悪魔の妹は下僕が欲しい【更新停止】 (はるかなた)
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第一話

 眠りからの目覚めは、いつだって突然だ。

 

 その時を、当人が望んでいなくても。

 その時を、他の誰からも望まれていなかったとしても。

 

 冷徹な時の流れは、やがて全ての生命に目覚めを促していく。

 それは、それは残酷なことだ。一度覚めてしまえば、もう、それまで見ていた夢には二度と戻ることはできないのだから。

 

 ――……目が覚める。

 

 性懲りもなく、望んでもいない朝がやってくる。

 けれどそれは、時の流れが齎す、普段の緩やかなそれとは少しばかり異なっていて。

 それは物理的で、力づくで、乱暴な。

 

「もう、起きてってばー」

 

 ――――そして。

 まるで、僕の目覚めを望んでいるかのような。

 

 僕の体を延々と揺すり続ける、名前も知らない何者かによって齎されたものだった。

 

「もう六時だよ? 折角お日様も沈んだのに、ずっと寝ていたら時間が勿体ないわ」

 

 そもそも朝ですらなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 目が覚めた僕が最初に受けた印象は、ただ只管に『赤』だった。

 

 足元の、僕が寝ていたらしいベッドも。

 頭上に広がる天蓋も。

 その向こうに見える天井も、壁も、床も。

 部屋中に散りばめられた、如何にも豪華そうな数々の家具に至るまでの全てが、赤一色に染まっていて。

 

 どういうわけか、天井に穿たれ口を開ける大穴の、その向こう。

 同じように穿たれた穴を幾つか経た先に漸く見える星々と月が、子供部屋に張られた夜空の壁紙のような、奇妙なアクセントになっていた。

 

 それほど拘りがあるわけでもないのか、規則性も意図も感じられない、ただ無造作に置かれているだけに見える家具をぼうっと眺めながら、まだ少しぼんやりとしたままの頭で思考を巡らせていく。

 

 ――――知らない部屋だ。

 

 程なくして導き出された答えを、しかし導いた当の本人が否と斬り捨てる。

 

 ああ、いや、この部屋に見覚えがないってこと自体は、紛れもない事実なのだけれど。

 僕は、そうと判断した自分の記憶、それ自体が信用できなかったのだ。何せ、今の僕は、他ならぬ自分自身の名前さえ(、、、、、、、、、、、、、)未だに思い出せずにいる(、、、、、、、、、、、)のだから。

 

 そうして一頻り部屋を見渡した僕は、最後に。

 一巡した視線を、僕が目覚めて最初に捉えたモノ――――最後まで触れまいと避け続けていた、正面のそれへと戻した。

 

「?」

 

 その視線の先。

 僕と向かい合うようにベッドに座っている少女は、視線を向けられたことに気が付いたのか、不思議そうにこてりと小首を傾げた。

 

 どこか血を思わせるような、朱い瞳。

 病的なまでに白い肌。

 そして、その顔立ちは。まるで彼女自身が、人の理想を目指して形作られた精巧な人形なのではないかと思わせるほどに、整っていた。

 

 人間離れした容姿の少女だと思った。

 けれどそれは、ただ可愛らしいというだけの意味ではなくて。その言葉の通り、彼女は人間には到底存在し得ないモノ(、、、、、、、、、、、、、、)を、その身の一部として備えていたのだ。

 

 いや、もっと言ってしまえば。

 僕は、彼女の背中から伸びる一対のそれから、人間どころか、他の一切の生物との関連性をも見出せなかった。

 

 それでも例えるならば、羽と称するのが最も近しいだろうか。

 

 七色の宝石のような物質をぶら下げた、黒い、飛膜を取り払った後に残った骨のような。或いは、何らかの木の枝のような。何とも名状し難い、『何か』としか言いようのない異形そのものである。

 

 僕の精神がイカレてしまったわけじゃないのならば、見えているモノが確かならば、彼女は間違いなく人ではない。

 

 羽の形状に目を瞑れば、その朱い瞳も、病的なまでに白い肌も、まるで吸血鬼を思わせるような――――。

 

「言いたいことがあるならそう言ってよ。黙っているだけじゃ、何も分からないわ」

 

 不意に、鈴の音のような彼女の声が鼓膜を叩いた。

 それは決して激情によるものではなかったが、しかしどこか苛立ちが含まれた、不機嫌そうな音をしていて。

 思考に囚われ、呆然と彼女を見つめ続けていたらしい僕は、その声にはっと我に返った。

 

 表情だけを見れば実に愛らしい。

 外見相応の少女のそれと何ら変わらない、むうっと頬を膨らませた怒りの表現。

 

 しかし、一度それを連想してしまったからか。

 僕は既に、彼女のことを外見通りの普通の少女だとは思えなくなっていた。

 

 対応を間違えれば、次の瞬間には首が飛んでいるかもしれない――――。

 僅かな、しかし拭い去ることのできない恐怖と緊張感に、汗が、掌をじっとりと濡らしていく。

 

「背中の、羽……。その、とても綺麗だけれど、珍しい形をしてるなって思って」

 

 結局、ストレートに何者かを問うことを躊躇してしまった僕は、言葉を詰まらせながら、慎重に言葉を選んだ。

 

 その声は、我ながら情けなくなるほどにか細く、蚊が鳴くような小さなもので。

 それでも、彼女と僕との、精々が人一人分程度しかない距離においては、その耳に届かせるには十分だったらしい。

 

 少女は、「これ?」と背中側に視線を送りながら、その羽を大きくははためかせてみせた。

 特に固定されているわけでもないらしい宝石達が、しかし、ぶつかり合うこともなく静かに揺れる。

 

「疑っているのかもしれないけれど、本物よ。だってほら、よく動くでしょう?」

 

 からからと、実に楽しげな笑い声が響く。

 どんな反応を返せばいいのかが分からなかった僕は、彼女に倣うように、その羽の動きを目で追いつつ控え目に笑った。

 

 勿論、僕が本当に聞きたかったのは――気になっていること自体は否定しないが――羽のことではなかったので、満足したというわけではないのだけれど。

 

 その様子を見ていた彼女は、僕がもう満足したのだと解釈したらしい。

 

「じゃあ、今度は私の番ね!」

 

 その宝石をキラキラと輝かせながら、くわっと羽を広げると。大きく身を乗り出すようにして、僕との距離を一気に詰めてきた。

 

 息遣いさえ届いてしまうほどの至近距離。彼女の弾む呼吸と、その宝石のように爛々と輝く瞳は、正しく童女のそれそのもので。

 恐怖ですっかり印象が薄れていた、非常に整った少女の顔が、突然視界を埋め尽くしたことに気恥ずかしさを覚えた僕は、僅かに視線を逸らしつつ体を仰け反らせた。

 

「ねえ――――」

 

 そんな僕の心境を知ってか知らずか。

 彼女は、辛うじて作り出した僅かな隙間さえ埋めるように、再びずいっと距離を詰めて。

 

「――――貴方は、私の使い魔なの?」

 

 彼女は、僕にそう問うた。



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第二話

 僕が、君の使い魔なのか、と。

 彼女は、確かにそう問うた。

 

「はぁ、使い魔……」

「そう、使い魔!」

 

 思わず呆けてしまった僕が、辛うじて絞り出た鸚鵡返しに。

 僕とは正反対のハイテンションを更に一段階引き上げた少女が頷いて答えると、

 

「お姉様がね、新しく人間の従者を迎え入れたんだって! それで、私も欲しいなって思ったの!」

 

 勢いをそのままに、彼女は説明を続けてくれた。

 

 彼女の知人、姉の友人に魔女がいること。

 その魔女が、当の本人が埋もれてしまうほどの量の魔導書を保有していること。

 その魔女から生物の召喚、使役に関する術が記された魔導書を借り受けたこと。

 

 そして昨晩。

 彼女のコンディションが最も高まるという満月の夜、魔導書を用いて召喚術を行使し。

 それから程なくして、天井を突き破って一人の人間が姿を現した、ということ。

 

 つまりは、それが――――。

 

「――――それが、貴方。空を飛ぶ人間がいるなんて、とても驚いたわ」

 

 生きた人間を見たのも初めてだったのだけれど、と。

 少女はからからと笑う。

 

 一方の僕は、理解が追い付かず頭を抱えていた。

 寧ろ、その説明を聞いて、分からないことが増えたとさえ思う。

 

「……僕は、空なんて飛べない普通の人間だからね」

 

 とりあえずの弁明に、しかし彼女は気にも留めず笑い続けていた。僕が空を飛んでやってきたわけではないことくらい、分かっていたのだろう。

 ……まぁ、それは別にいい。

 

 突拍子も、現実味もない話ではあるが、非現実的な存在そのものと思われる彼女が言うのだから、信用に値する話だと思う。

 

 けれど、彼女やその知人のこと。それから、魔法だとか魔術などといった、何やらよく分からないものの話が本当だったとして。

 僕がそれによって、不幸にも空高くに、突然放り出されてしまったのだとして。

 

 天井を突き破るほどの速度で墜ちた人体は――――果たして、無事でいられるものだろうか。

 

 記憶こそないから断言はできないけれど。

 それでも、失われることなく残っている多くの知識や常識、価値観は。かつての僕が、ごく一般的な社会生活を営んでいたことの証左ではないかと思うのだ。

 だからこそ、僕は自分のことを人間だと信じている。

 

 そう、信じているからこそ。

 その一点だけがどうしても呑み込めないのだ。

 

 或いは、その召喚術とやらに召喚物の保護みたいなものが働くような効果があって、勢いそのままに地面に激突しないようになっていただとか、そういう可能性もあるけれど――――。

 

「なんだか難しい顔しているわ。質問あるならどうぞ!」

 

 思考に耽り黙りこくる僕に、少女はふと思いついたように質問を促した。

 

 聞きたいこと、聞くべきことは山ほどあった。

 果たして何から聞くべきか、と暫く考え込んだ僕は、そこで何よりも大切なことを聞いていなかったと思い至って、口を開いた。

 

「そうだ――――君、名前は?」

「へ?」

「だから、名前。いつまでも君ってのも、ちょっと変だろ」

 

 僕の質問は、彼女の予想の何れにも当て嵌まっていなかったらしい。

 ぱちぱちと目を瞬かせると、その意味を噛み砕くように「名前……」と呟いて。それから、

 

「ふふ……あははっ」

 

 小さく零れた笑い声は、徐々に大きくなっていき。いつの間にか、彼女はお腹を押さえて、声を上げて笑っていた。

 

 確かに、流れとしては少しだけおかしかったかもしれないけれど。

 でも、そこまで笑うほどのことだっただろうか。

 

 その目に涙さえ滲ませて笑う姿に僕が困惑していると、彼女も落ち着いてきたのか、くすくすと笑い声を漏らしつつも涙を指先で拭って、

 

「貴方のこと気に入ったわ。私はフラン、フランドール・スカーレットよ」

 

 残る片方の手を、すっと差し出した。

 僕は、咄嗟に服の裾で掌を拭ってから握り返すと、

 

「よろしく、フラン。僕は――――」

 

 彼女に名乗り返そうとして、しかし未だに、それを思い出せないままであることに気付いた。

 

 突然言葉を途切れさせた僕に対して、流石に不審に思ったらしいフランが顔を顰める。

 僕は慌てて謝罪を口にしつつ、彼女から目を逸らすように顔を伏せた。

 

「僕も名乗りたいところなんだけど……名前、というか。何にも、思い出せなくて」

 

 すると、フランはほんの一瞬、考え込むような表情を浮かべた後に。

 ふと思い至ったように、

 

「一度はあんなになったのだもの、記憶くらいなくなっていても不思議じゃないわ。体は元に戻せたのだから、それで勘弁してよ」

 

 などと。

 何やらとんでもないことを口走った。

 

「あんなになった、って――――」

「? そりゃあ、人間が空から墜ちたのよ? 無事だったわけがないじゃない(、、、、、、、、、、、、、、)

 

 あっけらかんとフランが笑う。

 

 思い違いではなかった。

 都合の良い術の効果など存在しなかった。

 この体は、僕の体は、やはり無事なんかではなかったのだ。言葉にするのも憚られるような、無残に砕け散った骸の如き姿を、既に彼女の前に晒していたのだ。

 

 思わず浮かべてしまった、自分が迎えたのだろうその末路に、僕は、背筋が急激に凍り付いていくのを感じた。

 

「なら、体は元に戻せたってのは……。まさか君が? 一体どうやって――――」

 

 言いかけた僕の脳裏を、ふと、一つの可能性が過った。

 

 もしも、彼女が僕の想像するそれ(、、)だったとしたら……?

 確証はない。けれど、在り得ない話ではない。

 

 それは確かに非現実的な話だけれど。

 この身は、既に、現実の境界などとうに超えた出来事に直面してきたではないか――――。

 

「なんだ、もう想像は付いているのね」

 

 僕の心を見透かしたように、フランは言う。

 

 彼女の笑顔は、いつの間にか幼さを感じさせるそれから一変していて。

 人を惑わすような、魔性のそれへと成り代わっていた。

 

 薄く開かれた唇に、白く細い指が添えられる。

 尖った爪の先で、その口の中を指し示すように。

 

 そして、その口の中から顔を覗かせているのは――――穴を穿つことに特化した凶器とも言えるほどに、鋭く大きな牙。

 

 無意識に動いた手が、首筋へと伸びる。

 

「あんまり美味しくはなかったけれど……別に、嫌いな味でもなかったわ」

 

 恐る恐る触れたそこには、二つ。

 ともすれば気付かないほどに小さな傷痕が、しかし確かに刻まれていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そう言えば」

「今度は何さ」

「人間達の中には、吸血行為と性行為を同一視する考えがあるって聞いたことがあるの」

 

 残された知識を辿ってみれば、少しばかり心当たりがあった。

 僕は、生前の己が酷く偏った知識を持っていたことに幾らか訝しみつつも、フランに頷いて答える。

 

 確か、吸血鬼という概念そのものの、由来となったとされる一説だ。

 

 簡潔に言ってしまえば、医療が未発達であった中世に流行った感染症が擬人化した存在こそが『吸血鬼』である、というだけの話である。

 ゾンビや狼男辺りでも似たような――病気等と関連付けされた――話はよく聞くところであるし、ヴァンパイアという言葉の語源そのものは別にあったりもするので、それ自体にどこまで信憑性のある話なのかと言われると難しいところではあるが。

 

 まぁ、それはそれとして、映画や創作の中で、吸血シーンが実に艶めかしく描かれるケースが多いこともまた事実である。

 

 しかし、それがどうしたのだろうか?

 

「私ね、実は初めてだったのよ。生きているヒトから、直接血を吸ったの」

 

 そう言うや否や、彼女は突然僕に抱き着いて。

 耳元にぐっと顔を近づけると、小さな、甘えるような声でそう囁いた。

 

「――――責任、ちゃあんと取ってよね」

 

 あぁ、間違いない。

 彼女は、確かに魔的(、、)だ。

 

 思わず言葉を失った僕は、悪戯に成功した悪童のような顔で笑うフランから目を逸らして、内心でそんなことを思った。



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第三話

 全く気付かぬ間に、自分が人としての生をリタイアしていた、という割と衝撃的な事実が発覚してから、暫く。

 

 僕を揶揄って遊んでいたフランは、

 

「――――そうだわ! 貴方の名前、私が付けてあげる」

 

 突然、そんなことを言ってきた。

 

 曰く。

 主人が使い魔に名前を与えるのは当然、とのことらしく。

 

 すっかり有耶無耶になっていた問いの答えが、いつの間にか「YES」にされていたことを、僕はこの時初めて知ったわけである。或いは、今し方彼女が取るように求めてきた責任というのは、そういう意味の話だったのかもしれない。

 まぁ、今更不都合があるのかと問われれば、返す言葉もないわけで。

 

「まぁ、ここは一つ頼むよ。誰に名乗っても恥ずかしくない奴をお願いね」

 

 腕を組んで考え込んでいる様子の彼女に、適当な言葉を投げてみる。

 すると彼女は「分かった!」と大きく頷いた後、今度はうんうんと唸りながら悩み始めた。

 

 一先ず手持無沙汰となった僕は、先ほど彼女から聞いた話を思い返してみる。

 

 あぁ、そう言えば。

 僕がここに喚び出された直接の原因と言えば、"お姉様"。フランの姉君が、新しく人間の従者を雇ったことで、フランは人間に興味を示したのだったっけ。――――尤も、僕は既に人間ではなくなってしまったのだけれど、それは兎も角として。

 

 恐らくは、今後、少なからず関わっていくことになるであろう姉君。彼女も当然吸血鬼なのだろうが、一体、どんな人物なのだろう。

 

 吸血鬼のイメージに、どうにも、マントに身を包んだ男性のそれが先行してしまうからか。とんでもなく恐ろしい人物を思い浮かべてしまった僕は、思わず一人身を震わせる。

 

 ……ともあれ、すぐ傍に肉親がいるのだから、直接聞いてみるのが一番か。

 

「ねぇ、フラン。考えながらでいいから教えてほしいんだけど」

「んー……なぁに?」

「君のお姉さんって、どんな人?」

 

 何気ない、世間話のつもりで投げた僕の問いかけ。それに対して、彼女は一瞬、悩んでいる時のそれとはまた異なる、酷く険しい表情を見せた。

 

「今のお姉様のことは、あんまりよく知らないの。もう、百年くらいは顔も見ていないから」

 

 感情を落とし切ってしまったような、淡々とした声音。

 明確な色一つには染まり切らない、けれど、無表情とは異なる。幾つもの感情が押し込められたような、そんな表情。

 

 そこからは、はっきりと明言されたわけではないけれど。彼女の抱える、姉に対する複雑な感情が見え隠れしていて。

 

 明るく、分かりやすい感情表現を多用してきたフランらしからぬそれに、咄嗟に反応できなかった僕が、返すべき言葉を探しあぐねていると。

 いつの間にか、すっかり元の笑顔に戻っていた彼女が、

 

「でも、近い内に会えると思うわ! 文句があるなら直接来るようにって、昨日メイドに伝えておいたから」

 

 何となく、嫌な予感をさせてくる新情報を齎してくれた。

 

 言いにきたのか。

 メイドが、文句を。

 

 しかも昨日、ということは……。

 人様の家を打ち抜いて、そのまま意識をすっ飛ばして倒れていたであろう頃の僕の件と見て、まず間違いないわけで。

 

 ううむ、これは、何となく歓迎されていなさそうな気が。

 何やら一波乱起こりそうな気配を感じ取った僕は、思わず息を吐き出したのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「――――そうね、決めたわ」

 

 瞑目していた彼女は、その声と共にゆっくりと目を開いた。

 

 まっすぐと見つめてくる朱の瞳に、頷いて続きを促すと、彼女もまた一つ頷いてから、

 

「貴方に矢夜(やや)――――朧月(おぼろづき)矢夜(やや)の名を与えましょう!」

 

 彼女はどこか誇らしげに、高らかに詠い上げた。

 

 彼女にとって僕は、夜空を星のように駆け、天を穿った矢なのだと。名前の由来を、そう説明してくれた。

 苗字については、今宵の空を見上げてみれば分かる、とのことである。

 

 ……正直に言うと、僕は、少しばかり驚いていた。

 

 そもそも人ではないという点は置いておくとしても、彼女が日本に縁を持つ存在でないことは、その容姿からして明らかで。

 だからこそ、僕としてはギャップを感じざるを得ない、横文字の名前になるものだとすっかり思い込んでいたのだ。

 

 どんな名前であったとしても、二つ返事で受け入れよう。そう思っていた筈なのに。寧ろ、想定よりもずっとしっくりきてしまったせいで、虚を衝かれた僕はすっかり呆然としてしまう。

 

 それを、突然黙り込んだ僕の態度を、気に入らなかったからだと勘違いさせてしまったのか。フランの浮かべていたドヤ顔が、僅かに曇った。

 

「や、やっぱり変だった? それなら考え直すから――――」

「ううん、大丈夫。とても、いいと思うよ」

 

 僕の言葉が本心からのものであると感じ取ってくれたらしく、フランは、すぐに笑顔を取り戻してくれた。

 

 本当に、不思議な少女だ。

 

 実に愛らしい、幼い少女のような振る舞いを見せる一方で。

 感情の機微に敏く、言葉の多くを尽くさずとも、言わんとしていることを悟ってくれるほどに賢い。まるで、心の内を、どこか見透かされているようで。

 

 けれどそれは、同時に、僕の目には酷く歪なものに映っていた。

 

 それは、彼女が、年不相応に賢い子供というよりかは。

 どちらかと言えば、年不相応に幼い、けれど確かな知性を持った大人のように感じられるからだろうか。

 

 そんな、言葉にするほどでもない。けれど、どうしても拭い去れない、小さな違和感。

 

 それが、妙に気になってしまって。

 関心の比重が、自分自身のことよりも、すっかり彼女の方へと傾いてしまっていることを、僕は認めざるを得なかった。

 

「……矢夜?」

 

 少し困ったように、どこか控えめに僕を呼ぶフランの声に我に返り思考を止める。

 

 こちらを窺い見るような彼女の目はどこか憂うようで、急に黙り込んだせいか要らぬ心配を掛けさせてしまったようだ。僕はなんでもないと答えつつ、少し迷いながら、彼女の頭に掌を乗せた。

 

 ――――いやいや、迷った挙句に何をしているのだ、僕は。

 

 咄嗟に取ったその行動が悪手そのものであると理解した僕は、彼女が不快と訴えるよりも前に、と即座に手を離して。

 

「ん……」

 

 しかし、どこか迷った様子を見せながらも、こちらの方へと頭を寄せるフランを見て。結局、頭の上に手を戻すことにした。

 どうやら、あながち間違いでもなかったらしい。

 

 頭を摺り寄せ、にへらと脱力し切った表情を浮かべる彼女の様子を見ていると。何となくではあるのだが、どこか温もりに飢えているんじゃないかと、そんな気がするのだ。

 

 或いは、自分が飢えていることにさえ気が付いていないほどに、他者と関わる機会がまるでなかったんじゃないか、と。

 

 ――――そういえば。

 僕は、先ほど姉君のことに触れた際に見せた、フランの、何とも言葉にし難い表情を思い出す。

 

 確か、彼女が最後に姉君と会ったのは、もう百年も前のことだと言っていた。

 それが、吸血鬼という、長い時を生きる種族にとってどれだけの時間なのかは、正直僕には分からない。

 

 或いは、人間にとっての一日やそこら程度の、大したことのない時間でしかないのかもしれない。

 

 ……けれど。

 それでも、例え一日程度の短さだったとしても。存在を感じられるほど、近況が伝わってくるほどの距離にいながら、長い間会わずにいるということは。それは、やっぱり寂しいことだと思うのだ。

 

 彼女も、本当はそうなんじゃないのか。

 その寂しさに慣れてしまって、そうではないと思い込んでいるだけで。

 

 会えるのなら、もっと姉君と会いたいと。

 実は、そう思っているのじゃないだろうか、なんて。

 

 僕が、そんなことを考えていたからか。

 

 それは突然。

 息が詰まるような圧迫感と共に、やってきた。

 

「――――随分と大人しくしているものだから、すっかり忘れていたけれど」

 

 古びた木造の扉が、軋みを上げる音と共に。

 少女の声が、静かに響いた。

 

「変なモノを許可なく私の館に喚び込むだなんて。本当、困ったものだわ、フラン」

 

 ぴくり、とフランの体が僅かに震えるのを掌越しに感じて、それから、僕は彼女の頭から手を離しゆっくりと振り返る。

 

 開かれた扉の向こう。

 広がる闇を裂くようにして現れたのは、従者らしき銀髪の少女を傍らに引き連れた、一人の少女。

 

 淡い水色の髪と、病的なまでに白い肌。

 フランのそれによく似た作りの整った顔を、同じく血のように朱い瞳が彩り。けれど、浮かべられた表情は、全く違っていて――――。

 

 ――――それは、氷のように冷たい無表情だった。



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第四話

 あまりにも濃密な殺気だった。

 

 見る者全てを圧倒し。

 ただ、完膚なきまでに叩きのめす為だけの、害意。

 

 それを、フランとそう変わらない体躯の、小さな少女が放っているという事実に、僕は驚きを隠せなかった。

 

「――――お姉様」

 

 フランの、小さな声が聞こえる。

 

 そこにはおおよそ感情と呼べるものは失われていて、ただ、その事実を認めただけのようでもあった。

 

 けれど、掌に未だ残った彼女の小さな震えが。

 僕の中に、不安と胸騒ぎを燻らせていた。

 

「ええ、久し振りね。フラン」

 

 返す少女の声は、氷のようで。

 想定していた一波乱が、早々に幕を開けたことを、僕は一人静かに悟った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 百年振りの姉妹の再会。

 

 字面だけならば実に感動的なそれは、しかし現実には、とてもそうとは思えないほどの緊張感に満ち溢れていた。

 

 ベッドの端に置いてあった、姉君が身に付けているそれによく似た赤いリボンの帽子を被ったフランは、その縁で表情を隠すように俯いたまま、無言を貫き。

 

 何かに怯えているような。

 何かを堪えているような。

 その姿は、どこか、そんな風にも見えた。

 

 一方の姉君は、そんな彼女を冷え切った眼差しで見据えている。

 そこに、姉妹間にあるべき親愛も、情もない。まるで敵対者を前にしているかのように、彼女はその警戒を緩めない。

 

 そこには、口を挟む余地などなかった。

 それは、僕が彼女達の間にあるであろう事情を知らないから、というだけでなく。僕の発言が許されるような空気が、そもそもなかったのだ。

 

 思考さえ絡め取られてしまうほどの重圧の中。

 僕がその行動に至ったのは、半ば無意識のことだった。

 

「――――ふうん。木端なりに、弁えているようね」

 

 僕は、ベッドを飛び降りるようにして首を垂れていた。

 頭上から聞こえる、姉君の声。僕が一切の抵抗を放棄し服従の姿勢を示したからか、開口一番に向けられた殺気に比べると、幾らかは和らいだようだった。

 

 頭を上げなさい、という彼女の声に従い、跪いたその姿勢のまま顔だけを上げる。フランのそれと同じ、血のように朱い瞳が、僕を真っ直ぐに射抜いている。

 

「私はレミリア・スカーレット。この紅魔館の主にして、偉大なるツェペシュの末裔――――まぁ、吸血鬼という奴ね。貴方は?」

 

 少女――――レミリアからの問いに、一瞬反応が遅れた僕は。

 しかし、向けられた視線が僅かに鋭くなったことを感じて我に返ると、慌てて口を開いた。

 

「矢夜、朧月矢夜と申します! 此度、主――――フランドール様に召喚された、使い魔にございます」

「そして、私の城に大穴を開けてくれた張本人、ってことで間違いないかしら」

 

 レミリアの指摘に、僕は思わず息を呑む。

 

 再び反応が遅れ、慌てて肯定の意を示そうとした僕だったが、僅かに笑みを湛えた彼女に「返事はいいわ」と遮られたことで閉口する。

 

 幾らかのやり取りを通して、僅かに和らいだレミリアから放たれる重圧。

 しかしそれは、彼女が再びフランへと向き直った時には、研ぎ澄まされたそれへと逆戻りしていた。

 

「……で? これ(、、)は貴方を主人だ、なんて宣っているけれど、本当かしら」

 

 鋭い殺気が、フランを捉える。

 それまで、どこか怯えたような、恐れているような弱気なそぶりを見せていたフランは、

 

「――――ええ、そうよ」

 

 思わず底冷えする、狂気を孕んだ声を響かせた。

 

 いつしか、その手には歪に捻れ曲がった黒い杖のようなものが握られ。

 その、特徴的な羽を広げて宙に浮き上がったフランは、ふわりと姉の前に降り立つ。

 

 その顔に浮かべられていたのは、笑顔。

 

 感情を前面に押し出した、少女らしいそれではなく。

 どこか妖しげな、魔性のそれでもなく。

 そこから感じられるのは、ただ、それら全てを煮詰めた成れの果ての如き、狂気であった。

 

それ(、、)は私の物。私が、私の意思で喚び寄せた物」

 

 違う。

 これまでに見てきた、フランとは。

 何かが、確かに違う。

 

 僕の知るフランが、彼女の全てだなんて思っていたわけじゃない。

 けれど、それが全て嘘だったのかと思ってしまうほどに、彼女は豹変を遂げていて。

 ――――そして、これこそが本当の彼女なのだと。

 僕の心が、どこかでそう感じていた。

 

 いつしか、膨れ上がる圧迫感はレミリアのそれを優に超え。

 部屋の全てを充満するほどの、おぞましい狂気を撒き散らしていた。

 

「――――壊そうとするのなら、お姉様が相手でも容赦しないわ。それを壊していいのは、私だけなんだから」

 

 それは、まるで小さな虫を容易く、躊躇なく踏み潰す子供のように。

 フランは、無邪気に笑った。

 

 水を打ったような沈黙。

 それ以上の言葉は、フランからはなく。

 レミリアもまた、瞑目したまま口を閉ざしている。

 

 そして、姉妹の話題の種でしかない僕には、当然の如く発言権などある筈もなく。

 

 気が狂うような、心臓の鳴る音だけが響く数秒間の末に。

 その沈黙を破ったのは、レミリアの方であった。

 

「……百年前と同じね」

 

 それは、幻聴と疑ってしまうほどに小さく、か細い呟きだった。

 憂うような、悲しむような。それまでに彼女が見せなかった、重たい感情の籠められた呟きの後に、

 

「まさか。それを壊そうだなんて思ってはいないわ。ただ、ここに住まわせるというのならば、相応の働きをしてもらわなきゃと思ってね」

 

 それが嘘だったかのように、彼女は笑った。

 

「尤も――――それも受け入れられないというのなら、止むを得ないけれど」

 

 その言葉を反芻するように、吟味するように小さく頷いたフランは。

 握られていた黒い杖を手放して、ベッドの上へと放り投げた。

 

「矢夜に任せるわ。構わないというのなら、私も文句なし。勿論、嫌だって言うなら……」

「だ、大丈夫! ちゃんと働いてくるよ」

 

 不穏な空気を漏らすフランを遮るようにして僕が言うと、彼女は「なぁんだ、つまらない」と零しつつも引き下がってくれた。

 

 完全になくなったわけではないものの、フランから滲む狂気は幾らか落ち着き始め。

 レミリアもまた、矛を収めるように殺気を消した。

 

 どうにか、事態は収束したらしい。

 ……尤も、それも一先ず、といったところではあるが。

 

「じゃあ、詳細を詰めましょう。……フラン、少し借りていくわね」

 

 レミリアは、目でついてくるようにと僕に命令しつつ、身を翻した。

 フランはどこかつまらなそうな顔をしているものの、特に妨害する意思はないらしい。

 

 僕はフランに向かって「行ってくる」とだけ伝えると、従者を引き連れ足早に部屋を出ていったレミリアを小走りで追いかけた。



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第五話

 薄暗い廊下を進み始めて、どれくらいが経っただろうか。

 

 長く続いていた無言。

 その終わりは、先を往くレミリアによって突然齎された。

 

「見苦しいものを見せたという自覚はあるわ。けれどあれは、別に、本心から取ったものではないの」

 

 彼女の言葉に、僕は脳裏にあれ(、、)――――先刻彼女が見せた姿を思い浮かべる。

 それは、憂うように目を僅かに伏せて語る彼女の今の姿とは、とても結び付かないものだった。

 

 息の詰まるような重圧。

 思考を絡め取るほどの殺気。

 それらは、或いは吸血鬼の一側面としては当然持ち得るであろう残虐性、凶暴性を感じさせるもので。

 

 であるならば、今の彼女は、また別側面の。

 豊かな知性と、貴族然とした高貴さ、とでも言えばいいのか。ある種のカリスマ性のようなものさえ感じさせる振る舞いを見せている。

 

 その双方を併せ持っている彼女が。

 如何なる理由で、初めから会話の余地など捨てるような前者の一面を以って現れたのかが、僕には想像さえできなくて。

 

「一体どうして」

「貴方には、言えない」

 

 漏れ出た疑問は、しかし淡々とした調子で紡がれるレミリアの声に遮られ。思わず怯んでしまった僕は、そのまま口を噤ませた。

 

「本当は、貴方に話すかどうか、少し迷っていたのだけれど――――」

 

 どこか躊躇うような、レミリアの声。

 続けざまに紡がれた、その拒絶の理由を知った僕に、

 

「――――貴方は、恐れてしまったから」

 

 一体、何を問い質す権利があるというのだろうか。

 

 拳を握り締める。

 爪が僅かに食い込み、痛みが走る。

 構わずに力を籠めようとして。けれど、僕自身の弱さを示すように、それ以上の力を籠めることができなかった。

 

 それが、全てだ。

 

 フランのことを。

 レミリアのことを。

 彼女達の抱える過去を、知ることを。

 踏み込むことを、恐れてしまった僕に。

 

 一体、何を知る権利があるというのだろうか。

 

「その恐怖は人として――――いえ、生物として正常な証。誰だって、知り合ったばかりの相手の為に命までは賭けられないからね」

 

 これは、それくらい危険(、、)な話だもの、と。

 そこで、レミリアは言葉を切ると、一度小さく息を吐いた。

 

「――――けれど、もし。それでも貴方が、相応の覚悟を以って、あの子に向き合おうと思える時が来たのなら」

 

 振り返ることもなく、前方に視線を向けたままのレミリアは。

 その目に何かを――――僕には見ることもできない、彼女にしか見えない何かを、けれど確かに捉えているように見えた。

 

 彼女は、虚空に向けられているその瞳に、一体何を映していたのか。

 

「その時は。ただ、あの子だけを、見てあげてほしい」

 

 どこか寂しそうな笑みと共に、振り返って言った。

 

 どう返すべきか。

 何と答えるのが正しかったのか。

 その笑みの理由も知らないまま、何も分からないままで肯定するのは、何かが違う気がして。

 

 結局、僕は彼女に、一言も返すことはできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 紅魔館。

 悪魔の一端を担う吸血鬼の一人――――レミリア・スカーレットが棲む洋館である。

 

 主のセンスによって齎された素敵なカラーリングは、この館の特徴の一つと言っても過言ではないそうで。

 

 まぁ、その字面から想像が付く通りのことではあるのだけれど。

 この館は、詰まるところ、その名が示す通り赤一色によって染め上げられているのだとか。

 

 自慢げに館を語る、レミリアのそんな説明をぼんやりと受けながら、僕がひっそりと思っていたことと言えば。

 何というか、そこまでのものでもないかな、というのが率直なところであった。

 

 正しくは地下牢であるというフランの部屋も含めて、確かに、目にしてきた時点での内装は赤一色であると言える。

 けれど、そこまで強烈に『赤』を感じてきたのかと問われると、それは否であった。

 

 それは、地下全体がどこか薄暗く、その赤自体も比較的落ち着いた色合いだったからだ。流石に、フランの部屋は少しばかり目に痛いものがあったけれど……。それそれが彼女の部屋だけだったことを考えると、あくまで標準的には薄暗い方の配色で、フランの部屋のトーンは彼女の趣味趣向によるもの、としか思えなかったのだ。

 

「――――さぁ、地下を抜けるわよ」

 

 長い廊下を抜けて、階段を上った先。レミリアの言葉に促されるように、両開きの扉を従者の少女が押し開いて、暗い地下に光の奔流が押し寄せる。

 

 ……そして僕は、今し方抱いていた考えが、酷く愚かであったことを思い知った。

 

「うわあ」

 

 思わず、声が漏れる。

 それを聞いたレミリアは、歓声の類とでも思ったのだろう、どこか誇らしげに胸を張っていたが。

 

 断言しよう。

 これは、悲鳴である。

 

 僕の目は、光と共に飛び込んできたその赤に、一瞬のうちに焼かれてしまっていた。

 

 窓の一切存在しないフロアは、一見すると、地下のそれとあまり変わらない構造である。

 故にこそなのだろうか。一目で分かる程度には、その部屋を染め上げる色はより鮮やかな色合いの赤へと差し代わっていて。フランの部屋のそれよりも更に一歩原色へと近付いたそれは、流れ込む光共々、ある種の刺激物と化していた。

 

「今まで見てきたものなどほんの一部。これこそが私の城、紅魔館よ。『スカーレットデビル』と恐れられる私に相応しいと思わない?」

 

 自慢げな彼女に、とても悪趣味だ――――などとはっきり言える筈もなく。

 僕は、力なく笑うことしかできなかった。

 

 しかし、勿論、疑っていたわけではないのだけれど。

 なるほど確かに、彼女はこの館の主だという話は事実であるらしい。

 

 翅の生えた、メイド姿の少女達――話にあった妖精メイド、という奴だろうか――は、レミリアの姿を認めると即座に首を垂れて敬意を示してみせたのだ。

 

 ……中には、気付かずに雑談を続けるメイド達もいたが、通り過ぎる頃に音もなく現れたナイフによって、漏れなく頭部を貫かれていた。大丈夫なのか、アレ。

 

「いい腕でしょう? 30mくらい離れていても、林檎を乗せた妖精の頭に寸分違わず当てて見せるのよ、うちの従者は」

 

 自分のことのように自慢げに、実に機嫌良くレミリアは語る。

 確かに凄まじい腕だとは思うけれど……いや、もう何も言うまい。

 

 ともあれ、そんな妖精メイド達を見送ること数回。

 エントランスホールを抜け、再び階段を上ったその先。僕達は漸く目的地――――彼女の執務室に辿り着いた。

 

 高価そうな赤い椅子に腰を掛けたレミリアは、デスクの中を弄ると。羊皮紙という奴だろうか、見慣れない質感の紙一枚を取り出してから、ペンを手に取った。

 

 黒いインクによって書き綴られていくのは、恐らくは達筆なのだろうと思われる、筆記体の連なるようなアルファベット群。

 ……漢字の名前を貰った時の感覚で薄々気が付いてはいたのだけれど、それらが全く読めない辺り、生前の僕は生粋の日本人であったらしい。

 

「うちの子達は大半が無給だけれど……今回はそうもいかないものね」

 

 その口ぶりから察するに、どうやらレミリアは、僕の雇用契約書を作っているようだった。

 

 ツェペシュなる家系が英語圏の貴族なのかはちょっと把握していないけれど、彼女が英語を扱うこと自体には、まぁ、それほど違和感はない。

 寧ろ、日本語を話している姿にこそ、よっぽど違和感があるくらいだ。

 

 意外と言えば、吸血鬼が使用人を雇う為にわざわざ雇用契約書を作っているということそのものだろうか。

 

 その手の文化は、勝手に人間特有のものとばかり思っていたけれど。

 少なくとも人間と同等以上の知性があって、意思疎通も可能な時点で、そういった考え方それ自体が驕りなのかもしれない。

 

 故にこそ、僕が突っ込んだのはそこではなくて。

 

「ブラックですか」

「レッドよ、失礼ね」

 

 ……勿論、カラーリングの話でもなくて。

 妖精メイド達の雇用条件について、である。

 

 とは言っても、何せ吸血鬼と妖精との間に交わされる契約だ。

 日米和親条約クラスには不平等な、半ば奴隷扱いに等しい内容であったとしても、おかしくはないとさえ思っていた。

 

 だからこそ、だろうか。

 

「妖精達にはね、食と自由を与えているのよ。必要なだけの食事は取って構わないし、仕事さえちゃんとしてくれるなら、それなりに自由に休憩を取って、備蓄の紅茶なりお菓子なりを嗜んで貰って構わないわ。それから、うちに入るのも辞めるのも本人の自由」

 

 住み込みのお手伝いさんみたいなものね、と締め括られたレミリアの言葉に、僕は少なからず衝撃を受けてしまった。

 

 妖精といった種族の価値観が分からない以上は何とも言えないのだけれど、あくまで僕個人の主観としては、十分過ぎるほどの好条件だと思う。

 

 特に、休憩自由というのが実に魅力的だ。

 労働時間で縛られ、こなせどこなせど仕事の減らないどこぞの国の務め人とはえらい違いである。何なら、給料がなくともその条件で全然構わないのだけれど。

 

「まぁ、こんなところかしらね」

 

 書き留めた内容にさらりと目を通したレミリアは、紙面を反転させこちらへと差し向けた。

 

 そこには、やはり僕としてはいまいち心得のない、流れるような英文の羅列が続いていて。

 けれど、紙面に刻まれた黒のインクは、僕が覗き込んだ途端にぼんやりと青く輝いて浮き上がると。そのまま全く異なる形をした、この体に馴染みのある文字へと組み変わっていった。

 

「――――!」

「気になるところがあれば、言って頂戴」

 

 浮き上がった文字は、何事もなかったように地面へと吸い込まれて、今やすっかり元の黒インクへと戻っていた。

 

 本音を言うと、契約内容云々よりも、この契約書自体が気になって仕方がないのだけれど。悪魔の契約書とは、ある種のマジックアイテムだったのか。

 

 僕はその奇妙な契約書を手に取り、読めるようになった文字の並ぶ紙面に恐る恐る目を通して給与や勤務日等の各条件を確認していくと、

 

「……いえ、十分です」

 

 レミリアから受け取ったペンを走らせ、最下段にサインをした。

 レミリアの手の中に戻った契約書は、僕が書き込んだ名前を除いた全てが元の英文へと戻り、サインを確かめた彼女は満足げに頷いた。

 

「さぁ、これで貴方も、晴れて紅魔館の一員よ。契約通り、仕事に入るのは明日からで構わないけれど、そうね――――咲夜(さくや)

「――――はい、ここに」

 

 レミリアの声に、扉の脇に控えていた従者の少女――――咲夜がこちらへと歩み寄って、恭しく頭を下げる。

 

「矢夜を部屋に連れて行って頂戴。今のうちに間取りくらいは教えておいてね。あぁ、それと、明日から暫くは、彼の仕事の面倒も任せるわ」

 

 矢継ぎ早に投げられていく指示を聞き終えると、咲夜は無表情のまま「畏まりました」とだけ告げ、そのまま身を翻して扉に手を掛けた。

 

「じゃあ、部屋まで案内するわ。付いてきて」

 

 抑揚のない声で告げ、戸を押し開いて歩き去っていく彼女の背中を、僕はレミリアに一礼してから慌てて追いかけた。



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第六話

 レミリアを残し、執務室から出た僕達の間には、暫しの無言が訪れていた。

 

 先導する小さな背中は、どこか他人が近付くことを嫌っているかのような、強い拒絶の色が感じられて。けれど、どうにもじっとしていられず、そろそろこちらから話題を振るべきか、などと考え始めたその矢先に。

 突然足を止めた咲夜が、口を開いた。

 

「あの『悪魔の妹』の使い魔だなんて、貴方も災難ね」

 

 顔だけが、半分ほどこちらへと向けられる。

 

 染めたものとはとても思えない、穢れの類とは縁もないように感じられる綺麗な銀髪。

 どちらかと言えば日本人のそれに近い、けれどのっぺりとした印象を感じさせない、はっきりと整った顔立ち。

 そして、氷のように冷たい光を宿した、青い瞳。

 

 レミリアやフランのように、人間離れしたものではないけれど。

 彼女は、それらとは別種の、しかし確かに優れた容姿を持つ少女だった。

 

 きっと、ほんの少し微笑むだけでも、ずっと魅力的に見えるのだろうと思う。けれど、それを彼女自身が拒む何かが、彼女の中にはあるのだろうな。

 無理やり張り付けたようにも見えるその無表情に、僕はふと、そんなことを思った。

 

「悪魔の、って。もしかしてフランのこと?」

「ええ、勿論」

 

 疑問形の僕の言葉を、彼女は肯定する。

 

「姉の方も大概だけれど、妹はその比じゃないわ。何せ『悪魔』ですもの」

 

 酷く刺々しい物言いに、僕は眉を顰める。

 

 レミリアを引き合いにした、フランを貶めるような発言。

 その声は相変わらず冷たく、淡々としたもので。却ってそれが、その言葉が偽らざる本心であることを、強く痛感させられた。

 

「君は、レミリアの従者なんだよね」

 

 思わず零れた、会話の流れを外れたような問いに、咲夜は僅かに一瞬だけ表情を苦々しげに歪めると。

 

「――――そうね。でも、それだけ」

 

 短く、ただ吐き捨てた。

 

「ただ生きる為に、食い繋ぐ為だけに働いているだけ。感謝も、忠誠心も、一度も感じたことなんかない。寧ろ私は――――」

 

 捲し立てるように言葉を吐いた咲夜は、そこまで言い掛けてからはっとした表情を浮かべると、口を噤んだ。

 

 ほんの一瞬。

 ほんの僅かな、静寂。

 

 口元を固く引き結んで俯いていた彼女は、強く握り締められて小刻みに震えていた拳を、しかしゆっくりと解くと。

 

「気を許さないことね。どれだけまともに見えたとしても、あの妹は、何かを壊さずにはいられないのだから」

 

 予言のような、呪いのような言葉を紡いだ。

 

 初めて彼女が見せた、無以外の表情。

 しかしその、酷く歪んだ笑みは、決して好意的なものではなくて。押し込めようとして、けれど隠し切れない。そんな、強い悪意を感じさせるもので。

 

 同時に、今にも泣き出してしまいそうな。

 あまりにも悲痛な笑みだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後、僕が使うことになる部屋までの道中、僕達の間に会話はなかった。

 

 重苦しく沈んだ空気の所為、というだけでもなく。

 終わりの見えない、異様なまでに長い廊下を歩いている内に、すっかり気力を失ってしまっていたのだ。

 

 紅魔館という名称から、僕はすっかり、ここは洋館なのだろうと考えていたけれど。レミリアが「私の城」という表現も、そう誇張されたものではなかったらしい。

 『主な業務:清掃』と書かれていた先の契約書を思い出して、サインしたのは迂闊だったかと深く息を吐いた。

 

 そうして、地下の廊下を何往復もするほどの、設計を間違えたんじゃないかと思うほどの距離を歩き続けて。廊下の端にまで到達したところで、咲夜は漸く足を止めた。

 

「ここを使って頂戴。一先ず、暫くは楽にしていて構わないわ」

 

 咲夜から鍵を受け取った僕は、早速扉を開ける。

 最低限の家具が置かれ、小さく纏まっている、という印象の部屋。前の利用者はいない、ということだったけれど、埃っぽい印象もなく洒落たホテルの一室みたいだ。

 

「朝、あいつが寝入ったら改めて来るから。館内の説明は、その時に」

「朝……」

 

 言われて、僕はそこで初めて気が付く。

 

 吸血鬼と言えば、夜。

 つまり、陽が昇っている間は寝て過ごすのは当然のことだ。一応は、フランに血を吸われて蘇生した僕も、その一人なわけで。

 

 と、すると。

 僕は朝、起きていて大丈夫なのか? というか、起きていられるものなのか?

 

 突然黙り込んだ僕に、暫く訝しげな視線を寄こしていた咲夜は。あぁ、と小さく声を上げた後、何かを取り出すとこちらに突き付けてきた。

 

 丸く、光を反射するそれには、冴えない男の顔が写っている。

 

「なんだ鏡か。――――鏡?」

 

 一度視線から外したそれに、僕は再び目を向けた。

 

 そこにはやっぱり、冴えない顔をしたの男の顔。

 黒髪黒目も、平たい顔立ちも、紛れもない日本人のそれである。自分の顔として、驚くほどあっさりと受け入れられたことと同時に、別種の衝撃が走っていた。

 

 吸血鬼が持つ特徴の中に、確か、『鏡に写らない』というものがあった筈だ。

 フランに血を吸われたことで人の道を外れたのならば、吸血鬼になったのならば、当然、僕の姿が鏡に写る筈もないわけで。

 

「貴方は確かに、血を吸われて人間を辞めた。けれど、吸血鬼と呼ばれるには、貴方は力が弱すぎたみたいね」

「なんだよ、それ」

「冗談よ」

 

 本当に冗談だろうか。

 あまりにも、変わり映えのない無表情のまま言うものだから、とてもそうは思えないのだけれど……。

 

 それに、だ。

 吸血鬼に血を吸われて、人間辞めて、けれど吸血鬼ではない、とすれば。一体僕は何者になったというのか。ゾンビか何かか。それとも蝙蝠男だろうか。そもそも羽すら生えていないけども。

 

 恐らくはとんでもなくアホな顔を浮かべているだろう僕を暫く眺めて満足したのか、咲夜は再び口を開いた。

 

「今の貴方は、そうね――――食屍鬼(グール)、とでも言えばいいのかしら」

 

 食屍鬼……。

 イマイチしっくりとはこないのだけれど、やっぱりゾンビの類だろうか。

 

「別物だけれど、まぁ似たようなものかしら。血を吸われた直後の眷属は、大抵は欠損だらけの、見るに堪えない姿で目覚めるものなの。その欠損を補う為に血肉を求める。だから、食屍鬼」

 

 何ともないことを言うように、実に涼しげな顔で咲夜は語った。

 

 一方、その言葉を受けた僕は酷くぎょっとして、慌てて袖や裾を捲り上げると、全身くまなく見通すように何度も視線を這わせていた。

 けれど、僕の懸念とは裏腹に、どこかが腐り落ちているような様子もなければお腹の中身が顔を覗かせている、というわけでもないようだ。精々、妙に血色が悪く見えるくらいだろうか。

 

「貴方の場合、もう殆ど吸血鬼のようなものね。それだけ多くの血を、親から分け与えられたのでしょう」

 

 血を与えた。それも、少量ではなく相当量を。誰が、一体どうやって。

 ……そんなこと、考えるまでもない。

 

 僕は、その一切を語らずに笑っていた少女の姿が、ふと脳裏に思い浮かんだ。

 

「それなら、今の僕と吸血鬼の違いは?」

「勿論、力よ。人々の抱く信仰――――『畏れ』が、種の力を決定付ける。食屍鬼程度じゃあ、銀はおろか鉄の剣でも致命傷は避けられないもの」

 

 曰く。

 吸血鬼が持つ強大な力も、同様に抱える数々の弱点も、人々の『畏れ』が形を成したものである、と。そして同時に、力を持つことで『畏れ』の対象となることもまたあるのだ、と。

 

 人外について妙に詳しい彼女は、そう締め括った。

 

「つまり、僕が食屍鬼としての生を重ねて、相応の力を付けることで初めて吸血鬼に至る、と?」

 

 僕の言葉を、咲夜は頷いて肯定した。

 

「だから、元々貴方が夜型でもないのなら、朝については心配しなくていいわ。尤も、陽の光に弱いってところだけはしっかり受け継いでいるから、気を付けて」

 

 彼女の言葉は相変わらず淡々としたものだった。

 

 けれど、尋ねたわけでもないのに、僕の様子から察して、あれこれと説明してくれたのだ。しかも、単に事実を述べるだけじゃなく、僕が気付いていない僕自身のことまで詳しく、である。

 

 それだけで、と思われるかもしれないけれど。

 彼女の親切心に、気配りに、僕は少なからぬ好意を抱いていた。彼女は紛れもなく善人なのだと、そう思える程度には。

 

 だからこそ、レミリアやフランとも仲良くして欲しい、と。そう思ってしまうのは、僕が彼女達を――――吸血鬼という人間にとっての脅威とも言える存在を、正しく理解できていないから、なのだろうか。

 

「じゃあ、仕事に戻るから」

「……あっ、ちょっと待って!」

 

 踵を返して去ろうとしていた咲夜を、考え事をしていた僕は一拍遅れて呼び止める。

 怪訝な顔をした彼女は、けれど立ち去らずに足を止めて、再び視線を向けてくれた。

 

「僕は朧月矢夜。君は?」

「は?」

「名前。ほら、君にはちゃんと名乗っていなかったし、聞いていなかったからさ」

 

 すると咲夜は、一瞬、呆けたような顔を浮かべて。それから、遅れて僕の言葉を呑み込んだのか、

 

「――――変な人」

 

 小さく、そう呟いたように聞こえた。

 しかし、僕がその言葉に触れるよりも先に、浮かせかけていた足を地に下ろした彼女が、振り返る。

 

「咲夜。十六夜(いざよい)咲夜(さくや)よ」

「よろしくね、十六夜さん」

 

 咲夜に向かって手を差し出すと、彼女は、少し困ったような表情を見せつつも、握り返してくれた。

 

「咲夜で構わないわ。一応は上司だけれど、私よりも歳上だろうし」

「うん、じゃあ、咲夜さんで」

 

 上司なのは事実だしね。

 そう思って呼び直すと、今度ははっきりと聞こえる大きさで「変な人」と呟いた彼女は、呆れたように小さく笑みを零した。

 

 口に出したら、きっとすぐに隠してしまうだろうから、言わないけれど。

 

 ――――やっぱり、笑っている方がずっと可愛いじゃないか、と。

 僕は心の中で、密かにそう思うのだった。



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第七話

 気が付いた時には、僕は既に朝を迎えていた。

 

 咲夜との会話中にちらりと過ったこともあって、最後にフランの顔を見に行こうか、などとも考えていたのだけれど、どうやら思っていた以上に疲労が溜まっていたらしい。

 少しだけ。そのつもりでベッドに身を委ねた僕は、そのままスコンと眠りに落ちてしまったのだ。

 

 しかもその眠りは中々に深いものであったらしく。

 青筋を立てて、「起こすの、これでもう三回目ですけれど」と言った咲夜の顔は二度と思い出したくもないのに、暫くは忘れることができなさそうだ。

 

「まずはここね。パチュリー様が貴方に会いたいと言っていたから、先に紹介するわ」

 

 ともあれ、レミリアが僕の為に用意したという紺色の制服――とは名ばかりの、どういうわけか単なる単色の和服――に身を包んだ僕は、咲夜に連れられて紅魔館の中でも一際大きな扉の前に来ていた。

 

 位置としては地下に当たり、潜った時の体感で言えばフランの部屋よりは浅いくらいだろうか。

 

「その、パチュリー様ってのは、どちら様? レミリアのもう一人の姉妹、とか?」

 

 そう言いながらも、僕は恐らく違うだろうな、と考えていた。

 

 何せ、本人の前ではないとは言え、主を『アイツ』呼ばわりしたり、その妹を罵った咲夜のことだ。仮にもう一人姉妹がいたとしても、『様』付けで呼ぶことなんてないだろうと思ってのことである。

 

 そんな僕の予想は、偶然にも当たっていたけれど、

 

「いいえ。パチュリー様はお嬢様のご友人よ。この扉の先、紅魔館の大図書館を実質管理されているの」

 

 しかし、致命的な箇所を間違えていた。

 

 咲夜の声に淀みはない。

 それは、抵抗も嫌悪も一切抱くことなく、レミリアに敬意を払ってそう呼んだということであり。僕は今、彼女を見縊っていたことを初めて悟った。

 

 咲夜とレミリア、その間に何らかの因縁が存在していことは、最早疑いようもないことだ。一方が人間、そして一方が妖怪である以上、それは決して、在り得ない話ではなくて。

 しかし彼女は、そんな私情を殺して職務に忠実であろうとしている。

 

 もっと言ってしまえば、きっと、昨日のようなことの方がずっと異例なのだろう。あまりにも自然な彼女の態度は、それが常日頃から維持されているものだということは簡単に察することができた。波風を立てず、感情を逆立てず、ただ一介の従者に徹する。それこそが彼女の処世術であり、そうすることで、彼女はこの悪魔の館を生き抜いてきた。

 

 昨日の彼女との差を問い質すことは容易である。

 けれど、そうすべきではない、と。僕は心からそう思った。

 

 それは、まともに始まってすらいない彼女との関係を壊すようなことはしたくない、という。目が覚めてから何度も繰り返してきた保身という側面も、間違いなくあっただろう。

 けれどそれ以上に、職務に対して真摯に向き合おうとする彼女の決意に、水を差したくはないという思いがあったからだ。

 

 それに、

 

「……大図書館。それに魔女、ね」

 

 或いは、次の問題の火種とも言える、眼前に迫るそれへの対応を考えることの方がずっと優先度が高い、ということもまた確かであった。

 

 昨晩のフランの話を思い出す。

 

 彼女に魔導書を貸し与えたという、知り合いの魔女。

 恐らくは、この扉の向こうにいる魔女こそが、正しくその人物なのだろう。

 

 ――――魔女。

 それは、きっと、今更驚くほどのものじゃない。寧ろ、吸血鬼だの食屍鬼だのといった化物染みたモノが実在する中では、魔女なんて、よっぽど現実に即した存在であると言える。何せ魔女と言えば、その真偽は兎も角として、歴史上にも姿を見せた程度の存在なのだから。

 

 それが緊張せず、恐怖せずに乗り切れる為に十分な理由になるかと言われると、正直、首を縦には振れないのだけれど。

 

 ことの由来を考えれば、あくまでイメージや誹謗中傷のレベルの話なのだろうとは思ってはいるものの、それでも魔女と言えば、悪として裁かれるモノとして語られる姿が目立つ。

 図書館という以上は、きっと、大きな鍋でぐつぐつあれこれ煮込むタイプの魔女ではないのだろうけれど。仮に美味しそうな林檎を渡されたとしても、うっかり口にすることのないよう気を引き締めねば。

 

「パチュリー様! 例の者を連れて参りました!」

 

 やたら大きい声で中に呼び掛け、返事も待たずに開け放つ。

 その理由を、僕は、視界に飛び込んできた『図書館』を見た瞬間に、即座に理解した。

 

「うおっ」

 

 ――――そこに広がっていたのは、どこまでも高く聳え立ち、只管に視界の全てを埋め尽くす、本の世界だった。

 

 僕は思わず声を漏らす。

 

 鼻先を擽る、古びた紙とインクの匂い。

 薄暗いにも関わらず見て取れるほどに宙を舞う埃の群れ。

 僕の背丈より何倍も高い本棚は、天井に触れるか否かというところにまで至り。

 そして、その全てに、一切の隙間なく詰まっている数多の本。

 

 張り上げた咲夜の声も届かないだろうというほどに、それは、あまりにも広い。

 精々が洋館にある個人の書斎が実態であるだろうそれは、しかし、紛れもない『大図書館』として形を成していた。

 

 特に気にした様子もなく、迷いのない足取りで進んでいく咲夜の後を追いつつ、ぼんやりと本棚の中身を目でなぞっていく。

 何よりも恐ろしいのは、それらの中に、恐らくただの一つも同じ本はないだろうということだ。

 

 背表紙に刻まれる文字は読めないものが大半で、しかもそれは、どうやら一種類の言語のみではないらしい。あまりにも多種多様で、世界中に存在するあらゆる本を片っ端から全て詰め込んだような、本の宝石箱。それらは、言語よりもジャンルを優先して整理されているらしく、日本語の背表紙の塊もまた、あちらこちらに点在していた。

 

「てっきり魔導書ばかりだろうと思っていたけれど、絵本や小説まであるのか」

 

 興味を惹かれるタイトルの数々に時々目を奪われ足を止めながらも、誘惑を振り切るように頭を振って正面を見据える。

 

 いつの間にか随分と先行していた咲夜は、これまでに会ってきた者の中では最も大人びた――それでも僕よりは幼く見える――容姿の少女と話しているようだ。彼女が、件の魔女だろうか。

 

 ぼんやりと二人を眺めていると、咲夜が顔をこちらへと向け、それに倣うように魔女と思しき少女の視線もまた向けられた。

 

 それに急かされるように、けれど埃が舞い上げることを危惧した僕は、走らない程度のギリギリまで速度を上げて二人の元に向かう。

 

「ふうん、貴方が例の使い魔ね」

 

 声が届く程度まで距離が埋まると、少女の視線が僕をなぞる。

 ジロジロと観察するような、張り付くような、ややねっとりとしたその目線を受けて、思わず僅かに身動ぎした。

 

 大丈夫、大丈夫だ。走ってはいないから見苦しく着崩れてはいないし、些かシンプルに過ぎるとは言え、用意された制服は仕立ても良く、不快に思われるようなことなんて何もない筈だ。僅かに汗ばむ背中に不快感を覚えながらも、心の中でそう繰り返す。

 ……唯一の懸念である肌の青白さについて言えば、魔女本人を含めたこの館の住民達と大差ない程度である、と主張しておく。

 

 上から下まで、二度ほど往復を重ねた彼女は、

 

「なんだか、思っていたより普通ね」

 

 酷く辛辣な評価を投げ付けてきた。

 一つ安心すると共に、けれど何となくすっきりせず。僅かにむっとしてしまったらしい僕の顔を見た少女が、くすりと笑う。

 

「ごめんなさいね、悪い意味ではないのよ。ほら、紅魔館の住民は、良くも悪くも変わり種ばかりでしょう?」

 

 陽気というよりかは、陰気な印象を強く思わせる風貌の少女は。けれど、それが一層の冷静さと、彼女が備えているだろう高い知性を感じさせていた。彼女は紛れもなく魔女であると、対面しただけで納得してしまうほどに。

 

「朧月矢夜。フランの使い魔で、元普通の人間です」

「パチュリー・ノーレッジ。どちらかと言えば、割と平均的な方の魔法使いよ」

 

 遅れて自己紹介を交わす。

 少しだけ意外だったことと言えば、実は『魔女』という他称が気に入っていなかったのだろうか、自らを『魔法使い』と称したことくらいか。

 

 「割と平均的な方の」魔法使いなのかどうかについては、一旦保留しておくこととした。正直、魔法使いとやらにおける平均的が分からないということもあるけれど。あくまで、これは僕個人の感想になるが、正直、この量の蔵書は平均的というよりかは偏執的であると思う。

 尤も、僕の知らなかった世界に住む魔法使いにとっては、これくらいは普通なのかもしれない。つまりは、考えるだけ無駄なことである。

 

 何が普通かなんて、僕にはもう分からなくなっていた。

 ちなみに、僕の中の『普通』を揺らがせている原因の一人でもある咲夜をちらりと窺い見たところ、小首を傾げられてしまった。

 

 ……兎も角として、未知の存在たる魔女との邂逅は、それまでの出会いのどれよりもスムーズかつ健全に果たすことができたと言える。

 

「一先ず、腰を落ち着けて話しましょう。色々と訊きたいことがあるの」

 

 付いてきて、と言って踵を返したパチュリーに、僕は、是非を問うように咲夜を見た。既に話は付いていたのだろう、僕の視線を受けた咲夜は小さく頷いて見せる。

 

「お嬢様達の求めに応じて、お相手差し上げるのも仕事の一つよ。話が終わった頃くらいに、迎えに来るわ」

 

 出口へと向かっていく咲夜の背中を見送った僕は、「何をしているの?」と急かしてくるパチュリーの方へと向き直った。

 

 まぁ、僕としても、彼女から聞きたい話は幾つもあったし。危険度も高くはなさそうだから、丁度いい機会なのかもしれない。

 僕は自分の中でそう理由づけると、「今行きます」と声を上げてから歩き出した。

 

 別に、彼女の質問に答えたらちょっと魔法とか教えてくれるかな、なんて思っていたりするわけでは決してない。



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第八話

 本棚の森を抜けた先にある一角。

 

 少しだけ開けた空間には、ポツリと。

 何とか譲り合って、それでもどうにか二人が使えるかどうか、という程度の小さなテーブルが一つ。そして、隣り合うように椅子が二つ、並べられていた。

 

 普段はパチュリーしか利用しないのだろうか、片方の椅子の上には本が山のように積み重なっている。

 

「ん、しょ……っと。はい、どうぞ」

 

 パチュリーは本の山を机の上に動かすと、椅子を向き合う形に置き直してから指し示した。

 

「それじゃあ、失礼します」

「ええ、ちょっと待っていて頂戴。お茶でも淹れさせるから」

 

 僕が腰を掛けたのを見届けたパチュリーは、向かいに座ることなくそのまま奥へと立ち去っていく。

 

 一応、本当は僕も給仕をする側の立場の筈なのだけれど。

 そう思って腰を浮かせかけたものの、しかし、わざわざ断ったところで微妙な空気になるだけだと思い至った僕は。お言葉に甘えて、その背中は追わずに大人しく座って待つことにした。

 

 しかし、なんだ。

 座りが悪いというか、なんだか妙に落ち着かない。一応は勤務時間である所為か、じわじわと膨らんでいく罪悪感に呑まれていくような感覚がある。ええい、休憩のタイミングも長さも自由という最高の労働条件だというのに、どうしてこう……。

 

 遂に耐え切れなくなった僕は、せめて少しくらい整理の手伝いを、と辺りを見回し始めた。

 

 とは言え、勝手も知らぬ大図書館。

 そもそも文字が読めないのだから、どの本をどの棚に戻せばいいのかも分からないわけで。せめて、乱雑にばら撒かれたまま放置されている本でもあれば、纏めておいたりとかもできるのだけれど。

 結局何も見つけられないまま、ぐるりと辺りを一巡してしまった僕の視線が、最後に目の前の机へと戻ると――――。

 

「――――読みかけの、本」

 

 出しっぱなしの、散らかりっぱなしが。

 すぐ目の前に、ポツリと取り残されていた。……灯台下暗し、とはよく言ったものである。

 

 高く積まれた本の根本に、開かれたままになっている一冊のハードカバー。ページには細かな文字がびっしりと書き込まれていて、魔法陣だろうか、何らかの図形も幾つか描かれていた。……魔導書、という奴だろうか。よく見ると、ページは中ほどから白紙のままとなっていて、すぐ傍らには羽ペンが置かれている。

 

「いや、違う。これは」

 

 驚いた。

 そういった者がいるのは当たり前のことなのだけれど、まさか、初めて会った魔法使いが魔導書の著者だったとは。

 

 どうやら直前まで書いていたらしく、書き込まれたインクは未だ乾いていないらしい。

 

「――――これじゃあ片付けられないな。しかし、魔導書か」

 

 ちらりと、視線が吸い込まれてしまう。

 魔導書というものが、果たしてどういうものなのかは分からないけれど。もしかしたらこれが読むことができれば、或いはこれを手にすれば、魔法が使えるようになったりとか、するのだろうか。

 

 思わず固唾を呑み込んだ。

 いけないことだ。本人がいないのに、許可を取っていないのに、勝手に見るだなんて。けれど、頭では分かっていても御しきれなかった体が、既に動き出していて――――。

 

「覗き見だなんて、感心しないわね」

 

 僅かに身を乗り出すような姿勢のまま、思わず、ビクリと硬直した。

 すっかり気を取られてしまっていた僕が全く気付かない内に、いつの間にか戻ってきていたらしいパチュリーがこちらを見ていた。会った時から既に眠たげだったその半目は、少しだけ、先ほどよりも細められているように見えて。

 

「いや、これはその……ごめんなさい。少し気になってしまって」

「まぁ、別に怒ってはいないのだけど」

 

 平謝りをした僕にパチュリーはそう言うと、向かいの席に腰を下ろした。

 その後方には、彼女が連れてきたらしい赤髪の少女が控えていて。サービスカートから二人分のカップを取り出すと、ポットから紅茶を注いでくれた。

 

 ちなみに。

 怒られるべき行為を犯した見返りは、一切なかった。誰も彼もが日本語を話してくれているから忘れがちだが、この辺りで一般に使われていると思われる言語は、僕の扱えるものではない。それは昨日の時点で既に分かっていたことであり、つまりは、最初から読める筈もなかったのだ。ああ、この、愚か者め。

 

「ありがとう」

 

 パチュリーからのお礼を受け取った少女はにこりと笑顔を浮かべ、一礼をしてから去っていった。

 

 その後ろ姿を見て気付いたことだけど、どうやら、彼女もまた人間ではないようだ。

 側頭部と背中にそれぞれ生えた羽は余すことなく黒一色に染まっていて、それは正しく悪魔の羽のイメージそのものであった。

 

「中身は読めた?」

「……いえ。正直、日本語以外は不慣れでして」

「それはあまり関係ないわね。それ、資格がある者になら読めるようにできているから」

 

 その言葉から連想したのは、あの、レミリアが書いた契約書だ。

 レミリアの書き連ねた文字は確かに僕の読めないものであったけれど、どういうわけか、僕の手に渡った時には読めるものへと形を変えていた。

 

 この本もまた、『資格』さえあれば同じような動きをするのだろう。

 尤も、その資格というものがどういったものかは分からないのだけれど。

 

 一つ確かなことと言えば、とても、とても残念なことに。少なくとも僕には、それは備わっていなかったらしい、ということだ。

 

「そうがっかりしないで頂戴。そんな簡単に読み解かれたら、私の方が自信をなくしてしまうわ」

 

 パチュリーはくすくすと笑う。

 

 彼女によると、やはりそれは魔導書の類であるらしかった。

 大抵の魔導書には、読み解く為には幾らかの条件が必要となる、とのことで。著者によって求められる条件は様々だが、少なくとも、魔法の行使が可能なことが前提となるケースが殆どなのだとか。

 

「総称して、それらを『資格』、或いは『鍵』と呼ぶこともあるわ。内容それ自体が暗号化されていて、逐一複合化しながら読まなければいけないものもあれば、『鍵』がなければそもそも開くことさえできないものもある」

「今回の場合は前者、ということですか?」

「両方よ。開かれたままだったから必要がなかっただけ」

 

 しかしなるほど、鍵か。

 話を概ね理解すると、僕は一つ溜息を零した。

 

 ぱっと見、魔法なるものとは縁も所縁もなさそうなフランにも使えるのだから、魔導書さえあれば簡単に使えるようになるものだとばかり思っていたのに。まさか、その魔導書を読む為に、そもそも魔法が必要だなんて。

 

 そう愚痴を零すと、パチュリーは「酷い思い違いね」と言った。

 

「魔法に関して言えば、あの子は優秀よ。素質だけ見れば、レミィ――――姉のそれをも凌ぐくらい。本格的に学び始めたのは最近のことだから、実力としてはまだまだ半人前にも満たないけれど、ね」

 

 『優秀』というフランへの評に僅かな希望を抱いた僕は、しかし続く言葉によってあっさり打ち砕かれ肩を落とした。

 フランが魔法に精通しているのなら、それはそれで教えを乞えばいいかとも思っていたのだけれど。未だ学びの過程にある者にそれを求めるのは、流石に酷だろう。

 

 それに、これは勝手なイメージに過ぎないけれど。

 多分あの子は感覚派というか、天才肌のタイプだと思う。理解するよりも先に実践してみて、一発であっさりと成功させちゃう類のアレ。

 ……石橋が墜ちるまで叩くタイプの僕とは、何だか、色々と相性が悪いような気もしてきた。うん、推測であれこれ考えるのはやめよう。

 

「まぁ、貴方に素質と興味があるのなら、簡単な魔法くらいは教えてあげるわよ。……それよりも、今は貴方のことについて、聞かせて頂戴」

「ええ、まぁ……記憶がないので、答えられることでしたら」

 

 パチュリーが本題へと移ろうとするのに合わせて、僕も座り直して背筋を伸ばす。

 そうだ、忘れかけていたけれどこれはあくまで業務の一環。彼女に求められてこの場にいるのだ。最大限、その期待に応えなければ。

 

 後は、僕に十分な素質があることを祈るのみである。

 

「あまりパーソナルな質問はしないつもりだから、安心して。まずは――――そうね。元人間だと言っていたけれど、人でなくなったのはここに来る前?」

「いえ、来てからだと思います。死に掛けた僕を蘇生させる為に、フランが血を吸って食屍鬼にしたのだと聞いています」

 

 僕の答えに、パチュリーは「ふむ」と小さく頷くと、少しだけ考え込むような仕草を見せる。

 

「それなら貴方は、元々『魔』に関係する何者かの血を引いていた、という可能性が高いと考えられるわね」

「魔……ですか?」

「ええ。あの子に渡した魔導書は、術者の能力や性質に応じた悪魔を召喚する為の術式が刻まれた物。生粋の人間を喚び出すことは不可能なのよ」

 

 パチュリーによれば、魔法とは、奇跡のような不安定で不確かな代物ではなく。誰にでも使えるものではないにせよ、ある一定の、確かな理論に基づいて行使される再現性のあるものであるらしい。

 

 故に、例えば召喚魔法であれば、求める対象に応じてそれぞれ異なる術式を構築する必要があり。おおよそ共通部品と言える大枠こそあるものの、一つの術式を丸々使い回して異なる対象を喚ぶことなどできないのだと語る。

 つまり、僕が元から食屍鬼――――悪魔である吸血鬼の成り損ないであったか、元来から悪魔に由来する性質を備えていなければ、此度の召喚は実現し得ないというのだ。

 

「勿論、魔導書の術式をアレンジして使用することは可能よ。けれど、それには相応の知識、そして経験が必要。フランには、まだそこまでのことは教えていない」

 

 ……けれど、自分に悪魔の血が流れているかもしれない、なんていきなり言われたところで、そう納得できるものでもない。

 

 何というか、感覚だとか本能的に「そんな筈はない」と思ってしまうのだ。勿論、記憶がない以上は反論も反証もできないのだけれど。この思いは、一先ず、胸の内にしまっておくことにする。

 

「そして、フランによって貴方は食屍鬼になった、と。その点も興味深いわね」

 

 続く言葉に、僕は思わず首を傾げた。

 咲夜から聞いた通りの話ならば、血を吸われた直後の人間の比較的大半は、食屍鬼を経由するものだということだったけれど。

 

「その認識は間違っていないわ。私が気になっているのは、『フランが』血を吸ったということ」

「……つまり?」

「あの子はとても不器用で、力加減なんて殆どできないのよ。だから、殆どのものを壊してしまう。とても、素体を傷付けずに血を吸うことなんてできないでしょうね」

 

 下手にやろうものならそれこそ粉微塵よ、と締め括られたパチュリーの言葉に、背筋をぞっと冷たいものが駆け上がる。

 

 つまり、僕は。

 たまたま、本当に運が良かったからこうして生きていられているだけで、本当なら今頃、影も形もなくなっている筈だった、と――――?

 

「たまたま運が良かったのかもしれないし、魔法を学ぶ過程で、あの子が想定よりもうまく加減できるようになっていたのかもしれない。或いは、貴方が特別頑丈だった、という可能性もあるわ。今この場で検証できることと言えば――――」

「人体実験とかそういうのはちょっと」

「あら、残念」

 

 指先に奇妙な光を灯らせ始めたパチュリーに、身の危険を感じた僕は間髪入れずに拒絶の意思を示した。

 少なくとも今は、或いは人間の頃よりもずっと丈夫になっているのかもしれないけれど、だからと言って痛いのは嫌だ。

 

「気が変わったなら、いつでも言って頂戴。歓迎するわ」

「……多分、気が変わることはないと思います」

 

 何やら物騒なことを口走るパチュリーであったが、しかし強行はせずに矛を収めてくれたらしい。指先の光が霧散したのを見て、僕はほっと胸を撫で下ろした。

 

「けれど、他に可能性なんて――――まさか。或いは……いえ、でもそんなこと」

「どうか、したんですか?」

 

 小さな声で呟くと、そのまま俯いて考え込んでしまったパチュリーに問い掛けるも、反応はない。その表情はどこか深刻そうで、ぶつぶつと何かを口にしては即座に否定して、のサイクルを幾度か繰り返すと。

 やがて、声を発することも止めてしまった。

 

「パチュリー様……? あの、パチュリー様っ!」

 

 少し心配になった僕が、少し身を乗り出すようにして肩を叩くと、彼女ははっとした顔を浮かべてから僕に視線を向けた。

 

 何かを言おうと口を開き掛けて、しかし噤んで。

 逡巡するような様子を見せたパチュリーは、最終的に、首を小さく振った。

 

「……可能性が、もう一つだけあったの。けれどあまりにも不確かで、現実味のないことだったから。この件については、一旦こちらで預からせて頂戴」

 

 いずれ協力をお願いすることになるかも、と言うパチュリーに対して、僕は頷いて答える。

 

 正直に言えば、自分のことではあるのだけれど、どうしても解明したいという類の話でもなかった。

 或いは、在り得ないような奇跡が起きたのかもしれない。或いは、僕の出自に、生い立ちに隠された謎があったのかもしれない。けれどそれらは、全て過去の話で。全てはもう起きてしまったことで。今更――――。

 そう。今更何かを知ったところで、得るものなんて一つも、何一つとしてないのだ。

 

 けれど彼女にとって。ある意味では研究職とも言える彼女にとっては、そういった謎をこそ解き明かしたいという欲求があるのだろう。

 

 ならば、一介の従者という立場である僕にすべきことは、その求めに応じて協力する。ただ、それだけのことである。

 

「ごめんなさいね、次に進みましょうか。用意するものがあるから、少しだけ待っていて頂戴」

 

 席を立ったパチュリーを見送った僕は、すっかり飲み忘れていた紅茶に気付いて、口に運んでみる。

 

 ……勿体ないことをしてしまったな。後で、あの赤髪の少女に謝らなければ。

 僕はすっかり冷めて、香りも飛んでしまったそれを乾いた喉に流し込みながら一人そう思う。

 

 カップをソーサーへと戻すという、簡単な、たったそれだけの動作を。

 どういうわけか、僕の意思に反して意味もなく小刻みに震える手が、酷く困難なものにしていて。

 

 ……静かな大図書館に暫く。

 擦れ、ぶつかり合うような不愉快な物音が響き続けたのだった。



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第九話

 その後、パチュリーは幾つかの本を抱えて戻ってきた。

 

 曰く、それらは魔導書であるという。

 中でも、「触れた者の性質や適性」を鍵として用いる類のものばかりであるらしく、彼女はこれらを測定器代わりに用いるのだとか。

 

 僕に本を抱えさせては、その際に起こる反応を逐一メモし、反応が収まり次第次の本を――――そのサイクルを繰り返すこと、実に数時間。単純作業の繰り返しに少しずつ心が摩耗し始めた、午前の時間が間もなく終わろうという頃。

 

「――――ええ、まぁ、こんなところかしら。お疲れ様」

 

 パチュリーの言葉によって、漸く解放が認められた僕はほうっと息を吐いた。

 

 魔導書は基本的にハードカバーであり、ものによってはそれなりの凶器になる程度の厚さを誇る物もあったりでそれなりに重たい。『開錠』には多少なりの時間が求められることも少なくないので、僕の目からは一切変化のない本を抱えながらの数時間は、ある種拷問のようであった。

 もっと簡単に、それこそただ適性を測ること自体を目的としたような魔導書があれば、こんな目に遭うこともなかっただろうに……。思わずそうごちると、

 

「その、能力を測る為の魔導書を書く為に、何人ものサンプルケースが必要なのよ」

 

 羊皮紙に落とした視線を上げることもなく、筆を動かし続けるパチュリーが言った。

 

「パチュリー様が書かれているのですか?」

「そう。誰かがやってくれていたなら、こんなことをしなくても良かったのだけれどね」

 

 曰く。

 魔法使いとは、基本的には自分勝手な連中なのだそうで。

 

 各々が好き勝手に研究を重ねては、それを書き残し。わざわざ残したのだから、結局は誰かに読んで貰いたい癖に、けれど無条件で読まれるのも癪だからと、気紛れに鍵を掛ける。

 自分の意図が、研究の意味が理解できる誰かの手によって開かれることを、期待して。

 

「でも、その癖して、誰も鍵を解く為の手段を残そうとはしないのよ。魔法が扱えなければ魔導書は読めず、魔導書が読めなければ魔法は扱えず。結局は、先天的に『魔法』を使えるような、私達のような者が殆どで、後天的に覚えた者なんてほんの僅か」

 

 その、魔法がある種の『固有の能力』と化している現状をよく思っていないのだと、彼女は続ける。

 

「魔法は、私にとって単なる手段に過ぎないのよ。この世のあらゆる未知を、既知へと置き換えていく為の。幸いにも、私には人のそれよりも長い寿命が与えれていて――――けれど、それでもまだ、足りないの」

「……だから、『残す』ことが必要なのだ、と?」

「ええ。私が暴いた神秘を、一代のモノにしない為に。次の世代が、より多くの既知をその上に積み重ねていけるように」

 

 それが彼女の想い。

 彼女が魔法に懸ける願いだと知って。

 

「凄いな、パチュリー様は」

 

 素直に、僕はそう思った。

 

 目的を胸に抱いて、それを達成する為に、努力を重ねる。

 それだけのことならば、言ってしまえば、その気があれば誰にだって到達し得る領域だ。『努力』とはある意味では、その人の匙加減、定義次第に他ならないのだから。

 

 けれどそれは、『結果を生むこと』とイコールで結び付いたりはしない。

 貫き通せば如何なる願いであっても叶う、諦めずに努力を重ねれば必ず届く、なんて根性論染みた考えもあるけれど、僕にはそうは思えない。特に、前人未到を目指そうとすれば、最短距離とは程遠い道のりを選んでしまうことだって少なからずあるけれど、それだって紛れもない努力だ。仮にあと一歩、というところまで迫っていたとして、それでも届かずに事切れてしまった者を、「どこかで諦めてしまっていたのだ」「努力不足だったのだ」などと謗ることは、僕にはできない。

 

 けれど彼女は。

 パチュリーは、それをも「努力不足なのだ」と謗ってみせたのだ。この身一つでは足りないのなら、それが分かっているのなら、その対応策を打てばいい、と。

 

 そこまで先を見据えて動いていることにも。

 そうしてまで叶えたいほどの、強い願いそのものも。

 いずれも僕の持ち得ない、本当に美しくて尊いものだと、心の底から思った。

 

「……さぁ、整理も終わったわ。自分のことだもの、貴方だって結果は気になるでしょう?」

 

 僕の呟きも聞こえないくらいに集中していたのか。

 これといった反応を示すこともなく、彼女は動かし続けていた筆を止めると視線を上げた。

 ……よく見ればその頬が、ほんの少しだけ上気しているようにも見えるのは。果たして、僕の気のせいだったのだろうか。

 

 ともあれ、研究のついでとは言え、せっかく彼女が纏めてくれたのだ。

 僕は首肯して続きを促す。

 

「とは言っても、まぁ……可もなく不可もなく、といったところなのだけれど」

 

 そう告げた彼女の様子には、どこか落胆のようなものが垣間見えた。

 僕としては、特別劣っているというわけでもないのならば、それはそれで十分だと思ったのだけれど……。

 

「適性のある魔法自体は豊富で、苦手とする属性はないけれど得意なものもまたない。そもそもの魔力の総量が多くないから、大規模な魔法の行使にも向いていない。あくまでサブウェポンとして運用するのがお薦めね」

「なるほど、サブ……って。僕、誰と戦うんです?」

「他の妖怪達に決まっているでしょう。戦って、殺して、力を示す。そして、それができなかった者から消えていく。今はもう、そういう時代なのだから」

 

 きっとこれまでの僕は、生き死にだとか、殺し殺されるだとか、そういったこととは無縁の世界で生きてきたのだろう。実感のない、あまりにも現実離れしたパチュリーの言葉に、僕は何一つ返すことなく口を噤ませた。

 

「……分からないのも当然ね。けれど、覚えておきなさい。妖怪は、私達は、人の『畏れ』によって生きている。生かされているの。けれど、ただそこに『在る』だけで、無条件に畏れられる時代は終わった。人は、それらを退けるだけの技術と力を得てしまったのよ。――――だから」

 

 生き残りたければ、強く在りなさいと。

 彼女は、変わらぬ表情のまま言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後。

 パチュリーとの会話がすっかり途切れた頃に、タイミングを見計らったように現れた咲夜に連れられて、図書館を離れた。

 

 妖精達とは異なり、確立された個と力、そして紅魔館における重要な役割を担う者が、あと一人残っているのだと言う。道中、咲夜が用意してくれたらしい昼食のサンドイッチを口へと運びつつ、件の彼女がこの時間にいるという中庭へと向かっている。

 

「食屍鬼の口には、人間の料理は合わなかったかしら?」

 

 すっかり考え込んでいた僕は、不意に掛けられたその言葉に思わず顔を上げた。すっかり見慣れた、表情の読めない咲夜の顔。その視線が、すっかり止まっていた僕の手に向けられていることに気付いて、慌てて謝罪する。

 

「ああ、いや、そうじゃなくて。……ごめん、ちょっと、考え事してて」

「パチュリー様に、魔法の才能がないとでも言われた? そこまで気にしなくても、生き残る為の術なんて、他に幾らでもあるわよ」

 

 生き残る為の術。

 ――――その一言が、先程のパチュリーのそれと重なって。僕は更に、表情を暗く翳らせる。

 

「戦わなくちゃいけないんだよね。自分が生きる為に、死なない為に、僕は誰かを……」

 

 咲夜は、こちらへと向けていた顔を正面に向け直すと、しかし足を止めた。

 

「数年前のことよ。私は、目の前で育ての親を殺されたわ」

 

 思わず顔を顰める。

 彼女が何を思って、どういう意図で話し始めたのかが、理解できなかったのだ。けれど、当然それが見えていない咲夜は、構わずに続ける。

 

「奇跡的にも、私は見つかることなく生き残れたけれど――――頼れる親族もいなければ、知り合いもいない。小さな、世間知らずの私に遺されたのは、この、義父の『仕事道具』だけだった」

 

 音もなく取り出されたナイフが、眼前へと突き付けられる。

 ……それが描いたのは、ただの鉄製品には有り得ない、仄かな銀の煌きを伴う一閃で。それが何で出来ていたのかを、僕はここに来て、初めて思い知った。

 

「他に道なんてなかった。……私のような人間は、貴方が思っている以上に、この世界には溢れている。そうでなくとも、幸せな普通の人間ですら、生きる為に何かの命を奪っている。かつての貴方だって、今手の中にあるものだって、そうでしょう?」

「……それ、は」

 

 それは、至極当然の話だった。

 妖怪とは、人を襲うモノ。それが生存本能に基づくものならば、それは、人が生きる為に命を消費する行為と変わりはない。

 

 ……だから、これは。

 普段から散々口にしている癖に、自分の手では一切殺めることができないような。生きる為の殺生を他人の手に押し付けてきた、人間特有のエゴでしかないのだ。

 

「それでも信念を持って、人も、妖怪も、誰も殺めることはしたくないというのならば、結構。今すぐにでも、その余りある力で心臓を引き摺り出して、握り潰せばいい。そうすれば、その手を汚す血は、貴方のものだけよ」

 

 視線を落とす。

 目の前に広げられた掌は、指先は、情けなく震えていた。

 

「それもできないというのならば――――」

 

 次の瞬間、鼻先を掠めるように向けられていた切っ先が僅かにぶれて、掻き消えた。それを正しく理解するよりも早く、反射的に目を瞑るも。しかし、訪れると思われた痛みはどれだけ待ってもやって来なくて。恐る恐る開かれた視界が捉えたのは、

 

「――――彼女に尋ねてみるのも、良いかもしれないわね」

 

 首筋を目掛けて、今まさに振り下ろされようとしていたナイフの刃を握り締めて押し留める、紅い髪を持つ少女の姿だった。

 

「人を喰らうありふれた妖怪の一人でありながら、ここ暫くの間、人を喰らうことも、その力を落とすこともなかった者」

 

 一滴。

 その刃を伝って、真紅の雫が滴り落ちる。

 

 けれど、それだけだった。

 刀身はそれ以上食い込むことも、引き抜くこともできずに、少女の掌の中で立ち往生していた。

 そして、当の彼女は、少しだけ困ったように、けれど実に涼しげな微笑を浮かべている。

 

(ホン)美鈴(メイリン)。……お嬢様が認めた、ただ一人の紅魔館の門番よ」




07/01 初登場の美鈴に読み仮名のルビを振り忘れていた問題を修正


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第十話

「どうも! 紅魔館の門番、紅美鈴です!」

「あ、はい、朧月矢夜です」

 

 ナイフを掴んだまま、彼女は朗らかに笑顔を浮かべて言った。

 眼前に繰り広げられる明らかに異様でちぐはぐな光景に思考すらまともに働かなくなった僕は、反射的に名乗り返すのが精一杯だった。

 

「うん、君が例の使い魔君だね、一先ずは元気そうで何より。……それで、咲夜さん、とりあえず状況を教えて貰える?」

 

 美鈴が、ナイフを握り締めていた手を開く。

 いつの間にか咲夜からも放されていたらしいナイフは、支えを失い、そのまま重力に引かれるように地面に落ちて。そして、如何なる魔法によるものか。それは、誰が触れたわけでもないのに、瞬きをした僅かな間のうちにその場から忽然と掻き消えて、まるで手品のように咲夜の手の中へと戻っていた。

 

「話の流れに合わせた、ちょっとしたデモンストレーション、ってところかしらね。それに、美鈴さんなら必ず気付いて、ここまで飛んでくるだろうと思ったから。そうすれば移動の手間も省けるでしょう?」

「そりゃ、その分私が動いてるからね……」

 

 咲夜の答えに、美鈴はややげっそりとした表情を浮かべた。

 やり取りだけを聞いていれば、気心の知れた者同士が繰り広げる少しだけ皮肉めいた応酬。

 

 けれど、その場にいる僕が肌で感じ取ったのは、そんな親しみのあるものではなくて。

 どこかお互いの腹を探り合っているような、互いに牽制し合うような。

 とても穏やかとは言い難い雰囲気であった。

 

 そしてそれは、次の瞬間に、より明確な形を成して現れた。

 

「けれど、私が間に合わなかったら――――そもそも来なかったら、どうするつもりだったの? デモンストレーションにしては、中々に真に迫った殺気だったけれど」

「さあ、どうだったかしら。深く考えていたわけではないもの。それに、起こりもしなかった可能性なんて考えるのは無駄じゃないかしら」

「……へぇ、そう」

 

 腹の探り合いだの、牽制だなんて生温いものじゃない。

 それは、最早抉り合いというに等しいモノと化していた。

 

 刺すように、より鋭く細められた美鈴の視線。

 それを差し向けられた咲夜は、しかし物ともせずにその無表情を崩さない。

 

 時間にして数秒。

 されど、体感としてはもっとずっと長い沈黙。

 実に険悪なその空気を切って捨てたのは、美鈴からであった。「まぁ、いいわ」と呟いてからふっと目を閉じ、その睨め付けるような視線を咲夜から解くと、その表情を朗らかな笑みに戻す。

 

「それで、私に聞きたいことって?」

 

 あまりの切り替えの早さにについて行けず、一瞬、呆けてしまった僕は。

 考えがまとまらないまま、慌てて口を開いた。

 

「えっと、僕、妖怪になってしまったばかりで。まだよく分からないというか、実感もないというか。その、生き死にだとか、……殺し殺され、とか」

 

 誰も殺したくない。

 そうとはっきり言うことができず、紡がれたのは酷くしどろもどろな言葉の羅列。

 

 けれど美鈴は、そこから僕の真意を汲み取ってくれたらしく、小さく「そっか」と呟いた。

 

「怖いんだね」

 

 口を噤んで、数秒の間を置いた後に。

 こくりと頷いた。

 

 そうだ。

 僕は、怖い。

 この手を血に染めることが。

 自分の都合で誰かから何かを奪うことが。

 ……そうして、その結果として誰かから憎悪を向けられることが。

 

 咲夜が言ったように、これまでだって命を奪って、それを糧として生きてきた事実は変わらないというのに。

 

「ならば、強く在ればいい」

 

 そんな、俯いて丸まった僕の情けない背中を、美鈴はぱんっと叩いた。

 じわりと仄かな痛みが走り抜けて、それから、遅れて燃え上がるように熱が広がっていく。彼女から何かが、その掌を通して伝わってくるように。

 

「私は、咲夜さんみたいに理屈だとか成り立ちについては明るくない。難しいことは、正直よく分からないよ。でも、妖怪としてそれなりに長く生きてきたことは事実だ。その経験に基づいて、断言できることはある」

「それは……?」

「それは、妖怪が、必ずしも誰かの命を奪わなければいけないってわけでもないってことだよ」

 

 諭すような口調。

 それはパチュリーから、咲夜から聞かされた言葉を真っ向から否定する言葉だった。

 

「人々からの信仰を、何らかの恩恵として返す、神サマってのがいるでしょ? アレってさ、結局のところ、私達と同じなんだ」

「妖怪は、人に仇なす存在なのに?」

「そう。妖怪は人に仇をなす。人を傷付けることで、それに見合うだけの『畏れ』を抱かれる。正か負か、ちょっとした方向の違いはあるけれど、その因果の関係性はとても似通っているとは思わない?」

 

 少し、考え込む。

 

 咲夜の言ったことは紛れもない事実で、妖怪は畏れられることによってその存在を確かなものとする。

 けれど、彼らが知恵を付けることで、妖怪が打倒し得る程度のモノとなってしまえば、人々はそれに畏れを抱かなくなる。だから、妖怪は人を傷付け、殺す。そうすることで彼らの脅威であり続け、畏れを抱かせることで、自分達が単なる迷信になってしまわないようにしている。

 

 ならば、神は。

 人々から信仰を捧げられ、それに見合うだけの恩恵を授ける。そのカタチは確かに似ているけれど、因果の関係は妖怪のそれとは反対のようにも見える。

 

 ――――けれど、その前提が間違っていたならば。

 

 捧げられたから返すのではなくて。

 人々からの信仰を得る為に、彼らに恩恵を授けているのだとすれば。その信仰こそが、神が神として存在できる所以だとするのならば。それは確かに、畏れられる為に人を襲う、という妖怪の原理と一致するのではないか。

 

「私達は神じゃない。けれど、神も妖怪も、元を辿れば同じ『幻想』なんだ。神の中にだって、例えば祟り神のように、『畏れ』という信仰を捧げられることで存在を確立させるモノもいるのだから。妖怪にだって、違う道があっておかしくはない筈」

 

 顔を上げる。

 優しげに微笑んでいた彼女の顔が、何かを訴えかけるように真剣なものへと変わっていた。

 

「強くなりなさい。殺さずとも、奪わずとも畏れられるほどに。それは簡単なことではないけれど――――決して、不可能なことでもないのだから」

 

 やるべきことは変わらない。

 違うのは、ただ、辿り着こうとする結末だけ。

 だって、相手を殺さずに打ち負かすということは。少なくとも、その相手よりも自分が強くなければ、成立し得ないのだから。

 

 それは茨の道だ。

 長く果てしない、終わりのない道のりだ。

 最後まで貫けるかも分からないし、辿り着いたその先は理想とは異なっていて、この手が決して拭うことのできない誰かの血に赤く染まっているかもしれない。

 

 ――――あぁ、けれど。

 それでも、最初から誰かを殺める為だけに力を求めるよりかは、ずっといい。

 

「……ありがとうございます。少し、すっきりしました」

「大したことじゃないよ。……そうだ。私、朝に門前で簡単な鍛錬とかしてるからさ。気が向いたら、仕事の前にでもおいでよ」

 

 簡単な稽古くらいなら付けてあげる、と笑みを浮かべた美鈴に。

 僕は漸く、笑顔を返すことができたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……それで、本題なのだけれど」

 

 先ほどの険悪ムードはどこへやら、何事もなかったように会話を続ける美鈴と咲夜を、僕は外側からぼんやりと眺めていた。 

 

 お互いがお互いに敬称を付けつつも敬語までは用いていない辺り、二人の立場はそれなりに近しいものなのだろう。

 又聞きの話ではあるが、咲夜が雇われたのがここ最近であるという話だし、美鈴が門を任されたのがつい最近、という感じもしない。それだけに、身長の差、およそ頭一つ分は高い位置から話す妖怪の美鈴に対して、怖気付いた様子もなく対等に渡り合っている咲夜の肝の座り具合がどれだけのものかが窺えた。

 

 ……案外、そう遠くない未来に紅魔館を実質掌握したりしていて。

 ふと、そんな考えが過ぎった。

 

「まぁ、大体は分かった。中庭についてはすぐにでも分担を始めるよ。……けれど門の方は、ちょっと考えた方がいいんじゃないかな」

 

 僕が考え事にすっかり気を取られているうちに、話はある程度の区切りを迎えていたらしい。

 美鈴は、少しだけ難しい顔を浮かべて受け答えしていた。

 

 ……いかん、何も聞いてなかった。

 まぁ、僕はあくまで顔合わせに来ただけの筈だし、あまり関係のない業務連絡とかだとは思うけど。

 

「稽古をつけてあげるのでしょう? なら、問題はないと思うけれど」

「いや、とは言っても、今の彼は食屍鬼なんだろ? 流石に昼は危険じゃないかなー……」

 

 バリバリ関係のある話をしていた。

 こちらへと視線が向けられて、思わず冷や汗が噴き出る。

 

 しかも、何やら危険が伴う話らしい。

 ……そもそも日中にお使いに行かされることさえ身体的な問題上危険が伴うくらいなのだから、今の僕にとっては日中の仕事の大半には、命の危険が伴う物だと言えるのだけれどね。

 その上で、けれどそれでも「危険」ということは、今任されようとしているのは相当危険なことなのでは? 命までは懸けたくないし、ちゃんと断った方がいいかもしれない。

 

「何もすぐに一人で立たせろ、という話ではないわ。放っておけば寝てしまう美鈴さんの監視役ってだけでも、充分だもの」

「ちょっとちょっと、別にサボってるってわけじゃ……」

「分かってる。アレで問題なく仕事が回っている辺り、貴方の『能力』には感心してるわ。けれど、貴方にとって問題はなくとも、外から見れば紛れもなく隙なのよ」

「むー……ちゃんと役割は果たしてるのだから、いいじゃない」

 

 先ほどの勇ましさはどこへやら。

 美鈴はすっかりと丸め込まれて、それでも納得がいかないと言うようにぶちぶちと異議を訴えている。

 

 イマイチ具体的な内容には理解が及ばないのだが、話はいつの間にか、彼女の普段の仕事ぶりに逸れつつあるようだった。

 寝てしまう、とか。サボる、とか。どう解釈しても好意的ではない評価の数々に、僕の中でひっそりと上がっていた美鈴の株が、ひっそり暴落しかけていた。

 

 しかし、能力って何のことだろうか。

 眠りながらオートで体が仕事をしてくれるとか、代わりに働いてくれるクローン的な何某を作れるとか、美鈴にもそういう魔法チックなことができるのかな。

 

「簡単に焼けてしまわないように対策も講じるつもりだし、とにかく、これはお嬢様の決定だから。矢夜も、いいわね?」

「あっ、……はい」

 

 有無を言わせぬ圧に、咄嗟に頷く。

 勿論何もよくない。せめて何の話だったかだけでも把握しなくては。

 

 ……とは言え、既に頷いてしまった以上、ここで咲夜に聞き返しても答えの代わりにナイフが返ってきそうな気がするので、後でこっそり美鈴に聞こうと思う。

 

「では、そろそろ行きましょう。本格的に仕事に入ってもらうから」

 

 そう言って踵を返した咲夜の後を、美鈴に軽く頭を下げてから追いかける。

 

 屋上の時計塔、イベントホール、厨房、食堂……主に仕事として関わっていくであろう紅魔館の各所を軽く説明を受けながら順繰りに巡ると。

 最後に、昨晩を過ごした自分の部屋も存在している、使用人らの部屋がまとめられた棟の端にやってきた。

 

 比較的目立たない、周りの壁と同色――とは言っても他も含めて大体赤なのだが――の扉を開けると、そこには所狭しと数々の清掃道具が押し込められていた。

 

 箒や塵取り、バケツに雑巾などなど、比較的馴染みのある道具類をひょいと取り上げてワゴンに積むと、咲夜はそれを僕に差し出してくる。

 どうやら、最初の仕事は清掃業務らしい。

 

「じゃあ、はい。今日は、ひとまずこちら側の棟をお願いするわ。今後の仕事量の参考にしたいから、無理のない程度のペースでできるところまでやって頂戴」

「了解」

「部屋の中は結構。貴方もだけれど、自分の部屋は自分で掃除するように。あとは、契約の通り、休憩のタイミングや長さは全て自己管理して頂戴」

 

 まぁ、サボるようなら少し考えるけれど、と。

 言いつつ、しかしどうやら、彼女は僕の仕事ぶりにはそこまで期待していないらしい。言葉の節々、そして態度からはそんな気配が見て取れた。

 

「妖精メイド達と同じとまでは思っていないけれど……まぁ、そこまで期待はしていないから、気楽にどうぞ」

 

 どころか、期待していないと明言されてしまった。

 うん、すぐ後ろに件の妖精達がいるから、これは陰口ではなくて悪口ですね。

 流石に気に障ったらしい妖精メイドらの抗議の視線が向き的に丁度見えてしまっている僕は、それを務めて無視し気が付いてないフリをした。

 

 ……まぁ、仕事として任されたのだから、期待されようがされまいが最低限の責任はしっかりと果たすけれども。

 それに、このまま年下の少女に言われっぱなしというのも、それはそれで癪だ。

 

 僕は、ワゴンに乗せられた最低限の清掃用具を一瞥して確認すると、視線を咲夜の背後に向ける。使い勝手のいい、小回りの利く道具は、探せば幾らでも出てきそうだ。

 

「倉庫にある道具類は、自由に使っても?」

「――――構わないわ。使用後、洗う必要があるものは一先ずは纏めておいて、それ以外は元に戻して頂戴」

 

 了承を得ると、僕は早速中に入って棚の物色を始める。

 

 ここまで見た限りでは、そこまで厄介な汚れなぞは恐らくないだろうというくらいには綺麗な館だが。……まぁ、油断はしない方がいいだろう。

 

「それじゃ、私も仕事が残っているから」

 

 また後で来るわ、とだけ言い残すと、咲夜は踵を返して去っていった。

 その後ろ姿が見えなくなるや否や早々に遊び始める妖精メイド達を見ながら、こりゃ苦労しているな、と密かにそう思った。

 

「……さて、いっちょやりますか」

 

 捲り上げた袖を縛って固定すると、僕は気を引き締めるようにぱん、と軽く頬を叩く。

 ――――イマイチ芳しくない上司からの印象。ここは一つ、頑張って覆してみせようじゃないか。



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第十一話

 その後の清掃業務は苛烈を極めた。

 実のところ、外観を見たことがないからイメージ的にはピンと来ていない部分もあるのだけれど、それにしたって、たかだか二階建ての一洋館としては異常と言えるほどの広さを有していたのだ。

 

 ……尤も、言ってしまうとアレなのだが、必死こいて綺麗にしたと思ったら、振り返った時には既にどこからともなくやってきた妖精メイド達に荒らされていてリスタート、なんてことが多発したことも原因ではあるのだけれど。

 

 咲夜の酷評を流石に言い過ぎじゃないかなーなんて思っていた頃の僕はもう死んだのだ。

 遊んでいるのが大半とはいえ、中には掃除しようとした結果荒らしているだけだったりする子もいるのがまた、何とも質が悪い。

 いっそ何もしなくていいから大人しくしていてくれと何度思ったか。

 

 ――――それは兎も角。

 

「終わっ……たぁー……!」

 

 妖精らを担当地区から追い出しながらの清掃業務は、これにて完了。二階の端から一階の果てまで、丸ごと綺麗にしてやった。

 ……追い出した妖精がどこに向かったかなんて知らない。許せ咲夜。

 

 ワゴンの上、空になった洗剤の容器を纏めてゴミ袋に収め、ついでに別の袋に汚れ物を纏める。

 用具室は二階の端だから、再び荒らされていないかのチェックがてらゆっくりと戻ることにしよう。

 

「……とりあえず、問題はない……かな?」

 

 事前に忠告を受けていた通り、勿論、合間合間には幾らかの小休憩こそ挟んだものの、それでも全体を通せば五時間近く。

 どこかしらで抜けだったりがあるのではないかとも思っていたけれど、妖精の被害含め、これといった問題は見つからない。

 

 これは、案外僕には掃除のセンスがあったりするのだろうか?

 別に嬉しくもなんともないけれど、ちょっとした収穫である。

 

「うわーなんか綺麗になってるー」

「……なってる、じゃなくてしたんだって、人の手で。お願いだからもう汚さないでくれ」

 

 感慨に耽る僕の元に、妖精メイドがぱたぱたと駆けてくる。

 

 ちなみに、これは紅魔館ツアー(仮称)の際に咲夜から聞いた話なのだが。妖精という種は個の有する力がとても弱いらしい。

 というのも、彼女達は、同じモノをその根幹に据えているらしく――――具体的に言うと、僅かな意思を持った自然の一部、であるらしいのだ。故に、元を辿れば同じ存在であり、無数に分かれた枝葉に過ぎない妖精一人一人が持つ能力は乏しい。

 

 そして、弱い力しか持たない『幻想』の存在は、個性と呼べるだけのモノを確立できないのだということで。

 ……つまるところ、彼女達は非常に似通った姿、似通った性格をしていることが多いのだそうだ。

 

 それで。

 実際に、彼女達を見て触れた今になってみると。

 案外そんなこともないんじゃないかな、というのが実のところだった。

 

「汚さないから遊んでー!」

「君達と遊ぶと汚れちゃうだろ……」

 

 新しい使用人が物珍しいのだろう、妖精メイド達は業務中も度々絡んできた。大抵の子は数回やり取りを交わすと、飽きてどこかに飛び去ってしまうのだが、中には懐いてしまったのか、執拗に絡んでくる子もいたのだ。

 御覧の通り、彼女はそのうちの一人だ。

 

 大まかに特徴だけを抜き出して分類すれば、確かに、両手の指ほどあれば数え切れてしまう程度のグループ分けで済んでしまう。

 けれど、外見だけを見ても、例えば彼女の頭頂部には若葉を思わせるような一対の太いアホ毛が飛び出ていたりと、細かなところを見れば違いはある。内面的に言えば、それこそ懐いてくる子、離れていく子、遠巻きにずっと見てくる子等々多種多様であり。仮に根源的な部分が同じだったとしても、表層化した個々の違いというものは、間違いなく在るのだ。

 

 ちなみにこのアホ毛な妖精メイドは、如何にも子供らしい振る舞いをしていながらもちゃっかり御洒落さんで、スカートや袖の裾の裏地を刺繍で飾り付けていたりもする。

 

 飛べない僕を煽りつつ、小さな翅を羽搏かせてくるくると回る妖精メイドに、やめさせようと飛び付いては躱されて地面に顔面ダイブする僕。

 ……傍から見た時、それが第三者の目にはどのように映るか、なんてことは言うまでもないことであり。

 

「――――あら、随分と仲良くなったのね」

 

 立ち上がり、再び飛び掛かろうと腰を低く落として構えていた僕は。

 突き刺すような鋭い声に、微妙に情けないその姿のまま硬直した。

 

 ……あぁ、うん。

 そうだよね。遠足だって帰るまでが遠足だものね。最後の最後に気を抜いた僕が悪いのは、分かっているさ。

 けれど僕だけが死ぬんじゃない。死ぬ時は一緒だぞ。

 

 そんな思いを込めて視線を横へと向けると、しかしそこに妖精メイドの姿はなく。

 

「わー咲夜だー!!」

 

 振り返ると、凄まじい勢いで飛び去っていったらしい彼女の姿が、廊下の向こうに米粒程度のサイズで見えた。

 裏切り者め。

 

「……えっとですね、咲夜さん。これは遊んでいたわけじゃなくて」

 

 油の切れた機械の如く。

 ぎぎぎ、と幻聴が聞こえるほどの強張った動きで、振り返る。

 

「分かってるわ。一応、下の階は見てきたから」

 

 しかし、思っていたものとは打って変わった優しい声音と。これまでに見せた表情の中で、も頭抜いて一番穏やかな微笑みを湛えている咲夜に、内心で驚いてしまう。

 一先ず危機は去ったらしいと判断し、妙な中腰から姿勢を正した。

 

「ここまでの成果は流石に本当に予想外だったけれど、まぁ、発破も掛けてみるものね」

 

 ……じゃあ、なんだ。

 僕は彼女にまんまと乗せられて、ホイホイ掃除に精を出してしまったと、そういうことですか。

 

 見返すことを目的としていた分、実は掌の上で踊っているだけでしたと言うのは、なんというか、すっきりしない。ちょっとした抗議の意味合いも込めて軽く目を細めて睨むと、咲夜は小さく笑って「ごめんなさいね」と言う。

 

「私がメイド長に成り上がってこの紅魔館を掌握した暁には、右腕として扱き使ってあげるから、それでチャラにして頂戴な」

「それ、僕ちっとも得してないよね……? というかそんなこと考えてたのか」

「冗談よ。名誉にも興味はないし、何かを支配する立場なんて面倒なだけだしね」

 

 ……そう、下らないやり取りを交わしつつも。

 何となく、内心でほっとしている自分がいた。

 

 それは当然、先の美鈴と会った時の一件が、幾らか尾を引いていたという意味である。

 彼女達のやり取りを聞く限りでは、或いは咲夜は、本当に僕の首を飛ばすつもりだったのかもしれない、と。

 

 それは恐怖であったけれど、それ以上に哀しいことだと思った。

 自分の方には元の一文字が付くにしても、同じ人間として、同じような立場の者として、彼女には幾らかの親近感があった。そんな咲夜と敵対的な関係になってしまうのは、それはどうにも嫌だったのだ。

 

 或いは、僕を殺そうとしたのかもしれない相手に何を危機感のないことを、と思うかもしれないが。

 それでも、こうして彼女と笑い合えるということは、それはやっぱり喜ばしいことだった。

 

「さて、それじゃあ今日はここまで……と言いたいところだけれど、最後にもう一つ、仕事を任されてくれるかしら」

「分かった。何をすればいい?」

「難しいことじゃないわ、妹様におゆはんを届けてもらうだけでいいの。そろそろ準備も終わる頃でしょうし。一先ず、厨房にいきましょう」

 

 咲夜の後を追って、厨房へ。

 するとそこに広がっていたのは、僕の印象と予想を些か超えた光景であった。

 

「……仕事してるじゃん、妖精メイド……」

 

 厨房では、調理に勤しむ妖精達の姿があった。

 皆が笑顔で。

 きびきびと。

 

 それは、清掃を繰り返し妨害してきた彼女らの姿とは打って変わるものであり。同時に、あまりにも受け入れ難い、現実離れしたものでもあった。

 

「……あの子達ね、割と、料理は好きらしいのよ。あの調子でちゃんと後片付けまでしてくれればいいのだけれどね」

 

 溜息交じりの呟き。

 それを聞いて反射的に洗い場に目を向ける。するとそこには、今度は予想に違わず乱雑に放り込まれただけで手つかずの洗い物の山があった。

 

 ……それを見て、一周回って安心してしまったのが、少しだけ悲しい。

 

「アレは、片付けなくて平気?」

「私がやっておくから、今日はいいわ。……それで、準備できているの?」

「今できましたー」

「わたしはこびたくないですー」

 

 咲夜の声に反応して、二人の妖精メイドが食事の乗ったワゴンを押しながらふよゆよと寄ってくる。

 

「運びたくないって……配膳するだけなら、そう面倒な仕事でもないよね」

「一回休みはこりごりー!」

 

 僕の疑問に、しかし彼女の言葉は何とも不明確だ。

 一回休みって、いやいや、ゲームじゃあるまいし。それとも、フランに何かしら付き合わされるのだろうか? それも、遊び好きな彼女達の性質を思えば、他の仕事を振られるよりは喜びそうなものだけどな。

 

 まぁ、少なくとも今日は僕が運ぶわけだが。

 

「……まぁ、この調子なのよ。というわけで、締めの業務として、一日の終わりにコレをお願い。貴方の分も用意させてあるから、終わったらそのまま上がってもらって構わないわ」

「ん、分かった」

 

 しかし、このワゴンを持って階段を下るのは、ちょっと厳しいな。僕も彼女達みたいに空を飛べたら少しは違うのだろうけれど。

 

「うん、申し訳ないんだけど、下の階に運ぶのだけ手伝ってくれない? 聞いての通り、フランのトコには僕が運ぶから」

「んー……しょうがないなー」

 

 渋々、といった様子の妖精メイドに苦笑しつつ、

 

「じゃあ、いってくる」

「ええ。明日も部屋まで迎えに行くから、今度はちゃんと起きててね」

「……善処します」

 

 最後に簡潔に事務連絡を交わしてから、僕は妖精メイド達を連れて厨房を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 外のフロアとは違い、唯一じめっとした空気に満ちる地下階の廊下を進む。

 道中、雑談がてら先ほど耳にした「一回休み」について妖精メイド達に尋ねてみると、

 

「わたしたちはやられちゃっても、少ししたら復活できるのー」

 

 との返答が得られた。

 その後の、イマイチ要領を得ない二人の説明を掻い摘むと、つまるところ、妖精という種には「死」という概念が存在しないらしいのだ。

 それは恐らく、彼女達が自然の化身であるという側面があるからだろう。自然そのものが死を迎えるなんて、そんなことはあってはならないものな。

 

 ……僕らが殺してしまわないよう、改めて気を付けないと。

 朗らかな笑顔を浮かべている妖精メイドを見つつ、ふとそう思った。

 

「でもでも、痛くないってわけじゃないんだから!」

「でもでも、フラン様ったらぜんぜん容赦してくれないんだから!」

 

 ぶーぶーと文句を募らせる二人は、笑顔を一転させて怒髪天、といった様相。

 基本的に知性が低く、我慢を知らない妖精は、豊かな感情を惜しげもなく表現してくれる。その様子は愛らしくもあり、微笑ましくもあり。些か振り回されるという問題点こそあれど、僕は彼女達の性質を概ね好ましく思っている。

 

「そっか、それで運ぶのは嫌だったんだね」

「そうだよ! それに、一回休みになったあと、すぐに帰ってこれるってわけでもないのー」

「矢夜は一回休みはないよね? フラン様のトコいって平気なの? 死んじゃわない?」

 

 こちらの顔を窺うようにしながら、後ろ向きに飛ぶ妖精メイドの片割れが浮かべている表情はどこか不安げで。

 僕は小さく笑って、その頭に手を乗せる。

 

「大丈夫。これでも、僕はフランの使い魔だからね」

 

 どれだけの説得力があったかは分からないが。

 彼女はそれで、癒し効果のあるほにゃっとした笑顔を取り戻してくれた。

 

 というか、僕の中のフランのイメージには、そういう物騒なモノはまだ結び付いていないのだけれど。

 咲夜からも忠告を受けていることだし、彼女達の反応を見る限りそういった側面があるのは間違いないのだろうな。フランに狂気的な一面があるのは、一応、既に身を以って体験していることだし。

 

 ……うん、本当に大丈夫かな僕。

 割と本気で美鈴に師事しないといけないかもしれない。フランは魔法の才能もあるって話だから、そっちの対処法はパチュリーに頼るしかないか。

 

「ここまででいいよ、手伝ってくれてありがとね」

「ワゴンは階段の近くに置いといてー。掃除のときに片付けておくから、咲夜が!」

 

 あ、君達がじゃないんだ、と。

 内心で思いつつ、ぱたぱたと飛んでいく彼女達の背中を見送った。

 

 ……そう言えば、フランと会うのは昨日振りだな。

 レミリアに連れていかれた後に戻らなかったこと、怒っていたりとかするだろうか。

 僕はちょっとだけ身構えてから、扉を軽く三度叩く。

 

「……?」

 

 念の為声を掛けてみるも、反応はない。

 もしかして部屋を空けていたりとかするのだろうか?

 

「フラン、開けるよ?」

 

 ここで棒立ちというのはちょっとアレなので、申し訳ないけど中で待たせてもらおう。

 そっと扉を押し開けると、部屋の灯りは殆どが消されていて酷く薄暗い。幾つか付けられたままになっていた僅かな灯りを頼りにワゴンを入り口脇に移動させると、恐る恐る部屋の中に足を踏み入れた。

 

 本能的なモノなのか。

 その静寂に、張り詰めたような緊張感と、ほんの少しの恐怖が胸の奥に湧き上がる。

 

「……やっぱり、いない?」

 

 呟く声が、闇に溶ける。

 相変わらず返事はない。

 辺りを包む空気は冷たいくらいに静寂で、胸の奥で打ち鳴らされる心音が、酷く耳障りなくらいに大きく響いていた。

 

 ……少しずつ、暗闇に目が慣れてきた。

 

 あまり使われた形跡の見られない家具の数々。

 棚の上に乱雑に置かれた、イマイチ統一感のないぬいぐるみ達。

 恐らくこの部屋で最も大きなものであろう、天蓋付きの赤のベッドに。

 その奥側の壁には、如何にもといった棺桶が立て掛けられている。

 

 そこまでじっくりと見ていたわけではないけれど、概ね、昨晩見た光景からこれといった変化はない。それだけに、その部屋の主が忽然と姿を消してしまっただけで、なんとも寂しげに感じられてしまう。

 

 心のどこかで、フランの影を求めていたのか。

 言葉を交わした場所であったベッドへと近付いていたのは、半ば無意識のことで。

 その上の、妙に膨らんでいるように見える布団がもぞり、と僅かに動いた瞬間を捉えたのは、本当に偶然だった。僅かな違和感、しかし事態が動いたのは、思考が纏まるよりもずっと早く。

 

「――――つかまえたっ!」

 

 紅色の影が、僕の胴体を打ち据えた。

 それなりの質量が、それなりの速度で齎した衝撃は、決して軽いものではなく。僕の体は宙に浮き上がり、肺の中に残っていた酸素は一息のうちに体外へと吐き出された。

 

 痛ってぇ。

 ……いや違う。違わないけど、違う。寧ろ、本格的に痛いのは、この後じゃないのか?

 

 数メートル程度の空中遊泳。

 その、全身を包む浮遊感が徐々に落下を伴うモノへと成り代わっていき。

 激突が間もなくであることを本能的に察知した僕は、しかし彼女達のように自由に飛び回ることはできず、体を締め付けるソレのおかげで満足に身動きも取れず。恐怖に打ち震える余裕さえないまま、ただ、運命に身を任せるように固く目を瞑った。

 

 ――――ぼふっ、と。

 そんな僕の背中を襲った感覚は、些か想定とは異なる、とても柔らかなものだった。

 

 片側の手を無理矢理背中との隙間に潜り込ませて弄るようにして、その正体を探る。枕……いや、クッションだろうか。もしかして仕込んでいたのか、予めどれくらいの空中遊泳になるのかを考慮した上で?

 視線を落とすと、ちょうど飛び込んできた赤――――フランが、胸に埋めていた顔をがばっと上げた。やはりというべきか、その頬は僅かに膨らんでいて、大変ご立腹であることは火を見るよりも明らかだった。

 

「まさか、そのまま一日帰って来ないなんて思わなかったわ! ずーっと待っていたのにっ」

 

 言い切った後、彼女はゆっくりと体を起こした。

 ちょうど太腿に乗り上げる程度の位置になり、上半身の自由が利くようになった僕も体を起こす。

 

 フランが魔法でも用いたのか、部屋を閉ざしていた闇を払うように、ぽつぽつ、と。

 誰が触れたわけでもないのに、部屋の照明が広がるように独りでに付いていって、その顔を照らし出す。愛らしい、けれど病的な白さの彼女の顔。くりっとした大きな目の下には、より不健康さを増長させるような黒い隈が広がりつつあった。

 

「――――ごめん」

 

 謝罪は、自然と漏れ出ていた。

 勿論、彼女を放置しようという意図があったわけではない。

 彼女の顔を見に行こうかと、寝落ちする前に考えていたことは事実だ。

 

 けれどそれも、そうしようかな? という程度のものでしかなかったわけで。

 決して意図はなくとも、結果的には、僕が使い魔という立場でありながら、彼女をどこかで蔑ろにしていた部分があったのもまた確かなのだ。

 

「レミリアと契約を結んだ後、少なくとも一度ここに来るべきだった。僕の考えが至らなかった」

 

 するとフランは、怒っていた顔を一変させる。

 そんなつもりはなかったとでも言いたげな、少し困ったような。

 

 ……分かっている。

 彼女が最初から謝罪なんて求めてはいないことくらい。これが、ただ独りよがりな僕の自己満足でしかないことくらい、ちゃんと分かっている。

 

 だから、それ以上困らせるよりも先に。

 彼女に余計な気を遣わせるよりも先に、その頭を少しだけ乱暴に撫でる。

 

「ご飯もってきたよ。折角作ってもらったのに、冷ましちゃ勿体ない」

 

 フランの腋に手を差し入れて持ち上げるようにしつつ、立ち上がる。

 あんな体勢から持ち上げるなんて無理だろうな、と思っていただけに。意外にもあっさりとできてしまったことに、今更ながら自分は既にヒトを辞めていたのだということを思い知った。

 

 僕はまだ、彼女のことを殆ど知らない。

 天真爛漫な姿も、時折見せる知的さも、小悪魔的な妖艶さも。きっと、いずれもフランの持つほんの一面に過ぎなくて。

 皆が言うような危険性を、彼女は確かに孕んでいるのかもしれない。……それでも。

 

「ほら、一緒に食べよう?」

 

 呆けていたフランは、やや遅れて、満開の花を咲かせるように笑顔を浮かべた。

 

 それでも、彼女とはうまくやっていけると。

 ――――違う。

 他ならぬ僕自身が、彼女とうまくやっていきたいと、心からそう思うのだ。

 

 ……ところで。

 ソレ、テーブル代わりだったのね。

 

 ふらふらと飛び去ったフランが、両手に抱えて運んできた棺桶の上にクロスを敷くと、ここに置けと言わんばかりにその上をぱんぱん叩いているのを見て、思わず苦笑するのだった。



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第十二話

 早いもので、あれから――――紅魔館にやってきたあの日から、もう一ヶ月ほどが過ぎようとしていた。

 朝食を済ませて間もなく。僕は、仰向けに寝転び、ぼんやりと空を眺めている。

 

 見上げるソレは、雲一つない快晴の空模様で。

 それは即ち食屍鬼――――吸血鬼の幼体とでもいうべき妖になってしまった僕にとって、四方八方から迫る凶器に晒されている状況に他ならない。

 

 何せ、ほんの数秒でアウトなのだ。

 多くを語る気はない、というか語るほど大層なエピソードがあったわけでもないけれど、この体が如何に陽射しに弱いかということは既に身を以て体験している。沸騰したように泡立っていく皮膚の表面を、最早痛みにさえ到達せずに、ただ漠然と"命"が流れ落ちていく実感だけが満たしていく恐怖を、きっと僕は一生忘れることはできないだろう。

 

 ……じゃあ、そんな経験をしておいて、どうしてのうのうと地面に体を投げ出して空を眺めていられるのかと言うと。

 意外なことに、その対策自体はあっさりと為されてしまったからだ。それで恐怖自体が拭い去れたわけではないのだが、任されている仕事柄外に出ないというわけにもいかないので、こうして時々ちょっとしたリハビリも兼ねて日光浴に励んでいるのである。

 

 ちなみに、件の対策とは、これまた意外なことに日焼け止めである。

 ただの日焼け止めではなく、パチュリーが魔法を施した特注品だそうだけれど……とはいえ、妖怪の持つ弱点をそんな一般的なシロモノで対策できてしまってよいのだろうか?

 

「――――しかし、まさか朝方の仕事が門番になるとは……」

 

 いつぞやに美鈴と咲夜が交わしていた会話。

 了承を求められ、聞き返す度胸もなかった僕が頷いてしまったソレこそが、この門番の仕事である。

 

 なんでも、紅魔館には美鈴以外の門番がいない、ということらしく。

 妖精メイドでは肉壁にもならず、しかし咲夜が館を空けてしまえば中の仕事が回らずで、困っていたらしい。

 

「私は平気だって言ったんだよ?」

 

 門に背中を預けるようにして、すぐ近くで腰を下ろして目を瞑っていた美鈴が、僕の言葉に反応して口を開く。

 

 これは最近になって聞いた話なのだが。

 彼女には、『気を使う』という少々変わった能力があるのだそうだ。気、というモノを捉えることのできない僕にはイマイチ実感の伴わない話なのだけれど、それはいわゆる生命エネルギー的なものらしく。瞑想といった行為を通じてソレを練り上げることで、彼女は休息や栄養補給を必要とせずに長時間活動し続けることができるのだとか。

 

 中庭にいた筈の彼女が、離れたところにいた咲夜の殺気に反応することができたのもその能力の一旦であるらしい。

 他にも、戦闘時に自分を強化したり、どこぞの漫画キャラよろしく圧縮した気を放出して遠距離攻撃をしたりと、結構便利な能力みたいだ。

 

「とはいっても、流石に休みなしってのは良くないですよ」

 

 納得していない、という表情の美鈴を諫める。

 

 門番に昼も夜も関係はない。

 危険はいつ何時、守るべき館を襲うかは分からないのだ。

 

 その為、美鈴にとっては、仕事と休息は表裏一体の関係にある。

 幸いにも……否、不幸にも、彼女はそれを成し得る為の能力に恵まれてしまっていた。実に器用なことに、彼女は気を操って張り巡らせ、レーダーのように周囲の状況を把握しながら、同時に睡眠を取ることができるのだ。

 

 比較的頻繁に見られるその姿はサボりそのものであり、実際、妖精メイドから「サボり魔」だなどと度々揶揄われていたりもする。

 

「仕事が個人に依存し切ってしまうのも良くないです」

「うーん、そんなもんかなぁ」

 

 曰く、彼女はかつて、世界各地を転々と放浪していたのだそうだ。それも、それなりに長期間の間を放浪していたらしく、先ほど挙げた眠りながらの気配察知というのも、旅の途中で自然と身に付いたものなのだとか。

 

 そして、その最中に出会ったレミリアと戦い、敗北し。

 レミリアが戯れ半分に提案した契約を、これまた戯れ半分に美鈴が了承したことで、今の関係が成り立っているのだ、と。

 それはつまり、突然この関係が終わってしまってもおかしくはない、ということだ。少なくとも今の時点では、そんなことは微塵も考えていないと言っていたものの、それが永劫続くとは限らない。

 

 ――――門番不在、という未来の可能性。

 それを無関係と言い張るには、僕は少しばかり、この館の住民と関わり過ぎてしまったみたいだ。本来守るべき主を筆頭とした、自分よりもずっと強いヒト達はさて置くにしても、喧しくも賑やかで愛らしい同僚達を守ってやりたい、と思ってしまう程度には。

 

 ……それに。

 

「やっぱり、美鈴さんにもちゃんと休む為だけの時間はあるべきだと思うから」

 

 まだ碌に仕事も回せない、僕のような未熟者に休憩をとる権利が与えられて、彼女にはそれがないというのは、不公平だと思う。

 

 これは単なるエゴだと。

 自分が納得したいが為だけに、その罪悪感に耐えられないが故に身勝手な考えを押し付けているだけに過ぎないと分かっていながらも、そう言う。

 

 そんな僕の真意に、気付いているのか否か。

 美鈴はちょっとだけ困ったように、小さく笑った。

 

「それじゃあ、早いところ一人で立てるようになって貰わないとね」

「……精進します」

「冗談だって。――――それじゃ、そろそろ始めようか」

 

 美鈴の言葉に、立ち上がる。

 ……食後の小休憩も、もう十分だろう。小さく顎を引いて頷くと、僕は立ち上がりながら、傍らに突き立てていた木刀を引き抜いた。

 

 使用人兼門番見習いに与えられた朝一番の仕事。

 それは、兎にも角にも――――鍛錬あるのみ、である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 視線が合うよりも早く、駆け出す。

 これはあくまで鍛錬であって、実戦ではない。だが、当然ながら想定するのは「実戦」であり、この場における実戦が何かと言えば、即ち命のやり取りに他ならない。

 

 故に、開始の合図など不要(いら)ず。

 奇襲の一撃が相手を仕留め得るモノであったならば、それもまた一つの答えである、と。それこそが、初日に、僕に構える暇も与えずに意識を刈り取った彼女から受けた、最初の教えであった。

 

 幾ら相手が人外といえど、見えていないモノの動きは正確には捉えられない。ならば、こちらの取るべき行動は一つ。ただ、相手に捉えられるよりも早くに、相手が捉えられるよりも速くに動くのみ――――!

 

「はぁ――――ッ!」

 

 全身に魔力を巡らせていく。

 パチュリーから魔法を学ぶ過程で身に付けた初歩の初歩、魔力の操作。活性化した魔力は、それ自体が、対象への負荷と代償として性能を大幅に向上させる。謂わば、諸刃の剣だ。能力自体が大幅に劣っている僕が、経験も才能も持ち合わせていない僕が美鈴に追いつく為の、条件付きの反則行為。

 

 より速く。

 より強く。

 筋繊維が千切れていく不快音ごと振り切るように、歯を食い縛って。

 

 軌道を描く木刀は、遂に音さえ追い抜いて。

 やがて転換される運動エネルギーは、或いは金属でさえも打ち砕くほどの域にまで達し。

 

 立ち上がったばかりの、碌に構えてもいない美鈴目掛けて、全力を以って木刀を薙いだ。

 

「――――遅い」

 

 しかし、彼女には届かない。

 

 未だ虚空を捉えていたその翠の瞳は。

 まるで初めから位置を把握していたかのように、その視線を最短距離で動かしこちらを捉えると、羽虫や煙でも払うような軽い動きで片腕を振るった。

 

 腕を捻り上げられたような痛み。

 全力を以って振り抜かんとした一閃は、一割にも満たない彼女のソレにあっさりと捻じ曲げられ、弾かれた。

 

 それと、同時。

 美鈴の姿が掻き消え、視界そのものが揺らぐほどの衝撃が、幾度も全身を駆け抜けた。

 

「ぐ――――あ……ッ」

 

 その動きの一端さえ、捉えられない。

 

 木刀を手放して差し込ませた両腕ごと、嵐のような連撃が叩き込まれる。

 一撃が意識を刈り取るように襲い掛かり、続く一撃が齎す痛みによって意識を手放すことさえ許されない。

 それでも、どうにか急所だけは守り続けていた崩壊寸前の防壁は、捻りと共に繰り出された回し蹴りによってあっさりと貫かれた。

 

「ぁ――――――――」

 

 ――――体が浮き上がる。

 視界は潰れ、霞み、美鈴の姿をその端に収めることさえままならない。

 指先の感覚がない。打撃を受け続けた前腕は、へし折れてしまったのか、半ばから先が自らの意思に反して揺れていて、それがどうにも気持ちが悪い。

 痛みも、熱も通り越して、いつの間にか吐き気が込み上げてきている。

 

 ……けれど、何よりも気持ちが悪いのは。

 こうまで叩きのめされたその直後からこの体が、ゆっくりと、けれど確実に回復を始めているということだった。

 

 視界に掛かった靄が晴れる。

 指先に血が通い、燃え上がるように熱を持つ。

 遅れて駆け巡る激痛が、強引に意識を引き摺り上げていく。

 それら全てが、どうしようもないくらい鮮烈に、生を実感させてくれた。

 

 地面スレスレで空中遊泳を続ける体を、無理やりに捻り回して地面に手を付くことで縫い付ける。

 

 運が良かったことと言えば、吹き飛ばされたその先、数メートルほど滑り続けて漸く止まった場所に、先ほど手放した木刀が転がっていたことか。

 

 空いたもう片方の手で柄を叩き付けるようにしてソレを浮かし、その手の中に収める。

 痛みに震える歯を食い縛って顔を上げれば、視線の先、美鈴は未だ攻撃後の体勢のままその場所に留まっていた。

 

 僕はその場で、両手で握り締めた木刀を地面に叩き付けた。

 衝撃を受けた石畳が捲れ上がり、彼女との間を遮る壁のように立ち上がる。けれど、こんなものでは、身を守る盾になど成り得はしない。投げ付けたところで当たる筈もない。――――けれど。

 

「砕けろ――――ッ!」

 

 それらが無数の弾丸として降り注いだならば、話は違う。

 強引に多量の魔力を流し込めば、その負荷に耐え切れなくなった石壁は自壊し始める。それが完全に砕け散るよりも早く、つい数秒前に唯一捉えることができたその動きを模倣するように、捻りを加えた蹴りを叩き込んだ。

 

 打ち出されたソレは、距離を半ばまで詰めた辺りで完全に崩れ、その向こう側で驚愕の表情を浮かべる美鈴の姿を透かし見せる。

 

「散弾……!? けれど、その程度!」

 

 彼女は一度腰を深く落とすと、息を吐き出した。

 瞬間、その身を七色の光――――気が包み込む。攻撃にも転用されるそれは、身に纏えばそれだけで鎧として機能する。言い放ったその言葉の通り、この程度のちっぽけな弾幕では彼女に擦り傷程度も与えられはしないだろう。

 

 それでいい。

 僅かに身構えさせたという、その為に僅かな隙が生まれたという事実だけあれば、十分だ。

 

 再び駆け出す。

 残魔力量としても、肉体的にも、長期戦は不可能。

 否、いずれにせよ、余力を残そうだなんて考えでは掠めることさえ叶わない。

 結局のところ、僕がやるべきことなんてのは――――。

 

「――――ど真ん中から、突っ込むッ」

 

 最初から、これ以外にはありはしないのだ。

 

 全霊を以って、魔力を注ぎ込む。

 負荷に表面はささくれ立ち、膨張し、耐えかねたように節々が裂け始め。それでも、尚。自壊する限界ギリギリまで、注ぎ続ける。

 

 ……そうして、次の一振りは文字通り、最後の一撃と化す。

 当たったとしても、外したとしても、負荷に耐え切れず自壊する。そんな一撃に頼った、あまりにも非効率的な、一か八かの大博打。それに全てを委ねなければいけないということを、その未熟さを悔しいと思いながらも。僕は木刀を大上段に構えて、弾幕の向こうの影を見据えた。

 

「ハァッ――――」

 

 膨れ上がる七色は極光と化し、その中心部に在る筈の美鈴の姿は、既に輪郭しか見えない。

 けれどその中から、一際強く輝く一対の翠が、確かにこちらを捉えていることだけは、理解できた。

 

 そうして視線が交わった、その瞬間。

 彼女の足元が、爆ぜた。

 

「来る……ッ」

 

 心拍数が上がる。

 脈が、呼吸が乱れ、答えを絞った筈の思考が崩れ落ちそうになる。

 竦んでしまいそうになる両足をそれでも叱咤し、恐怖に絡め取られてしまうよりも早く、前へ、前へと踏み出し続ける。

 

 僅か数メートル。

 木刀のリーチを以ってしても、尚届かない程度の微妙な距離において、僕は構えた木刀を振り下ろすようにして、

 

「こンの――――ッ!!」

 

 彼女の顔面目掛けて、ただ全力で、投げ付けた。

 

 美鈴の顔が、先ほどを上回るほどの驚愕に染まる。自らの得物、僅かな有利を投げ捨てるに等しい行為は予想の外であったらしい。

 しかし、既に動き出して加速した互いの体は、そう簡単には止まれない。岩弾のカーテンを彼女が潜り抜けたその直後、想定通りの完璧のタイミングで、木刀が彼女の眼前にまで迫る。

 

「何を、莫迦な――――」

 

 彼女の両手は、どちらもフリー。

 岩弾のカーテンを強引に潜り抜けたのだから、当然だ。故に、僕程度の、それも絞り滓程度の魔力で補強した木刀など、彼女の脅威とは成り得ない。

 

 ほんの一瞬、彼女の視界を覆い隠したソレは、しかし振るわれた拳に打ち払われて砕け散った。

 

「――――ッ!?」

 

 ――――それこそが、最大の狙い。

 身を低く屈めて視界の外から懐へと潜り込み、引き絞った拳を弾丸の如く打ち出す。

 

 二重のフェイク。文字通りの全身全霊による、最後のフェイント。続く第三手目、大本命を存在しないと誤認させ、その認識の外から強引に殴り倒す……――!

 

 一か八かの大博打。

 その最後の賭けには見事、勝利を修め、

 

「あぁ、中々に良い手だった。もう一手があれば私の詰みだったかもしれないね」

 

 しかし、突き出した拳は道半ばで美鈴に蹴り上げられて潰され。

 代わりとばかりに、伽藍洞になった胴体に吸い込まれていく彼女の拳をぼんやりと目で追いながら、「あぁ、今日も一撃さえ届かなかったな」と思い、それを最後に僕の意識は千切れ飛んだ。



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第十三話

 何かが、前髪を撫ぜていく。

 仄かに揺らいだそれが額を擽って、その小さな刺激に思わず身動ぎをした僕は、そこで目を覚ました。

 

「――――やっと起きたね」

 

 不意に視界を遮った影が、そう言った。

 闇に融けた輪郭は瞬きを繰り返すことで鮮明になっていき、やがて、一人の少女の形として結実する。

 

 赤色の瞳。

 金色の髪。

 病的なまでに白い肌。

 

 最早見紛うことなどない、すっかり慣れ親しんだ我が主たる少女、フランドール・スカーレットの姿だ。

 

「……フラン? ここは」

「私の部屋に決まっているじゃない」

 

 僕の問いかけに、彼女はくすくすと笑った。

 

 ……それはまぁ、そうだろうな。

 というのも、この一ヶ月、僕は彼女が部屋の外に出ている姿を見たことがない。理由は知らないし、触れていいことなのかも分からないので尋ねたことはないが、彼女がいわゆる引き篭もりであることは確かで。

 つまり、フランがいる場所とは、即ち自室以外には在り得ないのだ。

 

 ああ、いや、違う。そうじゃないんだ。

 記憶も、思考も、イマイチまとまらない。

 ええと、僕が尋ねたかったことというのはそうじゃなくて、つまり。

 僕は一体、どうしてここに……?

 

「まだ寝惚けているの? しょうがないなぁ」

 

 フランの手が、僕の前髪を漉くように撫でてくる。

 

 その手付きは、まるで壊れ物を扱うように優しくて。

 それはどこかこそばゆくて、無性にむず痒くて。

 

 咄嗟に制止しようとした手が浮き上がるも、しかし、何故かとても幸せそうな表情を浮かべるフランを見ていると止める気にもならなくなって。

 僕は出所の分からない気恥ずかしさを必死に押し殺しながら、それを甘んじて受け入れることにした。

 

「少し話がしたくなったから、妖精メイドに呼んで貰ったの。そしたら、気を失った貴方を担いだ美鈴がやってきたのだから、びっくりして笑っちゃった」

 

 またやられちゃったんだって? とフランは笑う。

 ……主の前に痴態を晒してしまったらしい事実からは、一旦、目を背けるとして。

 

「それって僕、もしかしてまだ就業中なんじゃないの?」

「主の我儘に振り回されるのも、仕事の一環じゃなくて?」

 

 都合よく逃げ出す口実を得たとばかりに進言するも、どこ吹く風。フランはけろっとした様子でそう返してくる。

 ある種の正論で返されてしまった僕は思わず口を噤んでしまい、なんだか負けた気がして悔しくなった僕は、動き続けているフランの手を指さして言う。

 

「……それ、楽しい?」

「ええ、とっても」

 

 ならば、もう、それでいいか。

 ぶっきらぼうに「そうですか」とだけ返すと、僕はとうとう口を噤ませたのだった。

 

 ――――ちなみに。

 僕の中に湧いて出た気恥ずかしさの正体は、頭を撫でられていることそれ自体じゃなくて。

 

 まぁ、その、なんだ。いわゆる膝枕、みたいな状態になっていたからだということに――気付かなければ良かったのに――気付いてしまったのは、それから数分が経ってからのことだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……それで、話したいことがあったんじゃないの?」

 

 たっぷり一時間弱ほど続いた拘束から解放された僕は、残る羞恥心からフランに顔を向けることができず、視線を逸らしたまま訪ねた。

 

 ついでに、体の調子を確かめる目的であちらこちらを軽く叩いてみたり、腕を回したりしてみる。

 妖怪の肉体とは何とも恐ろしいもので、目が覚めた時にはまだ残っていた痛みはすっかり消え去っていて、すこぶる好調である。

 

「用がなかったら呼んじゃ駄目?」

「あ、いや、そういうわけじゃ……。でも、珍しいなって」

 

 むくれた様子のフランに、少し慌てて言い訳染みた言葉を重ねる。

 

 けれど実際のところ、彼女が我儘で僕を呼び出すということは珍しい。というか、これまで一度もなかったのではないだろうか。

 姉君の方は、大した用もないのに――なんて思っているとバレたら怒られるだろうか――頻繁に咲夜を呼び出しては彼女を困らせていたりもするので、その辺り対照的だなぁなどと思っていたりもする。

 

「まぁ実際、理由はあるけど」

「だよね」

 

 目的のない応酬を挟んで満足したのか、フランがこちらに体を向けたのに合わせて、僕も彼女に向き直る。

 本題、とはいっても、その表情を見る限りではそれほど深刻な話というわけでもないようだ。

 

「ほら、私って、直接貴方を呼び出したりとかできないじゃない? 今回は妖精メイドにお願いしたけれど、あの子達ってあんまりアテにはならないし」

「まぁ、そうだね」

「いつ緊急事態に陥っても大丈夫なように、連絡手段を用意したいなって思ったの!」

「そうならない為に門番してるんだけどね、一応」

 

 まぁ実際、フランとの連絡手段自体は、何かしら設けなければいけないとは思っている。

 

 と、いうのも。

 僕達には、本来『従魔契約』で結ばれた使い魔と主との間に存在するべきモノ――――魔力パスが存在していないのだ。

 

 使い魔と主は、魔力パスを通じて多くのやり取りを行う。

 使い魔の活動に必要となる魔力の供給を行ったり、互いの位置を知らせたり、或いは自分のいる場所に使い魔を呼び戻したり。そして、離れた場所からの意思疎通――念話、とでも言えばいいか――を行ったり、と。

 

 使い魔を使役するにあたって便利……どころか、必須と言っても過言ではない役割を担っているのだそうだ。

 

 で、そんな必須級の魔力パスがどうして繋がってないのかというと、その答えは実にシンプルで。実は僕達の間には、正式には従魔契約なんてものは交わされていないからである。

 

「……とは言ってもさ。フラン、契約魔法使えるようになったの?」

「ぜーんぜん。コウモリさえ使い魔にできないまま!」

 

 当然、とばかりに答えると、フランはからからと笑った。

 新しい魔法なんて一日二日で使えるようになるモノでもないし、まぁ、それ自体は当然なのだけれど。

 

「だから昨日、パチュリーに頼んでみたの。そしたら、簡単な魔道具なら作ってやれる、ってさー」

 

 曰く、その魔道具を作る為には触媒となるモノ……端的に言ってしまえば血液が必要となるらしい。

 それに含まれる個体情報や魔力なんかを使って受送信先を識別するのだそうだ。理由はよく分からないが、この手の触媒に用いるモノは鮮度が重要なファクターにもなるそうだから、僕をここに呼び出したのだ、ということだった。

 

「多分、そろそろ来ると思うんだけど……ふわぁ」

 

 フランはそう言うと、一つ、大きな欠伸をした。

 

 腕時計を見れば、今の時間はまだ昼過ぎ。

 当然と言えば当然だ。

 

 尤も、外を歩けばちょっとばかり即死トラップに引っかかりやすいというだけで、別に、吸血鬼が夜でなければ活動できないというわけではない。

 

 実際、日傘を差して「散歩」と言っては咲夜を連れ出していくレミリアの姿は珍しくもなかったりする。

 フランはフランで、暗い地下室での生活がデフォルトであるせいか昼夜の感覚が乏しいらしく、「眠くなれば寝るし飽きたら起きるだけ」だなんて言っていた。

 

 それでも、習慣によるものなのか、それとも本能的にそうさせる何かが働いているのか。

 姉妹共に、基本的に日中の活動は消極的で、なんだかんだで夜型に収束しているようだった。

 

 今起きているのも、まもなくやってくるであろうパチュリーを迎える為で。

 彼女の、変なところで律儀な部分を鑑みれば、僕がぶっ倒れている間もずっと起きていた、という可能性も決して低くはない。

 

「パチュリー来るまで、寝てていいよ」

「え……、でも」

「眠気を引き摺って、パチュリーの前でうとうとしたり寝ちゃったりしちゃう方がよくないだろ? 大丈夫、僕がちゃんと起こすから」

 

 そう促してやると、フランは暫く唸っていたが。

 やがて自分の中で折り合いがついたのか、「それなら……」と体を横たわらせた。

 

 さも当然、というかのように、ごく自然な動きで僕の太腿を枕にし始めたのには少しばかり驚いたけれど。異議を申し立てようと思ったものの、その隙も与えてくれずすぐに寝入ってしまった。

 まぁ、促したのは僕であるし、別に文句なんて言う気はないけども。

 

 どこかむず痒いというか、なんとなく居心地の悪いものを感じた僕は。思わず、彼女から目を逸らしたのだった。



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第十四話

 たかだか一ヶ月。

 けれど、その短い一ヶ月の中でも、内側から見るというだけで、幾らかは多くのものが見えてくるものだ。

 

 ……率直に言うと。

 紅魔館の住民が築いた人間関係は、どこかが、歪んでいる。

 

 明確な軋轢が表層化しているわけじゃない。

 レミリアに対して少なからぬ悪感情を抱いているように見える咲夜は、けれど害を為そうという素振りは見せない。

 その咲夜を、どこかでよく思っていないように見える美鈴は、けれど少なくとも表面上は、彼女とうまく付き合っていこうと振る舞っているようにも見える。

 友人であるレミリア以外とは積極的に関わる姿を見せないパチュリーは、けれどそれ故に、誰かと揉め事を起こす姿など見せたことはない。

 

 そう、成立してしまっているのだ。

 それぞれが何かを抱えたまま、それを誰にも打ち明けることのないまま。いつ破裂するとも分からない爆弾を抱えたまま、けれど誰もが笑って過ごしている。

 それが、少しだけ恐ろしくて。

 

 ――――けれど、何よりも恐ろしいことと言えば。

 

 その、歪な輪の中にさえ、フランという少女の居場所がどこにもない、ということだった。

 

「――――……んぅ」

 

 吐息を溢し、寝返りを打つフランの顔を眺める。

 

 姉君からは、まるでいないモノのように扱われ。

 従者からは、どこか腫れ物のように扱われ。

 けれどそれを、何とも思っていないように、さも当然のことと受け入れているかのように笑って過ごす少女は。

 

 その胸の内に、果たして、どんな感情を秘めているというのだろうか――――。

 

「フラン、私よ」

 

 ノックの音が、部屋の中に転がってきた。

 僕は慌ててフランの肩を叩いて来客を伝えると立ち上がり、扉へと駆け寄った。

 

「あら、矢夜。もう来ていたのね」

 

 扉を開けた先、驚いたとばかりに発せられた声とは裏腹に、眉一つ動かさず平静そのものを保ったままの少女――――パチュリーが、何やら大きな袋を抱えてそこに立っていた。

 

 彼女こそが例外中の例外。

 興味が外に向いていないが故に、気にした様子もなくフランと関わってくれる、唯一の存在である。

 

「どうしたの、その荷物」

 

 ベッドの上にぺたりと座ったまま、目を擦りながらフランは言う。パチュリーは一度「ああ、これ?」と袋を掲げて見せると、それを床へと下ろして口を縛る紐を緩めた。

 

 はたはたと飛び寄ってきたフランと中を覗き込むと、果たしてそこに詰まっていたのは石や宝石、爪といった様々な……これは……?

 

「マジックアイテム。特に、魔道具の素材として使われるモノよ」

 

 目を合わせると、互いに首を傾げてしまった僕とフランの様子に一つ溜息を溢すと、パチュリーはそう説明した。

 

 ――――マジックアイテム。

 端的に言ってしまえば、魔法的に価値がある品物のことである。

 

 触媒魔法という魔法の一分野から見れば、自然界のあらゆる物質は魔法の材料と成り得るが、その中でも特に強い効果を齎すもののことをそう呼ぶらしい。

 例えば、単なる動物の爪や牙よりもより高い効果が期待できる、妖怪のソレらのこと、だとか。

 

 尤も、目に見える物から力を得る触媒魔法と、目には見えないモノから力を借りる精霊魔法との相性は悪いらしく、後者を得意とするパチュリーにとってはあまり縁のないものだと言っていたように記憶しているが……。

 

「えぇ、その通り。私にとって触媒魔法というものは相性の悪いものよ。けれどマジックアイテムは、精霊魔法とは決して結び付かないというものでもないの」

 

 例えば、と。

 彼女は背中に手を回すと、普段より抱えている一冊の本を取り出した。

 

「これ。魔導書というのは、魔力の馴染みやすい樹木から作った紙を使って書かれることが多いわ。他にも、インクに血を混ぜたり、表紙に宝石を埋め込んだり……実は魔導書自体が、マジックアイテムを用いて作られる魔道具のようなものだったりするのよ」

 

 パチュリーが表紙を撫でると、その軌跡を追うように、刻まれた白の紋様がぼうっと光って浮かび上がっていく。

 その様子が面白かったのか、フランは目を輝かせ食い入るように紋様に見入っていた。

 

「そして、マジックアイテムから作られた魔道具は、魔法の行使を助ける働きを持つ。……未契約の間の、貴方達の連絡手段の代替として、専用に魔道具を作るわ」

「……つまり、これらはその材料、と?」

 

 僕の言葉に、パチュリーは頷いて答えた。

 何でも、高位の魔法使いは道具もなしに遠隔地の相手へと声を届けることもできるのだそう。僕らにそれができるわけもないので、それを補助する魔道具を作ってくれるのだということだった。

 

「でも、こんなに沢山の素材を使うのなら、普段使いには向かないんじゃない? 私は部屋から使うから、大きくても問題ないけれど……」

 

 パチュリーの魔導書を傾けたり、表紙に触れたりしていたフランが、視線をパチュリーに戻して言う。

 

 それは、僕も思っていた。

 まぁ、必要な物ではあるから、最悪担いででも持ち運ぶけれど、できれば懐に忍ばせることができるくらいの方が有難いが……。

 

「そんなに大きな物は作らないわ。……いえ、作れない、と言った方が正確かしら」

 

 返ってきたのは、少し意外な言葉だった。

 

「ええ、それなりの設備があればまた別でしょうけれど、私にとっては得意分野ではないもの。できることなんて簡単な錬金術の真似事程度よ」

「じゃあ、この大量の素材は……?」

「別に全てを使うわけじゃないわ。この中から、それぞれ相性の良いアイテムを選んで貰いたいの」

 

 言いながら、パチュリーは袋の中へと手を差し込むと、姿形の似通った小石のような物を二つ取り出した。

 掌に乗せられたソレらに、彼女が魔力を流し込むと、先の魔導書のようにぼんやりと輝き始める。違いの分からなかったソレらに明確な違いが現れたのは、それから間もなくのことだった。

 

「……あ、光り方が違う!」

 

 姿形の似通った二つの小石。

 そのうちの、どちらかと言えばやや小さな方が、より強く輝いていた。

 

「勿論、物自体にも良し悪しはあるけれど。人それぞれに相性の良い物、悪い物があるの。こればかりは、試してみないと分からないからね」

 

 パチュリーは袋をひっくり返してその中身を床に広げる。

 その拍子に地面をバウンドして足元まで転がっていた牙らしき何かを、反射的に拾い上げた。その形から元の持ち主を割り出すほどの知識など勿論ないが、これも妖怪のモノなのだろうか。

 同じような牙は他にも幾つかあって、いずれも異なる形をしているということが辛うじて分かる程度で、その良し悪しも分からない、というのが本音だ。

 

 ……うーん。

 パチュリーの言っていることは分かるし、納得もできる。できるのだけれど、何というか、相性の良いものを探し出せる気がしないのだが。

 

 それぞれの違いが分からないというか、どう探せば良いのかが分からないのだ。

 片っ端から魔力を流してみる他ないのだろうけれど……大した魔力量があるわけでもないのに、それさえ碌に扱い切れていない身だ。力加減を間違えて壊してしまう、なんてやらかしを犯してしまいそうで。

 

 そんなこんなで二の足を踏んでいた僕と対照的だったのが、フランだった。

 彼女は相変わらずの、好奇心に満ちたキラキラとした目であれこれと品々を手にとっては「どれがいいかな?」と思案している。手に持ったモノが牙やら爪やらでなければ、年相応の少女の微笑ましい買い物風景なのだけれど……。

 

 僕とは違って大き過ぎる力を、僕と同じく制御し切れていないというフランは、魔力を流しての品定めという方法をはなっから諦めているらしい。

 感覚、直感、フィーリングで選ぶつもりのようだった。

 

「フランのアレ、案外間違いでもないわよ」

「……そうなんですか?」

「自分の波長に合うモノですもの。気になるモノ、好きなモノとそう大差はないわよ」

 

 あの子はそんなこと考えてもいないでしょうけれど、とパチュリーは笑う。

 

 ……それも、確かにそうか。

 少し難しく考えすぎていたらしい頭をほぐす意図も込めて、こめかみの辺りを軽く揉んだ僕は、改めて素材の山へと向き合った。

 

 爪、牙、角、皮といった動物由来の素材。

 樹木や果実、或いはその種といった植物由来の素材。

 石、宝石などといった鉱石素材。

 

 大別すれば、おおよそこんなところか。

 如何にも現代人染みた考えであれだけれど、正直、動物由来の素材には抵抗がある。生理的に受け付けないというか……ちょっと不衛生そう、というか。

 故に、選ぶとすれば植物系か鉱石系。そう、ざっくりとあたりをつけてから実際に手に取ってみる。

 

「……同じ石でも、触り心地が違うものなのか」

 

 滑らかなもの。

 ざらついたもの。

 肌に引っかかる感触それ自体が、大きく異なる。触っていて気持ちがいいのは、当然滑らかな方だが、より違和感の少ないもの、馴染む感触がしたのは、どちらかというとざらついた方、かな。

 

 幾つかの鉱石の中から一つ、最もしっくり来るものを選び取った僕は、同様の作業を行い植物系の中からも一つを厳選した。

 

 その二つをそれぞれ手の中に収め、目を凝らして観察し、握り締めては感触を確かめ。

 

「――――私、これにする」

「うん、僕も決めたよ」

 

 僕らは照らし合わせたように、選び取ったソレを互いに見せ合った。

 

 僕の手の中には、砕かれた破片のような黒の鉱石が。そして、彼女の手の中には、丸く加工された赤色の鉱石が、それぞれ収まっていた。

 

 ……うん。なんだか、フランって感じだ。

 ふと僕がそう思った時、彼女も同じように感じてくれていたのだろうか。僕の目を見て、小さく笑ったのだった。



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第十五話

 魔道具の作成。それはある意味においては魔法という領域を離れ、ちょうど科学との中間あたりに位置するともいえる錬金術にも近しい技術である。

 

 話だけは前に聞いていたし、課業外には図書館から借りてきた関連書物に目を通したことだってある。けれど、それを実際に行う姿を見るということは初めてだったので、実にワクワクしていた。

 

 ――――の、だけれど……。

 

「はい、おしまい」

 

 楽しみにしていた魔道具作成。

 それは、パチュリーが刻んだ陣の上に選び出した素材を置き、僕らの血液をそれらに垂らす、というほんの二工程で終わってしまったのだ。

 

「え、これで終わり?」

「そう言ったでしょう」

 

 隣のフランも、如何にも消化不良です、と言わんばかりに不満げな顔で声を上げるも、さらりと受け流されてしまった。

 

 地味。

 その一言に尽きた。

 

 魔法陣が光り輝いて、なんてこともない。

 稲妻のようなエフェクトが駆け巡って、素材と素材が液状化したかのようにぐねりと蠢きながら交じり合う、なんてこともない。

 

 垂らされた血液が、まるで砂にでも落としたかのように、あまりにも自然に鉱石に吸い込まれていった。ただ、それだけであった。

 

「何を期待していたかは知らないけれど。私、言った筈よ。できることなんてあくまで錬金術の『真似事』程度だって」

 

 ……いや、まぁ。

 それは確かに、そう聞いていたけれども。

 

 思い描いていた理想の前に立ち塞がった、あまりにも高い現実という壁を前に、心の中でそっと項垂れる。

 

 とはいえ、これで僕とフランとのやり取りを補助する魔道具の完成、ということであるわけで。

 僅かに不安を燻らせながらも、僕は、僕とフランそれぞれの体液が吸い込まれたばかりの黒色の鉱石を摘まみ上げる。

 

「……それで、これ、どうすれば?」

 

 傾けてみたり、握り締めてみたり、光に翳してみたり。あれこれをアプローチをしてみたものの、イマイチ使い方が分からない。

 自分的本命だった魔力を流し込むこと、で反応が見られなかった時点で、正直、僕の戦いは敗北に終わっていたのだ。白旗を振ってパチュリーに説明を乞う。すると彼女は、呆れたとばかりに溜息を吐いて見せた。

 

「貴方、今自分でやっていたじゃない」

「やっていた、って……いやでも、何も反応しなくて」

「そっちじゃなくて、ほら、向こう。魔力を流しながら、フランの石を見てごらんなさい」

 

 言われるがままに魔力を流し込みつつ、視線を向ける。するとどうだろう。彼女の手の中にある鉱石が、ぼんやりと朱く輝き出したではないか。

 

「あ、なんかぶるぶるしてる」

 

 その様子がどうやら面白かったらしいフランは、掌の上で震える鉱石を指先で突いている。……なるほど、確かに意思疎通を図ることはできる、のかもしれないが。

 

「あの、僕、モールス信号とかできないです」

 

 果たして、それが今日だけで何度目になるのか。

 僕の言葉を聞いたパチュリーが、壮大に溜息を溢したのだった。

 

「……これは、貴方たちの繋がっていないパスの代用。正確には、魔道具でさえない代物なの」

「パスの、代用?」

「そう。そして、パスを用いた意思疎通というものは、ただ対象を特定する必要がない念話、魔法の一種に過ぎないというわけ」

 

 別にモールス信号でやり取りしてもいいけれど、と皮肉が付け足される。

 それには苦笑いで応えつつ、僕は頭の中で彼女の言葉を反芻した。

 

 念話。

 それなりに魔法の心得がある者が、遠方の相手に声を届ける技術だ。相手との『回線』さえ繋がっていれば、ただ魔力を用いて思い描くだけで、相手に言葉が届くという話だったけれど。

 つまり、契約によるパスを、『回線』代わりにするということ……?

 

 手の中の鉱石に目を落とす。

 僕と彼女の血を以って、形あるパスとなったソレが、ぼんやりと鈍い光を放つと。同時に、頭の中に直接何かが割り込んだようなノイズが、聴覚を埋め尽くした。

 

『――――あー、あー。てすてす、……聞こえる?』

『フランの声? これ、本当に……?』

 

 砂嵐の中に、僅かにフランの声が聞こえる。

 とてもクリアな音ではない。水中の中で聞くよりかはマシな程度の、辛うじて拾い上げることができる程度の声。けれど確かに、彼女の声だった。

 

『やった、できた!』

 

 今度は途端に大音量になって、罅割れた音の濁流が押し寄せた。思わず耳を塞いでも、直接響くソレから逃れる術はない。僕は、鉱石への魔力供給ができなくなって、それを取り落としてしまう。

 

 こつん、と転がり落ちた音に、フランもまた慌てて魔力供給を止めた。

 

「注いだ魔力の量が不足していれば、か細く、不確かな音に。許容量を上回れば、今のようにちょっとした嫌がらせにもなり得るわ。気を付けなさい」

「……はい。ごめんね、矢夜」

 

 叱責を受けて、フランはしょんぼりとした様子で謝罪を述べた。

 ……というか、その、なんだ。分かっていることなんだから、先に説明してくれても良かったんじゃないだろうか。

 

 フランには「大丈夫」と告げつつ、内心でちょっとだけ、そんな不満を零してみる。とはいえ、力を貸してもらったことは事実なので、決して口にはしないが。

 

「当面は魔力の扱いの練習も兼ねて、抑えめからやっていくことね。……それじゃ、目的も果たしたことだし」

 

 僕らがあれこれと騒いでいるうちに、粗方身支度を整えていたらしい。地面に広がっていた品々を再び袋に収めたパチュリーが、立ち上がった。

 

「フラン、あまり仕事の邪魔はしないようにね」

「はぁい」

「それから、矢夜。咲夜には許可を取ってあるから、この後、蔵書の整理を手伝ってもらえるかしら」

「分かりました」

 

 パチュリーに促されて、立ち上がる。

 

「それじゃ、仕事に戻るよ。また夜に」

「ええ、いってらっしゃい。頑張ってね」

 

 僕を送り出すフランの言葉になんだかむず痒い感覚を覚えながら、すたすたと去っていくパチュリーの背中を追い掛けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 場所は変わって、大図書館。

 

 相も変わらず古びた紙とインクの匂い、そしてぼんやりと舞う埃ばかりが埋め尽くされていて。

 

 活字には抵抗がない、より正確には読書は好きな方であったらしい僕にとって、そこはこの紅魔館の中でも特に過ごしやすくお気に入りの場所でもあった。

 しかし、

 

「……パチュリー様。また、棚をひっくり返したんですね」

 

 こういう状態(、、、、、、)になっている場合においては、その限りではない。

 

 元より、棚の許容量を超えてしまっている分だけ積み重なった本の山が狭めてしまっている通路が、散乱した本の群れによって無造作に塗り潰されている。

 

「しょうがないじゃない、魔法が維持できなくなってしまったのだもの」

 

 開き直るような言葉を口にしつつも、多少の罪悪感があるらしいパチュリーは僕から目を背けた。

 

 僕の背丈の倍以上もある本棚の群れ。

 しかし、そこに上段に手を伸ばす為の梯子やなんかは用意されていない。

 では、パチュリーは普段、どうやってそこから本を出し入れしているのか。その答えは実にシンプルで、『空を飛んで』直接取り出しているのだ。

 

 流石魔法使い、と思ったけれど、吸血鬼姉妹の二人は兎も角として、何故か美鈴や咲夜なんかもさも当然とばかりに宙をうろうろしたりしているので、実際にはそう珍しいことではないのかもしれない。

 ちなみに、各々の飛行方法としては、パチュリーが魔法、吸血鬼姉妹が羽、美鈴が気合、咲夜に至っては詳細不明である。勿論僕は飛べない。

 

 魔法が使えて、空が飛べて、更には錬金術的なこともできてしまう、紅魔館の頭脳担当。そんな彼女には、如何にも頭脳担当らしい欠点が一つ、存在していた。

 ……或いは、魔法使いというイメージとして考えれば言わずもがな、であるかもしれないが。彼女はとてつもなく、体が弱いのだ。

 

 簡単に言えば持病持ち、喘息だった。

 魔法の行使において、呪文を唱えるという行為、いわゆる『詠唱』は比較的一般的なものであり、喘息という持病は彼女にとっては最大にして最強の敵といっても過言ではない。

 上段で作業していた彼女が、咳によって魔法が解けてしまい落下。その際に本棚をぶちまけてしまって大惨事、なんていうことは、実はそう珍しいことではなかったりする。

 

 ……換気をしたら少しはマシになるのでは、とか。そもそも持病じゃなくて、なるべくしてなった病気なのでは、とか。

 思うところはいろいろあるけれど、一先ず、胸の内に秘めておくことにする。

 

「まぁ、いいです。じゃあ早速始めますね」

 

 実際、病気に対して腹を立てても仕方がないし。

 少しむくれた様子のパチュリーに一言断りを入れてから、作業を開始する。

 

 先に述べた通り、僕は飛行魔法がまだ使えない。

 故に、作業は清掃時に使う脚立を使って行うわけだが。……覚えていなくとも、高所から墜ちて死に掛けた――無論、召喚の件だ――ことが本能的にトラウマにでもなっているのか、高所での作業はあまり得意ではない。

 

 大図書館の蔵書についてはそれなりに詳しいということもあって、こういった時には比較的頻繁に駆り出されているけれど、正直一、二を争う程度には苦手な仕事である。

 普段は他の子――勤務初日にちらと見かけた、赤髪の少女である――が蔵書管理をしている筈なのだが、こういう面倒な仕事の時に限って姿を消してしまうのだから困りものだ。尤も、彼女は紅魔館の住民というよりかは、近くに住み着いている野良の悪魔という話だから、義務があるわけでもないのだけれど。それはそれで、じゃあ普段はどうして仕事をしているのか、と疑問が増えてしまうわけだが。

 

 ――――閑話休題(それはさておき)

 

「……あ、すいません、そこの青の表紙のヤツ取ってもらえます? はい、それです、ありがとうございます」

 

 脚立に上り、パチュリーに魔法で持ち上げてもらった本を受け取って本棚へと収めていく。がら空きだった隙間が埋まっていく感覚自体は、どこかパズルゲームをしているみたいで少しだけ楽しい。

 

 一段目、二段目。一台目、二台目……と、次第に勢いづいて、みるみるうちに埋まっていって。

 そうして、ちょうど最後の棚に手を付け始めた、その時だった。僕がそれを口にしたのはほんの気紛れで、決して深い意味などなかった。

 

「そういえば、中々契約魔法って使えるようにならないんですね。そんなに難しいんですか?」

 

 僅かな沈黙。答えにくい質問でもないだろうに、と訝しみつつ下へと目をやれば、パチュリーは僕から目を逸らして、顔を俯かせているようだった。

 

 ほんの小さな、違和感。

 僅かに感じたそれは、間もなく、形となった。

 

「……わざと教えてないの」

 

 ポツリ、と。

 絞り出したような、小さな呟き。

 

「……今、なんて?」

「あんな初歩的な魔法、魔力の操作ができれば誰にだって使えるわ。勿論、あの子だって教えれば、きっと、今すぐにでも」

 

 躊躇うように、一瞬、そこで言葉が途切れて。

 

「――――私は、意図的に。わざと、フランに教えてないのよ」

 

 しかし、今度は躊躇うことなく。

 見上げるパチュリーが、僕をその双眸で捉えて、はっきりとそう口にした。



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