年頃なんだねぇ。

 まるで他人事の様に考えているけれど、あいにくと私はその手の問題に悩まされた事がないのだ。何故なら……

 

「私、食べても全然太らないんだよねー」

 

 ただの体質なのか、それとも年中囲碁に頭を使っているせいなのか、私は本当に食べても食べても太らないのだ。とはいえ、棋士にとっては体力作りも大切な事だし、そういった点では自分のこの体質が悩みの種と言えなくもないけれど。

 

「ねえ彩……それ、全ての女の子を敵に回す発言だってわかってる?」

「え……あの、あかり?」

 

 誰にでも優しい普段のあかりからは想像もつかないようなドス黒いオーラが、彼女の背後から沸き上がっている様な気がした。言葉面こそいつも通りだったけれど、顔が笑っていない。

 

「私達が普段からどれだけ我慢しているかも知らないで……そんなのずるすぎるよっ!」

 

 そう言いながらあかりは私の両肩を掴んで激しく揺さぶってくる。

 

「ちょっ……やめて、タンマタンマ! ケーキこぼれるから!」

 

 この期に及んでケーキの心配をする私が余程お気に召さなかったのか、そんな懇願も虚しく、私を掴むあかりの両手の力は緩む事はなかった。

 

 

 結局、そんなあかりの口にフルーツタルトを押し込んだ所でようやく私は解放された。

 未だに『ずるいよ……』なんて言いながらも引き下がってしまうあたり、あかりも甘いもの好きの普通の女の子なんだろう。

 ……そして、そんな子の前で自分の体質の話はやはり禁句だ。私は改めてそう痛感したのだった。

 

 

 ―――

 

 

 店を出た私達は駅前に向かって歩いていた。現在時刻は午後3時。健全な小学生と言えども、解散するにはまだまだ早い時間だ。

 誘ってくれたお礼と言っては何だけど、個人的にこの後はあかりが行きたい所に付き合ってあげようと決めていた。……出来ればお金が掛からない範囲でお願いしたいところだ。

 

「この後どうしよっか? まだ時間あるし、どっか行きたいとこあれば付き合うけど」

「そうだなぁ…………あ、じゃあさ!」

 

 何かを思いついたようにあかりが声を上げる。まあ小学生が行ける所なんて限られてる訳だし、そんなに驚くような場所でも無いだろうけど。

 

「彩の家、行ってみたいな!」

 

 少々意外ではあったものの、私の思惑に違わず実に小学生らしい答えだった。

 ……それにしても何だってまた私の家? まあ来たいって言うんだったら別に断る理由もないけれど、自慢じゃないけどうちには友達と遊べるようなものなんて何も無い。机の引き出しをひっくり返せば精々トランプくらい出てくるかな、ってレベルだ。

 

「いいけど……うちで何するの?」

 

 私のその問いに、あかりは少しだけ恥ずかしそうにこう答える。

 

「えっと、私ね……囲碁やってみたいんだ」

 

 

 

 

「お待たせ。はい、どうぞ」

「ありがとう。わざわざゴメンね」

 

 オレンジジュースが入ったコップをあかりに手渡し、私も碁盤を挟んで向かいの座布団に座る。

 ちなみに今日は朝から両親は二人で出掛けているため、家には私達しかいない。まあそのほうがあかりも余計な気を遣わないで済むだろうし、好都合なんだけど。

 

「いやー、それにしてもあかりが囲碁をやりたいって言ってくれるとはね」

「うん。ヒカルも最近は凄く夢中になってるみたいだから、そんなに面白いのなら私もやってみようかなって。……ほら、彩もやってるって言うし」

 

 悲しいかな、取って付けた様な自分の名前に、まあ私はオマケなんだろうなって事は何となく伺い知れた。……予想通りと言うか、やっぱりあかりが囲碁を始める理由はヒカルだった訳だ。

 

 

 あかりは可愛い。友達とかそういう贔屓目無しに、性格も含めて本当に可愛らしい女の子だと思う。……それにも関わらず、私のクラスで彼女にアタックする男子は誰一人としていない。

 

 それは、あかりが明らかにヒカルに好意を持っている事が端から見てもバレバレだからだ。他の男子もアタックするだけ無駄だと感じているんだろう。

 もはやクラス内にはそんな二人を生暖かく見守ろうという暗黙の了解すら存在している訳で。……そして、それに気付いていないのは恐らく当人達だけ。

 原作でもヒカルにくっついて囲碁部に入ったように、ヒカルが囲碁をやってる以上、あかりが囲碁に興味を持つのは必然だったと言うわけだ。

 

 ……ま、理由なんてどうでもいいや。私にとっては友達が囲碁を始めたいと言ってくれた事、それが何よりも嬉しいんだから。

 

「でも……私に出来るかな? 自分からお願いしておいて何だけど、囲碁って頭良くなきゃ出来ないんじゃないの?」

「大丈夫大丈夫! 考えてみなよ、ヒカルだって出来るんだからさ!」

「……確かに。それもそうだね!」

 

 ヒカルが聞いたら怒りそうなやりとりだけど、それに説得力を持たせてしまうヒカルの成績の悪さがいけないのだ。

 ……最近、社会の成績だけは上がってるみたいだけど、その理由だって私にはバレてるんだぞ。

 

 

 

「じゃあ、まずは石取りゲームから始めてみよっか」

 

 そう言いながら私は白石を天元に置き、その三方に黒石をツケる。

 

「あかりは白ね? それで、ここに黒を打たれるとこの白石は取られちゃうわけなんだけど」

「うんうん」

 

 ……やっぱりいいな、こういうの。昔の私の友達は囲碁を薦めてもジジ臭いとか言って全然やってくれなかったし。

 まったくひどい話だ。お年寄りが嗜むって事は、一生楽しめるゲームって意味なのに。

 

「じゃあ始めに戻すね。この白石が取られないようにするためには、白はどうすればいい?」

「えーっと……」

 

 そう考えると、まだ子供のこの時期に囲碁を覚える事ができるっていうのは凄く幸せな事だと思うんだけどなぁ。やっぱり柔軟な発想力っていうのは子供ならではの部分が……

 

 

「こうやって逃げる」

 

 

 あかりの人差し指と一緒に、天元の白石が碁盤の上を滑っていく。

 

「…………」

「……正解?」

 

 

 柔軟と言うか、斬新と言うか。……うん、でもこういう考え方も大事なのかもしれない。歴史に残る妙手だって、例外無く常識に囚われない発想から生まれるものなんだから。

 

「……ごめん、説明不足だったね。囲碁っていうのは黒と白が交互に――」

 

 

 ―――

 

 

「今日はありがとね、あかり。本当に楽しかったよ」

「ううん、こっちこそお願い聞いてもらっちゃってありがとう」

 

 夕日で空が赤く染まる中、私達は並んで道を歩いている。初めて家に来たということもあって、帰りが困らないように私はあかりを駅前まで送ってあげることにしたのだ。

 

「まあ少ししか教えてあげられなかったけどね。……どう? ちょっとは面白かったかな、囲碁」

「うん。彩って教えるの上手なんだね。すごく丁寧で、親身になってくれたし……何て言うか、本当に囲碁が好きなんだなぁって」

 

 もちろん囲碁が好きな気持ちは誰にも負けないつもりだし、一応プロだった過去の経験から、どう教えれば初心者が理解しやすいかという事もある程度知っている。

 それでも、改めてそんな風に言われると、嬉しい反面少し照れ臭くもあった。

 

「あかりも真剣に聞いてくれたから私も教え甲斐があったよ。……ヒカルなんて最初の囲碁教室は半分寝てたんだから!」

 

 照れ隠しのつもりで、思わず再びヒカルを引き合いに出してしまう。

 

「……そうそう! 子ども囲碁大会の時なんかさ、対局中に口出しを……」

 

 一度鞘から抜いてしまった手前、堰を切ったようにヒカルの話が私の口から飛び出てくる。流石にちょっと悪いかな、なんて思いながら横を向くと、さっきまで隣を歩いていたはずのあかりがいない。不思議に思い後ろを振り返ってみれば、道の真ん中で立ち尽くす彼女の姿があった。

 

「……あかり?」

「あのさ……一つだけ彩に聞きたいことがあるんだけど」

 

 どこか思い詰めたような表情で、あかりがそう口にする。……わざわざ改まってどうしたのだろうか。まあ他ならぬあかりの頼みだし、よっぽどの事じゃなければ答えてあげるけど。

 

 

「彩って……ヒカルの事、どう思ってる……?」

「え……?」

 

 どういう意味だろう? まず頭に浮かんできたのがそんな疑問だった。

 

「ほら……最近彩とヒカルって仲良いじゃない? 一緒に遊びに行ったりもしてるみたいだし。……あっ、もちろん私としても良いことだと思うよ?」

 

 ……うん、私何も言ってないよ?

 

「つまりね、私にとっても彩は大切な友達のわけで、そんな彩にとってのヒカルは……えっと、その……」

 

 萎むように小さくなっていく声量に反比例して、あかりの顔は赤くなる一方だった。

 もはや言葉の内容自体は全く要領を得ないものになっていたけれど……何と言うかまあ、そこまであからさまだと、流石の私でもあかりの真意に気付いてしまう訳で。

 

 ……何この子、可愛いすぎるでしょ。こんな健気な女の子をほったらかしにするなんて、ヒカルに殺意すら芽生えてくるよ。

 

 そんな物騒な考えが浮かんでくるくらい、目の前のあかりは……何かもう色々とヤバかった。油断したら頬がぐにゃぐにゃに緩んでしまいそうだ。

 ……おっと、笑ってる場合じゃない。あかりは真剣に聞いているんだから、私だってちゃんと答えてあげないと。

 

「大丈夫だよ、あかり」

「え……?」

 

 もちろん私も友達として、そんなあかりを心から応援している。

 だから、ちょっとくらいなら意地悪しても許されるよね。

 

「……あかりの大好きなヒカルを、取ったりなんかしないからね?」

「なっ……!」

 

 その言葉に、まさに茹でダコと形容するに相応しいくらい真っ赤になるあかり。

 ……人の顔ってこんなに赤くなるんだ。

 

「ち、ちがっ……! そういう意味じゃなくて!」

「照れない照れない。ね? お姉さんはちゃーんとわかってるんだから」

「お姉さんって……じゃなくて違うの! ねえってば!」

 

 わたわたと手を振りながら必死に私の言葉を否定する、そんな小動物の様な姿がもう可愛くて、子供をあやすようにあかりの頭を撫でてあげる。そんな最中、私はふと大切な事を失念していた自分に気が付いた。

 

 ……あれ、そういえばこれって本人には言っちゃいけなかったんだっけ。……まあもうすぐ卒業だし、大丈夫だよね?

 

 心の中で言い訳しながら勝手に自己完結をするその一方で、自分の言葉に全く耳を傾けようとしない私に、あかりが遂に感情を爆発させたのは今から数秒後の事だった。

 

 

「彩のばかっ! もう知らない!!」

 

 

 ―――

 

 

 ……一週間後、卒業式を翌日に控えた学校で、屍と化した様に机に突っ伏す私の姿があった。

 

「彩……大丈夫?」

 

「と、糖分が……足りない……」

 

「もう、だから言ったのに。……でも、それが私達の苦しみなんだからね。ちょっとはわかったかな?」

 

 鬼の首を取ったかの様にそう口にするあかりの言葉も、既に耳には届いておらず、私はひたすら一週間前の自分を呪い続けていたのだった。

 

「うう……私のバカぁ……」

 

 

 

 今思えば、詰まるところ私のこの結末も、まさに格言の通りだったという訳だ。

 ……囲碁は人生の縮図であり、人生もまた囲碁の縮図。

 

 

 ――不用意な一手には、相応のしっぺ返しが待っているのだ。

 

 



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14話

 囲碁を覚えようと決めたあの日から、二週間に一度開かれるこの囲碁教室は今やオレの恒例行事となっていた。

 他の人達からすると囲碁を打つ子供がやはり珍しいのか、唯一の子供のオレを孫のように可愛がってくれている。4ヶ月たった今でも相変わらず子供は自分だけしかいないけれど、通い始めた当初の疎外感の様なものはすっかり無くなり、そんな環境の中でオレは日ごとに囲碁が楽しいと思えるようになっていた。

 

「おっしゃ、ついに阿古田さんに勝ったぞ!」

「ぐっ、2目半足りないか……」

 

 そして今日、当面の目標としていた阿古田さんに遂に土を付け、オレは喜びの声を上げていた。阿古田さんと言えば初めは弱い者イジメをしていた嫌なオジサンってイメージしか無かったけれど、実際は結構面倒見の良い人で、まだまだ弱かった頃のオレとも何だかんだ言いながら打ってくれていたのだ。

 

「もう阿古田さんに勝ってしまうとは……進藤くんの成長ぶりには驚かされるよ。本当にここ以外で囲碁の勉強はしていないのかい?」

 

 隣で対局を見ていた白川先生がそう口にする。

 

「えーっと……まあ家で石を並べたりするくらいかな?」

 

 まさか自分に憑いている幽霊に囲碁を教わっているなんて言うわけにも行かず、そんな在り来たりな言い訳でお茶を濁す。……実際他の人が見たら、まさに一人で石を並べているだけなんだけどな。

 

「だとしたら本当に凄いことだよ。普通はこんな短期間で強くなろうとしたら、優秀な先生に付きっきりで教わるくらいしないといけないのに」

 

 ……まあ確かに付きっきりの先生ならいるにはいる。優秀かどうかは知らねーし、犬っコロみたいな奴だけど。

 

 ――誰が犬っコロですか! 大体ヒカルはもっと私に敬意をですね……

 

 後ろでブーブー言ってる佐為の言葉を適当に聞き流す。コイツの扱いにもいい加減慣れてきた。

 

「そういえば星川さんだっけ? 彼女は元気にしてるかい?」

「……えっ?」

 

 先生から星川の名前が出てきた瞬間、反射的に身構えてしまう。

 と言うのも、二度目の囲碁教室に参加した時、白川先生にアイツと佐為の一局について聞かれた事が原因だ。結局アイツが適当に言った棋譜並べという嘘を、対局者は忘れたという苦しい言い訳で押し通してしまったのだった。最も、オレだって初心者としてここで碁を教わろうとしている以上、あんなレベルの高い対局を背負わされるのはゴメンだったし、結果的には好都合だったのかもしれないけど。

 先生もそれを察してか、それ以降もうその一局については触れずにあくまで一人の生徒としてオレに接してくれていた。

 だからこそ何で急に星川の名前が出て来るのか、あの時の事についてまた聞かれるのか、と勘ぐってしまったわけだ。

 

「あはは、その事じゃないって。僕の参加している研究会で聞いたんだけど……彼女、院生になったんだってね?」

「……院生? 何それ?」

 

 そんなオレの不安を笑い飛ばすかのように先生はそう言う。その言葉に安堵する一方で、院生という聞き慣れない単語に対して素直な疑問をぶつける。

『院生も知らないガキにワシは負けたのか……』 なんて阿古田さんが呟いているけれど、知らないものは知らないのだから仕方ない。

 

「プロになるための塾って言うとわかりやすいかな? プロ棋士のほとんどが院生を経ていると言っても過言じゃないんだよ。もちろん僕もね」

「……え?」

 

 現実感が無いその言葉に思わずそんな声が出る。先生が発したプロという単語。それは余りにも非日常で、少なくとも子供の自分には全く縁が無いと思っていたもの。……そしてそれは今、間違いなく星川に向けられていた。

 

「プロ……? あいつプロになるの?」

「さあ、そこまではわからないけど、院生になっている以上その気はあるんじゃないかな? 彼女凄いらしいよ。僕に教えてくれた子……和谷くんって言うんだけどね、彼も完敗だったって悔しがってたし」

 

 ……アイツが、プロ? 何時だったか見たあの名人みたいにテレビに出て対局をしたり、白川先生の様に囲碁を教えたりするって事?

 アイツだってオレだって、まだ子供なのに?

 

「でも先生、アイツまだ中一だよ?」

「囲碁界では中学生でプロ棋士になる事なんて珍しくもなんともないよ。と言うよりも、一流と呼ばれる人達は皆それくらいでプロになるのが常識さ」

「……まじ?」

 

 あまりにも世界が違いすぎて、それ以上は言葉が出なかった。

 結局この後の教室もオレは完全に上の空で、再戦を挑んできた阿古田さんにボコボコにやられてしまったのだった。

 

 

 確かにオレは星川に追い付きたい一心で囲碁を覚えた。佐為に囲碁を教わって、この教室で学んで、そんな中で囲碁の楽しさにも目覚めた。自分が強くなっている事だって少しずつ実感し始めていた。

 だからこんな風に何気無い日々を繰り返して、たまにアイツに挑んでは返り討ちに遭って、その内いつかアイツと肩を並べられる日が来るんじゃないかって、本気でそう思ってた。

 

 ……だけどオレが考えていたそんな日々の中にアイツはいなかった。アイツが歩いているのは、今のオレとは全く違う道だったんだ。

 

 

 ―――

 

 

「……なーんかおかしいと思ったんだよな。よく考えたら、教室のオバちゃん達ですら知ってる本因坊秀策に勝ったアイツが、普通の子供のわけなかったんだよな」

 

 ――……そうですね。私も薄々は感じていました。ヒカルがたまに見せてくれるプロの対局や棋譜、それらと比較しても、彼女との一局は私の中でも特別なものでしたから。

 

「プロ……だってさ。何かイマイチ実感無いよな。佐為はどう思う?」

 

 ――……時代は違えど私も囲碁に人生を捧げた身です。そんな人達にとって一番大切な事……それは、囲碁を愛する気持ちだと私は思っています。

 

「囲碁を……愛する?」

 

 ――難しく考える必要は無いんですよ。囲碁が楽しいとか、どうしても勝ちたい相手がいるとか、そういった気持ちの事です。……ヒカルにはそれがありますか?

 

「……あるさ。囲碁は好きだし、勝ったら嬉しいし、負けたら悔しい。追い付きたい奴だっている」

 

 ――だったらそれだけで十分なんです。違う道なんかじゃない。道は繋がっているんですから。……その想いの先で、きっと彼女はヒカルを待っているんですから。

 

「繋がっている……か」

 

 ――要はヒカルの気持ち次第なんですよ。

 

「そっか……そうだよな。余計なこと考えすぎてたのかもしんない。……オレは囲碁が好きで、もっと色んな奴と、強い奴とだって打ってみたい。そしてその先にアイツがいるんだったら、オレが同じ場所を目指すのは何も変な事じゃ無かったんだよな。駄目だったからって、囲碁が嫌いになるわけじゃ無いんだから」

 

 ――……ええ。それがヒカルの答えなら、私もそんなあなたをずっと応援しています。私はいつだってあなたの味方なんですからね。

 

「ありがとな、佐為。何かスッキリした。……おっし、そうと決まれば帰って特訓だ! 次の目標はじーちゃんだな。この前は負けちゃったけど、今度こそ血祭りに上げてやる!」

 

 ――もう、すぐ調子に乗って。先日お母様にも叱られたばかりでしょう?

 

「へーへーわかってるって。……それじゃ今日も嫌っちゅーほど打とうぜ。な、佐為!」

 

 ――……ハイ! 喜んで!

 

 

 ―――

 

 

「……い、院生? どうしたの急に?」

 

 葉瀬中学校に入学して間もないある日の放課後、私のクラスにやって来て開口一番、院生になりたいから方法を教えてくれ、と言うヒカルに私は驚きを隠せなかった。

 

「だってお前院生なんだろ?」

「そうだけど……って言うか何で知ってるの?」

「白川先生に聞いたんだよ」

 

 白川先生が私が院生という事を知っていた、それ自体はさほど驚く事ではなかった。同じ棋院に通っているのだから、どこから情報が入っても不思議じゃない。

 篠田先生に聞いたのかもしれないし、確か和谷と白川先生は同じ森下門下だったはず。もしかしたら研修室に出入りする私を偶然見かけたって可能性もある。

 そんな事よりも、私はヒカルが院生になりたいと口にしたその真意、そちらの方が気になっていた。

 

「……院生になるって、どういう意味かわかってるの?」

「何だよ、プロを目指すって事だろ? だから聞いてんじゃん。プロになる奴は大体院生になってるみたいだし」

 

 さも当然の様にそう口にするヒカル。つまりヒカルはプロになる覚悟、それを持った上で院生になりたいと私に言っているのだ。

 

「……言っただろ。オレはお前に追い付いてやる、ライバルになってやるって。お前がプロを目指すんだったら、オレだってそうするさ」

 

 そう言い切るヒカルの目はどこまでも真っ直ぐで、真剣だった。

 

 プロになるなんてそう簡単に決断できる事じゃない。囲碁を自分の仕事にする、すなわち将来に関わってくる問題だ。口にするだけなら簡単でも、実際に行動に起こすとなれば、それは確固たる意思がなければ出来ない事。

 正直言って、私はヒカルがこんなに早くその覚悟を持ってくれるとは思っていなかった。導くなんて決意しておいて無責任な話だけれど、それは私がプロになって、ヒカルがそんな私の姿から何かを感じてくれれば、という前提の話だった。

 佐為がいるのだからきっと囲碁への情熱を持ち続けてくれる、私が上に行けば行くほどヒカルはそれに発奮して強くなろうとしてくれる、そう信じて囲碁を打ち続けるしかないと思っていた。

 

 ヒカルはプロになる決意をしてくれた。それは囲碁に自分の人生を賭ける、それ程までに囲碁を好きになってくれたという事。そして、その上で私に追いつきたいと言い切ってくれたのだ。

 ……本当に嬉しかった。思わず涙が出そうになるくらい。

 

「……ありがとう、ヒカル」

 

 震える声を必死に抑えながらそう返す。……あの時出来なかったヒカルへの返事が、今やっと出来たような気がした。

 

「い、いーって! 感謝されるような事じゃねーだろ。……それより教えてくれよ、どうやったら院生になれんのかをさ!」

 

 ……うん。それがヒカルの気持ちなら、私だって協力は惜しまないよ。でも、そう簡単に追い付かれたりなんかしないんだからね!

 

「じゃあ最初に……」

「おう、何か申し込んだりするのか?」

 

 

「今のヒカルじゃ院生にはなれないよ」

 

 

 ―――

 

 

 院生になるには言うまでもなく院生試験を通過する必要がある。そしてその為の推奨棋力はアマ五〜六段。とても囲碁を覚えて4ヶ月の今のヒカルが到達できるレベルじゃない。原作でも約1年かけてギリギリで合格したのだから。

 ……最もそれすら普通じゃ考えられない事なんだけどね。

 

「だから私がこれからヒカルを鍛えてあげる。私に4子で勝てるようになったら院生試験もきっと大丈夫だよ」

 

 もちろんこれはあくまで院生試験を突破するための『指導碁』だ。4子というのは目安に過ぎない。目標を設定する事で、より身が入る様にするためのものだ。

 佐為との対局もヒカルにとっては大きな力になるだろうけど、現代碁という点においては、私にしか教えられない事もきっとあるはずなのだから。

 

「ちょっと待てよ。お前だって院生なんだろ? そのお前に4子で勝ったぐらいで本当に院生になんかなれるのかよ?」

 

 ……確かにヒカルの疑問はごもっとも。でも実際の私は院生レベルじゃないし、むしろ全力の私に4子で勝ったら結構凄いことなんだぞ。

 

「……ほら、私結構強いし。白川先生言ってなかったかな?」

「はあ……わかったよ。お前がフツーじゃないって事はもう知ってるから」

 

 何だか引っ掛かるような言い回しだったけれど、とりあえずヒカルは納得してくれたようだった。

 

 

 とは言ったものの、次に問題となったのは対局場所だ。ヒカルと私の家は結構離れているし、仮にどちらかの家で対局をしたとしても、往復の時間を考慮すると、学校が終わった後では一局打ち切るのが精一杯って所だろう。やはり検討を行ってこその勉強なのだからそれは望ましくない。

 ネット碁というのも考えたけれど、よく考えたらヒカルはパソコンを持っていなかったのだ。

 どうしようかと問いかける私を、『何言ってんだよ』 とヒカルは一蹴し、こう続ける。

 

「学校で打てばいいじゃんか」

 

 ……学校ねえ。確かにマグネット碁盤でも持ってくれば可能は可能だけど、如何せん人目の多い教室で対局ってのもなぁ。まあヒカルが良いなら別に構わないけど……

 

 仕方なくそれで妥協しようとしていた私とは裏腹に、ヒカルが考えていたのは全く別の手段だった。

 

 

「さっき廊下でポスター見たんだけどさ、葉瀬中って囲碁部があるらしいぜ!」

 

 

 




現在の院生試験の募集要項には「六段位が必要」とありますが、その辺はちょっとぼかしてあります。


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15話

あとがきに、知っておくと読みやすいかな、と思った囲碁用語の解説を書き込んで行こうと思います。1〜14話にも後で加えさせていただきます。


 予想通りと言っては失礼かもしれないけれど、理科室の扉を開けた私達を待っていたのは、本を片手にたった一人で黙々と碁盤に石を並べる眼鏡の少年……筒井さんの姿だった。

 私達が入部希望である旨を伝えた時の彼の喜び様は、正にこの世の春が来たとでも言わんばかりの勢いで、そしてそこまで喜ぶ理由は言わずもがな、部員が筒井さん一人しかいない事に起因する。対局相手すらままならないこの状況、3年生の彼の今までの苦労はヒカルも言われるまでもなく感じ取ることが出来た様で、そんな彼の大会に出場したいという願いを私達が叶えてあげたいと思うのは、至って自然の流れだった。

 

「ごめんね星川さん。入部早々こんな雑用みたいな事やらせて」

「いいんですよ。これでも私、結構楽しんでるんですから」

 

 兎にも角にも囲碁部は対局をしないと始まらない。同時に大会出場の為には部員集めが急務。

 という事で現在、ヒカルと筒井さんが対局をする一方で、私は別の階の掲示板に貼るための新たなポスターを作成しているといった訳だ。

 

 

 ―――

 

 

 正直な所、私は囲碁部にはあまりいい思い出がない。何と言っても入部初日に即退部する羽目になったくらいなのだから。

 しかしそんな過去の反動からか、囲碁が基本的に個人競技である事も相まって、実を言うと私は皆で一致団結して一つの目標に向かうとか、そういう事に対する憧れみたいなものを少なからず持っていたりもする。

 順調に行けば年内には私はプロになっているはずだし、そうなればもうこういった機会も無くなってしまう。なら、例えあと半年程の間だとしても、院生故に大会に出場する事が叶わない身だとしても、折角子供に戻るなんてトンデモ体験をしているのだから、私はそれを存分に満喫してしまおうと思っているのだ。

 

 故に先程の筒井さんの気遣いに対する返答も、紛れもなく私の本心からのもの。

 ヒカルとの対局の場を確保した上に、昔出来なかったことをやり直す機会を得たのだ。正に願ったり叶ったりである。

 

 

「よし、こんなもんかな!」

 

 ポスターを書き上げ、軽く伸びをしながら時計に目をやると30分程時間が経っていた。

 ……対局もヨセに入るくらいか。さて、形勢はどんな感じかな?

 

 そんな事を考えながら二人の方に歩を進め、盤面を覗き込む。……そしてその内容を見た私は、少なからず驚きを隠せなかった。

 

 ……ヒカルが、勝ってる?

 

 確か入部当初のヒカルはまだまだ筒井さんには敵わなかったハズ。にも関わらず盤面は黒、ヒカルがはっきりと優勢だった。ヨセで筒井さんが相当上手く立ち回ったとしても、ちょっとこの差は埋まりそうにない。

 

「……ありません」

 

 筒井さんもそれを悟ったのか、投了を宣言し対局はヒカルの勝利となった。

 

「完敗だよ。強いね、進藤君」

「エヘヘ……そうかな?」

 

 筒井さんの言葉通り、ヒカルの完勝と言って良い内容だった。とは言え、勝負は水物だし、実力によっぽど大きな差がなければ上手が負ける事だって十分に有り得る。若干の違和感はあったものの、それでも私はこの結果について深く考える事は無かった。

 

「よっし、じゃあ打とうぜ星川!」

「……もう、勝手に話を進めないの」

 

 勝利の余勢を駆って引き続き私に対局を持ちかけるヒカル。相変わらずのそのマイペースっぷりに、私は小さくため息を吐きながら釘を刺す。

 

「あはは、気にしなくていいよ。二人とももうれっきとした囲碁部員なんだからさ。それに僕も君達の棋力をちゃんと知っておきたいしね」

 

 入部したばかりの立場で、聞き方によっては自分本位とも取られかねないヒカルの発言も、筒井さんは笑顔で受け入れてくれた。

 私はありがたくその言葉に甘える事にし、晴れてヒカルとの二度目の対局が行われる運びとなった。

 

 

「4子局だったよな? それじゃ、お願いします」

 

 そう言いながら四隅の星に黒石を置き、ヒカルは勝手に対局を始めようとする。

 

「……いやいや、4子で打てる様になるのは先々の目標なんだからさ、もっと石置きなよ。星目でもいいよ?」

「いいじゃん。最初なんだから、4子でどれだけ打てるのか確かめておきたいんだよ。な、いいだろ?」

 

 恐らく囲碁歴4ヶ月の今のヒカルの棋力は級位者レベル、高く見積もって2・3級ってところだろう。正直4子ではまともな碁にはならないと思う。私が相当緩めて一局として成立させたとしても、それがヒカルの為になるかどうかはまた別だ。

 

「……わかった。最初だけだよ?」

 

 それでも目標との距離を確かめたいというヒカルの気持ちもわからなくもないし、今の実力を知ってもらうという意味合いもある。だから私は、今回に限り4子局を受け入れる事にした。

 

 ……ま、しょうがないか。ヒカルが自分で決めた事なんだしね。その代わり今回はしっかり負けて今後の糧にするんだよ。……それじゃ、かかってきなさい少年!

 

 

 ―――

 

 

「嘘……でしょ……」

 

 無意識にそんな言葉が口から零れてくる。それが意味するのは、目の前のヒカルの打ちっぷりに対する驚愕に他ならなかった。

 

 ……何これ、明らかに級位者の打つ碁じゃないよ。間違いなく有段者クラスだ。アマ二段……いや、三段くらいあるかもしれない。

 

 ヒカルの棋力は私の予想を遥かに越えていた。私が余計な気を使うまでもなく、4子で碁になっている。……これならば筒井さんにも勝ってしまう訳だ。

 

 よくよく思い返してみれば、確かにヒカルが強くなる兆候はあったのかもしれない。

 年明けにあかりが言っていたじゃないか。囲碁教室に頻繁に通うようになった、お祖父さんの所に碁盤をおねだりしに行った、と。

 囲碁教室で基礎知識や対局経験を積み、家では佐為という素晴らしい先生との個人レッスン。いずれも原作当時のヒカルがまだ持っていなかったものだ。それらを考えればこの事実も頷ける。

 ……そう頭の中では理解したつもりだった。だけど、

 

「へへ、オレ強くなっただろ?」

「……そーだね」

「……何かお前機嫌悪くねえ?」

「……べっつにー?」

 

 ……くそう、私が三段に上がるのにどれだけ苦労したと思ってるんだ。ヒカルの方がよっぽど普通じゃないよ……

 

 囲碁を覚えて僅か2年という驚異的なスピードでヒカルはプロになったのだ。そんなヒカルが真剣に囲碁に取り組めば、このくらいの成長は当然見込めるものだったのかもしれない。

 でも、その様を改めて間近で見せつけられると……情けないけれど、その余りにも恵まれた才能に私は嫉妬を抑えきれなかったのだった。

 

 

 

「あーあ。やっぱりそこをハネ出すのは無理があったかなー」

 

 とは言え、まだまだ私と4子で打ち切れる手合いという訳でもなく、調子に乗って攻めた石を咎められた結果、ヒカルの敗北となった。

 

「……でも正直驚いたよ。本当に強くなったね」

 

 現時点でここまでの強さがあるのならば、夏が終わる頃には十分院生レベルまで辿り着けるだろう。もちろん悔しい気持ちが無いと言ったら嘘になるけれど、同時に私はそれ以上の喜びを感じてもいた。

 これこそが私の望んでいた進藤ヒカルの才。そんな彼が私を目標としてくれているのだから。

 ……私もヒカルに見合う棋士であるように、これからも精進を続けないとね。

 

「す、すごいね君達。特に星川さん、君は……」

 

 それまで黙って私達の対局を見つめていた筒井さんが口を開く。その表情は、まさに信じられないといった様子だ。

 それもそうだろう。自分に完勝したヒカルが……指導碁という手前言い方は良くないけれど、4子を置いて圧倒されたのだから。

 

「筒井さん、コイツ院生なんだよ。で、オレも院生になりたいからコイツに教わってるってわけ」

「い、院生!?」

 

 ヒカルのその返答に、筒井さんはますます驚いたような声をあげる。

 

「院生って事は……プロ志望なの?」

「はい。……一応今年のプロ試験を受けようと思ってます」

「そっか……まさか初めての囲碁部員がプロを目指す子達だなんて。……待った甲斐があったなぁ」

 

 噛み締めるように筒井さんはそう呟く。そんな彼を見ていると、私が密かに抱えていたある種の不安が解消されていくような気がした。

 

 院生という普通の囲碁部には若干似つかわしくないような立場、ヒカルはともかく私と筒井さんでは棋力に大きな差がある事は先程の対局からも実証済みだ。

 そして何より入部当初の本来の目的は、お互いの対局の場を得るというもの。そんな私に、彼が不満や壁のような物を感じてしまう事だって十分にあり得る話だった。

 ……でも、それらを全て知った上で筒井さんは本当に嬉しそうな顔をしてくれた。皮算用でなく、そんな不安が杞憂だったのだと理解できる。心から私達の入部を喜んでくれているのだ。

 

 ……そんな筒井さんへの感謝の気持ちと共に、改めて彼の悲願である大会出場を絶対に実現させるのだと、私は決意を新たにしたのだった。

 

「それじゃ筒井さん、次は私と……筒井さん?」

 

 喜びのあまりか、気がつくと彼の表情は、もはやトリップ状態と言っても良い程のものに変わっていた。

 私とヒカルは顔を見合わせて苦笑いをする他なく、そんな彼を何とか現実に引き戻し、改めて今度は私と筒井さんが対局を行った所で、囲碁部の初日は終わりを迎えたのだった。

 

 

 ―――

 

 

 心を込めて作ったものには共に過ごした時間に関係無く愛着が湧くもので、次の日から、教室に向かうには若干遠回りになるにも関わらず、自作の勧誘ポスターが貼られた掲示板の前を通る事が私の毎朝の日課となっていた。

 ……しかし物事はそうそう上手く行くものでもなく、掲示板の前で立ち止まる生徒の興味はサッカーやバスケットなどのメジャーな部活動に向けられており、隅っこにこじんまりと貼られた囲碁部のポスターに関心を示すような人は皆無。せっかく作った初心者向けの詰碁問題も未だ空白のままだった。

 クラスメイトにも『何で彩はいつも遠回りしてんの?』 なんて言われ始め、今は適当な言い訳でお茶を濁しているものの、こんな事を繰り返していてはその内変人認定すらされかねない。それでも私はそんなリスクも顧みず、ひたすら毎日掲示板に足を運び続けた。

 

 ……そして入部から一週間後、私のその努力が遂に実を結ぶ時が来る。

 

 

 その生徒は明らかに隅っこの囲碁部のポスター正面に立ち、内容を注視していたのだ。人数も疎らな今の状況で、他の部活動のポスターに興味があるならその立ち位置は明らかに不自然だ。

『もしかして……』 そんな私の期待に応えるように、その子はおもむろに鞄からペンを取り出し、私の自作の詰碁に解答を書き込む。

 

 原作の予備知識を持っている私には、詰碁を解くであろう人はあらかじめ予測できていた。けれど、今まさにポスターに書き込んだその生徒は間違いなく彼とは別人で……それ以前に女子の制服を着ていた。

 でも、この時の私にとってそんな事は些細な問題だった。部員は多いに越した事は無いし、何よりこの一週間の努力が報われた事への喜びが大きかったから。

 

 ……新入部員、みーっけ!

 

 私は一目散にその子の元へと駆け寄って行ったのだった。

 

 




星目(せいもく):9子置きの事。9子って書けよって話ですけど、星目の方がカッコよかったんで。


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16話

「そんな事言われてもねぇ。詰碁だってただ単に解けそうだからやってみただけだし。……それ以前にアタシ、バレー部に入ろうと思ってたんだけど」

 

 冷静に考えれば初心者向けとはいえ詰碁が解ける人、それも女子ともなれば校内でもかなり限定されてしまう訳で、果たして声をかけた子は私も知る人物、金子さんその人だった。

 

「お願い! バレー部に入るのは止めないし、何だったら掛け持ち……ううん、気が向いた時だけでいいから!」

 

 もちろん初心者だとしても大歓迎だけど、経験者ともなれば更に貴重な人材。せっかく運良くこの場に居合わせたのだから、この機を逃してなるものかと、私は必死に金子さんに頭を下げ続けていた。

 とはいえ、バレー部に入りたいという彼女の意思を蔑ろにする訳にもいかないので、私は原作と同じ様に、兼部という形での囲碁部への参加を彼女に打診するに至ったのだ。

 

「じゃあさ、とりあえず一回だけ囲碁部に遊びに来てみない? それからでも決めるのは遅くないと思うんだ!」

「……あーもう、わかったから顔上げて。一回見に行くだけよ?」

 

 そんな私の必死の懇願が実ったのか、あまり乗り気ではなさそうだったものの、金子さんは渋々了承してくれた。

 

「ありがとう! じゃあ放課後迎えに行くから! ……私、1組の星川彩です」

「ハイハイ。3組の金子正子よ」

「約束だよ、金子さん!」

 

 ……しかし、何とか約束は取り付けたものの、よくよく考えれば入部してもらうための具体的な策なんて私には何も無かった。

 どうすれば囲碁部に関心を持ってもらえるのだろうか。授業も上の空で一日中悩み続けていたものの良い案は浮かばず、結局私はそのまま放課後を迎えてしまったのだった。

 

 

 ―――

 

 

 ……こうなったらもう腹をくくろう。囲碁部に出来る事なんて囲碁を打つ事だけなんだし、とりあえずきっかけにはなるんだから。後は出たとこ勝負だ!

 

 放課後。金子さんと共に理科室を訪れ、開き直り気味に扉に手をかける。その時、室内で誰かが騒いでいるのだろうか、けたたましい叫び声が私達の耳に届いた。

 

「……何か揉めてるみたいね」

「あ、あはは。誰だろうね」

 

 ヒカルと筒井さんが言い争いをするとは思えない。と言うより、確か筒井さんはクラスの行事があるとかで、今日の部活には参加できなかったはず。つまり室内には囲碁部とは部外者の誰かがいるという事だ。

 ……何でこんな時に限って。誰だか知らないけど、勘弁してよホント。

 

 横では金子さんが心底面倒臭そうな表情をしている。そんな状況に思わずため息が零れるものの、こんな所でいつまでも突っ立ってる訳にもいかない。私は意を決して扉を開いた。

 

 

「おう星川、新入部員捕まえたぜ!」

「勝手に決めんな! 囲碁部なんか入らねーって言ってんだろ!」

 

 そんな私達を出迎えたのは、してやったりと言わんばかりの表情のヒカルと、そんなヒカルに噛み付くように声を荒げる癖っ毛の少年。

 あれ、あの子はもしかして……

 

「アイツ三谷じゃない」

 

 私の予想に対する答え、三谷くんの名が金子さんの口から発せられる。

 

「金子さん、知ってるの?」

「まあ知ってるって言うか、同じクラスってだけなんだけど」

「へー、そうなんだ」

 

 偶然は偶然だろうけど、二人が既に顔見知りである事に妙な縁を感じる。しかしそんな事を考えている間にも、飄々としているヒカルとは裏腹に三谷くんは益々ヒートアップしていく一方だ。流石にこの状況を放っておく訳にもいかないので、仲裁の意味も込めて私は二人の間に口を挟んだ。

 

「ヒカル、それに……三谷くん? えっと、何でこんな騒ぎになってるのかな?」

「コイツさっきポスターの詰碁解いてたんだよ。しかも正解! あっちは上級者向けの問題だからきっと強いぜ!」

「だから気が向いただけって言ってんだろ! いきなりこんなとこ連れて来やがって!」

「いーじゃん、オマエ囲碁打てるんだろ? とりあえず一局! な?」

「やらねーよ!」

 

 ……ああ、そういう感じなんだ。三谷くんが詰碁を解く現場にヒカルが立ち会って……それで無理矢理連れてきちゃった、と。

 

 脳内で原作の展開との対比をし、この状況を把握する。不機嫌を隠そうともしない三谷くんの様子もまあ当然は当然だ。流石に今回はヒカルに非が……

 

「……ねえ星川さん」

 

 不意に私に話しかける金子さん。その視線は呆れてものも言えないといった感じで、私は思わずたじろいでしまう。

 

「な、何かな?」

「囲碁部の勧誘って……皆こんなにゴーインなの?」

「うっ……」

 

 ……し、失礼な。私は一応ちゃんと許可をもらったじゃないか。

 

 

 ―――

 

 

「あーわかったよ! その代わり、オレが勝ったら金輪際ちょっかいかけんじゃねーぞ!」

 

 ヒカルにとうとう根負けしたのか、半ばヤケになりながらも三谷くんは対局を承諾した。……負けたら自分には関わるな。結構危うい条件をつけた上で。

 

 ……でも、それってこっちが勝ったら囲碁部に入ってくれるって事なのかなぁ。だったら私が打てたらいいんだけど。

 

 場違いな考えが頭をよぎったものの、無論そんな事を言い出せるような空気でもなく、そのままヒカルと三谷くんの対局が行われる運びとなる。

 そしてこの瞬間に及んで私はようやく、金子さんをほったらかしにしてしまっているという現状に気がついた。

 

「あ……ご、ごめんね金子さん。じゃあ私達もあっちで一局打とっか?」

 

 もちろんこの対局を見ていたいという気持ちは大いにある。だからと言って、せっかく来てくれた金子さんをこのまま蔑ろにするわけにもいかない。彼女だって私達が望んでやまない部員候補の一人なのだから。

 

「……アタシなら気にしないで。何だか面白そうな展開になってきたし、この対局を見させてもらう事にするわ」

「え……いいの?」

「星川さんだって気になって仕方ないんでしょ?」

 

 あっさりと心の内を見透かされ、何だか腑に落ちない感はあったけれど、彼女がそう言うのならばとお言葉に甘えて、私は金子さんと共に彼らの対局を見守ることにした。

 

 ヒカルが黒、三谷くんが白。……対局が始まる。

 

 

 

 佐為をして、素直な良い手を打つと評された三谷くんの実力は正にその通り。石の筋も良いし、無理な手もなく、きちんと本手を選択出来ている。基本が身に付いている証拠だ。

 

 中盤を迎え、ヒカルも必死に食らいついているものの、やはり現状は黒が少し不利。白が常に盤面をリードし続け、しかもまだ三谷くんには余裕がありそうに見える。黒としては何処かで勝負のきっかけを掴みたいところだ。

 

 そんな私の考えに応えるかの様にヒカルが動く。

 動く……が。

 

 ……えっ! そこから出切っちゃうの?

 

 それは決して誉められるような手じゃなかった。黒だってまだまだ不安定、普通はもっと形を作ってから攻め込むものだ。しかし、余りにも強気で怖いもの知らずなその一手は……愚形ながらも、結果として白の大石を分断する事に成功した。

 それまで無気力と言うか、何処か対局に集中していなかった三谷くんの表情が変わる。眉間にシワを寄せ、顔も幾らか紅潮している。まさかこんな無理矢理に切断されるなんて思っていなかったのだろう。

 

 もちろんこの一手だけでどちらかに形勢が傾いた訳じゃない。今後の展開次第では、切った側の黒がツブレる事だって十分にあり得る。

 だからと言って、切断を受けてしまった以上、もう白だって今までの様に手厚く打ち進める訳には行かない。黒が挑んできた勝負を受けるしかないんだ。

 

 ……今まで穏やかに進んでいた盤面が、ヒカルの投じた一石によってその様相をがらりと変えた。

 

 

 

 ――子供のケンカ。見る人によってはそう評されてしまいかねない内容だった。

 序盤は冷静に打っていた三谷くんも、今やすっかりヒカルの熱に当てられ、攻められては反発し、隙を見ては守りを余所に攻め返す、そんな碁になってしまっている。

 しかし、彼らから伝わってくる剥き出しの感情に。負けたくない、子供故の素直な想いが導き出すどこまでも自由な一手一手に……いつしか私は目を奪われていた。

 

 ……何か、羨ましいなぁ。

 

 同時にそんな二人への羨望の気持ちが込み上げてくる。プロとして第一線で戦ってきた私にそう思わせる程に彼らの戦いは魅力的で……そんな私だからこそ、きっともう彼らの様に打つ事は出来ないのだろうから。

 

 

 ……ふとヒカルに目を向ける。その表情は笑みすら浮かんでいるようで、それはヒカルがこの対局を心から楽しんでいる証だった。

 そして比べる様に三谷くんを見やり、彼の表情を見た瞬間、私は自分が抱いていた彼へのある疑念を恥じた。

 

 もしヒカルが優勢に立ってしまったら、自分が負けるかもしれないという状況に追い込まれてしまったら、三谷くんはイカサマをしてしまうんじゃないかと私は思っていた。

 そんな事をすれば、ヒカルはきっと彼に幻滅する。金子さんだって囲碁部には入ってくれないだろう。

 何より、仮に二人が気付かなかったとしても、その現場を目の当たりにして黙っていられる自信が私には無かった。

 

 ……でも、きっとそんな心配なんて取り越し苦労だったのだろう。

 私はこの世界の三谷くんの事なんて何も知らないし、もしかしたら原作と同様に賭け碁でイカサマをするような、そんな人だったのかもしれない。

 それでも、この時この場において、少なくとも目の前の少年に限っては、私は確信を持つ事が出来たのだから。

 

 ……そうだよね。こんな顔で囲碁を打ってる子が、イカサマなんてするはずなかったんだよね。

 

 どちらかの中押しで決まると思っていた戦いも、終わってみれば半目勝負。熱戦は終局を迎えた。

 

 

 ―――

 

 

 整地を終えた盤面を睨み付けながらうなだれるヒカル。

 その光景が示す通り、結果は白……三谷くんの半目勝ち。

 

 しばらく黙ってヒカルを見つめていた三谷くんは、やがて何も言わずに立ち上がり、机に投げ出してあった自分のカバンを手に取る。

 

「み、三谷くん!」

 

 私の制止の言葉に見向きもせず……結局彼はそのまま理科室から去ってしまった。

 

「ワリィ星川……オレ……」

「……ヒカルのせいじゃないよ」

 

 ぽつりと呟いたヒカルの謝罪の言葉を私は否定する。この一週間でヒカルと打ったどの対局よりも、今日の一局は力強く美しかった。決して人に恥じるような内容では無かったのだから。

 

 ……ただ、結果としてヒカルは負けてしまい、三谷くんが囲碁部に入部する事はなかった。ヒカルの自責の念も、対局内容では無くその事実を悔やんでのものなんだろう。そんなヒカルの心境を思うと、下手に言葉をかけるわけにもいかず、私もまた黙りこんでしまう。

 

 

「……心配いらないんじゃない?」

 

 そんな私達に向けて発せられた金子さんの言葉。私とヒカルは顔を上げ、揃って彼女に目を向ける。

 

「あんな啖呵切った手前、意地になってるだけよ。今頃アイツ後悔してるんじゃないの? 負けておけば良かったってさ」

「そ……そうなの?」

 

 思わずそう聞き返してしまう。金子さんの言い分は私達にとって余りにも都合が良すぎて、流石に鵜呑みにする訳には行かなかったから。

 

「何だかんだ言ったって、アイツも囲碁が好きなのよ。って言うか、あんな楽しそうに打つ奴が、囲碁が嫌いな訳無いじゃない。……多分アイツは今日みたいに、夢中になって打てる相手に今まで恵まれなかったんじゃないかな」

 

 確かにそういった相手がいないというのはとても悲しい事だ。ヒカルや塔矢くんを間近で見てきた私にもそれは良くわかる。

 ……もちろんそれは彼女の憶測にしか過ぎないのだろうけど、その発言も只の気休めでは無く、彼女なりの根拠を持ってのものだという事は何となく伺い知れた。

 金子さんもまた、三谷くんの対局中の様子に気付いていたのだから。

 

「……だから大丈夫よ。身近に本気になれるものがあるって知った以上、それを見て見ぬふりなんて出来っこないわ」

「……そういうものなのかな」

「男子なんて皆そんなもんよ」

 

 大人びた笑みを湛えながら、金子さんは諭すようにそう口にする。

 ……何故だろうか。普通の女子中学生ならば子供の背伸びと捉えられそうな発言も、彼女が言うと妙な説得力を感じ、思わず私は納得しそうになってしまったのだった。

 

 

「じゃ、アタシもそろそろお暇しようかな」

「……えっ、もう帰っちゃうの? せめて一局くらい……」

「今日はもういいわ。面白いものも見れたし、満足よ。……入部の件は少し考えさせて。入るようだったら明日また来るからさ」

 

 そう言うと金子さんは私達に手をヒラヒラさせながら理科室を去っていった。

 結局彼女の真意は最後まで掴めなかったけれど、満足してくれたって事は……少しは脈アリと考えていいのだろうか。

 

「何かアイツ……大人だな」

「……うん、大人だね」

 

 ヒカルの言葉に私も同意する。あの風格や物言い……とても中学生とは思えなかった。

 

「お前とは大違いだな」

「……うるさいよ」

 

 

 その後、反省会と称して行われたヒカルとの対局が、指導碁の範囲を大きく逸脱してしまったのは言うまでもない。

 

 

 ―――

 

 

  翌日。私とヒカル、そして事情を話した筒井さんの3人は、金子さんの言葉を胸に二人を待ちわびていた。

 あれだけ強引に三谷くんを引っ張り回したヒカルも、約束を交わした上で対局し、しかも負けてしまった以上、結局その後は彼に干渉することが出来なかった様だ。

 

「ありがとう。二人が囲碁部の為にそんなに頑張ってくれた事だけで僕は本当に嬉しいよ。……さ、待つのは打ちながらでも出来るし、そろそろ部活を始めよう!」

 

 私達への労いの言葉と共に筒井さんは立ち上がる。

 確かにこうしていても仕方がないと、私とヒカルも対局の準備を始めようとした……その時だった。

 

 

「星川さん、来たわよー!」

 

 扉の開く音。そして、快活な声が理科室に響く。

 

「金子さん! それに……」

「三谷!」

 

 声の主である金子さんと、彼女の後ろで気まずそうにしている三谷くんの姿を見て、私とヒカルに笑顔が広がる。

 

「アタシ達も囲碁部にお世話になる事にしたから。これからよろしくね」

「オレは別に……コイツに無理矢理連れて来られただけで……」

 

 三谷くんはぶっきらぼうにそう口にするものの、昨日の様な不機嫌さは見られず、そんな姿に微笑ましさすら感じてしまう。

 

「……ね、言った通りでしょ?」

 

 そんな私に、三谷くんに聞こえない程の小声で金子さんが囁く。

 

「うん。……悔しいけど、金子さんはやっぱり大人だよ」

「何の話……?」

 

 唐突な大人発言に首を傾げる金子さん。一回りも年下の子供に、私が敗北を認めた瞬間だった。

 

 

 

 ともかく、これで囲碁部は5人。3人揃った男子はこれで念願の大会出場が叶うんだ。後は……

 

「あ、やってるやってる。ヒカルっ! 彩っ!」

「……あかり! 待ってたよ!」

「あかり? 何でお前がいんの?」

「何よ、囲碁部に入部しに来たに決まってるでしょ」

 

 開きっぱなしの扉から、あかりがひょっこりと顔を出す。

 

 もちろん私はあかりにも声をかけていた。ただその時は少しだけ待って欲しいと言われ、今日この時まであかりが囲碁部に顔を出すことはなかった。

 当然即決だろうと思っていた私はやや面食らったものの、あかりの口にしたその理由を聞き、素直に彼女を……いや、彼女達を待つ事にした。

 

「……ねえあかり。私本当に囲碁の事なんて何にも知らないよ?」

「大丈夫大丈夫! 私が教えてあげるから!」

 

 おずおずとあかりの後ろから現れる少女。そう、あかりは彼女を……クラスメイトの津田さんを誘うために入部を遅らせていたのだ。

 

「入部は後で気が向いたらでもいいよって言ったのに、久美子ったら一緒じゃないと不安なんて言うから」

「も、もう。余計な事言わないでよ。……仕方ないじゃない、部活に入るなんて初めてだし、すぐには決められなかったんだもん」

「あはは、ゴメンゴメン。……それじゃ改めまして、私達も囲碁部に入部します!」

「よ……よろしくお願いします」

 

 ……これで、7人! しかもこれなら女子だって大会に出れる。まさかこんなに上手く行くなんて……

 

 私は余りにも理想的な目の前の光景が未だに信じられずにいた。

 そして、それは筒井さんも一緒の様で……

 

「囲碁部が……7人。これは夢なんだろうか……」

 

 またもトリップ状態に突入してしまった筒井さん。彼の囲碁部にかける情熱を思えばそれも致し方ないのかもしれないけれど、流石にこうしていても埒があかないので、私はそんな彼を再び現実世界に引き戻すべく声をかける。

 

「トリップしてる場合じゃないですよ。……せっかく皆揃ったんですから、部長!」

「ぼ、僕が……部長……」

 

 部長という単語に過剰反応を示すも、何とか立ち直った筒井さんは私達に向き直り……宣言する。

 

 

「皆、初めまして。3年の筒井です。……ようこそ葉瀬中囲碁部へ!」

 

 

 ……この瞬間、新生葉瀬中囲碁部が誕生し、それは私が憧れてやまなかった囲碁部の姿でもあった。

 このメンバーでなら、きっと素晴らしい部活を作り上げる事が出来る。6人の部員達を見つめながら、私はそう確信していた。

 

 

 

「さあ部活を始めよう! 今、碁盤を……」

 

 そう口にし、部活の準備を始めようとした筒井さんの動きが止まる。

 唯一動いていた目線は……机に重ねられた碁盤、そして私達6人に移っていく。

 

 部員は7人。碁盤は……3面。

 

 

 ……碁盤、足りないじゃん。

 

 

 ―――

 

 

 その後、とりあえず1年生6人組は対局を行い、筒井さんは顧問のタマ子先生の元へ、部の備品という形での新しい碁盤の申請に向かった。

 ……しかし戻ってきた筒井さんの表情は芳しくなく、彼が口にした言葉も決して私達にとって最良のものではなかった。

 

「……やっぱり少し難しいみたい」

「そう……ですか」

 

 元々の囲碁部は、一人で活動を続ける筒井さんを不憫に思ったタマ子先生が、自主的に顧問に収まるという形で成り立っていた……いわば形式だけの部活だった。

 理科教師のタマ子先生の口添えで理科室という部室こそ与えられているものの、いわゆる部費などの学校側からの援助はなく、今ある碁盤と碁石もタマ子先生が善意で寄贈してくれたもの。

 部員が7名になった事で晴れて正式な部活としての要項を満たした囲碁部だったけれど、それらの認証、引いては部費の算定までとなると、やはりすぐにと言うわけにはいかず、備品として碁盤を購入するためには……少なくとも1ヶ月はかかってしまうそうなのだ。

 

 そして、それは今の私達にとってかなり深刻な問題だった。

 対局を前提とするならば、7人が同時に行うためには最低4面の碁盤が必要になる。3面ではどうやっても1人余ってしまうのだ。

 

 7人という端数に関しては問題ない。誰かが二面打ちをすればいいだけの話。私はもちろん、初心者のあかりや津田さん相手なら、ヒカルや三谷くん、筒井さんだってできるだろう。

 しかし1人余りが出る、これだけは良くない。部活を行える時間は長くて2時間と少し。囲碁は一局におおよそ1時間程度は見なくてはいけないため、このままだと1日あたりの活動時間の半分を、碁盤に触れずに過ごす人が出てしまう。

 もちろん人の対局を見る事や詰碁を解く事も大切な勉強だけれど、やはり囲碁の醍醐味は実際に石を持って打つ事なのだから。

 最悪私が手空きになってもいいのだけれど……身勝手な話、それも本来の目的を考えると躊躇われてしまう訳で。

 

「心配しなくてもいいよ。僕が今度碁盤を買ってくるからさ」

 

 筒井さんは自分に任せておけと言わんばかりにそう口にする。

 しかし、いくら安価の物を選んだとしても、碁盤と碁石をセットで購入するとなるとやはりそれなりの値段になってしまう。少なくとも普通の中学生にとっては大きな出費だ。

 

「そんな、筒井さんにだけ押し付けるなんて。だったら私達も……」

「ありがとう。でも、入部したばかりの1年生からお金なんて取れないよ」

 

 そうは言ってくれるものの、はいそうですかと簡単に頷くわけにはいかない。これは私達囲碁部全員の問題なのだから。

 とはいえ、恐らくこのまま続けても押し問答。筒井さんも譲ってくれる気配はない。

 

 ……仕方ない。この場はとりあえず筒井さんにお願いするとしても、後で必ずお金は返そう。皆に相談すればきっと賛同してくれるはずだ。週末には5月のお小遣いが入るから、とりあえずそれから……

 

 

「……あっ!」

 

 

 その時、私の脳内にある閃きが走る。

 ……そうだ、すっかり忘れていた。今週末、5月の第一週は……

 

「……筒井さん、碁盤の件もう少しだけ待ってもらえませんか?」

「え……どうして?」

「……私にアテがあります」

 

 確証は無い。それ以前に、本来ならばそれをアテと呼ぶこと事自体が可笑しな話。

 

 ……でも、私なら出来る。いや、やってみせる! せっかく囲碁部が立ち上がったっていうのに、こんな所で躓いている場合じゃないんだ!

 

 

「碁盤は……私が何とかします!」




本手(ほんて):碁形の急所を抑える確実な一手。地味な一手の様でも、後々打っておいて良かったと思える時が必ず来る。本手をしっかり打てる人は間違いなく強い。


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17話

 ある程度時間には余裕を持たせたつもりだったけれど、私が会場に足を踏み入れた時には既に結構な人数が集まっていた。

 受付を済ませ、出場者の証である花の徽章を胸に付ける。そんな中、一際見知った顔――落ち着かない、緊張を隠しきれないといった様子の少女を見つけ、私はその子の元に駆け寄った。

 

「おはよう奈瀬さん。今日は頑張ろうね」

「ひゃっ!? ……な、何だ彩か。驚かさないでよまったく……」

 

 ……普通に挨拶をしただけなのに随分な言われ様だ。

 

「そんなに緊張してるの? ……何か意外だなぁ。この前はあんなに張り切ってたのに」

「……意外って何よ。そりゃ出場が決まった時は嬉しかったけどさ」

 

 もっともよくよく周りを見渡せば、彼女に限らず院生の子達は皆何処か強張ったような顔つきをしている。

 一部ではお祭り事なんて言われているこのイベントも、やはり彼らにとっては重要な意味を持つんだろう。

 

 

「やっぱり緊張するわよ……プロが相手なんだから」

 

 

 

 ――若獅子戦

 

 毎年5月に開催され、20歳以下かつ五段以下のプロ16名と、院生上位16名の計32名で争われるトーナメント制の大会。

 1組に昇格してから2ヶ月。それからも連勝を続けた私は遂に1位にまで順位を上げ、晴れて院生のトップとしてこの日を迎えていた。

 

「アンタは随分落ち着いてるわね。……院生1位の余裕ってやつかしら?」

「……もう、やめてよ。それに私だって少しは緊張してるんだから」

 

 院生の棋力向上を目的として設立された若獅子戦は、棋戦と言うよりも親善試合に近い意味合いを持っている。

 特に対局料が支払われるという訳でもなく、何より出場者の半数は格下の院生。そういった事情も相まって、残念ながら若獅子戦におけるプロ棋士の意欲は決して高いとは言い難い。敢えて目的を見出だすとすれば、同世代の注目棋士の観察か、あるいはかつて自分の後輩だった者達への激励か、それくらいのもの。

 一方で院生側のこの大会に懸ける想いは強い。非公式とは言えプロと正面切って戦える貴重な機会。何よりこの場での勝利は、目前に控えたプロ試験への確かな自信に繋がるからだ。

 

「へー、アンタでも緊張したりするんだ? それこそ何か意外だわ」

「……奈瀬さんは私を一体何だと思ってるの?」

「そのセリフ、そのままアンタに返してあげる」

 

 そして私はと言うと、実際そこまで結果に対して貪欲という訳ではなかった。

 もちろん私にとってもプロと戦えるこの大会は貴重であり、付け加えるならば個人的に是非戦ってみたい相手だっている。それに自分のレベルを考えれば優勝だって十分視野に入れられるだろう。

 だからと言ってプロ相手に確実に勝つなんて断言する程自惚れるつもりもないし、何より他の院生と決定的に違うのは、この場での勝利自体が私にとって特に意味を持たないという事。

 

 故に私が重視していたのは結果というよりはむしろ内容。単純に普段の院生手合いよりも一段上の相手、プロ棋士との戦い自体を純粋に楽しみにしていたのだ。

 勝利を目指す戦いである事だけは変わらないけれど、決して負けられない戦いではなかったから。私にとってもこの大会は……お祭りだったから。

 

「ま、でも彩なら結構いい線行くんじゃないの? もしかしたら3回戦くらいまで……」

「何言ってるの奈瀬さん」

「え……?」

 

「……私は優勝する気満々だよ?」

 

 ――ほんの数日前までは。

 

 

 ―――

 

 

「呆れた……何かもう、言葉も出ないわ」

「い、いーじゃん別に。どうしても欲しい物があるの!」

「多分アンタくらいよ? 優勝賞金目当てでこの大会に臨む人なんて」

 

 大会と銘打つ以上、当然この若獅子戦にも成績に対する報酬は用意されている。

 しかしそれも精々アマの地方大会に毛が生えた程度の額であり、囲碁で生計を立てている棋士達にとっては有って無いようなもの。通常の棋戦で支払われる1回分の対局料の方がよっぽど高いくらいだ。少なくともそれは彼らのモチベーションにはなり得ないだろう。

 そしてそれは院生側にも言える事で、元より相手は格上で自分達の目標でもあるプロ棋士。一つ勝てれば御の字、二つ勝てれば出来すぎ。仮に院生上位であったとしても、余程自信がない限りは端から優勝を目指す者などいないはず。

 

 奈瀬さんの言うように、確かに優勝賞金を目当てにしてる人なんて私くらいだろう。

 それでも今の私にとってこの賞金は、本当に本当に大きな意味を持っているのだ。

 

 ……これさえあれば、私達の囲碁部に必要な、4つ目の碁盤が手に入るのだから!

 

 

「何かアンタを見てると緊張してる自分が馬鹿馬鹿しくなってきたわ。……うん、もうごちゃごちゃ考えるのやめた! 結果は二の次、当たって砕けろよ! それに、院生16位が勝つなんてだーれも期待してないだろうし!」

 

 奈瀬さんは半ば開き直った様にそう口にする。まあ前半の失礼な言い分には若干不満が残るものの、意気込みに関してはその通り。今の彼女にとって一番大切なのは、自分の力を出し切る事なのだから。

 

 それに、私は決して彼女が端から勝負を捨てるようなレベルでは無いと思っている。相手がプロとはいえ、まだまだ低段の若手棋士達。院生の上位陣と比べて然程大きな差があるというわけでもない。

 そしてこの2ヶ月間、そんな人達の中で揉まれ続け、遂にはこの若獅子戦の出場権を勝ち取るまでに成長した奈瀬さんならば、番狂わせを起こすことだって十分にあり得る話だろう。

 

「でも……他の誰も期待してなくたって、私は奈瀬さんが勝てるって信じてるよ? 奈瀬さんの頑張りは私が一番良く知ってる。ずっと近くで見てきたんだから」

「よ、よくもまあ真顔でそんな恥ずかしいセリフを言えるわね……」

 

 照れ臭そうに奈瀬さんは顔を背ける。……確かに自分でも言ってて少し恥ずかしいけれど、これも彼女への期待の現れだ。

 それに順位だって気に病む様な事じゃない。まだまだ奈瀬さんは強くなっている途中、若獅子戦を迎えた今の順位が16位だった、それだけの話。

 私は16位からその年のプロ試験に合格した人だって知っているんだからね。

 

 ……まあ、あれは多少規格外と言うか、レアなケースなのかもしれないけど。

 

「……でも、ありがとね。アンタのお墨付きなら頑張らない訳には行かないわよね!」

「うん、その意気! ……さ、行こっか。そろそろ始まるみたいだよ」

 

 気が付けば大会開始数分前。私達は揃って各々の対局席へ向かっていった。

 

 

 ―――

 

 

 1回戦、私の対戦相手は初段の女流棋士。打っている限りは院生上位と同程度の棋力、むしろ伊角さん、本田さん、真柴さん、そういった人達の方がまだ強い様に思う。優勝をはっきりと意識している私にとっては……失礼だけど、いわゆる当たりの部類に入ってしまうのかもしれなかった。

 

 ……よし、ここに回ればもう形勢は動かないね。

 

 対局も終盤に差し掛かり、現状の最大場である左下隅に先手で着手した私はほぼ勝利を確信していた。既に地合いは大差、流石にここまで来れば相手も打つ手無しだろう。

 

「何で……強い子が……院生……よ。勝てるわけ……」

「え……?」

 

 対面から微かに聞こえた呟きに思わず顔を上げる。そして私と目が合った瞬間、彼女はどこか怯えたような表情に変わり……

 

「……ありません」

 

 項垂れる様に投了を宣言すると、慌ただしく石を片付け、そのまま足早に席を立ってしまった。

 

 ……えーっと……私、何か失礼な事しちゃった?

 

 結局彼女が何を呟いていたのかも、そして何をそんなに怯えてたのかもわからず、私は一人首を傾げる他なかった。

 

 

「ほう……もう終わったのか」

 

 そんな中、不意に背後から聞こえた声に振り返ると、私の目に飛び込んできたのは真っ白なスーツを身に纏った男性……緒方先生の姿だった。

 正に青天の霹靂と言うか、突如現れた予想だにしない人物に内心驚きながらも、私は慌てて椅子から立ち上がり、彼に頭を下げる。

 

「こ、こんにちは緒方先生。ご無沙汰してます」

「久しぶりだね。対局は……君の勝ちかい?」

「はい。何とか……」

「フッ……何とか、か。まあとりあえずおめでとう、と言っておくか」

「はあ、ありがとうございます。ところで緒方先生は何でここに?」

 

 何だか含みのある返事はとりあえず置いておき、私は脳内の大半を占めている疑問を率直に彼にぶつけた。非公式、しかも若手プロと院生の親善試合。タイトル奪取も時間の問題と噂される程の棋士がわざわざ見に来るような場所でもないだろうに。

 

「たまたま棋院に用事があったんだが……アキラ君から君が院生になったと言われた事を思い出してね。少し覗いてみようと思ったのさ」

 

 ――肝心の対局は見れなかった訳だがね。

 彼はそう付け加えると、薄く笑いを浮かべながら両手を広げる。

 

「今日は余り時間が無いから2回戦は見れそうに無いが……まあ君なら明日の3回戦以降にも残るだろうし、楽しみは明日にとっておくとするかな」

 

 わざわざ私の対局を見に、か。その上3回戦に残って当然の様な口ぶり。何とも身に余るお言葉だ。

 とは言っても、実際この人は私と塔矢先生の対局を見ている訳で、注目されるのだって良く良く考えてみれば当然なのかもしれないけれど。

 

「はい。私も優勝を目指してるので、明日以降も残れるように頑張ります」

「順当に行けば君の相手になるのは倉田くらいだろうな。……君と倉田はいつ当たるんだい?」

「…………準決勝、です」

 

 そう、私もまた倉田先生との対戦がこの大会の最大の山場だと考えていた。だからこそ緒方先生の問いに対し、私はすぐに答えを用意できたのだ。

 

 今現在の彼の快進撃は、おおよそ囲碁に携わっている人ならば嫌でも耳に入ってくる。

 19歳の若さにして本因坊リーグ入りを果たし、昨年に達成した25連勝という大記録は記憶に新しい。

 既に低段には敵無し状態で、この若獅子戦も2連覇中の彼は、当然今大会も優勝候補の筆頭だ。

 

「準決勝か。そこで君と倉田が戦うのならば、明日も棋院に足を運ぶ価値は十分にありそうだな」

「……はい。私も倉田先生とは是非戦ってみたいと思っているので」

 

 そして彼との対局は、大会優勝の最大の難関にして、同時にこの大会における私の最大の楽しみでもあった。恐らく塔矢先生以来となる久方ぶりの全力対局。棋士として心が震えないはずが無いのだから。

 

「ああ、俺も楽しみにしているよ。さて、そろそろ時間か。その前に……お気楽弟弟子に発破でも掛けて来るかな」

 

 チラリと腕時計を見やり、そして一呼吸置いて緒方先生が向けた視線の先には……

 

「いやー危うく負けるとこだったよ! 君、強いねー。誰かプロの先生に就いてるの?」

「え、えと……森下九段に……」

「あー森下先生! 確か冴木君も同門だったよねぇ?」

「は、はあ……」

 

 目下自分達の最大のライバルである塔矢門下の棋士にタジタジになっている和谷と、そんなライバル心など知る由もなく、ひたすら陽気にマシンガントークを浴びせる芦原先生の姿があった。

 

「確かアイツの2回戦の相手は倉田のはずだが……まァあの様子だと、期待薄だな」

「あ、あはは……」

 

 ため息と共に緒方先生は歩き出すと、私と和谷が見つめる中、悲鳴を上げる芦原先生を引き摺りながら会場の外へ消えていったのだった。

 

 

 ―――

 

 

「結局3回戦まで残ったのは……伊角さんと星川だけか」

 

 昼休み。私、奈瀬さん、和谷、伊角さん、本田さん、フクの6人は、棋院近場のハンバーガーショップで遅めの昼食を採っていた。

 

「2回戦には結構進んだんだけどな。確か6人だっけ? その二人に、オレ、真柴さん、足立と……」

「それに、奈瀬さんもね」

 

 指を折りながら一人ずつ名前を挙げていく本田さんに、合いの手を打つように自分の隣に座る少女の名を口にする。

 

「……まさか奈瀬が勝つとはなぁ」

「ちょっと和谷、それどういうイミよ!」

 

 そんな和谷の軽口に奈瀬さんは噛み付くものの、言葉面とは裏腹にその表情はどこか嬉しそうで。きっとそれはプロに勝ったという結果、そしてそれを達成する事が出来た自分を本当に誇らしく思っているからなのだろう。

 

「何も不思議じゃないさ。ここ最近の奈瀬の成長ぶりは本当に凄いからな」

「うん、ボクも最近はずーっと負けっぱなし。それに先生も誉めてたよ?」

「た、たまたまだって! 勝った対局だって終盤に相手のミスがあったからで……」

 

 そして続けざまに寄せられた伊角さんとフクの誉め言葉に、今度は顔を赤らめながら手をブンブンと横に振る。

 奈瀬さんの実力、そして成長を皆が認めてくれている。彼女の努力を間近で見てきた私にとっても、まるで自分の事の様に嬉しかった。

 

「くっそー、オレも惜しかったんだけどな。……ま、とにかく伊角さんに星川! 二人とも頑張ってくれよ!」

「うん。もちろん頑張るよ!」

 

 悔しい気持ちを滲ませながらも、勝ち残った私達へ和谷は純粋に応援してくれる。その言葉に私は力強く返事をし、改めて気合いを入れ直した。もう院生は私と伊角さんしか残っていない。私達が院生の代表なんだから。

 

「ああ、オレも頑張る……と言いたい所だが」

 

 しかしどうも伊角さんの歯切れは悪い。そして、その理由を付け加える様に本田さんが口を開いた。

 

「まあ、伊角さんは3回戦の相手が倉田さんだもんな。オレも少しだけ見たけど、やっぱあの人滅茶苦茶強いぜ。芦原さんだって若手の中じゃ強い方なのに」

 

 ……そっか。伊角さん、次が倉田先生なんだ。

 

 私も自分の2回戦を終えた後、奈瀬さんと共に彼の対局を見に行った。しかし残念な事に、私達が盤面を覗き込んだ時には既に碁はほとんど終わっていた。……終局という意味では無く、倉田先生の圧倒的優勢、そういう意味でだ。

 

「全く本因坊リーグに入る様な人が何で若獅子戦なんかに出てくるのよ」

「棋力と段位は関係無いって、ホントあの人の為に有る様な言葉だよな」

 

 奈瀬さん、本田さんの言い分ももっともだ。大会的にも正直場違いと言うか、不釣り合いなレベルの棋士だと思う。

 昇段規定が大手合制の現在だからこそ四段という現状に甘んじているだけで、彼の実績を考えれば文句無く高段クラスの強さだろう。

 

 ちなみに私のいた未来の世界では、この時代の昇段規定である大手合制は既に廃止され、棋戦成績や獲得賞金によって段位が上がっていくシステムに変わっている。

 一例として、本因坊リーグに在籍する六段以下の棋士は七段に無条件昇段する規定があり、その例に当て嵌めるならば既に七段になっているはずの倉田先生は、若獅子戦の出場資格を失う事になるのだ。

 

 まあ付け加えると、リーグ入りどころか本因坊を持ってる人がこの大会に参加している訳なんだけど、もちろん彼らはそんな事知る由もなく。

 ……改めて考えると、私も大概場違いな気がしてきたよ。

 

「そんなんでどーすんだよ伊角さん! 星川も何とか言ってやれって!」

「え? ……わ、私?」

 

 一人物思いに耽っている中、相変わらず何処か気合いが入りきらない様子の伊角さんに対し和谷が不満の声を上げ、唐突に私に話を振った。その言葉に他の皆が一斉に私に視線を集める……今や院生トップとなった私の言動に期待を込めて。

 

 ……何とかって言われてもなぁ。まあ厳しい相手だろうけど、ここにいる全員がいずれはプロになって、そういった人達を倒して行く事を目標としているんだ。確かに相手に呑まれてる様じゃこの先戦って行けるはずもないよね。

 仕方ない。ここはプロの先輩として、1つ私の意気込みって奴を披露してあげましょうか。

 

 コホンと一つ咳払いをし、私は改めて皆に向き直って……宣言した。

 

 

「相手が誰でも関係無いよ。少なくとも私は……優勝するつもりなんだから!」

 

 

 果たして私の言葉に対する5人の反応は、一様に目を丸くするばかりで。

 

「あ、あれ?」

 

 拍手喝采を予想していた私は、反して訪れた静寂に1人戸惑いを隠せずにいた。

 

「そう言えばアンタそんな事言ってたわね……」

「振っといて何だけど、オレも流石にそれは予想外だったわ……」

「ゆ、優勝は行き過ぎじゃないか?」

「なあ星川、若獅子戦の院生最高成績知ってるか?……準優勝、しかも院生時代に倉田さんが叩き出したんだぜ」

「すごいや星川さん!」

 

 そしてその視線は期待から呆れに変わり、同時に立て続けに浴びせられる言葉達。フクの一言だけが私の唯一の救いだった。

 

 ……くっ、揃いも揃って。確かに私と皆じゃ意識が違うのは仕方ないことだけど、これじゃまるで私が非常識みたいじゃないか!

 

 堪らず私は異を唱えようとするも、それを遮るように奈瀬さんがため息混じりに口を開いた。

 

「ま、この子が言いたいのは優勝するくらいのつもりで戦いなさいって事よ。そうでしょ、彩?」

「そ、そうだよ! それそれ!」

 

 そう、私が言いたかったのはまさにそれだ。大事なのは勝利への意思、勝ちに行く気持ちが無ければ始めから勝負を捨てているのと一緒なんだから。

 

「……でも、確かにそうだな。むしろ折角倉田さん程の人と戦えるっていうのに、こんな気持ちで臨んだらもったいないよな!」

「そうだよ伊角さん!」

「ありがとう星川。何だか吹っ切れたよ」

 

 伊角さんもそれを理解してくれた様で、先程までとは打って変わり、私の言葉に力強く答えてくれた。

 

 ……よかったよかった。これで私の面目も立ったかな。奈瀬さんには感謝しないと。流石私の親友、何だかんだ言いながらもやっぱり奈瀬さんは私の気持ちをわかってくれてるんだね!

 

 これでようやく一段落。晴れて私達二人は明日の3回戦、そしてその先への勝利を胸に誓い……

 

 

「まあ彩自身は本気で優勝するつもりみたいだけど。……何たってアンタには優勝を目指す理由があるんだもんねー?」

 

 あ、あれ? 何か様子が……

 

「ねえ皆聞いて? 彩ったら実は優勝賞金を……」

「……ちょ、ちょっと奈瀬さん!?」

 

 

 

 いくら勝利への意識を説いたところで、その根底に物欲が有る事をバラされてしまっては説得力もクソもない。

 

 全くもって台無しだった。




大手合:プロにおける昇段の為の手合。この成績によって段位が上がっていく。2003年~2004年にかけて大手合制度は廃止され、タイトル獲得を始めとする棋戦成績や、賞金ランキングによって昇段するシステムに変更された。

本因坊リーグ:七大棋戦の一つである本因坊戦における、予選を勝ち抜いた上位8名で行われるリーグ戦。この成績によって挑戦者が決まる。


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18話

4話の白川先生の対局評、10話の他院生への主人公の対局心構え、このへんに加筆修正を加えました。お手数お掛けします。


「……ここまでだな」

 

 父がアゲハマを盤上に置く。投了の合図だ。

 

 張りつめていた神経が一気に緩む。難しい碁だった。盤面全体に広がる激しい戦いだったけれど、何とか勝ち切ることが出来た。自分でも納得の一局だ。

 

「……力を付けた。明日からは2子で打ちなさい」

「本当ですか!?」

 

 その言葉に思わず頬が緩むのを抑えきれなかった。

 父はボクがこの世で最も尊敬する棋士。他の誰にどれだけ誉められるよりも、父に認めてもらえる事こそがボクにとって何よりも誇らしく、何よりも自身の成長を実感できる事だったから。

 

 そしてそれは同時に、自分が追い求めてやまない彼女との距離が確実に縮まっている事も意味していた。

 ボクは今まで一度も彼女に勝った事はない。悔しいけれど自分よりはっきり格上の打ち手、そう認めざるを得ない。

 だけど決して手の届かない相手だなんて思った事は無い。圧倒的な力の差を感じている訳でも無い。事実彼女と打った対局において限り無く勝ちに近づけた、自分の刃が彼女の喉元まで迫っていた、そう実感した時だってあったのだ。

 このまま研鑽を積めば、彼女に勝てる日だってきっと遠くないはず。そしてその時こそ胸を張って言う事ができるんだ。自分は彼女と対等であると。……共に高みを目指すライバルなのだと。

 

 会心の一局。そして置き石の減少という目に見える形での成長の実感。内心喜びで溢れ返っていた自分とは裏腹に父の表情は対局中と変わらず厳しさを保ったままだった。

 まずい、浮かれすぎてしまったか。反射的に綻んだ表情を正す。しかし結局そんなボクの様子に何か言うわけでもなく、父は無言で碁石を碁笥に戻すと、一息置いて口を開いた。

 

「……今日はまだ時間があるな」

 

 その言葉に時計を見上げると朝の6時を少し回った所。確かに学校の支度を始めるまでにはまだ少し時間がある。

 今日の様に対局が早く終わった日には父は決まって初手から並べて検討をしてくれていた。だから今日もいつもの様に検討が始まるのだろうか、そんな風に思っていた。

 ……しかしそんなボクの考えを他所に、父は両方の碁笥を自分の手元に置くと、静かに黒石を掴み右上の小目に放つ。

 

 ……小目? 検討じゃないのかな。

 

 その一手を見た瞬間に今から父が並べるのは今日の対局ではないのだと察した。先程の一局は3子での置き碁であり、置き碁は星に石を構えて始まるからだ。

 

「数ヶ月前の私の実戦譜。白が私……黒の定先手合だ」

「定先……ですか?」

 

 定先という言葉に少なからず違和感を覚える。どれだけ棋力や段位に差があろうと基本的にプロの対局は互先。例外なんて逆コミが発生する新初段シリーズくらいのものだ。つまりこの対局は非公式での一戦という事になる。

 

 ……それにしたって妙だ。プロの対局でなければこれはアマとの一局だとでも言うのだろうか。身内贔屓抜きに、囲碁界の第一人者である父と定先で打てるアマなんて……

 

 そんな事を考えている間にも父は一手一手を味わうかのように碁盤に石を並べていく。……そこからは正に驚きの連続だった。

 

 

 プロはおろか、おおよそ腕に覚えのあるアマなら誰も使わないであろう古の布石で、攻め込む白を見事に出し抜いて見せた黒の打ち回し。

 白も負けじと、緩着とすら思えた一手で逆に黒の隙を誘い形勢を盛り返す。

 正に名局と呼ぶに相応しい一局。そして盤面に石が一手放たれる度に、序盤からずっと感じ続けていたある疑惑が徐々に膨らみ続けていく。

 

 ……父とここまで打てるアマチュア、他に思い当たる人物なんて……でも、ボクの知っている彼女は決してこんな打ち方はしない。もっと石の形に対して素直で、攻守のバランスに優れた、正統派という言葉が相応しい打ち手だ。少なくともボクと打ってきた対局の中でこんな打ち筋は見た事がない。

 

 違う。彼女じゃない。……そう自分に言い聞かせながらも、どうしても疑惑が拭い切れない。

 ――黒の一手一手に彼女の指先が、その姿が重なる。理屈じゃなく本能が、黒の正体をボクに語りかけてくるのだ。

 

 答えは出なかった。結局ボクが選んだのは、目の前の人物に……この一局の真実を知る父に問う事。

 

 

「お父さん、この黒は……まさか……!」

「ああ、彼女……星川彩だ」

 

 やっぱり――。その答えに納得する一方で、どうしても理解できないと思う自分もまたいた。

 ……何故父と星川さんが? 何よりこの打ち筋、まさか彼女は……

 

「棋院で偶然対局の機会を得る事が出来た。最も、半ば強引にこちらが引っ張り込む形となってしまったのは彼女には申し訳ないと思っているが……」

 

 未だに思考の整理がつかない中、父はそう口にすると引き続き碁盤に石を並べ始める。聞きたい事はまだあった。それでもこの対局の一手一手すら見逃してなるものかと、ボクもまた再び盤面に意識を戻す。

 

 終盤に突入し、盤面ではいくらか黒が良さそうだった。彼女のヨセの正確さはボクも良く知るところ。例え父が相手だとしてもここから黒が取り零すとは思えない。そんな最中、黒が放った次の一手に思わず驚きの声を上げてしまう。

 

「打ち込み!? このタイミングで……?」

 

 確かに白も少なからず味が悪そうな所だ。だけどもし失敗したら黒だってタダでは済まない。名人の父を相手に、折角の勝勢の碁で、こんな一か八かの勝負を仕掛ける理由なんて……

 

「……彼女は自分が優勢などとは思っていなかったんだろうな」

 

 もちろん父のその言葉が、彼女の形勢判断の悪さを指摘するものでは無いという事は明白だった。

 

「互先……」

「ああ。彼女は私を相手にコミまで出そうとしていたのだ」

 

 

 その後は両者際どい戦いを展開したものの、一手差で攻め合い白勝ち。持ち込みの弊害が大きく黒の投了となった。

 結果的に彼女は賭けに失敗し自ら勝ちを手放す事となってしまった。けれど、この一局から伝わってくる彼女の想いの前ではそんな事余りにも些細な話だった。

 ……アマの少女が本気で名人を倒そうとした。彼女は、塔矢行洋さえも射程に捉えていたのだから。

 

「この一局は今日と大差無い2時間弱で打たれたものだ。仮にこれがプロの公式戦だったら、持ち時間8時間の名人戦タイトル手合だったとしたら、同じ結果にはならなかったかもしれんな。無論私とてその状況ならば1時間……いや、2時間を費やしてでも彼女の布石の意図を読み切って見せる。少なくとも、ここまで見事に手玉に取られたりはしないさ」

 

 笑みを湛えながら子供の様にそう口にする。それは父が彼女を自分と対等の棋士だと認めている証でもあった。

 ……正直嫉妬を抑えきれなかった。ボクの最も尊敬する棋士にそこまで言わせた彼女に。

 

「その様子だとお前は知らなかったみたいだな」

「……はい」

「これが彼女の真の力だ。お前は、彼女を見損なうか?」

 

 自分を相手に、全力を出していなかった彼女を……?

 

 ……違う。憤るとすれば、彼女の全力に足り得なかった自分の不甲斐なさに。見損なうとすれば、もう少しで手が届くなんて勘違いしていた自分の認識の甘さにだ。

 何がライバル、彼女もまた遥か雲の上の打ち手だったというのに。彼女と肩を並べるには、父を越える程の覚悟が必要だったのに……!

 

 同時に悟った。父の言葉の意味、そして何故今この一局を自分に見せたのかを。

 父は見抜いていたのだ。先程のボクの緩み、3子局にも関わらずどこか満足してしまったその心の内を。

 そんなボクに問いかけているのだ。これ程までの彼女の実力を知って、尚も追いかける覚悟がお前にはあるのかと。

 

 ……確かに彼女は自分の想像以上の打ち手だった。彼女に追い付く、それが並大抵の事じゃないのも改めて痛感させられた。だけど……!

 

「……ボクの想いは変わりません。たとえ星川さんがお父さんと同格だったとしても、それすら望むところです。……ボクの目標は、お父さんを越えていく事なんですから!」

 

 父を、そして彼女を越える。それは囲碁界の頂点に立つ事と同義。

 ……それでも構わない。同年代にこれ程までの打ち手がいる、そんな人を追いかけて行ける。それこそが今までボクが望んで止まなかったものなんだから。

 

「……そうか。それが聞けただけでも、この一局を見せた甲斐があったな」

 

 そう言って微笑む父。それは父が滅多に見せる事のない、自分を認めてくれた時の表情そのものだった。

 

 

 ―――

 

 

「おや、その一局は……どうやらアキラ君もようやく教えてもらえたみたいだな」

「緒方さん……」

 

 碁会所の片隅で父と星川さんとの一局を並べていたボクは、不意にかけられた緒方さんの声で意識を盤外に戻した。

 

「魅力的な一局だろう? 俺も幾度と無く並べ返したものさ。……先生に聞いたのかい?」

「ええ。……そういえば緒方さんはこの一局を知っているんでしたね」

 

 自分が知っている事を自慢するような、そして今まで知らなかったボクをバカにしているような、そんな表情が気に触り無意識にトゲのある返事になってしまう。

 この人はいつもそうだ。余裕ありげにボクを子供扱いし、何処かからかう様な態度を取る。

 付き合いももう随分長いし、恐らく打ってもらった回数も父の次に多い。棋士としては尊敬できる人だけど、彼のそういった人柄だけは未だにどうしても好きになれなかった。

 

「そう睨むなよ。彼女から聞いていなかったのは意外だが、まあとりあえず良かったじゃないか。それに今日はそんな事を言いに来た訳じゃないんだ」

「……別に睨んでなんかいませんよ。それで用件は何です?」

 

 相変わらずの態度にやれやれといった様子で緒方さんは肩を竦める。

 

「今日と明日、棋院での若獅子戦に彼女が出場しているんだが、アキラ君は知っているかい?」

「っ……それくらい知ってますよ」

 

 バカにするなという気持ちを必死に抑えながら努めて冷静にそう返した。

 ボクだって彼女から聞いている。今週若獅子戦がある事を、そして彼女がそれを本当に楽しみにしている事を知っているんだ。

 

「何だ知っているのか。……それで、キミは気にならないのかい?」

「……若獅子戦は一般公開されていないハズですが」

 

 叶うならば是非とも見に行きたかった。学校を休んででも、プロと彼女の対局をこの目で見届けたかった。しかし若獅子戦は関係者以外には公開されていない。一般の人間であるボクは会場には入れないのだ。

 

「俺は今日少しだけ覗いてきたんだが、順調に勝ち上がっているみたいだぞ」

「……何が言いたいんです?」

「だから睨むなよ。……見たくないか? 彼女の本当の力」

「……えっ?」

 

 緒方さんのその言葉にボクは勢いよく顔を上げた。今までの不貞腐れた態度とは一変しての興味津々な様子に、緒方さんは大層愉快そうな表情を見せる。ボクにとっては何とも不愉快な話だけれど、今はそれ以上にその言葉の意味が気になって仕方なかった。

 

「彼女の準決勝の相手が倉田らしいんだ。倉田が相手ならば彼女は打つんじゃないか? ……この一局の様な、本気の碁を」

「……見れるんですか?」

「まあ余り褒められた事ではないが、特別に俺の知り合いって事で会場に入れてやっても……」

「行きます! お願いします緒方さん!」

 

 その言葉が終わらない内に食い気味に声を上げた。面食らった様子の緒方さん、そして何があったのかと周りのお客さんがこちらに視線を集めるも、今はそんな事を気にしている場合では無かった。

 

 今朝、父にこの一局を見せられてから気持ちが昂って仕方なかったのだ。聞きたかった、彼女が語るこの対局、その一手一手の意味を。頭を下げてでもお願いしたかった、全力を以ての自分との対局を。……そして、どうしても彼女に伝えたい事があったから。

 もはや次に彼女と打てる日まで我慢できるか解らない。そんな中での緒方さんからの提案はまさに渡りに舟……ちっぽけなプライドなんて一瞬にして吹き飛んでしまった。

 

「そ、そうか。まあ俺もそれなりに無理を通さなければいけない訳で、そこの所をしっかり……」

「ありがとうございます! 本当に感謝しています!」

「……いや、わかっていればいいんだ」

 

 またも食い気味に感謝の言葉を返す。何やら期待外れな表情を見せる緒方さんの姿も、もはや今のボクにとってはどうでもいい事だった。

 

 

 ―――

 

 

 若獅子戦2日目。私は順調に3回戦も勝利し、準決勝にコマを進めていた。若獅子戦において院生が入賞圏内まで勝ち上がる事はやはり稀らしく、院生のみならずプロ棋士の私への注目度も少なからず上がっているように思う。

 あと1つ勝てば院生最高記録の準優勝。しかし、やはりそこに立ち塞がったのは今大会の優勝候補最右翼、3回戦で伊角さんの健闘を跳ね退けてきたこの人だ。

 

「フーン、やるじゃんキミ。よくここまで勝ち上がってきたねー」

「ど、どうも……」

 

 倉田厚四段。ふくよかな体型に、子供の様なおおらかな雰囲気。おおよそトップ棋士ならではの威圧感など微塵も感じないものの、その振る舞いも自信の現れなのだろうか。実績は既に若手の中では頭1つ2つ飛び抜けており、今最も注目されている棋士の一人だ。

 

「でも悪いけどここまでかな。キミが勝っちゃったらオレの持ってる院生記録に並ばれちゃうもんな」

 

 実際私が目指してるのは優勝の一点のみであり、言うならばその先の優勝賞金で碁盤を手に入れる事なのだ。正直院生記録も通過点の1つに過ぎないと言うか、むしろ記録自体には全く興味が無いんだけどね。

 

「……いや、違うか。オレに勝つ様なヤツだったら絶対に優勝するだろうし、記録塗り替えられちゃうって事か。ハハハ!」

 

 ……それにしてもすごい自信だなぁ。いやまあ確かに周りと比べてそれくらいの実力差はあるんだろうけど……そんな大声で言わなくても。

 

 すぐ隣ではもう1つの準決勝の対局者が苦笑いを浮かべている。そんな事も気にせずに大っぴらに発言してしまう辺り、どこか抜けてると言うか……子供と言うか。

 

「それにオレには優勝しなきゃいけない理由があるんだからな!」

「理由、ですか?」

 

 それまで愛想笑いを返し続けていた私だったけれど、その言葉に思わず聞き返してしまう。倉田先生程の人が若獅子戦なんかにどんな思い入れがあるのか、素直に興味を持ったからだ。

 

「ふふーん、聞きたい?」

「……え、ええ。差し支えなければ」

「全くしょうがないなー」

 

 よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりの倉田先生にそう返すと、彼はその体を遺憾なくふんぞり返しながら、またもや声高らかに宣言した。

 

 

「若獅子戦の優勝賞金でその日の晩メシを奮発する! オレは毎年そう決めてるんだ!」

 

 ……あ、いました。私以外に賞金目当ての人が。

 

 

 ―――

 

 

 院生で唯一勝ち残った私の応援の為に、ほとんどの院生がこちらの試合に集まってくれていた。

 

「彩、頑張ってよ! 伊角くんのカタキ取ってあげてね!」

 

 真後ろに陣取る奈瀬さんの激励の言葉に私は小さく頷くと、一つ息を吐いた後、小声で彼女に語りかける。

 

「奈瀬さん、今回の私の一局なんだけどさ……あんまり参考にしないで欲しいんだ」

「え? それってどういう……」

「約束……ね?」

「ちょ、ちょっと……」

 

 何か言いたげな奈瀬さんに小さく微笑むと、私は改めて盤面に振り返り静かに目を閉じた。

 

 

 思い返すのは最後に全力で戦った記憶。塔矢先生との一局。

 あの時の敗着はわかっている。最後に打ち込んだ手じゃない。そうせざるを得なくなってしまった原因、先生のボウシに対して受けてしまったあの手だ。

 本来の私の碁はあそこで守りに入るような碁じゃなかった。もっと強気に戦う碁のはずだった。

 未来の布石を使って、降って湧いたアドバンテージ。それを守ろうとするあまり、思わず目先の利に飛びついてしまった。……そうすることが最善なのだと、錯覚してしまっていた。

 

 それ以前に、あの場で未来の布石を使ってしまった事自体が既に呑まれていた証拠なのかもしれない。あんな形で得たアドバンテージに何の意味も無い事なんてわかっていたはずなのに。そんな小細工なんかせずに五分の勝負を選べば結果は変わっていたかもしれないのに。

 

 悔やんでも悔やみ切れなかった。せっかくの塔矢先生との一局が、私の下らない欲のせいで台無しになってしまったのだから。

 だからこそ私は決めていた。この一局において私はあの布石は使わない。正々堂々、正面から倉田先生にぶつかってやるんだと。

 勝利だけを求めるなら使うべきなのかもしれない。塔矢先生すら出し抜いたあの布石ならば、きっと倉田先生にも効果があるはず。それでも私は……もう後悔したくなかったから。

 

 ……ごめんね囲碁部のみんな。でも、私は絶対に勝って見せるから。

 

 

 心の中で謝罪の言葉を呟きながら倉田先生とニギリを行う。

 

 ――黒を持ちたいな。

 

 そんな考えに呼応するように、回ってきたのは先番。私の棋風におあつらえ向き。

 意識がどんどん盤面に沈んでいく。周囲の喧騒も、何も聞こえなくなっていく。

 

 ……うん、いい感じだ。何だか良い碁が打てそうな気がする。

 

 

 行くよ倉田先生。これが私の全力の碁。

 

 これが……世界の碁だ!

 



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19話

「緒方さん、急いで下さい! 早くしないと対局が……」

 

 棋院に到着し、掲示板に示された若獅子戦の会場を確認する。時刻は既に午後2時を回っていた。

 

「やれやれ……わざわざ学校まで迎えに行ってやったと言うのに、随分な扱いだな」

 

 一目散に駆け出したボクに一足遅れて、溜め息混じりの緒方さんが追い付いてくる。自分勝手な言い分は重々承知、それでも今は一刻を争う状況なのだ。

 

 本来ならば午前に行われている3回戦から見に行くつもりだった。しかし不運な事に今日も学校があり、ボクの必死の懇願も虚しく両親から欠席の許可は下りなかった。土曜日故の半日授業であった事が不幸中の幸いだろうか。

 当然授業など耳に入るはずもなく頭の中は大会の事で一杯だった。そして学校が終わるや否や、予め迎えをお願いしていた緒方さんの車に乗り込み、ようやくこの場に辿り着いたという訳だ。

 

 

「いいか? 一応話は通してあるが、本来なら部外者が入れる場所じゃないんだ。くれぐれも気を付けるんだぞ」

「はい、わかっています」

 

 会場の扉の前で念を押すように緒方さんがそう口にする。もちろんボクとてここまで自分の為にお膳立てしてくれた彼の顔を潰す気など毛頭ない。目立たない様に会場に入り、後は素知らぬ顔で院生の中にでも紛れ込んでしまえば、少なくとも対局中に何かを言われる事もないハズだ。

 

 意気込んで扉を開けたボクの耳に飛び込んできたのは、静まり返る会場内に高く響く石音。一部の大会関係者や編集部の人達を除き、多くの人達が2つの対局席を囲んでいる事から、今まさに準決勝が行われている事を察する。そしてその席の1つに彼女、星川さんの姿を遠目ながらも確認したボクは、彼女が勝ち残っている事に安堵しながらも、直ぐ様その場に駆け寄っていった。

 

 ……良かった、まだ始まったばかりみたいだ。

 

 盤面の進行具合はまだ数手程。とりあえずここまでは特に目立った動きは無い。

 対局中という事もあり、幸い自分の存在が目立っている様子もない。予定通り院生と思われる子供達の中に紛れ込み、改めて星川さんに目を向ける。……そしてその瞬間、ボクは全身を駆け巡る寒気にも似た感覚に襲われた。

 

 ……いつもと雰囲気が違う。何て集中力だ。意識が完全に盤面だけに向けられている。

 

 まるで彼女の席だけ、空間だけが周囲から隔絶されている様な。鳥肌が立つ程に美しく、研ぎ澄まされたその姿に思わず息を呑み、そして同時に確信する。

 遂にボクは、彼女の全力をこの目に焼き付ける事が出来るのだと。

 

 

 ―――

 

 

 ――私は特別な事なんかしてないよ。全部教科書に書いてある様な手、誰にだって打てる。……だからね、奈瀬さんにも私と同じ事が絶対出来る筈だよ。

 

 

 いつだったか彩がそんな事を言っていたのを思い出す。まさにその言葉を体現するかの様に、彩はいつだって明確な好手を繰り出していた。素直で真っ直ぐで、決して難解な手を打っている訳じゃないのに、きちんと考えれば私にだって思い付きそうな手なのに、その繰り返しで気が付けばリードを奪っている。自分から突き放しているのではなく、相手がミスをした分だけその差が広がっていくんだ。

 それはまるで基本の大切さを相手に語りかけるかの様な碁。それこそがこの3ヶ月間ついに院生の誰にも負ける事の無かった、私がずっと目標にしてきた彩の強さだった。

 ……だけど、今目の前で繰り広げられている囲碁は、私の知るそれとは全くの別物だった。この碁を打っているのが彩なのか、本気で疑ってしまう程に。

 

 あれ程基本に忠実だった彩が、形振り構わず相手の石に襲いかかっている。自分だってウスイのに、形だって悪いのに、お構い無しに断点を突いて、強引に戦いに持ち込んでいる。少なくとも今までの彩は、こんな形で一局を作るような事は絶対にしなかったはずなのに。

 盤上に広がる激しい戦い、言うまでもなくこの状況を作り出したのは彩本人だ。ギリギリまで踏み込んだ……むしろ深入りし過ぎ、悪手とすら思える好戦的な手の数々。当然倉田先生は反発する。こんな手を成立させてなるものかと。戦いの碁になるのは必然だった。

 正直言ってらしくない、無謀だと思っていた。院生ならまだしもプロを相手に、倉田先生を相手にこんな碁が通用する筈がないと。実際、形勢は白が良いように見える。はっきり黒のやり過ぎ、勇み足のように感じた。

 何より、私が今まで目標にしてきた彩の碁は決してこんな無鉄砲なものじゃなかったから。倉田先生を相手に舞い上がってしまったのか、それとも正攻法では敵わないと踏んでのヤケクソか。どちらにしろ彩らしくない、それが私の見解だった。

 

 それでも、私はどうしても納得出来なかった。いくら彩が強くても流石に分が悪い一局だってことは十分わかってる。こんな期待を懸けるのが無責任な話だってのも承知の上だ。……だけど私には、彩がこのまま為す統べなく負けるなんて、どうしても信じられなかったんだ。

 

 ……きっと何かあるはず。これは只の荒れた碁なんかじゃない。……だって打ってるのは、他ならぬ彩なんだから……!

 

 藁にもすがるような、そんな想いを抱えながらも戦いは進み、やがて終局が近づいていく。

 ――果たしてそこには、恐らくこの場にいる全ての人達の想像を裏切ったであろう光景が広がっていた。

 

 

 

 ……飲み込まれてしまったと思っていたあの時のサガリが、白の目を奪ってる。それだけじゃない、部分的に損な隅のワカレも、まさか全部この時の為だったって言うの……?

 

 悪手だとすら思えた数々の手、それらの意味がようやく氷解した。白の前に明確な意思を持って立ち塞がる黒石、全ては中央での戦いに備えてのもの。まるでパズルの答え合わせを見ているかのようだった。

 一体いつから? 彩にはいつからこの絵が見えていたのだろうか。仮にこの展開全てを彩が読み切っていたとしたら……そう考えるだけで鳥肌が立つ。

 

 対局中にも関わらず俄に周囲がざわめき始めた。院生がトッププロを倒そうとしている、その光景が信じられないと言わんばかりに。

 

「嘘だろ……形勢が、ひっくり返った?」

「倉田の手に悪手らしきものは無かったよな? 偶然とは言え、このままだと……」

 

 違う。偶然なんかじゃない。思い返せば対局前に彩が私に微笑むその表情、それは決して投げやりになっている人間のものじゃなかったから。この碁こそが彩の本質……間違いなくこの碁は、彩の信念の基に打たれていたのだ。

 

 そして、自分よりも年下の子が打つ、おおよそ自分の理解を遥かに上回る一局を前に、いつしか私の中にある感情が芽生え始めていた。

 リスクを恐れずにギリギリまで踏み込む勇気。複雑極まりない戦いの裏に隠された、底が見えない程に深い読み筋。

 胸が高鳴る、目が離せない……!

 それは今の私の目指す碁とは全く違うのに。ううん、今の私なんかじゃ到底辿り着けない領域だからこそ、とても眩しくて、力強くて……美しかったから。

 

 

「カッコいい……」

 

 

 光り輝く指先から、黒石が力強く盤面に放たれる。白の息の根を止める一手。

 まるで私の呟きを掻き消すかのように、そしてこの対局の終焉を見る者全てに知らしめるかのように……一層甲高い石音が、会場に響いた。

 

 

 ―――

 

 

「……ありません」

 

 盤面に吸い込まれていた意識が次第に景色を取り戻していく。目の前には頭を下げる倉田先生の姿があった。

 

「……ありがとうございましたっ」

 

 私もまた深々と頭を下げ、この一局を共にした彼に最大級の敬意を込めて感謝の言葉を返す。

 

 ……キツかったな。すごい戦いになっちゃった。はは、人の事言えないや。

 

 私の頭の中には先日のヒカルと三谷くんの対局が浮かんでいた。もちろん今回はそれとは比べ物にならない程に深い読み合いがあったのだけれど……本質的には大差無い、はっきり言って意地の張り合いだった。

 私も倉田先生も最後まで妥協しなかった結果がこの碁。白の大石を仕留める形での中押し、しかし内容は正に紙一重、僅かの差で私が読み勝ったに過ぎないのだ。

 未来の高段棋士達とも全く遜色ない手応え、噂通りの実力者だった。そしてそんな人に勝ち切れた自分が今、本当に誇らしかった。

 

 ……勝ったよみんな。私、ちょっとはカッコよかったかな……なんてね。

 

 止めどなく込み上げてくる満足感と、ちょっとした優越感に浸りながら、私はそのまま後ろへ振り返る。

 

 

「…………へ?」

 

 その瞬間、何とも間抜けな声と共に、私の視線はある人物に注視された。何故か顔を赤らめている奈瀬さんではなく……その隣にいる少年。対局前までは間違いなくそこに居なかった、何より元々この場にいる筈がない人。

 

「塔矢……くん?」

「美しい碁だったよ。……父との一局にも負けないくらい」

 

 とても良い笑顔を浮かべながら私の対局を称えるその言葉。予想もしていなかったこの状況、そして全てを出し切った直後の疲弊した思考回路。そんな中で私が唯一出来たのは……

 

「え、と……ありがとう?」

 

 何ともありきたりな言葉を返す事だけだった。

 

 

 

 決勝を前に、会場はちょっとした騒ぎになっていた。

 

「塔矢って……アイツまさか……」

「……塔矢アキラ!?」

 

「あのバカ……」

 

 私が口走ってしまった塔矢くんの名前、そして彼に集まる会場中の視線。囲碁界最強棋士を父に持つが故の宿命か、顔は割れていなくてもその名前はプロアマ問わず浸透している様だった。

 恐らくはこの場に居るのも緒方先生の口添えありきなんだろうけど、流石にここまで大っぴらに部外者である事がバレてしまっては、主催者側としても見過ごす訳にはいかなかったのだろう。

 果たして塔矢くんは強制退室させられる羽目になり、緒方先生もまた頭を押さえながらそんな彼と共に会場を後にする。不可抗力とはいえ、自分の発言からこのような事態を招いてしまったのだろうかと、私は若干の罪悪感を抱えたまま決勝戦を迎える事になってしまった。

 

 ……しかし、幸いそんな感情が対局に影響を及ぼす事はなかった。相手には申し訳ないけれど、はっきり言って決勝戦はほぼ消化試合……それは私の棋力がどうこうという問題ではなく、向こうが勝手に崩れてしまったのだ。

 

 対戦相手は三段の男性棋士。会場中の視線が集まる決勝の場、そして相手は倉田先生を破って勝ち上がって来た院生。そんな状況に萎縮したのか、はたまたプロ棋士最後の砦として、院生に優勝をかっさらわれてたまるかと意気込み過ぎたのか……プロはおろか院生ですら打たれたその瞬間にわかる程の、信じられない大失着を彼は序盤で犯してしまったのだ。

 もはや誰の目から見ても形勢は一目瞭然。彼も挽回しようと必死の抵抗を見せたものの、それすらも悪戯に傷口を広げるばかり。結局100手にも満たない手数での中押し勝ちを収めた私は、晴れて若獅子戦優勝者の称号を手にする事となった。

 

 大変なのはその後。表彰式を終え、さっさと碁盤を買って帰ろうと目論んでいた私だったけれど、そんな事は許されるハズがなかった。

 

「星川くん、この後少しいいかい? いやー、大ニュースだよ! 何たって院生が倉田くんに勝ってしまったんだから!」

 

 院生初の優勝という前代未聞の快挙――仮にそれが一般知名度の低い若獅子戦であったとしても、そんなニュースを編集部の人達が見逃すはずがなかったのだ。

 例年ならば優勝者名と一言二言のコメントが週刊碁の片隅に載る程度らしいのに、何故か私は写真撮影に始まり、挙げ句の果てには大会とは全く関係ない個人経歴まで質問される始末。

 ……囲碁歴や尊敬する棋士ならばともかく、好きな食べ物や得意科目なんか聞いてどうしようと言うのだろうか。

 

 そんなこんなで解放された時には既に6時半。他の院生はとっくに解散したというのに、私だけはこんな時間まで引っ張り回される羽目になり、窓の外を見ればもう日はすっかり落ち切ってしまっていた。

 

 ……つ、疲れた。碁盤は……もう明日でいいや。

 

 正直言って今から何処かに寄り道をする気にもなれず、潔く直帰を心に決める。そうして1階の入り口まで辿り着いた私の目に、一人の少年の姿が映った。

 

 

「お疲れ様。優勝、おめでとう」

「……うん、ありがとう」

 

 彼は足早にこちらに駆け寄ると、改めて私の優勝を称えてくれる。

 

「その、さっきはごめん。騒ぎにしちゃって」

「……あはは、まあ確かに驚いたけどね。来るんだったら言ってくれればよかったのに」

「昨日緒方さんに無理矢理お願いしたんだ。どうしてもキミの碁が見たかったから」

「私の碁? やだなあ、もう何回も打ってる……」

 

「キミの本当の碁を……見たかったんだ」

 

 私の言葉を遮るように、真剣な表情で塔矢くんはそう口にした。

 

 

 ―――

 

 

 ……やっぱりバレてるか。まあ遅かれ早かれ来る事だったんだけどね。

 

 何とも言えない気まずさが襲ってくる。もちろんその原因は、私が彼にこの碁を見せていなかった事。……私が彼に全力を出していなかった事だ。

 我ながら傲慢な話だと思う。次は全力で、なんて言っておきながら自分は本気を出していなかったのだから。……それでも私には、そう出来なかった理由があったのだ。

 

 相手を力でもってねじ伏せるあの碁。それは否応なしに自分との実力差を相手に突きつける事を意味している。同程度の棋力を持つプロならばいざ知らず、アマの子供にそんな事をすれば、相手の自信を根こそぎ奪う事に繋がりかねないのだ。

 この世界で生きていく以上、強い人が上に行く事なんて誰もが覚悟の上だろう。それでもかつて一角のプロだった私の矜持が、プライドが……アマチュアの子供相手にそれをする事をどうしても許さなかった。本来ならば私は彼らと同じ土俵で戦う人間ではない。私のせいで彼らが自信を無くす必要なんてないのだから。

 

 もちろん塔矢先生との対局という事実が残っている以上、いつそれが塔矢くんにバレてもおかしくはなかった。

 けれど、幸い彼がそれを知っている様子はなく……まあ個人的にもあの一局は悔いが残る戦いで、少なくとも進んで人に見せるような代物ではなかったので、問題を先延ばしにしているだけと知りつつも、今の今まで私はその事には触れずにいたのだ。

 

「キミと父の碁、昨日見せてもらったよ。そして今日倉田さんと打った一局……これこそがキミの本当の碁だったんだろう?」

 

 まあそんな事情をバカ正直に言うわけにも行かず。……申し訳ないけれど、気休めながらちょっとした嘘を付かせて貰うことにした。

 

「えっと、あの碁はね……私がプロでの戦いに向けて研究してた棋風なんだ」

「プロでの……戦い?」

「うん。私もこのままじゃプロにはなれても上で戦っていくのはキツイかなって思ってたからね。……塔矢先生もそうだけど、倉田先生相手にまともにぶつかったら流石に分が悪いし、思い切って使ってみたらさ……はは、運良く勝てちゃった」

 

 私自身、プロになれば否応にでもこの碁を使わざるを得なくなるし、だからこそプロになると同時にこの碁を解禁する意味合いも込めて、こういった言い回しをする事にしたのだ。

 

「その……ごめんね? 今まで黙ってて」

「いいんだ。……それにボクだって、それを望む資格なんて無かったんだから」

「……え?」

 

 何処か自嘲気味に塔矢くんは言葉を続ける。

 

「父との一局を見せられた時、今までのキミとは全く違う打ち筋にも関わらず、その碁の中にボクはキミを見た。……多分とっくの昔に気付いていたハズなのに、気付かないフリをしていたんだと思う」

「塔矢くん……」

「キミが手の届かない存在であると認めるのが怖かった。……星川さんの様な人に出会えて本当に嬉しかったハズなのに、心の何処かでボクはキミを恐れていたんだ。そんなボクが、キミの全力を望むなんておこがましい話だろう?」

「そ、そんなこと……!」

 

 ずきん、と胸に痛みが走った。彼の後悔の念が、そしてそんな風にさせてしまった自分に堪らなく嫌気が差して。

 塔矢くんの表情を直視する事が出来ず、無意識に視線が下がる。……情けない。彼にそんな顔をさせてしまったのは、他でもない私自身だというのに。

 

 

「でもね」

 

 そんな私に、今までの何処か悲痛なそれとは違った……確かな意思を込めた声が向けられる。

 

「今日改めて星川さんの碁を見て、キミに伝えたあの言葉は紛れもないボクの本心だよ。本当に美しい碁だった。恐れとか不安とか、そんな事を考えていた自分が恥ずかしくなるくらいにね」

 

 その言葉に自然と顔が上がっていく。塔矢くんは対局直後と全く同じ、本当に優しい表情をしていた。

 

「キミを越えなければ父にも、そして神の一手にもきっと届かないんだろう。……それでもボクの想いは変わらないよ。もうボクは絶対にキミから逃げたりはしない。いつか絶対に、キミの全力に応えられるくらい強くなって見せるから」

 

 真っ直ぐに私を見つめながら、塔矢くんは力強く言葉を紡いでいく。

 

 

「ボクはキミのライバルだと……いつか絶対にそう言って見せるよ……!」

 

 

 胸が詰まる。彼の何処までも真剣な想いが、本当に嬉しかったから。

 

 ……強いなぁ。ホント、敵わないよ。

 

 導く――その言葉の意味を私は履き違えていたのかもしれない。それは決して後ろを振り返りながら手を引く事なんかじゃなかったんだ。そんな事をしなくたって、彼らはきっと追い付いて来てくれるハズなんだから。

 見損なっていた自分が情けないよ。私が思っているよりもずっとこの子達は強かった。後ろなんか振り返ってたら、あっという間に追い抜かれちゃうよね。

 

「……それで、厚かましいようだけどキミにお願いがあるんだ」

 

 そんな中、何処か恥ずかしそうに塔矢くんは私に話しかける。

 

「どうしたの?」

「今からボクと打ってくれないかい? キミの本当の碁で。……父との一局を見せられてから、その……待ち切れないと言うか……」

「……ふふっ」

 

 それまでの大人びた様子とは打って変わった、年相応の素直な要求に思わず笑いが零れてしまう。

 私としても、もちろん今までのお詫びも兼ねて対局する事は吝かじゃないのだけど……

 

「いいよ、って言いたい所なんだけどさ……もう7時過ぎてるし、あんまり遅くなるとお母さんに怒られちゃうから……ゴメン! また今度にしよう?」

「そ、そうだよね。こっちこそ無理言ってごめん……」

 

 表面上は納得して引き下がった様に見えても、滲み出る落胆の想いは隠せていない。何だか申し訳ない気分になり、私は思い付いた様に代替案を提示する。

 

「じゃあさ、明日碁会所に行くから、そこで打とうよ。ね?」

「いいのかい!? わかった、絶対に待ってるから!」

「う……うん。それじゃまた明日ね」

 

 勢い良く詰め寄る塔矢くんに若干気圧されながらも、私もまた明日の対局を心待ちにし、彼に手を振りながら棋院の入り口に向かって歩き出したのだった。

 

 

 

「あれ、そう言えば緒方先生は? てっきり一緒だと思ってたんだけど」

 

「あ、いや……緒方さんは……」

 

 

 ―――

 

 

「この度は大変ご迷惑を……」

「まあまあ……済んだことですから」

 

 ……クソッ、何で俺がこんな事を。あれ程騒ぎにするなと釘を刺しておいたのにアイツは……

 

 事前に許可を取っておいたとはいえ、自分の連れが多少なりとも大会の進行を妨げてしまった以上、責任を取るのが筋というもの。あれから俺は関係者各方面を回り、現在編集部の天野さん、そして院生師範の篠田先生に頭を下げていた。

 

「まあどちらにせよ騒ぎにはならざるを得なかったでしょうしね」

「そう言っていただけると……」

 

 興奮気味にそう口にする天野さんに感謝の言葉を告げ、一先ず顔を上げる。

 

「それにしても緒方先生や塔矢くんまでもが注目していた子だったとは。篠田先生も驚いたんじゃないですか?」

「え、ええ。確かに彼女はまだ底を見せていない感がありましたが……これ程のものとは流石に思っていませんでしたね」

 

 ……底を見せていない、か。

 

 まァ確かにあんな碁を日常的に打ってたら嫌でも騒ぎになる。少なくとも院生レベルでは勝負にすらならない。そうしていなかったのは、恐らくは彼女なりの配慮なのだろう。

 

「いやー、俄然プロ試験が楽しみになってきましたよ! 今年は塔矢くんも出てくるんでしょう?」

「……ええ。本人も気合いが入っているようですし」

「星川くんに塔矢くんか。うんうん、未来を思うと胸が踊りますねぇ。いずれそういった子達が日本を代表する棋士になり、世界で戦って行くんですからね!」

 

 

 天野さんは単純に中韓に押されている日本の現状を憂い、有望な若手の登場を喜んでいるだけなのだろう。

 だがプロ棋士である俺、そして篠田先生は、恐らくその言葉から全く違う想像に至ったはずだ。

 塔矢先生との対局だけでは判断出来なかったが、今日の倉田との一戦で俺は自分なりに一つの答えに辿り着いていた。……俺自身、奴らには何度も辛酸を舐めさせられてきているからな。

 

 

「世界……か」

 

 

 ―――

 

 

「よう倉田、さっきは残念だったな」

 

 ……コイツ、誰だっけ?

 

 後ろを振り返り、自分の名前を呼ぶ声の主を見て単純に浮かんできた疑問がそれだった。

 多分コイツが言ってるのはさっきの若獅子戦の事、恐らくコイツも出場していたプロの一人なんだろうけど、ハッキリ言って全く見覚えがない。

 まあオレは大した事ないヤツの顔まで覚える程物好きじゃないし……つまりはそういう事なんだろう。

 

「お前らしくないじゃねーか。あんな勝ち碁を落とすなんて」

「……勝ち碁?」

「だって途中まで完全に勝ってただろ? 院生相手に気でも緩んじまったのか?」

 

 ……本当にコイツプロか? 一体何を見てたらそんな訳のわからない結論になるんだか。もしかしてオレの事バカにしてんの?

 もはや怒りを通り越して呆れるしかなかった。

 

「ハァ……」

 

 正直付き合いきれない。ため息を一つ残し、オレはそいつに背を向けて歩き出した。

 

 

 入段以来オレは師匠にずっと言われ続けてきた言葉がある。もちろんそれは常に肝に銘じていたけれど、オレ自身まだまだ上を目指す段階で、自分がその立場になるのはまだ先の話だと思っていた。だけど……

 

「スゲェのが来てたんだな……オレのすぐ後ろに」

 

 オレを脅かしに来るのは間違いなくアイツだ。下手したら、来年にもオレのいる場所にまで駆け上がってくるのかもしれない。

 アイツには間違いなくそれだけの力がある。あの一局がマグレなんかじゃない事は、オレが身に染みてわかってるんだ。

 師匠の言ってた通りだった。……本当にコワイ奴は、下から来るんだ。

 

 ……ま、それも悪くないかもな。同期にはオレと戦える相手なんていなかったし、今日は負けちまったけど近い内に間違いなく再戦の時は来る。……次に勝つのは、絶対にオレだ!

 

 

「お、おい倉田!」

 

 決意を新たにするオレに水を差すように、後ろではさっきのヤツがまだ何か言っている。

 ウルサイなぁ。全く何が勝ち碁だよ。そりゃ戦い自体はギリギリの勝負だったかもしれないけどさ。

 

 ……結局あの碁の主導権を握ってたのは最初から最後まで黒。白が良くなった瞬間なんて、一度たりとも無かったんだよ。

 

 

 

 




確かこの当時は完全週休二日じゃなかったような気がします。


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20話

19話に倉田視点を加筆しました。

4/17 20話に加筆修正を行い、小説を再公開しました。ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした。


「大丈夫ですよ。心配しなくてもお金なんか払ってませんって!」

 

 翌週、碁盤を持って部活に参加した私に対し、筒井さんはまずその出所を尋ねてきた。

 私の言った碁盤の『アテ』を、てっきり誰かのお古を貰えるものだと彼は想像していたらしいのだけれど、反して登場したそれは、折り畳みとはいえ新品の碁盤と碁石。

 宣言通りに、そして余りにも都合よく現れた碁盤を前に、下級生にお金を出させるのを躊躇っていた筒井さんとしては、私が自腹で碁盤を購入したのだと勘ぐってしまったのだろう。

 ……まあ厳密に言えば私がお金を払ってるには違いないのかもしれないけれど、それだって言ってしまえばあぶく銭、決して私の懐が痛んだ訳じゃないのだ。わざわざ余計なことを言う必要もない。

 

「ちょっとした大会があったんです。そこで運よく優勝出来たんで、まあその優勝賞品と言いますか……」

「大会って……院生はアマの大会には出場出来ないハズだろう?」

「普通はそうなんですけど、身内の小さな大会と言うか……例外みたいなのもあるんですよ」

 

 私としては『へー、すごいじゃん』 くらいで済ませてもらって一向に構わなかったのだけど、こうやって心配してくれるあたり、改めて先輩としての彼の人の良さを実感する。

 

「とにかく筒井さんが心配するようなことは何もありませんよ。……そんな事より早速部活を始めましょう。夏の大会まで時間が無いんですから」

「……そうだね。ありがとう星川さん。大切に使わせてもらうよ」

「はい。その言葉だけで十分です」

 

 

 何はともあれ筒井さんも無事納得してくれた様で、さて今日はどういった組み合わせで対局を行うのかな、なんて私が思案していた中、筒井さんがある提案を私に持ち掛けた。

 

「じゃあ二面打ちは基本的に星川さんにお願いしていいかな?」

「え、私ですか?」

「うん。棋力の底上げにはやっぱり強い人と打つのが一番良いと思うから」

 

 確かにこの中で一番強い私との対局こそが、最も効率の良い上達への道だろう。指導という点においてもかつてのプロとしての経験が大きく生かされるはず。私が二面打ちをするという事は、それだけ他の皆と私が打つ機会が増えるという事。自分で言うのも何だけど、筒井さんの提案は、皆の棋力向上に関しては実に理に叶ったものだと言える。

 

「わかりました。……でも、とりあえず、ですからね?」

 

 どこか含みのある言い方なのは、いずれ私は皆にも同じ事をしてもらいたいという意図があったから。

 もちろん多面打ちが閃きや勝負勘を養う大きな勉強になるというのもあるけれど……何よりも、単純に私だけがたくさん打つっていうのは少し気が引けたんだ。

 ここは院生やプロの世界とは違う。決して強さだけを追い求めるような場所じゃない。ここでは私だって皆と同じ一人の囲碁部員、だったら実力を持ち出しての特別扱いなんてしてほしくないし、するべきじゃないんだから。

 

 結局、数週間は私が二面打ちを担当し、それからは皆で担当を変えながら対局を行うという方針に決まる。……そうしていよいよ私たち葉瀬中囲碁部の活動が本格的に始まったのだった。

 

 

 ―――

 

 

 ―case1―

 

「あ、あれっ? 石を取ったのに取り返されちゃった!」

「これはウッテガエシって言って、こんな風に外ダメが詰まると起こりやすくなるから、あかりも久美子も覚えておいてね?」

 

 この数日間、碁盤が足りない期間も含めて、私は特に初心者である二人の指導を積極的に行ってきた。もちろん指導と言ってもいきなりあれこれ覚えさせる訳ではない。私が何よりも重きを置いていたのは、とにかく二人に囲碁を好きになってもらうこと。好きな様に打って、結果に一喜一憂して、囲碁の醍醐味である『自由さ』を体感してもらいたかったのだ。

 

 

「ウッテガエシかぁ……ふふ、何かカッコいいかも」

 

 まじまじと盤面を見つめながら何処か楽しそうに久美子が呟く。入部当初は緊張からかおどおどしていた彼女も、相棒であるあかりの明るさに引っ張られるように、次第に部にも馴染んできたようだった。

 

「……あかりも負けてられないね。ほんのちょっとだけど、あかりは久美子の先輩なんだから」

 

 そんな中、隣に座るあかりに私は声を掛ける。同じ時期に囲碁を始めた二人だからこそ、お互いに刺激し合って成長してほしい。

 そういった相手がいる事は何よりも素晴らしい事なんだから。

 

 ……それに久美子を元気付ける為とはいえ、「私が教えてあげる!」 なんて言ってたしね。

 

「う……確かに。私も頑張らないと」

「うん。それじゃ、次は二人で打ってみようか。もう二人とも最後まで打ち切れるはずだよ」

「よーし! 負けないよ、久美子!」

 

 ――囲碁が好きになってほしい。

 彼女達の姿を見ていると、そんな私の願いが多少なりとも実を結んでいる様に思えた。

 

 

「わ、私だって負けないよ! 私のウッテガエシが炸裂すればあかりなんか……」

 

 ……久美子、ウッテガエシ気に入っちゃったのかな? ……まあ確かに決まると気持ちいいけどね。

 

 

 

 ―case2―

 

「ちょっと待て! 何でオレが7子も置かなきゃならねーんだよ!」

「だ、だってそれが私とヒカルの今の手合いだし……」

 

 三谷くんとの初対局を迎え、ヒカルと同じかやや上の実力と見立てた彼に対し7子局を提案したところ……返ってきたのは見事なまでの反発だった。

 恐らく今まで自分よりも圧倒的に上手の相手と戦った事が無いか、あるいはかつてそうだった人達をごぼう抜きにして強くなってきた自信からなのか……そんな彼にとって、自分がいきなり7つも石を置くなんて受け入れられない事だったのだろう。

 

「ぐっ……だ、大体何で進藤と同じなんだよ! まだオレに勝ったことねーのに!」

「まだ、だろ! お前だってすぐに追い抜いてやるんだからな!」

 

 ヒカルも負けじと三谷くんに噛みつく。もしかしたら彼は私相手にどうこうって話ではなく、単にヒカルへの対抗心から同じ手合いを拒んでいるのかもしれない。

 碁打ちは総じて負けず嫌いばっかりだ。そしてそれは決して悪い感情じゃない。強くなるためには絶対に必要な気持ち。……そう言えば私もお父さん相手にそんなワガママを言っていた様な気がする。

 

「院生だか何だか知らねーけど、打ったこともない奴に7子なんて置けるか! 互先に決まってんだろ!」

「おいやめとけって。オレこの前4子で打ったけど、全然歯が立たなかったんだぜ?」

「それはお前だからだろ! ……ま、お前は置きたきゃ置いてもいいんじゃねーの?」

 

 口ではそんな風に言ってるけど、ヒカルが自分と変わらない実力だって事は彼も身をもって知っているはず。つまり私と打つ互先がどれだけ無謀かということも、内心では理解しているはずだ。……ここまで来たら、もはやただの意地なんだろうね。

 そして挑発する様な三谷くんの物言いに、それまで彼を宥めていたヒカルの表情が変わる。

 

「なにーっ! 上等だ、お前が互先ならオレだって互先だ!」

「ちょ、ちょっと、ヒカルまで何言い出すの!? 流石にそれは……」

「おい、始めるぞ星川!」

 

 売り言葉に買い言葉。私も二人に対して幾ばくかの抵抗を示したものの、すっかり盛り上がってしまった彼らは私の言葉なんて聞く耳も持ってくれない。

 

「もう……わかったよ」

 

 半ば諦め気味に対局を承諾し、ニギリを行う。結果は二人とも黒番。

 

「それじゃ、お願いします」

『お願いします!』

 

 声を揃えながら彼らが同時に放った第一手は、またもや仲良く右上スミ小目だった。

 

「真似すんな!」

「オマエこそ!」

 

 ……何だかんだ言いながら、この二人って凄く仲いいんじゃないかなぁ……

 

 

 

 ―case3―

 

「とりあえず筒井さんは……それしまっちゃいましょうか」

「えっ!? で、でもコレ開いてないと不安で……」

 

 文字通り肌身離さず持ち歩いていたのだろうか、相当に使い込まれた定石集。まるでそれが自分の心の支えだとでも言わんばかりに抵抗感を示す筒井さん。だけど、まずそこから離れる事が彼が強くなるための第一歩だ。

 

『定石を覚えて二目弱くなり』なんて格言がある様に、定石は覚えれば良いってものじゃない。使い所を理解していなければ、定石通りに打ったって形勢を損じる事もある。極論だけど、考える事を放棄して単純に真似をするくらいだったら覚えない方が良いとすら思う。

 まずは型に嵌まった、嵌まりすぎたその打ち方から脱却する事。もちろんそういった考え方が目算やヨセという素晴らしい武器を彼に与えたのかもしれないけれど、逆に言えば中盤までの展開にもっと強くなれば、彼の棋力は更に上がるはずなのだから。

 

「大事なのはどう打てば良くなるかを自分でしっかり考えることです。打ちたい手を打って、それで失敗したとしても、そこから得るものは必ずあります。……もうちょっと冒険しても良いんじゃないですか?」

「冒険……か。そうだね、ちょっと怖いけど挑戦してみようかな」

「はい、その方が絶対に楽しいですよ! じゃあ次は金子さんだけど……」

 

 筒井さんの言葉に私は笑顔で頷き、今度はもう一人の対局相手である金子さんに向き直る。そうして解説を始めようとしたその時……

 

 

「ふざけんな! どう見たってオレの方が勝負になってるじゃねーか!」

「何言ってんだ! 三谷なんてオレより5分も早く投了したくせに!」

 

 ……もう、まだやってるよ。

 

 耳をつんざくような大声が頭の隅に追いやっていた二人の存在を再認識させる。

 先程の二面打ちは当然ながら私の中押し勝ちという結果になり、そしてそこから始まったのは……聞いての通りの何とも低レベルな言い争い。私も最初こそ二人の仲裁に入ったけれど、収まる様子がない二人に付き合いきれず、結局そのまま放置して次の対局に向かってしまったという訳だった。

 

「全く本当に子供ね、あの二人は」

「……流石にそろそろ止めた方がいいのかなぁ?」

「別にいいんじゃない? ま、それだけお互い良いライバルって事なんでしょ」

 

 相も変わらずの落ち着き、大人っぷりを見せつける金子さん。二人の事を子供なんて言ってるけど、私に言わせればあなたこそ本当に子供なんですか、って話だ。

 

「こうなったら勝負で決めようぜ! 負けた方が帰りにラーメン奢りだからな!」

「言ったな! ぜってー奢らせてやる!」

 

 遂には賭けまで始めてしまった。……まあラーメンくらいならいいのかな。私もヒカルに持ちかけた前科がある手前、大きな事は言えないし。

 

「心配しなくても、お札を持ち出してやり取りする様な真似したら、アタシがひっぱたいてでもやめさせるわよ」

 

 ……あはは、三谷くん聞こえた? 気をつけないとね。

 

 もはや大人を通り越してお母さんのような貫禄。そんな彼女に頼もしさすら感じながら、改めて二人に目を向ける。

 

 ……でも、確かにこういうのって悪くないのかもね。金子さんの言う通り、きっと二人は良いライバルになれるよ。だって……

 

 

 ――だって、二人ともおんなじくらい大差で負けてるんだから。

 

 

 ―――

 

 

 その週の院生手合い。午後の相手は和谷だった。

 

「……負けました」

 

 和谷が投了を宣言する。盤面に描き出されたその碁の内容は……今までと変わりない、正統派の碁だった。

 塔矢くんには今後本気で打つと約束したものの、やはり誰彼構わずそうやって打つのは躊躇われる訳で、結局私は院生手合いにおいてはいつも通りの碁を打つ事にしたのだ。

 私は院生の皆にも塔矢くんと同様に、若獅子戦でのあの碁はプロに向けての研究中の棋風がツボに嵌まっただけと説明した。……まあ若干苦しい言い分なのは承知の上だけれど。

 

「やっぱりちょっと納得できねーよなぁ……」

「何が?」

「研究中の棋風ってのはわかったけどさ、だったら何で院生手合いで打たねーんだよ? 試すには絶好の場じゃねーか」

 

 やはり今一つ納得し切れないのか、終局後の盤面を睨み付けながら和谷は更に食い下がってくる。しかしある意味当然のその言い分も、私は両手を横に振りながら笑い飛ばした。

 

「あはは、無理無理。絶対使わないって」

「な、何でだよ?」

「見てたらわかるでしょ? あんな危なっかしい打ち方してたら、勝てるものも勝てなくなっちゃうよ」

 

 ちなみにこれは半分本当で半分嘘。あの棋風は自分の読みの限界まで踏み込んだ上で戦い抜く碁。当然少なくないリスクを伴う打ち回しになり、勇み足となって自滅することも決して珍しくない。もちろん院生手合いならばそうそう星を落としたりはしないだろうけど、いずれにせよそういった相手と戦うならば、正統派の打ち方をするのと比べてどちらが勝率が高いかなんて言うまでもないだろう。

 

「私はね、院生で一番になる事がプロ試験を受けさせてもらう条件なんだ。……だから負けられないの。少なくともあの碁が完成するまでは、頼まれてもあんな打ち方はしないよ」

 

 多少脚色しているとは言え、結局私は勝つ為の最善の方法を取っていたのだ。何より全てはプロになるために、プロで戦っていくために。真剣な面持ちでそう口にする私に、結局もうそれ以上の追及が来る事は無かった。

 

 ……額面通りに受け取って貰えたかどうかは怪しいけど……うん、まあこんな所かな。

 

 和谷に気付かれない様に胸を撫で下ろし、ホッと一息つく。

 ……だけどあの碁がもたらした弊害はこれで終わりじゃなかった。実は一番やっかいな問題が、まだ残っていたわけで。

 

 

 

「……で、これが奈瀬さんの今日の碁?」

 

 ため息混じりに盤面に目を向ける。今日の奈瀬さんの対戦相手は二局とも1組下位の子。もちろん絶対とは言わないけれど、決して今の彼女が遅れを取るような相手ではないはずだ。

 

「あはは、流石にちょっとやり過ぎちゃったかなー……なんて」

 

 そんな子達に対しての奈瀬さんの碁は、今までの彼女からは想像もつかない程に何処までも攻撃的で。……その末に、ものの見事にツブれていたのだった。

 

 ……ああ、これはもしかしなくても、そういう事だよね……

 

 明らかに碁が崩れている。本来なら自重するべき時に、今までの奈瀬さんならきちんとそうしていた局面で、まるでブレーキが壊れた車の様に突っ込んで。……原因なんて考えるまでもなかった。

 

「……奈瀬さん、私言ったよねぇ? 参考にしちゃダメだって」

「な、何の事かしら?」

「とぼけたってダメだよ! これ完全にあの時の私の碁じゃん!」

 

 あくまでシラを切る奈瀬さんに対して、思わず声を荒げてしまう。……正直一番恐れていた事態だった。

 

 別にこの碁を勉強する事が悪いと言っている訳じゃない。戦いに強くなるのは良いことだし、その結果負けてしまってもそれもまた勉強だ。……ただ、それをするには余りにも時期が悪すぎるんだ。

 棋風を変えるという事は、今までの固定観念を少なからず壊すという事。個人差はあれど、誰しも必ず結果が伴わない期間が訪れるもの。

 奈瀬さんにそれをさせるわけにはいかなかった。只でさえこの碁は今の彼女には荷が重いというのに、この時期に棋風を変えるなんて自殺行為以外の何物でもない。

 ……プロ試験は、もう目の前に迫っているのだから!

 

「もう……一体どうしちゃったの? 奈瀬さんの碁はプロにだって通用したんだよ。忘れちゃったの?」

 

 私自身、奈瀬さんが私の碁を目標にしてくれている事は薄々感付いていた。だからこそ私は最も明快な強さを、基本を重んじた碁を彼女に見せ続けてきたんだ。そしてその結果、彼女は若獅子戦でプロから一本取るまでに成長した。このまま行けば、プロ試験合格だって決して夢じゃないのに……!

 

 

「だって……しょうがないじゃない……」

 

 いつの間にか顔を伏せ、柄にもなくシュンとしていた奈瀬さんがぽつりと言葉を溢す。

 

「あの時のアンタが、アンタの碁が……凄くカッコよかったんだもん」

「っ……!」

「私もあんな風に、打てたらって……」

 

 目を潤ませながら上目遣いでこちらを見つめる彼女の姿に、不覚にも心が揺れてしまった。

 

 ……ず、ずるい。それはずるいよ奈瀬さん……!

 

 そんな事を言われて嬉しくないはずがない。加えて余りにも儚いその表情、その仕草。まるで私が悪いことをしてしまったかのような気持ちにさえなってしまう。先程まで毅然とした態度を示していた私の心に、静かにヒビが入っていくのを感じた。

 

 ……そこまで言うんだったらちょっとくらい教えてあげてもいいかな、なんて…………はっ! ダ、ダメだ! 今からじゃ間に合わない可能性の方がずっと高い! ……揺れるな私! これは奈瀬さんの為なんだ!

 

「そ、そう言ってくれるのはうれしいけどさ……もうプロ試験まで3ヶ月切ってるんだから、ね?」

 

 脳内で激しい葛藤を繰り返しながらも辛うじて誘惑を振り切り、心を鬼にして彼女を思い止まらせようと決意する。……そんな私に、トドメと言わんばかりに奈瀬さんから爆弾が投下された。

 

 

「棋風を変えるような時期じゃないってことくらい私だってわかってるよ。……でも、どうしてもあの碁が頭から離れないの。あの時の彩の姿が……忘れられないの!」

 

 

 今までの人生で幾度となく男の人から受けた告白、その全てが陳腐に思えるほどに熱く、まるでプロポーズの様なその言葉。

 

 ……む、無理だ。こんな子の想いを踏みにじるなんて、私には……

 

「……でも、アンタに教えを請うなんてお門違いよね。彩だってプロ試験のライバルを強くするなんて事……」

「……えるよ」

「えっ……?」

「もう、教えるよ! 教えるからそんな事言わないで!」

 

 私の決意が崩れ去っていく音が聞こえた。

 

 

 ―――

 

 

「で、何をすればいいの? 早く早く!」

 

 先程とは打って変わって、それはもう嬉しそうに奈瀬さんは催促を繰り返す。……一方の私はその豹変ぶりにため息を溢さずにはいられなかった。

 

 ……教えるって言ったとたんアレだもんなぁ……

 

 私の承諾を得た瞬間、言質取ったりと言わんばかりに彼女は目を輝かせながら顔を上げる。それまで漂わせていた悲壮感、涙、それら全てが一瞬にして彼女の表情からは消え去っていた。詰まる所私は、10歳年下の少女の演技に踊らされていたのだ。

 ……一体さっきの告白は何だったのか。私のトキメキを返してほしい。

 

「もう、そんな顔しないの! 彩の碁に惚れ込んじゃったのは本当なんだからさ!」

「……ハイハイ、ありがとありがと」

「ほ、ほら。今度向かいの喫茶店でケーキおごるから機嫌直してよ!」

「……2個ね」

「うっ……分かったわよ」

 

 何とか奈瀬さんに一矢を報いた所で、私は改めて思考を今後に傾ける。それはもちろん何のケーキをおごってもらうかではなく、彼女にあの碁を教える方針についてだ。

 

 騙されていたのはちょっと癪だけれど、そんな打算とは裏腹に実のところ彼女は相当焦っていたんじゃないかと思う。

 目の前で見た私の碁を真似しようと試みるものの、今日の対局が示す様に結果は余りにも惨憺たるもので。憧れに追い付かない自分の不甲斐なさに歯噛みする中、もう頼れるのは当の本人である私だけ。

 

 ……まあ、しょうがないのかな。一度感銘を受けた碁を忘れろって言うのも、よく考えたら酷な話だし。

 

 自分の打ちたい碁を打たずに我慢する、それは碁打ちにとって何よりも辛いことだ。私が断ったところできっと彼女は同じ様に打ち続けるんだろう。そんな事になったらもうプロ試験どころの話じゃなくなる。……こうなってしまった以上、最後まで責任をとるのがあの碁を見せた私の役目なのかもしれない。

 

「……じゃあ最初に約束して欲しいんだけど、これまで通りの基礎の勉強は欠かさずに続けること。これは絶対だよ?」

 

 念を押すように前置きする。これが一番大切な事。攻撃的で時には常識はずれに見えるあの碁も……と言うよりも全ての碁は基礎から成り立っているのだ。目先の鮮やかさに目を奪われる余り、それを疎かにしては絶対に強くなんてなれない。棋風以前の話だ。

 

「うん、約束する。……それで、肝心のあの碁を身に付けるにはどうすればいいの?」

 

 私の言葉に頷きながらも、待ちきれないといった様子で奈瀬さんは核心に迫ってくる。

 

 本来ならばしっかりと時間を掛けて教えたい所だ。だけど今はその時間がない。プロ試験まで3ヶ月、少なくともその間に何とか形にしなければいけないのだから。

 だったら方法は1つ。時間の許す限り私と打って、あの碁に触れ続けて、彼女自身がその本質を掴むしかないんだ。

 その為には週一回の院生手合いの日だけではどうしても足りない。出来ることなら毎日でも私と打って欲しいくらいなんだけど、実際に会ってそれをするには余りにも私達の生活圏が離れすぎている。

 ……奇しくもヒカルの時と同じ悩み、だけど今回は他に選択肢が無い。こればっかりは運を天に任せるしかなかった。

 

 

「奈瀬さんって……パソコン持ってたりする?」

 

 

 ―――

 

 

「ただいまー」

「お、帰ってきたか! 彩、お前凄いじゃないか!」

 

 部活を終えて帰宅すると、ドタドタと慌ただしい足音を立てながらお父さんが玄関先にやって来た。

 

「え、何が?」

「ほら見ろよ。丸々一面お前が乗ってるぞ!」

 

 そう言ってお父さんが広げた新聞雑誌――週刊碁には、トロフィーを抱えながら直立する私の姿が写っていた。

 

 ……あー、これの為だったんだ。

 

 紙面に目を通せば、あの時何故聞かれたのかと疑問に思っていた一問一答が事細かに書かれている。……それにしても丸々一面とは随分奮発してくれたものだ。

 ちなみに掲載されていた棋譜は準決勝の倉田先生とのもの。……まあ載せるんだったら普通は決勝の棋譜だけど、流石にアレは相手の人に申し訳ないからなんだろう。

 

「いやー俺も鼻が高いよ。娘が倉田に勝ったんだからな! いつの間にそこまで強くなったんだよ!」

「あはは……まあたまたまだよ。うん」

「見ろよここ! 緒方もお前に目を懸けてるそうじゃないか!」

 

 ……変わってないなぁ、お父さんも。

 

 昔からお父さんはプロ棋士に対してミーハー気質な部分があった。やれ誰がリーグ入りしただの、誰が挑戦者になっただの、その情報量は正直プロである私よりも上だったんじゃないかと思うほど。私が有名な棋士に勝った日なんかには、それはもう小躍りしながら喜んでくれたものだ。

 そしてそれはご丁寧にもこの世界仕様の知識に刷り変わった上で、しっかり受け継がれていた様だった。

 

「おい母さん、倉田だぞ! あの倉田に彩が勝ったんだ!」

「あの倉田って……どの倉田さんよ。私がわかる訳ないでしょ。……そんなに凄い人なの?」

「凄いも何も若手のホープだぞ! タイトルだって何時獲ってもおかしくないんだ!」

「ふーん……」

 

 反して囲碁に疎いお母さんは、どうにもお父さんの喜びっぷりをイマイチ理解していない様で。

 

「じゃあ……彩も凄いのね!」

 

 それでも私に目を向けると、浮かれるお父さんを尻目にそう一言笑いかけてくれる。

 

 

 世界が変わっても変わらないこの光景に微笑ましさを感じながら、改めてテーブルに広げられた私の写真に目を向ける。

 

 ……何か、あんまり可愛くないなぁ。

 

 撮影にはそれなりに慣れたはずなのだけれど……柄にもなく緊張したのか、対局後の疲労感も合わさって、何処か引きつった表情の自分に私は苦笑いを浮かべてしまうのだった。




ウッテガエシ:岡村くんの必殺技。決まると楽しい。決められると悲しい。 

※なお本作にGL要素は皆無です。


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21話

 まだまだ万人にネット環境が整備されていないこの時代において、奈瀬さんの家にパソコンがあった事は本当に幸運だった。これで時間さえ合えばいつでも私達は対局が可能だ。彼女に私の碁を教える上での最低条件はひとまずクリアしたと言えるだろう。

 奈瀬さんと約束した対局日時は院生手合いを除く月〜土曜日の夜9時から一局きっかり。ほぼ毎日、しかもいわゆるゴールデンタイムに拘束されるのは一般的な中学生からしてみれば不満の声の1つも上がりそうなところだけど……そこはお互いにプロを目指す院生、いわゆるフツーの女子ではない訳で。

 

 ――ま、私としては彩さえ良ければもっと打って欲しいくらいなんだけどね。……今の私じゃ、きっとそれでも足りないくらいなんだから。

 

 そんな彼女の意気込みは嬉しいし、私だって可能ならば二局でも三局でも打ってあげたいところだけど、当然ながらお互いにパソコンは私物では無い。特に私の家ではお父さんが仕事でパソコンを使うことも多い訳で、そういった家庭環境を考慮すると、やはりこのくらいを落とし所とするべきなんだろう。

 

 

 そうして始まった私達の特訓の日々。言うまでもなく対局内容は、奈瀬さんがペシャンコにされて投了する、その繰り返し。残念ながら今まで一度も作り碁になった事はない。まあそれも当然、私だってこの碁を教える以上、指導碁を打つという訳にもいかないんだから。

 

「まさかワリツギに手抜かれるなんて……」

「まあツイでも悪くないけど、ツケる方がキビシイからね」

「……確かに、打たれてみれば絶妙のタイミングよね」

 

 対局が終われば電話で検討。お互い学生の立場上、毎日長電話するというのは躊躇われるので、あくまでごく簡単に済ませ、要点は院生研修日に時間を掛けてじっくりと。

 

「……うん、やっぱアンタと打つのって楽しい」

「え……?」

「そりゃ今はやられてばっかりだし、悔しくないって言ったら嘘になるけど……それ以上に楽しいの。私が考えもしない様な手を彩は打ってくる。次はどんな手が出てくるんだろうって、そう考えるだけでワクワクするから」

 

 実は少しだけ不安だった。こんな風に全力で打つ事が、せっかく地道に力をつけてきた奈瀬さんの自信を奪う事に繋がるんじゃないかって。もちろんこの碁を学びたいと言ってきたのは彼女自身、そのくらいの覚悟は持っているとは思っていたけれど。

 ……そういう意味合いもあって、彼女の真剣にこの碁と向き合おうとする意志が、何より私と打つのが楽しいと言ってくれたその言葉が、本当に嬉しかった。

 

 当然ながらまだまだ先の見通しなんて立っていない。彼女が私に一矢を報いる、その兆候すら見えていない。

 それでもこの日々は絶対に無駄にはならない。結果が伴わなくたって弱くなっている訳じゃない。潜在的には確実に棋力は向上しているはずなんだ。私に出来るのは、あと3ヶ月の間にそれが表面化出来る様に全力で応援することだけ。

 

「ね、まだ時間ある? もう一局だけお願い出来ないかな?」

「……そうだね。やろっか!」

 

 お母さんからお小言を頂いてしまったり、若干睡眠不足になったりと、問題が全く無いわけではないけれど、そんな彼女のお願いに応えて時間が延長してしまうこともしばしば。

 最初は奈瀬さんが棋風を変える事に反対していたけれど……何だかんだ言って、私自身もこの時間を楽しんでいるのかもしれなかった。

 

 

 

「それにしても……碁を打ってると忘れそうになるけど、やっぱアンタって子供よね。可愛らしいハンドルネーム付けちゃってさー」

 

「い、いーじゃん別に! 奈瀬さんこそasumiなんて簡単な名前つけて……ネットで実名出すのは危険なんだからね!」

 

「アンタいつの時代の人間よ……そんなんで特定される訳ないでしょ」

 

 

 ―――

 

 

 あれから奈瀬さんの院生手合いの成績は奮わず、一時は2組に降格してしまうんじゃないかという所まで落ち込んでしまっていた。その一因が自分にある以上、予測出来た事とはいえそんな状況は私にとっても気が気ではなかった。

 しかし、そんな彼女をギリギリの所で支えたのは、今まで培ってきた基礎の力と、持ち前の負けん気の強さだった。

 

「わっ、半目負けたァ!」

「何とか届いたわね……危なかったわ」

「うぅ……ヨセで10目くらいひっくり返されちゃった」

「ふっふっふ、甘いわねフク。12目よっ!」

「……はぁ、そんなに勝ってたんだ」

 

 ヨセや目算、死活の判断。読みの力に加え、感性やセンスが要求される中盤の戦いとは違い、これらは時間さえあれば誰にでも正解を導き出すことが出来る。一見地味な様で最も他人と差が付きやすい部分であり、最も修練の成果が反映されやすい部分でもある。それらの精度、速度の向上は、言うまでもなく日々の努力の賜物。奈瀬さんが決して基礎の勉強を怠らなかった結果だ。

 

「悔しいっ! もうちょっとだったのに! ……次は負けないからね、和谷!」

「お、おう……」

 

 負けが込んでも決して彼女は腐ったりしなかった。

 ともすれば自分の碁を見失ったり、信じられなくなったりもしそうなものだけれど、奈瀬さんはそれでも前を向き続けた。

 

 ――そうして1ヶ月が過ぎ、いつしか奈瀬さんの連敗も止まり、再び順位が上向き始める頃。彼女の中に息づく変化に他の院生も気付き始めていた。

 

 

 

「次、いいか?」

「あ、本田さん。……うん、もう空くよ」

 

 いつもの様に院生手合いの白星を付けていた私に、後ろから声がかかる。

 ……午後の奈瀬さんの相手は本田さんだったっけ。って事は……

 

 結果を記入するのは勝った方。この場に彼が居るという事は、すなわち奈瀬さんが負けてしまったという意味だ。

 まあ残念な気持ちもあるけれど、流石に今回は相手が相手。院生でもトップクラスの実力者である本田さん相手では分が悪いのは否めない。それに今はまだまだ結果を求める段階じゃないし、大事なのはその内容なんだ。

 

「……そういえば奈瀬さんとの碁、どうだった?」

「どうだった……か」

 

 何の気なしにそんな質問を投げかける。その言葉に、本田さんは何やら思い詰めたような表情でぽつりと呟く。

 

「序盤から綱渡りみたいな戦いの碁が続いて、最後は奈瀬が綱から落ちたよ。ただ……」

「……ただ?」

「……形勢ははっきりオレが優勢だった。それは解ってたのに、最後の最後まで全く勝ってる気がしなかったんだ。……アイツの気迫って言うか、碁に対する姿勢みたいなものに押されっぱなしでさ」

 

 勝ったのは間違いなく本田さんだ。にも関わらず、そう呟く彼の姿は決してその勝利に納得している様子ではなかった。

 

「アイツ、変わったよ。あれは今までの単なる無茶な攻め碁じゃなかった。上手く言えないが……若獅子戦の時のお前に似てるっていうかさ」

「……ふーん」

「なぁ星川、お前奈瀬にどんな事教えてるんだよ?」

「そんな、教えるなんて大層な事してないよ。ただ一緒に打ってるだけだって」

「……やれやれ、只でさえ今年はお前や塔矢アキラが居るっていうのに、こりゃ奈瀬も要注意かもな」

 

 ……まさかこんなに早く結果が出るなんて、ね。ヒカルといい奈瀬さんといい、やっぱりこの世界の人って色々と規格外過ぎるよ。

 

 ため息と共に踵を返す本田さんの背中を、驚きと達成感が入り雑じった何とも言えない心境で見送っていると、入れ替わるようにもう一人の当事者である少女、奈瀬さんがこちらに歩み寄ってくる姿が映る。

 

「さ、今日もお願いね、彩っ!」

 

 彼女自身まだこの碁の本質は理解していないだろう。それでも、本田さんにあそこまで言わせるという事は、私の碁が確実に奈瀬さんの中に息づいている証拠。

 

「間に合うかも、しれないね……」

「え? 何か言った?」

「……ううん、何でもない。それじゃ、行こっか!」

「何よニヤニヤしちゃって。全くアンタは……」

 

 いつかに似たやりとりを交わしながら、私は密かに確信していた。

 

 ――彼女の目覚めは、きっと遠くない未来だ。

 

 

 ―――

 

 

「そういえばさ、アンタって私以外とはネット碁やらないの?」

 

 お互いに碁盤の前に座り、さあ検討を始めようかという時、唐突に奈瀬さんがそんな話題を振ってくる。

 

「私? ……やらないなぁ。ほら、うちのパソコンってお父さんの仕事用だし」

「あ、そういえばそうだったわね。私は最近空いてる時間にネット碁を打つようになったんだけどさ」

「へー、そうなんだ」

「やってみると結構面白いのよね。知ってる? あのサイトって一柳先生も使ってるのよ」

「……うん。まあ聞いたことくらいは、ね」

 

 奈瀬さんに言われるまでもなく、ネット碁の楽しさ、素晴らしさは私もよく知っている。パソコンを自由に使えない立場上、この世界において私は奈瀬さんとの対局以外ではネット碁を使用していないけれど、未来の世界ではむしろやらない日の方が少ないんじゃないかというくらいネット碁を愛用していたのだから。

 

 インターネットが広く普及した未来、私の時代においてネット碁は多くの人々に愛用されるツールとなっている。プロ棋士間でも国内外問わず日々対局が繰り広げられているし、プロアマ混合棋戦のアマチュア予選にネット碁が使われることだってあるくらい。それは最早アマチュアの娯楽の域に止まらず、第一線のプロの修練の場としても一役買っているとさえ言える。

 対してこの世界ではネット碁を嗜むプロなんて一握りだろうし、それだって恐らく手慰み程度のもの。それが十数年後には対局地の移動中にネット碁を打つ時代が来るんだから。……科学の力って本当にすごい。

 

「さすがに恐れ多くてまだ対局を申し込んだ事はないんだけどねー。……って彩、聞いてるの?」

 

 かつての世界に想いを馳せていた私は、奈瀬さんの呼び掛けで現実に引き戻される。

 

「えっ? う、うん。でも確かにネット碁は良い勉強になると思うよ。他にも強い人はいっぱいいるだろうし」

「そうなのよ! 私、この前凄く強い人に当たっちゃってさぁ。ホント手も足も出なかったの。アレ絶対にプロよ!」

 

 ……へぇ、奈瀬さんがそこまでやられちゃう人がいるんだ。

 

 アマチュアの最高峰である院生、その1組に在籍する人間ともなれば、正にプロの卵と言っても過言ではない。そんな彼女に勝てる人なんてそうそうはいないハズだ。

 もちろんプロと対等以上に戦うアマは存在する。けれど、奈瀬さんにそこまで言わせるっていうのは並大抵の事じゃない。文字通り高段のプロが参加しているのかもしれないね。

 

「国籍は? 海外の人?」

「ううん、日本だったわ」

「じゃあ日本のプロかな?」

 

 対局までとは行かなくても、機会があれば観戦くらいしてみたいな。なんて、そんな興味本意で彼女に質問をする。

 

「でもさ、碁から受ける印象が何となく古かったのよね。別に古碁の定石を使ってたって訳じゃなかったんだけど」

「……え?」

「やっぱりプロじゃないのかな。第一プロならそんな打ち方しないもんね。……うーん、でもあの打ち筋、誰かに似てるような……」

 

 

 奈瀬さんを軽々と破る棋力。

 日本の国籍。

 そして……古の碁。

 

 思わず言葉に詰まる。首を傾げながらぶつぶつと呟いている彼女とは裏腹に、私は一人だけその条件に当てはまる人間を知っていたから。

 

「……名前は?」

「え?」

「その人、何て名前?」

 

 同時にそんなハズは無いという想いもあった。だって夏休みどころか、大会も終わってないというのに。

 それを確固たるものに変えるべく、いよいよ核心に迫る質問を奈瀬さんにぶつける。……そして、彼女から返ってきた答えは。

 

 

「小文字のアルファベットでs・a・i。saiよ」

 

 

 そんな私の思惑を見事に裏切るものだった。

 

「あ、そうだ! 秀策、本因坊秀策よ! 何処かで見た事あるような気がしてたのよね。あースッキリしたっ!」

 

 

 saiって……佐為?

 え、何で? まだ6月だよ?

 

 

 ……早くない?

 

 

 

「ごめん、ずいぶん脱線しちゃったわね。さ、始めよっか?」

 

 ――ちょっと彩、聞いてるの? ……ねえ彩、彩ってば!

 



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22話

 囲碁部に入ってから数週間が経っていた。

 佐為や星川という存在ばかり見続けてきたオレにとって、三谷や筒井さんといった同年代の実力者と打つ事、そしてあかりや津田、金子の様な初心者に対して自分が教える立場に回るというのは当然初めての事。その一つ一つが本当に新鮮で、元々は院生試験に向けて星川との対局の機会を求めて始まった部活だったけれど、いつしかこの空間はオレの大切な場所になりつつあった。

 

 そんな中でも星川との対局だけはやっぱり別格だ。アイツは本当に凄い。まるでオレを正しい道筋に導くかの様な打ち回し、その一つ一つを見ているだけで自分の囲碁が確実に成長していくような気さえして、改めてアイツが雲の上の存在であることを再認識させられる。

 それでも星川に追い付きたくて努力する事が、何より囲碁の奥深さを日々実感するこの毎日が、オレにとっては本当に楽しくて充実した時間となっていた。

 ……だけどそんな満足感に反して、オレの後ろにいる幽霊の欲求は日々募る一方のようで。

 

 

 ――ねぇヒカル。何時になったら私に打たせてくれるんですかぁ……

 

 ――いや打ってんじゃん。今もこうやってオレと……

 

 ――違います! あの子と……星川彩とですよ!

 

 

 最近、特に囲碁部に入って定期的に星川と打つようになってから、こうやってアイツとの対局をせがまれる事が増えた。初めは星川が打つ、そして語る碁を目を輝かせながら見ていた佐為も、次第にそれだけじゃ満足できなくなってきたってところなんだろうか。

 

 ――もうちょっと我慢してろって。……お前だってオレが簡単にそう出来ない事くらいわかるだろ?

 ――それは……わかっていますけど……

 

 そりゃ一度約束した手前もあるし、何よりオレ自身もう1回星川と佐為の碁を間近で見たいと思っていた。囲碁を全く知らなかった当時のオレでさえ目を奪われたあの対局、もちろんまだまだオレはこの二人の足下にも及ばないけれど、曲がりなりにも半年間囲碁を学んできた今なら、きっとあの時より更に深くコイツらの碁に触れる事が出来る。一体そこにはどんな景色が広がっているのか、考えるだけでもワクワクしてしまう。

 それを実現するだけなら簡単な話だ。ただオレの代わりに佐為に打たせるだけ、早ければ明日にでも叶う。……だけどそれをしてしまえばどうなるかなんて、オレにだって容易に想像がつく。

 

 オレは一度星川と佐為を打たせている。何故かアイツはあれ以来その一局の話を持ち出すことは無いけれど、とにかく今のオレなんかじゃ及びもつかない碁を、『オレ』が打ってしまっているんだ。

 偶然だなんていう自分でも相当苦しい言い訳を、星川は笑って受け入れてくれた。そんなアイツと佐為をもう一度打たせてしまったら……今までのオレの碁が全部嘘になってしまう。実力を隠していた事を軽蔑されるかもしれないし、何よりアイツがオレを、オレの碁を見る事はもう無くなってしまうだろう。……それだけはどうしても嫌だった。

 

 ――うぅ……こんなに近くにあの子がいるのに対局が叶わないなんて。この身が無いのが恨めしい……

 

 よよよ、と涙を流しながら恨み言を呟く佐為。毎日打ってるオレとしては、それ以上に他の奴と打ちたがる事に何だか釈然としない想いはあるけれど……

 

「……確かにオマエもオレに教えるばっかりじゃつまんねーよな」

 

 それでも気持ちはわからなくはなかった。オレだって同じ奴としか打てないとしたら文句の一つも言うだろうし、自分と対等の強さ、負けるかもしれないとすら思う様な相手が目の前にいるんだったら尚更だ。

 

 ――あ……ち、違うんです! ヒカルと打つ事だって私にとっては……

 ――そういう意味じゃねーって。……ま、その内何とかしてやるからさ。

 ――……ごめんなさい、ワガママ言ってしまって。……大丈夫ですよ、私にはまだ時間がありますしね。今はヒカルが強くなることが第一! さ、続きを打ちましょう!

 

 どこか寂しそうな笑顔を浮かべながらも佐為は対局の続きを促してくる。痩せ我慢が見え見えのクセに、それでもオレを気遣ってくれるのは嬉しいけど……確かにこのままじゃ余りにもコイツが不憫だ。

 

 ……まァ星川と打つっていうのはさすがに厳しいけど、せめてオレ以外の奴とくらい打たせてやりたいよな。……そろそろ何か考えてやらねーと。

 

 改めて白石を掴み、佐為の扇子が示す位置に石を置く。相も変わらず厳しく美しいその一手、コイツもまた雲の上の存在であることを実感しながら、そんな佐為のために何か出来る事はないかと、オレは再び思考を巡らせるのだった。

 

 

 ―――

 

 

 しかし1日やそこら考えてみたところで名案が浮かぶはずも無く。

 囲碁部で打たせてやろうとも思った。でも、良く考えたらそこには星川がいる。今のオレの力をよく知るアイツの前で佐為の碁を見せるっていうのはやっぱり躊躇われてしまう訳で。……仕方なしにオレが取った手段は、本当に本当に気休め程度のものだった。

 

「……あかり、今からちょっと時間ない?」

「え、どうしたの?」

「一局打たねェ? ……なんつーか、部活だけじゃちょっと打ち足りなかったしさ」

 

 帰り道、家の前に差し掛かったところでオレはあかりに対局を持ちかけた。……もちろんこれはオレじゃなく、佐為に打たせるためだ。

 あかりなら多少打ち方が変わった所で気づいたりはしないはず。当然あかりとの対局なんかじゃ佐為は満足しないだろうけど、それでもせめてオレ以外の相手とくらい打たせてやりたかった。それでアイツの気が少しでも晴れるんならって、そう思ったから。

 

「……まァ用事があるとかなら別にいーけどさ」

「あっ……な、無い! 何もないよっ! ……ヒカルが打ってくれるなら私嬉しいっ!」

 

 何だか放心気味のあかりに、まあ無理強いするもんでも無いと再び声を掛けてみれば、打って変わって身を乗り出しながら声を張り上げてくる。

 ……やけにテンションたけーな。そんなにあかりも打ち足りなかったのかな。

 

「お、おう。じゃあオレんちいくぞ」

「うんっ!」

 

 とにもかくにも無事に承諾を得たオレは、随分と機嫌の良いあかりを連れて家の中へと入っていったのだった。

 

 ――ヒカル……いいんですか?

 ――ま、星川とあかりじゃ比べ物にもならないだろうけどな。その代わり指導碁だぞ? 思いっきり緩めてな。

 ――はいっ、もちろんです! ありがとうございますっ!

 

 嬉しそうにしちゃってまァ。でも……こんだけ喜んでくれるんだったら、たまに打たせてやるってのも悪くないかもな。

 

 ――……あかりちゃんにはちょっと申し訳ないですけど、ね。

 ――は? 何でだよ。アイツにしたってオレより佐為と打った方が勉強になるだろ。

 ――い、いえ。そういう事ではなくてですね……

 ――訳わかんないこと言ってねーで、ホラ行くぞ。

 

 ――はぁ……あかりちゃんも大変でしょうねぇ。

 

 

 

 ちなみに囲碁部でのオレとあかりの手合割は星目、だけど今回に限っては打つのは佐為。9子程度じゃ話にもならないんじゃないかと思っていたのだけれど、そんなオレの心配を他所に対局中の佐為は終始ご機嫌な様子だった。辿々しく石を置いていくあかりを微笑ましく見つめながら、ヒカルにもこんな時期がありましたねぇ、だなんて感慨深げに呟いている。

 

 ――えー、オレはこんなにヘボじゃなかったぞ。

 ――何言ってるんです。始めはみんな同じ初心者、それにヒカルなんて最初は石もまともに掴めなかったじゃないですか。……こう、スポッと石を飛ばしたりして!

 ――うっ……む、昔の話だろっ!

 

 囲碁を始めたばかりの頃、そうやって黒石を一つ無くしてしまった。そんなかつての恥ずかしい記憶が頭を過り、半ばそれを振り切るかの様に盤面に目を戻す。

 そうして改めて見てみれば、勢いであかりの事をヘボなんて言ってみたものの、何だかんだでちゃんとした碁になっている。少なくとも囲碁部でオレと対局する時よりもずっとしっかり打てているじゃないか。

 それはもちろんあかりが成長したってのもあるんだろうけど……

 

 ……佐為が、そうさせてるんだよな。

 

 目を離せば道を誤ってしまいそうな、そんな拙い足取りのあかりの手を取り、正しい道へと誘うかの様な佐為の打ち筋。そんな佐為に引っ張られて、あかりもいつも以上の力を発揮している。

 文字通りお手本の様な指導碁。……そしてそれは、正に星川がオレ達にしている事と同じだった。

 

 ――しっかし上手くやるもんだよな……お前にしろ、星川にしろ。

 ――遠からずヒカルにも出来る様になりますよ。それにこの碁はあかりちゃんの為だけではなく、ヒカルに見せる為の一局でもあるんですからね?

 ――……オレの為?

 ――私達の石の運び……その流れをしっかり見て、感じなさい。ヒカルにはそれも大切な勉強になるんですから。

 ――石の流れ、ねぇ……

 

 曖昧な言い回しに戸惑いながらも、言葉のままに二人の一手一手に意識を預けてみれば、いつしか自分もこの対局、この世界に居るような錯覚に陥っていく。

 佐為が導く。あかりが……応える。

 気が付けば自分より数段ヘタクソなあかりの一手ですら、オレは素直に美しいと思えるようになっていた。

 あかりの対局なんか見てても自分には何の意味も無い、これはあくまで佐為のために用意した一局。そんな風に考えてたけれど……こういうのも悪くないんじゃないかって、ちょっとだけ思えた。

 

 

 ――それにしてもさァ、お前オレと打つ時と比べて対応が違いすぎねえ? オレにはいっつも容赦ねーのに。

 

 ――ふふ、では次からは指導碁にしましょうか?

 

 ――……いや、やっぱいい。お前に手加減されるとそれはそれでムカつくんだよ。

 

 ――それに容赦無いだなんて心外な。私はまだまだ本気じゃないんですけどね。

 

 ――……あーそうですか。

 

 

 

「ありがとねヒカル。すっごく楽しかった!」

 

 結果はあかりの2目勝ち。もちろんそれは佐為が勝たせてあげただけに過ぎないのだけど、勝利という結果に加えて、自分なりにも上手く打てたという実感があるのか、対局後もあかりの機嫌はすこぶる良かった。

 佐為もそんなあかりを見つめながらコロコロと顔を綻ばせているし、コイツも何だかんだで満足したって事なんだろうか。

 

「ねえヒカル、その……良かったらさ、また今日みたいに打ってくれないかな?」

「……え、何だよ急に」

「ほ、ほら。夏の大会だってあるし、せっかく女子も出るんだから私ももっと強くなりたいなぁ、なんて。……それに今日のヒカル、何だかいつもより優しかったし……」

 

 ……ふーん、あかりはあかりなりに強くなろうとしてるって訳か。

 

 何であかりはそんなに真っ赤な顔をしているんだろう、という疑問はとりあえず置いておくとして、良く考えてみるとそれは案外悪くない提案かもしれない。

 佐為は喜ぶだろうし、佐為と打つことであかりの棋力も上がる。この対局を見る事はオレにとっての勉強にもなるんだし。

 

「……そうだな。オマエと打つのも息抜きくらいにはなるだろ」

「ほ、ほんと? ……ってちょっと、息抜きって何よ! もうっ!」

 

 茶化し気味にその提案を承諾し、相も変わらず顔を真っ赤にしながら不満を口にするあかりを宥めつつ、改めて今日の対局の簡単な検討を行う。

 そうして気が付けば時計は6時を回っており、夏前とはいえ辺りも暗くなり始める頃合いになっていた。

 

 

「ふわ、あーぁ……そんじゃ、そろそろ終わりにすっか」

 

 検討も一段落し、気が抜けたという事も相まって、昨日の夜更かしのツケを吐き出すかのような大きな欠伸がこぼれてしまう。

 

「あはは、すっごい欠伸。もしかして囲碁の勉強で夜更かしでもしてたの?」

「……ん? ま、まあそんなところかな」

「学校の勉強もそれくらい頑張ればいいのにね」

「余計なお世話だよ。ふあーあ……」

 

 確かに遅くまで囲碁を打っていたのは事実だけど、夜更かしの原因の大半は佐為の件について考えてたからなんだけどな。

 

「そういえばね、彩も部活が終わった後におっきな欠伸してたんだ」

「……ふーん、星川が?」

「うん。夜遅くまで囲碁の勉強をしてたみたいだよ」

 

 ……アイツが、ねぇ。あれ以上まだ強くなろうとしてるのかよ。

 

 後ろでは佐為が『ほう! やはりあの強さは日々の研鑽の……』とか何とか言いながら感心しているけど、個人的にはちょっとくらい立ち止まってくれないといつまでたってもオレが追い付けねーじゃん、なんて思わない事も無い訳で。

 ほら、そんな風に考えてたら佐為がすごい剣幕で文句を言ってくる。そんな事でどうするんですかーって。

 ……わかってるっつーの。冗談だよ。

 

「何かね、インターネットで囲碁を打ってるんだって」

「……ああ、よくわかんねーけどゲームみたいなもんだろ? つーかそれ勉強って言うのかよ」

「うーん、ゲームとはちょっと違うのかな? 友達と打ってるって言ってたし」

「え? ……そんな事出来んの?」

 

 テレビゲームの様にコンピューターを相手にする。てっきりそう思っていたオレは、あかりの返した答えに思わずそう聞き返してしまう。もちろんパソコンなんて全然詳しくないけれど、離れた場所にいる友達と囲碁を打てるという事実は、自分にとっては少なからず衝撃的だったから。

 一方で話題を提供したあかりはと言うと、生意気にもそんなオレの反応に気を良くしたのだろうか、『彩が言ってたんだけどね?』と一言前置きを挟むと、得意気に胸を張りながら更にネット碁の世界について語り始める。

 

 

「友達だけじゃないよ。ネット碁ってね、世界中の人と打てるんだって。それこそ、地球の反対側にいる人とだって」

 

 遠く離れた、世界中の人達と。

 

「凄いよね。お互いの事なんて全然知らない人達が、同じ画面を見ながら囲碁を打つんだよ?」

 

 自分を知らない人達と、画面だけを通じて、囲碁を打つ。

 

 あかりの言葉を脳内で反芻させながら、噛み締める様にその意味を昇華させる。……そして導き出されたのは、まさに今の今までオレが思い悩んでいた問題の答え。

 

 

 そうだ、コレなら……!

 

 

「彩にも勧められたんだけど、さすがに私はまだちょっと怖いかなーって……」

「あかり、オレちょっとお母さんに用事があるからオマエ適当に帰っていいぞ! じゃあなっ!」

「え、えっ? ちょっとヒカル、ヒカルってばぁ!」

 

 既に階下に向けて慌ただしく走り出していたオレには、そんなあかりの声なんて届くハズもなかったのだった。

 

 

 ―――

 

 

「おカネはいいけど、その代わり内緒よ? それと私がいない日はダメだからね?」

「うん。ありがとう、三谷のおねーさん!」

 

 結論から言うと、ネット碁を打つためにパソコンを買って貰おうというオレの作戦は、『バカな事言ってないで早く宿題をやってしまいなさい!』というお母さんの一声で即破綻してしまった。

 家でネット碁が出来ない以上は他の場所を探すしかない。もちろんそういった所に詳しくないオレとしては調べるのも一苦労で、半ば手探り状態で身近な友達である三谷に相談してみたところ、何とこれがいきなりビンゴ。そうして紹介されたのが三谷のおねーさんが働いているこのネットカフェ。

 基本的に週末が出勤日らしく、それは平日に部活があるオレとしても好都合で、何より無料でネットを使えるというのは中学生の自分にとって本当にありがたいことだった。

 

 ――わ、わ! てれびがいっぱいありますよ、ヒカル!

 ――テレビじゃなくてパソコンな。……っと、ここか。

 

 慣れないパソコンの扱いに四苦八苦しながら、時々三谷のおねーさんに助けてもらったりして、そうやって何とか初期設定を完了させる。後はいよいよ名前を登録するだけだ。

 

 ――それはそうとヒカル。この……ぱそこん? とやらで今から何を始めようとしてるんです?

 ――……ああ、オマエに好きなだけ囲碁を打たせてやろうと思ってさ。

 ――え? …………えええっ!?

 

 期待通りの反応を見せてくれる佐為に内心ほくそ笑みつつ、その一方で何処か気持ちが高揚している自分がいる。

 

 ――もちろん指導碁なんかじゃねェ。全力で打っていいんだぜ?

 ――す、好きなだけっ? 全力でっ!? ……相手は、相手は何処にいるんです!?

 ――オマエの相手はこの中。オマエは今から世界中の碁打ちと囲碁を打つんだ。

 ――せ、世界……?

 

 オレだけにしか見えない佐為が、この中では確かに存在する。オレだけしか知り得ない佐為の碁が、ここでは誰の目にも映るのだから。

 心なしか震える指先でキーボードを叩く。そうしてディスプレイに浮かび上がるのは、この世界でのオレの……オレ達の名前。

 

 

「よーしいくぜっ! ハンドルネームはs・a・i。……saiだっ!!」



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23話

ちょっと短いですが区切りがいいので更新します。


 奈瀬さんから聞いた情報、そこに自分が元々持っている知識を加えれば、もはやsaiの正体を推し測るなんて私には造作もない事だった。

 だからこれは蛇足と言うか、正直あまり意味の無い行為だったのかもしれない。それでもあくまで最終確認、偶然同じ名前を語った実力者という可能性だって無いとは言えない。そういった事情も考慮して、私はsaiの誕生に至る過程を知るであろう二人の人物に、それとなく探りを入れてみることにした。

 

 曰く。

 ――うん、前に彩から聞いたネット碁の話をしたら、何だか凄く興味を持ったみたいだったの。そんなにネット碁って面白いのかな?

 ……そ、そういえばねっ! 私最近部活が終わった後にヒカルのお家で……

 

 曰く。

 ――ああ、何かネット碁をやる場所を探してるみたいだったから、姉貴のバイト先を紹介してやったよ。

 ……オレ? 別にオレはネット碁なんざ興味無いね。わざわざそんな手間掛けてやろうとも思わねーし。それに、ネットなんかよりここで打つ事の方がオレは…………な、何でもねーよっ!

 

 何と言うかまあ……青春だねぇ。なんて、思わず頬が綻びそうにもなるけれど、とりあえずそれはそれ。

 これでほぼ確定。saiの正体はヒカルであり、奈瀬さんを倒した打ち手の正体は……やっぱり佐為だったんだ。

 

 

 当然脳裏に浮かぶのは半年前のあの日の対局。囲碁教室での私と佐為の初手合。

 佐為がどう思ってくれているかはわからないけれど、少なくとも私にとっては一生忘れられないであろう一局となった。そんな彼ともう一度戦いたいと思うのは、碁打ちならば持って然るべき感情のはずだ。

 もちろんそれが容易に叶わないことも知っている。自惚れた考え方かもしれないけれど、私を目標にしてくれているヒカルが、自分の力で私に追い付きたいと言ってくれたヒカルが、佐為の碁を私に見せてくれることは……多分もう無い。少なくとも以前の様に面と向かって対局をする機会は二度と訪れないんだろう。

 そんなヒカルの気持ちは本当に嬉しいし、自分の碁を打ちたいという気持ちも当然尊重されるべきもの。それを否定するつもりなんて微塵もない。

 ……それでも不意に思い出してしまうのだ。その一手一手に打ち震えんばかりの歓喜と衝撃を覚えたあの時の記憶を。今も決して色褪せる事のない、そんな在りし日に想いを馳せてしまう事だって、決して少なくないのだ。

 

 ……だけど私は決して諦めていた訳ではなかった。何故ならこの日が来るのを知っていたから。

 私はsaiの正体を知っているけれど、向こうには私の姿は見えない。仮に碁の内容から感じるものがあったとしても、少なくともそれを確証付ける根拠なんて存りはしない。……私達が唯一戦えるこの世界に、saiが現れるこの瞬間を、私はずっと待ち望んでいたんだ!

 

 

 結局のところ時期が早いとか遅いとか、そんなことは私にはどうでも良い話であり、インターネットの世界にsaiがいるという事実こそが私にとって一番重要だったのだ。

 抑えきれない碁打ちの本能と言うべきか、とにもかくにもそれを知ってしまった以上、私がsaiを見て見ぬふりするなんて到底出来るはずもなかった。

 

 

 ―――

 

 

 私が対局日に選んだのは6月の第3土曜日。もっとも選んだと言うよりは、他に選択肢が無かったと言うべきだろうか。

 ヒカルは変わらず平日の部活には参加しているし、あかりの話も加味すると、部活後にネットカフェに行っているとは考えにくい。つまりネット碁を行っているとすればそれ以外の日、週末という事になる。

 対して私の週末のご予定はと言うと、日曜日と第2土曜日に院生研修があるため、結局私達の都合が噛み合うのは直近ではこの日しかなかったのだ。

 

「ただいまー。……って、そういえば今日はお母さんも出掛けてるんだっけ」

 

 学校から帰宅し、誰もいない家に向かってお約束のご挨拶。そうして一人軽めの昼食を採った私は、早速対局の準備を開始した。ヒカルも一度家に帰ってからネットカフェに向かうだろうし、ログインまでには幾ばくかの猶予はあるんだろうけど……待ちに待った佐為との一戦だ、やるべきことはやっておかないと。

 

「よっし完成、名付けて彩スペシャルだっ! ……さーて、そろそろ始めますかっ!」

 

 ちなみに彩スペシャルとは某地域限定飲料もビックリ、砂糖とミルクたっぷりの激甘コーヒー。私のネット碁の必需品だ。……繰り事になるけれど、碁打ちに糖分は必須なのだ。

 

 

 ……とまあ意気揚々と準備を進めてみたものの、週末、そして今日この日にsaiが現れるなんて所詮は私の憶測に過ぎない。気が向かないなんて理由でヒカルがネット碁をお休みしてる可能性だってある。結局saiはいませんでした、なんてオチも覚悟しなくてはいけない。

 昂る気持ちを抑えながら一つ一つ対局リストに目を通していく。まるで大学の合格発表、自分の受験番号を探す学生の様な気分だ。……まあ、私は大学受験なんてした事ないけどね。

 そうしてひたすらスクロールを繰り返し、段々と不安も膨らみ始めるリスト終盤。……遂に私は待ち焦がれて止まなかった、その名前を発見したのだ。

 

「いた……saiだ!」

 

 心臓が一つとくんと高なり、同時に胸いっぱいに広がる歓喜。合格した受験生達もきっとこんな気分だったのだろう。

 早速対局を申し込もうとカーソルを合わせるものの、そんな私の目に映ったのは『対局中』 の文字。残念ながら今は他の人と打っている最中の様だった。

 若干肩透かしを食らった気分だけれど、まあそれは仕方ない。それならそれで敵情視察と洒落こむだけだ。

 期待に胸を膨らませながら対局画面を開く。……だけどそこに広がっていたのは、決して私が望んでいた様な絵ではなかった。

 

「酷い……何この碁……」

 

 おおよそ見慣れない碁形、そこから感じるのは紛れもない悪意だ。最もその発生源は、saiではなく対局相手からだったのだけれど。

 

 形勢は……正直数えるのも億劫になるくらいsaiが勝っている。そもそもこれはとっくに終局した碁だ。もう打つところなんて残っていないのだから。

 後はお互いの合意の元に目算を行うだけ。しかしsaiの対局相手はそれを拒み、ひたすら意味のない手を打ち続けている。

 両者が合意しないと対局は終わらない。悪戯に対局を引き延ばし、あわよくば根負けした相手の投了で勝ち星を奪おうという……有り体に言ってしまえば、ただの嫌がらせだ。

 

 ……たまにいるんだよねぇ、こういう人。大方saiに負けた腹いせってところなんだろうけど。

 

 saiはsaiで何でこんなのに付き合うんだろうか。私だったら時間の無駄だからこっちから投了しちゃうのに。

 そんな風に思っても、結局saiはご丁寧にも最後まで相手に付き合い続ける。私は私で席を離れては再び対局機会を逸してしまうと、やむなくsaiと一緒にお付き合い。そうしてようやく向こうが折れたのは、それから30分近くも経ってからの事だった。

 

 

 ……はー、やっと終わった。

 

 少なからず気分が害されたのは確かだけれど、そんな事はもう忘れよう。いよいよ念願の佐為との対局、こんな気持ちをいつまでも引きずっていてもしょうがない。

 改めて対局内容の確認。手合いは当然互先。持ち時間は30分。贅沢を言ってしまえば2時間でも3時間でも欲しいけれど、前約束でもしない限りそんな申請はまず断られる。ネット碁では30分でも長い部類なのだから。

 力強く申請ボタンをクリックし、同時に頭を対局モードに切り替える。澄みきっていく脳内に若干の高揚感が混ざった、心地良い感覚だ。後はこれを全て目の前の対局にぶつけるだけ。

 

 この時を待っていたんだ。さあ勝負だよ、佐為……!

 

 

 

 

 ――対局申請が拒否されました。

 

 

 

「…………は?」

 

 咄嗟にはその意味が理解できず、思わずそんな声が出てしまう。

 呆ける思考回路、半ば機械的に再び申請を行うものの、目の前に現れたのは先程と同じ対局拒否の文字。

 

 ……拒否って……いやいや、何でよ?

 

 三度四度と申請を繰り返すも、相変わらず私の願いは届かない。一先ず頭を落ち着けようと彩スペシャルを口にするものの、すっかり冷めきってしまったコーヒーは私の口内に下品な甘味を広げるだけ。

 saiが対局を拒む理由。さっきの対局に疲れて休憩したいとか、今日は用事があるからもうネット碁は終わりとか、冷静に考えればいくらだって思い付くはずだった。

 ……だけど今の私にはもうそんな余裕なんて残っていなかった。頭に浮かぶのは……『理不尽』。その一言だけ。

 

 ……こんなの、あんまりだっ! 今日という日をずっと楽しみにしてたのに! あんな下らない嫌がらせに30分も付き合ったのにっ!

 

 対局前の澄み切っていたはずの脳内は今や不満で真っ赤っか。断られても断られても申請を繰り返すその有り様は、もはやどちらが嫌がらせかわからないくらい。

 

 

「何で……何で対局してくれないのっ! ヒカルっ! 佐為っ! ……こらーーっ!!」

 

 

 誰もいない家に、私の叫びとクリック音だけがひたすら木霊していた。

 

 

 ―――

 

 

「だーっ! 何だよコイツ、断っても断ってもしつけーなっ!」

 

 ――ねえヒカル、早く次の対局を始めましょうよ。この者でいいじゃないですか。打ちたいと言ってくれてるのでしょう?

 

「ダメダメ! そんな風に迂闊に対局してさっきみてーなヤツだったらどうすんだよ! 次はもっと慎重にだな……」

 

 ――もう、先程だって投了してしまいなさいと言ったのに。

 

「はあ? せっかくここまでずっと負けナシなのに、なんであんなヤツに負けなきゃいけねーんだよ!」

 

 ――全く変なところでガンコなんだから。あんな不届き者の事を気にしてたらいつまで経っても打てないじゃないですか。……それに、私も個人的にこの者が気になっているのです。

 

「え、見たことない名前だけど、コイツと打った事あったっけ?」

 

 ――いいえ。名を見たのは先程の対局中、観戦りすとの中でです。他の観戦者が次々に消える中、この者だけは最後まで残っていたんですよ。

 

「そうだったっけ? ……つーかオマエ、よく覚えてんな」

 

 ――あんな不毛な対局を最後まで、そして終わるや否や申請。……きっと、私と打つのをずっと待っていたのではないですか?

 

「だからってなぁ……もしかしたらとんでもないヘボかもしれねーぞ?」

 

 ――構いませんよ。肉体を持たない私にとって、たとえ仮初めの世界でも打ちたいと言ってくれる相手がいる……こんなに嬉しいことはありません。実力など二の次です。……ね、いいじゃないですか。

 

「まァ、オマエがそこまで言うんだったら」

 

 ――ありがとうございますヒカル。……さ、始めましょう! 対局、対局っ!

 

 

「よっし、じゃあ次の相手は……この "orihime" ってヤツにするか!」




囲碁は両者の地が完全に確定し、もう打つところが無くなったら終局です(厳密にはもう打っても意味がない)。そしてネット碁における終局判定には、両者の合意が必要になります。

A「もう打つところ無いと思うけど、終わりでいい?」
B「せやな」
こうなった時点で終局です。

本文中の嫌がらせとは、Bが終局と知りつつも頑なに「打つところは残ってる!」と主張し続けるものです。
もちろんAが見落としているだけで実際に打つ場所が残っている可能性もあるので、基本的にBの主張は成立します。故にいつまでも両者の合意が取れずに対局が終わりません。

ごく稀にこういった嫌がらせがネット碁にはあります。saiの無敗街道の裏にはこんなエピソードもあったりするのかなーと妄想してみました。


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24話

 ――へぇ、何かコイツ結構打てそうじゃん。良かったな佐為、少なくともさっきみたいなヤツじゃなさそうだぞ。

 

 現状は未だ布石段階。確かに力の程は伺えるものの、多少打てる者同士の手合いならば十分に発生しうる形。少なくともこの僅かばかりの手数で対局相手を連想する事など常識的には不可能だ。

 それでも私には、今自分が誰と打っているのかがハッキリとわかるのだ。……その自信の拠り所となったのは、私の体に突き刺さるピリピリとした何か。

 

 ……間違いない。これは……!

 

 厳しくも力強く、それでいて何処か心地良い。その感覚を確かに私は覚えていたから。

 決して目前に相対している訳ではないのに。それでも画面越しですら伝わるこの気迫。……あの時と、全く同じだったから。

 

 ――おい、聞いてんのかよ佐為っ。

 ――え? あ、ハイ……そうですね、恐らくはかなりの手練れかと。

 

 ヒカルは気付いていない。このまま対局をする事は、もしかしたらヒカルへの裏切りになってしまうのかもしれない。

 しかし、結局私がそれを口にする事はなかった。……身勝手な話だ。ヒカルは私の為にここまで尽くしてくれたと言うのに。ヒカルの彼女への想いを私は知っているのに。そんなヒカルへの罪悪感を余所に、私の胸中はそれを遥かに上回る歓喜で溢れかえっているのだから。

 

 ――ごめんなさいヒカル。でも、私はこの時をずっと待っていたんです……!

 

 ヒカルに聞こえない程の小声でそう呟く。そして今から少しの間だけこの感情は忘れよう。

 私の前には間違いなく彼女がいる。あの日から半年間、焦がれて止まなかった彼女がいる。

 

 ――星川彩が、いるのだから。

 

 

 

 半年前のあの日、囲碁教室での初対局。決して私は手を抜いたりはしなかった。ヒカルと同い年、僅か十二の少女が放った圧倒的なまでの気迫に少なからず驚きはしたものの、歴戦の強者達と変わらぬそれと認めた上で、持てる力の全てを彼女にぶつけたつもりだった。

 そして結果は持碁。幼子に勝てなかった、黒番で一度たりとも負けたことの無い私が持碁にまで打ち込まれた、様々な想いが渦巻く中……それ以上に私は歓喜していたのだ。自分が更に高みに行けるという可能性を、ハッキリと見出だすことが出来たのだから。

 

 その日から、囲碁に目覚めたヒカルと共に歩み、そして導く日々の中で、私もまたその可能性を常に模索し続けていた。

 黒と白の平等を期すべく設けられたコミというルール。取り分け黒番においてはその負担を解消する為に、より積極的に仕掛ける囲碁へと変わっていた。

 当時は五分のワカレとされていた定石や布石も、更に研究が進み、価値観も異なった現代碁の中では、廃れたもの、改善が加えられたもの、そして新たに生まれたものと、多種多様な変化を見せていた。

 私が碁盤に眠っていた150年の間に囲碁は確実に進化していた。そしてそれを教えてくれたのは紛れもなく彼女。黒の優位性が確立された現代ならば、あの時の碁はハッキリ私の負け。そしてその敗北があったからこそ今の私があるのだ。

 

 

 数分の考慮時間の後、無機質な音と共に画面に白石が浮かび上がる。今までの進行とはどこか一線を画した、戦いを予感させる、只ならぬ一手。

 

 ……当然、仕掛けて来ますよね。あなたならきっとそうする。そんな気がしていました。

 

 僅か一度の対局で彼女を知った様な気になり、そして想定した通りの一手を見て、もしかしたら向こうも自分を認めてくれているんじゃないかと、そんな都合の良い錯覚に陥る。

 こちらの応手は2つ。受けるか戦うか。手厚さという意味も考慮すれば、受けることも決して悪いわけではない。しかし、瞬間頭に浮かんだその選択肢を私は即座に切り捨てた。

 白の一手は戦おうという意思表示だ。ならばそれに応えなくてどうするのか。きっとあの子も……彩も私を待っているんですから!

 

 

 ――行きますよヒカル! 13の四、カケ!

 

 

 私だってこの半年間遊んでいた訳じゃない。囲碁教室で、ネット碁で、そしてあなたも共に過ごした囲碁部で。ヒカル同様、私もまた確実に研鑽を積んでいたのだ。

 

 だから今度は私の番。……今度は、私の進化した碁を見せる番です!

 

 

 ―――

 

 

 ……はは、凄い。やっぱり佐為は凄いよ……!

 

 その変化は序盤から既に感じていた。現代の流行布石に始まり、黒を持った上でのより足早で積極的な打ち筋。確実に数目を勝ち切ろうというかつてのコミ無し碁の打ち方じゃない。5目半という負担を受け入れ、より一手の価値を追求した現代の碁だ。

 だけど……その一手の端々から確かに伝わって来る。半年前に感じた圧倒的なまでの大局感、独創性、そして真っ向から私の戦いを受け止めるだけの力強さ。

 奈瀬さんの言ってた通りだ。これは間違いなく秀策。その棋風を残しつつも、現代碁の利点を確かに取り入れた、進化した秀策の碁。

 

 ――本因坊秀策が現代碁を学んだら。

 

 そんなおとぎ話の様な出来事が、今まさに私の目の前で実現しているのだ。

 

 

 向こうの気合いに応えるかの様に敵陣深く踏み込んだ私の一手を、黒は真正面から迎え撃つ。そしてそこから始まった戦いは今や盤面全てに波及していた。

 佐為は引かない。私も引かない。盛大なフリカワリなどを経て、紆余曲折あったものの、殊この瞬間に至って形勢は未だ互角。布石段階のアドバンテージが多少なりとも解消された今回、むしろここまで渡り合えている事に私自身が一番驚いていた。

 佐為個人の技量はもはや疑う余地も無い。悔しいけれど、今の私がそれに及ばない事も前回の対局で嫌という程痛感している。ならば何が私をここまで支えていたのか。……それはきっと私が持っているもう一つのアドバンテージ、私が本因坊秀策という人間を熟知しているという事実に他ならなかった。

 

 ……そうだ、私が何度あなたの碁を並べたと思っているんだ。兄弟子・本因坊秀和との激闘の記録も、見る者全てを唸らせたあの耳赤の一手だって、私は全部知っているんだぞ。

 

 秀策の打ち碁は研究が進んだ未来においても変わらず多くの人々の模範になり続けている。少なくともプロならば誰もが一度はその碁を並べたはず。そんな偉大な先人に倣い、追い付け追い越せと、そうやって進化を続けた先に今があるのだ。

 前回だって、そして今日だって、私はずっと考え続けていた。秀策ならばどう打つか、自分の一手にどう応えてくれるのかと。

 その認識の違いが、そして棋士ならば誰しもが持ち合わせている先人達への尊敬の念が、きっと私と佐為の実力差を埋めてくれていたのだ。

 

 

 全局的に広がった戦いもやがて収束し、いよいよここからはヨセ勝負。

 どちらが勝っている? そんな事を考えている時間すら惜しかった。お互い持ち時間は使い切り、既に秒読みに入っているのだから。

 

 ……結果なんて終わればわかる。目算するヒマがあったら考えるんだ、より最善の一手を!

 

 頭が熱い。脳が焼き切れそうだ。それでも考えろ。ひたすらに考えろ。仮に負けても絶対後悔しないように。中央は後手6目、左上は先手だけど……!

 

 

 

 ――…………。

 

 

 まずはハネツギを決めて、それから……

 

 

 ――……っ。……!

 

 

 何か聞こえる? ……ああもう、よそ事なんて考えてる場合じゃないのにっ!

 

 

 ――……や。………っ!!

 

 

 くっ、利かされた。ここは切断に備えないと……!

 

 

 

 

 

 

「……彩っ! 聞いてるの!? さっきからずっと呼んでるでしょう!!」

 

 

 ―――

 

 

「うわあっ!?」

 

 耳元で響いた大きな声に、さしもの私も否応なしに現実に引き戻される。そうして振り返れば、『怒ってます』という文字をそのまま張り付けた様な顔のお母さんが私の背後に立っていた。

 

「お、おかあさん?」

「いつまで遊んでるの! 今日は夕方からお父さんがパソコンを使うって言っておいたでしょう? 何度も言ってるのに返事もしないでっ」

「え、あ……そうだったっけ?」

 

 間の抜けた様な声で返事をしつつも、よくよく思い返してみれば確かにそんな事を言われてた様な気もする。お母さんの後ろではお父さんが困ったような顔で苦笑いを浮かべているし。……ああ、もうそんな時間になっちゃったんだ。

 

 ……って違う! いや、違くないけど、とにかく今はそれどころじゃないんだ! ただでさえ時間に追われてるっていうのに……!

 

「ご、ごめん! すぐ終わりにするから、あと10分だけ!」

「ダメよ、そういう約束じゃない。まったく制服も着替えずに……まさかお昼からずっと遊んでるの?」

「まあまあ、いいじゃないか。10分くらいなら俺は全然構わないぞ?」

「……もう、ホントあなたは彩に甘いんだからっ」

 

 助け舟を出してくれたお父さんに心の中で感謝しつつ、都合良くお説教の矛先がそちらに向いたのをこれ幸いと、私はパソコンに視線を戻す。

 しかし、改めて状況の再確認をしようとしたその瞬間……画面に映る『それ』を見て、私は全身から血の気が一気に引いていくような感覚に陥っていった。

 

「えっ……な、何で?」

 

 先ほど切断に備えるために打ったその一手が、一路横にずれている。もちろん画面上の石が勝手に動くはずもない。つまりコレは……

 

 ……まさか、打ち間違えた? そんな、これじゃあ断点が守れてないよ!

 

 何て事だろう。恐らくあの時、お母さんに呼び掛けられたあの時に間違えたんだ。

 素人目にもわかるくらいの明らかな失着。こんなの切ってくださいと言わんばかりだ。それでも佐為がすぐにそれをしないのは、ここまで互角に渡り合った私に敬意を払い、その手の意図を最後の最後まで汲み取ろうとしてくれているからなのか。

 もちろん実際は裏も何もないただの打ち間違い。そうして時間いっぱいまで使った末に放った黒の一手は……当然ながら私への死刑宣告だった。

 

「切断された……上辺、死んじゃった……」

 

 1目の損得が勝敗を左右しかねないこの状況下で、大石など落ちてしまっては挽回も何もあったもんじゃない。文字通り完全に打つ手無し、形勢なんて考えるだけ時間の無駄だ。

 もはや私に残された選択肢は……敗者の最後のお勤め、投了ボタンをクリックする事だけだった。

 

 ―white has resigned

 

 画面に浮かび上がるその文字を見て、全身の力が一気に抜ける。思わずその場にへたりこんでしまいそうだった。……こんな終わり方、あんまりじゃないか。こんな終わり方、きっと向こうだって望んでなかったハズなのに。

 

 

「終わったの彩? ……あのね、別に囲碁で遊ぶのを悪いとは言わないわ。だけどあなた、この前もパソコンで夜更かしをして……」

 

 諭すようなお母さんの言葉がやけに耳に障る。もちろん悪いのは約束を忘れていた私だ。そんなのわかってる。……それでもせめてもう少し待ってくれてたら、二人が帰って来るのがもう少しだけ遅かったら、きっと素晴らしい一局が完成したのに。そんな自分勝手な考えを廻らさずにはいられないのだ。

 

「とにかく早く着替えてお風呂に入っちゃいなさい。そしたらご飯にするから……」

「……もう、わかってるよっ! お母さんのばかっ!!」

 

 まるで思春期の中学生のような悪態を吐きつけて、そのまま私は2階へと駆け上がって行ったのだった。

 

 

 ―――

 

 

 結局ご飯の時間に至っても不機嫌を全面に押し出していた私だったけれど……

 

「いつまでもそんな顔してるんなら、もうパソコン使わせないからねっ!」

 

 とうとう腹に据えかねたお母さんにそんな事を言われてしまっては頭を冷やさない訳にもいかなくて。と言うより、常識的に考えて悪いのは完全に私であり、こちらが謝るのは至極当然の事なのだ。何よりこの上奈瀬さんとの対局機会まで取り上げられては堪らないと、私は素直に頭を下げ、何とか事なき事を得たのだった。

 

 そうして食事を終えた後、自室に戻った私は1日の疲れを吐き出すかの如くそのままベッドに体を投げ出した。ぼんやりと天井を見上げながら、未練がましくも浮かんでくるのはまさに先刻まで死力を尽くして戦っていた記憶。

 

 ……強かったなぁ、佐為。

 

 以前とはまるで別人の様な碁。そして真に恐るべきはその成長速度と学習能力だ。囲碁教室、ネット碁に囲碁部――碁を学ぶにあたり決してレベルが高いとは言えない環境に加え、ネット碁にしても未だ十分な場数をこなせた訳でもないだろう。それにも関わらず僅か半年であの強さ、しかもこれでまだ進化の途中だと言うのだから、改めてその偉大さを痛感させられてしまうばかりだ。

 

 それでも、本当に楽しかった。私の想像以上の強さを見せつけてくれた佐為。そしてそんな彼との真っ向勝負は、以前の対局よりも更に心踊るものだった。

 そして……本当に悔しかった。勝ちたかったのに。負けるにしても、最後の最後まで戦い抜きたかったのに。

 

 ……ごめんね佐為。あなたもきっと、最後まで打ちたかったよね。

 

 改めて先程の対局を思い起こす。もし最後まで打っていたら……どうなっていたのだろうかと。

 わざわざ碁盤になんて並べるまでもない。目を瞑れば一手違わず鮮明に浮かび上がる、打ち掛けの盤面。

 噛みしめる様に、そして今度は絶対に間違えないように、終局までの道筋を一人辿っていく。

 ……佐為が左上を決めて、私が中央へ。そして小ヨセを経て、半コウまで打ち切ったら。

 

 

「……ああ、そっか。やっぱり半目勝負だったんだ……」

 

 

 ―――

 

 

「……何だったんだろうな、最後の」

 

 ――わかりません……わかりませんが、私には彼女があんな初歩的なミスをするなんて思えません。恐らくは打ち間違いかと……

 

「彼女、ねぇ……」

 

 ――あっ! い、いや……その……

 

「ったく、やっぱりオマエも知ってたんだ。相手が星川だってこと」

 

 ――ごめん、なさい。……あれ? オマエもって事は、じゃあ……

 

「途中からだけど、何となくな。あの名前にしても星川だから織姫。はは、アイツらしいって言うか」

 

 ――……怒って、いないのですか?

 

「オレだって同じさ。気付いてて止めなかった……止めたくなかったんだ。オマエらの対局に夢中になっちまってさ。だからまあ……別に謝んなくていいよ」

 

 ――ヒカル……

 

「それで、実際ちゃんと打ってたらどっちが勝ってたんだ? 相当細かそうだったけど」

 

 ――……私の、半目負けです。

 

「……そっか、負けちまったのか」

 

 ――無念です。やはり彼女は……強かった。ですが、それでこそ追いかけ甲斐があるというもの。

 

「はは、何か意外とサッパリしてんじゃん。心配して損したぜ」

 

 ――ええ、気落ちしてる暇なんてあるものですか。まだまだ私には学ぶべき事がたくさんある。もちろん最後まで打ち切りたかったのは確かですが、それ以上にねっとの世界に彼女がいる事がわかったのですから! orihimeという名も覚えました。次は、次こそは……!

 

 

 

 

 

「……あー、張り切ってるとこワリーけど、次からもうアイツとは打たねーから。申し込まれても全部断るぞ」

 

 ――……えええっ!? な、何でですかぁっ!

 

「当然だろ! オレ達が気付いたように向こうだって何か感付いてるかもしれないじゃねーか! ネット碁を禁止されないだけありがたいと思えよっ!」

 

 ――そんな……そんな殺生なぁーっ!

 

「……あーもう、うるせーなっ! 言い訳を考えなきゃならないこっちの身にもなれよっ!」

 

 




秒読み:持ち時間を使い切ると、そこからは一手を決められた時間内で打たなければなりません。これが秒読みです。10秒、30秒、60秒と色々ありますが、基本的には対局者同士の決めであり、今回は30秒くらいを想定してます。

また、ネット碁にはミスクリックによる打ち間違い防止のために『待った』のボタンが設定されていますが、興醒めになるので触れませんでした。


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25話

 私と佐為の二度目の対局は、私の打ち間違いで碁が壊れてしまうという何とも不本意な結果で幕を閉じてしまった。もちろんその事について謝りたいとも思うけれど、向こうが私と打ったという事を認識しているとは限らないし、どうせ伝えたところで知らぬ存じぬを貫かれるだけだろう。何より幽霊云々を抜きにしても、ヒカルだってそこは触れてほしくない部分のはずだ。わざわざこちらから余計な不安を煽る必要もない。

 お互いこの件に関しては暗黙の了解で不干渉。そうして翌週からも、またいつも通りの囲碁部の日常が始まるのだった。

 

 6月も下旬に差し掛かり、いよいよ大会まで1ヶ月を切った。決して実力重視ではない、囲碁を楽しむ事を前提とした活動内容ではあったけれど、そんな中でもここ最近の皆の成長ぶりは目を見張るものがある。もちろんその成長が一人一人の努力の結果であることは言うまでもないのだけれど、彼らに手解きを行い、それを見守ってきた身としては少なからず達成感みたいなのを覚えてしまったりもするわけで。

 一般的な中学囲碁部の大会レベルがどの程度のものなのかはわからない。だけど、これならかなりいい成績が残せるんじゃないか。……そんな風に考え始めていた、ある日の事だった。

 

 

「ねえ彩……私って囲碁に向いてないのかなぁ……」

「え……い、いきなりどうしたの久美子?」

 

 部活の帰り際、ため息と共に私にそう問いかける久美子。一体何事かと聞き返してみれば、どうやら最近の部内での対局成績が振るわない事が気になっているらしいのだ。

 

「……私ね、最近あかりに全然勝てなくなっちゃったの。少し前までは同じくらいだったのに」

 

 取り分け引きずっているのは、同じ初心者組であるあかりに負け込んでしまっていること。確かに私の目から見ても、現状あかりは久美子の一歩先を行っている様に思う。だけど、それは決して二人のセンスとか才能とか、そういったものの違いを表している訳じゃないのだ。

 

 ……そういえばあかり、最近部活の後にヒカルと一緒に打ってるんだもんね。

 

 言うまでもなく上手との対局はこの上ない勉強の場であり、そしてこれは憶測だけど、もしかしたら佐為と打っている可能性すらあるのだ。只でさえ最も成長著しいこの時期に、僅か数局とはいえそんな貴重な経験をしているとしていないのとでは、実力に差が付いてしまうのも当然だ。

 

「そんな、久美子はちゃんと強くなってるよ! 私が保証するって!」

 

 もちろん私の言葉はお世辞でも何でもなくれっきとした事実。何より初心者組の指導には取り分け力を注いできたつもりだし、二人もそれに応えるかの様に素晴らしい成長を見せてくれた。少なくとも同じ囲碁歴の人と比べれば、何処に出しても恥ずかしくないくらい強くなってるはずなんだ。……しかし、私のその言葉にも久美子は申し訳なさそうに微笑み返すだけで。

 

「あはは、ありがとね。……別にそれが不満って訳じゃないの。初心者は私たち二人だけなんだし、どっちかが上でどっちかが下になるのは仕方ないことだもん。でも……何だかちょっと自信無くしちゃってさ」

 

 久美子が言う様に多かれ少なかれ実力差は付いてしまうものだし、本人もそれは理解しているはず。恐らく彼女を思い悩ませている原因は自分に対する不信感。周りは自分よりもずっと格上の人達で、唯一の比較対象であるあかりには明確な差を付けられて、そんな状況で自分が本当に成長しているのかがわからなくなってしまったんだろう。

 早い話、今の久美子に一番必要なのは自信だ。強くなっているという確信さえ持てれば、それが何よりの力になる。今は勝てなくても、いつか必ず追い付けると信じる事が出来る。

 だけどこの環境下でそれを早急に手に入れるのは難しいのかもしれない。私同様、他の部員達がそれを口にした所で簡単に鵜呑みにするという訳にも行かないのだろうし。

 私はそんな久美子がじれったくてたまらなかった。ぶっちゃけ周りがちょっとおかしいだけで、久美子だって十分人並み以上の成長を見せているのに。それなのにその実感が無いなんてもったいないにも程がある。

 

「……よし決めた。久美子、今週の土曜日私と遊びに行かない?」

「ど、どうしたのいきなり? 別にいいけど……何処に行くの?」

 

 だからこそ私は久美子を誘った。今の環境で無理ならば環境を変えるまで。それにこれは自信云々の話だけでなく、引いては先に控える大会という点においても、間違いなく貴重な経験となり得るのだから。

 

 

「……碁会所に行こう!」

 

 

 ―――

 

 

 私たちの学区の最寄り駅から電車に揺られること約15分、駅近の雑居ビルの二階にその碁会所はあった。

 この世界で私が行ったことのある碁会所は塔矢先生の経営する所だけ。通い始めて約半年、今やかなりの数のお客さん達と面識があるし、自分で言うのもなんだけど、塔矢くんの友達という事もあって何だかんだ私も一緒に可愛がってもらっている様に思う。

 だけど今回はあえてそこを選ばなかった。久美子は碁会所に行くのは初めてだろうし、私だけがリラックス出来る場所よりも可能な限り同じ立ち位置でいてあげたかったんだ。

 もちろん初めての碁会所が、タバコの煙立ち込めるアダルトな雰囲気の、っていうのもさすがにハードルが高いだろうし、そこは事前に下調べをした上でなるべくクリーンな所を選んだつもりだ。

 

「うぅ……やっぱりちょっと怖いよ……」

「そんなおっかない場所じゃないから大丈夫だって。ただ囲碁を打つだけ、いつもと同じなんだからさっ」

 

 未だに尻込みしている久美子を励ましつつ碁会所の扉を開ける。そんな私達を出迎えたのは、柔和な雰囲気を携えながらこちらに歩み寄る――恐らくはこの店の席亭と思われる初老の男性の姿だった。

 

「いらっしゃい。子供が遊びに来てくれるなんて嬉しいねぇ。それじゃ、ここに名前を書いてもらえるかな?」

 

 16面程の対局スペースを構えたこじんまりとした内装。それでも店内に広まる穏やかな空気は、そんな席亭さんの人柄をそのまま表したかの様で。ぱっと見の印象ながら、きっとここが良い碁会所なんだろうなということが伺えた。私の期待した通り、ここなら久美子の緊張もいくらかは解れるんじゃないだろうか。

 

「星川さんと、津田さんね。二人の棋力はどれくらいだい?」

「き、棋力? ……彩、私わからないよ」

「えっと、この子は5級くらいで十分打てると思うんでそれでお願いします。……あと、私は少しだけ見学させてもらっていいですか?」

「ああ、別に構わないよ」

 

 初めての碁会所、しかも初対面の相手。今まで気心の知れた相手としか打って来なかった久美子からすれば、やはり不安は少なからずあるはず。だからこそ最初の一局だけは側にいてあげようと思い、私は見学を申し出たのだ。

 幸い席亭さんもそれを快諾してくれた。そうして早速久美子の対局相手を探そうと彼は店内をキョロキョロと見渡し始め、やがてその視線は今まさに終局を迎えたのであろう1つの対局席に向けられた。

 

 

「お、あそこが終わったか。由梨ちゃん! 次、お願いできるかな?」

 

 由梨ちゃんと声をかけられたショートカットの少女は、一度こちらに視線を向けると、改めて対局相手に一礼した後、私達の方に歩み寄ってくる。

 整った顔立ちに優雅な立ち振舞い、少しばかりのつり目が大人びた雰囲気を更に引き立てている。文句のつけようもない美人さんだなあと思いつつ、何だかどこかで見たことあるような気もするわけで。

 

「彼女は日高由梨ちゃん。僕の姪っ子なんだけどね、何とあの海王女子囲碁部の大将なんだ。もちろん実力も申し分無い。彼女に教えてもらうといいよ」

『か、海王っ!?』

 

 どこか自慢気にそう口にする席亭さん。その言葉に私と久美子の声が重なる。もっともその驚きの意味合いは恐らくちょっと違ったのかもしれないけれど。……まさかこんな所で知った顔に遭遇するなんて。何と言うか、世間の狭さというものを改めて実感する。

 

「ちょっとおじ様、その子達初めてのお客なんでしょう? いくら私が美人で頭脳明晰でおまけに囲碁も強い完璧少女だからって、変に緊張させちゃダメじゃない」

「あはは、そこまでは言ってないんだけどね……」

 

 口元に手を添えながら、恥ずかしげもなくそんな事を言ってのける姿はまさにお嬢様。さすがに大袈裟過ぎじゃないかと思う反面、それでも何だか様になっているのだから不思議なものだ。

 

「まあいいわ、早速始めましょう。どっちが打つのかしら?」

「あ、えっと……私、です」

「そ。もう知ってると思うけど私は日高由梨、海王中の3年よ。あなたは?」

「つ、津田久美子です。葉瀬中の1年ですっ」

「久美子ちゃんね。それじゃあっちで打ちましょうか。ついてらっしゃい」

「は、はいっ!」

 

 ……あーあ。せっかく緊張が解れて来たところだったのに、またガチガチになっちゃった。久美子、大丈夫かなぁ。

 

 何だか先行きに不安を感じつつも、私もまた彼女に連れられて対局席へと向かっていくのだった。

 

 

 ―――

 

 

 5級の久美子に対して彼女が指定した手合いは8子局。一概に決めつけは出来ないけれど、単純に考えればアマ四段クラスの実力者と言うわけだ。流石は名門海王の大将と言うべきだろうか。

 まあそれはひとまず置いといて、とにもかくにもその強気な物言いに久美子が萎縮してしまうんじゃないかと私は心配していたのだけれど……

 

「……私も初めて大会に出た時は久美子ちゃんと同じだったわ。石も持てないくらい緊張しちゃってあっさり中押し負け。いやー、あの時は泣いたわね」

 

 最初の最初、実際のところ久美子は緊張しっぱなしだった。危うく碁笥をひっくり返しそうになっていたし、指先の震えを必死に抑えながら置き石を置いていくその姿は、正直対局どころの話じゃないとすら思えてしまうくらいで。もっとも私がこの対局に付き添ったのはまさにこういった時のためであり、そんな久美子に声をかけようとした矢先、私に先んじて彼女が口を開いたのだ。

 

「緊張するのは恥ずかしい事なんかじゃないわ。ゆっくりでいいからちゃんと考えて、自分の後悔しない手を打てばいいの。……せっかく私と打つんだから、そんな対局にしたら許さないわよ?」

 

 強気な物言いはそのままに、だけど久美子に向ける眼差し、そして実際の対局も上手のお手本の様に優しさに満ち溢れていた。久美子もそんな彼女に応えるかの如く、緊張していた頃が嘘のように自分の実力をしっかりと出しきれている。

 高飛車なお嬢様の様に見えて、やっぱり彼女も上に立つ人間。言おうとしていた事は全部言われてしまったけれど、少なくとも対局前の心配が杞憂に終わった事に私は一人胸を撫で下ろしていたのだった。

 

 

「すごいわ! これで囲碁を始めて2ヶ月なの!? うちの囲碁部でもこれだけ成長する子は中々いないわよっ!」

「……あ、ありがとうございますっ」

 

 対局、そして検討も恙なく終わり、流れのままに久美子の囲碁歴を聞いた彼女は、その答えに驚きを隠せないようだった。

 まあちょっと下品な考え方だけど、正直この反応こそが私の望んでいたものだったりする訳で。いつも一緒にいる私達ではなく第三者が、加えて海王囲碁部の大将である彼女がそれを認めてくれた事もあってか、久美子も頬を赤らめながら照れ笑いを浮かべている。

 

「よっぽど良い指導者に恵まれたのね。普段は何処で勉強しているの?」

「えっと、中学の囲碁部で友達と一緒に……」

「と、友達? それもまた凄いけど……それ以前に葉瀬中に囲碁部なんてあったのね。大会で見たこと無いような気がするんだけど」

「部自体はあったんですけど、人数が集まったのは今年の4月からなので、大会には出てなかったんだと思います」

「なるほどね。……で、その友達ってもしかして」

 

 検討の内容も特に指摘するような点が無かったので、今やすっかり置物と化していた私だったけれど、この瞬間に至りようやく彼女の視線がこちらに向く。

 

「ふーん、あなたが……」

「や、別に私だけが教えてるって訳でも……」

 

 まじまじと私を見つめる彼女に両手を振りながらそう返すものの、何故かその視線は私から全く離れようとしない。むしろより一層目を細めながらこちらに近づく彼女に、さしもの私もたじろいでしまう訳で。

 

「あの、私の顔に何か付いてます?」

「……ねえあなた、何処かで私と会ったかしら?」

「え……会ったこと無いと思いますけど」

「あなたの顔、何となく見覚えがあるのよねぇ……」

 

 まあ私はあなたを最初から知っていたけど、それはちょっと特殊な事情があるからで、そうでなければお互いに今日が初対面のはず。……って言うか、顔を合わせてからもう1時間以上経つのに今更過ぎやしないだろうか。私ってそんなに存在感無かったの?

 

「……そういえばあなたの名前聞いてなかったわね。教えてもらっていいかしら?」

「あ……すみません、申し遅れました。私、星川彩って言います。久美子と同じ葉瀬中の1年です」

「星川、彩……あっ! あなたもしかして……!」

 

 何となく名乗る機会を逸したままここまで来てしまい、本当に今更ながらも取り敢えず私は軽く頭を下げながら自己紹介をする。そうしてしばらくぶつぶつと私の名前を呟いていた彼女だったけれど、突然何かを思い付いた様に席から立ち上がると、慌ただしく碁会所のカウンターに向かって駆け出していった。

 

「おじ様っ! 以前の週刊碁ってまだ残ってるわよねっ?」

「あ、ああ。そこの棚に月ごとにまとめてしまってあるけど……いきなりどうしたんだい?」

 

 席亭さんの言葉に返事もせずにガサゴソと棚の物色を始める。会話に出てくる単語の端々から、まあ彼女が探しているものの正体は何となく察する事が出来たけれど……何だか嫌な予感しかしないのは気のせいだろうか。

 

「……あった。やっぱり……やっぱりあなたがっ……!」

 

 週刊碁を握り締めるその手はワナワナと打ち震え、紙面と照らし合わせる様にこちらに向けるその視線は、まるで親の仇を睨み付けるかの如く。そして彼女はゆっくりとこちらに向き直ると、右手で私をビシッと指差しながらこう叫ぶのだった。

 

 

「星川彩っ!」

「は、はいっ!」

「ここで会ったが100年目……倉田先生の敵討ちよっ! 私と勝負しなさいっ!!」

 

「…………えぇ」

 

 予想の斜め上の発言にもはや思考が追い付かない。それ以前に敵討ちとはまた随分と物騒な。

 ……一体私が何をしたと言うのだろうか。

 

 

 ―――

 

 

「おい、何が始まるんだ?」

「今から由梨ちゃんとあの子が対局をするみたいだぜ。しかも互先で!」

「ははは、由梨ちゃん相手に置き石ナシとは末恐ろしい嬢ちゃんだな! ま、20分持てば良い方じゃないか?」

「バカ、あの子院生なんだってよ。しかも話によると倉田に勝ったとか……」

「い、院生!? って言うか倉田って……まさかプロの倉田五段か!?」

 

 嫌な予感ほど当たるとは良く言ったもので、予想通り何だか面倒な事になってきてしまった。

 現在、私と日高さんが向かい合う対局席を中心として、それを取り囲むように碁会所中の人達が集まっている。

 

「由梨ちゃんは倉田プロの大ファンなんだ。それこそ彼の対局譜なんかも全部集めるくらいにね。そういえば1ヶ月前も、倉田がアマチュアに負けたって記事を見て随分荒れてたなぁ」

「は、はぁ……そうですか」

「いやー、それにしても君がねぇ……」

 

 事の発端となった原因を説明しつつ、週刊碁を片手に席亭さんが興味深そうに私の顔を覗き込む。

 正面には私を射殺さんばかりの敵意を向ける日高さん。そして好き勝手に盛り上がるギャラリーの人達。どうやらもう逃げ道は無いようだった。

 

「マグレで倉田先生に勝ったからって調子に乗らないことね。今ここであなたを倒して、あの対局が何かの間違いだって事を証明してみせるわっ!」

 

 別に彼女が倉田先生のファンだからって驚きはしない。今や彼も日本を代表する棋士の一人だし、若手と言うこともあって実際その人気はプロの中でも相当なものだとか。だけど黒星一つ付けただけでここまで目の敵にされてしまうなんて……もはや心酔レベル、本当に倉田先生が大好きなんだろうね。

 

「……なあ由梨ちゃん、無理しないで石を置かせてもらったらどうだい? この棋譜を見て彼女の実力がわからない訳じゃないだろう?」

「ダメよ! 置き碁で勝ったって何の意味も無いじゃない!」

「しかしなぁ……この子が勝ったのは倉田だけじゃない、他にも4人のプロを倒して優勝してるんだぞ?」

「ーーーっ! もう、おじ様は黙ってて!」

 

 席亭さんの気遣いの言葉にも取りつく素振りすら見せず。確かに実力の差は歴然だけど、もはや私が今更何か言ったところで火に油を注ぐだけなのかもしれない。

 

「……わかりました。互先でお願いします」

「言っとくけどね、うちの部長も元院生なの! 私だって何回も打ってもらってきたんだから。簡単に勝てると思わないでよ!」

 

 ……もうしょうがないか。元々向こうが望んだ手合いだし、わざと負けるってのも何か違う気がするしね。

 

 

 

 そうして20分後。結果はお察しの通り。

 

「負け……ました……」

 

 この期に及んで指導碁なんて打ったら何を言われるかわからない。せめてプロらしくアマチュアのお手本になる様にと真っ当に打った結果、まあ真っ当に勝ってしまった訳で。

 もちろんその実力の高さは久美子との対局の時点である程度は伺い知れていた。むしろ想像以上に食らい付いてきた事に感心したくらいだ。だからと言って、元々の手合いが違いすぎる以上この結果は必然と言うか、仕方が無いと言うか。

 

「ありがとうございました。……その、とても筋の良い碁でした。特に左下なんか私も対処に困っちゃって……」

 

 聞こえているかはわからない。返ってくるのは私への不満かもしれない。それでも俯く彼女にゆっくり語りかける。対局を通じて私が感じた想いをそのままに。

 そして数秒後、顔を伏せたまま彼女が発した第一声は……

 

「……ぐすっ」

 

 ……え?

 

「ひっく……うっ……うううっ……」

「ちょ、ちょっと……何も泣かなくても……」

 

 体を震わせながら嗚咽を溢す。よもや泣かれるとは思っていなかった私は、予想外の状況に困惑するばかりで。

 そしてそんな私に追い打ちをかけるかの如く、それまで静まり返っていた周囲が俄にざわめき出した。

 

「ああ由梨ちゃん、泣かないで! かわいそうに……」

「由梨ちゃんが泣かされた!」

 

 恐らくはこの碁会所のお姫様的存在である彼女が咽び泣く姿に、明確な言及こそ無かったものの、その空気からは彼女をそうさせた私への不満がありありと感じられた。

 

 ……い、いや、確かに中学生の女の子を囲碁で泣かせた事に罪悪感が無い訳じゃないけど……え、何この空気。私が悪いの? 手合い違いだって最初に言われてたじゃん!

 

 まさにアウェーの洗礼と言うべきだろうか。文字通り針の筵と化した私だったけれど、それでも希望が無いわけじゃなかった。

 そう、私は一人じゃない。私には仲間がいる。たった2ヶ月だけど、同じ部活で共に笑い合ってきた友達がいるんだ!

 すがる様な想いで後ろに振り返る。そして唯一の希望であった彼女がくれた言葉は……

 

 

「由梨さんを泣かせるなんて……ひどいよ彩っ!」

 

 

 神さま、どうやらこの世界に私の味方はいないみたいです。

 

 

 ―――

 

 

 吊し上げ一歩手前まで追い詰められていた私を救ったのは、先程まで涙を流していた日高さん本人だった。彼女曰く、元より勝ち目がほとんど無いことを覚悟して挑んだものの、予想以上の大敗に思わず感極まってしまったのだそうな。

 とにもかくにも日高さんの鶴の一声でそれまでの険悪なムードは一気に霧散する。そうしてギャラリーの次なる興味は他ならぬ彼女を破った私へと移り、やれ対局だの指導碁だのと申し込みが殺到するのだ。何だか都合が良いなぁと少しだけ思ったけれど、そんな風にお願いされて悪い気がするはずもなく、ちゃっかり多面打ちのお相手を務めることに。

 私がそうしてる間にも、久美子は久美子でまるで妹の様に日高さんにくっついて、彼女を始め他のお客さん達との対局を繰り返し、勝ったり負けたりしながら、それでも本当に楽しそうに笑っていた。

 

 そしてあっという間に時間は過ぎ、帰り際。

 

 

「由梨さん、今日はありがとうございましたっ!」

「ふふ。またいらっしゃい、久美子ちゃん」

 

 今日一日ですっかり仲良くなったこの二人。性格は正反対もいいところ、それでも何だかんだ相性が良かったと言うべきか。

 

「それと、星川彩」

「な……何ですか?」

「あなたプロ志望なんでしょう?」

「ええ、まあ」

「ならさっさとプロになって、一刻も早く倉田先生に負かされてきなさい。私の仇もまとめて先生が取ってくれるから」

 

 負けるためにプロになれとは随分捻くれた言い回しだけど、これも彼女なりのエールなのだろう。もちろん負けるつもりは毛頭ないけどね。

 

「最後に二人とも。……大会で優勝するのは私たち海王中よ。女子はもちろん男子もね。出るんだったら覚悟しておきなさい!」

 

 そしてチャンピオンからの宣戦布告には、大会に出れない私の代わりに久美子が応える。

 

「わ、私たちだって負けません! 葉瀬中にも強い人達がいっぱいいます。それに、彩だってついてるんですから!」

「……ええ、楽しみにしてるわ。それじゃ、またね」

 

 お互いに健闘を約束し、固く握手を交わす。さて帰ろうかと踵を返しながら……不意に私はある事柄を思い出した。

 気になりつつも、結局聞きそびれてしまっていた、些細な疑問。

 

 

「日高さん、最後に一つだけ聞きたいんですけど」

「あら、どうしたの?」

「……倉田先生の、どの辺が好きなんですか?」

 

 単なる興味本意。私は倉田先生とは一度しか面識が無いし、盤外における彼の人間性にも決して詳しい訳じゃない。彼女がそこまで倉田先生を敬愛する理由を聞いてみたかったのだ。

 

「……良く聞いてくれたわね」

 

 ……今思えばその一手こそが、私が今日一日で放った数多の着手の中でも、最大で最悪の失着。そんな質問をぶつけてしまったことを私は激しく後悔する羽目になるのだ。

 

 

「全部よ」

「え?」

 

「だから全部。吸い込まれそうなつぶらな瞳、包容力のあるふくよかなお腹、子供の様な天真爛漫な性格、ちょっと食いしん坊なところも彼の魅力を更に上乗せしてる。まさに女性にとっての理想の男性像そのものよ。もちろん囲碁の強さも忘れてはいけないわ。特に私が気に入ってるのが前期の本因坊戦の三次予選決勝、倉田先生がリーグ入りを決めた一局ね。劣勢の状況から粘って粘って半目差でひっくり返したあの碁は、今でも私の脳裏に焼き付いて離れないわ。とにかくあんなにカッコいい人が碁まで強いのよ。同じ碁打ちとして惹かれない方がおかしいじゃない。あなたにはわからないの? 実際に対局までさせてもらっておいて見る目の無い子ね! 仕方ないから教えてあげるわ、これは私が彼の大盤解説に行ったときの話だけれど、そのトークスキルもさることながら……」

 

「も、もう結構です。お疲れ様でした……」

 

 

 ……もう、お腹いっぱいです。

 

 

 ―――

 

 

「あー楽しかった! 彩、碁会所って面白いんだね!」

「あはは、私はホント疲れたよ……」

「ね、また一緒に来ようよ。由梨さんもそう言ってくれてたし」

「まあその内、ね……」

 

 先程の衝撃が今だ抜け切らない私は、そんな中途半端な答えを返すのが精一杯で。世の中には触れてはいけない事もあるのだ。

 

「……ところでさ、何でそれ持ってるの?」

「あ、これ? 席亭さんにお願いしたらくれたんだ。帰ったら皆にも見せてあげないと!」

 

 久美子が大事そうに抱えているのは、まさに今日の騒動の元凶である週刊碁。……まあ見せるのは構わないけど、実はその写真あんまり気に入ってないから、出来れば程々にしていただきたいのですが。

 そうしてしばらく並んで歩いていた中、不意に久美子はその足を止めると、こちらに向かって小さく頭を下げた。

 

「ありがとね彩。私の為に一日付き合ってくれて」

「……うん、どういたしまして」

「私、もっと頑張るよ。大会で由梨さんに恥ずかしいところ見せたくないもん!」

 

 そう言ってもらえると私も頑張った甲斐があるというもの。何より、久美子がそんな風に思えるようになった背景には日高さんの存在が本当に大きかった。私も何だかんだ言いながら彼女への感謝は尽きないのだ。

 

「彩が持ってきてくれた碁盤って、この大会で手に入れたんでしょ?」

「……そうだけど?」

「まさかプロの先生に混じって優勝してたなんて思わなかったよ。……ね、彩ってもしかして結構すごい人なの?」

 

 そしてこういった質問には、事実がどうあれ謙遜して返すのが一般的なのかもしれない。……それでも私は久美子への最後の一押しとして、敢えてこう答えたのだ。

 

 

「うん、実は私ってすごいんだ。……だから久美子も自信持ってくれていいんだよ? 久美子に碁を教えてるのは、他でもない私なんだからねっ!」

 

「……ぷっ、普通そういう事自分で言うかな?」

 

 

 今日一日の充実っぷりをそのまま表した様な久美子の笑顔。やっぱり誘って良かったなという実感と共に、私もつられて笑みがこぼれてしまうのだった。



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第26話 ☆

 ――第4回北区夏期中学囲碁大会

 

 

 全国の学生達が夏休みを迎えて間もない7月半ば、毎年海王中にて行われる地区大会。

 筒井さんにとっては中学校生活の悲願であり集大成。他の部員達にとっても、ひとまず今日が葉瀬中囲碁部における一つの区切りになるのだ。

 

「わ、すごい人数。大会ってこんなに集まるんだ」

「ホントだ。100人以上いるかもね」

 

 会場入りし、室内に溢れかえらんばかりの人波に驚きの声を上げるあかりと久美子。参加数僅か8校の小規模の大会ながら、もちろん集まるのは選手だけではない。応援の部員、引率の顧問等も含めればやはりこのくらいの人数になるものなんだろうか。

 そして、そんな中でも特に目に付くのが開催校である海王中の生徒達だ。ざっと見ただけでもここに居る人達の半数以上を海王の制服が占めている様に思う。

 

「流石は名門ってとこかしら? この部屋も元々は囲碁部専用のホールみたいだし」

「ちっ、ゼータクな奴等だぜ」

 

 確かにこの設備、部員数だけを見ても海王中学がいかに囲碁に力を入れているかが伺える。囲碁は海王――正にその通り名に恥じない充実っぷりだ。

 

 各校に指定された荷物置き場にも、当然の様に練習用の碁盤が提供されていた。1面の碁盤の用意にすら四苦八苦した私たちからすれば、何とも羨ましい限りだけど……まあ折角なのでありがたく使わせてもらうとしよう。準備運動は大切なのだ。

 

「あ、じゃあ私は受付を済ませてきますね」

「え? で、でもこういうのは部長が……」

「ダメですよ。筒井さんは選手なんですから、ここで皆と打ってあげててください。……今日の雑用は全部私がやりますからっ!」

 

 上級生としての責任感から私を気遣う筒井さんに、半ば強引にそう宣言すると、私はそのまま会場の人波の中へと飛び込んで行った。

 

 この期に及んで私が細かい事を指導してもたかが知れている。ここまで来れば、出場する人間同士で刺激し合って集中力やモチベーションを高める方がずっと大事。

 今日の私の仕事はみんなが悔いのない碁を打てる様に全力で応援すること。そしてみんなの勝率を少しでも上げる為ならば、自分に出来ることは何でもやってやるのだと最初から決めていたのだ。

 

 

 

 そうして無事に受付を済ませた後、私は大会パンフレットを片手に会場中を歩き回っていた。

 

 ……ふむ、なるほどね。

 

 私が行っているのは言ってしまえば敵情視察、私たち同様に行われている他校の練習対局の様子を見て回っているのだ。もちろん人様の対局にへばりついて観戦をするなんて失礼な事は出来ないため、流し見程度のものではあったけれど。

 そうして見る限り、どうやらうちの囲碁部はこの区内において少なからず飛び抜けたレベルにある様だった。男子はもちろんのこと、初心者スタートを二人抱える女子だって、決して他校にひけは取らないはず。もっとも今日までのみんなの成長振りを間近で見てきた私としては、この結果はある程度予想出来た事であり、別段驚くと言うよりは確認に近い部分もあった。

 だけど、飛び抜けたと言ってもそれはあくまで平均的なレベルからの話。言うまでもなくこの地区には私達以上に飛び抜けた学校がある。優勝を目指す以上、やはり最大のライバルになるのは……

 

 

「あら、星川彩じゃない」

 

 そんな事を考えていた最中、自分を呼ぶ声に振り返ってみれば……そこにはおよそ1ヶ月振りの再会となる、ご存知倉田先生大好き爆弾娘、日高由梨さんの姿が。

 

「お久し振りです、日高さん」

「何か一人でフラフラしている不審者が居ると思って来てみれば、やっぱりあなただったのね」

「ふ、不審者って……」

「ま、あなたの事なんかどうでもいいわ。それより久美子ちゃんは元気にしてる?」

 

 久し振りに会ったというのに初っぱなからこの言われ様、毎度安定のお嬢様っぷり。……まあ、お変わり無い様で何よりですけどねっ。

 

「はい。あれから久美子、本当に頑張ってたんですよ。由梨さんにいいとこ見せるんだー、って」

「あ、あら嬉しいわね。……うふふ、私も後で挨拶に行こうかしらっ」

 

 そして久美子の事となるや、打って変わってふにゃんと頬を緩ませるのだ。もっとも日高さんが久美子を猫可愛がりしているのは私も良く知るところ、彼女にとっても可愛い妹分の成長は嬉しいハズだし、その努力が自分の為だったと聞かされれば尚更だろう。

 ……それにしても、だ。前々から思ってた事だけど、私との扱いに差がありすぎやしませんかね。倉田先生の件、まだ根に持ってるの?

 

 とまあ、そんな風に一言二言と世間話を交わしつつ、いよいよ話題は今日の大会へと移っていく。

 

「うちと海王、男子は2回戦、女子は決勝で当たりますね」

「あら、もう私達と戦う事を考えてるの? 初出場のくせに随分図々しいじゃない」

「べ、別にいいじゃないですか。日高さんこそうちを舐めてると痛い目見ますよっ!」

「……ふふ、冗談よ。むしろそれくらいじゃないと張り合いもないわ。他の学校にも見習って欲しいくらいよ」

 

 過去の実績を省みても、この地区において海王が圧倒的に突出した存在である事は言うまでもない。彼らにとっては勝って当たり前の大会、負けるなんて微塵も思っていないのだろう。

 そしてそれは彼らだけでなく、この地区の学校の共通認識ですらあるようだった。ちょっと見て回った限りでも、海王に対しては何処か諦めムード、準優勝出来れば御の字、そんな空気が感じられるのだ。

 日高さんの言葉も、何処か緊張感に欠けたこの大会に対する不満の様な意味合いもあったのかもしれない。

 

「何だかんだ私も楽しみにしてるのよ? あなた達葉瀬中と戦えるのをね。……ま、奇跡的にとはいえ、私の尊敬する倉田先生に勝ったあなたも居ることだし」

「……あれ、誉めてくれてるんですか?」

「う、うるさいわねっ! 調子に乗るんじゃないのっ!」

 

 うん、だったら是非とも期待に応えてあげようじゃないか。仮にその期待が私という存在に依るものだったとしても、今の葉瀬中には間違いなくそれだけの力がある。私はそう信じているんだから。

 

「とにかく、精々うちと当たるまで負けない様に頑張ることね」

「お気遣いありがとうございます。……日高さんこそ、私たちに負けてまた泣いたりしないでくださいね?」

「なっ……ば、ばか! 声が大きいわよっ!」

 

 そしてちょっとしたカウンターパンチも交えつつ改めて宣戦布告……のつもりが、顔を真っ赤にしながら予想以上に慌てふためくお嬢様。

 ……あれ、もしかして結構気にしてた?

 

 

「よ、予定変更よっ! 叩き潰してあげるから覚悟しておきなさい!」

「は、はあ……」

「あと、さっきのは絶対に内緒だからね! 誰かに喋ったら許さないんだからっ!」

 

 そんな捨て台詞を残し、涙目で走り去っていく日高さんの背中を見つめながら……何だか悪いことしちゃったな、と私は一人反省するのだった。

 

 

 ―――

 

 

 さて、そんなこんなで1回戦。とりあえず最初は男子の応援から。

 

 オーダーは大将ヒカル、副将三谷くん、三将に筒井さんだ。

 概ね実力通りの並びだけど、取り分けヒカルと三谷くんに関してほぼ実力差は無いと言っていい。最終的な対局成績も五分、大会直前の一発勝負でヒカルが勝ったから大将になった、それだけの話。三谷くん随分悔しそうにしてたっけ。

 

 ……ま、この二人は問題ないよね。

 

 対局は未だ序盤ながら、盤面では早くも相手との実力差が表れ始めている。初戦ということで出足が鈍る事も心配したけれど、見る限りそういった事も無いようで。実力、図太さ、諸々込みで、今やうちのエースは紛れもなくこの二人なのだ。

 

 そして三将戦。先を走る後輩二人の影に隠れがちだけど、もちろん筒井さんだって負けてはいない。

 型に嵌まりすぎていたかつての打ち筋は今や見る影もなく、むしろそれまで抑圧されていたものを吐き出すかの如く、彼は次々と意欲的な手を繰り出す様になった。

 もちろんそういった手はリスクと隣合わせ、まだまだ危なっかしい面もあるけれど……何より彼自身が本当に伸び伸びと打つ様になったのだ。ある意味それが一番の収穫だったのかもしれない。

 実戦もそんな筒井さんの勢いに押されてしまったのか、中盤で起こった右辺からの折衝において相手は致命的な失着を犯してしまう。向こうがすぐには気付かなかったその隙を、逃す事なく一気に筒井さんは畳み掛ける。そうして予想に反し、この場の誰よりも早く葉瀬中に1勝目をもたらして見せたのだ。

 

 

「そんな、コイツら初出場じゃ……」

「き、気を落とすな! 確かこの子は部長だったハズ。恐らく葉瀬は大将戦を捨てて残りを勝ちに来る作戦なんだろう。この負けは仕方ない、うちにもまだチャンスが……」

 

 投了を宣言してもなお自分の敗北を受け止めきれないのか、呆然と盤面を見つめる対戦相手と、そんな教え子を慰める様に声をかける顧問の先生。

 ……しかし筒井さんは、彼らの拠り所であった僅かな希望すら、余りにも純粋な笑顔と共に断じてしまう。

 

「……いえ、違いますよ?」

「な、何?」

「確かにボクは部長です。だけどこのオーダーはれっきとした実力順。……前の二人は、ボクよりずっとずっと強いんですから!」

 

 彼自身に悪気は全く無いのだろうけど、死人にムチとはまさにこの事。反射的に隣の盤面に目を向けた二人は、改めて自分たちに突き付けられた現実を理解し、再び言葉を失うのだった。

 

「筒井さんって結構えげつないんですね……」

「え……何か変なこと言ったかな?」

 

 私の言葉の意味が理解できずに首を傾げる筒井さん。真実は時として残酷、触れてあげないのも優しさなのに。

 とにかくこれで1勝、こっちはもう大丈夫だろう。流石にここから二人揃って負けるとも思えないし。

 

「何はともあれお疲れさまでした! それじゃ、私は女子の方に行ってきますね」

「わかった。こっちはボクが見ておくから」

 

 改めて筒井さんに労いの言葉。そしてこの場を彼に任せつつ、私は女子の応援へと向かうのだった。

 

 

 

 ちなみに対局席には先客が居た。

 

「落ち着いて久美子ちゃん……簡単な死活よっ……!」

 

 ……何でいるのこの人。って言うか声出てるんですけど……

 

 聞けば自分の対局をあっという間に片付けた日高さんは、仲間の応援もほっぽり出して一目散に久美子の元へと駆け付けたのだとか。一体どれだけ久美子の事が好きなんだこの人は。

 まあそんな彼女の応援、そして碁会所特訓の甲斐もあってか、久美子も無事に大会初勝利。続くように金子さんとあかりも勝利を納め、めでたく女子の1回戦突破が決まる。

 

「由梨さん! 見ててくれたんですかっ!?」

「ええ、また一段と強くなったわね。お姉さん嬉しいわっ!」

「わ、私……由梨さんに誉めてもらいたくて頑張ったんですっ……」

「……あーもう! 本当に可愛いんだからこの子はっ!」

 

 いちゃこらいちゃこら、あらあらうふふ。そうして対局が終われば、皆で喜びを分かち合う間もなくそんなやり取りが繰り広げられる始末だ。

 

「ね、ねえ彩……もしかしてあの人が前に話してた?」

「う、うん。海王の大将だよ」

「アタシの相手……アレ?」

 

「おう、そっちも勝ったのか! ……で、アイツら何やってんの?」

 

 その後、間もなく合流した男子も含め、私たちはたっぷり二人のゆりゆり空間を見せつけられる羽目になってしまうのだった。

 

 

 ―――

 

 

 お昼を挟んで午後からは2回戦。いよいよここからが正念場、女子に先んじて男子が海王とぶつかるのだ。

 海王部員はもちろんのこと、1回戦で負けてしまった他校の生徒達も一様に対局席に押し掛け、今やこの場は会場内でも一際目立った様相を呈している。流石はチャンピオン、注目度も抜群と言うわけだ。

 

「進藤くん、三谷。胸を借りるつもりで精一杯頑張ろう。仮に負けても、ボクはみんなとここに来れただけで……」

「……ったく何言ってんだよ筒井さん。わざわざ負けるためにここまで来た訳じゃねーだろ。相手が海王だって関係ねーよ、なァ進藤!」

 

 ようやく叶った大会出場、そして憧れの海王が相手。負けたら即引退となる筒井さんからすれば、取り分けこの一戦には特別な思い入れがあるのだろう。感慨深げにそう口にする筒井さん、三谷くんはそんな彼を鼓舞する様に声を張り上げる。

 

「お、おう……」

 

 そして話を振られたヒカルはと言うと……何だかいつもの威勢の良さが鳴りを潜めている様で。

 

 ……やっぱり緊張してるのかな。

 

 その原因は言うまでもなく対海王中における自分の相手、岸本さんの存在だ。彼がかつて院生であったことも、私から聞かされているヒカルは当然知っているのだから。

 単に格上の相手だからという訳ではない。ヒカルの当面の目標である院生、それを知る人物なのだ。私との置き碁という朧気な物差しでしかその距離を測れなかったヒカルからすれば、元院生である彼との対局は今の自分の立ち位置を知る絶好の機会になる。……期待半分、不安半分。そんな心境なんだろう。

 私にはそんなヒカルの気持ちは良く理解できるけれど……実際ヒカルに大将を譲った三谷くんからすれば、そんな様子はさぞかし不甲斐なく映ったのだろうか。

 

「んだよ、オマエビビってんのか? ……何だったら今から大将変わってやってもいいんだぜ?」

 

 そんな風にヒカルを煽るのだ。もちろん今からオーダーを変えるなんて不可能だし、三谷くんにしても張り合いの無いヒカルの尻を叩くような意図があったのかもしれない。

 もっともこの二人のこれまでを思えば、そんな事を言われたヒカルがどんな反応を示すかなんて火を見るよりも明らかで。

 

「ビ、ビビってなんかねーよ! ……オレだって院生になるんだ、元院生なんかに負けてらんねーよ!」

「ちょ、ちょっと進藤くん!」

「え? …………あっ」

 

 元気なのも大変結構だけど、それも時と場所というものを考えてほしい。言うまでもなくここは海王中、向こうのホームグラウンド。周りには多くの海王の生徒達、そして何より……目の前にはその本人が居るというのに。

 

「なっ……コ、コイツ!」

「初出場のくせに調子に乗りやがって!」

 

 自分たちの部長を軽んじる様な発言に息巻く海王部員。当の岸本さん自身は特に何かを口にするわけではないものの、眼鏡の奥のその視線は明らかにヒカルを睨み付けていた。

 自分の招いたこの状況を理解し、しまったという表情で口元を押さえるヒカル。おろおろと狼狽える筒井さん、三谷くんに至っては気の強さそのままに相手を睨み返す始末だ。……そんな中、それまで黙っていた岸本さんが静かに口を開く。

 

「進藤くん、だったね。……キミは院生になるつもりなのかい?」

「そ、そうだけど……」

「なら先輩として一つ言わせて貰おうか。……院生は、キミが思ってる程甘くない」

「なっ……!」

「仮に――」

 

 そしてヒカルに向けられていた視線が一瞬、それでも確かに私を捉えたのだ。

 

「……仮にキミにどれだけ優秀な師が居たとしても、だ。それだけで通用する程甘い世界じゃない。覚えておくといいよ」

 

 冷静な表情は崩さず、口調も穏やかなまま、より一層強くヒカルを睨み付ける。

 対するヒカルも、自分の失言が発端とはいえ、余りにも一方的な向こうの態度に次第に顔を紅潮させていく。

 まさに一触即発。無言の時間が流れる中……割って入るように対局開始のブザーが鳴り響いた。

 

「……いい試合をしよう。大将戦に恥じない様に、ね」

 

 

 お互いの健闘を約束するとか、そんな生易しい発言じゃない。火を付けてしまったんだ。彼の瞳に宿る、何かしらの強い想いは隠せていないのだから。

 波乱の幕開けとなった2回戦。ニギってヒカルの白番、三谷くんは黒、筒井さんが白。

 

「お願いします!」

 

 

 ――私たち葉瀬中囲碁部の、運命の一戦が始まった。




ふくちょう様から応援イラストをいただきました。感謝の極みです!


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27話

「何だか凄い碁になってるわね……」

 

 対局も中程、食い入る様に大将戦を見つめていた私に声をかけたのは日高さんだった。先程と同様、2回戦もあっさりと片付けてこちらの見学に来たのだろうか。

 

「何よ、今回は自分の学校の応援に来たんだから文句を言われる筋合いは無いわよ?」

「べ、別に文句なんか……」

「それにしても岸本くん、どうしちゃったのかしら。……らしくないじゃない」

「……らしく、ない?」

「ええ。少なくとも私はこんな碁を打つ岸本くんを見たことがないわ。普段の彼はもっと……」

 

 ――どんな時でも冷静沈着で乱れが無く、そのバランスの良さこそが彼の最大の武器。

 それが彼女の知る本来の岸本さんの碁なのだとしたら、確かに困惑するのも無理はないのかも知れない。今目の前で打たれている碁は、おおよそそういった棋風とはまるっきりかけ離れたものだったのだから。

 

「一体どういう心境の変化かしら? そう言えば対局前、何だかこっちの方が騒がしかったみたいだけど……」

 

 だからこそ日高さんがそんな風に疑問に思うのも至って自然なことで。何より私自身、先程の一件が彼に決して少なくない影響を与えているであろうことは伺い知れていた。

 

「実は……」

 

 そして私はゆっくりと口を開き、先程の顛末を彼女に語り始めた。

 

 

「……そんな事がねぇ。まあ随分と礼儀知らずな坊やじゃない。とにかくそれでこの碁ってわけね」

「その……すみませんでした」

 

 結局いがみ合ったまま対局を迎えてしまったヒカルの代わりに、私は日高さんに頭を下げた。

 院生を辞めてこの場に戻ってきた彼に対し、故意では無いにしてもそれを軽んじるような言葉をヒカルは口にした。憤って当然、ある程度はお互い様とは言え、客観的に見れば明らかにこちらに非があるのだから。

 

「……ねえあなた、何か勘違いしてないかしら?」

 

 そんな風に考えていた私に向かって、呆れた様な表情で日高さんは言い放つ。……勘違いとは一体どういうことだろうか。

 

「仮にも私たちは全国区なのよ? プロになりたいとか院生になりたいとか、実力も弁えずにそんな事を口にする輩なんてごまんと見てきたわ。いくら岸本くんが元院生だからって、そんな言葉に一々腹を立ててたらキリが無いじゃない」

「それは……」

 

 ……言われてみれば、確かに。でもヒカルの発言が原因じゃないとしたら、岸本さんは何故……

 

 口ごもる私に対し、日高さんは更にこう続けたのだ。

 

「まあ強いて言うなら……原因は星川彩、あなたよ」

 

 

 

「……私ね、あなたの事は誰にも言わなかったの。岸本くんはもちろん、部員の誰にも」

「え……言ってないんですか?」

「そうよ。あなただって院生って立場上、不要に目立ったりもしたくないでしょうし。……でも、やっぱり岸本くんは知ってたのね」

 

 少し意外だった。てっきり私の事は既に伝えられているものだと思っていたから。

 院生は修行中の身、それ故にアマの大会に出場する事を禁じられている。だけど学校の部活動にまで制限を受けてはいないのだから、私がこの場に居るのも決して何かに違反している訳じゃない。それでもプロを目指す人間が中学の囲碁部にまで首を突っ込むというのは……やはり人によっては反感を買われかねない事。彼女の言うように、確かに私は少なからず微妙な立場なのだ。

 そんな日高さんの気遣いは本当にありがたかったけれど……それでも岸本さんは私の事を知っていた。とは言え週刊碁という明確なソースが存在している上に、彼自身も元は院生。かつての自分の居場所や仲間を気にするのも至って普通のこと、その過程で私の事を知ったとしても何ら不思議では無い。

 

「あまり言いたくないけどね、今やあなたはアマの誰よりもプロに近い存在なのよ。……そんなあなたを前にして、岸本くんが何も思わないハズがないでしょう?」

「っ……!」

 

 そしてここまで言われて私はようやく気付いたのだ。日高さんの言葉、そしてあの時私に向けられた、岸本さんの視線の意味が。

 プロになるという夢を諦め、新たな居場所を見つけた彼の前に、諦めた夢を掴もうとしている人間が現れたのだ。どう思われるかなんて初めからわかっていた事。……冷やかし、お遊び、プロに勝てるだけの実力を持つ人間が今さら何しに来た。そういった負の感情を持たれてしまっても仕方がなかったのだ。仮に私の真意がどうであれ……いや、むしろ純粋に部活を楽しみたいというその想いすら、彼にとっては侮辱に当たるのかもしれない。

 もちろん今日まで私が過ごしてきた囲碁部での日々を黙って否定されるつもりもない。それでも自分の存在が彼を激情に駆り立ててしまったと自覚した以上……やはり罪悪感は隠し切れなかった。

 

「私の、せいだったんだ……」

「はぁ……だからそれが勘違いだって言ってるのよ」

「……え?」

 

 その言葉に思わず彼女を見上げれば、そこにはうっすらと笑みが浮かんでいて。

 

「まったく自惚れも大概にしなさい。第一ね、前提からして間違ってるのよ。強い人間が上に行くことくらい岸本くんだってわかってる。そんな事で彼は怒ったりなんかしないわ。……あんまりうちの部長を見くびらないでもらえるかしら?」

「怒って、ないんですか?」

「そうよ。見てわからないの? むしろ気合い十分、ヤル気満々って顔してるじゃない」

「え、えーっと……」

 

 見てわからないのと言われても……対局が始まってから一貫して冷静な表情を崩さない岸本さん、残念ながら私にはその心の内は掴めなかった。だけど1年の頃からずっと一緒だった彼女の言葉だ。……もしかしたらそうなのかもしれない。

 

「多分岸本くんはまだ気持ちの整理が着いてないんだと思う。そんな時今まさにプロになろうとしているあなた、そして院生を志す子が現れた」

「じゃあ、岸本さんは……」

「そう。この一局で自分の夢に決着をつけようとしているのよ。……()()()()()()()()、この子達を相手にね」

 

 つまりヒカルを挑発するような口振りも、私に向けたあの視線も……全ては彼の意気込みの表れ。私たちへの挑戦状だったのだ。

 

「だからあなたも、落ち込んでるヒマがあったら仲間の応援でもしたらどう?」

「……そう、ですよね」

 

 そうだ。落ち込んでる場合じゃない。自分の可能性を見極める最後の戦い、その相手に岸本さんはヒカルを、私たち葉瀬中を選んでくれたのだ。

 私に出来るのはみんなの力と今日までの努力を信じることだけ。結局やる事は変わらないんだから。

 

「……ありがとうございます、日高さん」

「あら、珍しく殊勝ね。……ま、出来の悪い後輩の面倒を見るのも先輩の役目なのよ」

「だからこそあなた達海王中に勝ちたい。……いえ、勝って見せます! 岸本さんの想いに応える為にも、情けない戦いは出来ませんから!」

「ふふ、らしくなってきたじゃない。……でもね、今がどういう状況かあなたにもわかっているでしょう?」

 

 そして、日高さんのその言葉で私はようやく思い出したのだ。先程まで憂いていた戦況……私たち葉瀬中にとって、決して芳しくないこの現状を。

 

 

 ―――

 

 

 まず三将戦。……正直最も苦しいのがこの一局。

 序盤から積極的に仕掛けた筒井さんだったけれど、途中のちょっとしたヨミ違いから形勢は一気に向こうに傾いてしまう。その後もマギレを求めてがむしゃらに攻め込んではみたものの、結局ヨセを前にして地合ではハッキリと大差が着いてしまっていた。悔しいけれどここまでの戦いは一枚も二枚も向こうが上手。もちろん私とてこの勝負を諦めた訳では無いけれど、はっきり言って逆転はかなり厳しい形勢だった。

 続いて副将戦、対照的に一番戦えているのが三谷くん。とは言え決してこちらも楽観視出来る訳ではない。これ以上離されてなるものかと必死に三谷くんは食らいついているけれど、ややもすれば一気に押し切られかねない状況。互角……いや、若干不利だろうか。それでも最も有望なのが副将戦である以上、葉瀬中の勝利のためにはこの一局は落とせない。

 

 そして大将戦。先程の件もあり、取り分けギャラリーの注目を集めるこの一局。ヒカルと岸本さんの意地と意地がぶつかり合う熱戦は……現状はやはり黒番、地力で勝る岸本さんが優勢だった。

 

 ……強い。ヒカルも頑張ってるけど、特に岸本さんからは並々ならぬ気迫が伝わってくるよ。

 

 自身のプライドを賭けた負けられない一戦、それにも関わらず彼は全くと言っていい程無難な手を選ばない。それは彼にとって『らしくない』のかもしれないけれど、それでも決して碁が崩れている訳じゃないのだ。今ヒカルを追い込んでいるのも、紛れもなくその独創的な一手一手なのだから。

 

 もちろん劣勢はヒカルも承知の上だろう。先程から続く長考がそれを如実に物語っている。

 現在の焦点は、白地のケシに回った上辺から中央にかけての黒一団への攻撃。白が突破口を開くならここからだ。……そして数分後、意を決して放たれた白の一手に、観戦者全員の視線が釘付けになった。

 

「……失着ね」

 

 同時に隣で戦況を見つめる日高さんがそんな言葉を零す。

 ヒカルが放った手はフクラミ。おおよそこの局面において大多数の人間が真っ先に選択肢から外す一手だ。白は一子をカミ取り朧気に中央へとアタマを出す。しかしその代償として、あろうことか攻撃対象であったハズの黒にポン抜きを許してしまったのだ。……これではもう攻撃が続かない。普通に考えれば悪手も良いところだ。

 

「あらあら、こんな単純なミスをするような子だったのね。やっぱり岸本くんにケンカを売るのはまだ早かったんじゃないかしら?」

 

 得意気な表情の日高さん、そしてその見解はギャラリーも同じの様で、周囲の海王部員達からも何処か弛緩した雰囲気が感じられた。確かにこの一連のワカレは間違いなく白が損をした。彼らからすれば、自分たちの優勢が更に磐石のものになったと思っていることだろう。

 

「何か……あるね」

 

 しかし私の見解だけは違った。余りにも凡庸な一手、だからこそ光って見える。何よりヒカルが長考の末に導き出した答えが、こんな単純なヨミ間違えだなんて私には思えない。そしてその直感を頼りに先々の展開を見通せば、自ずと私にもヒカルの意図が見え始めて来るのだ。

 そう、ヒカルの狙いは……!

 

 

 

 静まり返る会場。張り詰めた空気の中、着々と手数は進み……やがてヒカルの構想が形となって表れ始める。その変化にいち早く気付いたのは、やはりこの場でも抜きん出た棋力を持つ二人、岸本さんと日高さんだった。

 

「う、嘘でしょ……あの時の悪手が、ここに来て絶好の位置に……」

 

 同時にそれまでポーカーフェイスを貫いてきた岸本さんの表情が変わった。唇をきつく噛み締め、握り締めた右拳が小刻みに震え始める。

 ヒカルの狙いは中央じゃなかった。悪手と思えた先程の一手は左上の攻防をニラんでのもの。部分的に損なワカレは承知の上だったんだ。

 堪らず黒は二眼での生きを強要され、その一瞬の隙を付いてヒカルの白石が中央を突き破る。そうして一変した盤面を見て、ようやく他の観戦者の思考も私たちに追い付いたのだ。

 

「コ、コイツまさか、さっきの手を打った時からここまで読んで……」

「そんな事言ってる場合じゃねえ。……これ、ヤバイぞ」

 

 各所の黒が途端にウスくなる。上辺、右辺、そして先程ポン抜き形を与えた中央の黒石ですら今や攻撃対象。死にはしなくとも、ここから白の強烈な攻めを受けることは誰の目にも明らかだ。

 形勢が一気に傾く。彼方に霞んでいた黒の背中は今や目前。……これで、追い付いた!

 

 

 

 ヒカルが見せた鮮やかな打ち回しにギャラリーの興奮が冷めやらぬ中、今度は真逆の方向から歓声が上がる。反射的にそちらへ振り向いた私の目に映ったのは……口元を抑え、溢れる涙と嗚咽を堪え切れずに俯く筒井さんの姿。

 

「あっちは終わったみたいね。まあ流石に青木くんは……」

 

 

『さ、三将戦…………白番、葉瀬中筒井くんの半目勝ちです!』

 

 

 そして私を含めた大方の予想を覆し、勝ち名乗りを受けたのは……何と筒井さんだったのだ。

 

「つ、筒井さん…………よっし!」

「なっ……と、途中まで盤面20目近く青木くんが勝ってたはずよ。あそこから一体何が……」

 

 終盤を迎え、確かにあの時点で筒井さんは圧倒的な大差をつけられていた。私にとってもこの結果は想像以上……それでも私には一つだけ確信があったのだ。少なくともあの一局が、タダでは終わらないだろうという確信が。

 何故なら私は見ていたから。絶望的な形勢の中で、それでも諦めずに前を向く筒井さんの姿を。……そして対照的に安堵の表情を浮かべていた、対戦相手の姿を。

 

 傍目には筒井さんのがむしゃらな攻めは空回りに終始している様に見えたかもしれない。だけど、筒井さんのパンチは効いていなかった訳じゃなかったのだ。盤面には現れていなくても、その気迫は確実に強烈なプレッシャーを相手に与えていた。向こうにしてみれば、耐えて耐えて必死に耐えて、ようやく掴んだ勝利への道。それ故の安堵だったんだろう。

 

 そして囲碁においてはその弛緩こそが毒。

 言うまでもなく優勢と勝利は全くの別物。優勢を自覚すれば無意識に手が緩む、最善とわかっていてもリスクの高い手を選ばなくなる。その油断が逆転を許すなんてままあること、勝っている碁を最後まで勝ち切るのはプロにだって難しいことなんだ。

 もちろん名門海王でレギュラーを務める程の彼ならば、多少緩んだところで並の打ち手相手に逆転を許したりなどしないだろう。だけど目の前にいる相手は……ある一つの分野において、残念ながらその並の打ち手ではなかったのだ。

 

 棋風が変わっても筒井さんの最大の武器は変わらない。

 たった一人で始めた囲碁部。バカにされる事も、後ろ指を指される事もあっただろう。それでも地道に、ただひたすらに磨き続けた(ヨセの力)――葉瀬中が誇るヨセ名人の異名は、伊達じゃない。

 そんな筒井さんの三年間の努力と、諦めない気持ちが……必敗の碁を、最後の最後でひっくり返して見せたんだ!

 

 

 

 最も形勢不利と見込んでいた筒井さんが手にした白星。この1勝の価値は計り知れない。

 これでヒカルか三谷くんが勝てば私たちの勝利、対して海王はもう1敗たりとも許されない状況だ。もはや向こうにも楽観視するだけの余裕など残されていないだろう。

 

「青木先輩だけじゃない……岸本部長と久野先輩も、互角だ」

「コイツら……強ええっ!」

 

 三谷くんもまた、一時の劣勢を跳ね返し形勢を五分にまで戻している。

 気が付けば周囲には対局開始時以上の人だかりが出来ていた。三将戦の観戦者、2回戦を終えた他校の生徒たち、そしてそこには、やはり同様に対局を終えたのであろうあかりの姿もあった。

 

「あかり! ……ごめんね、応援に行けなくて。そっちはどうだった?」

「勝ったよ。金子さんも勝って今は久美子の対局を見てる」

「良かった……お疲れ様、あかり」

「そ、それより男子はどうなってるの? 筒井さんは泣いちゃってるし……ねえヒカルは? 三谷くんは!?」

「……うん、もうすぐ終わるよ」

 

 急き立てるあかりに小さく微笑みながらそう一言返すと、私は彼女と共に改めて盤面に目を戻した。

 どちらも最後の最後まで半目を巡る戦いが続く。そして先んじて終局を迎えたのは、大将戦。

 日高さんが、あかりが、観戦者全てが固唾を飲んで整地を見守る中……私にだけは、その結末が既に見えていた。

 

 

 ―――

 

 

 ……これが今のヒカル、か。

 

 この一局の決め手となったのは、紛れも無く中盤での白の打ち回し。部分的には完全な悪手だったあの一手を、わざと隙を作り、上手く相手を誘って、好手に化けさせた。

 対局相手の岸本さん、そして観戦者の誰もがヒカルの狙いに気付かなかった。ヒカルはあの場に居た人間の誰よりも上を行っていたのだ。

 

 ……気付いていたのは私とあなただけ、だよね。まったく師匠が師匠なら弟子も弟子。……成長なんてもんじゃない、ここまで来ればもはや進化だよ。

 

 岸本さんは一つだけ勘違いをしていた。それはヒカルの師を私だと思っていたこと。

 私とヒカルはそんな間柄じゃない。ヒカルの碁の根本に居るのは私なんかじゃない。ヒカルには私なんかよりずっとずっと素晴らしい師匠がいるんだから。……ほら、ここの打ち方なんか本当にそっくりだもん。

 

 

「おめでとうみんな。おめでとう、ヒカル。本当によく頑張ったね。……あなたもそう思うでしょ?」

 

 

 誰の耳にも届くこと無く掻き消えた呟き。それが向けられた先は、額に汗を浮かべ、肩で息をしながら、今まさにゴールへと辿り着いたヒカルの……その後ろ。

 

 ――最後まで立派に戦い抜いた愛弟子を誇らしげな表情で見つめる、烏帽子を被った幽霊の姿が、私には見えた気がした。

 

 




ヨセ:囲碁における終盤の戦い。お互いの陣地の境界線を巡って、自分の地を増やし、相手の地を減らしていく。序盤から中盤が陣地を作成する段階とすると、ヨセは作った陣地を整形する作業みたいな感じです。

明確な答えが存在する分野とはいえ、限られた時間内で完璧にヨセをこなすのはプロにも至難です。「ヨセだけは間違えない」と加賀に評された筒井さんは、もしかしたら囲碁センスの塊なんじゃないでしょうか。


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28話

『黒41目。白……41目半。白番、葉瀬中進藤くんの半目勝ちです』

 

 長かった戦いも遂に決着。その差僅か半目、紙一重の差で激戦を制したのは……ヒカル。そしてこの結果をもって、葉瀬と海王の団体戦の勝敗も決したのだ。

 静寂に包まれる会場。恐らくほとんどの人間が、未だこの結果を受け止められずにいるのだろう。……そんな中、隣で行われていた副将戦もまた決着の時を迎える。

 

「……ありません」

 

 アゲハマを盤上に置き、投了を宣言したのは私の向かい側、海王中の副将。

 大将戦同様、互角の形勢で最終盤までもつれ込んだこの一戦は、最後の最後で向こうに小さなミスが出たことにより、土壇場で三谷くんが僅かながら、それでも確実に一歩リードを奪った。

 残すは一目単位での小ヨセのみ。もはや埋まらないであろう数目の負担を悟った相手は、悔恨の想いと共に頭を下げたのだった。

 

「……っし!」

 

 劣勢を乗り越えた末に手にした会心の勝利、その喜びを噛み締めるかのように三谷くんは力強く拳を握り締めた。

 そしてこの瞬間が契機。初出場校がチャンピオンを、しかもストレートで破った。その事実を前に、それまで静まり返っていたギャラリーが一気に熱を帯びる。

 驚愕、称賛、悲喜こもごも入り交じる歓声の中心に居たのは……紛れもなく私たち葉瀬中だった。

 

 

「し、進藤ぐん……三谷ぃ……」

 

 いつの間にか隣には筒井さんが居た。止めどなく溢れる涙と鼻水、もはやそれを堪えようともしない彼の顔は、対局直後よりも更にぐしゃぐしゃになっていて。

 

「囲碁部……やめないでよかった……」

 

 ぽつりと呟いたその一言が、筒井さんの歩んできた三年間が決して平坦な道のりではなかったことを物語っていた。

 

 そして筒井さんとは対照的に、今にも溢れてしまいそうな涙を必死で堪えているのは日高さん。普段は本来の繊細な姿をひた隠し、強気な姿勢で部員たちを引っ張って来たのであろう、そんな彼女が見せる弱々しい姿に周囲の海王の生徒も少なからず驚いた様子だった。

 せっかく私に口止めしたのにこれでは元も子も無いのかもしれない。だけど、彼女の涙も筒井さんと同じ。共に三年間を過ごした仲間を想うからこそ流せる涙。少なくとも私には、それを茶化そうなんて考えは微塵も湧いてこなかった。

 

 

「完敗、だな……」

 

 終局してから一言も発する事なく押し黙っていた岸本さんが顔を上げる。完敗――その言葉に込められた彼の複雑な想いは、私などでは到底測りきれるものじゃないんだろう。

 

「すまなかったね進藤くん。対局前はキミをバカにする様な言い方をして」

「あ、いや……こっちこそ元院生とか、そんなこと言って……すみませんでした。オレが勝てたのだって運が良かったから……」

「……だとしても前言は撤回させてもらうよ。キミは本当に強かった。それは決して彼女の教えに胡座をかいて得られるような強さじゃない。打ったオレが身に染みてわかっているさ」

 

 だけどそんな私とは裏腹に、まるで毒気が抜けたかの様にお互いの健闘を称え合う二人。その姿からは対局前の険悪な雰囲気なんて全く感じられない。

 ヒカルの勝利に水を差すつもりは無いけれど、本人が口にしている様に恐らく対局前のヒカルでは岸本さんには勝てなかった。……きっとここまでの碁は打てなかった。

 工夫に工夫を凝らした一手の応酬、その積み重ねが描き出したこの一戦こそが、ヒカルを更なる高みへと導いた。……そして私には、岸本さんもまたこの対局を通じて成長している様に見えたのだ。

 

 本当に素晴らしい一局だった。負けた方だって決して誰かに恥じるようなことじゃない。本心からそう思う。

 だけど私がそれを彼に伝えた所で結局はただの自己満足、それこそ水差し行為になりかねない。そんな不粋な真似をするつもりなんてない。

 何より、私なんかに言われるまでもなくそれは二人が一番良くわかっているハズなんだ。死力を尽くし凌ぎを削り合った二人だからこそ、こうやって最後には認め合う事が出来たんだから。

 

 

「少し、羨ましくなるよ。オレには師と仰げる人は居なかったから」

「あの、えっと……アイツとオレはそんなんじゃないんです。そりゃ今まで何局も打ってきたし、色んな事も教わってきたけど……」

「……違うのかい?」

「アイツは……アイツはオレの――!」

 

 

 喧騒の中、なおも言葉を交わし続ける二人。離れた場所に居る私には、結局それ以上の会話の内容を聞き取ることは出来なかった。

 

 

「……彼女の実力は並じゃない。簡単に手の届く様な相手じゃない事もキミが一番良くわかっているだろう。それを知ってなお、追いかけるのかい?」

「そんな事わかってるさ。それでもオレは決めたんだ。オレが院生を、プロを目指すのだって……いつかアイツに追い付くためなんだから!」

 

「……敵わないわけだな」

 

 

 夢、プライド、そして仲間達の想いを背負って臨んだ一局。負けた方も納得だなんて綺麗事かもしれない。

 それでも岸本さんの表情がどこか晴れやかで、燻っていた想いへの踏ん切りがついた様な、そんな風に見えたのは……きっと私の気のせいなんかじゃないハズだ。

 

 

『男子団体2回戦、海王中対葉瀬中は……3対0で葉瀬の勝利です!』

 

「ありがとうございましたっ!」

 

 

 ―――

 

 

 翌日。夏休み真っ只中の平日にも関わらず、私たち7人が集まるのはやっぱりいつもの理科室だった。

 

「だからさァ筒井さん、オレが思うにこの碁の勝因はここ、右下のコウ争いに勝った事なんだよ!」

「うーん……でも三谷、この一子の取り合いにさほど意味はないじゃないか。白に受けさせた所で形勢に響いてる様には見えないけど」

「ちげーって、こういうのは気合で負けてちゃダメなんだよ! ……へへ、チャンピオン様が無名校の一年坊主相手に退いたんだ。ざまーみろだぜっ!」

 

 三谷くんが得意気に語るのは先日の対海王中における副将戦。

 その饒舌っぷりからもわかるように、三谷くんにとってもやはりあの勝利は格別なものだったんだろう。一晩経っても喜びは衰えることを知らず、むしろより一層増してるんじゃないかって勢いで。

 ちなみにその後に行われた決勝戦、男子は最後もストレートで勝利を納め、文句なしの形で大会を制した。もっとも優勝候補の筆頭である海王に勝っているのだ。実力はもちろん、チームとしての勢いも相手とは比べるまでもない。私が心配していたことと言えば、目を真っ赤に腫らした筒井さんが打ち間違えをしないかどうかくらいだった。

 

 

「ねえ津田さん、次はいつ碁会所に行くの? アタシは明日でも構わないわよ?」

「あ、あはは……気合い入ってるね金子さん」

「わ、私も! 私も行くからねっ!」

 

 女子は海王に3-0で敗れて準優勝、残念ながら今回は向こうに実力差を見せつけられる形となってしまった。それでも初出場で決勝まで勝ち進んだという結果は、間違いなく彼女たちの大きな自信に繋がったハズだ。

 そして印象的だったのは……対局後、金子さんが涙を流して悔しがっていた事だった。

 

 ――次は……負けないから。

 ――あらあら、これだけやられてまだ懲りないのかしら? ……ふふ、でもそういうの嫌いじゃないわよ。良かったら今度久美子ちゃんと一緒に私の碁会所に遊びに来なさいな。いつでも相手になってあげるから。

 ――……わかった、絶対に行く。

 ――あ、あのっ! 私も行っていいですかっ!

 ――ええ、みんなでいらっしゃい。楽しみに待ってるわ。

 

 葉瀬中囲碁部の肝っ玉かーさんたる彼女も、やっぱり年相応の女の子。その大人っぷりに白旗を上げ続けてきた私としては……微笑ましいような、ちょっとだけ安心したような。

 現在3人が話しているのはまさに碁会所の件について。中高一貫の海王中は冬の大会にも3年生が出てくる。今回の悔しさを晴らす機会はまだ残されているのだ。来るべき日に向けて、大会直後にも関わらず依然として彼女たちの士気は高い。

 

 

 そしてヒカルはと言うと、ただ今私との対局の真っ最中。手合は4子、私が院生試験に向けてヒカルに課した合格ラインだ。

 

 ――彼女が囲碁部に入ったのも、そうさせるだけの何かをキミが持っていたからなんだろう。……キミの行く末を、オレも楽しみにしているよ。

 

 岸本さんの激励を受けて更に気合いを入れ直したのか、理科室に到着するや否やヒカルは一目散に碁盤にかじりつき、私との4子局を申し出たのだ。

 私自身、岸本さんを破ったヒカル相手では、さすがにそろそろ危ないんじゃないかと思っていたのだけれど……

 

「あ、あれ? そこのオレの石……死んじゃった?」

 

 あっさり私の中押し勝ち。やっぱり岸本さんとの一局は、彼の気迫に触発されたヒカルが実力以上のものを発揮した結果なんだろうか。……申し訳ないけど、現状はまだちょっと合格点をあげられそうにない。

 まあそれでもあの時見せたヒカルの力が嘘になるわけじゃない。今日までの成長を思えば、私が4子で負かされる日も決して遠くないハズだ。

 

 

 そんな最中、ひたすら三谷くんの自戦記の聞き手役に回っていた筒井さんがおもむろに口を開いた。鼻の下を伸ばし、顔をぽやーっと赤らませながら。……ああ、ついに来たか。この表情は。

 

「……ボク達海王に勝ったんだよなー。えへへ、まだ信じられないよ……」

 

 安定のトリップタイム。3ヶ月を共にした私たちにはすっかりお馴染みとなった光景。まあ大会での結果を考えればむしろ来るのが遅かったくらいだ。

 

「……筒井さん、私たちは勝ってないんですけどっ!」

 

 お迎え役はあかり。全くもってごもっともなその言い分に筒井さんは否応なしに現実に帰還させられ、理科室にはみんなの笑い声が響き渡る。

 

 

「……え? ああゴメン。で、でもさ、女子だってストレートで決勝まで行けたじゃないか! この調子で頑張れば、次はきっと男女揃って……」

 

 

 そしてそれまでの和やかな雰囲気は、その言葉で一瞬にして吹き飛んでしまった。打って変わって理科室を包み込む重苦しい空気、筒井さん自身もハッとした表情で口元を抑えている。

 

 それはきっと、ここに居る全員が知りつつも触れてこなかったこと。少しでもこの喜びに浸っていようと、今の今まで目を逸らし続けてきたこと。

 

 少なくとも()()7()()に……次などないのだから。

 

 

 ―――

 

 

「……んだよお前ら、ジロジロ見やがって」

 

 口を尖らせながらそう呟いたのは三谷くん。無意識に彼に視線が集まったのは、その影響を最も受けてしまうのが他ならぬ彼であるということを誰もが理解していたから。

 

 今日この日をもって、囲碁部の状況は大きく変化してしまう。

 出場した全員が残る女子はまだいい。打倒海王を合言葉に、再び3人で次の大会に臨むことが出来るから。

 だけど男子は違う。筒井さんは引退し、ヒカルは院生への道を歩み出す。そうなってしまえば当然大会には出場出来ない。この先本気でプロを目指すのならば、私ほどに部活に顔を出すことも出来なくなってしまうだろう。その一点に目を向ければ、三谷くんが一人取り残される形になってしまうのだ。

 もちろんヒカルが院生志望であることは周知の事実。だから一時の激情に身を任せ、そのまま喧嘩別れになってしまうなんてことには……ならないと思う。

 それでも私たちはみんな知っているのだ。本人は否定するかもしれないけれど、この7人での囲碁部で、本当に楽しそうな笑顔を見せていた三谷くんの姿を。……簡単に割り切れる様なことじゃないはずだ。

 

 

「……な、なあ三谷!」

 

 沈黙の中、意を決して声を上げたのは私の向かいに居るヒカルだった。

 

「その、さ……三谷さえ良ければだけど」

「……何だよ、言いたいことがあんならハッキリ言えよ」

「オマエさえ良ければ……オマエも、オレと一緒に……!」

 

 はっ、と息を飲む音が聞こえた。自分のものか、他の誰かのものだったのか。少なくとも私には、ヒカルが口にしようとしているその先を察することが出来た。

 

 ……ヒカルの気持ちは痛いほどわかるよ。でも、それは……!

 

 その言葉を遮るように三谷くんは小さなため息を一つ溢した。そして全員が固唾を飲んで見守る中……彼はゆっくりとヒカルの目前にまで歩み寄り、そのまま右手を振り上げると――

 

 

「バーカ」

 

 

 すぱーん、とヒカルの頭をひっぱたいたのだ。

 

「な、何すんだよっ!」

「オレはそんなもんに興味ねー。院生になるのも、星川を追いかけんのも、全部オマエが決めたことだろ。……勝手に人を巻き込んでんじゃねーよ!」

 

 声を荒げながら捲し立てる三谷くん。ヒカルはそれ以上言葉を返すことも出来ずに俯くばかり。私たちもまた、あっけに取られた様にその様子を傍観する他なかった。

 そうしてすっかり小さくなってしまったヒカルを他所に、彼は照れ臭そうな表情を浮かべながら小さく呟いたのだ。

 

 

「それによ……オレまで抜けちまったら、誰がコイツらを海王に勝たせるってんだよ」

 

 

 視線の先には女子3人組。その言葉に誰よりも安堵の表情を浮かべていたのは金子さん。あかりと久美子に至っては今にも泣き出しそうになっていて。

 無理もない。彼女たちにしてみれば一人、また一人と囲碁部から離れていく現状の中、これ以上仲間を失いたくないという想いでいっぱいだったはずなのだから。

 三谷くんは改めてヒカルに向き直ると、今度は幾分か落ち着いた声で、それでも力強く……その想いをぶつけていく。

 

「いいか進藤、オレだって諦めた訳じゃねェ。今年がダメなら来年でも、それでもダメなら再来年でもいい。絶対に3人集めてコイツらと、もう一度大会で優勝するんだ! だからオマエは……とっととプロにでも何でもなっちまえ。仮に戻ってきたって、もうオマエの席なんか残ってねーからな!」

「三谷……」

「……ま、たまに打ちに来るくらいだったら勘弁してやるからよ」

 

 恐らくこの場に居る誰よりも彼に対して引け目を感じていたのはヒカルだ。最初から宣言していたこととはいえ、形だけを見れば、勝手に三谷くんを囲碁部に引っ張り込み、一人置き去りにして自分は勝手に離れて行くのだから。何より……いがみ合いも絶えなかったけれど、それでも三谷くんと一番仲が良かったのだってヒカルなんだ。ヒカルが口にした言葉も、彼へのやり場のない罪悪感の末に零れ出たものだったんだろう。

 だけど三谷くんは、その全てを理解した上で力強くヒカルの背中を押し、ここに残ることを選んだ。

 それはきっと彼がヒカルを、仲間たちを、そしてこの囲碁部を本当に大切に思っている証に他ならなかった。

 

 

「まったく……アンタも素直じゃないんだから」

 

「う、うるせーな! オマエこそさっきまでメソメソしてたくせに!」

 

「……記憶にないわ、そんなこと」

 

「へっ、嘘つけ。今だってちょっと涙目に…………いってーな、何すんだよっ!」

 

 

 ―――

 

 

「ぐすっ……そういえば、彩はどうなっちゃうの?」

「え、私?」

「だってプロになったらさ、もう囲碁部には居られなくなっちゃうんじゃないの?」

 

 そう、すっかり忘れていたけれど、一応私も今回の変遷に関与しているのだ。もうすぐ始まるプロ試験、そしてプロ棋士になれば否応なしに今とは立場が変わってくる。

 

「うーん、そうだね。プロになったら今までの様には部活に参加出来ないだろうし……もしかしたら囲碁部をやめることになるかもしれないね」

「やっぱり……そうなんだ……」

 

 鼻をぐすぐすさせながらしょんぼりと俯くあかり。……だけど私はそんなあかりの肩をポンと叩き、笑顔でこう付け加えたのだ。

 

「……でも、それだけだよ」

「え……それだけって……」

「私はプロになってもここに来る。みんなと囲碁を打つよ。それは変わらないんだから!」

 

 私が理科室の扉を叩いたのはヒカルとの対局の機会を求めて、そしてかつての自分が通り過ぎてしまった囲碁部への憧れから。それもまたプロになるまでの半年間限り、当初の私はそう考えていたハズだ。

 そしてこの3ヶ月間。みんなと苦楽を共にし、笑い合って、その中でヒカルは目覚ましいばかりの成長を見せた。大会でだって結果を残すことが出来た。

 楽しかった。もう思い残すことなんて無いくらい、本当に素晴らしい時間だった。

 

 ……そう、だからこそなんだ。

 

「だ、だってプロだよ? そんな事して怒られたりしないの?」

「プライベートで友達と囲碁を打つだけじゃん。誰が文句を言えるっていうの?」

「その……お金とか払わないといけないんじゃ……」

「もう、何で私が友達からお金を取らないといけないのさっ!」

 

 だからこそ私はもっとここにいたい。みんなと一緒に囲碁を打っていたい。

 私は図々しいんだ。せっかく手に入れたものを自分から投げ捨てるなんて、そんなもったいないこと出来るわけないじゃないか。

 ヒカルの大切な場所はここに残った。そして私の大切な場所も……確かにここにあるのだから!

 

 

 

 そうしてしばらくの間、よしよしとあかりの頭を撫で続けていた私だったけれど……。

 

 ……あれ? ここまでの話の流れだと、まるで私がプロになって当然みたいな感じになってるじゃん。

 

 不意にそんな考えに思い至ったのだ。まあ私自身落ちるつもりなんてないし、客観的に見ても今回の試験の有力候補には違いない。それでも……これじゃいくらなんでも楽観的と言うか、傲慢が過ぎやしないだろうか。

 

「まあ……まだプロになるって決まった訳じゃないけどねっ!」

 

 ここは謙遜の一つでも挟んでおくのが人情。そう考えた私は、乾いた笑いを浮かべながらそんな風に言ってみたのだけれど。

 

「いや、オマエがそれを言うかよ」

「まあ星川さんは、ねェ……」

「あはは、彩は受かっちゃうんじゃない? だってほら……」

 

 呆れた様な、白けた様な、何とも微妙な視線を向けられてしまう。戸惑いながらも久美子の指差す先に目をやってみれば、そこには他ならぬ彼女自身が持ち帰ってきた週刊碁が。

 

「ボクも本当に驚いたよ。身内の小さな大会なんて言ってたけど、れっきとしたプロアマ混合棋戦じゃないか! ……ボク達、凄い人に教わってたんだなぁ」

「ま、オレや進藤に4子も5子も置かせておいて、ただの院生ってんじゃこっちが困るぜ」

「……アンタ言ってて情けなくならないの?」

「オマエは一言多いんだよ!」

 

 私の思惑とは裏腹に、何だか話がおかしな方向に行っている様な気がするけれど……そんな中、私は一人何とも言えない嫌悪感を覚え始めていた。

 自分を誉めてくれているのはわかっている。嬉しいとも思う。それでもこの話題が上がる度に嫌でも目に付いてしまうからだ。……私の忌まわしき、黒歴史が。

 

 

「あのさ、何回も言ってるけど……そろそろアレ片付けようよ。もうみんな読み終わったでしょ?」

 

 若獅子戦での優勝は個人的にも誇らしいし、今さら自分が取り上げられた事を恥ずかしいなんて思ったりもしない。それにも関わらず私が口を酸っぱくしてそう言い続けるのは……他でもない、あの写真が原因だった。

 

 ……まったく何で編集部はこんな可愛くない写真を採用したんだか。パシャパシャと何枚も撮っていたんだから、もっとマシなのだってあったハズなのに。……私への嫌がらせとしか思えないよ。

 

 残念だの何だのと言われ続けてきた私だけど、これでも一応は女子なのだ。人並みに身だしなみにも気を使うし、オシャレにだって興味もある。そんな私にとって、こうも映りの悪い写真が野晒しにされている現状は正直ちょっと……いや、かなりよろしくないものだった。

 もはや何回目になるかもわからない懇願。だけどそんな私に対し、よりにもよって金子さんはこんな事を言ってのけたのだ。

 

「ダメよ。むしろ今だからこそこれが必要なんじゃない」

「え……どういうこと?」

「私たちに今一番必要なのは新入部員でしょ? プロを輩出した囲碁部っていう名目は勧誘の大きな武器になるわ。この写真は、その立派な証明になるんだから」

「……は?」

 

 それはつまり……この写真を、囲碁とは無関係の生徒たちにまで晒し続けるって、こと?

 

 ……じょ、冗談じゃない! 発行から日が経って、ようやくこの写真の流通も落ち着いたと思っていたのに、何でわざわざ自分から蒸し返す様なことをしなきゃいけないんだっ!

 

「あ、それいい! それすっごくいいアイデアだよ! ね、久美子?」

「うん! これなら新入部員もすぐに集まるよ!」

「ちょっ、なに勝手に話進めてるの!? 私絶対に嫌だからね!」

「もう、まだ写真映りのこと気にしてるの? 大丈夫大丈夫、すごく可愛く撮れてるからっ!」

 

 私の抗議など聞く耳も持たずに盛り上がる女子たち。そしてこのマズイ流れに、あろうことか男子までが便乗し始めたのだ。

 

「プロを輩出した囲碁部かぁ。ボクの作った囲碁部が……えへへ、悪くないかも……」

「まあ確かに使えるものは使っていかねーとな。……そういや進藤、オマエわざわざコピーしてたけど、そんなにこの写真が欲しかったのかよ」

「ばっ、ちげーよ! あれは佐為が棋譜を持って帰れってうるせーから……」

「サイ? 何言ってんだオマエ」

 

「ま、そういうことだから星川さん。……囲碁部の為と思って、諦めなさい」

 

 多勢に無勢とはまさにこの事。少数派はいつだって多数派に駆逐される運命。この世界は余りにも……残酷だった。

 

 

「そ、そんなぁ……」

 

 

 こうして、晴れて囲碁部の広告塔としての永久保存が確定した私の写真。

 がっくりと項垂れながら――せめて、せめて卒業までにはこの記事が処分されますようにと、そう願い続けることしか私には出来なかった。

 



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29話

 いよいよプロ試験前日。……と言っても、私の出番はもうちょっと先なんだけど。

 明日から始まるのは予選、そして直近3ヶ月の平均順位が8位までの院生は予選免除。4月の終わりに1位まで到達して以来、一度たりともその座を譲らなかった私はもちろん、伊角さんや本田さん、真柴さんなどの上位陣も本戦からの出場だ。つまり差し当たって戦いが始まるのはその他の院生と外来受験生。惜しくも9位だった和谷、今回がプロ試験初挑戦のフク……そして奈瀬さんもまた、彼らと共に予選に挑むことになるのだ。

 奈瀬さんの最終順位は1組7位。決して楽観出来る成績ではないけれど、一時は1組最下位まで落ち込んでいたことを思えば立派なもの。そして本戦まで更に1ヶ月、まだまだ十分伸びる余地はある。今の順位なんて参考程度にしかならないんだから。

 

 何にせよ、今日も今日とてネット碁に勤しむ私たち。もはや日課と言っても差し支えない、若獅子戦以降ずっと続けてきた、そろそろ100にも届こうかというこの対局。同時に私の100連勝も目前に迫っているけれど、もちろん碁の内容は3ヶ月前とは比べるまでもない。……ここだけの話、たまーにドキッとさせられる事もあったりして。

 そして現在。対局後の検討を終え、ちょっとしたおしゃべりの真っ最中。その内容はと言うと……。

 

 

「ねえねえ聞いて彩、私昨日もsaiに打ってもらったんだ!」

 

 ……ちぇっ、またこの話だよ。

 

 こんな風に対局自慢をされるのは一度や二度じゃない。ここ最近ずーっとこうなのだ。

 夏休みに入り、平日週末の如何を問わずネットに現れるようになったsai。一度負かされて以来、何やらすっかりその強さに憧れてしまったのか、自分も夏休みなのを良いことにこれ幸いとsaiとの対局を繰り返しているらしいのだ。……なーんか節操ないなぁ。別にいいけどさっ。

 

 そう、それは別にいい。自分を負かしてくれるくらい強い人との対局が勉強にならないハズがないし、しかもそれがsaiならば言うこと無いだろう。私とばかり打っているよりもその方が良いに決まっている。じゃあ何が不満なのかと言うと……。

 

「私とは打ってくれないのに……」

「え、何か言った?」

「……何でもないよっ」

 

 あんな終わり方をした一局に満足する訳ないし、その程度で諦める私でもない。今度こそ誰にも邪魔されない時間を作った上で、当然私も再戦を申し込んだのだ。……そして、そんな私に対するsaiの返答はNOの一点張り。今回ばかりは泣いても喚いても断固として対局を受けてはくれなかった。

 当然ながら『何で対局しないんだー!』なんて本人を問い詰めるわけにも行かないし……まあ個人的にも何となく理由は察していたけれど。

 

 ……多分バレたんだろうね。私だってことが。

 

 対局相手を選ばないsaiが私だけを拒否する理由なんてそれしか考えられない。碁の内容もさることながら、ハンドルネームだって自分の名前を捩ったものなのだ。我ながら安直だったと反省する一方、だったら変えればいいじゃないかとも思ったけれど、どうせバレた時点で対局中だろうと投了されるに決まってる。それにそんな事を繰り返していたら、警戒したヒカルがネット碁を止めてしまうかもしれない。……結局私には、黙って泣き寝入りするしか選択肢がなかったのだ。

 

「saiも有名になってきたみたいで今じゃ対局希望者も後を絶たないんだけど、何故か私の申し込みは優先的に受けてくれるのよね。……ふふ、気に入られちゃったのかなー」

「ふーん、良かったねー」

「ね、彩も一回打ってみなさいよ。もしかしてアンタなら……」

「……だから、私は打ちたくても打てないのっ!」

「な、何よいきなり。夏休みなんだから時間くらいあるでしょ?」

「はあ……もういいよこの話は。それより明日から予選なんだから――」

 

 これ以上自慢話には付き合ってられないと、強引に話題をプロ試験へ切り替える。……冗談抜きに、当面はこちらが本題なんだ。

 

「もう、せっかく考えない様にしてたのに。……いよいよ明日かぁ」

 

 奈瀬さんにとっては初めてのプロ試験。単なる試合とは訳が違う。一年に一度の、自分の人生を賭けた戦いが始まるのだ。

 

「みんな必死だろうし、外来からも強い人が来るのよね。……ああもう! こんなに緊張してたらいい碁なんて打てない……」

「……いいじゃん、緊張したって」

「え?」

 

 中学生の女の子が緊張しないハズがないし、するななんて言うつもりもない。大事なのは自分の感情から逃げずに向き合うこと。逃げ続けたって結局何処かで息切れをするだけ、それでは長いプロ試験を戦い抜くなんて出来やしない。

 

「いっぱい緊張して、いっぱい間違って……楽しんできなよ。仮に負けたって終わりじゃない。3回負ける前に3回勝てばいいだけなんだからさ」

「まったく簡単に言ってくれるわね……」

「奈瀬さんならきっと大丈夫。本戦で待ってるからね!」

 

 そして何よりも、私は奈瀬さんの力を信じている。……伝えることはそれで十分なんだ。

 

「……そうよね、まだまだ通過点だもの。楽しむくらいの気持ちが無いと本戦だって戦えやしないわ」

「うん! じゃあ3()()()、私も棋院に行くから一緒にお祝いしよ。……楽しみにしてるからね?」

「……ふふっ、何よそれ。負けても大丈夫って言ったくせに。……いいわ、見てなさい。予選くらい軽ーく3連勝で突破してやるんだから!」

 

 約束は3日後。奈瀬さんなら出来る。きっと素晴らしい報告が、待っている。

 

 

 ―――

 

 

 プロ試験予選初日

 

 

 ――軽ーく3連勝で突破してやるんだから!

 

 彩に向かって声高らかにそう宣言した私――奈瀬明日美は、初日にして早くも窮地に立たされていた。

 

「はぁ……参ったなぁ」

 

 今は打ち掛けの昼休み。午後に向けて気分転換をしなきゃいけない時間にも関わらず、私はひたすらため息をつくばかりでお昼ゴハンも喉を通らない。……まさか初っぱなから躓くなんて。自分のクジ運の悪さにはほとほと嫌気が差す。

 

「何だよ奈瀬。対局、調子悪いのか?」

「……ううん、そういう訳じゃないんだけど」

「相手、誰だったのー?」

 

 そんな私の沈みっぷりを見かねてか、一緒にお昼を食べていた和谷とフクが気遣ってくれる。

 別に調子が悪いわけじゃない。緊張はしてたけど、今だって自分なりの精一杯の碁を打っているつもり。……つまり私が追い込まれている原因は単純明快。相手が自分よりも、ハッキリ強いからだ。

 

「……あの子よ。窓際で本読んでる子」

 

 プロ試験独特のピリピリした空気の中、まるで我関せずといった表情で詰碁に勤しむおかっぱ頭の少年。名前ばかりが一人歩きしていたその顔も、若獅子戦以降は多くの人間が知るものとなった。

 

「塔矢アキラか。……で、どーよアイツ」

「……ちょー強い。さすがにキツいかも」

 

 彼こそが私の今日の相手。対外試合に一切姿を現さないが故に未だ未知数とされていたその実力の程は……正直想像以上だった。対局も中盤なのに、思わず弱音を吐いてしまうくらいには。

 

「まだ終わってねーだろ。あんなヤツここから逆転しろよ!」

「他人事だと思って……って言うか和谷、何でアンタがそんなにイライラしてんのよ」

「ムカつくじゃねーか。プロ試験だってのに一人だけ澄ました顔しやがって!」

 

 見事なまでの毛嫌いっぷり。もっとも森下先生の塔矢門下に対するライバル意識は碁界でも有名な話、これもまた師匠譲りと言うわけか。……和谷の場合は個人的な感情も多分に含まれてるんだろうけど。

 まあ私はムカつくとまでは言わないけれど、実際に対局をしてみても確かに羨ましいくらい落ち着いてると思う。場馴れしてると言うか何と言うか、私なんてこの空気に呑まれない様にするのが精一杯なのに。名人と四六時中打ってればそういうのも気にならなくなるんだろうか。

 もちろんそんな稀有な例なんて彼一人に限ったことで、他の受験生も私と同じく緊張と戦いながらこの場に居るのだ。……だからこそ、そんな中で大声を出す和谷の存在が目立たない訳もなく。

 

「……チッ」

 

 恐らくは外来受験生、何とも神経質そうな男の人に一睨みされ、流石の和谷も縮こまってしまうのだった。

 

 

「やーい、怒られてやんの」

「和谷くんうるさすぎー」

「……くっ、これも全部アイツのせいだっ」

 

 そんな風にフクと一緒に和谷をからかっている内に、いつの間にか昼休みは終わろうとしていた。結局ゴハンは残しちゃったけど、いい気分転換になった様な気がする。二人には感謝しないとね。

 

「さーてそろそろ行くか。奈瀬、さっきも言ったけど負けんじゃねーぞ。あんなヤツ黒星スタートさせてやれ!」

「頑張ってね!」

「わ、わかってるわよ。何も諦めたなんて言ってないじゃない」

 

 形勢が悪いのは百も承知、ここからの逆転も普通に考えればキビシイに決まってる。……だけどこれ程の逆境に曝される一方で、私にはある種の安心感もあった。

 

 ……確かに塔矢アキラは強い。だけど、彩の方がもっともっと強かった。私はそんな子とずっと打ち続けてきたんだから。

 

 自分の実力を棚に上げた、何とも無責任な安心感。それでも彩ならきっとここからでも逆転する。だったら私にだって。……そう信じる気持ちが、折れそうになっていた心を奮い立たせてくれる。

 

「アンタ達も人のことばっか気にしてないで自分の対局に集中しなさいよ。私だけが勝っちゃっても知らないからね!」

 

 そう、まだまだこれからの碁。打ちたい手も残ってる。彩との約束だってあるんだ。……見てなさい塔矢アキラ。絶対に逆転してやるんだから!

 

 

 ―――

 

 

 そう思ってた時期が私にもありました。

 

「うぅ……ありません……」

 

 午前よりも更に激しく仕掛けた私に対し、彼は優勢に甘んじる事なく真っ向から受けて立った。私としては願ってもない展開だったけれど、結局こっちがツブされての投了。完全な力負け。……現実は厳しかった。

 

 ……あーあ、負けちゃった。やっぱ強いわこの子。……ま、しょうがないか。

 

 予選の初日から躓いたにも関わらず、不思議と気持ちは晴れやかだった。同時に込み上げてくる何とも言えない充実感。勝敗に関わらずいい碁が打てた時の感覚だ。……多分これも全部ひっくるめて、彩の言ってた通りって事なんだろう。

 いっぱい緊張して、いっぱい間違ったけれど、それでも本当に楽しい一局だった。少なくとも明日に繋がるような碁は打てた気がする。……1敗くらいで気落ちしてる場合じゃない。プロ試験はまだ始まったばかりなんだから。

 

「ありがとうございました。今日は完敗だけど、本戦では負けないからねっ! それじゃ……」

「……あの、よろしければ少し検討しませんか?」

「検討? ……うん、別にいいけど」

 

 潔く頭を下げて席を立とうとした私への検討の申し出。やや唐突ではあったけれど、もちろん私としても断る理由なんてない。別に時間に追われてる訳でもないし、こういった局後の感想戦は熱の冷めない内に行うのがベスト。実際に打った相手の意見も気になるところだし。

 

「じゃあ隣行こっか。ここでやるのも何だしね」

「はい。わざわざお時間取らせてしまってすみません」

「いーのいーの。私だって疑問点とか色々あるからさ」

 

 子供とは思えないくらい大人びた所作と言葉遣い。検討ぐらいで随分腰が低いこと。……そういや彩が同い年とか言ってたっけ。この子も中一にしては大概だけど、いずれにしてもえらい違いだわ。

 

 ……ま、彩のくせに生意気だから絶対言わないけど、不覚にも大人っぽいなんて思っちゃう時もあるんだよね。……本当に、たまーにだけど。

 

 

 

「ここを守らなかったのは軽率だったかしら。形勢も悪かったし、思わず前のめりになっちゃったんだけど」

「ええ、やはり守るのが本手なんでしょうね。遅れてる様にも見えますけど、ここがしっかりしてれば他で強く戦えますから。例えばこっちで……」

「……そっか。そんな手があったんだ」

 

 一つ疑問を投げかける度に、私には見えていなかった読み筋が次々と返ってくる。改めて勉強させられることばかりだった。

 彩の話では塔矢くんとは碁会所友達らしいけど、冷静に考えてみるととんでもない話だ。一見して子供同士の微笑ましい対局姿。だけどその実、片や名人の息子、片やプロに混じって優勝する様な女の子。碁の内容だってプロ顔負けに違いない。そんな対局が一介の碁会所で平然と繰り広げられてるんだから。……ギャラリーからお金取れるんじゃないかしら。

 

「ボクも実際は冷や汗ものでした。このホウリコミなんか意地でも眼形を与えないって手じゃないですか。こんな強手、普通の人は怖くて打てませんよ」

「……えっと、それは誉め言葉として受け取っていいのかな?」

「はは、まあ場合の手ではありますけど。でも……彼女なら打つかもしれませんね」

「彼女って、もしかして彩?」

「……ええ。奈瀬さんの碁も何となく似てますよ。ギリギリまで追及する姿勢とか、攻めっ気たっぷりな所なんか星川さんにそっくりです」

「そ、そう? そうかなっ?」

 

 彩の碁に似ている――。あの子の碁を目標にしている私にとってはこの上ない誉め言葉。思わず頬が緩んでしまう。

 

「あ、もちろん棋力という点では比較にもなりませんけどね」

「うぐっ……わ、わかってるわよそんなこと」

 

 もっともその喜びも一時限り。ニヤニヤしている私に釘を刺すかの様な、そんな手厳しいお言葉をいただいてしまうのだ。

 ……サラッと毒吐くなぁこの子。悪気はないんだろうけど、いい性格してるよホント。

 

「彼女は本当に凄いです。読みも戦いのセンスもずば抜けている。ボクだって何度その差を見せつけられて来たことか……」

 

 だけど何となくわかってきた様な気がする。通りすがりの私との一局、普通なら一言二言意見を交わすくらいなのに、何でわざわざ検討の場まで設けたのか。

 それはきっと私の碁が彩に似ていたから。そんな些細な事に食いついてしまうくらい、あの子にご執心ってわけだ。……ふふ、面白そうなネタ掴んじゃったっ。

 

「ねえ塔矢くん。……キミ、もしかして彩のことが好きなんじゃないの?」

「えっ? な、何ですか急に……」

「だって彩の話をしてる時の塔矢くん、凄くいい顔してるもん。ホラホラ、言っちゃいなって!」

 

 年下の子に一日中やり込められた身としては、ここらで一度くらい主導権を握りたいところ。だけど、そんな私の意地悪な質問に対しても照れる素振りすら見せず、むしろ達観したような表情で彼はこう答えるのだ。

 

「いえ、本当にそういうのじゃないんです。……ボク、星川さんの打つ碁が好きなんですよ。一見無茶な力碁、常識的に考えられない様な手だって平然と打ってくる。そして、圧倒的なまでの読みに裏付けされた一手だったと後々気付かされる。……いつも負かされてばかりですが、それ以上に彼女との一局は心踊らされるんです」

「あ……うん、それは何となくわかるかも」

「何より彼女はボクにとって初めての、追いかけると心に決めた相手ですから。……もちろん追いかけるだけで終わるつもりも更々ありませんけどね」

 

 ……なるほど、そういうことね。

 

 この瞬間、私は自分の勘繰りが全くの見当違いであったのだと確信する。彼の目にはどこまでも彩の碁しか映っていないんだ。典型的な囲碁バカの思考回路、色恋じみた感情なんて入る余地もないんだろう。

 同じ女子の目から見ても十分に可愛いと思える彩の容姿、それに全く目が行かないというのもまあ随分な話だけど、その一方で共感と言うか、親近感の様な感情もこみ上げてくる。ひたすらに彩の碁に焦がれ、追い続けるその姿が……何だか自分にも似ているような気がしたから。

 

「ま、確かに呆れちゃうくらい強いよね。私だっていっつもひどい目に合わされてるんだから。昨日なんかさぁ……」

「あはは、それは災難でしたね。ボクも実はこの前……」

 

 結局からかうネタにはならなかったけれど、図らずも共通の話題を得た私たち。その後は検討もそっちのけでお互いの被害報告に花を咲かせるのだった。

 

 

 

「あ、そういえば塔矢くん」

 

 何だかんだでもう結構な時間。碁盤の片付けを終え、そろそろ帰ろうかと身支度をしていた最中のこと。対局や検討を通じて親交を深め、それなりに気を許せる間柄になったからこそ口から出た、ちょっとした世間話みたいなものだった。

 

「saiって、知ってる?」

「……sai? えっと、何かの名前でしょうか」

「あ、ごめん。ネット碁の話なんだけどね。塔矢くんネット碁は?」

「関西のプロの方に打っていただいた事があるくらいで、普段はさほど……」

「そっかそっか、ごめんね変な話して。とにかくそういう人がいるってだけ。機会があったら打ってみなよ。本っ当に強いからさ!」

「sai……ええ、わかりました」

 

「それじゃ、今日はありがとね。また明日っ!」

 

 

 所詮は広大なネット世界における、何処の誰ともわからない打ち手の話。別に何かを期待してた訳じゃない。知ってたら面白いなーって程度のこと。

 

 そんな事より当面は彩との約束の件、その申し開きの内容を私は考えなければいけないのだから。



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