その柱、鬼子につき。 (瑠璃色砂糖月)
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1話「苦労が絶えない1日」

 はじめまして。
 鬼滅の刃の話がとても悲しくて書きました。
 ただただ皆が幸せな話です。
 それでもよろしければ読んでください。


 夜更けになると自然と目が覚める。普段は夜の時間帯に動くからだろう。

 夜明けはあまり好きではない。夜の時間帯に働くという昼夜逆転の生活をしているからだろう。

 外からチュンチュン、雀の鳴く声がする。もう朝か……でも、今日は特に予定もないし、このまま昼まで寝ていても……。

 

「起きてください、(あさひ)さん」

「ごふっ」

 

 ごとん、という音と共にぐわんと体が一回転した。衝撃で頭が痛む。ぐらぐら頭が揺れている。

 

「いったぁ……」

「いつまで寝ているんですか。今日は俺に稽古つけてくれるんですよね?」

「ううん……」

 

 ぼんやりしぱしぱする目を擦りながら目線を上げる。

 そこには不機嫌そうにしかめっ面をして私を見下す継子がいた。手には私が今まで被っていたであろう掛け布団。

 

「……そういえば、打ち稽古するって約束してたんだっけ……」

「何寝ぼけてるんですか。朝餉(あさげ)は出来てますから早く着替えて来てください。だらしない」

「はぁい……うぶっ」

 

 吐き捨てるように言って私に布団を投げつけてくる継子……獪岳(かいがく)はいつも通りの平常運転だった。朝が強い子っていいよな。羨ましい。

 ……稽古時間は少し減らした方が良いのかもしれない。心なしか心拍数が速い気がする。全集中・常中を使っているにしても速い。なんだ、体調が悪いのか?

 なんてことを考えながら大きくあくびして大きく伸びをする。獪岳が少し障子を開けていってくれたおかげで爽やかな朝の空気が部屋に入ってくる。……気遣いは満点なんだよな、あの子。

 寝着を脱いで、着流し……は、稽古するからやめておこう。普通に隊服だな、うん。

 シャツを着てズボンを履き、寝癖だらけの癖っ毛の髪を手で撫で付けて整える。そして、私は獪岳が待っているであろう居間に向かった。

 そこには朝食を配膳している継子の姿があった。

 ほかほかと白い熱気を立てる白米、具沢山の味噌汁、身がぎっしり詰まった焼き魚、丁度よく漬けられた瓜などなど。

 思わず涎が垂れるくらいには魅力的な朝食が出来上がっていた。

 

「……もう獪岳に嫁に来てほしい。桑島さんに挨拶に行きたい」

「何言ってるんですかあなたは……」

 

 気持ち悪いものを見る目を向けてくる獪岳、いつも通り辛辣。しかし、「涎拭け」と手拭きをくれる(投げつけてくる)あたり性根は優しいのだろう。

 ……あ、また心拍数上がってる。顔も赤い。額に手を置けば、彼は固まった。その数秒後、手を振り払った。体温は高いが熱は無さそうだ。

 

「な……んですか?」

「いや、心拍数上がってるし顔が赤いから不調なのかな、と」

「……この人は、本当……クソッ」

「??」

 

 がしがしと頭を掻いて俯き、悪態づく獪岳に私は首をかしげるしかできない。いや、本当になんなんだ。私が本当に……何? 次の言葉は何?

 じっと私が見ていると、獪岳はギッと私を睨み上げてきた。そして、獪岳の真向かい……私がいつも座る所を指差す。

 

「早く座って食べてください。朝食が冷めるし稽古の時間が減りますから」

 

 ……まあ、顔色は戻ってるから特に気にすることでもないんだろう。

 

 

 ちなみに朝食はめちゃくちゃ美味しかったとだけ記憶している。

 本当に嫁に来ないか?

 私こと日向(ひなた) (あさひ)、こう見えて柱と似たような立ち位置だから甲斐性くらい持ち合わせてると思うんだが。

 

 

 

*****

 

 

 

 くるり、くるり。

 木刀を器用に回しながら彼女は目の前で這いつくばっている男児を見据えた。

 

「這いつくばっている暇はない。私が鬼なら間違いなく喉元を食い千切っている」

 

 先程までの、継子の朝食に舌鼓を打ち顔を緩めていた女はいない。

 きりりと顔を引き締め、凛とした雰囲気を醸し出している。

 

「立て。死に物狂いで立て。足が棒になっても立て。手の握力が無くなっても刀を振るえ」

 

 そうきつい言葉を吐きながら、彼女はとん、と己の首を指で叩いた。

 

「そして、鬼の首を斬れ」

 

 随分と、簡単に言ってくれるものだ。

 獪岳はふらふらと立ち上がりながら、震える腕で必死に構えを取った。

 彼の目に映っているのは師範である彼女のみ。正確には彼女の首、喉笛である。弟子の眼光のぎらつきを確認した彼女はくい、と顎を上げて白い喉を晒してみせた。そして、わざとらしく笑ってみせる。

 

「さて、いつになったら届くんだ」

「シィィイッ」

 

 鋭い呼気と共に獪岳は踏み込んだ。

 瞬間移動を思わせる歩行、同時に手にした木刀で斬りかかる。一般隊士ならば間違いなく一撃を貰ってしまうような鋭さがあったが、彼女には届かない。

 彼女は一般隊士などの言葉の範疇に入らない、入れられない。鬼殺隊を支える最強群の1人、柱である。

 獪岳が打ち込んできた木刀、その斬撃予測線上に己の木刀を置く。

 木と木が響き合う、乾いた音がした。

 勿論、そうなることは予測済み。獪岳は特に気にすることもなく第2撃、第3撃と続けて急所を狙い打つ。

 しかし、次の瞬間に彼女の木刀が腹にめり込んでいた。

 

「ごっ……お」

 

 メリメリと音がした。そのまま吹き飛ばされ、獪岳は再び地面を転がった。今のは鳩尾(みぞおち)に入った。いつの間に攻撃がなされていたのか、彼には分からなかった。

 しかし、(うずくま)っている暇もない。頭上から殺気を感じた。直感に従い、咄嗟に横に転がる。

 

「……」

 

 獪岳の口元が僅かに引き攣る。

 元居た場所の地面に木刀が突き刺さっていたのだ。

 

(なんだ、この人、殺す気か)

 

 本気でそう思った。今避けなかったら間違いなく頭蓋を穿たれていた。だというのに、この女はにぃ、と彼に笑いかけている。

 先程まで「嫁にしたい」と言っていたあの柔らかい笑顔はどこに消えた。

 

「なんだ、まだ動けるじゃないか」

「っ……!」

 

 どこか嗜虐性を感じるその笑みに獪岳の背筋に悪寒が走る。

 

「次も転がって動かなかったら、遠慮なく斬りかかる」

「ぐっ……」

 

 そう言いながら彼女は木刀を振り(かざ)した。

 この距離、この速さ……駄目だ。避けられない。回避できない。絶体絶命。それだというのに、自然と彼の唇の端は吊り上がっていた。好戦的な笑みを浮かべて、これから来るであろうその衝撃に身構える。

 容赦の無い稽古はまだまだ続く───かと思いきや。

 

 

「旭さ~ん!」

 

 

「ん?」

「……あ"?」

 

 ピタリと彼女……旭の木刀の勢いがなくなり、獪岳が持つ木刀に当たる寸前で止まる。

 2人が目を向けた先には、ぶんぶんと手を振るかわいらしい女子。そして、その女子の傍には宍色の髪をした青年がいた。

 旭は目を丸めて手を振り返し、獪岳はあからさまに顔を不快そうに歪めて舌打ちをした。

 

真菰(まこも)錆兎(さびと)! どうした、水柱の片割れとその継子がお揃いで」

 

 先程までの嗜虐的な笑みはどこへやら。人が良さそうにふわりと口元を緩めた旭。それを見て獪岳はぐぬぬと唇を噛み締めた。どうやら稽古はここまでのようだと悟ったらしい。

 旭にててて、と駆け寄った真菰はそのまま彼女に抱きついた。

 

「えへへ、実は美味しい西洋菓子貰っちゃって! 旭さんにもお裾分けしようと思って来ちゃいました!」

「西洋菓子?」

「カステラ。旭さん食べたことある?」

「旭、久しいな」

「錆兎も久しぶり」

 

 錆兎も遅れて旭に近寄る。そして、手に持った風呂敷包みを旭に手渡そうとした。

 そう、手渡そうとした(・・)のだ。

 

「……」

「どうもわざわざありがとうございます。これは継子(・・)である俺が(・・)受け取っておきますね」

 

 錆兎と旭の間に高速で割って入った獪岳によってそれは阻まれた。

 ガッと風呂敷を奪うと鼻を鳴らす獪岳。彼の眉間には皺がこれでもかと作られていた。態度もかなり刺々しい。

 錆兎と呼ばれた青年は表情ごと体を硬直させていたが、ゆっっくりと口元に笑みを作った。引き攣って見えるのは見間違いではないだろう。

 

「……どうもありがとう。ただ手渡すだけで嫉妬するとは随分と女々しいのだな。男らしくないぞ」

「物で旭さんを釣ろうとする水柱様も人のことは言えないのでは?」

「………」

「………」

「旭、お前の持つ木刀を貸してくれ」

「? ……あー、うん。ほどほどにしてくれよ。 一段落したらやめて縁側に来るといい。お茶入れて待ってるから」

「来い、桑島。性根を叩き直してやる」

「上等だ、かかって来やがれ。旭さんを狙う害獣は俺が叩っ斬る」

 

 稽古でもつけてくれるのだろうと察した旭は木刀を錆兎へと渡す。

 何故か錆兎が獪岳と打ち合いをすることになった。

 真菰と旭はというと、台所に向かい、お茶とカステラを用意する。そして、縁側に座り、獪岳と錆兎の打ち合いを眺めながら近況報告をしていた。

 

「今日、義勇は?」

「義勇は任務。少し遠くまで行ってるみたいで、今日は私と錆兎は休みなの」

「あぁ、そうなのか。義勇だけ仕事とは……今度鮭大根作ってやろうか」

「わあ、ほんと!? じゃあ今度水屋敷に遊びに来て! 旭さんの大好きなわらび餅作ってあげる!」

「ああ、それはありがたい。じゃあ、次の非番にでもお邪魔する」

「うん、来て来て! 楽しみにしてる」

「行く日が決まったら烏を飛ばすから」

 

 何気なく約束を取りつけた真菰は策士なのだろうか。真菰がにこにこと笑いながら隣の旭を見上げる。その時、ふと気づいた。

 

「……あれ、その髪留めは初めて見る気がする。買ったの?」

「……いや、貰った」

 

 なんだか歯切れが悪そうな旭に真菰は首をかしげた。

 旭が買う小物というのは質素で素朴なものが多いのだが、この髪留めは赤い珊瑚やら真珠やらが飾られていてかなり派手だ。それでも旭の美貌と釣り合いが取れているあたり、似合っていると言えるのだが。

 旭はカステラを口の中に放り込んだ後、口を開いた。

 

「……宇随」

「あー」

 

 なるほど、それなら納得。

 かなり簡単に想像できる。真菰の頭の中で親指を立てる音柱の姿が浮かび上がった。

 旭はこめかみをぐりぐりと指で押さえながら、呻くように呟く。

 

「本当に……やめてほしい。どうにかならないのか、あの人。既婚者が他の女に求婚するってなんなんだ……? もう嫌だあの人、胃が死ぬ……3人に申し訳ない……」

「あはは……」

 

 音柱こと宇随(うずい) 天元(てんげん)といえば、その派手な容姿と3人の嫁達がまず挙げられる。前者は本人の性だが、後者は忍の家系に生まれた風習なのだろう。それでも全員平等に愛せるあたり、彼は器量の大きい人間であることは間違いない。

 それはそれとして、いくら器が大きかろうが派手好きだろうが、妻がいる分際で別の女に贈り物をするというのはいかがなものかと、旭は言いたいのだ。

 

「この間の合同任務帰りはドチャクソ高価そうな簪を目の前で買おうとするし……妥協案でこの髪留めにしてもらったんだが」

「それはまあ……ご愁傷さま?」

「はあ……これだったら不死川と合同任務の方がまだ良い……私が耐えれば済む話なんだから……」

「まあ、罪悪感は湧かないねぇ~」

 

 旭は風柱こと不死川(しなずがわ) 実弥(さねみ)がどうも苦手だった。

 彼女の体質のこともあってか、稀血の中でも珍しい稀血である実弥には近寄りがたいのだ。匂いがやばい。とにかくやばい。涎が出そうになる。

 しかもあの隊服。なんだあれは、見せつけてんのか? イイ身体だからと見せつけてんのか? 宇随のような剥き出しの腕ならまだしも鍛え上げられた胸から腹にかけてを露出するのは頼むからやめてもらいたい。

 旭にとって実弥とは視界と嗅覚の暴力なのだ。

 

(風柱様と音柱様はどっちもどっちだと思うけどなぁ~)

 

 真菰からすればどちらも旭とは甲乙つけがたい距離感だった。既婚者と助平柱は膠着状態と言っても過言ではない。

 

(何気に男性陣で1番距離感が近いのは継子である獪岳を除いて岩柱様だったり……。いやいや、あの人はどちらかと言うと父親みたいな……)

 

 

「今は稽古中か!」

 

 

「ふあっ!?」

 

 背後からの声に真菰は思考をやめて肩をびくつかせた。

 そこに立っていたのは炎柱の煉獄(れんごく) 杏寿郎(きょうじゅろう)である。

 全然気配が無かったため、真菰は気づかなかったのだが、旭は気づいていたらしい。なんともないようにため息を吐いただけだ。口元は引き攣っているが。

 

「煉獄、君さぁ……不法侵入って言葉、知っているかい?」

「うむ! 一応呼びかけはしたが返事がなかったため、上がらせて貰った!」

「そこは帰れよ……。私が何のために居留守使ったと思ってんだこいつ……」

 

 頭を抱える旭の隣に座る目立つ容姿の男は、おもむろに手を上げると旭の両手を掴み取った。彼女は驚いて「ひえっ」と小さな悲鳴をあげる。

 

「この前の話、考えてくれただろうか!」

「いや……あのなぁ、煉獄。私、その話断ったよな? 覚えてないかい? その場できっぱり。ねぇ」

「勿論覚えている!」

 

 この間の話……というのも、「俺と夫婦になってくれまいか!」という、どちらかというとおめでたい話なのだが。

 それを旭は一瞬硬直しつつもきっぱりと断ったはずだ。こういうのは早い内にすっぱりと断っておかないと後々が面倒だから。確かに煉獄は良い男児ではあるし、きっと良い夫であり父親になるのだろう。

 しかし、だからこそ旭は断ったのだ。「私のような女に彼は似合わなすぎる」と思って。その場でスパッと。

 だというのに、煉獄は諦めない。断じて諦めていない。非常に困る。これでは断った意味がない。

 

「『そういう対象として見たことがないから』と言われたが、それはつまり、俺が男として意識してもらえばまだ希望があるということだろう!」

「いや、だとしても結婚は無理だろ。お互いよく知りもしないのに」

「ならば恋仲からなら良いのか! 旭さん、俺と結婚を前提に交際しよう! お互いを知ってから夫婦としての契りを交わそう!」

「押し強いなこの野郎……」

 

 そして話を微妙に聞かない。目は一体どこを見ているのだろうと毎回不思議に思う。

 なまじ真っ直ぐで真面目な性格だからか、純粋な曇りなき眼をしている。どこを見ているかは分からないが。その目で見つめられると心が折れて交際してしまいそうだから、旭は必死になって顔を背け始めた。

 なのにこの男、どうにかして旭の視界に入ろうとしてくる。

 

「おいこら煉獄ふざけんな。顔が近い。離れろ聞いてんのかゴラ」

「ならば顔を合わせてくれ!」

「なにお前私のこと殺そうとしてる? 社会的にも精神的にも」

「よもや! 何故そうなったのだ? 愛しい者の顔を見たいと思うのは普通だろう!」

「そういうことを平気で言えるからこの人は……!」

 

 (たち)が悪い。

 顔を近づけて迫ってくるこの男から必死に距離を取ろうにも、その隣には真菰がいるし両手は捕られているしと上手く動けない。後ろに倒れれば誤解されそうだし、前に倒れてもあまり意味はないだろう。

 これは本気で頭突きしても正当防衛になるだろう、と真面目に思っていた所で、稽古場から殺気を感知した。

 

「むっ」

「うおっ」

「きゃっ!」

 

 煉獄は頭を後ろに反らし、旭はそのまま後ろに倒れた。その際真菰の膝の上に頭が乗ったため、真菰が驚いた声をあげた。

 旭がその体勢のまま稽古場に目を向けると、今にも怒髪天になりそうな獪岳と目を据わらせている錆兎がいた。

 

「炎柱ぁぁ……てめぇ何やってんだこんの抜け駆け野郎が……!」

「煉獄……それは駄目だ。断じて許さん」

 

 よく見れば2人の手には木刀が無い。真菰に頬をつつかれて顔を上げれば、廊下に立っている柱に木刀が2振り突き刺さっていた。

 ……投げたらしい。

 

「旭、もう1振り木刀を貰って構わないか? 煉獄、久しぶりに柱稽古をしてくれ」

「うむ! 良いだろう! 旭さん、この話はまたいずれ!」

「俺の木刀使ってどうぞ。そろそろ休憩します」

(そろそろ逃げる準備でもすべきか……)

 

 旭は体を起こして座り直す。すると、煉獄と代わったのか獪岳が縁側にやって来た。

 

「お疲れ様。お茶があるが」

「……ありがとうございます」

 

 旭がとんとんと先程まで煉獄が座っていた隣を叩けば、獪岳は眉をひそめつつもそこに座る。旭が渡したお茶をぐいと一気に飲み干して、ようやく一息つく。しかし、眉間の皺は変わらず。

 おそらく、久しぶりの師弟水入らずの稽古を邪魔されたことに苛立っているのだろう。確かに彼女の稽古は厳しいし心が折れそうになるのだが、それでも彼女についていけばより強くなれることは分かっている。

 それに……。

 

「獪岳」

「は…」

 

 ぽんぽんと旭が己の膝を叩く。それと旭の顔を見比べる獪岳は怪訝そうな顔をした。

 

「おいで」

「いや、それは流石に」

「いいからほら」

「人前では流石に」

「はあ……それじゃあ後で」

「……はい」

 

 旭は自身を見てくれている。己の体調を気遣い、甘やかしてくれる、鍛え上げてくれる。それが分かるため、心がふわふわして胸が温かくなるのだ。

 それを素直に表せないからあのギャンギャン泣き喚く弟弟子からひねくれてるだのなんだの言われるのだろうが知ったことか。こっ恥ずかしいのだ、しょうがないだろう。

 しかし、同時にこの師範の危機管理力の低さが目に余って仕方がない。

 今朝だってそうだ。乱れた寝着で無防備に見上げてくる女……据え膳どころの話ではない。この屋敷に住み出してから理性と本能に訴えかけてくる様々な試練。これも師範としての教えなのか……いや、違う、絶対違う。これが素なのだ。非常に困る。

 しかも天然で人を垂らし込む天才。何人の男が犠牲になったことやら……。

 獪岳は改めて隣でカステラを頬張り、無惨に壊れていく稽古場を遠い目で眺めている師範の姿を見た。

 

 見目麗しい女性だと思う。

 

 捻れた癖っ毛の黒髪、鮮血を連想させる真っ赤な切れ長な瞳、潤った桜色の唇、形の良い小振りの鼻、シミ1つない白い肌。

 体は筋肉質ではなく女性らしいすらりとした長身。程よく凹凸がついている女体の理想像。桃色の爪と白魚のごときすらりとほっそりした指先まで美しいとはどういうことだろう。

 それなのに、任務へ出た時に見るあの凛々しい後ろ姿。どこか嗜虐性を感じるあの凄惨な笑み、豪快な刀捌き。

 どこまでも獪岳を魅了してくる堂々としたあの姿には憧れたものだが……普段の姿との落差が凄いというかなんというか……。

 

「……獪岳? カステラ食べないのかい? 嫌いだったか?」

「! っいえ、いただきます」

 

 かなり魅入ってしまったようだ。不思議そうに旭が獪岳を見ている。しくじったと内心愚痴りつつも、大人しくカステラを食べる。

 

「とりあえず、2人の稽古が終わったら外食しようか。まだ昼餉の準備してないだろうし」

「……珍しいですね。どういう風の吹き回しですか?」

 

 いつもは獪岳と共に台所に立つのだが、今日は違うらしい。言い方は少しきついが、これでもかなり頑張った方だ。

 

「あー……獪岳、最近頑張ってるからな。たまには私の料理よりも外で好きなものでも食べた方がいいと思って」

「……」

「あと、キネマのチケットがあるから、食後に行こう。何故か4枚あるけど」

「……そう思うなら料理の腕、上げてくれませんか」

「う"っ。ごもっとも」

 

 完全な照れ隠しである。獪岳は「出掛けるなら、汗を流してきます」と早々にその場を立ち去った。今誰かに顔を覗き込まれたならば、頬がほんのり赤くなっているところが見られただろう。

 

 

 

*****

 

 

 

「きゃー! 奇遇ね、旭さん! こんな所で出会うなんて思わなかったわ! ねっ、伊黒さん!」

「そうだな、本当に……」

(今日は厄日か? どうしてこうも知人と出会う……)

(折角旭さんと久しぶりの休日だというのに、どうなってんだ今日は……!)

 

 

 飯屋にて。

 結局あの後、煉獄と錆兎の容赦のない一騎討ちが終わった。3人共予定があるらしく、錆兎と真菰はこの後不死川と柱稽古、煉獄は任務に行くらしい。3人を見送り、屋敷を出た獪岳と旭。

 最近人気だと有名な店を獪岳が知っていたので、即断でその店へと入った。中はそこそこ混んでいたが、昼時としては少し早かったのだろう。空いた座敷があったため、そこを取ることができた。

 問題はここからである。昼になり、有名店という訳もあり店の中はごった返しになった。あちこちで空いた座敷に相席を頼む店員が見受けられる。これはやばい、と旭と獪岳は共に思ったわけで……そうしたら案の定、店員から相席を頼まれた。

 あまり人を好かない旭だが、まあ関係ない人だからしょうがないか、と受け入れた。

 

 その結果がこれである。

 

 

「わあっ、沢山あって選びきれないわ! どうしましょうっ。伊黒さんはどうするのかしら?」

「そうだな……」

 

 恋柱こと甘露寺(かんろじ) 蜜璃(みつり)と蛇柱こと伊黒(いぐろ) 小芭内(おばない)が相席になってしまった。

 席は机を挟んで獪岳と旭、甘露寺と伊黒が向かい合わせ。更に言うなら獪岳と伊黒、甘露寺と旭が横に並んで座っていた。

 

(まあ、知らない人が相席に来るよりも気楽でいいか……?)

 

 甘露寺にご執心である伊黒からは、何度か恋愛相談を受けたことがあるし、逆に宇随や煉獄といった者達への愚痴も話したことがある……いわば気軽な相談相手。だから、伊黒のことはそこまで苦手意識はなかった。時折入るネチネチ攻撃は精神的にかなりくるのだが。

 甘露寺に至っては普通に飲み食いに行く仲である。特に彼女は幸せそうにたくさん食べるため、奢りがいがあって好きだった。純粋で裏表がないし、鬼殺隊入隊理由も素直にかわいらしいと思う。これぞ女の子、と評価するほどには感心していた。

 

「ねぇ、旭さんはどれを選んだの?」

「へっ?」

 

 くるくると汗をかいたお冷やを手持ち無沙汰に遊んでいた旭は、突然声をかけられて目をぱちくりさせた。隣にはお品書きを持って目を輝かせている甘露寺の姿。

 それを確認して、旭はお品書きの頁を捲る。

 

「あー……これ。オムライスって言うんだっけか?」

「綺麗な黄色ねっ、美味しそう!」

「獪岳曰く、ここは洋食のハイカラ料理が美味しいらしい。この……なんだ、しーふーど? ……まあ、海鮮のカレーライスだな、これ。後はそっちのコロッケなんかもサクサクなんだとか。甘味もちょっと値段は張るけど、パフェとやらも評判らしいから食べてみるといい」

「やだ、どれも美味しそう! (旭さん、詳しく教えてくれるわ! 素敵!)」

「全部頼めばいいんじゃないか? こんな面子(メンツ)だ、気を使う必要もないだろう」

 

 ちらり、と旭が向かい席の男達を見遣ると、獪岳は鼻を鳴らしてそっぽを向き、伊黒は眼力で旭を抹殺したいのかというほど凄まじい顔相をしていた。

 ……説明したい所を全て旭が言ってしまったらしい。

 その説明も実は獪岳の受け売りなのだが。

 

「それもそうね! 伊黒さんはもう決まった?」

「ああ」

(悪かったな、本当……)

 

 甘露寺も何故この伊黒のえげつない怒気に気づかないのだろうか。自身に向けられていないからだろうか。下手に背中を見せたら叩き斬られるのではないだろうか。

 しょうがないなぁ、と旭はお冷やを一口含んだ後、のんびりと告げた。

 

「お2人さん、映画とか興味はあるかい?」

「え?」

「映画……キネマか」

 

 旭の唐突な問いに2人……甘露寺と伊黒は首をかしげた。獪岳も眉をひそめている。

 旭は懐から2枚のチケットを取り出した。

 

「実はこれから獪岳と見に行く予定なんだけども、もう2枚あるのよ。あげる」

「えっ!? いいの、旭さん!」

「日向さん……。しかし、俺達は任務の合間に来たから呑気に見に行く暇など」

「期限は再来月まであるから、また予定があったら行ってくればいい。なんだったら私が1日任務変わってやってもいいし」

 

 「意外と面白いらしいよ」とふんわりと微笑む旭に、甘露寺はキュンキュンと胸を高鳴らせ、伊黒は「それなら……」と怒気を納めた。流石、伊黒の恋愛相談者(甘露寺や飯屋の情報を渡しているだけ)である。

 

「そっ……そうね! 伊黒さん、今度一緒に行きましょうねっ」

「あっ……ああ、そうだな……」

 

 無意識に「また逢い引きしましょうね」と誘う甘露寺とそれに僅かに動揺しつつもしっかり頷く伊黒。

 

(……さっさとくっつかないかなぁ)

 

 甘露寺も自身が特別扱いされていることに何故気づかない。伊黒がここまでしてくれるのは甘露寺だけなのに、と歯痒く思いつつも決して表には出さない。

 

「お待たせしました。オムライスとシーフードカレーです」

「あ、私とこっちの子です」

 

 やって来た店員を誘導しながら、旭は中々くっつかない同僚の姿を見てもう一つ息を吐いた。

 

 

 

*****

 

 

 

 映画を見終わり、獪岳と並んで旭は歩く。

 日は大分沈んでおり、町並みは夕焼け色に染まっている。それを見ていてしみじみと感慨深いものを感じてしまうのは旭だけだろうか。これが哀愁などというものだろうか。

 

「また明日から鬼殺だなぁ」

「そうですね」

 

 相槌を打つ獪岳はぼんやりと夕餉について考えていた。家には何が残っていただろうか、何を作ろうかと思っていると、彼の隣を歩いていた旭がふと立ち止まった。

 

「……どうしましたか」

「あー……獪岳は先に帰れ」

 

 そこでようやく理解する。

 俺も行きます、と言う前に旭は自身の唇に立てた人差し指を当てた。

 

「先に帰って夕食の準備でもしていろ。すぐ行くから」

「……はい」

「よしよし、いい子だ」

「やめてください」

 

 頭を撫でようとした旭の腕は払われる。人前ではやめろと言ってるのに、と獪岳は悪態づくが、それはすなわち人前でなければ撫でてもいいということだろう。

 旭はひねくれた性格の継子に苦笑いしながら背を向けた。そして、一瞬でその場を離れる。

 瞬きをした時には既に居ない。柱の実力にも大分慣れてきた獪岳は特段驚きもせずに帰路についた。

 

 

 

*****

 

 

 

 太陽が沈み、薄暗くなった町を一望する旭の後ろに1人の男が寄ってきた。

 

「旭さん」

「……粂野」

 

 粂野(くめの) 匡近(まさちか)

 彼は“滅”と背に書かれた服ではなく、“隠”と書かれた隊服を着ていた。顔を隠している布を上げれば、左頬にある古傷と人が良さそうな笑顔が露になる。

 下弦の壱との遭遇時に重症を負い、鬼狩りとして動けなくなった。しかし、彼は“隠”として生きることを決意。柱の中でも恐れられている不死川を上手に宥められる、よく働き笑顔を絶やさない良い人だと先輩後輩から憧れているし評価されている。

 旭は彼の顔を確認すると、苦い顔をして周りを見渡した。

 

「まさか不死川も……」

「いえ。あいつは今から任務で遠出しています」

「なら、こっちに来ることはないか」

 

 すん、と鼻を鳴らして匂いを確認した後、ようやくほっとして粂野に向き直った。

 

「私の刀は」

「こちらに」

 

 すっ、と粂野が布で包まれた刀を渡す。

 ただの刀ではない。旭の身長ほどにもある長さと広げた掌2枚分もある幅の大刀である。西洋でいうクレイモアと言った方がしっくりくるかもしれない。

 旭はこれを“鬼斬り包丁”と呼んでいた。

 彼女は数度その場で素振りをすると、それを背負って固定する。

 

「わざわざ刀を持ってきてくれて悪いな」

「いえいえ、それも仕事なので。御武運を」

 

 彼がにっこりと笑っているのが露出している目元だけで分かる。

 それを背に受けて、旭はその場から離れた。

 

 

「いってらっしゃいませ、鬼柱様」

 

 

 

 

 

 鬼殺隊・鬼柱こと日向(ひなた) (あさひ)

 これは彼女を中心に語られる物語である。



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2話「鬼柱・日向 旭」

「玄弥、これを日向(ひなた) (あさひ)という柱の屋敷まで持っていってくれるか?」

「え」

 

 突然、悲鳴嶼(ひめじま)さんからおつかい(?)を頼まれた。どっしりと重い風呂敷に少しよろけたが、別に持てない程でもない。中身を見ると新鮮な野菜や甘味が入っていた。

 一体なんなんだ、と悲鳴嶼さんを見上げると、悲鳴嶼さんはジャラジャラと数珠を鳴らしながら涙を溢していた。……いつも通りの光景だ。

 

「出来れば私も付き添いたかったのだが……急用ができていけなくなった」

「はあ…。それはいいんですけど、どうしてこんなに……」

「先日、その人と合同任務があってな、その際に色々と世話になったのだ」

 

 それは珍しい、と俺は思わず目を見開いた。

 鬼殺隊の柱でも頂点に立つ実力の持ち主である悲鳴嶋さんが助けられた……にわかに信じがたい話だった。

 ……ん? 待てよ。

 

「……柱って言いました?」

「? ……ああ。日向 旭。柱だ」

 

 嘘だろ。柱って確か最高でも9名までしか居なかったような……。

 俺の微妙な疑問めいた気持ちが伝わったのだろう。悲鳴嶼さんは告げる。

 

「少し、特殊な者なのだ。私達柱やお館様以外でその者を知る者はほとんどいない……」

「あの、その人のこと俺に話して良かったんですか?」

 

 不安になるんだが。良いのか、本当に。

 

 

 

*****

 

 

 

 悲鳴嶼さんに渡された地図に従って道を歩く。

 いや……道なのか? 途中で山の獣道に入ったり、かと思えば町の大通りに出たり……。一体どこを歩かされているんだろうか、と思うくらい地図に従って歩いていくと、屋敷が見えた。

 ……随分とこぢんまりとした屋敷だった。

 藤の花が沢山植えられているみたいで、屋敷を囲う壁の向こう側に藤色が見える。余程鬼を警戒しているのだろうか。

 門は勿論閉ざされている。……ここからでも声は届くのか不安だが、悲鳴嶼さんに頼まれた手前、やり遂げなければ。

 

「す、すいません!」

「どちら様?」

「!」

 

 背後から声をかけられて肩が跳ね上がる。

 気配も何も感じないから驚いた。

 

「あ、あの、この屋敷の」

 

 振り向いて固まる。

 捻れた癖のある髪、柘榴のような真っ赤な瞳、白く皺一つない柔肌。すらりとしつつも凹凸のある体つき。質素で色褪せた着流しだが、それでも充分美しいと思う。

 買い物帰りだろうか、大きな袋を提げた彼女(・・)は首を傾けて不思議そうな顔をした。

 

「この屋敷に何か」

「……し」

「し?」

「し、……し、しつっ! 失礼しましたぁ!!」

 

 勢いよく頭を下げてその場からすぐさま離れる。

 顔が熱い。これでもかというほど熱い。血が沸騰してるみたいだ。心臓が有り得ないほどバクバクしてる。

 

 ……悲鳴嶼さん。

 女の人が居るなんて聞いてねぇぞ!?

 

 

 

*****

 

 

 

「……で、のこのこ帰ってきたと」

「そうだけどお前に言われるとなんか腹立つな……」

「なんでだよお前ほんと俺のこと嫌いだよな!?」

 

 ……と、ぎゃんぎゃんと喚く善逸(ぜんいつ)。うるさい。ひたすらにうるさい。

 

「というか美女を目の前にして顔真っ赤にして黙り込む思春期野郎にそんなこと言われる筋合い無いと思うんだけど!」

「なんだとてめぇ……!」

「あ"ーーーっ!(汚い高音) ほらそういうとこぉ! そーいうところだよお前さぁぁあ! すぐ手が出るとこあのおっさんとおんなじだよ血は争えないなぁぁぁああ!!」

「兄貴はおっさんなんかじゃねぇ!」

「痛いっ!!」

 

 殴れば悲鳴をあげる。そして泣いて炭治郎(たんじろう)にすがりつく。

 炭治郎は困ったように笑って腰にすがりついた善逸を撫でながら言った。

 

「今のは善逸が悪いが、暴力も駄目だぞ玄弥」

「炭治郎はどっちの味方なの!? ねぇ!?」

「俺は2人の味方だからな!」

 

 要するに中立ってことだろう。まあ、らしいと言えばらしいが……。

 

「猪突猛進!」

「ごふっ!?」

「伊之助ーー!?」

 

 背中から衝撃が走って前のめりに倒れる。背中を押さえて痛みに悶えていると、「大丈夫か玄弥!」と炭治郎が背中を擦ってくれた。

 背後からは「馬鹿かお前何やってんの!?」という善逸の声と高笑いしている野太い声が聞こえた。

 声でも誰か分かったが、首だけで振り向いてみればやはり、あいつだ。特徴的なあの猪頭半裸野郎なんて、伊之助(いのすけ)以外有り得ない。

 

「がははははは! 俺様最強!」

「いやまじで何やらかしてんの!? なんで頭突いたのお前馬鹿じゃないの!?」

「ハァーン!? 殴り合いしてたじゃねぇか!? 親分を抜かしててめぇらだけで訓練するなんざ100年早ぇんだよぉ!」

 

 どうやら俺が善逸を殴った所を見て組み手でもしていると勘違いしているらしい。でも、だからと言って背中に突進してくる奴があるか……?

 

「違うぞ伊之助! 今のは組み手ではなく玄弥の癇癪だ!」

「炭治郎テメェも喧嘩売ってんのかァ」

 

 善逸の気持ちが分からなくもない。お前はどっちの味方だ、炭治郎。現在進行形で油を注いでいるぞ、俺に。

 

 

 

*****

 

 

 

 で、なんやかんやで俺は炭治郎達と一緒にあの屋敷の前に立っている。事情を話して頼んだら快く頷いて了承してくれた。

 ……まあ、友達だから、なんてこっ恥ずかしい理由なのは炭治郎だけなんだけどな。

 

「にしても、柱の日向さんかぁ……。柱合会議でもそれらしい人は見たことないぞ?」

「特別な立ち位置らしいと悲鳴嶼さんは言っていたけど、やっぱりおかしいよなぁ……」

 

 炭治郎も会ったことは無いらしい。炭治郎には悪いけど、お前も結構立ち位置特殊だからな。鬼の妹と一緒に鬼殺してるなんて聞いたことないからな。前例も無いし。

 

「うひひ、秘密の柱に仕えているであろう美女かぁ……楽しみぃ……でゅふふ」

 

 ……善逸は俺と会った女の人が気になってついてきた。俺と交わした短い会話(会話とも言えないが)でこの屋敷に住んでいることは分かるからな。

 

「気持ち悪ぃ笑い方すんな、紋逸」

 

 同感。右に同じ。

 

「はああ!? これから美女と会うんだよ!? 女の人と会うんだよ!? 馬っ鹿じゃないの!? それでも男なのお前ら!?」

「善逸、気持ち悪いぞ」

「やめて炭治郎その目で見るの!! 俺が悪かったからさぁぁああ!!」

 

 どこまでも気持ち悪い善逸を得体の知れないものを見る目で見る炭治郎。……炭治郎、お前そんな顔出来たんだな。俺、びっくりしたよ。

 

「んで? そのハシラって奴はどこにいやがんだ!?」

 

 心なしかそわそわして周りを見渡しているのが伊之助。こいつは単純に「ハシラって強いんだろ!?」という……闘争本能(?)でついてきた。ってか、こいつ俺の話ちゃんと聞いていたのか? 俺はため息を吐いてもう一度軽く説明した。

 

「この屋敷の主だって言っただろ? 俺はこの風呂敷の中身を日向さん……に渡さなきゃいけないんだ」

「猪突猛進!!」

「聞けよテメェ! 人が話してんだろうが!! しかも2度目だぞ!?」

 

 この野郎、折角説明してやったのに門に頭突きしやがって!

 ……ん? 門に頭突き?

 

「伊之助、何やっているんだ! 他所様の家だぞ!?」

「おら出てきやがれハシラとやらのビー玉 朝子ぉぉお!!」

「誰なんだそれはぁ!? ちょっ、伊之助待て! 頼むから頭突きだけは()めてくれ!」

「おまっ、馬鹿! 騒がしくするなよ!」

「ハァーン!? お前知らねぇのか? 馬鹿って言った方が馬鹿なんだぜ!?」

「誰が馬鹿だ猪頭!! 喧嘩売ってんのかちょぉっと顔が良いくらいで!! 表でろ! 表出やがれ斬ってやる!」

「ちょっ、おい! まずいって騒いだら……!」

 

 ぎゃいぎゃいと一瞬で騒がしくなった。収集がつかなくなっておろおろしていると、固く閉ざされていたはずの門が開いた。

 

「すいません。さっきから人の屋敷の前でうるさいのですが……あ?」

 

 ひょこ、と頭を出したのは黒髪の青年だった。首から勾玉の首飾りを提げている、鋭い目付きの男。

 

「や、あの……すいませ」

「獪岳ぅぅぅうーーー!?」

 

 事情を説明しようとすれば、後ろから悲鳴があがる。ぎょっとして振り向けば、善逸が目玉を落とさんばかりに目を見開いていた。

 ……善逸の知り合いか? この人。その割にはこの人の眉間の皺が凄いが。そのうえ、殺気やら嫌悪やらが漏れている。……とてもじゃないが、仲が良いようには見えない。

 

「えっ、はぁ!? うぇええ!? 待って待って待って獪岳!? なんでこんなところに居るのよおかしくない!? 美女は!? 女の人は!? あんた本当に獪岳!?」

「うるせぇカスが。とっととくたばりやがれなんで生きてんだ。ピーピー喚きやがって。迷惑だ。帰れ」

「あれ獪岳だ本物!? 嘘でしょ!? 嘘過ぎない!? あの獪岳が美女とお知り合いとか嘘過ぎない!?」

「迷惑だっつってんだろうが! 死ね!」

「うぶべっ!?」

 

 スパァン、と善逸の顔面に手拭きが投げつけられた。善逸は倒れてそのままピクリとも動かなくなった。あ、いや、微妙に痙攣はしている。死んではいない。

 ……怖ぇ。容赦ねぇな、この人。

 かいがくと呼ばれた男はシィィィ、と独特の呼吸音を響かせながら深呼吸をすると、ギロリと俺達を睨みつけた。

 

「で、何か用でも?」

「え?」

「……わざわざこの屋敷の前で意味なく騒ぐなんて余程の気狂いしかしないでしょう。この屋敷に用があるのでは? 俺がここに住んでますから用件があるなら聞きますけど」

「あ……」

 

 そうだ、すっかり忘れてた。俺は慌てて背負っていた風呂敷を外して差し出す。

 

「岩柱の悲鳴嶼さんから渡すように頼まれたので、渡しに来ました」

「岩柱様から? 本人が来る予定だと俺は聞いておりましたが」

「あ。悲鳴嶼さんは急用が入ったみたいで……」

 

 彼は怪訝そうな、疑り深そうな顔つきで風呂敷を見た。……受け取ろうとはしてくれない。

 

「……失礼ですが、屋敷の主人に確認を取ってもよろしいですか?」

 

 まあそりゃあそうなるよな。

 俺が頷くと同時に門が開いた。彼1人分ではなく、……というより、彼以外の誰かが更に門を押し開いたという……か……。

 

「獪岳、それ受け取っても大丈夫だ。ついさっき悲鳴嶼さんから烏が……ん?」

 

 あの、女の人だった。

 切れ長な赤い瞳が俺を捉えて、つい後ろに下がる。正直に言うと、あまり見ないでほしい。

 

「君、さっきの男児か」

「うえっ?」

「さっきは気づかずに悪かったな。てっきり悲鳴嶼さんが来ると思っていた」

「っえ、と……あの、別に……」

 

 こっちこそ顔見た瞬間逃げてすいません、と謝ろうとした時、首根っこを掴まれて後ろに引っ張られた。

 なんだ、と引っ張った人……炭治郎を見れば、何やら驚いたような顔をして冷や汗を流していた。

 そして、ぽつりと呟いた。

 

 

鬼舞辻(きぶつじ) 無惨(むざん)……?」

 

 

「……は?」

 

 ……なんで、今鬼の大将の名前が出てくるんだ?

 意味が分からず俺は固まるくらいしか出来なくて、そっと女の人達の方を見た。

 

 ドギャッ!!

 

「がっ!?」

「ぅお!?」

 

 凄まじい音がして隣にいたはずの炭治郎がいなくなった。慌てて周りを見渡すと、遥か後ろで仰向けになって倒れている炭治郎がいた。

 たんじろう。

 そう言おうとしたはずなのに声は出ていなくて、はくはくと口は開閉しただけだった。

 いやいや、何が起こったんだ、何されたんだ。一体何が? 鬼? 鬼か? 鬼がいるのか?

 フシィィィィ、と鋭い呼気が聞こえて、肩を跳ね上げる。おそるおそる振り返って体が固まった。

 

 ……ものすごく恐ろしい顔をしていた。

 

 血管が浮き上がって目は血走って、全身から怒気とも殺気とも取れない気配が吹き出ている。なまじ顔が整っているせいか、背筋に悪寒がするほど怖い。

 彼女と付き合いも長いであろうかいがくさんとやらも、冷や汗をかいている。

 ……美人が怒ると怖いってこういうことなんだな、と場違いなことを考えた。

 

「……あー」

 

 数度鋭い音がする深呼吸をした後、女の人は頬を掻いた。

 

「……風呂敷の男児」

「はいっ!?」

 

 俺のことだよな!?

 

「あの……誰だ、あのー…私が吹っ飛ばした男児」

「炭治郎です!」

「その男児を屋敷に寝かせてやってくれるかい? 手当てくらいできるし、殴ってしまったし」

 

 やっぱあんたがやったのか! え、というか殴っ……え!? 威力おかしくねぇか!? 柱怖っ!?

 

「……ついでにそっちの黄色頭も」

「いえ、そいつは別にいいと思います」

「獪岳がやったんだろ? 手拭き見れば分かる。いいから連れてこい」

「……はい」

 

 納得行かないという顔をするかいがくさんを横目に、俺は炭治郎の元に駆け寄って体を起こす。背中に背負っている箱が邪魔だ。かりかり音がしてるから中にいる禰豆子(ねずこ)は無事みたいでホッとする。周りを見渡せば、伊之助がいた。

 

「おい、伊之助。ちょっと箱を持ってて……」

「勝負だ!」

「はあ!?」

「……あ?」

 

 先程まで呆然としていた猪頭が動く。

 両腕を上げているのは威嚇の構えなんだろうか……なんて悠長なこと考えてられねぇ! 女の人が呆けている間になんとかしねぇと……!

 

「いや、お前馬鹿か!? 今炭治郎がどうなったか見てただろうが!」

「権八郎よりか強ぇ! ……ってことが証明されたな!」

「こっ……」

「つまり、あいつを倒せば俺の方が強いってことだ! 俺様天才!」

 

 

 こいつはそうだ、こういう奴だった……!

 

 

 思わず項垂(うなだ)れてしまった。駄目だ、こうなったら力ずくでどうにかしねぇと人の話は聞きゃしねぇ……。

 

「勝負だビー玉女!」

「誰がビー玉女だ、半裸野郎。日向 旭様だボケが」

 

 かいがくさんが腰に提げている刀の鯉口を切る。ピキピキと顔面に青筋が浮かんでいる。

 

「2度と間違えねぇようにその毛深い頭に刻み込んでやろうか? あ"?」

「誰だテメェ! お前に用はねぇんだよ退きやがれ!」

 

 一触即発、という言葉が脳裏をよぎる。

 もう頼むから下手に煽らないでくれお互いに。

 

「獪岳」

「! はい」

「私は黄色頭を屋敷に入れろ、と言った。あの猪頭は私が相手するから」

「……はい」

 

 門を開いて、伊之助へと歩み寄る女の人。彼女はゴキゴキと首を回して鳴らしながら告げる。

 

「で、君は勝負で良いんだな?」

「おう!」

「それじゃ、おいでな」

「よっしゃぁぁあ!」

 

 伊之助が勢いよく女の人に突っ込んでいく。

 

 ドゴォッ!!

 

「げぶぉっ!?」

 

 ……腹部に1発でノサれた。

 

「獪岳、こいつも運べ」

「御意」

 

 かいがくさんは善逸の襟元と伊之助の首根っこを引っ掴んで引きずった。

 

「風呂敷の男児、君も早くしろ」

「……はい」

 

 ……俺も従うしかなかった。

 

 

 

*****

 

 

 

 不死川(しなずがわ) 玄弥(げんや)は落ち着かない様子で出されたお茶を見つめていた。

 それはもう緊張していた。

 目の前には緩んだ顔で悲鳴嶼が送った甘味を頬張る美人こと日向 旭がいるし、その隣では玄弥を睨みつける獪岳がいるしで。ちなみに昏倒した3人は別室で寝かせられている。助っ人として呼んだ、自身以外の3人が纏めてお陀仏とはどういうことだ。何のための助っ人だ。

 

「んで、風呂敷の男児。名前は聞いてもよろしいか」

 

 お茶を飲んでほう、と一息ついたところで、そう問われた。

 

「し、不死川 玄弥……です」

「ああ、やっぱり。あいつの弟か」

「! 兄貴がそう言ってたんですか?」

「いや。肉質が似てるからそう思っただけ」

「肉質……」

 

 少しばかり期待していた分、落とされてがくりと肩が落ちる。しかも、肉質とはどういうことだ。

 

「まあ、その肉もなんだか人間離れしている気がするが……。どちらかというと鬼に近い」

 

 じ、と旭が玄弥を見つめる。玄弥はその視線から逃げるように少し体を仰け反らせたが、それまで。

 

「君は鬼を喰ってるな?」

「っ……」

「図星か」

 

 玄弥が体を硬直させる。それを見て肯定だと取った。

 

「な、なんで……」

「何百年か前に鬼喰いしてた隊士が居たと聞いたことがある。産屋敷邸から貸し出して頂いた本に書いてあった」

 

 もきゅ、と団子を頬張った後、彼女は言った。

 

「まあ、好きにすれば?」

「は?」

「なんだったら私の継子になるといい」

「は!?」

 

 まさかの言葉に玄弥は前のめりになった。ついでに獪岳もギョッとしていた。

 

「いや、あの……怒らないんですか?」

「何を?」

「……鬼を喰って、鬼殺をしてること、とか」

「……んー」

 

 旭は目線を逸らし、考えるように唸っていたが、すぐに顔を元の位置に戻した。

 

「君が人間に戻れるのならいいと思う」

「!」

「強いて助言するならば、私みたいな鬼とも人とも取れない生き物にはならない方がいいなぁ」

「……それって、あなたも鬼喰いしてるってことですか?」

 

 玄弥が呟くように問いかけると、旭は目をぱちくりとさせた。

 

(え? なんか違った? いやでも、そういうことだろ?)

 

 お館様の書物で鬼喰いについて調べて、鬼と似た再生力なども持っているような口振りだった……と思う。

 玄弥が何を言えば良いのかとわたわたしていると、旭は眉を寄せて問いかけた。

 

「……風呂敷くん。君、悲鳴嶼さんから私のことなんて聞いた」

「え?」

 

 玄弥もきょとんとして悲鳴嶼の言動を思い返す。

 

「……柱の1人で、柱とお館様以外で知っている人はいない特殊な立場の人だと聞きました」

 

 答えると、旭は怪訝そうな顔をした。

 

「……それだけ?」

「それだけです」

「本当に?」

「本当です」

 

 一体何の確認なのだろうか。玄弥が眉を寄せて首をかしげると、旭も眉を寄せて「じゃあどこから聞いたんだ、あの赫灼の男児……」と呟いている。

 

「あの……」

「うがーーー!」

「おっ…!?」

 

 何の話ですか、と問おうとした瞬間、玄弥の背後から雄叫びが聞こえた。肩を跳ね上げて振り向く。旭も目の前の(ふすま)を見る。獪岳はそれに加えて舌打ちをした。

 一瞬の静寂。

 直後、ドタドタと慌ただしい足音と共に襖が踏み倒された。

 そして、現れたのは気絶していた3人である。

 

「勝負! 勝負ぅーー!」

「伊之助! 人様の家で暴れるんじゃない!」

「うるせぇ止めるな権八郎! ビー玉女はどこ行きやがった紋逸!」

「善逸な!? いつになったら覚えるの!?」

 

「……また随分と元気そうだな。心配不要だったか」

「……すいません」

 

 呟く旭に玄弥は冷や汗をだらだら流しながら縮こまるしかなかった。

 

 

 

*****

 

 

 

 ダン、と湯呑みを机に叩きつけるように置かれた。

 その湯呑みの前にいた善逸はびくりと肩を跳ね上げてガタガタと震え始める。

 

「……粗茶ですが」

「ど、どうも……」

「あ"?」

「ひいっ!?」

「獪岳」

「……ちっ。とっとと飲んで帰れ。雑魚カスが」

 

 底冷えするような声での敬語は、善逸には恐怖ものだった。茶を運んだ獪岳は旭に諫められ、不機嫌そうに舌打ちをして言葉を吐き捨てる。それに善逸が首を縦にぶんぶんと振れば、再び舌打ちして旭に「そいつらが帰ったら稽古つけてください」と一礼して部屋から出ていった。善逸と同じ空間に居るのも嫌らしい。

 その嫌いっぷりには炭治郎も苦笑いするばかり。

 

「善逸の兄弟子は気難しい人なんだな」

「どこがだよ怖いわぁぁぁ!! なんか嫉妬やら嫌悪やらやばい執着の音ばっかするしぃぃ!! だけどあの美女に尊敬やら心配とかそんな不安っぽい音させてるしなんなのどうなってんのぉ!? あの人本当にあの獪岳なの!? 逆に心配なんだけど!?」

(どんだけ嫌いなんだ、あの人……)

「おい、ビー玉 朝子! もっとこの甘いやつ持ってこい!」

「誰だそれは。私は日向 旭。これが饅頭」

「マンジュー持ってこい!」

「私のやるから大人しくしてくれ。猪頭」

「お前いい奴だな! 子分にしてやる! 俺様のことは親分と呼べ、いいな!」

「はいはい、親分」

 

 一通りわちゃわちゃした後、ようやく真剣な雰囲気になる。

 

「赫灼の男児」

「はい! 竈門(かまど) 炭治郎(たんじろう)です!」

「ああ、そう。日向 旭だ」

 

 はきはきとした応答に煉獄の姿が重なったが、すぐさま消去する。

 

「で、君は誰から聞いた。柱の誰だ、それともお館様か」

「? 何の話ですか?」

「は?」

 

 炭治郎が本当に不思議そうに見つめてくるため、旭の眉間に皺が寄る。

 

「……じゃあ、何故初対面で私が鬼舞辻 無惨だと?」

「……はい?」

「え」

「お」

「ん?」

 

 旭以外の全員が固まり、直後戦闘態勢に入った。

 

「鬼舞辻 無惨って鬼の大将でしょ!? 頂点でしょ!? いやーーーー!! なんっで鬼殺隊にいるんだよぉ!? なんで誰も気づいてないの!? 獪岳も獪岳で馬鹿すぎない!?」

「こいつ倒せばいいのか!? 首を斬りゃあいいんだな!?」

「ま、まさか本当にあの鬼舞辻 無惨なのか……!?」

「匂いがなんとなく似ている気がしたからもしかしたらと思ったけど……! いやでも、この人は……」

 

 善逸は刀を構えてガタガタ震えながら一番後ろに下がり、伊之助は鼻息荒くして両手に刃溢れが酷い刀を。玄弥は片手に銃を、炭治郎は半信半疑のように刀を構えている。

 それを見て旭は頭を抱えて待ったをかける。

 どうやら誤解しているようだ。今の言い方では彼女が鬼舞辻 無惨だとも聞こえてしまう。

 

「あー、待て待て。今のは私の言い方が悪かった」

「問答無用だこのボケカスがぁぁぁあ!! その首叩き斬ってやる!!」

「待て伊之助!」

「ああん!?」

 

 伊之助は叫び散らしながら刀を振り上げた。炭治郎が止めれば不満そうに叫ぶ。

 

「なんで止めるんだ炭治郎! こいつが鬼の中で一番偉いやつなんだろ!?」

「この人は違うんだ! 俺は鬼舞辻に会ってるから分かる! この人からは鬼舞辻の匂いが、何よりも血の匂いがしない!」

 

 炭治郎は他者と比べて鼻が利く。そのうえ、鬼舞辻と1度遭遇している。

 彼女が鬼舞辻本人だとは思っていなかった。

 

「じゃあなんで鬼舞辻だっつったんだ!?」

「髪質と目と雰囲気がちょっと似ていた!! 誤解させてすまない!!」

「癖っ毛なんだ。ほっとけ」

「すいません!!」

 

 ゴツン、と机に頭を叩きつけるほど頭を下げて非礼を詫びる炭治郎に、旭はため息を吐いた。そのため息をどう捉えたのか、炭治郎は冷や汗をだらだら溢して顔を青ざめながら謝った。

 

「嫌……でしたよね! そりゃそうですよね!? すいません! 本っ当に申し訳ない! いくら似ているとはいえ鬼を作り出す元凶と似ているなんて……!」

「いや、むしろ似てて当然だと思う」

「……へ?」

「血の繋がりがあるからな」

 

 あっけらかんと告げる旭に、再び旭以外の全員が固まる。

 

「………それは、どういう」

 

 なんとか言葉を絞り出した炭治郎に、旭はどこか自嘲気味に口を開いた。

 

 

「鬼舞辻 無惨は私の父であり、私は鬼舞辻 無惨の娘なんだ」

 

 

 どうだ、気持ち悪いだろう。

 そう言って旭は笑った。

 

「少し……私の話をしようか。首を斬りたいと言うのなら別に避けもしないし、話を聞きたくないと言うのなら帰ればいいし」

 

 4人は顔を見合わせると元の位置に座った。

 

 

 

*****

 

 

 

 先程とは違う、どこか神妙な雰囲気。もう誰も騒いではいない。あの伊之助も大人しく座っていた。旭は口を開いた。

 

「さっきも言ったけど、私は鬼舞辻 無惨の娘だ。鬼と人間の女から産まれた子供」

「でも……鬼ってそもそも子供は作れるんですか?」

「体組織は違うだろうが、元々鬼は人なんだから作ろうと思えば作れるんじゃないか? しかも、鬼を作り出すことができる鬼舞辻 無惨が父親だからねぇ。他の鬼とは根本的に違うだろうし」

 

 鬼とは元人間。それを考えればあり得ない話ではない。にわかに信じがたいが、それでも目の前にはその“事実”が存在している。

 

「えっと……じゃあ、日向さんは……人間、なんですか?」

 

 手を挙げておそるおそる質問するのは善逸。

 

「……いや」

「ひっ、やっぱり鬼!?」

「それがどちらとも言えないんだ」

 

 旭は怠そうにため息を吐く。

 

「精液は血液から出来ているというのは知ってるか?」

「んグっ」

「うん?」

「あ、気にしないでください。ウブなだけなんで」

 

 玄弥が空気を喉につっかえさせた。善逸がさりげなく話を進めるように促した。

 

「……まあ、簡潔に言うとだ。鬼の血を継いでいることには変わりないんだ。そのせいで五感は他者より優れているし体の再生力や身体能力も並外れている。欠損や内臓破裂も時間が経てば元通りに戻る。でも……だからと言って、人肉や血を好むかと言えば食べないし、日光に当たっても死にはしない」

「……だから、鬼とも人とも取れないって」

「そういうこと」

 

 鬼と人の間の、中途半端な生き物。

 鬼かと問われれば違うと言える。かといって、人間かと問われても違うと言える。

 

「しかも、鬼舞辻の血を引いてるせいで鬼には狙われやすいし……知ってるかい? 強い鬼ほど鬼舞辻の血を多く体に含んでいる。つまり、体の半分は鬼舞辻の血である私を一囓りでも鬼にされたら……」

「鬼がすげぇ強くなるってことか!」

 

 なんとも面倒な体質を持ってしまったものだ。稀血の中でも更に特殊な稀血。しかも、鬼舞辻の血を継いでいるせいで1滴でも鬼に血を渡せば増強させてしまう。

 

「だからこうして鬼殺隊に入って自己防衛してるって訳なんだけども……お館様から“鬼柱(おにばしら)”なんて仰々しい称号というか地位まで頂いて……申し訳なさしかない」

「? それの何がいけないんですか? お館様ですから不公平なことはしていないと思いますけど」

 

 平等公平、慈愛の権化とも呼べるお館様こと産屋敷(うぶやしき) 輝哉(かがや)。そのカリスマ性や人を纏める才能は群を抜いている。

 炭治郎にはお館様は鬼である禰豆子を公に認めてもらった恩がある。そんな心が広く寛容な彼が「鬼舞辻 無惨の血を引いているから」と言って、旭を差別するとは思わなかった。

 

「……実力があることは証明できようが、私が鬼舞辻の傘下ではないという証明は出来ないだろう」

「……あ」

「鬼舞辻が自分の血を引いた人間の子供を使って鬼滅隊を壊滅させようとしていたらどうする? もしくは内部偵察をしているとか、だ」

 

 それもまた、有り得る話だ。零とは言い切れない。

 旭は嗤う。自らを嘲るように。

 

「鬼舞辻の娘だからと首を斬られても文句は言わないし恨まない。そもそも人間を恨むような立場ではない。私の存在自体が罪。償うにはより多くの鬼を斬り、人間から罵倒を浴びるくらいだろうし。私のような人間擬きが人間に認められているということが、奇跡に等しい」

 

 しかし、炭治郎達は何故かそれを否定した。

 

「そんなことないです! だってあなたは嘘の匂いがしない! 鬼舞辻みたいな嫌な匂いはしない!」

「誠実な音がするし……それに、鬼舞辻に従うならそんな優しい音はさせてないと思い……ます」

「お前はなんか嫌じゃねぇし、お前は俺様の子分だろうが!」

「お前だけ趣旨ずれてんだろ。そこはこの人が裏切らないから大丈夫だ、でいいんだよ」

「だから、大丈夫です! 信じます! あなたが頑張ったから柱として認められたんでしょう? それを否定しないでください。悪いのは鬼舞辻なんだから!」

 

 匂いで、音で、感覚で……。何より、彼女は鬼舞辻の間者だとは思えなかった。

 初対面で鬼舞辻と間違えた炭治郎を殴り飛ばすほどには憎悪していることは分かる。鬼舞辻の血を、鬼殺隊の憎悪と嫌悪の矛先である鬼舞辻の血を引いている自分を侮蔑していることは分かる。

 4人が“人間”だからと尊重して、丁寧に扱ってくれる所に彼女の優しさを感じたのだ。鬼舞辻の配下であるわけがない。

 一方で旭はぽかんとしていた。ぱちぱち、と2度瞬きするとぎこちなく頷いた。

 

「……そこまで人間の君達に言ってもらえると非常に光栄だが、信用されても困る」

「どうしてですか?」

「私が鬼舞辻の血族だから」

「だからそれは……」

「まあ聞け、赫灼の男児」

「炭治郎です!」

 

 炭治郎が不服そうな顔をしているのを見て、旭は息を吐いた。

 

「君達の言い分も分からないではないが、鬼舞辻は仮にも鬼の大将なんだ。私自身も用心しなければならない」

 

 いくら鬼舞辻の配下ではないとはいえ、血を継いでいるのは事実。自身の知らない所で、彼の掌の上で遊ばれているかもしれない、と危惧するのは悪いことではない。

 

糞親父(きぶつじ)の血は鬼を作り出す元凶そのもの。その血を継ぐ私にどのような呪いがかけられているか分からない。私の行動や言動が鬼殺隊全体の命に関わることになるかもしれない」

 

 だからこそ慎重に、できる限り己のことを知っていかなければならない。

 

「だから、私は柱であっても柱合会議でお館様の屋敷には絶対行かないし、自ら柱だと言い広めるつもりもない」

「なんでお館様の屋敷に行かないんですか?」

「鬼舞辻が何らかの血鬼術で私の位置を把握していたら困るだろうが。私に何かしら仕込んであったらどうする。責任が取れないだろう」

 

 ごもっともである。

 鬼舞辻の呪いを目の前で見たことがある炭治郎は生唾を飲み込んだ。

 旭は何度目かも分からないため息を吐いた。

 

「それでも私に関わってくる阿呆がいるから困るんだが……」

「?」

「ああ、いや……こっちの話だ。気にするな」

 

 はあ、と再び息を吐いて旭はぬるくなった茶を飲んだ。

 

「つまらない話を聞いてもらってすまない。そろそろ帰らないと日が沈む」

「え? あ、本当だ!」

 

 旭が外を見れば夕焼けが目に映る。思っていたよりも時間が経つのが早かった。

 彼女は「玄関まで送ろう」と立ち上がった。

 

 

 

*****

 

 

 

「道は分かるか?」

「はい! お菓子までくださってありがとうございます!」

 

 炭治郎が代表して感謝を述べた。

 1人1つずつ金平糖の入った袋を渡したのだ。

 

「日向さん、甘いものが好きなんですねぇ! 今度一緒においしい甘味処行きません?」

「ビー玉女! 次は必ず勝ってやるからな! 覚えとけ!」

「考えとくよ。ああ、それと……風呂敷くん」

「! ……何ですか」

 

 旭は顔をだるだるに緩ませている善逸と人差し指を立てて宣言する伊之助を見た後、玄弥に目を向けた。

 もう“風呂敷くん”で固定されているのだろうか。旭は少し微笑んで告げる。

 

「継子の件、その気になったら来なよ」

「へ?」

 

 玄弥は少しの間ぽかんとしていたが、慌てて口を開く。

 

「で、でも俺、その……呼吸が使えなくて」

「ああ、そうなの」

「っ……」

 

 どこか驚いたような旭の相槌に唇を噛み締める玄弥。しかし、次の言葉に衝撃を受けた。

 

「まあ、大丈夫だろ」

「……はい?」

「私が扱うのは鬼の呼吸。私が、私による、私のための呼吸法」

 

 旭は淡々と言う。

 

「君は鬼喰いをしているなら、鬼の状態で使える(・・・・・・・・)()を作ればいいだけで、別に呼吸が使えずとも問題ないと思う」

 

 目をぱちくりさせていた玄弥をしっかりと見据えて言う旭。彼にはどうやらそんな発想は無かったらしい。

 鬼になることを前提で新たな流派を作る……旭だからこそ考えることができる、新たな道だった。

 

「お、俺でも使えるんですか!? その、鬼の呼吸ってやつ!」

「呼吸法は無理かもしれないけど、型なら教えられると思う。なんだったら君に合わせて作っても構わない」

「……」

「どうする?」

 

 考えたこともなかった。自身が、呼吸の才能のない自分が、呼吸を扱えるかもしれないということを。

 矛盾しているかもしれないが、その好機が今、目の前にぶら下がっている。ここで逃すようなことはしたくなかった。

 でも……。

 

「でも、その……悲鳴嶼さんが……」

 

 今までお世話になった悲鳴嶼のことが気にかかる。曲がりなりにも彼の弟子なのだ。真面目な玄弥が悩んでいると、旭はくっ、と吹き出した。

 

「なぁに、別に住み込みが決定している訳でも今すぐ決めろと言っている訳でもない。必ずしも1人の継子であれという隊律もない。悲鳴嶼さんと話し合って後日、稽古を受けるかどうか決めてもらって構わない」

「そ、そうですか……。分かりました」

 

 ほっ、と胸を撫で下ろす玄弥に炭治郎が笑顔が言った。

 

「やったな、玄弥! 修行、頑張るんだぞ!」

「え、あ……そ、そうだな……?」

「てんめぇふざけんな! こんな美女に手取り足取り教えてもらうなんて羨ましい! ずるい! 俺と獪岳入れ換えてもらいたい!!」

「なんだ? 良いことなのか?」

 

 わいわいと賑やかになる4人を慈愛のこもった目で見つめる旭。

 

「それじゃあ、失礼します!」

「また来ますね! 日向さぁぁん!」

「次はぜってぇ勝つからな!」

「ありがとうございました……」 

 

 4人が走り去っていくのを、旭は見つめた後屋敷へと戻る。獪岳が稽古場で待っているだろう。首や肩周りを回して、彼女はそこへと向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*****

 

 後日談、其の壱。

 

***

 

「日向ぁぁぁぁ!!」

「うおっ!?」

 

 ドギャッ!! という凄まじい音がして門が蹴り開けられた。衝撃で壊れてしまい、ギイギイと風に揺られて動いている。

 庭の掃除をしていた獪岳がぎょっとして箒の柄を握り潰した。……後で買いに行かなければ。

 現れたのはいつもに増して凶悪面をした風柱の不死川(しなずがわ) 実弥(さねみ)である。

 彼は血走った目で周りを見渡した後、獪岳を発見。彼へと近寄っていく。

 

「テメェ、あいつの継子だったなァ。あの馬鹿はどこにいる」

「……旭さんなら岩柱の所へ行きましたが」

「チィッ。どこかですれ違ったなあの腐れアマ。……邪魔したなァ」

 

 そう言うと、すぐさま消えた風柱。

 まさに局所的な嵐が過ぎ去ったごとくである。

 獪岳は壊れた門と箒を見つめて、ビキリと額に青筋を浮かべた。

 

「……後でしこたま請求してやる助平柱……!」

 

 師範を馬鹿にした風柱に、密かに殺意を抱いた獪岳であった。

 ちなみにこの後、実弥に追いかけ回されることを鬼柱は知らない。

 

 

 

*****

 

 後日談、其の弐。

 

***

 

「南無……。私の弟子が迷惑をかける……」

「別に」

「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」

(え、俺死ぬのか……?)

 

 岩柱の屋敷……と言うより、大きい小屋と言った方がしっくり来る場所にて。

 岩柱こと悲鳴嶼(ひめじま) 行冥(ぎょうめい)の眼前には2人の人物。

 1人は癖のある捻れた黒髪の女、鬼柱こと日向 旭。

 そして、両側頭部を刈り込んだ特徴的な髪型をした青少年、不死川 玄弥である。

 

「じゃあ、これからは私が岩柱邸に来た時に稽古をつけるということでよろしいか?」

「問題ない……」

 

 玄弥は旭の継子になることを決意。しかし、悲鳴嶼にも恩があるため、それを返すためにも岩柱邸から通うことにした。

 ……のだが、鬼舞辻や他の鬼に己の位置を悟らせないために旭の屋敷は複数あり、色々と面倒だった。

 そのため、旭が岩柱邸に赴き、訓練をするという方向に収まったのだった。

 

「すいません、俺の都合に合わせてもらって……」

「子供は大人に面倒をかけるもんだし、風呂敷くんが気にすることはない」

「旭、そろそろ名前で呼んでやれ……」

「んあ?」

 

 旭は初対面の人を名前で呼ばず、特徴や第一印象で決める癖があった。本人がそう呼んでくれと頼めば、勿論名前で呼ぶが。

 

「……呼んでいいのかい?」

「あっ……は、はい。そっちの方がいい、です」

 

 何よりかは、とは言わない。

 

「玄弥」

「んン"っ…!(胸を押さえる)」

「……玄弥? どうした」

「い、いえ、気にしないで、ください……」

 

 思ったよりも破壊力抜群だった。

 名前呼びは思春期には少し早かったのかもしれない。



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3話「風につきまとわれまして」

 鬼柱こと日向(ひなた) (あさひ)には苦手な者が3人いた。いや、苦手な者は数多く存在するが、その中でも特に拍車がかかっている者達だ。

 

 1人目は炎柱・煉獄(れんごく) 杏寿郎(きょうじゅろう)

 どこまでも熱く、情も深い人間だ。炎の鬣を連想させる癖のある長髪に、髪と同じ色の瞳。はきはきと喋り真面目で誰よりも人という生き物を愛している男。自身が恵まれている、天賦の才を持つと自覚しており、かといって意気揚々とそれを自慢するわけでもなく、他者を守ることを責務としている。時折どこを見ているのか分からないのが傷だが。

 そこまでは良いのだが、この男はとにかく真っ直ぐで声が大きい、というのが旭の悩みだった。何故か彼に好かれてしまった旭は「夫婦になってくれ!」と常日頃……いや、顔を合わせる度に1度は必ず求婚されていた。しかも、声が大きいうえに場所を考えないため、町中ならば周りから生暖かい目で見られ、任務中ならば隊士達に目を剥くほど驚かれる。いたたまれない。

 そういうわけで、彼のことが苦手だった。

 

 2人目は音柱・宇随(うずい) 天元(てんげん)

 自称、派手を司る祭りの神。そう豪語しているほどには容姿も本人が扱う呼吸も派手である。左目の周囲には梅なのか花火なのか分からない紋様の化粧をしており、宝石のついた額当てや飾りが煌めいている。身長は6尺越え、筋肉質で恵まれた体格をしていた。元は忍の家系であり、そこから抜け出し、鬼殺隊へと入隊したという少し変わった経歴を持つ。その忍の風習か3人の嫁がおり、仲は良い様子。その辺から、宇随本人の器の広さが伝わってくる。

 しかし、この宇随、既に嫁がいるというのに旭にまで手を出しかけていた。この男にもいつの間にか好かれていて、「4人目の嫁に来い! 派手にな!」と強烈な求愛を受けていた。既婚者の癖に何故娶ろうとするのか。意味が分からない。しかも、手口が煉獄とは違い、隙あらば簪やら着物やらと貢いでくる。じんわりと外堀を埋められていっている気がするのは旭の勘違いだろうか。

 そういうわけで、彼のことも苦手だった。

 

 3人目は風柱・不死川(しなずがわ) 実弥(さねみ)

 顔や体に無数の傷痕がある鬼への殺意が高い男だ。白銀の髪に血走った三白眼の瞳、絵に描いたような凶悪面をしている。言動は「理性も知性も無い」と某赫灼の男児が評価しており、実際彼の粗野な部分は柱の中でも特に目立つ。幼少時、鬼殺隊に入らず鬼を殺しまくったという過去があり、その辺りのことは彼の兄弟子であり現在“隠”の粂野がよく知っている。

 彼は稀血の中でも特殊な血で、その血の匂いを嗅ぐだけで鬼は酩酊する。それは鬼の血を引く旭にもよく効き、近づくと目眩がして気持ちがふわふわと酔ってくるのだ。どんなに強い酒でも酔わないのに。そのため、いつも彼とは距離を開けて話す。

 それだけではない。旭は彼の服装が苦手だった。あの、体の上半身、その前をかっ開いているあの開放的な隊服が。そのせいで、筋肉質でどこか芸術的な胸筋から腹筋が見えている。それが旭の精神衛生上良くなかった。何度それを注意して刀を抜くまでになったのか数えきれない。言うならば玄弥の女版である。症状は玄弥よりも軽いが。

 この人だけ苦手の種類が違うが、苦手だった。

 

 今回の話は、この最後の不死川に関するものである。

 

 

 

*****

 

 

 

「はい、あーん」

「あ、あー……」

 

 旭は目の前の美女の声に合わせて口を開く。少しの間、そうして口内を診られた後、ようやく顎を掴んでいた手が離れた。

 

「はい、もう治ってるみたいですねぇ。良かったです。退院ですよ」

「……どうも」

 

 目の前でにこにこと笑っている美女に気まずそうな目を逸らす旭。

 途端に、ぐいと両頬を両手で挟まれて無理矢理顔を合わせられる。

 

「!?」

「あらぁ? どうして顔を逸らすんですかぁ? 何か後ろめたいことでもあるんですか?」

「ぬぐ……」

 

 毛先が紫色めいた髪、それを蝶の髪飾りで1つに結えている女性が視界に映る。顔こそ笑顔だが、額には青筋が浮かんでいる。

 蟲柱・胡蝶(こちょう) しのぶ。

 元花柱である胡蝶 カナエの妹であり、現在旭が来ている蝶屋敷の主人である。

 

「骨折に打撲、筋肉も過負荷によってずたずたに千切れてしまって右腕なんて全く動かないのに「問題ないから気にするな」なぁんて……あなた馬鹿なんですか? 3週間徹夜で怪我の手当てもせずに鬼を狩り続けるなんてあり得ませんよ? 自分の体の限界分かってないんですか?」

「……別に、体が壊れたところでどうせ治るんだし」

「なんですって?」

「……ごめんなさい」

「許しません」

(じゃあどうしろと)

 

 旭は基本的に無茶をする人間だ。己の体の限界をあっさりと越えて動こうとする。言うところの、「精神に身体が追いついていない」というやつだ。なまじ再生力が桁外れのため、全て治ってしまうのだが。そのため、治療が必要な重症であっても、最短で数時間、最長で数日あれば全て元通りである。

 ちなみに今回はあまりに惨状過ぎて粂野などの“隠”の独断で蝶屋敷へと連行されてしまった。疲労と眠気が急激に襲ってきたのか、怪我が治っている最中は穏やかな寝息をたてて昏睡していたらしい。3週間も眠らずに命のやり取りをしていたのだ。当然とも言えるだろう。それでも2日で全快。目を覚まして身を起こした瞬間、しのぶの鉄拳が頭頂部に落ちたのだった。

 しのぶはため息を吐いて旭の頬から手を離す。

 

「あなたの体質が特殊なのは理解していますが……私も医者なのです。怪我をしたのなら頼ってください。いくら全て治るとはいえ、治癒中の痛みまで無くなるわけではないでしょう?」

「だから、ここには来たくないんだが」

 

 旭はため息を吐いた。

 確かに怪我は全て治る。しかし、その代償というものなのか、怪我が治っている最中、その部位に凄まじい痛みが走るのだ。鬼とも人とも言えない中途半端な肉体だからだろうか。傷の度合いに応じて痛みも更に酷くなる。ただの掠り傷ならピシッ、という程度の痛みで済むのだが、臓器破裂や骨折、欠損などは地獄の苦しみだった。治るまで続くその痛みに気が狂いそうになる。

 しかし、それを全て耐え抜いた先に、完全な体が待っているのだ。痛みが対価ならば安いものだった。

 

「激痛で悍ましい悲鳴を喚き散らす輩が屋敷に居ると迷惑極まりないだろう」

「鎮痛薬くらいは出せますけど」

「私なんかには勿体無い代物だ」

「そういうところですよ、旭さん」

 

 旭は自身の身を軽んじる傾向がある。だから無理もするし、体が壊れてもお構いなしだ。蝶屋敷に来ないのもおそらく彼女ら並びに怪我人達の邪魔になる、という配慮という名の遠慮によるものだ。

 自分のような人間擬きが人の世話になるわけにはいかない。

 自分が弱かったから怪我を負ったのだ。

 どうせ全て治るのだから、厄介になる必要はない。

 自分には勿体無い。薬や包帯、寝床が無駄になる。

 そういう考えがあるから、旭は蝶屋敷には自主的に行こうとは思っていなかった。

 そういう自虐的な一面をしのぶは指摘したのだが、旭には全く分からなかったようだ。現に首をかしげて眉を寄せている。

 しのぶはまたため息を吐いて、それでも微笑んだ。

 

「姉さんにも会っていってくださいね。最近は「旭さん不足で動けないの」なんて言ってますからね。お茶でも飲んで、談話して頂けると大変嬉しいのですが」

「……分かった」

 

 なら早速、と旭が重い腰をあげる。直後、固まった。しのぶが不思議そうに首をかしげている間も、旭はすん、と匂いを嗅いだ。

 

「……どうなさいました?」

「悪い。後日蝶屋敷に今回の世話になった分の礼を持って1日ここで過ごすから今は見逃してくれ頼む」

「? ええ、構いませんが」

「失礼」

 

 しのぶの了承と同時に旭は窓を開けて飛び降りた。どうして窓から、と首をかしげた直後、部屋の扉がスパァァン!と音を立てて乱雑に開かれた。

 部屋に入ってきた人物を見て、何故旭が焦って出ていったのか理解した。

 

「胡蝶! あの馬鹿女はどこに行きやがった!」

「こんにちは、不死川さん。旭さんなら今、そこの窓から飛び出ていきましたよ」

「あんのクソアマァァ……! 上等だァ、地の果てまで追いかけてやる……!」

 

 何やら物騒な言葉を呟きながら、その男は旭の飛び降りた窓から飛び降りていった。

 それを見ながら、しのぶはくすくすと上品に口元を押さえて笑った。

 

「旭さんは愛され者ですねぇ」

 

 孤独を好み、しかし他人を誑かし集めてしまう、良い意味での悪女。

 彼女の苦労を思いながら、しのぶはカナエに旭の言っていたことを伝えようと腰を上げた。

 

 

 

*****

 

 

 

 一方で旭は捕まれば死ぬ鬼ごっこをしていた。

 

「待てや日向テメェェェェェェ!!」

「馬鹿かお前、足止めたら殺すだろ」

「じゃあ殺さねぇから止まれェ!」

「目が逝ってる奴の言うことが信じられるか、嘘つきめ」

「テメェほんと良い度胸してるぜェ! 殺す!」

「ほら殺すって言ってるだろうが」

 

 揚げ足を取りつつ、旭は全集中の呼吸を継続。更に足に力を込め、一気に解き放つ。ぐん、と全身に当たる風は強くなる。

 追いかけられているため匂いは分からないが、聴覚や触覚である程度分かる。実弥の静かすぎて分かりにくい足音はまだ聞こえてくるし、びしびしと殺気めいた視線や気配が後頭部と背中に突き刺さってくる。

 まだついてくるか、と旭は眉を寄せた。いつもなら速度を上げれば諦めるのだが……。

 屋根やら裏通りやら走っているため、一般人の動体視力では彼らの姿は捉えることができないだろう。

 超高速の鬼ごっこ。いつもは実弥が諦めるのだが……今回は旭が根負けした。

 人気(ひとけ)のない通りでゆっくりと速度を落とすと、実弥はこれ幸いとばかりに速度を上げて旭の背中に飛びついた。腕を背中から前へと手を回して、羽交い締めにする。

 

「っ、うお」

「やぁぁっと捕まえたぞ、日向ァ。手間取らせやがって……」

「ちょ、待て馬鹿。なんだ、寄るな、どういうつもり……は? は?? はぁぁ???」

「テメェちょっと面貸せェ」

「う、ぷ……待て、酔う」

「おォ、存分に酔えやわかめ頭ァ」

 

 珍しく混乱している旭。

 当然だろう。いつもなら一定距離を開けて話している相手だ。実弥も彼女の体質を知っているため、よほどのことがない限り自分から近づこうとはしない。隊服の件は別として。

 だというのに、実弥は旭に抱きついて羽交い締めにしてずるずると引きずっている。つまり、何か余程のことがあったのだろう。旭には全く分からないのだが。

 実弥の無駄に高い体温やら妙に生々しい肌やら頭がふわふわする匂いやら……旭は顔を紅潮させ、必死に両足に力を入れた。

 

「し、不死川……話は聞く。聞くから、離れろ」

「断る」

「っ……酔ってちゃ、話が、できないだろう」

「断る」

「し、しな、ずがわぁ……」

「断る」

 

 本格的に酔いが回ってきたのか、舌が回らず目に涙が溜まっていく。視界が歪んで目眩がした。ぼんやりとする思考の中で、ただ「しなずがわ。しなずがわ」と意味もなく舌ったらずな口調で彼を呼ぶと、ため息が上から降ってきた。

 

「テメェは本当……他の男にそのだらしねェ面で名前呼ぶんじゃねぇぞォ」

 

 「喰われっからなァ」とどこか遠いところから声がした。ぼんやりとそれを聞いて考えながら、また、彼の名前を呼ぶ。

 

「……おまえいがいで、みせたこと、ない。よわない、から。だから、ちか、ぉり…た、な……のに……」

 

 ぽしょぽしょと蚊の鳴くような声で呟いた旭に急激な眠気が襲う。そのままぐっすり眠り込んでしまった。

 実弥はというと、珍しく目を見開いて腕の中の同僚を見ていた。そして、シィィィ、と独特な深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。

 

「……っんとに、この馬鹿女は……」

 

 ひょいと旭を担ぎ上げる。横抱きではなく、肩に担ぎ上げた。

 何故ここまで執拗に追いかけたのか、と問われれば……まずは実弟の玄弥の継子関連で話をしたかった、というのが1番に挙げられる。彼本人はまだ、玄弥が鬼殺隊に入ったことを認めていない。常に危険が伴う鬼殺隊に、最後に生き残った唯一の家族が入隊するなど悪夢のようだった。しかし、その家族がまさか鬼柱の継子になると聞いてどこか安心したのだ。奇妙な安心感だった。きっと彼女ならば、人を守ることに執着した彼女ならば玄弥を死なせはしないだろうと何故かそう思ったのだ。……でもやっぱり、大事な弟が世話になる訳で、心配になる訳で……。それで旭と話をしようと思ったのだ。

 だが、急ぐことでもない。いつか合同任務でもある時にさりげなく聞こうと思っていた。しかしそこで、彼女が重症で蝶屋敷に運ばれたと聞いたのだ。しかも、3週間徹夜……自然と頭を抱えてしまう。柱でもそこまでやる者は居ないだろう。それをなんなくこなせるのは常人離れした体質を持つ旭くらいだ。だとしても昏睡するまで働くか?普通。だから、その報告を聞いた後、速攻で任務を終わらせ、蝶屋敷へと直行したのだ。

 

 テメェはちょっと働き過ぎだから酔って眠れェ。話はその後だ。

 

 というのが鬼ごっこの鬼役、実弥の内情だった。面倒見がいい。意外な長男力を発揮していた。

 とはいえ、まさかここまで全力で避けられるとは思っていなかったが。

 

(……近くに藤の花の家はあったかァ?)

 

 とりあえず、この女を横にさせる場所を探さなければ。

 そう思って足に力を入れると、頭上から鴉の鳴き声が聞こえてきた。

 

「伝令ェエ! 伝令ェエ! 風柱ァァ、ソノママ旭ヲ連レテ任務ヘ向カエェェエ! 合同任務デアル! 合同任務デアルゥゥウ!」

 

 旭の鎹鴉(かすがいがらす)である。

 

「手ェ出シタラオ館様ニ言イツケテヤルカラナァ! スケベ柱ァ! カアアッ!」

(わかめ頭は鴉にまで好かれてやがんのか、クソがァ……)

 

 ギャーギャーと口煩く喚き散らす鎹鴉を鬱陶しそうに一瞥した後、「さっさと案内しろォ」と切り替える。

 鴉に言われるまでもない。恋仲でもない女に手を出すなど論外である。

 

 

 

*****

 

 

 

 甘い匂いがした。脳の奥まで、体の髄までどろどろに溶かすような匂いが。

 ぼんやりとしつつも覚醒した意識、眠気で重い頭。

 僅かに開かれた瞳には天井が映ったが、すぐに寝返りをうって温かい布団の中に潜り込んだ。

 

(……ん? 布団?)

 

 跳び上がるように上体を起こせば、いつもの見慣れた自室ではない。それを理解した瞬間一気に意識が覚醒する。

 

「……藤の家紋の家」

 

 ふわりと香るこの藤の匂い……おそらく間違いないだろう。

 気が抜けかけるが、すぐさま引き締める。どうして藤の花の家に居るのか分からなかったのだ。

 

(……不死川と全力の鬼ごっこをして、彼に捕まって引きずられたのは覚えているが……)

「おい、何ボーッとしてやがる。大丈夫か。水でも飲めェ」

「ああ、悪い、不死川。……不死川?」

「あァ?」

 

 自然と渡された湯呑みを受け取って、そこではたと気づき硬直した。隣に目を向ければ目をぱちくりとさせた実弥の姿があった。勿論、前が全開の肌色の胸筋も共に視界に……。

 

「不死川ぁぁぁあ!!!」

「ごぶっ!?」

 

 瞬時に渡された湯呑みを投げつけようとして他人の家の備品だと即座に判断。その結果、湯呑みに注がれていた水が実弥の顔に直撃した。

 

「準備ができました……あ」

 

 そこへ丁度良くやって来たのは黒装束に目元以外の顔を隠した男……“隠”である。

 彼は障子を開けて廊下側からひょこりと顔を出し、部屋の中を見る。そして、察する。

 

 あ、また始まった……と。

 

 旭は顔どころか耳まで赤くしてわなわな唇を震わせていた。湯呑みを畳に叩きつけるように置いたのは湯呑みを握り潰さないようにする配慮からである。

 一方、冷水を顔に叩きつけられた実弥は水気を乱暴に手で拭い、口に入った水をべっ、と吐き出した。顔中に血管が浮かび上がっている。

 

「テメェ……!!」

「おっ前……お前なぁ!! 近寄るなっていつもっ、いっっつも言ってるだろうが!! あと前閉めろ! 変態! 助平!! 破廉恥!!!」

「うるせェ!! ずっとこの格好だろうが!! いい加減慣れやがれ年上の癖に!! いつまで純情ぶってんだ馬鹿女!!」

「関係あるかボケェ!! 稀血のうえにそんな色気ある格好される方が困るんだよ!! お前いい加減自分が男前だと気づけ!? 自覚しろ頼むから!! 頼むから!!!」

「褒めてんのか貶してんのかどっちだァ!!」

「どちらかと言えば褒めてるが何かぁ!?」

「おォそりゃどうもォ!!」

「どういたしましてぇ!!」

 

 

 なんだこれは。痴話喧嘩か。

 

 

 端から見ればそんな会話である。 

 2人が顔を合わせれば、高確率でこうなるのだ。

 隠の男は苦笑いしながら仲裁に入った。

 

「実弥、旭さん。そろそろ喧嘩もやめにしたら?」

「「あ"ア"?」」

(この2人似てきたな……)

 

 顔面凶器の実弥と怒りと羞恥で紅潮している旭が、目を血走らせ額に青筋を立ててその隠を見た。

 他の隠であれば気絶もしくは即座に回れ右して逃亡する威力が備わっていたが、この男には通じなかったようだ。

 仏のごとく目元を和らげ、当然のように2人を宥めた。

 

「実弥はまず顔を拭いて。頭が冷えて風邪にでもなったら嫌だろ?」

「風邪なんか引くかよォ」

「これから任務なんだから、念のため。ほら」

「……ちっ」

「旭さんも寝起きにすいません。これから状況を説明しますので、落ち着いて話を聞いてくれませんか?」

「……君、粂野か」

「はい」

 

 にこー、と微笑みながら実弥に手拭いを渡すのは粂野(くめの) 匡近(まさちか)という男だった。

 柱を恐れないという“隠”でも稀有で有望な人材である。隠の中でも物怖じしない粂野を英雄のごとく崇め奉る者も居るほどだ。

 粂野はどこから取り出したのか、急須で湯呑みに茶を注ぎ、ずいと旭に差し出した。

 

「お茶です」

「……どうも」

 

 そろそろ粂野に“猛獣使い”という二つ名がつくかもしれない。

 

 

 

*****

 

 

 

「つまり、これから向かう町で鬼が出ると」

「はい」

「その鬼が恋仲の男女しか狙わない偏食な鬼であると」

「はい」

「だから、不死川と私で恋仲の振りをして鬼を炙り出す、と」

「はい。こちらが旭さんに着て頂く着物です」

 

 

「……別に私である必要ないのでは?」

「いいえ、これは旭さんでないといけません」 

 

 

 旭は嫌そうな顔で粂野から着物を受け取った。

 

「……私に対する嫌がらせかい?」

「違いますよ。あなたはどうしてそう……発想が暗いんですか?」

 

 そこまで拒絶反応を出すとは何事だろうか。粂野は勿論困り顔だが、実弥も舌打ちをしている。

 それを見て旭は少し苦い顔で言う。

 

「不死川に不服がある訳ではない。不死川も女性から見ても色気があって魅力的だし、傷痕もそこまで卑下するほどのものではない。むしろ他者を守った証拠であり誇ってもいいものだと思う。……出来ればその色気をもう少し押さえて隊服の前を閉めて頂きたいが」

「最後の言葉で全部台無しだわ。どっちが変態だァ」

「黙れ助平柱。私は決してその隊服は認めない。断じて」

「はいはい。押さえて押さえて」

 

 一々話が脱線する。粂野に苦労が絶えない。

 旭は実弥と睨み合いながら言葉を続ける。

 

「……だが、お互いの体質などを考えると任務遂行は少々難しいのでは、と言いたい」

 

 実弥は稀血で、その中でも珍しい“鬼を酩酊させる”血の持ち主。

 対して旭は鬼を作り出す鬼舞辻の娘で、鬼と似た体質を持っている。

 先程の鬼ごっこ後のように、彼の稀血の匂いで否応なく酔ってしまうのだ。

 それでは任務にならないだろう、と旭は言いたいのだ。

 

「それに、私の刀は一般が使うものと違ってかなり大きいから隠せないし」

 

 旭の扱う大刀は彼女の身長よりも少し大きい。いつも腰ではなく背中に背負っている刀は、彼女の背丈を越えて見えてしまう。

 

「……第一」

「第一?」

「……下手に同僚と遭遇して誤解されては不死川が困るだろう」

「いや……むしろ万々歳だと思いますけど」

「は?」

「匡近、お前後で正座な」

 

 まさかの返しに旭は眉を寄せて、実弥はピキピキと青筋を立てる。

 それをさらりと流して、粂野は言った。

 

「旭さん」

「なんだ」

「今回、旭さんはただ実弥との逢瀬を楽しめばいいんです」

「言い方どうにかならないか?」

「一週間ぶっ通しで鬼狩りをしましたよね」

「う"っ」

「仕事熱心なのは良いことですが、何も鬼殺隊も鬼じゃないんですから」

「その言い方も不謹慎では?」

「いいから聞いてください。人の揚げ足ばっかり取って」

 

 怒られて旭は苦虫を噛み潰したような苦い顔をして黙り込んだ。

 

「まずあなたに今回の任務で刀は持たせません」

「は?」

「お館様からの配慮です。旭さんのことだからこうでもしないと普通に休まないだろうと」

「そういうわけでもないんだが……」

「勿論、稀血同士というわけで囮としての意味もありますが……実弥と一緒じゃないと気が抜けないでしょう? 仮にも休暇なのに」

「もう任務じゃないよな。休暇って言ったよな」

 

 つまり、仕事をさせないように力を抜けさせるために実弥と一緒にいろ。刀を持たせない。鬼が出るまでは普通にお出かけを楽しめ。

 ……旭の自業自得である。

 旭も結局は着物を着るしかなかった。

 

 

 

*****

 

 

 

「……酔う。ほろ酔い気分が悪化する」

「お前いい加減慣れろォ」

「……大分、慣れた方だと思うが……」

 

 町中を歩く男女の姿。

 女はほんのりと頬を朱に染め、どこか拙い足取りで男の隣を歩いていた。

 男はその女を呆れた目で見ながら、ちゃっかり繋いでいる手に力を入れる。

 

「……うぷ」

「吐いたら殴るぞ」

「誰が吐くか。気持ち悪いだけだ」

 

 一応恋仲のつもりである、実弥と旭であった。

 

 実弥は薄緑色の着流しを。

 旭は花柄が控えめに散らされた着物に柘榴色の袴という出で立ちである。

 距離が近いのに旭が平気なのは、先程ぐっすり寝たお陰とその寝ている長い間に実弥の匂いを嗅いで多少の耐性をつけたからである。一応人間でもあるので、鼻が匂いに慣れて麻痺しているのだ。勿論、再生力が半端ないので酩酊の稀血の匂いはしているのだが、鬼ごっこ前と比べたらかなりマシな方だった。

 旭は少し重い体を引きずるように、怠そうに歩きながら呟いた。

 

「不死川はともかく、私の着物は誰が選んだ」

「知るかそんなもん。似合ってるならなんでもいいだろォ」

「お前がそう思ってるならいいが……」

「は?」

「本来ならば私が隣に居ても良いような殿方ではないだろう、不死川は。私がいくら着飾ろうが意味はないだろうし。……正直、今この状況も釣り合っているとも思えない」

「……な」

「難儀だなぁ、この役は。酔うし」

 

 ため息混じりに呟く旭に実弥の体が一瞬固まる。漏れた言葉はその一言だけだった。

 その反応に対して旭は怪訝そうに小首をかしげた。

 

「? 何を驚いている。事実だろうに」

「ばっ……テメェ……」

「相変わらず不死川は自己評価が低いな」

「それはテメェだろうがァ……」

「は?」

 

 実弥は顔を片手で覆って、旭から顔を背けた。

 旭は眉を寄せたが、彼の耳を見て察した。ついでに匂いや心臓の鼓動で。

 

「……意外だ。君でも照れることがあるんだな」

「見てんじゃねぇよ」

「あいてっ」

 

 パンッ、と後頭部を叩かれ、旭は反射的に声を漏らす。非難めいた目を実弥にへと向けるが、彼は鼻を鳴らしただけである。

 

「で、どこに行くんだァ?」

「は? こうしてぶらぶら歩いているだけでは駄目なのか?」

「それのどこが逢い引きなんだよ……」

 

 初心者の無計画の逢い引き。しかも、これが恋仲の振りであるため余計に分からない。こういう時に相応しい場所とは一体どこなのだろう。

 

「……食事とか? 甘露寺とはよく食事に行くが」

「あいつは食事の次元を越えてるだろォ……」

「だが、美味しそうに食べるから見ている分にはとても楽しい」

「……甘味処にするかァ」

 

 下手すれば同じ量食わせられるかもしれない。そんな変な危惧を感じた実弥はがしがしと頭を掻いて、旭と繋いだ手を引く。

 

「お前、欲しいものとかねぇのか」

「欲しいもの? ……包帯」

「お前……」

 

 どこかずれている旭に、やはり彼は呆れた目を向けた。

 そして、近場に甘味処はあっただろうか、と頭の中の地図を探った。

 

 

 

*****

 

 

 

 一時(ひととき)の逢瀬を楽しんだ(?)2人。

 結論から言おう。

 

「お前散財癖があったんだな……!」

「はァ?」

「無自覚か末恐ろしい……」

 

 実弥は一言で言うと“宇随型”だったのだ。

 

 逢い引きと言うことで、あちこちで小物や着物を見て回った。

 旭はただ見て回るだけでも充分楽しかった。店の者には冷やかしのようで悪いが、旭はあまり物を買うことが好きではない。己のような人擬きが綺麗なものを買い求めるなどあってはならない、という持論から食指はあまり伸びないのだ。

 しかし、実弥は違う。旭に似合いそうなものや旭が見ていたものを購入して旭に与えるという……旭からすればとんでもないことをしているのだ。

 元より柱の給料とは破格の上に彼はあまり散財しない方なのだから、散財癖というよりは貢ぎ癖と言った方が正しいと思うが、それはさておき。

 

「とりあえず簪はやめてくれ。店に返してこい」

「んなこと出来るかドアホ。良いから黙って受け取れ」

「男の意地やら二言は言わないやらを今だけ捨てろ。後で恥をかくのはお前だ」

「クソ真面目な顔で言ってるのがまた腹立つなァオイ」

 

 真顔で簪を持つ手を実弥へと押す旭。

 額に青筋を浮かべながらその簪を押し返す実弥。

 ちなみに単純な腕力勝負ならば旭の方が強い。彼女は鬼の血を引く者。悲鳴嶼程ではないが、怪力なのである。

 

「俺が良いって言ってんだ。いい加減受け取れ」

「断る。先程着物まで買っただろう。あんな高価なものだけでもやりすぎだというのに簪まで受け取れるか」

「買っちまったもんはしょうがねぇだろォ。テメェのために買ってやったんだ。俺がいいんだから受け取りやがれ。……それとも、受け取れねぇ理由でもあんのかァ?」

「………はぁぁぁ」

 

 旭は口から魂が出てきそうなほど深いため息を吐くと、渋々ながら簪を懐に入れた。

 

「不死川、女に小物を贈るなら着物はまだしも簪はやめておけ」

「はァ?」

「特に意中の女性でないなら尚更だ」

「なら問題ねぇな」

「……は?」

「何でもねぇよ」

 

 さらっととんでもないことを言われた気がする。

 追及しようとも考えたが、下手に近寄って酔うのも嫌だし、気にしていると思われるのも嫌だ。本人が何でもないと言うのならいいのだろう。そう自分に言い聞かせて旭は不死川と共に歩いた。

 

「それで……ここが例の?」

「ああ、鬼が出るって噂の茶屋らしいが……」

 

 2人して顔をしかめる。

 

「……今までの逢瀬の意味はあったか?」

「さてねェ」

 

 出合茶屋、と呼ばれるものがある。

 元は江戸時代によくあった、男女の密会や相談事などを行うことができる茶屋のことで、大正のこの時代では衰退傾向であり、あまり見かけることがない。

 なるほどこれなら、恋仲の男女が被害に遭う訳である。

 恋仲というよりは、両親に認められていない2人の秘密の逢瀬を狙われたのだろう。それなら行方不明になっても、関係がばれない限り「まさかこんな所に居るわけがない」と思われても仕方がないことである。

 旭は茶屋から匂ってくる香水や、聞こえてくる水音、湿り気を帯びた声などを感じ取り、一言呟く。

 

「……こういうのは私達ではなく宇随とその嫁がやることではないか?」

「俺も同じこと思った。奇遇だなァ」

「ここまで嬉しくない同意は初めてだ」

「腹括れェ。俺は括った」

 

 実弥がぐい、と腕を引くため、旭は嫌そうな顔を抑えて実弥の腕に抱きついた。

 

 

*****

 

 

 中に踏み入り、旭はまず顔を硬直させた。きつい香水の匂いがしたのだ。

 中に居たのは多数の見目麗しい男女と胡散臭い主人らしき男。おそらく娼婦なのだろう。かなり際どい格好をしている。

 新しい客に対して笑みを見せる。上から下まで舐め回すように見てくる茶屋の者達が何かを言う前に、実弥が主人らしき男に金を突き出した。

 

「部屋、空いてるかィ?」

 

 感情がこもっていない、所謂(いわゆる)棒読み的な言い方だった。

 かなり多めの金だと見て、男はえびす顔で頷いた。

 男が2階へ続く階段を見遣るのを見て、実弥と旭は階段へと歩を進める。周りから好奇めいた生暖かい視線が寄せられるが、それを全て無視して2人は部屋へと向かった。

 

「……先程の集団に居たな」

「だなァ」

 

 部屋に着くなり2人はどっと疲れた顔をした。

 何が居たのか、と問われれば、鬼が居た、としか答えられない。

 これでも長く鬼殺をしているのだ。感覚や気配で分かる。とは言え、あそこで抜刀すれば間違いなく警察沙汰になるため、平然を装ってこの部屋まで来たのだが。

 

「……酷い匂いがするし声が聞こえる」

「我慢しろォ。どこも似たようなもんだ」

 

 薄汚い部屋に残る前の使用者の淫臭、薄い壁越しの隣から聞こえてくる喘ぎ声、肌から感じる生温かいぞわぞわする空気……旭の気分が急降下している。五感が鋭いのが仇になっていた。今日ほど己の体質を恨んだ日は無いだろう。

 

「お陰で酔いがさめていいんだが……まさか生きている間にこんなところに来るとは思っていなかった。……しかも、同僚と」

「まぁなァ」

「……他の鬼殺隊士とかこの近辺に来ていないよな」

「気にしすぎだろォ。で、これからどうする」

 

 鬼が娼婦らしき集団の1人だと分かったのだ。さっさと終わらせて帰りたい、というのがお互いの一致である。

 

「刀も持っていないし、私が部屋から出ていこうか。不死川が1人になれば鬼も寄ってくるだろう。廊下の日の当たる場所にいれば鬼が来ないだろうし、そちらの方がお前も気を使わずに済むだろう」

「そうだなァ」

 

 即断即決。

 旭は立ち上がり、ふらりと部屋から出ていった。

 実弥の気配が遠のいていき、代わりに新しい気配を2つ感じ取った。その内の1つは先程、旭達が取った部屋の前で止まったから、おそらく鬼なのだろう。

 旭はそんなことを考えながら廊下の窓際でぼんやりと外を眺めた。

 まだ日が昇っているとはいえ、油断はできない。

 日陰から襲いかかってくる鬼もいるかもしれないのだ。先程感じたのは1体だけだったが、もしかしたら数体いるかもしれない。血鬼術で分裂する、なども考えられないわけではない。

 念のため普通の小刀を懐に忍ばせてはいるものの、所詮はただの小刀。頚を斬った所で意味はないのだ。精々(せいぜい)、彼が来るまでの時間稼ぎ程度である。

 

「こんにちは」

「!」

 

 声をかけられて、旭は懐に手を入れて振り返る。

 

「あれ、さっき入店した人ですよね? 一緒に居た男性はどこへ?」

 

 ……鬼ではない。

 日光が照るこの窓際に何の疑いもなく踏み入ったことが何よりの証拠である。懐に入れていた手を引き抜いて、旭はそっとため息を吐いた。

 

「色々と、事情があってな」

「ああ、この店の女でも買ったんですね」

(この店の連中はそれしか頭が回らないのか……)

 

 うんざりして、面倒だから無視する。

 しかし、その無言を肯定だと取ったのか、男は更に距離を詰めてきた。

 

「こんなに美しい女性と一緒に居て、他の女に目移りするなんて最低ですね」

「……」

「俺だったらあなたのこと、もっと大切にするのに……」

「……」

 

 遂には旭の隣に並んで、一緒に外を眺める形になる。それでも旭が無視していると、男は少し不機嫌そうな声を彼女の耳元(・・・・・)で囁いた。

 

「ねぇ、聞いてます?」

「っ、ひ」

 

 旭の体が硬直した。

 咄嗟に硬直したのが不幸中の幸い、男の顔面を砕く裏拳は出なかった。

 下手に殴ろうものなら傷害罪だ。相手は下心があろうが、ただ己の仕事を全うしようとしているだけである。理不尽な暴力を与えるわけにもいけない。というか、鬼殺隊である旭が彼を殴ろうものなら9割がた殺してしまう。冗談抜きで。

 代わりに小さな悲鳴が漏れ出たのを聞いた男が口元に三日月を浮かべながら、旭の腰を抱く。

 

「なんだ、聞こえているじゃないですか」

 

 どこかからかうようなその口調が気に入らない。大抵のことは許せる旭でも、こればかりは気に入らなかった。

 

「……おい、いい加減にしろ」

「あ、やっと喋ってくれた。嬉しいです」

「私はそんなことは望んでいない。さっさと別の女に構ってやったらどうだ」

 

 きっぱりと口に出して男を拒絶する。

 しかし、男は笑っただけで、腰から手を離そうとしない。むしろ腰に回した手をいやらしく這わせてくる。

 

「っおい、お前」

「ねぇ、お姉さん。俺を買ってくれません?」

「はあ?」

「どうせお姉さんの連れの人も1人で楽しんでいるんでしょう? だったらあなたも俺と遊んだ方が良いですって」

 

 男から妙な熱気を感じた旭は嫌悪感を(あらわ)にして近づいてくる男の顔から逃れた。

 

「断る」

「どうしてです? 俺、結構ウマイんですよ?」

 

 腰に回した手に力を入れて、旭と向かい合わせになる男。目が血走っており、荒い息を吐いている。それで背中やら腰やら臀部やらをまさぐってその気にさせようとしている辺りに旭は吐き気がした。

 そして、ふと男の後ろに目を向けてため息を吐く。

 

「今すぐ離れないとお前の腕と喉が使い物にならなくなるが、良いのか?」

「? ……はあ」

「……。それでも続けると言うのなら、覚悟してくれ」

「っ!」

 

 男の目を見据えて、旭はそう告げた。

 男は目を輝かせる。それはつまり、俺を買ってくれるということか、と。

 恋仲が居ようが居なかろうが男にとって対したことではなかった。己にとって重要なのは、目の前のこの“美味そうな女”を食えるか否かだった。どうせ一時の気の迷いなのだ。逆に楽しまなくてどうする。

 そんなある意味最低な思考を持つ、鼻息を荒くした男は首を縦に振る。

 

「勿論です! じゃあ早速……」

 

 

 

「言質は取ったからなァ……?」

 

 

 

 部屋に行きましょう、と言う前に、背後から身の毛もよだつ低い声が聞こえてきた。

 地を這うような恐ろしい声に男の体が硬直する。

 

 ゴキッ。

 バキッ。

 

 硬直した男の両腕が捻り上げられた。

 

 ゴチュッ。

 

 それに男が絶叫する前に、旭が男の声帯を潰す。

 

 的確に喉を突かれた男はあまりの激痛にぐるりと黒目を瞼に隠して意識を失った。

 ごとりと床に倒れた男を2人とも一瞥もしない。彼の背後に立っていた男はというと、旭を見て青筋を浮かべていた。

 

「テメェ何絡まれてんだ馬鹿女がァ」

「不可抗力だ」

「だとしてもちっとは抵抗しやがれェ!」

「いひゃい」

 

 怒り心頭の男……実弥は小声で怒鳴るという器用なことをしながら、旭の頬をぐにりと摘まんだ。

 そして、旭の服装に乱れが無いことを確認した後、苛立ちを(あらわ)にした舌打ちをしながら、実弥は「行くぞ」と彼女に背を向ける。

 茶屋を出る際、主人達から「もう出るんですか?」と不思議そうな目を向けられたが、知ったことか。こちらは殺ること殺ってきたのだ。文句は言わせない。

 

「鬼は?」

「お前が出ていった後に来た女がそうだった」

「そうか。あの男はどうする」

「隠がどうにかするだろォ」

「……。なら良いが」

「良くねぇだろ」

「なんなんだお前」

 

 茶屋を出てからずっと不機嫌そうな雰囲気の不死川に旭は首を傾ける。

 すると突然、不死川がギョロリといつもの倍血走った目で旭を見据えた。

 

「女が軽々しく男に体触れさせてんじゃねぇよ」

「は?」

「チッ」

 

 何度目かも分からない舌打ちをして、ずんずんと不死川は進んでいく。

 旭は眉を寄せてその意味を考えて……理解した。

 先程旭が男から迫られていた時、傍に居なくて守れなかったことを悔やんでいるのか、と。

 

「……そういうところだぞ、不死川」

「あ"?」

「鬼殺をしている以上、女という性は既に捨てているんだ。何もそこまで悔やむ必要はない」

「……何言ってやがる」

「? 先程の男に迫られていた時、守れなかったことを悔やんでいるのでは?」

「………」

「お前は優しいからな。だが、任務上致し方なかったというのは理解してくれ。あれは私の断り方も悪かったのだろう」

 

 

 そうじゃない。いや、そうでもあるんだがそうじゃない。

 

 単純に“自身以外の男が彼女に触れている”という事実に腹が立っているだけで、別に優しいだとか任務だとかそういう理屈じゃない。

 これはただの独占欲で、そんな真っ当なものではないのだ。

 彼女が酔う姿を見られるのは自分だけ。彼女が顔を赤くして生娘のような態度を取るのも自分だけ。

 簪を贈るのも着物を贈るのも、そういう意味で贈っているのである。

 更に欲を言うならば、己が見立てたものだけを着てほしいし身に付けてほしい。

 「この女は俺のものだ」と言外に言いふらしたいのだ。

 そんな独占欲とも支配欲とも取れる劣情を必死に隠して(微妙に漏れている気もするが)旭と今の関係を築いているのだ、この不死川 実弥という男は。

 しかし、旭は自分のような鬼子が恋愛沙汰などあるわけがないと思い込んでいるし、やる資格もないと割り切っている。

 それもあって、実弥の重めの愛情にもこれっぽっちも気づいていない。

 不幸中の幸いと言うやつだろうか。

 

「……テメェは本当、呑気なやつだな」

「なんだ突然」

「別にィ。おら、さっさと藤の花の家紋の家に戻って着替えるぞォ」

「いや、もうお前はそのままがいい。露出するな」

「後でぶった斬るから覚悟しとけよクソアマァ」

 

 いつも通りの会話をしながら、任務を終えた2人は藤の花の家紋がなされた家へと向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うわっ、この人なんで両腕の関節外れてるんだ?」

「しかも喉まで潰され……え、怖っ。柱ってやっぱえげつねぇ……。容赦ねぇ……」

(喉は旭さん、両腕は実弥だろうなぁ……)

 ちなみに、旭達の鬼狩りの後処理に来た“隠”の人達は男の惨状を見て、改めて「柱は怖い」と思ったらしい。

 約1名、苦笑いしながら男に両手を合わせたとか合わせていないとか……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*****

 

 後日談、其の壱。

 

***

 

 逢い引き中の話である。

 

「お前のところに新しい継子ができたんだってなァ」

「ん? ……それがどうした」

 

 甘味処でわらび餅を頬張っていた旭に、実弥がふと口を開いた。

 旭は考えるように目線を明後日(あさって)の方向に飛ばしたが、玄弥のことかとすぐに分かった。

 旭は実弥をじっと見つめて……やはり、肉質は似ているなと改めて思う。兄弟でおそらく間違いない。だからこそ、心配しているのだと彼女は思った。

 

「悪いが、鬼殺隊を辞めさせろと言う話は聞けない。私も私なりに彼に期待している」

「お前には言わねぇよ」

 

 その代わり、と実弥は隣に座る女をギロリと睨みつけた。

 

「……絶対に死なすんじゃねぇぞ」

「……絶対にとは言えないが」

「絶対に、死なすんじゃねぇぞ」

「………努力する」

 

 こいつ、兄弟愛が強すぎるんじゃないか?

 急にわらび餅の味が感じられなくなった旭であった。

 ちなみに彼女は実弥の自身への愛が重めであることを知らない。

 

 

 

*****

 

 後日談、其の弐。

 

***

 

「……旭」

「どうした、義勇」

「……先日、不死川と(任務の一環で)出合茶屋に行ったそうだな」

「ごぶっ!?」

「ぶっ……!?」

「え。旭さん、錆兎……?」

「真菰、ちょっと耳を押さえていようか。と言うか私が押さえようここからは大人同士で話し合う」

「え? う、うん……?」

 

 いつか約束していた水屋敷での食事会。

 旭特製の鮭大根を食べていた冨岡(とみおか) 義勇(ぎゆう)が唐突に言い放った。

 なんってことを食事の場で言いやがる。

 いくら口下手とはいえその話題はここで出すものじゃないだろうに。

 そのせいで被害者が出た。錆兎が耳を真っ赤にして味噌汁を吐き出したではないか。まだ真菰がその茶屋について知らなかっただけ幸運である。

 こんな純粋な娘にこの話を聞かせるわけにはいかない、とすぐさま旭が真菰の耳を押さえて音を聞こえなくした。頼むから君だけはそのままでいてくれ。

 

「義勇。返答次第ではお前の頭を吹き飛ばすと思え。その話はどこで聞いた」

「……(任務の帰りにとある町を通った。その途中で偶然会った“隠”の中に不死川と仲が良い隠を見つけて、声をかけようとした。そこで丁度)2人が逢い引きしているところを見た。(その後、事情を隠に聞いて任務だと分かった。誤解しかけて)すまない」

「見たのか……! 待て、逢い引きからか!?」

「ああ」

「いつ! どこで!!」

「ちょ、ちょっと待て。色々と事情を説明してほしいんだが……? まず旭は不死川と、その、交際していたのか……?」

 

 それ見たことか、被害者が出てきているではないか。ふざけるな。

 真菰なんて意味が分からず錆兎の青ざめた顔色と冨岡の済まし顔と旭の引き攣った表情を見て「あ、これ修羅場かな?」なんて呟いているんだぞどうしてくれる。

 実際、修羅場とも言い切れない状況であるが。

 

「誤解するな、錆兎。私と不死川はそんな関係ではない」

「は? だったらどうして出合茶屋なんかに……」

 

 困惑していた錆兎がふと真顔になった。

 

「……体だけ求められたということか……?」

「は? いや違うが」

「ちょっと不死川を斬ってくる」

「待て待て待て待て! 錆兎誤解だ! 誤解!」

「安心しろ、旭。あいつが柱だからといって庇う必要はない。あいつは男としてしてはならないことをした。あいつは男ではない、ただの屑だ。屑は見逃しておけない。今からお前の純情を弄んだあの屑を切り刻んでくるから、ここで真菰達と食事を楽しんでくれ」

「誤解だと言っているだろうが!! 聞け頼むから!! おい待て、さっ……義勇! 錆兎を捕まえろ!! 頼むから捕まえろ鮭大根沢山作ってやるから!!」

「分かった(即答)」

 

 この後、屑こと不死川に決闘を申し込もうとしている錆兎を鮭大根のためならと必死で押さえた冨岡。

 事情を1から説明してようやく己の勘違いを理解した錆兎は旭に土下座して謝り、冨岡を「誤解させる言い方をするな」と怒った。

 真菰に問われた旭は色々とぼやかしながら懇切丁寧に誤解されないように話した。

 

 

 

 真菰は自室に戻った後、独り言を呟く。

 

「意外と風柱様もやるなぁ……」

 

 旭争奪戦は白熱しているようだ。



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4話「蝶屋敷でお茶会開催」

 旭は蝶屋敷の前に居た。

 先日約束した診察と不死川の1件のお礼でやってきたのだ。手には先程和菓子屋で買った和菓子と玉露、そして獪岳お手製のお菓子の入った重箱があった。

 最近、継子の料理能力が限界突破している。試食として最初に摘まんだ時、あまりの美味しさに目を剥いた。継子の顔を二度見したら「気持ち悪い顔しないでください」と冷めた目で見られた。

 ……彼は料理店でも開くつもりなのだろうか。そうならば間違いなく常連客になるのだが。

 

「ごめんください」

「どなたですか!」

 

 玄関から呼び掛ければ、ハキハキとした声の女子が現れた。

 蝶の髪飾りで二つ結びをしている、青い瞳の女子だ。着ているのは鬼殺隊の隊服である。

 蝶屋敷で働いている者の1人、神埼(かんざき) アオイである。

 彼女は旭の姿を見ると目を見開いて一瞬頬を緩めたが、すぐさまきりりと顔を引き締めた。ついでに「こほん」と1度咳をして旭に会釈する。

 

「日向さん、こんにちは」

「こんにちは。忙しい中申し訳ない。胡蝶 カナエ殿はいらっしゃいますか」

「はい。話はカナエ様から聞いています。どうぞあがってください」

「では、失礼して」

 

 形式的なやり取りをして、旭は玄関をあがる。

 先立つアオイの後ろを旭が追っていく。そこで旭は不思議そうに目の前に立つアオイを見つめた。

 

「……神埼」

「っ、はい。何か」

「君はどうしてそこまで緊張しているんだ」

 

 旭の五感は並外れている。

 心音や筋肉、関節などの動きによる音は勿論聞こえている。本人の体調や感情によって少しずつ体臭も違う。

 アオイから感じ取れるのは緊張と不安である。

 それを問えば、アオイの体が硬直する。

 

「それは、あなたが……っ」

「私が?」

「っ! …っいえ、なんでもありません。お気になさらずとも結構です!」

「? ……そうか」

 

 アオイの言葉と態度に旭は首を捻りつつも気にすることではないと判断してそれ以上聞かなかった。

 ただ、心音が太鼓のごとく鳴っているのが気になった。……動悸だろうか。こころなしか体温も上昇している。……病気だろうか。

 

(……び、びっくりした……!!)

 

 一方でアオイは、旭の心配をよそに、必死に顔の火照りを静めようとしていた。

 熱い。とにかく顔が熱い。汗がだらだら出ている。

 

(まさか、日向さんから声をかけられるなんて……!)

 

 この女、旭のファンであった。

 胡蝶姉妹達に向ける感情が感謝や尊敬と呼ばれるものならば、旭に向ける感情は羨望と憧れである。

 冷静沈着でどこか影のある美人。冨岡とはまた別の、あの謎めいた雰囲気がとても色っぽくて、つい見惚れてしまう。……失礼、比べる相手が悪かった。天と地ほどの差があった。

 閑話休題。

 とにかく、アオイの身の回りに居る女性でも、彼女だけがとても輝いて見えたのだ。おそらくそれは、身の回りに旭のような女性が居なかったからだろう。

 旭は胡蝶姉妹のように常に微笑んでいる訳ではないし、甘露寺のように明るく接しやすい人柄でもない。

 それが新鮮だったのだ。

 カナエやしのぶとはまた違う、あの大人びた冷たい鉄のような女性らしさ。

 甘露寺とは全然違う、暗くて孤独な影のある雰囲気。

 なのに時折見せるあの笑みが、いや時折だからこそあの微笑みがとてつもなく極上で……! しかもなんか他者から向けられる感情に鈍くて理解できていないあの感じがなんか可愛らしくて……!

 そこが妙にアオイのツボに嵌まってしまった。

 

「ああ、そうだ。甘味を持ってきたから後で蝶屋敷の女性陣で食べると良い」

「ありがとうございます」

「神埼達も毎日隊士達を看病していて凄いな」

「いえ。私はこれくらいしか出来ませんので」

「だとしても、だ。これだけ大勢の怪我人の治療をして大変だろうに……冗談抜きで私は君達を尊敬している」

(あれ、今日は私の命日でしたっけ……?)

 

 なんのご褒美だろうか。憧れの人にこんなに褒められるなんて……。

 

(……夢でも見ているのかしら)

 

 アオイは頬をつねった。痛かったので現実だと理解した。

 

「………。……~~~~っ!!?」

 

 途端にアオイの顔がボフン、という擬音が似合うほど赤色に染まる。更に言葉にならない悲鳴をあげそうになって、必死で口の中に押し留めた。

 

「!? ど、どうした? 突然立ち止まって……何か叫ばなかったか?」

「い、いえ……空耳ではっ……?」

「は? いや、今のは確実に……」

「つ、着きました! 中でカナエ様がお待ちですので! 私はまだやることがありますので! これで失礼させていただきます!」

 

 1つの部屋……カナエの自室に案内したアオイは顔を見られないように……何より、憧れの彼女にこれ以上醜態を晒さないように立ち去ることを即断。体を90度に曲げて綺麗な一礼をしてみせた。

 アオイの惚れ惚れするお辞儀に気圧されるように後退(あとずさ)った旭。アオイはそのまま立ち去ろうとしたが、そうはいかない。

 旭はアオイの手を取ると、ぐい、と引き寄せて、もう片方の手でするりと後頭部を撫でた。

 

「はぇ? ……え"っ?」

「……熱があるな。瞳も通常より少し……脈も速い」

 

 アオイの目の前に旭の顔があった。しかも、額同士が触れ合っている。旭の赤い、柘榴のような濃い色の瞳にアオイの顔が映っているのがはっきりと分かった。更に、後頭部を覆っていた大きくて白い手が頚に添えられ、頸動脈辺りを押さえている。

 

「~~~!? っ~!? っあ……!? (触れ……え、触れ!? 顔近いしいい匂いするし肌もすべすべでちょっと低温なのが気持ちいい! え、これが現実? 都合がいい幻じゃなくて? え、ええぇえぇぇええ?)」

「具合が悪いなら無理して働く必要はないだろう。言えた身では無いが、まずは自己管理をしなければ怪我人を預かる身としては……」

「い……」

「い?」

「いやあああああああ!!」

「ぶっ!?」

 

 アオイ、キャパオーバー。

 耐えきれず旭の顔面に張り手を炸裂させた。

 直後、逃走。

 後に残ったのは顔にじんじんと痛む紅葉を貼りつけた旭だけである。アオイは鬼殺をしていないと言えども、藤襲山での最終選別を突破した女子である。その辺の女子より筋力は高い。

 旭が呆けていると、すぐ傍の扉が荒く開かれる。カナエの自室の扉である。

 現れたのは黒の長髪をツインテールにしている儚い雰囲気を醸し出す、長身の女性。

 元花柱の胡蝶(こちょう) カナエである。

 

「ど、どうしたの!? 今、アオイの悲鳴、が……。……あら?」

「……カナエか」

 

 ゆっくりとカナエの方を振り向く旭はどこか気が沈んでいるように見えた。

 それを見て、カナエは何かを察すると、ころころと可愛らしく笑った。

 

「あらあら、アオイったら、旭さんの天然男前行動にびっくりしちゃったのね」

「言っている意味がよく分からないのだが」

「うふふ、こっちの話よ。さっ、今日は1日屋敷に居てくれるのよね? 沢山お話しましょっ♪」

「いやでも……神埼は大丈夫なのか?」

「大丈夫よ。あの子、あなたの言動行動に慣れてなくて照れてるだけだから♪」

「? ……はあ」

 

 花が咲くような笑みを浮かべたカナエは、旭の腕を引いて自室へと誘う。旭は終始納得のいかないような顔をしていたが、渋々部屋の中に入った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「もう駄目……。嫌われた、絶対に嫌われた。もう2度と私の名前を呼んでくれない……」

「だ、大丈夫ですよ! 旭さんはすごく優しいですから!」

「そうですよ! 素直に謝ったらいつもみたいに頭なでてくれますから!」

「おいしいお菓子もきっとくれます!」

「それはそれで3人が羨ましい……。うぅ、私にはそんな上級なことが出来るはずがない……」

「「「ええっ!?」」」

 

 厨房まで駆けた直後落ち込むアオイ。事情を聞いたすみ・きよ・なほの3人娘が必死に彼女を元気づけていた。ここまであからさまに落ち込むアオイの姿なんて滅多に見たことがないため、かなり不安だったのだ。そして、励ました結果更に泣かれるという悪循環。

 これには3人娘もたじたじである。

 

 

「あらあら、何か面白そうなお話をしていますね」

 

 

 そこへ現れたのは現柱の1人である、蟲柱の胡蝶(こちょう) しのぶ。

 彼女は天女を思わせる慈愛の微笑みを浮かべながら、4人の元へやってきた。

 3人娘がパァッと顔を輝かせて、しのぶに状況を説明した。それを「ふむふむ」と頷きながら聞く彼女。

 そして、人差し指を立ててにっこりと笑った。

 

「そういうことなら、私でもお力になれそうです」

「「「本当ですか!?」」」

「ええ。うふふ……♪」

 

 ……何やら旭にとって面倒事が起きそうである。

 

 

 

*****

 

 

 

「それでね、旭さんっ、あの時カナヲがね!」

「そうだな……」

 

 カナエの話というのは、大抵がカナヲやしのぶ、そしてアオイ達の日常生活のことだった。血生臭い仕事をしている中で、これほど暖かい日常を垣間見ることができるというのはある意味奇跡なのかもしれない。

 旭も初めこそ固くなってカナエの話を聞いていたのだが、どこか微笑ましい話を聞いている内に表情が緩んでいき、自身の継子である獪岳の話も少しばかり提供するようになった。

 女子会、と言うよりはお互いの日常を教え合っているだけの会話である。それだけでも旭もカナエも満たされた。

 

「しのぶも知ってるでしょ? カナヲってあんなに可愛かったのよねぇ!」

「そうですね、姉さん。カナヲも少しずつ自分の思いを言えるようになってきて嬉しいばかりです」

「旭さん、差し入れありがとうございます」

「大事に食べますねっ」

「旭さん、お茶のお代わりいかがですか?」

「ああ、ありがとう……」

 

 ……しのぶ達が来るまでは。

 

 会話がある程度進んだ時、しのぶ並びにアオイと3人娘がカナエの部屋に乱入してきたのだ。

 

『……しのぶ』

『旭さん、こんにちは。姉さん、私達も一緒にお話しても?』

『は? 私()だと?』

『ええ、勿論!』

『え"っ』

『あら、何かいけなかった?』

『……いや、大丈夫だ』

『うふふ、それじゃあ失礼しますね♪ 許可が出ましたよ。皆もおいで』

『『『失礼します!』』』

『……失礼します』

『あらあら、沢山来たわねぇ。人数分、椅子はあったかしら?』

『大丈夫ですよ。ちゃんと持参しましたから』

『しのぶったら、最初からこうするつもりだったのねぇ』

『うふふふふ♪』

 

「……さん。…さひさん。旭さんっ」

「はえっ?」

 

 腕をちょんちょんとつつかれて、びくりとして肩を揺らす旭。見れば、隣に座っていたすみが心配そうに彼女を見ていた。

 先程の一連の流れを思い出している内に深いところまで思考が飛んでいたようだ。旭はパチパチと2度瞬きして、ぎこちなく口元を緩めた。

 

「……どうした?」

「しのぶ様が旭さんに質問を……」

「そうですよ、旭さん」

 

 カナエの隣に座っていたしのぶがにっこりと笑う。旭はその笑みに何か得体の知れない悪寒を感じて、お茶が注がれた湯呑みに手を伸ばす。

 

「……すまない。聞いていなかったから、もう一度言って貰ってよろしいか」

「先日、不死川さんと逢い引きしていたそうですね」

「ぶっ!?」

「えっ!? 不死川君と!? なになにその話! お願い詳しく聞かせて!」

「げぇっほ! えほっ、ごほっ!」

「だ、大丈夫ですか? 日向さん」

 

 目をキラキラさせた乙女が身を乗り出し、旭の両肩をがっちり掴んだ。その間も噎せ込む旭をアオイがおそるおそる背中を擦る。

 

「いつの間に不死川君とそんなに仲良しになったの!? もう付き合ってる? 交際してる!?」

「ち、ちが、うぶ……待て、揺らすな。酔う。嘔吐()く」

「きゃっ、ごめんなさい!」

 

 ひゃっ、とカナエが元の位置に戻る。

 旭が口を手の甲で押さえて気分を落ち着かせながら、ちらりとカナエ達を見遣ると目を輝かせて今か今かと話を待っていた。心なしかうずうずしているように見える。

 こういう恋愛話を聞きたがる所は実に女らしいと思うのだが、話のネタが自分だと言うのが複雑な心境だ。

 ちなみに言い出しっぺのしのぶは人を食ったような笑みで旭を見ていた。

 それを見て悟る。

 

(……こいつ、わざとか)

「そんなに熱い目で見ないでくださいな。いくら私でも照れちゃいます」

「……」

 

 じとっとした非難めいた視線が熱いわけがない。どちらかと言うと冷めている。

 旭はため息を吐くと、先日の逢い引きの真相を話した。

 

「……任務の一環だ。別に交際している訳でもないし、好き合ってる訳でもない」

「え~? そうなの? 不死川君とくっつくと思ってドキドキしたのに……」

「不死川と私が? ……無いだろ」

「いや、充分有り得るわよ」

 

 カナエにきっぱりと言われて、旭は気圧されたように黙る。

 旭も一応実弥と恋仲の場面を考えたが……やはり、全く想像つかなかった。自身よりももっと良い女性は居るだろうと思うし、そこまで好かれているとも思っていなかった。

 

「……精々(せいぜい)同僚程度の仲だろ。いつも言い争っているのを見たことがないのか」

「見てるわよ! ずっと夫婦喧嘩みたいでこっちが恥ずかしいわ!」

「は?」

「ん~、なんて言うのかしら? その……喧嘩っぷるってやつよ! あなた達の関係!」

 

 そんなつもりはさらさらない。

 向こうが隊服をきちんと着ないからそれを注意しているだけだ。それに実弥も言い返してくるから言い返しているだけで……最終的には「表出ろやァ!」と刀を抜き刃を交わすことになる。

 

 ……それが夫婦喧嘩?

 

「……カナエ、しのぶに目を見てもらった方が良いのでは?」

「あ、姉さんの目は正常ですよ。旭さんの感覚がおかしいだけです」

「今日は何時(いつ)にも増して毒舌だな」

「いつも言えないことを言ってるだけですけど」

 

 にこにこと非常に、とてつもなく楽しそうに笑いながら毒を吐くしのぶに、旭の口の端が引き攣った。

 鬱憤でも溜まっているのだろうか……いや、溜まっているのだろう。旭は怪我の手当てを独自で行い、蝶屋敷に全く来ない人物の1人だ。助けたいのに助けられないというこの焦れったさを旭は知らないのだ。

 

 ならば今、その報いを受けさせてもいいのでは?

 

 しのぶは楽しそうに笑いながら(2度目)旭をからかっていた。

 

「そういえば宇随さんや煉獄さんにも求婚されているんですよね? 色好い返事は出来たんですか?」

「しのぶ、お前……!」

「あっ、そういえばそうじゃない! 2人とは何か進展はあったの? まさかもう2人で逢瀬なんて……」

「してないやってないする気もないし断ってる」

「えぇ~……」

「何故そんなに残念そうな顔をする。やめてくれ」

 

 旭は顔をげんなりさせる。

 今彼女の脳裏には「嫁に来い!」と迫ってくる2人の姿が浮かんでいる。

 

「宇随とは任務だろうが何だろうが、絶対に2人で出掛けないと心に決めている。既婚者から求婚されるなんてあの3人の嫁に失礼だろう。下手せずとも浮気だと思われる。私のせいであの4人の仲が悪くなるなど私はごめんだ」

「あそこはもう1人くらいお嫁さんが増えても誰も文句は言わないと思うけれど……」

「カナエの口からそんな言葉が出るとは思わなんだが」

 

 さらっと言われた重婚を認める言葉に旭がギョッとした。

 どうしたカナエ、いつの間に彼らに絆されている。何か弱みでも握られたのか。それとも買収されたのか。

 

「だって宇随さん達は仲良いじゃない? 宇随さんも甲斐性あるから先に結婚したとか後に結婚したとか関係なく全員愛してくれるわよ」

「いや、まあ……宇随達が器量が良いのは認めるが」

 

 1度宇随に誘われて、彼の屋敷にお邪魔したことがある。「嫁達に悪いから」と断ったのだが、その嫁達から「気にしませんから~」と言われて屋敷に渋々あがらせてもらったのだ。

 実際、彼らの醸し出す雰囲気は旭にとっても心地良いものだったし、嫁達も旭のことを受け入れてくれた。

 帰りの際にその嫁達に別れを惜しまれたくらいだ。旭ももう少しこの日溜まりのような感覚に身を委ねたいと思ったが、それだと宇随達に迷惑をかけると己を律してその場を後にした。

 

「しかしやはり、夫が他の女に夢中になるのは駄目だろう」

「固いわねぇ」

「いや、この御時世で一夫多妻制は認められてないだろう」

「あら、でも明治くらいまでは一夫多妻でも認められてたじゃない」

「それまでは、な。今は違う」

 

 今度は旭がきっぱりと言い切る番だった。カナエはむう、と頬を膨らませていたが、すぐに微笑みを浮かべる。

 

「じゃあ、煉獄君は? 彼は独り身だし好青年だし、旭さんのことを本気で好きだって言ってるじゃない!」

 

 そう簡単にはカナエを躱すことはできなかった。旭はうんざりしていたが、それでも答えようと口を開く辺り、人が良いのだろう。押しに弱いとも言えるが。

 

「彼は私のような人擬きの女と一緒になるような人じゃないだろう。彼にも彼の家族にも迷惑だ」

「そんなこと無いわよ。もう、旭さんはいっつも自己評価低いわよね」

「? 普通だろう」

「いーえっ。旭さんはもっと自分のことを評価しなきゃ駄目よ。旭さんは自分を卑下するの癖になっちゃってるわ」

「……はあ」

 

 今度はぷんぷんと怒り始めるカナエ。

 旭は意味が分からず生返事を返すことしか出来ない。強いて言うならば感情豊かなのは良いことだ、と思うくらいで。

 

(……こういう女子を高嶺の花、と言うんだろうな)

 

 笑顔も怒り顔も素敵な女性だからな。

 そんなことを考えながら、旭は茶を啜り茶菓子を口に放り込んだ───

 

「そうだわ! 私達で旭さんの良いところを教えてあげる!」

「は?」

 

 ───所で、突拍子もないことを言い出すカナエに旭は固まった。

 彼女は「名案だわ!」と両手を合わせてまさに花のような笑顔を浮かべている。

 ……名案、というよりは()案だと思ったのは旭だけだろうか。どうなればそうなるのだろう。

 

(……そういえば、いつかの不死川が言っていたな。「胡蝶姉の頭の中はお花畑だ」と)

「ん~、そうねぇ。どういう順番で言うべきなのかしら。やっぱり初めは私からの方がいい?」

「こっ恥ずかしいからやめてくれ」

「では、私から言いましょうか?」

「しのぶお前聞いていたか?」

 

 しのぶはにこにこ笑いながら言う。

 

「旭さんは凄く頑張り屋さんです。私がいくら休めと言っても必ず屋敷から抜け出して刀を振り、監視用の鴉を使っても必ず撒いて山に籠ったりと……頑張り過ぎてちょっと不安になるくらいです」

「最早良いところではなく愚痴だよな」

 

 最初からかなりどぎつい毒が放たれた。

 旭がつい声を出すと、しのぶは笑顔のまま少しばかり首を傾ける。

 

「あら、そう聞こえました? それは失礼を。でも、本当に感心しているんですよ? あなたを心配しているからこそ、消毒したり包帯を巻いたりしてあげたいのに、全然蝶屋敷に来ないんですから。頑固さは柱随一なのかもしれませんね」

 

 褒められているのか、それとも「もっと休んでもっと蝶屋敷に来て怪我の手当てをさせろ」と言われているのか、旭には分からなかった。

 

「……善処はする」

「はい、お待ちしています。じゃあ次、言いたい人は?」

「「「はい!」」」

「はい、どうぞ」

 

 ピシッと手を上げたのはすみ・きよ・なほの3人娘である。……3人で1人判定なのだろうか。それでも違和感がないことに少し驚いた。

 

「旭さんの手はとても優しくて大好きです! すべすべしてて白くて柔らかくてとってもきれいです!」

「いつもほめたりねぎらったりしてくれます! お菓子もたくさんくれます!」

「私達では手が届かないものでもいやな顔せずとってくれますし、お手伝いもしてくれます! この間も頼んだらぎゅってしてもらったし撫でてもらいました! 面倒見が良くて大好きです!」

 

 全力で旭を殺しに来ているのだろうか。

 人だから首が斬れないし純粋だから嘘をついていないため、ある意味鬼より強敵だった。物理的に黙らせることができない。だから、言葉を聞き流そうと努力するしかできない。

 旭が顔を掌で覆うように隠すが、赤くなった耳は隠れきっていない。

 この女、褒められ慣れていないためか、結構照れている。

 

「はい! じゃあ次は私ね!」

 

 間髪いれずにカナエが声をあげる。

 

「旭さんって凄くかっこいいしかわいいわ。鬼殺の時は凛としてて、冷静だけどどこか熱い感じなのに、休みの時は甘味を幸せそうに食べるしちょっと抜けてるところとか鈍感な所があるの。その……ギャップって言うのかしら? そことか私、大好きなの! 公私混同とかしない感じがとっても好き! それにね、平気で男前な言動をするじゃない? 同じ女性なのについ恋愛的に好きになっちゃいそうで……!」

 

 もうそろそろやめてやらないと。旭が瀕死寸前である。羞恥で。精神的にそろそろ死ぬのではないだろうか。これが所謂(いわゆる)恥ずか死ぬというやつか。

 

「姉さん、そろそろアオイに……」

「あら、ごめんなさいね。正直まだ言い足りてないんだけど……」

(あれでか!?)

 

 心の中で絶叫して目を剥く旭。

 もしカナエと2人きりでこの話題になってしまったら、旭はそれを延々と聞き続けることになったのだろうか。そこだけはしのぶの乱入に感謝した。

 

「ほら、アオイも旭さんの良いところを言ってあげて」

「あ、えぇと……あの、その~……。………うぅ」

「いつも思っていることをぶちまければ良いんですよ。今ならどんな言葉でも旭さんが受け止めてくれますから」

 

 旭が隣のアオイを横目で見れば、顔を赤くして体を縮ませていた。

 人の前で己の意見を言うのが苦手な子だっただろうか、と旭が内心不思議に思う。

 アオイはきびきびしていて働き者だし、相手が男だろうが隊士だろうが強気な態度を崩さない人間だ。勿論、個性が強い柱などの例外はあるが。

 

(……やはり、体調が悪いのでは?)

 

 憧れのお方の隣のうえに「その人の良いところを言え」と言われてとてつもなく緊張していることにはやっぱり気づいていない。

 

「……神埼。気分が悪いのなら自室に戻っても」

「いいえ。むしろ気分はとてつもなく良いです。お気遣いなく」

 

 食い気味に言われた言葉に旭は黙るしかない。アオイは覚悟を決めたように赤い顔をきりっとさせて、旭に向き直る。

 

「日向さん」

「あ、はい」

 

 旭もアオイに向き直り、元々伸びていた背筋を更にしゃんと伸ばす。

 

「……あなたはとても魅力的な女性です」

「……ありがとう、でいいのか?」

「気配り上手で優しくて褒め上手で、頼めば何でもやってくれるし、失敗しても怒りもしません」

「はあ……」

「料理も上手で掃除洗濯も完璧。きっと良いお嫁さんになるのでしょうね。羨ましい限りです」

「それは買い被りすぎだろう。そこまでできた生き物では……」

「冷静沈着でどこか闇があるような雰囲気も素敵です。冷徹に見えて、でも甘味を頬張って幸せそうに頬を緩めるお姿を見かけた時にはあまりの可愛らしさに身悶えしました」

「……うん?」

「癖のある黒髪も鮮血のような瞳も魔性の色香があってとても美しいです。白い陶磁器のような肌はすみも言っていたように綺麗ですし、どうすればそれほど調子を整えられるのか不思議で仕方ありません」

「神埼、どうした」

「あなたはよく御自分を卑下なさいますが、とんでもありません。もっと自信を持って堂々としてください」

「………」

「返事は」

「はい」

 

 気圧されて旭は少し身を引く。これほど饒舌なアオイは見たことがなかった。

 すると、アオイは立ち上がり、全員に向かって頭を下げた。

 

「私、やることがありますのでこれにて失礼させていただきます」

「そうですか。頑張ってくださいね」

「はい」

 

 カナエや3人娘もアオイの饒舌ぶりに驚いていたが、唯一しのぶは笑顔でアオイに応えた。

 アオイは心の中のものをほとんどぶちまけたことに対して羞恥を覚え、早くこの部屋から退出したかった。できることなら旭の顔も見たくない。きっと自身のことを「気持ち悪い」と思っているに違いない。言葉に出さずとも表情や目で分かってしまう。見たくなかった。

 

「あ、日向さん」

「はい」

 

 旭が反射的にアオイに返事をすると、アオイは少し頬を赤らめて、目を旭と合わせずに言う。

 

「……全て、本心です」

「……。あ、はい」

「それと先程、顔に平手打ちをしてしまいすいませんでした」

「?」

 

 アオイが旭に向かって頭を下げるので、彼女は首をかしげた。そして、カナエの部屋に入る前のことかと思い出す。

 

「謝ってもらわずとも結構だ。あれは私が何かを無意識にやらかしたのだろう。君に謝ってもらう必要はない」

「ですが……」

「くどいぞ」

 

 ぴしゃりと言った旭にアオイは息を飲む。

 旭は硬直したアオイの姿を見て、ため息を吐いた。

 

「なら、ここに座れ」

「は?」

 

 とんとん、と手で叩かれたのは先程までアオイが座っていた椅子である。アオイが困惑していると、旭は告げる。

 

「まだ茶会は終わっていないからな。最後まで付き合え」

「ですが用事が……」

「後で君の用事にも付き合ってやる。2人でやればすぐに終わるだろう。今は私の我が儘を聞いてはもらえないか」

「っ……」

 

 僅かに口の端を上げてほんのりと微笑む旭の頼みを聞けない女がどこに居ようか。居たら是非とも教えてくれ、この色気を無効化する(すべ)をご教授願いたい。

 アオイはそんなことを思いながら、ふらふらと操られるかのように腰を下ろした。

 

「ほんと、旭さんは天然たらしよねぇ」

「そうですよね。そこら辺の馬の骨より男前です。性別を間違えたんじゃないですか?」

「?」

 

 そういうところだぞ、旭。

 胡蝶姉妹はため息を吐く。旭は首をかしげる。

 

 女性だけの茶会は続く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*****

 

 後日談、其の壱。

 

***

 

 旭が蝶屋敷に行く前のことである。

 

「旭さん」

「んあ?」

 

 旭の継子である獪岳が師匠に声をかける。両手にはお盆、その盆の上には大福が2つ乗った皿と抹茶があった。

 旭は覚醒仕切っていない頭でそれを数秒ほど眺め、獪岳に目を向ける。

 彼はそれに応えず、黙々と盆の上の皿と湯呑みを彼女の眼前の机に置いた。

 

「……獪岳?」

「今日は蝶屋敷に行かれると聞いていたので、茶菓子として大福を作りました」

「はあ……。待て、作った? これを?」

「試食を所望します。あと感想を」

 

 聞き流そうとした言葉を再度頭の中で噛み砕き、ギョッとした旭。

 目の前の大福……非常に出来映えがよく見えた。下手すれば店頭に並んでいてもおかしくない。

 旭が目の前の獪岳を見れば、至極真剣そうな顔で……いや、「早く食え」と言わんばかりの顔をしていた。

 旭はおそるおそる大福に手を伸ばす。

 

「……んっ」

 

 もっちりとした感触と中の餡の舌触りが絶妙だった。こしてある餡子もそこまで甘ったるくなく、どちらかと言えば控えめな甘さ。

 外の餅の層も固くなく柔らかい。作りたてだからだろうか、薄く伸ばされているのに弾力があってとても食べがいがある。

 旭が思わず獪岳と大福を見比べると、「気持ち悪い顔しないでください」とめちゃくちゃ冷めた目で見られた。

 1つ目の大福を2口で食べ終えると、抹茶に手を伸ばした。程よい苦味が口の中の甘さを取り払ってくれる。

 口の中の甘味を取り払った後、2つ目の大福に手を伸ばした。

 こちらは餅に抹茶が練り込まれていて、緑色の大福だった。ほんのりと苦味があって、中の餡と相性がいい。

 抹茶を飲み干した後、彼女はほう、と息を吐く。顔は幸せそうに緩んでおり、どこかうっとりとしていた。

 

「凄く美味しかった。店に出ていてもおかしくない」

「そうですか。なら味の方は大丈夫なようですね。持っていかれてください」

「分かった」

「一応店でも買っておいた方が良いですよ。出来る限り形の良いものは入れておきますけど、全て成功している訳でもないので」

「分かった」

 

 獪岳は台所に戻ると、早速重箱に手作りした大福を入れ始めた。

 

「それにしても……獪岳がそこまで料理が好きだとは思わなかった」

「は?」

「ん、違うのか?」

「……」

 

 獪岳は違う、と心の中で否定した。

 旭が自身の手料理を警戒なく、とても幸せそうに食べてくれるから、もっと美味しいものを提供したいと思っただけで。

 どうせなら、俺が作ったものだけしか受け入れられないようにしたいだけで。

 俺を、俺だけをもっと褒めてもらいたい、見ていてもらいたいだけで。

 

「……まあ、そんな所です」

 

 やっと見つけた、俺を認めてくれた人。

 

 ほんの少しばかり歪んだ、強烈な承認欲求を旭には直接告げずに、獪岳は黙々と茶菓子の準備をしていた。

 

 

 

*****

 

 後日談、其の弐。

 

***

 

 蝶屋敷にて。

 茶会が終わり、旭は縁側で夕焼け色の蝶がひらひらと舞っている所を眺めていた。

 その時、視界に1人の少女が入り込む。

 白い羽織、黒髪を1つに結っている見目麗しいが、顔に微笑みを貼りつけた女子である。

 

「ん、栗落花(つゆり)じゃないか」

「! ………」

 

 栗落花(つゆり) カナヲ。

 胡蝶姉妹の義妹(いもうと)であり、しのぶの継子でもある。

 ぺこりとカナヲが頭を下げる。

 旭も同じように会釈すると、ちょいちょいと手招きをした。

 それに従い、カナヲは旭の傍へとやって来る。

 とんとん、と隣を旭が叩けば、それに従いカナヲは縁側にちょこんと座る。

 

「任務か」

「……(頷く)」

「お疲れ様。大変だったろう」

「……♪」

 

 労いの言葉ににこにこと笑うカナヲ。それを見て旭も微笑んだ。

 カナヲは旭の傍に居ることが好きだった。

 会話を無理に行おうとはせずに、必要最低限の言葉だけで済ませ、後は何も言わずに、何もせずに寄り添ってくれる。

 それだけなのだが、安心感に包まれる。とても心地よい空間だった。

 

「旭さん!」

「!」

「アオイか」

「……!」

 

 そこへ乱入してきたのはアオイである。

 彼女は旭を見つけると駆け寄り、息を整えると頭を下げる。

 

「……先程は私事(わたくしごと)に付き合ってくださりありがとうございます。お陰で早く終わりました」

「気にするな。私も無理に茶会に誘ってすまなかった。アオイの予定を狂わせてしまっただろう」

「いえ、そんなことは……幸せでしたし」

「ん?」

「いえ、何も」

 

 ぼそりと呟かれた言葉。それもしっかり聞こえている旭だが、本人が素知らぬ顔をするなら特段気にするようなことでもないのだろう、と忘れることにした。

 アオイは頭を上げて、そこでようやくカナヲの存在に気づいた。

 

「カナヲ、任務お疲れ様。怪我はない?」

「……」

 

 首を縦に振るカナヲにホッとするアオイ。

 アオイは再度旭に向き直り、軽く頭を下げた。

 

「それでは、私はこれから夕食の準備がありますので」

「ああ、頑張れ」

「っ……失礼します」

「……」

 

 アオイは素早くその場から立ち去った。

 旭はそれを見て、そろそろ屋敷に戻ろうかと腰を上げた。

 

「それじゃあ、栗落花。私は……、ん?」

「………」

 

 カナヲはじぃ……、と旭を見ている。いや、見つめている。それに旭が首をかしげていると、カナヲはコインを取り出し、それを親指で跳ね上げた。

 パシッ、という音と共に手の甲で受け止め、その上から掌を乗せる。

 旭も見つめる中、そっとコインの上の掌を外す。

 

「……裏だな」

「………」

 

 呟いた旭。カナヲをそれを凝視した。

 直後、もう一度コインを弾く。

 何故もう一回、と旭が不思議そうにカナヲの行動を見ていると、今度のコインは表だった。

 

「……あの」

「? どうした」

「どうして、アオイのことをアオイって呼んでるの?」

「……ん?」

 

 どうやら、コインは話しかけるか否かのものだったらしい。おそらく表が“話す”で裏が“話さない”だったのだろう。

 それはおいといてだ。今の質問はいまいち掴めない。

 旭が首をかしげると、カナヲは更に言う。

 

「……前は、神埼って…呼んでた」

「……ああ」

 

 それでようやく質問の意味を理解する。

 旭は今までアオイのことを“神埼”と、苗字で呼んでいた。

 しかし、先程、旭はアオイのことを“アオイ”と名前で呼んでいた。

 それを不思議に思って、カナヲは今旭に問いかけたのだ。

 

「まあ……大した話では無いんだが……」

 

 茶会の際、アオイのことを苗字で呼んでいることを3人娘に問われたのだ。

 

『どうして、アオイさんを苗字で呼んでいるんですか?』

 

 特に理由という理由は無い。実際、宇随や不死川といった柱の人も苗字で呼んでいる。呼んでいないのは苗字が被っていて識別ができない兄弟姉妹や苗字を知らない者、勝手にあだ名を決めている者だけである。

 ただ、強いて言うならば、距離感があるからだろうか。旭は自身が人間ではないと認識しているため、無意識的に距離を取ろうとする。

 そのため、苗字で呼んだり第一印象などからあだ名を決めたりするのである。

 とはいえ、その本人から頼まれたのならば別だ。名前で呼ぶし、そう呼んでほしいあだ名があるなら、余程変でなければそう呼ぶ。

 現に、伊之助のことは「親分」と呼んでいた。

 ちなみに3人娘は初めこそ苗字で呼んでいたが、「名前で呼んでほしいです」と言われたため呼んでいる。

 意外とすぐ呼び方は変えてくれるのだ。

 

「アオイから名前で呼ばれ慣れているから、そう呼んでほしいと言われてな」

「……」

 

 経緯を軽く説明した後、そう簡潔に纏めた旭。カナヲはそれを聞いた後、再び口を開く。

 

「……アオイも、旭さんって」

「本人からそう呼んでもいいかと問われた。だから了承した」

「……そう」

 

 カナヲは目を伏せる。

 何故だろう。蝶屋敷で唯一、自分だけが苗字で呼ばれている気がする。その事実に対して、とてつもない焦燥感が襲ってきた。

 自分だけ仲間外れにされている……そう思うと居ても立ってもいられなくなるような、そんな感情が胸に渦巻いた。

 

「……」

 

 コインで決める。

 “表”が出たら聞いてみる。“裏”が出たら……と、そこまで考えて、カナヲはコインを弾こうとする親指を止めた。

 ……これは、自分で決めなくては。

 いつまでもコインに、日向さんに甘えていたら駄目だ。

 これは、自分で言わないと。自分の意思で。

 いつかの炭治郎が言ってくれた言葉を勇気に、コインを握り締めた。

 

「あ、あのっ!」

「おっ?」

「なま、名前で、呼んでほしいっ」

「う、うん?」

「ぁ、旭さんって、呼びたい! ……です」

「……」

 

 目をきょとん、ぱちくりさせる旭を、カナヲは目を見開いて見つめていた。

 それを見たカナヲはもしかして迷惑だったのか、嫌なのか、と焦った。

 しかし、旭はすぐに表情を和らげ、「ふっ」と吹き出す。そのままくつくつと声を押し殺して肩を震わせた。

 

「……」

「ああ、いや……すまない。随分必死だと思ってな。いやなに、君を貶しているわけではない。可愛らしいと思っただけだ。他意はない」

 

 「頭に触れてもよろしいか」と旭が問うので、カナヲはこくこくと頷いた。

 旭はぽふ、とカナヲの頭を手を置くとそのまま優しく、壊れ物でも扱うように頭を撫で回す。

 

「カナヲ、だったか」

「!」

「アオイにも言ったが、旭と名を呼んでもらえるとは嬉しい限りだ。カナヲさえ良ければそう呼んでもらっても?」

「……あ、旭さん」

「んん……」

 

 旭が慈愛のこもった目をするので、カナヲが頬に朱を差す。

 

「それじゃあ、私も帰ることにする」

「! ……夕食、が、そろそろ、だから」

「悪いな。屋敷で私の弟子が夕餉を作って待っているんだ」

「……そう」

 

 しょんぼりと気を落ち込ませたカナヲに苦笑いしつつ、ぽんぽんと頭に手を置いた。

 

「邪魔や面倒でなければ、今度食事を共にしようか」

「!」

「勿論、蝶屋敷で。それでは駄目だろうか」

 

 ぶんぶんと首を横に振るカナヲ。全然邪魔じゃない。むしろ大歓迎だ。他の皆もきっと承諾してくれる。

 旭も可愛い子には弱いらしい。

 

 

 

 この後、カナヲは嬉しそうにしのぶに報告に行った。

 目が輝いているカナヲから、嬉しい報告を聞いたしのぶはくすくすと笑った。

 弟子の人間らしい成長の嬉しさとと旭の人の良さに対する微笑ましさがこもっていた。



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5話「霧が晴れた日」

 水柱・鱗滝(うろこだき) 錆兎(さびと)冨岡(とみおか) 義勇(ぎゆう)

 2人で1つの柱を担う彼らと旭は同じ時期の最終選別を抜けた、所謂(いわゆる)同期である。

 あの頃の冨岡は臆病で泣き虫。口下手なのは変わらないが、泣き顔で感情を表すような少年だった。

 一方で錆兎は勇猛果敢で旭を除く同期の誰よりも強かった。悲鳴が聞こえればすぐさま助けに向かい、他の無事な子に助けた子を任せてすぐさま次へと……。良くも悪くも、自己犠牲が強く、無鉄砲な性格の少年だった。

 21になった今でこそかなり落ち着いているが、昔はそこそこに手がかかる人達だったと旭は認識している。

 そんな彼らに頭と胃を痛めながら、柱となった今でも旭は付き合いを続けている。とは言え、仲は相変わらず良好で、むしろ水柱達からは親愛とも恋慕ともとれない感情を向けられている。それに旭が気づくことはおそらくかなり後のことになるだろうが。

 お互いに可愛い継子も居ることだし、と水柱と鬼柱は今日も良い付き合いを続けている。

 

 

 

*****

 

 

 

 2人が向き合っていた。

 片や、勾玉の首飾りを身につけた、黒髪の青少年。

 片や、儚げな雰囲気を持つ、狐の面を頭をつけた黒髪の少女。

 手には木刀。

 

「シィィィィ」

「フゥゥゥゥ」

 

 お互いに独特の呼吸音を響かせる。

 先に動いたのは───男児だった。

 

 雷の呼吸 弐ノ型 稲魂(いなだま)

 

 瞬き1つの間に5連撃を叩き込む超高速連撃。

 それを踏み込みと同時に相手の頭、首、胸、腰、足を正確に狙って打ち込む。

 しかし、相手も只では受けない。男児の攻撃を見切り、素早く対応してみせた。

 

 水の呼吸 陸ノ型 ねじれ(うず)

 

 上半身と下半身の捻れから放たれる攻防一体の弾き技。

 それにより男児は木刀を弾かれざるを得ない。男児は舌打ち混じりに後ろへと飛び退く。

 しかし、女児はすぐさま追撃する。

 彼女の木刀を持つ腕が見えなかった(・・・・・・)

 男児はぞっとして、咄嗟に首を横に反らした。

 びっ、と音がして、耳元を掠めて髪を数本持っていかれた。

 

 水の呼吸 漆ノ型 雫波紋(しずくはもん)()

 

 水の呼吸の型の中で最速の突き技。しかも、彼女の放つその突きには磨きがかかっていた。

 咄嗟に首を逸らしていなければ……。

 男児は背筋に寒気を感じながらも、笑った。

 

 雷の呼吸 参ノ型 聚蚊成雷(しゅうぶんせいらい)

 

 首を反らした勢いで、そのまま回転しながらの波状攻撃をしかける。それにより女児をはね退け、更に呼吸を深める。

 

 雷の呼吸 伍ノ型 熱界雷(ねっかいらい)

 

 着地と同時に迅速の斬り上げ。黒雷を纏った斬撃が女児に襲いかかる。

 彼女は───両腕を上げ、一気に振り下ろした。

 

 水の呼吸 捌ノ型 滝壺(たきつぼ)

 

 まるで上空から水の塊が落ちてくるような、そんな幻を見せる渾身の斬り落とし。

 両者の木刀が噛み合い、辺り一面にその衝撃が風となって吹き荒れた。

 それでも両者、1歩も引かず。すぐさま新たな技を出そうと木刀を握り締めた。

 

 

「そこまで!」

 

 

 しかし直後、終わりを告げる合図が。それと同時に木刀に(ひび)が入り、粉砕した。

 声をかけたのは、頬に大きな古傷がある宍色の髪をした青年である。彼は満足げに頷いた。

 

「うん、かなり良かったんじゃないか? なあ、旭」

「ああ、2人共動きが洗練されてきたな」

 

 彼───鱗滝 錆兎は隣で一緒に見ていた女に声をかけた。

 癖のある黒髪と鮮血のごとき瞳を持つ彼女は鬼柱の日向(ひなた) (あさひ)である。

 彼女は打ち稽古が終わった男児と女児を見つめていた。

 

「チッ、すばしっこさ以外何のその取り柄もねぇ女狐が……いい加減大人しく斬られやがれ」

獪岳(かいがく)はまた速くなってる。私もうかうかしてられないなぁ」

 

 勾玉の首飾りを身につけた、黒髪の男児こと獪岳。彼は鬼柱の継子であり、“雷の呼吸”を扱う者である。

 雷の呼吸の使い手の特徴とはその迅速さと手数の多さである。一瞬の内に行われる連撃や瞬間的な攻撃力は風の呼吸に勝るとも劣らない。

 獪岳は雷の呼吸の壱ノ型だけが何故か使えないが、その分他の技の型を磨いており、更には師の扱う“鬼の呼吸”もかじっている。そのため、一撃の威力や力強さはもはや同輩隊士とは比べ物にならない。

 

 もう1人の儚げな雰囲気を醸し出す、青い花が彫られた狐の面を頭に着けた少女は真菰(まこも)。水柱の継子であり、“水の呼吸”の使い手である。

 水の呼吸の使い手の特徴はやはりその歩方であろうか。流麗な足捌きと流水のごとき体捌きで敵を翻弄しつつ頸を断つ。他の流派と比べても様々な状況に適した型が多く、中には鬼を慈しみ斬る型も存在する。

 真菰は女性故に体も小さく筋力もそこまでない。水の呼吸を扱う上での威力は多少減少しているだろう。しかし、威力は無い分、彼女の一撃は速度が申し分ない。先程の突き技もおそらく、現水柱の2人よりも素早い。力が無いからこそ素早さに特化し、一撃必殺を狙うのが彼女流の水の呼吸だったのだ。

 

 そんな、素早さに特化している2人だが、現時点においてはまだ真菰の方が速かったようだ。

 獪岳も大分追いついてはきているのだが、女に、旭以外の女に負けていることが腹立たしかった。

 だからこそ、真菰に対して当たりが強くなる。

 

「俺が遅いって言いてぇのか。わざわざどうも。2度と稽古以外で話しかけんじゃねぇ」

「そうじゃないよ。獪岳は凄いなって言ってるんだよ」

「チッ、女狐が……。いつかその余裕ぶった顔凹ませてやるからな。覚悟しとけよブス」

「あーっ! またブスって言った! もうっ、そんなにひねくれてるから私と旭さん以外の女の人から嫌われるんだよ?」

「願ったり叶ったりじゃねぇか。テメェも寄ってくんな、醜女」

「もうっ、もうもうもう! 獪岳は女心が分かってないよっ。女の子にそんな態度だと旭さんにも嫌われるよ?」

「ハッ、やっすい挑発だなぉオイ。旭さんは態度を咎めはすれど、俺を嫌いになんかならねぇよ」

「獪岳、そういうの自意識過剰って言うんだよ。知ってた?」

「テメェやっぱそこに直れ。殺す」

「ふふ、私より遅い獪岳にはまだ無理だよ」

「言ったなオイ!! 絶対(ぜってぇ)殺す!!」

「がんばれー」

「逃げんな水女ぁぁぁあ!!」

 

「2人共仲が良くて何よりだ」

「あれが仲良しに見えるのか……?」

 

 捕まれば斬殺決定の鬼ごっこが始まった。何故だろうか、獪岳の口調と性格が風柱と似てきている気がする。……気のせいだろう。気のせいに違いない。

 旭は稽古場を縦横無尽に駆け回る2人を楽しそうに眺めた。

 一方で錆兎は贔屓目なしに可愛い継子を何度も「ブス」や「女狐」、挙げ句の果てには「醜女」呼ばわりしたあの男児をどう痛めつけようかと思い馳せながら眺めていた。

 対称的な2人だったが、ふと錆兎が振り返る。

 

「義勇、いつまでそんな所に居るんだ。こっちに来い」

 

 錆兎の呼び掛けで、1人だけ離れて見ていた男が彼女達の元へ寄ってくる。

 冨岡 義勇。錆兎と共に水柱として認められた男である。

 

「折角旭達が来てくれたんだ。一緒に鍛練でもしよう」

「……俺には関係ないことだ」

「説明があまり上手ではないから、俺が居なくても良いだろう、という意味かい?」

「? そう言っているだろう」

「「いや、言ってないぞ」」

「……そうか」

 

 冨岡はげせぬ、と思ったが、最も親しい2人が言うのならそうなのだろう。

 口下手ここに極まれり、である。これには流石に旭だけではなく最も付き合いの長い錆兎もため息もの。

 

「お前はもうちょっと、喋ってくれれば……」

「ああ、本当にな……」

 

 何故か憐れみの目を向けられる。

 心外。

 

「獪岳、そろそろ来い」

「っ! はい!」

 

 旭がいまだに真菰を追いかけ回していた獪岳に声をかければ、彼はすぐさま鬼ごっこを中断して旭の元へとやって来た。

 それに続いて、真菰も獪岳の隣に並ぶ。

 

「獪岳って旭さんのこと大好きだよね。私も鱗滝さんのこと大好き」

「うるせぇ女狐」

真菰(まこも)だよ。そろそろ名前で呼んでほしいな」

「黙れブス」

 

「獪岳。女の子にブスやら醜女やら言うのをやめろ。言うのは鬼だけにしろ」

「鬼だけにします」

 

 獪岳は旭にだけは確実に従順である。

 口は悪いが。

 

「もしくは私に対して言え」

「あんたのどこがブスなんだ。鏡見て言えボケ」

 

 旭も本気なのか冗談なのか分からないことを言う。……十中八九本気なのだろうが。

 そのせいでついつい本音が漏れる獪岳。これもいつも通りである。

 そんな会話が成された後、旭は錆兎と義勇に目を向けた。

 

「で……今日はどうする。打ち込み稽古でもするか?」

「そうだな……」

 

 水柱と鬼柱は基本的に仲が良いため、共に稽古をすることが多い。基礎的な柔軟、体力・筋力向上、太刀筋矯正……様々な鍛練も一緒にする。打ち込み稽古では違う呼吸同士……幸いにも水、雷、鬼と流派が違うため、お互いの長所短所も知ることもできる。

 それにお互い継子が居るので、先程のように2人の力量を測ったり足りない部分を見ることもあった。

 じゃあ、まずは……と旭と錆兎が考えていると、誰かの鎹鴉が屋敷の屋根に降りてくる。なんだ、と思っていると、鴉は叫んだ。

 

「カアアアッ! 水柱ァ、鬼柱ァ! オ館様ガオ呼ビダァッ! 直グニ屋敷ニ迎エェッ!」

「……任務か」

「だろうな」

「恐らく十二鬼月だろう。旭、刀は」

「獪岳、悪いが屋敷まで取りに行ってもらえるか。お館様の屋敷にまでは行けなくとも、呼ばれたのなら錆兎達と共に近くまで向かう」

「任務先に届ければ良いんですね。分かっています。そのまま共に任務というわけでよろしいですか?」

「賢いな、いい子だ」

「分かりました。早く行ってきてください」

「私も行くから大丈夫だよ、旭さん」

「は?」

 

 突然話に入ってきた真菰に獪岳は目を見開く。そして、あからさまに嫌そうな顔をした。

 

「来んな。俺1人で充分だ」

「でも、水柱が呼ばれたなら、きっと継子の私も一緒に任務に行くんだよ? それに、任務先で上手く旭さんと出会えるわけでもないし、その間獪岳の機動力も削がれちゃうんだよね。だったら、私と一緒に居た方がいいよ。ね、旭さん」

「まあ、言うことも一理あるか」

「嘘だろオイ」

 

 愕然としたような声を出す獪岳に、申し訳なさそうな目を向ける旭。

 

「元はと言えば、私が日輪刀を持ち歩いていなかったせいでもあるからな……。それで獪岳に傷でも出来たら切腹するしか……」

「旭やめろ。絶対にするな。些細な怪我ごときで切腹なんてするな」

「そうだぞ、旭。自虐癖はお前の短所だ。直した方がいい」

 

「カァァアアッ! 何ヲシテイルゥ! サッサト行ケェッ! オ館様ガオ待チダァアッ!」

 

 水柱2人に諫められる旭、急がせる鴉。

 不機嫌な獪岳とにこにこと読めない笑みを浮かべた真菰。

 全員は一度、この場で別れた。

 

 

 

*****

 

 

 

 死臭が、漂っていた。

 その屋敷の前には、ただただ死体が転がっていた。

 一足先に到着した真菰と獪岳。

 そこは水柱の担当地区と近い位置で、ひっそりと山奥に佇むお屋敷だった。鬼柱の現住居からもそこまで距離はなかった。旭達ならばすぐに到着するだろう。

 閉められた屋敷の門前には、無造作に死体が捨てられていた。どれほど放置されているのかは分からない。まだ暖かい、言い方が悪いが新鮮な死体もあれば、蛆が湧き蝿が(たか)っている腐敗死体もある。

 そのどれもが鬼殺隊士の服を着ていた。

 それを見て顔を歪め、口元を覆いながら真菰は呟いた。

 

「ひどい……」

「ここの鬼は悪趣味なのは分かる」

 

 獪岳はそう吐き捨てて、背中の大刀を背負い直す。布を丁寧に巻かれたそれは、獪岳の背丈とほぼ同等。

 

「……持とうか?」

「テメェに持てるような代物じゃねぇよ」

 

 機動力がかなり削がれるほどに相当重いはずだが、それでも肌見離さず持つのは敬愛すべき者の大切な刀だから。他のどうでもいい輩の物なら絶対投げ捨てている。

 しかし、非力な真菰が持てるような刀で無いことも事実。口調も言葉も悪いが、彼なりに真菰に配慮していた。

 

「じゃあ、どうする? ここで待ってる?」

「それしかねぇだろ。旭さんに丸腰で敵の本拠地に乗り込ませる気か、水女」

 

 軽口を叩き合っていると、どこからか不気味な音が聞こえてきた。

 

 ギィィィ……。

 

「!」

「何?」

 

 2人の警戒が高まる。

 2人が目にしたのは、屋敷の門が開く所だった。あれほどピタリと閉められていた、来訪者を拒絶していた門がゆっくりと、音を立てて開いている。

 

「……歓迎してくれてるのかな」

「はっ、本気でそう思ってんのなら笑えるぜ」

 

 勿論、真菰も本気でそうは思っていない。まだ日は高いが、屋敷の中はそうでもない。

 門から覗ける中は濃霧に包まれ、何があるのか分からなかった。あの霧もおそらく、敵の罠……血鬼術の(たぐ)いだろう。門の中から這いずるように吹き出ている。

 

「……気持ち悪ぃな」

 

 つい獪岳がそう言ってしまうのも頷ける。あれほど粘着な霧はそうそうない。現に、門の前で息絶えている隊士達を舐めるようにして這い出ている。

 霧がどんどん2人へと近づいてくる。彼らが霧に触れないように後退(あとずさ)るが、それよりも霧が2人の足元を包む方が速かった。

 更に霧の量が増す。

 どんどん門の奥から白い霧が流れ出て、2人の体を覆っていった。

 

「ちっ」

「ひゃっ? わぷっ」

 

 お互いの姿が見えなくなる前に、獪岳が舌打ち混じりに真菰を引き寄せる。それに彼女は小さな悲鳴をあげて、獪岳の胸元に顔を突っ込んだ。

 ……意外と硬くて男らしくて、不覚にもときめいた。

 

「テメェ、俺から離れんなよ。この濃霧だ。鬼と間違えて斬ったら旭さんも水柱もうるせぇからな」

(あ、何気に気にしてくれてるんだ……)

「……なにボケッとしてやがる、水女。刀抜けよノロマ」

「優しさは気のせいか……」

「あ?」

「ううん、何でもない」

 

 ちょっとだけ、ほんのちょっぴりだけ、私のことを心配してくれたと思ったのは勘違いか。

 まあ、元よりこういう性格なのは理解しているから落ち込むのも違うだろう。……根気強く行こう。

 真菰が謎の決心をしている中で、獪岳は回りを見渡して己の刀を引き抜いた。

 

(霧が深ぇな……。旭さんが心配だ。まあ、水柱があの人に掠り傷1つでもつけるとは思ってねぇが……)

「! 霧が晴れてきた」

 

 いつ、どこから、どのように攻撃されるのか、と2人が気を張っていると、僅かにだが霧の濃度が薄くなった。

 そのままどんどん白霧が晴れていき、周りの物の位置が分かるほどになる。

 そして、2人は唖然とした。

 

「……は?」

「……どこ?」

 

 立派な屋敷の庭に、2人は佇んでいたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どこかで誰かが舌舐めずりをする。

 

 

 

*****

 

 

 

『山奥の屋敷に行った隊士が戻ってきてないんだ。もしかしたら、“十二鬼月”の仕業かもしれない。これ以上剣士(こども)達が犠牲にならないためにも、君達に行ってほしい』

 

 お館様こと産屋敷(うぶやしき) 輝哉(かがや)は穏やかな声で錆兎と冨岡に命じた。「折角の休日に働かせてすまない」と少し申し訳なさそうに眉を寄せて。

 そして。

 

『旭にもよろしく伝えておいてほしい。休日にすまない、と。彼女は働きすぎる所があるからね。錆兎と義勇が見ていてあげておくれ。あの子は君達の前では少し気が抜けるようだから』

 

 ……とてつもなく嬉しいことをお館様から言われて、口元がにやけそうになるのを必死に押さえた2人。そのまま頭を下げてそそくさとその場を退散した。背中に受ける温かな視線は無かったことにしたい。

 2人を待っていた旭と合流した際、「2人とも動悸がしているが大丈夫か?」と不思議そうに問われた。なんとか知らぬ存ぜぬで押し通した。

 

 

 

 遅れて現場に到着した旭と錆兎、冨岡。

 まずは、と獪岳と真菰を探した。しかし、どこにも姿が見えない。

 

「……先に行ったのか?」

「いや、獪岳なら私のことを待つ。敵の罠にかかってしまった、と考える方が自然だ」

「だな。真菰も己の力を過信して敵地に突っ込むような馬鹿な真似はしない」

 

 3人の目の前には死体が転がる門、その奥には屋敷がある。

 空を見上げれば、厚い雲に覆われている。日光は届いていないようだから、鬼も活動できるのだろう。

 

「……旭はどうする」

 

 冨岡が彼女に投げかけた。

 旭は現在、大刀……“鬼斬り包丁”なるものを持っていない。それは獪岳が持っている。つまり、丸腰だった。それを危惧して冨岡は一応聞いてみたのだが、旭は平然と言い放つ。

 

「行くに決まっているだろう」

 

 このまま突入しても、旭ならそう易々とやられることもないだろう。元々の身体能力がずば抜けているのだ。

 しかし、煮え切らないように冨岡が食い下がる。

 

「だが……」

「それに、何か有ろうと無かろうと、君達が鬼の頸を斬ってくれるだろう。私は君達の実力を信頼している」

 

 そう、旭の傍には2人で1つの水柱がいる。たとえ自分に刀が無かろうが、2人ならば鬼を殺すことができると思っていた。彼女はただそれの補助にさえ入ることができればそれでいい、と。

 それを聞いて、水柱の2人は顔を見合わせた。

 

(……絶対守り切るぞ)

(当然だ)

 

 目を合わせただけで意志疎通を完璧に行う。

 2人からすれば、「君達が守ってくれるから大丈夫だろう」と言ったように聞こえたのだ。

 旭が考えている「自分のことは気にせず鬼を斬ってくれて構わない」ということとは少し違うかもしれないが、旭がそれを指摘することはなかった。

 もしも彼女に鬼が触れようものなら、そんなことが起きようものなら、その鬼は一瞬で細切れにされるだろう。

 2人とも、旭のことを大事に思っていた。

 音を立てて勝手に開いた門。3人は同時に中へと足を踏み入れる。

 

*****

 

 まず思うのは、静寂だということ。

 人っ子1人いない、人気(ひとけ)もない屋敷だった。上は白い霧に覆われている。

 旭は目を閉じ、耳を澄ませた。

 傍にいる2人の鼓動や呼吸音、森のざわめき、川のせせらぎ、鳥の鳴き声……、3つの声、落雷と滝が入り交じった音。

 ある程度の位置や地形を音で確認した後、旭は目を開いた。

 

「……真菰と獪岳もここにいるようだ。しかも交戦中」

「場所は?」

「あっちだ」

「急ぐぞ」

 

 3人は駆け出す。

 

 

 

*****

 

 

 

 時を少し遡る。

 獪岳と真菰は屋敷の中を彷徨(さまよ)っていた。

 

「……誰もいないね」

「鬼は確実だろ。お前しっかりしろよ、ぶ……しこ……、……水女」

「ねぇ、“ブス”とか“醜女”とか言おうとしてた?」

「言ってねぇだろ」

「言おうとしたでしょ」

「黙れ不細工」

「それ、ブスと変わらないよ」

 

 真菰の追及に舌打ちする獪岳。彼は歩く足を止めると、ぐるりと首と肩を回す。すると、ゴキゴキと凄まじい音がなった。

 

(……こんな重いもの、旭さんは片手で振り回してるんだよな……)

 

 改めて俺の師範は凄いと思い直した獪岳。真菰も立ち止まって、部屋の中を見渡していた。

 

(……普通の家みたいなのが、なんか不気味……)

 

 どこをとっても、違和感の感じない立派な造りの部屋。中をぐるりと見渡していると、獪岳から「おい」と声がかかった。目を向けたと同時に大きな音がした。獪岳が次の部屋への襖を蹴り倒しているのだ。今まで真菰が開けていたので、その豪快な開き方に少しばかり刮目する。

 どこか男らしさを感じた。……錆兎の影響だろうか、と思うくらいには豪快だった。

 

「何ボーッとしてやがる」

「……ううん、なんにも」

 

 ない、と言おうとして止めた。獪岳のその先の、次の部屋から何かが伸びていた。

 彼に向かって。

 

「獪が───」

 

 雷の呼吸 弐ノ型 稲魂

 

 真菰が呼ぶよりも早く、彼は瞬時に放てる5連撃を振り向き様に乱れ撃った。

 赤黒い血飛沫(ちしぶき)が舞うのを見ながら、獪岳は後ろへと跳び、もう一度抜刀。

 

 雷の呼吸 肆ノ型 遠雷(えんらい)

 

 遠距離斬撃を前方一面に放つ。黒い雷が轟き、部屋が一瞬で滅茶苦茶になり、切り刻まれる。

 ずたずたにしたその部屋から、白い霧が漏れる。白霧はぐにゃりと波打つと、手の形に変わり、獪岳へと襲いかかった。

 獪岳が再び技を出そうと刀を構えたが、ふいにその構えを変えた(・・・)

 

 水の呼吸 参ノ型 流流(りゅうりゅう)()

 

 舞うような足捌き、淀みなく流れる水の如く。真菰の水の刃が、獪岳へと襲いかかる白霧の手を全て斬り落とした。

 

 雷の呼吸 陸ノ型 電轟雷轟(でんごうらいごう)

 

 直後、空気が震えて雷鳴が轟く。黒き稲妻が四方八方を食い荒らし、無差別に全てを壊していった。まるで雷神の憤怒の如し。あらゆるものを抉り消し飛ばしていく。

 屋敷の一部が雷刃の威力に耐えきれず崩壊する。

 獪岳は平然と、真菰は慌てて崩壊に巻き込まれないようにと庭へ逃げた。

 

「ちょっと獪岳! 私も巻き込まれるところだったよ!」

「知るか。まあ、助けてくれたのは感謝してやるよ」

 

 傲慢不遜な言葉に真菰は口を尖らせた。この、上から目線な言い方さえ改めれば、もっと接してくれる人は増えると思うのに。

 真菰を見もせず、ただ真っ直ぐに自身が崩壊させた部屋の一部を見ている獪岳の横顔。彼女はそれから目を逸らして、彼と同じように屋敷へと目を向けた。

 白い霧が充満していき、直後、晴れていく。

 屋敷の中には、着流しを着た誰かが立っていた。

 白い長髪が靡いた。金色の瞳、黒の瞳孔は猫のように長い。額には2つの角、肌も青白く不健康そうだった。

 

 ───鬼。

 

 2人は刀を構え。

 彼は絶対零度の瞳を2人に向けている。

 

「貴様等……私の作品をよくも足蹴にしてくれたな」

「は?」

「……作品?」

「決まっているだろう、この屋敷のことだ」

 

 ふん、と鼻を鳴らして、鬼は2人を卑下した。

 

「この美しい屋敷を見学に来たのかと思い、招待したというのに……。靴も脱がず、挙げ句の果てには襖を踏み倒すという蛮行……赦すまじ!!」

 

 話しているうちに感情が昂ってきたのだろうか。最後には叫び、ギリギリと歯軋りをした。その際に見えた鋭い犬歯。それを己の中に渦巻く激情と共に剥き出しにする。

 

「貴様等、今までやって来たあの凡庸共と知り合いだな?」

「……門の前の遺体、あれは全てあなたがやったの?」

「当然だ。何が悪い」

 

 鬼はふん、と鼻を鳴らす。

 

「おかしなことを聞くな、女。逆に私の芸術を理解しない畜生共を生かす価値などあるのか? この静寂で調和の取れた美しい屋敷の中で喚き散らし物を壊す……そんな輩を排除したまでだが?」

 

 真菰はすっ、と目を細めた。

 屋敷を壊したくらいで人を殺すその感性が理解できなかったのだ。屋敷は壊れても直せばいいが、人は殺せば2度と生き返らない。

 あまりの言い草に真菰が閉口していると、獪岳が面倒くさそうに吐き捨てる。

 

「ごたごたぎゃーぎゃーぴーぴーと……よく回る口だぜ」

「……口を慎め、凡人。誰の前だと思っている。天才芸術家、燈霧(とうむ)の眼前だぞ」

「知るかよ。そんな名前、聞いたこともねぇ。さてはお前、そこまで有名じゃねぇんだろ」

 

 今度は獪岳が鼻を鳴らす番。

 鬼……燈霧と名乗った鬼は顔をしかめた。

 

「まあそりゃそうか。こんな所までわざわざ足を運んで評価してくれるような人はいないだろうしなぁ」

「死ね、(ごみ)が」

 

 血鬼術 白霧(しろきり)

 

 燈霧の体から濃霧が発生。直後、手の形になると獪岳へと襲いかかった。彼は「はっ」と軽く笑い飛ばすと、迎撃の構えを取り、呼吸を深めた。

 

 雷の呼吸 弐ノ型 稲魂

 

 5連撃でその手を全て斬り落とし、獪岳は後方へ退く。

 燈霧は顔中に血管を浮かび上がらせて、唾を散らして喚いた。

 

「貴様は生かして帰さん!! 塵芥(ちりあくた)の存在で私を馬鹿にしたこと、死んで後悔しろ!!」

「こっちの台詞だぜ!! その頸斬り落としてやる!!」

「もう、血気盛んだなぁ」

 

 「獪岳、旭さんの刀持ってるの、忘れてないかなぁ」なんて、呑気に言いながらも彼女は燈霧に肉薄した。

 その素早さに燈霧は目を見開く。

 

 水の呼吸 壱ノ型 水面斬(みなもぎ)

 

 横一閃。

 頸を狙った一撃を燈霧は避けることもなく、平然と受けた。

 すっぱりと、首が刎ねられる。

 しかし、真菰は目を驚愕で見開いた。

 

「っ!?」

 

 手応えがない(・・・・・・)

 確かに頸を斬っている。宙に舞う生首がその証拠だ。それなのに、振り抜いた刀から感じるこの軽さは異常。

 真菰と目が合った燈霧は口元に嘲笑を浮かべていた。

 途端に燈霧の体を構成していたものが解けて霧になり、真菰を強襲する。

 

 水の呼吸 肆ノ型 ()(しお)

 

 瞬時に斬撃を流れるように繰り出し、その場から離れる真菰。その背中にとん、と重みと固いものが当たった。……獪岳だ。

 背中合わせで2人の周囲を囲む霧に向かって刀を構える。

 

「おい女狐! あの鬼どこ行きやがった!」

「霧になっちゃったから、分かんない」

「ちっ、使えねぇ……。しかもこの霧がうぜぇ」

「取り敢えず、蹴散らしてから……む」

 

 ふと、空気が変わった。

 途端に霧が晴れる。いや……斬り飛ばされた。

 チン、と鍔鳴り。

 2人の目の前に現れたのは、宍色髪の男と半々羽織りの男。

 

 水の呼吸 拾ノ型 生生流転(せいせいるてん)

 

 回転する度に、攻撃する度に威力を増す技。荒々しい波を連想させる刃と流麗に流れる川を思わせる静かな刃が霧を吹き飛ばしたのだ。

 

「大丈夫か、2人共」

「……よく耐え抜いた」

 

 水柱の錆兎と冨岡である。

 真菰はパッと顔を輝かせて、獪岳は「遅ぇ…」とぼやいた。

 

「……旭さんは?」

「ああ、そこに居るぞ」

 

 錆兎の目線の先には、勿論、旭。

 獪岳はすぐさま彼女に駆け寄ると、体を確認する。服装の乱れや傷がないことに頷き、背中に背負っていた鬼斬り包丁を外して差し出した。

 彼女はそれを受け取ると、手慣れた様子で背中にくくりつける。

 

「ありがとう」

「いいえ、継子ですから。余裕です」

「後で肩を揉んでやろうな」

「………」

 

 獪岳はじろりと旭を睨むと、ふいと彼女から離れていった。照れ隠しである。

 それに真菰が「素直じゃないなぁ」なんて呟けば、「おい水女、ちょっとそこに座れ」と獪岳が刀を抜きかける。

 

「で、鬼はどこだ? 先程の状況を見るに、白い霧に姿を変える血鬼術だと推測するが」

「そうだよ。私達も霧でここまで連れてこられたから、間違いないと思う」

「そうか。真菰、体に異常はないか」

「うん。屋敷が作品だとかなんとか言ってたから、多分連れてくる以外に何もなかったと思う」

「作品?」

「なんか……芸術家っぽい感じの鬼だった」

 

 真菰が情報を共有する。

 それを聞いた水柱2人は、旭を見遣った。

 

「旭、鬼の居場所は分かるか? おそらく屋敷のどこかに本体があるはずだ……」

「……いや、わざわざ捜す必要はないだろう」

「……どういうことだ?」

 

 彼女は己の愛刀を抜き放つ。

 

「鬼は芸術家気質で屋敷を大事にしている。そうだな、獪岳、真菰」

「……はい」

「? そうだよ、旭さん」

「それだけ分かれば充分だ。要するに向こうから来ざるを得ない状況を作ればいい、ということだ」

 

 彼女はニィ、と悪寒を覚えさせる笑みを浮かべて、大刀を肩に担いだ。

 そして、獪岳へと目を向けた。

 それに、獪岳も彼女に似た凄惨な笑みを顔に浮かべる。

 

「ブッ壊す。そっちの方が手早く済む」

 

 鬼の呼吸 肆ノ型 死屍(しし)累々(るいるい)

 

 雷の呼吸 陸ノ型 電轟雷轟

 

 雷が迸り、死へと誘う斬撃が巻き起こる。

 周囲無差別に放たれた剣嵐が屋敷を引き裂き、崩壊させる。美しく敷き詰められた丸い白石が巻き上げられ、綺麗に磨き上げられた板や屋敷を支える柱が木っ端微塵と化す。

 錆兎達は咄嗟に身を屈めてその場に硬直した。こうなった時は逃げるよりもその場に留まって縮こまっていた方が吉。無駄に器用な2人は、ある箇所だけに斬撃がいかないように出来るからだ。動いた方が危ない。

 

「……豪快だな」

「適当だろ、これ。真正面から仕掛けるというのは男らしいが……」

「獪岳って絶対旭さんの影響受けてる……」

 

「すっきりしたな」

「そうですね」

 

 無茶苦茶な正面突破にも彼らは慣れたもの。長年付き合ってきているのは伊達じゃない。

 

「貴様らぁぁぁあああ!! 私の屋敷に一体何をするぅぅうぅ!!」

「あ、出てきた」

 

 旭の狙いどおり、憤怒の形相で出てきた鬼。早い登場である。

 

「どいつもこいつも何故私の芸術を理解しない!!」

「大勢の人を食っておいて、そんな都合の良いことがよく言えるな」

 

 錆兎が吐き捨てれば、燈霧は唾を撒き散らしながら怒鳴った。

 

「黙れ凡人共がぁぁああぁあ!! この屋敷から出て行けぇぇぇえええ!!」

 

 血鬼術 白蟲霧(はくちゅうむ)

 

 濃霧が発生。それは無数の白い虫に変わる。数にして数千。それはギチギチと顎を鳴らして、全員に襲いかかった。

 

 水の呼吸 参ノ型 流流舞い

 

 水の呼吸 玖ノ型・(かい) 水流飛沫(すいりゅうしぶき)(じん)

 

 水の呼吸 拾壱ノ型 (なぎ)

 

 雷の呼吸 弐ノ型・(かい) 稲魂(いなだま)万雷(ばんらい)

 

 鬼の呼吸 伍ノ型 狂乱怒濤(きょうらんどとう)

 

 水が舞い、雷鳴が幾重にも轟き、鬼の如し怒濤の連撃。それが一瞬で白霧虫を蹴散らし、霧を晴らした。

 それに燈霧が呆けている暇もない。

 己のすぐ傍に冨岡の姿があったからだ。

 

 水の呼吸 肆ノ型 打ち潮

 

 燈霧は思わず見惚れてしまう。

 冨岡の技はとにかく美しい。流れるような動きはまさしく流水。努力し磨き上げられ、洗練された技の麗しさは歴代柱でも頂点を争う。

 現に、敵に見惚れられたその連撃は、相手の四肢を綺麗に切断していた。

 すぐさま錆兎が上空から強襲。神速の力強い踏み込み、そして跳躍。それだけで足裏の石が砕けて、地面が揺れたような錯覚が起きる。

 

 水の呼吸 捌ノ型 滝壺

 

 上から叩き落とすように振り落とされる彼の刀は、確かに硬い鬼の体を両断した。その衝撃で地面にヒビが入り、割れる。ただその一撃に全身全霊をかける、技の中でも威力最高のこの捌ノ型は、錆兎に使われることで更に威力に拍車をかける。斬撃に沿うように裂けた地面がその証拠だ。

 更に追撃。

 両断され硬直した鬼に向かって、旭が腰で構えるように大刀を持ち、冨岡の後ろから飛び出した。

 

 鬼の呼吸 壱ノ型 鬼殺(おにごろ)

 

 豪快に横一線に振り抜かれた鬼斬り包丁が、鬼の頸に食い込んだ。直後、半分にされた頭達が宙に舞う。鬼の呼吸はとにかく威力や手数重視。一撃の重さならば岩の呼吸にも勝るとも劣らない。その中でも、壱ノ型は威力が高かった。

 水柱と鬼柱の見事な連携。

 頸を斬られた燈霧は、目を見開き、口をパクパクと動かしながら塵となり消えていった。

 

「旭、他に気配を感じるか?」

「……いや、あの鬼1体だけだったようだ。……ん」

 

 周りが明るくなる。

 彼らが目線を上げると、日光が燦々と降り注いでいた。あれほど太陽を拒絶していた霧が晴れていたのだ。

 それで不思議と気が緩まり、お互いに顔を見合わせて笑ってしまう。

 

「……終わったな。皆、怪我はないか」

「ないよ、錆兎。でも、思ったより強くなかったね。あんなに沢山隊士がやられてたのに」

「殺しただけで食ってはいなかったんじゃねぇか? 見た感じ偏食そうだったぜ」

「……旭、鮭大根」

「後で沢山作ってやる。まずはお館様に報告だろう」

「待て待て、隊士達を土葬してやろう。一応隠も呼んでいるが、あの数だからな」

 

 穏やかな会話。

 錆兎と旭が指示を出しながら、5人は門の前へと向かう。

 失った命は戻らない。

 儚く、脆い。

 しかし、だからこそ、美しく大切なものなのだ。

 今在るこの時間を、是非とも大切にしていきたい。

 なんでもない、この日常を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*****

 

 後日談、其の壱。

 

***

 

 炭治郎、善逸、伊之助が蝶屋敷に来た時である。

 

「あっ、あの人、善逸の兄弟子じゃないか?」

「えっ、獪岳?」

「あ? どれだ?」

「ほら、あれ」

 

 炭治郎が指差した先には、黒髪に太い眉、気の強そうな目つきをした男……確かに、獪岳が居た。目を閉じて壁にもたれかかっている。

 いつもの黒の隊服は着ておらず、灰色の着流し姿であるのが不思議だった。今日は休日なのだろうか。

 

「どうしたんだろう。怪我でもしたのかな? 話しかけてみるか?」

「バカバカバカ、ほんっと炭治郎! おっかねぇよ炭治郎! 話しかけたらまたカスだの馬鹿だの消えろだの言われるに決まってるじゃん! やだよ俺! 罵倒されると分かって行かねぇからな!?」

「でも、一応知り合いで先輩なんだし……」

「いいんだよ放っておいてさぁぁあ! お前ほんと度胸あるよな!? 怖ぇよその真面目さが!」

「あ? おい、権八郎。あの狐女、お前の知り合いじゃねぇか?」

「え?」

「狐?」

 

 建物の陰から出てきたのは、狐の面を頭に着けた美少女である。

 黒髪に青い瞳。ふわふわとした優しくもミステリアスな雰囲気を纏った人である。

 この人も隊服ではなく、花柄のかわいらしい着物に袴というハイカラな服装だった。可憐、という言葉が炭治郎の頭の中に浮かび上がる。

 

「あれ、真菰だ。私服なんて珍しい……」

「真菰さん!? こんなところで遭うなんて運命!? しかも私服!? やだかわいいが溢れてるんだけど!? 俺ちょっと話しかけて……」

 

 

「獪岳、待った? つき合わせてごめんねっ」

 

 

 ───善逸がピシリと固まった。

 その間にも、時間は流れている。

 

「チッ……遅っせぇんだよ、ノロマ。ぐずぐずしてんじゃねぇよ。町に行く時間が減るだろうが」

「だからごめんねって言ってるのに……。だから獪岳は私以外で友達がいないんだよ」

「うるっせぇ。付き合ってやったんだから、とっとと行くぞ。旭さん待たせてんだ」

「旭さん、旭さんねぇ……むぅ」

 

 ……つき合ってるのか?

 

 さっさと蝶屋敷を出ようとする獪岳。

 その後ろを少しむくれながらも着いていく真菰。

 炭治郎も善逸も、あの伊之助でさえも(意味が分からずただ見ているだけかもしれないが)、ただ呆然とその光景を眺めることしかできなかった。

 

「わっ」

 

 真菰がふらつく。慣れない履き物をしているからだろう。炭治郎が咄嗟に駆け寄ろうとして……足を止めた。

 

「危ねぇな」

「あ、ありがとう」

「ふらつくならそんなもん履いてくんじゃねぇよ。馬鹿か」

 

 獪岳が真菰を抱き止めたのだ。善逸がぎょっとした。

 

(あの獪岳が、女子を助けた……だと……?)

 

 善逸が知っている獪岳とは、傍若無人ですぐに人を傷つける言動をしている、善逸史上最低最悪の自己中心的な男だ。善逸は彼のことを尊敬こそしているが、それでも大嫌いだった。

 ……その獪岳が女の子を、人を助けた?

 にわか、到底信じられることではないが、しかし事実である。現在進行形で目の前で起こっていることなのだ。

 

「服におしろいつけられちゃ困るからな。旭さんの前で変な格好してられねぇだろ」

「もうっ、旭さんが大好きなのは分かるけど、私だっておしゃれしてるんだからね!」

「はっ、馬子にも衣装」

「むうっ……! 本当、女心が分かってないよ、獪岳は。そこはお世辞でもかわいいって言ったら、女の子は喜ぶんだよ?」

「俺が褒めるのは旭さんただ1人だ。他の女なんてどいつもこいつも不細工にしか見えねぇ」

「うわ、最低……」

「まあ、お前はその中でもマシな方だけどな」

「……ほえ?」

「おら、行くぞ。ぐずぐずしてんな、水女」

「ね、ねぇ! 今なんて言ったの? 獪岳! ねぇ、私のこと褒めた!? ねぇってば!」

「そう聞こえたのか? お前、1回頭調べてもらった方がいいぜ。幻聴の症状が出てる」

「わ、やっぱり最低だ……」

 

 ……付き合ってるのか?(2度目)

 

 2人はそのまま蝶屋敷から出ていく。最後まで炭治郎達の視線には気づくことはなかった。

 3人はしばらく固まっていたが、ふと、炭治郎が呟く。

 

「……つき合ってるのか? あの2人」

「やめてぇぇぇぇえええ!!!」

 

 善逸が頭を抱えて絶叫した。その声量に流石の2人もギョッとして肩を跳ね上げた。

 

「嘘だ嘘だ嘘だぁぁぁあ!! いやぁぁぁあ獪岳が真菰さんと!? あのミステリアスでふわふわしててめちゃめちゃかわいい真菰さんと!? うっっっそだろぉぉ信じられるかぁぁあああ!! あ"ーーーーーー!!!!(汚い高音)」

「お、おい、善逸! 落ち着いてくれ! 獪岳さんが誰とつき合ってもいいじゃないか! 確かに真菰は俺の姉弟子で、ちょっと信じられないけれど、お互いに好き合ってるなら良いことだと俺は思うぞ!」

「悪夢!? 夢!? もしかして俺夢の中!? ねぇ誰か俺のこと殴ってくれない!? 今すぐこの夢から覚めたい!!」

「これは現実だぞ、善逸!」

「よっしゃ! 山の王に任せろ!」

「げぶぉ!?」

「伊之助ーーー!!」

 

 派手に騒ぎだした3人。

 この後、額に青筋を浮かべたしのぶから怒られたのはまた別の話である。

 

 

 

 

 

「あれ、蝶屋敷が騒がしいね。どうしたんだろ……」

「知るか」

「あ、真菰。用事は済んだのか?」

「あっ、旭さーん!」

「すいません、旭さん。待ちましたか?」

「いや、それほど待ってない。じゃあ街に行こうか」

「はーい♪」

「はい」

 

 

 

*****

 

 後日談、其の弐。

 

***

 

「旭は元気みたいだね。よかった」

 

 産屋敷邸にて。

 今回の報告書を妻のあまねに読んでもらい、輝哉はそれを聞いて微笑んだ。

 

 日向 旭。

 

 柱を務める、重い生い立ちと宿命を持つ女性。

 何より、あの鬼舞辻と血が繋がっているというのなら、彼女は輝哉とも血の繋がった遠い家族と言える。

 心配しないはずがなかった。

 できればこの屋敷にも招いて食事を共にしたいのだが、本人が頑なに断っているため実行できないでいる。どうにかして、せめて1度くらい家族全員で共に食卓を囲みたいのだが……と日々策を練っている。

 

 彼女が鬼舞辻 無惨の娘だと分かったのは、初めて顔を合わせた時だった。

 

 輝哉の父親がまだ存命の頃、初めて出会った。

 女性ではなく少女と言える年齢の彼女は、今にも死にそうな目をしていた。

 全てに絶望し、全てに嫌悪し、ただただ謝罪を繰り返す、人のためにと贖罪だからと己を傷つける、そんな少女だった。

 

(もう10年も経つのか……)

 

 だが、今はどうだろう。

 継子に恵まれ、周りから慕われ、気遣われている。

 手紙では本人は嫌だ面倒だと書いていたけれど、鴉から聞く旭の近況はとても充実しているように感じた。

 

「あまね、手紙を送ってくれるかな」

「はい。旭様にですね? 内容は」

「そうだね……。今度、輝利哉(きりや)達の護衛をしながら街に連れていってもらえないか……なんて、どうだろう」

 

 産屋敷家は代々短命の血筋。だからこそ、教育を厳しく、より速く1人前になってもらわなければならない。しかし、彼らもまだ子供である。世間を知らず、知識だけを詰め込んでも仕方がない。

 勉強の息抜きや社会見学と称して、たまに街に連れていくのも良いことだと輝哉は思ったのだ。

 そんな輝哉の考えを理解したのか、あまねはうっすらと微笑んで言う。

 

「ええ、いいかもしれませんね。その帰りに食事に誘ってみるように輝利哉に伝えておきましょうか?」

「それはいいね。旭にもう一度会えるといいんだけど」

 

 2人は微笑み合い、愛しい家族に送る手紙の内容を考え始めた。



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6話「柱合会議……?」

 柱合(ちゅうごう)会議(かいぎ)

 半年に1度、当主・産屋敷(うぶやしき) 輝哉(かがや)の元で開かれる柱の会合である。そこでは鬼殺隊の今後を決める、重要な報告や議論を行っていた。

 そこに毎回参上しない柱がいる。

 

 鬼柱・日向(ひなた) (あさひ)

 

 彼女は柱は柱でも、鬼殺隊の怨敵……鬼舞辻(きぶつじ) 無惨(むざん)の娘という特異な生い立ちの女性である。

 始祖の鬼の娘というわけで、本来なら鬼殺隊には相応しくない女だが、現当主の輝哉は寛容に彼女を受け入れ、柱という役職を与えてくれたのだ。

 その偉大さと懐の広さに旭も感動したもの。だから、輝哉のことを他の柱と同等、いやそれ以上に尊敬している。

 だから、その分過保護になるわけで……。

 鬼の娘という特殊な血筋の彼女は、誰よりも己のことを警戒していた。

 自身がどのような行動を起こすのか、また鬼舞辻が何かしら自身に呪いをかけていたら……と思うと無闇矢鱈と産屋敷家には近づけなかった。

 鬼舞辻と産屋敷はお互いに牽制し合い、お互いにその喉元に食らいつこうとしている。彼女はそれを自身のせいで崩したくない、鬼殺隊に大打撃を与える切っ掛けになってはいけない、と思っていた。

 つまり、柱合会議は自主的に参加していないのだ。

 自身が居るとお館様に危険が迫るかもしれない、という考え故の行動。

 しかし、柱合会議の内容もとても大事なものであることには変わりない。

 というわけで、いつも旭担当の鎹鴉(かすがいがらす)が会議の内容が綴られた手紙を受け取ってくるのだ。

 

 ただ、最近は……。

 

 

 

*****

 

 

 

 旭は軽く死んだ顔で目の前の光景を見ていた。

 

「よー、旭! 地味に久しぶりだな! 元気そうで何よりだ!」

「帰れ」

「待て待て待て待て」

 

 すぐさま開いた門を閉めようとしたが、その前に目の前の男が隙間に足を入れたため、閉めることができなくなった。

 

「そう邪険にするなっての。いつものことじゃねぇか」

「少し前まではこれが異常だった」

「んなこと言う、な"っ。いっででででで! おい馬鹿野郎! 本気で閉めようとしてんじゃねぇ! 俺の足を粉々にする気か!?」

 

 

「なっちまえど畜生が」

「お前ほんと口悪ぃな!?」

 

 

 心底嫌そうな顔で吐き捨てた旭は必死になって門に力を入れた。しかし、この男もかなりの怪力だ。力ずくで門をこじ開けようとしている。半分鬼の彼女であっても、そう簡単にはいかない。拮抗していた。

 しかし、閉めねばならぬのだ。ここで躊躇していたら旭に面倒が起きるのだから。

 

「こいつ、ほんっと女辞めてやがる……!」

「宇随は何を言っている! 旭さんはしっかり女性だろう!」

「……旭は、女だ。男じゃない」

「んなこと知ってんだよ! この怪力加減を言ってんだ! 女じゃねぇだろ!」

「おい宇随、それは日向さんだけではなく甘露寺も侮辱していることになるのだが? どういうつもりだ貴様。何様のつもりだ。撤回しろ。さっさと撤回しろ。女性が怪力で何が悪い。何を無視している速く撤回しろさもなければ斬る」

「そうだぞ、宇随。その力強さも旭の長所だ。馬鹿にするんじゃない、彼女に失礼だ。今すぐ謝れ。じゃなければ宇随、お前を斬らなければならない」

「いや、伊黒と鱗滝は何にキレてんだよ。むしろ旭にキレやがれよ、俺じゃなくて。状況考えろ……うおっ、ホントに刀抜きやがった!? 馬鹿かお前ら!?」

 

 

「ふんっ!!」

「あ"っ!?」

 

 

 旭、勝利。

 宇随が他のことに気を取られた隙に門を閉じた。鍵もして開けられないようにする。これでようやく安心した彼女はホッと息を吐いた。後は諦めて帰ってくれるだろう。

 旭がパンパンと手を払っていると、門の向こうから例の人達が騒ぐのが聞こえてきた。

 

「いやお前ら手伝えよ!! 何呑気にのほほんと見てんだ!! 旭が一筋縄でいかないの知ってるよなぁ!?」

 

「あら、すいません。だけど、私は非力ですので、手伝ってもお力にはなれないと思いまして……」

「……あれ、どうして僕はこんなところに……。ここ、どこだっけ……? 何しに来たんだっけ……?」

「ご、ごめんなさい宇随さん! で、でも、どう手伝えばいいか分からなくって……! ほんとにごめんなさいっ!」

「うむ! 甘露寺と同意見だ! 宇随、すまなかった!」

「南無……旭には困ったものだ」

「……俺に関係ない」

 

「お前が余計なことを言うからだろう。お前の責任だ、間抜け。他人(ひと)のせいにするんじゃない」

「まだ旭への謝罪の言葉を聞いていない。言え」

「甘露寺にも謝れ。土下座して詫びろ」

 

「お前らは黙っとけ!! なんか腹立つわ!」

 

 人の家の前で騒ぐな。さっさと帰ってほしい。いつまで居座る気だ。

 そう思うくらいには、旭はげんなりしていた。獪岳は真菰と一緒に任務に行っており、いない。さて、どうしようかと思っていると、外から不穏な声が聞こえてきた。

 

「宇随、退けェ。俺が開ける」

「いやだから……閉じてんだって。見りゃ分かるだろ。旭のやつ、俺達が来るって分かってんだ。もう門なんか開けねぇぞ」

 

「あァ? 何言ってんだ、ぶち壊すに決まってんだろォ」

 

「「……は?」」

 

 宇随の呆けた声に旭の声も重なる。屋敷へ戻ろうとしていた足が止まり、門を振り向く。

 ……不穏な空気。

 

「おらァァッ!!」

 

 ドギャゴッ!!

 

 直後、門が吹き飛んだ。……いや、語弊だ。門が吹き飛ぶ勢いで開いた、の方が正しい。その衝撃で門が可動域を越えて開いて壊れた。

 ……まあつまり、結局のところ、壊れたのだ。

 

「邪魔するぜェ」

 

 それを成したであろう……いや、確実に成した人物は、我関せずというように門の中へと踏み込んでくる。

 風柱・不死川(しなずがわ) 実弥(さねみ)

 その男を見て、旭は己の口元がひくりと引き攣ったのが分かった。

 

「不死川……お前……」

「あ"? さっさと門開けねぇお前が悪ぃだろ。修理の申請と費用は出してやるから気にすんな」

「そういう問題じゃない。帰れと言ったんだ、私は」

「ごちゃごちゃうるせェ。いい年した女が我が儘言ってんじゃねぇよ」

 

 そう吐き捨てて、ずかずかと遠慮なく屋敷の中へと上がり込む厚顔無恥な男に、これでもかと深いため息を吐く旭。

 その瞬間、ぬうっ、と旭の背後から現れた太い腕が首に巻きついた。それに驚いたのは初めの一瞬。すぐに誰かに気づき、彼女は遠い目をした。

 

「てんめぇ、旭。この俺様の足を壊そうとしていたなぁ。この祭りの神である俺様の足を」

 

 シャラリと玉が連なる髪飾りが揺れる。ずいと旭の顔を上から覗き込むように見下ろすのは、音柱の宇随(うずい) 天元(てんげん)である。

 

「……君が門の間に足を挟み込んだからだろう。私のせいにしないでいただきたい」

「はああああ? 嫌だね。あれは確実にお前が悪い。詫びとして今度泊まりに来い」

「断る」

「来いっつうの」

「断る」

「嫁がお前に会いたいっつってもか?」

「……。……断る」

「よし、今度泊まりに来いよ」

「断っただろうが……」

 

 身長6尺以上もある男……宇随はしたり顔でぽんぽんと旭の頭を撫でると、口笛を吹きながら玄関をくぐった。

 それを見送った直後、どん、と腰辺りに衝撃が走る。

 

「旭さんっ」

「……無一郎か」

 

 満面の笑みで旭にしがみつき、ぐりぐりと頭を擦り付ける少年……時透(ときとう) 無一郎(むいちろう)。14歳、剣を持って2ヶ月で霞柱にまで登り詰めた、正真正銘の剣の天才である。

 いつものぽやっとしたあの雰囲気と表情はどこにいったのだろうか……と他の人は思うかもしれないが、旭を視界に映すと大抵こうなる。

 時透は大変旭に懐いているのだ。

 

「旭さんっ、旭さんっ」

「どうした」

「大好きっ!」

「そうか、ありがとう」

「ふろふき大根食べたい!」

「そうだな……柱稽古のついでに食べに来るといい」

「旭さん大好き!」

「そうか、ありがとう」

 

 ぎゅうぎゅうと旭の体に回した腕に力を込める時透。それで満足したのか、パッと離れると「約束だよ! 僕が忘れてても旭さんが絶対覚えててね!」と笑って屋敷の中に入っていった。

 直後、旭の耳に「あれ、俺何してたっけ……?」という時透の呟きが聞こえてきた。もう忘れたのか、と旭は逆に感心していた。どういう仕組みなのか、是非とも誰かに解明してもらいたいものだ。

 

「旭さん久しぶり~っ! 相変わらずモテモテですねっ! 私とってもキュンキュンしちゃった!」

「うむ! 妬けてしまうな! 俺も抱き締めてもいいだろうか!」

「全くどういうつもりだ。俺達も暇ではないのだ。俺達が来たらすぐに門を開いて待っているべきだろう。余計なことで手間取らせるんじゃない」

 

 続いて、旭に話しかけたのは3人。

 桃色の髪で、毛先と瞳が若草色の女性。

 炎のような髪色と瞳をした男性。

 小柄で口元を包帯で覆い、白蛇を首に巻きつけている男性。

 順に恋柱・甘露寺(かんろじ) 蜜璃(みつり)、炎柱・煉獄(れんごく) 杏寿郎(きょうじゅろう)、蛇柱・伊黒(いぐろ) 小芭内(おばない)である。

 3人共に全く別の話をするため、旭は少し困ってしまう。

 

「甘露寺は久しいな。煉獄はとりあえず恥ずかしい真似をするな。伊黒は帰れ」

「どういうつもりだ貴様」

 

 結局、一言ずつ3人に告げることにした。

 ど直球に言う旭に伊黒は眉間に皺を寄せる。旭はため息を吐きながら言う。

 

「……冗談だ、1割ほど。伊黒だけではなく全員帰ってほしいんだが」

「馬鹿か貴様は。柱としての責任感というものが無いのか。大体こうなったのも貴様が柱合会議に来ないからだろう。あの方の心遣いに感謝しろ」

「あー、分かった分かった」

「分かってない。大体貴様は……」

「甘露寺、伊黒を連れていってくれ。頼む」

「わっ、分かったわ! 伊黒さん、行きましょっ」

「待て甘露寺。俺はまだこの馬鹿に……いや、後からでもいいか。行くぞ甘露寺」

 

 ネチネチ口撃は流石の旭でも堪えるのだ。

 甘露寺に頼んで屋敷内に強制連行してもらった。伊黒は甘露寺に弱いことは知っているため、大人しく甘露寺に腕を引かれていく。

 さて、後は……と目を入り口の方に向けて、ぎょっとする。

 目の前に黒い壁……もとい、煉獄が立っていた。

 黒い壁だと思っていたものは隊服か、と旭は少し体を仰け反らせてようやく気づく。そして、その距離の近さに旭は眉を寄せた。

 

「……近いぞ。距離感を考えろ」

「抱き締めても構わないだろうか!」

「……私、断っただろう?」

「よもや! では嫁に来てください!」

「行かない」

「よもや!」

「何度も言っているだろう……はぁ」

「む」

 

 ため息を吐く旭は(おもむろ)に煉獄の頭に手を伸ばすと、そのまま癖のある髪をわしゃわしゃと撫でてやった。

 それに煉獄はピシリと固まる。

 

「この程度でいいならいくらでもやってやろう。……許可なく頭に触れて悪かったな」

「……いいえ。旭さんが触れてくれるのなら、いつでも大歓迎です」

 

 にっこりと、太陽のように笑った煉獄に、旭は再び息を吐いた。

 ……たまに見る、この大人の色気が旭は苦手だった。いつもの元気の良さはどこへ消えた、と問いたいのを抑えて、屋敷に入れと促す。

 

「旭さん、相変わらず大変そうですねぇ」

「おっ……!?」

 

 耳元でこしょこしょと囁かれ、肩を跳ね上げた旭。バッ、と耳を押さえて振り向けば、くすくすと笑っている蟲柱・胡蝶(こちょう) しのぶの姿があった。

 

「胡蝶、旭に悪戯を仕掛けるんじゃない」

「あら。ごめんなさい、鱗滝さん。反応見たさについからかってしまいました」

 

 諫める声と共に旭の元へやって来たのは、水柱の鱗滝(うろこだき) 錆兎(さびと)冨岡(とみおか) 義勇(ぎゆう)である。

 錆兎がしのぶに向かってきつめの視線を飛ばすが、彼女は特に堪えてもいないようでにこにこと笑みを崩さない。

 冨岡もしのぶと旭を見て一言。

 

「……厄日だな」

「冨岡さん? それ、どちらに向けて言ってます? 距離が近い私への当てつけですか? それとも旭さんを慮っての労いの言葉ですか? もしもーし、聞いてますー? そんなだから皆さんから嫌われるんですよ」

「……俺は嫌われていない」

 

 「ねぇねぇ冨岡さん」と悪戯心(?)の矛先を冨岡に向けるしのぶ。その間に錆兎は旭に苦い笑みをしてみせた。

 

「大勢で押し掛けてすまないな」

「そう思ってるなら是非とも帰ってほしいんだが……。まあ、しょうがない……のか?」

「はは……今度わらび餅を食べに甘味処に行くか? ……できれば、2人で」

「ん? 君がよければ私は構わない。任務が無い日にでも行くか」

「決まりだな」

 

 ニッ、と満面の笑みを浮かべる錆兎に旭も笑い返した。彼が時折見せる、この子供のような笑みが旭は好きだった。つい微笑み返してしまう。

 ちなみに錆兎は後ろ手で拳を作ってガッツポーズをしていた。

 

「義勇、そろそろ中に入るぞ」

「……ああ」

「あらあら、鱗滝さん。冨岡さんに内緒で逢い引きのお約束ですかー?」

 

 錆兎が声をかけてくれたことにホッとしたような表情を微かにする冨岡。

 一方でしのぶは茶々を入れたが、錆兎は首をかしげただけだった。

 

「別に隠した訳じゃない。義勇にも後で伝えるつもりだった」

「そうですか。相変わらず、お2人は仲が良いようで安心しました。じゃないと、冨岡さんが1人孤独になってしまいますからね」

「……俺は孤独じゃない。錆兎と……旭がいる」

 

 冨岡が旭に一瞬視線を寄越したが、すぐに屋敷の玄関へと向かった。

 そっけない言葉だったが、3人は見た。冨岡の耳が赤くなっているところを。

 

「全く……。胡蝶、俺は義勇を追いかけるが、一緒に来るか?」

「そうですねぇ。行きましょうか」

 

 しのぶと錆兎も冨岡の後を追いかけるようにして、玄関へと消えていった。

 旭はそれを見届けた後、振り返る。

 後の柱は1人しかいない。

 

「すまないな、旭。失礼するぞ……」

 

 両手を合わせて、じゃりじゃりジャラジャラと数珠を鳴らす、岩のような巨体を持つ男性だった。

 岩柱・悲鳴嶼(ひめじま) 行冥(ぎょうめい)

 彼は両目から涙を流しながら旭に話しかけた。

 

「こんにちは、悲鳴嶼さん。どうにかして皆が私の屋敷に集まらないようにする方法はありませんか」

「南無……。それは私には難しい……。私ではなく、今度お館様に直訴するといい」

「……私が産屋敷邸に行けないと知って言ってます……?」

 

 旭の口元が引き攣る。この人は優しく強いのだが、時折こんなことを言う。出来ないと分かって揶揄してくるのだ。

 旭がため息を吐くと、悲鳴嶼の大きくごつごつした手が彼女の頭の上に乗った。

 

「旭は、頑張っている……。彼らもそれは分かっているから、大丈夫だ」

「……」

「私としては、旭がもっと自分を大事にしてくれると、嬉しく思う」

「……」

 

 もっと自分を大事に。

 これまで何度も何度も言われた言葉だった。

 

「……そうですねぇ」

 

 でも、彼女がそれに頷いたことはない。

 

鬼舞辻(クソおやじ)が死んでくれれば、その結果私がまだ生きていたら……考えます」

 

 どうしても、頷けなかった。

 

 旭は皮肉げに片方の唇の端を吊り上げると、鋭い犬歯が見えた。

 

「旭……」

「悲鳴嶼さん。手に触れてもよろしいですか」

「……ああ」

 

 まだ頭の上に乗っている悲鳴嶼の手を取ると、それを両手で握り締めて、玄関に向かう。

 

「もう柱は全員居ますからね。後は私と悲鳴嶼さんだけです。一緒に行きましょう」

「……そうだな」

 

 悲鳴嶼は旭の手の温もりに微笑んだ。

 

 

 

*****

 

 

 

 いつからこうなっていたのかは分からない。少なくとも、旭が望んでやったことではない。

 初めは輝哉の鎹鴉が資料や会議の内容を送ってくるだけだった。

 そして、いつしか鴉は来なくなり、代わりに悲鳴嶼がその書類を持ってくるようになった。悲鳴嶼も滅多に顔を合わせない旭のことを心配してやって来ていたので、無下にすることもできず、屋敷に招いてお茶を出していた。

 しかし更に、その悲鳴嶼に各柱がついてくるようになった。

 最終的には全柱が旭の屋敷にやって来るようになってしまった。

 何度か輝哉に最もらしい言い訳を考えて文を送ったのだが、全部言いくるめられて撃沈した。柱達の侵入も許してしまっている。

 

 “第二次・柱合会議”

 

 そう呼ばれるようになってしまった、柱合会議の後に行われる鬼屋敷での擬似柱合会議。

 と、仰々しく言っても、実際はただの食事会に等しい。本当の柱合会議とは程遠い、ただただ皆で話し合い、菓子を摘まみ、じゃれ合っているだけの会である。

 

 よそでやってくれ。

 

 それが鬼屋敷の主人・日向 旭の心内(こころうち)なのだが、その柱達は『お館様に言われたから』と必ずやって来るのだ。

 ……そろそろ諦め時なのかもしれない。

 今日も今日とて、旭は絆される。

 

 

 

*****

 

 

 

「腕相撲しようぜ」

 

 唐突に宇随が言った。

 その誘いに全員は顔を彼に向けるが、一部はすぐに元の位置に戻した。

 

「何言ってんだ、ガキかよ」

「不死川の言う通りだ」

 

 そう吐き捨てるのは実弥と伊黒である。

 

「うむ! 面白そうだ! 俺は賛成だ、是非ともやってみたい!」

「力勝負か……男らしいな。俺も賛成だ」

 

 一方で乗り気なのは煉獄、そして意外の錆兎であった。

 残りは無視である。

 それも把握済みだったのか、宇随はにやにやと笑ってこう告げる。

 

 

「ちなみに1番になった奴は旭と1日逢い引きできる」

 

 

『……は???』

「嘘じゃねぇぜ。俺はちゃぁんとお館様に頼んだからな」

 

 全員が再び宇随を見た。

 彼はにっこりと満面の笑みで手元にある薄っぺらな紙をひらひらと振ってみせる。

 それを比較的近くにいた実弥が剥ぎ取って、机の中央に置いた。それを全員で覗き込む。

 

『先日の非番で旭がまた無茶をしたらしくてね。腕相撲大会の勝者は非番の旭のお目付け役をやってほしい。できれば町にでも連れ出して、鬼殺のことを一時的にとはいえ、忘れさせてあげておくれ』

 

 ……要約すると、そんなことが書いてあった。

 それに旭は頭を抱える。どうやら思うところがあるらしい。

 旭を除く柱全員が、彼女をじとりとした目で見た。

 

「……おい日向ァ」

「私は非番時に巡回して大怪我なんてしていない」

「駄々漏れなんだよこの大馬鹿モンがァァ!」

「げぅっ」

 

 襟元を掴まれ、女としてあるまじき悲鳴が漏れた。その間もギリギリと頸を絞めていく実弥は鬼畜か何かなのだろうか。

 

「テンメェ……何度言っても分からねぇらしいなァ。酔うか? 酔わせてやろうか? なァワカメ頭、ア?」

 

「現在進行形で酔いかけている。今ほろ酔い状態だ退け」

 

「旭さん、それはいけない! 今度俺の家にさつま芋を食べに来るといい! 千寿郎も喜ぶ!」

「ふろふき大根を作ってくれるって約束は? ねぇ旭さん」

 

「……考えておく。ちょっと待て、首が」

 

「あらぁ? そんな報告、私は受けていませんけど? 旭さん、どういうことですか? 蝶屋敷の皆が納得する理由がお有りなんですよね? 是非とも聞かせていただけませんか? ねぇねぇ旭さん」

 

「待て首が絞まってる」

 

「旭さん、怪我は大丈夫なんですか!? 駄目ですよ、無茶なんてしたら! キュンキュンしませんよ! 今度から非番は一緒に町に出掛けましょ! ねっ?」

「日向さんは柱としての自覚が足りないと思うのだが? どういうつもりだ。柱ともあろうものが己の体調管理も怪我の具合も分からないと言うのか? 全く馬鹿らしい。こんなことにお館様と甘露寺の手を煩わせるんじゃない」

 

「ちょっと手を緩めろ不死川……」

 

「不死川、もう少し手を緩めてやれ。そろそろ旭が気絶するぞ。酸欠で」

「邪魔するんじゃねェ鱗滝ィ……こいつは今ここで絞め落とさねぇといけねェ」

「……不死川は旭をどうしたいんだ」

「黙ってろ冨岡ァ!! 手元が狂うだろうが!!」

「理不尽!」

「南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……」

「……え、死んだ?」

 

「ぎりぎり死んでない縁起の悪いことを言わないでくれ宇随」

 

 なんとか実弥は他の柱に宥められて、旭の頸から手を離した。「やだ、旭さん頸元に痣が出来てるわ!」と甘露寺に言われたので旭は喉元を軽く擦ったが、大丈夫そうだったので放っておくことにした。そうしたら、甘露寺が青ざめて旭の頸元に水で濡らした布を当ててきたので、伊黒が旭のことを射殺さんとばかりに睨み付けてきた。

 あまりのガチ絞めに実弥が他の柱(水柱、音柱、炎柱、岩柱、蟲柱)に軽く絞られたのは置いておく。ちなみにしのぶ、額に青筋を浮かべて拳シュッシュをしていた。

 

 

 

 ……という、ちょっとしたなんやかんやがありながらも、「んじゃ、腕相撲大会やるのか?」と宇随が改めて全員に問いかければ、全員が頷く結果になった。

 ちなみに旭は「私が優勝すれば休日は1人で好きに過ごしていいな?」ということで参加を決めた。

 

 

 

*****

 

 

 

 くじで決めた対戦相手。1度負ければそのまま敗退。残った勝者で再びくじを引いて相手を決め、最後の2人になるまでくじを続ける。奇数なので1人余ってしまうが、そこは運が良かったということで勝者組に入ることになった。

 

 旭も初めは順調だった。

 

 初戦が伊黒。瞬時に倒したのは良いものの、先程の甘露寺の件もあってか、かなり恨まれた。後で甘露寺や食事処の情報を渡さなければ、と旭はこめかみをぐりぐりと指で押さえた。

 

 2戦目がしのぶ。彼女は初戦は運良く余りを引いて勝者組に残った人だ。非力なのは旭も分かっていたので、優しく倒そうと思ったら───

「勝ったらどうなるか分かってますか?(黒笑)」

「勝ったら後でたぁぁくさんイイコト(意味深)をしてあげますねぇ♪」

「勝ちを譲ってくれたらあのことは皆さんにばらさないであげますけどどうします?」

 ───などと開始前に精神的に倒しにかかってきた(かなり本気だった)。そのため、恐怖で腕が震えて負けかけたがそこは反射神経でなんとか勝ち取った。……他の柱に慰められた。

 

 運命の3戦目……この時点で残ったのは悲鳴嶼、宇随、旭である。……ほぼ予定調和であった。

 柱の中で特に力の強いこの3人は、怪力において他の追随を許さないのだ。特に悲鳴嶼は揺るぎない、自他共に認める超絶怪力の負け知らずである。

 そういうわけで、運命のくじ引きである。旭からすれば余りであろうがやろうがどっちでも良かった。

 ここまで来れば勝つのは悲鳴嶼である。

 宇随も彼とそれなりにいい勝負はするものの、今のところ全敗である。

 宇随が勝つと3人の嫁に土下座する勢いで謝り倒さなければならない未来が必須だが、悲鳴嶼が勝ったらのんびりした逢瀬が待っているであろうから、そこまで心配はしていなかった。

 

「……宇随か」

「お手柔らかに頼むわ」

 

 苦い顔をする旭の前にはニッと快活に笑う宇随の姿。

 ちなみに今回の余りは悲鳴嶼であった。涙を流して数珠をじゃらじゃらと擦り合わせている。

 

「旭さん、頑張って! 女は強いのよ! 底力よ!」

「日向さん、甘露寺に応援されたんだ。負けたらどうなるか分かっているな? もし宇随ごときに負けたのなら俺は一生貴様を許さない」

「よもやよもやだ! 宇随、旭さんに怪我させないようにな!」

「旭、勝敗の前に無茶をし過ぎるなよ」

「……旭、頑張れ」

「旭さん、宇随さんに負けないでね。頑張って!」

 

「宇随さん、なんとしてでも勝ってくださいね。なんだったら筋肉増強剤を打ち込んでもよろしいですよ?」

「クソがァァ……。宇随、負けたらぶっ殺す」

 

「南無阿弥陀仏……怪我をしない程度にな……」

 

 

「うっわ、旭贔屓過ぎんだろ」

「知るか」

 

 いくら宇随の方が体格も良く力が強い男だと言えども、これはないのではないか。

 宇随がドン引きする程の旭応援団(唯一、悲鳴嶼が中立)に旭は無視することにした。この程度で反応するのも面倒になってきたのだ。

 旭と宇随が手を組む。机に肘を立てて、がっしりと、しっかりと手を握り込んだ。

 そこへ悲鳴嶼がやって来て、握り締めた2人の拳に掌を被せた。

 

「負けても勝っても恨みっこ無しな」

「今更な話だな。当然だろう」

「では、行くぞ……」

 

 始め、と悲鳴嶼の掌の重みが少しばかり軽くなる。それと同時に肘を着いていた部分の、頑丈で分厚い机が粉砕した。

 

「っぐ、ぉ……!」

「ん、ふ……っ!」

 

 周りの応援が凄まじくなる。

 宇随の剥き出しの腕に血管が浮かび上がり、旭の額から汗が滴る。

 呼吸は勿論、“常中”を極めている柱であるため、使っても構わない。

 それでも両者、最初の拳の位置から全く変わっていなかった。

 

「くっそ……! お前、ほんっと女捨ててるよな……!」

「お前に言われるまでもない……っ!」

 

 シィィィ、フシィィィ、という独特な呼吸の間に会話を成せるだけの余裕はお互いにあった。完璧な膠着状態に、2人だけでなく他の柱も固唾を飲んで見守っていた。

 

「す、凄いわね、旭さん……あの宇随さんと対等に相手できるなんて……!」

「ん? 甘露寺は知らなかったのか? 旭は宇随と勝負した時、10回中7回は勝つんだぞ」

「そうなの!? 鱗滝さん!」

「……旭は、強い」

「……いや、あれは少し姑息だと思うが……?」

「え? 姑息?」

 

 ギギギ、と拳と腕が震えている両者。僅かに宇随の腕が押し負けている。

 

「何が姑息なの? 伊黒さん、旭さんは正々堂々と戦ってるわ!」

「いや、そうなのだが……すまない、言い方が悪かったな。日向さんが無意識的にそういう姑息な手を使っている、ということだ」

「……無意識に?」

 

 首をかしげる甘露寺。一方で、伊黒の言葉を聞いた錆兎が口の端をひくつかせている。

 

「……ああ、それは確かにあるな。伊黒の言う通りだ」

「……卑怯だな」

「うむ! 確かにあれは卑怯だ!」

「卑怯ですねぇ」

「卑怯っつーか、狙ってんじゃねぇのかァ?」

「南無……」

「ええっ!?」

 

 甘露寺は目を見開く。まさかあの旭が汚い手を使うとは思わなかったのだ。しかも、他の柱も同意している。一体どんな手を使うのか、と甘露寺が旭と宇随の対決をじっと見つめた。

 

「ん、ふぅ……!」

「っ、テメッ……!」

「んっ、なんだ、宇随……!」

 

 甘露寺は食い入るように旭を見つめた。

 全身全霊を込めることによって顔が赤らみ、汗のせいで髪が頬にペタリと張りつき、時折口から漏れる吐息は熱を含んでいる。

 

(……え? 旭さん、凄く色っぽい……?)

 

 それに気づいた瞬間、甘露寺はキュンッ!!と胸を高鳴らせた。キャアと叫びだしそうになる口を必死に押さえて我慢する。流石に真剣勝負を邪魔したらいけない。

 甘露寺は旭の醸し出す、滅多に拝むことが出来ない大人の色気にやられたのだ。少し頭がくらくらしている。

 他の柱は瞬殺されているから分からなかったが、力が拮抗する相手ならば、こうなることがあるのだろう。それにしても色気が増している。端的にやらしい。

 

「いい、かげんっ……負けを認めろっ……!」

「旭、お前それっ、反則だからなっ……!?」

「ん、くぅ……! なに、がだ、私は反則行為など、していな、いぃぃ……!」

「~~ッッ、こいつは、ほんっと……!」

 

 ヒクリと宇随の口元が引き攣る。仮にも好意を寄せている女。そんな彼女の喘ぎ声らしかぬものを聞かされて心を乱されない訳がない。

 なんだこれは。試練なのか。

 忍になるための、あの地獄のような精神修行よりもある意味辛い。

 もはや宇随は力を込めるためではなく、己を落ち着かせるために全集中の呼吸を使用している。

 男性達は宇随に同情の目を向けた。これでは腕相撲に集中も何もないだろう。

 

「んん~~ッ!」

「~~っだああああ! やっぱ無理だわ!」

 

 ダァンッ!!

 

 宇随の手から力が抜けて、旭の手がそれを押し倒す。その際机が粉砕したが、まあ予備があるから大丈夫だろう、と旭は荒く息を吐きながら思った。

 

「っはあ……私の、勝ちだな。あ"ー、疲れた……」

「てっめぇは本当……ずるだからな、あれ……!」

「……何を言っている。私は反則などしていない」

「無自覚だからこいつは……!」

 

 (タチ)が悪い。

 

 ほぼ全員が同じことを考えた。

 旭は意味が分からない、というように眉を寄せて首をかしげていた。

 

「じゃあ最後……悲鳴嶼さんだな」

「ああ、それなんだが……」

「ん?」

「代理を立ててもいいか?」

 

 珍しい、と旭は思った。他の柱も悲鳴嶼に目を向けている。

 

「この勝負、おそらく私が勝つだろう」

「いや……おそらくではなく、必ず勝つと思いますけど」

「そうか……。しかし、それだと1人で休日を過ごしたい旭にも悪いだろう。だから、私が推薦した人物と腕相撲をしてもらいたいのだ。それだと私の勝ちが決まった勝負にはならないはずだ」

「なるほど……」

 

 「どうだ?」と悲鳴嶼から問われて、旭は頷き返した。他の柱を推薦したとしても、自分が今疲労していたとしても、負ける気はしなかった。それに、悲鳴嶼の心遣いも受け取っておきたい。

 

「構いません。それで、誰を推薦するんですか?」

「輝利哉様だ」

「……は?」

 

 旭が呆けて目をぱちくりさせていると、悲鳴嶼がその場から少し身をずらす。

 ……そういえば、どうしてそんなところにいたのだろう、と旭は今更ながらに考える。

 悲鳴嶼が居たのは玄関に一番近い部屋の入り口だった。そんな、出るのを防ぐような位置に、基本悲鳴嶼が居るわけがない。

 と、なると、悲鳴嶼は後からやって来る誰かを隠したかったのだ、と考える以外ないだろう。

 旭は姿を現した人物を見て、ひくりと口元を引き攣らせた。

 

「き、輝利哉様……」

「こんにちは」

 

 にこにこと笑った、黒髪の少年が立っていた。

 産屋敷(うぶやしき) 輝利哉(きりや)

 その人を見た瞬間、柱の全員がその場で膝を着く。彼は尊敬するお館様こと輝哉の息子であり、次期産屋敷家当主となる御方だ。たとえ子供であろうと礼儀を損なってはいけなかった。

 輝利哉は父親譲りの笑顔を作って、ゆるゆると首を横に振った。

 

「どうか顔を上げてください、柱の皆様。どうか楽になさって。私はまだ当主ではありません。今はただの産屋敷 輝利哉です」

 

 その言葉に全員が渋々顔を上げた。

 輝利哉は嬉しそうにニコニコと笑い、部屋の中に入ると真っ先に旭の元へと向かった。

 

「では、旭様」

「はえ?」

 

 ずい、と机に肘を置いて旭に向かって手を差し出し、そしてキラキラした目で見つめる輝利哉。それに固まり放心していた旭だが、直後首を痛める勢いで悲鳴嶼に振り返る。

 

「悲鳴嶼さん、どういうことだ! こんなの聞いてない!」

「言ってないからな。輝利哉様が私の代理だ。遠慮せず思う存分やってくれ」

「謀ったなこの野郎……!!」

 

 あっけらかんと言う悲鳴嶼に声を荒げて掴みかかろうとする旭、それを押さえる錆兎と冨岡。

 宇随は大爆笑して、実弥はニタニタと悪い笑みを浮かべ、時透は吹き出し、伊黒は「自業自得だ」とため息を吐いた。

 「これって良いのかしら……?」と甘露寺がわたわたすれば、「良いんですよ。旭さんの日頃の行いの結果です」としのぶがぴしゃりと応えた。

 「旭さん、輝利哉様を傷つけないようにな!」という煉獄の声が羽交い締めされた旭の心にむなしく響いたのは言うまでもないだろう。

 

 

 

 

 

(え、なんだこれ。結局私はどうすればいいんだ? 勝った方がいいのか? それとも輝利哉様に勝たせた方がいいのか? まずお体は大丈夫なのか?)

「腕相撲なんて初めてです。旭様、お手柔らかにお願いしますね」

「アッ、ハイ」

 

 目を輝かせながらワクワクしている輝利哉に勝ちを譲った。

 ……譲るしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*****

 

 後日談、其の壱。

 

***

 

 実弥と打ち稽古をしていた時である。

 そろそろ休憩しよう、と旭が手拭いと水筒を実弥に投げつけた。

 彼はそれを難なく受け止めると、水筒を(あお)ろうとして……動きを()めた。

 

「……おい、日向」

「ん?」

 

 既に水筒に口をつけていた旭が実弥の方を見た。顔にかいている汗が頬を伝う。

 

「……どうした。水が足りないのか」

「……いや」

 

 なんでもねェ、と実弥は顔を手拭きで拭った。その様子に首をかしげつつも、旭はもう一度水を飲む。

 実弥が再び旭へと目を向けた。

 旭が水筒を天に掲げれば、ごくり、ごくり、と晒された白い喉が嚥下するところに自然と目が惹きつけられる。しかし、彼の目がそこへに惹きつけられたのはそれだけが理由ではない。

 

(……もう痣は引いてんなァ)

 

 先日の腕相撲大会の直前に、実弥がつけた痣である。あの時は本気で絞め落とすつもりだったので、腕相撲の時はくっきりとそれが白い喉に残っていたのだが、今では跡形も無い。

 それに実弥は安堵すると同時に、少し残念に思っていた。

 喉元に自身がつけた痣。

 それを見た時、なんとも言えない高揚感……独占欲や征服欲と呼ばれるものが実弥の胸を支配した。一時的にとはいえ、彼女が自身の所有物であるかのような気がしたのだ。

 まるで彼女が、自身が与えた首輪を着けているような……。

 

「変態か俺はァ」

「どうした突然」

「なんでもねェ」

 

 ぐしゃぐしゃと自身の髪を掻き混ぜて、考えていたことも纏めて霧散させる。今度首元を飾るものでも贈ろうなんて考えていない。考えてなんかいない。脳内で必死に却下する。

 旭はやはり首をかしげて、様子がおかしい同僚を見ていた。

 

 

 

*****

 

 後日談、其の弐。

 

***

 

「よく来てくれたね、旭」

「……あ、ああああの、あ、の……」

「そんなに緊張しないでおくれ。私達は遠いとは言え、血の繋がった家族なんだ。旭の声が聞けたことが私は嬉しいよ」

「そんな畏れ多い……」

 

 嵌められた、と旭は目の前で微笑む現当主・産屋敷 輝哉の姿を見て思う。

 彼女の隣には、悲鳴嶼の姿があった。

 あの腕相撲大会では悲鳴嶼の代理である輝利哉が勝った。つまり、非番の1日を悲鳴嶼と過ごすはずだったのだ。

 ……そう、はず(・・)だった。

 非番である今日。あれよあれよといううちに、いつの間にか産屋敷邸へと招待されていた。彼女はそれを理解した瞬間、すぐさま回れ右をしようとしたのだが、傍にいた悲鳴嶼から捕らえられてあっという間にお館様の眼前に突き出された。

 抵抗したが、輝哉の前で暴れることも出来ない。しょうがなく旭は「私がおかしい行動をしたら遠慮なく取り押さえてください」と悲鳴嶼に頼んだ。

 

「旭、もっとこっちに来てくれないかな?」

「いや、あの……」

「頭を撫でるだけでいいんだ。……ああ、旭はもう女性と呼ばれる年齢だからね。他人に頭や髪を触られるのは嫌だったかな? 気づかなくてごめんね」

「い、いえ、その……失礼します」

 

 もうどうにでもなれ、とりあえず悲鳴嶼さんはぶっ潰すと思いながら旭はお館様の眼前に跪くと、彼は優しく頭に手を置いた。

 

「今日は本当に来てくれてありがとう、旭。綺麗になったね」

(あ、これヤバい結構ヤバい耳と頭が溶ける……)

「輝利哉が喜んでたよ。初めて腕相撲して楽しかったって。行冥も私の我が儘を聞いてくれてありがとう」

「勿体なきお言葉……」

 

 旭からは見えなかったが、悲鳴嶼は涙を流しながらジャリジャリと数珠を鳴らしていた。

 先の腕相撲大会……悲鳴嶼は輝哉に頼まれていたのだ。輝利哉も参加させてあげてほしい、旭を屋敷に連れてきてほしい、と。

 それを理解した瞬間、旭はやはりそうだったのか、と悲鳴嶼をぶん殴りたくなる腕を必死に押さえた。輝哉の前で暴力沙汰など起こしたら最悪だし、何よりまだ頭を撫でられている。

 

「それじゃあ、行こうか。向こうであまねと輝利哉達が待っているから。撫でさせてくれてありがとう、旭」

「い、いえ……」

「行冥の分も用意してあるからおいで」

「……では、折角ですので」

 

 悲鳴嶼が頷いたところで、息女であるひなきとにちかが呼びに来た。

 旭が立ち上がり、隣に来た悲鳴嶼の横腹に肘を入れると、「すまなかった……」と一言謝られた。

 さあ、これから家族水入らずの食事の時間である。



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