賑やかな星 (彼岸花ノ丘)
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第一章 滅びの日
滅びの日01


 有栖川(ありすがわ)継実(つぐみ)は走っていた。齢僅か十歳の身体を容赦なく突き飛ばす大勢の群衆に埋め尽くされた、生まれ故郷である関西の大都会の中を。

 本来ならば、顔を上げれば薄曇りの空を埋め尽くさんばかりにビルやマンションが建ち並ぶ、明るくて『文明的』な景色が見えただろう。地元民である継実はそれを知っていて、今でも視界の先にはたくさんのビルがある筈だ。しかし今は走る大人達に遮られ、年齢相応の背しかない継実の視界には建物どころか正面すらろくに見えない。

 元々たくさんの人で賑わっている、ある意味喧しい街だったが、今の喧騒は普段の比ではない。泣き声、雄叫び、罵声、懇願……負の感情を撒き散らしていた。楽しさなんて欠片もない『五月蝿さ』は、無関心を決め込まねば自分の心で蝕まれそうで、継実には聞き流す事しか出来ない。例え足下から呻きのような声が聞こえたとしても、だ。

 阿鼻叫喚とはこのような光景を言うのか。最近覚えた物騒な言葉の意味を、継実は身を以て覚える。

 小さな継実に『阿鼻叫喚な大人達』と張り合うほどの力もなく、感情を剥き出しにする大人達は幼い継実を気遣う素振りすらない。もしも継実が一人だったなら今頃彼等に突き飛ばされ、倒れたところを容赦なく踏み潰されているだろう。

 そうなっていないのは、彼女の片手を母が強く握り締めているからに他ならない。

 その母のもう一方の手を引くのは父であり、一家は一列に並ぶように駆けていた。継実の両親はどちらも表情が強張っており、母は継実の手を痛いほど強く握っている。きっと父も母の手を、痛いぐらい強く握っているのだろうと継実は思った。

 周りの大人達と同じく、自分の一家も必死なのだ。

 

「(なんか、怖くなくなってきちゃった)」

 

 そしてみんなが必死過ぎて、幼い継実はその感情についていけず、何事もないかのように落ち着いていた。開いている片手で自分の黒い髪を弄り、焦げ茶色の瞳で辺りを観察する余裕まである。

 冷静なのは良い事だろう。しかし今に限れば、もっと必死になるべきだと継実自身思う。

 何故なら、此処で暢気にしていたら『死ぬ』から。

 しかもその死の原因は、二つも訪れている。

 一つ目は、今このタイミングで襲い掛かる――――身体が浮かび上がるほど大きな地震。

 

「う、うぉあっ!?」

 

「きゃああああっ!」

 

 父が立ち止まり、母がしゃがみ込む。継実もその場にへたり込み、周りを走る大人達も一斉に足を止め、転ぶように座った。

 誰もが継実達と同じ行動を取るが、危険だから立ち止まったのではない。走れなくなるほど揺れが強いのだ。人間の身体すら耐えられない揺れに、人間よりも柔軟性に欠く建造物が平気な筈もない。道路が波打ち、電柱が倒れ、建物のガラスが次々と割れる。悲鳴が、叫びが、あちこちから上がった。

 やがて、周りに建つビルまでもが倒れ始める。

 

「ひ、ひぎぃやあああああああああ!?」

 

「キャアアアアアアアアアアア!?」

 

 テレビや映画でも聞いた事がないような、救いを求める絶叫。鼓膜が破れそうなほどの大声は、しかし崩落する数万トンのコンクリートの前ではあまりに無力。莫大な瓦礫により、継実より何十メートルも先を進んでいた人々は声も姿も一瞬で飲み込まれてしまう。

 瓦礫の下がどうなっているかなど、考えるまでもない。かつての形を完全に失った、人だったものがあるのだ。或いはもしかすると幸運にも ― それとも不運にも ― 生き延びた人がいて、助けを求めているかも知れない。

 しかし一部の人々は躊躇いながらも前進し、瓦礫の上を這っていこうとする。地震は未だ終わらず、瓦礫は崩れつつあるが、それでも上を進もうとする者は後を絶たない。

 何故なら、此処に留まり続けるよりも安全だから。ビルが倒れて出来た瓦礫と、これから倒れるかも知れないビルの傍。どちらがより()()()()()かは言うまでもない。ビル街のど真ん中では、舗装された道路よりも瓦礫の方が相対的に安全なのだ。

 更にもう一つの、何より最大の理由は、此処に留まってなんていたくないから。

 継実達が逃げていたのは、襲い掛かる地震からでも、崩れ落ちる建物からでもない。

 全ての元凶である『魔物』からだ。

 

【バルルオオオオオオオオオオオンッ!】

 

 その魔物の咆哮が、継実のすぐ後ろから聞こえてきた。継実はくるりと、無意識に背後を振り返る。

 すると継実から二百メートルは離れた位置に建つビルが、五つほど纏めて崩れる。地震の揺れによるものではない。さながら積み木を後ろから突いたように、そのビル達も()()()()()()()崩落したのだ。

 大轟音を奏でながら瓦礫へと変わるビル達。朦々と舞い上がる白煙に飲まれ、一瞬で何千という命が消えていく。だが、最早この悲劇に悲しむ人はいない。

 ビルを幾つも突き崩し、それでもなお平静としている魔物が、自分達の前に現れたのだから。

 そいつは、ワニのように大きな口と、鋭い牙を持っていた。

 しかし断じてワニではない。溶岩が固まったようにゴツゴツした皮膚に鱗はなく、頭には目なんて一つも付いていなかった。身体に付いているのは脚ではなくヒレであり、アシカのような寸胴の体型をしている。

 何より目を惹くのはその大きさ。()()()()()()()()はあると、ネットのニュースで書かれていたのを継実は覚えていた。本当にそれほどの大きさなのかは分からないが、そうだとしてもおかしくないと感じるほどの圧倒的な巨体だ。

 こんな化け物の傍に居たら、踏み潰されてしまう。出来るだけ遠くに逃げないといけない。

 だけど逃げられない。

 

【バルルルルルオオオオオォンッ!】

 

 雄叫びと共に魔物がその巨体を動かせば、それだけで次々と建物が倒壊していく。倒壊の揺れが、立ち上がろうとする人々を転ばし、瓦礫の下敷きにしていった。

 加えて巨大な地震は今も続いており、人間達に立ち上がる事さえも許さない。大人でも這うのが精いっぱいな揺れの中、十歳の継実には動く事すら満足に出来ない有り様。

 大体逃げてどうなる?

 そのうち自衛隊が倒してくれる? なんて馬鹿げた考えだ。自衛隊だろうがなんだろうが、あの魔物は絶対に倒せない。何故ならこの怪物が現れてからかれこれ数時間が経ち、世界各国の軍隊が攻撃を仕掛けたが……通常兵器どころか()()()()()()()()()()()()()()()()()()ような生き物なのだから。

 そしてあの魔物は今、世界に何百体も現れている。

 逃げ場なんて、もうこの地球の何処にもないのだ。

 

「継実! 立つんだ! 早くあっちに逃げるぞ!」

 

 それでも父は諦めずに立ち上がり、妻と娘を立ち上がらせようと、力いっぱい掴んでいた母の腕を引っ張る。

 継実の父の頭上から巨大なガラスが落ち、父を叩き潰したのは、その直後であった。

 

「あ、あなたぁぁ!? ああ! ああ!?ああ!?」

 

 母が悲鳴と嗚咽を上げる。継実から手を離し、ガラスの下敷きになった父を掘り起こそうと、割れたガラスを素手で掴んで投げ捨て始めた。自分の手がズタズタになってもお構いなしに。

 継実は動けなかった。涙も出なかった。悲しいとか、怒りだとかも湧かなかった。

 決して父の事は嫌いだったのではない。むしろ大好きで、とても尊敬していた。普通に死んだのなら、きっと母のように取り乱し、何日も泣き続けただろう。

 だけど今は違う。

 巨大な魔物が動くだけで、何千という人々が死んでいく。父はその何千のうちの一つに含まれてしまっただけ。

 継実はもう、自分が死ぬのは仕方ないと思っていた。父の方が少し早かっただけなのだと。

 

「ぇ、あ、きゃあああああああああああああああああああああああああ!?」

 

 そして母が、父の居た場所に近付いたがために、流れ込んできた瓦礫の下敷きになったのも……早いか遅いかの違いでしかない。

 みんな死ぬ。誰もが死ぬ。一人残らず死ぬ。だって、あんな化け物から逃げられる訳がないのだから。

 

「(私、こんなところで死ぬんだ)」

 

 自らの運命を悟った継実は、力なくその場にへたり込んだ。動かなくなった継実の傍を、大人達が這いずるように通り過ぎていく。誰もが死にたくなくて、必死に逃げていた。

 だけど彼等は飛んできた瓦礫やガラスに飲まれ、次々とその命を散らしていく。動かなかった継実にはガラスも瓦礫も当たらないというのに。生きる意思など放棄しているのに、死は彼女に降り掛からない。

 段々、足掻き続ける周りの姿が滑稽に思えてきた。

 ――――魔物が自分の方目掛け進み始めたところで、周りを見下す気持ちも萎えたが。

 

【バルルオォオオオオオン!】

 

 吼えながら進む魔物。真っ直ぐ継実の方へと向かうが、魔物は継実など見えてはいまい。奴にとって人間など足下のアリ、否、石の隙間に潜む微小生物程度の存在でしかないのだから。

 逃げもせず、抗いもせず、継実は座り続けた

 その時である。

 継実の傍を、一匹の『チョウ』が通ったのは。

 

「(……青い、チョウ?)」

 

 偶々視界に入ったその『虫けら』に、継実の意識が逸れる。

 煌めく青い翅を持つ、大きなチョウ。特徴的な外観故に、継実はそのチョウの種を無意識に特定する。

 アオスジアゲハだ。幼虫がクスノキの葉を食べる、アゲハチョウの仲間である。クスノキは強力な殺虫作用を持ち、そのため虫害に強く、街路樹として都会でも植えられている木々。そんなクスノキを餌とするため、アオスジアゲハは都会に進出出来た……要するに都市でもよく見られる、有り触れた昆虫という事だ。十歳の女児らしく、そこまで虫に興味がない継実でも種名ぐらいは知っているほどに。

 アオスジアゲハはゆったり、真っ直ぐ飛んでいく。その進む先には、ビルをも平然と薙ぎ払う魔物が居るにも拘わらず。

 野生動物の癖に迫り来る危険を察知出来ないのか。そんなのでよく成虫になれたものだと、継実は間抜けなチョウの姿に心底呆れた。

 間抜けが自分の事だと自覚したのは、それから瞬きほどの時間も必要ない。

 アオスジアゲハの翅が、不意にキラキラと輝き始める。

 太陽の光で輝いているのか? 否である。今日の天気は薄曇りであり、太陽は未だ出ていない。確かにアオスジアゲハの翅には光沢があるものの、曇り空で光り輝くような『発光』能力なんて備わっていないものだ。

 何かがおかしい。継実はそう思った。

 けれども、この後に起きたものに比べれば、翅が光る事など些末であろう。

 そう、些末だ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「えっ?」

 

 思わず継実は声が漏れ出た。「何よそのインキチ攻撃」とばかりに。

 しかしアオスジアゲハの翅から出た何十という数の、太さ数センチのレーザーは瞬きしても消えない。車よりもずっと速く ― しかし『光』であるレーザーが何故目視可能なスピードで飛んでいるのか ― 空中を駆け抜け、あろう事かぐにゃぐにゃと、泳ぐウナギのように訳の分からない軌道を見せる。おまけにレーザーは互いの位置を認識しているかのように、揺れ動きながらも交わる事がない。

 幼い継実には、これらの光景がどれだけ『出鱈目』なのかまだ理解出来ない。されど放たれたレーザーが未だ建っていたビルを易々と貫き、積み上がった瓦礫を蹴散らすように粉砕するのを前にすれば、その力強さが如何ほどかは分かる。

 

【バギッ!? ギ……オオオオオオオンッ!】

 

 ましてや光の直撃を受けた魔物が苦しめば、継実は驚きを覚えた。核兵器すら通じない魔物が痛がっているのだ。ならあの光は、核兵器の威力さえも超えるという事になる。

 魔物が苦しむと、アオスジアゲハは空高く()()()。翅から後方に向けてレーザーを撃ち、それを推進力にして飛行機のような速さで大空を駆けたのだ。アオスジアゲハの飛んだ軌跡として飛行機雲が出来、何百メートルもの高さに一瞬で達してしまう。

 魔物は飛行機雲からアオスジアゲハの位置を特定したのだろう。顔を向け、大きく口を開き……その口から、半透明な『ビーム』を吐き出した。

 ビームはアオスジアゲハを直撃した。したが、あろう事かアオスジアゲハはそのビームをまるで鏡に当たった光のように跳ね返す。直角に曲がったビームは都市の一部に当たり、ビームの当たった道路やビルが()()()()()()、弾け飛ぶ。

 どんな能力かは分からないが、魔物には当たった物体を溶かす力があるらしい。アオスジアゲハはその攻撃を防いだが、怒りを覚えたようだ。反撃とばかりに、今度は何百という数のレーザーを放射。雨のように魔物へと撃ち付ける。魔物は悲鳴を上げ、のたうち回り、ビルが何十棟も薙ぎ払われた。その傍に隠れていた人間も、きっと何万と薙ぎ払われた事だろう。

 人間の事など気にも留めない、闘争。

 継実は、そんな二匹の争いを茫然と見つめるばかり。訳が分からない。なんでアオスジアゲハがレーザーを出して、巨大な魔物と互角に戦っているのか? 考えたところで常識的な答えが出る筈もなく、継実は思考停止から身動ぎすら出来なくなった。無論化け物二匹は継実がそこから逃げなくても、戦いを止めたりしない。レーザーを、ビームを、物理攻撃を、都市のど真ん中でやりたい放題に披露する。

 そしてついに、継実に彼等の戦いの余波が襲い掛かる。

 ……小さなコンクリート片が、高速で飛んでくるという形で。

 

「いだっ!?」

 

 瓦礫は見事継実の額に激突、したものの、あまりの小ささ故に継実の頭を割るほどの威力はなかった。手にはじんわりと湿った感触があり、出血はしているようだが、それだけ。命に別状はないだろう。しかしそれでも物凄い激痛が継実の頭に走り、ひっくり返った彼女はバタバタと藻掻いてしまう。

 藻掻きながら、はたと気付いた。

 

「(あれ、もしかして死ぬのって……これより、ずっと痛い?)」

 

 ぞわりと、悪寒が身体に走る。

 人によっては、くだらないと思うだろう。痛い事が途方もない恐怖であるなどと。しかし継実はこれまで両親に大切に愛され、殴られたり叩かれたりされた事がない。友達とのケンカも殆どなく、しても悪口を言い合うだけ。習い事もスポーツではなく学習塾で、身体を痛め付けた経験がない。

 痛みを感じた事が、殆どないのだ。

 魔物に踏み潰されれば一瞬で死に、痛さなど感じないだろう。ビルの下敷きでも同じだ。けれども、例えば今のように飛んできた破片が原因なら? お腹に突き刺さった、腕や脚が千切れた、動脈を切られた……即死しない、苦しい死に方なんていっぱいある。

 楽に死ねるなんて、決まった訳じゃない。

 

「あ、あ、ぁぁ……!」

 

 ガタガタと、継実は震え始める。怖くて堪らず、身体が無意識に後退る。

 痛い死に方なんて嫌だ。いや、そもそも死にたくない。生きていたい。彼女はそう思い始めた。

 周りで死んでいった、多くの人々と同じように。

 

【バルオォンッ!】

 

 まるでその気持ちが伝わったかのように、未だ戦いを続けている魔物が跳ねた。巨体が暴れた勢いで、道路の一部が捲れ上がる。

 捲れ上がった道路は、継実目掛けて飛んできた。

 

「……ぁ」

 

 継実は気付いた。飛んでくる道路だった瓦礫は、自分の身体の何十倍も大きなものだと。頭上を通り過ぎる事も、手前に落ちる事もなく、自分の真上にやってくる事も。

 逃げられない。

 自分は此処で、死ぬ。

 

「い、やあああああああっ!」

 

 継実の悲鳴が木霊し――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 これから始まるのは、彼女が紡ぐお話。

 

 荒れ狂う魔物をも踏み潰し、

 

 叡智で磨かれた星さえ打ち砕き、

 

 偉大なる神々を薙ぎ払う、

 

 野蛮で、

 

 残虐で、

 

 傲慢で、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 故に美しき、生命の物語である。

 

 

 



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滅びの日02

 ふと継実の脳裏を過ぎったのは、この世界が如何にして終わろうとしているのか、今日に至るまでの道のりだった。

 場所は大平洋の何処か、時期は一昨年の年末頃……巨大な『怪物』が二匹、突如として現れた。

 両者がどんな関係なのか、どんな生物なのか継実は知らないが、ともあれ怪物達は死闘を始めた。大海原で争い始めた二匹の力は凄まじく、その余波は全世界に波及。火山噴火や地震が起こり、たくさんの人々の暮らしが壊れた。死んでしまった人も少なくない。たった二匹の化け物が人間とは無関係な場所で暴れただけなのに、人間の社会は忘れられない傷を負った。

 だが、これだけで終わればまだ良かった。

 余波により住処を追われたのは、人間だけではなかったらしい。世界のあちこちで、怪物としか言いようが生物が出没を始めたのである。怪物達は既知の生物とはまるで異なる姿をしており、大海原で争った二匹ほど非常識な力ではなかったが、それでも軍事兵器ですら傷も負わないようなものばかり。核攻撃を切り抜けたものも相当数存在し、人類文明は日に日に追い詰められていった。

 そして十月を迎えたばかりの今日、世界中に『魔物』としか言いようがない怪物が現れた。

 魔物達は地中から、テレビ報道によれば百体以上が世界各地に出没。奴等は大噴火と巨大地震を引き起こし、次々と都市を破壊していった。勿論人間も大人しくやられている筈もなく、通常兵器による攻撃、更には自国が滅びる事すら厭わないほど大量の核・生物・化学兵器による攻撃を実施したが……魔物は全ての攻撃から平然と生還。小さな傷すら付けられなかった。

 魔物は『ムスペル』と名付けられ、だからといって対抗策などなく。時間と共にムスペルの数は増していき、ついに日本で二体目の個体が関西に出現。されるがまま都市を蹂躙され――――

 自分の両親がムスペルに踏み潰された光景を目の当たりにした瞬間、継実は自分の見ているものが夢だと気付いた。

 

「……ぅ……くっ……」

 

 何時の間に、眠っていたのだろうか。

 自意識を取り戻した継実は、その事を深く考える前に全身に走った痛みで呻き声を漏らす。全身がびりびりと痺れたような感覚に見舞われ、上手く手足が動かない。立ち上がるのはしばらく無理そうだと直感的に思う。

 幸い、閉じている瞼は手足ほどの痺れはない。ゆっくりとではあるが瞼を開き、外の様子を見ようとする。開けた視界は暗く、今が夜だと分かった。その割には何故か色合いがハッキリと見えるのだが。

 お陰で、目の前にある『それ』はよく見えた。

 継実の視界を埋め尽くしたのは、溶岩が固まったかのようなごつごつとした見た目の岩だった……否、岩ではない。岩には『口』は勿論、そこからだらりと垂れる赤い舌なんてないのだから。ひび割れた表皮の隙間からは生々しい肉が見え、だらだらと赤黒い汁が溢れ出ていた。岩のようだと思ったものも、硬質化した皮膚だと遅れて理解する。

 これは断じて鉱石ではない。

 これは、継実が暮らす都市部を破壊していたムスペルの横顔だ。

 

「ひっ!? ひぁ、あっ……!」

 

 生命の危機を身体も理解したのか。つい先程まで感じていた痺れは吹き飛び、継実は飛び跳ねるように立ち上がる。とはいえやはり本調子ではないのか、尻餅を撞くように転んでしまった。

 逃げないと、殺される。

 そう思えども身体は震えて動かず、焦れば焦るほど手足に力が入らない。ずるずると、這いずるように後退するのが精いっぱいだ。

 幸い、逃げる必要はなかった。

 人間の町を易々と破壊し尽くしたムスペルは、ぴくりとも動かないのだから。

 

「(……あれ?)」

 

 あまりにも動かない事から、継実も少しずつ冷静さを取り戻す。一度深く息を吸い、しっかりと体幹に力を入れてから立ち上がった。

 それからムスペルの横顔をじっと見つめる。

 かなり長い間見つめていたが、ムスペルは微動だにしない。それは継実を見て反応しないというだけでなく、呼吸などによる身体の小さな上下すらなかった。

 死んでいる――――動かなくなったムスペルを見て、継実はそう判断した。

 

「えっ、なんで、死んで……」

 

 予想もしていなかった事態に、継実は狼狽える。頭が真っ白になり、無意識に右往左往してしまう。

 そうして辺りを見回したところ、継実はますます困惑する事となった。

 何もないのだ。

 否、正確に言えば何もないというのは嘘になる。空には満天の星空が広がり、地平線の彼方まで瓦礫が積み重なっている……ただそれだけ。ビルどころか街灯すらない、『何かある』なんて到底言えないような光景だった。

 継実は、そんな瓦礫の上に寝転んでいた。

 どうして自分はこんなところで寝ている? いや、段々と戻ってきた記憶が確かなら、自分目掛けて大きな瓦礫が飛んできていた筈。どうやってそれを回避した? 何故ムスペルが死んでいるのか? 世界中に現れたムスペルはどうなった――――

 分からない事だらけだ。頭の中が情報で埋め尽くされ、自分の考えが纏められない。これからどうしたら良いのか、何をすべきなのか。悩めば悩むほど身動きが取れなくなる。

 それでも十分な時間があれば、継実は少しずつ情報を飲み込み、ある程度落ち着いて考える事が出来ただろう。しかしながら彼女にそんな暇は与えられなかった。

 ひらひらと自分の方に飛んできた、青いチョウを見てしまったがために。

 

「――――ひっ」

 

 反射的に、引き攣った声が漏れ出る。

 ()()()()()()()だ。

 無論ただのアオスジアゲハなら、怖がる必要など一切ない。継実はそれほど虫嫌いでもないし、綺麗なチョウならむしろ好きだが……しかし今この時、アオスジアゲハは別だ。

 その姿を見た瞬間、ハッキリと思い出す。

 ムスペルと互角以上の戦いを繰り広げていた生物――――それがアオスジアゲハだった。言うまでもなく、普通のアオスジアゲハにそんな事は出来ないのだから、正確にはアオスジアゲハではなかったのかも知れない。されどそんな細かな話は今、どうでも良いのだ。目の前にそれっぽい生物が現れたという、ただ一つの事実に比べれば。

 このムスペルを殺したのは、きっと戦いを繰り広げていたアオスジアゲハっぽいチョウだろう。核兵器すら通用しない化け物を殺したチョウに、ただの人間が勝てるだろうか? 答えは勿論Noだ。

 アオスジアゲハが何故ムスペルを殺したのかは分からない。分からないが故に、人間を襲わないという根拠もない。なら、ひらひらと飛んでくるチョウの傍に居るのは得策と言えるだろうか?

 継実には、到底思えない。

 

「ひぁ、ひ、ひぃ!」

 

 またしても腰が抜けてしまった継実は、這いずるように此処から逃げようとする。もしも自分を客観視出来たなら、その不様な姿に恥を覚えるだろう。されど命の危機に対し、恥も外聞もどうでも良い。

 死にたくない。

 ただそれだけの気持ちが、継実の身体を突き動かす。必死に、全力で、アオスジアゲハから離れる。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 あまりにも異質な動きと速さ。継実の姿を見ているであろうアオスジアゲハは、されど追い討ちを掛ける事も、警戒して逃げていく事もなし。

 ひらひらと降り立った場所は、ムスペルの亡骸の上。

 月明かりでは到底出せないような強い光を翅から放ちながら、アオスジアゲハは継実の背中を見つめるだけだった……

 

 

 

 

 

「は、はぁ、はぁ……こ、此処まで、逃げれば……」

 

 息を切らしながら立ち上がり、継実は辺りを見渡す。

 相変わらずビルも街灯も残っていない風景が広がっていたが、この辺りは魔物が居た地区より建物が少なかったのだろうか。数本の街路樹の葉がてっぺん付近だけではあるが地上に出て、まるで生け垣のようになっている姿が見えた。

 それはやはりこの瓦礫だらけの場所が元々都市であり、全てが崩れ落ちたという最悪を物語る光景ではあるが……自分以外の、恐らくは『無害』であろう生物の姿に継実は安堵を覚える。無意識に傍まで近付くと、寄り掛かるように生い茂る葉に背を預けて座り込む。

 

【ねぇ、乱暴に寄り掛からないでくださる? 枝が折れてしまいますわ】

 

 途端、()()()()声がした。

 

「ひひゃあっ!?」

 

 継実は驚きから跳び上がり、即座に後ろを振り返る。背後に人の姿は見られない。

 代わりに、自分が寄り掛かろうとしていた街路樹の一部が、まるで自己アピールをするかのようにざわざわと揺らめいていた。風なんて、全く吹いていないというのに。

 直感的に継実は理解する。この街路樹も、さっきのアオスジアゲハと同じ『存在』なのだ。見た目は普通の動物なのに、理解すら出来ないような超常的な力を宿した化け物。

 ちょっとその気になれば、小娘に過ぎない自分なんて一瞬で消し飛ばされる。

 

「いやぁぁぁ!」

 

【そんな驚かなくても良いじゃありませんこと? 喋る木が珍しいのは認めますが、でもあなただって――――】

 

 またしても街路樹が何かを話したが、継実の耳には届かない。一刻も早くこの場から離れようと、がむしゃらに走る。

 瓦礫だらけの地面は走り辛い。何度も何度も転びそうになり、それでも継実は走り続けた。そして何度も背後を振り返り、左右を見渡す。恐ろしい何かが、自分の傍に潜んでいるような気がしてならないから。

 その感覚は当たっていた。

 自分の真横を、凄まじい速さで飛んでいく虫がいた。ハエのような姿のそれは白い靄……ソニックブームを纏いながら飛んでいて、明らかに音の速さを超えたスピードを出している。小さな虫がいくらすばっしこいと言っても、音より速いなんて『普通』じゃない。

 遥か彼方からは、どおん、どおんと、爆音が轟いた。驚きから思わず振り返れば、巨大な粉塵が舞い上がってキノコ雲を作っていた。何がいるかまでは分からないが、恐ろしい何かがいるのは間違いない。

 あっちからも、こっちからも、恐ろしい生物の存在がその存在感を露わにしている。

 確かに、この世界には怪物がいる。だけどこんな、町中でちらほら見掛けるような存在ではなかった筈。大体怪物の殆どはムスペルのように、大きさも姿も異形そのもの。アオスジアゲハもどきや街路樹もどきのような、姿形が普通の生物なのに出鱈目な力を持つ生物なんて知らない。聞いた事もない。

 どうしてこんな生き物が突然現れたのか。ムスペルが暴れ回った影響なのか、どんな力が働けばあんな化け物だらけになるというのか。

 それとも。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「ひっ、ひぅ、あ、あ、ひっ」

 

 走って、走って、走り続ける。何処まで走るつもりかは、継実にだって分からない。町の中は化け物だらけかも知れないのだから、何処なら安心出来るかなんて分かる筈もない。

 逃げなきゃいけないという衝動に突き動かされるがまま、がむしゃらに駆け抜ける。靴と靴下は何時の間にか脱げていて、石やガラスで出来た瓦礫の山をぺたぺたと裸足で踏み付けたが、痛みなど感じなかった。ただただ走り、『何か』から逃げるだけ。

 継実が立ち止まったのは、裸足で踏み締めた時の感触の変化に気付いてから。

 突然変わった大地の様子に、継実は驚きから反射的に跳び退く。続いて怯えた獣のように恐る恐る足下を見て……そこが、地面の上だと分かった。

 そう、地面だ。森や草原にあるようなふかふかしたものではなく、学校のグラウンドのようにガチガチに踏み固められたものだが、間違いなく地面。崩れたビルの瓦礫なんかではない。

 思ってもいなかったものを目の当たりにし、最早何が怖いのかすら分からぬまま、継実は不安に駆られて辺りを見回す。そうすると周りに瓦礫の山を見付け、ほんの少し安堵した。安堵により落ち着きを取り戻した頭は、自身の置かれている状況を冷静に考える。

 瓦礫の山はあるにはあるが、ムスペルが倒れていた場所と比べれば明らかに低い。瓦礫の種類もコンクリートばかりではなく、材木やガラスなどが目立つ。恐らくビルやマンションが倒れてのではなく、一軒家により出来た瓦礫なのだと思えた。

 つまり此処は元住宅地。がむしゃらに逃げ回っていたら、何時の間にやら都市部から出てしまったらしい。

 

「(……そんなに走った? この町、かなり大きい筈なのに。それに、あんまり疲れてない……)」

 

 自分の認識と実際の距離が食い違っている気がして、継実は首を傾げた。とはいえ無我夢中で逃げていたのだから、自分の感覚など当てになる筈もない。時計があれば大雑把に計れただろうが、現在継実に時刻を教えてくれるのは、天頂で輝く星ぐらいなもの。生憎夜空で時間を計れるほど、継実は星と親しくない。時間の経過を知る術は、継実が考える限りでは存在しなかった。

 そもそもあんな化け物だらけの都市から脱出出来たのだから、何分走ったかなどどうでも良いだろう。

 逃げる事が目的だった事もあり、継実は抱いた違和感を深く追求しなかった。それに今になって気付いたが、重大な問題も発覚している。

 

「……お腹、空いた」

 

 飲食の問題だ。

 それなりに裕福な家で産まれ、怪物が出るようになってからも食事で困った事などない継実。彼女にとって、一食でも食事を抜くというのは初めての経験だった。

 無論継実だって自分が健康体である事を理解し、健康な人間は一日ぐらい飲まず食わずでも問題なく生きていけるという知識はある。しかし知っている事と、実際に我慢出来るかは別問題だ。

 たくさん走ってエネルギーを使ったというのもあるのか、今までにないぐらい強い空腹感に苛まれる。食べ物が欲しい。

 何処か、人が集まっている場所はないだろうか。ムスペルの所為で避難所は潰れてしまったかも知れないが、何処かで生き延びた人達が身を寄せ合っている筈……

 そう考えて継実は、今度は落ち着いて、しっかりと細部まで凝視しながら辺りを見回す。何も見付からなければゆっくりと歩き、見逃しがないよう慎重に探した。

 すると思いの外あっさりと、彼女は見付ける事が出来た。

 瓦礫の山の向こう側で薄らと、だけど確かな強さで輝く、なんらかの『光』の存在を――――



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滅びの日03

 光がある。

 たった十年の人生ではあるが、明かりがこれほどまでに嬉しいものだと、継実は始めて知った。考えるよりも先に足が動き、駆け足で光に歩み寄る。

 坂のようにそびえる瓦礫を乗り越えそうになった辺りで、ようやく「もしかしたら変な人が居るかも」という考えに至り、一旦ぴたりと止まった。とはいえ光を無視して立ち去るなんて選択肢はなく、恐る恐る、継実は瓦礫の影から顔を覗かせる。

 瓦礫の先では、ぱちぱちと音を鳴らす火が燃え盛っていた。

 偶然の地形なのか、瓦礫の山が四方を囲い、すり鉢状の地形が出来ている。火があるのはその地形の中央部分だ。瓦礫の山にある廃材を折って作ったのか、数本の『薪』の中心で燃えている。所謂焚き火だ。あまり大きな火ではないが、しかし消えそうな気配は微塵もない。間違いなく人の手により付けられ、そして火力が維持されている。

 ならば。

 その焚き火の傍で動かない痩せた人影は、きっと生きている人なのだ。

 

「あ、あの! す、すみません!」

 

 継実は、思いきって人影に声を掛けてみた。

 変な人かも知れないという考えは未だにあるため、瓦礫の影に身を隠したまま。しかしそれでも頭だけは出しているので、焚き火の傍にある人影の動きはよく見えた。

 人影はくるりと、継実の方に振り返る。

 それは三十か四十ぐらいの男だった。頬が痩けており、目を大きく見開いている。こちらを見て驚いたのだろうか、少しだけ身動ぎした。

 

「……驚いた。生きている人がいたのか」

 

 次いでぽつりと、心底嬉しそうな声で独りごちる。

 継実も同じ気持ちだった。

 

「は、はい……あの、ほ、他に人は、いますか……?」

 

「いや、俺だけだ……十月とはいえ夜になれば冷える。そんなところにいないで、火に当たらないか」

 

 こちらに来るよう促され、継実は一瞬身を強張らせる。知らない男の人の近くに寄るのは、年頃の女子として避けたいところ。

 

「飲み物はないが食べ物はある。一緒に食べよう」

 

 その警戒心も、串に刺さった肉の塊を見せ付けられたら、瞬時に吹っ飛んでしまったが。

 継実はわたわたと瓦礫の山を乗り越え、慎重に下りながら、男の下に向かった。男は継実が来るまで殆ど動かず、降りてきた継実が立ち上がってから、その手に持っていた串を手渡す。継実はぺこぺことお辞儀をしながら、その串を受け取った。

 彼が食べるつもりだったのか、串に刺さっている肉は既に十分火が通っていた。漂う湯気と共に、肉の香りが継実の鼻をくすぐる。今まで感じた事もないような勢いで涎が溢れ、継実は堪らずその肉に食らい付く。

 涙が零れた。

 味を楽しむとか、香りを堪能する前に、ぼろぼろと泣いてしまう。考えるよりも前に肉を頬張り、噛み締め、飲み込んだ。ただただそれを繰り返す。

 

「ぅ、うう……ううぅ……!」

 

「慌てなくて良い。まだまだたくさんあるが、焼いていないからな。ゆっくりと味わえ」

 

 男は優しい言葉で宥めながら、生肉の刺さった串を焚き火の前に立てていく。継実はこくこくと頷いて、だけど身体は言う事を聞いてくれない。沸き立つ食欲が抑えきれず、無我夢中で食べてしまう。串一本の肉をぺろりと平らげ、焼き上がる傍から食べ尽くす。

 空腹なんて、最初の一本を食べ終えた時にはすっかり癒えていた。そもそも飢えたといっても、精々夕食を抜いた程度。年頃の女子ならダイエットと称して気紛れにやる程度のものでしかない。

 継実が肉を食べ続けたのは、その度に自分が生きているの感じられたから。

 もう食べられないと思うまで、継実の夕食は終わらなかった……

 

 

 

 

 

「あ、あの、ごめんなさい。私、好き勝手に食べちゃって……」

 

「気にしなくて良い。俺はもう、自分の分は食べ終えていたからな。小腹が空いたからもう一本食べようかと思っていただけだ」

 

 一通り食べ尽くして、満腹感に満たされた継実は自分の行いを恥じる。顔を真っ赤にして謝る継実に男は優しい言葉を掛けてくれて、継実はますます頬を赤くした。

 

「あ、あの、このお肉は、なんのお肉なのでしょうか? 食べた事のない味でした」

 

「……実は俺もよく知らないんだ。食べ物を探して瓦礫を漁っていたら、偶々見付けたものなんだ。得体の知れないものを食べさせてしまい、申し訳ない」

 

「い、いえ、気にしないでください」

 

 恥ずかしさから話題を逸らそうとしたところ、今度は謝られる側になってしまう。どうにもやっている事が空回りしている気がして、継実は口を噤んだ。

 ……そうすると今度は沈黙が流れ、酷く居たたまれない気持ちになる。

 十歳という年頃らしくお喋りはそれなりに好きな継実であるが、それは相手が同年代だからこそ。自分の倍以上年上の人と気楽に話せるほど、継実は社交的ではなかった。やっぱり何か話した方が良いのかとも思ったが、しかし一度立ち止まると半端に冷静なものだから、先の二度の失敗がちらちらと脳裏を過ぎる。羹に懲りて膾を吹く、とは少し違うだろうが、どうにも踏ん切りが付かくなってしまう。

 

「……今は一人なのか?」

 

 男の方から話題を出してくれなければ、もうしばらく継実は沈黙の中で悶えていただろう。

 

「あ、はい。えと、一人です」

 

「家族はどうした。はぐれたのか」

 

「……死にました」

 

「……そうか。すまない」

 

 謝る男に継実は「気にしないでください」と伝える。

 実際、継実はそれほど両親の死を気にしていない。完全に吹っ切れた訳ではないが、不思議と悲しみや悔しさ、そしてムスペルに対する憎しみは感じていなかった。あんなにも惨たらしい『殺され方』をしていたというのに。

 自分は親の死に涙しないような冷酷な人間だったのか、或いは肉親が死んだという事実を未だ受け止めきれていないのか。自分の心なのによく分からなくて、それが無性に――――気持ち悪い。

 

「あ、あの、あなたは、はぐれた家族とか、いないのですか」

 

 自分自身に感じてしまったものを誤魔化すように、継実は男に自分が訊かれたのと同じものを問う。

 後になって、自分と同じ境遇かも知れないじゃないかと気付いて狼狽える継実だったが、男は小さな笑みを浮かべた。

 

「元々独り身だ。こっちには仕事で来ていて、両親や親戚はいない。友人も……近くにはいないな」

 

「そう、なのですか」

 

「まぁ、友人は兎も角、親戚については田舎暮らしだ。地震ぐらいなら逃げ延びて、なんとかしてるだろう」

 

 優しい口調で語られたその言葉が、本当なのか、それとも継実に気遣いさせないための嘘なのか。継実には分からない。

 ただ、多分彼は優しい人なのだという気がした。

 その予感が正しいという確証もないが、しかし他者を信じるのにわざわざ確証なんてものは求めない。当初抱いていた警戒心を解き、継実の顔にしばらくぶりの笑みが戻る。

 そして信用と共に、これまでの恩に報いたいという気持ちも込み上がってきた。

 別段継実はそこまで義理や人情を大事にしてきた訳ではないが、一宿一飯の恩という言葉ぐらいは知っている。食事を分け与えてくれたのだから、そのお礼をしたいというのは人として普遍的な想いだろう。

 

「あ、あの。私、色々してもらってばかりで……何か出来る事がありましたら、遠慮なく言ってください。微力ながらお手伝いします」

 

 継実は自らの想いを言葉にし、男に伝える。

 男は一瞬目をパチクリさせ、それから考え込むように腕を組みながら空を仰いだ。とはいえその仕草はどうにも演技臭くて、最初から答えは決まっている様子。

 手伝ってほしい事があるなら手伝うし、ないなら、何時か恩を返そう。そう考えながら継実は男の答えを待ち、

 

「じゃあ、身体で支払ってもらおうか」

 

 男は、そう答えた。

 ――――訳が分からなかった。

 このフレーズを聞いた事がないという訳ではないし、仮になくとも考えれば意味ぐらいは理解出来ただろう。しかし継実は今、男の事をすっかり信用していた。そんな人ではないと考え、頭の中から可能性をすっかり消し去っていた。

 故に、理解すれば全力で逃げ出すところで身動き一つ出来ず。

 跳び付いてきた男の力を受け止める事も出来ず、押し倒されてしまうのだった。



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滅びの日04

 押し倒された、と理解するのに、継実は少なくない時間を要した。

 眼前に迫る、男の顔。吐息が微かに掛かるぐらい近い。いや、男の吐息がそれだけ近いという事か。

 男は継実をじっと凝視していた。吐息が掛かるぐらい近いというのに、瞬きすらせず、眼球が飛び出そうなほど見開いている。よく見ればその瞳は血走り、太くなった血管は今にも破裂しそうだ。

 もしも傍に焚き火がなければ、夜の暗闇に紛れてこの恐ろしい顔を見ずに済んだだろう。されどもしもを語ったところで今は変わらない。眼前に突き付けられた『現実』に、継実は背筋が凍るほどの不安と恐怖を感じる。

 何より、男が直前に語った言葉が、頭の中を延々と周り続けていた。

 

「……あ、あの、か、身体で支払うって、なんの話で……」

 

「知らないのかい? 君が何歳かは知らないけど、初経ぐらい迎えているだろう? だったら尚更、知っとかないとなぁ」

 

 震えた声で、だけど信じて問い質すも、男の答えは生理的嫌悪を煽るもの。ぞわぞわとした悪寒が全身に走り、身体が強張ってしまう。

 そんな時に、男の手が継実の内股に触れた。

 嫌悪は一気に最高潮まで登り詰め、継実は拒絶の言葉を叫んだ。

 

「や、止めて! 離して!」

 

「酷いなぁ。何か出来る事はないかって訊いてきたから、出来る事をやってもらおうとしているだけだよ」

 

「こんな事!」

 

「暴れないでよ」

 

 藻掻いて抜け出そうとする継実だったが、男はそんな継実の両腕を掴み、抑え付けた。更には無理矢理腕を動かし、継実の頭の上で両手を重ねさせ、そこを自らの片手で抑え付ける。継実は両手が使えなくなったが、男は片手が自由なまま。

 手慣れている。

 あまりにもスムーズに、それでいて迷いのない動きから、継実は男が『この手』の行いが初めてではないのだと理解した。即ち女を捕まえ、身動きを封じ、こちらの気持ちを無視して辱める……強姦魔なのだと。

 それを理解した途端、継実の身体は震え出す。自分の身で受ける事になる『辱め』を予期したがために。

 

「や、やだ……お願い……た、助けて……」

 

「そのお願いは聞けないなぁ。なんのために食事を振る舞ったと思う? 君みたいな可愛い子に、俺を信用してもらうためさ」

 

 懇願するも男は一顧だにせず。それどころか先の食事すらも罠だったと聞かされ、継実はこの男の念入りさに震える。

 何故自分は、こんな男のところに来てしまったのか。生き残った人は他にもいるだろうに、どうしてこんな強姦魔と出会ってしまったのか。一人で不安な時に人と出会ったら、誰だって出会った人に安堵し、信じるだろうに。それに両親のような善人があんな虫けらみたいに殺されたのに、何故よりにもよってこんな人間が生き残る?

 そしてどうして、こんな男が食べ物を持っていたのか。あの肉さえなければ、もうしばらくはこの男を警戒していた筈。

 天は、何故この男にばかり恵みを与えたのか。

 

「全く、あの『男』には感謝しないとな。アイツがいなければ、こんな簡単に油断してくれなかっただろうし」

 

 理不尽に震える継実に、男は愉悦に浸った声を漏らす。仲間がいるのかと思った継実はますます恐怖が噴き出し、ガチガチと顎が震えた。

 

「な、仲間まで、いる、なんて……」

 

「仲間? ……ああ、違う違う。アイツは仲間じゃない。それに君も一度会ってるよ」

 

「あ、会ってる……?」

 

 男の言葉が理解出来ない。継実は、ムスペルの死体を見た時から、この男以外の人間には会っていないのだから。

 或いは、都市部から逃げ出す際に出会った化け物達の事を言っているのだろうか? そうだとしたら堪らなく恐ろしいが、しかしレーザーを撃ちまくるチョウや音よりも速く飛ぶハエが、どうしてこんな男に協力するのかという疑問もある。化け物達と協力しているとは考え辛い。

 分からない。全く理解が及ばなくて、恐怖が更に募っていく。

 あたかもその不安を解消してあげようと言わんばかりの、人の良い笑みを浮かべながら、

 

「君が食べたお肉だよ」

 

 男は、なんの淀みもなく答えた。

 確かにその答えは、継実の中から恐怖を消し去った。頭の中が真っ白になったのだから。

 

「男なんていらなかったし、食べ物を探そうだの協力しようだの、鬱陶しい奴だったからさ。こんな時だから警察も以内と思って、後ろからガツーン……一発だったよ」

 

 継実が固まる間、男はつらつらと自らの『武勇伝』を語る。恥じる様子も、脅かす様子もなく、まるで大きなカブトムシを捕まえた少年のように誇るばかり。

 強姦どころか殺人まで犯した男。されど今の継実は、男にそれほど恐怖は感じなかった。感じる余裕すらないというのが正しい。

 自分が美味しい美味しいと言いながら食べたものが何か、知ってしまったのだから。

 

「うぶ、うぶぇぇ……!」

 

 顔を青くし、継実は胃から昇ってきたものを吐いた。我慢しようなんて微塵も思わず、むしろ全部出そうと必死になる。

 男は継実を見て、肩を竦めるだけだった。

 

「おいおい、吐いたら勿体ないじゃないか。食べ物は粗末にしちゃいけないよ」

 

「げほ! かっ、う、おぇ……」

 

「それにさ、これからしばらく一緒に暮らすんだから、これぐらい慣れてもらわないとね」

 

 まるで宥めるように、空いた手で男は継実の頬を触る。気持ち悪くて、怖くて、自分の血が凍ったかのように冷たくなるのを継実は感じた。

 狂ってる。

 強姦魔という時点でろくな人間じゃないし、人殺しとなればどう考えても危険人物だが……人肉食となれば、最早人である事すら止めたと言うしかない。それも数十日もの飢えなら兎も角、精々夕飯を抜いた程度で手を出したのだ。追い詰められた訳でも、魔が差した訳でもない。恐らくコイツは普段からやりたがっていて、全てが崩壊した事でたがが外れたのだ。

 

「あんまり五月蝿いと、君もお肉にしちゃうよ?」

 

 ならば、どうしてこの言葉がただの『脅し』だと思えるのか。

 継実は、息さえも詰まってしまった。

 

「そうそう、大人しくしてればすぐ済むよ。恥ずかしながら俺は()()方でね」

 

 何が、なんて訊く気持ちすら湧かない。身動きすら取れなくなった継実を見て、男はニヤニヤと嗤う。

 そして慣れた手付きで、片手でズボンを下ろし始める。

 

「――――い、嫌ああああああぁっ!」

 

 その悲鳴は最早ただの反射行動。自分が何をしているのかすら理解していない、呼吸と変わらぬ無意識の行い。

 僅かでも冷静さが残っていれば、男の機嫌を損ねる事がどれだけ恐ろしいか理解しただろう。されどもう、それすら考えられない。怖くて、どうしたら良いのか分からなくて、本能のまま動いてしまう。

 突き出すように動かそうとした、未だ片手で押さえ付けられている両腕も同じ。無我夢中であり、無意識であり、勝ち目があるとか怒りを買ったらどうなるかとか、何も考えていないそれは、

 ボヒュッ、という間の抜けた音を鳴らした。

 次いでどろりとしたものが、下半身に降り掛かる。

 

「ひぁっ……!」

 

 反射的に継実は目を開け、自分の下半身を見遣る。強姦魔に襲われ、どろどろしたものを掛けられたのだ。人並にはそうした知識を持つ継実は、掛けられたものの正体を予想し、『万一』の恐怖に突き動かされて目を開けた。

 結果的に、その予測は外れた。

 継実の身体に降り掛かったのは、確かに男の体液だが――――白いものではなく、赤いものだったから。

 それよりも。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「……え……ぇ……?」

 

 意味が分からない。最早恐怖も嫌悪もなく、思考が停止した継実はただただ呆けるばかり。

 されど世界の時間は止まらず、男の身体は重力に引かれてぐらりと傾き、倒れた。ズボンを脱いだ間抜けな下半身だけが大地を転がり、どろどろとした赤いものを溢れさせる。倒れた拍子に足先が焚き火に触れ、ズボンが燃え始めたが、下半身はぴくりとも動かない。

 当然だろう。指令を伝える脳が、上半身と共に消え失せたのだから。

 

「ひっ……!?」

 

 燃え始めた下半身に、継実は更なる恐怖を覚えた。

 男が死んだ。

 上半身が消えたのだから、間違いない。自分を穢そうとした者の死であるが、されど継実に安堵を覚えるような暇なんてない。一体何が起きたのか分からないが、その『何か』が自分に襲い掛からないとは限らないのだから。

 ヒントがあるとすれば、男の亡骸にあるだろう。

 本当は見たくもない。だけど死ぬのはもっと嫌だから、継実は恐ろしい骸を凝視する。

 男の死体は丁度腰から上が消えており、断面から腸が零れていた。剥き出しの血管から染み出すように血が溢れ、火に照らされている地面に赤黒い水溜まりを作る。断面はぐちゃぐちゃに潰れていて、鋭利な刃物で切断したのではなく、大きな力で吹き飛ばされたのだと分かった。

 そして断面部分の肉が微かに向いている方角から、その力が()()()()()()()()()()()()ものだと察せられる。

 

「……ぇ」

 

 その事実に気付いた瞬間、継実は顔を真っ青に染めた。身体はガタガタと震え、寒気を覚え始める。

 次いで、ちらりと見たのは己が右手。

 そこには未だ自分の手首を掴む、男の手首が残っていた。もう身体なんて残っていないのに、男の執念が宿っているかのように未だ離してくれない。

 気持ち悪い。

 だから継実はこれを振り解こうと、力いっぱい己の右手を振り下ろす。

 その瞬間、男の手首がバラバラに砕け散った。

 否、手首だけではない。振り下ろした先にある地面さえも爆発したように吹き飛ぶ。まるで巨大怪獣が爪でも立てたかのように、直線上の溝が大地に刻まれたのだ。確かに地面を形成しているものはただの土だが、だとしても離れた位置の腕の動きで消し飛ぶほど軟弱な代物では断じてない。

 加えて、確かに思いきり振ったとはいえ、気持ち悪さから出した全力に過ぎない。命や純潔の危機から湧き出した力が、こんなものと比べられる筈がない。

 ならば。

 自分があの時、無我夢中で突き出した腕の前に居た男は――――

 

「違う……違う、違う違う違う違う! わ、私じゃ、私じゃない……!」

 

 否定する。否定するが、出してしまった力の痕跡は消えてくれない。男の下半身は燃えながらもそこに残り、掴み続けていた指の後が手首に残っている。

 自分が殺したのだ。襲い掛かってきた男を――――今まで生きていた一人の人間を。

 

「い、いや……嫌ぁ!」

 

 震える足腰で立ち上がった継実は、走り出した。

 どうして走る? 分からない。何処へ向かう? 分からない。

 分かる事なんて一つもない。自分はただの小娘で、特別な力なんてなんにもない。大人の男に襲われたら何も出来なくて、怖くて辛くて悲しい想いをするだけの立場の筈。

 人殺しなんかになる訳ない。こんな弱い自分に人なんて殺せない。殺せないんだからあの男を殺したのは自分じゃない自分じゃないのだから何かがいたんだだから逃げなきゃいけないそうだ危ないものから逃げているのであって――――

 ぐるぐると否定の言葉を頭の中で繰り返す。繰り返すが、その度に手首に残る感触が意識を引き留める。

 お前がやったんだ。

 お前の所為だ。

 お前が、『俺』を殺したんだ。

 

「私じゃ、私じゃ、あ、ぶっ!」

 

 無我夢中で走っていた継実は、不意に足がもつれ転んでしまう。大きめの瓦礫に蹴躓いたのだ。起き上がろうと無意識に身体は動き、だけどもう走り出す事はなく、継実はその場で蹲る。

 もう、何も考えたくもない。

 それは逃げといえばその通りだろう。けれども幼い継実の心には、こんな経験を飲み込むほどの力はない。疲れ果てた精神は休息を求め、何もかも嫌になった精神にそれを拒む体力は残されていなかった。

 辺りを見渡せば、此処が比較的瓦礫が少なく、見晴らしの良い……『化け物』に見付かりやすい場所だと普段の継実なら思っただろう。しかし此処が安全かどうかも、最早どうでも良い。一刻も早くこの苦しみから逃れたかった継実は、その目を瞑り―――― 

 

「こんばんわーん」

 

 能天気な声が、眠りを妨げる。

 俯かせていた顔を上げたのは、反射的な行動だった。それがどんな声だとか考える間もなく、身体が勝手に動いただけ。

 故に継実は、顔を上げてからその目を大きく見開いた。何故ならそこにあったのは、継実が予想もしていなかったものだから。

 

「そんなところで寝るつもり? 今日も冷えるから、風邪引いちゃうわよ」

 

 可愛らしい微笑みを浮かべる、麗しい少女がこちらを見下ろしていた。



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滅びの日05

 ツインテールで纏められている絹のように白い髪が、さらさらと風に靡いていた。

 こちらを見つめてくるブラウンの瞳はやや吊り上がり、けれども宝石のように透き通った美しさ故に目が離せない。

 百五十センチ程度と小さめの身体は手足もすらりと伸び、幼いながら魅惑的な容姿だ。胸の膨らみこそ見た目相応だが、他の容姿と相まって可愛さよりインモラルさの方が強く感じられるだろう。

 他にも端正な顔立ち、くすみ一つない肌、柔らかそうな唇など、魅了を挙げれば切りがない。男性は勿論、女性さえもときめかせるだろう――――事実継実はその少女を前にして、胸が昂ぶっていた。クラスメートの女子に、こんな気持ちを抱いた事なんてないのに。

 ……そんな美貌と同じぐらい気を惹くのが、彼女の頭からぴょこんと生えている『獣耳』と、お尻から垂れ下がっているふさふさな『尾』なのだが。何かのコスプレだろうか? その身に纏うお腹と肩が丸見えな露出度の高い服も、秋の終わりが近付いてきたこの時期だと、色香よりも寒さが大丈夫なのか気になる。

 とはいえ、どんな気持ちにしろ注目を集める見た目の子である事には変わりない。継実はぼんやりと、呆けたように美少女を見つめてしまう。

 

「ねぇ、話聞いてる? そんなところで寝ると風邪引くって言ってんだけど」

 

 継実が我に返ったのは、美少女から声を掛けられてから。

 

「こ、来ないで!」

 

 そして現実に戻ってきた継実が最初にした事は、美少女を突き放す事だった。

 尤も美少女は継実の拒絶に眉を顰めるだけ。距離を取ろうとはせず、むしろ身体を前へと傾け僅かに近付いてくる。

 

「んー? 私の事警戒してんの?」

 

「そ、そうじゃ、なくて……け、怪我、させちゃうかも、知れないから……」

 

「怪我?」

 

 怪訝そうな顔をしながら尋ねる美少女に、継実はこくりと頷いて答える。

 確かに、警戒心がないと言えば嘘になる。先の男のような『暴行』を加えられる心配はいらないかも知れないが、しかし食べ物や衣服を奪おうとして襲い掛かってくる可能性は否定出来ない。

 だけど、それ以上に傷付けたくない。

 人殺しになんてなりたくない。自分の力がどんなものか分からない今、些細な事で消し飛ばしてしまうかも知れない――――継実はそれを怖がっているのだ。

 

「大丈夫よ。人間風情に怪我させられるほど、こっちも柔じゃないから」

 

 ところが美少女は継実の気持ちなどまるで察してくれない。

 ずかずかと、堂々とした歩みで近付いてきた。

 

「ほ、本当に来ないで! 危ないから!」

 

「何? アンタその歳で中二病なの? 最近の女の子はおしゃまねぇ……つか、今そんな遊んでられる状況でもないっしょ」

 

 呆れたように美少女は肩を竦める。どうやらふざけているだけと思われているらしい。

 無理もない話である。向こうも子供とはいえ、背丈から判断するに恐らく継実よりも年上だ。自分より小さな子供が「私に近付くと怪我するぜ」と言ったところで、一体誰が信じるというのか。

 信じてもらうには実演するしかない。

 

「嘘じゃないの! こ、こうなの!」

 

 半ばやけくそ気味に、だけど万一があってはならないので向きだけは気にしながら、継実は渾身の力と共に右腕を大きく振るう。

 果たしてこんなやり方で合っているのかなど分かりようもないが、幸いと言うべきか、継実の力は『発現』した。自身の後方で爆発するかのように地面が吹き飛び、爪痕のようなクレーターを形成。自分の出した音の大きさに驚き、継実は小さな悲鳴を上げながら縮こまる。

 美少女も継実の力を前にして、驚いたように目を丸くしていた。しかしそれだけ。まるで大した事ではないとばかりに肩を竦めると、足こそ止めたが、後ろに下がろうとはしない。

 

「なんだ、『お仲間』なんじゃない。でも脅しをするなら、せめてこのぐらいやった方が良いわよ?」

 

 それどころかニヤリと笑うと、美少女は見せ付けるかのように両腕を広げた

 瞬間、継実と美少女の周りで大量の粉塵が舞い上がる。

 否、粉塵ではない。驚きから思わず凝視した継実は、その粉塵らしきものが砕け散った大地や瓦礫の一部だと理解する。

 そして砕けたものの中にはキラキラと輝く繊維状のものが何本も漂い、その繊維は全て美少女が広げた両腕の先と繋がっていた。

 つまりこういう事である――――この美少女は手の先から無数の糸を繰り出し、縦横無尽に動かした。糸の力は圧倒的で、広範囲の大地を軽々と粉砕してしまったという事。継実の渾身の一撃を遥かに上回る破壊力だ。しかもこれでも本気など微塵も出していないのか、美少女は余裕の笑みまで浮かべている始末。

 そして頭に生えている『獣耳』がぴょこぴょこと動き、お尻から生えている『尾』は立ち上がるや力強く左右に振られる。

 あの耳と尾はコスプレじゃない。生きた身体の一部なのだ。即ち彼女は人間じゃない。

 都市部で見掛けた、あの化け物達の仲間だ!

 

「ひぃっ! こ、来ないで! 食べないで!」

 

 恐ろしい存在と出会ってしまい、継実は頭を抱えて懇願する。人間一人消し飛ばせる力も、核すら耐えるムスペルと互角にやり合う怪物相手では役立たずも良いところ。平伏し、見逃してもらう以外生き残る術はない――――

 

「食べないわよ。肉食だけど、人間を食べるほど落ちぶれちゃいないもん」

 

 そう思っていた継実にとって、美少女のあっけらかんとした返事は、予想外のものだった。

 

「……た、食べ、ないの……?」

 

「食べてほしいの?」

 

「ち、違う! 食べないで!」

 

「なら良いじゃない。さっき言ったでしょ、人間を食べるほど落ちぶれちゃいないって」

 

 怯える継実に、美少女はあくまで淡々と答える。

 その言葉に嘘は感じられない。

 悪い男に騙されたばかりな手前、自分の感覚を何処まで信じて良いのか不安にもなるが……今回は、特に大丈夫な気がした。

 しかし疑問は残る。

 彼女がただの人間なら、自分に近付いてくるのは分かる。継実自身助けを求めて、見ず知らずの男に歩み寄ったのだから。だが彼女が『化け物』だとして――――ならば自分に近付いてきた理由はなんなのか?

 

「その、じゃあ私に、なんの用なの……」

 

 抱いた疑問を言葉にする継実。

 すると美少女は、ニヤリと獰猛な笑みを浮かべた。目の当たりにした継実は背筋にぞわぞわとした悪寒を覚え、思わず息を飲む。

 嫌な予感がする。

 

「アンタ、私の家来になりなさい」

 

 その嫌な予感はどうやら的中したようだと、美少女の告げた言葉から継実は確信した。

 

「け、家来って、な、なんで……」

 

「ムスペル、だっけ? アンタ達人間がそう名付けた化け物。アレの所為でうちの群れは崩壊しちゃったからね。新しい群れを作ろうと思ったのよ」

 

 慄く継実に、美少女は臆面もなく答える。どうやら彼女は群れを作る動物らしい。そして家来と言うからには、その群れは『序列社会』の筈。

 逆らう、という選択肢はない。この美少女の力がどれほどのものであるか、継実は今し方見せ付けられたばかりなのだから。下手にご機嫌を損ねたら、冗談抜きに命が危ない。

 しかし相手が何者であるかも知らず、付き従うのも自殺行為かも知れない。人間的には礼儀を尽くしたつもりでも、別の生き物からしたら無礼千万という可能性もあるのだから。

 知識は力なり。

 本か何かで見た言葉を、今、継実は実感している。

 

「あなた、は、一体……」

 

「ああ、そういえば自己紹介がまだだったわね」

 

 半ば無意識に継実が尋ねると、美少女は妖艶に微笑む。次いでまるで演技をするかのような、滑らかで艶やかな動きで、己が胸の中心に両手の指を立てた。

 そしてその指を、ずぶずぶと自らの胸に突き刺す。

 比喩ではない。本当に、着ている服どころか胸の肉さえも切り裂きながら、指を自らの身体に突き刺したのだ。継実は人体の構造にそこまで詳しくはないが、突き刺さった指の長さからして、もう肋骨どころか心臓を貫通していてもおかしくないと思う。されど美少女の身体から赤黒い液体が溢れ出す事はなく、それどころか美少女は勝ち誇るように微笑んでみせた。

 この程度の傷など傷ではない。そう言わんばかりの仕草に、継実はますます恐れを抱く。身を縮こまらせた継実の姿に、美少女は更に気を良くしたのか。明らかに見せ付けるつもりで、ゆっくりと、胸に突き立てた手を左右に広げた。

 引き裂かれた服と身体の中に見えたのは、内臓や血の塊ではなく――――繊維。

 どうやらこの美少女の身体は、無数の繊維が集まって出来ているらしい。内臓も血管もない肉体故に、その身を引き裂いても眉一つ顰めなかった訳だ。化け物だと思っていたが、美少女はアオスジアゲハや街路樹とも違う存在。こんな気持ちの悪い生物、継実は見た事はおろか聞いた事もない。

 ガタガタと継実は凍えるように震えてしまい、足腰に力が入らない。身を逸らす事すら出来ず、美少女が胸を突き出しながら更に大きく胸元を引き裂いて――――

 

「キャンッ!」

 

 その胸元の中からパピヨンの顔が出てきた。

 ……チョウではない。犬種である。どうやら子犬のようでかなり小さい子だ。白い毛並みが美しい、『美少女』である。

 

「これが私の真の姿よ!」

 

 そして美少女は、誇らしげに胸を張った。胸から顔を出しているパピヨンも、どやっ、と言いたげな顔をしていた。パピヨン自体が割とそんな顔付きなのだが。

 よくよく見れば、出てきたパピヨンの体毛が美少女の身体を形成している繊維と繋がっている。どうやら彼女の身体は、体毛から形成されているらしい。異形の化け物と思ったが、実は有り触れた動物の化け物だったのだ。

 

「……あの、ちなみに名前は?」

 

「モモ様よ! よく覚えておく事ね!」

 

 美少女ことモモは、自らの名前を自信満々に教えてくれた。多分自分で名付けたのではなく、『飼い主』に与えられたのだろう。

 ……気持ちが落ち着くと、色々と気付く事がある。モモの立ち上がっている尻尾が左右にぶんぶんと振られている事、モモが忙しなくピコピコと動いている事、胸から飛び出たパピヨンの顔が「へっへっへっ」と息切れしている事。

 察するに、彼女は飼い主を亡くしたのだろう。

 一般的にパピヨンは活発で遊び好きな性格だ。人懐っこくて、飼い主以外にも擦り寄ってくる……逆にいえば、孤独はあまり好きではないタイプ。独りぼっちになって寂しくて、新しく『群れ』を作ろうとしたのだろう。が、犬の群れには序列があるものだ。本能的に下になりたくないのか、或いは甘やかされた事で自分がリーダーだと思っていたのか。

 いずれにせよ、そうした理由から「家来になれ」という頼み方になってしまったのだと思われる。

 もしも自分の予想が当たっているなら、この『モモ様』、口ほど横柄な性格ではあるまい――――継実はそう感じた。

 

「……家来には、なりたくないかなー」

 

「え、ぁ……そう、なの……」

 

 様子見で正直な気持ちを伝えてみると、モモの尻尾がしゅんと項垂れた。胸から跳び出している犬本体の目は潤み、作り物である筈の人間体の顔まで悲壮に満ちる。

 本当に、悪い子じゃないのだ。ただ人間とは価値観が異なるだけで。

 見せ付けられた力と最初の言い回しで恐怖を抱いていたが、もう彼女を恐ろしいとは思わない。むしろ独りぼっちになってしまった事が可哀想で、自分と同じだと共感して、助けてあげたくなる。

 勿論だから家来になろう、とは思わない。継実も我ながら傲慢だとは思うが、力で屈服させられたなら兎も角、そうでないなら自ら進んで下手には出たくないのだ。そもそもモモが欲しているものは、正確には家来ではあるまい。

 

「でも、友達になら、なっても、良いよ」

 

 孤独を紛らわせてくれる、『仲間』だろう。

 その予想が的中した事を物語るように、モモは大きく目を見開き、項垂れた尻尾をまた振り始めた。

 

「ほ、ほほほ本当!? 嘘じゃないわよね!?」

 

「うん、嘘じゃないよ。私も……お友達、欲しかったから」

 

「やったー!」

 

 家来になれという横柄な態度は何処へやら、モモは両手を広げながら継実に突撃。小さな継実を抱き締めてきた。更に人間体と犬、両方の顔でぺろぺろと舐めてくる。

 犬に顔を舐められるのは初めてではない。祖父母の家で飼われていた雑種が、よくやってきた事だ。しかし人間の顔にべろべろと舐められるのは始めて。あくまで繊維で作られた偽物であり、涎でべたべたになる感触はないものの、長年積み重なってきた『常識』がその行いを恥ずかしいものと考える。

 だけどそれ以上に、誰かと触れ合えている事実を体感させてくれて。

 気付けば、継実の目から涙が溢れた。

 

「……あ、あれ? なんで……」

 

「どうしたの? お腹痛いの?」

 

 泣いてしまった継実に、モモがなんとも頓珍漢な事を尋ねてくる。自分に責任があると一切考えない辺りが、なんとも犬っぽい。

 それが可愛らしくて、なのにどうしてかますます涙が止まらない。視界がぼやけて殆ど何も見えないけれども、おろおろし始めるモモの動きは分かるものだから口が自然と笑ってしまう。

 もう、纏めて吐き出すしかない。

 笑いと嗚咽の混ざった、産まれて初めての声を継実は上げてしまうのだった。



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滅びの日06

「どう? 落ち着いた?」

 

「お、落ち着いた。もう大丈夫」

 

 モモに声を掛けられ、継実は赤面しながら頷く。

 涙はもう止まり、視界もすっきりしている。お陰で心配そうなモモの顔 ― ちなみに本体であるパピヨンは内側に引っ込んだ ― もハッキリと見え、それが無性に恥ずかしい。

 なんとなく継実はモモから視線を逸らし、東の空を眺める。空は未だ真っ暗……と言いたいが、地平線がほんの僅かに赤らんでいた。怪物に対する断続的な水爆投入が行われている訳でないのなら、それは間もなく朝日が昇ろうとしている証。一時眠ろうとしたが、その前にモモに声を掛けられて跳び起きたので、睡眠は取っていない。

 つまり自分は一晩中わーわーと騒いだり走ったりしていたようだと、継実は今になって実感した。なのにこれといった疲労感がないというのは、やっぱり自分の身体が人間離れしているようで、ありがたいと言うよりも気持ち悪い。一人でいたら、きっとまた不安や恐怖で頭がいっぱいになっていただろう。

 そうならずに済んでいるのは、モモが傍に居るお陰か。

 

「……ごめん。突然泣き出したりなんかして」

 

「? 私になんで謝るのよ。別に私は何も困ってないんだけど」

 

 継実が謝罪すると、モモは心底不思議そうにキョトンとする。犬だからか、泣いたり騒いだりする事を『悪い』とは思わないらしい。

 責められたいとは微塵も思っていないし、彼女が気にしていないならそれに越した事はないのだが、あまりにも淡泊な反応に継実は思わず笑みが零れてしまう。喜ばれる事をした覚えがないのに継実が笑ったからか、モモは眉を顰めていた。尤も尾はふりふりと揺れているので、内心楽しそうな人間を見て自分も楽しくなっているのだろう。やはり性根は犬である。

 そう、モモは犬だ。『中身』も見せてもらったので、間違いも嘘もあるまい。

 しかし犬には体毛を操り、人間に化ける力なんてない。それが出来る生き物は最早犬とは呼べず……正直モモにこの表現を使うのは今の継実としても申し訳ない気持ちになるのだが……化け物と称するしかないだろう。

 つまり、モモは都市部に現れたアオスジアゲハ達と同じ存在なのだ。普通の生き物でありながら超常の『能力』をその身に宿した、摩訶不思議な生き物達。

 そしてモモのお陰で今なら継実も少しは受け止められる――――自分の身に宿った力も、彼女達と同質のものだと。

 これまでその強大な力に怯え逃げてきたが、友好的なモモになら尋ねる事が出来る。

 彼女達は、何より自分が一体何者なのか、それを知るチャンスだ。

 

「ねぇ、一つ質問しても良い?」

 

「ん? 別に構わないわよ」

 

「じゃあ……あなたはどうしてそんな力を使えるの? どうして、急にあなたみたいな、凄い力を持った生き物が現れたの? 知能も人間と同じぐらい高いのもどうして? 何か知っていたら、教えてほしい」

 

 出来るだけ失礼がないよう言葉を選びながら、継実は懐いていた疑問をぶつける。それからどんな答えが返ってきても良いよう気持ちを強く持とうとして、無意識に息を飲んだ。

 そんな継実に対して、問われた側であるモモは目をパチクリ。更にはこてんと愛らしく首を傾げる始末。

 

「……別に意味なんてないんじゃない? 自分がどうして産まれたかなんて。頭の良さだって、生まれ付きとしか言いようがないし」

 

 挙句あっさりと、あまりにも味気ない答えを返す。

 『真実』に近付けるのではと思っていた継実は、拍子抜けするあまり崩れ落ちそうになってしまった。

 

「い、意味なんてないって……だ、だってそんな凄い力があるんだし、人間の言葉を話せるぐらいの知能なんて普通の犬にはないし」

 

「理由がなきゃ強い奴は産まれちゃ駄目なんてルールないでしょ。頭の良さだって同じ。どーせアレじゃない、突然変異とか進化論とか、そーいうやつ。よく知らないけど。大体私、もう二歳だから別に急に現れた訳じゃないし」

 

 どうにも納得出来なくて食い下がる継実だが、モモは適当な反応をするばかり。

 やはり納得出来ない……が、モモの言う事も一理ある。というより他の理由があるのだろうか? 例えば生物兵器として作られたというにはあまりにも人智を超えた力であるし、知能が高いというのも反乱を企てられそうで好ましくないだろう。或いは神様が人間を滅ぼすためとするには、継実自身の存在が説明出来ないし、モモのようにフレンドリーな個体が現れる筈もない。なんらかの『意図』があるとするには、自分達の存在はあまりに出鱈目で無作為過ぎる。

 逆に偶然の突然変異だとすれば、理由がないからこそ何が起きてもおかしくない。鳥が空を飛べるのは飛ぼうと努力したからでも、飛べるようにと神様が力を与えたのでもなく、偶々飛ぶのに適した『体質』だったからであるように。これまで存在が表沙汰にならなかったのは、わざわざ暴れる必要がないからか。知能が高ければそのぐらいは考えるだろう。

 体質だとすれば元々持っていた力であり、なんらかの ― 例えば命の危機とか ― きっかけで覚醒しただけ。選ばれた勇者だとかなんだとか、『責任』が生じるものではないという事だ。継実にとっては、ある意味安心な答えである。責任なんて生じても、力に溺れるよりも前に重圧で押し潰されてしまうだろうから。

 

「訊きたい事はそれだけ? なら、私はそろそろ寝たいわ。もうすぐ朝だし」

 

 考え込むという形で黙っていたので、継実の話が終わったと思ったのか。モモはそう言うと、返事を待たずにその場で横になる。

 一方的に話を終わりにされて、しかし確かにそろそろ寝るべきだとは継実も思う。何よりモモが眠いと言っているのだから、それを自分の都合で邪魔をするのは、些か身勝手に思えた。

 継実は口を閉ざし、反論を聞かなかった耳は目を閉じる。瓦礫や石だらけの凸凹した地面の上という、人間ならとてもじゃないが落ち着けない場所も、彼女達獣には大した問題ではないのだろう。特に不快そうな素振りも見せず、身体を丸めた寝姿は、正しく犬のそれだ。

 ただしモモはすぐには眠らず、片目を開けてチラチラと継実の方を見てくる。尻尾もぱたりぱたりと振っていた。

 

「……あの、隣で寝ても良い?」

 

「もぉー! しょうがないわねぇ! 今夜は冷えるし構わないわよ!」

 

 試しに頼んでみれば、モモは如何にも仕方なさそうに、けれども満面の笑みを浮かべながらぶんぶんと尻尾を振った。

 パピヨンならば ― というより昨今ならば ― 基本的に部屋飼いだろう。そして同じ家で暮らしているなら、ご主人と一緒に寝ていてもおかしくない。そう思って試しにこちらから尋ねてみたが、どうやら当たりだったようだ。

 いそいそと継実はモモの傍で横になり、彼女に寄り添う。密着してきた継実を見てモモは誇らしげに微笑み、あやすように継実の身体をぽんぽんと撫でた。尤もすぐに飽きてしまったのか、或いは今まで『撫でられる側』だったのであやす事に慣れていないのか、数十秒と経たずにうつらうつらし始めてしまうが。

 眠たそうなモモを見ていたら、継実も段々と睡魔を覚える。体毛で編まれたモモの『身体』はふかふかで、密着すると程良い温度があった。力の抜けたモモの腕が継実の身体の上に遠慮なく横たわり、優しく加わる圧迫感がモモの存在を感じさせて安心出来る。このまま目を閉じれば、すっと夢の中へと行けそうだ。

 

「……おやすみ」

 

「ん……おやひゅみ……」

 

 もう殆ど寝ているのに、モモは律儀に返事。可愛らしい反応にくすりと微笑み、継実も目を閉じた。

 そして思っていた通り、一気に眠りへと落ちていき――――

 

「あしたは、たくさんにんげんのいるばしょ、いこうねー……ぐぅ」

 

 モモの言葉で、瞬時に覚醒する。

 今、モモはなんと言った?

 たくさん人間の居る場所に行こうと言わなかったか?

 ならば彼女は、他の人間が『避難』している場所を知っている?

 

「も、モモ!? 待って、それどうい」

 

「うるしゃい」

 

「げぶっ!?」

 

 抑えきれず大声で問い詰めようとした継実、であるが、もう眠っていたモモから鉄拳を受けた。寝惚けて力加減が出来なかったのか、それともする気がなかったのか。殴られた継実の頭が地面に叩き付けられるや、小さな地震が世界を襲う。

 普通の人間なら、今の一撃で首から上が跡形もなく消し飛んでいるだろう。同じく人間を消し飛ばせる力を持つようになっていた継実は、なんとか頭の形は保っていた。が、割と本気で痛い。比喩でなく意識が遠退くほどに。

 訓練を積んでいたり、はたまたこうなる事を予測していれば踏ん張れたかも知れないが、生憎継実には経験も覚悟もない。飛んでいく意識は捕まえられず、素早く現世へ舞い戻るには体力が足りず。

 

「……がく」

 

 結果継実は白眼を向き、気を失う。

 自身のした事に気付きもしていないモモに優しく抱き締められながら、夢の世界に強制連行されるのだった。



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滅びの日07

「え。なんでその事知ってんの?」

 

 目を丸くしながら、心底驚いた様子を見せるモモ。

 『今朝』の事を全く覚えていない友達に、継実は乾いた笑い声が漏れ出た。

 ――――今の時刻は、恐らく昼だろうか。

 継実とモモの周りにあるのは、元はアパートか一軒家だったであろう瓦礫と、その瓦礫に埋もれなかった背の高い街路樹ばかり。建物内の時計なんて見られず、腕時計も装着していない二人ではあるが、それでも燦々と輝くお日様が雲一つない空で輝けばそれぐらい分かる。

 継実が起きたのは、ほんのついさっきの事だ。起きたというより、目が覚めたと言うべきかも知れないが。目覚めてしばらくはぼうっとしていた継実であるが、先に起きていたモモと顔を合わせた瞬間、気を失う前の事を鮮やかに思い出した。

 たくさん人間がいる場所に行こう。

 モモが寝言で語っていた話。嘘か真かだけでも確かめたくて、朝の挨拶も差し置いてそれを尋ねたところ――――先の答えが返ってきたのである。

 

「……モモが教えてくれた。寝る前に、多分寝惚けて」

 

「あら、そうだったの?」

 

「そうなの。それで、モモは知ってるの? 私以外の人間が、たくさんいる場所」

 

 改めて問う継実は、真剣な眼差しをモモに向けた。

 正直、人間に会うのは怖い。

 昨日出会った『変質者』のような輩に会いたくないというのもあるし、モモのお陰で少しは受け入れられたとはいえ、自分の力も未だに怖いのだ。特に力については、感情が暴走すれば恐らく無意識に出てしまう。あの男のように、また人を殺してしまうかも知れない。

 殺すのは嫌だ。例えそれがどんな悪人だとしても。人一人の人生を奪い取ってしまったあの時の重圧は、思い出すだけで叫びたくなるほど苦しい。二つも三つも背負ったら、きっと生きていけなくなる。

 なら、これから一人で生きていくのか?

 今の継実ならそれも出来るだろう。普通の人間でも、密林地帯などで何十年も一人で隠れ住んでいたという話もあるぐらいだ。超常の力を持った今なら、食べ物を探す事も、『普通』の獣から身を守る事も出来るだろう。モモとも協力すれば、生きていく事は十分に可能な筈。

 そう、生きていく事は。

 ――――だけど駄目なのだ。

 人というのは、たくさんの人と関わらずにはいられない。例えそのたくさんの人とは話しもせず、横を通り過ぎるだけの関係でも、誰とも会わないだけで不安になる。それはきっと、人としての本能がそうさせるのだ。

 継実は会いたかった。たくさんの人に。会いたくない理由を押し退けてでも。

 ……そうした切実な理由が継実にはあるのだが、モモはといえばボケーッとしてるだけ。あまりやる気が感じられない。

 

「いや、ぶっちゃけ具体的には知らない」

 

 何しろ、未だ目的地すら設定していないのだから。

 期待していた継実は、すんっ、という息と共に、興奮していた気持ちが冷めていくのを実感した。

 

「……知らないんだ」

 

「うん。でも、どっちに進めば良いかは分かるわよ」

 

 項垂れる継実にモモはそう語った。重たい覚悟の反動から一気に気が抜けていた継実は、モモの言葉の違和感に遅れて気付く。

 場所は知らない。だけど方角は分かる。

 場所が分からないのに、どうして方角は分かるのか? 人間的な感覚にはない表現に、継実は眉を顰める。するとモモはまるで自慢するかのように不敵な笑みを浮かべ、褒めて褒めてと訴えるように尻尾を振り回す。

 

「言ったでしょ? 私は犬よ――――何十キロ離れていようがね、臭いがするなら辿り着いてみせるわ」

 

 それなら自信満々に、言われてみれば疑問も何もない答えを返すのだった。

 

 

 

 

 

 人々の声が聞こえてくる。

 数は数十。若い男の声も、年老いた女の声もある。楽しげな、とは言い難いが、がやがやとした活気はあった。

 そしてその声は決して幻聴ではなく、肉の身体を持つ人々が発している。

 声がする場所では、声と同じぐらいの数だけの人影があった。人々は大きな瓦礫を協力して運んだり、年寄りの身体を支えたり、小さな子供達を一ヶ所に集めたり。やっている事はバラバラだが、だからこそ全員が協力して作業していると分かる。

 分業は『社会』の基本。

 つまり、例え此処が大量の瓦礫に埋め尽くされた場所のど真ん中だとしても、その生活が元の暮らしと比べてあまりにも惨めで貧相なものだとしても――――あの人々のいる場所には、新たな社会が出来ているという事。

 継実の目に涙が浮かぶには、十分な光景だった。

 

「ほ、本当に、居た……本当に人がまだ居た……!」

 

「あったり前でしょ! この私の鼻なら朝飯前よ! ほら、もっと褒めて良いのよ!」

 

 継実が嗚咽混じりの声を漏らす横で、モモが身体を傾けて頭を差し出してくる。継実は無意識にその頭を撫でると、モモは「うへへへへ」と嬉しそうに笑った。尤もその可愛らしい声は、今の継実には殆ど聞こえていないのだが。

 継実達は今、恐らくマンションが倒壊して出来たであろう、小高い瓦礫の上から人々の暮らす『社会』を見下ろしている。距離は凡そ五百メートル。普通ならばどれだけ健康的な視力でも早々ハッキリとは見えない遠さだが、今の継実には人々の手足どころか顔の表情まで見えてしまう。人智を超えた力は視力にも適応されているらしい。

 最早見ている景色すら人間離れしてしまった事にショックを覚えなくもないが、しかし今はそれどころではなく、何よりお陰で遠くから人々の様子を窺い知れるのだ。落ち込んでいる暇などないのである。

 

「(凄い……こんなにたくさんの人が、まだ生きていたんだ)」

 

 継実がまず喜んだのは、その社会の一員であろう人々の数。

 大まかに数えた限り、三十人以上居るだろうか。当然彼等は昨日の ― 思い返すとまだ丸一日も経っていないのだ ― ムスペル事変を生き延びたという事。正直継実はあの地獄のような災禍を生き延びた人間はごく少数で、会えても一人か二人だと思い込んでいた。

 しかし考えてみれば、人間というのは都市部だけで暮らしている訳ではない。散歩で開けた公園を出歩いていた人もいるだろうし、川岸で寝泊まりしていたホームレスなどもいる。このような人々ならば倒壊した建物に巻き込まれずに済む筈だ。そう考えると、意外と難を逃れた人は多いのではないかと思えてくる。

 もう一つ喜んだのは、その人々の中に若い女性や子供の姿がある事。

 男性に対し特別な嫌悪感がある訳ではない……が、しかし先日の強姦魔のような、女性に対し狼藉を働こうとする悪人という可能性はある。今の継実の身に宿る力ならば男の一人二人簡単に消し飛ばせるが、人殺しをしたくない継実にそんなのはなんの安心材料にもならない。女子供が共に生活しているのなら、その心配はあまり要らないだろう。

 あの人々との接触を躊躇う理由などない。

 

「よーし、そうと決まれば早速突撃よ!」

 

 しかしモモほど思いきりの良くない継実は、欲望一直線な犬の思考に追い付けなかった。

 

「え? ……え。待って、いきなり行くのはちょっと」

 

「ほら、何してんのよ! 待ってても何も変わらないわよ!」

 

 引き留めようとする継実だったが、人間より聴力に優れる筈のモモは聞く耳持たず。それどころか継実の手を引き、継実を失神させたパワーで引っ張る。

 十数メートルの高さがある瓦礫の崖を一気に駆け下り、その勢いを弱める事なくモモは大地を走った。体毛で編まれた偽物の身体故か、彼女の両足が生み出すスピードは明らかに人間離れしている。継実が抵抗するように引っ張っているにも拘わらず、五百メートルの距離を五秒と掛からず走り抜けそうなほどだ。

 

「待って! この速さで突っ込んだら普通の人間はビックリするから!」

 

 一秒以内に閃いた説得を早口で伝えなければ、本当にモモは砲弾染みた速さで人間達の『社会』に突っ込んだだろう。

 「あ。そうかぁ」と納得したモモは、今まで出していた超スピードを一瞬でゼロにする。引っ張られていた継実の身体には強力な慣性がのし掛かり、危うく自分だけが突っ込むところだった。尤も、常人の身体ならその前に挽き肉になっていただろうが。

 色んな意味で九死に一生を得た継実は、そわそわしながら適当な瓦礫に身を隠す。モモは首を傾げつつ、継実の真似をして同じ場所に身を隠した。継実が瓦礫から顔を覗かせれば、彼女も真似して同じ動きを取る。

 人間達との距離は、もう五十メートルほどにまで迫っていた。

 ……ほんの数秒でここまで近付いており、あと数瞬遅ければ『到着』していただろう。継実が見た限り、人々は継実達の存在には気付いていない様子。正確には視線がつい先程まで継実達の居た瓦礫の山を向いていたが、その山は現在崩落中であり、大気を震わせる轟音に気を取られたのだろう。無論山を崩した犯人は、継実の背後で尻尾を振っている強靭な脚力の持ち主である。

 

「ねぇねぇ、何時まで隠れてるの? 早く人間のところ行きましょうよ」

 

 その犯人からの提案。反射的に逆らいたくなる継実だが、しかしモモの言う事も尤も。此処に隠れていたところで何が変わるのか。むしろ時間を掛け、またこの人懐っこい犬が我慢出来なくなったら何もかも無意味である。

 善は急げと昔の人は言った。きっとこんな状況は想定していないだろうが、先人の言葉は大事にすべきだろう。

 

「……うん。今度はゆっくり、驚かさないようにして」

 

「分かってるわよ。要は歩いて行けば良いんでしょ?」

 

 念押しする継実に、モモは自信満々に答えながら歩き出す。継実はモモの後を追い、さて、あの人達にどう話し掛けようかと考える。

 

「こんにちわーん!」

 

 なお、モモは絶対に何も考えていないであろう、一直線な言葉で呼び掛けた。

 またしてもモモの行動に驚いてしまう継実。そして此度驚いたのは継実だけでなく、彼女達が目指す先に居た人々も同じ。びくりと身体を震わせながら、三十近い人達が一斉に振り返る。

 

「こ、子供よ! 女の子!」

 

「みんな! 子供が来たぞ!」

 

 それから人々は口々に大きな声を出し、継実達に駆け寄った。

 いきなりの大声、更に大勢の人達が駆け寄ってくる光景に、継実は驚きのあまりモモの後ろに隠れてしまう。対するモモは尻尾を左右に振るばかり。

 人々はあっという間に継実とモモを囲う。

 

「大丈夫か! 怪我はしてないか!?」

 

「頑張ったねぇ。此処なら安全だよ」

 

「おい! 誰か大きな布を持ってきてくれ!」

 

 直後に掛けられたのは、気遣いの言葉。

 継実は一瞬呆けてしまった。ぼうっとしている間に人々は大きな布を持ってきて、継実をぐるぐると巻いていく。モモは暑いから嫌だと断れば、彼女の分として持ってきた布も継実の身体に巻かれた。

 布は、瓦礫の中から引っ張り出されたのだろう。布は恐らく元バスタオルの類なのだろうが、泥汚れを吸ったのか色合いがかなり汚い。おまけに生地がぼろぼろで肌触りが悪い、というよりも痛いぐらいだ。漂う臭いは土臭く、そもそもあんまり温かくないという有り様。平時ならば雑巾として使うのすら躊躇う代物である。

 しかしながらそれは、確かに人工的な繊維の感触を残している。

 触れ合わなかった時間は精々一日ちょっと。だけどその一日ちょっとの間離れ離れだった『人間社会』に戻れたのだと、この布は教えてくれた。何より、もしもこれを捨てたら……もう二度と人の社会に戻れない気がして。

 この汚らしい布を払い除ける事は、継実には出来なかった。



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滅びの日08

 継実とモモが案内されたのは、何一つモノが置かれていない、半径数メートル程度の殺風景な広間だった。

 案内される道中、保護してくれた人が話してくれた内容曰く……本来この辺りには災害時の避難所があったらしい。しかしムスペル出現時の超巨大地震により、一応耐震設計されていた建物は残念ながら崩落。避難所としての機能は完全に失われてしまった。現在は集まった人達で片付けを進めているが、まだ殆ど進んでいないという。

 更に消防などから連絡は一切ない状況。つまり此処で何日待てば助けが来るとか、何処に向かえば助けが得られるとか、『将来の展望』と呼べるものは何もないという事である。

 

「つまり、助けは……」

 

「来ないわ。少なくとも今の時点では」

 

 擦れた声で問う継実に、広間まで案内してくれた若い ― そして割れた眼鏡を掛けている痩せ形の ― 女性はあまりにも希望のない言葉で答えた。

 継実は身体に巻いているボロ布をぎゅっと抱き締めながら、思わず息を飲む。真昼を迎えて降り注ぐ陽の中、ボロ布一枚でもかなり温かいが、手放そうという気にはならない。目を伏せた継実は、次いで女性の言葉を確かめるように辺りを見渡した。

 確かにこの辺りに転がるのは、どれもコンクリートで出来た瓦礫ばかり。一軒家ではなく、公共の施設が崩れたのだと予感させた。継実達の居る領域は大きな瓦礫が退けられた形跡があり、自分達が来るまでの間の作業で取り除かれたのだろう。広間には大きな欠片が残っていたりするが、その程度で愚痴を零すつもりなどない。むしろたった一晩でよくこの広さを確保したものだと、継実としては讃えたいところ。

 尤も、今はそのような話を切り出す雰囲気ではないのだが。

 

「……あの、外との連絡は取れていないのですか? スマホとか使えば、他の県とか市と連絡出来ると思うのですが……持っていない私が言うのも、難ですが」

 

「ううん、当然の疑問よ。だけど駄目なの……電波塔か基地局も倒壊したみたいで、電話も通じない。日本の何処かには無事なところはあると思うけど、此処に助けが来るのは何時になるのか……」

 

 継実が疑問を尋ねれば、女性は悲痛さに染まった顰め面になる。幼い継実に過酷な現実を伝えるのが辛い、というより、自分でも未だ飲み込めていない認識を言葉にして苦しんでいるようだ。

 故に彼女の言葉が、決して冗談などではなく、少なくとも彼女自身は心から信じているものだと分かる。そしてその信じている事が、決して思い込みや勘違いではないと継実も思う。

 ムスペルにより継実の暮らしていた都市は灰燼と帰した。消防隊や自衛隊も被害に遭い、誰かを助けるどころではないだろう。加えてムスペルが直に暴れ回っていたこの都市は被害の中心部であり、その周りにもそれなりの被害が広がっている筈。助けが来るとしたら外側からで、此処まで誰かが来てくれるまで相当の時間が掛かるだろう。女性が言うように、救助は恐らく当分の間来てくれまい。

 非常に重大な問題だ。それこそ人の生死に関わるほどの。

 

「あの、じゃあ食べ物とかは……」

 

「ないわ。あなた達が此処にやってきた時、瓦礫を退かしている人達の姿は見たでしょ? あれは勿論寝場所を確保したり、危険を取り除くためでもあるんだけど、何より埋まってしまった非常食を探しているの」

 

「非常食……」

 

「まだ何も見付かってないけどね。探し始めたのは今朝からだし……だからごめんなさい、食べ物や水は出せないの」

 

「いえ、気にしないでください。お腹は、まだ大丈夫……なので……」

 

 話の中でふと思い出す、昨晩の『食事』。血の気が引いていくのが分かり、女性に覗き込まれた事から顔が青くなっていると理解した。

 頭をぷるぷると横に振り、過ぎった考えを追い出す。顔色がこれで回復したかは自覚出来ないが、女性が首を傾げつつも離れたので、きっとそうなのだと思う。

 一旦考えを切り替えた継実は、自分達の置かれている状況を考える。

 避難所の倒壊により、食糧や水が瓦礫の下敷きというのは、非常に深刻な事態だ。何時救助が来るのか分からないが、都市が丸ごと倒壊するような事態となれば、救助が来るとしても何週間も掛かるかも知れないし……そもそも救助に来る余裕がないかも知れない。

 もしも避難所が機能していれば、数日程度は問題なく人々は暮らしていけるだろう。そこには水と食糧があるのだから。されど今その建物は潰れ、食糧も瓦礫の下。掘り起こさねば食べ物は得られず、掘り起こしたところで全てが食べられるとは限らない。

 そう、今や事態は「何時になったら元の生活に戻れるのか」なんて悠長なものではなく――――「果たして生き残れるのか」という深刻さなのだ。継実は思わず息を飲んでしまう。

 

「ふぅーん。そうなんだ」

 

 ちなみにモモは、まるで危機感を覚えていない様子だった。

 能天気な返事をするモモに、女性は引き攣った笑みを浮かべる。子供とはいえ見た目小学生高学年程度でありながら、説明の深刻さをまるで分かっていない様子のモモに呆れたのか。

 しかし女性はすぐに表情を切り替え、話を続けた。

 

「そういう訳だから、食事や水はないの。今日も、もしかすると見付からないかも知れないから、それだけは覚悟しておいて」

 

「……分かりました」

 

「分かったー」

 

「……ごめんなさい。頑張ってここまで逃げてきたのに、食べ物一つ出せないなんて」

 

「? なんでアンタが謝ってるの? 此処にご飯がないのはアンタの所為じゃないでしょ?」

 

 謝る女性に、モモは心底不思議そうに尋ねる。女性は一瞬キョトンとし、次いで「そうね」と微笑んで同意した。

 犬であるモモからすれば、責任がないのに謝るという事が理解出来ないのだろう。実際何故かと問われれば、継実としても中々上手く説明出来ない。そうした『合理的』な物言いが、子供達を飢えさせてしまった女性の心を軽くしたのだ。当人にそんな気は毛頭なくても。

 

「ま、なんでもいいや。ねぇ、休んだらちょっと此処見て回りましょうよ。他の人間にも会ってみたいわ」

 

「見て回りたいって……私達みたいな子供が動き回ったら迷惑」

 

「えぇー。挨拶は基本でしょー? 行きましょーよー」

 

 女性の気持ちなど露知らず、モモは元避難所内の散策を提案。継実が窘めるものの、中々諦めてくれない。尻尾をふりふりと振って、継実の腕を引く。

 どうしたものかと考えた継実は、中年女性に視線をちらりと向けた。もう一人からも止められたなら、もしかするとモモも諦めてくれるかも知れないと僅かに期待したのだ。

 

「ええ、構わないわよ」

 

 残念ながら、その期待は頼ろうとした女性の手によって打ち切られてしまったが。

 

「……え?」

 

「さっきも話したけど、救助が来るのは何時になるか分からない。つまりしばらくあなた達は此処で暮らす事になるわ。だったら挨拶は大事よ」

 

「え。あ、そ、それは確かにそうですけど」

 

 いきなり挨拶回りなんて。そんな内心から、継実は思わず否定的な反応を返してしまう。

 別段他者とのコミュニケーションが苦手という訳ではないし、何より女性の言い分は尤も。だが継実はどうにも踏ん切りが付かない性格で、何事もすぐには行動を起こせないタイプなのだ。

 モモとは違って。

 

「ほら、良いよって言われたし、早く行こう!」

 

 そしてモモは許しをもらえた事で、最早遠慮なしとばかりに継実の身体を引っ張る。

 

「え、あ、ま、ま――――」

 

 諦め悪く止めようとする言葉も虚しく、継実はモモに呆気なく連れ去られてしまうのだった。

 ……………

 ………

 …

 モモに引っ張られる事一分。継実は、人々の『作業現場』に来てしまった。

 そこは周りにある瓦礫の中でも一際大きな、明らかに巨大な建物が倒壊した跡だと分かる『山』だった。高さだけでも三~四メートル、横幅何十メートルの範囲にコンクリートの塊が転がっている。景観のため敷地内に植えられていたであろう樹木が何本か瓦礫に飲まれた状態で倒れており、建物が崩落した時雪崩のように周りに襲い掛かったのだと、地震発生時の状況が目に浮かぶ。

 災害救助に詳しい訳ではないが、これだけ大きな瓦礫の山を退けるには重機が必要であろう。単純なマンパワーの問題もそうだが、大きなコンクリートの塊となれば相当の重さがあるからだ。人力で運べない事もないだろうが、人手が必要だし、何よりうっかり落としたり転倒したりした時に危なくて仕方ない。加えて下手に瓦礫を退かせば、雪崩のように崩れてくる事もあるだろう。

 その危険な現場で、何人もの大人達が素手で瓦礫を退かしていた。今日の食べ物を得るために。

 ――――こんな真剣なお仕事中に、子供である自分が話し掛けて良いのだろうか?

 

「こんにちわーん!」

 

 生憎、犬の頭にはそんな懸念など一切過ぎらなかったようだが。

 

「ちょ、なんで声掛けた……」

 

「え? 声掛けなきゃ挨拶にならないじゃん。会釈は知ってるけど、みんなこっち見てないから気付かないだろうし」

 

「そうじゃなくて、忙しそうなんだから空気を読んで……」

 

「おう、お前達ついさっき此処に来たガキ共か」

 

「うん。そうよ」

 

 まるで罪悪感のないモモをどう叱ろうかと思う継実だったが、その前に作業をしていた男性の一人が継実達の下にやってくる。屈強な肉体と三白眼を持つ、中々厳めしい形相の人物だ。モモはまるで怖がらずに返事をし、男の三白眼が鋭さを増す。

 今の継実ならば、如何に屈強だろうともただの人間に負けるなどあり得ない。自分の身体にそれを可能とする力がある事は、継実自身分かっていた。しかしその力に目覚めたのはほんの二十四時間前の事。十年間培ってきた、十歳の少女のメンタリティはそう容易く変わりはしない。

 怒られるのだろうか。不安になった継実は一歩後退りし、

 直後、男の豪快な手が継実とモモの頭を掴んだ。

 

「はははっ! そうかそうか! もう元気になったのか!?」

 

 そして彼は楽しそうに笑いながら、二人の頭をわしわしと撫で回す。

 大きくてごつごつとした手の感触は、お世辞にも気持ち良くはないが、確かに撫でられていた。

 

「……えっと、は、はい。お陰様で……」

 

「おっちゃん! もっとわしゃわしゃーってやってよ!」

 

「ん? こうかー?」

 

「でへへへへへへへへー」

 

 男に力いっぱい撫でられたモモは、どろどろに蕩けた顔で悦に浸る。「そういえば犬って結構強めに触られるのが好きなんだっけ」と、継実はモモが喜ぶ理由を察した。

 

「お。なんだなんだ?」

 

「さっきの子達だ」

 

「もう動いて平気なのか?」

 

 モモの声を聞き付けたのか、瓦礫掘りの作業をしていた人達が次々とやってくる。

 彼等は継実達を取り囲み、怪我はないかとか、お腹は空いてないかとか、様々な事を尋ねてきた。継実が緊張して口を強張らせる中、人懐っこいモモはぺらぺらと正直に答える。気遣いも何もないありのままの答えは、大人達を安堵させたらしい。皆朗らかで、安心した笑みを浮かべた。

 とはいえ安心したらこれで終わりとならず、大人達は更に質問攻めをしてくる。今まで何処に暮らしていたのかとか、欲しいものはあるのかとか、病気は何かないかとか。家族や友人についてさり気なく話題を避けつつ、他の事はしっかりと確認してくる。

 

「あ、さっき来たお姉ちゃん達だ!」

 

「たちだー!」

 

 更にはこの喧騒の所為か、ボロ布を纏った小さな子供達にまで見付かった。

 継実よりも更に小さな、小学校低学年ぐらいの子供達は躊躇いなく突撃。何歳だのなんだの、モモ以上に遠慮なく尋ねてくる。更にはこちらが訊いてもいない事、何が好きだの名前だのをべらべらと話してきあ。

 正直、継実はお喋りが得意ではない。質問攻めされてもすぐには答えられないし、いきなり別の話題を振られたなら困惑からおどおどしてしまう。

 だけど質問というのは、相手の事を知りたいからする。自分の事を話すのは、相手に知ってもらいたいから。

 彼等は、自分達を受け入れようとしてくれているのだ。

 

「(そっか……私、此処に居て良いんだ)」

 

 受け入れてもらえる。助けてもらえる。

 平時ならば、いや、例え普通の災害時でもあまり心配する必要のない事。されど世界が滅ぼされた今、それでも人は、自分を助けてくれる。小さな子供だからと守ってくれる。

 それが堪らなく嬉しい。

 勿論、現実が厳しい事は分かっている。食べ物どころか水もなく、寝床だって剥き出しの地面の上。自分が羽織っている布を使えば少しはマシになるかも知れないが、これから寒さが厳しくなる中、布一枚では命に関わるだろう。冬を越すまでに、たくさんの命が失われる。

 だけど、それを減らす事が出来るかも知れない力を自分は持っている。

 宿した事に意味はないだろう。だけどそこに意味を与えられるのも人間なのだ。

 自分は彼等に『恩返し』出来るかも知れない。継実はそう信じた。

 

「ねーねー、おねえちゃんはなんでしっぽが生えてるの? おもちゃ?」

 

 ……信じる気持ちの前に、小さな女の子がぶつけてきたこの疑問をどうにかしなければならないが。

 

「ん? これはオモチャじゃなくて本物よ。ほら、自由に動くでしょ」

 

 女の子に尋ねられ、モモは尻尾をふりふりと複雑に動かす。単純な動きなら本当はオモチャなのだと誤魔化しようもあっただろうが、こうも自由に動かされては騙りようがない。子供達がはしゃぐのに反比例するかの如く、大人達の顔が強張る。

 恐らく大人達は、モモの尻尾や耳には敢えて触れなかったのだろう。多分コスプレだと思っただろうし、()()()()()()姿()()()()()()()なんてお伽噺じゃないのだからあり得ない。

 あり得ないが、しかしこうも『人外アピール』をされては現実逃避も難しい。

 いや、逃避してばかりもいられない。何故ならこの人類は恐ろしい怪物の存在を知り、その怪物達により文明が崩壊したのだ。確かにそれらの化け物はどれもムスペルのような異形ばかりで、モモのような『普通の生き物』が超常の力を宿した例は報道もされていない。されどだからモモは見逃してもらえるというのは、いくらなんでも楽観が過ぎる。

 継実だって、モモの事をよく知らなかった時は怖がったのだ。避難所の人々が恐れても仕方ない。そうなった時、彼女は人懐っこいから大丈夫と説明しても、果たして信じてもらえるか……

 

「(なんとかして話を逸らさないと……!)」

 

 危機感を覚える継実だったが、そう簡単に名案は思い付かず。そうこうしているうちに自分達を取り囲む大人の一人が、ゆっくりと口を開き――――

 しかしその口が、モモへの疑問を言葉にする事はなかった。

 

「ば、化け物だ! 化け物が出たぞぉ!」

 

 何故なら遠くから聞こえてきた誰かの大声が、そんな『些末』な疑問を吹き飛ばしてしまったのだから……



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滅びの日09

 化け物が出た。

 確かに、継実の耳にはそう聞こえた。叫んだ声に余裕がなく、心の底から慌てているようにも。

 直感的な印象を騙るならば、この言葉に嘘は感じられない。

 

「っ!」

 

 継実がそれを理解した時、獣であるモモは既に動き出していた。声が聞こえた方へ走り出すという形で。

 継実とモモの周りには大人と子供が囲んでいたが、モモの身体能力ならばその隙間をすり抜けるなど造作もない。継実にはなんとかその動きが見えたものの、普通の人間からすれば瞬きする間もなく姿が消えたようなものだ。

 

「えっ!? ちょ、君――――」

 

 辛うじて反応出来たのは、二十代ぐらいの青年だけ。その青年でも、呼び止めようとした時にはもうモモは彼方に走り去り、姿は遠く離れてしまっていた。それは一目で人間が出せるものではないと分かる、超越的な速さである。

 正体を隠すつもりがない、人外の動き。

 誰もが茫然と立ち尽くす中、継実だけは思考を巡らせる。

 もう、モモの正体を隠す事は無理だ。

 バレてしまったからには何かしないといけないのだろうが、何をすべきかなんて分からない。分からないから、この問題は一先ず棚上げにした。小学校のテストと同じだ。すぐに答えが出せない問題は、一旦飛ばした方が良い。より配点が高く、緊急性の高い問題を解くために。

 そう、今ならば『化け物』をどうするのかという問題だ。

 モモが化け物の方へと向かったのは、何をするため? その化け物というのはどれだけ強くて、どうやって対処しなければならない? そもそも化け物とはどんな奴なのか?

 どれもこれも、此処で考えていても答えが出ない事。ならば自分がこの問題を解くためにすべき事はただ一つ。

 化け物の正体を確かめるべく、モモの後を追う事だ。

 

「わ、私、彼女の後を追います!」

 

「なっ!? 待つんだ! 危ない!」

 

 継実も素早く駆け出し、人の包囲網から抜け出す。本気になればモモほどのスピードはなくとも、人間離れした速さは出せる。勿論()()()()()()と思われたくないので加減はするが、大人がギリギリ追い付けない速さで駆けた。

 走っていくと、段々音が聞こえてくる。

 どおん、どおんと、叩き付けるような爆音。或いは奇怪な暴風の音色。大地が震えるような地震まで起こり、ただ事ではないと窺い知れる。

 それでも、震動や音だけで何が起きたか知るのは難しく。

 

「……う、そ……」

 

 『化け物』が見える位置まで駆けた継実は、唖然としながら立ち尽くす事となった。

 継実の居る避難所の敷地内――――そこからざっと三キロは離れているだろうか。モモが跳び回っていた場所は。

 三キロも離れた位置から大きさ二メートルに満たないものを目視確認するのは、人間には至難の業であろう。しかし今の継実の視力ならば造作もない。むしろ視界に収めている範囲が広い分、モモの素早い動きを易々と追える。

 そして普通の人間には遠過ぎて聞き取れないであろう、楽しげな笑い声も継実の耳には届いていた。

 

「あっははは! 中々やるじゃない! テレビでしか見てなかったけど、思ったより強いのねぇ!」

 

 モモは大地を、恐らく音速の何倍もの速さで駆けていた。彼女の周りに白い靄(ソニックブーム)があるのがその証。人間なら生身でそんなスピードを出せば簡単に死んでしまうだろうに、モモはまるで苦しむ様子もない。むしろ遊びを楽しむように、満面の笑みを浮かべていた。肉食獣である犬にとって、身体を動かす事は楽しくて仕方ないのものだろう。

 例えその遊び相手が、世界を滅ぼした魔物であろうとも。

 

【バルルオオオオオオオオオオンッ!】

 

 遥か彼方まで届く、既知のどんな生物とも異なる咆哮。

 冷え固まった溶岩のような、異質の皮膚。

 山のように巨大な体躯を、アシカのような手足で動かす怪力。

 何もかも見た事がある。忘れもしない、いや、忘れられる訳がない。そいつは継実の全てを奪い去った元凶なのだから。

 ムスペル。

 人類文明を破滅に追いやった怪物が、そこには居た。何故こんなところに、と疑問を抱くものの、考えてみればそれほど驚く事ではないだろう。継実がテレビで見た時点でも世界中で百体以上、日本だけで二体も現れている。今更日本にもう一匹現れていたとしてもなんらおかしくないのだ。

 無論、だから平静でいられるというものでもないが。

 

「む、ムスペルだ……!」

 

「嘘だろおい!? なんでこんなところに……!」

 

 継実が呆けていると、後ろから大人達の声が聞こえてきた。振り向けば、つい先程まで継実達を囲んでいた大人達が居る。ようやく継実に追い付いたのだろうが、誰もがムスペルの姿に慄き、後退りしたり尻餅を撞いたりしていた。

 人類文明を破壊した化け物とほんの数キロしか離れていないのだから、誰だって恐怖するに決まってる。継実だって、ムスペルを前にしたら怖くて足がガタガタと震えているのだから。

 ……或いは、怖いのは()()()()()()()()()()()()かも知れないが。

 

【バルルルォオオオオッ!】

 

 ムスペルは雄叫びを上げながら、ぐるんとその身体を一回転。アシカのような体躯が回る事で、尾っぽらしき身体の末端が鞭のように振るわれる。

 ムスペルの尾が狙うは、無論モモ。彼女は丁度瓦礫の上に四つん這いの姿勢で止まっており、尾は正確に瓦礫の頂上を捉えていた。すぐに逃げねば何千トンあるかも分からない大質量が、隕石のようなスピードで直撃する。その破壊力が如何ほどかは、語るまでもあるまい。

 継実より素早く動けるモモならば、ムスペルの尾の動きは見えている筈。されどモモは瓦礫の山の上に居るモモは跳び退こうとする素振りすら見せない。

 理由は簡単。必要がないからだ。

 

「ふんっ!」

 

 迫り来るムスペルの尾に対しモモが起こした行動は、力強く握り締めた拳を、されど決して全力ではない掛け声と共に放つ事。

 ただそれだけで、自身の何百倍もの巨体を誇るムスペルの一撃は、止められるどころか跳ね返されてしまった。

 

【バルオォオッ!? バ……ルルオオオオオオオオオオオオオンッ!】

 

 攻撃を防がれたムスペルは、しかしそれで呆気なくやられはせず。跳ね返された勢いでぐるんと回転し、今度はモモと正面から向き合う。

 そして開いた口から、半透明な『波動』を吐き出した。

 

「おっと、これは流石に勘弁ねっ!」

 

 波動を見るやモモは素早くその場から跳び退く。

 直後ムスペルが吐き出した波動は瓦礫の山を直撃――――次いで瓦礫の山がどろりと溶けて、弾け飛んだ。波動は何キロもの距離を進み、大地に巨大な溶岩の軌跡を刻み込む。

 あの技は継実も見た事がある。奇妙なアオスジアゲハと戦っていたムスペルが繰り出した一撃だ。恐らくムスペルという種にとって、当たり前に使える攻撃方法なのだろう。そしてアオスジアゲハはあの攻撃を跳ね返したが、モモは颯爽と逃げ出した事から、モモの力では防ぐ事は出来ないらしい。

 だからといって、モモにとってその攻撃が恐ろしいとは限らない。彼女の素早さにムスペルは追い付けず、吐き出す波動がモモに当たる気配がないからだ。思えばモモの力は体毛を自在に操る事で、アオスジアゲハは翅から奇妙なレーザーを放つ事と、二匹の力は全く種類が異なる。恐らく生物種の違いによるもので、どちらの方が強いという話ではないのだろう。

 それに、人間にとっての迷惑さも恐らく大差ない。

 モモは颯爽と大地を駆け抜け、ムスペルは必死に追い駆ける。当然吐き出す波動も猛烈な速さで動き、あたかも大地を薙ぎ払うように振るわれた。波動の力により大地は溶解し、沸騰したマグマへと変化。

 更に波動が撃ち込まれた際の衝撃により、マグマは何百メートル、或いは何キロと飛んでいく。飛んでいく中で冷え固まったそれは、つまりは単なる岩石。

 直径一メートルを超えるような岩が数百メートルの高さから落ちてくれば、生身の人間にとっては十分に致死的な災厄だろう。

 

「に、逃げろ! 岩が飛んでくるぞ!」

 

 大人の誰かがそう叫び、周りに避難を促す。継実もその言葉に逆らう気はない。周りの人々と同じく、いそいそとムスペル達から離れるように逃げた。

 違いがあるとすれば、大人達と違って岩が当たっても死ぬ心配のない継実は、後ろを振り向く余裕があったという事。

 

「だったら、コイツはどうかしらッ!」

 

 そして遠く離れた位置で叫ばれた、モモの声が聞こえるという事。

 本能的に『気配』を察知した継実は、反射的に後ろを振り返る。

 するとそこではモモが髪の毛(体毛)を長々と伸ばし、ムスペルに巻き付けているところだった。何十万トンもあるだろう巨体が、束ねられているとはいえ獣の毛で縛られただけで動きが鈍る。更に毛は深々と食い込み、核の攻撃を難なく耐える表皮に傷跡を付けた。傷口からはマグマのように赤い体液が噴き出し、ダメージの大きさを物語る。

 モモの圧倒的優勢なのは見ただけで分かる。されどムスペルもまた人の世を破滅させるほどの『魔物』。モモの体毛は最早内臓に達しているのではと思うほど深く食い込んでいるが、ムスペルに死の気配はまるで感じられない。それどころか傷口がぐずぐずと蠢きながら再生し、受けたダメージを即座に回復していく。

 あまつさえこんな技を繰り出しながら、体力はさして消耗していないらしい。

 

【バルルルルオオオオオオオオンッ!】

 

 絶叫と共にムスペルはのたうつように暴れ、口から波動を吐き出した。

 最早波動は何処に狙いを定める事もなく、あっちこっち出鱈目に撃ちまくるだけ。見ているだけでムスペルの必死さは伝わり、流石のモモも ― 無論押さえ付けている方が遥かに不自然なのだが ― 完全には動きを止める事が出来ていない。波動を放つ口が自分の方を向かないよう体毛を引っ張ってコントロールしようとし、実際波動がモモを直撃する事はなかったが、動きを完全に制御出来ている訳ではない。

 その証とばかりに、ムスペルが大きく薙ぎ払うように頭を振る事を止められず、大地に大きなマグマ溜まりを作ってしまう。

 そして暴れ回るムスペルの身体が勢い良くそのマグマ溜まりに突っ込めば――――何千メートルにも渡るマグマの海が、()()()()()()と飛んでくるのだから。

 

「なっ……!?」

 

 目にした光景に継実は声を詰まらせ、驚きから足を止める。されど思考は停止せず、即座に自分がすべき事を考えた。

 結論はすぐに導き出される。というより悩んでいる暇などない。

 ここで自分がなんとかしなければ、あと数秒で大量の岩石が降り注ぎ――――此処に逃げ延びた人々を襲うのだから。

 後は殆ど無意識の行いだった。自分の腕に力を集めるイメージ。そのイメージを強く抱いたまま、大きく腕を振るえば、()()()()()()()()()()()()が空を駆け抜ける。力は継実の目にも見えないが、兎に角何かが飛んだという認識だけはあった。

 自分の放った力は迫り来るマグマと同じく数キロに渡って広がった、と継実は思う。果たしてそれが正しいか否かは、継実からほんの数十メートルの位置の空中で冷え固まった岩石が静止した事で全てを物語った。不自然な飛行物体と化したそれを押すように継実が両手を前へと突き出すと、イメージ通り岩石は押し返される。

 押し出された岩石は、継実の方に飛んでくる時よりを遥かに上回るスピードで飛翔。お返しとばかりにムスペルの身体にぶち当たる。

 体長数百メートルを誇るムスペルからすれば、直径十メートルにも満たない岩石が当たったところで砂粒ほどにも感じないだろう。しかし継実の力により加速したそれは、多少なりと違和感を覚える程度の威力はあったのか。ムスペルはほんの一瞬だけではあるが動きを止めた。

 その隙をモモは逃がさない。

 

「ふんっ!」

 

 ムスペルに巻き付けた自身の体毛を、モモは一気に締め上げる。

 ムスペルが我に返った時、全てが手遅れだった。モモの体毛はムスペルの肉を一気に切り裂き、完全に横断……つまり切断したのだ。傷口がこれまでにないほど激しく蠢いて再生するも、ばっくりと開いた断面を塞ぐ事は叶わず。

 ムスペルの頭が首からずるりと落ち、大地に転がる。

 これでもムスペルの身体と頭はまだ生きていて、断末魔の叫びと錯乱したような暴れ方をした。が、新たに伸ばされたモモの体毛が残りの肉体を細分化してしまう。ぐずぐずの肉塊となったそれは、ついに動く事も叫ぶ事もない。

 ここまで完膚なきまでにやったなら、野生の本能なんて殆どない継実にも分かる。

 モモは恐るべき魔物ムスペルを、大した苦もなく仕留めたのだと――――



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滅びの日10

「……本当に勝った」

 

 ぽつりと、継実は独りごちた。パチパチと瞬きもしてみる。

 されど積み上がったムスペルの肉片の山は、消えたりなんてしない。

 間違いなくモモがあの恐ろしい化け物を倒したのだと、継実はようやく理解した。都市で暴れていたムスペルも小さなアオスジアゲハが倒したのだから、似たような存在であるモモが勝つのは予想の範疇。されどまさかこうもあっさり勝利するとは思わず、継実は呆けたように立ち尽くす。

 

「たっだいまー!」

 

 そうしていた時間は僅か数秒だったが、その数秒でモモは継実の下に帰ってきた。

 世界を滅ぼす魔物を仕留め、数キロの道のりを颯爽と戻ってきたのに、モモは疲労の色すら見せていない。満面の笑みを浮かべ、褒めてほしいとばかりに尻尾を振るばかり。耳もぴこぴこと動いて喜びを表現している。

 こうも無邪気だと、褒めたり労ったりした方が良いのかなという気持ちになってくるものだ。

 

「……おかえり。その、ありがとう。ムスペルを倒してくれて」

 

「ん? なんでお礼を言ってんの? アイツは私が食べてみたいから倒しただけなんだけど」

 

「そうかも知れないけど、でも此処を守ってくれたのは確……え? 食べるため? 人を守るためじゃなくて」

 

「あー、そういうのも兼ねてではあるけどね。テレビで見た時から、どんな味か気になってたのよ。だから他の奴等に横取りされないうちに倒さないとって思って。あ、勿論あなたや他の人間には分けてあげるわよ! そこらの野良と違って、私は心配りが出来る子なんだから!」

 

 予想外の理由に困惑する継実の前で、モモは堂々と胸を張る。恥じる様子もなければ、おちょくるようでもない。どうやら先の言葉は嘘偽りでなく、本心からのものらしい。

 あんな化け物を一体何処の誰が横取りするんだとツッコみたいが、犬である彼女にとっては重大な懸念事項なのだろう。つまるところモモは、何処までいっても犬なのだ。

 

「ん? あ、みんな来てるじゃん。おーい、みんなもムスペル食べましょー!」

 

 そして人を見付ければ、無邪気に駆け寄るのも犬というもの。

 モモが走り出した方には、たくさんの人間が居た。継実達が挨拶をした、瓦礫片付けをしていた人達だ。子供達の姿は見えないのは恐らく遠くに逃がされたから。そして大人達は全員集まっている。どうやら怪我人はいないようだと、継実は安堵の息を吐いた。

 ……その割には、皆表情が硬い。というよりも引き攣っている。

 継実は皆の様子に違和感を覚えた。が、犬であるモモは気にも留めていない。モモは躊躇いなく人々に近付く。ボールを咥えた犬が、喜んで飼い主の下へと戻るように。

 

「く、来るな化け物!」

 

 だから、牽制されるなど思わなかったのだろう。

 

「ひゃうっ!? え、えっ……?」

 

 怒鳴られたモモはぴたりと足を止め、怯えるように身体を震わせた。ムスペル相手に全く引かなかった肉体が、一歩二歩と後退る。

 そこに集まった人々の顔には、敵意が浮かんでいた。ほんのついさっきまで継実達に見せていた優しさは、もう何処にもない。敵意を剥き出しにし、雰囲気から嫌悪も感じてしまう。

 流石のモモもここまで敵意を見せ付けられたら、相手の気持ちにも気付くらしい。酷く怯えたように身を縮こまらせ、だけどどうして怒鳴られたのか分からないのか、おどおどと尋ねた。

 

「ど、どうしたのよみんな? なんでそんな怖い顔してるの……?」

 

「いけしゃあしゃあと……お前が化け物なのはバレてるんだ!」

 

「あのムスペルと戦っていたのはお前なんだろ! ムスペルが居た方から来たのを見たぞ!」

 

「人間のふりして近付いて、俺達も食い殺すつもりだったのか!」

 

 次々と浴びせられる罵詈雑言。恐らく全く予期していない言葉だったのだろう。モモは目を瞬かせ、訳が分からないとばかりに立ち尽くす。力いっぱい振っていた尾は垂れ下がり、獣耳も力なく伏していた。

 犬である彼女には分からない。人間達が豹変した理由が。

 しかし人間である継実には分かった。大人達はモモの力が自分達に、そして子供達に向けられた時の事を恐れている。

 ムスペルをも仕留める力だ。その気になれば人間なんて簡単に殺せるだろう。そんな恐ろしい『化け物』と寝食を共に出来るだろうか? 相手の事を知っていればYesとも答えられるだろうが……不運にもモモと彼等は今日出会ったばかり。彼女の人となりを知る時間などなく、不安はあれども安心出来る要素はない。

 無論勝ち目がない事は彼等も理解している筈だ。それでも子供や家族を守るため、言葉で追い出そうとしているのだろう。

 そう、彼等は悪い人達ではない。そしてモモだって悪い子ではない。

 こんなすれ違いは必要ないのだ。

 

「待って! 話を聞いてください!」

 

 これを止められるのは、モモの事をよく知る人間である自分だけ。みんなを説得しようと、怯えるモモの前に出た。

 

「五月蝿い! お前も化け物だろ!」

 

 すると今度は、継実に罵声が浴びせ掛けられる。

 今度は継実の心が止まる番だった。先のモモと同じように、自分が罵られるとは思わなかったがために。

 

「……え。あ、わ、私は人間で」

 

「騙されないぞ! お前が空中で瓦礫を止めたのをこっちは見てるんだ!」

 

「お前も人のふりをした化け物なんだろ!」

 

 咄嗟に反論しようとし、されど大人達の言い分で声が詰まってしまう。

 見られていたのだ。逃げた人達を守るために使った力を。

 あれはあなた達を助けるためにやったのだ。胸を張ってそう言えば、少しは彼等もこちらの話に耳を傾けたかも知れない。だが幼く、こんな極限状態の人との対話など経験した事がない継実には、どう答えれば良いのか分からない。

 そして沈黙は、興奮している彼等には肯定の意思に受け取られたようだ。

 

「出ていけ化け物!」

 

「出ていけ!」

 

「もう此処に近付くな!」

 

 大人達は更に激しく罵り、中には鉄パイプを振りかざす者まで現れる。

 今になって自分の行動が失敗だったと気付く継実だが、もう手遅れだ。彼等はこちらの話に耳を傾けもしてくれない。話せば話すほど、こちらへの悪意を募らせるだろう。

 

「ね、ねぇ、どうしたら良いの? どうしたらあの人達、怒るの止めてくれるの?」

 

 未だ何故怒られているのか分からないモモが、縋るように継実の手を掴む。強く掴む力は、間違いなく人外のそれ。

 その手をじっと見つめ、それから人々の方へと向き……継実は俯く。

 

「……行こう。もう、此処にはいられないから」

 

 やがてぽつりと、辿り着いてしまった結論を言葉に出す。

 

「う、うん……また今度来たら、許してもらえるのかしら? どうなのかな」

 

「……ンタの……」

 

「? 何?」

 

「……なんでもない」

 

 困惑するモモの手を引きながら、継実は人々から離れるように歩く。

 『人外』の力を宿した身体は、背後に刺さる視線を嫌というほど感じさせる。自分達がどれだけ歩けども視線は途切れず、遠くなれども敵意は消えてくれない。

 継実が人々の視線を感じなくなったのは、彼等の姿が地平線の向こうに消えて見えなくなってから。

 それでも継実の脳裏には、人々の目が何時までも残り続けた。



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滅びの日11

 手を繋ぎ、とぼとぼと歩く継実とモモ。歩みは決して遅くはなく、速くもないそれは、三十分ほどで数キロの道のりを渡りきる。

 歩く場所は何処もかしこも瓦礫ばかり。無事な建物らしきものは地平線の彼方まで見られず、精々公園や河川敷など、比較的人工物の少ない領域だけが原形を残している。その数少ない領域には、何処から来たのかイノシシやシカが闊歩し、人の姿なんて何処にもない。

 ましてや人の営み(社会)なんて、現在進行形で自分達が離れている場所以外には目にする事すら叶っていない。

 

「うーん、何がいけなかったのかしら……」

 

 だというのにモモは、自分が何をしたのかすら理解出来ておらず。

 継実が手を振り解くように離すと、モモは困惑したように足を止めた。継実も足を止め、モモと向き合う。

 

「……本当に分かってない?」

 

「え? アンタは分かってるの? なら教えてほしいわ。同じ失敗はしたくないし」

 

 問えば、モモは心から求めるようにお願いしてくる。当然だ、彼女は自分に過失があるなんてこれっぽっちも思っていない。その答えが聞くに堪えないものだなんて、欠片も思わない。

 それが無性に腹立たしくて。

 

「アンタが、その力を使ったのが原因」

 

 継実は、臆面もなく『事実』を伝えた。

 尤もこの一言だけで全てを理解するなら、わざわざ継実が説明する必要などないだろうが。

 

「……え? どゆこと?」

 

「アンタが使った力は、人間からすればあまりに強い。人間では、どうにも出来ないぐらい」

 

「ええ、そうね。今の私なら人間がどんな攻撃を仕掛けてきても返り討ちにしてやるわ」

 

「それが人間には怖い。自分達に向けられたり、支配されたり、酷い事をされると思うから」

 

「え? なんで? しないわよそんな事。私、人間好きだし。二年ぐらい前からこの力を持ってるけど、今まで人間を叩いた事は……ああ、寝惚けてアンタにはしたかもだけど、他の奴にはやった事ないわよ?」

 

 何故危害を加えられると勘違いされてしまうのか。人間達が自分の気持ちを理解してくれない事に、モモは首を傾げて心底不思議そうにしている。

 やはり犬だ。人間的なコミュニケーションや思想を殆ど分かっていない。やられた事がない事はやられないという、性善説に基づいて動いている。

 人間は、得体の知れない人物をすぐには信用しないという事を理解していないのだ。

 

「そんなのはアンタしか知らない事! 始めて会った人は、アンタがどんな奴か知らない! 知らないんだから危険か安全かなんて分かる訳ない!」

 

「あー、成程。確かにそうよね」

 

「アンタがいきなり殴り掛かる奴かも知れないし、アンタが力で支配を目論む奴かも知れない! 殺しを楽しんだり、人の物を奪ったり、そういう事をするかも知れない!」

 

「ん? んー……」

 

「だから怖いの! 人間が、アンタの力を知ったら!」

 

 一通り叫び、継実は息が切れた。人以上の力を手に入れたのに叫んだだけでどうして……と思いながらふと足下を見れば、自分の足下から同心円状に小石や砂が飛んでいる。

 どうやら叫ぶ最中、無意識に力を使っていたのだろう。気持ちを落ち着かせようと息を深く吸い、吐いて、汗を拭う。

 

「……ねぇ、さっきからずーっと疑問だったから、一つ訊いても良い?」

 

「……何?」

 

 そうして少し冷静になった継実は、モモの意見にも耳を傾ける。とはいえ所詮は犬の意見。ろくなもんじゃないと思っていた。

 

「さっきから力がある奴は他の奴を襲うとか支配するって前提で話してるけど、そんなくだらない事してなんになるの?」

 

 だから、モモのこの言葉にすぐさま反応する事が出来なかった。

 喘ぐように口を空回りさせ、ごくりと息を飲み、継実はなんとか声を絞り出す。

 

「だ、だって、力があるなら、食べ物とか奪うかも、知れないし、化け物なら人間を食べるかも知れないし」

 

「食べ物があるのに分けてくれないなら、そうするかもね。まぁ、私なら自力でネズミでも狩った方が早いと思うけど。というかムスペル仕留めて、みんなで分け合うって話したわよね? なんで食べ物を奪うとか、人間を食べるって考えになるの?」

 

「そ、れは……」

 

「支配だって、するならあの人間達の住処に着いたらすぐ宣言してるわよ。今日から私がリーダーだ! って。それが出来る力はあるんだから、わざわざ一緒に暮らしたり、挨拶しても仕方ないじゃない」

 

 つらつら淡々と語られるモモの反論、或いは疑問に継実は言葉を失う。何かを言おうとしても、もう喉は震えるばかりで文章を作ってはくれない。

 何故なら図星だから。

 モモの意見は正しい。何から何まで。モモの話す内容は子供のように純粋な疑問でありながら、それでいて一片の破綻もない合理的なものばかりなのだから。

 モモは犬、というより獣だ。

 獣だから感情はある。人間に褒められたら、表向きツンツンしながら尻尾をぶん回すように。されどその思考は極めて合理的。自身の欲求や本能を客観的に見つめ、覚えている限りの記憶を分析して未来を予測する。感情的な打算がなく、論理的に世界を見通す。

 故に人間と異なるのだ。

 何故なら人間は感情的だから。襲われるかも、殺されるかも――――その恐怖から過去の情報を一切思い出せず、『今』だけを切り取って無理矢理予測をし、故に人間は合理的な判断が出来なくなる。

 合理と感情。話が噛み合わなくて当然だ。両者は同じものを見ても、本当は別のものを見ている。

 分かり合えない。

 そして分かり合えない生き物と、分かり合える生き物がいるのなら、継実は分かり合える方の立場に立つ。

 

「……そうよ」

 

「え? 何?」

 

「そうよ人間は感情的! それの何が悪いの!?」

 

「わ、悪いとは言ってないでしょ。なんでって疑問に思っただけじゃない」

 

「アンタが怖いから人間が怖がったの! アンタがムスペルを食べようなんて馬鹿な考えを持って、力なんて使うから!」

 

「いや、確かにそうかもだけど。でもだったらあのムスペルはどうするつもりだったの? 人間には倒せないでしょ」

 

「そんなの、逃げれば良い! わざわざ倒す必要なんてない!」

 

「それはそうかもだけど」

 

「アンタが暴れなければ、あの人達が私達を追い出す事なんてなかったの! 全部アンタの所為っ!」

 

 感情のまま、非合理的な気持ちを継実はぶつけ続ける。

 そう、これはただの気持ち。筋道の立った理屈などない、根源的には好き嫌い難しい言葉に変換してるだけの『雄叫び』。最早獣の咆哮以下の、言語の体を成していないものだ。

 モモには訳が分からないだろう。継実がどんな理屈で、何が言いたいのか、感情は持てども合理的であるが故に。そして合理的な彼女は、例え意味不明な言動を前にしても苛立たず、ぶつけられた言葉を合理的に解釈するだけ。

 人間が大好きなモモに、継実への悪意なんて込み上がる筈もない。例えどんな反論をしようとも、モモに継実の心を痛め付けるつもりなどないのだ。

 

「それ私の所為なの? アンタだってあの人達に怖がられてたでしょ。化け物呼ばわりされていたし」

 

 そう、この言葉さえも。

 だけどそれは継実にとって、一番触れてほしくなかった事。何も言えなくなる、何も返せなくなる、自分でも分かっていた『弱点』。

 継実だって本当は理解している。自分が追い出されたのは、モモの所為じゃない。自分の選んだ行動が、人間達を怖がらせてしまったのだ。

 だけど認められない。

 それを認めたら、自分は――――『化け物』になってしまうから。

 

「っ……五月蝿い、五月蝿い五月蝿い五月蝿い!」

 

「ま、待ってよ、落ち着いて。ねぇ、なんでそんなに怒ってるの? 私、何か悪い事したの?」

 

 地団駄を踏み、怒りを露わにする継実にモモが狼狽え始める。しかし継実の感情は治まらず、頭の中が真紅に染まるほど怒り一色に塗り潰された視界は何も映さない。

 

「アンタなんて、大っ嫌い!」

 

 胸を満たす感情のまま怒りをぶちまけても、頭の中の怒りはまるで薄まらず。

 途端にモモが顔を青くし、震え始めたとしても、感情が昂ぶった継実には気付けない。

 気付けないから背を向け、一人勝手に歩き出す。

 

「え。あ……ま、待って! ごめんなさい! アンタが言うように私が悪かったのよね!? 反省するから、お願いだから置いてかないで!」

 

 慌てた様子で呼び止めるモモ。だけど継実は無視して背を向け、そのまま歩き出す。モモが慌てて追い駆けてくる事は『気配』で察するが、振り返りはしない。

 モモの何が悪かったかなんて、『非合理的』な人間にしか分からないだろう。そう、これが分からないのは人間じゃない。だから分かってほしいと思う自分は人間だと、無茶苦茶な理屈を継実は頭の中で組み立てる。不格好で、風が吹かずとも勝手に崩れそうなその理屈が、それ以上に不安的な継実の心を一時支えてくれた。

 そして後ろでは、人間ではないが人間好きであるがために、酷く狼狽えているモモの気配が感じ取れる。

 それをいい気味だと継実は嘲り。

 ……だけど何時までも謝り続ける声に、胸がチクリと痛み。

 

「(……私は悪くない)」

 

 胸の中で独りごちた言葉は、自分の心にすら響かず。

 口を閉じた継実は、追い駆けてくるモモを無視して歩き続けるしかなかった。



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滅びの日12

 継実達が当てもなく歩き始めてから一日が過ぎた頃。薄曇りの空の下、彼女達は新たな『社会』を見付けた。

 此度のそれは公園に集まった人々により作られたものらしい。そこが元公園だと分かったのは、敷地の形や、倒壊した遊具が存在があったから。先日出会った人々が集まっていた元避難所と違い、こちらは精々遊具や樹木の一部が倒れた程度。瓦礫などは殆ど散乱しておらず、極めて広々とした領域である。

 しかしだから暮らしやすいというものではあるまい。

 人々は身を寄せ合い、じっと動かずにいる。遠目から観察する限り、住人の数はほんの二十人前後。比較的若い男女の集団であるが、彼等は殆ど動かず、ただじっとしているばかり。

 それも仕方ないだろう。何しろ彼等が居るのはただの公園……避難所跡地と違い、掘り起こしても食べ物なんて出てこない。そこらの瓦礫は材木の多さから元々一軒家だと思われるので、掘り起こせば冷蔵庫などが埋もれているだろう。だが電源喪失状態の今、寒くなってきたとはいえ十月の気温に晒された食べ物は衛生的に不安だ。もしも食べてお腹を壊しても、胃痛薬なんて何処にもなく、万が一にも下痢を起こせば脱水の危険がある。

 彼等は無理に食べ物を探すのではなく、出来るだけ動かない事を選んだのだ。助けが来る時まで生き残るために。

 ――――そんな彼等に、『化け物』が現れて逃げるという体力の消耗を促す行為はさせてはならない。

 

「……今度は、絶対に人間じゃないってバレたら駄目。分かった?」

 

「う、うん。分かったわ……だ、だから怖い顔で見ないで……」

 

 念入りに、叱るように伝えたら、モモは身を縮こまらせながら頷く。体毛で作っていたであろう耳と尾は消失し、今のモモは完全に一人の少女だ。ただしその姿に自信は一切なく、ムスペルすらも易々と葬り去る身体を縮こまらせている。目は潤み、ここで継実が大声の一つでも出せば、彼女はきっと泣き出してしまうだろう。

 こうも怯えている理由はただ一つ。継実に怒られ、嫌われたからだ。

 ただ一回感情的に怒っただけなのに酷い怯えようである。けれどもそれは仕方ない事かも知れない。パピヨンというのは常に自信満々な犬種であり、可愛らしい見た目から飼い主に甘やかされて育った可能性も高い。今までろくに叱られたり嫌われたりした事がない彼女には、未体験の事態なのだろう。どうしたら良いのか分からず、兎に角言う事を聞くしか出来ない。

 モモに限らず、飼い犬にとって人間に激しく怒られる、或いは嫌われるというのは、これほどまでに怖い事なのかも知れない。

 

「(私、酷い事したな……)」

 

 そう思うと、継実は胸がきゅっと締め付けられるような気持ちになる。モモから背けた顔は、怯えているモモと同じように泣きそうなものになった。

 確かに昨日元避難所から追い出された原因は、モモがムスペル相手に暴れ回ったからだ。しかし継実がそれに巻き込まれた理由は継実自身が力を使ったからであり、そもそもムスペルを止めなければあの人達は皆死んでいたかも知れない。戦いの最中余波が人々を襲いかけたが、文明を滅ぼすような相手に余計な被害を出さずに倒せなど無理難題も良いところ。勿論もっと上手くやる方法はあったかも知れないが、少なくとも継実には思い付かない。

 もっと言うなら、人間と揉める可能性を考えられるのは『人間』である継実だけである。事前に注意しておけば、もう少しマシな結末になったかも知れない。

 追い出された直後に交わした『口論』では、モモは多少人間と感性が異なるとはいえ大凡正論を語っていた。時間の経過により感情が静まってきた今の継実には、その正論に刃向かう気持ちが萎み、自分の過失にも思い当たる。つまるところあの時の感情的な言葉は「やり過ぎた」と思っていて、モモを傷付けてしまった事を申し訳なく思っていた。

 それでも、折角見付けた『居場所』を追い出されたという心の傷は、ぐずぐずと継実の気持ちを蝕む。

 

「(……ごめんなさいって、言わないといけないのに)」

 

 素直に謝れない自分への自己嫌悪でため息――――を吐けば、モモがびくりと震えた。

 息すら吐けなくなって、だけどそれも自業自得で、継実はぎゅっと口を閉ざす。

 

「……行こう」

 

「う、うん」

 

 なんとか捻り出した言葉は威圧的。手を握ろうとしたモモが、だけど怯えたように引っ込めてしまうのを見て、継実はますます胸が締め付けられる。

 こんな時でも被害者面をしてしまう自分が恥ずかしくて、だけどそっぽを向いたらモモが更に悲しむと思って。

 

「(本当にどうしようもない……)」

 

 俯いたまま、継実はモモと共に歩き出すのだった。

 

 

 

 

 

「よく頑張ったね。疲れていないかい? 寒さとかは大丈夫?」

 

 辿り着いた公園では、一人のガッチリとした体躯の青年が継実達を出迎えてくれた。他の人達は特に動かなかったが、視線だけは継実達に向いていて、興味があるのだと窺い知れる。

 人々の視線を受け、モモは嬉しそうに目を輝かせた。が、ハッとしたような表情を見せるや後退り。人間の姿に喜んだものの、またはしゃいだらいけないと思ったのかも知れない。

 嬉しい事を喜べなくなってしまったモモの姿に、そうさせてしまった継実は痛む胸を押さえながら前に出る。せめて、自分が話さないといけないと思うが故に。

 青年は大学生ぐらいの年頃で、所謂『イケメン』に位置する人相をしている。きっと文明崩壊前まではお洒落にも気を遣っていたのだろう、土や埃で汚れ、ぼろぼろになっている衣服は、かつてはそれなりに良いものだと窺い知れた。

 その服を見てると、継実は途端に自分の服装……最早ボロ雑巾染みたワンピースが見窄らしく思えてくる。それが恥ずかしくて後退りするのだが、継実の動きに気付いたモモも後退り。どちらも下がれば立ち位置は何も変わらず。

 

「……あー、君達ケンカしてるのかな?」

 

 あからさまにぎこちない二人の様子に、青年がそう尋ねてくる。

 チャンスだと継実は思った。この質問に答える形で自分が悪いのだと言えば、モモと話をする切っ掛けになる。そのまま勢いで謝ってしまえば、多分きっとなんとかなる筈。

 

「あっ、け、ケンカじゃないの! 私がちょっと失敗しただけだから!」

 

 ところがそのチャンスを潰したのは、継実よりも素早く反応したモモだった。

 継実はギョッとしてしまったが、もしかするとこれはモモなりの『反省』だったのかも知れない。怒らせた自分が悪いのだと。何処までも純朴な飼い犬は、人の悪意に気付かない。

 違う。本当に悪いのは自分の方だ。

 けれどもそう思えば思うほど、許しを請うモモの言葉を否定出来ない。喉奥が震えるだけの継実は、モモの顔を直視出来なかった。

 

「……分かった。兎に角今は、ゆっくりしてくれ。毛布も何も出せないけど……」

 

「あ、私は大丈夫! 気にしないで! えと、私先に行ってるね!」

 

 青年の言葉を半ば遮り、モモは公園の中心に向けて走り出す。走り出すが、随分と不格好な走り方だ。スピードは大人が走るぐらいのものなのに、フォームが変だから何度も蹴躓きそうになっている。

 人間ぐらいの速さに抑えようとして、だけどゆっくり走る事に慣れていないのだろう。無理をしているのがありありと感じられ、人外であるとはバレないまでも、違和感はこの場に居る大勢の人々に与えただろう。

 だけど継実にそれを叱責するつもりなんてなく。

 

「……………」

 

 待って、の一言も言えぬまま、とぼとぼとモモの後を追うしかなかった。

 先に向かったモモは、寄り合っている人混みから少し離れた位置に座る。触れ合ったぐらいでバレるものではないのに、過敏に警戒しているようだ。

 継実はそんなモモの傍に座った。モモは継実が近くに来ると、不安そうに目を伏せる。

 話し掛けないと。そう考えれば考えるほど話題が思い付かず、言葉が出てこない。だけど此度の継実は一つの案を思い付く。文脈も前置きもなく、ごめんなさいと言ってしまえば良いのだと。最早案というよりヤケクソだが、何もしなければ変化など起きない。今は行動が第一なのだ。

 

「おーい、みんな聞いてくれ!」

 

 ところがその妙案は、またしても邪魔されてしまう。

 声の主は立ち上がった男性。先程継実達を出迎えた青年だ。身を寄せ合っていた人々は全員が彼の方を向き、縋るような表情で見つめる。どうやらこの青年が此処のリーダー格らしい。

 よくも邪魔してくれたなと一瞬感情が沸き立つものの、継実はぐっと堪える。避難所を追い出された後感情を露わにしたのが良くなかったのか、変に怒りっぽくなってしまったかも知れない。人間というのは一度ハードルを下げると、今度は中々上げられない生き物なのだ。

 そんな脇道に逸れかけた思考を戻しつつ、継実も青年の話に耳を傾けた。

 

「二日間助けを待ったが、未だ救助が来る気配はない。やはり怪物による被害はかなり酷く、誰かを助ける余裕のある消防や警察は僅か……或いは日本には残っていないかも知れない」

 

「そんな……」

 

「でもやっぱり……」

 

「化け物共め……」

 

 青年の言葉に、人々がざわめく。中にはムスペル(化け物)への悪態もあり、モモ(化け物)がビクリと震えた。

 青年はモモの異変に気付かぬまま、話を続ける。

 

「恐らく助けが来るよりも、俺達が飢えで死ぬ方が先だろう。みんなで手分けして食べ物を探すしかない」

 

「……賛成だ。動かずにいてもジリ貧だからな」

 

「わたしも賛成するわ。家の瓦礫を掘れば、缶詰ぐらい出てくるわよきっと」

 

 青年の意見に一人が賛成すると、別の人も賛成を表明。次々と賛成の声が上がり、反対する者は全くいない。

 最初は耐える事を選んでいたようだが、助けがこないという『事実』を受け入れたのだろう。生き延びるために彼等は動き出したのだ。

 継実もその手伝いはしたい。

 

「わ、私も手伝う、のは……良いかな……」

 

 ただしモモのおどおどした言葉を聞くまでは。

 人と遊ぶのが大好きな犬が、嫌われるのを恐れて人の許可をもらおうとしている。そんな姿がショックで声が詰まり、継実はすぐには答えられず。

 

「手分けして食べ物を探そう。チームは、そうだな、力仕事が得意な者と、動かした瓦礫から使えるものがないか探す者に分けよう」

 

 その間に青年はどんどん話を進めてしまう。君は力仕事、あなたは探す仕事。殆ど迷いなく、素早く仕事を割り振る。

 

「銀髪の君は力仕事、そこの子は探す仕事を頼もう」

 

 そして継実とモモには、別々の作業を割り振った。

 

「ぇ、あ、あの、私達」

 

「来たばかりで疲れているとは思う。無理ならばそう言って構わないが、出来そうなら頼みたい。どうだろうか」

 

「私は大丈夫! 力仕事は、その、それなりに得意だから!」

 

 継実の言葉を待たず、モモはそう答えた。私も力仕事は出来ると答えれば、モモと同じ場所で彼等の手伝いが出来るだろう。

 だけど力仕事をするからには、この身に宿った力を使わねばなるまい。

 もしも加減を誤ったら? その瞬間を誰かに見られたら……脳裏を過ぎるイメージが継実の声を潰す。

 

「良し、君は俺と一緒に来てくれ。」

 

「うん。頑張る……そこそこ」

 

「ははっ。そうだな、無理はいけないな」

 

 沈黙は二人を止める事叶わず。モモは継実の方をちらりと見て、それから青年と共に行ってしまった。継実は反射的に手を伸ばすが、背を向けた二人が気付いてくれる事はない。そのまま『普通』の速さでモモの背中は遠ざかってしまう。

 怯えてばかりで何も言えなかった。

 モモは怖がりながらも、どうにかしようと頑張ったのに。自分は何時も寸前で躊躇って、何も出来ずに終わるばかり。臆病者は一体どちらなのかと呆れと嫌悪が込み上がる。

 こんな事では、永遠に彼女に謝れないのではないか――――

 

「っ……そんな事、絶対にない」

 

 声に出し、過ぎる不安を否定する。

 けれども『人外』同然の直感は、人間の言葉を寄せ付けない。

 息苦しくなるほどの不安を覚えながら、継実は老婆や子供と共に、この場に残るしかなかった……



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滅びの日13

 モモが青年に連れていかれたのは、公園から数百メートルほど離れた場所だった。

 青年に連れられたのは、若い男と中年男性三人ずつ、それと若い女性五人……モモを含めれば十二人。瓦礫を退かすという力仕事の都合、若くて体力のある面子が集められたのだ。

 それでも見た目小学校高学年、精々中学生ぐらいのモモにも手伝わせるのだから、人手は全然足りていない訳だが。

 

「(まぁ、この瓦礫の中から食べ物を探そうってんだから、人手はいるわよねぇ)」

 

 モモは髪 ― のように伸ばした体毛 ― を掻き上げながら辺りを見回し、そう思った。

 他よりも一段高い瓦礫の上に立てば、周りの景色がよく見える。瓦礫よりも高いものは何もなく、地平線の彼方まで瓦礫の山が続いていた。木材だらけなので、此処らがかつて住宅地だった事はなんとなく察せられる。

 そして瓦礫の下からたくさんの血の臭いがしている事を、モモは感じ取っていた。臭いの種類は千差万別で、一人二人のものではない。何百か、何千か……或いはそれ以上か。

 

「(ふつーの人間じゃ、家が潰れたらどうしようもないわよね。一体何人が死んだのやら)」

 

 モモは人間が好きだ。だから生きてる人間が生き埋めになっていたら、なんの迷いもなく助ける。が、此処に埋もれた人々はムスペルが現れた二日前からほったらかしだ。生き埋め当初は生きていたとしても、今更()()()だろう。

 勿論もしかしたら奇跡的に生存している者もいるかも知れないが、人間より遥かに優れた嗅覚を持つモモはそんな希望を抱かない。そして死んだ人間に彼女は大して興味を持たず、わざわざ掘り起こしてやろうとは考えなかった。モモは生きた人間が好きなのだ。死体なんて掘り起こしても意味などないのである。

 ――――たった一つの例外を除いて。

 

「……ふぅ」

 

 モモは首を横に振りながらため息一つ。

 過去を振り返る事に意味がないとは思わない。が、今は必要ない記憶だ。

 それよりも未来のために、食糧を集める事に集中すべきである。

 

「みんな! 此処で作業を始めよう!」

 

 丁度気持ちを切り替えたタイミングで、青年から指示が入った。変わり果てた住宅地に人間達の多くはぼんやりしていたが、彼に呼び掛けられて動き出す。瓦礫だらけで何をしようか迷っている様子だったが、青年が足下の板や瓦礫を無造作に退かすと、真似するように足下を掘っていく。

 モモも立ち尽くすのは止め、足下を掘る事にした。犬である彼女は穴掘りが大得意。それに体毛を伸ばして『センサー』として用いれば、地中に眠るお宝を探るぐらい造作もない。難なら適当に蹴飛ばせば、家数件分の瓦礫ぐらい簡単に吹き飛ばせる――――

 

「(って、それじゃ人間じゃないってバレちゃう。加減しないと、またあの子に怒られちゃうかも)」

 

 無意識な考えを、実行直前で思い止まる。今にも蹴り飛ばそうとしていた足を脱力させ、わざわざしゃがみ込んでから瓦礫や材木を一つずつ取り除く。

 正直、何故こんな『非効率』な事をしなければいけないのか、モモには分からない。

 人間じゃないという事を隠すため、というのは理解出来る。普通の犬とは違い、モモの知能は人間に匹敵するのだから。しかし何故人間じゃない事が問題なのかが分からない。特に犬は盲導犬や警察犬など、人間と仲良くしている筈。

 人間の役に立てば、人間は喜んでくれて、自分達を撫でてくれるのではないか。大きな力で瓦礫を吹き飛ばし、みんなの食べ物を一瞬で見付けた方が、ずっと喜ばしい事ではないのか。

 人間の気持ちと理屈は分からない。

 分からないけど、継実の指示には逆らいたくない。

 だって、あの子に嫌われたなら――――

 

「どうしたんだい? もしかして、疲れたのかな?」

 

 考え込んでいると、ふと真横から声を掛けられる。

 ちらりと視線を向ければ、そこに居たのは青年だった。手加減し過ぎて動きが人間から見ても鈍くなっていたのか、はたまた考え事をして止まっていたのか。

 サボっていると思われたくなくて、モモは慌てて手近な瓦礫を引っ張る。大きな材木は、本来中学生が引き抜けるものではないのだが……頭がいっぱいになったモモはそれを難なく引っこ抜く。

 投げ捨てられる材木。

 異常な怪力を目にしても、青年は特段モモを訝しむような態度は見せなかった。それどころか気遣うように話し掛けてくる。

 

「君はまだ此処に来たばかりだ。無理はしなくて良い」

 

「む、無理なんてしてないわよ! ちょっと考え込んでいただけ!」

 

「……そうか。分かった」

 

 モモが否定すると、青年は特段問い詰める事もなく納得した。

 これで誤魔化せたのかしら? 人間は好きだが、人間の気持ちがよく分からないモモは若干不安になる。しかしその不安に長く執着する事もない。

 

「君は、一緒に居たあの子とケンカしてるのかい?」

 

 青年の言葉で、頭のリソースを一気に持っていかれてしまったのだから。

 

「……ケンカじゃないって言ったでしょ。私が失敗しただけ。悪いのは私よ」

 

「だけどあの子はそう思ってない様子だ」

 

「? よく分かんない。私が悪いって言ってきたんだし、そうなんじゃないの?」

 

 モモは継実に言われた言葉をハッキリと覚えている。あんなにも大きな声で、面と向かって言われたのだから、聞き間違いなんてしていない筈。

 そして人間がそう言ったのだから、()()()()()()

 飼い犬であるモモにとって、それは自明の理であった。お陰で青年の言いたい事がが理解出来ず、首を傾げてしまう。青年はそんなモモを見てやれやれとばかりに肩を竦めるも、優しく微笑みながらモモの疑問に答える。

 

「人間というのは、思った事がころころ変わる生き物だ。つい先程言い放った言葉に後悔するなんてしょっちゅう。そしてそんな恥を認められなくて、意固地になってしまうものでもある」

 

「思った事が変わったなら、そう言えば良いじゃない。その時々で考えが変わるなんて普通でしょ?」

 

「ははっ、普通か。そうだね、普通だね」

 

 青年は何がおかしかったのか、楽しそうに笑った。モモには青年の気持ちなど知りようもないが、しかし人間が喜ぶ姿を見られて嬉しい。モモの顔にも自然と笑みが戻る。

 

「仕事が終わったら、一度あの子とちゃんと話した方が良い。後悔先立たず。昔の人が残したことわざさ」

 

「うーん。そういうものなの?」

 

「そういうものだ。そして俺も経験した事だから、間違いなく正しいことわざでもある」

 

 自慢げな青年に対し、モモはまたしても首を傾げてしまう。コトワザの真意はよく分からない。が、確かに昨日から継実とちゃんとお話出来ていないような気がする。

 折角人間の言葉が使えるのだから、お喋りしないと勿体ないというものだ。それにお喋りは楽しい……自分の『飼い主』としてきたように。

 お喋りすれば、あの子は怒るのを止めてくれるのだろうか。確信はないが、何もしないよりは良いと考え、青年のアドバイス通りにやろうとモモは決心する。

 

「邪魔してしまったね。俺はあっちを探してこよう……活躍に期待してるよ」

 

「ん。まぁ、任せなさい。この私の手に掛かれば食べ物の一つ二つ簡単に見付けてやるわ!」

 

 話を打ち切る青年に、モモは胸を張って応える。兎にも角にも今は食べ物探しの時間だ。食べ物がなくては、楽しいお喋りも出来まい。

 そう、時間はたくさんある。自分が失敗して、人間に追い出されなければ何度だって。そうしたら、何時か継実と仲良く出来る筈。

 青年のお陰で前向きな気持ちになったモモは、作業に身を入れるようになった。勿論今まで不真面目にやっていた訳ではないのだが、しかし『手抜き』をしていた事は違いない。やる気さえ出せば、成果は今までの比ではなくなる。

 人間だとバレないように頑張れば、継実も褒めてくれるかも知れない。そうだ、一番大きな缶詰を渡したら喜んでくれるのではないか。そう考えたモモは臭いで辺りを探ろうとし――――

 

「っ!?」

 

 作業の手がぴたりと止まる。

 モモは立ち上がり、ある方角をじっと見つめた。犬であるモモの視力は、実のところ人間と比べてもあまり良くない。しかし動体視力には優れており、動くものに対しては遠距離でもしかと識別出来た。

 故に、彼女はこの場に居る誰よりも早く『それ』の接近を察知する。

 ――――地平線の近くから、こちらに向かって歩く影がある事を。

 

「(嗅ぎ慣れない臭い……少なくとも()()()()()()わね)」

 

 風下に立っていた事もあり、モモは相手の情報を臭いで解析。警戒心を募らせていく。

 勿論人間じゃないというだけなら、大した問題ではない。イノシシやクマのような野生動物のみならず、例えムスペルであろうともモモの敵ではないのだ。継実から人間とはバレないようにしろと指示されているが、ムスペルでなければそれも大して難しくないだろう。

 そして目が悪いとはいえ、輪郭ぐらいは見えている。相手の大きさは、推定二~三メートル程度の四つん這いの動物。間違いなくムスペルではない。ただの獣だ。

 そう、ただの獣。

 だというのに、何故悪寒が止まらない?

 

「おい、アレ見てみろよ!」

 

 モモが思考を巡らせていると、ついに瓦礫漁り中の誰かが接近する影に気付いた。誰かの上げた大声は周りに伝播し、ざわめく声が場を満たす。

 そのざわめきは、やがて喜びを含み始めた。

 目が良くないモモも、影が近付いてくれば人間達が喜んでいる理由は察せられた。成程、確かに現状あの動物が来てくれた事はありがたく思えるかも知れない。人間はあれを好んで食べていたし、モモもその肉を分けてもらった事は一度や二度じゃない。モモがあれを仕留めれば、きっと大勢の人間達が喜ぶだろう。

 仕留められれば、の話だが。

 

「(ヤバい、ヤバいヤバいヤバい! アイツ、滅茶苦茶ヤバいっ!)」

 

 ぞわぞわと全身を走る悪寒。それが本能の警告だと理解したモモは、『アレ』を仕留めるという選択肢は真っ先に除外した。それほどの力の差を感じ取ったのだ。

 取るべき選択肢は逃走。他にはない。

 

「お、おい。あれを仕留めれば、何日か分の食糧になるんじゃねぇか?」

 

「そうよね! やってみましょうよ!」

 

 しかしあの動物の強さに気付いていない人間達は、あまりにも恐れ知らずな事を言い始める。

 青年などは「危険だ」と慎重な意見を述べていたが、空腹に駆られた人々の勢いは止まらない。果たしてあるかどうかも分からない缶詰を探すより、そこを歩いている動物を仕留める方が確実だと思ったのだ。

 それが自殺行為だと知らぬが故に。

 

「駄目! みんな早く逃げて!」

 

 モモは全力で警戒を発し、人間達の避難を促す。これが最善策であると判断したからだ。

 モモの意見に人間達は困惑し、立ち尽くす。そう、あくまで困惑するだけ。モモの警告を聞きながら、誰一人としてこの場を離れようとしない。

 確かに大きさからして『アレ』に単身で挑むのは危険であるが、十二人の大人達が力を合わせればなんとかなるだろう。原始人が知恵と勇気でマンモスを仕留めたのに比べれば、鉄の棒や角材で武装した自分達が『アレ』を仕留める方が簡単だと。腹を空かせた人間達はそう思ったのだ。

 その考え自体は正しい。『アレ』が普通の個体だったなら、多少の怪我人、最悪死人も出るかも知れないが成し遂げられた筈だ。本気で相手を殺そうと思えば、人間というのは中々強いのである。

 しかし『アレ』は別格だ。

 

「アイツは本当にヤバいわ! 今すぐ逃げないと! 公園に待たせてる人達も連れて、兎に角遠くに!」

 

「は? いやいや、そこまで怯えなくて良いだろ」

 

「そりゃ、体当たりとかされたら怪我もするだろうし、踏み付けられたら死ぬかも知れないが」

 

「このまま何も食べられなかったら飢え死によ。一か八かでもやるしかない」

 

「そ、そうじゃなくて、アレは……」

 

 説得しようとするモモだったが、人間達は聞く耳すら持たない。当然だ。モモはあくまで『アレ』の強さを本能的に感じただけであり、根拠と呼べるものが自分の感覚しかないのだ。言語化して伝える事が出来ず、人間達からすれば小娘が一人勝手に酷く怯えているようにしか見えない。精々、じゃあ君は留守番してくれと優しく言われるだけ。

 強いて効果があったとすれば、人々の無謀な挑戦を食い止めた事ぐらい。されどそれも、功績と呼べるものではない。何故人々は動かなかったのか? 動く必要がなかったからだ。その動物は、ゆっくりとではあるが自分達の方に向かって歩いてきたのだから。

 そして奴は、ついにモモ達のすぐ傍までやってきた。

 

「初めまして、人間達。早速ですが、あなた方にはわたくしの奴隷となってもらいましょうか」

 

 ()()()()()()()()()()()()――――



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滅びの日14

「ねぇ、今あの牛喋らなかった?」

 

「い、いや、牛は喋らないだろ……」

 

「でも、確かに……」

 

 ざわざわと、人間達の間にざわめきが広がる。不安そうに身体をそわそわと動かし、きょろきょろと辺りを見渡す。まるで自分の感じた疑問の答えを探しているかのようだ。

 『答え』を知っているモモは、全てが真逆だ。口を堅く閉ざしたまま、全身の筋肉を張り詰めさせて微動だにしない。

 そしてその視線はじっと一つのもの――――ほんの十メートルほどの距離まで近付いてきたホルスタインを、じっと見つめる。

 白黒の模様、一・五メートルあるかないかの体高、大きく膨らんだ乳房、どことなく暢気な顔立ち……何処からどう見ても典型的なホルスタインだ。小さな子供や酪農に興味がない者でも大多数の人々が知っている、世界で最も栄えた品種の牛。日本での用途は主に乳牛というのはある種の常識で、少し詳しい者なら『安いお肉』として広く市販に流通している事を知っているだろう。それだけ人間にとっては馴染みのある生き物だ。

 

「聞こえませんでしたか。では繰り返しましょう。わたくしの奴隷となりなさい」

 

 ただしこんな饒舌にお喋りするホルスタインは、誰も見た事ないだろうが。

 二度目の発言はハッキリと、そして凜とした若い女性の声というのもあって、今度こそこの場に居た全員がホルスタインの言葉を認識する。

 とはいえ、それが即ち理解に繋がるものでもない。

 家畜がいきなり喋り出し、奴隷になれと命じてきた――――あまりにも未体験過ぎて、人間達の誰もが一層困惑してしまう。

 唯一反応出来たのは、人間ではないモモだけだ。そしてその反応は困惑ではなく、焦りである。

 

「(どう考えても私と『同じ』よねぇ、コイツ)」

 

 脳裏を過ぎる最悪の、そして最も現実的な可能性。

 即ち、モモと同じく超常的な能力を会得した生物だ。まさかこんなところで会うとは夢にも思わず、少なからず驚きを覚えたのは間違いない。

 とはいえ自分という『実例』があり、継実という『他種』の例も見ているのだから、他にいる筈がないという考えは間抜けが過ぎるというもの。驚きつつも冷静にモモは思考を巡らせる。

 幸いにして目の前のホルスタインから敵意は感じ取れない。こちらの実力を悟られぬよう余裕を取り繕いつつ、探りを入れるためモモは話に乗った。

 

「奴隷とは穏やかじゃないわねぇ。牛の癖に」

 

「おや? あなた……ふむ、まさかお仲間がいましたか。これは少々想定外」

 

「今更気付いたの? 家畜は鈍いわねぇ」

 

「強者の余裕というものです」

 

 モモはホルスタインと言葉を交わしながら、素早く人間達に目配せ。早く逃げろと視線で訴える。

 が、人間達は動かない。

 それどころかホルスタインと会話するモモに、不審に満ちた眼差しを向けてきた。ただ話をしているだけだというのに、何故そんな目を向けるのか。

 僅かにモモは動揺する。が、野生の本能がその動揺を押し付けた。ホルスタインが語った「強者の余裕」という言葉が、あながち強がりでも自惚れでもないがために。

 逃げない人間達はひとまず置いておき、次の話題を振ろうとする。まず聞き出すべきは目的だろう。奴隷が欲しいとの事だが、具体的にどんな奴隷が欲しいかによって対応も変わるというものだ。

 

「ま、良いわ。それで? なんでまた奴隷なんて欲しがるのよ」

 

「わたくし達ホルスタインは、人間の手によってより多くの乳牛が取れるよう改良された動物です。そのため定期的に搾らねば、乳が張ってしまって痛いのですよ。わたくしであれば自力で()()()()事も出来ますが、あれは少々後が面倒なのでやりたくないのです。そこで人間達にその作業を任せたいと思っています」

 

「……ふぅん」

 

「それとですね、あとは定期的なブラッシングや、餌と水を用意するのもやってほしいところ。それに塩を採りに行くのも任せたいですね、海まで行くのは面倒ですし、塩作りは人手が必要らしいですから」

 

「……なんかさ、私の解釈がおかしいのかも知れないけど……アンタ、ただ面倒臭がってるだけじゃない? 全部自分だけで出来るわよね、それ」

 

「ええ、そうですよ」

 

 思いきって尋ねてみれば、ホルスタインはあっさりと肯定した。

 ざわりと、人間達は少なからずざわめく。面倒臭いから人間を奴隷とする……人間達からすれば、あまりにもとんでもない要求に思えたのだろう。

 反面、犬であるモモからすれば「だらしない」程度にしか思わない。

 人間が大好きなモモだが、人間が『特別』だとはこれっぽっちも思わない。使役するのが便利だと思えば、そうしようとするのはむしろ当然だと思えた。モモにとって人間を奴隷にするのは面白味のない関係なので望まないが、この牛はそもそも人間との関係に面白味など求めていないのだろう。合理的に考えれば、ホルスタインの言い分はなんらおかしなものではない。

 それに、案外人間にとって『メリット』もあるかも知れない。

 

「……俺からも、いくつか質問しても良いか」

 

 その事に気付いたのは、リーダー格の青年ただ一人だけのようだが。

 青年からの問いに、ホルスタインは特段機嫌を損ねた様子もなく頷いた。

 

「ええ、構いません。なんでしょうか?」

 

「あなたがどんな存在なのか、俺には分からないが……あなたが求める世話は、普通の牛にする程度のもので良いのか?」

 

「もう少し豪勢なのを期待します。まぁ、牛舎のような狭い場所に閉じ込められなければさして気にしませんが」

 

「成程。それと、あなたから搾った乳は私達が飲んでも構わないか?」

 

「我が子への授乳が最優先ですが、余りはどう使おうと構いません。わたくしからしたらそれはゴミですから」

 

 青年の『交渉』に対し、ホルスタインは淀みなく答えていく。一通り尋ねた青年は、自身の顎を触りながら考え込む。

 モモにはあまり難しい話は分からないが、少なくともこの話は左程悪いものではないと感じた。

 奴隷とは言ったが、ホルスタインはあくまで世話をしてくれる人間が欲しいだけ。普通の家畜よりも丁寧な世話は要求されるだろうが、無茶な事は言わないだろう。何故なら理屈っぽい癖に非合理的な人間と違い、生物は感情的ではあるが合理的なのだ。わざと手を抜いたりしない限り、貴重な労働力を傷付けても損をするのは主の方である。

 そして人間は、労働の対価として『牛乳』を得られる。哺乳類の母乳とは元を辿れば『血』であり、極めて栄養価の高い飲み物だ。加えて牛の血肉となるのは主に牧草……イネ科植物の葉であり、人間と食べ物が競合していない。つまり牛乳とは、人間には食べられない草を食べられる形に変換したものと言い換えられるだろう。

 少々飼われる側が不遜な事、乳の生産計画を人間がコントロール出来ないなど例外的事象はあるものの、これは要するに『畜産』の提案なのだ。

 

「(ヤバい奴だと思っていたけど、食べ物が足りない今じゃむしろ救世主ね。良い感じに利用させてもらえば良いんじゃないかしら)」

 

 これは受けない手がない。モモはそう思い、きっと人間達もそう思うに違いないと信じた。

 ――――モモは人間が大好きだ。大好きだから、ちょっと贔屓目に見てしまう事だってある。生き物というのは合理的であるが、決して平等ではないのだ。

 モモが思う人間は、優しくて賢い生き物。

 現実の人間は、彼女ほど優しくも賢くもなかった。

 

「う、牛なんかの奴隷なんて嫌よ!」

 

 女性の誰かが叫んだ言葉。

 モモは最初、誰かが拒んだのだと思うだけだった。此処には十二人も人間が居るのだから、一人ぐらいはそういう考えの者もいるだろう。なんらおかしな話ではない。

 ところが次には「そうだ!」と賛同の声が上がり、次々に肯定的な返事が聞こえてくる。何かがおかしいと思い振り返れば、モモの目に映るのは血気盛んな人々の眼差し。

 あまり話を聞いていなかったモモにもすぐ分かる。この人間達に、牛に従うつもりは全くなかった。

 

「ま、待ってくれみんな! 落ち着いてくれ! 確かにあの牛は奴隷と言っていたが、話からしてやる事は普通の世話で」

 

「そんなもん信じられるか! 大体牛乳ぐらいで腹なんて膨れねぇよ!」

 

「そうよ! 自分の食べ物もないのに、牛の世話なんてしてる暇ないでしょ!」

 

「あんな化け物の奴隷なんてごめんだ!」

 

 唯一冷静だったのはリーダー格の青年だが、彼の言葉も人々には届かない。牛に聞こえる事も厭わず感情を吐露し、周りはそれに賛同するばかり。熱は冷めるどころか、どんどん勢いを増していく。

 

「子供や老人だっているんだ。そろそろ栄養のあるものを食べさせないと体力が持たないぞ」

 

 挙句、こんな事を言い出す者まで現れる始末。

 少し遠回しな言い方だが、モモにも分かる。この牛を殺して食べてしまえという意見だ。

 ただの牛なら、それもまた一つの案だろう。だがこのホルスタインは駄目だ。人の手に負えるような生物ではない。

 反射的にモモは止めようとしたが、人々の血走った目が恐ろしくて怯んでしまう。人間の力で何をされても痛くも痒くもないが、飼い犬であるモモにはその視線が堪らなく怖いのだ。

 恐ろしさを知るモモは何も言えず、冷静な青年の言葉は届かない。故に人間達はその『食欲』をホルスタインに向けてしまう。

 ホルスタインは視線の意味に気付いたように、深々と鼻息を吐いた。

 

「成程、それがあなた達の答えですか。とはいえ一言断られただけで諦めるというのも癪ですし、食べられるのはもっと勘弁願いたいところ」

 

 過熱していく人間達に対し、ホルスタインは冷静なまま。人間のように肩を竦め、首を左右に振る。

 だが、ホルスタインは退かない。

 退く訳がない。()()()()()()()()()()()()()()()。モモにはそれが分かっていた――――モモは動物だから、ホルスタインの気持ちはそれなりに理解出来るのだ。未だ自分達が地球の支配者だと、牛が家畜だと思いたい人間と違って。

 合理的に考えればすぐに分かる。牛の世話をするのに、十二人も人手は要らない。一頭だけなら一人で十分だろうし、手厚い世話を受けるにしても三人も居れば良いだろう。

 なら、残りの九人は別に要らない。要らないのだから、脅しの材料にでも使った方が『効率的』というものだ。

 

「そうですね。使えない手足などあっても意味がありませんし、考えが変わるかどうか、試しに一人殺してみましょうか」

 

 その合理的な考えにホルスタインも至った事を、モモはこの言葉で理解した

 直後、モモは動いた。

 続いてホルスタインが力強く後ろ足で大地を蹴るや、強烈な地震が引き起こされる! 人間達は全員余さず体勢を崩し、尻餅を撞くように転ぶ。

 されどホルスタインの目的は人間を転ばせる事ではない。

 大地を蹴り上げた反動で、自らの身体を高速で撃ち出す事だ! ただ地面を駆けただけにも拘わらず、ホルスタインの身体はまるで弾丸のような速さまで加速している。空気を切り裂き、音さえも置き去りにしていた。

 当然人間の動体視力で追えるスピードではない。ホルスタインの進路上には一人の若い女が居たが、彼女が巨大な獣の接近に気付く筈もなく――――

 体勢を崩してから尻餅を撞くまでの一瞬でモモが間に割り込まなければ、女は砲弾が直撃したかのような惨劇に見舞われただろう。

 

「ぬぅっ……!」

 

「きゃっ! ……え? えっ!?」

 

 牛の肩を抱きかかるようにして動きを止めるモモ。尻餅を撞いた女は、遅れてモモの存在、そして彼女が牛を生身で取り押さえている姿を目の当たりにして驚きの声を漏らす。ホルスタインに狙われなかった他の人間達も次々自体に気付き、周りから息を飲む音が何度も聞こえた。

 ホルスタインは自分を受け止めたモモを一瞥。もう一度大地を蹴るためか後ろ足を上げた

 

「ぬぐああぁぁっ!」

 

 瞬間、モモは咆哮と共にホルスタインの身体を突き飛ばす!

 人外の怪力はホルスタインの身体を激しく吹き飛ばした。ホルスタインは止まろうとしてか踏ん張るも、その動きは中々止まらない。何十メートルと吹き飛ばされた巨体は、家数件分の瓦礫を吹き飛ばし、花吹雪のように舞い上がらせる。

 こんな破壊力、生身の人間どころか生半可な軍事兵器では生み出せない。ならばその身に兵器が通じる筈もなく、人の手に負える訳がないと本能で察せられるだろう。

 

「化け物だ……」

 

 人間の誰かがそう言うのは、必然の事だ。

 化け物、化け物だ、なんて事……モモを恐怖し嫌悪する声が次々と上がる。人々に向けていないモモの顔に、悲しみと後悔が浮かぶ。

 守るためだったのに、助けるためなのに。どうしてみんな私を怒るの?

 モモには分からない。褒めてくれない事が寂しくて悲しい。大きな声で泣き出したい。

 でも出来ない。

 渾身の力で吹っ飛ばしたにも拘わらず、あのホルスタインはまるで堪えた様子がないのだから。

 

「早く逃げて! 少しでも遠くに!」

 

 モモに言えるのはその言葉だけ。

 

「――――みんな逃げろ! 公園にいる人達にも知らせるんだ!」

 

 想いに応えてくれたのは、リーダー格の青年だ。彼の指示で人間達は我に返り、慌ただしく立ち上がるや逃げ出す。この場から人間の姿がなくなるのに十秒も要らない。

 だがどれだけ走ろうとも、このホルスタインならば簡単に追い付くだろうが。

 ホルスタインはゆっくりとモモに近付いてくる。駆け出したところで、モモが居る限り止められると思ったのだろう。

 事実モモはそのつもりだ。例えどんな勢いで突進してこようとも、ただの体当たりならば受け止められる。この身に宿った力はそれを可能とするだけのパワーがあるのだ……ホルスタインにも、同じような力はあるが。

 未だ感じられる力量差は絶望的。恐らく勝ち目などない。ろくな傷すら負わせられないまま、踏み潰されてしまうだろう。

 予感される終わりを前にして、されどモモはニタリと笑みを浮かべた。

 

「……随分と清々しい顔をしていますね。あのように恐れられているのに、どうして人間を守ろうとするのです?」

 

 しばしの沈黙を挟んだ後、ホルスタインは不思議そうに尋ねてきた。

 恐らく、ちょっと疑問に思った程度なのだろう。ホルスタインが放つ闘志は薄れる事すらなく燃え続けており、モモが攻撃動作を見せれば答えなど待たずに動き出すつもりなのは明白なのだ。

 そんなホルスタインからの問いを、モモは鼻で笑う。訊くまでもない事だろうと言わんばかりに。

 モモは更に両手の握り拳をぶつけ合わせる。するとバチンッと激しい音が鳴り響き、次いでモモの身体が青白く発光し始めた。やがて稲妻が全身を駆け巡り、足下にある土埃がふわりと浮かび上がって飛んでいく。

 モモの『身体』は体毛で作り上げたもの。その体毛同士を擦り合わせる事で、落雷に匹敵する莫大な電気を絶え間なく生成しているのだ。そしてこの電気を纏わせる事で体毛の分子配列を制御。伸縮の加速とパワーの増幅、更に電気的反発による防御の強化を行う。

 有り体に言えば『戦闘形態』。モモ自身はこの原理を()()()()()でしか理解出来ていないが、本能的に制御方法は理解している。使用する上で問題は何もない。

 本気の姿へと変化したモモは、ホルスタインの瞳を睨み返しながら臆面もなく己の本心を告げる。

 

「知らないの? 犬はね……どんな人間が好きで好きで堪らなくて、人間の役に立ちたくて仕方ない生き物なのよッ!」

 

 自らの想いを明かしたモモは、ホルスタインの返事を待たずに動き出し――――

 次の瞬間、大地が震えるほどの爆音が轟いた。



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滅びの日15

 まるで世界を揺るがすような大地震。

 公園内でその揺れを感じた継実は、尻餅を撞いてへたり込んでいた。困惑から頭が真っ白になり、目を白黒させてしまう。

 大地の揺れ自体は精々震度四ぐらいで、大地震と呼べるほどのものではない。そんな地震で尻餅を撞いた挙句混乱していると、自分が酷く臆病な人間のようだと継実は感じた。

 それでも頭を抱えて蹲る他の……瓦礫の中から掘り出したものの選別を任された、老いた女性や小さな子供と比べれば、ずっと冷静なのではあるが。

 

「この揺れ、モモが……?」

 

 脳裏を過ぎる可能性が、声となって表に出てくる。落ち着いて感覚を研ぎ澄ませば、この揺れが直下ではなく遠方、具体的にはモモ達が食べ物探しに向かった方角から波打ってきていると分かった。ムスペルさえも倒すモモの力ならば、ちょっとした地震を引き起こすぐらい造作もあるまい。

 しかし解せない。

 モモは継実に怒られ、かなりへこんでいた。だから自分の力を人間に見せるような真似は極力避ける筈である。それこそムスペルがまた現れたのなら、さっさと逃げてくれば良いのだ。あの口論の中で継実がそう訴えたのだから、選択肢はモモの頭にも浮かぶ筈である。

 それをしなかったのは何故?

 それとも出来なかったのか?

 例えば逃げるという選択肢すら取れないほどの、ムスペルさえも比にならない脅威が来たとか――――

 

「おおーい! みんなぁ!」

 

 考え込む継実だったが、ふと聞こえてきた呼び声で我を取り戻す。

 無意識に声の方を見れば、わたふたと不格好な走り方で、慌ただしくこちらに走ってくる青年及び人々の姿があった。青年達は公園内に入ると、座り込んでいる人々の下に向かう。

 そして口々にこう語るのだ。

 

「大変だ! う、牛の化け物が出た!」

 

 恐るべき人外が現れたのだと。

 

「う、牛の化け物? なんだいそりゃ」

 

「分かんねぇよ! でもアレはヤバい! 兎に角逃げろ!」

 

「ねぇ、お姉ちゃんは? 一緒に行ったよね?」

 

「アイツも化け物だったんだ! それであの牛と取っ組み合って……」

 

 食べ物探しをしていた人々はそれぞれに話し、公園内に居た人々は困惑し始める。牛の化け物、女の子が化け物だったと聞かされ、一体何が分かるというのか。

 こんな話で何が起きたか察せられるのは、『化け物』を知る継実だけ。

 モモは戦っているのだ。牛の、恐らくは自分と同じタイプの存在と。ムスペルなどとは比にならない、最大最悪の脅威と。

 恐らく、人間を守るために。

 

「っ!」

 

 思い立った継実は無我夢中で行動を起こす。目に入った中で一番高い瓦礫に向かい、颯爽と駆け上る。継実の動きはギリギリ人間の水準だったが、訓練もしていない小学生が出来るものではない。目撃した人々は、継実の身体に違和感を覚えた事だろう。

 されど継実はもう、そんな事など気にしていられなかった。衝動のまま瓦礫のてっぺんに登り詰めた彼女は、バクバクと鳴り響く胸を押さえながらモモ達の向かった方を見遣る。

 瞬間、継実は驚愕した。押さえていた胸の鼓動が、一瞬聞こえなくなるほどに。

 無数の爆炎が生じ、雷撃があちらこちらに飛び交う、この世の地獄のような光景を見てしまったのだから……

 

 

 

 

 

「ふんっ!」

 

 渾身の力で、モモは大地に腕を突き刺す。

 その腕を力強く引き揚げると、バチバチと放電しながら大地の一部が浮かび上がった。突き刺した腕から放電し、流した電力により地面内の鉄分を磁石化。腕に纏う電力の向きを反転させる事で磁極を逆転させ、磁石化した土塊を引き寄せたのだ。

 引き寄せた土は総重量五トンほど。片手でこれを掴んで持ち上げたモモだが、そのまま投げ付けはしない。更に電気を流し込む事で磁力を強化し、反発力を増大させていく。

 そしてぽんっと軽く土を投げた、その一瞬で腕に大出力の電気を流し――――

 

「だりゃああっ!」

 

 落ちてきた土塊を殴り付ける!

 土塊に帯電した磁力と、腕に纏った磁力が反発。言ってしまえば同じ極の磁石を近付け合いなのだが、纏う磁力の強さが違う。土塊は反発力に押し出され、空を駆けた。

 磁力による兵器といえば、レールガンが有名だろう。あれは電磁誘導により物体を加速させていく事で、火薬による兵器よりも高速化を成し遂げるというもの。同じ電気による一撃でも、モモが使った方法とは原理が違う。もっと言うならモモはわざわざ磁力同士の反発という回りくどい方法を使っており、レールガンと比べて効率が格段に悪い。

 が、出力が桁違いだ。何しろ単身で九億キロワット……最大級の原子力発電所七百基相当という出鱈目な電力を生み出し、その力を腕部に集結させたのだから。撃ち出された土塊は音速の百数十倍もの速さまで加速し、余波で大地を抉り飛ばす!

 だが、届かない。

 モモの目の前で堂々と佇むホルスタインの僅か数十センチ手前で、巨大な土塊は霞のように霧散して消えてしまうのだから。

 

「ちっ! なら、これはどうかしら!?」

 

 舌打ちしつつ、モモは次の手を繰り出す。帯電した体毛を伸ばし、ホルスタインに巻き付けようという作戦だ。

 モモの体毛に流れる電流は落雷に匹敵する出力。おまけに落雷は一千分の一秒しか継続しないが、モモの電撃は何十秒だろうと続くもの。巻き付け、流し込めば、大概の生物は一瞬で丸焼きだ。

 巻き付けさえすれば、の話だが。

 ホルスタインにはこれも届かない。モモが伸ばした体毛は、ホルスタインに触れる直前に()()してしまうのだから。燃え始めた体毛は一瞬で焦げ付き、切れてしまう。

 

「……どうやら単純な力の差だけではなく、相性面でもあなたは不利なようですね」

 

「……どうかしら? まだまだ奥の手は隠し持ってるわよ?」

 

 ホルスタインからの指摘に、モモは不遜な態度を崩さない。しかし内心は、ホルスタインの言葉に同意していた。

 そう、相性が悪い。正直ホルスタインの能力を事前に知っていたら、恐らく直接戦闘はなんとしても避けたほどに。

 

「わたくし達牛は草食動物と人間には言われていますが、実体は異なります。わたくし達の胃には微生物が住み着き、食べた植物を発酵。この発酵物と微生物を食物としているのです」

 

 ホルスタインが説明を始めたのと同じくして、ホルスタインの身体の表面に赤い揺らめきがぽつぽつと発せられる。

 

「そしてこの発酵過程で、わたくし達の体内ではメタンが生成されます。メタンは可燃性のガスであり、人間達は燃料としても用いているようです」

 

 揺らめきはどんどん大きくなり、ホルスタインの身体を包み込む。揺らめきはバチバチと鳴り響きながら()()()()()、大きな炎と化した。

 

「わたくしはこのメタンを操り、燃やす力がある。勿論ただのメタンを燃やしてもたかが知れていますが……体内でなんらかの加工が行われているのでしょう。わたくしの操る炎はただの炎ではありません」

 

 やがて炎は赤い色合いを変化させ、透き通った青へと変わる。熱波が撒き散らされ、十メートル以上離れているモモの身体までもが熱により発火。『身体』が所々焦げ付いていく。

 過熱された大気による上昇気流の所為か、巨大なコンクリート塊が飛ぶほどの暴風が吹き荒れた。風に乗ったコンクリートはホルスタインに向かうが、数メートルと近付いたところで瞬時に気化してしまう。ホルスタイン足下の地面は赤熱し、少し離れた位置の方がもっと熱いのか、周りはどろどろと溶け始めた。

 ありとあらゆるものを引き寄せながら、ありとあらゆるものを消し去る地獄の業火。

 

「高熱の炎を操る――――これがわたくしの能力です」

 

 見せ付けるように力を発現させながら、ホルスタインは自らの能力を明かした。

 

「(ほんと、厄介ねぇ。相性最悪な上に、シンプルに強いときたもんだ)」

 

 目の当たりにしたホルスタインの能力に、モモは内心冷や汗を掻く。

 モモの能力は体毛を自在に操る事。この体毛は自在に伸ばせるし、擦り合わせる事で莫大な電力を生み出したりと、中々にハイスペックな代物だが……実のところ耐熱性は左程高くない。高くないといっても雷撃に匹敵する電流が流れても問題なく耐えるので、人間の兵器程度ではビクともしないが、それでも他の性能と比べれば格段に劣っているのは確かだ。

 モモと同じく特殊な能力に目覚めたこのホルスタインは、炎という熱の塊を操る。つまりピンポイントで高熱に特化した力という事。一番弱いところが相手の得意分野となれば、仮に『パワー』が互角でも勝ち目などないだろう。

 そしてそのパワーが段違いだ。

 モモは人間のような見た目をしているが、これはあくまで作り物。本当の身体は二歳のパピヨンであり、体重は四キロに満たない。伸びに伸びた体毛分を加算すればもう何倍か値を増やせるが、それでも精々二十キロ。足を形成している体毛で大地をガッチリ掴まなければ、巻き起こる暴風であっさり飛ばされてしまう軽さだ。

 対するホルスタインは、体重六百キロ前後にも達する。モモの百五十倍ものウエイトを誇る『超巨大生物』だ。基本的に体重とは細胞数の違いであり、機能に大きな違いがなければ細胞一つ当たりのエネルギー生成量は左程変わらない。つまり体重が百五十倍の生物は、百五十倍のエネルギー生成量を誇るという事。

 戦力差は百五十対一。知略やら武器でどうこう出来るようなものではない。

 それでも、モモは退く気などないが。

 

「直接触るのが無理なら、これならどう!?」

 

 モモは大きく腕を振るう。ホルスタインとモモとの距離は約五メートル。伸ばそうと思えば、体毛で出来ている腕はこの程度の距離を横断出来る。

 しかしモモの腕は伸びず。

 代わりに飛ぶのは、雷撃だ! 雷に匹敵する出力を用いれば、強力な『絶縁体』である大気に電気を通す事すら造作もない。強いて問題を挙げるなら、電流はより通しやすい方へと流れるため、任意の方角に飛ばす事がほぼ不可能であるという点か。されどこの問題は体毛を用いて『道』を作れば解決だ。体毛の先がホルスタインに触れる必要はない。十分な距離まで近付ければ、電撃はホルスタイン(最短の目標)目掛け飛んでいく。

 目論見は成功し、モモが放った雷撃はホルスタインを直撃。雷に匹敵する電撃が、雷よりも遥かに長時間流し込まれる。

 が、ホルスタインはまるでビクともしない。

 それどころか気にも留めないとばかりに突進! 音よりも速い猛牛の疾走にモモは反応出来ず、頭突きを喰らってしまう。軽い身体は何十メートルと吹っ飛ばされ、叩き付けられた瓦礫の山が衝撃で破裂した。

 これでも強靭な体毛に守られているモモにはさしたるダメージもないのだが、されど頭の中は混乱していた。

 

「(ちょっとちょっと!? 直撃したんだから呻き声ぐらい出しなさいよ! なんで効いてないの!?)」

 

 叩き付けられた山の残骸を吹き飛ばしつつ、体勢を立て直すモモ。

 しかしホルスタインは、この程度でモモが倒れるとは思っていなかったのだろう。

 先程喰らわせた突撃以上の速さで、再びモモ目掛け突っ込んできたのだから。

 

「っ! っアァッ!」

 

 間一髪でこれを躱したモモは、即座に電撃を指先から放つ。突進によりホルスタインは至近距離までやってきた。最早誘導線は必要なく、最大出力の電気がホルスタインの大きな胴体を打つ。

 

「――――ふむ」

 

 にも拘わらず間近に見えるホルスタインの顔は、嘲笑うように目を細めるだけ。

 痛みもどころか痒みすら感じていないであろう巨躯は、足を覆う炎がロケットエンジンが如く勢いで噴き出すやぐるんと横回転。強力な後ろ蹴りをモモにぶち込んでくる!

 今度はこちらが至近距離故に躱せず、モモは蹴りの直撃を受けてしまう。噴き出した炎で加速した下半身の威力は凄まじく、モモの『身体』を作る体毛がぶちぶちと生々しい音を鳴らした。

 されどモモは踏ん張り、吹き飛ばされる世を防ぐ。それどころか激突したホルスタインの下半身に抱き付き、我が身を密着させた。ホルスタインの身体は未だ超高温の炎が燃え盛っており、モモの身体にも炎が燃え移る。爆弾ぐらいでは焦げすらしない体毛が、燃えながら溶け始めた。

 長く抱き付けば、そのまま焼き尽くされてしまうだろう。モモ自身そんなつもりは毛頭ない。

 密着したのは、全力全開をも超えた一撃を放つため。

 

「ぐっ、がああああああぁァァァッ!」

 

 本性を露わにした獣の猛り声と共に、モモは全身から電撃を放つ!

 発電のため擦り合わせる体毛が過剰な摩擦により熱を帯び、溶解を始めるほどの大出力。モモは全身から黒煙を上げ、しかしその黒煙が見えなくなるほどの眩く電気工学の光が煌めく。その出力は最早雷撃を優に超え、自然界に存在しない破壊力を伴う。

 だが、これすらホルスタインには通じない。

 モモが繰り出した電撃は、あろう事かホルスタインの大量を滑るように飛んでいく。しばらく進んだ電撃はやがて弾かれるようにあらぬ方角へと飛び、雷の数倍の電流を地上に撃ち込む。十何本に枝分かれしたスパークは各々大地を切り裂き、生み出した出力が決して低くなかった事を物語る。

 これほどの攻撃すら通じぬとは、不条理というしかない。だが不条理ではあっても、決してインチキではない。抱き付いた事で、モモはホルスタインが身体に纏った秘密を知ったのだ。

 

「(コイツ、なんか透明な膜……ううん、ガスを纏ってるわね!)」

 

 ホルスタインの体表面には、なんらかの気体が存在していたのだ。それも人外の怪力を持つモモですら弾かれる、出鱈目な圧力で。

 この高密度気体が大気以上の抵抗を発揮する事で、電撃を全て跳ね返しているのだろう。恐らくホルスタインが語っていた加工したメタンとやらか。思えば超高温の炎を纏っているのにどうして生身の身体が無事なのか、弾丸よりも速い体当たりで何故自身は怪我しないのか不思議であったが、この気体が断熱材やクッションとしての役割も兼ねていたのだ。可燃性のガスで火から身を守るというのは間抜けにも思えるが、しかし酸素と混ざらなければどんなものでも燃えようがない。純度をコントロールする事で着火タイミングさえも制御しているのか。

 ホルスタイン自身は自らの能力を『高熱の炎を操る』などと語っていたが、実体は『ガスを操る』だろう。こちらを惑わすための嘘か、そっちの方がカッコいいからか――――秘密に気付いた今となってはどちらでも構わないが。

 そう、本当の問題は騙された事ではない。

 このガスを引っ剥がす手段がない事だ。

 

「(電撃は駄目、力尽くも駄目! 熱にも強いし、磁力でどうにか出来るならとっくに倒してる! どうすりゃ良いのよコイツ!?)」

 

 自分の手札を頭の中で並べてみるが、モモには名案が思い付かない。

 仮に閃いたところで、百倍もの体重(出力)差がある。ピンポイントに致命的な方法でなければ、力で捻じ伏せられてしまうだろう。

 そしてホルスタインの側は、モモに考える時間を与えるつもりもない。

 

「ふむ。わたくしの秘密も知ったようですし、遊びはここまでにしましょう――――実のところ守りに入るより、纏めて吹き飛ばす方が好きなのですよ」

 

 ホルスタインの『宣言』。モモの本能が危機を訴え、即座にホルスタインの足から離れた……が既に手遅れ。或いは無駄と言う方が的確か。

 ホルスタインの全身を纏う高密のガスを()()()()、更に高圧のガスが四方八方へレーザーの如く飛ぶ。

 モモは直撃こそ避けたが、前に後ろにガスのレーザーが撃ち込まれた。不味いと思ったがどうにも出来ない。撃ち込まれたガスはホルスタインの制御から離れるや霧散し、酸素と混ざり合う。それでもなお高温であるならば……火が付く。

 あちこちに撃ち込まれたガスが同時に発火し、激しく燃焼する。思うがまま化学反応を起こすガス達はより多くの気体分子を放出。アボガドロの法則により、質量が同じでも分子数が増えれば気圧は増大する。急激な圧力増加は衝撃波となんら変わらない。

 無数の爆発があちこちで起こり、モモとホルスタインを飲み込んだ。

 

「うぐああぁっ!?」

 

 自身が巻き込まれる事をなんの躊躇もしない攻撃は、モモに悲鳴を上げさせた。体毛が焦げ付き、千切れ、作り物の『身体』がボロボロになっていく。

 鎧である体毛の『身体』を失えば、モモはただの小型犬だ。されど体毛で出来たその身は、気合いを出そうが根性を絞り出そうが、防御力は何一つ変化しない。精々体毛同士の隙間を空けて熱の伝播を防ぎ、少しでも燃えないよう抗うのが限度。

 爆発により、ホルスタインを中心にした半径数百メートルが石ころ一つ残さないほど綺麗に吹き飛ばされた。朦々と立ち上る煙はキノコ雲を作り、巨大なクレーターが形成されている。爆発の熱による影響か大地が溶解し、燃えるように赤く光っていた。

 人間が用いる兵器でも、このような光景を作れるのはほんの一握りだけ。

 即ち先の爆発が『メガトン級』……核出力に値するものだったと、大地に刻まれた傷が物語っていた。

 

「……少々、やり過ぎましたかね?」

 

 それすらもホルスタインにとっては、本気を出した訳ではなく。

 

「ふぅー……! フゥゥゥゥー……!」

 

 そして熱に弱く、散々嬲られて弱っていたモモであっても、命を奪うには至らない。

 全身の多くが焦げ付き、焼け爛れながらも、モモはまだ生きていた。ホルスタインは「おや」と一言呟き、頭を左右に振る。

 

「やはり手を抜き過ぎましたか。近くに居るであろう人間を巻き込まないようにしたのですが、あなたが生きていては本末転倒ですね」

 

「ふんっ! 調子に乗ったわね……ここで止めを刺せなかった事、後悔させてやるわ!」

 

「調子に乗っているのはどちらなのやら。そうですね、じゃあ今度は――――先の倍の威力で試しましょう」

 

 ホルスタインの身体の炎が一層激しく燃え上がる。再びガスを放出するため、一時的にガスの生成が増大したからか。

 煽りはしたが今の一撃に耐えるのすら精いっぱいだったモモに、もうこれ以上の打撃は本当にどうにもならない。

 

「(ちゃんと逃げられたかなぁ……あまり時間稼ぎ出来なかったけど)」

 

 最早これまでと、覚悟を決めるモモ。だが諦めはしない。諦めればその時点で終わりだが、諦めなければほんの一欠片でも可能性はあるのだ。

 それはホルスタインも分かっている。だからこそ弱りきったモモに対し同じ威力の攻撃ではなく、倍の威力で葬るつもりなのだろう。念には念を入れて。

 モモにチャンスがあるとすれば、ガスが溜まりきるまでの僅かな時間。

 

「ゥヴヴ……グガァアアッ!」

 

 故にモモは傷付いた身体で迷いなく突撃し――――

 巨大な爆炎が大地を覆い尽くす方が、僅かに早かった。



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滅びの日16

 ――――時は遡り。公園の近くにある、瓦礫の山にて。

 継実は顔面を真っ青にしながら、ガタガタと全身を震わせていた。

 

「ぁ、あぁ……あんなのって……!」

 

 恐怖に引き攣った声を漏らし、へたり込むように腰が抜ける。凍えるように顎が鳴り、全身から血の気が引いた。開かれた瞳孔が無意識に震えてしまう。

 超常の力により視力が増した継実は、モモとホルスタインの戦いがよく見えていた。

 モモの強さは圧倒的だ。ムスペルを仕留めた時さえも、遊び半分だったというのがよく分かる。しかしそんなモモさえ翻弄するホルスタインの強さは、最早異次元だ。炎を纏い、電撃さえも跳ね返す。挙句力までモモを上回っている有り様。

 確かに、モモの正体はパピヨンだ。特殊能力なんて持たない、普通のパピヨンとホルスタインが本気で戦ったらどうなるか? 結果は考えるまでもないだろう。肉食動物としての牙も、俊敏性も、ホルスタインの分厚い皮と巨体故の機動力には敵わないのだから。人智の及ばない能力を持とうとも、根本的な力関係は揺らがなかったという事か。

 そうなればモモの辿る未来を予測するのは、苦もなく出来る事だ。その結末が受け入れ難いという事実を除けば。

 

「どうしよう、どうしたら……!?」

 

 このままではモモが殺される。しかしどうすれば良い? 自分が助太刀に入ったところで、モモにすら負けそうな自分に勝てるとは思えない。

 いや、それどころかこのまま此処に居たら――――

 

「君! 何時まで見ているんだ!」

 

 考え込む継実に、誰かが大声で呼び掛けてくる。

 継実が跳ねるように振り返れば、そこにはリーダー格の青年が居た。鬼気迫った表情に、継実は思わず後退る。

 

「早く逃げるんだ! 此処に居たら危ない!」

 

 ただしその動きは青年のこの言葉でピタリと止まった。

 逃げる、と言われたのか?

 ホルスタインと命懸けで戦っているモモを置いて?

 

「だ、ダメ! まだあの子が、あそこに……!」

 

「分かっている! 彼女が牛の化け物を足止めしてくれているようだ……俺達は今のうちに逃げよう!」

 

 反射的に助けを求め、されど青年はそれを分かった上で避難を促した。自分の意見を真っ向から否定されてしまい、継実はまたしても声が詰まる。

 逃げる? あの子を置いて?

 青年の言っている事の意味が分からない。だって、それを認めてしまったら……モモが死んでしまう。

 まだ謝れていないのに。傷付けて、苦しめて、悲しませて、更に命まで奪わせろと言うのか。

 

「……君と彼女の関係を、俺はよく知らない。だけどあの子は、きっと君を守ろうとしたんだ」

 

「……………」

 

「あの子が食い止めている牛の化け物がどれだけ強いのか、俺には分からない。だけど襲われた時の動きから考えて、この公園に居る人達が全員協力しても勝ち目はないだろう」

 

 青年の話を、継実は無言で聞く。瓦礫の山から戦いを見ていたのだから、継実にだってそれぐらいは分かる。ただの人間が顔面に不意打ちをお見舞いしたところで、呆気なく返り討ちだ。

 結局のところ、なんの策もない。

 闇雲にいったところで命を散らすだけ。ましてや誰かを巻き込むなんて、わがままを通り越して暴君だ。勇んでいた継実の気持ちは、現実という名の壁を前にして萎んでいく。

 挑んでも、立ち尽くしても、モモの気持ちを無駄にする。

 ならば、出来る事をしなければならないのではないか。

 それこそが、誰かの想いを引き継げる『人間』に出来る事では――――

 

「命を粗末にするな! 君が死んだら、あの子はきっと悲しむ! だから逃げるんだ!」

 

「私……私は……」

 

「おい! 何時まで此処に居るんだ!?」

 

 気持ちが揺らぐ中、また別の声が継実達に掛けられる。中年の男性で、継実と青年が居る瓦礫の山を登るだけで息切れしていた。

 彼は鬼気迫る表情をしており、継実は思わず身動ぎ。青年も表情を強張らせ、意識が一旦継実から逸れる。

 

「あ、ああ。いえ、この子が中々動かなくて」

 

「何!? あの牛の化け物が暴れているんだぞ! 早く逃げないと巻き込まれるじゃないか!」

 

 青年が状況を説明したところ、怒るような勢いで中年男性は避難を促す。最早こちらを心配しているようではなく、一刻も早く此処から離れたいという気持ちが継実にもひしひしと感じられた。

 恐らくこの中年男性は、青年やモモと共に瓦礫漁りへと向かった面子だろう。彼はホルスタインの恐ろしい力を目の当たりにし、高々数百メートルしか離れていない此処がまだ危険地帯だと理解しているのだ。逃げたがる気持ちは継実にも分かるし、それが真っ当な考えなのは理解出来る。

 

「で、でも――――」

 

 なのに継実の口は無意識に何かを言おうとして、

 しかし無意識が言葉となる直前、大爆音が場に響き渡った。

 耳が痛くなるを通り越し、何も聞こえなくなる。が、すぐに突き刺さるような痛みが走り、思わず継実は両耳を押さえて蹲った。青年も耳を押さえてしゃがみ込み、中年男性に至っては驚きからかひっくり返っている。

 続いて身体の芯を揺さぶるような、大きな揺れが継実達に襲い掛かった。更にビリビリと電撃を浴びたような、衝撃波が身体を打つ。一瞬にして襲い掛かる無数の異変に、継実の頭は混乱でぐちゃぐちゃだ。

 だけどこれは『攻撃』ではないという事も本能的に理解している。

 故に継実は振り返り、自らの背後で起きていた戦いの結果を目の当たりにした。

 

「嘘……」

 

 思わず口から漏れ出る否定。

 しかし空高く伸びるキノコ雲は、継実の想いなど無視してそびえたまま。大気の震えが地響きのように鳴り続け、身体に未だ伝わる振動がその存在を人間達に突き付ける。

 まるで核兵器が投下されたかのよう。

 いっそそうであったならどれだけ気楽だろうか。ムスペル駆除のためにありったけの軍事力を投じ、しかしそれが叶わず文明崩壊した人類に、核兵器が()()()()()訳がないのだ。あの巨大な爆発は、モモかホルスタインのどちらかが起こしたものに違いない。

 戦いから目を離していた継実には、どちらが何をしたのかなんて知りようがない。だが直感で思うのは、モモはやられた側だという事。

 

「モモ……」

 

 ぽつりと呟く友の名前。されど巨大な爆炎は、継実の心の天秤を諦めに傾ける。

 敵わない。自分なんかが助けに入ったところで絶対に。

 だからモモは一人で立ち向かい、皆に逃げるように促したのだ。青年が言うように、それがモモの『想い』。

 無駄にしないためには、逃げるしかない。継実もそう思った。

 

「あんな化け物なんてほっときゃ良いんだ! 俺達人間はさっさと安全なところに身を隠せば良い!」

 

 この言葉を聞くまでは。

 ――――ぶつんっ、という音が継実には聞こえた。

 何処から? 胸の中から。そもそも耳で聞いた音ではなく、心で呟くように頭の中で響いた音色。中年男性がどれだけ喚こうと、青年が心から心配してくれようと、モモの想いを知ろうとも、頑なだった心があっさり流される。

 この音はなんだ? 胸に手を当て、素直に感じれば答えはすぐに分かった。

 これは、自分の堪忍袋の緒が切れた音だと。

 

「……君、どうしたんだ?」

 

「もういいほっとけ! 俺達だけでも逃げるぞ!」

 

 青年が心配して声を掛けてくる。中年男性は大声で罵る。

 それらに対する継実の返答は、

 

「やっぱ、無理」

 

 この一言で十分。

 青年達の反応は待たない。そんな暇などありはしない。

 継実は今まで()()()()()()()力を解き放つ。

 全身から発せられるのは、赤く煌めく粒子の波動。溜め込んでいたものが一気に吐き出され、瓦礫のみならず二人の大人達をも吹き飛ばす。溢れ出る力の濁流が継実の体内を駆け回ったが、それに苦しさなんて感じない。むしろ滞っていた血液が再び流れたように、これこそが正しい状態なのだと理解した。

 今まで無意識に我慢していた。この力を使ったら人間ではなくなると、自分の『仲間』がいなくなると思って。危機が迫って力を使う時ですらその無意識は継実を縛り、『本当の姿』をも隠していた。人間のふりをし続けるために。

 これが本当の、溢れる力に身を委ねた継実の姿なのだ。

 

「……良し」

 

 解放直後の爽快感が薄まり、落ち着きを取り戻した継実は両手を握ったり開いたり。手足を解すようにぶらぶらと動かし、感覚を確かめる。

 赤色の波動を出し尽くしても、継実の身体はぼんやりと赤く輝いていた。力はなんの問題もなく発露し続けている。もしも今、僅かでも感情を爆発させたなら……人間など跡形もなく消し飛ぶ。直撃させる必要すらなく、ちょっとした余波や気紛れで。当然人間達から見れば、こんなのは化け物でしかない。誰からも嫌われ、疎まれ、拒絶されるだろう。

 だが、これで良い。

 継実は思う。本当に、自分はなんて愚か者なのか。

 モモが自分を逃がそうとしてくれた。だからその気持ちを無駄にしてはいけない――――誰かの『想い』を大切にする、極めて人間的な考え方だ。青年の言い分は人間として正しいものである。

 クソ食らえ、と継実の正直な気持ちは吐き捨てたが。

 相手の想いを無駄にするな? 一体何の冗談だ。()()()()()()を無下にされているではないか。命を大切に? それこそくだらない。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 自分を助けるためなんて理由で、モモに死んでほしくない。

 自分の身がどうなろうとも、モモを助けたい。

 こんな身勝手な自分が傷付けてしまったモモに、謝りたい。

 それが継実の正直な想い。人間として振る舞うために、この想いを、ありのままの自分を受け入れてくれた『友達』を助けたいという気持ちさえも捨てねばならないというのなら――――

 人間なんて()()()()()

 

「お、お前、まさかあの化け物の仲」

 

 中年男性が何かを言っていたが、聞く価値もないし答える意味もない。

 継実は飛んだ。何故ならそれが一番早くモモの下に行ける方法だから。

 例えその結果大きな爆発と揺れが起き、青年達が立つ瓦礫の山が一部崩れても構わない。加減などする余裕などなかったし、それにあの『青年』ならば大丈夫だろうという確信がある。

 

「モモ……モモっ!」

 

 大切な友達の名前を叫びながら、継実は遥か数百メートル彼方を目指して直進。人間離れした速度は大気を切り裂き、衝撃波で僅かに残った瓦礫の残渣さえも吹き飛ばす。着ていた服は空気抵抗で全て吹き飛んだが、そんなものに構ってはいられない。ひたすらに直進し――――

 二度目の大爆発が、起きるのだった。



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滅びの日17

 二度目の爆発は、一度目と比べて大きさ自体に左程変化はしなかった。

 しかしそれは威力に違いがなかった事を意味しない。ホルスタインが撃ち出したガスの塊は宣言通り先の倍。爆燃しながら撒き散らされた気体分子の数も倍だ。しかし物体の体積は縦・横・高さの掛け合わせ。つまり三乗である。体積が二倍になったとしても、個々の長さはほんの一・二五~一・三倍程度しか増えない。

 爆発の大きさは、大体それぐらい増大していた。ホルスタインは宣言通り、過剰も不足もなく爆発を起こしたのである。

 舞い上がった爆炎が少しずつ晴れていけば、ホルスタインの姿が中心にはあった。相変わらず燃え盛る炎を身に纏い、身体には傷どころか埃すら付いていない。核爆弾のような力を二度も使いながら息切れも起こしておらず、その出鱈目な力の強大さは、目にした『人間』全てを彼女に屈服させるだろう。

 そう、人間ならば間違いなく。

 

「……成程。予想外の状況ですね」

 

 故に彼女はこう呟いたのだ。

 『人間』がこの場に突入してくるなんて事は、全く想像していなかったに違いないのだから。

 人間――――継実はホルスタインと対峙する。

 その腕の中に、大切な友達を抱き締めた状態で。核爆発にも値する炎から、自分自身が盾になってモモを守るために。

 

「……なんで来てんのよ、アンタ。というかなんで裸になってんのよ、変態」

 

 腕の中のモモが問う。泣きそうに眉を顰め、怒るように目を尖らせ、だけど嬉しそうに口許を歪めていた。

 継実はその問い掛けに唇を尖らせる。

 

「私はアンタじゃなくて、有栖川継実。今度から名前で呼んで。あと、服は移動中に消し飛んだだけだから、変態じゃない」

 

 そして再開して最初の言葉は、なんとも場違いな要求。

 モモは泣き顔をキョトンとさせた後、吹き出す。ばんばんっと、割と容赦なく胸を叩いてきた。ただの人間ならバラバラの粉々になる一撃を、裸の継実は淡々と受け続けながら笑う。

 

「あっはは! 確かにそうね。うん、継実――――アンタ馬鹿でしょ?」

 

 笑っていられたのは、モモが率直な意見を言ってくるまでの事だったが。

 

「なっ!? 助けたのに馬鹿は酷くない!?」

 

「馬鹿に馬鹿って言って何が悪いのよ! 私が身を挺して時間稼ぎしたのに! おまけにあんな大爆発があったのに来るなんて、馬鹿以外に言いようがないでしょ!」

 

「助けたかったから来たの! 悪い!?」

 

「悪いわよ! ちょっとはこっちの気持ち汲みなさいよ!」

 

「私の気持ちも汲んで!」

 

「ほっ……んとに馬鹿馬鹿馬鹿ばぁか!」

 

「馬鹿って言う方が馬鹿!」

 

 ぎゃーぎゃーと勃発する言い争い。モモが頬を引っ張れば、継実はモモを放り捨てた。うぎぎと歯ぎしりしながら睨み合う二人。

 ただしホルスタインの方へと振り返る時は息ぴったり。寸分の狂いなく『化け物』と向き合った継実達は、十メートルほど先でこちらを無言のまま淡々と見つめるホルスタインの目を見た。

 

「……まぁ、とりあえずはアレをなんとかしなきゃね」

 

「うん。終わったら、またケンカの続きをしよう」

 

「いや、ケンカの続きはもう良いでしょ。妙なところで律儀よねぇ……」

 

 他愛ない話をしながらも、モモはホルスタインから意識を逸らさない。継実もホルスタインから意識は逸らしていない、というよりも逸らせないでいた。

 ホルスタインもまた、自分達を見ているのだから。

 

「――――正直、あなた方がおめおめと逃げ出すというのなら、わたくしはそれを見逃しましょう。あなた方を奴隷にするのは、少々リスクが高い」

 

「ふん。つまり私らが逃げたら、さっきの人達を奴隷にしようってんでしょ。それも二度と反抗しないよう、一人か二人ぐらい殺してから」

 

「その通りです。力の差は見せ付けましたが、それでもなお反抗を企てるのが人間というものでしょう」

 

「じゃあ、私らが逃げる訳にはいかないわよねぇ?」

 

「うん。私達じゃなくて、あなたに諦めてもらう」

 

 念のために意思確認。ホルスタインに退くつもりがない事を確かめ、継実は押さえ付けていた怒りと闘争心を露わにする。気持ちを昂ぶらせれば、身体の熱さが増し、動きも良くなるのが感じられた。モモも全身からバチバチと電撃を放ち、戦闘態勢を整える。

 身体に力が満ち溢れると、感覚器全ても鋭くなったように継実は感じた。鋭敏となった継実の神経は、電撃を纏うモモの力、そして自らの力の大きさを『具体的』に把握する。恐らく今の自分なら、滅びる前の人類文明ですら役不足。通常兵器は勿論、ABC兵器の全てが怖くない。ありのままの自分を受け入れただけでこの強さなのだから、ちょっとばかりズルい気さえするほどだ。

 無論、ホルスタインを前にしてこんな事を思うのは、驕りと言われても仕方ないだろうが。

 遠目では見ていたが、こうして意識を向き合わせると様々な情報が脳を駆け巡る。隙が一切ない、身体が痺れそうなほどのプレッシャーを感じる、守りを崩せそうにない……安全圏からの観察だけでは窺い知れなかった、詳細な情報(感覚)だ。

 

「ところで、勝ち目はあるの?」

 

 そうしたたくさんの情報を得つつ、継実は判断をモモに委ねる。

 自分の力を受け入れ、開放した継実であるが、実戦経験と呼べるものは何もない。何しろ彼女は現代日本で生まれ育った、僅か十歳の女児なのだから。気配から相手の力量を推し量るなんて出来る訳もない。

 自分とモモが力を合わせればどうなるか、継実には上手くイメージが出来ない。ならばモモのような『獣』の本能を信用する方が、何百倍も正確というものだ。

 継実のそんな考えを知ってか知らずか、モモはしばし考える。次いでニヤリと自信に満ち溢れた笑みを浮かべて、野生の獣はこう断じた。

 

「相変わらず、ないっ!」

 

 継実でも知っていた事を。

 しかし継実は同意の言葉を発しない。

 継実が何かを告げるよりも、ホルスタインの身体から赤色の『ビーム』が二本放たれる方が早かったのだから。

 

「ひゃあっ!?」

 

 ビームを見た瞬間継実は悲鳴を上げ、尻餅を撞きかけた。モモの方にもビームは飛んでいたが、彼女は首を傾げるだけでこれを回避。友達と比べなんとも不様な避け方だが致し方あるまい。戦うという覚悟はしてきたつもりだが、それでもいざ『攻撃』を目にしたら驚き、恐怖してしまう。まだまだ彼女は幼い小娘なのだから。

 それでもビームを間一髪で躱せたのだから、継実の身に宿った力は凄まじいものである。更には顔の真横を横切った赤色の煌めきを目視で捉え、その正体さえも理解した。

 これはビームなどではない。

 超高圧かつ燃え盛っているガスだ。ホルスタインの体表面より放出されたガスは、燃焼しながら高速で飛来。その軌跡がまるでビームのように見えたのである。

 無論、ビームじゃなくて炎だから安心、なんて代物ではない。

 継実の『目』は捉えていた。燃え盛るガスのエネルギーが、最早炎と呼べるか怪しいほど高まっている事を。恐らくガスがあまりにも高熱で燃えているため、周囲がプラズマ化しているのだ。あらゆる分子どころか原子さえも形を失うエネルギーであり、触れれば自分も巻き込まれるのは必定である。

 言うまでもないが、普通の人間がこの攻撃を見てもこうも詳しくは分かるまい。継実が理解出来たのは、これが継実の『能力』だからだ。

 どうやら自分には、原子や分子の動きやらなんやらが見えるらしい。言葉にすると曖昧ながら、感覚的には継実はそれをしかと実感していた。正しく人智を超える能力である。

 そしてこの力は、ただ解析するだけの能力ではない。

 

「て、てやぁー!」

 

 無我夢中で継実は腕を振るう。

 未だ十メートルは離れているホルスタイン。だが継実にとって、この程度の距離など至近距離も同然だ。

 大気中を漂う空気分子の数々。継実の芽にはその『現在』の動きのみならず、『未来』さえも見えている。

 もしも自分が手を振ったらどうなるか? あの空気分子を突いたら? ……脳裏に浮かぶのは具体的な映像や数学的回答ではなく、「なんとなく」こうなるというあやふやなもの。されどそのあやふやは継実に確信を抱かせた。

 そして確信は現実へと変わる。

 継実が振るった腕先から、白濁の『波動』が放たれた! 白い靄のようにも見えるそれは、しかし音速を超えた証であるソニックブームとは全くの別物。正体は継実の腕が薙ぎ払った大気分子が通常ならばあり得ない頻度での追突・集合を繰り返し、超高密度の質量体だ。

 これは簡単に言えばものを投げ付けているようなものだが、衝突時に生じる現象はただ殴り付けただけとは異なる。質量体はあくまで気体であり、超高速で流動しているのだ。接触すれば物体の強度など関係なく、高速の粒子が対象を()()()()

 人類が作り出したあらゆる装甲を粉砕し、核シェルターだろうが貫く一撃。もしも人類が目の当たりにしたなら、『神の力』と呼んだであろう。

 ――――生憎、この場においてはその力も『平凡』に過ぎないが。

 

「むぅ」

 

 継実の放った一撃は大地を切り裂き、ホルスタインを直撃。ごつんっ、という生々しい音と共にホルスタインは小さく唸った。

 唸っただけで終わった。

 たったそれっぽっちのダメージしか与えずに、継実が放った攻撃は呆気なく弾き飛ばされたのである。まるで硬い物にでも当たったブーメランのように宙へと舞い上がったそれは、墜落時に大爆発を起こす。継実の力は間違いなく発動していたが、ホルスタインには通じなかったのだ。

 これもまた継実の目には何が起きたか見えていた。ホルスタインの表面にある『層』が、継実の放った攻撃を防いだのである。どうやらガスの集合体……つまり継実の放った一撃と同じく気体の集まり。それだけなら条件的には五分なのだが、ホルスタインが全身に纏うガスの方が圧倒的に濃密かつ高速だったようである。単純な、そして絶対的な出力負けだ。

 加えて最悪な事に、唸る程度にはホルスタインも衝撃を受けた筈である。少しは通ったのだから諦めなければ何時か守りを破れる……等と漫画の主人公なら考えるところだが、それは敵がこちらを見くびっているから出来る話。

 ホルスタインはこちらを見くびらない。奴はケダモノであるが故に合理的なのだ。諦めなければ何時かは貫けると、()()()()()()()()()

 

「遊びはここまでにしましょう」

 

 『危険』を察知したホルスタインの闘志が増した瞬間、世界が紅色に染まった。

 ホルスタインが纏う炎を槍のように尖らせ、全身から無数の『ビーム』を撃ち始めたからだ。熱したナイフでバターを切るように、ビームは易々と大地を切り裂く。おまけにガスが途切れていないらしく、平然と何百メートルもの距離を薙ぎ払っていく始末。

 たった一本でもこの威力なのに、それをホルスタインは何十もの数を同時に走らせる。莫大な熱量を湯水のように撒き散らし、何もかも焼き尽くす。もしもこれが町中であれば、僅か数秒で一つの都市が溶解し、消滅しただろう。

 継実からしても、堪ったものじゃない。水爆にも匹敵する大爆発は割と難なく耐えた継実だが、このビームを受け止めるのは無理だと直感的に判断した。

 

「ちっ! 継実! 避けないと死ぬわよ!」

 

「わ、わか、ひゃあっ!? わ、わ、ひっ!」

 

 モモに言われるまでもなく回避に専念する、が、何度も悲鳴を上げてしまう。

 肉食獣()であるモモは動体視力に優れているらしく、ホルスタインが放つビームを躱し、ビームとビームの間を潜り、更には隙を見て電撃まで喰らわせている。余裕ではないし、何時までも続けられるとは限らないが、スムーズに回避していた。

 対する継実は、飛んできたビームで肌の表面が焦げ付き、髪の一部が焼き切られる。顔面直撃を避けた結果尻餅を撞き、追い討ちでやってきたビームを躱すため前につんのめってしまう。ハッキリ言って不格好。今は幸運が続いているが、いずれは詰む。

 

「こ、このぉ!」

 

 せめて何かを変えたくて、無茶を承知で素早く質量体飛ばしによる攻撃を試みてみるが――――ホルスタインの放つビームがこれを撃ち抜く。継実の反撃を粉砕してもビームは止まらず、攻撃のため体勢を崩し動けなかった継実の横顔を掠めた。

 焦りに満ちた攻撃は、手痛い反撃をもらうもの。ゲームなどで散々知っていた筈の事は、命の危機を持ってようやく実感に変わる。こうなると僅かな隙すら怖くて攻撃に転じられず、有効な時間を右往左往して潰すばかり。

 攻撃側であるホルスタインすらも、これには呆れたように鼻で笑った。

 

「人間の加勢、更にその人間がわたくし達と『同質』の存在というのは予想外でした。ですがそれだけですね。雑魚が一匹加わっても何も変わらない」

 

「つ、強気でいられるのも、今のうち。返り討ちにして、焼き肉にしてやる……!」

 

 ホルスタインの挑発に、継実は煽るように言い返す。が、内心は焦りと恐怖で満たされ、どうしたものかと途方に暮れていた。

 助けにきたのは良いが、まるで歯が立たない。

 正直なところもう少しダメージを与えられて、追い払うぐらい出来るのではないかと目論んでいたのだが……ダメージを与える段階で行き詰まるとは。

 兎にも角にも、シンプルに強過ぎる。おまけに知能が人間並となれば、作戦を考えたところで見抜かれるかも知れない。あらゆる面で上をいかれ、どうにも手が出せない状態だ。

 あの身を守っているガスを剥がせさえすれば、ホルスタインは生身の筈。ガスさえ剥がせば倒せるのに、ガスを剥がす方法が閃かない。

 どうにかして作戦を閃かなければ、このままではビームに焼き払われて――――

 

「(……違う)」

 

 思考さえ追い込まれる中で、継実は自らの発想を否定する。

 知恵により作り出した武器で恐ろしい敵を打ち倒す、強大な敵の弱点を突いて討ち滅ぼす。人間はそうやって自分達よりも肉体的に強い生物を倒し、繁栄してきた。これ自体は紛れもない事実だ。だからこそ人間は知恵を重視し、特別なものだと考える。知恵があるからこそ人間は支配者であり、どんな脅威も乗り越えられると。

 しかし、そんなのはただの思い上がり。

 知恵により作り出された武器が、巡らせた策が通じるのは、それらから生み出されたものが相手の身体能力を凌駕するから。圧倒的な身体能力の前では、科学も弱点も意味など持たない。一ミリにも満たない羽虫がどれだけ知恵を絞ろうとも、例え弱点を見付け出そうとも、ゾウが一踏みすれば何もかも破壊されてしまうように。

 知恵とはあくまで生き残るための力として、進化の中で会得した能力の一つ。それは決して万能ではなく、通じない相手もいるのだ。知恵により繁栄してきた人間には受け入れ難い事だが……もう人間である事を辞めた継実は一呼吸置けばなんとか飲み込める。

 此度必要なのは叡智ではない。このホルスタインが纏う強大な守りには作戦も小細工も通じないだろう。ごく小さな範囲をぶち抜くためにも、ある程度パワーがなければならないのだ。

 即ち、『超大出力』の一撃をぶちかます。これだけが継実達に出来る『作戦』だ。

 

「モモ! ちょっとの間、時間を稼いで!」

 

「稼いだらなんとか出来るの!?」

 

「なんとかする!」

 

 根拠などない。だから信じてもらうしかない。

 それを隠さず伝えれば、モモは眉を顰めた。しかしほんの一瞬だけだ。

 すぐその顔には、勝ち気で頼もしい笑みが浮かぶ。

 

「じゃあやるしかないわね! まぁ、この私に掛かれば余裕よ!」

 

 継実のお願いを快諾し、モモはホルスタイン目掛け突撃した!

 ホルスタインは突然接近してきたモモを警戒したのか、ビームによる攻撃がモモに集中。継実に飛んでくるビームが僅かながら減った。モモが作ってくれたチャンスを活かし、継実はホルスタインから距離を取る。

 三十メートルも離れれば、ひとまずは十分か――――等という考えを嘲笑うように直撃コースで一本のビームが飛んできたが、継実はこれを回避。距離さえ取ればなんとか避けられるのだ。

 あとは兎にも角にもドデカい一撃を喰らわすだけ。

 

「時間は、三十秒ぐらい……」

 

 頭の中で描いた、極めて正確な準備期間。それを一秒でも短くするためにも、継実は己が指先に意識を集中させる。

 一度は自分の命を奪いかけた恐ろしい相手に、躊躇なくもう一度挑んでくれたモモの期待に応えるために……



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滅びの日18

「しゃああぁっ!」

 

 ホルスタインに単身突っ込んだモモが最初に繰り出したのは、跳び蹴りだった。

 無論ただの跳び蹴りではない。全身の体毛で生成した電力を脚部に集中させ、音速の数倍もの速さまで加速。更に跳躍後も電気を生み出し続け、その電気は前へと突き出した脚全体に流し込む。纏った電気、即ち流れる『電子』は非常に濃密で、ミキサーの刃が如く何もかも切り刻むだろう。

 名付けるならば、超電磁スクリューキック。

 少年漫画のロボットの必殺技染みた一撃は、その印象に違わない破壊力を有す。広範囲を薙ぎ払うような力ではないが、しかし原子力発電所九百基分の効率で生み出したエネルギーが一点に集中しているのだ。単位面積当たりの破壊力は、最早水爆何発分と例える事すら()()()()()()

 そしてこの破滅的一撃を受けるのは、ホルスタインの首部分。

 モモが放った一撃を、ホルスタインはふせぐ素振りもなく受け止める。与えた衝撃の一割ほどが周辺に広がり、大気分子を加熱、或いは荷電。唐突に与えられた莫大なエネルギーにより崩壊した原子が、熱と閃光を撒き散らす。一瞬そこに太陽が現れたかのような、本来地球上では起こらない筈の現象が生じた。

 もしも地上に向けて打ち込めば、生物の大量絶滅を引き起こせるであろう『攻撃』。

 

「温い」

 

 それすらも、ホルスタインに一言ぼやかせるのが精いっぱい。彼女が纏うガスの守りは消えず、家畜として育てられた身には傷一つ付かない。

 

「(ちっ! 私の全力全開だけど、やっぱりこんなもんじゃ怯みもしないか!)」

 

 攻撃を当てたのはこれが初めてではなく、この結果は予想通りのもの。とはいえ自慢の一撃でも微動だにしてくれない相手の姿に、心の中で舌打ちしてしまう。

 だが、モモはすぐに気持ちを切り替える。

 効けば良いなという気持ちがなかった訳ではない。しかし攻撃を当てた本命の理由は、決してダメージを与える事ではないのだ。

 理由の一つは継実から指示された、時間稼ぎのため。

 そしてもう一つの理由は、大きな打撃を与えた際のガスの動きを知るためだ。

 

「(やっぱり、僅かにだけど()()()())」

 

 ホルスタインが反撃として撃ってきたビームを跳び退いて躱し、空中に居る時に放たれた追撃は、磁力化した身体を付近の鉄骨に引き寄せる事で回避。淡々と撃たれる無数のビームを、空中で舞うようにしながら避け続けた。

 回避に専念しながら、モモは自分が与えた一撃の『結果』について考える。

 ホルスタインの纏うガスは確かに強力な防壁だが、決して無敵の装甲などではない。その証として、モモが先程喰らわせた一撃でガスの層が僅かに揺らめいた事を、モモの鋭い感覚は捉えていた。継実が放った攻撃が唸らせる程度には通じたのも、大きなパワーなら守りを破れるという証拠である。

 等と言葉にすれば簡単だが、そのために必要なパワーはとんでもない水準だ。体重差で考えれば、モモなら普段の出力の約百五十倍、継実でも二十倍は必要だろう。

 

「(つまり、あれはそれだけのパワーが集まってるって事よね)」

 

 ちらりと、モモは背後に視線を向ける。

 三十メートルは離れた先に、継実の姿がある。継実は右手を前に突き出し、その右手を支えるように左手を添えていた。ビームが飛んできた時は左右に動いて回避しているものの、それ以外は可能な限り停止している。

 そして突き出した右手の先に、白色の光の塊が作られていた。

 モモにはその光がどのような原理で作られたものか分からない。が、本能的に出鱈目な力が蓄積している事は察せられた。あんなものを浴びせられたら、現時点でも自分の身体なんて跡形もなく吹き飛ぶだろう。だというのに光の威圧感はどんどん高まっており、継実が大きな力を蓄えているのだと分かる。継実の顔が少しずつ苦悶に歪んでいるのも、強大な力の制御に苦戦しているからか。

 この力を何処まで高められるかは分からない。が、この力ならばもしかするとホルスタインのガスをぶち抜けるのではないか……そんな希望を抱く事が出来た。

 故に油断などしていられない。

 モモですらそう思うのだから、攻撃を受ける側であるホルスタインが何も思わない筈がないのだから。

 

「小賢しい」

 

 ホルスタインの意識が継実へと向いた、瞬間無数のビームが継実目掛け放たれる。

 ビームの数は十以上。三十メートルも離れた状況かつ、今の継実の反応速度ならば大した脅威ではない……と言いたいところだが、力を溜め込んでいる継実に普段通りの動きなど出来ない。最小限の動きでビームを避けようとするが間に合わず。髪や手足が焼け、幼い少女の目に涙が浮かんだ。

 此処に来るまでの移動で服が消し飛んだのは、ある意味幸いかも知れない。ビームの熱で溶けた服が、火傷の跡に張り付く事がなかったのだから。しかし産まれたままの姿が、傷もくすみもない肌が、どんどん黒焦げていく事に変わりはない。

 これ以上あの柔肌を傷付けさせるものか。モモは磁力により自分を大地へと引き寄せ、隕石染みた速さで着地。ホルスタインと継実の間に割って入る。

 

「ずぁりゃっ!」

 

 続いて、地面の一部を持ち上げた。巨大な土塊は盛り上がるやホルスタインのビームを受け、僅かに直進を妨げる。

 ただしほんの僅かだ。まるで濡れた和紙のように、一瞬で貫通されてしまう。土塊は溶解してマグマへと変化し、真っ赤な飛沫となって辺りに飛び散った。

 防御としては落第点の結果。

 されど目眩ましとしては及第点だろう。

 

「っ!」

 

「きゃっ!?」

 

 モモはマグマが飛び散っている間に、継実の足下にある地面に向けて電撃を撃ち込む。これにより継実の足下の地面が磁力を帯び、周りとの反発によりふわりと浮いた。

 この浮いた地面を飛ばして、戦いの余波で捲れ上がった大岩の裏側へと移動。マグマを目眩ましに、継実をホルスタインから見えない場所に移す。これならもう少し時間を稼げるだろう。

 ……ただし本当に少しだけだ。

 隠し場所からひしひしと感じられる『ヤバい気配』。隠そうとしていないのだからバレても仕方ないのだが、大まかな位置さえ掴めればホルスタイン的には問題あるまい。一発のビームで大岩を吹き飛ばしてしまえば、それで炙り出せるのだから。

 そうはさせない。

 

「グルァアッ!」

 

 モモは雄叫びと共に、ホルスタインの顔面に跳び付く! 更には爪に強力な電気を纏わせ、眼球や鼻など、顔の中でも柔らかな場所に突き立てた。雷に匹敵する電力を用いれば、生じたアークにより金属だろうがなんだろうが切断出来る。超電磁クローとでも呼ぶべき攻撃だ。

 無論ガス防壁を纏うホルスタインに、超電磁クローだろうがなんだろうが通じるものではない。不快そうに鼻息を吐いたホルスタインは――――不意に深く息を吸い込む。

 ぞわりとした悪寒がモモの全身に走った。全力でホルスタインの顔面から跳び退き、二十メートル以上の距離を取る。

 そうした努力は、無下となる。

 開いたホルスタインの口から、まるで濁流のように激しい『炎』が吐き出されたのだから。

 吐き出された炎の色は青。超高温のそれは掠めただけの地面を気化させ、遥か遠くの土塊を溶解させた。炎は収束しておらず扇形に広がり、何百メートルもの範囲を薙ぎ払う。

 

「なっ!? ぎっ、うぐあぁああっ!?」

 

 あまりの広範囲故に回避は出来ず、モモはその場で両腕を構えて守りを固めようとする……が、炎を浴びた体毛は易々と溶け出し、殆ど効果がない。継実が来る前に喰らわされた大爆発どころか、その大爆発を濃縮したようなビームすらも凌駕する高熱だ。

 恐らくこれが、ホルスタインの『必殺技』。胃袋で生成した体力の特殊メタンガスを、口から直接吐き出しているのだろう。全身から放出しているものを明らかに上回る威力の攻撃は、相性の悪さを差し引いてもモモにとっては致命的なもの。

 こんなもの一秒と浴びていられない。ミリ秒単位でその判断を下したモモは、すぐに炎から脱しようとした。

 されどこれすら遅い。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()に比べれば、何もかもが。

 

「っ!?」

 

 逃げようとしていたモモは、その目を大きく見開く。自らが吐き出した超高温の炎の中を、炎よりも速い足で突き抜けてくるホルスタインの姿を見たが故に。

 突然の動きに、モモの身体は一瞬硬直してしまった。そのまま跳び退けばギリギリで躱せたかも知れないが、ホルスタインの進路は明らかに自分。『追加』で発生した要素に考え込んでしまった事で、ほんの僅かながら隙が生じたのだ。

 躊躇いのないホルスタインはモモに接触。小さな身体は強烈な頭突きにより突き飛ばされてしまう。尤も、体毛を組んで作り出したモモの『身体』は、衝撃には滅法強い。受けた打撃の全てを軽く受け流し、飛ばされた先でモモは軽やかに着地

 した瞬間、突進を止めていなかったホルスタインが肉薄。

 持ち上げた巨大な脚でモモの胸を打ち、そのまま押し倒した!

 

「ぐぁっ!? がっ……この……!」

 

「ようやく捕まえました」

 

 脱出しようと藻掻くモモだが、ホルスタインは力強く踏み締めてこれを妨害。脚から吹き出す火焔の勢いによるものか。モモの胸に加えられる力は凄まじく、体毛を束ねて作った身体がメキメキと音を鳴らす。また火焔による燃焼もあり、少しずつ体毛が摩耗していた。

 このままでは踏み潰される。体毛で出来た身体ではあるが、内部にはちゃんと『本体』がいるのだ。そして本体であるパピヨンはそれなりの大きさであり、胸部から腹部の範囲から移動は出来ない。胸を踏み潰されれば、そこにある本体の頭部も一緒にぺっちゃんこになるだろう。

 

「こ、の……この、このっ! このぉ!」

 

 だからといって本気の電撃を喰らわせたところで、ホルスタインが怯む訳もない。密着状態による大出力放電は既に一度お見舞いし、まるで通じなかったのだ。消耗した状態で放った二度目のそれが、どうして通じるというのか。

 ホルスタインは呆れるように、鼻を鳴らした。

 

「羽虫はすばしっこくて敵わない。ですがこれで終わりですね」

 

「ふんっ! それは、どうかしら……まだこっちには、奥の手があんのよ……!」

 

 思わせぶりな言葉を発してみるが、ホルスタインは気にも留めない。ホルスタインも継実が時間を掛けて何かやろうとしている事は気付いているのだ。こんな見え透いた時間稼ぎに引っ掛かってはくれない。

 継実はあと何秒必要なのか。五秒か、十秒か……分からないがやるしかない。それが犬の矜持というものだ。

 そして今の状況でやれる手立ては、モモが閃く中では一つのみ。

 

「これが、その奥の手!」

 

 故にモモは躊躇なく、自らの身体を解れさせた。

 手足がばらばらと解け、白い毛となってホルスタインの周りに展開される。ただでさえ燃えやすいというのに、ばらけたそれは一瞬にして発火した。しかしモモは自身の身を守るそれがどれだけ燃えようと、お構いなしに広げていく。

 そして限界まで散開させた毛を動かし、ホルスタインの顔面に巻き付けた!

 

「むっ……!? 小癪な……」

 

 ホルスタインは呻きながら仰け反る。体毛を巻き付けられたところでダメージなどないが、視界を塞がれてしまえば何も見えないのだ。振り払うように頭を振るい、頭部から吹き出る炎で焼き払うも、モモは構わず次々と体毛を顔面に巻き付ける。

 ついには我慢ならないとばかりに口から灼熱の炎を吐くホルスタインだが、その炎にも弱点がある。濃密な熱エネルギーは、それ自体が『煙幕』のように視界を遮るのだ。ついでにモモも焼こうとしてか下向きに吐いた炎は、飛び散る事で視界を塞ぐ。ホルスタインが仰け反った時、もうモモはそこから抜け出していたというのに。

 このままもう一度視界を塞いでやる。そう企んだモモは残り僅かな毛も躊躇いなく解き、ホルスタインの顔目掛け伸ばした

 

「猪口才な!」

 

 瞬間、ホルスタインが吠えた。

 そして放たれるのは、全方位に広がる熱波。

 体表面のガスを分散させただけであろうこの現象は、しかしそれでも数千度の温度はあったのだろう。半径数百メートルの大地が赤熱し、黒煙を立ち昇らせる。普段のモモならこの程度の攻撃、いくら熱に弱くとも難なく耐えただろうが……奥の手まで使い、疲弊しきった今は無理だ。

 

「ぐがっ……う……」

 

 ついにモモは膝を付く。たった数キロの重さしかない本体すらも持ち上げられないほど、身体を形成している繊維がボロボロになったのだ。最早人の姿を取るだけで精いっぱい。

 その弱りきった身体を、ホルスタインは容赦なく前脚で踏み付けた。

 

「ごがっ!? が……」

 

「手こずらせてくれましたが、これで本当に終わりです」

 

 得意な筈の物理衝撃の緩和すら満足に出来ず、本体に伝わる余波でモモは呻きを上げた。ホルスタインはそんなモモに死刑宣告を下し、モモはもう煽りすら返せない。

 ホルスタインの言う通り、本当にこれで終わりだ。

 最初に踏まれた時から稼げた時間は、二秒か三秒。最後の足掻きとしてはまぁまぁの成果に、うつ伏せに倒れたモモは不敵な笑みを浮かべ、へらへらと笑い声も漏らす。

 さぞ忌々しい声だったのだろう。余裕ぶっていたホルスタインの顔が苦々しく歪んだ。次いで高く持ち上げた脚に轟々と激しく吹き出す炎を纏い、渾身の一撃を喰らわせる気満々であると窺い知れる。

 今こんなものを喰らえば、一瞬で自分は消し飛ぶだろう。されどモモは笑みを崩さない。何故なら自分は十分に役目を果たしたのだ。

 そう、もう十分なのだ。

 

「少し、余所見し過ぎじゃない?」

 

 こちらの準備は、ついに終わったのだから。 

 ハッとしたように、ホルスタインは声がした方へと振り返る。モモも視線だけを向け、ニヤリと笑みを浮かべた。

 二匹が振り向いた方に立つのは、継実。物陰から出てきた彼女は、突き出した右手に煌々と輝く光を携えている。

 光は太陽よりも眩しいが、周りをあまり照らしていない。つまり光さえも殆ど外へと逃がさず、溜め込んでいるという事。僅かに漏れ出た光すら太陽のように眩しいのだから、その根源がどれだけのエネルギーを貯め込んでいるかは察して知るべしというやつだ。

 

「ぬぅ。これは不味い」

 

 ホルスタインも流石に危機感を覚えたのか、素早く後退しようとする――――が、その身体は動かない。

 踏み潰そうとしていたモモが、最早人の形すら取らない毛玉となり、地面に付けていた一本の脚に巻き付いていたのだから。

 ホルスタインがその気になれば、こんな拘束は簡単に振り解けるだろう。そう、簡単ではあるのだが……ほんの僅かな時間でもこの場に留まらねばならない事に変わりはない。

 その僅かな時間さえ稼げればもう十分。継実は既に準備を終え、狙いを定めているのだから。

 

「残念、羽虫なんて無視していれば良かったのに」

 

 嫌みったらしくモモが指摘すれば、ホルスタインは不機嫌そうに鼻を鳴らす。

 

「全く以てその通りですね」

 

 そして『合理的』な彼女はモモの言葉に淡々と同意する。

 継実の手から放たれた閃光がホルスタインの胴体を撃ったのは、その直後の事であった。



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滅びの日19

 自分の周りにある粒子の動きを自在に操る能力。継実の身体に宿ったこの力を使えば、大気分子さえも立派な武器となる。

 例えばある分子が飛んでいこうとする方角を変え、一定範囲内に留めるよう維持。それを他の大気分子にも行い続ければ、壁もないのにその範囲内の大気密度が増大していく。大気密度が増大するとどうなるか? 簡単に言えば分子の持つ熱が蓄積していく。

 継実の右手の先に煌々と輝く光が出来たのは、集めた分子がこの時の熱により電離化し、電磁波や光子へと変化した影響だ。波である電磁波は能力があまり効かず、光子は小さ過ぎてちょっとだけ制御下から外れてしまう。その所為で光はほんの少しだけ外に漏れ、集めた力が光り輝いて見えるのである。

 この灼熱の塊をぶつけても、それなりのダメージにはなるだろう。だが高い熱エネルギーは膨張を起こし、拡散してしまうもの。強固な防御を貫きたいのに、力が拡散した状態では不利だ。一応能力を使えば熱の密集状態も維持出来るが、自分の限界を超えた力の制御など到底不可能である。

 そもそもやり方が回りくどい。熱とは本来、分子など小さな粒子の運動量だ。ならば熱を『運動量』に変えて、溜め込んだ大気分子を撃ち出せば良い。他に必要な事は精々飛んでいく向きを整え、分子同士が接触して飛び散らないようにする事だけ。たったこれだけで、制御不可能なまでに溜め込んだエネルギーをほぼ百パーセント、目標に叩き付けられる。

 エネルギーを纏った分子は、あたかも光の濁流が如く飛んでいく。このように多数の粒子が同一方向に飛んでいく事象を『ビーム』と呼ぶ。名付けるならばこの技は『粒子ビーム』だろう。

 等と長々と原理を語れども、要するにこの技の見た目は直径数十センチにもなる極太光線。

 漫画やゲームに出てくるような攻撃を継実は指先から繰り出し――――友達(モモ)を痛め付けたホルスタインの胴体に撃ち込んだ!

 

「ぬうううううぅぅぅぅッ!?」

 

 ホルスタインが大きく唸る。その唸りは驚きや困惑ではなく、明らかなる焦り。これまで出した事もない、苦悶の雄叫びだった。

 粒子ビームを受けたホルスタインの身体は、押し寄せる粒子により大きく吹き飛ばされる。全身から炎を噴き、大地を踏み締めようとするが、その巨体が止まる事はない。

 受け止められて堪るものかと、継実は内心悪態を吐く。これは本当の全力全開だ。軽い気持ちで放てばそれだけで国の一つ二つ滅びるような攻撃を、制御出来ない強さで撃っているのだから。これが効かないなんて理不尽がある訳がないと、心の奥底に残る『人間』としての矜持が叫ぶ。

 

「いっ……けええええええええぇっ!」

 

 継実は吼え、全ての力を出し尽くす。

 

「お……おおおおオオオオオオオッ!?」

 

 ついにホルスタインの身体は浮かび――――彼方へと飛んでいく! 光の濁流はホルスタインと共に地平線の彼方で着弾し……

 巨大な、光の爆発を吹き上げた。

 撃ち込んだ大気分子が、衝突時の反動で四方八方に飛び散ったのだ。次いでやってくる地響きと閃光に、継実は思わず目を瞑ってしまう。

 閃光は数秒間続き、やがて消えていく。ゆっくりと目を開けた時にはもう粒子は全て飛び散ったようで、地平線に輝きは一切なかった。地面の揺れも、もう感じない。

 終わったのだろうか?

 それを答えてくれる者はいない。

 ――――助けようとした友達さえも。

 

「……モモ? モモ!?」

 

 慌てて辺りを見渡す継実だが、白髪の美少女の姿は何処にもない。

 まさか先の一撃に巻き込まれた? あり得ない考えではない。モモはホルスタインとの戦いで、文字通り己の身を削っていた。弱りきった身体には、ホルスタインさえも吹き飛ばす攻撃は余波であっても脅威だったに違いない。

 そんな筈ない。不安を否定する気持ちは込み上がれども、否定する証拠は何も出てこない。継実は顔を青くし、ガタガタと小さな身体を震わせながら丸くし……

 ぴとっ、と足下に伝わった感覚に驚いて背筋がピンッと伸びた。

 

「ぴゃあっ!? え、な、何が」

 

 無意識に足下を見れば、そこには一匹の『毛玉』があった。

 大きさ二十数センチほどの毛玉はもぞもぞと動き、継実の方を見る。それは蝶のようにも見える大きな耳と、つぶらな瞳を持った無邪気な犬の顔だった。白い毛が長く伸び、全身を覆っている。

 この特徴的な見た目、間違える筈もない。パピヨンだ。

 

「ちょっとー、何泣きそうになってんのよ?」

 

 そのパピヨンが、当然のように人の言葉で尋ねてくる。

 これで彼女が何者か分からぬほど、継実は『彼女』と浅い関係ではなかった。

 

「モモ! 無事だったの!? 怪我はない!?」

 

「なんとかね。いやぁ、間一髪だったわぁ。危うく巻き込まれるところだったけど、ギリッギリで逃げきれたわ。もう毛が殆ど残ってないから、しばらく人間の姿にはなれないけど」

 

「うっ。ご、ごめんなさい……」

 

「? なんで謝る訳? あのぐらい強力な一撃じゃなきゃ、あの化け物牛は倒せないわよ。それより凄かったわね。継実ったらあんなに強かったなんて」

 

 やはり巻き込み掛けていたと分かり、継実は項垂れながら謝る。尤もモモは全く気にしておらず、むしろその強さを褒めてくれた。

 自然と、継実は笑みを浮かべる。犬の姿であるモモの表情はよく分からないが、なんとなく笑っているような気がした。継実はご褒美だとばかりにモモの身体を触り、モモは尻尾をぶんぶんと振り回す。

 

「暢気なものですね。既に勝った気でいる」

 

 ただし互いに喜んでいられたのは、割り込んでくる声が聞こえてくる前まで。

 声が聞こえた瞬間、継実は背筋が凍った。けれども、心の奥底……本能ではこうなってもおかしくないと考えていた。

 相手と自分の体重差は凡そ十五倍。つまり普段の十五倍のパワーを出したところで、ようやく『五分』である。

 ホルスタインにとって、先の一撃さえ初めて『歯応え』を感じた程度だとしても、なんらおかしくない。

 事実ホルスタインは、傷一つない姿で継実達の傍まで戻ってきていた。

 

「……どうする、モモ」

 

「いや、もう流石に無理」

 

 駄目元で尋ねれば、返ってきたのは予想通りの答え。継実は大きなため息を吐いてしまう。

 ホルスタインからすれば、渾身の一撃とはいえ守りを貫きかけた相手なのだ。弱ってる今のうちに倒しておく方が良いのは明白。それが最も合理的な選択である。

 こっちは逃げる事も儘ならないぐらい疲れているのに。

 なら、少しでも戦える側が時間を稼ぎ、その間にもう一方が逃げるしかないだろう。勿論疲弊しきったモモに出来る事ではない。今度は自分が彼女を――――

 

「まぁ、良いでしょう。今回は私の負けです」

 

 そんな覚悟を決めたところで、ホルスタインがあっさりと白旗を上げた。

 あまりにも簡単に負けを認めるものだから、継実はポカンと呆けてしまう。モモもキョトンとしていて、一人と一匹は仲良く思考停止。

 

「……え? 見逃して、くれるの?」

 

 我に返った継実は、なんとも間抜けな疑問を言葉に出していた。対するホルスタインは律儀に答えてくれる。

 

「逃げに徹した場合、追い付けないと判断しました。それに先の人間達はとっくに遠くまで逃げてしまったでしょうから、これ以上あなた達と戦う意味がありません」

 

「……そ、そう、なの?」

 

「ではわたくしは帰ります。もう会う事もないでしょう」

 

 困惑する継実を他所に、言いたい事を言ったホルスタインは背を向けて歩き出す。どんどん歩いて行って、どんどん遠くなっていく。

 気付けばホルスタインの姿は見えなくなり、継実とモモは同時に顔を見合わせてしまう。

 一人と一匹は同時に吹き出し、笑いが漏れてしまった。

 

「完全に嘗められていたわねぇ」

 

「うん。実際、歯が立たなかった」

 

「まぁ、人間達は守れたし、勝ちには違いないわ」

 

「うん、勝ったんだ……」

 

 言葉で勝利を噛み締めながら、継実は後ろを振り返る。

 視線を向けたのは、『公園』があった筈の場所。

 しかしホルスタインとの激戦で、周囲一キロほどの範囲は何もかも焼き払われた状態だ。出来るだけ他の人間達を巻き込まないよう努力したつもりだが、途中からそれどころではなくなっており、正直周りを気にする事は出来ていない。あの人間達は無事逃げきれたのか、はたまた巻き込まれてしまったのか……

 いずれにせよ、もう彼等は近くに居ないだろう。

 そして追い駆けたところで、力を見せてしまった継実達が受け入れられる事もない。

 

「さて、これからどうする?」

 

 モモから尋ねられた継実は、空を仰ぎながら考え込もうとする。

 が、直後にお腹がぐぅっと音を鳴らした。

 戦いでエネルギーを使い果たした。ならば次にすべき事は決まっている……『知的』に悩んでみたところで、本能は誤魔化せないらしい。

 

「お腹空いたから、食べ物を探そう。掘り起こすのは私がやるから、モモは臭いで探して」

 

「おっけー。私に任せなさい」

 

 照れ笑いを浮かべる継実が立ち上がり、モモの前で両腕を広げる。モモは少し考えた後、ぴょんっと跳んでその胸に跳び込んだ。大切な友達を抱きかかえ、継実は焦土と化した大地を歩く。

 食べ物探しといっても、ホルスタインとの戦いでこの辺りには肉片一つ残っていないだろう。広島に原爆が落とされた際、焦土と化した土地にスギナが数日後に生えてきたらしいが、此処で繰り広げられた戦いは原爆どころか水爆以上のもの。植物のタネ一つどころか根の欠片すら残ってはいまい。戦いにより破壊された領域の外に行かねば、何もない筈だ。しばらくはただ歩くだけになるだろう。

 時間を持て余した継実は、ずっと感じていた疑問をモモにぶつけてみる事にした。

 

「……ねぇ、一つ訊いても良い?」

 

「ん? 何よ」

 

「どうして、あそこまで人間のために戦ってくれたの?」

 

 継実が尋ねると、腕の中のモモはそっぽを向いた。

 拗ねたようにも、恥ずかしがってるようにも見える仕草。継実は黙って友達の答えを待つ。

 やがてモモは、淡々と話し始めた。

 

「……私の飼い主、ムスペルが出た時の地震で建物の下敷きになって死んじゃったのよ」

 

「……そう、なんだ」

 

「それまでさ、人間とか他の犬が死んでも特になんとも思わなかったけど、あの人間が死んだ時だけは胸がきゅーってなって。あー、これが悲しいなのかなーって思ったら、急に寂しくなって」

 

「……………うん」

 

「もう寂しいのは嫌だから、人間がいなくなってほしくなくて、頑張っちゃった。それだけよ」

 

 モモはなんて事もないかのように答え、そして黙りこくる。

 初めて人間達の社会から追い出された後、継実はモモに「大っ嫌い」と言った。

 大切な家族を亡くして、孤独の恐ろしさを知っていた彼女に投げ付けてしまったあの言葉。あれがどれだけ彼女を傷付けたのか、もう想像も出来ない。両親の死すらあまり悲しめなかった自分よりも、モモの方が余程『人間的』で、だからこそ心がじくじくと痛む。

 謝りたい。償いたい。

 だけどモモは、ごめんなさいの一言で全てを許してしまうだろう。何百回罵られても仕方ない所業を、愛らしさと不遜さを隠さずに。これではあまりにも足りなくて、継実自身の気持ちが許せない。

 だから、モモが本当に求めているものをあげたい。

 ……自分もそれが欲しいという、ワガママな気持ちもあったから。

 

「ねぇ、モモ。初めて会った時、友達になるって言ったのは覚えてる?」

 

「ん? 何よ薮から棒に。そりゃ覚えてるけど」

 

「じゃあ、あの言葉、ちょっと変えても良い?」

 

「変えるって何よ。親友にでもするつもり? ま、どうしてもって言うなら構わないけどねぇ」

 

 おちょくるような、強気な言い方。なんとも予想通りの反応に、継実は思わず笑ってしまう。

 

「家族になりたいな」

 

 そしてこの言葉を伝えたら、きっとモモは何時もの強気が崩れてしまう事も、継実には分かっていた。

 

「……良いの?」

 

「良い。私もなりたいから」

 

「……うん。私も、友達より家族が欲しいわ」

 

 返ってきたのは同意の返事。

 挟まれた沈黙はほんの僅かな間。だってその短い時間で、継実もモモも笑いを我慢出来なくなってしまったのだから。何もかも終わってしまった大地の上で、何処までも楽しげに。

 

「あははっ! こんなに良い事あっていいのかしら? 途中で罰とか当たらないわよね?」

 

「当たっても構わない。その時は神様ごとビームでぶち抜く」

 

「わぁーお、過激ねぇ。でもそういう考えは好きよ……じゃあ、一つ提案ね。食べ物、どれが良い?」

 

 涙を拭うように前脚で目許を拭うモモからの問い。継実はなんの事だと思いつつ、近くに何かあるのかと考え周囲を探る。

 それだけで、全てを察した。

 感覚を研ぎ澄ませば見えてくる。小さな虫の伊吹、潜む植物達の気配、こちらを見つめる獣の視線……様々な命が存在している事が。それもホルスタインと自分達の激闘で焦土と化した、この一キロ圏内に。

 水爆を何発落とそうが、足下にも及ばない破壊が繰り広げられた大地。そんなところに植物一つ残ってる筈がない? よく考えてみればなんとも馬鹿げた発想である。

 ()()()()()()()()()()()()()()

 どうして自分が此処に立っているのに、他の生物が存在し得ないと思うのか。もう、この星の生き物にとってこんな戦いは『特別』じゃない。特別じゃないから命がいるのは当たり前。食べ物なんて、いくらでもあるのだ。

 勿論彼等はこの激戦を生き抜いた覇者ばかり。捕らえるのは中々大変だろう。しかし継実はもう一人じゃない。

 家族と一緒なら、なんとか出来る。

 

「じゃあ、一番近くの奴。なんだか分からないけど、お腹が空いて堪らないから早くなんか食べたーい!」

 

「さんせーい! なんでもどーんと来なさい!」

 

 一人と一匹の『群れ』は笑いながら大地を駆ける。

 人にとっては終末を迎えた世界も、『人外』にとってはまだ何も終わっていない。これからも世界は続き、やがて傷は癒え、新たな光景が築かれる。

 継実達はこれからも生きていくのだ。

 生命で溢れかえる事になる、この賑やかな星で――――



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第二章 新たな世界
新たな世界01


 地平線の彼方まで続く、草原がある。

 地面はでこぼこと波打っているが、斜面と言えるほどの坂もないその草原は、青々と輝いていた。青空から燦々と降り注ぐ春の朝日を浴び、生い茂る草花は丈が三十センチほどにも育っている。それだけの大きさでありながら、葉の色合いはとても若々しい。疎らに生える木々も新芽や枝を伸ばし、暖かな時期は始まったばかりなのに、もう全ての準備を終えたとばかりに動き出している。

 植物達の目覚めに呼応し、虫達も冬の眠りから起き始めていた。木々の新芽を齧るイモムシ、草の隙間で羽を休めるハエ、可憐な花の上に陣取るハチ……植物の根元でもダンゴムシやミミズが活動し、小さな生き物達の世界は活気に溢れている。そうした命を頂こうというのが、虫よりもちょっと大きな動物達。ネズミやスズメ、カエルなどもこの草原に集まっていた。

 そして更にその命を貰おうというのが――――()()()()()()()()()()だ。

 

「……なんか良いの見付かった?」

 

 草原に立つ一人の『少女』が、問う。

 少女は長く伸びた、百七十センチに迫ろうという身の丈と同じぐらいある黒髪を自らの細い指先で弄る。その身に纏うのは質素、という言葉さえもお世辞に聞こえるぐらいボロボロな毛皮。それも平坦な胸と股ぐらを隠すだけで、お腹や二の腕など身体の大半は外気に晒している。

 土で薄汚れた肌は、こうした格好が一~二日だけのものではないと物語る。とはいえ汚れは付着した土だけで、傷やくすみはまるでない。肌は不自然なほど透き通り、やや冷淡な印象ながらも端正な顔立ちと相まって芸術品のような美しさを生む。野性味溢れる荒々しい格好とのギャップから、見た者の脳裏に強く印象が残るであろう。

 そんな少女が見る先には、白髪をツインテールの形に纏め上げた乙女が居た。こちらの乙女は少女より少し背が低いものの、同じくしている毛皮の格好がよく似合っている。勝ち気でワイルドな笑みがそうさせるのか、少女よりも少しだけ逞しい身体付きの所為か、はたまた()()()()雰囲気のためか。

 乙女は平原の一点を見つめながら、ある場所を指差す。乙女達から、ざっと五十メートルほど離れた地点だ。他と特別違いがある訳でもなく、多種多様な草の若葉が茂るだけ。小さな虫は飛び交っているが、それより大きな生き物の姿は見えない。

 されど乙女には()()()()()。あの草むらの奥に潜む何かが。

 

「ええ。あそこにカエルが居るわね。しかもかなりデカい。ウシガエルかしら」

 

「……ウシガエル? え、この草原にウシガエルなんて居たの?」

 

「私も初めて見るわね。多分最近になって、何処かの川からこっちに進出してきたんじゃない?」

 

「ウシガエルって普通こんな乾いた草原じゃなくて、川辺に暮らしている生き物なんだけど……」

 

「知らないわよそんなの。昔の常識が通用しないのなんて、今更でしょ」

 

「……そうだね。今更か」

 

 乙女の言い分に、少女はこくこくと頷く。

 そんな他愛ない話が途切れた、ほんの一瞬の間に、二人の目付きは変わった。

 鋭く、獰猛。情けや容赦など期待するだけ無駄と言わんばかりの視線。『かつて』の世界であれば、血に飢えたクマやトラでもその目付き一つで怯えさせたであろう。

 二人は同時に顔を向け合わせ、息を合わせて頷く。

 

「じゃあ、後は任せたわよ」

 

「そっちこそしくじらないでね」

 

 互いに名前を呼び合うや、二人は同時に草原を駆けた!

 白髪の乙女が指し示した場所へ一直線に向かう、黒髪の少女。今にも倒れそうなほどの前傾姿勢を維持したまま、腕を構えて駆ける姿は『速い走り方』ではない。実際少女も、速さを求めてはいなかった。

 それでも、音速の十倍を軽く超えるスピードは出ていたが。

 乙女が指し示した場所までの距離は約五十メートル。秒速三千四百メートルを超える速さならば、十ミリ秒と掛からず到着だ。目的地に辿り着いた少女は素早く、朝日の中でもハッキリ見える強さで輝き始めた己が片手を草むらに突き立てようとし――――

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「……くっ!」

 

 顔面に受けた『打撃』から大きく仰け反りつつも、少女の視線は草むらに向けられたまま。

 衝撃波により、草花は左右に大きく傾いている。お陰で草むらの中に潜んでいた生き物の姿がハッキリと見えた。

 体長二十センチ近く。落ち葉のような色の肌に黒い模様が入り乱れるずんぐりとした体躯をし、逞しい四肢で地面を踏み締めている。大きな頭と目を持ち、面構えはどちらかといえば間抜け寄り。

 乙女が言っていた通り、そこにはウシガエルが潜んでいた。そして大きく開いた口は、真っ直ぐ少女の顔面を向いている。

 このウシガエルが少女に衝撃波を喰らわせてきたのだ。

 

「(『鳴き声』か……!)」

 

 恐らくは鳴き声を集束させ、攻撃に転換した技だと推測。言うのは簡単だが、その威力は非常識の一言に尽きる。音速の十倍以上の速さを出せる少女の身体は、生半可な兵器では傷を付けるどころか怯ませる事さえ叶わないのだから。

 もしも都市の真ん中、いや、住宅地近くの川沿いでこの衝撃を放てば、それだけで何万もの人が命を落とす。これほどの力を放つ身体が同等の力で消し飛ぶ筈もなく、文明が叡智を結集してもこのカエルは止められまい。

 正しく文明を滅ぼす存在。しかし少女はこの事実に驚きも怯みもしない。

 文明を滅ぼせる小動物など『今』や珍しくもないし、何より少女は、そんな生き物を飽きるほど仕留めてきたのだから。

 

「――――ふっ!」

 

 仰け反った身体を力尽くで戻し、少女はその腕を再びウシガエル目掛け伸ばした!

 先の攻撃を少し怯んだだけで耐えた少女に、二発目は通じないと判断したのか。ウシガエルは開いた口を、少女ではなく地面の方へと向けた……直後、少女の顔面に喰らわせたのと同じ衝撃波を放つ。

 文明を消し飛ばすほどの衝撃波は、しかし地面を抉ったり、粉塵を巻き上げたりはしない。この地に生えている草花にとって、その衝撃波は有り触れたもの。精々虫に齧られボロボロになった葉が舞うだけ。煙幕にもなりはしない。

 元よりカエルの狙いは目眩ましにあらず。

 真の目的は衝撃波を地面に撃ち付けた反動により、自らの身体を大空へと浮かび上がらせる事だ。

 

「(しまった……!)」

 

 伸ばした腕は空振り。音よりも速く駆ける少女はカエルの動きに反応する、が、反応出来るだけ。恐らく声を一点に集中させたのであろう。地面を攻撃した事による反動は凄まじく、ウシガエルの身体は少女の動きを易々と振りきるスピードに達す。

 どうする? ()()()? 否、それさえもウシガエルの方が速いだろう。

 万事休す。少女にこのウシガエルを追跡する術はない。

 少女一人であれば、の話だが。

 

「とおりゃあっ!」

 

 ウシガエルが向かう先の草むらから、今度は乙女が跳び出した!

 彼女は少女よりもずっと速く移動し、ウシガエルが逃げるであろう方角で待ち構えていたのだ。よもや挟み撃ちだとは気付かなかったのか、ウシガエルはその目を大きく見開く。

 だが、諦める気はないらしい。ウシガエルは再び口を開くや、今度は横向きに衝撃波を放つ。直線的な軌道は強引に捻じ曲げられ、乙女の待ち伏せを回避するコースを描いた。

 待ち伏せ作戦もこれで切り抜けられる。ウシガエルがそう思ったかは分からない。しかしどうにか難を逃れたという、僅かな油断があっただろう。

 その油断が命取り。

 何故なら乙女の白髪が、猛烈な勢いで伸びたからだ! 伸びる速さはウシガエルのスピードほどではない。されど緩やかなカーブを描くウシガエルは、横軸への移動速度は左程速くなかった。

 ウシガエルは白髪に激突し、絡まってしまう。余程慌てたのか、のろまなカエルらしからぬ素早さで体勢を整えるウシガエル。衝撃波により白髪を引き千切る算段だろう。

 如何に異種族とはいえ、そのぐらいの考えは乙女にも読める。当然、それを許すつもりは毛頭ない。

 次の瞬間、乙女の美しい白髪が雷撃を放つ!

 『体毛』同士を擦り合わせる事で生成した電気による攻撃だ。その破壊力は落雷の数倍にも達し、どんなものだろうが関係なく焼き尽くす。天災すら凌駕する一撃を三秒以上浴びたウシガエルは白目を向きながら痙攣。全身から微かに黒煙を立ち昇らせた。

 そう、微かに。

 

「(あのカエル、耐えてる……!)」

 

 少女の目は捉えていた。乙女が電撃を放つほんの数瞬前に、ウシガエルの体表からじわりと汁が滲み出たところを。

 恐らく絶縁体の性質を保つ物質だ。ただしあくまでも持ちうる『武器』の中で一番効果的だからというだけで、左程効果は高くないだろう。故にウシガエルは身体から黒煙を立ち昇らせている訳だが……どうにか致命傷は避けたらしい。流石は侵略的外来生物。しぶとさは一丁前のようだ。

 されど体重差数十倍のコンビの前では、悪足掻きに過ぎない。

 

「はぁっ!」

 

 颯爽と少女は駆け付け、未だ乙女の髪の中で痙攣しれいるウシガエルに指先を突き立てる! ここまでに二度仕掛けたものの立て続けに失敗した攻撃は、三度目にしてようやくウシガエルの脳天に直撃。

 指先といえども、正確に言うならばただの指ではない。先端には眩い光――――亜光速まで加速した素粒子が、超高密状態で保持されているのだ。粒子は鋭利な刃のような形態を持ち、触れる分子を尽く粉砕していく。

 例えどんな守りでも、物質である限り防ぐ事など叶わない『剣』はウシガエルの皮膚を貫通。脳と脊髄を瞬時に切断した。数十億ワットもの電流に数秒間耐え抜いた身体も、直接神経系を切られてしまえば流石に持たない。間もなくウシガエルの身体から力は抜け、生気を失った。汁の分泌もなくなっており、乙女が電流を止めていなければ、数ミリ秒後には黒焦げた塊へと変化していただろう。

 乙女が髪を動かして開放すれば、ウシガエルはどさりと地面に落ちる。少女はウシガエルの足を握り、片手で持ち上げた。

 ずしりと感じる重み。恐らく五百グラムはあるだろう。ウシガエルより大きな生物などこの草原にも何種かいるが、所謂『小動物』のカテゴリーとしてはこのウシガエルが最大級である。そして力尽きた身体から漂う、電流により焼けた肉の臭い。

 実に、()()()()()()

 

「今日のごはん、ゲットー♪」

 

「いぇーい♪」

 

 ウシガエルを『食べ物』として狙っていた二人は、仲良くハイタッチを交わした。

 

「これだけ大きい獲物は、久しぶり」

 

「ねぇー。危うく逃げられるところだったけど」

 

「……アレ、私が仕掛ける前に気付かれていた感じなんだけど」

 

「待ち伏せしてた私の所為だっての? そっちの走り方が喧しかったんじゃない?」

 

 互いに煽りながらも、二人は笑みを絶やさない。どちらも心の中では分かっているのだ。相手がいなければ、この狩りは成功しなかったと。

 そして自分達こそが、この草原で最強のコンビだという想いもあった。

 

「ま、どーでもいいや。それより虫とかにやられる前に早く食べよう。ね、モモ」

 

「そだね。さっさと食べちゃおっか、継実」

 

 相手の名前を呼びながら少女・継実は、共に狩りをした乙女・モモと帰路に着く。

 音よりも速く飛ぶハエ、太陽よりも遥かに強大な重力を操るハチ、地磁気さえも狂わせるほどの電磁波を放つカタツムリ……凄まじい力を宿した無数の生命がウシガエルを狙っていたが、これをやり過ごすのだって慣れたものだ。

 モモと家族になって、かれこれ七年。

 これが今の継実の、そして世界の日常なのだから――――



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新たな世界02

 七年。

 当時十歳だった継実からすればあまりに長い、だけど人間の一生からすれば『それなり』でしかなく、数十億年にもなる生物の歴史からすれば瞬きほどの年月……その僅かな時間の間に、世界は大きく変性した。

 まず、人類文明は完全に崩壊した。

 ムスペル事変の時ですら再起不能なダメージを受けていたのに、その後継実達のような『超生命体』が多数発生。人類がどんな武器で攻撃しても超生命体には傷も付かず ― 何しろ小さな虫すら平然と核攻撃に耐えるのだから ― 、気まぐれな反撃により壊滅するばかり。抗う事の出来ない人類は『餌』として、『奴隷』として、『オモチャ』として、『巻き添え』として、次々と殺されていく。更に食糧も超生物達に奪われるため得られず。ムスペルによる災禍から生き延びた幸運な人々も急速に死に絶えていった。

 変化したのは文明だけではない。生態系も激変した。超生命体はただ誕生しただけでなく、繁殖も行ったからだ。しかもその繁殖力は普通の生物よりも格段に上で、瞬く間に既存の世界を塗り替えた。具体的には、かつて都市部だった瓦礫の山を、僅か数年で大草原や森林に変えてしまうほどに。その急激な変化により普通の生物達も次々と数を減らし、その隙間を埋めるように超生命体達が繁栄した。

 今や世界は超生命体のもの。大きな獣のみならず、小さな虫やコケのような植物さえも、文明を凌駕した存在となったのである。

 そう、継実のような生き物達が。

 

「ウシガエルって結構美味しいね」

 

 そして七年間そうした世界で暮らしていた継実は、今や草原のど真ん中で半焼けカエルも躊躇わずに食べるぐらい逞しくなっていた。

 捕まえたウシガエルは、繰り広げた『激戦』の通り、継実達と同じく超生命体と化したもの。とはいえ身体的に大きな違いがある訳でもないようで、普通に食べる事が出来た。胴体部分はやや水っぽくて味気ないものの、発達した足はアミノ酸の旨味が濃く、脂質も適度に乗っている。モモの電撃により焼けた身からは香ばしい匂いが漂い、食欲をそそった。幼い頃ネットで「カエル肉は鶏肉っぽい」という記載を見た覚えがある継実だったが、こっちの方がずっとあっさり風味だと感じる。

 等々味については食べ物の水準であるが、見た目はやはりカエル。おまけに半生なので齧った跡から血まで滴る。しかしそんな事などお構いなしに、継実は立派な後ろ足に齧り付いていた。昔ならばせめて箸がなければ食べたくなかっただろうに、今や滴る血で指と顔がべとべとになっても気にも留めない。ちなみにモモもウシガエルの頭をバリバリと噛み砕きながら食べ、口周りが真っ赤に染まっているが……こちらは元々『動物()』なので、七年前とさして変わらぬ食事風景だろう。

 

「確かに美味しいわねぇ。流石は食用ガエル。アマガエルとかと比べて断然大きいから、食べ応えもあるし」

 

「うん。それにアマガエルは毒持ちだから処理が面倒。毒が『能力』みたいだから、焼いたぐらいじゃ消えないし」

 

「ほんと、あの毒は厄介よね。まぁ、ウシガエルにも寄生虫がいるけど……今更だけど、もっと念入りに焼いとく?」

 

「別に良い。数百度程度で焼いたところで、それで死ぬような寄生虫なんてもういないから。それより風味が消えるのが嫌」

 

「そう言うと思った。不味いもの食べて結局感染とか、最悪よねー。せめてよく噛んでおきましょ」

 

 なんとも原始的な寄生虫対策をしながら、朝食を楽しむ継実とモモ。ウシガエルの身体をぺろりと平らげ、骨も噛み砕いていただく。食べなかったのは、あからさまに寄生虫が蠢いていた消化器官と内臓だけだ。そうした内臓は適当に放り捨てれば、地面から跳び出したゴミムシやネズミが食べていく。

 さて、一匹のウシガエルを食べ終えた訳だが……継実にはまだまだ足りない。

 体重四キロのモモからすれば山盛りのお肉でも、体重四十二キロの継実からすれば空腹を癒やす程度でしかない。加えて人類文明を簡単に滅ぼせるほどのパワーを持つ超生命体達は、やはりそれだけエネルギーを使うからか大食らいだ。継実もただの人間だった頃の十数倍、一日凡そ三万キロカロリーを取らねばお腹が空く。

 カエル肉で賄うなら三キロ以上は食べたいところだ。しかし今し方食べていたウシガエルでも精々五百グラム超え。大きな内臓を捨てると残るのは凡そ半分だけなので、あと十五匹は捕まえねばならない。力の大きさを考えれば間違いなく『低燃費』なのだが、取らねばならない食べ物はかつての比ではなかった。

 幸いなのは、超生命体達は身に着けた能力により厳しい環境も平然と生き延び、元々の種よりも高まった繁殖力を持つため、『獲物』自体は困る事がないぐらい豊富である事。継実も、まだ超生命体の数が少なかった最初の一~二年目が大変だったぐらいで、ここ二~三年は冬でも飢えを知らない。狩りさえすれば、腹は満たせるのだ。

 

「……まだまだ足りないから、次を狙おう」

 

「そう? まぁ、継実からしたら確かに物足りないかもねぇ」

 

「うん。それに、今の私は成長期だし」

 

「十七歳は成長期なのかしら。あと、胸は全然育ってないみたいだけど?」

 

「……これから育つところだから」

 

 ニヤニヤと嘲笑うモモから胸を隠すように、両腕で身体を抱き締めながら継実は身を捩る。

 母がそれなりにスタイルが良かったからか、継実は一言でいうなら『女性的』な体型に憧れていた。髪を長く伸ばしているのも、切れないからではなく、女性らしさを出したいため。ところがどっこい一番肝心な胸が全く育たず、腰の括れもあまり出来ていない。

 背は随分と伸び、適度な運動により引き締まった身体付きは間違いなく『美しい』のだが……求めていたものとはなんか違う。

 例え世界が変わろうとも、女の子は女の子のままなのだ。綺麗な自分になるためなら努力は惜しまない。尤も、女子が綺麗になるのは生物学的に考えるなら異性へのアピールであり、異性どころか人間が一人も傍に居ない現状いくら努力しても意味がない訳だが――――

 

「継実、どしたの?」

 

「え?」

 

 ふとモモから声を掛けられ、継実はキョトンとしてしまう。どうしたと訊かれても、考え込んでいてぼぅっとしていただけのつもりである継実には、何を訊かれたのかもよく分からない。

 

「なんか寂しそうな顔してたけど」

 

 そうして黙っていると、モモは継実自身すら気付いていなかった事を指摘する。

 ――――ああ、自分は寂しがっていたのか。

 ようやく自らの気持ちに気付いた継実は、飲み込むように、こくりと頷く。自覚してみれば、胸の奥底でもやもやとした想いが渦巻いていると分かった。

 七年間。継実はモモと二人で生きてきた。

 モモとの生活が嫌だった事はない。確かに時々ケンカもしたが、いわば姉妹ゲンカみたいなもので、何日かしたら勝手に直っているような仲。お陰で毎日がそれなりに楽しいし、困難に直面しても諦めずにいられた。これからも一緒に暮らしていたいし、離れ離れになるなんて考えたくもない。

 されどモモは犬。

 継実は人間であり、人間とも暮らしたいのだ。勿論モモと一緒に居られないのなら、どんな人間でもお断りだが……衝動だけは七年経った今でも燻っている。出来る事なら、『誰か』と暮らしたい。

 尤も、最早叶うかどうかも怪しいが。

 

「……ちょっとね。私以外の人間って、誰か生き延びているのかなって」

 

「うーん、どうかしら。昔は七十億もいた訳だし、もう一人か二人継実みたく力に目覚めた人がいてもおかしくはないんじゃない? 普通の人間のままでも、砂漠とか山奥みたいなところでひっそり生き延びてるかもだし」

 

 ぽつりと想いを語れば、モモは正直な意見を述べる。

 モモの言うように、かつて人類は七十億人以上『生息』していたのだ。超生命体と化した継実は圧倒的少数派かも知れないが、しかし『唯一無二』とは限らないし、そうだと考える方が不自然だろう。また砂漠などの過酷な地は、だからこそ『野生生物』も少ない。生物こそが最大の脅威となった今の世界において、生物のいない不毛の地というのは安全地帯とも言い換えられる。

 人間好きではあるものの、動物であるモモに『思いやり』の概念はあまりない。だからこそ、少なくとも彼女は継実以外の人間の生存を心から信じているのだろう。モモは確信しているという事が、いまいち人の生存を信じきれていない継実にとって一番の励ましだ。

 何よりケダモノだからだろうか、モモの勘はよく当たる。あーだこーだと自分の頭で考えた小難しい理屈よりも、モモの『直感』の方が継実には頼り甲斐があった。

 

「いやぁ、それにしても継実ももう発情期なのかぁー」

 

 無論、その直感も時にはてんで的外れな事もあるのだが。

 

「……なんの話?」

 

「ふふふ、隠さなくても良いのよ。人間はそーいうのやたらと恥ずかしがるのは知ってるんだから」

 

「いや、だから何?」

 

「継実ももう子供産める歳だもんね。分かるわー、私も近くに雄がいないから発情期とか大変なのよ」

 

 一人勝手に共感しながら、うんうんと頷くモモ。完全な誤解である事もそうだが、継実的に『家族』のそういう話は割と聞きたくない。苦虫を噛み潰したような顔で不満を露わにしてみる継実だったが、生憎思いやりがないモモには通じなかった。

 こういう時はどうすべきか?

 簡単な話だ。無理矢理話を終わらせてしまえば良い。それに継実はまだお腹が空いている。さっさと次の獲物を探し出し、狩りに向かってしまいたい。

 

「(さぁて、ウサギとかスズメとかいないかなぁ……)」

 

 延々と続くモモの独り言(雑音)を無視しながら、継実は自身の『能力』を用いて食べ物探しを始める。

 継実の能力は『粒子を操る』事。

 その能力の応用により、継実には自分の周りにある粒子の動きが手に取るように分かる。この世のあらゆるものは分子や原子、もっと言うなら素粒子などの粒で出来ている訳だから、継実はこの世のあらゆる動きが見えると言っても過言ではない。そして粒子というのは、例え本人は止まっているつもりでも、内臓や血流などがある限り必ず『動き』があるもの。

 何処に隠れようとも、継実の『目』は全てを見通す。そう、理屈の上ではこう評しても過言ではないのだ……七年前までの理屈なら。

 全ての生き物が超生命体に置き換わった今、継実の特殊能力など『平凡』でしかない。生物達の幾つかは、彼女の目に()()()()方法を会得していた。例えば妙な電磁波を纏ったり、例えばあらゆる物質を透過したり。一番多いのは、熱や電気などで周りの粒子を攪拌し、ノイズ塗れになる事。それをやられると継実にはぼんやりとしか見えず、正確な位置を把握出来ない。相手との実力が『互角』であるなら、攻撃の的を絞れない事がどれほどのハンデかは言うまでもないだろう。

 ぶっちゃけてしまえば、獲物の居場所を突き止めるのはモモの方が遥かに得意だ。彼女は電気を操る力の応用で生体電流を捉えつつ、嗅覚で大凡の場所や相手のサイズを把握出来る。体毛を伸ばすという物理的なサーチも可能だし、何より直感に優れる。故に普段はモモに索敵を任せ、実力行使を継実が行っていた。

 今回は、無視した手前頼るのが癪という状況なのだが。

 

「(……もっと範囲を広げたら、間抜けな奴とか見付からないかな)」

 

 意識を外へ外へと向ければ、粒子の探知範囲も広がっていく。その分精度は落ちていくが、元より『間抜け』を探すための行い。精度についてはあまり気にしない。

 一キロ、二キロ、三キロと、継実の認識する世界は広がっていく。普通の人間ならば情報量の多さに脳神経が焼き切れているだろうが、継実にとってはちょっと背伸びして景色を眺めるようなもの。悠々と広げた探査範囲はついに十キロを超えた

 丁度その時の事である。継実の探知に、堂々と引っ掛かる生き物が表れたのは。尤も間抜けという訳ではないらしい。

 

「(んー……体重四十三・六キロ……イノシシかシカかな)」

 

 粒子の総数から判別した体重は、継実よりも重い。

 そしてその大きな生き物は、その後ろに居る更に大きな生き物に追われている様子だった。天敵から逃れるのに必死で、隠れている余裕などないのだろう。

 追っている生物の大きさは凄まじく、恐らくは『奴』だと継実は思う。アイツは厄介な生き物だ。変に機嫌を損ねて付き纏われても困る。

 横取りは止めておくのが無難。そうと分かっていながら、継実は肩を落とす。折角獲物を見付けたのに、それを見逃さねばならない事が悔しい。獣であるモモならばなんの未練もなく諦めるだろうに、上手く出来ない知的生命体(自分)が酷く情けなく思えた。

 それでいてチラチラ意識してしまうのが、やはり人間というもので。

 

「え?」

 

 故に継実は、見落とさずに済んだ。

 継実が見付けた生き物は()()()()()()()()()

 二本足で歩く生き物自体は珍しくもない。クマは足の構造上問題なく出来るし、シカだってやれない事はないだろう。しかし逃げる時に二本足で走る奴はいない。何故なら動物の身体は基本的に、どれも四本足で走るのに向いているのだから。

 つまり二本足で逃げる生物というのは、二本足が一番速く走れるという事。ならばそいつは普段から、ずっと二本足で歩いている生き物に違いない。だからといって鳥でもない。鳥なら普通は飛んで逃げるし、走るのが得意な種類にしては妙に鈍臭い。

 普段から二本足で歩いてあるのに、微妙に動きがすっとろい。そんな生き物、継実は――――自分自身以外に知らなかった。

 

「モモ! こっち来て!」

 

「ふぇ? え、何?」

 

 継実のように周囲を探っていなかったモモは、突然走り出した継実の行動にキョトンとなる。

 されど流石は肉食獣。走り出した継実の緊張感を察したようで、先程までのふざけた様子はもう何処にもない。颯爽と、継実の後ろに着いてきてくれた。

 本来なら、走りながらでも自分が何を見付けたのか説明すべきだろう。特に『奴』が傍に居る事は、きちんと話し合うべきだ。しかし継実達の足は音など置いてきぼりにする速度に達しており、言葉でのコミュニケーションは難しい。申し訳ないが、説明は後回しにするしかない。

 それでも追い駆けてくるモモは、迷いも不安もなく、笑みを浮かべてくれて。

 

「……っ!」

 

 だから継実は安心して、前を向いて走れる。例えどんな危険があろうとも、自分達なら乗り越えられると思えるから。

 そして自分達なら『願い』を叶えられると、確信したのだから。



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新たな世界03

 継実が察知した『気配』までの距離は、直線にして約五キロほどあった。

 ()()()、人間の走る速さは時速三十七キロ程度が限界だった。百メートルを九・七秒で駆け抜ける速さであり、しかも全力疾走なのでそう長い時間は続けられない。五キロという距離を渡りきるには、二十分かそれ以上の時間は必要であろう。

 されど継実は違う。彼女の身体は秒速三・四キロ(マッハ十)という速ささえも簡単に出せるほど、圧倒的な力に満ち溢れているのだから。

 本気で走れば、『気配』のすぐ傍まで辿り着くのに二秒と掛からない。

 

「(――――間に合った!)」

 

 その二秒という時間さえ長ったらしく感じていた継実は、ついに『気配』の正体を目にする。

 一番に目が留まったのは、黄緑色の奇妙な髪色。

 キラキラと光り輝くセミロングの髪は、走る事で生じた風により大きく靡いている。顔立ちは子供のようにあどけなく、継実よりも二~三歳ほど下に見えた。身長も、女性としてはちょっと背が高い継実より頭一つ分は小さい。

 そんな数々の幼さに反し、胸は大きくて腰も括れているなど、スタイルはどれも女性的だ。纏う服が木の葉で編んだ原始的な代物であるため露出が多いものの、見えている肌にはシミ一つなく、生まれたての赤子のように美しい。

 七年前ならばアイドルにもなれたであろう容姿をしている少女。それが継実が察知した気配の正体だった。尤も、その少女の可憐さに見惚れている暇はない。

 少女のすぐ後ろには『奴』が居る。

 体長四メートル超えの、巨大な()()()()だ。

 

「! にん、げっ!?」

 

 継実に追いついたモモも少女、そして巨大ゴミムシの存在に気付く。「げっ」という言葉の矛先は、勿論巨大ゴミムシに対してだ。

 巨大ゴミムシの外観について、特筆すべきところはない。やや細長いフォルムの身体と黒光りする硬質の羽根を持ち、左右に広がった六本の脚で大地を疾走。頭には発達した複眼と触角、そして鋭くて大きな顎が備わっている……大きさ以外は全て普通のゴミムシと大差ない。変わらないからこそ、この途方もない巨大な身体が如何に異質か分かるというもの。

 このゴミムシもまた『超生命体』。ただし七年前に一斉発生した個体群ではなく、そこから繁殖した数代目の個体だ。

 超生命体達は、進化のやり方さえも普通の生物とは異なるらしい。繁殖により生まれた個体達の中には、まるで「こうなりたかった」と意思を持つかのように、新たな姿を獲得するものがいたのである。核兵器にも易々と耐える身体能力なのだから、スペック的には四メートルと言わず数百メートルもの巨躯に至っても不思議はない。されど肉体の成長というのは、可能だから出来るというものではない。長い年月を掛けた進化により、暮らす上で最適なサイズで収まるよう遺伝子に刻まれている筈。これを無視する事が異常でなければなんなのか。

 されど超常の生物達にとって、人間の『常識』など一瞥にすら値しない。それが適応的なら生き残る……彼等を縛り付けるルールはこれだけ。このゴミムシも巨大化が適応的だったからこそ、子孫もどんどん巨大化し、今やこの草原生態系の頂点に君臨したのだ。

 無論そんな事は草原で暮らす継実達には周知の事実。問題は、あの巨大ゴミムシの進化的意義などではない。

 巨大ゴミムシに追われている少女を、助けるか否かだ。

 

「(助けなかったら、間違いなくあの子は食べられる……!)」

 

 巨大化してもゴミムシとしての基本的な食性……肉食傾向が強い事は変わっていない。自分より小さくて食べ応えのある生き物ならなんでも襲う。特にシカやイノシシなどの、体重三十~六十キロほどの動物が好みらしい。つまり、丁度あの少女ぐらいの。

 あの少女も『超生命体』らしく凄まじい速さで逃げているが、巨大ゴミムシの走力は確実にそれを上回っている。このままでは間違いなく捕まり、奴の朝飯と化すだろう。

 しかし、では助けようと簡単に言えるものではない。

 七年間この地で生きていた継実は知っているのだ。アイツは『ヤバい』と。

 残忍という訳ではない。厳しい自然界で、無意味に相手を嬲る暇も余裕もありはしないのだから。むしろエネルギーの消費を抑えるためか、腹さえ空いていなければ大人しいもので、イノシシなど大きな獲物を食べている時はかなり近付いても安全である。

 ただ、どうにも執念深い。

 身体を維持するために大量の食物が必要なのだろう。一度見付けた獲物は延々と追い駆け回し、そう簡単には諦めない。ましてや獲物を横取りしようものなら、生涯敵意を向けてくる。奴等は昆虫だがそれなりには賢いのだ。犬であるモモが人間並の知能を持つように。

 そして身体の大きさからも分かるように、巨大ゴミムシの戦闘力は圧倒的だ。継実の身には人類文明をも滅ぼせる力が宿っているが、そんなものは今や『普通』でしかない。相性抜きで考えればデカい奴が勝つし、難なら相性の悪さを体格で押し潰す事も可能だ。継実では絶対に、あのゴミムシには勝てない。

 あの少女を助けるのはあまりにも危険過ぎる。合理的に考えるなら、見捨てるのが得策だ。命あっての物種と言うではないか――――脳裏を過ぎる数々の『警告』。

 されど継実は一瞬の間を置いてから、それらを切り伏せた。

 なんて事はない。そんな理屈で納得出来るなら、最初からこんなところに来ちゃいない!

 

「モモ!」

 

「分かってる!」

 

 相棒の名を呼べば、彼女は言うが早いか駆け出した。巨大ゴミムシには怯みこそしたが、人間を助ける事に迷いはないのだろう。

 一瞬だけでも決断を迷った自分が恥ずかしい。自分の考え方が嫌になる継実だったが、同時に感じるのは、モモの後押しによる安心感。自分のやりたい事をやっても良いのだと自信を取り戻した継実は、モモの後を追うように走り出した。

 さて、行動は決めた。

 しかし考えなしに突撃する訳にもいかない。巨大ゴミムシとの体格差からして、例え奇襲であろうとも返り討ちに遭うだけなのは目に見えている。走って逃げようにも、向こうの方が速いのだから振りきれないだろう。真っ向勝負では命がいくらあっても足りない。

 ならばどうすべきか?

 継実が思い描く策は一つのみ。ちらりとモモの方へ視線を向ければ、彼女は無言で頷いた。

 七年の付き合いから、モモの気持ちを読み取る事など雑作もない。あれは「任せろ」という意図だ。継実もまた頷く。「任せた」という気持ちを乗せて。

 

「ふんっ!」

 

 継実の『合図』を受け、足を止めたモモは片腕を前へと突き出す。

 直後、モモは全身から放電。

 突き出した手より放たれた、無数の電撃が大地を駆けていく! 継実の目には電子の動きも見えており、一本一本の出力が雷の数倍に匹敵するものだと分かった。それを同時に何十と放つのは、モモにとっても決して小さな負担ではない。

 だが、電撃がゴミムシに命中する事はなかった。当てたところでろくなダメージは入らないだろうし、何より万が一にも怒らせたなら後が怖い。しかし、ではこれがハッタリや脅しかと言えば、それもまた否。

 モモが放った電撃はやがて一点――――巨大ゴミムシの眼前に集結。更に電撃により生じた磁力が周辺の微量な金属元素、それを含む土を引き寄せていく。雷など比にならない大出力電力を浴び続け、集まった土の原子が一部崩壊。崩壊した原子は中性子や陽子の形となって飛び散り、なんとか電撃を耐えた別の原子核にぶつかり、吹き飛ばす。

 止まらない連鎖反応。それは引き起こしている元素こそ大気中や土中に有り触れているものだが、所謂()()()である。しかも一切制御されず、指数関数的に反応が増大していくタイプの。

 つまり、この現象は核爆発。

 強烈な閃光・爆音・熱波が、巨大ゴミムシの眼前で引き起こされた!

 

「あぐッ!?」

 

 見知らぬ少女からすれば背後で突然起きた核爆発。衝撃波に背中を突き飛ばされる格好となり、つんのめるように前のめりとなった。

 本来、核爆発をたった数メートルの『至近距離』で受ければ人間など即死だ。熱波や衝撃波のみならず、中性子線なども致死量が浴びせられるのだから。されどこの程度の攻撃を易々と繰り出す超生命体にとって、核爆発程度の事象などダメージにはなり得ない。人間は勿論、巨大ゴミムシにとってもだ。

 つまるところこの攻撃の本質は撒き散らされる光と、熱により生じた白煙。

 相手の視界を塞ぐ目眩ましである。

 

「っ!」

 

 そしてモモが何をするか()()()()()継実は、この好機を逃さない!

 光と白煙が巨大ゴミムシの視界を塞いだ直後を狙い、継実は少女の下へと疾走。核分裂による閃光は百ミリ秒と続かないが、これだけの時間があれば継実には十分だ。

 閃光による目潰しはあれども、継実の目には粒子の動きが見えている。正確に少女の位置を把握して肉薄し、その小さな身体を抱きかかえる!

 

「ひぅ!? ぇあ、あっ」

 

 突然現れた『人間』に抱えられて、パニックに陥ったのか。ジタバタと少女は暴れ、目には涙も浮かんでいた。

 継実にも気持ちは分かる。いきなり誰かも分からぬ輩がやってきて、しかも捕まえてきたのだ。怖くて堪らない筈である。むしろ自分ならもっと必死に、がむしゃらに抵抗しただろう。怖い想いをさせてしまった事は大変申し訳ないとは思う、が、のんびり説明している暇はない。

 矮小な人間さえも蹴躓かせる程度の一撃では、あの化け物は怯みもしないのだ。

 

「(!? ヤバっ……)」

 

 ぞわりと過ぎる悪寒。反射的に身を伏せると、白煙の中から巨大な『腕』が跳び出してくる。

 巨大ゴミムシの前脚だ。核をもはね除ける超生命体の身体であろうとも、易々と切り裂く爪が継実の頭上を通り過ぎる。危うく頭を粉砕されるところだっただけに、流石の継実もじわりと恐怖を感じた。こんなところにいたら殺される! 理性が喧しく警告し、早く逃げろと訴えてくる。

 しかし七年の野生生活により培われた本能が、継実の理性を押さえ付けた。白煙は未だ残り、閃光も弱まり始めたがまだまだ視界を潰している状態。恐らく苦し紛れの一撃だ。こちらの居場所がバレている可能性はまだ低い。

 大体、走って逃げたところでどうにもならない。

 恐らくもう十ミリ秒も経てば、巨大ゴミムシは白煙も熱波も容赦なく吹き飛ばす。そうなればこちらの姿は丸見えだ。あとは仲良く食べられるか、少女を囮にして逃げるしかなくなる。真っ向勝負も追い駆けっこも、勝てる見込みがないのは最初から分かっている事。

 だから自分と少女が助かるためには、あの『技』を繰り出すしかない。継実は駆け出す前から決意していた。

 

「(落ち着け、落ち着け……!)」

 

 逸る心をどうにか押し留め、継実が思い描くのは『演算』。

 演算対象は、地平線の先である六キロ先の地点、及びそこまでに至る『道中』に存在する粒子全て。無尽蔵に存在する粒子の動きを脳内でシミュレートしていき、未来の軌跡を全て把握する。

 さしもの超人的演算力も、六キロもの範囲となればそれなりに辛かった。時間を掛ければどうという事もないが、悠長に考えていたら折角の目眩ましが消え、巨大ゴミムシはこちらを見付けるだろう。そうなれば時間切れ。みんな仲良くゴミムシのお腹の中だ。

 冷静に、だけど急いで。継実は頭が痛くなるほどの強さで考えを巡らせ――――

 

「(見えた!)」

 

 ついに一つの『道筋』を見付ける。

 一定時間、全ての粒子の干渉を受けない、ごく狭い領域だ。幅は場所によって異なるが、平均すれば二酸化炭素分子が数個通れる程度。だが、これだけ広ければ十分である。

 道を見付けた継実は、自分と少女の身体を形成する、素粒子の位置と運動量を全て記憶。その数は膨大なものになるが、これまでの計算に比べれば遥かに少量だ。難なく覚える。

 そして継実は、自分と少女の身体を形成している粒子を()()()

 全身が素粒子レベルで分解されていく様は、まるで手の込んだ自殺。事実魂なんてものがあるなら、確かにその通りだが……魂がないならなんの問題もない。

 遥か六キロ彼方に、継実達は再び姿を現すのだから。

 原理は簡単。一度バラバラにした素粒子を、六キロ離れた場所で再構築するだけ。完全に元の姿を再現出来るのだから、それは本人と何も変わらない。心も脳のシナプスの繋がりが生むのだから、完全に模倣した脳は間違いなく本人と同じ考え方をする。そしてこの時分解した粒子を亜光速まで加速して動かしたなら、亜光速で別の場所に『瞬間移動』したのと変わらない。

 さながらそれはSF小説に出てくるテレポート装置と同じ原理――――名付けるならば『粒子テレポート』という技だ。無論これは七年前の、全盛期の人類では例え総力を結集しても指先一つ分すら再現出来なかった技術。或いは星々を行き来する宇宙人のテクノロジーでも不可能かも知れない。

 しかし今の継実になら出来る。

 だから継実は躊躇わずに自らの技を用い、己と少女の身体をバラバラに砕く。身体の素粒子が亜光速で飛び、描いたルートを通って彼方へと去る。

 

「ギシャアッ!」

 

 故に巨大ゴミムシが核爆発の残渣を一鳴きで吹き飛ばした時、そこに継実達の姿はなかった。

 今までそこに居た筈の獲物が目の前から消えてしまった事に一瞬呆けたのか、巨大ゴミムシの動きが止まる。尤も、あくまで一瞬だ。一ミリ秒にも満たない刹那の時間で、ゴミムシは我を取り戻す。次いで周囲を素早く見渡し、獲物を取り逃した事にようやく気付いたのだろう。表情筋などない甲殻質の顔が、みるみると怒りの覇気を纏った。

 

「ギィイイアアアアアアッ!」

 

 上げたのは平原中に響き渡るような、おぞましい雄叫び。

 聞いた者の背筋を凍らせるその叫びこそが、継実達が無事に逃げ果せた事を物語るのであった。



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新たな世界04

「ぶはぁ! はぁ、はぁ……はぁ……!」

 

「はっ、あ……ぁ……」

 

 青々と茂る草むらの上で継実が膝を付き、少女もその場に倒れ伏す。どちらも息も絶え絶えで、消耗が激しい。

 遥か彼方から巨大ゴミムシの雄叫びが聞こえると、今まで追われていた少女は飛び起きて慄いたものの、直線距離で六キロ離れた事を知っている継実は膝を付いたまま。長年草原で暮らしていたので、聞こえてきたゴミムシの叫び声の意味を理解して笑みまで浮かべる。

 しかしその笑みはすぐに強張り、激しく呼吸を繰り返す。疲弊した身体を一ミリ秒でも早く回復させるために。

 目的地までの全粒子の運動・位置を観測、全身を形成する粒子の状態を完全に記憶、亜光速化した粒子の軌道を予測、目標地点で肉体を再構築するための仕込み……粒子テレポートを行うためには様々な『準備』が必要であり、身心にかなり負荷が掛かる。使うのには時間だけでなく、体力や気力も必要なのだ。

 どうにかゴミムシからは逃げられたが、今の継実は満身創痍。そして草原に潜む捕食者は巨大ゴミムシだけではない。大蛇、キツネ、ワシ……いずれも万全なら左程問題ない、むしろ獲物として狙う相手だが、今襲われるとかなり危険だろう。最低限、自衛出来る程度には戦う力を回復させねば命が危ない。それに捕食者というのは弱った獲物を襲うものであり、疲れた姿というのはそれだけで敵の攻撃を誘発する。虚勢でもなんでも良いから、元気さをアピールしなければならないのだ。

 何より連れてきたのは少女だけで、モモは向こうに一人残されている。彼女の事だからあの巨大ゴミムシ相手でもすぐにやられはしないだろうが、それでも早く助けに戻らねば――――

 

「おっつかれー」

 

 そんな心配も、モモがこの場にやってきた事で必要なくなったが。

 

「……おかえり。大丈夫だった?」

 

「ええ。アンタ達が注意を惹き付けてくれていたから、私なんて見向きもされなかったもの。隙を突いてこっそり逃げ出せたわ」

 

「そりゃ何より。私は……疲れた」

 

「でしょうね。ま、その疲れに見合うものは手に入ったんじゃない?」

 

 モモはそう言いながら、継実に向けていた視線を別の場所に移す。モモが何を見ているかは分かっているが、継実もその視線を追う。

 そこには、自らの身体を抱き締めるような格好で縮こまる少女が居た。

 目が合った瞬間、少女は顔を引き攣らせながら後退り。身体を小刻みに震わせ、明らかに恐怖に慄いている。命の恩人に向かって、と言うのは簡単だが、しかし少女と継実達は初対面の間柄。おまけにいきなり自分の身体を粒子レベルでバラバラにされたのだから、ビビるなという方が無理だろう。

 勿論、じゃあお好きに逃げても構いません、なんて事はない。

 折角出会えた人間の生き残りなのだ。たくさん話がしたい。どんな名前か教えてほしいし、どんな生き方をしてきたのか知りたいし……自分がどんな名前か話したいし、自分がどんな生き方をしていたのか聞いてほしい。

 危機を切り抜けてから、そんな衝動がどんどん強まっている。やはり人間は社会性動物なのだと、本能的に自覚した継実は緩んだ笑みを浮かべた。

 継実の笑みで敵意がないと分かってくれたのか。ほんの少し、少女の顔から恐怖心が薄れたように見える。まだまだ警戒はされているが、話し掛けた途端に逃げ出すという事にはなるまい。

 

「えっと……こ、こんにちは」

 

 そう信じて、継実は少女に声を掛けた。

 軽い挨拶だったが、少女はびくりと身体を震わせる。あれ? もしかしてなんか間違えた? ……七年ぶりに再会した人間の反応に、継実もびくりと震えてしまう。

 胸に手を当て、継実は深呼吸。逸る気持ちを静め、もう一度話を振る。

 

「え、えっと、私は有栖川継実って言うの。あなた?」

 

「……………」

 

「あ、言いたくないなら、言わなくて良いよ。初めてで、信用出来ないよね。大丈夫、問い詰めたい訳じゃないから」

 

「……………」

 

「……………えっと……」

 

 頑張って話そうとしたが、少女からの返答がなく、躓いてしまった。

 しかしながらどうにもこの少女、質問を無視しているという様子でもない。しきりにこちらの顔色を窺い、口許をもごもごと動かしている。何かを答えようとはしていて、だけど答えられないような雰囲気。

 その時、ふと継実の脳裏に一つの可能性が過ぎる。

 この可能性が正しければ、お話ししてくれない事も納得がいく。彼女の容姿から考えても、あり得ない話ではないだろう。

 アプローチを変えるしかない。そう考えた継実が起こした行動は、

 

「は、はーわーゆー」

 

 英語で話し掛ける事だった。

 

「え。いきなり何変な声出してんの?」

 

 なお、大切な家族曰く英語にすら聞こえなかったようだが。

 モモに悪気がないのは分かっているが、自分なりに頑張った結果だけに、継実はぷくりと頬を膨らませる。

 

「変な声って言うな。英語で話し掛けたの」

 

「ああ、今の英語だったんだ……まぁ、確かに日本人っぽくはないかもね。でも、いきなり英語で話し掛けるよりも前に、尋ねるべき事があると思うんだけど」

 

 モモはそう言うと、ずかずかと少女の目の前に歩み寄る。見知らぬ人物にいきなり歩み寄られて少女は身動ぎしたが、モモの素早さはそれを上回る。

 立ち上がる暇すら与えず、手を伸ばせば捕まえられるところまで少女に接近したモモは、その場でしゃがみ込んだ。目と目が合い、少女は息を飲む。対するモモはにっこりと、実に犬らしいフレンドリーさ全開の笑みを浮かべる。無邪気な笑みに少女はキョトンとし、その間にモモは早速話し掛けた。

 

「ごめんね、まずは質問させて。あなた、日本語は分かるかしら?」

 

「……………」

 

 モモが尋ねると、少女は少し間を空けた後、こくんと頷いた。

 

「Hello. Are you and English understood?」

 

「……………?」

 

 次いでモモが英語で話し掛けると、少女は首を傾げてしまう。

 

「ふむ。日本語は分かるけど、英語は分からないと。親の人種は兎も角、生まれと育ちが日本なのは間違いないんじゃない? 喋れないのは、なんでかしらね?」

 

 その二つの質問から得た考えを、モモは継実に語る。

 当の継実は、目を丸くして呆けていた。

 

「……何よ、その間抜け面」

 

「え。いや、だって……なんで、英語喋れるの?」

 

「知らない。この能力に目覚めた時には使えるようになってたわ。まぁ、飼い主がよく洋画を字幕版で見ていたから、その所為じゃない?」

 

「いやいやいやいや」

 

 何かがおかしいでしょそれ、とツッコミたくなる継実。されどモモは何故継実がそこまで動じているのかと言いたげだ。

 確かに、今更と言えば今更である。犬であるモモがべらべらと日本語を話しているし、継実も義務教育すら終えていないのに原子や量子力学を把握しているのだから。どうにも超生命体達は、個体差ないし種族差はあるものの、能力に目覚めるのと同時に高度な専門知識を宿すものらしい。

 モモはその結果英語などの語学が、人間である継実よりも優れていたのだろう。理屈は納得出来る、が、人間として妙に悔しい。シジュウカラやイルカなど言葉を操る動物はいくらでもいるが、人間はその多さと複雑さが群を抜いていた筈なのに。

 そして何より苛立つのは。

 

「なんで今まで言わなかったの?」

 

 そんな大事な話を『家族』である自分が今まで知らなくて、挙句初対面の人が最初に知ったという事実。

 継実だって分かっている。この苛立ちが如何に理不尽で不合理なのかは。されど元より論理的帰結の苛立ちでなく、嫉妬心という無茶苦茶な感情によるもの。端から論理など破綻している。

 

「え? そりゃ、使う機会なかったし」

 

 感情的な継実にとって、モモの一分の隙もない論理的返答は、むしろ神経を逆撫でするものだった。

 

「~~~っ! バカっ!」

 

「えぇー……なんでいきなり怒ってんのよ」

 

「バカバカバカっ!」

 

 拗ねてしまった継実にモモは戸惑うが、継実は止まらない。継実(人間)モモ()と違って、とても嫉妬深いのだ。

 

「……ぷく、くくく」

 

 そんなやり取りを見ていた少女が、噴き出すように笑い出す。

 『第三者』の存在を今更思い出した継実は、顔を真っ赤にしながら後退り。モモは呆れたのか眉を顰めつつ、あやすように継実の頭を撫でた。なんとなく継実が何を怒っていたのか察したのだろう。それがますます恥ずかしい。

 俯き、黙った継実に代わり、モモがそのまま少女と話をする。

 

「ま、ちょーっとヤキモチ焼きだけどこっちも良い子よ。よろしくね」

 

「……」

 

「さっきから無言だけど、上手く喋れない感じ?」

 

「ぁ……あぅ……あ、か……」

 

 モモが尋ねると、少女は実演するように声を出した。お世辞にも言葉とは言えない、『鳴き声』染みたそれが全てを物語る。

 もしかするとこの少女は、継実と違って七年間独りぼっちだったのかも知れない。

 継実にはモモという話し相手がいたが、少女の周りには誰もいなかったとすれば、自ずと話す機会はなくなる。最初は独り言を繰り返すなどしていても、やがてそれすらしなくなるだろう。そうなるともう、狩りのために声を上げるぐらいしか声帯を使わなくなり、段々と声の出し方を忘れて……なんて事もあるかも知れない。

 少女が自身の話をしていない以上、これはあくまでも推測だ。しかし突拍子のない考えでもないだろうと継実は思う。

 

「……今まで、寂しかった?」

 

 だから、継実は思わずその言葉が出てしまった。

 ハッと我に返り慌てて口を両手で塞ぐも、出てしまった言葉は戻らない。

 少女は最初、言われた事の意味がよく分かっていないのか、ニコニコと笑うだけだった。けれども段々と笑みが引き攣り、目許が潤み……ぽろりと涙が零れる。

 少女は慌てて涙を拭う。だけど涙はまたすぐに出てきて、何度も何度も拭ったが、すぐにまた零れる。むしろ溢れ出る量が増え、頬に跡を作り出した。

 少女の涙を見て、継実は自分の考えが正しかったと思う。だから彼女は、泣いている少女の身体に抱き付く。かつて自分がモモと出会った時、なんの迷いもなくモモに抱き締めてもらえた事が、とても嬉しかったから。

 継実が抱き付くと少女は一瞬泣き止み、だけどまたすぐに泣き始めた。両手を背中に回し、毛皮で作った服をぎゅうっと握り締める。とても強い力で、比喩でなく痛いぐらい。七年前に栄えていた普通の人間なら、間違いなくくしゃっと潰れているであろう。

 その力強さがこれまで味わってきた孤独の強さを物語り、継実はその愛おしさから自然と笑みが浮かんだ。笑いながら少女の背中を撫でると、少女はもっと強く継実を抱き寄せる。そんな二人のやり取りを羨ましく思ったのか、モモが「私も混ぜてよー」と暢気に言いながら抱き付いてきた。継実と少女を纏めて抱きかかえる、欲張りセットだ。

 ついに少女はわんわんと泣いて、涙も声も盛大に撒き散らす。

 継実とモモはその泣き声を静かに聞き入れながら、ただただ少女のしたいように身を任せた。



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新たな世界05

 散々泣いた事で顔を真っ赤にした少女が、草原の上でぽつんと正座している。

 恥ずかしがっているのか俯き気味な顔。それがまたなんとも愛らしくて、また抱き付きたくなる。が、継実はそれを我慢した。なんだかやってしまうと、先の行動を繰り返してしまうような気がしたので。

 別段繰り返してしまう事が恥ずかしいとか、時間の無駄とか、そんな考えは一切ないのだが……

 

「落ち着いたなら、とりあえず此処を離れましょ。なんか色々こっちに近付いてきてるから」

 

 モモが言うように、『危険』が迫っているとなれば話は別だ。

 自然界は厳しい。もしも泣き叫ぶ生き物がいたなら、捕食者はそれを見逃さない。泣くという事は、大きな怪我をしているかも知れないし、或いは仲間が死んで精神的に弱っているかも知れない……喰う側から見れば、捕まえやすい獲物という訳だ。人間的観点から見ればなんとも悪逆非道な考えだが、獲れる獲物は逃さず獲るのが『適応的』というもの。大体傷付いた仲間の下へ集まるという性質を利用し、心優しいステラーカイギュウを欲望のまま根絶やしにした人間があーだこーだと言える立場ではないだろう。

 崇高な文明人ならそんな人間の業を受け入れて食べられるのも一興かも知れないが、生憎継実はそこまで殊勝でもない。捕食者に食べられるのは勘弁だ。

 

「うん、そうしよう。あなた、立てる?」

 

「……」

 

 継実が尋ねると、少女はこくこくと頷きながら立ち上がった。その際少し蹌踉めいたが、怪我をしているという風でもない。巨大ゴミムシに追われていた時の疲れが、まだ残っているのかも知れない。

 なら、走って逃げるというのは止めておくべきかと継実は思う。あまり無理をさせたくないというのもあるが、疲れきった状態にさせるのが嫌だった。巨大ゴミムシから逃げ果せた継実がまずは体力回復を優先したように、疲れた姿というのはそれだけで敵の襲撃を誘発する。余計な襲撃を防ぐためにも、無理はさせられない。

 

「とりあえず、あっちから行こう。あそこが一番動物の密度が低いと思う」

 

「私も同じ意見ね。悠長にしている暇もないし、行きましょ」

 

「……!」

 

 継実はモモと意見を確認し合い、少女も話を理解したと言いたいのか何度も頷く。反対者が誰もいなかったので、三人は西へと向けて歩き出す。

 歩く中で、少女はきょろきょろと辺りを見回していた。散々泣いて、少し気持ちが落ち着いて『現実』が見えるようになったのか。また巨大ゴミムシのような生き物に襲われないか、警戒している様子だ。モモや継実達の話を聞いて、また襲われるかも知れないと不安になったのかも知れない。

 怖い気持ちは継実にも分かる。だからここは一つ、安心出来る事も教えてあげようと継実は思った。

 

「大丈夫。一旦安全な場所に行くから」

 

「……ぁ、ん……?」

 

 小首を傾げる少女。訝しむような瞳は、この世界の何処にそんな場所があるのかと言いたげだ。

 そんな少女に継実は胸を張りながら、堂々と答える。

 

「私達の家だよ」

 

 初めての『客人』を家に招く事が出来た喜びで、隠しきれない笑みを浮かべながら――――

 ……………

 ………

 …

 草原の中で、一際大きな木が生えている。

 高さ五十メートル超えのクスノキだ。クスノキはかなり大きくなる樹木であるが、ここまで巨大なものは、少なくとも七年前にはあり得なかっただろう。しかし超生命体が跋扈する今の地球において、この程度の高さの樹木はさして珍しくもない。動物のみならず樹木達も、超生命体と化しているのだから。

 巨大な幹からは無数の枝が伸び、冬になっても落ちない濃い色合いの葉が茂る事で地上に大きな影を作っている。所々若葉も芽吹いていて、まだまだ元気な木である事を物語っていた。そして根元には、少々窮屈ながらも、人一人通れる『洞』がある。

 大自然に存在する天然の空洞。これほど安全な寝床は他にない。

 

「此処が私達の家だよ」

 

 故に継実とモモは、このクスノキの洞を住処としていた。

 家を紹介された少女は、一瞬目をパチクリ。継実の顔と樹木の洞を交互に見て、それから大きく見開いた目をパチパチと瞬かせる。

 どうやら、信じられない、と言いたいらしい。

 確かに原始人を通り越して、樹上性のサルまで退化したような住処なのは否定しない。が、その反応は継実としても想定外。毎日の狩りで粒子ビームやら落雷数十発分の電撃やら核弾頭級衝撃波やらを飛ばすのが今の世界である。家の素材がコンクリートだろうが超合金なんとかだろうが、巻き添えを喰らえば子豚が作った藁の家と同じぐらい簡単に潰されてしまう。もう人造の『建物』が自分達の身を守ってくれる事はないのだ。しかし超生命体である樹木ならば、超生命体が繰り出す攻撃にも難なく耐えてくれる。というか生物体以外に敵の襲撃を耐えられるものなんてない。

 そんなご時世なのだから、こうした住処になるのは仕方ないではないか。なのにこの家に驚くなんて、この少女は今日に至るまで、辛うじて残っていた文明的な家にでも住んでいたのだろうか?

 それとも、

 

【あら、今日は随分と大きな獲物を連れてきたんですのね】

 

 このクスノキが喋る事を、薄々感じ取っていたのだろうか?

 そう思って継実が少女の顔を見れば、少女はますます混乱した様子だった。どうやらクスノキが喋るとは思っていなかったらしい。

 ますます疑問が深まる。これまでの事を色々と尋ねたくなる継実だが、しかし喋れない彼女を問い詰めても仕方ない。抱いた疑問は脳裏の片隅に寄せておく。

 それよりも、妙な茶化し方をしてきた『家』に反論する方が先だろう。

 

「どこをどう見たら食べ物に見えるの? 私と同じ人間でしょ」

 

【生憎目はありませんわ。精々水分の反応から輪郭が見えるだけですもの】

 

「それだけ見えれば十分でしょうが……」

 

【まぁ、食べ物でも客人でもなんでも構いませんわ。私に傷を付けない限りは、勝手に棲み着けばよろしくてよ】

 

 クスノキはそれだけ語ると、ぴたりと黙ってしまう。お喋りな癖して自分のペースでしか話さない『家』に、継実は肩を落とした。

 しかし拒否もされていない。そこについては感謝しなくもないので、後でお礼ぐらいは言おうと考える。

 

「ちょっと五月蝿くて狭いかもだけど、中に入って」

 

 それに、何時までも客人を外に待たせるのも良くない。継実は少女を案内しつつ、自分が先に洞の中へと入る。

 強度以外は本当にただの洞なので、中には電気などないため暗く、床は半分腐葉土と化した落ち葉が敷いてあるだけ。何より中の広さが、ざっと二メートル四方しかない。二人揃って横になるだけでも結構狭い ― それぐらい密着しないと今は落ち着けないのだが ― というのに、三人ともなると座るだけで窮屈になるだろう。とはいえ木の洞という場所の都合、押し広げる事も出来ないのだが。

 ならばせめて隅の方に座ろうと考え、継実は普段よりも奥に座り込む。そうした継実の気遣いは、後に続いて入ってきたモモが普段より空いてると言わんばかりに広々と座った事で無下になった。

 「ああ、犬ってそういうところあるよね」とでも言ってやろうかと継実は思ったが、それよりも早く少女が洞を覗き込んでくる。一瞬眉を顰めたものの、危険な洞の外には居たくなかったのだろう。やがて洞の間を通ろうと、もぞもぞ突っ込み……胸の大きな出っ張りが引っ掛かって途中で止まった。モモが手伝えば簡単にすぽんっと抜けたが、ちょっと、継実の目が嫉妬の色に染まる。

 

「お茶とか出せるほど食べ物に余裕もないけど、ゆっくりしてねー」

 

 継実が正気に戻ったのは、モモが少女を労ってから。

 少女は洞の隅へと寄り、ちょこんと体育座り。お行儀の良さを目の当たりにして、継実は嫉妬してしまった自分がちょっと恥ずかしくなる。

 その恥ずかしさは沈黙が流れると増幅するもので。

 誤魔化すように、継実は話を振ろうとした。

 

「と、ところで、あなた今まで何処に……」

 

 したが、途中で詰まってしまう。

 そうだ。この少女は上手く喋れないではないか。

 Yes・Noの問いであれば、首の動きで判別出来る。されど単語による答えが必要なものには、どうやっても答えられない。意思の疎通が取れるようで、どうして中々難しい状態なのだ。

 一応『ウミガメのスープ』という遊びのように、たくさんの質問を投げ掛ける事で真相を浮かび上がらせる手法もある。だがそれは遊びでやるなら兎も角、会話でやろうとすると最早尋問染みた光景だ。本人がそれで良いなら問題ないかもだが、継実的にはちょっとやりたくない。

 そうしてあーだこーだと考えていると、考えていないモモの方が先に話し掛けてしまう。

 

「ところであなた、なんで喋れないの? 生まれ付き口が利けないのかしら?」

 

「あ、ぁ……う……」

 

「んー、なんか上手く呂律が回ってない感じね。今は上手く喋れないだけで、練習したらいけそう?」

 

「あ……う、う」

 

「そっかー。まぁ、あまり疲れない程度にね。別に急いでいる訳でもないし」

 

 人によっては酷く失礼に感じるかも知れない無遠慮な、しかしだからこそ悪意や差別心と無縁なモモの言葉に、少女はこくりと頷きながら、何かを訴えるように声を出す。

 何と言おうとしているかは分からないが、何を言いたいかは継実にもなんとなく理解出来た。恐らく、頑張れば喋れるようになる、だろう。

 

「(昔はちゃんと話せていた、って事なのかな)」

 

 少女がどのような経緯で話せなくなったのか。それを知らぬ継実には少女の考えが正しいかどうかも判断出来ないが……何時か喋れそうだというのなら、今此処で色々問い詰める必要はあるまい。野生動物的な生活の中で、唯一余裕のあるものが時間だ。『寿命』という唯一にして最後の締め切りまでに話してくれれば、とりあえずは良いだろう。

 そうすると差し当たって確認したい事は、考えてみれば一つだけしかないと継実は気付く。そしてその意思を確かめる前に、幾つかの質問が必要だと思った。

 

「……私からも、いくつか質問しても良い?」

 

「ぁ、は」

 

 継実が尋ねると、少女はこくりと頷いた。

 

「じゃあ、一つ目。あなたは、何処か行きたい場所とか、行かなきゃいけない場所がある?」

 

「……」

 

 一つ目の問いに、少女は首を横に振る。

 

「二つ目。探している人とか、待っている人はいる?」

 

「……………」

 

 二つ目の問いには、少女はやや間を空けて首を横に振った。表情も少し暗くなる。嫌な事を思い出させてしまったかも知れない。後で謝ろうとは思うが、しかしこれも必要な問い。

 

「三つ目。私やモモの事が怖い? 正直に教えて」

 

「……ぁ、うぅ!」

 

 三つ目の質問に、少女は強く否定した。一瞬怖がられているかもと継実は思ったが、真剣な少女の表情に気付いて考えを改める。始めて会った時は兎も角、今は違うのだろう。

 立て続けにした質問が終わり、少女はこてんと首を傾げる。結局、何が訊きたかったの? そう言われているような気がした継実は、いよいよ本題を切り出す事にした。

 

「なら、ここで一緒に暮らさない?」

 

 継実としても、そうなって欲しいという想いと共に。

 

「え? この子と一緒に暮らすの?」

 

「うん。だって、折角会えた人間なんだから……行きたい場所があるとか探している人が居るとかなら、迷わせちゃいけないと思って訊かなかったけど、そうじゃないならどうかなって。その方が安全だし」

 

「成程ね。まぁ、私は家族が増える事は大賛成よ! やっぱり群れは大きくないと!」

 

 継実の意見を聞いたモモは、とても正直に己の想いを明かす。実のところそれは継実の『本心』でもあって、恥じる事なく言えるモモが少し羨ましくなる。

 無論、そうした気持ちはあくまで継実達の勝手な願いだ。少女が嫌だと言うならば無理強いはしないし、考えたいのならいくらでも考えさせる。喋れない今だと詳細は詰められないだろうが、ある程度期間を決めてという意見も可だ。少女がしたいようにすれば良い。

 だけど、もしも嫌じゃないのなら……

 祈りながら見つめる継実の前で、少女はぴたりと固まっていた。されど決して嫌だった訳ではないのだろう。やがてわたふたし、何かを言おうと口を喘がせ――――自分が喋れないとようやく思い出したように、今になって頷く。

 少女もまた、誰かと一緒に暮らしたかったのだろうか。或いは、一人だとまた肉食動物に襲われて怖いから、誰かと身を寄せ合いたいのか。口が利けない彼女の心は読めないが、そんな事は些末な疑問だ。

 誰かと一緒に暮らしたい。自分と同じ気持ちだと分かった継実は、花咲くように満面の笑みを浮かべる。

 

「やったー!」

 

 そしてその事を、同じくモモも喜ぶ。モモは両手を挙げながら少女に近付き、ぎゅっと抱き付いた。抱き付かれた少女は一瞬戸惑った様子を見せるが、もう一人の人物にも受け入れられたと理解したのだろう。にこりと笑う。

 素直に喜ぶモモの姿を見ていたら、継実も我慢が出来なくなった。今度は継実も少女に抱き付き、ぎゅうっと抱き締め合った。しばしお団子状態を堪能した三人は、ぷはっ、という少女の声と共に離れる。苦しめてしまったかと継実は思ったが、少女は心底嬉しそうに笑っていた。

 

「さぁて、家族になったからには呼び方を決めなきゃねー」

 

 すっかり元気になった少女を見て、モモがそのような提案をしてくる。

 本名も知らないのに勝手な事を、とも思ったが、少女の表情は特に変わりない。むしろニコニコと、期待するように眩い笑みを浮かべていた。どうやら拒否感はないらしい。

 それに何時までも『あなた』や『アンタ』と呼ぶのも不便だ。それは日常生活という点だけでなく、恐ろしい捕食者に襲われ、咄嗟に個人名を呼ばねばならない時にも当て嵌まる。呼び方を決めていなかったばかりにお別れなんて、悔やんでも悔やみきれない。

 どうせあだ名のようなものだ。本名はちゃんと話が出来るようになってから尋ねれば良いだろう。そう考えた継実は少し思案し、早速自分の考えた呼び名を言葉に出す。

 

「うーん、それじゃあ……ミドリはどう?」

 

「ミドリ?」

 

「うん。髪が緑色だから」

 

「安直過ぎでしょそれは」

 

 理由を答えると、モモは眉を顰めながら否定する。

 モモの言うように、少なからず安直だとは継実も思う。しかしこういう名前はむしろシンプルな方が、分かりやすくて良いだろう。

 

「私なら、アンジェリカって名前を付けるね!」

 

 モモのような、どうせ由来も何もなく、響きが良いとかの理由で付けた名前に比べれば。

 

「じゃあどっちが良いか、この子に訊いてみる?」

 

「勿論! さぁ、どっちが良いかしら? どっちも嫌ならそう言って、いや、言えないから首を横に振ってね。また違うの考えるから」

 

 継実の挑発に乗り、モモは早速少女に尋ねる。

 少女はちょっと苦笑いしつつ、ゆっくりと指差す。

 指先が向いたのは、継実だった。

 

「ふっふーん!」

 

「むぐぅ……」

 

 選んでもらえた継実は胸を張り、モモは唇を尖らせた。少女はますます楽しげに笑い、不機嫌顔のモモも笑顔に変わる。継実も釣られて笑い出す。

 洞の中に、三人の笑い声が満たされた。

 

【盛り上がっているところ、少しよろしくて?】

 

 その笑いに割り込む、常緑樹の声がする。

 継実は不服な眼差しを洞の壁に向けた。向けたところで、植物である『コイツ』はどうせ感じもしないだろうが。

 反応がないという、予想通りの『反応』に継実は肩を落とす。渋々、洞の本体であるクスノキの呼び掛けに応える事とした。

 

「……何?」

 

【仕事の依頼です。また『奴等』が取り付いていますから、駆除してください】

 

「はぁ? 一週間前にもやったんだけど」

 

【わたくしが嘘を吐いてもメリットなどないでしょう。それにこれが家賃だという約束です。約束を守らないのなら、この洞はあなた方が外出している時に埋めます】

 

「うぐ」

 

 反発してみるが、しかし逆に脅されてしまう。『家』そのものが意思を持っているのだから、口ゲンカで勝ち目などある訳ないのだ。

 それにこの『家賃』は継実達にとって悪いものではない。むしろ収入である。お喋りに夢中だったから先延ばしにしたかっただけで、断るという選択肢などなかった。

 無論、これから一緒に暮らすミドリにも手伝ってもらわねばやるまい。働かざる者食うべからず、というやつだ。

 

「……つー訳だから、お仕事しようか」

 

「ほーい。さくっと終わらせて、今日はパーティーしましょ」

 

 継実が語れば、事情を把握しているモモはすっと立ち上がる。対してミドリはキョトンとしていた。

 継実はミドリの傍まで向かうと、真っ直ぐ手を伸ばす。

 

「さぁ、家族になったからには手伝ってもらうから――――イモムシ狩りを」

 

 そしてこれから行う『仕事』を、一言に纏めて伝えるのだった。



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新たな世界06

 うねうねと、葉の上を動く生き物の姿がある。

 体長は約三センチ。ずんぐりとした身体にはとても小さな突起が左右一対で生えていて、突起と突起を結ぶような黄色い線が一筋だけ入っている。緑色の体色は葉によく溶け込み、遠目からでは中々その姿を見付けられないだろう。アゲハチョウの幼虫のような派手な目玉模様、或いはキアゲハの幼虫のような不気味な紋様もないシンプルな姿は、正に典型的なイモムシだ。

 虫に多少詳しければ、一目で彼等がアオスジアゲハの幼虫だと分かるだろう。大きさや外見からして、若い終齢幼虫である事も。彼等はこれからたくさんの葉を食べ、どんどん大きく育っていく。そしてアオスジアゲハの餌はクスノキの葉だ。

 つまりクスノキにとって、アオスジアゲハは葉を食べてしまう外敵。

 

「恨みはないけど、やっつけさせてもらう」

 

 クスノキの洞に暮らす継実達にとっても、あまり歓迎出来ない相手という訳だ。

 葉が生い茂る樹冠部。昼間でも薄暗いこの場所にて、継実は一本の太い木の枝に乗っていた。視線の先には継実の指よりも細い枝があり、そこには件のアオスジアゲハの幼虫こと、丸々太ったイモムシの姿がある。

 継実が話し掛けたにも拘わらず、イモムシはこれといった動きを見せない。虫風情が人の言葉を理解する筈もない……なんて常識が通じるのは七年前まで。今や例えイモムシであろうとも、非常に高度な知力を持つ。超生命体とはそういう存在だ。

 継実は幼虫をじっと見つめながら、チャンスを窺う。イモムシの目である六つの単眼が、継実の動きを警戒していたからだ。互いにじっとして動かず、僅か数秒の時間が何時間にも思えるほど意識を集中し――――

 最初に痺れを切らしたのは、イモムシだった。

 お腹にある肉厚な脚 ― 正確には腹脚という、肉質の突起だが ― を枝から離したのである。そのまま枝から離脱する事で継実から逃れようという算段だ。シンプルながら、効果的な方法である。

 これを逃せば、地面に落ちた後イモムシはのろのろと幹を登り、再び葉を食べ始めるだろう。そうはさせないと継実は腕を伸ばしてイモムシの捕獲を試みる。超音速で動ける継実にとって、自由落下の九・八メートル毎秒の加速度などスロースタートも良いところ。余裕で間に合う。

 しかし本番はここから。

 イモムシの身体が淡く光り始めたのだ。決して強い光ではなかったが、葉に光を遮られて暗い樹冠部ではハッキリと確認出来る。無論これはただの発光ではない。

 光子が飛び交っているのだ。

 アオスジアゲハには光子を自在に操る力がある。成虫ならば世界を滅ぼした魔物・ムスペルさえも撃ち抜く、大出力レーザーを放てるほど。未熟な幼虫の力はそこまで強くないが、全身に光子を纏う事で生半可な攻撃……少なくとも人類の核攻撃程度ならば易々と耐え抜くほどの強度を有す。この堅牢な守りに名を付けるならば『光子シールド』か。多くの超生命体にとっても中々手強い防御だ。

 しかし継実にとってはそうでもない。

 何しろ継実の能力は粒子操作。光子も比較的不得手だが操作可能な対象であり、アオスジアゲハにとっては相性最悪の大敵である。

 継実が伸ばした指先は、易々と光子シールドを貫通。そのままイモムシの柔肌に到達した指先から、中性子を少量放つ。強いエネルギーを持つ中性子は直線上にある元素……神経を焼き切った。

 神経系を失ったイモムシから光が失われ、継実はそのイモムシを握るようにキャッチ。

 

「はむっ」

 

 そして躊躇なく、捕まえたイモムシを頬張った。よく噛めば、じわじわと肉の味が染み出してくる。胃の中身から漂うクスノキ(防虫剤)の香りは昔であれば顔を顰めたくなるものだが、今では病み付きなスパイス。成虫になるため蓄えたアミノ酸の甘味が、更なる食欲をそそった。

 こうしてアオスジアゲハの幼虫を退治する(食べる)事が、継実達が住処であるクスノキから依頼された『仕事』兼家賃である。

 クスノキからすれば天敵がいなくなって万々歳。継実達にとっても、イモムシはこの過酷な世界で得られる大切な食糧源の一つだ。超生命体化の影響で生物の総数は増え、食うに困らないほど獲物はいる。が、いずれも強大無比な力を持った存在で、捕まえるのは一苦労。小動物相手でも油断をすれば、指の一本どころか片腕ぐらい普通に持っていかれるだろう。能力の相性が良い獲物ならば、こうした危険を最小限に抑えられるので安心だ。

 それに昆虫の幼虫は栄養満点である。必須アミノ酸やタンパク質を多く含み、ビタミンやミネラルなども豊富。世界的に見れば昆虫食はポピュラーなもので、近代化以前の日本でも魚が獲れない地域ではザザムシなどの昆虫が主要なタンパク源だった。先進国で昆虫食が失われたのは、所詮は「見た目が良くない」や「もっと美味しいものがある」という『文明的』な理由に過ぎない。選ぶ余裕がない自然界では、昆虫というのは最優先に採集すべき食材なのだ。

 あくまでも、継実にとってはだが。

 

「(モモは、相変わらず木の根元でネズミ探しか)」

 

 クスノキの樹上にて働く継実と違い、モモは地上で駆け回っていた。彼女の大好物にして、相性の良い獲物であるネズミを仕留めるために。

 別段、手伝えとは思っていない。モモの電撃は光子シールドを纏うアオスジアゲハとの相性が悪く、殆ど通じないからだ。体重差があるので最終的にはパワーで押せるとしても、そこそこの苦戦を強いられるだろう。その苦戦の中で電撃をあちこちに飛ばし、他の虫を怒らせても困る。この木にはアオスジアゲハ以外にもたくさんの虫がいて、ほんの一部だが継実達の手に負えないほど相性が悪い種もいるのだから。

 クスノキも個別に『家賃』を取ろうとは考えておらず、継実がアオスジアゲハを取ってくれるのならそれで良いというスタンス。継実としてもそれで損がないので、モモは地面のネズミでも仕留めていれば良い。多めに獲れたなら余りの肉を貰えるので、むしろありがたい話だ。

 それよりも問題なのは、『新参者』の方だろう。

 

「あひゃあぁっ!? びゃあぁあ!?」

 

 可愛らしいと言うべきか、間抜けと言うべきか。そんな悲鳴が樹冠に響く。

 ちらりと見れば、そこには木の枝にしがみつくミドリの姿があった……そう、しがみついている。前に進む事はおろか、後ろにも下がれない。どうやら木登りすらろくに出来ない有り様らしい。

 そんな大ピンチな状況下で、目の前に小指の先程しかないクモが現れたなら。

 

「……あへ」

 

 騒ぐどころか、ミドリは真っ白に燃え尽きた。クモとしてもあまりにも情けない反応に困惑したのか、或いはなんらかの罠だと勘繰ったのか。襲い掛かる事もなく、じりじりと後退していく。

 それでもしばし我を取り戻す事もなく、やがてハッと目を見開くや、自分の置かれている状況を思い出したミドリはまた騒ぐ。その騒ぎに興味を持った虫がやってくるとまた失神し、怪しんだ虫が退いていく……まるでコントのようなやり取りが、先程から延々と続いていた。

 ミドリも人間ならば、恐らく自分と同じ能力の筈だと継実は考えている。それならアオスジアゲハ狩りは難しくないだろうし、この地で一緒に暮らすなら此処での生き方も教えないと……そう思っての行動だったが、どうにもこのミドリという少女、狩り以前の問題だ。

 自分より遥かに小さな虫にビビる、木にすらろくに登れない、脅威を前にして失神する――――狩りを始めて僅か五分。次々と問題が露わになっていた。

 なんというか、一言でいうなら情けない。

 ……()()()()()()()

 

「(こんなんで、なんで今まで生き残れたんだろう……?)」

 

 今の世界はとても厳しい。一瞬の油断が文字通り命取りとなるほどに。継実だってモモと一緒に暮らしていなければ、とっくのとうに土壌養分の仲間入りを果たしていただろう。

 失礼ながら、この情けない女の子が三日も生きていけるとは思えない。生まれたての赤ん坊ならそれも仕方ないが、多少年下っぽいとはいえ、恐らく十五~六であろうミドリは何故今日まで生きていられたのか。何処か安全な場所に七年間引き籠もっていた? それとも大人に守られていた?

 疑問は他にもある。

 

「ひぃあぁぁぁっ!?」

 

 またしてもミドリが悲鳴を上げた。

 今度の彼女の傍に現れたのは ― 正確には横に並ぶように生えている枝を通ろうとしただけだが ― 、此度の獲物であるアオスジアゲハの幼虫だ。あまりにも情けないミドリの姿に、どうやらコイツは無視して良いと判断したのだろう。

 アオスジアゲハは草食性で、こちらから手を出さない限りは無害である。イモムシとは大概そのようなものであるが、しかしミドリはまるで涎を垂らした獅子が迫ってきたかの如く顔を青ざめさせた。或いはようやく事態に慣れて、失神一歩手前の状態で踏み止まれたのか。

 ともあれ気を失わなかったミドリは、迫り来る脅威に対抗しようとしたのだろう。

 

「ひ。ぃ……やああぁぁぁぁぁ!」

 

 悲鳴混じりの叫び声。

 まるでそれに呼応するかのように、()()()()()()()()()()が三つ現れた。

 虹色の物体はまるでスライムのようにぐにぐにと形を変え、シャボン玉のようにふわふわと空中を漂う。自ら光り輝いている訳でもないのに、何故か暗闇の中でハッキリと見え、存在感をあらわにしていた。

 そんな虹色の物体達は、アオスジアゲハの幼虫目掛け飛翔する。

 飛翔時は大きく形を変え、針のような姿になっていた。速度も凄まじく、殆ど無警戒だったアオスジアゲハの幼虫は咄嗟に光子シールドを展開。シールドと直撃するや虹色の物体は強烈な閃光と熱を放ち、相手を焼き尽くそうとした。

 あれがミドリの攻撃手段らしい。

 あらゆる粒子の動きを捉える継実の目を以てしてもそこに化学反応などは確認出来ないため、どうやら純粋な光と熱による攻撃らしい。虹色の物体時点で粒子の動きが見えなかったので、その時から既に光と熱の集まりだった筈だが、果たしてどんな集め方をすればあんな得体の知れない姿となるのか継実には皆目見当も付かない。

 何より放たれるエネルギー量が凄まじい。あらゆる元素を崩壊させる熱量だ。開放すれば大都市さえも一瞬で焼き尽くす出力であり、それを圧縮させているのだから尚更である。凄まじい力だ。

 そう、凄まじい。

 ……七年前までなら、という接続詞が頭に付くのだが。

 

「……ぁ」

 

 ぽそりと、ミドリが独りごちた。

 何故なら晴れた閃光の中から、無傷のアオスジアゲハが現れたのだから。確かに七年前なら凄まじい攻撃だったが、都市を吹き飛ばす程度の威力では、余程相性が良くない限り超生命体には通じない。ましてやアオスジアゲハ達が纏う光子シールドは、光や熱に滅法強かった。

 アオスジアゲハは全くのノーダメージ。しかし、だから許してあげようというほど彼等は優しくない。何もしてないのに攻撃を仕掛けたのだから、敵だと認識されるのは至極当然の成り行きである。

 アオスジアゲハの幼虫は、にゅっと頭と身体の間から黄色い角を出す。これは臭角と呼ばれるもので、アゲハチョウの仲間の幼虫は大なり小なり皆持っているものだ。役割は強烈な臭い、そして不気味な色合いで外敵を驚かせて追い払う事である。

 ただし、こちらも七年前までの話。

 今の役目は少し異なる。確かに悪臭を出すし、派手な色合いには驚かせる効果もあるが、そこにもう一つの力が加わった。

 光子を集結させる器官という役目だ。

 そして集めた光子を、数メートルの範囲に渡って展開しながら撃ち出す! その様はあたかも光り輝く扇が開かれるよう。無論扇なんて華やかなものではなく、接触した物質を素粒子である光子で浸食しながら破断する、えげつない技だが。継実はこの技をフォトンブレードとひっそり呼んでいる。

 ミドリはその攻撃を呆けたように見つめるのみ。或いは光の速度で迫る故に、反応が追い付いていないのか。

 攻撃を予期した継実が光子に干渉し、直撃前に霧散させておかなければ、今頃ミドリの身体は横に真っ二つであろう。

 

「……あ、あひぃ!?」

 

 上半身と下半身のお別れを避けたミドリは、わたわたと枝を這うようにして逃げる。普通の人間として見れば間違いなく高速の動きなのだが、超生命体として見れば果てしなく鈍臭い。

 継実としてはじれったくなるほどの時間を掛けて、ミドリは継実のすぐ傍までやってくる。ぎゅっと抱き付いてくるミドリの身体は震えていたので、継実は優しく抱き締めてやった。

 

「あー……怖かったかな」

 

「……ん」

 

「ちょっと無理させたか。ごめんね」

 

「……んーん」

 

 継実が宥めた事で、精神的に落ち着いたのか。ミドリの身体の震えはすっかり治まる。尤も、それですぐには離れず、ミドリは継実の胸元に顔を埋めてきた。

 しばしイモムシ取りは中断。ミドリの気が済むまで、存分に甘えさせた。必死に抱き付き、すりすりと顔を胸元に擦り寄せてくる姿は無性に愛らしい。計算でやっている訳でないのなら、とんだ天然小悪魔である。

 ともあれそうして落ち着かせていると、やがてミドリの方から離れた。顔色を見るに恥ずかしがっている様子はなく、本当に落ち着けたから止めたのだろう。

 

「ぁ、あぅ。が、と……ぅ」

 

 そして拙い口で、感謝を述べた。

 無邪気な笑みを浮かべながら、舌っ足らずな言葉で語られたお礼は、ますます継実の胸を愛しさで締め付ける――――が、同時に小さな違和感も抱かせた。

 喋れるようになるのが早過ぎないか?

 ミドリがどのような経緯で言葉を失ったのか知らないので断言は出来ないが、出会ったばかりの時の喋り方は、お世辞にも言葉とは言えないものだった。それが僅か一時間ほどで、辛うじてだが聞き取れる言葉になっている。

 元々喋れて、出会った時は久しぶり過ぎて喋れなかったのか? それなら逆に、今ここまで拙いのは遅過ぎる気がする。ミドリには何か、自分達の知らない『秘密』があると継実は感じていた。

 尤も、ではそれを問い詰めるなんて気は更々ないが。家族だから、仲間だから秘密があってはいけないなんて、そんなのはただの強迫観念だ。継実にだって ― モモが地面に埋めておいた骨を夜中にこっそり摘まみ食いしたとかの ― 秘密はあるし、モモにも多分あるだろう。ミドリに秘密があったとしてもなんの問題もない。精々もう少しだけ話し方が上達したら軽く訊いてみて、話してくれるなら聞くだけだ。

 ……それはそれとして。

 

「ところで、イモムシは捕まえられた?」

 

 継実はさらりと、ミドリに尋ねる。

 ミドリの無邪気な笑顔がビキリと引き攣る。目が泳ぎ、継実から逃げるように逸らされた。

 答えは分かりきっていた。きゃーきゃー悲鳴を上げるばかりで、しかも繰り出すのは相性が悪い攻撃。一体どうやってイモムシを仕留められるというのか。

 しかしながら推定体重差二万分の一の相手に負けるというのは、ちょっと、いや、かなり情けない。これではもしも一人きりになった時、捕食者に襲われなくても、食べ物を得られなくて死んでしまうではないか? というか本当にどうやってこの七年間を生きてきたのか。

 

「(こうやって同情を誘い、誰かに養ってもらうって戦略だったら、いっそマシだなぁ)」

 

 妹を通り越して我が子を持った気持ちになった継実は、身体は乾いた笑みを浮かべ、心の中では花咲くように笑った。



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新たな世界07

「で? 結局一匹も捕まえられなかった訳?」

 

【ええ。全く使えませんわね、この人間】

 

 モモの問いに、クスノキは辛辣な言葉で答える。大好きな人間を侮辱された格好だが、しかしながら『使えない』という評価自体は極めて妥当なもので、故にモモは表情一つ変えない。

 対して、その場に居るにも拘わらず堂々と貶されたミドリはしゅんと項垂れ、ミドリの同族である継実は唇を尖らせた。

 陽も沈み始めた夕暮れ時。イモムシ退治を一通り行った継実とミドリは地上に降り、洞の前に広がる草っ原でモモと合流した。たらふくイモムシを捕まえた継実と同じく、モモもたっぷりと獲物を獲れたらしい。丸々太った生焼けネズミを二匹も見せてくれた。ネズミはミドリの晩ご飯となり、ミドリは少々顔を引き攣らせながらも恐る恐る食べ、だばぁーと吐いて――――その最中にクスノキとモモの間で交わされた会話が、先のものである。

 

「あまりうちの子虐めないでくれる?」

 

「うちの子って、すっかりお母さんねぇ」

 

【母親だとしてもその発想は理解出来ませんわ。事実をありのまま認識しなければ、問題は何時までも解決しませんわよ?】

 

「もうちょっとオブラートに包んでって言ってるの」

 

「あ、あの、私が、悪い、ので……」

 

 継実とクスノキの言い合いを止めようとしてか。拙く、そして申し訳なさそうに、ミドリが話に割り込んでくる。

 ミドリはケンカと認識したのかも知れないが、継実とクスノキにとって、この程度の言い合いは日常茶飯事。何しろこの木とは、継実が超生命体として目覚めたばかりの頃――――かれこれ七年前からの付き合いなのだから。犬猿の仲、というほどではないが、友達でもない。気も合わないしムカつく事の方が多いが、憎たらしいとも思わない……大体そんな間柄だ。この程度の言い合いもコミュニケーションでしかない。

 と、継実も頭の中では言えるのだが、口には出したくない。何故と問われても「なんか癪だから」としか説明出来ないのだが。

 

「気にしなくて良いわよ。コイツら、何時もこんな感じだから」

 

 そしてそんな継実の考えなどお見通しなのか。モモが勝手に二人の関係を説明してくれた。

 なんかその言い方は仲良しっぽく聞こえて嫌なんだけど……とは思いつつ、一々反論すると必死に見えそうで嫌だ。クスノキが沈黙していれば尚更である。

 

「はぁ……そう、なのです、か」

 

 首を傾げながらも、ミドリも一応は納得したようなので、とりあえずそういう事にしておく。

 

【それにしても、随分と言葉が上達しましたわね。これなら普通に話が出来ますわ】

 

 クスノキは最初から継実との関係などどうでも良いのか、さらりと話を変え、ミドリの饒舌さに触れた。

 クスノキが言うように、まだまだ拙いとはいえ、これだけ喋れるなら会話と呼んで差し支えない。時計などないので正確な時間は計れないが、イモムシ狩りから僅か数時間でここまで上手くなった事に継実は少し驚いていた。

 今ならば、ミドリがこれまでどんな境遇だったか、ちゃんと問答が出来るだろう。

 ……果たして本当に訊いて良いのかという迷いが、今更ながら継実の胸の奥底から込み上がる。話し方の微妙な上達速度から、ミドリには複雑な経緯があると継実は読んでいた。もしもなんらかの精神的ショックにより話せなくなっていたのなら、境遇を尋ねる事そのものがトラウマを穿り返す行いである。下手をすれば、彼女の心は手当が出来ないほど深く傷付くかも知れない。

 こちらから訊くというのは、少々リスクがあるように思える。ミドリが自分から話したくなるまで待とうと、継実は己の考えを改めた。

 

「あ、今なら説明してもらえるかな? ミドリはなんで一人だった訳? そんな弱っちくて今までどうやって生きてきたの?」

 

【そうですわね。こんな貧弱な生物が一人で生きていけるとは思えないだけに、少々興味があります】

 

 なお、そんな気遣いは人間特有のもので、人外達は己の好奇心のまま尋ねていた。悪意も何もない、純粋さに満ち溢れている彼女達の興味は、一人地面に突っ伏した継実の方へとすぐ逸れる。

 

「? なんで継実、地面に倒れてんのよ」

 

【芸でも披露してくれますの?】

 

「違う! もうちょっとデリカシーを持ってほしいの! 女の子の心は繊細なんだからぁっ!」

 

「あ、あの、大丈夫、です。私、ちゃんと話せます、から……」

 

 まるで理解してくれない畜生(片方は動物ですらないが)共に怒りをぶつける継実だったが、当のミドリに宥められては退くしかない。それに継実自身、ミドリの境遇に『興味』はあるのだ。

 息を整えながら座り直し、継実は押し黙る。それからミドリへと視線を向け、彼女の言葉を待つ。

 ミドリも静かに呼吸し、何かを考え込むように黙りこくる。しばし沈黙が流れ……継実達が注目する中、ミドリは静かに語り始めた。

 

「私は、ずっと、遠いところから、来ました」

 

「遠いところ?」

 

「はい。とても遠い場所、です。えと、北海道の方、とか」

 

【確かに遠いですわね。此処は関西ですし】

 

「アンタ、動けない植物なのになんで地理分かるの?」

 

【さぁ? それを言い始めたら、わたくし達の知識の根源からして正体不明でしょうに】

 

 自分のペースで話すケダモノ達の所為で、話がすぐに逸れてしまった。ムスッとする継実の横で、ミドリがくすりと笑う。

 

「……ともあれ、私は北海道で、暮らしていました。家族や、友達は……いないよう、あ、えと、いませんでしたが」

 

「ずっと一人だった訳?」

 

「えっと……はい、そうです。一人、でした。長い間喋らなかったので、声の出し方を、忘れていまして。今は、少しずつ思い出して、喋れるように、なってます」

 

【そういうものですか。人間というのは中々不便な身体の作りをしていますわね】

 

 クスノキがざわざわと葉を揺らしながら、なんとも樹木的な意見を述べる。「そりゃ声帯もないのに声を出してるアンタと比べればね」と継実が突っ込めば、ミドリはまたくすくすと笑った。

 

「北海道の方は、此処よりも、生き物が少なくて、襲われる事もありませんでした。食べ物も少なくて、お腹は、空いていましたが」

 

「え。そうなの? 私はてっきり北海道の方が生き物が多いと思っていたんだけど」

 

「へ? え、ぁ、あ」

 

【わたくしも、元々自然が豊かな分、あちらの方が生物が多いと思っていましたわ。原因はなんですの?】

 

「や、わ、分からない、です」

 

 何故かしどろもどろになりながら、問われた事になんとか答えるミドリ。クスノキは【ふぅーん】と一言返し、それで納得したようだった。

 身動ぎするミドリは、胸に手を当てながら息を整える。何故ミドリの息が乱れたのか、分からないモモが首を傾げる。

 ミドリはそれからすぐに、話を続けた。

 

「そ、それで、えと、やはりお腹が空きまして。だから食べ物を求めて、移動していました。私が此処に来た理由は、それです」

 

「へぇー、大変だったんだねぇ」

 

「本当に、大変だったみたい、です。道中で行き倒れになって」

 

「は? 行き倒れたの!?」

 

【よく無事でしたわね。弱った肉の塊なんて、肉食獣共が見逃すとは思えませんもの。何か、秘策がありまして?】

 

「えぁ!? え、あ、わ、分かり、ません。お、覚えてません」

 

 モモとクスノキが問うと、またしどろもどろ。要領の得ない答えに「覚えてないなら仕方ないね」とモモはあっさり信じ、クスノキも問い詰めるだけ無駄だとばかりに黙る。

 

「そ、それで、あの、目が覚めた時、あの大きな生き物に襲われて、あなた達に会いました! そ、それだけ、です」

 

 それが好機だと言わんばかりに、なんとも強引にミドリは話を終わらせた。

 沈黙が流れ、質問があればどうぞとばかりに胸を張り、されどその目を泳がせるミドリ。急に話が終わったように感じたのか、モモとクスノキはキョトンとしている様子だ。

 対して継実は、思う。

 ――――正直に言えば、胡散臭い。ありとあらゆる点で。

 自分の事なのに何故か他人事のような話し方、喋り方を忘れただけにしては何時間も経つのにまだまだ拙い事、北海道の生態系に疑問を呈した瞬間見せた挙動不審、そして『行き倒れ』ていたのに何故無事なのか曖昧なところ……社会性なんて持たない樹木や、人を疑う事など考えもしない犬なら兎も角、生物界最強のコミュニケーション能力の持ち主である人間を騙すにはあまりにもお粗末過ぎる。こんな体たらくで何を誤魔化せると思ったのだとツッコミの一つでも入れたいぐらいだ。モモやクスノキの問い掛けでペースを崩したのかも知れないが、七年もこんな世界に生きていればあれぐらいの質問は想定していそうなものなのに……

 ともあれ、恐らく今ここで嘘を指摘すれば、ミドリは呆気なくしどろもどろになり、嘘を重ねる前に何かを白状するだろう。なんとも簡単な話だ、が、それをしようとは継実は思わない。

 元々、話したくなった時に話してくれれば良いとしか思っていなかったのだ。嘘を吐かれたのは悲しいが、思えば自分達との出会いなどまだたったの数時間前の事。全てを曝け出すには、ちょっとばかし相手の事を知らな過ぎる。それにもしかすると恥ずかしい……或いは()()()()()事だってあるかも知れない。事情を説明するとどうしてもその話をしないといけないから、敢えて嘘を吐いたというのもあり得るだろう。

 何より、こんなに嘘がド下手くそな子が悪人とも思えない。

 とりあえず、今は彼女が話した通りだという事にしておこう。そしてミドリが本当の事を話したくなったら、その時そっとアシストすれば良い。『社会性動物』である人間にはそれが出来るのだから。

 

「……そうなんだ。大変だったね。私からは、特に質問はないよ」

 

「そ、そう、ですか」

 

 継実が追い討ちを止めると、ミドリは心底安堵したように肩を落とす。

 

「はいはーい。私は質問あるわよー」

 

【私も幾つか訊きたい事があります】

 

 その安堵は、数秒と続く事なく終わったが。

 

「えっ。え」

 

「ねぇねぇ。私以外にも犬の超生命体っていた? あ、超生命体ってのは私達みたいな生き物の事ね」

 

【クスノキの分布はどの辺りまで広がっていますの。今後私の子孫を増やす上で、ライバルとなり得る存在について把握しておきたいですわ】

 

「く、くす? え、え」

 

 相手を思いやる気持ちなど微塵もない生き物達は、一切容赦なくミドリを問い詰める。いや、モモ達はミドリの話を信じている訳だから、問い詰めているのではなく普通に尋ねているだけだが……ミドリからすれば取り調べに等しい。

 なんと答えれば良いのか。どう誤魔化せば良いのか。考えても考えても、答えが出てこないのだろう。ミドリの目がぐるぐる回る。身体もぐるぐると回るように動き、段々傾きも強くなり……

 

「……きゅう」

 

 ぱたりと倒れた。

 ……倒れたまま動かない。モモが歩み寄り、身体を揺すってみるが、起き上がる気配なし。

 どう考えても失神している。間違いなく質問攻めのプレッシャーに耐えかねて。遠目に見ている継実にでも分かる事。

 

「なんか急に寝ちゃったわね。疲れていたのかしら?」

 

【北海道からの長旅ですもの。この人体力もないみたいですし、仕方ありませんわ】

 

 されどどこまでもミドリを信じている二匹には、ミドリがちょっと早めの睡眠を取った程度にしか思わず。

 再びずっこけてしまった継実は、さてこれから来るであろう二匹からの問いをどう誤魔化そうかと考えるのだった――――



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新たな世界08

 軽めの圧迫感と、柔らかな温かさ。

 眠りから覚めたばかりの継実が覚えたのは、そんな二つの感触だった。微睡んだ意識の中で感じたものに、しかし継実は慌てず騒がず。

 継実は何時も、モモと一緒に寝ている。それも狭苦しいクスノキの洞の中で。二人が並べば寝返り一つで呆気なく相手に触れるため、こうして目覚めた時に触れ合ってるなど日常茶飯事。というより寝る前に抱き合うのが一つのお約束なので、目覚めた時に相手の感触を覚えるのは至極普通の状況だった。

 なので継実は本能のまま暖かな感触を求め、ぐりぐりと顔を埋めておく。

 より強く感じる温もりと柔らかさ。落ち着ける感覚に、覚醒し始めていた意識は再び眠りに落ちていく。七年前の小学生時代ならば決まった時刻に起きねばならず、二度寝など休みの日以外御法度であるが、されど十七歳になった今の継実は野生生活者。なんでも自力でやらねばならない反面、時間の使い方は自由だ。昼まで二度寝をしたって誰にも怒られない。

 継実の安らかな眠りを妨げる者などいないのだ。

 ――――継実が抱き付いた、『何か』以外は。

 

「(……なんか、これ……変)」

 

 落ちきらない意識の中、継実は違和感を覚える。

 確かに柔らかいし、温かい。しかしこれは()()()()()()()()()。七年間毎日モモと抱き合っていた継実には、家族の感触が具体的にイメージ出来るほど記憶に深く刻まれていた。

 大体モモはもうちょっと肌触りが滑らかであるし、温かさだってちょっと足りない。そもそもコイツはなんか臭いではないか。いや、モモどころか継実も大概臭いのだが ― 何分行水などする場所もないので ― 、嗅ぎ慣れない臭いを悪臭であると脳は判断した。どうにも此奴、モモではないらしい。

 寝床は自分とモモの居場所。この安らぎの場所を浸食する輩は何者ぞ――――寝惚けているのか妙に役者染みた台詞を脳内で吐きながら、継実は薄らと瞼を開ける。

 

「あ。おはようございます……えと、そろそろ起きる時間でしょうか?」

 

 目の前に居たのは、ミドリだった。

 ……継実の、大気中に存在する六×十の二十三乗個の分子さえも容易く観測・捕捉・制御する頭脳が、呆気なくフリーズ。再起動した継実の脳は素早く過去の記憶を漁り始める。結論を出すのに十ミリ秒と掛からない。

 そういや、昨日はミドリも一緒に寝てたんだっけ。

 思い出してから背中で感じる、滑らかな肌触り。鮮やかに蘇るのは、質問攻めで失神したミドリを洞の奥である左端に置き、自分は真ん中で、モモを洞の出入口である右端に寝かせた光景。この並び方には、優れた獣の警戒心を持つモモが入口側で寝ていた方が何かあった時色々と好都合という意味があり、その意味の延長で無力で貧弱なミドリを洞の奥に押し込んだ。必然どちらでもない継実は真ん中となっただけ。

 で、何故か分からないが、継実の身体はモモとミドリを勘違いしたらしい。しかも相当強く抱き締めたのか、木の葉で作った粗雑な服がはだけ、色々露わになっている。

 モモ相手に抱き付くのなら、なんの問題もない。それは何時もの事である。しかしミドリは昨日出会ったばかりの相手。そりゃ一緒に暮らそうと言いはしたが、やはり昨日出会ったばかりの相手にありのままの自分を曝け出すのはちょっとばかり恥ずかしい。例えミドリ自身は顔色一つ変えず、ちょっとスキンシップがあった程度にしか思っていない様子でも。

 つまるところ子供染みた姿をまだそこまで親しくない人に見られてしまった継実は、その顔を一気に真っ赤に染め上げ。

 

「ぼぎゃああああああああああああああああああっ!?」

 

「何!? ゴミムシでも襲撃してきたの!?」

 

 思わず上げた悲鳴で、横で寝ていたモモを飛び起こさせてしまうのだった。

 ……………

 ………

 …

 

「何よそれ。別に、何時もやってる事じゃん。今更なんで恥ずかしがってんのよ」

 

【何時も間抜けだと思っていましたけど、今日は輪を掛けてポンコツですわね。仲間と出会えて、気が緩んでいるんじゃありませんこと?】

 

「うぅ……」

 

 洞の外に広がる平原。地平線近くで輝き、ほぼ真横から差し込む朝日に燦々と照らされる中で、継実はモモとクスノキに呆れられていた。モモは兎も角クスノキの言い分には感情的に反論したかったが、されど今日に限ればその通りとしか思えず、恥ずかしさから唸る事しか出来ない。

 

「えっと、私は気にしていませんよ? 抱き付きたければ、どうぞ抱き付いてくださいっ」

 

 ちなみにミドリは何を勘違いしてるのか、両腕を広げて継実を受け入れようとする。ニコニコ笑う顔には悪意も侮辱もなく、むしろこんな形でお役に立てるならと言いたげ。

 昨日よりも更に上手く喋れるようになった口が吐くのは、なんとも惚けた台詞。もしかして天然系なのだろうか? 本当に、よくこの七年間生き延びたものだと継実は思う。

 

「……今は遠慮しとく。それより、今日はちょっと食べ物以外のものも探そうと思うんだけど、どうかな」

 

 ミドリの提案は脇に置き、継実は今日の予定について話す。モモは辺りを見渡しながら「良いんじゃない」と雑に返事していたが、ミドリはキョトンとしていた。

 どうやら何をするのかピンと来ていないらしい。最早一々疑問に思うのも面倒臭くなった継実は、さながら今日初めてサバイバルを行う人に説明するように話す。

 

「生活するなら、色々必要でしょ? 水もそうだし、寝床に使う落ち葉もいる。そういうのを確保したいの。勿論最優先は食べ物だけど……ああ、あと服の材料になる毛皮も欲しいかな」

 

「服ですか? 私、一応着ていますけど」

 

「ないよりはマシだけど、もっと良いものにしないと駄目。もっと丈夫で腐り難いもの、出来ればクマとかの肉食獣の皮を材料にしたやつが良い」

 

「う……いや、でも葉っぱで新しい服を作っても良いんじゃないかと」

 

「そりゃ何も着ないよりはマシだけど、出来れば性能にも拘った方が良い。命にも関わるし」

 

「え? い、命ですか?」

 

 キョトンとするミドリに対し、継実は自分が着ている毛皮の服を指で摘まみながら、服の重要性について語る。

 衣服が持つ最重要の役割は体温調節だ。寒冷地では温かさを維持するために必要であるし、酷暑の中では直射日光を遮る事で急激な体温上昇を防ぐ。また皮膚を覆う事で植物や砂嵐など、なんらかの『打撃』による怪我を防ぐ機能も持つ。そして文明が発達する中で、例えば性的アピール、身分の主張、自己表現などの様々な機能も付属された。

 しかし文明が崩壊した今、そうした機能の大半が無駄となっている。社会なんてないのだから身分もなくなったし、性的アピールも異性がいない今では無価値。自己表現だって相手がいなければ意味がない。また超生命体にとって地球環境程度の気温変化など、変温動物にとっても無視出来るものと化したため、体温調節機能も不要である。

 そんな中で唯一重要性を増したのが、怪我防止の機能だ。

 野生動物との直接対決が日常となった今、肉体にダメージを受ける事は最早避けようがない。この時地肌を晒しているのと、何かを纏っているのでは、後者の方が圧倒的に怪我を避けられるだろう。

 文明社会の中では忘れられていたが、怪我とは本来致命的なもの。病気になれば命に関わるし、上手く動けない状態では敵から逃げる事も、獲物を捕まえる事も出来ない。それを避けるためにも、頑強な服は身に着けておいた方が良いのだ。

 その意味では、葉っぱの服自体は悪くない。超生命体である植物の頑強さは葉にも及び、それなりに頑丈だなのだから。しかしそれよりも『良い』ものが、この草原には存在している。

 

「あの、なら継実さんの服は、どんな生き物の皮で出来ているのですか?」

 

「私のはツキノワグマの毛皮。死んでるものを偶々見付けて、それを使ってる。クマの皮膚は下手な樹木よりも遥かに丈夫だし、能力じゃなくて構造が変わっている感じだから死んでも防御力があまり衰えない。今でも、私の攻撃で破れるかどうか分かんないぐらい頑丈だよ。何より……」

 

「何より?」

 

「肉食獣の臭いがあると、食べられる側の生き物は近付いてこない。ツキノワグマなら、イノシシ避けになる」

 

 肉食獣の毛皮で作った服には、『天敵対策』という利点がある。

 生き物達は生き残るのに必死だ。だから天敵の気配に敏感で、危険を察知したら可能な限り避けようとする。ツキノワグマのような肉食獣の臭いがあれば、イノシシやシカは近付いてこなくなりやすい。

 特にイノシシは恐ろしい動物だ。対して継実の倍以上の体重があるため戦闘力は手が付けられないほど凄まじく、それでいて雑食……腹が減っていれば人間()だって食う。おまけに臆病な割に気性が荒いため、うっかり鉢合わせると敵意がないと示す前に襲い掛かってくる始末。強さ的にはシカも似たようなものだが、イノシシと違って純粋な草食性な上に穏やかなため、こちらは落ち着いて対処すればどうとでもなるというのに。

 それほど危険なイノシシへの対抗策は出会わない事。身も蓋もない言い方だが、実際そのぐらいしか有効な策がない。しかしイノシシ達は臆病でもあるので、天敵となり得る生物……クマや巨大ゴミムシの臭いがあると寄ってこないのだ。その性質を利用して、危険を回避するのである。

 

「まぁ、毛皮に使えるような死骸なんて珍しいから、今日だけじゃ見付からないと思うけど。生きたキツネが居たら、捕まえて皮を剥ごうかな。キツネの毛皮はイノシシ避けにならないけど、防御力的には葉っぱよりはマシだし」

 

「か、皮を剥ぐって……」

 

「別に生きたままやろうって訳じゃないよ。殺した後お肉を頂いて、皮もついでに頂戴するだけ。キツネはあまり美味しくないけど、一応腹の足しにはなるし」

 

 笑いながら答える継実に、ミドリは引き攣った笑みを返す。しかし表立って否定しない分、継実の言い分は理解したのだろう。段々と真剣な表情になり、気を張っていると伝わる。

 覚悟してくれるのはありがたい話だが、先程言ったようにそもそもキツネもクマも見付かるかどうかが分からない。生命が溢れるようになった事で捕食者の数も増えたが、それでも頂点に立つモノ故に絶対数は少ないのだ。それに死体だって早々見付かるものじゃない。例えツキノワグマの身体でも、数日もあれば分解されてしまう。その毛皮が水爆を何十発喰らおうと耐える強度だろうが関係ない。物を腐らせる細菌達もまた超生命体なのだから。継実達が毛皮の服を何日も着ていられるのは、寝る前に手入れをしているからである。

 要するに、行動しなければどうなるか分からないという事だ。行動前に考える事は大事だが、考えてばかりでは何も始まらないのも真理。

 

「ま、あんまり気負わなくて良いよ。今日はそういう予定にしたから、キツネとかを見付けたら教えてってだけ」

 

「はいっ! 分かりました!」

 

 元気の良い返事に、継実はちょっと気を良くする。無邪気で素直なミドリの反応は、お姉さんぶりたい継実にとってどんぴしゃな好み。胸の中から湧き出すぽかぽかとした気持ちによって、継実もまたにこりと笑ってしまう。

 ――――ただ、その心地良さに溺れるには、一つ気に掛かる事があるのだが。

 

「……どうしたの、モモ。さっきからなんかキョロキョロしてるけど、何か気になるものでもある?」

 

 相棒にして家族でもある、モモだ。

 継実とミドリの会話に混ざろうともしなかった彼女は、先程から辺りを見回してばかり。確かに何時何処から恐ろしい生き物が襲い掛かってくるか分からないのが今の世界であり、その意味では正しい行動なのだが……もう何年も続けた生活だ。ここまで露骨に警戒せずとも、周りの敵意ぐらい察知出来る。

 大好きな人間とのコミュニケーションを差し置いて、モモは一体何をしているのだろうか。

 

「え? ……うーん、分かんない。なんか居心地悪くて」

 

 そんな継実の疑問は、されどモモ自身にすら上手く答えられなかった。

 要領を得ない回答だが、モモが嘘を吐くとは思えない。分からないという事は、少なくともモモの理性は何も分かっていないのだろう。逆に言えば、本能的な理由でそわそわしているらしい。

 具体的な理由が分からない。そちらの方が、継実にとっては気掛かりだ。

 継実は特に何も感じていないが、そんなのはなんの判断材料にもなりはしない。継実の気配察知能力は、生粋のケダモノであるモモと比べれば非常にお粗末なのだから。故に継実はモモの語る違和感を、全面的に信じる。

 とはいえ、じゃあ今日は洞の中に引き籠もっていようとも言えない。いや、本当に危険ならばそれが最善であるし、一日籠もるぐらいどういう事もないが……継実達超生命体はたくさんの食糧(エネルギー)を必要とする。そのため長期間の籠城は不得手。あまり大した理由もなく休みにしてしまうと、その後もっと危ない日が訪れた時、自宅で餓死か危険に跳び込むかの二択を迫られてしまう。

 リスクはゼロに出来ないし、無理に回避しようとすれば却ってより大きくて不可避のリスクを招く。あまり過剰に怖がっても仕方ない。尤も、何処までが適切で、何処からが過剰かなんてものは、実際に事が起きねば分からないものでもあり。

 

「(ま、気には留めておこう。モモには周りの警戒を優先してもらって、いざとなったらすぐ逃げればなんとかなるだろうし)」

 

 今回の継実は、モモが感じた違和感をその程度に考えた。

 さりとて脅威というものは、得てして警戒が緩い時に訪れるものである。



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新たな世界09

 草原を、涼やかな風が駆け抜ける。緑色の絨毯が波打ち、さぁさぁと優しい音色を奏でた。

 春らしい程良い涼しさを持った風は、浴びたものに爽やかな気持ちを抱かせるだろう。野生の世界でその爽やかさに浸る余裕など早々ないが、爽やかとはつまり身体にとって好適な条件という事。食べ物を探して動き回る上で、この風は非常に好ましい。

 天気も白い雲が幾つか漂う普通の晴れ。早い時刻のためまだ昇りきっていない太陽の輝きは、程良い熱を宿している。ゆっくり体温を上げるのに最適な強さだ。それでいて気温を上げるほど強くもないので、木陰や草陰の中はとても涼しい。日向に出て上げ、日陰に入って下げる事で、最も適した体温を簡単に維持出来るだろう。超生命体にとっては体温調節など簡単な事だが、楽に出来る環境ならそれに越した事はない。

 つまるところ、今日は動くになんら支障のない気候。

 ――――にも拘わらず、生き物の姿が殆ど見られない。主にネズミや虫のような小動物達が。

 

「……引き籠もるべきだったか」

 

 住処であるクスノキから数キロ歩いた先の草原に立つ継実は、ぽつりとそう独りごちた。

 

「だねー。危険なのもそうだけど、これじゃあ獲物も見付からないわ」

 

「え? 危険なんですか!? な、何が……?」

 

 傍を歩いていたモモが同意し、継実達の後ろを付いてきていたミドリが慌てふためく。別に今は安全よ、とモモが伝えた事でミドリは胸を撫で下ろしていたが、安堵するには早い。

 どうやら小さな生き物達の殆どは、なんらかの気配を察知しているらしい。そしてそれが危険なものだと判断し、物陰などに隠れていると思われる。

 モモが感じていた違和感と小動物達が感じたものと同じなのか、はたまた別の何かがあるのか。生憎全知全能の力など持っていない継実にそんな事は分からないが、現状認識を多少改め、なんらかの脅威が存在するのだと考える必要がありそうだ。

 そうなると問題なのは、これからどうするか。

 

「(……()()()()がどうかと言えばっと)」

 

 チラリと、継実が視線を向けたのは地平線近く。

 遙か遠く居たのは、親子連れのシカだった。小鹿の方は暢気に草を食んでいるが、親の方は継実達の存在に気付いているのかこちらに視線を向けている。ただしそれ以上の事はしておらず、特段苛ついている気配もない。シカは小動物達と違って、なんらかの気配について左程脅威には感じていないようだ。

 つまりその気配の脅威度は、小動物以上シカ未満と言えるだろう。

 ……なんとも微妙なところ。というより、継実達の大きさがこの草原の中では微妙な立ち位置なのである。虫やネズミと比べれば遥かに巨大だが、大人のシカやイノシシと比べると半分ぐらいの体重しかない。虫達からすれば恐ろしい存在でも継実達なら踏み潰せる相手かも知れないし、シカにとっては雑魚でも継実達からすると()()()()()()()という可能性もあるのだ。

 草原の他の生物を参考にしようにも、継実達に次ぐ大きさの生き物はもうキツネとタヌキぐらいしかいない。どちらも体重は十キロに満たない程度。モモよりは大きいが、継実と比べれば随分と小さい生物である。脅威の力量を推し量るには、ちょっと使い辛い指標だった。

 

「どうする継実? もう帰る?」

 

「うーん」

 

 モモからの問いに、継実は少し考える。

 考えていると、何処からともなく「ぐぅ~」という音が聞こえてきた。

 聞き慣れない物音。よもやこれが気配の正体かと一気に警戒心を強め、継実はモモと共に音がした方へと振り返る。

 そこに居たのは、ミドリだった。

 

「……………へぁ!? え、私のお腹鳴って……あ、お腹が空きました!」

 

「あ、うん。そうなのね」

 

 恥ずかしがるでもなく、堂々と空腹を訴えるミドリ。継実とモモは共に脱力し、警戒を解いた。

 どうやらミドリはお腹がぺこぺこらしい。

 空気を読まない、と言えばその通りだし、クスノキならば【動物というのは本当に非効率ですわね。これだけ光も空気も十分あるのにエネルギーが足りないなんて】と植物らしいおちょくり方をするだろう。されど継実は、腹の音に苛立ちなんて覚えない。空腹は動物にとって当然の生理反応であり、何より元気の証だ。

 出来る事ならたらふくごはんを食べさせてあげたい。胡散臭い話とはいえ、行き倒れたらしいのだから尚更である。

 

「うん。まだ帰らないで、もう少し食べ物を探そう」

 

 そのためにも、継実は食べ物探しの続行を選んだ。

 継実の方へと振り返ったモモは、拒否感などは見せていない。が、少し意外そうに目を瞬かせる。

 

「あら、今日は随分勇敢ね。何時もなら安全優先なのに」

 

「え? あ、もしかしてあたしのためですか? あの、そんな無理はしなくても……」

 

「大丈夫。私もお腹空いてるし」

 

 遠慮してくるミドリに、継実はそう理由を伝える。決して嘘ではない。燃費の悪い身体は、今日も何時も通りの食事を欲しているのだから。

 それにモモは勇敢と評したが、何も勇気を振り絞って決断した訳ではない。継実なりに、安全だと考えた根拠がある。

 モモ自身の態度だ。

 

「(モモがあまり気にしてないって事は、モモよりは小さな脅威なんだろう)」

 

 なんらかの気配を察知しているモモだが、しかしあまり気に掛けている様子もない。普段より少しピリピリしているものの、普通に会話が出来る程度には落ち着いていた。

 人間と違い『オオカミ少年』になる事を恐れないモモは、本当に危険だと思えばこちらの都合などお構いなしに訴えてくる。そうでなくても、あからさまに警戒心を強め、くだらないお喋りに興じる余裕などないだろう。

 つまりモモは感じ取った気配を大した脅威だと思っていないのだ。別段おかしな話ではない。モモの体重は僅か四キロ。継実から見ればとても小さいが、昆虫達からすれば体重差一千倍超えの大怪獣、ネズミから見ても百倍も巨大なモンスターだ。小動物達には絶望的な存在でも、モモからすれば手頃なオモチャという事は十分あり得る。

 一応、本当は物凄く強いのにモモが誤認している可能性もあるが……その場合相手はかなり遠くに居る筈だ。わざわざ自分達の下に来るとは思えないし、来そうならさっさと逃げれば良い。

 事態がどう転んだとしても、危険性は低い筈だ。

 

「一応、モモは何時も以上に周りの気配を探っておいて。少しでも違和感があったら教えてほしい」

 

「ほーい。ま、それでなんとかなるわよね」

 

「ミドリも、出来たら周りを注意して。もしかしたら、モモと相性の悪い生き物かも知れないから」

 

「は、はい! が、頑張ります!」

 

 二人にそれぞれ役割を指示すれば、元気な返事が返ってきた。継実は満足げに頷いてみせる。

 勿論継実とて何もしない訳ではない。むしろ一番大切な役割を担うつもりだ。

 その役目を果たすため、継実はその場に座り込む。

 

「? あの、どうしたのですか?」

 

 しゃがみ込んだ継実を見て、不思議そうに首を傾げるミドリ。本当ならちゃんと説明してあげたいが、残念ながらそれは後回し。勝負は既に始まっているのだ。

 草むらに潜む獲物――――ネズミとの対決は。

 

「ミドリ。今日のごはんもネズミなのと、私はモモみたいに上手には焼けないから、生で食べてね」

 

「えっ」

 

 今日の『献立』を伝えると、ミドリの笑みが強張る。ミドリは昨日モモから余りのネズミを渡されて食べていたが、思いっきり吐き出していた。どうやらお味がお気に召さなかったらしい。

 確かに、あまり美味しいものではない。世界的には食べているところもあるようだが、それは食用に品種改良されたものであり、この辺りを駆け回っているアカネズミの類ではないだろう。そもそも生で食べるものではないし、衛生的にも色々問題がある。

 継実も初めて食べた七年前は、一口含んですぐに吐き出したものだ。されど今ではもう、そんな事は起こらない。焼いた方が好みだが、生でも何匹だって食べられる。

 ……慣れたので。

 

「あ、あの、あたしあの生き物はなんか生理的に色々キツくて」 

 

「大丈夫よ。昔は継実も死ぬほど嫌がっていたけど、今は慣れたから。アンタもそのうち慣れるわ」

 

「いや、それって慣れるまでは死ぬほど嫌って事じゃ」

 

 ミドリが何か反論しようとしていたが、継実は無視する。

 大人しく食べるならそれで良し。もしも食べないなら、無理矢理口に押し込むまでの事。昨日は吐く事を許したが、今日からは許さない。

 家族愛というのは、甘やかす事だけではないのだから――――

 

 

 

 

 

 結論を述べるならば、ミドリの適応力は継実の予想よりも高かった。

 

「あ。見た目に慣れたら、なんか美味しい気がしてきました」

 

 太陽が天頂で輝くお昼時を迎えた頃。ネズミの(はらわた)をしゃぶり、口許を赤黒いものでべたべたにしながら、ミドリは感想を述べる。

 現在ミドリが食べているのは、今日五匹目のネズミだ。一匹目は逃げようとしたところを捕まえ、生の肉を口に放り込んで噛ませた。二匹目は生皮を剥いだものを手に乗せ、食べるまでじっとモモと一緒に見ていた。

 そして三匹目は、少し躊躇いながらも自ら食べて……五匹目に到達した今では先の発言をするほど。最初の渋りは何処へやら、すっかりネズミの味を気に入ったようである。

 

「おー、こりゃ継実より野生生活の適性はあるかもね。継実ったら慣れるのに一年ぐらい掛かったもの」

 

「うっさい。アンタと違って小学生女子はか弱くて繊細なんだから」

 

 バリバリとネズミの頭を噛み砕きながら話すモモに、仕留めたネズミの毛を毟りながら継実が反発。ミドリは口許を手で隠していたが、ぷるぷる震えているため笑っている事がバレバレだった。

 笑われた事にムッとなる継実だが、その顔にはどうしても笑みが浮かんでしまう。

 昨日の情けなさから色々不安だったが、適応の早さという得意分野がちゃんとあったようだ。適応が早いのはとても有益な事。何しろたった七年でゴミムシが数メートルもの巨体を手にするような、七年前からしたら出鱈目な進化が起きているのだ。最早異常は何処にもなく、全てが正常(起こり得る)。急速に変化していく世界の中なら、彼女の優れた適応力が役立つ日は遠からず来るだろう。なんとも頼もしい話だ。

 勿論謎はますます深まった。モモという頼れる家族と一緒に暮らしていた継実でさえ、イモムシやネズミ、カエルなどを主な食糧としている。その中でもネズミは弱くて数が多く、それでいて肉と脂肪分が豊富と、衛生面以外は良い事尽くめの食材だ。それを食べずに、彼女は一体何を食べて生きてきたのか。

 しかしそんな事はどうでも良い。ミドリはこの地で共に暮らす家族。昔の生き方を知っていればフォローもしやすいが、知らなくてもなんとか出来る。適応力が高いのならば、尚更だ。

 

「もぐもぐ……ん。さてと、どうする? 私はもう十分食べたけど」

 

 ネズミの背骨を噛み砕いて飲み込んだモモが、思案していた継実にそう尋ねてくる。

 継実は少し俯かせていた顔を上げ、モモとミドリを交互に見た。モモは満足げに腹を擦り、ミドリは小さなげっぷを出す。モモは言葉通り、ミドリも雰囲気からしてそこそこ腹は満たされたようだ。かく言う継実も五匹のネズミを丸ごと平らげた。

 しかし、こんなのは朝食ぐらいでしかない。やはりモモが感じた気配により警戒心が高まっているのか、普段よりもネズミ達が見付け辛く、全員分の『朝食』を確保するのに昼まで掛かってしまった。正直にいえば、継実のお腹はまだまだ空き気味である。

 明日もたくさん獲物が獲れるとは限らないのだから、このまま昼食の狩りを続けるのも選択肢の一つだろう。獲物は捕まえ辛いものの皆無ではなく、努力は無駄には終わるまい。

 されど継実はそろそろ退き際と考える。

 ……妙に、首筋がぴりぴりするのだ。生物達の気配に疎い自分が、である。

 

「……うん。そろそろ帰ろう。夜にお腹が空いたら、クスノキの近くでなんか捕まえれば良いし」

 

「それもそうね。お腹いっぱいにはならなくても、小腹が満たせれば眠れるし」

 

「あたしは皆さんの意見に従います。どうすべきか、まだよく分かりませんから」

 

 モモとミドリの同意を得て、継実は早速住処へ帰ろうとする。方角と距離はちゃんと覚えているが、念のため広範囲を探査すべく意識を集中。住処のクスノキの存在を記憶通り南南西三・二キロ地点に確認し、ではそちらに向かおうと右足を前に出した

 その時である。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「ッ!?」

 

 最初に反応したのはモモ。しかし継実が呆けていた訳ではない。モモの方が反応速度が早かったというだけの事。

 モモが空を見上げ、継実も後を追うように空を仰ぐ。空に広がるのは青い空と白い雲、それに眩い太陽。

 そしてもう一つ、黒い点。

 

「? どうしましたか?」

 

 何も気付いていないミドリが尋ねてくる。が、継実は口を閉じたまま。今は余計な思考を割きたくない。モモも同じく黙っていた事から、継実と同意見のようだ。

 継実は能力を用い、黒い点の『映像』を拡大。その正体を見極めようとするが、しかしどれだけ拡大しても黒い点のまま。解像度を上げてみたが、特段変わらない姿が目に映る。

 つまり、本当に黒い点なのだ。

 正体は一体なんだというのか。少なくとも鳥や虫の類ではない。というより地球上のものではないらしい。継実が感じる感覚が確かなら、その黒い物体の高度は約三千キロ……宇宙空間に出てしまっているのだから。そして黒い物体はどんどん地球に接近し、その存在感を強めていく。

 これらの情報から、一つの事実を計算出来る。黒い物体の『強さ』が如何ほどのものなのか、という事だ。そして計算は継実の得意技。すぐに答えを導き出せる。

 恐らくあの黒い物体の実力は、()()()()()()()()()()

 

「(ああ、本当に『遠かったから弱い力のように感じた』んだ……やらかしたな)」

 

 自分の判断ミスに気付くも、後悔する暇もありはしない。

 秒速十八キロ。

 隕石に匹敵する速さで大気圏を突破してきた『黒い点』は、継実達目掛けて直進していたのだから――――



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新たな世界10

 秒速十八キロ。

 隕石の落下速度としてはごく有り触れたスピードは、しかしながらこの世に存在する大概の自然現象を大きく上回るものだ。これほどの速さとなれば大気との摩擦により高熱を発し、地表到達時の衝撃は凄まじいものとなる。ほんの一メートル程度の大きさでも、その驚異的スピードから生み出される破壊力は地形を容易く変えてしまうほどだ。

 それが普通の隕石である。されど継実達が見ている先にある黒い点(隕石らしきもの)は、どうやら普通とは程遠い存在らしい。

 まず、道中。そいつは落下する中で何故かどんどん加速していく。通常の隕石ならば速度と共に空気抵抗も増大し、ある程度のところで加速が止まるというのに。

 二つ目の違和感は大きさ。ざっと直径二メートル程度の球形は、どれだけ空気とぶつかり合っても削れていかない。否、それどころか僅かずつだが()()()している。落ちながら成長する隕石なんて、聞いた事もない。

 そして周りの空気。何故かは分からないが、落ちてくる物体に触れた空気がどんどん消えている。比喩ではなく、文字通りの消失だ。少しずつ大きくなっている事実と合わせて『喰っている』のかとも思えたが、質量が釣り合わない。消失分の方が遥かに大きいのが実情だ。

 何もかもがおかしい。自分の『目』に映ったものをなんとか理解しようとする継実であるが、あまりにも奇々怪々な事態の数々に困惑が募る。そもそも相手が普通の隕石ならば、どんなに巨大だろうとプレッシャーなど感じる筈もない。巨大隕石だろうが巨大噴火だろうが、今この地球を支配している生物達は単体でなんとでも出来てしまうのだから。

 果たしてこの隕石の正体は何か。気にならないと言えば嘘になるし、知らないまま寝床でぐーぐー眠れるほど継実は図太くもない。正体を教えてくれるというのなら、継実としても是非とも知りたいところだ。

 

「だからって、目の前に来るのは望んでないんだけどなぁー……」

 

「全くよねー」

 

 継実のぼやきに、モモが同意する。つまり継実が導き出した軌道計算は一切間違っていないという事。

 黒い点こと隕石は自分達から南西五メートル地点に落下する。

 確信を得た継実は行動を起こす。モモに視線を送り、頷いたモモは自らの身体を構成する体毛の一部を伸ばしてミドリに巻き付けた。突然のモモの行動に驚いたミドリは身動ぎしたが、モモは構わずミドリをぐるぐる巻きにし、頭から足先まで包み込む。

 継実達が行動を起こした頃、落下予測地点からどっと生き物達が噴き出す。空が黒くなるほど無数の羽虫、マシンガンのように飛び出す小鳥達、津波のように押し寄せるネズミやトカゲ……草むらの中には山ほど命が潜んでいる事は知っていたが、考えていたよりも多くの生命の存在に継実も少し驚く。小さな生き物達は継実など無視して慌ただしく去っていき、もうそこに残っているのは、身動きの取れない草花ぐらい。

 隕石が落ちてきたのは、そんな草原の真上だ。

 激突時に生じた衝撃波が撒き散らされる。継実の観測結果によれば隕石の落下速度は秒速五十二キロまで加速しており、それは通常の隕石のスピードのざっと三倍程度。運動エネルギーの大きさは速度の二乗に比例するので、同程度の質量の隕石と比べ九倍の力で落ちてきた事になる。

 とはいえ直径二メートル程度の大きさでは、質量がそもそも隕石としては軽めだ。衝突したところで核兵器ほどの威力は出ない。九倍のエネルギーを持つそれが着地した時に撒き散らした衝撃も、継実達にとっては大したものではなかった。着弾地点の草花だって、ちょっと黄ばんだ葉が欠けた程度である。

 それよりも問題なのは、落ちてきた跡地にある物体――――墜落した『黒い点』そのものの方だろう。

 

「なに、あれ……」

 

 ぽつりと、思わず継実は独りごちた。

 落下地点には、黒い靄のようなものが()()()()()

 確かに立っていた。空では球体を維持していたが、地上到達と同時に変形したらしく今や人型をしていたのだ。二本の足で立ち、やや丸まってはいるが縦に伸びた背筋を持ち、だらんと垂れ下がった二本の腕がある……尤も、人型と言えるような特徴はこの三つだけだが。臀部からは腕よりも長い尾が生え、頭は花でも咲くかのように五つに裂けている。そもそも輪郭がもやもやしていて、白昼に晒された身体は宵闇よりも真っ黒。頭には表情を窺い知れる凹凸はなく、手足にも爪などの『器官』を見て取れない。形こそ生き物のようになったが、『黒い靄』としか例えようがない姿だ。

 奇妙なのは外見だけではない。継実の目はその黒い靄に触れている空気分子が、次々と()()()()()のを確認している。地表目掛け降下してきた時に見えたのと同じ現象だろう。単に分子崩壊しているだけなら光や熱といったエネルギーが観測出来る筈なのに、どういう訳かそうしたものさえ確認出来ない。エネルギー保存の法則を容赦なくガン無視するとは、七年前の科学者達が見ればショックのあまり憤死しただろう。尤も、ネズミ数匹を食べれば核弾頭クラスの攻撃をぽんぽん繰り出せる継実に、どうこう言えるものでもないが。

 もっと言えば、その身体を構成している粒子が何も見えないというのもおかしい。確かに超生命体の中には継実の観測能力を潜り抜けるモノも少なくないが、コイツはなんらかの隠蔽をしている気配すらなかった。何も隠していないのに何も見えない……これが奇妙でなければなんだというのか。

 ハッキリ言って不気味な存在だ。しかし見た目云々に惑わされるような継実ではない。見た目がどれほど恐ろしくても、中身がへっぽこならば脅威など感じられるものか。のこのこと現れたコイツを好奇心の赴くままに調べてやるところだ。

 ――――コイツに、それをしようとはこれっぽっちも思わないが。

 

「(いまいち判別付かないけど……コイツ、強い)」

 

 如何にモモよりもずっと気配に疎い継実でも、これだけ近ければ流石にその力を推し量れる。ひしひしと感じる強さはかなりのもの。少なくとも自分よりは強いと、継実は判断した。

 しかしそれ以上の事はどうにもよく分からない。まるで見た目通り靄が掛かったかのように、具体的な力の大きさが上手く掴めないのだ。相手が宇宙からやってきた謎の生命体Xだからか、はたまたその靄のような身体に秘密があるのか。相手もまたこちらの強さを推し量れていなければ、色々とやりようもあるのだが……希望的観測を前提にして戦うのは、期待が外れた時のリスクが大き過ぎる。いや、そもそも敵対的なのか友好的なのかも分からない今、先手必勝すらリスクだ。無益な戦いほど無駄なものもない。敵意は感じられないが、相手がこちらを虫けら程度にしか思っていない可能性もある訳だから、やはり当てにならない。

 とりあえず逃げた方が良さそうだとは思うのだが、今は中々難しい。ミドリが居るからだ。彼女の足は巨大ゴミムシからある程度逃げ続ける程度には速いものの、この黒い靄がそれ以上のスピードを出せれば追い付かれてしまう。そして予想通り実力が継実よりも上であるなら、足の速さもほぼ確実に上。距離があれば逃走も選択肢に入るが、これほど近くては相手のスタミナが余程少なくない限り恐らく追い付かれる。もしも襲われた時、継実やモモなら目眩ましの一つぐらい出来るが、ミドリではそれも難しいだろう――――

 

「んん~!? んぅぅーっ!」

 

「あ、ごめん。解き忘れてたわ」

 

 当のミドリは、未だモモの毛でぐるぐる巻きにされていたようだ。解き忘れていた、という弁明しているので、モモもあの黒い靄に脅威を感じていて『些末事』まで気が回らなかったらしい。

 開放されたミドリは小さくないため息を吐いている。継実やモモと違い、ミドリは特段気配を察知する力はないらしい。だとすればこの黒い靄を見た瞬間、ぎゃあっと悲鳴の一つでも上げるだろう。

 さて、大声を聞いたコイツはどう反応するのか。興奮して襲い掛かる可能性を考慮して、継実はその時に備える。

 

「――――え?」

 

 そんな継実の予想に反し、ミドリの反応は呆けた声を漏らす事。

 次いで顔を青くし、ガタガタと震え始めた。怖がるのは想定内だが、しかし震え方が尋常でない。不気味で生理的に受け付け難い見た目だとは継実も思うが、巨大ゴミムシやアオスジアゲハの幼虫に襲われた時でもここまで恐怖していなかった筈である。

 

「な、なん、なんで、コイツが此処に……!?」

 

 極め付けはこの台詞。

 まるでミドリは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「……ミドリ、出来れば教えてくれると嬉しいのだけど」

 

「や、やだ、やだやだやだ……に、逃げないと、逃げないと殺される……!」

 

 可能な限り穏やかな口調で説明を求める継実だが、ミドリは恐怖に慄くばかり。口から出てくる言葉は、大凡説明と言えるようなものではない。

 しかし、無価値というほどでもなかった。

 少なくともこの存在が非友好的であり、そして相手を殺す事さえ厭わない存在だと分かったのだから。無論それはミドリの一方的な言い分であり、何処まで信じるべきかは分からないが……継実の野生の勘はひしひしと訴えている。

 コイツは対話も何も通じない、と。

 

「(まぁ、そうは言ってもいきなり殴り掛かるのもどうかと思うし……)」

 

 一言ぐらいは警告を発しておくか。そう考えた継実は、しかし宇宙からの来訪者 ― よく考えるとこれは宇宙人なのだろうか? ― にどんな言葉が通じるのか分からず、僅かに考え込む。さりとて考えたところで案など浮かばず、とりあえず行動を起こしてみる事にした

 次の瞬間、黒い靄は継実に肉薄していた。腕のような部分を、大きく振りかぶった体勢で。

 あたかも、普通に挨拶してみようと継実が軽く片手を上げたタイミングを見計らっていたかのように。

 

「(……成程、これがそちらの『ご挨拶』と)」

 

 これなら素直にミドリを信じておくべきだったなと、今更ながら後悔。勿論野生の世界で後悔など役には立たない。

 継実の本能は身体をすぐさま防御態勢に移行。更に能力により周辺の大気を掻き集め、簡易的な『防壁』を展開させる――――が、黒い靄が振り上げた拳は防壁を形成する大気分子を次々と消滅させながら直進。

 継実の土手っ腹にもやもやとした不定形の、されどくっきりとした打撃が加わった!

 

「ぎっ……!」

 

 突き刺さるような衝撃に、継実は呻き、その身体はくの字に曲がる。口から数滴の血を吐き、受けたダメージの大きさを物語った。そして半歩後退りし、

 

「っぐああァッ!」

 

 傷付いた身体を庇う前に、折れ曲がった身体を勢い良く起こす!

 身体と共に振り上げるは両腕。弾き飛ばすような格好の一撃を黒い靄は身を仰け反らせて回避し、バク転しながら後退。数メートルと離れた黒い靄は、予想外だと言わんばかりに硬直した。

 反撃は当てられなかったもののどうにか相手との距離を取った継実は、得られた時間を使ってどしりと四股を踏む。相撲取りのような前傾姿勢は、独学で身に着けた継実の臨戦態勢。感情を昂ぶらせていき、身体を熱くする。

 

「継実!? この……」

 

「待て!」

 

 今にも跳び掛かろうとするモモを静止。モモは戸惑いながらも足を止め、継実は口許の血を拭う。臨戦態勢は解かないが、頭の中を駆け巡るのは燃え上がる闘志ではなく、機械のように冷静な思索。

 思った通りの重たい一撃だった。空気分子の防壁を易々と抜いたそれは継実の内臓に衝撃を与え、小さくない損傷を与えている。毛皮の服に至っては、殴られた跡のように一部が『消失』していた。特殊な技かそれとも能力によるものなのかは不明だが、ともあれ毛皮による防御は殆ど期待出来ないらしい。

 しかし()()()()()()と継実は思う。内臓の傷は能力の応用により再生可能な程度。再生時の体力消耗は少なく、難ならもう一発喰らっても問題はあるまい。不意打ち成功にしては、なんとも微々たる成果だ。

 無論向こうからすれば、本気からは程遠いという可能性もある。が、具体的な強さの一片は見えたのだ。

 今なら『計算』出来る。

 

「(さぁて、どう出るのが最善手か)」

 

 継実の脳裏を駆け巡るは無数の情報。自分の強さ、相手の推定質量、地上衝突時のエネルギー、今日の気象条件……あらゆるデータを数値化し、組み上げ、シミュレーションしていく。莫大な量の大気分子の動きをも予測する継実の頭脳にとって、高々数百種の条件と確率を組み合わせた予測など児戯に等しい。あらゆるパターンの戦闘を脳内で同時に繰り広げ、その戦績を記録・演算する。

 あの黒い靄は自分よりも強い。一対一で戦った場合、こちらの勝率は三割といったところか。テレビゲームなら試しにやっても良いが、命の取り合いでやるのは勘弁。一人なら何がなんでも逃げの一手を打つだろう……それが継実が導き出した計算結果だ。

 されど今、此処にはモモという頼れる家族がいる。

 モモが加われば勝てる。能力などの相性や真の実力など、不確定要素があるので確実とは言い難いが、それでもかなり有利に傾くのは間違いない。一人が注意を惹いている間に背後から攻撃、押されている仲間を助けて押し返す、死角に回り込もうとする動きを相方が教えて防ぐ……二対一というだけで、いくらでも手が増える。

 それにあまり頼れるとは思えないが、ミドリもいる。昨日彼女が見せた不思議な『能力』。アレも目潰しぐらいには使えそうだから、彼女も協力してくれれば更に有利に戦えるだろう。黒い靄は一番弱いミドリを狙うかも知れないが、それはそれでチャンスだ。がら空きになった背中を思いっきり蹴飛ばして、倒れたら自分とモモの二人で馬乗りになってギッタギタのボッコボコにしてやれば良い。

 所詮はイメージなのでどこまでその通りになるか分からないが、勝ち筋は見えた。未知の、されど予測可能な相手に勝利を確信した継実はにやりと笑う。

 そう、継実は確かに全てを予測した。

 予測したが、この計算には一つ問題がある。何百もの要素を絡めているが故に、一つでも致命的な間違いがあると全てが瓦解するという点だ。そして継実は、一つ思い違いをしている。

 出会って丸一日しか経っていない彼女が、どれだけこの黒い靄を恐れているのかを。

 

「ひ、ひぃ!? いやあぁぁぁぁっ!」

 

 完璧な作戦は、悲鳴を上げた仲間(ミドリ)の行動一つで呆気なく瓦解する。

 彼女が立ち向かうどころか留まる事すらせず、この場から逃げ出したがために。



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新たな世界11

 反射的に振り返った継実の目に映ったのは、背中を向けて走り出すミドリ。何故? 一瞬疑問が脳裏を過ぎり、後になれば過ぎってしまった事さえ馬鹿馬鹿しく思えた。

 ミドリはあの黒い靄を酷く怖がっていたではないか。もしもアレについて詳しい知識があるのだとすれば、その強さがどれほどのものかも把握している筈。対して継実とモモがどれほど強いかは、昨日からの一日で得られた情報しかないのだ。力を合わせれば勝てる、なんて考えに至る訳がない。

 仮に継実達の戦闘力を理解したところで、そもそも黒い靄が継実よりも強いという事実は変わらない。自分より強い相手だけど、頼れる仲間がいるから三人で戦おう? なんて愚かな。本当に勝てるかどうかなんて分からないのだから、逃げるのが正解に決まっている。

 冷静に考えるほど、ミドリが逃げるのは当然の行いに思えた。少なくとも七年前の継実なら、ミドリと同じ選択をしただろう。

 継実の計算は恐らく間違っていない。間違っていないが、誰もが正解に辿り着けるとは限らない。相手の強さとこちらの戦力を正確に分析し、勝ち目があると踏んだらリスクなど恐れず戦いを挑む……

 そんな自分の考え方は、もう『人間』の範疇ではないのだ。

 

「継実! どうする!?」

 

 たったの七年で自分がどれだけ『人間離れ』してしまったのか。そのショックで僅かながら呆けていた継実は、されどモモに問われて再び演算を開始。『人間離れ』した自らの思考への嫌悪がないといえば嘘になるが、そんなものは合理性で押し潰した。今はこんな些事を気に掛けている場合ではないのだから。

 確かに、今この付近に限れば、一番の脅威はあの黒い靄だろう。ミドリはその恐ろしさをよく知っているようだし、継実も今さっき思い知らされた。急いで逃げ出すのは一見正しい。

 されど次点の脅威はなくなっていない。

 意識を研ぎ澄ませば見えてくる、周りに潜む生き物達の気配。ネズミ、ジョロウグモ、カマキリ、ヘビ、キツネ、アマガエル……どれもこれも継実やモモにとってはただの獲物だ。しかし奴等とて、アオスジアゲハの幼虫よりは強い。アオスジアゲハ相手すら何も出来ずに殺されるところだったミドリには、戦う以前に襲われたと気付く事すら難しいだろう。おまけに皆、能力は千差万別。一種二種なら相性でどうにか出来るかも知れないが、全てを相手取るのは恐らくミドリには無理である。

 最初は図体の大きさで威圧出来ても、発する気配が貧弱なのだからそのうち弱さがバレるだろう。相手の強さを探れるのは継実やモモの専売特許ではないのだ。いずれ何かに襲われ、呆気なく食べられてしまうに違いない。

 助けにいかなければならない。されど自分達より強いこの靄の相手をしながらというのは、流石に危険過ぎる。それをするぐらいなら誰か一人がコイツの足止めをし、その間にもう一人がミドリを追い駆ける方が幾分マシだ。しかし黒い靄が想像以上に強くて、足止めしている奴があっさり負けてしまう可能性もある。そうなれば各個撃破されるだけ。これは最悪の展開だ。

 この最悪を避けるためには多少の『被害』は黙認し、モモと二人でコイツを確実に撃破する以外にない。

 つまり。

 

「(二手に分かれるか、ミドリを見捨てるかって事……!)」

 

 どちらかを選ばねばならない。

 突き付けられた選択肢。だが、継実が答えを出すのに瞬き一回分の時間さえも不要だ。

 迷うまでもない。

 緊迫する表情の中に、僅かな笑みを浮かべているモモと同じ答えを選ぶだけなのだから。

 

「そっちは任せた!」

 

「任せといて!」

 

 言うが早いか、モモはすぐにミドリの後を追う!

 モモが走り出すと、黒い靄も次の動きを見せた。身体を傾けるや、強烈な力で大地を蹴る! いきなりのフルパワーなのか、それとも奴にとっては軽めのダッシュか。いずれにせよ発揮した速さは凄まじいもの。先に駆け出したモモとの距離を急激に縮めていき、背中を掴もうとしてか腕を伸ばし――――

 隙だらけの顔面に、継実の蹴りが叩き込まれた!

 裸足で喰らわせたそれを、か細い少女の一撃と思うなかれ。秒速三十キロにも達する速さで繰り出され、尚且つ周りの大気分子を纏わり付かせて質量も増大させている。この黒い靄が地球に降下してきた時は、なんちゃって隕石程度の破壊力だったが……継実の一撃は、比喩でなく巨大隕石に値するもの。

 打撃の衝撃波が周りに広がり、大気が加熱されて白煙と化す! さながら爆発が起きたかのような事象を引き起こした攻撃は、黒い靄を彼方へと吹き飛ばした! 呻きどころか吐息一つ上げなかった黒い靄は、継実から五十メートルほど吹き飛ばされたところでくるりと身を翻す。四つん這いのような体勢で大地を掴み、なおも自身を吹き飛ばそうとするエネルギーを強引に抑え込んだ。

 そして黒い靄は『顔』を上げ――――既に自身の目前までやってきた継実を見つめる。

 

「ようやく、一発お見舞い出来たか」

 

 継実は語る。ニヤリと笑いながら、黒い靄を見下ろして。

 花が咲くように裂けた頭には目も触角もなく、何処を見ているのかすら分からない。しかし継実は今、間違いなくコイツは自分を見ている、否、睨んでいると確信した。

 何しろこれまでこれっぽっちも感情を露わにしなかったというのに、今や全身が針のむしろになったと錯覚するほどの鋭い敵意を発しているのだ。ここまであからさまに怒りながら、よもや睨み付けているのが蹴り付けた輩でない筈もない。

 頭の内側がガンガン痛むほど警告を発する。「コイツを怒らせてしまった」と。本能は自分の起こした行動に否定的な、生存の危機を喚き立てるように訴えていた。本能だけで生きる動物なら、今頃恐怖や嫌悪が湧き出し、遅ればせながら慌ただしく逃げ出しているだろう。

 しかし継実の想いはそんな感情達を叩き潰す。

 確かに継実は人間離れしてしまった。敵の強さを数値的に測り、戦力差と環境面だけで勝率を計算する。他者のメンタルや思考を無意識にでも排除してしまう考え方は、最早かつての少女・有栖川継実のものではない。七年間のうちに、無邪気であどけない少女は跡形もなく消えてしまった。

 されど人間・有栖川継実の感情はまだ残っている。

 血縁の有無も相手から得られる利益も関係ない。こうなって欲しいという未来がある――――その未来を迷わず選んでしまうのが、『感情的』で『非合理的』な人間というもの。理性だの合理性だの、本当はそんなものより己の気持ちが一番大事なのが人間だ。だから継実は最も感情的に欲する結末を選ぶ。

 コイツをぶっ飛ばして、全員仲良く家に帰るという結末を。

 

「さぁ来い! こっから先に、一歩でも行けると思うな!」

 

 故に継実は好戦的な笑みを浮かべ、黒い靄と真っ正面から対峙した。

 無論相手との実力差も分かっている。勝率三割で、おまけに命を賭けた大勝負。先程顔面に蹴りを入れてやったが、大したダメージではないし、警戒している今では二度目だって早々決まらないだろう。しかし継実は実のところ、そこまで黒い靄との勝負に不安を感じている訳ではない。

 モモが離脱したのはあくまでミドリの安全を確保するため。ミドリを説得して此処に連れてくるなり、或いは安全なクスノキの洞へと放り込むなり、兎に角事が片付けば此処に戻ってきてくれる。モモも黒い靄の強さは察知しているだろうが、人間のためなら勝ち目のない戦いも平気で選ぶ子だ。それが心配でもあり、同時に頼もしいところ。

 説得時間を三十秒として、三キロ先にあるクスノキまで戻るとしてもモモの足なら往復でも数秒と掛からない。クスノキの奴に『子守』を任せるのに十秒として……諸々のトラブルや危機回避のための回り道があったとしても、六十~百二十秒あればモモは此処に戻ってくる筈。

 

「(いくら相手が格上でも、守りに徹すればそれぐらいは問題ない! この勝負、もらった――――)」

 

 二度目の勝利の確信。一度目は仲間の予期せぬ行動で瓦解したが、此度は頼れるパートナーの行動を主軸にした計算である。不確定要素は今度こそないと、継実は獰猛で勝ち誇った笑みを浮かべた

 直後、ずどん、という()()()()()が継実の背後から聞こえてきた。

 ……勝利を確信した継実の顔が青ざめる。振り向いてはいけない。目の前には自分より遥かに強い敵がいるのだから。それでも粒子の観測範囲を後ろに広げて、何が起きたのかは探ってしまう。

 どうやら、『隕石』が落ちてきたらしい。

 場所は凡そ一・五キロ離れた地点。隕石の落下地点周りを探れば、見慣れた粒子の集まりがある。体毛で人の姿を編んだ犬と、弱々しい人間の二人組。どうやら無事に合流出来たようだ。

 ……そんな二人の前に落ちてきた隕石もまた、大雑把ながら生き物らしき形を取っているようだが。発せられる気配は幾分弱めだが、距離を思えば『先発』と大体同じ。

 

「(に、二体目……!?)」

 

 継実の観測が正しければ、二体目の黒い靄が現れたようだった。よりにもよってモモの近くに。

 こんな化け物が一度に二体も現れるなんて。驚く継実だったが、しかしそんな自分が酷く滑稽に思えた。巨大ゴミムシが跋扈し、クスノキがべらべらと喋り、イモムシが大出力レーザーを撃つのが今の世界。だったら自分より強い黒い靄が二体出てきたところで、それの何がおかしいというのか。いや、もうしばらくは続々と現れる可能性だってある。

 考えたくなかっただけだ。本当の最悪というものを。

 こんな簡単な最悪を考えてもいなかったとは、なんやかんや自分も現実逃避をしていたらしい。人間離れしてしまったと感じていた思考も、根本的には人間のままだったようだ……等と感傷に浸りたい継実であったが、浸れるほど現状は甘くない。

 継実の目の前には、激しい怒りを燃え上がらせている敵がいるのだから。

 

「えっと……ちょ、ちょっとタンマ……あ、いえ、その、まずは話し合いをしませんか……ダメ?」

 

 物は試しに命乞い。

 黒い靄の敵意に変化なし。

 そりゃそうですよね……計算せずとも予想出来た結果に、継実は深くため息を吐く。

 それだけの仕草を間に挟めば、意識を切り替える事など雑作もない。戦う事への忌諱感、殺す事への罪悪感、殺される事への恐怖心――――今から起きる事に対する感情は全てとうに乗り越えたものであり、今更どうこう思うものでなし。

 だから継実は前を見据え、

 突撃してきた黒い靄の蹴りを、交叉させた両腕で受け止めるのだった。



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新たな世界12

 黒い靄が腕を振るう。

 継実よりも長いそれは、まるで鞭のようにしなっていた。直径は継実の腕よりも太いぐらいなのだが、鋭い速さを見るに、直撃を受けた場合のダメージは『打撃』ではなく『切断』になりそうだと継実は感じる。

 試しに周辺大気を集めて防壁を作るが、黒い靄の腕は素通りするかのように触れた防壁を消滅させてしまう。とはいえ継実にとってこの結果は想定内。大きくしゃがみ込んでこれを躱す。

 が、黒い靄は更に先を読んでいた。

 しゃがみ込んだ継実の顔面に、思いっきり蹴りを放ってきたのだ! 腕による一撃を躱すために取った体勢は、迫り来る足技への対処を妨げる。

 

「がっ……! くっ!」

 

 無防備な顔面を蹴られ、継実は何十メートルと空に打ち上げられた。七年前までの身体なら即死、いや、物理的衝撃から変換された熱により蒸発していたであろう威力。

 しかし今の継実にとっては、相手と距離を取るのに使える『形勢逆転』の一手に過ぎない。

 粒子操作の力を応用し、継実は高度三十メートル地点でふわりと舞う。黒い靄は継実を見上げるように顔を向けたが、空を飛んではこない。飛べないのか、少し準備が必要なのか。いずれにせよ三次元機動のアドバンテージを活かすならば今が好機。

 継実はその指先に、能力を集中。煌々と光り始めた指先に黒い靄が何を思うかは分からないが、必殺技の準備中にあれこれ考えるほど継実も間抜けではない。

 

「これは、どう!?」

 

 集めた光の濁流……粒子ビームを黒い靄目掛け撃ち出した!

 無数の大気分子を掻き集め、集結させた運動エネルギーを解き放つ事で物体を破壊する一撃。七年前に放ったものさえも、あたかもどこぞのアニメ映画に出てきた生物兵器よろしく町を薙ぎ払い、世界を七日で焼き尽くしただろう。それもたった一人で。

 今の継実が放つものは、当時の比ではない。より高密で、より加速した粒子の集まり。核兵器であろうとも及びも付かない一撃は、あらゆる原子を粉砕する。最早この攻撃に耐えられる物質などありはしない。

 そう、ありはしないのだ。理屈上は。

 しかし理屈を炉端の石ころよりも簡単に乗り越えるのが『現代』の生命。継実もそんな生命の一員であり、そして黒い靄は継実よりも強い。ならばどうしてこんな攻撃にやられるというのか。

 攻撃を繰り出した継実自身期待なんてしておらず、なんらかの方法で防がれると踏んでいた。故に黒い靄が回避運動すら取らず、粒子ビームを胴体で真っ正面から受け止める事、それでいてなんのダメージもない事は想定済みである。

 継実にとっての想定外は、撃ち出した粒子が命中した傍から()()()()()事だ。

 

「くっ……!」

 

 通じない攻撃を続けてもエネルギーの無駄。意識を切り替えて、今度は小さな粒子ビームを無数に放つ。

 散弾のように降り注ぐビームは、黒い靄の手足や尾っぽのみならず大地にも直撃。植物達には通じずとも、加熱された土壌と大気が過熱・溶解して爆散する。全方位から生じた衝撃波が黒い靄を飲み込んだ

 が、黒い靄は怯みもせず、衝撃波を突き抜けて跳躍! 空中を漂う継実に肉薄してきた!

 

「ぐぎ……! こ、の……!」

 

 黒い靄の方がずっと速く、継実は突撃を躱せず。組み付かれた継実は、力を受け止めきれずに空中でぐるぐると回ってしまう。

 この遠心力で気持ち悪くなってくれれば継実にとって儲けものだが、黒い靄は気にした素振りすらもない。三半規管など持ち合わせていないと言わんばかりに、回転する中でも正確に継実に殴り掛かる。組み付かれた状態で満足な回避など出来る訳もなく、何度も何度も、継実は頭を殴られた。継実も右手で黒い靄の腕を掴んで引き離そうとしたが、爪なんてない筈の指は継実の皮膚に深々と突き刺さり、食い込んでくる。更には尻尾が巻き付き、左腕の動きまでも封じてくる始末。

 力で押さえ込まれてしまい、抵抗どころか身動きも儘ならない。だが、それでも継実にはまだ手がある。

 空を飛ぶこちらへの接近方法、そして身体に加わった力の感覚から考えるに、恐らく黒い靄に飛行能力はない。力でいくら上回ろうとも、空中機動で主導権を握るのは継実側だ。

 無論パワーで上回る相手を振り解くのは至難の業。されど主導権があるならやりようはいくらでもあるものである。

 例えば、地面目掛けて全速力で落ちるとか。

 

「はああぁぁっ!」

 

 最大速力で地面へと向かう継実。言うまでもなく、下側に位置するのは黒い靄の方。

 継実の思惑を察したであろう黒い靄は、しかし不様に暴れる事もなくその靄のような身を強張らせるのみ。空を飛べない以上抗っても無駄と判断したのか。

 遠慮なく継実は飛び続け、黒い靄を大地に叩き付けた! 足蹴の一撃だけでも流星に値するパワーだったが、全身を使った突撃はその比ではない。

 もしも此処が七年前の、人類文明が絶頂期を迎えていた頃ならば、この一撃で有史に残る大量絶滅が引き起こされていただろう。正しく破滅の打撃……しかし今や時代遅れの破滅だ。地面の草花は一本たりとも千切れず、継実自身この打撃の余波を受けているがピンピンし、滅びるどころか怪我もない。直撃を受けた黒い靄も、ほんの僅かに怯んだだけ。

 だがこれで十分。

 

「は、なせぇっ!」

 

 僅かに掴む力が緩んだのを逃さず察知し、継実は身体を折り畳むようにしながら足を上げ、思いっきり相手の頭を蹴り付ける! 顔面(と思しき部分)を踏み付けられるのは流石に堪えたのか。黒い靄の腕を掴む力が更に緩んだ。

 この好機を逃さず、継実は蹴り付けた反動を利用して跳躍。未だ尻尾は巻き付いていたが、この一本だけならなんとかなる。粒子テレポートの原理を応用し、巻き付かれている腕を粒子レベルで()()()()()()()事ですり抜けた。黒い靄も捕まえきれないと判断したのか、尻尾をバネのようにして跳ねながら後退。

 その隙を突いて、継実は一発のビームを黒い靄の顔に撃ち込む。

 出力そのものは大したものではないが、速度を重視した一撃だ。なんらかの能力で無効化を試みる相手に対し、その無効化が効力を発揮する前に通り抜ける……そのような対策として編み出した技。

 が、黒い靄はこれに驚いた様子も恐れる素振りもなく、まるで何も迫っていないかのように平然としたまま。

 そうした態度が虚勢であれば笑えたが、当たった傍から消えていくビームを見れば、撃ち込んだ継実の方が表情を強張らせる事となった。

 

「……ふん。中々やるじゃない」

 

 あからさまな強がりを言ってみる継実だが、黒い靄は無反応。確かに日本語以前に人語が伝わるかも怪しい相手だが、こうも無反応だと却って調子が狂う。

 

「(分かりきった反応に狼狽えない……本能だけじゃなくて冷静さでも負けたら、人間じゃ動物に勝ち目なんてないって思い出せ……)」

 

 継実は静かに息を吸い、全身の熱と共にゆっくりと吐く。幾分筋肉の火照りが取れれば頭も一緒に冷えていき、闘志で燃えたぎっていた知性に落ち着きが戻った。

 無論相手は継実にのんびりと考える時間など与えてくれない。完全に体勢を立て直すや再び継実の下へと突進。継実はこれを迎え撃たず、後ろに下がって守りに徹する。少しでも思考に集中するために。

 

「(強さについては予想通り。押され方も、まぁ、大体こんなものか)」

 

 殴り付ける強さ。追い駆けてくる速さ。反応速度に防御力……どれも事前に予測計算した通り。全力は引き出せていないとしても、手加減はされていないだろう。発せられる純粋な敵意からしても、それは間違いあるまい。

 気になるのは奴の『体質』だ。

 

「(粒子ビームが当てた傍から消えている。周りの大気や、私が着ていた服と同じように)」

 

 初めて出会った時から見せていた、周辺大気分子の喪失。黒い靄の周りで起きていた奇怪な事象は、今も絶え間なく続いている。継実が着ていた毛皮の服も、殴られたり蹴られたりした傍から消えていき、今や継実は殆ど全裸という有り様だ。

 エネルギー保存則をガン無視したトンデモ現象。どのような意図、或いは目的で常時発動しているかは分からないが……その性質は理解する。

 『触れたものを消滅させる』。

 これが黒い靄の能力だと、継実は解釈した。なんらかの能力の副産物という可能性もあるが、とりあえずはそうであるという前提にしておく。

 

「(そして粒子ビームを顔面に喰らわせても、怯みもしない)」

 

 顔面目掛け振るわれた黒い靄の拳を、右腕を振るって払い除ける継実。思考中であるが、無意識に身体が動いていた。

 怯まない、というのは、単純にダメージがないという事だけを意味しない。人間なら顔面になんらかの攻撃が迫ってきた時、普通は守りを固めるなり回避を試みるなりするだろう。例えその威力が自分を傷付けるほどではないとしても、だ。

 特に顔面、正確に言えば情報処理の中枢である脳が存在する頭は、生物にとって最も重要な器官である。どんなに貧弱な攻撃だろうが、万一に備えて『過剰』な反応を示すのが普通。一応この黒い靄が普通の生物と違って、頭らしき部分に大切なものが詰まっていない可能性もあるが……散弾のように無数のビームを放った時にも、これといった反応は見せなかった。頭以外の何処かに重要な器官があったとしても、無反応を貫いた事を意味する。

 つまり。

 

「(アイツは自分の能力に絶対的な自信を持っている)」

 

 これは非常に厄介だ。

 黒い靄が余程のアホでもない限り、その自信は決して過信や驕りではない。普通の方法では、奴には決して届かないという事である。

 無論無敵の能力などあり得ない。なんらかの弱点はあるものだ。しかしながら能力の出力が大きければ『低出力』の弱点なんて力押しで潰せるだろうし、その弱点が継実に突ける代物とは限らない。そもそも触れたものを消滅させる能力の弱点なんて、継実にはまだ何も思い付いていなかった。

 とはいえ対策がない訳でもない。

 考え事をしている継実に対し、黒い靄はぐるんと一回転。臀部に着いている立派な尾っぽを振るった。その尾の通り道にある大気分子は全て触れた傍から消滅していき、尾にもご自慢の能力があると物語る。

 継実はこの尾を()()()()()()

 がっしりと捕らえた尾。目も口もない黒い靄には窺い知れるような表情など存在しないが、僅かに「しまった」と言いたげな雰囲気を持つ。継実はすかさず身体を回し、尾を背負うように肩へと乗せた。

 

「どっ、せいっ!」

 

 そして渾身の力で一本背負い! 黒い靄は大地に叩き付けられる!

 黒い靄の下は草で出来た天然絨毯とはいえ、音の何倍ものスピードで叩き付ければ柔らかさなど無意味。衝撃で舞った土が黒い靄に掛かり、次々と消えていく。反面下敷きになった草花達は、ざわざわと蠢くだけ。千切れた葉の一部が黒い靄に降り掛かり、真っ黒な身体に緑のデコレーションを加えた。尤もデコレーションはじわじわと消滅し、最後には消えてしまうが。

 大体にして継実は、このデコレーションを楽しむつもりなど毛頭ない。

 

「この! このこのこのこのォッ!」

 

 倒れた黒い靄に対し、その頭目掛けて『蹴り』……踏み付けを行う!

 黒い靄はこれを避けようと頭を左右に振るが、しかし首の可動範囲などたかが知れている。何度も放った足蹴は、それなりの頻度で命中。確かな手応えを継実は感じた。

 ――――このままその真っ黒な頭、踏み潰してやる!

 普通の人間には残忍過ぎて真似出来ない思考と行動も、七年間野生の世界に身を置いた継実には造作もない。渾身の力を込めた一撃を喰らわせようと、高々と足を上げた

 

【イギビィヨオオオオオロロロロロロロロロロロロロロロロロ!】

 

 瞬間、黒い靄が吼えた。

 初めて聞かされた声に、継実の頭は一瞬その意図を解析しようとしてしまう。すぐに本能が理性を押さえ付け、構わずコイツの頭をぶっ潰せと足に命じたが、一手遅い。

 黒い靄は素早く大地目掛け、両腕で殴り付ける! 巨大地震を引き起こした打撃は、されど目的は大地を揺らす事ではなく、反動で押し倒された自身を起こす事。

 上に乗っていた継実も、その黒い靄が起きた事でバランスを崩す。慌てて後退し、反撃とばかりに繰り出された真っ黒な腕は回避出来たが……折角取ったマウントを解かれてしまった。

 しかし、継実はにたりと笑う。

 

「(やっぱり、生身なら触れても問題はないし、ダメージも与えられる)」

 

 黒い靄の『弱点』を確信したがために。

 どうやら黒い靄の能力は、生物体には通じないらしい。継実が触れてもなんでもなかった事と、地面の草が無事な事がその証拠だ。

 ……生物体を形成している原子なんて、それこそ九割以上大気分子と同じものの筈なのだが、何故平気なのだろうか? 魂や精神なんてものがあるなら生物体と無機物の区分けになるかも知れないが、そんなものがこの世に存在しない事は継実の粒子テレポートが実証している。それに生物体にしても、千切れた草が時間差で消えたので、死体は物扱いらしい。

 まさか生体電流程度のもので無効化されるような、ちゃちな能力でもあるまい。全く理屈が分からず、果たしてこの『弱点』を素直に突くべきか迷う。何かの罠や、仕掛けを施されているのではないか……

 疑心暗鬼に駆られる継実だが、されどその悩みが杞憂である事はすぐに理解出来た。

 黒い靄から、()()()が放たれ始めた事で――――



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新たな世界13

 第二形態、と呼ぶのは漫画っぽいかな?

 現実逃避をするように理性がそんな暢気な考えを抱く中、本能は悲鳴染みた警告を上げていた。これは本気で不味い、と。

 黒い靄が、全身から黒い光を放ち始めた。

 黒い光というのは、なんとも矛盾した物言いだとは継実も思う。光の反射がないからこそ、黒という色は生まれるのだ。しかし黒い靄が纏うものはそうとしか表現出来ない。放射状に広がるそれは、じわじわと空間そのものを浸食しているようにも見える。

 これがどのような原理で発せられたものか、継実には分からない。分からないが、一つだけ確かな事があった。

 奴が本気になったという事だ。

 

「――――っ!?」

 

 ぞくりと、背筋を駆け抜ける悪寒。継実は反射的に両腕を構え、防御を固める。

 刹那、黒い靄が継実の眼前にまで迫っていた。

 あっ、と驚く暇もない。黒い靄はぶくぶくと腕を膨れ上がらせながら、継実目掛け殴り掛かる! 事前に構えていた両腕のガードを真上から、あたかも防御など気にしていないとばかりに叩く。

 本能的にとんでもないものが来ると予感し、咄嗟とはいえ最大限の守りを固めていた継実。が、黒い靄の一撃は継実の両腕を軽々と突き飛ばす! 構えていた継実の腕はあまりの衝撃を受け止めきれず、まるで万歳のように広がってしまう。

 しまった、と思った時には手遅れ。

 黒い靄は、これまでとは比にならない速さで蹴りを繰り出した! ろくに防御が取れなかった継実は、その一撃を腹に受けてしまう。身体は大地から離れ、さながら流星が如く勢いで飛ばされた。草原の大地に激しく打ち付けられ、何度も身体が跳ねる。

 三度目のバウンドの後ぐるんと空中で身を翻し、体勢を立て直す……ものの、足腰がガタガタと震えて上手く立てない。全身がバラバラになりそうな衝撃をどうにか耐えたが、ダメージそのものは小さくなかったのだ。食い縛る口からはだらだらと鮮血が滴り、内臓が激しく痛みを訴えていた。

 無論これほどの攻撃を躊躇なく繰り出してきた相手が、継実の苦悶の顔を見て手加減してくれる筈もない。

 

【イギロォオオオ!】

 

「っ!? ぐっ……」

 

 黒い靄は瞬く間に再接近。継実は肉体再生を中断し、動き出す。組み付けば相手の素早さは活かせず、少しは形勢がマシになる筈……

 最早願望染みた作戦だったが、黒い靄は願望すら許さない。超音速で跳び付こうとした継実を、黒い靄は軽やかに回避。むしろ跳んでいる継実の側面に回り込むや、その背中に強烈な拳を叩き込んだ!

 

「あぎっ、がっ!?」

 

 地面に叩き付けられたのも束の間、黒い靄はすかさず継実に蹴りを入れる。

 脇腹の骨が砕かれた感覚、更に内臓に突き刺さるような痛み。地獄のような苦痛と共に継実の身体は再び空を跳ぶ。

 常人ならば ― そもそも身体が余熱だけで蒸発して吹っ飛ぶという点を抜きにすれば ― 痛みで思考そのものが停止するだろう重体。されど超生命体に支配された世界において、内臓破裂など有り触れた怪我だ。継実とてこの程度の怪我は既に慣れっこ。粒子操作能力を応用して過剰な発痛物質は分解しつつ、身体の再構築を試みるといった『回復方法』は会得済みである。時間さえあれば問題なくこの怪我は回復出来るだろう。

 しかしその時間を与えてはもらえない。

 黒い靄は凄まじい速さで跳躍。空中で藻掻く継実に追撃を仕掛けてきた!

 容赦のない追い討ち。しかし継実にとってはチャンスでもある。向こうは空を飛べないのだ。上手く身を翻して躱せば、それ以上の追撃は不可能。僅かだが時間を稼げる。

 そう考えた継実は意識を体組織の再生ではなく、迫り来る黒い靄に集中させた。精度の高い攻撃は、躱す余裕があるならむしろ軌道が読みやすい。ギリギリを見極めて回避。黒い靄は素早く腕を伸ばしてきたが、その速さと距離も計算に織り込み済みだ。奴の指先が首の皮一枚を掠める、その僅かな距離感を見極めた

 筈なのに、何故か継実は首を掴まれてしまう。

 

「ぅ――――ッ!」

 

 嘘、と思わず言葉に出しそうになる継実だが、それはごくりと飲み込んだ。言葉でいくら否定しても現実は変わらない。過酷な環境下に適応した継実の頭脳は、即座に自分の身に起きた事象を解析する。

 どうやら黒い靄は、僅かに腕を()()()()らしい。攻撃前と比べて、十センチ以上腕の長さが増していた。

 思えば地球降下時は球体であり、人型のような姿と化したのは地上に立ってから。黒い靄は不定形の存在なのだから、腕を伸ばすぐらい造作もない。戦闘時にこうして物理的に伸びてくる事など、簡単に想像出来た筈なのに!

 自分の失態には気付いた。しかし自己嫌悪は後回し。それよりも重大な問題が起きている。

 黒い靄は継実の首をがっちりと掴んでいた。しかも黒い靄の、爪もない指が強く皮膚に食い込んでいる。そしてひりひりとした痛みが走り、少しずつ食い込み方が強くなっているのが分かった。

 どうやら『触れただけで消滅させる力』は、本当は生物にも有効らしい。あくまでじっくり触れねばならないというだけで。

 このままでは皮膚を破られ、動脈やら何やらも消滅させられて、頭と胴体がお別れになってしまう。それは流石に不味いと、継実は粒子テレポートの応用で逃げようとした。

 が、黒い靄にとってこれは二度目の手口。

 対策などお見通しとばかりに、黒い靄は継実を大地へと投げ飛ばす! 自由を手にした継実だが、身体に加わる運動量が大き過ぎて、持ち前の飛行能力で減速しきれない!

 

「がふっ!?」

 

 地面に顔から叩き付けられ、呻く。全身が痛み、上手く身体が動かせない。されど継実はすぐに両手両足に力を込め、カエルのように飛び跳ねる。

 一ミリ秒と経たずに、自分が居た場所に黒い靄が突撃してきた。継実を投げ飛ばした後着地し、猛スピードで駆け付けるという方法で。

 跳ねた事で継実はこれを回避、したものの黒い靄のスピードから生み出された暴風が全身を打つ。最早ハリケーンなど及びも付かない爆風は、継実に殴られるような衝撃を与え、何十メートルとその身を吹き飛ばした。迫り来る地面に対し咄嗟に四肢を突き出して着地、を試みたものの、身体に力が入らない。

 止まりきる事が出来ないまま、再びバランスを崩した継実は大地を転がる。手を伸ばして草を掴み、百メートル以上飛ばされるのは防いだが……最早立ち上がる力は残っていなかった。血でベタつく口を強引に開き、荒れた息で酸素を取り込みながら継実は思う。

 こりゃ勝てない、と。

 

「(まぁ、本気を出せばこれぐらい強いよねぇ……)」

 

 最初から予期していた通り、元々負け濃厚の試合だ。向こうが本気になれば、このぐらい一方的に押されるのも当然だろう。モモと二人で挑めば、動体視力と反応速度に優れるモモが敵の気を惹き、パワーとスタミナで勝る自分が動きを止める……といった戦術も使えたのだが、今更ないものねだりや後悔をしても始まらない。

 未だ黒い光を纏っている靄は、ゆっくりとした歩みで継実に躙り寄る。こちらに止めを刺すつもりで、しかしなんらかの反撃を警戒しているのだろう。これだけの強さを持ち、一方的に相手を追い詰めてもなお油断しない……戦いからしてそうだと感じていたが、やはり文明人ではなく、野生動物のような存在らしい。尤も、敵が文明人でも野生動物でも、それがなんだという話であるが。

 

「(そろそろ止めか)」

 

 ぼんやりと思えば、黒い靄はまるでその考えに応えるかのように駆け出した!

 猛烈な速さ。確実に継実を上回るスピードに、最早逃げ出す気力すら出せない。頑張って立ち上がったところで、両腕を振り回す暇もなく奴は蹴りなり拳なりを繰り出すだろう。それを真っ正面から受け止めるのは、流石にそろそろ厳しい。

 純然たる死が迫る中、継実は思った。

 やっぱり、()()()()()()()()()()、と。

 

【ッ!?】

 

 もう数メートルで継実に接触出来る。そこまで近付いた黒い靄が、跳ねるように後退していく。

 継実と十メートル以上離れた靄は、四つん這いの体勢を取る。相変わらず顔から表情や感情は窺い知れないが、纏う雰囲気はこれまで以上に激しく、警戒心を強めていた。そんな威圧的な空気を発しながら溢れ出す黒い光を背負う姿は、かつての人類ならば悪魔的恐怖を感じ、恐れ慄いたに違いない。

 されど人類の生き残りである継実は恐れない。人間の心を逸脱したから? 確かにそうした点がないとは継実自身思わなくもないが……ちょっと違う。

 理由はもっとシンプル。

 悪魔すら恐れる必要がないぐらい、継実もまた強くなったのだ。

 

「……ふぅー。やっぱり、これを使う事になったか」

 

 ぽそりと、継実は独りごちながら立ち上がる。

 自慢の黒髪が、青く色付いていた。髪の周りの空気はゆらゆらと揺らめき、パチパチと音を鳴らす。

 両腕は肘の少し上から指先に掛けて青い光を纏い、さながら長い手袋(イブニング・グローブ)のよう。ただしお洒落なアイテムではない。この青い手袋は指先がナイフのように鋭く尖り、火花のような閃光を迸らせているのだから。

 そして瞳。黒い瞳は虹色に輝き、液体のように色合いを変化させていた。白目はじわじわと赤く染まり、普段とは比にならない血流が集まっている。

 継実の身に起きた変化は三つ。されど黒い靄は察知しただろう。継実の身体能力に起きた事は、この三つの変化よりも更に劇的であると。

 

「やっぱり、なるだけでも消耗が大きいのは問題点だなぁ……それに時間制限もあるし」

 

 ぐるぐると肩を回し、背中を伸ばし、首を鳴らし……繰り返す動作は準備運動のそれ。事実継実にとっては、ここまでの全てが準備運動だ。

 計算から導き出した勝率も、()()()()()を想定して得たもの。

 黒い靄はどしりと構え、継実と向き合う。迂闊に跳び出さないのは、継実の新たな姿を警戒しての事か。その警戒心は実に正しい。がむしゃらに突っ込んでくるような奴なら、継実の勝率は九割を超えていただろう。

 逆に言えば適度に慎重であるが故の強敵。

 

「それじゃあ、第二ラウンドにいこうか」

 

 継実もまた我流の、相撲取り染みた前傾姿勢の構えを取り、黒い靄と向き合う。

 張り詰めていく空気。ぶつかり合う闘志は、本当に空気を弾けさせていく。刻々と高まる緊張感――――

 

「あ。その前に一つ訂正しておかないとなぁ」

 

 その空気をぶち壊すように、継実は唐突に惚けた声で独りごちる。

 黒い靄は継実の言葉など、恐らく理解していない。しかし張り詰めた空気の中、唐突に発せられた『空気の振動()』を攻撃開始の合図と受け取ったのか。黒い靄は溜め込んでいた力を解放するような、驚異的な加速で駆け出した!

 瞬時に肉薄し、強烈なパワーを溜め込んだ腕を振るう黒い靄。目の前にやってきた脅威に向けて、継実は暢気に告げる。

 

「勝率は三割じゃないや。今、計算し直したら――――六割だった」

 

 超速の戦闘で発せられた早口。そもそも音の速さでは遅過ぎる戦い故に、黒い靄に継実の声など届くまい。

 だから黒い靄は継実から逃げる事も、守りを固める事もなく、一片の容赦もなくその拳を振り下ろし。

 その一撃を掠めるようにして避けた継実は、自らの拳で黒い靄の顔面を打ち抜くのだった。



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新たな世界14

 全身に蓄えたエネルギーを次々と熱に変え、どんどん身体を加熱していく。

 熱は運動量に変換し、身体を構築する粒子の活性化に使用。暴れ回る粒子により生じた『余熱』は、表面積が大きい髪、そして攻撃に使える腕から放熱する。ちょっとばかり余剰熱量が多過ぎて髪と腕が青色発光(一万度)程度に達しているが、大した問題ではない。

 そうして全身の運動量を増幅させると何が起きるのか? 粒子同士の運動一致による加速、周辺大気の抵抗喪失による速度上昇、空気抵抗に奪われていたエネルギーの攻撃転化、神経伝達物質の高速化による反応性アップ……等々複雑なプロセスを省略し、ごく単純に結論を述べるならば――――身体能力が格段に上昇する。

 黒い靄が黒い光を纏ったのが本気であるならば、これこそが継実の本気の姿。

 これが継実の『戦闘形態』だ!

 

【イギィイロオオオオオッ!?】

 

 継実にカウンターを決められた黒い靄は、弾丸のように吹っ飛ぶ! 空中でぐるんと宙返りをし、体勢を整えようとしているが――――継実はそれを許さない。

 吹き飛ぶ黒い靄よりも速く駆け、至近距離まで接近。跳び付くようにして黒い靄の腹部を両足の太股で挟む。

 人間の男ならば一瞬心奪われるような攻撃も、黒い靄はすぐに意図を察したのだろう。両手で継実の足を掴み、引き千切ろうとする。無論これは予想通り。そんな隙など与えない。

 ぐるんと空で縦回転。

 空を飛べる継実の動きにより、足で挟まれた黒い靄の身体もまた宙に浮かんだ……次の瞬間、黒い靄は頭から大地に叩き付けられる! 黒い靄は呻きなど上げないが、されど継実の太股から手を離す。継実も足を離して一旦体勢を整えるが、黒い靄はまだ大地に頭を打ったまま。継実の方が数段早い。

 この隙に、もう一度さっきの攻撃を喰らわせるか。

 継実の思惑は、流石にそこまでは通じなかった。黒い靄が全身から放つ、黒い光がその勢いを増したのである。ただの光ならばレーザーでもない限り継実の脅威にはならない筈だが、黒い光には何かしら特殊な力でもあるのか。()()()()()()()()()ような、奇妙な感覚により継実は黒い靄から引き離された。

 後退していく継実に対し、ダメージなどないとばかりに立ち上がった黒い靄は追い討ちを掛ける。両腕を広げ、バラバラのタイミングと軌道で振り下ろす。規則性のない攻撃は極めて野性的で、故に直感では読み難い。

 尤も、見えているならば避ける事は容易いもの。

 継実は接触する直前、僅かに下がる。不定形の存在である黒い靄は腕を自在に伸ばせるが、突然の動きには対処出来なかったのだろう。振り下ろした腕は、継実の鼻先を掠めるだけ。

 がら空きになった脇腹に、継実は渾身の蹴りを放った!

 命中時に感じる手応え。この黒い靄には内臓なんてないのか、そうしたものを潰した感触は得られなかったが……間違いなく大きなダメージは与えただろう。

 でなければ、蹴りを受けた黒い靄がぷるぷると痙攣するように震える筈がない。

 

【イ……イギイギギィイギィロロイギィイイイイロロロロロオオオオオオ!】

 

 雄叫びを上げ、ぶんぶんと腕を振り回す。顔のない頭など見ずとも、コイツが焦り、必死なのはありありと伝わった。継実が避けても攻撃の手は弛めず、むしろどんどん力とスピードを上げていく。

 そうした仕草の一つ一つが、継実に核心を与える。

 コイツは、苦戦を経験した事がない。

 

「(そりゃまぁ、七年前の地球だったら、コイツの侵攻なんて止められなかっただろうし、それも仕方ないかもだけど)」

 

 宇宙に暮らす生物、或いは文明というものの『平均的な戦闘能力』がどの程度なのか。地球外の事など知る由もない継実にはさっぱり分からないが……仮に七年前の地球が平均的なものだとすれば、黒い靄は宇宙の至る所で無敵を誇った筈だ。あらゆる物質が触れた瞬間消える以上、戦車砲も地中貫通弾も、そして核兵器も通じない。唯一通じる可能性があるのは生物による肉弾戦だが、漫画の戦闘民族染みた身体能力の持ち主に、秒速三百四十メートルすら目で追えない生き物がどう立ち向かえと言うのか。

 『世界観』に合わないほど圧倒的な能力と肉体。さながら人類文明全盛期に流行した主人公最強系小説が如く、最早カタルシスすら感じぬほどの一方的な暴虐をこの黒い靄はあらゆる星で繰り広げた事だろう。

 だが、そうした奴には弱点がある。

 苦戦した事がない点だ。つまり自分より強い相手と出会った時にどうすべきか? 自分の知らない能力相手にどう振る舞うべきか? ……このような危機に対する経験がちっとも育まれていない。無論その手の物語でこんな心配やいちゃもんは無粋というものだが、現実ではそうもいかない。無限に広がる大宇宙の中、自分より強い奴がいないと()()()()()()()()

 その思い上がりに気付かぬまま、奴は降り立ってしまった。最早文明など足下にも及ばなくなった、野生の楽園(地球)に。

 そして継実は、自分より強い奴との戦い方を熟知している。

 

「(狼狽えず、冷静に)」

 

 顔面に迫った拳を、継実は首の動きだけで回避。

 例え一撃で首の骨をへし折られるような攻撃でも、当たらなければ意味がない。動きが読めるのならば読み、躱せるなら躱し、無理なら防御。どんなに追い込まれても、慌てなければチャンスは掴める。

 

「(強い奴ほど、もしもを考えない)」

 

 継実の反撃を恐れないかの如く、黒い靄が繰り出すのは絶え間ない連続攻撃。何度も殴られたのに、構わず継実に殴り掛かる。

 どんな攻撃を受けても、ビクともしない無敵の肉体の持ち主だ。そんな身体で何度も戦い、全てを無傷でやり過ごしたなら……そいつの性根はもう、歪みきっている。ちょっと痛い目を見たところで根幹は変わらない。

 故に現状を打開しようと浅はかにも特大の攻撃を仕掛け、その自信故に攻撃後の大きな隙を気にも留めない。いや、習慣がない故に、気に留めるという事が出来ない。

 

「(今だ!)」

 

 継実が予想した通り、黒い靄が繰り出したのは薙ぎ払うような尾の一撃。横一閃の攻撃は、当たれば継実に大きなダメージを与えただろう。が、身体を回転させるというあからさまな前振りがあり、何より動作が長い。

 身体能力を上げた継実ならば見切るのは容易。やってきた尻尾を縄跳びのように飛んで避ければ、見えるのは黒い靄のがら空きの背中だ。

 飛んだ継実は前転するように空中で回り、黒い靄の後頭部に踵落としを炸裂させる!

 

【ロギィ……!?】

 

 倒すどころか反撃を喰らい、黒い靄は狼狽えたような声を漏らす。その身体はますます激しく震え、そして纏う闘志に焦りが滲む。

 こうもハッキリと表に感情が出ていれば、苦し紛れの蹴りが飛んでくる事も想定可能だ。飛んできた前蹴りは空中で身を翻して回避し、飛行能力を活かして継実は地面へと素早く着地。そして一本立ちになった足を払えば、がくんと黒い靄は体勢を崩す。

 流石にそのまますっころぶほど鈍臭くはなく、素早く片手を突いて体勢を立て直そうとする黒い靄。しかし継実がそれを許さない。ぶらぶらと無防備に揺れている尾を抱きかかえ、渾身の力で引き寄せた!

 

「ふんっ!」

 

【ギロッ!?】

 

 そして軽々と持ち上げた黒い靄を、さながら砲丸投げの如く放り捨てる! 黒い靄は頭から地面に墜落し、バク転しながら立ち上がった……直後を狙って、追い駆けていた継実は顔面にパンチを一発。大きく仰け反った黒い靄はそのまま後ろに倒れ、またしても大地を転がる。何回転かして起き上がった時、黒い靄はぶるぶると震えていた。

 継実が打撃を与える度、黒い靄の身体の震えはどんどん激しくなっていく。

 震えの意味はよく分からないが、黒い靄の焦りが強くなっていく辺り、向こうにとっては良くない兆候なのだろう。或いは単純に怒りの表れか。どちらにせよ先程までと形勢が逆転し、今や継実が追い込む側だ。

 しかしながら継実は内心、少なからず焦りを覚えていた。

 『時間切れ』が迫っているからである。

 

「(残り時間は、あと三十秒かな)」

 

 自分の身体を冷静に分析し、タイムリミットを算出。具体的な、そして近々に迫った『ピンチ』にため息を漏らしたくなる。

 継実が繰り出したこの『戦闘形態』。何故最初から繰り出さなかったのかといえば、一番の理由は燃費が悪いから。この状態は、大量のエネルギーを消費し続けるのだ。更に身体への負荷が大きく、あまり続けると身体に回復不能な障害を残しかねない。

 平時と戦闘形態の関係は、例えるなら燃料の灯油とガソリンのようなもの。灯油はゆっくりと燃えるため燃費が良く、また爆発的な燃焼も起こさないので安全性が高い。対してガソリンは爆発的燃焼により、短時間で大きなエネルギーを引き出せるが……反面扱いが難しい。ちょっとした不備により大事故が起こるかも知れない危険物だ。そして一気に燃えてしまうので、どうしても燃費が悪くなる。

 継実の『通常形態』はさながら灯油。身体への負荷なんて考えなくて良いし、お腹の空きも緩やか。大きな力は出せないが、ネズミやイモムシを仕留めるには十分。日常生活で使用するならこちらの方が圧倒的に便利なのだ。

 しかし強敵と戦うならば『戦闘形態』を取るしかない。エネルギーが尽きようとも、身体が壊れるリスクが生じようとも、ありのままの姿では生き残れないのだから。

 そうしたリスクを許容範囲に収められるのが、あと三十秒という事だ。

 

「(押してはいるけど、決め手がない。なんやかんや、パワーは未だに向こうが上手だし)」

 

 継実が今こうして黒い靄を押せているのは、あくまでも戦闘経験の差だ。当初予測した勝率三割は、単純なパワーの差から導き出したもの。絶望的ではないが、打ち倒すにはちょっとばかり高い壁である。

 ならば『奥の手』を繰り出すしかない。こんな事もあろうかと、という訳ではないが、強敵対策として編み出した大技だ。その技を使えば、黒い靄にも致命傷を与えられる目算が高い。

 無論、これまでその技を使っていないのには相応の理由がある。

 

「(問題は、暢気に計算している暇がない事か)」

 

 技の発動には莫大な量の演算と、精密な計算結果を必要とするのだ。

 演算量が多いというのは、それだけで時間を取られてしまうもの。人類が作り上げたスーパーコンピュータ以上の計算能力を以てしても、最短三秒は必要だ。いくら身体能力を上げたとはいえ、三秒間も棒立ちしていれば呆気なく継実は殺されるだろう。ミリ秒単位の硬直すら継実達には『長い』のだから。

 では演算に割く力を落とし、戦いながらゆっくりと計算するのは? 出来なくはない。が、継実としてはやりたくない。何しろこの技、計算を少しでも間違えれば……最悪自分が爆発して吹っ飛ぶ。片手間に暗算してうっかり、なんて事になれば間抜けにも程がある。

 それに、少しばかり黒い靄を追い詰め過ぎてしまった。

 いくら弱い者虐めしかしてこなかったお調子者とはいえ、そろそろ『身の程』を弁えてきた頃だろう。こうなると厄介だ。こちらが怪しい動きを見せれば、必ず警戒心を強める。もしも繰り出すのすら大変なこの大技を躱されたら、それだけで形勢は継実の不利となる。

 どのようにすれば怪しまれず、そして確実に計算が出来るのか……その妙案が浮かばない。時間が経つほど、身体のリミットが迫るほど焦り、歯を食い縛ってしまう。

 されど悔しがっても、苛立っても結果など出やしない。故に継実は頭を働かせる。繰り出される拳をはね除け、回し蹴りを顔面に放ち、腕にもらった一撃など構わず、鳩尾に頭突きを喰らわせて、

 仰け反った黒い靄に、大振りの拳を放ってしまった。

 

「――――あっ」

 

 しまった。そんな気持ちが溢れるかのように、継実は声を漏らす。

 考え過ぎた。

 言い訳をするならそんなところ。無論怒りか焦りで震える黒い靄が、継実の弁明を聞いてくれる筈もなし。

 時間にして数ミリ秒。七年前の生物にとっては瞬きの数十分の一もの刹那だが、今や背筋が凍り付くほどの『溜め』。

 黒い靄は、これまでにない速さで自らの尾を繰り出した。

 不味い、と思うような時間はなかった。咄嗟に腕を構えたり、身を捩る事すら出来ない。黒い靄が全力で溜め込み、解放した力は、継実の反応速度を優に超えている。

 躱せない。脳裏に過ぎった言葉は現実と化す。

 伸ばされた黒い尾は、継実の胸を容易く貫いた。

 

「がっ! あ、が……!?」

 

 走る激痛で呻き、反射的に尾を掴む継実だが……今更な行動だ。黒い靄の尾は既に継実の背中をも貫き、何十センチも伸びている。

 貫いた場所も致命的。心臓をやられていた。突き刺さった尾が蓋の役割を果たしているため、穴からの出血はあまり多くないが、最早ポンプとしての機能は失われている。むしろ鼓動する度に穴から血が噴き、事態を悪化させていく。

 

「こ、んな……この……て……」

 

 藻掻き、暴れるほどに、継実の顔は青くなる。全身からは力が抜け、必死に尾を掴んでいた手も離してだらんと垂れ下がる。

 数秒もすれば、継実はもう、動かなくなった。

 

【……イ、イギィロオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!】

 

 それは歓喜か、安堵か、怒りか。地球生命には窺い知れない不気味な咆哮を、黒い靄は上げた。

 奴は勝利したのだ。この星で最初に刃向かってきた生き物に。

 黒い靄がこれまでどのような旅路をしてきたか、他の星も襲っていたのか。それを知る術はない。されど恐らくは初めての苦戦であり、故に初めての『勝利』。全身を包み込む喜びが抑えられないのだろうか。

 長々と咆哮を上げた黒い靄は、やがて疲れたように肩を落とす。そのまま倒れなかったのは、周囲の生物達もまた油断ならない強さだと察しての事か。

 苛烈な戦いを通じ、黒い靄は成長した。自分が最強無敵でない事を知ったが故に、戦士としてより高みへと至ったのである。

 これから黒い靄は何をするのか、何処へ向かうのか。それを知るのは黒い靄のみ。いずれにせよ、恐るべき敵は倒した。戦いの締めだとばかりに黒い靄は素早く尾を引き、慣性でその場に残り続ける継実の胸から抜く。支えを失った継実の身体が重力に引かれて落ちる中、黒い靄は背を向けた。

 

「残念、まだ終わってない」

 

 直後、継実の口が呆れ果てた声を紡ぐ。

 地面に辿り着いた継実は崩れ落ちなかった。二本の足でがっちりと地面を踏み締め、屈めた腰は堅牢。胸からはどぽどぽと血が吹き出しているにも拘わらず、顔には笑みまで浮かべている。

 黒い靄は固まった。これでも死ななかった継実に驚くかのように。

 継実からすれば、やはりコイツは経験不足だと思った。これまでどんな生き物や兵器と戦ってきたか知らないが、胸に穴が開いたぐらいで死ぬような『軟弱者』ばかりだったのだろう。ましてや()()()()()()()()()()()()、これでもかというほど隙を見せ、致死級の攻撃を誘い――――死んだふりをしている三秒間に演算を済ませた奴なんて、きっとこれが初めて。

 つまるところ、奴自身は成長したつもりのようだが……まだまだ詰めが甘い。

 

【イ、イギィロロロロロオォ!?】

 

 黒い靄はあからさまに狼狽えた声を上げながら、今度こそ止めを刺すためか大慌てで継実に飛び掛かる。そう、奴は成長した。成長したが故に、自分の行いが取り返しの付かないほどの大失態だと気付いたのだ。

 されど此度はもう手遅れ。継実は三秒の間に全ての準備を終えた。

 全身で生成したエネルギーを拳に集約。莫大な運動量により拳が四方八方へ飛び散りそうになるのを無理矢理押さえ付けていたが、もうその必要もない。運動ベクトルに方向性を持たせれば、継実の拳はまるで何かに引っ張られるように、継実自身の意思と無関係に飛んでいく。

 そして超高密のエネルギーにより、継実の拳は亜光速まで加速していた。

 光の速度に近付く事で空間の歪みの中心となった彼女の拳は、外からは『ビーム』となって突撃しているかのように伸びる。腕が消え、長く伸びる閃光は剣を彷彿とさせるだろう。そう、この時継実は闘士ではなく、剣士と化す。

 名付けるならば亜光速粒子ブレード。

 誰にでも分かるように言うならば、光の鉄拳だ!

 

【――――!】

 

 何かを言おうとする黒い靄だが、生憎光に近付いた速さには追い付けず。

 閃光と化した継実の拳は、腕すら構えられなかった黒い靄の胸部を貫くのだった。



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新たな世界15

 黒い靄を貫いた継実の拳は、その黒い靄の背中へと突き抜けた瞬間に実体化。腕を引き抜いた継実はよろめきながら後退りし、がくりと膝を付いてしまう。大技故の著しい体力消耗で、身体に力が入らなかったのだ。

 継実の身体には、未だに尾で貫かれた穴が開いている。出血こそないが、向こう側が見えてしまう大穴だ。その再生をするためには粒子操作能力のための演算、つまり頭を働かせなければならないが、集中力が続かず計算など全然出来ない。身体だけでなく、精神の疲弊も小さくなかった。

 

「ぐ、ぎ……!」

 

 だが継実は迷わずその身体に鞭を打ち、全身に走る痛みを押さえ付けてなんとか顔を上げようとする。顔は苦悶で歪み、砕けそうなほど歯を食い縛ったが、一休みしようなんて頭の片隅にすら思わない。

 継実は心臓を貫かれても死ななかった。それは自らの能力である、粒子を操る力のお陰だ。血液の粒子を操って体組織内を循環させれば、酸素や栄養の供給はなんら問題ない。いっそ血管が全部破裂したってどうにかしてみせただろう。計算機能の主体である頭以外は、なくなっても多少は融通が利くのだ。

 では、黒い靄はどうだ?

 心臓を貫いても生きていた自分にあれほど驚いていたのだから、きっと大丈夫? ()()()()()()。アイツは生まれついての強者であり、恐らく苦戦などした事がない身。怪我すらろくに負った事がないなら、自身の生命力がどの程度かさえも把握していない可能性がある。加えて相手は不定形の存在だ。一体身体の何処に失われたら致命傷になる器官があるというのか。

 身体をぶち抜いた事で生じた、生まれて初めての激しい痛みで錯乱しながら突撃してくるかも知れない。満身創痍になった継実にとって、その攻撃が一番恐ろしい事態だ。

 幸いにして、此度に限れば杞憂だった。

 

【ィイイイギギギロロオオオィイィロロロギギギギィイロロオギギィイイイイイオオオロロロロロオオオオオオ!?】

 

 黒い靄は吼えていた。胸に大穴を空けたまま、両腕を万歳するかのように大きく広げ、股が裂けそうなほど開いて。尻尾は丘に上げられた魚のように跳ね、全身に至っては痙攣というより『踊り』のような激しさで震えている。

 七年間超常の生物との生存競争を繰り広げ、だからこそ大きな油断など基本的にしない継実であるが……此度ばかりは、こりゃ勝ったなと思った。そしてその予感が確信へと変わるのに、長い時間は必要ない。

 間もなく黒い靄は、その身体を霧散させる。

 爆発というほど激しくない。音も全く聞こえない。人のような形を失って本当の靄へと戻り、そのまま大気中に広がりながら溶けていく。最初こそ周辺が黒い霧に包まれたように色付いたが、十秒も経てば完全に消えてしまう。大気の消滅などの、黒い靄が行っていた謎現象だってもう起きていない。

 文字通り、この世から消えてしまったようだ。

 

「……なんだったんだ、アイツ」

 

 訳が分からない。本当に、何がなんだかさっぱり。

 倒せたのだからそれで良いと言えば、確かにその通りなのだが……無関心を装うにはあまりにも不気味な存在。何か少しでも情報が得たくなる。

 そういえば、ミドリが黒い靄を見た時に酷く怯えていた。倒した今なら何かを教えてくれるかも――――

 

「って、暢気してる場合じゃない!?」

 

 自分の危機が去って気が抜けていたらしい。継実は今になってミドリ、そしてモモの存在を思い出す。

 モモ達は空からやってきた、二体目の黒い靄と出会った筈。

 自分一人でもなんとか勝てたので、継実としてはモモならば大丈夫だと信じたい。しかしそれは楽観的な見方だ。継実が相手した個体は『経験不足』故にどうにかなったが、モモ達の傍に降下した個体がそうだとは限らない。もしかするとあちらはベテランの戦士という可能性だってある。

 助けなければ不味い。果たしてモモ達は今どの辺りだと、疲労感に飲まれている頭を再度フル稼働

 

「継実! 大丈夫!?」

 

「ぴゃあっ!?」

 

 した途端背後から声を掛けられたものだから、飛び跳ねてしまうぐらい驚いた。

 なんとも可愛らしい悲鳴を上げてしまったが、恥ずかしいと感じるよりも早く身体が動く。

 振り向いた先には、心配げな顔をしたモモ、そのモモの後ろに隠れているミドリの姿があった。

 

「モモ! 無事だったの!? 怪我はしてない!?」

 

「それはこっちの台詞よ。ああ、でも大丈夫そうね、一応」

 

 継実が駆け寄れば、モモは心底安堵したように語る。

 話し方や見た目からして、怪我どころか消耗すらないようだ。自分と同じく、黒い靄に襲われた筈なのに。

 

「モモ達はどうやってあの黒い靄を倒したの? そっちにも行ったよね? なんか弱点でもあったの?」

 

「ううん、私らは何もしてないわよ。ただあの時、ゴミムシが近くに居たから」

 

「……ああ、うん。そゆ事」

 

 あっさり明かされた種明かし。それだけで継実には、モモ達が目にしたであろう光景が目に浮かぶ。

 あの巨大ゴミムシからすれば、継実の戦闘形態など虫けらの足掻き。もしも本気で怒らせたなら――――あの黒い靄なんて、一発で踏み潰しただろう。そもそも黒い靄相手に発動した『戦闘形態』は戦うためではなく、ゴミムシのようなどうしようもない強敵から()()()()()に編み出した訳で。

 

「ほんとはすぐ駆け付けたかったけど、私達も目を付けられちゃってね。振りきるのに時間が掛かったのよ」

 

 そんな恐ろしいであろう巨大ゴミムシからモモはたった一匹で逃げ果せたのだから、やはり凄いものだと継実は思った。

 ともあれモモに怪我はないと分かり継実は安堵。自然と笑みが浮かんだ。

 勿論モモだけでなく、ミドリが無事である事にも安心している。彼女の顔を覗き込むように、継実はミドリの傍へと寄った。

 ミドリは身動ぎし、モモの影に隠れてしまう。

 

「ミドリも大丈夫? 怪我はない?」

 

「……あ、あの……」

 

「うん?」

 

「ご、ごめんなさいっ!」

 

 ミドリは突然謝り、頭を下げる。必死に、何度も何度も。

 呆けてしまった継実は目をパチクリ。モモと顔を見合わせると、モモは肩を竦めた。

 

「ほら、この子あの黒い奴が現れた時、逃げちゃったでしょ? その事を謝りたいとかなんとか」

 

「ん? ……ああ、そういえばそうだっけ?」

 

「何よ、もう忘れたの? 頭でも殴られてボケたんじゃない?」

 

 呆れるようなモモに、失敬な、という返事の代わりに睨んでおく。その程度で怯むほど、付き合いが浅いモモではないが。

 実際のところ、継実はミドリが逃げた事など本当に失念していた。思い出したところで、怒りなどは湧いてこない。

 確かにミドリが逃げなければ、三人であの黒い靄に挑んで、楽に勝てただろう。しかしそれは継実が描いた机上の空論。ミドリの立場からすれば、走って逃げるのが最適解だったろう。

 なのにどうして怒るというのか。

 

「気にしてないから平気。ほら、笑って」

 

 継実はミドリの頭を優しく撫でる。

 撫でられた瞬間、ミドリはびくりと身体を震わせた。嫌だったかな? と思う継実だったが、ミドリは逃げない。下げていた頭は少しずつ上がり、継実にその顔を見せてくれる。

 泣いていたのだろうか。顔に赤い筋が出来ていた。

 心配してくれた。あらゆる生命が自分の命を付け狙う、この苛烈な自然界ではその気持ちだけでも嬉しいもの。継実が笑い返すと、ミドリも微笑む。モモも頭の後ろで手を組みながら、素直になれない『新米家族』を愛でるように見つめていた。

 ところがどうしたのだろうか。ミドリの表情は、笑顔から段々と張り詰めたものに変わっていく。

 まだ逃げた事を後悔しているのだろうか。一瞬そう思う継実だったが、すぐに思い違いだと察した。確かに継実の顔は真剣なものだが、後悔や懺悔の感情はないように思う。

 代わりにあるのは、『覚悟』。

 何を語ろうとしているのかは分からないが、余程大切な話らしい。継実はモモと顔を見合わせ、モモは僅かに眉間に皺を寄せつつも、こくりと頷く。継実は口を閉じ、ミドリの目をじっと見つめた。

 ミドリは呼吸を整えるように深呼吸。深く俯きながら沈黙を挟み……しばらくして上げた顔は、振り絞ったであろう勇気に満ちたもの。

 

「あ、あの、私、あなた達に話してない事が――――」

 

 そしてミドリはそのように話を切り出した

 ……が、肝心の本題に入る前に、何故か目をギョッと見開く。ぱくぱくと喘ぐように口を開閉。擦れるような吐息だけが続き、段々とその可愛らしい顔を青くする。

 どうしたのか。継実も流石におかしいと思い始めるが、ミドリの変化はあまりにも早い。継実が声を掛ける前にミドリは眠るように目を閉じ、がくりと膝を付くや大地に伏す。

 そのままミドリは動かなくなった。

 

「ミドリ!? どうしたの!?」

 

 突然の事に継実は驚き、慌ててミドリの傍に駆け寄る。能力で探る限り、身体におかしなところは見当たらない。異常がないのは喜ばしいが、原因が見付からないのは不穏。

 一体どうして――――

 

「ねぇ、継実。アンタそろそろ自分の怪我、治した方が良いんじゃない?」

 

 困惑と焦りを抱く継実に、モモが淡々と語り掛ける。自分の怪我なんかよりもミドリの方が大事だろうと、継実は半ば無意識に反論しようとして

 自分の胸に大穴が開いている事を、今、思い出した。

 ……血は出ていない。しかし傷口は丸見えで、ぐずぐずの肉やどくどくと蠢く臓器も外気に触れている。ハッキリ言ってグロテスクな様相だ。継実だって見慣れていなければ、胃の中身ぐらいは吐き出しただろう。

 さて、では真正面からこれを見てしまったミドリは、どう思ったのだろうか?

 

「ミドリが起きる前に治しておくのと、起きたら謝った方が良いわよ」

 

「……そうする」

 

 自分の所為で大事な話が途切れてしまったと理解した継実は、家族からの忠告に大人しく従う。

 

「それと、血の臭いを撒き過ぎ。集まってきたわ」

 

 そしてもう一つの忠告で、緩んでいた意識を引き締める。

 強敵との戦いに勝利した――――七年前の世界ならば、その事実に雄叫びを上げながら喜んでも良かっただろう。されど今の世界にそんな暇も余裕もない。

 戦いにより弱っている獲物がいる。それも出血量からして相当傷付いている……腹ペコの捕食者達からすれば、こんなにも美味しい獲物は他にない。継実だって彼等の立場なら同じ事をするだろう。

 キツネの親子。

 スズメの大群。

 体長四メートルはあるマムシ。

 独り立ちしたばかりの若いクマ。

 どんどん集まってくる肉食動物達を継実の感覚は捉える。キツネやスズメは平時ならまだしも、今の消耗具合で相手するのは厳しい。そしてマムシやクマに至っては『戦闘形態』を用いても勝ち目など万に一つもない、ゴミムシに匹敵するほどの強敵だ。

 いずれも並々ならぬ強敵ばかり、というより黒い靄よりもしんどい相手だらけ。気絶したミドリを抱えてとなれば尚更だ。

 結局のところ、宇宙から来た謎の生物とて今の地球では日常的に遭遇する生き物と大差なんてなく。

 

「それじゃあ、頑張って家に帰ろっか」

 

「ええ。今日最後の大仕事、やっちゃいましょ」

 

 何時も通りに、継実達は命懸けの家路に付くのだった。



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新たな世界16

「ぐへぇ~……」

 

 自宅であるクスノキの洞の中で、継実はぐったりと仰向けに倒れていた。頬は緩みきり、全身から力が抜けている。服を一切纏わぬ全裸故瑞々しい肢体が露わとなっているが、恥じらいなく開いた己の股ぐらをボリボリと掻く姿に色香などない。

 決して広くない洞の中ではあるが、一人で使う分には四肢を広げるぐらい出来る。大の字で堕落を貪る姿はある意味文明的なのか、それとも時間に追われるという事を知らない意味では野性的なのか。

 どちらにせよ、『人間』的にはあまり他者に見られたい姿ではあるまい。如何に昨日、黒い靄と死闘を繰り広げて疲弊していたとしても。

 

「……あの、せめて股は閉じませんか?」

 

 しかしながらすっかり人間離れしてしまった継実は、ミドリからの理性的な忠告に聞く耳すら持たなかった。

 洞の入口にてこちらを覗き込むミドリに、継実はちらりと視線を向けるだけ。顔を動かすのすら面倒だと言わんばかりに、ぐーたらし続ける。

 継実は普段からぐーたらしている訳ではない。というかそんな余裕などないのが自然界。時間に追われる事はないが、食べ物探しなどで毎日忙しいものなのだから。しかしながら昨日の黒い靄との戦いで負った傷もある ― 尤も既に再生済みだが ― ため、今日は安静にした方が良いとミドリに言われたのである。

 言われたのだからしっかり休もうというのに、それを窘められては困ってしまう。股を掻くのは止めた継実だが、相変わらずだらだらし続けた。

 

「えー……休めって言ったのはそっちじゃん」

 

「言いましたけど、休み方がふしだら過ぎます。もっと文明的に振る舞ってほしいです」

 

「難しい事を仰る」

 

 文明なんてもうとっくに滅びてんのに。口には出さなかったものの、気持ちが表に出ていたのか。だらけるのを止めない継実に、ミドリも呆れたように肩を落とす。

 

「もう、なんでこの人こんな……前に調べた時、もうちょっと真面目な知的種族だと思ってたのに……この人だけなのかな……」

 

 それからぶつぶつと、珍妙な独り言を漏らした。

 

「ただいまー。継実、ちゃんと休んで、いるわね」

 

 そうしていると、今度はモモが洞の中を覗き込んだ。

 ミドリは継実の世話役 ― しかしお説教は継実も望んでいないのだが ― として残っていたが、モモは朝の食べ物探しに出向いていた。そのモモが帰ってきたという事は、何か食べ物を持ってきてくれた筈。

 継実は力なく手を振って挨拶兼食べ物の催促――――しかし継実のアピールを覆い隠すようにミドリはぱっと振り替えり、今度はモモに訴え始めた。

 

「あっ、モモさん聞いてください! 継実さんったらこんなにだらけているんですよ!」

 

「? 休んでるだけじゃん。何か変?」

 

 尤も、モモは犬である。だらだらするのがお仕事みたいな生き物からすれば、継実のだらけ方など『しゃんとしている』方だろう。

 ぐーたらコンビの言い分に、ミドリはしばし地団駄を踏む。無論その程度で何が変わる訳でもなく、ミドリはむすっと拗ねるように頬を膨らませた。

 なんとも可愛らしい反応。

 どうやら、これが彼女の素らしい。昨日と比べればいっそ無遠慮とも取れるが、継実にとってはむしろ好ましい印象だ。もう何年も『文化的』な会話をしていないので、気遣いなどされても妙にくすぐったいのである。

 だとしても、昨日と今日で随分と違うような気もするが……

 

「あ、そうそう。今日のごはんなんだけど、シカの死体見付けたから持ってきたわよー」

 

「ぅげっ。内臓引っ張り出されたみたいな殺され方してるじゃないですか……しかも傷口にめっちゃ小さな生き物湧いてるし」

 

「小さな生き物? ああ、ウジ虫ね。そりゃ何時間か放置されていた死体なんだから、ウジぐらい湧くでしょ」

 

「まさかと思いますけど、それ、食べるんですか……?」

 

「食べるわよ、勿論」

 

 ぎゃーっ、という分かりやすい悲鳴を上げながら、ミドリは猛烈な速さで後退り。引かれたモモはといえば、ミドリが何故逃げたのか分からないとばかりに首を傾げる。

 

「何ビビってんのよ。昨日はイモムシ食べたじゃない。アレと似たようなもんよ」

 

「全然似てないです! それに衛生的にこっちの方が明らかに悪いです!」

 

「んー、確かに数値的な話をすればそうだろうけど。でも今までこーいうのを食べて病気になった事もないから、平気じゃないかしら? それに結構クリーミーで美味しいわよ」

 

 極めて人間的な意見を述べるミドリであるが、モモは訝しむように目を細めるばかり。獣である彼女からすれば、死骸の肉を食べるというのは普通の行い。何が問題なのか分かるまい。

 ちなみに継実は「ミドリの言いたい事は分かるけど私は食べる」派だったり。昔はこんなもの食べるぐらいなら飢え死にしてやると思ったものだが、実際飢えてみると死ぬぐらいなら食ってやるとなり、三度も繰り返せば何も感じなくなった。所詮人間もサルの一種。死肉や丸々太った虫を食べるのは自然な行いである。

 そしてごろごろ寝転んでばかりいた継実は、まだ朝ごはんを食べていない。

 

「私も食べるー」

 

 もぞもぞと這うように継実が洞から出ると、モモはどーぞどーぞと腐りかけの死肉を渡そうとし、ミドリは飛び跳ねて逃げた。

 

「ひえぇぇぇ……もうほんとこの星やだ……怖いし汚いし、なんでたった七公転でこんな事に……」

 

 それからぼそぼそと、怪しげな独り言をぼやく。

 本人としてどんなつもりかは分からないが、継実にその言葉はバッチリ聞こえていた。モモにも聞こえているだろう。

 

「ほらー、食べなさいよ。汚いって言うなら一応焼くわよ?」

 

 が、モモはまるで気にも留めず。鹿肉に電気を通し、程良く焼いてみせた。腐り肉とはいえ、焼ければそれなりに香ばしい匂いが漂う。

 お腹を空かせていたであろうミドリはごくりと生唾を飲み、「ありがとうございます……」と言いながら肉を受け取る。両手で掴み、顔を顰めながらもウジと共に肉をちまちま食べる姿は大変『文明人』らしい。

 野蛮人と化した継実は生の鹿肉を齧りながら、ぼんやりと考える。

 ……正直、薄々勘付いている。これまでの言動も考慮すれば確定的であるし、黒い靄の存在や、出会った時の反応からして、まぁそれ以外の可能性はなさそうだと思う。七年前ならその非常識な存在に驚愕するところだが、今ならどうりでこの『世界』に慣れていない訳だと納得すら出来た。

 恐らく昨日しようとしていた大切な話とやらがこれなのだろう。覚悟を決めて秘密開かそうとした、が、しかし気絶してお流れに。チャンスを逃してしまった事でどうにも言い出せず、こうして必死に自分の正体を臭わせている、のかも知れない。

 なら、その伏線を拾わずにいるのも可哀想だ。こういうのは放置されるのが一番辛いものである。経験はないし、同じ感性とも限らないが、継実的にはそう思った。

 

「ねぇ、ミドリって宇宙人なの?」

 

 なので、さらっと触れてみる。

 

「そうですよー。昨日言ったじゃないですかー」

 

 するとミドリはあっさり答えた。

 答えたが、その返答は継実の予想とちょっと違う。継実は眉を顰めながら話を続けた。

 

「……いや、言ってないから」

 

「えっ。でもあたし大切な話とし、て……あれ?」

 

「うん。あなた私の怪我を見て気絶してたから。話す寸前に」

 

「……あれ?」

 

 首を傾げ、空を仰ぎ、また首を傾げ――――そしてミドリはガタガタと震え始める。顔は一気に青くなり、瞳孔が激しく泳いでいた。

 どうやら、すっかり話した気でいたらしい。気絶した結果記憶が混同したのだろう。そして話した気になっていたので、もう隠す必要なんてないとばかりにべらべら喋っていたようだ。なんともおっちょこちょいな子だとは思うが、それ以上の感想は継実にはない。

 確かに彼女が人間だと思ったから継実は接触した訳だが……人間じゃないと分かったところで、離れようとは思わない。その程度の理由で離れたくなるほど、継実はミドリの事が嫌いではないのだから。

 

「へぇー、アンタ宇宙人だったの?」

 

 それはモモも同じようで、まるで世間話のように尋ねる。

 あまりにも呆気なく受け入れられて、ミドリも段々と落ち着きを取り戻す。継実を見て、モモを見て、それから目を伏せる。

 

「……はい」

 

 今更ながら、ミドリは自分の正体を認めた。重大な秘密があまりにもヘボい形でバレた事を恥ずかしがるかのように、だけどなんだか嬉しそうに、小さな身体を丸めながら。

 宇宙人。

 まさかそんなものが本当にいたなんて。いや、或いは来るなんてと言うべきだろうか。漫画や映画では何度もお目に掛かったが、こうして目の前に現れるのは予想外。しかしながら過去の言動を思えば、予想外は納得に変わる。

 

「(そりゃ七年間どうやって生きてきたか曖昧だし出鱈目な訳だ。この星にいなかったんだから)」

 

 黒い靄の経験不足と言い、ミドリの能天気さと言い、宇宙というのは存外平和なところらしい。彼等がこの星の生物に良いようにやられていたのも、必然と言えよう。

 そして先程思っていたように、彼女が宇宙人だろうがなんだろうがどうでも良い。

 

「そっか。まぁ、改めてこれからよろしくね」

 

「はいっ! よろしくお願いします!」

 

 継実の短くて、淡々とした一言に込められた想いは、ミドリに通じたのだろう。彼女は満面の笑みを浮かべながら、元気な返事をしてくれた。

 そう、彼女が宇宙人だろうが、或いは悪魔やら妖怪やらでも構わない。共に生き、困難は助け合い、楽しく笑い合えればそれで良い。

 もう彼女とは、家族なのだから。

 

「それにしても随分人間に近い姿してるのね。私、宇宙人ってタコ型とかグレイみたいな奴だと思っていたわ」

 

「そういうタイプも中にはいますよ。あたしの場合も、この身体はお借りしてるだけですし」

 

「借りてる?」

 

「はい。この星に来た時、偶々死体が落ちていたので、それを乗っ取っています」

 

 ……その家族と家族の間で、何やらとんでもない会話が交わされていたが。

 死体?

 乗っ取り?

 どちらの言葉からも、継実には不穏なものしか感じられない。

 

「……なんか、とんでもない事言ってない? 死体を乗っ取るってどういう事?」

 

「えっとですね、あたし達は本来不定形で、アメーバみたいな微生物なんですよ。単体では知能なんてないですけど、宿主の身体に残った神経細胞の繋がりから記憶を引き出す事で知性的に振る舞えます。まぁ、結構欠落はありますけど」

 

「ふーん。だから日本語を話せるし、北海道とかも知っていたのね。生きてる奴も乗っ取れるの?」

 

「普通の生き物相手になら出来ます。やらないですけどね、倫理的に……あとあなた達は普通じゃないです。免疫が強過ぎて、免疫系の病気でもない限り撃退されちゃいますから」

 

「あら、私達って宇宙的に見ても案外強いのね」

 

 ミドリの説明にモモは鼻高々。宇宙でも自分の強さが通じると分かり、肉食獣(好戦的種族)として嬉しいのだろう。されど文化的生物である継実は笑みを引き攣らせるばかり。

 だって、そんなのは、受け入れ難いではないか。

 

「あの、死体を乗っ取る事に、何か思うところとかって……」

 

「? 思うところと言いますと?」

 

「いや、ほら、だって遺族とかそういう」

 

 まるで今までと立場が逆転したかのように、継実はしどろもどろになりながら尋ねる。

 最初、ミドリは首を傾げた。継実が何を言いたいのか分からないかのように。モモも継実に訝しむような視線を向けるだけで、同意はしてない様子。

 やがてミドリは傾けていた首を戻し、それからとても可愛らしく、無邪気な笑みを浮かべながら――――こう答える。

 

「うーん、他の種族の考えは()()()()()()()ですけど、多分良い事なんじゃないですか? だってあたし達が死体を乗っ取ると、多くのご遺族の方は喜んでくれましたし。少数ながら酷く取り乱す方もいたり、継実さんみたいな質問をぶつける方もいましたけど」

 

 継実の笑みが凍り付くほどの、純朴な言葉によって。

 継実だって分かっている。そうなるのも仕方ない、というよりそういう価値観にならざるを得ない。死体を乗っ取る事に罪悪感を感じる文化より、むしろ良い事だと思う方が『適応的』だ。そして彼女達に乗っ取られた死体の遺族は、確かに大半は喜んだ事だろう。多少欠落しているとはいえ記憶を持っているのなら、それは故人の復活に他ならない。

 しかし人間的には拒否感がある。冒涜的だという想いも込み上がった。尤も同じ地球生命であるモモはと言えば、継実と違って嫌悪や恐怖の感情を微塵も見せていない。死体になったらもう生きていた時とは違う存在。だったらそれをどう使おうと別にどーでも良くない? あとミドリは良い子だし……そんなモモの心の声が継実には聞こえてくる。

 全く以てモモは正しい。『非合理的』なのは継実の方だ。

 

「(……やっぱり、宇宙人怖い)」

 

 つまるところ脳裏を過ぎるこの想いは、人間独自の考え方のようで。

 久方ぶりに感じた人間らしい感情に気付いた継実は、家族二人がキョトンとする前で、げらげらとお腹が痛くなるぐらい笑うのだった。



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第三章 旅人来たれり
旅人来たれり01


 どーん、どーん、どーん。

 キラキラと光り輝く初夏の朝日の中、大きな爆発音が草原に轟いていた。

 爆発は白い煙となって広がり、衝撃波を撒き散らす。規模は半径数メートル程度の小さなものだが……観測手段があれば、その爆炎の持つエネルギーが小規模な核爆弾並であると分かるだろう。

 直撃を受ければ並の生物なら跡形もなくなる。ましてや連発してきたなら、どんな頑強な建物に逃げ込んでも意味がない。文明の力では抗えず、為す術もなく滅ぼされるのみ。

 そんな破滅的な力を発するのは、体長一メートルはあろうかというイノシシ。

 そしてそのイノシシの攻撃から逃げているのは、緑色の髪を靡かせている如何にもか弱そうな少女――――ミドリであった。

 

「ひぃいいいいいっ!? ぴぃやぁ!?」

 

 悲鳴を上げ、爆発が起きる度に飛び跳ねながら、ミドリは音よりも何倍も速く草原を駆け抜ける。かつては葉で包まれていた身体を今は胸と股しか隠せていない毛皮で包み、がむしゃらに手足を動かしていた。大きな胸が手足を振る度に揺れ動く。尤も超音速で跳ねるそれに色香を感じるモノなどいないだろうが。

 爆発は彼女のすぐ傍でも起こり、普通の人間なら粉々に砕けるような衝撃を与えてくる。されどミドリの身体にとってはちょっと表皮が震える程度の威力だ。直撃しない限り、脅威ではない。

 しかし状況は決して良くなかった。

 七年前ならば圧倒的なスピードである超音速走行も、今ではちょっと素早い程度。例えばミドリの後ろにいるイノシシは大地を蹴る度に先の『核弾頭級爆発』を足下で起こし、自らの身体を音速以上の速さで押し出していた。爆発による加速なので直線的であるが、そのスピードはミドリを大きく上回る。ミドリは右へ左へうろうろと動く事でこれをどうにか避けていたが、何時までも続けられるものではあるまい。

 何よりイノシシ自身に、何時までも続けるつもりがない。

 

「ブモッ! モッ!」

 

 イノシシが短く吠えた、瞬間、その鼻の穴から二つの白い何かが飛ぶ。

 それは空気の塊だった。ただし凄まじい密度に圧縮され、プラズマ化しているが。

 これが核爆発並の威力を有した爆風、或いはイノシシの身体を加速している爆発の正体。プラズマは莫大な熱により接触した物体を加熱・気化させ、急激な膨張という形で爆発を起こしているのだ。

 イノシシは今までこれを撃ち出してミドリを攻撃していた。しかし此度撃ったものはミドリの身体ではなく足下狙い。ミドリ本体を狙った時は躱されてしまった爆発も、動かない地面ならば外す事などあり得ない。

 

「きゃぶっ!?」

 

 直近で起きた爆風に煽られ、ついにミドリは転んでしまう。音の速さで激しく地面を転がるミドリだったが、こんなものでは怪我などしない。

 しかし、これまでにない速さで直進してくるイノシシの一撃はどうだろう?

 大きく開いた口の中にある、プラズマを纏った牙や歯の一撃は、果たして耐えられるのか?

 ミドリにそんな自信はない。避けなければ命が危ないが、転んでしまった彼女には、直進するだけなら彼女よりもずっと速いイノシシを颯爽と回避する猶予などなかった。

 このままではミドリは手痛い一撃をもらい、あの世行きだ。

 野生の世界において死など有り触れていて、大半の命は劇的に終わる事などない。鳥が虫を啄む時にドラマなど生じないように、イノシシが人間を食い殺す時にも感情を掻き立てるストーリーなど始まらないのだ。死ぬ時は、呆気なく死ぬのである。

 ――――無論、イノシシも同じように。

 

「ガルアアァッ!」

 

「はあぁっ!」

 

 草むらから飛び出したのは、二つの影。

 モモと継実だ。今まで近くの草むらに身を隠していたのである。

 モモと継実はイノシシを挟み撃ちにする形で現れた。イノシシは二人の存在に気付いたように目を見開くものの、突撃してくる二人を回避しようとはしない。

 否、出来ない。

 爆発による急加速は、イノシシを文字通りの猪突猛進に変えてしまった。軌道を変えるには大地を踏まねばならないが、ミドリに止めを刺そうとして最大加速で飛び出したイノシシの身体は、爆発の反動で大きく宙に浮いている。いくら四肢をばたつかせたところで、蹴るのは地面ではなく空気のみ。

 回避不能に陥っていたイノシシは、モモと継実の突進を躱せず。継実達はイノシシの両肩部分に組み付いた!

 継実とモモなら、単純な『怪力』では体重で勝る継実の方が上。イノシシは継実に押される形で、直進していた軌道が曲がる。イノシシは墜落と同時に横転し、モモがその下敷きとなった。

 

「ブ……モオオオオオォォォォッ!」

 

 転がされたイノシシは即座に反撃に転じ、組み付いていた継実に向けて吼える。

 当然ながらただの咆哮ではない。口からは声だけでなくプラズマ化した空気……青白い『炎』までもが吐かれ、継実を直撃した!

 

「うぐぁっ!? ぐぅううっ!」

 

 軽く連射しただけでも凄まじい威力を秘めていたプラズマ化空気だ。大量の、そして炎に見紛うほど圧縮されたものの破壊力は、ミドリを襲ったものとは比較にならない。単純な物理的衝撃も凄まじく、継実は一気に吹き飛ばされて何百メートルも地面を転がった。

 しかしこの攻撃で吹き飛ばせるのは、一方のみ。

 継実はやられても、モモは未だ健在だ。

 

「がうっ!」

 

 モモはイノシシの右肩に深く噛み付いた! 継実を吹き飛ばしたイノシシはすぐに振り返り、モモを炎で焼き払おうとする……が、モモの方が一手早い。

 イノシシに噛み付いたモモはすかさず己が能力――――放電を始めた!

 雷など比にならない電流を直に喰らい、イノシシは全身を痺れさせた。口からの炎は途絶え、びくびくと痙攣するばかり。二秒ほどでモモは電撃攻撃を止めたが、イノシシは力尽きたように倒れ伏し、もう動かない。

 何しろイノシシの身体には電撃を防ぐものがろくになかったのである。如何に超生命体といえども、対策もなしに原子力発電所数百基分の電気を受けて耐えられる筈がなかった。

 

「……ふぅ。やったわよ継実、ミドリ! 仕留めたわ!」

 

「よっしゃあーっ!」

 

 モモからの報告を聞き、何百メートルも飛ばされた継実ははしゃぐようにジャンプ。人類を超えた跳躍力でモモとイノシシの下へと戻ってくる。

 イノシシの下敷きになったモモであるが、この程度ではダメージなど負わない。相性的に苦手である爆炎ですら人類が作り出した兵器程度の威力なら問題なく耐える『身体』にとって、八十キロ程度の重さがのし掛かったところでへっちゃらだ。

 炎による攻撃を受けた継実も、着ていた毛皮が焦げた程度の傷しかない。粒子を操るという能力のお陰で、継実の身体は高熱には強いのである。イノシシが吐いた炎のパワーには負けたものの、怪我をするほどのものではなかった。

 

「はぁ、はぁ……はひぁぁ……」

 

 そしてミドリは、全身をガタガタ震わせながらへたり込んでいる。

 何処か怪我をしたのだろうか? 心配になった継実は、すぐにミドリの下へと駆け寄る。次いで継実は己の目でミドリの身体をくまなく、粒子レベルで確認。表面だけでなく内蔵や血管も『目視』で看ていく。

 少なくとも継実の目には、ミドリがこれといった怪我や傷を負っているようには見えなかった。

 

「どうしたの? 腰でも抜けた?」

 

「へひゃ? え、あ……は、はい。た、立てません……」

 

「そっか。はい、捕まって」

 

 へたり込んでいる理由が分かったので、継実はミドリの前に手を差し出す。ミドリは一瞬躊躇いながらも、継実の手を掴む。しっかりと握り締め、一呼吸入れて身体の震えを抑えてからミドリは立ち上がった。

 ミドリが自身の足で立っている事を確かめてから、継実は彼女と手を離す。ミドリはぱんぱんと両手で膝を叩いて土埃を落とし、それからほんのりと頬を赤らめる。

 

「あ、あの……すみません。お手数お掛けして」

 

「ん? 迷惑なんて掛けてないよ。ちゃんと役割通り、イノシシの気を惹いてくれたじゃない」

 

 気遣いでもなんでもなく、継実は自分が思った事をそのまま伝える。

 ミドリはただ逃げていたのではない。継実とモモが不意を突けるよう、囮になってくれていたのだ。役目を果たして胸を張るなら兎も角、迷惑を掛けたと謝るのは違うだろう。

 優しさも何もない筈の言葉を、ミドリはどう思ったのか。こくり、と頷いたミドリは、ちょっと恥ずかしそうに手足をもじもじさせた。

 

「ねぇーねぇー。早く食べましょうよーハエとか寄って来てるしさぁー」

 

 そんな『文明的』なやり取りは、お腹を空かせた野犬には興味もないようで。

 そしてお腹を空かせたサルと宇宙人にとっても、同じだった。

 

「そんな事よりご飯にしましょ。早くしないと、モモが言うように虫に先を越されちゃう」

 

「……はいっ!」

 

 元気よく返事をし、ミドリと継実は早歩きでモモの下へと向かう。

 モモは既に獲物の解体を始めていて、腸が引きずり出されていた。ついでに、我慢出来なかったのかその内臓を生のまま貪り食っている。腹を引き裂いたであろう爪がある手は血糊でべたべたに汚れ、口許には血のみならず肉片まで付いている有り様。

 あまりにもスプラッタな姿であるが、継実にとっては七年間見慣れてきたもの。今更怖がる事もない。

 そしてミドリにとっても同じだ。

 

「あー、また先に食べてるー」

 

「? だってお腹空いてたし」

 

「食事は家族みんなで、一緒に食べましょうよ。他の星の知的生命体でも、大半は家族や友人と共にする食事を大切にするものです」

 

「他所は他所。うちはうち」

 

「もぉ! 知能があるのだから、もっと文明的になりましょうよー……もぐもぐ」

 

 文句を言いながら、しかし生の内臓を手掴みし、そのまま口に運んで食べ始めるミドリ。手と口許はすぐにモモと同じ色合いに染まった。

 食事姿に文明や知性は微塵もない。これぞ正しく『畜生』だなと思いながら、されど継実はつい笑ってしまう。

 ミドリと出会ってから、早四十日。

 新しい家族との生活がすっかり日常になったのだと、今更ながら実感出来たのだから。



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旅人来たれり02

「それにしても、中々ミドリは強くならないわねぇ。今日のイノシシからも逃げてばかりだったし」

 

 イノシシの腸と肉をたらふく食べて、一足先に『ごちそうさま』をしたモモがそんな話を振ってきた。銀色の髪が血でべたべたになっても気にせず、血糊でどす黒く染まった手をちゅぱちゅぱとしゃぶる様は正しく畜生。実際畜生なので、指摘しても止めはしないだろうが。

 骨に付いている肉に齧り付いていたミドリは、そんな畜生からの意見に一瞬目をパチクリ。それからバツが悪そうに目を逸らし、骨付き肉を口から離して、ごくりと口の中のものを飲み込んでから会話に乗る。

 

「……弱い事は否定しませんけど、そんな言い方をされるのはちょっと心外です。というかあなた達は、自分の強さが宇宙レベルで出鱈目だって自覚した方が良いですよ」

 

「あれ? そうなん?」

 

「そうです。『ネガティブ』を殴り殺しちゃうとか、あり得ない事もしてますし」

 

「ねがてぃぶ? なんだっけそれ」

 

「……少し前にあなた達地球生命が殴り殺した、黒い靄みたいな奴です」

 

「あー、アレか。思い出した思い出した」

 

 本当に忘れていたのだろう。具体的な特徴を言われて、モモはぽんっと手を叩いて納得。その姿にミドリは肩をがくりと落とす。

 『ネガティブ』。

 一月以上前に継実達が戦った黒い靄のような存在……ミドリの種族はそれをネガティブと呼んでいる。本当は全く違う名前で呼んでいたが、地球人には発音出来ない音を用いた呼び方であるため、発音可能で意味が通じるものに変えているらしい。要するに外国語を和訳したようなものという事だ。

 ネガティブがどんな存在であるかはミドリ ― 正確には彼女が属していた文明 ― にも分からない。生命体であるかどうかも不明で、知能レベルや増殖方法も不明という有り様。しかしどうも数百年前から存在は確認されており、これまでに幾千もの星々を滅ぼしてきたという。また最近個体数が増加傾向にあり、被害が拡大しているらしい。

 勿論宇宙の中には様々な生物がおり、その中には強大な、かつて存在した人類文明が誇る兵器でも敵わないような生物種も少なくない。人類以上の科学文明を持つ星も珍しくないとの話だ。しかしそんな星でも、ネガティブは容易く滅ぼしてきた。

 何故なら、誰も奴等に触れる事すら出来ないから。

 触れたものは問答無用に消滅させられる。エネルギー攻撃も質量攻撃も、生命体も機械も気体も、速度も熱も電力も波動も関係ない。触れた傍からエネルギー保存則を無視して何もかも消えていく。あたかもプラスがゼロへと変えられていくように。

 故にどんな攻撃も通じず、ネガティブ(負の存在)達を止める術はなかった。しかもネガティブが降下した星は、侵略されるのではなく跡形もなく消滅させられてしまう。母星を失うのだから、奴隷や家畜という形で生き長らえる事すら許されない。尤も、星を滅ぼす前にまずは生命体を一掃するように動くようだが。

 共存不可能な、絶対的滅びの象徴。

 それがネガティブという存在。ミドリの生まれ故郷である惑星もネガティブに滅ぼされ、彼女は移住先を求めて何年も放浪する事に。その旅路でようやく見付けたのが地球だったという訳だ。

 ……触れたらなんでも消えるのに、じゃあなんで私らは殴っても平気だったの? とは継実も思ったが。それに対するミドリの返答は「こっちが知りたいです」だったので、どうやら地球生命、或いは超生命体特有の事象だったらしい。そりゃ自分が相手したネガティブが戦い慣れしてない訳だなと、継実はとりあえず納得した。

 ともあれあの黒い靄は宇宙規模で危険な存在だったが、それを地球生命である継実は互角の死闘の末、モモ達の下へと向かった方を相手した巨大ゴミムシに至っては難なく倒してしまった訳だ。ミドリが継実達を『出鱈目』と称するのも、実感はないが頷けるというものである。何より実感がないから、モモはすっかり忘れてしまったのだろう。説明されたのは、もう四十日ぐらい前というのもあって。

 

「まぁ、ねーてぃぶだがなんだかはどーでも良いけどさー」

 

「宇宙の中でも最高峰に悪名高い災厄をどーでも良い呼ばわりですか……」

 

「私達なら倒せるんだから、他所で悪名高くても関係ないわよ。んで話を戻すけど、なんでミドリってそんなに弱いのかしらね。さっきから自分は宇宙人みたいな言い方してるけど、ミドリの身体は地球人じゃん。だったら継実と同じぐらい強くなきゃおかしいでしょ?」

 

 呆れた様子のミドリだったが、モモからの率直な言い分にまた口を噤んだ。言い返す言葉はないらしく、せめてもの反抗か所謂ジト目でモモを睨むばかり。

 ミドリは宇宙人である。曰く、死体に取り付く寄生生物のような存在らしい。死体に残っていた神経などから記憶を引き出し、生前のように振る舞う事も出来るとも。

 その話が正しいなら、こうも考えられる筈だ。神経を制御下に置けるのだから死体が生前に持っていた身体機能も十全に扱える、と。

 ならば人間の身体を乗っ取ったミドリは、人間並の力を使えねばおかしい。そして今の時代でも生きている人間なら、十中八九超生命体と化した存在の筈。ミドリが乗っ取った死体は継実と同等の……その気になれば人類文明など簡単に滅ぼせてしまうほどの力がなければおかしい。

 ところがどっこい、どうにも今のミドリにはそこまでの力がなかった。確かに継実だって一対一ではイノシシと戦っても勝てないだろうが、あそこまで防戦一方になるつもりもない。モモが言うように『超生命体』と化した人間として見れば、ミドリはあまりにも弱いと継実も思う。

 果たしてどんな答えを返すのか。ちょっと気になった継実は、好物である目玉の部分をイノシシの亡骸から抉り出しながら耳を傾けた。

 

「だから、あなた達は宇宙全体で見ても強過ぎるって話です。正直、私にはあなた達がどんな仕組みで能力を発動してるのか分かりません」

 

「え? そうなの? なんかこう、出ろーって思えば出るもんじゃない? 私はそれで毛を動かせるんだけど。電気は流石に出ろーでは出ないけど、擦れーって考えれば発電出来るし」

 

「……継実さんもそんな感じなのですか?」

 

「私はもうちょっと計算とかするけど、まぁ、似たような感じかな。計算は基本的に自爆しないためとか、威力を上げるためにするもんだし」

 

 話を振られて、継実は正直に答えた。

 自分の能力なのに仕組みが分からないなんてあるのか? あり得るどころか、それが普通だ。自分が思考している時、シナプス間の電気信号やイオンチャンネルの働きがどうなっているのか、自覚しながらするものなどいない。する必要もない。継実達が能力を使う時も、同じである。

 なので大雑把な感覚では話せても、理論的な話は無理。必然こういう回答にならざるを得ないのだが、ミドリとしては言いたい事もあるのだろう。彼女は力なく、大きく項垂れた。

 顔を上げた時のミドリは、ただ喋っていただけだというのに、イノシシに追い駆け回された時よりも憔悴して見える。

 

「……少なくともこの身体の機能云々は、割と普通なんです。変な器官なんてありませんし、血液の成分もまぁまぁ有り触れています。普通なのに、よく分からない演算能力があって、それが、こう……物理法則を捻じ曲げてるというか、ぽっと生み出してるというか」

 

「物理法則ってそんな簡単に曲げられるの?」

 

「曲げられないから困惑してるんです! 原理が謎過ぎて意味分かんないですよ! というか物理法則を捻じ曲げるとか理屈が破綻しています! そもそも宇宙の法則というのは」

 

「あー、難しい話ならパスするわ」

 

「むがぁーっ!」

 

 話が難しくなった途端飽きてしまったモモへの憤りか、はたまた『この程度』の話すら理解出来ない知性が使える力を扱いきれない事への自己嫌悪か……恐らく両方の理由でミドリは雄叫びを上げた。

 一応モモよりも賢い(というより考えながら話を聞ける)継実は、ミドリの話をそれなりには理解出来る。つまり自分達(地球生命)の身体には、恒星間すら自在に行き来する文明力の持ち主さえも解明出来ない、未知の力があるという事らしい。

 科学で解明出来ない不思議な力というやつか――――そう考えて、いや、それも違うなと継実は思う。『科学で解明出来ない力』なんてものは存在しない。何故なら科学とは、解明出来た世界のルールを示す言葉だからだ。解明出来ないとは、まだ分かっていないという事でしかない。超能力だろうが謎パワーだろうが、難なら神通力でも霊魂でも、実在するならそこにはルールが存在し、故に科学で解明出来る。

 ただ、そのために必要な『レベル』というものがあるだけで。

 

「(とりあえず隣の星系にすら行けなかった人類文明じゃ、端から話にならない難しさのお話と)」

 

 そしてそんな人類文明の義務教育すら済ませていない自分に、果たして超高度文明人にも理解出来ないものを理屈で解明出来るだろうか?

 自分が数千年に一度の天才なら出来たかも知れない。が、生憎超生命体と化しても『凡人』のつもりである継実には、全くそうは思えなかった。

 

「要するにミドリは身体の動かし方がよく分からないから、継実ほどの力は出せないって事ね。なら仕方ないわ。それに今のところ逃げ足は普通に速いから、ここで生きていく分には十分だろうし」

 

「それは……そうかもですけど」

 

 尋ねたモモの方は一人勝手に納得した様子だが、ミドリは不服そうな様子。何かを言いたそうに唇をもごもごと動かすが、言葉は発しない。

 普段から気にしていた訳ではないが、質問された事でちょっと気になってしまったといったのだろうか。

 継実的には、自分の能力の原理が謎だらけでも問題などない。少なくとも今のところ力の使い方に問題なんてないし、力の行使で身体に不調も起きていないからだ。それに植物や動物は問題なく世代交代し、むしろかつてより繁栄している。安全性はそれなりにお墨付き。自分の力の根源というのは確かに気になるが、現状はあくまで知的好奇心云々の話だ。

 しかしミドリにとってはそうもいくまい。原理不明のため満足に力が使えないというのは、人間より強いものなどいくらでもいるこの世界では致命的である。勿論モモや継実はミドリを足手纏いだなんて思わないし、敵が現れたなら『家族』を守るために全力で戦おうとは思うが……勝利が約束されていない以上、やはりミドリも多少なりと強い方が生存率は上がるだろう。

 ミドリを強くする方法があるなら、継実としても是非採用したいところだ。何か良い方法はないものかと、一マイクロ秒ほど考えて。

 

「特訓したら少しは強くなるかな」

 

 ぽそりと、継実は少年漫画的発想を言葉にしてみる。

 

「えっ、特訓ですか?」

 

「うん。理屈の説明は分からないままでも、力を使い続ければ身体が慣れて、もっと強い力を出せる……かも」

 

「継実も七年前と比べてかなり強くなったわよね。特訓なんてしてないけど、生きてるだけで特訓みたいなもんだし」

 

 モモの言い分に、確かに、と継実も思う。何しろ野生生物みんなが超生命体と化し、二十四時間何処から襲い掛かってくるか、強さも相性も時期も不明な中で生き抜いてきたのだ。自分とモモが協力しても歯が立たないような化け物に襲われた事も、一度や二度ではない。こんな暮らしをしていれば、かなりの『鍛錬』になるであろう。

 ……逆に言えば日常生活がこんなレベルなのだから、特訓がこれより生温かったら効果なんてない訳で。

 

「……ミドリ、一人でゴミムシを倒すとかやってみる?」

 

「もしかして死ねと言いたいのですか」

 

 思い付きを語ってみたところ、継実はミドリに睨まれてしまった。向こうも本気にはしていないだろうが、継実は笑って誤魔化す。

 特訓とはなんらかの負荷を掛ける事。モモが言うように生きてるだけで特訓となれば、意識して掛ける負荷はどうしても過激なものとならざるを得ない。その過激な負荷を与えても、効果がどれだけあるかは謎である。しかも過酷なあまり体力を消耗した状態では、いざ強大な外敵と出会った時に何時も以上のピンチとなってしまう。

 普通の特訓というのは()()()()()()()()だから出来るのであり、そんなものがない今の世界で行う特訓というのは、ただの自殺行為なのだ。

 

「まぁ、生きてるだけで特訓なんだから、そのうち強くなるわよね。気にしない気にしない」

 

「……そうは言いますけどねぇ」

 

 モモは本当に気にしてない様子だが、ミドリはかなり自分の弱さを意識していた。

 モモが言うように、日常が過酷なのだから生きていればそのうち強くなるだろう。しかし強くなるまで脅威が来ないとは限らない。ミドリからすれば、一日でも、一秒でも早く成長したい筈だ。それが文字通り命に関わるのだから。

 

「完璧にこの身体の仕組みを理解して支配下に置いたら、逆にお二人を守れるぐらい強くなれるのにぃー」

 

 ……或いは単に、『宇宙人(高等種族)』としてのプライドの問題かも知れないが。

 

「えー? それは盛り過ぎでしょ。所詮借り物の身体じゃない」

 

「借り物だからですよ。第三者的視点から肉体機能を把握する事で、本来なら効率のため抑えられている機能を意図的に解放出来ます。つまりその種族が出せる身体機能を数段階上げて使用出来るのです!」

 

「そーいうもんかなぁ」

 

「そーいうもんです!」

 

 胸を張り、自慢げに誇るミドリ。なんだかそれが威張り散らす子供のように可愛くて、継実はひっそりと笑みを零す。

 同時に思うは、『ミドリの強化』について。

 やはり、出来る事ならやった方が良い事ではある。そしてミドリは、自分達の能力の原理が分からないから力をフルに使えないのだと語っていた。なら、原理が分かればパワーアップが出来るのではないか。

 星間航行能力を持つ文明でも理解出来ない力だが、かつて七十億もいた人類の中には数千年、或いは数万年に一度の天才が紛れていたかも知れない。そうした人ならば、超生命体の秘密を解き明かしている可能性もゼロではないだろう。その人から話を聞ければ、ミドリのパワーアップを果たせるのではないか。

 問題があるとするなら、そんな天才様が果たして生き残っているのか、生き延びていたとして何処に居るのかが分からない事。

 いや、最悪を考えるならば。

 

「(案外、私が最後の人類だったりするのかな)」

 

 ふと脳裏を過ぎるのは最悪の、だけどこの七年間の世界を思えばあり得なくもない可能性。

 本当なら、寂しさや不安で心が張り裂けそうになるものだろう。

 けれども継実には家族がいる。同種族でなくとも、こうして共に食事をして、わいわいと話し合えるモノ達が。

 野性的な継実は欲張りなので、これで満足だとは思わない。だけど辛さを上回る楽しさがある日々を、不十分だとも思わない。そうなるとあるかどうかも分からぬ『もっと』を求めて手を伸ばすのは、ちょっとばかりしんどく感じる。大体件の天才を探すためには旅が必要で、ミドリを強くするために、ミドリを危険な旅に連れていくというのは……本末転倒という奴だろう。

 

「(ま。仮に生き残りの人がいたとしても会えるかどうかは巡り合わせ次第だし、気にしても仕方ないか)」

 

 故にあっさりと、継実は人への情愛を胸の奥底にしまい込む。

 出来る事はやる。出来ない事はやらない。

 それもまた過酷な世界で生き延びるのに必要な事だと、継実は知っているのだ。



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旅人来たれり03

「はぁー……お腹いっぱい……幸せ……」

 

「私もー……」

 

「うん……久しぶりに、満腹だぁー……」

 

 お腹をぽっこり膨らませた少女三人組が、草原で大の字になって横たわる。口周りと手が全員血糊で赤黒く染まっていたが、誰も気にしていなかった。

 八十キロはあったであろうイノシシは、すっかり原形を失っている。内臓の殆どは消え、骨の一部が欠損していた。頭の中身が抉られ、手足の数も二本ぐらい足りない。これがイノシシである事を知るためのパーツが相当量欠損しており、最早死体というより肉塊のような状態だ。

 そうした失われたパーツが何処に行ったかといえば、勿論少女三人組こと継実達のお腹の中である。

 普通の人間なら、余程の大食いでなければ二キロも食べればはち切れんばかりに腹が膨れるだろう。しかし超生命体である継実達は、その圧倒的な身体能力に引き上げられたような『食事量』を誇る。小さなパピヨンであるモモでさえ一キロ近い量の肉をぺろりと平らげ、ミドリも五キロは食べた。そして継実に至っては、十三キロも肉を食べている。

 一体この小さな身体の何処にそんなたくさんの肉が収まるのか? その方法は様々だ。例えば継実の場合なら、食べた傍から細かな粒子に分解し、数秒で栄養分を血液中に溶け込ませている。これは食べたものを胃袋だけでなく全身で蓄えているようなもの。体重の三割に迫る量でも、問題なく取り込める方法だ。

 しかしこれだけ食べても精々今日一日分のエネルギーでしかない。明日の朝にはまたぐぅぐぅとお腹が鳴り、食べ物を探す必用がある。獲物は豊富だから見付けるのに苦労はないだろうが、探さずに済むならその方が遥かに得なのは違いない。

 そして八十キロもあるイノシシの身体は、骨も含めればまだ四分の三程度残っている。原形は失えども、食べ物としての価値までは失われていない。

 

「はぁー……このイノシシ、持ち帰れば明日も明後日もお腹いっぱいになりますねー……」

 

 ミドリがそう提案するのは、なんらおかしな話ではなかった。

 実際、大きな死骸を見付けた時には継実やモモも住処へと持ち帰っている。現実的にはハエやら細菌やらに分解されて『目減り』するので、明後日までは持たないだろうが、これだけのイノシシの肉があれば丸一日は住処に引きこもれる筈だ。

 外を出歩くというのは、それだけで外敵に見付かりかねない危険な行いである。故に殆どの野生動物達は食事を済ませたら、ひたすら安全な寝床でじっとして、エネルギーを温存しながら時間を潰す。野生生活をしている継実達も同様で、外出を控えられる方法があるならそうするよう努力すべきである。

 しかし――――

 

「……今回は止めた方が良いかなぁ」

 

 継実はミドリの意見に反対した。

 まさか否定されるとは思わなかったのだろう。ミドリは目を丸くし、それから口をへの字に曲げた。

 年頃の女子らしい可愛い顔をする宇宙人に、思わず継実は笑みが零れる。勿論馬鹿にした気はないが、ミドリはますます機嫌を損ねた表情を浮かべた。とはいえ継実やモモが理由もなしに否定するとは、新米家族であるミドリも思っていないだろう。不愉快だからという理由で分からない事を分からないままにはせず、ちゃんと尋ねてくる。

 

「えぇー? なんでですかぁ。外に出たら危ないんだから、お家でのーんびりカウチポテトしましょうよー」

 

「カウチポテトって、宇宙人なのに随分と俗な言葉知ってるわねぇ」

 

「大体うちにはテレビもソファーもないでしょ……まぁ、ミドリが言うように、出来ればそうしたいけどね。でも今日はどうも()()()()()()()っぽいから無理、というか危険過ぎる」

 

「嗅ぎ付けられた?」

 

「大きな気配が真っ直ぐこっちに来てるのよ。血の臭いを察知したみたいね……クマかゴミムシだと思うけど、死体を持ち帰ったらうちまで付いてくるわよ。アイツら執念深いし」

 

 事情を聞かれたので継実とモモが話すと、ミドリは露骨に顔を顰めた。嫌だ、ではなく、それなら仕方ないと言いたげに。恐らくその脳裏には、自分を襲った巨大ゴミムシの姿でも浮かんでいるのだろう。

 継実達は巨大クスノキの洞に隠れ住んでいる。頑強で巨大なあの樹木は継実のパワー程度ではビクともしないが、ゴミムシのように強大な生物なら、簡単ではないにしても破壊可能だろう。いや、そこまでされなくても住処の前に陣取られたら、色々と不都合だ。外に出る時に警戒するのは何時もの事だが、更なる警戒が必要となると気が滅入ってしまうし、おちおち出入口付近で眠れなくなる。

 貴重な食べ物を手放すのは惜しいと思うが、明日の食事のためだけに今後しばらく外敵に悩まされるのはいくらなんでも割に合わない。論理的な取捨選択もまた、生き残る上で大切な事である。

 

「ま、そーいう訳だから今回は持ち運ぶのはなしね。というか何時までも寝転がっていたら、あの連中が来ちゃうわ。アイツらも死体があるのにわざわざ逃げ回る奴を狙うほど暇じゃないと思うけど、万が一もあるしね」

 

「うん。そーいう訳だから、そろそろ家に帰ろう」

 

「はーい。じゃあ、せめてお肉を口に頬張っておきます」

 

 残されたイノシシ肉を千切り、リスのように頬が膨らむまで詰め込むミドリ。妙案だとばかりにモモも同じく頬に突っ込み、じゃあ自分もと継実も同様の行動を取る。

 最後の味を堪能しつつ、口をぱんぱんに膨らませた継実達は互いの顔を見合わせて、こくりと無言で、至って真剣に頷き合う。住処であるクスノキへと戻るべく、少女三人は歩き出した

 その直後の事だった。

 

「んぶ?」

 

 ミドリが不意に立ち止まり、首を傾げたのは。

 声に気付いた継実は立ち止まり、ミドリの方を見遣る。ミドリは視線をあちこちに向けていたが、いずれも地面。ネズミでも走ってるのかとも思ったが、そういった気配は継実には感じ取れない。

 

「……んっ。どうしたの?」

 

 口の中身を飲み込み、胃が重くなった事を感じながら継実は尋ねる。と、口いっぱいの肉を飲み込めないミドリは、しきりに視線を地面に向けて足踏み。

 地面に何かがいると言いたいのだろうか?

 なんとか飲み込もうとして、だけど中々上手くいかないのかジタバタするミドリ。どうしてそんなにジタバタしてるか分からず、継実はとりあえず落ち着くよう声を掛けようとする。そうしなければ話が進まないと思ったから。

 世界は、そんな事をしなくても進むというのに。

 

「(――――っ!? 何……)」

 

 ぞくりと走る悪寒。

 何かとんでもない、大きなものがやってくる。そんな感覚に見舞われ、無意識に継実が目を向けたのは()()

 地中から、何かが接近していた。それも、物凄い速さで!

 

「モモ! 跳んで!」

 

「――――らじゃっ!」

 

 継実の指示に、一瞬の戸惑いを覚えつつもモモは跳び退く。継実はすぐにミドリを抱きかかえ、自分が居た場所から距離を取った。

 何かが地中から跳び出してきたのは、時間にして僅か数ミリ秒後。

 核弾頭級の衝撃が直撃しようと揺らがない、頑強な植物の根が張り巡らされた地面が呆気なく吹き飛ぶ! 半径十メートル近い範囲の土塊が四方八方へと飛び散り、逃げた継実達にも襲い掛かる。地面を吹き飛ばしたエネルギーの大きさ故か、土塊は音速を超えて飛んでいた。普通の人間ならばこれだけで十分に致死的な運動エネルギーを有す質量体……しかしこんなものは継実達からすれば大した脅威などではない。例え頭にぶち当たったところで、一番弱いミドリでさえも身体を仰け反らせる事すらしないだろう。

 しかし――――飛び散る大地の中央に居座る生命体の方は、流石に無視出来ない。

 

「な、んじゃありゃあ!?」

 

 声を上げたのはモモ。それはモモが、三人の中で一番反応が早かったからに過ぎない。継実もミドリもそいつを見て声の一つでも上げたかったが、モモが大声を出したから、出す切っ掛けを失っただけ。

 自分一人だけだったなら、継実は遠慮なく悲鳴なり混乱なりで叫んだだろう。

 自分達が今まで居た場所で蠢く、おどろおどろしい姿の怪物が顔を覗かせていたのだから……



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旅人来たれり04

 一見してそれは、ぱっつんぱつんに張ったソーセージのようだった。そう、一見しただけなら。

 しかし見れば見るほど、ソーセージのような『可愛らしさ』なんかないと感じるだろう。直径は五十センチ前後、地上に出てきた部分だけでも長さは五メートルを超えていた。そんな身体を形成するものは美味しそうな加工肉ではなく、はち切れんばかりに発達した茶褐色の筋肉である。

 先端にはばっくりとラッパのように開く軟体的な口があり、人間一人簡単に丸呑みにするだろう。その口の内側にはずらりと歯のような突起が並び、哀れにも入ってしまったものをズタズタに切り裂くに違いない。突起は微かにだが揺れ動き、次の獲物を心待ちにしているのが窺い知れた。

 恐ろしい見た目の化け物。宇宙生物にも見えるその異形に、されど本物の『宇宙生物』よりも恐ろしいものと何度も出会った継実はすぐに真実へと辿り着く。

 

「コイツ、まさかミミズ!?」

 

 出てきた言葉は半信半疑なものであったが、継実の本能はその考えに確信を抱く。

 ミミズと呼ぶのが馬鹿馬鹿しいぐらい大きいし、口の内側に牙があるというのもミミズらしさに欠ける。しかしゴミムシがクマよりも巨大な身体となる今の世の中、ミミズが化け物になったところで驚く点などあるものか。

 それよりも気にすべきは、コイツが『ナニモノ』であるのかだ。七年間この草原で暮らしてきた継実だが、こんな化け物は見た事もない。地中にいたからこれまで遭遇しなかったのか、はたまた以前仕留めたウシガエルのように草原の外からやってきたのか……いずれにせよ生態どころか性質すら不明である。敵かどうかも分からない。

 されど深く考える必要などないだろう。この巨大ミミズはつい先程まで継実達が居た場所に、見た目からして獰猛な頭から突如として現れたのだ。敵意がなければそうはするまい。

 いや、抱いたのは敵意ではなく……食欲か。

 地上に出てきた巨大ミミズは、地中からずるずると這い出し――――全身を露出させてから、継実達が食べ残したイノシシの骸に接近。大きな口でイノシシの残骸を咥えると、ボリボリと骨を噛み砕いてあっさりと飲み込んでしまう。

 どうやらミミズの癖に肉食性のようだ。しかもイノシシを食べるため地上に出てきた全身の長さは、継実の目測ではあるが二十メートルを優に超えている。いくら細長いとはいえこの圧倒的な巨体が、イノシシ一頭で満たされる筈もないだろう。

 では、ここで問題である。この巨大ミミズに継実達が三人掛かりで挑んだとして、果たして勝ち目などあるだろうか?

 継実には、一パーセントでも勝機があるとは思えなかった。

 

「全力で逃げてッ!」

 

「は、はひっ!?」

 

「言われなくてもォ!」

 

 継実が下した決断は逃げの一択。誰一人として反対せず、継実達は全力で後退を始めた。

 無論、相手がそれを悠長に見逃してくれる訳もないのだが。

 

「ギュアァッ!」

 

 巨大ミミズの開いた口から発せられるのは、甲高く、けれども力強さとは少々程遠い鳴き声。だがその声と共に繰り出した体当たりは、継実達全員の『強さ』を凌駕する。

 ぐねぐねと、泳ぐように巨大ミミズは身体をくねらせる。そうすればその身はふわりと浮かび上がり、空中を駆け抜けていった。塵さえも舞い上がらない静かな動きからは、やはりパワーなんて感じられないだろう。

 されど無害と呼ぶには程遠い。音が出ないのは、塵が舞い上がらないのは、生み出したエネルギーを全て使いたい力に変えているから。周りが感じ取れるように『余計な力』を発するなど無駄の極みでしかない。

 全ての力を余さずその身に纏った『体当たり』は、その莫大なエネルギー故に触れた物質を()()()()()

 光の速さと呼ぶには程遠い、されど音など比較にならない速さで、閃光と化したミミズが突撃してきた! 狙いは、三人の一番体重が重いであろう継実と、その継実のすぐ傍を走るミドリ!

 

「きゃあああああっ!?」

 

「ぐっ……!」

 

 反射的に継実はミドリを突き飛ばし、ミミズの進路上から二人揃って退く。

 もしも一瞬でも行動が遅れていたら、凄まじい速さで跳んでくるミミズと激突していただろう。速さの代償か機敏な軌道修正は出来ないらしく、ミミズは継実の背後を掠めるようにすっ飛んでいく。一瞬にして百メートルほど先まで行ってしまった。ミミズはそこで急停止するとこちらを振り返り、様子を窺うように継実達に不気味な頭の先を向けてくる。

 未だにチリチリとした感覚が継実の背中に残るほどの、凄まじい突撃力。

 今回は掠めただけだったので助かったが、もしも片腕だけでも当たればどうなるか? 腕がもぎ取られる……それだけで済めば御の字だ。伝播した衝撃のほんの一部が変化して生じた熱だけでも、自分の身体の半分が弾け飛ぶと継実は予感した。心臓を貫かれた程度なら耐えられる継実でも、演算能力の要である頭がやられたら一発でお陀仏だ。あの突撃を受けたら、場所など関係なく即死しかねない。

 あまりにも出鱈目な力。しかしそれだけ強いのも頷ける。

 ミミズの体躯は二十メートルはあろうかという長大さ。いくら太さが五十センチ程度でも、あれだけの長さがあればかなり体重を有している筈だ。継実の目による観測が正しければ、凡そ一トンに迫るだろう。そして如何に継実達超生命体が超常的能力で戦うといっても、体躯の大きさとパワーの強さは基本的に比例する。

 この草原で頂点捕食者として君臨しているクマやゴミムシさえ、体重は精々五百~六百キロ。彼等を一・五倍以上体格で上回るであろうミミズの力は、間違いなく草原最強だ。

 

「(ここまで力の差があったら、全力で逃げても振りきるのは無理か)」

 

 大きな鳥に狙われたイモムシがどうやっても逃げきれないように、この巨大ミミズ相手では全力疾走も棒立ちも大差あるまい。まともな方法で継実達が生き残る事は不可能だろう。

 可能性があるとすれば、虚仮威しでもなんでもやって、一瞬でも怯んだ隙に物陰へと隠れるぐらいか。

 

「モモ! やるよ!」

 

「分かってる! ミドリは離れてて!」

 

「は、はいっ!?」

 

 ミドリに下がるよう伝えるモモ。ミドリは言われた通りミミズから離れようとする……が、ミミズからすれば、それは一番弱い獲物を教えてもらえたようなもの。

 ミミズの顔の向きが僅かに変わる。間違いなく、奴はミドリを見ていた。

 

「させるかっ!」

 

 巨大ミミズが何かをする前に、継実は牽制として粒子ビームを指先から連続して放つ! 秒間数十発、一発一発が小さな町なら壊滅させるエネルギーを有した光の弾は、残らず巨大ミミズの頭に命中して小さな(高密の)爆発を起こす。モモも雷の何倍もの威力の電撃を幾本も放ち、これも全て巨大ミミズの顔に当たる。

 いや、避けなかったというのが正しいか。

 巨大ミミズは継実達がどれだけ攻撃しても、焦げ目も擦り傷も付いていない。それだけならまだしも、微動だにすらしなかった。これだけ喰らわせれば、クマだって眩しさや煙たさから顔ぐらい顰めるというのに。

 

「(コイツ、ろくな目がないから目潰しが効かないのか……!)」

 

 七年前の生物知識が当て嵌まるとすれば、ミミズには光の濃淡を判断する程度の視力しかない。つまりそれは世界を認識するのに目を殆ど使っていないという事。白煙や閃光を撒き散らしても、ミミズにとってはさして強い刺激とはなり得ないのだ。

 そしてこの巨大ミミズは、視力以外のなんらかのセンサーを発達させたのだろう。視界を潰されたところで、その行動に迷いは躊躇いは生じない。

 

「ギュッ!」

 

 継実達の攻撃は続くも、ミミズは構わずその身体を僅かに縮こまらせる。狙いはミドリのまま。ミドリも狙われたと自覚したようで、慌ただしく逃げようとする。

 継実とてその突進をむざむざ許すつもりはない。しかし力が違い過ぎて真っ正面から止める事など不可能。出来るのは精々、ミミズが通るであろう進路上の空気を密にし、壁のように展開して邪魔する事だけ。

 この空気の壁とて生半可な硬さではない。全盛期の人類文明ではどんな兵器や科学を用いても、突破はおろか揺らがせる事すら出来ない代物だ。しかしそれさえもミミズは気にも留めず。

 

「ギュアアアッ!」

 

 またしても閃光を放ちながら、ミミズは突撃する!

 継実が展開した空気の壁にも構わず接触。触れた大気が次々と光へと変わっていく。尤も継実だってこんな壁一枚でこの化け物ミミズの突撃を受け止められるとは、露ほども思ってもいない。

 予想外だったのは、まるでそんな壁など存在してないと言わんばかりに平然と通過された事。

 

「な――――ぐぁっ!?」

 

 巨大ミミズが通過した瞬間、継実ですら吹き飛ばされるほどの爆風が巻き起こる。体当たりを受けた空気の壁が光へと変換された際、一部が熱へと変わり、周りの大気が膨張・衝撃波となって拡散したのだ。

 隕石の直撃であろうとも、今の継実を突き飛ばすなんて出来ない。つまり巨大ミミズの長大な体躯には、余波だけで小惑星に匹敵するほどの力があるという事。最早怪獣という言葉ですら括れまい。

 

「ひぃ!?」

 

 ミドリは悲鳴と共にひっくり返り、どうにかミミズの進路から退避。間一髪で躱していた。

 継実の目にはミミズの突進が減速したようには見えなかったが、ほんの少しは回避の役に立てたのか。しかし安堵するにはあまりにも早い。ミドリは不様に尻餅を撞いてしまったのだから。

 いくらなんでも、あの体勢から素早く回避に転じるのは不可能だ。もう一度突撃されたら、今度こそミドリの命が終わる。

 

「ちっ……だったらぁ!」

 

 継実は全身に満ちるエネルギー……たらふく食べて身体に浸透させた、イノシシの栄養を急速に消費。そして指先に、粒子ビームの力を凝縮させていく。

 十三キロ分の肉を全てエネルギーに変換した場合、九十ペタジュールもの値と化す。これは凡そ二十一メガトン級の核出力に匹敵するものだ。核兵器としては強過ぎて最早実用的でないレベルの威力だが、こんなものでは継実でもどうにか出来る。あの巨大ミミズに喰らわせたところで、怯むどころか意識を逸らす事すら叶うまい。

 そもそも継実は、いや、恐らく全ての超生命体は自分の身体にあるカロリーを()()()()()()()()()()()()()。一体何処からどんな風に引き出しているかも不明だが……カロリーを消費すると、その消費分よりも遥かに大きな力を生み出せる。自分の能力の仕組みなどさっぱり理解していない継実であるが、本能的にそれは理解していた。

 つまり莫大なカロリーを意図して費やせば、普段よりも遥かに大きなエネルギーを生み出せるという事。

 咄嗟の攻撃故か此度の変換効率は劣悪だが、されど費やしたカロリーを数百倍に増幅する事には成功した。今の継実の指先にて光り輝くは、巨大隕石さえもぶち抜く破滅の光。七年前の地球に向けて拡散して撃ち込めば、一撃で一つの大陸を焼き払い、地球全土の環境を激変させるであろう。それを一点集中させたものの破壊力がどれほどかは、語る必要もあるまい。

 神の鉄槌と呼んでも差し支えない、今この瞬間に繰り出せる最大最強の技を継実は解き放つ! 可能な限り圧縮させたエネルギーは、それでも纏めきれず直径一メートルもの光となってミミズに迫り――――

 

「ギュバァッ!」

 

 その光が到達する前に、ミミズは己の下半身を振り回した。

 粒子操作能力なんて用いず、摩擦による静電気もなく、ガスによる燃焼効果もない。強いて言うなら馬鹿力で振り回しただけの一撃。

 されどその一撃に含まれるエネルギーは大気分子を粉砕し、光子の塊を生成。高圧縮されたエネルギーの塊が、まるで刃のように飛んでいく。

 超圧縮光子ブレード。

 名付けるならばそんな、しかしミミズにとってはただ身体を振り回しただけで生じた一撃は、継実が放った巨大ビームと激突する! 押し返してやるとばかりに継実は更に粒子ビームへ力を注ぎ込み――――

 ミミズが放った力は、継実渾身の粒子ビームを難なく押し返した。

 

「ぇ、うぉあっ!?」

 

 呆気に取られる暇もなく、継実は自分の方に飛んできた超圧縮光子ブレードを仰け反って回避する事を強いられる。どうにか直撃は避けたが、万一当たっていたら耐える間もなく上半身が丸ごと吹っ飛ばされていただろう。

 かつての地球を滅亡させて余りある一撃も、このミミズの前では軽く押し返される程度のものでしかない。継実が命を燃やしたところで、ミミズの化け物はちょっと身動ぎすれば全てを無為に帰す。家族が力を合わせても、コイツの薄皮に擦り傷すら負わせられまい。

 宇宙でも悪名高い滅びの権化なんて目じゃない……継実のこれまでの人生で、最大最強の外敵だ!

 

「……ギュァァァ……!」

 

 継実渾身の一撃は巨大ミミズに掠り傷すら与えられなかったが、気を惹く事には成功したらしい。無視しても獲物を捕らえる事に問題はなくとも、鬱陶しいとは思ったのだろう。

 ダメージがないのは誤算だが、意識を逸らす事が目的なのだからこれで良い。ミドリが遠くに逃げた頃、こちらも退却だ。目潰しは効かないが、なんとか感覚器を潰せれば――――

 

「……ぁ」

 

 頭の中で組み立てていた作戦。しかしそれは、ミミズの『視線』と合った瞬間に吹き飛んでしまった。

 継実は感じ取ってしまう。ミミズから放たれる力が、これまでとは比にならないほど膨れ上がった事を。

 今になって感じられた本当の力の差。これまでミミズは、本気など微塵も出していなかった。しかし継実の一撃が、奴の闘争心を目覚めさせてしまったのだろう。そして自身の本気を引き出した生物に、その本気を維持したまま対応しようとしている。

 勝てない。

 何をどうやろうと、どんな作戦を練ろうとも、コイツには勝てない。アリが、本気の殺意を剥き出しにした人間相手には、傷付ける事はおろか逃げる事すら出来ないように。

 

「っ!? 継実逃げて!」

 

 巨大ミミズが継実を狙っていると気付いたのだろう。モモは電撃を放って自分の方に気を惹こうとしていたが、ミミズは見向きもしない。モモの放つ電気は雷の数倍の破壊力を秘めていたが、巨大ミミズの屈強な肉体はあっさりとそれを弾いていた。

 ミチミチと音を鳴らしながら、継実を見つめる巨大ミミズはその身に力を込めていく。何時でも、最高のタイミングで、最強の突撃をお見舞いするために。

 

「(あ、これは……死んだ)」

 

 脳裏を過ぎる死の予感。

 死を避けるためか、脳が全力で稼働しているのだろう。周りの景色が全てゆっくりと動いている。モモが駆け付ける動きも、ミドリが悲鳴を上げようとする動きも。

 その中で唯一普通に動くのが巨大ミミズ。先の継実の粒子ビームなど比にならない力が溜め込まれた身体が、びくんびくんと激しく痙攣している。一体あの身体にどれだけの力が宿っているのか、想像も計算も出来ない。

 死にたくないと継実は思った。

 けれどもそれはどんな生き物だって抱いている気持ち。自分達がイモムシを難なく捕まえて食べたように、イノシシを三人掛かりで仕留めたように、どうにもならない敵に襲われたらどれだけ嫌がっても食べられるしかない。こちらの気持ちなんて、世界はなんにも汲んではくれないのだ。

 しかし諦めるつもりはない。奴はこちらを食べるつもりだ。必ずこちらを咥えて、それから噛み砕こうとする。目にも留まらぬ速さでそれをするだろうが、上手くタイミングが合えば体内に直接粒子ビームを叩き込める。内側なら外部ほど頑強でない筈だから、もしかしたら倒せるかも知れない。噛まれた瞬間に全身が砕けるだろうが、頭さえ無事ならなんとか……

 達観の中に活路を見出す。自棄にならず、諦めもせず、小さなチャンスを掴んだモノだけが生き残る――――継実はそう思っていた。

 しかし現実は、少し違う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 幸運なモノもまた、生き残る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 巨大ミミズの身体が浮いた。

 ついに動き出したか、と身構える継実だったが、様子がおかしいと気付く。

 ミミズは真横に飛んでいる。

 継実目掛けて突撃するなら、真っ直ぐ飛ぶ筈。なのにどうして? 反射的に抱いた疑問から無意識に凝視すると、新たな違和感も見付けた。

 何か、さっきまでなかった()()()()()が巨大ミミズに接触している?

 否、接触ではなく――――殴り付けている!

 

「ギュアガッ!?」

 

 ミミズは数十メートルと吹き飛ばされ、大きく呻いた。

 継実渾身の粒子ビームすら消し飛ばした肉体が、殴られただけで吹き飛んだ。あまりの出来事に呆けている継実の前に、ミミズの傍に居た『そいつ』は軽やかに大地に降り立つ。

 一言でいうならば、金髪碧眼の美少女。

 まるで彫刻のように整った美貌を持ち、野生の世界に相応しくない華美なドレスを纏っている。浮き世離れした雰囲気は、しかしその整った顔に浮かべている神すら恐れぬ不遜な笑みによって和らいでいた。百七十はあると見える身体よりも長い髪が地面を引きずっていたが、少女は気にしている素振りも見せない。

 継実は彼女が誰だか分からない。彼女も、継実の事など知らないのだろう。金髪の美少女は継実を一瞥すらせず、自らが殴り飛ばしたミミズを眺めるのみ。

 次いでびしりと、何処までも自信たっぷりな仕草で巨大ミミズを指差す。

 

「ふっははははははは! 虫けら風情がこの私に敵うと思わない事ですねぇ! バラバラのぐちゃぐちゃにしてやりますよぉ!」

 

 そして自分が負ける可能性など一ミリも考えていない態度で、美少女は巨大ミミズに宣戦布告をしてみせた。



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旅人来たれり05

 訳が分からない。それが継実の抱いた第一印象だった。

 金髪碧眼の美少女……彼女はまるでかつての人類の栄光が今なお続けているかのように豪華絢爛なドレスを纏い、不遜にして人間味のある笑みを浮かべている。その服は一体何処で手に入れた? 一見すればヨーロッパ系の外国人のようにも見える顔立ちだが、つい先程発した声は流暢な日本語。日本人なのか? そして何より、どうして彼女は突然この場に現れたのか?

 頭の中を満たす無数の疑問。混乱のあまり空きスペースがなくなった頭はフリーズ状態へ陥る。継実はただただ唖然とする事しか出来ない。

 されど最後にして一番の疑問、何故彼女が此処に現れたのかはすぐに明らかとなった。他ならぬ美少女自身の発言によって。

 

「ようやく見付けた()()()()()()()()()()()()ですからねぇ。逃げられると思わない事です!」

 

 美少女は、この化け物ミミズを食べるつもりなのだ。

 

「……ギュアッ!」

 

 殴り飛ばされたミミズは起き上がると、美少女に顔を向けた。殴られた箇所だと思われる部分が、ほんの少しだが痣のように色が変わっている。表情などない顔だが付近の筋肉が皺になるほど歪み、怒りと闘争心がどんどん燃え上がっていると目の当たりにしたモノ達に伝えた。

 継実達が何を喰らわせても平然としていたミミズが、怒りを露わにしている。直接その怒りを向けられている訳でもないのに継実は生きた心地がしなかったが、対して美少女は自身を遥かに上回る体躯からの敵意に怯みもしない。それどころか勝ち気な笑みを浮かべ、腕を組んで仁王立ち。逃げる気は毛頭ないらしい。

 ミミズは美少女の自信満々な立ち振る舞いに、警戒心も強める。しかしこちらも退くつもりはないようで、身体にどんどん力を蓄えていく。

 ミミズは変わらず美少女を見ていた。もう継実達など興味がないのか、意識すら向けてこない。されど不意に、継実の身体に悪寒が走った。

 なんだか分からないが、嫌な予感がする。

 

「全員離れて!」

 

「ミドリ! あっちに逃げて!」

 

「は、はいぃ!?」

 

 直感を信じて継実は慌てて駆け出し、モモとミドリも走り出す。

 逃げ出す継実達を一瞥すらしなかったミミズは、やがてその身に蓄積した力を開放し――――自らを弾丸のように撃ち出す!

 これまで継実達に向けて放っていた突撃は、やはりエネルギーを温存した、言い換えれば相当加減した攻撃だったらしい。全力全開で放ったであろうミミズの突撃は、これまで以上に強力な閃光を撒き散らかす。発せられる光は最早物理的な刺激を伴うほどであり、『普通の人間』ならば目視しただけで死んでいてもおかしくない。

 もしも触れようものなら、それだけで全てが光と化す。超生命体なら殴り合える分、『ネガティブ』の方が余程マシに思える出鱈目な体当たり。

 それを美少女は怯まず躱さず慄かず。

 

「ふんっ!」

 

 一片の躊躇いも恐れも抱いていない、揺らがぬ自信に満ちた掛け声と共に蹴りを放つ!

 顔面からその蹴りを受けたミミズは、一瞬その力と拮抗するかのように制止した……そう、あくまでも一瞬だけ。

 次の瞬間、美少女の足蹴は巨大ミミズを押し返す! 巨大ミミズは大空を仰ぐかのように仰け反り、自分の攻撃が防がれた事に驚くかのように口を喘がせた。長身だが継実と左程変わらぬ体躯にも拘わらず、ここまで圧倒的なパワーの持ち主とは。継実としても想定外で、驚きから逃げ足が鈍る。

 そうして継実が見ている前で、美少女が次に起こした行動はミミズの顔面に手を伸ばす事。開きっぱなしの、故に剥き出しの歯がずらりと並んだ口になんの迷いもなく己が手を突っ込んだ。

 

「ふぬぅアァッ!」

 

 そうして掴んだミミズの身体を、美貌に見合わぬ猛々しい雄叫びと共に振り回す! 何度も何度も、まるでしなる鞭のように地面にミミズを叩き付け、その度に巨大な地震を引き起こした!

 ミミズは身体をのたうち回らせて美少女の手から逃れようとしているが、美少女は一向に離さない。ミミズは足掻きとばかりにその手に何度も噛み付くが、手の力が弛む事はおろか、美少女の顔が苦悶に歪む事すらない有り様。美少女の猛攻が止まる気配はない。

 一回叩き付けられる度に、巨大ミミズの身体に小さな傷が刻まれていく。決して致命的ではないが、無視出来るようなものではあるまい。段々と、一方的に、傷は蓄積していき……

 

「ギュ……ギュィイイイアア!」

 

 巨大ミミズが、渾身の反撃をお見舞いする!

 繰り出された技は、継実が放った最大最強の粒子ビームを僅か一振りで押し返した、超圧縮光子ブレード! それも継実に対して放ったものとは比較にならない、途方もないエネルギーを内包した一撃である。

 一方的にやられているように見えた間も、巨大ミミズは反撃の機会を窺っていたのだ。これには美少女も顔を顰めたが、至近距離からの一撃では回避も出来ない。光り輝く刃が美少女の顔面を、縦に真っ二つに切り裂く。

 もしも継実があの攻撃を受けたなら、切断時に生じた熱量でバラバラに吹き飛んでいるだろう。原形を保っているだけでも凄まじい……が、頭が縦に真っ二つとなればやはり致命傷だ。普通ならば即死である。

 あくまでも、普通ならば。

 

「うーん惜しいですねぇ。()()()()()()()()()()()!」

 

 美少女は苦しむどころか、頭が裂けたまま平然としていた。それどころかますます戦意を露わにし、ミミズの口に両腕を突っ込む!

 美少女は腕に力を込め、巨大ミミズの口を左右に広げていく。やがて限界まで開かれたミミズの口からはギチギチと音が鳴り始め、美少女が未だ容赦なく力を込めているのが継実達にも分かった。

 あの美少女はこのまま、巨大ミミズを引き裂くつもりらしい。

 巨大ミミズも己の未来を察知したのか、激しく身体をうねらせた。だが、パワーで上回る美少女の腕を振り解く事は叶わない。対する美少女はまだまだ余力があるようで、にやにやと笑みを浮かべていた。超圧縮光子ブレードにより裂けた頭は独りでにくっつき、何時の間にやら元通りになってしまう。美少女に傷と呼べるものはもう何処にもない。

 巨大ミミズの口はゆっくりとだが、どんどん開いていく。それと共にブチブチと、生々しい切断音が聞こえてきた。巨大ミミズは最早暴れる事すらも止め、全身の筋肉を膨らませて必死に対抗しているが音は鳴り止まず――――

 

「ギュ……ギュギイイイイッ!」

 

 巨大ミミズが悲鳴染みた叫びを上げた。

 それと同時に、ぶちりと生々しい断絶音が辺りに響く……尤もその音が鳴ったのは口許からではなく、胴体の丁度真ん中。

 巨大ミミズは自らの意思で身体を切断したのだ。ミミズは天敵に襲われた時、身体を切断して敵から逃れる事がある。体長二十メートルもの大きさになっても、まだこの性質は失われていなかったらしい。

 本体から離れた長さ十メートルもの下半身は、意思を持つように美少女へと巻き付く! 太さ五十センチもあるのでぐるぐる巻きとはいかずとも、二回りもすれば足から腹の辺りまでは拘束出来る。千切れたミミズの下半身は美少女の腕にも巻き付き、まるで大蛇のように締め上げた。

 美少女は眉を顰めるだけだったが、やがて小さなため息を吐き、巨大ミミズの頭から手を離す。自由を取り戻した巨大ミミズは喜ぶように跳ね、大急ぎで地面に直進。あっという間に地中へと潜っていく。

 

「……ふん。まぁこれだけあれば十分でしょう」

 

 あっさりとミミズを逃がした美少女は、自分に巻き付く下半身、その切断面に手を触れる。

 するとどうした事か。下半身は激しく痙攣し、間もなく動かなくなった。力も抜けたようで、解けるように地面に落ちてしまう。明らかに生命活動を停止している。

 この美少女は一体何をしたのか? 継実にはさっぱり分からない。

 他にも分からない事だらけだ。とんでもなく強いが、その強さは何処から得ている? 何故こんな草原にやってきた? 尋ねたい事は山ほどある。

 一つだけ確かな事があるとすれば――――この美少女が、人間ではない事だろう。本能的にそれだけは感じ取れた。

 

「継実! 大丈夫!?」

 

「つ、継実さぁん!」

 

 唖然とする継実の下に、モモとミドリが集まってくる。いや、集まるどころか二人とも、継実にがっちりと抱き付いてきた。

 恐らくミミズに睨まれて自分が死を意識した時、モモ達も同じく継実の死を予感したのだろう。心配させてしまったと、二人の頭を優しく撫でる。すると二人共揃って頭をぐりぐりと継実に押し当ててきて、思わず継実は笑みが零れた。

 ……果たしてこんな暢気にしてて良いものかとも思ったが。

 巨大ミミズを呆気なく打ち倒した美少女。圧倒的なパワーを見せ付けたが、戦闘中の態度からして本気を出したとは到底思えない。もしも本気を出したら一体どれほどの強さがあるというのか。

 万が一にも、自分達に敵意を向けてきたら……

 

「ふんふふーんふふんふーん♪」

 

 継実の脳裏を過ぎるそんな不安は、こちらの事など見向きもせず、上機嫌な鼻歌を歌う金髪碧眼の美少女の姿で吹き飛んだ。彼女は身体に巻き付いたミミズの下半身を手で押し潰し、中身である未消化物や糞を絞り出している。美味しく頂くためなのか、捕まえたミミズの『身体』を綺麗にする事に夢中なようだ。

 どうやら継実達の事など、大して興味もないらしい。

 危険性云々の話でいうなら、好都合な話である。今のうちにこっそり逃げ出してしまえば、恐らくこの美少女も追ってはこないだろう。むしろ仕留めた獲物を狙っていると勘違いされたら、軽い威嚇だけでも酷い目に遭いかねないし、見せしめに誰か一人殺されてもおかしくない。

 彼女が何者であるか、何処から、なんのためにやってきたのか。そうした疑問は未だにあるが……好奇心の結果殺されたら元も子もない。

 

「継実、なんだか分かんないけど、今のうちに逃げましょ」

 

「え? で、でもあの人、あたし達を助けてくれた訳ですし、お礼ぐらい……」

 

「あんなの私らよりも実入りの良い獲物がいたってだけよ。アレでも足りなかったら、次は私らが狙われるかも」

 

 モモも継実と同じ意見。ミドリだけは好意的な印象を抱いたようだが、モモの話を聞いて顔を青くした。

 未だ美少女は継実達を見てもいない。静かに、刺激しないように離れるため継実達はゆっくりと一歩後退り

 

「フィアちゃーん!」

 

 した瞬間、背後から声がしたものだから、三人揃って飛び跳ねてしまった。

 ミドリは驚いたのか頭を抱えてしゃがみ込むが、継実とモモは素早く振り返った。どんなものが来るのか、最大限警戒しながら。

 継実達が目にしたのは、小さな女の子だった。

 ……見た目から判断するに、小学生か、精々中学生だろうか? 肩の辺りまで伸びている白銀に光り輝く髪と、少しばかり鋭さを持つ赤い瞳は、明らかに日本人のそれではない。顔立ちは人形のように整っていて、触れたら壊れそうな身体付きは庇護欲を掻き立てる。目付きがあとほんの少し悪くなければ ― 或いはそういう『役柄』ならば ― 、七年前の世界なら子役としてデビュー出来たと思うほどの可憐さ。着ているのは真っ白なワンピースで、まるで文明社会からひょっこり出てきたかのような身形だ。

 そんな女の子は継実達の視線に気付くと、一瞬考え込んだように間を開けた後、()()()()()()()()()

 

「(……え? 今の、まさか会釈――――)」

 

 その行動を目にしたのが、もう七年ぶりだったから。

 継実は思わず固まってしまい、女の子が真横を通った時になんのアクションも起こせなかった。声を掛けるチャンスを逃した継実であるが、チャンスの神様と違ってしっかり伸びている女の子の後ろ髪を掴む訳にもいかない。

 女の子はてくてくと見た目相応の、しかしこの世界では最早鈍足としか呼べない足取りで、美少女の下へと向かう。すると美少女は女の子の方をくるりと振り返り、満面の笑みを浮かべた。

 

「おおっ花中(かなか)さん。見てください大ミミズですよ!」

 

「わぁ、久しぶりだねー。今回は下半身だけ?」

 

「ええ。別に頭も潰して良かったですけど自切してきたので。私達二人分の食糧としてはこれで十分ですし」

 

「あ、うん。そだね、二人分ならね……フィアちゃんならそういうよね」

 

 美少女の話に、女の子はやれやれとばかりに肩を落とす。次いでくるりと、継実達の方を振り向いた。

 少々目付きは悪いものの、敵意のない女の子に見られて継実はキョトンとしてしまう。そうしている間に女の子は継実達のすぐ傍までやってきて、にこりと人の良い笑みを見せる。

 そして深々と、改めてお辞儀を一つ。

 

「はじめまして。わたしは大桐(おおぎり)花中(かなか)、こっちの子はフィアと言います……えと、良かったら、少し、お話ししませんか?」

 

 拙い話し方で、自己紹介と、交流の申し出をしてくるのだった――――



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旅人来たれり06

 大桐花中とフィアの二人は、南を目指して旅している。

 二人とも元々は関東地方の出身であり、ほんの数日前まで地元で暮らしていたらしい。無論関東地方も七年前の魔物――――ムスペルにより灰燼と帰したが、生き延びた人々は皆無ではなく、力を合わせて今まで暮らしていたという。

 とはいえ文明の再興なんて出来るほどの余力はなし。それどころか七年の間に、共に暮らしていた人々の多くは飢えや病などで死んでしまったそうだが……

 

「それでも、わたし以外に、まだ二人、生き延びていたのですけど……五日ぐらい前に、オニヤンマの、群れに、襲われて。生き延びた、人達も、散り散りになってしまって……」

 

「そっか。大変だったわね……つか、ミドリはそれ知らなかったの? 確か北海道から来たんだったわよね?」

 

「ええ、そうですよ。ただあたしの身体が北海道からこっちに来た時には、中部地方側を通ったみたいなんですよねー」

 

 太陽が天頂で輝いているお昼時を迎えた、継実達の住処であるクスノキの傍にて。花中が伝えたそんな話を、モモとミドリが興味深そうに聞いていた。フィアも花中の傍に居て、継実も含めた五人でぐるりと円陣を組んでいる格好だ。

 勿論継実も花中の話を聞き、声こそ出していないがこくこくと頷く。それからもぐもぐと、ゴムのように弾力のある肉……焼けたミミズ肉を齧る。

 このミミズの肉は、元を辿ればフィアが仕留めたあの巨大ミミズの下半身である。フィアもゆったりと食べていて、モモとミドリ、そして花中も大きな肉塊に切り分けられたミミズ肉を食べていた。継実達は狩りに何一つ協力していないが、花中があげても良いかと尋ねたところフィアは即答で了承。曰く、食べきれないのでお好きにどうぞ、との事だった。

 恐らくフィアは単純に、自分の分以外は大して興味がないタイプのだろう。しかし食べ物を分けてもらえたのは事実。どうやらこの二人組は悪い人達ではないらしいと、継実はそう思うようになっていた。尤も、そもそも人間なのかどうかすら知らないが。見た目は明らかに人間でも、モモのように『外側』だけなのかも知れない。

 

「……花中ちゃん達は、人間なの?」

 

「えっと、わたしは人間です。フィアちゃんは、人間じゃないですけど……」

 

「私はフナですよ。この身体は私の能力で作ったものです」

 

 継実が尋ねると、花中はあっさりとそう答え、フィアも特段迷いもなく認める。

 人間である花中に、継実は少なからず親近感を覚えた。ミドリと出会った時もそうだが、やはり同種と出会えるというのは嬉しいもの。それにこの七年間を生き延びたという事は、同じ超生命体の仲間でもある筈である。共感性は人間の本能だ。

 それとフィアの正体については、少々驚きを覚えた。基本的に超生命体は大きければ大きいほど強いもので、相性云々を抜きに考えれば体重差と実力差はほぼ = の関係である。フナというのは小魚というほど小さくはないが、体長二十メートルのミミズと張り合えるような大きさではない。

 その強さには、何か秘密があったりするのだろうか?

 

「有栖川さんは人間で、モモさんは、犬ですかね?」

 

 そして秘密がありそうなのは、花中も同じようだ。

 

「うん、そうよ。よく分かったわね。何か能力を使った?」

 

「いえ。犬のミュータントは、わたしの暮らしていた、地域にもよく、いましたから、なんとなく、分かるというだけです。犬種によって、能力が少し違うので、自信はありませんでしたけど」

 

「みゅーたんと?」

 

「あ。えと、わたし達のように、特別な能力を、持つようになった生き物を、わたし達はそう呼んでいます。もう世界中の生き物が、置き換わった状態なので、正確には、ミュータント(突然変異体)では、ないのですけど」

 

「ふーん」

 

 正体をあっさり見破られたモモは、感心したような声を漏らす。花中はなんて事もないかのように語ったが、果たして本当に『見慣れている』だけで人間に化けた生物を見破られるものだろうか?

 それに、ミュータントという言葉。

 継実が自らを超生命体と称しているのは、それがどうして生まれたのかを知らず、『兎に角凄い生き物』としか言えなかったからだ。

 しかし花中は超生命体をミュータント(突然変異体)と呼んでいる。つまり花中は、超生命体がなんらかの突然変異により誕生したと知っているのだ。自分達より、かなり詳細な知識を持っていると考えて良いだろう。だが、その知識は一体何処で手に入れたのだろうか? ミュータントが堂々と繁殖し始めた頃には、ムスペルによって人類文明なんて滅ぼされていた。研究出来るような組織も壊滅し、独力で調べるにしても限度がある筈なのに。

 ……関係ない話だが、継実は自分も超生命体をミュータントと呼ぶ事にした。話をする上で用語は統一した方が良いし、正確な表現があるならそちらに寄せるのが正しいだろう。あとミュータント呼びの方がカッコいいと思うので。

 それはそれとして。

 

「ところで、ミドリさんは、人間で良いのでしょうか? ちょっと、違う感じが、するのですけど」

 

 モモの正体を見抜いた花中は、更にミドリの正体に違和感を抱いた様子。

 ミドリは『身体』こそ人間だが、中身は宇宙生物だ。逆に言えば少なくとも身体は正真正銘の人間である。故に外側を解析したら間違いなく騙される筈なのに、何故か花中は疑いを持つ。

 正体を疑われ、ミドリは目をぐるぐる回しながら狼狽える。家族になった訳じゃない相手にぺらぺらと出自を喋るつもりはないようだが……口から「あわあわあわあわ」などという典型的な狼狽えた声が漏れ出て、あたしは人間じゃありません、隠し事をしていますと無言で説明していた。

 あからさまに怪しいミドリの言動だが、花中は少し考えた素振りを見せただけで、特段追求もしてこない。「同じ人間として、仲良くしましょうね」と、優しく答えるだけだった。

 

「花中さん花中さん。コイツ人間っぽいですけど人間じゃないですよ。中になんか妙なものが入り込んでいる感じなので人間の身体を何かが乗っ取ってるんじゃないですか?」

 

 なお、その優しさはフィアの遠慮なんて欠片もない一言で粉砕されたが。

 ミドリは「ぴぎゃー!」という情けない悲鳴を上げてひっくり返り、折角の優しさを無為にされた花中は唇を尖らせる。

 フィアは不思議そうに、こてんと首を傾げるだけだった。

 

「……フィーアーちゃーんー?」

 

「んー? なんで花中さん怒っているんですか?」

 

「怒るよ! わたしの気遣い全部台なしだもん!」

 

「気遣いなんて知りませんよ。というかアレ人間に取り付く寄生虫なら花中さんにも付くかもですし念のために駆除しときますか?」

 

「しません!」

 

 ぎゃーぎゃーと喚くように、フィアに詰め寄る花中。『駆除』すると言われたミドリはガタガタ震えていたが、花中に止められたフィアはぼけーっとするばかり。ミドリの事を駆除しようと平然と提案した割に、これといって嫌悪や敵意は抱いていない様子だ。

 思った事を話しただけで、そうしないといけないという使命感も何もないらしい。遠慮も相手への思いやりもなし。モモだって似たようなものだが、フィアは更にもう一段上なようだ。正しく『野生生物』である。

 そんな野生生物であるフィアだが、花中の事は好きなようで。花中が止めればすんなり言う事を聞いていた。

 

「まぁ花中さんがそう言うならそれで構いません。こちらのお三方には手を出さないようにしましょう」

 

「うむ。よろしい」

 

 ちなみに花中はフィアが言う事を聞いてくれると、満足したのか胸を張る。それからすとんと、当然のようにフィアの膝の上に座った。

 ……ちょっとした拍子に乗ったとか、ふざけて乗ったとか、そういう感じではない。まるで何年も愛用している椅子に腰掛けるように、花中とフィアは自然に一体化している。

 

「二人とも仲良しねー」

 

「まるで姉妹みたいですねっ!」

 

 モモは思った事を、ミドリは恐らく褒め言葉のつもりで花中達をそう称した。

 すると花中はハッとしたように目を見開き、慌ててフィアの膝の上から退く。途中何もないところで蹴躓くほどの慌てぶりだ。どうやら無意識に甘えていたらしい。花中が上から退いた後フィアは物足りなさそうな目を向けたが、花中は頬を赤らめながら誤魔化すようにそっぽを向く。

 恐らく、普段は事ある毎に先のように甘えているのだろう。フィアも花中が大好きだが、花中もフィアが大好きらしい。あのあどけない見た目通り、甘えん坊なようだ。

 ……そう、見た目通り。

 

「(ほんと、何歳ぐらいなんだろう)」

 

 外見から判断する限り、花中の年齢は精々中学生、もしかしたら小学生……十二~十三歳ぐらいか。

 その年頃ならば七年前の『世界の終わり』を体験している筈だ。僅か五~六歳の幼子が生き残れるような環境ではないと思うが、しかし圧倒的強さを誇るフィアと一緒ならば難しくもないだろう。

 ……当時小学生になるかどうかの歳だったなら、親も傍に居たに違いない。死んでしまったのか、離れ離れになったのか。いずれにせよ真っ当な別れは期待出来ない。

 当時十歳だった継実も過酷な日々を過ごしてきた。しかし不幸の比べっこなどするつもりはないし、年下の子が過ごしてきた境遇を思えばこっちの胸が苦しくなる。継実は、普通の人間なのだから。

 そうしたもやもやとした気持ちは、庇護欲を掻き立てる。

 立ち上がった継実は花中の傍へと向かい、衝動的にその小さな頭を撫でていた。

 

「ふぇ? え、あ、あの……」

 

「花中ちゃん、今まで大変だったでしょ? よく頑張ったね」

 

「あ、あうぅぅ……!?」

 

 継実が撫でるほど、花中は頬を真っ赤にして照れる。俯き、目をぐるぐるさせているところは実に可愛らしい。

 こうして可愛いところを見せると、お姉さんぶりたくもなってくる。もしも継実が普通の中学生、或いは中学・高校生となって部活動をしていたら、後輩相手にお姉さんぶる事も出来たが……十歳の頃に文明崩壊を経験した彼女に、そんな経験はない。

 出会ったばかりの相手に年上ぶるのも気恥ずかしいが、それよりも庇護欲が上回る。

 

「だってあなた、まだ中学生ぐらいでしょ? 本当に、凄いと思う」

 

 継実としては、本心から褒めるつもりでそう讃えた。

 ところがどうした事か。褒められた花中がぴきりと固まる。

 顔を赤くしているので照れているのかと思ったのか、引き攣った表情は恥ずかしさに震えているようには見えない。むしろ怒りのような感情を感じさせるが、ハッキリとしたものではないのでよく分からない。

 恐らく自分の告げた言葉が問題だったとは継実も思うのだが、さて、何が悪かったのやら。考えても答えには辿り着けず、戸惑いを覚えてしまう。

 

「花中さんって確かもう二十五歳ですよね? 中学生に間違われてますよ」

 

 そんな継実の疑問に答えてくれたのは、フィアだった。

 答えてはくれたのだが……今度は継実を凍り付かせる。犬であるモモと、異星人であるミドリは色々察して顔を引き攣らせた。

 二十五歳を中学生と見間違う。

 女は何時だって若く見られたいもの、とはいっても限度があるだろう。文明が残っていれば高校生である継実も、何かの拍子に中学生扱いされたら色々とキツい。二十五歳なのに高校生に妹扱いされたら尚更だろう。

 

「……ごめんなさい」

 

「んー? 何故あなたが謝るのです? 花中さんは高校生の時から小学生に間違われるぐらい小さいですしあなたが間違えるのも仕方ないと思うのですが」

 

「ぐはっ!」

 

 フィアのフォロー、いや、率直な疑問に花中が呻きを上げた。膝を折り、大地に手を突き、ぷるぷると震える。

 

「お、大きくなったもん……三センチ……七年前から、三センチ、伸びたもん……!」

 

「過去何センチ伸びていようと今小さいのですから関係ないと思うのですが。というか花中さんその気になれば身長伸ばせますよね? 肉体の原子だか分子だかを並び替える感じで」

 

「それじゃ意味ないの! わたしは普通に育った状態で、百五十センチ欲しいのぉ!」

 

「私は背を能力で伸ばすのも自然に伸ばすのも違いがあるとは思えないのですが」

 

 花中の想いもなんのその、親しい仲の割にフィアは花中の気持ちに疎い様子。それと花中の身長は百四十センチ代らしい。十二歳女子の平均身長でさえも百五十センチ代なのに。

 恥を掻かされた怒りか、単に頭がごちゃごちゃしてるのか、意外と感情的なのか。ぷくーっと頬を膨らませた花中はフィアの頭をポカポカと叩く。普通の人間だったとしてもへっぽこな拳での打撃に、フィアは目を細めて不思議そうにするばかり。

 チグハグな花中達のやり取りに、ついに継実は吹き出してしまう。ミドリもつられるように笑い出し、モモも賑やかな人間達の様子にニコニコと微笑んだ。傍に佇むクスノキは何も言わないが……鬱陶しいとでも思っているのだろう。

 

「(ああ、この人達とも一緒に暮らしていけたら、楽しそうだなぁ)」

 

 ふと、脳裏を過ぎる欲張りな願望。

 ほんの短い間の付き合いだけど、それでも花中達の人柄は窺い知れた。フィアは率直ながら悪意が感じられないし、花中は ― これを言うとまたむくれそうだが ― 子供っぽくてとても可愛らしい。

 彼女達と共に毎日を過ごせたら、どれだけ楽しいだろうか。

 勿論この願いが叶わぬものである事は、継実も重々承知している。彼女達は旅路の最中であり、ここはあくまで中継地点に過ぎないのだから。

 

「……えっと、花中ちゃ、あ、いや、大桐さんは何時まで此処に居るつもりですか?」

 

「へ? あ、えと、数日分ぐらい食べ貯めしたいので、明後日か明明後日(しあさって)ぐらいかと……あ、あと、その花中ちゃんで大丈夫ですし、敬語も、いらないです。慣れているので」

 

 慣れているならどうして悲しそうな顔してるんですかね……と言いかけた口をむぐっと閉じる継実。その疑問は脇に置き、今し方の話に想いを馳せる。

 明後日か明明後日。

 それなりであるが、あっという間に過ぎ去るであろう時間。それでお別れになるというのは寂しいが、一緒に居るには継実達がこの地を離れるか、花中達が旅を止めるしかない。どちらかが現状を無理矢理にでも変えねばならない以上、これは致し方ない事だ。

 無論、その別れを今日する必要もないが。

 

「……そっか。うん、じゃあ旅立つまでは一緒に暮らさない? モモとミドリも、良いよね」

 

「私は構わないわよー」

 

「あたしも賛成です! 一緒に暮らす人が増えると楽しいですし!」

 

 継実の提案に、モモとミドリも賛同。

 花中は驚いたように目を見開き、フィアは花中の顔色を窺うだけで無表情だが、どちらも拒否感は見せていない。

 

「えっ。良いんですか? でしたら是非!」

 

「花中さんがそうしたいのなら私から異論はありません」

 

 継実からの提案を花中は快く了承。フィアも断らず、二人との短期共同生活が決まった。

 二日か三日か。短い共同生活だが、次に人と会えるのが何時になるか分からぬ今の世界では、きっと一生ものの思い出になるだろう。最後まで楽しみたいところだ。むしろ楽しくなり過ぎて、花中達がこっちで暮らしたくなるかも……というのは流石に願望が過ぎるというものだろうが。

 ――――継実はそう思っていた。そう、この時までは。

 

「そういえば、そもそもなんで二人は南を目指してる訳? 南の方は私らみたいなみゅーたんとがいないとか?」

 

 ふと、モモはそんな疑問を口にする。

 思えば、確かに疑問である。南という方角も随分大雑把だし、理由が分からない。

 とはいえ、大した理由があるとも思えないのだが。日本は北半球にあるので南半球にはまだ無事なところがあるかもとか、離れ離れになってしまった人達との合流予定場所があるとか、そんな程度の理由かも知れない。

 なので継実としては、あくまでも興味本位で耳を傾けるだけ。ミドリやモモも、そこに何か『期待』出来るようなものがあるとは微塵も思っていない、暢気な表情で花中を見遣る。フィアも特に思うところなどないように、のほほんとしていた。

 花中だけが、神妙な面持ちをしている。

 

「……これは、あくまでも、噂です。わたしも、確証はありません」

 

「……? うん。そう、なの?」

 

 重々しく語られた前置きに、モモは僅かに戸惑いを見せた。聞き耳を立てている継実も少なからず気を引き締める。とはいえ何を言われるか想像も出来ていなくては、本当の意味での覚悟なんて出来やしない。

 だから、

 

「南極に、集まっているそうです。生き延びた、人間達が」

 

 花中の語ったこの言葉に、継実は言葉を失ってしまうのだった。



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旅人来たれり07

「生き延びた人間が、集まってる……?」

 

 思わず継実が繰り返してしまった言葉に、花中はこくりと無言で頷いた。

 

「六年ほど前、わたし達の住んでいた場所に、一人の男性が、やってきました。元自衛隊員と、語っていた彼は、各国の軍と連絡を取り、南極や北極など、極地への脱出を、考えていると、教えてくれたのです」

 

「六年って随分昔の話ねぇ。なんでその時は行かなかったの?」

 

「当時はまだ、生き延びた人が、百人以上いて、集落を作って、一緒に、暮らしていました。彼等の大半は、高齢者や子供達で、その人達に、大陸間を渡る旅は困難だと、判断したからです。それに食糧の調達は、わたしとフィアちゃんがやっていましたから、わたし達が出ていけば、あの人達は飢え死か、他の動物に食べられてしまうと思い、動けませんでした」

 

「で、今は生き残りが少なくなって、散り散りにもなったから、集合ついでに気になっていた南極に行こうって話になった……いや、そうなった時のために予めしていたって訳ね」

 

「……不甲斐ない話、ですけどね」

 

 モモからの問いに答えると、花中は僅かに俯く。本当に、ほんの僅かだが……顔に悔しさが浮かんでいるようだと継実は思った。

 付き合いが短い継実には、花中の心境を想像するのは難しい。けれども継実が花中の立場だったなら……六年掛けて、結局二人しか生き残れなかった事を悔やむと思った。

 花中が話したように、日本から南極への旅となれば、体力の少ない高齢者や子供は道中でバタバタと死んだだろう。花中達は平気でも、普通の人間の体力では日本列島横断すら厳しい筈なのだから。しかしもしも生き延びて南極に辿り着けたなら、もしかしたらそこは安住の地で、寒さと食糧さえどうにか出来れば老人や子供でも長く生きられる環境だったかも知れない。

 人々の安全を考えて、そして恐らく相談もして、花中は決断しただろう。合理的に考えれば危険で願望染みた可能性に縋るより、安全でより確実な方を選択する方が正しい。しかし力で脅すなりなんなりして強行した方が、結果的に多くの人達を生き長らえさせる事が出来たのではないか……

 たらればを語っても意味がない事は、継実に言われずとも『年上』である花中も分かっている筈。しかしそれでも過去の『もしも』を考えてしまうのが人間というものなのだ。

 

「私的には花中さんと一緒なら人間が生きていようが死んでいようがどーでも良いのですけどね。離れ離れのあの二人が死んでても構いませんし」

 

 ちなみに、フィアにそういう感傷は全くないらしい。しかも恐らく何年も一緒に暮らしていた筈の人間が死んでいても、興味すらないという薄情ぶり。人間好きとはいえ犬であるモモすら、表情を引き攣らせる始末。あまりにも無慈悲な言葉に、しんみりしていた空気が一瞬で霧散してしまった。

 花中もムスッと唇を尖らせたが、フィアが空気を変えてくれたのは間違いない。小さなため息を吐けば、少なからず沈んでいた花中の表情は元に戻る。モモもフィアの『人となり』を理解したのか、これといった反発もしないで話を戻す。

 

「まぁ、行かなかった理由、これから行く理由については分かったわ。そーいう事なら納得ね」

 

「でも、大丈夫なのですか? その、離れ離れになった人達って能力を持たない普通の人間なのですよね? 力もなしに、南極まで行けるのでしょうか……」

 

「というかそもそも南極って安全なの? ペンギンとかアザラシとかクジラとか、危険な生き物はいくらでもいると思うのだけど」

 

 花中からの説明に納得したのも短い間。すぐに新しい疑問がモモとミドリの中に生じる。二人の疑問は尤もなものだ。新天地というのは聞こえが良いが、南極といえば七年前の地球では過酷な環境の一つ。寒さは命に関わるほど厳しく、生きるための食糧を満足に得られるかも怪しいだろう。

 わざわざ過酷な地帯に移住するからには、相応のメリットがある筈。しかし継実が考える限り、そうしたメリットはとんと浮かばず、デメリットばかりが思い付く。一体何が花中達を南極に惹き付けるのか。まさか『希望』なんて曖昧なものに縋っているとしたら……

 そうした疑念を感じ取ったのか、花中はモモ達の疑問に答えるように話し始めた。

 

「……そもそも、どうして人間、いえ、普通の生き物が、この地球から一掃されたのかと、思いますか?」

 

「え? そりゃあ、生存競争の所為じゃない? 弱肉強食で、弱い奴はみんな食べられちゃったり殺されたりしたんでしょ」

 

「そうですね私もそう思います」

 

「いえ、弱いというだけでは七年で惑星上から従来生物を一掃するのは難しいでしょう。例えば継実さんやモモさんは、強力な力と引き換えにたくさんの食事を必要とします。効率は圧倒的に上でも、最低限必要なエネルギーに大きな差がありますから上位互換とは言い難い。それなら代謝の低い生き方をすれば共存は可能です。弱いなら弱いなりの生き方をすれば、強い生き物とも同じ環境で生きていける。これは地球外生態系でも普遍的に見られます」

 

 花中から提示された問いに、モモはそう答え、ミドリが否定的かつ科学的な見解を述べる。ちなみに花中から『理由』を聞いているであろうフィアも何故かモモと同じ意見だった。如何にも知的な風貌の割に、どうやらモモ以上に難しい話が苦手らしい。あとミドリは ― 恐らくまたうっかりと ― 自分が地球外生態系に詳しい事をカミングアウトしている。

 なんとも締まらない点については無視しつつ、ミドリの指摘について継実はその通りだと思う。自然界は弱肉強食というが、それは人間的価値観に基づいた見方だ。省エネルギーを突き詰めた結果ろくに歩けないほど弱々しいナマケモノは、ワニすら仕留めるジャガーと同じ森で生きていける。過酷な自然界において、『強さ』だけが生きていくのに必要なものではない。時には強さを捨て、最低限の能力だけに絞る事も有効なのだ。

 勿論全ての生き物でそれが出来るとは限らない。例えばクマやワニのような肉食動物は、ミュータントと化した動物が増えれば狩りの時に返り討ちに遭って滅びそうである。しかしナメクジやトビムシのような小さな腐食性生物、コケやツユクサのような独立栄養かつ繁殖力旺盛な植物であれば、ミュータントとの共存も可能ではないだろうか? 何故そうした生物まで全てミュータントに置き換わってしまったのか。

 花中はその答えを知っていた。

 

「ミュータント化したのは、多細胞生物だけでは、ありません。細菌類やウイルスも、同様です」

 

「細菌やウイルス? それがみゅーたんとになったからって何が変わるのよ。いくらみゅーたんとが出鱈目に強くても、細菌の小ささじゃ虫一匹殺せないと思うんだけど」

 

「戦闘能力では、無理でしょう。でも、細菌の恐ろしさは、強さでは、ありません……感染症です」

 

 首を傾げるモモに、花中は説明する。

 細菌のミュータントは、確かに直接的な戦闘で人を殺す事は出来ない。いくらミュータントの力が凄まじくとも、体重差数十兆倍の相手となれば流石に押し負ける。継実で例えれば、富士山よりも巨大な生命体に襲われるようなものなのだから。

 しかし細菌達は、真っ向から富士山に立ち向かう事はしない。というよりそんな事をする必要などない。

 傷口や呼吸、食事などを通じ、体内に侵入すれば良いのだ。

 通常の細菌やウイルスなら、口から入っても強酸を含んだ胃液で呆気なくやられてしまうし、どうにか体内に入り込んでも免疫系の猛攻撃を受けて退治されてしまう。しかしミュータントと化した細菌達ならば、たかがタンパク質を分解する程度の酸など水浴びと変わらないし、白血球などそれこそ『同じ体格の相手』だ。何百万と集まったところで、ミュータント化した細菌達はこれを易々と蹴散らすだろう。

 身体の防衛機能を難なく突破した細菌は、生物体を餌にして大増殖。あっという間に宿主は内側から食い尽くされ……『病死』する。

 ミュータントなら、対策はいくらでもある。継実なら食べ物を粒子操作の能力を応用して分解しているが、ミュータント化した細菌相手にもこの滅菌は通じるだろう。しかし普通の生物には打てる手などなく、どうにもならない。

 ミュータント化した細菌はその能力を生かして次々と繁殖し、大気中を漂って次々と地球上の生物に感染していく。無論先程ミドリが語っていたように、ニッチの違いから大気にはまだミュータント化していない細菌もいくらかいる筈だ。だが、そんな事は最早関係ない。普通の生物なら、一匹でもミュータント化した細菌やウイルスを吸い込めばお終いなのだから。

 世界を文字通り覆い尽くした、ミュータントによる疫病。それこそが、世界から従来生物を駆逐した本当の原因なのだ。

 

「ほー。そういう理由で何年か前にバタバタ人が死んだのですねー」

 

「……うん。フィアちゃんには、その時説明した筈なんだけどね」

 

「忘れました。人間がなんで死んだかなんて興味ないですし」

 

 ちなみにフィアはやはり花中から説明を聞いていたが、すっかり忘れていたらしい。何処までも興味がない事柄には関心がない性質(タチ)のようだ。

 再び緩んだ空気を締めるように、花中は咳払いを一つ。表情も引き締め、『本題』を語る。

 

「七年前の話になりますが、南極は、非常に空気が澄んでいて、細菌やウイルスが、殆どいない土地でした。ですから、能力を持たない人間が、生き残れる場所が、あるとすれば、南極か北極だけです」

 

「北極が選ばれなかった理由は、何かあるのでしょうか?」

 

「そこまでは……ただ、北極には陸地が、ありません。建物などを、建設する上で、地面がある方が好都合だったのかも、知れません」

 

 ミドリがぶつける『南極じゃないといけない理由』への答えは、ハッキリ言ってしまえばただの憶測。しかしそれは、この期に及んでは大したものではない。

 南極に人が集まる理由が存在する。それだけで、旅をするには十分なのだ。

 

「成程ねー。ん? そういや病気が蔓延した結果みゅーたんと以外の生き物がみんな死んだのなら、なんで二人も生き残った普通の人間がいる訳?」

 

「ちょっと友達に、免疫の代わりを、してくれる方々が、いまして」

 

「ほへー、凄いですねー」

 

「そういえば南極に着いたらまたアイツらと共同生活ですか。花中さん花中さんやっぱり南極行くの止めません?」

 

 わいわいと賑やかに話し始めるモモ達。手にしていたミミズ肉をまた食べ始めながら、南極話に花を咲かせていく。

 モモとミドリは花中の話から、旅をする理由については納得したのだろう。実際それ以上何を問う事があるのか。花中は南極に人を集めようとしているのではなく、南極に集まっている可能性がある人間に会おうとしているだけなのだから。

 旅を続ける花中達の理由を聞いた、此処に住み続けるつもりのモモ達。事情を知ったところで「そうなんだ」となるだけだ。

 継実ただ一人を除いて。

 

「……継実さん?」

 

 黙っていると、ミドリが声を掛けてきた。突然の事に一瞬戸惑いつつ、継実はミドリの方へ顔を向ける。

 継実はにこりと微笑みながら、小首を傾げた。

 

「ん? どしたの」

 

「いえ、先程から喋っていないようなので……体調でも悪くしましたか?」

 

「大した理由なんてないよ。ただ話すタイミングが掴めなかっただけ。私はモモと違って、考えながら話を聞いてるから」

 

「ちょっと、さらりと私の悪口言わないでよ。話したい事があるならきっちり言いなさい」

 

「言いたくてもそっちが先に言っちゃうっつってんじゃん」

 

 話を聞きつけてきたモモに、継実は煽るような言葉を返す。当然モモは「何をー」と言っていたが、顔はニコニコ笑っていて、反省も怒ってもいない様子。飛びつき、じゃれついてきた。

 お話ばかりしているのに飽きて、遊びたくなったのだろう。ガブガブと手を甘噛みしてきたモモをひっくり返し、お腹をわしゃわしゃと撫でる……それだけでモモはとろとろに蕩けた笑みを浮かべた。実に犬っぽい。

 花中とミドリがくすりと笑う中、継実も笑う。笑いながら、ふと思い出す。

 七年前まで毎日見られた、たくさんの人々が行き交う町の姿を――――



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旅人来たれり08

 猛然と草原を駆け抜ける、一頭の牡鹿が居た。

 疾走する速さは()()()()()()()()()()。音など彼方に置き去りにする、圧倒的な速さだ。空気抵抗が生じていないのか白い靄(ソニックブーム)や衝撃波は出さず、静かに世界を駆け抜ける。草を蹴飛ばす度に朝露が飛び散り、ソニックブームの代わりに煌めきだけを残していた。

 あらゆるものを寄せ付けない、圧倒的なスピード。そのスピードを繰り出すパワーも凄まじく、隕石が落ちてこようとも揺らがない草花を蹄で蹴散らしていく。もしもその足が当たろうともなら、きっとネガティブ(破滅的宇宙生物)すらも一撃で粉砕するだろう。

 だからもしもこのシカを狩ろうというのなら、決して油断などしてはいけないのだが。

 

「……あれ?」

 

 継実は目前に迫るまで、シカの接近に気付かかった。

 音速などすっとろいぐらいに感じる動体視力はあるものの、流石に太陽系から脱出出来る速さである第三宇宙速度を超えたものに素早く反応するのは難しい。最初から構えていれば躱すぐらいはなんとかなるが、寸前まで迫っては身動ぎすらする暇がないもので。

 

「あ、これヤバごぼぉ!?」

 

「継実ぃぃぃ!?」

 

 回避運動すら取れなかった継実は、シカの前膝蹴りを腹に喰らう事となった。目撃したモモの叫びが聞こえた頃には、継実は大空を舞い、シカは遥か彼方に逃げ去ってしまう。

 数百メートルほどの高度に上がった後、継実は自由落下で地面に墜落。モモは瞬時に駆け寄り、遅れて、少し離れた位置に居たミドリも傍までやってきた。モモは呆れたように肩を竦めたが、ミドリは本気で心配している様子だ。

 

「だ、だだ大丈夫ですかぁ!? け、怪我とか……」

 

「だ、大丈夫。消化器系の七割と心肺が、ぐちゃぐちゃに潰れただけだから。ごぶぅ」

 

「ちちちち致命傷ぅぅぅぅぅぅ!?」

 

「別に腹の中身潰れたぐらいじゃ死にやしないし、再生出来るから後遺症も残んないわよ。それよりどしたの? ボーッとしちゃって」

 

 狼狽するミドリを宥めつつ、モモが尋ねてくる。実際ボーッとしていた継実は、乾いた笑みを浮かべるだけ。

 端的に言えば、継実には悩みがある。

 しかしあくまでも継実の『個人的』な悩みであり、家族である、いや、家族だからこそモモやミドリにはちょっと言い辛い。

 加えて。

 

「あなたが逃がしたシカは捕まえましたよー……なんか蹲ってますけどどうしたのです? シカにでも踏み潰されましたか?」

 

「あ、あの。大丈夫、ですか……?」

 

 遅れてやってきた、死んだシカを引きずるフィアと、心底心配した様子の花中こそが、悩みの元凶。

 そんな彼女達が近くに居たら、継実は苦笑いを浮かべる事しか出来なかった。

 ……………

 ………

 …

「で? なんでボケッとしてた訳?」

 

 住処であるクスノキの傍。今日はフィアが仕留めたシカの肉を食べながら、モモが継実を真っ直ぐ見つめながら尋ねてきた。

 生のシカの太ももを齧ったまま、継実は一瞬ぴくりと震える。視線を逸らし、唇も僅かに震わせた。

 

「……別に?」

 

「ふーん」

 

「いや、モモさん。こんなので誤魔化されないでくださいよ。嘘吐いてますよ、継実さん」

 

 そうして吐いたあからさまな嘘を、モモは全く疑わずに信じた。ミドリは信じずツッコミを入れたが、嘘の下手さ云々をミドリに言われるのは心外なので継実は唇を尖らせる。

 

「えっと……何か、あったのですか?」

 

 それに嘘だと指摘された所為で、一緒に食事をしている花中にまで心配されてしまった。無関心なのはフィアだけ。

 フィア以外の視線が集まり、継実は居心地の悪さから身動ぎ。そうした些細な仕草が自分の隠し事を物語っているだけに、今更口で誤魔化すのは難しいだろう。

 別段、酷い隠し事をしている訳ではない。単に言い辛いだけ。こちらの事などとことん無関心なフィアにならぽろっと話してしまったかも知れないが、モモ達が聞いている場所では話したくなくて口をぎゅっと閉じてしまう。

 だって、言える訳がない。

 ……自分も、()()()()()()()()()()()なんて。

 

「(自覚してるつもりだったけど、『人肌』への恋しさを拗らせているなぁ、私)」

 

 鹿肉を食い千切り、ゆっくりと咀嚼して喋らない時間を稼ぎながら、継実は自分の内面にほとほと呆れ果てる。

 南極に、生き延びた人間が集まっている。

 昨日花中から教えてもらったこの話は、正直、継実は半信半疑であった。何しろ花中自身確信がある訳でもなく、なんやかんや「機会があったら行ってみたかった」程度の動機だ。本当に南極に人間が集まっているかは分からない。それに文明崩壊直後の七年前の時点で怪物とミュータントが跋扈していたのだから、航空機や船舶が自由に世界を行き来出来るような状況ではないだろう。南極は、能力を持たない人間が生身で易々と行けるような場所ではない。果たしてこの噂を聞いた生存者が全員南極に向かったとしても、何人が辿り着けるのやら。

 大体この話に『現実味』を与えている南極無菌説も、何処まで信じれば良いのか。ミュータントの環境適応力は凄まじい。南極では気温がマイナス八十度以下になる事もあるらしいが、その程度の気温変化、継実でさえ裸でなんとか出来る自信がある。寒さに強い種類ならなんの問題もあるまい。餌が少ないので、たくさんのエネルギーを必要とするミュータントはあまり寄り付きたくないだろうが……それは()()()()()()()()()()()()()証拠とはならない。むしろ競争に敗れた『負け犬』が一匹二匹迷い込んでいると考える方が自然である。

 総合的に考えれば、あまり期待出来る話ではないのだ。それこそ花中のように「仲間と合流するついでに見に行ってみよう」という状況でもない限り、行く価値もあるまい。だから花中も、同じ人間である継実に旅の誘いをしてこないのだろう。

 しかし、南極や北極以外に人が生きていける可能性のある場所がないのも事実。

 南極がミュータント化した細菌に汚染されていないという確証はないが、支配されているという考えもまた可能性に過ぎない。普通の人間が辿り着くには過酷な道のりだが、必ず脱落するとも限らない。もしかしたら、本当に人間が暮らしている可能性だってゼロではないのだ。そこで社会を築き、新しい世代だって生まれているかも知れない。文化が生まれ、独特な風習や暮らし方をしている事もあるだろう。

 そんな『希望』を突き付けられたら、行きたくなってしまうのも仕方ないというものだ。

 

「(だからって、これは私のワガママだから言えないけど)」

 

 旅をするとなれば、住み慣れたこの地を離れる事になる。旅の道中にもミュータントはいるだろうから、それなりには危険だってある筈だ。

 自分一人なら、迷わずにやった。しかし継実にはモモとミドリという家族がいる。二人を置いて、自分だけが南極を目指すか? それとも二人にも住み慣れた地から離れる事を強要し、危険な旅路を強いるか?

 出来る訳がない。家族に心配させたり、危険に晒すなんて真似、継実自身が許さないのだから。

 答えは最初から決まっている。だからこれは相談する価値もない、()()()()()()()()()のだ。とはいえモモ達がそうした考えを察してくれる筈もなく、むしろ察したらますます意固地になって問い詰めてくるであろう。どうしたものかと継実は頭を抱える。

 

「さぁてと私は適当に虫でも捕まえてきますかねぇ」

 

 そんな継実にとって、フィアの言葉は正しく助け舟と呼べるものだった。モモ達の視線を潜り抜けるように避けながら、継実は閉じた口を開いてフィアに話し掛けた。

 

「――――あ、フィアは鹿肉食べないの?」

 

「私はフナですからね動物の肉は好まないのです。それよりも昆虫が良いですねー具体的にはイモムシが良いのですが」

 

【それならわたくしの身体に付いている、アオスジアゲハの幼虫はどうですの?】

 

 愛実に尋ねられたフィアが要望を口にすると、傍に佇むクスノキがそう提案してきた。

 フィアとクスノキは『契約』など結んでいないが、クスノキ的には害虫と駆除してもらえれば誰でも良い。フィアにとってもイモムシが食べられるのなら、クスノキの提案を受ける事を拒む理由などないだろう。

 二匹の利害が一致するのは自然な事だ。

 

「おおそれは良いですね。アゲハの幼虫は大振りで食べ応えがあるので好みです。そうそう花中さんも一緒にどうですか?」

 

「え。いや、わたしイモムシはあまり好きじゃないって」

 

「食わず嫌いは美味しいものを食べた事がないのが原因だってミリオンの奴が言ってましたよ。ほらちゃんと食べてみれば美味しさが分かる筈です!」

 

「そ、そういって、もう何度も食べさせてきたじゃん!? その度に嫌って言ったよ!? というかミリオンさんには味覚がない、な、な、ああああああああぁぁぁ……」

 

 反論、というより抗議をする花中だったが、フィアは聞く耳を持たず。巨大ミミズを翻弄する圧倒的火力で花中を引きずっていく。花中は諦めているのか、大した抵抗もなく連れ去られていった。

 残された継実達は、ぽかんとしてしまう。しかしお陰で空気が切り替わったと、継実はひっそり安堵の息を吐く。

 

「で? なんか悩みがあるなら聞くわよ?」

 

「はい! あたしで良ければ力になります!」

 

 残念ながら、モモとミドリは追求を止める気がないようだが。

 

「……言わない」

 

「言いたい事があるのは認めると。ちょっと素直になったけど、言いたい事があるならちゃんと言いなさいよ」

 

「言ったところで変わんないし」

 

「か、変わるかも知れないですよ! そりゃ、あたしなんかじゃ力にはなれないですけど、でも……」

 

「いや、ミドリが役立たずだからという訳じゃ――――」

 

 卑屈になろうとしているミドリに、そうではないと継実は否定しようとする。

 振り返って、本気で心配した顔をしている二人と目が合った途端、その言葉を思わず飲み込んでしまったが。

 ……うじうじとした自分の態度が、二人を心配にさせてしまっている。

 それでいて話せないとばかりにつんけんした態度を取った所為で、何か重大な悩みだと勘違いさせてしまったのだろう。心配してもらうような事じゃないというのに。加えてその心配を突っぱねた所為で、お前達じゃ役に立たないと告げている状態だ。

 家族に誰よりも拘っておきながら、自分が一番家族を傷付けている。

 悲しい、というよりも忌々しい。こんな事で一々家族に心配を掛けさせるなんて、自分で自分が嫌になる。

 

「(本当に大したものじゃないと思ってるなら、ふつーに喋ってしまえ、てか)」

 

 それ以外にこの追求を逃れる術もないだろう。継実は深呼吸をするように、大きく息を吐いて身体の緊張を解す。

 

「分かった分かった。話すから、そんな詰め寄らないで」

 

「分かればよろしい」

 

「よろしい!」

 

 降参を口にすると、モモとミドリは揃って胸を張る。まるで姉妹のような仕草に、継実はくすりと笑みが零れる。

 

「……あのさ、私が南極に行きたいって言ったら、どうする?」

 

 まずは軽く、遠回しに尋ねてみる。

 

「? 行きたいなら行けば良いんじゃない?」

 

「はい。別に行っちゃダメな理由とか、ないですよね?」

 

 すると二人は、キョトンとした様子であっけらかんと答えた。

 ……あまりにも簡単に答えるものだから、今度は継実が凍り付く。ぱくぱくと口を開閉するばかりで、言葉が中々出てこない。

 

「……いや、あの、質問の意味、分かってる?」

 

「? 継実が南極に行きたいって話じゃないの?」

 

「……そうなんだけど」

 

「どーせ人間がいるかもって聞いて、居ても立ってもいられなくなったんでしょ。付き合い長いんだから流石に分かるわよ」

 

「あ、今の質問ってそういう事だったんですね。なんかもっと凄い話の前振りかと思っていました」

 

 唖然とする継実に対し、モモ達は日常会話のように盛り上がるだけ。二人には、話に対する真剣味をまるで感じられない。

 自分が南極に行ってしまうかも知れないのに。

 

「なんでそんな、平然としてるの? 私が南極に行っても良いの?」

 

「良いんじゃない? 継実が行きたいなら」

 

「私もそれで構いません」

 

 改めて尋ねても、二人の反応は何も変わらない。それどころかモモ達は互いの顔を見合い、にこりと笑う。

 

「だって一緒に行くんだし」

 

「ですよね!」

 

 そして二人は息ぴったりな意見を語る。

 落ち着いている二人と違って、継実の心は激しく揺さぶられた。

 一緒に行きたいというのは分かる。二人ならそう言うのは予想が付いていた。

 けれども、迷いがなさ過ぎる。まるでちょっと買い物に出掛けるかのような、そんな気軽さだ。もしや南極までの距離を把握していないのか? 隣町にお買い物に行くようなノリで行けると勘違いしているのでは? そんな気さえしてくるほどの能天気さだ。

 

「なん、で……」

 

「なんでって、何が?」

 

「だって、旅をしたら住処を離れるんだよ? 南極までなんて凄く遠いし、安全なのかも分からないんだよ!?」

 

 もしかしたら本当に分かっていないのではないか。そんな心配から思わず声を荒らげ、二人に改めて問う。

 それでもモモ達はなんら真剣味を見せず、いきなり声を大きくした継実に驚くかのように目をパチクリさせるだけ。

 むしろモモなんかは鼻で笑ってくる始末。 

 

「此処を離れる事が何よ。住処を移すなんて、食べ物が足りなかったり、敵がいたりしたら普通にするじゃない。仲間に会いたいから移動するのだって、普通の事でしょ」

 

 次いで堂々と、何を悩んでいるのかと言わんばかりの物言いでそう告げてくる。

 

「あたし達の種族も旅はよくしますよ。積極的な拡散は種の安定性を高めますからね。地球外生命体でもよく見られる生態です」

 

 更にミドリもモモと同意見。旅に対し、なんの不安もない事を語った。

 継実としては、予期せぬ答え。執着心のない答えに、思わず呆けてしまう。

 

「此処での暮らしは悪くなかったから、わざわざ離れようとは思わなかったけど……でもまぁ、此処に固執する理由もないし」

 

「あたし的にはもっと安全なところが良いので、そういうところへ向かう旅はむしろ望むところです」

 

「食べ物が美味しかったら、引っ越しを考えても良いわねー。ペンギンとか特に美味しそうだし、今から楽しみだわ」

 

 継実を他所に、二人は勝手に盛り上がる。もうすっかり旅をする気満々で、ここでやっぱ止めますと言えばブーイングが飛んできそうな勢い。

 少し思いきって跳び込めば話に入り込めるけど、今の継実にはその思いきりが足りなくて。

 

「ぷ……はははは! あはははは!」

 

 思わず笑ってしまった。

 いや、これが笑わずにいられるだろうか?

 だって、大した事じゃないと何度も頭の中で繰り返しておきながら、自分こそが誰よりも重大に考えていたのだから。

 滑稽で、間抜けで、浅はかで……全く馬鹿馬鹿しい。

 げらげらと笑い続けて、息まで苦しくなって。腹を抱えて転がり回り、ばんばんと平手で地面を叩く。ひーひーと情けない声を出しながら、どうにかこうにか息を整える。

 身体を起こし、継実は振り返る。

 二人が自分を見ていた。心配も何もない、全てを察した目で。

 だったらもう、躊躇わない。

 

「私も、南極に行きたい。あの二人と一緒に、たくさんの人間が暮らしているかも知れない場所に」

 

 己の内から湧き出した想いを、躊躇いなく言葉にする。

 家族からの返答は、満面の笑みと頷きだった。



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旅人来たれり09

「は? 嫌ですよあなたと一緒に旅なんて」

 

「え、えっと、わたしも……その、一緒の旅は、止めた方が良いかなと……」

 

 フィアからは何一つ遠慮のない言い方でズバッと、花中からはおどおどしながらではあるが、拒絶の言葉を継実は真っ正面からぶつけられた。

 南極への旅に同行したい。

 モモとミドリと話し合い……いや、『ノリ』で決めた事をイモムシ取りから戻ってきた花中達に伝えたところ、返ってきたのは拒絶だった。しかもフィアは即答、花中でさえも言い回しを考えた程度で、どうやら同行を断る事自体は二人とも殆ど迷わず決めたらしい。

 継実としても、そうなる可能性を考えていなかった訳ではない。むしろ確率としては高い方だろう。昨日出会ったばかりの、自分より遥かに弱い相手が旅に同行する……どう考えても足手纏いになる未来しか見えない。親しくなったなら兎も角、いきなりあなたと旅をしたいなんて言われたら、とりあえず断るのが普通だ。

 しかしながら ― フィアは兎も角花中については ― もう少しオブラートに包んだ言い方を想定していたので、予想外に強い言葉に困惑した継実は後退りしてしまう。

 

「えぇー? なんで断るのよー」

 

 言葉を失っていた継実に代わり、モモが不服そうに花中達に尋ねる。

 質問されたフィアは不機嫌そうに鼻を鳴らすと、花中に背後から抱き付く。恋人のような、或いはペット相手にするような、熱い抱擁だ。更には頬ずりまで始める始末。

 

「私は花中さんと二人きりが良いのです。あなた達みたいなお邪魔虫がいたら鬱陶しい事この上ない。だから嫌です」

 

 そうやって花中が大好きだとアピールしながら、フィアは臆面もなく自分の気持ちを伝える。花中は照れたのか、恥ずかしがっているのか、はたまた呆れているのか。頬を赤らめながら引き攣った笑みを浮かべていた。抵抗しないので、頬ずりや抱き付かれる事自体は嫌いじゃないようだが。

 あまりの露骨さに人間ならば文句の一つも言いたくなるフィアの態度だが、今回の聞き手は犬。フィアはあくまで本音を語っただけだと理解しているモモは、怒りも悲しみもなく、単純に納得出来ない事を示すように首を傾げるだけである。

 

「うーん、私的にはみんなでわいわいした方が楽しいと思うんだけどなぁ。まぁ、嫌だってんならしょうがないわね」

 

「えっ。あ、その、花中さんはどうなのですか? あたし達との旅は、したくないのでしょうか?」

 

 納得は出来ずとも執着もしないモモは、あっさりとギブアップ。対して地球外知的生命体であるミドリはもう少し粘りたいようで、今度は花中に尋ねてみる。

 花中は一瞬視線を逸らす。が、すぐにミドリの下へと戻した。申し訳なさそうな、それでいて結構頑固そうな表情を付け加えて。

 

「その、わたし達の旅には、確証がありません。あくまで、もののついでに、見に行こう、というだけです」

 

「それぐらいは承知しています。それでも継実さんは、人がいると聞いたら居ても立ってもいられなくて……」

 

「そ、それに、あの、フィアちゃんの性格的に、一緒の旅は、却って危険かと」

 

「危険?」

 

「……囮とか、餌とか、難なら非常食とか。どれだけ長く、一緒に旅をしても、わたし以外の相手になら、躊躇いなくそういう事、するので」

 

 じろっと、睨むように細めた花中の視線は、後ろから抱き付いて肩から顔を乗り出しているフィアに向けられた。フィアは花中の視線に気付いたようだが、顔を顰めるような反応はなく、平然としている。どうやら否定する気はないらしい。

 そしてそれが単に悪ぶってるだけでなく、花中以外の存在に興味がないからだと継実は察した。残酷ではないから無意味に嬲る事はしないし、冷酷ではないから会話だって普通に行える。だけど無関心だから、付き合いを重ねた相手にも『必要な事』をするのに躊躇がない。

 おまけにイモムシでの一見を鑑みるに、花中が大好きな割に花中の気持ちを汲む事も殆どしないらしい。人間である花中でも行動が制御出来ないとなると、成程、フィアは確かに一緒に旅をするには向かない相手だろう。花中が警告してくるのも頷ける。ミドリもこれ以上は食い下がっても仕方ないと思ったのか、むむむと唸るだけだった。

 残念ながら、花中達と一緒に南極へと行くのは叶わないようだ。フィアの圧倒的なパワーに頼れないとなると、旅路は過酷なものとならざるを得ないだろう。

 とはいえ、だから旅を諦める、という結論にはいかないが。

 

「(まぁ、これは想定内)」

 

 断られる可能性については元々考えていたのだ。思いの外強い拒絶だったというだけで、返答自体は予想していたパターンの一つに過ぎない。

 大体継実達が旅をするかどうかは、花中達に決めてもらう事ではないのだ。フィアと花中が一緒に居たら楽しそうだとか安心だとか、色々『メリット』があったからそうしたかっただけの事。一緒に出来ない理由があるなら仕方ない。

 だったら自分達三人だけで南極までの旅をする。ただそれだけの話だ。断られたからといって、こちらが動揺する理由なんてない。

 

「……分かった。じゃあ、南極のどの辺りに人が集まってるとか、そういう事教えてくれない? 私達だけで旅してみるから」

 

 旅の同行はすっぱり諦めて、自分達で行くための情報を求めた。その情報にしたって、大まかな方角ぐらいで良かったのだが。

 

「ダメです」

 

 それさえも断られるというのは、今度こそ本当に想定外だ――――しかもフィアではなく、花中に。

 今度の想定外は衝撃が大きく、継実の頭は一瞬真っ白になってしまう。どうにか我を取り戻すも、混乱は早々収まらず、身動ぎまでしてしまった。

 

「な、なんで……」

 

「危険、だからです。フィアちゃんではなく、旅路そのものが」

 

 そして思わず尋ねれば、花中はその理由もすぐに答える。が、これもまた予想すらしていなかったもの。

 日本から南極までの旅路は、確かに過酷であろう。例えば日本の東京から南極昭和基地までの距離は約一万四千キロ。その間には海もあり、非常に過酷な旅となるのは安易に想像出来る事だ。

 しかしそれも七年前の話。

 今の継実ならば、一万四千キロという距離などどうという事もない。何しろ音速である時速一千二百キロを、何倍も上回る速さで飛べるのだから。シカや巨大ミミズと比べれば格段に遅いとしても、地球を駆け回るには十分過ぎる速さ。最高速度を具体的に測った事はないが……一万四千キロを渡るのに()()()()()()()()()自信がある。空を飛べるので渡海も難なく可能だ。スタミナだってお腹を十分に膨らませていれば、一時間飛び回るどころか、一時間戦い続けるぐらいは持つので問題ない。

 空を飛べないモモの身体能力も、スピードに関しては継実と同等か、或いはそれ以上。これだけ速ければ漫画でやるような『水に沈む前に足を動かして歩く』が出来る。唯一問題があるとすればミドリだが、その時は継実が背負うなりなんなりすれば良い。巨大隕石染みたパワーを出せる継実にとって、一時間の間人一人(五十キロ質量)を背負うぐらい造作もないのだから。

 そう。旅だなんだとは言うけれど、やる事は日帰り旅行みたいなもの。確かに道中で色んな生物に襲われるかも知れないないが、それは此処に暮らしていても起こる話だ。見た事もない生物と何度も戦うのは確かに大きなリスクだが、みんなで力を合わせればきっと乗り越えられる筈。

 それが継実の考えだったのに。

 

「き、危険って、どういう事? 南極なんて、私なら一時間で行けると思うけど」

 

 納得がいかず、継実は食い下がる。

 花中もこれだけでは理解が得られないと分かっているのか。こくりと頷くと、優しく、丁寧に……そしてハッキリとした言葉で説明を始めた。

 

「……この地域は、恐らく、かつては都心部だった場所、ですよね?」

 

「そう、だけど……」

 

「酷な言い方をしますが、こうした元都市部は、あまり強い生き物が、棲み着いていません。今でこそ草原になって、いますが、それまでの数年間は、餌が少ない環境の筈。生物の数が少ないので、エネルギーをたくさん使う、強い生き物は不適応です。だから、強い生き物が少ない」

 

「……」

 

「でも、元々森だった場所、海だった場所、草原だった場所……そういう場所は、違います。餌は十分にあり、生存競争が過酷で、純粋に強いものが生き残ります。強いミュータント同士が、子供を作って、もっと強くなる……有栖川さん達を襲っていた、あのミミズも、草原の外から流れ着いた、生き物です。あの強さが外には、有り触れているんですよ」

 

 花中の説明により、継実は声を失う。

 あのミミズみたいな生き物が、たくさんいる?

 全力を出しても、狙われたら逃げきれないと思うほどの化け物。そんな奴に一度でも見付かれば、待っているのは死だけだ。それが希少な生き物だというのなら、たったの一時間出会わない事を期待しても良いだろうが……有り触れた生き物ならそうもいかない。道中で、きっと一度は出会ってしまう。もしかしたら何十回と遭遇する事だってあり得る。

 つまり旅に出れば、確実に死ぬ。

 

「わたし達でも、あまりに危険な地域は、避けねばなりません。直進するなんて、以ての外ですし、捕食者に見付からないよう、移動もゆっくりです……一時間で、行こうとしたら、一分後には、食べられて、います」

 

「な、なら、ゆっくり、周りを警戒しながら行けば……」

 

「ゆっくりとは、どれぐらい、ですか? ちなみにわたし達は、五日ほどの行程を、組んでいます。申し訳ありませんが、有栖川さん達なら、倍以上掛かるかと」

 

 ずばずばと、無遠慮に伝えられる花中の意見。

 花中達……巨大ミミズを難なく倒したフィアの力を頼っても、五日と掛かるのだ。継実達なら確かにその倍、いや、三倍以上の日数を見積もるのが妥当かも知れない。

 仮に十五日間の旅だとしたら、日帰りと違って色々な問題が一気に噴出する。例えば食べ物はどうするか? そこに暮らす生き物は自分達より強いものばかりなのだから、迂闊に狩りなんて出来ないし、死骸だってそう簡単には見付からない。それに寝る時は? 寝込みを襲われたら一瞬で全滅だ。飲み水を得られる場所や、安全な隠れ場所だって分からない。

 継実が想像していたよりも、南極への旅は何万倍も危険だったのだ。

 優しくて気弱そうに思えた花中からの鋭い言葉に、継実は声が出せない。覚悟が足りなかったと言われれば、その通りだ。だからこうして言葉を失っている。感情的反論の一つさえも出てこないというのは、こちらの想いが()()()()だったという証明。

 旅をしたいという言い出しっぺは継実自身なのに。

 

「何よその言い方! 危険だろうがなんだろうが、そんなのがなんだってのよ!」

 

「そうです! 継実さんなんて、一人で宇宙的災厄に勝つぐらい凄いんですよ!」

 

 こんな情けない言い出しっぺよりも、家族達の方が覚悟を決めていたらしい。花中の意見に、モモとミドリが反発する。

 二人の想いが継実を奮い立たせた。そうだ、一番南極に行きたいのは自分の筈なのに。花中を説得する理屈など持ち合わせていないが、感情だけは負けまいと、継実は真剣な気持ちで花中の目を見る。

 継実達の視線を受け、言葉による説得では諦めてもらえないと思ったのか。先程までの無慈悲さは何処へやら、花中はおろおろしだす。どうやら押しには結構弱いらしい。別に花中の許可を得る必要なんてないので、彼女の気持ちを挫けさせる意味もないのだが、気持ちで負けるのも癪だとばかりに継実は威圧していき――――

 

「はぁ。花中さん説得なんて面倒臭い事なんてしないでこうすれば良いんですよ」

 

 目に涙まで浮かべ始めた花中に、フィアは簡単だとばかりに告げた。

 継実は、その言葉の意味が理解出来なかった。何故なら考える事が出来なかったから。

 顔面に叩き込まれたフィアの拳の一撃で、『思考』という能力そのものが吹っ飛んでしまったのだから。

 

「ぶぎゃっ!?」

 

「つ、継実!? アンタ何を、ぎゃんっ!?」

 

 突然の攻撃に抗議しようとしたモモであるが、そのモモの頭にもフィアは拳を叩き込む。一撃で地面に倒された彼女は、目をぐるぐる回してダウン。

 唯一無傷のミドリは、両手をバンザイの状態で上げて震えるばかり。一瞬で戦意を折られたらしい。戦うつもりがないミドリを襲うつもりはないようで、フィアは一瞥しただけで済ませた。意識が逸れたと分かった途端、ミドリは腰砕けになってしまう。

 数秒と経たずに、継実達は壊滅させられてしまった。

 

「ふん。この程度では旅など無理ですね。せめてこの私を一歩後退りさせるぐらいは出来ませんと」

 

「ぐ、ぎ……こんな、事でぇ……!」

 

 小馬鹿にしてきたフィアに反発しながら、継実は立ち上がろうとした――――が、フィアはそんな継実の傍に来るや、なんの躊躇もなくその背中を踏み付ける。爆音と、地震を引き起こすほどの衝撃を伴う踏み付けだった。

 おまけにそれを、フィアは何度も何度も繰り返す。一回踏まれる度に内臓が破裂し、吐血し、意識が飛んでいく。

 このままだと、本当に殺される。

 

「こ、のぉオッ!」

 

 殆ど無意識に、本能のまま、継実は指先から粒子ビームを放つ!

 威力は決して大きなものではない。が、小さなものでもない。小惑星ぐらいなら簡単に貫き、粉砕するほどの破壊力はあるだろう。

 それを、フィアの目に向けて撃った。当たれば失明するかも知れない? こちらは殺されかけているのだ。冗談でもこんな攻撃をしてきた方が悪い――――等という建前すら浮かぶ前に繰り出した、本能的反撃。亜光速で飛んでいく粒子の塊を、フィアは避けず。

 しかし残念ながら、継実渾身のビームは()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「――――え? がふっ!?」

 

 予期せぬ結果に困惑し、守りの体勢が取れなかった継実に対し、止めとばかりにフィアはその脇腹を蹴り付ける。継実の身体は空高く上がり、住処であるクスノキの幹に打ち付けられた。

 粒子ビームの直撃を受けたフィアは、その目を擦る事すらしない。ふふん、と上機嫌な鼻息まで吐く始末。

 

「フィアちゃん!? なんて事してるの!?」

 

「身の程を教えてやろうと思いまして。勿論死なないよう手加減はしましたよ。まぁあまりにも弱過ぎて危うく殺すところでしたが……説得するならこの方が簡単でしょう?」

 

「だからって、こんな酷い事しなくても!」

 

「痛い目を見なければ分かりませんよ。実際コイツらだって何度話しても諦めなかったじゃないですか」

 

 花中に叱責されても、フィアは何処吹く風。反省どころか悪びれもしていない。

 事実、フィアの言い分は正しい。

 継実には分からなかった。外の世界がどれだけ恐ろしいのか。手加減しても自分を数秒で半殺しに出来る、圧倒的な力の差。そんなフィアでも、慎重に行動しなければ危険である世界。

 自分が旅をするなんて、百年早い。

 継実の心に深々と、そんな認識が突き刺さる。

 

「再戦したければ何時でもどうぞ。手加減した上でまたボッコボコにしてやりますよふはははははは!」

 

 如何にも悪役のような、あまりにも子供染みていて却って邪気のない高笑い。

 典型的なムカつく態度に、しかし本当に手加減された上でボコボコにされてしまった継実には、睨み返す事すら出来なかった。



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旅人来たれり10

 意識を集中する。

 胃・腸・肝臓・膵臓・肺・心臓……体内に存在するあらゆる臓器が破裂し、ぐちゃぐちゃに潰れていた。七年前には七十億もいた『普通の人間』なら即死しているダメージであるが、幸いにして継実は現代の普通人。粒子操作能力により臓器の分子配列を操作し、潰れた状態から元の健康的な状態へと復元出来る。

 壊れたのは臓器だけではない。フィアに踏み付けられた際の衝撃は全身を駆け巡り、毛細血管をズタズタに引き裂いた。今まで粒子操作能力により血流は維持していたが、何時までもそれで済ませる訳にもいかない。血管の状態も修復し、元に戻す。

 身体は完全に『再生』した。問題があるとすれば、そのために費やしたエネルギー量が莫大である事。数日分の基礎代謝に匹敵するカロリーを用いたため、細胞は今やすっかり飢餓状態だ。すぐに何か食べてエネルギーを補給しなければ、数時間後に餓死してもおかしくない。

 無論痩せ衰えた身体で狩れるものなどたかが知れていて、そんな小さく無力な生き物だけで腹を満たせる保証などない。仮に満たせても基礎代謝を上回らなければ蓄えが作られず、明日もまた飢餓に苦しみ……しばし予断を許さない状態が続くだろう。

 されど此度は普通に非ず。

 

「こ、此度は、わたしの親友が、ご迷惑を、お、お掛けして、申し訳、ありませんでしたぁ……!」

 

 継実の目の前で土下座をしている花中が、たくさんの食べ物を集めてくれたのだから。具体的には花中の身長と同じぐらい大きな山が出来るぐらい。

 今の時間帯は、外の太陽を見る限り丁度十二時頃。燦々と降り注ぐ眩い陽の下で平伏する姿は、ある種のシュールさを感じさせる。住処であるクスノキの洞の中で休むように寝転がっていた継実も、これにはちょっと苦笑いを浮かべてしまう。

 

「……いや、そこまで謝らなくても」

 

「そーよそーよ! 継実なんて危うく死ぬところだったのよもぐもぐ!」

 

「全く酷いです! いきなり攻撃なんてもぐもぐ!」

 

 継実はそれ以上の謝罪を止めさせようとしたが、モモとミドリの憤りは収まらず。しっかり不平をぶつけ、花中に「ひぃぃぃぃ」という情けない声を上げさせた。ちなみに二人とも、花中の持ってきた食べ物はしっかり頂いている。継実と違って回復にエネルギーなんて使ってない癖に。

 図々しい獣と地球外生命体にちょっと呆れつつ、継実も洞の外に置かれた食べ物……山積みにされたキノコの中から一本掴んだ。粒子操作能力の応用で一応成分分析をしてみたが、どれも毒は含まれていない。キノコは低カロリーな食べ物なのであまり好ましい食材ではないが、山になるほど積まれていれば話は別だ。しかもどのキノコも程良く焼かれ、美味しそうな香りを漂わせている。

 齧り付いた焼きキノコの味を堪能しながら、継実はふと思う。

 

「そういえば、フィアは?」

 

 自分をこてんぱんにやっつけた、フィアの姿が見られない事に。

 尋ねられた花中は、一瞬目を逸らす。それからどう答えようかと悩むように黙り……しばらくして口を開く。

 

「……フィアちゃんは、晩ご飯を捕まえに、行きました。大きいトンボが、いたそうなので」

 

 どうやらフィアは、こちらを一方的に倒した事よりも、トンボの方が大事らしい。まだ付き合って丸一日しか経ってないが、なんとなくフィアがどんな性格なのか継実にも分かってきた。良くも悪くも、単純な性格らしい。

 そして動物らしく単純なフィアには、継実をボコボコにした事など印象にも残らなかったのだろう。

 それだけ『手応え』がなかったという訳だ。これまでフィアがどんな敵と戦ってきたかは知りようもないが……今回の継実のように楽な相手だけでなく、苦戦するような生き物とも何度か戦った筈だ。或いは花中のような、仲間と共に戦わねば勝てないようなものを相手にした事もあったかも知れない。

 そんな生き物に、自分達が出会ったら?

 ……為す術もないだろう。抵抗も逃げる事も出来ず、命乞いだって腹ペコ相手では通ずまい。一匹二匹なら、運に恵まれればどうにか出来るかも知れないが、十匹二十匹となれば幸運も尽きよう。

 フィアが言ったように自分達では旅なんて無理なのか。継実はそう思い始め、

 

「とりあえず、作戦会議しましょ」

 

「そうですね。あたしには力なんてないですけど、知恵は出しますよ!」

 

 モモとミドリは、継実とは別の考えを言葉にする。

 真逆を通り越して、反発するような意見。継実は思わず振り返り、キョトンとしたモモ達と目が合う。

 

「……どしたのよ、継実。鳩が豆鉄砲を食らったような顔して」

 

「い、いや。だって……諦めて、ないの?」

 

「諦めるって旅の事? なんで諦めなきゃなんないのよ。あんな一方的にやられて悔しくないの?」

 

「悔しいかどうかで言えば、悔しいけど」

 

「じゃあ、作戦会議よ。今度こそアイツをギッタンギタのボッコボコにしてやるんだから!」

 

「あたしは、やり返す方が楽しそうかなーと思ったので」

 

 理由を尋ねれば、モモから返ってきたのは私怨塗れの回答。ミドリに至ってはただの娯楽扱い。それ、旅とか関係なくやり返したいだけじゃない? と思わず訊きたくなる。

 しかし訊いたところで、どうせ二人の答えは「そうだけど?」の一言で終わりだろう。

 だから継実は問わず、そしてくすりと笑った。旅がどうとか、危険がなんだとか、モモ達にとってはどうでも良いのだ。いや、関係あると考える方がおかしい。フィアにやられたからとか、花中から止められたからとか……それがどうして()()()()()()()()()()()()

 継実は人間に会いたい。なら、会いに行けば良い。理性も常識も合理性も打算も、そんな小難しい考えは一つもいらない。

 もう自分は高度な文明社会の一員ではなく、自由で奔放な『野生動物』なのだから。

 

「……わたしとしては、意地でも、止めたいですけど」

 

 考えを切り替えたところ、花中からはひそひそとした声で忠告が。フィアと違い、継実達の身を本当に案じてるからこその言葉に、それを理解している継実は苦笑いしか返せない。

 もう継実は自分の願いを曲げないと悟ったのか、花中はぷくりとむくれる。が、それ以上は言わず、ため息のように頬に溜め込んだ空気を吐き出した。俯くように、しばし継実達から顔を逸らす。

 やがて、ゆっくりと上げた花中の顔に浮かぶのは、諦めたようにも見える微笑み。

 

「でも……フィアちゃん、割と凄く、強い方なので、戦って、一歩でも後退り、させられたら……南極までの、旅については、なんとか出来るかと、思います」

 

 続いて、いくらか妥協したような意見を述べた。

 フィアと戦い、一歩でも後退りさせる……それが花中の提示する『旅の条件』。

 無論これに従う義理も必要性もない。野生の世界で生きる継実立ちは何者にも縛られないのだから……しかしながら花中は「これが出来ればなんとかなる」と語ったのだ。つまりフィアを一歩後退りさせる事すら出来ぬようでは、旅をしたところで志し半ばで倒れるだけという事。

 ――――上等。一歩と言わず、そのまま押し倒してやる。

 継実だって負けたままというのは癪なのだ。めらめらと胸のうちで闘志が熱く燃える。

 

「だったら明日の朝、フィアに再戦して、今度こそぎゃふんって言わしてやる!」

 

「はいっ! フィアちゃんには、わたしから話して、おきますね」

 

 沸き立つ衝動のまま継実は花中に向けて宣戦布告し、花中がそれを受けてくれた。

 当人(フィア)不在で再戦時期を決めてしまったが、面倒だからといきなりぶん殴って黙らせるような好戦ぶりだ。宣戦布告をしたと知れば、フィアは必ず受けて立つだろう。試合をしてくれるのは間違いない。

 ならば余計な心配をするよりも、まずは作戦会議。継実が視線を送ればモモとミドリは楽しげに笑い、三人同時に円陣を組んで打倒フィアのための話し合いが始まった。

 ああした方が良い、こうした方が良い。様々な意見、突拍子のない秘策を語りながら三人は盛り上がる。勿論花中が持ってきた食糧を食べ、身体にエネルギーを蓄えていく事も忘れない。激突する間際、お腹が空きましたと言ったところで、フィアが止まってくれるとは思えないのだから。

 ある意味暢気で、自由で、緩やかで。そんな三人の話し合いを、花中は離れたところから眺めるばかり。アドバイスはせず、強いて言うなら、夢中で話し合ってる彼女達に代わって、外敵が来ないか周囲を警戒するぐらい。

 

「ふふ……今回の相手は手強そうだよー、フィアちゃん」

 

 そして未来が見えているかのように、ひっそりと、花中は嬉しそうに微笑むのだった。



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旅人来たれり11

「私の狩りが見たい?」

 

 眉を顰め、訝しむ気持ちを隠しもしないフィアに、継実はこくこくと頷いて返事をした。

 夕方が迫り、少し空が赤らんできた頃。草原を一人で歩いていたフィアに、継実は狩りの同行を申し出た。するとフィアは身体を前のめりにし、継実の目を覗き込んできたのである。

 継実が一人でやってきた事を疑問に思ったのか、それとも何かに勘付いたのか……継実は息を飲みそうになるのを必死に堪え、平静を装いながらフィアの返事を待つ。

 しばらく継実の目をじっと見ていたフィアであるが、不意に、顰めていた表情を無感情なものへと変えた。

 

「んー。まぁ勝手にすれば良いんじゃないですか? 私の邪魔をしないのなら止める理由もありませんし」

 

 返ってきたのは、実に無関心な回答。

 自分がこてんぱんにしてやった相手からの提案を、なんの疑いもなく受け入れる。自分の強さに対する自信故か、はたまた単純に相手の気持ちを察するのが不得手なのか――――多分後者だと思った継実は、ちょっと口許が引き攣った。

 しかしここで「それで良いんかい」などとツッコミを入れはしない。折角のチャンスを無下にするなど、自然界では自殺行為なのだから。

 そう、これはフィアの『能力』を考察する好機。

 ……お昼頃に始めた、打倒フィア(正確には戦いで一歩後退りさせるための)の作戦を練っていた継実達であるが、盛り上がったのは最初だけで、すぐに行き詰まってしまった。理由は、フィアがあまりにも強過ぎるからである。

 巨大ミミズを難なく粉砕する、圧倒的なパワー。

 目にも留まらぬ速さで動く、とんでもないスピード。

 頭が切断されても平然としている、底なしの耐久力。

 眼球さえも粒子ビームを弾く、無敵の防御力。

 何もかもが最強だ。ハッキリ言ってインチキをしているとしか思えない。そしてミュータントとなった生物達は、実際に様々なインチキ能力をその身に宿している。フィアにも何か、特別な能力があると考えるのが自然だろう。

 能力が分かれば、どうやって強大な力を繰り出しているかも想像が付く。そして原理が分かれば、それを邪魔する方法も見付けられるかも知れない。勿論、継実達を上回るであろう経験も強さの一因だろうから、これで万事解決とはいかないだろうが……勝利に大きく近付くのは間違いない。

 無論フィアは早々己の能力を明かさないだろう。能力を知られる事とはつまり、弱点を知られる事に他ならないのだから。花中からは既に明日の朝試合をする事が告げられているフィアが、そんなヘマをするとは思えない。ちなみに花中からは「流石にそれを教えたら試験になりません」という事で秘密にされている。自分達で突き止めるしかない。

 

「(狩りの中で、ヒントが見付けられると良いんだけど……)」

 

 念のため、二段構えで観察はしている。至近距離で見る継実と、百メートルほど離れた位置から見ているモモとミドリ。異なる視点から多角的に観察すれば、より多くの情報を得られる筈だ。

 この観察で能力のヒントを掴めるか否か。それが明日の試合、ひいては旅の命運をも占うのである。

 

「ところであの辺からあなたのお友達二人がこちらを見ていますけどなんでか知ってますか?」

 

 なお、幸先はかなり悪かったが。

「さ、ささ、さぁ!? なんでだろう!? それよりも早く狩りに行こう! ね!?」

 

「? それもそうですね」

 

 狼狽しながら継実が誤魔化すと、フィアはあっさりと納得。本当に納得したのか、それとも納得したフリなのか……正直前者だと継実は思うのだが、こうも呆気ないとやっぱり胡散臭い。

 だからといって、本当に納得した? 等と尋ねる訳にもいかず。

 もやもやとした気持ちを抱いたまま、こちらの事など気にも留めずに歩き出したフィアの後ろを、継実はいそいそと追い駆けるのだった。

 ……………

 ………

 …

 フィアと継実は草むらの中に身を隠しながら、じっと遠くを見つめる。

 彼女達の視線の先に居たのは、木の枝に止まる一匹のトンボ。

 ただし体長数センチ程度の、普通のトンボではない。継実の目測であるが、()()()()()()()はあるだろうか。大きいながらも両目が接するほどは発達していない複眼、宝石のように綺麗な青色の体躯、細長い『腹』、そして前翅と後翅の長さがほぼ等しい……これらの特徴からして、巨大化したイトトンボの仲間のようだ。

 継実が知る限り、この草原にいるトンボはアキアカネだけ。それも秋頃の一時期だけ姿が見られる、七年前とあまり変わらない大きさの種である。こんな大きなイトトンボは、七年間草原で暮らしている継実も見た事がない。

 この巨大イトトンボも、あのミミズと同じく草原の外からやってきたモノか。

 

「(もしそうなら、アイツもあのミミズみたいに強いのかな……)」

 

 継実は能力により粒子の量を測定し、巨大イトトンボと自分の体重がほぼ等しい事を把握。つまりこの草原の生き物を基準に考えればイトトンボの実力は継実と『互角』であり、モモとミドリの二人と一緒に襲い掛かれば確実に仕留められる相手だろう。

 しかし過酷な生態系で生存・進化してきた種となれば、その生命力は未知数。それに一体どんな能力を秘めているのか――――

 

「美味しそうですねぇじゅるり。トンボは胸のところの筋肉が歯応えあって美味しいんですよ」

 

 ……フィアはその辺りについて、あまり気にしていないようだが。

 トンボの美味しさについて語ると、フィアは早速草むらを掻き分けながらトンボへと接近。継実も慌ててその後を追う。

 追う中で、継実は早速違和感を覚える。

 フィアは全く足音を立てずに移動していた。継実が意識を集中してみても、本当に一切の音が聞こえてこない。

 音を出さない事自体は、継実も能力を使えば特に難しくない。音とは空気の震動であり、空気分子を静止させてしまえば音など生じないからだ。逆に、能力なしでミュータントに聞こえないぐらい音を抑える事はかなり困難である。これまた継実であれば空気分子の動きを『目視確認』する事で、数十メートル彼方の蚊の羽音も聞き逃さないのだから。

 継実にも聞こえないぐらい静かに動くフィアは、現在進行形でなんらかの能力を用いている筈。継実はじろじろとフィアを観察してみた。するとすぐに、不思議な光景を目の当たりにする。

 横切る度に当たる草が、フィアの身体を『切断』しているのだ。

 まるで熱したナイフがバターを切るように、草は当たった傍からフィアの身体を通り抜けていく。本当に抵抗が殆どないようで、フィアの身体が当たったにも拘わらず草は揺れてすらいなかった。揺れなければ草同士が擦れ合う事もないので、音が出ないのも納得である。

 そもそもフィアの動きが奇妙だ。前へと進む彼女の身体は()()()()()()()()()()()()。人間も動物も、歩けば足や腰の動きにより身体が僅かながら上下するのが普通なのに。まるで、地上を滑っているかのよう。枝を踏み締めるような音も聞こえないので、本当に滑っているのだろうか?

 

「(なんだろう……身体に秘密があるのかな?)」

 

 そもそもフィアの身体は、なんなのだろうか?

 粒子ビームを弾き返すほどの頑強さを持ち、草が易々と通り抜けるほど柔らか……矛盾した性質を併せ持っている。任意で強度を切り替えられると思われるが、『生身』でこんな事が出来るのか?

 加えて巨大ミミズとの戦いで見せた、頭が真っ二つにされても平然としている生命力……継実のように、能力でタフさを生み出しているのかも知れない。けれどももう一つ、考えられる可能性がある。

 モモのように、身体が『作り物』である可能性だ。

 モモは体毛を編んでその『外面』を作り上げている。故にモモは中に居る本体が無事である限り、どんな攻撃でも『ダメージ』とはなり得ない。仮に腕が千切れても、足が吹き飛ぼうとも、痛み一つ感じずに修復可能だ。更に体毛の密度を変えれば、防御力と柔軟性のバランスも変えられる。

 フィアもモモのように、なんらかの物質で仮初めの身体を作っているのかも知れない。勿論継実の粒子操作のような力なら生身の身体を弄くり回せるので、断言は出来ないが……頭部へのダメージすら平然としているところからして、生身ではないと考える方が無難か。

 しかし、ならばあの『身体』は何で出来ている?

 本来継実にとってこれはそう難しい問いではない。能力の応用により、継実の目には粒子の動きや座標が見えている。そして運動量とエネルギー量の推移から、どんな物質が集まっているかの推測が可能なのだ。ところがフィアの身体は、どれだけ注視しても構成している物質が見えてこない。

 恐らくフィアが能力により『身体』を分子レベルで制御している影響で、こちらの観測が上手くいっていないのだろう。なら状況証拠から推測するしかないが、今まで見せたどの行動がヒントとなるのか、そもそもヒントが出ているのか……

 思案に耽る継実だったが、一旦その考えを打ち止めにする。イトトンボとの距離が近くなってきたからだ。

 イトトンボは未だ枝に止まっている。が、忙しない頭の動きから、イトトンボがこちらの接近に勘付いていると継実は判断した。トンボは視力そのものは左程良くないが、動体視力は抜群に優れているという。草むらに隠れているつもりだったが、相手からするとこちらの動きは丸見えだったのだろう。

 これ以上の接近は、向こうの警戒心を刺激して逃がしてしまうかも知れない。フィアもそう思ったのか足を止め、継実も同じく立ち止まる。

 しばし、フィアは動きを見せず、じっと巨大イトトンボを見つめるばかり。

 

「(さて、どう仕掛けるつもり?)」

 

 仕掛けるチャンスを窺っているのか、それとも能力の発動に時間が掛かるのか。そうした特徴も、戦う時には重要な情報だ。一欠片も逃さぬよう、継実はしかとフィアを観察する。しかし残念ながら努力は最初から蹴躓く。

 フィアはチャンスを窺っている訳でも、能力の発動に時間を費やしている訳でもない――――既に能力を発動させていたのだから。

 

「(ん? なんかフィアの足下から伸びてる……?)」

 

 継実の目は、フィアの足下から伸びていた『何か』を捉えた。

 太さは凡そ一センチ。草むらに隠れて姿は見えないが、なんらかの粒子が大量に移動しているのは感知出来る。『何か』は草むらの下を潜るように伸び、既にイトトンボが止まる木の傍まで迫っていた。渦でも巻いているのか、木の傍で『何か』の太さが大きく増している。

 そして『何か』は、草むらから一気に飛び出して姿を露わにした。

 現れたのは、()()()()()()だ!

 

「ひぇっ!?」

 

 突然現れた冒涜的物体に、驚いた継実は尻餅を撞いてしまう。

 半透明な触手は、太さ二十センチはあるだろうか。長さは数百メートルにも達し、木の周囲を包囲するように渦を巻いていく。

 完全包囲されてしまったイトトンボ。しかし奴もまたミュータントであり、超常の力の使い手である。この程度の事態に慌てふためく素振りもない。

 枝から離れるや、イトトンボはバタバタと高速で翅を羽ばたかせる。するとイトトンボの翅先から無数の白いものが飛んでいく。

 トンボといえば優れた飛行能力が特徴の種だ。ならば空気を自在に操るような能力を獲得しているのではないか……そんな予想の通り、飛んできた白いものは圧縮された空気だと継実の目は解析する。

 しかしイトトンボが繰り出した技は、ただ空気を飛ばすだけのものではない。

 空気は激しく流動し、塊の中で擦れ合う。例え気体であろうとも擦れ合えば静電気が生じ、微々たる静電気も量が集まれば立派な雷だ。それこそモモが体毛を擦り合わせて繰り出す技と同じように。

 違いがあるとすれば、イトトンボの方がモモより遥かに巨大で、そして純粋な電気だけでなく風の力も攻撃に利用しているという事。

 バチバチと弾ける紫電を纏いながら、無数の風の刃が半透明な触手に襲い掛かった!

 

「(電気攻撃……! 私でも、これはキツそう)」

 

 具体的な出力は分からないが、本能的に『危険』な攻撃だと察する継実。自分ならば、回避に全力を尽くすところだ。

 しかしフィアは動じず。

 

「ふん。小癪な真似を」

 

 ただ一言悪態を吐くのみ。

 そしてその悪態に呼応するように、イトトンボを包囲する触手に変化が起きた。

 触手が縦に割れるように、分裂したのだ。裂けた触手はイトトンボの攻撃を躱し、うねうねと動き続ける。無論、数が増えた分だけイトトンボの包囲はより強固になった。

 これに慌てたように、イトトンボは雷付きの風をまたしても繰り出す。数も威力も先程より増えているが、やはり触手は分裂、それで躱せない時は大きく仰け反るようにして回避する。半透明な触手はどんどん細くなる一方、その数を増していき……

 ついに、見えなくなった。

 無論分裂の結果消滅した、なんて滅茶苦茶な事は起きていない。継実の目には触手がちゃんと見えている。ただ、細くなり過ぎて、『肉眼』では捉えきれないというだけ。

 糸のように細くなった触手達は、一斉にイトトンボに接近。気配は感じているのかイトトンボは右往左往するが、触手達……いや、『糸』は既にイトトンボを上下左右包囲済み。今更逃げ場などない。

 迫り来る『糸』をイトトンボは避けられず。全身を雁字搦めに縛り上げられてしまった。『糸』に縛られているため落ちてはこないが、身動きも取れない。それでもイトトンボはガチガチと顎を鳴らし、未だ闘志を失わず。振り解くために、四枚の翅に力を込め始める。

 生憎、それを許すフィアではない。

 

「これで終いです」

 

 無慈悲な宣告と共に、指パッチンを一つ。

 次の瞬間、イトトンボの身体がバラバラに切り刻まれた! 細い『糸』が容赦なく食い込んだ結果、刃物のように全身に切り裂いたのだ。イトトンボの生命力は『並』だったようで、バラバラにされた途端身体から力が失われていく。

 最早肉片となったその身に、フィアは半透明な触手を一本伸ばしてこぶし一つ分程度の大きさの肉片を掴む。

 そのままぱくりと、フィアは大きな口を開けて肉片を丸呑み。噛んだ素振りすら見せない。

 

「んー♪ やはりトンボの筋肉は歯応えと旨味があって美味しいですねぇ」

 

 ほっぺたを両手で押さえながら、フィアは喜びを言葉に表す。満面の笑みを浮かべていて、心から幸せに浸っているのが継実にも伝わった。

 

「あ。私はもう満腹なので残りはあなたが勝手に食べていて良いですよ」

 

 そしてたったそれっぽっちを食べただけで、残りの部位への関心をあっさりと失う。

 仕留めた獲物の九割以上を放置するとは中々の暴挙。残された分はハエなりトカゲなりが食べるので、『無駄』とはならないが……勿体ないと感じてしまうのが人間というもの。

 

「えっと……じゃあ、いただきます」

 

「どうぞ。あっとそうだ花中さんに夕ご飯としてお腹の部分を持っていきましょう。あそこはとろとろでクリーミーな美味しさがあるんですよねぇ」

 

 継実の答えなど心底どうでも良いようで、フィアは自分の考えを言葉にするや、それを実行に移す。触手を伸ばして持ってきた、バラバラにされて数十センチほどの長さになったイトトンボの腹を持ち、この場を去った。

 残された継実は、手近なところに転がっていたイトトンボの胸部の一欠片を掴む。切り刻まれ、露出した筋肉に齧り付く。アミノ酸の甘味が舌を刺激した。

 ――――次いで、にやりと微笑む。

 正直困惑もしている。あまりにも呆気なく、()()()()()()()()()()()()()()のだから。『糸』を作り出した際、細くしていく中で隠蔽が疎かになっていたのだ。イトトンボを切り刻んだ瞬間、継実には『糸』が何で出来ているのかハッキリと見えた。

 もしかしたらそれはわざとで、本当の能力を隠すためのものかも知れないが……少なくとも継実はこれだと確信した。

 そしてこの『タネ』なら、対策を取れる。

 

「……明日こそ、勝つ!」

 

 筋肉を食い千切りながら、やる気に満ち溢れた言葉を独りごちた。



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旅人来たれり12

 天に広がるは、雲一つない青空。

 草原を駆け抜けるは、涼しい風。

 梅雨前の季節に相応しい、爽やかな朝だった。日本列島に自生する多くの生き物達にとって心地良い気候であり、普段ならば多くの生物が餌や繁殖相手を求め、積極的な活動を始めるであろう。事実草原の至る所で生き物達は動き出し、賑やかな生存競争を繰り広げていた。

 しかし今日、とあるクスノキの周りだけは違う。

 そこに命の動きは殆どない。動ける生き物達は足早に逃げ、動けない生命は守りを固めてじっとしているのだから。

 仁王立ちしたフィアという、この草原で最大最強の生命体が臨戦態勢を取っているがために。

 

「ふん。この私にまた勝負を挑むとは懲りませんねぇ」

 

 フィアは不敵な笑みを浮かべながら、自信に満ち溢れた台詞を発す。表情からしてこちらを見下し、負けるなんてこれっぽっちも思っていない顔付きだ。

 しかしその顔を見せられている継実とモモは、怯まず臆さず退かず媚びず。こっちの台詞だと言わんばかりに、勝ち気な表情で返してやる。

 

「懲りなくて結構! 今度は私達がけちょんけちょんにしてやる!」

 

「そのとぉーり! 私達のコンビネーションでギッタギタのボッコボコよ!」

 

 胸を張り、堂々とした挑発を返す継実とモモ。昨日呆気なくやられた事など忘れたと言わんばかりの物言いだ。あまりにも強気な態度に、継実達の後ろで見守っているミドリが、少しおどおどする始末。

 勿論、継実達はフィアの強さを忘れた訳ではないし、ましてや余裕で勝てるなんて思ってもいない。

 しかしながら此度の戦いは『試合』なのだ。命を掛けてやり合う生存競争ではなく、親犬と子犬がじゃれ合うようなもの。負けたところで失うものなどないし、勝ったところで得られるものもない。

 ぶっちゃけてしまえば遊びだ。煽り合いもプロレスの前口上と同じ、ただの余興である。フィアもそれは分かっているようで、煽られても怒る事はなく、むしろにやりと笑ってみせた。

 

「良いでしょう。生意気な虫けら共に身の程というものを教えて差し上げます」

 

 ……遊び半分で放ったであろう覇気は、継実達の背筋を震わせたが。

 そんなフィアの後頭部をぺちんと叩いたのは、フィアの親友を自称する花中。

 

「もう、フィアちゃんったら。怖がらせないの」

 

「えぇー……こんなのちょっとふざけただけじゃないですか。煽るぐらいならこれぐらいの反撃は覚悟してるでしょうに」

 

「限度があるって言ってるの!」

 

 花中に窘められ、フィアはむすっと唇を尖らせながらそっぽを向く。反抗的な態度とも取れるが、発せられていた覇気が止んだので、花中の言う事は聞いた形だ。なんやかんや、フィアは花中のお願いをよく聞いている。

 煽り合戦を止めた花中は、ふんっ、と可愛らしい鼻息を一つ。それから咳払いをして、話の流れを切ってから、普段よりもちょっと大きめの声で話し始めた。

 

「えっと、それじゃあ、試合のルールを、確認します」

 

 花中は指を三本立て、継実達とフィアに見せる。次いで立てた指の一本を折った。

 

「一つ。有栖川さん達は、フィアちゃんを、一歩でも後退させたら、勝ちです。フィアちゃんは、有栖川さん達全員が、参ったと言うか、気絶したら、勝ち」

 

 最初に確認したのは勝利条件。

 フィアを一歩でも後退りさせられる力があるのなら、草原の外に広がる過酷な環境でも多分生き延びられる……昨日花中が話していた事を出来ると証明するのが、継実達の勝利条件。そしてこれこそがこの試合が決まった、事の始まりだ。

 あくまでも旅立ちの目安としての試合だが、これが出来ないならお前に旅は無理だと言われるようなもの。今日には旅立つ花中達に継実達の行動は縛れないが、突き付けられた現実が継実達の心を縛る。これを乗り切らねば、南極への旅、人類社会と再会するという夢は潰えるのだ。

 

「二つ。フィアちゃんは試合が始まってから、終わるまで、一歩も動かない事」

 

「ん? ああそういえばそんな条件でしたっけ。まぁその程度であれば問題ありません」

 

 示された二つ目の条件は、フィアにハンデを与えるもの。

 一歩も動かない。これは戦いにおいて、極めて大きな、というより致命的なハンデだ。簡単に背後を取られてしまうし、両手の届かない位置に回り込まれればどうにもならない。人間相手にそれを言ったら、ハンデというより公開処刑……勝たせる気のない宣告である。

 尤も、強がりでもなんでもなくフィアが余裕を見せているように、フィアにとっては大した条件でないらしい。実際彼女の『身体』のカラクリが、昨日継実が考えた通りのものなら、これは大したハンデではない。無意味というほどのものではないだろうが、これで勝負が有利になると考えるのは早計だ。

 

「三つ。あくまでも試合なので、相手に、酷い怪我をさせたり、死なせたりは、しない事」

 

 そして三つ目の条件。『遊び』で死者が出てはならない。極めて当たり前の、だけどしっかり意識しなければならない事だ。

 とはいえこれを常に意識しなければならないのは、フィアだけであろう。向こうがちょっとでも本気を出せば、継実もモモも一瞬で叩き潰される。遊びは遊びでも、オタリア(アシカの仲間)を弄ぶシャチのような、一方的な暴虐になってしまうだろう。

 殺さないように、無意味に傷付けないように……それを意識させられるのと、しないで全力で挑めるのとでは、戦いやすさがまるで違う。二つ目の『フィアだけに課せられた条件』よりも、こちらの方がフィアにとっては面倒な縛りだろう。

 ……三つのうち二つは、フィアの力を削ぐハンデだ。しかしこれだけ条件を積まれても、フィアは全く余裕を崩さない。

 それだけ自分の力に自信があるのだ。潜り抜けた修羅場が違うとでも言いたげな態度が、決してただの不遜や傲慢でない事は昨日の戦いが実証している。普通に戦えば、これだけハンデを付けてもらっても、なおフィアが継実達を圧倒するだろう。

 そう、普通に戦えば。

 

「(モモ、作戦はちゃんと覚えてるよね?)」

 

 継実は能力を用い、震動する空気の『幅』を制御。ひそひそ声をモモの耳に直接飛ばし、念のための確認をする。

 他のモノには決して聞こえない、秘密の会話。モモも同様に体毛を一本だけ伸ばし、継実の耳の中へと侵入させてくる。そこで毛を震わせて、ダイレクトに自身の声を継実に伝えた。

 

「(当然! 私がどーんってやれば良いんでしょ?)」

 

 返答はあまりにも漠然としていて、本当に分かっているのか不安になってきたが。

 とはいえ可愛く賢い愛玩動物(パピヨン)であるモモは、存外記憶力が良い。感情が昂ぶって語彙が喪失しただけだろう。それに、やる事は確かに『モモがどーんっ』となのだから、何も間違っていない。仮に訂正したところで「え? 何が違うの?」と訊き返され、変に混乱するだけだと思われる。

 

「(……それだけ分かっていれば十分)」

 

「(えっへん)」

 

「んー? あなた達何かひそひそ話していませんか?」

 

 内緒の会話をしていると、フィアがそれをずばりと見抜く。決して外には聞こえない筈の会話だったのに、どうして勘付かれたのか。驚いた継実は思わず身動ぎ。

 

「え。あ、な、なんでそれを……」

 

「勘です」

 

 無意識に問えば、フィアは臆面もなくそう答えた。

 能力でも推理でもない、直感。

 もしも本当にそうだとしたら……継実にとってはそれが()()()()。理屈も何もない理不尽というのが、一番手に負えないのだから。

 能力は暴いたつもりだ。策も練ったし、ハンデももらった。それでもなお、未だフィアは――――その身に宿した力の底を見せてくれない。

 全く以て、恐ろしい。

 だけどこの恐怖は、きっと、草原の外には有り触れているもの。『優しい環境』でのびのびと暮らしていた自分達は知らずとも、外で生きる数多の生命達にとっては常識の出来事。

 故に外へ出ようとしている自分達は、この恐怖を乗り越えねばならないのだ。

 

「やるよ、モモ!」

 

「任せとけぇ!」

 

 独学で身に着けた構えで、フィアと向き合う二人。

 

「来なさい! 五秒で黙らせてあげましょう!」

 

 どしん、どしんと足踏みし、仁王立ちしたフィアも継実達と向き合う。

 臨戦態勢を取った両者。花中は継実とフィアの間に立ち、きょろきょろと交互に見遣る。それから小さく息を吸い、ゆっくりと吐いて……片手を上げる。

 一瞬花中は、継実達の方を見た。パチリとウインク一つ。

 頑張れ、と言われた気がした継実は笑みを浮かべる。そんな継実の笑みを目にした花中は、取り繕うように表情を引き締めた。それからゆっくりと片手を上げ……

 

「それでは……試合、開始っ!」

 

 刀のように鋭く手を下ろしながら、か弱い声で試合の始まりを告げる。

 瞬間、破壊的なエネルギーを宿した爆音が、草原中を駆け抜けた。



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旅人来たれり13

 継実は空を飛んでいた。ただし背中を地上に向け、フィアから遠退くように。

 何故自分はこんな、ヘンテコな飛び方をしているのだろう? というよりなんで自分はフィアから離れようとしている?

 そうしようだなんて理性どころか本能的にも思っていない行動に、割と本気で戸惑う。しかしながら疑問は、何十メートルと空を飛んだ頃になってようやく脳に伝わってきた痛みにより解決した。

 ()()()()()()

 試合開始と共に継実の足下から飛び出してきた、半透明な触手に!

 

「ふはははは! 隙だらけですねぇ!」

 

 初手の攻撃が成功して嬉しかったのか、フィアは上機嫌な高笑いを上げる。試合開始と共にそそくさと後退していた花中に睨まれても、気付いてすらいない様子だ。尤も音速以上の速さで吹っ飛ばされた継実に、フィアの笑い声は届かない……届いたところで一々苛付く暇もないが。

 仮に苛付くとするなら、自分に対してだろう。

 フィアは試合開始前から、勝利のための準備をしていたのだ。継実達が遊びで煽る中、同じく遊びで煽りながら()()()()()()触手を地中に這わせるという形で。

 試合前から罠を仕込んでいたといえば、『人間的』な観点に立てば卑劣だの姑息だのという意見が出てくるだろう。しかしそれがなんだというのか。勝たねば食い殺されて終わるのが食物連鎖の掟。姑息だのなんだの、そんな『プライド』にしがみついたところでなんの意味もない。

 勝てば良い。これが自然の掟だという事は七年間で嫌というほど思い知り、実戦していたというのに。ちょっと理性的な触れ合いをしただけですっかり忘れるなんて、間抜けが過ぎるというものだ。

 

「(ああ、全く……反省しなきゃねっ!)」

 

 様子見の一発だったからか、それとも花中が提示した条件を気にした結果か。触手に殴られた痛みはそこそこでしかなく、行動に支障はない。粒子操作能力により大気分子を制御。継実は空中でくるりと体勢を立て直す。

 距離はざっと百五十メートルは離されたが、ミュータントにとってこの程度は至近距離。継実だってその気になれば一ミリ秒と掛からず詰められる。

 それに、こちら側の一発目をお見舞いするのは継実の役目ではない。

 

「隙だらけなのはどっちかしら!」

 

 既にフィアの背後に回っている、モモの仕事だ。

 モモは全身から稲妻を迸らせている。生み出した電気エネルギーが体毛に溜め込みきれず、溢れ出しているのだ。放たれる稲妻は何本もあり、一つ一つが天然の雷さえも比にならない出力を有す。

 フィアの意識が継実に向いているうちに、可能な限りエネルギーを充填したのだろう。とはいえあの巨大ミミズ相手にも、モモの電撃は殆ど効いていなかった。その巨大ミミズと真っ正面から殴り合えるフィアに、この程度の一撃が通用する筈もない。普通ならば気にも留めないだろう。

 

「――――ちっ」

 

 しかしフィアは振り向いた。忌々しげに顔を顰め、舌打ちまでして。そしてフィアはぐるりと、背後に居るモモの方へと身体を向ける。

 『その場から一歩も動かない』。

 花中が試合前に、フィアだけに課した条件の一つ。これを破ったなら ― 試合の趣旨から外れるとはいえ ― 継実は自分達の勝ちを主張しても良いだろうが……残念ながらフィアは未だルールを破っていない。

 彼女の胴体は腰の辺りで、()()()()()()()()()()()()()のだから。

 フィアは後ろに立つモモを正面に見据え、掴み掛かろうとしてか片手を伸ばす。しかしモモの方が僅かに早い。

 

「ガァッ!」

 

 小さな咆哮と共に、モモは全身に溜め込んだ電気を一気に解放した!

 弾けるスパークにより、草原が閃光に包まれる。まるで地上に太陽が出現したかのような、途方もない眩さだ。

 超高出力の電撃は、世界の有り様すら変えていく。あらゆる分子が撒き散らされた電気エネルギーの影響で崩壊し、大量の放射線をばらまいた。放射線は他の分子に衝突するや崩壊させ、新たな放射線を生み出す。反応は瞬く間に広がり、世界そのものを蝕んだ。そうして放射線と共に撒き散らされた電子を電流により『整列』させる事で、更に多くの電気エネルギーを加算。モモ自身が放った電撃を、何倍もの出力にパワーアップさせていく!

 『浸食電流(ワールドエンド)』。モモが編み出した、強敵用の大技だ。ちなみに名付け親は継実である……モモはその技名を叫んでくれないが。

 七年前ならば、これだけで地球生命を大量に絶滅させたであろう一撃。されどミュータントとしては平凡な力でもある。普段獲物にしているような生物なら蒸発して跡形も残らないだろうが、巨大ゴミムシやヒグマ相手ではちょっと仰け反らせるのが精いっぱい。

 フィアほどの力の差があれば、弾かれてしまうのが『正しい結果』だ。

 だが、現実に起こった事象は少々異なる。

 

「……小賢しい」

 

 やがて周辺の大気分子が全て陽子と中性子へと変化し、放電が収まった時、フィアがぽそりと独りごちる。

 未だフィアは健在。されど無事とは言い難い。

 何故ならフィアが伸ばそうとしていた片腕は、肘から先が吹き飛んでいたのだから。半透明な断面が剥き出しとなり、ぐねぐねと、軟体生物のように蠢いている。

 フィアは痛みに苦しむ素振りを見せていないが、腕が吹き飛ぶというのは明確なダメージ。巨大ミミズも巨大イトトンボも容赦なく倒し、無敵に思えたフィアに継実達は初めて『傷』を与えたのだ。

 

「どう? もう五秒経っちゃったけど?」

 

 ついでに、試合開始前の宣言も台なしにしてやった。

 モモの挑発にフィアは怒りを露わにする事もない。それどころか「確かに」と納得するように呟く。

 

「ふん」

 

 そんな会話を交わした直後、なんの前兆もなくフィアの腕が『再生』。生えてきた腕を躊躇いなく振るい、モモの胴体を薙ぎ払うように殴った。

 

「がふっ!? く、のぉ!」

 

 殴られた瞬間、呻きを漏らしつつもモモは反撃の放電。しかし今度は出力が足りなかったのだろう。フィアの腕が吹き飛ぶ事はなく、モモはあえなく殴り飛ばされてしまう。

 五十メートルも飛ばされたところで、モモは体毛を伸ばして地面に突き刺す。慣性で彼方まで飛んでいこうとする身体を、強引に引き留めた。

 

「モモ! 大丈夫!?」

 

「このぐらい平気よ! そっちこそ頭殴られてたみたいだけどどうなのよ?」

 

「あのぐらい、なんて事ない!」

 

 継実はすぐにモモの傍へと移動。軽口を叩きながら互いの無事を確かめ、二人は並び立つと同時にフィアを注視。

 フィアは上半身をぐるりと()()()()()()継実達と向き合う。そう、間違いなく一回転したのだが……フィアは身体が捻れた事など気にも留めていない様子。いや、身体だけでなくその身に纏う豪華なドレスのような服にも、捻れた痕跡すらない有り様だ。

 まるで一回転した後、捻れた部分だけが溶けて直ったかのよう。

 実際その通りなのだろうと、継実は確信した。他ならぬモモの攻撃によって。

 

「やっぱり、アイツの身体は『水』で出来てるみたいね」

 

 自身の攻撃により確信したモモが同意を求め、同じ考えである継実は大きく頷く。

 そしてフィアもそれを認めるかの如く、けらけらと笑う。

 

「ほほう私の能力に気付きましたか。成程昨日私の狩りを見たいと言ってきたのは探りを入れるためでしたね。まんまと騙されてしまいましたよ」

 

「えっ。あ、うん」

 

 なお、あんなあからさまな諜報活動の真意に、フィアは今になってようやく気付いたようだが。「その通り!」とばかりにモモが胸を張っていたので、野生動物的にはあんなのでも極めて高度な作戦行動らしい。こんな連中に為す術もなく支配者の地位を明け渡したと思うと、元文明人である継実としては物悲しくもなってくる。

 勿論、予想が当たっていた事は素直に嬉しい。

 昨日の狩りの時、フィアが繰り出した『糸』は水で出来ていた。

 水を含んでいた、ではない。多少の不純物は混ざっていたが、大部分は一般的な真水だ。フィアは極限まで密度を高めた水を糸のように振り回し、イトトンボを縛り上げ、引き裂いたのだと継実の目は見抜いたのである。そして『糸』は元々、フィアが繰り出した半透明な触手。ならば触手も水で出来ていたと考えるのが自然であり、そしてその触手はフィアの足下から伸びていた。

 フィアの能力は水を操る事。極めて単純に考えれば、これが答えだ。

 これならば、フィアが披露した様々な『不思議』の謎が解ける。水で出来ている身体なので柔らかくすればなんでも通り抜けるし、密度を上げて引き締めれば金属よりも硬くなる。自在に変形し、裂く事だって自由。万一壊されても、水があるだけでいくらでも再生してしまう。更にモモのような体毛すら使っていない、自分の細胞が一片も混じっていない代物であるがために、どれだけ傷付こうとも本体にダメージは一切入らない。肌や髪の色などは、恐らく構造色により表現しているのだろう。

 ハッキリ言って、ズルい。ミュータントの能力は割となんでもありだが、フィアは特に出鱈目だ。こんなにも多彩な使い方が出来る能力は、この草原に暮らす生物には見られない。もしもフィアが狩りの時に『糸』を繰り出してくれなければ、能力を探るのすら一苦労だった筈だ。

 しかしタネが分かれば、対抗策はいくらでも閃く。

 例えば電気分解。水に電気を流せば水素と酸素に分解される……というのは中学の理科の実験でやるところ。()()()()退()である継実も、ミュータント化と共に何処からか頭に入り込んできた知識によりこれを知っている。水は電気に弱いのだ。世界的に有名だったモンスター捕獲ゲームと同じく。

 ましてやモモが繰り出す電撃は、雷の数十倍の出力を易々と超えていくもの。フィアは恐らく水の純度を高めるなどして抵抗性を増幅し、これになんとか耐えたようだが……腕一本でも吹っ飛ばせれば御の字。付け加えると、電撃を放とうとしたモモにすぐさま襲い掛かった事から、電気が弱点というのは間違いあるまい。

 電気攻撃以外にも作戦はまだまだある。パワーと多彩さでは遅れを取っても、知恵でいくらでも穴は埋められる。かつての人類が、そうやって世界中に広がったように。

 

「念のために言うけど、今のはほんの挨拶。まだまだ作戦は他にもあるよ」

 

「私達のコンビネーションアタックを受けたら、アンタの身体なんて一発で吹っ飛ばしちゃうかも知れないわねぇ?」

 

「怖くなったら、ご自由に逃げてね。そこから一歩でも動けば良いから」

 

 こっちの勝ちは決まったとばかりに、継実とモモはフィアを挑発。じりじりと距離を詰めながら、フィアに降参を迫る。

 ――――尤も、これでフィアが降伏するなんておめでたい考えが現実になるなんて、二人はこれっぽっちも思っていない。

 確かに電撃はフィアの弱点だろう。実際に効果もあった。この世界が所謂ライトノベルで、能力者の実力がある程度拮抗しているという『ルール』があるなら、間違いなくこれで追い込む事が出来た。

 生憎、生物の力関係にお上品な『ルール』なんてものはない。

 ゾウとアリの力の差が埋めようのないものであるように、イワシがどれだけ群れを成そうがクジラに一呑みにされるように、巨木の日陰の下では小さな花が育たないように……生物の世界ではどうにもならない力の差が存在する。相性を突こうが力を束ねようが、それを一踏みで蹂躙する理不尽が許される。あらゆる努力を、天才を、才能を、何もかも覆してしまう不条理が跋扈する。

 フィアと継実達の間にあるものも、それだ。

 

「いやはや本当に素晴らしい。正直私にダメージを与えるなんて思いもしませんでしたよ……あなた方のような虫けら風情が」

 

 パチパチと手を叩き、フィアは祝福と侮辱を同時にする。

 いや、どちらの意味もないだろう。

 フィアは思った事を言っただけ。これを聞いた相手がどう思うとか、どう考えるとか、そんな小難しい事は一切考えていない。やりたいようにやる……生きたいように生きているだけ。

 そして相手が自分と同じ気持ちを抱いていても、容赦なく、なんの躊躇いもなくへし折れる。

 それは純然たる自然の権化。理不尽と不条理、無慈悲と暴虐を詰め込んだ、生命そのもの。しかしそれは決して奇跡でもなければ不幸でもない。何故ならそんなものは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 即ちフィアは、旅立った自分達が幾度も直面する事になる『日常』でしかない。

 

「正直退屈なだけかと思っていましたが……ようやく少しは遊べそうですねぇ」

 

 フィアが、笑う。

 継実達の背筋が凍る。

 この星で繰り広げられる野生生物達の本当の『日常』が、ぬるま湯に浸かっていた継実達に降り掛かろうとしていた。



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旅人来たれり14

 こんな馬鹿げた事があるものか!

 遠目に継実達の戦いを見ていたミドリは、思わずそう叫びたくなった。

 

「こん、のオオオオオオッ!」

 

 モモが地響きのように感じるほどの咆哮を上げながら、凄まじい速さで飛び出す。

 恐らく発電した電気を用い、自身の身体を打ち出したのだろう。さながらレールガンの弾丸が如く、モモのスピードは音速の六百倍以上に達していた。あまりの速さに圧縮された空気ことソニックブーム……否、衝撃波を生み出し、ただ駆けるだけで破壊を振りまく。

 秒速二十キロ以上もの速さで駆け抜ける地上兵器なんて、そんなものはこの広い宇宙に存在する多種多様な文明でもまず見られない。何故ならその速さは、地球における第三宇宙速度……恒星の重力を振りきってしまうスピードなのだから。ただ走るだけで惑星の重力を突き破り、遥か銀河の彼方に飛んでいってしまう。恐ろしく難しい制御によりどうにか地上に張り付いても、衝撃波を撒き散らしていては、自国の防衛には使えない。強過ぎる兵器というのは使い道がないものだ。

 無論生物にとっても同じ事。秒速二十キロなんて速さは、超々高重力環境下の惑星でなければ、ただの星系脱出能力だ。衝撃波で生息環境を荒らしては、自分の生きる場所さえもなくなってしまう。星系間を旅する種なら兎も角、地上で暮らす生物にとっては『無用の長物』である。

 当然こんな速さのモノが自分達の生活圏に現れるなんて想定は、何処の文明も生物もしない。そんなものは『現実的』ではないのだから。ミドリにモモの動きが残像程度でも捉えられるのは、寄生しているこの死体のスペックが、フル活用には程遠いにも拘わらず、宇宙に存在する数多の文明の『性能』を凌駕しているからだ。

 ただ一体でも星に降り立ち、本気で暴れ回れば大半の文明を破壊し尽くすであろう力……ネガティブに匹敵する、或いは上回るほどの宇宙的脅威と言わざるを得ない。それがミドリの考える、今のモモに対する正確な評価である。

 だが。

 

「オオオオオオオぶっ!?」

 

 フィアが繰り出した拳は、迫り来るモモの腹を正確に捉える!

 強力な一撃は隕石すらも上回る衝撃波を撒き散らし、モモの身体が背中側から爆ぜた。バラバラと背中の『肉片』が周囲に飛び散る。身体に受けたエネルギーを受け止めきれなかったのだ。通常の宇宙生物なら、間違いなく即死しているだろう。

 しかしモモからすればなんの問題もない。モモの身体は体毛で編んだ偽物。例え外面の身体が爆ぜようとも、モモの本体は無傷のままだ。

 背中が破裂したまま、モモは自分を殴り付けたフィアの拳と腕に抱き付く! 痛みを感じなかったからこそ出来る咄嗟の判断。フィアに密着したモモはすかさず全身の毛を擦り合わせ、莫大な電気を生み出す!

 放出された電撃は二テラワット相当。たった一撃で惑星の環境を激変させるエネルギーを、一点集中で撃ち込む! こんなエネルギーをぶち込めば、電気分解のしやすやなんて関係ない。あらゆる物質が分解・崩壊していく。水で出来ているというフィアの身体も、僅かに仰け反った。

 いや、違う。

 電撃で仰け反ったのではなく、仰け反るほど大きく、モモがしがみついている腕を振り上げただけ。

 

「ふんっ!」

 

 フィアは力のこもった声を上げながら、モモごと腕を振り下ろす! 更にその腕はぐにゃぐにゃと伸びていき、三メートルはあろうかという長さに達す。

 まるで鞭のようにしなる腕によって、モモは地面に叩き付けられた! 巨大隕石染みた衝撃波が広がり、並の生命体ならば跡形もなく吹き飛ぶような物理的衝撃がミドリの身体に襲い掛かる。

 されどこの程度、ミドリの『肉体』ならばなんの問題もない。

 モモにとっても同様。地面に叩き付けられてもしがみつくのは止めず、モモは電撃を撒き散らす! モモからの反撃を受ける度、フィアの腕は更に激しくモモを地面に叩き付けるが、それでもモモは攻撃を続けた。

 だがフィアの身体は壊れない。

 どうやら身体に()()()()()()金属元素を用い、電流が水へと伝播しないよう制御しているらしい。ミドリの目にはそれが見えていた。本来電気を防げるものではない物質で身体を作りながら、フィアが異常に高い抵抗性を持つのはこれが原因だ。

 対して体毛で編まれたモモの身体は、打撃を受ける度に少しずつ摩耗していた。単純な運動エネルギーだけなら、巨大隕石クラスでもモモにとっては問題ない。しかし激突時に、運動エネルギーの一部が熱へと変換されている。全体から見れば微々たる比率だが、大元が惑星活動規模のエネルギー量だ。一パーセントでも変換されれば、熱核兵器に匹敵する高熱を生み出す。

 熱に弱いモモの毛は、少しずつ溶けていく。脆くなった繊維では物理攻撃に耐えきれず、やがて千切れ飛ぶだろう。このままではモモは戦えなくなる。

 

「モモを離せぇぇッ!」

 

 そうはさせないと駆け付けたのが、継実。

 黒い髪が青く色付き、両腕には肘まで覆うような青い光の手袋を纏う。瞳は虹色に染まり、白目は紅く、普段とは全く違う色へと変化していた。

 継実の『戦闘形態』だ。ネガティブを打ち倒したのもこの姿であると、ミドリは継実本人から聞いている。宇宙の誰にも止められなかった、止めようがなかった災厄すらも滅ぼす姿。究極生命体と呼んでも過言ではないだろう。

 閃光を残すほどのスピードで、継実はフィアの背後から跳び蹴りを放つ! フィアは継実を見向きもせず、身動ぎもしない。あと数メートルで命中――――

 そこまで迫った瞬間、フィアの背中から無数の触手が生えた!

 

「げっ、ヤバっがっ!?」

 

 伸びた触手は継実の顔面を殴打。蹴りを放つ体勢だった継実は、空中でぐるんと一回転してしまう。

 その隙をフィアは見逃してくれない。

 背中からは更に無数の触手が生え、継実に襲い掛かる! 触手といえば絡み付き、身動きを封じ、身体を弄るもの……等という淫靡な知識がミドリの宿主であるこの身体にはあるようだが、フィアの触手はそんな卑猥な行動を起こさない。

 代わりに、まるで拳のラッシュのように何十何百と殴り付けるだけだ!

 

「ぐううぅぅううっ!」

 

 継実は咄嗟に両腕を身体の前で交叉させ、触手の連続攻撃に耐えようとする。なんとか急所である腹や頭部へのダメージは避けたが、衝撃で大きく後退する事を余儀なくされた。

 継実が殴られている間も、モモは腕ごと地面に叩き付けられている。モモの電撃も止まない。流石に鬱陶しく感じてきたのか、継実を大きく突き飛ばしたフィアは再度モモに意識を戻す。

 

「犬ころ風情が。ほぉーらご主人様と仲良くやってなさいっ!」

 

 はしゃぐような掛け声と共に、フィアは大きく腕を振り上げた。ただし今度は地面に向けてではなく、真横に……継実が居る方へと振り回す。

 無論少し動きの向きを変えた程度で離れるようなモモではない。爪を立て、鋭い牙を突き立て、意地でも離れるものかとばかりにしがみつく。が、彼女の努力は全て無駄だ。

 フィアは自らの腕の肘から先を、自分の意思で切り離したのだから。

 所詮は偽物の身体。分離する事などその気になれば簡単に出来るのだ。フィアの身体から離れた瞬間、フィアの腕は爆発……恐らく能力の支配下から外れ、圧縮されていた体積が元に戻ったのだろう……して衝撃波を撒き散らす。掴むものがなくなったモモは呆気なく吹っ飛ばされて。

 

「え。ちょ、モモ止まぎゃふんっ!?」

 

「ぶげぇっ!?」

 

 継実の胴体にモモの頭が突っ込んだ。大切な家族からの頭突きに継実はひっくり返り、モモはへし折れた首 ― 作り物なので心配する必要もないが ― を慌てて直す。

 そんな二人のやり取りなど興味がないかのように、フィアは指先から継実達目掛けて何かを撃ち出す。

 それは水の弾丸だった。水は切断した腕と同様、能力の制御下にはない様子だが……秒速数十キロというとんでもない速さで飛んでいく。

 

「がっ!?」

 

 水の弾丸は継実の額に命中。彼女を大きく仰け反らせた。無論仰け反っただけで済んだのは、継実がミュータントであるから。そうでなければ衝撃により頭が弾け、余波だけでも全身が膨れ上がって爆散しているだろう。

 怯んだ継実に代わり、反撃を試みたのはモモ。回り込むように走りながら、フィア目掛けて電撃を飛ばしていく。

 命中した電撃はフィアに大したダメージを与えていないが、やはり『弱点』だけに気にはなるのだろう。超スピードで走るモモの動きを追うように、フィアは下半身は固定したまま、上半身をぐるりと回す。一回転どころか二回転、三回転してもお構いなし。水で作られた身体と服は、捻れなど簡単に修復してしまうのだから。

 しかし流石に視線は一つだけなのだろう。

 背中目掛けて動き出した継実への反応は、ほんの僅かだが鈍かった。

 

「なら、これはどう!?」

 

 完全に振り向くよりも前に、継実は『第二の策』を発動させる。

 それは粒子操作を応用した、念力のようなもの。触れずに物質の元素を刺激し、激しく震わせ……加熱していくという技だ。一緒に暮らす中でミドリも見た事があるが、継実曰く「同じダメージ量を与えるなら殴る方が百倍ぐらい楽」との事なので、得意技という訳ではないらしい。しかし今はこの攻撃が良い。

 水は百度で気体となる。そのためフィアの身体も百度になればどんどん気化していく――――というのは流石に嘗めた見方だろう。フィアに喰らわせた電撃や殴り付けた衝撃は、ほんの一部ではあっても熱へと変わっている。星の環境すら激変させるようなエネルギー量なのだから、ほんの一部でも熱に変われば百度なんて『低温』では済まない。にも拘わらずフィアが無事という事は、水の密度を上げるなどの方法で、フィアは身体を形成している水の沸点を大きく上げているのだろう。ちょっとやそっとの熱では無意味だ。

 しかしどれだけ沸点を上げようと、限界は存在する。

 水が、水分子の形を保持出来るのは二千度までだからだ。それ以上の温度になると水分子は形を維持出来ずに崩壊し、酸素と水素になってしまう。ロケット事故など超高温の炎が噴き出す場所の鎮火に水を使わないのは、そこにある機械が壊れないようにとの配慮もあるが、水そのものが燃料となってしまうという理由もあるのだ。

 その気になれば星をも貫く光さえ生み出す、無尽蔵のエネルギー。如何に変換効率が悪い(苦手)でも、その一割でも熱へと変えれば二千度などあっという間だ。これでフィアの本体を守る、水のガードはあえなく崩れ去る……

 筈だったのに。

 

「ちょ……なんで()()()()()()()()()!?」

 

 継実の能力を受けても、フィアの体表面温度は殆ど上がらなかった。

 継実と同じ人間の身体を持つミドリは、継実と同様に粒子の挙動を感じ取れる。そこでフィアの身体を注視してみたところ、一つの致命的な事実に気付く。

 フィアの身体を形成する水分子が、微動だにしていない。

 通常、分子というものは例え固体であっても振動しているものだ。そうでなければ粒子の振動である『温度』がなくなってしまう。しかしフィアの体表面では、その振動が全く観測出来ない。

 恐らくフィアは、水分子の振動を能力により強引に()()()()()()()。振動させないから温度が上がらず、気化や崩壊も起こらないのだ。

 そんな事が可能なのか? ミドリにだって信じられない。こんな無茶苦茶な方法で耐熱性を獲得する技術なんて、自分が知る限りという前置きは付けども、宇宙のどの文明にも存在しなかった。しかし現にミドリの目にはそれが見えていて、理屈的には正しい。ならば信じる他ないだろう。

 この原理から察するに、熱でフィアの身体を分解するには、フィアの能力の出力を大きく上回らねばなるまい。そしてそれは、一方的に翻弄されている継実達には酷く難しい話だ。

 

「小細工ですねぇ。こんな風にもっと派手な技じゃないと楽しめませんよォ!」

 

 狼狽える継実に、フィアは攻撃宣言と共に金色の髪を揺れ動かす。フィアの髪はどんどん伸びていき……光り輝く無数の糸と化して継実達を包囲。

 糸は縦横無尽に動き回り、継実達に襲い掛かる!

 無論ただの糸なら、大した問題ではない。されどフィアが繰り出した糸が、ただの糸である筈もなし。

 ミドリが観察したところ、糸の表面には無数の『刃』が形成され、あたかもチェーンソーのように回転している。尋常でない殺意に塗れた、狂気的な攻撃だ。

 

「くっ!? 継実! これヤバいわ!」

 

「分かってる!」

 

 モモが警鐘を鳴らし、継実も頷く。全方位から飛んでくる糸は、植物を切り裂き、大地を切り刻み、巻き添えを喰らった虫達を八つ裂きにする。当然継実達にも迫り、その身を切断しようとしてきた。

 時には大きく仰け反り、時には空中で跳躍しながら身を捩り、時には糸と糸の間に跳び込み……モモと継実はこれを躱していくが、糸の包囲は段々と狭まっていく。回避範囲が狭まるのは勿論、糸同士が密になれば抜け出る隙間さえもなくなっていく。

 触れれば切断という圧倒的恐怖の間を潜り抜けるなど、正気の沙汰ではないだろう。しかし『正気』なんてあったところで役立たないのが自然界。合理性を突き詰めた野生生物達は、必要ならば狂気さえも為し遂げる。

 

「脱出っ!」

 

 故にモモは自らの身体を変形させる事で幾つもの糸と糸の間を瞬時に潜り抜け、

 

「二抜け!」

 

 継実は躱しながら準備していた、粒子テレポートによって包囲網から脱した。

 継実達がいなくなるや、フィアは片手に握り拳を作る。すると糸の包囲網は一瞬で縮小。あっという間に潰れた団子と化す。

 触れたらバラバラという狂気的な攻撃であったが、やはりフィアは手加減をしていたという事だ。継実とモモは互いに駆け寄り、身を寄せ合う。未だ二人の戦意は衰えていない、が、その顔付きからは幾ばくかの焦りを感じさせる。

 そんな二人を見て、フィアは心底楽しげに笑った。

 

「ふはははははは! 二人揃っても雑魚は雑魚ですねぇ! 殺さないように手加減するのが大変ですよ本当に!」

 

「ああ、クソっ。どうなってんのよアイツの身体! なんで私の電撃が効かない訳!? さっきまで普通に通じてたじゃん!」

 

「熱も全然効かない……多分電気や熱を使う敵と戦った事があって、対策を持ってるんだ」

 

「ご名答。あなた方とは年季が違うという事です。これでも十年ぐらいミュータントしてますから」

 

 継実の予想をフィアは肯定。詳細こそ明かさなかったが、対策がある事を認めた。モモと継実の表情が曇る。

 ミドリが継実から聞いた話によれば、継実がミュータントとなったのは七年前の事。モモでも九年前である。

 嘘偽りがなければ、確かにフィアの方が二人よりも先輩だ。とはいえ一~三年程度の差というのは、これほどまでに圧倒的な力を生むのだろうか? いいや、単なる時間の差だけではないだろう。

 きっとフィアはミュータントとなってからずっと、とんでもない敵達と戦ってきたのだ。そして七年間、継実達よりも過酷な環境に身を置いた。積み重ねてきた戦闘経験が、継実達の比ではない。

 正に『年季が違う』。

 経験の差、実力の差……どちらも劣っている継実達に勝ち目なんてありはしない。どうにか数でフォローし合っているが、それでもジリ貧だ。

 せめて、あと一人。

 あと一人、()()()()()()()()()()()()()()()()……

 

「ミドリさん」

 

 ふと隣から声を掛けられ、無意識に唇を噛み締めていたミドリは我に返る。

 反射的に振り返れば、何時の間にか、花中がすぐ隣に来ていた。ミドリと同じく、フィアと継実達の試合を観戦していたらしい。

 立場的にはフィア寄りとはいえ、花中達は敵ではない。いきなり話し掛けられた驚きからミドリの心臓はバクバクと鳴っているが、胸に手を当て、深呼吸を挟めばすぐに収まる。

 しかしその心臓は、またしても跳ねる事となった。

 

「継実さん達の、手助けに、行きませんか?」

 

 心の奥底で思っていた、自分の『願い』を花中が言葉にしたがために……



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旅人来たれり15

 自分の心臓が跳ねるように鼓動している。

 それを実感しながら、ミドリは『元凶』である花中の目を、驚きを露わにした眼差しで見つめる。されど花中はニコニコと、優しく微笑むだけ。

 こちらからの言葉を待っているのだろう。花中の意図をそう理解したミドリは、引き攣る唇を強引に動かし、どうにか言葉を絞り出す。

 

「な、にを……言ってるんですか。あたしなんかが、参加したところで……」

 

「確かに、何も変わらないかも、知れません。でも、何かが変わるかも、知れません。それは、やってみないと、分からない事です」

 

「で、でも、あたしが参加しても、足を引っ張るだけで……」

 

「そうかも、知れませんね。だけど、引っ張らなくても、多分二人とも、負けちゃいますよ?」

 

 ミドリが語る言葉を、一つ一つ、丁寧に花中は否定していく。切り捨てられていく『理屈』が増えるほど、ミドリは何も言えなくなり……ついには押し黙ってしまう。

 分かっている。こんなのはただの言い訳だ。

 助けたいけど、助けられるほどの力がない。その事実をひた隠しにするための理由付け。足を引っ張る? 自分が参加しても変わらない? なんの理由にもなってないではないか。足を引っ張らなくても、参加しなくても、このままでは継実達の負けがほぼ確定しているのだから。

 それなのに躊躇ってしまうのは、自分が知的生命体だからなのだろう。責任だとか原因究明だとか、『自分の所為』になる事に関わりたくないという、知性ある者としての性質が邪魔をしている。自分がしてしまった失敗を、大切な人からなじられる事を恐れてしまう。

 後先考えずに突っ込める野生生物の生き様が自分にも出来れば、こんなしょうもない躊躇いなんてしていないのに。

 

「行きたいなら、行けば良いんです」

 

 そんな自分の背中を、花中はそっと押してくれる。

 だけど意固地なミドリの脚は、簡単には動かない。ふるふると首を横に振り、ミドリは花中の顔を見遣る。

 花中は継実達とフィアの戦いを眺めながら、話を続けた。

 

「わたしもよく、躊躇っていましたから、あなたの気持ちは、分かります」

 

「……花中さんも?」

 

「ええ。見た目通り、引っ込み思案で、何時も不安ばかりで。だけど、フィアちゃんが、何時も背中を、押してくれました。その度にわたしは、わたしの思うがままに、動いたものです」

 

「……その結果は、どうだったのですか?」

 

「わたし的には、満足しています。世の中的にも、悪くはなかったと、思います。でも、人によっては、いくら罵っても、足りないぐらい酷い事も、したものです」

 

「それでも……後悔は、していないのですか?」

 

「してなくは、ないです。わたし、何時までも、うじうじ悩むタイプ、ですし。でも」

 

 一度言葉を句切ると、花中はミドリの目を見る。透き通った、曇りのない紅い眼。穏やかで、何処か気弱で、だけど強い意志を秘めた瞳がミドリを射貫く。

 

「しなかった事を、後悔するより、した事を、後悔したい。それがわたしの、()()()()ですから」

 

 そして花中の言葉は、ミドリの胸を打つ。

 しないよりも、した方がマシ。

 なんでもそうなるとは限らない。余計な事をやったがために状況が悪化するというのは、決して珍しい出来事ではないのだから。だけど何もしなかったがために、状況が悪化するというのもまた少なくない事。

 未来は予測出来ない。だから自分の行動がどっちに転ぶかなんて、誰であろうと分からない。事情を知っていれば予測が出来る? 馬鹿馬鹿しい――――自分の行動により引き起こされた結果が、どうなるか予想するなんて事は『科学的』に不可能だ。量子が確率論的に存在するが故に、世界はあらゆる可能性を内包している。

 分からない事をうだうだ悩むというのは、無駄な事。

 無駄な事をするよりも、やりたい事をやる方が『合理的』だ。

 

「ミドリさんは、どう、したいのですか?」

 

 続いて花中から問われたのは、己の気持ち。答えなんて最初から決まっている、曲げたくない想い。

 こんなにも背中を押してもらえたのだ。これで立てなきゃ――――死ぬまで立てない。

 

「……大切な家族の夢を、叶えさせてあげたいです!」

 

 ミドリは己の内側で燃えていた想いを言葉にし、力強く立ち上がった。花中のお陰でようやく得られた、決意を支えにする事で。

 どおおんっ、という爆音と共に、呆気なく折れてしまう決意だったが。

 

「ひゃあぅ!? な、何……」

 

「……もぉー。フィアちゃったら、何時もわたしの邪魔をするんだから」

 

 驚きで尻餅を撞いてしまったミドリの横で、花中がぽそりと独りごちる。そんな花中の視線の先には、高さ百メートルはあろうかというキノコ雲が立ち昇っていた。熱波などは感じられず、どうやら水蒸気の集まりらしい。

 フィアが繰り出した攻撃なのだろう。けれどもまるで核爆弾でも投下されたかのような光景だ。しかしこれまで繰り広げられていた様々な技からして、こんなのは騒ぐほどのものではない。実際巨大なキノコ雲はすぐに雷撃とビームで吹き飛ばされ、継実達三人の姿が露わとなる。三人は戦いを休む事すらせず、また激突していた。

 ミュータントにとって、あんなのは挨拶代わり。

 ミドリもミュータントの身体を借りているが、あそこまで出鱈目な力の使い方なんて分からない。やっぱり自分なんかが行っても、一秒と経たずにやられるだけ……蘇った恐怖で、ミドリはへたり込んでしまう。それでも自分のやりたい事は継実さん達を助ける事だと己に言い聞かせ、なんとか奮い立とうとするが、生存本能に支配された身体はこの場を動こうとしない。

 決意をしたのにこの有り様。あまりにも情けなくて涙が出てくる。

 そんなミドリを見て、何を思ったのだろうか。花中はそっと、ミドリの横顔に近付き――――囁く。

 

「力が、欲しいですか?」

 

 まるで、悪魔が語るような言葉を。

 

「ち、力……?」

 

「あ。念のために、言いますけど、変な儀式とか、薬とか、そういうのじゃないです。ただ、どうもミドリさんは、自分の力が上手く、使えていないようなので。さっきの爆発に、腰を抜かして、しまったのも、多分継実さん達ほど、強くないから、ですよね?」

 

 合ってます? そう尋ねるように首を傾げる花中に、ミドリはすぐに答えを返せない。花中の予想は正しく、だからこそ驚いたがために。

 フィアには正体を見抜かれてしまったので、花中はミドリが『寄生生命体』である事は知っている。しかし逆に言えばそれしか知らない筈だ。宇宙生物達から見ても地球の生命……ミュータントが出鱈目過ぎて力の仕組みが分からないなんて、知りようがない。

 だから普通なら、ミドリが単純に『貧弱』だと考える筈。どうして、花中は自分がこの身体を使いこなせていないと分かるのか。何か、全てを見透かされているような……

 得体の知れない不気味さを感じる。だが、今のミドリにとってはどうでも良い事だ。

 力が欲しいか。

 ああ、欲しいとも。力がなければ、自分は何時までも守られ、怯える側なのだから。力さえあれば、あの二人の後ろではなく、横に並ぶ事が出来るのだから。

 だからミドリはこくりと頷く。

 すると花中は満足げに微笑んだ。握り拳まで作り、とても嬉しそう。

 それから彼女は、ひそひそ声で告げた。

 

「なら、教えます。わたし達ミュータントの、力の『原理』を」

 

 継実もモモも知らない、この世界に満ちる秘密を……

 

 

 

 

 

「ごがっ!?」

 

「ぎゃいんっ!」

 

 継実が呻きを上げ、モモが悲鳴染みた声を漏らして、二人は地面に叩き付けられる。継実はどうにか体勢を直し、大地に爪を立てて動きを止めるが……モモはそのまま何十メートルも転がった。

 

「さぁさぁどうしましたかぁ!? 良い感じにエンジンが掛かってきたのですからこんなところで倒れないでくださいよォ!」

 

 そして二人を殴り飛ばしたフィアは、げらげらと笑いながら煽ってくる。

 今すぐその満面の笑みに拳を叩き込んでやりたい……が、継実の身体はがくりと膝を折り、立ち上がるだけの力すら出せない。跪くような姿勢を保つので精いっぱいだ。モモに至っては、転がった先で倒れたまま動かない。

 傷が深い、という訳ではない。フィアは花中の提示したハンデをちゃんと守っていて、継実だけでなくモモもそこまで酷い怪我は負っていないのだから。しかしダメージを延々と受けているため、その傷の『再生』は繰り返している。道具が摩耗してやがて壊れるように、再生させなければ身体そのものが壊れてしまうので仕方ないのだが……無から有は生み出せない。再生させる度にエネルギーをどんどん使い、体力は減っていく。勿論全力全開の攻撃でもエネルギーは消費する。

 今や継実とモモは疲労困憊。スタミナが底を尽きようとしていた。

 対してフィアは継実達以上のパワーで暴れ回り、全く避けないため継実達以上に攻撃を受け止めてきたのだが、あちらはピンピンしていた。水の身体は、継実達の身体よりも遥かに『タフ』らしい。

 負けたところで、どうこうなる話ではない。

 だけどこんな、ハンデを幾つも付けた相手にすら勝てないようでは、草原の外に出るなど夢のまた夢。生き延びた人類に会えるかもという、淡い希望は決して叶えられない。

 こんなところで挫けている場合ではないのだ。

 

「ふぅぅぅ……ふうううぅぅぅぅ……!」

 

 感情が昂ぶれば、不思議と力が湧いてくる。継実は大地を踏み締め、背筋を伸ばし、ゆっくりと己の力だけで立ち上がり

 その継実の努力を嘲笑うように、フィアの触手が地面から生えてくる。気付いた時にはもう遅く、触手は継実の右足を殴り付け、バランスを崩した継実はまた倒れてしまう。

 少し休めば、まだ体力回復の余地はある。モモだって同じ筈だ。されどフィアはそれを許してくれない。例えフィアは一歩と動かずとも、触手を伸ばして攻撃出来るのだから。

 どうすれば体勢を立て直せる?

 ――――生憎、考える事さえフィアは許さないだろう。

 ぞくぞくとした悪寒が継実の背筋を走る。

 地中を何かが走っているような気配。間違いなく、フィアの触手だ。何処から出てくるのか探ろうとするも、地中を高速で動き回り、分裂と融合を繰り返すその気配を正確に探知するのは難しい。もっと言えば触手もまた水であるため、自然な密度や分布域を取られると土壌水分と見分けが付かず、観測そのものが出来なくなる有り様。

 

「ごぁっ!?」

 

 不意に集結・巨大化しながら地中より飛び出した触手に、背中から殴られてしまうのは避けられない。

 太さ二十センチはあろうかという触手の一撃により継実は前のめりに数歩つんのめる、と、今度は正面の地面から触手が生えた。額を狙った一撃。咄嗟に腕を交叉してガードする継実だったが、受けた衝撃で今度は大きく仰け反る。

 するも今度は側面より触手が生え、継実の脇腹を殴り付けた。力のこもっていない方角からの攻撃に継実は転倒――――した直後に、地面から触手が生えて腹部を打ち抜く! 強力なボディーブローだ。継実の口からは血が吐き出された。

 

「どうしたのですかぁ? 折角手加減してるのですからちゃんと避けてくださいよ。一方的に嬲るのも嫌いじゃありませんが獲物はやっぱり追い回す方が楽しいのですよねぇ」

 

 理不尽なまでの暴力を振るいながら、フィアは笑みを浮かべつつも欲求不満な様子。継実を更に煽るのは、もっと大きな力を引き出すためか。

 これで怒りの一つでも爆発させて、秘めたる力に目覚めて一発逆転……というのはある種の王道か。

 だが()()()()()()()()()()。人間に会うための旅をしたいという願いに突き動かされ、全身の力をフル稼働させた。エネルギー消費を考えない戦闘形態まで用いている。

 それでも、未だフィアには及ばない。

 

「(何が、足りなかった……?)」

 

 持てる力は振り絞った。モモとの連携だってバッチリだし、作戦だって幾つも練った。エネルギーをたっぷり蓄え、万全を期した。

 その万全を、フィアは鼻息一つで消し飛ばす。

 何故? どうすれば良かったのか? 何かが足りなかったのか? それともどれだけハンデを積まれようとも、最初から勝ち目なんて……

 

「……そろそろ終わりですか。まぁ暇潰しにはなりましたかね」

 

 継実の脳裏を過ぎった弱気な想いは、顔なり態度なりに出ていたのか。興醒めしたように、笑みを消したフィアが独りごちる。

 途端、大地から感じられる力が急速に増大していく。特大の触手か、はたまたとんでもない力を込めた代物か……いずれにせよこんなものの直撃を受けたなら、疲弊した今の継実達では失神は免れまい。

 何がなんでも攻撃を避けなければ。しかし力があまりに大きく、おまけに拡散していて、何処から攻撃が飛んでくるか分からない。タイミングも逃げ道も定まってない回避なんて、大きな隙をわざわざ作るようなもの。やらない方がマシなぐらいだ。

 一体、どうすれば。

 花中のように優しければ、少し、時間をくれたかも知れない。けれどもフィアは無慈悲で不条理なケダモノ。考える時間などくれない……他の野生生物達と同じく。

 地中からの力の増幅が止まる。それと共に霧の中を蠢く影のように漠然とした存在感が急速に具現化を始めた

 刹那、

 

【真っ正面から二ミリ秒後に顔目掛けて来ます!】

 

 そんな声が頭に響いた。

 いや、声ではないかも知れない。『音速』なんてすっとろい速さではなく、情報として脳に叩き込まれたような、そんな感覚を継実は覚えたのだから。

 今のはなんだ? 継実は困惑した、が、そこに思案を巡らせるつもりは毛頭ない。

 間もなく、二ミリ秒後がやってくる。

 

「くっ……!」

 

 破れかぶれで継実は自ら天を仰ぐように仰け反った

 瞬間、正面の地面を粉砕して一本の触手が生えた!

 触手は今まで継実の顔面があった場所を、継実ですら視認するのが難しい速さで通過。掠めた鼻先の肉が削れ、血が滲み出る。もしも直撃を受けていたら、顔面の形が変わっていただろう……後で再生して元には戻せるが、一時的な失神は免れまい。

 渾身の攻撃が躱され、フィアは驚いたように目を見開く。回避した継実自身も驚いてしまう。二人同時に驚いたが、先に我を取り戻したのはフィアの方だった。

 

【今度は右足下狙い、多分三ミリ秒後!】

 

 しかし継実の脳に響く情報は、フィアが動く前に『次』を教えてくれる。

 新たな情報を信じた継実は、能力により五十センチほど空へと飛ぶ。すると地面から生えてきた触手が、かつて右足のあった場所を通り過ぎた。脳に声が響いてから、きっちり三ミリ秒後の出来事だ。

 フィアは更に触手を繰り出すが、その都度頭に情報が入り込み、その通りに動けば全ての攻撃を躱せる。まるで、未来を見通しているかのように。

 尽く攻撃が躱され、フィアは自らの顎を撫でるように触りながら沈黙。猛攻も止み、しばらくしてから、心底楽しそうな笑みを浮かべる。

 

「なぁーるほどそちらの方も参戦ですが。乱入は構いませんよ。この二匹だけでは物足りなかったので」

 

 何かに気付いたフィアは、快く『そいつ』を受け入れた。

 

「では、お言葉に甘えて」

 

 そして『そいつ』はハッキリとした声で、フィアに答える。

 継実は耳を疑う。その声には聞き覚えがあるが、しかし彼女が此処に参加するとは思えない。だって、彼女は弱いのだから。

 だけど聞き間違える筈がない。

 何故なら彼女は、大切な『家族』なのだから。

 

「……カッコいい登場、してくれるじゃない」

 

 照れ隠しに悪態を吐きながら、継実はくるりと後ろを振り返る。

 『家族』は笑っていた。誇らしげに、楽しげに、何よりも嬉しげに。

 

「ここからは、あたしも参加します……もう継実さん達には、傷一つ負わせません!」

 

 空気を震わせるほどの大声量。大きな胸の前で腕を組み、堂々とした仁王立ちまで見せ付ける。

 かつてないほど自信を滾らせたミドリが、この場にやってきていた。



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旅人来たれり16

「ほほう最初に見た時は虫けら以下の力しかないと思っていましたが……それと比べればずっとずっと強くなりましたねぇ」

 

 真っ直ぐにミドリを見つめながら、フィアは淡々とその力についての評価を下す。獰猛な笑みを浮かべ、少なくとも『虫けら』に向けるものではない闘志をミドリに向けた。

 虫けら以下というフィアの言い分は中々失礼だが、されど否定出来ない事実でもある。何しろミドリは、一人ではアオスジアゲハの幼虫すら殺せない貧弱さだったのだから。そこらの虫けらすら殺せないのだから虫けら以下。極めて正確な評価であろう。

 しかし今は違う。

 継実にも分かる。ミドリが放つ力は、これまでの比ではない。何十倍、いや、何百倍も増大しているようだ。昔の漫画に出てきた戦闘民族も真っ青になるような、凄まじいパワーアップ。継実達が試合を始めてから一時間も経っていないのに、何をどうしたらそこまで強くなるのか訳が分からない。

 ……確かに増幅幅で見れば、訳が分からないほどミドリは強くなった。強くなったのだが、()()()()()()()()()。アオスジアゲハと人間の体重差は、ざっと二万倍。数百倍のパワーアップをしたところで、やっぱり身体の大きさを考えればしょうもないほど弱い。

 

「まぁネズミが一匹増えたところで試合運びが変わるとも思えませんが」

 

 フィアの独りごちた言葉が、全てを物語っていた。

 

「そんなのやってみないと分からなぎゃあっ!?」

 

 反射的にか言い返そうとするミドリであったが、残念ながらフィアは空気を読まず。地中から突然出てきた触手に驚き、悲鳴と共にミドリはひっくり返ってしまう。

 そんなミドリを追撃するように、無数の触手が地面から生えてきた。ミドリは一瞬目を点にし、次いでさぁっと顔を青くする。

 カッコいい登場など忘れたと言わんばかりに、なんの躊躇いもなく背を向けて逃げ出すミドリ。

 フィアの触手達は、逃げるミドリを執拗に追い始めた。

 

「ひぃいいいいいい!? しょ、初心者狩りとか強者としてのプライドはないんですかあなたぁ!?」

 

「ああん? 弱い奴から狙って数を減らすのは戦いの定石でしょうが。あとあなたは残しておくと後々厄介な予感がするので先に潰しておきたいですし」

 

「なんでいきなり的確な行動取れるのぉ!? ひやぁああっ!?」

 

 言葉による非難も、野生を生きるフィアには通じず。情けない悲鳴を上げながら、ミドリは襲い掛かる触手を紙一重で躱しつつ走り回る。

 なんとも締まらない展開だが、フィアの意識は継実からミドリへと逸れた。尤も見逃してもらえたのはこの戦いが遊び(試合)だからで、野生の闘争ならば弱った継実を確実に仕留めてからミドリを襲っただろう。その意味ではやはり『嘗められている』のだが、どんな理由であれチャンスはチャンスだ。

 防御に回していた力を体力回復に費やす。ミドリが来てくれるまで散々殴られた事で出来た傷口も塞ぎながら、継実はまず状況把握に勤める。

 先程頭に響いた情報は、ミドリの能力によるものだろう。

 その前提に立って自身の脳内を解析してみれば、ミドリが何をしたのかは見えてきた。どうやらミュータントとなった人間の力……『粒子操作能力』を用いて継実のシナプスや脳内物質に干渉。神経信号をちょちょいと弄って、『声』のような文章を伝えてきたのだ。

 しかし疑問は残る。ミドリの身体は人間だが、彼女の本体はあくまでも寄生生物。本来なら身体の持ち主以上に力を引き出せるらしいが、ミュータントの出鱈目な力は原理が不明で、上手く扱えないと先日話していた。それが何故、急激に力を出せるようになったのか?

 少し辺りを見渡せば、答えは自然と明らかになった。

 この場を遠くから眺めている女性――――花中だ。逃げ回るミドリを見てくすくすと笑っているのは、間抜けな彼女を嘲笑っているから……などという邪悪な理由ではあるまい。成長した幼子を眺めるような、優しい眼差しを見れば花中の内心は察せられる。

 恐らく花中は、ミドリにアドバイスをしたのだ。ミュータントの能力が、どんな『原理』により発現するものなのかを。

 花中はミュータントの能力について多少なりと理解があったらしい。そして説明を聞いたミドリは、その身体に存在していた力を引き出せた、といったところか。尤もイモムシがネズミにランクアップした程度なので、理論を伝えたというより『コツ』を伝授したという方が正確か。

 

「(それで、ミドリの能力には観測向きの傾向があるのかな?)」

 

 脳内物質への介入、そしてフィアの触手の出現位置予測。ミドリが行った事を考えれば、直接攻撃ではなく支援に特化した性質なのだろう。

 今もぎゃーぎゃー喚きながらもフィアの触手を躱しているのも、優れた観測能力で攻撃を予測出来ているからか。その分『戦闘能力』では見劣りするだろうが、しかし相手の攻撃を予測出来るのは心強い。脳に直接信号を送れるなら会話でこちらの思惑が敵にバレる事もなく、何より超音速での戦いがごく普通のミュータントにとって音速以上の情報交換は非常に有力だ。正に支援の理想型。敵からすれば、真っ先に潰しておきたい相手である。

 ……ミドリが叫んでいたように、なんでフィアは彼女の能力も知らないのにいきなり最適解を出せたのか。これが実戦経験の差というものなのだろうか?

 ともあれ、いくら能力のお陰で回避が得意だとしても、このままにしておくとそのうちミドリはボコボコにされてしまうだろう。パワーアップしてもなお貧弱な彼女では、一発頭を殴られればそれでKOだ。折角出てきたチャンスの芽も、摘まれては意味がない。

 幸い、ミドリのお陰で体力は回復しきった。

 

「――――せいっ!」

 

 継実は全速力で駆け、ミドリを襲おうとした触手に蹴りをお見舞いする!

 継実の全力の一撃に、触手の軌道が僅かにズレた。ぐにゃりと蠢きこちらを狙おうとするが、継実の速さならなんとか対応出来る程度。

 継実はミドリを抱きかかえ、全力で後退していく。フィアは一瞬触手達に逃げる継実を追わせたが、すぐに無理だと判断したのだろう。触手達を引っ込めた。

 継実も足を止め、ミドリを下ろす。獲物を捉えたかのような獰猛な笑みを浮かべるフィアと、真っ正面から向き合う。

 そうしていると、バチンッ、と弾けるような音が傍で鳴る。

 何時の間にかモモが隣に来ていた。どうやら彼女も、休憩を取った事で回復したらしい。

 

「長かったね、お寝坊さん」

 

「悪かったわね。でも、お陰でそっちよりは元気になったわよ」

 

 軽口を叩き合いながら、相手の体調を窺い合う。実際、モモはすっかり元気な様子。長く寝転がっていた分、言葉通り継実よりも回復出来たようだ。

 ミドリはつい先程来たばかりで、まともな攻撃を受けていないので傷一つない。一番ダメージが大きいのは継実だろう。ならばなんの問題もない。継実にとってこの程度の消耗は、日常茶飯事である。

 継実が最前線に出て、モモが継実の横で構えを取り、ミドリが後退りしつつも二人からは離れない。継実達三人は言葉を交わさなかったが、自然と自身が一番活躍出来る立ち位置へと移動出来た。誰もポジションが被らない、最高のチーム編成の証と言えよう。

 これでようやく、自分達の『本気』を見せられる。

 最大の力を発揮出来るようになり、継実は強気な笑みを浮かべてみせた。モモだって勝ち気に笑い、ミドリは後ろに隠れながらも引き締めた表情で覚悟を表す。

 これでも、フィアの笑みを崩す事すら叶わないのだが。

 

「全く。準備に時間を掛け過ぎですねぇ。その分ちゃんと楽しませてくれると期待して良いのでしょうか?」

 

「勿論。楽し過ぎてへろへろになっちゃうかも」

 

「ほほうそれはそれは」

 

 継実の強気な発言もなんのその。むしろ感心したように頷く始末。

 その自信満々な態度が虚勢や過信でない事は、散々戦ったからこそ分かっている。

 

「実に楽しみですねぇ――――ワクワクし過ぎてうっかり殺してしまっても悪く思わないでくださいよ?」

 

 そして一方的に告げられたこの『警告』が、脅しでもなんでもない事も。

 

「(……来るッ!)」

 

 継実とモモが身構えた

 

【しょ、正面からたくさん触手が来ます!?】

 

 刹那、ミドリからの警告が頭に響く。

 なんとも大雑把な物言い。

 されどフィアの背中から生えてきた、何百何千という数の触手を目にすれば、そうとしか表現出来ないと思った。

 空をも覆い尽くすかの如く、大きく広がった半透明な触手達が、一斉に継実達へと襲い掛かる!

 

「ちょ!? これは流石に……!」

 

「モモ! なんとかミドリを守って!」

 

「――――おっしゃあっ!」

 

 あまりの物量に一瞬気圧されるモモだが、継実(人間)からの指示で元気を取り戻す。身も心も犬である彼女にとって、人間からの命令は至上の喜びだ。喜び勇んで前へと出て、電撃を纏った拳と蹴りで触手達を押し退ける。

 やはりモモの電撃は、フィアにとって弱点らしい。継実のパワーではガードするので手いっぱいの触手を、継実よりも馬力で劣るモモの方が難なく押し返している。相性の良さから、モモならしばらくは猛攻に耐えられそうだ。

 とはいえ所詮は時間稼ぎ。いずれ触手の物量に押される事は目に見えている。何より、その場凌ぎのために継実はモモを前に出した訳ではない。

 時間稼ぎはミドリが能力を発動させるため。

 自分達にはどうやっても無理だが、ミドリの力ならば、フィアを一時的にでも止められると読んだからだ。

 

「ミドリ! あなたの通信能力、私達以外の脳にも使える!?」

 

「へ? あ、は、はい。や、やり方は分かったので、多分」

 

「なら、アイツにやって!」

 

 そういって継実が指差したのは、フィア。

 フィアに情報を与えるという事か? 一瞬そんな疑問でも抱いたかのように怪訝な顔を浮かべるミドリだが、やがて一つの案に辿り着いたのだろう。

 しかし理解したらしたで、ますます顔を顰める。そこまでやるか? と言わんばかりに。

 

「さ、流石にそれは、フィアさんが死んでしまうのでは……」

 

「良いからやって! 多分、心配いらないから!」

 

 不安そうなミドリに、継実は堂々と曖昧な答えを返す。

 最初は中々実行しなかったミドリだが、モモが触手の一本を止めきれず、ミドリのすぐ傍までやってきた事でようやく覚悟を決めたらしい。ミドリは力を込めるようにうんうんと唸り……

 鋭い眼差しで、フィアを睨んだ。

 

「ぐぅっ!?」

 

 するとどうした事か、フィアが苦しむような声を上げたではないか。

 僅かに身体がよろめき、フィアは片手で頭を抑える。後退りこそしなかったが、モモの雷撃も継実の粒子ビームも跳ね返した身体が、ただミドリに睨まれただけで揺らいだのだ。

 しかしそれも当然の事。ミドリの能力を思えば、これは必然の結果だ。

 継実が解析した結果が正しければ、頭に響く情報文は脳内物質やシナプスに干渉する事で発現している。これは本来、途轍もなく危険な力だ。脳内物質とは単に思考だけを司る訳ではなく、全身の体調さえも管理している。そのバランスを崩された場合、体調不良なんてものでは済まない。脱水や体温上昇、消化器不全や睡魔までも狂わされ、容易に死に至るのだ。例え殺さずともシナプスの繋がりを変えてしまえば、思考さえも塗り替えられる。

 七年前の地球ならば一切の武力を用いる事なく、全ての生命の生死はおろか、意識さえも支配する……可愛くて女らしいミドリが手にしたのは、地獄の魔王すら青ざめる力なのだ。

 

「小癪な真似を……!」

 

 尤も、魔王の力を用いても、フィアの顔を顰めさせるのが限度だったが。

 

「え? え、ちょ……こ、ここ、これでどうですか!?」

 

「ぐっ……ぬぅううう……! 生意気な……!」

 

 思いの外効きが悪かったのか、ミドリは狼狽えながら更に力を込める。が、より大きな能力を受けたにも拘わらず、今度のフィアはどっしりと構えたまま。これならどうだ、これならどうだと、何度も何度もミドリは力を入れ直すが……その度に唸りながらも、フィアは決して倒れない。

 

「ふえええええっ!? な、なんでイオンチャンネルをしっちゃかめっちゃかにしたのに、この人ぴんぴんしてるのぉ!?」

 

 最早ミドリは手加減などしていない筈なのに、フィアは問題なく生きていた。全くの想定外を前にして、ミドリはすっかり半狂乱だ。

 恐らくフィアは水を操る能力で、体組織内の物質濃度をコントロールしているのだろう。理屈については見当こそ付いたが、まさか本当に抵抗性を持つとは。何処までも出鱈目なフィアに、やってしまえと(けしか)けた継実すら顔を引き攣らせる。

 だが、フィアの動きは十分に止められた。

 もう身体こそ揺れていないが、無数に伸ばしている触手は輪郭がぼやけるように揺らめき、中にはぐずぐずと崩れるものまで現れている。一歩も動かないという『敗北条件』を満たさない事を意識するあまり、触手の制御が疎かになっているのだろう。

 接近するなら、今がチャンス。

 

「ミドリ! しばらく守れないけど……」

 

「だ、大丈夫です!」

 

 覚悟を決めるよう促そうとした継実に、ミドリが先んじて答える。

 顔は恐怖で引き攣っているし、足はがくがくと震えていた。けれども決して下がらず、フィアだけを睨み続ける。そのフィアが、横目で見るだけで全身が凍り付くほどの視線をミドリに向けているにも拘わらず。

 彼女はとっくに決心していた。ならば、それに応えねば失礼というもの。

 

「――――任せた!」

 

 継実が伝えるのはこの一言のみ。

 ミドリはにこりと、笑みを浮かべた。

 

「モモ!」

 

「ようやくねっ!」

 

 掛け声と共に、長年のパートナーが継実の横に並び立つ。継実が名前を呼べば、モモは全てを察してくれる。二人は一瞬のうちに呼吸を合わし、同時に前へと駆け出した!

 ミドリの力で『頭痛』にもだえるフィアが、継実達の動きに気付く。そしてこちらの目論見も察したであろう。

 苛立つような舌打ちと共に、フィアは大きく腕を振るう! 地面から生えてきたのは巨大な触手。太さ三メートル、長さは二十メートルはあるだろうか。太さ五十センチもないような触手とは比較にならない巨大さだ。外敵を纏めて薙ぎ払うための大技だろう。

 元気な時に繰り出されたなら、きっと何も出来ずに纏めて薙ぎ払われたに違いない。

 だが、今のフィアの集中力は乱れている。触手の中身はボロボロのぐずぐず……大きいだけのハリボテだ。

 

「「たぁっ!」」

 

 声を合わせ、継実とモモは飛ぶ! モモは片脚に電撃を纏い、継実は前に伸ばした拳に粒子の渦を作り出す!

 最大級のパワーを一点集中させた二人の一撃は、迫り来る巨大触手と正面からぶつかり合い――――これをぶち破った!

 粉砕した触手は能力の支配下から脱したのか、爆発するように体積を元に戻す。その衝撃をしかと受け、継実達は更に加速!

 触手を砕かれたフィアと視線が交叉する。未だ頭が痛むのであろうフィアは唇を噛み締め、ミドリではなく、迫り来る継実達を睨んだ。

 されど顰め面は、さして間を開かずに不敵な笑みと化す。

 まだまだ終わる気はないらしい。それを察しながらも、今更止まる気などない継実達は減速などせずに突き進み……

 ついに、継実とモモはフィアの下半身に組み付くのだった。



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旅人来たれり17

 九百ギガワットの電撃を何度受けても怯まず。

 水爆を凝縮したような威力の粒子ビームを跳ね返し。

 脳内物質を掻き回されても顔を顰めるだけ。

 絵に描いたような出鱈目ぶりを発揮するフィア。継実達がどんな攻撃を繰り出しても、何処に受けても、彼女は微動だにしなかった。

 超常の力を用いても揺らがぬ彼女を、二人掛かりとはいえ下半身に組み付き、持ち上げる……こんな『原始的』な方法が果たして通用するのだろうか?

 答えは、理論上Yes。

 どれほど巨大な力を持っていたとしても、その力を活かすにはなんらかの物体に掴まる必要があるからだ。そして地面に食い込むための力は、重力に引き寄せられた質量の分のみ。筋肉隆々な男性でも、重石を背負った子供でも、『質量』が同じなら持ち上げるのに必要なエネルギー量は一緒である。

 だからフィアがどれほど強大なパワーと質量があろうとも、天変地異を引き起こせるほどの怪力を持つ継実達ならば持ち上げる事が可能なのだ。

 ――――理屈の上では。

 

「(……動かないッ……!)」

 

 されどフィアは僅かに浮かびもしなかった。

 自分達でも持ち上げられないほど重いのか? そんな筈はない。確かにフィアの身体は水で出来ていて、これまでの強度や繰り出した触手の多さ、切断時に爆発するかの如く巨大な体積へと戻っていた事から、大量の水を圧縮して身体に溜め込んでいるのは間違いない。しかしいくら重くとも、星をも揺さぶる少女二人でビクともしないとは考え難い。

 恐らく、なんらかの『小細工』を施している。

 例えば足の裏から伸ばした無数の触手や糸を地面に張り巡らせ、植物のように張り付いているとか……

 

「良いパワーですねぇ。ですが詰めが甘い」

 

 考えればそのぐらいの対策はしていると、すぐに気付けた筈。フィアのねっとりとした物言いは、まるでそう指摘しているかのように継実には聞こえた。

 ああ、全く以てその通り。

 継実は心の中でそうぼやく。この事態は容易に気付けるものだった。二人で肉薄して、足を掴んでしまえばひっくり返せるなんて、甘い目論見だろう。

 そのぐらい()()()()()()()()()()。自分とモモだけでは、フィアのパワーで張り巡らされた『根』を引っこ抜くなど、到底出来ない事は。

 

「(だけど、今ならミドリがいる!)」

 

 ミドリの能力、即ち地中に潜んだ触手の位置を正確に把握出来るほどの観測能力ならば。

 地中に張り巡らされた『根』の位置や強さを、ミドリであれば見通せる。力の入り方が弱いところを見付けて、そこを重点的に攻めればきっと――――

 継実はそう考え、くるりと振り返る。今もフィアの思考を邪魔している筈の、ミドリに合図を送るために。全てを『任せた』ミドリが、このピンチを打開すると信じていたから。

 

「て、てやーっ!」

 

 そのミドリは現在、情けない声を上げながら継実達……いや、フィアがいる方を目指して駆けている。

 あれ? と継実が困惑したのは一瞬。なんで? と動揺したのもまた一瞬。だけど理解してから硬直した時間はそれなり。

 ああ。任せたの一言で全部分かってくれたと思ったけど、全然伝わっていなかったのね――――相棒(モモ)相手なら完璧に理解したであろう言葉は、共同生活一ヶ月ちょっとの新入り家族には少々難解なものだったらしい。

 等と察した時には、ミドリもフィアの傍に到着。継実達と一緒に、フィアの下半身に取り付いた!

 

「ちょ、なんでこっちに来てんのぉ!?」

 

「え? いや、だって任せたって……」

 

「アレは遠くから観察して、フィアがどんな風に足場を固定してるのか調べって意味! 一緒に持ち上げろじゃない!」

 

「えっ!? そうなの!? 私てっきりミドリには必殺技があって、私達が食い止めてる間にそれをぶちかませという意味だと思ってたわ!」

 

「モモぉ!?」

 

 なお、七年間一緒に暮らしていた家族にも、継実の真意は届いていなかった模様。言葉足らずはやはり駄目である。

 反省は必要だ。しかし今すべき事柄ではない。

 

「ミドリ! フィアの足下はどうなってんの!?」

 

「えっ。えーっと……うわ、めっちゃ深いところまで触手が入り込んでる……」

 

「ふっはははははは! その通り! 今の私は地下百メートルほどまで根を張っています! 植物の根とも絡み合っていますからそう簡単には動きませんよ!」

 

 ミドリの観測結果を認め、それでもなおフィアは高笑い。百メートルも根を張れば、継実達の力ではどうやっても動かせないと考えているのだろう。実際継実にも今のフィアを後退りさせられるとは思えず、ギリッと歯ぎしりしたモモの考えも同じだろう。

 

「あ。じゃあ、()()()()()()()()()を分解すれば、なんとか出来ますね」

 

 ミドリだけが、あっけらかんとしていた。

 ……一瞬、沈黙が流れる。

 ミドリには遠隔操作で、脳内物質をあれやこれやする力がある。脳内物質を遠隔操作出来るのだから、百メートル離れた地中にある土壌物質をちょっと横に動かしたり、組成を崩壊させる事ぐらいは造作もないだろう。勿論脳内物質と土壌物質は全然別物であるから、大きなパワーは出ないかも知れないし、精密な操作も難しいかも知れない。しかし今それは大した問題ではないのだ。

 何故なら継実達の勝利条件は、フィアを一歩でも後退させる事。またフィアに与えられたハンデは一歩もそこから動かない事。

 足下の地面が崩れたり、ましてや消滅でもしようものなら、それは()()()()()事になるのではないか?

 

「……こ」

 

「「させるかぁ!」」

 

 このネズミが、とでも言おうとしたのだろう。しかしフィアが伸ばそうとした腕を、継実とモモがしがみついて食い止める!

 フィアは水で出来ている腕を変形させ、継実達の間を潜り抜けた。止められた時間は、一ミリ秒とない。フィアの腕はミドリの下に到達し、その愛らしい顔面を掴む。このまま圧迫して失神させるつもりか。

 だけど、もう遅い。

 既にミドリは役目を終え――――継実達の足下にある大地が大きく膨らみ始めたのだから!

 地下百メートルよりも下に、巨大な空洞が形成されていた。ミドリの能力により土壌物質が『分解』され、気体へと変化したのだ。そして固体から気体へと変化した事で体積が増大。行き場を求めた大気が上へと昇り、フィアの周りで砂や地面を押し退けながら噴火のようにガスが吹き出す! 余計な気体がなくなれば、そこに残るのは通常気圧の空間のみ。

 一瞬の膨張を経た『地面』は、重力に引かれて空間の底を目指して落ちていく。肝心なのはその落ち方が、決して均一ではない事。

 フィアの立つ大地は、大きく傾き始めた!

 

「ぐぬぉ……!? しかしこの程度私が根を張り巡らせれば……」

 

 地面の傾きと共にフィアの身体も大きく後ろへ倒れそうになるものの、未だフィアは勝負を諦めていない。

 フィアの金色の髪がざわめくや、四方八方へと伸びていく。崩壊している領域全体に髪を展開し、地面そのものを固定しようとしているようだ。さながら縦横無尽に伸びた植物の根が、山崩れを防ぐように。

 しかしそれは叶わぬ抵抗。

 何故なら此処には継実達がいるのだから。

 

「そうは、させるかぁぁっ!」

 

 モモの全力全開の放電が、周囲に撒き散らされる。伸びようとして細く分岐する金髪は、伸びた傍から分解されていく。

 

「こっちの事も忘れないでよ!」

 

 継実も周りの粒子を操作し、高熱を生成。ミドリのような遠隔操作は出来ないが、触れたものを加熱する出力であれば継実の方がミドリよりも圧倒的に上だ。本来なら数十万度の高熱もフィアには通じないが……しかし意識が乱れている今ならば、数本の毛を焼き切るぐらいは出来る。

 

「あ、あたしだって、やれるんです!」

 

 そしてミドリはフィアの足下にしがみつき、至近距離でその頭の中身を引っ掻き回す!

 三人が、三人に出来る事をする最後の反撃。これすらもフィアをずっと抑え付けるには足りないが、されど今は地面が完全に崩れるまでの一瞬だけ抑えられれば十分。

 

「こ……この虫けら共が……!」

 

 苦し紛れのフィアの悪態こそが、勝負の行方を物語り。

 最後に一際巨大な粉塵を巻き上げながら、継実達とフィアの立つ大地は崩落するのだった。

 ……………

 ………

 …

 黒ずんだ地面が、地表に露出している。

 大地の崩壊により、それまで草花に覆われていた土が露出したのだ。崩落の規模は凄まじく、周りと比べ十メートル近く陥没している。植物達の一部は埋もれ、正しく災害跡地とでも言うべき荒れようだ。

 

「ぶはぁ!? はぁっ、はぁ……」

 

 そんな大地の中から、継実は這い出す。

 ミドリが仕込んだ大地の崩落により、継実は生き埋めになってしまった。元気な時なら例え地下数千メートル地点に『瞬間移動』させられたとしても、難なく脱出してみせただろうが……延々と激戦を続け、体力の喪失が著しい状態では、数メートルの深さでもそれなりに大変だった。

 

「うぐぇー……なんとか出られたわ……」

 

「ぷはっ! し、死ぬかと、思った……」

 

 継実に続き、モモとミドリも地面から這い出す。彼女達も疲労からか ― ミドリは単純な力不足もあるだろうが ― 脱出には苦労したらしい。

 最後の最後で喰らわせた一発は、それだけ大きなものだったと言えよう。

 そう、具体的には――――フィアが地面の上で仰向けに倒れているほど。

 

「……ねぇ、継実。私達……」

 

 勝ったのよね? 継実の傍に歩み寄りながらそう尋ねようとして、モモは途中で黙ってしまう。ミドリは息を飲み、継実は、フィアをじっと見つめる。

 自分達は、勝った。

 この『試合』では、フィアを一歩でも後退りさせれば勝ちなのだ。そしてフィアは後退りどころか、その場にぶっ倒れている。大地の崩落により、立った体勢を維持出来なかったのだろう。最初に提示された条件は完璧に満たした。

 なのに、どうして?

 フィアから感じられる、『覇気』とでも呼ぶべき威圧感が未だ衰えないのは。

 

「……ふ。ふはは。ははははははははは! あーっはっはっはっはっはっ!」

 

 突然、フィアは笑い出した。空と大地が震えるほどの、心からの大笑い。

 笑いながらフィアは立ち上がる。ただし手も足も使わない、まるで『起き上がりだるま』のような不自然な動きで。これまで見せてきた数々の出鱈目に比べれば、ただ起き上がっただけ。されど異様な挙動に継実達の警戒心が高まっていく。

 しかしフィアの笑いは止まらない。顔に手を当て、大きく反り返り、最早苦しそうに笑い続ける。

 

「ふはははははは! この私を一歩後退りさせるどころか押し倒すとは! はははははははは! はははははははっ!」

 

 何時までも、何処までも、楽しそうに笑うフィア。試合に負けたというのに、果てしなく楽しさを露わとする。

 そう、勝ったのは継実達だ。勝負はもう付いた。これ以上戦っても、今更フィアの勝利とはならない。例え全員を気絶させたとしても、だ。

 にも拘わらずフィアの戦意は消えない。それどころかどんどん膨らんでいる。際限なく、宇宙の膨張すら思わせるほど急激に。

 

「そうですねぇ。なんだか楽しくなってきましたし――――ちょっとばかり本気で遊んであげましょうか」

 

 その理由はフィアの口から発せられた。

 次の瞬間、ミドリがへたり込む。

 しかしそれはフィアから攻撃されたからではない。腰が抜けたのだ……継実でさえもガタガタと全身が震えてしまうほどの『闘志』を向けられて。

 敵意も殺意もない、純粋な闘争本能。フィアには継実達を殺す気なんて微塵もないだろう。けれども継実の本能は死を予感する。

 相手をしてはいけない。近付いてはいけない。見付かってはいけない。奴の無慈悲なまでの力は、幼子がアリを踏み潰すようにこちらの命を蹂躙するのだから。

 自分達は勝ったのに、どうして? いきなり向けられた闘志に気圧され、尋ねる事すら継実には出来ない。負けた事の悔しさを晴らすためか、万が一にも自分を脅かす存在など許せないのか。理由は皆目見当も付かないが、一つだけ確かな事がある。

 このまま戦えば、自分達は抵抗も何も出来ずに死ぬだろう。

 どうしてこんな事になったのか、何を間違えたのか。何も分からない継実達に向けて、フィアはゆっくりと腕を伸ばし――――

 

「フィアちゃん、ストップ」

 

 花中が、その腕を掴んだ。

 瞬間、フィアは花中へと視線を移す。何故邪魔をする? と言いたげな鋭い目付き。継実ならこの視線だけで震え、腰砕けになるだろうが、花中は全く恐れない。

 むしろ、ぷんすこ、という謎の擬音が聞こえてくるような可愛らしい膨れ面を花中は浮かべた。緊張感は殆どない。

 

「最初に言ったでしょ? フィアちゃんを、一歩でも後退りさせたら、継実さん達の勝ちだって」

 

 それから、今更のようにルールを説明した。

 するとどうした事か、フィアはキョトンとしたように目を丸くする。それから腕を組んで考え込む。

 やがて、ぽんっと手を叩く。

 

「おおっ。楽しくなり過ぎてすっかり忘れていました」

 

 次いで、恥じる事なく自分の物忘れの激しさを披露する。

 あまりの素直さに、継実達三人は「ずこーっ!」と叫びながらひっくり返った。花中は呆れたように肩を落とす。

 

「もぉー。しっかりしてよフィアちゃん。ゲームやってると、いっつも途中で、ルール忘れちゃうじゃん」

 

「いやぁそうは言いますがね花中さん。楽しくなったら我を忘れてしまうのは仕方ない事だと思うのですよ」

 

 ぷんぷんと怒る花中に、弁明なのかそうじゃないのか、よく分からない返答をするフィア。もうフィアには戦う気がないらしく、闘志も何も感じさせない。花中とべらべらだらだら、年頃の女の子のようにお喋りするばかり。

 話を聞くに、先程の背筋が凍るほどの覇気は()()()()()()()()()()()()()()から放っていたらしい。

 そんな理由で死を覚悟した継実は、どうにか身体は起こしたものの、立ち上がる気力が湧かず。しばし座り込んだまま呆けていたが、我に返った時、背中やら足に圧迫感を覚えた。

 見てみれば、モモが背中に寄り掛かり、ミドリが膝の上に乗っている。二人ともすっかりダウン状態。ミドリに至っては余程疲れたのか、もう眠っている。

 つまり二人は戦いが終わったのだと感じていて。

 そんな二人の体温が感じられるようになった継実も、ついに身体から完全に力が抜けて、ぱたりと倒れ込んだ。



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旅人来たれり18

「それじゃあ、今回の勝利を祝して……かんぱーい!」

 

「「かんぱーい!」」

 

 継実の掛け声に、モモとミドリが応える。三人はその手に持った飲み物、として使えなくもない血塗れ生肉をぶつけ合い、同時に口に含んだ。鉄っぽさと旨味成分が入り混じった、慣れ親しんだ味が口いっぱいに広がる。

 朝早くから始まったフィアとの激戦は終わり、昼を迎えた。

 フィアからすれば本当にただのお遊びだったが、継実達三人からすれば文字通り死力を尽くした戦い。全身のエネルギーを使い果たし、行使した筋繊維はボロボロになっていた。下手すると体力回復でエネルギーが底を突くのではないかと思うほど、激しく疲労している。とてもじゃないが、狩りなんて出来っこない状態だった。

 なので今回継実達が食べている肉であるノウサギは、花中が捕まえてきてくれたものである。そのウサギ肉で花中達と共に勝利のお祝いを始めた訳だ。

 

「ふふん花中さん花中さん私の活躍どうでしたか? 格好良かったでしょう?」

 

「んー……そうだね。やられるまでは、ちゃんと手加減してたし。良い子良い子」

 

「ふへへへへへへへ」

 

 ちなみにその花中は、べったべったと抱き付いているフィアに構っている状態だ。傍から見ても鬱陶しいぐらい絡んでいるフィアだが、花中は嫌がる素振りもなく、フィアの頭を優しく撫でる。フィアの口から、なんともだらしない声が漏れ出た。その後何故かフィアも花中を撫で始め、花中の口から「でへへへへ」とフィア以上にだらしない声が溢れる。

 花中は兎も角、フィアも随分と楽しそうだ。試合に負け、挙句()()()()()()()()()()()()()にも拘わらず、悔しさだとか言い訳だとか、そんな気持ちは何一つ感じさせない。

 ……或いは、フィアには試合をしたという意識すら欠如していたのかも知れない。彼女からすればこちらの力なんて虫けらのようなものであり、本気とは程遠い力しか出していないのだ。これを敗北と呼んで蔑むのは、却ってこちらの格が落ちるというものだろう。

 だけど自分達の勝利ではある。

 この勝利により継実が得られたものなんてない。負けたからって花中達に束縛される訳でもなかった。ただ、勝てた事で自分は出来るのだという自信を得て、願いを叶えられるのだという希望を抱けるだけ。それだけで十分であり、それだけが欲しかった。

 自分達は、旅に出られる。

 南極にいるかも知れない人間達に、会いに行けるのだ!

 

「そういや、なんで私ら戦ったんだっけ?」

 

「さぁ? 忘れましたー」

 

 なお、モモとミドリも試合に大した関心もないようだったが。家族達の無関心さに、継実はがくりと肩を落とす。

 

「……フィアに勝てるぐらいの実力がないと、南極までの旅なんて無理だって話だったでしょ」

 

「ああ、そうよそうよ。そういう話だったわね。単なる実力確認」

 

「あたしも今思い出しましたー」

 

 継実が教えると、心底納得したように頷く二人。どうやら本気で忘れていたらしい。

 実際問題、二人は南極行きに対し「継実が行きたいなら行く」程度の動機しかない。だからこそ背中を押された気になれた継実としては、経緯を忘れた事に文句など言える筈もなかった。

 それにフィアとの試合に勝てたのも、二人の協力があったからで……

 

「あ、そうだ。ミドリに訊きたい事があったんだけど」

 

「? はい、なんでしょうか?」

 

「ミドリは試合の途中で参戦してくれたけど、あのパワーアップぶりは、多分花中からミュータントについて色々と聞いたお陰だよね? 何を教えてもらったの?」

 

 ふと脳裏を過ぎった疑問を、継実はミドリに尋ねてみる。

 ミドリが継実のような『普通』のミュータントほどの力を出せない理由は、ミュータントの力が宇宙人である彼女にも理解出来ない仕組みで発動しているから。死体の身体を借りている彼女には、相手の身体がどうやって動いているのか、自覚しながら動かさなければならない。

 故にこれまでミドリは文字通り虫けら以下の力しか使えなかった訳だが、未だ小動物程度とはいえ、フィアとの戦いでは力が大きく増していた。弱かった原因から逆算して考えれば、なんらかの『理論』を身に着けたと考えるのが自然。

 思うがまま使えているとはいえ、継実にとってもミュータントの力は未知のもの。その理屈を知りたいと思うのは……知的生命体としては普通のものだろう。ミドリも継実の気持ちは少なからず分かるのか、こくりと頷いて答える意思を示す。

 

「えっと……あたしより花中さんの方が詳しいので、花中さんに訊いた方が良いかと」

 

 ただし答えるのは自身ではなく、花中にお任せしたいらしい。

 余程難しい話なのだろうか? 確かに、理屈を聞いたのに結局小動物並の力しか出せていないのだから、ミドリとしては完全に理解出来た訳ではないのだろう。もしかすると、間違えて解釈している可能性もゼロではない。

 ならわざわざ迂回的に訊かずに、直接花中に教えてもらうのがベストだ。ミドリの言う通り、花中に教えてもらうべきだろう。そして自分達の話が聞こえていたようで、花中は優しく微笑みながらこちらを見ていた。ちなみに二人きりの時間を邪魔されたフィアは、僅かに顔を顰めている。

 

「ねぇ、花中ちゃん。良かったら教えてくれる? ミュータントの力が、どういう働きで発動しているのか」

 

「ええ、良いですよ。わたしも、完全に、理解出来ている訳では、ないですけど」

 

「あーそういや『アイツ』がなんか話してましたっけ。私は全然覚えていませんが」

 

「だよねー。フィアちゃんも、もう一度聞いてね」

 

「はーい」

 

 手を上げながら答えるフィア。子供か、という言葉を継実は飲み込み、花中はくすりと笑う。その笑いが自然と収まってから、花中は語り始めた。

 

「まず、ミュータントの、力の根源は、量子ゆらぎで生じた、エネルギーです」

 

 花中が最初に述べたのは、ミュータントの力の源について。

 ……述べられても継実にはよく分からないのだが。聞いた事のない単語である。一応モモの様子も窺ってみたが、彼女もキョトンとしていた。ついでにフィアも同じく呆けていて、何も分かっていないらしい。

 唯一知っていそうなのは、苦笑いを浮かべているミドリだけだ。

 

「……量子ゆらぎって何?」

 

「さぁ? 私は知らない」

 

「えっと、じゃあ、そこから説明します」

 

 分からない事を正直に明かす継実達に、花中は嫌な顔一つせずに、『基礎』から教えてくれた。

 ――――量子ゆらぎ。

 それは七年前まで栄えていた、人類文明が確立した量子物理学の一理論。そして世界の成り立ちや今の形を知る上で、極めて重要なものの一つだ。

 というのも量子ゆらぎは宇宙の誕生や原子の構造にも関わる、()()()()()()()()なのである。

 具体的な説明をしよう。

 何もないような真空であっても、本当に何もないという訳ではない。何故ならミクロな領域では、確率論的になんらかの素粒子が『誕生』と『消滅』を繰り返しているからだ。まるで泡立つように無から物質が生まれ、有が尽く消えていく。エネルギー保存則を覆すような出鱈目な事象が、宇宙の全域を満たしている。こうした粒子の存在を『仮想粒子』と呼び、ミクロな世界ではこれを考慮しないと上手く説明出来ない現象も少なくない。そして確率的に誕生する粒子(エネルギー)の量に理屈上制限はない……無限のエネルギーが、あまねく空間に潜んでいるのだ。

 とはいえ、ではそこらの空間から莫大なエネルギーを引き出せるかといえば、事はそう単純ではない。先程述べたように、ゆらぎにより粒子が誕生する一方、何処かでは消えている。局所的に見ればエネルギーが増えても、何処かでエネルギーがマイナスになっており、視野を広げれば結局プラスマイナスゼロになっているからだ。人間が利用出来る『巨視的』な領域では観測上なんのエネルギーも生じておらず、観測出来ないから使えもしない。

 そんな、あるのかないのかも曖昧な存在であるが、これが目に見える形で『有』に傾いたとされる事象が二つある。

 一つは()()()()()。量子ゆらぎの有意な偏りが、宇宙の急激な膨張……インフレーションを引き起こしたというのが、人類科学の主流な理論だった。

 そしてもう一つが――――

 

「私達、ミュータントって事?」

 

「はい。その通り、です」

 

「へぇー。私達の力って空間から引き出してたんだ。でも空間から引っ張り出してるなら、なんで能力を使うと疲れるの?」

 

「引き出す際、『手数料』のように、エネルギーを使うんです。大きな、エネルギーを引き出す時は、たくさんの手数料を、取られます」

 

「成程ねー」

 

 説明を聞いていたモモは、驚いた様子もなく花中の話を鵜呑みにする。自分の力がどんなものか、まだよく分かっていないのだろう。

 理解したなら、自分のように唖然となる筈だと継実は思うのだから。

 ……つまり、自分達ミュータントの能力は小規模な『宇宙誕生』を引き起こしているという事か。

 無論規模が圧倒的に違うものを比べるのは、科学的に正しい行いではないだろう。炭素原子一粒と巨大ダイヤモンドを同じものとして扱うのは、実に馬鹿馬鹿しいように。しかしそれでも宇宙誕生と同じ理屈である事は間違いなく、自分達の力がこれを用いているという話は、あまりにも突拍子がなくて継実にはいまいち信じられない。

 そもそも、量子ゆらぎが宇宙の誕生と関係あるというのは本当なのか? もしかしたら人間の理論が間違えているかも知れない。

 幸いにして此処には、人類文明よりも遥かに進んだ、異星人が居る。

 

「……ねぇ、ミドリ。花中の話、というか量子ゆらぎって正しいの?」

 

「……大まかには。あたし達の文明が発見した理論でも、量子ゆらぎが宇宙の誕生に関わっていると考えられています。もっと言うならインフレーション以前の空間についても理論を構築していて、その理論によれば量子ゆらぎによる宇宙誕生は割と普遍的現象です。この宇宙の外には数多の、それこそ無限といって差し支えない数の宇宙が存在する事も導き出しています」

 

 尋ねてみると、観測手段はありませんが、と最後に付け加えながらも、ミドリは花中の話を肯定した。地球より高度な文明を持っている宇宙人が言うのなら、間違いではないのだろうと継実は納得する。

 

「エネルギーの出所が分かったから、ミドリは力を使えるようになったって事?」

 

「それもありますけど、他にも色々教わりましたよ。ミュータントの能力が演算処理により成り立ってるとか、その演算機能が『外付け』だとか。伝達脳波とやらについても。まだまだ未解明なところもあって、この程度の力が限界でしたが」

 

「いや、十分でしょ。私らよりずっと詳しくなってるし……なんで花中ってそんなにミュータントについて詳しいの?」

 

 ふと継実の脳裏を過ぎる違和感。年上という事を考慮しても、少々知識があり過ぎる。

 まさかとは思うが、実は花中こそが世界をこんな状態にした元凶だったり。

 

「詳しい知り合いが、何人か、いるもので。一人は、ミュータント大量発生の、原因の一つですし。まぁ、わたしが唆した、結果でも、あるんですけど」

 

 等と冗談半分で思っていた事が、当たっていた。

 

「……え?」

 

「その子、地殻の奥底に、潜んでいまして。それで自分の目的のために、地球全域に伝達脳波……ミュータントへの覚醒に、必要な脳波を、ばらまいているんです。最近生まれたミュータントなら、進化して、伝達脳波を必要としない子も、少なくないですけど」

 

「いやいやいやいや。何それ。え、てかなんでそんなのと知り合いなの? 唆したって何話したの!?」

 

「昔ちょっと、ありまして。今では、お友達です!」

 

「花中さんの友達ジャンキーっぷりには困ったものですよねー。アイツ地球そのものを喰い尽くそうとしていたのに」

 

 細菌型ミュータントによる既存生態系の壊滅を引き起こした諸悪の根源(地球滅亡? 未遂の前科あり)と友達だと、平然と語る花中。これにはフィアも呆れ顔である。

 ひょっとしてこの人、まともそうに見えて実はフィアよりヤバいのでは……さらりと失礼な考えが脳裏を過ぎる継実。悪い人ではないのだろうが、頭のネジが何本か抜けていそうだと思ってしまう。

 しかし、これまで語ってきた話が出鱈目という事はあるまい。もしもてんで的外れな話ならば、ミドリのパワーアップはない筈なのだから。

 ……そう、ミュータントの力が『量子ゆらぎ』由来なのは確かな事。

 無から有を生み出す力。宇宙の誕生にも関わる理論。そうであるなら、ではその力の『限界』は何処にある? 水爆だの隕石だのを引き合いに出している、自分達の力と同程度なのか? フィアの強さが極限であるのか?

 否。そんな筈はない。

 果てなどないのだ。限界なんてものを知らない。必要ならば際限なく、星の広さなど厭わぬほどの強さを、進化により会得する……それがミュータントという生命体なのだ。

 自分達がこれから向かう南極への道中、苛烈な生存競争を勝ち抜き、進化してきた猛者達の住処を通らねばならない。そして時には、その猛者達と戦わねばならないだろう。

 だが、それがどうした。

 

「(上等。私だって同じ力なんだ。そう簡単にやられるもんか)」

 

 これから待ち受ける強敵達の存在を知ろうとも、継実はもう恐れない。フィアとの戦い、そして得られた勝利は、継実に確固たる自信を与えた。

 もしかして、と思ってちらりと花中に視線を向けると、花中が優しい目でこちらを見ている事に気付く。花中は何も言わないが、視線は全てを雄弁に語る。

 そこまで計算して、この試合をやったのか。

 この人にはどれだけ強くなっても敵いそうにないな――――そう思いながら継実はくすりと笑った。花中も笑みを浮かべていて、二人はしばし見つめ合う。

 

「ところで花中さん。先程から随分と楽しんでいるようですが『アレ』は放っておいて良いのですか?」

 

 そんな微笑み合いに割り込むように、フィアが花中に問い掛けた。

 アレ、とはなんだ? フィアの言いたい事が分からず、そのフィアの親友である花中の顔色を継実は窺ってみる。が、花中も花中でキョトンとした様子。どうやらアレなるものに心当たりはないらしい。

 花中が何も分かってないと察するや、フィアは「アレですよアレ」と言いながら何処かを指差す。継実的には、その方角からは何も感じない。花中も怪訝な様子でフィアが指差した方をしばし見つめる。

 

「……へ?」

 

 今も何も分からない継実と違って、花中はすぐにその顔を真っ青にしたが。

 

「ななななん、なんでアレががが!?」

 

「さぁ? 我々の臭いでも追ってきましたかね。逃げるなら今のうち……ああいやこれは無理ですね。見付かりました。もう少し早く逃げればなんとかなった感じですけど」

 

「フィアちゃん、き、気付いてたなら、なんでもっと早く言ってくれないの!?」

 

「だって花中さんならもう気付いてると思ってましたし。単純な索敵範囲なら私よりも広いじゃないですか」

 

「頭より上にいる奴は、わたしよりフィアちゃんの方が鋭いでしょお!?」

 

 ぎゃーぎゃーと喚く花中と、淡々としているフィア。

 一体何が起きている? ミドリとモモも首を傾げ、継実共々説明を欲する。

 欲するが、少なくともフィアにそんなつもりはないようで。

 

「やれやれ全く。逃げても無駄ですし迎撃するとしますかね……そこの人間も連れてきましょうか。その二匹よりはマシな囮になるでしょうし」

 

「へ? ぎゃあっ!? ちょ、触手を巻き付けて連行とかなんで!? というか囮!? どゆこと!?」

 

「あなたに意識が向いてる間に先攻を取ろうかと。流石の私もアレ相手だと真っ向勝負じゃ勝ち目がないですし」

 

「え、勝ち目がないってどういう、あ、あぎゃああぁぁっ!?」

 

「継実ぃー!?」

 

「フィアちゃぁぁぁん!?」

 

 モモと花中の叫びもなんのその。フィアは触手でぐるぐる巻きにした継実を引き連れ、アレなモノの下へと向かう。

 訳が分からない。が、どうやら自分はとんでもないもの……フィアよりも圧倒的に強い生き物と戦わされるらしい。きっと、手加減なんてしてくれない状態で。

 フィアより強い生き物と出会う事は想定内。だけどこんなすぐに出会うのは想定外。

 容赦ない『大自然』の洗礼を前にして、自分の覚悟がまだまだ甘いものだったと、継実は旅立つ前に知る事が出来たのだった。



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第四章 横たわる大森林
横たわる大森林01


「天気、良し」

 

 雲一つない東の空で燦々と輝く太陽を、びしりと指差す。

 

「体調、良し」

 

 気怠さも痛さもない、自身の健康的な身体を両手で触る。

 

「お腹、良し」

 

 ぽっこり膨らんだお腹を摩りながら、地面に転がるヘビの頭蓋骨を足で退かす。

 

「家族、良し!」

 

 そして自分のすぐ傍に立つ、モモとミドリに目を向け、彼女達の頷きを見て自分と同じく『支度』が出来た事を確認。

 全ての準備を終えたと確信した継実は、にこりと笑った。

 今日からいよいよ自分達の旅――――南極への大冒険が始まるのだから。

 

「花中達は今頃何処まで行ったのかしらねぇ」

 

「うーん。百キロか、二百キロか。お二人の速さなら何処までいってても、不思議じゃありません」

 

「どっちにしろ、南極に着くまで再会はお預けという事ね」

 

 モモとミドリの会話に、継実もこくりと頷く。

 この旅を志す発端となった花中達は、継実達よりも前、具体的には試合をした日(昨日)の夕方のうちに旅立っている。継実達と別行動をした理由は「花中さんと二人きりの旅の邪魔するんじゃありませんよ」というフィアの気持ちと、「フィアちゃんと一緒だと逆に危ない」という花中の心遣いがマッチしたため。

 ……ついでに、昨日戦った『アレ』に追われる事が嫌だという継実達側の理由ともマッチしたが。思い出すのも嫌になので継実は記憶を半分ぐらい封印している。何がどうしてあんなものに追われるようになったのか継実には分からないが、あの二人が生粋のトラブル体質であると確信するには十分。一緒に行動したら、多分却って危険である。

 ともあれ花中達とは別行動。頼れる二人と一緒でないのは ― 向こうのトラブル体質を差し引いても ― 不安といえば不安だ。しかしそれではなんのためにフィアと戦ったのか分からない。あの戦いのお陰で、自分達は、自分達の力だけで過酷な大自然を生き抜けるのだという自信を得たのだ。

 旅立ちを阻むものはない。後は一歩踏み出せば、旅立ちとなる。

 

【そろそろ旅立ちみたいですわね?】

 

 心身共に準備を終えたそんな継実達に、背後から声を掛けてくるモノがいた。

 継実が振り返れば、そこにあるのはクスノキの巨木。大きな洞があり、七年間、命を繋いできた大切な場所。

 これまで自分とモモが住処として使っていた、あのクスノキが話し掛けてきたのだ。慣れ親しんだ住処からの問い掛けに、しかし継実は寂しさなど見せず。小馬鹿にしたような笑みを浮かべてみせる。

 

「そうだけど、何? 寂しいの?」

 

【ええ。質の良い労働力がいなくなるのは、私にとっても損失ですもの】

 

「……別れの時でも労働力扱いかい」

 

【最初からそういう契約で住まわせたじゃありませんこと? 大体あなただって私の事、家ぐらいにしか思ってないでしょう】

 

「あのねぇ、確かにそうとしか思ってないけど、人間にとって家ってのは大事なもんなの! アンタみたいな木には分からないかもだけど!」

 

【分かりませんわね。生身を晒して生きられない、軟弱な生き物の気持ちなど】

 

「なぁんですってぇ!?」

 

 ぎゃーぎゃーわーわー。継実が一方的に怒鳴り、クスノキが淡々と煽り返す。なんやかんや毎日やっている言い争いだ。モモとミドリもその口ゲンカを一々止めず、微笑ましいものを見るように優しく見つめるのみ。

 或いは、止めるという行いを無粋と感じているのか。

 この言い合いも、今日が最後なのかも知れないのだから。

 

「ぜー……ぜー……あー、その、兎も角。私達このまま南極に行くけど、アンタは大丈夫なの? ほら、私達が今までやってたイモムシ退治とか」

 

【さして問題はないかと。イモムシを食べたがる生き物など引く手数多ですもの】

 

「……あっそう」

 

 ぷいっと、拗ねるように継実はそっぽを向く。

 ――――もしも、である。

 もしも南極で生き延びた人間達が社会を作っていたら……継実はそこに定住するだろう。いや、花中とその知り合いが向かう事は確実なのだから、継実達が辿り着く頃には少なくとも三人は人間がいる筈だ。そこに継実達も加われば、小さな『社会』を形成するのに十分な人数である。何より南極の環境次第ではあるが、帰路にも同じだけの危険を冒す事を考えれば、人間が居ようが居まいがそのまま南極に移り住むのが合理的という可能性が高い。

 だから恐らく、もう二度とこの地には戻ってこない。

 七年間住み続けたこのクスノキとは、ここでお別れなのだ。この合理的で無感情な木が自分達との共同生活に想うところなんてある訳ないとは思っていても、それでも今日までの想いを問い詰めてしまう……感情的な生き物である人間の性というものだ。

 

【どうしましたの? やはり寂しいとか?】

 

「寂しくないやい!」

 

【そうですの。じゃあ、こっちに帰ってくる予定は?】

 

「ある訳ないでしょ! むしろアンタとお別れ出来て清々してるんだから!」

 

【そう。なら、もうこの洞は必要ありませんわね】

 

 反射的に全て言い返す継実に、クスノキは淡々と、されど悪巧みを感じさせる反応を示す。

 次いで、クスノキにあった大きな洞……継実達が長年暮らしていた住処が、ぼこぼこと盛り上がり始めた。

 まるで石鹸を泡立てたかのように膨らむ樹皮により、洞は瞬く間に埋め尽くされる。継実が「あっ」という声を漏らした時には、もう継実が入るだけの隙間なんて残っていない。一瞬で、洞は消えてしまった。

 

【使う予定がないならゴミが溜まるだけですから、埋めてしまいますわね……ほら。もう住処もないのですから、さっさとお行きなさい】

 

 継実達の家を『破壊』すると、クスノキは無情にも旅立ちを促す。

 いや、それとも情に溢れているのか。

 退路を立って、前進を促す。荒々しいが、されど効果的な後押しである。共に暮らしていた者達に、自分から別れを告げるという最もやり辛い事を担うという意味でも。

 これは、クスノキなりの応援なのだろうか。

 顔すら持たない彼女の真意は誰にも分からない。けれどもそう受け取れる光景を前にした継実は、

 

「ちょ、何してんの!? 万が一の時に帰る家がないじゃん!? どーすんのこれぇ!?」

 

 激しく動揺しながら怒った。

 ……これにはクスノキも呆れた様子。顔も手足もなく、微動だにしていないが、兎に角呆れた様子だった。ちなみにモモとミドリも「え。マジでそれ言ってんの?」と言いたげである。

 が、怒りと混乱で頭がいっぱいな継実に、その事実に気付く余裕なんてない訳で。

 

【あなた……本当に空気読めませんわね】

 

「空気読まないのはどっち!? この、考えなしのとーへんぼく!」

 

【唐変木とは失礼ですわね。良いでしょう。今までは共同生活だったので我慢していましたが、これが最後なら遠慮はいりませんわね。冥土の土産に私の力を見せて差し上げますわ】

 

「へ? あ、いや、ちょ待っ」

 

 全身を駆け巡った悪寒から反射的に命乞いを始める継実だったが、クスノキはその身に宿る力を止めない。

 葉から染み出す大量の薬効成分。本来殺虫成分として活用しているそれは、しかしミュータントと化した彼女には新たな使い道がある。成分は大気中に放出されるや酸素と反応し、大量の光と熱を生み出すのだ。そして大出力のエネルギーは、質量の直撃が如く破壊力を生み出す。

 至近距離で受ける衝撃は、最早核など足下にも及ばない。

 

「ぶげぇっ!?」

 

 クスノキからの一撃をもろに受けた継実は、弾丸よりも速く大空へと吹っ飛ばされてしまった。音速の何倍もの速さであり、描いた放物線から推測するに、恐らくこのまま飛べば数キロ彼方に落下するだろう。

 普通の人間なら即死確定であるが、ミュータントとなった継実には大したものではあるまい。頭から落ちたところで、痛いと思うかどうかも怪しいところ。モモとミドリも心配などせず、むしろくすくすと笑っていた。

 

「おー、よく飛んだわねぇ……んじゃ、私らも迎えに行きますか」

 

「そうですね。あ、クスノキさん。今までお世話になりました」

 

 ミドリがぺこりとお辞儀をし、モモは片手を振って挨拶。クスノキはなんの反応もなく、遠ざかる二人を見送るのみ。

 残されたクスノキは、ため息を吐いた。口のような器官など、何処にもないというのに。

 

【やれやれ全く……今度は小鳥でも飼いましょうか。出来るだけ、ぴーちくぱーちく五月蝿くない奴を】

 

 そしてぽそりとそう独りごちながら、草原の中に何時までも佇むのだった。



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横たわる大森林02

「全く、あの木偶の坊……最後だってのに……いっつもいっつも嫌味ばかり……」

 

 ぶつぶつと、延々と悪態を吐きながら継実は草原を歩く。肩を怒らせ、表情は般若が如く歪んでいた。爽やかな朝日も、涼やかな風も、今の継実の気持ちを解すには至らない。

 何しろこの不機嫌さはコミュニケーションにより生じたもの。同じくコミュニケーションでなければ、早々解決などしやしないのだ。

 だから、という訳ではないのだろうが……右隣を歩くモモが話し掛け、左隣に居るミドリがニコニコ笑いながら耳を傾けてきた。

 

「随分不機嫌ねぇ。やっぱりお別れは寂しかったのかしら?」

 

「……別に。ようやく顔を見ないで済むから清々したぐらい。元々アイツに顔なんてないけど」

 

「そうなのですか? でも継実さん、涙が出ていますよ?」

 

「なっ!? で、ででで出てる訳ない!」

 

「うん。出てないですよ、嘘だから」

 

 狼狽えた継実に、ミドリがあっさりと種明かし。継実は顔を真っ赤にして、何かを言おうとして口をぱくぱく……開閉するだけで声は出てこない。この姿にモモは堪えきれなかったのかゲラゲラと笑い、ミドリもくすくすと口許を手で隠しながら笑う。

 捻くれたところを笑われて、継実は顔を一層赤くしていく。

 そのまま怒り狂う事が出来れば継実としても楽だったのだが、自分が考えていた以上に継実の気持ちは不安定になっていたようで。

 怒りを通り越して、ぼろりと涙が零れた。一滴漏れたら、まるで栓が弛んだかのように止まらなくなる。今度はモモとミドリが慌てる番になった。

 

「……あー、ごめん。からかい過ぎたわ。そうよね、寂しかったわよね」

 

「ぐすっ……だっで。アイヅ、アイヅぅ……」

 

「クスノキさんも本当は寂しいですよ。そうでなかったら、最後にあんなケンカを売ったりしませんから。ね?」

 

「……うん」

 

 こくりと頷きながら、継実は涙を拭う。

 ミドリの言葉を信じた訳ではない。七年間も付き合いがあれば、あのクスノキがどれだけ『人間味』がないか分かるというもの。七年間一緒に暮らした人間だろうと、今日出会ったばかりの小鳥だろうと、関心の強さは殆ど変わらない。継実との別れに対してもどうせ何一つ感じていないか、労働力の喪失を心底嘆いているだけだ。

 けれども、もしかするとミドリの言う通りかも知れないと、ほんのちょっとは思えた。なら、そう信じたって良いだろう。

 もしもクスノキと再会する事になって信じていたものが間違いだったと分かれば、なんだこの野郎と言いながらぶん殴れば終わり。二度と会えないなら……それが真実になるのだから。

 

「元気になりましたか?」

 

「……少し。あと、お腹空いた」

 

「ああ、泣いたらお腹空きますもんね……朝、あれだけ食べたのに」

 

「まぁ、良いんじゃない? お腹が空くのは元気の証よ。それにどうせそのうち何処かで食べ物は必要になるんだし……初めての狩りが予定より早まったところで、問題なんてないわ」

 

「それもそうですね」

 

 二人で話し合っていたモモとミドリが、同時にぴたりと足を止めた。涙を止める事に意識が向いていた継実は、二人より送れて立ち止まる。

 二人ともどうしたんだろう? 継実の脳裏を過ぎった疑問は、顔を上げたのと同時に吹き飛んだ。次いで獰猛で、鋭い笑みが自然と浮かぶ。

 継実達の目の前に広がるのは、住み慣れた草原ではない。

 高さ五十メートル、いや、七十メートルはあるだろうか? 熱帯雨林の樹木さえも凌駕しかねない、巨大な木々が視界を埋め尽くす。されど此処に生えている木々は、ブナやクヌギ、サクラにキリなど、日本にあるものばかり。当然だ。此処は日本の関西圏なのだから。

 これこそが草原と外の世界の境界線。

 南の方角を埋め尽くす大森林であり、継実達がこれより横断する、初めての冒険の地だ!

 

「ついに来ましたね。ところで、何か美味しそうな匂いとかします?」

 

「うーん、獣臭さは相当濃いわね。それとなんか、甘ったるい匂いがするわ」

 

「甘ったるい匂い? 何か、変な動物でもいるのでしょうか」

 

「いや、これは動物のものじゃなさそう。というか昔、うちのご主人が生きてた頃に家で嗅いだ覚えがあるわね。なんだったかな……」

 

 モモとミドリは森を前にしながら、色々な話を交わす。如何にも雑談のようであるが、しかし二人とも表情は強張り気味。モモは臨戦態勢へと移り、ミドリも警戒心を強めていく。

 口を閉ざしていた継実も同様だ。この先に広がる森に足を踏み入れるのなら、どれだけ警戒しても物足りない。

 ミュータントと化した植物達は、本来ならばあり得ない大きさにまで成長していた。それもこの七年という、あまりにも短い時間で。おまけに地面には草原のように無数の草まで生い茂っている。本来森の中というのは木々の葉で光が遮られ、下草は殆ど育たないもの。この下草達も一本残らずミュータントで、僅かな光でも逞しく生きているのだろう。

 そんな驚異的植物達に囲まれた世界が、果たして七年前と同じような状態を保っているだろうか?

 否だ。国家すらも滅ぼしかねない力があちこち飛び交う草原で暮らしてきた、継実達はそれを知っている。命でひしめく森の中なら、一層恐ろしい事になっているに違いない。

 此処から先は未知の領域。一歩でも踏み出せば、『ぬるま湯』であった草原とは比にならない洗礼が待ち受けているだろう。

 だが、覚悟はとうに決まっている。

 

「……行くよ!」

 

「OK!」

 

「あたしも準備万端です!」

 

 改めて問えば、二人の家族も威勢の良い返事をする。ならば何を躊躇う必要があるというのか。

 本調子を取り戻した継実は力強い一歩と共に、森の中へと踏み入った

 瞬間、継実の身体は空へと飛んだ。

 ただしその飛行は継実の意思によるものでは非ず。突如として足に加わった、強烈かつ素早い力が理由である。継実はろくな反応も取れず、足だけが引っ張られた事で一瞬にして宙ぶらりんに。

 自分が草むらの中に仕掛けられていた罠を不用心にも踏み付け、その結果足に白い糸がぐるぐると巻き付き、上へ引っ張られていると継実が気付いたのはそれから数瞬後の事。

 

「チキチキチキチキチキ!」

 

 そして樹上にてその糸をゆっくりと手繰り寄せる、体長二メートルほどのハエトリグモに気付いたのは、更にもう少し経ってからだった。

 

「ぎにゃああああああっ!? クモ!? クモおおおおおお!?」

 

「いきなりの洗礼ね! とりあえずコイツを仕留めましょ! 今日のおやつよ!」

 

「は、はい!」

 

 いきなり食べられそうになる継実に対し、まだ攻撃を受けていないモモとミドリは若干余裕。逆に喰ってやるとばかりに、やる気を滾らせる。

 モモは近くの木に爪を立て、颯爽と登っていく。ハエトリグモはモモの接近に気付いたようで、身体の向きをモモの方へと向けた。

 継実にとって、これは好機。

 

「このぉっ!」

 

 素早く、迅速に。指先に力を集め、粒子ビームを放つ!

 溜め込んだエネルギー量は決して多くないが、それでも放てば国の一つ二つを焼き尽くせる熱量だ。産毛に覆われた気味の悪い身体など、易々と貫通する。

 筈だったが、ハエトリグモの身体は粒子ビームは呆気なく()()()()()

 否、正確には異なる。継実は己の目でハエトリグモの体表面を凝視したところ、びっちりと糸が巻かれている事に気付いた。粒子ビームを跳ね返したのは、ハエトリグモの身体ではなくこの糸である。

 クモの糸は『普通の生物』だった頃から極めて頑強で、同じ太さの鋼鉄の五倍も強く、伸縮性にも富んでいるという高品質なものだった。ミュータント化と七年間の進化により、より強度が増したとしてもおかしくない。そして粒子ビームは実のところ熱攻撃でも光攻撃でもなく、光速に等しい速さの粒子をぶつけるという『物理攻撃』である。

 つまり、継実はコイツと相性が悪い。恐らく猛烈なまでに。

 

「……も、もももモモ!? 電気! 電気撃ち込んで!」

 

「おうよ! 喰らえ!」

 

 悲鳴染みた声で助けを求めれば、すぐさまモモは電撃をハエトリグモに向けて放つ。雷数十発分の電撃を前にしてハエトリグモは一瞬身動ぎしたが、秒速二百キロにもなる雷撃を躱すほどの速さはなく。

 電撃は見事直撃し、ハエトリグモの全身に流れる。流石に耐電性まではなかったようだと、継実は己の目で得た情報から判断した。

 なお、効果がないと分かったのは、また少し後なのだが。

 確かにハエトリグモの体表面にある糸を電気は流れた――――敢えて流したのだ。糸と身体の間には隙間があり、糸に流れた電流はハエトリグモの皮膚には届かなかったのである。そして電気は糸を伝わり、お尻が付着している樹木へと流されてしまう。

 電気というのは、流れやすいところへと流れるもの。逆にいえば流れやすいものと難いものがあると、流れやすい方にどっと集まる。雷がジグザグ軌道を描きながらも一本の線で落ちるのは、そこが流れやすい場所だからだ。

 つまり電気が流れやすい糸を纏うハエトリグモの身体に、モモの電気は届かない。

 

「あ、ヤバい。これ私の天敵だわ」

 

 電気を流してすぐ、モモはこのハエトリグモとの相性の悪さを理解した。襲われている側である継実は顔を青くする。

 

「ちょ、ちょおぉーっ!? ミドリ! ミドリ助けてぇ!」

 

「へぁ!? え、あ、あたしですか!? え、ぁ、て、てりゃあー! ……………あ、駄目です。脳内物質弄ろうとしたら、なんか電気っぽいものに邪魔されて通じないです」

 

「うん! 知ってたぁ!」

 

 残るミドリの奮戦は効果なし。何故当然のように脳内物質の制御に対策を施しているのかは謎だが、一撃必殺の技で簡単には倒れてくれないようだ。

 

「チキチキ、チキチキ!」

 

 継実達に対抗手段がないと察したようで、ハエトリグモは意気揚々と糸を巻き取っていく。モモが追撃の電撃を放つが、最早身動ぎすらしない。

 このままでは、喰われる!

 

「ぐっ……だったら、らぁ!」

 

 周りを頼れないと理解した継実が取ったのは、自分の足を己の手で掴む事。

 そしてそのまま()()()()()()()()()()()()()()()()()

 ただしこれは粒子テレポートではない。アレをやるには頭が痛くなるほどの演算を、それなりの時間を掛けてやらねばならない。体力や精神力は兎も角、ハエトリグモはこちらを一気に引き寄せようとしており、もう時間が足りなかった。故にこれは本当に、力尽くでの『切断』。

 トカゲの尻尾切りと同様の、自切である。

 

「ふっ!」

 

「ヂギッ!?」

 

 糸の巻き付いた右足を、継実は膝から下で切断。四十キロ程度の『重石』が失われた反動で、膝下が勢い良くクモの顔面へと飛んでいく。至近距離という事もあって、ハエトリグモは継実の足を顔面から受けた。ダメージにはなっていないだろうが、ちょっと驚いたのかハエトリグモが声を上げる。

 継実は落ちながら失った足を再構築。粒子操作能力を応用すれば、身体の粒子を寄せ集める事で欠損の修復が可能だ。とはいえこれは全身の身を少しずつ削るようなもので、かなり消耗が大きい。

 モモも地面に下り、継実の傍に立つ。ミドリも少なからず動揺しながら、継実の後ろに陣取った。フィアの時に編み出した、自分達の戦闘陣形。継実は自分達の立ち位置、そしてハエトリグモの様子を窺いながら思考を巡らせて

 

「あっちに逃げろぉー!」

 

 森の奥目指し、全力で逃げ出す事を選んだ。

 当然である。全員にとって相性最悪な奴に、足一本持っていかれた程度で済めば御の字。戦うなど論外なのだから。

 

「よっしゃあぁー!」

 

「ひぃーん! 待ってくださぁーい!?」

 

 モモとミドリもそこは分かっていて、継実と一緒に逃げていく。ハエトリグモが三人を追ってこなかったのは、継実の足を一本与えた事で少しは腹が満たされたからか。

 通行量としては安くない。しかし安全に抜けられたならこれで良い――――継実はそう思っていた。

 そう、今はまだ。

 確かに安い通行料だろう。この一回だけで済めば。されど此処は豊かな森林地帯。生き物がひしめく、美しい生態系が形作られた土地である。

 腹ペコの肉食生物が、ハエトリグモ一匹の筈がなかった。



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横たわる大森林03

「ワオオオオーンッ!」

 

 甲高い鳴き声が、真っ暗な森の中に響き渡る。

 森の奥に向けて走っていた継実であったが、その足の速さは音などとっくに抜き去るもの。なのに鳴き声が聞こえたという事は、声の主は自分達の進路上に居る事を意味していた。警戒心を高めるよう、モモとミドリに視線を送る

 直後、継実の腕に痛みが走った。

 

「――――いっ!?」

 

 痛みに反応して振り返れば、腕には一頭の『動物』が噛み付いている。生い茂る木々の葉により森の中は夜よりも暗く、普通の人間の目では何に襲われたかの確認すら出来なかっただろう。しかし今の継実の目なら粒子の動きを捉えられる。相手の輪郭ぐらいであれば、光などなくとも丸見えだ。

 薄汚れていたが間違いない。腕に噛み付いてきた動物は()()()()()だ。モモのようにミュータント化し、けれども継実のような人間とは出会えなかった個体……野犬だろうか。

 モモ以外の犬も継実は好きだが、相手の鬼気迫る形相からして遊んでほしい訳でないのは明確。このまま喰われて堪るものかと、継実は粒子ビームでこの畜生を吹っ飛ばそうとするが、シェパードの方が一手早い。バリバリと身体から電撃を迸らせた。

 

「おっと、同族にケンカを売るのは癪だけど、家族を喰わせる訳にはいかないわよ!」

 

 その攻撃を妨げたのはモモ。

 同じく電撃を操れるモモがしがみつこうとすると、シェパードは躊躇いなく継実の腕から口を放して離脱。モモの腕を回避し、遅れて継実が発射した粒子ビームも躱した。

 

「やるじゃない! でも三対一で勝てると思うな!」

 

 腕の傷を即座に修復し、臨戦態勢を整える継実。思い返せば七年前、まだ幼かった頃に中国や韓国で犬食が行われているという話を聞いた事がある。当時は犬を食べるなんて可哀想だの野蛮だのと思ったものだが、喰うか喰われるかの人生経験をした今は違う。そちらがこちらを喰うつもりなら、こっちも全力で喰ってやるのみ――――

 

【駄目です継実さん! 逃げないと()()()()()()!】

 

 そんな意気込みは、ミドリからの脳内通信により打ち砕かれた。

 

「(ちっ! コイツは囮か!)」

 

 どうやら一匹だけで襲い掛かってきたのはこちらの気を惹くため。その隙に仲間が包囲し、全方角から襲い掛かる算段らしい。

 三対一で勝てると思うなと、継実は確かにそう言った。しかし恐らくこのシェパードも同じ事を思っただろう。周りには木々が乱立している事もあり、シェパードの仲間である野犬の姿は見えない。だがこのままぼうっとしていたら、あっという間に囲まれて、食い殺されるのは自分達の方だ。

 ミドリの方を見れば、彼女は一点を指している。あちらが手薄、と言いたいらしい。ミドリの指示に従って継実は走り、モモも同じ方へと駆け出す。

 継実達が居た場所に何十という数の電撃が撃ち込まれたのは、それから間もなくの事だった。

 

「ぴゃあっ!?」

 

「ちょっとちょっと! 今の電撃、確実に私よりも強かったわよ!?」

 

「と、兎に角逃げて! このまま一気に森を抜けよう!」

 

 背後に迫る雷撃を尻目に、継実達は全力で駆ける! されど相手はモモ以上の電撃の使い手。継実達の中で一番の速さを誇るモモは電気の力で超スピードを手にしているが、それ以上の電気を生み出せる野犬達がモモより遅い筈もない。

 未だ野犬達の姿は見えない。いや、見えないように木々の後ろに隠れているのか。されど継実はその存在感をしかと捉え、逃げる自分達を追ってきているとひしひしと感じていた。

 その証拠とばかりに、電撃は絶え間なく飛んでくる。秒速二百キロ超えの、超速の一撃だ。継実は粒子操作で水分子を操り、モモは体毛に電気を流してこれを回避。ミドリはモモに守られ、なんとか切り抜けているが……あまり長くは持つまい。何か策を練らなければ不味い。

 

「(ん? あれ? 気配が消えた?)」

 

 そう考えていた継実だったが、ふと、背後の気配が感じられなくなった事に気付く。振りきったとも思ったが、速度は野犬達の方が上である。

 向こうだって腹ペコだから襲い掛かってきた筈だ。時間は掛かるかも知れないが、狩れた筈の獲物を見逃すなど、相応の理由がなければおかしい。

 何があったのか。答えは間もなく明らかとなった。

 ぼふんっ、と継実が突っ込んでしまった事で。

 

「……あっ」

 

「あわわわわ」

 

 モモがしまったとばかりに声を漏らし、ミドリが明らかに動揺する。

 継実は、ぶつかってしまったモノに顔を埋めたまま考えを巡らせる。

 ごわごわとした毛の質感、暖かいを通り越して熱いぐらいの体温、そして毛皮の奥にある筋肉の硬さも頬で感じられた。脳はすぐにこの物体の正体を幾つかリストアップ。どれだという確信は持てないが、どれであろうとも大差ない。

 今すぐ離れないと死ぬ、という意味では。

 

「ぐぉ!?」

 

 継実は反射的に身を逸らした、直後、無造作に巨大な物体が迫ってくる! 物体は継実の頭があった場所を正確に捉えており、もしも仰け反るのが数瞬遅ければ、頭部への直撃は避けられなかっただろう。

 付け加えると、その打撃を受け止める自信など継実にはない。

 七年前であっても、人間が身の丈三メートルはあろうかという巨大なクマの一撃を受けたなら、あの世行きは確実なのだから。

 

「グルルルル……」

 

「くっ……」

 

 獰猛な目付きで凝視してくるクマ(恐らくはツキノワグマだろう。身体は馬鹿みたいに巨大化しているが)に、継実は咄嗟に粒子ビームを撃ち込む。ビームはツキノワグマの顔面に見事命中……いや、躱されなかっただけか。継実としてもこんな攻撃で倒れるほど柔とは思っていない。あくまで命中後に起きる爆発で、目潰しをしただけだ。

 だからツキノワグマが平然と、片手で眼前の煙を払うところは想定内。

 想定外だったのは、ツキノワグマが片腕をこちらに向けて伸ばしてきた事。

 そして伸ばされた指先に、()()()()()()()()が現れ始めた事だ。

 

「――――は。え、まっ……!?」

 

 本能的に理解した継実は、理性が混乱の極地にありながらも、素早く両手を構える。

 ツキノワグマの指先から放たれたのは『粒子ビーム』。

 継実と全く同じ技を、このツキノワグマはやり返そうとしてきたのだ! 継実は自身の能力をフル発動させて飛んできた粒子の軌道を操作。飛んできた亜光速の粒子をどうにか彼方へと吹っ飛ばすが、撃ち込まれたパワーの大きさで身体がびりびりと痺れてしまう。

 

「継実! 援護するわよ!」

 

 継実のダメージを察知し、モモが前へと出る。すかさず電撃を放ち、これもまたツキノワグマは避けずに受けた。

 そう、避けない。

 それどころかにやりと笑ったように口許を歪めるや、ツキノワグマは全身から()()()()()()

 

「嘘――――ぎゃんっ!?」

 

 自分の攻撃を返されたかのような攻撃に、一瞬動きが止まったモモは避けられず。直撃を受けたモモは悲鳴を上げた。電気が得意技にも拘わらずダメージを受けたという事は、それだけ相手のパワーが上だった証に他ならない。

 

「こ、ここ、こうなったらあたしが!」

 

 なら、もしもミドリの技を……イオンチャンネルの操作さえも倍返しされたら?

 

「駄目! ミドリ、ストップ!」

 

【ふぇっ!? え、な、なんで】

 

「アイツは多分受けた攻撃を上乗せして返す能力がある! ミドリの攻撃を上乗せして返されたら、本当に全滅しかねない!」

 

 継実が語るのはある種の想像。草原に暮らしていたツキノワグマは、そんな能力など持っていなかった。しかし同じ種類の動物でも、生息環境により身体能力や機能に違いがあるのは珍しくない事。ならばツキノワグマの能力が地域によって異なっていても、なんらおかしな事ではあるまい。

 自分の攻撃で家族を殺すところだったと理解したのか、ミドリの顔が一気に青ざめた。気持ちは継実にも分かる。しかし今は後悔や恐怖に震えている場合ではなかった。

 攻撃を与えた時にダメージが入っているなら、倒せる可能性はゼロではない。しかしごく僅かな確率だ。倒せばたくさんの肉を得られるだろうが、家族を犠牲にしてまで欲しいほど逼迫してもいない。

 なら、取るべき手段は一つ。

 

「全力退避ぃ!」

 

「りょーかーい!」

 

 逃げの一手である。

 幸いにしてツキノワグマの足は遅く、継実達に追い付く気配はない。存在感がどんどんと遠退いていく。一先ず安全なところに退避しようと、ツキノワグマから更に距離を取るべく走り続けた。

 

「きゃあっ!?」

 

 その時、ミドリが悲鳴を上げる。

 

「ミドリ!? どうし――――」

 

 何があったのか、すぐに状況を確かめるべく継実は後ろを振り返った。

 瞬間、血の気が引く。

 ミドリの下半身が地面に埋もれていた。それだけなら穴にでも落ちたのだと、笑みの一つでも浮かべられただろう。

 しかしミドリの身体に群がる、無数の虫を見ればそうも言っていられない。

 虫の正体は、アリだ。ミドリが落ちたのはアリの巣の直下なのか、地面からぞわぞわと、数えきれないほどの数が湧いてくる。ミドリは必死に手で払い除けようとしたが、アリ達の猛攻は止まず。

 しかもアリ達は侵入者をただ撃退しようとしているのではない。噛み付き、肉を千切り……喰おうとしているのだ。

 これは罠だ。アリ達が獲物を嵌め、安全に仕留めるための。

 

「痛い! 痛い痛い! やだ、助けて!」

 

 ミドリが悲鳴を上げ始めて、継実は反射的にミドリの傍に駆け寄る。アリ達は新たな獲物に大喜び。地面から更に噴出し、今度は継実にも襲い掛かる。

 

「ミドリ! 待ってて、今助ける!」

 

 継実は己の能力により大気分子を分解し、素粒子へと変えた後ミドリの体表面に纏わせて透明な膜を形成した。全身をすっぽりと覆う素粒子の膜は、ただ高密なだけの大気を纏うよりも隙間がなく、より頑丈で、様々なエネルギーに耐性を持ち、しかも能力の相性的に制御が容易くて省エネという優れもの。

 名付けるならば粒子スクリーン。フィアとの戦いでもっとちゃんとした防御技を身に付けないといけないと思い至り、一晩で考案した技だ。継実はこれをミドリに与えたのである。

 アリ達は最初、いきなり現れた防壁に戸惑ったように動きを止めた。が、すぐに攻撃を再開。それまで自由気ままに噛み付いていたのに、一匹で無理なら三匹で挑むとばかりに集合・同時攻撃を仕掛けてきた。しかも顎になんらかの能力が発動しているのか、三匹同時攻撃を受けると粒子スクリーンが不安定になる。恐らく、このままでは破られてしまうだろう。

 小さな虫が新技の守りを易々と破る事に、されど継実は怯まない。この程度は想定内。元より過酷な大自然相手に、粒子スクリーン一枚で家族を守りきれるなんて欠片も思っていないのだ。

 秘策は、モモ。

 

「モモ! 思いきりやって!」

 

「合点!」

 

 相棒の名を呼べば、彼女は全てを察して行動する。体毛を擦り合わせ、生み出すのは莫大な電気。

 アリ達も何をされるか察したのか、次々と離れていく。しかし逃げるモノへの容赦など、捕食者たるモモにはない。あったところで、今の世では付け込まれるだけ。

 

「全員纏めて、消し飛べ!」

 

 数百ギガワット相当の電撃が、アリ達とと継実達に降り注ぐ!

 アリは電気に対する耐性があまりなかったようで、電撃により次々と消し飛んでいく。対して継実とモモは、粒子スクリーンにより電撃を堪え忍んだ。

 アリのような小さな生き物に、点での攻撃は不利。モモのような広域攻撃が可能な家族に任せた方が合理的なのだ。

 例えその結果、自分にダメージが積み重なろうとも。

 

「ぐ……ぅ……」

 

「つ、継実さん!?」

 

「大丈夫……ちょっと、守りきれなかった、だけ……」

 

「ああもう! また無茶してる!」

 

 蹌踉めいた継実の肩を、モモとミドリの二人で支えた。継実はへらへらも笑いながら、焼け焦げた身体の再生に力を割り振る。

 流石はモモの電撃。ミドリに怪我させまいと厚めの粒子スクリーンを展開したら、自分の分が足りなくなってしまった。

 モモはそれに気付いているだろうし、ミドリも勘付いているだろう。こりゃ後でお説教確定だなと思いながら、継実はモモ達と共にアリの巣を後にした。

 茂みを抜けた先で、体長五メートルはあるだろう巨大トカゲと遭遇するとは、夢にも思わずに。

 

「(あ、こりゃ死んだわ)」

 

 継実は死を予感した。

 外観から判断するにこの大トカゲは、どうやらカナヘビが巨大化した種のようである。とはいえ五メートルもの大きさとなれば、最早恐竜のようだ。無感情な目が継実達をじっと見ている。

 七年前に生息していた普通のカナヘビは、主に昆虫やクモなどを食べていた。つまり肉食性。一応果実なども食べるようだが、まさかこの巨体をフルーツだけで養っている訳があるまい。今でも食性はあまり変わらず、自分よりも小さな『動物』を好んで食べているのだろう。

 この巨体なら継実達も十分に餌となる大きさだ。ハエトリグモ・野犬・ツキノワグマ・アリとの四連戦を経て疲労した今、この大トカゲに勝つ事は勿論、逃げる事も難しい。

 

「(いざとなったら、私が囮になるか)」

 

 最悪の事態を想定する継実。そんな継実の考えなどお見通しとばかりに、モモとミドリは継実の腕をがっちりと掴む。

 これじゃあ逃げられないなぁと、覚悟を決めた継実は大トカゲを睨み付け――――

 大トカゲは鼻を鳴らすと、ぷいっと、そっぽを向いた。そしてのしのしと、継実達から離れるように歩き出す。

 継実達に襲い掛かろうという気配は微塵も出さず、そのまま姿を眩ました。

 

「……見逃して、もらえた?」

 

「アイツ、もしかして……」

 

 どうして? 偶々満腹だったとか?

 疑問や可能性は次々と継実の頭の中に湧いてくる。モモは何か勘付いたようだが、それを問い詰めたり、ましてや議論しているような余裕などない。

 

【継実さん! あっちの木に洞があります! 此処に隠れましょう!】

 

 ミドリが脳内へ直接信号を送り、隠れ場所を見付けたと訴える。ミドリの方へと振り向き、彼女の指差す先に立つ七十メートル級のクヌギに目を向ける。その巨木には確かに大きな洞があり、自分達三人が休むに足る大きさがあるように見えた。

 継実は歩き出そうとして、けれどもがくりとへたり込む。どうやら、腰が抜けてしまったらしい。すかさずモモが継実の肩を支えて立ち上がらせる。ミドリも反対側の肩を支えてくれた。

 何から何まで世話になりっぱなし。

 

「(まるで、七年前の時みたい)」

 

 頭の中を過ぎった考えに、継実は乾いた笑みを浮かべる。笑う継実を見て、モモ達は訝しげな顔を浮かべたが、今は避難を優先。そのまま洞へと連れ帰る。

 人間に会うために始めた大冒険。

 その胸に抱いた希望と勇気は、あっという間にへし折られてしまったのだった。



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横たわる大森林04

 クヌギの洞に辿り着いた継実は、誰よりも先にその場に倒れ込んだ。息を荒くして多量の酸素を取り込み、疲労回復のための代謝活動を全身で行う。

 疲れが取れ次第、身体の回復も行う。ハエトリグモに渡した足、野犬に噛まれた跡、ツキノワグマから返された粒子ビーム、アリに噛まれた傷、モモの電撃……都度都度再生させていたが、立て続けの襲撃の所為でどれも完璧には出来ていなかった。今のうちに、少なくとも動きに支障が出ない程度には治さねばなるまい。

 モモとミドリも、継実ほどではないが疲労している。洞の壁に背中を預けて、ぐったりと力を抜いた。ミドリは全力疾走したように息を乱し、モモも深くため息を吐く。

 

「……正直、嘗めてたわ」

 

 ぽつりと呟いたモモの言葉が、全てを物語っていた。

 自分達の旅路に太鼓判を押してくれた花中は、旅の安全までは保証していない。

 花中が言っていたのは「フィアちゃんぐらい押し返せないと旅なんて自殺行為でしかない」という、『最低ライン』について語っただけ。フィアを押し返せたのだから、後は気ままな物見遊山で南極まで行ける、なんて一言も言っていない。むしろフィアより強い奴等がわんさかいるという事も教えてくれた。

 だから油断はしていないつもりだったのだが……()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。そう思ってしまったという事は、つまり見くびっていたのである。この星を埋め尽くす、現在の生態系を。

 

「どうしましょう……一回草原に戻って、もう一度準備を整えた方が良いのでしょうか」

 

 一番疲弊の少なかったミドリが、落ち着いた声で提案をしてくる。つまり、おめおめと逃げ帰れという事だ。

 とはいえ実際名案である。プライドなんて自然界ではなんの役にも立たない。危なくなったら住処へと逃げ帰るべきだ。強いて難点を挙げるなら、住処であったクスノキの洞はもう塞がっていて、そのクスノキにこれでもかというほど馬鹿にされるぐらいか。

 アイツに馬鹿にされるのは死ぬほど嫌だと継実は思うが、実際に死ぬのと比べれば遥かにマシだ。だから逃げ帰れるのなら、是非ともそうしたい。継実よりもずっと『合理的』なモモなら尚更であろう。

 けれども継実とモモは、ミドリの提案に対し首を横に振った。

 

「出来ればそうしたいけどねぇー……」

 

「出来れば? え、出来ないのですか?」

 

「出来なくはないけど、今やるのはリスクが大きいし、メリットもあまりない」

 

 キョトンとしているミドリに、継実が説明した。

 自分達はかなり森の奥へとやってきている。

 それは野犬などに襲われ、走り回った結果だ。勿論単純な距離だけでいえば、高々数キロかそこらの移動。七年前なら兎も角、今の継実達にとっては十秒と掛からずに渡れる距離だ。森の外へと出るのに、さして時間は必要ない。

 問題は、その道中に現れるであろう数々の野生動物。

 例え逃げ帰る途中だとしても、野生動物達は容赦なく襲い掛かってくる。恐らく行きと同じぐらいの激しさで。襲われたら戦わねばならないが、しかし今の継実達は此処までの道中で受けた襲撃により大きく疲弊していた。特に継実は膝から下の足を一本ごっそりと奪われ、噛み付かれたり粒子ビームを撃ち込まれたり、モモの強烈な電撃までも喰らっている。三人の中で最大戦力である継実が、一番戦闘力の低下が著しい。今の継実達では、先の猛攻をもう一度やり過ごすのは厳しいだろう。

 考えなしの強行突破は自殺行為。戻るにしてもまずは体力の回復が必要であり、そのためにすべきなのは十分な食事だ。そして此処で食事が出来るのなら、わざわざ草原へと戻る必要がない。体力の回復をするために、草原に戻ろうという話なのだから。

 ……等と理知的に説明してみたが、要約すれば「逃げるためにどんどん奥に突っ走った結果後戻り出来ないところまで来てしまった」という話で。

 

「つまり最初にハエトリグモに引っ掛かった私の責任です……ごめんなさい……」

 

 継実に出来るのは、律儀にお辞儀するぐらいなものだった。尤も文明的な謝罪をしたところで、野性的な問題は何も解決しないが。

 

「はいはい。そんなくだらない事する暇あるなら、なんか対策考えなさいよ。といってもやる事なんて一つだけだと思うけど」

 

「……まぁ、そうだけど」

 

「えっと、此処で狩りをするって事、ですよね? 食べ物を得るために」

 

「その通り。とはいえ大物は狙わないわ。安全な、昆虫とかの小動物よ」

 

 モモは話しながら、こっそりと、洞の外を覗き込む。継実も未だ疲労感の拭えない身体を動かしながら、モモの隣で同じく外を見る。

 目視で判別する限り、外に敵となり得るような生物の姿はない。とはいえ大型捕食者達も獲物を求めているのだから、その身と気配を隠している筈だ。強いモノは隠れる必要がないというのは漫画の強敵に出てくるお約束の一つだが、自然界では全くの逆。強い気配を所構わず発していたら、獲物がみんな逃げてしまう。強いモノほど上手く隠れなければ、獲物にありつけなくて飢えで死ぬ。

 森に暮らしている猛獣達は、さぞや隠れるのが上手に違いない。だから念入りに、警戒しなければならないのだ。

 モモが体毛を伸ばしながら周囲を探る。継実も粒子操作能力を応用して索敵。自分達の探る限りでは、危険な生物はいないようだが……これでもまだ足りない。

 

「ミドリ。周りの様子はどう?」

 

「あっ、えっと……半径十メートルぐらいには小さな虫しかいません。ただその外の半径百メートル圏内には犬ぐらいの大きさの動物が十数匹群れていたり、シカかイノシシらしき生き物が五匹はいますね」

 

 ミドリに尋ねると、彼女はより詳細な情報をもたらしてくれた。戦闘力こそ皆無(というほど弱くはないが)だが、自分達より強い生き物がわんさかいる場所では索敵こそが重要。ミドリがいなければ、不安からもう二度と洞の外には出られなかっただろう。

 犬ぐらいの大きさの生物も、十数匹といれば脅威。シカやイノシシは草原にも暮らしていたが、此処にいる個体は草原にいたのとは別物……より過酷な生態系に適応した『種』と考えるべきだ。遭遇 = 戦闘ではないとしても、避けるのが無難である。

 しかし、なら彼等が立ち去るのを待つべきかといえば、それもまた否であろう。何しろ継実達が暮らしていた草原でも、基礎代謝が七年前と比べて何倍にも増大した継実達が食うに困らないぐらい生き物が溢れていたのだ。それこそ冬でも飢えないほどに。

 ならば草原よりもたくさんの植物が生い茂る、即ち有機物(食べ物)の生産量が多いこの森の生物密度は、草原の比ではあるまい。付近に大きな動物がいなくなるのを待っても、すぐに別の動物がやってくるだろう。

 リスクがゼロになるのを待っていては、こちらの体力が先に尽きてしまう。多少の危険は受け入れるしかない。

 

「……ミドリは此処に居て、周りの警戒と、あと食べられそうな虫を探して。多分地面の中とかに隠れていると思うから」

 

「は、はいっ」

 

「モモは私と一緒に来て。何か、ヤバい生き物が来た時、私だけじゃ追い返せないかもだから」

 

「OK。護衛は私に任せなさい」

 

 テキパキと継実が指示を出せば、ミドリとモモは嫌な顔一つせずに頷いてくれた。失敗した自分をまだ頼ってくれる事に、継実の胸は奥からぽかぽかとしてくる。

 これなら、命を賭ける事も怖くない。人間というのは頼られると、自分の命がすっと軽くなる生き物なのだ。

 

「(落ち着け。さっき、動物達の猛攻を受けたのにはちゃんとした理由がある)」

 

 先陣切って洞の中からゆっくりと身体を出しながら、継実はその『理由』を思い返す。

 何も難しい話ではない。要するに自分達は、この森で騒ぎ過ぎたという事だ。逃げるのに必死なあまり、気配を消す事を疎かにしていた。索敵も甘かったし、警戒も薄い。

 草原のように大きな敵が少ない土地なら、それで問題なかった。ゴミムシに襲われたとして、他のゴミムシにまた見付かる確率は高くないのだから、兎に角全力で駆ければ良い。しかし生物が豊富な森の中でそれをすれば、至る所に潜む捕食者に見付かってしまうだろう。危険な動物からは全力で逃げないと食べられてしまうのだから多少は仕方ないものの、その『仕方ない』を見逃さずに突いてくるのが野生である。逃げた後は素早く隠れなければならない。

 この森で最優先にすべきは、強くなる事や速く走る事ではない。誰にも見付からない事、全力で隠れる事だ。

 勿論隠れるという行為にもデメリットはある。気配を消すという事に集中するため、あまり長い間続けられるものではないという点だ。つまり気配を消したままの長距離移動……例えば森からの脱出を試みたなら、激しい疲労感をもたらし、小さな動物の襲撃さえも脅威と化す。

 しかし獲物を探すという短時間の行いならば問題ない。

 ひっそり、こっそり、継実は地面を這う。地面に生い茂る草は這いつくばる継実の身体を隠すほど高く、ほんの少し、外敵から身を隠すのに役立ってくれた。モモもこっそりと出てきて、継実のすぐ隣にやってくる。ミドリは洞の中に隠れたまま、きょろきょろと辺りを見渡す。

 

【あ。継実さんの正面一メートル先、地面から二十センチの深さのところに十センチぐらいの生き物がいます】

 

 ミドリの報告は、存外早くにやってきた。

 正直これだけ早いのは嬉しい想定外。出会った時はこれほど頼りになるとは思ってもいなかったと、ミドリを見くびっていた自身に継実は呆れた笑みを一つ。

 きっちり一メートル先まで進んだ継実は、二十センチの深さまで一気に届くよう手に力を込め――――

 どすんっ、と大地に突き刺す。

 植物の根を強引に掻き分けて辿り着いた先で、ぶよっとした感触が手に走った。

 

「捕まえたぁ!」

 

「撤退撤退!」

 

 継実はすぐに手を引っこ抜き、先導するモモの後ろを追うように走る! なんとか洞の中へと跳び込むと、再び周囲の気配を探った。

 こちらにやってくる気配は、継実には感じられない。

 

「……大丈夫。一瞬こっちに近付く気配がありましたが、もう諦めたようです」

 

 尤も、ミドリからの太鼓判があるまでは安心など出来ず。

 その言葉と共に気が抜けた継実は、その手に持っていたものを見た。

 

「お、おおぉ……! カブトムシの幼虫だぁ……!」

 

 継実が捕まえたのは、体長十センチはあろうかという巨大カブトムシの幼虫。七年前ならばあり得ないビッグサイズだ。

 幼虫は継実の手から逃げようとしてか、ぶよぶよの身体を必死に動かしていた。大きく育った身体故に力は相当なもの。ミュータント化した継実の手を強引に押し広げ、こじ開けるほどだ。しかしこの程度のパワーならば十分に抑え込める。

 これだけの大きさなら、一匹だけで相当のエネルギーを補給出来る。それに昆虫の幼虫というのは、成虫になるためたくさんの栄養を蓄えているものだ。普通の肉や植物を食べるより、高栄養価に違いない。

 

「やったわね! ようやく初めてのご飯よ!」

 

 そして何より、旅の途中で捕まえた初めての獲物。

 距離としては草原のすぐ傍。旅というのもおこがましいかも知れない。だがそれでも、継実にとっては希望のあるもの。自分は旅を続けられるのだと、南極まで行けるのだという確かな証明である。

 一度は挫けそうになった継実の胸の中に、ぽかぽかとした気持ちが込み上がってきた。

 

「ほら、さっさと食べちゃいなさいよ」

 

「え? でも、みんなで分け合った方が」

 

「私もミドリも殆ど消耗なんてしてないんだし、まずは継実の回復を優先した方が合理的よ。ね、ミドリ」

 

「はい! あたしもそれが良いと思います!」

 

 そんな継実の気持ちを察したかのように、モモとミドリはカブトムシを継実に譲ってくれた。ちょっと恥ずかしくて、だけどそれ以上に嬉しい。継実は二人の好意を素直に受け入れる。

 許しが出たならいざ実食。七年前なら食べるどころか見ただけで後退りしただろう巨大幼虫も、今の継実にはご馳走だ。その弾力ある皮にすぐさま齧り付き――――

 

「……ん……んぎ……」

 

 かぷかぷと、何度も噛む。

 

「ん、んんんぎぃぃ……!」

 

 思いっきり皮を引っ張り、食い千切ろうとする。

 

「ぐぎぎぎぎぎぎぎぃ!」

 

 渾身の力で、奥歯で、前歯で、兎にも角にも傷を付けようとする。

 だが、叶わない。

 継実の顎の力を受け付けないほど、カブトムシの幼虫は頑強だった。

 

「うがぁあっ! コイツ食えないじゃん!?」

 

「えぇー……ちょっと貸して。電気流してみるから」

 

 言われるがまま継実はカブトムシの幼虫をモモに渡し、モモは強烈な電撃をカブトムシに流し込む。が、カブトムシは死なない。次いでミドリが脳内物質を掻き回してみようとしたが、その干渉さえも拒まれて通じず。

 

「っだぁぁぁ! 食えるかこんなもん!」

 

 ついに我慢出来ないと、継実はカブトムシの幼虫を投げ捨てた。カブトムシの幼虫は地面にぽとりと落ち、もぞもぞと大慌てで地面に潜っていく。

 気を取り直して他の獲物を探そう。そう考えて継実は周囲の気配を探るが、虫の存在は中々検知出来ない。あのカブトムシさえも、だ。天敵が多いから身を隠す術が発達したのだろう。ミドリでさえもカブトムシを探すのが限度かも――――

 そこまで考えて、ふと継実は気付く。

 カブトムシすら気配を消して隠れている。あの頑強なカブトムシが、だ。硬さで身を守っているとすれば、カブトムシはそこまで真面目に隠れているとも思えない。逆にカブトムシより弱い生き物は、当然ちゃんと隠れている筈。

 つまりカブトムシを見付けるのすら一苦労だった継実達は、カブトムシより硬いものしか見付けられない可能性が高い訳で。

 

「……ひょっとして、私達詰んでない?」

 

 自分達が絶体絶命のピンチだと、ようやく理解するのだった。



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横たわる大森林05

「お、落ち着きましょう。食べ物は虫だけじゃありません! 例えば、ほら、樹液とか!」

 

 クヌギの洞の中で絶望感に支配されつつあった継実に、ミドリが頑張って探したであろう希望を示した。

 ミドリとしては苦し紛れだったかも知れないが、しかし継実は確かにと少し落ち着きを取り戻す。樹液を舐めるなんて昆虫染みているが、背に腹は変えられない。舐めて少しでも栄養を取らねば、いよいよ基礎代謝も賄えなくなる。

 

「多分、ないわよ」

 

 そんな希望を打ち砕いたのはモモ。

 樹液がないという宣告に、継実とミドリは大きく動揺した。

 

「な、ないって、どういう事?」

 

「森の中に樹液の匂いがあまりしないのよ。多分ミュータント化の影響で、樹液が出てくる傷をすぐ塞げるんでしょうね。木からしたら別に虫を養うために樹液出してる訳じゃないし。まぁ、微かには匂うから、カブトムシとかは自分で木を削って染み出させているのかもだけど」

 

「な、ならあたし達も木を削って染み出させれば……」

 

「さっきも言ったでしょ。木がミュータント化してるのよ。虫がちょっと傷付けるぐらいなら一々追い払うのも面倒だし無視するかもだけど、私達みたいな大型動物がそれをやったら多分反撃されるわ」

 

 モモの意見にミドリは言葉を失い、継実はぞわりと悪寒が走る。高さ七十メートルもあるこの森の木々達は、恐らく重量にして百トン近くあるだろう。能力の出力も相応に高い筈。相性次第ではあるが、継実達では勝ち目などあるまい。

 

「い、いえ、まだ諦めるのは早いです!」

 

 けれども、ミドリの心は折れず。猛獣達を引き寄せる事も厭わぬ大声で継実を、或いは自身を鼓舞した。

 

「森なのですから、他にも食べ物はある筈です! えーっと……死肉は!?」

 

「死肉は元々貴重なものよ。私達の食欲、知ってるでしょ? この森の生物密度じゃ、あっという間に食べ尽くすわ。まぁ、何かの拍子に残される事もあるかもだけど……少なくとも今、近くにはないわね。私の鼻が何も感じないし」

 

「ぐ、ぬぬぬぬ……」

 

 二度目の案を出してみるが、モモがバッサリと切り捨てた。悔しそうなミドリであるが、モモの嗅覚は三人の中でも随一の優秀さである。彼女がないと言ったなら、間違いなく死肉はない。

 仮にあったとしても、飢えた肉食獣と鉢合わせる可能性もあるだろう。或いは見付けた後、食事中にやってくる事もあるかも知れない。向こうが腐りかけの肉を食うのに夢中なら逃げれば良いし、死肉を献上して許してくれるならまだマシだが……ついでにと襲われたら堪らない。草原のように長年暮らしてきた環境なら危険の度合いも察しやすいが、此処は初めて旅する大森林。あまりリスクある行動は取りたくなかった。

 

「じゃ、じゃあ……えっと、うーんっと」

 

「ミドリ、そんな無理して考えなくても……草原に帰るだけなら、私が」

 

「継実さんは黙ってて!」

 

 私が()()()()()()――――そう言いかけた継実だったが、ミドリが大きな声でそれを妨げる。

 たかが耳がキンッとなる程度の大声に怯むほど、継実が経験してきた日々は生やさしくない。しかし穏やかそうなミドリからの強い言葉に、継実は喉まで来ていた言葉を飲んでしまう。

 継実に向けて言い放った言葉を、さて、ミドリは自覚しているのかどうか。実は無意識に言っただけではないかと思うほど、ミドリは頭を抱えて考え込む。継実もモモも、そんなミドリに口を挟めず。

 

「……果物」

 

 やがて、ぽそりとミドリの口から『名案』が出てきた。

 

「果物、果物ならどうでしょう!?」

 

「……成程。確かに果物はあるわね。そういや森に入る前から甘い匂いがしてたけど、アレは果物の匂いだったのね。今思い出したわ。この時期なら、キイチゴとかビワかしら?」

 

「へぁ? あ、はい! そういうのです! 多分!」

 

 思い付き第三弾の意見だが、今度のモモは同意する。まさかこんなあっさり同意してもらえるとは思わなかったのか、自分が言い出した事なのにミドリは驚き、それ以降の考えが全くない事を物語った。

 なんとも行き当たりばったりであるが、しかし確かに良い案だと継実も思う。ミュータント化により子孫をたくさん残せるようになったのは、何も動物だけではない。植物だってたくさんのタネを付けるようになったのだ。それは草原の植物達が季節に関係なく茂り、何時でも花を咲かせていた事からも明らかである。

 草原ではあまり食用となる果物がなかったのですっかり考えから抜けていたが、森なら果樹も豊富にあるだろう。そして果樹達も草原の草と同様、季節を選ばずに繁殖している可能性が高い。

 勿論今の段階では可能性の話だ。モモは果実の甘い香りを感じ取ったようだが、それはあくまでも森の何処かに果物があるというだけの事。頑張って探し回った挙句、キイチゴ三房では割に合わないだろう。

 しかし、可能性が現実的かを確かめる術はある。

 

「……良し。ちょっと、一瞬だけ外に出てみる」

 

「えっ!? あ、い、いや、そんな急いで行かなくても……」

 

「大丈夫。ちょっと顔を出して、目視確認するだけだから」

 

 あまりにもとんとん拍子に話が進むからか、言い出しっぺであるミドリが慌て始めた。とはいえ話した通り、早速探してみようとは継実も思っていない。

 クヌギの洞から頭だけを出し、キョロキョロと辺りを見回す。

 確認したいのは木々の果実の結実具合。

 とはいえ今の自分達が使っている、クヌギやブナでは駄目だ。あれらの実は硬過ぎる。無論それは柔らかいものを食べたいという贅沢ではなく、単純に歯が立たないという意味。カブトムシすら硬くて食べられないのだから、ミュータント化前から頑丈だったドングリを噛み砕けるとは、今の継実には思えない。

 だからブナ科以外の別の樹木、アケビやビワはないだろうか。そう思って探してみたが……空を覆い尽くすのは、雲のように分厚い葉っぱばかり。葉が茂るのは高さ十五メートルほどの位置だが、そこに動物に食べてもらうための、食欲をそそる色合いは何処にも見られない。

 

「……駄目。見付からない」

 

 継実は首を横に振りながら、クヌギの洞へと戻る。

 

「そう、ですか……すみません」

 

 継実の報告を受け、ミドリはしょんぼりと項垂れてしまう。流石に、もう案がないらしい。

 ミドリは申し訳なさそうな様子だが、それはこっちがすべき事だと継実は思う。元を辿れば自分のワガママで、ミドリやモモを危険に晒しているのだ。

 ちゃんと謝っておきたい。ごめんなさいで済む事ではないとしても、言わないままでは……きっと、言う機会をなくしてしまうから。

 勇気を出すまでもない。自然な気持ちのまま継実は、ミドリに謝罪の言葉を伝えようとした。

 

「んー? 本当に一個もなかったの?」

 

 尤も勇気を出さなかったがために、モモの突然の『横やり』で声が詰まってしまうのだが。やろうとしていた事を邪魔され、ちょっとだけ戸惑った継実は思わずモモの問い答える。

 

「あ、うん。一個もなかったけど」

 

「……それは妙ね」

 

「妙?」

 

「妙よ。だって今、私の鼻は果物の匂いをびんびんと感じているわ。これは相当近くにあるか、或いはとんでもなくたくさんないと説明出来ないレベルよ」

 

 継実の答えで疑惑が深まったのか、断じるように話すモモ。そんなに凄いのか? と継実も嗅いでみたが、土臭さや獣臭さばかりでよく分からない。

 こういう時は成分解析。継実は早速周辺大気の成分を掻き集め、どんな物質が漂っているか確かめる。粒子の動きが見える継実だからこそ出来る技だ。

 そしてその結果は、驚くべきものだった。

 一般的に果物の香りというのはヘキサノール、安息香酸エチル、酪酸メチル……他にも様々なものが挙げられるがこのような物質から成り立つ。そうした果物の香り成分が継実達の周りには充満していた。確かに、この近くに果物があるらしい。

 問題はその濃度。確かに血の臭いであるE2D、植物がばらまく殺虫・殺菌成分であるフィトンチッド類、腐敗臭である硫化水素やトリメチルアミンなどの物質の方がずっと濃い。それらの臭いと比べれば遥かに薄いので、人間の嗅覚では捉えられなかったが……物質量として見れば、恐らく悪臭として感じそうなほどの『果物の香り』が漂っていた。

 例えるならば、果物たっぷりの倉庫の中に居るようなものか。何より奇怪なのは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 何か、得体の知れない状況に継実はぞわりと背筋を震わせる。

 

「ちょ、何これ!? なんか凄いたくさん果物の匂い成分があるんだけど……」

 

「だからそう言ってんじゃん」

 

「えっと、あたしにはよく分かりませんけど、兎に角近くに果物がある、だけど見付からないって事でしょうか?」

 

「う、うん。そうだけど……」

 

 予想外の事態に戸惑う継実だったが、何も感じていないからこそミドリは冷静なまま。可愛らしく小首を傾げながら、うーんうーんと唸りつつ考える事十数秒。

 

「あっ。高いところに実っているから、下からだと見えないんじゃないですかね?」

 

 あっけらかんと、思い付き第四弾を語った。

 続く継実とモモの行動は早い。

 継実はなんの迷いもなく洞から跳び出し、自分が居たクヌギの木にしがみつく。生まれてこの方十七年の継実であるが、木登りなんてろくにやった事がない。しかし継実には超常の力が宿っていた。ぺたりと手を幹に貼り付け、隙間の空気を全て抜いてしまえば吸盤のように張り付く。体重を強引に支え、一気に駆け登る。

 葉が茂っている樹冠部分までの高さは、凡そ十五メートル。七年前なら何時間掛けても登れなかったであろう位置も、今ならものの数秒で行ける距離だ。あっという間に登り、葉の生い茂る領域へと突入する。

 途端、芳醇な……いや、最早刺激臭にも近い『果実臭』が鼻を突いた。

 

「うぶっ。これは流石に……いや、でもこれなら……!」

 

 濃密な臭いに一瞬顔を顰めてしまう継実だが、しかしそれは果実の存在を物語るもの。止まろうとする手足を無理矢理動かし、上へ上へと突き進み……

 ぼふんっ、という分厚い大気を掻き分けるような音を鳴らす。

 まるで雲にでも突っ込んだような感覚。その原因が、突如として現れた濃密な大気の『淀み』であると継実は察した。どうやら此処から先は大気が滞留しやすく、結果樹木が出した水蒸気などが高密度になっているらしい。

 そして留まる空気の中で、果実の匂いは一層強さを増す。

 継実は再び周囲を見渡した。もうこんなに強いのなら、きっと傍にある筈。そう思っての行動だが、しかしあまりにも果実の匂いが濃過ぎて距離感が掴めない。しかも樹冠の中は地上ほどではないが暗く、やはり通常の『目視』では何も見えない状況だ。

 なら、粒子の動きを視認するのみ。継実は目視を止め、能力を用いて世界を覗き見た。

 次の瞬間には、驚きが継実の胸を満たす。

 まず継実のすぐ傍、それこそ手を伸ばせば届く位置にあったのは、アケビ。

 アケビは蔓性の樹木であり、木などに巻き付きながら成長する。このアケビの鶴は二十メートル以上も伸び、地上からは見えないこの樹冠部で実を付けていた。

 更にアケビは至る所に実っていた。熟れて真ん中から裂けたものもちらほらと見付けられる。これは本来ならばおかしな事。アケビの実が熟すのは九月~十月の秋頃であり、まだ梅雨入りすら早いような今の時期にたくさん見られるものではないのだから。

 そして実るものはアケビだけではない。

 巨木化したキイチゴが高い場所で実が鈴生りになっている。三十メートル近い高さに育った無数のビワが、一角を黄色い実で埋め尽くしていた。他にも野生化したものであろうブドウ、リンゴ、ナシ……様々な果物が至るところ、文字通り隙間もないぐらいに実っているではないか。

 本当に此処は大自然の一角? もしかして自分は過去に存在していた、人類全盛期の時に作られた果樹園に紛れ込んでしまったのでは……そんな馬鹿げた想像さえも継実の脳裏を過ぎる。

 しかし決して空想なんかじゃない。

 果物の他にたくさんの、それらを食べる鳥や動物達の存在を感じ取れば、此処が現実の世界なのだと実感出来た。

 

「ほ、本当に……本当にあった……!」

 

 匂いという情報があった時点で確定していた筈の、だけど心の奥底ではどうしても信じられなかった現実。目の当たりにした継実は、呆けたように声を漏らす。

 無論見付けただけでは意味がない。この果物を採り、持ち帰る必要がある。此処にはたくさんの鳥や獣がいるが、果たしてやってきたばかりの人間に食べ物を分けてくれるのか。

 恐る恐る継実は、手近な場所に生っているアケビを掴もうと手を伸ばす。

 そのアケビの傍にはニホンザルが一匹、陣取るように座っていた。彼もまたアケビを貪り食っていて、タネやら実の欠片やらを口からぽろぽろ零している。なんとも贅沢な食べ方だ。

 そんな贅沢者は、自分の横にあるものに執着心を見せるものだろうか?

 相手にもよるだろう。が、このニホンザルに関しては……気にしないタイプだったようで。

 威嚇すらされる事なく、継実はアケビの実を採る事が出来た。

 

「……ふ、ふふっ! あはははっ!」

 

 思わず出てくる笑い。ニホンザルはこの声に驚いたのかびくりと跳ねたが、もう継実は彼の事など気にも留めない。

 意識するのは、目の前に広がる大果樹園だけ。

 継実は駆け出し、その果実達に次々と手を伸ばす。実をちまちまと啄んでいたカラスやスズメなどの鳥達も、くちゃくちゃと音を鳴らして食べていたハクビシンや若いツキノワグマも、誰一匹として継実など見ていない。当然だ。みんな、自分の目の前にある果実に夢中。そして継実がどの実を採ろうとも、自分には関係ないのだから。

 勿論自分が食べようとしたものを採れば、ちょっと威嚇はしてくるだろう。だが、それだけ。何しろ食べ物はたくさんある。一々怒るよりも、次の食べ物を口に運ぶ方が合理的。衣食足りて礼節を知るのは、人間だけの話ではないのだ。

 邪魔者はなく、探す手間もない。ほんの数分もすれば、継実の腕の中には果物の山が出来ていた。粒子操作能力で支えなければすぐにでも崩れる、カラフルなピラミッドだ。

 

「これだけあれば……ふふっ」

 

 思わず笑みが零れる。これだけあればみんなお腹いっぱいだ。奪われる心配なんてないだろうが、すぐにでも家族の下へ帰ろうと思い、継実は木を降りようとする。

 その喜びの中で、ふと思う。

 ――――なんで、こんなにたくさん果物があるのだろう?

 

「(そりゃ、繁殖力旺盛になった結果、何時でもたくさん付けられるようになったから、なんだろうけど……)」

 

 食べ物の供給が増えた結果、食べ物が溢れかえる……自然界でそんな状況は長続きしない。

 食べる側が増えるからだ。餌があればあるだけ増えるのが生物というもの。何処まで増えるかといえば、餌が見付けられなくて餓死するモノが出るまで。つまり、果物なんてそこそこ珍しい状態が『安定的』な筈なのだ。

 なんらかの要因がなければ、こんな不自然な景色は作られない。一応、継実にはこのような楽園が築かれる条件に心当たりがある。あるのだが……あまり今は考えたくない。

 考えたくない事こそ、最優先で考えねばならないのに。

 

「キキッ!?」

 

「ピピピピィー!」

 

 突然、猿や小鳥達が悲鳴染みた声を上げた。

 彼等は叫ぶや否や、一目散にこの場から逃げ出そうとする。哺乳類どころか鳥の顔にすら恐怖が浮かび、あまりにも必死な様子。若いとはいえツキノワグマさえも大急ぎで逃げていく。

 

「ピギッ!?」

 

 その中で、不意に悲鳴が上がる。しかし悲鳴はすぐに途絶えた。代わりに、ぐちゃぐちゃと噛み砕くような音が鳴り響く。

 同時にぶぶぶぶっという野太い羽音も継実の耳に届き、『奴』の存在を教えてくれた。

 そう、とても恐ろしい『捕食者』の存在を。

 ――――果樹の楽園が築かれる要因。それはとても簡単なものである。

 ()()()()()だ。圧倒的な捕食者が動物達を片っ端から喰い尽くせば、果物の楽園は維持される。食べる側が増えなければ供給したものが余るのは必定。実にシンプルで分かりやすい。

 その捕食者がなんであるかは、流石に分からなかったが……今、明らかとなった。

 今し方小鳥を襲った、数十匹もの『オオスズメバチ』であろう。

 

「……いや、アレ本当にオオスズメバチ?」

 

 ぽそりと独りごちながら、継実は首を傾げてしまう。

 何故ならオオスズメバチは『武装』していた。黄土色のマーブル模様が刻まれた鎧を着込み、頭だけが外気に出ている状態。翅さえも硬質のパーツで覆われ、羽ばたきではなく根元から吹く青白いジェットで飛んでいる。その六本の脚で持つのはレーザー銃のような謎武器。まるで近未来からやってきたエージェントである。

 

【きょうのごはーん!】

 

【おにくとくだもののやさいいためだー】

 

【だー!】

 

 しかも話す言葉は何故か幼女っぽい。いや、スズメバチに限らず働き蜂というのは雌しかいないようなので、女の子っぽいのも当然か? ――――等々現実逃避を始める継実の理性だったが、本能はそれどころではないとちゃんと理解していた。

 コイツらこそがこの果樹園を狩り場にしている……最強最悪の肉食種族だと。

 オオスズメバチは七年前、ミュータントが世界に広がるよりも前から恐怖の存在として日本で君臨していた。クマや毒ヘビなど比較にならないほどの数の人間を殺し、その圧倒的捕食能力で森の守り神として君臨していた存在。大半の外来種が日本に定着出来ない理由として、オオスズメバチの補食圧が挙げられるほどだ。七年前から奴等は、日本列島の支配者として君臨していたのである。

 ましてやミュータントとなれば、如何に恐ろしい存在と化すか……継実には想像も付かない。

 

【むかしおそわったのうぎょう、すごいべんりだよねー】

 

【ねー】

 

【あまーいくだものだけじゃなくて、おにくまでとれるもん】

 

【ところでだれからおそわったっけ?】

 

【わすれたー】

 

 しかもそんな化け物に農業を教えた奴が居たようだ。この果物だらけの空間は、どうやら彼女達の手入れもあって維持されているらしい。

 最強クラスの捕食者に文明的生産能力を与えるなんて、なんと恐ろしい事をしでかしてくれたのか。きっと性根の腐ったトンデモ野郎か、後先考えない大間抜けに違いない。何時かそいつを見付けたら、果物への感謝と共にぶん殴ろう……そう決意する継実であったが、まずはすべき事がある。

 

【あ。おおきいさるだ】

 

【おさるさんだー。でもけがないよ?】

 

【つるつるおさるー】

 

【さるのくだものづめー!】

 

【けがないからりょうりがかんたんだー!】

 

 食欲を全開に滾らせている、可愛らしい捕食者様から逃げねばならないのだから。

 

「ひっ、ひぃっ!?」

 

 大慌てで木から飛び降りる継実。その継実の後を追うオオスズメバチ群団。

 命懸けの逃走劇がまた始まる。けれども継実の顔にはもう、恐怖なんて浮かばない。

 未来に向かって走っているのに、どうして恐怖なんかに負けるというのか。

 

「ふ、ふは。あははははははは!」

 

 心底楽しげに笑いながら、継実はついに枝から飛び降りた。自由落下になんて任せてられないと、周りの空気を操りジェット推進で超音速まで加速までして。

 地上で待っている家族の下へと、沸き立つ感情のまま大急ぎで帰還するのだった。



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横たわる大森林06

 大きな口を開けて、がぶり、と齧り付く。

 瞬間、口の中に広がるのは強烈な酸味。しかしその強い酸味に負けない、いや、むしろ打ち負かすほどに強い甘味が舌に纏わり付いてくる。

 噛めばしゃきしゃきと心地良い音が鳴り、鼻を突き抜ける香りが断面より溢れ出す。染み出す汁はジュースのように喉を潤し、一瞬で疲労感を吹き飛ばした。胃から腸へと流れ、即座に吸収された糖質によりどんどん身体に活力が戻っていく。

 至福。本当はこんな言葉では例えられないほどの幸せを味わっているが、人間の言語能力ではこう表現する他ない。

 故に、

 

「うみゃあぁぁ~いぃぃ~」

 

 ()()()()()()()()()継実は、その顔をでろんでろんに弛めてしまうのだった。

 

「ほんっとうに美味しいです! これが地球の果物なんですね! 糖質の甘さが身に染みますぅ~!」

 

 同じく満面の笑みを浮かべ、アケビの実をぱくぱくと食べるミドリ。継実はミドリと目を合わせ、同時にこくこくと頷き、笑い合う。

 オオスズメバチという暴君の襲撃を受けた継実だが、あの可愛らしい捕食者は樹冠より外までは追ってこなかった。

 恐らく効率的な狩りを優先するため、獲物が一定範囲より外に出たら襲わないという『決まり』があるのだろう。実に合理的だ。樹冠部分に果物の楽園がある限り、サルや鳥は何時だってやってくる。襲われるリスクがあろうとも、強靭な外皮を持つ虫や、途方もない強さを持つ獣を襲うよりは安全に食べ物を得られるのだから。

 お陰で継実は大量の果物を、難なく仮拠点であるクヌギの洞まで持ち帰れた。今はみんなで果物パーティーの真っ只中。七年ぶりの甘さに、継実の脳はすっかりやられている。

 

「そんなに美味しいもんかしらねぇ、これ」

 

 唯一冷静なのは、肉食獣であるモモだけだ。彼女の手には柿が握られ、一口食べただけで止まっている様子。言葉通り、あまり美味しいとは思っていないらしい。

 

「美味しいですよ! 果物はどの文明でも嗜好品の一つになるぐらい、素晴らしいものですから」

 

「ふーん。宇宙にも果物ってあるんだ」

 

「栄養価の高いもので動物を引き寄せ、次世代を遠くに運んでもらうというのは有効な戦術ですからね。動けない生物は子孫を残す上で、このような形質を獲得する傾向が強いのです。自走する植物なら、そういう戦術はいらないので発達しませんけど」

 

「自走する植物ってヤバくない? そんなの見たら腰を抜かす自信があるわ」

 

「核融合炉並の発電能力を持つ小型生物に比べれば、遥かに常識的ですけどねー」

 

 わいわいと話し合う中でも、モモは柿に手を付けない。やはり、肉食動物に果物の味は合わないようだ。

 

「ほれ、モモ~。リンゴの皮」

 

「ぱくっ!」

 

 ……それでも継実(人間)が手に持って渡そうとすれば、条件反射的に食べてしまうようだが。食べた後モモは我に返るが、顔を顰めたり、吐き出そうとしない辺り、美味しさが分からないだけで嫌いではないのだろう。

 

「はぁー。まぁ、私はもういいや。二人で満喫しといてー」

 

 それでもやっぱり食指は働かないようで、モモは座る継実の傍に仰向けで寝転ぶ。お腹をわしわしと撫でると、「ぐぇへへへへへ」と幸せに笑いながらぶっさいくな顔になった。ひっくり返ったまま脱力した結果歯茎が剥き出しになった、犬のようである。

 可愛らしい家族の声をBGMにしながら、継実とミドリは食事を続けた。しゃくしゃく、しゃくしゃく。爽やかな音が洞の中に響く。

 

「……ありがと、ミドリ」

 

 その中でぽつりと、継実はミドリに感謝を伝える。

 独り言のようにも聞こえる言い方だったからか、ミドリは最初キョトンとしていた。少ししてお礼を言われたと気付いたようだが、今度は首を傾げてしまう。

 

「えっと、あたし何かしましたっけ?」

 

 考えてみたものの心当たりがなかったのだろう。ミドリは淡々と聞き返してくる。

 実際、ミドリが継実に対して何かしたかといえば……恐らく、ミドリ自身にそんな自覚はないだろう。ミドリとしては思い付きを語っただけであり、継実を励まそうとした訳ではない。継実自身、そう思っているぐらいだ。

 しかしそれでも継実が感謝している事実は揺らがない。

 彼女が最後まで諦めずに食べられるものを探してくれたから、こうして希望が繋がったのだから。

 

「……果物の事、考えてくれた。お陰で私達はお腹いっぱい。そのお礼だよ」

 

「え? そんな事ですか? いや、むしろお礼はあたしの方が言うべきでしょう。こんなにたくさん果物を採ってきてくれた訳ですし」

 

「うん。そうなんだけど、ね」

 

 濁すような曖昧な言葉で、継実はミドリに肯定と否定を示す。

 ミドリがその果物という案を出してくれるまで、継実はかなり諦めの状態にいた。生きる事まで諦めてはいないが、死んでも仕方ないと考えていたし、それどころかミドリとモモを安全な場所に送り届けるためなら死んでも構わないとすら考えていた。

 何がなんでも生きていたいと思うのと、いざとなったら死んでも良いと思うのには雲泥の差がある。もしも勝つか負けるか五分五分の強敵が現れた時、意地でも死んでやるものかと考えるのではなく、()()()()()()()()()()()()()()()()と考えたなら……本来ならなんとかなったかも知れない危機で死んでしまうかも知れない。

 ミドリが提示した可能性は、継実に希望を与えた。この鬱蒼とした森の中でも生きていく術があるのだと、まだ諦めなくても良いのだと、教えてくれたのだ。

 だからミドリは命と心の恩人。その恩人にお礼を言わないほど、継実は薄情ではないのである。

 

「うーん、あたし的には旅が楽しいので、少しでも続けられるようにと考えただけなのですが……」

 

「いいのいいの。感謝なんて結局一方的なもんなんだから」

 

「そーですかねぇ?」

 

 ミドリは納得出来ていないようだが、今し方話したようにこれは継実の勝手な気持ち。納得出来ないのも無理ない事である。

 ミドリの方も釈然とはしないが、感謝されて悪い気もしないだろう。じゃあそれでいいやと、特に追求もしてこなかった。

 

「ま、それならそれで良いですが……ところで果物で栄養はたっぷり取れましたけど、どうですか? すぐに移動を始めますか?」

 

「ん? うーん……」

 

 ミドリに問われ、少し考え込む継実。

 ミドリが言うように、果物をたくさん食べた事でエネルギーは賄えた。疲労はすっかり回復し、戦いは問題なく行えるだろう。

 だが、これでは駄目だ。

 

「……エネルギーは十分だけど、足りないものがまだある」

 

「足りないもの、ですか?」

 

「うん。タンパク質が足りない」

 

 腕を曲げて力瘤を作りながら、継実は首を傾げるミドリにそう答える。

 現在、継実の身体はかなり『縮小』している状態だ。というのもハエトリグモに片脚の膝から下を奪われ、野犬とクマの攻撃で腕の肉を、アリの猛攻とモモの電撃で全身の肉をかなり喪失したから。食い溜めしていたので森突入前は五十キロ超えの体重があったのに、今の継実の体重はたったの三十五キロほどしかない。果実によりエネルギーは充填しても、アミノ酸が足りなくて身体の再構築は叶わなかった。

 体重は重要だ。巨大な生物ほど肉体的な力が強いように、フィアのような一部の例外を除いて、ミュータントの力も体重によって出力が増大していく。つまり森突入前と比べて七割まで体重が減少した今の継実は、どう頑張っても七割の出力しか出せないという事。いくらエネルギーが満タンでも、力不足では倒せない敵が多くなる。

 元の力を取り戻すにはしっかりとした肉体を作る必要があり、故に肉体の材料であるタンパク質の摂取が必要だが……タンパク質が豊富な食べ物とはつまり、動物である。果物にも少しは含まれているが本当に微量で、例えばリンゴの場合百グラム当たり〇・二グラムしか含まれていない。鳥肉ならば(部位にもよるが)百グラム当たり十六・三七グラム。鳥肉百グラム分のタンパク質を得るには、リンゴを八キロ以上食べねばならないのだ。

 付け加えると人間の身体を作るタンパク質は、二十種類のアミノ酸から作られている。アミノ酸の種類はいわば『建材』の種類であり、土だけでも木だけでも鉄だけでも家が建たないように、一種類のアミノ酸だけ大量に取っても他のアミノ酸の代用は出来ない。そのため食品のタンパク質に含まれているアミノ酸のバランスが大事なのだが、動物の肉には当たり前だがこれらのアミノ酸が全て十分に含まれているのに対し、植物であるリンゴのアミノ酸のバランスは肉ほど良くないのが実情。他の食べ物との組み合わせで多少は補正出来るが、大人しく肉を食べる方が遥かに健康的で尚且つ楽だ。

 草食動物なら兎も角、人間は果物だけいくら食べても肉を作れない。元の強い身体を取り戻すには、どうにかしてこの森に棲まう強大な動物を狩らねばならないのである。

 一難去ってまた一難。しかしながら今は大分余裕がある。エネルギーだけなら十分に補給出来た事で、取れる手段が増えたからだ。知恵を働かせれば、何か良い案が浮かぶかも知れない。

 例え自分には思い付かなくとも、その時は家族に頼れば良いのだ。ほんのついさっき大活躍だったミドリのように。

 

「モモ、何かアイディアある?」

 

 そんな想いと共に、一番長い付き合いの家族に継実は尋ねてみた。

 

「ふがっ!?」

 

 モモの返事は、可愛い顔の女の子がするようなものではない呻きだった。

 ……どうやらお腹を撫でられているうちに、幸せのあまりうたた寝していたらしい。犬としては実に可愛らしい、が、この犬は人間並の知性と姿がある。

 話を聞いていないお仕置きとして、継実はモモのほっぺたを引っ張ってやる事にした。尤も体毛で組まれた身体の頬を引っ張ったところで痛みなんてないし、むしろ構ってもらえるのが嬉しいのかモモは尻尾をぶんぶん振っていたが。

 比喩ではなく可愛がった後、ぱっと手を放してモモを自由に。解放されたモモはキョトンとしていて、最初から話さねば駄目な様子だった。

 

「あー……モモ。アイディアがあれば訊きたいんだけど」

 

「アイディア? なんの?」

 

「私の身体、今までの戦いで結構やられて、かなり体重が減ってる状態なの。果物のお陰で体力は回復したけど、タンパク質がないから体重は元に戻っていない。何か、良いタンパク源はない?」

 

 試しに訊いてみるが、継実はあまり期待していない。モモの事が信用出来ないという訳ではなく、元々簡単に解決出来る問題ではないと思っていたので。

 

「一応あるわよ。多分だけど」

 

 ところが此度のモモは継実の期待に応える。

 ある意味『期待』していたのと違う答えに、継実はぽかんと呆けてしまった。

 

「……え。あるの?」

 

「一応よ、一応。臭いがしたから、個人的には確信してるけどね」

 

「どんな食べ物なんですか? あんまり強くない相手なら、あたしもお手伝い出来ると思うのですが」

 

 呆気に取られて上手く言葉が続かなかった継実に代わり、ミドリが疑問を言葉にする。

 我に返った継実は、そのままモモの言葉に耳を傾けた。自分では良い案が思い付かなかったのに、モモはあまりにも簡単に答えてみせる。ミドリが果物という名案を出した時のように、何かとびっきりの名案が出てくるのではないかと期待して。

 しかしその考えは、一瞬で疑念へと変わる事となる。

 モモが信用出来ないのではない。突拍子のない案を出してきたとか、夢物語を語ったとか、明らかな嘘があるだとか……そんな事は一切なかった。

 されど人間というのは難儀なもので。

 

「大丈夫よ。栄養があってすっごい美味しいけど、それ自体は滅茶苦茶弱いから」

 

 『美味しい話』を訊くと、ついつい訝しんでしまうものなのだから。



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横たわる大森林07

 美味しい。

 栄養満点。

 弱い。

 ある種の生物がこの三つの条件を満たしているかどうかは、その種を『食べ物』とするためには重要な観点である。どんなに美味しくでも百グラム一キロカロリーもないようなものをいくら食べても腹は膨れないし、どれだけ栄養満点でも巨大怪獣みたいな存在では逆にこちらが食べられてしまうし、どうしようもないぐらい弱くても吐瀉物や糞便のような味では口にすら出来ない。

 文明全盛期(七年前)の人類は作物や家畜の品種改良をよく行ってきたが、その改良は主にこの三つを良くするため。美味しくて栄養があり、怪我をする心配がない生物達を作り出して、たくさん増やした。これにより人間は大量の食糧を獲得し、繁栄したと言えよう。

 が、そうしたものは自然界では生き残れない。みんながこぞって襲い掛かり、あっという間に絶滅するからだ。人間の保護があってこそ、美味しい農畜産物は生存出来る。

 ましてや、この生存競争の苛烈な森の中に棲まう事など出来るのか?

 

「……どういう事?」

 

 到底信じられない継実は、思わず家族に疑念を示してしまった。

 とはいえモモは気にも留めず。むしろ自慢げに胸を張ってみせる。

 

「そのままの意味よ。アレなら弱いし、美味しいし、タンパク質もたっぷり取れる。今の私達には理想的な食材ね」

 

 モモは臆面もなく語り、継実はその自信に気圧されて少し身動ぎ。

 正直、胡散臭い。モモとミドリ以外の誰かがこんな話をしたなら、速攻で嘘だと判断しただろう。

 けれどもモモがこんな嘘を吐くとは思えない。それは彼女と自分の間に嘘などないから、という信頼だけでなく、『野生動物』であるモモがなんの益もない嘘を吐く訳がないという確信があるからだ。

 モモへの信頼と、逆説的な確信。この二つがある継実には、どれだけ疑念があろうともモモに反対する理由なんてない。

 

「……うん。そんなのがあるなら、食べておきたい」

 

「あたしも継実さんの意見と同じです」

 

「OK。なら早速行きましょ……あ、そうそう。一応それ自体からの反撃は心配ないけど、危険がない訳じゃないから警戒は弛めないでよ。それと、私の代わりに警戒はちゃんとしといてね」

 

「え? 危険? というか警戒って」

 

 モモの言い回しの意味が分からず首を傾げてしまう継実だったが、モモは説明もせずにいそいそと洞から出る。

 捕まえてちゃんと話を聞く、という選択肢もあるが……恐らくモモはそれよりも時間を惜しんだのだろう。つまり問答している暇はないという事。モモを信じる継実はミドリと共に辺りを警戒しながら外へと出て、モモの後を追う。

 モモはくんくんと、頻繁に臭いを嗅ぎながら草むらを掻き分けて歩く。しかし近くに敵が潜んでいるかを確認してる訳ではない。まるで道標を辿るように、モモの歩みは淡々と進んでいるからだ。件の食べ物を探すために、臭いを辿っているのだろう。

 継実も粒子操作能力を応用すれば、大気中の臭い分子を補足・解析する事が出来る。つまり継実の嗅覚は人間など比較にならないほど優れているが……それで分かるのは科学的な組成まで。臭いが何を意味しているかは、自分で論理的に考えねばならない。考え間違いをする可能性も高いし、そもそも知らない臭いだとよく分からなくなる。対してモモは犬としての経験から、臭いに対する様々な知識を持つ。脳神経に回答が刻まれているがために判断は素早く、正確で、しかも全くの未知に対しても大凡の見当を付けられる。故に『嗅覚』は継実よりモモの方が圧倒的に優れているのだ。

 反面嗅覚に意識(演算力)を持っていかれるので、他の事が疎かになりがち。

 モモが自分達に警戒を任せた理由を察し、継実はミドリと共に周りの様子を窺った。継実の索敵能力は、索敵特化のミドリと比べれば酷くお粗末なもの。しかし得手不得手があるかも知れないのだから、ダブルチェックは重要だ。ミドリに任せず、継実も警戒心を最大限に高める。

 

「(……なんだろう? 妙に静かなような……)」

 

 そうして周りを観察していたからか。ふと、継実は違和感を覚えた。

 生物の気配がどんどん感じられなくなる。

 勿論今までも、そこら中からひしひしと感じていた訳ではない。森に棲まう生物達は非常に慎重で、天敵や獲物に見付からぬようひっそりと息を潜めていたのだから。

 しかしそれでも足下付近だとか、今正に獲物を襲っている、或いは襲われているような生物なら、その存在を強く感じ取れた。至近距離なら流石に気付くし、そもそも隠れるつもりがないような生物なら捕捉は簡単なのだ。ところがモモが先に進めば進むほど、そんな数少ない、感じられる気配が着実に少なくなっていく。

 これが局所的なら偶々だと笑い飛ばせたが、右肩下がりのグラフのように等間隔で変化していくとなれば……流石に無視する訳にもいかない。

 

「(何か原因があるとしたら、モモが言ってた食べ物? 確かに危険はあると言ってたけど、でも反撃される訳じゃないとも言ってたし……)」

 

 中途半端に心当たりがあるからか、妙に色々な考えが浮かんでしまう。こんな事なら簡単な説明ぐらいは聞いておくべきだったかと、数十秒前の自分を窘めたくなった。

 

「しゃがんで。これ以上普通に近付いたら、多分気付かれる」

 

 そんな継実であったが、モモの一言を境に意識をすっぱり切り替える。何に、とは訊かない。生きるか死ぬかの大勝負がすぐそこに迫ったのだと分かれば十分。

 しゃがみ込んだモモは腰を落とし、高さ三十センチほどしかない草丈の中で四つん這いの姿勢を取る。生身の人間にはキツい体勢だろうが、体毛で編まれたモモの身体にとってはなんの苦でもない。まるでトカゲのように、モモは草むらの中を四つん這いで進む。

 継実も同じく身を伏せる。本当はモモのようなトカゲ歩きが良いのだろうが、『超能力者(ミュータント)』といえども人である継実にあの体勢は辛い。仕方なく匍匐前進で進む。草むらを掻き分ける音が鳴らないよう、大気分子の動きをコントロールするのを忘れずに。

 ミドリはわたふたしながら伏せ、不格好な匍匐前進をしていた。正しく素人がするような、イモムシの行進みたいな動き方。継実がそれとなく、音が鳴らないようフォローしておく。

 茂みの中には無数の蚊が居て、継実達の血を狙う。本当は粒子スクリーンを展開したいが、何が起きるか分からない中で余計な挙動をするのは自殺行為。多少吸血されるのは我慢する他ない。

 

「ストップ」

 

 しばし進んだところ、モモから停止の呼び掛けがある。声によるものではない。体毛の一本を伸ばして継実達の耳に差し込み、震動させる事で発した音を直接伝えているのだ。

 これはモモが声をどうしても潜めたい時、出したくない時に使う技。フィアと戦う前にも披露したものだ。継実は言われるがまま動きを止め、ミドリもぴたりと止まる。「継実、ちょっと来て」というモモの要請が来たので、継実は慎重にモモの傍まで這っていく。

 モモは茂みに身を隠したまま、草と草の隙間から覗き込んでいた。つまり自分達が隠れている草むらの『外』には、開けた空間があるらしい。

 継実はモモと同じように、茂みの外を見つめてみる。

 

「(! アイツは……)」

 

 思わず声が出そうになる口をきゅっと噤み、継実はモモが見てるであろう存在を注視した。

 草むらを移動していた時のモモのような四つん這い、身体の半分はあるだろう長い尾、鱗に覆われた五メートル近い身体……いずれも、ほんのついさっき見たばかりの特徴だ。よもやこんなところでまた会うとは、継実は思いもしなかった。

 森の中を逃げ回っていた時に出会った大トカゲ。

 自分を食べないでくれた生き物が、モモの見ている先に居たのだ。

 

「アイツよ、私が狙っている食べ物を持っているのは」

 

 そんな恩ある生き物から、モモは食糧を奪おうとしている。

 何を言ってるんだコイツは、と継実は思った。

 ただし恩を仇で返す事への罪悪感、なんてものはない。罪悪感なんて野生で生きる役には立たないのだから。もっと合理的な理由である。

 

「いやいや、勝てる訳ないでしょ。あんなデカブツ相手に」

 

 相手の方が明らかに格上の戦闘力を有するからだ。

 勿論あの大トカゲがどんな能力を持っているか、継実には知りようもない。しかし体長から推測される体重は凡そ四百キロ。継実の目による観測では五百キロ前後あるだろうか。体重差からして、自分達三人が挑んだところで勝ち目などない。泥棒をするにしても、腕の二~三本は覚悟しておくべきだ。どんな食べ物かは分からないが、余程のものでなければ割に合わない。

 故に継実は思わず、小声とはいえ言葉を発してしまったのだが。

 

「ちょ……喋っちゃ駄目よ!」

 

 何故かモモは必死な言い方で止めてくる。

 なんで? と思う継実だったが、答えはすぐに明らかとなった。

 大トカゲがこちらへと振り向くや――――駆け足で逃げ出したからだ。まるで()()()()()()()()と言わんばかりに。

 

「……もう良いわ。喋っても」

 

 モモは頭をぽりぽりと掻きながら、茂みから立ち上がる。

 あたかもそれが合図であるかのように、森の中に気配が戻る。勿論早々感じ取れるものではないが、感覚的に森全体の存在感が増したように継実は思う。

 とりあえず、自分がまたやらかしてしまった事は間違いないと継実は察した。

 

「……ごめんなさい」

 

「別に気にしなくて良いわよ? 急いではいたけど、まだその時じゃなかったし。それに説明を省いていたし、私の言い方も悪かったわ。あとミドリ、もう隠れなくて良いわよ」

 

「ぷはぁっ! あ、はい……はふぅ」

 

 モモが改めて許しを出して、ミドリはがばりと立ち上がる。どうやら息も止めていたらしい。息を潜めるってそういう事じゃないでしょ、とツッコミを入れたくなる継実だが、ミドリの頑張りを無下にしたのも自分なので何も言えなかった。

 猛烈な自省はしつつも、しかし未だ何がいけなかったのか継実には分からない。モモが何をしたかったのかが分からなければ、改善のしようがないだろう。

 

「ねぇ、モモ。あの大トカゲをどうしたかったの?」

 

「んー……あの大トカゲ自体はどうもしないというか、出来れば避けたいところね。でも食べ物はアイツが持ってるわ」

 

「つまり、強奪する?」

 

「ええ。アイツが食べ物を落とした後にだけどね」

 

 モモの話に、継実はますます困惑する。食べ物を落とすとは? それに強奪するにしても、やはり勝ち目なんてない相手ではないか。

 継実と同じく疑問に思ったのか、ミドリも不思議そうに首を傾げた。そしてモモには勿体振るつもりなどない。戸惑う継実達に、彼女はさらりと話してくれる。

 全てに合点がいく説明を、たった一言で。

 

「アイツ、産卵間近なのよ」



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横たわる大森林08

 卵。

 サバイバル知識に詳しくない者――――それこそ齢十歳の小娘に過ぎなかった七年前の継実でも、自然界で取れる食べ物として安全かつ高栄養価のものとして思い付くものだ。実際には両生類や魚類の卵には有毒なものがあるし、鳥の卵にしても糞の通り道(総排出口)から捻り出される関係上衛生面でも安全とは言い難いが……しかしながら栄養価については満点だ。何しろ新しい命を作り出すほどのものが詰まっている。それに殻の内側はとろとろとした柔らかな代物であり、頑強な顎も特別な能力も必要ない。痛いと騒ぎもしないし、殴り返される心配も無用。

 正しく理想の食べ物だ。そう、卵単体で考えたなら。

 

「……流石に、危険過ぎない?」

 

 大トカゲの卵採りを提案したモモに、継実はそう意見した。

 森の中を慎重に、再び這うような低姿勢で、継実達は進んでいる。今はモモの嗅覚を頼りに大トカゲを追跡中。まだ距離があるとの事なので、こそこそ話ぐらいは出来る状態だ。

 それでも周りに居るかも知れない外敵や、進む先に居るであろう大トカゲに聞かれる可能性を考慮すれば、小声にならざるを得ない。継実は粒子操作能力で声の飛び方を絞り、モモは体毛による伝達を用い、ミドリが脳内物質制御を使う事で音を立てないようにしていた。

 

「まぁ、ちょっとは危険かもねぇ」

 

【そう、ですよね。産んだ卵を奪おうとすれば、母親からの反撃もありますよね】

 

 モモは継実の意見をあっさりと認め、ミドリも納得しながら自身の考えを述べる。

 ミドリが言うように、母親からの反撃は真っ先に想定される事態だ。大トカゲは恐らくカナヘビから進化したミュータントで、子育てをする性質などは持ち合わせていないだろう。だが、目の前で卵を食べられても気にしない、なんて筈がない。自分の卵を食べる輩を放置するのは、生存上『適応的』でないからだ。産んだ傍から持ち出そうとすれば、恐らく大地を割らんばかりのパワーがあるだろう尾で叩かれるに違いない。

 とはいえ、じゃあ守りが堅牢かといえば……それもないだろうと継実は踏んでいたが。

 

「いや、母親からの反撃はそこまで怖がらなくて良いかな。産んだ傍から取ろうとすれば別だけど」

 

【へ? なんでですか?】

 

「守ろうとするより、次の卵を産んだ方が手間がないから」

 

 疑問に思うミドリに、継実は声を潜めながら説明する。

 人間的には、母親というのは赤子を命懸けで守るものだという認識があるだろう。

 が、実際には赤子をそこまで必死に守る母親は少ない。例えばテントウムシは、産んだ卵の近くにアブラムシがいない場合、その卵を食べてしまうという。アブラムシがいなければ生まれた子供はどうせ餓死するので、食べて次の卵の栄養にする方が合理的だからだ。他にもスズメバチに襲われた時のアシナガバチは、幼虫をスズメバチに差し出す事で巣の全滅や女王の喪失を回避する。

 結局のところ自然界で生き残るのは、愛情深さでもなければ個々の幸福の度合いでもなく、次世代を確実に残せるか否かである。故に子を守るメリットよりも犠牲にするメリットが上回れば、そうした行動を取る生物の方が適応的であり、世にはばかるという事だ。

 そしてミュータントにおいて、子供の命はとても軽い。

 生態系の最下層である植物がミュータント化により、驚異的な生命力と成長性、冬でも成長するタフネスを得て、大量の食糧が常に供給されるようになった。結果、継実達が冬でも食べ物に困らなかったのと同じく、草食動物も肉食動物も餌に困らなくなる。栄養状態が良くなればたくさんの子供を産めるようになるし、冬も夏も関係なく餌があるのだから時期も選ばなくて良い。

 そのためミュータント化した生物は、今までよりもたくさんの子供や卵を産めるようになった。

 ある生物種が途絶える事なく世代を続ける条件は実に簡単だ。親と同じか、それ以上の数が生き残れば良い。そして産まれる子供が増えたという事は、子供がミュータント化以前より多く死んでも世代の継続には問題ないという事。つまり()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のだ。

 無論これは積極的に子を守らないという意味ではない。しかしコストやリスクを天秤に乗せた時、『守らない』という選択の方が得になる事が以前よりも多くなったのは確か。よってミュータントの母親は天敵から命懸けで我が子を守るより、見捨てて次の子を産む傾向が強いのだ。

 

【……そりゃ、生き物の世界が綺麗事で成り立たないのは分かっていますけど、そんなの赤ちゃんが可哀想です】

 

 それでも知的な宇宙人には納得し難いようで。

 七年間ミュータントの生態系で生きてきた継実では、最早何も思わないところ。今や宇宙人の方が生粋の地球人よりも人間らしいなんてと、継実の顔に乾いた笑みが浮かんだ。

 

「じゃあ、卵を食べるのは止めとく?」

 

【いえ。残虐で無慈悲な生き物達に食べられるより、あたし達のような理性ある生き物に感謝されながら食べられる方が卵も幸せというものです】

 

 だからといって、食べないという選択肢はないようだが。母親や卵からしたら誰が食べても同じでしょ、という至極真っ当なツッコミを入れたところで考えを改めはしないだろう。人間らしさなど、三大欲求の前では霞のように消え失せるのである。

 

「ま、継実が言うように大トカゲ自体はそこまで問題じゃないわ。本当の問題は別にあるのよ」

 

【? どういう事ですか? 親が守らないなら、取り放題だと思うのですけど】

 

「取り放題だから厄介なのよ。むしろ親が守ろうとする方が余程マシかも」

 

【んー……?】

 

「つまり――――待って」

 

 首を傾げるミドリに説明しようとするモモだが、不意に声を潜めて継実達を制止する。

 継実もミドリもぴたりと動きを止めた。ミドリは口と鼻を手で塞ぎ、息まで止めている。だからそっちは止めなくて良いって……そう言いたかったが、()()()()はしたくない。仕方ないので継実は大気分子を操り、ミドリの鼻から直接酸素を流し込み、口から二酸化炭素を排出させておく。

 しばらくは持つであろう呼吸を整えてから、継実はモモの顔を見遣る。モモはこくりと静かに頷き、ひっそり、こっそり、動き出す。

 モモの後を追いながら、継実は周りの気配に注意する。随分と生き物の気配が消えていたが、それは周りに命がいない事を意味しない。そこにいるという確信はなくとも心理的緊張は増していく。

 それでも継実は前へと進み……モモと同じ位置で止まった。もぞもぞ動きのミドリも、遅れて継実達の後ろに着く。

 モモはゆっくりと腕を伸ばし、慎重に眼前の草を掻き分けた。継実も能力により音を消しながら、同じく草を掻き分け、自分の辿り着いた場所を目視で確認。

 特別な場所ではない。周りには大きな木が立ち並んでいるし、暗闇の中にも関わらず大きな草が生い茂っている。強いて言うなら、半径十メートルほどの領域には木が生えておらず、他の場所よりも気持ち開けている事ぐらいか。

 そんな有り触れた場所に『彼女』――――大トカゲは居た。

 

「……シュルルルゥ……シュルルルゥ……」

 

 大トカゲは苦しそうな吐息を吐きながら、忙しなく辺りを見回している。身動ぎ、というよりうろちょろと歩き回っているが、継実が認識した半径十メートルほどの開けた領域からは出ようとしない。

 恐らくあの大トカゲは産気付いている。

 しかも相当切羽詰まった状態らしい。落ち着きのなさから継実はそう判断した。恐らく本当は先程継実達と『再会』した場所で産卵したかったのだろうが、継実(天敵)がいたので逃げるしかなく、だけど次の場所を見付ける前に限界を迎えてしまったのだろう。

 これは好機と継実は考える。出産や産卵はただでさえ体力を多く使うのに、良い場所を見付けられずに我慢しているとなれば更に消耗は激しくなる筈。どうせ真面目には子供を守らないと踏んでいるが、体力を消耗していれば更にその傾向は強くなる。母親の体力が乏しい状態は、襲う側からすれば非常に好ましい。

 これなら思いの外簡単に卵を奪えるかも、と期待で胸が膨らんでくる。

 ――――ただ、違和感も同じく膨らんできたが。

 

「(なんでコイツ、あんなに焦ってるの?)」

 

 ミドリに話したように、生物にとって子供とは必ずしも大切に守るべきものではない。よりたくさんの子供を産めるようになったミュータントは、更にその傾向に拍車が掛かっている。

 出来るだけ安全な場所に産み落とす方が良いのは確かだ。しかし、そこまで必死になる価値があるのか? 産んだところでどれだけ生き残るか分からないし、激しく消耗した今この時獰猛な肉食獣に出会えば自分の命が危ない。今回の卵は適当なところで産んで、次回に賭ける方が『合理的』ではないか。

 考えれば考えるほど、違和感の膨らみ方は加速していく。何か、自分達は大きな判断ミスをしているのではないか。そんな予感がしてきた。

 が、継実の不安はやがて消え失せる。

 大トカゲの動きが止まった。諦めたような、或いは身体に力を入れ直すためか、深く熱い息を吐き……後ろ足でがりがりと地面を蹴り始める。ミュータント化した植物に覆われた地面であるが、大トカゲの後ろ足は難なく掘り進めていった。

 そうしてある程度の深さが出来た穴に、大トカゲは腰を下ろす。そのまま傍目にも分かるぐらい全身を強張らせ、振るわせ、息む。

 ついに、産卵が始まったのだ。



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横たわる大森林09

「シャアァァァァ……ン」

 

 大トカゲが、物悲しそうな声で鳴いた。

 それは産みの苦しみによるものか、間もなく我が子が食べられてしまうという悲しみか、子孫を残せない事への悔しさか。様々な想いを継実は感じたが、哺乳類である自分が爬虫類の気持ちを何処まで理解出来るものかと、自嘲気味に笑う。

 大体大トカゲが本当に悲しみや苦しさを感じていたとして、継実達のやる事はなんら変わらない。大トカゲが産み落とした卵を奪い取り、美味しく頂く……そうしなければ旅を、命を、続けられないのだから。

 

「継実。どのタイミングで出る?」

 

「そりゃ、あの親が巣穴から離れたところでしょ。十メートルぐらい離れた頃が良いんじゃない?」

 

 モモからの問いに、継実は迷いなく答える。勿論声は相手にだけ届くよう、粒子操作で大気分子の震えを制御しながら。

 如何に子への愛が希薄なミュータントといえども、目の前に現れた卵泥棒を見逃すほど無関心ではない。継実達が「どーもどーも」と頭を下げながら接近しようものなら、その頭目掛けフルスイングの尾が飛んでくるだろう。無論継実達の頭も纏めて三つ飛んでいく。

 だからある程度親が離れてからでないと、こっちの命が危険だ。しかしあまりのんびりと待っている訳にもいかないのだが……

 

「シュゥゥゥ……」

 

 意見を交わしている間に、大トカゲは一息吐くような声を漏らす。次いで少し前進すると、後ろ足で土を蹴り、掘ったばかりの巣穴を埋め始めた。

 どうやら産卵を終えたらしい。ミュータントの身体能力であれば、大仕事である産卵もスムーズに行えるのだ。とはいえそれを踏まえても今回はかなり早い方で、継実は少なからず違和感を覚えたが。

 何かが奇妙だとは思いつつ、しかし此処から離れるという選択肢はない。大トカゲが卵から離れるタイミングを、じっと、継実達は辛抱強く待ち続けるのみ。大トカゲが巣穴を埋め終えた時も、そこで一休みを始めた時も、ずっと息を潜めて待ち……

 

【あの。大トカゲさん、移動しませんね?】

 

 ミドリが脳内物質の操作で話し掛けてきた通り、何故か大トカゲは全然動こうともしなかった。

 正直、継実としてはかなり想定外の出来事。ちらりと横目に見たモモも目をパチクリとさせていて、彼女も動揺を見せている。

 ミドリに話したように、ミュータントは子供に執着しない。繁殖力を増した今、それが最も合理的な考え方だからだ。ところがこの大トカゲはその合理性を無視して、何時までも卵の傍に陣取っている。継実に大トカゲの気持ちなど分からないが、見ている限り動く気配はまるでない。

 産卵による疲労が大きいのだろうか? 否だ。星に傷跡を残すほどのパワーで何十分も暴れていられるミュータントが、()()()()()()()()で疲れるなどあり得ない。その産卵もすぐ終わったのだから、難産という事もない筈である。

 なら、産んだ卵を守ろうとしている?

 その可能性が、どんどん高くなってきた。合理的なミュータントは子供に愛情など持たない、が、それは子育てをしないという意味ではない。例えば親鳥が子供に餌を与えるのは、子供が可愛いからやっているのではなく、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()から。子供は腹が減ると口を大きく空け、その色を見た親は虫を突っ込みたくて堪らなくなり、結果子供は腹を満たせる。愛情などなくとも、本能だけで子育ては問題なく出来るのだ。そしてある種の生物が子育てをするのは、それが子孫を残す上で合理的な戦術だからに過ぎない。

 七年前の世界で、ただのカナヘビは子育てをしない生物だった。子供を大切に育てる事にコストを掛けるよりも、ほったらかしという省エネ戦法で生きていく方が彼等にとっては有利な生存戦略だったからだろう。しかし大トカゲになった事で、子育てをする方が有利な状況となったのかも知れない。

 だとすると、大トカゲが産卵場所から移動する可能性は低いだろう。

 

「さて、どうしたもんか……」

 

【しばらく様子を見ますか? 半日ぐらい待てば、トイレとか餌探しで一回離れるかも】

 

「うーん。それが一番簡単だけど、一番やりたくない手よねぇ」

 

「だねぇ」

 

 ミドリの『無難』な意見に、モモは反対し、継実もモモに同意する。確かにもうしばらく待てば、アイツが子育てをするタイプか否か分かるかも知れない。

 だが、あまり褒められる手ではないのだ。

 

【なんで待つのは駄目なんですか?】

 

「だって、孵っちゃうかも知れないでしょ? 生まれちゃったらいくら赤ん坊相手でもちょっとキツいわ。逃げるし、逆襲されると面倒いし、親を呼ばれたら最悪だし」

 

【……孵るって、卵が? そんな、半日かそこらで?】

 

「半日で孵る奴より、十時間ぐらいで孵る奴の方が多いかなー」

 

【短い方に訂正されるの!?】

 

 頭の中で驚きの声を上げられ、キンッとした痛みに継実は僅かに顔を顰めた。とはいえミドリが声を荒らげたくなる気持ちも分からなくもない。

 ミドリが驚く事から察するに、半日未満で孵化する卵というのは宇宙的にも珍しいようだ。確かに七年前の地球でも、そんなに早く孵化する生物なんて殆どいなかった。繁殖サイクルが極めて早いショウジョウバエでも一日掛かる。

 この『早生まれ』はミュータント化の影響だろう。卵は基本的に無防備だ。如何に産卵数が増えても、ミュータントの優れた捕食能力の前では数だけだと生き残れない。捕食者に見付かるよりも早く生まれる事の出来た個体だけが子孫を残せるため、今ではここまで早く孵化するようになった……と考えるのが自然だ。

 

「(つっても、七年かそこらで『進化』なんて起きない筈なんだけど)」

 

 乱獲染みた漁業を数十年間続けていたら、魚が小型化を起こしたという話がある。小さな魚は網の隙間から逃れられるため、その方が適応的だからだ。ある種の研究ではたった四世代で体長が半分ほどに変化したというケースもあるらしい。生物進化というのは、実はごく短期間でも起きる事がある。

 ……が、今まで十日以上掛かっていたものが七年で半日以下になるのは何かがおかしい。身体が小さくなるのは突然変異や障害でそういう個体もいるから不自然ではないが、半日で孵化する卵なんて七年前には何処にもなかった筈。進化というのは、下地も何もないのにぽんぽんと新しい形質が得られるものではないのに。

 ミュータントの進化というのは、どうにも奇妙だ。正直進化というより、元々あった力が一気に解放されたかのような――――

 

「(まぁ、考察はまた今度にしようか)」

 

 知的な遊びに興じたくなるのを我慢。今は生きるために必要な、食事に集中しようと継実は意識を切り替える。

 兎にも角にも、待つというのはあまり良くない。モモが言うように卵が孵化したら色々面倒だ。

 しかし、ならどうすれば良い? もしも本当に子育てをするタイプなら産卵場所から離れる事はないし、下手に刺激すれば五メートルの巨躯が猛然と襲い掛かってくるだろう。そうなったらもう食べ物どころの話ではない。

 何時、どうやって仕掛けるべきか。それとも見切りを付けるべきか。継実は大いに悩んだ。

 そしてそれは()()()()()()()にとっても同じであり――――尚且つそいつは、継実よりも勇気と自信があった。

 

【ん? ……二時の方角の草むらから、何かが出てきます!】

 

 最初に気付いたのはミドリ。

 ミドリの言葉により、継実とモモは正面右側の草むらに目を向ける。次いで大トカゲも気配を察知したようで、継実達と同じ草むらに目を向けた。

 大トカゲに気付かれた事で、最早隠れる必要もないと考えたのか。がさがさと茂みを揺らしながら、そいつは悠々と姿を現す。

 現れたは、カメだった。

 体長一メートルの巨躯と、怪獣染みた強面のカメ。ゾウのように太い手足を持ち、岩山の如く様相の甲羅を背負い、半開きの口から見える舌先にはピンク色の紐状器官が一つある。大地を踏む足は力強く、生える草花を無慈悲に踏み潰す姿は正しく大怪獣のよう。

 これは日本のカメではない。しかし継実はそのカメをテレビで幾度となく見てきた。七年の月日が経とうとも、忘れられるものではない。

 ワニガメだ。しかも七年前と殆ど姿形が変わっていないタイプの。恐らく外来種として日本に定着していた個体がミュータント化し、そのまま繁殖したのだろう。本来ワニガメは水辺に暮らす生き物だが、ミュータント化のお陰で活動範囲が広がったのか、或いは陸地に適応した個体群か。いずれにせよ陸上でも特段苦もなく活動している様子だった。

 

「こりゃまた、厄介そうな奴が出てきたわねぇ……電撃、効くかしら?」

 

「草原にいたクサガメには辛うじて効いたけど、大きさが違うしなぁ」

 

【ど、どうしますか? 逃げた方が良いのでしょうか……】

 

「まだその心配はいらないわ」

 

 すっかり怯えた様子のミドリに、モモが強い言葉で制止する。

 継実もモモと同じ意見だ。まだ逃げる必要はない。むしろこれは好機である。

 ワニガメがどんな能力を持つかは不明だが……恐らく攻撃よりも防御力に優れた能力だろう。攻撃は最大の防御、等と人間は格言っぽいものを言い残したが、そんなのは自然界では通じない。戦闘力を持たない卵を奪うのなら、何人も寄せ付けない圧倒的防御で前進するだけで良いのだ。むしろ攻撃力重視で、反撃してくる大トカゲとわざわざ戦わねばならない方がリスクというもの。

 ワニガメが大トカゲの前に姿を見せたのも、自分の防御力に自信があるからだろう。守りの強さに物を言わせて、強引に突破する算段に違いない。勿論戦わずに済むならその方が良いので、だからこそ今まで隠れていたのだろうが。

 大トカゲは巨大であるが、ワニガメほどの重量感は感じさせない。総合的なパワーではワニガメの方が上だろう。だとするとワニガメが襲い掛かれば、大トカゲは逃げ出す可能性が高い。何故なら自分が死んだらそれ以上の卵は産めないし、負けたら産んだ卵も食べられてしまうから。合理的に考えれば、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 大トカゲがワニガメ相手に逃げ出した瞬間、ワニガメよりも早く卵を奪おう。幸運にもワニガメの足はすっとろそうだ。多分自分達の方が先に卵の下に辿り着ける――――継実が即席で立てた作戦はこのようなもの。

 

「モモ。あのワニガメと大トカゲが組み合ったら、すぐ卵の場所に行くよ」

 

「ええ、私もそうしようって提案するところだったわ……ただ、問題が一つあるわね」

 

「問題?」

 

 モモの言葉に継実は首を傾げる。確かに、問題がないという事はない。ワニガメがあっさり負けるかも知れないし、戦いの余波で近付けないかも知れないし、大トカゲの矛先が何故かこっちに向くかも知れないし、ワニガメがもの凄い速さで動くかも知れないし……可能性はいくらでも挙げられる。

 しかしわざわざ言うほどの問題か? 継実としてはそう思うのだが、長年の家族は違う意見かも知れない。

 意見の相違はいざという時、行動の相違に繋がる。危機的であればあるほど、想定外というのは致命的だ。今のうちに認識合わせをしようと、継実はモモの考えを訊こうとする。

 結論を言えば、継実の行動は全てが後手に回っていた。

 何故なら継実が一言発するよりも、大トカゲが全速力でワニガメ目掛け突進する方が早く。

 まるでそれに呼応するかの如く、森の至る所から『獣』達が現れたのだから――――



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横たわる大森林10

 森の中には無数の生命がひしめいている。

 継実もそれは既に実感済み。数えきれないほどの命を支える巨大樹や、有り余るほどのフルーツだって目の当たりにしてきた。それに過酷な生存競争に適応した結果、森の生物達は隠れるのが上手い。例え気配がしなくても、近くに潜んでいる可能性は非常に高かった。

 ましてや大トカゲが産み落とした卵という、美味しくて高タンパクで安全な食べ物があるのだ。大集結もするだろうし、クマや野犬のような大型肉食獣以外の動物もやってくるだろう。

 だから、今目の前に広がる光景は何一つおかしくない。

 ――――半径十メートルの空間を埋め尽くすほどのカラスの大群や、何百ものヤモリやネズミなどの動物達が一斉に現れたとしても。

 

「いや、やっぱこれおかしいでしょお!?」

 

 等と現実逃避をしてみようとしたが、過酷な自然環境で鍛え上げられた本能は敵前逃亡を許さず。しかと現実を認識した継実は、最早範囲を絞る事も忘れて大声を上げた。

 今まで隠れていた行為を無下にする絶叫だが、既に隠れる事に意味などない。鳥も獣も隠れる事を止め、身を潜めていた場所から跳び出したのだから。

 大トカゲが今まで守っていた、卵がたっぷりあるであろう産卵場所目掛けて。

 

「なんでアンタがビビってんのよ! ほら、さっさと行くわよ!」

 

 ついでにモモも獣達と同じく、動揺はしていなかった。

 

「いやいや! なんでそんなに冷静なの!? 確かに他の生き物が潜んでいるとは思っていたけど、これは流石に多過ぎでしょ!」

 

「臭いから大体の数は分かってたし。むしろ少ないぐらいよ。三~四割ぐらいは様子見を決め込むみたいね」

 

「あと一・五倍ぐらいなんかいるの!?」

 

 モモの語る言葉に継実は気が遠退きそうになる。『この状況』そのものは予想していたが、ここまでの数は考えてもいなかったのだから。

 

【あわ、あわあわあわわわあわわ!?】

 

 ましてやこの状況すら考えてなかったらしいミドリは、脳内通信ですら慌てふためくだけだ。

 

「ほらー、ミドリも行くわよ。早くしないと卵、先に取られちゃうわ」

 

【ま、待ってください! なんですかこれ!? なんでこんな動物達が!?】

 

「そりゃみんな卵を狙ってるのよ、私達と同じようにね。前に話してなかったっけ?」

 

【話してません~!】

 

 情けない声を上げるミドリ。モモはすっかり話したつもりのようだが、継実が覚えている限り、ちゃんと話す事は出来ていなかったと思う。

 これが、卵を奪い取る上で最大の問題。

 同じく卵を奪おうと目論む、『ライバル』との競争だ。美味しくて栄養価満点で安全な卵を、他の動物達が狙わない筈もない。継実達が産卵に勘付いたように、他の動物達の中にも勘付いたモノがいるのは自然な事。大トカゲが産卵するタイミングを、継実達と同じようにひっそりと待っていたのだ。

 親の大トカゲは卵にさして執着しない筈。だから無闇に刺激しなければ特に問題とならないが……ライバル共は違う。ライバル共は獲物である卵を()()()()()()()()()()。継実達のように、或いはそれ以上に空腹で追い詰められていれば尚更だ。

 しかも果物と違い、卵の数には限りがある。恐らく死闘になるだろう。話を聞いていないミドリにそんな覚悟はないだろうが、ある程度予想していた継実は覚悟だけならしていた。

 が、こんな大群は想定外。

 想定外だったので継実の足は止まっていた。継実が動かなかったのでミドリも立ち止まったままで、モモも単独で突っ込むのは危険と感じたのか茂みからは出ない。ある意味継実達は出遅れたのだ。

 ――――端的に言えば、継実達は好運だった。様子見を『意図』して決め込んだモノ達と、結果的に同じ行動を取れたのだから。

 そうでないモノが愚かだったのではない。不運でもない。ワニガメが襲い掛かり、大トカゲが逃げ出す……それが最大の好機なのは間違いないのだから。

 しかし残念ながら此度の問題は『引っ掛け問題』だった。親の状態を見極めねばならないという、そんな引っ掛け。

 

「シャアァァアッ!」

 

 大トカゲは逃げ出さなかった。それどころか立ち上がるや、突撃してきたワニガメに甲羅の上から組み付く。巨体にのし掛かられたワニガメは僅かに動きが鈍るも、この程度の重さなど問題ないとばかりに前進。大トカゲの体躯がどれほどあろうとも、体重ではワニガメの方が上。大トカゲの身体をワニガメはずんずん押していく。

 大トカゲもこの結果は最初から分かっていただろう。そして分かっていた上でやったからには、秘策があるのは当然の事。

 大トカゲは全身の筋肉をぼこりと膨らませた。

 身体が倍の大きさになったのではないか? まるで漫画の敵キャラのような肉体の肥大化をするや、大トカゲはワニガメを更にがっちりと抱きかかえる。すると今まで前進していたワニガメは、大慌てで後退しようと足をジタバタし始めたではないか。

 しかしおかしな事に、ワニガメは後ろに下がれない。

 大トカゲが押さえ付けているのだ。卵の天敵が自ら逃げようとしているにも拘わらず。それどころか大トカゲは二本足で立ち、ワニガメを持ち上げてしまう。鋭い爪の伸びた片手でワニガメの足を掴み、

 ぶちりと、その足を引き千切る。

 

「カッ……ヒュ……!」

 

 足を千切られたワニガメは、反撃をしようとしてか頭をもたげた。しかしその頭も大トカゲは片手で掴み、ぐりんとワニガメの首を三回転。呆気なく捻じ切る。

 

「シャッ!」

 

 更には片腕に力を込めれば、ぐしゃりと甲羅に守られた身体まで砕いて潰してしまったではないか。

 これにはミドリのみならず、継実やモモも驚愕する。確かに大トカゲは五メートルの巨体を有していたが、見た目がカナヘビらしい事もあって非常にスリム。筋肉が膨張した今でも、まだまだ筋肉ダルマと呼ぶには程遠い細さだ。対するワニガメは一メートル程度ながらもガッチリとした体躯を持ち、非常に重たそうな身体付きをしていた。単純な体重差は恐らくそこまでの開きはなく、こんな一方的にやられるというのは想定外。

 大体カメのミュータントはどいつもこいつも頑強だ。頭や手足を捻じ切るだけなら兎も角甲羅を、しかもどう考えても抱え込むのに向いていない構造であるトカゲの腕で粉砕するなど、生半可な力で出来る事ではない。継実が粒子操作の応用で優れた身体能力を持つのとは訳が違う、『特別』を感じさせた。

 恐らくこれこそが大トカゲの能力。身体能力の強化か。しかしだとしても、あまりに強過ぎる。同等の体躯の相手を圧倒するなんて普通ではない。なんらかの『代償』を支払わねばここまでの力は発揮出来ない筈だ。

 或いはフィアのような例外的存在なのかも知れないが、そうだとするとワニガメや小動物達の行動が解せない。もしも大トカゲがこの森の圧倒的支配者なら、ワニガメ達は()()()()()()大トカゲに近付かなくなる筈だ。近付く個体は死に、近付かない個体が生き残るという、ごくシンプルな自然淘汰によって。

 一体コイツはなんなんだ――――継実が考えを巡らせる中、大トカゲはまだまだその目に怒りの炎を燃やし、全身から放つ覇気を強めていく。

 

「シャアアアッ!」

 

 そして仕留めたワニガメの身体を、空飛ぶカラス達目掛け投げ捨てた!

 まるで砲弾のように飛ぶワニガメの身体。躱しきれずに激突したカラスの一羽がバランスを崩して落ちてくる。とはいえ流石はミュータント。飛行のため脆弱な骨格となっている鳥類でも、大砲染みた衝撃で死なないどころか大した怪我もしていない。ふらふらしながらもカラスは地上に降り立った。

 直後、大トカゲが振り下ろした尾っぽの下敷きとなり、カラスは地面の染みとなったが。

 場が一瞬静まり返る。卵を狙っていた動物達が止まり、誰もが困惑した様子を見せていた。

 唯一止まらなかったのは大トカゲ。

 

「シュアアアアアアッ!」

 

 怒りに満ちた咆哮と共に、手近なところで呆けていたヤモリを殴り潰す! ぐしゃりと肉片が飛び散り、鮮血で身体が汚れても大トカゲは気にも留めない。

 近くの誰かが死んで我に返る獣達。逃げるモノも卵を狙うモノもいて、場は一瞬で混沌に満ちた。しかし大トカゲの猛攻は止まない。逃げるネズミを追い駆けて叩き潰し、飛んできたカラスを噛み殺しては吐き捨て、鋭い爪でヤモリをまとめて数匹引き裂いてバラバラに。相手がなんであろうと関係なく、口に入ったモノを食べすらしない。

 あたかも、皆殺しにしてやると言わんばかりに。

 

「ひぇえええっ!? と、トカゲってこんな怖い生き物なんですかぁ!?」

 

 最早脳内通信をする余裕すらないのか、ミドリが生の声で悲鳴を上げた。宇宙人である彼女にとって地球のトカゲは未知の生物。モンスター映画さながらの攻撃性を前にして、恐怖したに違いない。とはいえ怖いながらも、これはこういうものだと『受け入れる』事は出来ただろう。

 だが、継実は受け入れられなかった。

 七年前の世界において、トカゲといえば臆病な動物の代表格みたいなものだ。子供が捕まえようと近付けば、足音一つで素早く石垣の隙間に逃げてしまう。草原にもトカゲは棲み着いていたが、継実が知る限りどれも臆病で、ちょっと近付くだけですぐに逃げてしまう奴ばかり。

 大トカゲは身体が大きくなった事で、そうした性質が消えているのだろうか? だとしてもこの凶暴性は何かおかしい。ミュータントは文明さえ簡単に滅ぼす力を持ち、いざとなれば敵に立ち向かう闘争心の強さがある。しかしながら無闇に殺しまくるような凶暴性はない……そんな虐殺をしたところで『無意味』なのだから。無意味な事はしない方が楽というものである。

 なのにこの大トカゲは暴虐の限りを尽くす。

 卵を守るため? しかしいくらなんでもこの攻撃性は滅茶苦茶だ。まるで卵は一個も渡さないと、命を燃やしているような激しさ。人間の母親であれば子を守るためなら悪魔にもバーサーカーにもなるだろうが、コイツは子育てなんてつい最近までしてこなかった爬虫類。たかが数世代で、子供のためにここまで激烈な怒りを燃やせるようになるものか? いや、それ以前にこんな出鱈目な力を使い続けたらエネルギーがすぐ底を付く。卵を守るためにここまで必死になるのは、進化的にも不適応としか思えない。

 訳が分からない。『常識』で測れない。おまけに大トカゲは見境なく、目に付いた生き物全てを攻撃している。見付かるだけでターゲットになるのなら、此処に居る事自体が危険だ。

 こんな存在からは逃げるに限る。

 思考を目まぐるしく巡らせた継実が至った結論は、逃走。卵が惜しいなんて言っていられない。今すぐ逃げなければ卵どころか命を失いかねないのだから。

 

「継実! ミドリ! 行くわよ!」

 

 ところがモモは継実の考えと真逆の意見を述べる。

 その言葉が言い間違いでも聞き間違いでもない事は、宣言通り前へ、大トカゲの方へと歩き出したモモ自身の行動が物語っていた。

 まさかモモは錯乱しているのか? 最悪の可能性が継実の脳裏を過ぎるも、すぐにそれは違うと理解する。ただしモモの言動によってではなく、周りの生き物達の動きによってだが。

 大トカゲは今も暴れまくっている。筋肉が膨れ上がった以外の身体付きは相変わらずトカゲのままなのに、振り下ろした拳は大地を揺らし、蹴り上げた足は爆風を巻き起こす。暴力の権化としか言いようがない、不条理な力で次々と命を奪う。

 そんな危険な存在から、何故か小動物達は離れようとしない。

 それどころか後ろからこっそり近付いて手から出した謎ビームを当てたり、背中を突いたり、謎の液体を吐き付けたり……『攻撃』までしているではないか。確かに小動物達もミュータントであり、その攻撃の威力は生半可な存在になら有効だろう。だが相手もまたミュータントならば、体重差相応のダメージにしかならない。相性を加味しても、ちょっと血が滲む程度が限度の筈。

 まだ卵が諦めきれないのか――――いいや、そうではないと継実は察した。いくら卵が高栄養の食品であり、親からその卵を奪おうとする以上多少のリスクは織り込み済みとはいえ、ここまで危険な奴に突撃するのは合理的じゃない。ましてや攻撃するなんて、自分が反撃のターゲットになる危険を考えればあり得ない選択肢である。

 逆に考えれば、何かがある筈なのだ。小動物達がここまでなら命を賭けても良いと思えるだけの、何かが。

 

【も、モモさん!? なんでトカゲに近付くんですかぁ!?】

 

「この機を逃す手はないからよ!」

 

 困惑したのは継実だけではなく、ミドリも同じ。しかしミドリからの問いにも、モモは力強く答えた。一片の迷いもない物言いは、継実の考えを裏付ける。

 一体どういう事なのか。改めて考えてみたが、どうにも閃かない。理由が分からないが故に動けず、立ち止まってしまう。

 するとモモは足を止め、くるりと継実達の方へと振り返る。

 犬であるモモだって学習しているのだ。大トカゲを最初に追跡した時、説明が抜けていたから失敗したのだと。だから今度はちゃんと説明してくれる。

 継実のやる気の炎を一発で灯す言葉と共に。

 

「アイツ、寿命が近いわ! ()()()()()()()()()()()()()()()――――仕留められる筈よ!」



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横たわる大森林11

「寿命……?」

 

 モモが告げた言葉を、継実は無意識にオウム返し。予期せぬ単語に思考が一瞬停滞してしまう。

 だが、よく考えてみればあらゆる事柄が繋がっていく。

 どうして大トカゲはさっさと産卵しなかったのか? これが最後の産卵になると察していて、『次のチャンス』を待つなんて出来なかったから。

 産卵がやけに短時間で終わったのは? もう腹の中に卵なんて殆ど残っていなかったのだろう。

 卵の傍から離れなかった理由は? 最後なのだから次の卵を産む準備など出来ず、故にこの卵に残りの時間(人生)を全て投資するつもりだったのだ。

 では、目の前で繰り広げられている虐殺は?

 ――――子供達の敵を一匹でも多く地獄に叩き落とす。その結果寿命を削ったり、強敵に自分が殺されたりしたところで……なんの問題もない。どうせもう自分は長く生きられず、これ以上子孫なんて残せないのだから。

 

「死期を悟ってんのか、相当無茶してるわ。死臭ががんがん漂ってきてるもの。恐らくもう長くは持たないわね」

 

「そんな……じゃあ、あのお母さんトカゲは……」

 

「何がなんでも卵を守るつもりよ。自分が死ぬ、その時までね」

 

 モモの言葉にショックを受けたのか、ミドリは両手で口を覆いながら僅かに後退る。七年前の継実なら、ミドリと同じような反応を見せただろう。母親とは、それほどの存在なのかと。

 だが、今は違う。

 子供のために残りの命を捨て去るとは、正に合理性の極み。そして自分の命すら惜しまない生物は『無敵』だ。恐らくあの大トカゲを止められる生き物なんていない……例えあのフィアであろうとも。

 しかし無敵には時間制限があるのがお約束。モモが言うように、相当無茶をしてるとなれば尚更だ。ならアイツの残り少ない命を削り尽くせば、卵どころか『巨大な肉の塊』まで手に入る。暴れ回る大トカゲ相手に恐れず跳び出す獣達の思惑はそれだ。他種が殺されるのは勿論、例え同種だろうとも、()()()()()()()()()()()。故に徒党を組んで大トカゲに立ち向かう。とびきりのご馳走を手にするために。

 そして継実達だけが『理性的』に大トカゲ(母親)の覚悟を尊重してやる、義務も義理も利益もない。

 

「……みんなで総攻撃ぃ! あの大トカゲの肉と卵で晩餐だぁ!」

 

「そうこなくっちゃ!」

 

「えっ!? 今の流れでそれ言います!?」

 

 相手の弱味に容赦なく付け込む野生動物(継実とモモ)は、数秒と考えずに大トカゲ襲撃を決定した。一番文明的なミドリが何かを言っていたが、最早文明で腹は満たせない。「お肉でお腹いっぱいになりたいかー!」と継実が鼓舞すれば、ちょっと迷った後にミドリは「お、おぉー!」と答える。

 全員の同意を得たなら躊躇う理由などない。継実が先陣切って前へと出て、後ろにモモ、最後尾にミドリが続く形で三人は茂みから跳び出した。

 大トカゲは参戦してきた継実達を、目だけを動かして認識。しかし威嚇をしたり、殴り掛かろうとしてきたり、攻撃をしてくる素振りはない。足下ちょろちょろと動き回り、噛み付いてくるネズミ達を潰すのに気を取られているようだ。

 それでも尾を継実達目掛けて一発振ってきて、とりあえずの攻撃はしてきたが。

 

「モモ!」

 

「任せて!」

 

 合図と共にモモはミドリを抱え、空高く跳躍。近くにあった巨木の幹に捕まり、薙ぎ払うようにやってきた尾を回避する。ミドリとモモは降りず、幹で止まったまま一旦様子見だ。

 継実は伏せて大トカゲの尾を避け、単身で前線に陣取った。草むらの中を走り回るネズミやヤモリに混ざり、小さな生き物達の流れに加わる。彼等と協力して、少しでも早くこの大トカゲを仕留めるために。

 とはいえ事はそう単純にはいかない。

 

「(流石に、ちょっと密度が高い……)」

 

 継実は大トカゲの周りを観察し、状況を正確に把握する。

 大トカゲの頭上にはカラスが飛び交い、草むらの中をネズミやヤモリ達が走り回る。ミドリほど優れてはなくとも、粒子操作能力を使えば継実にも物陰に隠れた生き物を『透視』する事は可能だ。肉眼ではその姿が見えずとも、頭の中で詳細を描く事は出来る。

 周りを走り回る動物達はいずれも、大きさや形は七年前にも見られた、端的に言えば『普通』のものばかり。人間である継実から見れば小さな生き物達である。

 しかしその分数が多い。一種当たり数十どころか数百はいるだろうか。もしも継実が粒子ビームを撃ったり、或いはモモが電撃をお見舞いしたりすれば、間違いなく小動物達も巻き込むだろう。

 別段ネズミやカラスの命が惜しいとは思わない。もしも巻き添えで仕留めたら、ついでに晩餐に加えてやろうとすら思う。だが、一応は協力して大トカゲを仕留めようとしている仲間だ。巻き添えを食らわせて戦力を減らすのは得策ではないし、『囮』が減ればこちらに矛先が向く可能性が高くなる。何より最悪小動物達に敵と認識されて、総攻撃を受けるかも知れない。ネズミの一匹二匹なら兎も角、大群で襲われたら継実などあっという間に食い殺されてしまう。

 恐らく大トカゲもそう読んでいて、だからこそこの中で『最大戦力』である継実やモモを無視している。如何に力が強くとも、手出しが出来なければいないも同然という訳だ。

 その『油断』を付いてやる。

 継実にはそれが得意な家族がいるのだから。

 

「ミドリ! 全力でアイツの頭を引っ掻き回して!」

 

「は、はいっ!」

 

 継実の合図を受け、モモに抱えられたままのミドリが手を伸ばす。

 

「シュウゥッ……!?」

 

 直後、大トカゲが呻きを上げた。

 ミドリの能力による脳内物質の撹乱――――あの大トカゲには通用したらしい。即死しない時点でなんらかの対抗策は施している ― 恐らく身体強化能力の応用だろう ― が、ミドリが抜ける程度の性能だったようだ。

 苦しみ始めた大トカゲに小動物達は一瞬戸惑いを見せるが、すぐに好機だと判断してくれた。ネズミは口から強酸性の液を吐き、ヤモリは手から謎ビームを放つ。カラスが嘴で突けば、大したスピードもなかったというのに鱗が震えて弾けるように割れた。

 大トカゲも尻尾を振り回して反撃してくるが、苦しみながらの攻撃の精度などたかが知れている。ネズミもヤモリもカラスも軽やかに躱してみせた。或いは、もうそんな攻撃にやられるようなのろまは生き延びていないだけか。

 継実ものろまではなく、ふわりとジャンプしてこれを回避。手応えのなさから尾っぽの一撃が空振りに終わったと理解したのか、大トカゲは忌々しげに顔を顰める。

 その顔に鋭い眼差しを浮かべながら、大トカゲはふと頭上を見上げた。

 何処を見ている? ――――ほんの一瞬疑問に思った継実は、次の瞬間最悪の可能性に気付く。反射的に視線を追えば、そこには幹に止まるモモとミドリの姿があるではないか。

 どうやら自身を『攻撃』してる奴が誰なのか、勘付いたらしい。

 

「(フィアもそうだけど、なんでミュータントってどいつもこいつもミドリの能力に対策してるだけじゃなくてこんな敏感なの!?)」

 

 ミドリの力は端的に言えば、脳みそを遠隔操作でぐちゃぐちゃにしてしまう能力。何をどうすれば追跡が出来るのか――――等と愚痴を零す暇はない。

 大トカゲは既に動き出し、苦しみながらもミドリ目掛け突進を始めている!

 

「ちっ……ミドリ!」

 

【は、はい! なんとか足止めを試みます!】

 

 モモは舌打ちと共に逃げ出し、ミドリは更に力を込めて大トカゲを牽制。しかし大トカゲの動きは止まらず、未だモモよりも素早い。

 モモはミドリを脇に抱えながら、十メートル以上の高さを逃げ回っている。トカゲの身体付きは跳躍に向いていない作りだが……超音速を出せる脚力ならば、十メートルぐらいの高さは軽々と跳べるだろう。

 このままでは二人が襲われる。

 

「させるかァッ!」

 

 故に継実は、大トカゲが大地を蹴ったその瞬間に跳び蹴りをお見舞いした!

 五メートルもある大トカゲだ。スリムな体型を考慮しても、推定体重は継実の二~三十倍。力の差も同様だ。

 しかし空中に浮かび上がった今なら、力の差など関係ない。大トカゲに空を飛ぶ力がない以上、空中では踏ん張る事も何も出来ないのだから。

 そして粒子操作能力を持つ継実の力は、かつての三十倍なんてものではない。

 流星が如くスピードのキックで、大トカゲを蹴り飛ばす! 大トカゲは継実の攻撃で身を捩りつつ、反撃のためか四本の脚を振り回した。が、継実は自身の一撃による反作用で、既に大トカゲとは反対方向に自ら吹っ飛んでいる。反撃は空振りに終わった。

 継実の一撃で吹っ飛ばされた大トカゲは大木に背を打ち付け、小さく呻く。尤もその呻きは、叩き付けられた際の爆音に紛れて聞こえやしない。

 単純な破壊力ならば、大トカゲが受けた衝撃はそれこそ隕石の衝突に匹敵するものだろう。七年前なら大量絶滅を引き起こすエネルギー……とはいえ、これで倒せたと思うのは早計だ。こんな攻撃、継実が受ける側だとしても即座に体勢を立て直せる程度なのだから。いくら寿命が近いといっても、こんな程度で死んでくれるほど大トカゲは甘くあるまい。

 しかし甘くないのは継実達も同じ。

 蹴り飛ばした事で周りから小動物達がいなくなれば、もう、遠慮なんていらないのだ。

 

「これでも、喰らえっ!」

 

 継実はすかさず指先から粒子ビームを撃つ!

 叩き付けられた樹木から自由落下で落ちていた大トカゲの胸部を、粒子ビームの閃光が撃ち付ける! 背中に比べれば脆弱であろう胸だが、粒子ビームを易々と弾いていく。されど地上に到達前だった身体は粒子ビームに押され、再び巨木の幹に叩き付けられた!

 

「私の分も受け取りなさい!」

 

 攻撃をするのは継実だけではない。これまで様子見と退避しかしていなかったモモも攻撃に加わる。

 モモが放つ核融合炉級出力の電撃は、大トカゲの全身へと流れていく。大トカゲは大きく目を見開き、大気が震えるほどの大絶叫を上げた。

 どうやら電撃への耐性は左程強くないらしい。無論九百ギガワットの電流をまともに受ければ、『普通』の生物なら一瞬で炭化する。数秒と浴びれば、原形を残しているかどうかも怪しいだろう。悲鳴を上げながらも未だ生きている辺り、なんらかの対処はしている筈だ。それでも、継実の攻撃より効果が大きいのは間違いない。

 

「シュ……ウゥアッ!」

 

 少なくないダメージを受け、余裕がなくなってきたのか。大トカゲは腕と尾を振り回し、継実達の攻撃を振り払おうとする。しかしミドリの能力により痛む頭では、本来の力が発揮出来ない。今まで見せてきたものとは明らかに違う、弱々しく、抵抗というよりも藻掻くような動きが限界だ。

 それでも大トカゲと継実達の力量差は大きく、少しずつだが大トカゲは体勢を立て直していく。

 いずれ大トカゲは粒子ビームを吹き飛ばし、電撃の中を猛進しながら、頭の中を引っ掻き回す輩を一撃で吹き飛ばす。最早確定した未来である。

 継実達三人だけで挑んでいたなら。

 

「キュゥッ!」

 

 一匹のヤモリが、か細くて甲高い声で鳴いた。

 

「キュゥー!」

 

「キュキュッ!」

 

「キュゥ!」

 

 すると周りに居た何百ものヤモリ達が、一斉に鳴き始める。何度も何度も、意思を束ねるように、タイミングを合わせるように鳴き続け――――

 

「「「キュアッ!」」」

 

 最後に一回、大声で吼えながら両手を前へと突き出した。

 直後、ヤモリ達の手から放たれたのは『謎ビーム』。

 白くてもやもやした、光なのか靄なのかもよく分からないもの。速度も光速どころか音速よりも遅く、一見して情けない攻撃である。だが、その攻撃の正体が見えている継実は背筋を凍らせた。

 ヤモリ達はファンデルワールス力を飛ばしたのだ。

 ファンデルワールス力とは原子間やイオン間など、ミクロな世界の間に働く引力・反発力を示す言葉。七年前の世界において、ヤモリはこのファンデルワールス力を利用して壁に張り付いていると解明されている。

 先に述べたようにファンデルワールス力は本来原子間のような、極めて小さな物質の、極めて近い距離の間でしか働かない力。しかしミュータントと化したヤモリ達は、その力を念動力が如く飛ばせるようになったらしい。

 飛ばされたファンデルワールス力は、命中した物体の『引力』や『反発力』を変化させている。つまり一部は圧縮され、一部は反発により離れ合うという事。肉体が部分的に潰され、部分的に引き裂かれる、地獄のような攻撃だ。

 そんな攻撃が全身を包み込めば、もう、苦しいだのなんだのという次元の話ではないだろう。

 

「シャッ……!? ガッ……!」

 

 ファンデルワールス力を受けた大トカゲは呻き、整えようとしていた体勢が崩れる。ファンデルワールス力の波動が消えても、今度は継実の粒子ビームが身体を突き飛ばし、また大木の幹に貼り付けにした。

 攻撃するのはヤモリ達だけではない。

 何百ものネズミ達が隊列を組むや、口から強酸性の液体を吐き出す。液体は粒子ビームや電撃ですぐに気化してしまう程度のものだが、射出速度が速ければ、一部だけでも大トカゲに届く。手足を強酸で溶かし、抵抗する力を奪う。

 大空を飛ぶカラス達も手伝い始めた。カチンカチンと嘴を鳴らすと、回りのものがカタカタと揺れる。震動を感知した継実は、カラス達の嘴が超高速で『震動』していると気付いた。複雑怪奇な共鳴原理により物体を粉砕する能力……それがカラスの力らしい。それを嘴を鳴らす動きにより、共鳴波とでも言うべき形で飛ばしているのだ。

 本来なら直接触れねば大きな効果はないだろうそれも、何十ものカラスが絶え間なく嘴を鳴らせば話は別。共鳴派同士が重なり合い、強い力となって大トカゲの身体を揺さぶる。物体を破壊する力はなくとも、内臓レベルで震動すればその気持ち悪さは如何ほどか。戦う力を削ぎ落とすのもまた、重要な戦術である。

 

「シャ……シャ……ガ……!」

 

 ケダモノ達の猛攻に大トカゲが苦悶の声を漏らす。今までの暴れぶりが嘘のように、動きが鈍い。恐らく、もう体力が底を付きようとしているのだ。

 産卵を終えたばかりの母親に、寄って集って攻撃を仕掛ける。

 人類全盛期ならば、なんと残酷な仕打ちなのかと『社会』から批難もされよう。だが此処は自然界。子育て中の母熊がお腹にたっぷり卵を蓄えた鮭を食い殺し、我が子を引き連れたシャチがオタリアの子供を食べもせずに殺して遊ぶのが世界だ。人間達の上から目線の物言いなど、野蛮な野生動物達には届かない。

 野生の人間である継実も同じ。目の前に居るのは可哀想な母親ではなく、美味しい肉の塊だ。もう少しでこの大トカゲの肉が手に入る。期待に胸を膨らませ、油断してはならないと思いつつも継実は笑みを浮かべ――――

 

「チュウゥゥッ!?」

 

 一匹のネズミの上げた悲鳴が、継実の意識を『現実』へと引き戻した。



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横たわる大森林12

 突如として聞こえてきた悲鳴に、継実は即座に反応して振り返る。

 ネズミの悲鳴だった。無論ネズミが殺されようがどうしようが、継実には知った事ではない。知った事ではないが、されどネズミが悲鳴を上げるような『何か』があったのは事実。

 知らねば不味い。継実の本能は反射的にそう判断しており、そしてその判断が正しかった事をすぐに理解する。

 振り返った先には一匹のネズミと……そのネズミを片脚で押さえ付ける、猛禽類の姿があった。猛禽類の種類には詳しくないが、黒い羽毛に身を包み、お腹の辺りにあるまだら模様から判断するにハヤブサだろうか。

 

「……キィッ」

 

 ハヤブサは掛け声のように鳴くと、ネズミを踏み付けていた足に力を込める。ネズミの身体はぐしゃりと潰れて絶命。その際悪足掻きとばかりに、強酸性の体液を全身から撒き散らした……が、浴びたハヤブサの身体は煙一つ出さない。それどころか強酸塗れのネズミ肉を一つ啄み、特段痛みに苦しむ素振りもなくごくりと丸呑みに。

 どうやらハヤブサはネズミの攻撃に対し、完全な耐性を有しているらしい。一方的に捕食出来る存在、即ちネズミにとっての天敵だ。

 ネズミ達が一斉にざわついた。恐るべき天敵が襲撃してきたのだから当然である。されどヤモリやカラス、そして継実達もまたざわついた。

 何故、ハヤブサはこのタイミングでネズミに攻撃を仕掛けてきたのか?

 答えは考えるまでもない事。少なくとも継実はすぐに答えに辿り着いた。が、それを言語として理解する暇はない。

 何故ならこのハヤブサの攻撃を発端として、茂みの中から続々と捕食者達が跳び出してきたのだから!

 

「ガルルルアァッ!」

 

「キュッ!?」

 

 猛然と駆けてきた野犬がヤモリの頭に噛み付き、電撃により仕留める。黒焦げになりながらもヤモリは抵抗するように藻掻くが、あえなく全身をかみ砕かれ、ぺろりと平らげられてしまった。

 

「シュッ!」

 

「グガッ!」

 

「ガァッ!?」

 

 樹上より現れた巨大ハエトリグモが糸を吐き、二羽のカラスを纏めて捕まえた。引き寄せられて肉薄した瞬間、カラスは嘴でハエトリグモを突くが……ハエトリグモはその身を糸で覆い、これを無効化。抵抗虚しく、カラス二羽は生きたまま貪り食われる。

 

「キャァー!」

 

「ヂッ!」

 

 ハヤブサは一羽だけ出なく、何羽もやってきてネズミ達を襲った。ネズミ達も強酸での抵抗を試みるも、どれだけ強酸をその身に喰らおうとも、例え目に入ろうともハヤブサは怯みもしない。ハヤブサ達は捕まえたネズミを引き裂くと、美味しくて栄養がある内臓だけ食べ、他の部分は捨てて次の獲物に襲い掛かる。

 次々と襲われ、食べられていく小動物達。本来なら、いくら天敵相手とはいえここまで一方的にやられる事はないだろう。肉食動物の狩りの成功率というのは、一部の特殊な例を除いて五割もあればかなり高い方である。喰われる側とて全力で対抗しているのだから、そんな簡単に成功出来る訳がないのだ。

 しかし此度は大トカゲに夢中になっていたところを襲撃され、虚を突かれた。おまけに戦いで多少なりと体力を消耗している状態。これでは逃げるのも遅れる。それどころか大群で攻められたものだから、逃げ道が分からない。結果、この大惨事だ。

 

「(不味い……!)」

 

 継実は冷や汗を流す。

 言うまでもない事だが、この捕食者達に大トカゲを助ける意図などあるまい。奴等は最初からこの時を、獲物達がオオトカゲに夢中になって注意力が散漫になるタイミングを狙っていたのだろう。小動物達を楽に仕留めるため、虎視眈々と。大トカゲというリスクある獲物の征伐に参加するよりも、何時もの獲物達が油断した時を襲う方が安全で楽なのだから。

 そして捕食者達からすれば、結果的に大トカゲ征伐が成功しようが失敗しようがどうでも良い。今ここで満腹になるまで、哀れな獲物達を襲うのみ。小動物達も大トカゲはあくまで美味しい獲物として欲しいのであって、自分の命を捨ててまで殺したい訳ではないのだ。天敵に襲われた小動物達は自分の身を守る事を最優先にし、大トカゲなんて構ってもいられない。右往左往するように走り、今まで大トカゲに向けていた攻撃を天敵へと差し向けてしまう。

 大トカゲを今も攻撃し続けているのは、やってきた天敵達が見向きもしない継実とモモとミドリの三人だけ。

 

「(不味い、不味い不味い不味い!)」

 

 継実が今も指先から撃ち続けている粒子ビームは、威力が絶大な反面、それなりの欠点が存在する。

 エネルギーの消耗が大きい事、ミュータントの視点ではそれなりの『溜め』が必要な事……そして撃っている間、殆ど身動きが取れない事だ。

 粒子ビームにはかなりの演算処理が必要なのである。その状態で跳んだり跳ねたりなんて出来っこない。七年前の身で例えるなら、算数のドリルを解きながら百メートル走をするようなもの。正確に言えば出来なくはないが、やったところで何もかもが中途半端に終わるだけ。ちなみにこの計算ドリル、下手な間違い方をすると文字通り爆発しかねない代物である事を付け足しておく。

 さて、ここで一つ問題だ。

 誰一匹として周りの事など気にも留めず、自分の利益のためだけに超常の力を撒き散らす場のど真ん中に立っていて――――いくら直接狙われていないといっても、果たして何時までも当たらずに済むだろうか?

 結論としては、幸運ならば済むだろう。しかし残念ながら継実はそこまで幸運ではない。むしろ不運な部類である。多分、超常の力を持つという奇跡に、残りの人生の運を前払いしたので。

 

「あいたーっ!?」

 

 ぽこんっ、と頭に命中したのは野犬が放った電撃か。

 七年前ならば、恐らく都市の一角を灰燼に変えてしまうだろう放電。それを「痛い」の一言で済ませてしまう肉体を持った時点で、幸運といえば幸運なのだろう。しかし幸運は足りず、痛みで身体がつんのめってしまう。

 当然指先が向く方角も身体の動きに合わせて変わり、あたかも地面を指し示すかのように。粒子ビームはあくまでも指先から亜光速で放たれる粒子達の集まりなので、指の確度が変わろうともお構いなしに『真っ直ぐ』に飛んでいく。

 つまり身体の傾きと共に、粒子ビームが地面を撃った。

 「あっ」と継実が思った時にはもう手遅れ。生い茂る草は粒子ビームを弾き返したが、草花の隙間を通って辿り着いた()()()()がこの破滅の力に耐えられる道理などない。高エネルギーを宿した粒子の激突により土の分子は崩壊し、余剰エネルギーが周りの分子を気化させていく。急激に膨張した体積は、一種の物理的衝撃を伴う。

 要するに大爆発が起きたのだ。火薬により引き起こされた程度のものなら直立不動で耐えられる継実でも、流石に自分の力で引き起こした攻撃は耐えられず。

 

「きゃっ!?」

 

 少女らしい悲鳴を上げて、すってんころりんと転がる継実。自爆のダメージも大したものではなく、すぐに起き上がる。

 そんな継実のすぐ傍に、ずしんと音を鳴らしてモモが着地した。

 今まで幹に止まっていた彼女が、すぐ隣にやってきた。その腕にはミドリが未だに抱きかかえられている。もう片腕で持ち運ばれる事にすっかり慣れたのか、ミドリは身体から力を抜いてすっかりリラックスしている状態だ。

 ちなみにモモとミドリの顔は、呆れきったもの。二人の言いたい事は既に察しているので、継実は不服を示すように睨んでおく。

 

「何? その目は」

 

「いやー、こーいう目にもなるでしょ」

 

「自爆でひっくり返るのはちょっと……せめて攻撃を回避したとか、大きな攻撃で吹っ飛ばされるとかなら格好も付くのに」

 

「うっさい。つーかなんで手伝ってくれないのさ。私一人でアイツ抑えてたようなもんじゃん」

 

「いやぁ、あれは頑張るところじゃないでしょ。諦めて態勢立て直すのが正解」

 

「あたしなんて物理的な攻撃力、殆どありませんからねー」

 

 悪びれる様子もなくへらへらと答える家族二名。そのムカつく顔をぶん殴ってやろうかとも思ったが、しかしなんやかんや一理ある。電撃と不快感を与える能力では、やはり拘束力に欠けるというものだ。

 自分が失敗した時点で『拘束』が解けるのは確実。ならさっさと逃げて体勢を立て直す。ぐうの音も出ないほどの合理性だ。やはり人間は、合理性では野生動物に勝てないのである。

 ……そんな悔しさもまた、現時点では非合理的な現実逃避なのだが。

 

「さぁーて、ネズミやらヤモリやらのお陰で大分弱った感じだけど……まだまだやれるみたいよ、あちらの親御さん」

 

 モモが軽口を叩きながらそいつと向き合う。ミドリも抱きかかえられたまま、ファイティングポーズを取って身構えた。

 継実も、軽く頭を振る。ほんの些細なこの行動を挟めば、思考をスッキリと切り替えられた。不平不満が露わになっていた顔は既になく、獰猛で好戦的で残虐な、飢えた野生動物の表情を取り戻す。

 前を見れば、そこにいるのは一匹の大トカゲ。

 粒子ビームを当てられ、電撃を喰らい、脳みそを掻き回され、ファンデルワールス力で引き裂かれ、強酸で解け、共振波で砕けて……それでもなお大地に立つ母親は、未だ闘志と殺意が薄れておらず。身体は血塗れすら生温く思えるぐらいボロボロでも、その瞳に宿る感情に恐怖は欠片も含まれていない。逆にこちらを殺す気満々だ。将来の子孫を残すために。

 ――――上等。逃げないなら却って好都合。こっちは卵だけじゃなくてアンタの身体も目当てなんだよ。

 心の中でそう呟きながら継実はモモ達と共に、自由を取り戻した大トカゲと対峙するのだった。



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横たわる大森林13

「シャアァァッ!」

 

 一番手に動き出したのは、最も傷付き消耗している筈の大トカゲ。未だ衰えぬ闘争心に突き動かされるように、猛然と大地を駆ける。

 原水爆の直撃をも耐える植物達さえ蹴散らしながら向かう先に居たのは、モモに抱えられているミドリだった。

 

【ああ、やっぱりまずはあたし狙いなんですね……】

 

「そりゃ能力は厄介だけど一番弱そうなんだから、いの一番に狙うでしょうよっ!」

 

 すっかり狙われる事に慣れたのか。ある意味冷静なミドリの愚痴に答えつつ、モモは跳んで退避を試みる。当然大トカゲはこれを追おうと、突撃の進路を変えた。

 鱗が禿げて肉が剥き出しになった足だが大地をしっかりと踏み締め、どろどろに溶けて今にも千切れそうな尾をピンと伸ばして大トカゲはバランスを取る。顔の一部が焼け爛れ、眼球は両目共に白濁していたが、進む動きに迷いはない。

 瀕死を通り越して最早死んでいるようにしか見えない姿なのに、そのパワーは衰えを知らない。或いは既に死んでいて、本能だけで身体が動いているのではないか。そんな馬鹿げた想像すらも過ぎる力強い動きで、大トカゲは全力で後退しているモモとの距離をどんどん詰めていく。

 このままでは二人とも逃げきれない。

 

「やらせないよっ!」

 

 だから継実は横切ろうとする大トカゲに、迷わず跳び付いた!

 モモよりも素早さに劣る継実だが、如何にそのモモより速い相手でも真横を通るならば対応出来る。見計らったタイミングぴったりで肉薄した継実は、大トカゲの尾の根元に腕を絡めてがっちりと掴んだ

 瞬間、大トカゲは尾を振り上げる。

 そして力強く、継実ごと自身の尾を大地に叩き付けた! 地面を覆う草花が飛び散るのと共に、巨大地震を彷彿とする揺れが引き起こされる。それも一度だけではなく、何度も、何度も何度も何度も!

 根元の方にしがみついていたお陰で、継実はその尾っぽのスピードを殆ど体感していない。にも拘わらず今にも振り払われ、遥か彼方に吹っ飛ばされるのではないかと不安になるほどの慣性に見舞われた。

 これほどの力を発揮しながら、大トカゲの身体からは電気の流れや、特異な化学反応が感じ取れない。粒子の動きにも変化がなく、筋肉内に存在している熱量だけが大きく変動している事を継実の目は捉えた。

 恐らくこの熱量は筋肉の働きを活性化させるためのもの。熱により筋肉の分子を高速化させ、収縮速度を速める……大きなパワーを発揮させるために。即ちこの身体能力はなんらかの副産物ではなく、直接的な強化であるという事だ。

 

「(コイツ、やっぱり身体能力を増強するタイプの能力か……!)」

 

 粒子操作能力を用いて、継実は大トカゲの能力に確信を抱く。

 シンプルな能力というのは厄介だ。複雑なプロセスを経ない故に妨害するタイミングがなく、尚且つ無駄な手間を挟まないため余剰エネルギーの発生が最小限で済む。つまり生成するエネルギー量は同等でも、特殊な能力と比べて出力がデカい。この大きなパワーで小細工諸共粉砕するため、自分より小さな相手には滅法強くなる。相性の不利も、力の大きさで叩き潰せばどうという事もないのだ。

 だが、弱点もある。

 シンプル故に特殊な事が出来ず、『特殊能力』に対抗する術がない点だ。例えば継実が粒子操作能力を応用し、大トカゲの尾の原子と直に『引っ付く』ような技を使えば為す術もない。継実の技は所詮ヤモリの真似事であり、その一芸に特化したヤモリと比べればあまりにもお粗末な出力しか出せていないのだが、しかし大トカゲにはこの情けない技を振り解く術が力押ししかないからだ。出来るのは、ひたすらぶんぶんと尾を振り回すだけ。

 これでも本来の力を出せれば、継実は呆気なく吹っ飛ばされただろう。されど大トカゲは大きく疲弊し、力を失っていた。今の大トカゲには継実を振り解けるだけのパワーはない。なくともパワー以外の対処法を大トカゲは知らず、ただ暴れ回るしかないのだ。

 

「ぐっ……これなら……!」

 

 激しく振り回される尾だが、継実を吹き飛ばす事は叶わず。このまま密着状態を維持出来ると踏んだ継実は、両手に力を込めていく。頑強な表皮と鱗だが、継実の能力ならゆっくり分子結合を分解していける。このまま皮膚を切り裂き、筋肉に直接攻撃をお見舞いしてやれば――――

 されどその目論見は叶わない。

 強烈な一撃を立て続けに放ったいた大トカゲの尾が、ぶっつりと千切れたのだ。しかも根元から。如何に強力な能力を用いても、掴んでいる場所から分離されてはどうにもならない。継実は尾っぽ諸共遠くに飛ばされる。すぐに継実は尾を手放して地面に着地したが、大トカゲとは距離を開けられてしまった。

 自分の尾が失われたが、大トカゲは構う素振りすら見せない。むしろ動きを阻むものがなくなってスッキリしたと言わんばかりに、ぶるりとその身体を震わせた。今なら遠くに逃げたミドリ達をまた自由に追える。

 ただし大トカゲはもうミドリへの攻撃を諦めていた。

 代わりに、散々邪魔してくれた継実へと矛先を変える! ボロボロの身体で、継実を上回る勢いで突撃してきた。されど継実は逃げず、どしりと四股を踏んで向き合う。

 

「ふんっ! 最初からそうすれば良かったのに……来い! 相手になってやる!」

 

【継実さん! 援護します!】

 

 大トカゲを挑発したタイミングで、ミドリの声が継実の頭の中に響く。直後にミドリの攻撃は行われたようで、大トカゲはがくんっと、今まで快調だった歩みが崩れて蹴躓く。

 貴様の仕業か――――そう言わんばかりに顔を上げたオオトカゲの目に映るのは、おどおどしながらも一人で大木の枝に停まるミドリの姿。

 今までミドリを運んでいた、モモの姿は何処にもない。

 

「もらったぁー!」

 

 何故ならモモは既に単独行動を初めており、大トカゲの頭上にある枝から飛び降りているからだ!

 モモの声に反応して顔を上げようとする大トカゲだが、モモだって考えなしに叫んではいない。大トカゲの反応は間に合わず、モモは無事大トカゲの背中に到着。四肢を広げて抱き付くように、がっちりと大トカゲを捉える。

 そのまま放つは最大級の電撃! 周囲が閃光に包まれるほどの、強烈な電気を放出した!

 やはり耐性がないらしい大トカゲは、モモの電気で全身を痙攣させるように震える。が、これでもまだ仕留めてはおらず。大トカゲはごろんとその身をひっくり返し、引っ付いたままのモモに反撃を試みたる。モモは離れるのが間に合わず下敷きになり、強烈な震動がモモを襲う打撃の威力を物語った。

 

「ん、にゃろうっ!」

 

 されどモモの『外観』を形成している体毛は物理的衝撃に強い。難なく下敷き攻撃を防いだモモは、大トカゲの背中を蹴り上げて突き飛ばす。大トカゲの巨体が空中で一回転し、やがて地面に墜落。バウンドした際に体勢を立て直そうとしたが、着地に失敗して大トカゲはごろごろと地面を転がった。

 何メートルも進んで勢いが衰え、ようやく大トカゲは立ち上がろうとした。直後に継実は大トカゲの後ろ足に肉薄。今度はその足を掴み、前へ進もうとする動きを阻む。邪魔者を蹴り上げようとした大トカゲだが、ミドリが木の上から投げてきた桃が顔面に命中。ダメージはないが酷く鬱陶しい攻撃で気が逸れた瞬間、次はモモが大トカゲの顔面に電撃キックをお見舞いしてやった。

 大トカゲは僅かに後退るも、継実を蹴り上げる事は忘れず。しかしモモのお陰で一瞬の隙が出来、継実はその間に粒子スクリーンによる守りを固めていた。蹴りの一撃で粒子スクリーンは呆気なく粉砕され、全身に強烈な衝撃が走るが――――肉体が粉々される事は回避。蹴られた勢いを利用して、継実は安全な距離まで離れる。

 

「はっ! やっ!」

 

 そして吹き飛びながら、継実は小さな粒子ビームを撃ち出す!

 走りながら算数のドリルは解けない。しかし誰かに投げ飛ばされながらであれば、自分の怪我に頓着しなければ可能だ。無論全力には程遠い出力だが、高エネルギーの塊には違いない。顔面狙いとなれば尚更脅威であろう。

 大トカゲは素早く顔を振るい、継実が撃った粒子ビームを弾き返す。返されたビームが今度は継実の顔目掛け飛んできたので、慌てて継実は仰け反って回避した。

 その隙を狙い、大トカゲは大きく跳躍! 継実を押し潰そうとしてくる!

 

「ちっ!」

 

 回避を試みようとしたが、弱れども未だ継実達を圧倒する身体能力で繰り出した動きはかなりの速さ。避けきるのは無理だと判断し、継実は両腕を眼前で交叉させて守りを固めた。

 

「おっと、今度は私が助ける番よ!」

 

 そこをすかさずフォローするモモ。

 彼女の指先から繰り出した何十もの体毛が、大トカゲの身体に絡み付く。空中を跳んでいた大トカゲは為す術もなくモモの力で引っ張られ、継実のすぐ手前に墜落する。

 

「シャアッ!」

 

「きゃっ!?」

 

 しかし大トカゲもただでは済まさず。ぐるんと一回転すれば、今度はモモが引き寄せられてしまった。モモは踏ん張る事も出来ずに宙に浮かんでしまい、真っ直ぐ大トカゲの方へと飛んでいく。

 大トカゲはそんなモモに噛み付こうとしてか大きく口を開け、

 

「せいやーっ!」

 

 その大口目掛け巨大コガネムシを投げたのがミドリ。ミュータントの力を上手く使いこなせず、辛うじて使える能力も『非戦闘系』の彼女だが……数十キロ級の生物を投げ付ける事ぐらいは容易い。捕まっても反撃すらしない大人しい ― 或いは防御に力を全振りした ― 生き物だった事も幸いして、コガネムシは大人しく投げられてくれた。

 巨大コガネムシが口に割り込み、モモがその中へと飛び込むのを妨害。大トカゲはコガネムシを吐き出し、すぐにまた口を開くも、それだけの猶予があればモモが逃げるには十分。体毛を切り、モモは大トカゲから跳躍して離れる。大トカゲはまたミドリに標的を定めようとしたが、後退したモモはついでとばかりにミドリを抱え、既に地上まで降りていた。

 継実も大トカゲがモモを相手している間に後退。モモと同じ位置まで下がり、再び大トカゲと向き合う。大トカゲもゆっくりと振り返り、継実達を睨む。

 やはりこの大トカゲは強い。殆ど死に体の状態なのに、継実達三人のコンビネーション攻撃を受けても倒れず、返り討ちにしようとしてくる。寿命幾ばくもないといって油断すれば、やられるのは継実達の方だろう。

 されど消耗の激しさは見た目通り。

 もしも大トカゲが産卵直後の状態なら、今頃自分達三人は全滅してると継実は踏んでいた。だからこそ継実は最初、逃げた方が良いと考えたのである。ところが今やどうだ。確かに一対一では勝てそうにないが、三人一緒ならばなんとか出来ている。自分達が対等に戦えているという事実こそが、相当弱っているという証に他ならない。

 いや、現在進行形でどんどん弱っていると言うべきか。粒子の動きを捉えられる継は、大トカゲの体重がみるみる減っている事に気付いていた。恐らく大きな力を捻り出すため、大量のエネルギーを消費し続けているのが原因だ。文字通り、命懸けで。

 その命懸けが何時間も続く訳ない。

 

「モモ。私的には、アイツは持ってあと三分だと思うけど」

 

「あら、そう? 私は二分四十秒よ」

 

 頼りになる相棒の意見も伺えば、ほぼ同じ答えが返ってくる。どちらがより正確かは兎も角、もう何分か頑張ればこちらの勝ちだ。

 大トカゲはそれを理解しているのだろうか。未だその目から闘志も殺意も薄れていないが、息は絶え絶えで、こちらを睨むばかりで自慢の突撃攻撃なんて何時まで経ってもしてこない。

 母親の力の凄まじさをまざまざと見せ付けてきたが、ついに彼女も大自然に還る時が来たのだ。誰かの糧になるという形で。

 

「(後は消耗が少ないうちに仕留められるよう、努力するぐらいかな。これ以上暴れさせたら、脂肪分のないぱさぱさ肉になっちゃいそうだし)」

 

 既に勝ったつもりでいる継実は、その味に想いを馳せ始めた。無論味を優先して命を賭ける事などしない。安全に、チャンスがあれば味も追究する……その程度の心構え。

 つまるところどう足掻いても自分達の勝ちなのだと、継実は信じていた。事実継実達の勝利は揺らがぬものとなっている。もうあの大トカゲの寿命は、残り幾ばくもないのだから。

 ただしこの勝利とは、『敵を倒す』という観点においての話。

 勝利とは、単に相手を倒すだけの事を指し示すのではない。()()()()()()()()()()()()()()もまた勝利である。だから倒された側が勝利する事も、倒した側が敗北する事もあり得る。

 ましてや相手が己が命に頓着しなければ、勝敗なんてものは存外簡単にひっくり返るのだ。

 そう、例えば。

 大トカゲの身体が、突如として煌々と輝き始める事でも……



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横たわる大森林14

 ぞわぞわと、継実の背筋が震える。

 突如光り出した大トカゲを前にして、本能的に感じた悪寒。その悪寒により継実の身体は強張ったが、しかし奇妙な事に恐怖やプレッシャーは特に感じず。ただただ『不味い』という感覚しかない。もしもあの発光が攻撃なら、何時もなら本能がぎゃーすか悲鳴を上げているのに。

 いや、そもそも()()()()()()

 大トカゲの能力は身体能力を増強するタイプの筈。事実奴はこれまで一度も口から炎やレーザーを吐いていないし、電撃を放ったり脳内物質を操ったりするような力も使っていない。今の今まで純粋な身体能力で継実達を翻弄し、圧倒してきた。しかもホタルやツキヨタケのように元々光る生物ならば兎も角、大トカゲの原種であろうカナヘビは光らない生き物。どう身体能力を強化したところで、こんな奇天烈な事象は起こせない筈だ。

 何か、自分の予想を超える事態が起きているのではないか。それとも自分の想像が間違っていたのか――――継実はそう考えて大トカゲをより慎重に観測。

 すると奴の身体が、今までにないほど発熱していると気付く事が出来た。あの発光現象は、どうやら急激なエネルギー生成に伴う発熱に連動し、身体の元素の一部が崩壊して生じたもののようである。

 つまり我が身を文字通り消費して莫大なエネルギーを作り出している訳だが、一体そのエネルギーで何をしようというのか。暴れ回るための活力にしようにも、元素が崩壊するほどのエネルギーを作るには、最早体内の脂肪や糖だけでは足りず、タンパク質にまで手を付けている筈。いくら強大な力を生み出したとしても、それを発揮する筋肉がなければ意味がない。

 謎は深まるばかり。

 

「ねぇ、継実。正直これなんの根拠もない、イメージの話なんだけど……アイツ、自爆しないわよね?」

 

 尤もその謎は、モモが引き攣った笑みと共に語った『予想』によりあっさりと解けた。「はい?」と言いたげにミドリがぽかんと呆けている横で、継実は顔を真っ青に染めていく。

 生物が自爆なんて出来るのか? 七年前の継実なら、そんな生き物なんていないと答えただろう。しかしミュータントと化し、何処からか入り込んできた様々な知識により継実は知っていた。外国には『ジバクアリ』と呼ばれるアリが存在し、その名の通り身体の一部を爆発させて攻撃する術があると。彼女達は働き蟻であり、巣を守るためなら死んでも構わない存在。生物というのは、それが適応的ならば自爆すらも生存戦略に組み込むのだ。

 肉体的に自爆を阻むような機能は、生物体には存在しない。ましてやミュータントの能力を応用すれば、生態的に自爆技を持ち合わせていない種でも可能だろう。継実(人間)でもやろうと思えば出来るという確信がある。

 そして継実は一つ思い違いをしていた。大トカゲの能力は、正確には身体能力の強化ではない……恐らく本当の能力は「生成したエネルギーを任意の箇所に集結させる」というものだったのだ。生み出したエネルギーを足などの場所に集め、爆発的な瞬発力を生み出す力。天敵に見付かると素早く逃げては立ち止まる、臆病なトカゲらしい能力だ。しかしその瞬発力を応用すれば、自分よりも一回り大きなワニガメの甲羅も易々砕く力となる。

 この能力であれば、生成したエネルギーを身体の中心部に貯め込んでいく事も可能な筈だ。どんどんどんどん貯め込み、限界までいったら最後は解放してズドンッと吹き飛ぶ……実に分かりやすい。能力一つで出来るお手軽自爆。

 最悪である。このままではコイツは跡形もなく吹っ飛んでしまう。

 そうなったらこれまでの苦労が水の泡だ!

 

「ま、不味い! 自爆されたら折角のお肉が!」

 

【え!? お肉の問題なんですか!? 危ないから逃げるとかじゃなくて!?】

 

「瀕死のコイツにそこまでのパワーは多分ないわよ。でも私らにとっては、これが一番の嫌がらせね……とことんやってくれるわ」

 

 狼狽えるミドリに向けて、モモが冷静かつ忌々しげにぼやく。そう、自爆自体は恐ろしくない。云百メガトンの水爆だろうが巨大隕石だろうが、拡散するエネルギーなんてミュータントにとって大した脅威ではないのだから。

 これは本当に、ここまで追い込んだ継実達への最後の嫌がらせだろう。或いは卵を守るための、最大最後の悪足掻きか。常識的に考えれば自爆なんてしたら卵が吹き飛びそうだが、そこは常識外れのミュータント。ミュータントから生み出された卵は、ミュータントにとっては柔らかくとも、七年前の『常識』で見れば恐ろしく硬い殻で守られている。この大トカゲの卵がどの程度頑強かは分からないが、自爆を決行しても、直撃しなければ耐えられる程度には硬いだろう。故にこの自爆が実はただの虚仮威(こけおど)しで、みんなが逃げ出したところで取り止める、というのは期待出来ない。間違いなくコイツは跡形もなく吹っ飛び、美味しいお肉は消え去る。

 勿論大トカゲの肉はさっくりと諦め、卵だけを狙うという作戦もあるだろう。しかし自爆を許せばそれも難しくなる。巨大なエネルギーにより、恐らく大地はかなりの深さで抉れ、吹っ飛ぶからだ。埋められた卵は土石と共に遠くへと飛んでいき、捕食者から逃れる。落ちた場所では剥き身で転がる事になるが、集結した捕食者達の前に残るよりは多少マシだろう。全く隙のない、完璧な作戦というしかない。

 

「(不味い! 本当にこれは不味い……どうする!?)」

 

 もしも自爆を許せば、大トカゲの肉も卵も手に入らない。腹を満たせないどころか、戦いのために体力を消耗しただけになってしまう。また果物を採りにいっても、タンパク質を得られなければ回復とは言いきれない。

 ここで大トカゲを仕留めなければ、次は自分達が追い詰められる番。追い詰めた筈が、たった一手で完全に状況がひっくり返ってしまったのだ。

 なんとか自爆を止める方法はないのか。考えて考えて、ひたすら考えて……しかし継実に思い付いた作戦は、作戦とも呼べないようなしょうもない案が一つだけ。

 自爆させなければ良い。

 つまり、大トカゲが吹き飛ぶ前に強烈な一撃を叩き込んで仕留める。こんな脳筋戦法以外に打開策はなさそうだ。

 

「……やられる前に、やる!」

 

「やっぱ、そうなるわよねぇ」

 

 継実が作戦を言葉に出せば、モモは最初から分かっていたと言わんばかり。しかし反対はせず、任せろと言わんばかりに自らの拳と拳をぶつけ合う。

 

「ミドリ! しばらく守ってあげられそうにないから、木の上とか安全な場所に退避しといて!」

 

【は、はひ!? 全力で隠れてます!】

 

 索敵能力や妨害は不要と判断。モモはミドリを安全な場所へと逃がす。

 これで準備は万端。モモと継実は隣り合い、互いの顔を見合う。モモが獰猛に笑ったので、継実も笑い返した。

 

「さぁーて、どうしようかしらこれ。いくら弱ってると言っても、元が強いからポカポカ殴るだけじゃきっと間に合わないわよ?」

 

「分かってる。というか少しずつ弱らせる方法じゃ、向こうがヤバいと思ったらすぐ爆発されるし……エネルギー的には十分集まってるように感じるから、多分今は爆発力を高めている段階かな」

 

「一撃で仕留めないといけない訳ね」

 

「うん」

 

「いやぁ、困ったわねぇ。どうしたもんかしら」

 

 如何にも困ったような声を出しているのに、モモはにやにやと笑っていた。まるで、継実からの言葉を楽しみに待つように。

 継実も無言で笑い返す。モモのやりたい事はよく理解していて、何より継実もやりたいのだから。

 七年間、ずっと披露する機会のなかった『アレ』を!

 

「合体技、いくよ!」

 

「おうとも!」

 

 継実の言葉に呼応し、モモは継実の背後に回る。七年前には一回り小さいぐらいだった、今ではすっかり自身よりも大きくなった継実の身体に抱き付くと、あろう事か放電を開始。継実に電撃を流し始めた。

 しかし継実にとってこれは『作戦通り』。既に体表面の原子を能力により帯電しやすい状態へと加工し、体内まで電気が流れ込まないよう細工している。更に流された電気は体表面に滞留し、どんどんそのエネルギー量を増大させていく。

 七年前に行った、打ち合わせの通りに。

 ――――七年。

 継実とモモが一緒に暮らしてきた年月の長さだ。しかも七年前はまだ十歳と二歳という、若々しいというよりも幼い年頃。地獄のような日々ではあったけど、夢見がちな少女が二人で暮らしていれば妄想も想像も膨らむ。そして楽しい妄想と想像を阻む大人も法律も秩序も時限もない。二人で色んな事をやったし、考えてもきた。それを実用化するための特訓だって。

 この合体技も考え付き、実用化に漕ぎ着けた妄想の一つ。

 モモが作り出す電気エネルギーを、継実が全身で受け止める。とはいえこれをそのまま使うのは難しい。継実の能力では電気までは操れないからだ。しかし粒子を操る事で、体表面に留めておく事は難しくない。

 勿論あくまでも工夫により難なく出来るというだけで、際限なく可能という訳ではない。モモから送り込まれてくる莫大な電気が体細胞を痛め、継実は段々と顔を顰めていく。されどこんなものではまだ足りない。もっとたくさん、もっと高みに至らねば……子を守ろうとする母親の執念は超えられないから。

 バチリ、バチリと、継実の身体から電気が迸り始める。蓄電量が限界に達し、留めきれなくなった電気が溢れ出したのだ。此処らが継実の限界。

 見れば大トカゲの方も、放出される熱量が急激に低下していると継実は気付く。どうやらもう殆どエネルギーを絞り出せない状態になったらしい。大トカゲは間もなく大往生を遂げるだろう。

 やるなら今しかない。

 

「モモ! 任せた!」

 

「まっかせなぁ、さいっ!」

 

 掛け声と共にモモは継実を空高くぶん投げる! 空中へと浮かび上がった継実はくるりと身体の向きを変え、地面と水平になるよう背筋を伸ばす。ただし足はしっかりと折り曲げ、足の裏が水平にした身体に対して直角になるよう位置取りに気を付けながら。

 継実が空で体勢を変えていた時、モモはぐるんぐるんと腕を回す。単に気合を入れ直している訳ではない。人のような姿に構築している体毛を高速かつ強烈に擦り合わせ、莫大な電力を生み出すための動き。継実に電力を与えた時とは比にならない、急激な発電によりエネルギーをチャージしていく。

 やがて継実は重力に引かれて落下。モモは腕を回すのを止め、大きく振りかぶり――――

 落ちてきた継実の足の裏を、モモが殴り付けた!

 強力な打撃による推進力の獲得。それに加えて帯電した継実の身体は磁力を帯び、モモが生み出した磁力と反発して更なる加速を得る! おまけとばかりに継実も周囲の大気分子を操り、自分の身体を撃ち出す!

 物理学と電気工学と量子力学。三つの科学の組み合わせによる莫大なエネルギーを、継実は自らの身体に用いる。全身の粒子をくまなく、周りの大気との干渉を防げば、その身は亜光速へと到達。神速とでも呼ぶべき速さへと至った!

 ミュータント一人では到底出せない速さに、大トカゲが目を見開く。次いで急激にその身体が膨らみ始めた。これは不味いと判断し、ついに自爆を決行したのだ――――が、遅い。如何に音すら置き去りにするミュータントでも、光の速さには決して追い付けない。

 

「はあああああああっ!」

 

 継実が上げた気合の声すらも届く前に、継実の身体は大トカゲの頭部に到達。前へと拳を突き出し、圧倒的スピードから得られた運動エネルギーを大トカゲの顔面にぶちかました!

 殴られた大トカゲの顔はぐしゃりと潰れ、中身を撒き散らす。それでも身体の本能は健在で、最後の足掻きとばかりに首に力を込めたが……継実とモモの力は、弱りきった身体の力を押し通す。

 駄目押しとばかりに拳を振り上げる継実。

 大トカゲの千切れた頭と、勢い余った継実の身体が空を飛んだのは、ぴったり同じタイミングだった。



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横たわる大森林15

 勝った。手から伝わる確かな手応えに、継実はそう確信した。

 尤も、勝利の余韻に浸る暇もなくその身体は大空へとぶっ飛び――――近くの巨木に顔面からぶつかる事となるのだが。

 

「ぎゃぶっ!? え、わわ、ぎゃんっ!」

 

 顔面の痛みで怯んでいたら、そのまま落ちて今度は背中を打つ。別にこんな程度なら今の継実には瀕死でもダメージにならないが……兎にも角にも格好悪い。

 

「ちょっとぉー、折角の必殺技なんだからちゃんと決めなさいよー」

 

 情けない姿を晒してしまった継実に、相棒であるモモの言葉と目付きは辛辣だった。

 

「うっ、うっさいなぁ。実戦じゃ初めてなんだから上手くいく訳ないでしょ!」

 

「あら、上手くはいったでしょ。アイツは仕留めたんだから」

 

 痛む顔を擦りながら抗議する継実だったが、モモは何処吹く風。アレを見ろとばかりに何処かを指差すのみ。

 その指先を目で追えば、継実の顔にも笑みが戻る。

 ――――頭のない大トカゲ。

 首の断面からは血、ではなく光と炎のようなものが溢れ出ている。しかも十数メートルにもなる柱が出来上がるほどの勢いで。恐らく大トカゲが自爆のために貯め込んでいたエネルギーだろうが、さながらよく振った後考えなしに蓋を開けた炭酸飲料が如し。炭酸飲料と違い、アレに触れようものなら継実の手など簡単に消し飛ぶだろうが。

 頭を失ってなおも見せ付ける生命力だが、その生命力も蓋がなければあっという間に枯れ果てる。吹き出す光と熱は徐々に弱まり、やがて尽きた。自爆寸前だった身体は力を失い、そのまま倒れ伏す。見た目は巨大な身体なのに、倒れた時に生じた振動は悲しいほど弱々しかった。

 もう、命は感じられない。

 寿命間近で産卵直後、更に小動物達の猛攻までも受けた疲弊状態とはいえ――――継実達が倒したのだ。

 旅で初めて仕留めた獲物として。

 

「……………や「やったあああぁーっ!」ぶぐえっ!?」

 

 込み上がってきた衝動のまま継実は喜ぼうとした、が、枝の上で待機していたミドリの声がそれを邪魔する。ついでに彼女は継実目掛け落ちてきたので、その膝が継実の顔面にめり込んだ。

 疲弊しきった今でもこの程度の物理的衝撃でダメージを受けるほど柔ではないが、カッコ悪い自分は想像出来たので継実は精神ダメージと苛立ちを覚える。とはいえ悪気のないミドリが抱き付いてくれば、そんな気持ちも吹っ飛んでしまうのだが。

 

「凄いです! あの大トカゲを一発で倒しちゃうなんて!」

 

「ふふーん、どうよ? 私と継実が昔考えた合体技よ!」

 

「合体技! 甘美な響きです……」

 

 興奮するミドリに、自慢げなモモが答える。宇宙人的にも合体技というのはロマンがあるらしく、ミドリは目をキラキラと輝かせていた。握り拳まで作る姿は、少女ではなく少年のよう。

 

「そんな凄い技、どうして今まで使わなかったのですか? フィアさんの時にこれを使えば、もっと簡単に勝てたかも知れないのに」

 

 だからこうして言葉にした疑問も、恐らく悪気なんて全くない素直なものなのだろう。

 実にご尤もな質問だ。されどモモと継実は黙ってしまう。互いに顔を見合い、どちらがどう説明するかアイコンタクトで確認する始末。ミドリは首を傾げて訝しむが、継実もモモも中々話し出さない。

 しかしこれは説明が難しいだとか、ましてやミドリに教えられない事があるとかという事は一切なく。

 単純に使()()()()()()というのが情けなくて、あまり話したくないのだ。

 

「……ミドリ。一つ想像して欲しいのだけど」

 

「? はい、なんですか継実さん」

 

「繰り出すのに二人が揃わないといけなくて、エネルギーのチャージやらなんやらに時間が掛かる技を、合体技を使わなきゃ倒せないような敵が見逃してくれると思う?」

 

「……あー」

 

 渋々継実が一つ尋ねてみれば、それだけでキラキラ輝いていたミドリの目が曇る。夢も希望もない現実を知った、つまらない大人の目だった。

 この合体技には色々と準備が必要である。

 まず合体技なので当然二人がある程度近くにいないと出来ないし、継実を傷付けないためにモモが送るエネルギーは少しずつにするしかないので凄く時間が掛かる。おまけに一度送り込まれた電気は使いきらないと纏った継実に襲い掛かるので、一度準備を始めたら中断が出来ない ― するなら大きなダメージを覚悟しないといけない ― 有り様。更に更に継実単身では出せないようなエネルギーを扱うので、細かな制御が出来ず直進的な攻撃にしかならない……等々欠点を挙げれば切りがない。

 故に編み出したものの実際に使えるような機会は一度も訪れず。今日この時までずっと『温存』する事となったのである。ちなみにこの必殺技を考えたのは七年前――――継実十歳の時。「自分とモモの力を合わせれば、一人じゃ勝てない相手もきっと倒せる。一足す一は二じゃなくて十にも百にもなる筈。昔読んだ漫画にそう描いてあった!」……などという子供ロジックで編み出した技だ。

 

「まぁ、倒せたんだから結果オーライよ。それよりも継実」

 

 モモは綺麗に話を纏め、ある場所を指差しながら継実を呼ぶ。

 継実も気持ちを切り替えて、モモが指し示したもの――――大トカゲと、その周りを見遣る。

 継実達が戦っている間に、小動物達と天敵達の争いも終わっていた。満足したのか天敵達の姿も見られず、僅かな小動物達がいるだけ。その生き延びた生物達は大トカゲの亡骸に群がっている。新たな獲物にみんな夢中な様子だ。

 そして一部の生き物達は、地面を掘り起こしている。中から出てきたのは白い玉こと、小さな卵。

 ネズミもヤモリもカラスもその卵の殻を叩き割り、中身を美味しく頂いていた。口周りを卵黄でべたべたにし、貪るように次々と平らげていく。

 大トカゲがどれだけの数の卵を産み落としたかは分からないが、この調子だと恐らく一個も生き残れないだろう。

 

「(……守りきれなかったか)」

 

 命を賭した行いが報われなかった大トカゲに、少なからず継実は同情する。自分達がちょっかいを出さなければ、もしかしたら孵化するまで大トカゲも体力が持ったかも知れないと思えば尚更だ。

 されどこれもまた自然界。産んだ子供が全滅なんてそう珍しい話ではない。何処かで環境に対しより適応的な個体がたくさん増えたなら、不適応な個体が同じだけたくさん死んでいる。自然のバランスというのはそうやって取れているのだ。大体襲っておいて可哀想と感じるのも、なんとも身勝手な話である。

 そんな事よりも、だ。自分達は卵よりも大きなお宝を手に入れた。感傷に浸る前に、そちらの吟味をすべきだろう。

 継実達は大トカゲの亡骸に歩み寄る。先客であるネズミ達は継実(巨大生物)がある程度近付くやささっと隠れるように逃げたが、あんな小さな生き物に逐一構うつもりもない。

 しゃがみ込み、継実は大トカゲをじっと見る。死してなお感じる存在感。エネルギーを使い果たし、すっからかんになるまで漏れ出てしまった身体は若干干からびているというのに、未だに『生命力』を感じさせた。今にも蘇り、失った活力を取り戻すため自分達に襲い掛かるのでは……そんな馬鹿馬鹿しい想像が脳裏を過ぎる。

 これほどの生命を口にしたら、どれほどのエネルギーが得られるのか。

 ……こんなのはオカルトだ。此処にあるのはタンパク質と水と微量元素の塊であり、成分分析を行えば数値化出来るものでしかない。それでも神秘を感じてしまうのが人間というもの。

 

「いただきます」

 

 継実は手を合わせてから感謝の一言を告げて――――大トカゲの身に直接噛み付いた。

 鱗はすっかり剥がれ、皮もボロボロになっていて硬さはない。継実が噛んだまま引っ張れば……ぶちりと音を立てて皮と肉が口の中へと入り込む。口触りは絶望的なまでにぼそぼそ。脂肪分どころか水分も殆ど感じられない。長い戦いで消耗した挙句、最後の自爆未遂で殆ど全ての栄養素を使い果たしたのだろう。

 ハッキリ言って、美味しいものではない。

 だけどタンパク質はしっかり含まれていて、継実の身体を潤していく。森の中で繰り広げた戦いにより失われた体重はみるみると回復し、自分が持ちうる最大の力が肉体に戻ってきた。

 それは生の実感。文明社会の中で忘れていた、生き物として当然の感覚。野生だからこそ味わえる命の有り様。

 

「……ああ、生き返る」

 

 これでまた命を繋げたのだと、継実は心から感じ取った。

 

「はぐはぐ! がつ、もぐもぐもぐもぐ」

 

 なお、肉食獣であるモモはそんな余韻などお構いなしに食べていたが。本当の野生はあっちであり、継実はまだまだ文化的である。

 

「……不味い」

 

 ちなみに更に文化的な宇宙人は、こんな反応だった。渋々食べている感が物凄い伝わる表情まで浮かべている。確かに美味しくないとは継実も思っていたので、その意見に批難も反対もしないが。

 それでも感動も何もない二人の反応に、継実は思いっきり顔を顰めてやった。

 

「アンタ達ねぇ……もうちょっと思うところとかないの?」

 

「? 今のうちにさっさと食べとかないと、後が大変よ」

 

「やっぱりあたし文明人なので……見た目とか未調理には慣れましたけど、根本的に美味しくないものはちょっと」

 

 苦言を呈しても二匹は考えを改めず。モモに至ってはそれ以上言う事などないとばかりに、もうトカゲ肉を食べる事に夢中だ。ミドリは一口食べて、止めてしまっている。

 しかしどちらも誤りという訳でもない。肉食獣であるモモが肉を貪り食うのは正しいし、殆ど肉体的な消耗をしていないミドリは無理にタンパク質を摂取しなくても良いだろう。むしろミドリの分を継実とモモの二人で分け合う方が合理的というもの。

 勿論継実のように、生きている事を実感しながら食べるのも良し。野生の世界だからこそ、誰に咎められるものではないのだ。

 がつがつと貪るモモの横で、継実はじっくり噛み付き、もう一口分の肉を喰らう。飲もうと思えばすぐに喉を通るものを、ゆっくり強く噛んで、ほんの僅かな肉の旨味を絞り出した。

 自分は此処で生きていける。

 旅を続けていける。

 肉の味を堪能する度に感じる命の感覚。ごくりと喉を鳴らせば、それが自分の身に馴染んだように感じられた。もう一度この感覚を体験したく、継実は三口目を頂くために口を開けた

 瞬間、ずどんっ、という音が継実の目の前で鳴る。

 

「……………」

 

 継実はぴたりと固まった。モモも同じく手を止めていて、ミドリはそそくさと後退していく。

 出来れば現実逃避をしたいが、それをすると死んでしまうのが自然界。死にたくないので、継実は小さく息を吐いた後にゆっくりと顔を上げた。

 継実の至近距離にあったのは、毛むくじゃらで真っ黒で可愛らしい顔をしたツキノワグマ(体長三メートル級)。

 そしてツキノワグマは大トカゲの亡骸の傍で、ちょこんと座っている。

 ……恐らくこのツキノワグマは、ずっと近くの茂みの中に隠れていたのだろう。継実達が大トカゲを仕留めるその時まで。圧倒的に強い力を持つツキノワグマからしたら、弱っちい継実達から獲物を奪うのが一番楽。だからそうしようとしているのだ。

 これぞ正に大自然。

 

「……だからさっさと食べれば良かったのに。つーか何時もそうしてるのに、なんで今日に限って感傷に浸ってる訳?」

 

 口いっぱいに肉を頬張るモモからの駄目出し。ぐうの音も出ないとはこの事だ。「人間なんだから人生の節目的なイベントで感傷に浸っちゃうのはしょうがないでしょ」という言葉が喉まで来ていたが、継実はぐっとそれを飲む。

 それはさておき。

 大トカゲの肉を得るため、継実達は死力を尽くした。大自然的には誰がどう頑張ったかなんて関係ないが、人間的には大事である。労力を掛けて得られたものを諦めるというのは心理的にかなりの負荷だ。諦めたくないし、諦めきれない。

 が、だからといって日本最大級の獣であるツキノワグマと戦うなんて、自殺行為以外の何ものでもない訳で。

 

「あ、あの……こちらの半分ほどを献上致しますので、どうかもう半分をこちらに分けていただけませんでしょうか」

 

 よって継実が選んだのは、ぺこぺこと人間的服従心(お辞儀)を見せながら交渉に乗り出す事。

 直後、ツキノワグマは大トカゲの身体にべしんと前脚を乗せた。

 交渉決裂までに掛かった時間は僅か五ミリ秒。ミュータントでなければ即答とすら認識出来ない速さだ。継実の脳は全力で理解を拒んだが。

 残念ながらツキノワグマは、分からないからといって許してくれない。

 

「ガァゴオアアッ!」

 

 力強い咆哮一発。

 それだけで継実の本能は現実を受け入れ、考えるよりも前に身体が回れ右をしてしまう。

 

「ご、ごめんなさぁーい!?」

 

 そして呆気なく逃げ出すのだ。

 

「ひぃーん! 二口しか食べられなかったぁ! これじゃあ全然回復なんてしてないのにぃ!」

 

「だから言ったじゃん、さっさと食べなって。また獲物を見付けて体力回復させないと、次の場所にも行けやしないわよ」

 

「あははは……あたし達、何時までこの森にいる事になるんでしょうねぇ」

 

 悲鳴を上げながら逃げる継実の後ろで、モモとミドリが呆れたように笑い合う。疲れたような笑みだったが、嫌がる訳でも馬鹿にする訳でもなく、心から楽しんでいる。

 無論逃げるのに必至な継実が、背後の家族に気を回す余裕なんてある筈もなし。そして逃げる事で体力を消費していく身体は、モモが言うように新たな獲物を食べねば長旅なんて出来そうにない。

 二日後に病気で弱ったイノシシを見付けるまで、継実達一行はまたしても森の中での滞在を強いられるのだった。



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第五章 南海渡航
南海渡航01


「うーみーはーひろーいーなぁーおっきぃーなぁー」

 

 口ずさんでみる、懐かしい歌。

 恐らく声に出して歌うのは小学校低学年以来の歌詞に、継実は思わず微笑んだ。こうして歌ってみると、海というものが『日本人』にとって親しみのあるものだったと強く感じられる。勿論時には津波や荒波などで多くの命も奪っている荒々しい自然でもあるが、食べ物という形でそれ以上の恵みをもたらしてくれるものだ。それに温室効果ガスである二酸化炭素の蓄積など、環境面でも海の存在は欠かせない。どれだけ酷い目に遭わされても心から憎めないのは、自分達が海に生かされていると本能的に自覚する故か。

 そうした憧れや嘱望、そして親しみや畏敬の念を、幼い子供にも伝えようとしたのがこの歌なのかも知れない。

 

「? いきなり唸り声を出して、どうしたのですか?」

 

「何々? なんか威嚇しなきゃ不味い奴でもいた?」

 

 なお、宇宙人とケダモノは先の歌声を歌とすら認識せず。特にモモは警戒音だと勘違いする有り様。

 歌い手である継実は、ぷくりと頬を膨らませた。

 

「唸り声って言うな。歌だよ、歌」

 

「え。今の歌だったのですか? いや、でも歌ってもっと、こう、透き通るような……」

 

「ハッキリ言って良いわよ、だみ声だって。相変わらず音痴よねぇ。つか普段綺麗な声なのに、なんで歌う時だけだみ声になんのよ」

 

「分かってないなぁ。ビブラート利かせてんの、ビブラート。プロの歌声ってやつ」

 

「だからだみ声だっつってんのよ」

 

 議論を交わせども平行線(継実視点)にしかならず、歌の良さが分からない畜生二人(継実的意見)の考えは変わらない。やはり自分こそが真の人間なのだと、継実は謎の自尊心を抱く。

 尤もそんなちっぽけな自尊心は、目の前に広がる雄大な景色を見ていたら、呆気なく押し流されてしまったが。

 ――――地平線の彼方まで続く、一面の青さ。

 朝の爽やかな日差しを受け、キラキラと水面が光り輝いている。穏やかな波が何度も押し寄せ、彼方まで続く白い砂浜を綺麗に平していく。海の家だのサメ避けネットだのという無粋な人工物は影も形もなく、何処までも自然が支配していた。

 風に乗ってやってくる磯の香りはとても強く、波の音色は何時までも聞いていられるぐらい心地良い。空から聞こえてくるカモメ達の鳴き声が混ざれば、まるで天然の演奏会。風景の美しさと相まって、見る者の心を癒やしてくれる。

 海。

 日本の周りをぐるりと囲う雄大な自然の風景が、継実達の目の前に広がっていた。ちなみに背中側には雄大な草原が広がり、こちらも景色の美しさを見せ付けていたが、たった今そこを通り抜けたばかりの継実達の興味は向かない。今は全員、海に夢中である。

 

「それにしても、ようやく辿り着けたわねぇ。ここまで来るのに何度死にかけた事か」

 

「あはは……大トカゲ級の化け物に三度も出くわしましたからね。あの草原でも、危うくダニに血を吸い尽くされるところでしたし……もう、ほんとやだこの星」

 

 モモはけらけらと楽しそうに笑いながら、ミドリは肩を落としながら、それぞれがこの旅の思いを言葉にする。

 三日前に森を抜け出た継実達であったが、世界はまだまだ続いていた。岩場、山岳部、そして草原……様々な環境、そしてそこに暮らす多種多様な生物達が継実達を熱烈歓迎(襲撃)したものである。その度に戦いを繰り広げたし、ミドリが話すように森で出会った大トカゲ級の脅威とも三度はやり合った。正直、三人が揃っていなければ何度死んだか分からないぐらい過酷な旅だった。

 そして三日間の旅路の果てに辿り着いたのが、この海。

 この場所自体に特別なものはない。少なくとも継実からすれば、思い出も何もあったもんじゃない、初めての場所だ。しかし何度もピンチを切り抜けた先で見付けたこの地に、感慨を抱かぬ筈もない。

 こんな気持ちになれただけでも、旅を始めた甲斐があったものだ。継実はそう思った。

 ……思ったが、継実達の旅の目的はそれじゃない。此処は終点どころか中継地点その一に過ぎず。

 故にこの美しい景色の意味合いは、思考が現実に戻るのと同時に逆転する。

 

「……で、どうする?」

 

「そうですね。どうしましょうか、これ」

 

 二人は継実の顔を見ながら、そう尋ねてくる。

 継実も二人の顔をちらりと見た。別段二人は自分の意見が聞きたい訳じゃない……家族達の色々達観した表情から継実はそう思う。勿論『名案』があれば嬉しいだろうし、こちらがちゃんとした意見を出せば真面目に考えてくれるだろうが……期待していない今だからこそ、言える答えもある訳で。

 

「ほんと……どうしたもんかなぁ」

 

 だから継実は、同意するようにぼやいた。

 母なる大海原。恵みをもたらす文明の立役者。確かに海というのは有り難い存在である。

 しかしながら今の継実にとっては、難攻不落の巨大要塞。

 何しろ旅の目的地である南極へと向かうには、この大海原を『生身』で渡らねばならないのだから……



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南海渡航02

 継実達の目的地は南極である。

 南極は日本から見て南側に位置する大陸。だから南に真っ直ぐ進めば、やがて辿り着く。辿り着けるのだが、日本は『島国』であり、周りを海に囲まれていた。大陸や次の島までの距離に違いはあるが、何処からどう行こうと陸地で続いている場所はない。一応北海道から流氷でロシアに渡るルートを使えば、アフリカや南アメリカの南端までは『陸路』で行けるだろう……が、南極自体もどれだけ氷が張ろうとも陸続きにはならない土地だ。

 つまりどんなに遠回りしたって、渡海は避けられない。ルート次第で回数は減らせるだろうが、必ず一回はやらねばならない事なのである。

 

「ほんと、どうしたもんかなぁ」

 

 故に継実達は海の下までやってきて、現在こうして立ち往生を強いられている。継実はぽりぽりと自分の頭を掻きながら、目の前に広がる雄大な景色を眺めた。

 海。

 文明社会に浸っていた人間は忘れていただろうが、本来、海とは()()()()()()()()である。陸上生活に適応した生物では、数十~数百キロと続く水を渡りきる事など到底出来ない。途中で溺れるか、或いは食べ物が得られなくて死んでしまう。鳥のように空を自由に飛べるか、流木一つでもなんとか乗っていられる小さな虫でもない限り、越える事など叶わない境界線なである。

 隔離は何も悪い事ではない。オーストラリアが有袋類の楽園なのは、海により大陸から有胎盤類が移入してこなかったためである。小さな島に固有種が多いのは、海により大陸の個体群との交雑が妨げられ、独自の変異を遂げた遺伝子が残りやすいからだ。更に伝染病の移動も防ぐため、複数の島に分布する生物からすれば絶滅を回避する防壁にもなる。

 母なる海という言葉があるが、それは単に生物の起源が誕生したというだけには留まらない。様々な種を、多様な形質を生み出す原動力でもあるのだ。地球という星がこんなにも()()()なのは、海のお陰だといっても過言ではない。

 雄大にして強大なる、星の力。

 

「どうします? 走っていきますか?」

 

 そんな星の力を、異星人(ミドリ)は自らの身体能力一つで越えようと提案する。

 七年前なら何を馬鹿なと一蹴する意見であるが……今の継実達なら、問題ない。

 ミュータントとなった彼女達の力は、星の力さえも凌駕するのだから。

 

「んー。まぁ、やってやれない事はないわよね。継実は空を飛べるし、私も毛の表面張力で浮かべるし」

 

「あ。そこは電磁誘導とかじゃないんですね」

 

「確かに電気はパワフルだけど、疲れるのよ。毛でぷかぷか浮いて、しゃかしゃか走る方が楽だわ」

 

「その移動方法はなんか虫みたいで気味が悪いのですが」

 

「そーいうアンタはどうやって渡るつもりなのよ」

 

「勿論モモさんか継実さんにおんぶしてもらうつもりです。えっへん!」

 

 人の事を気味悪いと言いながら、平然どころか偉そうに頼ろうとするミドリ。出会った時と比べて随分ふてぶてしくなったものだと、継実もモモも呆れやら親しみやらでついつい笑ってしまう。

 どうやるかは兎も角として、継実達の能力ならば海を渡るぐらい造作もないのは確かだ。継実は空を音速の何倍ものスピードで飛べるし、モモも水上を易々と動ける。そしてそれを重さ数十キロの荷物(ミドリ)を抱えながら数十分と続けられるだけのスタミナもあった。

 やろうと思えば恐らく休憩なしでも南極までの海を越えられるだろうし、沖縄やインドネシアなどの島々で数度休めばより安全だ。能力的にはなんの問題もない。ミドリはモモを頼ろうとしているが、彼女だってその気になれば草原の巨大ゴミムシから逃げ続けられる程度の速力はあるのだ。足が沈む前に次の足を、という漫画みたいな方法も『現実的』に行える。嵐で荒れ狂っていたとしても、結果に違いは出ない。

 自分達三人の能力なら、大海原は怖くないのだ。

 ……あくまでも、海だけならの話だが。

 

「つーかやり方はどうでも良いでしょ。どうにかしなきゃいけないのは、あっち」

 

 そろそろ話を前に進めるために、継実は指で示しながら現実の問題を指摘する。

 継実が指差した先である沖合い数キロ地点。そこでは激しい水飛沫が上がっていた。

 七年前であれば、水上バイクでも爆走しているのかと考えるのが自然だろう。今でもある意味当たっている。水面付近を何か、大きなものが爆走しているのだ――――水上バイクの何十倍もの速さで。

 しばらく継実達が観察していると、爆走していた何かが海上に跳び出す。少々平坦で青灰色をした五十センチ前後の、如何にも海の魚らしい見た目の身体が宙に浮かぶ。

 イサキだ。本来は岩礁地帯に暮らす魚であるが、うっかり迷い込んだのか、或いはあの辺りに立派な岩礁があるのか、はたまたミュータント化によって新たな生息地を開拓したのか。

 いずれにせよ明らかにミュータント化した身体能力を披露したイサキは、海中を超音速で泳ぎ回っていたであろうスピードのまま跳び出した。驚異的速さは大きなイサキの身体を空高く、一瞬で何十メートルもの高さまで至らせ、

 その後を追うように海中からサメが跳び出した。

 体長二メートルはあるだろうか。こちらも同じく何十メートルもの高さまで跳び上がっていく。イサキは尾ビレを振って足掻くものの、サメの方がずっと速い。

 追いついたサメはそのままぱくりとイサキに噛み付き、自由落下に任せて海に落ちる。どぼーんっ、と大きな水柱が上がったきり、海は再び静寂を取り戻した。

 勿論、そんな程度で今し方の光景を忘れられるほど、地上の生き物三匹は能天気ではない。

 

「地上がミュータントだらけな状況で、海だけ例外なんて訳がないか」

 

「そうよねぇ。流石にこれは無視出来ないわ」

 

「うーん、どうしたものでしょうか」

 

 継実が肩を落とし、モモが頷き、ミドリが悩む。三者三様の反応を示しつつも、心は一つになっている。

 現代の海を渡る上で最大の問題。それは、水生生物の存在だ。

 地上の生態系がミュータントに支配されたように、海洋生態系がミュータントに乗っ取られていても何もおかしくない。むしろ当然だ。継実達の目の前に広がる静かな水面の下で、一体どんな能力が飛び交っているか分かったもんじゃない。人類文明全盛期には乱獲や海洋汚染などで相当個体数が減っている筈だが、ミュータントの逞しさと繁殖力を考えれば、恐らくこの七年でかなり数は回復しているだろう。今頃海はお魚パラダイス。ちょっと海上を進めば、何十という数の生き物と出会うに違いない。

 そして大型の水生生物は大抵肉食性である。地上と違って海藻などの大型植物資源が乏しいため、どうしても肉食の方が『楽』なのだ。先程のサメのみならず、襲われていたイサキだって肉食魚。道中で彼等のような肉食性の水生生物と遭遇する可能性は、かなり高いと言わざるを得ない。そしてある程度大きな生き物なら、継実達を餌と認識して襲い掛かってくる。

 襲われれば当然戦う事となるだろう。しかしそうなると問題なのは、相性だ。

 地上で暮らしている継実(人間)モモ()は地上に適した身体付きをしている。目のレンズ体は空気の屈折率に合わせられ、肺は空気から酸素を取り出し、手足は頑丈な大地を踏み締めるのに向いた作り。しかしながら水中ではどれも役に立たない。海中の屈折率ではろくにモノが見えないし、肺は水から酸素を取り出せない。立派な手足は液体をろくに捉えられず空回りするだけ。

 水生生物は違う。彼等は当然水の中を完璧に見通せるし、水に溶け込んだ酸素を利用出来る。ヒレや流線形の体躯は水を掻き分け、猛スピードで移動するのに適したものだ。

 つまり、海中では陸上生物はろくに力を発揮出来ず、対する水生生物は全力を惜しみなく出せる。

 なんとも当たり前な話であるが、さて、こんな当たり前の状態で実力が『互角』の相手と戦って、果たして生き延びられるだろうか? 或いは圧倒的な格下相手にも、必ず勝てるだろうか?

 Yesと答える自惚れは、もうこの世界には生き延びていないだろう。

 

「(下手したらイワシの群れにすら殺されかねないなぁ。ロブスターとかも強そうだし……いや、そもそも動物プランクトンが群がってきたらそれでアウトか。数が多過ぎて勝負になんない)」

 

 想定される危険があまりに多く、そしてどれもが容易に起こり得る。海上付近や海中を渡るのはリスクが大きい、というよりもほぼ自殺行為だ。取れる手ではない。

 他の手は何かないだろうか? 考えてみるが、継実の頭に浮かんだ案は一つだけ。

 

「あ。じゃあ空はどうですか? 継実さんなら飛べますよね?」

 

 ミドリが提案した、大空という通路だ。

 これでも『海上』を渡る事には違いないが、高度数百メートルもの高さを飛べば、魚達の興味も薄れるだろう。仮に襲われても、距離さえあればひらりと回避する事は難しくない。海面すれすれを走るよりは遥かにマシだ。

 この方法の場合ミドリとモモを継実が背負う事になるが、それ自体は問題ない。ミュータントとなった継実のパワーは、その気になれば巨大なビルだって持ち上げられる。合計百キロにもならないような重さなど、負荷として計上する必要すらないだろう。

 しかし。

 

「正直それも気が進まないなぁ」

 

 継実は空を仰ぎながら否定的な意見を述べた。

 空にも『生き物』の姿がある。

 カモメだ。継実の視界内だけで十数羽が優雅に飛んでいる。独特な鳴き声は風情があるが……堂々と姿を晒し、大きな声で鳴くというのは、それだけ自分達の強さに自信があるとも言えるだろう。

 実際カモメはミュータント化する前から、かなり強い生き物である。鳥としては大型故か気が強く、しかも死肉や魚類など動物質を好むためか攻撃性も強い。アシカの赤ん坊の目玉を抉り出して弱らせる、小型犬を攫うというケースもあるほどだ。そんな生物のミュータントなど、正直陸でもあまり相手にしたくない。

 他にも海鳥達は数多く存在し、大空を支配している。鳥達は空を飛ぶという性質上身体が軽く、また骨も脆いため、魚やサメほどは継実達に襲い掛かってはこないだろうが……可能性はゼロではない。そして空を飛べるといっても継実はあくまで陸上生物であり、空のエキスパートである鳥達と空中戦をして勝てるとは継実自身思えなかった。

 ルートとしては、海上よりはマシな程度だろう。他に案があるならこれも選びたくない。

 

「だからって、それ以外の方法もないんじゃない? まさか地中とは言わないわよね?」

 

 とはいえモモが言うように、他の案など浮かばない。

 地中への潜行も出来なくはないが、暗い・狭い・酸素不足というのは水中よりも陸上生物には辛い環境だ。しかも数は少ないとはいえ、地中にも生物は存在する。オケラやミミズ、ゴカイやイソメのミュータントに襲われたら為す術もないだろう。よって地中は論外である。

 どれもこれも危険な道のりばかりだ。選択肢の悪さに、継実は思わず項垂れてしまう。

 

「あー……フィアみたいな仲間がいたらこんな悩まずに済んだのに」

 

「水を操るとか、水生生物としては間違いなく最強格の能力だもんね」

 

「あの人、つくづくインチキですねぇ……」

 

 ぼやいたり、たらればを語ったり。うだうだしながら時間を過ごしつつも、継実は少しずつ覚悟を決めていく。

 結局のところ、もうこの世界に百パーセントの安全はない。いや、人間が支配者ぶっていた時にもなかったが……今や五分の勝負が出来れば良い方だ。負け戦が当然であり、大半が勝率通りに死んでいき、故にどの生物も親の数よりずっとたくさんの子供を産む。一個体に出来るのは、よりマシな選択肢を選ぶのが限度である。

 そして地中は論外、海上も相性最悪となれば、残るは空中だけ。他に候補がないのだから、あとは覚悟の問題だ。

 息を吸い、深く吐いて気持ちをリセット。南極目指して飛び立とうと、継実は気持ちを固めた。

 

「さぁ、行くよ!」

 

 継実はモモとミドリの手を掴み、二人を連れて大空へと飛び出す。モモ達も既に覚悟を決めたのか、異論を出さず継実に従う。

 そして三人は大空を駆けた。

 この先にある、南の島を目指して――――



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南海渡航03

 ざざーん、ざざーん。

 波の押し寄せる音が、辺りに響いていた。燦々と降り注ぐ日差しが、春の砂浜を暑くしていく。

 その程々熱い砂浜に、足が六本とお尻が三つ生えていた。

 ……無論砂浜というのは、足やら尻やらが生えている地域ではない。というかそんな地域はこの地球に存在していない。しかし今、この場に足と尻が生えているのは事実。ちなみにお尻は布一つ纏っていないのでぷりんっと剥き出しだが、あまりにもシュールな光景故に色香など感じないだろう。というかちょっと不気味。

 一体これはなんなのか。

 その答えは生えている足及び尻こと、有栖川継実とモモとミドリが知っている。

 

「……………ぶはぁ!」

 

「ぼはぁ!」

 

 継実とモモが、自力で頭から突っ込んでいた砂の中から這い出す。七年前の身なら割と窒息で死んでいたかも知れないシチュエーションだが、今の継実達の身体能力ならば造作もない事。二人よりも遅れてではあるが、ミドリもじたばたしながらどうにかこうにか砂から這い出した。

 継実達は揃って頭をぶるぶると振り、ぼけーっとしながら海を眺める。水面は静かに揺れ動き、押し寄せる度にざざーんと爽やかな音を鳴らすだけ。

 継実は全てをやりきったような、清々しい笑みを浮かべる。努力はした、頑張って私は南の島を目指した……そう言わんばかりに。

 此処が南の国なら、その顔も意味のあるものだったのに。

 

「いや、何清々しい顔してんのよ。まだ()()()()()()()

 

 モモはそう言うと継実の首根っこをがしりと掴む。継実の体重は四十キロ以上あるが、雷撃以上の出力を出せるモモからすれば軽いもの。ひょいっと持ち上げられてしまう。

 

「え、ちょまっ」

 

「もう一度行って、攻略法見付けてきなさいよー」

 

「いや、なんで私が!? モモが行けば」

 

「だって私ろくに空飛べないし。じゃあ後は頼んだわ、よっ!」

 

 継実の抗議を無視して、モモは継実を海目掛けてぶん投げた。

 弾丸のような速さで投げ飛ばされた継実は、一瞬で大海原へ。ふらふらしながらも体勢を立て直し、継実は両腕を広げて飛行体勢へと移った

 直後、海面から跳び出した『ヒラメ』が継実の腹を打つ。

 

「げぼっ!? こ、んにゃろ――――」

 

 腹からの衝撃に耐えつつも、継実はヒラメを捕まえてやろうと腕を伸ばした、が、ヒラメもそう簡単には捕まらない。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()、あっという間にその身を貫通したのだから。

 これがヒラメの能力。触れたものを細かな粒に分解してしまうのだ。分解したものは律儀に食べているのか、ヒラメの口周りは粒になった継実の肉片で汚れている。

 

「ちっ!」

 

 腹を食い破られた継実であるが、この程度なら問題ない。むしろコイツを昼飯にしてやるとばかりにくるりと身を翻し、大空を舞うヒラメを捕まえるべく腕を伸ばす。

 そうして向けた背中側から、今度は小魚――――シロギスの大群がたくさん跳び出した。それも継実の頭、しかも髪の毛を狙って。

 シロギス達は継実の髪に次々と食らい付き、ぶちりと強引に千切っていく!

 

「いっだだだだだ!? か、髪は女の命って知らないのッ!?」

 

 抗議の声を上げても、シロギス達は止まらない。言っても分からないなら身体で分からせてやると、継実はその手に粒子ビームの力を溜め込みながら海面を振り向いた

 が、そのまま背中を押されて、今度は水面に叩き付けられる。

 

「ミャー! ミャー!」

 

 継実の背中で大騒ぎする、ウミネコの力によって。

 

「ごぽ!? ごぽぽぽぉー!?」

 

 海に叩き付けられ、継実はジタバタと藻掻く。息継ぎのために顔を上げようとする継実だったが、ウミネコはそうはさせまいと更に継実の背中を強く押した。このまま窒息させるつもりらしい。

 無論継実の方がウミネコより圧倒的に身体が大きい。パワーでは遥かに勝り、簡単に押し退けられる……筈なのだが、上手くいかない。

 背中に感じる無数の足の感触、そして頭や四肢にもずしりとのし掛かる重さ。どうやらウミネコは、群れで継実を沈めようとしているようだった。

 

「な……めんなゴラァ!」

 

 ぶちりとキレた感情のまま、継実は雄叫びを上げフルパワーを発揮。粒子操作の力で海水を形成する分子の運動量、即ち熱量を一気に引き上げる!

 莫大な熱により海水が蒸発し、巨大なキノコ雲が立ち昇る。魚も鳥も衝撃波で容赦なく吹っ飛ばされた。尤も誰一匹として死なず、継実から遠く離れた場所で見ているだけ。

 爆発の中心点である継実も同様だ。粒子操作の力を用いて海面に立った継実は、空から水から自分を見ている小動物達をぐるりと一望。どしりと四股を踏み、力を滾らせながら睨み付ける。

 

「掛かってこい! お前達全員、焼き鳥と焼き魚にしてやる!」

 

 小さな生き物達に向け、継実は一喝。

 物理的衝撃を伴うほどの大声を受け、鳥や魚達はぴくりと身体を強張らせる。次いで、今までの攻勢が嘘のようにあっという間に退いていく。

 ……逃げていくのは継実としても望んでいた展開だが、あまりにも呆気なさ過ぎる。何かがおかしいと継実は首を傾げた。

 しかし理由はすぐに分かる。

 自分のすぐ後ろから、ビリビリとした殺気が来ている事に。

 

「……………」

 

 継実はくるりと、後ろを振り返る。

 海から一匹の魚が顔を出し、継実を見ていた。

 ただの魚なら「あら可愛い。今日の夕飯ね」と継実も言うところだが、しかし此度はそうもいかない。その魚は体長三メートルあるかないかの、イタチザメなのだから。

 

「……えへ」

 

 継実はとりあえず笑ってみた。敵意がない事を示すように。

 イタチザメも口を大きく開けて笑ってみせた。お前美味そうだな、と言いたげに。

 なんらおかしな話ではない。イタチザメは好奇心旺盛で、今まで見た事がないようなものでもとりあえず襲ってみる生き物なのだから。

 七年前の世界でもそれなりに人的被害を出していた、所謂人喰い鮫である。

 

「ひええええええっ!?」

 

 情けない悲鳴を上げながら、継実は海面を走る!

 粒子操作により、海面の水分子を固定化。地面のように硬くする事で、継実の脚力を受け止めさせる。これにより継実は海面を、地上と変わらぬ秒速六キロほどの速さで駆ける事が出来た。

 しかし海を進むイタチザメは更に速い。

 水中を()()()()()()もの速さで爆走するのだ。どうやら鼻先から出す『電気』により水分子の動きを制御し、水そのものの動きに乗る事で海中を進んでいるらしい。

 つまり、それは『水を操る能力』。

 

「(ふぃ、フィアと同じ能力! こんなのと水辺で戦って勝てる訳ないし!)」

 

 かつて ― と言ってもほんの数日前なのだが ― 苦戦を強いられた敵と同じ能力、しかもその能力を十全に扱える環境での遭遇に、継実も冷や汗が流れる。

 しかしながら正確に言えば、イタチザメの能力はフィアと同じものではない。

 フィアよりも応用力に欠ける代わりに――――より獰猛だ。

 

「シャァァー!」

 

 声帯などないだろうイタチザメの、見た目の凶悪さとは釣り合わないか細い鳴き声が上がる。

 合わせてイタチザメの周りに、無数の半透明な触手が生えてきた。

 触手達はいずれも水で出来たもの。しかしフィアが作り出したものと違い、カクカクと動きがぎこちない。それでも正確に継実の動きを追尾し……狙いを定めるやバチバチと稲妻を放つ。

 そして触手の先端が分離し、継実目掛けて射出された!

 

「いっ!?」

 

 射出された触手の先端は、継実の手に命中。纏う電撃による分子結合の分解と、高速回転する触手の物理的衝撃の合わせ技により、継実の手を貫通する。

 継実だって何も無防備だった訳ではない。体表面の分子結合を強化しており、ちょっとやそっと(軍事攻撃程度)の威力では掠り傷すら負わない強度がある。だがイタチザメの繰り出した水のドリルは、これを容易く打ち破ったのだ。

 ダメージの大きさでいえば、大したものじゃない。身体に穴が開いても継実の能力なら再生可能だ。しかし手を貫通する威力があるのだから……頭蓋骨をぶち抜いて、脳みそをぐちゃぐちゃに掻き回すぐらいの事は出来るだろう。脳をやられるのは流石に不味い。

 そしてイタチザメは、何百本もの触手を生やし、全ての先っぽを継実に向けていた。無論構えるだけで済む筈もなく。

 無数の触手弾が、逃げる継実を狙い撃つ!

 

「ぎゃあぁぁぁ!? ひぃいいいい!?」

 

 悲鳴を上げて走る継実。比喩でなく全身穴だらけになりながら、頭だけはなんとか守って走り続ける。

 しかしイタチザメの攻勢はまだ終わらない。いや、そもそも水触手の攻撃など本質的な問題ではないのだ。

 一番の問題は、イタチザメの方が圧倒的に速い事。

 このままでは追い付かれて、喰われる!

 

「っ! なら、これでどう!」

 

 最早これまでと観念した継実は――――振り返るや粒子ビームを自分の足下に撃ち込んだ。

 高運動量の粒子により過熱された水が、大爆発を起こす。爆発の衝撃を眼前から受けたイタチザメは僅かに減速し……進行方向と同じ向きで受けた継実は大きく加速。

 その速さ、秒速十三キロにちょっと足りない程度。

 イタチザメほどの速さはない。が、これで十分。少なくとも浜辺に到達するまで追い付かれなければ良いのだから。

 これは間に合わないと理解したのか、イタチザメが海面で悔しそうにガチガチと顎を動かす。どうだ悔しいかと、煽りの一つでも入れたくなる継実であったが、しかしそれどころではない。

 何しろ今の継実は、全力疾走の倍近い速さで飛んでいる。自分の実力以上のスピードを出していて、完璧に身体の体勢を整えられる筈もなく。

 

「わ、わ、わわわわ――――」

 

 両手をバタバタさせて安定を得ようとするが、まるで効果なし。砂浜に着地した瞬間継実の足がぐきりと曲がり、

 

「どべっ!」

 

 勢い余って砂浜に頭から激突。

 秒速十三キロで転倒した継実は砂の爆発を起こしながら埋没。砂浜から下半身が生えているような、間抜けなオブジェクトとなってしまった。ぐたり、と身体から力が抜け、あらゆる意味で悲惨な姿を晒す。

 

「うーん、客観的に見るとやっぱりヤバいわね」

 

「ですねー」

 

 なお、家族二人は継実を助けようともせず。

 何しろこれは『二回目』の事なので、わざわざ助ける必要がない事をモモ達は知っているのだ。

 

「……ところで攻略法は見付かった?」

 

「ない」

 

「私投げられ損じゃん!」

 

 砂浜から這い出した継実に告げられる、モモの冷酷な発言。憤りを露わにする継実に、ミドリが「まぁまぁ」と宥めてくる。

 実際、モモを責めても仕方ない。それが現実なのだから。

 

「(渡る前から分かっていたけど、ここまで苛烈とはね)」

 

 一回目のチャレンジ――――モモとミドリを引き連れて海を渡ろうとした時と、同じ原因で引き返す羽目になった。

 つまり、海洋生物及び鳥類の猛攻。

 個々の戦闘能力は継実からすれば大したものではない。しかし種類の豊富さ、そして何より個体数の多さにより、前進を妨げられる。それでも有象無象には変わりないので、全力を出せばなんとか蹴散らせるが……そうすると今度はサメやマグロなどの大型肉食魚が引き寄せられてくるのだ。こちらは体重的に継実達全員分を遥かに上回る大物。パワーに勝り、能力も強く、何より置かれている環境が継実にとって良くない。抗う以前の問題である。

 ぎゃーぎゃー喚きながら逃げ出して、砂浜に頭から突っ込んで事なきを得る……それが精いっぱいの結果だ。

 

「どーしたもんかなぁー……」

 

 天から妙案が振ってくる事を期待して呟いてみるが、なんのアイディアも浮かばず。

 元々相性が悪い事は理解していたが、ここまでどうにもならないというのは想定外。小動物と大型魚のコンボにより、沖まで一キロも進めないうちに砂浜へとUターンを強いられてしまう。尤も強いられなければどんどん前に進んで、陸から離れたところで前門の虎後門の狼状態に陥り、海の藻屑となるのが目に見えていたが。

 そう、此処での出来事は大海原で起きる事の序章に過ぎない。浅瀬を軽々と突破して、後戻り出来ない場所で苦戦する……それぐらいの状況でなければ、海を渡る事など出来ないのだ。

 此処をなんとか突破するのではない。楽々と突破しないといけない。

 しかし考えても考えても、打開策なんて浮かばない。当然だ。海洋生物達の独壇場に乗り込んで、楽々突破なんて虫が良過ぎる。

 端から無謀だったのだ。海を渡って、南極まで行こうなんて。

 

「(何か、良い方法は……)」

 

 それでも諦めきれなくて、継実は顰め面になりながら考えを巡らせようとした――――

 

「っだああああああ! 止め止め! 一旦止めぇい!」

 

 ものの、モモの大声で思考がぷつりと途切れてしまう。

 別に、あと少しで考えが浮かびそうだった、という訳ではない。しかしそれなりに集中していた時に邪魔されて、イラッと来たのは確か。

 だから継実はモモをちょっと睨んだが、対するモモは何処吹く風。むしろ清々しく笑う始末で、なんとも楽しげである。こうも笑われると、苛立ちや怒りよりも疑念が募るというもの。

 故に怪訝な顔をする継実に、モモは一片の曇りもない笑顔でこう告げるのだ。

 

「気分転換よ。折角海に来たんだし、ちょっとぐらい遊んでも罰なんて当たらないわ」



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南海渡航04

「……気分転換?」

 

「うん。気分転換」

 

 継実がオウム返しで尋ねれば、モモは屈託のない笑みを浮かべながら堂々と答えた。

 確かに、考えが纏まらない時は気持ちを一新するのが大事である。考え方を変えてみればすんなり閃く事もあるし、気分転換で得られた経験がヒントとなる事もあるだろう。何事もメリハリが大切だ。

 だからモモの意見そのものには、継実としても異論はない。

 異論があるのは、モモの気持ち。

 

「……そー言って遊びたいだけでしょ」

 

「ええ、そうよ」

 

 ズバリ指摘してみれば、あっけらかんとモモは認めた。まるで悪びれる様子もない相棒の姿に、継実は肩を落とす。

 

「アンタねぇ……」

 

「何よ、別に急いでる訳でもないじゃない。というか最近酷い目に遭ってばかりだから、偶にはのんびり遊びたいわ」

 

「いやまぁ、確かに此処ならのんびり遊べそうだけど」

 

 砂浜というのは、生き物があまり多くない土地だ。潮の満ち引きにより、一日で何度も水浸しと乾燥を繰り返すため、多くの生き物にとって暮らし辛い。勿論核攻撃すら通じぬミュータントなら潮の満ち引きを『克服』するぐらい簡単だろうが、しかし住み心地の良さはまた別問題。誰だって居心地の悪い場所には棲み着こうとしないものだ。それに砂浜だと藻などの植物も生えにくいので、動物にとっては尚更魅力のない環境と言えるだろう。

 生き物がいなければ、それらを餌にする大きな生き物もいない。危険で凶悪で強い生物というのは、虐められる相手がいて初めて生きていけるものなのだ。つまり生き物が乏しい環境は、ふらりと立ち寄っただけの継実達にとっては安全な場所なのである。

 だから確かに、遊ぶなら此処しかない訳で。

 

「えっ! 遊べるんですか!?」

 

 そして遊べると知って目を輝かせるミドリを見たら、継実は何も言えなくなってしまう。

 

「ええ。周りを探知しても、大きな生き物なんていないでしょ?」

 

「はい! ずっと不思議だなって思っていましたけど……本当に危ない生き物、いないんですね!?」

 

「あまりいないだけで、ゼロじゃないけどね。ミュータントになったサメとか浜まで上がってくるかもだし。でも今までの森とか草原とかと違って、何時襲われてもおかしくないってほど危険ではないと思うわ」

 

「はわわわわー……!」

 

 モモの意見を聞き、ミドリはぱたぱたとその場で足踏み。それからくるりと継実の目を見てくる。

 ミドリの目はキラキラと輝いていた。まるで、海を楽しみにしている小学生のように。

 流石にこのキラキラお目々を曇らせるほどの残虐さは、元とはいえ『人間』である継実にはなかった。

 

「……そうね。気分転換は大事だし、ちょっと遊ぼっか」

 

「「やったー!」」

 

 継実がOKを出せば、モモとミドリは万歳をして大喜び。

 そこまで喜ばれると継実としても嬉しくて、つい、笑みが浮かんでしまう。それに継実だってまだまだ十七歳の女の子。家族と一緒に海で遊ぶのは、憧れの一つなのだ。

 

「で? 何して遊ぶ訳?」

 

「うーん、水際で追い駆けっことかかしら」

 

 尤も、モモは特段やりたい事があった訳ではないらしい。なんともテンプレートな遊び方に、継実はくすりと笑った。

 

「そりゃ恋人同士でやるもんでしょうが」

 

「あら、家族でやっても楽しいわよ。こんな風に、ねっ!」

 

 継実からのツッコミなど意に介さず、モモは波打ち際へ。しゃがんだモモはにやりといたずらっ子のように笑う。

 何をする気か、見れば一瞬で察しが付く。継実はモモが動き出すよりも一瞬早く身構えつつも、逃げたり止めたりはせず。飛んでくるであろう海水に備える。

 なお、実際に飛んできたのは『土石流』。

 モモの強大なパワーにより海水と砂がごちゃ混ぜになった、茶色い濁流が飛んでくる。本当なら「きゃぁ♪」みたいな声を上げるつもりだったのに、継実の口からはなんの声も上がらない。避けようと思えば避けられたが、避けようと思っていなかったので避けられず。七年前の生身ならば色々大惨事を引き起こす流れが、継実の身体に襲い掛かった。

 モモの『水飛沫』は一瞬で過ぎ去る。勿論継実はこんなものに流されるほど柔ではないが……立ち尽くす継実の身体は、砂と、衝撃で掘り起こされた泥に塗れてぐちゃぐちゃだ。ちなみに継実の隣にはミドリもいたが、ミドリも同じくぐちゃぐちゃのどろどろである。

 唯一無事なのは、事の元凶であるモモだけ。

 

「……何か言う事は?」

 

「ごめんなさい」

 

 問えば呆気なくモモは謝る。

 悪気はなく、力加減を間違えただけなのだろう。それは、モモの口から聞かなくても分かる。家族なのだから。

 ――――じゃあ、これで許すかといえばそれは別問題な訳で。

 泥だらけになった継実とミドリの心は、一瞬にして通じ合う。

 

「……いっけぇ! アイツもどろどろにしてやれ!」

 

「りょーかーい!」

 

 継実の掛け声に合わせて、ミドリはモモへと突撃する! 継実もミドリの後追いでモモ目指してダッシュ。

 三人全員で波打ち際を走る。走る速さは音に程近い、けれども彼女達にとってはのんびりしたもの。

 全員顔に笑みを浮かべる余裕もあった。

 

「あっははは! ごめんって言ったでしょー!」

 

「許すなぁ! アイツも泥んこ塗れにしてやれぇ!」

 

「とりゃあっ!」

 

 逃げるモモを捕まえるため、ミドリがモモに飛び掛かる――――が、モモはこれをひょいっと身を翻して回避。

 

「どべっ!?」

 

 目標を外してしまったミドリは、砂浜に顔から突っ伏すように倒れる。

 しかしすぐさま起き上がり、またモモと追い駆けっこへ。この不屈の闘志にちょっと驚いたのか、振り返ったモモの動きが僅かに鈍った

 

「隙ありぃ!」

 

 そのタイミングで継実は大ジャンプ。モモに跳び付く!

 七年間一緒に暮らしていたからこそ分かる、モモの意識に生じた隙間を的確に突いた。モモは驚いたように目を見開くが、一手遅い事を継実は確信する。

 継実はモモに抱き付き、勢いのまま砂浜をごろごろと転がった。途中足やら腕やら絡まって、外れなくなったのは想定外だったが。

 

「ふはは! 捕まえた!」

 

「捕まったぁー」

 

 ともあれ結果的にモモを捕まえた継実は勝ち誇り、モモはなんとも暢気な声を出す。

 それがおかしくて、ついつい継実は笑ってしまう。

 モモも釣られるように笑い出し、げらげらげらげら、楽しげな笑い声が砂浜に響き渡った。

 

「あはは! やりましたね、継実さん!」

 

 そしてミドリも楽しげに笑う。

 笑うのだが……何故か彼女は、継実達から少し距離を取っていて。

 

「ちょっとー、なんでミドリそんなに離れてんのよ」

 

「もっとこっち来なさーい」

 

 引きずり込んで『ダマ』の一員にしてやるから、等という気持ちを隠しながら継実は手招き。ところがミドリは近付くどころか後退る。

 ノリが悪いなぁとでも言ってやろうかと継実は口を開け、

 

「ひゃんっ!?」

 

 何かがお尻を触ってきた刺激で、変な声が出た。

 

「……何変な声出してんの?」

 

「い、いや、何かがお尻を触って……ってミドリ!?」

 

「あー、いや、なんかそこ変な生き物いるみたいでして……なんというか、触手?」

 

「しょく……!? ぴゃあっ!? またお尻触られたぁ!?」

 

「味見ですかねぇ……」

 

 持ち前の探査能力で、ミドリは危機を一足先に察知していたらしい。継実のお尻を舐めてくる触手的生物に苦笑いしながら、じりじりと遠ざかる。

 ミドリは後でお仕置きするとして、これは良くない展開だと継実は焦る。ミュータントと化した継実には、十歳の頃には知らなかった様々な知識があるのだ。それは様々な生物の知識や自然科学だけでなく、人類文化の中で形成された娯楽……海辺と触手の組み合わせによる、ちょっとばかり大人向けな展開に対する知識もある。

 このまま触手と組んずほぐれつなんてなって堪るか! そんな継実の『ご期待』に応えるように、どぼんっ、という水音が背後から聞こえてきた。触手だろうがなんだろうが粒子ビームで吹っ飛ばしてやると、継実は己の手に力を込めながら気配の方へと振り返り、

 地面から顔を出す、体長七メートルほどの『オニイソメ』と目が合った。

 

「……おにいそめ?」

 

 自分の中にある記憶に、継実はこてんと首を傾げる。

 オニイソメ。

 名前の通り、七年前には人類に釣り餌としてよく使われていたイソメという環形動物の一種である。イソメといえば足だかヒダだか分からないものが何百本も生えたミミズのような生き物で、気持ち悪さは兎も角決して強い生き物ではない。が、このオニイソメは別だ。

 ミュータントと化していない個体であっても、体長は最大で三メートルにも達する巨大種。頭部には鋭い大顎が四本も生え、これで積極的に獲物を食い殺す。甲殻に守られている訳ではないが、ギチギチに張った肉に軟体動物的軟弱さを求めるのは間抜けが過ぎるというもの。魚だって積極的に切り刻む、恐るべき捕食者である。

 継実達の前に現れたのは、見た目こそそんなに変わっていないが、大きさは遥かに増大。人間だって食べられるモノになっていた。にゅるにゅると海面に出てくる身体は、長大であるが筋肉の塊であり、凄まじいパワーを感じさせる。そして開いた口から溢れている透明な粘液は、彼が持つ食欲を教えてくれた。

 触手は触手でも、コイツはエロなんて欠片も興味がないような人喰い触手らしい。

 

「ぎゃああぁぁぁぁぁ!? なんでこんな物騒なのが砂浜にぃ!?」

 

「いや、イソメは普通にいるでしょ……大型化してるのも、まぁ、今更珍しいもんじゃないわよね」

 

「ですねぇ。あたしも大分慣れてきました……あ、継実さん。早く逃げないと食べられちゃいますよ。さっきお尻をぺろぺろして、継実さんの味見をしていたみたいですし」

 

「味見ってそっちの意味なのぉ!?」

 

 そっちじゃない意味って何? そう言いたげなモモとミドリの純朴な視線に、しかし汚れてしまった事への人間的羞恥を感じる暇などない。このままではあの鋭い顎でスライスされてお刺身だ。

 ところで今はモモとひっ絡まっているので、継実もモモも身動きなんて取れなくて。

 

「ちょ、モモ!? 早く離れなさいぃー!」

 

「え。いや離れるのは簡単でしょ、私の身体体毛だし、継実は粒子操作で身体をバラバラに出来るんだから」

 

「あ。そうだった」

 

「海だからって気を弛め過ぎ」

 

 自分の能力も頭から抜けるなんて。思い出した継実はすぐに身体をバラし、モモも身体を僅かに解して分離――――した直後、オニイソメの顔面が継実達の居た場所に突っ込んできた。

 間一髪でこれを躱した継実とモモは、素早くミドリの傍まで移動。先程までと違って万全の体勢に移った三人であるが、獲物を見付けたオニイソメは「じゃあ諦めるか」なんて言ってくれる筈もなく。

 

「逃げろー!」

 

「はいぃー!」

 

「いえっさー!」

 

【ギシャアアアアアァー!】

 

 継実達三人がすたこらさっさと砂浜を駆ければ、オニイソメもすたこらさっさと追い駆けてきた。

 追い付かれたらあの世行きのデスレース。

 海でやる追い駆けっこってこんなんじゃないでしょ、という想いが継実の脳裏を過ぎる。しかし同時に、こんなのでも悪くないでしょ、という考えも過ぎった。

 確かに悪くない。

 どんな時でも楽しまなければ損というもの。そして此処は海なのだから、何をやっても楽しくなれる。

 

「あはははは!」

 

 気付けば心から笑っていて。

 恐ろしい化け物を振りきった後、再び継実達は思う存分海の遊びを満喫するのだった。

 ……………

 ………

 …

 

「いやぁー、遊んだ遊んだぁー」

 

 心から満足しているのだろう。ぐったりとうつ伏せに倒れ伏しつつ、尻尾をぶんぶん振り回しながらモモがそう独りごちる。

 

「ほんと、楽しかったです」

 

 傍に座るミドリも同意。頭の上には浜に流れ着いていた海藻がとぐろを巻いて乗せられ、何百年か前の貴族を思わせる風貌と化している。胸には貝殻を二枚付け、まるで人魚の物真似。

 

「こんなに遊んだの、久しぶりだなぁ……」

 

 そして継実は砂の中から頭だけ出しながらぼやく。今猛獣に襲われたら間違いなく死ぬが、それはそれ、これはこれ。気にも留めず、感慨に耽った。

 人類文明を容易く滅ぼすほどの肉体が、へろへろになるまで遊んだ三人。時間は随分と流れ、もう夕方になっていた。太陽は西に沈みかけ、空が明らむ。大海原が広がる東側は、一足先に夜の暗がりが広がり始め、ぽつりぽつりと星の煌めきが見え始める。

 海からは鳥達の姿も消え、海面から跳び出す魚の姿もない。夜が近付き、皆寝床へと帰っていくのだろう。もう少しして夜行性の生物が出てくるまで、生き物達の姿は減り続ける。

 もうすぐ、一日が終わる。楽しかった一日が。

 そう、丸一日。

 

「遊んでばっかで、海を渡る方法なんも考えてないじゃん……!」

 

「だねー」

 

「うっかりしてましたー」

 

 遊んでばかりいた継実達は、誰一人として目の前の大海原を越える術の事など忘れていたのだった。

 気分転換のつもりだったのに、今やすっかり夕方。いや、何時までに南極へ行かねばならないという決まりもないので、一日遊び呆けても大した問題ではない。

 問題ではないが、最初の一日すら頑張れない人間は、あとの何十日も頑張れない事を継実は知っていた。

 

「うぎぎぎ……あ、遊び過ぎた……」

 

「まぁ、良いんじゃない? 今日は疲れたし、ぐっすり寝れば良い案も浮かぶっしょ。明日も駄目ならまた明日ってね」

 

「そうやってまた明日また明日ってやってると何時まで経っても終わらないの! 夏休みの宿題みたいに!」

 

「うぐっ。よ、幼少期のトラウマが……」

 

 継実の発言で、何故かミドリが精神ダメージを受ける。どうやら宇宙人にも夏休みの宿題、そしてそれを毎日コツコツやらなかった結果起きる惨事があるらしい。

 やっぱコイツ本当は地球人なんじゃなかろうか。そう思いながら継実は砂から這い出て、ぶるぶる身体を揺すって砂を落とす。モモとミドリも立ち上がり、伸びたり身体を叩いたりしていた。

 やってしまったものは仕方ない。それにモモが言うように、明日駄目でもまた明日頑張れば良い。元より期限なんてない旅なのだから。

 そう考えれば、少し、継実は肩から力が抜けた。口許も、ちょっと弛む。

 

「ところで、今日のごはんはどうするのですか?」

 

「「えっ?」」

 

 なお、ミドリの一言で弛んでいた全てが凍り付いたが。それもモモと一緒に。

 ……遊んでばかりで考えていなかったのは、旅路の事だけではなかった。割と肝心な、日課というか生きるための努力すら忘れていたと、今になって継実は思い出す。

 

「……まぁ、海藻が落ちてるぐらいだし、魚の死骸とか貝とか落ちてるでしょ」

 

「そうですね、もぐもぐ……これ硬いなぁ」

 

 ミドリは頭に乗せた海藻を一人で齧り、三分の一ほど食べたところでモモと継実に渡してくる。モモは食べられないからいらないと断ったので、残りは継実とミドリでまた分け合う。お腹に食べ物を入れておけば、少しは身体の調子も良くなる。

 それじゃあそろそろ遊びは終わりにして、真面目に考えたり生きようとしたりしましょうか……そう思いながら、継実は砂浜に流れ着いた食べ物がないか探すべく歩き出そうとした。

 そんな時である。

 

「そこのお嬢さん方。お困りかい?」

 

 ()()()()唐突に、そんな声を掛けられたのは。



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南海渡航05

 反射的に継実は、声が聞こえた方に視線を向ける。同時に体温を上げていき、フルパワーを出せるよう身体のギアを全開にした。

 遊びの時間が終わり、意識を切り替えた継実は周囲の警戒を怠っていない。いくら生き物が少ない砂浜とはいえ、背後には草原があり、正面には大海原が広がるのだ。もしかすると草原から獰猛な捕食者が跳び出すかも知れないし、海からサメが自分達目掛け突撃してくるかも知れないし、砂浜からカニの化け物がハサミを伸ばすかも知れない。油断など出来っこないのだ。

 継実だけでなく、モモだって警戒はしていた筈。ミドリはまだ遊びの気持ちが抜けていないかも知れないが、彼女は気配の察知に優れている。油断していたって、モモや継実並には鋭い筈。

 三人の意識を潜り抜けた『強者』を警戒するなというのは、毎日命を狙われている『野生動物』達には無理な相談だ。何時でも攻撃が出来るよう継実はその手に力を宿し――――

 ぷすんっと、行き場を失った力と警戒心が頭から吹き出してしまう。

 何故なら傍に居たのが、青みがかった羽根を持つ、赤らんだ顔の鳥だったがために。他の鳥と比べて明らかに長い翼と尾、それと体長十数センチ程度の身体は、七年前に継実が見た『実物』の姿とも合致する。

 

「……ツバメ?」

 

「ああ、そうとも。オイラはツバメさ」

 

 継実が思わず尋ねると、傍に現れた鳥ことツバメは胸を張りながら答えた。ご丁寧に日本語で。

 甲高い声は少年のよう。オイラという一人称、そしてツバメとしても長い尾羽から考えるに、雄個体か。歳は分からないが、身体に傷が少ないので恐らく若者だ。

 無論雄だろうが若かろうが、日本語を話す理由にはならないが。

 

「へぇー。ツバメって喋れるんですね」

 

「いや、喋んないわよ。多分私と同じで、能力を応用して発声してるんでしょ」

 

 素でそう思っているであろうミドリに、モモがちゃんと訂正を入れておく。ツバメは否定も肯定もしなかったが、モモの予想通りだろうと継実も考えた。

 そして一度は消えた警戒心が、再びむくむくと込み上がる。

 日本人である継実は、ツバメの生態について少しは知っている。春になると南の方から渡ってきて、人家近くに好んで巣を作る身近な鳥だ。主に ― 害虫に限る訳ではないが ― 昆虫を食べるため、昔からありがたい生き物として人々に受け入れられてきたという。その意味では、確かに人慣れしている生き物ではあるが……だからといってこんなすぐ傍までやってくるような生き物ではない。野生動物として異質な距離感は、ハッキリ言って不気味だ。

 大体、何故コイツは自分達に近付いてきた? 一体何を考えている?

 抱いた疑念から、継実は無意識にツバメを睨んでいた。尤もツバメの方は継実の気持ちなど気にもしていないらしい。親しげ、というより馴れ馴れしく継実に話し掛けてくる。

 

「お嬢さん方、失礼ながら話を聞かせてもらったぜ。海を渡りたいんだろう?」

 

「……別に、アンタには関係ない話でしょ」

 

 警戒している継実は、とりあえずツバメに敵対的な反応で返す。

 尤もツバメはへらへらとしていて、鬱陶しく継実の足下を飛び跳ねるばかり。まるで堪えていない様子だ。

 

「いいや、関係あるね。何故ならオイラがアンタ達をこの海の向こう側まで運んでやるんだから」

 

 その上、継実の心を大きく揺さぶる提案までしてくる。

 継実はますます警戒心を強めた。それと同時に不気味さも感じる。一体どうしてこのツバメはそんな話をしてくるのか、まるで理解出来ない。

 心を激しく掻き乱されるのは、これが『話術』による混乱だからか。

 七年間の野生生活で、訳の分からない能力に翻弄される事はもう両手の指でも足りないほど、継実は経験してきた。しかしどの生物も最終的な目的は継実(獲物)の殺害、或いは継実(天敵)の撃退である。辿り着くのは生きるか死ぬかの二つのみ。だから『シンプル』で分かりやすい。

 されど此度のツバメが仕掛けてきたのは話術。何を求めているのか、何をしたいのかがすぐには分からない。

 怪しい。きっと裏があるに違いない。

 

「えっ。運んでくれるの!」

 

「わぁ! 助かりますー!」

 

 なお、そんな気持ちを抱いたのは継実だけ。疑いなんて微塵も抱いていないと分かる家族の声と表情に、継実は思わずずっこけてしまう。春の砂浜はひんやりしていて気持ち良くて、頭はすぐに冷えた。

 

「どしたの継実。いきなりぶっ倒れて」

 

「……なんでそんなあっさりとコイツの話信じてんのさ」

 

「? なんで信じてないの? なんか嘘吐いてる感じとかした訳?」

 

「あたしは特にそーいうのは感じなかったのですけど」

 

 呆れながら継実が尋ねると、モモとミドリは心底不思議そうに首を傾げた。そしてツバメも、何故かキョトンとしている。

 なんでアンタ達そんなに能天気なんだ、と抗議の一つも入れたくなる継実だったが……確かに、冷静に考えてみれば自分が感じた違和感や不快感は、全部『そんな気がする』という話でしかない。なんの根拠もないのだ。

 改めて、継実はツバメに目を向ける。

 見たところで考えている事など分からない。表情豊かな人間と違い、恐竜(爬虫類)の末裔である彼等の顔はよくよく見れば極めて無機質だ。どれだけ注意深く観察しても悪意がないとは言いきれない……が、善意がないとも言いきれない。

 よくよく考えてみれば、まだツバメの話は始まったばかりなのだ。黒だと決め付ける証拠は何もないのである。

 まずは話を聞いてみる。『人付き合い』のエチケットであるし、判断はそれからでも遅くはないだろう。勿論、能天気な家族達は頼れないので、いざとなったら自分が違和感に気付かないといけないという気持ちは抱いたままで。

 

「……OK。ちょっと警戒し過ぎていたのは確かだし、まずは話を聞こう。えっと……アンタ、なんて呼べば良い?」

 

「別にツバメで構わないぜ。オイラ以外のツバメも近くにいないしな」

 

 ツバメはそう言うと、パタパタと空も飛ばずに羽ばたく。自己紹介の仕草、のつもりだろうか。

 一見して感情豊かなようで、アイデンティティーには無頓着なタイプらしい。恐らく名前を与えても、余程変なものじゃなければ受け入れるだろう。

 とはいえツバメ自身言うように、周りに他のツバメがいない今、わざわざ名前を付ける理由もない。ツバメ呼びで十分ではある。

 

「じゃあ、ツバメ。海を渡るのを手伝ってくれるって話だけど、どういう事? まさかだとは思うけど、ボランティアなんて言わないよね?」

 

「まぁね。とはいえ別に大したお願いがある訳じゃない。オイラもこれからちょいと南に行きたくてね。でも一人旅っつーのも危ないから、ボディーガードが欲しいのさ」

 

「ボディーガード?」

 

「アンタ、人間だろう? うちのひぃ爺さんが言ってたらしいぜ。昔は人間っていう便利なボディーガードが、オイラ達ツバメを守っていたってな」

 

 ツバメは胸を張り、どうだ納得しただろうと言わんばかり。

 どうやらご先祖様の有り難いお言葉は、合ってるとも間違っているとも言い難い形で伝わっているらしい。そしてツバメはそのお言葉を信じているのか、はたまた遺伝子に人間への好感がまだ残っているのか。なんにせよ、人間である継実を見てぴんと閃いた、という事のようだ。

 南へと運んでくれる理由については、ひとまずは納得出来る。実にツバメらしい考え方だと継実も思うし、打算があると分かれば胡散臭さも少し和らぐ。

 しかし、解せない点はまだある。

 

「んー? アンタ、なんで南に戻る訳? ツバメって今が子育ての時期よね?」

 

 モモが尋ねたように、今はツバメの繁殖期。この大切な時期にわざわざ日本を離れようというのが、いまいち納得出来ないのだ。

 ミュータントは人間並に高度な知能を持つが、だからといって人間のように『繁殖』を自制しようとはしない。むしろより積極的なぐらいだ。そうでなくては、生態系を瞬く間に支配するなんて出来やしない。繁殖期以外ならそういう気分だと言われれば納得もするが、繁殖期ならそうはいかない。

 何か、秘密があるのだろうか? 継実は徐々に大きくなる違和感に突き動かされ、ツバメの顔を覗き込む。

 ……ツバメは、変わる筈のない顔を顰めていた。顰め過ぎて、ちょっと可愛く見えるぐらいに。

 

「……何よその顔」

 

「無言の抗議だぜ」

 

「あっそ。で、なんでなの?」

 

「ちょっとは気遣ってほしいぜ」

 

「いーから聞かせなさいよー」

 

 ツバメの可愛らしい抗議を、モモは完全無視。疲れてへとへとになっている人間の目の前に、オモチャのボールをぽとんと落としていくような感じで。

 無邪気で無遠慮な暴君(ペット)に、ツバメはやれやれと言いたげに翼を広げる。次いで顔を妙な角度で上げ、右翼の先を腰に付け、左翼の先で額を触る、珍妙な(格好付けた)ポーズを取った。

 

「ふっ。可憐な花達を選んでいたら、不作法な連中が全て毟り取ってしまってね。こんな奴等と夏を一緒に過ごすのも馬鹿らしいし、オイラは一足先に常夏の国でバカンスを楽しむ事にしたのさ」

 

 そして口から出てきたのは、気取った台詞。

 気取り過ぎて何を言いたいのか、継実にはさっぱり分からない。分からないが、先の表情からして格好いい理由な訳がない。

 恐らく繁殖期に関係するものだと当たりを付け、考えてみる事数秒。

 

「(……ああ。つまり、繁殖相手を探してもたもたしている間にみんな(つがい)になって、自分だけ繁殖からあぶれたのが癪だからさっさと帰りたいと……ヘタレかコイツ)」

 

「アンタ、ヘタレなの?」

 

「あー、ヘタレさんですかー」

 

「ヘタレ言うんじゃねぇ!」

 

 継実が辿り着いたのと同じ結論にモモ達も辿り着き、継実が黙っていたのと違ってモモ達は口に出す。悲鳴染みたツバメの反発は、三人の誰にも届かなかった。

 恥ずかしいところがバレて悔しいのか、ツバメは俯きながらぷるぷる震える。が、震えはすぐに収まった。それから誤魔化すように、或いは自分の気持ちを切り替えるように、きびきびした動きで片翼を継実の方に差し向ける。

 

「兎に角! オイラは南に行きたいし、アンタ達も南に行きたい。だからオイラがアンタ達を南まで運び、アンタ達はオイラを守る。悪くない取引だろう?」

 

 ツバメは強く、自信に満ちた口調で話の要点を纏め上げた。そして継実達に決断を求める。

 気付けば弛んでいた口許を指先で擦りながら、継実は改めて考えを巡らせる。

 ツバメがこの時期に南に戻りたいという理由はよく分かった。実際のところツバメは年二回繁殖をするし、厳しい自然界では番の片方が死ぬというのはよくある事なので、この時期に南へと帰るのは些か早計なのだが……見たところ若い個体だ。如何にミュータントといえども、未熟なら本能より感情が上回る事もあるだろう。そして理性ではなく感情のまま行動するのも青春である、等と十七歳の継実的には得心がいく。

 そしてコイツは悪事を考える、というより考えられるタイプじゃない。話術は用いるが、本質的にはやはり獣で、策を弄する生き物ではなさそうだ。自分の恥ずかしい事を誤魔化そうとして、惨めに失敗するぐらいなのだから。

 そして自分達の利害は一致していると継実も思う。

 

「……確かに、悪くない取引ね。モモはどう思う?」

 

「私も同じ意見。飛行能力に長けた鳥が仲間に加われば、他の鳥も早々私達を襲おうとは思わない筈よ。ミドリは何か意見ある?」

 

「いいえ、あたしは特に……あ、一つだけ。運んでくれるという話ですけど、具体的にはどうやってですか? ツバメさん小さいから、背中には乗れませんよね?」

 

「ああ、それはこうやるのさ」

 

 ミドリの疑問に対し、ツバメは滑らかな動きで翼を振るう。

 すると突然、継実達の身体に『浮力』が生じた。継実はなんの力も込めていないのに、まるで自分が水素になったのではないかと思うほど強い力で身体が地上から離れようとする。

 そう考えていたのも束の間、水素のようだ、という例えすら物足りない速さで継実達の高度が上昇。凡そ五百メートル地点でぴたりと止まる。ツバメも一緒に上昇していて、継実達と同じ高さまでやってきた。

 

「これがオイラの能力。空気を操る力さ」

 

 ツバメは自慢げにそう語り、見せ付けるように継実達の周りを旋回する。

 空気を操る生物というのは、継実的には幾度か見た事がある。しかし同じ能力でも、使い方には様々な違いがあるものだ。恐らくツバメの能力は飛行に特化したものなのだろう。応用で空気を震わす(声を出す)事は出来るようだが、攻撃力にはあまり期待しない方が良いかも知れない。

 成程、ボディーガードを求める訳だ。

 

「わぁ! 凄いですー!」

 

「へへっ、そうだろうそうだろう」

 

 能力を目にしたミドリは大いにはしゃぎ、ツバメはなんとも誇らしげ。ミドリの疑問がなくなり、継実達全員が納得した事となる。

 やがて継実達はツバメと共に降下し、地上に降り立つ。継実はこくりと頷き、モモも笑みを浮かべ、ミドリはこくこくと何度も頭を上下させる。

 取引成立だ。

 

「うん、頼らせてもらうわ」

 

「よぉーし、オイラは飛行に専念するから、ヤバそうな奴等は全部任せたぜ」

 

「任された。それで? 出発は何時にするつもり?」

 

「明日の朝。太陽が地平線から顔を出してちょっと経った頃でどうだい?」

 

「それなら問題ないわ」

 

 ツバメが提案する時間に対し、継実は二つ返事で受け入れる。昼型生活者である継実達にとって、朝というのは一番元気な時間帯だ。ここをずらす理由はない。

 

「よっしゃ。じゃあその時間にまた来るぜ。それまで死なないようにしろよー」

 

「アンタもね」

 

 約束を取り付けたツバメはなんとも物騒な事を言い放ち、継実も軽く返す。

 ツバメは大空に向かって飛び立ち、草原の方へと去っていった。

 

「……さて、本当に明日まで生きてるかなぁ」

 

「え。アレ軽口とかじゃないんですか?」

 

 ギョッとしたような顔をするミドリだが、実際問題あり得る話だ。七年前の世界での話であるが……ツバメの寿命は十数年あるが、平均寿命は僅か一年半だという。つまり、それだけ若いうちに死ぬという事。

 基本的に生物というのは、余程の例外を除けば生き残る数よりも死ぬ数の方が多いものだ。今日出会った相手が明日死ぬというのは、割と珍しくない。

 珍しくないからこそ、考えても仕方ない話でもあるのだが。

 

「ま、私らは自分に出来る事をすれば良いの。アイツをガッカリさせないためにもね」

 

「そうね。今のままじゃ準備不足も良いところだし」

 

「? 何か用意しないといけないのですか?」

 

 継実の考えをモモは察したが、ミドリは分かっていない様子。

 これは大事な事だ。分かっているのといないのとでは、命に拘わるほどの。

 継実は真剣な顔でミドリと向き合う。ミドリもようやく、継実の言いたい事が些末事ではないと察したのだろう。息を飲み、真剣に継実の目を見返した。

 そして継実は大切な、大問題を伝えるべく口を開け――――

 その前に、ぐぅ~、と継実のお腹が鳴った。

 

「……お腹空いたままじゃ、力、出せないでしょ?」

 

「……そういえばあたし達、今日のごはん探してる途中でしたっけ」

 

 なんとも締まらない継実の意見に、ミドリは力なく笑い返した。



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南海渡航06

 本日の天気、快晴。

 キラキラと輝く太陽が、地平線の少し上から継実達を照らしてくる。雲一つない空で圧倒的存在感を放つそれは、正しく『お天道様』という有り難い名前通りの威光を目にするモノに示すだろう。

 潮風は強く、心地良い冷たさを含んでいる。磯の香りも爽やかで、目覚めたばかりの意識をスッキリと目覚めさせてくれる筈だ。

 等々語れども、要は昨日とほぼ変わりない天候。別段この地で珍しい気候でもなければ、初めて見た訳でもない。

 しかし継実にとっては特別だ。

 何しろ今日、いよいよ大海原へと旅立つのだから。

 

「……旅立てるのかなぁ」

 

 尤も、大海原を眺めている継実の口から出てくるのは不安げな言葉。

 何しろ約束の時間頃になったにも拘わらず、砂浜には未だ、自分達を南に連れていってくれる筈のツバメの姿がないのだから。

 

「まぁ、時計も何もないから正確な時間とか決められないし、私達と多少認識の齟齬があるのも仕方ないわ」

 

「知ってましたけど、時計がないと不便ですねー……あ、でも日時計なら作れるんじゃないですか? 精度とか気にしなければ、棒立てるだけで出来ますし」

 

「あ。それ名案ね。今度待ち合わせする機会があったら、それやりましょ。単独行動とか死亡フラグでしかないけど」

 

 苛立つ継実の傍では、モモとミドリがのんびりとしている。とはいえ待っている間も退屈なので、ミドリは海藻を、モモは小魚を食べながら、片手で砂を用いた何か ― お城のような物体 ― を作っていた。

 継実は海を眺めたまま、肩を落とす。

 ……それから自分も足下に潜んでいた貝(多分アサリか何かだろう)を捕まえ、粒子ビームでこじ開けながら、その中身を頂く事にした。待っていてもお腹は空くのだ。ちなみにこじ開けた貝の一個をミドリがじぃっと物欲しげに見ていたので、分けてあげると目をキラキラ輝かせながらミドリは食べ、口に含んだ途端更に目をキラキラさせていた。

 

「実際問題、どうする? 猫とかに食べられていたら、何時まで待っても来ないわよ」

 

「探しに……行っても無駄ですよね。あの大きさじゃ、多分死体も残らないでしょうし」

 

「残ってても、それがアイツかどうか分かんないよ。ぶっちゃけ他のツバメと見分け付かない」

 

 ちらりと、継実は朝日が浮かぶ地平線に目を向ける。

 ツバメとの待ち合わせ時刻は「太陽が地平線から顔を出してちょっと経った頃」。日の出から二時間ほどが経ち、朝日はすっかり地平線から顔を出していた。

 継実の感覚では、もうとっくに『ちょっと』は過ぎていて、そろそろ遅刻の時間帯。しかしツバメの感覚では、まだまだちょっとじゃないかも知れない。秒単位の時間を認識・意識出来る人間でも偶に数時間の遅刻を「ちょっと」で済ます奴もいるぐらいなのだから、ツバメからすれば二時間どころか五時間ぐらいは誤差という可能性はある。

 だけどもしかしたら本当に、猫とかカモメに食べられたかも知れない。

 無論、だから待つのを止める、という選択肢はない。継実達には未だこの大海原を渡る術も策もないのだから。けれどもどうなるか分からない、何が起きているか知る術もないと自覚して待つのは、人間の精神的には非常に疲れる。

 もっと分かりやすい時間帯にしておけば、この心労も少しはマシになったのだろうか。

 

「あーもう……こんな事なら地平線に朝日が昇ってすぐ、みたいな時間にしとくんだった」

 

「無理でしょ。ツバメじゃなくて継実の方が」

 

「継実さん、お寝坊さんですからね」

 

「うっさいなぁ。頑張れば出来るよ、一応」

 

「どうだか。犬である私よりも寝坊助なんだから、無理だと思うけどね」

 

 継実の主張は、七年間暮らしているモモには通じず。ミドリもなんやかんや何度も一緒に寝ているので、継実の寝坊助ぶりは既に知っている。継実を小馬鹿にしたモモの言葉にこくこくと頷いていたところからして、全く信じていないのは明白だった。

 実際継実も自分で言いながら、そこまで自信がある訳でもなく。顔を顰めるだけで強く反発しないのは、自分の寝坊助ぶりを理解している証である。

 

「おっはよーさーん。お前等全員生きてるみたいだなっと」

 

 実際、空からやってきた『遅刻者』を見ても、彼より早起き出来る自信はとんと湧いてこなかった。

 

「ようやくご到着か」

 

「時間ぴったりだろう? さて。オイラは朝食も済ませてきたし、準備万端だが……そっちはどうだい?」

 

「私達も問題ないよ。食事も、まぁ、それぞれ済ませたし」

 

「満腹じゃないけど、お腹にものは入れたから一応大丈夫」

 

「あたしは元々小食なので、この海藻と貝だけで平気です。貝はもっと食べたいですけど」

 

 砂のオブジェクト作りを中断し、立ち上がるモモとミドリ。

 三人の準備に問題ないと知るや、ツバメは片翼をぱたりと仰ぐ。何処からか風が流れ込み、継実達の身体がふわりと浮いた。

 一見して魔法のようなこの事象も、継実の目で見れば原理は一目瞭然。継実の身体の下に、数千気圧相当の大気分子が集まっていた。この空気の上に乗せられる事で、継実達の身体は浮いている。

 軽く翼を動かすだけで、これほどの大気圧を作り出せるのだ。もしも力強く羽ばたけば、数万~数十万気圧という途方もない力を生み出せるだろう。七年前の生物なら、一瞬でぺしゃんこにされたに違いない。

 そしてこの出鱈目な圧力を、一気に解放したなら?

 きっと、凄まじい力が継実達を大空へと押し出してくれる事だろう。

 

「そろそろ出発するぜ」

 

 ツバメはくるりと空中で身を翻し、大海原の方に頭を向ける。

 目指すは南の海、その先にある島々。

 ようやく始まる『冒険』を前にして、継実はふと一つの疑問を覚える。

 

「あ、そうそう。一つ確認なんだけど、あなたの行く南ってどの辺り? 国名とか分かると良いんだけど」

 

 今更ながら、継実は今まで確認していなかったツバメの目的地について尋ねた。

 別段、彼が何処に向かおうと構わない。継実達は海を越えて南に行きたいのであり、特定の国に立ち寄りたい訳ではないのだ。インドネシアだろうがネパールだろうが、何処でも構わない。

 ぶっちゃけてしまえばツバメが目的地の『呼び方』を知らなくて、継実達にも辿り着いた場所が何処か分からなくても、大した問題ではない。太陽を指標にしてそのまま南に進めば、最終目的地である南極には辿り着けるのだから。

 

「おう。昔人間達が呼んでいた名前だと……えーっと」

 

 ツバメはしばし考え込む。空中でパタパタと羽ばたき、ぐるぐると継実達の周りを旋回する事数回。

 不意に継実の正面で止まったツバメは、鳥らしい無表情で、だけど何処か自慢げな顔を見せてくる。

 

「フィリピンだ」

 

 そして彼はそう答えるのと共に、海に向けて動き出す。

 瞬間、継実達の身体はツバメと共に空を駆けていた。

 

「うぉ!? これは――――」

 

 空を飛ぶ継実は驚きの声を上げる。

 継実はモモとミドリと横一列に並び、ツバメが先頭を突っ走る。整列された編隊であるが、姿勢そのものは自由なようで。継実もモモもミドリも、地上に居た時と同じ立った体勢で大空を駆け抜けていく。

 足下には未だ浮遊感があり、背中側の空気から観じられる圧迫感が凄まじい。恐らく背面の圧縮した空気を噴出し、それを推力としているのだろう。足下の大気は不安定で、上手くバランスを取らねば立った姿勢を維持するのは難しい。ミドリは真っ先にすっ転んでいた……わざわざ立った姿勢を維持する必要もないのだが。

 何より特筆すべきは、その速さだろう。

 身体で感じる風圧、更には景色の動き。それらから継実が計算したところ、自分達の飛行速度が時速九千キロはあるという結果が出た。秒速に直せば二・五キロもの超スピードである。

 かつて人類は超音速飛行機に憧れた。なんやかんや人類文明末期で活躍した戦闘機は音速の二倍を超える速さを出したが、ツバメはこれを更に三倍以上上回る。恐らく七年前の戦闘機乗り達がこのツバメを相手にしても、動きすらろくに捉えられないだろう。世界中の空軍が集結しても、たちまち蹴散らされてしまうに違いない。

 継実からしても同じだ。継実は能力により空を飛べるが、その飛行速度は精々時速四千キロ程度。全力を出してもツバメの半分にも満たない。流石は大空を飛ぶ生物、地上生物の『応用技』など及びも付かないようだ。

 いや、勝てないのは地上生物だけではない。

 

「ん? ……ひぇ!? う、海に何かが!」

 

 異変を察知したミドリが悲鳴染みた声を上げる。

 ミドリが見ている海面に継実も目を向ければ、継実達の背後数十メートル先の海中に黒い影が見えた。影はどんどん浮上しているようで、その輪郭を大きくしていく。

 

「シャアァー!」

 

 やがて現れたのは、一匹のイタチザメ。

 果たしてコイツは昨日継実の旅立ちを邪魔した奴なのか、或いは全くの別個体か。それは分からない事だが、体長三メートル近いサイズからして同等の力があるのは間違いない。

 まともにやり合えば、継実達全員で挑んでも勝ち目などないだろう。

 まともにやり合えば、の話だが。生憎自然界にそんな義理など必要ない。

 

「おぉっと、ちょいとゆっくり飛び過ぎたかな?」

 

 ツバメは暢気な軽口を叩き、

 直後、継実達の飛行速度が一気に上がる!

 時速九千キロの速さが、一万二千キロまで上昇。勢い良く海中から跳び出したサメだったが、まるでスピードが足りず。継実達に追い付く事もなく、どぼんとそのまま海に落ちた。

 あれだけ継実を苦戦させた海の頂点捕食者も、ツバメのスピードには追い付けなかったのだ。

 

「……す、凄いです! 逃げきれちゃいました!」

 

「へへっ。そうだろそうだろ」

 

「成程、海の生き物でも追い付けないぐらい速く飛べば、魚達を恐れる必要はないわね。これなら少しは安心出来るかも」

 

 ミドリに褒められてツバメは心底嬉しそう。というよりデレデレしているのが窺い知れた。「アンタ雌なら異種でも良いんかい」と言いたくなる継実だったが、モモが言う事も尤もなので口を閉じておく。

 一番の難敵である海洋生物は、これでほぼ無力化出来たと言えるだろう。サメや小魚に襲われる心配はなく、襲われなければ生存率は当然上がる。

 これなら無事にフィリピンまで辿り着けそうだと思い、継実の顔には自然と笑みが浮かんだ。

 ……無論、この世に無敵の対処法なんてありはしない。

 大空を高速で飛んでいく。これで海の生物の無力化は、確かに出来た。

 しかし大空は?

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 否である。

 

「――――来たか」

 

 それを理解しているが故に、継実は希望に満ちた心をすぐに野生の思考へと切り換えられる。

 自分達の遥か上空、恐らく高度十数キロ地点。酸素濃度が極めて薄く、単細胞生物や小さな節足動物ならまだしも、多くの酸素を必要とする恒温動物には辛い環境に五つの影があるのを継実の目は捉えた。

 本来、その高度を飛べるのはごく一部の鳥類のみ。しかしミュータント達にとっては、この程度の劣悪さなどなんやかんやで乗り越えられる。どんなに有り触れた種でも、身体に備わった有り余るパワーで地球の環境を無視してしまう。

 そう、例えただのカモメであったとしても。

 つまり音速を超える猛スピードで落ちてくるカモメ達は、決して酸欠により失神している訳ではないという事。尤も、超音速で移動している自分達を追尾してきている時点で、そんな甘ったれな考えなど継実は過ぎりもしなかったが。

 

「そら、ボディーガード達。最初の仕事だ……アイツらを追い払ってくれ」

 

 なんとも気軽な様子で、ツバメはそう告げてくる。

 

「りょーかい。全力で対応させていただきますよ」

 

 継実もまた気楽に、けれども身体には力を滾らせながら応える。

 継獰猛な目付きをした五羽のカモメが襲撃してきたのは、その直後の事だった。



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南海渡航07

 空に隙間なく広がる青空と、地平線の遥か先まで続く海。

 優雅な大自然が、継実達の視界を埋め尽くしていた。青空なんて継実はもう何千回と見てきて入るし、彼方まで広がる海というのもテレビで何度か目にしている。

 だけど自分がそのど真ん中に、生身でいるのは初体験。

 ワクワクしない訳がない。人というのは本来、生身では決して大空を飛べない生き物なのだから。あり得ない事態との遭遇は未知の情報(感動)を生み、本能と身体が小刻みに震える。

 率直に言えば、楽しいと継実は思っていた。

 故に勿体ない。

 

「キャアアアァッ!」

 

「キキャアアアァァァ!」

 

 カモメ達の群れが五羽も追い駆けてきていなければ、もっと楽しかっただろうに。

 

「ふんっ! キャーキャー五月蝿いわ!」

 

 空を飛びながらくるりと後ろを振り向き、継実は指先より粒子ビームを発射。しかしカモメ達は一斉に動き、これを回避する。

 粒子ビームは亜光速まで加速された粒子の集まり。僅かに遅いとはいえ、ほぼ光の速さで進むこの攻撃を目視で回避するのは、如何にミュータントといえども不可能な筈である。恐らくこちらの発射動作から攻撃を予測し、躱しているのだろう。

 非常に優れた動体視力だ。粒子ビームは発射後の速度こそ凄まじいが、照射範囲はあまり広くない。薙ぎ払うように振るえばいくらかマシになるが、左右だけでなく上下にも動ける空中ではさして有効な手ではないだろう。だからといって拡散させれば単位面積当たりの威力が落ちてしまう。それでも金属ぐらい簡単に焼き尽くす熱量はあるが、ミュータントの防御を思えばまず通じない。いくら攻撃が当たってもダメージがなくては無意味だ。

 地上での戦いでは大活躍なこの技も、空中では普段の力を発揮出来ない。対してカモメ達は空中戦を心得ている。

 

「キャアアァァ!」

 

 例えば一羽が大声で鳴くや、残りの四羽が散開――――継実の左右上下をきっちり塞ぐというのは有効な戦術であろう。

 

「げっ」

 

「げっ、じゃない! それが効かないのはもうとっくに分かってるでしょ! 私が蹴散らすわ!」

 

 思わず呻くも手立てがない継実に代わり、()()()()()()()モモが前に出てくる。

 そして自らの白い髪を四方に伸ばすや、強烈な放電を行った!

 モモが放つ雷以上の電撃は、秒速二百キロ以上の速さで宙を駆ける。継実の粒子ビームと比べれば約一千分の一の速さしかないが、一般的には秒速数キロから数十キロの速さが限度であるミュータント相手なら十分な高速だ。

 更に空気中に放たれた電気は、最も抵抗の低いルートを通りながら『目的地』であるプラス極を目指す。即ち誘導性もあるのだ。

 危機を察知したのかカモメ五羽は攻撃の前から回避を試みるも、轟く雷撃からは逃れられない。強烈な電撃が全てのカモメ達を撃つ! 大自然の力を遥かに凌駕する技に、カモメ達は呻きを上げた。

 それでもカモメの命を奪うには足りない ― 電撃は羽毛により水玉のように弾かれた ― が、カモメ達を怯ませるには十分だったらしい。キャーキャー悔しそうに鳴きながら、五羽の編隊は大空に去っていく。

 どうにか難は逃れたようだ。大きなため息が、継実の口から漏れ出る。

 

「はい、ご苦労さん」

 

 その働きを『依頼主』は一応評価してくれるようで。

 しかしながら危険な目に遭った継実は、渋い顔を自分達の依頼主――――最前線を飛んでいるツバメに向けた。

 

「あーもう……空の旅がこんなにしんどいとは思ってなかった。というかカモメってこんな沖まで来るような生き物じゃないでしょ」

 

「おいおい、こんな程度でへたれないでおくれよ。オイラ一匹だけの時と比べたら、半分ぐらいの襲撃頻度なんだぜ?」

 

「この倍とか軽く死ねるんだけど……今までどうやって切り抜けてきた訳?」

 

「気合でダッシュするだけだ。まぁ、半分ぐらい死ぬけどなー」

 

「分の悪い賭けだなぁ……」

 

 あっけらかんと語るツバメに、継実は項垂れながらぼやく。その間も継実達は大空を高速で飛び続けていた。モモはくるんと回って空中で横になるようにポーズを取ったが、やはり空を飛び続ける。

 ツバメの能力のお陰であり、そういう意味では継実達は飛行に一切体力を使っていない。けれども継実は疲れたように、だらんと四肢から力を抜いた。まだまだ続くであろう襲撃に備えるために。

 日本から離れて、まだ数分。

 ツバメの能力により空の旅を始めた継実達だが、その行程は決して優雅なものではなかった。先のカモメのような鳥類が度々襲撃してきたのである。正確に言うならカモメは今ので『三度目』の襲撃であり、他はミサゴやハマシギなどがやってきた。いずれも継実達が『四人組』である事を認識した上で来た者達。どいつもこいつも強敵ばかりだった。

 勿論継実達は反撃を試みている。しかし相手は大空で常に暮らしている、天空の覇者とでも言うべき存在。例えばカモメの場合奴等の体重など五百グラムにも満たないというのに、体重差八十倍の継実を翻弄し、四倍以上重たいモモの攻撃にも怯むだけ。向こうが深追いせず、継実達も積極的に追ってはいないというのもあるが、未だ()()()()事は出来ていない。

 地上を主な戦いの場としていた継実達に、空の歓迎は少々熱烈過ぎた。

 

「(こりゃ、ツバメの取引に乗らなかったら道半ばどころじゃなかったかな)」

 

 三人の中で空を飛べるのは継実だけ。まともな空中戦を行えるのは継実だけだし、モモも抱えられた状態では電気攻撃が ― 自爆を覚悟しなければ ― 使えないのでほぼ戦力外。ツバメの力で浮かばせてもらえなければ、戦いすら出来なかっただろう。

 そもそもツバメが出している速さ……時速九千キロものスピードは継実には出せない。鳥達の猛攻を振りきるどころか、動きに追随する事すら難しいのが実情だ。こんな体たらくで海に出たら、果たして日本から十キロも飛べたかどうか。

 ツバメに運んでもらえたからこそ、継実達は十全に力を発揮し、どうにか敵を撃退出来ているのだ。

 ……尤も、継実の攻撃は殆ど当たっていないのだが。三次元機動を行える敵に、高威力とはいえ点の攻撃は相性が悪い。モモのような、低威力でもある程度誘導性に優れる攻撃の方が遥かに有効である。

 

「あっ。海中に大きな魚の群れがいて、一匹がこっちを見てますよ」

 

 ちなみにこの空の旅で一番活躍しているのは、ツバメの真横を飛んでいるミドリだったり。

 

「おっと。そいつは良くないな。上がっておくか」

 

 ミドリに言われてすぐ、ツバメは高度を上げていく。直後、ざぶんっと荒々しい音と共に一匹のカツオが跳び出し――――けれども継実達が飛んでいる高度一千メートル地点までは届かず。悔しそうに顎をパクパク動かしながら、自由落下でカツオは落ちていく。

 

「んー。今度は上から来ます。カモメっぽいけど、違う生きものですねー」

 

「あいよ。全く、鳥なんて魚だけ食ってりゃ良いのになぁー」

 

 続いて上を見ながら報告するミドリ。ツバメが高度を下げると、すぅーっと継実達の頭上を海鳥……カツオドリらしき鳥が通り過ぎた。攻撃が察知されたと分かり、諦めたのだろう。

 このように、ミドリの索敵能力により数多くの脅威が無力化されていた。流石に全部は無理で、先のカモメ軍団に襲われる事もあったが、数える程度で済んでいるのは間違いなく彼女のお陰である。今のように出来れば戦いすらしたくない時には、ミドリの索敵能力が一番有り難い。

 ミドリも大活躍。モモも十分活躍している。

 継実だけが、殆ど役立っていなかった。

 

「(お荷物になってんなぁ、私)」

 

 自虐的な笑みを浮かべながら、継実は今の自分の立ち位置を正確に把握する。

 無論これはあくまでも相性の話。例えば地上で巨大な生物と戦う時は、誰よりも馬力のある継実の出番だ。そして生きるか死ぬかの戦いばかりである自然界において大切なのは『負けない』事。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()事が出来れば良いし、それ以上の活躍は極論どうでも良い。

 合理的に考えれば、自分が『今』役立っていない事は大した問題ではないのである。むしろ誰もが一流の強者である自然界で毎度活躍しようなんて、調子に乗っているとしか言いようがない。七年前の継実ならかなり気にした事も、長い野生生活を経た今の継実はそれを弁えているのだ。

 ……それでも、ちょっぴりいたたまれなさを感じてしまうのが、人間というもので。

 

「いやー、楽ちん楽ちん。こんなにリラックス出来たの、何年ぶりかしらねー」

 

 くるんと空中で身体を倒し、横になるような体勢を取ったモモほどリラックスは出来そうになかった。

 

「はい! 今回は全てあたしにお任せください! ふんす!」

 

 だらけるモモを見て、何故だかミドリは嬉しそう。宇宙人的にも自分の活躍の場があるのは嬉しいらしい。

 ……なら偶には出番を譲るのも良いかと、継実は少し気を弛めた。単純だなと自嘲もしながら。次いでこの旅路について思案する。

 現在ツバメが出している速度は時速九千キロ。凡そマッハ七・五もの超スピードだ。日本からフィリピンまでの距離が三千キロだという『知識』はあるので、そこから計算するとこの旅路の時間は凡そ二十分程度だろうか。

 日本列島を出立してから早数分は経っている。もう十五分もすればフィリピンまで到着するだろう。のんびり出来る時間もあと僅か。

 流石は秒速二・五キロもの速さだ――――

 

「(……んー?)」

 

 そこまで考えて、ふと、継実は違和感を覚えた。

 違和感といっても、この旅路に関するものではない。是非ともこのまま順調に進んでほしいと願うし、そうなるよう自分に出来る努力はしようと思う。

 しかしどうにも解せない。

 秒速二・五キロ。陸上生活者である継実を遥かに上回るこの速さは、あまりにも……

 

「どうしたんだい? オイラの顔になんか付いてるか?」

 

 考え込んでいた継実に、ツバメが声を掛けてきた。

 どうやら自分はツバメの顔をじっと見ていたらしいと、継実はようやく自覚する。

 理由は継実も分かっている。尋ねたい事も頭の中にあった。しかし無意識とはいえ『人』の顔をじっと見ていた事に、ほんのちょっと引け目を感じてしまって。

 

「ん。いや、なんでもない」

 

 つい、継実はそう答えてしまう。

 

「そうかい? まぁ、今のうちに休んでおきなー」

 

 ツバメは特段疑問も、そして気にもしていないのか。それだけ言うと、特に追求もしてこない。ミドリもキョトンとするだけだ。

 唯一、雰囲気が変わったのは、モモ。

 

「……なぁーるほどね」

 

 彼女だけは、継実が言いたかった事を理解する。

 理解するが、空中で寝転んだ体勢は変わらない。変えるつもりもない様子。

 つまり、分かった上でその程度にしか考えていないのだ。

 継実も同じである。正直内心では『確信』に近い想いがあるし、当たっていたところで何も出来る事なんてない。継実達はこの海を渡らねばならず、そのためにはツバメの力が必要なのだから。

 そして違っていたら、それはそれで問題ない。その時は十五分後には南の島に到着し、ツバメと笑顔でお別れするだけ。

 

「……私もごろ寝してよーっと」

 

 だから継実はモモと同じく、今は横になる事を選んだ。

 何時でも、この身体に宿る力を全力で使えるようにするために……



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南海渡航08

 大空の旅を初めてから約十分が経ち、旅路も半ばを迎えた頃。

 

「……おかしい」

 

 ぽそりと、モモが呟く。

 音速を超える空の旅の最中での発言。本来ならばそれが横に並ぶ者の耳に届く事は物理的にあり得ないが……粒子の動きを捉えられる継実には聞き取れる。

 継実はちらりとモモの方を向く。モモは相変わらず空中で寝そべっているが、つい先程までリラックスしていた表情は消えていた。目付きは鋭く、口許も引き締まったもの。寝転ぶ身体にはみしみしと力が入り、何かあればすぐに動ける体勢だ。

 モモはたった一言ぽつりと述べただけで、何が、については語っていない。しかしモモの姿を見れば、継実には彼女の言いたい事が理解出来た。そしてモモの『意見』に心の中で同意する。

 きっと、何時の間にか黙ってしまったツバメも同じ事を考えている筈だ。

 

「はい? 何がおかしいのですか?」

 

 気付いていないのは、誰よりも気配を察知する能力に長けているミドリだけ。ちなみに彼女はモモよりも前を飛んでいて、こちらもやはり物理的に声が聞こえる筈もないのだが、索敵能力の応用で声の『波形』も捉えたのだろう。

 ミドリだけが呆けた様子だが、しかし彼女が間抜けという訳ではない。空を埋め尽くす青空は何処までも広がり、地平線の先まで続く水面は静かなもの。キャーキャー喧しいカモメの声だって今は何処からも聞こえてこないし、獰猛な魚達が泳ぐ影も見えてこない。

 平和だ。とても、とても。

 ――――()()()()()()()()()

 

「静か過ぎるのよ」

 

「? そうですね、とても静かです。お陰で襲われる心配がなくて……」

 

「なんで静かな訳? ううん、こう訊きましょうか……どうして生き物が少ないと思う?」

 

「え? そりゃ外洋はそういうものだと、思うのですけど……」

 

 モモに問われたミドリは『科学的』な話をしようとして、段々と尻窄みになっていく。答えようとはしている。だけど、自分自身納得がいかなくなったのだろう。

 ――――陸から遠く離れた海は海洋生物の宝庫である。そう考えていた人類は、恐らく少なくないだろう。

 実態は真逆だ。陸から離れるほど、生物の密度は著しく減っていく。面積や深さが圧倒的に上なので総数なら勝るだろうが、個体密度は圧倒的に陸の近く、特に浅瀬などの環境の方が高い。

 何故なら陸の近くでは川から養分が流れ込み、その栄養を糧にして植物プランクトンが増えやすいからだ。また浅瀬であれば海底まで光が届きやすいので、海藻や藻、サンゴなどの『生産者』が生きていける。生産者は他の生物の餌というだけでなく、住処や避難所としても役立つ。故に多種多様な生き物が数多く生きていけるのだ。

 ところが外洋はそうもいかない。莫大な海水で薄められる養分、暗黒が支配する海底、隠れられる場所などない開けた空間……何もかもが生物にとって不都合である。海の砂漠という表現もあるほどだ。

 だからあまり生物を見掛けないというのは、決して不自然な話ではない。

 ……七年前であれば。

 

「(ミュータントが、()()()()()()()()()()()()()()()()?)」

 

 あり得ない、と継実は断じる。確かにミュータントは強さと引き替えに大量の食糧を必要とするが、植物のミュータントの増大した生産力が全てを補って余りあるのだ。草原でも森林でも、生物数は減るどころかむしろ増大しているぐらい。

 なら、外洋でも生物の数は増えている筈である。流石に継実達が暮らしていた草原や通り過ぎた森ほどたくさんはいないだろうが、それでも七年前の浅瀬ぐらいには頻繁に生き物の姿が見えそうなものだ。

 勿論継実の予想が外れている可能性もある。例えばミュータントによって環境が変化し、外洋の貧栄養化がますます深刻になったとか。しかしもしも予想通りなら、いる筈のミュータントの姿が見えない理由はただ一つ。

 何かがあるのだ――――ミュータントの個体密度さえも変えてしまう、何かが。

 そしてその考えが事実であれば、冬になる度に渡りをしている『ツバメ』達が知らぬ筈がない。

 

「ふむ。そろそろ説明しておくかね」

 

 悪びれる様子もなく語り出したツバメを、継実はぎろりと睨み付けた。

 

「……人を雇う時には、契約を交わす前に全部話してからの方が良いわよ。後で揉めるから」

 

「揉めるから此処まで連れてきたんじゃないか。断られないようにしないとね」

 

 責めるように問い詰めても、ツバメはへらへらと答えるばかり。

 やはり対話で油断するべきではなかったか。一瞬そんな考えも過ぎったが、悩んでも仕方ないと継実は割りきる。仮に全てを予め聞かされていたとして、だから断るなんて選択肢はなかった。継実達だけでは、日本列島から出る事すら出来なかったに違いないのだから。

 道中で問題がある事は仕方ない。それを織り込んでいない甘さを責めるべきだろう。

 そうだ。例え直接語られずとも、問題がある事は簡単に想像出来た。ちゃんと、常に思考を働かせていたなら。

 

「(コイツが()()()()()()()()()のは、やっぱり体力の温存が目的だった訳か)」

 

 ツバメが出している飛行速度は秒速二・五キロ。確かに凄まじい速さだが……陸上生活者である継実と比べて、たったの二倍ちょっとしかない。大空で生きる生き物が、陸の生き物の小手先の技を二倍しか上回らないなどあるものか。大体陸地近くでサメに襲われた時など、軽々とスピードアップまでしている訳で。

 全力を出していないのは明白だ。そして危険な生物がひしめく大海原で全力を出さない理由など、体力の温存以外に考えられない。

 実際継実は既にその可能性を考え、だからこそ身を休めていた。モモも同じである。分かっていたのだから、こんな事をぎゃーぎゃー問い詰めたって無意味だ。

 故に今、尋ねるべきは現状を認識するために必要な情報。

 

「一体、何がある訳?」

 

「『アレ』さ。もう見えてきた」

 

 その答えを、ツバメはすぐに教えてくれた。

 同時に、ツバメは大空で急停止。次いで今まで直進していた動きから、ぐるぐると同じ場所を旋回する航路に変える。ホバリングではなく動き続けるのは、例え同じ場所に留まるとしても、絶え間なく動き続ける方が幾分安全だからか。

 そうして飛び続けながらも、ツバメは一方向を眺め続ける。

 その視線の先に何があるのか。継実とモモはツバメが見ているものへ目を向け、ミドリは遅れて継実達と同じ方を見遣った。

 

「え……ぅ……」

 

 最初に怯んだように声を上げたのは、ミドリ。一瞬呆けたように固まり、不安そうに実を縮こまらせた。

 勿論ミドリが最初に『それ』の恐ろしさに気付いたのではない。継実とモモは既に覚悟を決めていただけ。空中で寝転がっていたモモは起き上がり、警戒するように目付きを鋭くする。

 見ただけで分かる。それが一筋縄ではいかない相手であると。

 

「さぁて、そろそろ本気で飛ぶかねぇ……全員気を付けな。オイラ達ツバメの半分が死ぬのは、()()()()()()()()()

 

 そしてツバメが告げる、恐ろしき言葉。

 大海原を高速で飛び、天敵達を次々と振り払うツバメ達さえも多くが生きて帰れない……これが恐怖でなければなんなのか。ツバメの手助けがあっても、半分の確率で生きて帰れない事が絶望以外である筈もない。

 ましてや陸の生き物である継実達が、大空の危険相手に一体何が出来るというのか。

 何も出来る筈がない。合理的に、論理的に、無感情に考えれば、その結論に辿り着くのが必然。

 されど継実は、笑う。人間というのは非合理的で、意地っ張りで、感情的な生き物なのだ。

 

「上等。私達の本気も、こっから見せてあげる」

 

 継実は自信満々に大口を叩く。

 自分達の進む先を塞ぐかのように広がる、途方もなく巨大な『積乱雲』を臆さず見据えながら。



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南海渡航09

 積乱雲。

 七年前、まだまだ文明が存在していた頃の日本にとって、その雲は夏の風物詩の一つだった。十数キロもの範囲を覆うほどに幅広く、そして一万メートルを超えるほど空高く積み上がる様は、雄大な自然を思わせる事だろう。どっしりと構えるように佇む姿は美しさすら感じられる。

 だが、魅了されて近付くのは御法度。

 巨大さとは即ちパワーの大きさ。莫大な水分を含み、ただの雲とは比較にならない大きさにまで成長した積乱雲の力は生半可なものではない。内部では雷が頻発し、その下では竜巻や雹、何より大雨をもたらす。見た目の穏やかさを信じて傍に近寄れば、瞬く間に粉砕されるだろう。

 正しく災厄の権化。

 

「んじゃ、アレの下をちょっと通るからなー」

 

 その権化を前にしたツバメは臆するどころか、炉端の石ころを跳び越えるぐらいの気軽さで挑もうとしていた。

 

「え。えええええぇっ!? とととと通る!? 通るのですかぁ!?」

 

「え、うん。そうだけど……なんでそんな驚くの?」

 

「だ、だって、せ、積乱雲って言ったら……ヤバい奴じゃないですか!」

 

 興奮のあまり語彙力が欠損したのか。それぐらい怯えるミドリに、ツバメはむしろ不思議そうに首を傾げる。

 『常識的』にいえば、ミドリの反応が正しい。雲の下は荒れ狂う嵐も同然。やむを得ない事情があるなら兎も角、そうでないのに突っ込むのは無謀も良いところだ。

 しかし。

 

「いや、ミドリ。別にアンタの身体でも積乱雲ぐらいなら多分痛くも痒くもないから」

 

 モモがツッコんだように、ミュータントにとっては積乱雲など『霧』のようなものに過ぎない。

 何しろその身は自然災害を克服するほどに強靭なのだ。例え雷に打たれようが、竜巻のミキサーの中に放り込まれようが、ちょっと鬱陶しいだけで済むだろう。

 

「……あ。そうでした。あたしの身体、すっかり頑丈になったんでしたっけ」

 

「なんでコイツ、自分の身体の事がよく分かってないんだ?」

 

「なんでだっけ? 元々違う身体で……頭だけすげ替えたんだっけ?」

 

「違いますよ!? なんでそんなホラー展開みたいな覚え方してるんですか! ただそこらに落ちてた死体を借りてるだけですー!」

 

「十分ホラーじゃんそれ」

 

 ミドリの天然ボケにツバメがツッコみ、けらけらとモモが笑う。一瞬緊迫していた空気が解れ、継実も自然と笑みが零れる。

 とはいえ懸念がなくなった訳ではない。

 積乱雲は脅威となり得ない。それは間違いない事である。しかし積乱雲以外の脅威が消えたとは誰も言っていない。

 そして積乱雲の中に、誰もいないとはツバメは言っていないのだ。

 

「(つーかこれ、誰もいないとかあり得ないでしょ)」

 

 頭の中を過ぎった『もしも』に継実は思わず鼻で笑う。

 一般的な積乱雲の高さは、凡そ十キロ前後。

 この値は、実のところ地域によって異なる。赤道付近のように温かくて水分の多い地域では雲がよく育つので、部分的に二十キロを超えるようなものが生まれる事もあるという。物理的な限界がどの程度かは継実も知らないが、もしかすると、条件が最高に良ければ二十五~三十キロぐらいの高さにはなれるのかも知れない。

 しかし、どう考えても()()()()()()にはならないだろう。

 そんなあり得ない筈の雲が、継実達の目の前に広がっていたのだ。無論あくまでも目視による測定だが、粒子操作能力を応用すれば、物体の距離や高さを正確に測る事は造作もない。行く手を遮る積乱雲は、間違いなく高さ六十キロはある。

 自然界、少なくとも地球上の環境では発生しない筈のスケール。異常気象でも起こりえない現象の原因は何か? 少し考えれば、答えはパッと思い付く。

 ミュータントだ。

 恐らくなんらかのミュータントが積乱雲の中心に陣取っている。どのような意図で積乱雲を発生させているかは分からないが、それ以外の原因はまずないだろう。

 

「……一応訊くけど、あの中、何かミュータント……私達みたいな生き物がいるって考えて良い?」

 

「おう。デッカくてヤバい奴がいるみたいだぞ」

 

「みたい? 正体は知らないって事?」

 

「ああ、知らないね。誰も見た事ないみたいだしな。オイラもあれを通るのはこれで三度目になるけど、中の奴は見た事もない」

 

 平然と語るツバメだが、その言葉の意味は重い。

 毎年大勢のツバメが渡りで此処を通っている筈なのに、誰も積乱雲の元凶を見ていない。

 つまり()()()()()()()()()()()()()()という事だ。それが元凶に襲われたからか、それとも正体が見えるほどの中心部だとミュータントすら危険な状況なのか……いずれにせよあの積乱雲に突撃するのが危険なのは間違いないだろう。

 

「へ? あの中にミュータントがいるのですか? なら、やっぱり迂回した方が良いんじゃ……」

 

 ミドリがそうした考えを抱くのは、ごく自然な事だろう。継実としてもそうすべきだと思う。

 だからこそ、「突っ切る」という選択をしたツバメの意見を聞きたい。そこには合理的な理由がある筈なのだから。

 

「残念ながらそうもいかねぇ。ほれ、積乱雲の周りを探ってみな」

 

「周りですか? えっと……うげっ」

 

 ツバメに言われるがまま気配を探ったであろうミドリが、顔を顰めながら呻く。それ以上の言葉はなかったが、継実にはミドリが何を『見た』のか凡その見当が付いた。

 

「……積乱雲の周り、生き物だらけなの?」

 

「は、はい。しかも明らかに大きな生き物ばかり……迂回ルートに陣取ってます。海だけじゃなくて、空も。カモメより、もっと大きい……」

 

 尋ねてみれば、ミドリからは予想通りの答えが返ってくる。

 考えてみれば納得の状況だ。危険な積乱雲を避けるために小動物達が回り道するのは必然。つまり積乱雲の傍は、たくさんの生き物の通り道という事である。そこで待ち伏せすれば、獲物が勝手にやってくる訳だ。しかも大きな生き物なら、如何にミュータントが作り出した積乱雲でも早々やられはしないだろう。

 積乱雲を迂回すれば、巨大で凶悪な生物の目に留まる。継実達を襲うほど凶悪でなければ良いのだが……願望のまま行動した場合、見るのは痛い目だけでは済むまい。

 では、更に大きなルートで迂回すべきか?

 

「念のために訊くけど、大回りするって方法は駄目なのかしら?」

 

「駄目だね。この辺りにデカい鳥や魚がいないのは、みんなあの積乱雲の周りに陣取っているからだ。大回りしたら、今度はその外側に陣取る鳥と魚に襲われる。しかも大回りだから延々と長い時間な。大体あの積乱雲、一ヶ所だけじゃねーし。安全な通路になると直進ルートの何十倍も迂回させられるし、最悪何処も通れないかも」

 

「だと思ったわ」

 

 脳裏を過ぎる、けれども端から期待していなかった案をモモが尋ね、ツバメは淡々と否定した。ちょっと条件が悪い場所だからといって即安全とはならない。最適な場所に入れない奴等が陣取るのは必然だろう。そしてミュータントが、生物が作り出すものであるなら、幾つも存在する事だって不自然ではあるまい。成程ね、と継実も心の中で頷く。

 迂回は一層危険な目に遭う可能性が高いし、そもそも切れ目があるとは限らない。ならば一点突破、積乱雲の下を最短距離で突っ切ってしまえ――――どうやらこれが一番安全なルートのようだと、継実も納得する。

 勿論不安がない訳ではない。もっと安全な手はないものか、もっと賢い方法はないものか。高度な演算能力を有す頭脳で考えてはみた。が、これ以上の案は思い付かず。いや、思い付く筈がないのだ。積乱雲の直下を突っ切るというコースは、ツバメ達が数多の犠牲を積み重ねて辿り着いた『最も安全な航路』なのだから。

 勇敢で優秀な若者が新たな道を切り開く事もあるだろう。しかし継実は、自分が先人達を超えるほど優秀だなんて信じちゃいない。凡夫は大人しく、偉大な先輩達が踏み固めた道を通れば良いのだ。

 

「良し、分かった。思いきってやっちゃって」

 

「それしかなさそうだし、仕方ないわね。ま、こーいう時のために昼寝してた訳だけど。私の体調は万全よ」

 

「えっ。あ、えと……が、頑張りまひゅ!?」

 

 継実とモモは覚悟を決め、ミドリは決めようとして舌を噛む。空中でジタバタと暴れる彼女の姿がなんとも可愛らしく、継実もモモも思わず微笑んだ。

 お陰で肩の力が抜けた。これなら万全の力を出せる。

 

「準備は良いな。それじゃあ空の旅の本番の始まりだ」

 

 そんな継実達を見たツバメは一言そう告げて――――ぐんぐんと加速していく。

 迫る積乱雲。近付けば近付くほどに分かる、自然界を凌駕する圧倒的パワー。しかしもう退く事なんて出来やしない。

 あの中に突入した時が勝負の時だ。

 ……なんてキッチリとしていれば、逆に楽なものなのだが。

 

「あ。ちなみに直進ルート上にもサメとかいるから、積乱雲の下に入る前からちゃんと注意しろよー」

 

「「「ですよねー」」」

 

 生憎自然界というのは、空気を読まず。

 積乱雲の中に()()()()()()()()と言わんばかりに、今まで姿を眩ませていた魚達が一斉に襲い掛かってくるのだった。



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南海渡航10

「シャアァァ!」

 

「ギシャアァアアッ!」

 

「ぎゃあぁっ!?」

 

 猛スピードで追跡してくる二匹の三メートル級のサメ ― と悲鳴を上げる一匹の宇宙人 ― を尻目に、ツバメに連れられて継実達は大空を駆け抜ける。

 飛行高度は水面ギリギリ。ツバメ曰く上空ほど気流の流れが激しく、真っ直ぐ飛ぶのが難しくなるらしい。故にサメに襲われるリスクを受け入れてでも、低く飛ばねばならぬという。

 ミュータントすら飛行制御出来ない暴風とは、継実的には逆に興味も湧くが、お代が命では支払う訳にもいかない。無論大人しくサメに食べられるつもりも毛頭ないが。

 

「こん、のっ!」

 

 継実は指先より、弾丸のように丸めた粒子ビームを二発飛ばした。

 粒子ビームは今にもミドリのつるんとしたお尻に齧り付こうとしていたサメ達の、丁度鼻先に命中。大きな爆発が起こると二匹のサメは揃って大きく仰け反り、わたわたと逃げていく。

 威力としては精々大都市を跡形もなく吹っ飛ばす程度。撃ち手である継実なら片手で弾き返せるし、大きさから推定される体重差からしてサメ達にとっても大した威力ではないだろう。だが、サメにとって鼻先は重要な器官だ。様々な感覚器が詰まっており、非常に敏感だと言われている。

 実際には目や鰓を狙う方が『攻撃』としては効果的だが、鼻先の方が大きくて狙いやすい。無事攻撃が当たり、効果もあって継実としても一安心。

 ……なんて、している暇はない。

 

「モモ! そっちは!?」

 

「まだよ! コイツらほんとしつこい!」

 

 空の鳥達を迎え撃っていたモモだが、成果は芳しくない。追い駆けてくる海鳥達は翼で雷撃を弾きながら、どんどん距離を詰めてくる。

 鬱陶しい鳥共だ。自分達はこれから、超巨大積乱雲の真下へと行かねばならないというのに!

 

「もう構わなくて良いぜ! そろそろみんな下がる頃だからな!」

 

 歯噛みする継実だったが、ツバメはそう言ってきた。

 まるでその声に応えるように、海鳥達はは追跡を止めて大空にUターンしていく。

 サメが出てきた海も静かさを取り戻す。ミドリはおどおどしながら辺りを見渡すが、特段一ヶ所を警戒する素振りもない。海中でこちらを虎視眈々と窺う生物もいない、と考えて良いだろう。

 継実がそう考えていた、ほんの僅かなうちに、いよいよ継実達は積乱雲の直下に入り込む。

 少しだけ奥に進めば、ぽつぽつと雨粒が頬を打ち始めた。

 尤も、小雨は瞬く間に豪雨へと変化したが。更には台風すらそよ風に思えるほどの暴風が吹き荒れ、あちこちで暗雲から海面まで伸びている竜巻が生じているのが見えた。雷も至る所で落ち、暗闇と眩しさが交互に瞼を刺激する。

 

「ひ、ひえええぇっ!?」

 

「落ち着きなさい。このぐらいならどうって事ないわ」

 

 恐らく生命が生きていける星では早々お目に掛からないであろう大災害にミドリが悲鳴を上げたが、モモがそれを嗜める。

 まるでモモのそんな言葉を挑発と受け取ったかのように、一発の雷撃が継実達の方へと飛んできたが……モモが伸ばしていた一本の体毛に吸い寄せられるように誘導。数億ボルトもの電気であるが、その数倍の出力を流せるモモの体毛は溶けも焼けもしない。

 そのまま別の体毛に電気を流し、海水へと流してしまえば排出完了。雷の被害は受けずにやり過ごす。

 

「ほらね? こんなものなら、むしろ休憩みたいなもんよ」

 

【は、はひ……り、理屈では分かっているのですけど……】

 

 宥めるようにモモが語れば、ミドリは少しだけ落ち着きを取り戻す。脳内通信で話してきたのでちゃんと話せるほど落ち着いてはいないが、にこりと笑みも浮かび、乱れていた呼吸も段々と収まってきた。

 

「安心してるところ悪いが、此処の『歓迎』はこんなもんじゃないぜ」

 

 尤も、ツバメの一言でミドリの顔は再び恐怖に染まる。

 うちの子を怖がらせないで。ツバメをそう嗜めるのは簡単だが、継実の口は開かない。

 彼の言葉が事実である事を、継実の本能は予期していたのだから。

 

「っ! モモ!」

 

「あら、お代わり……にしてはてんこ盛りねぇ」

 

 空に感じた『違和感』。継実が名前を呼んだ時、モモは既に臨戦態勢を整えていた。

 準備を終えていなければ、空から降り注ぐ三発の落雷のどれかが継実達の誰かに命中しただろう。

 

「きゃあぁっ!?」

 

「おっと! 一度に三発……ちっ!」

 

 何十本と伸ばした髪を広げ、落ちてきた雷を全て受け止めたモモ。またしても天災を易々と防いでみせたが、今度は喜ぶ前に舌打ち一つ。

 空から降り注ぐのは雷だけではない。雷に続いて今まで経験した事のないほど激しい豪雨が、継実達に降り注ぐ!

 轟音が鳴り響き、滝の中に放り込まれたのではないかと錯覚するほどの降雨。雷を弾き飛ばしたモモであるが、絶え間なく広範囲で降り注ぐ雨は広げた体毛だと防げない。加えて暴風も吹き荒れ、加速した雨粒が身体を側面から打ってくる。一瞬にして継実達の身体はずぶ濡れだ。

 

「ぐっ……! まるで弾丸の雨ね!」

 

「はははっ! オイラでも平気なんだから、お前達からしたら余裕だろう!」

 

 ツバメは豪雨の中でもけらけら笑う。簡単に言ってくれると、継実は顔を顰めた。

 まるで弾丸の雨、という継実の言葉は決して比喩でもなんでもない。雨粒の中には微小な氷が混ざっていたのだ。(みぞれ)とも言い難いこの『雨粒』の状態は、恐らく降ってきた雹が吹き荒れる暴風により加速し、()()()()()()()()()()()した事で生じたのだろう。これが秒速三百メートル以上まで加速し、身体を打てば……雨粒一つが本当に拳銃並の威力で襲い掛かってくる。勿論雨粒なので全身くまなく襲い掛かるので、七年前の一般的な人類がこれを受ければ、蜂の巣なんて言葉すら生易しい生肉へと変貌した筈だ。建物の中に逃げ隠れても、薄い壁やガラス程度なら貫通してくるのだから安全ではない。比喩でなく都市一つを壊滅させる、破滅的な降雨と言えよう。

 しかしミュータントの頑強さは弾丸など遥かに上回る。家族の中で一番非力なミドリにとっても大した脅威ではなく、ましてや一発のパンチが隕石並の継実からすればちくちくもしないただの雨粒。ツバメだって平然と飛び続けている。

 だから問題は威力ではなく、雨の量そのもの。

 

「(ああもぅ! これじゃあ本当に滝そのものね! 息が全然出来ない!)」

 

 雨が空気を押し退けていく。考えてみれば当たり前の話だが、普通の雨では当然そこまで意識する必要などない。吸い込む空気の量が減るほどの雨なんて、普通どころか異常気象でも降るものではないのだから。

 対して此度の大雨はあまりにも量が多く、呼吸に必要な空気まで押し出す。隕石の直撃にも耐える継実の身体だが、それでも酸素は必要だ。一瞬で何もかも吹き飛ばす核爆発より、肺から取り込める酸素がない水中に沈められる方が余程不味い。

 それはツバメやモモも変わらない筈だが……ツバメは周りの空気を操って『気流』を確保し、モモは体毛で口周りを囲って空気の領域を作り出していた。そうやって酸素を確保している訳だ。

 

「(だったら、私だって……!)」

 

 粒子操作能力を用い、継実は口周りに空気の集まりを作る。これにより呼吸するのに足る酸素は確保出来た。

 空気を確保した後は、視界の確保だ。滝のような土砂降りで、前が殆ど見えない。空気と水の屈折率が違うため、光がぐにゃぐにゃに歪み、脳が上手く『画像処理』出来ないからだ。しかしこれも継実の優れた演算能力を用いれば、どうという事もなく解析出来る。ちょっと脳に補正を掛ければ、陸上のように透き通った景色が見えるようになった。

 継実は荒れ狂う積乱雲直下の環境に、見事適応してみせたのだ。

 

「あぶぶ!? あぶ、ぶぶぶー!?」

 

 なお、ミドリは適応出来ていないようだが。大気中で見事に溺れている。

 「うん。知ってた」と心の中で呟きながら、継実は粒子操作能力によりミドリの口周りの空気も確保する。息が出来るようになったミドリは【ありがどうございまず……】と死にそうな響きの脳内通信で感謝を述べた。

 雨も雷もどうにかやり過ごした。しかし試練はまだまだ終わらない。

 

「む……! 竜巻の群れか……」

 

 ツバメの動きが僅かに鈍る。継実も脳に補正を掛けながら、自分達の目の前の景色を見た。

 竜巻が現れていた。それも無数に。

 一本一本の太さは、ざっと十~五十メートル程度だろうか。継実からすれば大した脅威ではないが、しかし()()()()()()()()()()大量に伸びているとなると、この中を飛ぶのは中々難しいだろう。文字通り竜巻の壁だ。

 竜巻達は己の周りにある空気を吸い込んでいるため、竜巻と竜巻の間は左右に引っ張る力が生じている。しかも空気が吸い尽くされたのか、中は真空状態だ。止めとばかりに竜巻内には植物片や動物遺骸などが含まれ、ミキサーの刃のように猛スピードで回転している。

 人類が作り出した航空機なら、一瞬でバラバラの八つ裂き状態にされてしまうだろう。ミュータントといえども、此処は簡単には超えられない。物理的威力は問題ないが、真空による酸欠がちょっと辛い。

 あくまで、ちょっとだけだが。

 

「あの竜巻は、何時もどうやって突破してるの!?」

 

「強行突破さ! ちょーっと息を止めて、びゅーんって通り過ぎる! 簡単だろう!?」

 

 試しに継実が尋ねてみれば、ツバメは楽しげに答えてくれた。なんとも強引な突破方法だが、悪くない。時速一万キロ超えの速さでさっと突破すれば、対策なんてそれこそ息を止めておく以外に必要ないだろう。逞しい継実立ちにとっては。

 しかしか弱いミドリにとっては、ちょっと辛いかも知れない。驚いた拍子に口を開けたら、宇宙空間のように気圧差で目玉が飛び出る……というのは実のところデマらしいが、兎に角あまり健康によろしくないのは確かだ。

 

「ふぅん。じゃあ、こーいう方法もありだよ、ね!」

 

 そこで継実が選択したのは第二の選択。

 指先より放つ大出力の粒子ビームで、竜巻を吹き飛ばす事だ!

 粒子ビームの力により、継実達の行く手を遮っていた竜巻の群れが貫かれる。粒子の運動量は熱へと変化し、貫かれた竜巻達は膨張圧により破裂した。一直線に竜巻が消滅した事で、竜巻の壁に長さ一キロほどの『隙間』が出来上がる。

 無論竜巻というのは、それ単体で存在しているものではない。事実空に広がる積乱雲から、既に新しい竜巻が触手のように伸び始めていた。継実が貫いた直線上に竜巻の群れが再構築されるまで、五秒と掛かるまい。

 しかし五秒もあれば十分だろう。ツバメの飛行速度は、秒速四キロを超えるほどなのだから。

 

「今だ!」

 

「合点!」

 

 継実の掛け声に合わせ、ツバメは一気に空を駆ける! 竜巻達の壁は蠢き、伸びて道を塞ごうとするが、何もかもが遅い。

 瞬く間にツバメと継実達は、竜巻の壁を突破した。

 尤も、竜巻の次はまたしても雷雨の洗礼を受ける事になったが。しかし既に経験済みの出迎えとなれば、継実やモモは勿論、ミドリだってそこまで取り乱さない。

 

「あら、もう一巡しちゃったのかしら? 歯応えがないわねぇ」

 

【あ、あはは……な、なんとかなった、のです、よね?】

 

「ええ。なんとかなったわ。ずっとこの調子ならね」

 

 余裕を見せるモモ ― それと継実とも ― と脳内通信を交わし、ミドリは安堵するように息を吐く。

 確かに、数々の天災については安堵しても問題はないだろう。

 少々対策は必要だったが、それだけで突破は出来た。この後雷雨や風がどれほど強くなるかは分からないが、気に留める必要があるほどの脅威とはなるまい。やはり所詮は『自然災害』だ。星の力をも超えるミュータントにとって、気に留める必要もない現象である。

 しかし油断は出来ない。

 

「(間違いなく、この先に『元凶』がいる)」

 

 継実の脳裏を過ぎる確信。

 竜巻を抜けた後の雷雨は、最初に継実達を出迎えたものより激しさを増していた。僅かな変化であるし、結局継実達ミュータントの脅威ではないのだが、しかし重大な『意味』を秘めている。

 ツバメに連れられ、前へ前へ、積乱雲の奥深くへと進むほど風も雷雨も強くなっているという事だ。これはより大きなエネルギー……積乱雲の発生源に近付いている事に他ならない。

 つまり誰も見た事がないという、恐るべき存在と遭遇する可能性も高まっている訳だ。

 その元凶と真っ正面から戦うつもりなど継実には毛頭ないし、ツバメだって避けようとしているだろう。怪しいものには近付かないでおくのが、人智を常に凌駕する自然界で長生きするコツである。とはいえ「出会うつもりはない」だけで危険を躱せるなら苦労はないというもの。

 周りを注意深く観察し、危険を事前に察知し、そして回避する……それが出来ねば最悪と何時遭遇してもおかしくない。油断なんて以ての外である。

 

「ミドリ! 周りに怪しい気配はない!?」

 

「ふぇっ!? あ、えと……ひっ」

 

 継実が尋ねて、少し気が緩んでいたミドリは慌てて周囲を警戒――――したのも束の間、その顔をぴきりと強張らせる。

 ただし今度はパニックではなく、恐怖による硬直。ミドリは恐る恐る、ゆっくりと一点を指差す。

 

【あ、アレ……あそこだけは、あそこだけは近付いちゃ駄目です……!】

 

 それから震えた声の脳内通信で、継実達に危険を知らせてきた。

 ミドリは何に恐怖したのか? その疑問は、すぐには解決しなかった。ミドリの指先が示す地平線付近を見ても中々答えが見付からなかったからである。

 されどしばし超音速で飛び続けたところ、地平線から『それ』はぬるりと顔を出す。

 黒い柱。

 それが初見時に継実が抱いた印象だった。まるで空に浮かぶ暗雲を支えるかのような、圧倒的存在感を放つ大質量の物体……されどじっと見続ければ正体に気付き、継実は冷や汗を流す。

 柱じゃない。ましてや物体でもない。

 竜巻だ。ただし()()()()()()()()にも達する、常識外れなほどに巨大な。

 

「なんとまぁ分かりやすい事で……」

 

「アレが力の中心点なのは間違いないわね」

 

 つまり、あの巨大竜巻のど真ん中に件のミュータントが潜んでいる。

 恐らく勝ち目なんてないであろう存在を知覚し、継実の頬を冷たい汗が流れた。しかし冷静に考えれば、これは何も悪い事ではない。要はあの巨大竜巻に突っ込まなければ良いのだ。何処に何が潜んでいるのか『見えている』というのは、避ける側としてはむしろ好都合。

 そこまで考えて、ふと、継実は違和感を抱く。

 

「(あんな見えてる地雷に引っ掛かって、渡りをしているツバメの半分が死ぬ?)」

 

 あり得ない。即座に本能と理性が否定した。

 如何に暴風雨も竜巻も怖くないからといって、あからさまにヤバい巨大竜巻に突入する無謀なツバメが全体の半分もいるだろうか? 継実には到底思えない。まだ何か、ここまでの異常天災が『挨拶』でしかないような秘密がある筈だ。

 とはいえ今のところ旅路は順調である。目の前の巨大竜巻が力の中心点であるなら、恐らく積乱雲の半分ほどは通り過ぎた筈だ。残りの行程は半分。油断さえしなければ、なんとかなるだろう。

 油断はせず。だけど悲観もせず。継実がそう考えていた――――その時である。

 

「不味い。()()()()

 

 ぽつりと、ツバメがそう告げる。

 どういう意味だ? 継実はそれを尋ねようと口を開けたが、しかしすぐに閉じねばならなくなった。

 継実ですら抗えないような、強烈な力がその身体を引っ張ったが故に。

 よりにもよって、積乱雲を支える巨大竜巻の方へと……



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南海渡航11

 ()()()()()

 直感的に脳裏を過ぎった、継実の本能的感覚。それが正しい事を、現状分析を終えた理性の感覚で理解した。

 確かに自分達の身体は、吹き荒れる風によっても運ばれている。が、自分達の身体を巨大竜巻の方へと動かしている最大の力は、もっと別なもの。

 例えるならば『引力』。

 まるで巨大な惑星が存在しているかのような、抗いがたいベクトルが自分達の身体を襲っているのだ!

 

「ぐっ……!? 何、これ……!」

 

「不味い不味い不味い! ああ畜生!」

 

 困惑する継実の傍で、ツバメは更に取り乱していた。

 いや、取り乱すというよりは必死と言うべきか。今までにないほど激しく翼を羽ばたかせ、表情なんてない筈の顔を血相変えている。全力で我が身を襲う引力に抗おうとしているのだ。

 しかしツバメの努力は実らず、継実達の身体はどんどん巨大竜巻の方へと引き寄せられる。おまけにスピードは加速していく有り様だ。あたかも、自由落下で加速するかのように。

 何が起きているかは分からない。分からないが、何もしないと『不味い』事は確かだ。そして全ての事情を知っているであろう、ツバメに説明を求める時間がない事も。

 

「後でちゃんと説明、してよ!」

 

 継実はすぐにツバメの動きを手伝うべく、粒子操作能力を発動。自分達の周りにある粒子を操り、引力とは逆方向のベクトルを持たせ、自分達の背中を押させる。

 これこそが継実が空を高速で飛ぶ原理。その気になれば体重四十キロ超えの継実を時速四千キロで押し出せる力だが、しかし引力の強さは凄まじい。ツバメの力と合わせても、引力を振り払う事が出来ないでいる。

 

「ええい、空を飛ぶのは苦手だけど、やるしかないわね!」

 

 モモも事態を把握し、尾っぽの体毛を大きく、十メートルほどまで伸ばす。それから尻尾をぐるぐると回転させ、スクリューのように動かした。これはモモの飛行術。実は彼女も一応空を飛べるのだ……ふらふらと身体が揺れるし、四キロしかない身体をちょっと浮かせるのが精々だが。しかしそれでも多少は推力を生む。ミドリは手を真っ直ぐ伸ばし、バタ足で泳ぐように前へと進もうとしていた。ミドリのは最早空すら飛べない推力だが、何もないよりは幾分マシだろう。

 継実達もそれぞれが出来る事をして、ツバメの飛行を手助けする。しかし引力はそんな継実達を嘲笑うように、どんどん強さを増していった。

 

「(こりゃ、下手な抵抗をしても駄目か……!)」

 

 合理的な継実の本能は、自分達の努力を『無駄』と判断する。

 勿論、このまま大人しく死ぬつもりなどない。しかし無駄な抵抗で体力を消耗しては、いざチャンスが巡ってきても何も出来ないだろう。努力というのはなんでも報われるものではなく、状況に適したものだけが意味を成す。

 今の自分達に出来る努力は、引力に抗って体力を消耗する事ではない。可能な限り体力を温存し、引力に導かれるまま引き寄せられて……

 元凶が見せた顔に、一発どかんと拳を叩き込む!

 それで怯んだ隙にすたこらさっさと逃げるのだ。なんとも野蛮で低脳で脳筋な発想であるが、しかし現状、これが一番生存率の高い方法だと継実は試算した。

 

「ツバメ! 飛ぶのは一旦止め! 元凶を一発不意打ちでぶん殴るしかない!」

 

「はぁ!? お前、どう考えてもあのデカい竜巻の中はヤバいだろ! 誰も生かして帰さなかった絶対に奴がいる! ここで逃げなきゃ……」

 

「そりゃアンタ達ツバメが一匹だけじゃ、でしょ! 今は私達が居る!」

 

 拒むツバメを継実は説得する。モモは既に尾を縮まらせており、ミドリも泳ぐのを止めていた。

 家族達は継実を信用している。信じていないのは昨日出会ったツバメだけ。

 初対面の人間が話す案を、簡単には信用出来ないだろう。しかし継実は確信している。ミュータントは感情的に見えて、どいつもこいつも合理的。より利する案を出せば、必ず理解してくれる。

 例え、ツバメであろうともだ。

 

「……ええぃ、ままよ!」

 

 継実の確信は、ツバメが羽ばたくのをぴたりと止めた事で証明された。

 途端、継実達の身体は猛烈な速さで巨大竜巻の方へと引き寄せられる! 秒速十キロを軽く超えるような、凄まじい速さだ。ツバメの抵抗がなければここまで加速するのかと、継実の方に冷や汗が流れていく。

 正直ここまでのパワーとは思わず、相手の強大さに不安が過ぎった。されど今更作戦の撤回なんて出来ないし、したところでなんだと言うのか。どうせ駄目なら、一か八かの方がマシというものだ。

 不安はすっぱりと切り捨て、継実は前を見据える。

 ツバメ共々継実達が巨大竜巻に突入したのは、それから間もなくの事だ。

 

「ばふっ!? あぶぶぶ!」

 

 竜巻内に突入した直後、ミドリが溺れるような声を漏らす。竜巻の激しい気流故に、空気を吸い込む事すら上手く出来ていないようだ。

 たかが竜巻程度で、と言いたいところだが、此度に限れば継実も同じ。能力で空気分子を口周りに確保しようとしても、荒れ狂う気流の流れに押し出されてしまう。無論ただの竜巻ならこんな結果にはならない。

 こんな事になるのは、この巨大竜巻の回転速度がツバメの飛行速度すら上回っているからだ。空気を操る術に関しては継実よりも上手のツバメさえも翻弄されるのだから、継実の力でどうこう出来るものでもない。ましてやミドリは言わずもがな、というものだ。

 とはいえ半端に出来てしまうよりは、何も出来ない方が幾分マシだとも継実は思う。

 何故ならこの巨大竜巻の内部は、かなりの高温に達していたからだ。肌の感覚から判断するに凡そ一千五百度前後。鉄さえも溶け出す超高温である。竜巻に巻き込まれた大気や水が凄まじい速度で擦れ合った結果、猛烈な摩擦熱が生じているのだろう。こんなものをなんの対策もせずに吸い込めば、呼吸器なんて一瞬で灰と化す。

 加えて摩擦により莫大な量の静電気も生じ、あちこちで雷撃が迸っている。巨大竜巻の中は暗黒に満ちていたが、雷撃が頻繁に通るのでむしろ眩しいぐらい。口を開けて電気の通り道を晒そうものなら、一瞬で通電するだろう。

 継実のようにちゃんと抗える力があるなら別だが、ミドリのように索敵特化ならば、何もしないせずに息を止めている方が恐らく安全だ。勿論継実が助ければなんの問題もないが……今は、あえて助けない。

 

「くっ……この……!」

 

「ぐぬぬぬぬ……!」

 

 呼吸すら儘ならないほどのパワーに、モモとツバメも呻く。呼吸の困難さもそうだが、二人は他の面子と離れ離れにならないよう、纏める事にも力を費やしていた。ろくに息も出来ない状態での作業が、苦しくない筈がない。

 継実も手伝えば、少しは二人を楽に出来るだろうが……ちらりとモモが向けてきた視線から、継実は力を使わないでおく事を決めた。

 全ては体力を温存するため。これから起きるであろう戦闘では、身体が一番大きな継実が要になるのだから。

 荒れ狂う暴風の中を継実達はじっと堪え忍ぶ。その中であっても引力は働き、守りに徹する継実達を奥へ奥へと導き……

 やがて、ぼふんっというある意味間の抜けた音と共に、継実達は竜巻の『深部』に辿り着く。ツバメは悠々と空を飛び、モモはぶるりと身体を震わせ、ミドリはぎゅっと閉じていた目を開く。継実もすぐに全員の気配を探り、皆が無事竜巻を抜けた事を確かめる。

 そう、全員無事だ。しかしこんなのは当たり前の結果。確かにちょっとばかりしんどい環境だったが、ミュータントを殺すにはまだまだ足りない。七年もミュータントとして生きてきた継実は、ちゃんと自分達の力量を分かっていた。

 なのに。

 

「(……天国?)」

 

 継実は一瞬、自分があの世に来てしまったと錯覚する。

 巨大竜巻の中は、あまりにも静かだった。無音と言っても差し支えない。波の音色も、風の音もなく、ただただ静寂だけが満ちるのみ。まるで、音などという『無粋』なものを許さないが如く。

 そして目の前の光景が、心の声すらも黙らせた。

 見上げてみれば竜巻は遥か空高くまで伸び、恐らくは積乱雲を貫いて、空まで届いていた。天頂にはぽっかりと穴が開き、美しい青空が見える。光を浴びた竜巻は淡い茜色に輝き、天界を彷彿とさせる美しさを醸し出す。無風の領域は直径五百メートルほどあり、その周囲をぐるぐると回る竜巻の壁が真っ直ぐと伸びている。竜巻が壁のようにそびえる様は、神話の建造物を思わせた。

 自然というものは、元より人智を超えたもの。されどこの光景は、最早自然さえも凌駕した美しさを宿している。

 神様なんて、継実は信じていない。そんなものがいるなら、きっと世界はこんな風にはなっていないから。

 だけど、此処にはもしかしたら――――

 

「なぁにボケッとしてんのよ継実!」

 

 モモの呼び掛けで、継実は我に返る。

 ケダモノはこの光景に神秘など感じていない。そうだ、感じる方がおかしいのだ。

 この『神々しい領域』を生み出したのは、自分達と同じミュータントなのだから。

 

「ぐぅ……!?」

 

 継実が正気に戻った、途端、身体に強烈な引力を感じる。いや、最初から引力はあった筈。幻想的な風景に頭をやられ、身体の感覚さえも狂わせられたのだ。

 此処に広がるのは神秘の景色なんかじゃない。獲物を惑わし、落とし、仕留めるための罠に過ぎない。神などいない野生の世界に、無為な美しさは不要である。

 野生を取り戻した継実は足下に目を向ける。ツバメもモモもミドリも、全員が真下を見た。自分達の引き寄せられる先にこそ、この積乱雲を生み出した『(ケダモノ)』がいる筈だから。

 その予感は的中する。

 

「ちょっとちょっと、なんだってコイツがこんな場所にいんのよ……」

 

 悪態染みた、モモの独り言。宇宙人であるミドリはピンと来ていないようだが、継実としては同意したくなる。

 だが、モモのそれは意味のない疑問だ。

 独り身のツバメが自棄になって夏場に南へと戻り、草原にウシガエルが進出し、そして生身の人間が大海原を飛んでいるこの世界。七年前(大昔)の人間が記録した生息域なんて、もうなんの役にも立ちはしない。北太平洋に棲まうこの鳥が赤道付近の海まで南下していたところで、最早異常でもなんでもないのだ。

 だから継実は、すとんと理解した。

 自分達が落ちていく先に居る大柄な鳥――――アホウドリが、この暴風雨を作り出した元凶であると。



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南海渡航12

 アホウドリ。

 この名前はかつて、簡単に捕獲出来る事から付けられたという。なんともあんまりな理由であるが、名前だけならまだ良かった。人間達は羽毛を得るため次々とアホウドリを殺し、絶滅寸前まで追い込んだのだから。

 その後ひっそりと生き残っていた僅か数十個体が発見され、保護活動の甲斐もあってか個体数は徐々に回復。二〇一八年時点で個体数は五千羽ほどにまで回復した……というような内容を、継実は幼い頃に本で読んだ記憶がある。

 あの時は無邪気に喜んだものだ。何しろ生き物好きだったのだから、絶滅しかけていた動物が復活したと聞いて、嬉しくない訳がない。そして人間がしでかした『愚行』に怒りを燃え上がらせもした。

 しかし。

 

「(だからって、大人しく殺されてやるつもりはないけどね)」

 

 むしろ出来る事なら安全のためキッチリ殺してやる――――野獣と化した少女は隠しもしない殺意を噴出させながら、かつては生きていてくれた事を喜んだ、目の前の『絶滅危惧種』を睨む。

 白い羽毛で覆われている、ずっしりとした大柄な身体。

 先端に黒い羽毛を生やした、大きな翼。

 頸部から頭部に掛けて淡い黄色に染まり、桃色で身体の割に大きな嘴。

 竜巻の底にある水面にぷかぷかと優雅な姿で佇んでいたのはそんな、何処からどう見ても普通のアホウドリだった。大きさも全長一メートルに満たない程度と、七年前までの『普通』のアホウドリの成体と大差ない。強いて違いを挙げるなら、天敵がいない島で暮らしていたが故に温和で無警戒な筈の種なのに、継実の首筋がチリチリするほどの殺気を放っている事か。

 尤もその殺気の中に、人間への恨みなどは感じられない。

 当然だろう。人間を皆殺しにしたところで種の繁栄は取り戻せないし、ミュータントを殺せない奴等なら野放しにしても問題などない。むしろ無意味な事にエネルギーを費やす事の方が、子孫繁栄の点で考えれば不利益である。復讐は、合理的に考えれば何も生まない事が明らかなのだ。

 合理的なミュータントは、憎しみなどという無意味な感情には囚われない。アホウドリが人間を憎む事もないだろう。

 ……だからといって、こちらを見逃してくれる可能性はなさそうだが。

 

「(アレは、こっちの事を餌としか思ってない目だなぁ)」

 

 これまでの人生で幾度となく向けられてきた、捕食者の眼差し。『喰う』という純粋な殺意は最早慣れっこで、だからこそアホウドリが何を想っているかも継実はすぐに理解出来た。

 継実達の身体は未だ引力に見舞われ、海面目掛け落ちていく。アホウドリはカチンカチンと嘴を鳴らし、継実達を待ち構えている。早く来い、こっちに来いと言わんばかりに。

 生憎大人しく喰われてやるつもりはない。どうやって自分達を殺すつもりかは知らないが、先手必勝で、やられる前にやってしまえば考える必要すらもない。

 さっさとコイツをぶっ飛ばして、竜巻の外に出る!

 

「やるよ、みんな!」

 

「言われなくても!」

 

「ちっ……やるしかないか!」

 

「は、はぃ! が、頑張ります!」

 

 継実の掛け声に合わせ、全員が動き出す。ツバメは自分の力で継実から離れるように飛び立つ。ミドリも四肢を広げて空気抵抗により減速し、後退するように離れていく。

 最後まで傍に居たモモは継実に視線を向け、継実もその目を見る。

 まずは私が行く。

 言葉はなくとも目で語れば、モモは全てを察してくれる。腕を広げる事で風を受け、モモは継実から離れていった。

 そして継実だけが真っ直ぐ、アホウドリ目指し突き進む!

 

「……………」

 

 散開した継実達を前にしたアホウドリの視線が追うのは、ミドリ。本能的に一番弱いのが誰かを察したのだろう。直進してくる継実など、気にも留めていない様子。

 中々に無礼な奴だ。『客人』が来たのだから挨拶するのが礼儀というものだろうに。尤も野生動物、ましてや鳥に礼節を期待するだけ無駄というものだが。

 勿論継実は元とはいえ文明人。礼儀はキチンと弁えている。

 

「こっちを見ろっつーの!」

 

 故に挨拶代わりに、指先より粒子ビームを撃ち出した!

 此度の攻撃に大したエネルギーは溜め込んでいない。しかしそれでも指先から放たれた閃光は、人類の大都市を焼き払う程度の威力はある。アホウドリといえども、直撃を受ければ丸焦げの焼き鳥になるだろう。

 直撃さえ受ければ。

 だが、アホウドリは粒子ビームを受けない。

 アホウドリまであと数十センチというところで、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。まるで粒子ビーム自らが自ら避けるようにぐにゃりと曲がり、何処かへと飛んでいってしまう。

 

「! だったら、これはどう!?」

 

 初手が外れた継実は、今度は物理攻撃へと切り替え。両手を組み、大きく振り上げて……ハンマーのように力いっぱい下ろす! 見た目はまだまだ幼さがある少女の一撃なれど、本気で繰り出したそれは小惑星クラスの打撃力を有す破滅の鉄拳。

 狙いは正確にアホウドリを捉えている。アホウドリは未だ海をぷかぷかと浮かぶだけで、避けようともしてこない。継実の両手は真っ直ぐに下りていく。

 が、不意にその動きが横に逸れた。継実の意思とは関係なしに。

 ()()()()()()

 そう感じた時にはもう、継実の両手はアホウドリの真横まで到達。強引に方向修正しようと試みるが、横向きに引き寄せる力が強くてどうにも出来ない。

 継実の拳は海面を叩き、その運動エネルギーを解き放つ。隕石級の一撃で何十メートル級もの大津波が生じ、外へ波紋のように広がる。尤も津波は継実達の周りを取り囲む竜巻にぶつかった瞬間、粉々に粉砕されて取り込まれてしまったが。

 継実はちらりと、真横に佇むアホウドリを睨む。アホウドリは未だ敵意(食欲)に満ちた視線を向けており、微動だにしていない。この程度の攻撃など、恐れる事も備える事も不要だと言わんばかりに。

 その自信を過信と呼ぶ事は、少なくとも継実には出来ない。継実の攻撃は、コイツの『能力』によって妨げられたのだから。

 

「(コイツ……『引力』を操るのが能力か!)」

 

 散々見せ付けられてきたからこそ、分かるというもの。恐らくアホウドリは隠しもしていないだろうが。

 引力を生じさせるには本来巨大な質量、正確にはそこから生じる重力が必要だ。しかしミュータントと化したアホウドリは、そんな事などお構いなしに引力を生み出せるのだろう。その力で継実達をこの場に引き寄せ、粒子ビームや鉄拳の軌道を逸らした。この巨大な竜巻や積乱雲も、引力で空気を引き上げる事で生み出しているのかも知れない。

 おまけにこの能力、純粋に強い。

 アホウドリの体重は凡そ二~三キロ程度。鳥としてはかなり重いが、継実からすれば二十分の一程度だ。人間の赤子よりも軽く、故に非力な筈。本来ならアホウドリがどれだけ力を込めようとも、パワーで継実を圧倒する事はない。しかし引力の力は一点に集中出来る。全身の力では継実の方が上でも、拳だけ、ビームだけと、『局所』に絞れば力負けしないのだ。

 アホウドリと引力にどんな関係があるのか、継実にはさっぱり分からない。案外『重た過ぎて風がないと飛べない身体』という欠点を解消するために身に着けた力なのかも知れない。だとしたら、過剰な力にも程がある。

 

「(でも、付け入る隙はある)」

 

 それでも継実は勝機を見い出す。

 革命的な進化を遂げて細胞が百倍ぐらい活動的……なんて出鱈目でもない限り、アホウドリはあくまで局地的に能力を発動する事で継実のパワーを上回っている。つまり劣勢を、一点突破で誤魔化しているだけ。

 ならば、一点突破する暇をなくせば良い。

 例えば超高速の肉弾戦が有効な対策となるだろう。

 

「ふん!」

 

 継実はまず海面に『着地』。本来ならばそのまま沈むところだが、継実は粒子操作能力で海水の水分子を固定化。地面のように硬くし、しっかりと身体を支えさせる。

 少々エネルギーは消費するが、これで足場は地上と変わらない。陸生動物として、十全に力を発揮出来る条件が整った。格闘をするなら、やはり足場はしっかり固まっていなければなるまい。

 

「はっ!」

 

 継実は素早く腕を振るい、アホウドリの顔面を手刀で切り落とそうとする。

 当然アホウドリはこの手刀を引力で引っ張り、攻撃を外させた――――が、継実の攻撃はまだ終わらない。手の後を追うように、今度は蹴りを放つ。

 蹴りもまたアホウドリの力で軌道を捻じ曲げられたが、更に継実はもう片方の足を蹴り上げる。両足が海面から離れて身体が宙に浮かんだが、問題はあまりない。継実は自力で空を飛べるのだから、空中での姿勢制御はお手のものというやつだ。

 立て続けに放たれたキックに、しかしアホウドリは未だ動かず。能力で二発目の蹴りの軌道を逸らし、これも『回避』する。両足が空へと逸らされ、継実の身体はぐるんとひっくり返るように浮かび上がった。

 ならばと継実が繰り出すは、粒子ビーム。

 腕も足も使ったが、届かぬもう片手から四連撃目の攻撃。粒子ビームの反動で僅かに後退しながら、さぁこれをどう対処するのかと継実は挑発的に微笑む。

 が、これも引力で逸らされた。さも想定通りだと言わんばかりに。

 

「(ちっ! 格闘戦に慣れてるか!)」

 

 成体である事から実戦経験は豊富だと踏んでいたが、思っていたよりも修羅場を乗り越えてきた奴らしい。継実という『巨大生物』に躊躇なく襲い掛かったのも、自分の強さに驕っているのではなく、これまでの経験で仕留められると判断しての事か。

 経験に裏打ちされた自信は厄介だ。勝てるという事を知っているから迷いがなく、それでいて出来ない事も知っているので退き際を誤らない。必要ならこのアホウドリは能力なんかに頼らず、最小限の動きで攻撃を回避するだろう。連続攻撃を叩き込めばボロを出す、というのは甘い見積だ。

 肉弾戦は継実の得意とするところだが、どうにもアホウドリの能力とは相性があまり良くなさそうだ。さて、どうしたものかと思考を巡らせる。

 対してアホウドリは、既に次の手を考えていたらしい。

 じろりとアホウドリが睨み付けた、刹那、蹴りを繰り出した継実の身体が『空中』でぴたりと止まったのである。

 そして次の瞬間、継実の身体はアホウドリの方へと引き寄せられていく!

 

「(距離を詰める気!? 上等!)」

 

 接近戦ならば望むところだと、継実は拳を振り上げながら引力に身を任せる――――が、ぴたりと止められたのは拳がアホウドリまで届かない絶妙な距離。

 対するアホウドリはくいっと、継実の拳以上に届かない嘴を振るう。

 すると継実の足下の海水が、まるで噴き上がるように上昇した! 引力は個別に掛けられるようで、継実は空中に制止したまま。噴き上がる海水が継実の身体を濡らす。

 海水が噴き上がる勢いは強烈だ。まるで滝、いや、断頭台の刃がウォータージェットになったかのよう。ミュータント化していない人間ならば、一瞬で全身が細切れの肉片と化したに違いない。継実だって、ダメージを受けるほどなのだから。

 更に問題はこれだけではない。

 

「(ぐっ……水の所為で息が……!)」

 

 大量の水が噴き上がる所為で、空気までもが押し退けられた。いくら吸い込んでも水しか入ってこない。

 引力を操るアホウドリは、物理的な破壊が少々苦手なのだろう。しかし獲物を捕まえるのに、わざわざ全身を粉微塵に粉砕する必要はない。窒息だろうが溺れ死にだろうが、兎に角死ねば良いのだ。

 竜巻で『行方知れず』になったツバメ達も、こうしてじわじわと殺されたのだろう。

 それを残酷だなんだと批難するのは、『文明人』の傲慢だ。アホウドリは生きるため、食べるためにこの方法を採用しているだけ。そして獲物を確実に仕留めるには、この方法しか出来ないと思われる。他に楽で確実な方法があるなら、そっちを選んでいる筈なのだから。

 つまり。

 

「(復帰は容易、って事ね!)」

 

 継実は自分の身体を構成する分子を、自らの能力で振動させた!

 激しく揺れ動く粒子達は熱となり、継実の周りにある海水を過熱。二千度まで温度を上げていく。

 水分子は二千度を超えて存在する事は出来ない。ここまで高温になると水分子の形が維持出来なくなり、分子が崩壊してしまうからだ。そして壊れた水分子は水素と酸素へと分かれ、同じ原子同士で結合――――水素分子と酸素分子へと変化。これを吸い込めば、酸欠からは解放される。

 継実は海水から酸素を合成したのだ。とはいえ高濃度酸素分子はあまり身体に良くないのも事実。酸素の高いエネルギー量により、細胞自体が傷付いてしまうのだから。何時までも続ける理由はない。

 しかしながら引力による拘束は強く、どうにも振り解けない。手首や足首、額や腰などにピンポイントな引力が掛かっているのだ。全体をくまなくであれば強引に押し返せそうなのだが、小さい範囲、それも関節部を押さえられると上手く動かせない。恐らく、一人だけではどうにも出来ないだろう。

 こういう時は、素直に仲間に頼るのが一番だ。

 

「モモ!」

 

 だから自分が気を惹いている間にアホウドリの背後に回っていた、頼れる相棒の名を呼ぶ。

 

「任せとけぇ!」

 

 継実の掛け声に合わせて動き出すモモ。アホウドリはすぐに反応して振り返るが、一手遅い。

 負傷した継実に代わり、今度はモモとアホウドリの一騎打ちが始まった。



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南海渡航13

「喰らえッ!」

 

 モモは飛び掛かるようにしてアホウドリに肉薄し、両手から鋭い爪を伸ばして切り掛かる!

 背後からの強襲。これにはアホウドリも動き出す。今までまともに動かさなかった頭を大きく仰け反らせ、迫り来る爪との距離を取った。しかし決して慌てふためく事も、嘲笑うように笑みを浮かべる事もない。完璧に攻撃を回避した瞬間能力を発動し、モモの腕を引力で上へと引っ張る。

 引力の強さは継実ですら抗えないもの。単純な馬力では継実よりも劣るモモでは引力に逆らう事など出来ず、万歳をするかのように腕が上がってしまう。攻撃を躱されたどころか腕の動きまで封じられたモモだが、継実の戦いを見ていたのだからこの程度の事態は想定済み。戦う前から考えていたであろう、次の手を打つ。

 具体的には手の先だけを()()()()()()()()()、手先だけでもアホウドリを引っ掻こうとしてみせた。

 腕そのものは引力により上へ上へと引っ張られる中、モモの手先だけが、未だモモの目の前で水面に浮かんでいるアホウドリへと迫る!

 

「! クァッ!」

 

 これは流石に予想外、それでいて能力の発動が間に合わなかったのか。アホウドリは小さく唸りながら羽ばたいて後退する。またしても奇襲に成功したモモであるが、この攻撃も寸でのところで躱されてしまい、次いで新たに生じた引力により伸ばした手先も上へと引っ張られてしまう。

 二つ目の攻撃も防がれた。しかしモモの攻撃はまだまだ終わらない。

 ざわざわと揺らめいたのも束の間、今度はモモの髪が槍のように束なり、アホウドリへと突き出される! 鋭く尖った先端を引力で逸らそうとするアホウドリだが……モモが繰り出した髪は十本。そのうち動きが逸らされたのは僅か五本だけ。

 能力の発動が間に合わなかったのだ。それでもアホウドリは慌てずに身体を僅かに捻り、槍と槍の隙間に入り込むようにして攻撃を回避。見事な躱し方であるが、結果として首や翼の傍にモモの体毛が棒のように陣取り、自由な動きを妨げる。

 アホウドリはこれ以上の回避を取れない。しかしモモは更なる攻撃が可能だ。ぶるぶると体毛を擦り合わせ、原子力発電所数百基分の出力で発電。アホウドリを取り囲む体毛にバチバチと音が鳴るほどの高圧電流を流し込み――――

 放電する直前に、何かに引っ張られるようにモモが吹き飛んだ。恐らく胴体が引力により引っ張られたのだろう。小さく舌打ちしつつモモはくるりと空中で体勢を立て直し、海面に着地。足先から体毛を広げて接地面を増やし、表面張力で水面に浮く。

 

「あら、つれないわね。もっと遊びましょうよ!」

 

 そして勢い良く足下の体毛を動かし、水面を蹴るようにして跳んだ! 両腕を前へと突き出し、大きく手を開いて捕まえる意思を見せ付ける!

 再び高速で迫るモモに、アホウドリは引力操作を発動。突撃するモモの身体を強引に止めようとする。その力によりモモは確かに停止した、が、モモの腕までは止まらない。

 十メートルと開いている距離などお構いなし。ぐんぐんと伸びていき、アホウドリに襲い掛かる! アホウドリは再び飛んで後退するが、今度は腕の方が早い。

 

「カァッ!」

 

 するとアホウドリが吼えた。

 次いでモモの腕な二本ともぐしゃりと海面に叩き付けられる。引力により引き寄せられたのだろう。しかも今回は腕の先端から止められたらしく、先頭が止まった事で未だ伸び続けている腕がぐにゃぐにゃと畳まれるように溜まってしまう。これでは前へと進めない。

 

「ほっ」

 

 ところがモモが一声出せば、腕は変形しながら再構築。伸びた部分を束ねて重ねて、新しく腕を作り上げてしまう。

 伸びた腕から腕が生えるという、奇怪というより不気味な姿。だが、姿形が不気味かどうかなど些末な話だ。

 肝心なのは、新しく生えた腕に攻撃能力がある事。

 二本の腕から二本ずつ生え、四本になった拳が殴り掛かった! 倍に増えた腕に驚いたのかアホウドリは僅かに身動ぎしたが、能力も回避も間に合わず。なんとか構えた翼に、モモの鉄拳がぶち当たる。

 激突時、ガキンッ! と金属のような音が鳴った。戦いを見ていた継実の瞳には、アホウドリの翼表面に高密の大気が存在しているのが映る。どうやら引力操作能力で周辺の大気を掻き集め、盾のように構えているらしい。モモの拳は一発で巨大地震を引き起こせるほどのパワーがあったが、それでもアホウドリの翼には傷一つ入っていなかった。

 今まで能力で攻撃を回避し続けていたアホウドリだが、防御技を持ち合わせていない訳ではなかったようだ。ようやくぶち当てた一撃は、残念ながら殆どダメージにはなっていない様子。尤も、一発で駄目なら諦めるなんてナンセンスな話である。

 一発だけだと駄目なら、ぶち抜くまで何度でも殴り続ければ良い。

 

「はああああああああああっ!」

 

 猛烈な速さで繰り出す、拳のラッシュ! 瞬きする間に何百発と打ち込む、超速の連続攻撃をモモは繰り出した。

 殴り掛かる腕の本数は四本。しかしあまりの速さ故に残像が残り、まるで腕が何十本にも増えたかのような光景を作り出す。引力操作による軌道の変化など気にせず、兎に角手数で勝負する戦法だ。アホウドリは翼の角度を細やかに変え、襲い掛かる打撃を最大限受け流していたが……モモが繰り出すあまりの猛攻に、翼表面に集めていた大気分子が揺らぎ始めた。ぐらぐらと、今にもくずれそうである。

 このまま一気に打ち抜けば――――そう継実は思ったが、期待はしない。自分が気付くよりも前に、アホウドリ自身が己のピンチを察している筈なのだから。

 そして後退を躊躇う野生動物などいやしない。

 アホウドリは猛スピードで後ろに下がる。自分自身に引力操作を適応し、後方に()()()()()のだ。モモと違って一切抵抗しない身体は、軽く音速を超えて後ろにすっ飛んでいく。モモは追い駆けようとしたが、モモはモモで引力により後方へと引っ張られてしまう。

 両者の距離は瞬く間に数百メートルと開く。モモはにやりと笑いながらアホウドリを見つめ、アホウドリは一層鋭さを増した瞳でモモを睨んだ。

 

「……カタカタカタカタ」

 

 アホウドリは嘴を震わせ、音を鳴らす。威嚇か、恐怖か……恐怖はないなと、相変わらず敵意の消えていない瞳から継実は判断した。

 されど一方的に喰える相手だという認識は改めたのだろう。食欲しかなかった瞳には別の、激しい怒りのような、少しだけ『人間味』のある感情が浮かび始めていたのだから。恐らく「小癪な真似を」とでも思っているに違いない。

 それだけモモの攻撃はアホウドリを追い詰めたのだ。継実では為す術もなく、一方的にやられたというのに。

 パワーの大きさだけなら、モモは継実よりも格段に劣る。というより単純な体重差なら、僅かにモモの方がアホウドリより軽いかも知れないぐらいだ。恐らく単純な力押しでは、継実よりモモの方が分が悪いだろう。

 だが、能力の相性は良い。

 モモの身体は体毛で編まれたもの。例え腕の一部を引っ張られたとしても、先端部分を伸ばしたり、或いは関節を無視して曲げたりする事で無力化出来る。更に体毛は何百万本と存在しているもの。勿論太く強靭に束ねるためには本数が必要なため大きな一撃を出そうとすれば『手数』は減るが、逆に言えば小さな打撃を繰り出す程度なら数百に分散して繰り出す事も可能だ。また引力で身体の一部を拘束されたとしても、別の部位から身体を生やしてどうとでも対処出来る。

 一点集中で能力を出さねばならないアホウドリにとって、分散可能なモモの能力は大敵なのだ。

 

「オイラの出番は要らなそうかい?」

 

「あ、あたしも居ますよ!」

 

 更に戦力はまだまだ居る。

 頭上に陣取ったツバメの高速飛行を上手く攻撃に転化出来れば、無視出来ない脅威となるだろう。そしてツバメの力でふわふわと空に浮いているミドリが能力を使えば、上手くいけば即死、防がれても激しい頭痛で思考を妨げられる。

 今までの戦いはあくまで前哨戦。互いに本気など出していないが……軽く手の内を見せ合った事で戦力分析は終わった。継実の脳なら、勝率の計算が可能だ。

 モモと継実のコンビに比べれば、戦力としては微々たるものである二人。けれども四人が力を合わせれば、コンビよりも遥かに強くなれる。ならば勝利は確実であろう。

 そして勝てるのなら、わざわざ見逃すつもりなんてない。

 

「うふふ。これだけ大きければ、いくら鳥でも食べ応えがありそうねぇ」

 

 モモが言うように、狩れる『獲物』ならば喰うべきだ。まだまだ余力があるとはいえ、海を渡る間に繰り広げた戦いで継実達はかなりエネルギーを消耗している。補給が出来るのなら、是非ともそうしたい。

 じりじりと包囲を狭めていく継実達。アホウドリは継実達の思惑を理解しただろうが、されど決して臆さない。恐怖に震えたところでどうにもならないと理解しているのだろう。

 大きく両翼を広げ、アホウドリは継実達と向き合う。徹底抗戦の意思表示だが、勿論この程度では継実達も怯まない。四人全員の呼吸を合わせながら、更に距離を詰めていき――――

 何かがおかしいと、継実は思う。

 

「(いくらなんでも、肝が据わり過ぎてない?)」

 

 必死にならなければ間違いなく喰われる状況なのに、アホウドリは全く冷静さを失っていない。それどころか継実やモモと戦っていた時となんら様子が変わっていないように見えた。怖がってもどうにもならないのは確かだが、だとしてもこうも変化がないのは些か奇妙である。

 何故奴の態度が変わらない。現状を認識出来ていないのか? いいや、それだけは絶対に違う。これほどの強者が、そして数多の戦闘経験を持つ捕食者が、自分の置かれている立場や相手との戦力差を理解していないなんてあり得ない。状況を理解した上で、余裕を崩していないと考えるのが自然。

 つまり。

 

「(()()()()()()()()()()()()()()()()?)」

 

 脳裏を過ぎる最悪。いやいやそんな馬鹿な、身体の大きさ的にそこまで強い訳ないし……等と『理性的』に否定をしてみるが、本能の直感が外れた事は、戦闘に関して言えばあまりなく。

 ずどん、と身体の内から突き上げられるような感覚。

 そして直後にアホウドリ以外の全員が吹き飛ばされた光景を見た継実は、己の予感が正しかった事を知るのだ。



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南海渡航14

「(ぜ、全員に引力操作……!)」

 

 作り上げた包囲網が一瞬で崩され、継実は顔を顰める。

 所詮は距離を開けただけの事。それに力を分散したからか、強制力はそこまで強くない。ミドリやツバメでは動く事が難しそうだが、モモと継実なら鈍いながらも動けはした。

 これだけならなんの脅威でもない。

 問題は、引力操作能力の使い手であるアホウドリがそれを理解していない筈がない点だ。全員の身動きを封じたのは本命ではないと考えるのが自然。何かを企んでいるのは確実だ。

 その企みを発動させるのは、どう考えても自分達の得にならない。何かされる前に潰すべく、継実は相棒であるモモに視線を向けた。

 モモは、大きく目を見開き、苦しむように口を喘がせていた。

 

「……!? ――――!?」

 

 どうしたの、モモ。

 そう尋ねようとして、継実は異変に気付く。或いは今、継実の身にモモと同じ異変が襲い掛かったのだろうか。

 声が出ない。

 より正確に言うなら、出した声が聞こえてこない、だろうか。かなり大きな声で叫ぼうとしたのに、継実には自分の声が聞こえてこなかった。きっと、モモにも届いていないだろう。

 そして直後に襲い掛かってきた、息苦しさ。

 全身が痛みを覚えるほどの窒息感。身体が酸素を求めていて、その渇望のまま息を吸おうとするのだが……()()()()()()()()。どれだけ喉に力を込めても、肺を激しく震わせても、口から空気が入り込む事がない。

 

「かっ……!? あ、ぁ――――」

 

「ぎっ!? ぃ……!」

 

 異変が襲い掛かったのはモモと継実だけではない。後回しにされたのか、ミドリとツバメが今になって呻きを上げた。声を上げたのは最初だけで、その場でジタバタと、踊るように藻掻くばかり。伸ばした手や翼が宙を切り、パクパクと口を喘がせるのみ。

 一瞬にして、継実達全員が苦しさの中に溺れてしまう。誰一人として回避すら出来ぬままに。

 どうして? 何が起きた? 七年前の継実(普通の人間)なら原因すら分からず苦しさに悶え、そのまま死に至るだけだったに違いない。されど今の継実の目には全てが見えている。

 ()()()()()

 酸素どころか窒素も二酸化炭素も、みんな自分達の周りからなくなってしまったのだ。竜巻内部は今や完全な真空状態。いくら吸い込もうとしても、気体分子が何もなくては呼吸など出来る筈もない。

 その大切な気体分子達は今、アホウドリの周りに引き寄せていた。

 

「(こ、これが、コイツの必殺技か……!)」

 

 真空状態での圧力などは継実にとって大した問題じゃない ― 宇宙空間に生身で出ると爆発するという話があるが、アレは完全なデマである。人間の身体はそもそも密閉されていないから破裂なんて出来ない ― が、酸素そのものがないのは一大事。

 如何にミュータントといえども、好気性生物である以上活動には酸素を用いたエネルギー生成が必要不可欠だ。酸素がなければ長くは生きられない。いや、むしろ強大な力を生み出すため常に細胞をフル稼働させている分、ミュータントとなっていない時よりも酸欠には弱くなっているぐらいだろう。

 その大事な酸素をアホウドリは全て自分の周りに集め、悠々と佇んでいる。このままこちらが窒息死するのを待っているのだと、継実にもアホウドリの作戦は読めたが……読めたところでどうするのか。

 アホウドリと戦った時に使った、海水の分解をするか? 無意味だ。引力は今も続いていて、作り出した傍から空気は引き寄せられてしまう。継実の口には届かない。

 突撃して、アホウドリに肉薄する? それなら呼吸は出来そうだ……そもそも接近が難しい事に目を瞑れば。確かに頑張れば動ける程度の引力だが、それは十全に力を発揮出来ればの話。酸欠状態でフルパワーを出せなくなった今、身体なんてろくに動かせない。死ぬ気で頑張れば進めなくもないが、牛歩で迫ったところで無意味だ。適当な位置で後退されるのがオチなのだから。

 為す術がない。対処法がない。時間こそ掛かるが、どんなミュータントでも着実に殺す『必殺』の技であろう。

 名付けるなら『酸欠領域(アノキシア・エリア)』だろうか……着実に忍び寄る死への現実逃避か、なんとも危機感のない事を考えてしまう継実。しかし苦しむ家族の姿を見て、なんとか我に返る事が出来た。逃避なんてしていたら、大切な家族を奪われてしまう。

 脅威と向き合ったところで、何も出来なければただ苦しむだけだが。

 

「(クソッ! 何か、切り抜ける方法は……!)」

 

 頭を働かせようとするが、思考が上手く纏まらない。何しろ脳は人体の中でも特にエネルギーを、酸素を要求する器官だ。酸欠状態になれば真っ先に駄目になる。

 しかも悪い事に、継実の能力は特に頭を使う。無意識にやれる事も少なくないが、特大の能力を使うには高度な演算処理が必要なのだ。言い方は悪いが、ただ毛を擦り合わせるだけで核融合炉並の出力を捻り出すモモほど単純ではない。『頭を使う』というのは実に人間らしい能力だが、お陰で能力自体が使えなくなろうとしているのだから自慢にもならないだろう。

 酸欠により思考力と演算力が低下。取れる手段が狭まっていき、長考を余儀なくされる。そして考える時間が長くなるほど、状況は悪化していった。

 

「……! ……………っ」

 

 やがて、継実の身体から力が失われる。

 引力操作により空中で固定された姿は、まるで磔にされた聖者のよう。抵抗しなくなった継実を見て、モモが何かを叫ぼうとした。だけど言葉は出せず、最早引力を振り解く力はない。彼女も倒れ、空中で浮かぶだけと化す。

 ツバメもついに暴れるのを止め、虚空にぷかぷかと浮かぶだけとなる。最後に残ったのは、貧弱故にエネルギー消費が一番少ないであろうミドリ。しかしミドリも顔を真っ青にし、喉を掻き毟るばかり。彼女の身体からも力が失われ、四肢がだらりと垂れ下がり、苦悶に満ちた顔が僅かに穏やかになってしまう。

 もう、誰も動かない。

 

「……クァ」

 

 しかしアホウドリは攻撃の手を弛めない。それどころか継実が海水から酸素を作り出したのを覚えていたようで、引力操作をより強め、継実達が万一にでも動けないよう、しっかりと空中で固定する。

 それは油断を知らぬ本能か、或いは強敵だと認めたが故の警戒心か。いずれにせよアホウドリは不用意に近付く事も、大振りの技で攻撃してくる事もない。

 最後まで油断をせず、着実に相手を仕留める……完璧な対応だ。強者として、捕食者として、そして何より野生動物として相応しい、一分の隙すらも許さぬ立ち振る舞いである。

 故に――――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「……!」

 

 ぴくりと、継実の指が一本微かに動いたのをアホウドリは見逃さなかった。引力操作を一層強め、一粒の酸素分子も許さぬ力で継実の周りを完全な真空へと返る。

 だが継実の動きは止まらない。それどころか両手の指がしっかりと動き出し、手首や腕も曲げられるようになる。脱力していた四肢に張りが戻り、背筋が反り返るほどに伸びた。

 何かがおかしいと、アホウドリはもう気付いただろう。しかしだからどうしたというのか。何が起きているのか分からないのだから、迂闊に接近してくるなんて真似が出来る訳ない。このアホウドリは強者として、捕食者として、そして野生動物として、尊敬に値するだけの慎重さを有しているのだから。

 それは継実の目がついに見開かれても変わらず。

 

「――――ッ!」

 

 継実は大きく吼えた。真空故に一切の声が伝わらぬ空間の中で、それでもアホウドリが僅かに仰け反るほどの気迫を発しながら。

 目覚めた継実は大きく腕を振るい、引力の拘束を力尽くで打ち破る! アホウドリは更に力を強めようとしたが、未だ動かないモモやミドリ達が気に掛かり、継実に力を集中させる事が出来ない。ここでも警戒心が仇となっていた。

 動けるようになった継実はモモの下へと向かい、彼女の身体に自らの手を――――突き刺す。

 ただし怪我は負わせていない。モモにとって人型の姿はただの『入れ物』。継実が触れようとしたのは、奥に潜む本体であるパピヨンの方だ。継実の指先がモモの身体に触れ、継実はしばしこの状態を維持。

 しばらくすれば、びくんっ、と跳ねるようにモモの身体が震えた。

 動き出したモモは勢い良く顔を上げ、額に手を当てながらぶるぶると首を横に振る。恐らく意識が殆どない状態だったのか困惑した表情を浮かべていたが、傍に継実が居ると分かると大凡の事は察したのだろう。「助かったわ」と言いたげに口が動いたので、継実は笑みと共にこくりと頷く。

 継実はモモを脇に抱えると、急ぎ足でミドリ、それからツバメの下にも向かう。アホウドリが引力操作で動きを封じようとしてきたが、相変わらず力は分散したまま。鈍らせる事は出来ても止める事など出来やしない。

 継実はミドリに触り、ツバメにも触る。どちらも大きく身体を震わせた後、失っていた意識を取り戻す。ツバメの方はすぐさま継実の肩に移るぐらいには冷静だが、ミドリの方は顔を真っ青にして、ガタガタと震えていた。今まで命の危機は幾度もあったが、今度ばかりは本当に死んでしまうところだったと気付いたのだろう。継実はそっとミドリの肩を抱き寄せる。

 ただし継実が顔を向けるのは、こちらを睨むように見ているアホウドリ。

 そして不敵な笑みを浮かべた継実は、

 

「形勢逆転……とまでは言わないけど、なんとか持ち直してやったよ」

 

 ()()()()()()()()()()

 アホウドリの顔付きが変わる。勿論鳥であるアホウドリに表情筋などないが、纏う雰囲気の変化から継実にはそう見えた。どうして声が出せるのか(空気があるのか)、まるで分からないのだろう。尤も、見破られて堪るか、と継実的には思うが。

 体内で酸素を合成していたなんて、普通は外から分かる筈がないのだから。

 勿論無から作り出した訳ではない。継実は体内にある二酸化炭素や水を粒子操作能力で強引に分解し、酸素分子へと変換したのだ。その酸素を用いて『呼吸』を行い、生成された二酸化炭素をまた分解していき……ひたすらこれを繰り返す事でエネルギーを充填。どうにか酸欠状態を脱したのである。そしてエネルギーを確保した後は家族達の身体に触れ、僅かながら酸素を作り出して供給したのだ。

 ちなみに声を出せたのは、分解する過程で生じた、常温で気体状態である低分子炭化水素を吐き出し、空気の代わりとしたため。要らないものを捨てるついでに、こっちは不思議な力があるのだぞと、脅すためのアクションである。

 ――――そう、脅し。

 

【ねぇ、継実】

 

 びりりと、継実の耳に声が響く。

 モモの声だ。伸ばした体毛で直に鼓膜に触れ、振動により音を発している。これなら周りが真空でも会話が可能だ。

 継実は一回口を開き、伸びてきたモモの毛を咥えて、それから唇を閉じたまま話す。ひそひそ話での声すら出したくない時のための、二人で決めた秘密の話し方である。

 

【……訊かなくても、なんとなく言いたい事は分かるけど。何?】

 

【私だって答えは分かってるけどね。強がってるけど、勝ち筋は見えたのかしら?】

 

 モモからの問いに、継実は不敵に笑う。

 一切怯えのない姿をアホウドリに見せ付けながら、継実はモモにだけは話した。

 

【いーや全然。つか無理でしょ、これに勝つとか】

 

 内心凄くビビってる事を。

 やっぱりね、という言葉はなかったが、モモは呆れたように笑う。そんな顔したらバレちゃうでしょと窘めたくなるが、自分がモモの立場なら同じ顔をしたと思うので止めておいた。

 継実が行った体内酸素合成は、決して起死回生の技なんかではない。

 二酸化炭素や水の分解・酸素の合成をする時にも、エネルギーを消費するのだ。一応収支はプラスであるが、効率が悪いのは間違いない。戦いに使える力は普段の七割程度が限度だろう。しかも慣れ親しんだ自分の身体だけなら兎も角、モモやミドリなど他人の身体にも酸素を送るとなれば手間は二倍三倍どころじゃ済まない。傷付けないよう繊細に扱わねばならないし、そもそも生体内で起きている複雑かつ自由気まま(予測不能)な生命活動に割り込んで能力を発動させるには、身体の密着をある程度維持しなければならないのだから。

 どう楽観的に考えても今の継実は、先程まで苦戦を強いられていた相手をギタギタに出来る状態ではなかった。

 

【体勢は立て直した。だけど勝てるような相手じゃない。なら、やる事は一つよね】

 

【一つだなぁ……】

 

 モモから確認するように問われ、同意するように口の中で呟く継実。そう、勝てない相手に出来る策などただ一つだ。アホウドリなんかに、と七年前の人類なら思うかも知れないが、そんなプライド、継実達はとうの昔に捨ててある。

 選ぶ事に躊躇いはなし。

 

【とりあえず、全力で逃げようか】

 

 三十六計逃げるにしかず。

 古代の偉大なる戦術家の言葉は、文明崩壊後の野生世界でも有効だった。



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南海渡航15

【逃げる、ねぇ。確かに逃げたいけど……どうすんのよ、この状態で】

 

 モモは継実の案に賛成しつつも、やり方について確認してきた。

 疑問は尤もなものである。逃げる、と言葉でいうのは簡単だが、状況はそれを許してくれるものではない。

 アホウドリにこちらを逃がすつもりがないのだから。

 敵意と食欲と怒りを混ぜ合わせた瞳が、継実達をじっと見ている。元々油断なんてなかった奴だが、更に感情の純度が増しているようだと継実は感じた。要するに、先程までより更に精神的な隙がない。

 もう一度酸欠で失神なんてしたら、今度こそキッチリ止めを刺してくるだろう。勿論遠距離から、安全に。

 

【私が復帰したのを見て、警戒心を持たれた感じだしなぁ。罠に嵌めるのは無理か】

 

【見せ付けるようにやってるからよ】

 

【こっそりなんて出来ないんだから、何やっても変わんないでしょーが】

 

 モモと軽口を交わしながら、継実は思考を巡らせる。アホウドリはこの間もじっと継実を見ていて、攻撃動作の呼び動作などは取っていないように見えるが……背筋が痺れるような感覚が、どんどん強くなっている。あちらがその小さな身体に力を溜め込んでいるのは確かだ。

 動くなら先手を取るしかない。そして先手を取れるまでの猶予は、恐らくそう長くないだろう。

 

【……モモ。ツバメとミドリにも話したいから、毛、咥えさせて】

 

【おっけー】

 

 継実の指示で、モモはミドリ達の耳と口に毛を伸ばす。

 継実が声を出せば、ミドリとツバメは驚いたように辺りを見回す。すぐに継実は理屈を説明して二人を宥めたが、二人の驚く姿を見たアホウドリには、自分達が『話し合っている』事はバレてしまっただろう。

 

【手短に話すよ。私達じゃアイツを倒すのは多分無駄から、脱出を優先する。で、その方法なんだけど――――】

 

 時間はもうない。継実は手早く、今し方考えた作戦を語った。

 作戦自体は決して長々としていない、シンプルなもの。しかし少々力尽くな方法にミドリは驚き、萎縮し、けれども覚悟したように表情を引き締める。

 ツバメの方は、何処か楽しそうにも見えた。

 

【わ、分かりました。やってみます!】

 

【それしかないなら、やるしかないなぁ。はっはっはっ】

 

 真剣に答えるミドリに対し、ツバメは笑っていた。ぱたぱたと翼を動かしており、どうやらやる気に満ちているようだ。

 やる気があるのは頼もしいが、何故そんなに楽しげなのか。ちょっと疑問を抱く継実だったが、納得はすぐに得られる。

 

【仲間の仇討ちなんて興味もないが……種族の敵に一泡吹かせてやるというのは、中々面白いぜ】

 

 語られた言葉は、継実にも納得がいくものだったから。

 今まで無敵だった奴に赤っ恥を掻かせるというのは、やっぱり面白いものなのだ。例え恥なんて概念が存在しない、自然界であろうとも。

 

【それじゃあ、始めるよ!】

 

 継実は掛け声と共に、その手を眩く輝かせる。

 粒子ビームだ。

 本来粒子ビームの『材料』である粒子達は、大気中にいくらでもある空気を使っている。しかし此度、継実達の周りは真空状態。これは粒子ビームの材料が枯渇しているようなものだ。

 だから此度のビームは大気ではなく、継実やみんなの身体にある元素をちょっと拝借した。主に人体で不要な物質を用い、それでも足りなければ血液をちょっと借りていく。更に継実自身は自分の骨をガリガリと削り、大量の元素を調達する。

 そうして得た大量の粒子が、今、指先に集まっているのだ。

 

「クァァ……!」

 

 継実の動きを見たアホウドリは僅かに身動ぎし、翼を広げようとする仕草を見せた。恐らく、継実が動き出す前に引力で叩き付けようという算段だろう。

 だが、継実の方が断然早い。

 継実の指先より放たれる粒子の輝き。都市どころか国家すらも焼き払う神の炎が、閃光を撒き散らしながら――――()()()()()()()

 そう、海面だ。継実の指先が捉えるのはアホウドリではなく、斜め前方にある大海原。勿論こんな海水を攻撃してもアホウドリにダメージは与えられないし、能力の妨害も出来ない。

 何しろ継実達の目的は、アホウドリの撃破ではなく、アホウドリからの逃走である。だから海面を撃っても問題などない。

 粒子ビームを撃ち込んだ反動で、継実達の身体は大空へと飛んでいくのだから!

 

「(普通に飛んでも私の力じゃ引力は振りきれない。だけど、粒子ビームなら……!)」

 

 ロケットの飛び方というのは、推進剤という名の物質を大量噴出する事により生じる反動で、推進力を得るというもの。粒子ビームも大量の物質を飛ばすという意味では、ロケットエンジンと同様の代物だ。今までは攻撃目的で使っていたので、継実はがっしりと大地を踏み締めて撃っていたが……留まるつもりがなければ、大空を、宇宙さえも飛び立つだけの速度を得られる。

 勿論普段からこれ ― と似たような原理も含めて ― で移動しないのには訳がある。移動するなら普段一秒と照射しない粒子ビームを、何秒も続けて放たなければならないのだ。大量の粒子を消費するし、エネルギーの消耗も激しい。日本からフィリピンまで飛ぼうとしたら、継実は道半ばに達する前に干からびてしまうだろう。

 だが、たった二~三百メートル先の『竜巻』に手が届くまでの距離なら、左程負担にはならない!

 

「ぶはっ! 良し!」

 

 自分達を取り囲む巨大竜巻の『内壁』に一瞬で辿り着いた継実は、そこで二酸化炭素分解ではなく、普通の呼吸による酸素取得に切り替えた。

 竜巻は自身の運動による摩擦熱で高温になっているが、継実が能力によりその熱を奪い取ればすぐに常温へと変わる。モモ達も普通の呼吸が出来る温度であり、もう二酸化炭素を分解してあげる必要はない。更に粒子ビームの材料である元素も、大量に確保出来る。

 最初の賭けには勝った。アホウドリの能力により竜巻に接する事さえも妨げられるという、一番嫌な攻撃をされる前に動けたからだ。とはいえ今までアホウドリが見せてきた反応速度と警戒心から、ここまではある程度予想通り。

 いよいよアホウドリの能力が発動する。勝負はここからが本番だ。

 

「クッ……アアァァァッ!」

 

 継実達の目的に気付いたであろうアホウドリは、継実が想定したタイミングぴったりに能力を発動させた。

 継実達の身体を引き寄せる、巨大な引力。

 巨大な恒星すらも彷彿とさせる圧倒的なパワーだ。粒子ビームの推進力さえも打ち消し、継実達の身体をアホウドリの方へ引き寄せていく。

 仮に粒子ビームの向きを変えてアホウドリに撃ち込もうとしても、軌道を変えられて無力化されるだろう。それにちょっと向きを変えると推進力の方角が変わり、逃げるための最短ルートにならない。これでは本末転倒である。

 粒子ビームの射出方向は変えられない。出力を増大させようにも、継実は最初から全力全開でこれ以上のパワーアップは無理。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()が、これでも足りないようだ。

 

「ツバメ!」

 

 だから継実は助けを借りる。

 

「任せろぉ!」

 

 継実の肩に乗るツバメは力強く、渾身の力で羽ばたく!

 すると竜巻の内壁から、まるで植物が脇目を伸ばすかのように新たな竜巻が生えてきたではないか。それも横方向に。そして生えてきた竜巻は継実達を包み込むと、巨大なボール状の空気溜まりを形成。呼吸のための領域を確保した後も更に竜巻を取り込んでいき……さながらジェット噴射のように空気溜まりの空気を吹き出し、推進力として働かせる。

 竜巻という形になって『肉眼』でも見える、空気を操るツバメの能力。

 竜巻の内壁に肉薄したのは、何も継実が粒子ビームを撃つためだけではない。ツバメの能力により、竜巻そのものを推進力とするためでもあったのだ。更に排出された風はアホウドリを襲い、僅かにだが集中力を掻き乱す。継実達の身体を襲う引力が、ほんのりと弛む。

 

「おっと、ゴミがあったぜ。ほらよ」

 

「あら。ようやく私の出番みたいね」

 

 竜巻内には木片や海藻などもあったが、ツバメはそうしたゴミをモモに渡す。モモは不敵に笑いながら、手にしたゴミに電力を注入。

 ゴミに含まれている僅かな鉄分などを磁石化させるや、自身が持つ磁極を反転。蹴り飛ばすようにして、超高速でゴミを撃ち出す!

 ゴミの射出角度は割と適当で、アホウドリには当たらない。当てる気もないだろう。このゴミ射出もまた、反動により推力を得るのが目的なのだから。

 

「て、てやぁー!」

 

 そしてミドリも、ミドリに出来る事をやっていた。その手から虹色に輝く、謎の発光現象をぽんぽん放っている。

 初めて出会ったばかりの頃に使っていた、だけどミュータント的には『攻撃能力』のない一撃は、推力もまた強くない。そもそも純粋な熱と光の塊という質量ゼロの攻撃なので、反動など殆どないだろう。

 しかし空気抵抗がない宇宙では恒星の光だけでも推力を得られる。つまり極めて微力なだけで、大気中でも多少は前へと進む力が得られるのだ。勿論普通の光ではミュータントからすれば無力だが、都市の一つを焼き尽くす炎ならば『普通の質量』に対する出力は十分。

 四人の力を合わせた継実達の推力は、今や星どころか恒星の重力圏を突破するほどの勢いに達していた。アホウドリは未だ引力による引き寄せを諦めていないが……少しずつ、継実達はアホウドリから離れていく。

 ミュータントの能力というのは様々なもので、距離で減衰したりしなかったりする。だからアホウドリから離れても、引力操作が弱まるかは分からないが……射程距離は分かる。大海原に鎮座する巨大竜巻、そしてそれを取り囲む巨大積乱雲の範囲内だろう。海洋生物や海鳥達が、積乱雲を境に入ってこない事からも明らかだ。つまり積乱雲から出れば、もうアホウドリの力は自分達に及ばない筈。

 ゆっくりとではあるが、前には進んでいる。積乱雲の中にあるのは荒れ狂う災害だけで、生物的脅威はない。遅々とした進みなのでこの調子では脱出に何日も掛かりそうだが、アホウドリだって捕まえられない獲物に何時までも執着はするまい。野生動物というのは『合理的』なのだ。

 諦めるなら、恐らくもうすぐ。 

 

「(これなら、いける……!)」

 

 自分達の勝利が間近に迫っていると継実は実感した――――その時である。

 

「……………クァ」

 

 アホウドリが小さく、鳴く。

 次の瞬間、継実はふわりとした浮遊感を感じた。

 その感覚の正体は、自分を引き留めようとする力の喪失。証明するように自分達の身体はどんどん、或いは一瞬にして加速していき、竜巻の外を目指して進み出す。

 アホウドリが引力操作を止めたのだ。つまり奴は自分達を襲うのを諦めたのである

 等と信じるのは、早計だった。

 

「ぐがっ!?」

 

 刹那、感じたのは内臓が押し潰されるような感触。

 その感触を言葉として理解する前に、継実達の身体は少しずつ()退()を始めた。

 勿論継実は今も粒子ビームを撃っている。ツバメは竜巻を利用したジェット噴射を続けているし、モモは定期的にゴミを射出していた。ミドリは疲れたのかちょっと攻撃頻度が落ちてきたが、全体に影響を与えるほどではない。

 ならば後退する理由は外的要因に他ならない。そして自分達の脱出を阻む外的要因など一つしかなかった。

 くるりと、継実は背後を振り返る。

 アホウドリが居た。巨大竜巻の中心で、大きく翼を広げながら悠然と空を仰ぐ。身体は僅かに海面から浮いていて、空中でじっと佇んでいる。

 優雅なようにも、無防備なようにも見える姿。されど継実は察した。本能が理解したのだ。アホウドリから放たれる、底知れぬほど強大な『力』を感じたがために。

 ()()()()()()()()()()()()()()、と――――



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南海渡航16

 先程まで継実達を襲っていた引力は、正に恒星をも彷彿とさせるものだった。

 しかし今や恒星など比にならない、圧倒的な引力を継実達は感じている。太陽系からの脱出すら容易な力で飛んでいるにも拘わらず、継実達の身体はどんどん竜巻の中心へと引き寄せられていく。

 恐るべき、アホウドリが発する引力。

 今までの苛烈な引力攻撃すらも、アホウドリとしては余力を残していたという訳だ。

 

「ほんっと……とんでもない化け物じゃないの……!」

 

 体重差を考えれば、いくらなんでもこのパワーは馬鹿げている。継実は悪態を吐きたくなった。しかし思い起こせば、草原で戦ったフィアも似たようなものだ。体重一キロもあるか怪しいフナの癖に、フィアの強さは草原のどんな生き物をも上回っている。

 身体の大きさで凡その強さは測れる。だがどんなものにも例外は存在するもの。そして例外とは、数は少なくとも、決して唯一無二の『特別』ではない。

 このアホウドリも、そんな例外の一つなのだ。

 

「こ、の! このこのこのッ!」

 

 モモは体力の消耗も考えず、ゴミを兎に角投げ続けた。後先考えない『猛攻』は今まで以上の推進力を生み出すが、引力の強さを上回るには至らない。

 

「ぐ……ぎ……!」

 

 歯を食い縛り、あらゆるものを絞り出すつもりで力を込めても、継実の手から出てくる粒子ビームは左程出力を増さない。前へ進もうとする力と、引き戻そうとする力が押し合い、身体が潰れそうになる。内臓と血管が潰れる痛みで、意識が遠退きそうだ。しかしこれでもまだ引力に負けてしまう。

 戦闘形態へと切り替えるべきか? 否、無駄である。あの姿はあくまでも肉弾戦特化であり、粒子ビームの威力を上げるものではない。むしろ身体能力に演算力とエネルギーを奪われるので、粒子ビームなどの遠距離攻撃は弱体化する恐れすらある。『通常』の姿こそが、粒子ビームを放つ上では最上なのだ。

 その最上が及ばない以上、継実にこれ以上の手はない。

 継実の肩の上でツバメは千切れそうなぐらい翼を羽ばたかせているし、ミドリだって大きな光をどんどん投げている。けれども継実達は前に進めない。それどころか引力はどんどん強くなり、継実達の足掻きを嘲笑う。じりじりとではあるが、後退する速度は加速していくばかり。

 全員が死力を尽くしている。にも拘わらずアホウドリの力はそれをあっさりと上回っていた。条理も道理もない力。いや、条理も道理も世界には最初からなかったのだ。虫けら四匹がティラノサウルスには勝てないように、アホウドリに自分達四人は勝てないというだけの事。

 最早どうにもならない。

 それを理解した時、継実は――――微かに笑う。

 

「(ああ、そうだろうさ。普通にやったって、そっちの引力に勝てない事は最初から分かってる)」

 

 巨大竜巻の外から強引に引き寄せられた時に感じたパワー。あの時も全員で協力して推力を生み出したが、まるで敵わないほど強烈だった。此度継実達が協力して繰り出した推進力はその比ではないが……アホウドリとて、『餌』を引き寄せるのに全力など出してはいないだろう。

 そのままやっても勝ち目がない事は最初から想定していた。ならば大事なのはそれからどうするか。自分達の力だけでは足りないのなら、どうしたら足りるようになるのか。

 答えは簡単だ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「――――逆転だぁ!」

 

 継実が出した大声。それが最初から決めていた『合図』。

 ぐるんと継実は身を翻す。ただし粒子ビームは撃ったまま。ツバメの力で竜巻から巻き取り放出している周りの空気も、モモの電気で撃ち出された荷電粒子砲も、ミドリの謎熱攻撃も、全てが反転する。

 だから、継実達はアホウドリ目掛け飛んでいく!

 

「ッ!?」

 

 アホウドリは大きく目を見開き、翼を僅かに広げる。獲物が自分からやってきたから大喜び? そんな訳がない。

 自分の失態に気付き、大慌てだ。

 もしも引力がなければ、継実の計算通りなら、彼女達は『秒速三十キロ』もの速さを出していた。これは第三宇宙速度、即ち太陽の重力圏から脱する速さである秒速十六・七キロを遥かに上回るスピードであり、比喩でなく継実達はその気になれば太陽系の脱出すら可能だった。そして物体の運動速度は単純な足し算で求める事が可能であり、秒速三十キロで飛んでいた継実達を止めるには、()()()()()()()()()()()()()()を足さなければならない。ちょっとずつでも後退させるなら、それよりも更に大きなパワーが必要だ。

 そうして『マイナス』側に力が掛かっている状態で、突然『プラス』側がマイナスの方へと向きを変えたなら? ごく簡単な足し算だ。向きが同じになれば速度は合算され――――倍増する。

 継実達は今、秒速六十キロを優に超える、圧倒的な速度で飛んでいるのだ!

 

「ク、クァ……!」

 

 アホウドリはすぐに引力の向きを逆転させようとする。しかし最早手遅れ。秒速六十キロ以上の速さでカッ飛んでいく継実達は、一瞬でアホウドリの真横を通り過ぎる。

 僅か一ミリ秒の隙であろうとも、一秒で六万メートルも飛ぶ速さであれば六十メートルも進めるのだ。振り返り、力を逆転させようとして……〇・〇一秒後には六百メートル先へ。

 アホウドリが継実達の方を見た時、もう、継実達は巨大竜巻の中へと突入済みだった。

 

「ぐ……ぐううううぅぅぅ……!」

 

 巨大竜巻の中でもみくちゃにされながら、継実は唸る。エネルギーを守りに割けばなんの問題もないが、しかし継実は粒子ビームを止めるつもりなどない。荒れ狂う竜巻の中、摩擦熱と雷撃と無酸素に耐えながら撃ち続けた。

 しばらくして、ぼふんっ、と音を鳴らしてついに継実達は巨大竜巻の外へ。見慣れた積乱雲の姿を目にした……途端、継実達の速度ががくんと落ち始める。

 みんな力の放出は止めていない。継実だって同じだ。空気抵抗なんてツバメの能力で空気を操れば無視出来る。なのに大きく減速する理由はただ一つだけ。

 ついに引力に捕捉されたのだ。しかしこれもまた元より想定内。

 

「(ここからが本番だ!)」

 

 引力操作を逆手に取った加速、自分達のフルパワー――――今この身を襲う引力によりその二つが尽きる前に、積乱雲を抜ける!

 元より死力は尽くしている。そうでなければ十分な加速(アホウドリの本気)は引き出せなかった。だが、ここで手を抜くのは勿論、これまでの最善でもきっと足りない。

 ここで最善を超えるのだ!

 

「はあああぁぁぁぁ!」

 

 継実の唸り声は呼気によるもの。大量の酸素を取り込み、エネルギーを増産するため。

 加速する血流により身体が熱くなる。毛細血管が傷付き、内出血が至る所に出来た。全身が殴られたように痛むが、継実は攻撃の手を弛めない。弛める訳にはいかない。痛みに悶えている今この瞬間ですら、前へ進む速さは減速しているのだから。雷も暴風も雨も全てを貫くスピードは、果たして何時まで続くのか。

 秒速五十キロ、四十キロ、三十キロ……瞬く間に減っていく速さ。時間が経つほど前へと進むが、時間が経つほど遅くなる。まだかまだかと心は逸れど、距離は時間と速さにより無慈悲に決まるのみ。

 積乱雲の外、晴れ間が見えた時、継実達は秒速十キロまで減速していた。

 

「み、見えた! 見えました!」

 

「ああ! オイラにも見えたぜ!」

 

「あともう少しよ!」

 

 ミドリの声にツバメが答え、モモが励ます。三人に希望が残る中、継実は頭の中で計算を始める。

 そして気付いてしまう。

 ()()()()

 今の減速率から計算したらどうやっても積乱雲の外にあと五十メートル届かない。何度もやり直したが答えは変わらない……当たり前だ。等加速度直線運動の計算など、紙と鉛筆があれば小学生でも出来るぐらい簡単なのだから。粒子の動きさえも緻密に計算出来る継実の頭脳を以てすれば、こんなのは一桁の足し算と大差ない。間違えようがなかった。

 継実が気付いてしまった事を、最初に察したのはモモ。ミドリとツバメも、自分達の減速率と距離から、感覚的に理解したのか。希望に満ち溢れていた顔が青くなる。

 あともう少し。ほんの少しなのに、届かない。

 モモが、ミドリが、ツバメが、絶望に満ちた表情を浮かべる中で

 

「いっ!」

 

 継実は大きな声を上げた。

 全員が継実を見る。ミドリやモモが心配したような表情を浮かべるのは、継実が痛みから声を出したとでも思ったのか。

 

「せぇっ!」

 

 しかし二言目で、二人とも継実が痛みで呻いているのではないと察する。

 ツバメが羽ばたくのを止めた。モモがゴミを撃ち出すのを止めた。その身体に大きな力を溜めていく。

 

「「「のぉー!」」」

 

 掛け声を合わせる三人。ミドリもハッとしたように気付き、大慌てで特大の光を構えて……

 

「「「「せええええぇっ!」」」」

 

 声を合わせて、一斉に渾身の力を放つ!

 ぴたりと合わさる力。勿論この世界に奇跡なんてないし、神様の加護もない。どんなに息がぴったりでも、周りから称賛されるぐらい美しいコンビネーションを披露しても、物理法則は無慈悲に働く。

 全ての力が合わさった事で、引力の力を上回るという事実は恙なく生じた。

 ほんの僅かに、継実達全員が『加速』する。ミュータントからすれば誤差にしか思えないような、本当に小さなもの。だけど秒速五百メートルもあれば、〇・一秒で五十メートル進める。継実達は僅かだが積乱雲の外へと身を乗り出した

 瞬間、引力は突如として消え失せる!

 

「どどおおおわぁ!?」

 

 

 今まで自分達を減速させていた力が消えた事で、継実達一行はその引力を上回る勢いで急加速。突然の事に驚いた継実は粒子ビームの射出角度を狂わせてしまう。

 あらぬ方角へと向いたビームが生み出した推進力は、継実達を大海原に叩き付けようとした。

 

「ひええええ!?」

 

「継実ストップ!? すとぉーっぷ!?」

 

「や、やってる、けど……!」

 

ミドリが悲鳴を上げ、モモが止めるよう叫ぶ。継実はなんとか姿勢を制御しようとしたが、一度狂った体勢は中々立て直せない。

 

「ぬあぁあアァッ!」

 

 ツバメが爆風を起こして減速させなければ、全員海の中に投げ出された事だろう。

 減速した事で稼げた時間により、継実は粒子ビームを止めれば良いと今更ながら思い至る事が出来た。ぷすんっ、と間の抜けた音を鳴らして継実の手の輝きは失われる。

 ツバメの方も力尽きるように羽ばたきが止まり、ふわふわと継実達は海面数十センチの高さで浮かぶ。足下の水面穏やかな波がちゃぷんと音を鳴らし、快晴の空から降り注ぐ光を浴びて輝いていた。嵐の気配なんてない。

 くるりと継実は背後を振り返る。何十キロと離れた先に巨大な積乱雲が見えた。もくもくと激しく流れる姿は途方もない力を感じさせ、内側で雷撃を光らせる様子は怒りに震えるかのよう。恐らく今頃積乱雲の直下は、ミュータントすら身の危険を感じるほどの『天災』が起きているだろう。

 しかしどれも数十キロ彼方の出来事。継実の下には届かず、なんの悪影響も及ぼさない。

 つまり。

 

「……助かった?」

 

 ぽそりと漏れ出る、継実の言葉。

 一呼吸置いて、モモとツバメが継実に抱き付いてきた。

 

「助かったわ! 助かったのよ!」

 

「ああ! オイラ達、あのアホウドリの奴から逃げきったんだ!」

 

 二人は喜びのまま大はしゃぎ。あまりの喜びぶりに継実は一瞬呆けてしまうが……段々と、胸の奥底から喜びが込み上がる。身体に自然と力が入り、じっとしてなんていられない。

 

「「「やったぁーっ!」」」

 

 そして息を合わせたように、継実とモモとツバメは万歳で喜びを表現した。次いでまた互いに抱き合い、自分と相手の体温から、生きている事を実感し合う。

 傍から見れば、おめおめと逃げ出した事を大喜びという、なんとも情けない姿であろう。それを勝利と呼ぶのは、『知的生命体』のプライドが許さない。

 けれどもアホウドリは自分達を食べようとしたにも拘わらず、その肉片を一欠片も口に出来なかった。対して自分達は誰一人欠けていない。野生の本能はこれを勝利と認めていた。そして野生動物である継実達は、役に立たないプライドなんかよりも本能を重んじる。

 だからこれは勝利。

 継実達は、本来なら勝ち目のない相手に『勝った』のだ!

 そうして喜びに満ち溢れる中、一人がゆっくり手を上げる。喜びに浸っていた継実達はその動きに気付くのに少々時間を有したが、やがて三人とも動きがあった方へと振り返る。

 手を上げたのはミドリだった。

 

「……あの、水を差すようで悪いのですけど」

 

 おどおどと、ミドリが何かを言いたそうに語り出す。

 なんだかミドリは落ち着かない様子。顔には喜びなんてなく、それどころかなんだか酷く不安げである。

 

「んー? どうしたのミドリ?」

 

「ええ、まぁ……あの、来てます、後ろから」

 

「後ろ?」

 

 継実が尋ねてみると、ミドリは継実の背後を指差す。そんなところを見ても積乱雲しかないでしょと思いつつも、大切な家族の話したい事を知るべく振り返る。

 そこには一匹のウツボがいた。

 ……何処からどう見てもウツボだった。なんでウツボが海面から顔を出しているのかだとか、このウツボ頭の大きさから判断して体長十メートルぐらいありそうなんだけどとか、ツッコみたいところは山ほどある。しかしどれも無意味な問いだ。ミュータントだから、で全てが終わるのだから。

 それよりも気にすべきは、ウツボが魚の癖してなんだかニヤニヤと、嬉しそうに笑っている事だろう。そして疲れ果てて海面付近まで降下していた継実達は、その笑顔を真っ正面から見ている事も。

 

「……こ、こんにちはー」

 

 とりあえず、継実は挨拶をしてみる。

 するとウツボは、ぱかりと大きな口を開いた。こんにちは、とは多分言っていない――――いただきますとは言ってるだろうが。

 いや、もしかすると、やっぱりこんにちはと言ってるかも知れないと継実は思い始める。

 何しろ開いたウツボの口の奥深くで虹色の、光なのか電気なのかも分からないものが輝いていたのだ。理解不能な謎の物理現象であるが、当たると多分死ぬほど痛いと直感する。ウツボが「こんにちは死ねェ」と言っていてもおかしくないだろう。

 どのみち友好じゃない事に変わりはないので、やる事は同じだが。

 

「ひぃっ!? に、逃げて! 早く! 私もうなんも出ないから! 戦えないから!」

 

「え。いや、でもオイラだってもう体力使い果たして、飛ぶだけでも割と精いっぱいなんだけど」

 

「あ。私も駄目だわ。尻尾ぶん回す気力もないし、ましてや電気を作るなんて無理無理」

 

「……ごめんなさい。もう煙も出ません」

 

「誰も戦えないとかアホウドリの時より大ピンチじゃんこれえええええぇ!?」

 

 一難去ってまた一難。それどころかあと幾つ難がやってくるのかも分からない。

 未だ道半ばである継実達に、『勝利』を喜ぶ暇などある訳もなかった。



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南海渡航17

 ふらふら、へろへろ。

 そんな音が聞こえてきそうなほど左右に揺れながら、しかし超音速で海の上を飛ぶ四つの物体がある。

 ツバメ、そして彼に連れられている継実達だった。全員が竜巻脱出時よりもボロボロ。継実は髪の毛がアフロと化し、モモは身体の半分ぐらいが熱で溶け、ミドリに至っては白目を向いて失神していた。全員がひーひーと息を荒くしているが、それは雲一つない空で燦々と輝くお昼の太陽が暑いからではなく、体力が底を尽きた身体に少しでもエネルギーを充填するための足掻きである。

 

「も、もぉ無理ぃ……まだ、陸地は、まだぁぁ……?」

 

「あと、少し……だぜ……あふん」

 

 声すら満足に出てこないぐらい体力が減っている継実に、ツバメは同じく枯れた声でそう答えた。直後、ちょっと力が抜けたのか高度ががくんと落ち、四人が海面に近付く。

 その瞬間を狙っていたように、海から無数の半透明な触手が生えてきた。

 どうやら大型のクラゲが海中に潜んでいたらしい。触手はうねうねと伸び、失神していたミドリの生足にぴたりと付着。

 

「ほげええええええっ!?」

 

 ビリビリと古典的な音と共に流された電撃で、ミドリはぱちりと目を覚ました。

 電気クラゲって刺されるとビリビリ痺れるのが由来で、本当に電気を流してどうすんのよ……等と一瞬暢気に継実が考えてしまったのは、きっと疲労の所為か。すぐに我を取り戻した継実は早く取り除かねば不味いと思い手を伸ばそうとしたが、流れる電流があまりに強く、無策で掴めばこちらも感電してしまうだけと気付く。継実にはどうにも出来ない。

 

「ごるぁっ! 私の家族に何してんのよ!」

 

 継実に代わり、電気耐性の高いモモが触手を掴んだ。クラゲの足には刺胞が存在し、触れると刺される恐れがあるものの、体毛で出来たモモの手ならこれも問題ない。

 ぶちりと強引に一本引き千切れば、クラゲはすごすごと退散した。

 

「ミドリ、大丈夫!?」

 

「は、はひぃ……なんとかぁ……ありがとうございますぅぅ……」

 

「ちょっと診せて。クラゲなら、多分毒がある筈だから」

 

 ぷすぷすと頭から煙を立ち昇らせるミドリに、継実はそっと手をかざす。勿論宗教的儀式などではなく、ミドリの体内を流れる高分子を発見・解析するための行為だ。

 

「……うん。ちょっと毒は入ってるけど、大して強くない。ミュータントじゃなくても分解出来るレベルだし、ほっといても平気だと思う」

 

「はいぃ……すみません……」

 

「良いって良いって……はぁぁ……」

 

 ミドリが無事だと分かり、継実はどっと疲れを覚える。

 ツバメは既に高度を上げたが、彼とてわざと降下した訳ではない。アホウドリとの激戦、それ以降も続く度重なる襲撃……彼も既に疲労困憊だ。ミュータントの力からすれば超音速で飛ぶだけなんてろくに体力を消耗しない筈なのに、それすら満足に出来ない状態である。

 恐らくもう長くは飛べない。

 継実の能力を使えば多少代行出来るが、日本から一キロも旅立てないような飛行能力では時間稼ぎが精々。そして継実自身もう体力が殆ど残っていない。

 山場は超えたが、それは旅の成功を意味しない。あともうちょっとなのに……どうしても悔しさが込み上がり、継実は唇を噛み締めた

 が、すぐにぽかんと口を開く。

 地平線の遥か彼方。恐らく数十キロほど先に――――僅かに緑色のものが見えたがために。

 

「み、みみ見えた! 陸! 陸ぅ!?」

 

「陸!? えっ! 陸!?」

 

「えっ。ど、何処に?」

 

「うぬおおおおおおおおおおおお!」

 

 継実が半狂乱で声を上げれば、モモにもパニックが伝染。ツバメは全力で羽ばたいて飛行速度を上げていく。キョトンとしているミドリが一番冷静なぐらいだ。

 ツバメが飛べば飛ぶほど、継実の目が捉えた緑色の物体は大きくなっていく。緑色のものが生い茂る森だと分かり、それが島だと理解出来た。そしてやがて真っ白な砂浜も見えてくる。

 あと少し。あとちょっと。心の中で祈りながら、此処まで来て絶対喰われてやるものかと全力の殺気を放ちながら継実は周囲を警戒。しかし数秒と続ける必要もない。継実達は今や秒速十キロ超えの速さで空を駆けているのだから。

 瞬く間に、その瞬く間を認識出来る思考速度だからこそ焦れったく思いながらも、見えてきた島はいよいよ間近に迫り――――

 先頭を飛んでいたツバメが、ついに砂浜に着地した。

 

「いっ……いよっしゃあああぁ!」

 

 砂浜に一番乗りしたツバメは両翼を広げて大喜びし、

 

「ばっ!?」

 

「びぶ!」

 

「べぼぉ!?」

 

 突然ツバメの能力が消失した事で、勢い余った継実とモモとミドリは顔面から砂浜に突っ込んだ。ずどどどど、という激しい爆音を轟かせながら慣性で三人は砂浜を掻き分け、十メートルほど進んでからようやく停止。全裸の人型オブジェクト(下半身)が、砂浜に三体出来上がる。

 ……なんとも締まらない着地。喜んでいたツバメも固まり、てくてくと継実達の下に歩み寄る。

 

「ごめんよ。ついうっかり」

 

「ぶはぁ! べっ! べっ! この……」

 

 反省してるのかしてないのか。謝ってはもらえたものの、なんか却って癪に障る言葉に、継実は怒りを露わにしながら砂から這い出す。

 尤も、怒りの感情はすぐに消え失せた。

 春なのに感じる、真夏の日本を思わせるじめりとした暑さ。

 内陸を埋め尽くす、見た事もないような植物。

 森から飛び立つ、赤くて派手な鳥。

 それらはあくまで象徴的なものに過ぎず、此処が何処かを物語る確たる証拠ではない。だけどそんな事はどうでも良い。此処が正確には何処なのかなど、継実は端から気にしていないのだから。

 重要なのはただ一点。

 自分達がフィリピン(南の島)に辿り着いた事だけだ。

 

「……着いた?」

 

「ああ、着いたぜ。多分なー」

 

「着いた……着いた。着いたんだ! モモ! ミドリ! 着いたよ!」

 

 沸き立つ興奮のまま、継実は大はしゃぎ。遅れて砂の中から這い出したモモとミドリの下へ駆け寄り、喜びを分かち合おうとした。

 最初モモとミドリは呆けたように固まっていたが、やがて継実の言葉を理解し、そして自分の状況を把握。満面の笑みを浮かべ、溢れ出る喜びのまま身体をバタバタと揺れ動かす。

 

「着いた!? 着いたのね!」

 

「た、助かったんですね!? あたし達!」

 

「そうだよ! 着いたし助かったんだよ!」

 

「「「きゃーっ!」」」

 

 アイドルを前にした年頃の女学生のような、甲高い声を上げて継実達は抱き合う。

 初めての渡海を全員で無事渡りきれたのだ。感情が昂ぶって、少女になってしまうのも致し方ないだろう。

 

「やれやれ。どうにかなったな」

 

 勿論その旅路は、継実の傍まで歩いてきたこの小鳥のお陰である事を、継実は忘れていない。

 

「ツバメ、ありがとう。アンタの力がなかったら、今頃私達全員海の藻屑だったよ」

 

「へへっ、そうだろうとも。ま、オイラもアンタ達が居なけりゃあのアホウドリの朝飯だったろうし、お互い様ってやつさ」

 

 褒め言葉は素直に、感謝は率直に。継実の言葉にツバメは上機嫌に答える。

 ただしパタパタと翼を羽ばたかせ、舞い上がる姿に迷いはない。

 

「ま、アンタらとの旅は中々面白かったぜ。もう会う事もないかもだが、達者でな」

 

 ツバメはそれだけ言い残すと、すっと大空に旅立つ。超音速でカッ飛んでいけば、継実の視界から彼の姿が消えるのに一秒と経たない。

 もう、ツバメが何処に行ったのかすら継実達には分からなくなった。

 

「……え? あれ? 今のでお別れ?」

 

「まぁ、そうじゃない? もう会わないだろうとか言ってたし」

 

「ええぇ!? あたし、全然感謝とか伝えられてないですよー!?」

 

「別に感謝されたくて私達を送ってくれた訳じゃないしねぇ。当初の話通りWinWinで終わったんだし、こんなもんでしょ」

 

 苦難を共にした仲だというのに、なんともさっぱりとした別れ。知的生命体であるミドリは困惑したが、モモは特段気にもしていない様子だ。モモの意見に「そうなのでしょうか……」と答えつつも、ミドリは落ち着かないのかそわそわと身体を揺らす。

 『人間』的には、短い間とはいえ協力した相手とは、それなりのお別れをしたいものだろう。本当に、もう二度と会わない可能性の方が高いのなら尚更だ。継実だってミドリと同じ気持ちである。パーティーを開こうだなんて言わないが、もうちょっと、相手を気遣うような挨拶をしたかったのが本音だった。

 しかし野生動物達は違う。悲しんだり惜しんだり意味のない約束を取り交わしたり……そうした『無駄』な事を好まない。用が済んだらさっさと帰る。それが最も自然なのだ。

 だから、継実も余韻に浸りはしない。

 

「ま、あの調子ならこれからも元気でやってくでしょ。気にしない気にしない」

 

「は、はぁ……………そう、ですね。元気にやってくれるなら、それでいっか」

 

「そうそう。それより私達の方が問題でしょ」

 

「問題?」

 

「ん? なんかあったっけ?」

 

 こてんと首を傾げるミドリに、不思議そうにするモモ。どうやら二人に心当たりはないらしい。

 由々しき事態である。こんな大事な事を忘れるなんて――――なので継実は肩を竦めて、それから大仰に自分のお腹を摩る。

 

「なんかも何も、お腹ぺこぺこじゃない。私だけかもだけど」

 

 そして臆面もなく自分の欲を曝け出す。

 一瞬の間を開けて、二人はけらけらと笑った。

 

「あはは! 確かに、お腹空きましたね」

 

「ええ。私も腹ペコだわ。なんかさぁ、鳥肉食べたくない? 鳥肉」

 

「良いね。じゃあ……あそこを飛んでる鳥で腹ごしらえだ!」

 

「「おーっ!」」

 

 何時も通りの指針を定め、継実達は砂浜を踏み締めながら目の前の森へと歩み出す。

 故郷がある背後は振り返らず、真っ直ぐに。

 自分達の歩みの先に、求めているものがあるのだから。



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第六章 異邦人歓迎
異邦人歓迎01


 空高くそびえる、淡い虹色の光沢を持つ灰褐色の巨塔がある。

 塔の高さは凡そ十三万メートル。地球だったら大気圏を突破して宇宙にまで届く超巨大施設だ。先端から何やら青い波動のようなものが出ていたが、一体どんな効力を期待して放出されているのか見当も付かない。

 塔の直下には無数の建造物が建てられていた。材質は塔と同じもののようで、淡い虹色を放つ灰褐色に染まっている。直径十メートルほどの正方形を一つの単位とし、それを幾つも積み上げたり、横に繋げたりして建造物を作り上げていた。道路も六角形の板を敷き詰めて作られ、全てが単一の素材で作られている。

 単一の素材を使う事で、生産性とリサイクル効率を上げる。高度な文明らしい、秩序的で合理的な様相だ。

 しかしこれらの光景を見ていた彼女――――継実は思う。

 なんか、つまらないな、と。

 

「(というか、何これ。SF映画?)」

 

 見た事のない世界。継実はきょろきょろと辺りを見渡した。ちなみに素っ裸だったが、裸で過ごすなど野生生活では日常茶飯事である。それに最近は服を着てもすぐに消し飛ぶのでわざわざ探すのも面倒臭い。なので裸だろうがなんだろうが今更気にするような事でもなかった。

 ともあれ此処が何処だか分からないので、継実はその辺を歩いてみる事にした。

 それだけで違和感に気付く。

 足の感触がないのだ。道路を踏み締めている感じもない。試しに頬を抓ってみたが、これまた痛みも感じない。

 どうやらこれは、夢のようだ。

 継実がそう理解した、途端、建物からわらわらと小さなものが出てきた。

 大きさは五十センチほど。甲殻類のような見た目をしていたが、手足は軟体質で、指のように先が六つに枝分かれしていた。足は思いの外太く、大地を力強く蹴って走っている。

 頭は硬そうな外骨格に覆われていて、昆虫にもエビにも見える顔から表情は窺い知れない。しかし彼等の走り方から、酷く慌てている事は理解出来た。

 何から逃げているのか。それを考えていると、不意に空から何かが降ってくる。

 継実がぼうっと立ちながら待っていると、空からの物体は継実の目の前に落ちてきた。物体は爆風を撒き散らし、その中で形を変えていく。

 そして現れたのは、黒い靄。

 『ネガティブ』だ。かつて、継実が戦ったあの宇宙的厄災。

 

【イギィイイロオオオオオ!】

 

 ネガティブは獲物を見付けたと言わんばかりに継実目掛けて飛び掛かり。

 

「ふんっ」

 

 継実がパンチを放てば、ネガティブの頭はあっさりと吹っ飛んだ。

 ……何しろ夢なので。

 

「ふははははー。この私に勝とうなんざ百億光年早いのだー」

 

 夢だと自覚した今、怖いものなどない。継実は笑みを浮かべ、ちょっぴりあくどい台詞を吐く。

 気付けば周りにあった都市は消えていて、何処かの建物内に舞台が移っていた。付近で甲殻類三匹が何やら話し合っていたが、「ぺぺぺぺーぺぺ。ぺぺぺぺぺ」なんて言葉じゃ何を言ってるのかさっぱり理解出来ないので無視する。

 そうしていると、継実の頭上に影が落ちてきた。新たな敵か。そう思い継実は空を見上げて、

 巨大な生足がこちらに向けて落ちてくる姿を目にする。

 

「……ぬぅおっ!?」

 

 あまりにも突拍子のない『敵』に一瞬戸惑い、結果落ちてくる足を避けられず。されど両手でこれを受け止めた継実は、夢パワーで押し返してやろうと力を込めた。

 ところがどうした事か。

 ネガティブすら一発で打ち倒した腕力なのに、巨大な足を押し返す事すら出来ないではないか。いや、押し返せないだけならまだ良い。実際には伸ばしていた足と背筋が曲がり、どんどん体勢を崩されていく。明らかにパワー負けしていた。

 

「ぬ、ぬおおおおお!? こ、こんなものでこの私がああァァァァァッ!」

 

 まるで悪役のような台詞を吐きつつも、しかし振り下ろされた足のパワーには全く敵わず。どんどんどんどん、止め処なく押されていき、

 ぶしゃりと自分の身体がぐちゃぐちゃに潰された、のと同時に継実はぱちりと目を開く。

 モモの足が、自分の顔面に乗っていた。

 

「……………ああ。私、起きたのか」

 

 自分が夢から帰還したのだと気付き、のそのそと身体を起こす継実。

 眼前に広がるのは、寝床にしていた小さな洞窟。奥行き五メートルもないようか狭さで、クマのような大型肉食獣は入り込めない広さだ。それでもコウモリ親子が数家族ほど先客として居たので、全員美味しく頂いてから住処を寝床として使わせてもらっている。

 隣には何時の間にか頭の向きが逆転していたモモと、すやすやと眠っているミドリが居た。

 そんな二人の顔を見ていた継実は、ふと、頭の中で声が響いたような気がした。なんだと思って意識を集中してみたが、声は随分とノイズ混じりで、殆ど聞き取れない。

 なんとも不気味な現象。しかし頭の中に声が響く経験自体は、継実はもう何度も体験している。 

 ミドリの脳内通信だ。

 

「(寝惚けて能力が暴発してるな、これ。だからあんな夢を見た訳か)」

 

 ミドリの『脳内通信』は送り先の脳内イオンチャンネルを操る事で発現している。そして夢とは、脳内で行われる記憶の整理。能力によりイオンチャンネルが干渉を受ければ、変な夢の一つ二つは見てもおかしくないだろう。此度はそれが暴発という形で引き起こされた訳だ。

 ……イオンチャンネルを狂わされると下手しなくても死ぬので、寝惚けてやられるのは割と勘弁してほしいが。言ったところで直るものでもないので割と悩ましい問題である。

 それはそれとして。先の夢は恐らくミドリの記憶が脳内通信として飛んできた事で見たのだろう。だとすれば、夢に出てきたものはミドリの記憶に由来すると考えるのが自然。現れた建造物は昔暮らしていた文明のもので、出てきた甲殻類は異星人……ミドリの『前の宿主』といったところか。

 そして時期は、ネガティブがミドリの星にやってきた日かも知れない。

 ノリで倒してしまったが、あのままにしておけばミドリの過去が見えたのではないか……そんな考えが過ぎるも、「惜しい事をした」とは思わない。興味がないと言えば嘘になるが、当人の許可なく過去を詮索するのは趣味じゃないのだ。

 尤も、不可抗力で知ってしまった事を考察するぐらいはやってしまうが。

 

「(そういや他にもたくさん仲間っぽい生き物がいた感じだけど、そいつらも星から脱出出来たのかな?)」

 

 全員は無理だとしても、何人かは生き残りがいたとしてもおかしくない。むしろミドリ一人だけが脱出に成功した、と考える方が不自然だろう。今もこの宇宙の何処かに、ミドリの仲間がいるのだろうか。彼等は新天地を見付けて、そこの住人となっているのか。

 はたまた、一部はこの地球にやってきたりしているのではないか。

 ……やってきていても食べられていそうだな、という考えも過ぎった。何しろミドリが正にその状況だったので。継実達に助けられていなければ、今頃地球の物質循環の一員となっていただろう。そんな幸運、誰にでも訪れる訳がない。

 

「ん……にゃむ……」

 

 じっと顔を見ていたところ、ミドリがもぞもぞと動き出す。目を擦り、むくりと起き上がった彼女は、既に起きていた継実と目が合えばにこりと笑った。

 

「おはよーございますー」

 

「はい、おはよう。今朝はよく眠れた?」

 

「はい、お腹いっぱいだったのでぐっすり眠れました。コウモリ、美味しかったですー」

 

「そりゃ何より。文明があった時、コウモリは色んな病気の媒介をするから食べるなーとか言われていたけど、数が多くて捕まえるのも簡単だから今じゃ良い食材なんだよね」

 

「それ、食べて一晩経った後に言います?」

 

 ジト目で見てくるミドリの視線を躱しつつ、立ち上がった継実は洞窟の外へと顔を出す。

 広がる青空。爽やかな朝日に照らされ、気温はぐんぐん上昇している。とても暑い日になるだろう……此処、南国に相応しいぐらいに。

 ミドリの体調は万全。継実も良好。モモは分からないが、幸せそうな寝顔からして存分に睡眠は取れている筈。

 これなら問題なく行えると、継実は思った。

 洞窟の外を埋め尽くすように広がる大森林地帯、フィリピンの横断という大冒険であろうとも――――



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異邦人歓迎02

 南国フィリピン。

 七年前の世界において、比較的順調な経済的成長を続けていた国の一つだ。主要産業は農業であったが観光地としても力を入れており、首都は巨大で立派なビル群が建ち並んでいたという。

 しかしながら本来、この地は高温多湿の熱帯性気候という環境。建ち並ぶビルは、生い茂る密林を切り開いて作られた『異物』である。大自然が文明以上の力を堂々と持ち、積極的に奪還したなら、そこに人の痕跡など残らない。

 それが今のフィリピン。

 樹高五十メートル超えなら低いぐらい。八十メートル、中には百メートルを超える巨大樹木が、島を埋め尽くすように生えていた。かつて巨大ビルを形成していた大量のコンクリートは、大地を覆い尽くす巨大樹木の根や蔓植物によって跡形もなく砕かれたのだろう。もうその痕跡は何処にも見られない。

 巨大樹木は枝葉を広げて空を覆い尽くし、地上に暗黒を満たしている。今は太陽が燦々と輝く真っ昼間だというのに、一メートル先すらろくに見えないほどの暗さだ。これなら見上げれば眩い星空が見える分、夜の屋外の方が遥かに明るいだろう。これほどの暗闇でありながら、一体何をエネルギー源としているのか地面には草や若木が生い茂っている。しかもかなり密に生えていて、行く手を遮る壁のようだ。

 最早人の立ち入りすらも許されない魔境。それが今のフィリピンであり、そこに生い茂る森の状態だった。

 尤も日本人である継実はかつてのフィリピンなんて、テレビで見たかどうかという程度の知識しかない。七年前に文明崩壊に直面している継実からしたら、今更外国の一つ二つが跡形もなく崩壊していると知ったところで今更な話だ。大体にしてこの森の横断はあくまで南極を目指すための道中であり、さくっと通過する予定である。

 その密林横断についても、旅の道中で通った森で多少なりと経験済み。日本の森よりも幾分歩き辛いが、ミュータントの体力ならばこの程度消耗とは言えない。既に一時間ちょっと歩き続けたが、まだまだ問題はなかった。隣を歩くモモも、ちょっと草木が鬱陶しそうだが問題はないように見える。

 問題があるのはただ一人。

 

「ぜぇー……ぜぇー……!」

 

 今にも死にそうなぐらい息を荒らげながら歩いている、ミドリだけだ。

 継実はちらりとミドリを見る。頭上を覆い尽くす樹木の枝葉により辺りは夜よりも暗くなっていて、ミドリの様子を視覚的に見る事は普通出来ない。しかし継実は能力により粒子の動きや光の反射状態を観測。色合いの識別や運動量などを正確に認識し、その顔色まで詳細を窺い知る事が出来ていた。

 ミドリは顔を青くし、表情に力が入っていない様子。足取りも覚束ず、ふらふらと揺れる身体は今にも転びそうだ。すぐにでも閉じてしまいそうなぐらい目付きが弱々しく、酸素が足りていないかのように息は荒々しい。今朝の元気さは一体何処へやら、文明が残っていたら今すぐに救急車を呼びたくなるほど不健康な様相である。

 

「(おかしい。いくらミドリが私達の中で一番体力が少ないといっても、こんな早く疲れる筈がない)」

 

 ミドリ本体は寄生性宇宙生物でも、動かしている肉体はミュータント化した人類。超音速で走り回るだけの体力があるのだから、一時間歩くぐらい余裕でないとおかしい。実際これまでの旅路でも、歩くだけで悲鳴を上げる事なんてなかった。悲鳴を上げるのは、ヤバい生物から全力で逃げている時だけである。

 しかしミドリが疲れきっている事実は変わらない。

 違和感から継実は少し考え込む。知的生命体であるからこそ、まずは考え込むのが人間だ。それが良いか悪いかは、ケースバイケースというものである。

 対して犬は思ったままに動く。モモは不思議そうに、ミドリに尋ねた。

 

「どしたのミドリ。元気ないわね?」

 

「す、すみません……なんか、急に体調が悪くなって……」

 

「んー、一旦森から出て砂浜で休む? 休憩中に私と継実で今日分の食べ物探してきても良いし」

 

 モモの提案に、ミドリは首を横に振った。

 

「だ、大丈夫です……少し気分が悪いだけですし……」

 

「そうは言うけど、見た目からしてかなりしんどそうよ?」

 

「……というかミドリって今どんな状態なの? 休んで治りそうなのかどうかも、何も知らなきゃ分かんないし」

 

 継実も考えるのは ― 結局なんの案も出てこなかったので ― 一旦止めて、緑に尋ねてみる。ミドリは辛そうな動きで継実の方へと振り返り、重々しい口調で症状を語ってくれた。

 曰く頭痛がして、身体が重く、倦怠感を感じていて、目眩とちょっとした寒気もあるという。

 モモは「ふーん」と声を出しつつも、いまいちピンと来ていないのか首を傾げるばかり。どうやら野生の本能による名診断は期待出来ない。対して継実は、ちょっと心当たりがあった。誤診をするのも申し訳ないのでよく思い出そうと少し思考を巡らせ、多分間違いないと信じる。

 

「……貧血じゃない? それ」

 

 継実の診断は、七年前の人類にとってはあり触れた病名だった。

 

「貧血? ……ああ、人間の貧血ってこんな感じなんですね。以前宿主にしていた生命体と違う感覚なので、分かりませんでした」

 

「以前っていうと、他の星の生物よね。ちなみにそれはどんな感じなの?」

 

「一概には言えませんけど、あたしが以前暮らしていた星では、全身が乾燥により干からびていきます」

 

「……は?」

 

「ですから、干からびるんです。血が足りないのですから、そうなるのは普通でしょう?」

 

 普通なのかなぁーと言いたげな顔をするモモ。継実も同じような顔になる。とはいえミドリは実際に宇宙人であり、そのミドリがこうだと言っているのだ。ならばきっと他の惑星ではそうなのだろう。何事も地球の感覚で述べてはいけない。

 なんにせよこれが人間の貧血の症状だとミドリは理解した。成程と言いたげにこくりこくりとミドリは頷いている。

 しかし、言い出しっぺである継実はどうにも納得出来ていない。

 人間、というより地球生命が貧血になる理由はごくシンプル。血を作る材料が足りないか、或いは失血が多くて、体液の量が適正な水準を下回っている……これだけだ。そしてこの状態に陥る一番の理由は、不健康な食生活や過激なダイエットなどによるものである。

 しかしミドリの場合、これらの原因は当て嵌まらないと継実は思う。新鮮な野菜や果物が中々手に入らない野生生活のため、自分達の食生活は肉中心。加えて喉を潤すためにも血は積極的に飲んでいる。この食生活が身体に良いか悪いかは兎も角、血の材料は大量に取り入れている筈だ。それに生きるか死ぬかの日々ではあるが、生物数が多いので喰うに困った事は殆どない。毎日腹一杯の血肉を取り入れているのに、ここまで重篤な貧血になるというのはいまいち納得出来なかった。

 確かに人間の女性の場合、生理という形で出血を伴うため貧血になり易いという特徴もある。しかしミドリがこの人間の身体に宿って一月以上経つが、これまで貧血を訴えた事は一度もない。栄養不足による月経不順で生理がなかったのか、遅い体質で一ヶ月半では来なかったのか、別の原因があるのか、そもそも貧血という診断が誤りなのか……

 納得出来ない故に新たな疑問を呼び、継実は再び考え込んだ――――そんな時の事だ。

 

「ところでミドリ。アンタ右肩にデカいもん乗せてるっぽいけど、それ、何?」

 

 モモが、不意にそんな事を言い出したのは。

 ……継実はミドリの右肩をじっと見てみる。けれどもやっぱりそこには何もいない。何かいたらとっくに気付いている。

 しかしミドリは何かを感じたのか、そっと右肩に手を伸ばした。

 すると()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ように動いた。結構な勢いであり、呆気に取られたミドリの表情からして自発的な動きでないのは明白。

 明らかに、ミドリの右肩には何かがいた。

 

「……今更ですけど、身体が重いって感覚、よくよく考えてみたらこれ物理的な感じですね」

 

「へぇー……ところでモモ。なんで気付いた訳?」

 

「いや、ミドリの体調が知りたくて毛を伸ばしたらさ、そこに大きなものが乗ってるんだもん」

 

「ああ、触診しようと思ったのね。流石私の最高の相棒。頼れる」

 

「へっへー。まぁ、このぐらい朝飯前ってなもんよ」

 

 胸を張って自慢げなモモ。何時もならここでモモの身体をわしゃわしゃと撫で、モモがひっくり返ってお腹を見せるところだが……此度の継実はそんな和やかな事をしない。笑顔は浮かべていても、目が笑っていない。

 闘争心に満ち溢れた眼光が向くのは、ミドリの右肩。ゆっくりと動く継実とモモが挟むのも、ミドリの右肩。

 しばらくして、ミドリの右肩付近の景色がぐにゃりと歪む。

 まるで水飴を流し込んだかのような、透き通った歪な景色。だがそれは一秒と経たずに消え失せ、本来の姿を取り戻す。

 大きな複眼を持ち、針のように鋭い口器を有す独特な顔立ち。足や身体付きはか弱く思えるほど細いが、赤黒く染まった腹だけは大きくぷくりと膨らんでいた。二枚の細長い翅は大きく広げられ、今にも飛び立とうとしている。茶褐色という地味な色合いは如何にも一般的な生物っぽく、実際この生物は地球上では珍しいものではない。

 ハマダラカだ。世界の広い範囲に分布している一族であり、此処フィリピンにも生息している……尤も、ミドリの肩に停まっていた()()()()()()()()の個体は、七年前には世界の何処にもいなかっただろうが。そしてハマダラカのお腹はでっぷりと膨らんでいた。赤い色合いからして、たっぷりと血を吸ったのだろう。勿論右肩に口をぶっ刺されているミドリから。

 貧血の原因はコイツだと、継実はようやく理解した。

 そしてミドリは、どう見ても友好的でない生物が自分の肩に乗っていると今頃知った。

 

「っんぎゃあああああっ!? なんですかこの化け物!? というかなんで今まで居た事に気付かなかったのあたしぃ!?」

 

「蚊ってのは、何時の間にかやってきて、何時の間にか刺すものよ……きっとこの蚊はミュータント化によって、隠密能力に特化した能力を持ったんでしょうね……!」

 

「それに蚊の口というのは特殊な構造と細さによって、痛みを与えずに吸血が出来るらしい。人間もその生態を応用し、痛くない注射針を開発したみたい。何時の間にか刺されていた事にも頷けるか……!」

 

「どんな隠密能力があれば粒子の動きとか誤魔化せるんですかぁ!? あとこんなデカい針刺されたら構造とか関係なく痛いでしょ!? どう見ても太さ数センチありますから! 肩の肉ぶちぶち切り裂きながら刺さったでしょこれぇ!?」

 

 真面目な顔して理不尽な事を語る継実とモモ(野生動物二匹)に、ミドリは唯一の文明人として論理的に話す。が、肩に巨大ハマダラカが乗ってる事実は変わらず。

 

【チュゥー】

 

「あふんっ」

 

 最早隠す必要もないと思ったのか、巨大ハマダラカは力いっぱい一気飲み。失血により一瞬で意識が遠退いたであろうミドリは力なく崩れ、食事を終えたハマダラカはそのまま大空に旅立とうとする。

 しかし継実とモモがそれを許さない。

 

「逃がすかァ!」

 

 モモは全身から体毛を伸ばし、ハマダラカを捕らえようとする。ハマダラカも捕まる気は更々なく、体毛が伸びる速さを上回るスピードで急浮上。高い飛行能力を活かして逃げようとした。

 凄まじい速さであり、モモ一人だけでは捕獲は無理だったろう。しかし此処にはもう一人、獰猛なハンターが居る。

 

「喰らえッ!」

 

 粒子ビームを撃てる継実だ。

 繰り出したのは射出速度重視のもので、威力は ― あくまでミュータントの攻撃としては ― 決して強いものではない。だが細身なハマダラカにとっては脅威だったようで、大慌てでこれを回避しようと身体を傾けた。

 それをモモは見逃さない。

 

「とうっ!」

 

 力強く跳躍し、ハマダラカの足にしがみつく! 継実の攻撃を躱すため体勢を崩していたハマダラカでは、モモの素早い動きに対応出来ず。哀れにも捕まれ、身動きが鈍る。

 追い討ちとばかりに継実も跳び付き、ハマダラカの身動きは拘束された。バチバチとモモが放電を始める……が、何故か電撃は放たない。継実が粒子操作能力で周辺を探ってみたところ、何やら周辺電子がぷるぷると震えるばかりで動いていない状態になっていた。電流とは電子の流れであり、それが止まれば電流は流れない。どうやらハマダラカがなんらかの方法で妨害を試みているようだ。

 電撃を阻害するとは恐るべき力。されど継実達に他の手がない訳ではない。むしろ一番シンプルで簡単な方法がまだ残されている。

 

「ふんっ!」

 

 継実はハマダラカの頭に手を掛けるや、その頭を回すように力を込めた。

 ただそれだけでハマダラカの頭はぐりんと一回転。ぶちぶちと音を鳴らしたと思った直後、ぼとりと頭が地面に落ちる。見た目通り脆弱な身体では物理攻撃に対する耐性が殆どなかったのだ。勿論、核シェルターもぶち抜く継実の怪力から見ての話であるが。

 司令塔である頭を失ったハマダラカの身体は、バランスを崩して墜落。未だに翅や足がバタバタと激しく動いていたが、こんなのはただの本能的反応でしかない。もうこの身体が大空に旅立つ事はないのだ。

 それは継実達の勝利を意味する。

 

「よっしゃあ! 昼ご飯ゲット!」

 

「いぇーい!」

 

 正確には、今日のごはんの獲得と言うべきだろうが。

 その狩りをただただ見ていたミドリはよろよろと立ち上がりながら、乾いた笑みを浮かべた。

 

「ああ、やっぱり食べるんですねコレ……」

 

「そりゃね。まぁ、そんなに量はないと思うけど」

 

「蚊なんて見た目からして肉とかなさそうだもんねー。あ、そうそう」

 

 モモは何を考えたのか、おもむろにハマダラカの腹と胸の付け根を掴む。

 それから躊躇いなく、ぶちりと両者を力尽くでお別れさせた。

 モモは胸の方をぽいっと投げて、継実がそれを軽やかにキャッチ。未だモモの手の内に残るハマダラカのお腹からはじんわりと赤い液体が染み出す。どう考えてもそれはハマダラカが吸い取った、ミドリの血液だ。

 

「ほら、これを飲みなさい。そうすれば抜かれた血が戻るわよ、多分」

 

 そんなものを、モモはさも当然とばかりにミドリへと差し出してくる。

 ミドリが貧血時よりも顔を青くしてもモモはその物体を引っ込める事はなく。真剣な眼差しからしても、モモの言葉が本気なのは誰の目にも明らかだった。

 

「……いや、それ確かに私の血ですけど、でも輸血って口からやるもんじゃがぼがぼぉー!?」

 

「輸血じゃなくても、血を飲めば血の材料にはなるでしょ。ほら、頑張って一気飲みよー」

 

「がんばー。ぼりぼり」

 

 話は最後まで聞いてもらえず、ミドリは口から血をどぼどぼと注ぎ込まれた。継実はモモの狼藉を眺めながら、モモから分け与えられた胸を丸齧りするだけ。助ける気など毛頭ない。

 確かにミドリの言い分も継実には分からなくもない。血を飲んだところで、まずはその血を消化してアミノ酸や水やミネラル分に分解。それを腸で吸収して脊髄内の造血細胞まで運ばれ、造血細胞が『元血液』である栄養素を元にして新しい血を作る。ここまでのプロセスを経て初めて『血』となるのだ。要するにそれなりの時間が掛かるものであるし、どうせ胃で分解するのだからわざわざ自分の血に拘る必要もない。動物の血肉を食べれば同じ事であり、味覚だとか精神衛生を考慮すればこっちの方がずっと有益だろう。出てきた自分の血をごくごく飲んで即回復なんてのは漫画だけの話だ……七年前までは。

 ところがどっこい、血を飲めば飲むほどミドリの顔色は良くなっている。血の池地獄に落とされた亡者のような表情をしているが、それ以外の面ではミドリの身体が急速に回復している事が継実の目には見えていた。

 どう考えても血が戻っている。それも消化・吸収をすっ飛ばしたような猛烈な速さで。なんとも非常識であるが、脳内イオンチャンネルの遠隔操作が出来てしまう今の『人類』に七年前の常識なんて通じる訳がない。

 むしろこれこそが現代の常識と言うべきだろう。

 

「(うん。実にミュータントらしくてよろしい)」

 

 ミドリもすっかりこの星の一員になれたのだと、継実は感慨深さでこくこくと頷くのだった。



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異邦人歓迎03

「ごちそうさまでしたー……つってもやっぱ中身なんて全然なかったから、まだ足りないなぁ」

 

「そうよねぇ。もっと食べ応えのあるものが欲しいわ」

 

 巨大ハマダラカを一匹平らげて、それでも腹が満たされない継実とモモはぼやく。

 自分の血液をたらふく……それこそ数リットル単位で……飲まされたミドリであるが、彼女も渋い表情ながらも頷く。血液を消化してまた血液を作るというのは、その過程でエネルギーを使う以上、どうやっても飲んだ分をそのまま血液には出来ない。出ていった血を全て飲んでも、体力は完全回復どころか目減りするだけだ。

 一応ハマダラカの中では最も大きな部位である腹部をミドリは食べたが、如何に巨大とはいえ所詮カである。皮と骨だけどころか、皮しかないようなスカスカぶり。得られたエネルギーなどネズミ一匹分をちょっと超える程度でしかない。エネルギー不足の身体が、空腹という形で次のエネルギー補給を要求するのはごく自然な事であろう。

 

「そう、ですね。あたしも、もうちょっと食べたいです」

 

「つっても中々手頃な獲物も見付からないしなぁ……ネズミとかも全然いないし」

 

 継実は辺りをきょろきょろと見渡す。

 動植物自体は、それはもう溢れるほど存在している。虫は鬱陶しいほどの数が飛び交い、植物は行く手を遮るほど生い茂っていた。

 しかし食べ応えがある鳥や哺乳類は殆ど見付からず。フィリピン上陸時に見掛けた鳥なんて、あの一回きりしか見ていない。冗談抜きに、最も繁栄した哺乳類である筈のネズミすらいない有り様だ。

 

「(熱帯性気候だから変温性の動物の方が有利で、昆虫達が哺乳類や鳥類を駆逐したとか?)」

 

 通常、恒温性の動物が有利になるのは『低温環境』である。その星の生物によって酵素の適温は異なるが……変温動物の適温よりも低い気温、つまり活動が鈍る環境でなければ、恒温性などエネルギーの無駄遣いでしかないのだから。

 それでも七年前の、ミュータント発生前ならば身体の大きさによる棲み分けが出来ただろう。昆虫達無脊椎動物は身体の構造上大型化が難しい。哺乳類からすればとても小さなネズミだって大半の昆虫からすれば体重差数千~数万倍の大怪獣であり、襲われたら為す術もないプレデターである。反面哺乳類などの脊椎動物が持つ身体の構造は小型化に向いておらず、実は小型化すると昆虫などの身体機能に全く敵わなくなる。よって小さな生物の世界に脊椎動物は進出出来ない。かくして身体を大きく出来る脊椎動物は生態系の頂点に君臨し、下層には昆虫などが位置する……そうして多種多様な生物が生きていけた。

 ところがミュータントになって大型化出来るようになった事で、真っ向勝負の生存競争が始まったとすれば……果たしてエネルギー効率で劣る鳥や哺乳類に勝ち目はあるのか。継実には、とてもそうは思えない。

 哺乳類が駆逐されていても不思議なないだろう。ならばいない生き物を無理に探すよりも、食べられそうなものを食べる方が合理的だ。

 

「鳥とか動物は、少なそうですね。此処では昆虫狙いにしますか?」

 

「あー、まぁ、無理に鳥とかネズミにする理由もないけど……でもなぁ……」

 

 ミドリも周辺の探知で同じ事を思ったらしい。しかしその提案を、ぽりぽりと頭を掻く継実はすんなりとは肯定しなかった。

 別段継実は昆虫食に躊躇いなどない。むしろ日常的に食べるぐらいには好んでいるほど。しかしそれをわざわざ避けていたのには、相応の訳がある。

 どうにもこの辺りの昆虫には、毒持ちが多いのだ。

 勿論食べて確かめた訳ではない。それに異星人であるミドリは言うまでもなく、地球人である継実だってこの地に棲まう莫大な数の昆虫を完全には把握してはいないのだ。故に断言は出来ないが……けれども継実には高度な観測能力があり、昆虫達の体内にある毒物質の測定が『目視』で可能である。そしてその観察結果が、大半が毒持ちというものだった。

 ハマダラカは目視したところ毒がなかったので食べたが、他の昆虫はそうもいかない。昆虫達が持つ毒は極めて強力なもので、継実の粒子操作能力でもちょっと分解出来そうにない代物。粒子の操作すら受け付けないという、最早物質として扱って良いのかも怪しいこの毒素の起源は、周りに立ち並ぶ植物達だろう。一種一種の植物に固有な毒が蓄積しており、昆虫達の体内に似たような毒素が濃縮されているのが観測出来た。昆虫達は植物を食べる事で、毒素を体内に取り込んでいるのだ。

 食べ物から毒を取り込み、捕食者から身を守る。こうした生態を持つ生物というのは珍しくないが、行き交う生物種の大多数が有毒というのは流石に異様である。恐らく毒を持たなかった生物は殆どが喰い尽くされたのだ……ミュータント化したにも拘わらず。この地の生存競争が如何に苛烈なものであるか、例え肉食獣に襲われなくても分かるというもの。

 一応無毒な昆虫がいない訳ではない、が、かなりの少数派である。昆虫は簡単に捕まえられる『獲物』だが、小さいためそれなりの数を集めなければならない。無毒なら纏めてガバッと獲ってしまえば良いが、有毒となれば選別が必要である。食べられるものの方が少ないとなると、果たして一日中探し回っても必須カロリーを得られるかどうか。

 飛び交う昆虫を食べ物にするのは、この地では正解とは言い難いところだ。

 

「(うーん。なんか良い感じの生き物いないかなぁ……)」

 

 食べ物を探すにしても、場所に目星ぐらいは付けた方が良いかも知れない。そう考えた継実は、まず『どんな生き物』なら食べられるかを考えてみた。

 観測してみた限り、この地の昆虫は植物から毒素を得ている。つまり植物を食べている生き物は、なんらかの毒を有している可能性が高いと考えるべきだろう。

 ならば逆に考えれば植物を食べない、捕食者ならば毒が少ないのではないか。色んな生物を食べるなら様々な種類の毒を取り込む事となるが、作用の違うものを単一の仕組みで体内に蓄積するのは難しく、だからといって複数の蓄積システムを持つのもエネルギー効率が悪い。それに天敵が少ない、或いは存在しない捕食者ならそもそも身体に毒を溜め込んでおくメリットがないだろう。素直に分解して栄養にしてしまう方が合理的だ。

 つまり天敵がいない捕食者は毒を溜め込まず、解毒するタイプに進化すると期待出来る。

 しかし天敵のいない捕食者となると、それはそれで厄介だ。というのも恐らく二通りのパターンしか考えられないからである。

 一つは圧倒的な強さを持つ、頂点捕食者。誰にも食べられないから毒など持つ必要はない。そいつ等なら継実達も安心して食べられるだろう……十中八九逆に喰われるのが目に見えているが。旅を経た継実達は草原暮らしの時よりも幾分強くなっただろうが、それでも草原の王者であったゴミムシには未だ三人掛かりでも勝てるとは継実自身思えない。過酷な密林の王者ならば尚更だ。

 そしてもう一つのパターンは、()()()()()()()()()()()()()()狙われないというもの。

 

「(例えば、私らの周りを歩き回っているシロアリとか)」

 

 継実が意識を向けたのは、自分のすぐ傍を歩いている一匹のシロアリ。

 体長僅か一ミリ程度。名前の通りアリとよく似た姿をしているが、シロアリはアリとは全く異なる生物だ。シロアリはゴキブリに近く、アリはハチ目に属す。実際には姿も違う(シロアリの身体はアリと違ってくびれがない)ので、よく観察すれば判別可能だ。

 継実の傍にいるシロアリは特段群れている訳でもなく、一匹でふらふらと歩いている。シロアリは本来倒木などの植物質を餌としているが、このシロアリは植物に興味がないのか。木の枝や葉っぱを見付けても、食べるどころか障害物のように避けていく始末。では肉食に変化した種なのかと思えば、その予想を裏付けるように近くの虫に片っ端から噛み付いていた……が、食べはせずに放してしまう。なんとも傍迷惑な生き方をしている虫けらだ。

 そんなシロアリの特徴は、赤い身体に金属のような光沢がある事。

 いや、ような、ではない。()()()()()()()()()()()()()()。継実の目にはそれが見えていた。どうやらこのシロアリは、身体が金属で出来ているらしい。正確には全てではなく、甲殻の主成分といったところだ。

 これだけ金属質な身体なのだから、主食も金属なのだろう。もしかするとこのシロアリ達こそがフィリピンにあった都市を跡形もなく消し去った張本人……鉄筋や金具を一粒残さず食べてしまった連中なのかも知れないと継実は思う。シロアリは七年前の世界でも住宅を食い荒らす厄介者だったが、ミュータント化によって金属までも食べられるようになったのか。

 日本でも都市部は跡形もなく消えていたが、開発の影響によるエネルギー不足から森林にまで変化せず、草原という形で痕跡は残っていた。フィリピンの地が何処も密林なのは、シロアリ達のお陰で文明圏が短期間で自然へと還された結果なのかも知れない。尤も食べ尽くした後の彼女達の生活がどうなったかは、誰彼構わず噛み付くところからお察しであるが。

 そんな考察は兎も角として、このような金属シロアリ達がこの森にはよく見られる。一種だけなのか、それとも実は様々な種がいるのかは継実にはよく分からないが、いずれも毒はない。それでも彼女達がのんびりと歩き回れるのは、鉄を好んで食べるような生き物がいないからだ。実際近くにいる大きな虫達もシロアリには見向きもしていない。野生動物は食べられないものに興味などないのだ。

 継実もこのシロアリは流石に食べられない。というか食べても栄養にならないので意味がない。結局、こんな生き物は襲う価値もないのである。

 

「(だけどそれ以外ってなると、全然見付からない……)」

 

 肉食で、大して強くなくて、食べて栄養がある……そんな都合の良い生物はやはり中々見付からない。いや、そもそもそんな生物がこの地にいるのだろうか?

 いたとしても、つい先程ミドリを襲ったハマダラカぐらいしか――――

 

「……ミドリ、ちょっと囮になってくれる?」

 

「人の事生き餌扱いするの止めてくれません!?」

 

「いやいや、流石にジョークだよ。ジョーク」

 

 継実の意見を即座にミドリは切り捨てた。ジョークだと弁明する継実だったが、絶対ジョークじゃありませんね、とミドリは視線で指摘してくる。

 実際このままでは、本当に今日の夕方ぐらいに囮作戦でハマダラカを呼ばねばならないなと継実は考えていた。基礎代謝が高いミュータントにとって、短期間の絶食でも命に関わる。確かに一日二日なら耐えられるが、三日目を迎えた頃の身体はボロボロで、取れる手段は限られてくるだろう。それに外敵に襲われる時に備えて百パーセントの力を出せる体力は維持しておきたい。可能ならば一日目のうちに、使えそうな手は使っておきたいのだ。

 勿論その前にすべき事は全てやっておくべきだろう。例えば、ミドリに周辺の探索を頑張ってもらうとか。

 

「もぉー……ちょっと頑張って獲物になりそうな動物を探してみますから、待っててください」

 

「うん。よろしく」

 

「私らは周りを警戒してるから、念入りにやって良いわよ」

 

 ミドリが自発的に作戦を伝えてきたので、継実とモモはすぐに周辺の警戒へと移る。周りは小さな虫ばかりで、脅威になりそうな生物の姿や気配は感じられなかった。それでも先のハマダラカのように姿を隠している可能性もあるのだから、油断は決してしない。

 継実達に守られていて安心しているのか、ミドリは目を閉じてじっとしている。

 しかしその頭の中には、今頃広大な地形の情報が流れている事だろう。ミドリの力は索敵に特化している。継実なら数百メートルの範囲でしか維持出来ない精度を、数十キロにも渡る広範囲に広げる事が可能だ。少し精度を下げれば、フィリピン丸々一つを索敵する事も可能である。

 まずは大雑把に全体を確認しているところだろうか。そんな考えを抱きつつ、継実はミドリの調査が終わるのを待つ。

 

「……ん?」

 

 その終わりは、思っていたよりも早くやってきた。

 

「おっ。どしたの? なんか良い感じの奴見付けた?」

 

 ミドリの変化に気付き、継実は尋ねてみた。が、ミドリからの反応はない。

 代わりに大きく目を見開き、わなわなと震えている。

 しかし怯えている様子はない。純粋に驚いているようだと継実は感じた。どうやら何かを見付けたらしいが、何を見付けたのだろうか? 疑問に思う継実はもう一度声を掛けようとした――――直後の事だ。

 ミドリが、一直線に走り出したのは。

 

「!? ちょ、ミドリ!?」

 

「え? なんであの子いきなり走り出してんの!?」

 

「分かんないけど追うよ!」

 

 ミドリの突然の行動に困惑しつつ、継実とモモは彼女の後を追う。

 ミドリは超音速で森を走り抜ける。そんなのは継実もモモも出せる速さだが、しかし敵がいるかも知れない周りを警戒しながらとなれば、全力で脇目も振らずにという訳にはいかない。足取りは鈍くなり、継実達は本気の速さを出せなかった。

 幸いにして、ミドリの身体能力は高くない。全力でない継実達の足でも引き離される事はなく、少しずつ距離を詰めていく。

 ただしミドリを捕まえるよりも前に、継実達は森の外に出てしまったが。

 

「(此処は、浜辺?)」

 

 どうやら海の方に向けて走っていたらしい。視界に広がる大海原が、継実達の居場所を示す。

 とはいえそこは継実達が此処フィリピンを訪れた際に着地した、あの美しい砂浜ではない。ゴツゴツとした大岩が敷き詰められた岩礁地帯だ。尤も七年前の岩礁地帯とは大きく様変わりしており、転がる大岩は全て緑色の藻やらなんやらに覆われていたが。岩の隙間からは背の高い植物まで生えている。岩礁には潮風と荒波が激しくぶつかっていたが、ちょっとした草原のよう。こんな場所まで緑化するとは流石ミュータントというべきか。

 しかしこの場を訪れたモノの目を惹くのは、荒々しい海の様子でも、転がる大岩でも埋め尽くす生物の姿でもない。継実達もそうであった。

 彼女達の視線を釘付けにしたのは、()()()()()()()()()()()()()()の方だった。



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異邦人歓迎04

「……は?」

 

 目にした『何』であるのか。皆目見当も付かない継実の口から出てきたのは、我ながら間抜けだと思う音が一つだけだった。

 見た目は船、という例えが一番適切だろうか。七年前に世界中で見られた旅客船や軍艦ではなく、滑らかな円錐形をした、潜水艦に似た形態をしている。装甲は紺色をしていたが、虹色の煌めきがあちこちで見られた。パッと見た限りではあるが、傷らしきものは確認出来ない。ラジコンのアンテナのような棘状の物体が四本、船体の上下左右に付いている。潜水艦ならスクリューがある筈だが、そうした推進機関の存在は傍目には確認出来なかった。

 全長はざっと三百メートル。建造物として見ても圧倒的な大きさだが、あろう事か船は海沿いに存在し、高度数十メートルの位置で浮遊していた。浮遊と言っても風で流れたり、ジェットを噴いて浮上している訳でもなく、まるでそこに見えない地面があるかのように静止している。

 『船舶技術』なんて全く知らない継実であるが、この船のようなものが高度な技術の産物は今まで見た事も聞いた事もない。それに人類文明が滅びて七年も経ち、都市すら自然に飲まれて分解されているのだ。こんな巨大な船がろくな傷もないまま存在している筈がない。

 

「はぁー、やっと追い付いた……継実、どうしたの?」

 

「え、や。アレ……」

 

 追い付いてきたモモが首を傾げる中、継実は眼前の巨船を指差す。

 モモは継実の指先を追った。されど彼女の顔が驚きで歪む事はない。むしろこてんと首を傾げ、継実の意図を察していない様子を見せる。

 

「アレって、なんの話?」

 

 そして止めにこの一言。

 モモにあの舟が見えていないと、継実はようやく気付いた。

 

「……モモ。あっちに毛を伸ばしてみて。多分それで分かる」

 

「んー? どれどれ……ってなんじゃこりゃあっ!?」

 

 継実に言われるがまま毛を伸ばしたであろうモモは、飛び跳ねるぐらい驚いた。流石に触覚でなら認識出来るらしい。つまりあの船は本当にあるもの。文明社会が恋しいあまりついに幻覚を見てしまった、という訳ではないのだ。

 ならば一体この船はなんなのか。

 ――――船のすぐ傍で立ち止まり、茫然とした様子で眺めているミドリなら、何か知っているかも知れない。

 

「ミドリ。ミドリっ」

 

 継実は駆け寄りながらミドリの名を呼ぶ。船を見ていたミドリは、二回目の呼び掛けでようやく反応して振り返る。

 ミドリはそわそわと身体を揺すり、すっかり落ち着きを失っていた。見た事もない巨船に興奮している、という訳でない事は、複雑な感情の入り混じった顔を目にすれば察せられる。そして何かを知っているという、継実の期待が当たっている事も。

 

「ミドリ、この船は何? 何か知ってるなら、教えてほしいんだけど」

 

 継実が尋ねると、ミドリはごくりと息を飲む。何かを言おうとして、だけど考え込んで。

 

「……これ、あたしが生まれた星の文明で使っていた、宇宙船だと思います」

 

 それでも最後には、答えてくれた。

 継実は口をぱくぱくと、喘ぐように開閉させてしまう。驚きから一歩後退りし、舟とミドリを交互に、何度も見てしまった。

 宇宙船。

 最後まで地球という星から旅立てなかった人類とはいえ、その存在ぐらいは夢想している。星々を、時には銀河さえも旅するために使う乗り物だ。全盛期の人類文明が総力を結集しても多分作れなかったであろう、正に高度な技術の結晶体。

 そして、本来ならば()()()()()()()()()()()()()

 

「へぇー、これがミドリの星で使ってた奴なんだ」

 

 モモの方はこんな簡単な一言で流しているが、そんな簡単に済ませて良い訳がない。確かめねばならない事がある。

 

「ねぇ、ミドリ。念のために訊くけど、これ、ミドリの船じゃないよね?」

 

「は、はい……あたしの船は、この星に来て一日で壊されています……」

 

 継実が尋ねれば、ミドリはこくりと頷きながら答えた。

 当たり前の話である。継実とミドリは日本で出会った。もしもこの巨船がミドリのものなら、ミドリはフィリピンから海を渡り、日本まで来た事になってしまう。そんな話は聞いていないし、何より先日みんなが命を懸けてやった渡海を一人で成し遂げられる訳がない。

 合理的に考えれば、可能性は端から一つしかないのだ。

 

「(最近になって、やってきたんだ。ミドリの同族が……!)」

 

 宇宙人の訪問。SF染みた展開だとは脳裏で思いつつも、ミドリという実例があるのだから否定など出来ない。

 それに、これは『お目出度い』事である。

 

「あら、じゃあこれはミドリの仲間の舟って事? 良かったじゃん、友達とか家族に会えるかも知れないわね」

 

 モモが言うように、ミドリが同族と再会出来たという事なのだから。同族大好きな継実からすれば、これが目出度くなければなんだというのか。うんうんと納得するように継実も頷く。

 誰よりもキョトンとしていたのは、ミドリだった。

 それだけ困惑しているのだろう。と、継実は最初思っていたが……何故だか中々ミドリは喜ばない。むしろ継実達に喜ばれて戸惑っているようにすら見える。

 

「どしたのミドリ? 仲間に会えるの、嬉しくないの?」

 

 モモがそんな疑問を抱くのは、仕方ないと言えよう。

 とはいえミドリに喜ぶ気がないという訳でもないのは、モモから指摘されてちょっとあたふたし出したミドリ自身の動きが物語る。だが、これはこれで奇妙な反応だ。喜びたいなら喜べば良い。野生という自由な世界で生きる継実達に、それを妨げる理由なんてないのだから。

 何か理由があるのだろうか? 不思議に思い、継実はなんとなく首を傾げる。

 あくまでもなんとなくだが、そうした仕草を取れば違和感を持たれているのは伝わるというもの。ミドリはちらりと、宇宙船の方へと視線を移す。

 

「……確かに、あたし達の文明で使われていた船っぽいんですけど……なんか、雰囲気が昔と違ってて、ちょっと不気味で……色も違うし、もっとこう、アンテナとかも色々付いていた筈だし」

 

 次いでぽそりと、恐らくは本心を吐露した。

 とはいえ継実にはいまいちピンとこない。ミドリが昔使っていた船と、この宇宙船の違いなんて、地球生まれの継実には分からない事だ。勿論モモにだって分からない。

 大体船の雰囲気が前と変わっているからなんだというのか。技術が進歩すれば船のデザインが変わる事もあるだろうし、用途次第で船種を変えるのも普通の事だろう。仮に船の種類が一緒で尚且つ技術が進歩していないとしても、人間だってペイントやらなんやらをして、乗り物の雰囲気を個々人で変えるという事をしていた。科学力が地球より上の文明なら出来ない筈がないし、そうした行いは何もおかしくないと継実は思う。もしかしたらミドリ達の種族としては、機械の模様替えというのが文化としてなかったのかも知れないが……しかしそれだけで、同族と出会えた喜びが吹き飛ぶものだろうか?

 或いは、何かを察知したのか。

 ミドリの索敵能力は継実よりも高い。ならば継実やモモに感じられない、小さな『危険』を察知したとしても不思議はないだろう。そうだとしたら素直に喜ぶのも危険かも知れない。

 答えてもらったのにますます疑問が深まり、継実も警戒心が掻き立てられる。モモも継実の態度が変わった事で、理由は理解せずとも、能天気に喜ぶのは止めた。今まで友好的だった眼を鋭くし、些末な異変も逃さぬよう神経を尖らせていく。今度はミドリが一番警戒心が弱い状態となったが、同族を疑えというのも酷な話だろう。

 そうして継実達の気持ちが切り替わっていく、その最中の事である。

 目の前の巨船が、突如として動き出した。

 

「(! 向きを変えた……)」

 

 ゆっくりと、その場に留まったまま、巨船は先端の向きを変えていく。駆動音は聞こえず、またジェットなどの粒子の噴出も確認出来ない。なのに高度も座標も変わらず、船の向きだけが変化していた。

 SFなどではこういう宇宙船には重力制御装置などが付いているものだが、果たして重力(引っ張る力)に抗っただけで、こうも綺麗に飛べるものなのか。まるで原理が想像出来ない。

 もしも、そんな謎の力に攻撃されたなら……

 不安、或いは起こり得るパターンを想起した瞬間、巨船の先端が左右に開いた。いきなり主砲を撃つつもりか! と継実は臨戦態勢へと移る。

 が、ミドリが腕を横に伸ばしてこれを止めた。

 攻撃ではない、という事か。ミドリの意見を信じ、継実は整えようとしていた攻撃準備を取り止める。モモも継実と合わせるようにやっていた構えを解き、攻撃の意思を控えた。

 継実達の意思を汲んだのか、はたまた最初から気にもしていないのか。左右に開かれた巨船の奥から、光のようなものが照射された。脅威となるようなエネルギーは感じられないが、何か、継実の感覚に違和感を覚えさせる。

 その印象は正しかった。

 船体の奥から、光に運ばれるように何かがやってきたのだ。正しく宇宙的テクノロジーを彷彿とさせる光景に、継実も思わず毒気を抜かれてしまう。

 更に、光に運ばれながら現れたものの姿を目にして、ますます呆気に取られた。

 船体の中から現れたのは、人型の存在だった。頭部には腰の辺りまで伸びている髪が生え、二本足で立つ身体は凡そ百八十センチほど。肩幅は広くガッチリとしており、腕を後ろ手に組んでいた。顔立ちは端正な中年男性のそれで、正直に言えばかなりの美形であると継実は思う。身を包むのはシンプルなローブで、七年前の文明社会ならば法王のようにも見える風体だ。

 人間と瓜二つの容姿だった。しかし違いも少なくない。

 背中にはまるで甲虫の翅のような、巨大で異質なものが二つ生えている。後頭部からも角のように二本の突起が生え、まるで辺りを探るように頻繁に動いていた。何より特徴的なのは肌の色。光沢が眩しい、白銀一色に染まっていた。まるで金属のようにも見える姿である。

 これが、ミドリの同族なのだろうか? しかし夢で()()()()()()ミドリの昔の姿は、甲殻類染みたもの。それとも夢は所詮夢でしかないのか。

 謎が深まる中、白銀の人型は継実達の前でゆっくりと口を開く。

 そして、

 

「始めまして、地球の方々。我が名はエリュクス……そして我が同胞よ。またこうして出会えた事、とても嬉しく思うぞ」

 

 流暢な日本語で、少々高圧的に自己紹介をしてみせるのだった。



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異邦人歓迎05

 曰く、ミドリ達の種族は『ネガティブ』襲来時、様々な方面へと散るように避難したらしい。

 理由は二つ。一つはネガティブからより多くの同族を生き延びさせるため。襲撃してきたネガティブは一体だけ。故に万一避難船をネガティブが追い駆けてきたとしても、バラバラに逃げれば追跡出来るのはごく一部だけとなる。元より星が一丸となっても勝ち目のない敵だけに、戦う力を弱まろうとも、散り散りになる方が合理的だった。

 そしてもう一つの理由は、生き延びた同族達が新天地で暮らしていける確証がなかったから。

 ミドリ達の種族はネガティブに襲来された星以外にも、宇宙の様々な星に移り住んできたが、中には異星人を快く思わない文明もあった。それに強力な原住生物が跋扈する『危険』な星や、文明すら誕生していない星、そもそも星そのものが滅びに瀕して生命が乏しい星もある。『移民候補』の星は幾つもあったが、全ての星で同族達が安寧を得るとは限らず、全滅してしまう可能性もゼロではない。

 全員が助かるのではなく、確実に一人は生き残る方法。見方によっては非情とも取れる、されど滅びに瀕しているからこそ、選ばねばならなかった道。

 幾つにも枝分かれするように、ミドリ達の一族は散っていき――――

 

「かくして我は惑星■■■……地球人の発音に直せばオギユナフという星に辿り着き、この肉体を得たのだ」

 

 そう話を締め括ると、エリュクスは銀色一色の顔でにこりと笑う。ちょっと無機質な『作り笑い』に見えるが、敵意のない表情だ。

 エリュクス達の前に座る、継実達一行。胡座を掻いたり正座でいたりして、エリュクスと共に円を作るように座っている。岩礁地帯に浮かんでいた巨船から現れたエリュクス……ミドリの同族と身の上話をするために。

 四人が居るのは大きな影の下だが、此処は海沿いの岩礁地帯である。藻や草は茂っていても、大きな樹木の姿はない。影を作っているのは、昼間の太陽を遮るように空に陣取る巨船。

 エリュクスが乗っていた宇宙船だ。日差しを遮るためにわざわざ動かしてくれたのである。水爆の高温すら耐える継実達は太陽光で消耗するほど柔ではないが、楽になるのは違いない。

 簡単とはいえ整えられた環境。楽しいお喋りには欠かせない要素だ。加えてこれが久方ぶりに再会した『同胞』との会話となれば、喜びも一入(ひとしお)というもの。

 

「そうだったんですね! ほんと、あたし以外の同族がまだ生きてて良かったです!」

 

 ミドリが心底楽しそうになるのは、当然の事だろう。

 

「我としても、同胞と出会えた事は行幸だ。ましてや初の出会いとなれば尚更というもの」

 

「他の仲間達には会えてないのですね……ううん、でもあたし達がこうしてまた会えた訳ですし、きっと他の星でも元気に暮らしてますよね!」

 

「我もそう信じ、星々を渡る旅を続けている。全ての同胞と再会する事は、確率上難しいだろうが、しかしそれでも希望はある筈だ」

 

「あたしもそう思います!」

 

 日本語で交わされる異星人トークは随分と盛り上がっているようで、途切れる事を知らない。ミドリは満面の笑みを浮かべ、エリュクスもニコニコと笑い続けていた。

 ミドリとエリュクスがどれだけの期間同族と会っていないのか、横で話を聞くだけの継実には知りようがない事。されど出会ったばかりの頃のミドリは地球を「文明がある星」だと思っていたし、観測したのも七年前だと話していた。なら、少なくともミドリは七年間単身で宇宙を放浪していたと考えるのが自然だ。エリュクスも似たようなものかも知れない。

 七年越しの再会なら、話が盛り上がるのも当然である。それを邪魔しようという考えは、社会性動物である人間(継実)には出来ない事だった。

 

「しっかしエリュクスって人間にそっくりな姿をしてんのね。あれ? 宇宙人に寄生してるから、その姿も借り物なのかしら?」

 

 ちなみに同じく社会性動物である犬は、そういう気遣いは全くしないようだが。

 継実が横目でじろりと見ている事に気付いても、モモはキョトンとするばかり。ミドリはくすくすと、エリュクスはにっこりと笑うだけ。

 エリュクスは不躾な野生動物の疑問に、苛立ちも怒りもなく答えてくれた。

 

「その通り。この姿は借り物だ……とはいえ、元々人型種族だった訳ではなく、敢えてこの形態を取っている」

 

「この形態? 姿を変えられるって事?」

 

「そうだ。柱となる基礎骨格はあるが、顔面や手足の本数を変える程度は意図的に行える。本来の顔は、凡そこんな具合だ」

 

 エリュクスがそう言った、瞬間、彼の顔がどろりと溶け出した。端正だった顔立ちはあっという間に形を変え、まるでハニワのような、のっぺりとした顔になる。ハニワとして見れば愛嬌のある顔立ちも、生物として現れると中々に不気味だ。

 ちょっと身動ぎする継実に対し、モモは「おー。ほんとだー」と素直に感嘆。するとエリュクスの顔が再び変形し……今度は、モモと瓜二つの顔立ちになる。自分の顔などろくに見た事がないモモはキョトンとしていて、今度は継実が「おー」と驚く事となる。

 地球生命二匹を一通り驚かせたエリュクスはまた顔を溶かし、元の男性的顔立ちへと戻す。にこりと、再び笑みを浮かべた。

 

「驚いてもらえたようだな」

 

「ええ。宇宙には色んな生き物がいるのねぇ」

 

「付け加えると、この身体は有機金属で形成されている。柔軟性と強度を兼ね備えており、様々な能力も有す、宇宙の中でもかなり優秀な性能を誇る肉体だ」

 

「金属生命体! 映画でしか見た事なかったわ。本当にいたなんて凄いわ」

 

「えっへん」

 

「いや、なんでミドリが自慢げなのよ」

 

 胸を張るミドリに、モモは一つツッコみ。とはいえミドリからすればこれは『同族』の話。自分もちょっぴり鼻高々になってしまうのは、継実にも分からなくもない。

 モモが混ざっても、二人の異星人の話は相も変わらず楽しげ。これだけ楽しそうだと、そっとしておこうと思っていた継実も仲間に加わりたくなる。人間は思いやりを持てる生き物だが、同時に結構寂しがり屋な面倒臭い種でもあるのだ。

 話が途切れた合間を狙い、継実も自分が感じていた疑問をぶつけるという形で三人の輪に入り込む。

 

「私からも質問して良い?」

 

「ああ、構わない。答えられる事であれば、可能な限り答えよう」

 

「ありがとう。じゃあ、一つ。ネガティブによって種族全体が散り散りになりながら逃げたって話だけど、一人だけで星に降り立ってどうするつもりだったの? 仲間を増やすなら、伴侶というか、そーいうのが必要だと思うんだけど」

 

 まずぶつけてみたのは、種族が下した決断に対する疑問。

 例えば人間なら子孫を残すために異性を必要とする。伝承の話をすれば聖母マリアが処女懐胎(単為生殖)しているが、少なくとも一時七十億まで増えた人類にそのような形質の持ち主は確認されていない。

 宇宙人の性別なんてよく分からないが、あるとすれば単身では仲間を増やせない。故に単身で異星に避難しても寿命で死ぬのを待つだけであり、結局種族は潰えてしまうのではないか。

 

「伴侶? ……ああ、繁殖相手か。我等の種族には必要ない。我々は分裂により増殖する」

 

 尤も、宇宙人にそんな心配は無用なようだった。

 地球生命的に考えても、単体で繁殖出来る生物というのは珍しくない。そうした繁殖は遺伝的多様性に欠けると言うが、現代まで多くの種が採用しているのだから悪い方法でもないのだろう。

 ただ、分裂というのはちょっと予想外だったが。

 

「えっ。ミドリって分裂で増えるの?」

 

「……モモさん、なんか勘違いしてるかもですけど。あたしの身体は分裂しませんよ。あたしの本体、寄生体が分裂するんです」

 

「あ、そうなの? なーんだ、ミドリがたくさん増えたら面白かったのに」

 

 わらわらと『ミドリ』が増殖する光景……果たしてそれが面白いかは兎も角、分裂するのが寄生体だと聞いて継実も納得する。ミドリ達はあくまで死体に寄生しているだけで、本体は不定形の生物という話だった。その生物が分裂するのなら、地球生命的にも違和感はない。

 単身で繁殖出来るなら、分散によるデメリットはより小さくなるだろう。それこそ一人でも、何処かの星で適応すれば良いのだから。ミドリ達の種族は宇宙を股に掛けた繁栄をしているようだが、条件を選ばない繁殖力も成功の一因なのだろう。

 ミドリも肯定しているので、エリュクスの話は真実である。成程なと感じ、継実はこくりこくりと頷いた。

 故に、ますます疑問を抱く。

 

「じゃあ、なんでわざわざあなたは地球に来た訳?」

 

 エリュクスが地球にやってきた理由が、とんと分からなかった。

 星を渡るというのは大変な事だ。宇宙というのは兎にも角にも広大であり、それでいて間には何もない。例えば文明末期の人類が確認した中で、最も近い恒星系で四光年以上……距離にして()()()()()()も離れているのだ。この間を満たすのは、一立方メートル当たり一粒もあれば多い方とされる小さな水素原子だけ。どんなに高度なテクノロジーを費やそうとも、物質がない故に補給さえも儘ならない、絶対的な虚無が支配している。

 ミドリ達の種族がネガティブに追われた時のように、存亡の危機にあるなら星間航行も理解出来るというもの。或いは繁殖のために伴侶を求めてという事ならコスト度外視なのも頷けただろう。しかしどちらでもないなら訳が分からない。

 そんな理由から出てきた疑問だ。とはいえ、だからエリュクスに疑念があるとかなんとかという話ではなく、単によく分からないから尋ねただけ。宇宙船を開発するぐらい高度な文明なのだし、地球人の海外旅行よりも気軽に、宇宙旅行に行けるような技術力があるのかも知れない。地球文明的にはどう考えても不可能な話だが、江戸時代の農民に数百年後の日本では少しお金を出せば飛行機に乗れる(空を飛べる)と話しても理解出来ないように、科学力の差というのは話の前提を変えてしまうものである。

 エリュクスも微笑んだまま。無機質で、ちょっと感情が読めないけれども、真剣味は感じられない。

 だから。

 

「我々の文明を興してみようと考えていてな。現在はそのための土地探しをしているところだ」

 

 エリュクスの口からそんな一代プロジェクトが語られるとは、継実には思いも寄らなかった。

 そしてそれは、同族であるミドリにとっても同じらしい。目を丸くしたミドリは、身体を乗り出してエリュクスに問う。

 

「文明って、どういう事ですか?」

 

「幸運にも、我は高度な文明のある星に辿り着く事が出来、そのテクノロジーの習得と製造にも成功した。これを用いれば、ほぼどんな環境の星にも文明を、社会を形成出来るだろう」

 

「ほへー。いよいよSFって感じねー。そりゃ宇宙を移動出来る文明なら、なんでも出来ちゃってもおかしくないか」

 

「いや、制約は少なくない。確かに生命が存在しない星にも社会構築は可能だが、そのためのコストは莫大なものとなる。そもそも我々は繁殖のために他の生命体の身体が必要だ。宿主となる生命体が、問題なく生活出来る環境が好ましい。それに身体能力は、宿主とした生命の能力に依存する。適当に選ぶ訳にはいかない」

 

「だからこそ、候補地となる星、そして働き手となるかつての同胞を探しているのですね?」

 

「その通り。現在までに候補となる惑星は七つ見付けている。この星は、八番目の候補地だ」

 

 ミドリの言葉を肯定しながら、エリュクスはそう語る。堂々とした、今までで一番感情的(楽しそう)な語り口に嘘は感じられない。

 あくまでもまだ候補地探し。しかし本気で、彼が自分達の文明を再興させようとしている気持ちは伝わった。

 継実も文明人の一人。彼の気持ちは分かるし、それを実際にやってみせた行動力には敬意を表する。例えそれが、可能だと判断するだけの『力』を手にしたからだとしても、だ。

 ただ一つ、不安があるとすれば。

 

「み、ミドリ、宇宙に帰っちゃったり……しない、よね?」

 

 ミドリが地球から出ていってしまうのではないかという、そんな可能性。

 あまりにも不安だったからか、継実は無意識にその考えを口にしていた。ハッと気付いた時にはもう遅く、周りの三人の視線が継実に集まってくる。

 今更隠しても仕方ないし、何より一度はちゃんと訊かねばならない事。文明再興のために人手を集めていて、そして文明の候補地が地球外となったなら、エリュクスはミドリを地球の外へ連れ帰ってしまうかも知れない。

 そんなのは嫌だ。ぽろりと零してしまった恥ずかしさをぐっと飲み込んでから、継実はミドリの身体を抱き寄せる……しかしミドリの目を見ていると、言葉が詰まってしまう。

 ミドリの気持ちがどうなのか、訊いていない。もしもミドリが仲間と共に行きたいと言ったら……それを邪魔するのは、こっちのワガママではないか。

 ミドリを困らせたくない。だけど行かせたくない。矛盾した想いに気付けば、何を言えば良いのか分からなくなる。

 

「……大丈夫。あたしは何処にも行きませんよ」

 

 そんな気持ちが伝わったのだろうか。ミドリは優しく微笑み、継実の頭を優しく撫でながらそう答えた。

 顔を上げた継実を、ミドリはぎゅっと抱き締めてくる。大きくて柔らかな胸の膨らみに埋もれた継実は、ちょっと藻掻きながらその柔らかさから這い出た。が、またミドリは抱き締めて、胸に埋もれさせる。

 甘えたがりな子供をあやすようにしながら、ミドリはエリュクスと向き合う。

 

「こんな感じで、あたしは今この人達と家族ですからね。独り立ちする時が来ないとも限りませんが、今はその気がありません。この地球に文明を築くなら兎も角、他所の星に作るようなら、あなたのお手伝いは出来ないです」

 

 ハッキリとした言葉で、ミドリは同胞に告げた。ミドリの宣言のお陰で継実の心の重みはすっと消える。

 とはいえこれで万事解決とはなるまい。エリュクスからすればようやく会えた同族であり、貴重な人材なのだ。あの手この手で勧誘してくるかも知れない、と継実は警戒する。

 

「そうか。なら、仕方ない」

 

 ところがどっこい、エリュクスはあっさりと諦めた。

 ……あまりにも呆気なくて、継実の方が呆けてしまう。諦めてくれた方が嬉しいが、文明再興という目的に対する熱意がそんなものかという気持ちにもなったので。

 

「……え。諦めてくれるの?」

 

「不服か?」

 

「いや、不服じゃないけど、その、もうちょっと粘るかなーっと思って。人手とか欲しいみたいだし……」

 

「先程も話したが、我々自体は単為生殖が可能だ。時間は掛かるが、人手は我単独でも確保出来る。だから賛同したなら兎も角、拒否している同胞を連れていく理由がない」

 

「そもそもあたし達、あんまり同族意識とかないですしねー」

 

「宿主によって姿形だけでなく、物事の考え方も変わるからな。基本的価値観や知識はある程度引き継いでいるが、宿主の違いによる言動の変化はかなり大きなものとなるだろう。同族意識を持っていない個体を連れていった場合、却って作業効率は低下すると考えられる。強制するメリットがない」

 

 淡々と語られる、ミドリ達の種族的特性。思い返せば、ミドリ達の本体には知性がなく、宿主の神経を利用していると以前話していた。宿主によって考え方が変わるというのは頷ける話である。そして、例えばだが肉食獣と草食獣に寄生した二個体を無理矢理連れてきたとして……何時の間にか片方がいなくなっていたら、割と作業どころじゃないだろう。

 端から、心配するような事ではなかったのだ。安堵から継実はへなへなと、身体から力が抜けていく。

 そんな継実の姿がおかしかったのか、モモとミドリはくすくすと笑い。

 

「懸念は消えたか? なら、そろそろ食事はどうだろうか。我が同胞が、美味しい食事により考えを改めてくれるかも知れないからね」

 

 エリュクスからも、冗談交じりの言葉が飛んでくる。

 相変わらず自分は物事を重く考え過ぎだなと、継実もまたけらけらと笑った。



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異邦人歓迎06

 エリュクスが何処からともなく取り出したのは、正方形の箱だった。

 色は銀色をしていて、一片の長さは三十センチほど。切れ目などは見当たらず、金属の塊にしか見えない。

 それを目の当たりにした継実は、そして傍に居るモモとミドリも首を傾げる。何処からこんな大きなものを出したのかという疑問を棚上げにしても、疑問は未だに消えない。エリュクスはつい先程「食事はどうかな」と誘い、素直に受けた継実達に料理を振る舞うべくこれを出したのだ。宇宙食が出てくるなら兎も角、こんな金属塊を出してどうするというのか。

 そういえばエリュクスの宿主は有機金属で出来た生物らしいが、まさかこれをガリガリ齧れと言うのでは……

 と、継実がそう思ったのを察知したかのように、唐突に銀色の塊が()()()()。ぐにゃぐにゃと形を崩し、大きな皿のような形態へと変化したのだ。そして皿の中心からじわじわと、茶色いスープ状のものが染み出すように出てくる。

 

「これは我々が開発した分子変換装置だ」

 

 奇妙なものをまじまじと眺めていたところ、エリュクスが誇らしげに教えてくれた。勿論名前だけを聞いても、継実やモモにはピンとこない。ミドリだけが「ほへー」と感嘆した素振りを見せる。

 

「……どーゆー機械なのそれ?」

 

「簡単に言えば、空気から食事を作り出すものだ。我が辿り着いた文明では農畜産の次のステージとして、食糧合成が生産の基本となっている。これはそのための、個人用端末だ」

 

「空気からごはんかぁ。なんか味気なさそうねぇ」

 

 モモは怪訝そうな顔で、分子変換装置なる皿をまじまじと眺めていた。疑う事を知らない犬だけに、説明内容そのものに疑問はないようだが。

 人間的には、空気から食べ物を作る、というとなんとも胡散臭く感じるだろう。しかしよく考えてみれば、植物が作り出している炭水化物()は水と二酸化炭素から作られたもの。アミノ酸はそこに酸素と窒素をくっつければ作れるのだ。材料自体は空気中にいくらでも存在している。

 勿論それには大量のエネルギーが必要だ。特に窒素の結合エネルギーは極めて強く、簡単には壊れてくれない。銀色の物体の中には極めて巨大な、それこそ原子炉染みたエネルギーを内包しているのは確実で、驚異的なテクノロジーが用いられているのが窺い知れた。

 

「? 味など必要か?」

 

 ……ちなみに、美味しい料理のテクノロジーは地球の方が圧倒的に優れているらしい。しかも人類文明でなく、野生の状態で。

 

「いや、味は必要でしょ。食べても美味しくないじゃん」

 

「美味しさを求める必要はないだろう? 味覚とは本来、食べ物の栄養価を判断するための本能的指標だ。しかし我々は神経に内蔵した端末により、常時肉体のバイタルデータを意識出来る。常に栄養状態を判断出来るなら、味覚という曖昧な指標は必要あるまい。むしろ健康的な機能維持の邪魔だろう。ごく少数の食材だけ選んで食べるのは、健康上好ましくない」

 

「んー。確かに同じものばかり食べるのは良くないと思うけど、でもそーいうもんなのかしら?」

 

「というか必要ないって、もしかして味覚を排除したのですか? わざわざ外科的な処置をしてまで?」

 

「ああ。我が文明では推奨されている肉体改造の一つだ。他にもこの服には温度調節があるため、汗腺のような体温調節機能も除去している。我々の身体に無駄はない」

 

「へぇ。合理的な種族なんですねぇ」

 

 自分はしたくないですけど。そんな心の声が聞こえてくるような表情で、ミドリは答えていた。

 継実的にも、正直その考え方は好まない。野生の世界に浸って合理性は身に付いたが、味覚という『楽しみ』まで削ぎ落とす事が理解出来なかった。

 とはいえ異星人なのだから、価値観が違うというのも当たり前な話だろう。どっちが良いとか悪いとかの話ではない。どちらが『ある種の環境』に適しているかどうか。自然界にあるのはそれだけだ。

 継実としてはエリュクス、そして彼が寄生している種族のやり方にケチを付ける気はない。むしろそういう考え方もあるのかと、見識が広がった気分だ。知的好奇心が満たされた喜びに浸るように、うんうんと頷く。

 ……次いで、継実はちらりと分子変換装置に目を向ける。

 装置の上にはスープが溜まってきている。間違いなく、さっき見た時よりもずっと多い。

 だが、あまりにもすっとろいと継は感じた。のんびりお喋りを楽しんでいたのに、まだ一口分もない有り様である。今すぐ食べたいという訳ではないが、このままでは何分待たされるか分かったものじゃない。

 モモも食事の溜まりが遅い事に気付いたのだろう。味がないそうなのでそこまで物欲しそうにはしてないが、モモはちょっと眉間に皺を寄せながら分子変換装置を見つめる。

 

「なんか遅いわねぇ。これじゃあ何分待てば全員分出てくるか分かんないわよ」

 

「むぅ? おかしいな……ほんの数十秒もあればこの皿が満たされるぐらいには溜まるのだが。そもそもこんな液状ではなく、ゼリーのような固形物が出てくる筈だぞ」

 

 食べさせてもらう側だが遠慮を知らないモモが思った事を伝えると、エリュクスも怪訝そうに顔を顰める。どうやら彼にとっても、この遅さは想定外らしい。

 エリュクスが皿の端をとんとんと指で突くと、空中にタッチパネルと画面のような映像が投影された。エリュクスが画面の映像をタッチすると、画面は本物のコンピュータ画面のように変化する。如何にもSF的機能により、異常を探しているのだろう。色々操作しても、皿から染み出すのは相変わらず液体で、量も少ないが。

 超越的テクノロジーで謎に挑むエリュクス。対して継実は『目視』という原始的方法で機械の周りを見てみたところ、すぐに原因を理解してしまった。

 周りに無数の細菌が群がっていたのだ。

 勿論ただの細菌ではなく、ミュータント化した種である。食欲旺盛なだけでなく、恐るべきスピードで繁殖もしていた。作り出す傍から摂食・分解されていたため、皿から出てくるものが少量かつ液状化(腐敗)していたらしい。

 一応もっと細菌が増えれば、細菌同士の争いによりそれぞれの増殖が止まり、見た目上腐敗が停止したようになる。が、それは無数の細菌が跋扈する腐食スープ。慣れている自分達は兎も角、エリュクスが食べたら色々大変だ。

 

「(あれ? そういやエリュクスは細菌とか大丈夫なのかな? 地球からミュータント以外を一掃するぐらい、物騒な状態の筈なんだけど……)」

 

 連想的に脇道に逸れた心配が過ぎるが、エリュクスは未だに元気。きっと超技術でなんとかしてるのだろうと、雑に継実は納得する。

 それより、このままでは食事を始められない。

 

「ああ、もう。焦れったい。今回は私達がご馳走してあげるわ」

 

 五分以上の『待て』が出来ないモモが、エリュクスに代案を提示した。

 

「……確かにその方が合理的か。原因を解明し、対策を講じてから食事に誘おう」

 

「そうした方が良いわ。んじゃ、狩りに行きましょ!」

 

 悪意も何もないモモはエリュクスに文句も言わず、喜んで狩りに向かおうとする。

 確かに、『お客様』の立場にあるのはどちらかと言えばエリュクスだ。歓迎するのは地球側だろう。

 何より、継実もあの皿にちんたらと食べ物が溜まるのを待つのは焦れったい。『野生動物』はせっかちなのだ。

 

「良いよ。ミドリも行こう。というかミドリの索敵がないと、危ないし食べ物も見付からないしでしんどい」

 

「はい! あ、エリュクスさんはどうしますか? 危ないですし、此処で待っていてもらった方が良いですよね?」

 

 継実とほぼ同時に立ち上がったミドリは、エリュクスについて尋ねる。

 しかし継実が意見を出す前に、当のエリュクスがどうしたいかを答えた。

 

「狩りをするというのなら、我も連れていってほしい。文明再興のための調査として、この星の生態系について知りたい」

 

「えっ。でもこの星、正直どん引きするぐらいヤバい原住生物ばかりですけど……」

 

「地球人の前でそれ言うかね、ふつー」

 

「つーか、ミドリはもう殆どその星の住人じゃん」

 

「そうした危険生物の存在こそが重要だ。候補地として定めた後に発覚したのでは、計画が大きく狂ってしまう」

 

 宇宙人がどん引きするような星の住人二名がツッコミを入れるが、異星人二人は何処吹く風。エリュクスは至極尤もな動機を語り、ミドリは反対も出来ず継実の方を見遣る。

 ミドリ達曰く、ミドリ達の身体能力は宿主に依存する。エリュクスは自分が寄生した生物は宇宙でも有数の優秀さだと語っており、高度なテクノロジーの存在も相まって、それなりには『強い』だろう。少なくとも大気中の細菌にやられない程度の能力はある筈。

 なら、見ているだけなら多分大丈夫か。

 

「まぁ、そういうなら無理には止めないよ。食べられちゃっても知らないけど」

 

 そう結論付けた継実は、脅しの一言を付け加えながら同行を許可した。

 エリュクスは「感謝する」と述べながら、銀色の皿に手をかざす。すると皿は再び形を変え、エリュクスの手に接触。

 なんと、まるで溶け込むようにエリュクスの身体と一体化した。

 何処からともなく箱を出した原理はこれかと、驚きと納得を覚える継実。どんなテクノロジーによって可能になっているのか、ちょっと興味が湧いてくる。

 

「準備は出来た。何時でも行ける」

 

 とはいえ折角準備を終えたエリュクスの気持ちを萎えさせるのも、ちょっと気が引けるというもので。

 これは後で訊こうと疑問を胸に押し込んでから、継実は狩りのために此処岩礁地帯と隣接している密林へと向かおうとした。

 

「……いや、何処にも行く必要はないか」

 

 しかしすぐに、その足を止める。

 立ち止まったのは継実だけではなく、モモとミドリも同じ。エリュクスだけが不思議そうに目を瞬かされる。

 彼が一番、継実達が察知した気配に近いというのに。

 

「エリュクスさん逃げて!?」

 

 ミドリが警告したものの、彼が動き出すよりも事態の進展の方が早い。

 エリュクスの立つ岩礁を砕き、細長い生物が姿を現す!

 継実はすぐさま振り返り臨戦態勢へ。どんな奴かは分からないが、感じ取れる強さは『程々』でしかない。これなら三人、いや実力未知数の四人目と共に挑めばなんとでも出来る――――超人的計算速度と野性的合理性からそう結論付けた継実は、現れたものに臆さない。

 されど継実の身体は、それを目にした瞬間に固まる。

 恐怖などしていない。驚いた訳でもない。ならばどうして継実が固まったのかと言えば、それは『未知』への反応。

 

「……は?」

 

 本日二度目の、呆気に取られた声が継実の口から漏れ出る。

 継実達の前に現れたのは、異星人の宇宙船に匹敵する、訳の分からない生物だった……



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異邦人歓迎07

「(これは……えっ、何コレ!?)」

 

 現れたモノの姿に、継実は思わず目を丸くした。

 目測による体長は凡そ三メートル。しかしこの程度の大きさに今更驚きも戸惑いもしない。継実を惑わせたのは、その不可思議な外見そのもの。

 ヘビやミミズのように細長い身体は一見して、甲殻を持たない軟体動物のようにも見える。しかし粘液などに覆われておらず、乾いた表皮をしていた。触れば程良い弾力がありそうな、独特な肉質が見て取れる。そいつはその柔らかさを物語るように、ぐねぐねと身体を左右にうねらせていた。

 頭からは触角のようなものが生えていたが、昆虫やエビのような節のある構造ではなく、細長い肉の突起と言うべきか。口にも顎と呼べるような構造体は見られず、ぽかりと穴が開いているよう。尤もその穴の中には鋭い牙がずらりと、円を描くように並んでいたが。顔には目のような突起もあったが、よく見れば先端には穴が開いていて、目ではないと察せられる。

 足は何十本と生えていて、ムカデに似ているようにも思える。この足も体節構造ではなく、チョウの幼虫の腹脚のような肉の突起と表現するのが正確だろう。足の先端には鉤爪のようなものが生えていて、器用にそれぞれが独立して蠢いていた。

 奇怪ながらも何処か愛嬌がある姿。日本では見た事がない生物だが、何処からか入ってきたミュータントとしての知識が継実にそれの正体を教えてくれる。

 

「コイツ……()()()()か!?」

 

 継実は思わず、その名を叫んだ。

 カギムシ。

 それは『有爪動物』と呼ばれる生物に属するものだ。一説によれば節足動物に近縁な生物群であり、生物進化の歴史を辿るのに役立つ貴重な存在として研究されていたという。一般的な知名度はかなり低い生物だが……継実達の目の前に現れた体長三メートルもの巨大種など、七年前には存在しなかったと断言しても良いだろう。

 そもそもカギムシは本来フィリピンに生息していない生物だ。とはいえフィリピンの周り、例えばベトナムやインドネシアには生息している。ミュータントと化したなら渡海能力そのものはあるだろう。生身の人間である継実でも、海洋生物達の妨害さえなければ、能力的には南極まで行くのになんの苦労もないように。

 一応生物好きな継実は、珍しい種の出現に少し好奇心を刺激された。が、考察に浸る余裕はない。

 カギムシは既にエリュクスに狙いを定め、ぽっかりとした口を大きく開いて中に並ぶ牙を露わにしていたのだから。恐らく頭からエリュクスを喰らおうとしているのだ。

 

「(だけど遅い!)」

 

 継実からエリュクスまでの距離は精々五メートル。この近さならば問題ない。

 継実は大地を蹴って、カギムシ目掛けて跳躍。

 その顔面に強烈な蹴りをお見舞いし、長大な怪物を仰け反らせてやった! 継実は反動を利用して岩礁地帯へと戻り、軽やかに着地。カギムシの方はぶるぶると身体を震わせながら、少し距離を取る。

 

「――――何」

 

「お客さん、ちょっと待っててね。今から食材調達してくるからっ!」

 

 遅れて、驚くように目を見開くエリュクス。そのエリュクスの肩をぽんっと叩いてから、モモも戦列に加わった。

 

【ピロロロロロロロ……】

 

 前に出てきた継実とモモを見ると、カギムシは口から宇宙生物染みた、奇怪でおどろおどろしい鳴き声が吐き出される。聞いているだけで不安になる声だ。長大で、うねうねと動く身体も、七年前の人類ならば大半が不気味さと嫌悪を覚えるだろう。

 しかし今の人類は、声や見た目に惑わされない。むしろ継実はじゅるりと、出てきた涎を啜る。

 粒子操作能力の応用による観測で、このカギムシに毒がない事を確認したのだ。コイツは獲物に出来る。しかもこれだけ大きい身でありながら、動きは大して速くない……パワーに関しても左程強くない筈。

 弱くて大きくて毒がない。正に理想的な獲物だ。

 だからといって継実は油断などしない。もしも本当に理想の獲物だったら、そんなものが自分達の前に現れる訳がないのだ。何故ならそのような生物は他のミュータントがみんな食べてしまって、とっくに絶滅していなければおかしいのだから。

 その生き残りの秘密は、すぐに明らかとなった。

 

【ピロロロロ!】

 

 カギムシが鳴いた瞬間、口の横にある二つの突起から『何か』が射出された。

 白い物体だ――――と飛んできたものを目視で認識する継実だったが、回避は取れない。発射されたものが()()()()()()()とあまりにも高速で、継実の反応速度と身体能力では、数メートルの間合いで躱すのは困難なのだから。

 

「ぐっ……!」

 

「継実!? 大丈夫!?」

 

「大丈夫! 傷は、な、い……?」

 

 腕に白いものを受けてしまった継実だが、声を掛けてきたモモに返したように、ダメージそのものは殆どない。だが、どういう訳か腕が上手く動かせない。

 見てみれば、左腕に白くてねばねばしたものが付着していた。

 どうやらカギムシが飛ばしてきたのは、粘着性の物質だったらしい。七年前に生息していた『普通』のカギムシも、口の横にある器官から糸を飛ばして獲物を捕らえていたという。ミュータント化し、更に巨大化した個体であっても、糸の発射能力は有しているようだ。

 それは良いのだが、継実が気になるのは左腕が殆ど動かせない事。粘着物質は腕に付いたが、地面にまでは辿り着いていない。ずしりとした重さこそあるが、精々数百グラム程度だ。継実の腕力にとっては、小さな埃ほどにも邪魔にならない重さ。なのにどうして左腕が動かない?

 能力を用いて観察すれば、答えは明らかとなった。

 粘着物質は少しずつ揮発しながら、()()()()()()()()()()()()。つまり空気に張り付いているのだ。これは揮発していながらも粘着物質の分子同士は連結しており、途切れていない事から引き起こされている現象である。その吸着力は凄まじく、継実のパワーでも引き千切れそうにない。

 しかも揮発するという事は、どんどんその粘着範囲を広げていく訳で。

 

「うぐっ!? 何? 身体が、上手く動か、な……!」

 

 粘着物質を直接受けていないモモまでも、その身動きを封じられてしまった。

 

【……ピロロロロロロロ】

 

 うごけなくなった継実達を見て、ゆったりとカギムシが接近してくる。ぱくぱくと、鋭い歯が並んだ口を物欲しげに開閉させながら。

 パワーがない。スピードがない。毒がない。

 継実はカギムシをそういう生物だと評していた。だが、考えを改めねばならない。正しくはパワーもスピードも毒も必要としない。緩慢で、確実に獲物を仕留めるスタイル……それがカギムシのミュータントなのだ。

 

「(こりゃヤバいか……!)」

 

 継実はなんとか身体を動かそうとしたが、身動ぎ程度が精いっぱい。何しろ揮発したものだけでモモの動きすら妨げる粘着性だ。粘液が腕に付いている状態の継実がまともに動ける筈もなかった。

 粒子ビームで焼き払おうにも、手の角度が殆ど固定されているのでそれも困難だ。全身から熱を放出しても、粘着物質の揮発量を増やすだけで逆効果。粒子テレポートで抜け出したいが、揮発した粘着物質の所為で表皮の粒子が動かせず、このままでは全身の生皮を剥いだような状態で抜け出す羽目となる。

 継実の能力だとどうにも出来ない。相性の悪い奴という事だ。継実の一人旅だったら為す術もなく、頭からバリバリと食べられていただろう。

 本当に、一人旅でなくて良かったと継実は思う。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()、この拘束を抜け出る事は容易い。

 

「嘗めんじゃないわよ、このイモムシがァ!」

 

 モモは咆哮と共に、放電を始める!

 全方位に向けて放たれた電撃。それらは空気中を漂う粘着物質にも浴びせ掛けられた。

 電気は物質を化学的に変化させる。例えば電気を流された水が水素と酸素に分解されるように。ミュータントの身体は電気に抵抗性を持つモノも多いが、カギムシの粘着物質はどうやら『並』だった様子。どんどん電気により性質が変化し、粘着性を失っていく。更に粘着物質は揮発しても分子同士が連結していた。電気は繋がりを通じて流れ、一瞬にして揮発した物質全てに伝播する。

 継実達の身体が自由を取り戻したのもまた、一瞬の事だ。

 

【! ピロロロロ……】

 

 継実達が動き出すや否や、カギムシは後退を始めた。相性の悪さを察知し、逃げようとしているらしい。

 判断は早い。だが動きは遅い。粘着物質の効力がまだ残っているならそれでも問題ないが、完全に機能を喪失してしまえばただのノロマだ。

 

「逃がすかっ!」

 

 継実が飛べばすぐカギムシの背後に回り込み、頭の近くに抱き付く事が出来た。

 カギムシは身体をのたうち回らせて暴れるが、動きの鈍さから予想した通り、パワーも大して強くない。能力一辺倒のタイプだ。

 こういうタイプは、肉薄してしまえば後は簡単である。

 

「ふんっ!」

 

 継実は腕を回してカギムシの頭を圧迫。ただそれだけで、節足動物ほど硬くもないカギムシの表皮はぐしゃりと潰れた。

 カギムシはしばし暴れ続けたが、やがて身体のエネルギーが尽きたのだろう。岩礁の上に倒れ伏し、もぞもぞと足を動かすだけとなる。

 活動している、という意味ではまだ生きていると言えよう。だがその命が回復する事はもうないのだから、『仕留めた』といっても過言ではない。

 

「「いぇーいっ!」」

 

 狩りを成功させて、継実とモモはハイタッチ。喜びを分かち合った。

 ミドリもニコニコと微笑みながら、継実達の下へとやってくる。

 

「お疲れ様です。すみません、あたし全然お役に立てなくて」

 

「まー、偶にはそーいう時もあるわよ。元々ミドリは後方支援型だし」

 

「うんうん。あ、そうだ。ミドリもコイツに毒がないか見てくれない? 私が見た感じではなさそうだけど、念のためにね」

 

「そうですね。エリュクスさんの免疫だと、ダメなものとかあるかもですし」

 

 気楽な会話を交わしながら、ミドリは毒の有無を調べる。大丈夫というお墨付きをもらったら継実が解体を進め、モモはこっそりとその肉片を摘まみ食い。

 そんな様子を、エリュクスは唖然としながら眺めていた。

 

「エリュクス。どしたの?」

 

「……ああ、いや。驚いていた。このような生物がいるとは、予想もしていなかった。戦闘能力の高さも、な」

 

「まー、今回はむしろ楽な方だけどね。ほら、腐る前に食べちゃいましょ。お料理も何もない生肉だけど、これがうちの星の流儀だし」

 

「いや、火ぐらいは通しましょうよ。高熱出せるでしょ、継実さんなら」

 

「だってめんどいし、臭いとか出すと肉食獣が集まるかもだし」

 

「あのですねぇ、別に普段から料理しろとは言いませんけどせめてお客さんに出す料理ぐらいは……」

 

 料理をサボりたがる野生動物に、文明人ミドリがくどくどと説教を始めた。聞く気がない継実は顔を背けて知らんぷり。

 こんな風に継実達が盛り上がっていた、丁度その時である。

 

「……素晴らしい」

 

 ぽそりと、エリュクスの口から言葉が出てきたのは。

 声を聞いた継実は眉を顰める。褒められた、というには違和感のある言葉遣い。そもそも面と向かって言われた訳ではなく、思った事をそのまま呟いたようにも聞こえた。

 小さな違和感が継実の胸に芽生える。

 ……芽生えたが、すぐに摘まれた。エリュクスは異星人に寄生した異星人。彼が何を考えているかなんて分かりっこないし、そもそも日本語を完璧に使えるとも限らない。かつてのミドリが物凄く拙い話し方をしていたように、エリュクスの日本語がちょっとおかしくても、『そういうもの』でしかないのだ。

 だから継実は聞こえた言葉を気にしない。

 こんなつまらない一言よりも、今は捕まえたカギムシを美味しくいただく方が大事なのだから。



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異邦人歓迎08

 大海原の広がる東側の地平線の先に、眩い輝きを放つ太陽がある。

 南国フィリピンのそれに相応しい力強さであるが、夜の間によく冷えた空気のお陰で不快な暑さは感じない。空には小さな雲が疎らに浮かぶだけで、透き通るような青空が何処までも広がっていた。吹き付ける風はちょっとばかり強めだが、強い日差しの中では却って心地良いというもの。

 今日も爽やかな一日になりそうだ――――そう予感させてくれる、素敵な天気。

 

「ぎもぢわるぅい……」

 

「ぎもぢわるうぅぅぅぃぃ……」

 

 そんな天気を前にしながら、継実とモモは双子のように同じ言葉を口に出す。

 勿論この言葉は青空と太陽に向けた訳ではない。彼女達は己が内面に込み上がってきた気持ちを言葉にしただけ。

 何しろ継実は顔面蒼白で、ふるふると身体が震えているのだから。モモの顔色は普通で、身体の震えもないが、彼女の身体は作りもの。中身の方は今頃顔を青くしてぶるぶると震えているだろう。

 二人揃って体調不良になっていた。それもかなり重篤な状態。正直継実は立っているのもやっとな状態である。

 ちなみに二人が朝日を真っ正面から眺められる場所、正確には岩礁地帯の海沿いに立っているのは、美しい朝日を拝むためではない。吐き気などは今のところないが、もしも込み上がってきた時、咄嗟に海に向けて吐き出せるようにするためだ。吐瀉物の臭いで猛獣が寄ってくるかも知れないので、こうして海に吐き捨てて痕跡を消さねばならない。自然界ではどれだけ体調が悪くとも、何も考えずに休む訳にはいかないのである。

 

「うぅ……こんなに体調悪いの、何時ぶりかなぁ……」

 

「私は、生まれて初めてかも……なんか変なモノ、食べたかなぁ……」

 

「変な虫なら、食べたけどねぇ……」

 

 原因があるとすれば、昨日食べたカギムシぐらいだと継実は思う。

 毒がない事は継実だけでなくミドリも確認している。味覚という形で感じ取った成分にも、違和感のあるものは含まれていなかった。しかし継実達の観測能力で分かるのは、あくまでもその生物自身に含まれる毒のみ。

 例えば表面、或いは内臓に含まれていた細菌が、強力な食中毒菌だったかも知れない。はたまた胃酸や酵素と結合し、有毒化する特殊な物質があったという可能性も考えられる。『見た目上無毒』だとしても、自分達が体調を崩す理由は幾らでも考え付いた。

 果たしてそうした事が原因なのだろうか? しかし継実としては、どうにもしっくり来ない。

 

「あの……大丈夫ですか?」

 

 何故なら今し方心配した様子で近付いてきたミドリが、何時もと同じように健康的なのだから。

 食中毒とは体調や体質、更には食べた部位により、患うかどうか個人差が出てくる。そういう意味ではミドリだけが元気だとしても、なんら不思議はないのだが……体力面だけで言えば継実やモモの方が圧倒的に上の筈。食中毒ならどうしてミドリだけがぴんぴんしているのか、全く分からない。

 とはいえ今はそれを疑問に感じるより、ミドリだけでも元気だった幸いを喜びたいと継実は思う。ミドリも倒れていたら、正しく『全滅』なのだから。それぐらい継実もモモも体調は思わしくなかった。

 

「うぅん……あまり……起きた時より悪くなってるぐらいかも……」

 

「私もぉ……」

 

「ええっ!? あ、あの、あたしに何か出来る事ありませんか……?」

 

「索敵、念入りにお願い……割と本気で頼んだから。今、ちょっとでも強い奴に、襲われたら……何も出来ずに殺される……」

 

 本気のお願いに、ミドリは「分かりました!」と力強く答える。ミドリの索敵能力は優秀だ。これで不意打ちを受ける危険性はかなり減らせるだろう。

 しかしながら昨日のハマダラカのように、ミドリでも見付けられない生物もこの地には居る。ミドリが全身全霊で周囲を探知しても、接近に気付けない生物が来ないとも限らない。

 それに継実としては、そろそろ本当に立っているのも辛くなってきた。モモも似たようなものだろう。横になって休んだ方が良いのだろうが、こんな岩礁の上では流石に寝心地が悪い。もっと言うなら開けた場所で横になるなど、捕食者ひしめく自然界では自殺行為である。

 何処か敵に襲われる心配が少ない、安全な場所を探さねばならない。

 幸いにして、今の継実達にはその場所に心当たりがあった。

 

「まだ辛そうだな。我が船の中で寝たいなら、好きな時に休むと良い」

 

 日差しを遮るように降下してきた、エリュクスの宇宙船だ。潜水艦に似た船体の前側が左右に開き、中から現れたエリュクスが継実達に休むよう促す。

 エリュクスの船で寝るのは初めてではない。昨晩は有り難く使わせてもらっていた。何しろエリュクスの船はなんらかの光学迷彩を施しているようで、継実やミドリには見えるが、モモには視認出来ないような代物だ。見える連中からすれば非常に目立つので、巨木の洞や洞窟と比べて安全かはちょっと疑問だが……岩場の上で大の字になるよりは何万倍もマシだろう。洞窟などが見付かっていない今、拒む理由は何処にもない。

 

「うん……そうする……モモ、ミドリ。行くよ」

 

「あい、任せたぁ……」

 

「ご、ごめんなさい。あたし、飛べなくて……」

 

「気にしないでぇ……っと……」

 

 継実は力を振り絞り、まずは単身で浮遊。続いて力を抜いたモモとミドリも能力で浮かべ、共にエリュクスの宇宙船へと向かう。

 普段ならばモモとミドリぐらい重さも感じずに運べるが、体調不良である今日の継実はかなりしんどいと感じてしまう。それどころか自重だけでも力が足りず、がくんがくんと落ちそうになってしまう有り様。岩礁から宇宙船までの距離はほんの十メートルにも満たないのに、抱えているミドリを何度も心配させてしまった。

 どうにかこうにか継実は船に辿り着いたが、着地と同時に崩れ落ちてしまう。元気なミドリはどうにか体勢を立て直したが、モモはごろごろと床を転がった。身体の頑強さ故にこの程度で怪我などしないが、それでも申し訳ない事をしてしまったと継実は後悔。

 

「うぅ……モモ……ごめん……」

 

「気に、す、ん……なぁぁぁ……」

 

 モモはすぐに許してくれたが、その声はあまりにも弱々しい。

 力尽きるように継実達二人は床の上に転がったまま。すると宇宙船の床がぐにゃりと波打ち、継実達の身体を船内の隅へと運んでいった。

 継実とモモを隅まで寄せると、船内の床は二人を乗せた状態で大きく盛り上がる。次いで形を変形させて、柔らかで弾力のある、ウォーターベッドのようなものへと変化した。どぷんっといった水音こそ鳴らないものの、ついさっきまで床だったベッドは継実達の身体を優しく包み込む。

 木の洞だとか洞窟だとか、野宿生活を続けていた七年間。最早忘れていた文明の感触は、継実に速やかな睡魔を運んでくる。

 体調不良時には寝るのが一番。これならゆっくり休めそうだと継実が思っていると、隣から早くも寝息が聞こえてきた。チラリと視線を向ければ、モモが目を瞑り、動かなくなっている。どうやらもう寝てしまったらしい。作り物の身体であるため、眠りに入ったモモは微動だにせず、まるで死体のよう。

 眠ってしまえば、苦しみなんて感じない。されど身体は不調に反応しているのか、モモの作り物の顔は少し苦しそうに見えた。自分もあんな顔をしてしまうかも知れないと思うと、継実は少なからずミドリに申し訳ないなと感じる。こんな訳の分からない風邪だか食中毒だかで死ぬ気はないが、ここまで苦しそうな姿を見せたら、きっと彼女は心配してしまうから。

 それは継実の望むものではない。だけど疲弊した身体は、もう継実の意識を深淵に引きずり込もうとしている。

 気丈に振る舞えるのも此処までか。そう思った継実は、この場に居るもう一人にミドリを託すべく気合と根性で閉じそうになる目を開き、

 

「(えっ?)」

 

 胸の中にあった気合も根性も、全て吹き飛ぶぐらい呆けてしまう。

 だって、そいつは笑っていたから。

 継実の動体視力ですら一瞬しか捉えられなかった刹那の間、確かに笑っていた。即ち、ほんの僅かな気持ちのほつれから顔を覗かせた『本心』。偽りのない想いであり、見せたくて見せたくて仕方のないもの。勝利の余韻に早く浸りたいという、生物的本能の現れ。

 そういう気持ちがあるのは良い。問題は、露わとなったその『表情()』があまりにも身の毛のよだつものだったから。そして自分に向けて、その顔を見せていた事。

 そいつがどんな気持ちを抱いていたのか。所詮他人である継実には分かりようがない。それに何をしたのかだって分からない。正直に言えばちょっと笑ったように見えただけであり、熱に浮かされて見た幻覚と言われればそれまで。論理的にはなんの確証もない事だ。

 だが、本能的に感じる。

 ()()()()()()()()()、と。

 

「(ま、ずい……もう……意識が……)」

 

 せめて一言、ミドリにこれを伝えなければ――――心は強く願えども、身体はもう限界を迎えていた。本能的な危機感も、自分に対してなら働くが、他者の危機には知らんぷり。むしろ一秒でも早く『戦闘態勢』に移れと命じるように、意識のシャットダウンを促す有り様。

 想いに味方してくれるのは理性だけ。野生が鈍りに鈍った知的生命体ならもうしばらくは頑張れたかも知れないが、研ぎ澄まされた本能と身体に理性は一瞬で叩き潰されて。

 継実の意識は何も告げられぬまま、眠りという名の暗闇に沈んだ。



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異邦人歓迎09

「(……本当に、寝たようですね)」

 

 寝息を立てる継実とモモの姿を見て、ミドリはホッと、安堵の息を吐く。

 しかし心から安心する事なんて到底出来ない。

 寝ているにも拘わらず、継実とモモの顔は苦しげだ。意識はなくとも、身体はまだまだ苦悶の中にあるという事。疑いなど最初から抱いていないが、二人の不調が本当に酷いものだというのは窺い知れた。特に継実は眠りに付く前、何かを言おうとしていたが……それが出来なかった事から、相当に疲弊しているのだろう。一晩ぐっすりと眠り、体力は全快している筈なのに。

 

「二人とも眠ったようだ。船の高度を上げ、安全を確保しよう。この船がなんらかの生物に発見される可能性は低いが、熱圏まで行けば襲われる心配もなくなる」

 

 継実達の眠りを確認したエリュクスがそう言うと、僅かに宇宙船が揺れる。宣言通り、高度を上げ始めたのだろう。

 眠る継実達に、自分達の置かれている状況は分からない。

 いや、普段ならば『異変』を察知して起きただろうが、それが出来ないほどに今は疲弊しているのだ。されるがまま、地球の外側付近へと運ばれていく。

 唯一事態を理解しているミドリは、継実とモモの傍に駆け寄り……そしてしゃがみ込む。苦しそうな二人の寝顔を間近で見たミドリは、泣きたそうに顔を歪めた。

 

「……お二人とも……どうして……」

 

「我の方でも原因を調べてみよう。船のシステムを利用すれば、生体スキャンは問題なく行える」

 

 エリュクスが語れば、船はその意図を汲むかのように壁面や床の形を変化させた。アンテナのようなものが幾つも伸び、その中の何個から放たれた光が継実達に照射される。

 どのような調査をしているのか。見ただけでは詳細など窺い知れないが、高度な科学力は察せられた。これならきっと、継実達の不調の原因を調べ上げてくれるだろう。

 

「我々の科学力でも、外部スキャンだけでは知れる事に限度がある。血液や細胞片のサンプルも取りたいが、構わないか?」

 

 しかしエリュクス的には、念には念を入れたいらしい。

 そこまで必要なのかな? と思わなくもない。とはいえ調査は多角的に行う方が、真実を浮かび上がらせるには良いというもの。

 自分が二人の身体から採血やらなんやらする許可を出すというのは、ちょっと気が引けるが……二人はこの手の事を気にするタイプではないし、確実な治療のためなら仕方ないだろう。

 

「……じゃあ、お願いします」

 

「分かった。我々の採取技術であれば、痛みを与える事もない。すぐに作業は終わる」

 

 ミドリの許可を得たエリュクス。彼自身はなんの動きも見せていないが、天井から一本の管が伸びてきた。

 管の先端には非常に細い針があり、これを刺して採血するつもりなのだろう。早速針は継実の腕へと伸び、ぷすりと突き刺さる。管は金属的光沢を放っているため、中身を覗き見る事は出来ない。

 しかしミドリの観測能力ならば、中身の観測など造作もない事。管の中を流れていく血液を認識し、結構採るんだなと思い――――

 

「(……ん?)」

 

「む? こちらの、確かモモだったか? 彼女から採血が出来ないのだが、何が原因か知らないか?」

 

 首を傾げるモモだったが、エリュクスから尋ねられてそちらに視線を移す。

 天井から伸びてきた針はモモの腕にも刺さっていた。

 彼女の事を知らなければ、確かに採血出来ない事が不思議だろう。しかしその身体が体毛で出来ているという知識があれば、当然の結果としか思うまい。そこはただの毛の束なのだから。

 

「え。あ、ああ。モモさん、その身体は毛で作ったもので偽物なんです。本体は、ちょっと何処にいるか分からなくて……」

 

「そうか。出来れば彼女からもサンプルが欲しかったが、無理に採ろうとして傷付けては意味がない。同じ症状のようだし、一方から採血が出来れば調査は可能だろう」

 

 ミドリが説明するとエリュクスは納得したのか。モモからの採血は中断。スキャンのような調査だけを行う。

 精密な検査結果は、エリュクスに任せよう。ミドリはそう思いながら、自分に出来る事も探す。

 例えば体温測定。人間の平熱は三十六~三十七度であり、病原体が入っていると体温が上がるらしい。しかし体温というのは酵素を働かせるため、一定に保たねばならないもの。いわば諸刃の剣であり、高温であればあるほど体調が悪いと言える。四十度を超えると、かなり危険らしい。逆に言えばその高温状態は、身体を壊しても倒せない強力な病原体に犯されてある証とも言えるだろう。

 ミドリの能力を用いれば、分子の運動量から大凡の体温は測れる。その結果継実の体温はざっと三十九度になるかどうか。危険水準ではないが、それに近い悪さだ。モモの体温は更に高かったが、犬は人間よりも体温が高い動物。『悪さ』の程度としては同じぐらいだろうか。

 なんらかの病原体により、体調が崩れている。そう考えて良いだろう。

 

「(じゃあ、呼気からならどうでしょうか?)」

 

 地球に限らず大抵の生物であれば、病原体に身体を蝕まれている時、どうにかしてそれらを追い出そうとするものだ。咳や下痢などの諸症状は、そのための生理現象と言えるだろう。結果的にそれは周囲に病原体を広める行為でもあるが、自分が利益を得られれば適応的なのが自然界である。これで自分が健康になるなら、自分以外の個体が死滅しても生物的にはなんの問題もない。

 継実達は咳などしていないが、なんらかの病原体を吐き出そうとしている筈だ。呼気にそうしたものが含まれていないか? ミドリは意識を集中して、観察する。

 その目はすぐに見開かれる事となった。

 

「(えっ。これって……)」

 

 ミドリは辺りを見回す。その視線が向くのは船内の天井や床。

 嘗め回すようなミドリの視線に、エリュクスは何を感じたのか。訝しげな視線を向けてきたが、特に尋ねもしてこない。やがてミドリがその目を継実達の方に戻せば、エリュクスの意識もミドリから逸れた。

 だが、ミドリは継実達を見ながら、継実達以外の事を考える。

 どうして? なんで?

 理由を考えてみる。そうすれば様々な可能性が浮かんだ。良い考えもあるし、悪い考えもある。どれも一応は合理的な回答であるし、あり得る事だろう。そしてどれが真実であるかと確信するには、あまりにも情報が足りない。

 そう、足りないのは情報だ。今、何が起きていて、これから、何が起きようとしているのか。それを知るには情報がなければならない。

 今はまだ、動けない。

 だけど、もしも全てを知って、一つの可能性だけを信じるに至って、その結果が『悪い事』なら――――

 

「……………」

 

 ミドリの視線は自然と動き、それを見る。

 空中に浮かぶバーチャルなコンソールを叩き、真剣な顔をしながら様々な機材を操作している、エリュクスの姿を……

 ……………

 ………

 …

 果たして、どれぐらいの時間が流れただろうか。

 この宇宙船には窓がない。太陽どころか空も見えないので、今の時間を窺い知る事は出来ない状態だ。

 それでも腹具合などから判断して、夕刻にはなったぐらいかとミドリは思う。この感覚が確かなら、もう朝から半日以上経っているだろう。

 こんなにも長い間休んでいるのに、継実もモモも良くなる気配がない。いや、それどころか……

 

「なんか、悪化してる気がします……」

 

 ぽそりと、ミドリは抱いた印象を独りごちる。

 

「ぅ……うぅ……」

 

 ミドリが座り込んでいる傍には、継実とモモが寝ているベッドがある。恐らく半日は寝ている筈なのに、継実の顔色は眠る前よりも青くなっていた。それどころか未だ寝ているにも拘わらず息が荒くなったり、呻くようにもなっている有り様。

 モモの方は変化が見られないが、人の姿は作り物である。『本体』の調子は窺い知れないが、今に至るまで微動だにしていない辺り、良くはないだろう。

 これらはあくまでもミドリの勝手なイメージ。実際の体調がどうなのかは分からない……なんて言葉はただの気休めだ。見た目からしてここまで悪化しているのに、本当は良くなってるなんて希望的観測にも程がある。身体というのは存外正直者だ。悪くなってるなら悪くなるし、良くなってるなら良くなるもの。

 間違いなく、二人の体調は朝よりも格段に悪化していた。

 

「原因は未だ不明だ。病原体らしきもの、或いは腫瘍などの存在は確認出来ていない」

 

 エリュクスは空中に浮かぶコンソールを真剣な眼差しで眺めながら、ミドリの独り言に答える。

 不明。不明と来たか。

 ミドリはエリュクスの言葉を頭の中で噛み締める。彼の調査結果から得られたデータをよく理解し……そこから思考を巡らせる。

 未だ、確証は得られていない。

 当然だろう。事態はなんの動きも見せていないのだから。数多の可能性が脳裏を過ぎり、幾つかの選択肢の中は振り落とされたが、それでもまだまだたくさんの可能性が残っていた。数を絞る事は、まだまだ出来ていない。

 しかしここまではミドリにとっても想定内。

 

「(うん。ここまでは、あたしが考えていた通り。問題はここから)」

 

 もしも、全てがミドリの考えていた通りなら。

 まだ様々な可能性が残っている。どの結論に辿り着くかは分からない。しかし『一つ』の可能性についてなら、それが起きればすぐに定まる。

 もしも()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「そこで一つ、試してみたい治療法がある。我々の科学で作り出した万能薬があるのだが、これを投与してみたい」

 

 そしてその言葉を、エリュクスは口にした。

 ミドリは振り返り、エリュクスの方を見遣る。

 エリュクスはその手に、銀色の錠剤を持っていた。とても小さな、大きさ二ミリ程度の粒一つ。うなされている継実達でも、水と一緒にならきっと飲んでくれるだろう。

 けれども、ミドリはエリュクスからの問いにYesと答えない。

 

「? どうしたのかね。何か不安があるなら質問してほしい。この錠剤の基本的な効用や原理については把握している。飲んだ場合の副作用なども説明出来るぞ」

 

 中々答えを決めないミドリに、エリュクスは質問を促す。医療を行う上で、薬の効用や副作用を知るのはとても大切な事だ。投与前にその説明をしてくれるというのだから、実に誠実であろう。

 確かに、ミドリには訊きたい事がある。

 それはこちらの思い違いで、全くの勘違いかも知れない。色んな可能性を考えたといっても、所詮は世界の一面を見る事しか出来ていないのだ。未知の証拠Xが出てくれば、それだけで全てがひっくり返る。

 だけど訊かねば分からない。それに間違っていたらごめんなさいで済むが、合っていたなら……一刻の猶予もない。

 だから、問う。

 

「……エリュクスさん。その錠剤を飲ませる前に、一つ、お尋ねしたいのですが」

 

「ふむ。なんだね?」

 

 エリュクスはミドリと向き合う。淡々としていて、表情からも感情を一切感じさせない。

 見ていて、寒気がするほどに。

 しかしミドリは退かない。じっと、こちらを見つめてくるエリュクスの瞳と向き合う。気持ちを落ち着かせるように大きく息を吸い、それから吐き出し……

 思いきって、告げた。

 

「あなたが、お二人を病気にした張本人なじゃないのですか?」



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異邦人歓迎10

「……いきなり、失礼な事を訊いてくるものだ」

 

「おや、そうですか? 合理的な割に、礼節には五月蠅いんですね。てっきり感情面も合理化して、そういうのは気にしないと思ったのですが」

 

 ミドリが指摘すると、エリュクスはぱちりと瞬き。次いで考えるように、自らの顎を摩る。

 

「ふむ、確かに礼節など無駄の極みだな。それで? どうして我があの二人の体調不良に関与していると考えるに至った?」

 

 そしてあっさりとミドリの言い分を受け入れ、質問の意図を尋ねてくる。

 やっぱり合理的ですね……そう思いながらミドリはため息一つ。少しだけ肩の力が抜けた。

 しかし、すぐに身体の力を入れ直す。

 自身の予想が当たっているかは、ミドリにもまだ確証が持ちきれない。出来れば同族であるエリュクスの事を信じたいとも思っている。されど、もしも予想が当たっていたなら――――

 ミドリは覚悟を決めて、エリュクスの疑問に答えた。

 

「最初に違和感を覚えたのは、あなたが二人の身体を念入りに調べた時です」

 

「……ただ採血やスキャンをしただけではないか?」

 

「ええ。スキャンについては本当にただスキャンしただけだと思っていますし、採血だって血を抜いただけ。でもですね」

 

 抜いた血の中に、どうして()()()()()()()()()()()()()()()

 ミドリがそれを尋ねた瞬間、エリュクスはほんの一瞬、その目をぴくりと動かす。本当に僅かな動きだ。恐らく、ミュータントとなっていない生物では認識不可能なほどの一瞬。

 しかしミュータントであるミドリの肉体の目には、ハッキリとその動きが見えていた。いくら誤魔化そうとしても無駄なぐらいに。

 

「……ナノマシンとは、なんの話だ?」

 

「あたしが寄生しているこの身体を、あまり見くびらない方が良いですよ。その気になれば分子レベルの構造体を視認出来るんですから。ナノマシンなんて馬鹿デカい代物、見逃す方がおかしいぐらいです」

 

 継実の血液内に含まれていたナノマシンは、血一ミリリットル中に一つ程度の、ごく少量しか含まれていない。分子量も僅か一万程度と、一般的なウイルスの十分の一以下という軽さだ。しかも電磁的なカモフラージュまで施されている。恐らく七年前まで地球に存在していた人類文明では、そこから数百年分テクノロジーが進歩しなければ捕捉出来ないだろう。正に超技術だ。

 されどミドリの目が持つ『視力』にとっては、目の前を飛び交う小バエよりも簡単に見付けられた。脳のイオン交換すら正確に視認出来る目から逃れるなんて、それこそナノマシンに用いられている技術が更に数千年は進歩しないと無理だろう。

 そして血液の中まで丸見えな視力を用いれば、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「それと、空気中に漂うナノマシン。正直こんなに漂っていたら、嫌でも見えてきます。床や天井、壁からも、どんどん染み出しているのが確認出来ました」

 

 継実達は空気中のナノマシンを吸い込み、それが彼女達の体内を循環していた。

 勿論これだけで継実達の不調をナノマシンの所為だとは決め付けられない。だがナノマシンの発生源がこの船の床や壁、つまりエリュクスの持ち物ならば……なんの説明もなく吸わせた彼に対し、どうして猜疑心を抱かずにいられるというのか。更にミドリは目視でナノマシンを確認した後、物質の遠隔操作能力を応用してこれを吸い込まないようにしていた。ナノマシンを吸わなかったミドリが元気で、吸い込んだ継実達が体調不良。これで原因だと疑うなという方が無理だろう。

 とはいえこれだけでは、まだまだ言い掛かりの段階に過ぎない。例えば「我々の星ではナノマシン治療は一般的なもの。許可を取るという意識が抜けていた」等と言われたら、正直ミドリは言葉に詰まる。現状途方もなく胡散臭いだけで、ナノマシンが悪さをしているという確固たる証拠はないのだ。

 しかしおめおめと引き下がるつもりもない。そう答えられたら、じゃあナノマシン治療を止めてみろと言うまで。これで体調が回復すれば決定的だ。そしてミドリの目なら誤魔化しなんて通じない。強いて備えるとすれば、エリュクスがその通りにしても容態が変わらない、或いは悪化した時に、素早く彼に土下座をするという心構えぐらいなもの。

 どんな答えが来ても、こちらの心は揺さぶられない。ミドリはそう決心していた。

 だが、

 

「ふむ。最早騙しきる事は不可能か」

 

 肩を竦めながらエリュクスが独りごちた一言で、決心は容易く破られる。

 それは予想通りの言葉。何より、そう言わせようとしていた言葉でもある。

 だけどミドリの背筋は凍った。

 悔しがるでも褒め称えるでもなく、誤魔化すでも話を逸らすでもない。まるで大した事ではないかのように、機械のように淡々と、エリュクスは事態を受け入れたがために。

 

「……随分簡単に、認めましたね」

 

「どのような否定をしたところで、次にお前がしてくるのはナノマシン投与の中止要請だと判断した。それをすればこの二人の体調が回復すると思われる。目視出来るというのが事実であれば、口だけで誤魔化す事も不可能だろう。ならば、余計な誤魔化しは時間の無駄でしかない」

 

「これを訊くのも野暮ですけど、少し、隠蔽が雑じゃないですか。バレた時の事が、あまりにも考えなしです。あと仕込んだのが昨晩の就寝中だとしたら、あたしの身体に飲ませる事も簡単だったでしょうに、何故やらなかったのです?」

 

「正直なところ、ナノマシンの存在が明るみに出る事は想定していなかった。分子量一万の物体を、肉眼で認識可能とは思わなかったのだ。故に隠蔽については左程意識していない。また同族であるお前の身体にナノマシンを注入する意義を見出せなかった。此度の実験は、純粋なこの星の生命が対象だったからな」

 

 ミドリが尋ねると、ぺらぺらとエリュクスは理由を答える。どの答えもミドリにとって「成程」と思えるもので、嘘偽りは感じられない。

 しかしあまりにも正直過ぎる。いくら合理的だからって、悪足掻きの一つもしないなんて何がおかしい。これではまるで機械のようじゃないか……ほんのついさっき抱いたのと同じ印象により、ミドリはますます表情を強張らせる。

 相手の考えが読めない。

 そんなのは当たり前の話だ。けれどもエリュクスの考え方は、あまりにも読めなくて、不気味さを感じてしまう。

 

「な、何故こんな、継実さんやモモさんを苦しめる事をしたのですか! それに実験って、どういうことですか!?」

 

 堪えきれないとばかりに、ミドリはエリュクスに迫る。

 核心に触れられても、エリュクスは表情一つ変えず。

 

「この生物体の身体が、我々の新たな宿主としてより優秀だと判断したからだ。そして効率的な活用には生体構造の研究が必要だった。故にナノマシンによる解析実験と『標本化』を行っていた」

 

 さも大した事ではないかのように、その真意を明かした。

 

「宿主として、優秀って……そ、それに標本化!? どういう事ですか!」

 

「そのままの意味だ。我々の肉体も非常に優秀だが、この星の生命体のそれと比べれば格段に劣る。お前も、その身体に寄生したなら分かるだろう?」

 

「そ、それは、確かにそうですけど……」

 

「その肉体は我々の繁栄に役立つ。故に研究するのだ。なんらおかしな事ではあるまい?」

 

 確かに、地球の ― 正確に言うならミュータントと呼ばれる『形質』の ― 生物は途轍もない強さを誇る。自分達の故郷をたった一体で滅ぼしたネガティブを、継実でさえも殴り倒し、それより巨大な生物ならば虫のように踏み潰せるほどに。

 その観点で言えば、継実達の身体を欲するのは理解出来る。種族の安定的な生存のため、宇宙最強の肉体を手に入れるという考えは極めて『合理的』だ。しかしいくら合理的でも、そのために相手を苦しめるなんて許されない。ましてや標本化、つまり殺害なんてご法度だ。これが自分達の『倫理観』だった筈。

 良心に問い掛けるつもりはない。だが、やってはならない事をやった理由が知りたかった。

 

「で、でも! あたし達は死体以外に寄生しないって決まりがあったじゃないですか! まさか最終的に殺すから該当しないなんて、そんな屁理屈を言うつもりじゃ――――」

 

「必要を感じない」

 

「……え?」

 

「死体以外に寄生するのを禁じる、必要性を感じない。生体を用いた実験をしない意味もだ。それは我々の繁栄を妨げる要因であり、廃止するのが合理的だろう。それに人間の身体というのは確かに優秀だが、どうにも非合理的な考え方をし、味覚などの不要な感覚器も存在する。身体機能を維持したままそうした不必要な機能を削除するには、生体データが必要だ。生きた状態で調査研究を進めるのが最も合理的なのは明白だろう」

 

「な、にを言って……あなたは、何を求めて……!?」

 

 予想していなかった返答に、ミドリは戸惑う。その答えは、自分達の種族が抱いてはならない無秩序の衝動。

 本来なら、恥じて声にも出せぬ考え。

 

「我の現時点での目的は、この星の生命全てに我が同族が寄生する事。この星を、我々の文明を再建する土地として利用する事にしただけだ」

 

 しかしエリュクスは臆面もなく、ミドリには受け入れ難い計画を告げる。

 いよいよミドリは言葉を失った。口は喘ぐように空回りするばかり。頭の中には何故だのどうしてだの、無意味な言葉の羅列が流れていく。

 どうしてエリュクスはこんな考えになってしまったのか。確かにミドリ達の種族にも個人差はあるし、考え方は宿主の身体に引っ張られる。だがここまで一方的で、傲慢な考えはただの人格破綻者。こんな奴が星の脱出時に連れていってもらえるとは思えないし、身体の意識に引っ張られるにしても全てが上塗りされるなんて余程の事がなければあり得ない。

 それこそ宿主の種族が、地球に棲まうミュータント並に出鱈目でもなければ……

 

「(……ああ、そうか。そうなんですね)」

 

 否定のために考えていた言葉が、全ての答えとなる。

 彼が寄生している生物の文明は、極めて合理的なものだ。味覚さえも不必要と判断し、健康のために消去する事が推奨されるように。

 高度な文明を維持・発展させるためには、ある程度の効率化は欠かせない。エネルギーも資源も、どれだけ領域を広げたところで有限なのだから。しかし不合理なもの、非効率なものを徹底的に排除したなら、一体何が残るのだろうか? 社会制度ではなく、その社会を形成する生物として究極的に合理的なものとは何か?

 答えは簡単だ。繁殖だけを考えるものである。

 何故なら食べる事も、性欲も、意識も、生物がそうしたものを持つのは繁殖のためだからだ。いや、正確に言うなら()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。だから食欲がなくなろうとも、色欲がなくなろうとも、自我がなくなろうとも、繁殖衝動だけは決してなくならない。或いは、どうやっても消せないほど強い繁殖の意欲を持つモノが生き残る。

 繁殖第一主義――――これこそが、エリュクスの寄生した生物の文明を支配していた『思想』なのだろう。そしてミドリ達の種族は、寄生相手の神経系を利用する都合、宿主の身体が持っていた考え方をいくらか引き継ぐ。引き継いでしまう。本来なら基本的な倫理観ぐらいは保てる筈だが、しかし此度の相手はあまりにも合理的過ぎた。自分達の倫理観すらも塗り潰され、強過ぎる繁殖欲求が全てを消してしまう。

 エリュクスは完全に相手の思想に染まってしまったのだ。寄生種族の能力でも制御出来ないほど、強力な生命体を宿主としてしまったがために。

 

「……あなたが辿り着いた星は、今、どうなっているんですか」

 

「既に我の子孫の浸食は始めている。が、高度な文明故にこちらの存在はすぐに発覚し、駆除作戦も進められている状態だ。状況は悪くないが、未だ油断は出来ない」

 

「ああ。文明再興の地が欲しいというのは、二重の保険という訳ですか。浸食している星を援護するための拠点、そして万一敗走した時の避難場所と」

 

「そうだ。とはいえ、最早そのどちらの理由も必要ない」

 

 にやりと、エリュクスが笑う。

 今までと違う、心底楽しげな表情。

 

「この星に棲まう生命の身体を用いれば、我が辿り着いた星のみならず、宇宙全域に我々を広める事が出来る。母星を滅ぼしたネガティブも、銀河帝国と呼べる規模を誇る高度文明も、何も恐れる必要はない。我々が、宇宙で最も繁栄した種族となるのだ」

 

 ならばこの『ケダモノの欲求』こそが、エリュクスが抱く唯一無二の、そして心からの願いなのだろう。

 素晴らしいだろう? 賛同してくれるだろう? そう言いたげな同族からの微笑みと、ありのままの言葉。ミドリは僅かに後退る。

 悔しさで唇を噛んだ。こんなとんでもない考えの奴だったと、今まで見抜けなかった事に。

 悲しさから目許が潤んだ。折角会えた同胞が宇宙を危機に陥らせているがために。

 混乱から身体は震え、無力感から拳を握り締める。様々な感情が胸の中をぐるぐると渦巻き、頭の中に無数の感情が浮かび、思考を塗り潰していく。もう言葉なんて殆ど浮かばず、原始的な想いだけが心を支配する。

 だからミドリは――――真っ正面からエリュクスを睨む。

 

「……止めてくれる気は、ありませんか?」

 

「あったら最初からしていない。そもそも必要を感じない。種の繁栄は生物にとってごく当然の衝動ではないか」

 

「ええ、そうですね。あなたの言う事は、とても正しい。だから、仕方ありません」

 

 大きく息を吸い、吐いて、ミドリはエリュクスと向き合う。

 鋭い眼。溢れ出る闘争心。確固たる意思。

 例え内側を覗き込まなくても理解出来る状態から、発せられる言葉は一つのみ。

 

「あたしが……あなたをやっつけます!」

 

 かつての同族に向けての宣戦布告。

 同族の再興と繁栄を妨げるのは、反逆と言えるかも知れない。しかしミドリの心に暗雲などない。

 エリュクスが寄生相手の星の思想に染まったように、今のミドリもまた、とっくのとうに地球生命の一員なのだから――――



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異邦人歓迎11

 ほう。この我を止めるというのか。同意を得られないというのは残念だが、それがお前の考えならば仕方ない。ところで、ではどうすると言うのかね?

 恐らくエリュクスはそう問うための言葉を発すべく、口を開いていた。ゆっくりと、小さく。きっとこちらを嗜めるような、冷静沈着な話し方をしただろう。

 それに対するミドリの返答は既に決まっている。だから『問い』を待つつもりなんてないし、必要もなかった。

 ミドリには継実ほどのパワーなんてない。モモのようなスピードだってない。単純な殴り合いの強さで言えば、この星に暮らす小さなネズミにすら勝てるか怪しい有り様だ。支援特化型と呼ばれるのは(悪い意味で)伊達じゃない。

 だが、無限に広がる大宇宙の戦闘力ピラミッドから見れば――――多分()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「たぁりゃあぁっ!」

 

 ミドリ的には気合を込めた、恐らく継実やモモが聞けばうっかり笑ってしまうような掛け声。

 だがそれと共に繰り出されたのは、軽く音速を超える速さの鉄拳。

 超音速のパンチがエリュクスの顔面に突き刺さった!

 

「ほぐギッ……!?」

 

 彼が一言何かを発するよりも前に、ミドリの拳はエリュクスの顔面にめり込んだ。

 

「(ふぇっ!? えっ、当たった!?)」

 

 一発放ったパンチが見事に当たり、当てたミドリは大混乱。何しろ地球に来てからの二ヶ月近く、走り回って逃げる事しか出来ない立場だったのだ。というか逃げる事すら自分一人ではまともに出来ていない。出した拳がこうも綺麗に当たるなんて信じられなかった。

 されど彼女の身体スペックを鑑みれば、これは当然の結果だろう。超音速で質量数百グラムの物体が飛ぶというのは、エネルギー的には『艦砲射撃』とほぼ同じである。目視で回避出来る生命体など、早々いる筈がないのだ。宇宙的にも当たり前な考えが抜けてしまうぐらい、ミドリはすっかり地球の生態系に順応していた。

 ミドリが我に返るのに費やした時間はほんの十ミリ秒。もしもこれが継実相手なら、今頃十連コンボは反撃としてもらっているだろう。しかしこれまた並の生物には瞬き一回にもならないような一瞬の出来事。混乱から戻ってきたミドリはとりあえずこのまま殴り抜けようと、拳に力を込める。

 だが残念な事に、此度の相手は並の生物ではなく。

 

「――――むん」

 

 エリュクスはミドリが拳を振りきる前に、その腕に掴み掛かってきた。

 迷ったようでも、がむしゃらなようでもない、精密な動きでの接触。エリュクスの口から出てきた声にも苦悶はなく、彼が殴られた事など気にも留めていないと分かる。

 自分が強いと自覚した傍から見せられる、動揺がない相手の反応。またしてもミドリは戸惑ってしまうが、落ち着いて考えてみればエリュクスの反応の『理由』にはすぐ辿り着けた。

 不必要だから、非合理的だからという理由で、味覚すら除去するような『生物』だ。しかも神経に端末を組み込んで、常時身体の状態を見ているという話もしていた。

 なら、痛覚なんて肉体の動きを妨げる信号など()()()()()()()()()

 

「(ダメージじゃ動きが鈍らない……! ど、どうしたら……)」

 

 最初にミドリが思い描いていた『勝利プラン』は、自分がエリュクスをボコボコにする事でこの星の侵略を諦めてもらうというもの。徹底的に痛め付ければ、こんな危険な星にいられるか我は母星に帰るぞ! となって大慌てで逃げてくれると期待していた。

 しかし痛覚がなければいくらボコボコにしても「肉体的には問題ない」の一言で戦闘を続けられてしまう。いや、相手の肉体が脆弱なら気絶するまでボッコボコにすれば良いのだが……殴った時の手応えや相手の反応速度からして、そう簡単にはいかないとミドリは悟る。宇宙で最上級に優れた肉体という評価はハッタリではないという訳だ。

 これからどうしたら良いのか? 援護の経験は豊富になっても、直接的な戦闘を殆どした事がないミドリは『戦いながら考える』という行動に慣れていない。ろくに考えが纏まらず、おどおどと視線を泳がせてしまう。

 その行動が、ミドリに決断を促した。

 未だ眠りから覚めていない、継実とモモの姿が目に入ったのだから。

 

「(此処で戦ったら、あの二人を巻き込んじゃうかも知れません……!)」

 

 二人の身体は物凄く頑丈だ。核反応を用いた爆弾を直撃させても、隕石がぶち当たっても、どうにかしてしまうぐらいに。

 だけどそれは体調不良で失神している時でも維持されている硬さなのか? 人間である継実の能力は基本的にミドリ(の身体)と同じであり、解析した印象で言えば維持されている気がするが……エリュクスが流し込んだナノマシンにより、どんな影響が出ているか分かったもんじゃない。ましてや別種の生物であるモモなら尚更だ。

 このまま此処で戦うのは、二人を危険に巻き込むのと同義。ならばやる事は一つ。

 ミドリは腕にしがみついたエリュクスを振り解く事もなく、そのまま走り出す! エリュクスはミドリの意図を察したのか、腕を顔面目掛けて伸ばしてきたが、それよりも数段階早くミドリは『目的地』に辿り着く。

 船体の壁だ。

 

「え、えぇーいっ!」

 

 目を瞑むって、真っ直ぐに。まるで子供のような必死さで走るミドリは、そのまま船体の壁にエリュクス諸共激突。

 船の壁はミドリの体当たりによりぐにゃりと歪んだ、のも束の間、弾けるように吹き飛んだ! 船体の壁は即座に修復していき、穴はすぐに塞がったが、されどミドリ達はとっくに船外に出ている状態。ミドリとエリュクスは船体の外、大空を舞う事となった。

 ミドリの優れた視力は、自分達の居場所と環境を正確に捉える。此処は高度凡そ百二十キロに位置する『熱圏』だ。かつて人類が用いた定義では海抜高度百キロまでが大気圏であり、定義上この高さは宇宙空間となる。飛び交う分子一つ一つの運動力は極めて高く、凡そ二千度ほどあるが……しかし空気が非常に薄いため、極地がマシに思えるほどの寒さに満ちていた。

 ハッキリ言って、生命が短時間でも生きていける環境ではない。

 だがミドリは問題なく生きていた。呼吸も問題なく出来ている。これがミュータントの生存能力なのだ。

 

「(ぶぶぅー!? 分かっていたけどあたしの身体ってば非常識ぃー!)」

 

 それでも、やっぱり生身で大気圏外に出てくるのは困惑するというもの。宇宙空間で活動出来る多細胞生物なんて正に非常識の極みだ。

 これは地球生命としてではなく、宇宙生物としての考えである。だからミドリにとって非常識であるのと同じぐらい、エリュクスにとっても出鱈目な筈なのだが……エリュクスは顔色一つ変えず。

 無言のまま、ミドリの腕から離れようとした。

 

「(うっ!? は、放しませんよ……!)」

 

 ほぼ真空の大気中。喉を震わせても声など出ず、口が空回りするだけ。

 しかしそれでもエリュクスには通じたのか。彼は伸びてきたミドリの手を、力強く蹴り飛ばす。

 蹴りを受けたミドリの手に、大した傷は付いていない。されど蹴られた衝撃でミドリは飛ばされ、蹴った反動でエリュクスは反対方向に飛んでいく。

 離れていく動きをどうにかしたいミドリだが、ミドリ自身に空を飛ぶような力はない。この身を満たす原理の一旦は理解しているが、未だ完全制御が出来ていないミドリに身体を浮かすほどの力はないのだ。このままエリュクスは自由にするしか――――

 

「(いや、あたしだって飛ぶだけなら、出来ます!)」

 

 諦めそうになる気持ちを引き留め、ミドリはくるりと空中で向きを反転。エリュクスに背を向けた状態で、己の両手を前へと突き出す。

 するとミドリの手は、煌々と虹色の光を発し始めた。

 思い返せば、この力について継実達に説明した事がなかったなと、ミドリはふと思い出す。イモムシすらまともに倒せない、なんともしょうもない力。そもそも正確に言えば、これはミドリの能力ではない。

 ミドリが母星から脱出した際、護身用として持たされた『携帯用武器』の一つ。

 純熱滅却弾――――人類の言語で表現するなら、そのような名前になるだろうか。大気圏外に設置した個人用支援衛星から、空間粒子体伝導と呼ばれる方法でエネルギーを亜光速で送信……要約するに純粋な光・熱エネルギーをこの手に集めて、撃ち放つというものだ。

 本来これはエネルギーで敵を焼き払う攻撃であり、推進力として用いるものじゃない。けれども宇宙空間のように空気抵抗がない場所なら、光エネルギーだけでも進めるぐらいの力にはなるのだ。非効率極まりないが、やってやれない事はない!

 

「(いっけえぇぇぇっ!)」

 

 ミドリは光を全力で放つ! ミドリの身体は手から発せられる弱々しい推力により背中側――――エリュクスの方へと進んだ!

 

「! っ……」

 

「(逃がしません!)」

 

 逃げようとするエリュクスだったが、自由落下している状態では体勢を変え、受ける空気の流れを用いて移動するしかない。しかし大気が殆ど存在しない熱圏で受けられる空気の流れなど皆無。光を放出という推力を持つミドリから逃げられるものではない。

 

「(捕まえたぁ!)」

 

 ミドリはエリュクスの服を掴み、力いっぱい引き寄せる!

 エリュクスは掴まれた瞬間、反撃とばかりにミドリの顔面に掴み掛ってきた。口と鼻を塞ぐような掴み方で、凄まじい圧迫感を感じる。これがエリュクスの本気かどうかは分からないが、今の強さでも鋼鉄の板ぐらいならば簡単に握り潰してしまうだろう。

 しかしミドリにとっては、この握力でも子供にじゃれつかれているような『貧弱さ』しか感じなかった。痛くも痒くもない。

 ミドリはエリュクスの腕を左手で掴み、強引に引き剥がそうとする。それだけでエリュクスの手は呆気なく退かされた。エリュクスの顔に変化はないが、完全に力負けしていて、ミドリの意志に反する動きは出来ない。

 今度はこっちの番だと、ミドリは空いている右手で間髪入れずにエリュクスの服へと掴み掛った。無機質で、必要最低限の生地しか使っていないであろう服はパツパツで、指の先で摘まむ程度にしか掴めないが……ミドリの『驚異的』な握力を用いればこれだけ捕まえられれば十分。

 ミドリは渾身の力を込めて、ぐるぐると身体を回す! ミドリと共にエリュクスの身体も大回転。空中で、秒間数回もの猛スピードで円運動を繰り返した。

 エリュクスの顔はまだ変化一つ起こさない。全ての生物が、という訳ではないが、宇宙に分布する殆どの高等生物は『方向感覚』を持つ。自分の体勢を理解する感覚がなければ真っ直ぐ歩くという事すら出来ないのだから。故に一般的な生物がこの猛回転を受ければ、方向感覚を狂わされて相当苦しい筈なのだが……エリュクスの身体はこの状況になんらかの耐性があるらしい。恐らくそれも施術で取り除いたか、或いは神経に仕込まれた端末の効力で抑え込んでいるのだろう。

 なんと非常識な肉体なのか。尤もミドリが言えた事ではない。彼女もまた同じく高速回転しているが、眩暈一つ覚えていなかった。しかも施術だの端末だのを用いていない生身である。思考は聡明であり、回りながら自分の現在高度や落下地点の計算まで出来ていた。

 エリュクスが『人間』の身体を欲するというのも頷ける。だからこそミドリはエリュクスの野望を食い止めねばならないと、一層の決意を固めた。もしもこの身体を、本当にエリュクスに奪われたら……宇宙の全てが支配されかねない。感情も多様性もない、無機質な『バクテリア』が宇宙全域を飲み込むのだ。

 そんな宇宙、ミドリはお断りだ。故にエリュクスを止める(倒す)しかない。

 同族を手に掛ける事への嫌悪がない訳ではない。しかし躊躇いはない。ミドリは『地球生命』で、エリュクスは『侵略宇宙人』なのだから。

 

「(このまま、落ちていけば……た、多分大きなダメージを与えられる!)」

 

 ミドリは回転を止め、今度はエリュクスを強引に引っ張る。更に自分の姿勢も変更。

 頭を下に向け、エリュクスを抱きかかえるようにしながら、地面に真っ直ぐ落ちていく!

 

「む。これは……」

 

 エリュクスはミドリの意図を察知したようだ。それと、声が聞こえてくるようになる。

 大気密度がある程度増してきたのだ。ミドリ達は今までずっと自由落下を続け、ようやく地上近くになってきたのである。

 高度は既に海抜標高百キロを下回った。此処は所謂大気圏と呼ばれる領域であり、高度を下げるほどに大気濃度が増していく。また重力に引き寄せられているミドリ達の身体はどんどん加速し、身体前方にある空気を押し潰すように進んでいった。

 ロケットが大気圏に突入する時、高熱になるのは摩擦熱によるものではない。猛スピードで降下する際、進路上の大気を押し潰す事で起きる現象だ。ミドリ達も高速で降下している以上、この現象から逃れる事は叶わない。

 赤熱した空気を纏い、流星のように落ちていくミドリ達。しかし二人の身体に変化はない。この程度の高熱に負けるほどどちらも柔ではないのだから。

 だが、流星顔負けのスピードで地面に叩きつけたなら?

 

「(このまま、一気に……!)」

 

 もがいて拘束から逃れようとするエリュクスを、ミドリはぎゅっと抱きしめて束縛。熱圏を超え、中間圏を突破。高度五十キロに位置する成層圏に入れば、掻き分ける空気の音で何も聞こえやしない。

 ついに雲の下に広がる地上が見えてくる。真夜中の地上であるが、ミドリの目にはたくさんの生物の動きが確認出来た。識別出来るぐらい、地上が迫ってきたのだ。

 エリュクスは未だ表情一つ変えずにいたが、藻掻く時の力の込め方、暴れ方は激しさを増していた。彼がどうやって地上の近さを察知したかはミドリの知るところではないが、必死さからこのまま激突するのは不味いと考えているのだろう。つまり地上に叩きつけてやれば致命傷、とまではいかずとも、大ダメージにはなる筈。

 現在の高度は地上から十キロ。秒速一キロ前後で落下中のミドリ達なら、あと十秒で到達する。

 そろそろ準備だ。ミドリは身体の向きを少し変え、エリュクスを下側へ。こいつをクッションのように使ってやろうと位置取りを変えた。勿論エリュクスとしては大人しくしているつもりもなく暴れていたが、抱きしめるように拘束してしまえば抑え込むのは簡単だ。力ではミドリの方が圧倒的に上なのだから。

 造作もない作業はすぐに終わる。このまま激突させてやると、ミドリは最後に気持ちを引き締めた

 瞬間、にゅるりとエリュクスの位置が変わる。

 

「(あれ?)」

 

 手の力加減を間違えて、エリュクスが配置位置からズレてしまった? そう思ってエリュクスを動かそうとする、が、彼の身体はミドリの思った通りに動かない。

 いや、それどころかエリュクスはミドリの拘束から簡単に抜け出す。

 何故なら彼の身体は、()()()()()()()()()()()()()()

 

「りゅ、流体肉体……!?」

 

 目の前で見せ付けられた変化。しかし思い返せば、彼は自分の身体から『分子変換装置』を取り出し、また身体に溶け込ませるようにしていた。そしてエリュクスは自らの身体が有機合金で出来ていると語っている。

 固体の金属が有機生命体のような『柔らかさ』を手にする事は出来ない。しかし液体金属ならばそれが可能になるし、分離や合体も自由自在だ。考えてみれば思い浮かぶ筈だった事実を、このタイミングで思い知らされた。

 ミドリは逃げようとするエリュクスを捕まえようと反射的に手を伸ばす。動きの速さもミドリの方がずっと上。エリュクスの足をがっちりと掴んだ、が、エリュクスの足はぐちゃりと潰れ、あろう事かバラバラになってしまう。ミドリの拘束は叶わず、バラバラになったエリュクスの足は空中で再結合。何事もなかったかのような無傷の足を形作る。

 エリュクスは両腕を広げると、脇から膜のようなものが展開された。コウモリの翼のようなその器官により空気抵抗が増大し、彼の落下速度は急速に減速する。自由落下で落ちたままのミドリから見れば、エリュクスがふわっと急浮上していくような光景。思わず空の方へと振り向き、届きもしないのに両腕を伸ばしてしまう。

 

「(あ、ヤバいです。もう地上近い――――)」

 

 自分の失態に気付いた時には、もう何もかも遅く。

 ミドリだけが隕石のように地上に激突してしまった。落下場所は海沿いの岩礁地帯。本来ならば墜落の威力で岩が爆発したように砕け散るところだろうが、岩を覆い尽くしているミュータント化した藻や植物が衝撃を受け止め、岩自体を補強している。隕石並の衝撃があっても、撒き散らされるのは精々衝撃波ぐらいだ。

 それでもエネルギーが消えた訳ではない。衝撃波だけでも局所的な環境を激変させるだけの威力はあるのだ。ましてや生身でこれを受けようものなら、生半可な生物では原型どころか跡形も残るまい。

 

「あいたたたた……うぅ、頭からいっちゃっいましたぁ……」

 

 しかしミドリには怪我といえるものもなく、精々頭を()()()()事で呻く程度。のそのそと身体を起こし、立ち上がる。

 近くにふわりと降下してきたエリュクスと向き合うのに、身体的にはなんの支障もない。ただしこうした直接対決の経験がないミドリの内心は、『とっておき』の秘策を繰り出したのに失敗するという事態に酷く動揺していた。動揺を隠すため必要以上に強気な態度を取ってしまう。

 

「な、中々やりますね!」

 

「我としても想定以上だ。大気圏外からの生身で降下し、減速もなく着地して傷一つないとは。その身を用いれば、他の惑星への『入植』も容易だろう。やはり、是非ともほしい」

 

「それは入植じゃなくて、侵略って言うんです……」

 

 こちらの身体の『価値』にますます惹かれるエリュクスに、ミドリはハリボテの態度を捨て、本当の気持ちを引き締める。

 本番はここから。地面に足を付いて行う、真っ向勝負だ。身体スペックはこちらが圧倒的に上回っているが、エリュクスは変幻自在の肉体の持ち主。果たして経験に乏しい自分にどこまで戦えるか分からない……

 自分の優位性と欠点を自覚しながら、ミドリはエリュクスとの戦いに臨もうとし――――

 がくりと、ミドリの身体が崩れ落ちた。

 

「……あれ?」

 

 出てくるのは疑問の言葉。何故自分は膝を付いているのか? 戸惑いはあるが、しかし今はエリュクスに集中しようとどうにか立ち上がろうと足に力を込めた。

 しかしそれすら叶わない。

 自覚した瞬間、『不快感』達はミドリの意識すら埋め尽くすほどに自己主張を始め、身体の自由を奪い取ったのだから。



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異邦人歓迎12

 指一本動かすのすら辛い倦怠感。油断した瞬間に何もかも出してしまいそうな吐き気。割れると本気で思ってしまうほどの頭痛。目の前が真っ暗になるような眩暈。針を仕込まれたかと錯覚しそうな筋肉の痛み……

 襲い掛かる数々の『不調』。膝を付いた状態を維持する事すら難しい、度し難い苦痛が全身を蝕んでいく。

 自分の身体に何が起きているのか?

 ミドリの抱いたその疑問に答えたのは、彼女の正面に立つエリュクスだった。

 

「ようやく効果が出てきたか。免疫効果も極めて高い……船内のサンプルでも把握していたが、やはり一度殺傷して免疫を止めなければ寄生は難しいな」

 

「どう、いう……げほ!? けほっ、えほっ……!」

 

「お前の身体にナノマシンを投入した。かなり量を注ぎ込み、最初から殺傷モードで起動していたのだが、効果が出るのに随分と時間が掛かったな」

 

 ナノマシンと言われ、ミドリはすぐに自分の体内に意識を向けてみる。普通の生命なら、そんな事をしても体内の様子など見えやしないが……観測に特化したミドリの能力ならば観測するのに問題はない。

 確かに血液中には大量の、一ミリリットル当たり十個程度のナノマシンが流れていた。ナノマシンはかなり刺々しい形状をしており、血管や臓器を形成している細胞をズタズタに引き裂くように動いている。更には神経に流れている電流を妨害したり、酵素が行っている化学反応の阻害を行っていたりしていた。

 細胞に付けられた傷自体は即座に回復している。神経の電流や化学反応も邪魔されている分を補うように活性化していた。もしもそうした活動が行われていなければ、それこそ『即死』しているだろう。だが症状をゼロにする事は出来ず、それが重度の体調不良として表面化しているようだ。

 原因と理屈は理解した。しかしそれでもミドリには解せない。自分の目はナノマシンを捉える事が可能であり、故に宇宙船内ではナノマシンが体内に入らないよう対策をしていた。一体このナノマシンは、何時の間に入り込んだのか?

 

「(! まさか、落ちてくる時に……)」

 

 ふと思い出す、船から地上に落下していた最中にエリュクスから加えられた『攻撃』。

 口や鼻を掴まれた時があった。あの時は圧迫による攻撃だと思い、こんなもの全然効かないと考えていたが……エリュクスの意図は圧迫ではなくナノマシンの投入だったのだ。

 エリュクスの身体は液体有機金属で出来ている。故にその身体の中に大量のマシンを格納出来ていた。分子変換装置を身体から取り出したように。ナノマシンも同じように身体に格納し、手から放出して口や鼻から流し込んだのだろう。

 まさかそんな方法で流し込むとは思わず、ミドリは体内や口元を全く観測していなかった。もしもちゃんと観測していて、口の中に大量のナノマシンがあると分かったら……くしゃみ一つで全部吹き飛ばせたのに。

 しかしいくら後悔してももう手遅れ。入ってしまったものをああだこうだ言っても仕方なく、悔やんでいるだけ時間の無駄というものだ。

 それよりも目の前にいるエリュクスを優先しなければならない。

 

「ぐ……う……ぐぅぅぅ……!」

 

「これで立ち上がるか。通常の生物なら即死している状態でも活動可能とは、ますますその肉体が欲しくなる」

 

「それは誉め言葉と、受け取っておきます……理屈も、分からないようなら、この身体を使いこなせるとは、思えませんけど……」

 

「かも知れない。だがそのための研究だ。科学とはそういうものだろう?」

 

 エリュクスは野望を諦める気配もない。じりじりと、ミドリとの距離を詰めてくる。

 今までミドリは、持ち前のパワーの大きさでエリュクスを圧倒していた。

 しかし体調不良の今、そのパワーを全力で出す事は難しい。出せない事はないだろうが、多分普段の百倍ぐらいスタミナを消費する。一撃必殺で仕留められるならそれをぶちかませば良いだろうが、フルパワーでもミドリにそこまでの強さはない。無理をしても、数回パンチを繰り出した段階でへろへろになって倒れてしまうだろう。エリュクスが回避に専念していればそれだけで勝負が決してしまう。

 だとすると無理をしない程度の力で殴り掛かるしかないが、果たしてエリュクスにどこまで通じるのか。不安になるが、こちらの身体能力がエリュクスを圧倒しているのは事実。弱っていてもまだ互角だと、心を強く持ってエリュクスと向き合った。

 

「しかしこれで終われば楽だったのだが、見たところまだ十分な戦闘能力を有しているようだな。こちらとしても少し本気を出さねばなるまい」

 

 決心は、エリュクスの言葉でへし折られてしまう。

 あんなのはただのハッタリだ。そう思ってしまうミドリ。しかしこんなのはただの願望であり、なんの根拠もない。そして独りよがりな願望というのは、何時だって裏切られる。

 エリュクスの手足から、ずるずると白銀の液体が溢れ出る。

 液体はある程度の量が出てくると、エリュクスから千切れるようにして分離。まるで自意識を持つかのように液体は独りでに変形していき、高さ二メートルほどの高さまで盛り上がる。そこから部分的に凹みながら形状を変えていき……人型ロボットへと生まれ変わった。人型といっても人間的な皮膚などなく、表情だってない。頭部にあるのは単眼のような赤いカメラ。手足は関節が剥き出しで、金属フレームがそのまま外気に曝け出されている。胸部や腰は分厚い装甲で守られ、『スタイル』さえも歪だ。

 実に武骨で、可愛げがなくて、無駄を省いた『合理的』な形態をしている。

 恐らくこれはエリュクスが辿り着いた星で使われている、ロボットなのだろう。エリュクスから流れ出た液体は全部で三つ。現れたロボットも三つ。そのロボット達は全員、ミドリをじっとカメラで捉えていた。

 

「(あ、これは不味いですね)」

 

 本能的に感じる危機感。理性ではなく本能が感じたからか、驚くほど簡単にミドリの頭は『現実』を受け入れる。

 もしもそうでなかったら、一斉に駆け出してきたロボットに対して何も行動を起こせなかっただろう。

 

「ひっ!?」

 

 遅れて認識した恐怖の感情で声が引きつる。反射的に腕が縮み、胸の前で折り畳むように構えてしまう。

 ロボット達はミドリの動作など気にも留めず、真っ直ぐに突進。両腕を広げ、恐らくは抱き着くように拘束してくるつもりなのだと察せられた。

 襲い掛かるロボットのスピードは、正直ミドリから見ても()()()()()。すぐに全力で後退すれば逃げきれそうな速さだった、が、怯んでしまった事でそのチャンスを失う。今から逃げても、加速までに時間が掛かるので恐らく逃げきれない。

 いくらミドリが弱っているとはいえ、ただ抱き着かれているだけならダメージにもならないだろう。しかしだから黙ってこれを受け入れるなど論外。その油断が、口からナノマシンを流し込まれるという失態に結び付いたのだから。

 

「うっ……て、てやぁ!」

 

 ミドリは大きく、その腕を振り回す。

 構えにもなっていないような体勢で放つ、雑で大振りな攻撃。普通ならば大したダメージなどならない。

 しかしミュータントの腕力であれば、こんな適当なやり方でも金属の塊を粉砕する事など雑作もない。例えそれが高度な文明で作られた超合金であろうとも。

 ロボットの顔面に叩き込んだミドリの拳は、単眼状のカメラごと装甲を粉砕する! ロボットはそれでもミドリを掴もうとしてきたが、殴られた衝撃で機体は遠ざかるように後退……いや、ゴミクズのように吹っ飛んでいく。

 一体を吹き飛ばし、やった、と喜びたくなるミドリ。だが、相手は三体だ。

 残る二体は素早くミドリの両腕にしがみつき、その動きを妨げてきた。こんなもの、と思って今度は自信満々に振り解こうとする。が、その前に二体のロボットは突如として形を崩し、どろりと液体のようになってしまった。

 そして地面やミドリの足腰、それと腕を巻き込んだ形で固体化。一瞬にしてミドリは下半身と腕を金属に取り込まれてしまう。

 

「うっ……こ、このぐらい、痛っ!?」

 

 固められたとしても所詮金属。自分の力なら振り解ける、と思ったのも束の間、金属で固められた場所全体にちくりとした痛みが走った。

 なんだ、と考えた時には何もかも手遅れ。

 ミドリの身体を襲う不調が、一気にその強さを増大したのだから。

 

「あぐっ!? しま……」

 

 きっとこの金属の塊から注射器のようなものが生え、体表面に突き刺した場所からナノマシンを注入している――――最悪の考えが過ったミドリは、すぐさま身体に意識を向ける。予想通り体表面からじわじわとナノマシンが入り込もうとしていた。

 このままだと体調不良では済まない。青ざめたミドリは必死に暴れようとするも、ロボットが変化した金属は粘性も有していたようで、腕を振り回してもゴムのように伸びるだけ。引き千切ろうと身体を捻っても他の金属とくっつき、溶け合うだけで終わってしまう。

 暴れるだけではダメだ。そう気付いたミドリは打開策を求めて、右往左往するようにあちこちを見る。

 そこではたと気付く。

 このロボットや金属は、恐らくエリュクスにより操作されている。ならば、司令塔であるエリュクスを意識不明に陥らせれば、それらの動きも止まるのではないか?

 確証はない。が、操作者が気絶ないし死亡した瞬間制御不能になる機械なんて、あまりにもリスクコントロールを疎かにし過ぎだ。エリュクスが用いるテクノロジーのレベルからして、この手のセーフティはしっかりと作用している筈。

 エリュクスの意識を奪えば全てが解決する。

 ミドリからエリュクスまでの距離は、約十メートル。普通ならばどうやっても届かない距離だが、しかしミドリには普通じゃない能力が宿っていた。

 脳内イオンチャンネルに干渉出来る、元素の遠隔操作だ。今までミュータント相手に使っても、どうにもいまいち効果が上がらなかった技。されどエリュクスは自称宇宙でも優秀な種族の肉体であるが、ミュータントほどの身体能力はない。というか普通の生物は神経を弄くられたら即死するもので、なんやかんや耐えている方がおかしいのだ。この技を使えばエリュクスをきっと倒せる。

 

「(落ち着け……落ち着くんです……!)」

 

 意識を集中させ、エリュクスをじっと睨む。

 エリュクスはミドリの視線に気付き、警戒するように鋭い眼差しを向けてきた。だが無駄だ。どんなに警戒しようと、どんな防御を施しても、神経系への直接攻撃を防げる訳がないのだから。

 防げる訳がないのだ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「あ……あれ……?」

 

 ミドリの口から、ぽそりと声が漏れ出た。次いで顔を青くし、カタカタと小刻みに震える。

 神経が、見えない。

 そんな馬鹿なと思って何度もミドリは見直した。けれども結果は変わらない。

 エリュクスの身体には、一本の神経も通っていなかった。

 全くの想定外にミドリの思考が一瞬止まる。だがよく考えてみれば、それも当然かも知れない。身体が液体有機金属で出来ているのに、神経なんて『支柱』を残していたら変形出来る形に限度が生じてしまう。それでは変幻自在で優秀な肉体が()()()なものとなってしまう。

 進化の過程で退化したのか、それとも不要だからと切除したのか。経緯は不明だが、自分の必殺技が通じないと気付かされたミドリは身動ぎ。

 その隙を突くように、ミドリの目の前に新たなロボットが現れる。

 

「(あ。この機体、頭がない……)」

 

 自分が殴り飛ばした機体が戻ってきた。ただそれだけの事を認識するのにも、打ちのめされた心には時間が必要で。

 ロボットはミドリの口を塞ぐように、掴み掛かった。

 反射的にミドリは手を前へと出し、ロボットを突き飛ばす。しかしもう遅い。ロボットの手から出された大量のナノマシンは、もう体内に入り込んでしまった。

 どうしようと悩む暇すらなかった。急激に、そして止め処なく、今までも感じていた不快感が高まり……

 

「う、ぶぇぇ……」

 

 ついに吐いてしまった。

 一度吐くと、どんどんどんどん胃の中身が出てしまう。ついに胃液しか出なくなったが、それでも吐き気は収まらない。いや、吐瀉物と共に多少ナノマシンも出たのか、ほんの少し気持ちは楽になったが……もう、ミドリには自力で立つ事すら出来なくなっていた。下半身と腕を固定する金属に身を委ね、ぐったりと、磔にされたように項垂れる。

 これ以上の抵抗は出来そうにない。

 しかしまだ死んではいない。ミドリの身体の免疫システムが全力で動き、不快感や意識の酩酊を引き起こすほどの力でナノマシンの排除を行っていたからだ。じわじわとナノマシンの数は増していたが、すぐには生理機能を停止させるに至らない。あと半日はこの地獄の中でミドリは悶えているだろう。

 エリュクスは驚いたように、感動したように、何より呆れたように、その顔を顰める。

 

「ふむ。本当にしぶとい。身体機能の評価はどんどん高まっているが……流石にそろそろ大人しくなってほしいところだ」

 

 エリュクスがそう独りごちた。

 合わせて彼は、背中から大量の液体金属を()()()()()()

 比喩ではない。まるで氾濫した川のような、とんでもない量の液体金属が出ている。一体その身体の何処に溜め込んでいたのか、ついにエリュクスの背後に巨大な池が出来てしまう。

 池となった液体金属は次々と形を変えながら、空へと浮かび上がった。そこで全長十メートルほどの球を作ると、池から分離。更に形を変えていき、全長十五メートルにもなる、潜水艦のような『船』へと変化する。

 エリュクスの背中から出てくる金属はやがて止まった。だが今まで出ていた、池になるほど大量の金属はまだそこにある。金属の池からは次々と船が出来上がり、空へと飛び上がり……

 エリュクスが独りごちてから、時間にして恐らく一分も経っていない。

 たったの数十秒でエリュクスの背後には何十隻もの船が浮き、大艦隊を作り上げていた。

 

「……は、ははは。これは、流石に凄いですね……」

 

「我が持つ艦隊の一部だ。これだけあればお前に止めを刺すには十分だろう」

 

 唖然とするミドリに、エリュクスは淡々と告げる。これほどの大艦隊すらも戦力の一部とは、なんという『力』なのか。確かにこれだけあれば、自分を倒すには十分だとミドリは思う。

 やっぱり、自分なんかではこの程度が限界か。

 諦めたくはない、が、これ以上の手立てもない。何も出来なくなったミドリには、精々迫力のない眼差しで睨む事しか出来ない有り様。その最後の悪足掻きすら、エリュクスが生み出した艦隊の先端が開いて尖ったもの……砲台のような物体が現れれば恐怖で染まってしまう体たらく。

 自分は希少なサンプルだから、もしかしたらちょっとは手加減を――――なんとも甘い考えが過ぎったが、全く期待出来ない。継実という純粋な人間のサンプルがあるのに、自分という『不純物』混じりのサンプルなど必要なものか。精々生身が残っていれば使える程度にしか思わず、生き延びられてしまう方が面倒だからと確実に仕留める事を重視する筈。少なくともミドリがエリュクスの立場ならそうする。

 そんなミドリの考えが正しいと語るように、エリュクスは淡々と手を上げる。下ろした瞬間を、総攻撃の合図とするために。

 ミドリはついに恐怖に負けて、ぎゅっと目を閉じて『敗北』の瞬間から逃げようとした

 その時である。

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異邦人歓迎13

 ミドリがその爆発に気付いたのは、正直なところ直観によるものだった。

 頭上で何かが起きた――――脳裏を過ったそのイメージに従って顔を上げたところ、頭上で小さな、赤い輝きを目にする事となったのである。

 パッと見は星のようにも思えた光は、しかし夜空を埋め尽くす本物の星達と違ってどんどん輝きを弱めていく。ミドリの能力の『有効射程』は極めて長い。ちょっと精度は落ちてしまうが小さな島の全域をカバー出来るほどに。ミドリは殆ど考えなしに輝きの正体を知ろうと注視し、それが上空百二十キロという宇宙空間で起きた小規模な爆発現象だと知る事となった。

 だが、一体何が爆発したのか? 大気圏に突入する前に自壊した隕石? それとも文明崩壊後の七年間を生き延びた人工衛星?

 

「……何?」

 

 エリュクスはミドリよりも一瞬遅れて爆発に気付き、空を見上げる。しばし閃光の正体を探ろうとしていたのか、じっと睨むように目を細めていたが……

 不意にその目を大きく見開いた、瞬間、彼はその場から大きく飛び退いた。

 何十メートルにもなる跳躍。圧倒的な身体能力を見せられたミドリだが、しかしエリュクスが何故跳んだのかが分からず呆けてしまう。尤も、彼の行動を引き起こしたものを彼女は間もなく目にする事となったが。

 巨大な、光の柱だ。

 直径三メートルはあるだろう、眩い光が空から降り注いだのである。その光はエリュクスが生み出した艦船の一つに直撃。すると艦船はぐにゃりと溶けるように折れ曲がり、熱せられた鉄のように赤く染まる。

 最後にはぶくりと膨れ上がり、弾けるように爆発した。

 降り注ぐ閃光はまだ終わらない。閃光は大きく動き、他の艦船までも次々と飲み込んでいく。艦船達は動き出してこれを回避しようとするが、閃光は鞭のようにしなって一隻も逃さない。

 僅か数秒後には、何十と浮遊していた異星の大艦隊は跡形もなく消滅していた。

 ミドリは動けず、その場に居続けた。一瞬で超高度文明の兵器を一掃したのだ。これを恐れるなという方が無理であり、ミドリの腰はすっかり抜けてしまったのである。もしもあの光がミドリの方にやってきても、ミドリには身動ぎぐらいしか出来ない。

 だけど動けなくなった一番の理由は、その光に見覚えがあったから。その光は『彼女』の大技だったから。

 故にミドリは、笑う。

 

「ああ……来て、くれた……!」

 

 ミドリの声に応えるように、ずどん! という音と衝撃波、そして大地の揺れが起きる。

 濛々と立ち昇るのは粉塵。ミドリが落下した程度ではビクともしなかった藻に包まれた大岩が、砕け散って舞い上がったのだ。大小関わらず破片が落ちてガラガラと音が鳴り響く中、粉塵の奥深くにうっすらと黒い影が見えた。

 影は動く。粉塵の外を目指すように。

 その歩みに一切の弱さはない。しっかりと大地を踏み締め、自分の足で真っ直ぐ立っている。粉塵の外へと出る直前に大きく振り上げた腕の力もまた強く、粉塵を一瞬で吹き飛ばした風からもその頼もしさを感じ取れた。

 もう、彼女は完全復活したのだ。

 

「継実さん……!」

 

「お待たせ、ミドリ。今まで頑張っていたみたいね。あ、モモも元気になったよ。空飛ぶの苦手で、離れたところに落ちちゃったけど」

 

 ミドリが出した弱りきった声を、継実はしっかりと受け止めてくれた。

 どうやら熱圏に浮かんでいた船を自力で破壊し、そのままミドリの下に直行してきてくれたらしい。嬉しさからミドリが目を潤ませながら微笑めば、継実もにっこりと優しい笑みを返してくれる。しかし彼女がミドリを抱き締めたり、労うように頭を撫でたりする事はない。

 すぐにその顔は獰猛さと怒りに満ちたものへと変わり、ミドリではない異星人――――エリュクスへと向けられたのだから。

 睨まれたエリュクスは恐怖で後退り……等という事はなく、彼は目を丸くしながら継実と向き合う。十メートルと離れた岩礁の上で呆然と立ち尽くす姿は間抜けにも見え、今までの狂気的な雰囲気はすっかり薄れていた。

 

「……信じられん」

 

 その状態で、ぽつりと独りごちた言葉。

 これが彼の心境を、最も的確に表しているのだろう。

 

「何が? 私がアンタに敵意剥き出しな事? それとも私が生きている事?」

 

「両方だ。何故お前は我に敵意を向ける? 我とお前の間には信頼関係があったと思うのだが」

 

「お生憎様、気絶する前にアンタがにやーって笑ってるとこ見たんだよ。あんな顔して今更友達ぶっても遅い。あとミドリを虐めてるところを見たら、今までの事かどうでも良いし」

 

「感情的だな」

 

「でも正しいでしょ?」

 

 継実からの『正論』に、エリュクスは納得したように微かに頷く。

 

「ふむ。敵対する理由については理解した。だがまだ疑問は残る。何故お前は生きている? ナノマシンを注入されていながら、どうしてそこまでの活性を維持している? 多臓器不全、神経系の異常により、立つ事すら儘ならない筈だ」

 

「ナノマシン? ああ、そいつが私とモモの体調を崩した理由だったのか。流石宇宙人、凄い技術を持ってんだなぁ」

 

 エリュクスからの問いで、継実はようやく自分の身に起きた事を理解したのか。納得したように、ぽんっと手を叩く。

 つまり継実はミドリのように、ナノマシンの存在を自覚して排除した訳ではないという事。しかし分子量一万しかなく、体内に入り込んだ超高度テクノロジーの塊をどうやって『無意識』に排除したというのか。ミドリには全く分からない。エリュクスにも分からないのか、興味深そうに継実を見ていた。

 

「一体、どうやって我がナノマシンを除去した?」

 

 ついには考えても分からないと判断したのか。『合理的』な判断として、エリュクスは継実に直接問い質す。

 継実はふんっと鼻を鳴らした。そんな事も分からないのと言いたげに。

 次いで継実は瞳を赤く染め上げ、髪は青く染まった。手も青いイブニンググローブを纏ったように、肘の辺りまで青く光り輝く。継実の戦闘モードであり、ミドリもこれまでに何度も見てきた姿である。

 しかし今までとは少し違うところもあった。

 例えば、継実の身体が薄らとではあるが青く輝いているような……

 

「こうやって、身体の中の温度を一万度ぐらいまで高めただけだよ」

 

 その発光現象の『内容』と共に、自分が何をしたのかを継実は語る。

 ミドリは呆けてポカンと口を開いた。エリュクスも目を見開いて、固まってしまう。継実だけが偉そうに仁王立ち。

 事もなげに言っているが、彼女は自分のやった対策の非常識さを理解しているのか?

 放熱のため表面温度が一万度になるのは、ミドリにもまだ理解出来る。一万度もの超高温でナノマシンが崩壊するのも理解出来る。しかし生物の体内を、身体の中で最も脆弱であろう部分を一万度もの高温に晒すというのは、いくらなんでも滅茶苦茶だ。

 ミュータントのインチキ能力を毎日見てきたミドリでもそう思うのだ。エリュクスが呆気に取られるのも頷けるというもの。

 そしてミュータントと化した人間の身体を欲するエリュクスにとって、出鱈目でインチキな身体というのは『高評価』でしかない。

 

「……素晴らしい。これほど何度も、我の予想を大きく超えてくるとは思わなかった」

 

 珍しく光悦とした表情を浮かべ、機嫌を良くするのも、エリュクスの目的を知っているミドリにとっては想像出来る事だ。

 しかし継実はエリュクスの目的など知らない。仕掛けた『罠』が無効化された事を喜ぶ姿に、心底不快そうに眉を顰めるだけ。

 

「つーかなんでアンタ、私達の身体にナノマシンなんて入れてきた訳? ミドリの仲間なら、死体に寄生するんじゃないの? というか前にミドリから聞いた時は、免疫の関係で出来ないって話だったけど」

 

「肯定する。しかし死体ならば可能だ。研究のための標本化も兼ねて、お前の殺傷を考えていた」

 

「え。私の身体を標本にしようとしてたの? なんで?」

 

「え、エリュクスさんは、継実さん達ミュータントの身体を利用して、宇宙全土を侵略するつもりなんです! 自分達が繁栄するために! そのための研究材料にする気なんです!」

 

 困惑する継実にミドリは大雑把ながらもエリュクスの真意を伝えた。

 ミドリから彼の意図を伝えられ、しかし継実は眉を潜めて怪訝な顔を見せるだけ。どうにも彼の意図に納得が出来ていないらしい。だがそれもある意味当然だ。「繁栄したいから侵略します」なんて、細菌なら兎も角『知的生命体』が思う事ではない。

 咄嗟に情報を与えようとして、却って混乱させてしまったようだ。失態をミドリが悔いても既に何もかも遅い。

 そしてその隙を突こうとしたのだろうか。

 

「ふむ。一つ、交渉をしないか?」

 

 まるで誘惑するように、彼は継実に話を振ってきた。

 

「交渉?」

 

「我々はあくまで死体があれば良い。そこで我々が技術を提供してお前達人間に文明を与え、代わりに生じた死体、或いは一部個体を『収穫』させてほしい。勿論お前を標本化する作業は止めだ。モモ、とかいうお前のペットも同様の対応をしよう」

 

 臆面もなく、悪い話ではないだろう? と言わんばかりに伝えられるエリュクスの提案。

 だがそれは生真面目な言葉で飾っただけで、本質的には()()()()()という命令だ。知的生命体の尊厳など欠片も汲まない、いや、そんなものなど忘れてしまったが故の提案。

 こんな案など飲める訳がない。安寧の生活を得るため、生殺与奪の権を明け渡すなんて正気の沙汰じゃないのだから。

 ミドリはそう思っていた。

 

「ほーん。まぁ、悪い話じゃないかもね」

 

 だから継実がまさかそんな答えを返すとは思わなくて。

 

「つ、継実さん……!? 何を、言って……」

 

「いや、私的には他の星の生命がどうなるとか、死体がどう扱われるとか、正直あんまり興味ないし。与えてくれる文明ってのがどの程度のものかは知らないけど、エリュクスの使う科学って凄いから昔の人類よりも高度な文明にはなりそうだよね。だったら三食のご飯と娯楽も楽しめるだろうし、勉強とか医療も受けられそうだし、まぁ、悪くはないかな」

 

「そ、そんなの、知的生命体のプライドは……せ、生殺与奪まで握られていて」

 

「ない、つもり。そんなのあったら今頃私なんてとっくに死んでるって。あと自分が生きるか死ぬか決める権利なんて、最初から誰も持ってないでしょ。死ぬときゃ死ぬんだからさー」

 

 けらけら笑いながら答える継実。唖然となるミドリだったが、けれどもすぐに思い出す。

 そうだ。この人達、殆ど野生動物なんだった。

 ムスペルという破滅的生命体の出現、その後起きたミュータントの大量発生により文明が崩壊。その絶望的環境で生き延びるために、継実達は野生的思想へと回帰している。

 本質的に継実達は、本能のまま生きるエリュクスに近しい存在なのだ。自分にとって利益があるならそれでOK。宇宙中に分布している他の生命体への思いやりだとか、家畜化される事に対する嫌悪感とか、そんな()()()()()()()()は持ち合わせていない。

 ミドリだって継実の意見を聞いて「そういう考えもあるか」と納得しかけた。ミドリが寄生している人間の身体が、本能が、ミドリの持つ『文化的思想』を捻じ曲げたが故に。

 ミドリが言葉を失う中、エリュクスは満足げに微笑む。

 

「こちらの言い分に同意してくれたか? なら、研究に協力してほしい。それと他の人類の居場所も教えてほしいが」

 

 契約成立とばかりにエリュクスは継実に『要求』する。言ってはダメだ、乗ったらダメだ。そう言いたいミドリでも、しかし継実の口を閉ざすような力はなく。

 

「ん? 私、何時アンタの提案に乗るって言った?」

 

 継実が答えるのを止められなかった。

 ……止められなかったが、遅れてその言葉の意味を理解してミドリは固まる。エリュクスも笑顔のまま固まっていて、小首を傾げた。

 話の流れが、今までと違う。

 

「……? 我の提案に魅力を感じたのではないか?」

 

「魅力は感じたよ。文明が再興すれば、また人間の暮らしが戻ってくるんだから。でもねぇ」

 

 不思議そうにしているエリュクスを、継実はじっと見つめる。

 ミドリが見た横顔は、笑っているようにも、呆れているようにも見えるもの。まるで理解出来ていないエリュクスを馬鹿にするように、顔だけは微笑ませている。

 だけど目は笑っていない。

 激しい怒りを燃え上がらせている。ただの獣に襲われただけなら、継実はこんなに怒らないだろう。

 エリュクスは触れてしまったのだ。継実の逆鱗に。

 

「アンタはミドリとモモを甚振った。だから絶対許さないし、アンタがやりたい事なんて、全部滅茶苦茶にしてやる」

 

 大切な『家族』を傷付け、あまつさえその動機に協力しろと言った事で。

 明確な敵対宣言に、今度はエリュクスが小さなため息を吐く。

 彼が継実に対し、理解出来ないと言いたげな表情を見せたのはほんの一瞬だけ。次の瞬間彼は無感情な、細菌のような雰囲気の顔に変わっていた。

 

「文明も維持出来ないような原始生物が……やはり家畜化するには、品種改良が必要だな」

 

 淡々と告げてくるエリュクス。

 文明が滅びた事を見下すような物言い。しかし家族への狼藉に怒りを燃やした継実も、種族への悪口にはさして怒りを見せなかった。

 代わりに継実は不敵に笑う。

 

「来なさい、文明頼りの下等生物――――アンタが欲しがったこの星の生き物の力、たっぷりと堪能させてあげるよ!」

 

 もう彼女は文明など必要としない、超越的な野生生物なのだから。



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異邦人歓迎14

 宣戦布告を交わした継実とエリュクス。一瞬の睨み合いを挟んだ後、最初に動き出したのはエリュクスの方だった。

 エリュクスの身体から、大量の液体金属が流れ出る。

 液体金属は自らの意思を持つように、次々と形を変形させていく。空を飛ぶもの、地上を這いずるもの、二本足で立つもの……大まかに分ければこの三種へと分岐していく。

 空を飛ぶものは円筒状の、全長五十メートルはある潜水艦のような飛行艦船に変化した。

 這いずるものは液性を保ったまま、直径十五メートルほどのスライムと化す。

 二本足で立つものは腕や身体を持つ単眼の、高さ二メートルほどの人型ロボットへ。

 作り出された数はどれも百を優に超えていた。エリュクスの身体からは未だに液体金属が溢れており、その数は増していく一方。二メートルもないような身体の何処にそれだけの質量を貯めこんでいるのか、目の当たりにしている継実にもさっぱり分からない。

 モモは遠くに落ちてしまった。他の野生動物の目から逃れながら戻ってくるのは時間が掛かるだろう。この場に居るミドリは今までの戦いですっかり疲労困憊な様子。助力はあまり期待出来ないし、継実としては弱ったミドリの手を借りる気などない。つまりたった一人でこの大物量を相手しなければならないのだ。

 加えてこの大盤振る舞いを初手で行うからには、エリュクスにとってこの戦力もまだまだ序の口なのだろう。奥の手は隠していると見るべきだ。

 だから継実は不敵に笑って見せる。

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「掛かってこい! 全員纏めて相手してやる!」

 

 継実は無数の兵器に臆さず、突撃する!

 接近を始めた継実に、エリュクスが生み出した兵器達も動き出した。艦船は前方部分を開き、中にある砲台を継実に向けてくる。

 継実にはミドリほどの索敵能力はない。しかし艦船の砲台が溜め込んでいるエネルギー量は、感覚的に理解する事が出来た。その攻撃の性質が大量に蓄積された粒子に電力を流す事で加速・発射する、荷電粒子ビームであり事も観測により解き明かせる。更にはフルパワーに達し、発射寸前の状態になった事も砲台を形成する粒子の状態から凡そ把握可能。

 艦船から一斉にビームが放たれるタイミングとルートを、継実は完全に掴んでいた。

 

「よっ!」

 

 一斉攻撃が行われるほんの一瞬手前に、継実は数メートルの高さまで跳躍し、空中で己の身を捩らせる。放たれたビームの殆どは継実の身体を掠めるように通り過ぎ、当たる事はない。

 ただし一本のビームだけ、継実が伸ばした腕に直撃コースで飛んでいる。

 一本だけでも荷電粒子ビームの威力は凄まじい。その出力はなんと一テラワット相当。僅か六十秒の照射で広島型原爆に匹敵するエネルギーを撒き散らす、破滅的な攻撃だ。しかもその威力は僅か数センチの範囲に圧縮されている。核シェルターだろうが超合金の装甲だろうが、情け容赦なく溶解させていくだろう。

 だが、それがどうした?

 そんな程度の出力、モモが放つ電撃一本にも満たない威力ではないか。

 

「お返し!」

 

 継実は飛んできたビームをその手で受け止めた! 密集する超高エネルギーも、継実からすれば牽制用の一撃にすらならない。むしろ受け止めた粒子の流れを操作し、その向きを変更させる。

 荷電粒子ビームは継実の手を反射するように飛び、艦船の一つへと返される!

 艦船は戻ってきた荷電粒子ビームが命中した瞬間、表面に半透明な幕のようなものを展開した。継実の目で観測してみれば、どうやら強力な磁場の領域……電磁フィールドの類のようだ。自分が撃ち出したもの程度は防げるようで、返したビームは防がれてしまう。

 流石に自分の攻撃で沈むほど柔ではないらしい。相手の防御性能を確かめた継実は、大きく腕を薙ぎ払うように振るう。無論ただ振り回しただけではない。

 指先に集めた粒子を放出したのだ。更に粒子はビームとして放たず、粒子同士を結合させた状態で維持。あたかも鞭のような形態で周囲をのたうつ。

 『粒子ウィップ』と継実は呼んでいる技だ。普段は亜光速で飛ばせる粒子ビームの方が使い勝手が良いので滅多に使わない技だが……雑魚相手の効率ならこっちの方が上。

 艦船は粒子ウィップが迫ると即座に電磁フィールドを展開したが、継実が繰り出す粒子ウィップの最大出力は一テラワットなんてものではない。それを遥かに上回る、百テラワット級の威力だ。次々と電磁フィールドを切り裂き、粒子ウィップは幾つもの超技術艦船を真っ二つのガラクタへと変えていく。

 何百と浮かんでいた巨船が空から消えるのに、この調子なら五分も掛かるまい。

 あくまでも、なんの妨害もなければの話だが。

 

「む……」

 

 継実はその妨害に、小さな声を漏らす。

 何故なら残りの艦船を薙ぎ払おうとした時、突如として『白銀の壁』が現れたからだ。白銀の壁は高さ三十メートルにもなり、幅は百メートル以上に渡って続いている。この壁は粒子ウィップを受け止めると赤熱したが、破れる事はなく奥にある艦船まで攻撃を届かせない。

 この銀の壁は何か? 疑問の答えは地面側にあった。

 エリュクスが生み出したものの一つ、這いずるスライムのような存在だ。スライムは他の個体と融合しながら伸び、巨大な壁を形成したのである。無数に生み出されたスライムの役割は『防壁』なのだ。

 更にスライムだった壁は小さな ― といっても直径三メートルほどの ― 穴を開けた。穴の奥には艦船が陣取り、剥き出しにした砲門を覗かせる。

 艦船の放った荷電粒子ビームは開けられた穴を通り、継実に襲い掛かってきた!

 

「ちっ……!」

 

 継実は飛んできた荷電粒子ビームを手で弾き返す。が、その選択が失敗だったとすぐに悟る事となった。

 荷電粒子ビームを受け止めた白銀の壁は、なんと継実が能力を用いた時のように攻撃を反射したのである。跳ね返った荷電粒子ビームは正確に継実を狙い、再び継実の身体を打ち抜こうとする。黙って受けるつもりはないとこれも跳ね返す継実だったが、壁もまた跳ね返すだけ。何度やっても荷電粒子ビームのキャッチボールにしかならない。

 しかし状況は悪化していく。何故なら跳ね返された荷電粒子ビームは何時までも留まるのに、壁の穴から放たれる艦船からの荷電粒子ビームは止まないからだ。

 合わせてスライムによる壁は急速に拡大。空を覆うように広がるだけでなく、地面までも覆い尽くそうとする。

 全方位に白銀の壁が出来れば、荷電粒子ビームは何処かに飛んでいく事は出来ない。継実を襲う荷電粒子ビームは数を増し、いずれ空間を満たす。そうなれば撃ち抜くではなく、焼き尽くすようにダメージを与えてくるだろう。

 

「ちっ! させるかぁ!」

 

 故に継実は状況を打開せんと攻勢に転じた。己の右手に粒子操作の力を集め、撃ち出すは継実の十八番である粒子ビーム!

 艦船が放つ荷電粒子ビームの百数十倍の出力はあるだろう、破滅の光。直線的な攻撃しか出来ないが、形を維持する事にも力を割いている粒子ウィップよりも威力は遥かに上だ。

 粒子ウィップ程度で赤熱していた白銀の壁では、これには耐えられまい。継実はそう考えていた。

 事実耐えられず、粒子ビームは白銀の壁をぶち抜く! 直径数十センチほどの穴が呆気なく開いた……が、粒子ビームが途絶えれば穴は簡単に塞がってしまう。液性で自由に形を変えられる壁にとって、こんなに小さな穴など簡単に塞げてしまうのだ。

 そうこうしている間に白銀の壁は天と地を埋め尽くし、直径二百メートルほどのドーム状となって継実を包囲した。

 すると今度はロボット兵士が続々と、地面や壁や天井から()()()()()。同じ液体だから溶け込んで移動が可能なのか、それとも形態を変化させたのか。いずれにせよ何百という数のロボット兵士が現れ、単眼型のカメラで継実の姿を見つめ……ロボット兵士達は一斉に両手を前に突き出した。

 直後、ロボットの手から放たれたのは弾丸、のようなもの。銀色の塊をしたそれは、液体が高速発射されたものだと継実は見抜く。秒速数キロ程度の、継実にとって決して速くはない攻撃。しかし数百体に包囲された状態で、秒間三発の連射速度で放たれたなら、流石の継実でも全てを躱すのは困難である。

 仕方なくその身で受けた弾丸は、うねうねと動いて継実を包み込もうとしてくる。身体を激しく動かせば振り解けるが、逐一やらねばならないのは面倒であるし、そもそも攻撃は絶え間なく続いていた。一々やっていたら切りがない。

 

「ウザいッ!」

 

 大元の数を減らさねばどうにもならないと、継実は粒子ウィップでロボット兵士を薙ぎ払おうとする。が、ロボット兵士は粒子ウィップが迫ると白銀の壁の中に溶け込み、姿を隠してしまう。すぐに粒子ビームを撃ち込んで見ても、白銀の壁に穴が開くだけで、どれだけ効果があるのか分からない。

 そもそも粒子ウィップも粒子ビームも、範囲が狭過ぎる。全方位に拡散しているロボット共を纏めて薙ぎ払う事は出来ない。

 効果的な手がなく、継実は歯噛みする。対して白銀の軍団は準備を終えたらしい。

 ついに『猛攻撃』が始まった。

 壁の外側に陣取る艦船は一斉に荷電粒子ビームを撃ち出す。継実が躱したもの、弾いたものの全てが白銀の壁に跳ね返され、ドーム状となった包囲網を満たしていく。更に艦船は壁の外側で横方向に動き、一ヶ所に留まろうとしない。加えて艦船は全方位に拡散しており、一点集中の粒子ビームで纏めて薙ぎ払われないよう対策も施している。ロボット兵士も拡散した状態で、簡単には全滅しないよう対策を施していた。

 

「(こりゃあ、ちょっとヤバいかな?)」

 

 この包囲網をどう脱出したものか。

 強引な突破をしようとすれば、白銀の壁と接触せざるを得ない。しかしそうなれば、恐らく顔と壁が接近したタイミングで自分達を苦しめたナノマシンを吹き付けられるだろう。

 正直、継実としては避けたい展開だ。理由は二つある。

 一つは体力を温存するため。継実は確かに体内のナノマシンを除去する方法――――体温を一万度に保つ技を編み出した。しかしこれは一万度の熱を生成するのもそうだが、高熱から身体を守るため、守りきれなかった部分を修復するためにもエネルギーを使う。一秒程度の継続時間で一回二回発動するだけならどうという事はないが、何度も何度も、ましてや何十秒もやったら流石に体力が底を尽きてしまう。

 継実達を囲っている軍勢はエリュクスの身体から出てきたもの。あとどれだけの戦力が奴の身体から出てくるか分からない以上、あまり調子に乗って体力を使うのは得策とは言えないのだ。

 

「(どうしたもんか……っ!)」

 

 打開策を考える継実だったが、白銀の軍団は待ってくれない。

 背後より、継実の両手にしがみつくように二体のロボット兵士が飛んできたのだ。

 継実はすぐさま振り返り、単眼型カメラの付いているロボット兵士の頭を掴み、一切の躊躇いなくぐしゃぐしゃと潰す。されど液体金属で出来ている彼等にとって、頭部など所詮飾りでしかない。四肢は問題なく動き、継実の腕をガッチリと掴む。

 更にロボット達は液化。継実の腕と胸部に纏わり付くと瞬間的に硬度を増していき、継実の動きを阻もうとする。

 一匹だけなら継実の力にとって大した障害にはならない。振り解く事も難しくないだろう。しかしロボット兵士は続々と、それこそ何百もの数が射撃を止めて突撃してきていた。継実は現在高度数メートルの位置を飛んでいるが、この高さなら奴等の跳躍力でも届く事は腕に纏わり付いている二体が証明している。

 このまま顔やらなんやらにも覆い被さって、直接ナノマシンを送り込むつもりか。加えて白銀の壁の外側に陣取る浮遊船達もエネルギーを溜め込んでいるようで、動きの鈍った継実に一斉攻撃を仕掛ける算段らしい。

 この攻撃を受けたらやられる、というほど継実も柔ではない。されど大人しく受ければそれなりのダメージにはなるだろう。何よりタイミングを合わせるためか、エリュクス側の攻撃が一瞬止んだ。

 反撃するなら今が好機。

 

「があああああアアアアアアアアアアッ!」

 

 継実は吼えた。されどその雄叫びは、断末魔でも、悪足掻きのものでもない。

 これは気合の掛け声。

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 能力を発動し、周辺大気の分子の運動量を急速に増加……端的に言えば加熱していく。周りの空気が一万度を超えた事を示すように青白く輝き、その輝きは塗り潰すように周辺に広がっていく。

 継実から放たれた青白い輝きを前にして、白銀の兵器達は一斉に身動ぎする。しかしあまりにも遅い。一万度超えの熱波はロボット兵士を溶解させ、白銀の壁を吹き飛ばし、その奥に浮かぶ艦船も半壊させる。

 一瞬にして、白銀の大部隊は弾け飛んだ! 高熱により溶解したものが、銀色の雨となって継実の身体に降り注ぐ。液化した金属など浴びれば、七年前の継実なら大火傷では済まなかっただろう。しかし今の継実にとっては、ただの雨より粘付く程度の印象しか抱かない。

 

「さぁーて、全部纏めて吹き飛ばしてやったけど……どうする?」

 

 敵を一掃した継実は、何事もなかったかのように未だ佇む元凶――――エリュクスの方に不敵な笑みを見せる。

 とはいえ、実際のところそこまで余裕という訳でもない。白銀の軍団を蹴散らすために放った熱波は、かなりのエネルギーを消費した。恐らくこれが一番良い手だとは思うので後悔などしていないが、相手の底が見えないうちに体力を大きく使うのは避けたかったのに。

 こうした『気持ち』というのも、戦いの上では重要な情報だ。可能な限り覚られるのは避けたいところ。逆に相手を精神的に追い詰めれば、優位を取れる。

 だからといって、追い詰め過ぎるのも良くない。

 

「ふむ。これは想定外だ……どうやら、本当に本気を出さねば不味いらしい」

 

 覚悟を決めた生物ほど、厄介なものはいないのだから。

 エリュクスは大きくその背筋を曲げた、瞬間、彼の背中から再び大量の液体金属が溢れ出す。

 一度は見た光景。しかし此度噴き出す金属の量は、先の比ではない。山をも砕く洪水すらも、今のエリュクスの背中から出ている液体金属の勢いに比べれば小川のせせらぎだろう。

 溢れ出た液体金属は戦いの場であった岩礁地帯から溢れ、海にも広がる。途方もない範囲に広がったそれは、やがて自分の意思を持つかのように盛り上がり始めた。しかし今度は艦船やロボット兵士のようなものが分離せず、かといって壁のように周囲を覆い尽くそうともしない。ただただ盛り上がり、ただ一つの塊のまま形を変えていき……

 時間にすれば僅か十数秒で、『それ』は出来上がる。

 

「(あー……こりゃやり過ぎたっぽい)」

 

 目の前に現れたモノを前にして、継実は自分の失態に気付く。気付いたところでどうする事も出来ない。

 エリュクスの『本気』は、既に継実を見下ろしているのだから……



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異邦人歓迎15

「ふぅーん。これがアンタの本気って訳か」

 

 言葉では一切焦りを見せないようにしながら、継実は内心「これは凄い」とエリュクスの文明に対し少なからず驚きと感心の念を抱く。それほどの存在感を、継実が見上げている『物体』は放っていた。

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 目測ではあるが、それが継実が観測した『物体』の大きさ。途方もない巨大さだ。ここまで馬鹿デカいものなんて、今までの人生で見た事もない。七年前に至近距離で目の当たりにした、人類文明を終わらせたかのムスペルだって五百メートルしかないというのに。

 下半身はある程度の液性を保っているのか、スライムのように不定形だ。幅は五百メートル近くある。しかしその柔らかな部分は高さ百メートルほどと、全体から見ればごく低い部分のみ。

 高さ百メートルよりも上は硬質化し、『身体』を形作っていた。鍛え上げた人間の腹筋を彷彿とさせる屈強な胴体を持ち、腕は肩と脇腹から一対ずつの合計四本生えている。頭のような部分には目も鼻も口もない。ならばのっぺりとした顔面に一体どんな意味があるのか、継実には見当も付かなかった。背中からはざっと五百メートルはあろうかという触手が無数に生え、うねうねと気味悪く蠢いている。

 一言で例えるなら、不気味な巨人。

 雲よりも高い超巨大物体が、目のない顔で継実をじっと見つめていた。

 

「(流石にこのサイズ差は不味い……!)」

 

 巨人を前にして継実は危機感を抱く。

 先の『前哨戦』で継実は、五十メートルの艦船を何十何百と撃沈してみせた。エリュクスの文明が持つ技術力より継実の身体能力なのは明白。しかし流石にこれだけ『体格差』があると力の優位を保てるとは思えない。それに相手は変幻自在の存在だ。一体どんな攻撃を仕掛けてくる事やら。

 真っ向勝負をするのは不味いと、本能的に予感する。継実の率直な印象を述べるなら、一対一でやれば八割方負けるだろう。無論こちらは全力を出した上で、だ。

 ではどうすべきか? 簡単な話だ。別にこんなものをわざわざ相手にする必要なんてない。継実の敵はあくまでも巨人の前で棒立ちしているエリュクス。アイツの粒子ビームで跡形もなく吹っ飛ばせば勝負は付く。

 卑怯千万大いに結構。野生で生きる生物に、正々堂々ほど無意味なものはない。

 

「では、さらばだ」

 

 しかしそれに気付いたのは、細菌並の自我しかないエリュクスも同じ。

 継実が粒子ビームの準備を始めた時、エリュクスの上から大量の液体金属が降り注ぐ。見れば巨人が腕を一本伸ばし、その手から液体金属を垂れ流しにしていた。滝のように激しく降り注いだ金属に飲まれ、エリュクスは姿を眩ます。

 継実は即座に粒子ビームを撃ち出したが、エリュクスを飲み込んだ大量の液体金属がこれをはね除ける。白銀の壁を打ち破った技も、その何十倍も分厚い壁が相手では流石に通じない。舌打ちする継実の前で、エリュクスを飲み込み終えた液体金属はずるずると引き上げられ、巨人の中に中へと取り込まれる。

 これでエリュクスは巨人の中。つまり奴を丸ごと吹き飛ばすには、巨人の胸に風穴を開けねばならなくなった。

 やはり、真っ向勝負をしなければならないようだ。目論見が早くも挫かれてしまった継実であるが、しかしくよくよしている暇などない。

 巨人は既に、四本腕の一本を大きく振り上げている。

 

「っ……!」

 

 継実は咄嗟に両腕を顔面の前で交叉させるように構え、防御の体勢を取る。

 直後に巨人は豪腕を継実目掛けて振り下ろした! 防御する、という継実の判断は誤っていなかった。豪腕のスピードは凄まじく、逃げても恐らく避けきれなかっただろう。

 とはいえ受け止めて正解とも言い難い。

 豪腕から繰り出される破壊力は凄まじく、継実の体勢を大きく崩すほどだったのだから。

 

「うぐ、ぎ……! こ、の……!」

 

 どうにか巨人の拳を受け止め、踏ん張る継実。しかし身体は大きく後に傾き、今にも押し倒されそうな状態である。

 大きさにして自分の約八百八十二倍、体積にして六億八千六百万倍 ― 金属で出来ている相手なのだから体重差は恐らくそれ以上の ― の相手にこれだけ奮戦しているのだから、間違いなく継実の力は『出鱈目』や『理不尽』の類だ。だが、倒されてしまってはどんなに出鱈目でも意味がない。自然界で意味を持つのは、生き残る事のみ。

 このままぺちゃんと潰されたなら、いくら奮戦しても無意味だ。

 

「な、めんな……このくず鉄がァ!」

 

 継実は構えていた両腕の手を開き、粒子ビームのエネルギーを蓄積。

 ほんの一瞬で交叉させていた腕を後ろへと退かし、自分目掛け進んでくる巨人の腕が接触するよりも早く掌を前へと向けて、粒子ビームを撃ち出す!

 粒子ビームを用いても巨人の拳は焼き切れない。全く通じていない訳ではなく、表面を気化させたり吹き飛ばしたりは出来ているが、大質量でこれを耐え抜く。とはいえ継実は端から拳の破壊など期待していない。

 目論んでいたのは拳を押し出す事。粒子ビームの、亜光速に達した粒子の運動エネルギーは凄まじい。その反動だけで継実の身体を大空へと浮かせるほどに。

 亜光速の『質量』に押された巨人の拳は一気に、数十メートルと後退していく。拳との距離が取れたのを見てから、継実はその場から全力で跳躍。粒子操作能力により自分の身体を『加速』し、普通に跳ぶよりも速く移動する。巨人の拳は猛スピードで継実を叩き潰そうとしたが、実際に潰せたのは進路上にあった岩礁とそれを覆う藻だけ。

 岩礁に命中した巨人の拳は、岩礁地帯が波打つほどの衝撃波を撒き散らした。ミュータント化した藻に包まれた岩場が、大きく揺れたのである。あんなものをまともに喰らったら流石にヤバい……継実は自分が感じたものが正しかったと確信した。

 巨人は一発の鉄拳では諦めず、何度も何度も、四本の腕を使って継実を殴り潰そうとしてくる。その度に継実は跳躍や粒子ビームを用いて回避。相手に隙が出来ないか、好機が訪れるのを待つ。

 しかし巨人の方は流れを変えようとしてくる。

 巨人の胸部から、無数の『ガトリング』が現れたのだ。総数、凡そ数万。

 ガトリングは白銀の弾を秒速数キロもの速さで撃ち出してくる。秒間数発の連射速度だが、繰り出された砲の数と合わされば秒間十数万発の一斉射撃だ。

 継実もこれは回避しきれず、全身に弾を浴びてしまう。弾丸命中によるダメージこそ皆無だが、されどこの弾の用途が目標の射殺でない事はロボット兵士との戦いで経験済み。

 弾丸はどろりと溶けて、継実の身体に纏わり付く。更に手足の関節部分で固体化し、四肢の動きを阻もうとしてきた。そしてこのタイミングを見計らったように、巨人は豪腕を振ってくる。

 動きを鈍らせ、豪腕で叩き潰す。知と力の合わせ技だ。

 それに継実は、二つの合わせ技を上回る純粋なパワーで対抗する。

 

「はああああッ!」

 

 気合の掛け声と共に生み出す、莫大な熱量。一万度を超える熱波により、身体に纏わり付く白銀はどろりと溶け出した。新たに命中する弾丸も触れた傍から溶けていき、機能を喪失していく。

 その熱量を維持したまま、継実は最小限の動きだけで迫りくる拳を回避する。されどそれは疲れて動きが鈍ったのではなく、巨人が打ち出す拳をギリギリで躱すため。掠めた鉄拳との摩擦で肌がチリチリと焦げ付く中、継実はにやりと笑みを浮かべた。

 身を翻し、継実は巨人の拳に爪を突き立てて登り始める。拳とはいえ巨人は液性金属の集まりであり、表面はつるつるとしたもの。普通ならば爪など立てられないが、一万度の高熱を纏い、溶解させながら食い込ませれば造作もない。

 拳の上に立った継実は、勢い良く駆け出した! 継実は拳を抜け、腕の上を猛然と疾走。巨人の頭部目掛けて一直線に進む!

 無論いくら人型とはいえ、相手はあくまでも液体金属の塊。頭の中には脳みそは勿論、高性能の電子頭脳も積まれていないだろう。ならば何故頭を目指すのかといえば、継実の目がそこに無数の粒子が集まっているのを観測したから。

 恐らく大出力の荷電粒子ビームを撃とうとしているのだろう。五十メートル級の艦船でたかだか一テラワットの出力しかなかったが、巨人の体積は艦船のざっと二万七千倍。単純計算で二万七千テラワットのビームを撃てる事とかり、流石の継実も冷や汗ものだ。何しろこれは十メガトンの水爆が持つ全エネルギーを、たった一秒で放出するのに匹敵する。ミュータントに核兵器が通じないのは核が何十キロにも渡って『拡散』するからであり、高々数平方メートル以下の範囲に圧縮された状態で同程度のエネルギーをぶつけられたらミュータントでも普通に危険だ。

 しかしそのエネルギーを逆流なりなんなりさせれば、継実を()()()()()()()()()()()()()巨人の身体は恐らく内側から吹っ飛ぶ。

 継実が狙っているのはそれだ。粒子ビームを撃ち込んでも倒しきれない相手だが、自爆を誘えば力の差を逆転出来る。問題はどうやって逆流させるかだが、継実の能力は粒子操作だ。触れてしまえばどうとでも出来る自信はある。

 逆に、触れなければ無理だ。継実の能力はミドリと違い、遠隔操作が苦手なのだから。いや、ミドリとてあくまで脳内物質や思考の制御が得意なのであり、遠隔操作でモノをぶん回すのが得意という訳ではない。数万テラワット等という巨大エネルギーの制御は、恐らくミドリでは無理だろう。

 発射間際の砲門に腕を突っ込み暴発させる。

 文面だけで寒気のする作戦。しかしこれしか手がないと思えば、継実に迷いなどなかった。

 頭目掛けて駆けてくる継実を見て、巨人もその意図を察したのか。継実が走る自身の腕目掛け、三本の腕で殴り掛かってくる! 普通の生物からすれば自傷行為も同然だが、身体そのものが不定形である巨人にとってはダメージとなり得ない。躊躇いなどする筈もなく、豪腕は最高速度で振られる。

 

「おっと! 今の私をさっきまでと同じと思うな!」

 

 しかし継実はこの拳を前に、先と違って笑みまで返す。

 何故なら今の継実の速さは、地上で拳を必死に避けていた時を上回るから。

 一万度の高熱を纏った事で、継実の身体は高い『運動量』を持っていた。この運動量を粒子操作により、自分の移動速度に加算。今までよりも数段上のスピードを手にしたのである。

 勿論高熱を発する事には欠点もある。継実自身何度も繰り返し自覚していたように、エネルギーの消耗が激しくて持久力に欠ける点だ。今までこの状態を用いなかったのは、相手の実力が未知数のうちに体力をすり減らしたくなかったが故の行動。だが、相手が本気を出したのならば出し惜しみや様子見をする必要はない。全力でぶつかり、叩きのめすのみ!

 殴り付ける腕よりも速く駆ける継実。叩くのでは間に合わないと理解したのか、巨人は闇雲に殴り付けるのを止めた。継実と巨人の頭までの距離は残り八百メートルほど。継実の速さならばもう一秒と掛からずに辿り着ける。

 巨人もまた同じ。高度な文明の演算能力が、一瞬にして継実の動きと到達時間を正確に導き出すだろう。そして殴る形では止められないと判断したに違いない。

 拳に代わり新たに繰り出したのは、継実が走る腕に巨大な『壁』を生やす事だった。

 

「(行く手を遮るつもりか……!)」

 

 これ見よがしに作り出された壁は、高さと幅が共に十メートル程度のもの。回避するのはさして難しくない。

 問題は、回避時の動きが予測される点だ。右に避けようが左に避けようが、或いは跳び越えようとも、その動きを巨人は全て計算して予測している筈。どんな動きをしようとも、叩き潰すための準備をしているだろう。

 或いは……

 巨人が何をするつもりか、完全に予測するのは困難だ。相手だって同じだろう。ならば自分の一番得意な方法で挑むしかない。

 即ち真っ正面からの大勝負。

 

「邪魔ァ!」

 

 継実は壁を、殴り抜ける!

 白銀の壁は継実に殴られた瞬間にどろりと溶けて、弾け飛ぶ。一万度の高温を纏う継実の身体を止めるには、強度も耐熱性も足りなかったのだ。動きを制限する筈のそれを、継実は夢か幻のように通り過ぎる。

 壁では継実を止められないと判断したのか。次の攻撃を仕掛けてきたのは、巨人の背中から生える触手達。太さ数メートル長さ数千メートルはあろうかというそれらは、先端を恒星のように眩く光らせていた。

 継実の目には光の正体などお見通し。荷電粒子ビームのチャージだ。それも艦船が撃ったものより、何十倍も高出力の代物。まだまだ継実の粒子ビームには及ばないが、『匹敵』するとは称して良いだろう。これが何百本も同時に襲い掛かってくるとなれば、中々に厄介だ。

 しかし、それは継実にとって脅威である事を意味しない。

 触手達はわざとタイミングをずらしたのか、バラバラに荷電粒子ビームを撃つ。都市一つ容易く焼き尽くすであろう光は亜光速で飛び、継実に命中した

 

「ふんっ!」

 

 が、継実はこれを殴り飛ばす!

 無論ただ拳の力を叩き込んだのではない。粒子操作能力を用い、荷電粒子ビームの方向を変化させたのだ。継実を貫く筈だったビームは、きっちり百八十度反転。

 撃ち手である触手に返され、大爆発を起こす! 自分が放ったビームを発射口に受けた触手は、内側から大きく裂け、黒煙と共に中身を露出させた。すぐに溶けるようにして傷は塞がり、攻撃を続けるが、能力を発動した継実に触れる事など叶わない。何処に当たろうとも、荷電粒子ビームは跳ね返されて射手を粉砕する。

 ビームでは効率が悪いと考えたのか。何本かの触手は光を放たず、継実へと接近してきた。恐らく殴るつもりか。例え高熱で溶かされるとしても、勢い良くぶつかれば質量相応の物理的ダメージは与えられる。運動エネルギーは質量と速度で決まり、硬さはあまり関係ないのだから。

 

「捕まえたァッ!」

 

 しかし継実はこれを避けず、それどころか触手の一本を掴み取る。自分の身長よりも太い触手だが、継実の握力からは逃れられない。のたうつように暴れる触手は、継実の手が放つ高熱によって途中から千切れた。

 千切れた触手はまだ継実を襲おうと伸び縮みしていたが、継実はこれを思いっきり蹴飛ばす。千切れた触手は溶けながら飛び、岩礁地帯と隣接する森へと落ちる。これで機能停止はしないだろうが、戻ってくるには時間が掛かるだろう。

 拳は当たらず、壁は障害にならず、触手は相手にならず。最早邪魔するものはなしと、継実はひたすら直進し続ける。腕からは無数の壁が生えてきたが、どれも気に留める必要すらない。触手のビームだって避ける必要すらない。巨大な拳が振り下ろされれば壁など気にせず回避し、不要ならばそのまま走り抜ける。顔からビームを受けようが、肩が壁に触れようが、そんなものは関係ない。

 巨人の頭まであと五百メートル、四百メートル、三百メートル……頭部に集まるエネルギーは急激に高まっていくが、予測されるフルパワーには程遠い。継実が辿り着く方が圧倒的に先だ。

 何が来ようと止められない――――

 

「このまま一気に詰ごふっ!?」

 

 その筈だった継実の身体が、止まった。

 走る継実を立ち止まらせたのは、一枚の壁。

 見た目は今まで熱で溶かしていた壁と、なんら変わりない。けれども高熱の継実が触れてみても、その壁は溶けるどころか柔らかくなる事すらないのだ。

 何かがおかしいと、継実は壁を形成している粒子に意識を向ける。

 答えはすぐに明らかとなった。壁を形成している粒子の電熱性が、異様に高いのだ。外から伝わった熱が即座に伝播し、全体に広がっていく。少しでも熱を遮断しようという設計思想は見えず、むしろ積極的に拡散させるような作り……

 それこそが、エリュクスが考えた『高熱対策』だった。

 恐らく物質の性質上、エリュクスが繰り出してきた液体金属はどうやっても一万度の高温には耐えられないのだろう。故に耐えるのではなく、()()()()()()()()()()()()()事にした。一万度という高熱も、所詮は継実という小さな身体が放つ温度でしかない。大きな体積を温めるには、その分多くのエネルギーを投じる必要がある。つまり何百億トンもの質量で与えられた薄めてしまえば、どんな高熱を受けても一度と上がらずに済むのだ。更にたくさん伸ばした腕や触手で表面積を広げれば、気温よりも高くなった分はすぐに放熱出来る。

 背中に触手を生やした四腕の巨人という不気味な姿は、こちらへの威圧のためだけではない。最初から高熱を受け流すため、計算して作った姿だったのだ。今の今までは性能が未熟で上手く拡散出来なかったのか、或いはある程度引き寄せるためにわざと攻撃を受けていたのか……いずれにせよまんまと罠に嵌まったのは違いない。

 

「(ヤバい! ここは一時退却……ッ!?)」

 

 一旦逃げようとする継実だったが、動こうとした足の自由が利かない。

 見れば、継実が走っていた腕から盛り上がった、液体金属が足に纏わり付いていた。相手の罠に気を取られた隙にやられたらしい。脚部も一万度に達しているのだが、高い熱伝導により接触面が溶解する事はない。液体金属は純粋な硬さと粘り気を維持し、継実とのパワー差を質量で補う。

 それでも僅かに継実の力の方が上。だから渾身の力を絞り出せば、この金属を引き千切る事は簡単なのだが……エリュクスがみすみすそれを許してくれる筈もなく。

 巨人の三本の腕と、背中から生える何十という数の触手が、一斉に継実の方を向いた。

 

「(あ。これは、逃げられない)」

 

 自分の状況を淡々と認識する継実。

 されど機械のように正確な状況認識能力が、自分の身に襲い掛かる危機を避けるための方法を知らせてくれる事もなく。

 巨人の腕と拳は、一片の慈悲もなく振るわれた。

 継実はすぐに反撃へと出る。細長い触手が迫れば殴り付けて吹き飛ばす。白銀の弾丸が纏わり付けば身体を震わせて振り払う。豪腕が襲い掛かれば粒子ビームで押し返す。細腕から荷電粒子ビームが放たれたなら、それを操作して別の触手にぶち当てる。今まで何度も見せてきた技を惜しげもなく使った。巨人の身体は継実の一撃一撃で削れ、周辺のみならずかなり遠くまで飛び散っていく。

 局所的に見れば継実の方が優勢である。けれども巨人の物量は圧倒的。少しずつ、少しずつ、継実は押されていった。そしてそれは継実達の動体視力だからこそそう見えるだけで、現実の時間ではほんの一瞬の出来事に過ぎない。

 継実が秒間数万発の攻撃を捌ききれたのは、僅か数百ミリの間だけ。

 継実の姿が巨人の拳と触手が溶けて固まったものに飲まれるまで、ほんの一秒の時間も掛からなかった。



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異邦人歓迎16

 完全に飲み込まれた。それを自覚した継実がとりあえずしたのは、口と鼻を塞ぐ事だった。

 今継実は巨人の手やら触手やらが溶けて固まった、液体金属のど真ん中に居る。かなり粘性が強いとはいえ、液体金属という表現通り実質的には液体だ。穴があれば流れ込み、体内で暴れ回るかも知れない。

 

「(反撃の時、体力が底を尽きてたーなんて状況じゃ笑えないからね)」

 

 ここまで追い詰められても、継実は未だ平静を崩さない。というよりまだまだ追い詰められたというには甘い状況だ。喰うか喰われるかのこの世界。戦える力があるうちは、いや、生きているうちは『まだいける』と考えねばならないのだから。

 息を止めている間は、血中の二酸化炭素を分解して酸素を合成。無呼吸での耐久に挑む。そうしてしばらく様子を見ていると、不意に身体が浮遊感に見舞われた。実際身体は上へ上へと移動している。他ならぬ、周りの液性金属の動きに運ばれて。

 やがて継実はどぷんという音と共に、塊の中から顔を出した。出せたのは、あくまで顔だけだったが。身体の他の部位は金属の中に沈められたまま。

 頭だけ出した姿は、なんとも間抜けである。しかしながら継実を捕まえた『奴』は、そんな無意味な理由で継実をこんな姿にしている訳ではあるまい。もっと合理的に、つまりは逃げられないようにしながらも対話をしたいという事なのだろう。

 実際継実を捕まえている巨人の顔は、腕の中に捕らえている継実の事をじっと見ていた。目なんて何処にも付いていないというのに。

 

「……なんか用でもある訳?」

 

【そうだ】

 

 継実が尋ねると、巨人は肯定した。

 すると今まで目も鼻も口もなかった巨人の顔に、深い溝が出来始める。頭からは髪が生え、瞼が開き、口の中に歯が出来上がった。

 瞬く間に、巨人はエリュクスの姿に変貌。継実の事を、無感情な表情でじっと見つめてきた。

 これは巨人が内部で操縦しているエリュクスの姿を投影している、のではない。

 巨人は()()()()()()()()()()()()。液性金属で出来た身体と、液性金属で出来た兵器。混ぜ合わせてしまえば、そこに境界線などなくなる。人間的には自意識が大きな何かに溶けて移るというのは、想像するだけでも不気味だが……異星生命体であるエリュクスの考えは人類とは異なるもの。そこになんの抵抗もなくてもおかしくない。

 巨人の姿となったエリュクスは、じっと継実を見つめるだけ。勝利の余韻に浸る様子はない。しかしそれが『原始生物』に勝っても自慢にならないという、彼等の傲慢を物語っているように継実には思えた。ふんっと鼻息を吐き、継実はエリュクスを睨み付けてやる。

 未だ気持ちが挫けていない継実に、エリュクスは問い掛ける。

 

【この状況でまだ戦意を維持するか。その自信はお前達人類の特徴か、それともお前個人の感情か】

 

「前者ならどうする訳?」

 

【施術により取り除く。お前達の抱く自信は判断を鈍らせ、効率的な動きを阻害するものだ。誤った判断を下す恐れがある】

 

「自分に自信がある方が、生きてて楽しいよ? アンタみたいな何が楽しくて生きてるか分かんない奴を精神的に見下せるし」

 

【必要性を感じない】

 

 継実の挑発も、エリュクスは特段気にした素振りもなく聞き逃す。怒り狂ったところで隙を突く、という事は出来そうにない。確かに無感情な方が強そうだなと、継実も納得する。

 故に解せない。合理的なエリュクスならば、継実がこの巨大な身体を以てしても苦戦する相手だと、先の戦いで十分理解している筈だ。そして諦めの悪さ、生命力の強さ、多彩な攻撃方法……自画自賛する訳ではないが、生かしておいたらどんな逆転をするか分かったもんじゃない存在だと継実も思う。さっさと止めを刺した方が良い。

 何故わざわざ対話をしようとするのか? その意図は、疑問を持った直後に語られた。

 

【一つ取引をしよう。お前の種族は、何処に群れている? それを教えてくれたなら、お前については生かしておく】

 

 継実に、仲間(人類)の居場所を吐かせるためだ。

 

「……あら。こんなに凄い技術なのに、他の人類の居場所も知らない訳? 意外と大した事ないんだ」

 

【この星の生命体は常に姿を隠している。光学的カメラに写らないものも少なくない。また姿形を偽装する能力が、不定形である我々より優れている種も少なくないと予想する。よって知る者からの情報を合わせ、総合的に判断する】

 

「なんとまぁ、合理的だこと……」

 

 呆れたようにぼやきつつも、継実はエリュクスの思惑への嫌悪が顔に出てくる。

 恐らくエリュクスは、人類を見付け次第捕獲を試みるだろう。継実という『サンプル』を徹底的に研究し、今回よりも簡単かつ確実に。そうして仲間を増やせば、もう、人類に抵抗する術はない。継実が人類の情報を、「南極に集まっているという噂がある」という話を奴に漏らせば、その時点で人類の命運が決まるのだ。そんな事認められない。

 大体エリュクスが約束を守るとは限らない。光り方を真似して多種の雄を誘き寄せて食べてしまうホタル、花に擬態しているカマキリ、自分の子供を他の鳥に育てさせるカッコウ……自覚はしていなくとも、自然界にだって『嘘』は有り触れている。嘘というのは人間の特権ではないし、むしろ人間よりも情け容赦ないと言っても過言ではないのだ。ならば単細胞生物レベルの自我しかないエリュクス(宇宙人)でも、より『利益』を得られると確信したなら嘘を吐くだろう。そして情報を吐かせた後の継実に、生かしておく価値なんてない。

 なら、返答は一つだ。

 

「だぁーれがアンタと取引なんてするもんか。あまり地球人嘗めんじゃないよ」

 

 拒絶一択である。

 この返事を、果たしてエリュクスは予想していたのだろうか。なんの感情も見せない彼から、その内面を見通す事は出来ない。

 

【ならば致し方ない。データはそれなりに取れた事だから、お前については死体に変えよう】

 

 けれどもこの回答をするのに迷いがなかった事だけは確かだ。

 エリュクスの頭が左右に裂ける。元より不定形の存在であり、頭と言っても脳みそなんて詰まっていないそこには、長く伸びた『筒』と、その先端で太陽のように眩く輝く光がある。

 光の正体は、チャージ中の荷電粒子ビーム。

 継実が逆流させてやろうと目論んでいた力は、未だに蓄えられていた。その総量は継実が予想した通り二万七千テラワット。いや、今も少しずつだが出力は上昇し続けている。

 問題は総出力ではなく、どのぐらいの『太さ』で放たれるのか。仮に水爆のように半径何キロにも渡って拡散するなら、こんなビーム怖くもなんともない。しかしもしも直径五メートル程度の、ごく狭い範囲に凝縮されていたなら……その時は如何に継実でも受け止めきれないだろう。

 そして継実の観測によれば、エリュクスの頭部に出来たビームの発射口は直径三メートル。ここまでしっかり絞ったなら、確実に止めを刺される。そして恐らく、継実の頭だけを外に出したのはこのためでもあるのだろう。頭だけを消し飛ばして死体へと変えつつ、その肉体を獲得するために。

 なんにせよ、あの攻撃が放たれた時が継実の最後だ。

 これが異星文明の力か――――良いところまでいけたと自己評価するが、負けてしまった事は受け入れねばならない。ミュータントの身体能力に匹敵する、圧倒的な科学力。これが星々を自由に渡るほど発展した、異星文明の持つ力なのだと継実は思い知る。

 だからこそ、惜しいと感じた。

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【……ん?】

 

 ビーム発射寸前に、エリュクスが何かに気付いたように地面を見る。

 果たして全長一千五百メートルもあるエリュクスに、足下とでも言うべき軟体状の下半身の傍に居る『そいつ』が見えるのだろうか。性能的には、恐らくなんの問題もないだろう。しかし認識出来るかどうかは別問題。

 体長僅か一ミリのその生き物を認識するなんて、継実だって意識しなければ出来ないのだから。

 その小さな生き物は『シロアリ』だった。赤くて、光沢のある見た目の。

 シロアリはエリュクスの下半身に噛み付いていた。顎を左右に捻り、後ろに引っ張るように後退し……ついに小さな、大きさ〇・一ミリにもならないような欠片を千切り取る。

 次いで、あろう事かその欠片を()()()()()

 

【なんだ……この生物は……?】

 

 エリュクスは、自分の身体を食べたシロアリに何を感じたのだろうか。疑問か、危機感か、好奇心か。

 いずれにしても、もう手遅れだ。

 何故ならエリュクスに食らい付いたシロアリとよく似た見た目のシロアリが、この岩礁地帯を行列でやってきているのだから。真っ直ぐ、エリュクスを目指して。

 

【……邪魔だな】

 

 エリュクスはシロアリ達を叩き潰そうとして豪腕を振るう。岩礁地帯に衝撃波を撒き散らすほどの鉄拳は、恐らく数百匹のシロアリを叩き潰した――――

 そう思ったのなら、あまりにも甘い。

 このシロアリもまたミュータント。こんな大質量の鉄拳や衝撃波で命を落とすほど、生温い存在ではない。むしろ地面にしがみつき、吹っ飛ばされるのを耐え抜いたモノ達には行幸。

 シロアリ達はぞろぞろと、エリュクスの拳を伝って、その身に移り始めた。

 

【……しつこい……】

 

 人が蚊を叩くように、エリュクスは自らの腕に纏わり付くシロアリを、三本の手で叩いていた。しかしシロアリ達はそれを難なくやり過ごす。ある個体は腕にある僅かな凹凸に身を隠し、ある個体は手足を縮めて防御の姿勢を取り、ある個体は素早く動いて避け……様々な方法を用いていた。

 それでも一度に何百というシロアリが叩き潰され、死んでいく。確実に、シロアリの数は減っているのだ。

 ただ、それを実感出来ないほどの群れが、エリュクスの半身に纏わり付いている。そしてシロアリ達は、決して物見遊山でエリュクスの身体を昇っているのではない。

 シロアリ達は食べていた。

 金属で出来たエリュクスの身体を、一匹一匹はほんの一欠片ずつ、けれども大群故に猛烈な勢いで!

 

【な、なんだこの生物は……どうして我の身体を食べられる……!?】

 

 エリュクスは困惑の色を見せ始める。しかし彼の困惑など無視して、シロアリ達は群がり、貪り続けるのみ。

 

「いやー、こうも上手くいくとは。というかどんだけいるんだろ、コイツら」

 

 あまりにも『思惑通り』なものだから、継実は思わず独りごちてしまった。

 継実の言葉に反応するように、継実を包み込む金属の塊が圧迫感を強める。腕を登るシロアリ達をはたき落としながら、エリュクスが継実を見た。

 

【お前……一体何をした!】

 

「おっと、言葉に出してたか。別に何も? 私はただ期待しただけだよ」

 

 問い詰めるように圧を強めてくる継実だったが、その口はへらへらと笑うばかり。何しろ継実自身、本当に期待していただけなのだ。上手く事が転んだだけ。

 

「お前の身体の一部を森の方に蹴飛ばせば、もしかしたらこのシロアリ達が、このフィリピンの文明を喰い尽くしたんだろう奴等が来てくれるかもってね」

 

 これを策だと自慢するのは、継実的にはちょっと恥ずかしいのだ。

 継実は端から一対一ではエリュクスに勝てないと踏んでいた。

 モモがいればどうにか出来たと思うが、中々戻ってきてくれない。来てくれると信じたいが、信じるだけでは最悪に対処出来ないのが現実である。

 そこで援軍として呼ぼうとしたのが、森で見付けた金属シロアリ達だ。

 金属シロアリ達は身体の主成分が金属。故に金属が主食な筈であり、人類の都市を喰い尽くした今ではさぞや空腹に悩まされているに違いない。何しろ地上には普通金属なんて転がっていないのだから。だからあの金属シロアリ達ならば液体金属で出来たエリュクスの身体を餌と認識し、襲い掛かるかも知れない……継実はそう考えて千切った触手を森の方へと投げ入れた。シロアリ達に美味しい餌が此処にあるぞと教えるために。

 思惑通りシロアリ達は現れ、エリュクスに襲い掛かった。誤算があったとするならただ一つ――――正直なところ、ここまでの大群だとは思っていなかった事だけ。

 ()()()()沿()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 さて。継実一人でも大苦戦のエリュクスは、この小さな暴君達相手に何処までやれるのか?

 

「この星に文明を再興するつもりなら、なんとかしてみせなきゃ。文明が作り上げた建造物が大好物なコイツらを、ね」

 挑発するように、継実が投げ掛けた言葉を合図とするかのように。

 森の中から、赤い津波が一気に溢れ出す! 幾重にも重なり合って、何メートルもの高さにもなった金属シロアリ達の大群だ!

 

【こ、こんな、こんな小動物に我が、我等の力が……!】

 

 エリュクスは僅かに気圧されながらも、四本の腕にエネルギーをチャージ。即座に荷電粒子ビームをシロアリ達に撃ち込む!

 シロアリの津波は一気に焼き払われ、何百万もの個体が一発で消し飛んだ。それが四本、しかも薙ぎ払うように放たれれば、犠牲となったシロアリの数は何十億にもなるだろう。

 しかしシロアリ全体から見れば、ほんのごく一部。

 荷電粒子ビームが押し返すよりも、シロアリの前進速度の方が遥かに早い。ついにシロアリの津波はエリュクスの身体に到達し、その身に齧り付く。

 継実の目で見たところ、シロアリ達の能力は『水素を操る』事らしい。身体の様々な場所から水素を発生させている。水素には金属を脆くする作用があるが、シロアリ達はこの力により金属を食べやすい硬さに加工しているようだ。

 シロアリ達は噛み砕いたエリュクスの身体をせっせと運ぶ。津波のように押し寄せていた彼女達は、今や巨大な運河を作っていた。そして流れ込む運河の量は刻々と増え、エリュクスの身体はみるみる小さくなっていく。エリュクスの下半身は最早真っ赤に染まり、まるで血塗れのような惨状である。

 無論エリュクスも攻撃の手を弛めない。集束させた荷電粒子ビームでは間に合わないと、拡散したビームを放つ。威力は劣るが、広範囲を滅却するならこっちの方が優秀なのは間違いない。

 されど金属シロアリはミュータントである。

 金属シロアリ達は全身に、水素の膜を展開した。何層にも重なった水素原子は光も熱も受け止め、本体には届かせない。仮に届いたところでその身は金属で出来た丈夫なもの。ちょっとやそっとの熱や衝撃では、金属シロアリの身体は歪まなかった。

 拡散した攻撃は威力不足。集束させれば面積が足りない。どちらの攻撃をしてもろくな効果が出ず、腕力で叩き潰そうとすれば腕にたかられるだけ。

 どんな攻撃をしても、シロアリの進行は止まらない。

 

【知性もないような原生生物が! 吹き飛べェッ!】

 

 エリュクスはついに怒り狂うように、頭部の光を一際強く光らせた。

 それは継実を仕留めるために溜め込んでいた超大出力荷電粒子ビーム。二万七千テラワットという、恐らく下手をせずとも地球を貫通するような一撃だ。粒子操作能力で軽減出来る継実ですら耐えられないものに、小さなシロアリ達が受け止められる道理などない。

 エリュクスの頭から放たれた荷電粒子ビームが、岩礁地帯を薙ぎ払う。ビームを受けた岩は藻と一緒に溶解どころか気化し、更に原子崩壊によるエネルギーの放出……端的に言えば核爆発を引き起こした。薙ぎ払うように撃ち込んだ事で爆発は何十キロもの範囲に渡って広がり、岩礁地帯の大半を焼き尽くす。

 岩礁地帯そのものが吹き飛べば、流石のシロアリも全滅だ。残りはエリュクスの身体に纏わり付いた分だけ。しかしこんな僅かな数なら、全身から触手を生やして荷電粒子ビームで焼き払えば済む。

 そんな甘い考えを見透かすかのように。

 森の中から、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

【ど、どれだけいるんだ!? なんだこの生物は!?】

 

 殺しても殺しても、湧くように現れるアリを前にしてエリュクスが身動ぎした。彼がこれまで見てきた星には、シロアリのような存在はいなかったのだろうか。

 この小さな小さな、故に恐ろしき昆虫を。

 ――――シロアリ。

 七年前の世界では、多くの人間達からちっぽけで、家を食べ荒らす害虫として見られていた。しかし生物の世界において、シロアリほど存在感があるものは早々いない。彼女達はよく混同されるアリよりも遥か以前から生き、殆どの生物には分解すら出来ないセルロースを栄養とする事が出来る。枯死した植物を素早く分解して土に還し、大自然の循環をスムーズに行わせる重要な分解者だ。そして社会性を持ち、個ではなく群として生きていく集合的存在。

 エリュクスは物量によりミドリを圧倒した。物量とは生産力。大量生産は高度な技術とエネルギー技術がなければ為し遂げられない。正しく『文明』の力だ。

 だがシロアリの力もまた物量。喰らい、貪り、増えていく種族としての力。物量と物量のぶつかり合い。ならば勝つのは――――質で勝る方なのは必然である。

 エリュクス(文明)は、このシロアリ達(群れ)には決して勝てない。

 

【お、おのれええええぇぇぇっ!】

 

 悔しさが滲み出た声と共に、エリュクスは海に向けて動き出す。勝てないから逃げようという算段なのか。無様にも思えるが、しかし合理的だ。

 だが、シロアリ達は許してくれない。

 

【がぎっ!? ぎ……!?】

 

 逃げようとしたエリュクスの動きが、不意に止まる。

 エリュクスが逃げようとする動きを止めていないのは、彼の巨躯がぷるぷると震えている事からも明らかだ。しかしエリュクスが海へと向かう事は出来ず、それどころか陸の方へと()退()()していく。

 エリュクスを引き寄せているのもまたシロアリ達。

 シロアリ達は金属の身体を擦り合わせて僅かな電気を生み出し、磁力を発生させていた。一匹当たりの磁力は極めて脆弱だが、何百万トンもの質量が一斉に磁力を生み出せば、金属で出来たエリュクスを引き寄せる事も出来る。彼は、野生の磁力に束縛されたのだ。

 それでもエリュクスは諦めずに抗うが……ついに力負けして仰向けに倒れてしまう。こうなればもう、何もかもお終いだ。

 ジタバタとのたうつエリュクスの身体を、無数のシロアリ達が埋め尽くす。一瞬にしてエリュクスの身体は、真っ赤に染まる。

 そして時間が経つほど、エリュクスはどんどん小さくなっていく。

 あとはもう、語る事もない。シロアリ達は食べて、食べて、食べて……時間にして凡そ五分。長いといえば長い、けれども全長一千五百メートルのものが消えるにはあまりにも短い時間で、エリュクスはもう頭しか残っていなかった。

 

【ば、が……な……われ、われが……わ……ぶん……め……】

 

 真っ赤なシロアリに纏わり付かれた頭が最後に発したのは、そんな否定の言葉。

 断末魔だったのか、ついにエリュクスはぐちゃりと崩れる。身体の形を保つための機能が喪失したのだろう。

 潰れたエリュクスの身体をシロアリ達が綺麗に舐め取れば、もう、彼の姿は肉片一つすら残っていなかった。

 エリュクスは液性金属の集まりであり、変幻自在の存在だ。大きくなれるのだから、小さくもなれるだろう。だからどの程度の大きさまで『自意識』を持つかは不明だが……恐らく、もう彼の意識はこの地球の何処にも残っていない。

 しかしそれでも、これだけは言わねばなるまいと思う言葉が継実にはある。本来これは敵対者に送るものではないが、もう、そんなのはどうでも良いのだ。

 

「ようこそ地球へ。私達地球生命一同あなたを歓迎致します、ってね」

 

 ようやくエリュクスも、この地球の一員となったのだから。



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異邦人歓迎17

「つ、継実さぁぁぁん!」

 

 勝利の余韻に浸っていたところ、継実を呼ぶ声がする。

 振り返れば、ミドリが恐らく全力疾走でこちらに向けて走っていた。大きな胸が高速振動しており、ちょっと、継実は笑いそうになってしまう。ついでにいうと「ヤベ。今までふつーに忘れてた」とも思ったり。

 なので平静を装って棒立ちしていると、ミドリは継実の胸に跳び込んでくる。泣いている様子はないが、ぎゅっと、継実を強く抱き締めてきた。継実も、そっと抱き締め返す。

 しばらくして顔を上げたミドリは、巨人となったエリュクスが倒れた場所を見遣る。尤も、そこにはもう何も残っていない。食事を終えたシロアリ達さえも、だ。

 ミドリは物悲しそうな、申し訳なさそうな顔を見せる。

 

「……本当に、倒したんですね。恐らく、宇宙で最も高度な文明の一つを」

 

「私じゃなくてシロアリが、だけどね。やっぱり社会性のある昆虫はヤバいわ。出来れば敵にはしたくないね」

 

「そのシロアリ達も、たくさん死んでしまいました。あたしの同胞が、地球の侵略なんて企んだばかりに……」

 

「いや、シロアリ達はむしろ感謝してんじゃないかなぁ。七年ぶりに大量の餌が食べられた訳だし」

 

 社会性を持つシロアリにとって、働きアリはただの『手足』に過ぎない。勿論働きアリ自身には自我もあるし、一個の命である訳だが、彼女達の第一目的は巣の繁栄だ。多くの餌を得るためなら個体の、自分自身の死さえも厭わない。

 命の数で数えれば目が眩むような犠牲だが、質量として考えれば数百万~一千万トン程度。そしてエリュクスの推定重量は、四千万~一億トン。シロアリ達は損失の十倍にもなる『利益』を得たのだ。

 これだけ莫大な金属資源が一気に流れ込んだのだから、今後フィリピンの生態系になんらかの影響を与えるのは確実だろう。しかしそれがなんだと言うのか。継実は殺されそうだったから抵抗して、シロアリ達は久しぶりの晩餐を楽しんだだけ。この結果引き起こされる事なんて、どちらにとっても『些末事』である。

 

「ま、宇宙人の侵略だって自然の一部みたいなもんでしょ。大陸が繋がれば動物は流れ込むし、流木を使えば島に流れ着く。それだけの話なんだから、ミドリが気に病む必要なんてないんじゃない?」

 

 だからそれは継実の本心。

 励まそうという気持ちもあまりないままに話した事だが、ミドリは何を想ったのだろうか。こくりと頷いてからも、しばらくエリュクスが居た場所を見続けて……

 

「おぉーい! 継実ぃー! ミドリぃー!」

 

 不意に声を掛けられた事で、ようやくミドリは動き出す。

 びくりと飛び跳ねたミドリと共に継実も声がした方へと振り向けば、大手を振ってこちらに駆け寄る『人物』が見える。

 モモだ。宇宙船脱出時に離れ離れになって以来だから、恐らく数十分ぶりの再会。「ようやく来たの?」とあまりにも遅い到着に、呆れつつも無事だった事に安堵して継実は笑みを浮かべた。

 尤も、笑みは即座に凍り付く。

 何故ならモモの後ろには、朦々と巻き上がる土煙があったから。ドドドドドというモモらしからぬ足音も聞こえ、大地が激しく揺れ動く。近付いてくるモモの顔に笑みはなく、なんというか、今にも死にそうなぐらい必死。

 そんなモモの後ろには、巨大なゴミムシが居た。大体、全長十五メートルぐらいの。

 ……どうやら巨大ゴミムシというのは、世界的に分布している成功者らしい。草原のみならず、フィリピンでも猛威を振るっているとは。成功の秘密はやはり硬い身体と多様性か。

 等と生物学的考察に浸れたのは一瞬。現実に戻った継実の意識はすぐに現状を解析し、モモが離れている間に辿った経緯を理解する。とはいえ難しい話ではない。空から落ちた彼女は、大方巨大ゴミムシのすぐ近くに着地。そのまま死に物狂いの追い駆けっこを今まで続けていて、どうにかこうにか此処に辿り着いたのだろう。

 七年間暮らしていた草原にも巨大ゴミムシはいたが、フィリピンの個体はそれよりもずっと大きい。色も赤やら黒やらで毒々しくて不気味であり、血走っていると分かるぐらい複眼がどぎつく光り輝く。しかも口から撒き散らした涎が落ちると、地面からじゅうじゅうと湯気が漂っていた。動きも何処か挙動不審で、全身が痙攣するように震える有り様。今し方撃破した宇宙人より、余程エイリアン染みている。

 そしてモモがこちらに向かってくるのは、どうにかしてこの化け物を振りきる手伝いをしてくれ、という事だ。

 継実はミドリの方を見遣る。ミドリも継実の顔色を窺う。目が合った二人は、同時にこくりと頷いた。

 そしてくるりと身を翻し、モモから離れるようにダッシュ。

 

「に、に、逃げろぉ!?」

 

「はひぃー!?」

 

「あ! ちょ、待ちなさいよ!? 助けなさいよぉーっ!」

 

 継実が逃げ出し、ミドリが付き添い、モモが追い付く。そしてゴミムシがそんな三人を、口から涎を撒き散らしながら追い駆ける。

 例え星を救おうとも、あんな程度の戦いは彼女達にとっては日常茶飯事。走って数分も経てば、異星人の侵略も思い出という形で遠くなり。

 もう、継実達の中でエリュクスとの戦いは、特筆するほどのものではなくなっていたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 地球から、遥か離れた()()()()()()地点。

 月と地球の間に存在する虚空地帯に、一隻の船が浮かんでいた。

 全長百五十メートル。形は潜水艦のように丸みを帯びた寸胴な、それ以外のパーツを持たないつやつやとしたもの。白銀に輝く装甲の中には広々とした空洞が存在し、そこには一つの生命体が居た。

 それは白銀の身体を持つモノ。冷淡な瞳、端正な顔立ちをした人型の存在。されど細かな特徴を一つ一つ挙げていくより、ただ一言で出来る言葉がある。

 彼はエリュクスだった。

 

「……想像以上だな」

 

 エリュクスはぽそりと呟く。

 すると船体の壁や床が震え始めた。やがて震えは大きく盛り上がり、形を変え、壁や床だった場所から分離。自らの足で歩き出す。

 現れたのはまたしてもエリュクス。一人ではなく、五人もの。

 液体金属で出来たその身体は分裂も結合も自由自在。『自分』を分けて増やす事など造作もなく、()()()()()()を用意しておいたのだ。この星で『身体』が欠損する事態を想定して。

 そして船に残された彼等はバックアップであるが、地球に降下したエリュクスが見てきたものを知っている。彼の記憶と情報はデータ通信により一定間隔で送られていて、共有済みだからだ。彼等はエリュクスと同じ知識を持ち、同じ考え方をして、同じ判断を下す。人格や記憶が個人を形成するのだとすれば、此処にいる彼等はバックアップであるのと同時に、エリュクス本人でもあると言えよう。

 

「想像以上の生物達だ。是非とも欲しい」

 

「欲しいが、我々の制御が及ぶ代物ではない。知的生命体の身体も、そこに暮らす野生生物も」

 

「取得したデータからも、殺傷処理を行っても高頻度で蘇生する可能性が高い。蘇生する度に施設を破壊し、犠牲者が出ては割に合わない」

 

「拠点維持コストが明らかに生産性を上回る。設置するだけ損だ」

 

 エリュクス達は口々に意見を交わす。いや、交わすというのは正確な言葉ではないだろう。彼等は全ての情報を共有し、同じ結論に辿り着く合理的生命体なのだから。

 

「この星の生命を利用する計画はリスクが大き過ぎる。実用化への時間も相当必要だ」

 

「この星は適正外として、他の惑星の探査を行うべきだろう」

 

「異議なし」

 

「異議なし」

 

 エリュクス達は口々に意見を述べ、『自分』の意見を言い終えた個体は仲間の合図を待たずに後退。自分が出てきた壁や床に再び溶け込み、その姿を消していく。

 話し合いが行われていた時間はたった一分にもならない。あまりにも短い時間のうちに、エリュクスはまた一人になっていた。

 残されたエリュクスはため息を吐く。それから顔を上げた彼は、目の前にあるモニターをじっと見つめた。視線の先にあるモニターには、地球の映像が映し出されている。暗黒の虚空に浮かぶ、青く、美しい星だ。

 けれども映像を拡大すれば、そこに映し出されるものは決して楽園などではない。

 海上で、体長数十メートルを超える長大で手足を持たない鱗のある生物が、数百メートルもの長さを持つ軟体質で半透明な生物と絡み合って戦っている。

 砂漠で、五メートルはある四足の獣が、同じく五メートルはある八足の節足動物に秒速二十キロ以上の速さで追い駆けっこをしていた。

 山脈で、体長三センチ程度の粘液に身を包んだ四足の生物が、体長一センチしかない四枚翅の甲殻生物を襲おうとして、住処である山脈を粉砕するほどの激戦を繰り広げている。

 生態的のみならず、力の上でも常軌を逸した星の生命達。地球の直径は一万二千キロと、岩石惑星としては決して小さなものではない。しかしそこに息づく生命の力はあまりにも星の大きさに見合っていない強さだ。そしてどうにもこれが限界という訳ではないようだ。このまま進化を続け、世代を重ねる度に強くなれば……やがて奴等は生まれ故郷の星をも壊しかねない。比喩や妄想ではなく、データ的に。この宇宙にはそうした生命がごく少数だが存在している事実も、地球生命の進む先を示す。

 故郷の星をも壊してしまう生命が辿り着く先は何処か?

 大多数は滅びだ。母星を失って自滅する。強過ぎる力の末路としては有り触れていて、実につまらない結果。

 そしてもう一つは――――適応。宇宙空間に耐え、新天地を目指して飛び立つ。新たな星を征服し、その星も壊して次の星へ。そうして命をつなぐ種族と化す。そうした生命体の存在は、エリュクスも幾つか把握している。他の生物にとっては恐ろしい存在だが、これもまた自然の一つに過ぎない。

 地球の生命がどちらの結末に辿り着くか、現時点で確かな事はエリュクスには言えない。データを見る限り宇宙空間への適正は小さくないので、どちらもあり得るといったところ。けれどもどちらかの筈。どちらかでなければならないのだ。

 しかし彼の『本能』は訴えていた。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()――――と。

 

「我が同胞よ。お前は我らが宇宙を支配する事を危惧していたが……我には、この星の生命の方が余程その危険性が高いと考えるぞ」

 

 青い星を見つめながら、独りごちた言葉は決して地球に届かない。そして届かなかったところで、彼等の予定が途中で変更される事はない。

 異邦人の宇宙船は、光に近しい速度で地球から遠ざかっていく。太陽系を超え、理想的な星を探すために。

 異星からの侵略者は去った。しかしこの星に静寂が戻る事はない。

 侵略宇宙人よりも遥かに恐ろしく、遥かに大勢の生き物が、己の生存のための競争を繰り広げているのだから。



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第七章 生物災害
生物災害01


「きゃああああああああ!?」

 

 ミドリが悲鳴を上げながら青空の中を飛んでいる。

 一見して真っ直ぐ飛んでいるように見えるそれは、実はしっかりと放物線を描いていた。つまり彼女は空を飛んでいるのではなく、なんらかの物理的現象によって空へと打ち上がり、そして落ちているだけ。その速さは秒速七キロほどと、ちゃんと第一宇宙速度以内に収まっている。地球の重力を振りきる事は出来ず、そのまま引き寄せられるがまま。

 故に目の前に砂浜が迫ってきても、対策なんて打てず。

 

「どぶぇ!?」

 

 頭から砂浜に突き刺さり、ミドリはむき出しのお尻と生足という奇妙なオブジェクトに変化した。尤もすぐに這い出し、口に入った砂をぺっぺっと吐き出したが。

 普通の生物なら死んでもおかしくない『事故』だったが、生憎ミドリはもう普通の生物では非ず。秒速七キロで砂地に激突したぐらいなら、当たり所がいくら変でも命の心配は要らない。今回は柔らかな砂の上だったが、仮に岩石の上に落ちたとしても、小さなクレーターの中心でひょっこりと立ち上がってみせるだろう。ミュータントとはそういう生物だ。

 

「ようやっと来たか。どうだった? 一人でする空の旅は」

 

 なのでミドリよりも先にこの地に『着地』していた継実は心配なんてこれっぽっちもせず、暢気にミドリに感想を尋ねて。

 

「史上最悪ですっ!」

 

 想定外のミドリからの不平不満に、眉を顰める事となった。

 

「そう? 私は結構面白かったけどなぁ。刺激的だし」

 

「刺激的とかなんだ以前にこんなの空の旅とは言いません! ただの放物線落下じゃないですか! 常軌を逸してます!」

 

「いや、でもなんやかんやこれが一番安全っぽかったし」

 

「知的生命体が求めるのは安全よりも安心です!」

 

 継実の意見をずばりとミドリは切り捨てる。それってつまり安心出来れば実情は拘らないって事じゃん……と合理的な『野生動物』っぽい感想を抱きつつ、継実は苦笑いを浮かべた。

 しかし、確かにミドリの言い分も頷けなくはない。

 インドネシアからこの島に渡るための方法は、今までの旅では使った事のないものだったのだから。

 

「まぁ、確かに普通ではなかったよね……金属シロアリ達が作った『大砲』に飛ばされるというのは」

 

 思い返すはこの大きな島に辿り着く、ほんの数分前の出来事。

 昨日の戦い……地球侵略を企んでいたエリュクスと戦った継実は、そのエリュクスを貪り食った金属シロアリ達に尋ねてみた。此処から南の島に行く方法はないものか、と。

 シロアリに話し掛けるなど、七年前なら幼児しかしないような事だろう。しかし今の世界において、それは必ずしも愚行ではない。犬が喋り、木が嫌味を吐き、ツバメが口説く。野生生物達に知性が宿った事で、高度な会話は人間の専売特許ではなくなったのだ。

 勿論、だからシロアリ達が話せるかどうかは別問題。会話のための機構を持ち合わせているとは限らないし、そもそも人間と会話(それ以前にコミュケーションそのものを)する気がないかも知れない。特に後者の可能性は決して低くない。クマやらカギムシやらが会話もなしに襲い掛かってくるのは、継実達の言葉が分からないのではなく、食べ物と語らうつもりがないからである。

 しかし継実は意外とイケると踏んでいた。というのも金属シロアリ達は身体が金属で出来ていて、有機生命体を餌にしていない。加えて人間とは全く異なる仕組みだがシロアリは社会性を持つ動物だから、コミュニケーションに全くの無関心とは思えない。そしてエリュクスという莫大な量の餌を確保した事でご機嫌な今、お話をしてくれるかも知れないと期待したのだ。

 結果は期待通り。金属シロアリ達はお喋りに乗ってくれた。身体を擦り合わせた金属音との会話は中々大変だったが、意思疎通が出来たのである。また継実としては利用するつもりで知らせたエリュクスの存在も、金属シロアリ達にとっては正に天の恵み。感謝の念は流石に持ち合わせていなかったが、謝礼に南の島へと送る事はしてやろうと言ってくれたのである。

 そして出てきたのが大砲。

 ……流石は金属で出来たシロアリだけあって、文明的な道具作成もお手のもの。この大砲でどかんと南の島に吹っ飛ばしてやる、との事だった。継実も最初は「殺す気かアンタら」と思ったし、よくよく話を聞けばシロアリ達は自分達が分布を広げるための試作機の実施試験がしたいだけ。謝礼ですらない有り様だった。色々不安だったが、飛んでしばらくは金属マテリアルフィールドなるものが展開されていて、空で敵に襲われても大丈夫との事。

 じゃあそれなら良いかと思い賛同し、継実達は大砲を使用する事にした。大砲は継実達を大空へと撃ち出し、襲い掛かる海鳥は本当に金属マテリアルフィールドっぽいものが防いでくれた。島の傍まで到達した頃になると金属マテリアルフィールドは殆ど剥がれてしまったが、距離が近かったお陰で無傷のまま到着。

 かくして継実とミドリはインドネシアを脱し、南の島である此処……恐らくニューギニア島に到着したのだ。

 

「しっかし流石は南の国。此処も日差しが強いなぁ」

 

「話を誤魔化さないでくれません!? もうこんな方法じゃなくて、次はもっとちゃんとしたやり方にしましょうよ!」

 

 くどくどと文句を言い続けるミドリ。余程人間大砲が怖かったのだろう。流石にこれだけ怖がられると、如何に『安全』でももうちょっと別な方法を選ぶべきかなと継実も思う。

 それに。

 

「大体継実さんは何時も安全ばかりで安心を蔑ろにしてます! 知的生命体なんですからもっと精神を大事に」

 

「とうちゃーっく!」

 

「おぶぶぅ!?」

 

「あ。ごめん」

 

 後から来た奴(モモ)に頭から踏み潰されたミドリを見て、ちょっとそんな情けない姿は晒したくないなと思った。

 

「……うん、そうだね。もっと安心な方法が良いよね」

 

「今のタイミングで言われても、含みしか感じないんですけど?」

 

「ん? なんの話?」

 

「大した話じゃないよ。それより、次の旅の始まりだね。気を引き締めないと」

 

 だから誤魔化さないでくれません? 等という声が背後から聞こえたような気がするが無視して、継実は砂浜に隣接する地形……森に目を向ける。

 ニューギニア島に広がる森もまた、フィリピンの時と同じく熱帯雨林。植物の種類こそ異なるが、どれも百メートルを優に超える巨大さを誇っていた。葉はどれもが青々と茂り、空を覆い尽くそうとせんばかり。高い場所を見れば黄色い果実や赤い花があちこちに咲いていて、やはり此処でもミュータントは季節を無視して繁殖しようとしている事が窺い知れる。

 そうした高さや葉、果実は立派なのに、幹は見窄らしいぐらい細い。一概には言えないが、直径三メートルもあれば太い方だ。大半は一~二メートル前後、一メートル未満のものも少なくない。地面に目を向ければ蔓や草の姿が見えたが、これらも全て非常に細く、酷く痩せ衰えている様子。単に葉に遮られて暗いだけならこうはならない……ミュータントの生命力なら夜のような暗さでも青々とした葉を広げる事を、継実は知っている。

 恐らく大量の植物達が限りある栄養を奪い合った結果、太い幹という『丸々太った』存在を許さなかったのだ。それに元々熱帯雨林では有機物の分解が早過ぎて土壌が痩せており、見た目よりも遥かに栄養分が少ないと七年以上前に継実はテレビで見た記憶がある。ましてやミュータントの旺盛な食欲ならば、土地が瞬く間に干からびるのは必然。今ではさぞや苛烈な()()()()()()()()が起きているに違いない。

 強い日差しという無尽蔵のエネルギーを得ながら未だ満たされず、苛烈な競争が繰り広げられている密林。見た目の植物資源の豊かさとは反比例するように、獰猛で貪欲な環境のようだ。南極への最短距離、つまり真っ直ぐ南へと進むならこの森を突っ切る必要がある。この森に適応した生態系も、きっと恐ろしいほどに獰猛な筈。今までの旅路と同じく、或いはそれ以上に一筋縄ではいかないに違いない。

 そして何より。

 

「(なーんか違和感があるなぁ……)」

 

 直感的に抱く、森への不信感。

 何がおかしいのかは、まだ分からない。しかし何かがおかしい事を継実の本能はひしひしと感じていた。危険な感じはないのだが、得体が知れないからこそ警戒を怠るべきではない。

 安全が確保出来るか、或いは危険の正体を知るか。どちらかが出来ない現状、あまりこの森には立ち入りたくないのが継実の本心。

 幸いにして継実達の目的地はあくまでも南極。それ以外は特に何も定まっていない。日程すら未定だ。だから南極に辿り着けるのなら、どんな遠回りをしても構わない。

 わざわざ最短距離を突っ切る必要などないのだ。海岸線を通って、ぐるっと一蹴して島の南側に出れば良い。此処が本当にニューギニア島であるならそこそこ大きな島であるが、ミュータントとなった継実達からすれば小さなもの。島を半周するぐらい、すぐに終わるだろう。

 

「森じゃなくて、海沿いを歩いて行こう。なーんか変な感じがするんだよね、あの森」

 

「あー、確かにねぇ。何かは分かんないけど、ちょっと変よね」

 

「え? そうなのですか? あたしには何も感じられませんけど……」

 

 継実の意見にモモは同意したが、ミドリは首を傾げる。じっと森を見つめているのは、森林内、或いは島中を索敵しているからか。しかし奇妙なものは何も見付からなかったようで、ミドリはまた首を傾げた。

 ミドリでも見付からないのだから、もしかしたらただの気の所為かも知れない。ミュータントだって完全な存在ではないのだから、勘違いや思い違い、警戒のし過ぎだってあるものだ。

 だが、もしも気の所為ではなかったら? もしも手に負えない生物がそこに潜んでいたなら……出会った瞬間に一巻の終わりだ。自然界には分かりやすいチャンスなんて保証されていない。ほんの小さな、うっかりすれば見落としそうなチャンスしかない時もあるだろう。そうしたものを掴むのもまた『適者』の資格である。

 元より急ぐような旅路でなし。急がば回れと昔の人も言っていたのだから、危険そうなものからは逃げるのが得策なのだ。わざわざ出向いて蹴散らすなんて無駄でしかない。

 

「ま、あくまでそんな気がするだけなんだけど、念には念を入れてね。それにさ、偶には貝とか食べたいし」

 

「貝! あたし、貝大好きです!」

 

「前に海で食べてからどっぷり嵌まってるわねぇ。あたしは全然食指が動かないけど」

 

「そりゃ、犬にとって貝は食べない方が良いもんだし」

 

 わいわいとお喋りを交わしながら、継実達は森の傍にある海沿いを歩く。これが最も安全な旅路だと信じて。

 継実の選択は、誤りではない。自分の持つ知識を用い、自分の実力を客観視して、起こり得る最悪を回避しようとしたのだから。されど継実は全知全能の神に非ず。世界を俯瞰した訳でも、ましてや世界の全てを知る訳でもない継実達に、本当の最善など知る由もない。

 そんな継実達が最善を知る時というのは、ただ一つの瞬間のみ。

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生物災害02

 散策気分で海沿いを歩いていた継実達は、やがて岩礁地帯に辿り着いた。

 岩礁地帯といっても岩の持つ、黒い色合いは殆ど見られない。岩の表面は緑やら赤やらの藻、或いは海藻に覆われているからだ。今も燦々と降り注いでいる常夏の日差しを浴びたそれらは、分厚い層を形成するほどに生育している。海辺だというのに、まるで草原のような景色だ。

 一応地形的には大きな岩がごろごろと転がる場所なので、頻繁に波が打ち付け、大きな飛沫を上げていた。しかし飛び散る潮水は海藻や藻に吸われ、潮だまりにはならない。何処も全体的に湿っているが、肝心の水場が何処にもないという、なんとも奇妙な領域。

 かつての地球では恐らく見られなかった景色に、継実はほんのちょっと感動を覚えた。これもまた旅をしなければ見る事の出来なかった風景。そうしたものに気持ちを揺れ動かされるのが人間というものである。

 

「あ。ここの藻、他より明らかに低くなってる。多分食べ跡ね。近くに動物がいるかも」

 

「へぇー。小さい動物なら今日の夕飯ですかねー」

 

 ちなみに人外二匹は、花よりも団子の方が大事なようで。

 実際自然で生きていくならそれが正しい考え。継実は人間的感情を頭の隅へと寄せてから、岩場の藻を眺めているモモ達の会話に加わる。

 

「それ、最近の食べ跡? かなり藻が育ってるように見えるけど」

 

「ちょーっと古いわね。傷跡が塞がってるし。でも臭いはするわ。つい最近も、此処を何かが通ってる」

 

「藻を食べてるって事は、草食動物ですよね? 獲物にするなら丁度良いと思います!」

 

「雑食かも知れないけどねー」

 

 モモの意地悪なツッコミで、ミドリは少し身動ぎ。とはいえ果物や種子のような栄養価の高いものなら兎も角、藻のような ― 食べ辛い上に毒があるかも知れず消化も難しい ― 代物を食べる生き物は、ほぼ草食動物で間違いないだろう。

 フィリピンの時は植物の毒を溜め込むような生き物ばかりで、草食動物や昆虫を獲物とするのは避けなければならなかった。ニューギニア島の生物がそうなっていないとも限らない。が、そうなっているとも限らない。要するに、調べてみなければ分からないという事だ。

 初めての土地では調査が大事である。どんな生物が暮らし、何が食べられるものなのか。それを知らなければ生きていけない。尤も難しい事は何もなく、見付け次第捕まえてみれば良いだけ。

 という訳なので、まずは動物を見付けたいのだが……

 

「ミドリ。この辺りに、なんか生き物いる?」

 

「え? ああ、そういえば全然見てませんね。今も近くに気配がありませんし」

 

 尋ねてみるとミドリはそう答える。ミドリ的には怖い生き物が全然いない状況なので、内心安堵しているのだろうか。答える口振りは、何時も以上におっとりしていた。

 対してモモは、その『異常さ』に気付いたのだろう。今まで暢気に楽しんでいた顔が、少しだけ引き締まる。

 継実はミドリほどの索敵能力を持たない。だから単に見逃しているだけという可能性もあったが、ミドリの言葉で自分の感覚を信じる事にした。

 この岩礁地帯はあまりにも()()()()()。鳴き声や争いのような生物的音はなく、波が岩場に叩き付けられる音や、水飛沫が落ちる音しか聞こえてこない。ミドリでも完璧に全てを見通せる訳ではないし、ミュータントの能力なら音を抑えるぐらい簡単だが、二つが合わさればやはり生き物がいないのだと考えるのが合理的。

 もしも本当に生き物の姿がないのだとすれば、それは極めて異常な事のように継実には思えた。

 何故なら岩場を埋め尽くすほど藻や海藻が生えているから。それはつまり大量の植物資源がある状態にも拘わらず、それを食べる生き物が存在しないという事だ。仮に此処に生えている藻が猛毒を持っていたとしても、そんなのは生物がいない理由とはならない。むしろ()()()()()()()()()()()()なのだから、これを利用出来れば繁栄は確定的だ。僅か七年で地球の生態系を一新したミュータントの適応・進化速度ならば、こんなにたくさんの藻を野放しにするなどあり得ない。

 何故植物だらけの環境で生き物がいないのか。もしやミュータントといえども生半可な種では生存も許されないような、恐るべき存在が潜んでいる可能性も――――

 

「あ。あっちになんか居ますね。動いてないから見落としてました」

 

「ずこーっ!」

 

 等と色々考えていたが、ミドリの一言で呆気なく前提が崩壊した。単にこの辺りの生き物は隠れるのが上手なだけだったらしい。

 モモはそこまで真面目に考えていなかったようで「なーんだ」で済ませたが、真剣に思い詰めていた継実は一人ずっこけてしまった。岩に叩き付けたところで傷むような柔な皮膚ではないが、継実の顔は赤く染まる。

 

「? 継実さん、どうしましたか?」

 

「……なんでもない。それより、どんな感じの奴が見付かったの?」

 

 誤魔化すように継実が問うと、ミドリは海辺の方をじっと見つめながらしばし黙考する。

 

「なんか、存在感は小さいんですけど、身体はあたし達より大きいと思います。あと、凄く遅いです」

 

 やがて返ってきたのは、そんな答え。

 自分達より大きいという特徴は少々気になるが、存在感の小ささや遅さは、獲物として考えれば良いものだろう。存在感(強さ)が小さいなら簡単に仕留められそうだし、遅いなら追い詰めるのも楽。勿論捕食者が気配を消して隠れているだけかも知れないので楽観はするべきでないが、探りを入れる価値はあるだろう。

 何より、継実達はニューギニア島の生物について殆ど何も知らない。リスクばかりを恐れて探りを入れなければ、何も分からず終いだ。

 

「……良し、行ってみよう。何処らへんに居るの?」

 

「あの岩の向こう側です。あそこに大きな窪みがあって、その中に居ますね」

 

 ミドリが指差した先には大岩が一つ。周りの雰囲気から、確かに窪みがあるようだ。

 継実とモモは視線を合わせた後、息と足並みを揃えてゆっくりと大岩に近付く。ミドリが数歩後ろから見守る中、継実は恐る恐る岩を登り、向こう側を覗き込んで――――

 そこに陣取る巨大な巻き貝の姿を見下ろした。

 巻き貝の大きさは幅が三メートル、高さは二メートルほどだろうか。確かに継実達よりもとても大きい。表面には藻がびっしりと付いており緑一色に染まっているが、大きくて不格好な凹凸と、螺旋を描くような溝から間違いなく巻き貝の殻だと分かる。そして動きはのろりのろりと、音速超えなど当たり前なミュータントとしてはあまりにも鈍いもの。

 そんな貝の下側から見えるのは()()()()()()

 軟体質の身体ではない。むしろ甲殻に覆われた、頑強そうな見た目のハサミである。ハサミの大きさはざっと五十センチはあり、まるで鈍器のような太さからその力強さが窺い知れる。しかしそのハサミで破壊的な行為をしているかといえばそんな事はなく、ちまちまと、岩に生い茂る藻を切り取っては貝の内側へと運んでいた。

 上から見ただけで分かる。これは貝ではなく――――

 

「ヤドカリか」

 

「ヤドカリね」

 

 継実とモモは同じ答えに辿り着き、二人揃ってその名を呼んだ。ミドリは「やどかり?」と呟きながら首を傾げ、とてとてと継実達の傍に来て一緒に大岩の影からヤドカリを覗き込む。

 大好物の貝だと思って笑顔を浮かべたのは一瞬。その貝の下から出てくる甲殻的なハサミに気付くと、びくりと身体を震わせながら継実の後ろに隠れた。

 

「ひぇっ!? え、なんですかアレ……」

 

「ヤドカリはエビとかカニの仲間だよ。死んだ貝の殻を利用して身を守ってるの。まぁ、七年前はあんな巨大な奴、いなかったけどね」

 

「はぁ……まぁ、他の生物の遺骸を利用して身を守るというのは、宇宙でも珍しくない生態ですけど……あたしもある意味似たような種族ですし」

 

 継実が説明するとちょっとは興味が湧いたのか、身を乗り出すようにしてミドリはヤドカリをまじまじと見る。

 ヤドカリは、恐らく継実達の存在に気付いてはいるだろう。しかし慌てて逃げる事もなければ、殻に引き籠もる事もしない。継実達の事を全く脅威だと思っていないようだ。恐れ怯えて逃げ惑え、なんて物騒な事は言わない。しかしこうも堂々とされると、継実的に思う事がない訳でもなかった。

 それでいて好都合でもある。

 継実達は藻を食べられないが、藻を食べる動物は獲物に出来るのだから。

 

「……ヤドカリって、美味しいらしいよ」

 

「えっ。た、食べるんですか!?」

 

「地域によっては普通に食べるらしいわよ。結構美味しいみたいね」

 

「それに人間が好んで食べていたタラバガニって奴は、ヤドカリの仲間らしいし。だから多分コイツも美味い」

 

「そ、そう、なのですか?」

 

 半信半疑気味に首を傾げるミドリ。実際には、そんな事はない。美味しいヤドカリは美味しいが、美味しくないヤドカリは普通に美味しくない。確かに種が近ければ味も似るものだが、それは絶対的な保証ではないのだから。

 されど目の前のヤドカリが美味しいかどうかは、食べてみるまで分からない。

 元より腐った肉でも普通に食べられるぐらいには継実も慣れたのだ。余程のものでなければ食べられるし、楽しむ事だって出来る。今や継実達は味覚もまた野性的な逞しさに満ち溢れていた。

 それに少なくとも継実の目には、このヤドカリには毒がないように見える。今後出会う動物が食べられるものとは限らない以上、少ないチャンスを逃すのは愚行というもの。

 ニューギニア島初の獲物。これは是非とも味わう必要があるだろう。

 

「……掛かれぇ!」

 

「よっしゃあっ!」

 

「えっ!? いきなり突撃!?」

 

 継実の号令と共に、きっと継実と同じ考えに至っていたモモも走り出す。ミドリだけがあたふたして出遅れたが、元より彼女は非戦闘員。遠くで援護してくれれば良い。

 継実とモモが向かうはヤドカリの正面と後方。動きの遅いこの生き物を挟み撃ちにするのは造作もなく、簡単に継実達は自分達の有利ポジションを取れた。このまま挨拶代わりの粒子ビームを撃ち込んでやると継実は手に力を込め、モモは渾身の電撃を解き放つために静電気を溜めていき、

 ヤドカリは誰よりも早く、攻撃の手を打った。

 貝殻を高速で回転し始めたのである。しかもその回転している貝殻をヤドカリがハサミで掴むと、まるで陶芸家が轆轤(ろくろ)に設置された粘度を伸ばすかのように、貝殻が()()()()()()()()ではないか!

 

「ぽぐぇっ!?」

 

 あまりにも予想外な『能力』を目にして呆けた継実は、顔面に伸びてきた貝殻の攻撃を受けてしまう。

 ヤドカリに触られてぐにゃぐにゃと伸びてある筈なのに、ぶつかった貝殻はとても硬い。念のために粒子スクリーンを展開していたのだが、これをぶち抜き、継実の頭に『直撃』した。受けたダメージは頭蓋骨にヒビが入った程度。継実にとってはすぐに再生出来る程度の傷だが、粒子スクリーンで防いでもこの威力なのだ。もしも嘗めきって生身で挑んでいたら、今頃頭がクラッカーのように弾けてあの世行きだっただろう。

 

「コイツやったわねばっ!?」

 

 継実が攻撃されたのを見てモモが電撃を撃とうとするも、先に動き出したヤドカリの方が早い。継実を殴り飛ばした巻き貝の先端はぐにゃぐにゃ蠢きながらモモの方へと向かい、そのモモの顔面を殴る。

 物理的衝撃に滅法強いモモの体毛だが、ヤドカリの一撃を受け止める事は出来ず。何十メートルも吹っ飛ばされ、進路上にあった大岩と激突。岩が砕ける事はなかったが、それはミュータントと化した藻が岩を包み込んでいるからで、衝突の威力が弱かった事を意味しない。岩に叩き付けられたモモは、ぐたりと地面に倒れてしまう。

 残り一人であるミドリは……大岩の影に隠れていたので、ヤドカリのターゲットにはならず。

 継実とモモをぶっ飛ばして、幾分スッキリしたのだろうか。ヤドカリはのそのそと歩きながら、この場を立ち去ろうとする。尤もその歩みは酷く遅く、姿が遠くなるまで数分と掛かる始末。

 

「……あー、死ぬかと思った」

 

 その間敵意がない事を示すためずっと動けなかった継実は、起き上がった時には疲れたようにぼやいた。

 

「継実さん!? 大丈夫ですか!?」

 

「まぁね。ある程度はこうなる事も覚悟していたし」

 

「え? 分かって、いたのですか?」

 

「だってアイツ、私達が見ていても逃げなかったでしょ? 」

 

 戸惑うミドリに対し、継実は自分の考えを話す。

 継実達が大岩からじっと覗き見ている間、ヤドカリは慌ても騒ぎもせず、食事を続けていた。

 ただのヤドカリなら、食事に夢中で大岩の傍に隠れている継実達に気付かなかったとも考えられただろう。或いは所詮甲殻類の脳みそでは、肉薄した外敵すら認識出来ないという事もあり得たかも知れない。しかしあのヤドカリはミュータント。数キロ彼方の脅威を察知し、高度な知性を持つ超常の生命体だ。継実達の存在は察知し、三人の実力もそれなりに把握していた筈。

 即ち、全て分かった上で無視していたという事。

 恐らくヤドカリには、最初から継実達を撃退出来るだけの自信があったのだろう。その考えを読んだからこそ継実は粒子スクリーンを展開し、守りを固めていたのだが……こうも一方的にやられるのはちょっと想定外。

 

「殻がデカいだけで中身なんてそこまで大きくないと思うから、力もその程度だと踏んでたんだけどなぁ」

 

 わっはっは。予想通りな部分と予想外が程々に噛み合って、継実は快活に笑う。

 勿論ちょっと危ない事をしたなとは、継実と思っている。必要な賭けではあったが、少しばかり警戒心が足りなかったか。今回は幸運にも助かったが、次回もそうなるとは限らない。一層気を引き締めねばならないだろう。

 と、継実なりには反省している。しかしながらミドリには、無茶をしたのに悪びれていないとでも思われたのかも知れない。

 ぷくーっとミドリは頬を膨らませ、潤んだ目からして割とお怒りな様子。

 

「もぉー! 継実さんはもっと自分の身体を大切にしてくださーい!」

 

「あ、はい。ごめんなさい」

 

 心配された継実は、ミドリからのお説教に素直に謝る事しか出来なかった。

 

「ただいまー。駄目だったわねー」

 

「あ。モモさんお帰りなさい」

 

 ちなみに同じく無茶をした筈のモモだが、ミドリはこちらには怒らず。継実に怒りをぶつけてスッキリしたのか、はたまたモモは日頃継実ほどの無茶をしてないからか……多分後者だと継実自身思うので、不公平だと不満は漏らさなかったが。

 さて。なんやかんや全員無事で済んだヤドカリ狩りだが、獲物を仕留められなかった以上失敗ではある。

 

「ところで継実、これからどうする?」

 

 モモが投げ掛けてきた質問は、それを踏まえてのものだ。

 選べる今後の方針は主に二つ。ヤドカリ狩りを続けるか、諦めて別の獲物を探すか。

 ヤドカリ狩りを続けるなら、立ち去ったヤドカリを追えば良いだろう。しかし今のところ、あのヤドカリの仕留め方は特に思い付いていない。苦戦は免れないだろうし、あのぐにゃぐにゃ伸びる殻の一撃は脅威だ。正直、割に合わない獲物だろう。

 ならば諦めて別の獲物にするのが賢明である、が、しかし……

 

「……ミドリ。あのヤドカリ以外に生き物っていそう?」

 

「え? そうですね……うーん……」

 

 尋ねてみれば、ミドリは顔を顰めてしまう。どうやらヤドカリ以外の生き物が見付からないらしい。

 ヤドカリが圧倒的強者故に、他の生き物を全部追い払っているのか。それとも他の理由があるのか。なんにせよ、ヤドカリ以外の生き物がいない以上、この岩礁地帯で別の獲物を見付ける事は不可能だ。そうなると場所を変えるしかないだろう。

 つまり。

 

「やっぱ、この森に入らないと駄目かぁ」

 

 ぼやきながら継実は、岩礁地帯のすぐ隣にある環境――――熱帯雨林に目を向ける。

 初めて此処ニューギニア島に辿り着いた時に見たのと、同じような熱帯雨林。あの時違和感を感じたが、今ならその正体が分かる。岩礁地帯を歩いた事でヒントを得たのだから。

 いや、或いは答えと言うべきか。何しろ違和感の原因が、此処と変わりない。

 熱帯雨林は海岸と同じく不気味なほど静まり返っている。

 生命の気配が、全くないがために……



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生物災害03

 熱帯雨林の中を進む継実達。その足が地面を踏み付け、草を掻き分ける度に、ざふざふと小気味いい音が鳴る。

 生い茂る樹木の葉により日光が遮られ、地上は夜よりも暗い。しかし粒子操作で粒子そのものが見える継実には、どれだけ暗くとも森の中は丸見えだ。細い木々が風で揺れる姿も見えている。木々はその度にぎしぎしと鳴らしていて、森中から音色が聞こえてきた。

 ミュータントとなって代謝が活発になった影響か、樹木は新しい葉をどんどん伸ばす傍ら、古い葉を次々に落としていく。地面に落ちる時、先に落ちていた葉と重なってカサカサという音を奏でた。森の至る所から、カサカサ、カサカサと、優しい葉の音色が響く。水分を吸われているだろう地面は呼吸するように上下し、空気の漏れ出る音がひっそりと聞こえてくる。じゅわじゅわと、水気の失せていく音だって鳴らしていた。

 確かに森の中は様々な音に溢れている。植物が生えているのだから、命がいない訳がない。

 だが、聞こえてこない。植物の葉を齧る音も、落ち葉を踏み鳴らす音も、幹に爪を立てた時の乾いた音も、乗った枝がしなる音も……

 動物達が鳴らす音は一つも聞こえてこなかった。

 

「……駄目です。動物の姿は何処にもありません」

 

 それだけならただ隠れているだけかも知れなかったが、ミドリの索敵にも引っ掛からないとなれば、やはりそうとしか思えない。

 森の中はすっかり空になっていた。残っているのは『賑わい』である木々や草花など、動けないものばかり。海辺に居たヤドカリのように大きな生き物が見付からないだけなら個体数の関係もあるだろうが、小バエやハチなどの小さな虫まで見られないのはどうした事か。葉の上を歩き回るイモムシの気配もないし、地面をちょこまかと歩くアリの姿すら見えない有り様だ。

 流石にこれは何かがおかしい。熱帯雨林の状態に最初から違和感を持っていた継実は、その感覚がより一層強くなる。ミドリとしても、森の中に全く生き物がいないという状況は流石に安心よりも不気味さを強く感じるのだろう。海岸線の岩礁地帯とは違い、かなり不安げに辺りを見回している。しかしその動きも、全く見付けられなければ不安を掻き立てるだけ。

 『人間』達は森の異様さに、得体の知れぬ恐怖を感じ始めていた。

 

「ふむ。だけど元々寂しい場所だった、という訳じゃなさそうね」

 

 そして人間よりも本能的感覚に優れるモモは、更に一歩進んだ情報を得ていた。

 

「どういう事?」

 

「臭いがあんのよ。獣臭さもあるし、糞の臭いだってある。というかさっき糞見付けたし。大きさと形からして多分シカね。間違いなくつい最近まで動物がいたわ」

 

「……最近って、何時頃?」

 

「さぁて。流石にそれは元の臭いの強さが分かんないとハッキリとは言えないけど」

 

 でも凄く最近でしょうね――――そう言いながらモモは、足下の地面を軽く足踏み。

 すると地面は、くっちゃくっちゃと、水音を鳴らした。

 地面がかなり水を吸っているのだ。水溜まりが出来るほどではないが、恐らく軽くでも土を握り締めれば水がじゃばじゃばと滴り落ちるだろう。湿地帯なら兎も角、熱帯雨林の土壌が普段からこのような状態の筈がない。恐らくごく最近大雨が降ったのだ。

 それ自体は何もおかしな事ではない。熱帯雨林という名前の通り、暖かで周りが海に囲まれたこの地域は非常に雨が多いのが特徴である。一度に降る雨の量も、しとしとではなくざーざーとした土砂降り。雨後に地面がぐちゃぐちゃになる事など珍しくもあるまい。

 そうした珍しくない情報でも、森の出来事を知る上でかなり重要なヒントとなるものだ。具体的には、雨が降った時間が重要である。

 確かに森の中は葉に遮られて暗く、直射日光は届かないが……代わりに貪欲なミュータント植物が生い茂っている。植物は地面から栄養を吸い取る際、水も一緒に吸い上げるもの。いや、水と共に栄養素を取り込むという方が正確だろう。だから土壌の栄養を得るために、植物達は大量の水を日夜吸っている筈だ。更に光合成にも水が必要 ― 光合成は水に含まれる水素と空気中の二酸化炭素を合成して炭水化物を得る反応だ ― であるから、セルロースやリグニンなどの炭水化物を主成分としている植物体が成長する際にも水は大量に消費される。

 驚異的成長速度と繁殖力を持つミュータント化植物は、大量の水を消費・吸収しているのだ。だから土壌の水分なんて、あっという間に『喰い尽くす』筈である。その水がまだ土にたっぷり残っているからには、雨が降ったのは本当にごく最近の事なのだろう。恐らく継実達が島を訪れるほんの何時間か前か、精々植物の光合成が行われていない夜間。いずれにせよ半日経ったかどうかだ。

 そして大雨が降れば、古い臭いは流されて消えてしまう。

 臭いがあるからには居た筈なのだ。雨が降ってからしばらくは。ならば森から動物達の姿が消えたのは雨後となる。

 つまり継実達が訪れる、ほんの数時間前の出来事だ。

 

「す、数時間って……何が、あったのでしょうか……?」

 

 そう継実が教えたところ、ミドリは凍えるように震えながら尋ねてきた。何か異変が起きて動物達が逃げ出した――――ミドリは先の話をそう解釈したらしい。

 しかし継実達の解釈は『逆』だ。

 

「まだ何も起きてないわよ。起きるとしたらこれからね」

 

「こ、これから?」

 

「ミュータントがみんないなくなるような出来事だよ。何かあったら、多分森の中とかもうぐっちゃぐちゃだろうね」

 

 隕石衝突クラスの鉄拳を繰り出し、都市を一つ焼き尽くすビームやら電撃やら火焔放射やらを通常攻撃として繰り出すのがミュータント。そのミュータントが全員揃って逃げ出すほどの『イベント』となれば、森どころか地形、或いは島の一つ二つは消えているだろう。

 それほどの恐ろしい出来事が()()()()()()()かも知れない。ミドリの顔がすっかり青ざめて、ぶるぶると震えてしまうのは仕方ない事だ。

 そんなミドリを見た継実とモモは、ニカッと爽やかに笑う。次いでミドリの傍により、力強く彼女に抱き付いた。

 

「もー、そんなに怖がらなくて良いわよ。まだ悪い事が起きると決まった訳じゃないんだし」

 

「へぁ? そ、そうなのですか?」

 

「そうそう。案外良い事かもよ? サケの遡上みたいな」

 

 動物達が一斉に移動するのは、何も悪い事だけが理由ではない。

 例えばサケやカゲロウなど、一定周期で大量発生する生物が何処かに現れるという可能性もある。この場合、多くの生き物がその場所に集結するだろう。大量発生した生物を餌にする生物、食べ残しを漁る生物、それらを襲う頂点捕食者……みんなが集まるから自分も向かうというのは、自然な事なのだ。草食動物もいないのは気になるが、大量発生するのが植物プランクトンや水草のようなものなのかも知れない。

 それに殆ど全ての生物が一斉に移動するという事は、件の『イベント』は周期的なものである可能性が高い。『イベント』の兆候を察知してすぐに移動するという生態がなければ、鈍い奴や疑り深い奴が残っている筈だからだ。島の外からやってきた継実やモモが『イベント』の兆候、つまりなんらかの ― 森が静かなどの『結果』以外の ― 異常さを感じ取れないのもこの考えを裏付ける。周期的なイベントが毎度毎度壊滅的被害をもたらすものなら、やっぱり今頃島など残っていないだろう。

 

「だから、まぁ危険がないとは限らないけど、そんなにビビらなくても良いと思うわ。むしろおこぼれがあるかも」

 

「そ、そうですね……はぁ」

 

 モモの話を聞いて安堵したのか、ミドリはため息を一つ吐く。

 ……確かに、そこまで心配する必要はないと継実も思う。

 けれども何故だろうか。無性に、胸の奥底がむずむずとするのだ。

 危機感といえるものは感じていない。なんの根拠もない。野性的な直感に優れるモモの平静ぶりからして、本当に自分達が感じとれるような兆候はない筈なのだ。けれども継実は何か、胸の内側が疼いているような気がした。

 恐らくそれは、自分の体質を理解している『理性』からの警告。

 ――――何かと面倒事に巻き込まれる(サガ)を忘れるな、と。

 

「(なんというか、私ら肝心なところで予測を当てた事がないからなー)」

 

 不治の病(トラブル体質)が脳裏をちらつき、継実は自嘲気味に笑う。

 そんなあるかないかも分からない体質はとりあえず無視するにしても、警戒を弛めるにはまだ早いだろう。何しろ継実達はこの島に上陸してまだ半日も経っていないのだ。植生も、生物も、それらの強さも、何もかもろくに知らない。

 無知同然の知識でこの地の出来事を理解しようなんて、傲慢が過ぎるというもの。可能性を考えるのは大事だが、それを信じるのはまだ早計である。適度な危機感を抱いたまま、何時も通り周りを警戒して生きていく方が良い……

 

「ん? あ、継実さん! モモさん! あっちに生き物の気配! 小動物です!」

 

 等と一人気持ちを引き締めていたところ、ミドリからそのような報告が上がる。

 継実達はミドリが指差した先に目を向けた。勿論暗くてよく見えない。しかし粒子操作の応用で粒子の動きを捉えれば、ミドリが場所を特定してくれたお陰で力を集中出来た甲斐もあり、その姿が浮かび上がる。

 ネズミだ。

 体長は三十センチ。見た目と大きさから判断するにドブネズミのようだ。彼等は七年前から世界中に分布しているキング・オブ・ザ・ゼネラリスト。この島でも未だに子孫を繋いでいたらしい。

 そんな彼等は数匹の群れを作り、全員が同じ方角……継実達がつい先程まで居た海へと向かって駆けている。

 それだけならさして気にするような事ではない。しかしネズミ達の誰もが、人間にも分かるぐらい鬼気迫る表情を浮かべているなら。そしてそんなネズミ達の背後に()()()()()()()()()()姿()()()()()()()となれば……流石に、気にしないでいられるほど継実は図太くない。

 何が彼等をあそこまで駆り立てるのか。原因に見当も付かず、継実の背筋をぞわぞわとした悪寒が走っていく。

 が、それはそれ。これはこれ。

 

「――――今日の昼ご飯は久しぶりのネズミだぁ!」

 

 弱くてそこそこ栄養価のある獲物と出会えた事の方が、今日はまだ何も食べていない継実達には重要なのだ。

 

「久しぶりに食べ応えがありそうね。行くわよ!」

 

「おー!」

 

 走りながら出した継実の号令に合わせ、モモとミドリも駆け出す。

 いきなり現れた見知らぬ襲撃者にネズミ達は大驚き。しかも行く手を遮るように継実達が現れた事で、身を翻して逃げる個体と、僅かに道を逸れる事で躱そうとする個体が出てしまった。判断が遅れた個体はどちらを追えば良いのかと迷い、足が鈍る。

 狙うはそんな判断の遅れたモノ達。彼等に狙いを定めればどうなるかは、継実にだって予想可能だ。

 予測不能な未来は一先ず置いておいて、継実達は予測可能な未来から対処していくのだった。



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生物災害04

「あぁ~やっぱドブネズミは美味しいわねぇ」

 

 もぐもぐと生のネズミを頭から噛み砕きながら、モモが至福に満ちた声を漏らした。

 継実達は今、海沿い近くで見付けた洞窟の傍に居る。決して大きな洞窟ではなく、奥行きは精々五メートルかそこら。この大きさなら夜中の雨風は凌げるし、中に大型肉食獣が暮らしていた痕跡もないので、此処で一晩過ごす事にした。

 時刻はもうすっかり夜遅くになり、空には星と月が浮かんでいる。普段ならこんなに夜遅くまで活動などしない ― 普通の昼行性生物と同じく日没と共に眠るのが継実達のライフスタイルだ。夜行性生物と夜に戦っても分が悪いので大人しく寝るのが一番なのである ― が、今日は寝床となる場所、つまり傍にある洞窟の発見が遅くなった。そのため今日はこんな夜更けまで起きているのである。夜更けといっても、恐らく午後八時ぐらいだろうが。

 そんな夜更かしのお陰で、ここ何年もまともに見ていない星空を継実は目にしていた。文明が跡形もなく消えた夜空は、とても美しいもの。星の海という言葉があるが、光に満ちた空は暗闇の中に蒼さもあって、確かに海を彷彿とさせる。この星空を泳いだらどれだけ気持ちが良いか……そんな空想が自然と継実の脳裏を過ぎった。七年間の野生生活で現実主義になった継実だが、未だ十七の少女である事は変わりない。星空を泳ぐ想像に思わず笑みが浮かぶ。

 ……ぐっちゃぐっちゃと音を立てて次々とネズミを食べている人物がいなければ、もっとロマンチックさに浸れただろうに。

 

「モモさん、凄い勢いでネズミ食べてますね。昼間にも食べたのに……そんなにお腹が空いていたんでしょうか」

 

「それもあるかもだけど、やっぱなんやかんやモモは肉食獣だからね。最近虫とか貝とか果物とかで、肉をあんまり食べてないから、本能的に飢えてるんでしょ」

 

 ネズミを心底美味しそうに頬張るモモを、ミドリと継実は微笑ましげに眺める。自分の事を話してる、と気付いたのかモモは一瞬視線を向けてきたが、ネズミを食べる方に集中したいのだろう。すぐに意識は継実達から逸れた。正しく犬の食事風景である。

 夕食を堪能しているのはモモだけではない。継実達の分もちゃんとある。寝床探しで夜更かしした分エネルギーも消費したので、遅めの夕食を取る事にしたのだ。何時もなら夜行性生物と遭遇する危険があるので空腹を我慢して寝るところだが、此度の島は夜行性生物の気配もなし。継実達も自分の分の獲物をたくさん獲得した。ただしその獲物はネズミではない。

 蛾の(さなぎ)である。

 蛾の多くは蛹になる時地面に潜っているものだが、それが此度はたっぷり見付かったのだ。具体的な数は数えていないがざっと百匹以上捕まえており、積み上げれば山が出来る。これだけで継実とミドリがお腹いっぱいになるのに十分。なので犬らしく肉を食べたいモモにネズミは渡し、『人間』である継実達が蛹を食べるというメニュー分けとなっている。

 

「……虫のサナギとネズミって、どっちが文化的なんですかね?」

 

「虫でしょ。昆虫食って、途上国だと割とポピュラーだったらしいし」

 

「そうなのですか。まぁ、ネズミよりは美味しいですからね、これ」

 

 生のままポリポリと食べてはいなかったと思うけどね――――生のままポリポリと蛹を食べているミドリの前でひっそり思いながら、継実も蛹を生でぽりぽりと噛む。七年前の継実なら「うぐぇー」と言いながら出したであろう代物だが、慣れてしまえば存外美味しい。羽化間近のものを除けば中身はどれもとろりとしており、その舌触りも面白いものだ。強いて欠点を挙げるなら時折大きく育った寄生バエの幼虫(蛆虫)がいて、気付かず食べると腐食性粘液(能力)による攻撃で口の中が焼け爛れる事ぐらい。

 栄養も満点で、今の世界においては特に優れた食材である。それを山ほど取れたのだから、これは実に幸先の良い話だ。

 

「なーんか猛獣も見掛けないし、此処は今までで一番過ごしやすいわねぇ」

 

「もう南極より此処に暮らす方が良いんじゃないですかね」

 

「かもねー」

 

 モモとミドリは暢気に語らい、食事を満喫する。勿論周囲の警戒は怠っていないが、モモが言うように猛獣の気配は何処にもない。この島に来て最初に出会った動物・ヤドカリ以上の脅威はついに現れなかった。

 正直なところ旅立つ前まで暮らしていた草原よりも住み易い。南極という目的地がなければ、ミドリが言うように此処に定住しても良いぐらいだ。勿論島の全てを把握した訳ではないし、一年を通してみなければ分からない事もあるだろう。困難も起きるだろうし、足りないものだってある筈だ。しかしそれでも、毎日猛獣が襲い掛かってくる土地よりは暮らしやすい筈。今の世界で一番の脅威は天災でもなんでもなく、野生生物の襲撃なのだから。

 今までの旅で一番楽な、久しぶりの、或いは七年以来初めての心安まる時。

 自然界は厳しいものだが、別に人間を虐めるために厳しい訳ではない。偶にはこんな、休憩を取れる日もあるだろう。ならその穏やかな時にしっかり休み、英気を養うのが合理的……と、心から継実も思っている。

 されど不意に、継実は蛹を掴んでいた手が止まった。英気を養わねばならない時に、小難しい表情を浮かべながら。

 次いでしばし、自分の手にある蛹をじっと見てしまう。

 

「どしたの継実? なんか変なもんでも混ざってた?」

 

 あまりにも長く見ていたからか、ネズミを頬張りながらモモが尋ねてくる。

 ハッと我に返り顔を上げて、無意識に視線を泳がせる継実。その際、ミドリも蛹を食べる手が止まっている事に気付いた。ただしそれは継実と同じ理由ではなく、継実が食べるのを止めたから、なんとなく不安になって中断しただけに違いない。怯えたようなミドリの眼差しがそう物語っていた。

 大した理由じゃないだけに、心配させてしまったのは申し訳ないと継実は思う。

 

「ああ、うん。やっぱ大きさの違いが気になって」

 

 故に継実は、自分が抱いた疑問を隠しもせずに明かした。

 昆虫の大きさというのは、同種内でも栄養状態によってかなり変化するものだ。その程度は種類にもよるが、例えばカブトムシの場合だと飼育環境などで非常に良好な栄養状態が続いた個体は、野外の小さな個体と比べて倍近いサイズを誇るという。蛾の幼虫だって季節や栄養状態で大きさが変わるものであり、条件がバラバラな自然界なら蛹の大きさも違うのが自然というもの。

 しかしながら、それを含めて考えても。

 見た目上どう考えても同じ種類なのに、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のは、何かがおかしいと継実は思うのだ。

 

「まぁ、気持ちは分からなくもないけどね。確かに普通じゃなさそうだし」

 

「な、なんか変な病気でも持ってるのでしょうか……」

 

「そーいうんじゃないと思う。多分だけど……」

 

 不安げなミドリに自分の考えを伝えようとする継実だったが、その言葉はぷつりと途絶えた。ミドリがますます不安そうな目で見つめるも、継実は口をきゅっと噤む。

 いくらなんでもそれはない。

 そう思ってしまうような可能性が喉元まで来たから、その口を閉ざした。しかし感情的に否定した可能性が本当に間違っていた事は、継実的にはあまりない。嫌な考えは大概当たる。ならば根拠もなしに否定するのは、状況への対処が遅れるだけ危険というものだ。

 自然界は厳しいばかりじゃない。だけど休める時が来たとしても、それが十分な時間続くとは限らない。自然は人間を虐めないが、励ます事も守る事もしてくれないのだから。

 思考を、カチリと切り換える。

 

「……()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 開いた口は、最悪の可能性を告げる事を躊躇わなかった。

 思えば妙なのだ。どんな理由があろうとも、全ての生き物が今の居場所から素早く動ける訳ではない。

 蛾の幼虫などその典型。根本的に足が遅いのだから、遠くに行きたくても行ける筈がないのだ。どんなに美味しくて栄養価のあるものが現れたとしても、或いは背筋が凍るほど恐ろしい外敵が現れたとしても、葉の上でジタバタするのが精いっぱい。

 その姿が全て、生まれたばかりの小さな幼虫まで含めて消えたとすれば、蛹になって隠れているとしか思えない。

 それが可能であるかとか、蛹になった後正常な成虫になれるかとか、そんな『些末事』はこの際どうでも良い。たった七年で樹木が百数十メートルの巨木へと育ち、直径二メートルの巻き貝が何処かで繁栄し、それを背負うヤドカリが誕生するのがミュータントである。能力以外も色々とおかしい ― 或いは進化するほど()()()()()()()()()()()()()()()()()() ― のは今更というものだ。

 勿論それでもやはり、相当の無茶をしているのは確かだろう。だから問題は蛹になった事そのものではなく――――そこまでして蛹になろうとした理由。

 蛹の役割は、幼虫の身体から成虫の身体へと生まれ変わるための『中間形態』である事。いわば成虫が生まれるための卵のようなものだ。しかし頑強な殻、どろどろに溶けた身体、活動しない事による代謝の抑制などのお陰で、環境変化に大して滅法強いのも特徴としてある。一説によれば蛹というのは本来、急激に変化していく環境を一時的にやり過ごすために発達した形態だという。今はその仕組みを利用し、幼虫と成虫の分業など様々な能力を発揮して昆虫は繁栄しているが……本質的に蛹は守りの姿なのだ。

 つまりこの地に暮らす幼虫達が急いで蛹になったのは、そうまでして身を守ろうとしたという事に他ならない。

 普通に生きていても為す術がなく、リスクも何も全部度外視して蛹になるしかないと本能的に感じる『何か』が起きようとしていると考えるのが自然だ。そしてその『何か』はまだ起きていないだろう。こんな無茶な方法を選ばざるを得ない災禍なのだから、全てが終わった後はそこらに死骸がごろごろと転がっていないとおかしいのだから。

 

「やっぱりこの島、なんか変だ。出来るだけ早く旅立った方が良いと思う」

 

「……そうね。今のところなんも感じないけど、自分を信じ過ぎるのは自然で一番やっちゃ駄目な事だし。継実の感覚を信じましょ」

 

 正直に話せば、モモはすんなりと継実の考えを受け入れた。獣である彼女は賭けを好まない。リスクがあるなら、それを避けようとするのが自然な考えだった。

 対してミドリは、いきなり告げられた危険性にわたふた。安全だと思っていたのに突然危険だと言われて、どうして良いか分からなくなったのだろう。

 

「えっ。そ、それじゃあもうすぐにでも此処を出た方が良いのでしょうか……」

 

「いや、それはもっと危ないでしょ。私らの能力じゃ海を渡るだけで自殺行為なのは、日本を出た時に思い知ったでしょ?」

 

「日本からフィリピンほどの距離はないけど、隣の島、というか大陸まではそれなりには遠いからね。まずは渡る方法を見付けないと駄目だよ。明日はそれを探そう」

 

「は、はい。そうですね。分かりました」

 

 モモと継実に説明され、ミドリは少し落ち着きを取り戻す。『文明人』である彼女には危険と隣り合わせなど我慢ならないだろうが、急いで行動する方が危ないとなれば話は別。そのぐらいの合理性は持ち合わせているのだ。

 それに継実とモモを信用していて、二人の言う事を聞こうという決心もあるのだろう。無論ただの盲信では却って危ないが、疑問に感じればちゃんと尋ねてくるのでその心配は必要あるまい。任せるところは任せて、自分は自分の出来る事を全力でする。一番良い精神状態だろう。

 ちなみに野生動物であるモモは最初からミドリと同じ心構えが出来ているので、端から心配などいらない。そして何かがあっても、無駄な事はさらっと諦め、気持ちを切り換えるのに長けている。継実達の中では一番タフな、鋼のメンタルの持ち主だ。

 実のところ継実が、精神的には誰よりも厳しかったり。

 

「(さぁーて、本当に焦らない方が良いのかどうか)」

 

 夜中に海を渡る。それがどれほど危険なのかは、ミドリに話した通り日本出発時に散々思い知った。今でも自殺行為だと思っているし、ツバメの手助けなしに日本海を渡る方法なんて未だに考えも付いていない。次の渡海は距離的にそこまで過酷ではないだろうが、だとしても困難なのは確か。考えなしに挑めばほぼ確実に死ぬ。

 しかし、これからこの島にやってくる『何か』がどうして渡海よりも安全だと言えるのか。夜中に渡海した時の生存率が〇・〇一パーセントだとしても、『何か』と遭遇した時の生存率が〇・〇〇一パーセントなら、前者を選ぶのが正解に決まっている。果たして夜明けを待つのが正解なのか、実はとんでもない間違いをしているのではないか――――

 ……こんな事を考え出したら切りがないのは継実にも分かっている。それでももしもを考えてしまうのが人間なのだ。誰かに頼ったりスッキリ割り切れたりすれば楽なのだろうが、継実はミドリに頼られる側で、犬ほど単純にはなれないホモ・サピエンス。うだうだと脳裏に、考えても仕方ない可能性が過ぎる。

 尤も、七年前(小学生)の時と比べればかなり単純にもなったもので。

 ぽつりと頭に『水滴』が落ちてくるだけで、そんな考えは何処かに飛んでいってしまった。

 

「んぁ? 雨?」

 

「あら、何時の間にか雨雲が来てるわね。こりゃ土砂降りになるかしら」

 

 モモと共に空を見上げてみれば、ついさっきまで広がっていた筈の星空が暗雲に包まれていた。

 継実の目は雲の厚みを捉える。厚みは精々数千メートル程度の、ごく普通の雨雲(積乱雲)だ。とはいえこれだけ大きければ大量の水分を含み、かなりの大雨を降らすだろう。

 やがて森の方から海に向けて、強い風が吹き始めた。雨と合わされば所謂暴風雨。ちょっとした災害だ。

 幸いにして、継実達は寝床として利用するため洞窟の傍に陣取っている。

 

「わわわ。食べ物も濡れちゃいますし、早く洞窟の中に逃げましょう」

 

「そうだね。モモも蛹運ぶの手伝って」

 

「あいよー」

 

 手分けして食糧を洞窟内へと運び入れて、すぐに自分達も洞窟の中へ。奥行きのない穴だが、入口から数メートルも離れれば雨粒の飛沫など入らない。吹き荒れる風は森から海に向かっており、洞窟は海側を向いているので、風で雨が入り込む心配も不要だ。

 兎にも角にも一安心。

 そうして継実達が準備を終えた頃になって、空から本格的に大粒の雨が降り出すのだった。



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生物災害05

 ざぁざぁという雨音が、洞窟の中を満たす。

 洞窟といっても奥行き五メートルほどしかないが、それでも雨の音が入り込むと反響し、ちょっと不思議な音色を響かせた。淡々と続く静かなリズムは、睡眠を誘導するのに丁度良い。

 洞窟内は気温も涼しい。勿論ミュータントである継実達には、数百度に達する焚き火の中でも居眠りが出来るぐらい身体は丈夫だが、それでもやっぱり二十数度の気温が一番寝心地が良いのだ。一日中日光が当たらない洞窟は昼間でも気温が上がらず、天井のお陰で熱がこもるので夜も急激には冷えない。高々五メートルの奥行きしかない洞窟でもその機能は多少なりと働き、そこそこ寝心地の良い気温になっていた。

 強いて難点を挙げるなら、ごつごつとした岩肌はどう考えても寝心地が良くない点だろう。しかしミュータントに支配されたこの地球にその心配は無用だ。洞窟内でも背の低いコケがびっちりと生えていて、床と壁を覆っている。ふかふか、というほどの厚みはないが、岩肌にごろ寝するよりは幾分マシだ。そもそも継実は七年間木の洞を寝床にしていたぐらいなのだから、今更岩肌ぐらいで眠れないだのなんだの言わない。

 総合的に見て、実に寝心地の良い空間である。自然界の中では最高峰と言っても過言ではない。

 ――――その最高峰の中で。

 

「(ね、眠れない……)」

 

 継実は目をギンギンに見開いていた。

 勿論目玉を根性で押っ広げていれば、眠れる訳がないだろう。しかし継実にそんなつもりはない。目を閉じ、思考を停止し、何度も眠りに入ろうとした。

 なのに何故か、眠れない。目は勝手に開き、思考などしていない脳はどんどん感覚を鋭くしていく。

 

「(そりゃ、今までも寝付けない時とか何度かあったけどさぁ)」

 

 昔の記憶を紐解けば、そうした眠れない日は獲物が全然獲れなくて空腹な時ばかり。

 今日のように満腹になれば、暗くなるだけでこてんと眠れるのが普通だ。何故なら本能に支配された身体は、無駄なエネルギー消費を嫌う。獲物が見付け難く、強敵となりかねない夜行性生物が跋扈する夜中など、さっさと眠ってやり過ごすのが合理的なのだから。

 そう、継実の身体は合理的である。

 つまりこうも考えられる。継実の身体は()()()()()()のだ。獲物が捕まえられなくてエネルギーが賄えない時のような、ある種の危機感によって。

 継実は殆ど無意識に身体を起こす。

 

「眠れない?」

 

 そうすれば、右隣で寝ていたモモが声を掛けてきた。

 相棒も眠れなかったらしい。同じ状態の仲間がいて安心……するほど継実も能天気ではない。自分の本能の感じているものが、ただの勘違いでない可能性が高まったのだから。

 

「そっちも?」

 

「うん。ぜんっぜん眠れない。こんなの生まれて初めてだわ」

 

「モモ、よく寝るからねぇ」

 

 ネコの語源は『寝る子』という説があるが、犬も似たようなもんじゃないかと継実は思う。なんやかんやこの愛玩動物達は、起きてる時間よりも寝ている時間の方が多い。尤もその睡眠は殆どが浅いもので、だからこそたくさん寝ているらしいが。

 ともあれ人間よりも多くの睡眠を欲するモモが、こうして夜中でも寝惚ける事なく起きている。それだけで事の異常さが分かるというものだ。

 

「んにゃー……むにゃむにゃ……だめですつぐみさぁー……それはあたしの……みけ……らんじぇろ……」

 

 ちなみにミドリはぐーすか寝たまま。宇宙人は異変に気付いていないらしい。

 「私のミケランジェロってなんやねん。あとアンタは私をどんな風に見てんのさ。つかミケランジェロとか何処で知ったの?」等と猛烈にツッコみたい衝動を抑えつつ、継実はモモと目を合わせる。暗闇の中だが優れた感覚、そして心が繋がってる二人は同時に自然と頷いた。

 今眠るのは良くない。

 何故かは分からないが本能がそう感じている。『野生動物』である継実達はその感覚に従って、一時眠るのを止める事にした。そして未知の脅威が迫る中、索敵能力に優れるミドリの存在は欠かせない。

 熟睡しているところ申し訳ないとは思うが、継実はミドリの肩をそっと揺すった。

 身体を揺らされたミドリは少し間を開けてから、もぞもぞ動いて起き上がった。くるりと継実の方へと振り返り、目と目を合わせる。

 

「……ぐぅ」

 

 が、またぱたりと倒れた。

 

「えぇーい! 起きろっつってんの! おーきーなーさーいぃー!」

 

「ふぇあっ!? て、敵襲!?」

 

「ほんとに敵襲だったらもう一回死んでそうだけどね」

 

 優しくやっても埒が明かないと、継実はミドリの耳許で吼えた。これには流石にミドリも跳び起き、目はパッチリと開く。モモがやれやれとばかりに肩を竦めた。

 起きたミドリに、継実は自分とモモが抱いた『感覚』を説明する。気の所為でしょ、と言われたらなんの反論も出来ない話だったが、かれこれもう二ヶ月近く共に暮らしてきたミドリは継実達の話に疑いなど持たず。

 

「分かりました。とりあえず、周りの様子を探ってみます」

 

 それどころかすぐに自分の役目を理解し、実施してくれる。

 やはりこういうところでは頼りになる。継実はミドリに索敵を任せつつ、何時異変が起きても良いように身体を温めていく。モモも立ち上がり、洞窟の出入口を見ている継実とは逆方向……洞窟の行き止まりを見つめた。七年前ならそこは見る必要のないものだが、今や世界は肉食巨大ミミズやステルスハマダラカが何時出てくるか分からない状況。壁に背を向けて安心しているようでは甘い。

 何処からどんな攻撃が来ようとも、簡単にはやられやしない。

 

「うーん。少なくとも近くには全然気配も何もないですけど」

 

 ところがそんな決意は、眉を顰めるミドリの一言で行き場を失ってしまうのだが。

 

「……なんもない? えっと、地中とか空中も見た?」

 

「失敬な。あたしだってもう何十日もこの星で暮らしてるんですよ。ちゃんと見てますー」

 

「あ、うん。ごめん」

 

「いやまぁ、この前のカみたいな例もありますから絶対とは言えませんけど……」

 

 可愛らしく怒りつつも、もしもについてはミドリも考えている。実例があるだけに『見えない』だけでは絶対の安心は得られない。

 とはいえ接触するような距離でも隠れ続ける事が出来たのは、フィリピンのハマダラカだけ。ミドリの索敵能力は基本的には信用に値する。無闇に疑うものではない。

 それに、見えない敵にも対処法はある。

 

「何本か毛を伸ばしてみたけど、特に引っ掛からないわね」

 

 モモの体毛によるセンサーだ。直接触れてしまえば、如何に隠れていようと誤魔化せない。

 二人の索敵に引っ掛からない以上、やはり近くには何もいないのだろう。

 ならば遠くにいるのか、とも考える継実だが、そうなると今度は知る術がない。如何にミドリでもあまりにも遠い存在を探ろうとすれば、その分能力の精度が落ちてしまう。島全体を索敵するだけならミドリは難なく出来るが、精度が低くて参考程度にしかならない。モモの体毛はそもそも射程距離が短いので、広範囲の索敵は不向き。臭いなどがあれば別だが、雨が降っては期待出来ないところだ。

 ちなみに継実はなんの役にも立たない。継実の索敵能力は基本ミドリの下位互換であるので、ミドリの索敵に引っ掛からないものを継実が見るのはまず無理だからだ。精々ミドリが一方向を索敵してる時、補助するように別方向を探るのが精いっぱい。モモのような触覚や嗅覚による探知も出来ないので、索敵は本当に人任せである。

 

「うーん、ならやっぱり近くには何もいないのかなぁ。でもなぁ、気になるし……」

 

「それなら普通に夜更かししてれば良いんじゃない? 眠くなったら寝れば良いでしょ」

 

 どうしたものかと悩む継実に、モモが意見を出す。

 いきあたりばったりな……とも思う継実だったが、確かに、気になるなら起きていれば良いのだ。本能が危険を察知して眠気が飛んでいるなら、危険がなくなれば勝手に眠くなる筈。

 どうせ全然眠くならないのだから、眠くなるまで好きなように起きていれば良い。文明人と違って時間に縛られない、野生動物らしいやり方だ。

 

「あ、良いですね! あたし、パジャマパーティーとかしてみたかったんです!」

 

「パジャマどころか毛皮も着てないけどね。全員全裸」

 

「寝る前だからこの呼び方で良いんですー!」

 

 モモのツッコみもなんのその。文明人ミドリは、夜更かしがしたくなったらしい。

 実は継実も、ちょっとそわそわしていた。

 何しろ十歳の時に文明が滅びて野生生活に叩き落とされた身。修学旅行も友達の家でのお泊まりも、一度も体験したい事がない。当然夜中の語らいも、だ。七年間のモモとの生活でも、夜になったらすぐに寝ているのでパジャマパーティー的なものをした事は一度もない。

 身体は性成熟が済んだ十七歳でも、心はまだまだ女の子。そして元文明人の精神は、野生の本能と理性に押し潰されただけで、まだ奥底にほんのりと残っている。

 

「……やっちゃおうか。パジャマパーティー」

 

 女の子に戻った継実に、ミドリからの誘惑に勝てる道理などなかった。

 ……………

 ………

 …

 

「……飽きた」

 

 なお、そうして始まったパジャマパーティーへの関心は、十分も経たずに終わったのだが。継実は洞窟の地面に大の字に寝そべり、ただただ天井を見つめるばかり。

 

「飽きたわねー……」

 

「ですねー……」

 

 モモとミドリも退屈さを隠しもしていない。モモはつまらなそうにうつ伏せで寝転がり、ミドリは壁に寄り掛かってぼぅっと洞窟の出入口を見つめるだけ。

 考えてみればこうなるのは当然だ。パジャマパーティーというのは普段一緒に暮らしていない、学校の友達だとか幼馴染だとかを誘ってやるもの。そこで学校では訊けない恋バナだとか悪口だとか秘密の花園だとかを繰り広げるのである。

 ところが継実達はどうだ。

 毎日一緒に暮らしているし、一緒に狩りもしているし、一緒に寝ている。別行動なんて(肉食獣に襲われたら危ないので)殆ど取った事がなく、比喩でなく二十四時間一緒の状態だ。そんな相手に訊きたい事などある訳がない。むしろ誰よりも知り尽くしているという自負まである始末。大体にして異性どころか同種とすらまともに会えないのだから恋バナなんて出来る訳がなく、同様に悪口の対象は目の前の相棒か宇宙人しかいない。秘密の花園? ハエすら悟ってホモに走る自然界で、そんな花園など入場無料で公開中だ。

 結局のところ『平穏な日常』というのは日々の積み重ねが大事であり、そんなものがない継実達にはパジャマパーティーなど土台無理な話なのである。

 

「(しかも全然眠くなんないし)」

 

 この退屈さから睡魔が来ればある意味成功だったのに、それすらない有り様。なんの実りもないとはこの事だ。

 

「……雨、止まないわねぇ」

 

 モモも継実と同じ状態のようで、天気の話題という一番しょうもない話を始める始末。それでも本当になんの話題もないので、継実はちらりと洞窟の出入口に目を向けた。

 モモが言うように、雨は未だ止む気配がない。いや、ついさっきまで『ざぁざぁ』態度だった雨脚が、『ごうごう』という音を鳴らしているのだから、むしろ酷くなっているぐらいか。

 具体的な降水量は継実には分かりかねるが、まだ人類文明が元気だった幼少期、ゲリラ豪雨やら局所的大雨などと呼ばれていた雨がこのぐらいの勢いだったかと感じる。十歳よりも更に小さな時の記憶なのであまり自信はないが、その雨では崖崩れが起きて死者が出ていたような記憶があった。

 ニューギニア島にとってこの雨が有り触れたものかどうかは分からないが、七年前の日本ならちょっとした被害は出そうなほどの大雨だと言えよう。

 

「なんか、ほんと酷いですね……此処、大丈夫でしょうか……」

 

 ミドリが不安な気持ちになるのも、当然というものだろう。

 あくまでも、七年前であればの話だが。

 

「別に平気でしょ、こんなもん」

 

「でも土砂崩れとか土石流があるかもですし……」

 

「そんなんで私らが死ぬと思う?」

 

「……いや、まぁ、死にませんけど」

 

 モモの意見に反論出来ず、ミドリの不安が吹っ飛ぶ。

 そう。継実達は星をも支配したミュータント。今更豪雨なんて怖くもなんともない。土石流に巻き込まれて生き埋めになろうが、大津波が押し寄せようが、継実だけでなくミドリも棒立ちでやり過ごせるだろう。寝たまま生き埋めになっても生還出来る自信がある。

 文明に壊滅的被害を出すような大雨すらも、継実達の興味を惹くには足りないのだ。

 

「うーん。でもなぁ……そもそもなんで夜にこんな大雨が降るんですかね。普通こういう大雨って、あつーい空気と冷たい空気のぶつかり合いが起きる昼間に降るものじゃないですか」

 

「台風なんじゃないの?」

 

「ニューギニア島って南半球だったと思うから、呼び方的にはハリケーンじゃないかな。まぁ、そんなんが来てるかもね。どうせ暇だし、海の方調べてみたら?」

 

「そうですね。じゃあ、海水温でも見てみよっかなー」

 

 暇潰しになりそうなものを見付けて、少し気持ちを持ち直したのか。ミドリは笑みを浮かべながら洞窟の外に広がる海を眺めた。尤も今は大雨で、外の様子は何一つ見えやしないが。

 別段大雨の理由に興味もないが、時間潰しぐらいにはなるだろうから何か分かったら教えてもらおう。継実は暢気にそんな事を考えながら、暇潰しにへそのゴマを穿り返し始めた。

 故に。

 

「ひぃっ!?」

 

 ミドリが上げた悲鳴への反応が、まるで『七年前』の時のように遅れてしまった。

 

「……ミドリ? どうし」

 

 悲鳴の理由を尋ねようとする継実だったが、言いきる前にミドリが抱き付いてくる。

 ミドリの身体は、ガタガタと震えていた。

 大雨で冷えきったであろう外の風が冷たかったのかしら? ――――脳裏をほんの一瞬過ぎった考えに、退屈なあまりどれだけ退化したのかと自己を叱責する継実。この震えは寒さの所為なんかではない。

 恐怖だ。

 

「……何を見付けたの?」

 

 継実は要点だけを尋ねる。

 ミドリは身体全体が震えていて、上手く話せない様子。何度も何度も口が空回りし、擦れた吐息だけが継実の耳には聞こえる。

 このままでは話せるようになるまでどれだけ掛かるか分からない。継実だけでなく、ミドリ自身もそう思ったのだろう。だから彼女は音ではなく、脳神経のイオンチャンネルを操作して作り出した『脳内通信』で継実達に訴えた。

 脳に直接送り込まれたメッセージは一文のみ。されどその一文で十分。

 

【何か……何か、大きなものがこっちに来てます!】

 

 退屈で惚けきった継実達の野生を呼び戻し、次の行動を考えるには――――



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生物災害06

 よもや、ミドリの言葉を待っていたのだろうか。或いはミドリが自らの存在を『視認』し、それを継実達に伝えるのを察知したのか?

 そうとしか思えないタイミングで『そいつ』は、これまで微塵も出していなかった力を発した。

 力の気配が飛んできたのは、ミドリが豪雨の理由を知るために見ていたであろう海の方。力は随分遠くから飛んできているようで、気配を感じる方角を継実が探ってみても何も見付からない。

 しかし力だけは間違いなく継実の下にまで届いている。そしてその力を感じ取ったのは、当然三人の中で最も気配に疎い継実だけではなかった。

 

「あっ……」

 

 モモの口から漏れ出るのは、達観に染まった声。

 人間を守るためなら勝ち目のない相手にも恐れず立ち向かい、どんな危機的状況でも力を振り絞ったモモが、一瞬で諦めてしまう。そして諦めたまま思考が停止していた。こんなモモの姿、継実は一度も見た事がない。

 

「はふ……」

 

 ミドリに至っては気絶した。継実では姿すら見えないほど離れた存在が発した、力の気配だけで。

 一番鈍いからこそ、継実だけが我を保っていた。されどそれは、継実が揺らがぬ決意に満ちている事を意味しない。

 これが何モノの発する力なのか、どのような原理の力なのか、詳しい事は全く分からない。それでも一つだけ確かな事がある。

 ()()()()()()()()()()()()()()

 本能的に瞬時に感じ取ったのは、絶対的な『絶望』。目が合ったら殺されるとか、敵対したらいけないとか、機嫌を損ねないように振る舞わないととか……そんな()()()()()()()()()。抗えるかどうかなどと考えている時点で愚鈍であり、何処に逃げようかなどと怯えるのも間抜けが過ぎる。

 地球上の全ての生命は、コイツのご機嫌一つで運命が決まる。

 地球の裏側にいようが、宇宙に逃げようが。コイツが『その気』になれば誰もが死を免れないだろう。いや、そもそもコイツはこちらの事を認識出来るのか? 力の差があり過ぎて、何をしたところで気付いてもらえるとは思えない。人間が、バクテリアを踏んだかどうかなんて分からないように。それぐらいの力の差があるのだ。

 相手の姿すら見ていないのに、継実は心から絶望した。

 ――――絶望するだけで済んだ。

 

「(ヤバい、ヤバいヤバいヤバい! 逃げなきゃ不味い!)」

 

 継実は誰よりも鈍かった。だからモモのように思考停止するほどの達観も、ミドリのように気絶するほどの恐怖も訪れず。全身をガタガタ震わせながらも、逃げるための方法を考える。

 全力で遠くに逃げる? 却下だ。アレがちょっと力を出せば、ニューギニア島(こんな小島)なんて一瞬で消し飛ぶ。作戦なしでは海に出られない継実達は、逃げても逃げなくても同じだ。

 なら全力で防御を固める? 逃げるよりは多少マシだろう。しかしマシなだけだ。例えるならミュータントになっていない人間が目前に落ちてきた水爆相手に、薄っぺらい紙一枚を盾として構えるようなもの。〇・〇一ミリぐらい生存可能な距離が伸びるかも知れないが、伸びたところでなんだというのか。

 残す手は、隠れるぐらい。

 

「(……隠れる?)」

 

 ふと脳裏を過ぎる手段。絶望しきった故に、パニック状態にならずに済んだ頭はそこに意識が向く。

 隠れた生き物は、どうなるか?

 簡単だ。その場から姿()()()()。もしかしたら近くに居るかも知れないが、見えないのだから他の生物からしたらいないも同然である。そしてその時が来るまでじっとしている筈だから、その領域はさぞや静かになるに違いない。

 それが出来ない動きの鈍いもの……イモムシなどは、兎にも角にも蛹になるという無茶もするだろう。しかしある程度活発に動ける生き物なら、その『隠れ場所』に向けて駆け出す筈だ。

 例えば、継実達が出会ったドブネズミ達のように。

 

「(ネズミは何処に向かってた?)」

 

 思い出すネズミ達の行動。そうだ、彼等は自分達が来た方に猛ダッシュしていた。だから簡単に捕まえる事が出来た。恐らくあのネズミ達の目的地は、海沿いの何処かだったのだろう。

 ならば、もしかしたら――――あるのではないか。

 海の近くに『安全地帯』が。

 

「モモ! ミドリ!」

 

 継実が大声で呼び掛ければ、モモはハッとしたように我に返る。失神したミドリの返事はないが、継実はすぐにミドリの頬をばちんっと叩いて、その衝撃で叩き起こした。

 

「逃げるよ! 海側に、安全な場所がある!」

 

 それから、断言するように告げた。

 

「あ、安全って何よ!? 継実だってあの馬鹿げた力を」

 

「説明してる暇はない! 兎に角今は、私を信じて!」

 

 反論するモモに、なんの説明にもなっていない言葉で継実は説得する。

 信じて、という言葉を使ったが、ハッキリいって確信なんてない。大体海沿いといっても広いもので、何処を目指せば良いのかも分からない有り様。

 だが、ここでじっとしていても生存率は〇パーセントのまま。されど動けば、或いは〇・〇〇〇一パーセントぐらいにはなるかも知れない。

 だったら、やらない理由はないのだ。

 

「……分かった。全部任せたわよ!」

 

「任せとけ、相棒!」

 

 継実はモモと手をぶつけ合う。信頼を交わした二人は、すぐに行動を起こした。

 まずモモはミドリを脇に抱えて持ち上げる。未だ事情が飲み込めていない様子のミドリだが、継実に何か考えがあるのは察したのだろう。不安げに、だけど期待するように継実を見ていたので、継実は可能な限り不遜で自信に満ちた笑みを見せ付けた。

 家族を確保したらすぐに出発だ。何時何が起きるか分からない今、一時すらも遅い。

 だから継実は先陣切って外へと出た。

 未だ大雨が続く、夜の世界へと。

 

「ぐぉっ……!?」

 

 その雨の中に当たった瞬間、継実は呻く。

 ミュータントにとって、どんな土砂降りだろうと脅威にはなり得ない――――洞窟に居た時まで抱いていた信念は、叩き付けられた雨粒により粉々に砕ける。

 洞窟内でぐだぐだやってた時も雨脚が強くなったと感じていたが、『力』が継実達に届いた後は更に強くなったらしい。ミュータントと化していない人間なら、恐らく一瞬で物理的に叩き潰されているほどの勢いとなっていた。金属製のヘルメットを被ろうが、防弾ジョッキで身を包もうが、この雨は容赦なく全てを貫く。雨の弾丸という表現が比喩では済まない状態だ。実際洞窟の外に広がる地面は、草に覆われている場所は無事だが、そうでない、露出した地面は打ち砕かれている。この雨が上がった時、ニューギニア島はその形を一変させているだろう。

 幸い物理的威力でいえば継実に限らず、モモとミドリにとっても『致命傷』を与えるものではない。しかし身体に対し多少の負担を与え、体力を削ってくる。あまり長い時間浴び続けるのは危険だ。

 それに問題は一つだけに限らない。

 

「継実!? 今何処! 全然見えないわ!」

 

 雨の密度が高過ぎて先が見えないのだ。元々夜で暗いという事もあり、モモは継実を完全に見失っていた。

 

「(ぐっ……雨が、邪魔して……!)」

 

 継実はモモの下に戻ろうとする。が、継実にとっても雨の所為で『視界』が狭い。それは単に光学的な意味だけでなく、能力による観測も難しくしていた。ノイズが多過ぎて、継実の能力でもモモの動きを捉える事が困難なのである。

 なんとか先程の声を頼りに場所を絞り、モモの居場所を特定。傍まで駆け寄った継実は今度こそ離れないようにと、モモの手をしっかりと握り締める。モモも継実の手を握り返し、ちょっとやそっとでは離れないよう確かめた。

 これで離れ離れにもならないように出来た。しかし次の問題が継実達に襲い掛かる。

 

「はっ、はぁっ、はっ……うっ……」

 

 モモに抱えられているミドリが喘ぎ始めた。それも、かなり苦しそうに。

 原因はすぐに分かる。雨粒が多過ぎて、周辺の大気が押し出されている状態なのだ。つまりこの辺り一帯は空気のない酸欠状態と化している。

 継実も段々と息苦しさを覚えてきた。完全な無酸素ではないものの、そう長くはいられない環境なのは違いない。

 雨粒が降っている全領域で空気が押し出されているため、例えばモモが傘のように体毛を展開して雨粒を避けても、空気は中に入ってこない。出来上がるのはただの真空空間だ。雨に打たれるよりはマシだが、状況は何も解決しない。

 

「モモ! 弱いので良いから電気を出して、雨粒を分解! 出来た酸素を私が送る!」

 

「任せたわ!」

 

 そこで継実は酸素の合成を行う事にした。殺人降雨といえども、主成分が水なのは変わりない。電気を流せば酸素と水素に分離する。

 継実は粒子操作能力を用い、その酸素をモモとミドリ、そして自分自身の体内に送り込む。これで呼吸は出来るようになった。

 相変わらずろくに行く手は見えないが、ようやく前に進めるだけの状態にはなった。海を目指して、継実はモモの手を引きながら歩く。

 しかし歩こうとすれば、雨はそれをも邪魔した。莫大な量の水が地面に撃ち付ける事で弾け飛び、その飛沫が継実を全方位から襲ってくる。ただの人間なら穴だらけになるところ、継実はこれを無傷でやり過ごすが……全身から『圧』を掛けられて、前に一歩踏み出す事すら一苦労。秒速数キロを出せる筈の歩みは、足腰を悪くした老婆のように遅々として進まない。

 このままでは海に辿り着くよりも、何かが起きる方が先だろう。

 

「(ああクソっ。嘗めていた……!)」

 

 モモを掴む手に一層力を込め、モモとミドリを引っ張るようにして歩きながらミドリは思う。

 災害ではミュータントは殺せない。

 それは今でも思っている事。実際ただの土石流や津波、火山噴火や雷程度なら、難なく生還出来ただろう。ミュータントの能力はそれほど強く、星の力をも圧倒しているのだから。

 しかし此度の災害は、星の力で引き起こされたものではない。

 恐らくは遥か遠方に現れ、島の生物達を恐れさせた『力』の持ち主によるもの。これが奴の能力、という事はないだろう。あの力で何かをしたなら、こんなもので済む筈がない。けれどもその力のほんの一部、漏れ出た分だけでも使えば、きっと可能だと継実は思う。

 故にこの豪雨はこう呼ぶべきだ。

 

「(正に、『生物災害(バイオハザード)』ね……!)」

 

 細菌やウイルスではなく、天候を変化させる事による災禍。大雨で何もかも押し流す所業は、どこぞの宗教に出てくる『天罰』に思えてくるのも、そんな印象の一因かも知れない。

 だが、決してこれは天罰ではない。

 威力こそこれまでの地球では、きっと四十八億年の歴史で一度もなかったようなものだろう。しかし所詮は雨だ。継実が能力を用い、モモが電気を放てば、どうにかやり過ごせる。七年前の地球生命なら一掃出来たかも知れないが、今の自分達なら()()()()()()()()()でしかない。

 そう、この豪雨を引き起こしているのがどんな化け物だとしても、あくまでも生物だ。神様でもなければ運命でもない。確かにこちらを巻き込む事など厭わないだろうが、狙ってくる事もあり得ない筈。

 諦めるには、まだまだ早い。

 雨という『イベント』を挟んだお陰か、継実は少しずつ希望を取り戻していた。勿論未だ海の方から飛んでくる力の気配は感じており、毎瞬絶望の底に叩き落とされるような感覚は味わっている。だが、慣れてしまえばその絶望感は、例えるなら台風直撃中に外へと出ているような気分で落ち着いた。危機的状況だが、生き残る可能性はあるのだ。諦めるのはまだ早い。

 継実は希望という感情を原動力に、一歩前に進む度に歩みを速めていく。能力を使って雨粒の軌道をほんの少し変えれば、一気に歩きやすさが増した。一つ一つの絶望も、ちゃんと対処すればなんとかなる。

 洞窟から出て一分。進んだ距離は僅か十数メートルだが、元より海沿いに位置していた洞窟だ。これだけ歩けば、海の傍まで辿り着ける。

 何も見えないが、粒子操作能力を応用して継実は半径数メートルの地形を把握。海沿いの、岸壁に辿り着いた事を知った。

 

「(さぁて、問題は此処からだ)」

 

 島の生き物達は何処に逃げ込んだのか。未だに分かっていない、一番大事なところを今になって継実は考える。しかしその頭は今やすっかり冴えていた。情報を高速で処理し、答えへの道筋を切り開く。

 島の生き物が何処かに隠れたというのなら、そのヒントが島には残されていた筈だ。ネズミ達が海を目指していた時のように。そして継実達は一度、森に入る前に海沿いをのんびりと散策している。きっと、そこに避難場所のヒントがあったに違いない。

 自分達はあそこで何に出会った? 何を見てきた? 絶望から蘇った知性は、粒子の動きをも完全な精度で予測する演算力を総動員。脳に刻まれた情報を片っ端から解析していき――――

 ふと閃いた、その時である。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「……は?」

 

 突然の事に呆気に取られてしまう継実。だが、その頭はすぐに現実へと引き戻される。

 数百度はあろうかという熱風が、継実達に襲い掛かってきたのだから!

 

「きゃああああっ!? な、なん、なん!?」

 

「ぐっ……モモ! 大丈夫!?」

 

「なんとかね! この程度じゃ流石に問題ないわ!」

 

 自分達の中で一番高熱に弱いモモの安否を気遣う継実だが、モモからは強気な言葉が返ってくる。

 モモの耐熱性の低さは、あくまでも程度の問題だ。かつて戦ったホルスタインが放った水爆級の高熱でも、なんとか生き長らえる程度にはタフである。こんな数百度程度で倒れるなどあり得ない。

 継実が不敵に笑えば、モモはにやりと笑みを返す。どちらも調子が戻ってきた。ようやく本調子といったところである。

 それでも、此処から生還出来る確率はあまりにも低そうだが。

 

「ぁ……あ、ぁぁぁ……!」

 

 モモに抱えられているミドリががたがたと震えている。顔はすっかり青ざめ、目には涙が浮かんでいた。

 そして景色は、まるで昼間のように明るく染まる。

 星空は見えない。これまでの人生で見たどんな雲よりも黒いものが、空を覆っているのだから。しかしそれでも地上は今、昼間のように眩い。

 それほどまでに強い光を放っているのだ。地上、いや、海上に現れた『太陽』は。

 

「ついに、神様がお出ましって訳ね……!」

 

 継実は今まで雨に遮られて見えなかった、自分の真っ正面を見据えながらぼやく。

 眼前の大海原に浮かびながら太陽が如く煌々と光り輝く、巨大な大蛇に向けて……



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生物災害07

「(大きさは、ざっと一千メートルってとこかな?)」

 

 絶え間なく押し寄せてくる数百度の熱波。七年前ならとっくに炭化してるであろつ灼熱の中で継実は、遥か遠くに見える『大蛇』の大きさを目視により推し量る。

 ミュータントと化して、様々な生物が巨大化した。ゴミムシだって数メートルの巨躯を有し、ツキノワグマが三メートル超えの体躯を手に入れ、クスノキが五十メートル超えの巨木となる。超常の能力を利用すれば、確かに大きな身体は容易に手に入るだろう。

 しかしそれを差し引いても、一千メートルもの体長はデカ過ぎる。この地に生えている巨木すら百数十メートルなのに、それを軽く十倍超えの体躯など、果たして本当にこの星の生態系の一員なのか怪しいぐらいだ。

 そもそも姿形が、継実の知る大蛇とは程遠い。確かに手足は生えていないし、細長い身体をしている。頭近くの胴体が幅広く左右に広がっていて、コブラと似たような形態だ。しかしコブラ、いや、普通のヘビはそんな左右に広がっている胴体部分に二本の巨大な背ビレなんて生やさないし、ましてや広がっている場所の両側に三本ずつ肋骨を広げたかのような棘なんて生えていない。

 それに頭の形がヘビらしい丸みと愛嬌のあるものではなく、古生代に絶滅したティラノサウルス染みていた。半開きの口にある歯は二本だけだが、盛り上がった皮膚が硬質化していて、やはりティラノサウルスが如くずらりと並んでいる。小さな鱗に覆われている身体は翡翠色に輝いていて、そもそも全身が眩く発光していた。

 何もかもがヘビとは言い難い。しかしその長大な姿は、やはり大蛇と呼ぶ他ないだろう。一体どんなヘビが進化したらあんな姿になるのか、見当も付かない。

 一つだけ確かなのは、あの大蛇が継実達の感じた『力』の発生源だという事だけだ。

 

「で、で、でた、出鱈目、過ぎます……あんなの、だ、だって……」

 

「まぁ、信じられない気持ちは分からなくもないけどねぇ。否定するぐらいじゃ消えてくれないでしょ、アレは」

 

 最早存在そのものが受け入れられないのか、ミドリの口が紡ぐのは拒絶の言葉。しかしモモが言うように、あの大蛇はこちらがどんな意思を持とうとお構いなしに存在し続けるだろう。

 何より大蛇はこちらに向けて、ゆっくりとだが進んでいた。あまり悠長にはしていられない。

 

「(つーか、アレどんな仕組みでこっち来てんの?)」

 

 大蛇は海面上を滑るように移動している。陸地近くの近海ならば水深などたかが知れているが、大蛇が居るのは島から遠く……恐らく百キロほど離れた遠洋。そこの水深がどの程度かなど継実は知らないが、恐らく数百メートル以上あるだろう。絶対に浅瀬ではない。

 にも関わらず大蛇の身体は殆ど沈んでおらず、水面の上に出ていた。実は発泡スチロールほどの密度しかなくて、水よりも比重が軽いのか? そんな予想は、大蛇の腹が接している腹部を見れば間違いだったと分かる。

 大蛇と接している海水は、猛烈な勢いで沸騰していた。

 恐らく体表面から途方もない高熱を発しているのだろう。その熱量により海水が猛烈な勢いで沸騰。生じた気流や圧力により浮上しているのだ。その時に発した熱の一部が、今も継実達に襲い掛かる熱風の正体だと思われる。それに先の豪雨も、蒸発した大量の海水により形成された雨雲が原因か。

 攻撃でもなんでもない、ただ移動するためだけの力……その余波だけで大蛇はこの辺りの天候すらも変えてしまったのだ。いや、被害はそれだけに留まらない。数百度の熱風を絶え間なく浴び続けた事で、熱帯雨林に積もっていた落ち葉などが発火。継実達の最後で轟々と音を鳴らし、巨大な森林火災が起きている。ミュータントとなった植物達は平然と立っているが、七年前の植物なら何もかも焼き尽くされていただろう。

 全く以て――――迷惑極まりない。

 

「(そう何度も諦めるもんかっつーの!)」

 

 神にも等しき所業を前に、されど継実は不敵に笑う。

 勝てるとは露ほどにも思わずとも、最早心は挫けず。生命というのは慣れるものなのだ……いや、これもまたミュータントの生存能力というべきか。七年前の普通の人間なら、こうも簡単には気持ちを切り替えられなかっただろう。

 いずれにせよ最早継実は怯みもせず。むしろ熱波のお陰で視界が利くようになったと前向きに捉え、生き延びるためのヒントを探す。とはいえ洞窟の前の海は岸壁の向こう側。覗き込んでみたところで見えるのは、沸騰して煮えたぎる海水ばかり。ここまで大蛇の熱が届いている事は分かれども、それ以上の知見は得られそうにない。

 ()()()()()()()()()()()()()()()

 継実はそう考えるに至った。

 

「みんな! あっちに行くよ!」

 

「良いけど、なんか作戦がある訳?」

 

「ない! けどもしかしたら、上手くいく!」

 

 堂々と確信がない事を告げれば、モモからは「そりゃ頼もしいわね」と呆れたような答えが来る。されど継実が手を引けば、彼女は全く抗わない。

 モモに抱えられているミドリからも異論は出ず。不安げな顔をしながらも、ぎゅっとモモにしがみつきながら、怖さを抑えるように唇を噛んでいた。

 任せとけ。

 確信なんて未だないまま、けれども力強く継実は胸の中で相槌を打ち、『目的地』目指して駆け出した。

 

「(あのヘビは、やっぱりこっちに来てるか……!)」

 

 走る中で継実はちらりと大蛇の様子を窺う。進路は全く変わらず、このニューギニア島を直撃するコースだ。

 しかし動きはあまり速くない。

 勿論巨体故に、時速に直せば相当なスピードは出ているだろう。が、それだけだ。継実が目視で計算したところ、出している速さはほんの時速一千キロ程度。音速になるかどうかという速さで、確かに速いのだが……島まで百キロ離れていると仮定すれば、島到着まで六分ほど掛かる計算となる。

 七年前なら六分で一体何をどうしろというんだと思っただろうが、今の継実達にとってはかなりの長さだ。本気で走れば秒速四キロぐらい簡単に出せる。そしてのんびり散歩気分だった今日の継実達の移動距離は、全て合計したって五十キロにもなりはしない。直線距離なら精々十キロあるかどうか。二秒もあれば『目的地』まで到着可能だ。

 何より大蛇は恐らくこちらの存在など見向きもしていないし、気付いてもいない。つまりわざわざ攻撃してくる事などあり得ないのだ。精々数百度の熱風が吹き付けるだけで、そんなものはこの身体からすればそよ風みたいなもの。

 何一つとして問題などない。

 ――――それは冷静さを取り戻したからこそ抱く、合理的確信。けれども本能は、合理性(屁理屈)の下でこう叫ぶ。

 あれはそういうものを気紛れ一つで全部ぶっ潰す、正真正銘の『インチキ』だと。

 

【つつつつぐ、継実さん!? ヘビ! ヘビの方!?】

 

 ミドリからの脳内通信。超光速の情報の中でどもりながら、彼女は継実に大蛇を見るよう促す。

 何があったのか。継実は言われるがまま大蛇の方に目を向けた。

 ――――大蛇の姿は見えなかった。

 しかし奴が今までのコース上から移動したという訳ではない。恐らく今も変わらず、なんの憂いもなく奴は進んでいる事だろう。そして姿が見えなくなった理由は実に単純なものだ。

 巨大津波が生じたからである。推定高度()()()()()()()()の。

 

「って、何あれェ!? え、なんであんな大津波……!?」 

 

【な、なんかあのヘビ、さっきくしゃみっぽい動きしてまして……】

 

「え。じゃあアレ、鼻息で立った波?」

 

 困惑する継実にミドリが目にしたものを答え、一緒に通信を受け取っていたモモがそんな反応をする。

 成程、やはりアレは神様ではなく生物なのだろう。でなければくしゃみなどする筈がない。

 だがいくらなんでも規模が巨大過ぎる。白亜紀末期に地球に落ち、恐竜を絶滅させた巨大隕石も津波を引き起こしたと言うが……その津波の高さでも三百メートル程度だった筈だ。くしゃみ一発で巨大隕石を遥かに凌駕する津波を引き起こすなど、規格外にしたって限度がある。

 

「(いや、落ち着け! ただの大津波なら問題はない!)」

 

 自分達の身体能力なら、津波に呑まれる事はそんなに怖くない。水を分解して呼吸だって出来るし、引き潮で土砂や瓦礫(になるような文明的建造物など残っていないが)に襲われても傷一つ付かないだろう。難なら空でも飛んでしまえば簡単に躱せる筈だ。

 だから津波により引き起こされる事象そのものは、大した問題ではない。重大な問題は別にある。

 速度だ。

 継実の目で見る限り、大蛇が作り出した津波は()()()()()()もの速さで迫っているのだ。

 恐らく『鼻息』により飛ばされてきたのだろう。体長二千メートル近いミュータントのパワーなのだから、それぐらいあるのはなんらおかしくない。おかしくないというだけで何もかも受け入れる事が出来たら、なんの苦労もないが。

 

「(兎に角、一番に対処すべきは防御!)」

 

 津波は怖くない。だが秒速十五キロで飛んでくる数億トンの『質量』はミュータントにとっても普通に危険だ。この物理的衝撃に耐えねばならない。

 

「モモ! 毛で守りを固めて! 私が援護する!」

 

「任せなさい!」

 

 継実の指示に答えたモモは、その身体を構築している体毛を伸ばす。

 継実はすかさず走るのを止め、しゃがみ込む。モモの体毛が自分達をぐるりと取り囲み、繭になったところで継実の能力を発動。モモの展開した体毛に、空気の分子を詰め込んで補強する。

 準備を終えるまでに掛かった時間は三秒。秒速十五キロ超えで飛んでくる津波がやってきたのは、その直後の事だ。

 

「ぐ、うううぅゥゥゥゥッ!」

 

 モモが唸りを上げ、繭のように展開された体毛がギシギシと軋む。物理的衝撃に滅法強い筈のモモの毛が、悲鳴にも似た音色を出したのだ。超速でぶつかる大質量というシンプル過ぎる一撃の、圧倒的破壊力が窺い知れる。

 しかし此度は継実の補助がある。空気によって編まれた体毛が崩れないように、或いは崩れたところを戻す手伝いもした。モモ一人では耐えられなかっただろうが、継実と一緒ならこの破滅的衝撃をやり過ごせるのだ。

 

【た、大変です!? 第二波が来ます!】

 

 いや、三人いなければ、と訂正しておく必要があるだろう。

 

「二波ぁ!? アイツ何回くしゃみしてんのよ!」

 

【くしゃみじゃありません! 海水が押し出された事で出来た穴に、周りの海水が流れ込んで出来た津波です! くしゃみで出来た真空地帯に流れ込んだ空気もあって、こっちも秒速十キロぐらいの速さがあります!】

 

「何処までも規格外……!」

 

 悪態を吐く継実だが、口許には笑みが浮かぶ。

 第一波が通り抜けたのだろう。モモが展開している体毛に掛かる圧が急速に下がり始めた。

 そして間もなくやってくる、強烈な『不意打ち』。

 ミドリの助言がなければ突き崩されていただろうそれも、分かってしまえば一波よりも弱い津波でしかない。より強い第一波で掴んだコツを活かせば、なんの脅威にもなり得なかった。

 ミドリから第三波を警告する声はない。第二波も過ぎ去ったのを圧力で察知した継実はモモと目を合わせ、無言のままこくりと頷き合う。

 モモが繭を解くのに合わせ、継実も能力を解除。もう一度目的地に向かおうと継実は駆け出そうとする。

 しかし走り出す歩みは再び阻まれた。

 今度は迫り来る、灼熱の暴風によって。

 

「ぐぅっ!? さっきまでとは、全然違う……!」

 

 吹き付ける風によって継実は足を止めてしまう。

 風の強さもさる事ながら、熱量が先程までとは全く違う。感覚的には、既に一千度近いのではないか。

 見れば随分と大蛇が島に近付いてきていた。自分達が津波に耐えている間に詰められたのだろう。勿論肉薄されているほど近くはないのだが、熱を受ける面積は二次元的なもののため、そのエネルギーは距離の二乗に比例して減衰している。つまり距離が半分になれば、受け取るエネルギーは四倍になるのだ。

 継実達が踏み締めている岩石はまだ溶けていないが、赤熱を始めていた。このままでは足場が長く持たないだろう。ゼリーみたいに柔らかい足場では強く蹴れず、走るスピードも出せない。無理をすればずるんと足場が砕けて、転倒する事になるだろう。

 時間を掛けたくないのに、時間を掛けるしかない。大蛇の姿を見ずとも、じりじりと肌を焼き付ける熱によってその距離感を実感しながら、継実は黙々と走る。

 その継実達を嘲笑うかのように。

 大蛇が軽く身震いし――――ぶわりと何か、靄のようなものがドーム状に広がってきた。

 

「(何、あれ……)」

 

 津波とは違う別現象。衝撃波の類かと思いながら継実は解析しようと靄を見る。

 正体が分かった瞬間、煮えたぎる熱気の中で継実は青ざめた。

 あの靄は『熱エネルギー』だ。それもとびきり強力な、原水爆クラスなど比にならない威力の。

 例えるなら地球全土を揺るがす大噴火で生じるエネルギー数発分を、全て熱として放出したかのような現象。一体それをなんのために出したのか、継実はすぐには分からなかったが……大蛇の引き締まった『顔立ち』を見て予感する。

 今のは武者震いだ。奴にとっては思わず身体がぶるっと震えただけ。されど圧倒的なパワーを持つが故に、身震い一つで大気が摩擦熱や震動などで加熱。膨張した大気が靄のような形で飛んできたのだろう。

 しかし何に対して?

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、継実にはさっぱり分からない。知らないのも不味いと思う、が、追究している暇はなさそうだ。何より大事なのはその些末な、大蛇からしたら意図すらしていない動き一つで惑星が壊滅する規模のエネルギーが放出された事。そしてそれが自分達の方へと接近しているという、否定しようがない事実である。

 幸いにして継実ならばまだ耐えられる。元より熱に対する耐性は高いのだ。ミドリも、継実が守らなければ大火傷を負うかも知れないが、まだなんとかなる筈。

 しかしモモは駄目だ。彼女はあまりにも熱に弱い。

 

「アレは、流石に無理ね……!」

 

 弱音ではない、正確な判断。ならば継実の取るべき行動は決まってる。

 

「モモ! ミドリと一緒に私の後ろに隠れて!」

 

「頼んだわ!」

 

 継実の指示を受け、モモはすかさず継実の背後へと回る。ミドリも頭を抱えるようにして、継実の影に隠れられるよう身を縮こまらせた。

 そして継実が向くは、大蛇の方。

 継実は両腕を大きく広げ、迫り来る熱波を全身で受け止めた!

 

「ぐおっ!? こ、これは――――!」

 

 直撃する熱エネルギー。しかし継実を襲ったのはそれだけではない。強烈な物理的衝撃も伴っていた。

 まるで巨人の鉄拳に殴られたかのような衝撃。本当にただの武者震いだったのかと、自分の直感を疑いたくなる。だがすぐにその考えは改めた。武者震いだったから『この程度』で済んでいるのだ。もしもこちら目掛けて何かの攻撃をしたのなら、自分達など一撃で粉砕されている。

 物理的衝撃により、継実はその身に纏っていた粒子スクリーンを剥がされる。生身が露出したが問題はない。粒子操作により身体の形成する分子の運動量を制御。受け止めた熱で身体が『加熱』しないよう、対策を施す。

 それでも大蛇が放つ熱はあまりにも膨大で、継実でも処理がしきれない。高温化し、肌が焦げるように黒ずむ。そこに物理的衝撃が襲い掛かり、生皮を剥がされていく。地肌で熱を受ける羽目になったのは今日の継実が全裸だからであるが、仮に服を着ていたとしても一瞬で焼け落ち、一糸纏わぬ姿に変えられただろう。

 押し寄せた熱波の継続時間は、恐らく一秒とない。

 しかしその一秒に満たない間に、熱には滅法強い継実の身体はボロボロにされてしまった。継実は立つ事も儘ならず、その場で膝を付いてしまう。

 

「継実!? 大丈夫!?」

 

「い、生きてるから、大丈夫……蛹たくさん食べといて、良かったよ……回復は、なんら問題なく出来る」

 

 不安げに声を掛けてきたモモに、継実はそう答えた。

 嘘は吐いていない。体力と物資は今日の食事でたっぷりと充填し、溜め込んでいる。身体の表面が引っ剥がされたぐらい、後遺症もなく再生可能だ。

 問題はその間、ろくに動けないという事。そして大蛇はこっちに近付き続けている。

 今回はなんとか耐えたが、もっと近付いてきたら分からない。それに先の一撃で受けた傷を回復させるだけでも、大きなエネルギーと時間を使うだろう。二回目の直撃を受けたら、全快出来るとは思えない。

 急いで逃げた方が良い。もう、本当に時間がないのだから。

 

「分かった。後は私に任せなさい!」

 

 弱る継実を片手で担ぐと、モモは返事も待たずに駆け出した。目指す先は、継実が今まで走っていた方角。

 家族に抱えられた継実は、身体の回復を重視しながら笑みを浮かべた。自分の不確かな案をモモが信じてくれた事が嬉しかったから。

 大蛇の放つ熱波は、本当にただの武者震いだったらしい。以降数秒間、熱波による攻撃も行われていない。くしゃみによる津波もなく、こちらを攻撃するような素振りは一切なかった。本当に、攻撃の意思がないただの『動作』だった訳である。

 何もないなら吉報。モモは継実とミドリを抱えて数秒、距離にして数キロを駆け抜けた。そうしているうちにとある海岸に到着し、

 

「モモ待って! 此処でストップ!」 

 

 継実は景色から、此処が目的地であると気付いてモモを止めた。

 指示通りモモは素早く足を止める。立ち止まってからも慣性で、何より指示の言葉を出している間に何百メートルと動いたが、モモはそれを踏まえて数百メートル後退り。継実が止まってほしかった場所に、ピタリと戻る。

 

「此処って……」

 

 ミドリはちゃんと覚えていたようで、ぽそりと独りごちた。モモに至っては「成程ね」と継実の考えが読めた様子。

 それだけ此処は継実達にとって、このニューギニア島で印象深い場所なのだ。

 藻と海藻に覆われた、()()()()()()()()()()()()()()――――



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生物災害08

 大蛇の熱波を受けても、破滅的な津波を受けようとも、そこは藻と海藻に覆われていた。緑色の大岩がごろごろと転がり、地形は殆ど変わっていないように見える。それだけで此処に生い茂る藻と海藻の力が窺い知れた。

 あの破滅的攻撃に耐え抜き、岩さえ守り抜くほど強い藻と海藻だ。もしもこの下に潜り込めるなら、それはそれで安全な場所と言えるだろう。

 とはいえ此処には継実達が潜り込めるような隙間はない。いや、岩も覆い尽くし、地面にがっちりと張り付いている事を思えば、小動物すら岩の下に潜り込めないだろう。精々体長一ミリ前後の土壌生物なら、藻の間を掻き分けて行けるかも知れないぐらいか。

 

「こ、此処って、あのヤドカリと会った場所ですよね? 此処が、安全な場所……なのでしょうか……?」

 

 それぐらいはこの世界で暮らして二ヶ月程度のミドリも分かっているようで、だからこそ彼女は困惑したように尋ねてきた。

 

「ええ、そうね。間違いないわ」

 

「で、でも、隠れられるような場所なんてなさそうですよ。あたし達どころか虫すら入り込めそうな隙間もないですし」

 

 隠れ場所などないと断言するミドリ。彼女の索敵能力を用いれば、此処ら一帯の地形を把握するなど造作もない。生物なら隠れている事もあるが、地形にその心配はなく、ミドリがないと断言するからにはその通りなのだろう。

 もしも隙間があったら、それでも良いかと継実は考えていたが……あくまでそれは『プランA』、幸運だった時のものだ。不運だった時のためのプランBは最初から用意し、むしろこっちが本命である。

 

「探すんだよ。何処かに絶対ある筈だから」

 

「さ、探すって、だから隙間は」

 

「隙間を探すんじゃない。()()()()()()()()()()()()()()()()()()。何か、怪しいものがないかを」

 

 継実の答えに、ミドリは一瞬キョトンとした顔を浮かべた。

 継実達がこの島で始めて出会った生物である、巨大ヤドカリ。

 あのヤドカリは、今思えば奇妙な存在だった。他の生物達が軒並み姿を消した中、堂々と地上を闊歩している。しかも遅いなりに一生懸命逃げている訳ではなく、のんびり食事までしていた。森で出会ったネズミ達が大急ぎで逃げ、蛾の幼虫が成長具合も無視して蛹になる中、あまりにも能天気が過ぎる。

 一匹だけしか目撃していないので、もしかしたら単なる間抜けな個体だったのかも知れない。けれどもそうでなかったとしたら? つまり逆に考えてみれば……奴は大蛇という災禍から助かる事を確信していた可能性があるのだ。

 勿論これだけだと、()()()()()()()()()()()()という可能性もある。けれども継実達は森のネズミ達が海沿いを、ヤドカリが棲んでいる海岸を目指している姿を目撃した。藻に覆われている所為で隠れる場所などないにも関わらず、だ。しかも継実達が襲い掛かっても進路を殆ど変えようとしない個体までいた事から、彼等は淡い希望ではなくなんらかの『確信』を抱いていたに違いない。

 その確信が、継実達にも使えるものかは分からないが……試してみる価値はある筈だ。

 そうした理由から継実はこの岩礁地帯を訪れたのである。モモはそれを察してくれたが、ミドリはまだあまり分かっていない様子。とはいえ大蛇は今この時も刻々と接近しており、何時また気紛れな『災害』で何もかも破壊していくか分かったものではない。長々と説明している暇はなく、継実は要点だけをミドリに伝えた。

 

「わ、分かりました。怪しいものを探せば良いんですね!」

 

 どれだけ理解したかは兎も角、ミドリは目を閉じ、周りの様子を探り始めた。しかしながらうんうん唸るばかりで、中々何処が怪しいという答えも出ず。

 場所が悪いのか、それとも皆必死に隠れているからか。原因は兎も角、ミドリだけでは安全な場所を見付け出すのは中々難しそうだ。

 

「モモ、何処か生き物の臭いがする場所はない?」

 

「待って。今探してみる。あと継実、頼んだわよ」

 

 継実にそう話すやくんくんと鼻を鳴らし、モモは周囲の様子を調べる。犬である彼女の嗅覚は非常に有能だが、一千度近い熱波の中では大抵の臭い物質など分解されてしまうだろう。モモとてそれぐらいは察している。

 そこで継実の出番だ。継実は能力で周辺の物質を解析。まだ熱によって分解されていない、臭い物質らしきものを確認する。

 継実にはそれがなんという物質かは分かっても、どんな物質なのかはよく分からない。だから分解されていない物質を確保したら、壊れないように『保持』しながらモモの傍へと持っていく。モモはそれらを吸い込み、嗅覚で解析し……

 

「! 継実、今のネズミの臭いよ!」

 

 『当たり』を見付けたら、モモが教えてくれる。

 なんの臭いか分かればこっちのものだ。

 

「ミドリ! あっちの方から臭いがしてるみたい。近付いてみるから、しばらくその周辺を見てて」

 

「はい! 任せてください!」

 

 継実がモモとミドリを背負って運び、ミドリは継実が指し示した方角に意識を向ける。その間も継実は臭い物質を捉えてはモモに送り、臭いを解析してもらう。

 

「良いわ……どんどん濃いのが来てる……間違いない、こっちに生き物がいる筈よ!」

 

 確信した様子のモモの言葉。継実はどんどん歩みを速めていき、臭い物質のある方を目指す。

 

「! 見付けました! 北西の方角十五メートルで何かが一瞬動きました!」

 

 そしてついにミドリも『何か』を捉えた。

 家族二人からの確かな情報。継実には何も感じる事など出来ないが、家族の言葉から確信を得る。二人を連れる継実の足はますます加速していき、大きな岩礁を乗り越えて――――

 ミドリが指し示した場所に着いた時、継実達は全員がその目を見開いた。

 

「……貝、だ」

 

 ぽそりと、継実は思わず独りごちる。

 周りを岩に囲まれた、窪んだ砂地……だったと思われる場所。一千度の熱波によって赤熱し、沸点の低いものが溶け出しているのか赤い液体がちらほら見受けられた。幅は数メートルと狭いが、長さは数百メートルにも渡って続いている。

 しかしそんな異様な景色は、そこらにごろごろと転がる『貝』と比べれば些末なものだろう。

 砂場には無数の貝が落ちていた。種類に統一感はない。二枚貝も巻き貝も、何処から流れ着いたのかアンモナイト的な貝殻まで少数ながら見られる。大きさも、僅か数センチ程度という七年前でも普通に見られたサイズから、十メートル近い超巨大型まで幅広く存在していた。

 あまりにも無秩序に存在する貝。しかし継実はそれらの貝が、どれも中身のない『死骸』だと見抜く。見た目が綺麗なものもあるにはあるが、大半は割れていたり、穴が開いていたり、半分しか残ってなかったり。貝にとって致命的な損傷が見られるのだ。恐らく天敵に襲われるなどして死んだ後、波などにより貝殻だけが運ばれてきたのだろう。

 これだけなら不思議な景色の一つで終わるところ。されど継実はこの景色に『生存のチャンス』を見出す。

 

「っ!」

 

「ひゃあっ!? え、つ、継実さん!?」

 

 無言のまま継実は岩場から飛び降り、近くにあった二枚貝の一つに近付く。それは大きさ五メートルほどの二枚貝だったが、特徴である二枚一対の貝殻のうち片側のしかないもの。どう見ても死んでいる個体だ。貝殻は内側を下に向けていて、お茶碗をひっくり返したような状態となっている。

 そんな貝に近付いた継実は、おもむろに掴んで中を覗き込もうとする。当然、死んでいるのだからなんの抵抗もない

 筈なのに。

 

「んっ……ぐ……!」

 

 継実がどれだけ力を込めても、二枚貝が持ち上がる事はない。腰を据えて踏ん張ってもみたが、やはりビクともしなかった。

 大きさ五メートルほどの貝なのだから、それなりの質量はあるだろう。しかしミュータントとなった継実の力は『それなり』どころではない。例えこの貝殻が一千トン超えの質量を有していても、継実の力ならば難なく持ち上げられる筈。

 それが出来ないという事が一つの『証明』。故に継実はより一層力を込めていき――――

 僅かに貝殻が浮いた瞬間、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「ぐぇっ!」

 

「ぎゃんっ!」

 

「ぶにゅ!?」

 

 継実が突き飛ばされた事で、モモとミドリも地面に転がる。誰もが呻きを上げる中で、継実は謝るよりも先にその視線を自分が持ち上げようとした貝殻へと向けた。

 『それ』が見えたのは、時間にしてほんの僅かな事。七年前の継実なら間違いなく捉えきれなかった刹那の出来事……しかし今の継実は確かに目にした。

 貝殻の下に隠れる、無数の鳥の姿を。

 

「(コイツらだ。私を突き飛ばしたのは……!)」

 

 派手な色合いのその鳥が、なんという種類なのかは分からない。どんな能力で突き飛ばされたのかもさっぱりだ。だが、そんな事は些末な話。大事なのはただ一つの事実のみ。

 この貝殻の下に居たのが、今まで姿を眩ませていたニューギニア島の動物達という点だ。

 

「ぐっ……見付けた! 安全地帯!」

 

「ええ! 私にも見えたわ!」

 

「え。えっ、ど、どういう事ですか?」

 

 継実の声に呼応し、モモも同意する。ただ一人見えていなかったであろうミドリだけが、訳が分からないとばかりに困惑していた。

 難しい話ではない。

 ニューギニア島の動物達にとって、この大蛇の襲撃はある種の『定期的』なイベントなのだろう。大蛇が来る度に多くの個体が死に、生き延びたモノだけが子孫を残してきた。その生き延びたモノ達は、決して強いモノではない。あの大蛇からしたら、トラもアリも大差ないのだから。

 生き延びたのは、頑強なモノ。或いはその頑強なモノの中に逃げ込んだモノ。

 頑強なモノとはつまり貝だ。貝はミュータントとなる前から、防御力によって生存競争に勝ち抜いてきた生き物。ミュータントになってその性質が更に強化され、また大蛇という強力な『淘汰圧』によって更に頑強となったのだろう。それこそ生半可な攻撃では傷一つ付かないほどに。

 そしてその亡骸である貝殻に逃げ込んだモノ達。それがニューギニア島に生きている動物達の祖先なのだ。

 だから彼等は大蛇が来ると、大急ぎで海沿いに転がる貝殻の下に逃げ込む。祖先がそうやって生き延びてきたという事実を、彼等の遺伝子が覚えているのだ。そしてそれ以外の、森の中で普通に ― ガの蛹のような苦し紛れでなく ― 生き延びようとするモノが皆無という事は……これが大蛇が訪れた時に使える、唯一の生存方法だという事。

 兎にも角にも、探さねばならない。自分達が使える貝殻を。

 

「貝の下! あそこに動物が居たって事は、そこが安全地帯なの! だからミドリ、貝殻の下を見て!」

 

「――――あ、は、はい! わ、分かりました!」

 

 時間がなく少々雑な説明になってしまったが、貝殻の下が安全地帯だと伝われば十分。ミドリは明るい顔と共にこくこくと頷き、海岸に転がる貝殻を凝視した。

 だが、一時希望に満ちた顔が困惑と恐怖で引き攣るまでに、五秒と掛からない。

 

「だ、駄目です! ()()()()()()()()()()()! さっきの奴も含めて!」

 

 返ってきた答えに、継実もその表情を引き攣らせた。

 貝殻がみんな空っぽな筈がない。少なくとも継実が今し方ひっくり返そうとした貝殻の下には、無数の小鳥達が居たのだ。テレポートしたならそうなるのも頷けるし、継実が使えるのだから他の動物に出来る訳がないとは言わないが、大蛇が迫る現状でわざわざ貝殻から逃げ出す理由がない。

 普通に考えるなら、貝殻の下に潜んでいる生物達は、自然とミドリの索敵をもすり抜ける隠密状態になっているという事。

 なんらおかしな話ではないだろう。『災禍』が過ぎ去るまでじっとし、体力の消耗を抑えるため息も潜めているとすれば、それは天敵から隠れている状態と全く変わらない。そしてじっとしてさえいればミドリの目を欺ける生物種なんて幾らでも存在する。彼女の『目』は継実など遠く及ばない索敵能力を持つが、この世の全てを見通す『超能力』ではないのだから。

 

「(不味い……これだと貝殻の下にヤバいのが潜んでいても、ひっくり返すまで分からない……!)」

 

 先程ひっくり返そうとした貝殻の中身が小鳥で幸運だった。もしも大型肉食獣……例えばワニだったなら、両手両足を失ってもおかしくなかっただろう。例え隠れているのが小さな虫やネズミでも、何千何万という数に襲われれば一堪りもない。

 貝殻の下に何がいるか分からなければ、空の貝殻が見付かるまでこの危険なギャンブルを繰り返す必要がある。貝殻が集まっているのが此処だけとは限らない……今思えば森で出会ったネズミ達は何処かで『あぶれた』個体だったのか……が、島中の生き物が隠れ場所を探し求めているのだ。最悪を考えれば開いている貝殻なんてもう殆ど残っていない、いや、そもそも最悪ゼロという可能性すらある。

 分の悪いどころか、そもそも勝ち目のない賭けかも知れない。けれども貝の下に逃げ込まなければ、大蛇が巻き起こす災禍に巻き込まれて確実に命を落とす。

 

「(考えろ……! 何処かに、なんか良い方法がある筈! 完璧に安全じゃなくて良い、ちゃんと勝ち目のある賭けであれば……!)」

 

 思考を目まぐるしく巡らせる中、ずどんという音と震動が遥か彼方より響く。大蛇が何かしたのかとも思ったが、震動が来たのは大蛇とは反対側だ。

 大蛇は直接的な行動を起こした訳ではない。とはいえ身震い一つで巨大噴火クラスのエネルギーを撒き散らす化け物だ。視線一つで巨大地震を引き起こしても、もう驚かない。

 そう、継実はそう考えていた。気にするほどの事ではないと。

 だが、『そいつ』は違った。

 

「! あっ、あそこに……」

 

 ミドリがふと声を出しながら、何処かを指差す。けれどもその声は途中で萎み、やっぱり今のはなしだと悲痛な面持ちが語る。

 それでも継実は殆ど無意識にミドリが示した方角に目を向けた。最早ミドリの言葉には条件反射的に従ってしまう。

 お陰で継実は見逃さずに済んだ――――()()()()()()()()()()()姿()()

 ミドリが指差そうとしたのは、この中で唯一動くものを見付けたから。声が萎んだのは、確実に先客がいる貝殻を指し示したって仕方ないと考えたからだろう。

 そして継実が満面の笑みを浮かべたのは、それが『起死回生』の一手だったからだ。

 

「ミドリ! アンタもう、ほんとに最高!」

 

「へ? いや、継実さん? あれ動いているから既に他の動物が」

 

「それが良い!」

 

 ミドリの言葉を遮って、継実は一人猛然と駆ける!

 動く貝殻は継実の接近に気付いたのか、ぴたりと止まる。だが継実はそんな事など構いやしない。そのまま一気に接近し、貝殻の下側に向けて粒子ビームを撃とうとした。

 だが、貝殻の『主』はそれを許さず。

 大きさ四メートルはあろうかという貝殻の下から巨大なハサミを出すや、肉薄した継実に襲い掛かってきたのだ。突然の攻撃だが、されど継実にとってこれは想定通り。軽やかに身を翻して離れ、この一撃を躱す。

 貝殻の『主』と向き合う継実。遅れてモモとミドリもやってきたが、二人は驚愕したような顔を浮かべた。ミドリに至っては、ちょっと口許が引き攣っている。

 

「……あの、継実さん? もしかしてもしかすると……」

 

「ええ、そのもしかしてだよ」

 

「ああ、やっぱり……」

 

 そのやっぱりは『分の悪い賭け』に出る事か、それとも継実が考えている事の野蛮さ故か。訊けば恐らく「両方」と答えるだろう。

 だが、もうこれしか手はない。あったとしても知らないし、恐らくこれが最も現実的だ。

 だから継実は躊躇わない。

 

「アンタからすれば災難だけど、私達も死にたくないからね……その貝殻さっさとよこしな!」

 

 目の前の生物から生きる術を奪う事も。

 相手もまた継実の覚悟を察したのだろう。背負う貝殻を少し浮かせ、その中身が露出する。

 跳び出した二つの複眼。巨大な二本のハサミ。長く伸びた触角と、それが伸びている甲殻質の身体。

 全てがあの時見たものと瓜二つ……というほど似てはいないし、そもそも貝殻の大きさが倍近く違う。恐らく継実達が少し前に出会ったのとは別個体だろう。だが向こうからすればそんな事はどうでも良い話。大人しくやられるつもりはないというだけ。

 だから奴は継実達と向き合う。

 継実達を返り討ちにした種族・巨大ヤドカリが、継実達の前で臨戦態勢を見せるのだった。



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生物災害09

 岩礁地帯で出会った、あのヤドカリについて継実は思い返す。

 ふてぶてしいほどにのんびりと暮らす姿。あれは自分の『防御力』に圧倒的な自信があったのだろう。殻にこもってさえいれば、例え大蛇が迫ろうと怖くないと。そしてそんな個体が生き残れてしまうほど、奴等の防御力は優れていたのだ。

 しかしその防御力は自身の甲殻ではなく、貝殻が発揮するものの筈。虎の威を借る狐……とは少し違うかも知れないが、自分自身の力ではない。しかもヤドカリは身体が大きくなると、サイズに合わせて貝殻を引っ越すという。つまり奴等の殻は自由に取り外し可能なアタッチメント(付属品)に過ぎない。

 大きさ四メートルの巻き貝。中で渦を巻き、仕切りもある事を考えると三人が入るにはちょっと狭苦しそうだが……多分入れない事はない。ならば貝殻をヤドカリから奪い、身に纏えば、恐らく大蛇の攻撃をやり過ごせる。

 それが継実の考える『生き延びる術』だ。

 

「ま、確かに現状一番確実でマシな方法ではあるわね」

 

「な、なんか酷い事のような気がしますけど……でも死にたくないので、頑張ります!」

 

 継実が自らの策を語れば、モモは納得し、ミドリは迷いながらも受け入れる。家族二人も戦う気になったところで、継実は改めてヤドカリを正面から見据えた。

 ヤドカリは巨大なハサミを構え、臨戦態勢を取っている。

 巨大な貝殻を背負っている身体の大きさは、精々継実よりちょっと大きいぐらいだろうか。無機質な複眼から感情を読み取る事は難しいが……難しく考える必要など何もない。

 自分から貝殻を奪おうとしている相手に向ける感情など、怒りと闘争心以外にあるものか。

 向こうもこちらを『殺る気』満々。手加減したら、やられるのはこっちだ!

 

「モモ! やるよ!」

 

「おうよ!」

 

 先手を打ったのは継実達。モモが真っ先に駆け出し、空高く跳躍するや全身からバチバチと電撃の音を鳴らす。大量の電気を生み出し、放電による攻撃を行うつもりだ。

 ヤドカリはモモの攻撃を予感してか、視線を上に向けた。貝殻も傾け、防御の体勢を取る。しかし相手はモモだけではない。継実はヤドカリの真っ正面から、粒子ビームを放つために力を溜め込んでいく。

 ここで大事なのは力を細く絞る事だ。

 

「(周りを巻き込んだら、間違いなくやられるからね……!)」

 

 ヤドカリとの戦いは、周りにごろごろと貝殻が転がる海岸沿いで行われている。ただの貝殻なら気に留める必要などないが、現在その貝殻の下には島中の生物が隠れ潜んでいるのだ。迂闊に巻き込んで彼等を怒らせたなら、大変な事となる。

 拡散した攻撃は御法度。狙いは正確に、相手にだけ当てなければならない。幸いにして動きが鈍いヤドカリに対し、外す事を心配する必要はなさそうだ。

 

「そのまま焼けなさいッ!」

 

 モモは上空より電撃を撃つ! 周りを巻き込む事の危険性を十分理解しているモモは、細く圧縮された電撃を一本だけ放っていた。

 何時もなら無数に放つ電撃であるが、一本に凝縮したそれの威力はこれまでの比ではない。数テラワット相当という出鱈目出力の雷撃が、数秒と渡ってヤドカリに降り注ぐ。

 だが、ヤドカリは怯みもしない。

 ヤドカリはただその殻を傾けただけ。ただそれだけでモモが放った電撃は、何処か彼方へと弾き飛ばされてしまったのだ。貝殻には傷どころか焦げ目一つすら付いておらず、なんのダメージにもなっていない。

 尤もこれは想定内であるし、大蛇から身を守るため貝殻に隠れようとしている継実達にとってはむしろ朗報。()()()()()()()で焼け焦げていては話にならないのだ。モモだって最初から通じるとは思っていまい。

 モモの役目はヤドカリの意識を自分に向け、継実から逸らす事だ。

 

「喰らえ!」

 

 継実はヤドカリの真っ正面から粒子ビーム撃つ!

 こちらは元々圧縮した大出力ビーム。一直線に殻から出ているヤドカリ本体へと跳んでいく。これで顔面をぶち抜き、砕いてしまえばこっちの勝利。

 しかし残念ながらそう上手くいくものではない。

 ヤドカリは大きなハサミを盾のように構えると、それで粒子ビームを受け止めたのだ。貝殻ではない生身の部分の筈だが、なんのダメージも受けていないのか。更にハサミの角度を少し変えれば、当てた粒子ビームは何処かに跳んでいってしまう。

 継実が放った攻撃を、ヤドカリのハサミは難なく弾き返してみせた。こちらは『本命』の攻撃だっただけに、継実とモモも顔を強張らせる。

 ヤドカリはその苦悶を好機と思ったのか、重たい貝殻を背負いながらのしのしと歩いて接近してきた。

 しかし継実とモモはその接近を許さず、冷静に距離を取る。ヤドカリは舌打ちするように「カリッ」という音を鳴らし、継実の方へと歩き出す。が、継実は更に後退。決して近付けさせない。

 

「(お生憎様。アンタ達の能力は一度見させてもらってるんだから)」

 

 岩礁地帯で戦った時、ヤドカリは貝殻をまるで粘度のように自在に変形させた。貝殻の硬さを思えばあのような変形をする筈がなく、能力によるものなのは確実だ。

 伸びてきた貝殻の一撃は、貝殻自体の硬さもあって非常に強力なものだった。しかしあの時は不意打ちに加え、至近距離であるが故に躱せなかっただけの事。距離を取れば見切れない速さではない。

 岩礁地帯で行った戦いは、危険ではあったが無益ではなかった。あの時に相手の能力と性能を知る事が出来たがために、敗北が許されないこの場で危険な立ち回りをせずに済んでいるのだから。

 とはいえ距離を取ったままでは決め手に欠けるのも事実。遠距離攻撃を見切りやすいのは敵も同じだ。モモの電撃も継実の粒子ビームも、ヤドカリは難なく防ぐだろう。

 大蛇が『何か』を引き起こした時、生き残るのは殻を持っている方。持久戦に持ち込まれたら負けるのは継実達の側だ。故にそろそろ決着を付けねばならない。

 その鍵を握るのがもう一人の家族。

 

「ミドリ!」

 

「はい! 神経、ぐっちゃぐちゃにしてやります!」

 

 継実の指示を受け、ミドリが脳内イオンチャンネルの操作を試みる。

 これまで様々なミュータントに使ってきた技だが、即死に至った事は一度もない。ハエトリグモのように全く効かない奴もいたぐらいだ。七年前の地球ならどんな生物でも即死させ、あまつさえその思考さえも自在に操る脅威の攻撃なのだが、どうにもパッとした成果を出せていない。

 しかしながら派手な成果がないだけで、何度も何度も継実達の危機を救ってきた技でもある。相手の動きを鈍らせ、思考を妨げる。命懸けの闘争でそれがどれだけ有り難いかは言うまでもない。此度もヤドカリを即死させるには至らずとも、動きを鈍らせれば十分。

 そう考えていたのに。

 ヤドカリがまるで何かを察するかのように、ミドリの方に殻を傾ける。まさか殻でミドリの能力を防ぐ気なのかと継実は考えた。イオンチャンネルの操作をそれで防げるとは思えないが、相手はミュータント。どんな方法で防御するかなんて分かったものではない。

 そう、何時だってミュータントは『人智』を凌駕する。

 

「っがあっ!?」

 

 ミドリが突然短い悲鳴を上げたのも、『人智』までしか持ち得ない継実にとって想定外の出来事だった。

 

「――――ミドリ?」

 

 悲鳴を聞いて継実は思わず振り返る。

 そこには砂場に横たわり、痙攣するばかりでろくに動かないミドリの姿があった。

 字面にすればそれ以上のものは何もない、ごくシンプルな光景。されど継実はその意味を理解するのに、瞬き数回分の時間を費やしてしまう。七年前ならごく一瞬の時間も、ミュータントにとっては長考に等しい。

 ようやくミドリの身に何かが起きたのだと理解した継実は、その顔を一気に青ざめさせた。

 

「ミドリ!? どうしたの!?」

 

 継実は慌ててミドリに駆け寄る。ミドリは白目を向き、ガクガクと全身が痙攣していた。調べてみれば呼吸が出来ておらず、脈も鼓動が不規則な不整脈の状態。

 七年前なら高度な医療機関に連れていっても、果たして助かるかどうか怪しく思える症状だった。しかし継実ならば診断と治療が出来る。医療知識など皆無だが、直接体内構造を覗き込み、その中身を弄くり回せるのだから。

 そうしてミドリの身体を調べてみれば、神経系の状態が異常だと気付く。具体的には、正常ならば均衡が取れている筈のカリウム・ナトリウムのイオン濃度がしっちゃかめっちゃかだ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「(まさか……)」

 

 脳裏を過ぎる最悪。しかし今はそれを気にしている場合ではない。いくらミュータントの生命力が強くとも、呼吸と脈拍が正常に働かなければ身体に取り返しの付かないダメージを受けてしまう。

 兎にも角にも、原因はイオンチャンネルの乱れだ。継実はミドリの神経系を流れるイオンに対し、能力で量や向きを操作。正常なものへと変えた後、鼓動乱れる心臓に対し気合いを入れるように一発拳で叩く。壊れたテレビ相手にするような乱雑さだが、テレビよりも丈夫でタフなミュータントはこれで息を吹き返してくれた。

 

「げほっ!? げほ、ごほ……あ、あたし、今、気絶……?」

 

「ごめん、後で何があったかは話す。とりあえずアイツに脳内イオンチャンネルの操作は駄目だ。今は周りの索敵と、アイツの動きにだけ注意して!」

 

 一通りの指示と脳内イオン操作を禁止し、継実は呆けた様子のミドリを置いて前線へと戻る。

 継実がミドリの救助をしている間も、モモはヤドカリに対し攻撃を続けていた。直接電撃を当てても駄目ならと考えたのか、体毛を伸ばし、ヤドカリ自身をぐるぐる巻きにしようとしているらしい。

 だが、どうも上手くいっていない。

 

「何よコイツ……なんでこんなツルツルしてんのよ! 全然引っ掛からない!」

 

 モモが悪態を吐くほどに、体毛はヤドカリの体表面を滑ってばかりだ。まるで掴む事が出来ていない。

 ヤドカリの身体は見た目からしてゴツゴツしていて、滑るようには見えない。故に納得がいかず、モモは何度も挑戦しているのだろう。お陰で継実はその動きを幾度と観測出来、そこで起きている出来事を知る事が出来た。

 体表面にて、モモの体毛の粒子の運動の『向き』が変化していると。

 

「(まさかコイツ、運動方向(ベクトル)を操作出来るの!?)」

 

 起きている事象を目にしたにも拘わらず、継実はその『事実』を簡単には受け入れられなかった。

 ミュータントの能力は一種につき一つ。

 ()()()()()()()()()。七年前のヒトという生物が『驚異的持久力』と『全生物最高の投擲能力』と『圧倒的知能』と『複雑怪奇な言語能力』を持ち合わせていたように、生物は複数の能力を持つのが当たり前の事。超常の力だのなんだのなんて関係ない。たくさんの能力を持つ方が『適応的』ならそうなる。ただそれだけの話だ。

 だからヤドカリが複数の能力を、『貝殻を自在に変形させる』力と『運動方向を操作する』力を持ち合わせていても、なんらおかしくない。むしろそうだと考えれば辻褄が合う。雷や粒子ビームが跳ね返され、ミドリの能力が返されたのも、全て。

 

「(つーかそんな能力があるなら貝殻なんていらないじゃない! 寄越しなさいよケチっ!)」

 

 あまりにも出鱈目なヤドカリの力に頭の中で悪態を吐く。それと同時に、小さな違和感を継実は覚えた。複数の能力があるのは分かるが、前者と後者があまりにも系統が異なるような……

 その違和感は継実の足を鈍らせ、ヤドカリに『次の一手』を打たせる時間を作ってしまった。

 ヤドカリはこっそりと横に移動。近くにあった別の貝殻 ― 高さ二メートルぐらいの巻き貝だ ― に近付くや、その貝殻にハサミを伸ばして触れる。

 するとその巻き貝の一部が、ぐにゃぐにゃと伸びながら継実に襲い掛かってきた。

 

「っ……!」

 

 考え事をしていた時の攻撃故に驚きはしたが、考え事をしていたからこそ距離もある。その『能力』を一度目にしていた事もあって、継実は跳躍するように軽やかに後退し、伸びてきた巻き貝を躱す。

 攻撃が当たらなかったヤドカリであるが、まだ追撃を諦めていないらしい。更にその横にある二枚貝をハサミで触れた。伸びてくる貝殻の速度はかなりのものだが、未だ考え事をしていても躱せるだけの距離がある。真面目に向き合えば、仮にさっきより速くても当たりはしない。継実は落ち着いてヤドカリと向き合う。

 だから貝殻が伸びてくるのなら、なんとかなっただろう。

 ところがヤドカリが貝殻を撫でるように触った時に起きたのは、()()()()()()()()()()()()()()だった。

 

「は? ぬぐぁっ!?」

 

 突然の、そして全く予期せぬ攻撃に継実は守りも固められず。全身を覆わんばかりに広がったレーザーが、継実の身体を焼こうとする!

 粒子操作能力により体表面の分子配列を制御。なんとかレーザーを受け流すが、不意を突かれて思考停止していた間は直撃状態だ。かなり大きなダメージを受けてしまい、致命傷には程遠いものの、継実の身体は膝を付いてしまう。

 まさかの三つ目の能力。しかも今度はレーザーとは、なんという多彩さか。

 驚く継実に追撃をするためか。ヤドカリは少し移動し、今度は一メートルほどの巻き貝に触れる。複眼は確実に継実を見ていて、こちらを攻撃する気満々だ。

 

「させるかぁっ!」

 

 その攻撃を妨げようと、貝殻にしがみつこうとするモモ。

 モモが貝殻にしがみつくと、ヤドカリは驚いたように身体を揺さぶる。激しい揺れ方だが、しかしモモの身体能力ならば振り解けるものではない。ガッチリと殻に爪を立て、自分の身体を固定。

 そしてバチバチと全身から音を鳴らし、モモは発電を始めた。

 

「……ギィヂヂヂヂ!」

 

 するとヤドカリは自分の背負う殻をハサミで触れつつ、また大きく身体を揺れ動かす。

 直後、モモの身体が大空へと吹っ飛ばされた! 恐らく運動方向制御により、しがみつく力そのものの運動方向を変えられてしまったのだ。何をするにも運動の向きというのは欠かせない因子。それを操られてしまえば手など出しようがない。対してヤドカリは相手の皮膚などに直接触れてしまえば、血流などを逆流させたり、イオンの行き来(運動)により制御されている神経系も掌握出来てしまう。正に必殺の手だ。

 とはいえ大空に打ち上げられたモモは、体毛で身体をガードしている。直接触れられる事はなくて未だ健在。空中で軽やかに身を翻して体勢を整えた。放電は、無駄と判断したのか放たない。

 そんなモモにヤドカリは、先程触れようとしていた巻き貝にまたハサミを伸ばした。今度はモモの邪魔がないため、難なく触れる。

 するとヤドカリに向けて()()()()()()()()()()()()()()()

 ただの風ではない。物体そのものに働きかける、そして抗いがたい力。かつてこの力と似た『能力』を経験したからこそ、継実はこの力の正体に気付く。

 これは重力操作だ! 全ての物体が、ヤドカリの方へと引き寄せられている!

 

「!? これは……っ!」

 

「きゃああああああああっ!?」

 

「なっ!? ちょ……」

 

 突然の重力に継実はなんとか踏ん張り、引き寄せられて飛んできたミドリをキャッチ。しかし単身空に飛ばされていたモモはどうにも出来ず、ヤドカリの方に引き寄せられてしまう。

 ヤドカリは高速で飛んでくるモモを見るや、背負う貝殻に触れた。

 そしてすかさずハサミを振り上げ、まるで鉄拳のようにモモをぶん殴る!

 動きそのものは決して速くない打撃。だが運動方向操作と組み合わせれば、モモの身体を超高速で打ち出す! モモには抵抗すら儘ならず、音速という言葉すら生ぬるい速さで飛んでいき……岩礁地帯の岩場にその身を打ち付けた。

 今朝方出会ったヤドカリのパワーでは、藻に覆われた岩は砕けず。しかし此度の一撃は岩を粉砕し、モモを遥か彼方まで吹っ飛ばす。モモが止まったのは、行く手にあったもう一個の大岩を変形させてからだった。

 

「モモ!?」

 

「大丈夫! この程度でへばるもんかっ!」

 

 思わず名を呼べば、モモは健全さをアピールするように大声で答える。

 健全である事は良い報せ。されど継実が笑みを浮かべるには、あまりにもささやかな『良さ』だ。

 

「(なんなんだコイツ……! なんだってこんなに能力が多彩なの!?)」

 

 能力は一種類の生物につき一つとは限らない。限らないが、ものには限度というものがある。ミュータント能力を複数持つとどんな作用があるかなんて分からないが、なんの代償もなしに使えるとは思えない。

 ヤドカリは一体何を代償にこの力を使っているのか。それとも実は複数の能力があるというのが思い違いなのか。しかし貝殻を変形させ、運動方向を操り、レーザー攻撃をしたと思えば、重力まで支配し……そんななんでもかんでも出来る力などあるものか。

 強いて共通する動きがあるとすれば、能力を使う前にハサミで貝殻に触れていた事ぐらいで――――

 

「(……待って)」

 

 ふと脳裏を過ぎった言葉。その言葉の意味を考えた時、継実は顔をどんどん青くしていく。

 そんな馬鹿な、と叫びたくなる。だが否定する要素がない。だってそれは()()()()()()()()()能力であり、尚且つヤドカリが持っていても不思議のない力なのだから。

 何事も認めなければ始まらない。しかし此度のそれは、認めてしまったら終わる。突き付けられた状況の悪さが、自分達を追い詰めるが故に。

 コイツの本当の能力は――――

 

「きゃあっ!?」

 

 結論に辿り着いた瞬間、ミドリが大きな悲鳴を上げた。しかしそれはヤドカリが彼女を攻撃したからではない。

 突如として巨大な地震がニューギニア島を襲ったからだ。正しく世界を揺るがす大震動。ミュータントとなった継実でも、油断すれば転びそうだと思うほどの激しさだ。しかも揺れはどんどん強くなっていく。

 

「こ、今度は何!? あのヘビ、またなんかやったの!? 地震って事はプレートでも気紛れにぶっ壊した訳!?」

 

「待って継実! これ、地震じゃない!」

 

 最早恐怖など忘れて大蛇に悪態を吐く継実だが、モモがその悪態を否定する。だが継実にはなんの事だか分からない。地面の揺れが地震でなければなんなのか、どしんどしんどしんと確かに奇妙な揺れ方ではあるが――――

 

「……いや、ちょっと」

 

 考えてしまった『予感』。言葉で否定してみても、地面の揺れは消えてなくならない。

 どしんどしんどしんどしんどしんどしん。絶え間なく続く揺れはどんどん近く、どんどん大きくなっていく。最早近付き過ぎて、大き過ぎて、具体的な距離も何も分からないぐらいになった時……それはニューギニア島の山からぬるりと()()()()

 その瞬間を目にした継実は、きっとこの光景は一生忘れないと思った。尤も、もうすぐその一生は終わるだろうとも思ったが。

 体長数百メートルもの真っ白な『巨人』を前にして生きていられると思うほど、継実は自分の強さに自信など持っていないのだから。



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生物災害10

「な、に……あれ……」

 

 普段ならばミドリ辺りが呟く台詞。それを誰よりも先に漏らしたのは、継実だった。

 それは『巨人』だった。二本の腕を持ち、二本の足で立ち、身体のてっぺんに頭があって、背ビレや尾がないから。されど血色の悪い白くてぱっつんぱつんに張った肌、体節を持った構造、そして目玉のない頭にあるのは内側にずらりと歯が並んだ筒のような口……どれもこれも人間とは似ても似付かない。身の丈四百メートルを超えているであろう巨躯はニューギニア島の大地を踏み締めて立っていたが、存在感が大き過ぎて現実味がまるで感じられない。

 中途半端に人間に似ていて、だけど明らかな異形。

 都市伝説の『ヒトガタ』というのが本当にいたら、多分、こんな姿なのだろうと継実は思った。

 

「(なんなのコレ!? こんな、こんな生き物知らない!)」

 

 継実だって地球上の全生物を知り尽くしている訳ではない。だが、これは明らかに何かがおかしい。自分達が知る生物とは、根本的に何かが違うと察する。

 その察しは連鎖反応的に継実の脳で様々な情報と結び付く。

 思い起こされる七年前の記憶。かつての人類文明を滅ぼし、継実の両親を奪ったモノがいたではないか。そいつは自分が強くなったから、圧倒的な力を持つミュータントになったから、もう怖がらなくて良くなった。そして強いミュータントにみんな殺されて、食べられて、生存競争の敗者となり絶滅してしまったと無意識に思い込んでいた。

 けれどもよく考えてみれば、そんなのはただ安心したくて、ご都合主義的に考えていただけ。奴等だって()()()()なんらおかしくない。認めてしまえば、継実は自分が見ているものの正体に気付けた。

 この巨人は『怪物』だ。かつて人類文明を滅茶苦茶にした、ムスペルと同じ存在。

 唯一違うところがあるとすれば――――コイツは、継実達と同じミュータントであるという点だけだろうが。

 

「か、怪物の……ミュータント……!?」

 

 史上最悪の存在が此処に現れてしまったのだと、継実は何秒も巨人を見続けてようやく答えに辿り着く。

 巨人……仮に『ヒトガタ』としよう……は、継実達など見ていない。そもそも目が付いてないので視線も何もないのだが、顔の向きから何処に意識が向いているかはなんとなくだが察せられる。

 ヒトガタが見ていたのは、大蛇だ。

 その大蛇は大海原で立ち止まっていた。ただしぼんやりしている訳ではない。じっと、こちらはちゃんと継実達にも視認出来る瞳で一点を見つめている。視線を追えば、ニューギニア島の上に陣取るヒトガタがいた。

 両者は見つめ合っていた。

 ……いっそ同種同士であったなら、地球史上最も(部外者が)危険なラブストーリーでも始まったかも知れない。それでもラブがあるのだから、少なくとも異性を気遣う程度の優しさはあるだろう。その優しさのおこぼれを、継実のようなちっぽけな『虫けら』でも分けてもらえたかも知れない。

 しかし異種にそんなものは期待出来ない。全くないとは限らないが、希望とするにはあまりに儚い。

 何より――――二匹の闘志がどんどん高まっていくところを見れば、どんな楽天家でもそんな期待など抱けるものか。

 何故両者はこの場に集ったのか、何故威嚇すらせずに闘志を燃やすのか。継実達には理由すら分からない。それでもたった一つだけ、確かな事がある。

 今から此処は地獄と化す。

 ()()()()()()()()()()()()()()

 

「フォオオオオオオオオオオオンッ!」

 

 ヒトガタが甲高い、見た目の割に美しい声で鳴いた。

 次の瞬間、その姿が消える。

 そして継実の背筋には、今まで感じた事もないような悪寒が走った。

 

「――――ッ!?」

 

「継実ぃ!」

 

 恐怖で身体が強張る。一体何年ぶりかも分からない経験で動けなくなった継実を、モモが急いで抱き寄せる。ミドリも共に抱き合い、我に返った継実も家族二人を抱き締めた。今まで継実達を攻撃していたヤドカリも、大慌てで自分の背負う貝殻に身を隠す。

 直後、破滅的な暴風が吹き荒れる!

 風の強さは凄まじく、継実ですら、あと一瞬対処が遅ければ遥か彼方に吹っ飛ばされていたと確信するものだった。しかし一体何がこんな風を引き起こしたのか? そもそもヒトガタは何処に行った?

 疑問の答えは、大海原から放たれた閃光が教えてくれた。

 閃光の見えた方に視線を向ければ、ヒトガタが大蛇の顔面を殴り付けている姿を目の当たりにする。光は、大蛇を殴ったヒトガタの拳から放たれていた。

 今の暴風は、ヒトガタが大蛇の下まで駆け付けた際の『風』だったのだ。ただ走るだけで、継実達を吹き飛ばしかけるほどの驚異的パワー。

 そのパワーを生み出す身体を捻り、ヒトガタは大蛇を殴った訳だが、では拳から放たれた光はなんなのか? 何かビームを打ったのか? そんな継実の疑問に答えるのは、ヒトガタではなく大蛇の方。

 殴られてもぴんぴんしていた大蛇は、長大な身体を鞭のようにしならせてヒトガタを打つ! ヒトガタの身体が大きく吹き飛ばされる瞬間、大蛇の身体を打ち付けた場所で閃光が迸った。

 昔ならばその光の正体など見ても分からなかっただろう。いや、見たら恐らく()()()()()。あの光はただの閃光ではない……強烈な打撃のエネルギーが、相手を打った瞬間熱と光に変換されたもの。超高出力の光は周りの原子を崩壊させ、大量のガンマ線や中性子線、即ち放射線を放出させている。

 あれは『核爆発』の光なのだ。しかも人類が作り上げたどんな爆弾よりも高出力・高密度の。

 そんな攻撃を受けても、ヒトガタも大蛇もダメージなどないと言わんばかり。いや、実際ダメージそのものは殆どないのだろう。でなければ殴り飛ばされたヒトガタが反撃として大蛇の尾を掴み、ぶん投げようとするものの大蛇が踏ん張って堪えるなんて光景を見れる筈がない。

 奴等にとって先の攻防も挨拶代わりのようなものなのだ。

 しかし、継実達にとってはどうか?

 

「っきゃあああああああっ!?」

 

「うぐぁっ!?」

 

 海からやってきた爆風と熱が継実達を襲う! 継実達はどうにか踏ん張れたが、もしも此処にあったのが七年前に栄華を誇っていた人類文明の都市ならば、今頃跡形もなく吹き飛んでいただろう。

 ただ殴っただけでこの衝撃……いや、それは正確な表現ではない。

 ヒトガタの拳は島の外側へ向けて放たれたもの。大蛇の尾っぽも島から見れば真横に向けて放ったもの。どちらも島に向けて攻撃していない。今し方の爆風と熱は、余波の中のほんの一部に過ぎないのだ。

 ただ掠めただけで、油断すれば命を奪われかねない破滅を振りまく。なら、もしもその攻撃が、例えヒトガタか大蛇が受け止めたとしても……島がある方に向けて放たれたなら?

 

「継実! 不味いわ! 早くあのヤドカリを仕留めないと、何時死んでもおかしくないわよこんなの!」

 

 モモは状況を理解し、そう訴える。

 この状況で生き残るには、ヤドカリが背負う貝殻を奪うしかない。その貝殻の中に身を潜め、災いが過ぎ去るのをじっと待つのが唯一の生存方法。

 最初からそういう方針だった。それだけが今、生き残れる術だと信じていたから。

 しかし、継実は気付いてしまった。

 此処でヤドカリに戦いを挑んでも、勝ち目なんてこれっぽっちもないのだと。

 

「……無理」

 

「何よ無理って。もう手がないって言いたいの? どうしてそんな事言えるのよ」

 

「だって、あのヤドカリの能力じゃ勝てる訳がない……」

 

 眉を顰めながら尋ねてくるモモに、継実はそう答える。モモは一層怪訝そうな表情を浮かべた。普通ならばそれは『朗報』なのだ。相手の能力が分かれば、対策を立てやすくなるのだから。

 だが。

 

「ヤドカリの能力は多分、()()()()()()()()()()()()()()()()()()事なんだから……!」

 

 真に絶望的な力は、明かされてからも希望など与えない。

 恐らくヤドカリは直近に触れた貝の能力を、自分の能力として使える。運動方向の制御も、貝殻の変形も、拡散レーザーも重力変化も、全てヤドカリではなく貝が持っていた能力なのだ。貝殻にハサミで触れるのは、能力を切り換えるための予備動作なのだろう。

 勿論それだけなら「ふーん」で終わる話だ。通常ならばヤドカリは、自分が背負った貝殻の能力しか使えない。実質能力は一つ ― とは限らないが ― だけになり、その能力にさえ対策を見出せば良いのだから。

 だが、この海岸では話が違う。

 ()()()()()()()()()()()()。何処もかしこも貝殻だらけであり、しかもその種類は千差万別だ。ヤドカリはちょっと手を伸ばすだけで、その能力を自由に切り換えられる。

 質の悪い事に、継実達には此処に転がる貝殻から『種』を同定する事など出来ない。この海岸に何種類の貝が転がっているのかなんて分からないし、同じ形をしているが大きさの違う貝殻が「大人と子供」なのか「AとBという種」なのかなんて分からないのだ。つまりヤドカリが何かの貝殻に触れた時、どんな攻撃が飛んでくるのか、予測すら出来ないという事。

 此処は完全なるヤドカリのテリトリー。こんな場所で戦っても、勝ち目なんてないのだ。

 

「そ、そんな……あ、で、でも、能力の切り替えに時間が掛かるなら、その隙を突けば……」

 

「……向こうもそんな事なんて重々承知してるでしょ。自分の弱点も知らないような奴が生き残れるほど、甘い環境じゃないんだから」

 

 ミドリの意見も、モモによって否定される。継実としても同意見だ。そんな分かりやすい弱点で倒せる相手なら、とっくに絶滅しているだろう。

 自分達は相手のフィールドで戦いを仕掛けてしまった。そしてヒトガタと大蛇の戦いはもう始まり、最早この島が地獄と化し、貝殻の下に隠れなければ助からない状況となるのは間近。

 

「……ごめんなさい」

 

 だから継実は謝罪の言葉を呟き、

 すぱーんっ、と小気味良い音が継実の頭から鳴った。

 ……痛くはない。が、継実はその目を大きく見開き、反射的に顔を上げる。

 隣に目を向ければ、頭を叩いたであろう手を構えているモモが呆れ顔でこちらを見ていた。

 

「なんというか、久しぶりね。うじうじしてるの。七年ぶり?」

 

「だ、だってこんな――――」

 

「こんなも何もない! ほら、なんも案がないならとりあえず突っ込むわよ」

 

 継実の気持ちなどお構いなし。それどころかモモは今にも再突撃しようとばかりに前傾姿勢を取る。

 何故モモは諦めない?

 継実の気持ちは、正直かなり『絶望』に傾いていた。ヒトガタと大蛇の戦いが始まったのに拘わらず、まだヤドカリの倒し方すら閃いていない。これでどうして生き延びられると思えるのか。

 絶望するのが普通だ。

 

「(……いや、普通じゃないか)」

 

 脳裏を過ぎった自分の考えを、継実は自分自身の言葉で否定した。

 モモは絶望になんて飲まれていない。

 確かに大蛇の気配を感じた時、彼女は一瞬『達観』していた。けれどもあれは例えるなら迫り来る拳を前にして、避ける方法が思い付かなくてぼんやりしていたようなもの。一度我を取り戻してからは、もう絶望なんてしていない。

 そうだ。生物は()()()()()()()()。したって何も良い事がないのだから。

 足掻くのは希望があるからではなく、死にたくないからだ。希望とは結局のところ可能性に過ぎず、あろうがなかろうが、何かをやるという選択肢は変わらない。希望があるならどれだけか細くてもそれを掴もうとし、なければがむしゃらに暴れるのみ。

 希望がない。そんな()()()()()()()で生きる気力を失うのは、人間だけだ。

 

「……人間味なんて、もう何年も前になくしたと思ってたんだけどなぁー」

 

「ミドリの所為じゃない? あの子、ほんと人間っぽいし」

 

「え!? なんであたしの所為!? というかなんの話ですか!?」

 

 いきなりお前の所為だと言われて、ミドリはおどおどし始める。それがやっぱり『人間味』があって、継実はくすくすと笑ってしまう。

 お陰で挫けかけていた気持ちも元通り。再び、継実はヤドカリと向き合う事が出来た。

 

「おっ。元気になったみたいじゃん」

 

「ミドリのお陰でね」

 

「いや、もうさっきからなんですか? なんであたし褒められたり貶されたりしてるんですか?」

 

「あ、そうそう。話してて気付いたんだけど」

 

「えっ。あたしの疑問は無視?」

 

 さらっと問いが流されてしまい、いよいよミドリは不満げ。不機嫌そうに眉を顰める。これは後で説明してあげないとそのままふて腐れそうだなと、継実は可愛らしい家族の反応に笑みを零す。

 ――――その不機嫌さを直すためにも、ここは生き延びなければならない。いいや、絶対に死んでなるものか。死んだら、説明を聞いた時のミドリの反応が見られないではないか。

 生きていくのに大した理由なんていらない。諦める必要なんかもない。足掻いて足掻いて足掻きまくって、それで死んだらそれまでというだけの事。

 

「つー訳で、私らは負けらんない訳だ。そっちもだろうけど」

 

 立ち直った継実は、ヤドカリに向けて改めて宣戦布告をする。

 ヤドカリは、ゆっくりと貝殻の下から顔を覗かせた。無機質な甲殻類の顔から表情なんて窺い知れない。けれども継実は本能的に、二つの感情を色濃く感じる。

 憤怒と、それ以上の『苛立ち』。

 ヤドカリは継実達の存在を、明らかに鬱陶しく感じていた。そして野生の獣は多少の鬱陶しさなら無視しても、本気で苛立てば容赦などしない。

 ヤドカリは近くの貝殻に手を当てる。どんな能力を繰り出すつもりか、見当も付かないが……最早怯む理由なし。

 

「第二ラウンドの始まりだぁ!」

 

 絶望から戻ってきた継実は、誰よりも早く再突撃を仕掛けるのだった。



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生物災害11

「ギヂヂヂィ!」

 

 突撃を仕掛けた継実に対し、ヤドカリはそのハサミで近くにあった貝殻を何度か擦る。

 すると貝殻から金属音のような音色が響いた。不快な音色ではあるが、決して音量は大きくない

 

「ごぼっ!?」

 

 そう思ったのも束の間、継実の身体に弾けるような衝撃が襲い掛かる! それと同時に、継実は一糸纏わぬ身体のあちこちから血を噴き出し、一瞬で真っ赤に染まった。

 どうやら体表近くの血管が突然破裂したらしい。能力により自分の身体の中を確認出来る継実は、自分の身に起きた事態を瞬時に把握。更にその原因が、ヤドカリが貝殻から鳴らした『音』にある事も見抜いた。

 

「(音波による共振攻撃……! 貝の癖に、なんだってこんな攻撃的な能力持ってんだよ!)」

 

 見えない攻撃に舌打ちをする継実だったが、しかしタネが分かればどうという事もない。

 身体の傷は即座に修復し、継実はまたヤドカリとの距離を詰めようとする。ヤドカリもそれを見て再度音波による攻撃を仕掛けるべく、傍にある貝殻に触れた。

 だが遅い。

 水中ならば恐ろしい攻撃だっただろう。何しろ水の中では、音速は秒速一キロを軽く超えてくるのだから。しかし空中ではたったの三百四十メートル前後。継実の動体視力なら()()()()

 ヤドカリが攻撃準備に入ったのを目にするや、継実は突撃を止めて横方向へ回避。攻撃を外したと理解したヤドカリは、継実の後を追うように身体の向きを変えようとした。

 

「隙ありっ!」

 

 そのチャンスを狙うのがモモ。

 ヤドカリはモモの存在に気付くや、すぐさま自分の殻に触れようとハサミを動かす。が、モモの方が一瞬早い。体毛を伸ばしてヤドカリの二つのハサミに巻き付ける!

 ハサミを糸で雁字搦めにされて、ヤドカリは悪戦苦闘。毛なんかに負けないとばかりにハサミを動かそうとする、が、モモの方が力は強いらしい。ハサミは殻に触れるどころか、真っ直ぐ前に突き出すように伸ばされてしまう。

 能力を発動させるには、ハサミで貝殻に触れなければならない。両手のハサミを拘束した今なら背負ってる貝殻の力、運動方向操作の能力は使えない筈だ。止めの一撃を顔面に喰らわせるべく、継実は逃げから攻めへと転じた。

 ――――しかし内心、上手くはいかないと感じてもいたが。

 モモが語っていたように、ヤドカリは自分の能力の『欠点』を知っている。ハサミの動きを阻まれた程度で負けるようなら、きっとヤドカリという種族はとうの昔に滅んでいるだろう。

 何か対策がある筈なのだ。ハサミの動きを封じられた時のための。

 

「ギッ……ギッギギヂィイイイイッ!」

 

 それを証明するかのように、ヤドカリは自らの身体を()()()()()()()()()

 腕が固定されている状態で、貝殻の奥に引っ込むなど出来るのか? 無論なんの問題もない。別に殻の動きそのものは固定されていないのだから。身体が固定されている状態で殻にこもろうとすれば、当然貝殻の方が前へと進む。

 そうして貝殻の中に身体の大部分が入れば、ハサミの根元付近が貝殻の縁に触れる事も可能だ。

 触れてしまえばヤドカリの勝ち。運動方向操作により締め付ける力が反転し、モモの体毛は自らの力によって弛んでしまう。

 

「ぐっ!? やられた!」

 

「ちっ!」

 

 最早ヤドカリが運動方向操作の力を持っているのは明白。ここで攻撃しても無駄だと、継実は一旦距離を取ろうとする。

 しかしヤドカリがそれを許さない。

 ヤドカリは近くに落ちていた貝殻をまた触る。それだけでヤドカリが触れた貝殻に向けて、強力な重力が発生し始めた。抗いようがない強い力に、継実の身体もどんどん引き寄せられてしまう。

 逃げる事が出来なくなった継実。だからといって前進しても、貝殻の方に引き寄せられて身動きが取れなくなるだけ。

 モモは継実を助けるべく動き出そうとしていたが、彼女も貝殻の重力の対象だ。無差別な吸引により、身動きが封じられている。残るミドリは離れていたのであまり強く能力の影響は受けていない筈だが、彼女はそもそもにして非力。近くの砂浜に這いつくばって、どうにかこうにか耐えるのが精いっぱいだった。

 その間にヤドカリは別の貝殻に手を伸ばす。巻き貝のようだが、やはり種類の識別は出来ない。どんな能力が来るかも分からないまま、継実とモモはやってくる攻撃に備えて守りを固めた。

 結果的に、その行動は徒労で終わる。

 

「――――ギッ」

 

 ヤドカリは舌打ちのように一声鳴くや、傍にあった巻き貝ではなく、自分の背負う殻に触れたのだから。

 身動きが取れない相手を前にして、まさかの防御行動。しかも触る貝を変えた事で重力操作の現象が消え、継実達は自由を取り戻す。慎重も度が過ぎればただの間抜けであるが、しかし此度のヤドカリについては間違いなく英断だ。

 遠くで取っ組み合いの争いをしている大蛇と巨人の余波が、こっちに飛んできたのだから。しかもまるで衝撃波のような白い靄が、ドーム状に広がりながらである。

 

「ちょっ……あれ衝撃波!?」

 

【ね、熱波です!? こ、此処に到達する頃でも、多分数千万度以上を保ったままの!】

 

 継実のぼやきに、ミドリが脳内通信で答える。一体何をどうすれば何十キロ離れてても数千万度の高熱が飛ぶような事になるのか? 理解不能だが、考えている暇はない。

 見た通り熱波はドーム状に拡がっており、回避は不可能。しかも明らかに音速よりも速い広がりをしており、膨張した大気の衝撃も相当なものとなるだろう。恐らくただの人間だったら例え核シェルターに逃げたとしても、骨一つ残さず消え去るに違いない。

 それでも継実なら、能力で熱はなんとか出来る。衝撃は分からないが、ギリギリ耐えられると読んだ。ミドリについても、継実が粒子スクリーンを渡せばなんとかなる筈。

 

「やっべ……」

 

 それよりもピンチなのはモモ。彼女の体毛は、兎にも角にも高熱に弱い。

 中心点が数億度にもなる水爆クラスの攻撃にもなんとか耐えるが、それは一瞬で薄れて拡散するからの話だ。大蛇達が出した戦いの余波は、恐らく数秒と継続する。これでも短いといえば短いが、水爆の高温持続時間と比べれば何万倍もの長さ。

 果たして彼女は、頑張れば耐えられそうなのか?

 

「モモ! いける!?」

 

「無理!」

 

 継実が問えば即座に返ってきたのは諦めの答え。しかしそれで良い。戦いで必要なのは希望的観測ではなく、確かな事実のみだ。

 事実さえ分かれば、何をすべきかが見えてくる。

 継実は一旦ミドリを回収。その後素早くモモの下へと向かう。そして粒子スクリーンをミドリとモモ、二人の身体に展開させた。

 そして自分は、生身で迫り来る超高温と向き合う。

 粒子スクリーンは展開しない。そのための力はモモ達に分けて使いきってしまったのだから。生身の身体を構築する元素に能力を用い、耐熱性を極限まで高める。これで熱量については問題なく耐えられる筈だ。

 問題は物理的衝撃の方。

 

「ッ……!」

 

 まずは継実達よりも海辺側に近いヤドカリに、迫り来る熱波が当たる。勿論砂浜に転がる、他の貝殻達にも熱波は襲い掛かった。途方もない衝撃故か、中には吹っ飛ばされてごろごろと転がる巻き貝や、大空へと飛び上がる二枚貝の姿も見られた。中に隠れていた生物達は灼熱に晒され、耐熱性が低かったものは一瞬で消滅していく。

 そして継実達の身体にも、熱波が襲い掛かる。

 

「うぐぅあッ……! ぬううううぅ!」

 

 能力により全力で防いでいるのに感じてしまう熱さ。今の身体なら核攻撃されたってケロッと生還してみせる自信があるのに、継実は苦しみ呻く。

 更に物理的衝撃の強さも凄まじい。身体の表皮が、ビリビリと剥かれていくのを感じた。所謂生皮を剥ぐというやつだ。常人ならやがて死に至る傷だが、粒子操作能力により傷口を再生させてこれに耐える。

 時間にすれば僅か五秒にもならない、あまりにも短い災害。されどその瞬間的威力はこれまでのものとは比較にならず。浜辺の砂は表面が蒸発して何メートルも抉れ、継実達と周りの貝殻は落下。海水は一瞬で蒸発し、辿り着いた砂浜の『地下』だった場所は溶解してマグマと化している。今の地球にマグマに浸ったところで死ぬような生物などいないが、起きた事象の破壊力を窺い知る指標とはなる。

 引き起こされた『災厄』はこれだけではない。大気が全てプラズマ化し、酸素も二酸化炭素もなくなっていた。いや、それどころか吸えば体組織を全て焼き尽くすようなエネルギー体と化したのだ。息を吸えないなんてマシ。息を吸えば身体が傷付く。地獄だってもう少しマシな環境だろう。

 ミュータントにとっても『災害』と呼ぶしかない災禍。なんとかこれを生きて耐えた継実であるが、ダメージは決して軽くない。

 

「ぐ……かはっ……!」

 

 熱波が通り過ぎた直後、継実は膝を屈してその場に倒れてしまう。ぐしゃりとマグマに手を付け、そのまましばし動けない。蒸発した海水 ― は超高温で一度水素と酸素に分かれたが、また化学反応で結合して水に戻った ― が沸騰した雨となって降ってきたお陰でマグマはすぐに冷えて固まり始めたが、まだまだ柔らかく、継実の手は埋もれていく。

 粒子スクリーンのお陰で無傷で耐えたミドリとモモが、ぬかるんだ灼熱の足場を走りながら駆け寄ってきてくれたのは、気温が下がって酸素や窒素が戻り、自力での呼吸が出来るようになってからだった。

 

「つ、継実さん!? 大丈夫で、ひっ!?」

 

「ああもう、相変わらず無茶して……!」

 

 ミドリは顔も身体もボロボロになった継実を見て、小さな悲鳴を上げる。それだけ酷い怪我なのだが、モモは嗜める言葉を掛けるだけ。

 

「回復するまで足止めしてるから、早く戻りなさいよ!」

 

 継実がこの程度の怪我では死なないと知っている相棒は、自分のすべき事を為すためヤドカリに向けて走り出した。

 貝殻のお陰で熱波を無事耐え抜いたヤドカリは、すぐ近くに転がっていた巻き貝に触れて能力を発動。閃光が撒き散らされ、モモを牽制する。光速の攻撃を避けられずその身で受けるモモだが、一切臆さずヤドカリに肉薄して戦い始めた。

 一人で戦うモモが心配だが、しかし継実は家族の言葉を信じてまずは傷を癒やす。それと共に、ヤドカリの動きも注視。

 ヤドカリはモモの攻撃に対し、背負っている貝殻の向きを変えるなどして正確にいなしていく。モモも素早さで翻弄しようとするが、ヤドカリも自分の遅さは理解しているようで無理には追わない。気配を探るように静かに待ち、攻撃のタイミングに合わせている。この守りを突き崩すのは、いくらモモでも中々難しいだろう。

 唯一ヤドカリがモモから意識が逸れるのは、大蛇達の争いの余波がこちらに迫ってきた時。

 

【こ、今度はなんか電気が来ます!? というかなんで電気が!?】

 

 ミドリが脳内通信で警告を発した時、バチバチと、真横に走る稲妻が四方八方へと飛び散っていた。

 継実が見たところ、稲妻が走っている領域では水分子が激しく擦れ合っており、大量の静電気を生み出している。これが集まって稲妻になっているようだ。恐らく大蛇と巨人の激戦により生じた熱で莫大な雲が生まれ、その雲が衝撃波により摩擦で擦れ合うような形になった結果生まれたのだろう……と言葉で説明は出来るのだが、何もかも滅茶苦茶だ。

 しかしそんな否定をしたところで非常識は消えてなくならない。稲妻は平然と何十キロも海面を跳ねるように飛びながら、継実達の居るニューギニア島にも迫る。

 

「今度は私の番ねッ!」

 

「……!」

 

 迫り来る電撃に対し、モモは継実達の前に戻ってきて立つ。ヤドカリは素早く殻の中に引き籠もり、稲妻に耐えようとした。

 稲妻はヤドカリの殻に命中するも弾かれ、島の何処かに飛んでいく。熱波を耐え抜いた他の貝殻も稲妻に耐えた……が、物理的衝撃が余程強いのか、命中したものは小石のように吹っ飛ばされる事も少なくない。

 モモは髪の毛部分の体毛を地面に突き刺してから、継実と自分達に迫る稲妻をその身で受けた。体毛を通じ、地面に流す事でやり過ごそうという作戦だろう。

 

「うぐぁっ!?」

 

 だが、モモが呻きを挙げた瞬間、地面に突き刺した体毛の半数が焼け落ちる。更に全身からぶすぶすと、煙まで上げていた。

 通電した際に生じた熱で体毛が溶けたのか。確かにモモの体毛は熱に弱い、が、技として使えるぐらい電気には強い。即ち先の稲妻は、モモが放つ数億キロワットものエネルギーなど足下にも及ばない出力という事。

 しかも大蛇達はこちらの事など構いもせず、戦いを続けている。

 二度目の稲妻の襲来があっても、おかしな事ではなかった。

 

「ちっ! だけど、一度目でコツは掴んだわよ!」

 

 再度襲い掛かる電撃に、しかしモモは臆さず。地面に突き立てる体毛の数を増やして再びその身で受け止めた。

 モモの身を案じてか、守られているミドリは不安げな顔を見せる。対する継実は、勿論モモは心配だが、それ以上に注視する存在がいた。

 自分達が今正に戦っている、ヤドカリである。

 またしても渡り押し寄せてきた稲妻も、ヤドカリは貝殻にこもってやり過ごす。物理運動操作の能力は電撃に対しても有効で、激突した電撃は何処かに飛んでいき、島の地形を変える大爆発を起こす。直撃した貝殻には傷一つ付かず、電気使いであるモモよりも受けたダメージは少なそうだ。

 正に無敵の防御力。自分達どころか大蛇達の余波すら受けられるとは、流石は島の動物達が求めて止まない貝殻を背負うだけはあるというもの。

 故に解せない。

 何故ヤドカリは()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「(私があの殻を手に入れた立場なら、どうする?)」

 

 身を守るために必要な貝殻を手に入れ、身に着けた状態で、敵に襲われたらどうするのが『最適』か?

 ()()()()()()()()()()()()()()()()。敵は引きずり出そうとするかも知れないが、物理運動操作で触る事すら出来ないのだから構う必要などないのである。むしろ戦うために色々な貝殻を触ろうとすれば、その都度折角の物理運動操作の力が失われ、先のように『災害』が襲ってくれば大急ぎで貝殻に触れなければならない。ハッキリ言って危なっかしい行動だ。

 どうしてヤドカリはこんな行動をしている? 何故貝殻の中に引き籠もっていられない?

 まさかだとは思うが――――

 

「……そのまさかしかなさそうだなぁ」

 

「継実さん?」

 

 独りごちた言葉に、ミドリが首を傾げる。何か名案を閃いたのかと聞きたげな顔に、継実はYesともNOとも返さない。

 それ以外に合理的説明が付かない以上、恐らく予想は当たっているのだろうと継実は信じていた。しかしそれは、あまり希望にはならない。むしろ状況の深刻さが増しているだろう。

 加えて、何がなんでも貝殻を奪わねばならなくなった。

 

「っあぁクソッ! どうやりゃあの貝殻奪えるんだ……!」

 

 思わず出てしまう悪態。貝殻の重要さを今になって再認識したが、やはりあの物理運動操作の力が強過ぎる。アレがある限り、全く手出しが出来ない。

 隙を突くにしても、貝殻を背負っているのだから少しでも時間があれば奴は必ず守りを固められる。奴にはこちらを排除しないといけない理由があるので攻撃の機会を窺っている筈だが、だとしても戦闘スタイルは基本的には防御重視。隙を突いた攻撃はまず通らないし、ヤドカリも隙の大きな攻撃はしないだろう。

 自分の長所と短所を理解している奴は、本当に厄介だ。

 

「うぅ……どうにか此処から動かせないでしょうか。足場ごと、こう、投げ飛ばしたり……」

 

 ミドリも考えていたらしく、そんな作戦を口にする。確かに相手はこの貝殻だらけの環境だからこそ力をフルに使える訳で、此処から移動出来れば大きく戦闘力を落とせるだろう。それは間違いない。

 しかしその方法がない。ミドリは足場ごと持ち上げればと言ったが、運動方向操作の力を使えば自分の『位置』だって固定出来るだろう。ヤドカリは動かず、その下にある足場だってヤドカリ自体が壁のようにそびえて動かせない。

 実のところ足場だけなら動かす術があるのだが、あれは生物相手に使える技では――――

 

「(……あれ?)」

 

 否定的に考えていた継実だが、ふと思考が止まる。

 『アレ』、使えるのではないか?

 以前の合体技と同じく、『アレ』は小さな頃に考えたもの。「わたしのかんがえたさいきょーのこうげき」の一種であり、威力は確かに凄まじいが実現性は皆無。以前大トカゲに使った合体技の方が余程実用的な有り様だ。

 されど、コイツに効くのではないか? だってコイツは、()()()()なのだから……

 

「……ミドリ」

 

「え。あ、はい?」

 

「アンタもう、ほんとに最高!」

 

 継実は感極まってミドリを抱き締める。感情のまま抱き付いたところ「ぐぇっ!?」とミドリが呻いたが、謝るのは後。

 

「ミドリ! モモに脳内通信でこう伝えて! ――――()()()()使()()って。それだけ言えば伝わるから!」

 

 継実はヤドカリに聞こえないよう、ミドリにだけそれを伝える。

 突然の頼み事。そして『必殺技』という言葉に、ミドリは一瞬呆ける。

 けれどもその顔はすぐに、楽しげな子供の笑みに変わった。

 恐らくそのすぐ後に脳内通信が行われたのだろう。モモはこちらを振り向いて「マジで?」と言いたげ。あの技がどれだけ実用性皆無なのか、モモも知っているのだから。

 だけど何故実用性がないのかも、彼女は知っている。

 モモの顔に不敵な笑みが戻るまで、数秒と掛からない。

 

「よっし! 行くわよ継実!」

 

「おうとも!」

 

 モモの掛け声に合わせ、立ち上がった継実はヤドカリに突撃する!

 継実達の言動で何か違和感を覚えたのか、ヤドカリは警戒心を強めていく。ハサミで貝殻に触れた状態で、見た目の変化などする筈のない複眼で睨み付けてくる。未だダメージ一つ与えていない継実達だが、それでもヤドカリは気を抜くつもりもないらしい。こちらも全力で向かわねば、隙を突かれて()()()()

 しかし継実は敢えて余所見をした。ちらりと眼差しを向けるのは、海。

 争う巨人と大蛇の姿が、こっちに近付いてきている。

 それは単なる揉み合いの結果か、はたまたなんらかの作戦なのか。いずれにせよ巻き込まれる側としては、危険性が刻々と増しているのは確かだ。

 あまり猶予は残されていない。

 

「(なんとか間に合わせてよ、私の脳みそ……!)」

 

 自分の頭で自分に呼び掛けながら、継実は意識を集中させていき、

 ヤドカリ目掛けて、まずは考えなしの拳を振るうのだった。



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生物災害12

 ヤドカリの貝殻へと殴り掛かった継実の拳は、ぐしゃぐしゃも音を立てて潰れた。

 殴った力を()()()()結果だ。骨が砕け、肉も潰される。しかし痛みはない。最初からこうなると予想していた継実は、既に手の痛覚を遮断していたのだから。傍に居るモモだって眉一つ動かさない。精々ミドリが「きゃあっ!?」と叫ぶぐらいだ。

 そんな想定内の出来事よりも、継実が気にしていたのはヤドカリの行動そのもの。

 ヤドカリは片手のハサミでがっちりと自分の貝殻を掴み、その貝殻を継実に差し向ける体勢を取っている。その体勢は継実が殴り掛かる前から変わらないもの。場所だって殆ど、いや、全く移動していない。

 つまりヤドカリは、継実が攻撃を仕掛けても動かなかったという事だ。継実とモモの言動から、『何か』を感じ取ったにも拘わらず。

 

「(ま、そりゃそうするよね。それが一番確実なんだから)」

 

 物理運動操作という無敵の守りがある以上、下手に逃げたり邪魔しようとしたりせず、様子見を決め込んだ方が良い。どんな攻撃も受け止められるのだから、それが最も安全かつ合理的な選択だろう。

 それこそが、継実の狙う『好機』。

 

「モモ!」

 

「任せなさい!」

 

 継実の掛け声に応え、モモは大きく跳躍。ヤドカリの頭上を陣取るや放電を始めた。

 上を取られたヤドカリであるが、そこは貝殻に守られている場所。能力を発動させなければ物理運動操作の対象とならない『生身』ではなく、貝殻はその能力を最初から有している。撃ち込まれた雷撃はどれも貝殻に命中したが、何処かに飛んでいってしまうばかり。ヤドカリはモモなど気にも留めず、攻撃用の能力を得るためか近くの貝殻にハサミを伸ばそうとし――――

 継実が指先に粒子ビームを溜め始めれば、即座にこちらに意識を戻す。

 ヤドカリは既に貝殻を継実側に向けていた。ハサミは殻に触れていて、間違いなく能力は発動している。だが、継実は発射を躊躇わない。

 指先より放たれる粒子の奔流。亜光速で飛翔し、人類文明を容易く焼き尽くす光は、されどヤドカリの背負う貝殻の能力には通じず。

 粒子ビームは跳ね返され、継実の身体を焼き払う!

 

「ぐっ……んのぉ!」

 

 自分の放つ粒子ビームの熱さに顔を顰めるも、こちらも負けじと能力を発動。粒子ビームの粒子を操作し、軌道を捻じ曲げる。継実に命中していた粒子ビームはぐるりと弧を描くように曲がり……再びヤドカリを撃つ!

 まさか()()()()()()()()()()を使われるとは思わなかったのか。ヤドカリは驚いたように身体を震わせた、が、それだけでしかない。驚きはしたが、だからなんだというのか。例え粒子ビームが返されようとも、自身が背負う貝殻の力により無敵の防御を発揮している事実に変化はないのだから。

 ヤドカリから再び返された粒子ビームを、継実はまたヤドカリにお返し。ヤドカリも三度受け止めまた返す。継実はもう新たなビームを撃つのは止め、一発の粒子ビームを返し続けるのみ。粒子ビームの軌跡が幾重にも重なり合い、継実とヤドカリの間が粒子の閃光で染まりきるほどだ。

 さながらテニスの試合が如く、激しく繰り返されるビームの応酬。しかし不利なのは攻撃を仕掛けた継実側だ。ヤドカリは何もしなくてもビームを返せるが、継実は一回身体で受けてから返す。亜光速で飛んでくる粒子など、秒速十キロも出せない人間のミュータントには見切れないからだ。

 焼け焦げた傷が蓄積しながらも、継実は何度も自身のビームを返す。繰り返される自爆のような行動。ヤドカリは継実の不様な戦い方に嘲笑――――などはしない。

 むしろ警戒心をどんどん高めていた。あまりにも継実の行動ががむしゃらで、何より『無意味』であるから、裏の意図を考え出したのだろう。何か罠を仕掛けようとしている、その兆候を逃すものかと考えているのだ。ヤドカリの目は継実を凝視し、全身から隙が消えていく。

 ()()()()()

 

「(そうだ、もっと疑え……もっと警戒しろ……!)」

 

 警戒心を優先すれば、どうしても積極的行動は起こせない。攻撃に転じれば、大小の違いはあれど隙が出来るのだから。ならばどっしりと構え、敵の攻勢が崩れるまで耐えるのが最善手。

 だから奴はその場から動かない。

 勿論それはあくまで移動しないというだけの事。身動ぎぐらいはするし、こちらが動けば見逃すまいと身体の向きや目で追ってくる。

 これではまだ足りない。

 

「コイツは、どうだァッ!」

 

 その継実の考えを察知し、行動を起こしたのがモモ。

 ヤドカリの背後へと回り込んだ彼女は、全身の体毛を激しく擦り合わせて発電。莫大な電力を生み出すや、それを惜しみもなく『広範囲』に撒き散らす!

 周りに隠れている他の生物を巻き込む事を厭わず、あちらこちらに飛んでいく雷撃。天然の雷を遥かに凌駕する破滅的な電撃は、殆どはヤドカリに当たりもせず。尤も当たったところでどうせ跳ね返されるのだから、当たる事に大した意味はない。

 意味があるのはヤドカリに当たらず、代わりに砂浜に当たった方。

 大蛇達から放たれた熱波により溶けた砂浜は未だ熱々で、雷撃を受けると一瞬で気化して煙と化す。溶けた事で全てが一体化した事もあり、電撃により大量の煙が舞い上がる。

 砂粒とは結局のところ砕けた岩石であるから、モモの一撃が産んだのは気化した岩石だ。吸い込めば、ハッキリ言って身体に良くない。単純に人体にとって不要な物質であるし、冷却して結晶化すればガラスとなって体組織をズタズタに切り裂くだろう。とはいえ数百万度の熱波襲来で砂浜も何もかも全てが気化どころかプラズマ化したこの領域で、平然と生きているのがミュータント。今更砂粒のガスを吸ったところで、どうこうなるものではない。

 そう、ガスの有毒性などどうとでも出来る。しかしどうにも出来ないものもあるのだ。

 具体的には、視界。

 

「ギ……ギギィ……!」

 

 ヤドカリはモモの狙いに気付いたようだが、しかし最早手遅れ。モモの雷撃は次々と砂浜を気化させ、朦々と白煙を巻き上がらせる。ヤドカリは白煙の中に完全に飲み込まれ、外から肉眼でその姿を視認する事は出来ない状態となった。

 それでも継実の目には全てが見える。

 岩石の白煙の中で、ヤドカリはじっとしていた。

 されど高熱かつ有毒のガスを吸い込んで死んだ訳ではない。生命活動自体は全くの健在だ。じっとしているのはヤドカリ自身の意思。目を動かすのを止め、全方位に気配を研ぎ澄ましているのが窺い知れる。

 ヤドカリは継実達の作戦をこう考えたのだろう。目潰しをして、何処からか奇襲を掛けるつもりだと。

 実際奇襲攻撃はこの状況なら間違いなく有効な手立てだ。モモが展開したのは明らかに目隠しを目的にした煙幕であり、見えないところから攻撃してくるつもりなのは明白。このような状況では下手に動き回るよりも足を止め、気配を呼んで状況を把握するのが鉄則である。ミュータント同士の生存競争ではこれぐらいよくある事だ。

 これもまた継実の狙い通り。

 

「(良し! これで身体の動きも最小限!)」

 

 継実が狙っていたのは奇襲ではない。()()()()()()()()()()()()()()()()。それも複眼やハサミ一本の動きすらも許さないほどに。

 それが『必殺技』を出すための最低条件なのだから。

 そして動かなくなったヤドカリを、継実は凝視する。無論ただ見ているのではない。その目で捉えたヤドカリを形成する無数の粒子を捉え、座標と運動量を計算しているのだ。一粒一粒の全てを。

 大気中の元素を計算して巨大なビームを放ったり、身体を構築している粒子の位置を記憶してテレポートしたり……人類科学では真似すら出来ない技をぽんぽん繰り出せるほど、粒子の座標と運動量の計算は継実の得意技である。されどその得意技を、ほぼ完全な静止状態の相手に対して全力で行っていた。しかも一秒二秒でなく、何秒も掛けて延々と。

 全ては必殺技を出すため。この必殺技を行うには、ヤドカリの身体を構成する粒子全てに対する計算が必要なのだ。

 されどこれでもまだ足りない。

 

「(まだだ……貝殻の方は死んでるから計算出来たけど、やっぱヤドカリ本体の方が全然計算が出来ない……!)」

 

 五秒。粒子ビームを一発放つだけなら瞬きほどの時間もいらない継実がそれだけの時間を掛けても、まだ必殺技を繰り出すための計算が終わらない。

 もっと時間を掛ければ、いずれ終わるのは確かだ。けれども相手は生きた存在。煙幕を張り、五秒と何も仕掛けてこなければ疑問に思うだろう。そしてすぐに気付く筈だ。この煙幕は奇襲のためではなく()()()()のためのものだと。

 もしも目的に気付かれたら、本当に不味い。今動かれたら、全てが台なしになる。

 

「継実! アイツの『正面』は!?」

 

 ここでモモの出番だ。

 

「あっち!」

 

「OK!」

 

 継実はヤドカリの頭が向いている方を指し示す。モモはその言葉をしかと聞くと――――継実が示した、ヤドカリの頭がある正面側から突っ込んだ。

 真っ正面から蹴りを放つモモ。だがヤドカリは完全にガードを固めており、正面からの攻撃には殻を差し向けるだけで対処出来る。モモの蹴りは物理運動反転の効果で跳ね返され、モモは一瞬で反対側へと吹っ飛ばされてしまう。

 モモが吹っ飛ばされた後、素早くヤドカリの前に陣取るのは継実。

 計算を続けたまま、継実は前へと突き出した手から粒子ビームを放つ!

 この攻撃もまたヤドカリには通じない。そんな事はもう何度も繰り返しているのだからとっくに知っている。返された粒子ビームが掠めた顔を焼く事も、或いは腕を撃つ事も全て予測済み。

 しかしそれでも攻撃を仕掛けるしかない。攻撃を仕掛ければ、無駄な攻撃を仕掛けてくる継実に疑念を抱いて、ヤドカリは警戒心から足を止めてくれるのだから。

 

「(あと、少し……! あと少しで計算が終わる……!)」

 

 終わりは目に見えている。それまでヤドカリの動きを止めれば――――

 

【つ、継実さん!? な、なんか地震! 地震が来ます!?】

 

 そう考える継実だったが、しかし災いは継実の事情など考えてくれず。

 突如として地面が、継実ですら立てないほどの激しさで揺れ始めた!

 巨人が大蛇を持ち上げ、頭から叩き付けた――――その時の衝撃が伝わってきたらしい。しかしただの衝撃なんかじゃない。破滅的な揺れであり、地球そのものが波打っている……比喩ではなく文字通り。

 

「ぐぁぅ!? くっ……!」

 

 震度七でも崩れぬ体幹が呆気なくへし折られ、継実は地面に這いつくばる。身動きすら出来ない状態、いや、油断すれば遥か彼方に吹っ飛ばされてしまいそうである。

 最悪だ。動けないような揺れという表現もあるが、実際そんな揺れに襲われた時には大きく動くもの。自由が利かないという方が正確だろう。身体は踏ん張りきれず、下手をすれば転ぶ。

 これではヤドカリが()()()()()()。それは不味いと思いながらも、しかし打つ手がない継実はヤドカリを睨む事しか出来ず。

 されど、絶望は希望へと反転した。

 ヤドカリは必死な様子で砂浜にしがみついていたからだ。恐らく運動方向操作を用い、大地のうねりで吹っ飛ばされるのを防いでいるのだろう。

 だから今のアイツは本当に一切微動だにしていない。継実にとってそれは、『理想の状態』だった。

 

「っ!」

 

 継実は全力で演算を開始。頭痛がするほどの計算量をこなしていく。

 ここでも大地のうねりが継実にチャンスを与えた。あまりにも大地が激しく揺れているから、動かずじっとしていても不自然ではない。ヤドカリを何もせずひたすら睨んでいても、()()()()()()()()。『災い転じて福と成す』だ。

 大地の揺れは十数秒と続いた。十数秒の演算時間を継実は得たのである。そしてこれだけの時間があれば十分。

 

「(――――出来た!)」

 

 ついに計算が、終わる。

 だがまだ計算が終わっただけ。後はどうにかしてヤドカリに触れねばならない。しかしここまでくれば、最早そんなのは問題ですらないだろう。

 攻撃されれば足を止め、怪しい時にも足を止め、災害というトラブルにも足を止めたヤドカリ。

 じゃあ、継実が猛然と駆け寄った時、ヤドカリはどう動くか?

 動く筈がない!

 

「ギ……」

 

 ヤドカリは素早く殻にこもる。継実が何を仕掛けてこようとも、無敵の能力で跳ね返すために。

 継実は迫る。その無敵を打ち破るために。

 

「っ……!」

 

 継実は真っ直ぐヤドカリが背負う貝殻に手を伸ばす。脳裏を過ぎるは自分の拳を砕いた力。されど継実は恐れも怯みもなく、迷いなく殻へと手を伸ばし、

 ()()()()()()()()()()()()

 

「……!?」

 

 何か異常が起きたと本能的に察知したのだろうか。ヤドカリはぴくりと身体を震わせ、けれども種族的本能なのかその身を強張らせてしまう。

 それが最後のチャンス。もしもここでがむしゃらに暴れたなら、継実の腕は()()()()()()()()()()()()()()だろう。しかしそうならなかったがために、継実の手は貝殻を完全に『通過』し、ヤドカリの身体に届く!

 継実の手はそのまま、貝殻の奥にあるヤドカリの胴体を掴んだ!

 

「!?」

 

 複眼が明らかに動揺して右往左往。ますますヤドカリはその身を強張らせ、完全に身動きを止めてしまう。

 ヤドカリには訳が分からないだろう。何故自分の守りが、貝殻が持つ無敵の能力が通じないのか。分かる筈がない。

 言ってしまえばこれは、宇宙が生誕してから恐らくまだ一度も起きていない筈の『偶然』なのだから。

 ――――トンネル効果というものが存在する。

 それは粒子のポテンシャルがその事象を引き起こすのに足りない状態だとしても、さながら山に開けられたトンネルを通るかのようにすり抜けてしまう……簡単にいえば、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()事だ。

 最も人間に馴染み深いトンネル効果の実例は、太陽の核融合だろう。太陽が核融合で燃えている事は広く知られているが、実は太陽の温度と圧力では核融合が起こせない。核融合を起こすには一億度もの高温が必要だが、太陽中心部はたったの一千万度程度……力が全く足りないのだ。それに仮に通常の核融合が起きている状態なら、一瞬で全ての水素が反応し尽くすため五十億年も存続する事など出来ない。しかしトンネル効果により、太陽内部では本来は起きない筈の核融合が一定確率で起きている。確率的に『壁』を乗り越えるので性能が足りなくても問題ないし、確率的に起きるものだから一気に燃え尽きる事もない。太陽の高温と圧力は、その確率を高める効果があるだけだ。

 そしてもう一つ、あまり一般的に知られる事象ではないが……()()()()()()()()というトンネル効果もある。

 そもそも物体に触れるというのは、量子の働きによる現象だ。量子同士が状態の重なり合いを許さないために起きるもの。ところがトンネル効果により、ごく稀にこの効果を無視して抜けてしまう粒子が存在する。極めて低確率な話だが、物質をすり抜ける事は可能なのだ。

 だから人間が壁をすり抜ける事も、実は可能である。全力疾走で毎秒一万回の体当たりを宇宙の年齢の何倍もの期間やり続ければ、一回ぐらいあるかも、という程度の低確率だが。

 継実は()()()()()()()()()()()のだ。

 これこそが継実が幼い頃に考えて必殺技――――名付けてトンネル・キャトルミューティレーション。

 どれほど頑強な殻に守られていようとも敵の内部へと侵入し、臓物を直に引きずり出すという戦法だ!

 

「(まぁ、実用性なんて皆無だけどね……!)」

 

 トンネル効果を操れる事と、それが現実的かは別問題。流石に確率そのものを歪めるような計算は、粒子の動きから挙動を予測するのとは訳が違う。難易度も違うから意識を相当集中させなければならないし、時間だってかなり掛かる。

 ましてや自分の意思という、規則を無視した粒子の動きが混ざるともう計算にならない。だからトンネル効果を『生物』に使おうとすれば、相手が全く動いていない状態が何十秒と続かねばならない。

 これから戦おうという生物が、そんなぼんやりと立ち尽くしてくれるものか? あり得ない。いくら守りが得意な奴だって、普通は相手の動きに合わせて歩き回る。動き回られたら最初から計算はやり直し。こんなもの、使える訳がないのだ……普通なら。

 けれどもヤドカリは、兎にも角にも防御を重視してくれた。

 何をしてもまずは守りを固める。それがヤドカリの最も得意とする事だから。攻撃されたら止まり、怪しい行動を目にしたら止まり、トラブルが起きれば止まり。あらゆる状況でまずは立ち止まり、守りを固まる。堅実で、隙が一切ない立ち回りだった。

 だから、継実の付け入る隙が出来た。

 

「ギ!? ギッ――――」

 

 ヤドカリはようやく我に返ったのか、暴れようとする。だが無駄だ。最早粒子の動きは完全に把握しているし、今更この動きは止まらない。運動方向操作を使ったとしても構うものか。トンネル効果により()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 最後に渾身の力を込めれば、これで終わり。

 貝殻をすり抜けたヤドカリの身体が、継実の手により投げ捨てられるのだった。



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生物災害13

 ヤドカリが空を舞う。

 ヤドカリにとってそれは、初めての体験だった事だろう。表情などない甲殻質の顔が、明らかに驚きに染まっていたのだから間違いない。

 継実にとっても驚きだった。あんな浪漫しかないような技が、まさかこんなところで役に立つとは思いもしなくて。しかしこれは現実。手で感じる空気の感触がそれを物語る。

 継実は、ついに為し遂げたのだ。

 ヤドカリから、貝殻を奪い取るという目的を。

 

「――――早く入れぇええええっ!」

 

「ええっ分かってるわよ!」

 

「ひえええええっ!?」

 

 尤も感傷に浸る暇などなく継実は号令を出し、モモとミドリが大慌てで貝殻へと跳び込む。

 継実達は伊達や酔狂でヤドカリの殻を奪ったのではない。大海原で今も大暴れしている二体の化け物が繰り出す、破滅的な余波から免れるためにやったのだ。もたもたしている間に熱波やらなんやらが飛んできたら、折角の努力が水の泡……いや、プラズマ化して吹っ飛ぶ。

 

「ギィイイッ!?」

 

 殻を奪われたヤドカリもそれを理解し、大慌てで巻き貝の元に戻ろうとする。何故殻から出されたかは分からずとも、殻がなければどうなるかは分かっているのだから。

 モモとミドリを奥へと押し込み、継実も巻き貝の中へと入る。大きさ四メートルもあるだけに、継実達全員が入るスペースはあった。とはいえ、ちょっと窮屈ではあったが。しかしくだらない文句など言ってる場合ではない。

 モモが素早く体毛を伸ばし、継実がそれを粒子スクリーンで補強。鉄壁の蓋を作り上げる。

 遅れてやってきたヤドカリは、がんがんとその蓋を叩いた。衝撃で中の継実達を追い出す作戦か。貝殻の能力を自在に使えるという事は、貝殻の能力を消す事も出来るという事。ヤドカリに、この巻き貝が持つ物理運動操作の力は通用しない。

 けれどもそもそもパワーが足りなければ、継実が作った蓋は破れず。

 十秒も経たずに、叩く音は聞こえなくなった。しかし熱波の気配や地震がないので『災害』にやられたとは思えない。恐らく殻を奪い返すのは諦めたのだろう。他の貝を探しにいったのか、継実達のように誰かの貝殻を奪いにいったのか……

 いずれにせよ賢明な判断だ。出来ない事はさっさと諦め、生き残る可能性が少しでもある方に賭ける。絶望などせず、最後まで『生存』のために足掻く。生命の有り様として最も正しい振る舞い。今頃必死になって生きるための術を模索している事だろう。

 対してモモとミドリは、すっかり安堵した様子。蓋までした貝殻の中は真っ暗なので顔など肉眼では見えないが、脱力した気配や吐息からそれが窺い知れた。

 

「いやー、一時はどうなる事かと思ったけど、なんとかなって良かったわねぇ」

 

「はい……ほんとに、今度こそダメかと思いました……」

 

「でも貝殻は手に入れたし、これで一安心ね」

 

「はい! 島中の生き物が隠れるぐらいなんですし、きっと大丈夫ですよね!」

 

 わいわいと、明るい声で話す二人。

 二人はもうすっかり助かった気でいる。当然だろう。そういう話だったのだから。ニューギニア島の動物達は大蛇達の争いから逃れるために貝殻へと逃げ込み、その行動が『適応的』だったから子孫達にその行動が受け継がれたのだと。

 勿論継実もそれは否定しないし、今でもそう思っている。これは事実だ。事実なのだが……モモ達と違って気持ちは弛んでいない。むしろまだまだ普通に臨戦態勢。

 そう、継実は気付いてしまったのだ。或いは最初から知っていた事を、今になって思い出したというべきか。

 『適応的』である事は、()()()()()()()()()()()()()()()()のだと。

 

「……盛り上がってるところ、大変恐縮なのですが」

 

「何よ、いきなり畏まって。というかなんで警戒しっぱなしなの?」

 

「そーですよ。物理運動操作……反転? まぁ、そんな感じの能力がある貝殻なんですから、今更何を怖がる必要があるんですか」

 

「いや、まぁ、それなんだけどさ……もしかしたらなんだけどこの貝殻、壊されるかも」

 

「「……は?」」

 

 継実が語る言葉に、ミドリとモモが共に声を出す。首を傾げ、心底不思議そうな様子。

 正直、これを説明するのは色々心苦しい。けれども説明しなければ、きっと自分達はやっぱり生き残れない。だから継実は、自分が気付いてしまった事を話す。

 

「いやさ、この貝殻を背負っていたヤドカリなんだけど、なんで私らの相手なんてしていたと思う?」

 

「? 攻撃が鬱陶しいからじゃない?」

 

「じゃあ訊くけど、外が喧しいからってモモは寝床からのこのこ出てくるの? 外で巨大怪獣が暴れ回ってる時に」

 

「そんなの出る訳、ない……………」

 

「うん。出る訳がない。そんな時でも外に出る条件は、私が考える限り一つだけ」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 これが『無敵の防御』に守られている者が、わざわざ危険と手間を掛けてでも外に出てくる理由。今の住処が壊された時、裸一貫で脅威かも知れない連中が彷徨く中を彷徨い歩くぐらいなら、まだ余力がある時に危険因子を叩き潰した方が良い。

 つまりあのヤドカリは、殻にこもってばかりの状況ではいられないと認識していたのだ。しかもその状況は、『災害』真っ只中でも出てきてやらねばならない程度には、ごく有り触れた事のようである。

 その貝殻の能力を自在に操る事など出来ず、ただされるがままの継実達に、果たしてこの最悪を回避出来るのだろうか?

 幸か不幸か、出来ると断じるほどの楽天家は此処にはいなかった。

 

「ちょ、ど、どうすんのよそれぇ!? 貝殻被れば安全じゃなかったの!?」

 

「もうダメだぁ! お終いだぁ!」

 

「だ、大丈夫! 貝殻の有用性が消えた訳じゃない! むしろ貝殻有りでも助からないぐらいなんだから、生身だったら絶対助からなかったよ! 今なら助かる確率はちゃんとあるから!」

 

 反射的に反論するモモと錯乱するミドリに、継実は落ち着くよう促す。しかしどちらも落ち着かない。そして「死ぬかも知れない」という漫然とした恐怖に再び怯えるミドリより、生物界の『現実』を知るモモの方が、内心の焦りは強いだろう。

 自然界において適応的とは、より多くの子孫を残す事。

 その意味では個体の生死すら問題にしない(実例としては生まれた子供に自分の身体を食べさせるクモがいる)のだが、基本的にはより生存出来る方が適応的だ。だから適応的な行動を取れば、生存率が高まるというのは基本的には正しい認識である。

 しかしその概念は、あくまで相対的なものに過ぎない。

 例えば普通の生物が生涯で二匹の子供しか大人に出来ない中、三匹の子供を大人にする方法を編み出した個体は、より適応的だろう。その個体の子孫はどんどん数を増やしていくので、感覚的にも分かりやすい。

 されど普通の生物が全て死に絶える中、十匹に一匹だけ生き延びる方法を編み出した時……()()()()()()()()()()()()()()()()()。他の個体よりも、よりたくさん生き延びる事が出来たのだから。例え総個体数が激減したとしても、だ。

 ニューギニア島の生物達の『適応的行動』も似たようなものかも知れない。貝殻に逃げ込まなかった個体は死滅し、貝殻に逃げ込んだ……その中でもほんの一部が生き残って子孫を残した。それでもニューギニア島には貝殻避難者の子孫が広まり、やがて支配するのだから。

 物理運動操作能力がある貝殻なら安全というのは、結局のところ継実達の願望に過ぎない。もしかしたら抽選率ゼロパーセントの抽選が、当選率一パーセントの抽選に変わっただけかも知れないのだ。そしてニューギニア島の災禍を初めて目にした継実に、その確率を正確に計る術はない。ましてや何が原因でこの貝殻が壊されるのかも不明だ。

 

「と、兎に角! 外の気配に気を付けよう!」

 

 出来るのは、今も変わらず警戒を続ける事だけ。

 野性的で『本能的』なモモは、継実の理屈が正しい事を理解してくれる。やれやれとばかりに身動ぎ一つすれば、それだけでモモの気持ちは切り替わった様子だった。

 

「……ええ、そうね。ま、知らないよりはマシって事で。つー訳でミドリ、アンタが頼りよ」

 

「ふぇえっ!? あ、あたしですかぁ!? あとモモさん立ち直り早い!」

 

「うだうだ言ったって何も変わんないんだから、さっさと現実と向き合う方が得ってだけよ。ほら、分かったらアンタも現実を直視する」

 

「ただの目視確認じゃないですかそれぇ……」

 

 モモに言われて渋々 ― だけど理屈として正しい事は分かっているようで ― ミドリは外の監視を始めた。見ているのは、勿論大蛇達の方だろう。

 

「ほげっ!?」

 

 そしてその一言を聞けば、ろくでもない事が起きているのは容易に想像出来た。

 

「どうしたの? 何かヤバい事やってる? ビーム吐いたりとか」

 

「……近い、です」

 

「? 近い?」

 

「あ、あたし達が話している間に、めっちゃ近くに来てますぅ!? もう一キロも離れていません!」

 

 ミドリが叫んでいた理由は、大蛇達がすぐ傍まで来ていたかららしい。恐ろしい化け物が接近しているのだから、怖がるのも無理ない。彼女は能力により、大蛇達の死闘を『目の当たり』にしているのだから。

 じゃあ、と継実はふと自分の胸に尋ねる。

 ――――何故自分の心臓は、まるで猛獣の爪が喉元に突き付けられたかのようにバクバクしているのだろうか?

 

「モモ!」

 

「やるだけやってみる!」

 

 継実の声に応え、モモは体毛を伸ばす! モモの体毛は貝殻の内側をびっしりと満たし、頑強な貝殻を中から補強した。

 にも拘わらず、継実ですら一瞬意識を失いそうになるほどの衝撃が、継実達のいる巻き貝を襲う!

 

「きゃあっ!? な、殴った時の衝撃が……!」

 

「なんでそれで貝殻が揺れんのよ!? 物理運動は跳ね返されてんじゃなきの!?」

 

「待って! 今調べる!」

 

 継実は貝殻の内側をじっと凝視。粒子を見通す目であれば、暗闇の中でも問題なくその機能を発揮する。

 だから継実の目には、確かに貝殻の粒子が一粒の見逃しもなく観測出来た。動きも把握出来ているし、どのような事象が起きているのかもちゃんと見えている。

 しかし継実は、その目に見た光景を疑った。

 貝殻の外では無数のプラズマが飛んできている。ほんの数百メートル先で感じるのは、惑星があるんじゃないかと思うほどの出鱈目なエネルギーを放つ大蛇と巨人。二匹の取っ組み合いで生じた熱がプラズマを生み出し、その高熱による膨張圧によってプラズマは飛んでいるのだろう。

 それだけなら、殴り合うだけで周辺大気がプラズマ化している点に目を瞑れば、極めて普通の事象だ。驚くような事柄ではない。そして貝殻はそのプラズマ粒子を受けて、ちゃんと跳ね返している。ヤドカリが背負っていた時と変わらず、間違いなく能力は発動していた。

 だが、異常はその反射中に起きていた。

 跳ね返した筈のプラズマが()()()()()()()()のだ。外から流れ込んでくるプラズマによって。

 

「(ちょっと、これまさか……加速度で押し出してるの!?)」

 

 何が起きているのか。直に目にした継実はメカニズムを理解するも、理性がそれを拒む。

 貝殻表面で起きていた事象は極めてシンプル。運動方向を反転されたプラズマ粒子を、それ以上の速度で飛んできたプラズマ粒子が押しているのだ。能力による反転で生じる運動量は、あくまでも衝突時のもの。だから跳ね返された『直後』にそれ以上の速さでぶつかる事が出来れば粒子を押し返し、見た目上能力による運動方向の反射を無力化出来る……理屈の上では正しい。

 それを差し引いても、「んな事出来るか!」と継実は叫びたい。何しろ物理運動方向の操作はほぼ一瞬、ミュータントとなった継実でも認識出来ないぐらいの刹那で起きているのだ。その一瞬よりも短く、ミュータント化した貝の殻を揺さぶる速さで押し返すなんてあり得ない。あまりにも馬鹿げている。

 その馬鹿げている現象が起きてしまうのが、大蛇と巨人の決戦。

 ミュータントという枠組みを超え、ミュータントにとっての災害を振りまく奴等は、正しく神だ。日本人なら崇め、どうか怒りを治めてくれと頭を垂れてしまうほどの。しかし継実は『元』日本人だ。敬虔な和の心は捨てた。今の彼女の脳は合理的かつ現実的な野生に染まり、神に対して考えるのは信心ではなく対抗策とこれから起きる事。

 恐らく、もうこの貝は()()()()

 

「二人とも衝撃に備えて!」

 

 継実が叫ぶと、モモは体毛でミドリをぐるぐると巻き、次いで継実の身体にしがみつく。継実もモモとミドリを抱き寄せ、全力の粒子スクリーンを展開した

 次の瞬間、貝の中に光が満ちた。

 いや、それは正確な表現ではない。光は外から差し込んだものなのだから。押し寄せるプラズマの波動を受け、ついに巻き貝の強度が限界に達したという事。

 つまり、貝殻が割れた。

 苦労して奪い取った巻き貝が粉々になるのと同時に、継実達の身体は空中へと投げ出された!

 

「きゃあああああ!?」

 

「ミドリ!」

 

「モモ!」

 

 大空へ飛ばされそうになるミドリをモモが捕まえ、そのモモを継実が捕まえる。

 巻き貝の殻が衝撃を受け止めてくれ、モモの体毛が衝撃を和らげ、そして継実の粒子スクリーンで守っていたからこの程度で済んだが……生身だったら、今頃全身バラバラの粉々だ。それだけの威力をプラズマの波は有していた。

 されど大蛇と巨人の戦いはまだ終わらない。今も巨人が殴り、大蛇が尾で打つ。

 プラズマの波動は何層にも重なりながら、継実達の下へと迫っていた。それがどれほどの威力なのか、考えても答えなど分からないが……間違いないのはまともに受ければ今度こそ継実達が文字通りバラバラにされるという事。

 貝殻は失われ、最早身を守る鎧はなし。だが、継実はまだ諦めない。

 

「モモ! 貝殻を集めて!」

 

「任せとけぇ!」

 

 継実の指示を受けたモモはすぐさま動き、バラバラになった貝殻を体毛で掻き集めた。空中での作業だが、モモは素早くそれをこなし、地面に落ちた直後には全て集め終える。

 粉々になったそれらを継実は能力で結合し、大きな一枚の板……いや、盾へと作り替えた。そしてどろどろに溶けた大地に着地するのと同時に、迫り来るプラズマに向けて構える。モモが背後から継実を支え、ミドリもぎゅっと継実の身体を抱き締めてきた。

 押し寄せるプラズマは即席の盾が防ぎ、継実達はなんとか直撃を避ける。もしも継実一人だったなら、余波の衝撃で吹っ飛ばされ、やはりダメだったろう。家族のお陰で命を繋げた。

 そして即席の盾は、ちょっと形が崩れたもののまだ使える。

 物理運動操作を有したそれは、最早無敵の防壁に非ず。だがまだまだ有用な防御には違いない。少なくとも、生身で二匹の怪獣大決戦を眺めるよりは、百億倍マシだろう。

 

「ひぃいいいい……」

 

「ほら、ミドリ。こっちに来て……さぁて、そろそろクライマックスかしらね」

 

 怯えるミドリを抱き寄せながら叩くモモの軽口を、継実は鼻で笑う。そして冷や汗を流しながらも、口角を上げて獰猛な笑みを浮かべた。

 正真正銘の大決戦。星をも終わらしかねない、神話の争いにして、全てを凌駕する災厄。世界の終わりよりも激しい戦いを間近で目にしていても、継実の本能はまだ折れずに身体を支えている。

 そして粉々にへし折られていた理性は、最早すっかり開き直っていて。

 どうせ死ぬなら最後に良いもん見てやると、絶望を前にした眼を大きく開かせるのであった。



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生物災害14

 継実達が見ている事など気にも留めない二匹の『怪獣』は、されどその激戦を披露するような派手さで動き出した。

 まず最初に攻撃を仕掛けたのはヒトガタ。体長四百メートルという巨大さを感じさせない、超音速という表現が生温い速さで跳躍。何百メートルもの高さまで跳び上がるや、大蛇の頭目掛け跳び蹴りをかます!

 

「シャアァッ!」

 

 しかし大蛇はこの動きに反応。長大な身体を鞭のようにしならせ、空飛ぶヒトガタの身体を打つ!

 大蛇の身体は継実の目にも見えない速さで動き、ヒトガタの胸部に叩き付けられた。瞬間、ぶわりと白い靄が広がっていく。

 衝撃の『一部』が熱エネルギーへと変化し、その熱により周りの空気が膨張したのだ。あまりの高熱に空気はプラズマ化しており、全てを分解しながら飛んでくる。もしも七年前の地球でこんなものが放たれたら、恐らく一発で人類文明は壊滅的被害を受けただろう。いや、生き延びた人間はいなかったかも知れない。人類が作った史上最強の水爆(ちゃちな爆弾)でも衝撃波が地球を三周したというのだ。水爆なんて足下にも及ばないこの破壊的一撃の衝撃波となれば、それこそ比喩でなく人類文明を薙ぎ払うように全て押し流したかも知れない。

 現代ならば、その心配は無用だ。地球のあらゆるところにミュータントが生息し、それぞれが身構えている。細菌達の漂う空気もあり、水爆なんて怖くない植物が並び、地中貫通弾も跳ね返すカメの甲羅があり……そうして数多のミュータントが衝撃を殺してくれるだろう。

 しかし残念ながら、たった数百メートルという至近距離でこれを見ている継実達にその恩恵は得られない。

 

「来たわよ継実ッ!」

 

「分かってる!」

 

 継実とモモは自分達の前に構えた貝殻の盾の後ろで、その貝殻を二人で支えるために身体を強張らせる。

 物理運動操作により運動エネルギーは返されたが、同時に押し寄せてきた熱は如何ともし難い。油断すれば核兵器の雨も耐えられると自負する継実の身体が、能力を使っても焼き焦げそうになるほどだ。

 盾を手にしてもこの惨状。生身ならば本当に、何も出来ずに殺されただろう。

 そして悲しい事に、今の熱波でひっくり返され、挙句砕け散った貝殻は少なくない。

 

「ピッ!? ピピピピッ!」

 

「キィギギギ!」

 

 貝殻の中に隠れていたと思われる、鳥や巨大昆虫が継実達の横を通る。他にもミミズやカエルなど、たくさんの生き物が継実達を尻目に逃げていった。

 必死さが異種である継実にも伝わるぐらいだが、彼等はまだ生きる事を諦めていない。少しでも大蛇や巨人から離れ、もしかしたらあるかも知れない空の貝殻を探そうとしているのだろう。

 だが、大蛇達は小さな生き物の事など端から気にも留めていない。

 故に彼等は、小さな生き物達が隠れるのを待たずに戦い続けた。

 

「フォオオオオンッ!」

 

 大蛇の一撃を受けてもヒトガタは健在。むしろ大蛇の身体に対ししがみつき、その身動きを封じようとする。

 大蛇の方もただではやられない。地球すら壊しかねない力の持ち主にとって、何千万トンあるか分からぬ質量も大したものではないのだろう。ヒトガタがしがみつく身体を易々と持ち上げ、叩き付けるように振り下ろす!

 ヒトガタは大地 ― 正確には干からびた海だが ― に叩き付けられた、が、瞬間彼は大きく身体を捻り……大蛇の身体をぐるんと振り回して大地に叩き付けた!

 立て続けに放たれた二回の打撃。それにより放たれた二つの衝撃波がぶつかり合うと、激しい摩擦によるものか放電現象が発生。周辺に秒速三百キロの速さで拡がっていく。

 如何にミュータントでも、このスピードに対応出来るものはない。継実達がモモの力のお陰でなんとかやり過ごす中、逃げられなかった小鳥や羽虫が撃たれ、一瞬で電気分解されて消えていく。悲鳴すら上げる暇がない。

 

「シャアッ! アァアアッ!」

 

 されど最も至近距離で雷撃を受けた筈の大蛇は、自分の身を襲った電撃に気付く素振りすらなし。今度は自分が身体を捻ってヒトガタをまた地面に叩き付けた。

 ごろごろと転がりながら繰り返される、打撃の応酬。その度に雷撃が撒き散らされ、継実達がいるニューギニア島……いや、ニューギニア島だった場所を襲う。

 継実とモモの力でどうにかこれに耐えるが、やはりまた幾つもの貝殻が雷撃で破壊された。守りを失った生き物達は慌てふためき、中には継実達が構える縦の影に隠れるモノもいるほど。

 雷撃地獄が終わったのは、ヒトガタが新たな動きを見せてから。

 

「フォ……フォオオ!」

 

 雄叫びと共に、ヒトガタは大蛇を蹴り上げた!

 大蛇は一気に何千メートルもの高さまで吹っ飛ばされる。その際衝撃波が拡がったが、それは大したものではない。

 

「フォオオオオ!」

 

 だが、次いで放たれた鉄拳により状況が変わる。

 空高く打ち上げられた拳。その拳が撃ち出したのは『プラズマ』の塊だ!

 ヒトガタはただ拳を振り上げただけだが、あまりの超速の鉄拳で周辺の分子やらなんやらが圧縮され、拳の勢いに乗って弾丸のように放たれたのだ。プラズマの塊は空飛ぶ大蛇の身体を撃ち、またしても空へと上げる。

 そしてヒトガタの繰り出す鉄拳は、この一発だけではない。

 何十何百という数の拳を、一秒にも満たない時間でヒトガタは繰り出す! 無数のプラズマ攻撃を受け、大蛇はどんどん空高く昇っていく。

 このまま大蛇を宇宙までぶっ飛ばすつもりか。ヒトガタの意図は分からないが、それが易々と出来てしまうだけのパワーは遠目に見ている継実でも感じられた。大きさからして大蛇の質量は巨大隕石ほどにはありそうなのに。いや、継実でも隕石を押し返す事は出来るだろう。しかし大蛇は生物。落ちてくるだけの隕石と違い、様々な方法で抗おうとする。それを一瞬で何千メートルも打ち上げるなんて、如何にミュータントでも容易い事ではない。

 尤も、継実達がその力強さに驚く暇などない。

 ヒトガタが手からプラズマを放つのは良い。しかし問題は、そのプラズマが何処から来たのか。プラズマを生み出すエネルギーがあろうとも、プラズマ化する分子がなければこの攻撃は放てない。その分子というのは、間違いなく周辺の大気だろう。

 つまりヒトガタは大気を空高く打ち上げてしまっていた。恐らく、宇宙空間に跳び出すぐらいの勢いで。ならばヒトガタの周囲は今、真空状態同然の状態なのだろう。

 そして空気というのは、真空状態の場所に流れ込むもの。

 宇宙空間に突き上げるほどのパワーで出来た真空の領域。そこに流れ込む空気が、暴風という形になって継実達に襲い掛かった!

 

「ぐぅぅっ!?」

 

「きゃあああぁぁっ!?」

 

「ミドリ! ちゃんと掴まってて!」

 

 継実はどうにか堪えるものの、ミドリの力では耐えきれず。ふわりと浮かび上がってしまう。もしもモモが捕まえてくれなければ、今頃ミドリは地球外に追放されていた事だろう。

 継実達のような三人組のチームでも、危うく『脱落者』が出るところだった暴風。単独生活の小さな生き物に耐えられるものではなく、次々と飛ばされていく。ミュータントの生命力なら宇宙空間でもしばらくは生きていられるだろうが……ヒトガタの怪力により引き起こされた暴風が『しばらく』で戻れるような距離とも思えない。

 命を根こそぎ奪い取る風。されどヒトガタが周りの生物に気を遣う事もなく、何発も何十発も攻撃を続けていく。

 それを止めたのは大蛇。無論命を守るためではなく、自分が地上へと帰るために。

 

「シャアッ!」

 

 か細くもハッキリとした声と共に、大蛇は空中で身体を振るった。

 如何に長大な身体とはいえ、流石にヒトガタまでその一撃は届かない。が、尾を振った事により、ヒトガタが放ったプラズマを打ち返す事は出来る!

 まるでテニスか野球のように返されたプラズマボールが、ヒトガタの顔面に着弾。ヒトガタは大して怯みもしなかったが、閃光のように拡散したプラズマにより目潰しにはなったらしい。繰り出したプラズマはコントロールを失い、大蛇に当たらず宇宙へと飛んでいく。

 プラズマによる押し上げがなければ、大蛇の身体は自由落下を始める。が、大蛇はそんな『低速』に頼るつもりはないらしい。体勢をぐるんと変えて頭を地面に向けるや、天を指し示している身体から尾の先までを曲げて螺旋を描く。

 そうして作り出した螺旋の体勢を、大蛇はぐるぐると回し始めた!

 すると大蛇の身体は、まるで水中を進むミサイルのように飛ぶ! プラズマと共に飛んできた大気を掻き分けたのか、はたまた身体から何かが出ているのか。動く粒子の量と数が多くて継実の目にも分からないが、兎に角大蛇は自らの力で推進力を作り出し、そして猛然と進む!

 ヒトガタは突撃してくる大蛇に気付くが、大蛇の方が圧倒的に速い。大蛇は頭からヒトガタの胸の辺りをどつき、そのまま一気に押し倒す! ヒトガタは呻き一つ出さず、地面に頭から叩き付けられた。

 次いで起こるは巨大地震。

 大地が砕け散ると錯覚するほどの巨震が、継実達に襲い掛かった!

 

「こ、の……!」

 

 大地の揺れに、継実はしゃがみ込んでこれに耐える。モモは這うように伏せ、ミドリは風で飛ばされそうになった時と同じ寝そべり体勢でモモにしがみついていた。

 継実達でも立てなくなるほどの地震。しかしこれはさして恐ろしくない。

 恐ろしいのは、押し倒されたヒトガタがすかさず反撃として大蛇の顔面を殴り――――その反撃で生じた熱波と雷撃が、不安定な体勢の継実達に迫ってくる事だ。

 

「キキキッ!」

 

「ピギィイ!」

 

「ええい五月蝿い! 騒ぐぐらいなら手伝いなさい!」

 

 喚きながら逃げ惑う鳥や虫達に、継実は大声で叫ぶ。

 全てのミュータントが言葉を解する訳ではなく、何匹かはそのまま横を通り過ぎた。けれども一部の生き物達は一瞬ポカンとした様子を見せたが、すぐさま盾の内側にやってきた。鳥は非力ながら盾に身体を寄せて、支えるように陣取る。虫は糞を盾の根元に塗り固めていた。糞を接着剤のように使って、盾が動かないよう固定するつもりなのだろう。

 助け合おうとは思わずとも、助かるために協力し合う事のメリットは理解出来たのだろう。正直助かったと継実は思う。しゃがみ込んで耐えたとはいえ、あまりにも激しい地震の所為で足がガタガタに震えていたのだから。

 もしも助け合わなければ、きっと今度の熱波と電撃の衝撃を受け止めきれず、全員焼き尽くされていただろう。

 ただの殴り合い。言ってしまえばそれだけの事なのに、大蛇とヒトガタの死闘は継実達の命を脅かし続ける。巻き貝の盾を構えているからどうにか生き延びられているが、正直、もうこれ以上は体力的に無理だと継実は感じ始めていた。小鳥や虫の助力も得られたが、この小さな生き物達にだって疲労はある。何時までも耐えられるものではない。

 そろそろ終わってくれ。終わってくれなきゃ、もう本当に駄目だ――――

 継実が抱いたそんな『祈り』。よもやそれが天に通じたという事はないだろう。この星の神々は今、つぐみの目の前で傍迷惑な大乱闘をしているのだから。

 だからそれは神様達の都合。

 今まで絶え間なく続いていた災禍が不意に途切れたのは、大蛇とヒトガタの間になんらかの変化があったからだ。

 

「……何……? なんで急に……」

 

 今まで絶え間なく続いていた災いの終わりに、継実は怪訝に思いながら盾の影からこっそりと大蛇達の姿を覗き込む。

 そして、思わず息を飲んだ。

 継実が見ている先で、大蛇とヒトガタは互いに正面から向き合っていた。どちらも静かに相手の目を見ていて、相手の気配を窺い合っている。

 同時に、その身体にどんどん大きな力が貯め込まれていると、継実にも理解出来た。

 今までの戦いが『じゃれ合い』に思えるようなパワー。何をする気かは分からない。しかしこれまでとは比にならない、とんでもない大技を繰り出すつもりなのは理解出来た。モモや逃げ込んできた小鳥や虫も身体を強張らせ、ミドリはガタガタと震え始める。継実だって同じだ。本能の警告がガンガン頭に鳴り響き、身体の緊張がどんどん高まっていく。

 されど本能は、不意にその緊張を解いた。小鳥やモモ達も同様に身体から力が抜ける。

 諦めたのではない。緊張を続けても、この一撃は耐えられないと本能的に察知したのだ。故に身体を脱力させ、体力の回復に努める。例えそれがほんの数秒のものだとしても、その僅かな回復力が生死を分けるかも知れないのだから。

 大蛇とヒトガタが動き出したのは、継実達が十秒だけ休憩してから。

 

「シャアァァァァァ……!」

 

 大蛇は大きく口を開けた。

 開いた口の奥では、煌々と輝く光……否、火の玉が確認出来た。

 火の玉といっても数百度程度の火球などではない。プラズマ化したエネルギー体、いや、そんな表現すら生温い、理解不能な状態と化している。一体どれほどの熱を詰め込めばアレが出来上がるのか、継実にも計算すら出来ない有り様だ。恐らくこの一発がまともに炸裂すれば、少なくとも七年前の地球だったら、きっと気候も何もかも激変していただろう。いや、下手をしたら地表の何割かが一瞬で焼き払われ、核戦争よりも酷い有り様となっていたかも知れない。

 星をも終わらせかねない破滅の力。しかしヒトガタはこれを前にしても怯まず、どっしりと構えて向き合う。大蛇が持つ力の大きさを理解していないのか? いいや、違う。受け止められるという自信があるのだと、大蛇と同じだけのエネルギーを溜め込んでいるのが見えている継実には分かった。

 もうすぐ来る。

 激戦の始まりを理解した継実達は一斉に盾を支えるべく力を込め、

 

「シャアッ!」

 

 ついに大蛇が、火球を放つ!

 ドオォンッ! と爆音を轟かせ、巨大な火の玉が飛んでいく。爆音だけでもミュータントである継実達が転びそうな『衝撃波(音量)』を撒き散らすそれは、寸分違わずヒトガタ目掛け飛んでいき――――

 

「フォオオオオオオオオオオオンッ!」

 

 迎え撃つヒトガタは叫びながら拳を前へと突き出した。

 ただ殴るだけ。言葉に直せばそれだけの行動……ただし一つ特異なのは、ヒトガタの腕が肘の辺りから()()()()()()()()()()()()()事。

 ロケットパンチだ! 生物体でありながらロボット染みた挙動に継実が驚く中、ヒトガタの拳は大蛇が放った火球と正面からぶつかり合う。

 拳とぶつかり合った瞬間、火球が起こしたのは大爆発。核爆発の時に出来るキノコ雲とは全く違う、炎が上下に噴き上がるような奇妙な爆炎が生じた。

 そして、衝撃波も。

 継実達にとって幸運だった事は、星を砕きかねないような破壊力の殆どが上下に飛んでいった事。余波だけでも身体が吹っ飛びそうだと思うほどの衝撃だったが、思っていたよりも大した威力ではなかった。

 ヒトガタにとっても同じだろう。肘を振り上げると飛ばした腕が ― よく見れば紐のようなもので繋がっていた ― 戻ってきて、肘とガッチリ嵌まって元通り。火球とぶつかった拳自体はぐちゃぐちゃに潰れて原形を留めていないが、傷口が蠢いていたので、恐らく再生しようとしている。大した傷ではないのだろう。

 大蛇の攻撃は失敗に終わった。そして今度はヒトガタが、自らの能力を披露する。

 

「フォオオオオオオオオオオオンッ!」

 

 ヒトガタは大きく吼えた。

 ただの咆哮だった。電気も熱もない、空気の波動。

 けれどもそれは火球に負けない、それどころか上回る物理的衝撃を有していた。

 空気の振動によるものか。ヒトガタの口から放たれた咆哮は溶かした飴のように景色を歪め、真っ直ぐ火球目指して直進。上下に吹いている火柱に命中するや、なんとそのまま吹き飛ばしてしまった。

 星を焼き払うほどの力を、いとも容易く吹き飛ばしてしまう力。最早破滅的という言葉すら生温い力は、火球の奥にいる大蛇に襲い掛かる……筈だった。

 だが、それは叶わない。

 何故なら吹き飛ばした火球の先に、大蛇の姿は何処にもなかったのだから。

 

「!? フォッ……!」

 

 いると思っていた敵がいない。予期せぬ事態にヒトガタは身体を強張らせてしまう。

 果たしてヒトガタは、すぐに気付いただろうか。火球を放つ前まで大蛇がいた筈の場所に、大きな穴が開いていた事に。

 穴の周りは溶岩のように赤熱し、どろどろに溶けていた。その穴は何処までも深く……きっと何千メートルも奥まで続いている事だろう。

 それこそ、ヒトガタの足下まで続いていてもおかしくない。

 

「シャアァァッ!」

 

 ヒトガタの足下から大蛇が跳び出しても、見ている側である継実達は左程驚かなかった。しかしヒトガタの方はそうもいかない。突然の襲撃に驚き、足下を払うように繰り出された攻撃に何も出来ず転ばされる。

 大蛇はヒトガタの身体に素早く巻き付き、締め上げる。ヒトガタは自分の失態に気付いたのかすぐに巻き付く大蛇の身体に手を掛けたが、既に大蛇はヒトガタの全身、胴体のみならず足や首にも巻き付いていた。自由なのは片腕だけ。

 ヒトガタは何度か拳で大蛇を殴るが、大蛇の力は弛まない。このまま絞め殺すつもりなのか。長きに渡る戦いがいよいよ終わろうとしている。ヒトガタは残っていた手でバンバンと、大蛇の身体を三度平手で叩くがそんなもので大蛇の身体は傷付かない――――

 そう、傷付かない。

 けれども継実達は目を見開いた。どんな災害が来た時よりも、大蛇とヒトガタの存在を目にした時よりも大きく。何故なら、そんなのは起こる筈がない事だから。

 三度平手で叩かれた大蛇は、()()()()()()()()()()()()()()()のだった。



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生物災害15

「えっ……なんでアイツ放したの?」

 

 思わずモモが尋ねてくる。しかしそんなのは継実にだって分からないし、むしろモモ以上に混乱していた。

 大人しくヒトガタを放した大蛇は、しゅるしゅるとヒトガタの傍でとぐろを巻き、その顔を覗き込む。まるで心配してるかのような動きだ。対してヒトガタは胡座を掻くように座ると、頭をぽりぽりと掻く。

 次いでヒトガタは、ごつんごつんと大蛇を拳で小突いた。小突かれた大蛇は身を捩ると、尾っぽの先でどすんどすんとヒトガタの胸を突き返す。音こそ物騒だが、継実達に災害が襲い掛かる事はない。加減した力での突き合いだ。

 一体アレはなんなのか? どうして大蛇は攻撃の手を弛めたのか。どうしてヒトガタこのチャンスに攻撃せず、大蛇もヒトガタを襲おうとしないのか。誰もが困惑し、守りを固める事も忘れて唖然とする。

 

「……なんか、まるで友達みたいな事してますね」

 

 唯一『現実』を指摘出来たのは、ミドリだけ。

 友達? 何を馬鹿な――――と反射的に言おうとした継実だったが、しかしその言葉が最後まで語られる事はない。

 何故ならヒトガタと大蛇は、まるで笑うように大きく口を開けて仰け反ったのだから。

 呆けながら継実がその仲良しこよし行動を見ていると、ずしん、ずしんと、地響きが聞こえてくる。大蛇とヒトガタは向き合ったまま大人しくしているというのに。それどころか二匹は揃って同じ方向を見ていて、何より地響きはその方角――――継実達の背後から聞こえてきた。

 最後にずしんっと一際大きな揺れが起きた時、継実達の後方にあるニューギニア島の『残骸』から、ぬるりと白い頭が出てきた。

 ヒトガタだ。何処からどう見ても、今し方大蛇と激戦を繰り広げていたヒトガタと同じ姿をしている。二体目のヒトガタが、この地に現れたのだ。

 とはいえ二体目がいる事は、なんら驚く事じゃないと継実は思う。怪物だろうが星をも砕く生物だろうが、それが一種族一個体の存在だと考える方が不自然なのだから。

 それよりも継実が気にしたのは、

 

「……なんかコイツ、デカくない?」

 

「デカい、わね……」

 

 思わず口に出した疑問は、モモが同意する形で証明された。

 大蛇と戦っていた個体よりも大きい。それもちょっと背が高いなんて『誤差』レベルの話ではない。高さ八百メートル近くと、二倍近くはあるような巨躯だ。名付けるならば巨大ヒトガタか。恰幅そのものも二倍ある事を考えれば、巨大ヒトガタとヒトガタの体重差は推定八倍……繰り出されるパワーも恐らく八倍はあるだろう。

 単純な力の差で考えれば、大蛇とヒトガタが束になっても敵わないような化け物。本当に拳一発で星を破壊してもおかしくない……そう思わせる出鱈目な存在に誰もが固まる中、ただ一体だけ動き出すモノがいた。

 ヒトガタである。

 

「フォオオオオオンッ!」

 

 雄叫びを上げながら、ヒトガタは巨大ヒトガタに向けて駆け出す。

 まさか戦うつもりか? 勝ち目があるとは継実には到底思えないが、しかしヒトガタはまるで気にした素振りもなく突撃し――――

 巨大ヒトガタにぴょっんと跳び付いた。

 親しげに抱き付いてきたヒトガタを、巨大ヒトガタは拒まず。話し掛ける訳ではないが、なんとも落ち着いた様子だ。跳び付かれる事になれているかのような、そんな素振り。

 そこから考えられる二匹の関係は……

 考えていると、今度は反対側からどーんという地鳴りが聞こえてきた。くるりと、継実達もすぐに振り返る。

 今度は大蛇が見えた。今までそこで戦っていた大蛇よりもずっと大きく、何より長大な。そして今度は大蛇が巨大大蛇に擦り寄る。巨大大蛇も大して気にしてないらしく、べたべたと触れてくる大蛇を追い払う事も何もしない。

 小さな同種に迫られ、拒まず受け入れる。そのような関係性として、継実が思い付くものは一つだけ。

 

「……もしかして、親子?」

 

 そんな馬鹿な、と自分の言葉を継実は否定したくなる。

 だって、そうなると巨大な方が迎えに来た親であり、今まで争っていた二匹が子供という事になってしまって。異種同士とはいえちびっ子同士が本気で殺し合うとも思えなくて。

 継実達とニューギニア島の生命を脅かした大災害が、()()()()()()()()という事になってしまうのだから。

 

「ああ、なんだ。これ、アイツらのじゃれ合いだったのね……」

 

 尤も、モモは割とあっさり受け入れているようだったが。

 何か反論しようとするものの、自分でも思っていた事である故に継実は口が空回りしてしまう。対してミドリが『文明人』として反応する。

 

「じゃ、じゃれ合いって……そんなのであたし達死にかけたんですか!?」

 

「別に大した話じゃないでしょ? 私らが遊んでる時に虫を踏み付けるようなもんよ。まぁ、ミュータントになった虫が踏まれたぐらいで死ぬとは思わないけど」

 

「ええぇぇぇぇ……」

 

 モモの意見に納得がいかないのか、ミドリは引き攣った笑みと不服そうな声を出す。

 しかし継実からすれば、それで納得出来てしまう。

 七年前の世界でも同じ事。子供が泥遊びを始めれば、土壌細菌からすれば未曾有の大洪水だったに違いない。駆けっこでアリは踏み潰され、芽吹いたばかりの雑草が蹴散らされる。疲れたからと地面に座り込めば、そこにいたダンゴムシはぺしゃんこ。

 自分達の身に襲い掛かってきたのは、これとなんら変わらないのだ。そう思ったら、くだらない事で殺されかけたという意識すら、人間的な『思い上がり』でしかないと気付く。

 自分は、やっぱりまだまだ人間なのだ。

 

「……あっはははは!」

 

「えっ。なんで笑ってんですか継実さん?」

 

「いや、うん……なんというか、旅して良かったなって感じ?」

 

「はい?」

 

 危うく殺されかけたのに、なんで良かったなんて思うのですか? そう言いたげなミドリの眼差しを受けるも、継実はニコニコ笑うだけ。『人間』であるミドリには、まだまだ話しても分からないだろうから。

 そうこう話しているうちに、大蛇とヒトガタはニューギニア島から放れ、やっきた方角へと帰っていく。彼等からすれば普通の移動かも知れないが、あっという間に四匹の化け物の姿は見えなくなる。

 遊びは終わり、島には平穏が戻ってきた。

 

「(……島全体が、凄い事になってるな)」

 

 継実は辺りを見渡す。数百万度の高熱に晒され、破滅的な雷撃が飛び交い、巨大隕石クラスの津波が襲い掛かり、巨大地震に見舞われ……網羅するのも大変なぐらい、数々の災害がニューギニア島を襲った。七年前までの普通の島、いや、小さめの『大陸』ならば、今頃跡形もなく消えているだろう。

 しかしニューギニア島は残った。表面は大きく抉れたし、明らかに地形は変わったが、今でも ― まだ蒸発した海水が戻ってきてないので恐らくとしか言えないが ― 海面から大地が出ている高さを保っている。それは百数十メートル級の木々が根で大地をがっしりと掴み、破滅的な災いから守ってくれたからだ。勿論木々達に島を守ろうなんて気持ちはなく、あくまで自分の身を守ろうとした結果であろうが。

 その木々は大半がへし折れ、焼き焦げ、恐らく死んでいる。されどよく観察してみれば、倒れている大きな木の間に、ひょっこりと生える小さな『若木』が何本か見えた。生い茂る成木によってほんの僅かではあるが、若い木が生き延びるスペースがあったのだろう。

 そして木々の間を()()()()が何種類も飛んでいた。

 虫の種類も、大きさも、全てがバラバラ。だからこそ継実は飛び交う虫達が、自分達が食べた蛹のように、蛹になって災厄を逃れようとしたモノ達なのだと理解する。あの蛹化は決して苦し紛れではなく、生き延びるために確立した術だったのだ。

 此度の災禍を生き延びた末裔達は、子孫を残し、より適応的な個体を生み出すだろう。それらの子孫は、きっと、今生きているモノ達よりも災禍に強いに違いない。

 生命達は災いの中でも、着実に『前』へと進んでいる。何時か、災いすらも克服すると思えるほどの勢いで。

 勿論進化と一個体の生き方を同一視するのは、色々と間違った考え方だ。しかしそれでも継実は、進化する生命に()()()()()ような気持ちになる。災いを生き抜いた自分達も、旅を続けられる(前に進める)ような気がしてくる。

 故に継実は自然と笑みを浮かべ、沸き立つ気持ちのまま立ち上がった。

 

「よしっ! 一休みしたら旅を再開だ!」

 

 そして感情のまま自分のしたい事を言葉に出し、

 ぽんぽんと継実は肩を叩かれた。

 

「……ん?」

 

 こてんと、継実は首を傾げる。

 おかしい。何がおかしいかといえば、目の前にモモとミドリが居るのだ。一体誰が自分の肩を叩くというのか。

 疑問を抱きながら、継実はくるりと振り返る。

 するとそこには一匹の『甲殻類』がいた。複眼を持ち、大きな顎をガチガチと鳴らす、体長数メートルの巨大生物。

 ……甲殻類の顔の違いなんて、継実にはよく分からない。分からないが、コイツが『誰』なのかは知っている。いや、忘れたなんていうのは、野生生物的には普通かも知れないが、人間的にはちょっとアレ過ぎるだろう。

 だってコイツは、自分達が身を守る盾として『拝借』した巻き貝の持ち主である、あのヤドカリなのだから。

 

「……あ。ぶ、無事だったのです、ね?」

 

 継実は思わず、敬語でヤドカリにそう話し掛けてしまう。

 無事といったが、無傷という訳ではない。全身の至る所が黒焦げていたし、八本あった脚も一本取れている。身体の甲殻には無数の傷が出来、一部大きく凹んでいた。普段貝殻に守られている腹部も、傷や火傷の数からして相当痛んでいるらしい。

 しかし確かに、コイツは生きている。そして衰弱死するような気配はない。

 恐らく砂浜などに転がっている貝殻を、兎にも角にも触り続けて、どうにかこうにか難を逃れたのだろう。或いは森など、多少災害が弱まる場所に隠れ潜んでいたのか。いずれにせよコイツは自力で、誰の力も借りないで、大蛇とヒトガタの闘争を生き延びたのだ。継実には到底真似出来ない事であり、きっとコイツは島に暮らすヤドカリの中で、最も進化した個体なのだろう。

 等々現実逃避をしていた継実だが、薄々勘付く。このヤドカリが、凄まじい怒気を発している事に。

 

「え、えへへへ……お、怒っちゃやーよ?」

 

 出来るだけ可愛らしく、出来るだけ無害そうに。継実は全力でそう振る舞うが、ヤドカリの方からブチッという音が聞こえた。空気の音ではなく雰囲気の音だったが、継実の耳はハッキリと聞いた。

 致し方ないだろう。ヤドカリからすれば継実達の所為で死にかけた訳であり、しかも奪われた巻き貝を粉々のバラバラにされてしまったのだから。

 さて、そんなヤドカリ様は、果たして頭を垂れて謝れば許してくれるほど慈悲深い存在なのだろうか?

 継実には、到底そうは思えない。そして激しい怒りに震え、最早身を守る必要すらなくなったヤドカリから感じるプレッシャーは……大蛇達の足下にも及ばないが、継実達の遥か頭上に位置する。

 どうやら最も進化したヤドカリ様は、貝殻などなくとも普通に強いらしい。

 

「どひぃいいいいっ!? に、逃げろぉ!?」

 

 故に継実は、何はともあれ逃げ出した。

 

「ああ、結局こうなるのね……」

 

「まぁ、あたし達らしくて良いんじゃないですかね?」

 

 必死に逃げ出す継実と、その後を呆れながらモモ、そして楽しげなミドリが追ってくる。

 ついでに、怒りに震えるヤドカリも。

 何もかも破壊されたニューギニア島に、生き物達の日常が戻ってきたのだった。



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第八章 飢餓領域
飢餓領域01


 何処までも広がる、大海原。

 空に広がる青空と同じ色が地平線の先まで続いている。天頂で輝く太陽の光を受けて表面はキラキラと輝き、透き通った水の色合いと合わさって非常に美しい光景を作り出していた。海鳥達の飛ぶ姿、魚の跳ねる姿も見られ、此処にも多くの生き物達の息遣いがあるのだと視覚的に訴えてくる。

 海というのは世界中に存在するもの。けれども同じ景色というのは、どうにもないらしい。果ての見えない美しさは、見る者に感動を与えるだろう――――

 

「いや、こんなに海が広がってる訳ないんだけど」

 

 そんな景色に対して、ゴミ一つ落ちていない美しい砂浜から海を眺めている継実はぽそりとツッコミを入れた。仁王立ちしながら鋭い目付きで見つめる姿に、海を楽しむ素振りは微塵もなし。事実継実は、全くといっていいほど目の前の景観を楽しんではいなかった。

 

「? そうなのですか?」

 

「そうねぇ。確かに、此処に来て海しか見えないってのはないわよね」

 

 継実の横で首を傾げるミドリに対し、ミドリとは反対側の継実の傍に立つモモは納得するように頷く。ミドリはますます困惑した様子だったが、宇宙人である彼女にピンとこないのは仕方ないだろう。これは地球の『地理』の問題なのだから。

 大蛇とヒトガタの対決から生き延びてから事早三日。ニューギニア島の過酷な生態系の中で生活しながら南を目指していた継実達 ― ちなみに大型動物が殆どいない上に、細菌による分解が早くて毛皮も枯葉も得られなかったので、自前で用意出来るモモ以外は素っ裸である ― が辿り着いた此処は、かつてパプアニューギニア西部州と呼ばれていた一帯の海沿い……と思われる。何しろ人類文明が滅びているので「ここは〇〇の町さ!」というお約束的発言をしてくれる市民は勿論、地名を示す痕跡すら残っていない有り様。頭の中の地形と、自分達が歩いていた距離から居場所を推測するしかない。

 それでも凡そニューギニア島の南の端っこ、という事が確かなら十分。そしてこの場所からは本来、あるものが見えていなければおかしかった。

 

「……確信がある訳じゃないけど、此処はトレス海峡の筈なんだよ」

 

「トレス海峡、ですか?」

 

「そう。ニューギニア島とオーストラリアの間にある海峡ね」

 

 ミドリの質問に答えながら、継実は目の間に広がる『トレス海峡』について考えを巡らせる。

 トレス海峡はニューギニア島とオーストラリアの間に位置する海峡だ。南北に約百五十キロの長さに渡って存在し、人類文明全盛期には国際海峡……大まかに言えば各国の船が自由に行き来してよい海域に指定されていたという。とはいえ水深の浅い場所が多く、大きな船の航行には向かなかったようだが。そもそも文明が滅びて七年も経った今、国際海峡だのなんだのという話はなんの価値もない。

 今でも価値があるのは、地形的に関する情報だけだ。

 

「そんで此処には、()()()()()()()()がある筈なんだ」

 

 トレス海峡諸島はその名の通り、トレス海峡に浮かぶ島々の事。二百七十四もの島々から形成されており、島特有の生態系や文化が存在していた。

 これだけの数の島があれば、当然ニューギニア島近くに浮かぶ島も一つ二つではない。例えばサイバイ島という島に至っては、ニューギニア島から四キロほどしか離れていないほど近くに存在する。正しく目と鼻の先という奴だ。

 ちなみに身長百七十センチの人間の目に見える地平線というのは、約四・六キロ。つまりサイバイ島はニューギニア島から『目視確認』出来る距離にあるのだ。身長百七十センチ程度の継実なら確実に見えるし、継実より小さいモモでも体毛を使って背伸びをすれば見える筈。

 筈なのだが……

 

「……えっと、そのサイバイ島って何処にあるのでしょうか? あたしにはよく分からないのですけど……」

 

 ところがどうした事か。ミドリが遠回しながらも言うように、そのサイバイ島の姿は何処にも見えない。

 島が小さいからよく見えないのか? それとも天候の都合? どれも否だ。モモなら兎も角、成層圏から突入してくる直径数メートルの物体も視認出来る継実がその程度の悪条件で発見出来ない訳もない。能力を使って遠方の粒子の動きも把握しようとしてみたが、少なくとも島と言えるほど大きな土の塊は発見出来なかった。サイバイ島がこの近くにないのは間違いない。

 では継実達が来る場所を間違えたのか? その可能性については、継実にも否定は出来ない。継実達はあくまでもニューギニア島の南端を目指していただけで、此処が具体的にはなんという土地なのかも分からないのだ。そもそもこの島がニューギニア島だと信じているが、それすら勘違いだという可能性もゼロではないのが実情である。

 しかしながら否定出来ないだけで、そこまで可能性の高い話でもない。ミドリの広域索敵を応用して、この島の大きさぐらいは把握しているのだ。通ってきた道順や太陽の角度から計算して緯度と経度も求めている。此処はほぼ確実にニューギニア島だ。勿論緯度から、此処が島の南端である事も把握済み。

 では、何故サイバイ島が見付からないのか? 実のところ継実には一つ、確信している可能性がある。

 出来れば、そうあってほしくない可能性が。

 

「……消し飛んだか」

 

「え? 消し飛んだって……何がですか?」

 

「サイバイ島そのものだよ。何時かは分からないけど、あの化け物二匹のじゃれ合いに巻き込まれてさ」

 

 継実が語る可能性に、ミドリは表情を強張らせた。強張らせたが、しかしその口が否定の言葉を吐く事はない。傍に居るモモなど、それしかないと言いたげに苦笑いまで浮かべていた。

 ニューギニア島に辿り着いてすぐに見舞われた『生物災害』こと、大蛇とヒトガタの対決。

 二匹からすれば戦いごっこに過ぎないかも知れないが、継実達普通のミュータントからすれば正に破滅的な災禍だった。ならばミュータントどころか生物ですらない、小島という地形にとってあの二匹の対決はどんなものなのか? それこそ『神罰』が如く苛烈なもので、跡形もなく消えてもおかしくない。

 ニューギニア島はミュータントと化した樹木や草花などの植物達が根を張り巡らせる事で、結果的に固定されていたので大蛇達の闘いでも『消滅』はしなかったが……サイバイ島がそうだったかは分からない。もしもミュータント化した植物が少なかったら、島ごと消し飛んでも不思議はないだろう。いや、仮に島がミュータントに覆われていたとしても、力の強い個体群でなければ大蛇達の力には耐えられず、やはり消し飛んでしまう。

 サイバイ島がこの星から跡形もなく消えているという可能性は、かなり高いと継実は考えていた。

 

「(これは、想定外だなぁ……)」

 

 ミドリに話しながら考えていた継実は、大きなため息を吐く。

 日本を発った際、継実はニューギニア島からオーストラリアまでのルートは、左程問題はないと考えていた。

 何しろトレス海峡諸島の島はたった百五十キロの間に二百七十四も存在している。ご都合主義的に等間隔で並んでいる訳ではないが、それだけあれば島から島までの距離が何十キロも離れている事は、早々ないだろう。

 海を渡るのは危険だ。それは七年間暮らしていた草原を旅立つ時から分かっていたし、日本からフィリピンへと渡る時に嫌というほど体感している。故に出来るだけ、海を渡る距離は短くし、陸地で一休み出来る状態が良かったのだが……

 

「つーか、もしそうなら消し飛んでるのはサイバイ島だけじゃないかもね」

 

「そう、ですよね。他の小さな島ももしかしたら……」

 

「休める事を期待すると痛い目を見るかも。渡るなら百五十キロ渡るつもりでやるべきよ」

 

 モモの現実的な意見。確かにその通りだと継実も思うが、突き付けられた現実に頭が痛くなってくる。尤も、頭痛が何も解決してくれない事も明白なのだが。

 大きく、継実はため息一つ。

 それから大きく背伸びをしてから、継実は砂浜を歩き始めた。ミドリとモモはその後ろを何事もなく付いてきながら、モモが尋ねてくる。

 

「で? 何か良い案は浮かんだ?」

 

「良い案というか、先人に学んだというか?」

 

「つまり?」

 

 詳細を訊いてくるモモ。継実はすぐには答えなかったが、視線をある方角にちらりと向けて回答を示す。

 ――――まず認識すべきは、自分達だけではたった百五十キロの海すら満足に渡れないかも知れない事。

 秒速一キロ以上で飛べる継実でも、ざっと百数十秒が必要になる距離だ。二分ちょっとと言えば僅かなものに思えるが、しかし海には無数のミュータントが生息している筈。ミリ秒単位で幾つもの攻防を繰り広げる継実達にとって、百秒以上の時間は『長期戦』といっても過言ではない。大体継実達は日本から南を目指した時には、ほんの一キロも進めずに返り討ちに遭っている。目標百五十キロの百分の一すら行けないのが継実達の実力だ。一応ここまでの旅路で様々な敵と出会い、戦いを通じて成長してきたが……流石に半月も経っていないのに百倍も成長していると思うほど、継実は自惚れではない。

 自分達三人の力だけでの渡海は絶対に不可能。これが大前提だ。

 ではこの大前提を元に、どうすれば良いのかを考える。これは、決して難しい問題ではない。継実達は日本からフィリピンに渡る時、既にその解決方法を実施している。

 つまり誰かと協力する事。日本で出会ったツバメが自分一羽だけでの渡海は無理だと考え、継実達をボディーガードとしてスカウトしてきたように。犬であるモモが人間並の知性を会得したように、ミュータントとなった他の生物達にも相応の知識は宿っているのだ。話に興味を持つかどうかの違いはあれども、話そのものを理解出来ない訳ではない。

 そして当然ながら、協力話を誰かから持ち掛けられる時までじっとしている必要もなくて。

 

「駄目で元々だし、一回交渉してみない?」

 

 そういって継実は自分が進む先を指差した。

 海岸線の近くで何十メートルもの高さまで伸びている、巨大な『噴水』を――――



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飢餓領域02

「お、大きいぃ~!」

 

 『そいつ』がよく見えるところまで近付いたミドリは、子供のように明るい声を上げた。

 岩礁地帯から二十メートルほど離れた、恐らくそこそこの深さがあるだろう海面。そこに一頭の生物の背中が露わとなっている。黒に近い灰色とでもいうべき体色の身体は、推定で十五~十六メートルはあるだろうか。背中は真っ平らで、鱗や毛のようなものは見当たらない。巨大な胴体には胸ビレが、そして身体の後方には尾ビレがあったが、魚のヒレと違って四肢や尾が平たく変化したものだと窺い知れる。

 何より目を惹くのは、大きく肥大化した頭だろう。継実の目測だが、身体の三分の一ほどを占めている。肥大化した頭は先頭部分が大きく膨らみ、少し角張った形をしていた。海中から出てきた瞳はくりっと丸く、優しさを感じられる。

 継実としても実物は初めて目にする。亜種だとか近縁種などもいるだろうから、正確に分類出来る自信はないが……恐らく自分が考えている通りの種で間違いないと継実は思う。

 

「マッコウクジラだね。多分だけど」

 

 七年前では世界中の海に分布していた、巨大なクジラの一種だと。絶対ではないが、頭部と身体の大きさの比率からして、恐らく雄だとも推測した。

 継実が遠目に見付けた存在が、このクジラだ。人類文明全盛期では絶滅危惧種とされていた種だが、今でもちゃんと生き延びていたらしい。まさか生涯で出会う機会があるとは、継実としても思わなかったが。

 隣で目をキラキラと輝かせているミドリほどではないが、ちょっと継実も胸がときめいていた。

 

「マッコウクジラですかぁ……大きいなぁ……」

 

「別に、これより大きな生き物なんていくらでも会ったでしょ? 何日か前のヘビとか、この前の宇宙人とか」

 

「あそこまで大きいと現実味がないじゃないですか。このぐらいのサイズだと、良い感じに巨大感を味わえるんです!」

 

「良い感じの巨大感って何よ」

 

 ミドリの語る謎理屈に、感情的に見えて合理的なモモは首を傾げる。継実もミドリの無茶苦茶な言い分に思わず笑みが零れたが、彼女の言いたい事はなんとなく理解出来た。

 マッコウクジラの巨大さは、なんというか身近なのだ。生物としてなんとか理解出来る大きさとでも言うべきか。それに継実のような人間にとっては、同じ哺乳類の仲間であるのにこれほどのサイズ差があるというのが、巨大さをより強く感じさせる一因でもあるだろう。

 尤もそう語ったところで、モモは「大きさなんて見た目通りに感じるもんじゃないの? つーか哺乳類同士と爬虫類で何が違うのよ」と言うだけだろうが。

 ……さて。そんな巨大なマッコウクジラを存分に観察したところで。

 

「で? なんで私らは此処まで来た訳? まさかホエールウォッチングしに来た訳じゃないでしょ? どうすんの?」

 

 モモからそんな問いが投げ掛けられる。

 遊んでる場合ではない、というほど時間に追われている訳ではない ― そんな悪しき文化は七年前に滅んだ ― が、しかし遊んでばかりでは何も解決しない。自分達には海を渡る術がないという、極めて重大な問題は。

 継実はその解決案として、此処を訪れたのだ。

 そう、あのマッコウクジラに自分達を南まで運んでもらうという作戦……その作戦のための交渉を行うために。

 

「とりあえず、呼び掛けてみようかな」

 

「? 呼び掛けるってどういう事ですか?」

 

「こういう事よ。おーい! そこのマッコウクジラぁ! 聞こえてたらこっち来てくれるー!?」

 

 首を傾げるミドリに、これが答えだとばかりに継実は大声を張り上げた。

 するとミドリはぴょんっと跳ね上がり、大慌てで継実の身体にしがみつく。そんな事は止めてくれと言わんばかりに。

 

「ななな何してんですか継実さん!? い、いきなり声なんて出して、襲われたらどうするんですかぁ!?」

 

「んー? 大丈夫じゃないかな多分。マッコウクジラは一応海の生き物だから、陸の生物に食指は湧かないでしょ……多分」

 

「二回も多分って言われたら説得力なんてないんですけどぉ!?」

 

 ミドリが不安をけたたましく叫ぶ中、マッコウクジラはといえばしかと継実の呼び声に反応。くるりと向きを変え、継実達が立つ海岸線へと向かってきた。やがて頭を大きくもたげ、ぱくりと口を開く。

 頭の幅と比べれば、正に骨と皮しかなさそうなほど細長い下顎。しかしその下顎にはずらりと、巨大で鋭い歯が何本も並んでいた。あからさまに肉食動物的な特徴に、ミドリが「ぎゃあっ!」と悲鳴を上げる。今まで感動していた気持ちは何処へやら、だ。

 実際マッコウクジラは食性的に肉食獣に分類される。勿論上陸して人間を食い散らかすなんて記録はなく、主な獲物はイカだ。しかしイカはイカでも体長五~十八メートルもあるというダイオウイカを喰らうというのだから、人間ぐらいぺろりと丸呑みにしてもおかしくないだろう。

 

「なんだなぁ? 呼んだんだなぁ?」

 

 開いた口から出てきた惚けた声を聞けば、そんな危機感は彼方に吹っ飛んでしまったが。

 

「……随分と純朴そうな話し方でいらっしゃる」

 

「だなぁ?」

 

「ま、いいや。ねぇ、あなたに一つお願いがあるんだけど、話だけでも聞いてもらえない?」

 

「んー? 構わないんだなぁ」

 

 試しに話してみれば、マッコウクジラは興味津々な様子。頭の左右に付いている瞳が、じっと継実の事を見つめる。

 交渉をする上で最初の問題――――相手との対話に取り付けるのは成功したようだ。

 正直なところ此処で転ける可能性も大いにあった。ミュータント化して多くの生物が知性を得たものの、その知性の有り様は人間と大きく異なる。人間の事を餌としか見てなければ問答無用で食べようとしてきただろうし、或いは人間の事が嫌いで嫌いで堪らないというような奴もいるかも知れない。そもそも人語を使えないような奴がだったら、継実達の話は聞けても向こうの言葉は分からず、意思はあるのに話し合いが出来ないという悲しい展開もあり得ただろう。無論知性など欠片もないただの畜生という可能性もあった。

 そうした問題は一先ずクリア出来た訳だ。しかしここで安心するのはまだ早い。今後の交渉内容次第では、折角のチャンスがおじゃんになる可能性は十分にあるのだから。

 

「実は私達、此処から百五十キロぐらい南にあるオーストラリア大陸に行きたいの」

 

「ふぅん。おーすとらりあかはよく分からないけど、島があるのは知ってるんだなぁ。おっきな島なんだなぁ」

 

「そうそう。それで海を渡らないといけないんだけど、私達だけだと上手く行けるか分からないから、あなたに手伝ってほしいんだ。手伝いといっても、背中に乗せて運んでほしいだけなんだけど……」

 

 何をしてほしいのか説明しながら、しかし継実は段々と説得出来る自信をなくしてくる。

 交渉というのは、単にお願いするだけでは基本成り立たない。相手に何かを要求するからには、こちらからも何かを差し出す必要があるものだ。しかしマッコウクジラが喜びそうな、或いは『対価』と認識してくれそうなものがとんと思い付かない。いや、或いは七年前まで存在していた文明で、人間同士でしてきた交渉があまりにも単純なもの……お金を出せば大抵締結出来るものだった事が原因か。

 人間社会が高度に発達出来た要因の一つには、貨幣の存在があるという。共通の価値が存在する事で取引が活発化し、経済的発展を促したというのがその理由だ。そして経済社会において交渉は、極論金銭の量だけが問題となる。揉める事がないとは言わないが、シンプルで分かりやすい図式だ。

 しかし動物相手となると金銭なんて意味がない。いや、そもそも何をすれば喜ぶのか分からないし、自分達に出来る事かどうかも分からないのだ。物々交換よりも難しい交渉を、果たして十七年の月日で話し合いなんてろくにしてこなかった自分が成功に導けるのか。だがここは自分が、唯一交渉技能を持ってるであろう自分がやらねばならない――――

 

「それぐらいお安いご用なんだなぁ」

 

 等という不安は、マッコウクジラの一言であっさりと吹き飛ぶ事となった。

 頭の中の大部分を占めていた疑問が消え去り、真っ白になった思考のままこてんと首を傾げる継実。アレが出来るこれを渡せるなど様々な事を考えていたのに、全部が一瞬にして無駄となる。

 無論その無駄は良いものなのだが、あまりにも望み通りの答えに継実は激しく動揺してしまった。

 

「え。あぇ、え、なんで……?」

 

「? ボカァも南に行きたいから、ついでに連れてくだけなんだなぁ。それだけなんだなぁ」

 

 尋ねてみれば、マッコウクジラはそのような答えを返す。人間とは違う顔立ちから表情を窺い知る事は出来ないが、少なくとも悪意は感じられない。

 

「あら継実、良かったじゃない。偶々南に行くつもりの奴を見付けるなんて、ついてるわ」

 

 モモなんかは疑いすら持たず、マッコウクジラの言葉を信じているのか。すっかり安心したような笑みまで浮かべていた。

 きっと、モモの考え方が正しいのだろうとは継実も思う。自分達人間と違って、普通の生物達は交渉で相手を騙そうなんて思わないだろうから。それに自分達はマッコウクジラと比べれば、文字通り虫けらのように小さい身。自分が南に行くから相手も南に連れていくなど、とても簡単な事なのは確かだ。

 確かなのだが、しかし対価もなしに助けてくれるという事に心がもやもやする。それも相手の嘘や裏切りを警戒してとかではなく、単純に居心地が悪い。何しろ貨幣経済社会の中では対価なしにお願いを聞いてくれる事なんて、親族や親しい間柄でもなければ早々ないのだから。

 

「え、えと。でもなんか、お礼とかしておきたいというか……」

 

「えっ。自分からそれ言う?」

 

「継実さんって結構損な性格してますよね……個人的には好ましいと思いますけど」

 

 殆ど無意識に渡せる対価がないか訊いてしまい、モモとミドリに呆れられてしまう。自分が一番交渉に向いていると思っていた継実だが、実は一番向いていないのではと、自分の思い上がりが恥ずかしくなる。

 そんな継実の気持ちをどう考えているのか。マッコウクジラはしばし考え込むように沈黙。

 

「じゃあ、ボカァの話し相手になってほしいんだなぁ」

 

 やがて告げられた言葉は、なんともおっとりした『対価』の要求。

 そんなもので、とも思ったが、よくよく考えれば自分が渡せるものなどそれぐらいしかない。何より対価というのは自己満足ではなく、相手が欲しがるものでなければ無意味だ。

 マッコウクジラがそれを欲しいというのなら、それを渡すのが正しい対価というもの。

 

「……じゃあ、それでお願いするね!」

 

「やったんだなぁ。これで退屈しないで良いんだなぁ」

 

 継実が快諾すれば、マッコウクジラは嬉しそうに跳ねてざぶんと波を起こす。

 それから継実達に彼は背中を向け、尾ビレをびたびたと動かし始める。

 言葉はなかったが、彼の言いたい事は継実にもすぐ理解出来た。モモとミドリも分かったように、顔を見合えばこくりと頷き合う。

 継実が一番手でジャンプして、マッコウクジラの背中に飛び乗る。次いでモモが、ミドリを連れてやってきた。三人ともマッコウクジラの平らな背中に乗れば、準備は万端だ。

 継実はマッコウクジラの頭近くまで前進し、びしりと前を指差す。

 

「よーし、しゅっぱーつ!」

 

「なんだなぁ!」

 

 そして力強く掛け声を発すれば、マッコウクジラが進み出した。

 距離にしてたった百五十キロの、ミュータントにとってはとても短い四人旅が始まる。全員が前向きな気持ちを抱きながら。

 ――――そこで何が起きるのか、誰も知らぬままに。



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飢餓領域03

「ひゃっほぉー! 気持ちぃー!」

 

 モモの元気な声が、大海原に響き渡る。

 その声にちょっとだけ耳がキンッとなった継実は苦笑い。ミドリも目を丸くし、驚いた様子を見せる。

 けれども二人とも、すぐに笑顔を浮かべた。

 継実達は今、海原のど真ん中にいる。右を見ても左を見ても、前も後ろも全て海。自分達の立ち位置を知るためのもの、どちらに向かって動いているかを知るためのものが何もない。精々雲一つない空で輝く太陽のある方が東だと分かる程度。勿論陸なんて何処にも見えやしない状態だ。

 陸地と呼べるのは、精々継実達が乗っている黒くてつやつやした『小島』――――ニューギニア島の海沿いで出会ったマッコウクジラだけ。

 

「楽しんでるなら、何よりなんだなぁ」

 

 喜ぶモモの姿は、彼の目の位置から考えるに見えてはいないだろう。しかしその声だけだ気分を良くしたのか、マッコウクジラのおっとりした言葉遣いの声はちょっと弾んでいた。

 マッコウクジラは背中側をほんの十数センチ海面に出しながら、時速百キロ近い速さで大海原を進んでいる。ミュータントからすればどうしようもない鈍足であるが、しかし七年前の一般的なマッコウクジラの遊泳速度が時速二十二キロ程度。シャチなどの天敵から逃げる時でも時速四十五キロ程度というから、ミュータント化以前と比べれば圧倒的な速さと言えるだろう。

 何よりこの速さなら一時間でオーストラリアに辿り着ける筈。時限がない旅路なのに、たった一時間で楽しい時間が終わりだなんて勿体ないというものだ。

 

「ええ、楽しんでるわ。あなたのお陰でこっちの旅は順調にいきそうだし」

 

「はいっ! それにこんなゆったりとした旅が出来るなんて、思いもしていませんでした」

 

「でへへへ。そんなに褒められると、なんだか照れるんだなぁ」

 

 継実とミドリが褒めると、マッコウクジラは心底嬉しそうな反応をした

 直後、継実の真っ正面からボシュゥゥゥッ! という音と共に暴風が吹き付ける。

 暴風の発生源はマッコウクジラの上に開いた一つの穴……鼻の穴から。鼻穴は暴風を吹き終えるときゅっと閉じ、何事もなかったかのように静まる。暴風が吹いていた時間は精々〇・五秒ぐらいで、マッコウクジラの上にはすぐ静寂が訪れた。

 暴風の直撃を受けた継実も、ほんの少し表情を引き攣らせるだけだ。確かに暴風だったがそれは七年前の人間基準での話。ミュータントと化した今の継実には体幹を揺さぶる事すら出来ないし、ましてやダメージなんてこれっぽっちも受けていない。何よりこれはマッコウクジラの鼻息、つまり息継ぎなのだから、顔面に吹き付けてくるからといって邪魔する訳にはいかない。

 それに思い返せば小さい頃、夢見ていた事ではないか。クジラの潮吹きを間近で見てみたいというのは。

 

「……あっはははははははは! 凄い凄い! こんな近くで潮吹き見たの、初めて!」

 

 継実がはしゃぐのと同時に、継実達が乗っていたマッコウクジラが大きく浮上を始める。頭を左右にくりくりと、ちょっとだけ傾げるように彼は動かす。

 

「楽しそうなんだなぁ。面白いものでもあったのかぁ?」

 

「あっははは! いやぁ、もう面白いものは終わっちゃったからなぁ」

 

「そっかぁ。残念なんだな」

 

 継実の答えを真に受けて、マッコウクジラは本当に残念そうに答える。

 こうして話してみる前、海沿いで交渉していた時から継実は薄々勘付いていたが、彼は極めて純朴な性格をしていた。人を疑うという事を知らず、疑問を追究する事もなし。

 道中でした話曰く彼は今年十歳になる若者らしく、それでいて人間の文明が存在する頃の事も知っているらしい。そして人間達がやっていた捕鯨という行為により、マッコウクジラ(同族)が相当数殺されてきた事も。にも拘らず自分も南に行くからという理由だけで、人間をこうして背中に乗せてオーストラリアまで親切に運んでくれる。一応話し相手になるという『リターン』を渡しているが、最初はその対価なしに引き受けた訳であり、こうして話している間も実に親しげだ。人間に対する恨みなど、まるで持っていない。

 いや、動物に恨まれているという考えそのものが既に人間的なのだろう。彼からすれば人間など過去の遺物であるし、人間文明に殺される心配なんてない身体を手に入れた。家族や群れの仲間を目の前で殺されれば、危険視というか不快には思うのだろうが……それだけ。『恨み』なんて感情は抱きもしない。

 自然の雄大さというのは、決して規模やパワーだけの話ではない。心意気や考え方までも大海原のように大きく、対する人間というのはどこまでもちっぽけなものなのだ。

 

「じゃあ、ボカァまた潜るんだなぁ」

 

 なお、雄大過ぎて人間の事をうっかり失念する事も多く。

 マッコウクジラは継実達が背中に乗っているにも拘らず、一気に潜水を始めた。時速百キロ越えの速さでの急速潜行。七年前の生身の人間だったら、あっという間に水圧で肺が潰れて窒息してしまうだろう。

 しかし今の継実にとっては問題なし。

 粒子操作能力の応用で海水に溶け込んだ酸素を血中に取り込み、体組織内の酸素濃度を維持。水中での『呼吸』を確保した継実は、瞳の中の水晶体を僅かに変形させて水中の屈折率に対応する。

 そうすれば継実は、生身でのスキューバダイビングを楽しむ事が出来た。

 海の中は無数の魚が泳いでいた。いや、無数という言葉すら生温いかも知れない。目の前をサバやイワシのような、だけど日本の食卓に並んでいたものとは微妙に見た目が異なる見知らぬ魚が、数千から数万という大群で横切っていく。その魚達をカツオやマグロに似た大型魚が猛烈な速さで追い、襲って食べていた。イワシのような魚は ― なんらかの能力により ― 体表面を超高密度にして身体を頑強にしていたが、マグロ達はお構いなしにその守りを噛み砕いていく。そんな大型魚の方もサメに襲われており、複雑な海の生態系の一端が垣間見える。

 海面付近にはクラゲもたくさん浮いていた。クラゲは何やら衝撃波染みたものを撒き散らして生き物を追い払っていたが、そのクラゲを次々と食べていくウミガメの姿もある。ウミガメは甲羅をぶるりと震わせて衝撃波を発し、クラゲ達の出す衝撃波を中和していた。また空からは海鳥が超音速という言葉すら生温い速さで突入して、海面が湯立つほどの摩擦熱を出しながらも平然と小さな魚を捕まえては浮上していく。浮上する前より羽毛が赤くなっているのは、摩擦熱で自分の身体も熱くなっているからか。

 生き物達が所狭しと泳ぎ、生を謳歌している。ここまでくると賑やかというより喧しいぐらいだが、その喧しさが心地よい。少なくとも生き物が好きな継実にとっては。

 海中というのは海洋生物のテリトリー。だから継実一人、いや、モモやミドリと協力してもこの光景を見る事は出来なかっただろう。正確には見ようとすれば、それが末期の光景となる。海生生物のテリトリー内で襲われようものなら、陸上動物である継実達なんて成す術もなく食べられてしまうのだから。

 だけど今はマッコウクジラが一緒だ。

 小魚達は勿論、カツオのような大型魚やサメまでもマッコウクジラから逃げるように離れている。どうやら誰もがマッコウクジラを恐れているらしい。

 まだまだ若いこのマッコウクジラであるが、それでもこの付近にいるどの『魚類』よりも巨大だ。大きさとは強さの証。自分よりも大きな生物に近付かない事は野生の世界で安全に生きるための方法の一つであり、魚達はその方法を実践している。実際人類の研究によれば、マッコウクジラは主にイカを好んで食べるが、小魚やマグロも食べなくはないという。継実達の乗っている個体にその気はなさそうだが、魚達からすれば信用する事は出来ない相手に違いない。

 故に継実達に近付いてくる魚は皆無。継実達の誰もが安全に、海中の生き物達を観察する事が出来る。厳しい大自然を特等席で観察出来る事に、継実は思わず笑みを浮かべた。

 

「うぶぶぶぶぶぶぶぶー!?」

 

 残念ながらミドリにこの特等席の環境は合わなかったようだが。息が出来なくて、海中で溺れている。

 よくよく見てみれば、モモも顔を顰めていた。彼女は電撃を生み出せるので、水がたくさんある海中でも酸素を作り出せる……が、海水には多量の塩分が含まれている。『食塩水』を電気分解すると塩素ガスと水酸化ナトリウムを生成してしまう。どちらも生物体にとって極めて有害な物質だ。モモは体毛を器用に操ってそれらを追い出しているようだが、どちらも見えないものであるため物理的方法での分離は困難。顰め面になっているので、多少の塩素は吸い込んでいるかも知れない。

 もっと海中遊泳を楽しみたいという気持ちはあるが、家族が苦しんでいるにも拘わらずそれを続ける事など継実には出来ない。マッコウクジラには浮上してもらわねばならないだろう。

 

「おーい、マッコウクジラ。私らはアンタほど長く息を止めていられないんだから、背中だけは海面に出しておいてよー」

 

 継実な能力で水分子を震わせながら、マッコウクジラに話し掛ける。

 継実からのお願いを聞いたマッコウクジラは、一瞬キョトンとしたように呆けていた。とはいえすぐに自分の背中に乗っているのがどんな生き物なのか、思い出してくれたのだろう。「ごめんなんだなぁー」という反省しているのか軽く謝っているだけなのか、いまいち判別付かない返事と共に浮上。空気中に顔が出て、ミドリとモモは安堵したような顔を浮かべた。

 

「やれやれ。のんびりしてるのも困りものね」

 

「ぜー……ぜー……あ、あたし的には、困りものどころじゃ、ないですけど……」

 

「まぁ、元々深海とかに餌を取りに行くような生き物だし、うっかりで潜っちゃう事もあるんでしょ。私らの身体ならそう簡単には死なないし、気にしない気にしない」

 

「うう……窒息を気にしないとか、もう生き物としてなんかおかしいですよぉ」

 

「何を今更。私らミュータントが宇宙でも非常識な生物だってのは、ミドリが言ってた事じゃない」

 

 そーですけどー、と不服そうにぼやくミドリ。モモもくすくすと笑い、継実もにっこりと笑う。笑われたミドリはちょっと唇を尖らせたが、すぐに笑い出した。

 周りの警戒もなく、ただただお喋りを楽しむ。七年前なら普通に出来ていた事だが、何時肉食獣に襲われるか分からない今の世界ではもう出来ない事。出来ているように見えてもそれは『表面的』なもので、本質的には常に警戒を続けなければならなかった。本当に気を緩められたのは、果たして何時ぶりだろうか。

 これもマッコウクジラが一緒のお陰だ。彼が穏やかで人懐っこい性格でなかったなら、こんな機会は訪れなかっただろう。いや、そもそも彼に南へ行く用事とやらがなければ、こうして出会う事すらもなかったのではないか――――

 

「そーいや、アンタはなんで南に行こうとしてたの?」

 

 ふと継実が疑問を抱いたところ、モモも同じような事を感じたのか。継実が訊こうとした事を先に尋ねる。

 家族と気持ちがシンクロしていた事を嬉しく思いつつ、継実はマッコウクジラの言葉に耳を傾けた。彼はのんびりとした口調で、モモの問いに答える。

 

「ボカァ、もう大人だから、そろそろお嫁さんが欲しいんだなぁ。でもボカァ他のみんなよりのんびりしてて、みんなお嫁さんを取らちゃうんだなぁ」

 

「あ、自分がのんびりしてる自覚はあんのね」

 

「だから他のみんながいない南の方にいって、お嫁さんを探すんだなぁ。こっちの方は危険だって他の群れから聞いたけど、全然そんな事なかったんだなぁ」

 

「あはは……仲間の言う事は信じた方が良いと思いますよ……」

 

 大蛇とヒトガタの激戦(遊び)を思い出したのか。ミドリはちょっと苦笑いを浮かべ、継実も同意するように乾いた笑みが浮かんだ。マッコウクジラ達もあの化け物共の頂上決戦を知っていて、この辺りの海域には近寄るなと言い伝えているのだろう。それをお嫁さん欲しさに無視するのだから、このマッコウクジラ、意外とアグレッシブな性格なのか、それとも先人の言いつけに興味すらない『今時の若者』なのか。

 とはいえ彼を愚かな存在と断じるのは早計である。新天地への冒険は種がより繁栄する上で重要な事であるし、個体が拡散しなければ局所的な環境変化でも種そのものが絶滅する恐れもある。彼のような能天気な若者や恐れ知らずの冒険者というのは、生物が種を存続する上で欠かせない存在なのだ……大半は、種族の忠告通り死ぬとしても。

 それに大蛇とヒトガタの決戦はほんの数日前に終わった事。彼等 ― 或いは彼女等なのかも知れないが ― がどの程度の頻度で遊んでいるかは知らないが、流石に数日から一週間程度の頻度で暴れていたら島の自然回復が間に合わないだろう。継実の勘では最短でも半年に一度程度、恐らく一年に一度のイベントの筈。先日そのイベントが終わったばかりなのだから、数ヶ月はこの辺りの海域は安全と見て良い。

 他の群れの仲間がしていた忠告も、今この時に限れば杞憂というものなのだ。

 

「あの、ちなみに群れのお仲間さんやご両親は今回の旅についてはなんと?」

 

「んー? みんなボカァが何処でお嫁さんを探してるかなんて、知らないんだなぁ。そもそも群れを離れてから思い立った事なんだなぁ」

 

 ……杞憂とすら思っていないかも知れないが。どれだけ人に優しくとも、彼等もまた野生動物なのだから。

 なんにせよ他の群れの仲間とやらがしていた忠告は今や無用。マッコウクジラに近寄る生物の姿もなく安全もバッチリ。

 だったら今この時を心から楽しまなければ損というもの。

 

「よーし、それじゃあお嫁さんを欲しがってるあなたに女心の掴み方とか教えちゃおうかな!」

 

 十歳の少女のように、継実は新たな話題を言葉にするのだった。



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飢餓領域04

「もう! 今度という今度は流石に呆れたわ! 話になんない!」

 

 声を荒らげながら、激しい怒りの形相を浮かべるモモ。その声は遮るもののない大海原の遠く彼方まで響き渡る。

 更に瞳は鋭くなり、まるで猛獣と出くわしたかのような憤怒に燃え上がらせていた。そうした目付き自体は、これまで幾度となくモモは浮かべてきたが……今までと違うのは、眼光の向けている相手が、自身の正面に立つ大切な家族こと継実である事だろう。

 家族から剥き出しの怒りをぶつけられ、だが継実はその瞳に決して慄かない。それどころか同じぐらいの怒りを滾らせ、モモと対峙する。開いた口から出てきたのは、モモと同じく罵声染みた声。

 

「それはこっちの台詞だ! 今まで我慢してきたけど、もう面倒見きれない!」

 

「この期に及んで面倒見てきたぁ? どんだけ自惚れてんのよ!」

 

「自惚れてんのはどっちさ! この野良犬!」

 

「何よハゲ猿!」

 

「「ぐぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎ!」」

 

 互いにおでこをくっつけ合うほど近付き、メンチを切る。されどどちらも一寸たりとも退かず、事態は硬直して動かない。罵り合いが終わる時は、しばらく来そうにないだろう。海と空はとても穏やかだというのに、二人の周りだけが嵐のように空気が荒れていく。

 そんな家族二人を前にして――――罵り合いに参加してないミドリは、冷めた表情を浮かべていた。対して継実達を乗せたマッコウクジラは、つぶらな瞳が右往左往して狼狽を露わにしている。

 

「……二人とも元気だなぁ」

 

「ミドリ! 私の意見の方が正しいわよね!」

 

「いいや私の方だね! そうでしょ!?」

 

 ミドリがぽつりと呟けば、思い出したように ― 実際継実はここでその存在を思い出した ― ミドリに賛同を求める。しまった、と言いたげに顔を顰めたミドリは、どう答えたものかと考えるためか、しばし黙りこくってしまう。視線は継実達から逃げるように逸らされている有り様だ。

 その沈黙や仕草さえも今の継実達には焦れったい。故に継実とモモは答えを待たず、改めて問う。

 

「優しい人の方が良いでしょ!?」

 

「逞しい雄の方が魅力的よね!?」

 

 どっちの男性()が好ましいかという、大変個人的な問いを。

 ……事の発端は継実が切り出した話題。つまり『女の子の口説き方』から始まった。

 その話の初っ端から、モモが「継実に女心なんて分かるのぉ?」と煽ってきた。確かに女である事と、女心が分かる事は話が違う。野生生活を七年も続けてきた継実が分かりそうなタイプかといえば、成程そうは見えないだろうというのは継実も納得するところだ。

 しかし自信がなければ継実はこんな事など言わない。何しろ小学生時代(七年前)には女の子達の色恋話を幾度も(噂話で)聞いてきた身であるし、専門書(少女漫画)も数えきれないほど読んできたのだ。人間相手なら兎も角、犬やら宇宙人やらに心配される事などない。

 かくして継実は自信満々に女の子のハートを射貫く方法として「紳士的で優しい事が大事なんだよ」と力説――――したところモモから異論が。優しさが取り柄なんてそんななよなよした雄に頼れるもんかと言うのだ。ならばモモはどんな雄なら良いのかと問えば、逞しくて力が強いタイプなら女の子を魅了出来るという。それこそナンセンスな話だと継実は思う。力で女を魅了するなんて、それこそ野蛮人である。

 こっちの方が良い、いいやこっちの方だと、言い合いを続ける事数分。

 

「「うぎぎぎぎぎぎぎぎ!」」

 

 すっかりいがみ合う状態が出来上がっていたのだった。

 

「あわわ。ケンカは良くないんだなぁ。仲良くしてほしいんだなぁ」

 

 背中の上でケンカが始まり、温和なマッコウクジラとしてはどうして良いか分からなくて困惑している。

 対して継実達との付き合いももう長くなってきたミドリは、全く慌てる事もなし。むしろちょっと呆れたような表情まで浮かべている始末だ。

 

「……いやー、まぁ、ケンカしているように見えますけどねぇ」

 

「だな? ケンカじゃないのかぁ?」

 

「まぁ、訊いてみれば分かるかと。あのー、一つ質問しても良いですかー?」

 

 睨み合う二人に臆する事もなく、ミドリは継実達に声を掛けてきた。

 くるりと、継実とモモは同時にミドリの方へと振り返る。先程ミドリに質問をぶつけた二人であるが、継実はモモへの怒りですっかり忘れていたし、モモの方も同じく忘れている様子。

 改めて問い詰めてくる事のない二人に対し呆れたような表情を向けながら、ミドリが尋ねたのはそもそも論。

 

「あの、どうしてお二人はそういう男性像が良いのですか?」

 

 ミドリからの問いに、継実とモモは一瞬顔を合わせる。しばし考えるように沈黙した後、最初に継実が口を開く。

 

「だってモモの恋人が、乱暴者だったらモモが傷付けられちゃうじゃない!」

 

 そしてその口から出てきたのは、まるで母親のような言葉。

 

「だって継実をつがいにした雄が、猛獣一匹倒せないような軟弱モノじゃ心配で夜も眠れないじゃない!」

 

 ついでにモモの口から出てきた言葉も、大体似たようなものだった。

 

「……はぁ」

 

「何が軟弱モノなら心配だよ! 男は強くなきゃ駄目とか何十年前の価値観引きずってる訳!?」

 

「今でもバリバリ現役ですぅ! つーか優しい雄を選ぶ雌なんて何処にいんのよ!」

 

「此処にいますぅー! 大体モモは男の怖さを知らな過ぎなんだよ! 私なんて一度襲われたんだから! 男なんて獣よ獣! モモの貞操は私が守るんだから!」

 

「貞操守られたら子孫残せないじゃない! つーか私だって、私の継実が傷付けられるのは我慢ならないのよ!」

 

 ぎゃーぎゃーと騒ぐ継実とモモ。継実としては罵り合いをしているつもりであり、モモも同じくそんな気持ちなのだろう。

 しかし「もうお前ら結婚しちまえよ」と言いたげな視線を送るミドリは、絶対に違う意見の持ち主で。

 

「マッコウクジラさん、ざぶんと沈んでください」

 

「だなぁ」

 

 さらりとそんな指示を、マッコウクジラに向けて出したり。

 マッコウクジラはミドリの指示通りにざぶんと海中へと沈む。ミドリはきっちり息を止めていたが、言い争いに夢中な継実達には寝耳に水状態。突然の水に二人とも驚いて固まってしまう。

 マッコウクジラはすぐに再浮上。突然の海水で全身びしょ濡れになった継実とモモは、ポカンとしながら互いの顔を見合う。継実など鼻から海水がじょろじょろと流れ出ている始末。

 勿論同じくマッコウクジラの背中に乗っていたミドリも同じくびしょ濡れだが、心構えが出来ていた彼女は澄まし顔を浮かべている。濡れた髪を掻き上げ、にっこりと微笑んでもみせた。まるで継実達に見せ付けるかのように。

 

「少しは落ち着きましたか?」

 

「「……はい」」

 

「なら良かったです。あ、ちなみに答えてなかったですけど、あたし的には女心を掴むにはまず見た目です。優しくても逞しくても、ある程度見た目が良くなかったら生理的に無理ですし」

 

 それからようやく、ミドリの恋愛観(女心の掴み方)が語られて。

 あまりにも俗物的で、だけど存外的を射ている答え。

 呆けたように固まっていた継実とモモは、同時にけらけらと笑い出してしまった。

 

「あっはははは! 見た目! そっか見た目かぁ!」

 

「くくく……まぁ、そうよね。確かに見た目が良ければ大体解決するわ。優しさも逞しさも、見た目が良くなかったら見向きもしないか」

 

「別に見た目が全てとは言いませんけどね。イケメンに誘われて付き合ってみたら、性格も仕草も全部最悪とはよくあるでしょ?」

 

「うっわ、含蓄ある言葉。え、ミドリってもしかして経験豊富なの?」

 

 継実が尋ねてみれば、ミドリは何やら色香のある笑みを浮かべてみせる。それが演技なのか、はたまた大人の余裕が出せる技なのか、大きな胸を携えた身体(宿主)の記憶なのか……一見して判断は出来ず。

 もしも実体験があるのなら、妄想でわーわー語っていた自分達があまりにも滑稽で。けれども経験なしに威張っているなら、それはそれで滑稽というもので。

 もう、継実は笑いを抑えきれない。

 笑う継実を見ていたモモも、貰うように笑い出す。ミドリだけが何やってんだかと言いたげに、肩を竦めた。

 

「えーっと、それはそれとして……あたし、ちょっとお腹空いてきちゃいました」

 

 そんなミドリだったが、ふと恥ずかしがるように身を捩りながら、そのような事を言い出す。

 継実はミドリからの言葉に、一瞬困惑を覚えた。どのような方法で海に出るとしてもエネルギー消費は少なくないと考え、食事は陸地でしっかり取ってきた筈なのだ。そして結果的にではあるが、自分達はマッコウクジラという楽で安全な移動手段を見付けた。エネルギー消費なんて殆どなく、たった一時間も経たないうちに空腹になる訳がない。

 ところがどうした事か、まるでミドリの発言で思い出したかのように、継実のお腹もぐぅっと鳴った。更にはモモの腹からもきゅるると可愛い音が聞こえてくる。ミドリだけでなく自分達の身体も腹ペコになっていたようだ。

 原因があるとしたら、先の言い争いか。

 言い争いでお腹が空くなんて、どれだけ盛り上がっていたのか。自分とモモのやっていた事のおかしさに、また継実は笑い転がりたくなる。

 

「(……だからって、全員一斉に腹ペコになるもんか?)」

 

 本当に笑い転げなかったのは、そんな『疑問』が脳裏を過ぎったから。

 とはいえ全員ではしゃいでいたようなものなのだから、全員同じタイミングで腹ペコになるのも、あり得ないという訳ではないだろう。何よりそんなしょうもない疑問を追究している暇もない。自分達は今、お腹が空いているのだから。

 

「じゃあ、魚でも釣ってみようか。ミュータント相手に上手くいくかは知らないけど」

 

「あら。それなら今度は釣りで勝負する? 釣り上げた魚の合計の重さが一番多かった人が勝者ね」

 

「良いねぇ。ミドリも強制参加ね」

 

「へぁっ!? あたしの能力じゃ魚なんて獲れませんよ!?」

 

 無理矢理勝負に参加させられ、先程までの余裕は何処へやら。困惑するミドリを継実とモモは息ぴったりに無視。

 マッコウクジラの上での余暇を存分に楽しむように、深く考える事もなく継実は釣りを始めるのだった。



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飢餓領域05

 穏やかな潮風と太陽が照り付ける中での釣り。それは継実にとって初めての体験だった。

 いや、そもそも継実は小さい頃、親に魚釣りに連れていってもらった事がない。川釣りや海釣りだけでなく、釣り堀での釣りすらも。理由は親から誘われた事がないから。両親はそういうのは『男の子の遊び』だと思っていたのかも知れないし、継実自身女の子が釣りをするというのはちょっと変な事だと考えていた。

 実際にはそんなジェンダー的な規範に大した意味などないし、両親がその手の事でああだこうだと指示してきた記憶は継実にはなかった。だから興味がある事を隠さず伝えていれば……両親との思い出がもう一つぐらいは増えていたかも知れない。

 ともあれそうした事情から、釣り自体が今回初体験。やり方とかもよく分からないし、どうすればよく釣れるのかも知らない。どの程度釣れるのが普通なのか、どんな感じで釣れるのかも全部手探り。そうした試行錯誤自体は結構楽しいと継実は思う。思うが、しかしつまらない点もある。

 試行錯誤しようとするまいと、なんの反応もない時だ。

 

「……釣れない」

 

「釣れないわねぇ」

 

「釣れませんねぇ」

 

 継実のぼやきに答えるように、モモとミドリが同意する。継実は小さな息を吐いてから、自分が持つ『釣り糸』に目を向けた。

 釣には竿が付き物、と言いたいが、継実達は誰も釣竿なんて持っていない。釣り糸をぎゅっとその手に握り締めているだけ。その釣り糸も勿論ナイロンだのなんだのではなく、モモの体毛を一本拝借したものを使っていた。ちなみに釣り糸の先には『針』と『餌』が備わっているが、その針は継実の骨の一部を粒子操作能力で削り、整形したもの。針の先に付けている餌も継実の皮膚を抉って得た肉片である。

 色々生々しいが、実際古代人の釣りというのは ― 流石に自分の骨肉は使っていないだろうが ― 凡そこんな感じだったと考えられている。つまり動物の骨や体毛で道具を作り、釣り道具をこしらえていたのだ。人類が数万年掛けて作り出した技術はすっかり退歩して、釣りまでもすっかり原始的なものに。尤も継実達の毛や骨は、人類が最先端の素材として誇っていたナイロンや金属の何十倍、いや何百倍も強いが。

 ……しかしそもそも魚が食い付かないと、その強さも活かせない。

 

「うーん、糸が見えてて警戒してんのかなぁ?」

 

「そうかも知れないけど、それ以前に近寄ってくる気配すらないわ。餌が悪いんじゃない? 継実の生肉とかあんまり美味しくなさそうだし」

 

「ミュータントがそんな選り好みすると思う?」

 

「しないわよねぇ。何度喰われそうになった事やら」

 

「あははは……確かに日本から出る時は、サメどころか小魚にも襲われましたもんね、あたし達」

 

 ミドリは乾いた笑みを浮かべる。モモは自分の体毛を引き上げて餌の有無を確かめていた。骨で出来た針先には継実の肉片がちょこんと付いていて、魚が突いた形跡すらない。

 継実は粒子操作能力を応用し、自分の周りの海域を探知。

 すると魚影は存外ハッキリと、たくさん見る事が出来た。サバのような魚、カツオのような魚、サメのような魚。どの姿形もハッキリと捉える事が出来るし、運動量やどの程度の力を有しているかも窺い知れる。森の中などではこうもたくさんの生物を、そしてその詳細な情報を知る事など出来ない。それは森の生物が常に気配を消し、相手に存在を知られないようにしているからだが……どうやら大海原の生き物はあまりそれをやっていないようだ。大海原では姿を隠せるような障害物がないため、そうした性質を発達させたところで目視確認されて終わりだからだろう。気配を消すのに無駄なエネルギーを使うぐらいなら、他の事に力を割り振る方が効率的という訳だ。シンプルな環境では、シンプルな能力が一番強いのである。

 なので継実の目が捉えた、マッコウクジラからざっと半径二十メートルほどの、魚がいない円形のエリアには本当に魚がいないのだろう。

 魚達はマッコウクジラを恐れている。それは陸を離れてすぐに分かっていた事なのだが、どうやら餌に食い付く気すら失うほどの感情らしい。マッコウクジラは未だ周りの魚達を襲っていない筈なのに、実に警戒心の強い事である。

 ……という考えも出来るだろう。しかし継実の脳裏を過ったのは、確信ではなく深い疑念。

 

「(なんかこの魚達、随分と()()()()()()()なぁ)」

 

 マッコウクジラから二十メートルほど距離を取る。十分離れているようにも思えるが、マッコウクジラの体長は十六メートルもあるのだ。こちらより明らかにパワーで勝る相手に、相手の身体よりちょっと離れていれば安全とどうして思えるのか? 人間だったら何時襲い掛かってくるか分からない筋肉ゴリゴリの犯罪者から、二メートル程度しか離れていないのに「もう安心だ」と言っているようなもの。そんな奴がいたらハッキリ言って間抜けである。

 大体綺麗な円形を作っているというのも不可解だ。危険だと判断したなら、もっと遠くに逃げてしまえばいい。何十メートルでも何百メートルでも、海は広大なのだから自由に泳いでいける筈なのだ。勿論天敵の存在や他の生物の群れ、餌の存在などがあるので何時でも何処でも離れる事が正解とは言えないが、だとしても綺麗な円が見えるほどハッキリと避けていて、尚且つ離れていかないのは何かがおかしい。

 これではまるで、付かず離れずの距離を維持しているかのよう。

 

「(もしそうだとしたら、理由はなんだろう? なんでマッコウクジラから離れない?)」

 

 違和感が頭にこびりつく。考えないといけない気がして、思考がそちらに逸れていく。釣り糸を掴む手の力も、ちょっとずつ緩み――――

 

「やった釣れたわ!」

 

 しかし手放す前にモモがそんな声を上げたので、継実は驚いた拍子にきゅっと手を閉じた。それからぎょっとしたように目を見開いて、隣に座るモモに視線を向ける。

 釣れた、という言葉に偽りなし。モモの手には一匹の魚 ― 小さなマグロのような見た目をしている ― が握られていた……が、その魚は釣り針を咥えていない。代わりに髪の毛のように伸びているモモの体毛が一本眉間に突き刺さっていた。更に魚はびくびくと痙攣するように震えていて、明らかに『釣られた』という状況じゃない。

 

「……モモ。それどうやって釣ったの?」

 

「ん? 体毛を二十メートルぐらい先まで伸ばして、そこにいた魚の一匹に電撃喰らわせただけよ」

 

「あたしが魚の居場所を教えました。えっへん」

 

「ちょ、なんでチーム組んでんの!? ズルじゃん! 三人で勝負してたのに! というかそれもう釣りじゃないでしょ! ただの漁じゃない!」

 

「あら、チームを組んじゃ駄目なんてルールはなかったわよ? 餌を魚に食わせろってのもね……って、あっつぁ!?」

 

 尋ねてみればいけしゃあしゃあと答えられる不正。悪びれる様子もないモモとミドリだったが、調子に乗っていた最中モモが奇声を上げた。

 それと同時に釣り上げた魚を落とすと、魚はマッコウクジラの背中の上でじゅうっと音を鳴らす。

 どうやら魚は感電による気絶から目覚めた後、反撃として高熱を発したらしい。魚はマグロのような見た目をした種。マグロは釣り上げてすぐに冷蔵しないと筋肉の発熱により身が焼けて品質が低下すると七年前の世界では言われていたが、このマグロっぽい魚はそのメカニズムを利用して超高温を生み出したのだろう。体毛で編まれたモモの『手』が溶解していた事から、数万度程度の熱は出していたに違いない。

 かくして手を溶かされたモモは、されど怯みはせず。体毛で魚をぐるぐる巻きにすると電撃を流し、今度こそ止めを刺した。

 

「あー、ビックリした。私の手も溶けちゃったし……マッコウクジラ、大丈夫? めっちゃ熱いの落としちゃったんだけど」

 

「だなぁ? なんか落としたのは分かったけど、熱いかどうかは分かんなかったんだなぁ」

 

 モモが尋ねると、マッコウクジラは何一つ気にしてない様子で答えた。どうやら本当に何も感じていないらしい。

 マッコウクジラの巨大さ、それ故の強さを考えれば、モモがダメージを受けた熱量では何も感じないという事もあるだろう。或いは、耐熱性に優れる能力なのかも知れないが。

 

「全く、最初に狙いを付けたサメは同じ電気使いなのか電流が効かなかったし、ようやく釣ったのもめっちゃ熱いし。厄介な感じねぇ」

 

「まぁまぁ、釣れるだけ良いじゃないですか。これであたし達の勝利は揺らぎませんし」

 

「えっ!? 不正が発覚したのに続行するの!?」

 

「不正なんて知りませーん」

 

 継実の抗議を余所にミドリは堂々と試合続行を宣言。継実としては無効試合だと主張したいが、現状不正を働いた側が多数派という有り様だ。これではこちらが何を言っても通る訳がない。

 ぐぬぬと悔しがる継実を見れば、二人はいたずら大成功と言わんばかりに満面の笑みを返す。確かに魚を釣るのが目的だから勝ち負けはどうでも良いといえばその通りであるし、野生の世界で公平だの正々堂々だのというのは極めて無意味な意見だ。だから継実としても、本気で非難するつもりはない。

 が、負けっぱなしというのは悔しいので。

 

「(そー簡単に負けてやるもんか……!)」

 

 結構負けず嫌いな内心が、ふつふつと表に出てきていた。何がなんでも一匹『普通』に釣ってやると、継実は再び釣り糸の先に意識を集中させる。

 とはいえそれは遊びだから出てきた感情だ。七年間の野生生活で変わった心は、決して遊びを優先したりはしない。普段と比べれば油断しきっている本能も、七年間で染みついた癖により周りへの警戒はちゃんと行っていた。

 

「ところでマッコウクジラ。なんか速度が落ちてるみたいだけど、なんかあったの?」

 

 だからモモが発した言葉も、継実はきちんとその耳で捉えていた。そして釣りに意識を集中させながらも、その言葉の『意味』も考える。

 モモの指摘は決して勘違いなどではない。

 指標となる物体が何もない大海原で自分の速度を知るのは普通ならばかなり難しいが、継実の能力を使えば造作もない事。身体で感じる大気分子の流れと海水を構成している水分子の流れを計測すれば、自身の速度を導き出せるからだ。

 計算したところ、マッコウクジラの速さは時速五十キロほど。十分速いといえばその通りだが、出発時点で出していた時速百キロと比べれば格段に遅くなっている。何か、体調が優れないのではないかと思うのが自然な事だろう。

 

「うーん、なんか疲れたんだぁー」

 

 その考えの通り、マッコウクジラは自身の疲労を訴えた。

 予想通りの答え。しかし継実とモモは同時に首を傾げる。

 

「……アンタ、随分体力ないのね」

 

 ミュータントのスタミナは無尽蔵だ。継実でも粒子ビームや隕石級のパワーを繰り出しても何十分と戦えるほどに。モモも似たようなタフさであるし、ミドリは劣るがそれでも超音速で何百メートルと走り続けるような体力はある。

 たったの時速百キロで一時間も経たずに疲れてしまうなんて、いくらなんでも軟弱過ぎるというものだ。

 

「うう。そんな事ないんだなぁ。でも今日は凄く疲れるんだなぁ」

 

 マッコウクジラ的にも自分の疲労感に納得はしていないらしい。とはいえ疲れている事は否定せず、時速五十キロという速度すらも現在進行形で少しずつ落ちている。

 

「(まぁ、あまり無理しても仕方ないか)」

 

 それを聞いて、継実は休ませてあげるべきかと考えた。

 疲れている事は事実なようなので、それを咎めても仕方ないだろう。それにもしかしたらこうして海面に背中を出している状態が、思っていた以上のストレスになっている可能性もある。圧倒的体格差で周りの魚達を圧倒しているマッコウクジラだが、疲れきった状態で襲われたら流石に危険かも知れない。

 何より自分達は運んでもらっている身。遅くなった事に対して文句を言うのも筋違いというものだ。疲れたというのなら休ませて、万全の体勢になってもらう方が良いだろう。

 

「そっか。何処かで休憩する?」

 

「するんだなぁ。泳ぐの止めて、浮いてるんだなぁ」

 

 継実が尋ねると、マッコウクジラはすぐに動きを止めた。乗っている側である継実達にも分かるぐらい脱力して、余程疲れていた事が窺い知れる。

 運んでもらっている身である自分達に何が出来るだろうか? 少し考えてみれば、案は簡単に思い付く。

 

「大きい魚、釣れないかなー」

 

 故に継実は自分がその手に持った釣り糸の先を巻き上げた後、今までよりも遠くに投げ飛ばすのだった。

 そう、それだけで十分だと考えて。

 既に『攻撃』は始まっているのだとは、気付かぬまま……



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飢餓領域06

 異変に気付いたのは、マッコウクジラが休憩を初めて数分と経たずの事だった。

 

「……!」

 

 海に投じていた釣り糸がピンッと張った瞬間、モモはすぐさま(体毛)を引っ張った。糸はモモの怪力で引き上げられ、水中に沈んでいた部分が一気に海上へと飛び出す。

 糸の先端は一匹の魚――――サバのような魚の頭に突き刺さっていた。餌も針も付いておらず、最早釣りではなく漁。しかしそれに継実が文句を言う事はない。

 魚は釣り上げられてすぐ、反撃としてモモに向けて強力な閃光を放つ。継実の目で観測した限り、閃光の種類は遠赤外線。遠赤外線には物体を加熱する作用があるため、これで敵であるモモを焼き殺そうとしているのだろう。熱に弱いモモにとっては厄介な攻撃だが、しかしモモの動きの方がずっと早い。モモは体毛に電流を流し、魚をその電流で焼き殺そうとする。

 魚もまたミュータントであるが、しかしモモの超高圧電流には耐えられなかったらしい。魚は自由落下で海面に落ちた後も動かず、ぷかりと身体が浮かび上がる。

 モモはすぐに糸を引っ張り、マッコウクジラの背中に魚を揚げた

 直後、傍に居た継実とミドリと共にその魚に食らい付く。素手で魚の頭を、身体を、尾ビレを掴み、そのまま力で引き千切った肉を三人は自らの口へと突っ込む。理性も何もない、獣そのもののような食べ方だ。

 そうして血肉を胃へと流し込んだ継実は、思う。

 

「(全然、足りない……!)」

 

 途方もない空腹感が、まるで癒える気配がないと。

 

「モモ……お腹、少しは満たされた?」

 

「駄目ね。全然足りないし、疲労感も酷い。ミドリは?」

 

「あ、あたし、もうお腹空き過ぎて……目眩が……」

 

「マッコウクジラはどう? 疲れは、少しは取れた?」

 

「だ、駄目なんだなぁ。休んでるのに、なんか、どんどん疲れてきたんだなぁ」

 

 尋ねてみれば継実だけでなく、モモとミドリも強烈な空腹を訴える。休憩に入ったマッコウクジラも更なる疲労感を訴え、体調が回復する気配もないらしい。

 継実達全員が謎の空腹感や疲労感に見舞われている。そしてどれだけ食べても、休んでも、状況は良くなるどころか悪化する一方。

 確かに自分達ミュータントが空腹に弱い事は、継実も理解している。しかしだとしても今自分達の身を襲っている、尽きる事のない空腹感は異常だと継実は感じていた。なんらかの『外的要因』がなければ、こんな状況には陥らない筈だ。そして気分が悪い云々は兎も角、空腹を引き起こす自然現象などありはしない。

 つまり。

 

「(私達は、なんらかのミュータントから攻撃を受けている……!)」

 

 敵の姿はない。殴られたりビームを打たれたりなどの、ハッキリとした攻撃を見た訳でもない。それなのに『攻撃を受けている』なんて状況はあり得るのか?

 答えはYesであり、何もおかしな話ではない。ミュータントはあちこちにいるのだから、こうして自分達に攻撃を仕掛けてくる奴がいても不思議はないのだ。それに宇宙すら誕生させたという量子ゆらぎの力により、ミュータントには超能力染みた能力がある。姿を眩ませたまま、原因不明の状態を引き起こす事も可能だろう。

 少しずつ疲弊する形だったがために、ただの空腹と見分けが付かず手を打たずにいたらこの有り様。気付くのが遅れたと継実は舌打ちをしたくなる。されどしたところで現状は何も変わらない。ならばやるべきは思考を巡らせる事だ。考えなければ道は切り開けないし、或いは閉ざされてしまうかも知れない。

 そして今考えるべき事は二つ。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、それと()()()()()()()()()()()()である。

 

「モモ! とりあえず、魚を取り続けて! ミドリは出来るだけ周りを警戒! 変なものがあったら、なんでも良いから報告!」

 

「ええ、分かったわ……でもあんま期待しないでよ。何匹も釣り上げたから、そろそろ魚達が警戒してるわ」

 

「あたしも……さっきから周りは見てるんですけど、全然怪しい姿が見えなくて……お腹もぺこぺこで、集中力も持たないです……」

 

 素早く指示を出す継実だが、モモとミドリの答えは少し自信に欠けたもの。モモは手のうちがバレて、ミドリは疲弊により、指示を達成出来る自信がないのだ。

 もう少し早く動けていればきっと自信満々に答えてくれただろうに。自分の判断の遅れを責めたくなるという『無駄な行動』を堪えながら、継実は自分の頭をフル稼働させる。

 

「(まず、何をされているか。それが分かんなきゃ始まんない)」

 

 最初に把握しようとしたのは、自分達が『どんな攻撃』を受けているのか。それを知るためには、自分達の身に何が起きているのかを正確に把握する必要がある。

 ――――継実やモモ達を襲ったのは、空腹感だ。対してマッコウクジラは疲労感を覚えている。

 自分達とマッコウクジラの感覚には違いがあるようにも思えるだろう。しかし大きな視点に立って考えてみれば、ある共通点がある事にも気付く。

 

「(エネルギー不足、か)」

 

 空腹は正しくエネルギー不足の結果。疲労感には様々な原因(自律神経の疲弊や筋肉に蓄積したカリウムイオンなど)があるが、全身のエネルギーが枯渇した状態を『誤認』したという可能性もある。

 ではどうして自分達はエネルギー不足に陥っているのか。もっと正確に言うなら、どうすれば自分達をエネルギー不足に陥らせる事が出来るのか、という事だ。

 しかしこれは左程難しい問いではない。少なくとも継実にとっては。

 

「(身体の中の、あらゆるエネルギーが吸い尽くされてる。熱エネルギーどころか、血中の糖質や脂質も消えていってる)」

 

 粒子操作能力で身体の中を覗き見れば、自分の体温や栄養素がどんどん失われていると分かる。

 体温と栄養素は体表面まで移動すると、その存在がふっと消えてしまう。比喩ではなく文字通りに。移動は全身の至る所で起きていて、消失もまた同様に皮膚のあちこちで起きていた。能力をモモ達やマッコウクジラにも向けてみたが、彼女達の体内でも同じ事が起きていると確認出来る。

 体内から栄養素が消えれば空腹感を覚えるだろう。それに体熱が消えていけば恒常性維持のため細胞がフル稼働し続けて、筋肉なり自律神経なりに疲労感も募るだろう。エネルギー不足という仮定は誤りではないと、継実は確信した。

 『原因』を見付ける事は出来た。問題は此処からである。

 

「(一体何処から攻撃してるの……!?)」

 

 少なくとも自分の体表面を見てみても、何かが付着しているようには見えない。以前ミドリの血液を吸っていた蚊のように透明化している可能性もあると考えたが、手を振り回して身体の周りを探ってみたが怪しい手応えはなかった。身体にずしりとのし掛かるような感覚もない。

 近くに敵の存在はなし。ならば遠距離に何かが潜んでいるのか? そう思って継実は意識を周りにも向けてみるが……

 

「(……ちょっと多過ぎるなぁ)」

 

 周りには数えきれないほどの魚やサメが、マッコウクジラを囲うように泳いでいた。

 先程まで何故こんな動きをしているのか分からなかったが、今の継実になら分かる。この魚達は継実達の身に何が起きているのかを知っていて、弱り、息絶える時をじっと待っているのだ。よくよく観察してみればサメと小魚が、多少は距離を取っているものの、仲良く泳いでいる有り様ではないか。誰を狙っているのか、全く以て分かりやすい。

 分かりやすいが、しかし全員が同じ動きをしているとなればそれが混乱を招く。誰がこの事態の元凶なのか、その判別が付かないのだ。

 一種類の生物だけが集まっていたり、明らかに遠巻きに見ている奴がいればそれが犯人だと決め付けられるが、なければ判断なんて出来ない。通り魔的に攻撃を仕掛けたところで、それが偶々敵を打ち抜けば良いが、そうでなければ相手の警戒心を強めるだけだ。しかしじっくり考えてる暇はないだろう。今はまだマッコウクジラの実力が未知数なので魚達は襲い掛かってこないが、それも何時まで持つ事か……

 考えを巡らせていたところ、新たな異変が継実の身体を襲い始める。

 

「ぐっ……!? なん……」

 

 辺りを見渡そうとした首が上手く動かない。そう気付いて身動ぎしようとしたところ、それすらちゃんと出来ないと継実は気付く。

 

「う、動きが……」

 

「ぁ。く……」

 

 この異変は継実だけでなく、モモとミドリにも襲い掛かっていた。ミドリは特に状態が良くないのか苦しそうに呻く。

 恐らくマッコウクジラも似たようなものだろう。

 それは本当に不味いと継実は考える。マッコウクジラは水に浮いているが、力を抜けば沈んでしまうかも知れない。クジラは海の生き物だが、分類上はあくまでも哺乳類。呼吸は空気中で行わねばならず、水中では普通に窒息してしまう。

 マッコウクジラの場合筋肉中のミオグロビンに酸素を溜め込む事で一時間程度の海中遊泳が可能だと言われているし、継実も能力を使えば水から酸素を合成する事が可能である。だから水に沈んでもすぐには死なないが、体力の消耗は著しいものとなるだろう。魚達に全身を食い散らかされるという悪夢が、いよいよカウントダウンを始めたのだ。

 

「(こんな場所じゃなかったら、まだ手の打ちようもあったのに……!)」

 

 此処が陸地なら、ひとまず逃げてみるという手もあっただろう。

 しかし今の継実達がいるのは大海原のど真ん中。マッコウクジラを置いて逃げたとしても、相性の悪い魚や鳥達の猛攻を受けてズタズタに引き裂かれるのがオチだ。最早逃げる事すら出来やしない。

 大体にして継実は、マッコウクジラを置いて逃げるつもりなどない。

 逃げたところで裏切られたとは、マッコウクジラも思わないだろう。如何におっとりしてようと、どれだけ人間と親しかろうと、彼も本質的には野生動物。他者に助けてもらおうなんて『甘ったれた』考えなど持ち合わせていない。自分の力だけでなんとかしようとする。

 されど継実は人間だ。人間は甘ったれで、他力本願で、天から祝福されていると思い込む間抜け。そして突き付けられた現実を直視しない、理想主義者である。

 自分は当然助かる。そして自分以外も全員が助かる。

 それ以外の解決を認める気など、一切なかった。

 とはいえいくら継実が認めなくても、『攻撃者』は継実の気持ちなど汲みはしない。いや、或いは攻撃者もまた継実のような『理想主義者』かも知れず、そして継実以上の頑張り屋さんだったのか。

 『攻撃者』は自らの理想を叶えるために、次なる攻撃を仕掛けてきた。



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飢餓領域07

 新たな『異変』の最初のターゲットとなったのは、継実だった。とはいえピンポイントで狙われた訳ではなく、ただ単に誰よりも一番最初に攻撃を受けたというだけの事。

 

「ぐ、か……あっ……!?」

 

 声を絞り出しながら、継実は己の喉を掻き毟る。口をパクパクと開閉させ、荒い呼吸を繰り返す。

 だが、息苦しさは消えない。

 『窒息』しているのだ。正確にはそこまで辛い状態ではないが、明らかに身体に酸素が足りていない。それは感覚的な話ではなく、能力による解析で把握した血中酸素濃度からも確かな事だ。

 見ればモモとミドリも苦しそうにし、ミドリはぺたりとその場にへたり込んでいる。マッコウクジラの様子は分からないが、彼の血中酸素濃度も低下している事から、少なくとも真っ当な状態ではないだろう。ぶしゅうぶしゅうと、上向きの鼻穴が荒々しく息をしている事からも彼の苦しさが窺い知れた。

 

「継実……正直、ヤバいわ。力が全然出せないから、小さな魚も釣れやしない。補給は、ここで打ち止めよ……」

 

 体力回復用の魚を釣っていたモモから上がる報告。酸素がなければエネルギーが作られないのだから、血中酸素濃度が低下すれば力が出ないのは当然だろう。ミュータントの能力が量子ゆらぎという無限の力から引き出されていても、その使用にはカロリーが必要なのだから。

 魚というカロリー供給がなければ、いよいよ体力を回復する術がない。時間稼ぎも出来なくなり、継実も僅かに焦りを滲ませた。

 尤もマッコウクジラが突如として沈み始めた事に比べれば、些末な焦りだったが。しかも頭を下にした自主的な潜航ではなく、横たわったままの体勢で沈む……まるで『沈没』するかのように。

 

「きゃあああああああああっ!?」

 

「ちょ、沈んでる沈んでる!? もうちょっと頑張ってよ、ほら!」

 

 悲鳴を上げるミドリの傍で、モモがばしんばしんとマッコウクジラの背中を平手で叩く。

 酸欠で力が衰えているとはいえ、ミュータントのパワーであれば一般家屋を粉砕する程度の破壊力はあるだろう。それだけの強さで叩かれれた事で気合が入ったのか、マッコウクジラはびくんっと身体を跳ねさせるや大慌てといった様子で浮上。どうにかもう一度海面近くまで浮かんでくれる。一息吐いたようにぶしゅっと潮を吹く。

 

「あ、危なかったんだなぁ。危うく寝るところだったんだなぁ」

 

 そして彼の体調が、継実の想像以上に悪い事を語った。

 

「寝たら死ぬって、雪山じゃないのに聞く羽目になるとは思いもしなかったわ……」

 

「彼が寝たら、あたし達も連鎖的に死にますけどね……いや、あたし達の方が先に死ぬかも……正直あたし、今かなり眠くて……」

 

 モモの言葉に、ミドリが弱音を吐く。虚ろなミドリの眼差しに悪質な冗談を言う気力なんてない。何処までヤバいかは分からないが、あまり長くは堪えられそうにない様子だった。

 勿論問題は自分達とマッコウクジラのどちらが先にくたばるかではない。このままではタイムリミットはそう遠くないという事だ。

 

「(考えろ……考えろ……身体は動かなくても、まだ頭は働くんだ……考え続けろ……!)」

 

 正体不明の存在からの攻撃。何はともあれ、何かを知らねば対策など出来やしない。酸欠の苦しみに藻掻きながらも、継実は思考を巡らせる。

 まず自分の身体に起きている異常を振り返る。最初は熱と栄養素が体表面に移動して消えている状態だったが、今では酸素も同じように消えている。状況は悪化しているが、同じパターンの現象である事から攻撃方法は今までと変わっていない筈。第三勢力が現れたという考えたくもない事態ではないだろう。

 熱と栄養素、酸素は体表面で次々と消えている。消えるといえば以前草原で戦った黒い宇宙生物『ネガティブ』を思い起こすが、アイツはあくまでも触れたものを消滅させていた。それに姿を隠すような力も持っていないと思われる。隠していた、或いは個体によって能力が大きく異なるという可能性も否定出来ないが、否定出来ないだけで高くはない。

 恐らく敵はなんらかの海洋生物の『一種』のみ。そいつは虎視眈々と継実達が弱る時を待っている筈だ。しかし周りを見渡しても、怪しい姿は何もない。姿を消している可能性もあるが、そうなるともう何処に隠れているかなんて分かりっこないだろう。

 いや、もしかしたら自分の近くに居るのではないか。獲物が力尽きるのを虎視眈々と狙っている可能性があるので辺りを見渡して……

 

「(って、考えが一周して元に戻ってるし! もっと別の案を出せ私の脳みそ!)」

 

 自分の脳を叱責してみるが、何度考えても同じ考えしか過ぎらず。頭を振りかぶって古い考えを追い出しても、何度も何度も同じところで詰まってしまう。

 結局のところ、情報があまりにも足りない。

 同じ情報を用いて同じ人物が考えたところで、行き着く先は何時だって一つだ。思考の転換を行うには、新しい刺激がなくてはならない。しかし新たに起きた血中酸素濃度の低下も、起きている事象としては今までと変わりない。何か、別角度から見るための情報はないのか。

 探せども探せども、継実には見付けられず。そうなると家族達に頼らねばならない。

 そこで尋ねるは、今も周りを索敵し、一番多くの上方に触れているであろうミドリ。

 

「ミドリ。なんか、周りにいない? 少しでも変なものがあったら、教えて」

 

「いえ……あたしもさっきから、周りを観察しているの、ですが……全然何も……お腹が空き過ぎて、力も出ませんし……」

 

「辛いと思うけど、もう少し頑張って。今はあなただけが」

 

 頼りなの――――そう励ましながら、継実はぽんっとミドリの背中を撫でる。

 瞬間、継実はその目を大きく目を見開く事となった。

 

「……継実、さん……?」

 

 固まってしまった継実を怪訝に思ったのか、ミドリは不安げに声を掛けてくる。しかし継実は固まったまま。

 それどころかさわさわと、撫で回すようにミドリの背中や腕、腹などを触り始める。いきなりの、しかも緊急事態の中でのセクハラ紛いな行為。ミドリは拒むよりも、困惑したように目を白黒させた。

 

「……クソッ! そういう事!?」

 

 そして継実が声を荒らげて叫べば、ミドリはびくりと跳ねるように驚く。

 されどミドリの目には活力が戻る。モモも継実に期待したような目付きを向けてきた。継実が、ようやっと真実に辿り着いたのだと理解したがために。

 しかし継実の顔に余裕は戻らない。ミドリを触っていた手を引っ込めるや、今度は自分の腕を掴むように触る。そうすればミドリに触れた時と同じ感覚が得られた。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()が。

 それを感じた継実は身を強張らせた。ミドリがキョトンとした顔で見てくるが、申し訳ないがそれどころではない。

 継実も改めて自分の身体をあちこち触れてみる。すると何処を触ってみても、ミドリの肌と同じような感触があるではないか。続いて触ったモモの身体からは何も感じられないが、彼女の『本体』は見た目の身体の奥深くにあるもの。こんな偽物の表面を触ったところで何も感じられなくてもおかしくない。

 

「(ああもうっ! 灯台下暗しとはよく言ったもんね! こんな近くにいたのに今まで気付かなかったなんて!)」

 

 継実は今になってその正体に気付く。

 故に継実は、自分の腕を掻き毟った。

 ただ爪を立てて掻くだけではない。ガリガリと激しく音を鳴らし、自分の肉を引き裂くほど強く力を入れていた。普通の人間ならばそんな事をしても簡単には傷付かないが、ミュータントの力を用いれば造作もない。皮は一発で破れ、肉片と血が辺りに撒き散らされた。

 飛び散る血肉を見たミドリが顔を青くしながら、止めようとしてから継実へ手を伸ばそうとする。が、モモがその手を掴んで引き止めた。

 モモは察したのだ。継実の気付いた事に。

 それを証明するためにも、継実は更に自分の腕の皮を掻いて掻いて掻き続ける。血と肉を撒き散らし、核攻撃でもビクともしない身体をボロボロにして……

 

「……ようやく見付けた」

 

 やがてぽつりと独りごちた。これまで向き先を見付けられず溜め込んでいた闘志を瞳に宿し、ようやく出会えた嬉しさを表すように口元に笑みを浮かべて。

 何故なら真っ赤に染まり、凸凹とした自分の肉の中に、白くて硬質の物体が無数に埋もれているところを目にしたのだから……



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飢餓領域08

 大きさは、ざっと一ミリからニミリ程度。

 それはあくまでも腕から()()()()()()部分だけのサイズなので、全体の姿はもう少し大きくなるだろうか。血塗られているので少し分かり辛いが色は白く、形状は先端に行くほど細くて底が平たい、だけど頂上はちょっと平らになっている、例えるなら富士山のような形だ。頂上の平たいところは奥が蓋のような構造をしていて、ぴったりと閉じている。

 表面の材質は岩のようにザラザラしていて、硬さは岩よりも遥かに頑強。全く動く気配もない。もしも異星人がこれを見たら未知の鉱石とでも思うかも知れないが、これでもコイツは地球生まれの、大して珍しくもない生物だという事を継実は知っていた。

 その名は『フジツボ』。

 岩礁などに付着している、海に行けば何処でも見られる生命体……それが継実の()()()()()()()()()()()()のだ。

 しかも何十もの数が、びっしりと。

 

「ひぃ!? な、なん、なんですか、それぇ……!?」

 

「あら、ミドリもフジツボなら一回ぐらい海で見てるんじゃない? 海の岩場とかに付いてたでしょ。アレよアレ」

 

 恐ろしく、何より生理的嫌悪を煽る光景にミドリが恐怖で顔を引き攣らせたが、モモに問われて一瞬怪訝そうな表情を浮かべた。

 そして思い出したのかハッとした顔になり、直後その顔は恐怖に染まる。

 

「あ、アレ、寄生生物だったんですか!? というか継実さんの身体の中にいるって事は、あたし達の身体にも!?」

 

「いや、岩場でプランクトンとか食べてる生き物で、別に寄生生物じゃないよ。ないけど、ミュータントだからどんな変化しててもおかしくないしなぁ……ミドリの身体にもいるのは、手触りで分かったし。多分モモとマッコウクジラにもいるんじゃないかな」

 

 ミドリの意見に否定とも肯定とも付かない反応を示しながら、継実はフジツボについて思い出しつつミドリに話す。

 フジツボは世界中の海で見られる、甲殻類の一種だ。

 それは七年前だけでなく、現代でも変わらない。あまりにも数が多過ぎる上に基本海中以外では動きもないので、目にしてもわざわざ認識する事もないような存在だ。一見すると甲殻類どころか生物であるかも怪しい外見であるが、硬い殻の中にはちゃんと節足動物が入っている。海中では殻の蓋が開いてブラシのような脚が出て、これで海中のプランクトンを掻き集めて食べるという。そして何処かに付着した後は、一切移動を行わない。筋金入りの固着生活者なのである。

 しかも彼等の付着場所は岩場だけに限らない。

 貝殻やウミガメの甲羅、更にはクジラの体表面などの生物体にも付着するのだ。付着するといってもこれらのフジツボは正確には寄生している訳ではなく、岩場なんてない大海原で住処を求めて適応した結果。そうしたフジツボは宿主の体組織に埋没し、組織へのダメージや泳ぐ時の抵抗増加などのちょっとした不利益を与えつつも、あくまで海中のプランクトンを食べて生きていた。少なくとも七年前の文明崩壊前までは、寄生性のフジツボは発見されていない。

 しかしミュータントの適応力の凄まじさ、或いは貪欲さを思えば、生体組織という栄養分の塊に手を付けないとも考え辛い。そもそも人類が全てのフジツボを発見していたとは限らず、これまで確認されていたものとは全く異なる生き方の種が何処かにいても不思議はないだろう。

 そう、それが実在する理由なんていくらでも考え付く。だから大事なのは、自分の身体を襲っている事態を正確には把握する事。

 生物体から栄養を奪い取る、寄生生活に特化した新種のフジツボ――――それが自分達の身体に取り付き、そしてこれまで栄養分を奪い取っていた元凶なのだと。

 

「(肉眼での確認は出来るけど、能力を使った索敵には引っ掛からない……隠密に特化した能力か)」

 

 恐らく、この辺りの海中には無数のフジツボ幼生が漂っているのだろう。マッコウクジラは泳ぐ中で、継実達は波などを被った際にその幼生が身体に付着。幼生は体組織内に潜り込み、栄養分を吸いながら着々と成長していた訳だ。

 そしてこの寄生フジツボは、この海域の生物にとってはごく有り触れた存在に違いない。マッコウクジラの周りに集まった魚達はフジツボにやられた生物の『末路』を知っていて、やがて力尽きると知っていたから集まっていたと思われる。

 ……当の魚達自身は、寄生されないよう様々な対策を施しているのだろうが。そうでなくては寄生された継実達に近付くどころか、この海で暮らす事など出来まい。

 

「(つまり、なんらかの対処方法がある訳だ)」

 

 最低一つは、この厄介な寄生生物を撃退する術がある。少しだけ気が休まる情報だ。

 とはいえそれを継実達が使えるとは限らない。自然界というのはゲームのように、『主人公』なら攻略出来るという風には作られていないのだから。撃退可能という事実は、継実にとっては気休め程度の価値しかない。

 されど何はともあれ、色々試してみなければ始まらない。それに現状はあくまで異変の正体を見破っただけ。タイムリミットが刻々と迫っている現状に変わりはなく、のんびりと考えている暇などないのだ。幸いにして相手は筋金入りの固着生物。考え付いた作戦を実行するのに、大して苦労はないだろう。

 

「さぁーて、犯人を見付けた訳だけど、どーすっかなぁこれ」

 

「そりゃ、最初は物理的に除去でしょ」

 

「あんま上手くいく気はしないけど、やってみないと分かんないか」

 

 モモからの提案に従い、継実は物理的除去――――つまり攻撃による破壊を試みる。

 まずは爪先でガリガリと引っ掻いてみる。ただの引っ掻き攻撃に見えても、ミュータントの爪と力でこれをやれば合金ぐらい簡単に傷付けられる威力だ。人類文明が作り出したどんな装甲でも、自由に破壊しただろう。

 しかし此度の相手は超合金なんて『軟弱者』ではなく、見た目からして防御特化のミュータント。引っ掻いてもフジツボ達に傷が付く気配はない。むしろこちらの爪が砕けそうだと継実は感じた。このままやっても埒が明かないだろう。

 ならばと、次は指先から粒子ビームを撃ってみる。

 勿論普段撃っているようなものではなく、直径一ミリ程度の極細ビームだ。照射するエネルギー量も少ない。しかしその分密度は高くしており、単位面積当たりの威力は普段のものより数段強力なものとなっていた。この一撃で粉砕、それが出来なくても焼き払ってしまおうという目論見である。

 されどこれも通じない。フジツボ達の白い甲殻は途方もなく頑丈で、粒子ビームを容易く弾いていた。照射された場所の温度も殆ど上がっていない有り様である。耐熱性、或いは断熱性も極めて高いらしい。

 このまま攻撃を続けても無駄だと判断。継実は粒子ビームを止め、苦々しく顔を歪めた。

 

「駄目だこりゃ、私の力じゃ壊すのは無理だな。後はどうしたもんか……」

 

「じゃあ、とりあえず肉ごと削いでみる?」

 

「そっ……!?」

 

 モモが提案した生々しい作戦に、ミドリがギョッとした表情を浮かべる。

 自分の肉を削ぐというのは、『文明的』な価値観でいえば背筋の凍るような処置だろう。七年前なら継実だって拒んだに違いない。

 しかし今の継実は躊躇わない。心臓を貫かれたり、足一本持っていかれたりするぐらい日常茶飯事なのだ。今更腕の肉をごっそりと削ぐぐらい、掠り傷のようなものである。

 「まぁ試しにね」と言って継実は躊躇いなく自分の腕の肉を削ぐべく、もう片方の手を肉が剥き出しになった腕に突き立てた。ミドリがもう何に怖がっているのか分からないぐらい複雑な表情を浮かべていたが、継実は構わずぐりぐりと、骨が露出するぐらいの勢いで自分の肉を穿ろうとする。

 ところがこれが上手くいかない。

 

「(硬い……いくらなんでも硬過ぎる)」

 

 自分の腕が、あまりにも硬くなっていたがために。

 継実の身体は原水爆の直撃ぐらいなら、問題なく耐えるだけの強度を有す。その気になれば表皮だけでなく、内臓や血管も同程度の頑強さを持つ事が可能だ。

 しかしそれは粒子操作能力の応用であり、継実の意思でコントロール可能な性能である。今回のように自分の身体を抉りたいと思えば七年前の時よりも柔らかくする事だって難しくない。そもそも継実の『腕力』を用いれば、自分の身体の硬さを乗り越えるぐらい造作もないのだ。硬くて抉れないなんて、普通ならあり得ない。

 尤も、普通の状態でない事など最初から明らかである訳だが。

 

「このフジツボ、私の身体をなんらかの方法で頑丈にしているのか……!」

 

 全てではないにしても、心臓を貫かれても平然としているのがミュータント。寄生箇所の肉を削ぐ程度の対策は、きっと幾度となく行われてきた事だろう。故にフジツボはその攻撃に対応すべく、自分の周りを硬くするような力を持つに至ったのだ。

 ならばと継実は腕を形成している粒子に能力を発動。分子結合を解き、バラバラにしてやろうとしたのだ。その後再度結合すれば腕は元通りで問題解決……となる筈だったが、何故か上手く腕がばらけてくれない。なんらかの力で強引に『纏められている』ような感覚がある事から、フジツボが能力で妨害している事が窺い知れた。この強引な方法も通じないらしい。

 この調子だと腕ごと切り落とそうとしても、恐らく防がれるだろう。

 

「まぁ、こんな簡単な方法で引き剥がせるなら苦労はないわよねぇ……継実、ちょっと電気流すわよ」

 

 モモはそう言うと継実の、肉が剥き出しになった腕に触れた。

 電気攻撃でフジツボを撃退出来ないか確かめるつもりだ。ならば他人じゃなくてまずは自分の身体で試せ、と言いたいところだが……モモの電撃はあくまでも体毛を擦り合わせて生み出したもの。そのため実のところ、モモの『本体』はミュータント化していないパピヨンと同程度の耐久性しか持ち合わせていない。

 当然普通のパピヨンは雷以上の電撃に耐えられるような強さなんてなく、モモは自分が作り出した電気を自分に流す事が出来ないのだ。正確にはやってやれない事はないだろうが、力加減が難しく、そして加減した力では仮に弱点だとしてもミュータント化したフジツボには通じないだろう。しかし継実の身体であれば、生身でモモの電気に耐えられる。

 七年間の付き合いがある継実とモモは、わざわざ言葉を交わさずとも事情を知っている。準備が済んだと示すために頷けば、モモはすぐに触れている指先から電流を流してきた。

 流し込まれる雷以上の電撃。継実は自分の身体の水分と塩分濃度を調整し、その電流をあえて全身に流す。抵抗しようとすれば電気が熱に変わり、全身を焼いていく事だろう。しかし大人しく流してしまえば、継実の身体が電気で壊される事はない。

 対してフジツボはどうか? 果たして無事に耐えられるのか。

 答えは――――なんの問題もない、だった。

 フジツボの表面は優れた抵抗性を発揮。流れてきた電撃を、さながら絶縁体のように防いだ。電撃がフジツボ内部に流れる事はなく、全て弾かれてしまう。

 この方法も通じず。

 

「ちっ……効いてないわねこりゃ。この辺を泳いでるサメが電気使いだったし、電気ならいけるかもって思ったんだけどね」

 

 モモなりに考えた作戦だったようだが、効果がないと分かればすぐに止める。電撃を止めた後モモの息は上がっていて、今の電撃で相当消耗した事が窺い知れる。

 元々自分達はかなり体力を消耗している状態だった。身体の小さなモモは蓄積しているエネルギーが少なく、特に消耗が激しくてもおかしくない。これ以上消耗すればいよいよ命が危ないだろう。もうモモに能力はあまり使わせられないと継実は思う。

 次なる手は、ミドリに頼む。

 

「ミドリ、コイツ等の神経の中身をぐっちゃぐちゃにしてやって!」

 

「は、はい!」

 

 ミドリの脳内物質操作をフジツボ達に喰らわせる。甲殻の強度は確かに驚異的だが、ミドリの能力なら硬さなど関係なく貫通する事が可能だ。そして甲殻類であるフジツボの脳は脊椎動物と比べれば極めて単純だが、それでもなくてはならない器官の一つ。神経系を狂わされれば速やかに死に至る筈だ。

 とはいえミュータントは何故かこの攻撃に対する耐性持ちばかり。だからフジツボ達に通じるとは正直継実は思っていなかったが……恐らくフジツボ達は本当になんの防御策もなかったのだろう。

 

「ぅぐあ!?」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()

 ミドリからの攻撃を受けて、フジツボ達はイオンチャンネルを著しく狂わされたのだろう。そしてその濃度を体内の物質や能力で調整する事は出来なかった。

 しかし自分の体内物質の濃度を、自分の体内だけで調節しなければならないなんてルールはない。

 攻撃を受けたフジツボ達は、継実の神経系にあるイオンを急速に吸い上げ始めたのだ。攻撃により足りなくなった物質は外部から補給すれば良い。なんとシンプルで分かりやすく、何より効果的な対処方法なのか。

 それにこの方法なら、攻撃が通じなくなる事と宿主の体内イオンの枯渇が同義。『治療者』が患者を殺して、初めてフジツボはダメージを受けるようになる訳だ。治療そのものを無駄な行いにされてしまっては、治療者にはもう手出しも出来ない。

 

「え!? つ、継実さん!? ど、どうしたのですか!?」

 

「だ、大丈夫……なんとかした、けど……駄目だ。その攻撃は、こっちの身が持たない……」

 

 継実の言葉で、自分の力が悪い方に働いたと察したのだろう。ミドリはすぐに能力を止め、後退りし継実から離れる。ミドリはすっかり怯えたような表情を浮かべていた。

 命じたのはこっちなんだから気にしなくて良いよと継実は伝えたが、それでもミドリの顔の曇りは消えず。申し訳ない事をしてしまったと反省するが、後悔している暇は残念ながらない。

 直接的な除去は駄目。電撃も駄目。イオンチャンネルの掌握も駄目。

 思い付きでそれぞれの得意な技で攻撃してみたが、まるで効き目がない。一体この頑強な甲殻類は何が弱点なのか、継実は答えを得ようと思考を巡らせる。

 ――――時間さえあったなら、継実は答えまで辿り付けたかも知れない。

 されど敵の正体に気付くのに、あまりにも時間を掛け過ぎた。例え数分程度の遅れだったとしても、いや、数秒でも遅れたなら勝機が変わってしまうのが今の世界だというのに。

 愚鈍なモノの末路は一つ。

 

「も、もう……無理なんだぁ」

 

 終わりを告げるのは、マッコウクジラのギブアップ宣言。

 継実が反応を示すよりも早く、マッコウクジラの身体が一気に海へと沈み始めた。



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飢餓領域09

「きゃあああああっ!?」

 

 突然『地面』が海に沈み始めて、ミドリが悲鳴を上げた。

 継実とモモは悲鳴こそ上げなかったが、表情を引き攣らせる。自分達の置かれている状況がどれだけ不味いか、それを理解しているのだから。しかしこの困難を解決する手段など、今の継実達は持ち合わせていない。

 陸地――――マッコウクジラが沈没したら、海中に放り出された自分達なんてどうしようもないほど無力だというのに。

 

「マッコウクジラ! もうちょっと頑張っ、ぐぶっ!?」

 

 なんとか励まそうとする継実だったが、マッコウクジラの沈没は止まらず。一気に沈んだ継実の顔を海水が襲う。

 本来継実はそれなりに泳げるし、能力も使えば水泳ぐらい楽なものだった。されど今の継実は体力を失い、フジツボ達の所為で自由に身体を動かせない有り様。モモとミドリも似たようなものである。

 三人全員が大海原に投げ出され、浮かび上がるどころか急速に沈んでしまう。

 継実は能力で水を分解し、なんとか酸素を確保。モモとミドリにも送って水中での呼吸を確保した。が、フジツボ達がどんどん血中の酸素を吸っていて、供給がまるで間に合っていない。モモは更に自力で酸素を作り出していたのでまだマシだが、ミドリは殆ど呼吸が出来ていないのか非常に苦しそうな表情を浮かべていた。

 自分達よりも高速で沈んでいくマッコウクジラも、きっとミドリのような苦しさを感じている事だろう。

 

「(いよいよ、なんとかしないと不味い……!)」

 

 今まで幾度となくピンチに陥った事のある継実だが、今度という今度は本当に駄目かと思い始める。だが、それでも諦めるという選択肢を選ぶつもりはない。危機的状況だからこそ冷静さと策が必要だと言い聞かせ、酸欠で朦朧とする頭をフル稼働させて思索を巡らせた。

 まず、()()()()()()()()()()()

 酸欠状態の自分達だが、止めを刺される時はあとほんの少しだけ先だ。意識がまだ残っているのもそうだが……周りにいる無数の魚達が、未だこちらに襲い掛かろうとしないためである。

 最初魚達が襲い掛かってこないのは、マッコウクジラが原因だと継実は考えていた。実際全く気にしていないという事はあるまい。だがそれよりも重視していたのは、恐らくフジツボの方だ。フジツボが元気に栄養を吸っているから近付きたくない。おこぼれは欲しいが、フジツボ達の機嫌を損ねるリスクは犯したくなかったのだろう。

 それほど恐れられているフジツボだが、しかし魚達がこうして暮らしている事から、間違いなく対策はしている筈。恐れているのはフジツボの数が多いと対策が通じなくなるのか、はたまた単に鬱陶しく思っているだけなのか……

 

「(って、そんなの今は関係ない!)」

 

 意識が朦朧としているからか、関係ない方に考えが逸れてしまった。頭を海中で振りかぶり、再び継実は思考の海に飛び込む。

 意識が逸れたといったが、しかしよく考えてみればそれは無意味な詮索ではないだろう。魚達はこの海で暮らしていて、フジツボに対してなんらかの対策をしている筈なのだ。だからそれを真似すれば、もしかしたらこの状況を逆転出来るかも知れない。

 マッコウクジラの上にいた時は出来るかどうかも分からなかったので一旦保留にしてたが、ここまで追い詰められたら最早その対策に縋るしかない。

 そしてヒントはある。魚達やその他動物達などこの付近に生息する生物の能力だ。ミュータントが誇る超常の力を破るには、同じく超常の力を用いるしかない。能力をそのまま使っているとは限らないが、応用するなどして対応している筈だ。

 そう、きっと今もやっているに違いない。

 

「(一体何をしている……!?)」

 

 継実は薄れそうになる視界をこじ開け、周りを見渡す。

 自分達の周りをぐるぐると回遊する、多種多様な魚達。ギラギラと食欲を滾らせた瞳が、こちらをじっと見つめていた。

 モモが釣り上げた二種類の魚の姿はすぐに見付けられた。マグロのような魚は身体をぶるりと震わせながら発熱し、サバのような魚は遠赤外線を放出している。その近くを泳ぐサメはバチバチと稲妻を走らせ、電気を纏いながら泳いでいた。

 イワシのような小魚が無数にいたが、それらは引力を操る力があるのか、体表面の組織を高密度で保持している。クラゲとウミガメは身体を震わせ、衝撃波を発し続けていた。海鳥は身体が赤熱するような速さで海中に突入し、チラチラと継実達を見ては浮上している。

 一体なんだ? この海域の生き物達は、一体どうやってフジツボを撃退している? モモが釣り上げた魚、釣ろうとした魚の能力はなんだったか? そして今、自分達を襲おうとしている生き物達の能力は――――

 

「っ……!」

 

 考え続ける継実だったが、もう息が続かない。ごぽりと口から出てきたのは二酸化炭素と窒素の泡で、酸素なんてもう何処にもなかった。

 フジツボが体内の酸素を吸い尽くしたのだ。

 そうなれば継実の身体から酸素を得ていたフジツボ達も、勿論酸欠になる。しかし奴等は別段継実達の身体に拘る必要はない……いや、或いは次のステージに達したというべきなのか。

 継実の全身から、ぼこぼことフジツボが姿を表し始める。

 手も、足も、胸も背中も額も関係ない。フジツボ達は全身の至るところの皮膚を突き破り、表にその姿を晒す。宿主に与えるダメージなどお構いなし。出血の赤さが海中に広がり、フジツボの白い身体という、グロテスクな紅白模様が海中に描かれる。フジツボ達の先端の蓋が開閉しているのは呼吸のためかも知れないが、継実の身体から未だ酸素を奪い続けていた。

 奪うのは酸素だけではない。栄養分も未だ収奪し続けている。全身の細胞があらゆる物資の不足から、活性化どころか機能の維持すら覚束ない有り様。指一本動かすだけでも、鉛のように重くてどうにもならない。

 視界は掠れ、身体は動かず。それでも継実は僅かな気力を振り絞り、モモとミドリに目を向けた。目にエネルギーを集結させてなんとか視力を確保してみれば、ミドリも自分と同じく全身からフジツボを生やし、紅白の美しくて不気味な色彩を滲ませている姿を目の当たりにする。モモの姿は何時もと変わらないが、身体から赤黒いものが滲み出ていたので、体毛で編まれた身体の下は継実達と似たような状態だろう。

 三人全員、ろくに戦える状態じゃない。いや、逃げる事すらろくに出来ない体たらくだ。

 これだけでも最早詰みに等しいのに、状況の悪化は止まらない。継実達の出血に反応したのか、周りの魚や生物達がざわめき始めたのだ。泳ぐ速さが増し、一層ギラギラとした眼差しでこちらを見つめ、堪えられないと言わんばかりに口をパクつかせている。水中なので涎は確認出来ないが、今頃だらだらと撒き散らしている事だろう。

 海洋生物達の食欲は極限まで膨れ上がっている。今はまだフジツボを警戒してか襲い掛かってこないが、そろそろ我慢出来なくなった奴が出てきてもおかしくないだろう。その中で一番短気な一匹が動き出せば、釣られて周りの何百何千も動き出す。動かねば食いっぱぐれてしまうのだから。

 何時どうなるかは分からないが、そろそろ『終わり』が迫っている。これをご都合主義的な奇跡なしにどうにか出来るとは、継実には到底思えない。

 

「(ク、ソが……このまま、大人しく、やら、れてやる、もんか……!)」

 

 それでも継実は諦めない。終わりだとしても大人しく餌になるつもりはないと、全身の細胞からエネルギーを捻り出す。それこそ細胞が傷付こうと、生命力を削ろうとも、気にも止めずに。

 けれども意識の薄れは止まらず、ついに視界も真っ暗に染まってしまう。身体からも力が抜け、ふわりと海中に漂うだけ。

 そして、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「チョーシに乗ってんじゃねぇぞ……」

 

 海中に響き渡るどす黒い声が、閉じかけた意識をこじ開けた。



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飢餓領域10

 ぞわりと、全身に悪寒が走る。フジツボだらけでボロボロになった肌に、無数の鳥肌が立つ。

 本能が警告を発していた。この声に逆らってはならないと。ニューギニア島で遭遇した大蛇やヒトガタほどのパワーはなくとも、自分達では決してどうにもならない、破滅的で絶対的な力がそこにあるのだから。

 酸素もエネルギーも尽きた身体で聞かされた、想像を絶する力の存在。しかし継実は絶望なんてせず、むしろ身体に活力が戻ってくるのを覚えた。

 何故ならその声には聞き覚えがあったから。

 

「(……マッコウクジラ?)」

 

 心の中で呟きながら、継実はその目を海底方向へと向ける。

 全身の力を視力に費やして見てみれば、継実達の下数十メートルほどの位置にマッコウクジラの姿があった。

 継実達より一足先に沈んでいた彼もまた、全身から大量のフジツボを生やしていた。いや、最早全身の九割近くがフジツボで、彼自身の皮膚など殆ど見えない有り様だ。身体の大きさが継実達とは全然違うので、どの程度消耗しているかは分からないが……自力での浮遊が出来なくなって沈んだぐらいなのだから、かなり衰弱しているのは間違いない。

 だが今の彼はもう沈んでいない。大きく広げたヒレを器用に動かし、その場に浮かんでいる。しかし決して休んでいる訳でない事は、全身から発せられ、時間と共に高まり続けている『闘志』からも明らかだ。

 何より。

 

「チョーシに……乗ってんじゃねぇぞこの虫ケラ共ガアアアアアアアアアアアアアッ!」

 

 仲間である自分達すら背筋が凍る、怒りに塗れた声が彼の心情を物語っていた。

 次の瞬間、マッコウクジラはその全身から虹色の光を放つ!

 光といったが、それが可視光線の放射でない事を継実の目は理解する。マッコウクジラが放ったのは、正確には『音波』だ。超音波と呼ぶのも生温い、超々高周波の音が放出されている。異常なまでに振動数の多い音は水分子を震わせる事で加熱。瞬時に沸騰させるだけでは留まらず、一気にプラズマ化させていた。電離化した大気は莫大な熱だけでなくあらゆる波長の光も放出し、それが虹色の光という現象を引き起こしたのだ。しかも自分の身体まで加熱しているのか、全身の肉までも赤熱している有様である。

 これが、マッコウクジラの能力か。

 

「(確かに、マッコウクジラは音を使って獲物に攻撃をするとか聞いた事あるけど……)」

 

 だとしても浴びた相手をプラズマ化させる音とは、なんとも凄まじい。感じ取れる出力からしても、継実では到底受け止められそうにないパワーだ。例えるなら、全身から粒子ビームの数十倍もの力を放出しているようなものだろうか。

 これならフジツボなんて跡形もなく……などと思う継実だったが、マッコウクジラ体表面を覆うフジツボ達の外観に変化はない。奴等の頑強な甲殻はマッコウクジラの攻撃でも砕けぬほどらしい。

 これでも駄目かと継実は顔を顰めた、が、その表情はすぐに驚きに染まったものへと変わる。

 マッコウクジラの体表面から生えていたフジツボ達が、ざわざわと蠢き始めたのだ。

 何か、新たな事を始めようとしているのか? そう思う継実だったが、どうにも様子がおかしい。フジツボ達の動きは妙に忙しなく、不規則で、慌てているように見えたからだ。それに皮を突き破って姿を現したとはいえ、まだまだ埋没しているその身がどんどん表に出てきている。

 やがて、一個のフジツボがぽんっと海中に抜け出た。

 まるでその一個を合図とするように、次々とフジツボ達が抜け出ている。マッコウクジラから離れたフジツボは、今まで蓋をしていたてっぺん部分を開き、中から櫛状のヒゲのようなもの ― 正確には脚が変化したものだ ― を出し入れしていた。なんらかの能力を使っているのか脱出したフジツボ達はゆらゆらと、なんとも下手くそな泳ぎ方でマッコウクジラから離れていく。

 フジツボの顔は殻の内側であるし、見えたところで甲殻類の顔なのだから感情など窺い知れないだろう。しかし継実は奴等の動きから、その気持ちが手に取るように理解出来た。

 奴等は逃げている。

 マッコウクジラの攻撃から、必死に逃げているのだ!

 

「ようやく顔を合わせられたなぁ……」

 

 全身から剥がれ、四方八方に散っていくフジツボを見て、マッコウクジラが唸るような声で語る。

 フジツボが剥がれたところで、失われた体力が回復する訳ではない。しかしマッコウクジラの身体が放つ力はどんどん高まっていく。

 やがて彼は遠く離れたフジツボの一群に、頭の先を向けた。

 

「今までの礼ぐらいさせろよクソ虫共オオオオオオオオオオオオ!」

 

 そして咆哮と共に、頭の先から『極大のビーム』を放つ!

 正しく言うならビームではなく、音波だ。それも先程全身から放っていた、粒子ビームの数十倍の威力を持つ光を一点集中したような力。名付けるなら超高出力音波砲、だろうか。

 マッコウクジラは大きく膨らんだ頭から音波による『遠隔攻撃』を行い、ダイオウイカのように大きくてリスクある獲物を安全に仕留めるという。勿論それは七年前までの、ミュータント化する前のマッコウクジラの話。だがマッコウクジラという種はこの能力をミュータントになっても引き継いでいたようだ。

 超高出力音波砲は水分子を瞬時に崩壊させ、光と熱を放出。これが一見してビームのような見た目を作っているのだと、継実の目は捉えていた。しかしそれにしても、()()()()()()()の極大ビームはあまりにもインパクトが大きい。勿論威力も見た目相応だ。

 そして超高出力音波砲は逃げているフジツボ達を正確に捉え……泳ぎの遅いフジツボ達は逃げる事も出来ずに直撃。マッコウクジラが全身から放った超音波攻撃には耐えたフジツボだったが、此度の極大ビームには成す術もなし。浴びた瞬間に蒸発、いや、消滅するように吹き飛ばされた。

 粒子ビームの数十倍の威力の光にも耐えた甲殻が消滅するとは、あまりにもインチキ染みた破壊力。しかもこれだけの威力を持ちながら、マッコウクジラにとって左程負担はないのか。超高出力音波砲は何秒も放ち続けられている。

 何より、怒りがまだ収まらないのだろう。

 マッコウクジラは自身の身体をぐるりと一回転させ、超高出力音波砲を撒き散らす! 逃げ惑っていたフジツボだけでなく周りにいた魚などの海洋生物も巻き込んだが、マッコウクジラはお構いなし。怒りに任せて撃ちまくり、フジツボ諸共殲滅していく。

 これが、大海原に生きる頂点捕食者の力なのだ。

 

「フシュウウウウウウウウウ……!」

 

 一通り音波を吐き終え、スッキリしたのか。荒々しい吐息を水中で吐くマッコウクジラ。身体の発光も収まり、傷だらけながらも元の黒い色合いに戻っていく。その傷もみるみる塞がり(どうやら音波を身体に流す事で血流を活性化。細胞分裂を促進しているらしい)、生命力の強さを見せ付けた。周りはすっかり静まり返り、彼がもたらした破壊の大きさを物語る。

 それからマッコウクジラは急速浮上。継実達の前までやってきて。

 

「だなぁぁぁぁ……な、なんかみんな大変なんだなぁ。ボカァに手伝える事はないのかなぁ?」

 

 急に今まで通りの、弱気な言い方で訪ねてきた。

 先程までと全く違う言葉遣いに、継実は水中でずっこけてしまった。二重人格なのアンタ? と聞きたくなったが、恐らくどちらも素なのだろう。人間のように『キャラ』という縛りはなく、思った通りに行動するだけで。こちらを助けたいのも、折角の話し相手を失いたくないからだろう。

 しかし助けようとしてくれる、その言葉だけでも継実にとっては嬉しい。

 何より、彼のお陰で打開のための策が思い付いたのだ。

 

「大丈夫、何も問題ないよ。あなたのお陰で、なんとかなりそうだから」

 

 水分子を震わせて声を発した継実は、自らの身体を丸めるように縮こまらせた。それからどうにか、自分の細胞に残っている僅かなエネルギーを絞り出し……

 継実は自らの身体を発熱させた。数千、数万度という高温に達するまで。

 思い返すは、この海域に暮らす海洋生物達。

 イワシのような魚は体表面を高密度にしていた。物質は密度が上がると温度が上がっていく。

 サバのような魚は強力な遠赤外線を放っていた。遠赤外線は物体を加熱する性質を持つ。

 マグロのような魚は全身の筋肉を震わせて発熱していた。超高温を出すというそのままな能力だ。

 サメの電流だって流せば熱が発生する。自分の身体に電気を流せば、超高温まで加熱出来るだろう。クラゲやウミガメの使っていた衝撃波を発する振動も、使い方を変えればマグロのように身体自体が高熱を生み出す。海鳥は超音速で突っ込む事で、海水が沸騰するほどの高熱を発していた。摩擦熱によるものなら、海鳥自身の身体も相当熱くなっている筈。それが身体の赤熱という形で現れていたのだろう。

 どの生物も『高温』を生み出すのだ。それも自分の『体温』を上げるという事が出来る形で。マッコウクジラの全方位音波から逃げたのも、マッコウクジラが発した内熱を避けるためと考えれば辻褄が合う。つまりフジツボは、体内からの高体温に弱いのである。

 何故高体温に弱いのか? 自分の身体で試してみて、継実にも理解出来た。フジツボ達の白い甲殻自体は非常に頑強で、粒子ビームにも難なく耐えるぐらい熱に強いのだが……その殻に守られている中身は左程熱に強くない。そしてフジツボ達は熱や栄養素を自在に吸い取る力はあるのだが、()()()()()()()()()()()()()()()()()()のである。だから宿主の身体自体が超高温になると、その高温が流れ込んできてしまい、甲殻内に隠れ潜んでいる本体がダメージを受けてしまうのを避けられない。

 エネルギー吸収系は限界以上の力を流し込んで倒す。数多のバトル漫画で使われていた手法が、このフジツボ達にも有効だったのだ。

 

「ぐ、ううううぅぅぅぅぅ……!」

 

 継実は唸り声を上げた。しかしこれは自分が発した熱による呻きではなく、激しいエネルギー消費に伴う疲労によるもの。継実の身体はその気になれば、自力で数万度の高熱を出せるのだから。

 継実の発する熱を受けたフジツボ達は、ざわざわと蠢き出す。熱くて堪らない、早く逃げないとといわんばかりに次々と肉の中から這い出し、そして大海原を泳ぎ出す。

 発熱を始めてから五分も経たずに、継実の身体からフジツボ達は全員逃げ出した。今までの頑強さが嘘のように呆気なく解決し、継実も少し呆気に取られてしまう。しかし呆けている暇はないとすぐに思い出し、頭を振りながら緩んだ思考を引き締めた。

 まずは身体中に出来た穴を修復。突き破られた事で中身が露出していた傷口を全て塞いだ継実は、モモとミドリの下に向かおうとする。勿論二人の治療をするために。

 されどモモの方は、既にフジツボが辺りに漂っている状態だった。ぶるぶると身体を震わせたモモは、随分とスッキリした表情を浮かべている。どうやら自力でなんとかしたらしい。恐らく体毛を体組織に突き刺し、フジツボがいる場所の根元だけに通電・加熱したのだろう。生身部分はほぼミュータント化していない犬と変わらないモモにとって決して小さなダメージではないが、止血や消毒も兼ねていると思えば悪くない手だ。

 残す問題はミドリ。彼女は既に失神していて自力での回復は出来ないし、そもそも能力的に自力での撃退が難しい。

 彼女だけはこちらが助けないとどうにもならない。

 

「マッコウクジラ! 私達を背負って浮上して! 海上でミドリを治療する!」

 

「分かったんだなぁ」

 

 継実が指示を出せば、マッコウクジラはすぐそれに応えてくれた。彼は継実達の真下に潜り込み、そのまま浮上。継実達三人と共に背中を海面に出す。

 

「ぶっはぁ! あー、ようやく普通に息が出来るわ……」

 

 久しぶりの空気にモモが感動したように声を出す。

 継実としても同じ気持ちだが、感動に浸る暇はない。今はミドリの治療が最優先だ。継実の所見ではミドリは呼吸が止まっていて、細胞そのものが飢餓で瀕死の状態になっている。七年前の人類文明なら、打つ手なしといって匙を投げるところだろう。

 とはいえやるべき事が分かっていれば、継実が迷う事はない。継実はフジツボだらけのミドリの肌に手を翳すと、能力によりミドリの体組織を加熱していく。その熱量はミドリの全身を軽く数千度まで加熱するほど。普通の人間なら一瞬で黒焦げだが、如何に上手く能力が使えない身体といっても人間のミュータントの肉体だ。流し込まれた数千度もの熱にそこそこの抵抗があるようで、ミドリの身体はちょっと焼けた臭いを漂わせるだけである。

 対してフジツボの方はこの程度の熱にも耐えられず、大慌てで這い出してくる。額や腕からぼろぼろと落ちると、海水を求めてか ― 一体どんな力を使っているかは不明だが ― フジツボ達は滑るようにマッコウクジラの背中を滑走。ぽちゃんぽちゃんと音を鳴らして海に逃げていく。

 ミドリの身体が穴だらけになったのと同時に、継実は酸素、それから自分の身体に残っていた栄養素を能力で移動させる事で分け与えた。瀕死の状態だったミドリの細胞は、少しずつ機能を回復していく。自発的な呼吸を再開し、細胞もどんどん活性を取り戻す。

 しばらくすれば、眠りから目覚めるようにミドリは目を覚ました。

 

「……あ……あたし……」

 

「喋らなくていいよ。とりあえず、あのフジツボはなんとかしたって事だけ分かっていれば良いから。あ、それと身体中が穴だらけだから、そっちの治療もしちゃうね」

 

 継実は更に能力を使い続ける。フジツボが這い出した跡である穴を塞ぐために。

 尤もやる事は、ミドリの細胞に対して効率的に酸素や栄養分を送り込むだけ。細胞が最も効率的に働く濃度を探り、その濃度を維持してやれば、細胞は驚異的な活性を発揮して傷を修復してくれる。

 結局のところ治療対象の回復力次第な技。相手の細胞が若くて健康的でなければ出来ない事だ。

 

「……継実さん、自分以外の人の回復も出来たんですね。なんというか、魔法使いみたい」

 

 なのでミドリからこうして褒められると、ちょっと照れてしまう。

 

「そんな便利なもんじゃないよ。相手の回復を手伝っているだけなんだし。まぁ、傷跡ぐらいなら消せるけど……あ、モモも後で治療させてよ。どーせ無茶して身体中傷だらけでしょ? その傷痕を消すから」

 

「えー? もう止血は済んだし、傷なんて消しても消さなくても変わんないし、面倒なだけなんだけど」

 

「女の子なんだから駄目」

 

「そうですね。ちゃんと治してもらわないと駄目ですよ、モモさん」

 

 継実だけでなくモモからも忠告され、モモは心底面倒臭そうに顔を顰めた。野生動物である彼女からすれば、戦いの傷跡が残るかどうかなど興味もない話だろう。

 なんとも普段通りの家族の姿を見ていたら、継実は思わず吹き出してしまう。ミドリもくすりと笑い、和やかな雰囲気が戻ってくる。

 そうして笑えば、ようやく平穏が戻ってきたのだと継実は実感した。

 小さいながらも恐ろしい敵だった。何かが一つでも食い違っていたら、このマッコウクジラ以外の相手と交渉して海に出ていたら、きっと誰一人として助からなかっただろう。しかし自分達はなんとかチャンスを作り出し、それを掴む事が出来た。だからこうして今、生き延びる事が出来ている。

 困難は乗り越えた。その喜びに浸りたいところだが、まずは一休みしたいなと、継実は大きなため息を吐く。

 ――――全てがただの思い込みに過ぎないと知ったのは、その直後の事。

 海から何かが飛び出す音によって、継実の意識は再び油断など許されない野生の世界へと引き戻されるのだった。



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飢餓領域11

 最初継実は、なんらかの『別種の海洋生物』が現れたのだと思った。

 フジツボを撃退したとはいえ、今の自分達は満身創痍の身。獲物としては魅力的な状態だろう……少なくとも継実が海の生き物の立場なら、狙わない理由がない。追い打ちを掛けてくるのは『合理的』な野生動物としてはごく自然な行いだ。マッコウクジラの攻撃により継実達を狙っていた海洋生物達はある程度一掃されたが、彼が狙ったのはあくまでもフジツボである。遠目に観察していたり、或いは素早く逃げていたりした個体が生き延びていたとしてもおかしくない。

 サメかマグロかサバか。いずれにせよ満身創痍の自分達にとって危険な相手なのは間違いない。故に継実は気を引き締め、どんな相手が来ようと冷静に対処しようと努める。それどころか、こっちはエネルギー不足なんだからぶっ潰した後に喰ってやると、前向きな気持ちも抱いた。

 が、その努力は一瞬で崩壊する。

 海面から跳び出してきたのが、大きさ数センチ程度の石ころのようなものだったがために。

 

「アレは、フジツボ……?」

 

 自分達から逃げ出した奴等だろうか? しかしなんでフジツボが水面を跳ねた? 大体なんで遠くに逃げていない? 様々な疑問が継実の脳裏を過る中、事態は更なる変化を起こす。

 水面から出てきたフジツボは、何故か空中で浮遊していたのだ。しかも出てきたフジツボは一つだけではない。二つ三つ四つ……次々とフジツボが姿を現す。そしてどれもが空中で静止し、やがて巨大な塊の一員となった。塊の直径は三メートルほどあり、一体何千何万のフジツボが集まったのか見当も付かない。

 個々の大きさはバラバラであるし、そもそもフジツボの見分けなんて付かないが……恐らくあのフジツボ共は自分達の身体から剥がれ、海中に逃げ込んだ連中だろうと継実は思う。とはいえフジツボが何処からやってきたかなどどうても良い事だ。

 それよりも継実にとって問題なのは――――自分の本能が、これは不味いと鬱陶しいぐらい叫んでいる点。こういう時の勘は残念ながら外れた事がない。

 

「マッコウクジラ! あそこのフジツボを吹っ飛ばして!」

 

「だ、だなぁ!」

 

 継実の指示を受けて、マッコウクジラは極大のビームこと超高出力音波砲を放った。粒子ビームの何百倍、或いは何千倍もの威力を宿した破壊の力が海上を真っ直ぐに飛翔する。

 だが、()()

 あまりにも遅いのだ。継実の目測ではあるが、秒速三百四十メートル程度しか出ていない。七年前なら十分な速さかも知れないが、ミュータントからすればノロマとしかいえないスピード。そもそも海中で放った時にはこんなに遅くなかった筈だ。

 そこまで考えて継実は気付く。ビームのように見える超高出力音波砲だが、本質的には『音』なのだ。光り輝いているのはあくまで崩壊した分子達であり、攻撃自体は音なので音速で進む。水中では水分子が密になっているため音速が秒速一千数百メートル以上となり、ミュータント的にもそこそこの速さとなるのだが……大気中の音速はたったの秒速三百四十メートルしか出せない。

 即ちこの攻撃は空気中だと威力はあれどもろくに当たらない、『ロマン砲』と化してしまうのである。

 浮遊したフジツボ達は突如として大空に飛び立ち、超高出力音波砲を華麗に回避。マッコウクジラは後を追うように頭を動かし、超高出力音波砲をしなるように振るったが、大空を自由に飛び回るフジツボ達の機動力には全く追い付けていない。そしてフジツボ達は大きな旋回を描きながらも、継実達が立つマッコウクジラに急接近してくる。

 マッコウクジラが必死に追うも間に合わず、ついにフジツボ達はマッコウクジラの背中に到着した。継実達の、丁度目の前だった。

 背中に乗られては超高出力音波砲は当てられない。だからといって全身から音波を出せば継実達も巻き込む。マッコウクジラにはもうどうにも出来ず、わたふたするばかり。そしてつい先程まで自分達を追い詰めていた存在の集合体を前にして、継実達三人は固まって動けず。

 誰もが動けなくなったところで、フジツボ達は新たな行動を起こす。無数のフジツボの集まりが、ぐねぐねと粘土のように蠢き始めたのだ。小さなフジツボ達はまるで自分が何処を目指すべきなのか知っているかのように移動し、フジツボの集まりはみるみるうちに形を変化させていく。丸い塊だったそれは五方向に突起が伸び、真ん中部分が大きくくびれた。下側に向けて伸びた二本の突起はざらざらという音と共に更に変形し、立派な『足』を作る。横から伸びた突起二本も変化して『腕』へ、そして上方向に延びていた一本は『頭』のようなものを形成。身動ぎする度にじゃらじゃらと音を鳴らす程度には緩い結び付きのようだが、少なくとも見た目の上なら一体の『生物』だと思える程度には一体化したモノと化す。

 出来上がったのは、身長三・五メートルはあろうかという……全身がフジツボで出来た怪人だった。

 

「だなぁ〜……ぼ、ボカァどうしたら……」

 

「んー、まぁ、仕方ない。ここはとりあえず、私らに任せて」

 

 戸惑うマッコウクジラを静止し、継実は自分が真っ先に前へと出る。

 合わせてモモも継実の傍に立つ。ミドリも身体を起こした。

 三人は揃ってフジツボ怪人と向き合う。

 

「……人型を相手するのは草原以来よね。一応」

 

「あー、そうだね。エリュクスも人型っちゃー人型だったけど、アレはデカ過ぎるから例外。そうするとネガティブ、いや、フィア以来か」

 

「フィアは人型じゃないでしょ。変幻自在で滅茶苦茶な、ただのバケモンよ」

 

「確かにそうかも。だとしたらネガティブ以来、つーかネガティブだけか。やってて良かったよ、対怪人戦闘」

 

「宇宙の厄災を前座か練習相手みたいに言わないでくださいよ……」

 

「いやぁ、前座でしょあんなの。だってコイツにネガティブの奴が勝てると思う?」

 

「思いませんけどー」

 

 継実達の軽口に納得出来ないのか、それともしたくないのか。ミドリはぶーぶー不平を言うが、その目は一点を、フジツボ怪人だけを捉え続ける。継実とモモもミドリの顔には目も向けず、眼前に立つフジツボだけをじっと見つめていた。

 そしてフジツボ達も、継実の事をじっと見つめている。

 継実にはフジツボの気持ちなんて分からない。集合体となった怪人には頭こそ存在しているが、その頭も小さなフジツボの集合体で、見ていても気分が悪くなるだけ。奴の感情なんて微塵も窺い知れない。

 それでも継実の本能はひしひしと、背筋が凍るほどに感じている。

 アレは捕食者の気配を発している、と。

 

「(私等をわざわざ狙うって事は、多分寄生生活に特化し過ぎて、寄生で栄養を取らないと成熟出来ないタイプなんだろうな)」

 

 寄生生活を送る生物というのは、決して悠々自適な生活を送っている訳ではない。寄生対象を探す時点で大変だし、宿主の免疫系からは猛攻撃をされるし、繁殖相手を探すのも一苦労だし……何より普通の口では宿主から栄養を吸い取るなんて出来ない。それら全てを解決するためには、様々なものを捨て、新しい身体へと『進化』する必要がある。そして寄生生活に特化した身体は、一般的な自然環境にはとことん向いていないもの。自力での単独生活は基本的に不可能だ。

 それはあのフジツボ達も同じ筈だ。寄生性の種となったあのフジツボがどのような生活環を送っているかは不明だが、何時でも宿主から離脱し、自活可能なんて都合の良いものではないだろう。恐らくある程度成長するまでは宿主の栄養が必要であり、その成長が終わるまで宿主以外の食べ物は口に出来ないと思われる。

 継実達に寄生していたフジツボはかなりの大きさまで育っていたが、あれではまだ足りないらしい。成体となるために、次世代を残すために、宿主である継実達をフジツボ達は喰らわねばならないのだろう。しかしもう継実達はフジツボの撃退方法を知ってしまった。一匹一匹が向かったところで各個撃破されて終わり。これではどうにもならない。

 だから奴等は群れる事を選んだ。同じ境遇の仲間と結束し、暴力により宿主を自力で手に入れる事にしたのだ。

 実に賢い方法である。本能が成した策なのか、誰かが知略を用いたのか。いずれにせよ奴等はこの形態に、これからの戦いに全てを賭して挑んでくるだろう。海中に沈んだ継実が最後まで諦めず、生き残るために足掻き続けたように。

 これが苦戦しないで済む相手の訳がない。

 

「! 来る……!」

 

 継実は殆ど無意識に警告の言葉を発した

 直後、フジツボの集合体は継実目掛けて駆け出し、迷いなく殴り掛かってきたのだった――――



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飢餓領域12

 フジツボ怪人からの容赦ない鉄拳。継実はこれを身を仰け反らせて回避した。

 追撃として振るわれた腕もステップするように下がる事で躱す。体長三・五メートルという巨躯だけに腕のリーチも長いが、動きは継実の方が速い。射程外まで離れる事は難しくなかった。

 しかし腕の速さは中々のもの。まともに受ければそれなりのダメージとなるだろう。自分達の中で一番貧弱なミドリが攻撃されたら、ちょっと危険かも知れない。

 

「ひ!?」

 

「ミドリは下がって! それから援護をお願い!」

 

 いきなり始まった戦闘に怯むミドリへ、継実は撤退指示を出す。ミドリは頷くと大急ぎで後退していく。

 するとフジツボは殴り掛かった継実から、明らかにミドリへと『視線』を移した。

 フジツボはあくまで宿主がほしいだけ――――継実のこの予想が正しければ、奴は継実に拘る必要なんてない。一番弱い誰かを引っ捕まえて、そいつに寄生すればよいのだ。そしていの一番に逃げ出したミドリが一番弱い奴だと考えるのは、極めて合理的な判断だと言えよう。

 狙われたと気付いたミドリは、援護、というより恐怖心からかイオンチャンネルの操作を実行しただろう。しかしフジツボ怪人は怯みもしない。継実がその目で見てみれば、フジツボ達は互いにイオンを『吸収』し合う事で、ミドリの攻撃で増減したイオン濃度を調整しているようだ。しかもミドリの攻撃は怪人を構成する全てのフジツボが対象になっている訳でもない。どうやら数が多過ぎて、全部を能力の対象にする事は出来なかったらしい。

 完全に防ぐ事は出来ていないが、ミドリの力に対してもしっかり対抗策を打ち出している。甲殻類の癖に、という悪態が脳裏を過ぎる。しかし敵意を抱きながらも継実はにやりと笑った。

 ミドリの力で簡単に倒せるとは最初から思っていない。だから肉弾戦をする事は最初から想定している。継実にとって肉弾戦は一番得意な戦い方だ。寄生相手を引っぺがすより余程やりやすい。

 何より此処は『陸地』。海とも空とも違う継実のテリトリーだ。

 ()()()()で陸地に進出してきた生物に負けるつもりなど、毛頭ない!

 

「陸上生物を嘗めんじゃないよォ!」

 

 継実は渾身の蹴りを、フジツボの『頭部』目掛けて放つ!

 頭といってもフジツボの集合体。仮に粉砕したところで頭も腕もダメージに差などないだろうが、継実の気分的にはスッキリする。ただそれだけの理由による攻撃だから、成功しようが失敗しようが正直大した問題ではない。

 しかしそれでも、蹴りが命中する前にその頭が弾けるようにバラけたとなれば、少なからず驚きはあるというものだ。

 集合体状態から一瞬にした分離する事で、継実の蹴りを躱したフジツボ。そのままではただバラバラに飛び散っただけだが、どういう訳か分離したフジツボは空中で静止。継実の蹴りが通り過ぎた直後にまた集まり、元の頭の形へと戻る。

 そして何事もなかったかのように、継実にお返しの蹴りを放った! 攻撃を躱されて体勢が崩れていた継実はこれに対処出来ず、脇腹に打撃を受けてしまう。

 数メートルと飛ばされながらも、粒子操作能力で強引にブレーキを掛けて停止。即座に顔を上げ、継実はフジツボを睨み付ける。

 蹴られたダメージは大したものではない。が、地上戦で遅れを取った事に顔を顰めてしまう。

 

「(ちっ! 小賢しい真似をしてくれる……!)」

 

 海洋生物の癖に、と心の中で悪態を吐きながらも、継実は笑みを消さない。まだまだこれは序の口。格闘戦の本番はこれからだ。

 それにフジツボの相手をするのは自分だけではない。

 

「私の事も忘れんじゃないわよ!」

 

 血気盛んなモモも、フジツボに一発叩き込みたくて仕方なかったようなのだから。

 フジツボの身体に耳なんてない筈だが、モモの声に反応するように怪人は振り返る。フジツボ怪人と目が合うモモだったが、しかし今更止まりはしない。彼女はもう大きく跳躍し、全身から稲妻を迸らせているのだから。

 フジツボ怪人は即座に反撃の拳を繰り出した。しかしモモの動体視力はその攻撃を見切り、まるで跳び箱でもするかのように両手でフジツボ怪人の拳に『着地』。手首のスナップを効かせ、モモはもう一回跳躍して加速する。

 肉薄したフジツボ怪人の胸元に、モモは稲妻を纏ったキックをお見舞いした!

 今度は分離も間に合わず、フジツボ怪人はモモの蹴りを正面から受ける。怪人は大きく仰け反り、モモの蹴りの衝撃に堪えきれなった事を物語った。

 しかし一歩も後退りはしない。

 ()()()()()()()

 

「(あれは……)」

 

 継実が違和感を覚える中、モモとフジツボ怪人の戦いはまだ一休みとはならない。

 仰け反りはしても後退はしなかったフジツボ怪人は、モモの足に腕を伸ばした。空中で蹴りを放ったモモはなんとか身体を捩ってこれを回避……しようとしたが、フジツボの集合体である怪人の手は所詮形だけの代物。じゃらじゃらと音を鳴らしながら自由に変形し、逃げるモモの足を追い駆ける。

 これにはモモも躱しきれず、フジツボ怪人に足を掴まれてしまう。舌打ちしながらもモモは電撃を迸らせ、掴んだ手から感電させてやろうと目論む、が、フジツボ怪人も流石にそれは予期していたのだろう。

 長く掴み続ける事もなく、フジツボ怪人は地面ことマッコウクジラの背中目掛けてモモを投げつけた! 地面に叩きつけられたモモだが、物理的衝撃への耐性は彼女の強みの一つ。怯む事なく、モモはバク転するように立ち上がり、追撃の足蹴を回避する。

 一気に十数メートルとモモは後退。遠巻きに眺めていた継実の傍までやってきた。継実は一歩モモの傍により、ちらりと相棒の目を見る。モモもまた継実の方を横目に見ていて、二人は同時にフジツボ怪人に視線を戻した。

 

「手応えは?」

 

「ない。つーか無理したらこっちが怪我しそうね」

 

「やっぱ硬さは折り紙付きか……」

 

 攻撃時の感触を確認し、継実はやれやれとばかりに肩を竦めた。

 ミュータント化したフジツボ達の硬さは驚異的だった。少なくとも、継実の力ではどうにもならないほどに。集合体になった途端その防御力が下がるなんて事、ゲームじゃないのだからある訳ない。今でも粒子ビーム程度なら弾いてしまうだろう。

 しかも奴等が弱かったのは、あくまでも『高体温』。流し込まれた熱エネルギーに耐えられないだけで、外から攻撃される分には熱にも十分な耐性を有している。肉弾戦でこの守りを砕くのは、継実達には至難の業だ。

 とはいえ付け入る隙がない訳じゃない。

 

「でもノロマだね」

 

「ええ、ノロマね」

 

 それは動きが遅い事。機動力全般は継実達の方に分がある。

 仕方ないといえばそうなのだろう。浅瀬の岩場など時々『地上』になるような場所にも生息するとはいえ、フジツボは基本的に水生の、しかも固着性の生物である。餌は海水と共にやってくるプランクトン。動き回って獲物を捕らえるような、そんなアグレッシブな生態なんてしていないし、そのための機能も持ち合わせていない。

 集合体となる事で『運動機能』そのものは手にしたようだが、運動というのは手足や筋肉があれば出来るというものではない。身体を動かすための情報処理を担う神経系、栄養を絶え間なく送る循環器系、傷付いた部分を補助する免疫系……あらゆる機能を運動向きにする必要がある。フジツボ達が作った怪人形態なんてのは所詮形だけの偽物で、固着生物としての本質が変化している訳がない。かなり無理をして動かしている筈であり、動きの遅さはその証明といえる。

 つまりこの戦闘はフジツボ達にとって相当な負担であり、のろまな動きであっても多くのエネルギーを使う事になる。時間を掛けて落ち着いて戦えばやがて向こうのスタミナが尽き、勝機は継実達の方に自然とやってくるだろう。

 ……それだけの余裕があればの話だが。

 

「(正直こっちの体力もヤバいんだよなぁ)」

 

 継実達全員、フジツボに散々エネルギーを吸われた状態だ。体力はかなり残り少なく、あまり長い間動く事は出来そうにない。対してフジツボ達は継実達のエネルギーをたっぷり奪い取った側。あとどれだけ持つかは分からないが、向こうの方が先に疲れてくれると考えるのは、楽天主義というものだろう。

 短期決戦に持ち込まねばならないのは継実達の方だ。その事情をよく理解した上で、継実は勝利のための道筋を考える。

 まずは、相手を知る事。時間がない時に解析などしている場合ではないという考えもあるが、急がば回れと先人は言い残した。がむしゃらかつ手探りでやるより、相手の情報を知った上で考える方が効率的なのは言うまでもないだろう。それに不確定要素があっては、いざ打倒する作戦を思い付いたとしても、それが本当に正しいのかどうかも判断出来ない。

 フジツボについて何も知らない自分達にとって、その力……特に『能力』を把握する事が現状最優先だ。幸いにして、継実は既にその力に目星を付けている。

 

「今度は二人でやるよ!」

 

「おうよ!」

 

 継実とモモは、今度は二人同時にフジツボ怪人に向けて駆け出した。

 二対一になったがフジツボ怪人は慌てない。慌てる必要もないだろう。奴は無数のフジツボの集合体なのだから、分散思考(マルチタスク)なんてお手の物。両腕を構え、それぞれの腕が継実とモモを相手しようとする事は難しくない。

 中々のチームワークと褒めてやりたいところだが、生憎チームワークは継実(人間)モモ()の得意技。こんなものに怯むほど、七年掛けて自分達が培ってきたものは柔じゃない!

 

「ふん!」

 

 継実は伸ばされた腕を掠めるように回避。腕を形成しているフジツボ達が物欲しげに蠢くのを尻目に、フジツボ怪人に真っ正面から肉薄。怪人の意識の大部分を自分の方へと向けさせる。

 その間にモモも伸びてきた腕を躱し、彼女はフジツボ怪人の背後へと回り込んだ。背後といっても全身がフジツボで出来ているため、恐らくモモが回り込んだ事は怪人側も認識した筈だ。

 目の前にいる継実と、背後に回ったモモ。それぞれのフジツボ達がそれぞれの敵に対処しようとすればどうなるか?

 フジツボ怪人の身体は、前と後ろで裂けるように割れた。

 集合体なのだから分離は自由自在。そしてそれぞれが敵に対応するため、人の形を崩す事も難なく出来る。それは継実にとって想定内であるし、何よりそうなる事を望んでいた。

 思った通り、裂けるように割れたのは攻撃をしていた上半身部分だけ。下半身は相変わらず一つだけなのだから。

 

「(仕事に忠実だこと! 分離するなら二人に分かれた方が効率的なのにね!)」

 

 どうせ二手に分かれるなら、きっちり二等分すれば良い。集合体なのだからそれぐらい簡単な筈である。しかしこうした集合体での戦闘が恐らく初めてであるフジツボ達はそこまで頭が回らなかったのだ。そして人の形というのは、何も適当にこの形となっている訳ではない。何百万年にも渡る進化を経て、二足歩行に特化した形態としてこの形に至ったのである。

 こんな滅茶苦茶な形になったら、さぞや足下のバランスが悪い事だろう。

 

「だぁ、りゃああぁっ!」

 

 継実は渾身の力を込めて、フジツボ怪人の腰元に蹴りを放つ!

 

「はああああっ!」

 

 同時にモモも稲妻を纏った拳を、フジツボ怪人の腰目掛けて放った!

 接近した上での同時攻撃。フジツボ達はそれぞれの判断で回避しようとするが、腰は上半身と下半身をつなぐ重要拠点。此処を分離させる訳にはいかないらしく、二人の攻撃は躱される事なく命中した。

 しかも継実とモモはどちらも、自分から見て右側部分を攻撃している。

 すると与えられた力は、まるで回転するような向きに働く。二人の共同攻撃にフジツボ怪人は腰の部分からぐにゃりと曲がり、その体勢を大きく傾けた。一人の力ではここまで大きく傾ける事など出来ない。これぞ正しくチームワークの成せる技という事だ。

 ただし、そのチームワークを以てしても、フジツボ怪人を転倒させる事は出来なかったが。

 

「(コイツ、やっぱり張り付いてるな……!)」

 

 継実が視線を向けたのはフジツボ怪人の足下。

 継実達のコンビネーションアタックを受けても、フジツボ怪人の足はマッコウクジラの背中からぴくりとも動かない。浮かび上がる事はおろか、一ミリと動いていないように継実には見えた。

 ただ力で踏ん張っているだけ? そんな筈がない。継実達同時の攻撃を受けて腰が曲がってしまう程度の力しかないのである。足だけ無性に強いなんて考えられない事だ。そもそも地面に着く力は基本身体の重さだけ。フジツボ怪人程度の質量が、隕石並の破壊力を持つ継実達のパワーでも浮かびもしないなんてあり得ない。

 考えられるのは能力だけ。

 フジツボの能力は『物体に張り付く』というものだと継実は気付いた。七年前までの、ミュータント化する前のフジツボも強力な接着物質……あまりの強力さに人類がその機能を真似しようとするほど……を分泌する生物だった。その性質がミュータント化によって強化されたとすれば、納得がいく。

 この怪人形態もその能力により維持している筈。またただくっつくだけでなく、分離も自在という事なのだろう。

 とはいえ空中で静止していたり、自力で動いていたりする事を説明するには、何かが足りない気もするのだが――――

 

【……………】

 

 継実は思考を巡らせる中、体勢が大きく傾いていたフジツボ怪人は継実に手を伸ばしてきた。ハッとした時には既に遅く、フジツボ怪人の手が継実の頭部を掴む。

 それと同時に、継実の皮膚はフジツボ怪人の手にぴったりとくっついてしまった。

 

「しま……ぐ……!?」

 

 無理やり引き剥がそうと試みる、が、上手くいかない。いく訳がない。七年前の普通のフジツボすら、生身の人間の力では到底剥がせないような強力さだったのだ。ミュータント化したフジツボの能力に、同じミュータントの力では対抗出来ない。

 フジツボ怪人は大きく腕を振り上げ、継実の身体をマッコウクジラの背中に叩きつけた。体格差の割にはパワーはないが、それでも継実にダメージを与える程度には強い。継実は痛みで僅かに顔を顰める。

 無論継実は反撃も試みた。しかし殴っても蹴っても、粒子ビームを撃ち込んでも、やはりフジツボの頑強な甲殻を破るには至らず。それどころか殴ったところに一個のフジツボが付着して、肉に潜り込もうとする有り様だ。

 あまり気は進まないが、自傷覚悟で引き剥がすしかない。

 

「こ、のおォ!」

 

 継実は顔の皮膚や頭皮を剥がしながら、無理やり後退。フジツボ怪人から追撃の手が伸びてくるものの、継実はこの手に粒子ビームをお見舞いした。爆発時の衝撃も利用して大きく後退する。

 なんとか安全圏まで退避してから顔の傷を治す。ダメージ自体は大したものではないのだが、消耗した身体では小さくない負担だ。とはいえ、収穫の大きさを考えればこの怪我など安いものだろうが。

 相手の能力は分かった。それを利用して打開策を考えるべきか? 或いは別の観点から策を練るべきか……

 未だ前向きに思考する継実。疲労感はあるものの、まだ様子見の戦いだ。本番はこれからだという意識が胸の内にはある。

 それはフジツボ怪人も同じだったのだろう。そして継実よりも、フジツボ怪人の方が『短気』だったのか。奴は遠距離から、到底継実に届きそうにない位置から腕を伸ばし――――

 ()()()()()()()()()()()()()()のだった。



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飢餓領域13

 高速で飛翔してくる、無数のフジツボ。

 七年前なら一体なんの冗談だと半笑いで悪態の一つでも吐きたくなっただろうが、しかし此度迫ってくるフジツボは自分達の命を奪いかけた恐るべき存在。悪態も笑いも出てこず、継実は顔を苦々しく歪めた。

 それと同時にろくな手足を持たないフジツボ達が飛行、というより移動出来る原理も知る。

 フジツボ達は()()()()()()()していたのだ。吸い付く際の力により僅かながら前進。そこで一旦空気を手放し、また吸着して……というのを高速で繰り返している。これによりフジツボ達は空気中に留まる事も、そこから猛スピードで飛んでいく事も自由に出来るのだ。

 たった一個のフジツボが命中したところで、ダメージにはなるまい。されどこのフジツボ達は寄生生物。命中すれば恐らく肉に食い込み、エネルギーを吸い取ろうとしてくるだろう。当たる訳にはいかない。

 尤も、その心配は殆ど無用だが。

 

「(遅い! この程度なら回避可能だ!)」

 

 かなり強引な、もっと言うなら無茶な移動方法だからか。ハッキリ言ってフジツボの飛行スピードは秒速一キロもないような、ミュータントからすれば鈍足でしかなかった。

 継実の動体視力であれば十分見切れる。迫りくるフジツボの数は何十もあるが、七年前なら兎も角、今の継実にとっては全ての軌道を把握する事も難しくない。

 継実はその身を屈め、飛んでくるフジツボを命中寸前のところで躱す。個々のフジツボは生きているのでそれぞれの意思で軌道修正を図るが、ギリギリで躱せば反応が間に合わず通り過ぎていくからだ。勿論多少リスクはあるが、大きく移動して躱すにはマッコウクジラの背中は狭く、何より継実は体力に余裕がない。このギリギリ回避が最も『効率的』なのである。

 時折三つか四つの集団が少し拡散して飛んできて、軽く動くだけでは躱せないものが来る場合もあるが……その時は粒子ビームの出番だ。フジツボの殻を貫く事は出来なくとも、亜光速でぶつかる粒子の濁流で押し返すぐらいは出来る。そうして個々の位置をズラしてしまえば回避は簡単だ。

 このまま弾切れになれば万々歳なのだが、後ろまで飛んでいったフジツボ達は大きな弧を描き、フジツボ怪人の下へと戻って再合体。どうやら弾切れの心配はないらしい。攻撃が途切れないと分かった継実は、全てのフジツボを回避した後も顔に余裕は戻らなかった。むしろ苦々しく歪める。

 ただ遠距離から撃ってくるだけなら、躱すのは難しくない。

 しかし格闘戦と織り交ぜられると、かなり厄介な事となるだろう。

 

【ッ!】

 

 そんな継実の内心を読んだように、フジツボ怪人は継実に肉薄してきた! そして大きく片足を上げ、蹴りを放ってくる!

 継実はこれを後退して回避――――したのも束の間、フジツボ怪人は間髪入れずに自身を構築するフジツボを脚部から撃ち出してきた。至近距離からの攻撃故に回避が出来ず、腕を構えて受け止めるしかない。

 飛んできたフジツボはずぶりと継実の腕の肉に食い込む。射出時の威力ではなく、フジツボ自身が潜り込むように入ってきたのだ。しかし撃退方法は既に分かっている。継実は体温を一気に上げていき、食い込んだフジツボ達を撃退しようとした。

 が、此度のフジツボ達はビクともしない。

 

「(ちっ! コイツら、今は何もしないつもりか……!)」

 

 フジツボが高熱に弱いのは、あくまでもエネルギーを吸い取る際、余剰分をカットする事が出来ないのが原因だ。つまりエネルギー吸収を行わず、ただそこにいるだけなら高熱には耐えられる。

 何もしないのだから、いてもいなくても同じ? 何を馬鹿な事を。肉弾戦の最中不意にエネルギーを吸収され、調子を狂わされたら致命的な状況に陥るのは目に見えている。だからといって食い込んだフジツボを延々と気にしていたら、今度はフジツボ怪人への注意が散漫になってしまう。

 何時炸裂するか分からない爆弾を背負ったまま、本気の殴り合いをするなんて無理な話だ。しかし身体に取り付いたフジツボをどうにかしようにも、『起爆中』でなければ対処出来ない。そもそも怪人と戦っている最中ではそちらに意識を割く事も出来ない有り様だ。

 

「継実! こっちは任せて!」

 

 ここはモモに甘えるしかないだろう。

 

「任せた!」

 

 継実は即決で後退。代わりにモモが前に出て、フジツボ怪人と対峙する。

 フジツボ怪人はモモにも射撃攻撃を行い、モモにフジツボを植え付けようとした。これをモモは拳で殴り付ける。鉄拳を受けたフジツボは、弾き返される事もなくモモのこぶしに食い込む。

 本来なら直接触れようものなら肉の深いところまで食い込み、寄生されてしまうだろう。しかしモモならば問題はない。彼女の身体は体毛で出来ている。拳に食い込むだけならエネルギーを吸われる心配もない。これ以上潜り込まれないようにと多少は意識を向けねばならないかも知れないが、元より肉弾戦をしようとしていた身体はギッチリと密になり、フジツボもそう簡単には進めないだろう。

 フジツボが拳に食い込んだだけではモモの調子を崩すに至らない。それどころかモモはにやりと笑い、

 

「これはお返し、よ!」

 

 フジツボの食い込んだ拳で、フジツボ怪人に殴り掛かった!

 これにはフジツボ怪人も身動ぎする。これまでフジツボ達は持ち前の頑強さでこちらの攻撃を耐えてきた。しかし今のモモの拳にはその頑強なフジツボが埋まっている状態。互角の硬さをぶつけ合えば、砕けてしまう可能性は十分にある。

 更にモモの拳は速い。運動エネルギーは質量×速さの二乗で求められるものであり、高速の鉄拳は非常に強い威力を生み出す。モモのパンチは、そもそも普通に強いのだ。

 硬さと速さの『ダブルパンチ』。フジツボ怪人は回避など出来ずに殴られ、大きく後退りする。とはいえその身にダメージを受けた形跡は見られず。自慢の吸着力で留まるのを止め、衝撃を受け流したのだろう。

 怪人は反撃の蹴りを放つが、これもモモは拳で殴り返す。足場が固定されていないフジツボ怪人はその衝撃で大きく後退りし、転びそうになる……尤もバク転して体勢を立て直したが。モモは足払いをして追撃を試みたが、フジツボ怪人は跳躍して回避。更にモモの頭部に向けて蹴りとフジツボ射撃を行う!

 フジツボの付着こそ防いでいるモモだが、やはり相手の頑強さがネックになって有効だが与えられない。攻撃は最大の防御などと人類は語ったものだが、圧倒的な硬さは攻撃以上のプレッシャーだ。モモ一人でフジツボ怪人の守りを砕く事は恐らく不可能。

 やはり自分も参加しなければ勝ち目はないと、継実は強く思う。

 

「(くっそ! せめてこれを引き剥がせれば……!)」

 

 腕に食い込むフジツボをどうにか剥がそうとする継実だったが、やはりエネルギーを吸おうとしてない状態ではどうにもならない。かといって無視して動くのはリスクが高くて危険だ。

 別段自分が危険なだけなら無理して突っ込んでも良いのだが、モモの性格を思えばピンチになった自分を放置するとも思えない。きっとモモはこちらを助けに来るだろう。これでは強行突撃は手助けどころかモモの足を引っ張りかねない。

 何か出来ないかと考えるものの、名案は一切浮かばず。

 対してフジツボ怪人は、一つの案が浮かんだらしい。

 

【――――!】

 

 フジツボ怪人は大きく腕を振るい、フジツボを撃ち出す。

 ところがどうした事か、撃ち出されたフジツボ達はモモを狙っていない。むしろ避けるように大きな弧を描く。

 一体何処を狙っているのか。それともモモの気を逸らすための囮か。肉弾戦に集中しているモモに代わり、継実がその軌跡を追う。

 だから継実だけが舌打ちをした。

 撃ち出されたフジツボが狙っていたのは、後方でわたふたしていたミドリなのだから。

 

「(まぁ、そりゃ狙うわなぁ……クソが!)」

 

 継実はミドリの下に全速力で向かう! そしてミドリの真っ正面に立ち、フジツボ怪人の射線を遮った。ミドリは継実が来た事に驚いたように跳ねたが、宥める時間などない。

 迫りくるフジツボは七つ。

 速度は相変わらず遅く、継実なら回避は容易だ。しかし今は躱す事など出来ない。自分が避ければミドリがフジツボ達の餌食になってしまう。かといって継実の力ではフジツボを砕く事も出来ないし、粒子ビームで押し返しても時間稼ぎが精々。

 取れる手は一つだけ。正直乗り気はしないが、背に腹は変えられない。

 継実は飛翔してきたフジツボを、全てその手で掴み取った!

 掴んだ瞬間フジツボ達はずぶずぶと継実の手の肉に食い込んでくる。しかしこれ自体は大したものではない。

 フジツボが付着した瞬間を狙って、怪人の方が急速に接近してこなければ。

 

「(『人質』戦法とか、ほんと頭は回るんだから!)」

 

 モモを無視してやってくるフジツボ怪人。モモはどうにか引き止めようと攻撃を繰り返すが、傷も付かないような攻撃なんて気にする訳もなく。怪人は最短距離で継実に迫ってきた。それでもモモは諦めずに攻撃していたが、しかし焦り故か怪人に顔面を掴まれてしまう。無数のフジツボを顔に撃ち込まれた後、モモは無造作に放り投げられてしまった。

 モモという邪魔者を追い払ったフジツボ怪人は、両腕を伸ばして継実に掴み掛かろうとしてくる。継実は仰け反って回避……したが、直後に身体から力が抜けてしまう。

 手に食い込んだ無数のフジツボ達が、ここで体力を奪い始めたのだ。今こそ撃退のチャンスだが、怪人が目の前に迫ってる中で余計な事に意識を割く暇などない。

 腰抜けになるようにへたり込んだ継実の前で、フジツボは大きく脚を上げてくる。このまま踏み潰すつもりらしい。継実は腕を構え、顔面に迫るこの攻撃を掴み掛かる形で受け止めた。威力は問題なく受け止められる程度でしかない。

 問題なのはこれから。

 掴んでいる部分のフジツボ達が、ざわざわと蠢いたのだ。

 

「ちっ! やっぱそうくるか!」

 

 射出されようがされまいがフジツボは個々が自由に動ける。蹴りやパンチなど一瞬の接触ならば反応が間に合わないとしても、掴んでしまえば流石にアウト。またしても寄生される数が増えてしまう。

 

「(まともに蹴りを喰らうよりはマシとはいえ、これからどうしたもんか……!)」

 

 後悔などしても仕方ない。継実は『今』に対応しようと思考を巡らせ、少しでも早く此処から離れるために粒子ビームでジェットエンジンのように推力を得ようと手に力を込めていく。

 尤も、その努力は実らない。

 フジツボ怪人の方が、何故か継実から逃げるように離れたのだから。

 

「……?」

 

 折角の攻撃チャンスをふいにするような行動に、継実は首を傾げる。粒子ビームに恐れをなしたのか? そうだとすれば嬉しいが、考え難い事だ。粒子ビームが奴等の外殻に通じない事は、既に判明しているのだから。

 フジツボ達は何を気にした? 何に怯んだ? 自分がその原因なのか、或いは――――

 

「だなぁぁぁ〜……」

 

 考えようとしていた継実だったが、今度は足下から聞こえてきた地響きのような声に意識が向く。

 背中での戦いだったがために、今まで手出しが出来なかったマッコウクジラの声だ。

 

「……悪いね、背中でバタバタ騒いじゃって。申し訳ないついでに言うと、まだしばらく掛かりそうだよ」

 

「だなぁ。その件なんだけど、話があるんだなぁ」

 

「話?」

 

「この声、範囲を絞ってるから、君にしか聞こえてない筈なんだなぁ。だから秘密の作戦、言っちゃうんだなぁ」

 

 そう言うとマッコウクジラは、継実にだけしているという話の本題に入る。

 継実はその話に大きく目を見開いた。頭の中で何度も話を反復し、自分の聞き間違いがないか確かめる。

 

「……それ、本当?」

 

 疑っている訳ではない。けれども継実は念のため、疑うような口ぶりで話の真偽を尋ねてしまう。

 失礼なのは継実も百も承知。けれどもマッコウクジラは気を悪くする事もなく、ハッキリと告げてくれた。

 

「だなぁ。あそこに連れてきてくれれば、ボカァがアイツをなんとかするんだなぁ」

 

 勝利の道筋を――――



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飢餓領域14

 後は自分がなんとかする。

 その言葉を考えなしに受け入れるのが危険なのは、別段野生の掟に支配された今の時代だけでなく、七年前の文明社会にも言えた事だろう。どれだけ親しくても所詮は他人。中にはあえてこちらを混乱させ、その上で安心感のある言葉を投げ掛けて騙そうという魂胆の輩だっている。他人に全て任せてしまうのは楽だし安心するが、それが許されるのは両親に甘ったれていられる時だけ。大人にその言葉を掛けてくる奴の九割は悪意の塊だろう。

 しかしこの言葉を語ったマッコウクジラはそのような悪意と無縁だと、継実の理性は即座に判断した。

 

「……『あそこ』にアイツを運べば良い訳ね」

 

「だなぁ。今のボカァはなんも出来ないけど、でもそこに運んでくれれば……」

 

 ちょっぴり申し訳なさそうなマッコウクジラの口ぶり。けれども後半の口調は力強く、確固たる自信を感じさせた。

 今日、それもほんの一時間前に出会ったばかりの相手に命を預けるというのは、中々に酔狂な事だろう。しかし継実がこれまで見てきたマッコウクジラの力なら、あのフジツボ怪人の打倒も難しくはあるまい。それは確かな事だ。それにマッコウクジラにとってもこのフジツボは厄介な輩であり、継実達(話し相手)という『利益』を奪う不埒者。継実とマッコウクジラの利害は一致している。

 世界というのは、何時だって『人』に優しくはない。そこに根付く自然は決して純朴などではなく、自分の利益を最大化するため常に謀略を巡らせ、裏切りに心を痛める事もない。けれども特別人に厳しい訳でもない。信じるに足る確固たる理由があるのなら、『甘い言葉』は現実的な提案となる。誤った前提に基づくものなら兎も角、現実を理解した上での判断が理不尽に裏切られる事もない。

 冷静に考えた継実は、マッコウクジラの言葉は信じるに値すると考えた。

 いや、()()()()()()()()()()()()。継実が信じるのは自分の心。相手に身を委ねるのではなく、相手を頼ると考えた自分の心に任せる。同じように聞こえても意味合いは全く違う。

 誰かに頼ればふとした瞬間に弱気になっても、自分の心に従った結果なら最後まで全力を出せるのだ!

 

「じゃあ、後は任せた!」

 

 継実は再び、フジツボ怪人の下へと全力疾走で向かう!

 

「モモ! 作戦変更!」

 

 駆けながら継実はモモに指示を通達。能力で声が届く範囲を絞ってフジツボ怪人に聞こえないよう努めながら、マッコウクジラから聞いた作戦を伝えた。

 フジツボ怪人と殴り合っていたモモは最初、殴る拳が止まり、驚いたように目を見開いていた。もしもこの作戦をマッコウクジラから直接聞いたなら、少なからず考え込んだ事だろう。

 しかし継実からの指示となれば話は別。本質的に忠犬である彼女は人間からの指示に従うのが大好きなのだ。

 

「ええ、分かったわ! 私に任せなさい!」

 

 マッコウクジラに頼ろうと決めた瞬間、力を抜くどころか、指示を達成するためモモはその身に更なる力を滾らせる!

 頼もしい相棒に、継実は更に指示を重ねた。それと共にモモはフジツボ怪人から一度距離を取りつつ、腕を伸ばして攻撃していく。

 継実もモモの背後に回り、フジツボ怪人に向けて粒子ビームを撃つ! 顔面や胸部にビームを受けた怪人は、しかしやはり怯む事も傷付く事もなく、平然としていた。無駄だと言わんばかりに、共に後退する継実達を追う。

 『プランA』は成功だ。ほくそ笑みたくなる衝動を抑えつつ、継実は攻撃の手を緩めない。

 兎にも角にも、目的の場所まで誘導してしまえばこちらの勝ちなのだ。その一番簡単な方法は、後退しながら相手を目的の場所まで誘導してしまう事。相手がこちらの目論見に気付いていなければ簡単に引っ掛けられる。勿論距離が長くなればなるほど、誘導されていると勘付かれ易くなるが……今はマッコウクジラの背中のある部分を目指すだけ。移動距離など精々数メートル程度だ。

 この距離なら一時の後退と大差ない。誘導する事は容易――――

 その筈だったのに。

 

【……………】

 

 不意に、フジツボ怪人はその足を止めた。ぴたりと立ち止まり、フジツボ射撃などの遠距離攻撃に切り替える。継実達が左右に移動したりして立ち位置を変えてみても、挑発するように攻撃を仕掛けてみても、積極的に追おうとしない。出来る限り動かず、向きだけ変えて対処しようとする。

 どうやら、こちらの狙いを察したらしい。

 

「(たく! 一体どんな勘の良さだよ!)」

 

 これまでも戦いの中での後退は何度もしていた筈だが、二人同時というシチュエーションに違和感を覚えたのか。はたまた自然さを装っていたが傍からすれば露骨に見えたのか。理由を考える継実だったが、本能的に思った『直感』が正解な気がした。

 ミュータントに常識など通じないのは分かっている。直感に優れるのも幾度となく見てきた。しかし肉弾戦なんて必要ない筈の寄生生物まで直感を発揮するとは、継実にとってちょっと想定外。

 だが現実を否定しても状況はなんら改善しない。元よりこんな『楽』な方法で打倒出来るとは、ちょっと期待していただけで、依存していた訳ではないのだ。

 

「(誘導は無理か。なら、やっぱり力尽くで動かすしかない!)」

 

 一番楽な方法が使えないなら、一番シンプルな力技に切り替えるのみ!

 

「モモ! プランBでいくよ!」

 

「りょーかい! そっちの方が楽で良いわ!」

 

 作戦変更をモモは快諾。直後後退するのを止め、継実よりも先にフジツボ怪人へと突撃する! ぐるぐると動き回った事で継実達の目的地は、フジツボ怪人の『背後』に位置した。このまま一気に押し出してしまえば、マッコウクジラに後を託せる!

 今まで下がっていた動きが変化し、警戒したのか。フジツボ怪人はどしりと構えを取ってモモと向き合う。突撃しているモモとしては正に望むところ。そのまま急速に距離を詰め、リーチに優れるフジツボ怪人の腕が届くか否かのところまで接近した

 瞬間、モモは身体を形成している体毛の半分ほどを解く! 頭や手先などの一部パーツを除いて、無数の体毛という『正体』が露わとなる。突然目の前の敵の身体が崩壊、しかも表面積的に一気に膨張した事に驚いたのか、フジツボ怪人はその身を強張らせた。フジツボ怪人が硬直していた時間は恐らく七年前の人間、いや、普通の生物では認識も出来ないほどの短い時間だったが、ミュータントにとっては十分過ぎる隙。

 体毛を組み直したモモは、瞬きほどの時間で再び元の人間の姿へと戻る。一見してなんの変化もしていないように見えるが、よくよく見れば大きな変化があると分かるだろう。

 具体的には、モモの肩に岩のようなごつごつとしたものがあると。

 フジツボだ。今まで拳に集めて打撃用の武器として使っていたフジツボを、身体を組み直す過程で肩へと移動させたのである。

 言うまでもなく、殴り合うならフジツボは拳に集めた方が適切だ。しかし他の攻撃方法をするなら、拳が最適解とは限らない。

 例えば肩から当たって突き飛ばすような攻撃をするなら、肩に集めた方が合理的だろう。

 

「っしゃオラァっ!」

 

 モモは渾身の力と共に、肩からフジツボ怪人に腹部目掛けて激突する!

 言ってしまえば体当たり。けれどもモモは全身の体毛を擦り合わせて生み出した電気も用い、爆発的な加速力を得ていた。もしも地面に向けてこの一撃を放ったなら、住宅地程度は簡単に吹き飛ばしただろう。

 しかしフジツボ怪人はこの巨大なエネルギーを正面から受け止める!

 能力によりマッコウクジラの背中にぴったりと張り付いた三メートル超えの巨躯は、モモの破滅的な突進を難なく止めた。肩には集められたフジツボがいて、同じ硬さ同士の激突で多少は欠けたのか小さな欠片が飛ぶ。されど全体からすればごく一部であるし、個体として見ても大したダメージではないだろう。フジツボ怪人に怯む気配すらないのも必然。

 フジツボ怪人の行動に支障はなく、素早くモモの身体を両手で掴んだ。投げ飛ばす算段だろうが、投げられるのはこれが二度目。モモも対策を用意しており、体毛を用いてマッコウクジラの背中に張り付く。モモが動かなかった事で少なからず動じたのか、フジツボ怪人はもう一度モモを持ち上げようと力を込めた。

 その隙に継実もフジツボ達に肉薄する。三度目の接敵。ただし今度はモモの背後から。

 

「あんま無理してくっつかないで、大人しく上がりなッ!」

 

 そしてモモの身体を支えるように、モモの背中越しからフジツボ怪人に体当たり。モモと共にフジツボ達を持ち上げようとする!

 最早隠すつもりのない継実達の作戦。何処に連れていく気かは分からずとも、フジツボ怪人も継実達の狙いに気付いただろう。足腰により一層の力が加わったのを、継実は全身の感覚から感じ取った。恐らく付着するという能力も最大級のパワーで発動している筈。

 ここまでは想定内。

 ここからが、勝負の本番だ!

 

「(つっても、これからどうしたもんだかね……!)」

 

 表情には出さないよう努めながらも、継実は思考の中では若干の焦りを滲ませていた。

 継実とモモがどれだけ力を振り絞ろうと、フジツボを強引に剥がす事は不可能だ。七年前のフジツボを生身の力で岩から剥がす事は、人間と犬が協力しても成し遂げられない行為。ミュータント同士になったところでこの力関係は変わらない以上、結果も変わらないのが道理というものだ。そして気合いも根性も、なんの力も生まないのが『現実』である。必要なのは感情論ではなく、理論に裏付けされた確かな道標。

 つまりなんらかの作戦が必要だ。

 

「(方法は二つ。自分達がパワーアップするか、相手をパワーダウンさせるか)」

 

 自分達がパワーアップする方法はある。継実が持つ戦闘形態だ。

 しかしアレを使うのは、良い手とは継実には思えない。あの形態は兎に角エネルギー消費が激しく、フジツボに力を吸い尽くされている現状、一瞬しか姿が維持出来ないのは目に見えている。そもそも使用したところで、今までの手応えからしてフジツボの防御を破れる自信がなかった。

 モモは電力により馬力を高める事が出来るものの、彼女もかなり消耗している現状これを強いるのもしたくない。それに、その方法でのパワーアップは継実の戦闘形態未満の倍率だ。戦闘形態でもフジツボを砕けそうにないのだから、モモが力を増しても意味がないだろう。

 自分達が強くなる方法は出来ないし、やったところで恐らく効果がない。この方針は自殺行為も同然だ。

 採用出来るのは、相手をパワーダウンさせる作戦しかない。

 

「(だけどどうする!? フジツボの粘着力とか、どうすれば弱まるのかなんて見当も付かない……!)」

 

 方針は決まったが、その方針を実行するための方法が考え付かず。マッコウクジラの背中と付着している奴等を引き剥がすには、一体どうすれば良いのか。

 或いは思考の転換が必要か。マッコウクジラに付着している奴をどうにかしているのではなく、例えば怪人とマッコウクジラを()()()()()奴の方をどうにかするとか――――

 策を巡らせる継実だったが、考え込んでいる時間はない。フジツボ側だってこちらを嬲って楽しんでいる訳ではなく、ましてや一度は自分達の寄生を打ち破ったこちらを見下している筈もない。こちらが『小細工』を仕掛けてくる前に潰そうとしてくるのは、必然。

 そして現状、自分達よりもフジツボ怪人の方が余裕がある。

 

【……………】

 

 ゆっくりと、だけど確実に。フジツボ怪人は身体から力を抜いていく。勿論継実達の力では体勢が崩れない、そのギリギリの加減を狙って。

 同時に振り上げた腕に、大きな力を溜めていく。

 不味いと思った時には既に遅し。フジツボ怪人は振り上げた腕を、まずは手前にいるモモへと下ろした。無論、溜め込んだ力に見合った猛烈な速さで。

 

「ぐがっ!?」

 

 殴られたモモは呻きと共に体勢を崩し、その場に倒れ伏す。

 本来モモは物理的衝撃には滅法強い。しかし体力を吸い取られていたのと、溜め込まれた力が大きかったが故に耐えられなかったのだろう。そしてフジツボ怪人はその一瞬で足を上げるや、モモを踏み付けた。強力な一撃にモモは鈍い声を漏らす。

 そうしてモモが倒れた事で、モモの後ろから補助していた継実が前へとつんのめる。ミュータントの動体視力と身体能力を用いれば、いくら弱っていても体勢を立て直すぐらいは可能だ。フジツボ怪人に組み付く事は問題ない。

 問題になるのは、今までモモがその身で受けていたフジツボ達に直に触れねばならない事。

 フジツボ怪人を形成している個々のフジツボは、単体でも活動可能だ。直に接触したなら自ら動き出し、相手への寄生を試みる事が出来る。モモは体毛で組まれた身体を、既に寄生していたフジツボのプロテクターで守っていたから無事だった。しかし継実は完全な生身の上、フジツボ達の能力で硬くさせられた身体はモモのように『バラす』事も出来やしない。そして地肌に寄生されたら、エネルギーを吸われるというプレッシャー、或いは実行に耐えねばならなくなる。

 どう考えても直接接触は無謀、というより自殺行為。

 しかし組み付かなければフジツボ怪人は恐らく自分達から離れようとする。離れられたら、また組み付こうとしても警戒して全力で防ごうとするだろう。こちらの考えは既にある程度見透かされたのだから。

 なら、逃げるという選択肢はなしだ。

 

「ふんっ!」

 

 今度は継実が最前列に立ち、フジツボ怪人の足下へとしがみつく!

 継実が代わりにやってきた瞬間、フジツボ怪人の脚部を形成しているフジツボ達がざわめく。まるで獲物の到来を歓喜するかの如く。

 次いで数個のフジツボが怪人から跳び出し、継実の顔面や首の肉に食い込んでくる。エネルギーを吸い取ろうとはしてこない。しかしそれはタイミングを見計らっているだけであり、その時が来れば即座に牙を向くのは容易に想像出来た。

 それでも継実はフジツボ怪人を離さない。全身の力を余さず使い、フジツボ怪人に足をがっちりと抱きかかえて絶対に放さない。

 放さないが、しかしそれがどうしたとフジツボ怪人は言わんばかりに佇む。

 確かにその通りだ。相手の吸着力を上回る力を出せず、その身体を砕くパワーも出せず、ただしがみついているだけ。これなら何百というアリが纏わり付く方が何十倍も鬱陶しいし、脅威だろう。なんの効果もない、子供の駄々っ子でしかない。そして駄々っ子は母親には効果があれども、獲物を狙う捕食者には無意味。

 

「継実! もういい! 私がまた前に、出る、からぁ……!」

 

 モモが継実を止めるが、しかしその言葉は尻窄みで終わる。今のモモは怪人に踏み付けられて、前に出るどころか身動きすら出来ないのだ。「私が前に出る」なんて出来っこない。

 モモは必死に藻掻くが、巨体を誇るフジツボ怪人の力の方が上。しかも足裏で吸着しているのか、モモの背中に足はぴたりとくっついていた。暴れて抜け出すのは困難だろう。大体再び組み付いたところで、継実よりも馬力に劣るモモに何が出来るというのか。

 手がないのだ。強力無比な不動を貫く、此度の敵がただそれだけの存在であるが故に。

 

「……今から……み……ひっさ……コイツ……なら、私の……ぎ……」

 

 最早継実の身体に力はなく、ぽそぽそと囁くような言葉しか出せない。

 そのか細い言葉を合図とするように、継実が抱き着いているフジツボ怪人の足から更にフジツボが跳び跳び出す。出てきたフジツボは継実の首の肉に食い込み、すぐさま熱とエネルギーを吸い取り始めた。今なら高熱を発すれば撃退出来るが、継実は黙ってそれを受け入れてしまう。

 モモは大きく目を見開いて、何かを言おうと口を開く。けれども言葉は出ず、ついに藻掻くのも止めてしまった。

 誰も助けてくれない中、継実の身体には次々とフジツボが取り付き、どんどん力を奪い取っていく。継実の視界は薄れ始めた。海中でも目の前が暗くなっていて、あの時はなんとか持ち直したが、今度ばかりは本当に不味いと継実の本能も訴える。

 最早これまでか。継実の理性が諦めの言葉を抱いた――――その時である。

 フジツボ怪人が、突如として唖然としたようにその身体を強張らせたのは……



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飢餓領域15

 最初、フジツボ怪人は困惑している様子だった。顔などないが明らかにキョトンとしていて、何が起きているのか分からないという感情が継実にもひしひしと伝わってくる。

 しかし段々と困惑は消え、やがて焦り始める。どうしたんだと言わんばかりに右往左往し、自分の『足』を覗き込むように背筋を曲げた。モモの背中からも足を退かし、大急ぎでマッコウクジラの背中に着地しようとした

 その足を継実は咄嗟に伸ばした片手で受け止めた。

 受け止めた手には次々とフジツボ達が食い込む。継実の力を奪い取る呪い染みた攻撃だが、それをしている側であるフジツボ怪人は動揺するように身体を仰け反らせた。継実の手を振り解こうと足を必死に動かすが、継実がしっかりと握っている足は離れない。いや、そもそも()()()()()()()()()()()()()()()、何故逃げようとしているのか。

 矛盾したフジツボ怪人の行動。しかしそれは継実にとって想定内であり、予想通りでもある。

 

「アンタ達、やっぱり協調性がないね?」

 

 だからにやりと笑いながら、継実はフジツボ怪人にそう尋ねた。

 ――――フジツボ達の集合体。防御力とパワーを兼ね備え、遠近両方の攻撃が出来るなど、その戦闘力は間違いなく継実やモモよりも上だ。どこぞの漫画のように戦闘力を数値で測る機械があったなら、きっとフジツボ怪人は継実達三人の合計よりも遥かに高い数字を弾き出した事だろう。

 だが、所詮この集まりは苦し紛れの技に過ぎず。

 元々群れる習性などない彼等が、大人になるためのエネルギーを求めて一時的に協力しているだけなのだ。共通のビジョンなんてない。理想もないし信念もないし、恐らく血縁どころか親交もない。その場に偶々集まった有象無象が、これからどうしたら良いんだと考えた果てに編み出した起死回生(間に合わせ)の秘策。

 そしてミュータントというのは、いや、生命というのは本質的に利己的だ。本能的に集団への帰属を意識する人間やハチのような一部の例外を除いて、自分が利益を得られるなら集団や種族の不利益など考慮にも値しない。

 つまりフジツボ達は()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 その意識が露呈した瞬間があった。踏み付けようとしてきたフジツボ怪人の足を継実が受け止め、脚部のフジツボ達が蠢いていた時である。継実はまたフジツボに寄生されると思ったが、何故かフジツボ怪人は追撃をせぬまま後退していった。あの時は何故フジツボ怪人があのような行動を取ったのか理解出来なかったが……なんて事はない。脚部を形成しているフジツボ達が抜け駆けしようとして、全体の形が崩れそうになったから、それを抑え込むために『過半数』のフジツボが後退を選んだのだ。

 全体の統率が取れていない相手。これがフジツボ怪人の数少ない弱点だというのなら、勝利のためには此処を突くしかない。

 そこで継実は、怪人の足を形成しているフジツボ達に囁いた。「今からお見舞いする必殺技でこの『集合体』を倒すまでの間なら、私の身体から好きにエネルギーを吸い取って良いぞ」――――と。

 もしもフジツボ怪人達に仲間意識があり、全体の利益というものを考えられたなら、こんな『世迷言』に耳を貸す事もなかっただろう。しかし奴等はあくまでも自分が生き延びるために協力している、利己的な群衆だ。自分の損得に直結する言葉を考えなしに切り捨てられるほど、自我が集団に埋没なんてしていない。

 甘言を囁けば、何匹かは必ず引っ掛かる。

 一匹でも引っ掛かればこっちのもんだ。誰かに出し抜かれたら、他の個体達はもう動かない訳にはいかない。何も出来ずにおろおろしているのが一番損になるのだから。そして二番手に甘んじた個体が増えれば三番手が現れて、三番手が現れたら四番手が出てくる。次から次へと抜けていくものが出てきたら、もう集団なんて維持出来ない。

 残ったのはほんの僅かな、最後まで判断が出来なかった間抜け共だけ。

 ここまで少なくなれば、後は力強くで押し通せる!

 

「こ、のおおおおおおおおおおおっ!」

 

 渾身の力を込め、継実は掴んだ足を持ち上げるようにして一気にフジツボ怪人を押し出す!

 首や頭、手に食い込んだフジツボ達が『契約』通りエネルギーを吸い、継実の身体から力が抜けていく。自然界で律儀に約束を守る必要なんてなく、このフジツボ達を高熱で焼いてしまっても良いのだが……ようやく巡ってきたチャンスを逃す訳にはいかない。そして約束の放棄を見られたら、利己的なフジツボ達でももう唆す事なんて出来やしないだろう。

 これが最後にして最大のチャンス。

 どんなに周りが鬱陶しくても、今だけは目の前の怪人だけに集中する!

 

【……!】

 

 フジツボ怪人は継実の力に抗おうとしたが、その脚は最早ボロボロの出来損ない。いくら力を込めても、継実の力を受ければぐらぐらと揺れ動く。

 

「おっと、私を忘れないでよ!」

 

 更に起き上がったモモのフルパワーを加算すれば、止められる道理などなく。

 二人の同時突進を受けたフジツボ怪人の足首からパキンッと砕ける音が鳴った――――瞬間、怪人の身体がふわりと浮かび上がる!

 ついに持ち上げた! だがここで終わったら、学習したフジツボを倒す事が叶わなくなる。

 最後の最後に、継実は身体中のエネルギーを絞り出す。脂肪や糖分だけでなく、筋肉も臓器も全て焚べて力に変えていく! 七年前の身には出来ない事も、今の身体なら念じれば叶うのだから!

 

「ッ……だありゃあああああああっ!」

 

 全身全霊の叫びと共に、継実はフジツボ怪人を投げ飛ばした! 宙に浮いたフジツボ怪人はジタバタと四肢を暴れさせたが、そんな動きで空など飛べやしない。時間があれば空中での静止も出来ただろうが、此度はそれほどの猶予もない。サッカーボールと変わらない見事な放物線を描き、やがて墜落する。

 怪人はすぐに起き上がった。ミュータントの攻撃すら防ぐ頑強さがあるのだ。高さ数メートル程度から落ちたところで、欠ける事すらあり得ない。動きにも支障などないだろう。

 

「ようやく来たな、虫けらが」

 

 ただし奴の動きは、荒々しいマッコウクジラの声と共に止まったが。

 此処こそが、マッコウクジラが示したポイント。強大無比な力を持つ彼がフジツボ怪人を『なんとか出来る』と断言し、そのために継実とモモが命懸けで運んだ場所だ。

 どんな攻撃が来るかは、なんとなく継実にも分かる。そしてフジツボ達にも分かったのだろう。理性的なのか、本能的なのかは兎も角、此処にいたら不味いと気付いたのは確かだ。

 そうでなければ、クジラの鼻である『噴気孔』の上から逃げようとする筈がないのだから。

 

「おいおい、そんな慌てんじゃねぇ……礼ぐらい受け取っていけやクソ虫がアアアアアアアアアアッ!」

 

 無論マッコウクジラはフジツボを逃がすつもりなどなし。継実すらもビリビリと痺れるような大声を出した直後、マッコウクジラの噴気孔から『鼻息』が噴き出された!

 鼻息といったが、噴気孔から出てきたのは虹色の光だった。しかし光線技ではないし、やはり正体は鼻息なのだろうと継実は思う。継実の目が捉えた光景が正しければ、噴気孔から出ているのは莫大な量の空気なのだから。

 噴出した空気は原子崩壊を起こし、四方八方にエネルギーを吐き出しながら光っている。原理的には鼻息を噴いただけなのだが、現象的には極大のエネルギー攻撃だ。光エネルギーは空高く打ち上がり、宇宙空間まで届いているほど。継実の粒子ビームなど比較にならない、小さな惑星すら粉砕するのではないかと思える出力を誇っていた。このエネルギー照射をまともに浴びたなら、普通ならミュータントだろうが即座に蒸発、形を保ったとしても宇宙に追放される事だろう。

 だが、フジツボはどちらでもなかった。

 フジツボは両手両足を伸ばし、マッコウクジラの背中に張り付いていたのだ。マッコウクジラの『鼻息』は頭の先から放った超高出力音波砲ほどの威力はないようで、フジツボは辛うじて原型を留めている。マッコウクジラの鼻息のパワーよりも、フジツボの頑強さが上回っていたのだ……勝っているのは本当にそれだけだったが。

 頑張って張り付いているようだが、フジツボ怪人の身体は激しく震えていて、手は指先が付いているだけという有り様。胴体も脚も浮かび上がり、体勢を立て直す事も出来ないようだ。どんなに頑張ったところで悪足掻きに過ぎない。

 

【――――!】

 

 フジツボ怪人が何かを求めるように継実達の方に片手を伸ばした

 次の瞬間、奴の身体は大空へと打ち上がる!

 虹色の閃光は遥か上空へと瞬時に到達。継実でも見えないような速さでフジツボ達も吹っ飛ばされ、あっという間に宇宙空間へと追放されてしまう。継実の目なら宇宙空間のフジツボを補足する事も可能。どんな速さで飛んでいったのか確認したところ……射出速度は秒速百キロ超え。第三宇宙速度も余裕でぶっちぎっている。火星や木星などの惑星に落ちなければ、やがて太陽系を脱出するだろう。

 フジツボ達は吸い付く能力を応用して前進していた。秒速数百メートルの速さを出せる移動方法だが、あれは吸い付く物質(空気)があったから出来た事。宇宙空間に漂う水素の密度では、果たしてどれだけのスピードが出せるのか。いや、そもそも減速するのに何百年も掛かるかも知れない。

 どれだけ足掻こうと、どれだけ強力な能力を使おうと、もう奴等が地球に戻ってくる事はないのだ。

 つまり。

 

「……終わった?」

 

「多分ね」

 

 答えを求めるように呟いたところ、モモから同意の言葉が返ってくる。

 途端、継実はその場に座り込んでしまう。正確には腰が抜けたと言うべきだろうが。

 

「つ、疲れたぁ〜……」

 

 何しろ勝利の余韻に浸るよりも前に出した一声が、こんな情けない声なのだから。

 

「もう、あんまり心配させないでよね。事前に聞いてない捨て身の作戦とか心臓に悪いわ」

 

「心臓への負担なんて、もう物理的にヤバいの何回も喰らってるでしょ。ストレスなんて誤差だよ誤差」

 

「私の心臓はアンタみたいになくなったら交換出来るような量産品じゃないのよ……身体に付いていたフジツボは大丈夫なの?」

 

「んぁ? あー、もうアイツら離れていったよ」

 

 共に戦っていたモモから気遣う声を掛けられ、継実はそう答えながら自分の首を撫でるように触る。つい先程までそこにいたフジツボの姿は、もう何処にもない。継実が唆した「集合体を倒すまでは見逃す」という期間が終わった瞬間、自ら這い出して出ていったからだ。取引した奴等が大人になれたのか、それともまだなっていないのか。それは継実には分からないし、知った事でもない。

 ……知った事ないついでに、ここまでで散々見せつけられたフジツボの生命力、そしてミュータントの逞しさからして、吹っ飛ばされた宇宙空間でもなんとか生き延びているんじゃないかと継実はふと考える。それに普通寄生虫は宿主を限定する ― 宿主の免疫系やライフスタイルが異なるのでそのために特殊化した身体でないと上手く適応出来ない ― ものだが、初めてこの海に来たであろう人間とマッコウクジラと犬に寄生するぐらいだ。殆ど相手を選ばない万能性からして、宇宙人相手でも平気で寄生しそうである。

 ミュータントの強さは宇宙規模でも非常識だとミドリも言っていたので、アイツらが太陽系外のどっかの惑星に落ちたら普通に大変な事になるんじゃなかろうか。自然のある星は食い尽くされ、文明のある星は滅亡待ったなし……尤も、そう考えたところで秒速百キロで星の外に飛んでいったものを追い駆ける事も出来ないが。こう言っては難だが、フジツボ達が異星文明を侵略しようが、異星生態系を破滅させようが、そんな事は継実達には関係ない。野生動物が争った結果、追い出された側が新天地を開拓するなんて『自然界』ではよくある話なのだから。

 そう。そんな事よりも大事なのは。

 

「つつつつつ継実さああああああああんっ!」

 

 大声で叫びながら突撃してくるミドリを受け止める体力が、今の自分にあるかどうかだろう。

 

「あ、ちょ、ミドリ待っうぐぇ!?」

 

「継実さぁん! 大丈夫なんですか! 怪我してないですか!?」

 

 猛烈な速さで突撃してきたミドリは、腹からタックルするように抱きついてきた。そして次々と掛けられる気遣いの言葉。彼女がこちらを心から心配してくれていた事が、伝わってくる。

 その気持ちは大変嬉しい。嬉しいが、七年前の地球生命体なら絶滅させる事も出来ただろう超絶肉体パワーで抱きしめられたら色々辛い。ミュータント同士とはいえ粒子操作能力すらまともに使えない今の継実の身体はメキメキと音を鳴らし、全身が悲鳴を上げている。

 このままだと、普通に死にそうだ。仲間との抱擁により殺されるとは、中々笑える逝き方だなと遠のく意識で継実は考える。むしろ生きたまま喰われるのが普通の死に方となったこの世界では、割と恵まれた最期の迎え方かも知れない。

 勿論このまま殺されるつもりもないが、強いて言い残す事があるとするならば。

 

「お腹、減ったなぁ……」

 

 そんな本能塗れの言葉で良いだろと思いながら、継実はそっと目を閉じた。



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飢餓領域16

「あああああああ……五臓六腑に染み渡るぅぅぅ……」

 

「何よ継実、その酒飲みみたいな感想は」

 

「はぐ! がつがつがつがつ……」

 

「こっちはこっちで子供みたいな食べ方してるわねぇ」

 

 くすくすと笑いながら丸焼きの魚を齧るモモ。彼女の視線の先では、小魚を頭から齧っているミドリがいた。継実もよく焼いた魚のハラワタを食べながら喜びに浸る。

 フジツボ達の猛攻を切り抜けた継実達だったが、危機は終わらなかった。何しろフジツボ達にエネルギーの殆どを奪われた状態で、もう何時餓死してもおかしくない状態だったのだから。遠退く意識のまま目を閉じた継実だったが、モモの往復ビンタで強引に叩き起こされ、休む暇もなく食べ物探しに協力させられた。休んだら本当に餓死しかねない状態だったので仕方ないのだが。

 幸いにして海には魚が多数存在し、獲物には困らなかった。ミドリが魚群探知機のように魚の居場所を特定し、モモが伸ばした体毛で魚を仕留め、継実がその魚を粒子ビームで焼いて美味しく調理する。最後の調理工程が必要か否かでいえば、普段であれば不要だ。料理なんてデメリットしかない ― 調理している間に猛獣が来たら折角の獲物が奪われてしまう。それに料理の匂いで猛獣を引き寄せかねない ― ので、実際普段はやっていない。しかし此度のように身体が酷い飢餓状態なら話は別。消化というのは非常にエネルギーを使うものであり、例えば人間の場合一日で消費するエネルギーの一割がこの消化由来といわれているほど。勿論最終的には食物から得られるカロリーの方が上回るので「食べるほど痩せる!」というロジックはまず成り立たないが……一時的に大きなエネルギーを消費するのは間違いない。

 加熱調理した食材は消化に優しく、少ないエネルギーで吸収する事が出来る。焼いた魚でまずはモモの体力を回復させ、モモが大量の魚を捕まえられるようになったら継実の体力を回復し、最後にミドリによく調理した魚を振る舞う。それが先の、三者三様の反応の理由である。

 

「はぐ、はぐぅ……んまいだなぁ~」

 

 ちなみにモモが仕留めて継実が調理した魚は、彼女達が乗っているマッコウクジラにも振る舞われている。マグロのような大型魚を渡しているが、この巨大な身体では果たしてどれだけ回復の手助けになった事か。

 

「大丈夫? あなたの大きさじゃ全然足りないと思うけど……」

 

「だなぁ。ボカァ君達が戦っている間に魚を食べてたから、大丈夫なんだなぁ」

 

「……え。あの時魚食べてたの?」

 

「だな。だってお腹膨らませていないと力も出ないんだな。やる事もなかったしなんだなぁ。まぁ、潜れないからあまり捕まえられなかったんだけどなぁ」

 

 心配して声を掛ける継実だったが、マッコウクジラからの返事に一瞬表情を強張らせてしまう。彼の言う事は至極尤もであり、全く以て正しいのだが理性的にはちょっと釈然としない。人間というのは合理性ではなく感情を重んじる生き物なのだから。

 

「だな。それよりそろそろ見えてきたんだなぁ」

 

 そんな感情は、より大きな感情に塗り潰されてしまうものだが。

 継実は食べていた魚を口に詰め込むと、マッコウクジラの頭の方へと這いながら向かう。モモも継実と共に向かい、夢中で魚を食べていたミドリは遅れてやってきた。

 地平線の彼方に小さく見える、『海じゃないもの』。

 マッコウクジラが前へと進むほど、その海じゃないものは具体的な形を継実達に見せてくる。濃い緑に覆われた森、真っ白な砂浜……どれもが陸地の特徴であり、尚且つその広さから迫ってきた陸地の広さが窺い知れた。

 ちょっとした小島なんかじゃない。れっきとした大陸だ。そしてこの地域に浮かび、継実達の進路上に存在する大陸なんて一つだけ。

 

「見えてきた……オーストラリア大陸だ!」

 

「長かった旅もいよいよ後半戦、というか終盤って感じねぇ」

 

「あれが次の目的地なんですね!」

 

 継実の声に反応し、モモとミドリもはしゃぎ出す。大海原でのピンチを超えて、懐かしさも一入といったところか。

 それと同時に継実の胸に込みあがってきたのは、ここまで自分達を運んでくれたマッコウクジラへの感謝。

 

「ありがとう、マッコウクジラ。あなたがいなかったらきっとこの海は越えられなかったよ」

 

「だなぁ。ボカァも一緒じゃなかったら、きっと寂しかったんだなぁ。短い旅だったけど、楽しかったんだなぁ」

 

 共に戦ってくれた事に対する継実の感謝に、マッコウクジラは旅への同行自体に感謝する。実際、彼ならば単身でもフジツボ達を返り討ちに出来ただろう。フジツボ戦に関しては継実達が一方的に助けてもらったのが実情だ。

 『対価』という観点に立てば、お喋り相手になるというだけでは到底足りない利益を継実達は得た。いや、そもそも継実達はあくまでもオーストラリアに行くまでの『乗り物』としてマッコウクジラに乗っていた訳で、話し相手という対価はそれに対するもの。こちらの命を守ってくれるというのは契約外の事だ。

 有り余る、そして本来受ける予定のなかった利益を得たらお返しをしないと、と人間である継実は思ってしまうのだが……だけど野生動物であるマッコウクジラはそんな些末事など気にしない。こうも堂々と無頓着だと、気にしてしまう自分がとてもちっぽけに思えて、じゃあそれで良いやという気持ちになる。自然の雄大さに甘えているだけともいえるが。

 

「(いや、やっぱり甘えっぱなしは良くないよね。ここは少しでもお返ししないと)」

 

 ふるふると顔を横に振り、自分の中の怠惰な考えを払う。野生動物的にはエネルギー消費が少なくなるため怠惰で結構だとは思うが、継実はあくまでも人間。それに心のわだかまりがある状態は精神的に良くない。

 返せるものはお喋りだけ。そのお喋りも大陸の姿が見えてきた今となっては、そう長くは続けられないだろう。ならばここはとっておきの、モモの恥ずかしい話(したら多分電撃スクリューパンチで胸に穴を開けられるが)でもしてやろうと継実は考えた。

 

「……あ。ボカァ、これ以上進めないんだなぁ。お別れなんだなぁ」

 

 が、直後にマッコウクジラからそんな言葉が。

 まだまだオーストラリアまで一キロはありそうな位置なのにお別れを言われるなんて思わず、継実は思わず身体を乗り出してマッコウクジラの顔を覗き込んだ。

 

「え!? なんで!? まだまだ陸まで遠いのに……」

 

「この先、結構浅くなっているんだなぁ。潮の流れもあるから、油断すると打ち上がっちゃうかもなんだなぁ。打ち上がるのは怖いんだなぁ」

 

 継実が問うと、マッコウクジラはそのように答える。どうやら座礁を気にしているらしい。

 ニューギニア島ではかなり陸地近くまでいたが、あそこは深くなっていた場所だったのか。潮の流れもあるようなので、マッコウクジラなりの基準があるのだろう。

 もう少し一緒に行きたい気持ちはあるが、恩返ししたい相手に無理強いなんて本末転倒だ。それにクジラが座礁した場合、自重で内臓が潰れるなど割と洒落にならないダメージを受けるという。命懸けで海岸線ギリギリまで来いなんてただの脅迫ではないか。

 彼に恩を返したいからこそ、無理強いなんて出来ない。

 

「……そっか。うん、そういう事なら仕方ない」

 

「今まで、本当にありがとうございました!」

 

 継実が納得を示し、ミドリが大きな声で感謝を伝えた。マッコウクジラは「だなぁ〜」という返事がきたが、その声が潤んでいるように聞こえる……のは継実の願望か。もっと長く居たいとは、きっとマッコウクジラも思ってくれているのだろう。

 

「それはそれとして、この距離の移動はどうする?」

 

 などと感傷に浸りたいところだが、モモの言葉で現実に引き戻されてしまう。じろっと継実はモモを睨んだが、モモはまるで気にしてない。

 実際問題だ――――島までの一キロ近い距離は。

 一キロとはいえ海は海であり、海洋生物達のテリトリー。オーストラリアの海に何が棲んでるかなんて継実はよく知らないが、トレス海峡のすぐ側には世界最大の珊瑚礁帯・グレートバリアリーフが存在している。それにトレス海峡自体にも珊瑚礁は存在していた。そして珊瑚礁といえば誰でも知ってる生命の宝庫。豊かな生態系の中を生き抜く、希少で野蛮で獰猛な生物がさぞやわんさかといる事だろう。

 日本から旅立つ時さえ、継実達三人だけでは一キロと進まずに引き返す羽目になっている。目の前の海中に広がっているだろう珊瑚礁を渡るとなれば、果たして百メートルも進めるか怪しいものだ。

 何か策を練らねばなるまい。

 

「……いやー、どうしたもんかなコレ」

 

 練らねばならないが、危険な海域を通過するのに小細工も何も通じる訳もなく。相性も悪いのだから打てる手がそもそも少ない。

 頭脳労働担当の継実から意見が出なければ、犬であるモモから秘策なんて出ず。宇宙人であるミドリも良い案はないようで口を噤む。

 うーん、と三人仲良く頭を抱える羽目になった。

 

「だなぁ。それならボカァが手伝うんだなぁ」

 

 そうした悩んでいたところ、マッコウクジラから声が掛かる。

 

「手伝う? でもこれ以上前には」

 

「行かないんだなぁ。でも手伝えるんだなぁ。ボカァの頭の方に来てほしいんだなぁ」

 

 そう言うとマッコウクジラは大きく身を仰け反らせて、海中に沈めていた頭を海上に出した。

 どうするつもりなのか、継実にはよく分からない。けれどもマッコウクジラの体勢も辛そうであるし、今まで何度も自分達を助けてくれた相手だ。継実は言われるがままマッコウクジラの頭の先に向かい、モモとミドリも継実の後を追って一緒に登る。三人揃ってマッコウクジラの頭の先にちょこんと座った。

 頭の先から見える景色は、中々綺麗だ。遠くに浮かぶオーストラリアもよく見える。とはいえマッコウクジラはこの景色を見せたかった訳ではないだろう。

 さて、一体何が起きるのか。

 

「じゃ、ばいばいなんだなぁ」

 

 その説明をする前に、マッコウクジラが別れを告げた。

 次の瞬間、継実達の身体が宙に浮いた。継実達の意志とは関係なしに。

 それと共に、全身が潰れそうなほどの衝撃が継実達を襲った!

 

「ぐぅぅっ!? こ、これは……!」

 

 苦悶の中で継実は直感的に理解した。自分達が、マッコウクジラの音波砲(弱)で吹っ飛ばされたのだと。

 振り返ればマッコウクジラは今も仰け反ったまま。海面に出た顔が自慢げに見えたのは、果たして錯覚なのだろうか。

 ちゃんと説明しなさいよ、と文句の一つも言ってやりたいが……しかしお別れを怒り顔で済ませるのも嫌である。何より今まで感じた事のない、猛烈な高速移動はきっと今しか味わえない。

 だったらこの超高速移動を楽しむ方が『合理的』というもの。

 だから継実は笑い、親指を突き立たポーズをマッコウクジラに示す。彼にそれが見えたかどうかは分からない。けれどもきっと伝わったと信じながら、継実は真っ正面を見据える。

 

「さぁ、いよいよ最後の大陸だぁ!」

 

 そして大きな声で喜びの雄叫びを上げた。

 大陸へと飛んでいく継実達を祝福するように、海原では一際大きな噴水が吹き上がるのだった。



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第九章 ワイルド・アサシン
ワイルド・アサシン01


「おー、絶景かな絶景かな」

 

 心から感嘆したかのような、弾んだ声でモモが独りごちる。

 絶景と語るモモの目の前に広がるのは、地平線の先まで続く広大な草原。生い茂る草はどれも葉がやや黄色味掛かっていて、あまり元気さは感じられない。木々も生えているが疎らで、高さも精々十数メートル程度。草が生い茂っているので地面は見えないが、風が吹くと赤色の土埃が舞い上がる。草に覆われていても、地面はかなり乾燥しているようだ。

 その大地はまるで均したように平らで、殆ど凸凹は見られない。単一の環境が遥か彼方まで続く光景は、自然の雄大さを感じさせてくれる。また空気はからりとしていて、赤い土埃を抜きにすれば、過ごしやすい気候だ。気分が上々となるのも頷ける。それにこんな光景を目にするのはモモだけでなく継実も初めて。感情が昂ぶってしまうのも仕方ない。

 そして何より、目的地(南極)が目前に迫ってきたのに興奮するなという方が無理というもの。

 ついに継実達は、オーストラリアの大地を踏み締めているのだから。

 

「ほんと、良い景色だね。自然の雄大さを感じるっていうのかな?」

 

「こういう乾燥した環境は初めてですね。今まで森とか草原とかばかり歩いてましたから、地球って森ばかりの星かと思ってましたよ」

 

 モモの後ろを歩きながら同じく景色を見ていた継実はその感想に同意し、ミドリはこの地の環境について意見を述べる。いやアンタ宇宙人なんだから地球の全体像一度見てるでしょ、とも思う継実だったが、地球に訪れた時は新天地への『避難』の真っ只中。星の全体像をゆっくり見ている余裕などなく、今まで見てきた環境だけで判断してしまうのも仕方ないかも知れない。

 勘違いしていると分かっていて無視するのも、家族に対して悪いだろう。継実はミドリに、地球環境についての話をする事にした。

 

「日本含めて、今まで通ってきた島は周りが海に囲まれてるからね。雨雲ってのは基本的に海で出来るから、周りが海に囲まれてると雨量が多くなる。それに赤道を通ってきたから気温も高い。その点オーストラリアは、確かに海から雨雲が来るんだけど、大陸の東側にある山脈が雨雲を堰き止めちゃうから大陸中央に近付くほど雨が少ないんだよ。赤道からも離れていて、気温もそんな高くないし」

 

「へぇー。だからこんなに乾いているんですか。植物が少ないのも雨があまり降らないからでしょうか?」

 

「そうなんじゃない? ミュータントになったからって、水がいらないって奴は……まぁ、少ないし」

 

「ですよね。いやー、非常識だと思っていたミュータントですけど、水がないと生きていけないとか、ちゃんと常識的なところもあるんですねー」

 

 うんうんと、何やら感慨深そうに頷くミドリ。宇宙的に見ても非常識な生命体らしいミュータントにも理解が及ぶところがあり、一宇宙人として安堵しているのだろうか。

 ……実際、オーストラリアの大部分は乾いた草原(ステップ気候)や砂漠が支配していた。しかし頭の中に浮かぶ情報曰く、此処は七年前には()()()()()と呼ばれていた地域の筈。草は疎らで、木なんてろくに生えていない。もしも人間が遭難したなら、確実に死ぬであろう過酷な環境だ。

 ところが今や砂漠は完全に消え失せ、ちょっと黄ばんでいるが緑色の生き物が全てを覆い尽くしている。ミュータントの生命力は、生命の存在を許さない大地すらも緑化してしまったのだ。そういう意味では、やはり『非常識』な存在なのは変わらないだろう。

 とはいえ、これが悪い事とも継実は思わない。生き物好きな身としては、やはり地球にたくさんの生き物が暮らしている方が()()()()()というものだ。勿論砂漠が緑化されていく過程で、砂漠に適応した生物は絶滅していっただろう。それについては悲しさや虚しさを抱かない訳でもないが、砂漠の草原化はミュータントという新生物の進出の結果である。つまり自然淘汰であり、そんなのは過去の地球で幾度も繰り返された事だ。今更取り立てて騒ぐような話ではない。

 何より。

 

「(生き物が多い方が、狩りの獲物には困らないよねー)」

 

 継実(人間)も今では立派な野生動物。まずは自分が生きていける事が最優先だった。

 他にもこの土地には良い事がある。これまでの旅で継実達は幾度となく、強大なミュータントと出会ってきた。大トカゲ、ツキノワグマ、巨大ヤドカリ……どうやっても勝てないような奴もいたし、勝てたのが奇跡に思えるような種もいた。他にもハマダラカや金属シロアリ軍団のような、一筋縄ではいかないような奴等とも数えきれないほど遭遇している。

 そうした強敵達に何故これまで出会ってきたのかといえば、通ってきた場所が緑豊かだったからだろう。

 植物が多ければたくさんの生物が生きていける。たくさんの生物がいれば競争が激しくなり、より強いモノが生き残る。強いモノはその分エネルギー消費が激しくなるが、食べ物が豊富なら心配する必要はない。命に溢れているのだから、食べ物なんていくらでも得られるのだ。むしろ天敵やライバルに負けないよう、強い身体を持たねばならない。

 故に森林の生物は強い。旅立ち前に花中が教えてくれた通りだ。

 ならば逆もまたその通りになる筈。

 つまり元々が砂漠で、今でも乾いた草原にしかなっていない……餌が乏しいこの地では、あまり強い生物はいないと考えるのが自然なのだ。継実が考えるに、恐らく自分とモモが七年間暮らしていた、あの草原と同じぐらいの強さの生物が繁栄しているだろう。

 日本から此処までの旅で、継実達はかなり強くなった。ミドリという頼もしい家族も増えていて、彼女も着実に強くなっている。ならばどうして七年間暮らしていたあの草原の生き物に遅れを取るというのか。

 あの草原と同じ程度の生態系なら、最早恐れるに足らずだ。

 無論油断は禁物である。七年間暮らしていた草原の頂点捕食者である巨大ゴミムシには、未だに勝てるとは継実には思えない。強くなったといっても、あくまでも『人間』の範疇。オーストラリア大陸に広がるこの草原の頂点捕食者も同じぐらい強いなら、自分達三人が束になって、更に奇襲攻撃を仕掛けても呆気なく返り討ちに遭うだろう。加えてオーストラリアに暮らすミュータントの能力なんて、継実は何一つ知らない。相性の悪い能力で奇襲なんて受けようものなら、同格どころか格下相手にも一方的にやられてしまう。それが、今の自然界だ。

 しかし油断をしなければ――――景色を見渡したり、生き物を愛でたりするぐらいの時間はあるだろう。

 

「うん。久しぶりに遊べそうだし、南極までの最後の旅路、楽しんじゃおう!」

 

「おぉー!」

 

 継実の掛け声に合わせ、ミドリも声を上げた。モモだけがやれやれとばかりに肩を竦めていたが、多数決には逆らわないとばかりに何も言わない。

 そう、『人間』二人は思っていた。旅の山場は越えて、此処から先は……安堵は出来ずとも、それなりには楽しむぐらいの余裕はあると。犬もまた、賛同はせずとも窘めるほどではないと。

 されど継実達は思い知る。

 もうこの世界に、安堵出来る場所など何処にもないのだと……



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ワイルド・アサシン02

 猛烈な速さで草原を駆けていく、何十頭もの動物の姿がある。

 体長はざっと一・五メートル。身体こそ継実よりも小さいぐらいだが、臀部には腕のように太く且つ一メートル以上ある長い尾が生えているため、数値以上の威圧感を感じられるだろう。またその身体は非常に筋肉質で、胴体は鍛え上げられたボクサーを彷彿とさせる。それ以上に逞しいのが大地を蹴る二本の脚だ。跳ねるような移動は時速六万キロもの速さを出しており、ミュータント化前から『走る』のが得意な種だったと窺い知れた。

 しかしそうした特徴よりも目を引くのは、その外観だろう。二本脚で直立する事の出来る身体を持ち、前足の五本指には鋭くて長い爪が生えている。馬のように細長い頭を有し、頭から巨大な耳を生やしていた。

 これまで見てきた、どんな生き物とも異なる外見。

 

「ひっ!? な、なんですかあの生き物……今まで見た事ないです……」

 

 ミドリが恐怖を感じてしまうのも、仕方ない事かも知れない。仕方ないのだが、それでも継実は思わずくすりと笑ってしまった。地球人的には、あまりにも珍しい反応だったので。実際危険なのは確かなので正しい反応ではあるのだが……十年間の文明生活で刷り込まれた『印象』は中々拭えないもので。

 何時までも怖がらせてしまうのも可哀想だろう。

 

「怖がらなくて良いよ。アレはカンガルーって言って、オーストラリアじゃあり触れた生き物だから」

 

 故に継実は、ミドリが目にした動物の正体を教える。

 ミドリはカンガルーの群れを見て怖がっていたのだ。確かに体長二メートル近い生物となればパワーも強い。七年前の時点でも、カンガルーに蹴られるとかなり危険だと言われていた。ミュータントとなった今なら、継実達を宇宙空間に追放するぐらいは簡単にやってのけるだろう。

 しかし日本人である継実にとって、カンガルーは愛すべき動物の一つだ。細長い頭はちょっと惚けたように見えて、なんとも可愛らしい。怖がるという考えは、中々浮かんでこない。今でも、継実的には怖いとは思えなかった。

 

「そうそう、美味しそうじゃないアレ。肉付きとかも良さそうだし」

 

 ちなみにモモのような、食べようという考えも中々浮かばないだろうが。

 ただしこちらの考えは継実もすんなりと納得する。何しろカンガルーは、七年前の人類も美味しく食べていたのだから。

 

「んー。食べるのは良いけど、群れを襲うのは流石にリスクがあるでしょ。カンガルーって体重八十キロぐらいあるらしいし、一対三でもなきゃやってらんないよ」

 

「それもそっか。ま、今はまだお腹も空いてないし……それに獲物はいくらでもいるしね」

 

 モモはそう言いながら、彼方まで広がる草原を見渡す。継実もモモと同じく辺りをぐるりと見た。

 そうすれば、動物はいくらでも見付かる。

 例えば体長二十センチほどの獣。長く伸びたふさふさの尾を持ち、地上を走り回る姿はリスにも似ている。しかしその顔は細長く、開いた口から覗かせるのは大きな前歯ではなく舌だ。縞模様を描く毛むくじゃらな身体はなんとも可愛らしい。

 これはフクロアリクイだ。主にシロアリを食べている動物である。七年前は絶滅が心配されていた種だが、今では草原のあちこちを走り回っていた。

 他には真っ黒な体毛に覆われた、四足の獣もいる。体長は六十センチと小柄であり、顔立ちはイヌとネズミを混ぜたようなちょっと可愛らしいものだが……開いた口には鋭い牙が幾つも並び、その生き物が獰猛な捕食者であると物語る。これはタスマニアデビルだ。人類文明があった頃だとオーストラリア大陸の個体群は絶滅(人間が持ち込んだディンゴ(野犬)との生存競争に敗れたらしい)し、タスマニア島でのみ生き延びていたのだが、ミュータント化と共にオーストラリアへ再進出してきたのだろう。

 更に体長一メートル近いずんぐりとした獣もいた。手足は短く、身体は太く、耳は短め。頭も丸く、尻尾はあるが非常に短くて毛に埋もれていた。お尻はデカく、でっぷりと丸みを帯びている。こちらはウォンバット。オーストラリアではあり触れた哺乳類の一種だ。

 次から次へと出会う、様々な動物達。七年前には絶滅が心配されていた種も、今やミュータントとして大いに栄えているようだ。数も多く、少し歩くだけで別個体や別種に出会える。

 継実的にはサファリパークを見回っているようで楽しいし、モモも ― 食欲で ― 目を輝かせており彼女なりに新大陸の自然を楽しんでいるようだ。

 

「ひぃやああああっ!?」

 

 唯一悲鳴を上げているのがミドリ。

 どうにも彼女は先程から、動物に会う度に叫んでいた。それもタスマニアデビルのような肉食獣だけでなく、フクロアリクイやウォンバットに対してもである。しかも可愛さからつい叫んだというものではなく、割と本気の悲鳴だ。丸々してて可愛いウォンバットを見て恐怖で引き攣るなど、日本人的には謎行動過ぎる。

 まるで自分達と初めて出会った時のような反応だなと継実は思う。モモも同じ疑問を抱いたようで、ミドリに質問を投げ掛けた。

 

「なんかさっきから見る度に叫んでるけど、どしたの? そりゃ肉食獣とかもいたけど、別に襲い掛かっても来てないじゃない」

 

「そ、それは、そうなんですけど……その、見た事もないような変な生き物ばかりで驚いてしまって」

 

「変な生き物? そんなに変かしら。形とか大きさも今まで見てきた奴等と大差ないと思うんだけど。つーか変さ云々でいったら熱帯雨林の生き物の方が上でしょ」

 

「確かに熱帯雨林も色んな生き物がいましたし、変な生き物もいましたけど、でもなんというか、此処の生き物はまたちょっと違うというか……」

 

 モモの意見に反論するものの、上手く表現出来ないのか。ミドリは段々と声が萎んでいった。モモはミドリの答えが納得いかないのか、こてんと首を傾げている。

 しかしミドリの抱いた印象は正しい。オーストラリアには様々な固有種が暮らしているが、哺乳類の『特殊さ』は他の生物より際立っているのだ。この地の哺乳類はこれまでの旅で出会った哺乳類……そして継実やモモとは根本的に違う存在なのである。

 

「オーストラリアの哺乳類は有袋類だからね。日本とかインドネシアの哺乳類とは根本的に違うし、ミドリが違和感を覚えるのも仕方ないかも」

 

「え? 違いなんてあんの? 有袋類ってお腹に袋があるだけだと思っていたわ」

 

 継実の説明を聞いてモモがキョトンとしながら尋ねてくる。地球生物としてその認識はどうなのよ……とも継実は思ったが、されど生き物に興味がない人間なら、モモと似たような認識かも知れない。ましてやモモは犬なのだから、人間が勝手に決めた生物の分類などどうでも良いのだろう。

 確かに有袋類の特徴など知らなくても、基本的には問題なく生きてはいけるだろう。しかし知識は生きる力となる。この地に暮らす哺乳類がどんな存在か知っておけば、後で何かしらの役に立つかも知れない。どんな役に立つかは継実もすぐには答えられないが、もしもというのは何時だって予想外だ。詰め込んでおいて損はないだろう。

 ちなみに一番の理由は継実が語りたいからなのだが。生き物好きは何時だって生き物の話をしたいものである。

 

「有袋類ってのは、古いタイプの哺乳類なんだよ。胎盤が未発達で、子供を大きく育てられない。だからお腹の袋で子供を育てる訳ね」

 

「ふーん。アイツら原始的なんだ」

 

「でも原始的という事は、昔からいた動物なんですよね? なら長い時間を掛けて世界中に分布していて、旅の中で出会っていてもおかしくないんじゃないでしょうか?」

 

「実際昔は世界中にいたらしいけどね。でも絶滅したんだよ、私達有胎盤類との生存競争に負けて」

 

 有袋類と有胎盤類は共に哺乳類であるが、進化的に分かれたのは一億六千万年前だというのが有力な説。それだけの年月を掛けて別々の進化を遂げた両者は、自らの繁栄のために競争し合う関係となっていた。

 有胎盤類――――現代における『普通の哺乳類』は有袋類よりも優れた点が幾つもある。例えば子供を大きく育てて産むため、乳児死亡率を大幅に下げられる事。また出産数も有袋類より多い傾向があり、繁殖力に優れるという説もある。

 勿論有袋類の育て方にも利点はある。例えば未熟な子供を産むため、母体への負担が小さいという事。また子供をすぐに外へと出すため母体は常に身軽であり、天敵に襲われても()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。母体の安全に関していえば、圧倒的にこちらが優位なのだ。

 そのため過酷な環境では、有袋類の方が生存競争で有利になるという。オーストラリア大陸は(少なくとも七年前までは)広大な砂漠が広がる大地であり、哺乳類が生存するのには厳しい場所だった。この環境下では有袋類がかなり強く、故に支配を続けられたのである。しかしそのような環境はここ数千万年の地球ではあまりなかったようで、結果的にオーストラリア以外の有袋類は有胎盤類との競争に破れて殆ど絶滅してしまった。またオーストラリアは他の大陸と数千万年もの間接しておらず、大量の有胎盤類が入り込まなかった事も有袋類が生き延びた一因だろう。

 かくして、オーストラリアは地球で唯一有袋類が支配する大陸となったのだ。

 

「成程、だからこの地の生き物は独特な姿をしているんですね……勉強になります」

 

 宇宙人は納得したように頷き、興味深そうに周りを見渡す。今までは恐怖の対象だったが、今ではすっかり好奇心旺盛だ。正に『知的生命体』である。

 継実としても、こうして興味を持ってくれたのは素直に嬉しい。一生き物好きとして話した甲斐があるというもの。

 

「んー、よく分かんないけど、つまり余所では絶滅してる雑魚ってことね! なら私の敵じゃないわ。ふふん」

 

 なお、継実の説明を聞いたモモの感想が、これ。

 生存競争は単純な強さじゃないっつーの。そう言いたくなる継実は肩を落とし、ミドリはくすくすと笑う。

 とはいえ実のところ、強さの面でも有胎盤類の方が分があるかも知れない。実は有袋類の欠点として、未熟な状態で産む弊害により脳を大きく出来ないというものがある。知能が高い=強いではないが、戦闘時の瞬間的な判断には優れた情報処理能力が必要だ。脳が大きいとその分エネルギー消費が多くなるので、これもまた一概に有利とも言えないが……戦いという場においては、脳が大きい方がより素早く、そして正しく判断出来る分だけ有利になるのは違いない。

 そういう意味では、モモが言うように獲物としても雑魚という可能性はある。逆説的に、捕食者としての能力もあまり高くないだろう。

 なら、安全に『観察』する事も出来る筈だ。

 

「(……ちょっと見てみたいかも)」

 

 継実は生き物が好きだ。この七年の中で何度殺されかけたか分からないが、それでも生き物が好きである。巨大ゴミムシも大蛇もアホウドリも、難なら侵略者エリュクスだって、『生き物』としては好きだと胸を張って言える。

 そんな継実にとって、オーストラリアの大地は夢の世界だ。動物園でしか見た事がない、いいや、動物園でも見た事がない生き物を間近で見られる。それにワクワクしない生き物好きなんて、いやしない。

 

「……ねぇ、ちょっと此処の生き物の観察会をしてみない?」

 

 継実の口からそんな提案が出てくるのは、彼女の性分を思えば致し方ない事だった。



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ワイルド・アサシン03

「ぎゃわぁぁぁんっ! 可愛いぃー!」

 

 まるで年頃の乙女のような黄色い悲鳴を、継実は満面の笑みで叫んでいた。

 悲鳴は遥か彼方まで届いただろう。他の動物を襲って食べるような肉食獣がこの声を聞いたなら、獲物だと思って近付いてくるかも知れない。

 どんな生物が暮らしているか分からない、未知の大地。迂闊な大声で猛獣を呼び寄せる事が如何に危険か、七年間もこの世界で生き抜いていた継実は十分に知っている。しかし今の継実は自分の出した声に反省などせず、ただただ笑うばかり。

 そしてその腕の中の『獣』を、力いっぱい抱き締める。

 七年前の人類文明最盛期に、一番人気だったであろう有袋類――――コアラ。それが継実を魅了している獣の名前だ。体長七十センチの身体、ふさふさの体毛、丸くて愛嬌のある顔立ち……七年前と何一つ変わっていない姿をしている。その七年前と変わらない姿が、継実を惑わすのだ。

 

「あぁ、まさか本物のコアラを抱っこ出来るなんて……はにゃあぁぁぁん」

 

 幸せで顔を蕩かせながら、継実は一層強くコアラを抱き締める。結構な強さで抱いているのだが、コアラは特に気にした素振りもない。大きな欠伸までして、リラックスしているようにも見えた。欠伸時にかなり臭い息 ― コアラは有毒なユーカリの葉を腸内で発酵させているらしいのでその悪臭だろうか。腐った肉みたいな臭いがする ― が顔に掛かって継実は顔を顰めたが、その程度で『可愛い』を放しはしない。

 オーストラリアの動物観察を始めた継実達が最初に接触したのが、このコアラだ。正確に言うなら継実が会いたがって、能力をフル活用して見付け、超音速で直行し、偶々手の届く位置にいた個体をおもむろに抱き締めた……というのが現状に至るまでの展開である。

 これはかなり危険な行為だった。コアラといえば世界一可愛い動物(注:継実的意見)であり、その知名度の高さもあって生態はかなり研究されている。しかしそれは七年前の話。ミュータントと化しているであろう今のコアラがどんな存在かは不明であり、何か恐ろしい能力で反撃される可能性もあった。オーストラリアの環境からしてそこまで強力な生物は生息していないと思われるが、用心に越した事はない。それは継実も重々承知しているところだ。

 ならばどうしてこんな行動をしたのかといえば、継実はコアラが大好きだったから。

 何故と言われても答えに困るが、強いて言うなら本能的にビビビッと来る可愛さだから、だろうか。本能だから説明なんて出来ないし、本能だから理屈で抑えが効かない。本能だから仕方ないのだ。

 

「はぁ。その、コアラってそんなに良いものなのですか?」

 

 そして本能であるが故に、ミドリの些末な疑問にもちょっと感情的になってしまう。

 

「良いに決まってるでしょ! こんなに可愛いんだから! ほらぁ!」

 

「いやー、個人的にはそんな可愛い生き物に思えないと言いますか。なんか鼻が大きいですし」

 

「まぁ、鼻は確かに大きいけど」

 

 そこが良いじゃないと思う継実は、ミドリの意見に首を傾げてしまう。この可愛さが理解出来ないとは、宇宙人の美的感覚は中々独特なのだなと感じた。

 とはいえ好き嫌いは個人の自由。継実がコアラ好きを止める必要がないのと同じく、ミドリがコアラを好きになる必要もない。

 

「(それにお陰で私がこのコアラを独り占め出来る訳だし、これで文句を言うのは筋違いだよねー)」

 

 捕まえられたコアラは一匹だけ。他のコアラは継実を見るやそそくさと、かなりのスピードで高さ三十メートルはあろそうなユーカリの木の上まで登ってしまった。超スピードというほど速くはないが、樹上はコアラのテリトリー。追い駆けても捕まえられないだろうし、万一攻撃されたら手痛い目に遭うだろう。

 むしろこのコアラはどうして大人しく抱かれているのか不明だが、七年前の生き残りで人と付き合いがあったか、好奇心旺盛な個体なのだろう。なんにせよ可愛らしい事に違いはない。この可愛さを堪能出来るなら継実的には大満足だ。

 ……それはそれとして。

 

「ねぇー、継実ぃー。継実ぃぃー。そんな奴なんかほっといてさー、こっち撫でてよー」

 

 足下でごろごろと転がる犬が、しつこいぐらい纏わり付いていた。

 地面でひっくり返るモモはお腹を見せ、前足のように手で継実の足を引っ掻いている。文字通り飼い主に甘える犬そのものの姿だ。甘えた声を出しているし、声も可愛らしい……が、目は笑っていない。ギラギラと輝く瞳でコアラを見つめている。

 モモの考えぐらい継実には分かる。これは嫉妬だ。大好きな家族が今し方出会ったばかりの畜生に夢中なのが面白くなくて、私の方が可愛いぞと甘えたさん攻撃を仕掛けているのだろう。飼い犬がよくやる事である。

 こうも甘えられると、流石にそろそろ構ってあげた方が良いなと継実も思う。コアラも抱かれている事に飽きてきたのか、鬱陶しげにこちらを見ていた。恐らくもう今後の人生で二度とない経験だけに名残惜しくはあるが、何時までも続けてはいられない。

 コアラをユーカリの木に帰すと、コアラはやる気のなさそうな動きで登っていく。こちらを見向きする素振りもない。人間に慣れている個体と考えていた継実だが、案外ただの物臭なんじゃなかろうかと最後に思う。

 ともあれ両手は自由になったので。

 

「ええーい、この甘えん坊がー」

 

「うへへへへへへへー」

 

 その両手でお腹をわしゃわしゃと撫で回せば、モモはすっかり上機嫌に。満面の笑みとぶんぶん振り回す尻尾が彼女の正直な感情を物語っていた。

 数分も構えばモモの機嫌はすっかり直り、継実が手を離すのと同時にモモは立ち上がる。思う存分甘えられたのでモモは満足げだ。

 

「よーし、じゃあ移動しよっか」

 

「ほーい。次は何見るの? あ、継実は私をちゃんと可愛がりなさいよ」

 

 満足げだが、しかし嫉妬心は未だ残っているようで。継実の提案は肯定しつつ、継実に抱き着いてもらえるようべたべたとモモは継実の周りを動く。ちょろちょろと鬱陶しいので継実はモモをキャッチ。ぎゅうっと背中から抱き寄せておいた。

 それから継実はミドリに視線を向ける。ミドリは辺りをキョロキョロと見回して、ふと一点を見つめた。

 

「むむ? なんかあっちに生き物の姿がありますね。変な形の奴です」

 

 ミドリのセンサーが何かを捉えたようだ。

 じゃあそいつを見てみようと、継実達はミドリが捉えた生き物目指して歩き始める。その生物との距離はかなり近く、五分も進めば姿を目にする事が出来た。

 遭遇した生物の正体を知っていた継実は、発見した瞬間とても驚いた。その生物は本来水辺に暮らしている生物であり、のしのしと乾いた陸地を歩いているような生き物ではないのだから。そしてミドリも驚いていた。その生物の『異形さ』に。

 発見した生物は体長六十センチ程度あり、乾いた大地を四本の足でぺたぺたと歩いている。足には水かきが付いていて、例えその姿形が初めて目にするものだとしても、元々水生生物なのが窺い知れるだろう。とはいえ足はしっかり大地を踏み締めており、浮力のない地上でも問題なく活動出来ている。尻尾は平たいオールのようになっていて、これも水中生活への適応を匂わせた。体毛は密に生えていて、水に入っても身体の奥までは濡れそうにない。

 そして丸みを帯びた可愛らしい頭にあるのは――――

 

「えっと……え、なんですからあの生き物。なんか、哺乳類っぽいなのにクチバシがあるんですけど」

 

 カモを思わせる立派なクチバシ。

 地球人ならそこそこの知名度を持つ珍獣は、宇宙人にはさぞや奇怪に見えた事だろう。怖がっているのか後退りするミドリに、継実はその正体を教える。

 

「アレはカモノハシだよ。今生きている哺乳類の中では最も原始的な種で、卵を産むのが特徴かな」

 

「はぁ……原始的という割には、ユニークというかなんというか……まぁ、生物の進化は見た目じゃ分かりませんけど」

 

「だね。ちなみに雄の爪には毒があるよ。七年前でも犬ぐらいなら殺せるぐらい強いやつ。ミュータント化して更に強くなってたら、私も死ぬかもね」

 

「ひぇっ!?」

 

 毒があると聞いて慄いたようで、ミドリはぴょんっと跳ねて後退り。目の前のカモノハシが雄かは分からないのに、随分と怖がっている様子だ。

 実際、警戒していて損はないと継実は思う。先程話した通り、ミュータント化でどんな強毒を持っているか分かってもんじゃない。継実の能力ならば普通の、つまり人類文明が作り出した程度の毒なら意識もせずに分解出来るが、ミュータントの意味不明な毒素となるとそうもいかない。本当に、喰らえば死ぬかも知れないのである。

 尤もカモノハシは継実達に興味すらないのか、見向きもしていない。傍にいるモモも特に気を張っていないので、無関心を装っている訳でもないのだろう。のしのしと歩く姿は、まるで何処かを目指すかのよう。果たしてその行く手には何があるのかと、気になった継実は視線をその方角へと向けてみた。

 

「あ、ハリモグラがいるじゃん」

 

 そして継実と同じく気になったのか、一瞬早く継実が見ようとした場所に視線を向けていたモモがそう独りごちた。

 ゆさゆさと、全身に生やす針を揺らしながら体長五十センチほどの身体が歩いている。身体から生えている針は五〜七センチ程度と決して長くはなく、隙間も見られる程度の密度でしか生えていないが、触ろうとすれば手が穴だらけになるであろうぐらいの数はあった。

 顔立ちは愛らしい瞳を持ち、口が細長く伸びた『吻』の形をしている。口先からはぺろりと長い舌が出し入れされていた。足先には立派な爪があり、大地を力強く蹴っている。

 モモが言った通り、ハリモグラだった。こちらもカモノハシと同じく原始的な……というよりどちらも単孔目という分類に属す仲間だ……哺乳類であり、卵を産んで増えるなど多くの共通点を持つ。そして共にオーストラリアの地で栄えている種族だ。

 そのハリモグラが向かっているのは継実達、ではなくカモノハシの方だった。

 

「あれ、二匹とも向かい合っていますけど……」

 

「どっちかが食べるつもりなのかな?」

 

 モモが物騒な予想を述べたが、ミュータント化前のカモノハシとハリモグラはどちらも昆虫などの小動物を餌としてきた。どちらの口も獣の肉を引き千切るのには向かない作りをしており、体格差も殆どない。どちらかの身体が圧倒的に大きいならその可能性もあったが、ほぼ同格の大きさでは獲物とするのは非効率だろう。大体どちらも自ら歩み寄っているではないか。

 互いに食い合う関係ではあるまい。ならばどんな関係なら、この二匹の珍獣について説明出来るのか。

 

「……案外、私とモモみたいなコンビだったりして」

 

「んぁ? どゆ事?」

 

 継実がぽつりと呟いた言葉に、モモが首を傾げる。

 カモノハシとハリモグラが属する単孔目は、今や絶滅寸前の分類群だ。

 衰退しているという意味では有袋類も似たようなものだが、単孔目の衰退ぶりはそれ以上だ。生息域がオーストラリア近隣しかない上に、種の多様性も二科五種しかいない有り様。個体数だって馬鹿みたいに多い訳ではなく、むしろ絶滅の危険がある種もいた。ミュータントにはなれたようだが、今後明るい未来が待っている種族とは思えない。

 いずれ滅びる一族同士。種は違えども互いに何か思うところもあるかも知れない。優れた知能がなかったとしても、本能的に惹かれ合う事もあるだろう。

 自分とモモが家族となったように、異種族同士の絆が他にもあったとしてもおかしくない。

 

「まぁ、なんとなくそう思っただけだよ」

 

「ああ、でもそういうの良いですよね。何がって言われると困りますけど、あたしは好きです」

 

「んー……そんなもんかなぁ?」

 

 モモは未だに納得出来ていないようで、首を傾げている。しかしモモが納得しようがしていまいが、現実というのは変わらないもの。

 カモノハシとハリモグラはどんどん距離を詰めていく。継実達の事など見向きもしない彼等は、やがて今にもくっつきそうなぐらい近付いて、

 

「グルルルルルル……」

 

「ゴルルルルルル……」

 

 まるで猛獣のような唸りを上げた。

 ……唸り合った二匹は互いにもっと顔面を近付け、じっと相手の顔を見つめる。恋人同士なら二人きりの世界に入っていると思えるし、家族ならば親愛を示していると言えただろう。だが先の唸り声を聞いた継実には、もうメンチを切り合っているようにしか見えない。

 どう考えても、仲良しコンビではなさそうだ。

 

「つーかさ、カモノハシって水辺の生き物なんでしょ? じゃあアイツってハリモグラからしたら侵略者なんじゃないの? 仲良く出来ないと思うんだけど」

 

 そして止めにモモの疑問。

 カモノハシが水辺に棲む生き物なのは継実が語った通り。そのカモノハシが地上に上がってくるというのは、確かに地上の生物からすれば未知の生物種が襲撃してくるようなものだろう。加えてカモノハシもハリモグラも虫のような小さな生き物を食べるため、食物が重なってしまう。つまりはライバル同士だ。

 ライバルならばどうすべきか? 答えは簡単、()()()()()()()()()()。相手を倒せば、その分が自分の取り分となるのだから。

 勿論自然界はこんな単純ではない。とある生態的地位を獲得するのは力が強い方ではなく、繁殖力や天敵への抵抗力など様々な要素を経て、より多くの子孫を残せた方だ。ここでの戦いに勝ったところで、勝者がこの地の支配者になるとは限らないし、敗者が定住出来ないとは限らない。生物の進化と繁栄は、世代を超えてみなければ分からないものである。

 しかし今この瞬間、自分が餌を食べられるかどうかの観点で見れば――――彼等としては戦わずにはいられないだろう。

 

「ゴルォオオオオオオオッ!」

 

 継実がモモの言い分に納得して頷いた、瞬間、カモノハシが先手を打った!

 猛々しい雄叫びと共に繰り出したのは、後ろ足による蹴り。空中に飛び出すやぐるんと身体を回転させながら繰り出したそれは、一見して無駄な動きの集まりに見える。そんなアクロバティックな技を繰り出すぐらいなら、前足で殴り掛かる方が合理的だろう。

 だが、後ろ足による蹴りだからこそ意味がある。

 何故なら雄のカモノハシが持つ毒は、後ろ足の蹴爪に備わっているのだから。

 

「グルァアッ!」

 

 その攻撃はハリモグラも予想していたのだろう。こちらは跳躍して後ろに下がり、攻撃を回避した。的確な動きと反応は、カモノハシがどんな攻撃をしてくるか分かっていなければ出来ないもの。

 どうやら彼等の因縁は昨日今日始まったものではないらしい。そして相手の手の内を知っているのはハリモグラだけではあるまい。

 故に攻撃を躱されたカモノハシが舌打ちするようにクチバシをカチリと鳴らし、即座にその身体を捻って正面からハリモグラを見据えたのは反撃に備えての事。ハリモグラも対処されるのは分かっていただろうが、しかし攻撃を止めるつもりもなく。

 ハリモグラの背中から生えている針が、ミサイルのように射出された!

 針は秒速十数キロの速さで飛び出し、カモノハシに襲い掛かる。だがカモノハシは短い腕や平たい尾を振るい、その棘を弾き返す。頭に飛んできた針はクチバシで受け流し、全ての攻撃をいなしていた。

 発射された針はどういう仕組みか空中でUターン。ハリモグラの背中に再設置されるとまたしても射出される。弾丸の無限補充であり、攻撃は途切れる事を知らない。

 されどカモノハシは絶え間なく襲い掛かる攻撃を全て弾き、一発として我が身を傷付ける事を許さなかった。

 

「どごふっ!?」

 

 ちなみに継実は流れ弾すら避けきれず、脳天に針の一本が突き刺さったが。

 

「つつつつ継実さぁあんっ!?」

 

「うわっ、大丈夫?」

 

「ぬぐぅおおおお……だ、大丈夫……頭に粒子スクリーン展開していたから、深手じゃない……!」

 

 悶える継実を心配してくれるミドリに対し、モモは呆れた様子。そして針を引き抜いてから額を抑える継実を余所に、モモは少しずつ後ろに下がっていく。

 モモに言われずとも、彼女がどうしたいかは分かる。ミドリもハッとしたような顔になると、わたわたしながら後退。

 痛みに悶えていた継実が珍しく逃げ遅れて。

 

「シュゴオオオオオオッ!」

 

 カモノハシの後ろ足から放出された、紫色というあからさまに不健康な色合いのガスに巻き込まれてしまう。

 そのガスを浴びた細胞が急速に壊死を始めたものだから、顔面に受けた痛みなど意識から一瞬で消えてくれた。

 

「ぐぇっ!? ど、毒ガスというよりこれ強酸、ぐぇっ!」

 

「ほら、早く逃げるわよ!」

 

 もたもたしている継実にモモが激を飛ばす。

 どうにか立ち上がった継実は、咳き込みながら逃げ出すのだった。

 …………

 ………

 …

 

「はぁ。はぁ……ここまで来れば平気、かな?」

 

 額の汗を拭いながら、継実はくるりと後ろを振り返る。

 継実達から数百メートルと離れたところで、濛々と煙が上がっていた。つい先程継実達が巻き込まれた、カモノハシとハリネズミの争いの現場だ。煙の色は二色あり、白いものはハリネズミの攻撃による土煙で、紫がカモノハシの毒ガス攻撃によるものだろう。

 激しい戦いだ。急いで逃げたから良かったが、逃げ遅れたならかなり危険だっただろう。実際ちょっと逃げるのが遅くなった継実は、針によって額に僅かながら穴が開き、毒ガスにより肌が少し溶けている。

 先に逃げたモモとミドリは恐らく怪我などしていないだろうが、回復力は継実よりも低い。万一があってはならないと、継実は二人の体調について訪ねた。

 

「あぁー、酷い目に遭った……二人は大丈夫?」

 

「は、はい。怪我とかはないです」

 

「私も平気よ。そっちはどうなの? ちょっとガス浴びてたみたいだけど」

 

「そっちは大丈夫、溶けた部分はもう直したから。なんかまだちょっとヒリヒリするけど」

 

 笑いながら答えつつ、継実は自分の肌を擦る。ヒリヒリするのは、恐らく肌が溶けて薄くなったのが理由だろう。いずれ治ると気にしない事にした。

 なんにせよ全員無事で何より。継実はホッと息を吐く。

 

「しっかし今日の継実は随分惚けてるわね。油断してるし迂闊だし。どしたの?」

 

 その息が、思わず詰まってしまう。

 ちらりとモモの顔を見る継実。モモもこちらを見ているが、その目は責めるようではなく、純粋に心配しているのが窺い知れた。

 そんな目に見られてしまうと、継実としても黙っていられない。ゆっくり、恥ずかしさを覚えながら自分の胸のうちに意識を向けてみる。

 

「……なんか、昔暮らしていた草原を思い出しちゃってさ。それでなんか、こう、昔の気持ちがふわっと出てきた感じ?」

 

 そうして感じた気持ちを、ぽつぽつと話してみる。言葉にする度に恥ずかしさを感じたが、その恥ずかしさこそが『懐かしさ』の影響なのだろうと継実は思った。

 

「ふぅん。まぁ、確かにこの辺ってなんとなくあの草原に似てるかもね。ホームシックってやつにでも掛かったのかしら?」

 

 正直に話すと、モモは納得したのかこくりと頷いた。次いでにやにやと笑ってくる。

 野生動物からすればホームシックなど甘えそのものだろう。継実はむすりとむくれてみたが、モモはけらけらと笑うだけ。

 

「えっと、此処、そんなにあの草原に似ていますか? 草丈とかそこまで高くないですし、木も少ないですし」

 

 笑わないでいてくれたミドリは、どうにも継実の意見にピンと来ていないようだった。

 未だむくれている継実に代わり、モモが答える。

 

「景色は似てないけど、雰囲気が似てるのよ。生き物の気配とか強さ、なのかしら。そんな感じのやつ」

 

「気配ですか……うーん、能力で探った感じ、それもあまり似てるとは思えませんが」

 

「ま、私らの感覚とミドリの感覚は違うでしょうしね。それに私達は七年間暮らしていたから、あの草原の感じは身体で覚えているし」

 

 ミドリの疑問に、モモは自身の意見を伝えた。とはいえこれは感覚的な話。ミドリからすればいまいちピンと来ないのも仕方あるまい。

 反面、継実にはとてもしっくりと来る。

 継実にそこまでの理解はなかったが、モモのお陰で自分の胸のうちにあったものをようやく確信出来た。野生動物であるモモは自覚しながら平然としているのに、自分は自覚も出来ずに浮ついている。優劣の話ではないだろうが、『野生動物』として未熟な気がした。

 自覚すると気持ちは落ち着き、自分の言動がますます恥ずかしくなる。継実が推し黙った事で会話は終わった。

 

「それはそれとして、そろそろ観察会は終わりにして狩りにいかない? 走り回っていたらお腹が空いてきたわ」

 

 そうして一区切り付いたところで、モモから狩りの誘いがあった。継実はパチパチと瞬き。続いてにこりと笑みを浮かべる。

 背筋を伸ばした継実に、ホームシックで幾らか戻ってきていた少女らしさはもうない。

 代わりに、獣の気配を継実は身体に纏う。

 

「そだね。なんかいい感じの奴でも狩ろうか……コアラとか」

 

「ちょ。あんなに可愛いって言ってたのに、狩りをするんですか?」

 

「そりゃね。手頃な大きさで、動きも鈍い。獲物にするならうってつけでしょ?」

 

「うってつけでも、可愛いといった傍から殺そうとするのは普通じゃないです」

 

 ミドリからのツッコミに、確かにそうだと納得する継実。納得するが、しかしそれは『人間』としての同意だ。つまり理性的な考えでしかない。

 文明人であるミドリは理性の考えを優先する。けれども継実は違う。継実には理性もあるが、最優先されるものではない。ついさっきまでは懐かしさから知らぬ間に理性が強く戻ってきたが、意識してしまえば鳴りを潜めてしまうもの。

 理性よりも本能を優先する今の継実は獣と変わらない。獣である今の継実が優先するのは本能の衝動。

 そして継実は今、お腹が空いている。

 

「でもねぇ、可愛いじゃお腹は膨れないからねぇ」

 

 その一言だけあれば、自分が愛でていたものを殺す事への嫌悪など、簡単に吹き飛んでしまうのだった。



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ワイルド・アサシン04

「さぁーて、そんじゃあ獲物探しだ……ミドリ、索敵よろしく」

 

「……はーい」

 

 切り替えの早さが不服なのか、はたまたなんやかんやオーストラリアの可愛い動物を殺める事に抵抗があるのか。何やらミドリは渋々といった様子で索敵を始めた。とはいえ狩りをせねば腹が膨れないのは、すっかり地球の住人となったミドリは承知している事。索敵は真面目にしてくれるだろう。

 継実もただミドリに任せるなんて真似はしない。自身も能力を用い、周辺を索敵を行う。モモも臭いを嗅いで食べ物探しに参加した。

 ……獲物の気配はいくらでもある。カンガルーなど群れで平原を駆けているし、木を見ればコアラもわんさか群れている状況。それらを襲っているであろうタスマニアデビルも頻繁に出会うし、フクロアリクイはネズミが如くあちこちに見られた。

 しかし『獲物』に相応しい生き物は中々いない。

 カンガルーやコアラはそこそこ大きな群れを作っている。一対三なら安全に狩れるだろうが、数の有利が崩れたら危険だ。見たところ社会性はなさそうなので襲い掛かれば散り散りに逃げそうではあるが、この七年でどのような進化を遂げたか不明な以上断言は出来ない。それにどれだけ可愛くてもミュータント。どんなえげつない能力を使ってくるか、分かったものじゃないのだ。警戒するに越した事はない。

 タスマニアデビルも好ましくない。あれは七年前のオーストラリアやタスマニア島で()()()()()として君臨していた生物である。ミュータントとなった今、極めて優れた戦闘能力を持っているであろう。フクロアリクイは小さい上に数が多いので理想的な獲物に思えたが……継実が体内を覗いてみたところ毒があった。餌であるシロアリ、或いはシロアリが餌としている植物毒を蓄積しているのだろう。タスマニアデビルも無視しているので、これを口にするのは『外来種』である自分達には危険だと継実は判断する。

 どれもこれも、獲物にするには好ましくない。実際七年前の時点で、人間が食用としていたのはカンガルーぐらいだった。七年前から姿もあまり変わっていないので、食用に向かないのも仕方ない。索敵能力に優れているミドリは継実やモモ以上にたくさんの生き物が見えている筈だが、中々「あそこの生き物はどうでしょうか」と意見を言わないのも、食用に不向きな生き物ばかりだからか――――

 等と有袋類達に関して考察していたところ、継実の脳裏にふと考えが過ぎる。或いは『違和感』と呼ぶべきだろうか。

 

「(なんで、巨大化した生き物とかがいないんだ?)」

 

 ゴミムシ、ハエトリグモ、カナヘビ、ハマダラカ、カギムシ、ヤドカリ、ヘビ……これまでの旅、そして七年間暮らしていた草原では、七年前には見られなかった巨大生物が何種もいた。ミュータント化と共に得た力により、今まで無理だった巨体を維持出来るようになったからだろう。仮に巨大化でなくとも、寄生性フジツボやら金属シロアリやら武装スズメバチやら、変な姿の生物もわんさかと見ている。ミュータントの力は生物に様々な可能性を与え、生命はその可能性をフル活用して生き延びているのだ。

 ところがオーストラリアの大地では、あまり生物の変化が見られない。精々カモノハシが陸地に進出した程度であるし、そのカモノハシも見た目の変化は殆どなかった。大きさも七年前とあまり変わっておらず、見た目のユニークさを除けば、これまで見てきたどの生態系よりもバリエーションが乏しいように見える。

 厳しい環境への適応を優先して、種分化が進まなかったのだろうか? 或いは偶々進化が起こらなくて奇妙な種が誕生しなかった? そういう可能性もあるだろう。ミュータントがどれだけインチキな存在になれる素質を持とうとも、生命進化はあくまでもランダムと淘汰の産物。生命がなろうと思った種、その地で生きていける種が必ず生まれる訳ではない。

 だから七年前にはいなかった種が何処にも見られないという、極々常識的な状況はあり得ない話ではない……ないのだが、安堵する前に考慮すべき、もう一つの可能性がある。

 それは新たな生態的地位が、強力な種によって既に埋まっている事。

 そう、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()――――

 

「……モモ」

 

「分かってる。こっちに来てるわね」

 

「え? うーん、特にそういう反応はないですけど……」

 

 継実が名前を呼べば、相棒はすぐに肯定的な答えを返す。ミドリは何がなんだか分かっていない様子だが、彼女が鈍いという訳ではない。実際継実の能力による索敵でも付近に危険な生物の存在は検知出来ないし、臭い物質や電磁波なども検出されていないのだ。『データ』的には間違いなく安全である。

 しかし継実の本能は何かを感じていた。

 きっとこの感覚も突き詰めれば科学的な何かではあるのだろう。されどこれは人類の学問では辿り着けなかった野生の領域。故に直感的な例えを用いるしかない。

 その例えとは、視線。

 何かが自分達を見ている気がする。根拠なんてないし、視線を物理学で説明など ― そもそも物が見えるのは光を取り込んだ結果であり放出などしていない ― 出来ないだろうが、感覚的に継実はそれを確信していた。理性では納得出来ずとも、本能の予感を今は信じる。

 視線を確かなものだという前提にしながら、継実は敢えて視線とは全くの別方向を警戒している演技をする。顔の向きを、あちこちに向けて、右往左往しているかのように振る舞うのだ。勿論本当の意識は視線を感じる方へと集中させたまま。

 相手がこちらの演技に騙されて、のこのこ現れてくれれば逆に『先手』を取れる。が、演技を見抜かれたなら、更に意識を向けている方角がバレたなら、逆に手痛い一撃をもらう事になるだろう。いや、そもそも感じた視線が敵の『罠』でないという保証もない。

 果たして相手は誘いに乗るか。こちらの策を見抜かれていないか。何より意識を向ける先は間違えていないか。

 幾つもの賭けを仕掛けた継実。勝負の女神が微笑んだのは――――継実の方だった。

 

「っしゃあッ!」

 

 勇んだ掛け声と共に継実は振り返り、両腕を前へと突き出す!

 その時には既に、()()()()()()やってきていた背後の『獣』は跳躍の姿勢に入っていた。まさかこのタイミングで継実が動き出すとは思わなかったのか、獣は大きく目を見開き驚きを露わにしている。が、すぐに気持ちを切り替えたらしい。口を開いて牙を剥き出しにし、爪を生やした前脚を上げて継実に攻撃を仕掛けてきた。

 振り下ろされた二本の前足を掴んで、継実は獣を受け止める。ミドリは大層驚いたのか飛び跳ね、モモは即座に戦闘態勢に移行。そして継実は自分が掴んだ獣を真っ正面から見据え、その正体を探る。

 体長二メートル。ネズミのような顔立ちをしているが、開いた口からは鋭い牙が何本も見えた。身体を覆う毛は灰色で、ごわごわとした分厚いものだ。継実を襲おうとしている前足の先には鋭い爪があり、まともに受ければ人間の柔い皮膚ぐらい簡単に切り裂くだろう。長い尾は激しく動き、鞭のように暴れている。

 これらの外見的特徴から種の特定はすぐに出来た。その姿を見たのは七年ぶり、しかも動物園ではなく図鑑のものだが、独特な外見は幼い頃の継実の記憶に深く刻み込まれている。身体は図鑑に載っていたデータよりも大きくなっているし、爪や牙は鋭くなっていたが、独特な顔立ちは今でも健在。継実は確信に至り、そして理解した。

 オポッサム――――本来此処オーストラリア大陸にはいない、されど()()()()()()()()()()()()有袋類が襲い掛かってきたのだと……



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ワイルド・アサシン05

 有袋類はオーストラリア以外の地では、有胎盤類との生存競争に敗れて絶滅した。それは七年前の世界で、オーストラリア以外の地では全く有袋類が見られない事からも明らかである。

 しかしただ一種、例外的なものが存在していた。

 それがオポッサムだ。彼等の祖先は元々南アメリカで暮らしていた。南アメリカもかなり長い間他との大陸と隔絶していた事もあり、多数の有袋類が繁栄していたのだが……数百万年前に北アメリカと陸続きになってしまった。その結果北アメリカで進化した有胎盤類が南アメリカへと進出。強力なライバルの存在により、殆どの有袋類が絶滅してしまったのである。

 ところがどっこい、オポッサムだけは滅びなかった。それどころか逆に北アメリカへと進出。種数も増やし、より広い範囲に勢力を広げてみせた。一説によるとオポッサムは原始的な哺乳類であり、あまり特殊化が進んでいない……逆に言えばあらゆる環境に少なからず適応性があったために成功したと言われている。

 七年前の時点で、人類が発見したオポッサムは七十種類以上。これは有袋類の中で最大の種数だ。迫る危機を乗り越えただけでなく、むしろ新天地として栄える繁殖力は目を張るものがあるだろう。

 そんな彼等がオーストラリアにやってきたとしたら? 恐らく、持ち前の適応力でその地に定着し、現地の生物を食い散らかしながら()()()()()()()()()()()()()()()

 

「(捕食者の地位に適応した種に分岐した……コイツが、そのオーストラリアの生き物達の姿を変えなかった原因ね!)」

 

 自分が組み合っている生物こと、オポッサムの存在を継実はそう解析した。

 オポッサムは継実が自分の腕を掴んだ事を視認するが、慌てたり怒り狂ったりする素振りは見られない。ただしその黒い眼球は素早く動き、周囲を見渡している。

 目線が向く先にいるのは、モモとミドリ。

 自身の腕が掴まれても、まずは情報の収集を優先している。呆れるほどの胆力と冷静さだ。そしてこういう敵は非常に厄介である事を継実は知っている。何かを閃く前に叩き潰すのが最適解。

 

「ふっ……ぬあああアアアアアァッ!」

 

 継実は渾身の力を込め、オポッサムを転倒させようとする!

 腕を回す要領でぐるりと回転させ、腹を仰向けにさせようという算段。上手く行けば大抵の生物にとって弱点である腹を上向きに出来る。そこに全力の打撃を喰らわせれば、相当のダメージとなる筈――――

 無論これは理想論。継実にとって最良の流れはオポッサムにとって最悪の流れであり、奴はそれを想定している。易々とは流されてはくれない。

 継実が腕に力を込めた事で、オポッサムの身体はぐるんと回った。しかしオポッサムは身体が宙に浮かぶ瞬間自ら大地を蹴り上げ、その反動で回転の勢いを増幅。更に掴んでいる継実の両手を振り解くように腕を振るう。

 継実自身の力も合わさり、オポッサムの回転は継実の掴む力を上回る。継実の拘束は強引に解かれ、力強く回転したオポッサムはぐるんと空中で一回展。腹を見せたのはほんの一瞬で、即座に二本足で地面に降り立つ。そして自由を取り戻すや、長い尻尾を武器のように振るう!

 

「ぐっ……!」

 

 尻尾の一撃に対し、継実は腕を立ててガード。しかし思いの外強力な一撃で、受け止めきれず。大きく横に身体が傾く。

 

「ギァッ!」

 

 その隙をオポッサムは逃さず。体勢を崩した継実に向け、今度は鋭い爪を振るう!

 迫りくる爪に対して継実は粒子スクリーンを展開。更に腕を構えて防御を固めた。生半可な攻撃ならば粒子スクリーンで防げる、が、オポッサムの爪はこれをあっさりと切り裂く。腕を構えて受けなければ、喉笛を引き裂かれていただろう。

 爪攻撃により継実の腕には深い三本の傷が刻まれた。骨には達していないものの血が吹き出す程度には深手。しかしこの程度の攻撃で怯みはしない。

 

「ふっ!」

 

 継実は即座に、オポッサムの顔面に向けて蹴りを放つ! 腕を振り下ろして体勢がやや傾いているオポッサムは、咄嗟にはこの攻撃を躱せず、顔面に直撃。大きく身体を傾かせた。

 仰け反り方からして、かなりのダメージを与えられたと判断。継実は追撃の一撃を与えようと、手に粒子ビームの力を溜めていき、

 しかし発射直前にオポッサムは瞬時に体勢を立て直す! 同時に大きな口を開け、継実に噛み付こうとしてきた!

 継実としてはこれは予想外。数多の生物と戦ってきた経験で、今の仰け反り方なら復帰に多少時間が掛かる……故に反撃を受けないタイミングだと踏んでいたからだ。読みを誤った事への後悔や苛立ちが湧き上がる、が、それ以上に焦りが募る。

 何しろこちらは隙を突いて攻撃するつもりだったのだ。攻撃の構えから防御への移行には少なからず時間が必要である。そして継実の頭脳が算出した計算が正しければ、どうにも間に合いそうにない。

 

「ッ!」

 

 反射的に継実が選んだ対策は、オポッサムの口が狙っている首に力を込める事。筋肉を限界まで張り、牙の侵入を少しでも阻む。仮にこれでそこまで被害を防げなくても、動脈切断も脊椎損傷も継実にとっては回復可能な傷だ。

 むしろ喰らい付くため至近距離に来たなら、その瞬間に粒子ビームを叩き付けてやる……防御という考えを捨て、反撃に全意識を集中させようとした。

 

「だりゃあっ!」

 

 そこにモモが飛び蹴りで割り込んでくる!

 モモの飛び蹴りに対し、オポッサムが取った選択は回避。空中でバク転するように身を翻し、一気に後方へと下がっていく。攻撃が外れたモモは空中でくるんと前転して着地。素早く継実の傍に戻る。

 継実とモモは同時に構えを取り、オポッサムと向き合う。ミドリはわたわたしながらやってきて、継実達越しにオポッサムを見ていた。そしてオポッサムも継実達を睨む。

 互いに鋭い視線をぶつけ合いながら、継実は思考を巡らせた。

 ――――このオポッサム、中々手強い奴だ。

 単純な実力で言えば間違いなくオポッサムの方が自分より強いと継実は思う。パワー・スピード・テクニックの全てで上回っている。絶望的な差ではないが、技術や根性で埋められるほど小さなものでもない。暫定的な計算ではあるが、勝率は三割に満たないと継実は判断していた。

 あくまでも、一対一であればの話だが。

 継実は一人ではない。モモとミドリの三人チームだ。あくまでも継実の推定であるが、三人で協力すれば九割以上の勝率でオポッサムに勝てるだろう。大怪我を負わないとは限らないが、分の悪い勝負ではない。

 そしてこのオポッサム、獲物として実に魅力的だ。体長は約二メートルもあり中々食べ応えのある大きさ。仕留めれば大量の肉が、それこそ今日一日を満腹で過ごせる程度には得られるだろう。それに他の有袋類と違って群れておらず、むしろこちらが数の有利を取っている。

 継実はこのオポッサムを逃すつもりなどない。モモも同じ気持ちだろうし、ミドリも察しているだろう。三人の気持ちは一つになり万全の戦闘態勢に入っていた。

 とはいえ、不確定要素がない訳ではない。

 

「(……退く気がない?)」

 

 オポッサムに後退の意思が見られないのだ。

 継実の感覚では、こちらの勝率は九割以上ある。つまりオポッサムの敗率は九割以上。勝ち目がないとは言わないが、かなり絶望的な状況なのは間違いない。

 人間のような『知的』な生物なら、プライドやら自尊心やらで敢えて退却しない事もあるだろう。だが野生生物にそんなものはない。不利を察すれば逃げる事を躊躇わないものだ。そして狩りをする側からすれば、全力で逃げ出されるのはかなり厄介。獲物に逃げられてしまう事も、捕食者にとっては敗北なのだから。

 ところがこのオポッサムに逃げる気配は微塵も感じられない。

 一体何故? 三人揃った『敵』の実力が分からないのか? 確かにまともに肉弾戦を行ったのは継実だけだが、だとしても気配などからモモとミドリの実力を暫定的に定める事は出来る筈。ミュータントだらけの生態系で生き抜いてきた個体が、襲い掛かった相手の実力を読めないとは考え難い。いや、そもそも三人揃えば勝ち目がない相手に、奇襲とはいえ襲い掛かるものだろうか。

 考えられる可能性は一つ。

 

「(奥の手があるのか……)」

 

 脳裏にそんな予感が過ぎった、刹那の事である。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「ぐっ……! 継実、これは……!」

 

 モモが声を上げた。話は途中で途切れたが、彼女の言いたい事を継実は即座に理解した。

 強い。

 オポッサムの全身から放たれる覇気、或いはエネルギーが瞬時に増大した。たった二メートルしかない、加えて先程までとなんら変化のない身体から、全身が震えそうになるほどの力を感じる。どこぞの漫画で用いられていた『戦闘力』のような数値化した基準もないので、具体的にどれほどの強さかはハッキリとは言えないが……継実の感覚では巨大ゴミムシ程度の強さはあると読んだ。

 身体能力増強系の『能力』を持っていたのか。しかしそうだとしても、感じられる力はあまりにも大きい。もし本当に巨大ゴミムシと同程度の強さまでパワーアップしたのだとすれば、自分達が束になっても勝ち目はないと継実は考える。いや、逃げる事すら困難だ。

 形勢逆転とは正にこの事か。面倒な奴にケンカを売ってしまったと後悔する継実だったが、逃げるのも困難となると迂闊に動けない。チャンスがあるとすれば、奴が攻撃してきた時に反撃し、僅かに怯んだ時だけだろう。モモも同じ考えのようで、身体を強張らせ攻撃に備えている。

 張り詰めていく空気。正確に言うなら、継実達側だけが緊張を高めていく。この空気の中で率先して動けるのは余裕があるモノであり、それはオポッサムだけ。

 ついにオポッサムが動き出す。全身の筋肉を躍動させ、巨獣をも凌駕する生命力を見せ付けながら。継実とモモは瞬間的に身体を強張らせて攻撃に備える中、強大な力を滾らせるオポッサムは

 継実達に背中を向けるやそそくさと逃げ出した。

 

「……………」

 

「……………」

 

 身体を強張らせたまま、継実とモモはじぃっとオポッサムの背中を見つめる。背中はどんどん遠くなっていくが、攻撃に備えている継実達は動けない。というより予期せぬ状況に思考が停止していた。

 

「……あの、追わないのですか?」

 

 我に返ったのは、ミドリからそんな質問が飛んできてから。

 ハッとした継実とモモは互いに顔を見合い、大慌てで追い始めた。それと同時に継実は舌打ちもする。

 

「(ああクソッ! 今のハッタリか!)」

 

 オポッサムの身体から発せられていた巨大な力。継実はその力を『真の実力』だと感じたが……冷静に考えてみればあり得ない。肉体機能や能力の違いはあれど、巨大ゴミムシ染みた力を高々体長二メートルの生物が有してるなど、ミュータントとしても逸脱し過ぎている。

 それでもオポッサムがあまりにも()()()()()をするものだから、騙されてしまった。七年間の日々で蓄積した経験と知識、そこから組み立てられる『常識』を易々と塗り潰す演技。流石はミュータントだと言うべきだろう。

 だが、所詮はハッタリだ。

 

「(脇目も振らずに逃げた……つまりアイツは私達に勝てるとは思っていない。私の計算が正しいって証明だ!)」

 

 ハッタリは一度しか使えないカード。今更『真の力』を見せたところで、もう継実達は騙されない。次に対峙したら、怯まず突撃するだけ。

 そしてオポッサムのスピードは、確かに継実よりも速いが……チーム内最速のモモほどではない。

 

「逃がすかァッ!」

 

 モモは猛然と駆け、オポッサムを追う!

 オポッサムは迫りくるモモに気付いたのか全力で足を動かし、大地を爆走する。が、モモの方が格段に速い。どんどんその距離を縮め、あっという間に手の届く位置まで詰める。

 モモは身体(本体)が小さいので、オポッサムにしがみついても動きを止めるところまではいかないだろう。しかし電撃などの技を使えば、多少は動きが鈍る筈。その間に継実が追い付いてしがみつけばこっちのものだ。二人でタコ殴りにしてしまえば良い。ミドリは肉弾戦こそ出来ないが、脳内物質の撹乱などで援護してくれれば十分である……継実達の足に全然付いてこれず、到着まで相当時間が掛かりそうだが。

 ともあれ、一度は逃げられたが二度目はない。継実が抱いたこの考えは、オポッサムが身体を右へと傾け、急旋回でこちらを翻弄しようという動きを見せても揺らがず。

 だが。

 オポッサムの身体が右に傾いたまま()()()()()()()瞬間に、その自信がぐらりと揺らいだ。

 

「――――え?」

 

「ちょ!? な、わぶっ!?」

 

 継実が呆気に取られる中、オポッサムを掴もうと僅かに身体を右に傾けていたモモは動きを追いきれず転倒。土煙を上げながらゴロゴロと転がっていく。

 フェイントを掛けられた。そう、落ち着いて考えればそれだけの話……

 

「(なんて納得出来るかッ!)」

 

 されど此度に関しては、それで納得など出来ない。

 先のオポッサムの体勢は、右に曲がろうとしている状態のままだった。フェイントというのは、そこから左に向かうように体勢を変えるという事。オポッサムの動きはフェイントとは異なる、異質な代物だ。

 何かがおかしい。違和感が積み重なるものの、しかし継実は疑問を一度頭の隅へと寄せた。

 方法は兎も角、曲がった事実は変わらない。直進で逃げている時は距離が開いていたが、曲がればその分『遠回り』するようなもの。直進する継実からすれば距離を詰める絶好のチャンス。

 そして継実の頭脳を用いれば、一秒先までのオポッサムの予測進路を計算するぐらい造作もない。

 

「――――ここだ!」

 

 継実は全身全霊の力を足に込めて跳躍。オポッサムに突撃する!

 跳んでくる継実を見てオポッサムは驚くように目を見開いた。足を素早く動かして加速しようとするが、カーブを描いている時点で無駄な足掻き。何しろ継実は空を飛べるのだ。奴が加速しようと、跳躍後の軌道修正はなんの問題もなく行える。

 継実が捕まえ、振り解かれる前にモモが来れば、今度こそ二人でギタギタのボコボコにしてやる。そう考えながら突き進むが、あと少しで手が届くところまで来て気付く。

 オポッサムが減速している。

 四本の足は高速で動いているのに、肝心の速度はどんどん遅くなっていたのだ! 足の動きから加速していると()()()()()継実の計算と、今のオポッサムの速さは一致していない!

 

「あ、不味……ぎゃふっ!?」

 

 なんとか計算の『誤差』を修正しようと試みたが、間に合わず継実は転倒。頭から地面に顔を突っ伏す。

 秒速二キロ以上の速さでの顔面衝突だ。衝撃だけで身体が浮かび上がる。しかしこの程度ミュータントにとってはどうという事もなし。むしろ反動で素早く体勢を立て直し、またオポッサムを追う。

 そう、身体のダメージは殆どない。されど継実は焦っていた。

 

「(さっきから、動きが全然読みと違う……!)」

 

 まるで攻撃の読みが当たらないからだ。

 最初は偶々だという可能性も考えた。しかし『想定外』はまだまだ続く。

 例えば走り続けていると思ったらオポッサムが止まっていて、モモも継実も追い越してしまったり。

 或いはジャンプしたと思ってこちらも跳んだら、オポッサムは普通に地面を駆けていて、継実だけが空を跳んだり。

 はたまた突然方向転換したと思って慌てて止まれば、オポッサムは何故か真っ直ぐ進んでいたり。

 尽く予想が外れる。読み間違えた、なんて『甘い』言葉では説明出来ないほどに。

 

「継実! これって……!」

 

 モモはこの異常さの原因に勘付いたようで、継実に声を掛けてきた。同じくこの異常に思い当たる節がある継実はコクリと頷く。

 

「コイツ……()()()()()のが能力か!」

 

 そして自分の思う心当たりを言葉にした。

 ミュータント化以前、オポッサムが持つ得意技の一つに『擬死』と呼ばれるものがある。

 疑死とは、端的に言えば死んだフリの事。そう言うとなんとも間抜けな姿にも思えるが、実際にはかなり優秀な生存戦略だ。捕食者の多くは獲物が動かなくなると攻撃の手を緩める。それは捕食者からすれば無駄なエネルギーを消費しないための戦略だが、獲物からすれば逃げ出す千載一遇のチャンス。敢えて抵抗しない事で体力の消耗を抑え、捕食者がへとへとかつ油断した隙に逃げ出せる……弱者が強者に一矢報いる秘策とも言えよう。

 オポッサムも天敵のコヨーテなどに襲われた時、疑死を行った。だが彼等の疑死は他の生物のものとは一味違う。身体は硬直し、目は虚ろになり、口からは死臭を漂わせるという徹底ぶり。そしてぶん回されようがどうされようが、微動だにしない。

 演劇という文化を持っていた人類でもそうは真似出来ない、迫真の『演技』……もしもこの性質が『能力』となったなら?

 ありもしない強大な力で敵を怯ませる事も、相手を翻弄する動きをする事も簡単だ。実力を大きく上回る相手なら兎も角、ちょっと拮抗しているだけの『互角』な相手ならば、逃げる事は容易い。

 優れた演技は、自然界を生き抜く力となるのだ。

 

「(私らを襲ってきたのも、逃げられる自信があったからに違いない……)」

 

 継実に奇襲攻撃を仕掛けて、上手く致命的一撃を与えられたならそれで良し。失敗したならさっさと逃げる。

 恐らくオポッサムは独り立ちしてからずっと、このやり方で狩りをしてきたのだろう。その方法は幾度となく成功し、継実を超える大きさまで成長した。

 オポッサムはこれまでやってきた方法で継実達を撒こうとしている。そしてそれはまた成功しようとしていた。翻弄しているだけなので大きなダメージこそないが、継実もモモも度重なる動きで体力を消耗している。オポッサムの方が身体が大きくて体力も多い以上、持久戦に持ち込まれたら勝ち目がない。

 獲物を逃すのは惜しいが、捕まえられないモノを何時までも追うのはエネルギーの無駄だ。諦めて他の獲物に切り替えた方が良いかも知れない――――そう思い始めた時である。

 オポッサムが、急停止したのは。

 

「……ん?」

 

 最初、また演技でこちらを翻弄しようとしているのではないかと思った。

 だが何度見ても、どれだけ能力で観測しても、オポッサムは間違いなく止まろうとしている。全ての足を止め、演技も忘れて全力で。

 理由は分からない。しかし最大の好機なのは間違いない!

 

「だりゃああぁっ!」

 

 継実は全身をバネのように使い、オポッサムに跳び付く!

 今度のオポッサムは全てが計算通りの動き。継実の目測は外れず、ついに継実はオポッサムの背中に取り付いた!

 

「ギョアッ!? ギィ……!」

 

 継実に抱き付かれたオポッサムは声を上げるも、即座にその鋭い爪で継実の顔面を切り裂く! 瞳と頬の肉を抉られた継実であるが、この程度の傷、なんの問題にもならない。

 それよりもやらねばならないのは、オポッサムを決して放さない事。

 モモが、オポッサムの下二辿り着くまで。

 

「捕まえたァ!」

 

 一秒と待たずにモモもオポッサムに肉薄。下半身にしがみ付き、身動きを封じる!

 捕まえてしまえば、もう演技も何も関係ない。力尽くで抑えつけながら、継実はオポッサムの首に手を回そうとする。しかしオポッサムも簡単にはやられない。全身ののたうち回らせ、継実達を振り解こうとしていた。

 パワーでは身体が大きなオポッサムに分がある。簡単には振り払われないものの、継実は中々前に進めない。このままでは体力勝負となり、恐らく、先に自分達の方が力尽きると継実は読む。

 そう、二人ならまだ勝ち目はない。

 

「お、遅れまし、たぁ!」

 

 しかし継実達には、三人目の家族がいる。

 ミドリの脳内物質操作が発動。オポッサムの頭の中をぐちゃぐちゃに掻き乱す! 苦しげな呻きを漏らし、目を血走らせた姿は、確実に効いている様子だ。

 無論これが『演技』という可能性は否定出来ない。脳内物質を掻き乱されながら即死していない時点で、オポッサムがなんらかの対抗策を持っているのは間違いないのだ。もしも本当に演技なら、未だオポッサムはフルパワーで暴れ回っていて、迂闊に手を放せば振り解かれてしまうだろう。

 果たしてミドリの力は効いたのか、効いていないのか。二者択一の賭けに、継実は迷いなど抱かない。

 賭けるならば、家族の方だと決めている!

 

「ぬぅあっ!」

 

 気力を振り絞った前進。その結果は、オポッサムの首への到達。

 継実は即座にオポッサムの顎に手を掛けた。オポッサムは爪で腕を引っ掻いてくるが、そんなものは気に留めない。全ての筋肉を膨れ上がらせ、全身全霊の力を腕に集めて――――

 ゴキンッ、という音と共にオポッサムの首が回った。

 

「ギ……………!」

 

 オポッサムの頭は何かを叫ぼうとした。叫ぼうとしたが、その口が何かを語る事はない。

 やがてその身体から力は失われ、大地に倒れ伏す。顔から生気は失われ、口からは死臭が漂い始めた。どう考えても、コイツは死んでいる。

 尤も、それすら『演技』かも知れないので。

 

「それっ」

 

 継実はオポッサムの首をもう一回転させて、捩じ切った。

 ぽーんっと飛んだ頭は、悔しげに歯を剥き出しにして暴れる。首の骨を折っただけでは死んでいなかったのだ。呆れた生命力……と言いたくなる継実だが、自分も首が折られたぐらいなら回復可能なので言えた立場ではない。

 それよりも今は、獲物を仕留めた事を喜び合いたいところ。

 

「お疲れー」

 

「いやー、ほんと疲れたわー」

 

 継実が拳を伸ばし、モモも拳を伸ばしてこっつんこ。互いの労を労う。しかしそれはほんのちょっとだけ。

 

「や、やりましたね継実さん! モモさん! 大物ですよ!」

 

 ミドリの活躍に比べれば自分達の働きなど小さなものだと、二人揃って思っているからだ。

 

「お、今回のMVPのご到着ね」

 

「助かったよミドリ。あのフォローがなきゃ仕留められなかった」

 

「ふぇ? え、いや、そんな褒められても……あたし、全然何もしてないですし」

 

「「照れない照れない」」

 

 自分としては大した働きではないと、本当に思っているのであろう。ミドリは頬を赤くしながら俯き、後退り。

 なんとも可愛らしい反応に、継実の顔には笑みが浮かぶ。浮かんだが、それはすぐに消えた。そして一点を、じぃっと見つめる。

 その行動を不審に思ったようで、ミドリが声を掛けてきた。

 

「えと、どうしたのですか? 何か気になる事でも?」

 

「ん? ああ、なんでもないよ」

 

 ミドリに問われ、反射的に継実はそう答えた。

 ……確かに、『なんでもない』。根拠と言えるものは何もないのだから。

 しかし気になる。

 何故オポッサムは急に立ち止まったのか? あのまま走り続ければ逃げられた筈なのに。演技が失敗して足がもつれたのか、はたまた走り過ぎて足が攣ったのか。

 或いは。

 

「(真後ろに迫っていた私等よりもヤバい生き物でもいたのか?)」

 

 過ぎる最悪の可能性。しかしその可能性は、どれだけ辺りを見渡しても見付からない。いや、そもそも怪しいと思えるものが、地平線の先まで何もないのだから。

 そう。目の前に聳える巨木以外には、何も――――



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ワイルド・アサシン06

 あのオポッサムは、どうして逃げている途中で立ち止まったのだろうか。

 なんらかの危険を察知したから、と考えるのが自然。しかし、ならば目の前にあった巨木に何かが潜んでいたというのか? オポッサムを仕留めた後継実達はすぐにその場を離れ、周りに木々のない開けた場所へと退避したが……どうにも違和感がある。

 野生の世界を生きる上で、違和感とは軽視してはならないものだ。脅威が何時だってハッキリとした予兆と共に現れる訳ではないのだから。もしも違和感を無視したら、抗いようのない絶望的存在と鉢合わせてしまうかも知れない。或いは勝てる相手だったのに、罠に嵌められて打つ手がなくなる可能性だってある。

 だから、違和感を軽んじてはならない。

 ならないが、違和感に固執するのも良くない。何事も勘違いというのはあるものだし、或いは違和感を警戒する姿によって襲撃者が既に諦めている可能性もあるのだ。そんな状況で何時までも警戒を続けるというのは、間抜けでもあるし、何より()()()()()()()()()()()()()()()でもある。心配事は心を縛り、頭の働きを鈍くしてしまう。それは新たな危機を招く行いだ。

 自然界で生きていくには、気にしないのも、気にし過ぎるのも不適応。両方の性質を極限まで高めた上で、中立的に振る舞うのがベストである。

 要するに。

 

「という訳で今日はオポッサム祭りだぁー!」

 

 違和感の原因であるオポッサム(生首及び頭部切断済死骸)を満面の笑顔で食べるという、精神的タフネスに溢れる行動を継実は選択するのだった。

 陽が沈み始め、辺りは暗くなり始めている。夜間の活動が出来ない訳ではないが、継実としては明るい昼間の方が得意だ。大切な家族達も似たようなものであり、夜間の狩りは成功率の低さだけでなく、身の安全を守る意味でもやりたくない。

 夜になる前に継実の目の前で横たわるオポッサムを捕獲出来たのは、継実にとって良い知らせだ。勿論、同じくオポッサムを囲っているモモとミドリにとっても同じである。尤もニコニコ笑っているモモに対して、ミドリの口許は引き攣っていたが。

 

「いやー、オポッサムとか初めて食べるわー」

 

「そりゃまぁ、そうでしょうね。あたし達が通ってきた地域には暮らしてなかったみたいですし。というか、毒とか大丈夫なんですか?」

 

「一応毒持ち哺乳類はかなり珍しいから、そんな気にしなくていいと思うよ」

 

「いや、珍しいっていうのと、オポッサムが安全な食べ物かは別問題ですから……」

 

 モモは上機嫌だが、ミドリはあまり食べる事に乗り気でない様子。継実が安全性を説明してもみたが、逆に正論を返されてしまう。

 しかしそれにしても、今日のミドリの渋り方は中々のもの。今では虫やらトカゲやらが食事に出ても普通に食べるミドリであるが、流石に未知の獣になると昔のような躊躇が出てくるらしい。

 草原で暮らしていた時の思い出が脳裏を過り、継実は無意識ににっこり。幸せそうな継実の顔を前にしたミドリは、不愉快そうに顔を顰めた。それもまた子供が駄々を捏ねてるみたいで可愛かったので、継実はミドリが抱いたであろう誤解を解かないでおく。

 ……それはそれとして。

 

「(ミドリの言い分も一理あるからなぁ)」

 

 ミドリにはああ言ったが、継実としてもオポッサムが本当に食べられるか否かは大事な問題だと思っている。珍しいから大丈夫なんて不確かな理由で食べるのは、病院なんてない自然界では割と命を粗末にする行いだ。それにミュータントと化した生物に七年前の常識を当て嵌める事が如何に無謀かは、継実はもう七年前から知っている。

 なので、とりあえずは『鑑定』だ。

 

「ま、いきなり食べるのは流石になしだね。モモ、臭いでチェック」

 

「うーい」

 

 継実からの合図を受け、モモはオポッサムの臭いを嗅ぐ。

 犬であるモモの嗅覚は凄まじく優秀だ。僅かな『違和感』も逃さず嗅ぎ取る。それに物質の有無でしか臭いの『意味』を判断出来ない継実と違い、感覚による分析が出来るので、危険を素早くかつ敏感に察知するのも得意。

 詳細を化学的に解明するなら分子を目視確認出来る継実の出番だが、単に危険性を判断するだけならモモの出番だ。

 

「……死臭がするけど僅かだし、口の中からだけ。これはさっき死んだふりをした時に出した臭いね。他に毒っぽい臭いはないわ」

 

 一分ほど臭いを嗅ぎ回ったモモは、そう判断を下した。

 最初のチェックはクリア。しかしまだ安心は出来ない。『毒っぽい臭い』を生じない毒が含まれている可能性もあるからだ。例えば猛毒の三酸化ヒ素は無味無臭であるし、毒殺で有名な(実際には有名になり過ぎて入手困難になっていたそうだが)青酸カリことシアン化カリウムは二酸化炭素と反応するとアーモンド臭(甘い香り)を漂わせるという。

 臭いは毒性の有無を判断するのに役立つが、確信するには至らない。もう一つぐらい、安全を確かめる方法を用いなければ不安というもの。

 

「じゃ、ミドリ。鑑定よろしくー」

 

「あ、はい」

 

 続いて任せるのはミドリ。

 彼女はしゃがみ込んで、オポッサムの亡骸をじぃっと見つめる。その気になれば半径数百キロも見渡せる観測能力を一点集中させれば、体内の分子構造までも丸見え。これならば臭いで分からない毒素も、目視で発見出来る。

 弱点としては目視確認なので、時間は掛かるし、見落としもあり得る事だ。だからモモの鼻と合わせ、確度を上げる必要がある。

 しかしこれでもまだ足りない。ミドリに見えているのはあくまでも物質の姿。性質なども多少は分かるが、もしかすると体内で化学反応で変化し、そうしてようやく毒性を持つタイプの物質という可能性も捨てきれない。

 最後は食べて確かめるしかないのだ。誰かがその身を張って。

 

「……多分、毒はない感じで」

 

「んじゃ、肝臓もーらいっと」

 

 等という()()()を頭の中でしながら、継実はミドリのOKが出た瞬間に手を伸ばす。あっ、とミドリとモモが声を漏らしたが、継実の手はその反応を無視してオポッサムの腹に突き刺さる。

 オポッサムの解剖などした事がない継実であるが、粒子操作能力の応用で死骸の中を透視するぐらい造作もない。肝臓の位置を正確に把握し、最短最小限の一撃で腹から抜き取る。

 そしてそのままがぶりと噛み付き、小さくない量を頬張った。肝臓という、美味しくて栄養満点な部位を独り占めである。

 

「あーっ! 先に取ったぁ!」

 

「ふははー、何時も先手を取れると思うなよー」

 

 怒るように抗議の声を上げるモモだが、継実に悪びれる素振りなし。もしゃもしゃと肝臓を一人で食べてしまう。反省の色を見せない継実に対し、モモはがるると犬らしい ― パピヨンらしくはないが ― 唸り声を上げた。

 とはいえ、獲物を勝手に食べ始めるのはモモだって普段からしている事。誰が何処を食べるか話し合って決めるなんて偶にしかやってない。仲間内でも獲物は早いもの勝ち。いや、群れで狩りをする生物には大抵序列があり、その序列通りに食べていくものだが……継実達の『群れ』にそれはない。序列は不平等の象徴だが、同時に強固な統制を取る術でもあるのだ。秩序がなければ無秩序になるのは必然である。

 そもそもモモは本気で怒ってなんていない。彼女が本気で怒っている時は、もっとピリピリしたものだと継実は知っていた。七年間も一緒に暮らしていたのだから、継実には彼女の本心ぐらい分かるのだ。

 そしてそれは、ほんの数ヶ月とはいえ一緒に暮らしてきたミドリも同じ。

 

「もー、継実さんったらお行儀悪いですよ。もぐもぐじゅるじゅる」

 

 継実を窘めながら、ミドリは何時の間にか取り出していたオポッサムの心臓を丸齧りにしていた。

 

「ちょ。ミドリまで先に食べてるし!?」

 

「いやー、モモさんが遅いから待ってられなくて。というか何時もなら真っ先に食べてるじゃないですか」

 

「流石に毒の有無を調べてる時ぐらい待つわよ!」

 

「まぁまぁ。栄養がありそうな場所は他にもあるでしょ。骨とか」

 

「……犬だからって骨が好きな訳じゃないし、普通に肉の方が食べたいんだけど」

 

 継実がオポッサムの足をへし折って渡せば、文句を言いながらもモモは受け取る。それから犬らしく、バリバリとその骨を噛み砕いて食べた。

 そうして一度食べ始めてしまえば、もう文句も出てこず。結局のところこの言い合いもコミュニケーションに過ぎないのだ。遊んでほしい犬が、飼い主の靴下を足ごと噛むように。

 加えて、周りからの『視線』もある。何時までも遊んでいる場合ではない。

 

「(何匹かこっち見てんなぁ)」

 

 ちらりと継実が視線を向けた先にある草むら。そこには数匹の獣が顔を覗かせていた。

 タスマニアデビルだ。特別大きな個体、或いは強大な力を感じさせる個体がいる訳ではないが……視界に入るだけで二匹。薄っすらと気配も感じるので三匹以上この場に居るだろう。

 こちらを見ているタスマニアデビル達の顔は実に可愛らしく、思わず抱き締めたくなる。しかし一匹が欠伸をするように開けた口の内側には、鋭くて大きな歯がずらりと並んでいた。どんなに可愛くても本日は肉食獣。手を伸ばせば、バリバリと噛み砕いてくる事だろう。

 そして此処に集まってきた連中は、継実達が食べているオポッサムの横取りを企てている。いくら大きくても体長七十センチ程度の動物とはいえ、純粋な肉食獣の戦闘能力は侮れない。相手の実力が未知数なので勝ち負けはなんとも言えないが、正直あまり戦いたくない相手だ。

 なら、奪われる前に食べてしまうのが得策である。

 

「……早いとこ食べちゃおうか。狙われてるみたいだし」

 

「ですねー」

 

「ぼりぼりばりぼりばりばり」

 

 継実がぽつりと語れば、ミドリは同意し、モモはがっつくように骨を食べる。肉よりも骨を優先して食べるモモを「やっぱり骨好きなんじゃん」と思いつつ、肝臓を食べ終えた継実も指などの細い骨を齧った。

 継実としては、オポッサムを全て食べ尽くすつもりなんてない。体長二メートルもある獣を全て腹に収めるのは、いくら大喰らいな継実達三人(ミュータント)でも無理だ。骨も含めれば全体の半分以上は残るだろう。

 しかしタスマニアデビルとしてはそんなものでは足りないのか、はたまた継実達の食べる速さからこのままだと食い尽くされると思ったのか。いずれにせよタスマニアデビル達の一部は、大人しく残飯が出るのを待つのを我慢出来なかったらしい。

 ガサガサと草むらを掻き分ける音が、急速に継実達に接近していた。その向かう先にいるのは――――接近してくる気配に気付き、けれども身体の反応が間に合わなくて硬直しているミドリ。

 

「ちっ!」

 

「ひゃっ!? えぁ、つ、継実さ……」

 

 継実はミドリを押し退けるようにして、自分の身を気配に対して前へと出す。

 直後、猛然と駆けてきたタスマニアデビルが、大きく口を開きながら草むらから跳び出してきた!

 継実はすかさず腕を前に出し、タスマニアデビルの攻撃を受け止める。腕には粒子スクリーンを展開。例え水爆が百万発直撃しようと継実の肌に傷を付けられない状態にした。そうとは知らずにタスマニアデビルは腕に噛み付き、粒子スクリーンに阻まれて止まる。鋭い歯は粒子スクリーンに食い込みはしたものの、継実の肌には到達していない

 

「ガギュイッ!」

 

 と思ったのも束の間、唸り声と共に一層強くタスマニアデビルは噛み締めてくる! 本気を出した一撃は継実の粒子スクリーンを突破。牙が肉を深々と切り裂き、溢れ出す血と痛覚物質の刺激で継実は僅かに顔を顰めた。

 体長僅か七十センチしかないタスマニアデビルだが、その顎の力は七年前だと哺乳類最強クラスだと謳われていた。その強靭な顎は死体の皮や毛だけでなく、骨も容易く噛み砕いて食べてしまう。ミュータント化してもその性質は残っていたようで、顎の力は継実の予想を大きく超えた。これには継実も驚きを覚える。

 しかしタスマニアデビルにとっては自慢の顎の成果。喜びはあれども驚きはない。

 むしろこのまま肉を引き千切ろうとしてか、一層強く噛み締めて――――

 

「ふんっ!」

 

 そうなる前に継実はタスマニアデビルの腹を、思いっきり蹴り上げた!

 蹴られたタスマニアデビルの身体は、秒速数キロの速さで吹っ飛ぶ。が、タスマニアデビルの表情に変化はない。顎はしっかりと閉じたまま。殴られた下半身が大きく揺れただけで、タスマニアデビルは未だ継実から離れていない。

 

「食事中に邪魔すんなッ!」

 

 モモが追撃として電撃の伴う蹴りを首に入れたが、それでもこの小さな獣は顎を離そうとしない。いや、表情すら変えていないというのが正しいだろう。

 まるでダメージが入っていない。

 

「ギギキキィアッ!」

 

 結局タスマニアデビルは継実の腕を一齧りして肉を食い千切る。

 この瞬間に継実はその顔面に拳を叩き付け、遠くへと吹き飛ばす。尤もタスマニアデビルは空中で軽やかに身を翻し、無事着地してみせたが。

 くっちゃくっちゃと音を立て、タスマニアデビルは継実の腕から千切った肉を喰らう。されど人肉の味を満喫する暇はない。

 

「ギギャアァッ!」

 

「ギャアァアッ!」

 

 今まで様子見をしていた他のタスマニアデビル達の一部、合計三匹が集まり、継実を襲った個体に噛み付いたり引っ掻いたりして攻撃してきたからだ。ちょっかいを出す、なんてレベルではない。大きな牙でがっちりと咥え込んで頭を激しく振る、目許を狙って爪で抉ろうとするという激しい『攻撃』である。そしてその攻撃は、肉を咥えている口許や顔面に集中していた。

 これが大きな肉片ならば、いくらか奪われもしただろう。しかし此度の肉は一口サイズ。仲間に甚振られながら、そのタスマニアデビルは自分の手柄を総取りする。

 

「ギャアァァッ!」

 

「グギャギャアァ!」

 

「ギィギャア!」

 

 強奪に失敗した三匹のタスマニアデビル達は、苛立ちを露わとするように吼えた。ただしその怒りの遠吠えは何時までも続かない。それは無駄な行いなのだから。

 合理的な彼等は、一斉に継実達の方を振り向いた。半開きの口から、だらだらと涎を垂らして。

 

「やれやれ。向こうさんはやる気満々ねぇ……ミドリ。アイツら何匹いるか分かる?」

 

「は、はい。えっと……四匹だと思います」

 

「ふぅん、じゃあ見えてる奴で全部ではある訳だ。どうする継実?」

 

 骨付き肉を頬張りながらモモが尋ねてきたので、継実は少し考え込む。

 噛まれた時の手応えから推測した『戦闘能力』からして、見た目や大きさよりもかなり強いと言わざるを得ない。おまけに、恐らく仲間同士の闘争の激しさ故の進化か、全身の皮膚がかなり頑丈だ。こちらの攻撃を通すにはかなり力を込めた、即ちエネルギーを投じた一撃を放つ必要がある。その一撃も、ダメージを与えるだけで致命傷には至るまい。まともに戦ったなら、勝率は六割といったところか。そして勝ちの中には、家族を失うパターンも含まれている。

 そもそもオポッサムの亡骸を奪われたなら、その時点で継実達の時点では敗北である。数では向こうが有利で、戦闘能力で劣るとはいえそこまで離れてもいない。奪い合いになればタスマニアデビルの方が圧倒的に有利だ。勝負をしたところで、残るのは肉片ではなく疲労感だけ。

 こんなのを相手にしても割に合わない。損切りをするなら早い方が良いだろう。

 

「……仕方ない。十分食べたしコイツはもういいやーっと」

 

 判断を下した継実は、自分達が食べていたオポッサムの亡骸をおもむろに蹴り上げた。命に対する敬意などない一撃で、オポッサムの身体は宙を飛ぶ。が、冒涜的な空中飛行はすぐに終わった。

 タスマニアデビルの一匹が、亡骸に飛び付いてきたのだから。

 

「ギィギャアアアアッ!」

 

「ギャギャギャッ!」

 

「ギィイイィィギィヤアァァツ!」

 

「ギャアアアァァァァッ!」

 

 一匹が食い付けば後は地獄絵図。同種同士で噛み合い押し合い吼え合い、手に入れた死肉を漁っていく。

 『文明人』なら顔を背けたくなる光景。しかし継実は満足げに頷くだけである。獣であるモモと同じように。文明人であるミドリだけが不愉快そうに眉を顰めたが、顰めるだけだ。

 

「うわぁ、凄い食べ方してる……」

 

「群れてるけど仲間って訳でもないみたいだからね。ともあれ、アレでしばらくはこっちの事を忘れるでしょ。今のうちに離れるよ」

 

「ほーい。そんでこれからどうする? 私的にはもうお腹はいっぱいだから、そろそろ寝床探ししたいんだけど」

 

「そうだね。そろそろ暗くなるし……こんだけ開けた草原だと、洞窟とか木の洞とかも簡単には見付からなそうだから、早めに探した方が良いか」

 

「あたしも異論なしです」

 

 モモの意見に継実もミドリも同意。死肉に貪るタスマニアデビルを尻目に、寝床探しを始める。

 その歩みの中で継実はふと視線を向けた。

 自分の腕に残る、抉れた傷跡に。

 

「(なんか、傷の治りが悪いな)」

 

 タスマニアデビルに噛まれた部分が、まだ完治していない。肉が露出し、断面から血が滴り落ちている。

 七年前なら当然の話だ。肉を食い千切られて出来た傷が治るには何ヶ月も掛かる、いや、傷跡が残る事を思えば『完治』などしない。けれど今の継実にとって、こんなのは掠り傷ですらないようなもの。意識して能力を使わなくても割と治る筈だった。

 ところがこの傷は中々治る気配がない。それどころかこのまま放置しても完治しないという予感がある。

 

「……んー……?」

 

 気にはなる。気にはなるが、しかしそこまで重大な問題でもない。ちょっと意識を向け、能力を使えば傷口は簡単に塞がった。

 何より今は寝床探しという優先目標がある。モモとミドリが進む中、自分だけが立ち止まって考え込む訳にもいかない。

 傷口の事など頭の片隅に寄せ、継実は寝床探しの方に意識を集中させるのだった。



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ワイルド・アサシン07

 地平線の先に、陽が沈んでいく。殆ど姿を隠した太陽の周りは、最早茜色とは呼べないほど暗くなっていて、夜の訪れが間もなくだと語っていた。

 オーストラリアの草原は起伏も山もなく何処までも平坦で、地平線の彼方まで簡単に見る事が出来る。犬……モモの視力は決して良くはないが、太陽ぐらい大きくて派手なものなら視認は簡単だ。間もなく夜が訪れる事を、彼女は本能と自意識の両方で認識する。

 付け加えると、犬は暗闇の中では人間よりも優れた視力を発揮する。明るい場所の方が得意ではあるが、夜なら夜で活躍する事は可能だ。それに嗅覚に優れているので、暗闇に隠れて接近する天敵の存在を察知するのも人間ほどは難しくない。

 だからモモは普段、あまり夜という時間に恐怖心や不安は抱いていない。寝床についても丁度いい洞穴や大木が見付かると良いとは思っているが、ないならないでそこら辺に寝てしまえば良いとも考えていた。

 あくまでも、何時もであれば。

 今日は流石に安全な場所で寝たいと考えていた。ただしそれはこの地、オーストラリアを警戒しての事ではない。

 

「……継実。さっきから顔が真っ青だけど、ほんとに大丈夫?」

 

 家族である継実の顔色が、さっきから物凄く悪いからだ。

 元々元気いっぱいというタイプではない継実だが、それにしても今の顔色はかなり悪い。顔に笑顔は一切なく、身体は歩く度にふらふらと左右に揺れていた。その歩みも遅く、歩幅は小さく、普段の力強さは一切ない。

 ちょっと小突けば倒れてしまいそうな、酷い衰弱ぶりだ。流石にこれだけ酷いと継実としては隠す気もないようで、首を左右に振りながら、弱々しい声で白状する。

 

「割と、駄目っぽい……吐き気が酷くて、身体が重い……あと、意識が、ヤバいかも」

 

「えっ!? 顔色悪いなって思っていましたけど、そんなに酷かったんですか?」

 

 継実の隣を歩くミドリが驚きながら尋ね、継実の傍に寄り添う。継実は大丈夫だと示すように片手を出してミドリを制止、しようとしたが、よろめいて上手くいかず。慌ててミドリが肩を掴まなければ、その場に倒れていたであろう勢いだった。

 本当に、かなり酷い状態だとモモも思う。

 そして語られている症状、それと今日の出来事から考えて――――とある最悪が脳裏を過ぎる。

 

「なんか、ヤバい菌でも入ったのかしらね」

 

 感染症だ。

 自然界は基本的に雑菌塗れ。何処もかしこも細菌やバクテリアに満ちている。小さな生き物達にとって生物体は文字通り肉の塊に過ぎない。奴等は生物に取り付き、貪ろうと虎視眈々と狙っているのだ。

 普段なら生物体は免役の働きで細菌達(侵入者)を撃退しているが、免役だって完璧ではない。体調が弱まれば攻撃力は低下するし、細菌の数が多ければ物量にやられてしまう。そもそもどんな敵でも簡単に勝てる訳ではなく、強力な細菌やウィルス、或いはある生物の免疫系を攻略するのに特化した種が相手だと抑えきれない時もある。

 そうして侵入者達が体内で暴れ回っている状態を、病気ないし風邪と呼ぶ。

 今の継実は恐らく今日一日の何処かで細菌が入り込み、免役で抑えきれなかったのだろう。そして何処で細菌が入ったかは……心当たりが多過ぎて特定出来ない。

 

「確かに、今日の継実さんは色々と攻撃を受けてましたからね……バイ菌が傷口から入っていても、仕方ないかも」

 

「ハリネズミの針は額に受けるし、カモノハシの毒ガスは吸い込むし、タスマニアデビルには噛まれるし。いくらなんでも油断し過ぎよ」

 

「面目ないっす……」

 

「あとアレですかねぇ、オポッサムの肝臓とか食べたのが悪かったのかも」

 

「? 肝臓の何が悪いの?」

 

「いや、寄生虫とかがいたかも知れないじゃないですか。生食してるし」

 

 首を傾げるモモにミドリが説明。成程、とモモは頷く。肉食動物であるモモには、肉を食べて健康が悪化するという発想がなかった。

 なんにせよ、今日の継実はあまりにも原因となり得るものに触れ過ぎだ。どれが原因なのか、考えても全く分からない。いや、今日の出来事が原因だと考えるのも早計だろう。昨日や一昨日感染した細菌が、今になって症状が出るぐらい増えたのかも知れない。文明社会ならば血液検査などで調査も出来たが、自然界では原因の特定などまず無理である。

 そもそも、原因が分かったところでどうなるものでもあるまい。七年前なら病院で治療を受けるなりなんなりも出来たが、今の世界に病院なんて何処にもないのだ。

 今や世界は隅々が野生のものとなった。そして野生の世界で病気に掛かったなら、治し方は一つだけ。

 安静にして寝る事だ。

 

「なんにせよ、安全な場所を探さないと不味いわね」

 

「そうですね。寝て治すにしても、安心して休める場所じゃないと中々眠れないでしょうし……」

 

「いや。そんな暢気なもんじゃないでしょ」

 

「へ?」

 

 ボケてるの? と思いながらモモはツッコミを入れたのだが、ミドリはキョトンとするばかり。どうやら本当に分かっていないらしい。継実も()()()()()()()苦笑いを浮かべていた。

 しかし考えてみれば、ミドリは割と最近まで『文明人』だった身だ。どうにも文明人というのは病気……風邪などのあり触れた感染症を嘗めているとモモは感じる。七年前の、一緒に暮らし始めたばかりの頃の継実がそうだったように。

 だが野生の世界で病気を嘗めていては、その命は長く持たないだろう。

 病気に掛かった時、文明社会ではどんな対処をしてきただろうか? まず、うどんやお粥のような消化に優しいものを食べて、少しでも栄養を取っておく。それから暖かな布団に身を包み、体温が下がらないようにした状態で安静にしてぐっすり眠る。そして症状が酷ければ、解熱剤やらなんやらの、病原体ではなく症状そのものを改善する薬を飲んだだろう。勿論病原体そのものに効く薬があればそれも飲む。

 しかし野生の世界でそれが出来るか?

 消化に優しいものが都合良く手元に転がってる訳がない。それに症状が何日か続いたなら、衰弱した身体で食べ物を探さないといけなくなる。また用意出来るベッドなんて枯れ草を敷いたものだけで、夜の寒さを凌ぐ暖かな寝具など何処にもない。捕食者は獲物を求めてうろついているのだから、熟睡なんてしたいられないだろう。そして症状がどれだけ悪化しても、薬なんてない。薬効のある植物を食べれば幾分効果はあるかもだが、都合良く生えてるものでなし。体温が意識を奪うぐらい上がろうと、咳で息が出来なくても、苦しさで眠れなくても、何も出来やしない。

 そう、病気とは自然界における驚異。

 発症などしようものなら、例え軽いものでも命に関わる。いや、殆ど生還など出来ない、死刑宣告に等しい悪夢なのだ。

 

「そ、そんな……!」

 

 モモがそのように説明すると、今度はミドリが顔を青くして震え上がる。自分が如何に能天気だったか、甘かったかを理解したのだ。

 しかしそれでも、まだ希望に縋りたいのか。一旦目を瞑りながら顔を振った後、ミドリはまた少し楽観的な意見を述べる。

 

「で、でも、継実さんには、体温を一万度にするような力があるんですよ! その高熱を使えばなんとか菌も撃退出来るんじゃ……」

 

 ミドリの語る一万度の体温とは、先日戦ったエリュクス相手に使ったものだろう。モモはその戦いを見ていないが、聞いた話曰くエリュクスが繰り出したナノマシンによる攻撃を、継実は一万度もの体温で撃退したらしい。

 七年前の人類文明すら足下に及ばない文明のナノマシンを、容易く破壊する超高温。恐らく地球以外の病原体相手なら、実際有効なのだろう。

 しかし此度の病気は地球産。地球での病気は何が原因で起きるのか?

 地球の病原体(生物)だ。

 

「出来る訳ないでしょ。ウィルスも菌も、みんなミュータントなんだから」

 

「あっ……」

 

 モモに指摘され、思い出したミドリはまた顔を引き攣らせる。

 どんなに小さくてもミュータント。高々数万度の高温で死に絶えやしない。

 そう、此度継実の身体を蝕んでいるのはミュータント。その戦いに、()()()()()()()()()()()()()なんかが匹敵する筈もない。全力を出さねば負ける、出したとしても勝てる保証がない……そんな過酷な相手との『生存競争』なのだ。

 二度も希望を砕かれ、ミドリはすっかり意気消沈。風邪の恐怖を知ってもらえて、モモは表情を引き締めながら頷く。

 なお、継実は青くした顔を呆れたものに変えていたが。

 

「モモー……煽り過ぎ。そう簡単には、死なないから。嘗めたら駄目だけど、ふつーに休めば治るっつーの」

 

「へ? 煽り……?」

 

「あら、嘘は言ってないわよ? 実際命には関わるじゃない。一人なら確実に」

 

 モモは意地悪く笑いながら、改めて自分の説明を言い直す。

 ミドリは困惑しながら少し考えて、ようやく気付いたのかハッとしたように目を見開く。次いでモモを、責めるような眼差しで見つめる。

 モモは一切悪びれない。嘘は何一つ言ってないのだから。

 

「……モモさぁーん?」

 

「何よ、全部本当の事よ。看病してくれる相手がいなければね」

 

 モモの語った内容は、全て『一人』で生きていたらの話だ。一人だったら食べ物探しも周りの警戒も薬効植物探しも、やるのであれば全て自分で行う必要がある。弱りきった身体でそれをするのは無理、或いは却って危険というもの。故に出来ず、風邪と真っ向勝負をしなければならない。

 けれども仲間と暮らしていれば、そうした仕事は仲間に任せられる。食べ物を分けてもらう事も、攻めてきた敵と戦うのも、仲間にお任せして自分はひたすらに寝れば良い。回復に専念出来るし、エネルギーの補給も可能なので、完治する見込みが高くなるだろう。

 勿論、これはあくまで可能性の話。継実の顔色からしてかなり酷い病気なのは明らかで、七年前なら病院の診察を受けるべきところだ。それが出来ない現状を、あまり楽観視するものではない。

 しかしもう駄目だと諦めるほど、絶望的状況でないのも確かな訳で。

 

「まー、どっちにしろ寝床は探さないとね。ほれミドリ、ちゃんと索敵。あと寝床になりそうな場所も探しといて」

 

「むぅ。話を逸したー」

 

 不服そうに顔をむくれさせるミドリだったが、あっちこっちに視線を向けているので、言われた通り索敵を始めたらしい。

 ……大きな不安を解消した反動からか、今のミドリはかなり楽観的な様子だが、モモとしてはそこまで安堵も出来ない。継実の体調の悪さは見た限りかなりのもの。継実は人間としては若くて体力がある年頃だが、それでも完全無欠の肉体という訳でもない。何かの拍子にころっと逝ってしまった……なんて展開もあり得なくはないのだ。

 勿論、だからといって不安がる必要もないが。不安になったところで問題は何も解決しないのだから、それなら楽観的に振る舞い、精神状態を良くしておく方が合理的だろう。

 つまるところ事実をありのまま受け入れて、想定される範囲内の問題には準備を万端にし、何かが起きたらその都度対処する。モモ達に出来るのはそれだけであるし、それが重要かつ最適なのだ。

 そしてケダモノであるモモにとって、そんなのはとても簡単な事である。

 

「(んでもって、今の私に出来るのは――――周りの警戒ぐらいかねぇ)」

 

 だからモモは淡々とした態度を崩さずに、全身を臨戦態勢へと移す。

 病気でへろへろに弱った個体がいたなら、自分ならば絶対にチャンスだと思って攻撃を仕掛けるのだから。

 そして。

 何処を見ても地平線が確認出来るぐらい開けたこの草原に、自分達の休める場所があるなんて『楽観』を抱けるほど、モモは能天気ではないのだから……



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ワイルド・アサシン08

「……見付かりません。隠れられそうな、場所」

 

 すっかり周りが暗くなり、満天の星空が広がり始めた頃。ぼつりとミドリが申し訳なさそうに呟いた。

 寝床を探して歩き回っていたモモ達だったが、その寝床を広域索敵で探していたミドリかギブアップ宣言をしたのである。もっと頑張って探して、と言葉で言うのは簡単だが……恐らくどれだけ探しても駄目だろうとモモは思う。

 何しろ周りは、見渡す限り乾燥した草原なのだから。自分達が寝床として使えそうな巨木も洞窟も、こんな開けた場所には一ヶ所とある筈もない。

 もしかしたらと思って探してもらったが、所詮は淡い期待だ。分かっていた事にガッカリするほど、モモは『感情的』ではないのである。

 

「そっか。まぁ、見渡す限り草原だからね。なくても仕方ないか」

 

「すみません、私の力が足りぬばかりに……」

 

「いや、ミドリの力の有無とか関係ないでしょ。ないものはないんだからさ」

 

 俯くミドリに、モモは淡々と事実を告げるだけ。彼女がどんなに凄い力を持っていても、ないものを見付ける事は出来ない。

 そんなないもの強請りをするよりも、現状に対処するための方法を考えた方が建設的というもの。そしてそのために必要な情報がある。

 

「継実、調子はどう?」

 

 ミドリに担がれた状態で運ばれている、継実の体調だ。

 今の継実は息も絶え絶え。自分の身体を支える事も出来ておらず、一歩歩くのすら一苦労という様子だ。俯いているし、もう星明かりしかない中でその顔色はよく見えないが、苦しそうな表情から症状の悪化が覗い知れる。それにモモが呼び掛けても反応がない。意識も朦朧としているようだ。

 体調が悪い事を確認してから、まだ二時間も経っていないとモモは思う。そんな短時間でここまで悪化するのは、流石のモモでも想定外だ。寝てれば治ると言っていた継実だが、こうまで悪化速度が早いとなると……

 悪い予感に、モモは表情を強張らせた。しかしそこで取り乱しはしない。冷静に、必要な事を考える。

 

「(兎に角、もう休ませた方が良いわね。歩くだけでもかなり体力を消耗してそうだし)」

 

 寝ていれば治ると思える状態ではないが、寝て少しでも体力を回復しなければ治るものも治らないだろう。出来れば安全で暖かな場所に寝かせたかったが、もう贅沢は言っていられない。

 

「ミドリ、もう索敵は良いわ。とりあえず此処で野宿にしましょ」

 

「え。で、でも、こんな場所じゃ何時動物に襲われるか分かりませんよ?」

 

「そうだけど、もう継実を歩かせる方が不味いと思うわ。寒さも凌げないけど、まぁ、私ら気温変化ぐらいなら別にどうって事ないし。周りの警戒は私とミドリが寝ずにやれば良いでしょ?」

 

「……寝ないのはしんどそうですけど、状況が状況だけに仕方ありません。継実さん、今日はここで寝ますよ」

 

「うぅ……」

 

 ミドリが声を掛けながら肩から下ろすも、継実は小さく呻くだけ。ろくな意識が残っていないのか、目は虚ろで覇気がない。呼び掛けへの反応もいまいちだ。

 いや、それ以前に身体に殆ど力が入っていないようで、下ろされただけで倒れそうになる。ミドリは慌てて継実の傍に寄って、倒れそうになる身体を支えた

 次の瞬間。

 

「うぶぇぇ……」

 

 継実が嘔吐した。

 ちょっと吐いた、なんて量ではない。今日食べたものを一気に出したような、かなりの多さだ。びしゃびしゃと吐瀉物が跳ね、周りに飛び散っていく。

 モモはそこまで気にしないが、人間的にはかなり『汚い』状況の筈だ。

 

「ひゃっ!? へ、あ、つ、継実さん!?」

 

 にも拘らずミドリは迷わず継実の傍に行き、その背中を擦る。

 献身的なミドリの介護のお陰か、単純に吐いた事で悪いものが少なからず出たからか。いずれにせよ虚ろだった瞳に力が戻り、地面に手を付いた状態ではあるが自力で体勢を維持するまで体調が回復した。

 しかしその回復も急速に陰っていくのが、モモの目にも映る。

 やはり吐いただけで良くなるものではない。されど僅かに回復したのは事実。何かを聞くなら、今しかない。

 モモは継実から少し離れた位置で腰を下ろす。継実もモモの存在に気付いたようで、鈍い動きではあるが振り向いて顔を合わせた。

 

「……ごめん。迷惑、掛ける」

 

「謝る前に話す事があるならそっち優先。必要なものがあるなら教えて」

 

「水……なんか、凄く、喉が乾いて……」

 

「水ね。ミドリ、水場の位置とか分かる? 近くにあるならちょっと取りに行きたいんだけど」

 

「えーっと……八キロぐらい先に一ヶ所ありますね。でも底が浅くて、濁ってます」

 

「遠いなぁ……」

 

 八キロ程度の距離など、モモの脚力ならちょっと本気でダッシュすれば数秒程度で戻ってこれる道のりだ。しかしミュータントにとって数秒の時間はあまりにも長い『隙』。近くにいる生物が継実やミドリに襲い掛かってくるのに十分な時間だ。それに水は汲み取らないといけないのだから、実際にはもっと時間が掛かる。

 継実が元気なら、数秒程度攻撃に耐えるのは難しくないだろう。されど今の病弱な継実では、一秒どころか一発耐えるのすら困難に違いない。ミドリの支援は非常に強力だが、支援というのは前線で戦うものがいるから光るもの。ミドリだけでは、襲い掛かる獣の攻撃に何秒も耐えるなんて出来ないだろう。

 自分が離れるのは危険な行いだ。それでも、継実は水が欲しいといっている。即ち継実の身体が、不足している物資として水を挙げているという事。物資不足のまま『戦い』を挑んでもろくな結果にならないのは言うまでもないだろう。彼女の苦しみを和らげたいという家族としての想いだけでなく、確実に回復するための手伝いとしても水を渡したい。

 リスクとメリットを頭の中の天秤に乗せ、モモはしばし考え込み――――

 

「……ちょっくら行ってくるか」

 

 やがて下したのは、賭けに出るという決断だった。

 

「ミドリ。周りの警戒は怠ったら駄目よ。もし敵が来たら、変に耐えようとしないで逃げてて良いから」

 

「は、はい! 頑張ります!」

 

「ああ、でも頑張らなくてもいいわ。勘だけど、多分大丈夫だから」

 

「へ? あの、それは」

 

 どういう意味ですか――――そう訊こうとしたであろうミドリの言葉を無視して、モモはオーストラリアの大地を駆けた。

 具体的な場所は知らずとも、ミドリが示してくれた方角と距離さえ分かれば十分。モモは『水の臭い』で方向を修正しながらあっという間に八キロの距離を駆け抜け、地平線の先にあった小さな池……或いは水溜まりと呼んだ方が良さそうな……に辿り着いた。

 ミドリが言っていた通り、水は濁っていて泥水同然の色合いをしている。七年前なら、飼い犬だったモモでも飲まないような水だ。

 しかし自然界では水があるだけありがたいというもの。モモも泥水を啜った事は一度や二度ではない。濁ってはいるが腐った臭いはしないので、とりあえず衛生面は『及第点』を出して良いだろう。

 無論今の弱った継実には、この泥水も危険かも知れない。大体水を持っていくにも、バケツなどの道具はない状態だ。このままでは一口分すら運べない。

 そこでモモは自分の腕を伸ばして、池の水に浸した。同時に腕を形成している体毛の隙間を、僅かにだが広げる。

 小さな隙間を作る事で、水は毛細管現象により腕に染み込むように吸われていった。更に体毛の編み方を工夫し、細かな『網』を形勢。ちょっとしたゴミ、それと可能な限りの雑菌をこれで濾過して、水質の浄化を試みた。

 かくしてモモの腕には、七年前の日本の上水道程度に綺麗な水が五リットルほど溜まる。

 水さえ得られればもうこの場に用はない。モモは再び走り出し、継実達の下へと戻る。今度はミドリのナビゲーションなしだが、来た道を戻るだけであるし、自分が通ったルートには自分自身の臭いがあるのだ。モモが迷う事はない。

 継実達から離れていた時間は凡そ二十秒。七年前なら外出とも言えないような、けれども今の世界なら虐殺が起きていても不思議でない時間を費やして、モモはようやく帰還する。

 見た限り、継実とミドリに怪我は一切なかった。

 どうやら捕食者には襲われずに済んだらしい。賭けに勝ったモモは安堵の息を吐き、にこりと柔らかく微笑む。

 

「お待たせ。とりあえず無事みたいね」

 

「は、はい! 全力で威嚇してましたから!」

 

「いや、頑張らなくて良いって言ったじゃん」

 

 全力(威嚇するネズミ程度)の力を発するミドリの姿に、モモはちょっと呆れてしまう。とはいえそれはモモの話を聞いていなかったのではなく、単純に不安だったから、それを和らげるための行動だろう。

 

「継実、水を汲んできたわよ。飲める?」

 

「うん……なんとか……」

 

「はい、じゃあ指先しゃぶって。吸えば水が出てくる筈だから」

 

 モモは継実の下に歩み寄ると、水を吸い上げた腕を差し出す。継実が弱々しく口を開いたので、モモはその口の中に指を入れた。

 ちゅうちゅうと赤ん坊のように指を吸う継実。

 ただの風邪なら「これじゃあ赤ちゃんね」と煽りの一つでも入れるところ。しかし意識も朦朧としている家族に、そんな事を言う気力も湧いてこない。

 継実はある程度水を飲むと、自分から口を開き、指を出す。飲んだ水の量は、果たして一口分もあったかどうか。けれどもその僅かな量で継実は安らいだように笑い、直後に意識を失った。慌ててモモは呼び掛けようとして、継実の口から漏れ出る吐息に気付く。どうやら気を失っただけのようだ……モモとしてはそれを『だけ』と評したくはないが。

 なんにせよ、寝てしまったならもうこれ以上出来る事もない。腕に残った水を絞り飲み、モモも一息吐いた。

 

「ま、やれる事はやったかな」

 

「継実さん……大丈夫でしょうか……」

 

「正直良くはなさそうねぇ。でもまぁ、私らが心配しても仕方ないわ。細菌相手じゃ流石に手出し出来ないし」

 

「……はい」

 

 淡々と事実だけを伝えるモモ。ミドリはこくりと頷いて、神妙な面持ちを浮かべる。

 そんな暗い雰囲気を打ち払うように、モモはぱんぱんっと手を鳴らす。

 

「はい、継実の話はここまで。私達もそろそろ休みましょ。んで、ミドリは先に寝てて良いわよ。しばらくは私一人で大丈夫そうだから」

 

「えっ!? そ、それは流石に……あたしも周りの索敵します! モモさんだけに負担は押し付けられません!」

 

「平気だってばさ。さっき水場に行った時に色々分かったんだけど、多分周りの動物達に襲われる心配はないわ。それより私が眠くなった時、ちゃんと起きててもらわないと困るんだから」

 

 モモの説得に、ミドリは首を傾げる。納得はしていない、が、しかしモモに「大丈夫だ」と念押しされたのと、「私が眠くなった時に起きててもらわないと」という二つの言葉が効いているのか。ちょっと、居心地悪そうに目を逸らした。

 

「……じゃあ、仮眠だけします」

 

 それから妥協案のようで、大体モモの言った通りの提案をしてくる。

 仮眠じゃなくて良いのに、とも思ったが、寝てくれるならそれで構わない。モモに断る理由などなかった。

 

「ん。それじゃあよろしくね」

 

「はい。モモさんも疲れたら、遠慮なくあたしを起こしてくださいね」

 

 ミドリはそう言いながら継実の傍に向かう。風邪を引いている相手の傍なので、顔は接しないようにしようという配慮か。継実とは頭の向きが逆になるように横になって、ミドリは目を閉じた。

 ……寝息が聞こえてきたのは、それから数分もしないうちの事。

 ミドリが眠りに入ったのを吐息から判断したモモは、警戒心をどんどん高めていく。全方位を警戒し、全身の毛が逆立つほどに気力を身体に満たしていく。

 その状態のまま、彼女は思考を巡らせた。

 

「(さぁーて、こりゃどういう事かしら……)」

 

 周りに存在する、無数の獣達の気配。ミドリや継実のような索敵能力を持たないモモであるが、生物の発する『気配』には誰よりも敏感だ。その向きや色合いを本能的に理解する。

 どの気配も自分達を見ていて、幾つかは間違いなく食欲に満ちている。あまり極端に強いものはいないようだが、自分達の中で一番パワーがある継実より上のものもちらほら感じ取れた。三人で挑めば撃退出来そうだが、自分一人では時間稼ぎが精々だとモモは冷静に判断する。

 モモでも分かる判断なのだから、気配達も力関係は理解している筈。病気で継実が倒れている今は正に絶好のチャンスだ。

 だというのに、こちらを襲う気配が一切ない。

 襲いたがっているとは思う。もう隠れる事すら出来ていない、そわそわとした気配からして明らかだ。だけど出ようとしてくる奴はいない。それどころか一匹、また一匹と自分達から離れているぐらいだ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 何かがおかしい。どうして奴等は、無防備な自分達を襲わなかったのか。或いは、どうして自分達を襲えなかったのかと言うべきか――――

 

「(やれやれ。頭脳労働は継実の担当なんだけどなぁー)」

 

 考えなければならない難問のお陰でモモの眠気は完全に吹き飛ぶのだったか、それを喜ぶ気持ちは一切湧いてこなかった。



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ワイルド・アサシン09

 夜のオーストラリアは、モモにとっては極めて五月蝿かった。

 ただしその喧しさは音によるものではない。事実『音』に関しては、精々虫の音がそこら中から聞こえてくるだけ。獣の雄叫びや戦闘時の爆音などがなく、聴覚的な意味では静かで落ち着いた夜と言えるだろう

 だが、気配は違う。

 周りを走り回る動物達の忙しなさ。何かを押し付け合うような群れの動き。鉢合わせた獣同士の牽制。気配を感じ取る側からしたら、正直『鬱陶しい』と思うぐらいだ。あまりにも気配が多過ぎて、一体どれほどの生命がひしめいているのか分からないほど。

 一切の油断を許さない状況だ。モモもそれらの気配の動きに意識を集中し、動向を正確に把握しようとする。

 ただしその目的は獣達の奇襲を防ぐためではなく……獣達を()()()()()()()存在を見付け出すためなのだが。

 

「(パニックって訳じゃないけど、明らかに冷静じゃないわね)」

 

 『原因』を何も知らないモモは、まるで全てを見通しているかのように、実際はなんにも分からなくて呆けているだけだが、そんな思考を抱いていた。

 三百六十度、隠れる場所が一切ない平原のど真ん中で胡座を掻いて座るモモ。背後で眠るミドリと意識喪失状態の継実に近付く輩がいないか注意しているが、どうにもそんな気配はいない。獣達の動揺や混乱は消えず、気配が右往左往しているだけ。

 お陰で普段継実に任せている、あまり得意じゃない『思索』を自分のペースで巡らせるだけの余裕がモモにはあった。

 

「(普通、病人なんて抱えていたら間違いなく襲撃される)」

 

 一般的に、自然界で病気が蔓延する事は稀だ。

 それは同種と遭遇する事すら稀な単独生活者のみならず、何時も群れで動きているような生物にも当て嵌まる。同じ水場で水を飲み、同じ餌を食べ、同じ場所で眠って……病気が広がらない理由などなさそうだが、どうして蔓延しないのか?

 答えは、病気になった個体は真っ先に捕食者に食べられてしまうから。

 捕食者は病気になった個体を狙う訳ではない。しかし病気になれば身体が重く、症状の重さによっては意識が朦朧としてくるもの。そんな状態では逃げる事すら覚束ず、結果、捕食者はあたかも選別したかのように病気の個体を仕留める事になる訳だ。人間(文明人)であれば病気の動物を食べるなんて嫌がるだろうが、病気というのは基本的には種を跨いで伝染するものではない。種によって免疫システムは異なるため、病原体側もなんでもかんでも突破するのは無理だからだ。リスクはゼロではないが、騒ぐほど大きくもない。何より過酷な野生の世界で、獲物の選り好みをしている余裕なんてない。よって肉食獣が病気の個体を避ける事は、基本的にはないのである。

 要するに今の継実(病人)は狙いやすい獲物であり、自然界では真っ先に殺される存在の筈だという事。

 ところがそれを襲おうとする動物は今のところいない。勿論襲ってほしいなんてモモな露ほども思わないが、異常事態に安堵するほど無警戒ではないのだ。何が原因なのかを知るまで、安心なんて出来やしない。

 幸い誰も襲い掛かってこないなら、考え事に浸る時間はたっぷりとある。

 

「(可能性その一。とんでもない化け物が私達を狙っているから、他の生物が手を出せない)」

 

 直感的に過ぎる可能性の一つをモモは検証してみる事にした。

 捕食者達は決して無感情で考えなしなロボットではない。自分の身に危険が迫れば、どんなに美味しそうな獲物を前にしても諦めて立ち去るものだ。例えるなら、食事中のライオンに近付くチーターがいないように。

 此度モモ達の周りにいる獣達も、何か凶悪な生命体を恐れ、前に出る事が出来ないのだろうか?

 可能性は低くないとモモは思う。周りの気配の動き方から、ハッキリとした恐怖心が感じられたからだ。全部がそうとは言い切れないが、少なくとも一部の生物は、この可能性その一が理由で近付いていない。

 ならば次の問題は、一体何を恐れているのか、だ。

 これがさっぱり分からない。

 

「(そんな露骨な気配、何処にもないんだけどなぁ)」

 

 モモが感じ取れる範囲内に、獣達を混乱させるほどの強い気配はなかった。だとすると気配を消しているのだろうか? 強い生物であればあるほど、獲物を仕留めるためには気配を消す力が優れていなければならない。そうでなければ獲物に近付く前に逃げられてしまう。ならばモモ達に悟られないよう、気配を消して迫っている可能性もゼロでは……

 と考えてみたが、どうもモモにはしっくりこない。

 もしも気配をちゃんと消しているのなら、自分達を取り囲む動物達が混乱している筈がないのだ。それにもしも恐ろしい猛獣がやってきているなら、猛獣に近い場所ほど混乱は大きい筈。ところが気配を探る限り混乱度合いは一律、と呼べるほど綺麗な分布はしていないが、有意な差は見られない。

 加えて誰もが恐れるぐらい強い生物なら、そこそこ身体が大きい筈だ。巨大ゴミムシが良い例だろう。しかしモモの全方位に広がる広大な草原の何処にも、そんなインチキ生物の姿はない。此処は地平線まで真っ平らな草原という身を隠せるようなものが何処にもない環境であり、巨大生物がいれば丸見えになるからだ。とはいえかつて出会ったフィアやアホウドリのように小さくてもべらぼうに強い例外もいるので、あまり断言は出来ないが……

 なんにせよ、可能性その一はどうにもしっくりこない。完全に間違っている訳ではなさそうだが、モモは、自分の考えが何か根本的に間違えているような気がした。

 

「(つーか、怖がられているのは私達の方のような気がするんだけど)」

 

 そこで次に考えるのは可能性その二。

 継実の病気が、この地では酷く恐れられているものなのではないか。

 ミュータントが原因で起きている病気だ。驚異的感染力や致死力を誇っていたとしても、何も驚く事はない。この地に暮らす生物達は病気の恐ろしさをよく知っていて、継実がその病気の兆候を見せているから近付けないのではないか。

 そう考えると、周りの生物達の動きにも説明が付く。全方位の生物が均等に恐れ慄いているのは、他ならぬ継実が怖いから。近付きもしないのも感染を恐れての事。成程、生き物達については辻褄が合う――――

 そこまで考えて、この考えもモモは受け入れ難いと感じた。継実が患った病気がそんなに酷いなんて信じたくない、なんてミドリのような感情的理由ではなく。

 

「(なんか継実が言ってた気がするんだけど、感染症って症状が強いと不利なんだっけ?)」

 

 何年か前、継実から聞いていた話を思い出したからだ。

 病気の原因である菌やウィルスが生き物を苦しめるのは、別に奴等が悪意に満ちているからではない。彼等の目的はあくまでも自分が繁殖するため。タンパク質やら水やらをたっぷり含んだ宿主の身体を『食糧』として、ウィルスの場合は生物の増殖機能を利用するため、生き物の身体に取り付く訳だ。生物体内部は温度も増殖するのに適しているし、免疫云々を抜きに考えれば実に居心地が良い場所。しかも宿主は勝手に歩き回り、どんどん同種と接触して新しい住処を提供してくれる。正に至れり尽くせり。利用したくなる気持ちは、野生動物であるモモには分からなくもないものである。

 しかし考えなしに増えると、折角の宿主が死んでしまう。宿主からすれば身体中を食い荒らされるようなものなのだから当然だ。死んでしまった宿主の身体は冷たくなって暮らし難いし、動かないから感染を広げる役にも立たない。それどころか巨大な監獄と化し、病原体達を閉じ込めてしまう。行き場をなくした細菌やウィルスは、宿主の亡骸と共に朽ちるのを待つだけ。死なないとしてもダメージが大きくなれば宿主は動かなくなり、飢えによる衰弱や、或いは天敵の攻撃によってやっぱり死んでしまう。

 これを防ぐ一番の方法は、自分達の繁殖を加減するというもの。

 そうすれば細菌やウィルスは宿主の身体を長い間利用出来るし、宿主は何時までも動き回って感染を広めてくれるので子孫繁栄にはプラスに働く。弱っていると捕食者に身体ごと食べられてしまうので、出来れば咳や倦怠感などの症状も出ない方が良い。

 かくしてウィルスや細菌は世代を重ねる毎に弱毒化、つまり繁殖力や毒素の分泌能力が低下していく傾向にある。例えば鳥インフルエンザは本来の宿主である水鳥相手には症状すら出さないし、人間の皮膚常在菌も身体の免役が弱っていない限りはなんら害をもたらさない。宿主を瞬く間に殺してしまう病気体もあるにはあるが、そういう存在はハッキリ言ってレア中のレア。致死率〇・一パーセント未満のインフルエンザの感染者数が日本だけで年間一千万人を超えているのに対し、致死率八十〜九十パーセントのエボラ出血熱が歴史上最大の流行でも三万人にいかない程度でしかない。病気の世界で最も成功しているのは『ただの風邪』という訳だ。

 ……と、継実が教えてくれた。モモは別にお馬鹿ではないので、説明してもらえれば理屈は理解出来るし、それを応用した考えも出来る。真面目に思い出す事があまりないだけで。

 継実の話通りの観点に立ってみれば、継実に感染している病原体はハッキリ言って『間抜け』だ。折角の宿主を、症状が現れてから僅か数時間で危険な状態にしている。これでは動き回って感染を広めるどころじゃない。しかも捕食者達が病気にビビっているとしたら、もうどうやっても次の宿主に出会えないではないか。

 こんな病気、普通はすぐに絶滅する。或いは突然変異で生まれた『不適応』な菌に継実は不運にも感染したのか……

 

「……んぁ?」

 

 そこまで考えて、モモは首を傾げた。傾げた首を元の位置に戻しつつ、覚えた違和感に意識を向けて再び考える。

 続いてモモは、大きくその目を見開いた。

 宿主を即座に殺してしまうような菌は、すぐに絶滅する。或いは突然変異を起こした、この場限りの菌だとする。

 そういう存在を、周りの捕食者達がどうやって知るというのか? 知れる訳がない。進化というのはたった一度きりの災難に対応するような、超能力染みたものではないのだ。いや、仮に継続的な存在だとしても、数が少なければやはり病気の存在そのものを警戒するような進化は起きないだろう。もしも病気が極めて稀なものであるなら、その病気と似た症状が出ている生物を見逃して空腹に喘ぐよりも、襲って満腹になる方が全体としては適応的だからだ。生命の進化は個体の幸福ではなく、血族全体の繁栄を促す方に進むのである。

 捕食者が怖がるには、病気が継続的に存在していて、更にそこそこあり触れていなければならない。感染を広げるチャンスが殆どなさそうなぐらい危険な病気が、そんな条件を満たせる筈がないだろう。第一次世界大戦の塹壕内(新鮮な『宿主』が常時補給される超過密地帯)のような環境であれば強毒化(繁殖力強化)の方に進化するらしいが、だだっ広いオーストラリアの大草原にそんな環境がある筈もない。では可能性そのニは、やはり大間違いなのだろうか?

 違う。一つだけ、その条件を満たす可能性があるとモモは気付く。

 ()()()宿()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 これなら感染症の原因菌がどれだけ一般的な生物に対して致死率が高くとも、宿主にさえ無害ならば存続可能だ。それだけなら宿主に近付かなければ良くなるが……その宿主自身が積極的に伝染病を広めているなら、宿主だけを回避しても意味がない。宿主に病気を移された個体からも離れなければならず、しかも遭遇頻度はかなりのもの。これなら、病気を恐れる進化をするだろう。

 モモはここまで難しい理屈は考えていない。だが直感的に、誰かが広めているならあり触れた病気になるとは思った。そして宿主が積極的に感染症を広める理由にも思い当たる。

 だとすると……

 

「ぅ、うう……」

 

 考えが纏り始めた時、傍から呻きが聞こえた。

 ミドリの口から出てきた声だ。眠っていた筈の彼女はむくりと身体を起こし、モモの方を見ている。

 

「ん? どしたのミドリ?」

 

 モモは首を傾げながら問う。ミドリの索敵能力は極めて優秀だが、どうにも本能が未熟な彼女は危険が迫っても夜中にパッと目覚めた事がない。こうして真夜中に起き上がった事それ自体にモモは興味を持つ。

 しかしミドリは何も答えない。

 答えないが、ミドリの身体はふらふらと左右に揺れていた。それに暗闇の中の顔は虚ろであり、暗くてよく見えないが……血色が酷く悪い。きっと昼間に見たならビックリするほど真っ青なのだろう。

 倒れる前に見せた、誰かの顔のように。

 嫌な予感がする――――モモがそう感じた直後の事だ。

 

「……うぶぇ」

 

 モモの目の前で、ミドリは嘔吐するのだった。



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ワイルド・アサシン10

「……うぶぇ、ええぇぇ……」

 

 ミドリは吐き続けていた。胃の中身を全て出し切るように。

 あまりにも唐突、そして沈痛な姿。人間のパートナーとして品種改良(進化)してきたモモは反射的にミドリの下へ駆け寄りたくなった。だが彼女の中にある野生の本能が、その足を一メートルと進む前に止めさせる。

 ミドリの吐瀉物から、()()()()()()()()()

 ゲロなんてどれも臭い、と言ってしまえばその通りだ。しかしただ臭いだけではない。どうにも継実が倒れる前に吐いた物と同じ臭いがしているとモモは感じた。具体的には肉が腐ったような、だけど死肉も問題なく食べる肉食獣のモモですら吐き気を催すような酷い臭い。

 普通、臭いだけでは病気の判定なんて出来ないだろう。しかしモモの本能は確信する。

 恐らく、ミドリは継実と同じ病気に掛かっている。

 

「(まさか、継実が吐いたやつに触れたから……!?)」

 

 本能で察する感染源。確かに吐瀉物などから広がる伝染病は少なくないが、だとしてもミドリは身体に少し浴びただけで、口には含んでなかった筈だ。それほど感染力があるとすれば、近付くだけで感染の危険がある。

 そしてミドリが病気になった今、動けるのは自分だけ。自分が感染する訳にはいかない。

 

「あ、ぅ……ごめ、な、さ……」

 

「ミドリ! 喋らなくていいわ。兎に角今は休んで、体力を温存して! 私がなんとかする!」

 

 謝ろうとするミドリを止め、そのまま眠るようモモは伝える。ミドリは一瞬唇を噛み締めて悔しさを露わにしたが、ホッとしたように笑い……ぱたりと倒れてしまう。

 ミドリの顔が吐瀉物と接していて、退かしてあげたいとはモモでも思う。だが今は出来ない。その合理的判断を申し訳ないと感じないモモはすぐに思考を切り替え、現状対処を優先する。

 私がなんとかする、とは言ったものの、どうしたら良いのかなんて何一つ分からない。モモは所詮ケダモノであり、知識を有したお医者様ではないのだから。今までしてきた考察だって、結局殆どが継実からの受け売りだ。モモ自身が知っている事、分かる事なんて、本能的な事柄ばかり。難しい作戦だのなんだのなんてさっぱり思い付かなかった。

 こんな時にこそ、継実がいてくれたなら。

 難しい作戦も敵の解析も、全部やってくれていた継実。彼女さえいたなら――――モモが人間ならばそう考えていたところだろう。しかしモモは犬であり、何よりミュータント。合理的な野生動物である彼女は、気絶してしまった仲間の目覚めに期待するなんて()()()()は考えないのだ。

 だから。

 

「も、モ……」

 

 まさか継実の声が聞こえてくるとは思わなくて、モモの思考は一瞬停止してしまった。次いで驚きのあまり、近付いてはいけない距離を僅かに縮めてしまう。

 遅れて本能が危険を思い出して後退り。動く前よりも離れて、無意識に風上へと移動しながら、モモは継実に呼び掛ける。

 

「継実! 起きたの!? 大丈夫!?」

 

「いや、駄目……あの宇宙人の、ナノマシンとは、訳が違うわ……ぜんっぜん、数が、減らない……体力、掻き集めて、目を開けるのが、やっとだわ」

 

 弱々しい言葉。口を開けるだけでも辛そうで、開いた目は今にも閉じてしまいそうだ。

 目覚めたものの体調は全く回復していない。体力を掻き集めたという言葉通り、身体に残されたエネルギーを目覚めるために総動員してこの体たらくなのだろう。

 貴重な体力を使うなら話すよりも病気の回復を、という考えが脳裏を過ぎらなかった訳ではない。しかしモモは知っていた。継実がわざわざ無駄話のために貴重な体力を使う筈がないと。

 きっと、大切な情報を伝えようとしている。ならば必要なのは継実を寝かせる事ではなく、素早く話を先に進める事だ。

 

「分かった。要件は?」

 

「二つ。一つ、この病気は、掛かったら、駄目……寝てる、間も……解析を、続けていたけど……免役も、何も、全然効かない……多分、普通の生き物じゃ、回復は、無理……」

 

 継実の口から語られるのは、絶望的な言葉。

 されどモモはその程度で気持ちが折れる事はない。ケダモノである彼女に諦めるという文字はないのだ。

 そもそも継実の伝えたい事は二つ。まだこれは一つ目に過ぎない。そしてその二つ目は、どうやら悪くない話のようである。

 何故なら継実が笑っているから。

 きっとミドリでも気付かない、七年間一緒に暮らしてきたモモ以外には分からない笑み。そして自暴自棄になったようでもなければ、末期を悟った様子でもない。

 継実の言葉を、モモは待つ。継実は息を整えてから、二つ目の話を始めた。

 

「二つ、目。こんな馬鹿げた菌、普通の、病気じゃ、ない。多分、共生してる、宿主が、いる……」

 

「ええ、それは私も分かってるわ。それで?」

 

「だけど、この菌、素の強さが、滅茶苦茶、だから……宿主との相性とか、関係ない。抑えるには、宿主の方が、何かしてる、筈……例えば、抗生物質、みたいなものを出す、とか……」

 

「……!」

 

 継実の話はまだ途中。けれどもモモは相棒の伝えたい内容を察する。

 病原体と宿主は、双方が数多の屍を積み上げながら、最終的には共存するもの。しかしその共存は病原体側の変化だけで起きるものではない。宿主が病原体を克服するという形でも起こり得るのだ。例えば、()()()()()()()()()()()()()()()()()()のも一つの進化の形だろう。

 そして宿主が病原体を抑えるのになんらかの物質を使っているとしたら、その物質を口にすれば『薬』になるのではないか?

 極めて単純な発想だとはモモ自身思う。この細菌の宿主が物質で細菌達を抑えているというのも、あくまでも継実の予想だ。不確かな可能性であり、そこに全てを賭けるにはリスクが大きいだろう。

 しかし無視するには、十分過ぎるほど理屈が通っている。他に縋るものもない。

 何よりモモの野生の直感が言っている。

 ()()()()()()、と。

 

「ごめん。宿主までは、分からないけど、でも……!」

 

 継実が話を続けようとして、モモは片手を継実の方へと突き出した。もうそれ以上喋らなくて良いと伝えるために。

 次いでにやりと勝ち気な笑みを継実に見せる。

 

「後は私に任せなさいっ! その宿主とやらを仕留めて、ここに持ってきてあげるわ!」

 

 そして一片の迷いもない言葉を、継実に伝えた。

 継実がその言葉をどう受け止めたのか、何を思ったのか。間もなく力尽きるように倒れてしまったので、本当のところは何も分からない。

 だがモモの心には「任せた」という言葉が聞こえてきた。これが『自分の求めている言葉』だというのはモモも自覚しているが、そんなのはどうでも良いだろう。

 その言葉で気合いが入るのだから、何も問題はないのだ。

 

「(そう、何も問題はない!)」

 

 モモは力強く、地平線の先に視線を向ける。

 宿主が誰なのか、モモは()()()()()()()()

 残る問題は何処に宿主がいるのかだが、それについても既に見当は付いていた。自分達の周りを囲っていた動物達の気配に、少し前から変化が起きていたが故に。

 一ヶ所だけ、気配の密度が大きく下がっている。まるで何かを避ける、いや、やってきた何かから逃げるかのよう。答えが分かったモモにとって、そこで何が起きているのかを察するのは容易い。

 ついでに宿主の目的も。

 

「……ついにお出ましという訳ね」

 

 恐らく、宿主がここまで接近してくる事はない。そのぐらいの用心深さはあるだろう。だが、逃げ出す事もない。何故なら奴は、自分達を狙っているのだから。正確には、倒れている継実とミドリだろうが。

 即ち逃げようと思えば、モモだけなら逃げられる。

 尤も、モモの脳裏にはそんな考えなど微塵も過ぎらない。もしも継実に意識があればモモだけでも逃げてとでも言っただろうが、生憎その気持ちを汲んでやるつもりなど毛頭ないのだ。

 何故ならモモは犬だから。

 飼い主の都合も気持ちもお構いなしに、傍若無人かつ自由気ままに、飼い主に尽くして甘える事こそが生き甲斐――――それが犬というものだ!

 

「待ってなさい! 今、そっちに向かうか、らァッ!」

 

 モモは全速力で、気配が乱れている場所に向けて駆け出した!

 夜の草原を駆け抜けていくモモに、周りの視線が集まる。野生動物達の視線には悪意も憐れみもない。そこに込められる想いは自分の損得だけ。純粋な利得感情は、浴びる身としてはいっそ清々しいぐらいだ。

 ただ一つ、正面からモモを射抜くように飛んでくる視線だけは別。

 ねっとりとした、嫌味で、傲慢で、邪悪な気持ちを感じる……気がした。気がしただけだから勘違いかも知れない。或いは継実達を守るため、全力で挑めるよう自身の本能が勝手にお膳立てしているのか。なんにせよこの視線を放つ奴に、一切手加減をしてやろうという気にモモはならない。いいや、するつもりもない。

 まだまだ三人旅を続けたい。

 相手を殺す理由などこれで十分。自分の欲望の叶えるためなら命を奪う事すら厭わない。ケダモノとは、そういう存在なのだから。

 何千メートルと走り抜けるのに、モモの足なら十秒も掛からない。地平線の先へと辿り着いたモモは、そこでぴたりと、自慢の脚力を使って瞬時に立ち止まった。

 そのまま、目の前にいる『宿主』に向けて話し掛ける。

 

「……やっぱり、アンタが元凶だった訳だ。ま、臭いで分かっていたけどさ」

 

 モモが問えば、宿主は笑うように鳴いた。唸るような、せせら笑うような、重々しい重低音。

 そして四本足で大地を歩きながら、真っ直ぐこちらに歩き――――継実曰く世界で一番可愛い生き物は顔を上げる。

 地上を歩く『コアラ』の不気味な眼が、モモをじぃっと見つめていた。



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ワイルド・アサシン11

 コアラ。

 オーストラリアに暮らす有袋類の中ではカンガルー同様高い知名度を誇る種類。個体数は人類文明全盛期には乱獲と環境破壊の影響で、絶滅が危惧されるまで減っている。人類文明が滅びた今では、かつての生息数を取り戻しているかも知れないが。

 そんなコアラの食性は植物。他の動物を襲うような気性の荒さはなく、むしろ植物の消化に多くのエネルギーを使うため、一日の大半を寝て過ごす。しかし縄張り意識が強く、同種相手にはそれなりに強気に挑む……とはいえやはり強い生物ではないので、積極的に相手を攻撃するような訳ではないが。

 ――――コアラ大好きな継実ならば、そのような生態的情報が瞬時に脳裏を過ぎっただろう。しかしモモはそこまでコアラに詳しくなく、精々草食動物だという事ぐらいしか知らない。

 それでも目の前にいるコアラが如何に奇妙で、そして『異質』であるかは理解出来た。異質と言っても見た目がおかしい訳ではない。体長七十センチ程度で、灰色の毛に覆われたずんぐりとした体躯の動物。誰もがイメージする通りの見た目をしたコアラだ。

 異質なのは雰囲気の方である。

 

「……グルルルルルル」

 

 猛獣をイメージさせる唸り声(ただし七年前の、普通のコアラも鳴き声は猛獣染みていたが)を発しながら、そのコアラはモモと向き合っていた。威嚇しているようにも聞き取れる声だが、コアラ自身に臆する様子は微塵もない。それどころかずしりと、モモがいる方にゆっくり歩みを進めてくる。

 人間の姿を取っているとはいえ、モモは犬、即ち他の動物を襲って食べる肉食獣だ。対するコアラは樹木の葉を食べる草食動物。喰う喰われるの関係であり、草食動物ならば本能的にモモを忌避する筈である。ところがコアラはまるで気にした素振りすらない。

 鈍感な奴、と考えるのはこのコアラを見くびりすぎだろう。この地にオポッサムやタスマニアデビルといった肉食動物が暮らす事は、既に確認済み。安全な孤島なら兎も角、捕食者のいる大陸でそんな能天気な生物が生き延びられる筈がないのだから。

 得体の知れない存在に、先程まで強気だったモモは僅かに警戒心を露わにする。コアラはそんなモモの気持ちを読むかのように、笑うように口角を上げて口内を覗かせた。

 その口の中を見た瞬間、モモは本能的に次々と『謎』の答えを得る。

 コアラは草食動物。そんなのはモモでも知っている常識である……が、それは七年前の常識だ。大蛇が星を砕くほどの力を振るい、フジツボが寄生虫と化し、ゴミムシが頂点捕食者として振る舞う。そんな世界で七年前の常識に頼るなんてあまりにも馬鹿馬鹿しい。信じられるのは我が身で体験した事実と、そこから導き出される考察のみ。

 だから開いた口の中に鋭い牙がずらりと並んでいたなら、このコアラは肉食性なのだと理解するしかない。

 

「ヴゥオボオオオオオオオオオッ!」

 

 猛々しい雄叫びを上げながら、肉食コアラは悠然と二本の足で仁王立ち。太い足で大地を踏み締め、捕食者のプレッシャーを放ってモモを威圧した!

 

「(なぁるほど、どうして継実に病気を移したのか謎だったけど、なんて事はなかったわね……これがアイツの狩りの方法って訳か)」

 

 びりびりと身体が痺れるほどの闘志を浴びつつ、モモもまた不敵な笑みを返しながら思考を巡らせる。

 肉食コアラの生態は恐らくこうだ。

 普段は他の、普通の草食性コアラと紛れて生息している。見た目は草食性コアラと変わらず、捕食者は区別が付かなくてつい襲ってしまうが……その瞬間を狙い、肉食コアラは体内の細菌を吹きかける。

 細菌を吹きかけられた捕食者をなんやかんやで振り切る(或いは捕食者が病気を嫌って逃げるのか)と、後は何もせずに待つだけ。捕食者はやがて病気になり、倒れ、そして死ぬ。出来上がった死肉はおぞましい菌の温床であるため他の捕食者達には手出しが出来ず、肉食コアラは悠々とその肉を頂く。

 きっとこのコアラは、昼間継実が抱っこしていた個体なのだろう。継実はあの時臭い息を吐きかけられていたが、あれで感染したのだとすれば、体内の細菌は極めて強力な感染力の持ち主だ。襲い掛かった捕食者に吐息一つで感染させられるとすれば、狩りの成功率は極めて高いだろう。しかも獲物を求めて探し回らず、止めを刺すために多くの力を使う事もなく、ライバルを追い払うために体力も消費せず。非常に効率的な手法だ。

 圧倒的効率。圧倒的殺傷力。そして捕食者を喰らう捕食者。即ち『生態系の頂点』……奴こそがオーストラリア大陸を支配する、真の頂点捕食者という訳だ。これは非常に危険な奴だと、モモは警戒心を最大に引き上げる。

 ――――ただし、もしも継実が此処にいれば、それでも足りないと判断しただろうが。

 継実はオポッサムがこのオーストラリアの生態系を、七年前とあまり変わらないものに抑え込んだ要因と考えていた。されどその考えは誤りだ。

 よくよく考えてみれば、オポッサムが原因だとすると辻褄が合わない。ミュータントの大量発生は世界で同時多発的に起きたため、オポッサムもオーストラリアの有袋類も、ほぼ同じタイミングでミュータントとなった筈だ。しかしオポッサムは南北アメリカ大陸に生息し、オーストラリアには生息していない。だから何処かのタイミングで海を渡った筈だが……問題はそのタイミング。基本的にミュータントは野生動物だ。まずは生息地で増えようとした筈であり、海を渡り始めたのはミュータントの数が増えて住心地が悪くなった頃だと考えるのが自然である。だからオポッサムがオーストラリアに来たのは、恐らくミュータント大量発生から三〜四年後だろう。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。巨大ゴミムシすらたった数年で出現したのだから。あそこまで極端な変化でなくとも、巨大化や形態の変化があるのが自然。なのにオーストラリアにそうした生物が、『外来種』であるオポッサム以外にいないのは――――オポッサムが来る前から、巨大化した圧倒的捕食者の地位を担うものがいたからに他ならない。

 それが、目の前の肉食コアラなのだ。

 

「ゴアァッ!」

 

 肉食コアラはモモを新たな獲物と定めたのか、はたまたモモの目的……感染症の『宿主』から薬となる物質を入手するために仕留めるという意図を察知したのか。立ち上がった体勢のまま駆けるや、モモ目掛けて前足を振り下ろす!

 モモの優れた動体視力は、コアラの指にある長くて鋭い爪を見逃さない。コアラの爪は七年前の祖先ではあくまでも木登りのためのものであり、今もその役割は残っているだろう。だが、現在では獲物を殺傷するための役割も追加されたらしい。

 正確には爪ではなく、爪と指の間から染み出ているさらさらとした液体の方にだが。

 

「っ!」

 

 受け止められない速さではない。しかし反射的にモモは回避を選択。それも後退ではなく横へと逃げる。肉食コアラの爪は宙を切り、指先から出ていた液体が真っ直ぐ前に飛んで地面に付着した。

 瞬間、付着した液体に沿って地面がぐずりと溶ける。

 強酸による攻撃か。そうだとすればいくら頑丈な肉体を持っていても、防御では受け止められなかっただろう。直感に従ったお陰でダメージなしで躱せた事、そして攻撃の一つを見る事が出来た意義は大きい。

 初手の一撃が躱された肉食コアラは、しかしまだ口を笑うように歪めている。それが彼等の闘争心の示し方か、或いは本当に余裕の笑みなのか。

 どうやら後者らしい。

 肉食コアラは再び爪から液体を分泌しながら、大きく右腕を振るう。ただし今度は振り下ろしではなく、右から左へと薙ぐような動作。液体も同じく右から左へと、横向きに飛んでくる。

 先程は上から下への動作だったから、横に避けて正解だった。しかし横向きの攻撃となるとそうもいかない。

 回避すべき方角は、上。

 

「ほっ!」

 

 モモは素早く跳躍。縄を跳び越えるように、飛んできた液体を回避した。

 しかし肉食コアラは悔しがるどころか、変わらずニタニタとした笑みを浮かべるだけ。

 向こうとて百戦錬磨の捕食者。この程度の展開は想定通り、いや、予定通りと言ったところか。跳躍での回避には、空を飛べない限りは身動きが出来なくなるという弱点がある。しかも重力加速度、つまり毎秒九・八メートルの加速度でしか落下出来ない。

 ミュータントでなければ、その瞬間を付くのは余程の達人以外には無理だろう。されどミュータントにとってはあまりに長い時間で、あまりにも遅い動き。肉食コアラは追撃として空中に浮かぶモモ目掛けて再び腕を振るった。

 勿論モモも跳べばこうなるのは想定済み。

 モモは手から体毛を射出するように伸ばし、近場の地面に打ち込む。そして最大級の力でその体毛を巻き取った。引き寄せる体毛は地面に固定されているため、動くのは実質モモの身体。

 これがモモの空中移動術。だだっ広くて障害物がない平原では真下か斜め下にしか動けないが、それでも空中での移動制限を幾らか取っ払えるのは大きな利点だ。肉食コアラの攻撃も限りなく真横に近い角度で跳び、液体を掠めるようにして回避する。

 

「今度はこっちの番よ!」

 

 次いで新たに体毛を地面に打ち込んで、今度は正面(水平方向)へと跳躍。肉食コアラの顔面へと突撃を仕掛ける!

 今度は肉食コアラが隙だらけだ。攻撃のために大きく腕を振っており、体勢が崩れている。素早く腕を立てるようにして守備を固めたのは流石だが、つまるところ奴は攻撃の回避は諦めたとも言えた。

 モモは容赦なく、構えた腕に手加減なしの蹴りを放つ。腕と脚が激突した瞬間、台風よりも強力な衝撃波が発生。蹴った際の反作用もあって、モモは肉食コアラから遠ざかるように飛んでいく。

 肉食コアラから数メートルと離れたところでモモは着地。素早く立ち上がり、肉食コアラを正面から睨む。

 戦いにおいて、最初の一撃を決めるのは大きなアドバンテージだ。ダメージは相手の身体の動きを鈍らせ、次のダメージを与えやすくするし、放つ攻撃を躱しやすくしてくれる。勿論それだけで勝負が決まるほど甘い世界ではないが、初手を決めていなければ負けていたという相手も少なくない。

 その意味では、ガードされたとはいえ一撃喰らわせたモモの方がこの戦いは有利になった。が、モモはそう思わない。何故ならモモも同じく攻撃を喰らったからだ。

 その結果として、蹴りを放った方の足がどろどろと溶け始めていた。肉食コアラの腕から分泌されていた、強酸のような液体に触れたのが原因である。

 

「(……病気にならなかったのが私で良かったわ。継実がコイツと戦ったら、多分なんも出来ずに負けてるわね)」

 

 今の一瞬で交わした攻防から、そして自分の足を蝕む液体の性質から、継実との相性の悪さを理解するモモ。

 肉食コアラから出ている液体は、正確には強酸ではない。

 液体は、まるで蝕むようにモモの体毛で編んだ身体を分解していた。毛の主成分であるタンパク質(ケラチン)を分解しては次へ、分解しては次へと、際限なく分解していく様はまるで触媒作用を持つ酵素のよう。更に多種多様な化学物質も放出しており、細胞がこの液体に接すれば、例え分解される事がない濃度でも悪影響を受けるだろう。勿論モモには化学物質なんて見えないが、鼻を付く臭いから『触れたらヤバい』というのは理解出来た。

 正確にこの液体を表現するならば、生体に悪影響を与えるという意味で『毒』だというべきか。

 継実は粒子ビームなどの遠距離攻撃も出来るが、一番得意なのは取っ組み合いの肉弾戦だ。此度の肉食コアラにも、まずは拳を一発入れようとしただろう。しかしそうすると、継実は肉食コアラが分泌する液体に触れてしまっていた。そうなれば間違いなく液体の毒に身体を蝕まれ、やがて全身に致命的な機能不全が起きていただろう。モモのように体毛で編んだ身体だったから、触れても特にダメージも受けずに済んだのである。

 されど本来、継実でもそうはならない筈だ。何故なら継実は粒子操作能力により、物質をある程度自由自在に操れる。危険物質が体内に入っても、すぐに分解出来るという訳だ。

 あくまでも、普通であればの話だが。

 

「(どーにも無理っぽいのよねぇ)」

 

 モモの直感曰く、()()()()()()()()に継実の能力は通じない。根拠なんてないが、そんな気がする。

 そう、インチキ物質だ。

 ミュータントというが、その身体は普通の物質で出来ている。細胞が合成するものだって割と普通だ。変化があるのは量子ゆらぎの力により生み出されたもの。人類文明を置き去りにする、能力から生じるものが基本である。

 常軌を逸する物質があるならば、それこそが奴の能力と考えるのが自然。生体を、生命を脅かす、禍々しい物質の合成とコントロールこそが生きるための力。

 

「コイツ、毒を操るのが能力か……!」

 

 それがモモの辿り着いた答えだった。

 ――――モモは気付いていないが、そもそもにして、コアラは毒と深い関わりを持つ生物だ。

 彼等が好んで食べるのはユーカリの葉。このユーカリには青酸が多分に含まれており、多くの生物にとっては有毒だ。しかしコアラはこの毒素を分解するための消化酵素と、発酵を促す腸内細菌により無毒化に成功。ライバルのいない食べ物を貪り、繁栄したのである。

 ミュータント化したコアラは、体内に取り込んだ毒を操る力を会得したのだ。更にはその毒素によって凶悪な腸内細菌をコントロールし、狩りに応用出来るようになった。そして毒とは、言い換えれば薬である。正確に言うならば『身体に悪い影響がある』のが毒で、『身体に良い影響があるように調整した』のが薬。両者に本質的な差はない。

 腸内細菌は常に体内に存在し続けている以上、制御のための毒素も常に分泌している。だから肉食コアラを仕留めて食せばそれだけで()()()()()

 継実であれば、ここでようやく自分の考えが正しいと確信したところ。しかし端から継実の考えを信じているモモにとっては今更な話だ。

 

「さぁて、そろそろ本番ね……準備運動は終わりよ」

 

 だからモモは喜びも何も示さず、猛毒を持つ『獲物』への警戒心を釣り上げるのみ。捕食者の眼光で肉食コアラを睨みながら、程良く温まってきた身体で構えを取る。

 対する肉食コアラも動きを見せた。

 肉食コアラは全身から液体を染み出させ、新たな姿へと変貌する。勿論それは自分が分泌したものでびしょ濡れになっただけなのだが、ふわふわとしていた毛が寝て、筋肉質な身体のラインが浮かび上がった事で雰囲気が一変していた。最早世界で一番可愛いとは言ってもらえない、猛々しく、おどろおどろしい姿と化す。

 しかしそんな表面上の変化よりも、モモがもっと気にしているのは肉食コアラの表情。 

 もう、奴は笑っていない。されど怒るような顔でもなければ、悔しがっている様子もない。いわば無表情。ただ純粋にモモを敵視し、獲物として見ている。

 向こうとしても遊びは終わりだという事だ。

 

「ヴオオオオオオオオオオオオオッ!」

 

 それは一際大きな、大気のみならず大地さえも揺さぶりそうなほどの咆哮でも示されて。

 けれども何一つ恐れなかったモモは、叫んでいる最中の顔面に迷わず殴り掛かるのだった。



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ワイルド・アサシン12

 モモのパンチは人間である継実のように、拳を握り締めたりしない。爪を立てるように指を曲げ、平手で叩くように振りかぶる。

 人間からすれば怪我の恐れもある殴り方。しかし体毛で編んだ拳の中に、怪我するような身体は入っていない。そして何よりモモには、握り拳で殴る必要がなかった。

 ただ高速で、高い密度の質量体をぶつければ、それだけで強力な打撃となるのだから。

 

「……………」

 

 超高速で接近してくるモモの手に、しかし肉食コアラは避けないどころか表情一つ変えず。正確に狙ってくるモモの打撃を自らの頬で受けた。

 そうして殴り付けた直後に、モモの手が溶ける。

 肉食コアラの纏う毒に直に触れた結果だった。強力な浸食作用で分解され、固形の形が保てない。とはいえモモの拳は所詮作り物に過ぎず、『本体』へのダメージは皆無。

 何より振るった手の運動エネルギーは、例え個体だろうが液体だろうが変わらない。ぶつかった時の衝撃は、質量×速度の二乗のままだ。殴られた肉食コアラの顔は衝撃で大きく反れ、それでもまだ残るエネルギーにより小さな身体が浮かぶ。

 だが。

 

「(手応えがない……!)」

 

 モモはこの攻撃によって肉食コアラが受けたダメージは、殆どないと判断した。殴り付けた際、弾力のある衝撃が返ってきたからだ。肉食コアラの身体を覆う液体は、爪から出ていたもののは少し成分が異なるらしい。単純に有毒なだけでなく、防御としての機能もあるのだろう。

 そして肉体のダメージがない肉食コアラにとって、殴り飛ばされた状況に戸惑う必要はない。

 

「ゴォアッ!」

 

 挙句飛ばされる衝撃を利用し、肉食コアラは蹴りを放ってきた!

 肉食コアラの動きはただでさえ速く、そこにモモが殴った衝撃も加わって一層加速。モモでも反応が間に合わない速さで迫ってくる。モモは僅かに顔を逸らすのが精いっぱい。

 肉食コアラの足先にも太くて鋭い爪があり、奴はこれをなんの迷いもなくモモの目に向けて動かす。スパッと音を立てて、モモの左目眼球に爪による切り傷、更に爪と指の間から分泌される毒液が送り込まれた。

 普通の生物なら、この時点で左目は失明だ。しかも血管を通じて毒が体内に入り込んでくるだろう。

 しかしモモであれば問題ない。

 眼球もまた体毛で編んだ偽物。射出するように()()()()()()()()しながら、モモは追撃の蹴りを放つ! それも肉食コアラが飛んでいこうとする方にある足であり、肉食コアラと向き合うように動かす。運動エネルギーが質量×速度のニ乗なのは先程述べた通りだが、その速度はあくまでも相対速度。つまり観測者と対象物体の速度の合算である。

 肉食コアラの吹き飛ばされる速さとモモの脚力が合わさり、先の拳の四倍以上の破壊力を顔面に叩き込む! これには流石の肉食コアラも顔を苦悶で顰め、鋭い歯を見せるように口許を歪めた。

 出来れば追撃を与えたいところだが……顔面と触れた足が溶けて使い物にならない状態だ。拳の一撃では威力が足りないという判断から蹴りを使い、結果的にそれでも顔を歪めるだけだったので判断としては間違ってはいないのだが、モモは舌打ち一つ。

 

「ッグァオオオッ!」

 

 対する肉食コアラは身を翻して足から地面に着地。次いで力強く跳躍し、またしてもモモに向かってくる。

 此度の肉食コアラは両腕を大きく広げ、抱きつかんとするかのようなポーズを取っている。掠めるだけの攻撃では致命傷にならないからと、抱き締める形で広範囲攻撃を仕掛けようという事か。

 無論大人しく抱かれるモモではない。肉食コアラが迫ってきたところで、すぐにしゃがみ込む。頭を狙うよう高く跳んでいた肉食コアラはモモの頭上を超えてしまう。

 その隙を突いてモモは、修復が終わった腕で肉食コアラの腹を殴ろうする。

 しかし肉食コアラはこの鉄拳に対し、同じく手を伸ばして受け止めた。モモの拳はどろりと溶け、肉食コアラは打撃の衝撃を利用して更に高く自らの身を上昇。空中でくるくると回転しながらモモから離れ、五メートルほど距離を取った場所で着地する。

 立ち上がったモモは構えを直して向き合い、肉食コアラは二本足で立ち上がって両腕を前に突き出したファイティングポーズを取る。睨み合い、硬直する両者。

 膠着状態に入ったが、モモとしては自分の状況の方が悪いと思っていた。

 

「(ちっ! 攻撃する度に直さなきゃなんないのは面倒ね。こっちの毛は有限だし、あんまりやられ過ぎると流石に持たないわ……)」

 

 以前出会ったフィアのように、水で作った身体であれば底なしの回復力を発揮しただろう。地面が水を含む限り、どんな攻撃を受けても即座に回復出来る。破壊された身体も字面に落ちれば染み込んで再利用可能だ。例え蒸発させられたとしても、場所を移動すれば水気なんて何処でも得られるからなんの問題もない。

 しかしモモの回復力の正体は体毛の再編成である。確かにダメージを負っても回復可能だが、体毛自体は有限であり、戦いで必要にならない部分から持ってきているだけ。例えるならそれは他の部分の機能を犠牲にして成し遂げている『共食い整備』。一応体毛が生え揃えば全て元に戻るが、一日で回復出来るのは腕ニ〜三本程度しかない。実戦的な時間である一秒単位で回復出来るのは、その八万六千四百分の一だけ。

 つまりモモの再生能力には限界がある。実際七年前にホルスタインと戦った時は、持っていた体毛の殆ど全てを焼かれてしまい、もう戦えない状況にまで追い込まれた。フィアならば、きっとどんなに水を蒸発させられたとしてもその身体を保ち続けただろうに。尤もそれはモモの回復力が弱いのではなく、フィアの能力がミュータントから見ても色々インチキなだけなのだが……

 要するに、回復出来るからといって触れるだけでダメージを受けてしまう相手に考えなしで殴るのは、モモにとって自殺行為という事だ。

 

「(それとコイツ、肉弾戦のセンスも良いわ。こっちの面でも継実じゃ駄目ね、あの子割と力押しだし)」

 

 継実は身体の大きさから繰り出す力で圧倒するタイプの、割と典型的なパワー型だ。テクニックも悪くないが、反応とスピードはモモの方が上である。

 勿論それはどちらが優れているという話ではない。頑強でタフな相手ならば、継実のパワーで一気に倒さねば不味いだろう。しかし此度のコアラは触れたらやられるタイプ。しかもモモの攻撃に難なく付いてくる、反応と速度まで持ち合わせている。

 相手に触れれば勝ちな奴が、触れるのに適した力を持つ。その方が適応的で生き残りやすいのだから当たり前の話だが、能力と戦い方がキッチリ噛み合ってる奴は極めて厄介だ。モモには対応可能な速さであるが、あくまでも互角というだけ。肉弾戦で接触を完全に防ぐのは不可能だろう。やればやるほど油断ならないと感じ、モモの警戒心と焦りは高まっていく。

 だが、戦い方も見えてきた。

 接触すると害があるというのなら、接触しなければ良い。つまりは遠距離攻撃が効果的だ。そしてモモにはそれを可能とする力がある。

 

「じゃあ、こいつはどうかしら!?」

 

 全身の毛を震わせたモモは、挑発的な言葉と共に電撃を放った!

 秒速三百キロで飛翔する超高圧電流は、空気中をジグザグと揺れ動きながらも肉食コアラ目指して進む。肉食コアラは稲光に一瞬怯むように顔を顰めるが、雷撃の速さから逃れる事は出来ない。

 

「ブギッ……!?」

 

 電撃が直撃した肉食コアラは、鈍い声と共に大きく仰け反った。浴びた時間は一瞬だが、体表面からはぶすぶすと黒煙が上がる。

 これには攻撃したモモも驚く。正直()()()()()()()()思わなかったからだ。

 どうやら肉食コアラの毒防壁は、電撃には左程強くないらしい。強くないといってもモモの電撃は数億キロワット級の出力。人類文明では原発数百基をフル稼働させてようやく得られる電力であり、人間では傷も付けられないだろうが……モモにとっては難しくない威力だ。

 付け加えるならば、モモにとってこの程度の電撃は挨拶でしかない。

 

「あら、こんなもので十分なのかしら? 次は本気で行くわよ!」

 

 宣言通り、モモは己の全力の電撃を放つ!

 無数の電撃が空を駆け、肉食コアラの身体に命中。肉食コアラは両腕を構え、少しでも直撃を避けようとするが、両腕からの黒煙は電撃を受け止める度にその勢いを増していく。毒液の守りが剥がれ、毛が燃え尽き、黒焦げた地肌が露出する。

 ちょっと肌が焦げた程度、ミュータントからすればダメージとは言い難い。しかし着実にその傷は積み重なっているのは確か。この勝負、モモが一方的に押していた。モモの予想通りに。

 故にモモは勝負を急ぐ。

 

「(コイツ、まだ隠し玉があるわね……!)」

 

 モモは察知したのだ。肉食コアラが未だ焦り一つ見せていないと。

 恐らく今は隠し玉の『準備中』。この間に少しでもダメージを稼ごうと出力を増していく。

 が、大きなダメージとなる前に肉食コアラの用意が終わってしまう。

 

「ブゴオオオオオオオオオェオオオォオオオオオオッ!」

 

 肉食コアラの口から、紫色の『ガス』が吐き出された。

 地面に向けて吐き出されたガスは一瞬で肉食コアラの周辺を覆い尽くし、更に広範囲へと広まっていく。モモは咄嗟に電撃を撃つのを止めて距離を取るが、肉食コアラは頭を大きく振りかぶって四方八方にガスをばら撒いていた。

 このままガスから逃げても、距離を大きく離されるだけ。

 

「ちっ!」

 

 舌打ちしながらモモは、止めていた分蓄積し続けていた電撃を放つ。

 溜め込んでいた分、これまでの数倍近いエネルギーを秘めている。今まで撃ち込んできたどの電撃よりも強力な一撃だ。

 

「シュゴオオオオオオオオオッ!」

 

 その電撃に対して肉食コアラが取った行動は、口から吐き出すガスで迎え撃つ事だった。

 電撃とガスが激突すると、さながら鍔迫り合いのように互いの動きが止まる。拮抗状態は数秒と続いたが……それが崩れた時に押されたのはモモの方だった。

 

「!? ぐっ……!」

 

 一瞬逃げようとするが間に合わないと判断。モモは身を仰け反らせつつ、自分の身体を作っている毛を表層に集結。『密度』を上げる事でガスが身体に入り込まないよう対策する。

 しかしそれでもガスの粒子は細かく、完全には防ぎきれない。息も止めているが鼻と口の隙間から、ほんの僅かにガスが入り込んできた。

 その僅かな量だけで、モモは全身に痺れるような感覚が走る。身体の自由が効かなくなり、思考を掻き乱されてしまう。

 

「(これは、やっぱり毒ガスか……!)」

 

 肉食コアラの能力が毒を操る事ならば、毒ガス攻撃ぐらいはしてくる。そう考えて口を閉ざしていたが、もしも一呼吸でもしていたら、今頃二度と覚めぬ眠りに付いていただろう。

 或いは肉食コアラがもっと強力な毒素を吐いていたなら、口を閉ざしていても同じ結果となっていただろうが。

 

「(量を優先したか、はたまた耐電性を重視したのか。どっちにしろ、迂闊に喰らう訳にはいかないわね……!)」

 

 じわじわと身体を蝕む毒素に、本能が喧しいぐらい警告を発してくる。だが、モモの頭に撤退の二文字は過ぎらない。どんなに危険な相手だろうと、ここで倒さねば継実達の回復は絶望的なのだから。

 しかし、どうすべきか?

 試しに電撃を一発撃ってみたが、バチンッ! という音を立ててガスに弾かれ、肉食コアラまで届かない。やはり電気への耐性を重視しているのか。撒き散らされたガスをどうにかしなければ、もう電撃は通じないだろう。

 

「(接近出来ない以上、遠距離戦しかないのに!)」

 

 そうこうしている間も肉食コアラの口から吐かれるガスはどんどん量を増していき、ついに肉食コアラの姿を覆い隠してしまう。状況は悪化の一途を辿っていた。

 それでもモモに諦めるという選択肢はない。モモはガスの中で息を止めたまま思考しようとする――――

 だが、思考は長持ちしなかった。

 

「ゴフアァアアッ!」

 

 咆哮を上げながら、肉食コアラがガスの中から跳び出てきたのだから!

 肉食コアラはモモの眼前まで迫るや、大きくその口を開いた。何をするつもりかモモは察するが、肉食コアラの動きが速くて回避が間に合わず。

 肉食コアラが口から吐き出した毒ガスが、モモの身体を撃つ!

 

「ッ! ……!」

 

 声を出す訳にはいかない。ぎゅっと閉ざす口の代わりにモモは睨むが、肉食コアラが止まる気配はなかった。

 しかも今回吐き出した毒ガスは、雷撃を弾いたのとは別物らしい。浴びせ掛けられたモモの表面が、じわじわと溶け始めた。このままでは体表面の防御を抜け、中に毒素が入り込んでしまう。

 

「(こなクソッ!)」

 

 咄嗟に電撃を放つモモ。本来これは肉食コアラを遠ざけるための攻撃だったのだが、幸運にも毒性の強い方の毒ガスは電撃に強くないらしい。身体に染み込んできた毒ガスは電気分解され、酷い悪臭こそ放つが、無害化した。

 とはいえ電撃は漂う耐電性の毒ガスに阻まれ、肉食コアラには届かず。肉食コアラは後退しながら、しかし口からガスを吐き続け、どんどん自分にとって有利な陣地を形成していた。何十メートルと広がるガスによりモモの電撃はもう何処にも飛ばせない。

 息だって何時までも止めていられない。何処かで呼吸しなければならないが、毒性の強いガスを吸い込めば間違いなく即死だ。電気で無害化しようにも、ガスが多過ぎて分解しきれない状態である。

 なんとかしなければ不味い。そうは思うが、だがどうする? 撒き散らされた毒ガスが電撃を弾くため遠距離攻撃は無効化。近付こうとすれば表面を溶かす毒ガスで無効化。遠近どちらの攻撃も防がれてしまう。勿論逃げれば継実達は助からない。

 八方塞がりとはきっとこういう状況を言うのだと、野生の本能の裏でモモの意識は思った。

 

「(ああクソッ! どうすりゃ良いのよ! せめて雷か肉弾戦のどっちかが通じればやりようもあんのに!)」

 

 頭の中で愚痴を零しても、状況は寸分も変わらず。

 苦し紛れに放つ電撃を、肉食コアラは振るった腕と共に巻き付けた毒ガスで防ぐ。身体にガスを纏われたら、もう完全に隙などなくなってしまった。

 物理攻撃を使えば、耐電性のガスなんて無視出来るのに。電撃を使えば強毒性の毒ガスをなんとか出来るのに。

 どちらを使えども解決出来ない問題。ならばいっそ――――

 

「ゴオオアッ!」

 

 思考を巡らせていたモモに、肉食コアラが大きく腕を振りかぶった。

 爪先に纏う強毒性の液体。更に爪に引っ掛けるように、耐電性のガスまで巻き付け、電撃による反撃への備えは万全だ。

 考え込んでいたモモは迫りくる爪を見ても身体が動かずにいて。

 大きな爪が、モモの胸に突き立てられた。



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ワイルド・アサシン13

 肉食コアラは再び笑みを浮べた。

 肉食コアラもモモの身体が、単純な肉で出来たものでない事は既に把握しているだろう。驚異的な再生能力も見ているし、毒が思ったように通じない事も把握している。

 そしてその理由も。

 だから指をモモの身体に直接突き刺したのだ。偽物の身体の奥に潜む本体に、直接毒を送り込むために。勿論そう簡単にいかない事は承知しているだろう。だが、爪が本体に届くが届くまいが関係ない。指先が鎧が如くガスを遮断している体表面を貫き、内側から毒を流し込めば、浸透して本体まで届く可能性が高いからだ。

 モモも、何もしなければそうなっていたと思う。

 あくまでも()()()()()()()、だが。

 

「……危なかった。間に合わなかったら死んでたわね」

 

 胸に爪を突き刺された状態で、モモが口を開く。今まで毒を吸い込まないよう黙っていたモモが、堂々と喋りだしたのだ。

 その異常性を瞬時に理解し、肉食コアラは危険回避のため後退しようとする。が、二歩と下がれない。モモに突き刺した爪が、モモの身体を構成する体毛に絡まったがために。

 より正確に言うならば、モモが絡めたと言うべきだろう。

 

「だけどこっから私の独壇場よ!」

 

 至近距離から、自慢の鉄拳を肉食コアラの顔面にぶちかますために!

 

「ブギィアッ!?」

 

 肉食コアラから漏れ出る、可愛げのない悲鳴。次いで丸い目をパチクリさせ、困惑を露わにしていた。何しろ毒が効かないどころか、毒の守りすらも突破されたのだから。更に強烈な『痺れ』も走ったようで、身体を激しく痙攣。全身から黒い煙を立ち昇らせる。

 しかも殴ったモモの手は、間違いなく毒液と触れたのに殆ど溶けていない。

 強力な毒の力によって攻守共に完璧であり、生態系の変化を殆ど許さなかった肉食コアラ。これまでオーストラリアのどの生物も敵わず、全てを獲物としてきたのだろう。こうして拳の一撃を受けた事など……種族全体で見ても稀だったに違いない。モモと戦ってる個体も殴られた経験なんて数えるほど、或いは全くないのだろう。ただ一発の拳で怯み、目を白黒させている事から明らかだ。

 痛みに慣れていない相手を嬲るのは良心が痛む? 確かにそうだろう――――『良心』を持ち合わせた、知的な生命体であれば。

 生憎、野生動物に過ぎないモモは良心など持ち合わせていない。可愛そうだろうがなんだろうが、目の前の生き物は仕留めねばならない『獲物』でしかない。

 

「もう一発ッ!」

 

 大きく仰け反った顎を殴り付ける事にも、モモは一片の迷いもなかった。

 続く三発目四発目を躊躇う理由もない。連打連打連打で、身動きの取れない肉食コアラの顔面をぶちのめし続ける! 殴られる度に肉食コアラの身体は震え、黒煙が激しく吹き上がった。肉の焼ける臭いが漂い、肉食コアラの体毛も焼けていく。

 

「ブ、ブギ……ブギゴオオオオオオッ!」

 

 肉食コアラも何時までも大人しく殴られはしない。次の打撃を与えるまでの僅かな隙にロックオンするかの如くモモの顔と向き合い、口から毒ガスを吹き付けてくる。その量と勢いはこれまでの比でなく、殴られていた間、攻撃のチャンスが来るまで溜め込んでいたのが窺い知れた。

 高圧の毒ガスは物理的威力にも優れ、モモの身体を激しく押し退ける。単純な威力でいえば、軽めの粒子ビームぐらいはあるかも知れない。人類が築き上げた都市程度なら、毒とか関係なく薙ぎ払って更地に変えてしまうだろう。

 モモも少し前までなら、かなりのダメージを受けたに違いない。何より高圧のガスとなれば体毛の隙間を強引に抜けてきて、奥に潜む本体まで届いた筈。毒性の低い耐電性重視のガスすら、僅かな量が粘膜に触れた程度で身体が痺れるほどの有毒ぶり。大量に流し込まれたら息を止めてもどうにもなるまい。正に致死の一撃だ。

 だが、最早過去の話。

 

「ふんっ!」

 

「ブギャッ!?」

 

 今のモモならば、怯みもせずに反撃の一撃を放つ余裕がある! 毒ガス噴射もお構いなしに殴ってくるとは思わなかったようで、迫りくる打撃に守りも出来ず、肉食コアラは鈍い声で呻く。

 しかし肉食コアラの目はバッチリと開かれていた。自分の身に起きた出来事を一瞬も見逃さないために。

 やはり油断ならない。先程から何発もダメージを与えながら、『優勢』に立ちながらもモモは警戒する。野生動物である彼女は常に最悪を想定するのだ。具体的には、自分が繰り出した『秘策』はもう肉食コアラにバレていると考えるべきだと。

 尤もどれだけ鈍感でも、爪が突き立てられた場所とガスを吹き付けられた場所が()()()()()()()()()()()()ところを見たら、誰でも気付くだろうが。

 

「(継実だったら、超電磁うんたらかんたらーみたいな技名を付けてるところかしら。あの子、必殺技とかそーいうの好きみたいだし)」

 

 モモは自らの技を見た時の家族の反応を、脳裏の片隅で思い描く。

 モモが行ったのは、身体を構成する体毛に電気を流し続ける事。ただしその電気は外に出さず、全身を形作る体毛内で循環させている。しかも発電は続けているため、表面に溜まる電気は増えていく一方。それに伴って、強力な磁力も発生して身体を包み込む。発生した磁力は物体の運動を屈折させ、物理的な運動を拒絶。さながら『防壁』のように展開され、物理的攻撃を阻害する力となるのだ。更に体毛自体が高圧電流を纏い、触れるだけで感電する状態と化す。

 この力によりモモは突き立てられた爪から注がれた毒液を、遮断して防いだ。また拳も電気を纏い、肉食コアラの身体を覆う毒液を分解して無効化。連続攻撃を可能とした。更に耐電性の強い毒ガスは電気を弾く性質から電流の流れる毛と毛の間を通れず、強毒性のガスは体毛に流した電気で分解されるためこれまた隙間を通らず。酸素などの普通の空気だけが通る事で、呼吸が可能となった。

 鉄壁の守りを有し、触れるだけで攻撃と為す。名付けるならば超電磁メタマテリアルシールド――――モモが思った通り、継実ならば『技名』をそのように考えただろう。この『電磁メタマテリアル』は人類文明でも研究がされており、米軍は「()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()」技術として研究されていた。モモはそんな研究など露ほども知らないが、電気使いとして同様の方法を閃き、そして即座に実用化したのである。

 正に最新鋭の防御能力。とはいえデメリットもある。一つは全身が常に帯電しているため、迂闊に仲間に触れない点。こちらは現状継実もミドリも傍にいないので気にする必要はないし、敵が触れればダメージを与えられる(とはいえ電気は流れやすい方に流れるものなので、体毛内を循環させている状況では通常の放電ほどの威力はないが)ので必ずしも欠点とは言えないが……もう一つの欠点はそうもいかない。

 

「(しっかしこれはしんどい! あまり長くは持たないわね!)」

 

 もう一つの弱点は消耗の激しさ。大量の電気を絶え間なく流し続けるには、多くのエネルギーが必要だ。しかも体毛内に電気を循環させ続けるという事は、操作を誤れば自分自身が感電しかねない。モモの本体はほぼ普通の犬であり、数億キロワットの電気など浴びたら一瞬で炭化してしまう。失敗は許されず、強い集中力も求められる。

 正直、万全の体調でも十分前後しか持続しないとモモは読む。毒ガス攻撃で疲弊した今、五分続くかどうかも怪しい。早く決着を付けねば不味いのだ。そして手の内がバレたと思われる現状、今更こちらの技を隠す必要もないだろう。

 だから短期決戦、速攻で叩き潰す!

 

「ふッ! ぬんっ! はっ!」

 

 モモは何度も何度も、肉食コアラの顔面を殴り付ける!

 肉食コアラは打撃を避けようと必死に身を捩っていたが、モモの胸の毛が爪を捕らえている状況で動ける範囲などたかが知れている。何度も何度も顔を殴られ、ついに口から血反吐を吐く。

 確実にダメージは積み重なっている。オーストラリア大陸の頂点捕食者の肉体は着実に傷を負い、死へと向かっている。

 土壇場で編み出した『必殺技』により形勢逆転。圧倒的優勢によりこのまま押していける――――野生動物であるモモは油断などしないが、合理的に判断した上でそう考えていた。少なくとも()()()()()()

 だが。

 

「(手応えが、変わってる……?)」

 

 殴るほどに感じる、感触の変化にモモの本能は危機感を覚えた。

 何が起きているか分からない。されど肉食コアラが何か、ろくでもない事を企んでいると考えるのが妥当だ。初めて毒ガスを吐き出して攻撃してきた、あの時のように。

 そうは思うのだが、けれども今は殴る以外に手がない。手応えはどんどん変化していき、ダメージをどれだけ重ねても、肉食コアラの命に届く気配は遠のくばかり。

 

「ブ、ブギギゴオオオオオオッ!」

 

 ついに肉食コアラは大きな咆哮と共に、その身を激しく仰け反らせる。モモは身体を構成している毛を締め上げ、爪を固定しようとした……が、肉食コアラは()()()()()()()()()()()下がっていく。

 どれだけしっかり掴んでいようが、自ら指を切り落としたならどうにもならない。指一本と引き換えに自由を取り戻した肉食コアラは、猛然と後退してモモとの距離を取る。

 

「グギ……ギギギギ……!」

 

 肉食コアラは歯ぎしりをしていたが、痛みに苦しんでいる様子はない。目を充血させ、闘争心を激しく燃え上がらせる。

 モモにとって、それは最悪の展開ではない。最悪はこの肉食コアラが脇目も振らずに逃げ出し、そのまま取り逃してしまう事だ。もしも逃したら、継実達を治療する薬も得られないのだから。

 しかし今は、最悪から二番目ぐらいの悪さだ。自らした事とはいえ、指を引き千切った上で逃げていない……つまりそんな傷など気にする必要がないと肉食コアラは考えているのだろう。指一本失ったところで自分の勝ちは揺らがないと未だに思っている訳だ。

 それを思い上がりや激情と考えるのは簡単だ。だがモモはそう思わない。そんなくだらない感情を持つ生物なんて、とうの昔に淘汰済みだ。『冷静沈着』な肉食コアラには何か、秘策があるに違いにない。

 最大限の警戒、何より闘争心を高めながら攻撃のチャンスを待つモモ。肉食コアラはそんなモモの前で、大きく片腕を振り上げる。それは引き千切った指がある方とは、逆の腕。大きく振り上げた手の先には五本の指と長い爪がしっかりと生え揃っている。

 そのうちの中指の爪から、どろどろとした液体を染み出させていた。爪からぼたぼたと滴り落ちるほどに。

 毒液のようだが、今までのものとは様子が違う。何が違うかは分からないが、モモの本能はそう感じた。

 

「ブ、ギオオオオオオオオオオオオオッ!」

 

 そうしてモモが目を離さずに見つめる中、空気が震えるほどの咆哮を上げながら肉食コアラは勢いよく腕を振り下ろし――――

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ワイルド・アサシン14

 ミュータントは判断力と冷静さに優れている。

 これもまた何かが進化した結果なのか、それとも生命が持つ本来の力なのか。怪我を負ったところで痛みでパニックにはならないし、どう考えても勝ち目のない相手を前にしても冷静に考えられる。表面上驚いたように振る舞いはするが、即座に冷静さを取り戻して事態に対処出来る。

 相手も同じミュータントなのでこれで有利になる事はなく、生き延びるために『最低限』必要な技能といったところだが……兎も角、ミュータントであるモモはこれまであまり動揺や混乱をした事がない。敵がどんな行動をしてきたとしても、だ。思考が止まるぐらい驚いたのは、ニューギニア島で大蛇の気配を感じた時だけ。次点はヒトガタがひょっこり顔を出した時である。

 此度はそんなモモにとって、九年間の犬生で三番目の驚きを覚える事となった。

 

「(コイツ、自分に毒を注入した!?)」

 

 肉食コアラが、毒液たっぷりと爪を自らの胸に打ち込んだがために。

 

「ブ、ブギ、ゴ、ゴ……!」

 

 自ら毒を打った肉食コアラは、全身を痙攣させていた。天を仰ぐように仰け反った頭はガクガクと揺れていて、見開かれた瞳は真っ赤に染まって見えるぐらい充血している。

 明らかに何か、異常な状態なのは明白だ。正直放っておけばこのまま死ぬんじゃないかと思わなくもない。

 だが、本能が訴えている。

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 そして同時にこうも思った。けれども、多分どうやっても止められない、と。

 

「(だからって、足掻かない訳にはいかないけどね!)」

 

 モモは大地を蹴り、肉食コアラに肉薄。両腕を大きく広げた、隙だらけとも怪しげとも取れるポーズの真っ正面に陣取った。

 こんな分かりやすい隙を突いて本当に大丈夫かと、不安すら過ぎる。けれども迷う時間はない。脚に強烈な超電磁メタマテリアルフィールドを展開。胸骨も心臓も纏めてぶち抜くつもりの蹴りを放った

 瞬間、肉食コアラが大きく拳を振るった。

 モモの視認が間に合わないほどの速さで。

 

「――――ぬぐぁっ!?」

 

 気付いた時には殴られていて、モモは大きく吹っ飛ばされてしまう。

 空中で体勢を立て直したが、『驚き』は抱いていた。自分を上回る速さの生物なんていない……なんて思い上がりは抱いていないが、だとしてもモモは自分のスピードにそこそこの自信がある。そのスピードで負けるのは、余程の事がなければあり得なかったというのに。

 そもそも肉食コアラとは既に肉弾戦を交わしているが、見えないほどの速さでの攻撃など受けていない。まさか加減をしていたのか? 疑問が次々と湧いてきた。

 しかしそれらは次の瞬間、纏めて解決する。

 肉食コアラの身体が、ぶくぶくと膨れ上がり始めたのだ。

 

「ブギ、ゴッ、ゴギ、ギ、ゴォ……!」

 

 呻くような、苦しむような、そんな声を出しながらも肉食コアラの身体の膨張は止まらない。

 元々筋肉質な身体だったが、腕や脚の太さが倍になり、胸筋も著しく発達していく。ボキボキと骨が砕けるような音が鳴っていて、モモの耳は、それが本当に砕けている音だと聞き取った。がっしりと大地を踏み締めた脚は巨大化した身体を支え、安定性抜群の二足歩行を成し遂げる。背筋は曲がったままだが、前のめりに倒れる気配はない。膨れ上がった筋肉には血管が浮かび上がり、絶え間なく血液が流れているのか激しく脈動する。

 次々と起きる変化。肉食コアラの異常な『変身』を前にして、モモはようやく何が起きているのか察する。とはいえ難しい事は何一つない。

 毒は薬になる。モモでも知っている、医学の基本的な話だ。

 肉食コアラは()()()()()()()()()()()()()()()()()のだろう。元々は筋収縮を引き起こす毒か、筋肉を溶かす毒なのか。いずれにせよ濃度などを調整して得たその『薬』の効果は覿面で、肉食コアラは強靭な肉体を手に入れたという訳だ。単刀直入に言うならミュータント級のドーピング。人間が使っていたという筋肉増強剤なんて比ではない効果であろう。

 体長七十センチほどだった筈の肉食コアラの身体は、今では百四十センチ近い。未だモモの『身体』よりは小さいものの、倍近い大きさの変化を前にすれば、モモも後退りぐらいする。

 何よりモモの本能を刺激したのは、放つ威圧感。

 どれだけ筋肉が膨れ上がったとして、身体が大きくなったとしても、体重は増えていない。『しつりょーほぞんのほーそく』だかなんだかというのがあると、モモは昔継実から聞いた覚えがあるのだ。ミュータントの『強さ』はかなり身体の大きさ=体重に左右されるものであり、体重が変わらないなら『強さ』だってそんなに変わらない筈である。

 しかしモモの本能はそうした理屈を全部無視する。肉食コアラの身体能力が大幅に向上したのだと察知。故にモモは考えるよりも先に、全身の力を最大限に滾らせた。

 

「ブギオオオオオオオオオオオオオオオッ!」

 

 もしもそうしていなかったら――――咆哮と共に駆け出してきた肉食コアラの動きに、反応すら出来なかっただろう。

 

「ぐっ!?」

 

 接近してきた肉食コアラを前にして、モモは腕を身体の前で交叉させてガードの体勢を取る。更にその体表面は強力な電気が流れていて、触れば大出力の電気で感電必須の状態だ。

 だが肉食コアラは全くのお構いなし。大きく膨らんだ腕を粗暴に振り下ろし、指を曲げた、パンチとはとても呼べない引っ掻き攻撃を放つ。

 激突した瞬間、モモの身体に走る強力な衝撃。

 モモは踏ん張ろうとしたが、足腰の力だけでは受け止めきれず。大きく吹き飛ばされるように、地面を抉りながら後退していく。とはいえ何十メートルも移動する事はない。

 それよりも前に肉食コアラが、モモの頭をがっしりと掴んできたのだから。

 

「ぬぁ!? こ、の――――」

 

 頭を掴まれてすぐ、モモはその手を引っ掻いてやろうと試みる。しかし肉食コアラの動きの方が早い。

 肉食コアラは大きく腕を振り上げ、次いでモモを地面に叩き付けた!

 圧倒的速さでの叩き付け。周囲に地震が生じただけでなく、乾いた大地が何十メートルもの範囲で割れ、まるで噴火するように土煙が吹き上がる。衝撃波も生じて残留していた毒ガスが吹き飛ばされたが、肉食コアラは最早見向きもしない。

 一撃叩き付けた後、肉食コアラはモモの頭を地面に擦り付けるように力を込め、そのまま引きずるように動かす。ガリガリとモモの身体は地面を砕きながら、磨り下ろされるかの如く刺激を受け続けた。

 しかしこれだけの攻撃を受けても、モモはまだ活動に大きな支障は出ていない。

 元々彼女の体毛が物理的衝撃に強い事に加え、今その体毛は超電磁メタマテリアルフィールドに守られている。これにより、今まで以上の防御力を手に入れていて、生半可な物理攻撃を無効化していた。逆にどちらか一方が欠けていたら……超電磁メタマテリアルフィールドをこの戦いで編み出していなければ、耐えきれずにこれだけで身体がズタズタになっていただろう。

 それほどのパワーの攻撃を喰らうモモであるが、耐えてしまえばこれはチャンスだ。大きなパワーを繰り出すための代償か、肉食コアラの体表面はもう毒液を分泌していない。肉体が剥き出しであり、どんな攻撃も素通りだ。現にモモの頭を掴んでいる今は現在進行系で感電していて、肉食コアラは腕からじゅうじゅうと煙を立ち昇らせている。

 

「嘗め、ん、なぁァァァッ!」

 

 モモは渾身の電撃を肉食コアラに流し込む!

 超電磁メタマテリアルフィールドを展開しながら放つ電撃は、さながら全力疾走をしながらバーベルを持ち上げるようなもの。疲れるなんてものじゃないし、それだけに集中している時ほどの威力もない。何よりコントロールを誤れば大怪我は必須だ。

 しかし犯したリスクに見合う結果は得られた。流し込んだ電撃は肉食コアラはその身を激しく痙攣させたのだから。毒液の守りがないから電撃は素通り。雷数十発分の高圧電流が、ドーピングした肉体を激しく焼いた事だろう。

 そう、焼いた筈なのだが……肉食コアラが怯んだのはほんの一瞬だけ。

 感電しているにも拘らず、肉食コアラは鋭い眼差しでモモを睨み返す。全身の筋肉を一層膨れ上がらせ、更なるパワーを生み出した!

 

「(あっ、ヤバ……)」

 

 直感的に危機感を察知したモモだが、動きの速さで劣るのは此処までの戦いで明らか。

 身動きを取る前に、肉食コアラは大きく腕を振り上げ、再びモモを大地に叩き付けた! それも一度のみならず、何度も何度も何度も何度も!

 繰り返される打撃。ちょっとやそっとの威力なら何百発でも、とんでもない一撃でも一発ぐらいなら、モモの頑強な体毛は耐えてくれるだろう。しかしとんでもない一撃を何十発と繰り出されたら、流石に体毛にダメージが蓄積していく。毛がぶちぶちと千切れ始め、摩耗していくのがモモにも感じ取れた。

 このままでは体毛が衝撃を吸収しきれず、本体にまで伝わってくるだろう。モモの本体はあくまでも生身の小型犬。まともにこんな攻撃を喰らえば、肉体は跡形も残らず消し飛ぶ事になる。そして何度も電撃を放っているのだが、放つ度に一瞬ビクリと震えるだけで、肉食コアラは意にも介さない。まるで手応えがなかった。

 恐らく先のドーピングには、単なる肉体強化の他に痛覚の鈍化作用もあったのだろう。生き物の身体というのは常に痛みを感じるものではない。極度の興奮状態であれば痛みは忘れ、肉体は極限を超えて動き続ける。肉を焼かれようがどうしようが、そんなのはお構いなしという訳だ。

 勿論生物が痛みを覚えるのにも理由がある。自分の身体が今どんな状態が、今の動きが無理をしていないかを推し量るためだ。痛みがなければ何処まで腕を曲げても大丈夫か分からず、骨が折れても曲げ続けてしまう。何処ぞの高度文明の宇宙人のように体内の全てを数値的にモニタリングしているなら兎も角、感覚的に生きる生物は痛みがなければ無理をしてしまう。

 肉食コアラも同様の欠点を抱えている筈だが……今この時、それは大した意味はないだろう。要するにコイツはもう死ぬまで暴れ続けるという事なのだ。どんなに大きなダメージを与えようと、身体が動く限りは動き続ける。

 攻撃を続けたところで解放される見込みはない。仮に殴り合ったとしたら、恐らく、自分の耐久の方が持たないだろうとモモは直感的に理解する。

 

「……ちっ!」

 

 モモは舌打ちしながら()()()()()()させた。

 肉食コアラが掴んでいる頭も、所詮はただの毛の集まり。変形も解くのも自由自在だ。拘束から抜け出すのは、モモにとっては比較的得意な技である。頭を掴んでいる手だって、体毛ほどの細さになってしまえば抜け出す事は容易だった。

 しかし肉食コアラの方もただでは離さない。渾身の力を込めて、変形していくモモを掴み続けようとする。その方法はある程度効果的で、何十本かの体毛は逃げきれずに掴まれてしまう。

 こればかりは仕方ないと、モモは掴まれた体毛を切断。自由を取り戻した彼女は跳躍して一旦距離を開けようとした

 

「ブギオオッ!」

 

 直後、肉食コアラは腕を振るう。

 全身全霊を掛けたであろう腕の一振りは、進路上の空気を圧縮。さながら斬撃のようになってモモへと飛んでくる!

 

「くぁっ……!?」

 

 空中に居たモモは斬撃を躱せず直撃。物理的衝撃には滅法強いものの、切り裂くような攻撃となれば話は別だ。大きな範囲の体毛に傷が付く。切れはしなかったものの無視出来ないダメージであり、モモはその顔を歪めながら着地した。

 

「ブギ、ブ……ギオオオオオオオオオッ!」

 

 しかしモモに攻撃を当てた事に肉食コアラが喜ぶ事はなく、むしろ一層闘争心を昂ぶらせるかのように吼えるだけ。

 別段今までの戦いが冷静沈着だったとはモモも思わない。野生の本能を剥き出しにした戦いであり、互いに何度も吼えた。策を巡らせるよりも、力と力のぶつかり合いが主体だったろう。けれども今の肉食コアラは、ちょっとばかり興奮が強過ぎる。これでは的確な判断をするのは無理だ。

 何かがおかしい。そう考えたモモは、肉食コアラの動きに警戒しつつその姿を観察。そうすれば答えは間もなく明らかとなった。

 じゅうじゅうと、肉食コアラの身体から焼けるような音が鳴っているのだ。最初は自分が喰らわせた電撃の余韻だとモモは思ったが、しかし音が止む気配はない。加えて身体から立ち昇る黒煙は減るどころか、むしろ勢いを増しているようだ。

 恐らくこれは、ドーピングの副作用。

 生物の肉体は、完全とは言わないがある程度生態に則した水準で収まっている。それが最も効率的であり、より繁栄するのに適しているからだ。無論生理機能もそれ相応のものであり、ある程度融通は利くものの、普段の何倍もの力に対応出来る訳ではない。

 肉食コアラの身体も同じだ。筋肉を極限まで強化した事で、肉食コアラの生理機能では筋肉が発する熱を処理しきれなくなったのだろう。そこに痛みを感じないというデメリットが合わさった結果、肉食コアラは()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のだ。例えるならば何時爆発するかも知れない欠陥パワードスーツに乗り込むようなもの。まともな精神ではやってられないだろう。だとすると、先のドーピングには向精神作用もある可能性が高い。

 こんなのは切り札とは言わない。形振り構わない、やけっぱちという奴だ。自分の繰り出した超電磁メタマテリアルフィールドがそれだけ肉食コアラを追い詰めたのだと分かり、モモとしては嬉しいやらなんやら、よく分からない気持ちになる。

 ともあれ、無茶をしているなら勝ち筋はある。

 

「(タイムリミットがあるなら、ただ倒すだけなら自爆を待てば良い)」

 

 倒すだけなら、何も止めを刺す必要はないのだ。向こうは何時か勝手にくたばるのだから、逃げ回ってそれを待てば良い。ギリギリのところでドーピングを解除する可能性もあるが、こんなインチキの反動がゼロとは思えない。反動で色々大変な事になっている間に、悠々と止めを刺せば良いのだ。難なら死んだフリでもして油断を誘うというのもありだろう。

 冷静に考えれば、倒すだけなら幾つも対処法は思い付く。正に苦し紛れの策という訳だ。

 しかし――――

 

「(あの状態じゃ、体内の毒素も熱とかで分解されるかも知れない)」

 

 モモとしては最悪の可能性が脳裏を過ぎる。

 ミュータント化した細菌を制御出来るほどのトンデモ物質が、ちょっとやそっとの高温で分解されるとは考え辛い。おまけにその細菌がいるのは恐らく体内であるから、体表面に電流を流したぐらいでは影響もないだろう。

 しかし全身が、ミュータントの身体が焼けるほどの熱を発しているとなればどうだ? 本当にその物質は無事なのだろうか?

 もしかしたら、継実達の薬として使える分も残らないかも知れない。

 

「……だったら、やるしかないわよねぇッ!」

 

 激しい雄叫びと共に、モモはバチバチと身体から電気を迸らせた。

 持久戦をする訳にはいかない。ならばどうすべきか? 答えは一つだ。

 奴が自滅するよりも早く、自分が止めを刺す。

 そしてそれを実行するのに一番適している戦術は『接近戦』。

 自分を上回る肉体の持ち主へと突撃する事を、モモは一切躊躇わずに実行するのだった。



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ワイルド・アサシン15

 肉食コアラは迫りくるモモを見て、どう考えたのだろうか。

 タイムリミットを待たない浅はかさへの侮蔑か。或いは自分の得意とする領域に獲物が入ってきた喜びか……どちらも否だ。極度の興奮状態に入った肉食コアラに、どちらの感情もない。それは涎が溢れ落ちている口を噛み締め、血走った目になんの感情も見せていない事からも明らかだ。

 唯一その胸に抱くのは、眼の前にいる生物を打ち倒す事だけ。

 だから肉食コアラは迫りくる獲物が腕を伸ばせば、それを条件反射的に掴む。

 継実ならば理性的に考え付く『作戦』を、本能に突き動かされるがまま実行したモモは――――()()()()腕を伸ばしてきた肉食コアラの手を掴み、組み合った体勢となった!

 

「ガアアアアアアアアアッ!」

 

 瞬間、モモは渾身の電撃を肉食コアラに向けて放つ!

 肉食コアラは手のひらから電撃を受け、体表面が一瞬で焼き焦げ、裂けるように弾けてていく。普通の生物であれば重度の火傷により致命傷であるし、ミュータントの回復力でも危険な怪我だ。しかし興奮状態にある肉食コアラは一切怯まない。

 それどころかモモを押し倒して馬乗りに。そして掴み合っていた両手を離すや、思いっきり胸部へと叩き付けてきた!

 

「がっ! ぐっ……!」

 

 殴られる度、衝撃が全身を駆け巡る。ドーピングにより強化された肉食コアラの打撃の凄まじさは既に知っていたが、これまではまだ薬効が完全に発揮されていなかったのか。先程よりも強烈な打撃にモモは呻く。

 だが、怯まないのはモモも同じだ。所詮は作り物の肉体。頭を捻じ切られようが、腕を引き千切られようが、本体には傷一つ付いていない。衝撃は多少伝わってきたが、生命活動には支障がない程度である。

 故にモモの電撃は止まらず、むしろ更に力を込めて流し込む。

 ここで、決着を付けるために!

 

「ブゴオオオオオオオオオオオッ!」

 

 長時間電気を流し込まれて、肉食コアラは全身から電気を迸らせ始めた。最早体表面にはくまなく電気が流れているが、それでも肉食コアラは止まらない。

 そもそもモモの電撃は、強力だが進む方角の『コントロール』が出来ない。電気は流れやすい場所を通るもの。逆に言うと流れ難い場所には、どうやっても中々通ってくれないのだ。単に対象に命中させるだけなら体毛を伸ばして『導線』にする事で、簡単に当てられるのだが……当てた後に何処を流れるかまでは制御不能だ。

 なんの対策もしていない生物なら、それでも電気は勝手に体内を通ってくれる。心臓や血管を焼いていき、致命傷を作り出す。しかしミュータントは様々な対抗策を講じており、中まで電気が通らない事も少なくない。

 肉食コアラの肉体も、筋肉が絶縁体のように振る舞っているらしく、奥まで電気を通してくれない。電流は体表面を駆け巡るだけ。これでは『はんだごて』で皮を焼いているようなもので、苦痛は与えられても中々致命傷には至らないだろう。だから肉食コアラは未だ活発に動き、モモを殴り付けている。

 しかしこれは想定の範囲内。

 

「(一度の電流で表面しか焼けないなら、何度でも……何十回でも流すだけよ!)」

 

 元よりモモは執拗に攻撃する気満々なのだから。

 

「ブギゴゴオオオオオオオオッ!」

 

「ッガアアアアアアアアアアッ!」

 

 二匹の獣の雄叫びが、オーストラリアの平原に広がっていく。

 肉食コアラの鉄拳がモモの顔の頬を抉る。それでもモモは電気を流し、肉食コアラの左目が爆ぜた。

 肉食コアラの鋭い爪が胸部に五本の傷跡を刻む。モモは止まらず電気を流し、肉食コアラの背中の肉が弾け飛ぶ。

 肉食コアラは二本の手を組み、二つの鉄拳でモモの身体を打つ。打撃を逃がすためにモモの右腕と右足が吹き飛んだが、モモは構わず左腕から電気を流し続ける。

 互いに消耗し合う泥仕合。回避不能の状態で繰り出す攻撃に、どちらの身体も傷を負っていく。しかしどちらもその手を決して弛めない。相手の消耗具合に気を良くして加減する余裕など、どちらの身にもないのだから。

 閃光と衝撃波が何十と飛び交う攻防……いや、()()と言うべきか……されど手加減なしの全力勝負故に、状況は長続きしない。

 先に攻勢が崩れてきたのは、モモの方だった。

 

「ぅ、ぐ……ぐううぅぅぅ……!」

 

 放電を続けるが、その出力が落ちてきたのだ。

 原因は体力の消耗、だけではない。何度も肉食コアラに殴られた事で、身体を構成している体毛自体が傷んできたのが一番の原因だ。傷んだ体毛は切れたりささくれたりして『漏電』し易く、発電した量の一部が漏れてしまうのである。

 対する肉食コアラは、その身体能力をドーピングで無理やり維持している状態。身体への負担は最悪であるが、後先考えなければ最良の状態を死ぬまで保てる。失明しようが背中の骨が露出しようが関係ない。肉食コアラが止まる気配はなく、しばらくはこのまま変わりない攻撃を続けてくるだろう。

 今からでも脱出して距離を取るか?

 モモであればそれは可能だ。体毛で出来た身体は自由に変形し、掴まれたところを切断すれば、容易に抜け出せる。

 しかしそれをしたら、果たして肉食コアラはまた組み合ってくれるだろうか?

 ――――もしかしたら、逃げるかも知れない。

 

「絶対に、離す、もんか……!」

 

 逃げるという選択肢を切り捨てるように、モモは自らの腕を肉食コアラの脚に巻き付けた!

 放電を続けるモモ。けれども肉食コアラの身体へのダメージは、刻々と小さくなっていく。肉食コアラは変わらぬ一撃をモモに喰らわせるというのに。

 繰り返していけば、先に『限界』に到達するのはモモの方。やがて体毛のダメージが極限に達してしまう。

 

「げぶッ! ご、ぁ……!」

 

 耐久が限界を超えた瞬間、肉食コアラの攻撃が本体まで強く伝わってきた。

 限界を超えたといっても、防御機能を完全に喪失した訳ではない。伝わった衝撃は全エネルギーのほんの一部だけ。しかしそれでも、生身の部分が一般的なパピヨンと大差ないモモには重大な衝撃だ。骨が軋み、肺の空気を押し出す。

 これでもモモは闘志を失わず、電撃を流して対抗するが……肉食コアラはモモが発した声を、肉体的損傷の兆候を聞き逃していない。

 ここぞとばかりに、今まで以上の攻勢でモモを打つ!

 

「がっ!? ギッ……ギャンッ!」

 

 殴られる度、痛みからモモは呻きを上げた。しかし肉食コアラの攻撃は止まない。モモが鳴き止むまで、その命が止まるまで攻撃し続けるつもりなのだ。

 執拗に、何度も何度も、肉食コアラはモモを殴る。

 その度にモモの本体は激痛を覚えた。殴られるほどに強くなる衝撃で血反吐を吐き、時々骨の砕ける音が聞こえてくる。目眩がしてきて、頭痛も酷い。息も出来なくなってきた有り様だ。

 苦しい。痛い。そんな信号が全身から発せられ、本能が此処から逃げるように訴える。自分の力ならそれが難しくない事も理解させてくる。

 だけど、モモは離さない。

 その小さな脳には、痛みよりも大きな存在感を放つ記憶があるのだから。

 

「負ける、もんか……負けるもん、かァ……!」

 

 もうパリパリと微かな電気を走らせるのが限度になっても、モモは逃げようともせず、肉食コアラにしがみつく。

 肉食コアラには理解出来ないだろう。何がモモをこうまで突き動かし、命を燃やさせるのか。我が子を袋に抱えているのならば兎も角、そうでないならここまで戦う必要などない。いや、野生生物の観点から言えば子供を抱えていたとしても理解不能だろう。子供を産める身体なら、未熟な子供を身代わりにして逃げれば良いのだ。自分の命に頓着しない姿に、奇妙さを通り越して不気味に思えたかも知れない。

 肉食コアラが一際大きくその腕を掲げたのは、そんな気味の悪い存在を確実に倒すためだろう。

 

「ッ……!」

 

 モモの気合いは未だ薄れていない。しかしいくら気合いがあろうとも、肉体の限界を超えるダメージの前には無意味。精神が影響を及ぼすような世界なら兎も角、現実における精神は脳内の化学物質反応に過ぎないのだから。自然界というのは根性論で何かを変えられるような、()()()()()()()()

 最早これまでか。『合理的思考』からそんな考えが過ぎるモモだが、それでも諦めるという選択はしない。全力で、生き延びる可能性を少しでも高めるため、身体の痛みと疲労を無視して超電磁メタマテリアルフィールドを再度張り直した――――

 が、その行為は意味を成さない。

 肉食コアラが、拳を振り上げたまま固まったのだから。

 

「ブ、ブ……ギ……ォ……………!」

 

 それだけでなく肉食コアラは激しく痙攣していた。片方しか残っていない目を、今にも飛び出そうなほど大きく見開いている。開いた口からは沸騰した唾液が溢れ、毒を帯びた吐息が蒸気機関車が如く勢いで吐き出されている。

 何か奇妙だ。モモは違和感から一瞬眉を顰めて、けれどもすぐ肉食コアラの身に起きた事態を察する。

 時間切れだ。

 ドーピングの効果が失われたのだ。恐らくこれ以上は肉体が耐えきれないと判断して、意図的に切ったのだろう。けれども判断が遅かったのか、はたまた限界を狙ったのか、その反動に見舞われたのだ。

 そして肉食コアラとしては、この状態に陥った時の事も想定していたに違いない。

 

「ギ、ギオオオオオオオオオッ!」

 

 咆哮と共に、肉食コアラは身を翻して逃げ出したのだから。

 ドーピングによって強化した肉体で、モモを殺せたならばそれで良し。しかし仮に殺しきれなかったとしても、徹底的に痛めつけて戦闘不能に出来たならそれでも構わないのだ。何故なら最初から、逃げるつもりだったのだから。

 逃げるために全力で、限界まで強さを発揮して敵を圧倒する。野生動物らしい『合理的』判断だ。そして肉食コアラとしては、殺しきれなかったとしても問題なく逃げきれると読んでいたのだろう。モモはすっかり疲弊している。追い駆けてくる訳がない。驚異が自ら逃げ出しているのに、反撃されるリスクを犯す()()()()()()()()()

 あくまでも、肉食コアラの立場からすればの話だが。

 

「――――ヌ、ゥアアアアアアッ!」

 

 モモは違った。彼女は肉食コアラの想定に反して、全力でその背中を追う!

 逃げる肉食コアラがモモの動きに気付いたのは、モモがもう手を伸ばせば届くぐらいに肉薄してから。困惑の表情を一瞬浮かべ、次いで死力を振り絞って走るも既に手遅れ。

 モモは肉食コアラの頭目掛けて跳び付き、その頭を抱きかかえるようにしがみついた!

 

「ブギッ!? ギグオオオオッ!?」

 

 頭に抱きつかれたと分かるや、肉食コアラは激しく暴れ回る。抱き付いた際の衝撃だけでも身体が痛いモモにとって、振り回される遠心力は内臓を直に引っ張られているようなダメージを与えてきた。

 更に肉食コアラはがむしゃらに腕を振り回し、モモを引っ掻き落とそうとしてくる。今ここで殴られたら、多分本当に死んでしまう。衝撃を緩和出来ないほどに体毛が傷んでいるからだ。肉食コアラが振り回す腕が目に入る度、モモの脳裏には死の予感が過ぎる。

 けれどもどんな攻撃をされようとも、モモが臆する事はない。何故なら自分の命に変えてでも、なんて思考は過ぎらずとも、彼女の本能は自らの命を軽視しているのだから。

 ――――生命は本来、利己的なものだ。

 何故ならその方が適応的であるから。自分が獲得した食べ物を、お腹を空かした仲間に分け与えて餓死した個体の子孫は残らず、独り占めして仲間を見殺しにした個体は子孫を残せる。生物進化は結果が全て。どんな手段を使おうと、『今』、生き延びたものが隆盛を極めるのだ。

 しかし、利他的に思える行動を取る生物も少なくない。

 ダチョウは一番強い雌が、他の雌の子供も一緒に育てる。アリは巣の仲間のために食糧を探し、巣を守るためなら自らの命も賭す。だから人間は一時期、生物は種の繁栄のために活動するのだと勘違いした。

 されどこれも利己的な行動だ。ダチョウが他の雌の雛も育てるのは、自分の雛を守るための『囮』として利用するため。アリが巣を守るのは、彼女達の奇妙な受精システムの結果、自分の子供よりも女王が産む『姉妹』の方が遺伝子的に近いため、我が子を生むより女王を助ける方が近い遺伝子を残せるから。彼女達自身がどう考えているかは関係ない。ただその方が『自分』を増やせるから、利他的に見える行動を行うのみ。

 犬も似たようなものだ。彼女達は人間の役に立つよう改良された……人間の役に立つ個体であれば、人間が勝手にその繁殖を手伝ってくれるのだ。犬達がどう思おうが、人間にその気がなかろうが関係ない。人間に気に入られる事で犬は大いに繁栄した。人間に好かれる個体こそが正解であり、より多くの子孫を残せる。例えその個体自身が命を粗末にした結果、短命に終わったとしても。

 主人のためなら命を惜しまない犬など、正に人間からすれば理想的な『ペット』。モモはその血筋を引く、正真正銘の忠犬だ。

 それを野生動物として歪な生き様と呼ぶのは人間だけ。犬達(生命)からすれば適応の一形態だ。そしてその適応は、ギリギリまで命を削り合った中で偶然にも『適応的』に働いた。

 もしも肉食コアラが諦めずに戦っていれば、きっと勝てただろう。けれどもコイツは逃げた。自分の命が惜しかったから。ここで死んだからなんの意味もない。彼は利己的な生物であり、端から自分のためだけに戦っていたのだから。

 対してモモは諦めなかった。自分が死のうがどうなろうが、継実達を助けられるならそれで構わない。犬というのは、そういう生き物だから。

 諦めたものと、諦めなかったもの。激突した両者のどちらが勝つかは、語るまでもない。

 

「ガァアアアッ!」

 

 全身の力を最後の一滴まで振り絞り、最大の雷撃を拳に纏わせたモモは、肉食コアラの脳天を殴り付ける!

 鳴り響く雷鳴が如く爆音。実際のところそれは今までで最低クラスの、本物の雷の数倍程度の威力しかない代物だった。けれども傷付き、弱り、そしてドーピングを止めてしまった肉食コアラの身体にとっては致命の一撃。

 

「ブ、ブギガ……!」

 

 生存本能のまま腕を振り回した直後、肉食コアラの頭は蒸発した水分でぶくりと膨れ上がり、

 モモを吹き飛ばすほどの威力を持って、花火のように弾け飛ぶのだった。



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ワイルド・アサシン16

 地平線から昇る朝日を見ながら、継実は今回ばかりは本当に駄目かと思っていた。

 昨晩、病気で倒れていた継実はモモに叩き起こされた。曰く「なんとか宿主を仕留めたから治療薬を作って」と。自分の伝言が役に立ち、モモがそれを果たしたのだと理解して、消えそうになる意識が戻ってくるほどの喜びを感じたものだ。

 尤も、渡された謎の生物Xを見た瞬間、また気が遠退きそうになったが。

 全身黒焦げの、怪人のような形態をした謎生物。しかもモモがそれをコアラと呼ぶものだから一層混乱し、次いでモモがばたりと倒れて失神したので大いに慌てた。勿論モモの身が心配だったのもあるが……いきなり『薬の材料』だけ渡されても、どうしろというのか。ついでに起きはしたが病気が治った訳ではない(というかこれからそのための薬を作る)ので、油断すれば意識が遠退いて二度と目覚めそうにない状態なのは変わらず。叩き起こしてくれる人がいないと非常に困る。

 けれども愚痴を言ったところでモモに起きる気配なし。ミドリは揺さぶったも起きてくれそうになし。仕方ないので継実は、コアラだという謎生物の組成を一人で解析し、一人で薬効がありそうな成分を幾つか抽出し、一人でそれらの成分の人体実験して――――二回失神しそうになり、一回毒で死にそうになりながら、どうにかこうにか薬を作った。

 薬の効果は抜群で、成分が血中に回ったところで細菌達はほぼ活動休止状態に。免疫系はこの隙に細菌達を殲滅し、継実の体調は回復。続いてミドリにも薬を飲ませて回復させ、二人は病気からの生還を見事果たした。

 言葉にすれば短いものだが、作業としてはほぼ一晩寝ずにやっていたもの。いや、製薬作業としては恐ろしく短いだろうが、兎に角寝ていないという事が大事なのだ。しかも病気を抱えた状態で、何度も死にかけながら。確かに起こされるまでは寝ていたが、病気と戦っていたのだか体力が回復してる筈もない。むしろ寝る前よりも疲弊しているぐらいである。

 つまり。

 

「あの、モモさんや? 私そろそろ寝たいんだけど……」

 

「駄目。ご褒美はちゃんと渡しなさい。ほら、お腹撫でる手が止まってるわよ」

 

 冗談抜きで休ませてほしいのだが、膝枕の状態で撫でる事を要求するモモは聞いてくれなかった。

 仕方なく継実はふらふらしながら、モモのお腹を撫で回す。モモは「ぶへへへへ」と舌を口からだらんと出しながら ― 今更ながら人型の方の舌は偽物だから出さなくて良いのではないかと継実は思う ― 、撫でられる喜びに浸っていた。

 そして犬のおねだりは際限がないもの。いくら撫でても満足なんてしてくれない。というより撫でてる状態をデフォルトにしようとしてくる。基本、状況に変化がない限り甘えっぱなしだ。

 いっそ猛獣でも襲い掛かってきたら、等と不謹慎な考えが継実の脳裏を過ぎる。しかし地平線まで続く平野の何処を見ても、猛獣どころか小さな生き物の姿すらない。

 恐らくモモが連れてきたコアラの臭いを警戒しているのだろう。モモが語った戦いの話が事実なら、このコアラこそがオーストラリア生態系の頂点。そしてそのコアラの亡骸は今、継実がバラしたもののまだ傍にある。生態系の頂点を打ち倒した生物に接近するような『命知らず』は、早々いないのだ。

 当分この甘えたさん攻撃が止む事はなさそうで、継実は肩を竦めた。

 

「モモさん、頑張りましたからね。ご褒美はちゃんとあげませんと」

 

 ちなみに継実と同じくモモのお陰で助かったミドリは、朝食としてそこらで捕まえたイモムシを食べていた。モモは撫でていない。製薬作業も何もしていないのに。

 

「うぅ……ミドリ、そろそろ交代を……」

 

「あたしとしては構いませんけど」

 

「私は嫌。今は継実に撫でてほしいのー」

 

「なんで犬ってこういう時に融通利かせてくれないのよぉ……」

 

 しかしそれも全ては命の恩犬・モモからの要求。助けられた側である継実とミドリは逆らえない。

 いや、普段ならば逆らえなくもない。逆らわないにしても、後にしてくれとお願いぐらいは出来る。

 ただ、今日の継実には弱味があるのだ。

 

「ほらー、もっとしっかり撫でなさいよ。コアラを抱っこしていた時みたいにさー」

 

「ぐふっ」

 

 此度の事態を引き起こしたのは、継実の軽率な行動なのだから。

 

「うぅ……ごめんなさい……ちゃんと撫でるから許してよー」

 

「うへへへへへへへへ。足りぬ足りぬぅー」

 

「うわぁ、モモさんってば脅迫してる……いや、継実さんがモモさんに甘いだけか。継実さん、脅迫されたら速攻で相手を粒子ビームで焼きそうですし」

 

「アンタは私をどんな人間だと思ってんだ」

 

「野蛮人の見本ですかね? というか最近服も着てないですし」

 

 本心なのか冗談なのか。どちらとも取れるが、恐らく前者だと思われる発言に継実は眉間に青筋を浮かべる。尤もそれで撫でる手が緩むとモモから犬パンチによる催促があるので、何をどうする事も出来ないが。

 継実は小さくため息一つ。自分の迂闊さを、色んな意味で呪った。

 ……そう、迂闊だったのが全ての原因だ。

 七年間暮らしてきた草原と似ていた。暮らしている生物があまり強そうでなかった。そんなのは()()()()()()()()()()()()()()。生物の強さとは単なる戦闘能力ではなく、環境にどれだけ適応しているのか。その意味では、全ての生物は等しく『最強』に君臨している。羽虫一匹取っても、その環境の生存競争に何百万世代と勝ち続けた覇者の子孫なのだ。そんな覇者が縦横無尽に跋扈する世界で油断するなど、どうぞ殺して食べてくださいと言っているのも同然。

 今回助かったのは、本当に運が良かったからだ。今までも幸運に恵まれたお陰で生き延びた事は多々あったが、今回の『ラッキー』ぶりは群を抜いている。モモに病気が伝染しなかった事、宿主の正体を見抜けた事、宿主が継実達の傍まで来ていた事、宿主がモモ一人で倒せる強さだった事、宿主の体内に薬として使える物質があった事、それがモモの電撃が届かない消化器官にあった事、宿主の死後もしばらく残り続けるものだった事……どれか一つでも欠けていたら、今、継実とミドリはこの世にいない。

 旅はまだ途中。いや、旅の終わりである南極に辿り着いたとしても、それで世界が変わる訳ではない。『常在戦場』という言葉を昔の人類は作り出したが、今の世界はこれが基本なのだ。忘れたモノは死に、忘れなかったモノ達の末裔が今の世代であるがために。

 今度こそ、一瞬たりとも油断してはならない。その油断が家族の命すらも脅かすのだ。

 

「(でもまぁ……)」

 

 そうして気を引き締めたつもりの継実だったが、ふにゃりと表情を弛めてしまう。ミドリは一瞬キョトンとしていたが、継実の視線を追うとこちらとだらしなく笑う。

 ミドリは兎も角として、継実は覚悟を決めた傍からこの体たらく。だがこれは致し方ない事であると継実としては弁明したい。

 撫でているうちに膝の上でぐーすかと朝寝を始めてしまったモモ()の姿は、どんな生物の攻撃よりも強力で、防ぎようのないものなのだから。



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第十章 干からびる生命
干からびる生命01


 ギラギラと輝く太陽が、地上を痛いほどに照り付ける。

 空には太陽を遮るものは一つとしてない。雲だけでなく、樹木の葉一枚たりともだ。いや、そもそも地上に影を作るものは一つとして見当たらないと言うべきだろう。地平線の先まで続くのは、黄土色の砂ばかりなのだから。

 砂に覆われた大地は直射日光を存分に浴び、時間が経つほどその温度を際限なく高めていく。ゆらゆらと遠くの大地が水面のように揺らめいて見えるのは、所謂逃げ水(蜃気楼)か。蜃気楼とは地上が非常に熱くなり、その結果大気密度が低下する事で生じる現象。日本でも真夏のアスファルトでよく見られるこの現象だが、この地の暑さは真夏の日本どころでは済まない。湿度の低さは暑さを和らげてくれるものだが、それ以上に気温が高い有り様だ。

 正に灼熱地獄。此処から数百メートル北に進めば(戻れば)広がる荒野が、草が疎らにでも生えているだけ楽園のように思えてくるほどの過酷さである。七年前の人類であればなんの装備もなく ― 或いは装備があっても万一遭難でもしようものなら ― 挑めば、その命運は確実に尽きたに違いない。

 

「おー! 絶景ですねー!」

 

 そんな地獄に降り立った少女こと、ミドリは物見遊山としか思えない軽薄な声で、目の前に広がる砂漠を褒め称えた。装備どころか真っ裸で、前屈みになるのと同時にたわわな胸部の脂肪を揺らしながら。

 七年前の人類だったならこの時点で人生終了と言いたいところだが、しかしミドリの傍に立つ継実は何も言わない。むしろその言葉に同意するように、同じく呑気で警戒心のない笑みを浮かべながら砂漠の風景を眺める。

 何しろ継実とミドリは、人間のミュータントだ。ミュータントとなっていない七年前の人間にとっては致命的な暑さも、原水爆の炎すら耐えられる今の彼女達の身体にとっては気温差とすら呼べないもの。例え灼熱地獄の中だろうが観光気分で過ごせる。お陰で砂漠の雄大な景色を心から楽しむ事が出来た。

 唯一暇そうなのは、犬であるモモだけだ。眉を顰め、尻尾はだらんと垂れ下がる。全く興味がない事を、犬らしく全身で表現していた。

 

「絶景ねぇ……こんなの砂がたくさんあるだけじゃない。何が良いんだか、私にはよく分からないわ」

 

「えぇー? 綺麗な景色じゃないですかぁ。こんな風景今まで見た事もないでしょう?」

 

「見た事ないけど、でもやっぱり砂だけの景色じゃない。面白味がないわ」

 

 正直な意見を述べるモモに、ミドリは「えぇー?」と不思議そうな声を出す。納得いかないようであり、じとっとした目でモモを見ていた。

 同じく感動していた継実としては、ミドリの意見に同意したいところだが……モモの意見も分かる。実際モモが言う通り、眼の前に広がる砂漠を客観的に説明するなら『砂だらけの環境』だ。この景色に感動するなら、同じく砂だけの地形である砂場にも感動しなければ()()()でない。

 モモの意見を風情がないと言うのは、人間の勝手な見方というものだ。モモは合理的な自らの想いを正直に言っただけである。

 

「モモは風情がないなぁ」

 

 なお継実は勝手な人間(野生動物)なので、モモと同じく思った事を正直に言うのだが。

 そして本当に風情がないモモは、そう言われたところでなんとも思わない。

 

「風情なんてどーでも良いでしょうが。それより、此処を越えればいよいよオーストラリアの南端に着くんでしょ?」

 

「うん。その筈だよ」

 

「長かった、というほどの期間じゃないけど、そろそろこの旅も終わりねぇ」

 

「……そうだねぇ」

 

 モモの意見に頷きながら、継実は想いを巡らせる。

 この砂漠――――オーストラリア中心部に位置する巨大砂漠を乗り越えれば、いよいよ南極へと通じる海に到達する。もう道中として利用する島も大陸もなく、海岸に到達してしまえば残すは海を渡るだけ。だから陸地としては此処が最後の旅路と言えるかも知れない。

 長い旅立った、と振り返るほどのものではないだろう。何しろ精々一月か二月程度の旅なのだから。しかし数多の脅威を切り抜けてきた経験と、日本では見られなかった景色の数々は、文明崩壊からの七年間と比べても引けを取らない濃さの思い出を作ってくれた。有り体な表現ではあるが、一生忘れられない記憶というやつだ。

 その終わりが来る事に、一抹の寂しさを覚えないと言えば嘘になる。

 

「……ちょっと、寂しいですね」

 

 ミドリはぽつりと、継実と同じ気持ちを吐露した。

 

「んー? 寂しくはないでしょ。つか大変な事ばかりだったし、そろそろのんびり休みたくない?」

 

 しかし現実的なモモは、やっぱり人間二人の意見とは反りが合わず。

 今度ばかりは、ミドリだけでなく継実もじっとりとした眼差しでモモを睨んだ。

 

「……モモさん、やっぱり風情がないです」

 

「犬に何を求めてんのよ。私に出来るのは人間に身体を存分に触らせたり、ご飯を食べさせてもらったり、それとボールとかタオルをぶん回して遊んであげたりする事ぐらいよ!」

 

「それは人間がしてほしい事じゃなくて、モモさんがしてほしい事じゃないですかぁ……」

 

「? 犬の仕事は全力で人間に甘える事でしょ? 私の元飼い主はそう言ってたわよ」

 

 飼い主の酷く偏った(しかし愛犬家ならば恐らく全員同意する)意見に感化されたモモの言葉にミドリは呆れ、継実はくすりと笑う。

 されど確かにモモの言う通りだ。大変な事ばかりの旅だったから、そろそろ一休みを挟みたいところ。大体そんなに旅が恋しいなら、南極に着いた後に()()()()()()()()()()()()。目的なんてなんでも良いし、いっそ本当に物見遊山でも構わない。文明崩壊後の世界で生きる自分達を縛るものなんて、何もないのだから。

 それよりも。

 

「つーか、ミドリはちょっと気が緩み過ぎ。昨日コアラにやられた事、もう忘れたの?」

 

 モモが指摘したように、今はまだ旅の真っ只中だ。

 先日コアラの手により全滅し掛けたのは、全て気が緩んだ自分の責任だと継実は思っている。それと同時に改めて痛感した。自然や生物はこちらがどんな感傷に浸っていようとも、容赦なく襲い掛かってくる。旅の途中、いや、例え南極に辿り着いてからでも、油断するなどあってはならない。のんびり休みたいとモモは語っていたが、実際には、辿り着いてからも彼女の警戒が完全に緩む事はないだろう。

 この砂漠でも同じだ。どれだけ美しい景色の中でも、ミュータントは構わずやってくる。風景の美しさから感動に浸っていたら、背後からやってきた巨大な口にも気付けまい。情動は頭の隅に起き、常に危険を意識し続ける。それが野生で生きるという事。

 その心構えが足りていないと窘められたミドリであるが、彼女の顔に浮かぶのは反省の色ではない。代わりに作ったのは、不満げなふくれっ面だった。

 

「覚えてますぅー。あたしだって無警戒に喜んでなんていませんよ。半径五キロ圏内に危険そうな生き物の姿なし。此処は安全ですっ」

 

「あら、ちゃんと索敵してたのね。偉いわ。頭撫でてあげる」

 

「でへへー。あたしだってやる時はやるんですよー」

 

 嫌味でなく褒めるモモに頭を撫でられて、ミドリは心底嬉しそうな様子。実に微笑ましい光景だ。

 ただしそれを見ていた継実は、ちょっとばかり表情を引き締めていたが。

 

「……ミドリ。本当に、生き物はいない感じ? 一匹も?」

 

「? いえ、一匹もという訳では。一〜二センチの虫ならそこそこ見掛けます」

 

「サソリかしら? アレって毒があるのよね?」

 

「そーいうのはごく一部の種だけだよ。とはいえミュータントになったら、その毒性がどう変わるか分かったもんじゃないけど」

 

「ちなみに私が発見した虫の中で、最寄りの個体は五メートルほど先にいます。体長は多分二センチ。こちらに迫る様子はありませんね」

 

 あっちです、と言いながらミドリは砂漠の一ヶ所を指差す。迷いのない指の動きからして、ミドリの目には割としっかり見えているらしい。

 半径五キロに危険な生物の姿なし。

 姿を隠している可能性もあるので、どれだけ信じて良いかは微妙なところだが……ミドリの索敵は優秀だ。生物密度が非常に低いのは間違いあるまい。

 それ自体は予想通りだ。植物資源に乏しい砂漠では、たくさんの生き物は暮らしていけないのだから。

 しかし――――

 

「(まぁ、もう少し先に進んでから考えましょ。万が一でも此処なら、ニューギニア島の時よりはマシでしょうし)」

 

 脳裏を過る『最悪』は、一旦頭の隅に寄せておく。意識はしなければならないが、意識し過ぎて身動きが出来なくなるようでは本末転倒というものだ。

 臨機応変に、小心翼々に、大胆不敵に。それらを全て持ち合わせ、適切に気持ちを切り替えて、ようやく自然界で生きていける。変化を拒んでも、怯え過ぎても、油断し過ぎても待っているのは『死』の一文字。

 

「ま、ミドリがそう言うなら大丈夫よ。信じてるからね」

 

「そうね。私もあなたの事、心から信じてるわ。私達の命は預けたわよ」

 

「ちょ、いきなり強烈なプレッシャー掛けてくるの止めてくれません? みんなでフォローし合いましょうよ! あたしなんかに頼るのは止めましょう! 命を大事に!」

 

「堂々と自信がない事を宣言するわねぇ」

 

「その方が危険な旅の中じゃ信用出来るってもんよ。それじゃあ、しゅっぱーつ」

 

 継実が歩き出し、モモが後ろを付いてきて、ミドリが慌てて追い駆ける。何時も通りの動きで、三人の旅は再び動き出す。

 目の前に広がる雄大な砂漠に、継実達は本格的に挑むのだった。



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干からびる生命02

「……辛い」

 

 砂漠を歩き出してから僅か十分。ぽつりとミドリが独りごちた。

 ギラギラと輝く太陽の下に広がる砂漠を、継実達は歩いている。継実の感覚的な話ではあるが、気温は恐らく五十度前後だろうか。直接太陽で温められている砂は七十度を超えており、割った卵を乗せれば美味しい目玉焼きが作れるだろう。地上が植物に覆われておらず、加熱しやすい砂が日光のエネルギーを余さず受け止めているため、気温が非常に上がり易いのだ。

 ともあれ今の砂漠は灼熱地獄。太陽の高さからしても正午をちょっと過ぎた頃であり、今が一番気温が高い頃だろう。ミドリが辛いと思うのも当然――――とはならない。

 

「いや、別に辛くはないでしょ。こんな暑さぐらい」

 

 一番『熱』に弱いモモですら、この灼熱同然の気温に平然と適応しているのだ。核爆弾の熱にも耐える人間のミュータントであるミドリが、目玉焼きしか出来ない暑さでへこたれる訳がない。

 事実ミドリが不快に思っていたのは、こんな生温い気温の方ではなかった。ただし、では七年前の人間なら即死しかねない危機に襲われているかといえばそうでもなく、むしろ普通の人間達からは気温よりも些末に感じていたであろう事柄。

 足場の悪さである。

 

「暑さじゃなくて足場です! すぐに沈むから凄い歩き辛い!」

 

「そりゃねぇ。私らの足は硬い地面を踏み締めるためのものだし」

 

「砂漠で進化した生き物は、足先とかも変化してるらしいよ。ラクダの足は蹄が小さくて足の裏が肉厚なんだけど、それはカンジキみたく足が砂に埋もれないようにするための進化って聞いた事がある」

 

「へぇー、そうなの。ところでラクダって美味しいのかしら?」

 

「それなりには美味しいんじゃない? 家畜として飼っている地域もあったぐらいだし。そーいや外来種かつ牧畜の邪魔だからってんで駆除が進められていたけど、オーストラリアには野生化したラクダがいた筈。そのうち出会うかもね」

 

「あたしを無視して盛り上がるの止めてくれません?」

 

 ラクダの話で盛り上がる継実とモモに対し、不満を全く隠さないミドリ。何時もに増して ― 正確には何時もとても素直で大人しいのに ― ワガママなミドリであるが、それだけ砂漠の大地が歩き辛いのか。

 実際継実がちらりと視線を向けたところ、ミドリの足は踵の上ぐらいまで砂に埋もれていた。海水浴場なんかの湿った砂と違い、砂漠の砂は乾燥していて柔らか。故に少しの重さが掛かるだけですぐに沈んでしまうのだ。ミュータントの力ならば足が沈んだ程度で身動きが取れなくなる事はないが……歩き辛い事に変わりはない。人間の身体は硬い大地に適応しているのだから。継実自身も同じく足は砂に沈んでいて、ちょっと不快に感じている。

 しかしながら恐らくこれだけなら、まだミドリはワガママなど言わなかっただろう。むしろ出会ったばかりでまだまだ『文明的』だった彼女の方が、愚痴ったとしてもこんな必死にはなっていなかったかも知れない。思い返せば、彼女が必死に『駄々』を捏ねる時というのは大体二つだ。

 生活水準が酷く悪い時と、自分の命に関わる時である。

 そしてこの砂漠では、後者を強く意識せざるを得ない。

 

「バルルオオオオオオオオオンッ!」

 

 独特な鳴き声を上げながら砂の中より突然姿を表す――――体長五百メートルもの()()()()()()()()()()()()()が付近にいるのだから。

 怪物はヒレのようになっている両腕を広げながら、砂から飛び出して全身を晒す。ワニ頭と評したが、大きく裂けた口はワニよりも遥かに獰猛に見える。全身を覆うのは鱗ではなくて岩石のような肌。体型はアシカのように寸胴だが、筋肉質で可愛らしさなど欠片もない。

 継実はその怪物に見覚えがある。いや、覚えがあるなんてものではない。奴等こそが、継実がこのような生き方をするようになった元凶なのだ。忘れようにも忘れられない。

 怪物の名はムスペル。七年前に人類文明をたった一日で壊滅させた魔物達だ。しかも此度継実達の前に現れたのはただのムスペルではないらしい。身体から発している強力なプレッシャーからして、ミュータント化した個体なのだと継実は察する。

 ムスペルは砂の中を、まるで海原を泳ぐように進んでいた。時折砂から飛び出す姿は、さながらクジラのジャンプのよう。着地時に莫大な量の砂を撒き散らし、悠然と砂漠を突き進む。そうした姿を表す度に感じる力の大きさからして、ムスペルの力はニューギニア島で出会ったあの化け物二体ほどではないだろうと継実は見積もる。文明の破壊者といえども最強の生物ではないらしい……が、それはアリから見て体長百メートルの怪獣と体長九十メートルの怪獣、どちらが強いか論じるようなものだ。どちらが敵になったところでアリ(継実)達に勝ち目がないのは変わらない。事前にニューギニア島で大蛇達と出会っていなければ、ひしひしと感じる力の差から意識が遠退いていたと継実は思う。

 此度砂の中から現れたムスペルは数キロ離れた地点から出てきたが、大蛇級の力だとすればオーストラリア大陸から脱出しなければ ― 七年前なら地球から脱出しなければ ― 安全とは言えない。「びゃあっ!?」と可愛らしい悲鳴を上げながら、継実の背後に隠れてしまうミドリの反応はある意味正しいだろう。隠れたところでなんの意味もないぐらいムスペルのミュータントは強そうだが、それ故に隠れずにはいられないほど怖いのだ。

 むしろ人類文明の崩壊を目の当たりにし、更に間接的な結果及び別個体とはいえムスペルに両親を殺されたにも拘らず、特段取り乱していない継実の方がおかしいのである。実際にはちょっと心臓の鼓動が気持ち大きく早くなっていたが、その程度に過ぎない。ビクビクと震えるミドリの背中を擦り、宥めるぐらいの余裕が継実にはあった。

 

「……あー、まぁ、確かにあんなのが居るんだから、逃げ足が発揮出来ない状態はアレよね。逃げきれるかどうかは兎も角として」

 

「そ、そうですよぉ……何時襲ってくるか分からないですし……」

 

「ぶっちゃけアイツはこっちには関心なんてないと思うけどね。足下のアリみたいなもんでしょ、アイツから見た私らなんて」

 

 怖がる理由を語るミドリだったが、モモは淡々とその怖さを否定する。事実ムスペルは今まで何度も継実達の前に姿を表したが、その意識をこちらに向けてくる事はなかった。

 

「バルルオオォォンッ!」

 

「グムボオオオッ!?」

 

 何しろムスペルが狙っていたのは、同じく砂の中に居た巨大な……全長二百メートルはありそうな大ミミズだったので。ムスペルはワニのように裂けた巨大な顎でミミズを咥えると、暴れる大ミミズに構わず一気に地中奥深くへと潜航してしまう。力の気配はどんどん遠くなり、あっという間に継実では感じ取れなくなった。

 何がどうなるとたった七年でミミズがそこまで大きくなるのか。或いは地中生活に適応した結果ミミズに似た姿となっただけで、あれも怪物の一種なのか。地球は何時から怪物達の星になったのやら……等とツッコミを入れたいが、ミュータントだらけの今の世界では今更というものだ。

 そして今の巨大種二体のやり取りで分かる事が二つある。一つは、先の雄大でスマートな狩りからして、恐らくムスペルがこの砂漠に適応している事。ミュータント化と共に地上へと進出してきた若い個体なのかも知れない。

 

「ほらね? 私らなんて興味もない訳よ」

 

 もう一つはモモが言うように、ムスペルの獲物はニメートルにもならないような人間ではなく、その百倍以上の長さがあるような生物だという事だ。

 ならばムスペルは人間など見向きもしないだろう。それはムスペルの立場になって考えれば分かる事。ムスペルが人間を一人一人食べる状況というのは、人間ならば地面でこそこそと動き回る体長一・七センチの虫を一匹ずつ拾って食べるようなものだ。そして昆虫のように数が多ければまだしも、体長一メートル以上の生物の個体数などたかが知れている。ハッキリ言って凄く面倒臭い上に非効率。下手をすると食事行動で消費するエネルギーの方が、食べ物で得られるカロリーより大きいかも知れない。

 ムスペルからすれば、人間を襲ってもなんの旨味もないのだ。それぐらいの事はミドリも分かっているだろう。こうして現実を見て受け入れないほど、頑固でもあるまい。

 ただ、それでもまだミドリは震えている。

 

「うぅ……確かにムスペルは平気そうですけど、でも食べられた方のミミズとか、そのミミズが食べてる生き物がどうかは分からないですし……」

 

 生態系の基本に則って考えれば、ムスペルの獲物である生物はムスペルの何十倍、或いは何百倍もの数が生息しているだろう。それらの餌も、当然同じだけの倍率で存在する筈だ。

 ムスペルが君臨するこの砂漠には、()()()()()()()()サイズの生物がどれだけ潜んでいるのか分かったものではない。それらに襲われた時、足場が悪くて動けないというのは致命的だ。砂漠の生き物達は砂地の環境によく適応し、砂地で縦横無尽に動き回れるだろう。対して継実達はろくに動き回れず、逃げるどころか立ち回りすら危うい。実力が拮抗しているなら負け確定、劣っていても苦戦を強いられるのは間違いない。

 ミドリはそこを心配しているのだ。環境による戦いの相性を考えて不安になる……文明的な宇宙人だったミドリが、地球生命の一員として成長した結果と言えるだろう。

 そしてその不安については、継実も否定は出来ない。

 

「まぁ、そん時はそん時で、根性出してなんとか頑張るしかないよね」

 

「雑!? 継実さん対処法が雑です! 頑張るとか根性が対処法じゃないのは文明社会の基本ですー!」

 

「いや、野生の基本でもあるわよ? むしろ野生の方が容赦ないまであるし」

 

「まぁ、それは半分冗談として。一応なんの考えもなく此処を通った訳じゃなくて、迂回路よりこっちの方が安全だと思ったから砂漠に来たんだし。それが駄目ならもうしょうがないよ」

 

「安全? ……あ、そっか。餌が少ないから、強い生き物も少ないんでしたっけ」

 

「そーそー」

 

 思い出したように尋ねてくるミドリに、継実は軽い言葉で肯定する。

 熱帯雨林に強大なミュータントが溢れ返っていたのは、豊富な餌を糧にした結果生物が溢れ、生存競争が苛烈になったから。使えるエネルギーが豊富であるなら、そのエネルギーを使いきるのが適応的。どうエネルギーを割り振るかは生物種にもよるが、天敵対策や獲物の捕獲のためにエネルギーを割り振れば当然戦闘能力は高くなる。花中からもそう聞いたし、これまでの旅で通ってきた環境も正にその通りの生態系だった。

 そして砂漠には餌が少ない。正確には生産者である植物がいないという方が正しいだろうか。いずれにせよ生息している生物の数はとても少ない筈であり、故に生存競争はあまり激しくないと考えるのが自然だ。生存競争が緩い中で戦闘能力を高めても意味がない。むしろその分のエネルギーを産卵数の増加に費やす方が適応的だろう。だから砂漠は強い生物も多くない……と継実は考えている。

 勿論、これはあくまでも予想だ。そしてムスペルという出鱈目戦闘能力の持ち主がいたという想定外も起きている。しかし一番大事な、生き物の数が少ないという部分は当たっているだろう。現に継実達は今のところ、索敵に引っ掛かっている幾つかの生き物を除けば、ムスペルや巨大ミミズにしか遭遇していないのだから。

 

「そっか。そうですよね……ほへ」

 

 そしてその事を一番実感出来るのは、不安がっているミドリ本人。自慢の索敵能力で生き物の少なさを確信すれば、あっさりと安堵した。

 ……そう、砂漠なのだから生き物が少ないのは当然。それは本心からの言葉であり、だから継実はこの砂漠を訪れた。何一つとして嘘は含まれていないし、数多の状況証拠から確信を深めている。

 しかし――――

 

「(なーんか、()()()()()気がするなぁ)」

 

 そもそも何故生物の餌、つまり植物は砂漠だと育たないのか? 十分な日差しと温度はあるし、砂漠の土壌は意外と肥沃なものである。条件だけ見れば、植物にとって良いところの方が目立つぐらいだ。

 しかし誰もが答えを知っているだろう……水が致命的なまでに少ないからである。

 植物にとっての水は、動物以上に欠かせない。土壌養分の吸収(正確には根で吸い上げた水を高い場所まで運ぶ)には蒸散、つまり水を外へと排泄する事で体内の圧力を変えねばならない。また光合成で作り出される炭水化物は、水分子に含まれる水素を原料としている。動物は水を『栄養』には出来ないが、植物は水を栄養にして生きているのだ。そして植物の身体は大部分が水と炭水化物(セルロース)から出来ている。どれだけ身体の水分が蒸発しないように工夫しても、水がなければ育つ事すら出来ない。

 それほどまでに水が必要な植物なのだから、その水が殆ど得られない砂漠で育つ事が出来ないのは至極当然であろう。継実だって砂漠に森林や草原があるべきだとは思わない。

 されどこの地にいるのはミュータントだ。

 

「(砂漠育ちでもない私達が平気で生きているんだし、砂漠に適応した植物ならそこそこ生えていそうなんだけど)」

 

 或いはムスペルの存在に恐怖して、誰もが遠くに逃げたり身を隠したりしたのか。ムスペルの力は大蛇ほどではないが、匹敵するだけの強さはあるのだ。植物達が素早く枯れて、種子の形で生き延びようとしている可能性はある。

 ニューギニア島での経験からそんな考えも過ぎったが、しかし自分達の周りには小さな生き物の姿がちらほらとある。恐らく大蛇とヒトガタが激戦を繰り広げていたニューギニア島と違い、ムスペルは単独でこの地の頂点に君臨しているのだろう。だから本気の激戦が起きる事は稀で、小さな生き物達はそこまで脅威だと感じていないのかも知れない。

 それはそれで良い知らせだが、ますます生き物が少ない理由が不可思議に思えてきて。

 

「(……ま、いっか)」

 

 されど継実は一度、その疑問を頭の隅へと寄せた。考えたところで答えを出すには情報が足りない。自分達は、この砂漠を訪れたばかりなのだから。

 それよりも、極めて重大な問題が別にある。継実は砂漠を訪れた当初から考えていたし、モモも端から分かっているだろうが……改めて気持ちを引き締めねばならない。

 

「……さて。遊びはここまでにして、そろそろ覚悟を決めないとね」

 

「そうね。気を緩める訳にはいかない、というか此処から気を引き締めないとって感じ?」

 

「え。か、覚悟? ど、どういう事ですか? 何か恐ろしい敵がいるんですか?」

 

 継実とモモと違い、ミドリだけがおろおろする。何か脅威がいるのかと、辺りを必死に索敵しているのだろう。

 いっそ、そうであったならマシだった。

 これより訪れるはこれまでの旅路で最大の危機。どんな恐ろしい生物よりも抗いようのない、或いは全てのミュータントにとって絶望的状況だ。覚悟を決めてどうにかなるものではないが、覚悟を決めねば半ばで挫折し、二度と立ち上がれないだろう。

 真剣な面持ちで振り返った継実と目が合い、ミドリはごくりと息を飲む。されどどれだけ覚悟をしても、きっと打ちのめされてしまうに違いない。

 継実だって、覚悟は出来ても受け入れる事は出来ていないのだから。

 

「今日、多分ご飯抜きだから」

 

 継実は恐ろしい一言をミドリに告げる。

 ポカンとした表情を浮かべたミドリが、砂漠中に響き渡るような悲鳴を上げたのは、それから間もなくの事だった。



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干からびる生命03

 太陽が徐々に傾き、日が暮れてきた。

 気温はまだまだ三十度以上あるが、五十度もあった日中と比べれば二十度も低下している。急速な下落であり、夜中になればさぞや寒い事が予感出来た。

 勿論未来に想いを馳せたところで、今の気温は変わらない。現在進行形で三十度以上だ。発汗による脱水を促進し、それでも体温調節が間に合わなければ容赦なく熱中症に陥らせる……七年前の人間にとっては十分に危険な気温と言えるだろう。しかも周囲は見渡す限り砂、砂、砂。地平線の彼方まで砂が続き、オアシスどころか日陰一つない。宇宙より来訪する核融合反応の熱光線を遮るものはなく、地上に存在する全ての存在が加熱されていく。

 しかしミュータントにとってこの程度の気温など、ぬるま湯どころか意識しなければ温度変化を認識する事も出来ない。核の炎である一億度の高熱に比べれば、三十数度など微々たるものなのだから。特段生命活動に影響が出るものではなかった。

 ――――普段であれば。

 

「……あっつ」

 

 ()()()()()()()()()()。無意識に、ぽつりと。

 ミドリではない。継実がぼやいたのである。しかも継実は背筋を伸ばして歩いていたし、汗は額をたらりと流れ、頬は赤く染まって明らかに体温が上昇していた。砂に沈む足取りも何処か覚束ないもので、普段の超人的逞しさは何処にも見られない。

 見た目相応の、裸一貫の女子高生になってしまったかのようだ。

 

「はひ、はひ……」

 

 継実の横に並ぶミドリに至っては息を切らしていた。汗もそこそこ流し、運ぶ足の揺れ方は継実以上である。最早これではただの人。ミュータントらしさは何処にもない。

 人間二人は暑さに苦しんでいた。七年前の人類を遥かに超越した超常の肉体が、たった三十度の気温に喘いでいるのである。これが異常でなければなんだというのか。

 

「ほらー、二人とも頑張りなさーい。あと少しで夜なんだからねー」

 

 唯一この灼熱地獄の中で平然としているのはモモだけ。ただし普段通りの姿という訳ではない。何時もならツインテールで纏めている髪が大きく広がり、まるで爆発した箒のようだ。更に尻尾も普段の数倍程度の、三メートルぐらいの長さまで伸びている。その尻尾をぶんぶん回して、ミドリと継実を扇いでいた。

 モモからの声援と風。実にありがたいものだとは継実も思う。思うが、人間というのは嫉妬深い上に非合理的なのだ。自分より恵まれている奴がいれば、そこに登り詰めるよりも引きずり下ろす方を考えてしまう事も多い。それをしたところで自分の状況が何一つ変わらないとしても、だ。

 『合理的』な継実はそれを実行するほど落ちぶれてはいないが、種族的な性根はそう変わるものでなし。ジトッとした眼差しでモモを見つめてしまう。

 

「ちくしょー……一人だけ楽しおってからに」

 

「まぁ、何時もより楽はしてるわね。人のサイズに密度を抑えておくのって、実はちょっと疲れるし」

 

「あ、そういうものなんですか……良いなぁ」

 

「そっちも程々にしときゃ良いのよ。別に時々体温を下げるぐらい出来るでしょ」

 

「……出来るけど、止めとく。あと少しで日が沈むから、それまで我慢すれば良いんだし。代わりにめっちゃ扇いどいて」

 

「へいへい。なーにが代わりなんだか」

 

 モモからの提案を拒否しつつ、継実はモモに頼み事。モモは若干呆れつつも、ご主人様方を尻尾で扇ぐ。やってきた風の温度は勿論気温と同じ三十度以上あるが、それなりの速さで身体を撫でる事で体熱を奪い去る。ほんのり体温が下がった継実とモモは、苦しんでいた表情を和らげた。

 その涼しさの所為で「ちょっと能力を使っちゃおうかな」という魔が差しそうになったので、継実は頭をぶんぶんと横に振ったが。

 ――――継実とミドリは現在、自らの能力を意図的に止めている。

 継実とミドリがこれまでどうやって砂漠の暑さを耐えていたのかといえば、それは無意識に粒子操作(人間の)能力を使っていたからだ。気温とは粒子が持つ運動量。熱くなればなるほど運動量が増大した状態となる。加熱とはこの運動量が、粒子から粒子へと渡される現象なのだ。温度の低下は運動量が徐々に低下していくものと考えれば良い。

 つまり粒子の運動量の移動を止めてしまえば、物体の加熱・冷却は止められる。

 言葉にすると実に出鱈目であるし、七年前の人類にはどんなテクノロジーを用いても真似も出来ない方法。というより宇宙の絶対真理である熱力学の法則にちょっと反している。されど継実にとってはお茶の子さいさいな『通常技』でしかない。索敵や遠隔操作特化のミドリでも同じ真似は多少ならば出来るし、無意識にやっている。かくして二人は砂漠の高温を難なくやり過ごしていた。

 しかしその力を、今の継実とミドリはわざわざ止めていた。勿論伊達や酔狂ではなく、重大な理由がある。

 

「(余裕があるうちから、少しでもエネルギーの消費を抑えとかないとね……)」

 

 砂漠には生き物が少ない。ミドリはこれを安全の証だと喜んだ。それ自体は確かにその通りなのだが、継実やモモとしては手放しに喜べない事情がある。

 生き物の少なさは獲物の少なさでもあるからだ。継実達はミュータントと化した事で強大な力を得た反面、基礎代謝などのエネルギー消費量も大きくなった。つまりたくさんの食事が必要である。草原程度の環境でも、冬ですら食べ物に困らないぐらい動植物は多かったので、これまでそんなに気にしないで済んでいるが……しかし砂漠には本当に生き物が少ない。此処で食べ物を得るのは極めて難しいと継実は考えている。

 そしてオーストラリア大陸中心部に広がる砂漠は広大だ。歩きでの移動だと、横断するのにかなりの日数が必要になる。勿論ミュータントである継実達が全速力で走れば、数十分でこんな砂漠など渡りきってしまう事が可能だ。腹ペコになる前に砂漠を抜けてしまえばなんの問題もない。しかしその強行軍を行うと周りの警戒が出来ず、敵からの攻撃を受けやすくなる。いくら数が少ないからといって、隙を見せれば肉食性ミュータントはすぐにやってきて襲撃してくる筈だ。不利な立地での戦いに加え奇襲となれば、もう勝ち目などないだろう。

 全方位を注意出来る速さで、尚且つ獲物が獲れなくても数日間体力を持たせる……それが砂漠を渡るために必要な移動方法の条件だ。故に少しでも体力を温存すべく、継実とミドリは能力を使わないようにしている。ちなみにモモは能力の使用を止めていない。彼女の『能力』はあくまでも体毛を自在に操る事であり、身体を作っている体毛は既に自前で用意したもの。なので発電などを行わなければエネルギー消費は殆どないのだ。実はモモは基礎代謝の面では、継実達よりもずっと効率的なのである。

 そしてモモが今の継実達よりも勝っているのは、エネルギー効率だけではなかった。

 

「でもエネルギー消費を抑えるのは良いけど、汗をだらだら流してたら今度は水不足にならない?」

 

 水分の保持。これもまた砂漠で生き抜くには欠かせないものだ。

 砂漠は非常に水が少ない。ある意味これこそが砂漠の条件であり、気温の高さというのは(高い方が圧倒的に乾燥しやすいが)そこまで重要ではない。どれだけ暑くとも、水があればそこには熱帯雨林が生い茂る事になるのだ。

 そして水の少なさは、単に地表が乾くというだけの影響に留まらない。地表が乾く状況であれば空気も乾燥しているもの。乾燥した空気中では()()()()()()()()。それは単に地上にぶち撒けた水があっという間に乾くというだけではなく、呼気や体表面からの水分蒸発も増えるという事を意味する。勿論生物体からの蒸発量も同様だ。

 日本の夏で熱中症、つまり体温が高くなり過ぎて倒れてしまうのは、空気中の湿度が高いのが原因の一つと言われている。湿度が高いから汗が中々蒸発せず、汗の作用である気化熱 ― 液体が蒸発する時に熱を奪う現象。汗は蒸発する事で始めて身体を冷やす ― が生じないため体温が下がらないのがその理屈だ。しかし砂漠では逆にどんどん汗が蒸発していく。故に体温的には気温ほど辛くないように感じるが、水分は物凄い速さで失われていく事になる。

 能力による体温維持を放棄した継実達は、エネルギー保持の代わりに水分喪失が非常に増えているのだ。エネルギーは生きるために欠かせないが、水も同じく必要なもの。これも枯渇すれば命に関わる。

 モモからの指摘は実に尤もなもの。しかし継実はこれに、にやりと不敵な笑みを浮かべながら答えた。

 

「ふふふ……そこについては抜かりないわ。砂漠でも水分確保は可能よぉ」

 

「なんでちょっと悪代官風なの? まぁ、出来るってんなら良いけどさ……まさかオアシス頼りじゃないわよね?」

 

「あの、その場合あたしマジで死にそうですから、本当に頼みますよ……?」

 

 だらだらと汗を流すミドリが、不安そうに訴える。ついでに不信な眼差しを継実に向けてきた。

 ちょっとふざけただけなのにそこまで疑わんでも、と言いたくなる継実だが、考えてみれば今までの旅の中で自分が立てた『作戦』はそれなりの頻度で失敗している。なんの保証もない自然界ならこんなもんだろうとは思うが、『絶対』を求めるのが文明人。加えて普段能力で強引に環境を克服してきたため、それが出来ない状況に対して不安を強く感じてしまうのかも知れない。

 継実も此度の作戦に百パーセントの自信があるかといえば、そうではない。確実性なんてものは過酷な自然界に存在しないのだから。しかしながら知識としては確かなものであるし……もしも駄目だったとしても、それなら温存していた能力を使ってしまえば良いのだ。そうすればいくらでも水なんて得られる。今まで我慢して能力を使っていないのに、という気持ちもあるにはあるが、それはあくまでもカロリー消費を抑えて餓死を防ぐため。目的は死なない事なのだから、我慢し過ぎて脱水死など本末転倒というものだ。

 つまるところ、結果がどう転ぼうが継実的にはなんの問題もない。

 だからこそ継実は自信満々な笑みと共に、砂漠の大地を力強く歩き続けるのだった。



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干からびる生命04

「ああぁぁぁ……づがれだぁぁぁぁ……」

 

 がくりと膝を崩して、ミドリがその場にへたり込む。砂の大地に僅かながらその身が沈んだが彼女は気にせず、今度は仰向けに大の字で倒れた。

 傍に立つ継実はにこりと笑う。それだけの声が出せるならまだまだ元気ねと、ミドリの体調を押し図りながら。次いで継実は、視線を西へと向ける。

 太陽は西の地平線に沈みかけていた。茜色の光がほんの僅かに染み出しているだけ。空の大部分は既に暗く、雰囲気的には夕方を通り越して夜。一日中砂漠を渡り歩いていた継実達も、ここらで休憩する事を選んだ。

 

「んじゃ、私はちょっと離れるわ。あまり遠くにはいかないけど」

 

 ただしモモだけは、食糧探しという一仕事が残っていたが。

 砂漠は生き物が少ないが、それでもゼロではない。そして気温が涼しくなる夜間は、昼間よりもたくさんの生き物が活動を開始するものだ。あくまでも七年前の、普通の生物が地球を支配していた時の話なので、ミュータント相手に何処まで当て嵌まるかは不明だが……ミュータントとて暑さに耐えられるだけで、エネルギーを消費しない訳ではない。涼しい時の方が楽に動ける(消耗が少ない)なら、ミュータントだろうと同じ生態を維持している筈だ。

 故に継実は昼間に移動を行い、夜に狩りをするというスケジュールにしたのである。そして狩りをするのは、継実達の中で一番夜に適正があり、尚且つエネルギーが一番有り余っているモモ一人だ。

 

「悪いね、任せちゃって」

 

「私が一番余力がある訳だし、当然でしょ。なーにが悲しくてへろへろな奴に大事な狩りを任さなきゃいけないのよ」

 

「人間ってそーいうもんだよ。仕事してない奴が次は働けって感じだから」

 

「ほんっと非合理的よねぇ……とりあえず半径一キロ以上外には出ないわ。今回は様子見だけよ」

 

 何処まで出掛けるか、それを伝えたモモは一人砂漠を駆けていく。全力疾走、には程遠いがかなりのスピードで、その姿は瞬く間に遠くなった。

 果たして何が捕まえられるのか。ちょっとだけ楽しみにしながら、継実は体力回復のために身体から力を抜く。

 それと同時に、ため息が口から出た。

 能力なしでの砂漠の横断は、やはりかなり辛かった。ミュータント化した身体は本能で様々な点を『自覚』出来るし、能力と関係なさそうなところ(例えば高速演算や細胞の活性など)も優れている。能力なしでも七年前の鍛え上げた超人より逞しいだろう、が、それでも灼熱の砂漠越えはかなり厳しいものだった。能力代わりに汗腺など普段使わないような機能をフル稼働させた分、カロリーは兎も角、細胞的な疲労はかなり蓄積している。動けないほどではないが、回復させないと明日に響くだろう。

 ミュータント歴七年の継実ですらこうなのだ。死体を拝借してからまだ一年と経っていないミドリはさぞや疲れたに違いない。

 そう思ってちらりと、砂漠に仰向けで倒れたまま動かないミドリに視線を向けたところ――――ミドリはその目を輝かせていた。

 恐らく、空に広がる満点の星空が理由なのだろう。

 

「ミドリ、随分楽しそうね」

 

「だ、だって、なんか星が何時もと違って見えるんですよ! 何が違うかよく分かりませんけど!」

 

「砂漠は水分が少ないから、雲とか空気の屈折が少ないからね。天文観測をするのに向いているんだよ。まぁ、普通は人間の目に分かるもんじゃないと思うけど……ミドリ、ミュータントの力ちゃんと抑えてる?」

 

 ミドリの傍に立つ継実からの指摘に、ミドリはぷくりと頬を膨らませた。不服だ、と言いたいらしい。目線は星空からいっさい逸らさず、倒れたままバタバタと四肢を暴れさせた。

 

「む。失敬な! ちゃんと抑えてますよ……多分」

 

「多分って」

 

「だって普段無意識に使ってる部分ですよ。息とか瞬きとか心臓の鼓動みたいなもんじゃないですか。むしろ一時的にでも止め続けられる方がおかしいんです!」

 

 自信満々な持論と共に、能力と同じものとして挙げられる数々の生理反応。それらは確かに中々止められないが、理由は止めると生命活動に関わるからだ。能力とはちょっと違うでしょ、と継実は思って苦笑い。

 しかしよく考えると、あながち適当な言い分でもないかも知れない。草原で出会った花中曰く、空気中にも細菌のミュータントが浮遊している。それらに対抗するためには通常の生理作用や免疫だけでは足りず、ミュータントの能力が必要だ。砂漠は湿度が低いので細菌も少ないだろうが、七年前の世界でもゼロではなかった。ミュータント化した今なら、より多くの細菌が大気中にひしめいているだろう。もしも完全に能力を止めていたら、そうした細菌に身体を蝕まれ、命を落とす筈だ。

 継実としてはかなり本気で能力の発動を抑えていたつもりだが、もしかすると未だ多くの能力が発動しっぱなしだったかも知れない。それを知る事は、人間が自身の免疫系の具合を確かめられないように、自分自身では完璧には確認出来ないだろう。ならば今日一日の消費カロリーは想定よりも多いと考えるべきだ。

 

「はーい、言い争う前にごはんよー」

 

 だからこそ、ひょっこりと帰ってきたモモが捕まえてきてくれた獲物が実にありがたい。

 

「おっ、早い。それに捕まえられたんだ? 正直あまり期待してなかったんだけど」

 

「意外と悪くなかったわね。軽く見ただけでこんな感じよ」

 

 継実が話し掛けると、モモは返答と共に片手に持っていたものを継実達の前に放り投げる。

 それはトカゲだった。体長十センチほどとちょっとばかり小さいし、身体も痩せ気味だが……これでも肉の塊には違いない。十分に立派な食べ物と言えよう。

 これを三等分にすると流石に少ないと思わなくもないが、口にご飯粒(肉片)を付けてる奴に分ける必要はあるまい。

 

「これ、私とミドリの二人分で良いわよね? 摘み食いしてたみたいだし」

 

「えぇー。私まだ食べたりないから、三等分してほしいんどけど」

 

「えぇいこの正直な食いしん坊め……」

 

 フードをもらった後に「ご飯くれよ」と訴えるパピヨンを想起しつつも、とりあえず言われた通りトカゲを三等分にする継実。なんやかんや今トカゲを食べられるのは、そして砂漠での行軍が思いの外辛くなかったのは、モモのお陰だ。その彼女がもっと欲しいと言っているのだから、分け与えるのが正当な報酬というものだろう。

 トカゲを頭と身体に分け、身体の方は更に二等分。頭の方をモモに渡し、継実とミドリで身体を食べる。尻尾は細くて分けるのが難しいので、ミドリの方におまけしておいた。ミドリは軽くお辞儀をした後、ぱくりとトカゲの半身を一口。よく噛んで味わい、幸せそうに目を細めた。

 

「あぁぁ……乾いた喉が潤いますぅ……今日は食事なしだと聞いてましたから、美味しさも一入ですぅぅ……」

 

「血は砂漠だと特に貴重な水分だからね。よく噛んで絞り出しなよー……いや、でも獲物を獲れたのは本当にラッキーだね。何も捕まえられないつもりでいたから」

 

「まぁ、正確には捕まえられる時間になる前に、隠れなきゃって話なんだけどね。今日ももう狩りは止めた方が良いだろうし」

 

「? 隠れる? なんでですか?」

 

「なんでって、そもそもなんで私らが昼の砂漠を、能力なしなんて制限掛けてでも練り歩いていたと思うのよ」

 

「え? それは……あれ?」

 

 継実に訊かれて考えてみたミドリは、こてんと首を傾げた。言われてみればおかしいなと感じたように。

 七年前の人間なら、砂漠では昼間以外に活動する時間なんてなかった。無論それは「夜は早く寝ましょう」なんて健康的な理由ではなく、灼熱地獄の昼間に意識喪失(寝る)なんてただの自殺行為だからだ。日陰などがあればそこに隠れて休む事も出来るだろうが、木すら生えていない砂漠でそれは期待出来ない。

 しかしミュータントならば話は違う。ミュータントの人間である継実達なら、その気になれば砂の中に潜る事が可能だ。砂の中は日光が届かない分地表よりも涼しく、体力の消耗を少なく出来る。そして夜になって這い出し、涼やかな砂漠を歩けば良いのだ。能力は使う事になるが、隠れる場所がない以上夜寝る時にも同じ対処が必要なのだから、別段余計な消費がある訳ではない。

 理屈で考えれば、夜に歩く方が合理的なのである。継実はそれを分かった上で、あえて昼間に南へと向かった訳だ。

 そしてその理由は、モモが狩りに向かったのと全く同じ。

 

「答えを言うとね、今し方食べたトカゲが答えよ」

 

「えっと、つまり?」

 

「そろそろ出てくる筈よ。隠れていた連中が」

 

 モモがミドリの疑問に答えた、その直後の事である。

 不意に、砂漠の大地が震え始めたのは。

 

「ふぇ? え、何が――――ひっ!?」

 

 地面の揺れの原因を探ろうとしたのだろう。故にミドリは悲鳴を漏らす。

 夜を迎えてトカゲが姿を表した。やはりミュータントにとっても、昼間より夜の方が活動しやすいのだろう。予想通りの動きである。

 ならば、()()()()()()()()()()()()()()()()だと考えるのが自然。

 砂漠生態系は、夜にその本当の姿を見せる。

 

「バルルオオオオオオオオンッ!」

 

 始まりを告げるのは、怪物ムスペルの雄叫び。

 さながらそれが合図であるかのように、砂漠の至るところから生物達が次々と姿を現す! 二百メートルはあろうかという巨大ミミズ、百メートル近い巨大サソリ……他にも次々と、砂から這い出してくる。

 しかもどいつもこいつも巨大なものばかり。ミドリは愕然としたように固まり、夜行性生物の出現を予期していた継実も思ったよりデカ物ばかりで少なからず驚く。

 どうしてこんなに大きな生き物ばかりなのか? 疑問に思っていると、自分達の足下がもぞもぞと蠢き始めた。

 次の瞬間、砂漠中から無数の虫が飛び立つ。

 種類は千差万別であり、強いて共通点を挙げるなら翅を持っている事ぐらい。とんでもない大群団は夜空を真っ黒に染め上げると、北に向かって飛んでいく。恐らく虫達は夜中のうちに何処か、恐らく砂漠の外側に広がる平野で餌を食べてくるのだろう。餌が豊富な場所で食事をし、天敵が少ない砂漠で休む。実に合理的な暮らし方だ。

 そしてそれらの虫を追い駆けるように、巨大生物達も動き出した。

 

「(成程。あの大量の虫があの巨大生物達を支えている、と)」

 

 さながら体長数センチのオキアミを主食としていた(七年前までの)地球最大の生命体シロナガスクジラのようなものだろうか。ムスペルのような超巨大種はそれら虫食い巨大生物……或いはそれを食べる超巨大生物……を餌にしていると思われる。

 当然、食べられる側は必死に抵抗するだろう。ミュータントが持つ超常的なパワーを、継実の数十万〜数百万倍の体重から繰り出して。

 

「あんな感じの化け物が夜中はずぅーっと暴れてると思うんだけど、それでも夜に進む? そうしたいなら考えなくもないけど」

 

「いいです結構です勘弁してください夜は寝る時間です」

 

 改めて継実が尋ねれば、ミドリは速攻で夜間行進を拒む。考えなくもない、という言い方通り継実はこの意見を変えるつもりなど毛頭ないのだが、納得してくれたならその方が良い。

 全員の同意が無事得られたので、もう寝てしまおうと継実は思う。

 

「んじゃモモ、穴掘りよろしくー」

 

「今日は随分とこき使うわね。ほいよっと」

 

 継実に言われて言葉では不満を述べるも、実際にはご主人様からの指示に尻尾をぶん回しながら、モモは手から何万という数の体毛を伸ばす。

 モモが伸ばした体毛は地面に刺さり、それから周りを押し広げていく。乾燥しているだけあって砂漠の砂は崩れやすいが、体毛で壁を作れば真っ直ぐな穴を掘るのは容易い。あっという間に深さ五十メートルほどの、直下掘りの穴が出来上がる。

 モモが穴を掘ったら次は継実の仕事だ。モモが体毛同士の隙間を広げたので、継実はそこから穴の中に飛び込む。どしんっと音を立てて辿り着いた穴の底で、継実は一度ぺちぺちと底を叩いて感触を確かめる。

 その時に継実は笑みを浮かべた。

 

「うん、いい感じだよー。中に入ってー」

 

「ほーい。ほら、お先にどうぞ」

 

「あ、はい。えと、てやーっ」

 

 モモに促されてミドリが跳び込み、継実がこれを受け止める。次いでモモが穴の中に入り、三人とも穴の奥に辿り着く。

 するとモモは穴を押し広げるために使っていた体毛を、自分の身体の中に戻す。

 今まで穴が出来ていたのは、体毛が柔らかな砂を押さえていたからだ。それを片付けてしまえば、当然砂は音を鳴らして崩れてくる。

 継実達は一瞬にして生き埋め状態に。七年前の身であれば、即死はしないかも知れないが砂の圧力と酸欠により間もなく死に至るだろう。しかしミュータントの力であれば、この程度の『環境』を克服するぐらい造作もない。圧力に耐える肉体強度のみならず、砂の間にある僅かな空気を吸い込む肺活量だってあるのだ。もっといえばモモの体毛が何本か地上まで伸ばしている。さながらシュノーケルのように、地上と地下の通り道を作ってあるのだ。呼吸をすればその行為自体がポンプの役割を果たし、新鮮な空気を穴の中に、吐き出した空気は外へと流れる。

 通気性は確保され、気温も安定していて、地上からの攻撃も……ムスペルの一撃なら深さ数千メートルぐらい軽く削れそうだが……多少防げる。正に至れり尽くせりの環境。これなら安心して眠れるというものだろう。

 

「うべぇ。砂が目と口に入りましたぁ……」

 

 ミドリは速攻で文句を垂れたが。砂に埋もれている継実に、同じく埋もれているミドリの顔など見えないが、物凄くしょげた顔をしているのが継実の脳裏には浮かんだ。

 

「良いじゃんそれぐらい。巨大生物に襲われるのと比べたらずっとマシでしょ」

 

「マシですけどぉ……はぁ。水飲みたい……」

 

「さっきトカゲ食べたじゃん。というか水ならあるし」

 

「え?」

 

「足下の砂、握ってみな」

 

 キョトンとした声を出すミドリに、継実はアドバイス一つ。ミドリは少し間を開けた後、しゃりしゃりと砂を掴む音を鳴らした。

 

「ふわあぁぁ……! み、水ですぅ!」

 

 続いて水の存在を、感動したような声で報告してくる。

 ミドリからの報告に継実は満足げに頷いた。心の中で「良かった予想が当たって」とちょっぴり思いながら。

 

「砂漠でも地面の下には地下水があったり、或いは雨季に振った雨が溜まっていたりするからね。表面が乾いていても、掘ると結構水が出るんだよ」

 

「ほへー……あ、継実さんが言ってた水ってこの事だったんですね」

 

「そうそう。ぎゅーっと押せば染み出してくるから、それを啜る感じにね」

 

「わぁ、原始的ぃー」

 

 文句なのか煽りなのか。どちらとも取れる言葉を発した後、砂を押す音とちゅーちゅー吸う音が聞こえてくる。殆どなかった迷いから、ミドリの『成長』がここでも窺い知れた。

 継実も底を強く押して水を染み出させ、顔を近付けて啜る。正に泥水を啜る行いだが、泥から出ようが砂から出ようが水は水。貴重な水分を補給した身体に活力が戻るのを感じ、自覚出来ないレベルだがやはり身体の水分が不足していたのだと継実は実感する。

 軽めとはいえ脱水していたと後から気付くという事は、自分の想定よりも水分蒸発が多かった証とも言える。明日からはより水不足を警戒しなければならない。今のうちに少し多めに水を飲んでおくなど、なんらかの対策も必要だ。けれどもこの調子であれば、砂漠の横断はそこまで難しくないだろうと継実は思った。

 

「そんじゃまぁ、私達もそろそろ寝ますかね」

 

「だねー」

 

 故にモモからの意見に暢気な声で肯定しながら、継実は砂の中で身体を横たえ、眠りに入る。

 一度眠ろうとすれば、身体はすんなり睡眠状態へと移る。地上ではミュータント同士が戦っているのか、地響きと爆音が絶え間なく襲い掛かってくるが、そんなのはこの世界では虫の鳴き声みたいなもの。継実は気にも留めず、すんなりと意識を遠退かせる。

 強いて一つ気にするとすれば。

 

「(なんか、北よりも、南の方が静かだな……)」

 

 疑問を抱いたのも束の間、継実の意識はあっさりと睡眠という名の暗闇に落ちていくのだった。



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干からびる生命05

「さ、さぶいぃぃ……!」

 

 翌朝。砂から這い出したミドリの第一声は、すっかり震えたものだった。服一枚着ていない身体はすっかり青く、鳥肌まで立たせて、ガクガクと震えている。震えに伴って大きな胸も小刻みに震えていた。

 典型的な『寒さに震えている人』だ。彼女の立つこの砂漠の大地には似つかわしくない。

 尤も、あくまでそれはイメージの話。現実の砂漠は夜になると非常に冷え込むものだ。というのも夜になると(正確には昼間もなのだが)地上の熱は宇宙空間に逃げていこうとするが、この時雲や水蒸気が豊富だと逃げ難くなる。七年前の一般人にはあまり知られていなかったが、水蒸気というのは『温室効果ガス』なのだ。具体的には、地球の温室効果の約半分は水蒸気が担っているという。実際日本の夏でも、夜に曇っていると気温が下がらず、熱帯夜になりやすくなる。

 砂漠は非常に乾燥しているため、雲や水蒸気が殆どない。そのため宇宙空間に熱が逃げていきやすく、夜間になると急速に気温が低下するのだ。この砂漠でも朝は非常に冷えており、氷点下なる寸前まで気温が下がっていた。

 ミュータントの力を使えば、この程度の寒さなどどうという事もない。しかし此度は砂漠の横断中。寒いといえども命に関わるほどでないのなら、エネルギー保持のためにも能力の『無駄遣い』は控えるべきだ。

 寒さに震えているミドリは継実の指示をちゃんと守っている。その点については褒めたいと継実も思うが、されど流石に凍え過ぎだ。氷点下にもならないような寒さでへこたれるなど、獣としての精神力が足りない。確かに今の自分達は服として使える毛皮が調達出来なかったため全裸であるが、七年前の普通人類でも氷点下の水で泳ぐ寒中水泳が出来たのだ。より進化した生命体である自分達が、能力なしでも『下等生物』に負けるとはなんと情けない事か。

 

「全く。心頭滅却すれば火もまた涼しと昔の人間も言ってるのに。寒さだって精神力があれば感じなくなるんだよ」

 

 この軟弱者めと言わんばかりに、継実はミドリを窘めた。

 ところがミドリから返ってきたのは、己の未熟を恥じる目でも、反抗的な敵愾心でもない――――心から呆れている顔だ。

 

「いや、継実さん。強がるにしてもモモさんから離れてからにしましょうよ」

 

 その顔を向けながら、ミドリは指を差してきた……モモが伸ばした体毛で、全身をぐるぐる巻きにした継実を。

 モモも呆れた顔で継実を見ていたが、継実は全く気にせず。目を閉じ、ニヒルな笑みを浮かべた。特に理由もなく。

 

「ふっ。モモは私の家族。家族とは一心同体。故に髪の毛に包まれている私とモモは一体化し、私は裸と何も変わらないんだから」

 

「すみません、マジで意味が分かんないのですが」

 

「大丈夫よミドリ、私にもさっぱり分かんないから。でもまぁ寒い日の継実って、何時も起きたてはこんな感じなのよねー」

 

「……つまり?」

 

「元々結構寝ぼすけなのに、寒くなると更に酷くなる」

 

「継実さんの方がずっと寒さに弱いじゃないですか。心頭滅却は何処いったんですか」

 

 ミドリからツッコミを入れられる継実だが、これも見事に聞き流した。何分脳機能の半分ぐらいが未だに寝てるので。

 そしてニヒルな笑みを浮かべるために目を閉じたら、半分眠っている脳みそは夜が来たと誤認。夜=寝ると一ナノ秒で判断した継実の神経系は、速攻で睡眠に向けて転がり落ちていく。

 

「むにゃむにゃ……モモぉー、だっこぉー」

 

「うっわ、寝惚けてるし……」

 

「そう? ミドリが来るまでの継実って割とこんな感じだったわよ。よしよし」

 

「えぇぇ……確かに節々にそんな気配ありましたけど……あとモモさんは継実さんを甘やかし過ぎだと思います」

 

 モモに抱きつき、更なる暖を取ろうとする継実。モモは頭を撫で、ミドリはその様に心底呆れていたが……やがてミドリもちょっとそわそわ。ちらりちらりと物欲しげな視線を送り始める。

 その目が向くのは、裸の継実をぐるぐる巻きにしているモモの毛。ふわふわして、実に温かそうなパピヨンの体毛。

 

「……ところで後学のため、あたしもその毛に包まれてもよろしいでしょうか?」

 

「良いわよー」

 

「やったー。モモさん大好きー」

 

 試しにとばかりにしてきたミドリのお願いを、モモは嫌味一つ言わずに快諾。最早取り繕う事もせぬまま、ミドリもモモの体毛でぐるぐる巻きになった。継実の意識は既に殆どないので、ミドリがやってきた事には気付いてもいない。

 僅かに働いている意識も、向いているのは自分の身体を包むモモの体毛についてのみ。

 モモの体毛は非常に温かい。鳥の羽根のように枝分かれした構造はしていないものの、細かくて数が多い事で空気をたくさん含み、しっかりとした保温効果がある。しかも動いた際に生じた摩擦熱などを保持もしているため、そもそもそれなりに温かい。この発熱は歩いたりするだけでも生じるので、電気のようにわざわざ作り出す必要がなく、非常にエネルギー効率に優れる。更に更に肌触りが非常に良くて、落ち葉の布団など比にならない心地良さだ。

 この体毛の温かさや肌触りを例えるなら、一晩しっかり人の体温で温めた新品の布団だろうか。あらゆる効用が人間を駄目にするため、基本野生動物らしく自堕落で欲望に素直な継実でも、寒さの厳しい冬場以外は頼らないものだ……冬場になると無意識にお願いしてしまうが。能力を使った保温では、この心地よさは決して生み出せない。

 ぬくぬくポカポカ。砂漠の夜明けを前にしながら、継実は家族二人と共に堕落を貪る。自分は世界で一番幸せな人間だと本能的に確信しながら、幸福な温かさを思う存分楽しんだ。目の前をムスペルやらなんやらが通り過ぎては砂に潜ってていったが、体毛の温かさを堪能するのに全力な継実は無害な生物達など興味すら抱かなかった。そして巨大生物達に、寝惚けた虫けら共への興味などない。

 かくして日の出から二時間ほど経ち、気温がそれなりに高くなった頃――――

 

「あああああああああ! 寝過ごしたあああああああああああああぁぁぁぁぁ!」

 

 降り注ぐ暑さと共に我に返った継実は、砂漠の大地に突っ伏すのだった。

 ちなみに家族二人からは、呆れきった眼差しを受けられている。侮蔑という訳ではないが、しょうもないものでも見るかのような瞳だ。

 

「ああ、早く起きて涼しいうちに少しでも先に進もうとは思っていたんですね……」

 

「ぐぬぎぎぎ……なんで起こしてくれなかったのさモモぉ!」

 

「ちゃんと起こしたわよ。アンタが考える前に二度寝しただけで」

 

 継実がぶつけた子供のような文句に対し、モモは母親のような返しをする。七年前に母を失った身としては嬉しさを感じなくもないが、それよりも後悔の念がずんどこ(継実的感想)と心から沸き立つ。思えば七年前の小学生時代から、「早起きすればたくさん遊べる!」と決意しても三日坊主どころか一日も上手くいった試しがない。七年前から何も成長していなかった自分に気付いてしまい、ますます自己嫌悪に継実は陥る……成長する必要のない環境だったのも一因だという言い訳は、ひっそりと思ったが。

 ちなみに家族二名は、嫌悪する継実を励まそうとすらしなかった。元より遅刻もスケジュールもない旅故に、『寝坊』したところで何も思うところなどないので。

 

「まぁ、別に継実が寝坊したのはどうでも良いんだけど。そろそろ出発しない? 別にこのまま今日は地中で惰眠を貪るでも私は構わないわよ」

 

「ですね。行くなら行くで早くしましょうよ。気温は後悔してる間もどんどん上がりますよ?」

 

「うぅ……薄情者共めぇ……」

 

 睨んでみるが二人は何処吹く風。それよりさっさと立ち上がれと言わんばかりの視線を向けてくる。

 ……このまま遊んでばかりでも悪くはないが、そろそろ真面目に進まうかと継実も気持ちを切り替えた。立ち上がり、手足に付いた砂を払い落とす。

 

「……しゃーない。明日こそ早起きするとして」

 

「あ、まだ諦めてないんですね」

 

「絶対無理よ。七年間、冬に早起き出来た事なんて一度もないんだから。今日の晩ごはん賭けても良いわ」

 

「それ賭けになってませんよ。あたしもまた寝坊するのに賭けるので」

 

「さっきから二人とも五月蝿い! 兎も角! そろそろ行きましょ。昨日みたいに、出来るだけエネルギーの消費は抑えるようにね。水の補充は問題なく出来そうだから、今日も水よりエネルギーの方を重視しましょ」

 

 出来るだけ威厳を見せ付けるようにしながら、継実は今日の指示を出す。にやにやと笑ってはいるものの、二人から反対意見は出てこない。

 二人とも出発準備は出来ている。元より遊びでおちょくっているだけだ。『真面目』になれば継実の醜態など些末な話。

 継実も気持ちは切り替えた。もう遊びはここまで。今から自分達は過酷な砂漠の横断を再開する。

 

「はい、しゅっぱーつ!」

 

 二日目の砂漠の大地を、継実は昨日よりもちょっとだけ早歩きで進み始めるのだった。



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干からびる生命06

 砂漠の太陽は、昇り始めてさして時間も掛からないうちに何時もの力強さを取り戻した。ギラギラと空で輝き、地上を灼熱に変えていく。

 雲一つない空からの直射日光は強烈で、能力を使わないよう努めている継実とミドリにとっては極めて危険なもの。体温は時間が経つほど上がり、身体中から汗が止めどなく溢れ出す。

 しかしミュータントの身体は、能力なしでも存外頑丈だ。十度かそこら上がったところでなんて事はない。それに汗を流せば体温はどんどん下がる。体調は狂いなく、身体の動きはスムーズ。継実の足取りはそれなりに速く、砂の大地をどんどん進んでいけた。かれこれ一時間は歩き続けているが、その歩みは衰えるどころか、ますます加速している。

 

「今日は随分なハイペースね。そんなに急ぐような旅じゃないのに」

 

 あまりの速さに、モモからそんな問いが飛んでくるほどだ。

 くるりとモモの方に振り返った継実は、後ろ歩きで相棒と向き合う。ついでに、モモのちょっと後ろをへろへろになりながら着いてきているミドリも見た。

 ミドリの疲れ方を見るに、確かに少々速く歩き過ぎたかも知れない。そうは思うが、けれども足取りの速さにはちょっとした事情がある。

 

「そーだけどさ、全然何もないじゃん? 思っていた以上に」

 

「確かに、思っていた以上に何もないけどね」

 

 継実が正直に理由を明かせば、モモも同意。辺りをキョロキョロと見回しながら、肩を竦めた。ミドリも継実と目が合うや、こくりこくりと頷く。

 継実の足取りが速い理由は、脅威を感じられないから。

 生命の気配がないのだ。歩けども歩けども、自分達に襲い掛かろうとする気配が感じ取れない。頷いていた事から、継実の索敵だけでなくミドリの索敵にもこれといって引っ掛かっていないようである。これまでゆっくり歩いていたのは周りの警戒をしっかり行うためであり、脅威が感じられない事で無意識にその足が軽くなってしまった訳だ。

 とはいえ、違和感を覚えない事もない。

 

「(流石にここまで気配がないのは、なーんかおかしいと思うんだけどなぁ)」

 

 改めて周りを探るも、やはり継実には生命の存在を感知出来ない。しかもムスペルのような大型生物だけでなく、砂漠横断一日目にはそこそこ見られたトカゲや虫のような小動物の姿もだ。

 やはりニューギニア島で出会った化け物達のような危険があるのだろうか? 脳裏を過ぎる考えだったが、しかしそれは違うと即座に判断する。ムスペルという、大蛇達に匹敵するミュータントがいる中でも小動物達の姿はあったのだ。今更、この辺りで生命の気配が消えるとは思えない。

 何かがおかしい。

 このような時は何時だって脅威が振りかかってきた。一時的に緩んでいた警戒心を再び高め、継実は改めて周囲を見渡す。

 索敵については、継実もミドリも『手加減』なんてしていない。削れるものは削るといっても、索敵能力を削って奇襲攻撃を受けては元も子もないからだ。つまるところ今更警戒心を強めても、やはりなんら新しい発見はない。

 どう考えても安全な状況だ。正直なところ「やっぱ空でも飛んでひとっ飛びしちゃおうか」という気持ちが湧き上がる。しかしながらこちらの索敵を素通りしている脅威の存在がどうしても排除出来ないので、それを実行する気にはなれないのだが。

 ちなみに継実よりも索敵能力に優れるミドリは、大分警戒心が薄れている様子だ。元々おっとりしていた雰囲気が、輪にかけて緊張感に欠けている。周りを見渡す目は周囲の警戒ではなく、ただ景色を眺めるようだ。疲れがあるにしても弛み過ぎだろう。

 

「あたし的には、何もない方が良いんですけどねー……ぶっちゃけ砂漠の観光をしたいぐらいです。暑さにも割と慣れてきましたし」

 

「こーら、流石に気を弛め過ぎ。ニューギニア島での事忘れたの?」

 

「忘れてませんけど、あの時とは状況が違うじゃないですか。頑張って索敵してみましたけど、大きな動物だけじゃなくてネズミもサソリもいませんよ。虫の蛹もありませんから、みんな何処かに逃げたんじゃなくて、元々此処には何もいないと思うんですけど」

 

 継実が窘めたところ、ミドリなりに思うところがあるのか彼女はすぐに反論してきた。

 そしてその反論は、至極尤もなものである。

 ニューギニア島での異常事態は、大蛇とヒトガタの接近を感知した生き物達が逃げた事で起きていた。だからヤドカリのように身を守れる自信のある生き物は普通に活動し、どうやっても逃げられないようなイモムシは蛹となって耐えた。そもそも逃げた生き物達も貝殻の下に避難していただけ。居場所さえ見付ければ『発見』は出来ていた。

 されど此度の異変は似て非なるもの。本当に生き物の気配が微塵もない。昆虫の蛹などは一つも見付からず、「オイラはへっちゃらだい」と言いたげな生物も見られず。そして身を隠せる場所なんて、地中奥深くぐらいなもの。

 ミドリが言うように、元々生き物がいないと考える方が自然なのだ。そして元々生物数が少ないなら、尚更この地域は安全だと言えよう。

 

「……まぁ、そういう場所もある、のかな」

 

 ミュータントの適応力を思うに、()()()()()()()()()()で生息出来ないとは未だ思えないのだが……状況が示す答えは今のところ一つのみ。ならばそれを根拠なく否定するのは、非合理的な感情論というものだ。

 それでも本能が、ぐずぐずとした想いを吐き出す。どうにも納得出来ない。

 

「でも警戒は緩めない事。何処からまた生き物が見られるようになるか分からないし、ハマダラカみたいに誰にも見えてないだけって可能性もあるんだから」

 

「分かってますって。それなりには気を付けますから」

 

 とりあえず改めて窘めておく継実だったが、ミドリの答えはあまりにも警戒心に欠けた。仕方ないなと、継実は自分がその弛んだ分の警戒心を引き受けようとした。

 しかしながらそれも長くは続かない。

 唐突に吹き荒れた強い風が、大量の砂と共に継実達へと押し寄せてきたからだ。

 

「くっ……」

 

「ばぶっ!?」

 

「あらあら砂嵐ね。継実、ミドリ。大丈夫?」

 

 全身を体毛で包み込んでいるモモは平然としながら、継実とミドリに尋ねてくる。

 能力を使えばこんな砂嵐など痛くも痒くもないのだが、使わなければ普通に辛い。裸故に剥き出しの肌に砂がぶつかってくるが、その勢いは正に弾丸のよう。正直かなりの痛さだ。

 更に砂煙の所為で前が殆ど見えない。これでは前に進むのは勿論、周囲の警戒も難しいだろう。もしも砂煙の中に猛獣が隠れ潜んでいたら、一溜りもない。

 エネルギー消費を抑えるために能力は使わないようにしていたが、出し惜しみで死んでは意味がない。

 

「(身体の方は兎も角、視界だけは使うしかないか……!)」

 

 継実は能力を発動させ、暴風と砂煙の中を見通す。

 すると、一つの『姿』が見えた。

 砂嵐が吹き荒れる中に何かがいたのだ。継実達がこれから向かおうとしていた、その先の大地に。

 何時の間に現れた? 否、それよりも正体はなんなのか。どうにもそれは細長く、長さも五十センチほど――――

 というところまで観察したところで、現れたそれは地面に潜ってしまう。能力で継実は後を追おうとしたが、砂に潜ると途端に姿が見え辛くなってしまう。なんらかの能力か、はたまたそういう体質なのか。

 

「ミドリ! 地面に潜っていった奴を探って! 何かがこっちを見てた!」

 

 継実は即座にミドリへと指示を出す。自分には出来なくとも、ミドリの能力ならば出来ると読んでの判断だ。

 

「あびゃびゃびゃー!?」

 

 ……残念ながらミドリは、暴風と砂嵐に負けてすっ飛ばされていたが。ミュータントとしての力すら貧弱な彼女の身体は、能力なしだと正に小娘のように貧弱なようだった。

 そうして転がるミドリを眺めている間に、地面に潜った何かはすっかり姿を眩ませてしまう。これでは追跡は不可能だ。

 すると砂嵐は唐突に止む。もう、これ以上は必要ないと言わんばかりに。

 

「……モモ。臭いとか追えそう?」

 

「無理。つーかなんの臭いもなかったわ。何がいたかは知らないけど、少なくとも獣じゃないわね」

 

 駄目元でモモに尋ねてみたが、モモからの回答もこんなもの。やはり追跡は出来ないらしい。

 

「OK、分かった。流石私の相棒ね」

 

 その上で継実は、しっかりと情報を掴んできたモモを褒める。

 モモでも臭いが感じられない……そのような存在はかなり限られる。例えばモモが言うように、全身が毛で覆われているタイプの獣という可能性は低いだろう。体毛で包まれている身体は空気がこもる都合、どうしても独特の臭いも残るからだ。また粘液に覆われている生物も、体液の臭気をばらまく筈。

 細長い姿というのもあるし、ヘビやイモムシの類だろうか。しかし、よく考えればネズミの尾のような可能性も捨てきれない。何も全身が出ていたとは限らないのだ。

 『何か』と比べれば随分範囲は狭まったが、やはりまだまだ情報不足。追えなかったのは小さくない痛手かも知れない。

 前向きに受け取るならば、何かされる前に見付ける事が出来た、と言うべきだろうか。

 

「(或いはこっちを警戒して様子見に来ただけ、という線もあるか)」

 

 そうであるなら貴重なエネルギー源。是非とも捕まえて腹に収めたいところだ。無論、リターンがそのための『投資』に見合うものであればの話だが。

 なんにせよ未確定なものに油断は出来ない。油断は出来ないが、だからといって能力を発動させ続けるのは好ましくない。エネルギーが不足し、砂漠の真ん中で行き倒れてしまう。例え相手が美味しい食べ物だとしても、常時エネルギーを消費して探し回っては割に合わなくなってしまう可能性がある。そして何かがいると分かった以上、もう空を飛んで砂漠を一気に駆け抜けるなんて『リスク』は犯せなくなった。

 つまり自分達は可能な限り『加減』をしながら、何時何処から何が来るかも分からない場所を、時間を掛けて進まねばならない。

 噛み合わせたくない状況が噛み合わさってしまった。元より油断大敵ではあるものの、楽かと思った旅路は、どうやら何時ものように困難らしい。それについて悪態やため息の一つぐらいは吐きたいのが正直なところ

 しかし継実はにやりと不敵に笑う。

 安全を求めていたのは本心である。けれども退()()を好まないのも、知的生命体である人間の本能だ。最初こそ風景に感動もしたが、慣れてしまえばモモが述べたように砂があるだけの地域にしか見えない。こんな大地をたらたらと歩くだけなんて実につまらない事ではないか。

 意識をしても少しずつ抜けてきていた『気合』が、全身に滾るのを継実は感じた。

 

「ちったぁ面白くなってきたじゃない。燃えてきたよ」

 

「継実ってそーいうところあるわよねぇ。ま、私も思わなくはないけど」

 

 継実が本心を言葉に出すと、モモはちょっと呆れたような声で同意する。肉食獣である彼女も、『刺激』を受けて気分が昂ぶっているのだろう。

 二人は同時に顔を合わせると、不敵な笑みを見せ合う。

 

「げほげほ……あぁ、酷い目に遭った……あ、継実さん。さっきなんか言ってましたか?」

 

 しかし最後に三人目の家族が話し掛けてきた事で、身体に満ちていた力はすとんと抜けてしまうのだった。



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干からびる生命07

 未だ砂嵐が来たとしか認識していないミドリに、継実は現状について詳しく話そうとした。されど砂嵐の『元凶』は、そんな猶予を与えるつもりはないらしい。

 戻ってきたミドリを、再び強烈な砂嵐が襲う!

 

「ぎゃんっ!?」

 

「はいはい、天丼しなくて良いから」

 

 砂嵐の直撃を受けたミドリは、またしても大きく吹き飛ばされそうになった。が、モモが伸ばした体毛でキャッチ。再びミドリが飛ばされるのを防ぐ。

 その間に継実は二度の砂嵐をじっと見据えながら、思考を巡らせる。

 まず、この砂嵐は()()()()()のものなのか。確実に言えるのは『攻撃』が目的ではないという事。何しろ現在吹き付けている砂嵐はミュータントどころか、能力を使っていない『生身の人間』すら殺せない程度の威力しかない。これではダメージを与えられていないどころか、自らの存在をアピールシているようなものだ。もしも攻撃として放っているのなら、体力の消耗がないだけ何もしない方がマシであろう。知性があればそんな事はすぐに気付くし、例えなくともミュータントならば本能的に無駄な攻撃だと察する筈。

 つまりこの攻撃にはなんらかの、攻撃以外の意図があると考えるのが自然だ。

 思索を巡らせた継実が、ざっと思い付いた理由は二つ。

 一つは目晦まし。巻き上げた砂により継実達の視界を奪い、その相手に攻撃なり逃走なりをするため。継実のような透視能力持ちも数多くいるとはいえ、ミュータント相手にも目潰しは有効な技の一つだ。敵が動けない間に何処かに逃げてしまえば安全を確保出来る……とはいえ此度の相手は既に砂の中に潜り、継実では探知出来ない場所まで退避している。今更目晦ましが必要とも思えないし、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()と、逃げたい敵に知らせるのは得策とは言えまい。目眩ましは敵がこちらを認識している、そのタイミングに一回だけするのが効果的なのだ。

 ならば二つ目の理由の方が有力だろうと継実は考える。

 

「(コイツ……私達を()()()()つもりか)」

 

 砂嵐を見通すために使っている能力で周りも見てみれば、大きな生物が幾つも(最低でも三体。索敵の漏れを考慮すればもっと増えるかも知れない)自分達の方に近付いてくるのが分かった。正体は不明だが、かなりの大きさ、少なくとも継実を遥かに上回る体躯の持ち主のようだ。動きの素早さやガッチリとした体躯からして、獰猛な肉食獣と推測される。

 そして何より重要なのは、この大型生物達が真っ直ぐ自分達の方に向かってきている事だろう。

 偶然こちらに向かっているように見えるだけなら良かったが、見えている三体がほぼ一直線に向かってきている状況だ。明らかに『何か』を目指していて、このだだっ広い砂漠で何かとなり得そうなものは自分達しか見当たらない。これで「ひょっとしたら気の所為かも」なんて甘ったるい考えを抱くようなら、今頃継実達は誰も生きていないだろう。最悪を想定しても、それを飄々と上回ってくるのがミュータントなのだから。大型生物達は間違いなく、継実達の存在を感知し、その距離を詰めてきている。

 恐らくこの砂嵐を起こした元凶は、砂嵐ではなくただ風を吹かせただけなのだろう。その風により『臭い』を遠くまで運ぶのが真の目的。継実達の体臭に気付いた猛獣を集め、風上へ継実達を誘導している訳だ。

 背後から猛獣の接近を感じた以上、継実達としては『後退』するのは中々難しい。戦って突破出来そうな相手なら、多少強引にでも身を翻した方が良いのだろうが……残念ながら背後から迫る気配はかなり強大なもの何しろ継実達三人分の臭いを感じてなおもやってくる連中だ。自分の実力に相当の自信がなければくる筈がない。絶望的というほどの力の差はないので必ずしも勝てないとは限らないが、地形の不利も考慮すれば十中八九継実達にとって無謀な戦いとなるだろう。

 猛獣達と戦うのは得策とは言えない、いや、自殺行為と考えるべきだ。ならば罠だと分かっていても、愚直に風上へ向けて歩くしかない。

 元より、継実達の目的地は風上()にあるのだ。

 

「上等……誘いに乗ってやろうじゃない」

 

「物は言いようねぇ。こんなの乗らされてるだけじゃないかしら」

 

 覚悟を言葉にする継実。対してモモは、呆れたようにツッコミを入れてくる。実際にはモモの言う通りなのだが、こういうのは気持ちが大事なのだ。継実は不敵な笑みを返し、それを理解しているモモもなんやかんやで笑い返す。

 

「ミドリ、前進するよ!」

 

「は、はい! えと、後ろから続々と来てらっしゃる方々はもしかしなくても……」

 

「私達をランチにするつもり満々だから、急いで逃げないと駄目だよ!」

 

「ですよねー!」

 

 後ろからの気配に気付いていたミドリも、泣きべそを掻きながらも大人しく継実と共に歩く。砂嵐が来ていると分かっていれば、ミドリ一人でも飛ばされずに前へと進み始めた。

 しかしこれで安心するのはまだ早い。現れた猛獣達の移動速度はかなりのもので、ちんたら歩いていたらすぐに追い付かれるだろう。そうなればミドリに言った通り、獣達のランチになってしまう。

 継実は駆け足気味で進み、モモとミドリも合わせて駆け足に。されどこれでも猛獣達の方がずっと速い。段々と距離が詰まってきて、それを感じ取れるミドリが不安そうに何度も後ろを振り返っている。継実としても、のんびり歩いて追い付かれるなどごめんだ。難なら今から全速力でのダッシュをしたいところだ。

 だが、継実とて考えなしに歩いている訳ではなかった。

 

「(速さを出すと、効率が落ちる。時速四キロをあまり超えたくない)」

 

 理由の一つは砂漠に来てからずっと意識し続けている体力温存のため。速く走った場合の体力消費は速度に比例した増大とはならない。何故なら速く走るとその分空気抵抗が増大し、加速するのにより多くのエネルギーが必要になるからだ。例えば七年前の普通の人間の全力疾走である時速二十キロの速さの場合、全体のエネルギー消費の約七・七パーセントが空気抵抗のため余計に掛かっている計算である。そして速度の二乗に比例して空気抵抗は増大していき、エネルギー消費量もそれに応じて増えていく。

 その気になれば秒速数キロで動き回れる継実達ならば、空気抵抗により消費されるエネルギー量は途方もなく多くなる。『変形』以外の方法で空気抵抗を抑えるにはゆっくり進むしかないため、徒歩という動きが効率上最適となるのだ。

 そしてもう一つの理由。これは歩かなければならない理由ではなく、歩いても大丈夫だという理由だ。ただし現時点ではまだ憶測に過ぎない。恐らくそろそろだろうと継実は考えながら、しかし万一に備えて迫る猛獣から意識を逸らさないようにし……

 やがて予想が現実になる。

 追ってきていた猛獣達が、急にその動きを止めたのだ。ある一定ラインの手前で足踏みし、その先に進もうとしてこない。しかも昂ぶる気配からして諦めた様子がないという、極めて歪な状態だ。

 継実にとってこれは予想通りの展開である、が、されど継実はその顔を酷く歪める。そうなると考えていたのと、そうなってほしいには、大きな隔たりがあるが故に。

 

「あ、あれ? なんか、後ろの生き物達が止まったのですけど……」

 

「みたいね。成程、この辺から奴のテリトリーか」

 

「じゃ、こっから本気で気を引き締めないといけないわね」

 

「ええ。さて、どの程度能力を使える状態にしておくべきか。何時奇襲されるか分からないけど、だからこそ体力の消耗は抑えたいし」

 

「え? え? なんの話ですか?」

 

 一人なんの話かも理解していないミドリが、困惑したようにおろおろする。

 実のところ先の砂嵐には三つ目の可能性――――『継実達を猛獣に襲わせて排除する』という意図である可能性もあった。自分に戦う力がないから強い奴等を頼るという、中々賢い方法である。

 しかし猛獣達が途中で足を止めた事で、もうその可能性はない。もしも猛獣達に継実達の排除を任せるなら、その猛獣達が継実を追うのを止めるなんてあり得ない。

 此処から先は猛獣達でも迂闊に近寄れない、真の危険地帯という訳だ。明らかに自分達は誘い込まれた側である。これまでは前者の可能性が残っていたのでミドリには伝えていなかったが、確定したならば話さないでおく理由もない。

 

「簡単に言うと、こっから先は何が出てくるか分からない危険地帯って事。しかも砂漠はまだまだ続くから、体力は温存しないといけない状況ね」

 

「……あ、はい。そうですか」

 

「あれ? 思ったよりも冷静に受け止めるんだね? というか理解するの早くない?」

 

「なんというか、あたしもそれなりに慣れてきましたので」

 

 説明を聞いたミドリは取り乱さず、諦めたように乾いた笑みを浮かべる。

 この世界に、心から安心出来る地などないと。ミドリはそれを此処までの旅路で幾度となく経験してきた。その経験が彼女を『成長』させたらしい。

 頼もしくなった家族は、諦めつつも強い心を秘めた瞳で、砂の大地の地平を見つめていた。

 

「よっし! こっから先は遊びなしの領域だ。気合入れていくよ!」

 

 その気持ちを応えるように、継実は正面を見据えながら掛け声を発し。

 直後、背後から聞こえてきた轟音によって、継実達の歩みは中断させられた。

 

「ん――――」

 

 何が起きたのか。それを知ろうと継実は後ろを振り返り、そして自らの表情を驚愕に変える。

 継実達が通ってきた場所である、約六キロ後方に巨大な『断裂』が出来ていた。

 文字通り、地面に出来た断裂だ。幅数十メートル、東西に数十キロと続く大地の裂け目が出来ている。継実が自らの『目』で見たところ、断裂の深さは百メートル以上あるではないか。地上の砂がざらざらと崩れ落ちていたが、それが積もって断裂を埋めてくれる気配はない。

 ミュータントの身体能力を使えば、この程度の切れ目を越えるぐらい造作もない。仮に落ちたところで怪我もしないし、難なら飛び降りた後に崖登りも楽々とやってみせよう。しかし問題の本質はそこではない。

 ()()()()()()()()()()()()()と、相手はプレッシャーを掛けてきている訳だ。既にそれを超えた継実達に対して。しかも猛獣達の気配が立ち止まったのも、そのデッドラインの手前数百メートル。ひょいっと飛び越えて戻ろうとすれば、恐らく猛獣達は神速で距離を詰めてくる。

 越えてはならない一線を教えてくれるとは、なんと親切な印なのだろうか。お陰で「もしかしたら」という気持ちは消し飛び、前進しか道がないと分かった。出来れば、越える前に教えてほしかったが。

 

「人間染みた陰湿さだなぁ……」

 

 陰口を叩きつつも、継実は後悔の念を心から追放していく。精神面の調子というのは、野生の世界においても重要なもの。野生動物達は人間ほど軟な精神はしていないが、精神的に崩れた時の不調は人間と変わらない。手遅れだのやらかしただのという数々の負の意識は、間違いなくコンディションに影響する。

 狩る側からすれば、獲物の調子が良くないのは正に好機。それを意識的か本能的かは兎も角、こうして引き起こそうとしてきたのだ。此度の相手は獲物を追い込むのに()()()()()()。まんまと誘い込まれた哀れな獲物に、果たして勝機などあるのか――――

 弱音が入り込みそうになった頭を、継実は力いっぱい振りかぶった。ここで精神的に挫ければ正に相手の思う壺。

 そして一瞬でも油断を見せれば、きっと相手は攻撃を仕掛けてくるだろう。デッドラインを越えた直後に大地の切れ目を作り出し、()()()()()()()とアピールしているぐらいなのだから。警戒を弛めてはならない。しかも食べ物に乏しい砂漠なので、体力の温存に細心の注意を払いながら、だ。

 

「……さぁ、どっからでも掛かってこいってんだ」

 

 強気な言葉を発しながら、継実はモモとミドリと共に砂漠の奥地目指して歩み出した。全身全霊の警戒心と体力の温存を意識し、どのような困難が押し寄せようとも対処してやると決意を固めながら。

 その決意を試すかのように、早速新たな、何より本格的な『砂漠』の洗礼が継実達に襲い掛かってくるのだった。



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干からびる生命08

 砂嵐に次いでやってきたのは、灼熱の熱波だった。

 無論ただの熱波ではない。今までも五十度前後の気温が、急激に上昇を始めたのだ。五十度から六十度になるのに数分と掛からず、更に十度上がるのにまた数分と掛からない。

 三十分も経った頃には、気温は百度近い高さにまで上がっていた。砂漠の砂はパチパチと焼けたフライパンのような音を鳴らしている。

 ミュータントの足でなかったら、今頃でろでろに焼け爛れていただろう。

 

「こりゃあ……中々のもんだ……」

 

「ほんとにね。流石にこれは能力なしじゃキツくない?」

 

 流れ出る汗を拭いながら砂漠を歩く継実に、涼しい顔をしたモモが尋ねてくる。モモと継実の後ろでは、ミドリがひーひー言いながら後を追ってきていた。

 確かに今継実達がいる砂漠はかなり高温になる地域だが、しかしこの気温はあまりにも高過ぎる。人類が観測した最高気温ですら、百年以上前にアメリカのデスバレーで記録された五十六・七度でしかない。地球温暖化やミュータント繁殖による気候変動を加味しても、その最高気温を五十度近く上回るのは明らかに異常だろう。

 その異常の原因に思い当たる節がある継実は、視線を地平線へと向ける。

 砂ばかりが広がる大地。一見してなんの変哲もない、ただの砂丘ばかりが並んでいるように見える。実際継実の目でも砂丘自体はなんら異常のない、そこらにある砂と同じものにしか見えない。七年前の人類が総力を結集させても、この異常気温の原因は恐らく掴めなかっただろう。

 しかし今の継実ならば簡単に見破れる。

 

「(砂の反射光が、正確に()()()()()()()()()()()())」

 

 砂漠に満ちている砂粒達は、多くがキラキラと輝いている。言い換えればそれは光を反射しているという事だ。そしてそうした砂で出来た砂丘も、当然光をギラギラと反射している。

 通常であれば、砂粒の反射光は四方八方に飛んでいき、一点に集中する事はない。されど今、継実達の周りにある砂丘の反射する光は継実達に照射されるように集まっていた。砂丘の『形状』により光の反射方向が制御され、一方向へと進むようになっているのだ。

 この奇怪な地形は決して自然の産物ではなく、砂の下を蠢く『何か』の動きによって作られている。『何か』が移動する度に砂丘が崩れ、反射光の向きが変わり……継実達を追尾していた。一度や二度なら偶然かも知れないが、こうも執拗にやられたら流石に無実ではないだろう。

 照射といっても狙いは存外雑で、照らしているのは継実達の周辺だけ。スポットライトのように照らしているだけと言う方が適切か。しかしなんの小細工もされていない普通の砂漠であっても、砂からの照り返しによる体温上昇は馬鹿にならない。周辺の光を一点に集中させれば、局所的に百度を超える事などさして難しくもないと思われる。

 平時であればこの程度の高温など脅威ではないが、体力消費を抑えようという時には厄介極まりない。恐らく攻撃が目的ではなく、消耗を促すのが目的なのだろう。ならば自慢の力を存分に披露して暑さを無効化するのは、相手の掌の上で踊る事に他ならない。

 可能な限り少ないエネルギーで、この灼熱地獄を抜ける必要がある。

 

「モモ! 毛を広げて日差しを遮って!」

 

「はいよー。ミドリ、こっちおいで」

 

 継実の指示を受けたモモは、ミドリを手招きして呼び寄せる。汗だくでへろへろなミドリは、ちょっと気合いを入れ直すように咳払い一つ。それから駆け足でモモの傍まで移動した。

 三人全員が集まったところで、モモは自らの『髪の毛(体毛)』を大きく伸ばす。そして伸ばした髪は空高く上がると左右に展開。更にその後端だけが下側へと伸びていき、継実達の周囲をぐるりと囲う。

 モモお手製の日傘だ。無数とはいえ体毛なので隙間は幾らかあるのだが、それでもかなりの『日光』を遮ってもらえた。お陰で体感温度が一気に下がり、汗を掻いていた事もあってかなり涼しくなったと継実は感じる。

 ミドリも同じく涼しさを感じられたのだろう。今までの疲弊していた顔が一転、極楽に旅立ちそうなほど弛みきった表情を浮かべた。

 

「はひー……いぎがえりまずぅー……」

 

「こらこら油断しないの。なんで今までこれを使わなかったのか考えなさい」

 

 すっかり警戒心を失ったミドリを、モモが窘める。

 このお手製日傘は、遮光という点に関して言えば最良の手段だ。照り付ける日差しの殆どを遮るし、隙間が多いので風通しも悪くない。更にただ体毛を伸ばしているだけなのでエネルギー効率も非常に優れる。

 等々利点はあるのだが、それでも今まで使えいたくないと思わせる致命的欠点が一つある。

 自分の周りを囲ってしまうので、周辺を見渡すのが著しく困難になる点だ。隙間があるので全く見えない訳ではないが、どうしても視界が遮られてしまう。これでは外敵や脅威の接近に気付くのは難しい。

 継実は周囲の警戒を強める。どんな危険が来ようとも、必ずモモとミドリの身を守り抜いてみせると。

 残念ながら、その決意は瞬く間に砕かれる。

 

「――――んギャッ!?」

 

 日傘を展開していたモモが突如として呻いたからだ。

 継実は酷く驚いた。モモが突然声を上げたからというのもあるが、何より周辺の警戒は一切手を抜かずにやっていたのだ。そしてなんらかの『攻撃』が来た気配はない。

 一体何処から攻撃されたのか? 何が攻撃してきたのか? 理解不能の状況が継実を戸惑わせ、動きを一瞬止めてしまう。

 

「も、モモさん!? どうしたのですか!?」

 

 混乱した継実よりも、ミドリの方が先にモモへと尋ねる。

 モモは顔を顰めながら答えた。

 

「いや……毛が凄いベタ付いて、なんか、気持ち悪い……」

 

「気持ち悪い……?」

 

 モモの言葉に違和感を持ち、継実はモモが自分達を囲っている体毛に目を向けた。ただしじぃっと眺めて、体毛の細部まで観察するように。

 そうすれば答えはすぐに見えた。

 モモの体毛にはびっしりと、『塩』の結晶が纏わり付いていたのだ。塩と言っても食塩ではなく無機塩類と呼ばれるもので、此度やってきたものの主成分は塩化アンモニウムのようである。成分的には猛毒という訳でもない(人間社会では肥料などの原料に使われていた)代物だが、故に肌や体毛に付着すればべたべたとした汚物と化す。

 塩は吹き付ける風と共に運ばれてきていた。オーストラリア大陸のど真ん中という海から果たしなく遠い地だが……砂漠という土地は、実はかなり『塩害』を起こしやすい。地中深くに無機塩類が豊富に含まれており、水を吸い上げる際この塩分も地上に出てしまうのが原因だ。敵ミュータントはこうした塩害のメカニズムを応用し、大量の塩分を用意したのだろう。

 塩が身体に付いたからといって、身体機能が著しく低下する事もない。毒性も低いので全身に浴びても生きてはいける。だが、ミュータントの鋭い感覚器にはこうした『ノイズ』が非常に喧しく感じてしまう。優れた感覚故の弱点であり、精神的疲弊を強める一因だ。これでは周りを警戒する力が衰えてしまい、外敵の接近に気付き難くなる。

 

「モモ、あまり気を張らないで。私とミドリで周りを見渡すから、モモは日傘の維持だけを考えて」

 

「ええ……ちょっと今は任せるわ」

 

 塩分による不快さに呻きながら、恐らくモモは周辺の警戒を緩めたのだろう。ほんの少し、表情を和らげた。

 代わりに継実は全身全霊で周辺を警戒する。ただし代償は小さくない。継実の索敵方法は周辺粒子の動きを観測・計算する事で成し遂げており、その計算には多くのエネルギーが必要だ。砂漠環境故にエネルギー消費を抑えたい継実としては、索敵一つ取ってもあまり使いたくない。

 しかし索敵しない訳にはいかない以上、他のところでエネルギー消費を抑えるしかないだろう。

 

「(モモが日傘を作ってくれたし、体温維持は発汗だけで十分。こっちは索敵に集中だ……!)」

 

 モモの毛が太陽光を遮ってくれているお陰で、継実の周辺気温は四十数度程度まで下がっている。大気が乾燥しているため発汗による気化熱は効率的に働き、能力による補助をしなくても体温は一定に保たれるだろう。

 ならば体温に意識を向ける必要はない。そちらは身体が元々持っている機能に任せる事にした。これにより、エネルギーを抑えたままかなり広範囲の索敵が可能になる。

 その成果は間もなく得られた。

 遥か数百メートル後方に、継実達をじっと佇む――――()()()()()が現れたのだから。

 

「え?」

 

「? どうかしましたか、継実さん」

 

「いや、今あっちの方で」

 

 人みたいなものが、とミドリからの問いに答えようとする継実。

 ところが意識を再度数百メートル先へと向けた時、見えていた筈の人型物体は影も形もなくなっていた。あれ? と首を傾げたくなったが、されどそのような暇はない。

 突如として、自分達の足場がぐずりと崩れ落ちたのである。

 

「ぬぉうっ!?」

 

「きゃあっ!?」

 

 継実達三人は崩れた砂地に足を取られ、砂と共に大地を下る。ミドリが尻餅を撞くようにすてんっと転ぶ中、モモと継実は優れたバランス感覚で転ばずに体勢を保ちながら砂の行く先に目を向けた。

 砂はどうやら大地に出来た『穴』に向けて落ちているらしい。穴の直径は、砂が流れ込んでいる状況で測定するのは中々難しいが、凡そ十メートルはあるようだ。

 無論、元々こんな穴があったならとっくに砂は落ちきっている筈。今この瞬間に穴が出来た……否、作られたと考えるのが自然か。言うまでもなくこんな大穴を仕込んだ犯人は、自分達の周りにちらちらと現れている『何か』だと継実は判断する。

 七年前の生身の人間であれば、流砂に飲まれればやがて生き埋めとなり、窒息死した事だろう。そして崩れる砂の流れに歯向かうのは難しく、逃れられない恐怖で発狂したに違いない。しかしミュータントにとってはこの程度の状況、どうという事もない。

 

「跳ぶわよ!」

 

 モモが継実とミドリを抱きかかえ、力いっぱい砂地を蹴る! 砂地という力の入り難い足場であるが、それでもモモの力ならば脱出は容易。

 易々と崩れる砂場から脱出したモモは、着地と同時に一息吐く。

 

「っ!?」

 

 しかし継実は落ち着きを取り戻す前に、背後を素早く振り返った。

 不意に現れた人型の何かが、自分達の背後を取っていると感知したがために。

 そう、感知したのだが……振り返る時にはもう、気配はすっかり消えていた。肉眼で見えるようなものもなく、ただ砂の大地が広がるだけ。

 

「……ミドリ。後ろに何かいなかった?」

 

「え? いえ、あたしは特に……え? 何かいたのですか!?」

 

「いた、気がするんだけど……ハッキリとは見てない」

 

 ミドリに尋ねてみたが、彼女は特に何も感じ取っていない様子。

 本当に何かがいたのか、はたまた気の所為なのか。考えようとする継実だったが、そんな猶予はなく。

 再び吹き荒れた暴風に混ざって飛んできた、サボテンの棘という地味な『嫌がらせ』が襲い掛かってくるのだった……



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干からびる生命09

 これまで継実達は、様々な強敵と戦ってきた。

 日本の森で鉢合わせた大トカゲ、南海の海に浮かぶアホウドリ、無数の能力を使うヤドカリ……旅路で出会った敵だけでも幾らでも挙げられる。更に七年間の草原生活も思い返せば、強敵難敵は両手の指を使っても数えきれないほどだ。正直今でも勝てる気がしない、戦いたくない相手も数多くいる。

 されど此度の敵ほど、もう戦いたくないと思わせる相手は始めてだ。これを上回る力の持ち主は、ニューギニア島の大蛇やムスペル達のような規格外生命体のみといっても過言ではない。

 ――――ただし精神的な意味で。

 

「……継実ぃ……今日って、どれぐらい前に進めた……?」

 

 明らかに疲弊した声で、モモが尋ねてくる。肩を落とし、ゆらゆらと身体を左右に揺れ動かす姿に、何時もの頼れる様子はない。

 尤もそれは隣を歩く継実も似たようなものなのだが。問われた内容について、継実はぽそりと呟くように答える。

 

「……七キロ」

 

「……マジ?」

 

「マジ。徒歩でも時速四キロは出せるのに……」

 

 唖然とした表情を浮かべるモモから逸らすように、継実が視線を向けたのは西の地平線。

 そこには茜色に輝く太陽が浮かんでいた。

 ……瞬きしてみたが、やはり太陽は茜色。どう見ても夕日であり、今の時刻が夕方である事を物語っている。もうすぐ涼しい夜が訪れる訳だが、しかしそれを理解した上で継実は表情を引き攣らせた。

 何故ならこの夕焼けは、継実達が()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()事を、嫌というほど突き付けているのだから。

 

「(あぁもう……嫌がらせに気を取られ過ぎたか……!)」

 

 今日一日の行動を振り返り、継実は苛立たしさから歯噛みする。

 サボテンの棘に襲われた後も継実達の身には様々な『現象』が襲い掛かった。例えば砂が非常に冷たくて(大体摂氏一度ぐらい)踏んだ瞬間ビックリさせられたり、かと思えば動物の骨が砂の地面に埋まっていて踏んだらちょっと痛かったり、顔を顰めたくなるような悪臭が流れてきたり、人型の物体がちらちら現れたり……例を挙げればきりがない。

 

「(つーかサボテンの棘なんて何処から持ってきたんだか。何処にも生えてないじゃん……他にもなんか色々変なのあるし。なんだ? キツネにでも化かされているの?)」

 

 襲い掛かってきた数々の現象に継実は首を傾げる。どうにも釈然としない。考えても考えても、答えは出そうになかった。

 

「はぁぁぁぁ……」

 

「も、モモさん。大丈夫ですか……?」

 

「あー……まぁ、身体的には平気よ。ただどっと疲れただけだから」

 

 そんな継実の傍で、ミドリとモモが話している。ミドリから掛けられた言葉に、モモは気丈に答えた。しかしながら目はどうにも虚ろで、普段の元気さはあまり感じられない。度重なる敵からの干渉は、人間など比にならない強靭さを誇るモモの精神すらも疲弊させたのだ。

 とはいえあくまでも疲弊したのは精神のみ。肉体的に一番貧弱なミドリすら傷は負っていないので、一晩ぐっすりと眠れば問題なく回復するだろう。

 ……そう、間違いなく回復する。継実達にとっては朗報だ。後遺症が残らなければ、明日も元気よく冒険を続けられる。今日と同じ嫌がらせをされても難なく乗り越え、数日後には砂漠を脱出出来るだろう。継実自身は勿論この事に一切の不満なんてありはしない。

 だが、視点を変えてみればどうだ?

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「(どー考えても、攻撃側がなんにも得ていない)」

 

 そもそもこんな嫌がらせで、一体何を得られるというのか。ミュータントの身体能力を思えば本当にただの嫌がらせに過ぎず、エネルギーの無駄でしかない。

 ミュータントも生き物なので、時には『遊び』も行う。だが此度の敵はあまりにもしつこい。十時間以上一つの対象に執着し続けるなど異常だ。その時間、恐らく食べ物の摂取も休憩も取っていないのに。ちゃんとした目的があると考えるのが自然だ。

 ……その目的がどれだけ考えても分からないから、こうして困惑している訳だが。

 

「(私達を精神的に弱らせるのが目的?)」

 

 確かに精神的なダメージはかなり蓄積した。正にうんざりするという気持ちだ。

 しかし、()()()()()()()

 確かに精神的コンディションは重要だ。最悪の精神状態では最高の力と比べ、半分の力も出せないだろう。そして相手の立ち振る舞いからして、動物の精神を甚振る事に手慣れていると感じた事から、弱らせようという意思は間違いなくある。

 だがミュータント……野生動物の精神はそう簡単には『最悪』まで落ちない。親が死んでも涙一つ流さないのが『畜生』が畜生である所以。大きなショックを与えたところで、そこまで大きな効果は生じない。しかも刺激というのは慣れるものだから、同程度の刺激を与えれば与えるほど効果が薄くなる。

 ごく短時間嫌がらせをするのなら、費用対効果も大きいから頷ける。されど継実達が経験したような十時間もの嫌がらせとなると、あまりにも効率が悪い。ミュータントが、そんな非効率な生態を持っているとは思えなかった。

 それに時折現れた、未知の人型物体。

 攻撃してくる事はなかったが、しかしそれ故にどうして良いのか分からない。いや、そもそも見えるのはほんの一瞬だけで、対処するような暇すらないのが実情だ。無視してしまえば良かったかも知れないが、そうすると何をされるか分かったもんじゃない。肉食コアラのように、吐息を掛けられるだけでも危険な生物も今の世界にはいる。故に警戒を怠る事は出来ず、けれども結局そいつが直接何かしてくる事はなく。

 意図が読めない。同種族ですら心なんて読めないのだから多種族相手には尚更だが、今回の相手はあまりにも理解不能だ。どんな意図があればこんな事をしようと思うのか……継実は考えてみたが答えは出ず。

 しかし答えはなくとも時は流れる。継実が考えている間に太陽は沈んで夕方は終わり、やがて砂漠は夜を迎えた。

 

「ま、あーだこーだ言っても始まらないわ。今日はもう寝ましょ。嫌がらせをしてきた相手だって、今日一日ずーっと付き纏って眠いでしょうし」

 

「そう、ですね。あたしもうへろへろでして……」

 

 暗くなってきて眠気が呼び起こされたのか、モモは目許を擦りながら睡眠を要求。ミドリもぺたりとその場に座り込んだ。

 確かに、そろそろ夜行性の生物達が動き出す頃。のんびりしていては寝場所探しどころではないだろう。継実としても異論はない。今日の事を教訓にし、明日の対策は頭がスッキリした明日の朝に考えようと決める。

 それにしてもモモは兎も角、ミドリは随分と疲れた様子だと継実は感じた。かなり慣れてきたとはいえ、ミドリはまだこの地球で暮らし始めて数ヶ月の身。モモや継実よりもメンタルと肉体の耐久力が低く、更に本能と比較して精神の比重がかなり重い筈だ。精神的疲労でへろへろになるのも仕方ない。

 しかし、どうにもそれだけではないように継実は感じた。心なしかミドリの頬が赤らんでいるような……

 

「(……まさか)」

 

 脳裏を過ぎる悪い予感。気の所為だと楽観視したくなる考え(理性)を脇に寄せ、再度ミドリの方へと駆け寄る。

 突如近付いてきた継実に、ミドリとしては少々驚いたのだろうか。キョトンとした顔を継実に見せた。

 反応は悪くない。けれども継実の目はその顔の変化を見逃さなかった。僅かだが垂れた眉、震える唇、赤らんだ頬……そして何よりちょっと前までだらだらと流していた汗がすっかり止まっている。

 継実は医学知識が豊富な訳ではない。しかしそれでも軽度の熱中症に陥っていると分かるぐらいには、ミドリの体調は明らかに良くない状態だった。

 

「ミドリ大丈夫? 汗、止まってるみたいなんだけど」

 

「へぁ? ……あ、本当だ。なんかベタ付かないなーとは思っていたんですけど……」

 

 呼び掛けてみればミドリの返事は何処か浮ついていて、苦しそうな様子はない。しかしそれで安堵するなど愚の骨頂。体温が高くなり過ぎた事で思考能力が低下しているのだと予想される。

 汗が止まったのは、身体がこれ以上の『排水』は生命活動に関わると判断したからだろう。汗がなければ気化熱で体温を下げる事が出来ず、やがて重度の熱中症になってしまう。ミュータントの生命力は出鱈目の極みだが、だからといって不老不死でも無敵でもない。条件さえ揃えば熱中症は悪化していく。今のミドリには治療が必要だ。

 熱中症になった時は、何はともあれ体温を下げるのが優先だ。長い間高体温が続くと脳機能の低下や臓器の損傷など、不可逆的なダメージを受けてしまう。ミュータントの生命力ならばその程度のダメージの回復は容易だろうが、負わないで済むならその方が良いに決まっている。

 

「モモ! 扇いでミドリの体温を下げて!」

 

「分かった。任せてちょうだい」

 

 継実の指示を受けて、モモがミドリに駆け寄る。モモはツインテールに纏めている髪を伸ばすとミドリの前に突き出し、ぐるぐると高速回転。さながら扇風機のように風を送りつける。

 身体を冷やされると、ミドリは夢心地と言わんばかりに蕩けた表情を浮かべた。とはいえすぐに、申し訳なさそうに眉を顰めたが。

 

「ごめんなさい、心配掛けてしまって……」

 

「仕方ないんじゃない? 普段能力に頼りっぱなしだから、使わない時の体調なんて良く分かんないだろうし」

 

「そうだよ。むしろこっちの方が気遣わなきゃいけなかったのに、夜まで気付かなかったなんて……ほんとごめん」

 

 ミドリに対し、継実の方からも謝る。ミドリは「気にしないでください」と言いながら、また落ち着いた表情を浮かべた。

 話し掛ければ応じるし、受け答えも明瞭。症状はそこまで酷くなく、モモの送風により体温も低下している筈だ。加えてこれから夜になるのだから、朝まで気温は低下していくだけ。とりあえず、これ以上熱中症が悪化する事はないだろう。

 しかし、ではもう安泰だという事は出来ない。体温を下げられなくなった要因である、脱水症状は何一つ解決していないのだから。

 完全な回復に必要なのは水だ。七年前の身であれば、砂漠で大量の水を手に入れるなど正にお手上げな難題だったろう。だが今の継実にとっては問題ない。この砂漠の地中深くには水がそれなりにある事は昨日確認した。そして継実の能力であれば、水の在り処まで辿り着く事は左程難しくない。

 唯一問題があるとすれば、継実達をこの場に追い込んできた『何者か』が潜んでいる可能性がある事だが……リスクなしに報奨は得られない。継実が覚悟を決めるのに一ミリ秒と掛からなかった。

 

「待ってて。すぐに水を持ってくるから」

 

 継実は言うが早いか地面に穴を掘り始める。目指すは地下五十メートル付近か、それ以上。そこならば十分な水がある――――

 

「……え?」

 

 そう思っていながら砂を掻き分けていた継実の手が、表層を数回掻いたところでぴたりと止まった。

 

「どうしたの継実? 何かいたの?」

 

 手を止めて固まる継実を不審に思ったのか、モモがそのように声を掛けてくる。そしてもしも恐ろしい、驚異的な敵がいた時に備えて全身の覇気を強めていた。

 だが、継実は思う。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、と。

 

「水が……ない?」

 

 どんな巨大生物よりも恐ろしい『現実』が、継実達には突き付けられているのだから。



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干からびる生命10

 そんな馬鹿なと思い、継実は何度も地面の奥底を能力で『目視』した。

 されどどれだけ注視しても、地中にある水を見付ける事は出来ない。いや、見付けられないなんて生易しいものではなかった。()()()()()()()()という方が正確だろう。しかも五十メートル付近だけでなく、百メートル二百メートルと探っても同じ結果だ。

 砂漠だから地面が乾燥しているのさ当たり前? 物には限度がある。ましてや直射日光が当たらず、地下水などが流れている可能性のある場所だ。水分子一つすらないほど乾いているなんて、自然環境でこんな事は起こらない。いや、文明全盛期の人類が叡智を振り絞っても、一地域の地中水分をゼロにするなど出来るものか。

 このような真似が出来るのは、ミュータントだけ。

 

「――――やられた! くそっ!」

 

 ここで継実は『相手』の意図に気付き、悪態を吐きながら立ち上がる。

 モモとミドリは一瞬呆けていたが、モモは継実の察知したものを理解したのだろう。ハッとしたように目を見開くや、彼女もまた立ち上がって臨戦態勢へと移った。

 

「え? えっ? どうしたの、ですか?」

 

 最後まで呆けていたミドリは、二人が立ち上がってもまだ砂地にへたり込んでいた。理由こそ尋ねてきたが、顔を向けてくるだけ。何時もなら訳が分からなくても立つぐらいはするのに、今はどうにも動きが悪い。

 それだけ熱中症、というよりも脱水が体調に影響しているのだろう。ハッキリとした危険が迫れば多少シャキッとするだろうが……索敵担当のミドリがぼんやりしていては、敵の奇襲を許しかねない。

 継実達は基本的に役割が被っていないチームだが、それでも継実とモモであれば、割と代わりは出来なくもない。得手不得手はあるものの、どちらも前衛後衛の出来る『アタッカー』だからだ。しかしミドリの超広範囲精密索敵及び脳内物質撹乱攻撃……優秀な『サポート』は誰も代わりが出来ない。彼女が使い物にならないのは戦力バランスが著しく崩れるのと同義だ。

 

「……ミドリ、ちょっと痛いと思うけど我慢してね!」

 

「へ? いだっ!?」

 

 ミドリの許可を得る前に継実が起こした行動は、自分の指をミドリの腕に突き刺す事。比喩でなく、その肉を破って筋肉の深くまで指先を入れた。

 無論闇雲にミドリを傷付けようなんて継実は思っていない。これは治療のための行い。粒子操作能力を使って自分の身体の水分を、直接ミドリの体内に送り込んでいるのだ。ついでに体液の濃度が薄くならないよう、塩分などの栄養素も渡す。

 痛みによる刺激もあってか、ミドリはぱちりと目を見開く。そして回復した体調から、継実が何をしたか察したのだろう。おろおろと、申し訳なさそうに右往左往し始める。

 

「つ、継実さん!? もしかして、あたしに水分を……」

 

「これぐらい問題ないよ。私はちゃんと身体の水分量も気を遣っていたしね」

 

 心配するミドリに、継実は軽い口調で答えて余裕をアピールする。

 ……しかし内心、少なからず焦っていたが。

 

「(思っていた以上に、キツい……!)」

 

 ミドリのように熱中症になるほどは流していないが、継実も汗は掻いている。能力で体温調節するよりも、その方がエネルギー的に効率的だと判断したからだ。

 しかしその結果として、継実の身体も水分は不足気味だった。ミドリよりは身体の扱いに慣れている事もあり今まで平静を保てていたが、水分を明け渡した事で少々厳しくなってきた。身体の怠さも問題だが、頭痛が特に辛い。継実の能力は兎にも角にも演算が必要であるため、頭痛というのはかなり大きなハンデとなる。索敵と援護能力を確保するためとはいえ、相性抜きに考えれば最大戦力である自身の戦闘能力低下はかなりの痛手だと継実も自覚するところ。

 無論脱水症状を見せたミドリに対して悪態など吐くつもりなど継実にはない。そもそもミドリが脱水に陥ったのは、継実が出した指示が原因だ。これは自業自得の結果。挽回を行うべきは自分の方だと継実は思う。

 幸か不幸か、その機会は間もなく訪れそうだ。

 

「ミドリ、元気になったなら端的に説明するよ。私らは今、何かのミュータントに狙われている」

 

「え、ええ。それはなんとなく……嫌がらせ、受けていましたし」

 

「そう。そんでそいつは、どうも私らを『脱水』状態にするのが目的だったらしい」

 

「え? ……………えぇっ!?」

 

 ミドリは目を丸くしながら驚きを露わにする。状況証拠からの推論だが、確信を持っている継実はこくりと頷いた。

 日中行われた嫌がらせの数々は、精神ダメージを与えた訳でも、肉体的損傷を狙っていた訳でもない。

 恐らくは()()()()()()()()()事が目的だったのだ。敵がいる、驚異が迫っているとなれば、どの生物も警戒心を強める。すぐに戦闘態勢へと移れるよう身体に力を滾らせ、周辺の索敵に多くのエネルギーを使うだろう。

 しかし此処は砂漠。無闇やたらにエネルギーを使えば、後々飢餓状態に陥ってしまう。警戒を強めつつも、不必要な消耗は避けねばならない。つまり『コストカット』が求められる訳だ。

 その時真っ先に切り捨てられるのは、大概にして体温調節機能だろう。

 何故なら能力を使わなくとも、気温変化ぐらいなら対応する機能が生物の身体には備わっているのだ。きっと多くの生物が同様の判断をするし、実際継実はそう判断した。これが最も生存確率の高い方法だと信じて。

 動物によって体温調節の方法は様々だが、哺乳類ならば唾液を足に塗ったり、呼吸により熱を逃したり……汗を掻いたりする。これらの方法は低コストではあるが、どうしても水の消費が生じてしまう。

 そしていざとなったら能力で水なんて得られると、『油断』している――――そこを仕留めるのが、嫌がらせをしてきた輩の目論見だったのだ。なんと七面倒で回りくどい手だ、とも言いたくなるが、しかし嫌がらせの規模からして消費エネルギーはごく僅か。これで大物が仕留められるのだから、非常に効率的な狩りだと言える。

 相手は決して遊んでいるつもりもなく、ましてや間抜けなどではない。本気で、狡猾にこちらを殺そうとしているのだ。

 

「さて、ミドリ。ここで一つ質問なんだけど」

 

「え? 質問?」

 

「いい感じに追い詰めていた『獲物』が、この辺りに水がない事と、嫌がらせの真の目的に気付きました。さて、あなたはどうしますか?」

 

 継実からの突然の問い掛けに、ミドリは首を傾げながら考え込む。

 次いでその顔を青くするや、慌てて辺りを見回し始めた。尤も使っているのは目ではなく、能力だろうが。

 その判断は正しい。

 狙っていた獲物がついに「水がない」「脱水が狙いだ」と気付いた。これを放置すればどうなるか? 考えるまでもない。獲物は水を求めて何処かに行ってしまう。そしてミュータントの身体能力ならば、死に体でもない限り水のある場所まであっという間に駆け抜けてしまう。そうしてオアシスなりなんなりに辿り着こうものなら、何時間もやってきた嫌がらせ(苦労)が水の泡だ。獲物が思惑に勘付いたなら、ここで仕留めねばならない。

 つまり――――何かが継実達の下にやってくるという事だ。

 

【! み、み、南の方から何かが来ます!】

 

 そんな継実の予想は的中したらしい。ミドリが脳内通信で叫びながら、ある場所を指差す。継実とモモは即座に反応し、ミドリが指し示した場所―――ー砂漠の一角へと振り向いた。

 一見してなんの変哲もない砂だけの風景……等と継実に思えたのは一瞬だけ。ミドリが警告した直後、巨大な気配が感じられるようになる。その気配は地中から、猛烈な速さで地上へと昇ってきていた。

 

「(この速さ……逃げ切るのは無理か!)」

 

 気配の接近速度から、背を向けるのは却って危険だと判断。継実はモモに目配せし、意図を察したモモが頷く。

 あと必要なのは、少しでも多くの敵情報。

 

「ミドリ! 何か分かる事ある!? 遭遇する前に色々知りたい!」

 

【はい! なんかいっぱい足みたいなのが生えているのと、トゲトゲしてるのと、丸い身体がいっぱい付いてるような形で……それからが大きさ十五メートルぐらいあります!】

 

 問えばミドリはつらつらと、観測した情報を教えてくれた。

 与えられた情報から継実は敵の姿を脳内で組み立てる。これはあくまでも推測であり、至った結論は参考程度に留めるつもりだった。

 されどとある可能性に辿り着いた時。

 

「――――え?」

 

 継実は呆けたような声を漏らす。まさか、という気持ちが漏れ出るように。

 そしてその予想が正解だと物語るように、それは自らの姿を地上に現すのだった。



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干からびる生命11

 爆発のようにも見える勢いで、何かが地中から出てきた。

 まず意識するのはその『身体』の巨大さ。地上に現れた部分だけで十メートルの高さはある。ミドリの言う通りなら、まだもう五メートルは地下に埋もれているのだろう。形状は薄っぺらい円形のものが、幾つも連なって出来ている。厚みの方は一メートルもなさそうだが、円形のものは枝分かれするように複数付いていて、幅は優に五メートルはありそうだ。表面には無数の棘が生えており、接触そのものが危険だと見たモノの本能に訴え掛けてくる。

 次いで地面から現れた、細長い物体も目を惹く。こちらは長さ五メートル近くが地上に出てきて、蛇のようにうねる。しかも現れたのは一本だけではない。何十もの数が伸びてきて、地上で躍動していた。

 奇怪にして独特な形態。宇宙人であるミドリがぽかんとしてしまうのも、致し方ない事だろう。しかし継実が同じく呆けたのは、その見た目に驚いたからではない。その生物が、こんな激しく動く動く筈がないのだから。

 

「これは、()()()()……!?」

 

 故に継実は、その生物の名を告げた。

 サボテン――――見た目からして恐らくはウチワサボテン、その中でもセンニンサボテンと呼ばれる種のミュータントだと継実は予想する。

 センニンサボテンの本来の生息地は北アメリカだ。しかし彼等は非常に生命力が強く、人為的目的で移入された後世界各地に定着。在来種を脅かす驚異と化し、人類文明全盛期には『侵略的外来生物』に数えられていた。オーストラリアにも移入されており、天敵である昆虫の導入で大発生こそ抑えられていたのだが……一部地域を除いて根絶には至らず。

 その生き残りがミュータントへと変化し、この砂漠で栄えていたのだろう。

 自分が度々目にしていた人型の存在は、このサボテンだったのか。枝分かれしたサボテンの一部が人型に見えたのだろう。だとすればやはりコイツこそが自分達に嫌がらせを行ってきた張本人――――

 

「(いや、そんな事は今はどうでも良い!)」

 

 目の前に現れたサボテンやこれまでの疑問への考察を一旦頭の隅へと寄せる。いらない情報とまでは言わないが、じっくり考えている場合ではない。

 それよりも重要なのは、何故サボテンが自分達の前に現れたのか。

 しかしその答えは明白だ。それは継実がつい先程まで考えていた、この襲撃が起きる『理由』そのもの。相手がサボテンだからといって考えを改める必要などない。

 

【こ、これが、あたし達を食べようとしてるんですかぁ!?】

 

 恐怖に染まった声で叫ぶミドリが言う通り、このサボテンは自分達を()()()()()()()()()()()()()()のだ。

 七年前であれば、何を馬鹿なと一蹴出来ただろう。サボテンが人を喰うなんてB級、いや、Z級と呼ばれていた類の映画でもなければフィクションの題材にも早々ならなかった筈だ。されどミュータントには人間の常識や、ましてや『美的感覚』など通じない。生きる上で適応的ならば、その力を見事獲得してみせる。

 水の乏しい砂漠で水分や栄養素を得るために動物の生き血で賄うというのは、それなりに適応的な進化と言えるだろう。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 果たしてその考えは正しいのか。答えてくれるのは、サボテン自身。

 無論サボテンに口などないので、回答は言葉によるものではないが……大きく掲げた根の先を差し向けられれば、誰にだって答えが分かるというものだ。

 

「ちぃ!」

 

 舌打ちと共に継実はその手から粒子ビームを撃つ! 威力のない小さな光の弾だが、溜めを殆ど必要としない一撃はサボテンの動きより早く動作を終える。

 飛翔したビームは亜光速で直進。サボテンの根の一つに命中し、爆炎の形でエネルギーを撒き散らす。とはいえ威力は精々キロトン級の爆薬程度だ。ミュータント相手では顔面に当てても怯ませる事すら出来やしない。

 それでも広がった爆炎が、煙幕代わりにはなってくれるだろう。

 

「モモ!」

 

「おうとも!」

 

 その隙に継実はモモの名を呼ぶ。それだけでモモは継実の意図を察す。

 身を翻したモモは迷いなくミドリを捕まえ、脇に抱えるように持つ。そしてそのままサボテンから逃げるように走り出した。

 突然のモモの行動にミドリは驚いたように目を見開くが、モモの思惑を理解したのか大人しくしていた。継実はそんなモモの後ろを追いつつ、爆炎に覆われているサボテンを横目で監視。

 

【! ま、前からなんか出ます!】

 

 尤も警告を発したのは、モモに抱えられているミドリだったが。前、という言葉を進行方向だと判断した継実とモモは、直ちにその足を止めた

 瞬間、予想通り進行方向の地面から細長いもの――――サボテンの根が突き出る!

 ミドリの警告のお陰で継実とモモは寸でのところでこれを回避。しかし万一直撃していたなら、軽く身体を貫通したであろうと継実は本能的に理解した。

 その事実に継実は驚きも戸惑いもしない。既に分かりきっていた事なのだから。

 故に、モモ達と共に逃げようとしていたのだが……

 

「っ!」

 

 継実とモモは共にバク転。

 もしも一瞬遅ければ、追撃とばかりに足下から生えてきた根に貫かれていただろう。

 根による追撃は二度三度と行われ、継実達はその度に後退。次々と繰り出される攻撃を回避した……が、それは前進していた道のりを戻る事に他ならない。

 全ての根を躱した時、継実達は再びサボテンの前に立たされていた。継実が睨むような視線を向けどもサボテンは動じず。むしろ茎 ― サボテンの葉は『針』に変化している。幾つも連なってる緑色の円盤型の部分こそが茎だ ― を曲げて、継実達を覗き込むように身体を傾けてきた。

 継実は構えを取って臨戦態勢に移行。モモは脇に抱えていたミドリを持ち直し、背負うようにする。ミドリも腕を回して、モモにしっかりとしがみついた。

 勇ましく向き合う継実達を見て、果たして何を思っているのか。或いは脳などないのだから何も感じていないのか。サボテンは淡々とこちらを『凝視』してくる。

 

「どうやら向こうさん、私らを逃すつもりはないみたいね」

 

「そりゃあ、コイツからしたら久しぶりの獲物だろうし。あまり気乗りしないけど、戦うしかなさそうだなぁ」

 

「そうね。気合い入れないと」

 

 逃げ道を塞がれた格好だが、継実とモモは冷静さを失わずにサボテンを睨み返す。

 互いに戦意を高め、隙を見せない。しばし続く膠着状態の中で継実は思考を巡らせる。

 

「(これは流石に不味い……まず勝てないだろうなぁ)」

 

 そして心の中で呟く言葉は、弱音だった。

 正直なところ、継実はサボテンに勝てるとは微塵も思っていない。

 理由は二つ。一つはこのサボテンが、間違いなく砂漠環境に適応した種であるから。地の利は向こうにあるし、能力や身体機能も砂漠に適応したものだ。真っ向勝負で戦っても勝てるものではない。

 そして二つ目の理由は、このサボテンが圧倒的に巨大だから。

 大きさはパワーの証。草原の頂点に君臨していた巨大ゴミムシ、森林内のあらゆる生物よりも強かった大トカゲ、ニューギニア島にやってきた大蛇やヒトガタ、大海原を悠然と泳ぐマッコウクジラ、そして砂漠の王者ムスペル……巨大な生物はただ存在するだけで、継実達の命を脅かすほどの力を見せてきた。

 確かに継実は、以前体長一千五百メートルのエリュクスと互角にやり合った。しかし彼はミュータントに非ず。体重当たりの馬力が全く違う。いくら薄っぺらいとはいえ、体長十五メートルもの巨大ミュータントであるサボテンは、間違いなくエリュクスの比ではない強さだ。三人で力を合わせたところで、あえなく吹っ飛ばされるのが目に見えている。

 加えて、そもそも自分達の体調が良くない。

 

「(ミドリには水分を渡したけど、あれで十分とは思えない。モモは適度に能力を使って暑さを凌いだけど、一日水を飲んでないのは変わらない。そして私はミドリに水分を渡してへろへろ……誰もろくに力を発揮出来ない状態だ……!)」

 

 あらゆる要素がこの戦いの不利を物語る。どうにかして逃げないと不味いが、実力を大きく上回る相手から逃げるのは難しい。アリがどう足掻いたところで、本気で叩き潰そうとしてくる人間からは逃げられないように。

 無論諦めるつもりなど毛頭ない。思考を巡らせて何か策はないか、或いは隙を作る方法はないかと考える。が、サボテンがそのための時間をくれる訳もなく。

 サボテンは枝分かれして腕のように伸びている部分を、継実達に差し向けてきた

 

「! 来る……!」

 

 瞬間、継実は背筋に冷たいものが走るのを感じる。

 その予感は正しく、サボテンは差し向けた『腕』から、自らの『棘』を射出した!

 棘の大きさは一センチほど。太さも相応のものであり、仮に刺さったところで大きなダメージとはならない……が、それが一度に何十もの数となれば、流石に無視出来ない。

 何より針の速さからして、恐らくこの攻撃は自分達の身体を貫通すると継実は直感。生身は殆ど普通の犬であるモモにとっては致命的であるし、継実にとっても、水分が乏しい今は穴を開けて中身が漏れ出るのは不味い。

 幸いにして回避不能な速さではない。継実とモモはその場から跳ぶように離れる。針は砂地に突き刺さる、というよりも『貫通』。奥深くに沈み、その姿が見えなくなった。

 この結果を目も鼻もない身体でどうやって察知したのか、サボテンは攻撃が外れてすぐに大きく動き出す。顔なんてないが、その『意識』の向きからして――――継実は自分が狙われたとハッキリ感じ取れた。しかもその意識の向きは、針を躱した後走り続けていた継実をぴったりと追跡している。

 そして攻撃も極めて正確だ。

 正に見えてるかのように、サボテンは根を槍のように突き出してくる! それも一本二本ではなく、何十もの数だ!

 

「ぐっ……!」

 

 迫りくる根という脅威に、継実は顔を顰めながらも目を逸らさずに凝視。どの程度の脅威なのかを見定めた。結果、速さと質量が共に驚異的なものだと分かる。拳で殴って受け止める、粒子スクリーンで防ぐ……どちらも不可能だ。守りに入ってはやられる。

 しかし見えない速さではない。

 ならばやりようはある。継実はすぐには動かず、迫ってきた根に拳を振り上げるようにぶつけた。打ち合うのは正面からではなく側面。正確に継実の脳天を狙って伸びてきた根は、継実が与えた上向きの力により大きく逸れて飛んでいく。

 遠距離から逸らされたなら軌道修正も出来ただろうが、腕一本分の長さとなれば少し時間が足りず。根っこは継実の頬を掠めるように飛んでいった。

 なんとか難を逃れた、と言いたいところだが、根っこは一本だけではない。一本が軌道を逸れた事などお構いなしに続けて何本も襲い掛かってくる。継実はこれを先と同様の方法で次々と流していくが、速度の速さ、何より根っこが纏う巨大なパワーは直撃を避けた拳すら痺れさせる。段々と押し退ける力も弱くなり、軌道の逸れ方も小さくなっていく。

 このままではジリ貧だ。隙を見付けて逃げなければと考えた

 瞬間、サボテンは()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「(これは、不味い!)」

 

 当たらない攻撃に対して継実が抱くのは、焦り。

 継実が予想した通り、サボテンの根は継実には当たらない。当たらないが、継実の周りを囲うように陣取る。隙間は大きいが、継実の身体を通すにはかなり強引に進まねばならない狭さ。

 これでは逃げ道が後ろしかない。そして伸びてくる根は、継実の機動力を上回るスピードだ。全力で後退しても振り切れない。

 新たに繰り出され、正面から突っ込んでくる三本の根を、継実は苦々しい眼差しで睨むばかり。

 

「させるかァッ!」

 

 状況を変えてくれたのは、継実を包囲している根に超電磁キックをお見舞いしてくれたモモだ。

 強烈な一撃は細い根の向きを大きく変え、継実を囲う包囲網に隙間を作る。また、継実を狙っていた根も襲撃者に気を取られたのか僅かに動きが鈍った。包囲網に出来た隙間は継実の身体が通るには未だ狭く、鈍っただけで根が向かってくる事に変わりはないが……これだけの『猶予』があれば十分。

 モモが稼いでくれた時間を使い、継実は演算を開始する。大きくなった隙間を、ほんの二メートルほど移動するイメージを組んですぐに能力――――粒子テレポートを発動させた。

 亜光速での移動により継実は包囲網を脱出。根は即座に向きを変えてきたが、既に継実は跳んで逃げている。追撃を躱し、一旦は安全圏まで距離を取った。

 離れた継実を無理に攻撃しても仕方ないと判断したのか、サボテンの攻撃が止む。その間にモモ、そしてモモに抱えられたミドリも、継実の傍にやって来た。

 

「助かったわモモ。流石にアレはキツかった」

 

「そりゃどうも。しかしどうしたもんかね」

 

「えっと、一応言いますと、地面には根っこが凄い張り巡らせてあります。多分遠くに逃げようとしたら、壁のようにせり上がってくるかと……」

 

「「ですよねー」」

 

 ミドリから告げられた言葉で、逃げ道がないと悟る継実とモモ。とはいえ向こうはこちらを獲物として見ているのは分かっていたので、その程度の事態は想定済みだ。今更絶望や悲観などしない。

 むしろ、継実は先の戦いで少し希望を見出していた。

 

「(ひょっとしたら……)」

 

 希望から打開策が得られないかと考え始める継実だったが、しかし緊張感は弛めない。

 まだ戦いは始まったばかり。相手の実力を測る段階であり、『本気』は出せども『全力』を出すタイミングではないのだ。

 継実はこれから全力を出す。

 そしてそれは全身から放つ力を更に高めている、そびえ立つ巨大サボテンもまた同じ事なのだ。



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干からびる生命12

 気配が変わった。

 サボテンをじっと見ていた継実はそう感じ、それから間髪入れずに事は起きた。

 継実の身体が、何かに引き寄せられるような感覚に見舞われたのである。

 

「うっ……これは――――」

 

【継実さん?】

 

 呻く継実に、ミドリが脳内通信で声を掛けてくる。ただしその声は疑問系。継実と同じくその声を聞いているモモも怪訝な表情を浮かべていた。

 どうやらこの謎の力を受けているのは、自分だけらしい。

 つまりサボテンは自分を狙い撃ちにしているらしいと、継実は察した。何故? という疑問はあるが、のんびりと考えている暇はない。

 サボテンは大きく『腕』を振り上げ、次の攻撃を起こそうとしているのだから。

 

「っ……散開!」

 

 継実が叫ぶように出した指示に合わせ、モモはミドリを抱えたまま跳躍。継実もその場から跳び退くようにして、モモとは反対方向に逃げる。

 サボテンが身体を捻るようにして後を追ったのは、継実の方だった。

 「やっぱりね」と思いつつ、継実は攻撃に合わせてまた跳ぼうとする。しかし今度は上手くいかない。身体が急激に重くなり、足の動きを妨げてきたからだ。

 別段、振り解けないほど強い力ではない。跳ぼうと思えば跳べる程度。しかし相手の狙いを動きで翻弄しようとしている時に、動きが鈍くなるのは致命的という他ない。

 

「(来る!)」

 

 躱しきれないと判断した継実は、咄嗟に腕を身体の正面で交差させた。更に身体の前面部分には粒子スクリーンを集中展開。全身を包み込むものの二倍の厚みを持って向き合う。

 悠然とした動きで力を溜め込んだサボテンは、一片の容赦もなく継実目掛けて腕のように伸びている枝を振るった。大きな円運動と共に加わる遠心力により、表面に生え揃っている針が射出される!

 針攻撃は既に一度見ているが、此度のものは明らかに一度目よりも速く、そして太い。それは先の攻撃よりも多くのエネルギーを投資したという事であり、つまり()()()()()()()()()()()()()がサボテンにはあるのだろう。事実継実の身体は未だ動きが鈍く、回避は困難だ。

 

「おぉっと、私の事無視すんじゃないわよ!」

 

 そこに横槍を入れたのはモモ。

 雷よりも強力な電撃を伸ばした体毛に流し、稲妻のように走らせる。流れる電気は継実の前に展開され、強力な磁場を形勢。

 この磁場があたかも壁のように働き、サボテンが繰り出した針を防ぐ! ……ところまでいけば良かったが、流石にそれは叶わず。針は磁場を貫通した。しかし強力な、核攻撃でも揺らがない防御を通った事で針の勢いは大きく削がれる。未だ『普通の人間』を跡形もなく吹っ飛ばす程度の威力はあるが、ミュータント的には並の攻撃まで衰えた。

 それでも粒子スクリーンを展開していなければ、恐らく継実の身体には穴が空いていただろう。針が激突した衝撃で大きく吹っ飛ばされた継実は、しかし体勢を立て直して着地。再びサボテンと向き合う。

 サボテンの方は攻撃を邪魔され、鬱陶しく思ったのだろうか。もう一方の枝を振り上げると、今度はモモ達に向けて針を放つ。抱えられているミドリが短く悲鳴を上げたが、モモはこれをバク転で軽やかに回避。継実の傍まで後退してきた。

 

「助かった!」

 

「礼より教えて。動き、鈍いわよ?」

 

「さっきから身体が重い。多分アイツがなんかやってる。それとアイツ、私を狙ってるみたいだね」

 

 分かる事だけ伝えて情報共有。その間も、サボテンはじっと継実の方を『見て』いた。次の攻撃準備が、また大きく腕のような枝を振り上げる。

 今度こそ跳躍で逃げるために、継実は全身に力を滾らせた。それと並行して思案するは、このサボテンの動きについて。

 

「(コイツ、どうやって私に狙いを定めてる……?)」

 

 サボテン、というよりも植物には目など付いていない。もっと言えば聴覚も ― 一部の植物では虫の摂食音や羽音を振動や周波数の形で『聞いて』いるらしいが ― 優れていない。つまり動物のように、素早く動く対象を追うような仕組みは持ち合わせていない状態だ。

 しかしサボテンは極めて正確に継実を追跡し、攻撃してきている。継実()()を追ってくるなら、振動やらなんやらで反射的に動いている可能性もあったが、モモが継実を守れば追い払うように攻撃をしてきた。明らかに、サボテンは意図的にターゲットを選択している。

 恐らくそれは『能力』によるもの。筋肉なんてない身体を自由且つ素早く動かせるのも、その能力を用いているのだろう。一体どんな能力が、サボテンの身に宿っているのか。

 それが状況を打破するきっかけになるのではないか。思考を巡らせようとする継実だったが、サボテンは何時までも猶予はくれず。

 大きく振り上げた枝は、未だ動かさない。代わりに地面から生えている根が、小刻みに震え始めた。

 すると突如として舞い上がった強烈な砂嵐が、継実達を襲う!

 

「うぶぇっ!? こ、この砂、妙にベタ付く……!」

 

 砂嵐に襲われたモモが呻く。継実も肌で感じ取ったが、この砂嵐、妙に塩類が多い。それがベタ付きの原因であり、体毛で身体を覆っているモモの感覚に大打撃を与えたのだ。

 これは昼間に受けた嫌がらせの一つ。地中に含まれている無機塩類を砂の中に混ぜ込み、その砂を根の怪力で強引に巻き上げて砂嵐を起こしたのだろう。つまるところシンプルな力技。昼間のようになんでもない時に受けたなら、本当にただの嫌がらせにしか感じない程度のものである。

 だが、今の継実達にとっては致命的だ。強烈な砂嵐は継実達の視界を、完全に覆い尽くしてしまったのだから。

 

「(これは流石に不味い!)」

 

 継実の身体は未だ重く、動きが鈍い。モモのフォローがなければ、攻撃を完全に躱すのは不可能だろう。

 しかしモモは『世界』を視覚で捉えている。無論犬である彼女は嗅覚に優れているが、目の前の相手にどうこうする時は視覚頼りだ。それは継実をフォローする時も同じである。

 砂嵐がモモの視覚を遮れば、モモは継実に迫る危機すら認識出来ない。対してサボテンはどうか? 奴は恐らくなんの支障も受けていない。端から目など持ち合わせておらず、視覚以外の方法で世界を見通しているのだ。砂嵐による『煙幕』を見通すなんて造作もあるまい。

 これでは継実達だけが一方的に視界を潰された格好だ。力もスピードも勝る相手に目隠し状態で挑めばどうなるかなど、わざわざ考えるまでもないだろう。

 

「(嘗めんなっ! ただの砂煙なら、こっちにもやりようはある!)」

 

 継実は粒子操作能力を応用し、サボテンの身体を作る粒子の『運動量』を観測。これにより砂煙に紛れるサボテンの姿を浮かび上がらせる。

 無論こんなのは所詮悪足掻きに過ぎない。運動量なんて間接的方法で見ているため『映像』は極めて不鮮明であるし、砂嵐という『高運動量』の中では区別するのも大変だ。しかしそれでも、砂嵐の痛みに耐えながら目玉を剥き出しにするよりはマシ。もしもこの能力を使わねば、サボテンの動きを視認する事も出来なかっただろう。

 

「(落ち着け、動きを見切る事は難しくない……!)」

 

 ぼんやりとした不鮮明な光景を頼りに、継実は全身に力を溜め込む。サボテンは、果たして継実のそんな動きが見えているのか。大きく、力強く、サボテンは腕を振り上げて、

 極めて正確に、継実目掛けて振り下ろす!

 高速で飛んでくる針の姿も不鮮明。しかし大凡の位置と速度が把握出来れば問題ない。継実は全身に力を込めて、重たい身体を強引に跳ばそうとした、が、上手く動かない。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「(やっぱり、アイツ見えてるな……!)」

 

 襲い掛かる『重さ』を受けつつ、継実は冷静に足に更なる力を込める。元より身体の重さはサボテンが元凶だと考えていた。攻撃の瞬間、跳ぶのを邪魔してくるのも想定済み。

 覚悟していれば、高々ちょっと身体の動きを阻む程度の重みなどどうとでも出来る。

 

「――――んなクソッ!」

 

 悪態混じりの気合いの掛け声と共に、継実は地面を蹴って自らの身体を飛ばす!

 頭から着地するような跳躍は、されどそれよりも悲惨な針の貫通という結果を避ける。そしてミュータント化した身体の反応速度は、頭から突っ込んだ体勢から戻すのに僅かな時間も必要としない。軽やかに立ち上がり、そのまま距離を取ろうと駆け出した。

 しかし。

 

「ぐぅ!? また……」

 

 再び身体を襲う異変。今度は片足が引っ張られるような力を感じる。ダメージと呼べるほどのものではないが、身体の動きが鈍る。

 これもまた少し力を込めれば抜け出せる強さ。だが此度はタイミングが悪い。

 サボテンが次の攻撃を仕掛けるため、大きくその身を捻っていたからだ。あたかも、この時を狙っていたかのように。

 恐らく、この攻撃の回避は間に合わない。

 しかしそれは継実が一人きりだったらの話だ。此処には二人の仲間がいる。

 

「させるかァッ!」

 

【やらせませんっ!】

 

 掛け声と共に真横から吹き付けてくる暴風が、継実を飲み込んでいた砂嵐を吹き飛ばす!

 風の方を見れば、モモが尻尾を長く伸ばし、大きく振り回して風を起こしていた。そして継実が危機的状況にあると目視確認した二人は、攻撃を開始する。

 モモが電撃を放ち、ミドリが脳内(といってもサボテンに脳はなく、体組織と言うべきだろうが)物質の操作を試みる。とはいえサボテンは振り上げていた『腕』を構えてモモの電撃を易々と防ぎ、ミドリの能力にも堪えた様子を見せない。攻撃は通じなかったようだ。

 それでもサボテンの意識は逸れた。継実はモモ達が作ってくれた隙を逃さず、動きの鈍い足に力を込めて跳躍。今までサボテンが狙いを付けていた位置から跳び退いて、

 ()()()()()()()()()()()、継実の片足を貫いた!

 

「っ!? コイツ……!」

 

 悪態と共に、継実は自身の判断ミスに気付く。サボテンは端から針で貫こうとは考えておらず、砂の中を走らせた根っこの方で継実を狙っていたのだ。

 根の一撃は継実の足の皮や肉のみならず、骨も難なく貫通している。七年前の身であれば激痛で前後不覚に陥るだろう。しかし今の継実にとって、痛覚のコントロールは難しいものではない。顔を歪めたのは痛みからではなく、自分の失態を悔やんでの事。

 何より、突き刺さった根が()()()()()()()()()()()()()()

 やはり自分達を『獲物』として喰うのが目的か。相手の意図を確信出来たのは良いが、このままでは身体が干からびてしまう。なんとか脱出しなければ不味い。

 

「(このぐらいの太さなら……!)」

 

 継実は自らの指先に力を集め、粒子ビームを打ち放つ!

 此度の粒子ビームは密度を上げた高出力なもの。継実の足に突き刺さった根はこれを正面から受け止める。最初こそ粒子の輝きを飛び散らせ、根は耐え続けていたが……やがて赤熱した、瞬間、ぶちりと音を鳴らして千切れる。

 千切れても根は未だ生きていて、まだまだ継実の体液を啜ろうとする。それどころか傷口が蠢き、再生を始めようとしていた。

 しかし千切れた根から新たな芽が生えてくるなど、植物としては珍しくもない話。継実も驚きは感じず、冷静に刺さったままの根を掴んで引っ張る。元がどれだけ大きくとも、千切れてしまえば長さ十数センチの『生物』でしかない。あっさりと傷口から抜き去り、握りしめたまま粒子ビームを照射。手の内に生じさせた莫大な熱量により、サボテンの根を焼き尽くす。

 

「継実! 大丈夫!?」

 

「うん、問題ないよ。ちょっと血ぃ吸われたけど」

 

【えっ!? 血を吸われたんですか!? 継実さん、あたしに水分渡したからそれは……】

 

「正直しんどいかな。かなり頭がくらくらする」

 

 不安げなミドリに、継実は自身の体調を正直に明かす。ミドリは心底申し訳なさそうな顔をしていたが、ここで嘘を吐いても仕方ない。戦いにおいて大事なのは気遣いではなく、事実に基づく判断だ。

 それに、悪い事ばかりじゃない。ここまでに繰り広げた戦いで、かなり多くの情報が得られた。

 例えばサボテンの具体的な強さ。

 

「一つ、朗報がある……アイツ、思ったよりも強くない」

 

「あ、やっぱり? 動きも鈍いから、なんとなくそんな気がしてたのよね」

 

 継実が自らの考えを述べれば、モモからも同意の言葉が返ってくる。

 そう、思ったよりもサボテンの動きは良くない。

 それはなんらかの事情で弱っているから、ではなく、単純にサボテンが植物であるからだろう。動物……多細胞かつ自在に動き回る生物が誕生したのはかれこれ六億年前。動物達はその六億年の間、常に運動能力を進化させてきた。獲物を捕らえるため、或いは天敵から逃れるために。勿論中にはナマケモノのように、エネルギー消費を抑えるべく運動能力を退化させた種もいる。だが全体の傾向としては、運動機能は時代を経るほど向上していった。

 植物にはこれがない。動物が生まれてからの六億年間、ただじっとしていて、運動に関してなんのノウハウも蓄積していないのである。この六億年のブランクを、いくらミュータントとはいえ高々七年間の進化で飛び越える訳がない。いや、動物だってミュータント化しているのだから、運動能力で追い付ける筈がないのだ。

 サボテンが継実達を上回るパワーとスピードを誇るのは、大きさ故の出力差が原因だ。つまり()()()()()()()()()()。植物というのは筋金入りの運動オンチなのだ。

 勿論植物には植物の強さがある。臓器を持たぬが故の生命力、細胞構造レベルでの頑強さはいずれも脅威。しかし継実達は元よりサボテンを倒そうなんて考えていない。どうにかこうにか逃げきれればそれで良いのだ。柔らかいに越した事はないが、倒すつもりがないなら硬さなど大した問題ではない。

 冷静に、そして直接対決して得られた貴重な情報。まだ勝ち筋は見えないが、それでも『勝利』出来る術があるという気持ちは抱けるようになった

 その、直後の事だった。

 継実の足に出来た傷口から、突如として()()()()()()()()()()()――――



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干からびる生命13

「成程、もう隠す必要もないって訳ね」

 

 傷口から流れ出ていく血の動きを目で追いながら、継実はぽそりと独りごちた。

 流れた血は重力に引かれて地面に落ちる事もなく、ふわふわと空中に浮かんでいる。その光景を見ていたミドリはギョッと目を見開き、モモは鋭い眼付きで血の動きを追う。

 浮かびながら移動する血液が向かう先は、サボテンが地上に出している根の一本だった。

 ここまで見れば考える必要もない。サボテンが『能力』を使って継実の血液を吸い上げたのだ。そしてその能力の正体も、深く考察する必要がなくなった。モモとミドリも察した事だろう。

 

「(水を操る能力、か)」

 

 直感的に脳裏を過ぎる言葉。それを継実の理性も受け入れる。

 水を操る能力――――それ自体は継実にとって始めて見たものではない。草原で出会ったフィアの能力であるし、日本近海で出会ったイタチザメも同様の能力を持っていた。『水の惑星』と人間が呼ぶほど、液体の水が豊富なのが地球という星。だからこそ水を操る力というのは大概の状況下で有用なものであり、多くの生物(ミュータント)が能力として用いていても不思議ではない。

 では、ならばサボテンの能力に特筆すべき点がないかといえば否だろう。少なくとも一点、フィアやイタチザメでは見られなかった性質があると継実は気付いた。

 ()()()()が出来る点だ。それも生物体に含まれているものだろうがなんだろうが操ってしまうほど、非常に強力な。

 

「……私の身体の動きを鈍らせたのも、コイツの能力の仕業かな」

 

「ああ、そういや身体が重いとか言ってたっけ。だとすると、私やミドリが対象になる事もあり得るか」

 

 継実の考えに、モモが横から同意する。

 体組織中の水分を引き寄せれば、生物体からすれば非常に強い抵抗を感じるだろう。下向きに引っ張られたなら、それは重みとして感じる筈だ。

 生物体の水が操れるぐらいなのだから、そうでない普通の水を操る事も容易いと考えるのが自然。此処ら一帯の砂漠の地下から、水分が根絶やしになるまで集める事も難しくないだろう。迷い込んだ生き物達は水を探して歩き回るか、或いは強引にでも突破しようとするか。いずれにせよ体力と水分を使い果たしたところを襲えば、簡単に仕留められる。そうして幾つもの生命から水と栄養素を奪い、このサボテンは恐るべき巨躯を手に入れたのだ。

 恐らく継実達の動きが見えているのも、能力で操れる水の位置を感知する事で成し遂げている。継実ばかりを狙っているのは、三人の中で一番水分密度が低い、つまり弱っている獲物だからか。確実に仕留められるモノから狙うという堅実さは、戦う側からすれば実に恐ろしい。

 

「(……砂漠の生き物なんだし、吸い取った私の血だけで満足してくれないかなぁ)」

 

 足の穴を塞いで止血しながら、継実は希望的観測を抱く。乾燥地帯の生物ならば生きていくのに必要な水の量は僅か。ちょっと吸血すれば満腹になるのではないか。

 そうなってほしいと願いはするものの、端から期待はしていない。

 理由は二つ。七年前の生物と比べて、ミュータントはどうしようもないほどに貪欲だから。継実がいくら獲物を食べても中々腹が満たされないように。強大なパワーを発揮するためにはたくさんのエネルギーが必要であり、だからこそ獲物をたくさん捕まえねばならない。これはミュータントの宿命だ。

 そして二つ目は、相手がサボテンだから。

 乾燥した土地に生えるサボテンは、確かに乾燥にとても強いが……サボテン自体は水を大量に欲する生き物である。むしろ水をちゃんと与えなければ普通に枯れてしまう。乾燥に耐えるのは、()()()()()()()()()()()()()()からだ。

 折角見付けた『水』をちょっと得たから見逃そうなんて、よりにもよってサボテンが考える筈がない。

 継実から流れた血の全てを吸い終えたサボテンは、再び継実に根を伸ばしてきた!

 

「あぁクソッ! やっぱり足りないか!」

 

 悪態と共に継実はその場から跳躍。モモは動かずに留まり、伸びてきた根を蹴り上げて動きの鈍い継実をフォローした。モモのフォローがなければ、今頃正確に眉間を射抜かれていただろう。

 

「なーに当たり前の事言ってんのよ。しっかし、そうなるとどうしたもんかしらねぇ」

 

「あ、あわわわ」

 

 モモは呆れつつも、策などないと言わんばかりに困り顔。ミドリもあたふたするばかり。どちらも打開策は閃いていないらしい。

 継実もそれは同じだ。ミドリ曰く地中には包囲するように根が展開されていて逃げられない状態である。逃げる事は難しく、見切れこそするがパワーもスピードも勝る相手と戦うしかない。だが小細工を弄したところで正面からぶち破られるのが落ちであろう。

 いや、そもそも小細工自体が使えない。周囲にあるのは砂ばかりで、身を隠せるような木々も、嫌がらせに投げつけられる岩もないのだ。砂を舞い上がらせて煙幕にしたところで、水の存在から座標を正確に割り出してくるサボテンには通じない。

 何かしようにも、何も出来ないのだ。

 

「(使えるのは自分の身だけってか!)」

 

 皮肉混じりの考え。しかしそれしか手がないのであれば、この考えを『悪態』として切り捨てるのは論外だ。

 『自分の身体』を材料にして何が出来るか? 継実は思考を巡らせる。

 例えば自分の血液をばら撒けば、サボテンは目標を定められなくなるのではないか。或いは体液中の物質を加工し、毒物を合成した上で吸わせるのはどうか。

 二つほど考えて、どれも駄目だと判断する。生物体の(体液)は全身に栄養素を届けるため、規則的に流動しているのだ。ただ血液をばら撒くだけではサボテンは簡単に見抜くだろう。小細工を弄したところで、水の密度や動きなどから見破る可能性が高い。毒物の合成も恐らく無意味。水を操る能力を用いれば、水に溶け込んだ物質の選別だって可能と考えられる。

 大体どんな毒物ならサボテンに効くというのか。人間、というより動物とは生理作用もかなり異なる存在だ。こちらにとって有毒でも、植物には全くの無毒というものは十分にあり得る。ましてや何もかもが変化したミュータントとなれば尚更だ。

 それならいっそ、作るとすれば――――

 

「うぐぉっ!?」

 

 考え事をしていた継実の脳目掛け、地面から生えたサボテンの根が伸びてくる。重たい身体を仰け反らせて継実はこれを躱すが、伸びた根の先がぐにゃりと曲がり、追撃を試みてきた。

 

「どおりゃあっ!」

 

 その先をモモが蹴り付け、行く先を強引に曲げる!

 サボテンの根の動きが僅かに鈍った。この隙に継実はバク転をして、仰け反った体勢から復帰。身体の重さからすぐ猫背になりつつも、サボテンを睨む。

 蹴られたサボテンの根の方は、怒るように震え……今度はモモ、そして抱えられているミドリに狙いを定めた。

 どうやらサボテンは、鬱陶しい邪魔者の排除を一旦優先する事にしたらしい。

 

【ひっ!? こ、こっちをたくさんの根が狙ってます!】

 

「みたいね。ミドリ、舌噛まないように口を閉じてなさいよ」

 

 モモからの警告に、ミドリはぎゅっと唇を噛みしめるように口を閉じた。これから始まる、アクロバティックな動きに対処するために。

 ミドリの予感は見事に当たる。

 砂の大地から無数の根が生え、モモ達に襲い掛かった! 何十もの数の根がぐねぐねとうねりながら進む様は、まるで押し寄せる濁流。うっかり触れれば飲まれるという、本能的確信を継実には抱かせた。

 

「む――――」

 

 更にモモが小さく唸る。

 継実の目で見たところ、血液や細胞液など、モモの身体に含まれている水分が下向きに移動を始めていた。サボテンの能力に捕まり、引き寄せられているのだろう。今のモモは継実が感じている、いや、身体の水分密度を思えば継実よりもずっと強い重圧を感じている筈だ。

 しかしながらどれだけ身体が重くなろうと、モモには大した問題ではない。外で動き回る人型の『身体』は、水分を殆ど含まない体毛で出来ているのだから。

 

「よっと」

 

 モモは軽やかな掛け声と共に跳躍。まるで重さを感じさせないジャンプにより、サボテンの根はその下を通り過ぎてしまう。

 すぐに根は向きを変えてモモに再度襲い掛かるが、背後からの攻撃もモモには通じない。恐らく気配で察知したであろう襲撃を、モモは振り向きもせず、しゃがんで回避した。

 連続攻撃を躱されて怒り狂ったのか。サボテン本体がぶるりと震えるや、大きく枝を振り下ろし、モモ目掛けて無数の針を飛ばす。「おおっと」等と驚いたような声を出すモモだが、動きに焦りはない。僅かに顔を傾けるだけで、針の全てを避けてしまう。

 次いでモモは追撃として伸びてきた根に跳び乗り、新たに伸びてきた根は蹴り上げて向きを変える。飛んできた針はちょっと身体を捩るだけで対処。時には根がミドリを狙ってくる時もあったが、モモは彼女の身体を遠慮なくぶん回してこれを避けていた。

 モモは元々継実よりも速さに優れている。動体視力や反応速度、そして気配の察知も継実より上だ。身体が重くなった継実でも多少対処出来る程度の攻撃なら、ほぼ全力を出せる状態であれば回避は難しくない。

 

【つ、次は右ですぅぅぅぅぅ!?】

 

「右ね。よっと」

 

 更にぶん回されているミドリからの援護もある。脳内通信で根の情報を次々と伝え、モモが見えていない位置の情報を与えていた。お陰でモモは全方位を警戒するために気を張り詰める必要もなく、淡々と攻撃に対処出来る。

 サボテンの方も、流石にモモ(とミドリ)を仕留めるのは困難だと感じたのか。不意に根を散開させ、攻撃を中断。

 そうして再び、継実に意識を差し向けてきた。

 

「(どうやら、私以外を獲物にするのは難しいと考えたみたいね)」

 

 合理的な考え方に、継実は肩を竦めてみる。余裕ぶった態度であるが、内心はかなり焦りが強くなってきた。

 一見して状況は膠着している。しかし実際には、着実に継実達は追い詰められていた。

 何故なら継実達の体力は決して無尽蔵ではないからだ。攻撃を躱し続けていても、いずれ体力が尽きてしまうだろう。無論サボテンも体力が無限にある訳ではないが、奴は砂漠に暮らす砂漠の適応者。砂漠環境では継実達より遥かに効率的な動きが出来、体力の消耗は少ないだろう。つまり先にくたばるのは継実達の方という事だ。加えて継実達は水分が不足し、体調面で最悪の状態である。

 このままではジリ貧だ。継実の頭の中には一つ『打開策』が浮かんだが、それが上手くいくという確信はない。先のモモとサボテンのやり取りで()()()()()()()()が、確信には至らない……いや、そもそも確信に至れるものではない。これはサボテンにインタビューでもして、答えてもらわなければ分からない事なのだから。

 どうしたものかと継実は考える。自分達が生き残るために。

 しかし考えていたのは継実だけではない。サボテンもまたこの過酷な砂漠で生き延びるため、獲物である継実達を捕まえるために『思考』を巡らせていた。

 そしてサボテンの方が、先に『打開策』を閃いた。

 

「……ん?」

 

 継実はふと違和感を覚えた。サボテンの意識が、自分から僅かに逸れたように感じたのだ。

 尤も、その意味を考察する前に、サボテンが針と根で攻撃を仕掛けてきたが。勿論、継実目掛けて。

 

「ぐ……!」

 

 なんとか回避しようとする継実だったが、違和感から考え込んでいた事、そして今まで以上に感じる身体の重みから動きが一層鈍る。迫りくる根から逃げるのは勿論、避けるのも難しい。

 

「よっ!」

 

 その攻撃は横からやってきたモモが根を蹴りつけた事で軌道が逸れたが、こんな方法が何時まで続けられるか。

 守られている分頭を働かせろと意識して、継実は一層思考に没頭しようとした

 

【だ、駄目ですモモさん!? 後ろに――――】

 

 されどその思考を、ミドリの脳内通信が妨げる。

 ミドリの言葉は途中で途切れた。しかし途切れた言葉の続きを想像する事は容易い。

 モモの背後の地面から、無数の根が生えてきたのだから。

 ――――やられた、と継実は思った。

 サボテンは見抜いていたのだ。犬であるモモには、まずは継実の危機に優先して駆け付ける性質があると。

 それが分かれば実に簡単な話だ。継実に攻撃を仕掛け、そのフォローに入ったモモの背後を狙えば良い。回避と違い、フォローに入るのならモモの行動は極めて限定された範囲に留まる。まんまと範囲内に入ってきたところを、後ろからぶすりとやれば良い。

 現時点で成功したのは奇襲だけ。ここでモモが素早く身を捩れば、サボテンの思惑は失敗に終わる。だが継実に迫る根を蹴り上げるため、少しだけモモは宙に浮いていた。或いは、少し跳ばねば届かない位置に根があったと言うべきか。

 翼など持っていないモモは、この状態で奇襲攻撃を躱せるのか?

 

「……やっべ」

 

 それはモモの口から漏れ出たこの一言が、全てを物語っていた。

 このままではサボテンの根がモモの背中に突き刺さる。いくら身体が体毛に守られているとはいえ、サボテンの攻撃力を思えばその守りは容易く貫通されてしまうだろう。そして小さなモモの身体の水分など、サボテンが本気になれば瞬く間に吸い尽くしてしまう筈だ。刺さった後に助ける事は実質不可能と考えた方が良い。

 されどモモは背を向けていて何も出来ず。ミドリの戦闘力ではやはり何も出来ず。どうにかして今、継実がこの根を止めねばならない。

 だが、どうすれば良い? 細い根なら粒子ビームで焼き切れたかも知れないが、此度二人に迫るのは極太のもの。跳ね返されるのがオチだ。殴る蹴るなどの物理攻撃も同じ結果にしかならない。

 唯一の方法は……()()()()()()()()()

 躊躇いは、継実の中には殆どない。何故ならそれは継実が考えていた『打開策』の一つに過ぎないからだ。今まで実行に起こさなかったのは、成功確率が高いとは言えなかったから。しかし追い詰められた今、使うチャンスが訪れたなら使うしかない。

 颯爽と駆け出した継実は、モモの手を掴んで引き寄せた。そしてそのまま、背後に向けて投げようとする。自分に狙いを変えてきた根など見向きもせずに。

 

「継実!? アンタ――――」

 

「モモ。プランK……後は任せた」

 

 投げる寸前に発してきたモモの言葉を遮り、ぽそりと継実はその言葉を呟く。

 モモは大きく目を見開いた。何かを言おうとして口も大きく開けた。けれども全てが、サボテンの根のスピードに比べればあまりにも遅い。

 モモを投げ飛ばした次の瞬間、根は継実の背中に深々と突き刺さるのだった。



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干からびる生命14

「がっ……!」

 

 根が突き刺さった衝撃で、継実の口からは肺の中の空気が追い出されるように吐かれた。

 根は背骨を貫き、胃を貫通。更に胸部を貫いて出てくる。心臓は外れたものの七年前ならば致命傷であったが、しかし今の継実にとっては問題ない。以前ネガティブに心臓を抜かれた時に比べれば、掠り傷のようなものだ。

 故に継実は傷跡の修復よりも、この後起きる問題に備える。

 ――――水を操る能力によって、身体の水分を奪われる事に。

 

「(もう、吸い始めてる……!)」

 

 貫かれてすぐ、サボテンの根は継実の身体から血液を吸い始めた。いや、吸うというのは些か生温い表現か。七年前なら、ゾウだって一瞬で干物にしたであろう吸引力を全身で感じる。

 継実は能力で水分子の固定を試みたが、サボテンのパワーの方がずっと上だ。吸われる 勢いを弱めるのが精々で、体液を奪われていく状況に変化はない。

 

「継実! 今助け、っ!」

 

 モモが救助に来ようとするが、サボテンはそれを許さない。砂の中に走らせていた根を地上に出し、威嚇するようにうねらせる。モモはなんとか接近しようとしていたが、サボテンの根があまりに多く、隙間を縫う事すら出来ないでいた。

 助けは期待出来ない。そして自分の力だけで脱出はおろか抑え込むのも、間違いなく無理だと継実は思う。

 事実を積み上げて考えた結果分かったのは、自分が置かれている状況が如何に絶望的であるのかという事だけ。しかしそれを理解しながら、継実の頭に恐怖や絶望の念はない。

 それどころか、その瞳に宿るのは執念。

 何がなんでも死んでやるものかという、生への猛烈な執着心。恐らく七年前の人間からすれば、美徳を通り越して怨念染みて見えたであろう。しかし人間としての矜持などとうに捨てた継実は全身から力を抜くどころか、更に大きな力を身体に滾らせた。臆さない脳細胞をフル稼働させ、過去に人類が作り出した全コンピュータをも上回る演算力を生み出しながら『能力』を発動させる。

 だが、その足掻きも巨大サボテンには届かない。

 

「う、ぅ……!」

 

 全身を襲う息苦しさ。どうやら細胞への酸素供給が不足しているのだと分かったが、そのエネルギーを運ぶ血液がない状況故にどうにもならない。骨髄細胞を働かせて血液を増産しようにも、そのエネルギーが届いていない有り様。負の悪循環が始まり、エネルギー不足から能力も弱まる。能力の抵抗がなければ、もう体液の吸収を抑えるものもない。

 体液の喪失に伴い、張り艶のあった肌がどんどん皺になり、干からびていく。肌の色も黒ずんだものへと変わり、乾いた大地のようにひび割れる。また血液が不足するのに伴い、眼球が萎んでいく。目のガラス体は無事でも、中身がなくなって萎めば上手く光を取り込めない。視力が瞬く間に失われ、継実の目は何も映さなくなる。

 そして脳も血液が失われれば意識を保つためのエネルギーが運ばれなくなり、消えていく。

 

「(こ、こまで、か……モモ、後は……)」

 

 意識の中ですらも、最後まで言葉を綴る事は出来ず。

 時間にしてほんの一分にも満たない。ただそれだけの時間で、継実の身体は、水の一滴もないほど干からびてしまった。

 

「あ、あぁぁ……!」

 

 ミドリが嗚咽混じりの声を出す。顔は真っ青に染まり、目には涙が溜まり、全身をガタガタを震わせる。

 水分を吸い終えたサボテンは、もう要らないとばかりに継実の胸から根を引き抜く。ぼとりと砂の上に落ちたその身体には大穴が空いていたが、もうそこから流れ出すものはない。

 索敵能力に優れるミドリには更に、その身体が鼓動も呼吸もしていないと分かるだろう。あらゆる生命活動が停止していた。最早それは、継実の形をした肉の塊でしかない。

 

「も、モモ、さん……継実さん、が……継実さんが……」

 

 それでもミドリはモモに声を掛ける。なんとかしてくれと、縋るように。

 対するモモの返事は――――悲しみに暮れていたミドリの嗚咽と涙が止まるほどの、覇気と敵意。

 無論それを向けられるのは、継実を襲ったサボテンであるが。

 睨まれているサボテンは、微動だにしない。虫けらに見つめられても何も感じないと言わんばかりに。するとモモは更に敵意を強めていった。ミドリの震えが、継実が失われる事に対するものではなく、我が身を心配したものへと変わるほどに。

 それでもサボテンが大きな動きを見せないでいると、モモはゆっくりと口を開く。

 

「ねぇ。せめてその根を継実の周りから退かしてくれないかしら? でないと私……アンタの事、殺せないまでもズタズタに引き裂くまで暴れるわよ?」

 

 ただ一言。なんの破壊力も持たない、言葉による威圧。

 されどミドリは、その一言で一瞬意識が飛んでいた。あまりの恐ろしさから逃げるために、本能が咄嗟に思考を停止させたのだ。

 これでもサボテンは殆ど動かなかった。が、言われた通りにするかの如く、根を継実の傍から退かしていく。

 次いで、サボテンは砂の中に潜り始めた。

 一度潜れば、巨体が完全に砂の中へと消えるのに十秒も掛からない。根も素早く潜っていき、完全に姿を消した。

 あまりにも呆気ない撤退。それを目にしたミドリは呆けたように目を瞬かせた。

 

「……え。本当に、帰って……?」

 

「ミドリ、索敵。もしかしたら浅いところでこっちを見てるかも」

 

「は、はい!」

 

 モモに窘められて、ミドリは改めて索敵を行う。

 サボテンの方は殆ど気配を消していないようで、ミドリの答えはすぐに返ってきた。

 

「……もう、かなり遠くに行ってます。多分、戻ってはきません」

 

「そ。そりゃ何より。まぁ、脅しにビビった訳じゃなくて、単純に私を捕まえるのが面倒臭いって思っただけなんでしょうけど」

 

 ミドリからの情報に軽い口調で答えながら、モモは砂の大地を歩き出す。

 向かう先は、継実の身体の傍。

 モモはそこでミドリを下ろし、継実を見下ろす。ミドリも一緒になって継実を見ていたが、やがてその瞳からぼろぼろと涙を零し始めた。身体も小刻みに震え、口からは嗚咽が漏れ出る。

 

「……継実さん、本当に……本当に……!」

 

 認められない。認めたくない。そんな気持ちがどれだけ込み上がろうとも、目の前の干からびた肉塊は元には戻らない。

 継実の死を、ミドリは認めざるを得なかった。

 

「あーあー、こんな姿になっちゃって」

 

 対してモモは、軽い声で呼び掛けるだけ。

 ミドリは顔を上げて、モモを見遣る。ミドリの視線を受ける中、モモは干からびた継実の身体を、指で摘み上げた。まるで、路端に落ちていたトカゲやカエルの死骸を拾うかのように。

 しばし呆然とモモを見ていたミドリだったが、やがて表情が変わっていく。悲しみの色を薄れさせ、代わりに怒りを露わにしていった。それこそ、サボテンにモモが見せた威嚇の表情のように。

 

「……なんですか、その言い草は」

 

「? 何って?」

 

「継実さんが死んじゃったんですよ! どうして……どうしてそんな風にいられるんですか!」

 

 砂漠中に響き渡るような大声で、ミドリはモモを責めた。

 そうして責めながらも、ミドリの顔からは怒りが薄れ、悲しみが増えていく。

 モモは人間ではなく、犬。だから人間の身体と神経系を利用しているミドリとは、考え方や価値観が異なる……それぐらいはミドリも分かっている事。

 けれども、自分達は家族なのだ。

 まだ半年も一緒にいないような関係でも、家族として過ごしてきた。その家族の一人が失われたのに、悲しみの涙一つ零さない家族がいる。家族だと思っていたのに、家族だと思えなくなっていく。

 ミドリはそれが悲しかったのだ。怒りよりも、悲しみが心を突き動かす。

 そのミドリを前にしたモモは――――キョトンとしていた。それどころか困惑したような表情を浮かべ、何を言われたのか分からないとばかりの態度を見せる。

 

「いや、どうしても何も、まだ継実は死んでないし。諦め早過ぎ」

 

 続いてあっけらかんと、そう答えた。

 一瞬ミドリは怒りの形相を浮かべた。反省のないモモの言い方に対する、反射的な反感。されど遅れて脳が言葉を理解し、感情の消えた透明な表情に変わる。

 それが驚きと困惑に染まるまで、そう長い時間は掛からない。

 

「えっ!? い、生き……」

 

「あ、もしかしたら死んでるかも」

 

「ちょ。ど、どっちなんですか!?」

 

「私にも分からないわよ。これやったの初めてだし。でも、継実なら多分なんとかしてるわ」

 

 力強い断言。

 自ら「分からない」と言っているように、その言葉に根拠と言えるようなものは何一つない。けれどもモモは一切の迷いもなく、そう断じてみせた。

 ミドリは理解した。モモは心から継実を信じているから、悲しみなど抱いていないのだと。

 そしてモモは知っている。

 もう死んでいるとしか思えない、そんな状態でも継実が『復活』するすべがあるのと。

 

「……あたしは、何をすれば良いのですか」

 

 ミドリは涙を拭うと、モモに尋ねた。力強く、前向きな意思を備えて。

 自分の力で前を見たミドリに、モモは継実の身体を担ぎ上げてから、こう伝えた。

 

「兎に角、水のある場所まで行くわよ――――今度は全力疾走で、出来るだけ急ぎで。だから水探し、頼んだわよ」



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干からびる生命15

「ひゃあああああああぁぁぁ!?」

 

 地平線まで続く夜の砂漠に、ミドリの叫びが木霊する。

 何故なら彼女は、モモの肩に担がれた状態でいて――――そしてモモが超音速というのも生温い速さで砂漠の大地を駆けているからだ。

 しかしモモはミドリの悲鳴を聞いても止まる気配すらない。担いでいるミドリを支えているのとは反対側の腕にいる家族……継実の干からびた身体をしっかりと抱え直し、猛然と駆けながら、体毛をミドリの耳に差し込んで言葉を伝える。

 

「ミドリ! 水場は何処!」

 

【あ、あっち、あっちですぅ!? ででででもこん、こんな、急がなくても】

 

「駄目! 更に加速するわよ!」

 

 あまりの速さに目を回し、減速を求めるミドリ。しかしモモはそんな要望など聞く耳持たず。宣言通り更に加速して、砂漠の大地を駆け抜けていく。

 モモが本気で走れば音速など軽く突破し、秒速三キロ程度は軽く出せる。これだけの速さとなれば、如何に広大な砂漠でもすぐに横断だ。砂だらけで足下の柔らかかった土地が、段々と硬くて踏ん張れるものへと変わる。

 砂漠の中心から離れると、地面の水分も増していく。ミュータント化した植物の一本も生えていない状態だったが、段々と小さな緑が見えるようになる。一度植物の姿が見えるようになると、その数と大きさは加速度的に増していき――――

 

【あそこ! あの森の中心です!】

 

 ミドリが指先と声で示した水の在り処は、巨大な森林地帯と化していた。

 

「あー、やっぱオアシスの周りってなるとこーなるわよねぇ……ま、仕方ない。ミドリ、周りに大きな動物がいないか警戒して」

 

【はいっ! えと、とりあえず今はいません! 多分!】

 

 力強く、けれども曖昧なミドリの答え。しかしながらミドリの索敵能力も無敵ではない。隠れ潜むモノ、隠密能力に優れているモノが相手となると、見逃してしまう事もある。

 多少の安全は確保されたが、完璧とは言えない。おまけに昼間ならばまだ明るかっただろうが、夜の森は宇宙空間のように暗かった。普通ならば一瞬でも森の手前で立ち止まるだろう。

 されどモモは躊躇いもなく、巨大な森の中に足を踏み入れた。生い茂る草を踏み付け、樹木を避けながら前へ前へと進む。ミドリだけでなくモモも臭いを嗅ぐなどして周辺の索敵は行うが、前進を優先した勇猛果敢な歩みを続けた。

 幸いにしてやがてモモ達の前に現れたのは猛獣ではなく、開けた水色の視界……月明かりを浴びて煌めく、大量の水を湛えたオアシスだった。

 

「ぁ……ああああ! 水です!? 水があります!」

 

「いや、そりゃある場所に来たんだから当然でしょ。ほら、喉乾いてるだろうから、飲んできなさい」

 

 大騒ぎするミドリをモモは降ろす。地面に足を付けた途端、ミドリは駆け足でオアシスに向かい、オアシスの湖面に顔を漬ける。ごくごくと音が聞こえそうなほど、力強く水を飲む。

 そんなミドリと違って落ち着いた足取りでモモはオアシスの岸までやってくると、これまで大事に抱えていた継実の身体を大きく振り、

 

「ほーい」

 

 投げた。

 水を飲んでいたミドリが目を丸くする中、継実の干からびた身体は大空を駆けていく。放物線を描くそれは重力に引かれて徐々に落下し……

 どぼんっ、という音を立てて着水。オアシスの底へと沈んでいった。

 

「……え、えええええええええっ!?」

 

 継実が水に落ちるところを見て、ミドリは仰天。大声で叫びながらモモへと視線を移すが、見られたモモは一仕事終えたとばかりに汗を拭うような仕草を取るだけ。しかもその顔はやり遂げたように誇らしげだ。

 何故モモがそんな顔をしているのか、何故モモは継実をオアシスに投げ捨てたのか。訳が分からないであろうミドリは目を丸くして、呆然としてしまう。されどモモはそんなミドリの姿を見ても、特に説明などはせず。

 代わりに、モモが見つめるのはオアシスの湖面。

 あたかも、そこを見ていれば答えが分かると言わんばかりに……

 

 

 

 

 

 喉が乾いた。

 そんな生物的な衝動を抱いた、その次に()()()()()()()()()()()事に気付く。

 果たしてそれは天国か地獄に辿り着いたからなのか。悪い事をしたつもりはないけど、殺生しまくりだし神様信じてなかったし人間殺してるしやっぱ地獄かなぁ……等と漫然と思っていたが、四肢の感覚が、つまり肉体がある事も自覚した。大体冷静に考えれば魂がこの世界に不在なのは、自分の『粒子テレポート』が証明しているではないか。

 やがて、息苦しさも覚える。

 自分は魂だけの存在になった訳ではない。生きた肉体を持ち、呼吸している存在のままだと理解する。そして息苦しさから、自分が窒息寸前である事と、周りが水で満たされている事も。

 おまけに、足下から大きな気配が迫っている事実も認識する。

 何が来ている? 苦しみの中、意識と『能力』を足下へと向けてみた。

 見えたのは、体長二メートルはありそうなワニだった。

 

「……ごぽぉっ!?」

 

 驚きから口を開く。肺の中の空気なんて殆どなく、僅かな泡が漏れただけだが、一層苦しさを増した。尤も今はそんな些末事を気にしている場合ではない。

 急がないといけない。だから四肢を振り回し、能力で周りの水分子を動かして高速で動かして超スピードで泳ぐ。

 そのスピードのまま水面を飛び出して、放物線を描きながら向かうは、二人の人影がある陸地。

 着地は顔面から。土が柔らかかったお陰で衝撃はあまりなかったが、痛いものは痛い。反射的に両手で顔を擦ってしまう。

 そうしてから上げた顔の前に立っていたのは、水面から飛び出した時に見た二つの人影。

 

「おかえり。どうにかなったみたいね?」

 

「あ、あぁ、ああぁぁ……!」

 

 声を掛けてくる、或いは声にならない嗚咽を漏らす人影こと、モモとミドリ。

 大切な家族の姿を見た彼女――――継実は未だ苦しさの残る顔を強引に動かして、心からの笑みを浮かべた。

 

「……ただいまー」

 

「いやー、思ったより復帰に時間が掛かったわね。失敗したかと思って心配したわよ」

 

「継実さああああんっ!」

 

 モモの軽口に一言返そうとする継実だったが、その前にミドリが飛び付き、抱き締めてくる。非力とはいえミュータントであるミドリの全力パワーは、今の弱りきった継実には中々過酷。このままでは比喩でなく潰されそうだったので「ギブギブっ」と呻きながらミドリの背中を叩き、離してもらう。

 なんとか圧迫地獄から抜け出して、継実は一息吐く。あまりにも疲れきった吐息だったからか、モモがくすりと笑った。

 

「何よ、蘇生したばかりなのに随分元気がないわね。もっと喜びなさいよ」

 

「そりゃ……今度ばかりは、ほんとに、死にそう、だったし……つか、蘇生とは、違うし……」

 

「え、えっ!? 蘇生!? え、継実さん死んでたんですか!? まさかゾンビ!?」

 

「だから、死んで、ないから。あとゾンビは、どっちかといえば、アンタでしょ」

 

 掠れた声でぽそぽそと答えながら、継実は苦笑い。興奮するミドリに説明してあげようと、未だ干からびてがびがびな喉を震わせながら喋る。

 地球生物の中には、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 これを人間はクリプトビオシス……『隠された生命活動』と呼んでいた。機能としては過酷な環境に対抗するための術であり、その耐久力はミュータントでもないのにトンデモない代物だが、今回継実が目を付けたのは『乾燥した状態での休眠』の部分。

 通常、水分をある程度失った生物は死に至る。しかしクリプトビオシスが出来る生物は、身体から水分が完全に失われた後も死なず、その後水を得るだけで蘇生出来るのだ。

 クリプトビオシスを使える生物は系統的な共通点がなく(何しろ細菌、緩歩動物、昆虫でそれぞれ独自に獲得した)、定まった方法がある訳ではない。しかしながらある程度の、基本的なやり方は存在する。

 例えばトレハロースの合成。

 トレハロースは糖の一種であり、これ自体は様々な生物の体内で見られるあり触れた物質に過ぎない。しかしこのトレハロースは高濃度になると『ガラス化』を起こし、細胞を構成する分子を保護する働きがあるのだ。これが乾燥によるダメージを防ぎ、脱水による『休眠』を可能とする。

 継実はサボテンに吸血される間際、体内の血糖やタンパク質を分解してこのトレハロースを大量に合成。細胞全体に高濃度の状態で満たし、脱水による体組織の破壊を防いだのである。その後モモが投げ込んだオアシスの水を吸水し、元の身体に戻ったという訳だ。今も少しずつだが継実はオアシスの水分を取り込み、徐々に回復に向かっている。

 この力はモモと二人暮しをしていた時、考えていた『技』の一つ。とはいえこれはあくまでもクリプトビオシスの生態がある生物のメカニズムを、継実がその場凌ぎで真似したものに過ぎない。成功する保証はなく、また長時間の休眠が出来るとは限らなかった。故にモモは急いで継実を水に浸したかったのだ。折角成功していたのに、もたもたして継実の命が失われるのを避けるために。

 

「しっかし、今回は本当にヤバかったわね」

 

「ほんとにねぇ……あぁ、クソッ。体力も殆ど残ってないし……ケホッ、ゲホ」

 

 喉の乾きが戻るに連れ、身体の不調さも自覚出来るようになる。

 サボテンは主に水を吸っていて、継実の身体にある栄養素にはあまり手を付けていなかった。しかしながらクリプトビオシスへ移行するため、継実自らが体組織中のタンパク質や糖を分解・合成している。その際に使ったエネルギーは決して多くなかったが、ほぼ絶食状態の身体には追い打ちを掛けるようなものだった。

 逃げるだけでもこの消耗具合。だが、三人全員が無事な状態で逃げきれただけでも御の字だろう。いや、御の字どころか奇跡か。一人どころか二人が犠牲になっても、それでようやく御の字。あのサボテンはそれほどまでの……比喩でなくここまでの旅路で一番の難敵だったと言えよう。

 砂漠という過酷な環境であっても、自分達を凌駕する生命がいくらでも存在する。

 ならば砂漠の中心から外れた、この先の道にはどれほどの脅威が潜んでいるのだろうか。もしサボテンに匹敵する、或いは凌駕する生物に真正面から遭遇したなら、今度は三人全員が無事逃げ出せるとは限らない。旅の終わりは近付けども、脅威の終わりはまだ訪れないのだ。

 それを今になって改めて突き付けられた。

 

「(ふん。やってやろうじゃない)」

 

 しかし継実の心は折れていない。

 旅でここまで追い込まれたのは初めてでも、文明が終わってからの七年間ならこの程度の修羅場は何度か経験済みだ。今更恐怖やら不安に苛まれやしない。

 継実は力強く立ち上がる。旅の続きを始めるために。

 

「さて、無事に逃げきった訳だし旅の再開をしたいけど……どうする?」

 

 そんな継実にモモが尋ねてくる。ただしその視線が向いているのはオアシスの方。じっと、警戒するような眼差しを向けていた。ミドリもオアシスを見ていて、じりじりと後退りしている。

 二人とも、池に潜む存在に気付いているのだ。それがこちらに近付いている事も勿論理解しているだろう。

 何より、継実が何を考えているのかも。

 継実は二人の期待に応える事にした。

 

「まずは……腹ごしらえかな!」

 

 元気よく宣言するや継実は構えを取り、

 オアシスから飛び出してきた巨大ワニに、誰よりも早く突撃を仕掛ける。

 サボテンから受けたダメージなどもう何処にもないかのように、今まで通りの『継実の旅』が再び始まるのだった。



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第十一章 メル・ウルブス攻略作戦
メル・ウルブス攻略作戦01


「ひゃっほぉー!」

 

 モモの元気な声が、大海原に響き渡る。

 水平線の彼方まで続く海原と空の青さ。極地に近いからか空気が澄んでいて、吸い込めば実に『美味しい』と、モモの傍にいる継実は思う。勿論空気に味などないが……不純物のない、純粋な空気は身体に活力を与えてくれた。

 

【気持ち良いですねー】

 

「だね。速さがあるから、この移動もすぐに終わっちゃうのが残念だけど」

 

 脳内通信で話し掛けてきたミドリに、継実は粒子操作能力で制御した空気分子を介して声を伝える。音速以上の速さで海上を飛んでいる継実達に、普通の発声方法で会話する事は出来ないのだ。

 そもそも『普段』であれば、こんな暢気な会話などしていられないだろう。海には水棲ミュータントがうじゃうじゃと暮らしている。どの生物種も海洋環境に適応したエキスパートであり、まともに戦えば継実達(陸上生物)では敵わない猛者揃い。襲われたら一溜まりもなく、為す術もなく餌とされてしまう。

 現にその心配は消えておらず――――突如として海中から一匹の、メロ(魚の一種)の仲間が継実達目掛けて襲い掛かってきた!

 

「クァッパ……!」

 

 メロは大きな口を開け、超音速で継実目掛けて跳んでくる。ギラ付いた眼差しに躊躇はなく、抑えきれない食欲を剥き出しにしていた。

 メロの体長は約一メートル。継実の三分の二もないような大きさだが、流線型の身体は水中生活に最適化されている。万一水中に引きずり込まれたなら、もう勝ち目などなくなるだろう。

 何時もであれば大慌てで逃げないといけないところだが……今回の継実達はちょっとだけ余裕だ。

 何故なら彼女達が乗っている()()()が、勝手に回避してくれるからだ。

 その乗り物は直径二メートルほどの四角くて黄色い機体と、折り畳んだ三本の脚、そして四枚の半透明な翅を生やしている。翅は高速で上下して風を起こし、それが機体及び搭乗者を浮かばせる原動力となっていた。ただし機体には凹みどころか取っ手もなく、継実達は『握力』でこれにしがみついている状態だったが。機体の表面は非常につるつるしていて、少しぬめりけも帯びている。普通の人間ならば呆気なく振り落とされているだろうが、継実達の力ならば問題はない。指を機体に食い込ませ、身体を固定している。これなら落ちる事はないだろう。例え機体が回避のために突然動きを変えたとしても、だ。

 今まで真っ直ぐに飛んでいた乗り物だったが、メロが迫ると、継実が反応するよりも先に自らその動きを変更。大きく機体を傾けてこれを回避する。攻撃を外したメロの羨ましげな視線が継実に向けられたが、継実はこれに不敵な笑みを返す。

 ……()()()()()()()()()()()()()()というのに。

 

「おおっと、魚が来ていたか。うんうん、言う事を聞けば最後にはちゃんと解放してあげるよ。ぐへへへへ」

 

「うわぁ。継実さん悪役みたい……」

 

「まぁ、実際悪役でしょ。脅して言う事を聞かせてる訳だし。ま、褒めたり脅したりしても、そいつはなーんも感じないでしょうけど」

 

 継実が機体を撫でると、ミドリとモモから誹謗中傷が飛んでくる。確かに脅しはしたが、撫でる時は本心から褒めていたつもりなので、悪役呼ばわりはそこそこ心が傷付く。

 とはいえ、モモが言うようにこの機体……正確にはその『中身』を脅しているのも間違いない。

 ケダモノであるモモは気にもしないし、継実だってそれしか手がなかったのだから悪いとは思わない。何よりモモが言うように、この中身は何をどうしようが何も感じないだろう。合理的だから継実達に歯向かわず、従っているだけ。

 ならば罪悪感など抱く必要も、そして理由もない。そもそも罪悪感や良心は人間社会を豊かかつ円満に動かすためには必要なものであるが、自然界では役立たずなもの。脅そうが嘘を吐こうが、自分が生き残れば勝者である。

 ……勝者であるし、必要もないが、人間的に気分が良いかは別問題。

 

「……気分の問題よ、気分の。それにちゃんと約束通り放しはするから。この子達なら帰れるでしょ、南極からオーストラリアまで」

 

 ぽそりと、継実は無意識に弁明の言葉を呟いた。

 ――――そう。此処は大海原であり、オーストラリア大陸ではない。離れてからまだ三分と経っていないが、継実達が乗っている機体は秒速二十キロもの速さで飛んでいる。オーストラリアから目的地南極までの直線距離は約三〜四千キロであるから、既に殆どの行程は終わっている状況だ。

 間もなく南極に辿り着く。それを理解しているのは継実だけでなく、モモとミドリも同じだ。

 

「あー……もうすぐ南極かぁ」

 

「この旅も、もう終わりですね。早かったような、長かったような……」

 

「こらこら。まだ旅は終わってないんだから油断しないの。それに海の上なんだから、油断したら食べられちゃうよ」

 

「いやー、大丈夫でしょ。この乗り物があるんだし」

 

「そうですよ。むしろ感傷に浸るなら今がチャンスなんじゃないですか?」

 

 窘めてみても二人とも反省どころか開き直る有り様。実際のところ、モモ達の言い分は正しいだろう。機体の『中身』自体が自殺願望でも抱かない限り、自分達が周りを警戒する必要なんてない。

 『合理的』かつ素直な思考はミュータントの特徴。ミュータントである継実はモモ達の意見に納得し、成程なとばかりに頷く。そして納得をしたのだから、何時までも自分の考えに執着などせず、より良い考えに改める。

 つまるところ継実も感傷に浸りたいのだ。これまで行ってきた自らの旅路を振り返り、苦労と出来事を噛み締めながら。

 そして真っ先に思い返すのは、やはりなんやかんや直近の出来事。

 自分達がオーストラリア大陸を出立するまでのほんの数日間、この乗り物を手に入れるまでに掛かった紆余曲折を……



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メル・ウルブス攻略作戦02

 ――――遡る事三日前。

 どしん、と継実は自らの足で大地を踏み締める。

 勿論本気ではない。本気で大地を踏めば、ミュータントとなった今の継実のパワーならば地震ぐらい簡単に起こせて、足先で大地を数十センチと貫くなど造作もない。あくまでも体重を乗せた程度の、それなりに手加減した踏み締め方だ。

 しかしそれでも地面が砂で出来ていれば、足が地表面に留まる事はなく、ずぶずぶと沈んでいく。そうならないという事は、つまり此処は砂で出来た大地……砂漠ではないと言える。尤も、そんなのはわざわざ踏まずとも、見れば分かる事だ。

 やや黄ばんでいる上に丈は数センチしかないが、足の踏み場もないぐらいに繁茂している草があるのだから。

 

「〜〜〜ぃやあぁっと、抜け出せたぁ!」

 

 砂漠で辛酸を嘗めさせられてきた継実は、その事実に両手を挙げて万歳するほどに喜んだ。

 

「ほんとねぇ。私自身は割と楽だったけど」

 

「あたしはもう、割とへろへろです……水、飲みたいなぁ」

 

 共に砂漠から抜け出したモモとミドリも継実の意見に同意しながら、背伸びしたり、項垂れたりしている。二日前にサボテンから逃走しオアシスに辿り着いた後は、能力の温存はあまりしていなかったが……それでもミドリにとっては過酷な旅路だったらしい。

 いや、辛かったのはミドリだけではない。モモは楽だと宣っているし、継実も平然とした態度を装っている。しかし実のところ言うほどの余裕はない。

 というのも砂漠にはサボテンやムスペルを除けば、殆ど生き物がいなかったため、まともな食事が出来ていないからだ。最後の食事は二日前にオアシスで襲い掛かってきたワニ……の尻尾(三人で襲い掛かったら尻尾を切って逃げた。もしかするとワニに似た姿の巨大トカゲだったのかも知れない)だけ。戦いがなかったので余計なエネルギー消費はなかったが、二日分の基礎代謝だけで相当の消耗がある。

 正直、今だとフルパワー状態は数秒と続くまい。非常に危険な状態だ。

 

「しっかし、流石にそろそろなんか食べたいわね」

 

「ああ……そっちの方が優先ですね。水じゃお腹は膨れませんけど、食べ物なら喉は潤せますし」

 

 モモとミドリからも、空腹の訴えが起きる。すると継実のお腹は返事をするかのように、ぐぅ、と音を鳴らす。

 まるで返事のような腹の音。七年前の小学生時代なら顔を赤らめるところだが、今の継実にとってこんなのは空腹のシグナルに過ぎず。恥ずかしがる前に空腹、つまりエネルギー不足の解消を行わねばならないと考える。

 幸いにして砂漠はもう抜けた。今の継実達の前に広がるのは、命の乏しい荒れ果てた大地などではない。黄ばんでいるとはいえ草が繁茂した草原だ。それに南に行けば行くほど植物の青さと大きさ、そして密度が増している。少し歩けば青々とした草原に変化するだろう。植物という豊かな『食糧』に支えられ、この先にはたくさんの生き物が暮らしている筈だ。お腹を満たすのはそう難しくあるまい。

 無論、油断するのは愚の骨頂である。生き物が豊富であれば、それらを餌にする猛獣も豊富という事。砂漠ですらサボテンという恐るべき生命体がいたのだ。この草原にどんな危険生物がいるか分かったものではなく、いくら警戒しても足りない。

 

「モモ、ミドリ。周りに危険そうな気配とかある?」

 

「んー、あたしは特に感じませんね。小さな虫とかはちらほら見掛けますけど、五十センチ以上あるような生き物はこの辺りでは感知出来ません」

 

 継実が尋ねてみたところ、ミドリからは安全だという意見が出る。とはいえ彼女の探知能力は、頼りにはなるが絶対ではない。巧妙に隠れ潜んでいる猛獣がいる可能性は残る。

 絶対の保証などこの世には存在しない。故に少しでもリスクの『予感』がしたなら、そちらを優先するのが野生で生き延びるためには必須だ。

 

「……うーん……?」

 

 モモが首を傾げていたら、安全だというミドリよりも、そちらの意見を気に掛けるべきであろう。

 

「モモ、どうしたの? なんかヤバいのがいそう?」

 

「ん? いんや全然。そーいう感じはないんだけど……」

 

「だけど?」

 

「……臭いが変。甘ったるい臭いばかりめっちゃする。知ってる臭いなんだけど、なんだっけな、これ」

 

 尋ねてみれば、モモからはそんな答えが。

 甘ったるい臭いとの事なので、継実は自身の能力で大気分子を分析してみる。するとリナロールやテルペン、その他様々な物質が検出された……が、これは花の香りやエッセンシャルオイルなどで見られるもの。つまるところ草原ではさして珍しくもない物質だ。濃度も別段濃くない。

 継実としてはモモの感じた違和感を、気の所為なんて言葉で片付けるつもりはない。ミュータントの本能的直感は、成分表の数字よりも遥かに『正確』だ。しかしながら臭いを感覚的に理解出来るモモと違い、継実は数値的にしか理解出来ない。家族が覚えた違和感をどう受け止めるべきか、判断が難しいところである。

 

「……ふぅん。要警戒ってところね」

 

 とりあえずは、危険があるかも知れないと認識する。十分ではない可能性もあるが、意識するのとしないのとでは大違いだ。

 

「そーいう訳だから、ミドリ、警戒は念入りにね」

 

「はい。何時も以上に警戒しておきます」

 

「お願いね……あ、それともう一つ。ワラビーでもウォンバットでもなんでも良いけど、毛皮のある生き物を見付けてほしいな。そろそろ服作りたいし」

 

「あー……確かにあたし達、もう何週間も裸ですよね。そろそろ服着たいなー文明人的に」

 

 継実からの要望に、現在進行系で真っ裸である自身の身体をぺたぺたと触りながらミドリは能天気な意見を述べた。

 ミドリが言うように、継実達はこのところずっと裸だ。丁度良い毛皮が中々見付からなかったというのもあるが、兎にも角にも危険かつ不慣れな敵との戦いが多く、服を着ててもすぐに吹き飛ばされてしまうのが一番の原因である。折角毛皮になりそうな死骸を見付けても、数時間と持ちやしない。

 そういう意味では、服などなくても良いかも知れない。勿論服があれば様々な恩恵を受けられるのだが、何がなんでも欲しいかといえばそうでもなく、だからこそ今まで割と裸でいた訳だ。

 しかしながら今回ばかりは服が欲しいと継実は思う。何がなんでもではないとしても、それなりに時間を掛けても良いと考えるほどには。

 

「そうだねぇ、私も欲しいよ――――此処から先は、きっと凄く寒くなるからさ」

 

 何しろ間もなく自分達は、極寒の地である南極に辿り着くのだから。

 オーストラリアの南半分を越えた事を確信している継実はそう考え、数日後には迎えるであろう寒さに備えようとしていたのだった。

 

 

 

 

 

 そう、備えようという気持ちはあった。

 気持ちはあったのだが、それでどうこうなるものではない。自然界というのは人間の気持ちを汲んで、欲しいものを渡してくれる訳ではないのだから。

 しかしながら物事には限度がある。欲しいものが中々見付からないとしても、手掛かりぐらいはあるものだ。そこにいる筈のものであれば、一つぐらいは。

 つまり手掛かりすらない状況というのは、割と想定外というもので。

 

「な ん で! 獣がいないのさぁ!」

 

 野生の世界では割とご法度な大声を、継実は思わず上げてしまう。されどいっそご法度ならばまだマシだとも思うのだ。

 声を聞き付けて獣がやってくるなら、それで『獣不足』問題は解決なのだから。

 

「……来ないわねぇ。結構遠くまで声は響いたと思うんだけど」

 

「ええ、あたしの探索範囲にも引っ掛かるものはいませんね。ひっそり隠れていた、という感じではなさそうです」

 

 息を切らすほど荒れる継実に対し、モモとミドリは冷静そのもの。淡々と言葉を交わし、現状を分析する。

 砂漠を抜けた先に広がっていた草原を進む事三時間。草丈が腰まで来るほど植物が繁茂するようになった今も、継実達は衣服の材料に出来そうな、大型の獣を見付ける事が出来ていなかった。

 勿論選り好みなんてしていない。体長二メートルのカンガルーの死骸でも見付かると良いなという程度の願望はあったが、あくまでも願望だ。毛があるものを見付けたなら、すぐに拾って加工するつもりだった。ところがどうした事か、体長五十センチのウォンバットどころか十センチ未満のネズミすら見掛けない有り様である。今のように大声を出してみたり、ドタドタと走ってみたりもしたが、大型生物の姿は現れてもくれない。

 今のオーストラリア大陸にたくさんの有袋類が生息している事は、大陸に上陸してすぐに思い知った。砂漠を越えた先にあるこの地で、急に哺乳類()の数が減るというのは……奇妙というよりも『異常』だろう。

 しかもこれは哺乳類に限った話ではない。

 体長数十センチにもなるような爬虫類や両生類、更には昆虫類の姿も見られなかったのだ。草原という植物資源が豊富な地で、どうしてその豊富な資源を利用する生物がいないのか。

 不自然な生命の不在。想起するのは大蛇とヒトガタの決戦が起きた、ニューギニア島だ。あの島では圧倒的生命体の存在により、島中の生き物が避難または休眠していた。この地の生物も、あの島のように何処かに逃げたのだろうか?

 此度に限れば、否である。

 

「まぁ、小さな虫とかトカゲはたくさんいますから、食べるには困ってないですけどね。ぱくんっ」

 

 ミドリが言うように、体長一センチ未満の小さな生き物はそこそこいるのだ。手間は掛かるが捕まえるのに苦労はない。お陰で食べ物には困らず、砂漠で消耗した体力と水分は完全に回復している。が、その事に対する安心感よりも、違和感が継実の胸に積み上がっていた。

 大型生物は危険に鈍い、という訳ではないが……小さな生き物の方が『危険』としなければならない閾値がより低い。例えるなら人間とネズミがネコと出会った時、人間は何もしないがネズミは逃げ出すように。或いは人間とアリがクモに出会ったなら、そもそも人間はクモの存在に気付かない可能性がある。

 そうした理由から、ある種の『危険』に対して真っ先に逃げるのは小さな生き物の筈だ。その小さな生き物が普通に生息しているのだから、脅威が迫っているという考えは誤りだろう。しかし、だとしたら一体何が原因なのか。大型生物だけが逃げなければならない、或いは大型生物以外には感知出来ない危機なんてあるのか? 人間とアリで例えるならライオンと出会った時がそうであろうが、されどライオンが現れたからといって地域一帯から人間もネコもタヌキもいなくなるとは思えない。

 それに、もう一つの『不自然』が凶悪な生命体の存在を否定する。

 

「(……花が咲いてないのに、どんどん花の匂いが強くなる)」

 

 大気中に、どんどん甘ったるい花の香りが満ちてきたのだ。今や成分解析など必要ない……例えミュータントとなっていない人間でも顔を顰めたであろうほどに、甘い花の香りが鼻を突く。まるで満開の花畑、いや、全方位を花に囲まれているような気分だ。

 しかし周りを見ても、生えているのはどれも緑色の草ばかり。花は一輪も見当たらない。

 花がないのに、花の匂いがする。つまり何処かから漂ってきている訳だが……周りに花が見えない時点で、匂いの発生源は相当遠い筈だ。にも拘らず強烈な匂いを感じるという事は、発生源ではどれほどの花が咲き誇っているのか。いや、そもそも自然な花の密度でそこまで強い匂いが立ち込めるのか?

 

「(……さっぱり分からん。分からんけど、なーんか嫌な予感がする)」

 

 本能的に感じる危機感。果たしてこの予感は、単なる考え過ぎか、はたまた本当に迫りきているものなのか。考えても考えても、答えは出てこない。

 しかしこのままならいずれ謎は明らかになると継実は思っていた。何故なら匂いは自分達の行く先……南の方から漂ってきているから。直進すれば間違いなく匂いの発生源と鉢合わせるだろう。

 危険だと考えて迂回すべきか? それも一つの手だ。君子危うきに近寄らず、とは昔の人も言っている。賢い者はそもそも危ないものに近付かない。「自分達の力なら大丈夫」などと過信するものは、容赦なく命を落とすのが自然界なのだから。

 七年間ミュータントの生態系で生きてきた継実は、『回避』という選択肢を真剣に考え始めた……そんな時である。

 

「……え?」

 

 不意に、ミドリが呆気に取られたような声を漏らしたのは。歩いていた足もぴたりと止まり、呆けたような間抜け面を浮かべる。

 

「ミドリ? どしたの?」

 

「なんか獲物でも見付けた?」

 

「え? あ、いえ、そういう訳ではないの、ですけど……」

 

 継実とモモに尋ねられたミドリは、しかしどうしてか歯切れの悪い答えを返す。

 獲物なら獲物と言えば良いし、猛獣なら猛獣と言えば良い。訳の分からない気配だとしても、その通りに答えれば済む話。そんなのはもうこの世界で何ヶ月も生きているミドリも理解している筈なのに、何を躊躇う必要があるというのか。

 

「……この先に、()()があります」

 

 そんな継実の疑問は、自分達が向かう先を指差しながら語ったミドリの一言で解決する。解決して、今度は継実が呆けた面になった。

 都市。

 それはつまり、文明的な構造物があるという事だろうか? ミドリの言葉をそう解釈しようとするが、されど継実の理性が強く否定した。都市があるなんてあり得ない。怪物ムスペルが出現しただけで滅びた人類文明が、ミュータントだらけの世界で残っているなんて到底思えない。あるとしたら、細菌ミュータントの進出が起きてないかも知れない南極ぐらいの筈なのだ。

 或いはエリュクスのような宇宙人が侵略拠点でもぶっ建てたのか。成程、それならば考えられる可能性だろう。ミドリ曰くミュータントは宇宙全体で見ても非常識な存在のようだが、宇宙最強とは限らない。ミドリも知らないような超高度文明が地球に来ていたら、都市の一つ二つ作り上げるぐらい難しくないだろう。

 なんにせよ、怪しいものに間違いはない。君子危うきに近寄らず。先程も脳裏を過ぎった昔の人のありがたいお言葉だ。危険かも知れないものには近付かない。それが賢い振る舞いである。

 だが。

 人間に、社会に加わりたくて日本からオーストラリア大陸まで生身で来てしまった継実が――――生き物として賢い筈もなく。

 

「っ!」

 

 継実は無意識に、最短距離で南に向けて走り出した。

 

「えっ!? つ、継実さん!?」

 

「まぁ、そうなるわよねー」

 

 驚くミドリを、そして呆れるモモの声も無視して、継実は走る。ミュータント化したその脚力は自らの身体を秒速ニ・五キロ以上の速さで前に押し出し、自分達が行こうとしていた場所へと進む。

 進めば進むほど、甘ったるい匂いはどんどん強くなる。脳裏にこびりつく『嫌な予感』も強くなるが、それでも継実は走り続けた。合理的な本能からの警鐘を、感情的な理性が捻じ伏せる形で。

 身長百七十センチの人間から見える地平線は約五キロ。継実の走力を用いれば二秒でその向こう側まで辿り着ける。何十秒と走れば、超えた地平線の数もまた同じく増えていく。

 途方もない距離を瞬く間に通り抜けた継実は、やがてそれを目にする事となる。

 黄金の輝きに満ちた、人工的で、けれども決して『人間の都市』ではないものを――――



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メル・ウルブス攻略作戦03

 綺羅びやかな黄金色が、視界を埋め尽くす。

 その輝きは、継実の目の前に聳える無数の『建造物』が太陽光を反射して放つもの。煌めくものと言えば宝石が代表だろうが、それは宝石よりも更に眩く光っていた。

 あまりの輝き故に輪郭がおぼろげであるが、六角形の柱型(要するに正六角柱と呼ばれる柱体だ)をした建造物が無数に、何百と建ち並んでいる。ビルは円形を作るように並んでいて、幅はどれも二百メートル程度だが、高さは低いものでも一千メートルはある。ビルは円の外側にあるものほど低く、中心部に行くほど高くなっていた。中心に聳える建物は高さざっと五千メートルと、最早ビルと言うよりも一種の地形のよう。

 七年前の人類文明全盛期、世界で最も高い建物でも高さは九百メートルに達していなかった。五千メートルどころか一千メートル超えのビルなんて、人間の技術的な問題は勿論、予算などの問題からしても建てられる筈がない。いや、そもそも黄金色のビルなんて、成金趣味だとしても作らないだろう。ましてやそれが何百ともなれば、最早人の手に負える規模ではない。

 つまりこのビルが乱立する場所――――『都市』は、人間以外の手で作られたのだと分かる。

 

「……そう、だよね」

 

 人間の都市じゃない。直接目にした事でそれを理解した途端、継実は自分の身体から力が一気に抜けていくのを感じた。一気にと言ってもミュータントからすればトロ臭いと感じるだけの時間を掛けたが、思考が停止していた継実はそのままへたり込んでしまう。

 

「もぉー。継実ったら何処まで行って、って、どうしたの?」

 

 そうしてしばし呆けていたら、モモがやってきた。モモの後ろでは息を切らしているミドリが、恐らく疲労からか身体を左右にぐわんぐわんと揺らしながら走っている。

 一人全速力で駆けていた継実に、家族二人がようやく追い付いたのだ。つまりそれまで継実は単身で行動していた事になる。気配はなかったとはいえ、何時何処から何が出てくるか分からないのが自然界。しかも自然界としては『不自然』な存在である都市への接近となれば、何が起きてもおかしくない。

 自分が如何に迂闊な行動をしてきたか。理解しているからこそ、継実はほんのり頬を赤くした。

 

「……あー、うん。ちょっとアレ見て、力が抜けただけ。大した事じゃないよ」

 

「ふぅん。なんか随分キラキラしてる街並み、いや、山? まぁ、なんか変なものね。何かしらアレ」

 

 自分の身に起きた事を話せば、モモはそれで納得。継実が指差した黄金都市を見て、なんとも暢気な感想を漏らす。

 モモに続いてやってきたミドリは、しばらくは息を整えるのに忙しい様子。ただ、継実に向けている眼差しは、モモのように納得したものではなかったが。

 とはいえ継実の胸のうちを暴こうとする事もなし。それよりも目の前にある黄金に輝く建物達が気になるようで、全力疾走の疲れが少し残っている声でミドリはそちらの話題に触れてきた。

 

「……ところで、あの町はなんですか? この地域の人間が作った都市って、あんなにキラキラしてるものなんですか?」

 

「いや、そんな訳ないよ。というかあそこまで高いビルを建てる技術も予算も人間にはなかっただろうし、それに六角形の建物がそもそも珍しいし……」

 

 人間による都市ではないと否定しつつ、ではその正体がなんなのかを確かめるため継実は黄金の建造物を凝視する。

 キラキラと眩く輝いているため、人間の『肉眼』でその姿をハッキリと捉える事は難しい。しかし継実の粒子操作能力を応用すれば、物質構造から輪郭まで丸見えだ。

 まず、立ち並ぶ六角柱の建造物。最初はビルのようだと継実も思ったが、よくよく見てみればその建物には窓が付いていない。出入り口らしき『穴』は幾つもあるのだが、高度数百メートルや数千メートル地点にも開いていて、おまけに穴の傍に梯子や転落防止柵なども見られない有り様。普通の人間なら転落死続出の、つまるところ()()()()()()()()()()()()()()()()

 更に奇妙なのはビルの建材だ。人間が作ったビルなら、建材は主にコンクリートが使われている筈である。内部には建物を支える鉄筋なども確認出来るだろう。ところが黄金の建物達はコンクリートの主成分であるカルシウムやケイ素を殆ど含んでいない。全くない訳ではないが、極めて微量だ。

 ビルの主成分はセロチン酸やパルミチン酸と呼ばれる『飽和脂肪酸』……要するに脂肪分。所謂ワックスの仲間だった。他にも様々な成分が含まれており、アルコールや炭化水素も確認出来る。鉄やカルシウムなどの金属は殆ど含有されておらず、有機物が主体らしい。それにぷんぷんと香り成分、例えばアルデヒドやテルペン化合物が大量に放出されている。これらもまた有機化合物の一種だ。

 仮に人類以外の文明 ― 例えばエリュクスのような異星人 ― が都市を作るとして、その材質に有機物を選ぶだろうか? 確かに有機物の中には非常に頑強なものもあるが、加工のしやすさや安定性(腐敗しないなどの)を考えると、金属を使うのが一般的に思える。人間の文明が有機物主体の技術が、段々と勤続主体の技術に移り変わっていったように。

 ならばこの『都市』は、ミュータントの手により作られたものと考えるのが自然だ。それに漂ってくる匂いを成分ではなく、嗅覚による『香り』として認識すると、それが七年前には何度も嗅いだ事のあるものだと理解する。恐らくこのミュータントの正体は――――

 

「(まぁ、別に誰が作ったものでも、人間以外ならどーでも良いんだけど……)」

 

 相手が宇宙人だろうが異世界人だろうがミュータントだろうが、継実からしたら知った事ではない。人間でない都市の住人が繁栄しようが滅びようが、人間である継実には関係ない話なのだから。

 しかし、では何も問題がないかといえばそんな事もなく。

 

「……ミドリ。念のため確認なんだけど、あの都市って、もしかして海の傍に建ってる感じ?」

 

「……感じですねー。完全に隣接しています」

 

 尋ねてみたところ、ミドリからは予想通りの答えが返ってきた。やっぱり、という意を示すように継実は肩を落とす。

 黄金色の都市は、継実達が進もうとしていた南の海……南極への道を塞ぐように聳えている。

 これが精々数キロ程度の幅であるなら、ちょっと迂回すれば済む話だ。実際都市『一つ』分の大きさはそんな程度。ところが周りを見てみれば、迂回は無理だと思い知らされる。

 都市は一つではないのだ。個々に僅かな隙間を開けているものの、一列にずらりと並んでいる。一体幾つあるのか分からないが、少なくとも地平線の遥か先まで続いていた。迂回するにしても、かなりの距離を歩かされてしまう。

 勿論、迂回するという手は未だにある。黄金都市群がどれだけ続いているかは分からないが、秒速二キロ以上の速さで動ける継実達にとっては大した問題ではない。大きく迂回すれば、南の海へと出られる場所も見付かるだろう。

 しかし迂回をすれば海を渡る際、直進するよりも航路が大きく伸びる。

 陸上生物である継実達にとって、海がどれだけ危険かはこの旅で散々経験してきた。これまでのように『助っ人』を得られればまだマシだが、此度も幸運に恵まれるとは限らない。いざとなったらこの身一つで海を渡らねばならないが、航路が長くなればなるほど危険に見舞われる頻度は多くなる。一回二回のトラブルなら切り抜けられても、十回二十回となればそうもいかない。そして自然界では一度のミスで命が失われる。

 海での危険を避けるためには最短距離、つまり直進がベストだ。その直進をするためには、この黄金都市上空を飛び越える必要があるのだが……

 

「(建造物の上を無断通過とか、撃ち落とされても文句言えないしなぁ)」

 

 継実達は部外者であり、都市の住人からすれば異物だ。怪物出現前の平和ボケ(或いは慢心)していた人類なら異物相手に「話し合いをしよう」なり「観察しよう」なり言ったかも知れないが、自然界でそんな悠長な事は許されない。その異物は寄生虫の卵をばら撒くかも知れないし、仲間を呼んで襲撃してくるかも知れないのだ。怪しきは完全殲滅が自然の基本である。

 そしてこれほど巨大な建造物の都市を、宇宙でもトップクラスに凶悪と評されるミュータントが跋扈している世界で維持する技術力……攻撃に転用すれば、最低でも並のミュータントを撃ち落とす程度の威力はあるだろう。加えて継実が予想した『住人』の正体が正しければ、そいつは住処の上空を飛び越える事を許してくれる可能性は低いように思える。

 迂回すれば危険、飛び越えても危険。しかし無視する事も出来ない。どうしたものかと継実はしばし考えて、

 

「よし、まずは正面から挨拶するか」

 

 辿り着いた結論は、極めて『平和ボケ』した内容だった。

 継実の提案にミドリは大して反応しなかったが、モモは顔を顰める。なんでそうなるの? と言いたげだ。

 

「……なんでそうなるの。攻撃されるかも知れないわよ」

 

「されるかもだけど、されないかも知れないじゃん。相手について何も知らないからこそ、どんな答えが返ってくるかも分からないでしょ? もしかしたら南極に行くの、ノリノリで手伝ってくれるかもよ」

 

「それはそうだけどー」

 

 説明してもモモは納得してくれない。それが当然だろう。自然界で話し合いが通じる事などまずあり得ない。少なくとも七年前までなら当然の理だ。

 しかしミュータントと化した今なら、ちょっと事情が異なる。モモやツバメ、マッコウクジラのように、話し合いや交渉の出来る生物もいるのだ。全くの無駄とは限らない……一パーセント未満の淡い期待ではあるが。

 

「そもそもオーストラリアから南極まで、ざっと三千キロ以上はあるからね。今までで一番長い渡海なんだから、誰かの助けがないとほぼ無理でしょ」

 

「うーん。まぁ、継実の言い分は一理あるというか、それしかないのは分かるけど……」

 

 継実の説明を受け、言葉では納得を示すモモ。しかし顔では全く納得していない様子である。

 モモは割と継実の言う事には従順だ。それでいて確実に間違っていると感じれば、ちゃんと主張を行う。理想的な忠犬と言えよう。

 そんなモモが顔だけで不満を見せるのは、ちょっと珍しい。

 

「どしたの? なんか気になる?」

 

「……いやーな予感がする」

 

 尋ねてみると、モモからはそんな答えが返ってきた。

 嫌な予感。

 自分よりも直感に優れるモモの意見に、継実の心が僅かに揺らぐ。自分では感じ取れなかった異変があるのだろうか? しかしモモもあくまで予感でしか感じ取れていない。

 リスクを取るか、リスクを回避するか。

 

「……それでも行こう。多分、迂回した後に生身で海を渡るよりは安全でしょ?」

 

 考えた末に継実は自分の考えを口に出す。

 モモから否定の意見は出ず、ミドリもこくりと頷くのだった。

 

 

 

 

 

 黄金都市のすぐ傍、最外周にある建物の十メートルほど手前まで迫るのに、徒歩で一時間と掛からなかった。周りに茂る青々とした草を踏み締めて継実達は一列に並び、巨大ビルの町並みを間近で眺める。

 ……三人とも鼻を摘みながら。

 

「……甘い香りも、ここまで強いと悪臭だなぁ」

 

「だねぇ」

 

「あ、甘ったる過ぎる……」

 

 目的地に辿り着いた継実達三人がまずぼやいたのは、匂いの強烈さについて。

 兎にも角にも甘い香りが強い。眼前の都市が放つ目が眩みそうなほどの黄金の輝きよりも、嗅覚の方が鬱陶しく感じるぐらいだ。犬であるモモは兎も角、視覚重視で嗅覚が退化気味の人間である継実すら思うほどに。

 しかし何時までも匂いに怯んでいる場合ではない。自分達の目的はこの都市の『住人』に挨拶し、あわよくば海を渡る手伝いをしてもらう事。

 都市のすぐ傍までやってきたが、住人らしき生命体の姿は何処にも見られず。乱立する六角柱のビルとビルの間には連絡通路らしきものがあり、そこを通ればビル間の移動は事足りるので、住人は外に出る必要がないのだろうか。なんにせよ外に姿が見られないなら、こちらからコンタクトを取らねばなるまい。

 

「……良し。進もう」

 

 覚悟を決めて継実は前へと踏み出し、

 ビルまであと五メートルまで近付いたところで、耳が痛くなるほどの警報が周りから鳴り響いた。

 

「きゃあっ!?」

 

「ぐぁ……!? こ、これは……!」

 

 突然の警報にミドリが悲鳴を上げ、モモが怯んで仰け反る。継実も進もうとしていた足が止まり、表情を歪めた。

 確かに継実は黄金都市に接近した。しかしまだ五メートルほどの距離があり、六角柱のビルには触れてもいない。

 まさか此処からが『敷地内』なのか? 疑問に対して思考を巡らせた事で、警報から逃げるという判断が僅かに遅れる。

 その遅れた瞬間に、地中から何かが飛び出した。

 いや、飛び出したというのは不正確か。草に隠れて見えなかったが、地面にはハッチのような扉があったのだ。それが開かれ、中から『奴等』は出てきた。

 現れた奴等は二本足の直立歩行をしていて、身長は約二メートル。しかし人型とは言い難い姿だ。頭部は昆虫的なものであるし、腕は四本も生えている。その腕のうち二本は銃のような物体と一体化していて、明らかに攻撃的な姿となっていた。大きな胴体は鎧のように硬質化している。背中には翅のように見える透明な突起物が四枚生えていて、足の爪は二本しかない。

 そんな奴等は六体もいて、継実達を等間隔で包囲していた。更に腕の銃を継実達に突き付けている。先制攻撃こそ仕掛けてこないが……向けてくる視線から、派手に動いたら撃つという気持ちが伝わってきた。

 

「……どうする?」

 

「あわわわわ……」

 

 モモから指示を請われ、ミドリも助けを求めるように震えながら継実を見てくる。

 継実としては、奴等と戦うつもりなどない。平和的な話し合いをしたいところだ。追い返されるにしても、穏便に済むならその方が良い。

 それに、話し合いが出来る可能性は低くない。

 

「(群れで現れたって事は社会性がある。それに私達を包囲しながら攻撃しないって事は、こちらを敵とか獲物と思ってる訳じゃない)」

 

 恐らくは未知の存在として興味を抱いている。ならばそれを利用すれば、案外すんなりと協力関係を結べるのではないか。

 希望を抱きながら、継実は六体の中の一匹に話し掛けようと顔を上げ、

 

「■■■■■■■」

 

「■■■■■」

 

「■■■■■■■■■」

 

 その六匹の間で交わされる『言語』が、外国語ですらない人外の言葉であるのを聞いた。

 そして六匹は継実達に話し掛ける事すらないまま、それぞれ銃と融合していない手を伸ばしてくる。捕まえる気満々で、逃すつもりゼロの、容赦ない伸ばし方。

 どうやら興味があるので捕獲するらしい。こちらの気持ちなど露ほども気にせずに。

 

「(あ、こりゃ話し合いとか無理だわ)」

 

 自分の期待が呆気なく砕かれたのだと、迫りくる手を見ながら継実は淡々と理解するのだった。



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メル・ウルブス攻略作戦04

「捕まったわねー」

 

「捕まったねー」

 

 とことこと歩きながら、継実とモモは暢気にぼやく。

 二人とも表情は柔らかく、緊張感は皆無。さながら七年前の人類文明全盛期に、ファミレスでお喋りを楽しむ女子達のようである。実際継実は周りの警戒などしていないし、モモも同じくしていない。

 二人とも、黄色い繊維でぐるぐる巻きにされているというのに。

 

「いや、何暢気してるんですかぁ!? あたし達捕まってるんですよぉ!?」

 

 唯一慌てふためくのはミドリだけ。しかしミドリから指摘を受けても、継実達二人は態度を改めない。

 

「んー、だって慌てたところでどうすんのさ? 逃げ出す隙なんてなさそうだけど?」

 

 継実が話した通り、逃げ出す事が困難だからだ。

 継実達の前後左右には、黄金都市接近時に現れた二足歩行の存在 ― 仮に『警備員』とでも呼ぼう ― がいた。奴等は歩みを全く乱さず、正確な等間隔で継実達を包囲している。継実やモモが少し歩みを早めても、即座に合わせて包囲網の形を変えてくるため、陣形を意図的に崩すのは難しそうだった。

 また奴等が継実達を縛るのに使った『繊維』。これも非常に頑強な代物であり、ミュータントとなった継実でも破るにはかなりの力を必要とする。破れなくはないのだが、相当のエネルギーと時間が必要だ。完全に包囲されている状態でそれを試みても、即座に鎮圧されてしまうだろう。

 そして何より、自分達の現在地が良くない。

 ()()()()()()()()()という相手の陣地のど真ん中なのだから。拘束を抜け出そうと暴れた時、何時、何処から、どれだけの数の、どれほどの強さの援軍がやってくるか想像も付かない。抵抗したところで勝ち目があるとは到底思えなかった。ミドリもそわそわしながら「それはそうですけどぉ……」と答えたので、本能的には理解しているのだろう。

 無論、継実とて黙ってやられるつもりは毛頭ない。

 

「(暴れるぐらいなら、観察した方がマシだよね)」

 

 合理的に考えながら、継実は辺りを見渡す。

 連れてこられた黄金都市内部……正確には黄金都市を形作るビルの内部は、無数の六角形のパーツで組み上げられていた。パーツの直径は一つ辺り約五・五ミリ。継実が見た限り、外から見たビルの材質と同じくワックス(脂質)が主成分のようである。ちなみにこうした六角形を隙間なく敷き詰めた構造を、ハニカム構造と呼ぶ。継実達が歩かされている廊下 ― 幅三メートル高さ五メートルほどだ ― も全て六角形のパーツで作られていて、代わり映えしない風景が何時までも続く。

 しかし時折廊下には脇道があり、その脇道の先には『部屋』があった。

 ドアなどの仕切りがないため部屋の中を覗き込む事は容易い。警備員達も視界を遮ろうとはしていないため、継実はじっくりと部屋の中を観察する。

 部屋の中にあったのは、巨大な花畑だった。あくまで脇道から見える範囲なので花畑の大きさは不明だが、奥行きだけで数十メートルはありそうだ。花畑を形作る植物は一種だけのようだが、種名は分からない。いや、そもそも人間が発見した事のある植物なのだろうか? 長さ十センチほどの薄っぺらくて大きな葉を数枚だけ生やし、そこに葉よりも大きな花を咲かせている、こんな異質な見た目の植物なんて聞いた事もない。

 そんな花の周りを、奇妙な『機械』が飛んでいる。

 直径二メートルほどの立方体の物体である。三本の脚を生やし、四枚の透明な翅で空を飛んでいた。機械は花の上を訪れると脚を伸ばし、花に直接触れている。単に触れるだけで終わる時もあれば、引き抜いている時もあり、花のない場所には苗らしいものを植えたりと、世話をしているようだ。

 そして時々部屋の外に出てきて、廊下の方にやってくるモノもある。

 出てきた機械は、廊下を猛烈な速さで飛んでいた。恐らく、秒速十キロ以上は出ているだろう。警備員達はそのスピードに驚く素振りも、警戒したり気にしたりする様子もない。どうやら奴等にとっては見慣れた光景らしい。

 

「(あの機械の材質もワックスが主成分か……やっぱり、コイツら……)」

 

 機械や警備員の『正体』。捕まる前から予想していたものに確信を抱く。

 ちなみに継実が考えを巡らせている間、ミドリはずっとそわそわしていた。落ち着きのない家族に、モモが声を掛ける。

 

「ほーら、何時までもそわそわしてないの」

 

「は、はひ。ですが、あの……」

 

「不安になるのは分かるけど、そんな心配しなくても良いと思うわよ。最初からこっちを殺すつもりなら、わざわざ都市の中に引き入れないだろうし」

 

「あ、そ、そう、ですよね。そっか、てっきり食べられちゃうかと……」

 

「まぁ、保存食にはするつもりかもだけどねー。美味しく料理するために生け捕りしたのかもだし」

 

「ぴぇっ!?」

 

 安堵したところでモモから脅されて、ミドリは奇妙な悲鳴と共に飛び跳ねる。ミドリの動きに合わせて警備員六体が微妙に立ち位置を変えたが、それ以上の行動は特に起こさない。

 やはり連中にこちらを殺すつもりはないと継実は思う。モモは保存食や料理にするつもりかもと言っているが、継実が想像した通りの『正体』ならばその心配も無用だ。奴等は肉を食べないのだから。

 しかしそれならそれで一つ疑問がある。

 

「(私らを捕まえて、どうするつもりなんだ?)」

 

 捕まえたからには目的がある筈。食べるためであるなら納得出来るのだが、そうでないと予想すら出来ない。

 さて、これからどうなる事か……考えながら進んでいたところ、やがて警備員達が不意に脇道へと継実達を誘導するように陣取る。

 その誘導に従って脇道に入ると、そこは小さな部屋になっていた。

 部屋には一体の、警備員とは異なる存在がいた。体長三メートル。こちらは多少人型っぽい姿の警備員と異なり……巨大な蛆虫のような姿をしている。黄ばんだぶよぶよとした肉質であり、動きも鈍い。

 警備員達は継実達をそのぶよぶよ蛆虫の前に並ばせた。ミドリは不安そうに、継実とモモは堂々と、蛆虫と向き合う。そして蛆虫の方は顔を上げるように、目も鼻もない頭をもたげ、

 

「……捕まった、あたし達」

 

 片言の、日本語を喋る。

 まさか日本語で話されるとは思わず、継実は一瞬思考が止まった。次いで落ち着くよう静かに深呼吸しながら、巨大な蛆虫に話し掛ける。

 

「……アンタ、こっちの言葉を話せるの?」

 

「アンタ、こっちの言葉を話せるの」

 

「いや、オウム返しされても――――」

 

 咄嗟にツッコミを入れようとして、しかし

継実はその言葉を途切れさせる。

 このウジムシは人間の言葉を理解しているのではない。理解はしていないが、()()()()()()()()()()()()()()のだ。こちらの言語をリアルタイムで学習しながら。

 優れた知能が可能とするのか、或いは……いずれにせよこれで連中の目的を推測出来ると継実は考える。

 

「(私達を調査したい訳だ)」

 

 人間なんて珍しいものでもないのに、と一瞬思ったが、人類文明が滅びて早七年。この七年間で継実が出会った人間は花中以外にいなかった。オーストラリアにも継実達のようにミュータント化した人間がいるかも知れないが、だとしてもかなり人数が少ない筈。この連中が一度も人間を見た事がなくても仕方ないだろう。

 調べた後は解剖か、それとも知的生命体と認めてコミュニケーションを取るか、コミュニティを聞き出して侵略か。願望を語るなら是非とも二つ目の可能性になってほしいが、他の可能性も否定出来ない。人間はもう、『特別』な生き物ではないのだ……継実はそう考えていた。

 

「あの、こちらのイモムシさんはもしかして……」

 

「何か調べたがってる感じねぇ。食べられるかどうかとかかも」

 

「ひぇっ!?」

 

 ちなみに宇宙人と犬の二匹は、連中の思惑に気付きつつも何時もと変わらない様子。力が入り過ぎてるのは良くないが、だとしてもリラックスし過ぎである。

 もうちょっと緊張感持ちなさいよと口頭で伝えるべく、継実は口を開いた。

 直後、不意にウジムシの動きが強張らせた。

 突如として見せた予想外の反応。何がこのウジムシの反応を誘ったのか? 疑問に思い今度はこちらが観察してやろうとする継実だったが、ウジムシの方は気にも止めない。

 

「■■■■■」

 

「■■■■■■■■■」

 

「■■■■」

 

「■■■■■■」

 

 ウジムシは不快な音を鳴らし、警備員が何か答える。一体何を話しているのか? この生物の言葉が分からない継実には理解不能だ。

 それでも何かしらのヒントが得られるかもと考え、ウジムシと警備員達の言葉に耳を傾けていたが――――

 不意に、パカンっと床が開く。

 

「ほぇ?」

 

 突然底が抜けた床。次いで重力が身体に掛かり、継実達の身体は下に落ちていく。

 飛ぼうと思えば、継実は空を飛べる。モモも体毛を伸ばして壁なりなんなりに張り付けば、落ちるのを防ぐ事は難しくないだろう。

 しかし継実とモモは特段抵抗せず、重力に従って落ちていく。ミドリは何も出来ないのでそのまま落下だ。

 抜けた床の先はスライダーのように傾斜となっていて、おまけにぬるぬるとした粘液状の物質もあって滑りやすくなっていた。斜面を滑っていく継実達はどんどん加速していき、その高度を下げていく。

 そして斜面は突如上向きになった、瞬間、目の前に眩い光が見える。

 直後、継実達の身体は黄金都市のビルの外へと飛び出した。

 

「(……あぁ、()()()()()のか)」

 

 状況を認識してから、くるりと継実は体勢を立て直す。モモも同じく空中で体勢を直し、二本足で着地した。

 ミドリだけが顔から着地。ミュータントだから怪我一つせずに済んでいるが、普通の人間の身体なら恐らく首の骨が折れて即死しているであろう落ち方だ。無事なのは分かっているので、モモも継実も心配などしないが。

 それはそれとして。

 

「追い出されちゃったわねぇ……」

 

「いちち……一体なんだったのでしょうか」

 

 キョトンとするモモに、顔を上げながらミドリが同意する。調査が始まってすぐビルの外に追い出されたとなれば、困惑するのも無理ない。

 しかし継実は一つ、心当たりがある。あくまでも、連中の正体が予想通りであるならの話だが。継実としてはほぼ確定しているが、自分だけの意見で決め付けるのは危険だ。多面的に見た方が良いだろう。

 

「で? 継実はどう思う? アイツらについてなんか分かった?」

 

 そんな継実の考えを読むかのように、モモが尋ねてきた。

 正しくこれは望むところ。流石は私の相棒と心の中で褒めつつ、継実は自分が考える、黄金都市の住人達の正体を口にした。

 

「私的にはアイツらはミツバチのミュータントだと思うんだけど、モモとミドリはどう思う?」



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メル・ウルブス攻略作戦05

「ミツバチ……ええっと、それって虫ですよね?」

 

 継実の意見を聞いたミドリは、そんな質問を尋ねてくる。

 宇宙人であるミドリ自身はミツバチなど知らずとも、寄生した肉体(の脳みそ)は覚えていたらしい。とはいえあくまでその知識は脳にあるもので、そして日本人の年頃女子がミツバチについてそこまで詳しい筈もない。

 説明と復習がてら、継実はミツバチについて話す事にした。

 ――――ミツバチ。正確に言うならセイヨウミツバチは、人間の手を借りて世界中に分布を広げた『家畜』である。

 家畜としての用途は、主にミツバチが生成する物質を得る事。古来より人類にこよなく愛されてきたこの昆虫は、此処オーストラリアでも飼われていた。七年前に人類文明は滅亡してしまったが、ミツバチ達はミュータントと化し、人の手を借りずに生き延びてきたとしてもおかしくない。

 さて、そんなミツバチの生成物には様々なものがあるが、代表的なのは二つ。

 一つは蜂蜜だ。誤解されがちだが、蜂蜜は単に花の蜜を集めただけのものではない。ミツバチの体内で分泌された酵素の働きで糖質を変化させ、更に水分を飛ばして濃縮。防腐性を高めた保存食へと作り変えている。この蜂蜜は成虫や幼虫の餌として使われており、ミツバチが生きていく上で欠かせないものだ。

 そしてもう一つが、蜜蝋である。

 

「蜜蝋ってのはミツバチが分泌する脂肪分……所謂ワックスとか蝋って呼ばれる物質の一種でね。ミツバチはこれで巣を作ってる」

 

「ワックス……固形の油って事ですか。なんかよく燃えそう」

 

「実際昔は蝋燭の原料に使われてたからね。あと健康食品とか、食用油の一つとして使われていたらしいよ」

 

「ほへー。ミツバチって便利な生き物なんですねぇ」

 

「ま、何千年も人類と付き合ってきた生き物だしね……話を戻して。その蜜蝋なんだけど、あの都市のビルに使われてるみたいなの。しかも主要な建材として」

 

 目の前にある黄金都市を指差しながら、継実は改めてその都市を形作る六角柱のビルを凝視する。

 ビルの構成物質で最もよく見られるのはセロチン酸とパルミチン酸。これらは蜜蝋に含まれる飽和脂肪酸として有名だ。また蜜蝋……正確にはミツバチの巣……は花粉や排泄物などの不純物により、美しい黄色或いは黄金色をしている。そしてビルを形成しているパーツに見られる、六角形のハニカム構造はハチの巣の構造として有名だ。

 ビルだけで、その建物がミツバチにより作られたものだと物語っている。他にも建物全体から漂ってきた甘い(蜂蜜の)香り、内部にて食糧として栽培していたであろう花など、ミツバチ達の正体を窺い知れる情報が幾つも見られた。尤もミツバチ達は己の正体を隠そうなどしていないだろうが。

 

「ま、そーいう訳で私はアイツらがミツバチだと思うんだけど、モモはどう思う?」

 

「んー。私も同じ意見かなぁ。言われて思い出したけど、町から漂っている匂い、蜂蜜のやつだからそうなんじゃない?」

 

 念のためモモにも尋ねてみれば、彼女の意見も同じ。ならばその正体は確実だ。

 そしてミツバチが正体となれば、他の疑問にも次々と声が出せる。

 

「はぁ……ミツバチ達、七年で随分と進化したんですね。なんか身体も大きくなってるし」

 

「あ、アレ本当の身体じゃないと思うよ」

 

 例えば警備員達やウジムシの姿形。

 七年以上前、人類に飼われていたセイヨウミツバチの働き蜂は体長十二〜十四ミリ程度だった。昆虫としては決して小さな部類ではないが、人間から見れば指先サイズである。対して警備員やウジムシはニ〜三メートルと、ざっと二百倍の大きさを誇っていた。

 ゴミムシが巨大化して生態系の頂点に立ち、コアラが肉食に目覚めて感染症を撒き散らすのが今の世界。ミツバチが巨大化しても不思議ではないし、姿が変わってもおかしくないだろう。が、此度に限ればそれは違うと継実は断じる。

 

「観察してみたけど、アイツらの身体も蜜蝋で出来てた。つまりビルと同じ、『人工物』って事だね」

 

 警備員達の身体も蜜蝋を主成分にしていた。言うまでもないが、セイヨウミツバチというのは身体が脂肪分で出来ている生き物ではない。継実達を包囲し、連行したアレらは……恐らくは『絡繰蝋人形』だ。内部に働き蜂が搭乗していて、様々な仕事をしているのだろう。

 ワックス()で絡繰なんて作れない、とまでは言わない。固めれば蝋燭程度は形作れるのだから、上手く加工すれば分厚い歯車ぐらいは作れるだろう。だが所詮脂肪だ。強度がないから薄く出来ず、だからといって大きくすると重さが増すのでやはり強度が足りない。どうにかこうにかして動かせば、摩擦などで生じた熱で部品が溶けてしまう。それをもどうにかしてもエンジンを点火したら、引火して自分自身が燃料になってしまう可能性がある。機械部品としては徹底的に向いていない物質だ。

 にも拘らずミツバチ達はその蜜蝋で巨大なビルや警備員型ロボットを作った。高度な科学力、なんて言葉では到底足りない非常識な技術。それこそ魔法染みた力が必要だ。

 そう、この世の理をも捻じ曲げるインチキが。

 

「(ミツバチ達の能力は、恐らく『蜜蝋を用いたトンデモ科学』を使える事か。そーいう能力もありなんだなぁ)」

 

 ミュータント能力としての技術力。それなら目の前に聳える黄金都市を作れるのも納得だと、継実は乾いた笑みを浮かべる。

 またこの考えから、何故自分達が先程ビル……より正確に言うならミツバチ達の巣から追い出されたのか、その理由も察せられた。

 恐らくミツバチ達は継実達を『天敵』が送り込んだロボットだと考えたのだろう。敵がのこのこと送り込んだ技術の塊を、敵だからといって完膚なきまでに破壊するのは少々勿体ない。拿捕して、徹底的に調べて、情報を得ようとしたのだ。

 ところが調べてみたら(例えば声の発振などから内部構造を覗き見たのかも知れない)全く関係ない連中と判明した。天敵と関係ないなら、調査にリソースを割いても仕方ない。しかしだからといって中に招き入れた以上、殺処分しようとして暴れられても困る。なので穏便に、そして速やかに追い出した……といったところか。

 ちなみにその天敵とは、恐らくスズメバチだと継実は思う。継実は日本の森で、レーザー銃とアーマーで身を包んだオオスズメバチに遭遇している。当時はなんだこれとしか思わなかったが、ミツバチの存在を思うと、彼女達も超技術の使い手なのだろう。スズメバチは蜜蝋を作らない(巣の材料は主に木や土だ)ので、技術体系は全くの別物だろうが。

 ……目の前に聳える黄金都市、その住人についての『推論』はこんなものだろう。そしてこうした推論は次の話の糧となる。

 

「で? これからどうすんの?」

 

 つまり、どうやって都市を越えて南極に行くのか、だ。

 継実達は遊びや好奇心でミツバチの巣に近付いた訳ではない。南極へ行くまでの道を塞いでいる、興味深くはあるが『邪魔』なこれをどうせれば越えられるかを考えるために接近したのである。

 結果的に捕まり、ゴミのようにポイッと追い出された訳だが、しかしその経験は無駄ではない。お陰で継実は南極へと行くのに役立つ情報が得られた。

 ミツバチの巣で見付けた、四角い飛行機械の事だ。

 

「……あの巣の中で使われてる機械で、凄い速さで飛んでる種類があったよね。ほら、花畑で使われていた奴。あの機械を借りられたら、安全に南極まで行けると思う」

 

「ああ、あのニメートルぐらいのやつですか? 確かにあれならあたし達が乗る事も出来そうですし、使えたなら便利そうですけど……使わせてもらえますかね?」

 

 訝しげな表情をしながらミドリは尋ねてくる。口には出さないが、「絶対無理」と顔には書いてあった。

 実際、普通の手では無理だろう。ミツバチ達がこちらを巣内に招き入れたのは、あくまでも継実達が脅威であるか調べるためだと思われる。そして調査が終わった今、向こうが継実達(余所者)を入れる理由がない。

 どれだけ友好的な振る舞いをしたところで、ミツバチ達が巣内に部外者を入れるとは思えない。入る事が出来なければ話し合いも出来ず、巣内の機械を借りたいと伝える事すら儘ならないだろう。正面からの突破は難しいと言わざるを得ない。

 ならば、取れる手は一つだ。

 

「……借りるか、無断で」

 

「そうね。借りましょ、無断で」

 

 継実とモモの意見はぴたりと重なる。家族と考えが一致した継実はニヤリと微笑み、モモも同じく笑う。

 七年前の継実であれば、人様のモノを盗むなんて出来なかっただろう。ミツバチは人間ではないが、だとしても他の生き物が使っているモノを奪うというのは気分が悪い。それぐらいの倫理観は持っていたし、持たずに済むぐらい恵まれた生活を送っていた。

 しかし『野生動物』となった今の継実は違う。そもそも無断拝借……窃盗がいけないというのは人間がより良い社会生活を営むために育んだ価値観であり、自然界にそんなルールはない。むしろ何時奪われるか分からず、奪わねば生きてもいけない世界。自分の仲間以外に対する罪悪感も倫理観も、この七年で消し飛んだ。当然犬であるモモの倫理観など言うまでもなし。

 家族の中で一番文明的なミドリだけが頬を引き攣らせていたが、しかし何時まで経っても文句を言ってくる事はない。言える筈がない。それが南極まで行くのに一番良い方法なのは明確なのだから。

 かくしてミツバチから乗り物を奪い取るための行動――――メル・ウルブス(蜂蜜都市)攻略作戦(継実命名)が、件のミツバチ達の巣の前で宣言されるのだった。



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メル・ウルブス攻略作戦06

 ミツバチ達が使っていた機械を盗む。そして南極まで飛んでいく。

 そう決心した継実達が最初に起こした行動は――――ミツバチ達の巣からちょっと(約十キロ)離れた位置に身を隠しながら、円陣を組む事だった。決心した割には消極的な行いにも思えるが、これにはちゃんとした理由がある。

 作戦も練らずに突っ込むなど、自殺行為でしかないのだから。

 

「んで? まずはどうする訳? つーか何したら良い訳?」

 

 モモがひそひそ声で言うように、目的こそ決めたがそのための方法は何も考え付いていない。まずは『どうするのか』を決めるのが先決だった。

 

「……貸してくださいって言って貸してくれるなら、それが一番なんだけどね」

 

「そんなの無理でしょ。やる側にメリットないもん」

 

 継実が願望を語ると、モモからツッコミが入る。『助け合い』が美化されていた人間社会ですら、見ず知らずの相手に対してなんでも物を貸してくれるような人物は稀だ。基本的には顔見知りやレンタル業など、返ってくるという保証や自分への利益があるから物の貸し借りを行っている。

 此度の相手はミツバチ。顔見知りでもなければ、相手への利益もなく、そして同じ種族ですらなく、挙句騙し騙されが当然の野生生活者。頼めば道具を貸してくれると考えるのは、正しく『願望』だろう。

 

「んー……でも、もしかしたらもしかするかもですよ? ミツバチ達同士は会話していたようですし、社会性もあるのなら、対話そのものは理解出来ると思います」

 

 しかしながらミドリが言うように、可能性がゼロとも限らない。

 未知の言語を使っていた事から対話不能と継実は判断していたが、されどビル内(巣内)でミツバチ達はこちらの言語を急速に解析していた。もしかすると今なら多少は話が出来るかも知れないし、まだ無理だとしてももう少し話せばそこそこ会話が出来る可能性もある。

 そして対話してみれば、「処分する手間が省ける」などの理由で壊れかけの機械ぐらいなら分けてくれるかも知れない。或いは対価を求められるかも知れないが、それならむしろ儲けもの。正当な対価(例えば巣内の労働の肩代わりなど)を払えば南極に行けるのだから、実に有り難い話だろう。

 むしろこうした穏便な方法を、最初から無理だと決め付けるのは良くない。穏便でない方法を試した後、「いやー実はそちらの機械を貸してほしくて。なんぼです?」と訊いても、顔面をぶん殴られて終わりになってしまう。物事には順序があるのだ。

 

「……良し、まずは話し掛けてみよう」

 

 とりあえず最初の手は、正面からの対話にしようと継実は決断した。

 モモはいまいち納得してないようだが、反対も口にしない。賛成と反対が二対〇なので多数決により方針決定だ。

 ならば次の問題は『誰』がその対話に行くかである。

 

「んじゃ、私だけで行ってみるよ」

 

「えっ。一人でですか? その、みんなで行った方が安全じゃ……」

 

「ぞろぞろ三人で正面から来たら、ミツバチも警戒しちゃうでしょ。一人で行く方が相手も心を開いて話し合いやすくなるよ、多分だけど」

 

 心配するミドリに、継実は一人で行動する理由を説明する。この説明に嘘はない。こちらを信用してない相手に、ぞろぞろ大勢で出向くのは威圧と受け取られても仕方ない行為だ。もしかすると接近段階で危険だと判断され、攻撃される可能性もある。

 話し合いをしたいのだから、相手に警戒されては意味がない。無力、までいくと後の交渉に響くので加減が難しいが、無闇に怯えさせるのは得策ではないのだ。

 これが継実が一人で行く理由……の一つ。

 もう一つの理由もあるのだが、それは実際にその『懸念』が起きてからミドリに話せば良いだろう。そう考えるが故に特段説明もせず、継実はミツバチ達の巣が聳える、黄金都市へと歩み出した。

 継実が接近しても、都市はなんの反応もなし。ちょっと駆け足で接近してもそれは変わらず、継実はあっという間にミツバチ達のビル()まであと十メートルのところまで近付く事が出来た。

 そこで一度足を止め、じっと、前を見据える。

 

「(……ここまでは想定内ね)」

 

 先程捕まった時も、十メートルまで接近した際は何も起こらなかった。何かがあったのは都市部まであと五メートルまで迫った時。

 恐らく、巣から五メートルがミツバチ達の縄張りなのだろう。そこから外の出来事は興味がなく、内の出来事は全力で対応する。実に分かりやすい内向き社会だ。

 あまり力を放って警戒させないよう、しかし何かが起きても対応出来るよう、難しい調整をしながら継実は呼吸を整え……覚悟を決めて歩き出す。予想通り五メートルのラインに迫るまで何もなし。そのラインを超える最後の一歩を、ここまで通りの勢いで踏み出した

 瞬間、継実は自分の額に()()()()()を感じる。

 

「――――ぬ、ぐぅおおおっ!?」

 

 全身から吹き出す汗と獣染みた咆哮を発しながら、継実は全力で身体を仰け反らせる!

 刹那、継実の額の肉を抉りながら、何かが飛んでいった! 七年前の普通の人間ならば痛みと驚きで身動きが取れなくなる……より正確に言うならば反応すら出来ないだろうが……ところ、継実の身体は反射的に大きく後退。

 目の前のビルに開いた小さな穴から射出された()()()()を、額を貫く間一髪のところで回避した。

 

「(あっぶな……躱さなかったら趣味の悪いオブジェにされていたところね)」

 

 ミュータントとなった継実の身体は、その気になれば原水爆だろうと難なく耐える。しかしながら此度喰らった一撃は、どうやっても耐えられそうにない威力だった。回避行動を取らなければ、貫通しただけでなく余波で頭が粉々に弾け飛んでいただろう。

 致死の一撃を避けた継実はその勢いのまま一気に後退。全力疾走というほどではないが、かなりのスピードでミツバチ達の巣から距離を取る……尤も追撃がなかったので、そこまで急ぐ必要はなかったが。

 後退を続けた継実は、都市から十キロ離れた位置であるモモ達の下へと帰還。大した怪我もなく戻れた

 

「継実さあぁんっ!?」

 

「ぶぐぇっ!?」

 

 が、直後ミドリからのタックルが炸裂する。支援型とはいえ背後からのミュータントの突撃は、背中を意識していなかった継実の内臓にそこそこのダメージを与えてきた。

 心配してくれたのは嬉しいが、針よりもこっちのダメージの方が大きい。口には出さないよう心得つつ、ミドリの頭をそっと撫でておく。

 ちなみに相棒ことモモは特段心配もしていない様子。肩を竦めながら、『本題』に入る。

 

「おかえり。予想通り、侵入者に容赦はなかったわね」

 

「だねー。私一人で行って良かったよ」

 

 傷付いた額を擦りながら、モモの言葉に継実は同意した。

 これが一人でミツバチ達への接近を試みたもう一つの理由。万一(継実やモモはほぼ確信していたが)ミツバチから攻撃された際、一番無事に帰ってこられる可能性が高いのが継実だったからだ。心臓を撃ち抜かれても死なず、頭の傷もちょっと抉れる程度なら問題なく回復出来る。

 モモの反応速度なら先の針攻撃は回避出来ただろうが、ミドリはそうもいかなかったに違いない。余裕があれば助けたが、実際に攻撃された継実としてはそんな余裕などないと感じた。もしもミドリが一緒に来ていたら、恐らく真っ先に『脱落』していた筈だ。

 無事に済んで良かった……とは思いつつ、一安心している場合ではない。話し合いという穏便な手が使えなくなった以上、次は少々手荒な方法を試みるしかないのだから。

 

「さーて、正面からの話し合いはやっぱり無理だった訳だけど……どう? なんか良い案閃いた?」

 

 そこで継実が意見を伺うのは、頼れる相棒ことモモ。継実としても対話が成功するとはあまり期待していなかったぐらいだ。モモは成功するなんて全く思ってなかった筈である。そして失敗すると分かっていながら何もしないほど、モモは無能なんかではない。

 継実の失敗が確定した、つまり都市からの攻撃があった際に起きた事を、しっかりと観察していたに違いない。その観察で、突破のヒントを得られたのではないか。

 そんな希望を抱いていたが、モモの返事は首を横に振る事だった。

 

「駄目ね。全然思い付かない。何しろ隙どころか気配の変化すらないし」

 

「……変化なし? え、全く?」

 

「全く。あれじゃ機械よ機械。扱いも巣に接近する敵じゃなくて、ゴミね」

 

 遠回しにゴミ呼ばわりされた継実であるが、そこはひとまず無視。それよりもモモが感じた情報の分析を優先する。

 通常、どんな生物でも攻撃の時は意識や気配が変化するもの。『殺意』を滾らせ、意識を相手に向ける。そうしなければ確実に相手を殺せないからだ。相手がちっぽけな虫けらであるなら、大して意識を向けずに殺せもするが……そこまでの力の差があるとは思えない。

 しかしミツバチであれば、そうした意識を抱かない理由も分かるというもの。

 

「……まぁ、昆虫だけに自我は乏しそうだからなぁ。それに真社会性生物だし。厄介だなぁ」

 

「しんしゃかいせい?」

 

 継実がぼやいていると、ミドリはこてんと首を傾げる。宇宙人的にはあまり馴染みのない単語のようだ……ちなみにモモは「私は分かってるわよ」と言いたそうな自信たっぷりの笑みを浮かべているが、どうせなんにも分かっていない。犬とはそういうものである。

 相手するミツバチに関する情報だ。知っておいて損はないので、継実は二人に説明する事とした。

 真社会性生物とは、端的に言えば『子供を産まない労働階級が存在する』生物だ。

 ミツバチの場合、働き蜂と呼ばれる個体は雌でありながら産卵を行わない。正確に言うと女王蜂が働き蜂の産卵能力を抑制(そのためのフェロモンを分泌している)している。そのため女王が巣にいる限り、働き蜂の仕事は産卵以外のもの、例えば巣作りや子育て、巣の防衛や餌の採取などになる。産卵は特別な階級の個体……女王のみが行う。

 働き蜂が繁殖を放棄してまで女王に尽くす理由は何か? 進化論を提唱したダーウィンも同じ疑問を抱いた。繁殖しない個体は自分の遺伝子を次世代に残せないため、自然淘汰により消え去る筈だからだ。

 実のところ答えは既に解明されている。ミツバチやスズメバチなどのハチ目は特殊な受精方式を用いる事で、親子間よりも姉妹間の方が()()()()()()。生物が残したいのは子供ではなく自分の遺伝子なので、遺伝子が残るなら自分で子供を産む必要はない。そして労働に専門家した個体がいる事で、次世代女王(姉妹)の生存率が大きく上昇するのだ。このため働き蜂にとって、自分が子孫を作るよりも、親がたくさんの新女王を生み出す方が『自分の遺伝子』をたくさん次世代に残せる訳である。

 さて。このような働き蜂に、自分の考えを優先するような思考は必要か?

 いいや、いらないだろう。

 

「働き蜂は、いわば使い捨てに手足。無闇に死なせるのは勿体ないけど、巣を守るのに邪魔となる感情はいらない。機械的に命令を実行すれば良い」

 

「成程……継実さんを攻撃しても気配が変わらなかったのは、敵を攻撃するという命令を実行しただけで、敵意も何もなかったからという訳ですか。えっと、でもそうだとしたら何が厄介なのですか? マニュアル対応しか出来なくて、盗みに入るならその方が楽そうな気もしますが」

 

「逆だよ逆。マニュアル対応だから隙がないの」

 

 継実達としては、ミツバチの巣に侵入して機械を盗み出したい。

 そのためには警備を潜り抜けなければならない訳だが、それを行うには誰が、何時、何処にいるのか、監視カメラは、部屋は……等の警備体制に関する情報が必要だ。人間社会ならハッキングなり買収なりで情報も得られるだろうが、此度の相手はミツバチのミュータント。仮に奴等の能力が蜜蝋を用いた超技術を扱う事なら、そのテクノロジーが人間の情報工学でハッキング出来るような水準とは思えないし、そもそも蜜蝋機械は『電子機器』的な仕組みで動いていないかも知れない。挙句相手が昆虫となれば、本能的周回を行っていて、警備体制の情報など何処にもないという可能性がある。

 これでは警備の穴を突くのはまず無理。だから警備の穴は、こちらが小細工を施して作り出すしかないだろう。が、これが今し方明らかになった、働き蜂の精神性が機械的だという情報から難しいと分かる。

 

「警備の穴を突くなら、何かしら混乱を引き起こさないといけない。でも相手がロボットだとしたら、何か仕掛けて混乱させられると思う?」

 

「確かに、難しそうですね……」

 

「まぁ、完全にロボットなら本当の意味での想定外を起こせばフリーズするかもだから、そういうのをやればなんとかなるかもだけど」

 

 言葉にしながら、そう上手くはいかないだろうけど、と心の中で継実は悪態を吐く。

 人間が用いていたコンピュータは、基本的には指示された通りの動きしか出来ない。プログラムというものは『AをBする』という指示でしか書けないからだ。だから想定外の状況(計算マシンに文章データを送るような)に置けば容易くフリーズ、つまり機能停止する。そうならないようにする例外処理というのもあるが、これだって結局は『エラーが起きたらBをする』という指示でしかない。

 しかし生物は違う。昆虫や細菌は極めて単純な存在であるが、フリーズなどは起こさない。『想定外』に対する処理方法が本能に刻み込まれているのだ。或いは想定外の事態で動けなくなるような生き物は、とうの昔に食べられて絶滅していると言うべきか。

 もしもミツバチ達にフリーズを起こすような致命的弱点があれば、天敵達はそれを利用して彼女達を易々と食い尽くす。もしくはそのフリーズを克服した個体が生き残り、より多くの子孫を残してこの地に繁栄する。要するに此処にミツバチ達の蜂蜜都市が乱立している時点で、致命的弱点はほぼないと見るべきだ。混乱によって機能停止させた隙に、というのは恐らく難しいだろう。

 とはいえ自然も完璧ではない。進化はランダムな要素の積み重ねであり、致命的弱点があったとしても、天敵に的確にそれを突く進化が偶々生じない限りはないも同然。それに機能停止に陥らずとも、ちょっとパニック状態になる程度の混乱ぐらいは起こせるかも知れない。

 つまるところ、やってみなければ分からないというもの。

 

「ま、当たって砕けろだ――――私なら砕けても死なないしね」

 

 話し合いすら出来なかった継実は、粗暴な次の案を実行に移すのだった。



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メル・ウルブス攻略作戦07

 さて、ミツバチ達を混乱のどん底に陥れるとして……そのためにも情報が必要である。

 どれだけの数のミツバチが存在しているのか、はたまた何処にミツバチが集結しているのか、花畑で見られた飛行機械は何処かに格納されているのか――――それらを知らずに適当な事をやったところで、大した効果は得られない。仮になんやかんやで上手くいったとしても、混乱はいずれ収まるものだ。もしも相手陣地のど真ん中で混乱が収まったなら、その後どうなるかは語るまでもない。そうでなくても、一度成功した手がもう一度成功すると考えるのは、相手を嘗めているというものだ。そして敵を見下すような『間抜け』は、自然界では生きていけない。

 つまり最初に行う作戦は、作戦のための作戦。

 情報収集である。

 

「という訳でミドリ、頼んだ!」

 

「はい! 頼まれました!」

 

 元気よく返事をした後ミドリは難しい顔をしながら、十キロ彼方に聳えるミツバチ達の蜂蜜都市を睨むように見つめた。

 ミドリの索敵能力は優秀だ。例え十キロ離れていようと、その目から逃れる事など出来やしない。相手の身体が持つ元素の動きや些細な磁場なども正確に捉える。余程の事がなければ蜂蜜都市内部も丸見えであり、働き蜂達がどんな動きをしえいるのかも丸分かり。そして動きが見えれば警備情報も混乱状態の把握も容易となる。

 彼女に見られたが最後、何から何までお見通しなのだ――――と言えたら良かった。

 残念ながら、そう簡単に事は進まないらしい。ミドリのどんどん深くなる眉間の皺が、その悲しい事実を物語っていた。

 

「ぐ、ぐぬぬぬぬ……」

 

「えっと……ミドリ? どしたの?」

 

「うぬぎぎぎぎ……」

 

「いや、頑張るのは良いけど無理なら別に……」

 

 何やら悪戦苦闘している様子のミドリに、無理はするなと継実は声を掛ける。ミュータントの中にはミドリの索敵を逃れるものも少なくない。ミツバチもそういうタイプだとしても、なんら不思議はないのだから。

 ところがミドリは中々諦めない。というよりもこれはまるで()()()()()ような……

 

「ぶっはぁっ!? はぁ、はぁ……!」

 

 等と考えているうちに、ミドリが吹き出すように息を吐く。肩で息をして、明らかに疲弊していた。

 ミドリの能力はあまりエネルギー消費の大きなものではない。長時間使用しても、広範囲を見ても、息を切らすほど疲れた事など今までなかった。今回も特別変な探知をしてもらった訳ではなく、息切れを起こすなんて考え難い。

 ならば何か、異常が起きた筈だ。継実のその予想は、当のミドリの口によって肯定される事となる。

 

「……ヤバかった、です。まさか、逆探知されるとは」

 

「逆探知? って、え、逆探知?」

 

「はい。表面近くを見るだけなら全然平気でしたけど、奥の方を覗き込んだらやられました。何をどうしてきたかは、分からないですけど……このままだと逆に頭の中身を弄られると思って、こう、ふみゅ〜っと力を込めて押し返しましたが、疲れました」

 

 如何にも大変だったと語るミドリだが、生憎継実にはその苦労は半分も伝わっていない。主に「ふみゅ〜」なる擬音の所為で。

 しかしながらミドリの苦労よりも重要なのは『逆探知』の方だ。探知しているミドリの力を辿るなんて真似は、継実にだって出来ない。何故なら探知とは言い換えれば覗き見であり、見られているモノが何かを見ていると気付く事は出来ないから。視線とは()()()()()()()()()()()()()()()行いである。情報を発しているのは見られている側であり、見ている側の存在を示すものはない。にも拘らず逆探知を成し遂げるミツバチの技術力は、正直予想外である。

 されど冷静に考えてみれば、納得も出来た。

 ミュータントというのは、『気配』どころか『視線』も感じるような存在だ。理屈は継実自身にも分からないが、視線を感じた事は幾度もある。人類の物理学では説明も出来ない、野生の本能だけが捉えられる『何か』が視線にはあるのだろう。ミュータント級の技術ならば、それを科学的に解明出来てもおかしくない。

 そしてミツバチ達は海沿いを埋め尽くすほど、無数の蜂蜜都市を建設している『成功者』だ。圧倒的な繁栄であり、さながら都市が草原を侵食するかのような光景。つまり他のミュータントを駆逐して版図を広げている。そんな真似が出来るのは正に強者であるが故。探知能力ならば反撃されないという()()()()が通じる相手ではないのだ。

 大蛇やヒトガタ、ムスペルほどの化け物ではないが、それに次ぐ『強さ』はあると考えるべきだろう。正に絶望的戦力差であり、正面対決では万に一つも勝ち目はない。尤も、その強さこそが一つの希望でもある。

 

「(滅茶苦茶強いのに、海沿いを埋め尽くす()()で終わってる。奴等が本当に無敵ならそんな程度で済む訳がない)」

 

 例えばニューギニア島で出会った大蛇のような、明らかに捕食者であるなら、どれだけ強くともその個体数は限定される。捕食者は獲物以上に増える事が出来ないのだから。どれだけ強がろうと、その生命を握っているのは食われる側なのである。

 しかしミツバチはビル内で花を栽培していた。つまり食糧源を自ら生み出している。人類が農耕により莫大な人口を養ったように、これなら個体数の制限はほぼ存在しない。奴等は周りの環境が許す限り増殖するだろう。ミツバチの繁殖方法は分蜂という、ある程度増えた働き蜂を新女王と旧女王で二等分するものを採用しているため、一度に生み出す新世代は決して多くない(一度の繁殖で一匹しか新女王が生まれない)が、ミュータントの繁殖力ならばこれを頻繁に行える筈だ。真の成功者であるなら、七年もあれば十分に数を増やせる。

 更に、ミドリがちょっと内部を覗き見ただけで反撃してきた。もしも天敵がいないなら、中を見られたところで反撃などする必要がない。反撃にだってエネルギーを使うのだ。無敵であれば反撃して追い返す必要などなく、むしろこれに費やすエネルギーを他の事に回す方が適応的である。

 つまりミツバチは無敵ではない。必ず弱点はある。後はそれを突けるかどうかだ。

 

「どうします? 一応危険な感じはしなかったので、やろうと思えばまた索敵出来ますけど」

 

「……いや、止めとこう。逆探知してきたって事は犯人を知ろうとしている訳で、向こうに知られると色々面倒だからね。それよりも次は搦め手だ!」

 

「搦め手?」

 

「ふふふ。ミツバチには様々な天敵がいる。なら、それを利用すれば良いのさ」

 

 ミツバチの天敵と言えば、代表格はオオスズメバチだろう。確かにオオスズメバチは最も恐ろしい天敵であり、襲われれば巣が壊滅する事も珍しくない。

 しかしミツバチの巣を脅かす敵はオオスズメバチだけではないのだ。

 例えばスムシ ― 正式名称ハチノスツヅリガ ― という蛾の一種。この蛾はミツバチの巣 = 蜜蝋を食べて成長する変わりモノで、大発生すると巣が崩壊するほどの被害を出す。またミツバチヘギイタダニというダニはミツバチに寄生し、その体液を啜って生きている。それだけなら大した問題ではないが、このダニは伝染病を媒介し、瞬く間に働き蜂を死滅させる厄介者だ。ニホンミツバチはこのダニに抵抗性を有すが、セイヨウミツバチは抵抗性を持たず、一度発生すると養蜂産業に大惨事をもたらす。

 ミツバチ達はミュータント化により強大になったが、寄生虫達も同じくミュータントと化した筈だ。彼等ならばミツバチに大打撃を与えられるかも知れない。

 見付け出して大量に送り込み、混乱を引き起こせば……

 

「という訳で寄生虫を探してみよー」

 

 新たな作戦で気持ちを改め、継実は力強く拳を上げながらそう言葉にして。

 

「……あの、小さな蛾とダニなら、もう巣の中にわんさか居るみたいなのですが」

 

 おどおどと手を上げたミドリが、そんな事を言ってくる。

 継実は手を上げたまま固まると、ゆっくりその拳を下ろす。次いでこてんと首を傾げながら、ミドリの目をじぃっと見つめた。

 

「……いるの?」

 

 ややあって出てきた声は、微妙に覇気の抜けたもので。

 

「ええ、逆探知があったので表層部分しか見てませんけど……割とわんさか存在してますねこれ」

 

 無情なミドリの説明で継実はがくりと肩を落とす。

 どうやら寄生虫達は既に巣内で共存しているらしい。考えてみれば自然な話だ。ミツバチ達が栄えれば栄えるほど、寄生虫達も栄える事が出来る。ならば巣を壊滅させるような個体よりも、そこそこの被害で済む態度で抑えるのが合理的だ。ミツバチとしても全力で排除するのが面倒な相手ならば、被害が大きくならない程度に好きにさせた方が合理的。この七年で両者は共存が可能になる程度には進化してるのだろう。

 寄生虫を投じてパニックを引き起こす作戦も、どうやら駄目なようだ。

 情報収集は無理。外患誘致も無理。こうなるといよいよ手立てがない。使えそうなのは我が身のみ。

 ……ならばそれを使うのも一手。

 

「良し。じゃあ突撃しよう」

 

「あら、シンプルで良いわね。私好みよ」

 

「いやいやいやいやいや。自殺行為じゃないですかそれぇ!? さっき死に掛けたじゃないですかぁ!」

 

 思ったが故にミドリが全力でツッコミを入れてくるような、そんな強硬策を始めようとする。しかし継実は作戦を取り止めようとはせず、心配するミドリに向けて不敵に笑ってみせた。

 自信満ちた継実の笑み。その笑顔がミドリの胸に満ちていた不安を溶かしたのか、ミドリも僅かに表情を和らげる。成程なんの考えもなかった訳じゃなかったのか、今までに得られた情報から秘策を思い付いたのか……ミドリのそんな心の声が継実には聞こえてくる。

 期待されているならば応えねばなるまい。継実は胸を張り、自信満々に作戦内容を伝えた。

 

「兎に角突撃だ! 中に入れば多分突撃されないから! 多分!」

 

 ……正確には大凡作戦とも言えないような、残念な行動方針であったが。

 

「……いやいやいやいやいやいやいや」

 

「嫌でもなんでも行くぞごらぁ!」

 

「おらぁ!」

 

 全力で引き留めようとするミドリを置いて、継実とモモは全力疾走でミツバチ達の巣に突撃。迷いなく、最短距離で向かい――――

 あと五メートルのところに足を踏み入れた瞬間、足元からミュータント級の速さで起き上がった『板』が継実とモモをあしらうのだった。

 ……………

 ………

 …

 

「……駄目だったね」

 

「駄目だったわねぇ」

 

「駄目でしたね」

 

 吹っ飛ばされた継実とモモは、草原の上で大の字に倒れていた。そんな二人を見下ろしながら、ミドリが冷たい声で同意する。その手の性癖があればぞくぞくしそうなミドリの言葉に苦笑いを浮かべつつ、継実は降り注ぐ陽光で暖かくなった草っぱらに寝そべったまま考える。

 偵察も、外患誘致も、強行突破も、全て破られてしまった。

 新たな作戦を立てようにも、ろくに情報が集まっていない。弱点があるという確信こそあれど、その弱点がまるで見えてこない状況だ。思考がどん詰まりになり、今後の方針を全く立てられなくなってしまう。

 こういう時は、何かが根本的に間違っているという場合がある。例えばなんらかの弱点があるという確信。よくよく考えてみれば、弱点があるからといってそれが継実達に突けたり気付けたりするものとは限らない。RPGで氷属性に弱いモンスターがいたとしても、炎属性の攻撃しか出来ない魔法使いがその弱点を突く事も気付く事も出来ないように。

 自分達にミツバチの攻略は無理かも知れない。ならば何時までもミツバチから機械を奪い取る事に執着するのは、時間とエネルギーの無駄であるし、反撃を受ける事も考えれば危険でもある。

 ここらが引き際か。そんな想いを抱いた継実は身体を起こし――――自らの頬をべちんと叩く。

 先の考えを否定したのではない。ただ、諦めるにはまだ早いと考えただけだ。まだ試していない事はある。

 例えば、もっと弱い奴を狙う。今まで目の前の、蜂蜜都市と呼べるほど巨大な巣に挑んでいた。しかし海岸沿いに並ぶ都市は、巨大ではあるが幾つかの区切りがある。つまり巣は一つではなく複数存在するのだ。人間的な感覚では都市をわざんざ分ける必要などないが、蜂蜜都市がミツバチの巣であるならばそれは当然の事だろう。ミツバチの巣にいる女王は一匹だけ。女王ごとに蜂蜜都市を建設し、他の巣とは物理的に接しないようにするのは種の本能だ。

 要するに蜂蜜都市は成長段階が一様ではない。出来たての蜂蜜都市ならば他の都市よりも遥かに小さく、戦力である働き蜂や技術力も対して強くない可能性がある。とても小さな巣、例えばビルが一棟しか建ってないような『都市』ならば強行突破も可能ではないか……

 

「くっそー……どっかに兵力が乏しそうな、出来たての巣とか」

 

「うーん。都市の大きさは疎らですけど、あたしの探知で見た限り、極端に小さなものはなさそうです」

 

 そんな祈りを込めた継実のぼやきに、ミドリから律儀かつ無慈悲な情報が渡された。

 そしてその情報が正しい事は、ミツバチの生態が保証する。ミツバチは新女王が誕生すると、旧女王が働き蜂の半数を引き連れて巣から出ていく。新旧女王は最初から大量の労働力を率いており、短期間で巨大な巣を作り出す事が可能だ。単身で巣作りを始めるスズメバチとはスタートダッシュの速さと安定度が違うのである(その分スズメバチは種類にもよるが一度に百〜数千匹もの新女王が誕生出来るのが利点だ)。

 ミツバチに小さな巣は存在しない。あるのは巨大な巣か、超巨大な巣の二種類だけ。働き蜂の数も多いか超多いかであり、自分達だけで楽々粉砕出来る小さな巣などないのである。

 それでも何か付け入る隙はないものかと、継実はミツバチ達の巣を観察する。完全無欠の生物などいる筈がない。もしもミツバチ達がそうなら、こんなオーストラリアの片隅だけで留まっている訳がないのだ。何処かに問題を抱えて、何かが繁殖を抑えていなければ――――

 

「(……あれ?)」

 

 最早執念でミツバチの巣を見ていたところ、不意に継実は違和感を覚えた。

 それは無数に並ぶビル(の形をした巣)群の中の一画、蜂蜜都市の外側に位置するビルの一部に対して感じたもの。とはいえそれは並ぶビルの形がおかしいだとか、感じられるエネルギー量が多いというものではない。

 ただ、周りのビルと比べて何故か低い。

 この黄金に輝く蜂蜜都市は、中心部が最も高く、その周りが低いという形が基本だ。つまり段々畑のように、ビル同士の高低差は極めて規則正しく段階的である。ところがその一画に並ぶビル十数棟だけ、周りと比べて高さが半分もない。しかも低くなっているビルに限れば、横一列に並ぶぐらい均一の高さとなっている状態だ。

 何故その場所だけビル、即ちミツバチの巣の高さが低く、均一なのか? ミツバチ達の気紛れだろうか……そんな考えも過り、そして否定も出来ないが、同時にもう一つの可能性が継実の脳裏には浮かんだ。

 だとすれば……

 

「……試してみる価値はあるかな」

 

「お。なんか良い手が思い付いた?」

 

 モモから尋ねられ、継実はにやりと微笑んで答えとする。

 するとモモとミドリから期待のこもった眼差しが向けられた。どんな案なのか、教えてほしいと目で語っている。

 期待されたからには応えねば。そう考えながら継実が示した行動は、()()()()()()()()()()()()事。

 呆けたように固まるモモとミドリだったが、継実は構わず横になったまま。

 

「寝る。とりあえず、何かが起きるまでね」

 

 そして大凡作戦とも言えない、怠惰な提案をする。

 モモは兎も角、ミドリの目から期待はすっかり消え失せるのだった。



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メル・ウルブス攻略作戦08

 継実が草原で横になり、何もしなくなってから数時間の時が流れた。

 日は沈み、空は青から茜色を通り越し、そして黒へと染まりゆく。夜と呼んで差し支えない時間帯だ。尤も海岸にずらりと並ぶ黄金の蜂蜜都市は、人間が作り出した高層ビルよろしくギラギラと輝いていたが。

 ビル内の様子は窺い知れないが、発光させるのにもエネルギーは必要である。わざわざ光り輝くという事は、中の働き蜂達は今もせっせと労働しているのだろう。さながら人間社会が、昼も夜も関係なく動いていたように。夜も働けばその分多くの『生産物』を得られて、より繁栄する。個々の働き蜂達は休みない労働とストレスで疲弊しているかも知れないが、個体の幸福と生死は種の繁栄に直結しない。

 正に文明。正に技術的勝利。自らの大繁栄を見せびらすような都市の煌めきは、草原を昼間のように光で塗り潰していた。

 

「ら、ら……ライチョウ」

 

「お、よく知ってたね。ウシバエ」

 

「エイ」

 

「イエシロアリ」

 

 そんな明るい場所で継実達が何をしていたかといえば、しりとり(生物名縛り)だった。ちなみに「り、り……リス」と答えるモモにすかさず「スキバホウジャク」と答えるぐらい、継実が圧倒的優勢(ちなみに正確な種名でのみ答えるハンデ付き)である。

 仲睦まじい二人の遊びを横で見ていたミドリは、自力で捕まえたバッタをボリボリと食べた後、ちょっぴり呆れた様子で声を掛けてきた。

 

「あの……継実さん? もうすっかり夜なんですが……」

 

「す、スカンク!」

 

「クリオオシンクイガ。うん、もう夜だねー」

 

「が……ガ!」

 

「夜まで待ちましたけど、何も起きないのですが」

 

「ガガンボモドキ。起きなかったね。でももう少し待ってみない?」

 

「き、き、きぃ……………ノコ!」

 

「先程から待つ待つ言ってますけど、何を待ってるのですか?」

 

「キノコはちょっとズルくない? ま、良いけど……コウガイビル。勿論、ミツバチ達の天敵だよ」

 

「ル!? ル……るうぅぅううぅぅ……」

 

 モモを一旦黙らせて、継実はミドリと向き合う。ミドリはのたうつモモをちらりと見てから、継実との話を再開した。

 

「天敵、ですか……その、何が来ると思うのですか? ガもダニも共生してるっぽいのはさっき見ましたし。あ、もしかしてスズメバチですか?」

 

「さぁ、なんだろう? 流石に姿形は見てないし……でも痕跡はあったからね。どの程度の速さで再建されるものか分からないから、今日明日で来るのか知らないけど」

 

「痕跡? 再建って……」

 

「ほら、あそこを見て」

 

 未だ納得出来ていないミドリに、継実はある場所を指差す。

 それは継実が『待機』を決める前に見た、蜂蜜都市の一画に建ち並ぶ十数棟のビル。周りに立ち並ぶビルが段階的に高さが異なる中で、唯一他の半分ほどの、しかも何故か均一な高さとなっている部分だ。

 継実が指し示した事でミドリもその部分の異常性に気付いたのだろう。未だ頭に『る』の付く動物が思い付かず(ちなみにルリボシカミキリやルリビタキなどルリ○○という生物はそこそこ多い)頭を抱えているモモなら間違いなく気付かないところだけに、話が早くて助かると継実は思う。

 とはいえミドリが思い至ったのはそこまで。違和感こそ覚えたが、それ以上はよく分からなかったのか。首を傾げながら継実の顔を窺い、話の続きを待つ。

 継実としても意地悪をするつもりはない。ただ、急ぎではないので、ちょっと勿体ぶった話し方はするが。

 

「あそこのビルの高さ、他と違うでしょ? なんでだと思う?」

 

「うーん、なんでと言われましても……建材不足とか、ミツバチの気紛れとかじゃないですか?」

 

「その可能性もあるかもね。でも、多分もっとシンプルな理由だと思うよ。そうだね、例えば」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()、そこだけ再建中だとか。

 継実が語った可能性。ミドリがごくりと息を飲んだ――――まるでそれが合図であるかのように、変化は起きた。

 ずしんっ、という短い音と揺れだ。

 決して大きなものではない。ミュータントの五感ならば逃す事はないが、七年前の普通の人間ならば気の所為だと思ったであろう小さなものである。しかし揺れは一度だけでは終わらず、ずしん、ずしんと何度も起きた。

 そして揺れは着実に大きく、強くなっている。

 ミドリは狼狽えなかった。彼女はもう知っているのだ……この星の生命が秘めた力の大きさを。一千メートルを超えるような大蛇や、四百メートル超えの巨人を見てきたのだから、今更こんな音と振動に狼狽などしやしない。

 無論、蜂蜜都市を築いたミツバチにとっても。

 ミツバチ達の詳しい心境は、都市全体から響き渡るサイレンによって示された。

 

「きゃっ!?」

 

「ぐっ……これは中々……!」

 

 鼓膜が破れそうな、という表現が大袈裟でないほどの大音量。更に海岸線に並ぶ蜂蜜都市達が強く発光を始めた。元々草原を明るく染めるほど強く光っていたが、今ではまるで太陽が如く眩さだ。

 光の強さがエネルギー量の多さを示しているならば、今のビル内部には莫大な、さながら恒星を彷彿とさせるエネルギーが内包されているのか。個体ではなく群れ(社会)の力とはいえ、大蛇やヒトガタに次ぐ強さだというイメージは正しかったと継実は確信する。

 問題は、継実達が突撃をしても軽くあしらうだけだったミツバチ達が、これほどの厳戒態勢を取る存在がなんであるかだ。しかしその答えはすぐに明らかとなる。

 継実達から見て背後に当たる、北東の地平線から巨影が姿を表す。

 それは全身が灰色の毛に覆われた、四足の獣だった。体長は凡そ百メートルに達し、体高も三十メートルはあるだろうか。ムスペルのような真正の怪物達ほどは大きくないが、それでも圧倒的な巨体だ。鞭のように尻尾は非常に細長く、身体の長さを明確に上回るほど。

 その様相を一言で語るならば、『ネズミ』だ。

 恐らく生物に詳しくない人ならば、ネズミと断定して終わっているだろうぐらいには瓜二つである。しかし継実は『それ』がなんてあるかを知っていた。ネズミにしては細長い頭部に、筒状の細長く伸びた口。口先からはちょろちょろと長い舌を出し入れしていて、食欲を抑えきれない様子である。

 実物を見るのは初めて。だが、知識では知っている。

 

「あれは……フクロミツスイか!」

 

 フクロミツスイ。

 七年前であればそれは、体長十センチもないようなネズミ型の生物を指す言葉だった。ネズミ型と言ってもその名が示すように彼等は有袋類の一種であり、ネズミとは大して近くもない関係だが……なんにせよメートル単位の大きさとは無縁の一族である。

 されど此度地平線より現れたのはミュータント。超常の力を使うその生き物に常識は通じない。人間が原水爆級のエネルギーのビームを撃てる事に比べれば、体長が一千倍になる事などまだまだ理解の範疇だ。

 唯一問題があるとすれば、ただでさえ燃費の良くないミュータントが大型化すれば更にたくさんの餌が必要な事。しかしその問題も、此処であれば解決は簡単である。

 継実達の目の前に、山盛りの食べ物があるのだから。

 

【キュウゥルルルウゥゥ!】

 

 巨大なフクロミツスイは猛然と、海岸沿いに並ぶ蜂蜜都市目掛けて走り出した!

 見た目上決して太くない手足だが、百メートルもの巨体となれば生み出す力は絶大。大地震を引き起こすほどの衝撃を発し、何千トンあるかも分からない身体を超音速と呼ぶのも生温い速さで突き動かす。

 フクロミツスイの接近を察知した蜂蜜都市は、継実達相手とはまるで異なる反応を起こした。

 フクロミツスイが自分達の五メートル圏内に入る遥か手前、何キロも離れている時点で地面から巨大な壁を生やしたのだ。正に防壁として展開されたそれは黄金に輝いていて、これもまた蜜蝋で出来ている事が窺える。具体的な強度は不明だが、恐らく自分の粒子ビームでは傷も付かないと継実は直感的に理解した。

 だがフクロミツスイは止まらない。

 一切減速せずに駆けるフクロミツスイは、僅かに身体を傾け、肩からタックルを仕掛けるように壁に激突! 粒子ビームですら傷も付けられないと継実が思った壁を、ただの突進でぶち破った!

 展開した防壁は足止めにもならず、フクロミツスイは蜂蜜都市に辿り着く。身体が接触したビルがガラガラと崩れ落ち、蜂蜜都市に大きな損害を与えた。

 

【キュゥルウゥゥ!】

 

 対してフクロミツスイの方は、全くの無傷。崩れ落ちてきた瓦礫を頭で受けても気にもしていない。継実の耳でも喜びに満ちていると感じるような、甲高い雄叫びを上げる余裕まである。

 正に圧倒的パワー。しかし蜂蜜都市も黙ってやられている訳ではない。フクロミツスイが都市に被害を与えたのとほぼ同時に、蜂蜜都市の建ち並ぶビル達に続々と穴が開く。

 穴の中を見れば、そこには継実達を捕縛した直立昆虫型ロボット達の姿が見える。

 いや、正確には少し異なるか。ロボット達の手には何やら光り輝く槍のようなものが握られており、胸部に『上乗せ』の装甲があるなど、明らかに武装していた。

 どうやら巣が危険に晒された時に出撃する、戦闘用の機体らしい。継実が感じ取った気配からして、その機体の戦闘能力は継実を少なからず上回る。ミツバチ達の高度な技術力が窺い知れた。

 そして穴の数は一つのビルで数百。フクロミツスイの周りだけで何十とビルは存在しており、つまり穴の傍に立っている分だけで数千〜数万の機体がいるのだ。穴の奥に並んで待っている機体がいる可能性を思えば、数十万の戦力が控えているかも知れない。

 継実からしたら絶望的を通り越して達観に至るような戦力差。しかしフクロミツスイはちょっと意識を周りに向けただけで、大して狼狽えた様子もない。

 やがて穴の中から一斉に、戦闘用のロボット達は背中にある四枚の翅を動かして飛び出した

 

【ギュルアッ!】

 

 瞬間、フクロミツスイは自らの尾を振り回す!

 正確に言うなら、継実が見たのはフクロミツスイが()()()()()()ところまで。何故なら実際に振られた尾は、あまりの速さ故に継実の目でも動きが見えなかったからだ。

 されどその軌跡は肉眼で確認出来る。飛び出したロボット達が砕け散った、その粉塵によって。

 綺麗なカーブを描く一閃。フクロミツスイの攻撃はロボット達を文字通り羽虫同然に葬ったのである。体格差五十倍以上、体重から推定すれば十二万五千倍オーバーの怪力を用いれば、そうなるのも当然だろう。ロボットだけでなく六角柱のビルも数棟を巻き込み、あっさりと倒壊させた。

 しかしミツバチ達が繰り出したロボット(正しくは『戦闘機』かも知れない。砕けた粉塵の中に僅かながら『タンパク質』や『キチン質』が含まれている事を継実の目は確認した。つまり中に少なくとも一匹は搭乗している)は、仲間が粉微塵に消し飛んでも一切怯まない。それに尾の一撃は無慈悲なまでに強大だったが、尾自体の細さもあって攻撃面積は大して広くない。ビル()への被害は甚大だが、一度飛び出したロボット達は殆どが無事だ。

 次々とフクロミツスイに迫る、ミツバチが送り出したロボット達。その手に持つ槍が輝きを増していく。継実がその目で確認したところ、どうやら超高速で槍が回転しており、巻き込んだ大気が圧縮・高熱化によりプラズマへと変化しているようだ。恐らく継実が素手で止めようとしても、逆に分解されて砕かれる。

 フクロミツスイの身体の大きさからして、槍が根本まで刺さっても致命傷には至るまい。しかし肉を突き刺す痛みは間違いなくあるし、出血も少なくないだろう。手数で攻めればかなりの大ダメージを与えられる筈だ。

 フクロミツスイもそれを理解しているのだろうか。ギロリと、ロボット達を見渡すように睨む。

 予備動作はそれだけだった。

 それだけで、次の瞬間――――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「ひぇっ!? え、な、何が……!?」

 

 驚いたミドリが声を漏らす。困惑した彼女は答えを求めるように継実の方を見たが、継実にだってさっぱり理解出来ない。

 結晶は美しい琥珀色をしており、キラキラと輝いている。一見して宝石のようにも見えるそれは、しかし相当の強度があるらしく、ロボットの装甲を容易くぶち抜いていた。中の『搭乗員(働き蜂)』が結晶に巻き込まれたのか、何体かのロボットは力を失ったように落ちていく。無事だった機体は藻掻いていたが、手足がもげたり、翅が千切れたりで戦闘力の低下は否めない。

 結晶はフクロミツスイ目掛け飛んでいた全てのロボットから生えていて、この一瞬でミツバチ側の戦力の大半が失ったようである。圧倒的という言葉すら生温い、一方的な決着だ。

 最早ミドリは言葉を失っていて、呆けたように固まっている。だが、継実はまだ平静を保っていた。だから何が起きたのか、解析するために思考するだけの『理性』がある。

 能力を用い、ロボットの内側から現れた結晶を解析。すると答えは即座に明らかとなり……全く予期せぬ正体故に、今度こそ継実の思考は一時的に止まった。

 

「(あの結晶……糖質!?)」

 

 そう、糖質なのだ。

 成分は主にフルクトースとグルコース。色が黄色なのは、混ざり込んだ不純物の影響である。そして結晶を構築している二種の糖質は……蜂蜜の主成分だった。

 恐らくロボットから生えてきた結晶は、蜂蜜が変化して生まれたもの。何故ロボットに蜂蜜が含まれているのか? 継実には理解出来ないが、ロボットの正体はミツバチ達が作り出した蜜蝋兵器だ。燃料が蜂蜜だとしても今更驚きなどしない。

 そしてその結晶を作り出した張本人は、間違いなくフクロミツスイ。であるならば奴の能力を想像するのは難くない。

 糖質を操る能力だ。しかも触れずに、遠隔操作が出来るというもの。

 

【キュゥアアアァァァッ!】

 

 継実の予想を裏付けるように、フクロミツスイは新たな攻撃を始める。

 攻撃と言っても視線を向けただけ。ただそれだけの動作で、見られた数十のビルから巨大な結晶が生えてきた。壁面を砕かれ、内部の柱も折られたであろうビル達は、轟音を立てながら次々と崩れ落ちていく。

 時間にすれば僅か十秒にも満たない出来事。その僅かな時間で、ミツバチ達が築き上げた大都市が崩壊していった。

 圧倒的な優勢。これぞ正しく『天敵』である。

 無論、フクロミツスイとて自分が天敵だから等という意識でミツバチを襲った訳ではあるまい。奴は自分の利益のためにミツバチの巣を強襲したのだ。

 具体的には、食事のために。

 

【キュ、キュウゥルゥ】

 

 嬉しそうな声を出しながら、フクロミツスイは崩れたビルの一棟の上に乗る。次いで細長い口の先から、ちょろちょろと舌を伸ばし……崩れたビルを舐め始めた。

 よくよく見れば、崩れたビルからは黄金色の『汁』が染み出している。瓦礫全体がしっとりと濡れるほどの量だ。更にビルを倒壊させた原因である結晶も溶け始め、黄金の汁の仲間入りを果たす。

 成分分析をせずとも汁の正体は明らか。ほぼ間違いなく、ビル内部に蓄えられていた蜂蜜だ。フクロミツスイはその蜂蜜を食べたくて、ミツバチの巣を襲撃したのである。

 そもそもミュータント化以前のフクロミツスイは、その名が示すように『蜜食』動物――――花の蜜や果実の汁を専門的に食べる、人間に知られている限りでは世界で唯一の哺乳類だった。肉や葉は食べず、甘い蜜だけで生きていく。

 蜂蜜は濃度やら酵素やらの影響で様々な変化を起こしているが、元を辿れば花の蜜。糖質を主成分にしたものという意味ではなんら変わらない。フクロミツスイが餌として利用する事は可能だろう。勿論ミツバチの猛攻を潜り抜けて蜂蜜を得るのは至難の業であり、だからこそ七年前には出来なかった事だが……ミュータント化により獲得した能力があれば、それは難しい事ではなくなる。

 ミツバチの巣の巨大化によりフクロミツスイも巨体が維持出来るようになったのか、ミツバチの巣の巨大化に対抗してフクロミツスイも巨大化したのか。恐らく両方の理由から、体長十センチに満たなかったフクロミツスイはここまで大きく強く進化したのだ。

 

「つ、継実さん! このまま、あの生き物がミツバチの巣を壊してくれれば……」

 

「うん。ミツバチはこっちの事なんて気にしてられなくなる。あの四角いロボットを奪い取るのも難しくない」

 

 或いは、今がその好機だろうか。すぐにでも突っ込んでしまうかと考える継実だったが、しかし下手をすると興奮したミツバチに問答無用で攻撃される可能性もある。ならばいっそ此度は観察に徹して、どのタイミングが最適なのかを見極めるのが合理的か。

 積極的に決断した訳ではないが、慎重さからすぐには行動を起こさなかった継実。結果的に、その判断は正しかった。

 フクロミツスイは目の前の蜂蜜を貪るのに夢中で、こっそりと背後に忍び寄るロボット一機に気付かなかったのである。どうやら糖質による結晶化攻撃を逃れた ― 単純にまだビルの中に潜んでいたなどの理由でフクロミツスイの目に入らなかっただけだろうが ― 機体がまだ居たらしい。ロボットは静かにゆっくりとフクロミツスイに忍び寄っており、手に握られた槍は高速回転を始めている。継実が思わず「あっ」という声を出しても、継実など虫けら程度にしか思っていないだろうフクロミツスイは反応すら見せず。

 蜜蝋製のロボットは、その手に持つ()をぷすりとフクロミツスイのお尻に刺した。

 

【ギュウゥッ!?】

 

 ただその一撃で、フクロミツスイは飛び上がるほど痛がる。

 確かに蜂の針がお尻に刺されば相当痛いだろう。継実だって飛び上がる自信がある。しかしそれを差し引いても、フクロミツスイの痛がり方は大袈裟だ。ごろごろと転がってのたうつ程なのだから。

 これではまるで、蜂に刺された子供のようだ。

 

「(もしかして――――)」

 

 脳裏を過る可能性。尤も、今の継実は所詮傍観者だ。何を考えたところで、状況に変化は及ぼさない。

 ミツバチに刺されてのたうつフクロミツスイに、周りの変化に対応する余裕などない。その隙に瓦礫の下から這い出すように、続々とロボット達が姿を表す。フクロミツスイは痛みで激しく暴れており、接近するのは危険だと一目で分かるが……自身の命よりも巣の存続が第一の働き蜂は危険を恐れない。勇猛果敢にロボット達は突撃していく。

 フクロミツスイがすぐに能力を使えば、このロボット達の襲撃も即座に返り討ちに出来ただろう。されど刺された痛みで苦しむフクロミツスイに、迫りくるミツバチに対処する余裕などない。

 ぷすりぷすりと、槍がフクロミツスイの身体に刺さっていく。

 

【キュウウゥゥゥゥ!? キュゥウルルウウゥゥウウゥウ!?】

 

 何回も刺されて、フクロミツスイは悲鳴を上げた。

 身体の大きさからすれば大した傷ではない筈だが、フクロミツスイは傍目にも分かるぐらい大混乱。跳び上がった勢いで体勢を立て直すや、何度も転ぶぐらい大慌てで走り出す。

 あっという間にミツバチの巣を後にして、逃げ出してしまった。

 フクロミツスイが逃げた時、働き蜂達が乗っているロボットは僅かに後を追ったが……すぐに巣である蜂蜜都市へと戻る。被害は甚大であるが、そこは機械的な働き蜂達。すぐに復興作業を始めていた。ミツバチの建築スピードがどの程度かにもよるが、混乱なく進める動きを見るに再建するのにさして時間は掛かりそうにない。もしもそこに侵入者がいたとしても、問題なく排除するだろう。

 フクロミツスイが優勢だった時にチャンスだと思って蜂蜜都市に突撃したら、今頃継実達は蜂の巣状態になっていたに違いない。

 

「あぁ……駄目でしたか……あ、で、でも、凄くいい感じのところまで追い詰めましたよね!」

 

 結果的にあのフクロミツスイに頼れば失敗したところだが、しかしミドリは大はしゃぎ。光明を見出したと言わんばかりだ。

 実際、継実も同じように感じていた。あのフクロミツスイは目の前の蜂蜜都市攻略に欠かせない。奴の力を借りなければ、南極までの道のりは閉ざされたも同然だろう。

 だが、ただ借りるだけでは駄目だ。先程のように、大した被害も与えられずに追い払われるのが精々だと思われる。継実達が飛行機械を盗み出す隙が作れるとは思えない。

 なんとかしてフクロミツスイに大きな隙を作ってもらわねばならない。そして自分達が、それをじぃっと待っている必要などない。つまりこの問題を解決するには、()()()()()()()()()()()()

 そのために必要なのは、相手を知る事。

 だから継実はミドリに対し、こんな提案をしてみるのだ。

 

「ちょっと、あの子の後を追ってみようか。挨拶も兼ねて、ね」



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メル・ウルブス攻略作戦09

「ル、ルリビタキ! ルリビタキよ!」

 

 突然、モモがそんな事を叫んだ。

 なんの話? と継実は一瞬首を傾げたが、すぐに思い出す。そういえば自分達はしりとりをしていたな、と。フクロミツスイの襲撃もあって放ったらかしにしていた。

 どうやらモモは今の今まで、ずっと『る』の付く動物名を考えていたらしい。そしてルリビタキ(鳥の一種)の名前がようやく思い付いたようだ。負けず嫌いもここまでくると美徳なのか悪徳なのか。

 とりあえず、尻尾をぶんぶん振り回しながら胸を張り、褒めてくれアピールしている子をこき下ろす趣味は継実にはない。

 

「おー、凄いじゃん。いい子いい子」

 

「うぇっへへへへへ」

 

 頭を撫で回されて、モモはますます尻尾を激しく振り回す。満面の笑みが彼女の満足度を物語っていた。傍に居たミドリも頭を撫でるとモモはますます嬉しそうに頬を緩める。

 なんとも無邪気な姿だが、これでもモモはちゃんとした獣。遊びに夢中になりながら、周りの事をちゃんと見ている。

 

「んで? これからどうするの? アレに話し掛けるの?」

 

 だから目の前にいる『巨大生物』を見ても、特段驚いた様子もなく話題にしてきた。

 継実達は現在、正面一キロほど先をのろのろと歩く生物――――フクロミツスイの後を追跡している。蜂蜜都市攻略にはフクロミツスイの力が欠かせないので、利用または協力するために必要な情報を得るためだ。

 ミツバチ達の蜂蜜都市から離れるように進めば、広がるのは草の生い茂る大平原。隠れる場所など何処にもない地形故に、フクロミツスイがくるりと振り向けば継実達の姿は丸見えだ。そして追い払われたとはいえ蜂蜜都市を一瞬で瓦解させた身体能力を思えば、襲われたら継実達では逃げる暇すらないだろう。

 しかしフクロミツスイは百メートルもの巨体を持つ身。継実達など虫けらであり、見付けたところで興味すら持たれないだろう。そもそもフクロミツスイの食べ物は蜜などの甘い汁であり、自分より小さな生き物ではない。積極的に襲われる事はない筈だ。

 無論、大きさはパワーの証であり、何かの拍子に思いっきり踏み潰されたら色々ピンチだ。だから一キロほど離れているのである。この距離なら、万一があっても回避ぐらいは出来るとの判断だった。

 そんな距離を保ちながらの追跡は、現在五十キロほど進んでいた。ミツバチ達の大都市も既に地平線の遥か先である。

 随分遠くに来たものだ……不自然なほどに。

 

「しっかしアイツ、何処まで行くのかしら」

 

「うーん、寝床でしょうか? でもこの周辺にあの巨体が隠れられそうな洞窟とかはないですけど……」

 

 モモの疑問に自分なりの見識を述べつつ、ミドリは辺りを見渡す。

 百メートルもの巨体となれば、そんじょそこらの洞窟では入る事すら出来ないだろう。そして継実達ですらミツバチ以外にこの草原で危険そうな生物は遭遇しておらず、フクロミツスイの大きさならば恐らく天敵となる生物はいないと思われる。

 身体を休めるにしても、そこらで寝転がれば十分。好適な環境を探そうにも身体が大きくて入れないなら、探すコストと得られるリターンが釣り合わない。餌場であるミツバチの巣から離れるのも合理的とは言い難い。

 わざわざ遠くまで移動するのには、何か理由があるのだろうか?

 

「ん? んんんん?」

 

 継実が疑問を抱いたのと同じタイミングで、ミドリが首を傾げた。

 

「どしたのミドリ? なんか見えた?」

 

「ええ、まぁ……地形みたいなんですけど、山みたいなものがありまして……でもなんか形が……ん、あ、これ地形じゃない……?」

 

 尋ねたところ、返ってきた答えは話しながら刻々と変わるもの。しかしそれは曖昧さの裏返しではなく、より正確になってきた証。

 ならば最後にハッキリと告げられた言葉は、一番自信があり、一番信用出来る答えの筈である。

 

「あ、これ骨ですね」

 

 だが此度に関しては、継実はその答えを即座に受け入れる事が出来なかった。

 尤も、否定や疑問を言葉にするよりも前に、継実はミドリの答えの意味を知る。

 地平線の先から、何かが見えてきたのだ。

 とても大きなものだった。ミドリが最初に言ったように、地形と見紛うぐらいの。されどそれは決して山ではない。確かにあたかも森が茂っているかの如く緑色に染まっていたが……山というのは()()()()()()()()()()()ものでもないのだから。

 もっと近付けば、物体の全貌が明らかになる。

 それは骨だった。全長三百メートル……『尻尾』の骨を含めれば七百メートル超えか……はありそうな超巨大生物のもの。完全に白骨化しており、大部分の骨が風化したように崩れている。僅かに残った肋骨や手足には無数の植物が生い茂り、骨を蝕むように包み込んでいた。形がハッキリと残っているのは頭蓋骨と背骨ぐらいなものだが、それらもコケに覆われて緑色に染まっていた。

 一般的に、骨から生前の姿を想像する事は中々難しい。シャチやフクロウの骨格から元の姿を想像しても、ほぼ確実に正しい姿を思い描けないように。ましてや風化が進んでボロボロになった骨から想像しても、生きていた姿を正しく当てる事はまず出来ないだろう。

 しかし此度に関しては、継実はその姿をハッキリと思い描ける。

 一見してネズミのように見える全体像と、三分の一ほどの大きさしかないフクロミツスイがその骨に寄り添うように身体を横にしたのだから。

 

「……親の骨、といったところでしょうか」

 

「多分そうだろうね」

 

 継実が同意したところ、ミドリは少し、しんみりとした表情を浮かべた。

 あのフクロミツスイの親がどうして死んだのかは分からない。骨は風化が進み ― 何しろ周りにいるバクテリアや腐食性生物もミュータントだ。どんなに巨大で頑丈な骨でも数週間もあれば分解しきるだろう ― 、大部分が欠落している。怪我をしたとしても痕跡は消えてるだろうし、分解しきった骨では飢えで痩せていたかも分からない。病気の可能性もあるし、なんやかんや天寿を全うした可能性もゼロではないのだ。

 ただ確実なのは、小さなフクロミツスイ……子供が親離れする前に死んでしまったのだろう。

 身体能力で圧倒こそしたが、継実達と出会ったフクロミツスイの狩りは色々拙かった。成体があの体たらくでは情けないどころの話ではないが、独り立ち前に親を亡くした子供ならば頷けるというもの。ほぼ全ての行動を本能的に行える昆虫の幼虫と違い、哺乳類の子供は親からの『教育』が必要だ。狩りの正しい方法を教わっていなければ、蜂蜜の採り方が手探りかつ強引かつ雑になるのは仕方ない。

 そして、骨とはいえ親の傍に戻ってきてしまうのも。

 

「……寂しがってるの、かな」

 

 ぽそりと、そんな言葉が継実の口から出てくる。

 脳裏を過るは、自分の両親の顔。

 親を亡くしてからもう七年が経った。瓦礫やガラスに飲まれるというあまりにも呆気ない終わり方、その所為でろくに亡骸を見てない。あまつさえ迫りくる自分の命の危機とミュータントへの変化……押し寄せる情報の濁流で一番悲しかった瞬間を呆けて過ごした事もあり、継実は七年前の人間の基準で言えば冷徹と言えるほど簡素に親の死を乗り越えている。それを悔やんだり悩んだりもしていないが、こうして親子の情愛を見れば思うところもあるものだ。

 いや、むしろ自分の方が全然『マシ』という可能性もあると継実は思う。子供ですら百メートルにもなるフクロミツスイなのに、この地域で感じ取れたその存在は目の前の幼い一個体だけ。おまけに餌が都市を築いてその場から動かないミツバチで、天敵となる生物がいない事も考慮すれば、何処かに息を潜めて隠れているとも思えない。

 だとすると目の前の個体が、最後の一体というのは十分あり得る。

 花中という同族と出会えた継実は、自分が一人ではないと知っている。しかしこのフクロミツスイは、もしかしたら本当に独りぼっちなのかも知れない。見たところモモやミドリのような『家族』もいないのだろう。同じ境遇に置かれたなら、果たして自分は生きていけるだろうか? 継実にその自信はなかった。

 ……ただしこれは、人間である継実の感情的な意見。それも勝手な共感でしかない。故に生命の本質から遠くなる。

 モモは違う。

 

「どうかしらねー。ただの本能なんじゃない?」

 

「ちょ……モモさん!」

 

 あっけらかんと答えるモモに、ミドリが嗜めるように声を荒らげる。しかしモモは目をパチクリさせるばかり。首まで傾げて、ミドリが何を言いたいのか分かっていない。

 何故ならモモは野生の獣だから。

 ミュータントは合理的だ。例えばひっそりと暮らしているコウモリ一家を皆殺しにして食べる事に躊躇などないし、より生存の可能性が高くなるなら命を賭けた勝負に出る事も躊躇しない。感情的に受け入れられない行いも、生存に関して合理的であるが故に行う。

 子供にとってより生存確率を高める方法は、親の傍に居る事だ。

 それを人間の感覚では親子の愛情と呼ぶ。結局のところ親愛も本能に過ぎない。七年前にモモが失った仲間を、家族を求めたのも本能が表面化しただけ。獣の本性に過ぎず、そこに理性が入り込む余地などない。

 尤もモモはそう指摘されたところで、特段何も思わない。本能だろうがなんだろうが、仲間と家族が欲しいと思った事はなんら変わらないからだ。抱いた愛情を本能だと言われて怒ったり悩んだりするのは、理性を最上として本能を見下している人間だけである。

 フクロミツスイに対しても同じだ。そもそもフクロミツスイの抱く親への愛が理性だとして、それを尊重する理由など自然界には存在しない。

 

「で? どうすんの? どうやってアイツを利用すんの?」

 

 だからモモは割と容赦なく、けれども当初の予定通りの事を尋ねてくる。

 母の温もりを忘れられない子供を利用するのは、正直人間としては良心が痛む。ミドリも顔を顰めていた……が、それだけ。継実もミドリも分かっている。フクロミツスイを利用する以外に、自分達には蜂蜜都市、そしてその先の大海原を越える事は困難だと。

 利用しない、なんて手はない。そもそもこんな事で悩む事自体が自然界ではナンセンスだ。野生の生き物達は継実やミドリのような考えは抱かないだろう。あのフクロミツスイがどんな境遇だろうと、そんなのは自分達には関係ないのだから。生物が家族や仲間に情を抱くのは、それが生存に有利だからに他ならない。有利でない存在に情を抱く必要はないのだ。

 冷静に考えていけば、継実の中のもやもやとした感情は静まっていく。野生生物と比べ非合理的かつ感情的な人間であるが、継実だってミュータント。一時の感情は段々と理性的な、冷徹な思考により塗り潰される。数秒と経たずに、継実の中からフクロミツスイを利用する事への罪悪感は消えた。

 ――――しかし、それは別にフクロミツスイに不利益を与えるという意味ではない訳で。

 

「……ちょっと、方針変更」

 

「方針変更?」

 

 不思議そうにモモは首を傾げ、ミドリはちょっと不安そうに継実を見てくる。そんな二人に対し、継実は不敵に笑ってみせた。

 ただこの笑みは、作戦に自信があるから浮かべたものではない。単純に、これが継実にとって一番()()()()()というだけの事。

 されど気分の良さは大事だ。本能的に生きる獣であれば殊更に。

 

「あの子の狩りを助ける。そのついでに私らはミツバチ達の機械をゲットする。どう?」

 

 故に継実は欠片の迷いもなく、モモ達の意見を訊いてみる。

 ミドリは満面の笑みで、モモは「そう言うと思った」と言わんばかりに微笑む。

 言葉がなくとも作戦の大まかな方針が決まった事は、『家族』全員が理解するのだった。



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メル・ウルブス攻略作戦10

 親の躯の傍で寝ていたフクロミツスイが目覚めたのは、地平線から朝日が顔を出した時だった。

 瞼が光に照らされると、横たえていた身体がぶるりと震えた。さして長くもない手足を伸ばし、細長い顔を顰める。寝転がっていた身体をごろんと転がすようにして四つん這いの姿勢になり、ゆっくりと大地を踏み締め、百メートル超えの身体を起き上がらせた。それから顔を太陽の方に向ける。

 しばしフクロミツスイは動かず、太陽光を正面から浴び続けていた。体温を上げるためか、はたまた寝惚けているのか。どちらもあり得る事だろう。

 

【キュウゥルウゥ……】

 

 日向ぼっこの終わりは、殆ど開かない口から発せられた、如何にも気分が良さそうな一声により告げられる。身体を本調子に戻したフクロミツスイの顔は、人間ほどハッキリとはしていないが心地良さそうなものだった。

 尤も、その顔付きはすぐに強張ったものへと変化する。

 鋭い目線で見つめる先に、これと言ったものは見えない。だが、見えないだけだ。地平線の先に何があるかは、この場にいる誰もが知っている。

 ミツバチ達の巣である、蜂蜜都市だと。

 

「……朝早くから、食事に向かうつもりでしょうか」

 

 そうしたフクロミツスイの仕草を見ていた中で、ぽつりとミドリが疑問を言葉にした。同じくフクロミツスイを見ていた継実とモモは同意を示すためこくりと頷く。

 継実達三人は昨晩からフクロミツスイの傍……と言っても一キロは離れている位置だったが……で一夜を明かした。フクロミツスイの存在感のお陰か、はたまたミツバチとの競争に負けて駆逐されたのか。猛獣がやってくる事はなく、身を隠せない平原だったが朝まで熟睡出来ている。夜中のうちに小さな虫を存分に捕まえて食べたので、特段空腹感も覚えていない。

 継実個人に関して言えば体調は悪くない、というよりも好調なぐらいだ。モモやミドリも顔色と雰囲気から察するに、何時も通りに良好だろう。

 このまま作戦――――フクロミツスイを助けつつ、ミツバチ達の飛行機械を盗み取る作戦を実行しても問題はない筈だと継実は思う。だからフクロミツスイをじっと見つめながら、ミドリの問いに答えた。

 

「そうなんじゃない? でなきゃ視線を向ける理由もないだろうし」

 

「朝ごはんの時間だもんねー。朝はお腹いっぱい食べなきゃ気合い入らないわよね」

 

「……うん」

 

 モモの意見を肯定するように返事する継実だったが、内心は、ちょっと意見にズレがあると思っていた。恐らくモモは単純に「朝ごはん食べたい」程度にしか思ってないだろうが、継実は違う。

 哺乳類というのは全身毛むくじゃらであるから、身体の正確な輪郭は把握し辛い。ましてや暗闇の中となれば尚更だ。そのため昨日の夜はフクロミツスイの体型など殆ど分からなかったが……朝日を浴び、銀色の体毛が薄っすらと透けた今はそれなりにだが見えてくる。

 肋骨が浮かび上がるほど、痩せ衰えた体躯が。

 

「(昨日の食事量じゃ、基礎代謝を賄う事も出来てない感じか)」

 

 野生動物が親離れしていない時は、まだ一匹では生きられない可能性が高い時期である。そして親が不測の事態で死んだからといって、子供が急速に成長する訳ではない。ましてや哺乳類には親からの教育が必要だ。力が強くなっただけではまだ生きられない。

 このフクロミツスイはなんとか狩りは出来ているが、十分な量の蜂蜜を食べる事は出来ていないようだ。身体が未熟で攻撃を防げないのか、技量が足りなくて上手くいかないのか、はたまたミツバチ側が進化して簡単には食べられなくなったのか。成体の狩りを見ていないのでなんとも言えないが、いずれにせよ食糧事情は良くないようだ。

 今日の狩りに失敗すれば更に痩せ衰え、翌日の狩りはもっと上手く出来なくなるだろう。明日明後日で餓死するほど痩せているとは思わないが……悪循環が続けば、やがてその『最期』が訪れる。何処かで悪い流れを断ち切らねば、結末は変わらない。そして変えられるチャンスは、継実達という協力者がいる今だけだ。

 つまりそれは、継実達にとっても最後のチャンスだという事。明日のフクロミツスイは、今日のフクロミツスイよりも肉体的に脆弱だろう。今日失敗したなら、いくら経験を得ようとも、果たして明日は成功出来るのか? 継実にはそう思えない。ミツバチ達の防御を打ち砕くのに必要なのは、知恵よりも圧倒的なパワーなのだから。

 これが最初にして最後の挑戦。後戻りも先送りも最挑戦も許されない、一発大勝負というやつだ。

 ……一つ、致命的な問題は残ったままだが。

 

「ま、何を言ったところで全部想像だけどね。結局アイツ、こっちの言葉分からなかったし」

 

 フクロミツスイと継実達の間に、一切コミュニケーションが成立していない点だ。昨晩のうちに継実達は様々な方法、例えば大声で呼び掛けたり、脳内通信を行ったりして交信を試みたが、フクロミツスイはなんの反応も示さなかった。脳内通信をした時に至っては不快に感じたのか、尻尾の(恐らく巨大隕石クラスの威力を有した)一撃を放ってくる有り様。眠さからか攻撃は狙いが甘く継実達はなんとか助かったが、これ以上接触を試みるのは危険だと判断して、コミュニケーションの成立は諦めるしかなかった。

 これは別段珍しい話ではない。ミュータントはそうでない生き物より知能面で優れている事が多く、人語を話す生物も少なくないが……人間並みに賢いとは限らないし、全ての生物が対話出来る訳ではない。仮に両方の条件を満たしていても、人間など興味すらないような生物もいる。人間同士ですら「話せば分かる」は幻想だったのだから、野生生物相手なら言わずもがな、というものだ。

 言葉を理解するだけの知能がないのか、人間など興味もないのか。フクロミツスイがどちらに該当するかは不明だが、いずれにせよコミュニケーションは取れず。だからフクロミツスイが何を考えているのか訊く事は出来ないし、あちらが教えてくれる事もない。継実達がその動きからフクロミツスイの意図を察して、追随するように動くしかないのである。

 これでは『手助け』というより『お節介』だなと、継実は自嘲した。無論フクロミツスイは、そんな継実の気持ちをこれっぽっちも察しない。

 

【……キュルルルル】

 

 終えたのは準備か、はたまた覚悟か。か細い声で鳴いた後、フクロミツスイは動き出した。

 ただし最初に動いたのは、足ではなく尻尾。力強い一撃は、小さな山ぐらいなら軽く吹き飛ばしそうな破壊力を遠目に見ていた継実に感じさせる。

 そしてその威力の向かう先は、フクロミツスイの親の躯だ。

 体格では生きているフクロミツスイよりも三倍程度上回る骨だが、ミュータントの力は生きているから発揮されるもの。巨大を支えてきた骨はそれなりに頑強だが、あくまでもそれなりだ。生きたミュータントの一撃を受ければ、形を維持する事など出来やしない。

 つまるところ尻尾が直撃した瞬間、親の骨格が粉微塵に吹き飛んだ。

 風化しかけていたのもあってか、骨は衝撃で頭から尻尾まで跡形もなく砕ける。もうそこに、フクロミツスイの親がこの世にいたという痕跡はない。あるのは白と緑が混ざり合った汚らしい粉だけ。

 それは『甘ったれ』な気持ちを捨てるためか、はたまた単に元々親への情愛など持ち合わせていなかったのか。どちらにせよ、フクロミツスイの覚悟の証だろう。今やその顔立ちは可愛らしい哺乳類の子供ではなく、一頭のケダモノのそれと化している。

 親の躯を吹き飛ばしたフクロミツスイは、いよいよ歩き出す。一歩踏み出す度に大地が揺れるほどの力強さで。

 その身体が向かう先にあるのはミツバチ達の大都市だ。

 

「良し、私らも行こうか」

 

「あいよー」

 

「は、はいっ! 頑張ります!」

 

 継実が声を掛ければ、モモは軽い口調で、ミドリは強張った声で答える。

 彼女達らしさが感じ取れる返事であり、即ち彼女達が特段緊張している訳でも、気を緩めている訳でもない。二人とも準備も覚悟も済んでいるのだ。

 継実も二人と同じ。程良い緊張感により身体は温まり、頭に巡る血の多さから思考が冴え渡る。万全の力が発揮出来る状態であり、全力を出せるだろう。

 最後のチャンスだからなんだ? どうせ全力でやる事には変わりないのだ。だから進む事に迷いなんて必要ない。

 

「それじゃ、しゅっぱーつ!」

 

「「おー!」」

 

 継実の力強く明るい掛け声に、モモとミドリも片腕を上げながら応じるのだった。



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メル・ウルブス攻略作戦11

 地平線の先に、煌めきが見えてくる。

 太陽の明かりではない。太陽は既に東の地平線のずっと上で輝いており、対してその煌めきは南の地平線の向こうに存在している。太陽ではなく、太陽の光を受けて輝いているのだ。

 継実達はその正体を知っている。黄金の眩さを放つ、蜂蜜都市であると。数えきれないほどのミツバチが働き、あらゆる外敵を跳ね除け、せっせと蓄えた蜂蜜がギッシリと満ちた巨大な巣があるのだと。

 継実達の一キロ隣りに立つフクロミツスイも、同じく知っている事だ。

 しかしフクロミツスイは動かず、じぃっと南の地平線を眺めるだけ。作戦を頭の中で組み立てているのか、或いは攻撃のチャンスを窺っているのか。心を読むような能力があるなら兎も角、そうでない身では想像するしかない。

 勿論継実達同士も、家族だろうとも他人が何を考えているかなんて、正確には分からない。だからこそ言葉による情報のすり合わせが大切だ。『作戦』が始まる直前だからこそ、言葉は交わさねばならない。

 ――――等という合理的な考えは特になく、単純に待ち時間が長くて手持ち無沙汰なものだから、継実達は『合理的』なお喋りを始めた。

 

「さぁ、ミツバチの巣がある海沿いに戻ってきた訳だけど……昨日と違う場所だなぁ」

 

「ええ、昨日と違う場所ね」

 

「ですね。大体西に十五キロほど離れた地点です。壊れた巣の姿があっちに見えます」

 

 感覚的に自分達の居場所を理解していた継実とモモに、ミドリが正確な情報を付け加えてくれた。本能的に継実は確信していたが、それを保証するものは自分の感覚だけ。具体的なデータと数値が出るなら実にありがたい。

 ミドリからもたらされた貴重な重要を元に、継実は考え込む。

 単純に、一つの巣のミツバチを壊滅させたいだけなら……同じ巣を攻めるべきだ。追い返したとはいえ、昨日フクロミツスイに襲われた巣は激しく損壊している。全体から見ればごく一部であるが、恐らくまだ修復は完了していない。何度も何度も攻撃を仕掛ければ、恐らく再起不能に持ち込めるだろう。

 だが、フクロミツスイの目的はミュータントミツバチの根絶ではなく、ミツバチ達が蓄えた甘くて美味しい蜂蜜を食べる事。

 昨日の襲撃を受けた巣は、大量の蜂蜜を溢れさせていた。フクロミツスイはその全てを食べ尽くした訳ではないが、しかし貯蔵庫であるビルの幾つかは壊されたまま。溢れた蜂蜜を回収したところで、しまう場所がない状態だ。またフクロミツスイとの戦いで兵力が大きく減った状況を放置するとは思えない。ロボットなどの兵器を作り出すため、働き蜂は材料となる蜜蝋をたくさん生成している筈だ……勿論食べ物(エネルギー源)である蜂蜜をたくさん消費しながら。

 つまり昨日襲った蜂蜜都市には、あまり蜂蜜が残っていない可能性がある。破壊されたのは巣全体から見れば一部だけなので、全体量として見ればまだまだあるだろうが、単位面積当たりの量はかなり少なくなっていると思われる。それに何度も何度も同じ巣を襲撃した結果その巣が崩壊したら、貴重な蜂蜜が再生産されなくなってしまう。

 一箇所の餌場を食い尽くす前に、他の餌場へと移動する。そうする事で将来的により多くの個体が、自分の子孫が生き残りやすくなる。多くの生物に見られる進化の一つだ。種の ― 正確には自分の血縁の ― 繁栄を成し遂げる上では、極めて合理的な形質と言えよう。

 が、個体レベルで見れば得とは言い難い。言い換えればこの戦術は、毎度毎度万全の巣に突撃を仕掛けるのと同義。より多くの子孫を生かすために、個体単位ではより多くの苦労をする典型である。種の繁栄 = 個体の幸せではないのだ。

 

「(言葉が通じれば、昨日と同じ場所を攻めなよってアドバイスも出来るんだけどなぁ)」

 

 恐らくこれはフクロミツスイの本能。だから個体レベルで不利益があろうとも、止めておこうという考えは浮かばない。フクロミツスイは目の前にある、完全な状態のミツバチの巣に本能的突撃を仕掛けるだろう。

 だから自分達がそれに合わせるしかない。とはいえそれは最初からそのつもりでいた事。今更な話だ。

 そしてフクロミツスイが継実達の覚悟などお構いなしに動き出すのも、想定通りである。

 

【キュウゥルウウゥゥッ!】

 

 甲高い鳴き声を上げながら、フクロミツスイは走り出す!

 体長百メートルの身体が繰り出す馬力は、軽々と超音速を生み出す。身体の周りに白い靄を纏い、衝撃波を四方八方へと飛ばしていた。もしも此処が七年前世界中に乱立していた人間の大都市の中なら、その衝撃波だけで都市全域が根こそぎ瓦解しているに違いない。

 人智を超えた速度に達したフクロミツスイは、地平線の向こうにあった蜂蜜都市に体当たりをお見舞いした!

 フクロミツスイの奇襲攻撃により、蜂蜜都市のビルが数棟崩れ落ちる。蜜蝋の瓦礫が轟音を鳴らし、落下の衝撃で大地震を引き起こす。それらは所詮『余波』に過ぎないが、フクロミツスイの身体に秘められた強大無比なパワーをひしひしと感じさせた。

 無論、これで怯むようなミツバチ達でない事は、昨日の時点で分かっている。

 瓦礫の隙間や残った六角柱のビルから、続々と働き蜂が乗るロボット兵士が飛び出した。その手に握られた槍はフクロミツスイのケツの皮を貫く程度の威力はある。刺されれば当然痛い。

 

【キュルゥ!】

 

 それを知っているからこそ、フクロミツスイは能力を発動。ロボット内部にある蜂蜜を操り、結晶化させた糖で内側から破壊する。出撃した数万ものロボット兵士達は瞬きする間もなく壊滅させられた。

 かくして邪魔者を排除したフクロミツスイは、周辺をキョロキョロと見回す。生き延びたロボット兵士がいない事を確かめているのだ。

 安全を確保したところで、フクロミツスイはのしのしと、崩れたビルこと巣に歩み寄る。長い舌をちろちろと伸ばして、巣から滲み出した莫大な量の蜂蜜を舐め始めた。

 ――――ここまでは、昨日の時点で出来ていた事。

 問題はここからだ。ここでフクロミツスイが油断したところで、瓦礫の中から後続のロボット兵士が出現。尻に一発刺されて怯んだところを畳み掛けられて、追い返される羽目になった。どうやら幼いフクロミツスイは徹底的にロボット兵士を潰した事で解決したつもりのようだが……実際にはロボット兵士は瓦礫の奥や残っているビルから出ている。そこを見ていないので、取り零しが反撃してきたと勘違いしているのだろう。

 このままではまたお尻を刺され、悲鳴と共に逃げないといけなくなる。

 即ち、今こそが外野が『手助け』するタイミングという訳だ。

 

「モモ、ミドリ。耳塞いどいて!」

 

 フクロミツスイの行動を見ていた継実は、大きな声で家族二人に警告を発する。

 モモとミドリは言われた通り両手で耳を塞ぐ。それを確認した継実も粒子操作能力で耳の中の空気を固めて耳栓代わりにして……力強く両手を叩く。

 継実がやった事はただ手を叩いただけ。

 しかし同時に能力も使用していた。空気が強力に押し退けられ、それは音という形で伝播。『爆音』と呼ぶのも生易しい、衝撃波となって周囲に広がる!

 この衝撃波を人間の都市相手にお見舞いすれば、何十万の命を瞬時に奪うほどの被害をもたらすだろう。とはいえ継実(ミュータント)にとっては、所詮爆音の範疇。フクロミツスイやミツバチロボットどころか、蜂蜜都市のビルを崩す事すら出来やしない。

 けれども、気を引くぐらいは出来る。

 

【キュル?】

 

 フクロミツスイはくるりと、音の発生源である継実の方を振り向く。

 本来、フクロミツスイにとって継実達など足下を歩き回る虫けらでしかない。どれだけ闘争心を露わにしても、虫が威嚇しているようなもので感じてももらえないだろう。自棄糞になって継実が粒子ビームを顔面に撃ち込んだところで、果たしてこちらに関心を寄せるかどうか。食事中なのを考慮すれば、面倒臭がって尻尾の一撃を適当にお見舞いするだけかも知れない。

 しかし音は違う。音だけではそれがどんな存在が、どんな方法で出したのかは未知のまま。無視して『予期せぬ出来事』があっては困るため、確認をするべくとりあえず振り返るものだ。

 だからフクロミツスイは、瓦礫の隙間から這い出してきたロボット兵士の姿を見る。

 

【キュゥッ!】

 

 一瞬の間も与えず、フクロミツスイはロボット兵士を片手で叩き潰す!

 奇襲攻撃が失敗に終わり、瓦礫に隠れ潜んでいたミツバチ達は続々と這い出す。バレたらバレたで攻撃するようだが、しかし存在を認識してしまえばフクロミツスイにとって脅威とはなりえない。

 フクロミツスイが一睨みすれば、全ての蜜蝋ロボット兵士は内側から飛び出した糖の結晶で機能停止。一掃した事を確かめるとまた蜂蜜に夢中になり、瓦礫から出てきたロボット……ミツバチ側には一体どれほどの予備兵力があるのだろうか……に狙われたが、二度目も継実が手を叩いて危険を知らせる。また振り返ったフクロミツスイは、再度ミツバチ達を能力で始末する。

 まだまだ蜜蝋ロボットは残っている。しかしもう彼女達はフクロミツスイの隙を窺う事はせず、くるりと継実達の方に振り返った。

 二度も邪魔された事で、ミツバチ達側も継実達の存在を意識したらしい。果たして「アイツ等が共闘している」と理性的に判断する知能があるかは不明だが、兎も角継実達を排除しなければ不味いとは考えたようだ。数キロ離れた地点にいる継実達の方に、何十機かのロボットが飛び立つ。

 だが、もう遅い。

 フクロミツスイは瓦礫の下にミツバチのロボットが潜んでいる事を、この二回で学習してしまったのだから。

 

【キュルッ!】

 

 三度フクロミツスイが振り返った時、継実による手拍子の合図はなかった。自主的にフクロミツスイが周囲を警戒したのである。

 ロボット兵士達はフクロミツスイの方に向かっていないが、しかしそんなのは見逃す理由とはならない。自分を攻撃してくるロボットが、自分に直進してこないという()()()()()をしているのだ。何かされる前に潰す――――極めて合理的な選択だろう。

 継実はもう手を叩かない。叩く必要がなくなったと言うべきか。瓦礫やビルから蜜蝋ロボットの二陣三陣が出てくるところを見れば、フクロミツスイも此処では悠長に食事など出来ないのだと察したらしい。ぺろぺろとビルから滲み出す蜂蜜を舐めつつ、辺りを頻繁に見回す。少しでも蜜蝋ロボットの姿を見れば能力を使い、徹底的に危険を潰していく。

 数分と経たないうちに、飛び回るロボットどころか、瓦礫の影から顔を覗かせるロボットの姿すら見えなくなった。

 

「なんか、意外と簡単にいきましたね。手伝いも継実さんが手を叩いただけで、あたしとモモさんは何もしないで終わりそうですし」

 

 ミドリからはすっかり気の緩んだ意見が出てくる。

 実際、今のフクロミツスイはもう継実の援護なしでミツバチ達に対処出来ている状態だ。数回ミツバチの動きに気付かせてあげただけでここまで上手く事が進むとは、少々予想外。

 しかしもしかすると、あのフクロミツスイは独り立ち寸前の個体だったのかも知れない。後は母親から狩りの方法を教わるだけだという段階だったなら、少し『コツ』を教わればもうミツバチには手を付けられないだろう。身体スペックが十分なら、技術さえあれば狩りは完璧になる筈だ。

 なんにせよ、トントン拍子で進むのならば好都合。見たところ瓦礫の中やビルから出てくるロボット兵士の数は急激に減っていて、ミツバチ側の消耗具合が窺い知れる。もうしばらくフクロミツスイが暴れ回れば、巣の防衛能力は機能停止に陥るだろう。

 継実達にとって大事なのはここから。フクロミツスイにとっては、働き蜂の乗るロボットが一千機いようが大した問題ではない。されど継実達にとっては大問題。一対一でも勝てるか怪しい相手なのだから、敵との交戦は可能な限り避けたい事態だ。だから出来れば巣の混乱が最大に達した、ミツバチ達がフクロミツスイに手いっぱいでこちらの事など構っていられない状態が好ましい。しかしあまり待ちに徹していたら、フクロミツスイはそのうち満腹になって帰ってしまうだろう。こうなるとミツバチ達は即座に立て直し、万全ではないが厳しい警備体制に戻ってしまう。

 さて、どのタイミングで仕掛けるのが良いか? ミツバチ達に包囲されたなら、最悪命を失いかねない。慎重かつ大胆に考え、チャンスを見極める必要がある。

 そう、これは非常に重要な思考。余計な事に演算能力(考え)を割り振っている余裕などない。

 ないというのに――――本能が、その演算能力を横取りしていく。そして感じるのだ。

 嫌な気配を。

 

「……モモ」

 

「うん。なんか来るね。つーかミツバチの動きがなんか変」

 

 継実が名前を呼べば、モモは満点の答えを返してくれた。本能が感じていたものを言葉にしてくれた事で、継実もハッキリと認識する。

 そうだ。何かが来ようとしている。

 何が、と問われるとそこまでは分からない。だが猛烈に嫌な気配だ。正直なところ普段なら全力で逃げ出すところだが……此度はそういう訳にはいかない。ここで逃げたら()()()()()()()()()どころか、()()()()()()()()()()()()という予感がある。危険だとは分かっているが、逃げ出す訳にはいかない。

 

【……キュウゥルルルル……】

 

 フクロミツスイも気配を感じ取ったらしい。警戒しながらも続けていた食事を、ついに止めた。顔を上げ、辺りを見渡し――――ある場所をじっと見つめる。

 フクロミツスイの視線が向かう先は、蜂蜜都市の中心部。フクロミツスイが破壊したのは蜂蜜都市の外側部分であり、中心は被害を免れている。だから無傷の六角柱ビルが立ち並ぶ、美しい黄金色を放つ以外はなんの変哲もない風景だ。

 だが、ミュータント達は感じていた。

 その中心部から何か、途方もなく大きな気配を感じる。その気配は刻々と大きく……否、近付いてきているようだ。迷いなく、一定速度で、急速に。

 そして気配は、直近まで迫ったところでふと消えた。

 攻撃のチャンスを窺っているのか、或いは逃げ出したのか。答えは考えるまでもない事だ。現にフクロミツスイは一切気を緩めはせず、淡々と蜂蜜都市の中心部を見つめ続け、

 突如として都市部を吹き飛ばしながら現れた『物体』を、真正面から受け止めるのだった。



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メル・ウルブス攻略作戦12

 蜂蜜都市を粉砕しながら地中より現れた物体は、兎にも角にも巨大だった。

 全長は恐らく百五十メートルほどあり、フクロミツスイよりも遥かに大きい。黄金色の『体毛』が覆っている身体は丸っこい体型をしていて、頭と胸と腹の三つに分かれていた。胸からは六本の脚を生やし、頭には丸くて大きな複眼を持つ。胸からは更に四枚の翅が生えていたが、これはぴったりと身体に沿うように置かれ、さながら鎧のようだ。六本の脚はかなり太く、丸い身体付きとマッチしている。

 等として語れども、その姿は一言で例える事が可能だ。

 巨大ミツバチ、と。

 

「な、んじゃありゃ……!?」

 

 突如として地中から現れた巨大ミツバチに、継実は大きく目を見開きながら、胸の中に込み上がった感情をそのまま吐露する。だがこれは感情の困惑だ。本能は即座に新たな脅威を解析し、理解しようとする。

 そして巨大ミツバチが迫るフクロミツスイは、継実よりも早く動き出した――――巨大ミツバチの突撃を真正面から受け止める形で。

 

【キュゥルウっ!】

 

 甲高い鳴き声を発しながらフクロミツスイは立ち上がり、巨大ミツバチ目掛けて二本の前足を伸ばす。さながら抱え込むように受けた格好だ。

 巨大ミツバチの速度は凄まじく、継実では例え自分が何十万人集まろうと止められる気がしない運動エネルギーを有していた。だがフクロミツスイにとっては『同格』の一撃。ずるりずるりと後退しつつ、巨大ミツバチの突進を受け止めてみせる。

 しかし止まったのは、ほんの一瞬の事に過ぎない。

 止められた巨大ミツバチは大地を蹴って、密着したまま『突進』を行う! 助走もない状態での突進だが、されど蜂蜜都市を吹き飛ばした時よりも大きな力だったらしい。

 最初の突撃は受け止めたフクロミツスイだったが、此度の一撃は止めきれず。巨体がごろんと転がされるように倒されてしまう。

 

【キュゥッ!? キュルルルルッ!】

 

 転倒したフクロミツスイは即座に起き上がると、巨大ミツバチに向けて尻尾を振るう!

 昨日は群がるロボット兵士達に向けて放っていた攻撃だが、今度の一撃は全身全霊の力を込めたものだった。超音速の尾が大気を切り裂き、雷鳴が如く爆音を響かせる。衝撃波が刃のように飛び、周りに残っていた蜂蜜都市のビルを十数棟纏めて切り裂く。

 この一閃だけで人類文明など地球上から根こそぎ削がれてしまうだろうが、巨大ミツバチは構えた腕一本でこれを受け止めた。腕には深い傷跡が出来たものの、切断されるには至らない。

 否、それどころか出来た傷はみるみると、傷口が蠢くようにして再生するではないか。

 

【キュ!? キュル、キュゥッ!?】

 

 これには幼いフクロミツスイも驚き、その隙を突かれて突進をまた受けてしまう。今度は踏ん張る事も出来ず、何百メートルと吹っ飛ばされてしまった。

 かつてニューギニア島で繰り広げられた、大蛇とヒトガタの決戦ほどの激しさではない。あれはミュータント植物や細菌が満ちていなければ、比喩ではなく星が崩壊する規模だった。それに比べれば此度の戦いは、なんともちっぽけな戦いである。

 だが、それでも体長二メートルもないような生物……継実達にとっては大災厄が如く激しい闘争だ。力の差が大き過ぎで助太刀のしようがない。巻き込まれないよう遠方に陣取るのが精々。

 お陰で落ち着いて観察する事が出来たのだが、観察するだけでは何もしないのと変わらない。観察結果から、何か、自分達に出来る事を見付けねばならないのだ。

 

「(落ち着け……! 滅茶苦茶だからこそ、正体を見極めろ!)」

 

 目にも留まらぬ速さで繰り広げられる猛攻を解析すべく、継実は大きく目を見開く。

 継実の目は巨大ミツバチの『正体』を捉える。一見して突然変異のような現象で働き蜂が巨大化した存在のようにも思えたそれは、しかし本当は()()()()()()()()()()()()

 一般的に昆虫の外骨格を構成するのは、キチン質というムコ多糖の一種だ。ミュータント昆虫の表皮に含まれるものは、七年前のものとは少し構造が異なるものの、ムコ多糖という枠組みを超えたものではない。そして多糖と呼ばれる通り、ムコ多糖はグルコースなどの単糖が連なったものである。

 だが、巨大ミツバチの身体を作るものはムコ多糖ではない。飽和脂肪酸など、所謂()()()()が主成分だ。しかも構成物質に若干の差異はあるものの、周りにある六角柱のビルと同じ素材……蜜蝋で作られているらしい。

 巨大ミツバチの正体は、超巨大蜜蝋ロボットなのだ。継実と同等の体躯の機体ですら、継実以上の戦闘能力を感じさせた蜜蝋ロボット。圧倒的巨大さを誇るこのロボットの力がどれほどのものかは想像も付かない。フクロミツスイにとってもかなりの強敵、勝ち目はかなり薄いに違いないだろう。

 あくまでも、身体的なぶつかり合いであればの話だが。

 

【キュルルウゥゥッ!】

 

 フクロミツスイもそれを理解しているのだろう。転ばされた際の動きを利用して距離を取るや一鳴きし――――その身に宿る能力を発動させた。

 糖を操る能力だ。襲い掛かる数万体のロボット兵士を、中にある糖質を結晶化させる事で瞬時に壊滅させた恐るべき能力。巨大ミツバチもロボット兵士と同じく蜜蝋で出来ており、恐らく同じ技術体系の代物だ。燃料だかなんだかで蜂蜜を利用している以上、フクロミツスイの能力から逃れる事は叶わない。

 継実はそう考えていたし、フクロミツスイも同じように考えていただろう。

 同時に、上手くいく筈がないという予感も。

 ミュータントは合理的だ。仲間の命が、子供や兄弟姉妹の命が脅かされようとも、放置した方が『得』ならばそれを躊躇わない。ましてやミツバチにとって大事なのは女王であり、働き蜂など有象無象に過ぎない。大量に失おうと、蜜を奪われて餓死しようと、巣の中枢である女王にとっては問題ではないのである。

 この巨大ミツバチを作り出すのに、大量の資材を投じた筈。しかも出現時、急いでいたのか周りのビルを数棟吹き飛ばしている。莫大な『コスト』を費やして繰り出したものを、高々数回体当たりをお見舞いするためだけに投じるものか? 否である。そしてミツバチ達だって、フクロミツスイに糖質を操る力があるのは把握しているに違いない。

 だから巨大ミツバチを差し向けたからには、フクロミツスイの力への対策は万全なのだ。

 その予想通り、巨大ミツバチはフクロミツスイの能力を受けても、なんの問題もなく体当たりをお見舞いする!

 

【キュ……! キュゥルウゥ!】

 

 能力発動の隙を突かれる格好となり、突き飛ばされるフクロミツスイ。だがフクロミツスイにとってもこの状況は想定内だったに違いない。即座に起き上がるや、再び能力を発動させた。

 ただし今度の能力の対象は巨大ミツバチではなく、周囲に転がるビルの残骸。

 次の瞬間、ビルの残骸から巨大な結晶が生えてきた! ビルといっても正確にはミツバチの巣。中には大量の蜂蜜(糖質)が含まれていて、それは自由に操る事が出来る。

 更に地面を這うように、蜂蜜が蠢きながら巨大ミツバチの足下に迫っていた。肉薄した蜂蜜は鎌首をもたげるように盛り上がると、巨大ミツバチの脚に巻き付いて瞬時に硬質化。相手の動きを束縛しようとする。

 身動きを封じた状態で、巨大な結晶で貫く。無慈悲かつ効果的な技だ。ミュータントならば慌てふためく事はなくとも、冷や汗の一つぐらいは流すだろう。

 だが巨大ミツバチは動じない。ロボットだから……というのもあるだろうが、何よりも動じる必要がないからだ。

 

【……キュリリリリ】

 

 甲高い音を鳴らすや、巨大ミツバチは身体の色合いを赤くする。

 否、赤い光を発しているのだ。同時に周りの気温が上がっていく。それは継実ならば空気分子の運動量から把握出来るし、何より数キロ離れた継実達の肌でも感じ取れた。ミュータントらしい圧倒的高熱だ。

 その莫大な熱量を受けて、絡み付く蜂蜜が溶け始める。

 更には伸びてきた結晶も近付くだけで溶け、巨大ミツバチと接した時にはほぼ液体状態に。当たるのと同時に弾け飛んだ蜂蜜は沸騰していたが、巨大ミツバチの身体に焦げ目一つ付ける事が出来ていない。

 何故硬質化した蜂蜜や糖の結晶は溶けてしまったのか? 理屈は簡単だ。糖分というものは熱を加えると簡単に溶けてしまうもの。フクロミツスイが操る糖も熱にあまり強くなく、簡単に溶けてしまったのだ。

 

【キュルゥ!?】

 

 これにはフクロミツスイも僅かながら戸惑い、その隙に巨大ミツバチが繰り出した突進をもろに腹に受けてしまう。小さくないダメージだったのか、フクロミツスイは顔を歪めていた。

 そして継実も顔を顰める。自分達の置かれた状況が、想像以上に悪いがために。

 未だミツバチ達の技術体系の詳細が分からないため断定は出来ないが、蜂蜜は恐らくロボットの燃料として使われている。しかし巨大ミツバチにはフクロミツスイの能力が通じなかった事から、巨大ミツバチには蜂蜜を搭載されていない。だとすれば巨大ミツバチは燃料からしてロボット兵士とは違う、根本的に異なる技術の産物なのだろう。

 技術の進歩は連続的だ。一つの高度な技術を生み出すためには、下地となる何十何百何千の技術が必要となる。当然一つ一つの技術の研究・習得にはそれなりの時間が必要であるから、様々な系統の……繋がりの薄い技術に手を伸ばせば、一つの体系に集中した時よりも発展が遅れてしまう。

 ならば複数の技術体系を持つメリットなど、全くないのだろうか? いいや、そんな事はない。技術体系が異なるという事は、弱点も異なるという事だ。電子機器を発達させた人類文明が電磁パルスで滅茶苦茶になると言われたり、ミツバチ達のロボット兵士が糖を操る能力でガラクタと化したりするように。

 蜂蜜で動いていない巨大ミツバチに、糖を操る能力は通じない。

 あの巨大ミツバチは、()()()()()()()()()()()()()()()なのだ。

 

「(不味い、不味い不味い不味い! これは本気でヤバい!)」

 

 正直、継実はつい先程まで楽観視していた。ミツバチの攻略法を学んだフクロミツスイは、十分な餌を確保出来るようになった。だから今後は食事をする度、つまり日に日に体力を回復し、成長と共に強くなっていく。破壊の規模はより大きくなるが、失敗は最早あり得ない。

 そうなれば継実達は今日頑張って巣から機械を盗まずとも、明日明後日明々後日と時を待てば良い。強くなったフクロミツスイが、ミツバチの巣を何度でも滅茶苦茶にしてくれる。元々急ぐ旅路ではないのだから、準備やタイミングが万端になるまで何日待とうと問題はないのだ。

 しかしそうも言ってられなくなった。

 あの巨大ミツバチが対フクロミツスイに特化した兵器ならば、フクロミツスイにとって相性最悪の存在だ。大きさからして、恐らくフクロミツスイが成体ならば十分勝てる相手なのだろうが……未だ幼い個体となると勝ち目はかなり薄いのではないか。

 このままだとフクロミツスイは殺される。ならば手をこまねく訳にはいかない。継実は思考を巡らせ、二つの選択肢を考える。

 一つは自分達が助けに入る。巨大ミツバチの気を散らせば、その分フクロミツスイへの攻撃を減らせるだろう。また継実達の攻撃により少なからずダメージを入れて動きを鈍らせれば、フクロミツスイの攻撃も通りやすくなる。助けに入ればフクロミツスイの勝率はぐっと高くなる。

 そして、もう一つの選択肢は。

 

「……ふむ。今が盗み出すチャンスかも」

 

 モモが独りごちた言葉――――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()事だ。

 

「え!? も、モモさん!? 今がチャンスって、まさかフクロミツスイさんを助けないつもりなんですか!?」

 

「まさかも何も最初からそーいう計画だったじゃん。アイツに蜂の巣を滅茶苦茶にしてもらって、混乱に乗じて機械を盗み出す。今がチャンスでしょ?」

 

「ちゃ、チャンスですけど、でもあたし達あの子を助けるって」

 

「フォローならもう何度もしたじゃない。私とミドリは何もしてないけど。大体、あのデカいミツバチ相手に何が出来んのよ」

 

「それは……」

 

 モモからの反論に、ミドリはいよいよ言葉を失う。

 そう。手助けをするとして、自分達に何が出来るというのか?

 継実達の力では、フクロミツスイにすら虫けら程度にしか思われない。巨大ミツバチなら言わずもがなというものだ。攻撃したところでダメージなんてろくに入らず、鬱陶しく思わせるのが限度だろう。無論命のやり取りをしている時に集中力を削ぐのは、援護としては上等なものだが……反撃された時のリスクを思えばリターンが小さ過ぎる。何より協力したところで、確実に勝てるとは思えない。

 ならば二つ目の選択肢、この混乱に乗じて機械を盗み出す方が合理的だ。『最後のチャンス』かも知れない瞬間を掴むため、最善を尽くす。モモの意見はなんらおかしなものではない。

 

「……まぁ、ぶっちゃけモモのやり方が賢いんだろうなぁ」

 

「そんな……継実さんまで……」

 

「つーかそこまで入れ込む理由ないでしょ。友達や家族になったなら兎も角、私らが勝手に協力してるだけなんだし」

 

 納得していないミドリに、モモからもう一度ツッコミが入る。これまた正論だ。全く以て正しい。

 ――――野生生物的には、という前置きは必要だが。

 

「……正論だけど、気分は良くないな」

 

 ぽつりと、漏らした本心。

 モモの言い分は正論だ。正論だが、それは人間として気分の良い決断ではない。助けると決めた相手を、途中で見捨てるなんて()()()()()()

 合理的な考えじゃないのは分かっている。だが、だからなんだ? 合理的な行動をしなければならないのか? 野生生物はみんな合理的な行動をしている?

 違う。野生生物が合理的なのは、合理的な考え方をする個体が生き残ったというだけ。合理的じゃない考え方は時として命を失う原因ともなるが、それを選ぶかどうかは自由である。人間が感情的な考えを選ぶのだって自由だ。

 答えは最初から決まっていた。

 

「助けるよ。フクロミツスイを手助けして、完全勝利する!」

 

 決定を言葉にすれば、ミドリが眩い笑みを浮かべた。フクロミツスイを助けたいと考えていた彼女にとって、継実の選択は願っていたもの。士気が向上し、身体に力が満ちていくのが分かる。

 逆に、合理的な選択肢を口にしていたモモがこの決断に納得するかどうかだが……それについて継実は心配していない。

 

「ま、そーいうと思ったわ」

 

 七年も一緒に暮らしているモモにとって、継実の考えなどお見通しなのだから。

 

「悪いね。付き合わせちゃって」

 

「別に良いわよ、継実がしたいならそれに従うし。それに」

 

「それに?」

 

「無視して盗み出す方も簡単にはいかないでしょ。多分どっちも五分未満よね、これ」

 

 そう言いながらモモが視線で示したのは、蜂蜜都市の外縁部。

 残っているビルや瓦礫の下……そこに蠢く影が見えた。正体については今更言うまでもない。ミツバチ達のロボット兵士だ。

 フクロミツスイの手により何万何十万と撃破されたが、ロボット兵士の予備はまだまだあるらしい。戦況が巨大ミツバチの優勢だからか、フクロミツスイに対し積極的に攻撃するつもりはなさそうだが……即ち、継実達(部外者)が巣に入り込めば対処する余裕があるという事でもある。

 ここから飛行マシンを盗み出すのは中々困難だ。成功率は、五割あるかどうか。

 結局のところどちらの選択肢も成功率は高くない。家族の命と旅の成否が掛かっているのだから、継実だってそこまで感情で選びはしないのだ。ただどちらも成功率に大差ないなら、感情的に好ましい方を選ぶというだけ。

 

「だね。つー訳だから……攻撃開始だぁ!」

 

「おっしゃあぁ!」

 

「おー!」

 

 継実の掛け声に合わせ、モモとミドリも動き出す。目指すは巨大ミツバチ。

 ロボット兵士達が一斉に振り向いてくるやその手に持つ槍を継実達へと向けてきたのは、それから間もなくの事だった。



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メル・ウルブス攻略作戦13

 手助けする、といった手前こういうのも難だが……継実は直接的な方法、例えば巨大ミツバチへ攻撃するという形でフクロミツスイを援護しようとは考えていなかった。

 何しろ巨大ミツバチのサイズは約百五十メートル。正確な体重は不明だが、大きさから推定するに継実の七十万倍はあるだろう。身体の大きさはそのまま強さの証であり、つまり巨大ミツバチは継実の七十万倍強いと言い換えてほぼ問題ない。

 七十万倍の力で動く身体に攻撃したところで、まず傷一つ与えられない。仮に与えたところで耐久力七十万倍の相手からすれば、無視しても大差ないダメージだ。精々鬱陶しく感じる程度だろう。そして向こうの反撃は七十万倍のパワーとスピードで繰り出される。一発でも当たればお陀仏であり、回避は限りな不可能。要するにほぼ確実に一発で殺される訳で、リスクに成果が見合わない。

 だから直接攻撃を仕掛けるつもりはなかった……尤も、現状を正しく説明するなら、()()()()()()()()()()()と言うべきだろうが。

 継実達は今、何百という数のロボット兵士に追われているのだから。

 

「うーん、結構巣から離れたつもりだけど、追ってくるなぁ」

 

「そうねぇ。ここまでしつこいのは想定外よ」

 

「ひ、ひぃいぃぃぃぃ!?」

 

 背中に無数の羽音を聞きながら、継実とモモは冷静に、ミドリは叫びながら逃げる。

 働き蜂が操るロボット兵士数百体は、巣から十キロ離れた場所まで追跡してきていた。昨日は巣から五メートル圏内に入らなければ継実達など無視していたのに、此度の対応は全く異なる。

 フクロミツスイという脅威に対処中のため、些細な不確定要素も受け入れられないのか。はたまたフクロミツスイにアドバイスをしていたのが継実達だと学習したからか。いずれにせよこれ以上の援護を許すつもりはないようだ。

 

「(逆に言えば、何かしら援護が出来ればかなり有利になりそうなんだけどね)」

 

 継実がチラリと視線を向けるは、ミツバチの巣の中心部。

 そこでは今もフクロミツスイと巨大ミツバチが、激しい戦いを繰り広げていた。

 

【キュルルルルルッ!】

 

 甲高い鳴き声を鳴らしながら、フクロミツスイは巨大ミツバチに突進を仕掛ける。巨大ミツバチはこれに対し六本の脚で大地を踏み締め、迎え撃つという対応を取った。

 フクロミツスイ渾身の体当たりは、僅かに巨大ミツバチを押す。が、それだけ。転倒したり仰け反ったり、ダメージとなるような一撃にはなっていない。

 むしろ巨大ミツバチは反撃とばかりに、大地を蹴って押し返そうとする。

 フクロミツスイは踏ん張って耐えようとして、最初は上手くいっていた。だが最初だけだ。やがてずりずりと踏んでいる大地を削りながら後退し、数十メートルと動いたところで押し出されてしまう。なんとか転倒こそ避けたがバランスを崩し、そこに巨大ミツバチは前脚によるパンチを喰らわせた。これは流石に耐えきれず、フクロミツスイは仰向けに倒れてしまう。

 

【キュルゥッ!】

 

 しかしただではやられない。フクロミツスイは尻尾を鞭のように振るい、巨大ミツバチの顔面に叩き付けた!

 衝撃波である白い靄が生じるほどの一撃は、命中と同時に巨大ミツバチを後退りさせた。しかしそれが限度であり、怯んだというほどのものではない。フクロミツスイが起き上がり、距離を開けるだけの時間を稼ぐのが手いっぱい。

 起き上がったフクロミツスイは鬼気迫る形相で睨み付けたが、巨大ミツバチは ― 蜜蝋製ロボットである事を差し引いても ― 全く気にも留めていない。当然だろう。誰の目にも、戦局は巨大ミツバチの方が優勢なのは明らかなのだから。

 そう、確かに優勢なのだが……継実は思う。

 

「(()()()()()()()()()()()()()()()()。見た目ほど有利じゃない)」

 

 巨大ミツバチはフクロミツスイと比べ、体長は一・五倍ほどある。体型や体組織の違いがあるので一概には言えないが、単純計算では三・三七五倍の体重差がある筈。

 これだけの体重差があれば、普通ならば相手を圧倒している。例えるなら体重五十キロ以上の継実が、三〜四歳児を相手にするようなものだ。身体が未熟なのを差し引いても、健康な成人女性が四歳児を()()()()()つもりで襲えば、勝負が付くのに五分と掛かるまい。

 ところがフクロミツスイと巨大ミツバチの戦いは、フクロミツスイの劣勢とはいえ、そこまで圧倒的な勝負でもない。機械の限界なのか、蜂蜜を燃料に使っていない所為なのかは分からないが……どうやら見た目ほど高性能ではないらしい。

 恐らく何かチャンスがあれば、フクロミツスイは逆転出来る筈だ。

 とはいえ継実達と巨大ミツバチのパワー差は歴然としたもの。本当は七十万倍ではなく二十万倍差なんだと言われたところで、どう足掻いたところで覆せないのは変わらない。働き蜂に追い回されて接近出来ず、大きな力を与えられないのならば尚更である。

 せめて働き蜂ロボットを振り切れれば、色々やりようもあるのだが……数でも性能でも向こうが上手。チームワークも悪くなく、隙がまるでない。

 ならばいっそ、肉を切って骨を断つという先人の言葉に倣い、向こうの攻撃を受けてでもフクロミツスイの援護を行うべきか? そんな作戦もちらりと脳裏を過ったが、継実は即座にそれは駄目だと切り捨てる。

 

「ぎゃあああぁ!? びやぁぁぁぁ!?」

 

 現在進行系でミドリが絶叫しながら避けている『槍』が、一発でも当たれば非常に危険だからだ。

 ミツバチが操るロボット兵士の槍は、フクロミツスイの皮膚を貫くほど頑強かつ鋭利。まともに受ければ継実達の身体を貫通するぐらい造作もないだろう。それだけでも十分脅威だが……槍の効果は他にもある。

 槍の高速回転で生じたプラズマにより、周りの大気分子が放射性崩壊を引き起こしているのだ。この崩壊により生じた放射線は極めて強力で、『有毒』とでも言うべき効能を発揮する。継実でも真面目に『対処』しなければ危険なものだ。もしも一発でも受けたら、対応にエネルギーと時間を大量に取られてしまう。

 しかも継実達を追跡してきている数百体の他に、巣の外縁やビル内部にまだまだロボット兵士は潜んでいる。その数が数千か数万かは不明だが、どう考えても相手なんて出来ない数だ。肉を切らせようとして全身すり潰されては、骨を断つ事すら出来やしない。

 

「(働き蜂をどうこうしてあの巨大ミツバチに接近するのは無理だなぁ)」

 

 選択肢が減った事を自覚すると気持ちが滅入る。されど合理的に考えれば、取るべき選択肢が明白に見えるというもの。今回に関して言えば、要は近付かず、遠距離からの援護を行えば良いのだ。

 とはいえ継実の力ではこれが中々難しい。確かに粒子操作能力は、様々なミュータント能力の中では遠隔操作を得意とする方だ。周りの大気分子を掻き集めて粒子ビームとして撃ち出したり、素粒子に分解した後粒子スクリーンとして展開したり……だが何事も限度があるもの。巨大ミツバチまでの距離である十キロ彼方となると、流石に及ぼせる力は極めて限定的だ。継実では何か、意味のある干渉は起こせない。

 ならばどうすれば良いのか? 難しく考える必要はない。自分に出来ないのなら、出来る仲間に頼れば良いのだ。そして継実の家族にはそれを得意とする者が一人いる。

 加えて継実は一つ、作戦を思い付いている。ミドリの力を用いればその作戦が可能だ。これである『仕掛け』を仕込めば……

 

「ミドリ! あのデカいミツバチに対して能力って使える!? 頭の中を引っ掻き回すのと同じ要領で、アイツに仕掛けたい事があるんだけど!」

 

 継実は大きな声で、横で必死に走るミドリに尋ねた。

 ミドリの答えは――――首を横に振る事。

 

「だ、駄目です! 無理ですぅ!」

 

「逆探知されるって事? もう構わないよ! 敵対してるのはバレてるんだから!」

 

 拒否するミドリに継実は食い下がる。ミツバチ達はミドリの能力を逆探知する力があるが、以前逆探知されかけた時のミドリ曰く危険を感じないもの……攻撃のためのものではない筈だ。怖いかも知れないが、今更覗き見ているのが自分達だとバレたところで何も困らない。

 怖いという気持ちは分からなくもないが、ここは勇気を振り絞って挑んでほしいところ。継実はそう思っていた。

 しかしその考えが、酷く甘いものだったと理解させられる。

 

「違うんです! 逆探知される訳じゃなくて、中が全く見えないんです!」

 

 この程度の最悪など、簡単に想像出来た筈なのに。

 

「み、見えない!? 見えないって……」

 

「駄目なんです! 中に何かある感覚はするんですけど、それが何かは全然掴めません! 暗幕を掛けられたみたいな感じです!」

 

 叫ぶようなミドリの訴え。それは彼女が、出来ないと分かりながらも何度も挑戦し、やはり駄目だったと思い知らされた事を如実に語る。

 考えてみれば、巨大ミツバチは戦闘兵器。逆探知なんて『諜報』的な機能を乗せるよりも、より戦闘に特化させた方が良い。そして万が一にも情報を抜かれたら、弱点を突かれてあっという間に破壊されてしまう。

 だったら相手を探るよりも、中身を見えなくする方が合理的ではないか。

 

「(不味い、不味い不味い不味い! 中身をブラックボックスにされたら、もう本当に手が出せない!)」

 

 継実達人間のミュータントの能力は、強大さと引き換えに莫大な演算を要求されるもの。そして正確な演算にはたくさんの情報……粒子の位置や運動量のデータが必要だ。それが得られなければ、目の前の酸素分子一つすら動かせない。

 中身が見えない巨大ミツバチには、継実もミドリも能力が使えないのだ。ある種の天敵といっても過言ではないだろう。接近も遠隔操作も受け付けないとなれば、いよいよ打つ手がない。

 

「(考えろ! 何か手はないか! 直接見られないなら、間接的に覗き込む方法は!?)」

 

 目まぐるしく思考を巡らせる継実だが、相手は天敵的機能の持ち主。そう簡単に案など浮かばない。そもそも原子や分子などの粒子の動きを間接的に知るとはどうやるのか?

 強いて方法があるとすれば、量子力学で観測されているあの現象を用いるぐらいか――――

 何かが閃きそうになった。だが、時間は継実の脳に考える時間を与えてはくれない。

 

【キュルゥウゥッ!?】

 

 甲高い悲鳴が突如として上がる。

 継実は反射的に声の方へと振り向く。働き蜂の操るロボット兵士が迫っていたが、本能がそれよりも優先すべきものがあると判断した。そしてその判断は正しいものだった。

 これまで戦いを続けていたフクロミツスイが、大きく仰け反っていた。即座に体勢を立て直すのが困難なほどに。

 反射的に継実は声を出そうとした、が、それより早くフクロミツスイはひっくり返り、腹を見せるように転ぶ。巨大な地震と爆音が辺りに響き渡り、ようやく継実が発した声を無慈悲に掻き消す。無論フクロミツスイに寝転がるつもりは微塵もなく、即座に起き上がろうと四肢をバタつかせた。が、動きが少し前に見た時よりも遅い。

 よく見ればフクロミツスイの身体はあちこちに傷がある。どれほどの攻撃を受けてきたかは分からないが、ダメージは相当蓄積しているだろう。それこそ、身体の動きが鈍くなるまでに。

 この『好機』を逃すほど敵は甘くない。

 フクロミツスイの上に、巨大ミツバチが素早く乗ってくる。六本の脚を巧みに使い、四肢と尻尾を押さえ付けた。最早フクロミツスイはろくな動きも出来ない。

 戦いが終わろうとしていた。継実達が望んでいない形で。



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メル・ウルブス攻略作戦14

 四肢と尻尾を固定されたフクロミツスイは、それでも闘志を失っていなかった。

 最早逃げ道はないと腹を括ったのか、或いは身体が傷付いた事でアドレナリンが大量に分泌されて興奮したのか。いずれにせよミツバチにお尻を刺されて逃げ出した小童は、もう此処にはいない。奴は既に獰猛にして勇敢な、一頭のケダモノだ。

 されどそのケダモノの命は、今や風前の灯火である。押し倒すように伸し掛かる、巨大ミツバチの存在によって。

 

【キュ……キュルルルウゥゥゥ!】

 

 フクロミツスイは覇気のこもった声で吼えるが、巨大ミツバチは怯みもしない。いや、そもそも怯む必要などないのだ。四肢も尻尾も巨大ミツバチの脚で押さえ付けている。唯一頭が自由なので噛み付けば……と思えども、フクロミツスイは蜜食動物。蜜を効率的に食べるため特殊化した結果、その口は歯どころか顎さえも退化している。噛み付き攻撃なんて構造的に出来ない。精々舌でべろべろ舐めて嫌がらせする程度であり、文明的な人間ならばまだしも、ロボット相手に通じるものではないだろう。

 攻撃手段なし。逃げ道なし。完全な『詰み』というべき状況だ。

 つまりそれは、継実達にとっても詰みである。

 

「ミドリ!」

 

 継実は家族の名を呼ぶ。働き蜂達からの猛攻が苛烈で接近すら儘ならない今、巨大ミツバチを『攻撃』出来るのはミドリだけ。彼女だけが、現状を打破する力があるのだ。

 しかしミドリは難しい表情をするだけ。当然だ。巨大ミツバチの中身が見えないと、先程彼女はハッキリと答えていたのだから。

 絶望的状況だった。

 されどフクロミツスイは元から継実達に頼ってなどいないのだ。勝手な手伝いが入っただけであり、それがないからと狼狽えたり慌てたりしない。猛獣を前にして、虫けらを頼ろうとする人間などいないのと同じように。そしてそれは巨大ミツバチも変わらない。人間程度の大きさの生物に構わないのはこちらも同じだ。

 どちらも継実達の事などお構いなしに、事を進めようとする。

 

【キュリリリリ……】

 

 巨大ミツバチはフクロミツスイを更に強く、脚に力を込めて押さえ付ける。ロボットでありながら、絶対に逃さないという意思を示すかのよう。

 無論そのために巨大ミツバチは六本の脚をフル活用している。四肢と尾を押さえるのに五本、そして胸を押さえ付けるのに一本。全ての脚を使っており、自由に攻撃出来るものは一本も残っていない。

 だが、ミツバチにとって脚が使えないのは大した問題ではない。何故ならミツバチには脚以外にも武器があるのだ。

 腹部末端に備わった、毒針という武器が。

 

【キュリリリリリリリ……】

 

 巨大ミツバチが腹部をもたげると、その先から鋭い針が生えてきた。長さ十メートルはあるだろうか。

 一般的に、ミツバチの働き蜂は一度針を刺すと死んでしまう。しかしそれは『刺す』という行為が問題ではなく、刺した針に返しが付いていて、抜こうとすると毒袋(内蔵)が外に出てしまうからだ。針を刺すだけならミツバチは死なない。そもそも巨大ミツバチはロボットであり、生身のミツバチとは違う存在である。

 全身のあちこちを針で突き刺して、止めを刺そうという魂胆に違いない。

 

【キュルルウゥゥ! キュルルルルッ!】

 

 フクロミツスイも巨大ミツバチの思惑を察したのだろう。身体を捩り、頭を振り回すように暴れさせる。万全の状態ならば火事場の馬鹿力で押し退ける事も出来たかも知れないが、傷付いた身体では如何に限界を超えようとたかが知れているというもの。巨大ミツバチの身体は少し揺れただけだ。

 これで相手が人間ならば、追い詰めた事で油断の一つぐらいはしたかも知れない。しかし巨大ミツバチは違う。ロボットであり、そしてその設計者であるミツバチは昆虫。容赦や油断など持たない、機械的で合理的な存在である。

 腹部を見せ付けるように大きく振り上げているのも、より大きな威力の一撃を生み出し、少ない手数で仕留めるための合理的行動に過ぎない。

 

【キュ……!】

 

 悪足掻きとばかりに、フクロミツスイは指先を巨大ミツバチに向ける。鋭い爪ではあるが、届かなければ武器にはならない。フクロミツスイの小さな手足では宙を空振りするだけ。

 だから巨大ミツバチは、容赦なく腹部の針を振り下ろし――――

 

【キュルゥ!】

 

 フクロミツスイが大声で叫んだ。

 瞬間、巨大ミツバチの動きがぴたりと止まる。

 

【……キリリリ】

 

 ロボットである巨大ミツバチに、困惑なんて感情はあるまい。けれどもまるで混乱しているかのように、首を傾げる。

 次いで脚を動かそうとしているのか、身体を震わせた。ところが脚の動きは鈍い。油の切れた機械のような、ぎこちなく、何より遅い動きだ。

 継実達を追っていた働き蜂が乗るロボット兵士達も足を止めた。ただしこちらは自主的に。フクロミツスイに止めを刺す筈のロボットの急停止に混乱しているのだろう。故障やバグを疑っているのかも知れない。

 どちらも的外れだ。継実はそれを知っている……それにミドリも。

 何故なら二人が、巨大ミツバチの動きを止めた『遠因』を作り出したのだから。

 

「いよっしゃあぁっ!」

 

「やりました! やりましたよー!」

 

「え? 何? 二人ともなんかしたの?」

 

 結果が出た瞬間に喜ぶ二人に、モモが戸惑いながら尋ねてくる。キョトンとしていてまるで分かっていない様子だが、それも仕方ない。モモだけが、此度の作戦に全く関わっていないのだから。

 継実達が行った作戦の結果を一言で言うならば、巨大ミツバチの体内に『糖』を合成したのだ。

 巨大ミツバチのボディを形成している蜜蝋、そのパルミチン酸は巨大な有機物である。しかも炭素と水素と酸素の原子が連なったもの。化学式ではC16H32O2……対して蜂蜜の主成分であるグルコースはC6H12O6である。構成している元素の種類は全く同じ。つまり分解と化合を行えば、脂肪を『糖』へと変えられるのだ。物質の遠隔操作はミドリの得意技。ミュータントの力としては些かパワー不足だが、分解と化合を行うだけなら問題ない。余り物(主に炭化水素)も色々生じるが、自分の身体ではないのでそこはどうでも良い事である。

 糖を仕込めば、フクロミツスイが能力で操れる。結晶化して突き破るような派手な攻撃になる必要はない。関節部分など動きに関わるところに、潤滑油などでぬるぬるにしておかないといけないところにザラザラした砂糖の結晶を置けば、それだけで動きが鈍る。これが巨大ミツバチの身体に今起きている事態の正体だ。

 そうして身体の動きを鈍らせればフクロミツスイが有利になる。これが継実とミドリの仕掛けた策略。無論、それが簡単に出来れば今までの苦労はない訳で。

 

「(ブラックボックスみたいな中身の所為で、ろくに見えなかったからね……)」

 

 巨大ミツバチの内部は、なんらかの技術により継実にもミドリにも見通せないものだった。継実達が粒子操作能力を発動させるには観測が欠かせない。その観測が出来ない以上、この作戦は前段階で頓挫しているようなものだった。

 しかし、一つだけ内部構造を見通す方法があった。量子力学の一理論を用いる事で。

 その理論の名は『量子テレポーテーション』。

 テレポーテーションという呼び名を付けられているが、量子が何処かにワープするものではない。というよりテレポーテーションしているように見えるからそう呼ばれるだけで、実際には何も瞬間移動していない。

 唯一飛んでいくのは情報だ。

 量子テレポーテーションとは、ある二つの『ペア』の量子(主に光子などの素粒子。またこのペアの関係を量子もつれと呼ぶ)が存在し、一方の情報が確定するともう一方の状態が確定するというもの。量子の位置や運動量などの状態は可能性の重ね合わせであり、本来観測しなければその状態を確定させる事は出来ない。だが量子テレポーテーションを用いれば、ある量子を観測するだけで、()()()()()()()()()()()()が確定するのである。

 継実はこれを利用した。自らの手の中に巨大ミツバチ内部の量子と量子もつれの関係にある量子を『合成』したのだ。勿論ろくな観測が出来ない状態で作り出したものだから、何処の量子とペアになってるか分かったものじゃない。だが、それでなんの問題もない。

 作り出した量子もつれの量子を観測すれば、それだけで中の量子の状態が『確定』するのだ。それを何億回と繰り返せば、ぼんやりとだが内部の量子の位置が把握出来る。そして量子が無数に集まって出来たものが原子だ。ぼんやりとした量子の集まりなので原子もぼんやりとしか見えないが、粒子ビームほど精密な攻撃をする訳ではないのだから見え方など雑で十分。

 そして観測した結果は、継実が手の内側に作り出した巨大ミツバチのミニ模型……大きさ約一ミリ……の中で構築。これをミドリが観測する事で、間接的にだが巨大ミツバチの内部構造を把握したのである。フクロミツスイが巨大ミツバチに押し倒された時、転倒による爆音で声が掻き消されたが、どうにかミドリには届いていて一安心したものだ。

 

【キ、ギ……ギリリリリリリリリッ!】

 

 巨大ミツバチが唸りを上げる。動きは鈍くなったが、ロボットは動揺などしない。

 いや、それどころか感情などない筈のロボットだというのに、『覇気』のようなものまで感じられる。

 自身の危機を認識して『暴走』状態に入ったのか、或いは搭乗員が闘志を燃やしているのか。なんにせよ未だ戦いを止めるつもりはないらしい。

 それはフクロミツスイも同じだ。

 

【キュルルウゥッ!】

 

 渾身の力を振り絞り、フクロミツスイは巨大ミツバチを蹴り上げる。

 これまで難なくフクロミツスイを押さえ付けていた巨大ミツバチだったが、身体の動きがぎこちなくなった今、出せる力はフルパワーに程遠い。今度はこっちが難なく突き飛ばされ、フクロミツスイに自由を許す。

 

【キュ……ルルル……ルルルゥゥ……!】

 

 起き上がったフクロミツスイだが、息も絶え絶えで今にも倒れそうなほど疲弊している。巨大ミツバチの攻撃によるダメージは大きく、動くだけでも苦しそうだ。

 巨大ミツバチの動きは未だに鈍いものの、ロボットである奴は痛みで苦しむ事などない。動けないなら動けないなりのスペックを発揮し、奮戦するだろう。

 能力が効いたものの、未だフクロミツスイの優勢とは言い難い。継実は今も量子テレポーテーションを利用した観測を続け、ミドリは能力で糖分の合成を進めているが……量としては微々たるもの。狙いが極めて雑なため、効果的な妨害は出来ないのが実情だ。相手も動き難い事前提で行動するため効果が薄くなる。『不意打ち』は出来ても、その後に大きな影響は与えられない。

 そしてフクロミツスイの状態からして、長くは持ちそうにない。

 ここからが本当の、最後の戦いだ。

 

【キュルゥゥゥ……】

 

【ギ、キリリリ……】

 

 両者はじっと、相手の顔を見つめる。攻撃のチャンスを窺うように。はたまた自らの力を限界まで溜め込むように。

 これまでの激しい戦いが一転し、静寂が場を満たす。張り詰めていく空気の中、継実達だけでなくロボット兵士達……中に乗り込んでいる働き蜂達もフクロミツスイ達をじっと見ていた。

 ミツバチ達が動きを止めたのは、あらゆる可能性に備えているのだろう。合理性の化身とでも言うべき昆虫は、仲間を信頼するなんて『非合理的』な発想を持たない。負ける可能性があるならばそれに備える。

 ミツバチ達が備えるからには、どちらが勝つか分からないという事。

 その結末は――――ついに明らかとなる。

 

【キュルルルルッ!】

 

 フクロミツスイが甲高い雄叫びを上げながら、突進を始めた! 巨大だからこそ動きは見えるが、継実どころかモモにも出せない速さで真っ直ぐ突き進む。

 

【キリリリリリリッ!】

 

 その動きに応えるように、巨大ミツバチも駆け出した。速さはフクロミツスイと互角。更に赤熱して、糖の結晶による攻撃にも備える。

 瞬く間に距離を詰める両者。そして激突の間際に二体は動き出す。

 フクロミツスイは大きく腕を振り上げた。本来花の蜜だけを食べる動物らしい、短くて細い腕。されどミツバチとの競争の中で会得したのか、指先から生える鋭い爪がある。敵を引っ掻き、切り裂き、仕留めるつもりだ。蜜食動物でありながら、どんな肉食獣でも逃げ出す殺意を放つ。

 対する巨大ミツバチはぐるんと身体を一回展。腹部末端にある針をさながら剣のように振るう。突き刺すのではなく切り裂く動きは、洗練された殺意に満ちていた。

 殺意と殺意のぶつかり合いで、先手を決めたのは巨大ミツバチ。フクロミツスイは針を脇腹に受け、大きく身体が横に仰け反る。フクロミツスイの爪もすぐに当たったが、身体が傾いた事で軌道がズレてしまう。深手には至らない。

 そして巨大ミツバチは止めの一撃を刺そうと、また腹を大きく振り上げる。体勢を崩したフクロミツスイにこれを躱す事は出来ないだろう。

 万事休す。一手及ばないか――――見ている継実は諦めが脳裏を過る。

 だが、フクロミツスイは諦めない。

 

【キュルィイッ!】

 

 気合いのこもった叫び。

 それと同時にフクロミツスイの背中から何かが()()された!

 継実の目にはその正体が分かる。大量の二酸化炭素と水蒸気だ。恐らくその発生源は体内の糖を能力により高速で分解したもの。多くの生物でエネルギーとして用いられる糖は、酸素との結合により二酸化炭素と水と熱を生み出す。その熱で二酸化炭素や水を気化・膨張させて背中から噴き出したのだ。

 正しく高圧のジェット推進。轟音を響かせ、空気の振動がミュータントである継実さえも吹き飛ばそうとする。六角柱の蜜蝋ビルが震え、強度が足りなかったものは倒壊していく。ミュータント植物が大地に根を張っていなければ地表面を吹き飛ばす程であろう出力は、フクロミツスイの身体を不自然かつ猛烈な勢いで立て直す!

 

【――――ッ!】

 

 これには巨大ミツバチも予想外だったのだろう。動きが僅かに鈍る。

 その鈍ったほんの一瞬で、フクロミツスイは自らの手を巨大ミツバチの体表面に触れさせた。

 手のひらを押し当てるような動き。平手打ちとだとしてもお世辞にもダメージなど与えられそうにない一撃は、されど先のフクロミツスイの行動……ジェット推進を見ればそうも言えない。フクロミツスイは単に糖質を遠隔で動かせるだけではなく、糖質の分解すらも操れるのだ。

 そして今の巨大ミツバチの内部には、継実達が作り出した糖が存在している。

 巨大ミツバチの動きが再び強張ったのは、何が起きるのか察したからだろう。すぐさま身を仰け反らせたのは少しでも離れようとしての事か。だが全てが手遅れだった。

 巨大ミツバチの表面の一部がぼこりと膨れ上がる。

 まるで血管が浮き出すように、次々と生まれる膨らみが巨大ミツバチの全身を駆け巡る。無論それは血管ではなく、瞬間的に分解された糖から生まれた水と二酸化炭素と熱により、急激な膨張が起きた結果だ。身体への強烈なダメージであり、巨大ミツバチの逃げるように藻掻く姿は、ロボットでありながら必死そのもの。理性ある人間ならば少なからず同情心を抱いてしまうだろう。されどフクロミツスイは違う。容赦も情けも、野生のケダモノには必要ない。

 

【キュルゥアァッ!】

 

 雄叫びと共にフクロミツスイは前へと突き進む! 一層力を与える動きを起こした瞬間、巨大ミツバチの身体中に出来ていた膨らみが一気に全身を満たし、

 超新星爆発を思わせる煌めきと共に、蜜蝋製の躯体は粉微塵に弾け飛ぶのだった。



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メル・ウルブス攻略作戦15

 上半身は跡形もなく消し飛び、代わりにどろどろに溶けた黄金色の液体……溶解した蜜蝋が周囲に撒き散らされる。朝日を浴びて放たれる金色の輝きは、まるで幼い獣の勝利を称えるかのように美しい。無論、襲われた側であるミツバチ達にそんなつもりは毛頭ないだろうが。

 そして溶けた蜜蝋を正面から浴びているフクロミツスイも、自分が称えられているかどうかなど興味もあるまい。

 

【キュ、ルルゥゥ……】

 

 がくりと、膝を付くフクロミツスイ。

 毛むくじゃらの顔に浮かぶ表情は疲労の一言以外にない。息は荒く、苦しそうだ。身体中に毛が剥げている部分があり、血を滴らせている。よく見れば身体から微かに湯気が出ていて、体温が生物体として非常識なほど上がっている事が窺えた。

 これまで繰り広げていた戦いが如何に過酷なものだったのか。遠目に観察しているだけだった実際の戦いよりも、今のフクロミツスイの姿の方が詳細に物語ってくれている。

 同時に、項垂れ、弱りきった姿を『野生生物』が見せているという事は――――戦いが終わった事を何よりも物語っていた。

 ……そう、戦いは終わったのだ。

 終わったのだが、あくまでもそれは巨大ミツバチとの戦いである。野生生物に休戦やら安息やらはない。一つの戦いの終わりは()()()()()()()()()()()()()()()のだから。不意打ち、横取り、通りすがりの気紛れ、無邪気なイタズラ。世界の全てが敵となり得て、一瞬の油断も許されない。何より巨大ミツバチを打ち倒したからには、その戦いに見合った『報酬』を得ねばただ働きでしかない。

 フクロミツスイにとっては、ここからが本番なのだ。

 そして継実達にとっても。

 

「や……やりましたよ継」

 

「突撃ぃ! 全員突撃しろォ!」

 

「え、えっ!?」

 

 喜ぶミドリを他所に、継実は突撃指示を出す。ミドリはおどおどと戸惑いを見せるが、モモは継実の意図を察知。すぐさま継実の後を追い、モモの動きによってミドリも慌てて付いてくる。

 フクロミツスイだけでなく、継実達にとってもまだ何も終わっていない。それどころか今こそが始まりだといっても過言ではないだろう。何故なら継実達の目的は巨大ミツバチの撃破などではないのだから。

 継実の目的はミツバチ達が用いていた、空飛ぶマシンを拝借する事。フクロミツスイを手伝ったのは、あくまでもそれを可能とする舞台を整えるため。フクロミツスイの勝利は継実達にとって最低条件でしかない。

 

【キュルルルルルルルルゥゥゥゥッ!】

 

 甲高い雄叫びと共にフクロミツスイが再び動き出した時が、継実にとっての始まりだ。

 

「■■■!」

 

「■■! ■■■■■!」

 

 ロボット兵士達がざわめき、動く。

 何故ならフクロミツスイの本格的な食事が始まったからだ。傷だらけの身体もなんのその。大きく腕を振り回し、無事なビルを倒して新鮮かつ濃厚な蜂蜜を貪る。ちょっと舐めては次のビルに、ちょっと舐めては次のビルに……正に傍若無人な食べ方だ。食への感謝など何もない、ケダモノの食事である。恐らく新鮮で高栄養価な蜂蜜を求める上では合理的な食べ方なのだが、全身蜂蜜塗れになりながらする食事は贅沢の極みと言えよう。

 フクロミツスイは食べ物である蜂蜜を得るために、巨大ミツバチを撃滅してみせた。勝ったのだから晩餐を始めるのは当然の事である。されどミツバチ達からすれば、折角溜め込んだ蜂蜜を奪われてしまうのと同義。おまけにフクロミツスイの蜜の奪い方はビルこと巣を破壊して行われる。蜂蜜だけでなく幼虫や花畑も滅茶苦茶だ。放置すれば巣が壊滅するというのも大袈裟な話ではない。

 少しでも被害を抑えるため、兵士達は動かなければならない。攻撃して気を引く、その間に蜂蜜や幼虫を安全な場所に移す……高度なテクノロジーの存在を思えば燃料庫や発電機器もあって、それら高エネルギー機械は事故防止のため停止しないと不味いかも知れない。

 こうした事態に対し、本能的・事務的なマニュアルは用意されているだろう。昆虫という事を考えれば危機に淡々と対処する事が可能な『性質』もある筈。だが緊急事態に何もかも機械的にこなせる訳がなかった。

 蜜蝋ロボット達は右往左往しながら巣へと戻る。継実達を無視して、より危険なフクロミツスイの下へと向かうように。

 盗みに入るなら今がチャンス。

 

「さぁ、どう出る……!?」

 

 全力疾走で駆けた継実は、ミツバチ達の巣である蜂蜜都市の内側――――瓦礫の山に踏み入る。

 今までなら、働き蜂達はここまで巣に接近する事を許しはしなかった。しかし働き蜂が操るロボット兵士は、特に攻撃を仕掛けてこない。正確にはちらちらとこちらを見ているので気にはしているが、ビルを倒しまくるフクロミツスイの方をもっと気に掛けている様子。最優先で対処しなければならない問題が傍若無人に暴れているので、継実達に構っている余裕はないという事だ。

 正に絶好の好機。だが混乱を肴に愉悦に浸っている暇などない。フクロミツスイは自分の食事を満喫しているだけ。満腹になればそそくさと住処に戻っていく。フクロミツスイがいなくなればミツバチ達の混乱は長く続かない。全戦力が継実達に差し向けられる事だろう。

 追い出されるだけなら次のチャンスもあるが、自分より強い生物数万体の社会のど真ん中に不法侵入してその程度で終わるというのは、ちょっとばかり甘い見通しだ。ここで失敗すれば命はないと思って行動すべきである。

 急いで飛行マシンを見付けなければ。

 

「(あの機械があるとすれば、瓦礫の下か!)」

 

 求めている飛行マシンの正確な用途は知らないが、恐らく花の世話や蜂蜜運搬などの雑務に用いられているものだろう。戦闘用のマシンではなく、仮に戦わせてもすぐ壊れると思われる。

 合理的に考えれば、戦いに向いていないものを無理に出したところで被害が大きくなるだけ。故に非戦闘用マシンは安全な、(ビル)の内部や瓦礫の下に隠れている筈だ。ならば瓦礫をひっくり返したり、ビル内を探索すれば何時かは見付けられるだろう。

 しかし正確な場所が分からない事で、時間が掛かるかも知れない。記憶が確かなら飛行マシンの大きさは二メートルもあるが、瓦礫の山は数キロ四方に広がっている。探すだけでも一苦労なのは明白だ。おまけに動かない物体なら兎も角、自由に動き回るマシン。こちらの気配を察知して逃げたり隠れたりすれば、そう簡単には見付からないだろう。壊れてないという条件も付け加えれば、果たしてどれだけ時間が必要か……

 先行きの不透明さを嘆いても仕方ない。全力で調査を行おうと継実は身体に力を入れ直し、

 

【キュルルルルッ!】

 

 その引き締めた気持ちを吹き飛ばすように、フクロミツスイの叫びが周囲に響く。

 そして響いていたのは叫びだけではない。地響きも一緒だ。何故ならフクロミツスイが押し寄せるロボット兵士を蹴散らすため、尻尾を大地に何度も叩き付けているのだから。継実の推定二十万倍を超える体重から繰り出される運動エネルギーは、蜂蜜都市そのものを浮かび上がらせるような地震を引き起こす。

 蜂蜜都市を形作るビル自体は大地にしっかりと固定され、地震を受けても揺れるだけ。しかし瓦礫とかした元ビルはそうもいかない。地面に留まる事は出来ず、跳ねるように浮かび上がる。

 反射的に、継実は浮かんだ瓦礫に目を向けた。

 黄金に輝く瓦礫は空を覆わんばかりの量。七年前の普通の人間ならば恐怖で顔を青くするところ、しかし継実は臆さず凝視する。

 隠れていたマシンが、浮かび上がった瓦礫と共に出てくるところを見るために。すると目測二十メートルほど離れた位置に三機、四枚の翅をバタつかせて周りに浮かぶ瓦礫から必死に逃れようとしているのが見えた。

 またとないチャンスだ。

 

「見付けた!」

 

「任せて!」

 

 継実が声を上げるのとほぼ同時に、モモが反応する。

 モモは体毛で出来た腕を伸ばし、三機のマシンに絡み付けた。捕まったマシンは暴れようとしていたが、戦闘用の機械でないそれの力は左程強くない。また本来ここで助けてくれるであろうロボット兵士はフクロミツスイの相手で手いっぱいで、助けにも来てくれず。呆気なくモモの手許まで引き寄せられた。

 継実はモモから飛行マシンを一機受け取り、逃げないようしっかりと抱え込む。次いで能力を用い、その中身を覗いてみれば……中心部に一匹のミツバチがいるのが見えた。

 操縦者の働き蜂だ。どうにかこの拘束から逃れようと、六本の脚で機械を操作している。最後まで諦めるつもりはないらしい。

 その方が継実にとっては好都合。諦めて自爆でもされるよりは遥かに。

 

「落ち着いて。アンタを殺そうとはしてないから。要求を聞いてくれればすぐに解放するよ」

 

 継実はミツバチに語り掛ける。

 するとマシンを動かしていたミツバチの動きが、ぴたりと止まった。更にはこちらを見上げるような動作をしていると、中を透視している継実は気付く。

 こちらの言語を理解している。

 恐らくそれは調査のため継実達を巣内に招き入れた時と、フクロミツスイと巨大ミツバチの戦いが繰り広げられている間に継実達が交わしていた会話を、収集・解析した成果なのだろう。敵の情報をしっかりと理解しているのは優秀さの証だ。恐らく今発した言葉もリアルタイムで解析されているだろう。

 お陰で対話による交渉が成り立つ。

 

「私達はこの海の先にある大陸、南極に行きたいの。そこまで運んでくれればアンタを自由にする。逆らうならここで機械もろともバラバラ。悪い話じゃないでしょ?」

 

 悪い話以外の何モノでもないなコレ、と心の中でひっそり独りごちる継実。

 とはいえ無茶を頼んでいる訳ではない。それにロボット兵士ならフクロミツスイと戦うという仕事があるだろうが、このマシンは瓦礫の下に隠れていた。出てきても壊されるだけだから潜んでいたのだろうが、即ち仕事は何もしていなかったという事。ぶっちゃけてしまえば『暇』である。

 その暇な時間に自分達を遠くに運んでくれれば良いと継実は要求しているのだ。実害は、移動に掛かるエネルギーと、フクロミツスイがいなくなった後、すぐ仕事に復帰出来ない事による時間的ロスぐらいなもの。

 もしもそれらの『コスト』が蜜蝋製飛行マシン+働き蜂一匹分のコストを勝るなら、働き蜂は迷わず自害するだろう。より損失の少ない方を選ぶのが最適であり、使い捨てのロボット同然である働き蜂に自害への躊躇いなどない。しかし移動時に費やすコストの方が安ければ、彼女達は敵に協力する事を躊躇わない筈だ。その方が()()()()()のだから。

 話を終えた継実は飛行マシンからそっと手を離す。マシンはふわふわと、その場に漂うだけ……自爆する気配はない。

 交渉成立だ。

 

「良し! ミドリはこれに乗って!」

 

「は、はいっ!」

 

 一機獲得してしまえば後は消化試合。ミドリを飛行マシンに乗せた後、残る二機に同じ言葉を掛ける。働き蜂にも個性はあるが、巣の損得を重視する基本的性質は変わらない。そして移動コストと機体コストの差も同じ筈。

 三人全員が飛行マシンの上に跨るまで、五分も掛からず。念のためモモの毛で『捕縛』は続けた状態で、飛行マシン達はふわりと浮かび上がる。

 

「さぁ、出発だぁ!」

 

 継実が掛け声を発すれば、意図を察知した働き蜂達もマシンを動かす。

 秒速二十キロの速さで、飛行マシン共々継実達は空を駆けた!

 

「びゃあぁあぁぃあぁあぁぁ!?」

 

「あっははは! こりゃ速いわ! これならあっという間ね!」

 

 ミドリが悲鳴を、モモが歓声を上げる。普段とは比にならない速さでの空の旅、興奮するなという方が無理というものだ。

 継実だって興奮している。何もなければ大声で叫んでいただろう。

 されど今は、フクロミツスイの事が頭の中を満たしていた。

 

「……………」

 

 無言のまま継実は後ろを振り返る。

 崩れ、溶解し、壊滅していく蜂蜜都市。甘い粘性の液体を溢れさせ、黄金の輝きの中に沈む大都市の中心にフクロミツスイが立っていた。唯一の食料源であろう蜂蜜を、贅沢に舐め取りながら。

 たっぷりの蜂蜜を得て、あのフクロミツスイは失っていた体力を回復させるだろう。得られた栄養素により肉体的成長もする筈だ。明日のフクロミツスイは、今日のフクロミツスイとは比較にならない強さとなっているに違いない。

 だが、明日はもう継実達の助けは得られない。

 戦い方は学んだ。けれども最後の強敵・巨大ミツバチロボットは、継実とミドリの協力技で作り出した糖が止めの一撃である。明日からはそんなものは存在しない。純粋な戦闘能力で圧倒しなければ、フクロミツスイに勝機はないのだ。

 果たして明日のフクロミツスイは、巨大ミツバチロボットよりも強くなっているのだろうか?

 ……脳裏を過る考えに、継実は首を横に振る。フクロミツスイを信じよう、と思ったのではない。

 

「(調子に乗ってんな、私)」

 

 自分達のお陰でフクロミツスイが勝てたなんて考えが、あまりにもおこがましかったからだ。

 確かに止めの一撃は、糖によるものだった。しかし継実達が作り出した糖など、関節の動きを鈍らせるのが限度の量だ。それを高熱で気化・膨張させたところで、たかが知れているではないか。

 恐らくあの時、フクロミツスイが自らの血液中に含まれているブドウ糖を手から巨大ミツバチ内部へと流し込み、攻撃に利用したのだ。そうでなければあの大爆発は起こせまい。自分達がした事なんて、本当に一瞬動きを止めただけなのだろう。

 大自然を生きる生命の雄大さの前に、自分達が如何にちっぽけなのかを思い知らされる。自分の成し遂げた行いが如何に『しょうもないか』が分かる。

 そしてフクロミツスイの未来の明るさも。

 自分が気にする必要のある事なんて、何一つとしてないのだ。

 

「――――よっしゃあぁっ! いよいよ、南極だぁ!」

 

 全てが吹っ切れた継実は大声で、今まで胸に溜まっていた興奮を吐き出す。

 水平線の先にある南極だけを見据えて、自分の未来の明るさも信じた。



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第十二章 凍える大陸
凍える大陸01


 自由を取り戻し、空高く飛んでいく三つのミツバチ製飛行マシン達。

 遠い異大陸にやってきたその機械達は、文字通り逃げるような慌てぶりで空を駆ける。拘束時間なんて数分だし、ちょっと運んでもらっただけで大して酷い事はしてなくない? とも思う『誘拐犯』こと継実だったが、よくよく考えれば数千キロにもなる旅路を強制し、行きも帰りも危険な海路を横断させている。割と普通に酷い事だった。

 死物狂いで逃げられるのも仕方ないなと思いを改めてから、継実は自分の目の前に広がる光景を見遣る。

 満天の星空の下に広がる、純白の景色を。

 

「……着いたね」

 

「着いたわね」

 

「着きましたね」

 

 継実がぽつりと漏らせば、傍に立つモモとミドリも同じ言葉を語る。されど呟いた当人である継実は、家族達の意見をあまり聞いていない。眼前の光景にばかり意識が向いていたがために。

 ミツバチ達の飛行マシンに降ろされた場所は、この『大陸』の北端……海沿いだ。しかし海沿いらしい砂浜や岩場は何処にも見られない。代わりにあるのは、海まで張り出した白い雪と氷に覆われた大地のみ。地平線の先まで白さは続き、枯れ木や岩の黒さすらも見当たらない。変化と呼べるものは大地の起伏による凸凹だけだ。植物すらないのだから、それらを食べている動物の姿など、影も形もない有り様である。

 気温も凄まじく低い。夜だという事を差し引いても、今まで感じた事のない寒さだ。肌感覚からの判断だが、マイナス七十度はあるだろう。ミュータントだからこそ継実達は裸でも平然としていられるが、七年前の普通の人間ならば瞬く間に凍り付いて物理的に凍死しているに違いない。大地を覆い尽くす雪は分厚く、足が深く沈んで歩き難い状況だ。

 地球はこの七年で大きく変わった。日本から都市が消え、熱帯雨林は高層ビルを凌駕するサイズまで巨大化し、オーストラリアの海沿いには蜂蜜都市が建造されている。生命は星の姿を瞬く間に変えてしまった。だが、此処の風景は七年前と変わらない。継実にとっては写真や映像でしか知らない風景だが、記憶やイメージで思い描いたものと瓜二つ。

 間違いなく自分達の目指していた土地だ――――心からそう感じた継実の口から、この地の名前が溢れ出す。

 

「辿り着いたんだ……南極に!」

 

 地球の最南端、南極であると。

 絶滅しているかも知れないと思っていた『人間』が、もしかしたら集まっているかも知れない大陸だ!

 

「はいっ! やっとですね!」

 

 継実が感極まって想いを吐き出すと、ミドリも自らの気持ちを明かす。目をキラキラと輝かせ、身体はそわそわと揺れ動く。

 ミドリは正確に言えば『ヒト』ではない。しかし人間に、文明的な知的生命体に会える事への喜びは継実と同じく抱いていたらしい。本心から喜ぶ姿に継実も思わず笑みが零れる。

 

「いやー、ようやく着いたわね。長かった、とは思わないけど」

 

 対してモモは特に感動した様子もなく、淡々と事実を述べるだけ。

 継実と比べればなんとも淡白な反応であるが、それも仕方あるまい。野生生物である彼女は合理的だ。合理的に考えれば旅なんてものは()()()()()()()()()だけの意味しかなく、感動だの感嘆だのする理由がない。大体まだ人間達に会っていないのだから、喜ぶのは早計というもの。モモの反応は極めて正しいだろう。それを風情がないだの無感情だの言う事に、どんな意味があるというのか。

 そもそも旅の期間としては二ヶ月かそこらでしかないのだ。ミュータントが出せる最高速度を思えば随分ちんたら歩いたものだが、しかし大陸横断の旅路を生身で行ったと思えば……七年前の、ミュータント化以前の人類の肉体的には実に短い旅だろう。死にかけた経験は数えきれないほどあったが、別に草原で暮らしていた七年間も死にかけた事は一度や二度ではない。

 合理的に考えてみれば、わーわーと騒ぎ立てるほどの事ではないように感じる。なんとも拍子抜けした気もしてきた。そして、こうもあっさり辿り着けたとなると、本当に此処は南極なのかという不安も過り始める。

 ……達成感だのなんだのは大した問題ではないし、その通りだろうが違っていようがどうでも良い事だ。だが最後の、()()()()()()()()は無視出来ない。南極に辿り着いたという前提が正しくなければ、自分達の旅はまだ終わっていないのだから。しかしGPSもネットも地図も都市も看板も村人Aもない今の世界で、自分の居場所を知るのは困難だ。

 そもそもこれまで南に向けて邁進したつもりであるが、本当に自分達の進んでいた方角は南なのか? これまでの旅で出会った規格外ミュータント、例えば大蛇やムスペルほどの力があれば、地軸をちょっとズラす事も出来るかも知れない。そして自身の利益のためなら他の不利益などどうでも良いのが生物というもの。気温調整だとか敵との戦いの余波だとかで、奴等が地軸をズラしている可能性もゼロではない。南に進んでいる根拠としていた島や大海原などの『地形』も、大蛇が尻尾を振り回せば簡単に作れてしまう筈だ。エネルギーを受け止めてしまうミュータント細菌や植物がいなかった頃なら、継実にだって地形の一つ二つ作れる自信があるのだから。

 太陽を目印にして南に進んでいたつもりだったが、実は東や西に進んでいたのではないか……不安が胸に沸き立つ。しかし考えても仕方ない。不安がったところで、天から答えが降ってくる事はないのだ。疑い出せば切りがなく、答えがないのだから不安は積もるばかり。自縛に追い込むだけである。

 それに、此処が南極だという根拠が全くない訳でもない。

 

「うーん。なんか暗いですね。オーストラリアを出た時って、まだ朝だったと思うのですが……」

 

 ミドリが呟いた疑問だ。ミツバチ達の飛行マシンに乗っていた時間は、十分に満たない程度。フクロミツスイが繰り広げていた戦いの時間を加算しても、まだ早朝、精々昼前の時間帯なのは間違いない。

 ところが辺りは完全な夜。今まで旅で見てきたどんなものよりも眩くて美しい、満点の星空まである。

 何故朝なのに星空が広がっているのか? 継実はその理由を知っている。

 

「地球の地軸がちょっと傾いてるからね。だから季節によって、太陽光が当たらない場所があるんだよ。この時期なら南極がその場所になる」

 

 もしも地軸の傾きがなければ、どの季節でも地球のあらゆる場所は太陽光を浴びる事が出来る。季節変化はなく、日照時間は年間を通して一定だ。

 しかし地軸の傾きがあると、季節によって日照時間が変化する。そして日の当たらない場所と時期も生じる。

 その時期の名を極夜と呼ぶ。

 南極における極夜は六月下旬頃。丁度今ぐらいの時期だ。此処が別の大陸なら、極夜にはならないか、或いは時期が違う筈。もしも地軸が傾いて、南極と同じ位置に別の大陸が来ていたなら……二ヶ月前まで暮らしていた日本の気候は劇的に変化しているだろう。

 極夜の存在が、此処が南極だと示してくれる。ミドリの一言のお陰で確信に至った継実は、小さなガッツポーズを作った。

 

「うぅ……やったー! ついに辿り着いたぞー!」

 

「あらあら。なんか今回は随分とテンション高いわね」

 

「そりゃそうですよ。ようやく目的地に辿り着いた訳ですし……仲間にも会えるかもなんですから」

 

 ミドリは同意するように頷き、継実への共感を示す。

 そう。こんな地球の南端までやってきたのは、物見遊山目的なんかではない。細菌性ミュータントが少ないであろうこの極寒の地であれば、今でも人間が暮らしているのではないかという期待があったから訪れたのだ。

 南極には辿り着いた。だが旅はまだ終わっていないどころか、ここからが本番だとも言えよう。

 それに南極とて生き物がゼロではない。この地に暮らす生物は当然南極の環境によく適応しており、十全の力を発揮出来る。対して継実達は南極よりも温暖な環境で進化してきた種族。特に継実(人間)はアフリカの温かで乾燥した大地に適応してきた種だ。南極の環境は、お世辞にも相性は良くない。

 油断をすれば死に至る。自分達が適応してきた草原などの環境でもそうなのだから、不利な立地である南極ならば言わずもがな。気を引き締めなければ夢半ばにして倒れる。

 加えて、継実は気付いていた。現在の自分達には、極めて大きな問題がある事に。

 

「……ところで一つ、問題があるんだけど」

 

「ん? 問題?」

 

「えっ。な、何かあるのですか?」

 

 継実がその問題に触れると、モモは首を傾げ、ミドリは怯えたように辺りを見回す。どうやら二人とも問題に心当たりがないらしい。

 ならばちゃんと説明しなければならない。継実は小さく息を吐いて身体の力を抜いた後、真剣な眼差しでモモ達と向き合う。継実の真摯な態度にモモは気を引き締め、ミドリは息を飲む。

 その空気の中で継実は告げた。

 

「どっちに向かって進めば良いのかな、この後?」

 

 南極の『何処』に人間がいるのか、自分は全く知らない事を。

 目印となるものが何もない広大な雪の大地の上でこの重大な事実を突き付けられた家族二人は、短くない間を開けた後、心底気の抜けた表情を浮かべるのだった。



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凍える大陸02

 南極に辿り着いた継実達に突き付けられた最初の問題は、そもそも何処を目指せば良いのかという根本的なものだった。

 これまでの旅は、適当に南へと向かえば問題なかった。何しろ目的地である南極は、日本から見て南にある大きな大陸なのだから。無論七年前の人類が生身で行こうとすれば、航路やら陸路やらを緻密に計算せねばならなかっただろう。しかしミュータントである継実達は空も海も陸も、渡るだけなら何一つとして問題がない。海洋生物や飛行生物に襲われた時ほぼ確実に死ぬから出来るだけ海の少ないルートを通ろうとしただけで、地形には一切縛られずに移動していた。

 しかしここからは違う。南極に辿り着いた後、この地に住んでいる人間達が「やぁやぁよくぞいらっしゃいました」と言って現れてくれる訳ではない。自分達が、相手を探さねばならないのである。

 

「さぁーて、どうやって探そうかねー」

 

 問題を提起した継実は、どしんとその場に座り込む。体重の重さで地上を埋め尽くす雪に深々と沈み、座っているというよりも下半身が埋めれているように見えるのはご愛嬌だ。

 議論を交わす気満々な継実を見て、ミドリとモモも同じく雪の上に同じく座る。そしてまずは私がと言わんばかりに、モモが元気よく手を上げた。

 

「はいはーい。難しい事考えないで歩き回れば良いんじゃなーい?」

 

 早速モモの口から出てきた意見は、有言実行とばかりに難しい事を考えなかったであろうシンプルな代物。

 それで良いなら最初からそーしてるわ、と継実は表情で語りつつ両手でバッテンを作る。次いでその理由をモモに話す。

 

「アンタねぇ、南極がどれだけ広いと思ってんの。一千四百万平方キロメートル、私達が今朝までいたオーストラリアの約二倍の面積よ。大都市を築いてるなら兎も角、百人いるかも分かんない人間達をてきとーに歩いて探すとかほぼ無理だから」

 

「んー、無理かー」

 

 継実が否定すると、モモはすんなり納得した。人間ならばここで意地の一つでも張るかも知れないが、獣にそんなつまらぬプライドはない。正論だと思えば素直に納得するのだ。

 継実とてモモの意見を全否定した訳ではない。モモの嗅覚は非常に頼りになるもので、近くに人間の痕跡があれば見事捉えてくれるだろう。案外近くに痕跡があって、適当に歩き回ってもすんなり見付かるかも知れない。

 が、臭いを嗅ぐなんてのは他の事と同時に行える行動だ。というより周囲の警戒方法としてモモは常にやっている事。だから他の『作戦』と並行して進めれば良いのであって、その行き当りばったりに全身全霊を注ぎ込む必要は微塵もないのである。

 

「あ、えと、じゃあ村を探す感じですかね? 多分たくさんの知的生命体が集まれば、社会を作ると思いますし……」

 

 次いで意見を述べたのはミドリ。宇宙人らしく人間の行動を学術的な見地で述べる。

 その考えは継実も頷くところだ。人間というのは基本的に群れで生きる生物。「オレは一人でも生きていける」と一匹狼系の創作キャラは言うかも知れないが、それがまかり通るのは()()()()()()()()()()()()()だけだ。会話を行い、相手の表情を読み、共感を抱く……それら『社会生活』を営むために進化させた能力は、人間が大自然を生き抜くために得たもの。知力の高さなど、これらコミュニケーション能力に比べれば些末なものに過ぎない。社会を作らねば、この厳しい世界で生きていく事は出来ないのである。ましてやミュータント化してない人間となれば尚更というもの。

 それに、七歳未満の幼子達なら兎も角、それ以上の歳の人間ならば文明社会のありがたさを理解している。分業が如何に効率的な行いであるか、誰もが知っているのだ。仲間がいれば群れずにはいられまい。

 

「そうだね、規模は分からないけど集落は作ってると思う。ただ、定住はしてないんじゃないかな?」

 

「え? 人間ってそんなに移動性の高い生き物だったのですか? 私が地球を目指していた時は大都市を作っていたので、てっきり定住性の強い生き物だと思っていたのですが」

 

「うーん。確かに文明があった時は定住している人の方が多かったけど、でも生物的には違うっぽいしなぁ。そもそも南極じゃ定住は無理だと思うし」

 

 そもそも人間は何故定住するようになったか?

 諸説あるが、一番の理由は農耕のためだろう。安定的に食物を得る手段である農耕だが、植えた植物は動けないため、その場で暮らして世話をしなければならない。放置しても育つといえば育つが、たくさんの収量を得るならば世話は不可欠だ。また農耕では収穫時期に莫大な(一日で食べきれないほどの)食糧を得られる訳だが、これを保存するために倉庫を建てれば、管理するためやはりそこから動けなくなる。適当にやるならば兎も角、真剣に農業に取り組むとなると定住せざるを得ないのだ。

 対して農耕が発達する前に行われていた狩猟採集生活の場合、逆に定住は不向きである。人口(個体数)が増えればその地域の食べ物が食い尽くされるのは自然の理。同じ場所で狩りを続ければ、いずれ獲物はいなくなってしまう。

 農耕をしないのならば、定住はメリットよりもデメリットの方が大きい。そして南極の大地で農耕を行うのは、色々と難しいだろう。寒さもそうだが日照が弱く、そして有機物の蓄積による土壌がない。そもそもミュータント相手に作物を守るなんて、命懸けの闘争も同然だ。そんな戦いをするぐらいなら、端から狩猟採集生活をしている方が合理的だろう。

 勿論、ミュータントでない人間にミュータントは倒せまい。だがミュータントの身体を素材にして槍でも作れば、指一本動かせないほど瀕死の生物に止めぐらいは刺せる筈。そもそも単身で生き延びる必要はない ― というよりほぼ無理だろう ― のである。なんらかの猛獣と共生(例えば人間の知恵を提供するなど)していれば、その猛獣の食べ残し(死肉)を分けてもらうなどして食べていけるのだ。それにミュータントでない普通の人間が生き延びているのなら、文明人よりタフネスに溢れる野生動物は確実に生き延びているだろう。それら普通の動物なら、ただの人間でも獲物に出来る。

 この地で人間が暮らしているなら、その社会体系は必然的に狩猟採集生活だ。

 

「うーん、ならどうしましょう……定住しているなら適した場所を探せばと思いましたけど、そうでないならどう探せば……」 

 

 継実の説明を聞いて、ミドリはすっかりしょぼくれてしまう。自分の方法では駄目だと、自分で思ってしまったのだろう。

 しかしあまり卑下するものでもない。考え方自体は正しいのだ。

 

「いや、それなら発想を逆転させれば良いんだよ。つまり狩猟採集や移動生活に向いた場所を探せば良い」

 

 例えばモンゴルなどにいた遊牧民は家畜を率いて移動生活を行っていたが、その移動は決して無秩序なものではなく、ある程度ルートが決まっていたという。考えてみれば当然だ。何故遊牧民が移動するかといえば、家畜がその地の草を食べ尽くすので、新しい餌場を用意しなければならないため。逆に言えば、また草が生えてくればその土地に戻ってくれば良いのだ。そこに草が生い茂る事は、『過去』の経験からして明らかでもある。むしろ見知らぬ土地にわざわざ冒険しに行って、そこに草一本生えてなければどうするのか? はたまた崖崩れや洪水が頻発する地域だったら? 家畜が死に絶えた時が、自分達の死であるというのに。

 狩猟採集生活でも同じだ。移動は獲物の個体数回復を狙っての事であり、離れるのは一定期間だけで良い。敷かれたレールの上など御免だとばかりに無秩序移動するのが悪いとは言わない(そうした冒険心が新天地に進出する原動力なのだから)が、誰もが無計画では死者が増えるだけ。狩猟用のポイントを幾つか見付けて、それを巡回するのが最も効率的かつ安全な生き方である。ミュータント化していない動物がいるにしても、恐らく個体数は僅かだろうから、それを管理する意味でも記録とルート作成は不可欠。

 即ち。

 

「動物が豊富な場所は、人間の狩猟ルートになっている可能性が高い。そこを見て回れば人間の痕跡を見付けたり、運が良ければ鉢合わせたり出来る筈だよ」

 

「お、おぉー! 成程!」

 

 継実の話を受けて、ミドリは感嘆したような声を上げた。ミドリの話をヒントに話を膨らませた継実としては、こうも素直に感嘆されるとちょっとむず痒い。

 それに、この方針の要になるのはミドリの力である。

 

「という訳でミドリ! 南極大陸中を索敵して、なんか生き物の反応を見付けて! 力の強弱は関係なし! その反応は人間そのものか獲物になる動物、或いは人間と共生しているミュータント、かも!」

 

「りょーかいしました! あたしにお任せください!」

 

 継実の掛け声……よくよく聞けば内容は極めて雑だが……に触発されたのか、ミドリは威勢の良い掛け声を出す。尤もその直後、真剣な顔で黙り込んでしまうが。

 今頃ミドリは能力をフル稼働させて、南極大陸全体を見渡している事だろう。ミドリの索敵能力は正にミュータント級だ。ぼんやり棒立ちしている人間が一人いれば、確実にそれを見付けてくれるに違いない。

 とはいえ、ただの人間が索敵から逃れる方法もなくはない。例えば迷彩能力を持ったミュータントの毛皮を被っていれば、それだけで姿を眩ませられる筈だ。またなんらかのミュータント(高エネルギー体)と共生して傍で暮らしていたりすれば、大きなエネルギーに紛れて見えなくなる。ミドリの索敵は継実達の中で最強ではあるが、無敵ではないのだ。真面目にやっていても見逃す可能性は十分にあるだろう。

 ましてや下手に話し掛けて気を逸らすなんて行いは、愚策というものだ。故に継実はミドリから顔を反らす。代わりに、今までずっと黙っていた……そして南の方をじっと見つめているモモに、声を掛ける事にした。

 

「どしたのモモ。なんかいた?」

 

「……臭いがしたわ。間違いなく血の匂い。多分肉食獣が獲物を仕留めたんでしょうけど、姿が見えないのにぷんぷん臭ってくる。つまり辺り一面血に染まるぐらいズタズタに切り裂いたか」

 

「……()()()()()、か」

 

 継実の思い描く可能性をモモは頷いて肯定した。

 やはり、南極でもミュータントは生きている。しかもモモが血の臭いを感じて警鐘を鳴らすとなれば……恐らく数メートル程度の大きさの生物が大量出血しているのだろう。

 これ自体は想定内だ。砂漠の大地にもムスペルという巨大種が暮らしているぐらい、ミュータント生態系は極限環境でも豊かなもの。南極の大地に人間一人をバリバリと噛み砕けるサイズの生物がいたとしても、なんらおかしくはない。ただ、今までの環境なら、他の可能性を考える必要はなかった。

 だが、今の南極では違う。

 

「(人間が何かやらかしてる可能性も、否定出来ないか)」

 

 野生生物は合理的だ。自分の利益に関する事は全力で挑むが、そうでなければ興味もない、或いは娯楽として消費する。損得勘定がハッキリしていて、だからこそ『理性的』に振る舞う。

 対する人間は感情的だ。例えば復讐としてある種の生物を殺すというのは、不合理の極みだろう。いや、自分達の子孫を傷付ける可能性のある存在を排除するという事自体は合理的だが……死体を八つ裂きにしたり、瀕死の生物を苦しめたりするのは全く()()()()()。意味がないのに人間はそれを行うのだ。

 果たして殆どの人間は、文明を滅ぼした怪物に憎しみを向けないでいられるのだろうか? 家族や恋人、友人を殺したであろうミュータントを恨まずにいられるだろうか? 自分自身がミュータントになれば、多少は割り切れるかもだが……純粋な人間ならばそうもいくまい。

 勿論ただの人間相手なら、全身を核兵器で武装していてもミュータントは難なく返り討ちにするだろう。ミュータント素材から作り出した武器防具を装備していても、反応速度や演算能力が違い過ぎて健康体ならばなんの脅威にもなるまい。だが、なんらかのミュータント動物……例えば犬や猫と共生していたなら? 愛玩動物達は人間の指示に従順であり、それでいて動物らしく合理的(冷徹)だ。無駄に嫐る事はせずとも、人間に指示されたなら躊躇いなくやってのける。人間が頭脳として入れば、獣は復讐鬼の振る舞いをしてしまう。

 そしてミュータントの家族()を引き連れた自分を、南極の人間達は『仲間』として認めてくれるだろうか?

 

「(ぶっちゃけなぁー、私の考えって七年前なら軽く精神的異常者っぽい訳で)」

 

 継実は両親が死んだ直後に、大して泣きもせず、自分の命の心配をしていたような人間だ。それどころか両親を殺した一族であるムスペルを目にしても、特段憎しみも抱かず受け入れている始末。正直なところ継実自身七年前の価値観なら、割とドン引きする考え方だ。

 このミュータントに支配された世界で細々と生き抜いてきた人類も、同じ価値観を持っている可能性は高い。家族への憎しみで突撃するような『個体』は、ミュータント生態系では()()()な存在として淘汰されやすい筈だからだ。だが、運良く生き延びていたなら……継実の考えや家族の存在は受け入れてもらえないどころか、脅威や敵と捉えられるかも知れない。

 もしも人間達が、自分達を敵だと言って殺そうとしたり、人間じゃないからと奴隷扱いでもしようものなら――――

 

「(……とりあえずは逃げれば良いか。しつこく追ってくるようなら、『排除』する必要があるかもだけど)」

 

 人間は愛おしい。社会は恋しい。だから此処まで旅を続けてきた。されど家族を傷付ける存在は、どんな相手でも一緒には暮らせない。

 自然界において最悪は常に想定しておくものだが、人間社会に対しては『最低』を想定しておかねばならない。十年しか人間社会で生きていない継実であるが、それぐらいの事は薄々勘付いていた。

 ――――ようやく目的地に着いたのに、なんだか嫌な事ばかり思い付く。

 大人になった自分は酷く嫌な人間になったようだと継実は自嘲する。しかし思い返せばニュース番組や新聞で見る人間社会なんて、一部を除いて大して綺麗ではなかった。そう思うとちょっぴり気が楽になる。

 それによく考えたら『彼女達』が既に到着している筈だ。どちらもリーダーシップがあるようなタイプではなかったが、何故かは分からないものの、彼女達なら色々なんとかしてくれる気がした。大体会ってもいないどころか本当にいるかも分からない人間達の人格や思想について、あーだこーだと考察する事ほど無駄な行いもそうあるまい。

 

「……継実さん、この付近で動物らしき反応を五つ見付けました。移動してるものはこのうちの三つです。明らかにミュータントだと思われる強い反応は動いているもののうち二つ。他三つは気配を消しているのか、ミュータントじゃない存在なのかは力の大きさだけだと判断出来ません」

 

 気持ちを切り替えたところで、ミドリから索敵の結果が報告された。

 距離が離れるほど索敵の精度は落ちる。だからこそミドリは『この付近』という言い方をしたのだろう。

 よくぞ五つも見付けてくれたものだ。あまりたくさん見付けても、どれから選んで良いか分からなくなる。分からなくなったところで、選び方など一つしかないというのに。

 

「ん、OK。それじゃあ、一番近くの移動してる奴を狙おうか。移動中の人間かもだし、そうじゃなくても動物には違いないし」

 

「分かりました。警戒は続けて、他にいい感じの反応がないかも見ときますね」

 

「よろしく。んで、モモは周りの臭いを念入りに嗅いどいて」

 

「ほーい。なんか色々言ってるけど、要するに何時も通りって事よね?」

 

 なんの気なしに尋ねてくるモモに、その通り、と継実は答えた。

 そう、普段と何一つ変わらない。変わる筈がないのだ。

 人間の願いが叶いそうかどうかなんて、『世界』のあり方にはなんの影響もないのだから。



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凍える大陸03

「さぁぁぁぶぅぅぅいぃぃぃ……!」

 

 ミドリの震えきった声が、南極の大地に響いた。

 現在、南極の気温はマイナス七十五度。朝よりも気温が更に下がっているが、その原因は周囲に吹き荒れている雪……所謂ブリザードの影響である。ほんのついさっきまで晴れていたのだが急変し、今や五メートル先も見えないような猛吹雪になっていた。生半可な生物では一瞬で凍り付く極寒であり、そんな中で服一枚着ずにいれば、寒くて寒くて仕方ないのは当然である。

 ――――なんて言えたのは七年前まで。全ての、とは流石に言えないが、大半のミュータントにとってこの程度の寒さなど冷たいとも思わない。核兵器の直撃すら難なく耐えるというのに、外気温が高々百度下がったからなんだというのか。実際ミドリと同様に裸である継実は寒さを感じていないのだ。能力の使用を制限していれば兎も角、そうでないなら寒さを感じる訳もなし。

 何より、声は凍えているがミドリの表情はちょっと楽しげだ。ちょっとした悪ふざけなのは明白である。

 

「こーら、ふざけないの」

 

「えへへ。いやー、暇だったもんでつい」

 

「まぁ、実際暇よね。敵の気配も怪しい気配もなーんもないし」

 

 継実は窘めようとしたが、ミドリは悪びれた様子もなし。モモまでミドリに賛同していて、継実は大きなため息で不愉快さを示す。

 とはいえモモとミドリの言い分を完全否定も出来ない。

 海沿いで五つの気配を察知し、そのうちの一つがある方角……内陸部に向けて歩き出してから早十五分。降り積った雪に足を取られたり、ブリザードによる視界不良で普段より多少足取りは遅いが、それでもかなりの距離を移動してきた。しかし未だ、これといった『出来事』に遭遇していない。危険も安全もなく、ただ雪が顔を打つだけ。

 南極といえば植物が生えていない極寒の大地だ。餌が少ないのだから、生物の数が少ないというのは必然である。お陰で周りの気配は単調(静か)なもの。しかも景色は雪ばかりで白しかない有り様だ。

 継実だって猛獣に襲われたい訳でも、全方位から食欲満載の殺意をひしひしと感じていたい訳もない。しかし代わり映えしない雰囲気と景色は、維持しようとする緊張の糸をこそこそと弛めていく。ミドリにしても気を抜いているのではなく、むしろちょっとした気分転換がして気を引き締め直したかったのだろう。

 加えて、確かにこの『極寒』をなんとかしたいという想い自体は、継実の中にもあった。

 

「(マイナス七十度前後の寒さに適応するため、身体の分子の運動量を()()()に高めている……これだと普段よりも体力の消耗が激しいな)」

 

 継実は自分自身の身体を『解析』し、無意識(本能的)にどのような能力を使っているか探る。

 どうやら粒子操作能力で、身体組織の分子が持つ運動量()を一定に保っているようだ。このお陰で全く寒さを感じないでいるし、血液や皮膚が凍って凍傷になる事もない。しかし能力を使い続ける代償として、多くのエネルギーを消耗していた。

 生命の少ない南極で大量のエネルギーを

消費する事は自殺行為だ。しかし砂漠のように、能力を出来るだけ使わないようにしながら行動するのはすべきでない。というのも人間の身体は体毛を持たない事で放熱機能に優れているが、体毛を持たないが故に保温能力はかなり低いからだ。つまり人間は寒冷地に適応していない。もしも能力を停止すれば瞬く間に低体温症となり、体調回復のためより多くのエネルギーを使う羽目になるだろう。

 アフリカの暖かな環境で進化してきた癖に、衣服の力で世界各地に()()()適応したツケがここで回ってきた。せめて日差しがあれば色々やりようもあるのだが……見上げた空はブリザードを降らせている暗雲に覆われ、夜よりも暗い闇を作り出している。尤も仮に晴れたところで広がるのは星空だ。今は極夜なのだから太陽が昇る事はない。ちなみに極夜の期間は地域にもよるが、長いところでは二ヶ月ほど続くという。明日明後日はお日様の顔を拝めるかもと期待するのは、恐らく無駄な事だろう。大体太陽が顔を出したところで、夏場の南極でも平均最高気温は氷点下だ。昭和基地があった地域はかなり温かいようだが、それでも夏場で一度か二度しかない。耐えたところで生身の人間にとって辛い気温が終わる事はなく、保温のためのエネルギー消費は多いまま。

 どうにかして寒さを和らげる必要がある。そしてこの問題を解決する方法として、パッと思い付く案は二つ。

 

「(一つは、モモの体毛で私らの身体を包んでもらう事)」

 

 極寒の中でもへっちゃらな顔をしているのは、継実達だけではない。一緒に歩いているモモも、マイナス七十度以下の世界を元気で楽しげな顔で過ごしていた。

 全ては彼女の身体から生えている体毛のお陰だ。砂漠の夜で披露したように、モモの体毛はとても温かい。そして体温や構造など能力以外で発生している温かさなので、どれだけ他者を温めてもモモ自身の体力はあまり消耗しないのも利点である。良い事尽くめだ。

 と言いたいところだが……寝起きで短時間使うだけなら兎も角、長距離移動中に使うのは好ましくない。

 難しく考える必要はない。身体をもふもふきた糸でぐるぐる巻きにしたとして、その状態で素早い対応が出来るのか? という事だ。もしも敵がただの人間で、マシンガンや戦車砲を撃ち込まれる程度なら『可』であるが……相手がミュータントとなれば話は別。最悪奇襲を受けた際反射的に動いてしまい、糸が絡まって三人全員が行動不能に陥る可能性もあり得る。

 ミドリの索敵能力も絶対ではない。何時何処から襲われるか分からない以上、緊急時の動きを妨げる行いは避けるべきだ……寝起きの時以外は、と最後に継実は頭の中で付け加えたが。それを止めるつもりは毛頭ないので。

 ともあれ寒さを避けるため、仲間の身体の一部に頼るのは得策とは言い難い。ならばもう一つの、そして人類にとって王道の方法を採用すべきだろう。

 即ち、人類が大した進化もせずに寒冷地へと適応出来てしまった要因――――衣服の着用である。

 

「ミドリ。何処かに毛皮になりそうな動物とかいない? そろそろ服を作りたくてね」

 

「……あ! そうですよ 、そういえばなんかこのところずーっと裸だったから失念していましたね! でもそっか、これから元とはいえ知的生命体に会うのですから、きっちり正装を着ないといけませんね!」

 

「元じゃなくて今でも知的生命体だっつーの」

 

 というか寒さ対策よりも人目かい、とツッコミを入れたくなる継実。とはいえミドリの言い分は一理ある。これから人間に会おうというのに、裸というのは礼節的に、或いは常識的にどうなのかとは思わなくもない。

 そうだ。自分達は今、素っ裸である。出会った相手が女性なら、大した問題にはならないだろうが……男だと色々面倒な事になりそうだと継実は思う。何しろ七年前に継実は男性から酷い事をされたのだ。この七年で恐怖心はすっかり克服したが、警戒心や不信感は拭いきれていない。ただの人間なら(昔やったように)跡形もなく消し飛ばせるが、それをやったら二度と共存は無理だろう。

 そうした『個人的』な見解を抜きにしても、異性に対し裸体という劣情を催す姿を晒すのは好ましくないだろう。加えてミュータント化の影響を考えれば、人間もほぼほぼ野生動物と変わりない筈。お年頃な男子(繁殖適齢期の雄)が、可憐な美少女(魅力的な雌)を見付けたなら、やる事は一つだ。七年前であれば倫理やら法律やら社会的圧力やら子供の幸せやらの抑止力もあったが、今やそんなものはない。ついでに、襲われた時にモモは多分助けてくれない。以前理想の男性像について語り合った時「強い雄が良い」と力説していたぐらいなのだ。もしも男に襲われたところで、きっと「なんだただの繁殖行為か」で終わる。犬である彼女に、性行為(繁殖活動)の神聖性など理解出来ない。

 そうした無用なトラブルを避けるためにも、服を着て劣情を生じさせない工夫が必要だろう。尤も、ミュータントの本能にどれだけ通じるかは、いまいち分からないが。

 

「(寒さだけなら別になくてもなんとかなるかもだけど、人間関係が絡むならやっぱり用意しないと駄目だな。つーても見付かるとは限らない訳で、最悪モモの毛で全身を覆うか? いや、でもそれはそれで襲われた時に……)」

 

 万一を想定して継実は思考を巡らせる。自然環境相手ならモモとミドリにも相談するが、人間関係となればまともな意見を出せるのは『純粋な人間』である自分だけだと継実は思っている。

 考えなければならない事、やらなければならない事がどんどん増えていく。シンプルな解決方法も、絶対的な解決方法も、それどころか正解があるかも分からない曖昧で面倒な問題。ああこれこそが人間社会の、自然界にはない煩わしさだったなと、七年前の記憶が蘇る。楽しい思い出ではないが、懐かしさを覚えて継実は小さく微笑んだ。

 

【むむ! 反応が近いです!】

 

 尤も思い出に浸っていられた時間は、ミドリの脳内通信によってすぐ終わる事となったが。

 先に反応したのはモモ。考え事をしていた継実は一瞬反応が遅れたものの、今までの思考を脇に寄せてミドリに意識を向ける。

 反応が近い。つまりなんらかの、人間かも知れない存在が付近にいるのだ。動物相手ならば物音を立てて近付いたら逃げる(或いは先制攻撃を仕掛けてくる)かも知れないし、人間相手だとしても『ヤバい』人物なら同様の可能性がある。可能ならばこちらが一方的に情報を得たい。

 

「……念のため、こっそり近付くよ。念のためね」

 

「そうね。動物だと逃げちゃうかもだし」

 

【ですね! あたしもそう思ってちゃんと脳内通信で伝えました! えっへん!】

 

 なお、人間の害意を警戒しているのは継実だけのようだが。犬は兎も角宇宙人もかい、とツッコミたくなる衝動を抑えつつ、継実はミドリの頭を撫でる。

 一通りミドリの功績を褒めたら、抜き足差し足で継実達は歩き始めた。先導するのはミドリ。雪に埋もれて動き辛そうにしつつ、静かに且つ迷いない歩みで前へと進む。

 ミドリが目指す先は、少し小高い丘となっていた。そしてその先が切り立った崖になっている事を、継実は能力を用いた索敵で理解する。丘の頂上が近付くとミドリの歩みは緩やかになり、姿を隠すため這うような姿勢を取った。継実とモモも同じ姿勢を取る。雪の大地に裸で腹這いになるのは七年前なら自殺行為だが、今ならばなんら問題ない。むしろ身体を少し埋めて、自分の姿を隠そうともした。

 やがて丘の頂上に辿り着いた継実達。全員が一列に並んだところで、ミドリは崖下のある場所を指差す。

 ブリザードがあるため視界は数メートルしかなく、崖下までの距離はざっと十メートル以上ある。そのためミドリが示した場所はろくに見えないが……能力を使った継実は、崖下に佇むぼんやりとした輪郭を捉えた。

 数は十体とそれなりだ。体長はどれも百五十センチ程度。直立の姿勢を保っている。足はよく見えないが腕はだらんと垂れ下がり、真っ直ぐ下を向いていた。

 継実の目に見えた特徴はそれだけ。だが、それだけ見えれば表現は可能だ――――崖下に居る存在が『人型』をしていると。

 身体はやや小柄であるが、人間の身長というのは栄養条件でいくらでも変化する。例えば江戸時代の日本人男子の平均身長は百五十五センチ程度。文化的に肉食が制限された影響で、骨の成長に必要な栄養素が確保出来なかったのが理由だとされている。崖下にいる存在の低身長も、食料の少ない南極で暮らしていた結果だとすれば頷ける水準だ。直立の姿勢も、如何にも人間らしい。

 

【アレです! アレ、すごく人間っぽくないですか!?】

 

「確かに、なんとなーく見える輪郭は凄く人間っぽいわね」

 

 ミドリが興奮気味に伝えてくるのも、モモが納得するのも当然だ。継実もこくりと頷く。

 ただ一点、小さな疑問が継実の胸の中には残っていた。

 

「(なんであの人影、()()()()()()()?)」

 

 人間は直立歩行を得意とする生き物だ。骨格上、直立に立っている視線が一番楽でもある。

 しかしどんな時でも直立二足歩行をしている訳ではない。

 例えば獲物を狙う時。素早く走り出すためには前傾姿勢の方が向いている。疲れない長距離走のフォームはやはり背筋を伸ばしたものだが、ある程度意識的に訓練した身でなければ、普段から維持出来るものではない。また地面に落ちているものを拾うなら腰を曲げるし、何か道具を作っているならしゃがみ込んで猫背にもなる。

 つまり『何か』している時の人間というのは、あまり直立していないのである。ところが崖下の人型の存在は、継実達が見ているこの十数秒間直立したまま。おまけに一歩も歩いていない。一般的にこの状態の人間を『棒立ち』と呼び、異常とまでは呼ばないものの、変な状態だとは認識される。

 あの人型達はどれも吹雪の中で棒立ちを続けている。なんとも奇妙な状況であり、段々と怪しく思えてきた。ただ棒立ちしているだけの存在に対し警戒感を抱くのも難だが、果たしてあれは正常な人間なのか――――

 

「もう我慢出来ないわ! 人間よー!」

 

 等と考えていた継実の目の前で、モモが大胆にも崖から飛び降りる。

 何してんの? と困惑したのは、いや、出来たのは一瞬。何故ならモモのすぐ後を追うように、ミドリも続いたからだ。愛玩犬であるモモは人間が大好きで我慢が出来ず、人影が人間だと思い込んでいるミドリはモモの動きに釣られてしまったのだろう。

 一人残される格好となった継実。人影への不信感は未だあるものの、見知らぬ土地で一人の方が余程危険だ。それにモモ達が飛び出した事で隠れている意味がなくなったし、なんらかの対応が必要な場合距離が離れているのは不都合である。

 不本意ながら、継実も崖下へと飛び降りた。

 十メートルの高さからの自然落下など、ミュータントにとっては階段を一段飛ばすよりも生温い。継実達は無事に着地。派手な音も鳴らしたので、如何にこのブリザード下でも崖下の人影達は継実達の存在に気付いただろう。しかし彼等に動きは特に見られない。

 人間だったら、流石に振り向きはするんじゃないか? 疑惑が確信に近付く中、物理的な意味でも継実は人影に歩み寄ってみる。ブリザードは未だ激しいが、距離を詰めればそれの輪郭は段々とハッキリしたものへと変わり……

 あと三メートル進めば触れるというところで、ようやく継実達は人影の正体を詳細に目にする。

 そこに存在していたのは、巨大な身体に黒と白のツートンカラーの毛を生やした、人間の姿とは程遠い異形をした生物だった。



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凍える大陸04

「こ、これは……!」

 

 その生物を目にした瞬間、モモは驚きの声を漏らした。

 

「ひっ!? に、人間じゃ、ない……!?」

 

 ミドリは後退りして、それの正体について言葉で触れる。

 確かに人間ではない。同じく『人影』の正体を目の当たりにした継実は、ミドリと同様の考えを抱く。

 崖下に居た生命体。それはこれまで見てきた、どの生物とも異なる姿をしていた。

 体長百五十センチ。継実と比べて頭一つ分は小さい身体は、しかし肩幅が非常に広く、括れが殆どない寸胴な体系をしている。足は非常に短く、足首から上の長さは恐らく十センチもないだろう。頭部は身体と比べて決して大きくないが、先が鋭く尖った嘴を持つ。あれで突かれたなら、ちょっとばかり痛そうだ。

 寸胴な身体には『腕』があるものの、指は見られない。まるでオール、或いは刃物のように薄く、幅広く変形していた。全身を覆う毛は極めて細く、背中側と頭と腕は黒、腹は白とハッキリ分かれた生え方をしている。また首周りにだけ黄色い毛が生えていた。

 そして、ぎょろりとした感情の薄い目。友好はおろか対話すら成り立たないと、本能的に感じさせる。

 これまで見た事もない姿の生命体を目にしたのだから、ミドリが恐怖するのは仕方ない。が、継実葉大して驚きや恐怖はしなかった。何故ならその正体を知っていたから。なんなら七年以上前には、『水族館』でこの生き物の仲間を生で目にしているぐらいだ。

 

「……こりゃ、コウテイペンギンだ」

 

 ぽつりと呟くように、継実は目の前にいる生物の名を呼んだ。

 

「こ、コウテイペンギン、ですが……? えと、に、肉食獣でしょうか……」

 

「まぁ、肉食ではあるよね。魚とか甲殻類が主な獲物だけど」

 

「あ、そういうタイプでしたか……ほっ」

 

 継実から説明されて、ミドリは心から安堵したように息を吐く。

 とはいえ油断は禁物だ。南極なら細菌型ミュータントはいない、かも知れないという希望を持って訪れた訳だが……このコウテイペンギンは放つ気配からして確実にミュータント。七年前の生態が何処まで当て嵌まるかは不明だ。身体も七年前と比べ一回りほど大きくなっているし、そもそも今の時期コウテイペンギンは本来繁殖期真っ只中(吹雪の中で子育てをする事から世界一過酷な子育てをする生物とも呼ばれていた)であるのにそんな様子が見られない。そうした特徴から外れているので、オーストラリアの肉食コアラよろしく、進化の過程で分岐した新種という可能性が高い。

 ただ、継実達が傍に居て無反応なのだから、動物を積極的に襲うタイプでもないのだろう。周りに仲間の姿は感知出来るが、数メートルの間隔を開けており、また継実達の存在を知らせるような警告音も発していない。どうやら群生はしているものの『群れ』ではなさそうだ。

 

「……ふむ。獲物に出来るかな」

 

 なので自然と、その選択肢が継実の頭に浮かぶ。

 

「あ、良いですね。ぷくぷく太ってますし、美味しそうです」

 

「実際脂肪は多いよ。寒い場所に棲んでるから保温のため皮下脂肪が厚いし。その脂肪を燃料として使っていた時代もあるぐらいだよ」

 

「そんだけ脂身が多いなら、一匹仕留めればしばらくは食べなくても良さそうね」

 

 わいわいと家族三人で狩りの計画を立てながら、継実はちらりとコウテイペンギンの方を見遣る。

 継実達とコウテイペンギンまでの距離は約三メートル。すぐには触れないが、少し駆け出せば射程圏内に収められる距離だ。継実達の声だって届いているだろう。

 だが、コウテイペンギンに反応はない。

 人間の言葉が理解出来ないタイプのミュータントなのだろう。こちらの言葉を『鳴き声』としか認識していないから、狩りだの脂肪を燃料にするだの話しても理解が出来ない。そしてこれだけ接近して逃げようともしない辺り、警戒心も強くないようだ。

 ミュータントペンギンともなれば普通の人間が襲える相手ではない。だから南極に人間が暮らしていたとしても、警戒心を持たないのは当然……と言いたいが、果たしてそうだろうか? ミュータントペンギンが生息しているぐらいなら、それを獲物とする肉食獣がいてもおかしくない。そうした肉食獣に襲われる生活をしていれば、より警戒心の強い個体が繁栄しそうなものだ。

 何かが奇妙だと、違和感を覚える。だが怪しいという理由だけで目の前の『獲物』を見逃すのは、少しばかり躊躇があった。南極には生き物が少ない。ペンギンのような高カロリー高タンパクな栄養源を無視するのは、今後生き残る上で適した選択肢とも思えない。

 考え、悩み、継実は決断する。

 

「……襲うか」

 

 コイツを食べよう、と。

 その次の瞬間の事だった。

 今まで不動を貫いていたコウテイペンギンが、凄まじい速さで継実の方へと振り返ったのは!

 

「ッ!?」

 

 続いて継実が全身で感じたのは視線、ではなく殺気。反射的に両腕を顔の前で構えながら後退した。

 そうしている間にコウテイペンギンは、オールのように平たい()を振り下ろす。さながら、剣で対象をぶった斬るかのように。

 ――――ペンギンの翼こと『フリッパー』の力は凄まじい。

 ぺちぺちと動かす姿は可愛らしく、脅威を感じる人間は殆どいないだろう。だが見た目に騙されてはいけない。尾ビレやくねらせる身体を持たないペンギンは、このフリッパーの力だけで水中を時速数十キロの速さで泳ぐ。また飛ぶために骨を軽量化している他の鳥類と違い、その必要がないペンギンの骨は硬く密になっているのが特徴だ。これらの性質からペンギンの翼の攻撃力は凄まじく、コウテイペンギンのような大型種の一撃は人間の骨を砕くほどだという。

 ミュータントとなった彼等の力が七年前の比である筈がない。継実のそんな予想は見事的中した。

 三メートルに渡って剣のように伸びた、紅蓮の光が()()()()()()()()()()()()事で。

 

「ごぶっ……!?」

 

 離れた位置まで届いた一撃に継実は呻く。顔面から腹に掛けて真っ直ぐな切り傷が入り、切断面から大量の血が噴き出した。切断面は内臓にも達しており、消化器官と心臓を両断している。

 そしてガードのために構えていた両腕の前腕が、真ん中から綺麗に切断された。

 しかし継実はまだ死んでいないし、意識も飛ばしていない。心臓などの臓器を切断されたが、即座に血液を能力で操作して止血。また切断面がキッチリ身体の中心を通っているお陰で肺は無傷であり、頭の傷も頭蓋骨粉砕で止まった。思考と生命活動に問題はない。

 故に継実は考える。

 

「(うっそ、粒子スクリーンが、()()()()()()……!?)」

 

 継実とて無策で攻撃を受けた訳ではない。両腕と身体の前面に粒子スクリーンを展開して攻撃に備えていた。七年前と比べて大型化したとはいえ、コウテイペンギンの体重は継実と同格か少し上回る程度と予想される。ならば攻撃力も同等であり、全力で防御を固めれば耐えられると踏んでいた。

 が、甘かった。ペンギンが繰り出した光の刃は、粒子スクリーンをまるで素通りするかのように通過したのである。

 不幸中の幸いと言うべきか、その原理が継実の目には見えていた。ペンギンの翼から放出された紅蓮の光は、大量の光子だったのである。光子は素粒子の中でも『粒』と『波』の両方の性質を有している特別な存在。ペンギンはこの光子を高エネルギーかつ波の性質が強い状態で翼から撃ち出したのだ。

 粒子スクリーンも素粒子をぎっちりと並べて作り出した壁だが、『粒』ではなく『波』の性質を持たされた光子は僅かな隙間を(与えられた高エネルギーでゴリ押しする形だったが)突破。継実の肉体に直接ダメージを与えてきたのである。

 名付けるならば侵食光子ブレードか。しかもこのような力を使いながら、コウテイペンギンの能力は光子を生み出す事ではない。侵食光子ブレードは()()()()()()()鹿()()()()()()()()()()()()()()()、全てが光子レベルに分解された結果なのだ。コウテイペンギンの正確な能力は、『触れたものを光に変える』だろう。かつて草原で戦った、巨大ミミズのように。

 一応粒子スクリーンの隙間を通る過程で少なからずエネルギーを奪い取るので、完全に素通りされた訳ではないが……それでも身体を切断されるほどのダメージだ。直撃を受けたら耐える暇もなく両断されるだろう。そして一番の問題は、恐らく粒子を用いた方法では殆ど防げない事。

 つまり。

 

「(私の能力じゃ相性が悪い……!)」

 

 守りに徹すれば負ける。ならばどうするか?

 相手がこちらを倒すよりも早く、徹底的に攻めるしかあるまい。

 

「だりゃあァッ!」

 

 継実の意図を察するように、ペンギンに対して最初に『反撃』したのはモモだった。稲妻を纏ったキックをペンギンの脳天に向けて放つ!

 継実も傷の修復を行いつつ、反撃へと転じた。腕は前腕部分の真ん中辺りでぶった切られたが、能力の使用にはなんら支障ない。大気分子を集め、腕の断面から粒子ビームを撃ち出した。

 二方向からの同時攻撃。だがコウテイペンギンは狼狽えない。

 

「グァッ!」

 

 コウテイペンギンは翼をぐるんと、身体の前で弧を描くように動かす。すると光子の集まりが、まるで壁のように展開された。モモの電磁キックと粒子ビームは壁に阻まれ、コウテイペンギンに届かない。

 素粒子で防御壁を作り出すのは、粒子スクリーンと同じ原理だ。だがコウテイペンギンが作り出したものは光子によるもの。波で出来たそれに一切の隙間は存在せず、粒子ビームは殆ど無効化されてしまった。粒子的な攻撃に対し、極めて強い性質がある。

 

「ぐ、ぬぅりゃあっ!」

 

 反面物理的防御力には劣るようで、モモが追撃のキックを放てばどうにかこれをぶち破った。とはいえコウテイペンギンは素早く翼を振るい、モモを殴り飛ばす。

 光に変える馬鹿力を受けて、モモの頭が光へと分解されながら吹き飛ばされる。しかしモモにとって人間の姿は作り物。頭を失おうと身体の動きに支障はなく、むしろ吹き飛ばされる勢いを利用して回し蹴りを放った。よもや頭がなくても動くとは思わなかったのか、コウテイペンギンの頭にモモのキックは直撃。コウテイペンギンの身体も衝撃で大きく飛ぶ。

 ようやく入った大きめの一撃。しかしこれは好ましい攻撃ではなかった。

 

「ガ……カアァアッ!」

 

 けたたましい咆哮。それは気合いの雄叫びなのか、コウテイペンギンは全身により一層の力を滾らせる。

 だが、その力が継実達に向く事はない。

 何故ならコウテイペンギンは素早く腹這いの姿勢になるや、そのまま南極の大地を滑走し始めたからだ。おまけにモモに蹴り飛ばされた際のエネルギーを推力にして、超高速で突き進む。そして向かう先は継実達がいる方……ではなく、逆に継実達からどんどん遠ざかる向き。

 つまりは逃走だ。

 決しておかしな判断ではない。コウテイペンギンは継実達に襲われている。そして継実達を全力で殺したところで、コウテイペンギンにはなんのメリットもない。簡単に殺せるならまだしも、今のように手痛い反撃を喰らわせてくる相手と真面目に戦って死んでは意味がないのだから。

 生物にとっての勝利は生き残る事。生物の世界において逃走は『勝利』だ。

 

「ああクソッ! やらかした!」

 

 頭を再生させたモモが悪態を吐く。敵がこちらを捕食しようとしてるなら兎も角、獲物を蹴り飛ばしては逃げられてしまうのは当たり前の事だ。モモ自身が言うように、狩りとして見れば失態だろう。

 しかし継実はそれを責めようと思わない。むしろ追い駆けようとするモモを、先が欠けたままの腕を伸ばして制止する。

 

「いや、追わなくていいよ……流石に相性が悪い。勝てなくはないと思うけど、犠牲者が出かねないからね」

 

「……んじゃ、しゃーない」

 

 継実に説得され、モモは追跡を取り止めた。

 コウテイペンギンが逃げなかったのは、自分と同じぐらいの大きさの生物からなら逃げられるという自信があったからか。実際こうして逃げられてしまうと、過信ではなく経験に基づく判断と言ったところ。自分達の判断に間違いがあるとすれば、そんな相手にケンカを売った点だ。大した怪我もなく事が済んだだけで儲けものだろう。

 兎にも角にも戦いは終わり、ひとまず安全にはなった筈。

 

「……おーい、ミドリ。もう出てきていいよー」

 

「ぷはぁっ。えと、残念でしたね」

 

 継実が呼び掛けたところ、雪の中に埋もれて隠れていたミドリが這い出してくる。コウテイペンギンが臨戦態勢に入った瞬間、危険を察して素早く身を隠していたのだ。ある意味とても頼もしい。

 狩りには失敗したが、全員無事だから良しとしよう。気持ちを切り替えた継実は笑みを浮かべた。身体の傷も治り、すっかり元通りだ。

 ――――お腹の減り具合は悪化したけど、と思いながら。



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凍える大陸05

 腹の好き具合。

 七年前ならちょっと間抜けにも聞こえる言葉だが、自然界で生き抜くためにはこれの把握が欠かせない。身体がどの程度のエネルギー不足状態にあるのか、それを感覚的に把握出来るからだ。

 そして今の継実の腹の好き具合は、『まぁまぁピンチ』といったところである。

 

「(あの戦い、というか傷の回復でかなりエネルギーを使ったからなぁ)」

 

 流石に、身体の前面を内臓ごと一刀両断されるのは継実にとってもそれなりのダメージだ。傷を塞いだり失った部分を再生させたりするための細胞分裂で、かなり多くのエネルギーを消費している。

 危機的な消耗ではないが、しかしこのエネルギー消費を無視する事も出来ない。先の回復で消費した分を具体的に言い表せば、丸二日分の基礎代謝に匹敵する量だ。

 ミュータントは基礎代謝の高さから、数日程度の絶食でエネルギーが枯渇する。継実も同様であり、二日分のエネルギー消失はかなりの痛手。恐らくあと一日の絶食で生命活動は危機的状況に陥るだろう。そうなる前になんらかの獲物を捕らえなければ、人間探しの旅はお終いである。

 そしてだからこそ、獲物をしっかりと選ばなければならない。

 

「で? 継実、どうする? まだあそこにペンギンはいるわよ」

 

 傷の回復を終えた継実に、モモはある場所を指差しながら尋ねる。

 彼女の指の向く先にいたのは、無数のコウテイペンギン達。

 継実達が襲い掛かった個体は逃げたが、他のコウテイペンギン達は今も変わらず殆ど動いていなかった。隠れようとしている様子もなく、精々こちらをじっと見ているだけ。

 実に舐め腐った態度である。しかしミュータントに相手を侮辱して悦に浸るような、無意味な習性はない。奴等が逃げないのは、逃げない方が合理的だと判断しているからだ。

 

「(そりゃあ、あんだけ一方的にやられたらねぇ……)」

 

 継実達はコウテイペンギンの一匹を襲ったが、呆気なく逃げられている。継実に至っては返り討ちといっても過言ではない。こんな体たらくで次こそはコウテイペンギンを仕留めるなんて宣言しても、子供の戯言同然だ。

 周りにいるコウテイペンギン達も、継実達がどれだけあっさりやられたかを見てきた。弱い奴からおろおろと逃げ出すのは『効率的』か? 否である。動き回るのにもエネルギーは使うのだ。無意味に逃げ回る事はエネルギーの無駄であり、食物に乏しい南極では自殺行為と言えよう。

 だからコウテイペンギン達は逃げない。万が一すらないと確信しているのだろう。

 そういう相手だからこそ鼻っ柱をへし折りたいという気持ちは、人間である継実としてもなくはない。が、それでリベンジが出来れば苦労はなく、奇跡的に勝利出来たからといって見合ったメリットがある訳でもなし。ペンギンの脂身と家族の命を天秤に乗せて、脂身を取るほど落ちぶれてはいないのだ。

 

「いや、それは止めとこう。流石にリスキー過ぎる」

 

「ま、そうよね。アレを相手するのはちょい勘弁。やるならもっと小さいのを狙いたいけど……」

 

 近くにはいないわねー。そう言いながら、モモは辺りを見渡した。

 継実も周りを見渡したが、コウテイペンギンしか見付からない。時期の問題なのか、コウテイペンギンが占拠しているのか。理由はどうあれ此処にいても『小さな生き物』は発見出来そうになかった。

 そしてミュータントであるこのコウテイペンギンの傍に、生き延びた人間達がわざわざ近付くとは思えない。ならこの場に留まるメリットはなく、他の場所に移動した方が良いだろう。

 

「ミドリぃー。いい感じの獲物、もとい人間っぽい反応ない?」

 

「すっかり獲物優先ですね……あたしもお腹が空いてきたからご飯食べたいですけど」

 

 お願いすれば、呆れ顔になりながらもミドリは索敵を始めた。

 コウテイペンギンに出会う前の索敵で、ミドリは五つの反応を感知している。そのうちの一つが此処であり、まだ残り四つの候補があるのだ。それらのどれかが人間か獲物であれば問題ない。

 次に会うのは人間か、それとも獲物か。空腹にも後押しされた期待感が、継実の胸の奥底でふつふつと湧いた。

 

「……んー?」

 

 尤もその期待は、ミドリがぽそりと零した一言を聞いてすぐ、頭の隅へと寄せたが。

 

「ミドリ、どうしたの? 何か変なものでも見付けた?」

 

 索敵担当のミドリが違和感を抱いた。即ち、それは彼女の索敵範囲内で『異常』が起きた事の証と言えよう。

 何が起きたのか、詳しく知りたい。継実は真剣に考えていたが、対するミドリはちょっとばかり気の抜けた表情を浮かべていた。どう答えたものかと考えている様子である。

 

「うーん、変と言いますか……反応が今、一つ消えました」

 

 やがてある場所を指差しながら答える。大した事じゃないと言いたげに。

 確かに、大した事ではない。

 一度捉えた反応がまた消えるなど珍しくないからだ。ミドリの索敵能力は優秀だが、完璧ではない。むしろ一瞬でも『隙』を見せた生物……狩りの最中や天敵から逃げている時など……だけが見えていると言うべきだ。だからその生物が余裕を取り戻して隙がなくなれば、気配が消えるのは当然だろう。

 ただ、気配が消えるパターンはもう一つある。実にシンプルで、考えるまでもなく当たり前な話が。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。つまり――――

 

「……その消えた反応のところ、行ってみようか」

 

「え? 良いのですか? もう逃げてるかも知れませんし、或いは食べられちゃったかも知れないんですよ?」

 

 継実の意見に対し、ミドリは疑問を呈す。

 基本的に、消えた生物のところに出向くのは好ましくない。姿を眩ませた後何処かに移動したかも分からぬ相手なんてまず見付からないし、もしも肉食生物がその生物を仕留めた後ならそいつに襲われるかも知れないからだ。君子危うきに近寄らず。昔の人が残した、ありがたいお言葉である。

 しかし、虎穴に入らずんば虎子を得ず、という言葉もある。

 

「そうかもだけど、でも消えた反応が人間に関わるものって可能性もあるでしょ?」

 

 現状、継実達は人間の存在を物語るような痕跡を確認出来ていない。

 人間がなんらかの方法……隠密性の高い動物の毛皮を被っているなどの……で姿を隠しているなら、ミドリの索敵では引っ掛からない可能性がある。もしも一瞬でも姿を見せるのが、敵などに襲われて姿を表した時だけだとすれば、消えた気配を避けるのは愚策だ。折角の痕跡をみすみす逃す事に他ならない。

 特定の相手を積極的に探すというのは、こういう事なのだ。普段通りの、生き残るためのやり方が正しいとは限らない。もしかすると避けてきた行いこそが求めているものかも知れないのである。勿論消えた反応が人間由来とは断言出来ないのも真であるから、リスクに見合うリターンが得られるとも限らないが……それを恐れていては進展などない。

 今までは知らないものに近寄らないのが安全だった。いや、今でもそれは変わらない。ただもっと積極的に、リスク承知で情報を集める必要があるというだけだ。

 

「……分かりました。でも何があるか分からないですから、あたしだけに頼らないでくださいよ」

 

「大丈夫大丈夫。ちゃんとやるからさ」

 

「いやまぁ、ちゃんとやってるのは知ってますけどね……んじゃ、あっちです。此処から三キロほど先で反応が消失しました」

 

 ミドリはある方角を指差し、それから歩き出す。

 三キロという距離は決して長大なものではない。それはミュータントの速力から見ての話ではなく、そうでない人間にとってもだ。一般的に人間の徒歩速度が三〜五キロ程度とされているので、三キロの道のりなら一時間掛からない計算である。足場がふかふかとした雪+ブリザードの真っ只中なので、実際にはもっと時間が掛かるだろうが、だとしてもニ時間ほどの道のりだ。

 大凡のスケジュールを頭の中で立てて、継実はミドリの後ろにぴったりと付いていく。モモも周りの臭いを嗅ぎながら、継実の横を歩いた。深い雪に埋もれる足をゆっくり持ち上げ、肩や頭に降り積もった雪を手で払い落として三人は進む。

 南極の大地に植物はなく、生き物も少ない。

 だから歩いていた継実は、特にこれといって生き物の気配を感じなかった。極めて当たり前の事であるが、しかし何も感じられないと、自分の感覚が当たっているか不安になる。何かがいると感じれば自分はちゃんと生物を見付けられていると思えるが、何も感じられないと本当に周りに何もいないのか、単に自分が見逃しているのか分からなくなってしまう。

 小さな生き物を見付けたところで、危険な生き物を見逃していない根拠とはならない。それでも「きっと大丈夫」だという根拠を見付けたくなるのが人間というものだ。不安が継実の心の奥底で、ふつふつと湧き出す。しかしその不安が緊張感を高め、普段以上の力を出させてくれる。

 来るなら来い。リスクは承知済みだ。

 誰よりも闘志を滾らせ、継実は家族と共に南極を踏み越えていく。

 結果を言えば、結局道中で危機は訪れなかった。継実達の索敵はちゃんと脅威を見逃さず、安全で確実なルートを進んだ。慎重に行動した成果とも言えるだろう。到着するのに掛かった一時間半ほどの時間も、想定よりも早いぐらいである。

 されど継実は目的地に辿り着いた、今この瞬間だけ、自分の慎重さを呪った。

 目指していた場所に、()()()()()()()()()()()()()があったがために――――



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凍える大陸06

 『それ』を目にした瞬間、継実は家族二人を置いて駆け出していた。

 『それ』までの距離は凡そ五十メートル。そこそこ離れている上にブリザードの中であるため、肉眼による確認は出来ない。しかし粒子操作能力を応用すれば、その姿形を立体的に認識する事は可能だ。

 ましてや生きていない、解体された肉塊となれば尚更簡単である。

 

「これは……!」

 

 手を伸ばせば触れられる場所まで来たところで、継実はその肉塊の傍にしゃがみ込む。能力ではなく己の目で存在を確認し、手で触れて詳細を探る。

 肉塊と呼んだが、正確には皮と肉と言うべきだろう。剥いで捨てたと思われる肉塊は、広げられた皮の傍に置かれていた。皮は綺麗な一張羅のように切れ目なく剥ぎ取られ、雪の上に(毛がある方を背中と言うなら)仰向けの体勢で置かれていた。毛皮の大きさは二メートル。眉間らしき部分に穴が空いていて、恐らくこれが致命傷だったと思われる。

 毛皮が綺麗なお陰で、解体されていながら元の生物がなんであるかは容易に判別出来た。ほぼ確実にアザラシであろう。また皮を覆う毛が灰色である事から、種類はカニクイアザラシだと思われる。

 カニクイアザラシは名前に反してカニは食べず、主にオキアミなどの小さな生き物を食べている動物だ。個体数は七年前の時点で約二千五百万頭とアザラシ類で最大を誇り、圧倒的な繁栄を誇っていた。ミュータント化しても、恐らく南極でも有数の成功者として君臨しているだろう。それ故に獲物として魅力的な生き物でもある筈。またオキアミ食いからも分かる通り、彼等の身体は大型動物を殺傷するのに向いていない。()()()()()として最適だ。

 無論、ここまでは誰にとっても同じ話。例えば同じく南極に生息するヒョウアザラシという獰猛なアザラシが、名前通りヒョウが如くカニクイアザラシを積極的に襲っているかも知れない。はたまた北極からシロクマが海を渡ってやってきて、カニクイアザラシを獲物として利用している事もあり得るだろう。ミュータント化により過去の常識は通じない。

 だが、一つだけ今でも通じる常識があるとすれば。

 ……鋭利な刃物を使って肉を切り分ける生き物は、きっと人間だけだ。

 

「(皮に残ってる傷。これは、刃物を使って削ぎ落としたように見えるな……)」

 

 例えば獣が歯で肉を削ぎ落としたなら、乱暴な食べ方で断面はぐちゃぐちゃになるだろう。それに食べ方も好き勝手に噛む筈なので、傷跡は不規則な紋様を描くと思われる。大体毛皮を大事にするという概念がないので、ズタボロに引き裂かれもするだろう。

 対して此処にある皮に残された傷は、極めて規則的かつ正確な間隔で刻まれたものだ。職人技を思わせる機械的正確さを見れば、刃物で淡々と肉を削ぎ落とす行程が容易に想像出来る。毛皮が綺麗なのは、その方が結果的に作業が楽なのと、肉が雪などで汚れないようにするためか。

 そうだ、これは刃物による傷であるし、技術的な解体が行われた証だ。だからきっと人間の手により解体された死体に決まってる――――

 

「(いや、落ち着け。決め付けるな……ペンギンの侵食光子ブレードを用いれば、刃物で切ったような傷は付けられる。刃物で切ったような肉だからって、人間の仕業とは限らない)」

 

 ミュータントであれば、刃物染みた攻撃など容易い。自分だって手から粒子ビームを出せば『生身』で肉を角切りに出来るのだ。傷跡が刃物に似てるからといって、それが人間のものとは断言出来ない。

 しかし皮に残された傷跡は極めて綺麗で、獣の乱暴な食事の後とは思えない。いや、もしかすると昆虫型ミュータントの仕業か? 極寒の南極で昆虫なんて、等と理性が否定したが、人間である自分達が裸でブリザードの中を練り歩きながらそんな否定をするなど馬鹿馬鹿しいにもほどがある。そもそも南極にはナンキョクユスリカと呼ばれる昆虫が生息しており、仮に他の大陸からの流入がなくとも、昆虫ミュータントがこの地に跋扈していてもおかしくない。

 昆虫は本能で生きる生物であり、だからこそその行動は極めて正確だ。ミツバチが正六角形の巣を作り、アゲハチョウが十三時間三十分未満の日照時間で越冬蛹になるように、ある種機械的な精密さがある。獲物の解体も、昆虫ならば機械的に行えるか?

 

「(だから決め付けるな! 毛皮だけで判断しないで、残っている肉塊も見ないと……)」

 

 考えるにしても、情報の見落としがあっては正確な答えにはならない。全てをひっくり返す証拠Xがあるかも知れないのだ――――結論を急ごうとする自分の思考を戒めながら、継実は次に置き捨てられた肉塊を分析しようとした。

 

「うま! うまうま!」

 

「美味しいですぅ〜。獣臭さが半端ないですけどーもぐもぐ」

 

 ちなみにその肉塊は、モモとミドリが食べている。遠慮なく、獣染みた雑さで。

 ……まずは深呼吸。人間の目というのは極めていい加減だ。気持ち一つで網膜に映っていないものを誤認する。

 

「この獣臭さが良いんじゃない。あ、これ肝臓かしらもぐもぐ」

 

「あ! あたしにも分けてくださいよ! もぐもぐもぐもぐ」

 

「一人で脳みそ食べてる奴が何言ってんのよ。せめて私に半分寄越してから言いなさいもぐもぐもぐもぐ」

 

 かくして継実が冷静さを取り戻そうとしている間も、二人は容赦なく証拠品を食べていく。

 落ち着かせた感情が瞬間的に沸き立つのを、継実は止められなかったし、止める気も起きなかった。

 

「二人とも何食べてんのォ!? それ人間が此処にいたかも知れない証拠なんですけどぉ!?」

 

「え? そうなの? 何時までも皮なんか見てるから変だなーとは思っていたけどもぐもぐぱくり」

 

「はー、そうでしたか。お腹空いていたのでついもぐもぐ」

 

「理解したならもぐもぐすんな! あとモモは新しく口に入れんな! 証拠だっつってんでしょーが!」

 

「えぇー……これぐらい良いじゃん別に。此処に人間の臭いがあるんだし、それで十分じゃない?」

 

 継実の必死の説明も虚しく、モモとミドリは食事を止める気配すらない。基本家族にはべらぼうに甘い継実であるが、ここまで好き勝手されては流石に看過出来ない。きっちりお説教しなければと心の鬼を目覚めさせる。

 が、唐突に怒りの感情はぷすんと抜けてしまった。耳に入った言葉が、遅れて脳へと届いたがために。

 モモは今、なんと言ったか? さらっととんでもない事を口走っていなかったか?

 此処に、人間の臭いがあると言ったのか?

 

「に、人間の臭いが、あったの?」

 

「うん。人間って酸っぱい系の汗の臭いがするから、割と分かりやすいのよねぇ。あと古びた感じの獣臭さもあったけど、これは多分着ていた毛皮の臭いじゃないかしら」

 

「い、何時気付いたの……?」

 

「ん? この死骸を見付けた時? ちゃんと言ったわよ……あ、でもそん時にはもう継実ってば皮に夢中で、こっちの話全然聞いてなかったわねもぐもぐ」

 

 話しながらどんどん『証拠品』を食べていくモモ(とミドリ)。しかしもう、継実にとってその肉の塊に大した価値はない。

 継実は無意識に辺りの臭いを嗅ぐ。嗅いだところで何も分からない。モモのように優れた嗅覚はないし、能力で臭い分子を捉えたところで意味が理解出来ないのだから。

 だからそれがある事を示すのはモモの言葉だけ。

 けれども彼女の言葉だけで十分。モモが嘘を言う訳ないし、モモの嗅覚の正確さは疑うまでもない。

 継実は両手を上げて、何時の間にか顰めていた顔に満面の笑みを浮かべた。

 

「や……やったああぁぁ! ついに人間の痕跡を見付けたぞぉー!」

 

「いや、それもう三分ぐらい前に私が言ったんだけど」

 

「あはは。継実さんってば本当に何も聞いてなかったんですねー」

 

 呆れたような生暖かいような、なんとも言い難い眼差しを向けてくるモモとミドリだが、継実はそんなものは気に留めない。止め処なく溢れ出す喜びが、全ての侮蔑を弾き返す心の鎧となる。

 ついに自分達は、本当に人間のいる場所に辿り着いたのだ。

 

「(ああ、我ながら単純だなぁ。ちょっと前に、人間不信染みた事考えていたのに)」

 

 家族に酷い事をするなら殺してやると、簡単に決めて決意は、同じく簡単に吹き飛んだ。今や脳みそはすっかり前向きな性善説モード。未知の人格への恐れなど欠片も残っていない。

 加えて、身体というのはとても素直なものである。悩む必要なんてなかったのだと分かった途端、今の肉体にとっての最優先事項を思い出す。

 つまるところ空腹。

 ぎゅるぎゅると派手に腹が鳴り出して、『人間』の気持ちに浸っていた継実はほんのり頬を赤らめた。

 

「……えへへへ。お腹空いちゃった」

 

「そう。まだまだたくさんあるわよー」

 

 空腹を伝えれば、モモはぺちぺちと肉塊を叩いて音を鳴らす。若干誇らしげなその仕草に「アンタが捕まえた訳じゃないでしょ」とツッコミを入れたくなるが、今は上機嫌なので優しく流す。

 積み上げられた肉塊……恐らくは『ゴミ』であろうものを、継実葉躊躇いなく口に入れた。アザラシ肉の獣臭さと脂肪分が口いっぱいに広がり、海獣らしい味に頬が緩む。噛めば噛むほど味が出てきて、とても肉々しい味わいだ。今まで食べてきたものの中ではかなり美味しい部類の肉である。比較対象はイモムシとか蛆の湧いた死肉とかだが。

 人間の手掛かりを得た安心感もあって、食欲がもりもりと湧き出す。継実は残された骨も内蔵も手当たり次第に口に入れ、飲み込んでいった。肉塊こと捨てられた骨や内臓を調べればどんな肉を食べた(或いは持ち去った)かが分かるとは思うが、人間が居たと分かった今では些末な情報。調べるのも面倒だとばかりにどんどん食べていき……

 五分もすれば、積み上げられたゴミ肉はすっかり綺麗になった。未だ降り続ける雪により血は埋もれ、真っ白になった台地に継実葉横たわる。

 

「あー……食べた食べた。二日分ぐらい食べたー」

 

「食べたわねぇ。残り物なのにたっぷりあってたし」

 

「うぇぷぅー……」

 

 継実が満足感に浸る中、モモもずどんと横たわる。見た目にはなんの変化もないモモであるが、本体であるパピヨンのお腹はきっとぽっこり膨らんでいる事だろう。ミドリはほっぺたに肉を貯めているのか、両頬がぷっくり膨らんでいた。実に意地汚い(野性味溢れる)姿だ。

 食欲が満たされ、十分に栄養が行き渡った脳で継実は思案する。

 モモは残り物がたっぷりあった、と言っているが、実際には少し異なる。カニクイアザラシの体重は二百〜三百キロ。仮に継実達がお腹いっぱいになる量が五十キロの肉や骨だとしたら、全体の六〜七割が消えている状態だ。普通の人間一人で食べ切れる量ではなく、大半は持ち帰ったものと思われる。百五十〜二百キロもの肉を持ち運ぶのは、ただの人間には中々大変そうだが……猫車の類があればなんとか出来るだろう。そもそも一人で持ち運ぶ必要もない。何人かで分割すれば簡単に運んでいける。

 とはいえそれだけ大量の肉を運べば、少なからず肉から血ぐらい滴る筈だ。そしてその血の跡からは少なからず臭いが漂っている。

 モモの嗅覚ならば後を追える筈だ。しかし臭いは時間と共に薄くなるものだから、動くなら早ければ早いほど良い。

 ……あまり満腹感の幸せに浸っている場合でもなさそうだ。

 

「ん。ごろ寝したいけど、そろそろ先に進もうか」

 

「えー? 食休みしたーい」

 

「人間が立ち去った後の臭いがあるでしょ。それを辿ってほしいから、のんびりしてらんないの」

 

 事情を説明しても、モモは動く気配なし。満腹時に動きたくない気持ちは分かるが、動かないといけないのだ。なんとか家族を起こそうと揺するが、モモはまーったく立とうともしない。

 これを無理やり動かすのは、一人では厳しそうだ。

 

「あたしも、すぐに此処から離れるのは反対ですっ」

 

 なのでミドリの援護が欲しかったのだが、彼女もすぐの出立に反対の立場だった。

 期待が外れてがっかり。しかしそれと共に継実は疑問も抱く。

 何故、ミドリは早く人間に会おうとしないのだろうか? 確かに継実は七年間積もりに積もった想いがあるので、モモだけでなくミドリよりも人間に会いたい気持ちは強いだろう。しかしミドリも元は高度な文明の住人であり、『文化』的な生活には焦がれる想いがある筈だ。

 すぐに動かない理由が思い当たらない。キョトンとしながら見ていると、ミドリは自慢げに胸を張る。

 

「何故ならあたし達は服を着てないからです!」

 

 そして堂々と、そう指摘した。

 ……指摘されて、ようやく継実は思い出す。そういえば自分とミドリは服を着てないな、と。

 欲情を促すから服ぐらい着ないと、と考えていたのにすっかり忘れている。積極的にではないが、二回目の殺人に手を染める事まで決意したのに。

 思っていたよりも服への執着がない、つまり文化人ではなく野生動物に回帰していると自覚させられ、継実はへらっとした笑みを浮かべてしまう。これは悪気などなく、むしろ気恥ずかしさを感じての表情なのだが、ふざけているようにでも見えたのか。ミドリはぷくっと頬を膨らませた。

 

「もう! 何笑ってるんですか! 服ですよ服! 可憐な一張羅を作りませんと!」

 

「え。あー……いや、可憐な一張羅とか無理でしょ。大体材料とか何処に」

 

 あんのさ。そう言おうと思ったが、はたと思い出す。

 あるのだ。服の材料は、すぐそこに。

 肉を剥いだばかりで新鮮かつ大きなアザラシ皮が、継実の真横に丁寧に寝かせられていた。



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凍える大陸07

「や、止めろー。服なんて着たくなーい」

 

 気怠げな、けれども割と本気で嫌そうな声がモモの口から出ていた。

 浮かべている表情も、かなり不愉快さを露わにしている。しかし暴れたり、逃げたりするような素振りはない。纏う雰囲気はすっかり達観したもので、抵抗の意思は殆ど感じられないのが実情。

 モモとしても、諦めているのだ。

 ……服を着させられる事は。

 

「いいえ、ちゃんと着ましょう! これから人間の社会に加わるんですからね!」

 

「いや、私人間じゃなくて犬だし。というか私、毛で服を作れるからいらないし」

 

「えぇー。ファッション楽しみましょーよー文化的にぃー」

 

 嫌がるモモに、『嫌がらせ』を行っているミドリは満面の笑みを浮かべていた。心からの善意……いや、楽しさか……であるが、モモは受け取るつもりがないらしい。

 事の始まりは落ちていたアザラシ皮を服に加工すると決めた後に話した、誰の服を最初に作るかという話題から。ミドリとしては真っ先にモモを可愛く着飾りたいようだが、モモはご覧の通り断固拒否を示している。

 無理もないなと、遠目に見ている継実は思う。寒がりな犬種を寒冷地で飼うなら話は別だが、基本的に犬に服は不要だ。全身を覆う体毛が十分寒さを防いでいるため、服を着せても良くて無用の長物、悪いと服が放熱を妨げて熱中症のリスクを上げてしまう。

 モモの場合は尚更である。体毛で全身を包み、保温機能は万全だ。例え南極の環境下であろうとも、服なんか着なくても温かいし却って邪魔なぐらい。そしてモモが言うように、体毛を編んで見た目の格好ぐらい簡単に変えられる。ちなみに彼女が好む服装は肩やへそが露出した結構セクシー系が主だが、理由は単純に動きやすいからだ。

 ともあれ、だからモモに服はいらない。

 いらないが、モモを着せかえ人形にしたい意欲は継実にもあった。何しろ継実も七年前まではちょっとお洒落な女の子。服とアクセサリーは嗜みである。

 

「ま、ファッション言うほど立派なもんじゃないけど……ちゃんとした服を作るのは久しぶりだし、テンション上がるね!」

 

「なんでテンション上げてんのよ……」

 

 モモの抗議は一字一句無視。ミドリがこくりと頷いてGOサインを出したところで、継実は早速アザラシ皮を利用した服作りを始めた。

 ――――さて。服を作る前にまずは確認。服を作れる状態かを確かめる。

 第一に周りの安全。服の材料になるのは亡骸から剥いだ毛皮であるが、その毛皮には血肉が付着しているものだ。そのままだと毛皮から新鮮な肉の臭いが漂い、お腹を空かせた肉食獣を引き寄せる。猛獣が来ていたら命の危機であるため、服作りは諦めるしかない。

 幸いにして綺麗に解体された結果出血(臭い)も少なかったお陰か、はたまたそもそも動物が少ないからか、継実達の傍に近付いてくる猛獣の姿は見られなかった。勿論のんびりちんたらとやっていたら、何時か猛獣達は血の臭いを嗅ぎ付けてくる筈。悠長にはしていられない。

 安全はひとまず問題なし。次に大事なのは材料の状態だ。

 

「さぁて、コイツはどんなもんかいねー」

 

 雪の上に転がるアザラシの毛皮を、継実は両手で触る。手触りから服としての品質を探り、能力で効能を予測するのだ。

 

「(ふむ。皮は厚くて、水を弾く。ブリザードを耐えるには最適ね)」

 

 元々アザラシの皮は水を弾く性質がある。本来それは海中を泳ぐために役立つものだが、ブリザード対策としても有効……というよりこの性質がなければ使い物にならない。服に付いた雪は体温などで溶けて水になるので、ある程度の撥水性がないと染み込んで身体が濡れてしまうからだ。水が蒸発すると温度を奪うので余計寒くなるし、生地が駄目になってしまう。

 撥水性の高さは降雪が多い地ではとても役立つ性質である。このアザラシ皮で作った服を着れば、此処南極でもかなりエネルギーの消耗を抑えられるだろう。また分厚くて弾力があるため、物理攻撃に対する防御力も得られるというオマケ付き。

 しかし欠点もある。服としては優秀だが、加工する時には頑丈さが仇となる。それも一度だけではなく幾度も。

 例えば革を(なめ)す時。

 動物の皮というのは有機物だ。そのままではすぐに腐るし、腐る前に乾燥しても硬くなってしまう。これでは服として使える期間があまりに短く、持って数日といったところ。貴重な服が数日で駄目になるのはあまりにも勿体ない。

 故に本来ならば、ここで『鞣す』作業が行われる。鞣しとは毛を取り除き、皮に様々な加工を施す事で『革』へと変え、より加工と保存に適したものにする作業だ。例えばお茶に含まれるタンニンに漬けたり、木を焚いて出した煙で燻製にしたり、はたまた噛みまくって加工(口鞣しと呼ぶ)したり……

 ところが此度の皮はミュータントのもの。モモのように能力だけで完璧に身を守っているタイプなら良いが、そうでないと大体インチキ性質が皮自体にある。原理不明の謎シールドに匹敵するような皮膚組織に、タンニンやら煙やらが通じる訳ないだろう。唯一通じるとすればミュータント顎力による口鞣しぐらいだが……あれは時間が掛かる。皮の硬さ次第であるが、一晩二晩は余裕で。出来れば長持ちさせたいとはいえ、強敵と戦えば一瞬で蒸発するようなものにそこまで労力は費やしたくない。

 継実は二つの方法でこの問題に対処する。

 一つは自らの能力。

 

「(要するに鞣しってのは皮を化学反応で加工して、性質が変わらないようにする事。なら、粒子を操れる私には簡単だ)」

 

 粒子操作能力を用い、皮の成分を直に加工する。生きたミュータント相手には能力などで抵抗される事も多く、隙を突かれて反撃される事間違いなしであるが、死んだ皮相手なら大した問題はない。

 それでも服に使えるような皮は構造そのものが出鱈目に頑強なので、時間はどうしても掛かるもの。だから二つ目の方法で時間問題には対処する。

 具体的には、『雑』に終わらせる事。

 真面目にやると時間が掛かるのだから、真面目にやらなければ早く終わるのだ。革として最低限の加工を施したらそれで終わり。勿論これは一種の手抜きである訳だから、保存性などが犠牲になる。しかしどの道強敵と戦えば服など吹き飛ぶし、ミュータント細菌はタンニンだろうがなんだろうが分解するのでいずれ腐ってしまう。成果が労力に見合う、ギリギリのラインが雑に見える段階なのだ。

 

「良し。皮の加工はこんなもんかな?」

 

 費やした時間は約五分。未だ『革』になっていない皮であるが、投じた労力に見合うのはこんなものだ。継実は長年の経験でその境目をしかと理解している。尤も南極は寒くて腐敗を司る細菌が(少なくとも七年前までは。今でもそうであると期待して此処まで旅してきた訳だが)殆どいないため、もう少しちゃんと加工しても良かったかも知れない。それは今後の生活の中で、新たに経験を積んで学ぶしかないだろう。

 ともあれ鞣し作業を終えたら、いよいよ服への加工だ。そしてここで二つ目の問題が立ち塞がる。

 皮そのものの硬さだ。能力や構造次第であるが、ミュータントの身体は核融合の炎(水爆)のエネルギーも容易く耐え抜く。ミュータント同士であってもそう簡単には破れないものも少なくない。そんな頑強な皮を切り裂くには多くの力が必要だ。しかし大きな力を加えると切り方のコントロールが難しく、精密な加工は困難となってしまう。

 人間文明なら匙を投げるところだし、モモにも難しい事だろう。されど継実にとってこれはそこまで大きな問題ではない。服加工が困難な理由は、力尽くで皮を引き裂こうとするからだ。継実はそんな野蛮な方法を用いない。

 

「……ていっ」

 

 皮をどう切るか。そのイメージを膨らませた継実は、指先を皮へと向けた。次いでその先端から粒子ビームを撃つ。

 この粒子ビームで皮を切断するのだ。これなら当てたところが切れるだけなので、大きな力を使ってもコントロールは容易い。そもそも大きな威力を出すにはビームの口径を小さくするのが効果的だから、力を込めるほど細く切れる。粒子ビームは皮加工にうってつけなのだ。欠点としては少々時間が掛かる点だが、精々十数分といったところ。これぐらいは許容範囲内だ。

 ちなみに今はモモの服を作る作業中だが、採寸は行っていない。長い付き合いの中で彼女のスリーサイズぐらい把握済みだ。それに……そもそも必要ないだろう。

 さて、切り分け作業が終わったら次は裁縫である。カニクイアザラシの皮は体長七メートルと巨大だが、これをぐるりと巻くだけでは芸がないし、殆ど簀巻きのようなスタイルでは動き難い。皮を服へと変えるには切り分けたものを繋ぎ合わせる、縫うという作業が必要だ。

 

「んー、この感じだと針は……このぐらいの硬さかな」

 

 まず用意するのは縫い針。無論継実達は裁縫道具など持っていないし、持っていたところで人類文明が作り出した金属製では役に立たない。針はその場で用意する。

 今回はアザラシの骨があるので、これを用いる。能力で骨を削っていき、鋭い針を作り出すのだ。ミュータントの種類によっては皮が硬くて骨が柔い場合もあり、その時は継実が自分の指の骨を加工して針を作る。再生可能なので指一本自分で削ぎ落とすぐらい怖くもなんともないが、痛い事は変わらないので、やらずに済むならその方が良い。

 針は調達した。あと必要なのは糸である。

 

「モモー。毛一本ちょうだい」

 

「……ほれ」

 

 そこで普段使っているのがモモの毛だ。彼女の体毛は非常に頑強かつ高性能。ミュータントの皮を縫うならこの糸しかあるまい。

 なお、今回はモモにすごーく嫌そうな顔をされたが、別に普段から毛を要求するとこんな顔をされている訳ではない。単純に、モモは自分のいらないモノのために自分の毛を渡すのが嫌なだけである。

 モモの気持ちは継実にも分かる。分かった上で、継実は黙々と裁縫を始めた。

 ――――お裁縫の得意な女の子、というのに幼少期の継実は憧れていた。なんとなくだが、凄く『女の子っぽい』からというのがその理由だ。十歳の時の継実は、ド直球の女の子だったのである。

 が、今は特に憧れもない。むしろ心底面倒臭いと思っていた。

 

「(こればっかりは純粋な技術だからなー……)」

 

 粒子操作能力を応用すれば、原子単位で針を通す場所を見極められる。腕や指の関節だって素粒子単位の長さで稼働可能だ。継実の指先は精密さだけなら人類文明が作り上げたあらゆる機械、そして人類史に存在する全ての職人を圧倒的に上回っていた。

 しかしセンスは、人間の頃とあまり変わらない。どんなに細かな動きが出来ようとも、センスがなければ完成するのは獣の皮の継ぎ接ぎである。服にはならない。

 ついでに言うと技術力もミュータント化前と大して変わらない。確かに素粒子単位の細かさで指を動かせるが、それだけでは細かな座標を指定出来るというだけである。例えるならドット打ちでちゃんとした美少女を描ける人間がどれだけいるのか? というのと同じ問題だろう。魅惑的な絵を書くにはドットは細ければ細かいほど良いだろうが、そもそもどうドットを配置すれば『美少女』になるのかを知らねば、出来上がるのはただの二頭身モンスターである。ついでに細ければ細かいほど必要な工数が増えるので、根気も必要だ。

 継実の身体に宿る力は、人類文明の全てを超越するスペックなのは間違いない。だから裁縫が好きならば、望むがままにその腕前は上達し、人類未踏の領域の遥か彼方まで突き進むだろう。しかし継実は七年間の生活の中で気付いてしまった。

 あ、自分大して裁縫好きじゃないな――――と。

 

「はい、服出来たよー」

 

「雑! 雑です継実さん!」

 

 なので出来上がったのは、単なる皮の継ぎ接ぎだった。七年間の野生生活の中で「腕と身体を通す穴があれば良いじゃん」という結論に達した継実お手製の服は、高度な異性文明人に扱き下ろされる。

 とはいえこの雑な服をミドリの前で作るのは、決して初めての事ではない。いきなり低評価を出されて、継実としては面倒臭さと同時に困惑を覚えた。

 

「えー……何が嫌なのさ。ミドリだって今まで葉っぱの服で良いって感じだったじゃん」

 

「アレは継実さん達しかいなかったからです。この星に来たてで余裕もなかったですし。でも今回はそうはいきません! 文明人に会うのですから正装しなければ!」

 

「私らをナチュラルに野蛮人扱いすんな」

 

 実際野蛮人だけど。ミドリの意見に心の中では同意しつつ、継実は自称文明人さんに苦い顔を向けた。尤もこんなのはただのじゃれ合いで、真面目に拒否してる訳ではないだろうが。

 

「ほい、これミドリの服ね」

 

 継実は問答無用で、嫌がるモモの前で作った服をミドリに渡す。

 元より継実には、モモに服を着せるつもりなどなかった。いくら大きめの皮とはいえ、二人分も作ればほぼ使い切るという目算だったので。もっと大きい皮なら遊ぶ余裕もあっただろうが、余りが出ない中でふざける余裕なんてない。

 結局はポーズだけの遊びだ。モモとミドリもそれぐらいは分かっていて、勝手に前言を翻した継実にこれといって質問も何もない。

 

「はい、ありがとうございます……うーん、実に原始的です」

 

 ミドリは躊躇いなくアザラシ皮の服を着込む。袖も何もない、殆ど皮を巻いただけのような見た目の服装。されど今まで直撃していた寒さを凌ぎ、身体が濡れるのを防ぐ。見た目よりもずっと暖かで、体力の消耗を抑えてくれるありがたい道具だ。心なしかミドリの顔がリラックスしたように和らぐ。

 継実も残った皮で自分の服を作る。ミドリ曰く原始的な服は掛かる工数も少なめ。あっという間に自分の服を作り、それを頭から被るように着る。

 思った通り、溶けた雪を弾いてくれる皮。吹き付けてくるブリザードは相変わらず激しいが、今までよりもずっと過ごしやすくなった。体温維持のため大きく消費していた基礎代謝が減り、より長い間飲まず食わずで動けるだろう。

 体力的な余裕は勿論、精神的な余力も出来た。これなら今まで以上に人間探しに注力出来る。

 

「さて、そんじゃあモモさん。人間の臭いを辿ってくださいな」

 

「よーやく私の出番ね。任せなさい」

 

 尤も、今更そこまで真面目に探す必要はないと継実は考えていた。何故ならモモの鋭い嗅覚があるからだ。

 継実とミドリのお遊びに渋々付き合ったモモは、元気よく跳び上がる。早速とばかりに辺りの臭いを嗅ぎ、此処にあった人間の痕跡を探ろうとした。

 その傍で継実は、昂ぶる自分の気持ちを発散させるように、自らの手のひらに拳を叩き付ける。

 満腹感と一遊びで少し気持ちは落ち着いた。そこに人間に会えるという期待感が加わり、身体を程よく火照らせる。何時人間に会えるか分からないがその時は近い筈。何が起きるか分からないが、これなら『何か』が起きても問題なく対処出来るだろう――――

 

「……ん?」

 

 そのような自己分析中に、モモの動きが止まった。

 止まったモモはじっと、一点を見つめる。風上の方角で、吹き付けてくる雪が身体の前面に積もり始めたが、それでもモモは動かない。

 

「どうしたの?」

 

「……何か来るわね」

 

 尋ねれば、返ってきたのはその一言。

 何か。あまりにも具体性のない表現であり、これだけでは何が起きるか分からない。が、モモの表情と身体の状態を見れば彼女がその気配をどう感じているかは分かる。

 どうやら友好的でなく、そして油断しても良いような存在ではないらしい。

 即座に、継実は身体に力を滾らせる。傍のモモと同じく、何時でもトラブルに対処出来るように。ミドリも継実達の反応を見て、身体を縮こまらせて防御態勢に移行する。

 三人全員が準備を終えた。そしてその時は、瞬き一回分の時間を置いてやってきた。

 風上から吹雪と共に、巨大な獣が突撃してくるという形で――――



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凍える大陸08

 『そいつ』が姿を現すまで、気配は何も感じなかった。少なくとも継実には、そして何も言わなかったミドリも恐らく同じく。

 しかし不思議はない。自分達は世界の全てを知っている訳でも、世界の全てを見通せる訳でもないのだ。索敵を潜り抜けるミュータントがいてもおかしくない……かつてインドネシア諸島で出会ったハマダラカのように。

 だから目の前の暗闇から飛んできた『獣』に対し、継実はなんの驚きも覚えない。モモも同じく。

 

「ふぬぁッ!」

 

「だありゃァ!」

 

 継実は拳を、モモは蹴りを、獣に対して打ち込む!

 二人の攻撃は獣の顔面に直撃する。大地に放てば都市を瓦解させる地震さえも引き起こせる打撃……しかしミュータントからすればあり触れた威力だ。体重相応の一撃でしかない。

 暗闇から突撃してきた、体長三メートルもの巨大な獣からすれば、二人のコンビネーションアタックも小賢しい程度にしか感じていないだろう。

 

「(いるとは思っていたけど、こうして奇襲されるとはね!)」

 

 現れた生命体を継実は凝視。即座にその正体を理解する。

 細やかな灰と黒の二色の毛に覆われた身体には、指のある手足ではなくヒレが生えている。特に後ろ足は魚のヒレと瓜二つの構造になっていた。体格はややほっそりしているが、それは軟弱さよりも猫のように獰猛なしなやかさを感じさせる。

 頭部は身体と比べてやや大きいものの、ほっそりとしている。顔立ちもちょっと犬のようで可愛らしいぐらいだ。だが顎も犬のように大きく開き、その中には無数の歯が並んでいる。硬いものを食べるための、平たくて立派な歯ではない。獲物の肉に突き立て、切り裂き、皆殺しにするための鋭い牙だ。

 かの存在は七年前における南極の頂点捕食者。南極大陸の陸上で敵なしの肉食獣にして、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()種類。カニクイアザラシの幼体やペンギンを食べるだけでなく、人間を海中に引きずり込んで殺した事もある猛獣――――

 その名はヒョウアザラシだ!

 

「キャオオオォンッ!」

 

 継実達に襲い掛かったヒョウアザラシは、継実とモモの拳を受けても平然としている。それを証明するかのように、大きな口を開けるや、殴り付けた継実の拳を押し退けて迫ってきた!

 継実は即座に後退。しかしそれでもヒョウアザラシの方が速く、腕を噛まれそうになる。

 そこで軽めの粒子ビームを手から発射。反動で身体の動きを加速し、迫りくるよりも速く離れた。粒子ビームは一応ヒョウアザラシの口内に命中したが……痛がるどころかダメージを受けた様子もない。ばくんっと粒子ビームを飲み込むように顎を閉じた後、悔しげにヒョウアザラシは継実を睨む。

 モモは継実が逃げている間に同じく後退し、継実のすぐ横に陣取る。ミドリは最初から離れていたのでこそこそと継実の背後へと周り、彼女なりに身構えたポーズを取った。

 そして継実は、こちらを睨むヒョウアザラシと向き合う。相手の実力からこの後の戦局を予測するために。

 

「(うーん、これは厳しいな)」

 

 即興での計算結果は、極めて芳しくないものだった。

 ヒョウアザラシの体長は約三メートル。この大きさはミュータント化以前の個体と同等のものであり、ならば体重も恐らく七年前と同等……三百五十キロ程度だろう。

 体重差でいえば継実のざっと七倍。ミドリとモモの分を合わせても、三倍はあるだろうか。つまり向こうの戦闘能力は、こちらのざっと三倍だ。

 数で有利を取っているし、能力のバリエーションも豊富なので戦術面でも有利は取れている筈だが……この極寒の大陸により適応しているのは向こうだ。服を作って寒さは凌げるようになったが、雪の存在や極夜などの環境はどうにもならない。様々な要因を考慮すれば継実達の方が不利であり、恐らく勝ち目は薄いだろう。加えて勝てたところでなんのメリットがあるのか? 既に継実達三人の腹はいっぱいで、温かな毛皮まで手に入っている。コイツと戦っても亡骸は捨て置くしかなく、命の危険があるだけだ。

 つまり。

 

「逃げるッ!」

 

 最善の方針を即座に決めて、継実は大地を殴り付ける!

 衝撃で舞い上がる雪を煙幕代わりに展開。目を眩ませて逃げようとした。

 

「ギャウッ!」

 

 だがヒョウアザラシにとって、舞い上がる雪というのはあり触れた抵抗なのだろう。煙幕代わりの雪が行く手を遮っているにも拘らず、ヒョウアザラシは構わず突撃してきた!

 

「ぬぉ……!?」

 

 咄嗟に腕を前に出し、顔面を削ぎ落とさんとしてきたヒョウアザラシの顎を掴んだ継実。向こうの顎の力の方が遥かに強く、閉じる動きは止められない。が、力を加えた分だけ遅くはなる。

 それは僅かな変化であったが、継実が顔を仰け反らせて噛み付きを回避するには十分。どうにか顔の皮を削がれる事態は避けた。

 

「ギャグオオッ!」

 

 しかしヒョウアザラシは未だ攻撃を止めない。未だ雪の煙幕があり、後退した継実との間にも濃い霧状の雪が漂っているにも拘らず、ヒョウアザラシは正確に継実の顔を狙ってまたしても噛み付きを行おうとする。

 これには継実も驚く。普通、煙幕を張れば多くの肉食獣は攻撃を躊躇う。煙幕内に潜んでいる獲物が、カウンターを仕掛けるため構えている可能性もあるからだ。煙幕を恐れず突撃するなんて行いは、相手の得意な範囲に飛び込む自殺行為に他ならない。ましてや一度攻撃を防がれたなら、後退して体勢を立て直した方が後々得策であろう。

 なのにヒョウアザラシは何の迷いもなく突撃し、舞い上がる雪で視界が塞がっている中襲ってきた。再攻撃にも躊躇いがない。だとするとコイツは底抜けの間抜けなのか? 恐らく違う。南極が如何に他の地域と比べて生物数が少ない = 生存競争が厳しくないとしても、そんな間抜けは七年で淘汰されている筈だ。狩りが失敗するだけなら兎も角、反撃を喰らう性質は高頻度で命に関わるがために。

 恐らく、ヒョウアザラシには雪の中が()()()()()。それが能力によるものか、聴覚や経験などを応用した結果かは分からないが。

 

「この辺か!」

 

 継実の予想を裏付けるように、モモが繰り出した踵落とし……彼女も煙幕内は見通せないが、ミドリの索敵と脳内通信で座標は伝わっているため極めて正確な攻撃だ……をヒョウアザラシは悠々と躱す。更に地面へと着地した衝撃で一瞬動きの止まったモモに対し、尾ヒレ(正確には変化した脚部)の一撃を放つ!

 全身をバネのように使ったであろう打撃の威力は凄まじく、モモの身体のみならず煙幕代わりに撒き散らした雪も吹き飛ばす。物理攻撃に強いモモであるが、吹き飛ばされる間際顔を歪め、受けた打撃の強さを物語る。

 飛ばされたモモを追撃しようとしてか、ヒョウアザラシの身体に力がこもる。だがそうはさせない。自分の方から意識が逸れた瞬間を狙い、継実はヒョウアザラシのこめかみに向けて蹴りを放つ!

 頭への一撃を受け、僅かにヒョウアザラシの顔が歪む。が、即座に振り向き、蹴り付けた脚に噛み付いた!

 メキメキと骨の軋む音が継実の全身に響く。継実が抱いた感覚的に、ヒョウアザラシが骨を砕いてを脛の真ん中から切断するのは難しくない。このままでは足を切り落とされてしまう。足を切られても回復自体は簡単だが、一時的な戦闘能力の低下は避けられない。

 

「こなクソッ!」

 

 そんなのはごめんだ。継実は強引に足を動かし、敢えて切り裂くようにして噛み付きから脱出。ぐちゃぐちゃの足でヒョウアザラシの鼻っ柱を蹴り、ついでに血飛沫で目潰しをお見舞いする。

 雪の煙を見通せる目でも、血飛沫というダイレクトな攻撃は見通せないらしい。目に血が入った途端ヒョウアザラシは顔を背け、継実から視線を外す。

 攻撃の手が弛んだ今こそがチャンス。

 

「全速力で撤退!」

 

「ガッテン!」

 

 継実の掛け声に合わせ、モモは後退を開始。継実もミドリを抱えて即座に走り出す。

 目潰しの効果はすぐに消え、ヒョウアザラシは継実達を追い始めた。大きな口を開け、牙と涎を撒き散らしながら。

 継実は背後の気配を察知しながら、ヒョウアザラシの速度を測る。

 

「(速い……私どころかモモ以上か)」

 

 どうやらヒョウアザラシは、吹雪の中を泳ぐように進めるらしい。吹き荒れる雪がまるで水流のように動き、ヒョウアザラシの身体に推進力を生み出す。雪に潜る事で風も避けており、移動時に生じる抵抗は僅かだ。

 対して継実達はどうか? 今逃げている進路は風上に向けてであり、逆風が吹き付けている。ミュータントにとっては逆らう事など造作もないが、それでも『逆向き』の力を受ければ僅かに減速する。そして何より、継実達の足は雪に埋もれていた。強引に蹴り上げて進む事は出来るが、ハッキリ言って動き辛い。

 能力により優れた推進力を持つヒョウアザラシと、様々な要因が前に進むのを阻んでくる継実達。しかもヒョウアザラシの方が個体のパワーは上だ。どちらが速いかは、言うまでもないだろう。

 

「(諦めてくれるまで逃げるべきか。或いは何処かで反撃すべきか)」

 

 逃げるための算段を考えつつ、ヒョウアザラシとの距離感を測った。ヒョウアザラシはどんどん継実との距離を詰めてきて……

 不意に、ヒョウアザラシがその動きを止める。

 大きな攻撃の準備か? 継実とモモも同じく足を止め、素早く身体の向きを反転。ヒョウアザラシの攻撃に備えようとした。

 したが……立ち止まって数秒。ヒョウアザラシからの攻撃は何時まで経っても始まらず。

 それどころかヒョウアザラシの視線は、継実達から逸れているではないか。

 

「……………」

 

 無言でヒョウアザラシは何処か……風上の方を見ている。継実達の事など最早頭にもないのではないかと思うほど、その一点だけを凝視していた。

 あまり油断も出来ないが、ヒョウアザラシが何を気にしているかも知りたい。継実もヒョウアザラシが見ている方に意識を向け、能力により索敵を試みた……が、継実にはこれといって感じるものはない。姿形は勿論、熱や電磁波などのエネルギーもだ。

 能力や感覚の違いで、継実には捉えられない存在がいるのだろうか。だとすれば、それは一体――――

 

「ギュゥ……!」

 

 考え込んでいる間に、ヒョウアザラシは小さな鳴き声を上げてその身を翻す。

 悔しさに滲んでいるでも、怒りを滾らせている訳でもない。これは 気持ちを切り替えるための鳴き声だ。

 つまり今抱いている心情、即ち狩りの気持ちを捨てるための行い。

 ヒョウアザラシはもう、継実達を仕留めるつもりはないのだろう。吹き荒れるブリザードと宵闇の中へと消えていった姿は、ひとまず当分は戻ってこない筈だ。

 

「えと……さっきの動物、なんで逃げたんですか?」

 

「さぁ? ミドリはあっちの方でなんか気配とか感じる?」

 

「……うーん。これといって何も……」

 

 モモとミドリは互いに首を傾げ、不思議がっている。継実達の誰一人として、ヒョウアザラシが一体何を恐れていたのかが分からない。

 本来ならば、ヒョウアザラシが見ていた方角は避けるべきだろう。自分達より遥かに強いヒョウアザラシが逃げ出すような何かが、そこにいる可能性が高いのだから。

 そう、出来る事ならその道は避けたいのだが……

 

「……ところでモモ。人間の臭い、どっちに向かってる?」

 

「訊かなくても分かるでしょ。なんで私が風上に向かって逃げたと思ってんのよ」

 

「だよねぇー」

 

 風上に向かって逃げるのは得策ではない。逃げる側(前を走るモノ)が風を受け止めるため、その後ろを走るモノは風による抵抗を受け辛くなる。つまり後ろを走る側の方が速く走れるのだ。

 余裕で逃げられるなら兎も角、格上の捕食者相手から逃げる時に風向きへと向かうのは不適切な行動だ。そしてモモは相手の実力を見切れない間抜けではないし、咄嗟の判断力に劣る訳でもない。

 理由があってモモは風上に向かったのだ。そしてその理由こそが、人間の臭い。

 アザラシの亡骸にあった人間の臭いは、風上の方に向かっていたのだろう。臭いがない方へと逃げていては、逃げ回っているうちに人間の臭いが消えてしまうかも知れない。だからモモは多少困難でも、臭いを辿るように逃げたのである。

 つまり。

 

「私らが人間に会うためには、この怪しい方角に行かなきゃいけない訳だ、と」

 

 くるりと、継実は風上に目を向ける。

 何時もと変わらない暗闇と吹雪は広がれども、確かにある筈の『気配』が未だ感じられない方へと――――



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凍える大陸09

「いや、いやいやいやいや!? 遠回りしましょうよ普通に!」

 

 ミドリが首をぶんぶんと左右に振って、継実の意見――――風上に向かって進むのを拒否した。

 ちょっと拒否感がある、なんてものではない。断固拒否と言わんばかりだ。表情も強張り、今の気持ちの不動ぶりを物語るかのよう。

 彼女がそう言う気持ちは継実にも分からなくもない。言い出しっぺである継実自身、自分が割と無茶を言っている自覚はあるのだ。

 人間の臭いを辿るため、()()()()()()()()()()()()()()へと直進するなんて、普通に考えれば自殺行為以外の何物でもないのだから。

 

「まぁ、出来る事なら進むにしても遠回りしたいよね」

 

「同意するなら言わないでくださいよ!? 安全に迂回しましょうよ!」

 

 ミドリの意見に同意すれば、ミドリからは至極尤もな反論が。

 無論、継実だって考えなしにそんな論外な提案をしている訳ではない。普段なら間違いなく迂回しながら進む事を選ぶ。ただ今回は迂回する事が、後々問題になるから出来ないのだ。

 

「まだ人間の気配を捉えてないから無理よ。臭いってのは直線で辿るから意味があるのであって、迂回なんてしたら何も分からないわ」

 

 もしも目標こと人間の気配を察知しているなら、危険を避けるように迂回する事は可能だ。相手の居場所をリアルタイムで把握しているため、遠回りのルートをちゃんと頭の中で描けるのだから。

 しかし今の継実達は、人間の存在を臭いでしか把握していない。

 臭いというのは漂うものだ。だからこそ目に見える範囲外、障害物の裏側に隠れていようと対象を捕捉出来る。しかし漂うがために、それは目標の居場所を正確に示すものではない。おまけに空気の流れに乗って飛んでくるものだから、臭いの濃淡が示す『方角』は決して直線的ではないのだ。なんらかの障害物を大きく迂回してるかも知れないし、風向きが変化してぐねぐねと蛇行しているかも知れない。

 臭いが濃い方へと素直に辿れば、やがて目標の場所に辿り着ける。だが臭いが流れてくる方角から相手の場所を推測したところで、殆ど当たるまい。運が良ければ目的地に辿り着けるかも知れないが……運が悪ければトンデモなく危険な場所に出てしまう。そして世界の広さを思えば、間違いなく後者の可能性の方が高い。

 

「そんな訳で危機回避を最優先に考えるなら、迂回なんてせずに端から今回の痕跡を捨てる方がマシだね。どうせ辿り着けないんだから」

 

 継実の説明にミドリは反論をしなかった。しかし噤んでいる口がもにょもにょと動いていたので、納得はしていないようだが。具体的には「じゃあ今回は諦めましょうよ」とでも言いたいのだろう。

 実際、ここで危険を犯す必要があるのか? とは思わなくもない。ヒョウアザラシにすら勝てない継実達が、ヒョウアザラシの恐れる敵に勝てる訳がないのだ。今回は諦めて、次のチャンスを待つのが得策かも知れない。

 ――――ヒョウアザラシに襲われる前までの継実なら、きっとそう考えただろう。

 だが、ヒョウアザラシの存在が考えを改めさせた。そしてヒョウアザラシの恐れた存在が、考えを確信に至らせる。

 

「あと、どうにも南極の動物は気配を探るのが難しいみたい。さっきのヒョウアザラシも、モモが臭いで察知しなければ、多分接近に気付けなかっただろうし」

 

 これまで継実達が出会った生物にも、ギリギリまで気配を感じさせない存在はいくらでもいた。だが気配はなくとも視線を感じさせるなど、完全な奇襲攻撃に成功したものはあまりいない。精々襲われている事すら隠し通した、あのハマダラカだけだ。

 ところがヒョウアザラシは見事気配を消し、襲われるその時まで気配を感じさせなかった。風上から現れたお陰で奇襲は回避出来たが、モモがいなければ間違いなくやられていただろう。

 恐らく南極の生物は、気配を消すのが得意なのだ。理由もなんとなく想像が付く。南極は過酷な大地故に植物が殆ど生息しておらず、その他小動物などもかなり少ない。大型動物は少なくないが、それらが餌にしているのは地上と違って栄養満点な水が満ちている海の生き物だ。純粋な地上性生物は殆どいない。七年前の時点では、冗談抜きに体長二〜六ミリのナンキョクユスリカが最大の『陸上動物』だったぐらいである。

 周りにたくさんの生き物がいれば、自分の気配を紛れ込ませるなどして誤魔化す事も出来るだろう。しかし生き物が少ない南極ではそんな真似など出来ない。木々や草花が生えていないので身を潜める事も出来ないし、巨大な岩も大して転がっていないので隠れられない。雪が積もっているので潜れば姿を隠せるが、砂漠の砂ほどの厚みはなく、隠れられるのは小さな生き物だけだ。

 物理的に姿を隠すのは困難。そうなると自力で気配を隠せる個体が、捕食者にしても被食者にしても生き残るのに有利だ。この地に暮らす人間の気配が中々見付けられないのも、そうした生物の毛皮等を着ていると考えれば納得がいく。

 

「つまり、南極の生き物はこちらに気付かれないよう接近するのが得意。私らがそれに気付くのは難しくて、奇襲を受ける可能性が高い」

 

「さっきは臭いで気付けたから良かったけど、格上に先手取られたら割と普通に死ねるわねー」

 

「こっちが気配を消すってやり方もあるかもだけど、気配を消すもの同士で競争してるなら、捕食者は気配察知能力も進化させてる筈。私ら程度じゃ多分無理ね。だから迂回しようがどうしようが、安全なルートなんて多分ない。最短コースで人間のところに辿り着くのが、一番確実で安全って事」

 

 継実が説明し、モモも同意しながら話す。家族二人の言葉にミドリはますます顔を歪めたが、やはり言葉は出てこなかった。

 ……しばらくしてミドリはため息を吐く。頭を左右に振ると、達観したような顔付きに変わっていた。

 

「……分かりました。あたしがさっきの動物の接近に気付けなかったのは事実ですし、それしかないって事は理解しましたよ」

 

「うん。理解してくれて助かる。あ、一応人間との合流は諦めて南極から脱出する、こんなところにいられるかオレは帰るぞプランもあるけどどう?」

 

「死亡フラグの塊をさもプランBみたいに言わないでください。というか後戻りなんて出来ないじゃないですか、ミツバチさんのロボット最初に逃してる時点で」

 

 ミドリからのツッコミに、今度は継実が言い返せない。ミドリが言うように現状後戻りは出来ないのだ。戻る気がなかったがために。

 そしてミドリはそれ以上の文句を言わない。

 後には戻れない。迂回路も見付からない。ならば足踏みしていても仕方なく、前に進むのが一番良い。ミドリも厳しい自然界で暮らしてきた事で、それは理解するぐらいには彼女も合理的になったのだ。

 

「さて、ミドリにも納得してもらったし、そろそろ行こうか。臭いが消える前に」

 

「そうね。くんくん、くんくん」

 

 継実の指示を受け、モモは臭いを嗅ぎながら歩き出す。継実とミドリはその後を追う形で、南極大陸の奥深くへと進み始める。

 が、歩いて数秒も経たないうちに継実は足を止めた。

 それから自分の『右側』に、ふと顔を向ける。

 

「……継実さん?」

 

「ん? ああ、なんでもない」

 

 その行動を怪訝に思ったであろう、傍を歩いていたミドリに声を掛けられ、継実は反射的にそう答えた。ミドリは納得してないのか首を傾げたものの、追求するほどでもないと思ったのか、それ以上は訊いてこない。

 訊かれたところで継実としても困るだけだが。

 自分でも何故立ち止まったのか分からない。微かな違和感があるような気がしたのだが……視線の先に広がるのは平坦な白銀の大地ばかり。能力を使って観測してみても、周囲に音がないか確かめても、なんの異常も捉えられなかった。大気分子も特に異変はなく、モモも必死に臭いを嗅いでいる中で無反応なので異変は感じていないらしい。

 しかし油断は禁物だ。南極の生物は気配を消すのが上手いと思われる。もしかするとハマダラカのように、実際に襲われても気付けないような存在が、既に継実の身体に『攻撃』を仕掛けている最中かも知れない――――

 そう考えて警戒心を強める継実だったが、すぐに首を横に振った。そこまで心配する必要はないと、考えを改めたからだ。

 南極大陸の生物は気配を消すのが上手いと推察した手前こういうのも難だが、気配を消すというのは中々難しい行いだ。特にミュータントなど、本気になれば星をも砕きかねない化け物揃い。自分の力を九割九分以上抑えたところで、七年前の生物なら発狂するようなプレッシャーを与えただろう。

 ミュータントの力の気配を消すというのは、核爆発の存在を世界に隠蔽するようなものだ。音や放射線が漏れないように遮蔽物を建てたり、振動を抑える素材を使ったり、世界中の観測機器にハッキングしたり……兎にも角にも『エネルギー』を使う。つまりミュータントが自分の気配を小さくするためには、()()()()()()()()()()()使()()必要がある。

 以前出会ったハマダラカはミドリに接触した後でも誰も気付かなかったが、あれは恐らく能力にほぼ全ての力を費やした特化型だ。故に戦う力は極めて脆弱であった。気配を消すのに全身全霊を費やしているので、筋力やらビームやらを撃つ余裕がないのである。それだけの苦労をしても、直に触れられたらバレてしまう。気配を消し続けるというのは、それぐらい難しい事なのである。

 南極の大地にもハマダラカと似たような生き物がいたとして、気配を消すのに多くのエネルギーが必要なのは間違いない。気配を消すのに力を費やせば戦う力は弱くなり、気配を消すのが『下手くそ』な継実達の方が戦いの力は上となる。

 存在に気付いていない危険な生物がいるとすれば遠くであり、近くにいるとすれば割と安全な存在なのだ。油断して良い訳ではないが、無闇矢鱈に恐れるのは、過度の緊張感で精神を摩耗する行いに等しい。

 

「(緊張するのは良いけど、緊張し過ぎも良くないからね。違和感があったように感じたのも、ちょっと気張り過ぎた所為かな)」

 

 継実は全てのミュータントを知っている訳ではない。だから『もしも』を考え出したら切りがない。故に継実は気持ちを切り替えて再び歩き出し、何時も通りに警戒しようとする。それが一番合理的だからだ。

 ――――そう、継実は思っていた。思い込んでいた、思おうとしていた。自分の考えた理屈が正しいと理性が無意識に。本能の警告を抑え付けて。

 自分のすぐ傍に広がる暗闇の中に潜んでいた瞳と、自分の目が一時ぴったりと合っていたにも拘らず……



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凍える大陸10

 継実達がヒョウアザラシを振りきってから、どれだけの時間が経っただろうか。

 空を見上げても吹雪を降らす雨雲が広がり、その雲の向こう側を能力で見通しても星空しか見えない今、正確な時刻を窺い知るのは難しい。しかし継実の感覚的には三十分ほど歩いていたつもりだ。

 ぎゅ、ぎゅっと、雪を踏み鳴らす音が歩く度に響く。とはいえ三十分前よりも強くなったブリザードの轟音により、足下の音など殆ど聞こえないが。そして獣の鳴き声や足音も同様に。勿論姿なんかは影も形もない。

 『情報』だけで判断すれば、継実達の周りに危険な生物はいないようだ。尤も、その間隔は継実に安心をもたらさない。

 

「(ぶっちゃけ、怪しい気配がある方がずっと安心出来るなぁ)」

 

 周りを警戒しながら、継実はぼんやりと思う。例えばホラー映画における怖い時というのは、決まって幽霊が出ていない時だ。登場人物が幽霊に襲われて殺されるシーンそのものを見ても「あーあ殺されちゃった」としか思わない。人間にとって恐怖を煽るのは、確信が持てない時の不安なのである。

 映画ではない、野生の世界(現実)でも似たようなものだ。流石に恐怖心は実際に襲われている時の方が(何分殺されそうになっているのだから)強いが、不安に関しては襲われていない時の方が遥かに強い。心が掻き乱され、パフォーマンスを維持するための平静が保てなくなってくる。南極の生物は隠れるのが上手という情報があれば尚更に。

 自分はちゃんと見えているのか。いいや、十中八九見落としているだろう。モモが臭いで気付いてくれるか。しかし相手が風上から来れば良いが、風下からやってきたなら? 体毛などを持たない、臭いの薄い動物が狙っている可能性も否定出来ない。上空や地中など、陸上生物である自分達の意識的死角に潜んでいる事だって考えられる。

 ……悪い事というのは、どれだけ考えても浮かんでくるものだ。これはもう人間の性というものだろう。いや、或いは知的生命体の性かも知れない。怯えた顔でキョロキョロと辺りを見渡すミドリを見るに。

 

「ふんふん。こっちねー」

 

 ずんずんと雪上を進むモモだけが、全く恐怖心がない様子だった。

 

「……モモは迷わないなぁ」

 

「ほんとですね……モモさんは怖くないのですか? あたし達の誰も危険な生き物に気付かないかも、いえ、気付いていないだけかも知れないのに」

 

「ん? 怖がっても意味ないじゃん。分かんないもんは分かんないんだから、気にしたってしょうがないでしょ」

 

 それに私は二人の事信じてるからねー。モモはあっけらかんとそう答え、継実とミドリに乾いた笑みを浮かばせた。モモとしてはそんな気は一切ないだろうが、中々のプレッシャーを掛けてくる。尤も継実達が何かを見逃し、その結果危険な目に遭ったとしても、モモは恨んだりしないだろう。『信じる』と決めたのは自分自身なのだから。

 出来ればその信頼に応えたいところ。継実は燻る不安を追い出すように息を吐いてから、少しミドリやモモから離れるように横へと動く。モモの後ろを付いていくばかりでは、視界の問題で敵の存在を見落とすかも知れないからだ。

 無論、そんなちょっと横に動いたぐらいで、見える世界が大きく変わるものでない。正直に言えば気分転換という方が正しいだろう。モモの背中という変わり映えしない景色に飽きただけ。

 そうして立ち位置を移動しようとした、その時である。

 

「ぎゃぶっ!?」

 

 突然、ミドリがこけた。

 声に対して反射的に振り向くと、ミドリは顔面から雪に突っ伏していた。しかも両手を前に突き出した、見事な転びっぷり。これほど美しい転倒フォームは滅多にお目に掛かれない。

 ……等とくだらない事を考えつつ、継実はミドリの傍に寄る。モモも足を止め、倒れているミドリを見下ろした。

 

「……どしたの?」

 

「ぶはっ! けほけほ……いや、なんか後ろからどつかれたような……継実さん、イタズラしました?」

 

「いんや? つーか普段なら兎も角、流石に今はそんな事しないって」

 

 じゃれ合いとして誰かにイタズラをする事は継実にもある。しかしそれは安全が確保されている時の話だ。今のように敵が何処から来るか分からない時にイタズラをしたら、僅かに陣形が崩れたタイミングで襲われるかも知れない。そんな危険を犯してまで悪ふざけをするほど、継実は空気の読めない人間ではないのだ。

 とはいえ、何を馬鹿な事をと否定するのは良くない。どんな不思議も起きないとは限らないのが今の世界。例えばある生物が仕掛けてきた攻撃がミドリの背中に直撃した、或いは何処かで繰り広げられている戦いの余波が飛んできた……そんな可能性もある。

 継実とモモは揃って辺りを警戒。果たして結果はどうかといえば――――これといって怪しいものはない。襲い掛かってくるものも、離れたところで繰り広げられている激戦も。

 

「……やっぱりなんか蹴躓いたんじゃない?」

 

 モモが言うように、何もなければそんな結論に落ち着くしかないだろう。

 

「えぇー……そりゃ確かに周りからは何も感じませんけど、でも」

 

「ほら、文句垂れる前に立ち上がる。何時までも寝てたら、そのうち本当に襲われるよ」

 

「へーい……うーん、確かに背中を押されたと思ったんですが……」

 

 表向き了承したようで、しかし言葉と顔から渋々といった様子で立ち上がるミドリ。

 その間も継実は周りの気配に注意していたが、これといった変化は感じ取れない。やはりミドリがなんか勘違いしてるんじゃないかと思いながら再び歩き出した

 直後、継実はごつんと()()()()()()()()()()

 

「ぬぉ? お、おぉっ!?」

 

 障害物は丁度足首を引っ掛けるように存在し、継実のバランスを崩す。警戒は弛めていなかったが、その警戒心が向いていたのは自分の周り。足下、正確には下半身全般の意識はかなり疎かだった。

 普段ならちょっと蹴躓いただけなら体勢を立て直すぐらい余裕だが……此度は色々な不運が重なった。傾いた身体を立て直すにはちょっと時間が足りない。深々と雪の積もった足場も状況の悪化に加担する。

 

「ばむっ!?」

 

 継実もミドリと同じく、顔面から雪に突っ伏した。

 一瞬の沈黙を挟んだ後、ミドリがげらげらと笑い出す。モモもギャハハと笑っている。

 あまりにも無遠慮な笑い方。起き上がった継実は、反抗的な眼差しで二人を睨む。とはいえ自分もミドリに対して呆れた眼差しを向けたのだから、笑われもするというもの。自分のした事をされて怒るのはあまりにも大人気ない。

 しかし人間のプライドはとても面倒臭いものだ。自分の行動に非があると分かった上で、なお怒りは込み上がる。無論家族にこんなしょうもない怒りをぶつけるほど、継実は感情的ではない。怒りはあくまでも原因にぶつけるべきだ。

 苛立ちの対象は家族から、自分を転ばせた物体に向くのは自然な事。雪の中に埋もれているであろう不埒者の正体を見ようと、継実は後ろを振り向く。

 

「……は?」

 

 次いで出てきた声がこの一言だ。

 人によっては怒りを示すように聞こえるだろう言葉。だが、今の継実は違う意味で吐き出した。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「継実? どうし――――」

 

「モモ。本当に何も感じない?」

 

「……ええ、何も。強いて言うなら私達が辿っている、人間の臭いしかしないわよ」

 

 尋ねてきたモモに継実は質問で返す。モモは瞬時に継実の言いたい事を察したようで、警戒心を一気に高めた。

 継実は転んだ際、何かに蹴躓いた。

 恐らく棒状のものであり、最初は骨の類かと思っていた。ところが継実が雪の中を透視した時、そこには()()()()()()のである。

 転んだ際、何かに蹴躓いたのは間違いない。ミュータントの反応速度で瞬時に周辺を観測した結果だ。だが、その何かが見付からない。

 奇妙というよりもこれは異常事態。ならばミュータントの仕業ではないかと考えたのだ。ミドリの身に起きた『背中を押された』と合わせれば、ほぼ確実に。

 

「(……いや、ん? あれ?)」

 

 故に緊張感を高めていたのだが、ふと、首を傾げる。

 仮に、継実とミドリの転倒がミュータントの仕業だとしよう。方法は兎も角として、自分達は転んだ。その瞬間はとても隙だらけだったと言っていい。

 ところがどうしてか、未だに攻撃の一発すら喰らっていない。

 致命的な攻撃は勿論、掠り傷を負うような打撃もないのだ。どんな攻撃でも先手は先手。喰らわせればそれなりのアドバンテージとなる。むしろここで攻撃しなければ、今の継実のように存在に勘付かれて、折角のチャンスをふいにしてしまう。そして二度目はない。怪しい攻撃に、誰もが警戒心を強めてしまうからだ。

 どうして攻撃がなかったのか? 暴風と共にやってくる雪が頭に積もり、臨戦態勢を整えていた身体と脳を冷ましていく。

 そして冷静になった頭が示した答えが――――全て勘違いだという可能性。

 

「……うーん」

 

 正直釈然としない。ミュータントである継実の反応速度と観測能力が、確かに『何かに躓いた』と判断したのだから。

 しかしそういう可能性も、全くのゼロとは言い切れない。生物なのだから偶にはミスだってするものだ。ましてや現状、何かがあったという証拠を継実は見付けられていない。

 冷静に、合理的に考えれば考えるほど、自分の勘違い説が濃厚になる。なんだか自分が間抜けに思えてきて、継実は全身から力を抜いた

 次の瞬間、()()()()()()()()

 

「どぅふ!」

 

 どつかれた衝撃で継実は再度転倒。再び顔面が雪に埋もれ、踏み潰されたカエルのように四肢を広げた姿を白銀の大地に残す。

 あまりにも無様な姿であるが、今度はミドリもモモも笑わない。継実も、今更激しい怒りを込み上がらせはしない。代わりに心を満たすのは闘争心と確信。

 今の『一撃』で、近くに何かがいるのが明らかとなったのだから……



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凍える大陸11

「で? どうするつもり?」

 

 雪の中からゆっくりと起き上がった継実に、モモが質問を投げ掛けてくる。

 どうするとは、つまり『何か』にどんな対応を取るのか、という事だ。とりあえず継実の脳裏に浮かぶものとしては、主に三つの選択肢がある。

 一つは無視。今のところ転ばされるだけで実害も何もないのだから、こんな奴に構うだけ無駄だ。だから気にせず無視すれば良い。

 もう一つは戦闘。何かがいるのは確かだから倒してしまう、或いは相手が逃げ出すまでタコ殴りにするのだ。そうすれば後は邪魔が入らず、ゆっくり丹念に人間の痕跡を追える。

 最後の一つは逃走。相手の正体がなんなのか、目的がなんであるかすら分からないが、逃げきってしまえばどうでも良い。全速力で此処から立ち去ってしまうのだ。

 パッと浮かんだ三つの案を継実は即座に検討する。尤も答えは殆ど迷わないで決まった。

 

「逃げるよ」

 

「りょーかい!」

 

 継実が躊躇いなく告げた言葉を、モモは躊躇いなく実行。継実もミドリを抱えて即座に走り出した。

 三つ浮かんだ選択肢のうち、無視と戦闘の二つは論外だ。相手の目的も分からないのに無視するなど、自然界においては自殺行為でしかない。何か大きな事を仕込まれているのに野放しにして手遅れになろうものなら、本当にただの間抜けである。だからといって戦い、つまりケンカを吹っ掛けるのも得策ではない。相手の実力も分からないのに邪魔だから戦おうとする輩は、これまたただの間抜けである。この星の自然は何時だって『人智』を超越するもの。相手が自分より強くないとは限らない。

 一番安全で確実なのは、相手から逃げる事。しかしながらただ走れば達成出来るかといえば、そうとも限らない訳で。

 

「(さぁて、付いてきているか、いないのか)」

 

 走りながら継実は周辺を索敵する。しかしどれだけ探ろうと、自分達を付け狙う存在は確認出来ず。恐らくかつて出会ったハマダラカのように、気配を消す事に特化した能力の持ち主なのだろう。

 だとすれば相手の戦う力は左程強くない筈。なら逃げるのを止めて撃退する方が確実か、等と考えるのは早計だ。相手が見付からなければその『弱点』は突けない。それどころか一方的に攻撃され、徐々に弱らされる戦術を取られる可能性がある。継実達から戦う力が失われたところで、能力を解除して真の力を開放……なんて事をされたら敵わない。

 やはり逃げに徹するのが正解だ。しかしどこまで逃げれば良いのだろうか。相手が見えない以上、自分達が逃げ切ったという確証を得る術などないのに。

 逆に、相手がまだ傍にいる証であれば特に困らない。

 

「きゃああああああああああっ!?」

 

 継実の背後でミドリの悲鳴が木霊する。

 何故ならミドリの服の裾……雑に作った結果スカートのようになっていた部分がぴらりと捲れていたのだから。所謂スカート捲りである。

 七年前の男子小学生(女子でもする奴はいるかもだが)なら先生にこっ酷く怒られる所業だが、文明も文化もない今の世界においては全くの無駄行動である。悲鳴を上げる価値もない。強いて問題点を挙げるなら、裾を掴まれて動けなくなっている事ぐらいだ。

 ちなみにスカート捲りに遭っているミドリは、スカートの裾を両手で押さえている。そんな事をしたところで、何一つ問題は解決しないのだが。

 

「なーにしてんのさ。服なんか触ってないで、手を振り回して追い払えば?」

 

「はっ! そうでした。なんか身体が勝手に……」

 

 ミドリの身体こと、人間の死体にその記憶があるのか。無意識の行動をしていたらしいミドリは我に返るように目を見開いた後、腕をぶんぶん振り回す。

 すると、ぺちんっ、という音と共にミドリの手が弾かれた。

 次いで掴まれていた服の裾が離され、ミドリは自由を取り戻す。その拍子に前のめりにすっ転んでしまったが、取り戻したものと比べれば安い代償だろう。身体を起こし、継実達と共に再び走り出したミドリはぽりぽりと頭を掻くだけだ。

 

「……なんとか脱出出来ましたけど、なんだったのでしょうか」

 

「さぁてね。男子のイタズラかも」

 

「ああ、それならこの方は人間ですね。ヨカッタヨカッタ」

 

 継実のボケに対して、白けた笑みを浮かべるミドリ。言うまでもないが、人間だとは微塵も思っていないだろう。

 しかし、イタズラ、という点について継実はそこまで出鱈目とも思っていない。

 

「(食べる訳でもなければ、嬲る訳でもない。イタズラじゃなきゃ、ただの間抜けか)」

 

 生き物だって遊びを行う。例えばシャチはオタリア(アシカの仲間)をボールのように弄ぶ事があるという。犬猫が虫やトカゲを優しいパンチで嬲り殺す事も、イルカがタコを振り回してオモチャにする事もある。生き物にとって他の生き物の命など、なんの価値もない。興味を持てば遊び、オモチャにして、そのうち壊すだけ。

 相手の正体は不明だが、遊びとして他の命を弄ぶ事はあり得る。人間がその対象になる事も大いにあり得る事だ。

 問題は、何時までも遊んでいる訳ではないという点だろう。

 

「(今は遊びでも、そのうち飽きて餌と認識するかも知れない。或いは力加減を誤ってうっかり、なんて事もあるかも。今のうちになんとか振り切らないと不味いな)」

 

 逃げる事は決めたが、相手の位置が分からないとどう逃げるかも決められない。今のようにがむしゃらに走っても体力を消耗するばかりか、回り込んでいた相手の懐に飛び込むだけとなる可能性もある。

 なら、相手の足を止めてしまえば良い。

 

「今度は、効くかな!」

 

 継実は足を力強く地面に叩き付ける!

 渾身の力を込めた一撃は地震を引き起こし、同時に降り積もっていた雪を舞い上がらせた。

 ヒョウアザラシの時に使ったのと同じ煙幕作戦だ。展開するのと同時に継実達は一斉に走り出し、相手の視界が塞がっているうちに距離を開けようとする。ヒョウアザラシ相手には通じなかったが、果たして今回はどうか?

 ……気配が感じられなく、姿も見えないとなれば、煙幕の効果も分からない。まだしばらくはひたすら走るしかないのかと、これから続く逃走劇に憂鬱な気持ちになってくる。

 その時、モモがすぐ横にやってきた。

 音速を超える速さで走る継実の耳に、モモは毛を一本伸ばして差し込んでくる。何かを伝えたいらしい。意識を片耳に集中させた。

 

「継実。ちょっと耳を澄まして……足音がしている気がする」

 

 体毛を通して聞こえてきた言葉は、より耳に意識を向けろというもの。

 言われるがまま、耳を澄ましてみる。バタバタと走る自分達の足音が五月蝿い。そうした雑音をスーパーコンピュータ以上の演算力を誇る頭脳で取り除き、他の音がないか解析する……

 そうすればモモが言うように、足音が聞こえてきた。微かな、ネズミが歩くような小ささで。

 

「ちっさ……なんだこれ……?」

 

 あまりの小ささに、思わずぼやく。

 足音が聞こえる方角を見たが、やはり敵の姿は確認出来ない。また歩いているなら出来るであろう、足跡などの痕跡も見られなかった。

 余程身体が小さいのか、それとも能力により音や痕跡を隠しているのか、そもそも本当に足音なのか――――原因はどうあれ、相手の存在を捉える事には成功した。

 足音というのは些末なものに思えるが、実のところこれ一つで様々な情報を得られる。

 例えば相手との位置関係。

 足音は継実達の背後、凡そ百メートルの位置から鳴っているらしい。そこから猛烈な速さで、走り続ける継実達を追跡している。距離が離れているのは煙幕により一時的に足が止まっていたのだろう。どうやらヒョウアザラシと違い、それなりに目眩ましが有効らしい。

 ただし、その距離は刻々と狭まっている。どうやら走る速さは相手が上らしい……足音が近付いてきている事から、その事実も明らかとなった。今すぐ追い付かれる心配はないが、煙幕一回では振りきれないと分かる。そしてこのままでは、最後尾を走るミドリが真っ先に襲われるだろう。

 更にもう一手必要だ。

 

「大体、この辺かなッ!」

 

 そこで継実は、粒子ビームを足音がする場所の()()()()目掛けて放った!

 亜光速で飛ぶ粒子の煌めきは、寸分違わず狙い通りの場所に命中。見えないので断言は出来ないが、恐らく追跡している生物には当たっていないだろう。だが、それで問題ない。

 何故なら継実が狙っていたのは、相手の一歩先の足場だから。

 高エネルギーを内包した粒子の直撃を受け、降り積もった雪は瞬時に加熱される。()が個体でいられる零度どころか気化する百度も瞬時に超え、爆発的な体積の膨張により爆発現象を引き起こす。これにより煙幕としての機能させるのだ。更に爆風と熱波で対象を攻撃……という効果もなくはない。後者は、ミュータント相手では殆ど意味などないだろうが。

 しかし一番の目的は足下の雪、更にその下にある氷を崩す事。

 南極大陸に積もっている氷の厚さは平均二千メートルを大きく超えている。継実達の足の下にも分厚い氷が広がっていて、比較的海岸に近い場所なので二千メートルはないだろうが、相当分厚い氷が存在している筈だ。

 それが莫大な熱量により溶け、気体へと変化したならどうなるか?

 答えは、そこに巨大な『大穴』が出来上がるだ!

 

「(……! 転んだ!)」

 

 耳を澄まし続けていた継実は、背後から今までの足音とは比べ物にならない ― とはいえ継実が普段出してる足音程度の ― 大音を聞き取る。

 姿が見えないので確かな事は言えないが、ネズミ程度の足音しか出さなかった存在が鳴らした『轟音』だ。高確率で、大穴に蹴躓いて転んだのだろう。走る音は上手に消せても、流石に派手に転倒した音までは誤魔化せなかったようだ。

 次いでもぞもぞと、虫が藻掻く程度の微かな音が聞こえる。起き上がるのに苦戦しているのかも知れない。

 その証拠に、しばらくして聞こえてきた足音はかなり遠くなっていた。

 

「(良し、これなら……!)」

 

 大きく距離を開けた今のうちに、出来るだけ遠くに逃げる。可能ならば大きく方向転換した『痕跡』を幾つも残して翻弄する。そうすれば振り切れそうだ。

 なんとかなる。距離が離れ過ぎて殆ど音が聞こえなくなった時、継実は笑みを浮かべた。無論油断などすれば瞬く間に追い付かれる。だから一切気を弛めず、全力で継実は走った

 最中に、それは起きた。

 継実の腕が()()()()()()()のである。

 

「……え?」

 

 その事実を認識するのに、普段なら一ミリ秒も掛からない。大した傷でもないから困惑もあり得ない。

 だが此度、継実は一瞬思考が停止した。足も止まり、受け身も取れずに雪の大地を転がる。

 突然転倒した継実を見て、ミドリとモモも足を止めた。即座に継実の下に駆け寄り、転がったまま立ち上がらない継実の傍にしゃがみ込む。

 

「つ、継実さん!? 腕が……」

 

「継実! 何があったの!?」

 

 意識が戻ってきたのは、腕の切断に気付いたモモとミドリに名前を呼ばれてから。しかしそれでも普段の、冷静に考える力は戻らなかった。

 頭を満たすのは疑問だけ。

 

「(なんで、噛み千切った……!?)」

 

 これまでやってきたのは、どれもくだらないイタズラばかり。なのにここにきて突然の『攻撃』だ。遊ぶのに飽きたのか? それとも今までのイタズラは何かの仕込み? 転ばされた腹いせ? 大体足音は遥か後方だったのに何故次の瞬間に腕をやられた? これまでと行動パターンがあまりに違っていて、おまけに起こり得る筈のない事態まで生じ、思考が全く追い付かない。

 そこを畳み掛けるように、新たな異常現象も生じる。

 噛み千切られた継実の腕が、空中に浮かび上がり、粉々になっていくのだ。ぼたぼたと血が滴り、骨が露出し……虚空に消えていく。

 何が起きている? 意味不明な光景に戸惑う事数秒。更なる異変が継実の目の前で起きた。空間がゆらゆらと揺らめき始めたのである。暗闇と吹雪の色で染まっていた景色に、新たに青みがかった色が映り出す。

 そしてそれは、ついに継実の前に現れた。

 体長八メートルほどの、二足歩行する『大トカゲ』が……



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凍える大陸12

 揺らめく景色の中から、青い色が見えてくる。

 色は徐々に形を作り始め、小さな羽毛となって具現化した。羽毛はどんどん数を増し、広範囲に広がっていく。

 具現化した羽毛は身体のパーツを形作る。まず現れたのは大地を踏み締める巨大な二本足。足と比べれば細いが、継実の身長の倍近い長さを有す発達した腕も見えてきた。その腕の先には剣を彷彿とさせる鋭さの爪を備えた四本指が生えている。継実達三人が並んでようやく超えられそうな長さの尻尾が左右に揺れ動く……そして継実の身体を半分以上丸々と咥えられるであろう、巨大な頭部も姿を現した。尤も頭部を覆うのは羽毛ではなく、硬くて冷たい鱗だったが。

 頭部は爬虫類の顔付きだ。されどワニやトカゲとは違う。現代を生きる爬虫類よりもずっと縦幅が大きく、顎の骨が非常に発達している。並んでいる牙はナイフのように鋭く、肉食獣の特徴を有していた。大きな目玉から感情は感じられないものの、獲物は決して逃さないという強い『意思』は感じられる。

 継実はその生物をなんと呼ぶべきか知っている。ミュータント化した際に流れ込んできた様々な『知識』ではなく、十歳の時から既に。しかしそんな筈はないと理性が否定する。その生物はもう絶滅して、地上から消え去ったのだ――――六千六百万年前に。

 だが、何度否定しても姿は消えない。

 

「恐、竜……!?」

 

 継実の前に現れた、全長八メートルもある巨大恐竜は。

 身体のフォルムは典型的な肉食恐竜、具体的にはちょっと細身のアロサウルスのようだ。とはいえ身体は羽毛に覆われていて、鳥の変化系にも見える。

 恐竜が進化して生まれたのが鳥だ。正確には鳥 = 恐竜であり、六千六百万年前に絶滅したのは『非鳥類型恐竜』。恐竜()はまだ絶滅していない。

 ミュータント化した生物の進化は早い。ゴミムシが七年で生態系の頂点に君臨するほどに。ならばミュータント鳥にとって、恐竜へ祖先帰りするには七年という時間は十分なものかも知れない。或いは世界の何処かに恐竜が生き延びていたのかと知れないし、はたまた恐竜型の怪物が南極にはいたという可能性もある。いずれにせよ、この恐竜が地球にいる理由はいくらでも思い付く。

 そうだ、現れたものはどれだけ否定しても仕方ない。それよりも問題は――――わざわざ姿を見せたコイツの目的だ。

 

「(つっても私の腕を喰ったんだ。まさか、それで満足なんてしないでしょ?)」

 

 心の中で投げ掛けた継実の問い。それに答えるように恐竜は大きな口を開け、滝のように滴る涎を見せる。

 やはりこちらを喰うつもりだと、継実は納得する。姿を現したのは能力を解除したからだろう……十全の力を発揮するために。

 そう簡単に喰われるものかと継実も臨戦態勢を取り。

 気が付けば、恐竜は()()()()()()()()()()

 

「ぐぬぅ!?」

 

 一瞬の思考後、継実の身体に叩き付けるような衝撃が走った!

 恐竜が振り下ろした腕が、継実の頭上から激突したのである。咄嗟に残っていた片腕を構えて攻撃を受けたが、八メートルもの巨体から繰り出されたパワーは圧倒的。止められなかった余波で全身の骨がひび割れ、内臓の一部が破裂してしまう。

 だがこの程度は問題ない。ちょっと時間とエネルギーを費やせば再生可能だ。それよりも憂慮すべきは他にある。

 

「(攻撃の予兆が、全く掴めなかった!)」

 

 どんな生物でも動く前には予兆がある。筋肉、吐息、熱量……されどこの恐竜が殴り掛かってきた時にはそれらを一切感じていない。故に反応が遅れ、もろに攻撃を受けてしまった。

 何故攻撃の予兆がないのか? 可能性は一つ思い浮かんだが、確信に至るほどのものではない。

 ならば試せば良いのだ。ただしそれをするのは継実である必要はない。

 

「おらァッ!」

 

 モモという頼れる家族が、恐竜の顔面目掛けて跳び蹴りをお見舞いしようとしていた。

 モモはバチバチと電気の音を轟かせ、突き出した右足から稲妻を放つ。超電磁キックを喰らわせようとしているのだ。

 音と光の派手な一撃。恐竜は容易くその攻撃を認識しただろう。纏うエネルギー量から、まともに当たればそこそこ痛い事も。ならばこれを避けようとするのは必然。

 だからこそ継実とモモは、共に恐竜の動きを注視していた、筈なのだが。

 ――――恐竜が跳び退くように回避するまで、その行動を予期出来なかった。

 

「ちっ!」

 

 躱された、と回避された後に認識した継実は追撃の粒子ビームを撃つ。粒子ビームは亜光速で飛ぶエネルギー攻撃。いくらミュータントでもこの攻撃を発射後に躱す事は出来ない。

 恐竜も跳んだ状態での回避は不可能だと判断しただろう。しかしそれは無防備に受けるという意味ではない。長さ四メートル近くにもなる尻尾をぶん回し、粒子ビームを打ち返してきたのだ。尤も粒子ビームは照射するタイプで、一回打ち返しただけでは足りず、後から続いた分は身体を直撃したが……これといって痛がる様子もなく、殆ど効いていないようだ。

 対して継実は返ってきた粒子ビームの直撃を避けるため、大きくその身を仰け反らせる。粒子ビームも止めて回避に専念。直撃を避けた。

 

「まだま、ごぶッ!?」

 

 その隙に電撃でも流そうとしていたであろうモモだが、恐竜が再度繰り出した尻尾の一撃を受けてしまう。決して速い振り方ではなかったが、モモは全く回避が出来ず。尻尾の直撃を受けて吹っ飛ばされてしまった。

 物理攻撃には滅法強いモモだが、圧倒的巨躯の一撃は受け止めきれなかったらしい。ごろごろと雪の上を、木の葉のように転がされた。咄嗟に継実が受け止めなければ、果たして何キロ彼方まで飛ばされただろうか。

 

「モモ! 大丈夫!?」

 

「げほっ……まだ平気。だけど何発も喰らったらちょいと不味いわ」

 

 状況認識は正しく隠さず。モモでも辛い一撃の威力を正確に想像し、継実は背筋が凍る想いだ。怯えはしないが、張り詰めた空気を滲ませる。

 

「……ゴロロロロ」

 

 相対する恐竜は小さく、まるでネズミが鳴いたと勘違いするような声で野太く鳴いた。継実達をじっと睨むように見つめてきたので、継実とモモも睨み返す。どちらも、一歩も退かない。

 戦いが一旦膠着状態に入ったタイミングでやってきたミドリだけは、継実達の後ろに隠れておどおどしながら恐竜を見ていたが。

 

「あ、あの、あたし、全然あの生き物の動きが分からないんですけど……というかアレなんですか!? 鳥の化け物ですか!?」

 

「あー、今の地球しか見てないなら分かんないか。ありゃ恐竜よ。大昔に絶滅した生き物……だと思われていたんだけどねぇ」

 

「ま、分類的には鳥で良いよ。それより……モモ、私が粒子ビームを撃った時、アイツの動き予想出来た?」

 

「いいや全然。実際に跳ぶまで分かんなかったわ」

 

 モモに尋ねたところ、彼女からはそのような答えが返ってくる。継実はこくりと頷いた。自分も、同じく実際に跳ぶまでその動作を予期出来なかったのだから。

 普通跳ぼうとすれば、全身の筋肉を一瞬強張らせ、特に足の筋肉に大きな力を加えなければならない。更に避けようとする攻撃に意識を向け、背筋をしならせ、バランスを取るため尻尾にも力を込めるだろう。ついでに、追い詰めた獲物への名残惜しさを滲ませる筈だ。

 ところが恐竜からそうした気配の揺れ動きは、一切合切感じられなかった。いや、存在感すらなかったと言うべきだろう。お陰で次に何をするのか、全く予想出来ない。

 モモにも出来なかった以上、継実が間抜けだったり、相性が悪かった訳ではないだろう。恐らくこれこそがこの恐竜の『能力』。今までずっと見ていたのだから間違いない。

 

「気配を消す……それがコイツの能力か……!」

 

 戦いにおいて、気配の有無は非常に大きな要素だ。

 正確には、素人同士の戦いであればどうでも良いだろう。読めたところで身体が動かなければ、そんなのは読めないのと変わらないからだ。しかし達人同士、相手の動きに対して適切に動ける者同士であれば違う。攻撃が来ると思って守りを固める、隙が出来たと思って攻撃する……戦いでは相手の『気配』によりこちらの動きを臨機応変に変える。動きを見てから攻撃するのでは、遅過ぎるぐらいだろう。

 だから達人は相手の僅かな動きを見逃さないよう注意するし、自分の動きが悟られないよう可能な限り気配を消す。人間如きの達人でもそれが出来たのだ。超越的戦闘を日夜行っているミュータントにとっては基本中の基本であり、継実やモモとて心得ている行いである。

 恐竜はこの気配を消す事に特化した能力を持っているらしい。姿が見えなくなるのも、足音がしなかったのも、その能力によるものだ。それを戦闘時の動きに応用すれば……誰にも攻撃・防御・回避の瞬間が分からない。

 

「(こりゃあ、ちょっとヤバいな……)」

 

 この極寒の地で冷や汗が流れ出そうなほど、冷たい絶望感を継実は味わう。

 もしもこの恐竜が体長二メートルほどの、体格的に継実と『互角』の相手ならば勝機はあった。気配を消す事にもエネルギーは使われている筈。消費の大きさは分からないが、使えるエネルギーの一部を能力が占有している事に違いはない。つまり戦闘に使えるエネルギーは、気配を消す力を差し引いた余りでしかない。故に全ての能力(エネルギー)を戦闘力に注ぎ込める継実達よりも、パワーやスピードでは一段劣る筈だ。結果継実達が肉弾戦で有利を取れ、勝つのはそう難しくなかっただろう。どれだけ完璧に気配を消そうが、肉薄して相打ち覚悟の戦い方をすれば関係ないのだから。

 ところが此度の恐竜は、継実達よりも遥かに大きい。全長(今更だがこれは頭の先から尻尾の先までの長さだ)八メートルといえば古生代に生きていたアロサウルスと同等の大きさで、そこから算出される推定体重は約二トン。体重五十キロの継実よりも四十倍ほど重たい。使えるエネルギー量が体重に比例するとすれば、仮に能力に九割のエネルギーを費やしていたとしても、まだ四倍も継実より強い力を出せる計算だ。実際には、恐らく一割も能力に力は割いていないというのが継実の想像だが。

 仮に想定通り九割以上の力を自由に使えるとすれば、この恐竜は継実の約三十九倍にもなるパワーを継実に叩き込める。自身の三十九倍という力を七年前の普通人で例えれば、重さ六十キロの物体が時速九十キロで激突するようなもの……大体高さ三十メートルの位置から飛び降りた成人男性の下敷きになるような一撃だろう。当たりどころにもよるが、即死してもおかしくない。防御したところでろくに受け止めきれず、叩き潰されるのがオチだ。

 そして何より恐ろしいのは、その攻撃の動作が全く予期出来ない事。まともに喰らえば即死圏内、防御もほぼ不可能なのに、回避が極めて困難なのである。

 恐らくこの恐竜は()()()()のスペシャリストなのだ。格上にはまず勝てない。同格相手にも恐らく不利。しかし力量差が大きく劣る相手には、絶対的な有利を発揮する……言葉にするとなんとも情けなく聞こえるが、そんなのは人間の勝手な印象だ。大物を仕留めるか小物を仕留めるか、生き残り戦術の違いでしかない。どちらも等しく『適応的』である。いや、むしろ資源量の多さを思えば小物狩りの方が優秀なぐらいか。

 能力でも、生理学的でもなく、生存戦略的な相性の悪さ。自力でどうにかするよりも作戦勝ちが多い継実達にとって、正に天敵だ。まともに戦って勝てる相手ではない。

 逃げるのが最適解だ。

 

「……!」

 

 継実はモモに目配せ。モモはその意図を察して身を翻す。

 そして継実は力強く地面を蹴り、煙幕代わりに足下を雪を舞い上がらせた。次いでモモの後を追うように自分も走る。

 これでまた逃げられれば良いのだが……恐らくそう上手くはいかないだろうという予感もあった。何故なら自分達がもう少しで振り切れそうだった時、あの恐竜はなんらかの方法で継実の腕を噛み千切ったのだ。どんな方法を用いたかは分からないが、兎に角気配の位置とは関係なく攻撃する力がある。今回もそれを使ってこないとは限らない。

 だから覚悟はしていたのだが、それでもやはり、突然の事には驚きを覚えるもので。

 走り出した継実の身体に、()()()()()()殴られたような衝撃が加わってくると思わなかった継実は、目を大きく見開く事しか出来なかった。



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凍える大陸13

「ぐっ……!?」

 

 最初継実は、腹に入った強烈な一撃を気合いで押し留めようとした。

 しかしあまりにも力が強い。押さえるどころか抵抗すら儘ならないほどに。

 努力の甲斐もなく、継実の身体は後方へと吹っ飛ばされてしまう。尤も継実の脳裏を過るのは、自分が受けたダメージの大きさではなく、()()()()()()()()()()()()()であるが。

 

「(クソッ! なんなんだあの力!)」

 

 予想はしていた。継実は一度、似たような攻撃を受けているからだ。されど原理が全く分からない。

 継実達が相手している恐竜は、未だ背後にいる。最初に受けた時は気配しか感じてなかったので、その気配を誤魔化して攻撃してきたのかと思っていたが……今は気配も姿も露わにしたまま。間違いなく背後にいる状態だ。尻尾が何百メートルも伸びたり、或いはワープしたりした様子もない。

 まさか第三勢力が攻撃してきているのでは? そんな予想もしたが、その可能性は低いだろうと継実は思う。

 何故なら衝撃を受けて吹き飛ばされた継実の背後では、恐竜が大口を開けて待ち伏せしているのだから。無関係な第三者の攻撃に、ここまで素早く、そして『適切』な対応は取れまい。

 

「んなクソッ!」

 

 反射的に振り向いていなければ、そのまま頭から齧り付かれていただろう。だが後ろを見ていた継実は即座に反転。一度思考を打ち切った後、眼前に迫る脅威である牙を素手で掴んだ!

 恐竜は獲物が自分の歯を掴んだにも拘らず、鳴き声一つ上げなかった。或いは能力により『消音』したのかも知れない。大きく見開いた目は、少なからず驚きを表している。

 だが、食べ物が口に入ってきたなら、やる事は実にシンプル。閉じて、その身を噛み砕けば良い。

 

「ぐ、ぬぐぎぎぎ……!」

 

 されど継実とて簡単にランチへと変わるつもりはない。掴んだ歯を握り、二本の足で下顎を押し付け、口をこじ開けようとする。

 パワーでは間違いなく恐竜が上だろう。しかし継実が勝負を挑んだのは全身ではなく顎のみ。そう簡単には閉じられず、僅かながら硬直した時間が生じる。尤も顎だけでもパワーが勝っていたとは言い難く、数秒もすれば呆気なく噛み砕かれただろう。

 それでも数秒あれば、モモが割り込むには十分な猶予だ。

 

「さっさと吐き出せぇッ!」

 

 跳び出してきたモモは、全身の体毛を擦り合わせて電力を生み出す。

 ただしその電力で行うのは放電攻撃ではなく、稲光による閃光だ!

 

「ゴァッ!?」

 

 電撃が直撃しても恐竜は怯まなかっただろう。だが太陽光よりも強烈な発光現象は、恐竜を大きく仰け反らせた。顎を閉じる力も僅かに弱くなる。

 その瞬間を逃さず、継実は両手両足で身体を押し出す。もしも恐竜が怯んでいなければすぐに逃げる継実を追い駆け、また噛み付いてきただろう。しかし眩しさでくらくらしている恐竜に、そんな真似は出来やしない。

 むしろ大きな隙があるぐらいだ。継実からすれば一発お見舞いするのも難しくないほどの。

 

「ふんっ!」

 

 僅かに離れたところで継実は回し蹴りを放つ!

 光から逃れようとしてか、恐竜は目を瞑っていた。自ら視界を塞ぐとは、ミュータントとしてはあまりにも迂闊な行い。継実渾身の蹴りは難なく恐竜の下顎を打つ。

 体格差こそ覆らないものの、不意打ちかつ効果的な場所への一撃は、恐竜の頭を大きく揺さぶった。恐竜は目を大きく見開き、口はパクパクと開閉。眩しさに加えて突然の衝撃に参っているらしい。

 正直、ここまで効くのは継実としても予想外。不意打ち気味とはいえ体重差四十倍の相手なのだ。人間からすれば小型犬の子供の全力キックみたいなもの。当たりどころとタイミング次第では一瞬怯むだろうが、ノックダウン寸前になるなんて貧弱を通り越して不可思議である。

 その不可思議に付けられる説明は一つ。

 

「(コイツ、力はあるけど……大して強くない!)」

 

 小物狙い(弱い者いじめ)ばかりで強者相手に戦った事がない弊害か、或いはまだ狩りの経験に乏しい若い個体なのか。いずれにせよ想定よりも弱いならばツイている。

 脱兎の如く逃げる事を基本にしようとしたが、相手が弱いならば話は別だ。逃げる事に変わりはないが、その逃げ方を少しばかり『改良』する。

 ただ走るだけでは追い付かれるし、こっそり追われたら逃げ切れたかも分からない。だが戦って相手を弱らせたなら、少しでも血を出させて臭いを纏わせれば……逃走の確実性は大きく上がる筈だ。

 普通にやっても逃げられないからこそ、戦いに活路を見出す。

 

「モモ! ミドリ! 作戦変更! 私が良いって言うまでボコるよ!」

 

「え、えええぇぇえええっ!? いや、でもこれ大き……」

 

 真っ先に反論しようとするミドリだが、その言葉は途切れた。

 

「ゴロロアァッ!」

 

 我を取り戻した恐竜が、今度は遠目にミドリに噛み付こうとしてきたからだ。継実とモモで痛い目を見たから、今まで何もしていないミドリに目標を変更したのだろう。

 ミドリは継実やモモよりも遥かに弱い。まともに恐竜の攻撃を受ければ、耐えるどころではないだろう。そして突然襲われたミドリは身体が強張ったのか、僅かに後退りしただけで殆ど動いていない。

 しかしミドリにとってそれは、無抵抗を意味する行動ではなかった。

 

「ひ、ひゃあぁっ!?」

 

 悲鳴を上げながら発動した、脳内物質操作があるからだ。

 

「ゴガッ!?」

 

 ミドリの攻撃を受け、恐竜は大きく仰け反った。目玉を大きく見開き、全身の羽毛が震えながら逆立つ。開いた口からは食欲とは別の理由で吹き出した涎が零れ、苦しそうに四肢をバタつかせていた。

 ミドリの能力が本領を発揮出来た事は、これまでの旅で一度もない。脳内物質を操作されたら本来どんな生物も即死するのに、その力を受けたミュータントはどれも少し苦しむ程度。中には全く効かない生物までいる有り様だ。敵の動きを阻害するので大いに役立っているが、止めを刺したり行動を完璧に止めたりなど『戦闘不能』に出来た事は殆どない。恐竜に対しても同じで、殺すには至らなかった。

 しかしミドリの力には一つ、継実達にない特性がある。

 相手の身体が自分より圧倒的に大きくても、それなりに通じる点だ。

 

「ゴ、ロ、ォ、ア……!?」

 

「ひぃぃぃぃ!」

 

 恐竜は頭を抱えてのたうつ。ミドリはその間にそそくさと走り、大急ぎで逃げ出した。

 

「ゴ、ゴガァッ!」

 

 逃げるミドリに気付いた恐竜は鋭い爪を立て、串刺しにせんと振り下ろす……ものの狙いが甘い。貫いたのはミドリの服の裾だけで、彼女の身体は無事腕の範囲から離れる。

 果たして恐竜はミドリが頭痛の原因だと気付いたのか、それともあと少しで捕まえられたであろう獲物への執着心か。恐竜は一旦激しく頭を振りかぶった後、ミドリの後を追おうとする。

 

「おおっと! そうはいかないわよ!」

 

 そこに攻撃を仕掛けるのはモモ。

 体毛()を伸ばしたモモは、恐竜の足首に巻き付けた! 恐竜は毛が巻き付かれた事に気付かなかったのか、そのまま前に歩き出そうとし――――引っ張るモモの力も合わさって、足下がつるんと滑る!

 恐竜は四肢をバタつかせて抵抗したが、崩れた体勢は立て直せず。そのまま転倒し、顎を打った。ミュータントの身体能力を思えば致命的なダメージとは言い難いが、行動を邪魔されたという精神的打撃は相当なものだろう。

 

「ゴロガアァアアアァアッ!」

 

 これには恐竜も怒り狂ったように暴れ出す! 尻尾をぶん回せば山をも切り裂く衝撃波の刃が跳び、腕が大地を打てば大陸が隆起と沈下を起こした。荒れ狂う姿は『恐ろしい竜』の名前に恥じない。

 モモは体毛を切り離し、恐竜の傍から離脱。代わりにやってきたのは継実だ。跳躍して高い位置に陣取り、その手に粒子の力を集めていく!

 

「そのまま、雪に埋もれてろ!」

 

 そして恐竜の脳天に向けて、最大出力の粒子ビームを撃ち込んだ!

 

「ゴロァッ!?」

 

 粒子ビームを撃たれた恐竜は呻きを上げた。本来、体重差を思えば粒子ビームを喰らった程度で恐竜は呻くどころか怯みもしないだろう。

 されど此度の一撃は、恐竜がミドリとモモに執着している間ずっと溜め込んだ特大のもの。更に恐竜は感情任せに暴れていた。肉体の力を爆発させて放つ力は、瞬く間に人類文明を消し飛ばすほどのパワーを発揮していたが……制御してない体幹は崩れやすい。タイミングと位置さえ見計らえば、却って転ばせやすいぐらいだ。

 粒子ビームの衝撃を受けて、恐竜の頭が雪に埋もれる。ジタバタと四肢と尻尾を振り回すが、継実が更に力を込めてビームを撃ち込めばますます埋もれる。混乱した手脚尻尾は宙を空振りするだけ。

 とはいえ、やはり地力では恐竜が圧倒的に勝っている。大地にしっかりと四肢を穿ち、ゆっくりと力を込めれば、恐竜にとって粒子ビームを押し退けて立ち上がる事は難しくない。事実恐竜は最初こそ藻掻いていたが、冷静さを取り戻すと暴れるのを止め、四肢に力を込めるだけで顔を上げた。元より致命傷には至らない攻撃なのだから、慌てなければどうという事もない。

 継実もそれは織り込み済み。端からこれで恐竜を倒せるなんて微塵も思っていない。

 

「モモ! ミドリ! 逃げるよ!」

 

 だから掛け声と共に、粒子ビームを『拡散』させる!

 一点集中で放っていた粒子ビームはさながら花が咲くように、恐竜の頭を中心にしながら四方八方へと飛び散る。ビームは着弾地点を瞬時に加熱。莫大な水蒸気を生み出し、半径五十メートルを濃密な湯気で覆い尽くす。

 今までの煙幕は継実を中心に展開していた。敵が間抜けにも煙幕に突っ込めば問題ないのだが、もしも煙幕から離れるように位置取りすれば、逃げるため煙幕から出ていく継実の姿は丸見えとなる。今回の恐竜のように巨大な相手となれば視野も広いので、尚更簡単に見付かってしまうだろう。

 しかし敵を中心に据えて煙幕を展開すれば、継実達がどう動いても敵からは見えない。そして敵が継実達を追うには、煙幕から出るしかないが……その際前進か左右に進むか後退か、選択を強いる事が出来るのだ。勘が外れて敵が頓珍漢な方角に出てきたら、継実達は姿を眩ませられる。逃げる上で、最大の好機となるのだ。

 

「……!」

 

 継実は煙幕を展開後、ハンドサインを送る。西に逃げろ、という合図。大声では恐竜に勘付かれる恐れがあるからだ。

 ハンドサインはミドリが捕捉。脳内通信でミドリからモモに情報が飛べば、継実の逃げる方角は家族全員で共有された。

 継実は出したサインの通り西へと静かに跳ぶ。

 何故西なのか? 大した理由はない。ただ煙幕を展開する前の恐竜の頭が、東を向いていたからだ。

 恐らくあの恐竜はこれまで大した苦戦をした事がないのだろう。だから獲物にちょっと翻弄されて思い通りにならないと、感情的になってしまう。

 そんな輩が煙幕を撒かれたら、まず何処に向かって進むか?

 

「ゴロアァァァッ!」

 

 思った通り、恐竜は直進。煙幕の東側から跳び出した!

 恐竜が出てきた時にはもう、継実達は煙幕の西側(恐竜の背後)に位置していた。恐竜はキョロキョロと辺りを見渡していたが、南にも北にも継実達はいない。

 恐竜の能力ほど得意ではないものの、継実達も気配を消して動く事は出来る。しかし慎重過ぎてゆっくり動くのは駄目だ。いくら姿を眩ませたとはいえ、煙幕の範囲は高々半径五十メートルしかない。ミュータントの走力なら回り込む事など造作もないだろう。

 だから継実は走り出す。周りの空気分子を止めて、一切の音を出さないよう加工しながら。空気分子の静止により呼吸で吸い込む事も出来なくなったが、こんなのは少しの間息を止めるようなものだ。大した問題ではない。

 能力を使っている分最速は無理だが、それでも継実の足なら秒速二キロほどは出せる。この速さなら三秒で地平線の彼方であるし、適当な丘の向こうに行けば一秒と経たずに身を隠せるだろう。

 やがてモモとミドリと合流し、混乱の中で家族と離れ離れになる心配もなくなった。残す問題は無事に逃げる事だけ。そして恐竜は未だ、煙幕の向こう側だ。

 

「(良し、これなら……!)」

 

 今度こそ逃げ切れる。そう思いつつ、継実は油断なく煙幕の向こうにいる恐竜を警戒した。

 故に、継実は驚愕する。

 ()()()()()()()()()()()()()、身の毛もよだつ気配を感じたのだから。

 

「んなっ……!? なん……」

 

 思わず声を出し、そして継実は足を止めてしまう。

 けれどもモモは文句など言わない。それどころか彼女も足を止めた。モモの傍に居たミドリも息を飲む。

 それほどまでに、目の前の『空間』が放つ気配は異様なものだった。例えるならば巨大な怪物がこちらを睨みながら、仁王立ちで行く手を塞いでいるかのよう。そこには怪物の姿はおろか、身を隠す遮蔽物すらない白銀の大地しかないというのに。

 しかし継実の抱いたそんな印象が正しかった事は、やがて証明される。尤も、誰も喜びはしなかった。

 今まで自分達を追い回していたのと同じ青い羽毛が、揺らめきながら虚空から現れたのだから―――――



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凍える大陸14

 そんな馬鹿なと、あり得ないと、継実は頭の中で何度も繰り返し叫んだ。

 しかし人間が心の中で叫んだところで、世界は何一つ変わらない。野生は存在し続け、認知の歪みを踏み潰す……怪物の存在を知りながら星の支配者の地位にしがみつき、結局一夜で叩き潰された何処ぞの文明のように。

 虚空から現れた新たな恐竜もまた同じ。人間である継実の認知を、虫けらのように踏み潰すかの如く、その存在を露わにした。

 

「う、嘘、嘘です、こんな……!」

 

「いやー、これはマジで駄目だわ……」

 

 ミドリが悲鳴染みた声を漏らし、モモが達観気味の言葉を独りごちる。一撃もらって肺の空気がなくなった継実は咳き込むばかり。

 七年前の継実なら現実逃避で気絶しているところだが、今はそこまで軟ではない。尤も、いっそ気絶出来たら楽なのにとは思ってしまうほど、新たに現れた恐竜の存在は継実の心に重く伸し掛かる。

 新たに現れた恐竜は、雪の大地に寝そべっていた。恐らく、継実達が恐竜と戦っていた間もずっといたのだろう……根拠はないが、悠然とした姿からそれが窺い知れる。

 全体的なフォルムはこれまで戦っていた恐竜と瓜二つだが、こちらの方が肩幅が広くガッチリしており、足や腕、尻尾などの全身のあらゆる場所の筋肉がより発達していた。その全長は目測で十五メートルを超えており、今まで戦っていた個体の倍近い。単純な体積で考えれば八倍差、より屈強な体躯である事を考慮すれば先の恐竜と比べて体重は十倍ぐらい大きいだろう。

 八メートル級の個体すら怯ませるのが精いっぱいだったのに、十五メートル級の個体などどうすれば良いのか。その大きさだけでも絶望に打ちひしがれるに十分。しかし何より恐ろしいのは、それだけ巨大で、姿を見せていながら……()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だろう。継実達の足を止めた事でもう力を発する必要はないと判断したのか、出現前まで放っていた強大なパワーはもう感じられない。それだけで気配が、存在が分からなくなる。足音を漏らしていた八メートル級の個体とは、明らかに能力の質が違う。

 身体付きだけでなく、能力も完成している。単に身体が大きいだけでなく、積み重ねてきた経験が別格だ。これだけ分かれば、新たに現れた恐竜の正体は明白であろう。

 

「コイツ……今まで戦ってた奴の親か……!」

 

 その瞬間、これまでの戦いの全てが継実には見えた。

 恐らくこの戦いは、狩りの練習だったのだ。肉食獣において幼体に練習をさせるというのは、決して珍しい行いではない。例えばシャチは捕まえたアザラシを適度に甚振り、弱らせた状態で子供達に追わせるという。そうして獲物の殺し方を子供に覚えさせるのだ。また肉食獣の子供も初めての狩りとなると、生きた獲物にびっくりして、追いはするものの中々止めを刺せないらしい。

 最初継実達が背中を小突かれて転んだり躓いたりしたのは、今まで戦っていた恐竜……子恐竜が狩りの練習をしていたのだろう。「え。これどうしたら良いの?」と試行錯誤していたに違いない。逃げる継実達を追い駆けたが、やはり未熟な子恐竜では詰めきれず、逃しそうになった。

 そこで巨大な個体こと親恐竜が手を貸した。完璧な隠伏状態を維持出来る親が、継実の腕を噛み千切る事で。

 血の臭いによりようやく子恐竜は本能を目覚めさせ、獲物に襲い掛かった。が、やはり初めての狩りが上手くいく筈もない。圧倒的格下相手に有利な能力を持ち、追い詰めながらもまたしても継実達を逃しそうになった。

 そこでもう見ていられなくなって、親恐竜様のお出ましという訳だ。

 親恐竜はきっと散々思っただろう。大丈夫かしらこの子、こんなものに苦戦なんてしちゃって、一人でちゃんと生きていけるか不安だわ……今回はお手本を見せてあげるからちゃんと覚えなさいよ。

 野生動物ドキュメンタリーならなんと微笑ましい展開か。だが襲われる側からすれば、絶対に逃れられない絶望を突き付けられたようなものである。

 

「ああ、クソッ……ガキ相手にあんだけ苦戦してたのに、親登場とかどうすりゃ良いんだよこれ」

 

 単なるデカ物だったなら、継実はここまで絶望していない。パワーが十倍になろうがスピードが十倍になろうが、未熟で無知な子供であればやりようは幾らでもある。

 だが、大人は違う。何十何百と獲物を殺してきた経験、何千という敵に付けられた傷跡、積み重ねてきた知識、完璧に制御された肉体――――その全てがあらゆる小細工を打ち砕く。

 どう足掻こうとも、勝ち目などない。

 それでも諦める気が起きないぐらい、ミュータントは生への執着心が強いのだが。

 

「っ!」

 

 継実は大きく足を上げた。地面を蹴り付けて雪の煙幕を起こすために。子恐竜相手に何度も使った手なので何処まで有効かは不明だが、一瞬逃げる程度の時間は稼げる筈。

 その考えすらも、甘い。

 真の強者である親恐竜は、継実の足が地面に付く前に尻尾を振っていた。寝そべったままの体勢でなんの予兆も感じさせず、空気を切り裂く音も出さず、接触する間際まで何一つ感じさせずに。

 

「ごぼぁ!?」

 

 継実の足が地面に付く事はない。叩き付けられた尻尾の一撃で、継実の身体は宙に浮かび上がった。

 それだけで済めばまだ良かったのだが、相手の体格差を思えばそれは無駄な願望。単純計算で、継実の四百倍ものパワーだ。最早耐えるだの防ぐだのなんて規模ではない。

 筋繊維を容易く破り、尻尾の一撃は継実の身体を腰の辺りで真っ二つに分断した。

 

「つ、継実さ」

 

「嘗めんなァァッ!」

 

 目撃したミドリが悲鳴を上げる中、継実はダメージなどお構いなしに粒子ビームを撃とうとした。親恐竜が如何に強大な力を持とうと目玉は比較的脆い筈。粒子ビームを直撃させれば、失明には至らずとも、目眩ましぐらいにはなるのではないかと考えての行動だ。

 だが、親恐竜は気にも留めない。

 粒子ビームなど存在しないかのように、前足を継実目掛け振り下ろす!

 この攻撃も、継実は実際に受けるまでその『存在』すら気付けず。真っ二つになった継実の身体のうち、上半身の更に半分を二本の指が直撃した。打撃は継実の背骨・内臓・筋肉・左腕を砕き、ぐしゃぐしゃに潰されてしまう。右腕も一本の指が直撃した事で千切られ、両腕を失った。今の継実がまともに動かせるのは首から上だけ。

 

「ガアァッ!」

 

 継実が戦闘不能になった事に激昂し、モモがミドリを投げ捨て、親恐竜の顔面へと突撃。感情こそ昂ぶっているが、子恐竜と違ってその動きは正確だ。数億ボルトの電圧を纏った拳を、親恐竜の眼球目掛け叩き込む!

 だがその鉄拳は、素早く閉じられた瞼で簡単に防がれた。衝撃波が辺りに広がり、その打撃の威力が決して生半可なものではないと物語っているのに。

 そして渾身の力を叩き込んだモモは、自らの攻撃の衝撃で一瞬身体が硬直。状況の不味さにモモ自身気付いたようだが、「しまっ」と声を漏らすのが精いっぱい。

 親恐竜は再び尻尾をぶん回し、モモに一撃を喰らわせた。

 物理的攻撃には滅法強い体毛に覆われているモモは、尻尾の一撃を受けてもその身体が真っ二つになる事はなかった。だが、継実の四百倍のパワーを受け止めるなど土台無理。尻尾の動きを減速させる事すら叶わない。

 モモの身体は超音速に加速され、流星のように雪の上に叩き付けられた。その衝撃で周りの雪が吹き飛び、核爆発さながらに雪と水蒸気 ― 物理的衝撃の一部が熱に変化した結果蒸発したのだ ― が白煙となって舞い上がる。地震も引き起こされ、衝撃で浮かび上がった地下の氷が数百メートルと隆起した。拡散する音波の衝撃で大空を覆っていた雨雲が全て吹き飛び、満点の星空が広がる。

 健在であれば、白煙の中からモモは即座に跳び出してきた筈だ。だが、何時まで待ってもモモは出てこない。体毛による守りがあっても、尻尾攻撃の衝撃を止めきれなかったのだろう。

 継実は動かせる身体がない。モモは戦闘続行不能。残すはミドリだけ。

 

「ひっ……た、たす」

 

 支援特化型の彼女には、何かをする暇すらない。親恐竜はほんの少しの身動ぎで、継実ですら見えない速さでミドリに接近。小さく開いた顎で咥えるや、ミドリが反応するよりも前に身体の右半分を噛み砕いた。

 食べはせず、本当に噛み砕いただけ。ぐちゃぐちゃに右半身を潰されたミドリは、その場にへたり込む。頭は無事とはいえ、肺も内臓も潰れながら生きているとは流石ミュータントだ。しかし半身が機能不全に陥った今、ミドリはろくに歩けやしない。

 ――――時間にして、果たして〇・一秒もあっただろうか。

 その僅かな時間で継実のみならず、モモとミドリも戦えなくなった。これが真の格上との戦い。圧倒的な力の前では抵抗する暇すら与えてもらえない。さながら寝ている人間がアリを潰すのに起き上がる必要がないように、親恐竜にとって継実達は寝そべったまま潰せる存在に過ぎないのだ。

 

「(肺が潰れて声が出ない。心臓もないから血流が止まってる……こりゃ、流石にどうしようもないか)」

 

 継実は自分の傷を分析。『致命傷』だと判断した。

 単純に生命活動を維持するだけなら、なんとか出来るだろう。傷口を塞ぎ、新しい心臓を作り、肺を再生させれば良い。しかしそのためには大量のエネルギーを使うし、何より身体の密度が極めて薄くなる。重みのない体重では力が入らず、エネルギーの補給など出来ない。

 生命活動を保ったところで、やがてエネルギーが足りなくなって餓死する。ミドリも傷の規模から考えるに同じ状態と思われる。モモは……分からない。相当遠くに吹っ飛ばされたようで、居場所すら不明だ。彼女ならしぶとく生きていそうだが、出てこない以上無事とは言い難いのだろう。

 そして恐竜達は、自分達をこのまま放ったらかしになどしない。

 

「コロロロロ……」

 

「グゴロロロロロロ」

 

 子恐竜は親恐竜の下に駆け寄ると、その身を寄せて頬擦り。甘えた声を出す。親恐竜も優しい声を出しながら、子恐竜に頬を擦り返していた。

 彼女達(性別なんて不明だが、一般的に動物の雄は子育てをしないので恐らく親は雌だろう)は実に仲睦まじい親子だ。彼女達からすればこれは狩りの練習であり、脅威でもなんでもないもの。失敗したら親を手を貸して、獲物をもっと弱らせるだけ。

 どちらに転ぼうが、奴等に狙われた時点で生き残る事は無理だったのだ。本気の人間に狙われたアリが、決して逃れられないのと同じように。

 

「(呆気ないなぁ……)」

 

 冷たくなる身体を感じながら、継実はぼんやりと思う。

 何時か、何かに襲われて死ぬとは考えていた。

 自然界とは過酷だ。適者生存とはいうが、その生き残り要素には運も大きく絡む。『並』の相手ならば多少の変異が有利に働けども、圧倒的存在の前ではちょっとやそっとの形質の差など無意味。通常のハエと比べて三倍の知能を持ったエリートハエだろうが、人間がハエ叩きを使えばなんの苦労もなく潰せるのだから。

 自分はこのまま食べられて死ぬ。今度ばかりはどうにもならない。それを理解しながら、継実は特に恐怖など覚えなかった。人間だろうが宇宙人だろうが知的生命体だろうが、超能力者だろうが新人類だろうがなんだろうが、そんなものは今の世界には関係ない。相性が悪ければあっさり殺される。ただそれだけの話であり……自分達にもその時が訪れただけ。

 

「コロロ。コロロロロ」

 

 親恐竜が指示するように鳴くと、子恐竜は動き出す。その目が見ているのは継実。最初の獲物として狙いを定めたらしい。足音一つ鳴らさず、こちらに向かって歩いてくる。

 これはチャンスだ。今でも頭は自由に動くから、口から粒子ビームを一発お見舞い出来る。この未熟なガキンチョならきっと油断していて、直撃させられるだろう。死にはしないとしても、びっくりしてひっくり返るかも知れない。僅かだが時間稼ぎをすれば、ミドリが回復したり、モモの目が覚める可能性が上がる。その僅かな変化が、結末を変えてくれる可能性がある。

 自分が殺される事は受け入れた。しかし大人しくするつもりはない。最後の一発を決めてやるべく継実は全身のエネルギーを掻き集め、口の中に粒子ビームの力を溜めていき――――

 

「……ゴロロロロロロ」

 

 親恐竜が鳴いた。

 途端、子恐竜が歩みを止める。親には気付かれたか? だとしても警告するなんて、ちょっと過保護じゃないかい……目論見が失敗した継実は悪態を吐きたくなった。しかしすぐに違和感を覚える。

 親恐竜は継実を見ていない。それどころかミドリもモモも見ていなかった。代わりに視線を向けるのは、遥か南の方角。

 継実が見た限り、その視線の先には何もない。地平線の彼方まで雪が積もっているだけ。

 だが、感じる。

 肌が焼け付くように錯覚するほどの、強烈な存在感。親恐竜に匹敵する強大なパワーでありながら、されどその気配を一切隠そうとしていない。能天気で傍若無人。奔放にして無理性というこれでもかというほど大自然を体現した、インチキ染みた存在感だ。勝とうと考える事どころか、対峙する事自体が愚かしい。

 しかしその気配に何処か懐かしさを感じる……継実がそう思った、直後の事だった。

 極夜の南極大陸に、黄金の閃光が走ったのは。



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凍える大陸15

 黄金の閃光、と称したが、正確にはそれは光などではなかった。

 揺らめく金色の『髪』だ。体長、いや、『身長』と同じぐらい長く伸びたそれが、超高速で飛んできた際の軌跡がそう見えたのである。軌跡は真っ直ぐ、なんの迷いもなく直進し……親恐竜へと突っ込んでいく!

 親恐竜はすかさず尻尾を振った。正しくは振っていた、と言うべきか。継実にはその動きを目で追う事など出来ないし、ましてや気配を察知する事も出来ていない。

 だが、黄金の閃光……()()()()()()()()()()は、その尻尾を殴り付けていた!

 

「ゴロッ……!」

 

 殴られた衝撃で親恐竜の尻尾は弾き返された。呻きも漏らし、爬虫類顔を苛立ったように僅かながら歪ませる。

 対して人影は、殴った際の反動で止まったらしい。くるくるとバク転するように回りながら落ち、軽やかに雪の上に着地。威風堂々とした立ち姿で、その容姿を継実達に披露した。

 そして『彼女』の姿を見た継実は、驚きから固まってしまう。

 黄金に輝く長髪。宝石のように青く、澄み切った瞳。美少女以外の表現が見当たらない、人形のように整った顔立ち。不遜にして可愛らしい微笑み……二ヶ月前に出会った時となんら変わらない姿だ。継実の記憶違いもあり得ない。彼女達との出会いが、この極地を訪れる事になったきっかけなのだから。

 或いは幻覚ではないか? 死に瀕した自分の脳が、苦痛と恐怖を和らげるために脳内麻薬を狂ったように吐き出し、シナプスの情報伝達に異常が生じたのではないか……

 あまりの想定外にそう考えたのも束の間、これが『現実』であると即座に理解する。

 

「ふっははははははは! 久しいですねぇ大トカゲ! まだ生きていましたか! 子供も随分大きくなったようで!」

 

 全身がびりびりと痺れるような、自信に満ち過ぎて溢れ返るような大声をその少女は発したからだ。

 確信する。此処に居るのは彼女だ。彼女が来てくれた。考えてみれば当たり前であろう……自分達が二ヶ月で辿り着けた旅路なら、彼女達であればもっと早く終わらせ、とっくの昔に南極を調べ尽くして定住しているに違いない。

 だから継実は、再生させたばかりの肺と喉でその名を呼ぶ。

 

「ふぃ……フィア!?」

 

 二ヶ月前に出会った、出鱈目ミュータントの名を。

 名前を呼ばれた金髪碧眼の美少女――――フィアはくるりと継実の方を振り返る。久しぶりの再会に継実は笑みを浮かべた、が、フィアはこてんと首を傾げる。

 

「あん? あなた誰です?」

 

「え?」

 

 冗談抜きに知らないと言いたげな顔で尋ねてくるフィアに、継実もまたキョトンとしてしまう。

 たった二ヶ月前に数日間寝食を共にしただけでなく、試験と称して激しい戦いもしたのに、それを完全に忘れたのか? 悪い意味でとんでもない記憶力に混乱してしまう継実だったが、されどすぐに思い出す。

 そういえばこの魚類、自分の『親友』以外殆ど興味すらなかったな、と。

 

「おおっと今はあなたなんてどうでも良いですね。頼まれた事をやりませんと」

 

 それは今も変わっていないらしい。自分の事を知っている存在を「どうでも良い」の一言で切り捨てるや、再び親恐竜と向き合う。

 フィアと親恐竜の間には、なんらかの因縁があるのだろうか。親恐竜は継実達を相手した時とは違い、全身から途方もない力を放っている。つまり能力によって気配を隠すのを止めたのだ。

 どんな能力にもエネルギーは使う。気配を消すために使っていたエネルギーがどれほどのものかは分からないが、その分の力を身体能力に回せば大きな力となるだろう。獲物相手なら逃してしまう危険が生じる諸刃の剣だが……強敵相手ならば、一切のデメリットがない。

 子恐竜は親恐竜から離れる。子供も知っているらしい。これから始まる戦いが、どれほど苛烈なものであるかを。

 そこでふと、継実は思う。

 フィアは、今にも死にそうなぐらい傷付いた自分達の事を気遣って戦うだろうか?

 

「(いやー、駄目だろうなこりゃ)」

 

 一片の期待も抱かず、継実は諦めた。やっぱここで死ぬらしい、と。

 予想通りフィアは継実達の安全など気にしていないらしい。身動き出来ない継実やミドリなど気にも留めないまま、傾けた身体を前へと進ませた

 直後、継実の身体に衝撃が走る。

 ただしその衝撃は柔らかなもの。抱きかかえるようにそっと身体に巻き付き、けれども慌てて運び出すように力強い。両手両足を失った継実に抗う力などないが、そもそも抗おうという気持ちにもならない……優しさを感じる感触だ。

 そして気付けば景色が変わっていた。

 遥か数百メートル先に、今まで数メートル先にいた親恐竜の姿があり……その親恐竜の顔面を真っ正面から殴る、フィアの勇姿が見えた。普通の人間の目では輪郭ぐらいしか見えないだろうが、能力で光の解析を行える継実であれば何百メートル離れていようと視認は簡単だ。無論、その後の顛末も含めて。

 フィアの打撃によるものであろう衝撃波(白い靄)が親恐竜の背後数キロに渡って広がるも、親恐竜は即座に反撃として爪を立てた拳をフィアに打ち込む。如何に非常識なフィアでも空中で静止する事は出来ず、核爆発と呼ぶのも生温い轟音と衝撃波を撒き散らして彼女は地面に墜落した。尤もこの程度で致命傷になるミュータントではない。きのこ雲染みた雪と水蒸気が舞い上がる中、巨大な水の触手が伸び、親恐竜の脳天を殴り付ける。打撃の衝撃は、とりあえずきのこ雲が出来上がるほどだった。

 しかしやはり親恐竜もただではやられない。反撃とばかりに尻尾でフィアを叩こうとした、が、フィアはこれを跳躍して回避する。目標を外した尻尾は南極大陸に打ち込まれ、地を埋め尽くす氷床を何キロにも渡って粉砕。割れた氷が何十、何百メートルと浮かび上がり、地形を大きく変えてしまう。

 世界の終わりをも予感させる、破滅的な戦い。ミュータントとなった継実でも一秒といられる自信がない、出鱈目な戦いが繰り広げられている。本能が此処から逃げ出せと警告を鳴らしていた。

 しかしそれよりも、継実の理性には優先する事がある。

 自分を助けてくれた者に、感謝と――――再会の挨拶をする事だ。

 

「か、なか……!」

 

 フィアと同じく二ヶ月ぐらい前に出会った人間・大桐花中。小学生のように小さな身体の彼女が、身体の半分も残っていないような継実を優しく抱きかかえていた。

 彼女の着ているふわふわもこもこの白いダウン(実に文明的な服装だ。能力で作り出した代物だろうか)が、肌に触れると柔らかでとても気持ちいい。しかしそんな感覚とは別に、暖かな気持ちが胸から湧き出す。その想いが喉を詰まらせ、声が出せない。

 彼女の名前以外の言葉が出てこない継実に、花中は優しく微笑んでくれた。

 

「有栖川さん。お久しぶり、です。よく、ここまで、辿り着けましたね」

 

「あはは……いやぁ、どうかな。二人が来てなかったら、ここで死んでただろうし」

 

「運も、実力のうちです。あ、それと他のお二方も、救助済み、ですよ。有栖川さんが一番、元気だったので、最後にしてしまって……」

 

 花中が視線を向けた先には、ミドリとモモの姿がある。どちらも目を閉じ、気絶している様子だ。確かに二人と比べれば、口から粒子ビームを撃ってやると息巻いていた自分が一番元気だと継実は納得する。

 無論、あくまでも今は危険な場所から離れただけ。二人の身体にどれだけのダメージがあるかは不明だが、早く治療をしなければ危険かも知れない。とはいえ治療をするには多少なりと安全に作業出来る環境が不可欠。

 

「あとは、フィアちゃんが戦い終われば……」

 

 それが何時になるかは、フィアの活躍次第だ。

 

「ふんっ!」

 

 遥か数百メートル離れていようとも届く、気合いのこもった掛け声。それと共に繰り出された巨大な水の触手が、親恐竜の胴体を殴り付ける。

 あの触手一本で、一体どれだけの質量があるのだろうか。継実の粒子ビームもモモの超電磁キックも通じなかった親恐竜が、触手に殴られただけで突き飛ばされた。巨体が雪原に叩き付けられ、衝撃で白煙が舞い上がって辺りを飲み込む。

 

「ゴロガアァッ!」

 

 されど白煙が存在していたのは僅かな時間だけ。親恐竜が力強く咆哮を上げたのと同時に、周りに衝撃波が広がる。降り積もったばかりの若い雪は吹き飛び、地下に積み重なった氷が割れて捲れ上がった。

 この大声でフィアの動きが僅かに鈍る。無論放たれるパワーに圧倒されたのではなく、咆哮により生じた衝撃が彼女の動きを阻んだのだ。その隙を付いて親恐竜は、長く伸びた尻尾をフィアに向けて叩き付ける。

 尻尾の一撃は凄まじく、叩き付けるための動きだけで空気が刃のように放たれた。雪と氷を切り裂き、数十キロにも渡って大地に傷跡を刻む。それほどの破壊力を持ちながら、しかし親恐竜にとっては手数を優先した技らしい。目にも留まらぬ速さで何十何百何千と繰り出されていく。

 しかし何より特筆すべきは、それだけの力を発揮しながら、未だ継実には『気配』が感じ取れない事だろう。能力によって消されているのだ。予備動作で攻撃のタイミングや軌道を予測する事は出来ず、それでいて格上のパワーから生じる神速は生半可な動体視力では捉える事すら許さない。もしも継実がこの攻撃を前にしたら、恐らく回避も防御も取れず尻尾に叩き潰されてしまうだろう。

 だが。

 

「小賢しいッ!」

 

 フィアはこの技に反応する。

 迫りくる尻尾の一撃を、フィアは拳で殴り付けて止める。殴り返された尾は即座に次の攻撃を行うが、やはりフィアはこれに反応。継実では認識すら出来ない、認識しても反応出来ない攻撃を次々と捌いていく。

 フィアには親恐竜の攻撃が見えているのか? 本気を出していない時でさえ、親恐竜の攻撃は継実どころかモモさえも反応が間に合わない速さだったが……フィアのインチキ戦闘力を思えば、それが出来ても不思議ではないように思える。むしろそれこそが自然だ。気配のない攻撃に対処する唯一の『正攻法』は、動体視力と反応速度で見切る事だけなのだから。

 等という継実の論理的な考えは、すぐに改めざるを得なくなったが。

 フィアは確かに攻撃を捌いている。しかし完璧という訳ではない。時折、大体十回に三回ぐらいの頻度で放った拳が宙を切り、尻尾の直撃を受けている。継実では一発も耐えられなかった攻撃を平然と耐えているのもインチキ染みているが、注目すべきはそこではない。

 外れた際の拳の向きである。

 時々、全然関係ない方向に向けて放っている時があるのだ。しかも攻撃が頓珍漢な空振りをしても、フィアが驚いたり動揺したりする素振りはない。むしろ拳と尻尾が上手く当たった時の方が、ちょっと驚いているように見えた。

 つまりフィアとしては、必ず拳が当たるとは思っていない。

 これはどういう事なのか? 真剣に考えれば、答えには中々辿り着けないだろう。しかしシンプルに考えれば、馬鹿らしいほど単純に考えれば真相に辿り着く。理性はそんな馬鹿なと叫んでいるが、人間の理性が世界を映す鏡だなんて誰が決めたのか。本能のまま信じれば答えは掴める。

 フィアは()()拳を繰り出し、尻尾の攻撃を防いでいるのだ。

 

「(って、要するになんとなーくで攻撃の七割を見切ってんの!? 相変わらずなんてインチキ……!)」

 

 味方なのに思わず罵倒したくなる。それほどまでの理不尽に継実の口許が引き攣った。

 継実の驚きなど微塵も気にせず、フィアは容赦ない打撃を繰り返す。三割の攻撃はその身で受けているが、彼女の身体は水で出来た偽物である。粉々に砕けない限り、どれだけ殴られようが大した問題ではない。

 対して親恐竜の方はといえば、尻尾とはいえ生身での攻撃だ。どれだけの強さで攻撃しているかにもよるが、それなりに自分の身体も傷付く。再生力次第では傷など瞬く間に消えるだろう。しかし回復した分だけエネルギーを消費し、疲労は積み重なっていく。

 この攻防は親恐竜有利に見えて、実はフィアが一方的に傷付けているだけ。親恐竜の方もそれを察しているのか、鱗に覆われた顔を苦々しく歪めた。

 

「ゴロロアァッ!」

 

 そして状況打破のためか、尻尾による攻撃を止め、代わりに巨大な腕を振るう!

 尻尾にはない鋭い爪を携えた一撃。加えて尻尾の時と同じく攻撃時の気配を消していて、正確な軌道を読めない。

 フィアもこれは直感で殴り返せないと判断したらしく、両腕を頭の腕で構えて受け止める。親恐竜が繰り出した一撃は、南極大陸全体を震わせ、継実達がいる数百メートル地点のみならず数十キロもの範囲を砕きながら隆起させた。

 

「ぬぅがあぁァアアアアアアアッ!」

 

 だがこれほどのパワーを用いても、僅かにフィアの膝を曲げただけ。フィアは咆哮と共に構えていた腕を振り上げた。

 それだけで親恐竜は大きく吹き飛ばされ、大地を転がる。されどフィアはこれだけで終わらせない。即座に氷の大地に手を付け、何十もの数の水触手を地面から生やした。生まれた水触手は親恐竜に向けて突撃していく。

 水触手が大地を進むとそれだけで地鳴りが起きる。振動で大陸を覆う氷にひびが入り、噴火が如く勢いで白い粉塵が噴き出した。まるで何百万体もの巨大な獣が突進しているかのような光景である。

 そしてある程度親恐竜に近付いた瞬間、水触手は先端を鋭く尖らせ、親恐竜目掛け伸びていく!

 親恐竜を串刺しにするつもりだ。しかし親恐竜は素早く転がってその場から跳躍。強靭な筋力により一瞬で五百メートル以上フィアから離れ、更に体勢も立て直す。水触手はそこまでスピードはないのか、親恐竜の動きには付いていけず、伸びた水触手が貫いたのは南極大陸を覆う氷だけ。

 だが一度外しただけでフィアも諦めはしない。水触手は変形する事で地面から抜けると、再び親恐竜目掛けて進む。

 

「ゴロァッ!」

 

 が、今度は親恐竜の手番。

 尻尾攻撃だ。ただし今度のものは今までのとは違い、全身に力を滾らせ、気配を消す事もなく放った……全身全霊の一撃。

 尻尾と水触手までの距離はざっと百メートルは離れていた。だが親恐竜の本気の一撃は圧縮した空気の刃を生み、水触手の下まで飛ばす。しかもその刃を形作る空気はプラズマ化するほど圧縮され、稲妻と青白い輝きを放っていた。

 名付けるならば、プラズマカッターか。

 衝撃波と呼ぶにはあまりにもパワフルな力は、数十の水触手を纏めて切断する。フィアは大きく身体を仰け反らせて回避し、プラズマカッターは遥か彼方へと飛んでいき――――遥か彼方の山脈に激突。

 山脈という大質量の物体を、プラズマカッターはなんの抵抗もなく切断した! 切られた面は赤熱し、極夜の南極で眩いぐらいの光を放つ。冷たい空気に触れても溶解部分は狭まるどころかむしろ広がり、ついに切断した山の数割がマグマへと変貌。熱による膨張が起きたのか、クラッカーのように山そのものが弾け飛んだ。

 あまりにも凄惨な破壊。だがフィアは自分の背後の光景など興味もないらしい。じっと見据えるのは、真っ直ぐフィアを睨み付けている親恐竜だけだ。

 

「(これが……フィアの本気……!)」

 

 二ヶ月前に試験として戦った時、フィアが手加減をしているのは継実にも分かっていた。だがまさかここまで力の差があるとは、予想もしていなかった。

 予想出来る事があるとすれば、このまま二匹が戦い続けたらいずれ南極が崩壊するという未来ぐらいか。

 ここまでの戦いで繰り広げられた、ド派手な戦いの光景。それはフィア達の力がインチキ染みているのもあるが、一番の理由は南極にミュータント生物が殆どいないからだろう。ミュータントが日夜暴れても未だ地球が壊れないのは、ミュータント植物や細菌があらゆる場所に満ち、ミュータントの攻撃を地球の代わりに受けているからだ。すぐ傍で大蛇と巨人が戦ったにも拘らず、辛うじて島としての体裁を保ったニューギニア島が好例だろう。しかし南極では、地球の代わりに攻撃を受けてくれる植物も細菌もいない。ミュータントの力は余す事なく、()()()()()に叩き込まれる。その結果が、これまでの戦いで起きた地形破壊の数々なのだ。

 流石に、フィアと親恐竜のパワーでは地球が壊れるまではいかないだろう。が、この南極大陸ぐらいならば砕いてしまいかねないと思わせた。だからといって継実の力では、二匹の戦いを見守る事しか出来ない。せめて早く終わってくれと、祈るだけ。

 

「フィアちゃーん。もう用は済んだから、程々で良いよー」

 

 そんな継実の横で、花中がフィアに呼び掛けた。

 程々、という言い回しをどう思ったのだろうか。今まで纏っていたフィアの覇気が一瞬薄れた

 その時を狙っていたように、親恐竜がくるりと踵を返す。

 よく見れば、親恐竜は口に子恐竜を咥えていた。子供と言っても親の半分ほどの体長はあるのだが、ミュータントのパワーならば簡単に持ち上げられる。一度しっかりと咥え直すと親恐竜は猛烈な速さで、フィアに背を向けて走り去っていく。相変わらず気配を消したままで。

 ……あまりにもスムーズに動くものだから何が起きたか継実は一瞬分からなかったが、遥か遠くまで親恐竜が離れたところでようやく気付く。

 恐竜達は逃げたのだ。

 よく考えれば当然だろう。フィアのような強敵を倒したところで、得られるのは小さな肉だけ。おまけに子供を危険に晒している。だから意地など張らず、さっさと退却するのが正解なのだ。恐竜達は別に人間を皆殺しにしたい訳でも、小さいモノが自分と互角に戦った事でプライドが傷付いたりもしていないのだから。

 フィアもすぐには反応出来なかったようで、恐竜達が遠くに逃げてから僅かに身体が動いた。しかし彼女も積極的に追おうとはせず。ぽりぽりと頭を掻いた後、猛スピードで継実の……いや、継実を抱えている花中の下にやってくる。

 

「花中さーん。アイツ逃げましたけど良いんですか? 色々面倒ですしここで種族丸ごと皆殺しにしません?」

 

「もう、フィアちゃんったら。そーいうのはダメだよ。生態系は、みんなで支え合って、出来てるんだから」

 

「私は虫とか甲殻類がいればそれで十分だと思うんですけどねぇ」

 

 帰ってくるなり物騒な事を語るフィアを、花中が優しく窘める。フィアは首を傾げながらも、我を通すつもりはないらしい。

 

「それとそいつらはどうするんです? なんかもうすぐ死にそうですけど」

 

 或いは単純に、継実達の方に興味が移ったのだろうか。

 フィアに尋ねられた花中は、しかしその問いには答えない。やや慌てたように見える動きで継実の方へと振り返り、潰れた身体を大地に置いてから話し掛ける。

 

「すみません。積もる話はあります、けど、まずは治療を、しましょう。わたしの力で、皆さんの身体を修復、します。有栖川さんは一番、元気なので、最後にしますが……苦しかったら、呼んでください。痛み止めぐらいは、やります」

 

「ううん、気にしないで。私もミュータントだし、死なないように耐えるだけなら、まだ全然平気だから」

 

「はいっ。じゃあ、皆さんを早く治療……の前に、一言お伝えしませんと」

 

 花中はそういうと、継実の傍で正座。恐竜が去ったので一刻を争うというほど切羽詰まってはいないかも知れないが、この状況下で何を伝えたいのだろうか。

 疑問に思いつつも耳を傾けたところで、花中は口を再度開く。

 

「ようこそ、南極へ」

 

 語られたのはそんな一言だった。

 大きな声でもなく、難しくもない言葉。なのに継実は、その言葉をすぐには飲み込めなかった。頭の中で何度も反芻し、他の意味がないか、或いはちゃんと聞き取れたか、無駄に詳細な検証を行う。

 そうして伝えられた言葉を完全に、心から理解した時。

 継実の目から、貴重な水分が零れ落ちるのだった。



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凍える大陸16

「生きてるーっ!」

 

「いきふぇふー!」

 

「生きてるぅー!」

 

 ミドリとモモ、そして継実の元気な声が、南極の大地に響く。

 三人全員が満面の笑みを浮かべ、己の身体から溢れる活力を示す。モモは生肉を口いっぱいに頬張っていて、食欲も同じく湧き出している事を露わにしていた。足取りは力強く、三人全員が自らの足で前に進む。

 七年前の人間達が見たなら、きっと驚愕するだろう。ほんの数時間前まで三人とも、人類の医療技術では手の施しようがない重体だったのだから。継実に至っては肺や心臓、更に下半身そのものを失った状況だった。

 しかし今の継実は、肺も心臓も下半身も揃っている。ミドリはぐちゃぐちゃに潰された右半身が元通りになっているし、モモも(継実も気付いていなかったが)骨折と内臓破裂からすっかり回復していた。

 

「ふふっ……皆さん、元気になって良かったです」

 

「そうですか。私的にはどうでも良いですが花中さんが嬉しそうなら何よりです」

 

 これも全ては、継実達を治療してくれた花中と、恐竜を追い払ってくれたフィアのお陰だ。

 花中の施した治療は、文明人が思い描く『治療』とはかなり異なる。モモに対しては粒子操作能力を使い、元素レベルで体組織を再建した。骨折した骨を修復し、破裂した内臓を復元し、神経を繋ぎ直したのである。継実とミドリに関しては、人間のミュータントは再生力に優れているので花中が自身の身体の栄養素を二人に注入。細胞増殖を促す事で身体を再生させた。

 もしも花中とフィアが助けてくれなければ、継実達全員が死んでいただろう。最後の最後で助けてもらったのは、ちょっとばかり恥ずかしくもあるが……結果良ければ全て良しが自然界。命があるのだから問題なしだ。

 何より、ようやく人間の社会と出会える。

 

「いやー、やっと人間と出会えるわねー」

 

「楽しみだねー」

 

 モモと継実はそんな会話を交わし、継実に至っては湧き上がる嬉しさで思わずスキップをしてしまう。ミドリもニコニコと、満面の笑みを浮かべていた。

 継実達三人はそんなにも楽しい気持ちでいたのだが……ところがどうした事だろうか。

 何故か、花中が暗い顔をしている。

 

「? どしたの?」

 

「……皆さんに、話さないといけない事が、あります」

 

「話さないといけない事? 何か、人間に会う前にやんなきゃいけない事でもあんの?」

 

 モモが首を傾げながら尋ねる。花中の反応は、未だ暗い。

 何故そんな暗い顔をしているのか? フィアが何か知っているのかと思い継実は横目で窺ってみたが、フィアはなんにも考えてなさそうな間抜け面をしている。どうやら当てにならないようだ。

 仕方ないので、大人しく花中の言葉を待つ。花中は躊躇うように何度も口を開けたり噤んだりしていたが……やがて息を大きく吸い込むと、喉奥に引っ掛かっていた言葉を吐き出す。

 

「まず、此処南極に……定住を試みた『人間』は、全員死んでいます。わたしとフィアちゃんが辿り着いた、一ヶ月半前には」

 

 旅の目的を、根底からひっくり返す言葉を。

 継実達の笑顔が凍り付く。段々と笑みが消えて、乾いた表情へと変わった。声も出なくなり、淡々と、花中達と共に歩くだけとなる。

 それでも、ちゃんと聞かなければならない。継実は心の奥底で囁く理性に従う。

 

「……それは、感染症でみんな死んでいたって事?」

 

「はい。わたしが出会った、人達以外にも、相当数が暮らしていた、みたいです。大きな施設が、残っていました……殆ど残骸で、遺体は、残っていませんでしたけど」 

 

「ああ、みんな腐って分解されたって訳か。施設が残っていたのは、食べられないものだったからかな。生き物が少ないなら、戦いの巻き添えで吹き飛ぶ事もないだろうし」

 

 納得したように継実が語れば、花中はこくりと無言で頷く。

 ――――正直に言えば、そうだろうなという想いが継実にはあった。

 継実の能力を使えば、空気中にどれだけの細菌がいるかは簡単に分かる。確かに熱帯や草原、海上などと比べて南極は大気中の細菌数が格段に少なかった。少なかったが……完全なゼロではない。

 ミュータントの力は絶大だ。人間サイズの生き物が一つの島を滅ぼし、十メートルを超えれば大陸に傷跡を残す。細菌達の強さも同様であり、ただ一匹でも入れば『普通の人間』は簡単に死に絶える。

 やっぱり、この星に普通の人間が暮らしていける場所なんて、もう残っていなかったのだ。とっくの昔に分かっていた事を、今になって思い知らされただけ。

 

「(……思ったより、ショックは大きいなぁ)」

 

 尤もそれで平静を装えるほど人間のメンタルは強くない。継実は片手を顔に当て、小さくないため息を吐いた。

 ……それでも、この旅が無駄なものだったとは思わない。世界を見て回り、様々な生き物と(友好の有無は兎も角)触れ合った思い出は、心の糧になるものばかり。何度も死にかけていながらこう言うのは少々常軌を逸しているようにも思うが、どれも『楽しい』思い出だ。

 

「(それに、まぁ、花中と一緒に暮らせば良いかな)」

 

 旅が終わった後、花中達がどうするつもりかは分からない。しかし花中達にとっても南極は旅の終点だ。もしも此処に定住するのなら、一緒に暮らした方が色々便利だろう。

 或いはまた旅をするかも知れない。元々花中は昔一緒に暮らしていた友達と合流するため、迷わず行ける目的地として南極を利用していた。こう言うのも難だが、人間探しは『ついで』である。もしも花中がまだ友達と合流出来ていないなら、今度はその友達を探しに出るかも知れない。フィアは嫌がるだろうが、また同行を申し出るのも悪くないだろう。

 前向きに考えてみれば、自力で少しずつ笑みを取り戻せる。ミドリやモモの顔にも自然な笑みが戻り始めた。歩みも力を取り戻し、どんどん南極の奥地へと進んでいける――――

 

「(ん? そういや私ら、()()()()()()()()()()?)」

 

 人間が南極にいないなら、集落なんてない筈だ。施設は残骸が残っていたと言っていたので、そこに向かっているのだろうか?

 ふと抱いた疑問。そこに考えを巡らせていると、不意に花中が駆け出した。とはいえ速い訳ではなく、早歩きと大差ないスピードで。

 ほんのちょっとだけ継実達よりも先に進んだ花中は、くるっと回るように振り返った。後ろ歩きを始め、継実達の目を見つめながら大きく両腕を広げる。

 

「……さぁ、見てください。この先を」

 

「この先?」

 

 何があるのか? 疑問を抱いた事もあって、継実は素直に従う。すると地平線の彼方にぽつぽつと、無数の影が見えてきた。

 遠くて正体は不鮮明。肉眼での確認は困難である。

 ならば目の機能を少し変えてしまえばよいのだ。早速継実は能力を用いて眼球内のレンズ構造を変化させ、花中の背後に存在する何かを凝視し――――

 それが見えた瞬間、継実の足が止まった。

 突然立ち止まった継実を怪訝に思って、モモとミドリも立ち止まり、継実の方を見てくる。けれども今の継実は、そんな視線にすら気付けない。気付かないほどに、目に映った光景に継実の心は奪われていた。

 

「……え。いや、待って……だって、今……」

 

「ええ、そうです。わたしが到着した、一ヶ月半前よりも、ずっと前に、南極に定住しようとしていた人達は、亡くなっていました」

 

 唖然とし、文章になっていないような言葉を漏らすばかりの継実。しかし花中は継実が何を言おうとしているか察し、その疑問に答える……優しい笑みを浮かべながら。

 

「でも、わたしが此処に辿り着いた後に、やってきた人達が、此処にはいます」

 

 そして花中がそう言った瞬間、継実は走り出していた。

 地平線までの距離は約五キロ。継実の全力疾走であれば二秒で辿り着ける。だが今の継実の心にとって、二秒という時間すらあまりに煩わしい。もっと早く、もっともっと早くと念じ、四肢が千切れんばかりに振るって限界以上の速さを出そうと力を振り絞る。

 やがて継実は地平線の傍まで辿り着き、今まで自分が見ていたものの正体を視認した。

 ずらりと並んだ、()()()()姿()を。

 二十代ぐらいの女性が二人、十代ぐらいの男が一人、三十代ぐらいの男と彼が抱えている赤ん坊が一人ずつ……年齢も性別も容姿もみんなバラバラ。なんの共通点も見られない。浮かべている表情も様々なので共通された認識を持つ『組織』でもないだろう。

 千差万別な人々が、そこには立っていた。

 

「人、人が……!」

 

「総人口わたし含めて六人。どうやらわたしの友達が、あちこちに、言い触らしていたようで。変に期待させないでって言っておいたのに……お陰でわたしが此処に来た後、こんなにもたくさん、集まって、しまいましたよ」

 

 唖然とする継実に花中はそう説明する。確かに花中は、「わたしが来る前」までに定着していた人間が死滅した、としか言っていない。花中が来た後については一切触れていなかった。初めて出会った時もちょっと思ったが、意外とこの人意地悪だ。しかしそんなのはもうどうでも良い事である。

 たった六人。継実を入れても七人。

 村として見てもあまりに少ない人数。たったこれだけでは社会どころか、生物種として存続するのも大変だろう。だが、数は問題ではない。そこに人間がいるという事実さえ変わらなければ。

 もう、何処も目指す必要はない。

 継実達の旅は、ここで終わりとなるのだった。



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第十三章 文化的な野生人生活
文化的な野生人生活01


 南極の朝は寒い。

 言うまでもない事実である。別に朝でなくても普通に寒い(真夏でも大陸全体の平均気温は氷点下だ)し、ましてや今の時期は極夜なので太陽が顔を出す事もないので、暖まる要素などない。

 勿論ミュータントとなった継実であればこの程度の寒さで死に至る事はない。普通の人間であれば二度と目を開けられない寒さの中、彼女は自然と眠りから目覚めた。

 

「…………………………寒い」

 

 口から出てきたのは一切思考を介していない、本能のままの言葉。次いでもぞもぞと動いて睡眠中に凝り固まっていた身体を解し、しばし動きを止め、それから起き上がる。

 すると、ぱさりと、継実の身体の上から何かが落ちた。

 音に反応して無意識に振り向けば、床に一枚の『布団』が落ちていた。布団といっても文明的な代物ではなく、もふもふとした毛皮を四角形に切り取っただけのもの。しかしどれだけ原始的でも、明らかに人為的な加工を施した物品には違いない。

 それによく見れば周りも文明的なものに囲まれていた。動物の皮を何枚も継ぎ接ぎして作られた屋根と壁、それらを支えている長さ二メートルはあるだろう巨大な柱……型に加工された骨、床を覆い尽くすように敷き詰められた獣の毛のカーペット。決して近代的とは言えないし、電気すらないが、明らかに文明的な品の数々が確認出来る。

 それはこの七年と数ヶ月、継実が求めていた存在を示すもの。

 ……しかし今の継実が求めるのは、暖かい場所だった。彼女は寝起きが弱いのである。寒いと特に。

 

「んにゅ……モモぉ〜……」

 

 暗くてよく見えない(能力を使えば簡単に見通せるが、そこまで頭が働いていない)中を手探りで進み、やがてもふもふとした手触りの物体に触れる。暗闇の中でも使わなかった能力をここで発動。分子レベルで触れた物体を解析し、それが愛する家族・モモの毛である事を確かめた。

 ミドリと初めて一緒に寝た時、無意識に甘えた事で恥ずかしい想いをした。だが有栖川継実に二度目の失敗はない。今では本能レベルで触れたものがモモかどうかを確かめ、対象をちゃんと選んだ上で甘えているのだ――――眠気でほぼほぼ機能停止中の継実の頭は、高度な無駄行動に、見事な理屈を並び立てる。

 そうしてモモである事を確認してから、継実は寝ているモモの身体に抱き付いた。腕だけでなく脚も絡め、ぎゅうっと強く、そこにある温もりを堪能する。

 そして温かいと、また眠くなる。

 

「おーい、継実ぃー? 今朝はちゃんと起きないと駄目なんじゃないの?」

 

 うとうとし始めたところで、圧迫により目覚めたモモからそんな問いが投げ掛けられた。しかし頭の働きが鈍くなっている継実は、その言葉の意味が分からない。それどころかこうも思う。一体何が駄目だというのか。自分達は野生の獣であり、時間なんかに縛られやしないのに。

 自らの正当化は一ナノ秒で完了。反論も(一ミリ秒以内に)なかったので、寝惚けた脳は自分の言説が(口に出してもいないのに)受け入れられたと解釈した。正義の快楽もプラスされて微睡んだ脳に、眠たさに抗うなんて『理性的』な思考が過る筈もなく。

 

「ぐぅ」

 

 呆気なく、再び眠りに落ちていくのだった。

 今日は早起きしないと駄目だよと、モモと同じ事を言う、睡魔に押し潰されていた理性の悲鳴に一切耳を傾けずに……

 

 

 

 

 

「ふぅーん、それで寝坊した訳ね」

 

「はい……ごめんなさい」

 

 かくして二度寝してから数時間後。継実は目の前の『女性』の言葉に深々と頭を下げるしかなかった。

 継実の前に立つ女性は、()()()()()()()()()()()()を着ている。中のシャツやらなんやらも全部黒く、デザイン上は間違いなくスーツにも拘らず、まるで喪服を着ているような印象を見る者に与えるだろう。

 身長は百七十センチに満たない程度と継実より小さい。しかし顔立ちは大人びており、二十歳前後の年頃に見えた。黒い瞳と髪には一切光沢がなく、青白い顔色もあって生気が感じられない。こういうのはあまりにも失礼だろうが、一言で例えれば……死体が動いている、という表現がこの女性への印象を表すのに最も適しているに違いない。

 この女性の名はミリオン。花中の長年の友達の一人であり、フィアと同じく人間ではないらしい。

 そして此処、二ヶ月の旅路を経て継実がついに昨日辿り着きいた目的地……南極に作られた人間の集落の『村長』だ。人間じゃない存在が人間達の纏め役をしている事に違和感を覚えなくもないが、花中曰く村の中で一番事務仕事が得意で、更に税制や刑法などの法律関係や科学全般にも詳しいらしい。なんで人間でもないのにそんなに詳しいの? と思わなくはないが、適材適所ならば仕方ない。何より犬と家族生活をしている継実にとって、人間以外のモノが村長をしていてもあまり思う事もなかった。

 だからこそその人外に説教されても、それが正当な指摘であれば逆ギレなどしない。

 

「説明する事が多いから、今日は朝早くから来てねって話したわよね? 確かに時計なんてないし、極夜だから太陽もないから正確な時間が分からないのは仕方ないわ。でもあなた達人間の能力なら星を見れば凡その時刻を計算出来るし、あなたも早起きぐらい出来るって言ったからそうスケジュールを組んだのよ。なのに昼間まで寝てるのはどうかと思わないかしら?」

 

「はい……どうかと思います……ごめんなさい……」

 

「……なんてね。厳しい事言ったけど、昨日まで野生人だった身だからある程度は仕方ないわ。それに社会といっても七年前ほどちゃんとしている訳じゃないから、数時間の遅刻とかざらだし、そんな朝からやる仕事もないのよ」

 

 本心から反省してしょぼくれる継実に、ミリオンは優しい言葉を掛けてくれた。それからミリオンは背筋を伸ばすと、辺りを見渡せと促すように視線を継実から逸らす。

 無言での促しに継実は大人しく従う。そうすれば、自分の周りにある『集落』が見えた。

 継実の背後にある、高さ二メートル程度のテント。それがこの辺りには幾つも建っている。幾つもと言っても数はたったの五件で、村と呼ぶにはあまりにも質素だろう。しかし複数の住居が並ぶ様は村と呼ぶ他なく、何より家を別々に分けている集団……数多の『家族』が同じ空間で暮らしている状況は、社会と呼ぶに相応しい。

 此処は(本来ならば朝集合する筈だった)村の中心部。そして継実が今日から生きていく、新しい社会だ。

 ミリオンは継実の野生生活を考慮して、仕方ないと言ってくれた。実際近代文明から離れた原始的な社会では、日本人のような分〜秒単位のスケジュール管理が普通となった人間には、どうやって暮らしているか理解出来ないほど色々な部分がルーズだ。仕事の時間も定まっていないし、所有権すら曖昧だったりする。

 そういう意味では、確かにこの『原始的』な村では数時間程度の遅刻などざらであろうし、朝からキビキビと働く事もない。しかし社会生活を気持ちよく行うには約束事をちゃんと守る必要がある。無用なトラブルや悪印象を避けるためにも、早起きぐらいはしなければなるまい。

 

「うん。反省してるなら良いわ。お説教はこれぐらいにしておきましょ」

 

 未だしょぼくれている継実を気遣ってか、ミリオンはそう言って説教を終わらせてくれた。

 花中は人外だと言っていた ― 正体はインフルエンザウイルスらしい ― が、話の流れや人間への理解、そして気遣いの仕方は人間以上に人間染みている。ミュータント生物と話している筈なのに、本当の人間と全く区別が付かない。自分の家族であるモモとは大違いだ。

 

「継実〜、話はもう終わったー? そろそろお腹空いたんだけどー」

 

「継実さーん。まだですかー?」

 

 ……ちなみにその家族であるモモは、怒られている継実の後ろでぐでぐでと座り込んでいた。モモの後ろにはミドリがいて、モモの頭と首元を撫で回している。

 この二人にミリオンはお説教をしていない。モモは犬だから時間にルーズなのは仕方ないし、ミドリはこっそり一人で起きて時間通りにミリオンと顔合わせをしていたからだ。だったらその時起こしてよ、とも思ったのだが、ミドリからは予め「あたしは何度も起こしましたからね」と言われてはぐうの音も出ない。怒られるのが自分だけという状況は、致し方ないものだった。

 

「うふふ。ご家族からも催促されてるし、そろそろ今日の『仕事』を始めましょうか」

 

「……はい。よろしくお願いします」

 

 ぺこりと、継実は深々とお辞儀。継実の礼を見てミリオンは優しく微笑む。

 社会生活の一員となるための条件は、社会や時期によって様々だろう。人種や宗教で制限を行う時もあるし、過酷な状況に置かれたなら年齢や性別で排除する時もある。余裕があれば障害者を受け入れる事もあるし、偏見がなければ同性愛者や異教徒だって受け入れられる。一概にどうこう言えるものではなく、環境や社会規模次第でどれが正しいかは変わるものだ。

 それでも一つだけ共通する条件があるとすれば――――集団に利益をもたらす者、というのは確実だ。社会生活を乱す犯罪者は処刑、生産活動をしない無職は穀潰しとして追放される。犯罪者の更正や、無職に対する生活保護や就労支援は、社会にそうした人々の面倒を見る余裕があるから出来る制度。継実が暮らす事となったこの集落の詳細は知らないが、ミュータントが跋扈する世界にそんな余裕があるとは思えない。

 ここは役立たずは暮らしていけない社会。自分が社会にとって有益である事を示し続けなければ、追放されてしまうかも知れない。なんとも『非人道的』に思えるが、それは余裕のある文明社会人が上から目線で出す意見だ。原始の生活には、それに適したルールがある。

 そして社会にとって利益のある行為を『仕事』と呼ぶ。

 今日から継実はこの集落での生き方について、色々な事を学ぶ。全てが上手く出来るとは限らないだろう。或いは失敗ばかりで、ここの住人として認めてもらえないかも知れない。

 良くない考えは幾らでも浮かんでくる。それでも継実はワクワクが止められない。

 七年ぶりの文明社会にして、生まれてはじめての『大人の仲間入り』なのだ。これで興奮しない訳がない。十七歳になれども、彼女の社会生活は小学校中学年で終わっているのだから。

 

「……よーし、頑張るぞー!」

 

 溢れ出す感情のまま腕を高く突き上げ、大きな声で気持ちを表す。

 それを見ていたミリオンのくすくすという笑い声を聞いて、継実は自分が『社会』にいる事を思い出し赤面するのだった。



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文化的な野生人生活02

「それで遅刻か。少し気が緩み過ぎなんじゃないか」

 

 鋭い眼差しを向けてくる『青年』。苛立ちや敵意など様々な負の感情が混ぜこぜになったものを向けられ、継実は申し訳なさから頭を下げるしかなかった。モモは自分が怒られた訳ではないので平然としていたが、視線を発する目を見たミドリはビビってモモの後ろに隠れてしまう。

 ミリオンからのお説教が終わり、継実達が最初に案内されたのは村の外側。外側と言っても村の中心を形作る五件の家の『向こう側』なので、徒歩一分も掛からない場所である。そこでは屋外に置かれた大きな石をテーブルとし、青年が……椅子などないので雪の上に直で……座っていた。

 青年と継実はこれが初めての顔合わせ。いきなり敵対的な感情を向けられたなら、気分の一つぐらい損ねてしまうものだろう。しかし此度の継実は青年に対して、そこまで嫌悪感や恐怖心を抱かなかった。

 理由を挙げるなら二つ。

 一つは全面的に自分が悪いと思っているから。「朝になったら村の中心に行く」という簡単な約束すら破った事は事実である。自分のやらかしを責められて、それにキレるほど継実は未熟ではない。

 そしてもう一つの理由は、青年の容姿が一言でいえば美形だったから。

 目付きが鋭く獣のような猛々しさは感じられたが、七年前ならアイドルとしてデビュー出来たであろう端正な顔立ちをしている。アザラシの毛皮で作られた服 ― 継実達が着ているものよりずっとちゃんとしたデザインのものだ ― を着ている身体はやや細身だが、服から見える腕や足は非常に筋肉質で実に男らしい。

 強いて『男らしくない』部分を挙げるなら、身長が百六十センチあるかないかという小柄気味なところか。しかしそれを差し引いても男性として十分魅力的だし、背が低い方が好みという者もいるだろう。七年前なら、たくさんの女性から好意を寄せられたに違いない。いや、野生の本能に支配された今の世界ならもっとモテる筈だ。継実も恋愛感情までは抱いていないが、正直第一印象は悪くない。

 人は見た目じゃない。そのような戒めがあるという事は、人は見た目で判断する生き物だという事だ。容姿に好感を抱けば、些末な事は許せてしまうものである。

 

「んぁ? そーいえばなんで私達此処にいるんでしたっけ? というか私もう花中さんのところに帰って良いですか?」

 

 青年の傍にはもう一人の人物がいた。金髪碧眼の美少女……彼女は継実達もよく知る人物、フィアである。

 フィアは継実が遅刻したどころか、この集まりそのものに興味がないらしい。青年に根本的な問いを投げ掛けていた。青年は答えるのも面倒だと言わんばかりに顔を顰め、一言も答える事なくそっぽを向く。無視されたフィアは首を傾げていて、つんつんつんつん、青年の肩を突いていた。

 それでも答えない青年に代わり、継実達をこの場所まで案内したミリオンが教える。

 

「もう、さかなちゃんったら。此処にいるアリスちゃん達に、この村での暮らし方をレクチャーする。そういう話を昨日したでしょ」

 

「あーなんかそんな事言ってましたね。面倒臭いから帰って良いですか?」

 

「相変わらず興味がないと、はなちゃんに頼まれても半日記憶が持たないし、はなちゃん以外からのお願いは全然聞かないわねぇ……」

 

 何も覚えていないフィアに、ミリオンと青年は呆れ顔。やれやれと言わんばかり両者は肩を竦めた。

 昨日のうちに今朝の予定を聞かされていた継実達は、勿論これがなんのための集まりかしっかり覚えている。

 この集まりの目的は、継実との顔合わせだ。継実達は昨日村に到着して簡単な説明を受けた後、建てられていた空き家に案内され、そのまま疲れからすぐに寝てしまった。そのため村の住人とはざっと顔合わせはしたが、名前などの詳しい話はしていない。

 社会性生物は余所者をいきなり歓迎したりしない。相手の事を知り、信頼関係を築いて、そうして仲間だと認め合う。人間も同じであり、名前も知らないような奴と仲良くなるのは困難だ。文明が崩壊したところでそこは変わらないし、社会を守るためには変えられない部分でもある。

 なのでまずは村人全員に自己紹介をしよう。名前を知り、性格を知り、趣味を知り……それだけですぐに仲良しこよしは無理だとしても、一緒に暮らせるかどうかは判断出来る。そうして少しずつ慣れていき、社会の一員となるのだ――――という話になっていた。

 結果的に継実の大寝坊により、その自己紹介作戦はおじゃんになった訳だが。

 

「一応言っとくけど、この村の住人は彼だけじゃないわよ。他のメンバーは仕事があるから、もう自分の作業に戻ってもらってるわ。挨拶は個別にしといてね」

 

「はい……申し訳ありません……」

 

「今日の継実、謝ってばかりね。寝坊ぐらい別に良くない?」

 

 ぺこぺこ謝る継実に、犬であるモモが彼女なりの意見を述べる。

 犬からすれば遅刻などどうでも良い話だろう。だが人間的にはそうもいかない。いくら七年前の『現代社会』ほどキビキビとしたスケジュールはないとしても、数時間の待ちぼうけを喰らえば多少なりと怒りもするだろう。何故なら人間は予定を立てる動物であり、遅刻はその予定を滅茶苦茶にしてしまう行いだからだ。

 青年が睨んでくるのは仕方ないし、ミリオンにくどくど叱られるのも仕方ない。継実自身がそれで納得しているので、弁明などする気もなかった。

 

「……まぁ、さかなちゃんはいてもいなくても同じだし、好きにすればいいわ。まずは自己紹介。ほらヤマくん、ご挨拶」

 

「……ヤマトだ。名前から分かるだろうけど、一応日本人」

 

 ミリオンに促されて、青年ことヤマトはそう答える。

 自己紹介をしてもらったら、次は自分の番だ。継実はすぐに背筋を伸ばし、青年と向き合って己の自己紹介を始める。

 

「あ、あの、私は有栖川継実です。よろしく」

 

 継実は手を伸ばして握手を求める。ヤマトは僅かな間身動きを取らなかったが、継実が手を引っ込めずにいるとゆっくりとその手を握ってくれた。

 渋々といった様子だが、初対面の印象の悪さを思えば握手してくれただけでもマシだろう。第一印象を後まで引きずらない大人の対応に、継実は恥ずかしさを覚えて赤面する。

 大人といえば、彼は何歳なのだろうか? 顔立ちを考察材料にすれば、自分と同じぐらいか年上だろうかと継実は判断する。筋肉の発達具合も子供ではなく大人のそれであり、彼が立派な成人男性だと窺えた。

 

「あたしはミドリと言います。今日は遅くなってすみません。これから、よろしくお願いします!」

 

「ぅ……うん」

 

 されどすぐに考えは改めざるを得なくなる。ミドリが挨拶のため身体を少し屈めた時、ぷるんと揺れた胸部脂肪をヤマトが凝視していたので。返事もまるで子供のような、或いは何処か上の空。内股になってもじもじする辺り、この手のシチュエーションに免疫がない(それでいて目ン玉をひん剥いて見ているので興味津々)のようだ。

 あれは絶対高校生以上の男の反応じゃない。それでいて女子と遊ばないのがカッコいい男と考える小学生ほど粋がってもいない。目覚めたばかりの情動に正直で、だけどコントロール出来るほど慣れてもいない、男子が一番類人猿に近くなるお年頃。

 

「あの子、あれでまだ十四歳ぐらいだからね。胸だけで大興奮。初々しいわよねー」

 

 継実の予想を裏付けるように、耳許に顔を近づけてきたミリオンからそんな告げ口があった。

 成程、あの見た目で中学生か。顔立ちだけで見れば意外だが、身長で考えればむしろ納得出来る。これは弄り甲斐がありそうだ――――遅刻した事への反省は何処にやら。十歳女子のいたずら心が、十七歳になった継実の胸のうちに湧いてきていた。ちなみにヤマトはモモにもちょっと照れた様子を見せている。モモの胸は決して大きくないが、彼女は(家族である継実が思うに)大変可愛らしい美少女。顔だけで中学生の性欲が刺激されるのは無理ないだろう。

 ……自分にだけ当たりが強い事に、継実としても思う事がなくはないが。遅刻によって第一印象が悪いからか、単純に好みじゃないのか。遅刻してしまった今では分かりようもない。

 

「……さかなちゃんへの挨拶は、やらなくて良さそうね」

 

 次はフィアの番、と思いきや、フィアはぼんやりと空を眺めていた。継実達への関心を完全に失っている。ミリオンから「いてもいなくても良い」と言われ、もうこの集まりへの興味を失ったようだ。こちらが呼び掛けても平然と無視しそうな、底なしの自由さが感じられた。

 幸いフィアと継実達はそれなりの付き合い。フィアは完全に忘れているが、継実達はちゃんと覚えている。なんとか互いに名乗りあったところで、明日どころか数時間後には忘れていそうだ。なら、苦労して自己紹介をする必要はないだろう。

 かくして新入りの紹介が終わったところで、ミリオンはぱんっと手を鳴らす。私に注目と言わんばかりの仕草は、フィア以外の視線を集めた。

 

「はい、それじゃあ早速だけど、アリスちゃん達にはこれから職業体験をしてもらいます」

 

 そして楽しげな言い回しで、そう提案してくる。

 当初の予定になかった提案らしく、ヤマトが眉を顰めていた。

 

「……職業体験? そんな話聞いてないぞ」

 

「そりゃ言ってないもの、今決めたんだから。本当はみんなと自己紹介した後、向いてる仕事に参加させようと思ってたんだけど……今はヤマくんしかいないし」

 

「……つまりなんだ? これから俺達の仕事に連れて行け、と?」

 

「ごめいとー♪」

 

 褒めてあげると言いながら、ミリオンはヤマトの頭をわしゃわしゃと撫でる。半ばペットのような扱いだが、ヤマトはちょっと頬を赤らめるだけで反抗はしなかった。なお視線はミリオンの、意外と豊かな胸に固定されている。イケメン顔でも頭は男子中学生そのものだった。

 年齢的に女子高生である継実は、ミリオンの胸に興味などない。だからミリオンの胸を凝視する事もなく、彼女の言葉の意図に思考を巡らせられる。

 恐らく、ミリオンは継実達に色々な仕事をさせたいのだろう。それは継実達がこの村社会により早く馴染むための計らいでもあるだろうが……何より継実達がどんな能力の持ち主か知るための『試験』でもある筈だ。ミリオンからすれば継実達の実力は未知数。どの程度の仕事なら任せられるか、信じて良いか、或いは村にとって脅威となるか――――継実がミリオン(村長)の立場なら、様々な情報を得たいのだから。

 そうした情報を知るのに一番良い仕事は何か?

 

「さて。アリスちゃん達にはこれからヤマくんとさかなちゃんと共に、狩りの仕事をしてもらいます。大丈夫かしら?」

 

 動物と戦って食べ物を得る、狩りだろう。

 どうやらヤマト(とフィア)は村の食料採取を担っていメンバーらしい。継実達はその手伝いをする訳だ。

 継実はモモとミドリの顔を見る。ミドリは少しおどおどしていたが、モモの方はやる気満々な様子。どちらも普段の調子であり、これなら何時も通りの狩りが出来るだろう。

 継実も体調は万全。狩りを行うのに支障はない。

 

「ええ、私達は大丈夫だよ! ところで何を狩りに行くの?」

 

 継実は力強く答え、仕事へのやる気を見せておく。

 ミリオンは満足げに微笑みながら頷いた。ヤマトの方はあまり信用してなさそうな視線を送るが、これといって反論はしない。

 やがてヤマトは継実達を見つめ(ながらチラチラとミドリを横目に)つつ、少し辿々しい言葉遣いで語り出した。

 

「まず、俺達がこの南極で仕留めている獲物は主に二種類いる。アザラシとペンギンだ」

 

「アザラシとペンギンね。その二種類は此処に来た時見たし、戦いもしたよ……コウテイペンギンとヒョウアザラシだと思う。私らだけじゃ勝てなかったけど」

 

「……その二種類は相手にしない。というかアイツらと戦って無事だったのか。思ったよりもやるな」

 

 心底驚いた、という様子のヤマト。実際のところコウテイペンギンには三人で挑んでボロ負けし、ヒョウアザラシは……今思うと恐竜の気配を察知していたのだろう……途中で引き返してくれたお陰で助かっただけ。戦って無事だったとは言い難い。

 しかし相手が自分をちょっと見直してくれるのなら、それで良いと思って継実は特に訂正しなかった。嘘は吐いていないし、中学生に舐められっぱなしというのは高校生としてちょいと恥ずかしいのもある。

 尤もこんなのはくだらない意地の張り合いだ。どちらが上だの下だのという如何にも社会性動物っぽい無駄思考は一旦脇へ。今度こそ真面目に、狩りの話をしようとする。ヤマトもそのつもりのようで、すぐに話を本題に戻す。

 

「今日狙うのはカニクイアザラシってアザラシだ。コイツらは体長二メートルとそこそこ大きいが、能力が水中生活特化だから陸上ではあまり強くない。それに数が多くて見付けるのも簡単だ」

 

「獲物として魅力的な生き物って事ね。数はどれだけ仕留めるの? 寒いしみんなミュータントなら大食いだろうから、一匹じゃ足りなくない?」

 

「ああ、大体三匹は必要だ。つってもそこは気負わなくて良い。保存食もあるから、足りなくてもしばらくは問題ない」

 

 毎回そんなんじゃ困るけどな、と呟いてプレッシャーを掛けてくるヤマト。しかしそのプレッシャーは正論だ。誰かと助け合いを行えるのが社会の利点だが、自分の食い扶持ぐらいは自分で稼いだ方が良いに決まっている。

 目標三匹。家族とだけ暮らしていた時も『ノルマ』はあったが、社会生活を営むとなればこれは今まで以上に下回れない。数を勘違いなどしないよう、三匹三匹三匹と継実は言葉を繰り返す。

 

「うん、三匹ね。覚えた」

 

「良し。後の細かい事は実際にやりながら教える。準備が良ければ今すぐ出発……ん?」

 

 事前説明を終えて動き出そうとするヤマト。ところが彼はふと、キョロキョロと辺りを見渡す。

 彼が何を探しているのか? 答えはすぐに分かった。

 フィアだ。今までそこにいた筈の彼女の姿が何処にもない。集落とはいえ建物なんて掘っ立てテントしかなく、見晴らしの良いこの場所で姿を消したからには……何処か遠くに行っているのではないか。

 

「あの子、話に飽きて一人で狩りに行ったわよ」

 

 継実の予感は見事的中した。

 あまりにも奔放なフィアの行動。計算なんてない、本能のままの行動だろうが……自由過ぎる。

 けれどもあの自由さに比べれば、きっと多くの人間の性格はまだ『マシ』な筈。そんなフィアが、花中と一緒とはいえこの村で暮らしているのだ。此処の人達は、きっと心が広いに違いない。

 目の当たりにした野生動物の自由ぶりに大した苛立ちを覚えなかった継実は、対人関係への不安が消し飛んでくすくすと笑うのだった。



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文化的な野生人生活03

 集落のある場所から、四百五十キロほど離れた地点。地平線の彼方まで雪に覆われた大地を継実達は進んでいた。

 四百五十キロとなれば七年前の普通の人間にとって、恐ろしく長い道のりである。フルマラソンで換算すればざっと十一周分であり、車があるならまだしも、徒歩で進むような距離ではない。もしも徒歩で進もうと思ったら、休まず進んでも計算上四日半以上は軽く掛かる。睡眠や食事などを考慮した常識的スケジュールであれば、二週間ほどは見ておくべきだろう。しかもこれらはあくまで時間だけで考えた予定なので、実際には体力や地形を鑑みて倍ほどの余裕は見積もるべきか。

 ミュータントである継実達は、ここまで慎重な予定にする必要はない。

 継実達は小走りで大地を駆けている。最高速度には程遠いが、歩くよりも格段に素早い。具体的には時速四百五十キロほどの速さであり、この道のりを走破するのに一時間しか掛からない計算だ。

 そしてこの速さで進んでいるのは、継実達を導くように先を進んでいる、ヤマトが出しているスピードだからだ。継実達はヤマトの後ろにぴったりと付いて、彼の歩みに合わせているだけ。

 ヤマトを追う継実達は一列に並んでいる。継実はヤマトのすぐ後ろに付き、モモが最後尾で、一番か弱いミドリは真ん中だ。尤もか弱いといっても、ミドリでも秒速二キロぐらいの速さで走る事は可能である。時速四百五十キロで大地を進むだけなら、ミドリでも自分の足で難なく可能だ。

 そうして四人全員が黙々と、言葉も交わさず歩き……やがてヤマトが足を止めた。継実達もまた立ち止まる。ヤマトはくるりと後ろを振り返り、小声で継実達に話し掛けてきた。

 

「……ここから先は歩いて向かう。出来るだけ慎重に、気配を出さないようにしろよ」

 

「うん。分かった」

 

 言われるがまま、気配を隠すように集中。継実だけでなくミドリとモモも同じく気配を消そうとする。理由は、説明されるまでもない。

 きっとこの先に、此度の狩りの標的であるカニクイアザラシがいるのだろう。

 継実は能力を用いて気配を探ってみるが、これといって生物の反応は捉えられない。しかしヤマトはこの南極で食料調達係を担当する立場だ。どれだけの期間南極で暮らし、どれたけの間この仕事をしているかは分からないが……こうして『新人』の教育を任される程度には信頼されている。それだけで実力は折り紙付き。彼にとってはアザラシを見付ける事など造作もない、と考えるべきか。

 早くも実力差を見せ付けられた恰好だ。されど継実達とて負けてはいない。こちらには索敵特化の仲間がいるのだ。

 

「……凄い。集落からは分かりませんでしたけど、近付いてみたらたくさん反応を感じます。約三キロ先。これは、一千頭ぐらいの群れでしょうか」

 

 ミドリは自ら率先して索敵を行っていたらしく、この先にいる生物の気配を察知したようだ。細かな情報を継実達に教えてくれる。

 するとヤマトは驚いたように目を見開く。

 

「マジか。カニクイアザラシは気配を消すのが上手くて、今まで誰もろくに気配を捉えられなかったんだぞ。近付いただけで分かるなんて……」

 

「えっへん。索敵は得意なのです」

 

「索敵ばかり得意で、戦闘は殆ど出来ないけどね。強さはネズミ並」

 

「も、モモさぁ〜ん」

 

 褒められて有頂天になり、自慢気に語っていたミドリ。しかしモモからあっさりネタばらしされて、悲鳴染みた声を漏らす。

 実際、ミドリの戦闘能力は精々ネズミ級。後方支援役としては体重以上の大活躍をするが、一人では明らかな小動物(格下)相手にも勝てないぐらい貧弱だ。直接的な戦闘能力だけで見れば、役には立たない。

 されど真の実力者、そして真の修羅場を幾つも切り抜けてきた者であれば、支援に特化した者がいる事の効果が単純な戦闘能力の加算よりも大きい事を知っている。

 

「……悪くない。その力があれば、今後獲物を探すのが楽になる筈だ。奇襲を受ける心配もかなり減らせる」

 

 中学生ぐらいの年頃でありながら、ヤマトは援護の重要性をよく理解していた。彼もまたミュータント生態系を生き延びてきた身。数多の危険を切り抜けてきた、真の実力者なのである。

 

「えへへ。褒められましたー」

 

「む、むぅ……」

 

 或いは単純に、贔屓目に見ているだけかも知れないが。ミドリが跳ねる度、ちょっと赤面しながらじろじろと胸元を見ているので。

 本当に大丈夫かコイツ、と継実的には思わなくもないが、そこを疑うときりがない。今は狩りに集中しようと考える。

 ついでに疑問も湧いたので、そこも尋ねたい。

 

「誰もろくに気配を捉えられなかったって話だけど、それならあなたも気配は捉えてないよね? どうしてこの場所に来た、というかどうしてアザラシの居場所が分かったの?」

 

「アイツらは基本、特定の場所に纏まって生活するんだ。そこには海へと通じる穴があってな。危険があるとみんな一斉に跳び込んで、そのまま海まで逃げちまう」

 

 詳細を求めると、ヤマトは詳しく話してくれた。

 人間からすると同じ場所に留まるというのは、捕食者に狙われて危険に思える。だがアザラシ達は地の利を選んだ。天敵に喰われる前に逃げてしまえば、何度襲われても問題ない。

 仮に誰かが食べられたところで……()()()()()()()()()()()()()()()()()。継実達が出会ったあの巨大恐竜のように、一度に何匹も食べてしまうであろう天敵に対しては、一匹を犠牲にしてみんなが逃げればより多くが助かる。より多くが助かるという事は、()()()()()()可能性が高い。

 無情にも思える作戦こそが、自身の生存率を上げる意味では優れた生存戦略という訳だ。そしてそれは複数匹の狩猟を目標にしている継実達に対しても、極めて有効な対策だと言えよう。みんなで一匹のアザラシを襲っても、その間に他の個体は全て逃げてしまうのだから。

 

「つまり……狩りをする時は、分散して襲うべき?」

 

「そうだな。お前達の実力が分からないから三人一緒で良いかも知れないが、俺は一人でもやれる。今回は別々にやってみるか……あそこの丘を越えた先が目的地だ。出来るだけ音を立てるなよ」

 

 静かにするよう指示した後、ヤマトは指差した丘を登り始めた。

 継実達は言われた通り、音を立てないよう動く。継実とモモは問題なく進み、ミドリが雪に足を取られて進み辛そうだったが、なんとか転んだりせずに丘の上までやってくる。

 ゆっくりと、慎重に、継実達は丘の向こう側を覗き込んだ。

 丘の先には、広大な平地が存在していた。

 しかし決して白銀の景色などではない。無数の灰色の塊が点在している。灰色の塊は大きさ五十センチ〜二メートルほどで、ずんぐりとした体型をしていた。基本的にはどれも動いていないが、時折もぞもぞと『身動ぎ』したり、移動したりしている。一見して無秩序に散開しているようにも見えるが、よくよく観察すればどの個体も、平原に開いた幾つかの大穴の傍に陣取っていた。穴の先は黒く見えるが、それは中に海水が満たされているからだ。

 視線を穴から灰色の塊に戻し、更に注意深く観察すれば、そのずんぐりとした物体が手足をヒレのように変化させた動物……アザラシだと分かる。ただし先日継実達を襲ったヒョウアザラシと比べれば、顔立ちは随分と穏やかで優しい。アザラシなので肉食には違いないが、あまり獰猛なハンターではないと思われる。

 数々の情報から総合的に判断すれば間違いはないだろう……あれこそがカニクイアザラシの群れだ。

 継実から見て、最寄りのカニクイアザラシまでの距離は約五百メートル。これだけの大きさと(ミドリ曰く推定一千頭もの)数でありながら、ここまで接近しないとミドリでも存在感を察知出来ないとは。遮蔽物のない南極で進化した結果、気配を消すのが上手くなったのだろう。

 

「お前ら、声を漏らさない会話は出来るか?」

 

 カニクイアザラシを眺めていたところ、ヤマトの声が耳に届く。ただしそれは小声ではなく、しっかりとした大きさで聞こえた。

 空気分子の振動から、『能力』により制御された声である事が窺える。やはり人間であるヤマトの能力は継実や花中と同じ、粒子操作のようだ。

 勿論能力で音を周りに広げない方法は継実にも使える。モモやミドリも、やり方は違うが『周りに漏れない音』を出す事は可能だ。

 

「うん。私達も出来るよ」

 

「私も糸を使えば出来るわ」

 

【あたしもこんな感じで出来ますよー】

 

「うぉ!? え、なんで頭の中で声が!?」

 

 ミドリの脳内通信を受けて、ヤマトは狼狽えた表情を見せた。索敵特化のミドリの力は、ヤマトにとっては不思議極まりないもののようである。

 それでも能力の制御が乱れ、彼の声が乱れる事もない。また、恐らく人間のミュータントならば演算力と能力で脳内通信の原理には気付いただろうが、これに関して怯えたり警戒したりする素振りもなかった。流石に危害を加えてくるとは思っていないだろうし、『対処法』も考え付いているのだろう。

 ただそれでも少しばかり気持ちは乱れたようで、ヤマトは胸に手を当てながら深呼吸していたが。或いは、狩りの前に気持ちを切り替えようとしていたのかも知れない。

 深呼吸を終えた時、彼の雰囲気は猛獣が如く鋭いものと化す。

 今は気配を抑えていて、ヤマトから力は殆ど感じられない。故に彼の実力がどの程度のものなのかは分からないが、雰囲気だけで判断しても、相当の実力があるのが窺い知れた。

 後はその実力をこの目で見るだけ。尤も、その余裕があるかは分からないが。

 

「……三秒数える。ゼロと言ったら、お前達三人で一匹をやれ。俺は一人で行く」

 

「OK。任せといて」

 

「いくぞ。三、二、一、ゼロ!」

 

 きっちりと正確に三秒数えたヤマトは、宣言通り一人で跳び出す! 継実とモモも同じく突撃し、狙うは一番手前のカニクイアザラシだ。

 カニクイアザラシ達は継実達が跳び出すと、瞬時に動き出す。地上に開けられた穴から海へと逃げ出すつもりのようだ。どの個体も穴までの距離は五十メートルも離れておらず、いくら地上を走るのに適していない身体付きとはいえ、すぐに穴へと辿り着ける。十倍の距離から走り出した継実達が、足の速さだけで追い付くのはかなり難しい。

 しかし問題はない。走るだけでは足りないのなら、他の技も使えば良いのだ。

 

「てゃー!」

 

 ミドリが可愛らしい奇声と共に繰り出すは、脳内通信の応用であるイオンチャンネル操作。攻撃のターゲットとなったのは、丘を下る継実達にとって最寄りの個体だ。

 脳内のイオンを狂わされたカニクイアザラシの一個体は、一瞬身体を痙攣させ、跳ねるように動いて転ぶ。これで死んでくれれば楽なものだが、流石にそこまではいかず。ミドリの攻撃を受けたカニクイアザラシは体勢を立て直すと、再び穴に向けて進む。

 だが一度は足を止めた。それは七年前の人間からすれば、達人でも認識するのが難しいほどの刹那の出来事。しかしミュータントにとっては十分な時間だ。

 継実とモモは狙いを定めた個体との距離を一気に詰める。カニクイアザラシがここで急加速でもしない限り追い付けるだろう。まずは狩りのための『前提』はクリアした。

 さて、ではヤマトはどうか?

 ――――手伝いや心配は無用だなと、継実は考える。

 

「ぬぅううおおおおおおおおおっ!」

 

 雄叫びを上げながら駆けるヤマト。そのスピードは継実どころかモモにすら勝るもの。あっという間に継実達を置き去りにし、手近なカニクイアザラシの傍に辿り着く。

 あまりにも圧倒的な速さに、カニクイアザラシ側も反応が間に合わなかったのか。ヤマトが肉薄した個体が顔を上げた時、既にヤマトはカニクイアザラシの尾ヒレを掴んでいた。

 

「ぬがアァッ!」

 

 そして咆哮と共に振り上げるや、氷の大地に叩き付ける!

 強烈な打撃は南極大陸を揺らすほどの衝撃を生み出す。単に大陸を揺らすだけなら継実にも真似出来るが、ヤマトが繰り出した規模に匹敵するパワーは出せない。男性故の筋肉量の多さがこの超人的怪力の源か。

 圧倒的怪力の衝撃を受けて、カニクイアザラシは痛みからか目を見開く。だが、まだ死んではいない。それどころか叩き付けられた身体を力強く持ち上げ、ヤマトに噛み付かんと大口を開けて襲い掛かった!

 カニクイアザラシの体重は約二百キロ。ヤマトがどれだけ筋肉質な身体でも、その体重は精々六〜七十キロ程度だ。体重差はパワーの差。単純な力比べでは、ヤマトは決してカニクイアザラシに勝てない。

 しかし人間は地上の生き物である。対してカニクイアザラシは、肺呼吸ではあるが活動の本場は海中。陸上での戦いならば人間の方が圧倒的に有利だ。

 あちらは助けなくても問題ないだろう……そう考えて、あまりにも上から目線だと継実は自戒する。ヤマトが何時から南極にいるかは分からないが、此処での暮らしは継実達よりもベテランに間違いない。カニクイアザラシとの戦い方や引き際は熟知している筈。

 それよりも継実が気にすべきは、自分達が上手くやれるかどうかだ。

 

「捕まえたっ!」

 

 ミドリが動きを鈍らせてくれたカニクイアザラシに、ついにモモが跳び掛かる。モモが背中に乗った瞬間カニクイアザラシはのたうつように暴れたが、すぐに抵抗を止めると、構わず前進しようとした。

 カニクイアザラシが進む先にあるのは、海へと通じる大穴。

 犬であるモモもまた陸上動物であり、最も力を発揮出来るのは地上である。逆に海中では溺れてしまうので殆ど力を使えない。カニクイアザラシはそれを本能的に理解し、海中にモモを引きずり込もうとしているのだ。モモが途中で逃げれば良し、海中まで追ってくるなら得意なフィールドで撃退するから良し。どちらに転ぼうがカニクイアザラシは有利な状況に持ち込める。

 無論、獲物の狙い通りにさせないのは狩りの基本だ。

 

「させるかァ!」

 

 遅れて追い付いた継実はカニクイアザラシの尾ビレを掴む!

 渾身の力を込めれば、カニクイアザラシはずりずりと大地を滑って穴から遠ざかる。力負けしたと気付いたカニクイアザラシは大慌てだが、生憎逃がすつもりは毛頭ない。手許に引き寄せたタイミングで抱え込むように尾ビレを掴み直し、脇に抱えてから継実は更に引きずる。

 

「ギャゥオォッ!」

 

 力で抗うのは不可能と判断したのか。カニクイアザラシは移動を止め、身体を仰け反るように動かして継実達に襲い掛かってくる! しかしそれは継実とモモにとって望むところ。一度尾ビレを離した継実はカニクイアザラシと向き合い……

 

「ふんっ!」

 

 その顔面に拳を叩き付けた!

 渾身の鉄拳をもろに受けて、カニクイアザラシは大きく反り返る。だが大したダメージではないらしく、即座に継実を睨む。

 生憎継実はそんな視線一つで怯みはしない。むしろそれで良いのかと煽りたくなってくる。

 まだカニクイアザラシの背中には、モモがしがみついているのだ。攻勢は何も終わっちゃいない。

 

「おおっと隙ありっ!」

 

「ギュッ!?」

 

 モモは腕を体毛の状態に戻すや、カニクイアザラシの首にぐるりと巻き付けた。締め付けられて息が出来なくなった事に驚くように鳴くカニクイアザラシ。だがモモは獲物を絞め殺そうとしている訳ではない。

 頭を回し、首をへし折るつもりだ。

 

「悪く思わないでよ!」

 

 更に継実もカニクイアザラシの頭部に肉薄。両腕でその頭を掴む。

 カニクイアザラシは何度も口を開閉し、噛み付こうとしてきた。実際継実は何度か腕を噛まれ、その強靭な顎の力により骨を砕かれたが、この程度の傷は問題ない。痛みはコントロール出来るし、砕けた骨は再生可能である。モモはそれを知っているからわざわざ気遣いなんてしてこない。

 故に遠慮なく継実達は力を込め、カニクイアザラシの首がどんどん回っていく。暴れ回ろうが強く噛み付こうが、継実は一層力を込めていく。モモもじわじわと力を強めていき……

 

「「せー、のっ!」」

 

 最後に息を合わせて、溜め込んでいたパワーを開放した!

 二人の協力技を受けてカニクイアザラシの頭はぐりんと一回転。ボキボキと音を鳴らし、頸椎が砕けた事が耳と手応えで分かる。

 しかしそれでもまだカニクイアザラシは死なない。白目を向きながら、恐らく反射か本能的に噛み付いてくる。もう継実の片腕はぐずぐずのボロボロ。骨が露出し、血が溢れて止まらない。

 だから更にもう一回転。今度は骨だけでなく筋肉が切れる音と手応えがあり、分厚い皮も千切れていく。これでも足りないと更にもう一回転無理やりさせると、カニクイアザラシの頭と胴体がお別れになった。

 捩じ切った頭は足下に落とし、継実は渾身の力でその頭を踏み砕く。司令塔を失った身体は大人しくなり、頭部は砕けて肉塊と化し戦闘不能に。

 ここまでやれば十分。無事、狩りは終わりを迎えた。

 

「……ふぅー。勝てた勝てた」

 

「事前の話通り、地上じゃ全然弱かったわね。まぁ、水中だと多分滅茶苦茶強いんだろうけど」

 

 獲物を仕留めて、継実はモモと感想を述べ合う。ミドリものろのろと、雪に埋もれた足を頑張って動かしながら継実の下に駆け寄ってきた。

 しかし喜びを分かち合っている場合でもない。

 ヤマトは一人でカニクイアザラシを相手にしているのだ。大丈夫だとは思うが、万が一という事もある。急いで彼の下に駆け付けよう。

 継実はそう考えていたが、結果的に必要なかった。

 

「そっちの狩りは終わったようだな」

 

 ヤマトは既に、一仕事終えていたからだ。その手には動かなくなったカニクイアザラシの頭が握られている。

 継実達三人が費やした時間で、ヤマトは一人でカニクイアザラシ狩りをこなしてみせた。継実達からするとカニクイアザラシは初めて戦った相手であり、だからその分多少なりと手間取ったが……それを差し引いてもここまで早いのは、彼の実力によるところだろう。

 そしてその強さを物語るものが、彼の右手に掴まれている。

 カニクイアザラシの死骸だ。しかし一目でそれをアザラシだと継実が認識出来たのは、彼が狩りをしていたという事実を知っていたからに他ならない。もし知らなければ、その手にあるモノは巨大な『ボロ雑巾』としか思わなかっただろう。頭部を見れば目玉が飛び出し、割れた頭からは中身が溢れている。内臓が口や肛門から飛び出し、見るに堪えない姿だ。

 恐らく彼はカニクイアザラシを何度も殴り、持ち前の怪力で殺した。

 殺し方にどうこう言うつもりはない。肉食獣が生きたまま獲物を食べたり、じわじわと弱らせたりするのはよくある事。人間だけが残酷と罵られるいわれはない。事実モモなんかは特段気にした様子すらなかった。

 しかし自分達と違う、あまりにも『綺麗』じゃない殺し方に、継実やミドリはほんの少し表情が強張る。

 ところがどうした事か、何故かヤマトも表情を強張らせた。それから僅かではあるが、迷ったように口許を動かした後……こわごわとした声を発す。

 

「……お前達、首を捩じ切るとか仕留め方がエグいな」

 

「いや、そっちが言う?」

 

 互いにツッコミを入れ合うヤマトと継実。

 やや間を開けて、ノルマの三分の二が終わった事を喜び合うように継実達とヤマトは微笑んだ。



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文化的な野生人生活04

「ま、なんにせよ仕留めた事だし、早速食べましょー」

 

「はい! お腹ぺこぺこです!」

 

 カニクイアザラシ二匹を仕留めて、モモとミドリが口々に空腹を訴え始めた。モモに至ってはわざとらしく涎を垂らし、尻尾をぶんぶん振り回している。

 普段もなら、二人が言うようにこのまま晩餐会の開始だ。カニクイアザラシの腹を掻っ捌き、内臓と肉を取り出して貪り食う。これが野生動物の食事というものだ。継実も草原での日常生活、そして旅の中で何度もそうした食べ方をしている。

 しかし今の継実達はそれをする訳にはいかない。

 

「いや、食べないから。このお肉を村まで持っていくんだよ」

 

 継実達が仕留めたアザラシ二匹は、あくまでも村の人達全員分の食べ物なのだ。最終的に自分達も食べるとはいえ、仕事として預かった肉を独断で食べるのは()()()()良くないだろう。

 お肉はちゃんと村まで届ける。それが大人としての役割だ。

 

「ちょっとぐらい摘み食いしても良いだろ。俺も腹減ったし」

 

 ヤマトがあっさりモモ達の味方をしたものだから、継実は思わず雪の上でズッコケてしまったが。どうやら職業意識があるのは継実だけらしい。

 雪の降り積もった大地に突っ伏す継実を他所に、二匹のアザラシの亡骸をヤマトはずるずると引きずっていく。モモとミドリはのりのりでその後に続いた。

 ……流石に全部は食べないだろうが、あの二人(特にモモ)の好きにさせると色々面倒になるかも知れない。何時までも不貞腐れて転がってはいられないなと起き上がり、継実もモモ達の後ろに続く。

 アザラシを持ったヤマトは丘を越えてすぐ、その手に掴んでいた二つの亡骸を置いた。モモとミドリは亡骸の傍に寄り添い、待ち遠しそうに身体を左右に揺らす。

 そんな二人の前で、ヤマトは腰に装備していた道具を取り出した。大きさ二十センチほどのナイフである。とはいえ文明的な代物どころか金属ですらない、白色ではあるが有機的質感のものであるが。

 

「お、ナイフだ」

 

「ナイフって……通じるんですか? ミュータントの皮膚、凄く硬いですよ?」

 

「ただのナイフならそうだろう。だがコイツはただのナイフじゃない。何しろ俺が小さい時から使っている、アライグマの歯が材料だからな!」

 

 自慢気に語るヤマトだが、アライグマの歯の何処が誇らしいのか? アライグマのミュータントがどんなものかよく知らない継実達には、その骨から出来たナイフがどれだけ凄いかはよく分からない。

 しかし実際にヤマトがナイフを使い始めただけで、その性能の素晴らしさはすぐに理解出来た。

 ヤマトの使うナイフは、するするとカニクイアザラシの皮を切り裂いたのである。ヤマト達と出会う前の継実達が見付けた、あのアザラシの死骸もカニクイアザラシだと思われるが……あれで服を作ろうとした際は、継実の粒子ビームでも簡単には切れなかった。しかしヤマトのナイフは止まる気配すらない。さながら七年前の料理が如くスムーズさ。ミュータントアライグマの歯とやらは、随分切れ味の良いものらしい。

 とはいえナイフの品質だけではこうも簡単には切れまい。小さい頃から使っているという言葉が語るように、長年の経験により培われた技量もあってこそなのだろう。

 その技術は継実としても欲しい。

 

「ねぇ、もう一頭アザラシはいるし、こっちの解体は私がやっても良い?」

 

 継実も勉強がてら、アザラシの解体を行ってみたくなった。

 

「別に構わないが、俺は教えるなんて出来ないぞ。あと刃物も貸さないからな」

 

「うん、それは平気。元々見て盗むつもりだったし、ナイフはこっちが用意するよ」

 

「……? まぁ、そういう話なら勝手にすれば良い」

 

 ヤマトは首を傾げ、何かわ探すようにじろじろと継実を見た後、アザラシの解体を再開する。

 ヤマトの手付きは随分と手慣れたもの。次々と骨から肉を削いでいく。その削ぎ方も時には力強く、時には繊細に、緩急の変化が著しい。

 しかし継実の動体視力なら見切れないスピードではない。

 刃を骨に沿うように入れている事、内臓を傷付けない角度でナイフを動かしている事、骨を外すために手作業がある事……どれも継実の目で捕捉している。やはり食べ物に関する作業だけに多少なりとも慎重なのか、或いはヤマトが継実でも視認出来る程度にゆっくりやってくれたのか。

 どちらにせよ技は盗めた。残るは道具だけだが、こちらは『自前』で出来る。

 

「(肉質は、結構硬いな。皮と肉の間は脂肪を多く含んでいて、熱に強い感じか)」

 

 まずはカニクイアザラシの肉質を確認。継実は昨日カニクイアザラシの皮については裁断を行ったが、肉の解体はこれが初めてだ。どのぐらいの硬さがあるか、耐熱性はどれほどか。様々な情報を頭の中に入れ、計算し、切り取るのに必要な『エネルギー量』を算出する。

 そうして導き出したデータを元にして、継実は指先から粒子ビームを撃ち出した。

 これが継実の用いる、ナイフの代替品だ。ナイフが自らの硬さと鋭さで切り裂くのに対し、粒子ビームは高熱と粒子の勢いで焼き切る。正に超能力……とはいえ人間の能力を思えば、これぐらいの技は難しくあるまい。それに道具で切り裂くのに対し、粒子ビームは大量のエネルギーを使う。あくまでも代替品に過ぎないので、そこまで画期的、驚くべき技なんてものではないのだが。

 

「なっ!? お前なんで指先が光ってるんだ!?」

 

 そう思っていたところ、何故かヤマトは目を見開くほどに驚いた。あまりの驚きぶりに、驚かれた継実もまた驚き、ろくに考える事もなく答えてしまう。

 

「えっ。いや、ただの粒子ビームなんだけど……」

 

「粒子ビーム!? すげぇ! ビーム出せるんだ……そーいうの、花中さんだけが出来るって思ってた」

 

「えっ。もしかして他の人達はビーム出せない感じなの?」

 

「……………出せない感じ」

 

 目を逸らしながら、ヤマトは少ししょんぼりと項垂れた。

 ただ自分に出来ない事が悔しいとか恥ずかしいとか、そういうネガティブな感情はあまり感じられない。強いて言うなら『羨ましさ』がひしひしと滲み出ている。

 思い返すと継実の小学生時代、男子はやたら手からビームを出したがっていた気がする。少年漫画も手からビームを出すキャラはたくさんいた。少女向け漫画にも割といた気もするが、少年向け漫画に出てくるキャラの方が多い気がする。恐らく、男の子には「手からビーム」に対して本能的な憧れがあるのだろう。

 それが現実で出来る人が出てくれば、本気で羨ましくなるのも仕方ないかも知れない。

 

「……今度、一緒に練習する?」

 

「教えてくれるのか!? やった!」

 

 気紛れに提案してみれば、ヤマトは両手を上げて大喜び。厳つい男の顔が、少年のように眩い笑みを浮かべていた。

 余程嬉しかったらしい。如何に見た目が大人でも心はまだまだ十四歳。中二病真っ只中であり、七年前なら楽しい黒歴史を作り上げていた年頃なのだ。年相応の『遊び』が出来たら大喜びするのも当然だろう。

 これで遅刻の件がチャラになったかは分からないが、少しは打ち解けられた筈。しかしそれよりも、誰かの役に立つというのが、如何にも『社会生活』を営んでいる感じがして……継実的にはとても楽しい。

 

「(拗らせてるなぁ、私)」

 

 ヤマトと違って手遅れ気味な自分を客観視しながら、継実は黙々とアザラシの解体を続けるのだった。

 ……………

 ………

 …

 

「……良し、こんなものだろう」

 

 数分ほど経った頃、ヤマトは汗を拭いながらそう独りごちた。

 ヤマトが切り分けた肉は雪の上に並べられている。ナイフで切り分けただけに、どれも断面が綺麗で形も整っていた。肉は雪に半分以上埋められ、天然の冷たさによりカチコチに凍らされている。また解体跡地には大量の血溜まりが出来ていたので、敢えて血がたくさん出るよう、動脈を切った事が窺い知れた。内臓は綺麗に取り除かれ、肝臓など一部を除いて雪の上に積み上げられている。

 これらの行いは肉の品質を良くするためのものだ。

 肉の味は、生き物が死んですぐに落ちていくものだ。七年前なら肉は熟成した方が〜などという薀蓄が語られるところだが、これはその前に行う準備の話である。生物体は死んだ後、表面に付着した細菌などの手により速やかに腐敗が進む。猟師が獲物を仕留めた際血抜きや流水に浸すなどの作業を行うのは、腐りやすい血を取り除いたり冷やしたりする事で腐敗を遅らせるのが目的だ。これをした上で適切な保管場所にて管理する事で、ようやくタンパク質分解による旨味の増加……熟成という『贅沢』が行える。血抜きもしない肉を熟成させたところで、腐り味が増幅するだけだ。

 味の向上を別にしても、腐敗=食中毒の危険がある(食べられなくなる)なので、保存する上でもこの作業は欠かせない。ミュータント細菌に対してはこれでも長くは持たないにしても、食べてるうちに腐り始める事態ぐらいは防げるだろう。

 ヤマトは見事この職人技を成し遂げてみせた。小さい頃からナイフを持っていた、つまり幼い頃から動物の解体をしてきた事で培われたものだろう。長年積み上げた技術の成果は、一朝一夕で真似出来るものではない。

 ではそれを見よう見真似でやった継実の解体結果はどうか? 恐らくだが――――落第点だろう。

 

「血抜き、出来てない……」

 

 継実の解体現場は、血溜まりが殆ど出来ていなかった。切り分けた肉も雪に埋めたのに未だ生温く、変色までしている始末。また僅かであるが……ちょっと生臭くなっている。

 血抜きの失敗により、腐敗が起きているのだ。

 何故血抜きに失敗したのか? その原因は継実が解体するのに利用した、粒子ビームにある。粒子ビームによる切断は高熱で焼き切って行う。そのため傷口はすぐに塞がれてしまい、出血が殆どなかったのだ。またあくまで表面だけとはいえ、ミュータント肉が焼き切れるほどの高温となれば、雪に埋めても早々凍るほどまで冷えない。

 わざと肉の質を悪くしようとしたの? そう訊かれても仕方ないぐらい、形以外の品質はボロボロだった。

 

「ふーん。でもこれ普通に美味しいわよ?」

 

「はい! 普段お肉なんて焼きもしませんから、香ばしくてすごく文明的です!」

 

 ちなみに摘み食い(一食分)をしている継実の家族二名は大満足な様子。何分普段解体もせずそのまま肉に齧り付き、素材の新鮮な味を堪能するような生活をしてきた。焼き切るだけで上等な料理である……これを文明的と言われると逆に心が痛む。そもそも解体したばかりのものを摘み食いするのは文明的なのだろうか?

 

「……なんか、その、大変だったんだな」

 

 ついにはヤマトに同情までされる始末。今までどんな生活してきたの? と問われているようで、ますます継実は意気消沈。

 とはいえ何時までも遊んでいる暇もない。

 

「と、兎に角解体は出来たし、このお肉を村まで持っていくんだよね?」

 

「ああ。ノルマとしてあと一匹は欲しいが、それは……多分フィアが捕まえてくるだろう。アイツは色々頼りにならないが、狩りの腕前だけは信用出来る。あと肉だけでなく、今回は皮も持って帰るぞ」

 

 フィアへの評価を語りつつ、ヤマトは自らが解体した肉、それと皮を抱きかかえる。

 継実も自分が解体して得た肉を抱えた。モモとミドリも継実の分を幾つか拾い、持ってくれる……ぱくぱくと摘み食いするために。

 果たしてこれは手伝いなのか? 疑問はあるが、なんにせよ一仕事終わった。あとはこれを自分達の村まで送り届けるだけ。家に帰るまでが遠足というように、実際に村まで肉を届けなければ仕事が終わったとは言えない。

 そう、本番はここからだ。

 狩りは終わった。解体も済んだ。しかし継実もヤマトも気を弛めない。むしろ今までよりも更に警戒心を強めていく。

 

「さて、言うまでもないと思うが……普段は、行きと同じぐらいの速さで戻れば良い。内臓を残しているから、基本的にはそっちに『釘付け』だからな」

 

「でも今日は違う、と」

 

「今日は、肉の臭いをぷんぷん漂わせたからな」

 

 ヤマトはそう言うと、継実が抱えている肉を見る。

 ……焼き焦げた肉の臭い。血の腐敗による臭気。ヤマトが抱えている、ヤマトによって解体されたほぼ無臭の肉とは大違いだ。成程、確かに『今日』は臭いをぷんぷん漂わせている。

 食べ物の臭いは、何時だって動物を引き付けるもの。

 猛獣だって楽に食べられる獲物がいればそちらを狙う。獲物にされる生物だって時には反撃を行い、下手をすれば怪我を負わされる可能性もあるのだから。しかしより多くの肉を得られるなど、メリットがあれば……襲う事に躊躇いなどない。

 例えば――――遥か地平線の彼方から超高速で飛んできて、継実の顔面に噛み付こうとしてきたヒョウアザラシとかが。間一髪で身を屈めて回避した継実だったが、ヒョウアザラシはくるんと空中で一回転。着地した時には継実の方をしっかりと見つめている。

 どうやら見逃してはくれないようだ。

 

「ぎょあーっ!? もう来たぁ!?」

 

「おう、逃げるぞ。ちなみにソイツには俺も勝てないから、全力で脱出だ!」

 

「ほーい」

 

「ひぇぇぇぇっ!?」

 

 ヤマトの掛け声に応じて、継実とモモとミドリも走り出す。ヒョウアザラシも勿論追ってきたが。

 村まであと二百五十キロ。継実達が全速力で走れば凡そ百秒の道のりであり……つまりヒョウアザラシとの追い駆けっこも百秒ぐらい続く。

 もしも継実の肉が臭っていなければ、この最後のトラブルは回避出来たかも知れない。

 

「ひぃぃーん! これじゃあ全然役立ったって言えないぃー!」

 

 初仕事での失敗続きに、継実はついに泣き言を漏らす。

 そんな彼女の横を走るヤマトがほんのり笑っていたのだが、逃げるだけでいっぱいいっぱいな継実がそれに気付く事はなかった。



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文化的な野生人生活05

「あはははは! よく無事に逃げてこられたねー。ビックリだよー」

 

 継実達の初仕事について聞いた『彼女』は、けらけらと笑いながらそう感想を述べた。

 くるんと先の丸まった、可愛らしくもボリュームのある黒髪。自称二十五歳でありながら子供っぽさを感じるほど笑みが眩しく、けれどもそれが嫌味や未熟さに感じられない。

 それでいて毛皮で作った服を纏う身体は、大人の魅力に満ち満ちている。ミドリほどではないが胸は大きいし、腰のくびれやしなやかな足などは、妙にエロティックで同性すらもちょっと息を飲んでしまう。肌も質感が妙に艶めかしく、なんだかいい匂いがしそうな雰囲気だ。

 雰囲気としては大型犬っぽいのだが、強い色香も漂わせる大人の女性――――それが彼女・小田加奈子という人間だった。ちなみに彼女は、どうやら花中とは七年来の友達らしい。

 村の中心部にて加奈子と顔を合わせている継実は乾いた笑みを浮かべる。傍にいるモモとミドリは朗らかな笑みを浮かべ、ヤマトはチラチラとぽよよんとした加奈子の胸元を見ているのに。

 ただしそれは継実が加奈子を苦手に思っているからではなく、ヒョウアザラシに齧られた結果頭から血がだらだら流れていて、再生中故に疲れているのが原因なのだが。

 

「ええ、まぁ……なんとかお肉は守りきりましたけどね。村の近くまで来たらヒョウアザラシの奴が、すたこらさっさと逃げていったお陰で」

 

「でしょー。みんなミリきちを怖がって近付かないんだ。私は南極に来るまでミリきちと一緒だったから、全然生き物に襲われなくて楽なもんだったよー」

 

「まぁ、たまーにヤバいのがいたけどね。ムスペルとか相性悪いし」

 

 加奈子の言葉に同意とも反論とも取れる返事をしたのは、村長ことミリオン。継実達の狩りの結果を見に来たのだ。

 ニコニコと楽しげに笑い、人間と談笑を交わすミリオン。

 一見して優しくて友好的であるし、実際そうなのだろう。フィアやミィと違い、平和と秩序を愛する心は極めて人間的だ。しかしだから戦いに向かないとは限らない。

 ミリオンの身体から常に感じられる、圧倒的な『戦闘能力』はハッキリいって桁違いだ。これまで継実は様々なミュータントと出会ったが、正直に言えば友好的でないなら絶対に近付きたくもない。抗うだの作戦だのが通じる次元ではなく、さながら向こうは虫を踏むかのように、この村を踏み潰せるだろう。ミュータントが近付こうとすらしないのも頷ける。

 だからこそ、狩りはド下手くそなのも予想出来たが。強過ぎて誰もが尻尾を巻いて逃げる生物の前に、獲物は決して現れないのだ。ミリオンに狩りに出てもらっても、食糧を得るのは難しいだろう。

 ミュータントから見ても正に化け物。そんな化け物相手に、よくも『ミリきち』なんて相性で呼べるものだと、継実は少し感嘆した。

 加奈子は、()()()()()なのに。

 

「しっかし加奈子って南極とはいえ、よく生きてられるわね。アンタ、ミュータントじゃない人間なんでしょ?」

 

「そだよー。だから普通なら息するだけで病気になって死んじゃうけど、ミリきちが守ってくれてるから平気なの」

 

「ま、私の手に掛かれば人間一人の体内で免疫細胞代わりに仕事するぐらい余裕よ」

 

 ふふん、と自慢げな鼻息と共に胸を張るミリオン。正体がインフルエンザウイルスらしいので、恐らくこの美女の姿はウイルスの集合体だ。実際継実がちょっと注視すれば、正体である直径約百ナノメートル(一万分の一ミリ)の物体が見えた。

 人の免疫細胞で最大の個数を有す白血球の一種好中球の大きさが十二〜十五マイクロメートルなので、インフルエンザウイルスはその百分の一未満の大きさである。体内に入れば血液と共に循環可能であるし、如何に小さくともただの人間の免疫細胞に駆逐されるミュータントではない。免疫細胞の代わりが出来るのも頷ける。

 ……逆に言えば、ミュータントによる『加護』がなければ、今の地球で普通の生物は生きてもいけない証明であるが。

 

「はい、雑談はこんなものにしましょ。それより小田ちゃん、お仕事よ」

 

「ほーい。ふふふ、この七年間で大桐さんから料理習ったからね! 私がみんなの分のご飯作るよー!」

 

 自信満々に胸を張る加奈子。子供っぽい仕草に、あどけない顔立ちも合わさって、正直継実はちょっと不安が過る。

 しかしそれ以上に、ワクワクした気持ちにもなってきた。何しろ誰かの料理を食べるなんて経験は、それこそ七年ぶりだ。これでどうして胸が弾まずにいられるのか。

 それを口に出すのは、なんとなく子供っぽいので黙っていたが……ひょっとすると顔に出ていたのか。「すぐに作るからね!」と加奈子は継実を見ながら言ってきたので、継実は顔を赤くしながらこくりと頷く。

 加奈子は継実達が持ってきた肉を抱え……きれなかったので残りを継実達に手伝わせつつ、とある場所へと向かう。

 そこは村の外側に位置する場所。何やら大きな、直径二十センチほどの薄くて円形の石が二つ置かれている。

 加奈子は片方の石の傍に座ると、抱えていた肉を一旦脇に置く。次いで目の前にある石を両手で持ち上げると、ミリオンに投げるように手渡した。七年前なら鈍器として使えそうなサイズの石。投げれば危険な物体だが、ミュータントであるミリオンはそれを難なく片手でキャッチする。すると石は一瞬にして赤く光り始めたではないか。

 ミリオンは石を加奈子の前に戻す。そして加奈子はその石の上に、継実達が持ってきた肉を置いた。じゅうじゅうと音を立てて肉が焼ける……

 いや、焼けてない。

 ミュータントアザラシの肉は、ちょっと火に掛けたぐらいでは焼けないようだ。じゅうじゅう音を立てているのは表面に滴る血液。肉自体は焦げ目も付いていない。

 つまるところ生肉なのだが、血が完全に焼けて音がしなくなると、加奈子は肉を二本の棒で挟み……別の石の上にポイ。

 

「はい、焼けたよー」

 

「待って待って待って待って」

 

 それで料理が終わったなんて言うものだから、継実は思わずツッコミを入れてしまう。

 しかし加奈子は継実のツッコミにこれといって反応なし。それどころか首まで傾げる始末。

 

「んー? なんじゃい?」

 

「いや、なんじゃいじゃありませんよ。これ、料理って呼びます普通?」

 

「料理じゃん。火を通してるし」

 

 堪らず疑問をぶつければ、加奈子は堂々と答える。火を通してると言っているが、実際には通ってない。相変わらずの生肉である。

 確かにお刺身などは生で食べるものだが、今回のものは毛色が違う。料理にしようとしたけど出来なくて、放置した出来損ないである。これを人類の叡智の一つである料理と認める訳にはいかない。

 

「おかしいでしょ!? 料理じゃないでしょこれ! ねぇ!?」

 

 ついに耐えきれず、継実は周りに意見を求める。

 

「え!? そうなの!?」

 

「えっ、そうなのですか?」

 

「えっ。そうなのか?」

 

 周りのモモ・ミドリ・ヤマトの畜生三匹は、キョトンとしながら調理済みのアザラシ肉を食べていたが。

 成程、野生動物達にとっては生焼け(てすらもいない)肉でも十分料理らしい。多数決に一瞬で敗北した継実はもう、乾いた笑みしか浮かばなかった。

 しかし諦めはしない。多数決をひっくり返す事は出来ないが、賛同者は一人ぐらい欲しいものだ。

 答えを保留しているミリオンならば、或いは――――

 

「んー。私的には愛情がこもっていれば料理派なので、これは料理ね」

 

 そんな期待はあっさり打ち砕かれて、継実は雪の上に突っ伏す。

 ……駄々をこねてしまったが、素材がミュータント由来となれば加工するにも莫大なエネルギーが必要だ。カニクイアザラシ肉がどの程度丈夫かにもよるが、もしかすると原子炉をフル稼働させても足りないような熱が必要かも知れない。それを思えば、血を焼いて香り付けするだけでも十分だと言えよう。

 ワガママを言っても仕方ない。むしろ香りの付いた料理を堪能すれば良いのだ。そもそも今までの自分達は生肉どころか腐肉すら食べてきたのに、今になって何故ちゃんとした料理に拘るのか。

 

「(社会の仲間入りをしたからって、ないものねだりはするもんじゃないよね)」

 

 気持ちを切り替えて、継実は加奈子が焼いてくれた肉を口に入れる。

 噛めばたっぷりと血と肉の味がして、表面の血が焼けた事で香ばしさがある。端的にいって、普段食べているものよりずっと美味しい肉だった。

 

「うん。美味しい……凄く美味しいです」

 

「えへへ、そりゃ良かった」

 

 感想を述べると、加奈子は先程までのやり取りなんて何も覚えてないかのように、心底嬉しそうに微笑んだ。

 

「そしたら次の仕事はねー、このお肉と皮を村の人達に運んでくれない?」

 

 ただしそれはそれとして、新たな仕事を渡してきたが。

 とはいえ継実達は今、仕事を覚えながら村の人々に自分達の紹介をするのが目的だ。新しい仕事、そして他の人と出会える機会をもらえるのは望むところ。

 

「うん、分かりました。で? 何処に持っていけば良いんですか?」

 

 次の仕事の意欲を滾らせながら、継実は加奈子に意気揚々と尋ねる。

 加奈子はその問いに対し、村に建てられた獣皮のテントの一つを指差すのだった。



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文化的な野生人生活06

 村に建てられた、獣の皮で作られたテント。その中に入ると、そこには革製の服を着た四人の人物がいた。

 二人は年頃の女性。うち一人は栗色の髪を持った大人びた雰囲気をしていて、もう一人は炎のように鮮やかな赤髪をしている。どちらもやや吊り目気味で、顔立ちも端正な美形タイプ。顔の造形そのものは左程似ていないのだが、雰囲気については姉妹と言われたら信じてしまいそうなぐらい似ている。

 もう二人は大人の男と……彼の膝の上に乗っている子供。男の方は身長百八十センチはあろうかという大柄で、肩幅も身長に見合うほど広い。年頃は三十代ぐらいと、見た目だけなら継実が出会った村の住人の中で最年長だ。顔立ちは所謂アラブ系で、ちょっと強面に思えるが、微笑み方はとても優しい。彼の膝の上に乗っている子供は二歳ぐらいの男の子のようで、継実達と目が合うと慌てて男の背中に隠れてしまう。

 彼等がいるテントは高さ三メートル、横幅五メートルほどの広い空間だ。継実・モモ・ミドリの三人がテント内に追加で入っても、特段狭苦しさは感じない。

 室内に入った継実達三人組は、まずは栗色の髪の女子に話し掛けた。自分達が持ってきた焦げ目付きの生肉を渡すために。

 

「えっと、お肉を運んできましたー。あ、えっと私――――」

 

「有栖川継実ちゃん、でしょ? 今朝大寝坊していた」

 

「ふぐっ」

 

 明るく元気に挨拶しようとしたところ、強烈なカウンターを喰らう羽目に。事実の指摘に呻く継実を見て、モモは首を傾げ、ミドリは笑いを堪える。

 いきなり手痛い一言をもらったが、栗色の顔の女子(及び他大人二名)は笑うだけで、敵意や悪意は感じない。単純に、朝の出来事を引き合いに出しただけか。

 照れたように笑いながら、継実はぺこぺこと頭を下げた。

 

「今朝は大変申し訳なく……」

 

「ふふ。まぁ、初日じゃ色々疲れていただろうし、それに安心出来ていたんじゃない? 村の中なら他の生き物に襲われにくいって」

 

「……そうかも知れません」

 

 特に自覚はしていなかったが、言われてみればそう思える。

 今までも家族と共に暮らし、共に周囲を警戒していた。背中を預けられる仲間がいるとはいえ、夜にはどちらも寝てしまうから無防備だ。だから完全な熟睡をする訳にはいかなかったし、する気にもなれなかったが……今では村人全員が辺りを警戒し、異変がないかを確かめてくれている。そうした安心が、自分を深い眠りに誘ったかも知れない。

 ……じとーっとした目で見てくるモモは「アンタは別に一人でも寝坊助でしょ」と訴えていたが。しかし人間は印象が第一。悪印象を誤魔化せるならなんでも良いのだと継実は心の中でべろを出す。罪悪感は特にない。本質的に今の継実は人間よりも野生動物に近いので。

 

「あ、自己紹介がまだだったわね。私は立花(たちばな)晴海(はるみ)。大桐さんと同級生で、普通の人間をしてるわ。んで、こっちの子は御酒(みき)清夏(せいか)ちゃん」

 

「よろしく。ちなみにわたしはミュータントよ。あと、フィアとかと違って人間扱いしてくれた方が嬉しいタイプだから、そこは間違えないでね」

 

 栗色の髪の女性……晴海はそう言うと、赤髪の女性である清夏を紹介した。清夏はちょっとばかりつっけんどんな言い方をしていたが、笑みは優しく、こちらを気遣ってるのが窺い知れる。

 どちらも自分の『正体』を明かしてくれたが、二人の言葉はどちらも本当だと継実は本能的に理解した。晴海は話した通り普通の人間、つまりミュータントではない。

 そして晴海がミュータントだらけの世界で生きていけるのは、清夏のお陰だろう。清夏の姿を能力により細かく観察してみれば、ミリオンと同じく小さな生き物の集合体だと分かる。ただし彼女はウイルスではなく、もっと巨大な単細胞生物のようだ。

 清夏の一部が晴海の体内にて巡回する事で、ミュータント細菌の侵入を防いでいるらしい。清夏からはミリオンほどのパワーは感じないのでそこまで鉄壁ではないだろうが、生きていくにはこれで十分だろう。

 付け加えると、まだ自己紹介をしていない男性も間違いなく『人間のミュータント』だと、継実は察している。

 

「で、こちらがアイハムさん。加奈子達が旅の途中で見付けて、連れてきたらしいわ。あ、ちなみに日本語喋れるからね。ミュータント化の影響で、その知識が入ってきたそうで」

 

「どうも、アイハム、です。よろ、しく。こちらは、息子の、カミール」

 

 たどたどしい言葉遣いで、男性ことアイハムは名乗る。それから息子カミールを両手で掴み、継実と向き合わせた。

 カミールは継実と目が合うと、途端にもじもじし、そっぽを向きながら微笑む。子供は野生だろうと社会の中だろうと変わらないのか、なんとも可愛らしいものだ。

 

「はろー。私はモモ。よろしくねー」

 

「あたしはミドリって言います。これからよろしくお願いしますね」

 

 その後モモとミドリも自己紹介。

 顔合わせを済ませたところで、継実達は持ってきた肉、それとアザラシ皮をどしんと床に置く。アイハムとカミールはニコニコ笑っていたが、晴海と清夏の顔は一瞬で引き攣ったものに変わった。

 

「……相変わらず生焼け未満ねぇ」

 

「ねー。わたしはミディアムステーキが好きなんだけどなー」

 

「あ、ははは」

 

 晴海と清夏の大変正直な意見に、心の奥底で同意していた継実は乾いた笑みを浮かべる。とはいえ二人は本気で嫌がっている訳ではないらしく、生焼け未満肉を手に取り、齧るように食べ始めた。食べる分には人間の顎の力でも可能なようで、晴海は特に苦労もなく食べている。

 アイハムも肉を食べ、息子であるカミールには小さく千切って渡している。美味しそうに、何より夢中で肉を食べる我が子の姿に、アイハムは静かに微笑むばかり。きっとこの親子のやり取りは、二十五万年前の人類誕生初期にも見られた行いだろう。

 ……アイハムがカミールの父親だとして、では母親はどうしたのだろうか? 疑問はある。あるが、『何』があったのかの想像は難しくない。詳細を知ったところで大した意味などないし、間違っていても問題は恐らくない。ならばわざわざ触れる理由などないだろう。そして気にする必要もあるまい。

 

「ああ、そうだ。此処ではどんな仕事をしているんですか?」

 

 それでもなんとなく頭の中の『話題』を逸したくて、継実は此処に来た第二の本題に触れた。

 しかし正直に言うと、なんとなく予想は出来ている。何しろ料理した肉だけでなく、アザラシの皮まで持ってきたのだ。この皮を使って何かするのは明らかである。

 そしてこの村の人達の服が、継実が手作りしたものより遥かに立派なのを見れば、『職人』が何処かにいるのは間違いない。

 

「私達は主に生活雑貨作りをしてるわ。例えばアイハムさんは服を作ってるの」

 

「私、趣味で裁縫、してましたから。両親からは、女々しいから、止めなさいと、言われてましたが……人生、何が役立つか、分かりません、ね」

 

「んで、わたし達はその服を作るのに必要な皮の加工担当よ。まぁ、それだけじゃよく分からないだろうから実演してあげる」

 

 そう言うと清夏達は早速継実達が持ってきた皮を手に取り、『仕事』を始めた。

 

「わたしの担当は薬液作り。皮を鞣すために必要な薬液は、全てわたしの身体から出ているわ」

 

 清夏は皮の上に手を翳す。するとその手から赤黒い、粘性の液体が染み出してきた。

 粘性といっても精々とろみがある程度。皮の上に落ちると『山』のように積み上がる事もなく、自らの重みで自然と皮全体に広がっていく。

 継実が能力で観測したところ、その粘性の物質はタンニンの仲間のようだ。とはいえ一般的な化合物ではない。原子に通常ならばあり得ない量のエネルギーと、電子や陽子の配列が見られる。

 恐らくこれが清夏の能力。自由に物質を作り出す能力なのだろう。これは中々強力な力だ。

 勿論強い力だろうがなんだろうが、何事も使い方次第というもの。

 皮の鞣し作業において、古来では植物から得られたタンニンを用いていたという。このタンニンが皮のタンパク質やコラーゲンと結合する事で、時間が経って腐敗したり固くなったりするのを防ぐ。ミュータントの皮となれば死んでも強力であろうから、ただのタンニンではビクともするまい。しかし同じくミュータントから生まれた超物質なら、『格』は同じだ。古来のやり方がこれで通用するようになる。

 

「よっ、ほっ」

 

 手袋のようなものを装着した晴海が、清夏が出した液体を皮に馴染ませるように広げていく。満遍なく、全体に行き渡るようにやる動きは実に手慣れたもの。一見簡単そうだが、しかしタンニンの液を均等に伸ばしていくのはかなりの技術だ。数ヶ月かそこらで身に付くものではあるまい。

 ましてや晴海はものの数分でその作業を終わらせてみせた。きっと文明崩壊後の七年間、この手の仕事をずっとしていたのだろう。所謂職人というやつだ。ミュータントとなった継実なら同じ事を、より短時間で行う事が出来るが……エネルギー効率は格段に晴海の方が上。職人技というのは、時としてミュータントを超えるのである。

 

「ほい、出来ました。あとはお願いします」

 

「任せて、ください」

 

 そうして加工した皮……いや、革を晴海はアイハムへと手渡す。

 革を受け取ったアイハムは、傍に置いてあった金属製の小箱を開けた。中から出てきたのは一本の針と長い糸。針は動物の骨で出来ていて、糸は動物の体毛を編んで作られたものだ。

 ちなみに革の鞣し作業を終えた晴海は、清夏の髪をもらい、紙縒りのように束ねて糸を作っている。つまり糸は清夏の身体そのものらしい。

 さて。肝心のアイハムの方だが、こちらは凄まじいの一言に尽きる。

 何しろ彼はミュータントだ。身体能力はただの人間とは比べようもないほど優れている。しかも趣味として裁縫をしてきたというから、技術についても折り紙付き。それこそ継実の目にも留まらぬ速さで服を縫い上げていく。

 かくして本当に、あっという間という以外に表現出来ないほどの速さで、アイハムはアザラシ皮から服を作り上げてしまった。無論素人の継実が作ったものより、遥かにデザイン性に優れた美しい一品。彼もまた『職人』の一人という訳だ。

 

「おおー、すごい……」

 

「はは。照れますね……はい、どうぞ。これはあなたの、服です」

 

 その見事な技に見惚れていたところ、アイハムは出来上がった服を継実に渡そうとしてきた。

 言われて継実は、たっぷり数秒間固まる。そんな考えはまるでなかったものだから、脳の演算を割り振るのに少々時間が掛かった。そして答えを得て、驚きのあまり飛び跳ねてしまう。

 

「え、ええっ!? え、く、くれるの、ですか……!?」

 

「はい。そのために、今日は、皮を持ってきて、もらい、ました」

 

「で、でも、私まだ全然皆さんの役立ってないですし……」

 

「私らが役に立たなきゃ衣食住も出さない野蛮人に見える? 流石にそれは心外よ」

 

 傷付いた、と言いたげな晴海の言い分。しかし彼女の顔は笑顔だ。楽しくご機嫌に、継実の逃げ道を塞ごうとしている。

 

「そーそー。もらえるもんはもらっときなさいよ」

 

「そうですよ! それに継実さんはちゃんと獲物を捕まえてきていますし!」

 

 更に家族からも促してくる状況。

 みんなに促されて、それでも断るというのも不躾な話だろう。アイハムから出来上がったばかりの服を受け取る。

 

「すみませんが、着て、もらえますか? サイズが、合ってるか、確認、したいの、で」

 

 するとアイハムからは次の要望が。

 継実は目をパチクリさせた後、周りを見遣る。モモとミドリ、そして晴海と清夏が「いってらっしゃい」と視線で語っていた。

 言われるがまま、継実は一旦家の外へと出る。南極の寒空と空気が身体を撫で、此処が『屋外』だぞと否が応にも思い知らされた。

 

「……周りには、誰もいないね」

 

 だから、思わず周囲の様子を窺ってしまう。

 普段、外で裸になる事に大した抵抗はない。七年間の野生生活で裸になった回数なんて数えきれないし、この二ヶ月の旅では殆どの期間を裸で過ごしてきた。本能的に考えれば、裸になる事に抵抗などない。裸というのは本来()()()()()()()以上の意味などないのだから。

 しかし村の中では、人間の目がある。

 恥ずかしいという感覚は特にないのだが、人間社会にいるというだけでその意識が込み上がってきて、着ている服を脱ぎ捨てようとする手の動きを妨げた。人間社会を生きるのに必要な理性や感性は、七年間の野生生活でとうに失われていたと思っていたが……どうやら本能の下に埋もれていただけのようだ。

 三つ子の魂百までとはよく言ったもの。十年掛けて作り上げた性質は、七年の月日を経ても簡単には失われないらしい。

 

「(まぁ、結局恥ずかしくはないから、変わったと言えば変わったんだけどね)」

 

 見ている人がいないのであれば()()()()()()()()()()()。そんな『合理的思考』にくすりと笑みを零しながら、継実は渡された服へと着替える。

 渡された服は革製の、長袖チュニックと長ズボン。

 四肢の末端というのは血流が少なく、体温が下がりやすい。また人間の場合ふくらはぎに大きな血管があるため、ここが冷えると体温低下が著しくなる(逆に熱中症対策としてはこうした部分を冷やすと効果的だが)。腕と足をしっかり覆うこの服は、アザラシ皮自体の防寒性もあって、寒さに対して極めて優秀な耐性を発揮していた。また心臓など重要臓器がある胸部や腹部の布地は分厚くて鎧のようであり、対して素早い動きを行う手足は薄く軽量化が施されている。これならば戦闘を行うのに支障ないどころか、防具として極めて効果的と言えよう。

 ついでに、デザインが結構可愛い。外側の毛を敢えてもさもさと逆立てる事で、ふわもこ系の洋服に仕立てたようだ。

 

「(って、デザインが最後かい)」

 

 七年前なら間違いなくまず可愛いかどうかを考えただろうに。これもまた変化だなと思いながら、継実はモモや晴海達が待つテントの中へと戻る。

 

「着替えましたー。えっと、どう、ですかね?」

 

 継実は部屋に戻るや、そこにいた者達に意見を窺う。

 皆、しっかりと継実を観察。興味深げだったり、「ふむ」なんて声を漏らしたり、じろじろと上から下まで眺めたり……見方はそれぞれだ。

 けれども最後は、全員が満足げな笑みを浮かべる。

 

「おー、なんか一気に文明度が上がった感じ」

 

「はい! 似合ってます!」

 

「良いじゃない。ちゃんと可愛いわよ」

 

「うんうん。あ、もっと違うデザインの服が欲しいとかあったら言ってね。出来る範囲ではあるけど、色々作るから」

 

 モモ、ミドリ、晴海、清夏……女子四人からは褒め言葉が投げ掛けられる。勿論とても嬉しい。四人の雰囲気からして世辞でもなさそうなので、本当に可愛くて似合ってると言ってくれているのが伝わった。

 

「良い、ですね。村の、一員になった感じが、すごい、します」

 

 ただ、アイハムの言葉ほどの衝撃は受けなかったが。

 アイハムに褒められて、継実はかちんっと固まる。最初異変に気付いたのはモモで、首を傾げていた。そして他の誰かが、継実の些細な変化に気付く事もなかった。

 何故なら継実が唐突に、ぼろぼろと泣き始めたからだ。

 

「ちょ、どうしたの継実!? お腹痛いの!?」

 

「いやなんで真っ先にそこ疑うの!? え、でもどうして?」

 

「わ、私、何か、変な事、言いましたか!?」

 

「あ、ち、違うの。その、なんでだろ」

 

 次々と心配されて、継実は慌てて涙を拭う。事実悲しかったり怒ったりした訳ではない。アイハムが変な事を言ったのでもない。

 ただ、今になって実感したのだ。

 自分がこの村の一員になったのだという確信が、この服と共に、備わったような感覚を……



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文化的な野生人生活07

「あっ。服、作ってもらったんですね! すごい似合ってます!」

 

 出会うや否や、花中から伝えられたのは純朴で無邪気な褒め言葉。それが世辞でもなんでもない事は、花中が浮かべた満面の笑みを見れば明らかだろう。

 村の中心部、つまるところ屋外で花中と出会った継実はぽりぽりと頭を掻きながら照れた。詩人めいた台詞回しよりも、評論家じみた長々とした薀蓄よりも、心からの言葉というのは実に嬉しい。ちょっぴりくすぐったくも感じて、身を捩ってしまうぐらいに。

 

「ところで、モモさんやミドリさんは、どちらにいるの、ですか? 近くに姿が、見えませんけど」

 

「二人は今服を作ってもらってるよ。ただ、モモが必死に抵抗して苦戦しているようで」

 

「あー……モモさん、犬ですもんね」

 

「ミドリは悪ノリして晴海さん達の仲間入りしてるし、あの様子じゃ時間が掛かりそうだったからね。面倒だったから私は一抜けしましたよっと」

 

 いたずら小僧のように笑ってみれば、花中もくすりと笑みを零す。広々とした、だけどミュータントとしては狭苦しいテント内を逃げ回るモモの可愛らしい姿が思い浮かんだのだろう。

 晴海とミドリの手から逃れる事は、モモならば難しくあるまい。清夏はミュータントだが、継実の『直感』的に彼女は恐らく足が早くないのでモモを捕まえるのは困難。可能なのはアイハムだけだろうが、彼は逃げるモモを微笑ましく見ていただけなので中立の立場だ。二歳児カミールはきゃっきゃっとはしゃぐだけ。

 追い駆けっこは晴海達が諦めるまで続くだろう。しかしなんとなくだが、彼女達は結構諦めが悪い気がする。果たして何時まで続くのやら……

 

「ま、それは良いや。一つ訊きたかったんだけど、花中ってこの村ではどんな仕事してるの?」

 

 モモの事は一旦脇に置き、継実は花中について尋ねた。ミュータントでない晴海や加奈子にも仕事があるぐらいだ。いくら小学生にも見えるぐらい身体の小さな花中でも、何かしらの仕事があるだろう。例えば小道具作りのような。

 予想は半分正解だった。確かに花中にも仕事はあったが、その内容は決して小道具作りなんてものではなかった。

 

「わたしは主に、周辺環境と、遠方の、観測をしています」

 

「観測?」

 

「はい。周りの安全は、常に確認しないと、いけませんし、それに、ミュータントの生態系は、変化が急速です。それこそ一年単位で、植生遷移が、見られるほど。ですから、毎日観測して、大陸の変化を、調べています。あと、獲物の増減次第で、引っ越しも考えないと、いけないですし」

 

「はぁー……すごい大切な仕事をしているんだね……」

 

 思っていたよりも重大な仕事だと分かり、継実は抱いた感想をそのまま告げる。すると花中は随分と照れたのか、「えへへへ」と笑った。とても可愛い顔だが、二十五歳の笑顔ではないなと思う……それは言葉に出さないでおくが。

 気になったついでに、もう一つ訊きたい事が継実の中に湧いてくる。

 それは花中の服装だ。彼女が今着ているものは、ふわふわもこもこなのダウンジャケット。継実が着ているアザラシ皮のものではない。おまけに下半身にはもっこもこな、()()()()()()的な質感のズボンを履いていた。

 実に可愛らしい服だが、今の時代に着れるような代物ではない。ミュータントでない生物・ハチノスツヅリガでさえもプラスチックを食べる事が出来たのだ。ミュータントの分解能力を用いれば、プラスチックだろうが金属だろうが簡単に分解してしまうに違いない。そもそもプラスチック風情の防御力では、ミュータントの攻撃の余波だけで跡形もなく消し飛ぶ。そして人類文明が崩壊した今、新しい服の入手方法はない。

 人類文明が栄えていた頃に作られた服は、一着残らず、布切れ一枚残さずに消滅している筈なのだ。にも拘わらず花中の着ている服は、どう見ても人類文明で生み出された大量生産品の類。一体、花中は何処からその服を手に入れているのだろうか?

 

「あともう一つ訊きたいんだけど、花中の服って何処で手に入れているの?」

 

「これですか? これは、わたしが自分で、作ったものです。身体の元素、から、ポリエステルを、合成しました。成分的には、人体の物質ではないですけど、身体の一部、みたいなものですね」

 

「あー、そういう事か」

 

 自前だと教えられて、継実は納得する。継実だって能力を使えば、二酸化炭素から酸素を、血糖からトレハロースを合成出来るのだ。そしてポリエステル分子を構成する元素は炭素・水素・酸素であり、人体や大気にある物質で賄える。能力を使えば簡単に作り出せるだろう。

 しかし、その方法はあまりに非効率。

 何しろその方法で作り出せるのは、あくまでも普通のポリエステルだ。先程考えていたように、戦いになれば一瞬で消し飛ぶし、恐らく細菌による分解も受ける。いくら南極でも一日経てばボロボロになり、着られたものでなくなるだろう。つまり毎日修復……エネルギー消費が必要だ。

 こういうのも難だが、お洒落のためとはいえ『浪費』が過ぎるのではないか? 過酷な南極大陸では、何時までも獲物を安定して捕まえられるとは限らないのに。

 

「でもその方法、効率悪くない? すぐボロボロになっちゃうでしょ」

 

 窘めよう、という気持ちがあった訳ではない。ただ思った事がそのまま口から出ていただけ。

 

「あ、それは大丈夫です。ポリエステルって言っても、原子そのものを弄って、ミュータント型物質に、してますから」

 

 なので花中からそのような返事が来るとは思わず。

 予想外の答え、そして聞き慣れない単語に、継実は一瞬思考が停止してしまった。聞き返すにしても、まず単語の意味が分からない。そこから認識を合わせる必要がありそうだ。

 

「……ミュータント型物質って何?」

 

「あ、すみません。普段、身内で使ってる、単語でして……ミュータントの身体には、普通の物質にしては、明らかに性質の違うものが、あるじゃないですか。ああいうものを、わたし達はミュータント型物質って、呼んでいます」

 

「あー……ああいう物質の事か。え、アレ作れるの?」

 

 説明されて一瞬納得し、けれどもすぐに疑問が湧き上がって継実はまた尋ねてしまう。

 花中の語るミュータント型物質には心当たりがある。例えば七年前に戦ったホルスタイン牛は、『メタンガス』による火炎放射攻撃をしてきた。しかしその温度は、メタンガスを燃やしたとは思えないほどの超高温になっている。彼女自身「加工したメタンガスじゃないか」と推測していた事を、モモから聞いた事があった。

 他にもミツバチ達が作り上げた蜜蝋技術も、ただの蜜蝋であんな超高層ビルや巨大マシンを作れる筈がない。コアラの腸内細菌が用いた毒素にしても、いくら人類未発見の分子といっても、原子の構造が『普通』のものであるなら粒子操作能力に耐えられるとは考え難い。そしてつい先程、清夏がミュータントの皮膚すら鞣すタンニンを合成していた。単語こそ初めて聞いたが、その存在はあり触れていて、きっと毎日見ている。

 ミュータントには『量子ゆらぎ』……宇宙を、ひいては宇宙に存在するあらゆる原子を生み出した力が備わっている。この力を応用すれば、()()()()()を作り出せるだろう。よくよく考えれば、そうでもなければミュータントの能力に『身体』がついていけまい。継実がこれまで重ねてきた戦いの経験が、花中の話に説得力を与える。

 しかし、だとするとまた疑問が生まれた。

 継実にはそのミュータント型物質を作り出せない。正確には、他の生物の体内で作っているミュータント型物質は、解析は出来ても作り方が分からないのだ。粒子操作能力は粒子に対して観測や操作など『万能』の働きをするが、万能とは言い換えれば浅く広く力が分散しているという事。対してミュータント型物質は一つの能力で、専門的に作られたもの。万能型の粒子操作能力では深さ(出力)が足りない。

 継実に出来るのは、人類が理解出来る範疇の物質を生み出す事だけ。ヤマトやアイハムも皮の服を着ていたのだから、同じようなものだろう。ならば普通は作れないものの筈。

 

「え? 有栖川さん、作れないのですか? わたしと同じ、操作型の形質だと、思っていたのですが」

 

 そう考えていた継実に、花中は質問で返してくる。

 しかもまたしても分からない単語が出てきた。操作型とは、一体なんなのか? 困惑していると、花中は何かに気付いたようにポンッと手を叩く。

 

「あ、えっとですね……人間のミュータントには、どうやら三つのタイプが、いるみたいなんです」

 

「三つのタイプ?」

 

「はい。一つは、わたしや有栖川さんのような、操作型。演算能力が高く、物質の合成や、遠隔操作が得意です。ビームが撃てたり、テレポートも、使えます」

 

「うん。確かに、私もテレポートぐらいなら出来るね」

 

「それともう一つが、自己強化型です。遠隔操作は、出来ません、けど、自分の身体に関しては、わたし達以上の精度で、操れます。簡単に言えば、身体能力に優れている、感じですね」

 

 花中の説明を聞きながら、継実は思い返す。狩りの時、ヤマトは圧倒的な身体能力を発揮してみせた。にも拘らず粒子ビームが撃てないと語っている。そのチグハグさにあの時は困惑したが、それがタイプ(形質)の違いであるなら納得だ。

 そして自分にミュータント型物質が作れないのに、花中には作れる事の説明も、このタイプの違いで說明出来るだろう。タイプだなんだと言っても、所詮は人間が勝手に決めた区分だ。現実の才能は、ゲームやマンガのようにキッチリとは区切れない。継実はやや自己強化型寄りの体質で、花中は操作型特化なのだろう。

 才覚の違いであるなら、真似出来ないのは仕方あるまい。

 

「ちなみに、三つ目のタイプは、模倣型です。他のミュータントの能力を、真似、出来ます。この村には、いないタイプですけど」

 

「はぁー。色んなタイプがいるだね、人間って」

 

「そうですね。でも、人間が特別な訳じゃ、ないですよ。フィアちゃん達フナなんて、わたしが知る限りでも、七種類のタイプがいる、みたいですし」

 

「アイツ、種族単位でインチキなのかい」

 

 何故フナがそこまで色々と強いんだ? その疑問が顔に出ていたのか、花中は同意するようにはにかむ。

 

「花中さーん。ただいま帰りましたよー」

 

 話題に出していたところ、まるで聞き付けたかのように件のフナが返ってきた。

 ……ずるずると片手で巨大な、体長三メートルはあろうかというエビを引きずりながら。まるで鎧のように甲殻が発達しており、一見してモンスターにしか見えない化け物だが、形態の雰囲気からヨコエビの仲間だと思われる。

 七年前なら悲鳴が町中から上がるであろう光景だが、フィアの友達にとっては日常の風景なのだろう。なんの迷いもなく花中はフィアの下に駆け寄った。

 

「おかえりー。今日は大きいエビ、捕まえたんだねー」

 

「ふふん。中々の強さでしたがこの私の敵ではありませんね。冷凍ビームを撃ってきた時は流石に驚きましたが」

 

 胸を張りながら自慢気に語るフィア。海での戦いはどうたらこうたら、魚の大群が云々かんぬん……

 どうやら地上ではなく、海で獲物を捕らえていたらしい。フィアの能力は『水を操る』なので、水中こそが最も力を発揮出来る環境だろう。地上ですら出鱈目な強さだと言うのに、水中ではどれだけの強さとなるのか……継実にはもう想像も付かない。

 ところでフィアが捕まえてきたエビは、食べられるものなのだろうか? そんな事を思いながらじっとヨコエビを眺めていると、今まで花中を見ていたフィアがふと継実の方に目を向ける。

 そういえば帰ってきたのに挨拶の一つもしてないな――――そう思って継実はフィアに声を掛けようとした。

 

「ところであなた誰でしたっけ? なんか見覚えがある気がするのですが新人でしょうか?」

 

 が、フィアはこちらの事を完全に忘れていたようで。

 じゃあ今日はお祝いですね花中さん、と無邪気に言い放つフィアに、継実だけでなく花中も苦笑いを返すしかなかった。



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文化的な野生人生活08

 時は流れて、夕飯時。

 夕飯時といっても、極夜の中にある南極では空の景色に変化などない。朝からずっと星空が広がり、朝も夜も明るさは変わりなかった。けれどもミュータントの身体は極めて正確だ。例え太陽光がなくとも、大凡の時刻は把握している。そして一人が時刻を把握していれば、把握出来ない者達に教える事で感覚を共有出来る。

 だから村の中心に誰もが寝惚けたりする事もなく、夕食に集まる事が出来た。

 

「はーい。それじゃあアリスちゃん、ワンちゃん、ミドちゃんが村の一員になった事を祝して……かんぱーい!」

 

「「「「「「「「「かんぱーい!」」」」」」」」」

 

 ミリオンの号令と共に、ガラス(南極付近の海底で採取した砂を原料にして作ったらしい。素人細工なので形はちょっと歪だ)で作られたコップを村の住人総出でぶつけ合う。

 継実達の歓迎会がここに開催された。

 仲間入りを歓迎していると、行事を通して示してくれる。それが『人間』である継実には心が震えるほど嬉しい。目の前にある、この村の住人全員で囲えるほど大きな平石の上に積まれた、山盛りのアザラシとヨコエビの肉の存在よりもずっと。

 

「うぉぉぉー! 山盛りの肉だぁー!」

 

「ぱくぱくもぐもぐもぐぼりぼり」

 

「肉よー!」

 

 ……一部メンバーは歓迎会よりも豪勢な食事を堪能したいようだが。モモは乾杯して一秒と経たずに眼前の肉に噛み付き、フィアに至っては乾杯すらせずに食べ始めている。とはいえ前者二体は野生動物なので、欲望に素直なのは仕方ないだろう……同じタイミングで肉に飛び付く普通人・加奈子はどうかと継実的には思うが。同じくどうかと思った晴海が加奈子の頭を引っ叩く。

 なんとも自由な三人であるが、しかしながらそれは三人が素直に楽しんでいる証とも言える。歓迎されたいという気持ちは継実にもあるが、それはそれとして食事を楽しみたいとも思う。なら、三人の無作法ぶりに怒るのは、雰囲気を台なしにするだけ。

 喜んでいるようで何よりと思いながら、継実もヨコエビの肉を掴み、齧り付く。フィアが捕まえてきた体長三メートルの巨大甲殻類は、ぷりぷりと弾力よある肉からエビの旨味を染み出させた。濃厚な旨味はまるで舌の上で踊るようであり、思わず目をパチリと見開いてしまうほど。

 人間がより良い味を追求するために丁寧な世話や品種改良をした家畜・作物と違い、野生生物というのは基本的に美味しくない。ミュータントに至っては、天敵に食べられないためか『酷い味』の生物も少なくないほどだ。ところがこのヨコエビは珍しく普通に美味しい。天敵の少ない南極で進化した影響なのだろうか。

 あまりの美味しさに、一口では物足りなくなる。継実が更にもう一口と食べていくうちに、真っ先に喰らいついた三人以外の住人も食事に手を伸ばし始めた。笑顔と談笑が周りに広がっていく。

 

「ふふ。仕事終わりの歓迎会になっちゃったけど、楽しんでもらえているかしら?」

 

 そうして食事と雰囲気を楽しむ継実に、最初に話し掛けてきたのはミリオンだった。

 口の中のヨコエビ肉はまだまだ味がある。噛めばもうしばらく美味さを堪能出来そうだが、口にものを入れたまま喋るのは文明人としてマナー違反だ。無論答えを返さないのも。

 渋々、ごくんと喉を鳴らしてから、継実は笑顔でミリオンの問いに答えた。

 

「……ええ、とても。まさか今の世界で歓迎会をしてもらえるなんて、夢にも思っていませんでしたから」

 

「楽しんでもらえているなら、企画したこっちとしても嬉しいわ。ご飯もたくさん食べてね。残しても勿体ないだけだし」

 

 にこりと微笑み、ミリオンは継実の傍に座った。

 思えば説教されたぐらいで、ミリオンとはあまりちゃんと話していない気がする。これから同じ村で暮らすのだから、相手の事を知っておいた方が良いと継実は思う。

 出来ればモモとミドリも聞くべきだろう。彼女達もこの村の住人となったのだから……と思いはするのだが、周りを見渡した継実はすぐにその考えを捨てた。モモはヤマトとフィアがヨコエビ肉の奪い合いをしている様を見て楽しみ、ミドリは加奈子と晴海と清夏の四人で女子トークをしている。ちなみに花中はアイハムと共に、彼の息子と遊んでいた。

 自由な家族二名をわざわざ呼ぶ必要はあるまい。継実はミリオンと、一対一の会話に興じる事とした。

 

「そういえばミリオンさんと花中って、付き合い長いのですか?」

 

「ええ、かれこれ十年になるんじゃないかしら。さかなちゃんや小田ちゃん、立花ちゃんも同じぐらいね」

 

「十年……人類文明の崩壊前ですね」

 

「そうそう。なんかあっという間に過ぎた気がするわー……まぁ、私も結構歳だし、時間の流れを早く感じるのも仕方ないかもだけど」

 

「歳って、おいくつなんです? 見た目、花中達より年下なぐらいに見えますけど」

 

「あら、女性に歳を訊くのは失礼じゃない? ……なんてね。歳を答えて恥ずかしがるような時期はとっくに過ぎたし、堂々と訊いてきた勇気に免じて特別に教えてあげる」

 

 そういうとミリオンは継実の耳許に顔を近付けてきた。なんだか貴重な情報にも思えたので、継実はなんとなく意識を集中。

 ミリオンはごにょごにょと自らの『年齢』を伝えた。成程なぁ、と納得したのは一瞬だけ。

 すぐに驚きから、思わずミリオンの顔を凝視してしまう。見られたミリオンはといえば、おどけるように身体を捩った。

 

「あらやだ、そんなに見ても小じわなんてないわよ? お肌の手入れは念入りにしているもの」

 

「いや、手入れってあなたの肌はただの集合体……」

 

「女は何時だって綺麗でいたいものよ」

 

 なんの論理性もない、けれども何故か強烈な説得力を持つミリオンの言葉に、継実は返す言葉を失う。

 いや、ただの言葉だけならこうも動揺はしなかった筈。

 継実の動揺を誘ったのはミリオンの瞳。冗談や茶化すようでもなく、真剣な気持ちで「綺麗でいたい」という言葉を発したのが伝わったのだ。最早人類文明は消え失せ、原始の世界に帰したというのに。

 野生の世界になっても、雌ではなく『女』として振る舞う。強さ故の余裕が為せる技かとも思ったが、しかし単順な強さでいえばミリオン以上の存在もこの世界には何体も存在している。ただ強いだけでこの信念を維持出来るものではない。

 ある種の狂気。何が彼女をそこまで駆り立てるのか。継実が抱いたそんな疑問に気付いたように、ミリオンは妖艶な笑みを浮かべながら再度継実の耳許に寄る。

 

「だって、好きな人の傍で変な格好は見せられないでしょう?」

 

 そうして告げてきたのは、まるで少女のように可愛らしい言葉。

 ーーーー成程、と思った。

 ろくな根拠も提示されていないのに、思えてしまうぐらい真っ直ぐな感情が伝わった。誤魔化されたなんて気持ちは一切沸かない。詳細に問い詰める気もしない。

 本当に彼女は、恋をしているのだろう。

 七年前まで他人の色恋できゃーきゃー騒いでいた身としては、その気持ちを疑うなんて出来なかった。むしろ本当か嘘かよりも……『誰』なのかが気になる。『恋に恋する乙女』というのはそういうものだ。

 

「へ、へぇ〜……と、ところでその好きな人って、誰なの?」

 

「うふふふふ。それはまだ秘密。もっと私と仲良くなったら教えてあげる、かも」

 

 それとなく訊いてみる、が、これはあっさり、そして堂々とはぐらかされた。心底幸せそうな笑みまで浮かべながら。

 ミリオンは乙女心のくすぐり方をよく知っている。そして間違いなく彼女は『恋する乙女』だと、継実は確信した。なんだか凄い話を聞かされたような気がしたからか、或いは恋愛話を聞かされて本能が刺激されたのか。継実は頬がかっかしてきた感覚を覚える。核弾頭の直撃を受けても、火傷どころか体温変化すら起こさない肉体だというのに。

 どうにもこの熱さは我慢ならない。なんとか身体の火照りを取りたいと思った継実は、そういえばコップの飲み物に手を付けていなかった事に気付く。コップは人数分用意されていて、自分の前に置かれた分は自分の物。とりあえずこれを飲んでしまおうと、継実は手許にあるコップに口を付けた。

 直後、ところでこのコップの中身はなんだろうか? という疑問を抱く。

 よくよく見れば白濁していて、真水ではないように見える。コップを持ち運んだ時の振動で液体は揺れ動くが、動きを見るに少し粘度があるらしい。いや、そもそも氷点下を大きく下回る南極の外気に晒され、凍結せずに液体の状態を保っているのだ。真水である筈がない。更には少し酸味のある臭いを発していた。

 しかし臭いというほど悪臭ではない、むしろ心地よい香りに思う。口に含む事への抵抗感は殆どない。そもそも歓迎会の席で出されたものなのだから、そこまで悪いものではないだろう。

 

「ん……変な味……なんだこれ?」

 

 なので特段気にせず、ごくりと一口飲んでみた。酸味のある独特な香りが鼻を抜け、甘さと苦さが混在した不可思議な味が舌いっぱいに広がる。端的に言って美味ではあるのだが、このような味わいの飲み物は今まで……野生生活だけでなく、七年前の文明社会生活でも口にした事がない。

 一体これはなんなのか。なんとなく気になった継実は能力を用い、成分から正体を見極めようと解析を始めた

 瞬間、ぐわんと頭が揺れる。

 

「……はれ?」

 

 一体これはなんだ? そう考えたのも束の間、身体のバランスが崩れ、石のテーブルに突っ伏してしまう。

 身体が重い。

 それに取ろうとした全身の火照りが、一層強くなった気がする。熱に浮かされたような感覚だが、しかし風を引いた時とは大分違う。気持ち悪さはなく、むしろふわふわとした浮遊感がなんとも楽しい。身体の奥底から滲み出す火照りも、寒空の中では気持ちいいぐらいだ。

 悪くない気分。されどこれは一体なんだ? 疑問を抱くも『考える』という行為自体が閃かない。脳を満たす楽しさに浸り、口は無意味な笑い声を漏らすばかり。

 継実の代わりに考えてくれたのはミリオン。じろじろと継実の横顔を見た後、継実の手からコップを没収。その中に入っている液体をじぃっと眺める。

 

「ちょっとー、アリスちゃんのコップにお酒入れたの誰よー」

 

 それから左程間を置かず、周りに尋ねた。

 お酒。その言葉の意味ぐらいは、脳機能がほぼ停止している今の継実にも分かる。

 子供は飲んではいけないと言われ、その後文明崩壊により飲めなくなった嗜好品。起源は樹木から落ちた果実が自然発酵したものだとされているが、ミュータント生態系では発酵が起きるほど長い間果実が放置される事なんてない。この七年間、故意でも偶然でもアルコールの摂取はなかった。

 しかし此処は村社会。人間の管理が行える環境であり、酒を作る事も可能だろう。だがアルコールはミュータントでない人間でも分解可能な物質だ。ましてや粒子操作能力を用いれば、アルコールの分解など造作もない筈なのに……

 

「はーい、わたしわたしー」

 

「って、御酒ちゃんがやったの? あなたのお酒、ミュータントでも酔わせる超強力なやつじゃない。未成年に飲ませちゃ駄目でしょ」

 

「いやいや。酒蔵の娘として、持て成しの席で酒を出さない訳にはいかないわ! 御酒酒蔵の味、わたしが末代まで受け継ぐんだから!」

 

「あれ? 御酒ちゃんも酔ってない?」

 

 等と思っていたところ、清夏からそのような自白が。様々な物質も作り出せる彼女ならば、ミュータントさえも酔わせる特殊なアルコールを作れるのも頷ける。

 ……頷ける、という考えが出来るだけの余裕があれば、の話だが。ミュータントアルコールパワーにより脳みそがアレな事になっている継実には、そんな『難しい話』は一ミリも分からない。

 大体現在進行系で意識が遠退いている今、思考なんて面倒臭い事はしたくない。

 ゲラゲラとあちこちから聞こえ始めた笑い声を子守唄にしながら、継実は酒の魔力であっさりと酔い潰れるのであった。



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文化的な野生人生活09

「…………………………んへぁ?」

 

 意識が覚醒した時、継実は『布団』の中に居た。

 布団はどうやら加工したアザラシの皮、その中にペンギンの羽根を入れて作ったものらしい。流石に人類文明全盛期の日本で売られていたような肌触りの良いものではないが、保温性に関しては抜群に優れている。とても温かな代物だ。包まれている身体はポカポカしていて、実に心地良い。此処がアザラシ皮で作られたテント内(家屋内)で、南極の寒空に直接晒されていないのも温かさの一因だろう。

 或いは、単純に布団の中に継実以外の、モモとミドリの姿もあるから温かいのか。

 モモは継実に抱き付いており、ミドリも布団の中で丸くなっている。二人とも、布団に入る前は寒いと思っていたのだろう。継実と密着するようにして眠っていた。そのお陰か身体がポカポカと温かである。

 普段ならここでもう一眠りするところだろう。ところが此度の継実は全くの逆。眠気がすーっと引いていく。

 何故なら。

 

「……気持ち悪い」

 

 目が覚めたのと同時に、込み上がる吐き気に見舞われたからだ。ついでに頭蓋骨の内側から締め付けられるような、強烈に重たい頭痛にも見舞われる。

 これは一体なんだというのか。痛む頭を酷使して体内を能力で観測してみると……何やら怪しげな物質を発見した。

 その名はアセトアルデヒド。

 酒類に含まれるアルコールは基本人体にとって有害なため、肝臓で分解されてアセトアルデヒドへと変化。アセトアルデヒドはその後酢酸に分解され、酢酸は水と二酸化炭素になって排泄されるのだが……摂取したアルコール量が多いとアセトアルデヒドが分解しきれず体内に長時間残ってしまう。このアセトアルデヒドにより引き起こされた体調不調が、所謂『二日酔い』だ。

 ただのアルコールなら、ミュータントの解毒能力であれば一秒と経たずに消滅するだろう。しかし清夏が作り出したのはミュータントすら酔わす超アルコール。人間でも簡単には分解出来ず、生じたアセトアルデヒドも同じく難分解性のものだったらしい。これが体内で大量に暴れ回り、体調に悪影響を及ぼしている。

 ――――と、普段の継実ならば気付くところなのだが。

 

「……なんでアセトアルデヒドが体内に? つか私、何時布団の中に入ったの? 歓迎会どうなった?」

 

 継実はお酒を飲んだ前後の記憶が、跡形もなく吹っ飛んでいた。どれだけ首を傾げたところで、ニューロンに欠片一つも残っていない記憶は戻らず。

 それでもしばらく継実は考え込んでいたが、やがて思考はぶっつりと途切れた。腹の奥から湧いてくる吐き気が、いよいよ限界に近付いてきたのである。

 

「(あー、こりゃ駄目だ……考え事とかこんなんじゃ無理だし、下手したら此処で吐きそう……)」

 

 家族を吐瀉物塗れにするのは気が進まない。家族二人を起こさないよう継実は布団から抜け出し、テントの外へと向かう。

 テントから出てきた継実は極地の寒さで身を震わせつつ、空を見上げた。

 大空に広がる星々。雲一つなく、星空だけが照らす光景は、月並みの表現だが吸い込まれるような美しさがあった。星の位置から大凡の時刻を推測するに、深夜一時か二時ぐらいだろうか。なんとも微妙な時間に目覚めてしまったものだ。

 南極の過酷な寒さに触れて、少し気持ち悪さが薄れた。今から布団に戻ってももう吐く事はないだろう。しかし眠気もすっかり薄れてしまい、二度寝する気が起きない。

 もうしばらく夜風に当たりたい。そう思って継実は夜の村を散歩してみる事にした。

 

「(静かだなぁ……)」

 

 村の住人達はすっかり眠りに付いているらしく、これといった物音は聞こえてこなかった。獣の遠吠えや風の音もなく、足下に広がる氷の大地も軋む音一つ鳴らしていない。

 完全な無音と星空のコラボレーションだ。

 ……七年前の普通の人間であれば、そう感じただろうが。

 

「(ん? なんかあっちから、空気の振動を感じるな……)」

 

 今の継実の耳はほんの僅かな空気分子の動きさえも捉えてしまう。静寂の世界において、少なくともこの付近では唯一の『音』だ。

 こうなると、その微かな音が気になってくる。

 何もかもが寝静まった世界で音を立てているのは何モノか? どうせ暇だからと、継実はその音の正体を確かめてみる事にした。能力を使えば、音の方角(振動の発生源)を知るのは容易い。抜き足差し足で、音がする方へと歩む。

 村は小さい。五分も歩けば村の端っこまで行く事が出来る。

 そこには一軒の、他の建物と特段変わりないテントがあった。ほんの少し明かりが漏れていて、誰かがこんな夜中でも活動を続けていると分かる。そして継実が探していた音も、空気の振動から『声』と認識出来るようになった。

 どうやらこのテントの中が、探していた音の発生源らしい。

 

「(誰が何を話してるんだろう?)」

 

 果たして声の主の正体は。疑問を解消すべく、継実はそのテントに歩み寄る。

 

「ミリオンさん。有栖川さん達は、どんな感じでしたか?」

 

「んー。そうねぇ……」

 

 ハッキリと言葉を聞き取れるようになった時、声の主が花中とミリオンだと分かった。

 声が誰のものかハッキリしたが、人間というのは好奇心旺盛なものである。正体が分かったら、今度は二人がどんな話をしているか知りたい。どうやら自分の話をしているらしいとなれば尚更だ。

 継実はテントの傍に陣取り、耳を傾ける。尤も、花中やミリオンであれば、自分が近くにいる事に気付いているだろうと継実は思ったが。

 ミリオンは口から「んふふ」と微かな笑い声を漏らした後、花中の問いに答えた。

 

「まず、三人ともそれなりには使えるわね」

 

「それなり、ですか」

 

「ええ、それなりに。狩りは問題なく出来る。着ていた服を見るに裁縫も出来る。それと狩りのやり方からして周辺の観測も出来る。人手が足りないーってなったら、とりあえず相性とか考えずに投入出来るのは強みよね」

 

「……逆に言うと、専門的な事は、任せられない?」

 

「ええ。はなちゃんみたいに料理とかの技術があれば別だけど、それもなさそうな感じ」

 

 ミリオンの率直な意見を聞いて、花中の乾いた笑いが聞こえてくる。

 辛口とも甘口とも取れる評価は、しかし正確なものだろう。継実だって仕事をしている時、自分達の能力がどんなものかぐらいは考えながらやっていた。ミリオンが言うように、どの仕事もそれなりに出来ると思う。花中がやっているという周辺の観測という仕事も、恐らくそれなりには出来る筈だ。

 しかしそれぞれの職に就いていた専門家達ほど、上手く出来るとは思わない。

 勿論ヤマトやアイハム、花中や清夏達はずっと自らの職務をこなしてきた身だ。だから仕事の練度が高いのは当然である。されどその練度を差し引いたとしても、皆ほど上手く出来るとは思わない。継実では身体能力に特化しているというヤマトやアイハムほど身体を精密には動かせないし、物質を自在に作り出す力を持つ清夏のような役目も担えない。花中と同じタイプの能力らしいが、しかし継実の方は身体能力型に近いらしいので、観測能力などは恐らく劣る。

 つまるところ中途半端なのだ。だからこそ何処でも手伝える訳だが、何か一つの仕事を任せるのは向いていない。むしろ下手に一つの事ばかりやらせると、万能だった成績が偏ってしまうかも知れない。それは強みを潰す行いだ。

 仕事を任せるにしても、割り振るにしても、色々気を遣わなければならない。『雇用主』からすると、実に面倒な人員である。

 

「ま、細かい方針は後々で良いでしょ。しばらくは色んな仕事をローテーションでやらせて、満遍なく育てる感じで良いんじゃない? とりあえず明日は、はなちゃんの仕事をやってもらいましょ」

 

 継実自身もそう思うぐらいだ。ミリオンの意見に、否定的な想いなど継実は抱かなかった。

 

「そうですか……うん。将来に期待、ですね」

 

「そうねぇ。人口がもっと増えた頃により価値が増すかも。ま、増える見込みがびみょーだけど。猫ちゃんが探してくれてるとはいえ、一体何人生き延びているのやら」

 

「あはは……小田さんが開き直って、村作りを、提案してなかったら、これが最大人数、でしたけどね」

 

「あの子、私らがアダムとイブになるんだよ! とか絶対思い付きで言ったわよね。悪くない思い付きだったけど。そういやあの時、ヤマトくんは小田ちゃんのおっぱいを毎日見られるってガッツポーズしてたわねぇ」

 

「うわぁ、それは流石に引きます……あ、でもヤマトさんって、今、立花さんと、結構いい感じらしい、ですよ」

 

「え。その情報知らないんだけどどゆ事? あのおっぱい魔神が、よりにもよっておっぱいが小さな立花ちゃんと?」

 

「さらっと酷い事、言ってますね。でも実はこの前……」

 

 話しているうちに、何故だか話題は雑談兼恋バナへ。仕事の話しなさいよとか、猫ちゃんって誰? とか継実は思ったが、逆説的にミリオンと花中がそこまで継実達の事を心配している訳ではない証拠と言えた。

 自分達は『住人』として役に立っている。

 その評価を理解した時、継実は自分の胸がすっと軽くなる感覚を覚え……そしてその感覚に驚いた。胸が軽くなるという事は、少なくとも自分がそうでない可能性、『役立たず』だと思われていた時の事を不安に思っていたからだ。

 花中の優しさは理解している。加奈子や晴海達とも触れ合って、ちょっと間が抜けてる程度で追い出されるとはこれっぽっちも考えていないつもりだった。しかし人を信じたいという気持ちの奥底では、疑心が渦巻いていたらしい。意外と疑心暗鬼気味な人間なんだなと、思っていたより汚い自分の心に継実は自嘲する。

 

「(……まぁ、安心出来たから良いか)」

 

 自己解析は程々に。自分の気持ちへの区切りを頭の中で言葉にした後、継実はすっと立ち上がる。

 花中達は今や恋バナで盛り上がっている。年頃の女子としては参戦したい気持ちもあるが、話題に出来るほど村の人達に詳しい訳ではない。

 何より、そろそろ話が終わりそうだ。大真面目な花中によって。

 

「って、定例報告する前に、恋バナで盛り上がっちゃ、ダメじゃないですか」

 

「あら、忘れていたわ」

 

「もぉー……絶対嘘だ……」

 

 どうやらこの夜会は、単なる夜更しではなく、ちゃんと村の仕事の一環らしい。

 こんな夜遅くまで仕事をしているとは、ご苦労な事だ。恋バナがしたいなんて些末な理由で邪魔する訳にはいかないだろう。『大人』である継実はそれぐらい分かっている。

 

「はい、じゃあ報告、です。とりあえず村の周りに、特筆すべき変化は、まだありません。ただ、アザラシの個体数が、減り過ぎかと」

 

「ふむ。まぁ、いくら繁殖力に優れるミュータントとはいえ、アザラシを一日二頭ずつ捕まえていたら一千頭程度の群れなんて簡単に食い潰すわよね」

 

「ええ。人数が増えて、食糧需要も増える事を、考えると、そろそろ引っ越し時、かと。次の獲物は、西にいる、アデリーペンギンのコロニーか、暖かい海沿いで、魚を取るか……個人的には、ペンギンの方に、行きたいです」

 

「魚の方が良くない? 猫ちゃんが大勢人間を連れてきたら、何倍も食糧の需要が増えるわよ。海産物の方が陸上より資源量が豊富だから、養える人口も桁違いになるわ」

 

「そうですけど、でも海沿いは、人型の怪物とか、巨大海竜がいて、危険性が高いです」

 

「うーん。海竜はさかなちゃんなら抑えられるけど、怪物の方は無理よねぇ。でもリスクを取らないと、無茶は通らないわよ。そもそも多少の犠牲は許容すべきだと思うけどね、野性的に考えれば」

 

「そうですけど、でも、人間の心理的に、犠牲者数が多いと、社会の統率が……」

 

 ついさっきまで恋バナをしていたのが嘘のように、真面目な話を交わす花中とミリオン。村の今後を真剣に議論する声は、正に村長と頭脳のやり取りだ。

 ここまで専門的な話になると、新参者である継実の入り込む余地などない。それに正直に言えば、恋バナほどの興味が沸かなかった。明日こそ早起きしないといけないし、等と心の中で『言い訳』すれば、此処から立ち去る事への躊躇も消える。

 踵を返し、無意味と分かりつつも抜き足差し足で継実はこの場を去ろうとした。

 

「あと、空が気になります」

 

 が、退却最中に聞こえたこの一言が、継実の足を止める。

 空、という言葉に反応して、無意識に継実は頭上を見上げた。自分のテントから出た時と大して変わらぬ美しい星空が、今も変わらず広がっている。

 二日しか見てない空ではあるが、継実の目では特段気になるものは確認出来ない。

 

「空? 何か飛んでたの?」

 

「いえ、そういう訳では、ないです。ただ、フィアちゃんが何か、妙な気配がすると、言ってました」

 

「あー、さかなちゃんか。あの子の感覚は信用出来るけど、詳細が分からないからどーにも対応が取れないのよねぇ……」

 

 後から聞こえてきた話によると、フィアの感覚の話らしい。花中が何か気付いた訳ではないという。

 継実にも何一つ分からない。恐らくここで考えたところで答えなど得られず、時間だけが過ぎるばかりだろう。下手な考え休むに似たり、とは昔の人の言葉だが、実際には考える分だけ脳はエネルギーを使っている。

 なら、素直に休む方がずっとお得だ。

 

「(……そろそろ寝るか)」

 

 開き直った継実は、自分のテントの中へと戻る事にした。村には花中やミリオンなどがいて、自分が考えなくてもなんとかしてくれるという安心感もある。

 不安を抱く事もなく、継実は自分のテントへと軽い足取りで戻るのだった。



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文化的な野生人生活10

 南極に朝がやってくる。

 とはいえ今日もまだまだ極夜真っ只中。空を照らすのは満天の星空だけだ。極夜の期間は地域によって異なるが、極点(地軸の南端または北端)に近いほど長くなる。最長で二ヶ月程度であり、海岸から離れた南極大陸の中心部に近いこの村では、そこそこ長く続くだろう。

 つまるところ今日もまた暗く、そして凍えるほどに寒い。例え雲一つない快晴であろうとも、だ。

 それでも継実は頑張って起き、村中心部である広間へと訪れた。例え目覚まし時計がなくとも、明確なスケジュールがなくとも、今日はちゃんと起きている。何しろ昨日は大遅刻をしてしまったのだ。文明社会の一員として、二日連続は流石に不味い。

 

「モモぉ〜……もっと、ぎゅってしてぇ……」

 

 ……自力では全く駄目で、モモの髪の毛で口許から足の下までぐるぐる巻にしてもらってようやくだが。自意識が殆どないという意味では、モモに助けられてもやっぱり駄目だったと言えるかも知れない。

 モモの体毛は、外側は隙間なく巻き付けていながら、内側はたくさんの隙間があり空気を蓄えていた。空気は外の冷気を遮断し、更に体毛の微振動で発する熱を保持する役目がある。寝ている時に使っていた布団よりも遥かに高品質の暖かさを提供してくれる、最高の暖房だ。

 これだけしっかり温かい格好でいながら、それでも継実の意識が完全に覚醒する気配はない。何故なら外気に触れている顔は外の寒さを感じていて、肌からの信号で冬だと思っている本能が起床を拒んでいるから。もぞもぞと身を動かすのも、寒さへの微かな抵抗でしかない。

 あまりにも情けない姿に、継実を髪の毛で巻いているモモも呆れ顔。傍に立つミドリは苦笑いを浮かべている。

 

「……まぁ、外には出てきたから昨日よりは良いのかしら」

 

「あ、はは……」

 

 そして正面に立つミリオンと花中も、モモ達と同じ顔を浮かべていた。

 

「こりゃ、昔のはなちゃんより筋金入りね。というかミュータントは割と睡眠時間少なめで平気なのに」

 

「うーん。余程、脳への負担が、大きいのでしょうか……」

 

「単に寝坊助なだけだと思うわよ? なんか昔より今の方が甘え方が激しいし」

 

「あー。継実さんって、そーいうところありますよね。最近だとあたしにも平気で抱き付いてきますし。あ、そういえばヤマトさんとかはもう仕事ですかね?」

 

「ヤマくんとさかなちゃんは狩りに行ったわよー。まぁ、二人は別行動だけどね。アイくんは子供と遊んでるんじゃない?」

 

 寝惚けて反論がないのを良い事に、ミリオンや花中だけでなく、モモやミドリまで好き放題に語り始める。が、四人の言葉を聞いても継実の頭は働かない。誹謗中傷なんて()()なものに怒りを募らせるよりも、モモの温かさを堪能する方が合理的なのだから。

 あらゆる負の感情を無視して、継実の本能は微睡みを選ぶ。いや、それだけでは終わらない。「遅刻しない」という目的を達成した頭脳は、このまま二度寝しようという本末転倒な結論を導き出す。そしてそこにツッコミや我慢が出来るほど、今の継実の理性は覚醒していない。

 

「ま、明日はもうちょっと頑張ってもらいましょ。さて、今日は三人に、はなちゃんの仕事を手伝ってもらいたいわ」

 

「わたしの仕事は、村周辺と、南極全体の観測調査、です。主に、環境変化が、起きていないか、狩猟対象の生物は、減り過ぎていないか……危険な生物がいないか。そうしたものを、調べています」

 

 継実は無視され、仕事の說明が始まる始末。モモとミドリが話を聞けばとりあえず問題ないとも思われているのだろう。

 花中曰く、今回は西の方に生息しているアデリーペンギンの個体数調査が目的との事。アデリーペンギンは個体数が多く、目的地のコロニーだけで百万羽が生息している。だがアデリーペンギンを主食にする恐竜類や大型獣も近隣には多数ひしめき……等々。継実達を襲ったあの恐竜が本当の恐竜だった事や、他にも多数の恐竜がいるなど新事実がさらさらと語られていたが、眠たい継実の脳は全てを聞き流す。

 ついには、こくりこくりと、継実は船を漕ぎ始めた。花中が出発し、歩き出したモモ達に連れられ、ミリオンに見送られても、まだ眠りから覚めない。やがて花中と共に村の外に出て南極の大平野を歩き始めたが、それでも睡魔には勝てず。モモ達の談笑は徐々に遠くなり、意識は加速度的に薄れていく――――

 

「おーい花中さーん」

 

 その意識を呼び止めたのは、新たに現れた第五の声。

 フィアのものだ。ほぼ睡魔に負けていた継実だったが、フィアの大声で僅かに意識が戻る。閉じていた目を開き、声がした方を見ればぶんぶんと手を振りながらやってくるフィアの姿があった。

 フィアがいた方角は継実達の南側。海がある方で、狩りに出向いていたのだと窺える。ところがフィアは手ぶらで、何も持ってきていない。どうやら仕事をほっぽり出して、花中の下に駆け付けたようだ。

 音も立てずに花中の傍までやってきたフィアは、そのまま断りもなく花中に後ろから抱き付く。抱き付かれた花中は抵抗も驚きもなく、その体勢を自然と受け入れながら、頭上にあるフィアの顔に向けて話し掛ける。

 

「フィアちゃん、どうしたの? エビとか、取れなかった?」

 

「いえいえそうではありません。実は空にみょーな気配がありまして」

 

「えっと、昨日話していたやつ?」

 

「はいそれです。それが昨日の夜よりも随分と近付いてきていましてね。しかもなんか数も増えています。今なら花中さんにも分かるんじゃないですかね?」

 

 フィアは大した事ではないかのように、自分が感じたものについて伝える。花中は言われるがまま空を見上げ、目を細めた。ミドリも同じく空を見上げ、モモも頭上の気配を窺う。

 そして継実も、半ば無意識に空を見る。

 未だ意識は殆どない。本能的な動きであり、何かしらの確信があった訳ではなかった。いや、或いは本能は確信していたのかも知れない。

 何故なら継実は、空に浮かぶ気配の正体を知っていたから。

 

「(……あれ。なんかあの気配、覚えがあるような……)」

 

 眠りに落ちかけていた意識が、蘇ってくる。

 それと同時に、背筋が凍るほどの寒気も。

 今も継実はモモの体毛でぐるぐるに巻かれている。なのにどんどん冷気が強くなっていくような感覚が満ち、眠気は刻々と薄れていった。

 何故、こんなに寒気がする? 何故こんなにも、本能が騒ぎ立てる?

 

「んー。確かに、何か来てるね。でも、なんだろうアレ……気配がする方を見ても、なんかよく見えないし……」

 

「空の気配は私も色々察知してきましたがこれは初めての感覚ですね。似たようなものにも覚えがありません。しかもかなりの速さでこちらに接近しています。恐らく小さい方は数分以内に辿り着くかと」

 

「……え。あ、複数いるの?」

 

「みたいですねー。あたしにも感知出来ましたよ。でもなんでしょう、アレ?」

 

 同じく空を見ている花中は何かを感じたようだが、危機感や恐怖心は特に抱いていない様子。継実達家族の中で一番索敵能力に優れるミドリも捉えたようだが、彼女もいまいち正体が掴めていないらしい。

 継実だけが、心がざわめいている。肌を突き刺すような寒気が、ついに意識を完全に覚醒させた。

 もう、眠ろうなんて気にならない。

 

「……モモ。もう大丈夫」

 

「ええ、そうみたいね。何か感じるの?」

 

「分かんない。だけど嫌な予感がする」

 

 意識を取り戻した事を伝え、ぐるぐる巻から継実は脱出。しっかりと自分の足で雪の上に立つ。

 能力を発動させて体表面の分子運動を制御すれば、南極の凍て付く寒さはもう辛くない。しかしそれでも身体を襲う寒気は消えず、覚醒した意識はどんどん昂ぶってくる。空を見ても星しか見えないのに、予感ばかりが強くなり……

 

「あれ? これ、宇宙から来て――――」

 

 ミドリがぽつりとその言葉を呟いた事で、継実は確信に至った。

 だからこそ、継実の身体は一瞬固まってしまう。

 自分達の頭上にいるのは、『奴等』だ。

 『奴等』がまた現れるなんてあり得ない? いいや、あり得ない事ではない。『奴等』は元々複数存在していたのだから。それこそあの時以上の数がやってきたとしても、なんの不思議もありはしない。何故またしても自分達の下へ来たのか、単なる奇跡的な高確率か、はたまた狙っているのか……理由は考えるべきだが、それは後回しで良いだろう。

 継実に続いてミドリも、気配の主が『奴等』だと気付いたらしい。今まで微笑みすら浮かべていた顔が恐怖に染まる。二人の表情から今度はモモが察し、臨戦態勢を整える。

 気付いていないのは、『奴等』と出会った事がない花中とフィアだけ。しかしもう、説明するには遅過ぎる。

 

「ふむ。あと十五秒で地上に到達しますね――――()()()()が此処に来ます」

 

 さらりとフィアが語ったように、それが地上に来るのは間もなくだったから。

 忘れやしない。星と星の間に広がる宇宙空間と同じ、光沢のない黒色の身体を。

 間違えやしない。全身がビリビリと痺れたような感覚になるほどのプレッシャーは。

 秒速十八キロの速さで宇宙空間から大気圏に突入したそれは、空気抵抗を受けているにも拘らずどんどん加速していく。通過点の空気が消滅し、存在が消えていく。そして空気を消していくほどに、その大きさは少しずつだが増していく。

 やがてそれは、南極の大地に落ちる。

 秒速五十キロ超えの超スピード。『前回』は草原の上だったが、此度はミュータント植物が繁茂していない場所への墜落だ。衝突のエネルギーは大地を揺らし、蒸発した雪と氷により作られた白煙が周囲に広がる。普通の人間がこの白煙こと爆風の直撃を受ければ、跡形もなく消し飛ぶだろう。

 爆風は村を容赦なく包み込んだ。加奈子と晴海の身が心配になるが……村の中にはミリオン達がいる。彼女達に守られて、きっと二人は無事だろう。

 それはそれとして、自分達は自らの身を案じるべきだと継実は思う。

 濛々と立ち込める白煙の中から、黒い人影がゆらり、ゆらりと姿を見せる。最初は影だと思わせて、しかし白煙の中から出てきても未だそいつは黒い。漆黒の身体で、顔も何も見えやしない。

 花中は戸惑い、フィアは興味深そうに眺めるだけ。ミドリは怯え、モモは闘争心を燃やすのに集中している。

 継実だけがそいつに言葉を掛けられる。掛ける必要などないかも知れないが……出来るのだからやっておくのが礼儀だと継実は思う。

 故に彼女は語り掛けた。

 

「また会うとは思わなかったよ……ネガティブ」

 

 宇宙の厄災に、臆する事もなく――――



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文化的な野生人生活11

 ネガティブ。宇宙人(ミドリ)曰く、数多の星を滅ぼしてきた宇宙の災厄。

 一体でも継実以上の身体スペックを誇る化け物であり、決して油断してはならない宇宙生物だ。二本足で立つ姿は力強く、垂れ下がる二本の腕も逞しい。長く伸びた尾を振るえば通り道の空気が消え、花咲くように避けた頭に知性は感じられないだろう。靄のように揺らめく輪郭を持ち、光沢を放たない身体は粒子操作能力を用いても分子一つ見通せないブラックボックスだ。

 踏み締めている大地の雪は消失し、足跡の形を残す。それでも奴等の身体があまり地中深くに沈まないのは、南極の氷に生息する無数の微生物がその体重を支えているからか。

 しかしどうして触れただけで雪が消えるのか、どうしてその身体は分子一つも見通せないのか……旅の中で成長した継実であるが、目の前に立つネガティブの解析は未だ殆ど出来ない。相手の実力を推し測るのも困難だ。花中も目を細め、凝視(観測)し続けている事から同様の状態と言えよう。

 正体不明にして理解不能。かつて戦い、そして勝った事がある継実だが、それでももう一度コイツの相手はしたくない。

 そんな化け物が三十体以上、継実達の前に現れた。宇宙空間から、一斉に。

 加えて目も鼻もないネガティブの顔の全てが、間違いなく継実達を見ている。しかも激しい敵意を露わにしながら。ネガティブと初対面である花中が警戒を強めているのは、この露骨な敵意が一番の理由だろう。

 

「……有栖川さん達は、彼等が何者か、ご存知ですか?」

 

 花中からの問いに、継実はこくりと頷く。花中が知りたいのはネガティブの名前や生態などではあるまい。もっと近々にして自分達の損得に関わるもの。

 つまり危険か否か。対話可能かどうか。

 

「だ、駄目です……ネガティブがこんなにたくさんいたら……!」

 

 しかしその說明すらも不要だろう。ガチガチと顎を鳴らし、顔面蒼白になっているミドリを見れば。

 

「……成程。対話すら困難、いえ、無理という事ですね。なんとなーく、そんな雰囲気は、感じていましたけど」

 

「そんなところ。前に戦った奴は私一人でなんとか出来たけど、これだけの数がいると中々厄介かな……能力も厄介だし」

 

「能力、ですか? 一体どんな……」

 

「ふふん。なんだか分かりませんがあなた風情に倒せるような奴だというなら恐れるに足りませんね。この私が全て纏めて叩き潰してやりましょう」

 

 ネガティブに関する情報を共有しようとする花中に対し、フィアは未知の怪物を見ても全く臆さない。堂々と胸を張り、隙だらけで余裕たっぷりな態度を見せ付けていた

 瞬間、群れていたネガティブの一体がフィアに肉薄する。

 

「(!? しま……!)」

 

 堂々と見せたとはいえ、フィアが隙を晒した瞬間攻撃に転じる。やはりネガティブ相手に対話は不可能だと、改めて継実は思い知らされた。

 とはいえそれは想定していた事態。問題は、フィアはネガティブの攻撃を受け止められるのか、という点だ。

 ネガティブには特殊な能力――――触れた物質を消滅させる力がある。

 ミュータントの肉体であれば効果は薄くなるようだが、ただの空気や粒子ビームなどは通じない。ミュータント以外であれば生物体すらも消し去り、結果的に物理的衝撃を無効化してしまう。

 フィアは強い。継実が何十人束になろうと、勝てないんじゃないかと思わせるほどに。だがその身体は水で出来た物質だ。生体でないその身でネガティブに触れたとしても、難なく消されてしまう可能性が高い。水がなくなれば、恐らくそこにいるのはモモと同じく、ただの動物(フナ)。ミュータントに匹敵する攻撃を受ければ即死しかねない。

 

「(ああクソッ! 声じゃもう間に合わない!)」

 

 しかしそれを伝えようにも、ネガティブのスピードはミュータントである継実でもギリギリ反応出来るか否かという速さ。音速など軽く超えていて、声で警告したとしても、五メートル先のフィアに届くよりもネガティブが殴り付ける方が早い。

 事実ネガティブは継実がようやく口を開いた時にはもう、その両腕を乱雑に、けれども真っ直ぐフィア目掛けて伸ばしていた

 

「遅い」

 

 が、フィアの方が更に速い。

 フィアがネガティブの頭上から拳で殴り付けると、ネガティブは抵抗すら出来ずに()()()()()()

 殴られたネガティブはびくびくと、死にかけたカエルのように痙攣。そして数秒と経たずに跳ねるような激しさで震え始める。あれがかつて継実が倒した時に見せたものと同じ現象だとすれば、ただ一撃で瀕死に追い込んだ……いや、その後静かに霧散したのだから、即死させたと言うべきか。

 相変わらずのトンデモ馬鹿力に唖然とする継実。それと同時に疑問も抱く。何故フィアの水は、ネガティブの力によって消滅させられなかったのか? あまりにも強烈なエネルギー故に、物質消滅が間に合わなかったのだろうか。

 

「ふっははははははは! この私の隙を突こうだなんて千年早いですよ。しかしあなた妙な身体してますねなんか触れてると水が消されているよーな感覚がありますし」

 

 その疑問に答えるのはフィア。どうやら実際には多少水が消えているようだ。

 恐らく直にネガティブと触れた際、継実の皮膚が消されたのと同じ現象だろう。フィアが纏う水は、継実の身体と同じ扱いになっているらしい。一体どのような基準で消えたり消えなかったりしているのか。

 なんにせよたった一撃でネガティブを葬ったフィアを見て、他のネガティブ達に動揺、らしきものが走る。ケンカを売る相手を間違えたと、今更ながら気付いたのかも知れない。そして恐らく、このネガティブ達も他の星で無敵を誇ってきたのだろう。ちょっと動じただけで、今度は向こうが隙だらけだ。

 ならばこちらもその隙を突くまで。

 

「い、いきなり攻撃ですか……なら、わたし達も、は、反撃しますからね!」

 

 今度は自分の番だと(律儀に警告しながら)言わんばかりに、花中はネガティブに指先を向けた。

 花中の指先にエネルギーが溜まっていく。どうやら粒子ビームを放つつもりらしい。継実と花中は丁度横に並んでいる格好なので、当然継実は花中の指先の照準から外れている。

 だが、それでも継実は背筋が凍る想いをした。

 花中の集めているエネルギーが、あまりにも莫大なのだ。それこそこの星すらも貫けるのではないかと思うほど。継実が普段撃っている粒子ビームなどまるで豆鉄砲。ネガティブを一撃で殴り倒したフィアの怪力すら、子供の癇癪に思えてくる。

 自らを遠隔操作に特化したタイプだとな花中は言っていたが、これが本当の粒子ビームの威力なのか。高密のエネルギーは周辺の大気をプラズマ化させ、稲光まで放つ。大気分子が崩壊している影響か不気味な音が鳴り響き、空間が歪んでいるかのような奇妙な『違和感』を覚える。最早物理的な硬さで受け止められるような威力ではない。

 フィアはシンプルに出鱈目な強さだった。その親友である花中は、それ以上の出鱈目らしい。最早異次元から来たのではないかと思うほどに。

 

「いっ、けぇぇぇぇぇっ!」

 

 極限まで溜め込まれた異次元の力を、一気に開放する!

 放たれた粒子ビームは細く、故に自重で崩壊する恒星が如くエネルギー密度を有す。轟く爆音はミュータントである継実の身体すらも痺れさせた。星を貫くという継実が抱いた印象は、決して比喩ではないと確信する。

 そして粒子ビームの速度は亜光速。高々秒速数キロの速さでしか動けないネガティブに、秒速二十数万キロの粒子を避けられる筈がなく――――

 避ける動作すらしなかったネガティブの顔面に当たると、ぱしゅんっ、という音を立てて消えてしまった。

 ……あまりにも呆気なく消えたものだから、消えたという事実を認識するのに継実は少なからず時間を要する。花中も自分の攻撃が命中と同時に消滅した事実をすぐには受け入れられないようで、こてん、と首を傾げてしまう。

 花中が再度動き出したのは、三体のネガティブがチャンスだと言わんばかりに動き出してからだ。

 

「ひっ、ひえぇぇぇえええっ!? え、なんでぇ!?」

 

 まさか全く効かないとは思わなかったらしい。ミドリのような弱々しい悲鳴を上げると、花中は背を向けて逃げ出す。

 

「花中! そいつらは肉弾戦が効果的だよ! 兎に角殴って!」

 

「わ、わた、わたし、叩いたり蹴ったりは、苦手なんですぅー!? 出来なくは、な、ないですけど、でもこんな状況から、じゃ、無理ぃ! ひやあぁぁぁ!?」

 

 ネガティブとの戦い方を咄嗟にレクチャーする継実だったが、花中からの返事はなんとも情けない。遠隔操作に能力が偏り過ぎて、身体能力が残念な事になっているようだ。それでも能力で手足の粒子を制御すれば大きなパワーを出せる筈だが、演算に少なからず時間が掛かるのだろう。

 ネガティブ三体は花中の後を容赦なく追い駆ける。肉弾戦が苦手な花中は何度も粒子ビームを……溜めは短いが継実のものより強烈な……何度も撃ち込むが、ネガティブは怯みもしない。そして走る速さではネガティブに分がある(というより花中の足はミドリよりもかなり鈍臭く見える)らしく、花中との距離はどんどん狭まっていく。

 しかしあと少しで捕まる、というところまで来た瞬間、花中はその姿を忽然と消し、数メートル先まで移動していた。

 粒子テレポートによる瞬間移動だ。継実にも出来る技であるが、継実が使う場合発動に少し時間が掛かる。テレポート対象(身体)を構築する粒子の動きに加え、移動先までのコースを計算するのが大変だからなのだが、花中の場合多少必死ではあるが区もなく連続使用している。こんなところでも才覚の違いが見られるが、生憎粒子テレポートはあくまでも移動技。これを繰り返してもネガティブは倒せない。

 

「花中さん! この有象無象が……!」

 

 逃げる花中の助けに、誰よりも早く向かおうとしたのはフィア。花中を追うネガティブの後ろを、追跡しようと駆ける。

 だが、すぐには追い付けないと継実は察した。

 フィアの足はお世辞にも速くないのだ。大地を走ればどしんどしんと、パワーは感じるがどうにも動作が重い。ぐっと足に力を込めて突撃すれば、継実の目にも留まらない速さが出るのだが……予備動作が大きい上に直線的で、ネガティブは簡単に躱してしまう。

 思えばフィアは継実達の前に現れる時、猛烈な速さで来てはいたが、その速さを見せるのは最初だけで、戦い自体はどっしりと構えて挑んでいた。彼女がスピードを出すには溜めが必要で、しかも直線的にしか動けないのだ。

 

「こらー! 花中さんから離れなさーい!」

 

「ひ、ひぇー!?」

 

 フィアは疲れ知らずで追うものの、全く追い付けない。それでもしばらくは走り続けていたのだが……

 意識が完全に花中だけを向いていたタイミングで、フィアの背後から他のネガティブが襲い掛かった!

 

「あん? 鬱陶しい虫けらが……」

 

 後ろから抱き付かれたフィアは即座に反撃を試みる。されどネガティブ達は既にフィアのパワーを目の当たりにしていた。無策で挑みはしてこない。

 次々とネガティブは肉薄し、フィアの腕や足にしがみつく。奴等は人型の姿を崩してスライムのような不定形になると、ぐるぐると巻き付いてフィアの動きを妨げてきた。

 一体二体であれば、フィアの馬鹿力ならば簡単に振り切れただろう。ところが此度向かったのは二十体以上のネガティブ。次々とフィアの手足に巻き付き、その動きを阻む。勿論人間大の存在が、人間大の存在に何十と群がるのはスペース的に難しいものだが……ネガティブは不定形の身体を活かして続々と変形。恐らく総勢十数体 ― 輪郭が靄のようになっている所為で個体間の区切りが見えず、正確には数えられない ― が纏わり付き、まるで一塊のスライムのようにフィアの身体を包み込んだ。

 ネガティブに包まれたフィアは表情を歪めながら腕を上げる。今までのようなスピードは出せず、極めて緩慢な動きとなっていた。これでも振り払うのは難しい。動きをほぼ止められてしまった状況だ。

 無論、動きを止めてはいお終い、とはならない。確かにネガティブは触れているだけでミュータントの身体を少しずつ消せるので、拘束するだけでもいずれ勝てるだろう。しかしフィアの『トンデモ』ぶりを思えば、時間を与えたら何をするか分かったものじゃない。さっさと再起不能にすべきであり、そうするには動きを止めた今こそが攻め時。

 それを分かっているかのように、残る八体のネガティブがフィアを包囲した。

 

「……ふん。有象無象らしく数でこの私を倒そうという魂胆ですか。見た目よりは頭が回るんですね」

 

 ネガティブに拘束され、更に包囲までされて、流石のフィアも顔から余裕が消える。そしてゆっくりと二本の腕を、ネガティブの拘束を無視して強引に動かし……まるで獣のように構える。

 更にフィアは両足を広げ、身体は前傾に。獣を彷彿とさせる体勢を取るや、にやりと笑みを浮かべた。

 笑みといっても余裕は微塵もない。あるのはさながら獲物を見付けた獣が持つ、猛々しさと攻撃性のみ。見ている『味方』さえも背筋を凍らせるほどの、純粋な殺意の発露。

 

「上等ォ! この私の邪魔をしようというなら今ここで全員纏めて叩き潰してやりますよォォ!」

 

 ついにフィアは怒りと攻撃性を爆発させた!

 二十体以上のネガティブに対し、フィアがついに本気を出す。金髪碧眼の美少女の身体から発せられるパワーと怒りは凄まじいもので、攻撃対象でない継実までもが思わず怯むほど。しかも発する感情は理性どころか知性すらもない、ケダモノ染みた激情だ。継実はフィアの性格を完璧に把握している訳ではないが……手助けに向かっても、恐らくフィアは平気でこちらを攻撃に巻き込むと直感する。彼女を助けるのは危険が伴う。

 とはいえネガティブ側も、勝てると思ったからその数で挑んだのだろう。事実ネガティブに巻き付かれたフィアの動きは鈍く、どれほど強いパワーを発しようと、感じられる力ほどの破壊力は発揮出来まい。

 加えて継実がその目で観測したところ、ネガティブが触れているフィアの体表面では、ほんの僅かだが水の消滅が見られた。水を操る能力の持ち主であるフィアにとって、水の消失は力の消失に他ならない。しかも南極は雪と氷に覆われているので水の補充は容易と思いきや、ネガティブはフィアの足下を覆うように巻き付いている。氷との接地面を塞がれているのだから、このままでは補充が出来ない筈だ。

 時間が経つほど、フィアの力は弱まっていく。勝ち目もどんどん薄くなる。花中についても相性の悪さを考えれば、早く助けにいかねばいずれ捕まり、やられてしまうかも知れない。ならば多少の危険性は承知の上で二人とも助けにいこう――――継実にはその覚悟がある。

 そう、覚悟はあるのだが……出来るかどうかは別問題。

 

「……さて、私らは私らで頑張らないと」

 

「だねー」

 

「うっ……や、やっぱり戦うの、ですよね……?」

 

 継実の言葉にモモが賛同し、ミドリが怯えながら尋ねてくる。

 三人の視線の前にいるのは、ネガティブ。

 ただし一体ではなく、()()()()()()()()だ。三体ともしっかり人型形態を取った状態で、やや広がった陣形でじりじりとにじり寄ってくる。継実達三人の誰が動いても、即座に対応出来るように。

 継実が考える中で最善の対処は、誰か一人が村に戻り、援軍を求める事。ヤマトは狩りに出てしまったが、村にはアイハムと清夏、そしてミリオンの三体のミュータントがいる。誰もがこの過酷な自然界を生き抜いた強者であり、戦力として申し分ない。特にミリオンは、あくまでも継実が感じた印象であるが……恐らく単体で村のミュータント全てを始末出来るほど強い。彼女達の手助けが得られれば ― 花中のように能力の相性次第では全くの無力という可能性もあるが ― 現状打破は難しくないだろう。

 しかし今、花中もフィアも村に戻る余裕はなさそうだ。そして三体のネガティブと向き合っている継実達も、誰かが抜け出すのは困難な状況。無理して誰かを逃したとしても、ただでさえ強敵なのに数的優位を相手に渡す事となり、即座に戦線は崩壊する。これでは逃げた者もすぐに追い付かれ、助けを呼べない。

 継実達が取れる選択肢は一つ。

 ここでネガティブ三体を自力で片付けて、自分達が花中とフィアの助けに向かうのだ。これだけが全員で生還する、恐らく唯一の方法である。

 ……あの二人なら助けにいかなくても、なんやかんやなんとかするような気もするが。

 ならばとりあえず、今は自分達の事だけに集中すれば良い。

 

「良し、行くよ!」

 

「おうとも! それとミドリは今度こそ逃げないでよ」

 

「あぁ、あの時の事根に持ってるんですね……大丈夫です。あたしだって成長してるんですから。今回は、ちゃんと戦います」

 

 三人全員が言葉で、ネガティブに立ち向かう意思を表明する。

 まるで、その言葉を理解するかのように。

 三体のネガティブは同時に、そしてバラバラに、継実達に襲い掛かってくるのだった。



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文化的な野生人生活12

 襲い掛かってくる三体のネガティブ。その狙いは、継実達三人全員だった。

 一人につき一体のネガティブに襲われて、取った対応は三人毎に違うもの。継実は迫りくる腕を後退して回避し、モモは僅かに身体を傾けて避けるやカウンターで殴り返す。

 

「ぎゃあぁぁぁぁぁぁぁ!?」

 

 そしてミドリは殴られるよりも早く背を向け、全速力で逃げ出した。

 やっぱ逃げてるじゃん、と言いたげなモモの視線。しかしミドリの身体能力は、お世辞にも高くない。以前恐竜に右半身を噛み砕かれても死ななかったが、あれは頭が丸々残っていたから無事だったのだ。ネガティブの一撃が彼女の頭を粉砕すれば、首から下が無事でもどうにもなるまい。

 それに逃げるといっても、以前みたいに戦線を離脱するような逃げ方ではない。ぎゃーぎゃー騒ぎつつ、継実とモモを中心に据えて円を描くような逃げ方をしていた。つまり付かず離れずを維持していて、あくまでも回避の一環としての逃走だと分かる。

 ミドリにもネガティブと戦う意思はある。今は回避に徹しなければ死んでしまうというだけで。それにミドリの本領は肉弾戦・砲撃戦のどちらでもない。

 継実達の誰よりも精密かつ広範囲の『支援』だ。

 

【と、とりあえず、他のネガティブ達は花中さんやフィアさんから離れる気配がありません! あたし達は、こ、こいつらを相手にすれば大丈夫です!】

 

「OK! 増援がないならやりやすい」

 

「横やりが入ると色々面倒だもんねー」

 

 新手がこっちに来るかも思いながら戦っては気持ちが入らない。不要な意識を頭から削ぎ落とし、不安を払拭した継実とモモに笑みが戻る。

 そして二人同時に、目の前のネガティブに蹴りを放って突き飛ばした!

 

【……イィィギィロオオオオオオッ!】

 

【イッギギギギィイイイイッ!】

 

 蹴飛ばされ、距離を開けられたネガティブ達。二匹は四つん這いの体勢で強引に飛ばされる勢いを殺すと、花のように咲いている頭を一層大きく開きながら、威嚇するように吼えてきた。

 生理的嫌悪を呼び起こす、なんとも不気味な咆哮。しかし継実もモモも怯みはしない。それどころは二人は堂々と、ある程度の余裕を取り戻してネガティブと向き合う。

 継実達が相手するネガティブの数は三。

 個体差については一旦考慮せず、以前継実が戦った時の個体と同程度の強さだと仮定すれば……三対三で戦ったなら、数値的な総戦力はネガティブ側が継実達よりも二倍は高い状態だったろう。ミドリの戦闘能力がざっとネズミ程度しかないがために。しかもミドリとネガティブの追い駆けっこを見る限り、脳内イオン操作も通じていない様子。ミドリは戦力としてほぼ数えられず、実質三対二の状況となっていただろう。得手不得手を考慮したとしても、相当厳しい戦いとなった筈である。

 しかし今、ネガティブの一体はミドリを追い駆けている状況だ。ネガティブの方が身体能力は上のようで簡単に追い詰めるが、ミドリはギリギリのところを攻撃を回避し、その隙に距離を開けている。索敵能力を応用し、攻撃を予測して躱しているのだろう。人間がネズミを素手で捕まえるのが困難なように、逃げに徹すれば大きな実力差も意外となんとかなるものだ。

 中々ミドリを仕留められないネガティブだが、諦める様子はない。自由に動ける面子を残したくないのかも知れないが……継実的にそのシチュエーションは望むところ。

 残るネガティブ二体に対し、継実とモモも二人。確かに総合的な戦闘能力ではネガティブの方が上なので、この状況でも戦力差は一・五倍ほどはあるだろう。だが今正に逃げ回っているミドリは、その能力の性質上逃げながらでもこちらの援護が可能。つまりこの状況は二対二ではなく、実質二対二+αという事になる。実は継実達の方が数的有利を得ているのだ。

 何より。

 

「アンタ達は二対二でも問題なく勝てるつもりかもだけど――ーー」

 

「コンビネーションで私らに勝てると思わない事ね!」

 

 自分達の絆が、こんな化け物二体のチームワークに劣る訳がない!

 モモの掛け声を合図にし、継実とモモは同時に駆け出した。

 継実は戦闘モードを発動させず、普段の状態で突撃する。エネルギー消費が大きいあの技は、相手の力を把握せずに使うのは危険だ。過去に戦った種族とはいえ、個体差がある可能性は否定出来ない。或いは人間のミュータントのように、幾つかの『タイプ』が存在するかも知れない。まずは相手のスペックを知る事が最優先。それを行うにはエネルギー効率に優れる普段の姿が一番だ。モモも電撃を纏わず、普段の姿で駆けている。

 走るモモは右のネガティブを狙い、継実は左のネガティブを狙う。アイコンタクトすら交わしていないが、互いの意図は把握済みだ。確認するまでもない。ネガティブ達(区別出来ないので継実が狙っている方をネガティブA、モモが向かう方をネガティブBとしよう)はお互い距離を取らず、隣り合った並び方を維持。それぞれ自身に狙いを定めた方と向き合い、猛獣染みた前傾姿勢で同じく駆け出し――――

 激突寸前に、継実は素早くしゃがみ込んだ!

 突然継実がしゃがんだ事で、継実を狙っていたネガティブAの攻撃は外れる。まさか外れるとは思っていなかったのか、ネガティブAは僅かに身体を強張らせた。そして継実はただ回避した訳ではない。

 しゃがんだのと同時に、モモが攻撃を仕掛けていた方のネガティブBの足下に蹴りを放っていた。互いの距離が近い状態だったので、フェイントを仕掛けたのである。

 継実よりも素早いモモは既にネガティブBの顔面に蹴りを放っており、ネガティブBはその攻撃を片腕を盾のように構える事で受けている。しかも反撃のため、もう片方の腕を大きく振り上げている最中。ネガティブBの意識は完全にモモだけを向いていて、足下はお留守になっている。

 ネガティブBは防御も出来ず、継実の蹴りを足下に受けた。身体能力ではネガティブ側に分があるのでしっかり構えれば受け止められたかも知れないが、ネガティブBはモモの攻撃に意識を集中させている。継実に蹴られるまで、いや、蹴られて少し経ってから、自分の膝の裏を攻撃されたと気付いただろう。

 

【イロッ!?】

 

 予期せぬ攻撃を受け、ネガティブBはバランスを崩した。身体が強張ったのは反射的なものだろうが、既にバランスが崩れた状況でその反応は愚策。受け身も取れず、尻餅を撞くように転倒する。

 ネガティブBを転ばせた継実だが、しかし与えたダメージは僅かなもの。ネガティブBは振り上げていた腕の向き先を継実に変え、ネガティブAも継実の動きに合わせて次の攻撃として拳を放とうとしてくる。しゃがみ込んだ継実にこれらの攻撃は躱せない。

 尤も、躱す必要などないが。

 連中が揃って意識から外したモモが、此処にはいるのだから。

 

「おっと、失礼!」

 

【ギロッ!?】

 

 モモはネガティブBの顔面を踏み付ける! 相当強く踏み付けたようで、ネガティブBは僅かに呻く。

 モモの攻勢はまだ終わらない。ネガティブBの顔で力いっぱい跳躍し、今度はネガティブAの方へと跳んだ。ネガティブBは顔への連続キックで大きく仰け反る。継実を攻撃しようとしていたネガティブAは、その攻撃のために振り上げていた腕で防御しようとしてくる……が、モモの反応速度を見くびってはならない。

 モモはネガティブAが放った拳を両手で掴んで『着地』。掴んだ拳を軸にしつつ、跳んだ時の勢いを利用してぐるんと身体を回してみせる。

 そしてその勢いのまま、ネガティブAの顔面に回し蹴りを喰らわせた!

 

【イギャッ!】

 

【ギッ……!?】

 

 モモの流れるようなコンボにより、二体のネガティブが怯む。攻撃のチャンスだ。蹴りの反動で宙に浮いたモモに追撃は不可能だが……未だしゃがんだ体勢でいる継実になら可能である。

 

「はぁっ!」

 

 継実は立ち上がりながら、拳をネガティブAに向けて振るう! 蹴られた拍子によろめいた状態では回避など不可能。継実の拳はネガティブAの腹部に真っ直ぐ入った。

 良い入り方をしたと手応えで分かる。ネガティブAは驚いたように身体を震わせながら、与えた打撃の威力に見合った勢いで何十メートルと吹っ飛ばされていく。

 モモに踏まれて大地に頭を打ったネガティブBは、相方が飛んでいくと動揺したように身体を震わせた。だが情けなく痙攣したところで継実は容赦などしない。ましてや犬であるモモには、その反応は『攻撃チャンス』としか認識されないだろう。

 

「おおっと、あっちには行かせないわよ!」

 

 着地するや否や、モモはネガティブBの尻尾を掴んだ。何をされるか大凡察したのかネガティブBの靄状の身体が()()()が、掴まれた状態で硬直するなど愚の骨頂。

 モモは相手のミスを許さず、尻尾を掴んだままぶん回す! ネガティブBの身体は空中でぐるんと一回転。そして渾身の力で加速させたネガティブを、モモは容赦なく手放した。

 おまけにモモはネガティブBを水平ではなく、やや下向き方向に向けて投げた。結果ネガティブBは氷の大地に叩き付けられる格好となる。ネガティブBの身体は二度三度と跳ね、何十メートルと飛ばされていく。

 それでも動きを鈍らせるほどのダメージとはなっていないらしい。ネガティブBは三度目に跳ねた時に体勢を立て直して足から着地。素早く臨戦態勢を取り、継実達目掛け走り出す。

 更に継実が殴り飛ばしたネガティブAも駆けてきた。二体は猛烈な速さで大地を駆け抜け、継実とモモに迫ってくる。

 二体のネガティブは丁度、向き合う形で吹っ飛ばされていた。つまり両者に迫られている継実とモモは、挟み撃ちに遭っている状況である。身体能力に勝る二体に挟撃されたなら、かなりの苦戦を強いられるだろう。

 なら、そんなものに付き合う必要はない。

 そもそもこの挟み撃ちは、継実とモモにとっては想定通り。今自分達に迫る状況は、頭の中で思い描いていたパターンの一つに過ぎない。

 

「「よっ!」」

 

 だからモモと継実は同時に、ネガティブ達とは直角の方角へ、別れるように走った。

 二手に分かれた継実達。全く同じタイミングで左右に分かれた目標を見て、ネガティブ達は同時に迷った。そして気付く。自分が全速力で突き進んでいる先から、自分の相方が同じく全速力で突っ込んできている事に。

 

【イ!? イギロ――――】

 

【ロギロッ!?】

 

 気付き、止まろうとするネガティブ二匹。だが混乱した二体は咄嗟に動けず、そしてどちらも避けなかった事で、相手がどちらに向かうかも分からず。右にも左にも動けないのに、ただ跳び出した勢いのまま突き進んで、

 両者は殆ど最高速度で激突。

 それと共にネガティブ二体の身体はぐしゃりと潰れ、一つになってしまった。もやもやと漂う黒い塊が、起きた出来事の悲惨さを物語る。

 

「うっわ。あんな勢いで来ていた訳? 自爆とは情けないわねぇ」

 

「……なんか、妙だな」

 

 潰れたネガティブを見て、嘲笑うモモと違って継実は疑問を抱く。

 どうにもこのネガティブ達は、以前継実が戦った個体よりも弱い。

 それは単順な身体能力の話ではない。戦っている最中に繰り出した拳の速さ、そして殴った時の手応えから推定される強さは、かつて草原で出会ったネガティブと同程度のものだった。今回はモモという相方こそいるが、それでも普通ならここまで一方的な試合運びは出来なかった筈である。

 にも拘わらずこんな簡単にあしらえているのは、間違いなくネガティブ側があまりにも()()()からだ。

 

「(動きそのものは速いけどコントロールと狙いが甘い。そもそも判断が遅い、というか後の事を全然考えてなくてその場その場で動いてる感じ。一手先どころか、相手の動きすら想定してないんじゃない?)」

 

 あまりにも短絡的で直線的。いくら格上の身体能力を持っていようと、こんな雑な戦い方で勝てると思うなどあまりにも相手を嘗めている。正直こんな相手であれば、実力差が十倍ぐらいあろうとなんとか出来ると継実は思う。

 以前戦ったネガティブも、身体能力こそ高いものの戦い方は雑なものだった。それ自体は仕方ない。ネガティブの力……触れたものを容赦なく消滅させる力の前では、どんな科学力も格闘技術も意味を為さないのだから。どれほど強大な敵と戦ったところで、接触した瞬間に相手が消えていく状況で戦闘経験が積める訳もない。技術は成長せず、戦い方は極めて雑なもので終わってしまう。

 しかしそれを差し引いても、この二体のネガティブはあまりにも戦い方が雑だ。本当に反射的な行動しかしておらず、生き物を追い駆け回した経験、或いは同族と追い駆けっこをした経験すらないのではないかと思えてくる。

 そんな存在がいるとすれば……

 

「(()()()()()()()()()()()()?)」

 

 ぞわりと、背筋が震える。

 幼い子供というのは、倒すだけなら簡単だ。未熟で、無鉄砲で、ろくな考えがない。実力が拮抗していたとしても恐れる必要はなく、本気を出すまでもなく叩き潰せる。

 だが、その弱さに比例するかの如く――――成長著しい。

 何事も覚え始めは急速に成長するもの。以前戦ったネガティブが、戦いの中猛烈な速さで成長していったように。ならばこの未熟で間抜けなネガティブ達が、どうして成長しないと言えるのか。それどころかこの連中は以前戦った個体よりもずっと速く、急激にその『強さ』を増していく可能性がある。

 胸から湧き出す数々の不安。だが継実が心を乱さずにいられたのは、ネガティブ達が既にぐちゃぐちゃに潰れて原型を失っているからだ。ああなってはもう命などあるまい。今もまだ靄はぐずぐずと蠢いているが、所詮末期の足掻き……

 

「(違う。あれは、足掻きなんかじゃない!)」

 

 甘い見通しを即座に切り捨てる。継実は既に二度、ネガティブの最期を見ているのだ。奴等は死ぬ時、どういう訳か身体が霧散し、そして消滅する。ぐずぐずの肉体で留まるものではない。

 モモもそのおかしさに気付いたのだろう。嘲笑うように浮かべていた笑みは何時の間にか見え、肉食獣の鋭い眼差しを靄に向けている。全身の力を滾らせ、これから起きる次の戦いに備えていた。

 そしてその『次』は、すぐに訪れた。

 ぐちゃぐちゃに混ざり合い、蠢いていた靄は、やがて自ら二つに分かれた。靄はぐにゃぐにゃと歪み、変形し、形を変えていく。やがてそれには尻尾が生え、手足が伸び、花が咲いたような頭が形作られる。

 時間にすればほんの数秒。

 その数秒で、靄は二体のネガティブに戻ってしまった。まるで激突などなかったかのように平然とした様子で。

 

「……やっぱ、簡単には倒れそうにないわね」

 

「まぁ、曲がりなりにも宇宙の厄災だしね。つーかフィアがおかしいんだよ。なんでアイツ一撃で倒してんの?」

 

「ほんとにね。でもあれぐらいの速さで片付けないと……ヤバい事になるわよ」

 

 モモからの警鐘。全く以てその通りだと、継実は頷くしかない。面倒臭そうに肩を竦めたり、呆れたように目を細めるのは、自分の気持ちを強く持つためのジェスチャー。

 そうでもしなければ、こちらを見つめるネガティブのプレッシャーに押し潰されそうな気分だった。

 びりびりと感じる闘志と敵意。それらは戦いが始まる前から向けられていて、今の二匹が放つものが先程よりも強まったとは思わない。雰囲気から感じ取れるパワーも殆ど変化がなく、漫画に出てくるような『戦闘力』を測れる機械があれば、きっと今までと全く変わらない数字を示すだろう。

 だが、明らかに力の『純度』は増していた。不純物だらけの鉄鉱石が、鉄へと生まれ変わるように。

 今のネガティブ達は生まれたてほやほやの熱い鉄だ。柔軟であり、何度でもやり直せる無敵の素材。叩けば叩くほど強くなり、研げば研ぐほど鋭くなる。

 果たしてこの熱い鉄達が、すっかり冷え固まった刀に匹敵するようになるのは何時なのか?

 

「モモ!」

 

「おう!」

 

 そうなる前に今度こそ叩き潰す。モモと継実の気持ちはぴたりと一致し、二人は再び同時に走り出す。ネガティブ達もまた動き、それぞれが継実達へと突撃してくる。

 戦いの本番である第二ラウンドは、休憩を挟む事もなく始まるのだった。



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文化的な野生人生活13

 合体して一つになり、そしてまた分離した事で、どちらがネガティブAでどちらがネガティブBなのかは分からなくなった。或いは本当にぐっちゃりと混ざっていて、二分の一ずつなのかも知れない。

 しかし詳細に区別を付ける必要などないだろう。先程と同じく継実と向き合っているのがネガティブA、モモと向き合っているのがネガティブBで十分。

 

「ふんッ!」

 

 モモはネガティブBの顔面に向け、稲妻を纏った拳を放つ。

 拳といっても人間のようにしっかり握り締めたものでなく、曲げた指で引っ掻くような一撃だ。此度その腕は稲妻を纏っているが、これは単純に「当たれば痺れる」だけのものではない。通電させる事で磁力を生み、その磁力で腕そのものを加速させていた。

 運動エネルギーは質量×速度の二乗に比例して増大する。今まで以上に加速された拳は、まともに受ければ大地をも砕く一撃と化していた。ネガティブBはこれを防ぐべく、両腕を身体の正面で交差させて盾のように構える。

 その動きに対応し、継実が動く。

 今まで相対していたネガティブAではなく、ネガティブBの側面に回り込もうとした。そして一瞬モモと目が合った時、アイコンタクトで自分の意思を伝える。

 まずはこのネガティブBを優先して潰す。

 ネガティブは戦いの中で急速な成長を遂げる可能性がある。そんな相手に均等な攻撃を仕掛け、均等に弱らせていくのは得策か? 否だ。時間を与えると不味い相手なのに、何故悠長に倒さねばならないのか。大体成長云々を抜きに考えても、均等にダメージを与えていく戦い方は愚策だろう。一方を集中攻撃により速攻で仕留め、数的有利を確保した上でもう一方を即座に潰す……これがチーム戦の基本だ。

 言葉は交わしていないがモモに継実の意図は伝わっている筈。事実モモの視線はネガティブBに釘付けだ。継実もAはひとまず置いておき、ネガティブBに攻撃をしようとする

 が、それは叶わず。

 何故ならネガティブAが、継実とネガティブBの間に割り込むように入ってきたからだ。まるで継実の攻撃から、ネガティブBを守るかのように。

 

「ちっ……!」

 

 ネガティブAは攻撃を邪魔してきただけでなく、継実を間合いに入れてきた。無理に攻撃しても反撃を喰らうだけ。一旦下がるしかない。

 モモも継実に合わせて後退。二人揃ってネガティブ達から距離を取る。

 しかしネガティブ達はその距離を詰めるように前へと進む。

 どうやら逃がすつもりはないらしい。ならばこちらもそれに対応するまで。

 

「モモ!」

 

「合点!」

 

 名前を呼んで呼吸を合わせ、継実とモモは同時に前進へと転じる。

 ぴったり合わせて前へと出てきた継実達に、流石のネガティブも驚いたのか。ネガティブAは身体を強張らせ、ネガティブBは危険を回避するためか大きく身体を仰け反らせて減速した。

 その差が命取りだ。

 継実とモモは同時に目標を変更。ネガティブBではなくネガティブAへの集中攻撃を行う! AB共に継実達の意図に気付いた様子だが、しかし継実達の方が一手早い。そして一手先んじればそれで十分。

 

「「だりゃあっ!」」

 

 継実とモモはネガティブAの胴体目掛け、ぴったり同時に回し蹴りを放った! 継実は正面から見てネガティブAの胴体右側の上、モモは胴体右側の下側に足蹴を喰らわせる。

 一人で蹴りを放ったなら、ネガティブAはこれを受け止めきったかも知れない。されど二人同時の打撃、しかも同一方向から与えられた力は流石に止められず。ネガティブAは継実から見て『左』の方角へと飛ばされた。

 相方が吹っ飛ばされたのを見たネガティブBは、僅かな時間ではあるが右往左往。仲間と分断された時、どうすれば良いのかが分からなかったのだろう。

 その答えはケースバイケースであるが、此度に関しては、即座に継実達のどちらかを止めるように動くのが正解だろう。ネガティブ達の方が身体能力に優れているため足が速く、同時に動き出したならネガティブが先回り出来るからである。

 しかしネガティブBは動けず。故に継実達の方が先手を取った。

 飛ばされたネガティブAは三メートルほど先でどうにか自力で止まっている。されどこれも失敗だ。自身の方が継実達よりも速いのだから、ここは一旦距離を取るのが正解。長距離走に持ち込めば、多少出遅れがあっても速度が上の方が巻き返せる。今回なら味方のネガティブBが継実達を追い抜き、突撃する継実達を二体揃って迎え撃てたかも知れない。

 しかしネガティブAは止まってしまった。ネガティブは両者共に失敗。継実とモモは悠々とネガティブAに肉薄する。

 

【! イギッ……!】

 

 迫りくる二名に対して、ネガティブAは拳を振り下ろす。ただし拳の軌道は二人のどちらかを狙ったものではない。丁度継実とモモの間目掛けている。

 攻撃の余波で二人を分断させるつもりか。苦し紛れにしては悪くない作戦だが、まだまだ甘いと継実は思う。

 二人の間に向けた放った拳。それが二人を分かつというならば、二人で受ければ良いだけだ。

 

「「うりゃあっ!」」

 

 継実は拳によるアッパーを、モモは踵落としの如く足の振り上げで、ネガティブAの攻撃を受ける!

 攻撃の種類は違えども息の合った一撃。ネガティブAの拳は二人分の力を押しきれず、吹き飛ばされるように上半身ごと上がる。仰け反る格好になったネガティブAの胸部は今やがら空きだ。

 しかしそこを狙うのは、ネガティブBが許さない。

 

【イィィィギィロオオオオオオオッ!】

 

 不気味な雄叫びと共に、ネガティブBがいよいよ迫ってきた。

 ネガティブAはすぐに動けないものの、今の継実達は挟み撃ちの格好となっている。このままネガティブAを二人で攻撃して押すか? 否、それは危険だと継実は判断。敵が猛烈な速さで迫る状況で、背中を晒し続けるのは流石に不味い。

 ここは安全を優先。継実とモモは視線を交わす。直後、モモだけがくるんと反転し、ネガティブBと向き合う。

 

「あら、もう忘れたの? アンタの相手は……この私よ!」

 

 そして迫りくるネガティブBの腹部目掛け、頭突きをお見舞いした! あまりにも原始的なこの攻撃は予測すらしていなかったのか、ネガティブBは防御も出来ず、もろにモモの頭突きを腹で受ける。

 継実を上回るパワーを持ち、更に大事な臓器などあるかも怪しい身体だ。頭突きを腹に受けても大きなダメージとはなるまい。それでもほんの僅かに怯めば、継実にとっては十分な猶予。

 モモと二人で体勢を崩したネガティブAに、継実は一気に距離を詰める。

 それと同時に、継実は()()()()()()()()()()()を開放した。

 莫大な熱量が身体を駆け巡る。熱を運動量へと変換し、全身のパワーを増幅。瞳は虹色に、白目は血流により赤く染まっていく。高エネルギーを纏った腕、そして予熱の放出を行う髪は青く変化した。

 これぞ継実の『戦闘モード』。着ているアザラシ皮の服が放熱で焼けているようで、パチパチと焼ける音を鳴らす。ちょっとばかり勿体ないと継実も思うが……命あっての物種だ。敵を倒すためならば致し方なし。

 ネガティブAは変化した継実の姿に警戒心を抱いたようだが、それ故に身体が強張っているなら継実にとって好機でしかない。

 

「はあああああああっ!」

 

 継実は拳を振り上げる!

 ネガティブAは感じているだろうか? たった今継実が放った拳が、これまでとは比較にならない威力であると。この戦いの中で継実はちまちまとひたすら演算を重ね、己の右手にエネルギーを凝縮させてきた。溜め込んだエネルギーにより暴れ回る(粒子)の運動ベクトルを変え、直進させれば……拳の速さは亜光速に達する。正に神速の鉄拳。

 かつてネガティブの胴体をぶち抜いた、亜光速粒子ブレードだ。モモの協力により戦いの中でも幾分余裕があり、何より最初から使うと決めていたため、継実はこの技を戦いの中で練り上げる事が出来ていた。

 戦闘モードを温存していたのは、勿論様子見というのも理由だが……こうして切り札として繰り出すのも目論見の一つ。相手がこちらの実力を把握したと勘違いした時、新たな力を披露して混乱させる。そうして出来た隙を突いて、最大出力の一撃を喰らわせるのだ。

 それは致命的なダメージとなるだろう。

 

「ぶち、抜けぇぇぇぇぇぇッ!」

 

 叫び、願い、放つ拳。

 されど奇跡を祈りはしない。自然界で、世界で起きるのは必然だ。確かな現象の積み重ねが、現実として『今』発現するのみ。

 継実が全身全霊の力を込めた拳も同じ。祈りも願いも関係なく、生じるのはここで生じた事象、それに伴う結果の連鎖だけ。

 ネガティブAにとっても同じだ。奴が何を考えようと、信心深くとも真理を理解していようとも、積み重ねた結果は決して覆らない。

 継実の放った拳が――――ネガティブAの胴体を貫通する事は変えられないのだ。

 

【イギロァッ……!?】

 

 呻くネガティブA。継実はその胸から腕を引き抜かず、代わりにすかさず放った蹴りでネガティブAを突き飛ばす。ネガティブAは大地を転がり、雪の上で大の字に。

 そしてびくんびくんと、痙攣を始めた。

 継実はあの姿に見覚えがある。二ヶ月前に草原で見た、ダメージが積み重なるほど大きくなり、末期の瞬間に一際大きくなったものと同じだ。フィアが一発で叩き潰したネガティブにも痙攣は起こり、霧散して消える間際が一番大きな震えとなっている。

 やはりあの痙攣はネガティブが受けたダメージの大きさを表すものらしい。何故ダメージが蓄積すると身体が震えるのか、その理屈は分からないが……三例で確認された反応だ。『目安』とするには十分な指標だろう。

 

【イギ、ロ、ロ、オォ、オオオオォォォオォオオォオオオォオオオッ!?】

 

 胸を貫かれたネガティブAが雄叫びを上げる。苦しみに満ちた叫びであり、その声はどんどん大きくなっていく。合わせて、身体の震えも増大していった。

 このまま消えろ。いや、間違いなく消える――――過去にもネガティブの死を見た継実は、自分の勝利を確信する。

 それは、珍しく継実が見せた『隙』。

 とはいえネガティブAはその隙を付けない。がむしゃらな反撃をするように腕を振り回すが、如何に身体能力が高くとも、末期の焦りと身体の不自由が合わさってろくな動きが出来ていない。ちょっと後退すれば簡単に躱せるし、そもそも誰もいない場所を攻撃したりと滅茶苦茶である。所謂悪足掻きだ。

 ネガティブAに継実の隙は突けない。

 突けるのは、ネガティブBの方だった。

 

【つ、継実さん!? モモさんが相手していたネガティブが、そっちに向かっています!】

 

 未だネガティブから逃げ惑っているミドリからの脳内通信で、継実は背後へと振り返る。

 ネガティブBが猛然とこちらに向けて走っていた。奴の相手をしていたモモは、ネガティブBから後ろ歩きをするような動きで離れている。どうやら攻撃を受けて突き飛ばされたらしい。

 つまりネガティブBは体勢を崩したモモへの追撃より、こちらに向けて突撃してくる事を選んだのだ。もしかすると仲間を助けに来たのか? それとも仲間を倒した相手に怒りの突撃か。なんにせよ攻撃に備えて継実は即座に構えを取る。

 もしも、あと数瞬早く振り返っていたなら、継実は気付き……そしてネガティブBの行動を防げただろう。

 ネガティブBは()()()()()()()()()()()。目も触覚もない頭であるが、継実が本能的に感じた視線は自分の方を向いていない。向いているのは痙攣し、今にも消えそうなネガティブAの方。

 継実の拳の射程内に入る直前、ネガティブBは大地を蹴って跳躍。待ち構えていた継実の頭上を通り過ぎ、仲間であるネガティブAの下へと向かう。

 そしてネガティブBは、ネガティブAの頭に触れた。

 本当にただ触れただけで、強いて詳しく言うならばその手と頭が混ざり合って『融合』している程度だ。少なくとも継実の目にはそう見えたし、戦況把握のため発動しっぱなしの能力で観測しても特段おかしな現象は起きていない。だがそこから起きた事象はあまりにも奇怪。

 ネガティブAの痙攣が、突如として収まり始めたのである。

 

「……は?」

 

 一瞬、何かを見間違えたのかと継実は思った。例えば痙攣と痙攣の間にある小休止を偶々強く認識してしまっただけだとか。

 だが継実の、ミュータントの合理的な本能はすぐに現実を理解する。

 ネガティブAの痙攣は急速に静まっていく。胸に空いた穴もすぐに塞がってしまった。それはミュータントの動体視力、反応速度を以てしてもあっという間と言わざるを得ない早さ。駆け寄って邪魔しようと継実が次の行動を思い描いた時、ネガティブAの痙攣は随分と収まっていた。

 時間にして、〇・五〜一秒程度。その僅かな時間でネガティブAの痙攣は収まり、すっかり震えなくなっていた。つまりは完全なる回復である。確かにミュータントの反応速度にとってはそれなりに長い時間であるが……しかし『致命傷』からの回復に掛かる時間としてはあまりに短い。回復力に優れる継実ですら、心臓を潰されたら完全再生には十数秒と必要なのに。

 だが、そんなのは些末な問題だろう。

 そう。本当の、そして最大の問題は別にある。ネガティブAの痙攣が収まると、ネガティブBは奴と触れ合っていた手を離した。その行動は即ち、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()である事を意味している。

 端的に言うなら、仲間と触れ合うとダメージが消える。それがネガティブ達が持つ、もう一つの能力らしい。理屈なんてさっぱり分からないが、目にした光景はそう解釈するしかなかった。

 

「(ちょっと、流石にそれは……不味い)」

 

 継実は最初、ネガティブの数を脅威に思っていた。自分より強いものが無数に存在するのだから当然だろう。されどそれは、奴等の実力の表層で驚いていただけに過ぎない。

 数多のネガティブが存在するという事は、それだけでネガティブは不死身に等しい耐久性を発揮出来るという事。倒すにはフィアのような、出鱈目パワーを用いて素早く、或いは纏めて倒すしかない。いいや、それすらも消えるまでに僅かな時間があったのだ。その僅かな時間のうちに互いが触れたなら……

 ちらりと、継実は自分達以外の、フィアと花中の様子を窺う。フィアは相変わらず全身がネガティブに包まれた状態で動きが鈍く、花中は必死に粒子ビームを撃つが追い駆けてくるネガティブ達には全くダメージが入っていない様子だ。完全な膠着状態だが、底知れぬ回復力を持つネガティブ相手にはジリ貧だろう。

 そして自分達を振り返って見てみれば、決め手がない。ネガティブを一撃で倒せるほど強烈な攻撃をお見舞い出来るのは継実だけであり、ターゲットに出来るのは一体だけ。どう考えても勝ち筋がない。その強烈な攻撃を発動出来る戦闘モードも、まだ当分は維持出来るだろうが……あと十分と続かないだろう。

 つまりあと十分で何か出来なければ、こちらの詰みという訳だ。おまけに先程必殺の一撃を披露した事で、奇襲も成功し辛くなっている有り様。何から何まで最悪だ。

 

「……継実、どうする?」

 

 モモも同じ結論に至ったようで、指示を求める。無論答えなど今の継実は持ち合わせていない。無言を以て答えにすれば、モモはやっぱりと言わんばかりにため息を吐く。

 だが、まだモモは諦めた様子を見せない。

 どれだけ絶望的状況でも彼女が微塵も諦めないのは、生物としての本能、生存への執着が一番の理由ではあるだろう。されどもう一つの理由を継実はひしひしと感じている。

 継実ならなんとかしてくれるという、家族に対する期待と信頼だ。

 状況はハッキリ言って厳しく、正直明るい展望は描けない。それにネガティブ達が先程のインチキ再生のような能力を、他にも隠し持っている可能性だってある。だからモモの期待に応えられる自信は、今の継実にはないが……応えられるよう努力するのはやぶさかでなし。

 

「んじゃあ、とりあえず……また情報収集から始めて、チャンスがあったらぶっ潰すって感じでやろうかね」

 

 だから継実は笑みを浮かべてそう答える。

 ネガティブ二体に再度突撃するのに、継実もモモも迷いなく行動を起こせるのは、つまりはそういう事なのだ。



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文化的な野生人生活14

 必要なのは情報。

 情報は『力』だ。相手の弱点を掴めば戦いを優位に進められるし、相手の目的が分かれば……戦わずに勝利する事も可能である。人間は世界の情報を知識として蓄える事で繁栄し、最後は『理解の及ばない力(ミュータント)』に敗れたとはいえ、一時は世界中に版図を広げた。情報が如何に強大なものであるかは、人類のかつての繁栄が証明している。

 だから継実は敵対者ネガティブの情報を欲する。現状を打開するための道筋が、そこにあるのだと信じて。

 ――――しかし一つ懸念がある。

 これから自分達が挑もうとしている宇宙生物二体は、そんな情報の有り難さを知らないほど、知能の低い存在だろうか?

 

【イギィイイロオオォッ!】

 

【イギギィィ!】

 

 突撃する継実達に対し、ネガティブAとBも突進を始める。

 ただし今度の突撃は、ぴったり合わさっていない。ネガティブBがネガティブAの後ろに付いている格好だ。

 支援砲撃でもしてくるなら兎も角、単にそこにいるだけなら、わざわざ後ろにいる奴を狙う必要はない。モモは前線に立つネガティブAに殴り掛かり、継実は蹴りを放つ。

 ネガティブAは二つの攻撃を受け止めようと腕を伸ばすが、しかし戦闘モードになった継実と、元々素早さが売りのモモの攻撃はどちらも速い。継実達はネガティブの腕をギリギリのところで躱し、両者の攻撃がネガティブAの頭部と脇腹に命中する。

 

【ギッ……!】

 

 継実達の同時攻撃にネガティブは呻く。結果的にどちらの攻撃も防げず直撃したのもあってか、ダメージは小さくなかったらしい。その身体がぶるぶると、僅かにだが痙攣するように震えた。

 が、即座にネガティブBがAの身体に触れる。

 そうすればネガティブAの痙攣は即座に収まってしまう。回復したネガティブAは即座に腕を振るい、モモを薙ぎ払うように殴り飛ばす。

 モモは両腕を交差させてこれを受け、打撃による被害を最小限に抑えた。元々物理的衝撃には強い事もあって、モモは特段苦しそうな様子はない。しかし小柄な身体では、ダメージは回避出来ても物理的な運動までは抑えきれず。モモの小さな身体は、呆気なく吹っ飛ばされてしまった。

 残る継実は再度力を込め、拳を放つ。青白い光を放つ継実の手は空間に爪痕のような軌跡を描き、ネガティブAの腹を掠めるように通る。貫くのではなく切り裂くように爪を立てた甲斐もあって、継実の一撃はネガティブAの脇腹を大きく抉る。抉った後こそすぐに塞がったが、ネガティブAの身体はまた震えるような痙攣を起こす。

 しかしすかさずネガティブBが触れてしまえば、ネガティブAの痙攣は瞬く間に収まった。一秒と経たずに、与えたダメージの全てが無効化されている。

 

「(クソッ! やっぱBの奴、こっちの攻撃を警戒して後ろに付いてるな……!)」

 

 普通ならば、少人数の戦闘で救護担当を作るなど愚策である。例えば今回のように二対二ならば、前線に立つものは実質一対二の状況に置かれるも同然。ランチェスターの第二法則により、攻撃力は戦力の二乗×戦闘力で計算出来る。つまり二対一の状況に陥ると、双方の実力が互角だとしても、数で勝る方は四倍の破壊力で戦える事になるのだ。前線を担う者は救護される間もなく倒れ、救護担当に四倍の火力が襲い掛かるだろう。

 これが戦力の逐次投入が愚策と呼ばれ、各個撃破が有効な戦術である理屈だ。しかしネガティブにこの常識は通じない。触れれば瞬く間に相手を治療出来るのであれば、数倍程度の攻撃力差など大した問題ではない。それどころか回復専門がいるお陰で、普通ならば対処不可能なダメージ……即死級の攻撃にも即座に対応出来る。こうなれば前線は多少の無茶も可能となり、取れる手数の多さから戦いを優位に進められるだろう。

 そして戦う側には一層手立てがなくなる。瞬時に相手のダメージが消えてしまうのに、一体何をどうすれば良いというのか。

 予想していた通りの、そして最悪の状況に継実は思わず舌打ち――――する間もなかった。

 継実が一人になった瞬間、今度はBも前に出てきた。そして力いっぱい掲げた拳を、継実の頭目指して振り下ろす。体内に臓器があるのかどうかも怪しいネガティブと違い、継実にとって頭は重要な器官だ。もろに攻撃を受ける訳にはいかない。

 

「ぬぁっ!?」

 

 しかし腕で受け止めようとした瞬間、がくんっと体勢が崩れる。

 ネガティブAが尻尾を継実の足に巻き付け、引き倒してきたのだ。反射的に踏ん張ろうとする身体であるが、ネガティブのパワーには敵わず。そして踏ん張る事で身体も硬直してしまう。

 ネガティブBは攻撃の狙いを変更。腕で守ろうとしている頭ではなく、継実の腹目掛けて拳を叩き付ける! 継実は今、生半可な攻撃ならば耐えるであろうアザラシ皮の服を着ているが……やはり生きていないものはネガティブの攻撃を防げないらしい。叩き込まれた拳の形に服は消え、打撃の衝撃はそのまま継実の体内へと届く。

 

「ごぶっ……ぐっ……!」

 

 強烈な鉄拳を腹に受け、転倒寸前だった継実は雪の上に叩き付けられた。口からは呻きと共に血が吐き出る。強い一撃で消化器官が傷付き、衝撃で血が消化管を逆流して溢れたのだ。

 消化器官の損壊は常人ならば致死的なダメージ。継実にとっても無視出来るものではない、が、問題なく回復出来る傷でもある。そもそも致命的であろうがなかろうが、敵の方から肉薄してくれたという『チャンス』が来たのだ。これを見逃すほど継実は甘くない。

 継実は腹に打ち込まれたままになっているネガティブBの拳を掴む。とはいえただ掴んだだけ。戦闘モードになった継実の馬力でも腕を固定するのが精いっぱいだ。おまけにネガティブAはなんの拘束も出来ていない。

 相方を助けるべくネガティブAが継実に掴み掛かろうとする。迫りくる脅威であるが、しかし継実は静かに睨むのみ。

 何故ならAに対処するのは自分ではない。

 それは吹き飛ばされた後直進せず、大きく迂回してネガティブ達の背後を取っていたモモの役割だ!

 

「どっけえぇぇッ!」

 

 モモは自慢の脚力で跳ぶや、全身を使った体当たりをネガティブAに喰らわせる!

 継実に攻撃するつもりだったネガティブAは、モモの奇襲攻撃を背中からもろに受けた。吹き飛ばされるまではいかないが、その身体は大きく仰け反る。足下のバランスも崩し、今にも転びそうだ。

 その時継実は既に雪の上。寝転んだ体勢とはいえ、地面の上なら踏ん張りが利く。両腕だけでなく背中や腹筋も用いて継実は自らの身体をバネのように跳ねさせ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()を力いっぱい蹴り上げた。

 そうすれば今度は尻尾が引っ張られる形となり、ネガティブAの体勢を一層崩す! 体勢を崩していたネガティブAは止めのひと押しを耐えきれず、尻餅を撞くようにすっ転ぶ。更に継実はこの蹴りをネガティブBに喰らわせている。顎(なのかは不明だが)に強烈な一撃をもらってネガティブBもまたよろめく。

 継実は蹴り上げた反動でバク転。モモと視線を交わし、自分がネガティブA……未だ足に尻尾を巻き付けたままの方と戦う意思を見せる。モモはそれを汲んで、よろめいたネガティブBに向けて体当たりを喰らわせ、継実から離す。

 

「今度は、こっちの番だ!」

 

 立ち上がった継実は起き上がろうとするネガティブAの上に跨るや、拳を振り下ろす。それも一発だけではない。二発三発四発と、何度も何度もネガティブAの顔面に叩き込んだ。

 度重なる攻撃でダメージが蓄積しているのか、少しずつだがネガティブAの身体が震える。痙攣の大きさが蓄積したダメージの大きさだという推測が正しければ、小さな攻撃を繰り返してもネガティブを倒せるかも知れない……だがネガティブAもされるがままではなかった。

 

【イギィアッ!】

 

 猛々しく叫ぶのと共に、ネガティブAは花のように裂けている頭で継実の拳に迫る。

 悪寒が背筋を走った時には遅く、ネガティブAは花のような頭を閉じ、継実の拳に()()()()()! 花咲くような形のそれが実は頭でなく口なのかは不明だが、兎に角噛み付くように攻撃してきたのである。

 

「なっ……!」

 

 これには継実も焦る。とはいえ齧られた事自体が問題なのではない。

 腕を包まれた瞬間、急速に身体のエネルギーが抜け始めたのだ。

 ネガティブは触れた物質を消滅させる力がある。物質とエネルギーは等価であるから、その力はエネルギーさえも消滅させる事が可能な筈だ。

 ミュータントの身体はどうしてか消滅しないものの、身体から放出している熱は別。ネガティブは咥え込んだ継実の腕の熱を消滅させる事で放熱を促進し、継実のエネルギー消費を増大させたのだ。このままではエネルギー不足により、戦闘モードを維持出来なくなる。

 

「この、離せ……!」

 

 咥えられていない方の拳でネガティブAの頭部を殴る。それで動かなければ、今度は腹に膝蹴りを喰らわせた。

 いくら腕を咥えて固定したとはいえ、上に跨がられた体勢は有利なものと言い難い。事実ネガティブAは腕を振り回して継実に打撃を与えてくるが、力の入らない体勢故か威力は左程強くなかった。身体能力で上回るとはいえ、この不利な体勢で戦い続けるのは得策ではないだろう。

 だから考えなしならすぐに継実の腕を離し、なんとか離れようとする筈だ。しかしネガティブAは意地でも継実の腕を離そうとせず、殴られようが蹴られようが大人しく不利に甘んじる。

 未来での有利を取るために。

 

「(コイツ、気付いてるな……私のこの戦闘モードの弱点に……!)」

 

 ただの気紛れで噛み付いたのではない。ネガティブAは間違いなく、継実を弱らせるためにこの行動を取った。

 それはネガティブAが『成長』している証。ほんの十数分前までその場その場での判断と行動しかしていなかった存在が、今は不利でも将来有利になるよう振る舞っている。長期的な視点での戦い方……戦術を理解し始めているのだ。

 ここで一発亜光速粒子ブレードをぶち込めれば良いのだが、あの技は大量のエネルギーを拳に溜め込まねばならない。急速にエネルギーを奪われている状況であの技を使えば、エネルギーの枯渇に気付く前に失神する恐れがある。一か八かで使えば勝機はあるが……

 考え込んでいても仕方ない。決め手に欠ける現状、何処かで賭けをしなければ勝ち目はないのだ。継実は空いている方の拳にエネルギーを集めようとした。

 するとネガティブAは、継実のその腕に掴み掛かってきたではないか。

 

「(コイツ……あの技の理論を理解してるのか……!?)」

 

 もう片方の腕からもエネルギーを奪われ始めた。これでは亜光速粒子ブレードを使えない。

 それどころかエネルギー消費が更に加速し、体力が急速に失われていく。おまけにネガティブの力は継実よりも強く、このままでは振り解けない。

 力を込めて解けないなら、奥の手を使うしかないだろう。

 

「ぐっ……こ、の! は、な……せぇ!」

 

 継実は両手にエネルギーを、自分でも制御出来ないほどの勢いで溜め込む。ネガティブはそのエネルギーも消し去ろうとしてくるが、奴が消しているのは所詮余熱。放熱量の以上の速さで注ぎ込めば力はどんどん高まっていき――――

 限界を迎えた継実の腕は、大爆発を引き起こした!

 

【ロギッ……!?】

 

 核弾頭など比にならない、七年前の地球で炸裂させたならば国家どころか文明そのものに壊滅的打撃を与えたであろう衝撃。流石のネガティブAもこれには頭が大きく仰け反り、大地に叩き付けられる。余程の痛みだったのか、しばし悶えるように暴れた。

 継実としても両腕を消し飛ばした事で、自由は確保出来たものの、戦う力が大きく低下している。足技は使えても、無理をすれば後で息詰まってしまう。

 ここは一時後退だ。継実は跳ぶようにして下がる。

 

「う……く……っ」

 

 そうしてネガティブAから離れたところで、継実は膝を付いた。

 更に青く輝いていた髪の色が変わり、黒髪へと戻る。吐息も荒くなり、立ち上がろうにも四肢に力が入らない。

 エネルギーを大量に消失した事で、戦闘モードを維持するのに必要な体力も失われたからだ。少し休めばもう一度戦闘モードになれるだろうが、持続時間は精々数秒が限度。通常状態で戦うのも、全力を保てるのは恐らく数分程度という有り様だ。こんな疲弊状態でネガティブの攻撃など受けたらどうなる事か……

 

「ぎゃんっ!?」

 

「うぐぇ!?」

 

 そこまで弱りきっていたところに、背中から何かが激突してきた。正面のネガティブAに集中していた所為もあって、継実は背中からの衝撃に思わぬダメージを受けてしまう。

 反射的に後ろを振り返ってみれば、そこには仰向けに転がるモモの姿が。

 背中にぶつかってきた物の正体はモモだったのだ。そしてモモが飛んできたであろう方角には……僅かながら痙攣しているものの、激しい敵意を露わにしたネガティブBが立っていた。

 

「ごめん! 抑えきれなかった!」

 

「いや、大丈夫。むしろこっちこそ謝らないと……割とヤバい。力を使い果たした。戦闘モードも、使えてあと数秒だけ」

 

「マジかー」

 

 正直に打ち明けたところ、モモからは至極残念そうな声が上がる。

 それでも相手を責めないのがケダモノ。現状に対して責任転嫁などしない。したところでなんの益もないのだから。あるがままを受け入れて、あるがままに対処するのみ。

 継実も同じだ。村で暮らすようになろうとも、人間社会に再び浸る事となろうとも、七年間で鍛え上げたものは今もある。

 だからまずは理解するのだ。

 ネガティブAとBに挟まれ、いよいよ追い詰められた今の状況を――――



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文化的な野生人生活15

「チームワークを見せるつもりが、見せ付けられたわねぇ」

 

「まぁ、散々痛い目に遭わせた訳だから、学習も進むだろうし……」

 

 モモがネガティブBを、継実がネガティブAを睨みながら、二人は軽い口調で言葉を交わす。

 口こそ軽やかだが、継実の内心は冷や汗でぐちゃぐちゃだ。

 先のエネルギー大量消費の所為で継実の体力は残量ゼロに近い。モモは素早さこそ優れているが、身体の軽さもあって攻撃力そのものはあまり高くない。どちらも相手に致命傷を与えるには力不足の状態だ。

 二人同時に一体を集中攻撃すれば、なんとか出来そうな気もするが……ネガティブは二体。AとBはしっかり継実達を挟んでいる。相手が迫れば戦力を分断せねばならないし、どうにか集中攻撃したとしても一方がいれば一方の傷は簡単に癒え、ダメージを無効化してしまう。

 一体どうすれば、この危機を乗り越えられる?

 

【イギギロロロロロロギロロロ……】

 

【イイィィイギィイィィロォォォオォ】

 

 ネガティブ達は吼えるような声を交わしている。なんらかの作戦を練っているのか、或いは単にこちらへの敵意を高めているのか。いずれにせよ、良いものではないだろう。

 

「(考えろ、作戦を……どうすればコイツらを嵌められる……!?)」

 

 継実は残り少ないエネルギーを脳へと投じ、意識と演算速度を加速させる。

 まずは作戦を練り上げるべく周囲を観察。フィアと花中のコンビは未だネガティブに苦戦しており、こちらを助ける余裕はない様子。ミドリに至っては息を切らし、逆に助けないとそろそろ危険そうだ。周りが助けてくれる事はあまり期待出来ない。

 この状況を打開出来るのは自分達だけ。

 しかし何が出来る? 自分達の力がまったく足りないのは先程振り返った通り。一体だけならどうにか出来るかもだが、分断されると不味い事を連中は学んでしまった。相当痛い目に遭ったのだから同じ手は食わないだろうし、新しい作戦を喰らわせようにも経験を積んだ今やそう簡単には一人になってくれまい――――

 

「(ん? 痛い目……)」

 

 ふと気に掛かる単語。そして脳細胞が目覚めるように活性化した

 直後、ネガティブ達が駆け出す。

 二体同時の突進だ。どちらも大地の雪が衝撃で舞い上がり、白煙が彼等の道筋を示すほどのスピード。奴等が持つ最高速度での突撃だろう。挟み撃ちの状況を維持しつつ、一気に距離を詰めようという魂胆だ。

 瞬時に継実の脳裏を過るは、五つの選択肢。

 一つは継実とモモの二人で一方向へと逃げ出す事。これは最悪だ。単純にネガティブ達が追ってきて、後ろから追撃を受けるだけである。

 二つ目の選択肢は、二人でバラバラに逃げる事。これも最悪だ。追手の人数は減るが、仲間の数も減る。結局一つ目の選択肢となんら変わらない。

 三つ目は二人で一方に突撃して立ち向かう事。これだって最悪以外の言葉がない。即死させられるほどの火力は出せない以上、集中攻撃したところで相手は倒せず、もう一方のネガティブからの攻撃を受けるだけ。そして与えたダメージは即座に回復されてしまう。戦闘モードを使ったとしても、回復が間に合う状況では無意味。

 四つ目の選択肢であるそれぞれがネガティブに迎え撃つなど、最早論外である。戦う体力も止めを刺す力もないのだから、わざわざ各個撃破されに行くようなものだ。

 残る手立ては、五つ目。

 

「……!」

 

 作戦を言葉で伝える暇はない。継実は視線だけをモモに送る。

 モモの答えは、にやりと不敵に笑う事。

 言葉はなくともそれだけで十分。継実は迫りくるネガティブAを待ち受けるように、モモもまたネガティブBを迎え撃つように、それぞれが構え――――

 

「「とうっ!」」

 

 ネガティブが間近に迫った瞬間、二人揃って左右に跳んで逃げる!

 突然見失った目標。最高速度で走ってきたネガティブ達は、互いに驚いた様子。ただし今度は減速もせず……そのまま激突してしまう。

 それは、少し前に継実とモモがやったのと同じ作戦。

 ネガティブ達の成長速度や学習能力を考えれば、普通ならば同じ手は食わないだろう。痛い目に何度も遭う必要はないのだから……そう、痛い目であれば。

 だがネガティブAとBにとって、仲間との正面衝突は痛い目ではない。

 何故なら二体は激突の衝撃で、一つの巨大な靄になってしまったのだから。

 仲間と触れれば融合し、更にダメージまで癒えてしまう。一体それがどんな理屈かは分からないが、ネガティブ達にとって『強さ』であるのは間違いない。だからどんなに激しく激突しようとも、ネガティブ達が仲間との接触を怖がるなど()()()()()のだ。それこそ、まだ仲間との正面衝突を経験した事がないような身でもない限り。

 

「(そう、どんな理屈かは分からないけど……奴等がダメージを回復するのは仲間に触れた瞬間。なら、()()()()()()()()()()()()()?)」

 

 確証なんてない。相手の特性を完全には理解してないが故の博打だ。だが最早他の手なんて思い付きもしない。

 だから継実はここで全力を出すのに躊躇いなど抱かない。

 残り数秒しか使えない戦闘モードを、ここで発動させる! 髪と両腕を青く輝かせるや、身体に残る僅かなエネルギーを全て己の左拳に集めていく。限界を超えた遥か先、自分自身でも制御出来ない莫大なエネルギーにより拳の細胞が焼け死んでいくが、構いやしない。その莫大なエネルギーを粒子の運動エネルギーに変え、速度に変換しきれなかった分は拳に溜め込んで『質量』として使う。

 全ては一撃の威力を極限まで高め、未だもごもごと蠢くばかりの、球体状の巨大な靄に叩き込むために。

 

「ガアァアアアッ!」

 

 更にモモも反対側から、全身に稲妻を迸らせながら跳んできた。その稲妻は放電攻撃のためのものではない。電磁気力を用いて自分の怪力を増幅させるための前準備。

 二人とも力を高めていた。攻撃を避ける前に、視線で全ての意思を交換していたがために。

 そして今更、攻撃タイミングを合わせる必要などない。巨大なネガティブを挟んだ位置関係故に相棒の顔が見えない中、継実とモモはぴったり同時に笑みを浮かべる。

 

【――――イ、イギ】

 

 ここでようやく不穏なものを感じたのか、一つになった球体状の靄が慌ただしく分離を始める。靄は急速に形を整え、二つの顔と四つの腕を生やす。

 だがやはりこのネガティブ達は未熟だ。分離の方向が継実達の真っ正面、つまり継実達を迎え撃つ形となっている。或いは闘争心の強さが露わになった結果かも知れないが、いずれにせよ継実達にとっては好都合。

 自ら、真っ正面から衝撃を受けに来てくれたのだから。

 

「「はあああああああっ!」」

 

 二人同時に、ネガティブの顔面目掛けて拳を放つ!

 継実の全力全開の打撃が、モモの全身全霊の一撃が、自身の方へと伸びてきたネガティブの顔を打つ! 靄のような身体は打撃の衝撃で歪み、ひしゃげ、一つの球体側へと押し戻された!

 打撃の衝撃でネガティブ達の身体は吹き飛ばされようとしていた。もしも継実一人で攻撃を仕掛けていたら、叩き込んだ運動エネルギーを移動の形で使われ、ダメージを減らせただろう。

 しかし此度の攻撃は両面同時。そしてほぼ同じ威力。

 二つの打撃は、合体したネガティブの身体を駆け巡る。逃がす事の出来ない衝撃が全身を破壊しながら進み……最後は真ん中で合流。互角の力がぶつかり合うや、相殺ではなく力の融合が発生し、倍増した破壊力が内側から炸裂した!

 球体状の靄全体が震え始める。最初は痙攣だったものが、段々と激しい波打ちとなり、最早球とは呼べないほど不格好で歪な不定形へと変化する。

 

【イ、イギ、ロギァ……!】

 

 再び球体状の靄から、二体のネガティブが顔を出す。この危機的状況から脱するべく無事な部分を掻き集めたのか、現れたネガティブの顔面は痙攣していない。

 尤も、百戦錬磨の継実とモモからすれば想定内。心臓を貫かれても継実が生きてるように、ミュータントからすればこの程度の悪足掻きはよくある事だ。

 

「「駄目押しだァ!」」

 

 だから出てきた顔に対する二撃目は、既に準備済みだ。

 二回目の攻撃に一発目ほどの威力はない。継実は戦闘モードを解除しており、おまけにエネルギー切れ寸前のへろへろ状態。モモも生み出した電力をほぼ消費し尽くし、精々普段と同程度の威力の一撃だ。

 しかしこれで十分。

 殴られた二つの顔面は球体状の巨大な靄の中へと押し戻される。途端、靄は更に激しく震え出した。暴れるように波打ち、藻掻くように右往左往し、助けを求めるように唸り声を上げて――――

 突如として、霧散した。

 

「……………ふぅ」

 

 衝撃も何もない、静かな終わり。過去にそれを目にしている継実は、腰が抜けたようにその場にへたり込む。

 その視線の先には、同じくへたり込んでいるモモがいた。しかも丁度こちらを見ている状況で。

 全く同じタイミングで同じ姿勢。何がおかしいという訳でもないが、妙に滑稽な気がして、思わず二人の口から笑いが漏れ出た。

 しかし笑い合っている場合ではない。

 倒したネガティブはあくまで自分達を襲ってきた分だけ。この場に現れたネガティブはざっと三十体以上だ。今はまだたった二体、全体の一割にも満たないような数を倒しただけに過ぎない。

 他の仲間の助けに向かわねば。そう思った継実はほんの僅かに残った力を振り絞って立ち上がり、同じくモモもよろよろと立ち上がった。

 

「オラあァッ! 全員ブチのめシてやリましタヨォォォォォォ!」

 

 そんな時に、フィアの雄叫びが聞こえてきた。

 どうやらフィアは自分に襲い掛かってきたネガティブ群団、ざっと三十体ほどのネガティブを見事打ち倒したらしい。マジか、と思って振り返ると……そこにいたのは『怪物』。魚類類を思わせるぬらぬらとした頭を持ち、されど身体はカエルの化け物を思わせるずんぐりとした二足歩行。水掻きを持った四肢と長く太い尾を持ち、十メートル違い体躯は白銀に輝いている。

 新手の怪物かとも思ったが、それはネガティブらしき靄を噛み砕き、握り潰し、踏み潰していた。一体どんな暴虐を繰り広げたのか想像も付かない残忍な様相。しかしネガティブが霧散して消えるのと共に、しゅるしゅると身体が縮み……見覚えのある金髪碧眼の美少女へと早変わりしてみせた。

 どうやらフィアの『変身』だったらしい。継実と同じように戦闘モードがあるのだろう。ただでさえ強いのに戦闘用の姿まであるとは、あまりにも容赦がない。本当に、何故フナがここまで出鱈目に強いのかと継実は呆気に取られる。

 

「ぜー……ぜー……! こ、こんなに、叩くとか、もう何年ぶりだろ……」

 

 花中の方も、息を切らしながらも立ち止まっていた。見れば彼女はその短い腕でネガティブの首を掴み、締め上げていた。首を掴まれながら藻掻くネガティブの姿は痛々しく、花中も辛そうに顔を歪めていたが……ぎゅっと目を瞑るのと同時に手に力を込め、首を切断。ネガティブは霧散して消滅した。

 二人とも継実達が相手していた以上の数を、ほぼ同じタイミングで倒していたらしい。特にフィアは他の十倍以上もの数を始末している。流石と言うべきか、非常識と言うべきか。どちらを言ったところで、フィアは自慢げに胸を張るだけだろう。

 さて、では残るネガティブは何体か?

 

「ひょええぇーっ!? もう無理! 無理無理無理ぃー!」

 

【イギロロロロロッ!】

 

 ミドリと延々と追い駆けっこをしていた、一体だけだ。

 追い駆けるネガティブも成長していない訳ではない。その走りは継実達が戦っていたネガティブよりずっと速く、捕まえようとする手の動きも素早い。能力をフル活用して逃げるミドリに対応し、それに見合った力が成長していた。

 相手を捕まえる事に関しては、きっとどのネガティブよりも優秀だろう。しかし戦いに関しては……きっとどのネガティブ達より成績が良くない。奴は未だに()()()()()()のだから。

 そんな軟弱個体に、はたしてバリバリの戦闘型ミュータント四体を相手出来るだろうか?

 

【イギ? ……ギロ?】

 

 ネガティブは気付く。自分以外のネガティブがもういない事に。

 ミドリも気付く。一緒にいた仲間達が全員でネガティブを包囲していると。

 ネガティブとミドリは足を止めた。ただしミドリはやってきた継実の傍であり、ネガティブは包囲する継実達のど真ん中で。ネガティブはきょろきょろと周辺を見回し……そしてギョッとしたように身を強張らせる。

 少々可哀想だという気持ちが、起きない訳でもない。実際コイツが逃げようとするなら(フィアと花中がどうするかは別にして)継実としては見逃しても構わないつもりだ。少なくとも地球の生物から見れば左程強くなく、星を消すなんて真似は出来そうにないのもあって。

 けれどもここまで追い詰められて、なおもネガティブは敵意を露わにし続ける。怯えた様子もないし、ましてや命乞いもしてこない。純粋で、混ざり気のない感情だ。

 仲間を殺されて怒り狂っているのだろうか。もしそうなら、一人の人間として継実は共感する。が、こちらの命を狙うなら容赦するつもりはない。

 ネガティブ一体が突進してくるのと同時に、継実達は全員でネガティブに突撃を仕掛けるのだった。



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文化的な野生人生活16

「お帰り。大変だったみたいねぇ」

 

 村に帰ってすぐに、継実達の出迎えをしたのはミリオンだった。

 正直に言うと、この言葉に少し継実はイラッとする。「大変だったみたいねぇ」等と人伝に聞いたかのような物言いだが、継実達は今正に帰ってきたばかり。まだ、ネガティブについて誰にも話していない、話す時間もない状況である。

 即ちミリオンは、どうやってかは分からないが継実達の戦いを見ていたのだ。見ていて、駆け付ける事もなく村に留まっていたらしい……そう思うと苛立ちもするだろう。

 

「ふふん。まぁこの私の手に掛かればあんな有象無象などものの数ではありませんがね」

 

「あらー。その割には苦戦していなかった? 本気の姿まで披露してたじゃない」

 

「……というか、ミリオンさん、見てたなら、助けにきてくださいよ」

 

「嫌よ、面倒臭い。コトっちゃんが地球中に伝達脳波をばら撒いてる今、別にはなちゃんに拘る理由ないし」

 

 尤も、付き合いが長いであろうフィアや花中相手にすらこの調子だ。継実がどう思おうと、何を言おうと、ミリオンは気にもしないだろう。

 人間らしく思えても、本質的には彼女もまたミュータントという訳だ。そう思えば継実の中の苛立ちはすっと消えていく。誰かに助けてもらえるなんて期待するのが馬鹿馬鹿しいのが自然界。助けてもらえなかった事を恨むなど()()()()なのである。

 

「ま、なんにせよ倒せたなら良いんだけど……アレは結局なんなのかしら? ねぇ、ミドリちゃん」

 

 そしてミリオンとしては、『過去』よりも近々の『未来』を重視している事がこの一言で分かる。

 名指しされたミドリは一瞬、息を詰まらせた。しかし動揺は左程大きくない。ミドリはその問いに、聞かれるまでもなく答えるつもりだったのだから。

 

「……お答えします。実は……」

 

 ミドリはネガティブについて、自分の知る限りの話を行う。

 勿論その説明の中には、ネガティブが『宇宙の災厄』である事も含まれている。つまりミドリが宇宙の出来事に詳しい事、何故ならば自分も宇宙人だからだと告白しなければならない。

 ……そこに心理的負担があるのではと一瞬継実は考えたが、ミドリは「実はあたし宇宙人なんですよー」などと思いっきり気軽に話していたが。聞かされた側も「ほへー」と間の抜けた声で反応するだけ。フィアなど興味もないのか、花中に抱き着いたままぼけーっと虚空を眺めている有り様だ。実際問題、宇宙人や宇宙的厄災よりもアレな生き物が跋扈しているのが現在の地球である。宇宙人一匹にああだこうだと反応する方が馬鹿らしいだろう。

 お陰で話は実にスムーズに進む。

 

「ふむ。ネガティブ、宇宙からの外来種ねぇ……まぁ、私達からすれば今更というか」

 

「昔、撃退した事、ありましたからね……」

 

「いや、なんでそんな経験あるの?」

 

「んー。成り行きで、かしら? ま、そんな事より、これからについて話しましょ。つまり連中は何故南極に来たのか。ミドリちゃん、心当たりある?」

 

 自分達の事ははぐらかしつつ、ミリオンはミドリに尋ねる。ミドリは宇宙生物撃退について気になっている様子だが、本題の方が優先度が高いと考えたのだろう。大人しく、ミリオンの問いに答えた。

 とはいえミドリはあくまでもネガティブに星を滅ぼされた難民でしかなく、奴等の存在に心惹かれた研究者でも、復讐に燃える駆除人でもない。ミリオンが期待するような答えを持ち合わせている筈もなく。

 

「いや、全然……もし理由があるなら、こっちが知りたいぐらいです」

 

「あら、残念。そこから習性とか生理機能とか考えられたかも知れないのに。それに二度も遭遇するなんて、何か理由がありそうなもんだけど」

 

「んーそうですかねぇ。偶々なんじゃないですか?」

 

「私もそー思う」

 

 端から考える気がないフィアとモモの意見に、ミリオンはじとっとした目で睨み、花中は思わずといった様子で苦笑い。

 確かに、理由などなくて、本当にただの偶然という可能性もゼロではない。「この世の出来事全てに理由がある」と考えるのは、ある種の宗教だろう。出会いが一回だけなら継実もその意見に同意するところだ。

 しかしながら継実達にとってネガティブとの遭遇は二回目。宇宙の災厄と鉢合わせるという『不幸』は、果たして人生で二度目も起きるものだろうか?

 そんな訳ない――――と断言したいところだが、これもまた難しい。何故ならネガティブとの遭遇確率なんて分からないからだ。

 継実達は世界の全てを知っている訳ではない。だから実は継実達の知らないところで日夜大量のネガティブが地球に降下していて、今回はその中の一群と偶々遭遇した、という可能性も否定出来ない。無論普通の星ならば、そんな大量のネガティブに襲われれば一日も経たずに跡形も残らないだろうが……ネガティブは継実ですら一対一で倒せるような相手。フィア級の力があれば三十体纏めて潰せるし、大蛇やムスペルならば数万という数さえも余裕で消し飛ばすだろう。そして今の地球には、そんな生き物がわんさか存在している。南極から北極、天空から地底まで一片の隙間もなく。

 何百万ものネガティブが毎日来たところで、この星は変わらず回り続けるのだ。もしもこの『可能性』が真実であれば、此度の遭遇が偶々だというフィアの考えは極めて自然なものである。むしろ草原で出会ってから今日まで再遭遇しなかった方が、実は確率的に低いという事もあり得るだろう。

 

「(まぁ、それならそれでなんでネガティブの奴等は地球に来るんだって話になるけど)」

 

 ネガティブは宇宙の厄災、つまり広大な宇宙空間を飛び交っているもの。ネガティブの勢力がどれほどかは分からないが、しかし何千億と存在する星系の中から地球を偶々狙う確率は、恐ろしく低いだろう。

 ましてや無数のネガティブが一斉に訪れるとなれば、地球にネガティブを引き寄せる一因があると考えるのが自然だ。

 つまるところ、ネガティブが南極を狙って降下していたとしても、あちこちに落ちてきたネガティブの一部と偶々遭遇しただけだとしても、『地球』にネガティブ襲来の原因があるのはほぼ確実と言えよう。しかし一体何がそうさせるのか。ワラジムシは敵に襲われると仲間に警告を促すフェロモンを出すというが、ネガティブでは逆に集合フェロモン的なものでも放出しているのだろうか……?

 考えてみようとして、継実は否定するように首を横に振る。考えたところで、地球生まれの地球育ちに宇宙生物の気を引くものなんて分かる筈がない。考えるだけ無駄というものだ。

 

「ま、良いわ。今は考えられるほどの情報もないし、これが最後の襲撃なら気にする必要もないし」

 

「……そう、ですね。それに、情報がないまま、考えても、的外れな対策に、なりがちです。ここは考えないのも、選択肢かと」

 

 ミリオンと花中も同じ気持ちらしい。継実も納得を示すようにこくんと頷いて、

 

「でもそのうちまた来るんじゃないですか?」

 

 何故かフィアから反対意見が。

 何時も空気を読まないフィアであるが、此度はとびきり空気を読まず。全員から視線を集めてもキョトンとするだけだ。

 

「……何を根拠に言ってんのよ、それ」

 

「私の感覚です。むふん」

 

 沈黙に耐えかねた様子を見せるミリオンの質問に対し、フィアは堂々と胸を張りながら答える。

 自らの感覚を根拠にするとは、あまりにも『無根拠』。場の空気が一瞬にして白けた。ある意味緊張感を抜いてくれたと言えるかも知れない……継実にはそんな妙ちくりんな擁護が思い付かない。継実は肩を落とし、モモはため息を吐く。ミドリとミリオンも目から力が抜けていた。

 ところが一人、真剣にその言葉を聞くものがいた。

 花中だ。

 

「どういう事? 何を感じているの?」

 

 花中は尋ねる。するとフィアは静かに、堂々たる姿で空を指差す。

 

「勿論空からの存在感ですよ。今もひしひしと感じていますからねー。もう大分近くに来てますよ相当デカいものが」

 

 そして表情一つ変えずに、そう言い放つ。

 継実は最初、フィアが何を言っているのかさっぱり理解出来なかった。モモとミドリも同じく呆けたように固まっている。

 逆に、花中とミリオンは表情が変わる。困惑から、緊迫感のあるものへと。

 

「……フィアちゃん。今、なんて?」

 

「ですから今も上に来ています。多分さっきの……なんでしたっけネバネバテールでしたか? あの連中と同じ気配です。まぁ気配の大きさはさっきのよりもずっと大きいのですが」

 

「ちょ、さかなちゃんなんでそれ言わないのよ!」

 

「だってさっきからずーっと感じてますからわざわさ言うまでもない事かと思いまして」

 

 花中達から問い詰められても、むしろ不思議そうな様子で答えるフィア。

 どうやらフィアは頭上の気配であれば誰よりも敏感に察知出来るらしい。振り返れば草原で出会った時、そんな事を言っていたなと継実は思い出す。

 花中とミリオンが真面目に尋ねているからには、それは事実なのだろう。そしてもしもこれまでの言葉通りなら、ネガティブの気配は未だ地球の上空に存在している。それも、これまでよりも遥かに強大なものが。

 継実は反射的に空を見上げた。極夜の空には星空が浮かぶだけで、何も見えやしない。感じる事も出来ない。

 

「……フィアちゃん。その気配までの、距離って、どれぐらい?」

 

 花中からの問いにフィアは答える。自分の力に多大な信頼を持ち、事実をありのまま受け止められる心を持つがために。

 

「さぁ? でも地球の外側っぽいですしざっと百万キロぐらい離れてるんじゃないですか?」

 

 身の毛もよだつ言葉を語る口に、動揺は一切含まれず。代わりに人間達が戸惑い、狼狽える。

 百万キロ。

 地球から月までの距離が凡そ三十八万キロ。百万キロ以上とは、その二・六倍以上の遠さである。それほど離れていながら、頭上の気配に敏感とはいえ、接近しているとフィアが気付くほど強大な力を発するもの……それが生半可な実力である筈がない。フィア自身、先のネガティブ群団とは比較にならない強さだと語っている。

 

「と、到着は何時頃になりそうなの!?」

 

「んー……この感じですと……明日の朝ですかね」

 

 フィアからすれば、事実を語っただけ。そしてその事実にざわめくのは人間だけ。フィアの語る言葉の意味を理解するのに、時間を費やしたのは人間だけ。

 それでも時間を少し掛ければ、なんとか意味は分かるもの。圧倒的強さのネガティブが、明日の朝には訪れる。フィアはそう言っているのだ。

 

「(ちょっとちょっと、一体何が起きてんのさ!)」

 

 ネガティブの大量襲来に続き、比類なき強さのネガティブの接近。先程まで偶然の可能性も考慮していた継実だが、此処まで異変が起きてはそうも言えない。何が起きているのか知りたくて、継実は本能的に空を見上げる。

 無論、フィア曰く百万キロ彼方の存在だ。物体の『見た目の大きさ』は距離の二乗に比例する。仮に月と同じ直径約三千五百キロの物体だとしても、その距離に位置していたら約〇・七ミリにしか見えない――――

 

「……えっ」

 

 そう考えていた継実の口から、ぽそりと声が漏れ出る。

 浮かんでいた。北の空に、黒く、丸いものが。夜空の暗さよりもずっと濃い黒さで、その黒さが真円の輪郭を描いている。

 まるで、大気圏降下中のネガティブのように。

 

「(いや、待って待って待って!?)」

 

 思わず頭の中で叫ぶ。だが、どれだけ心で叫ぼうが空の景色は変わらない。現実を淡々と突き付けるのみ。

 そして合理的なミュータントの頭脳は、困惑する継実の理性を無視して思考する。百万キロ離れていて、目視可能な大きさ……二つの情報を合わせれば、凡その大きさが想像出来るがために。正確で確実な『事実』を理解してしまう。

 惑星サイズのネガティブ。

 無縁だと思っていた地球の滅びが、間近にまで迫ってきているのだと――――



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第十四章 賑やかな星
賑やかな星01


「という訳で、第一回村人総出の作戦会議を始めまーす」

 

 村の中心にある野外の広間にて。ミリオンが明るく前向きな声で、なんとも呑気な宣言をした。

 彼女が言うように、今この場には村人が全員集まっている。継実・モモ・ミドリの三人だけでなく、花中とフィア、ヤマトやアイハム、加奈子に晴海、清夏にカミールもいた。勿論継実達三人組も一緒である。円陣を組むようにぐるりと輪になり、それぞれ自由な体勢で座っていた。

 正に村人総出の作戦会議。しかしミリオンとフィア以外の全員が、重苦しい表情を浮かべていた。晴海や清夏、ミドリに至っては恐怖心を露わにしている。二歳児であるカミールは何も分かってなさそうだが、周りのぴりぴりした雰囲気に当てられてか不安そうな表情だ。

 しかしそれも仕方ないと継実は思う。むしろミリオンが何故そこまで底抜けに明るく振る舞えるのかが継実には分からない。分からな過ぎて、ふと外を見上げた。

 極夜の時期故に、昼時の今でも空に広がるのは星ばかり……と言いたいが、一つ異常な存在が継実の目には見える。

 直径約一ミリの黒い円だ。

 恐らく加奈子や晴海など、普通の人間の肉眼ではよく見えないだろう。見えたところで正体など分かりようもない。視力に優れていないミドリやモモも同様だ。しかし継実や花中などの人間のミュータント、そして何もかもが規格外のミュータントであるミリオンにはハッキリと見えている。

 巨大な、星のように大きなネガティブが。

 

「もぉー、みんな暗いわねぇ。もうちょい前向きに考えなきゃ、良い案なんて浮かばないわよ」

 

「……よくそんな前向きになれますね、ミリオンさん。地球が滅ぼされるかも知れない状況だっていうのに」

 

「だってねぇ、正直私個人は地球がどーなろうと別に構わないし。ま、私の話なんかどうでも良い事よ。それより、会議を始める前に一度状況を整理しましょ」

 

 継実の指摘を軽く流しつつ、ミリオンは話を先に進めようとする。言い返したい事はあるが、継実としても本題を優先したい。

 大人しく黙り、ミリオンが言う通り状況の整理を優先した。

 ――――数時間前に現れたネガティブの群団を撃退した後、継実が確認した、星空に浮かぶ巨大なネガティブ。

 宇宙の彼方よりやってきたそれは、肉眼で観測出来るものの、力を感じる事は未だ継実にも出来ない。それほどまでに距離(唯一存在を察知出来たフィア曰く『百万キロ』程度)がある証であり、故にその途方もない大きさが窺い知れる。

 そして巨大なネガティブ……仮に惑星ネガティブとでも呼ぼう……は、現在真っ直ぐ地球を目指して進んでいた。

 推定到着時刻は明日の朝から昼に掛けて。力を感じ取れないため惑星ネガティブの実力は分からないが、星のような巨大さがあるのだから、星のような強さがあるのは間違いない。いや、普通のネガティブでもミュータントに匹敵する実力がある点を考慮すれば、惑星数百個程度を軽く破壊出来る出力があってもおかしくないだろう。つまり到着 = 地球の終わりだ。

 故に、なんとしても倒さねばならない。地球のため……その星に暮らす自分達が生きていくために。

 

「つー訳で惑星ネガティブ退治をする訳だけど、大きさからして、てきとーにやって倒せる相手じゃない。なので作戦を立てなきゃなんだけど、誰か案はあるかしら?」

 

 現状について説明を終えたところで、ミリオンは皆に意見を窺う。

 しばし沈黙を経た後、最初に手を上げたのは加奈子だった。

 

「はいはーい。質問がありまーす」

 

「ほい、小田ちゃん。何かしら?」

 

「そもそもやってきてるのは本当にそのネガティブとかいう奴なの? 百万キロ彼方にいるんでしょ? どうやって分かったの?」

 

 加奈子からの問いは、情報の正確性について。ヤマトも同じ疑問を抱いていたのか、頷きながらミリオンに訝しげな視線を向ける。

 情報の正確さというのは重要な事だ。嘘か真かも分からない話に全力で挑むのは、生物の本能的に難しい。問題に対処する事はエネルギーを多く消費するため、もしも問題が嘘情報なら従わない方が『得』なのだから。

 なので二人としては断言してほしかったのだろうが、ミリオンは困ったように肩を竦めてしまう。

 

「実はそこ、微妙にハッキリしないところなのよねぇ。私達に見えているのは、あくまでも宇宙よりも暗い黒が、空に浮かんでいる事だけ。そしてそれがネガティブだという情報は、さかなちゃんの感覚的な話なの」

 

「じゃあ、もしかしたら違うかも知れない?」

 

「もしかしたらね。でも、さかなちゃんの感じた力の印象ではネガティブだし、私達が観測出来る空に浮かぶ球体の色、それと輪郭が靄のようにあやふやなところは正にネガティブそのもの。そもそも、別の存在だという事は考慮する必要があるかしら?」

 

 ミリオンからの問いに、ヤマトはすぐに納得したのか「ふん」と鼻息を鳴らす。加奈子は少しの間考えた後、成程、と呟きながら頷いた。

 ちなみに感覚の正確さを問われたフィアは表情一つ変えていない……花中に抱き着いたまま幸せそうに微笑むだけで、周りの話などろくに聞いていないようだ。こんなフィアの意見を信じろというのは中々酷だろう。が、継実達は空に浮かぶ球体を、適当にネガティブだと決め付けた訳ではない。ミリオンが挙げた特徴から、ネガティブである可能性が高いと判断した結果だ。そしてそのような特徴を持つものは、継実達が知る限り他にはいない。念のため宇宙人であるミドリにも確認したが、ネガティブ以外に心当たりはないという話である。

 では仮に、地球に迫る存在がネガティブではなかったとしよう。その場合、何が出来るというのか?

 そう、()()()()()()のだ。誰もネガティブ以外に心当たりがないのだから、現れるとすれば未知の存在。未知に対して作戦を練ったところで、それは妄想となんら変わらない。そんな不確定な計画を無理に実行するぐらいなら、間近に迫ったところで知った情報を元にアドリブで対応する方がマシだ。強いて言うなら、ネガティブじゃないと分かった時点で対話の可能性を考慮し、穏便に振る舞うぐらいだろう。

 だからネガティブ以外の可能性は、現時点で考慮する必要はない。考えるだけ無駄というものである。

 

「つー訳で、今回はネガティブへの対処だけを考えれば良いわ。ま、それが難問なんだけどね。はい、他に意見はないかしら?」

 

「あ、あの……例えばですけど、に、逃げるのは駄目だったり……?」

 

 改めて意見を求めたところで、最初に考えを出してきたのはミドリ。

 逃げるとはなんとも負け腰の作戦だが、合理的に考えればそれもまた取れる手の一つ。勝ち目のない存在から逃げるのは恥ではない。野生の世界では、何はともあれ生き残れば勝ちなのだ。

 しかし。

 

「逃げるって何処によ。惑星規模のネガティブなんて来たら、逃げ場なんて余所の星しかないじゃない。今の地球に、他の星へ逃げる技術なんてないわよ」

 

 ミリオンが言うように、不可能なのだが。ミドリも苦笑いしながら「ですよねー」と言っていたので、最初から無理だと思っていたようだ。

 勿論無理な事を無理だと、皆で認識しておく事はとても重要である。前提を共有しておかないと、議論は頓珍漢な方向に進みがちだ。当たり前と思う事でもちゃんと話しておくべきである。

 そう、前提は大事なのだが……肝心なのはこの先。

 

「つまり戦うしかねーのか……つっても地球に辿り着いた時点で終わりだし、花中さんの粒子ビームでぶち抜くしかないんじゃね?」

 

「うーん。実はさっきの戦いではなちゃんがネガティブ相手に粒子ビームを放っていたけど、全然効いてなかったのよねぇ」

 

「えっ。粒子ビーム効かないとかどうすんのよ!? それじゃあ地球に来るまで何も出来ないじゃん!」

 

「ふふん。ですがこの私が殴ったら簡単に消えましたからね。流石にあの大きさを私一人でやるのは難しいかもですがあなた方が手伝えばまぁいけるんじゃないでしょうか」

 

「惑星規模の化けもんをわたしらだけでなんとか出来る訳ないでしょ! 殴っても押し潰されるだけよ!」

 

「しかし、それしか手が、ないのでは、ないでしょうか。そもそも、粒子ビームは、花中さんと、継実さんしか、撃てないですし」

 

「だったらさー、海の底にいる怪物とか集められないかなー。話せば分かる奴とかいるかもじゃん?」

 

「あの、話して分からない方だと、襲われて食べられるかもなんですけど……」

 

 意見は続々と出てくる。出てくるのだが……すぐに反対意見が表明されてしまう。その反対にもまた反論が出てくる状況。延々と提案だけが繰り返されて、何を話しても、議論が進んでいるように思えない。

 その理由は簡単だ。ネガティブについて、継実達は何も知らない……即ち対応を協議しようにも、何を根拠にして考えれば良いのか分からないのである。これでは何を言ったところで「それはあなたの想像ですよね? 問題点がありますよね?」で終わりだ。

 今必要なのは情報だ。ネガティブとはなんであるか、どんな存在なのか。全てを知る必要はなくとも、一つも知らずに策を練るなど不可能である。

 継実はそう結論付けた。そして同じ結論に至った『人間』がもう一人。

 

「……有栖川さん。ちょっとちょっと」

 

 花中が手招きして、継実を呼んでいた。

 花中の隣にいた継実は腰を浮かせるようにして、花中の傍に寄る。そんな花中に抱き着いていたフィアは、接近してきた継実を睨み付け、一層強く花中を抱き締めた。どうやら花中を独り占めにしたいらしい。

 こんな時でも自由だなぁ、と何時もと変わらぬフィアの様子にちょっとほっこり。

 しかしそれよりも今は花中との話を優先したい。フィアの鋭い視線に耐えつつ、花中と目を合わせる。

 

「……うん。何?」

 

「正直、このままだと、話は進まないと、思います。無理に進めても、確実性の検証が、出来なくて、非常に危険、です」

 

「私もそう思う。情報が足りない」

 

「そうです。そこが、問題です」

 

 だから、と言いながら花中は自身の掌を継実のおでこに当ててきた。

 一体これは何をしてるのだろうか? 疑問に思ったのも束の間、頭の中に様々な『情報』が流れ込んでくる。

 それは、端的に言えば計算。

 恐らくは大気分子の運動量とベクトルの計算だと継実は思った。それぐらいは継実にも分かる事だが……何故突然計算が頭の中に流れ込んできたのか。加えて計算量も凄まじい。継実が同じ計算をすれば、ざっと三倍の時間が掛かるであろう速さで数式が流れていく。

 突然の出来事に継実が戸惑う中、花中はそっとその手を継実のおでこから離す。するとテレビの電源を落とすかのように、ぶつりと計算が途切れた。

 

「今のは、わたしの演算能力を、継実さんの脳と、つなげてみました。ミドリさんのように、遠隔操作は出来ません、けど」

 

「……マジ? え、花中ってそんな事出来るの?」

 

「えっへん」

 

 ここぞとばかりに胸を張る花中。容姿も相まって子供が自慢しているようだが、見せ付けた力はその態度に相応しい。

 情報を得るには対象の分析が欠かせず、分析には演算能力が必要だ。より大きな演算能力があれば素早く解析が終わるだけでなく、詳細な分析も可能となるだろう。

 そして二人だけでなく、三人、四人と数を増やせば……

 

「一人だと、空に浮かぶものが、どんな存在なのか、分かりませんでした。ですが、わたし達人類の力を、合わせれば……なんとかなる、かも」

 

 継実の脳裏に過ぎった可能性。それを花中は言葉にし、『作戦』として示す。

 花中のその提案に、継実は不敵に笑いながら頷くのだった。



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賑やかな星02

 花中の提案により、一箇所に集まった人間達。

 花中、アイハム、ヤマト、そしてミドリの四人は円陣を組むように座っている。アイハムの息子カミールは円陣の外側にいるミリオンやモモ、それと晴海達と遊んでいた。誰一人として特段緊張した素振りもなく、むしろリラックスしている。ちなみに花中は後ろからフィアに抱き着かれていたが、特段気にもしていない。これが花中にとっての自然体なのだろう。

 身体が強張るほど緊張しているのは、円陣のど真ん中に座る継実だけだった。

 

「……いや、なんで私が中心なの!? なんで私なの!?」

 

「仕方ないだろ。俺もアイハムさんも演算とか苦手だし」

 

「出来なくは、ないですけどね」

 

「あたしも中身が宇宙人なものですから、計算はちょーっと苦手でして……観測結果として把握するのは得意ですけど」

 

「わたしなら、計算出来ますけど……でも、ネガティブと戦った経験が、一番豊富なのは、継実さんですし」

 

 継実が反論したものの、四人全員から更に反論が。言葉を失い、継実はぱくぱくと口を開閉させるばかり。

 そうして呆けていると、花中から止めの一言が。

 

「だから継実さんに、お任せするのが一番、なのです……ネガティブの解析を、してもらうのは」

 

 或いはお願いと言うべきか。

 柔らかな態度ながら真剣に頼まれた継実は、がっくりと項垂れた。

 これから継実達人間のミュータントは演算力を集結させ、迫りくる惑星ネガティブがどんな存在であるかを分析する。

 なんとも大事のように聞こえる話だが、実際はそこまで大変なものでもない。花中が自らの能力で他の人間の脳機能と直結し、演算力を間借りするだけだ。意識を失うだとか、脳が負荷により出血するだとか、そうした危険は全くないと花中は言う。

 ただ、その莫大な計算力を用いて結論を導き出せるかどうかは、継実自身の才覚に多少なりとも影響される。コンピューターにどれほど高性能な演算能力を持たせても、計算アルゴリズム(方法)を実装しなくては簡単な足し算すら解けないように。そしてアルゴリズムがどうしようもないものなら、素晴らしい演算能力も宝の持ち腐れだ。

 だからこそ継実はプレッシャーを感じていた訳だが、しかし自分がやらねばならない事は間違いない。花中達が言うように、最適な人選が自分を置いて他にいないのだから。

 

「……っだあぁっ! 分かった! 女は度胸! 駄目なら代わってもらえば良いんだし!」

 

「あはは。そうなんですけどね。時間はまだ、たくさんある訳で」

 

「まぁ、俺等がやっても意味ないだろうから、花中とミドリさんだけだな」

 

「そう、ですね。やるだけ、やっても、良さそうですが」

 

 和やかなムードで進む話。皆に緊張を解そうという意図があるかは不明だが、継実自身としては気持ちが楽になった。失敗しても構わないというのは、リラックスするのに一番効果的な『心構え』だろう。

 継実が笑みを浮かべた事で準備完了と受け取ったのか、花中は自身の右手を継実のおでこへと伸ばす。合わせて他の人間ミュータント達も手を伸ばし、継実を囲うみんなが手を繋いで円陣を完成させた。ミドリの左手だけは花中の右手首を掴んでいるが、これでも問題はないらしい。

 そして花中が目を瞑るのと共に、継実に莫大な量の計算能力が流れ込む。

 

「(おおぅ、これが四人分の演算力……)」

 

 継実一人でも演算力は人類が開発した最高のスーパーコンピューターを軽々と超えるが、四人分の演算力はこれまた継実の比ではない。ざっとだが、継実の『五倍』もの演算力だ。

 得手不得手があるので単純に四等分出来ない事を思えば、誰かが継実のニ〜三倍ぐらいの演算力を持っているのだろう。対象の心当たりがあるとすれば……一人だけ。

 そんだけ演算力特化(ガリ勉)なら、そりゃ運動は苦手だろうな――――なんだか急にその『ガリ勉』に対して親近感が湧いてきて、継実の口からくすりと笑い声が漏れる。

 ……さて。何時までも遊んでいる訳にはいかない。時間はまだまだあるが、無限ではないのである。

 預かった演算力を用い、ネガティブの正体を探るのだ。

 

「(さぁて、それじゃあまずは頭上のネガティブっぽい奴が、本当にネガティブなのか確かめないとね)」

 

 継実が最初に着手したのは、惑星ネガティブが本当にネガティブであるかの確認。

 『第一回村人総出の作戦会議』にて、ネガティブ以外の想定はいらないという話になったが……それでも正確な正体が分かるなら、知っておいて損はない。「ネガティブじゃなかったー」となれば、その時点でこの会議を解散しても良いのだから。

 百万キロ彼方の物体を把握するなど、索敵特化のミドリにも出来ない事だ。しかし継実達五人のミュータントの力を合わせた今なら話は違う。

 

「(お。見えた見えた)」

 

 意識の領域を狭めて引き伸ばすように、観測の射程を伸ばせば、百万キロ彼方の『物体』を継実の意識は捉える事が出来た。

 物体の直径は約四千キロ。月の直径が約三千四百七十キロなので、月を一回り上回るサイズだ。地球ほど巨大ではないが、単一の『存在』としては十分規格外だろう。尤も、宇宙の中では珍しい大きさではないだろうが。

 物体の進行速度は秒速十五キロ以上。加速も減速もなく、この速さを維持したまま飛行している。宇宙空間を飛び交う物体としては特段非常識な速さではなく、また空気抵抗などが殆ど存在しない宇宙で等速直線運動を続ける事は難しくない。しかし殆ど変化しない速さに、生物というより物体のような振る舞いをしていると継実は感じた。

 色は正に宇宙空間よりも暗い黒だ。全く光の反射がなく、それ故に黒く見えている。しかしこの広大な宇宙には光を殆ど反射しない、アクリル絵の具よりも黒い惑星が実際にあるらしい。輪郭がボヤけているのもガスだと考えれば説明可能だ。

 ならば、この物体は単に巨大でちょっと風変わりな小惑星なのだろうか? ここまでの情報だけなら、そう言っても良かったかも知れない。

 だが、地球に迫る物体には、どう考えても小惑星ではあり得ない現象が起きていた。

 その表面に触れた物質が文字通り()()している事である。

 

「(百万キロ彼方の水素原子が見えるとか、流石常識外れの演算力だなぁ)」

 

 観測能力を全力で狭めて使えば、物体と接触する宇宙の塵……水素原子が継実にも認識出来た。所謂星間物質と呼ばれるもので、一立方センチメートルの範囲内に水素原子一つ程度が存在している。

 そんな僅かな水素原子が、物体に触れる傍から消滅していた。このような事象を引き起こす存在は、継実が知る限りネガティブしかいない。仮にネガティブとは違う存在だとしても……こんなのが地球に降り立てば、地球そのものが消滅するだろう。

 やはり、宇宙より来ているのは惑星サイズのネガティブだと確定して良さそうだ。

 

「(ま、ネガティブよりもヤバそうな奴じゃないってだけでもマシか)」

 

 見知った相手ならば、考えも巡らせやすい。未知ではないと分かって、少しだけ継実は安堵した。

 とはいえネガティブについて何か分かっているかといえば、そんな事は全くなくて。

 

「(……つーか、アイツらって結局どんな存在なんだ?)」

 

 自分が知っているネガティブについての情報を、継実は思い返してみる。

 まず、ネガティブに触れた物質は消える。亜光速で激突する粒子ビームのダメージを無効化しているので、運動エネルギーや熱エネルギーも消滅しているらしい。唯一の例外はミュータントの肉体であるが、こちらも長時間触れ続けていると少しずつだが消えていく。フィアが能力で操る水は消えなかったが、花中が能力で繰り出した粒子ビームは消されたりと、効果の基準がいまいちよく分からない。

 またその姿は不定形だ。戦闘時には尻尾の生えた人型をしているが、本当の姿という訳ではなく、戦闘向きの形態として選んでいるのだろう。むしろ宇宙からやってくる時は何時も球形なので、それが一番安定した姿と考えれば、球こそが真の姿なのかも知れない。

 知能は高く、戦いの中で急速に成長していく。また奇妙な声を発する事も可能だ。とはいえ雄叫びや呻き声を出す程度で、仲間同士のコミュニケーションで使っている素振りはない。人語を用いた会話が出来るかどうかは、対話に持ち込めた事がないので不明だ。

 これといって臓器や感覚器などはないらしく、目潰し等は無効。身体の破損をしても致命傷とは限らず、仲間が身体に触れれ即座にば回復出来る。ダメージが蓄積すると身体が大きく痙攣し始め、やがて霧散するように破裂。この際衝撃波などは生じず、痕跡も残さず消滅してしまう。

 ……一体、『これ』はなんだ?

 

「(一番分からないのは、仲間に触れると回復するって事だなぁ。何? 友情パワーとかで回復してんの?)」

 

 例えばミリオンのような小さな生物の集合体であれば、傷を受けた個体とそうでない個体を『入れ替え』する事で、回復したように見せる事が可能だろう。しかしそれはダメージの共有、または肩代わりに過ぎない。

 ネガティブがやっていたのは、明らかに回復だ。致死的な傷を受けて、それを共有したなら、相手側も少なからずダメージを受ける筈なのだから。それがなかった以上、触れただけでダメージが消えたと考えるしかないのである。

 どんな方法を使えば、そんな真似が出来るのか? 継実は花中達から借りている演算力で様々なシミュレーションをしてみたが、答えは出なかった。

 強化された演算力を用いても、過去の記憶から新しい情報は得られない。それも当然だろう。何故ならその情報は、継実一人の演算力で探り当てた『浅い』データに過ぎない。元々浅いものを解析したところでも、見えるのはそのデータの最深部だけ。無尽蔵の深さを持つ現実から見れば表層止まりだ。

 もっと深い、基礎となるデータが必要である。

 幸いにして今の継実は、百万キロ彼方の惑星ネガティブが見えている。奴を人類五人分の演算力で調べれば新たな情報が得られる可能性が高い……

 そう思い、早速調べてみたのだが。

 

「(……何も見えないなーコイツ)」

 

 百万キロも離れているとはいえ、ミュータント人類五人の演算力を用いても何も見えないのは、継実にとって予想外だった。

 本当に何も見えない。そこには『何もない』と能力による観測は示している。粒子操作能力による観測から逃れる生物はミュータントならいくらでもいるので、隠れられる事自体はおかしくない。ただあまりにも巨大なものだから、宇宙空間にぽっかりと穴が空いているように見えているが。

 これだけの巨体かつ宇宙空間という遮蔽物がない状況で、姿の『隠蔽』を行っている。もしもこれをわざわざしているのならエネルギーの無駄であるし、宇宙空間よりも黒い所為で逆に目立っている有り様だ。そんな無駄をする理由がない。

 

「(多分何も見えないのは、触れたものを消滅させる性質が原因。光が触れた傍から消えれば、黒く見えるのは当然だし)」

 

 つまりネガティブは、常時消滅の力を発動させている事になる。

 もしもこれが『技』なら、現在の惑星ネガティブは宇宙空間に存在する水素原子を消すために途方もない力を使っている事になる。どの程度消耗があるかは分からないが、マイナスなのは確かだ。そもそも一体なんのために? 全く意味が分からない。

 そんな非効率をしていると考えるより、体質的なものだと考えるのが自然だろう。

 

「(触れるとものが消える体質ねぇ……ブラックホールで出来てるとか?)」

 

 パッと浮かんだ可能性は、即座に理性が否定した。しかしそれはブラックホール生命体なんてあり得ない、等という感情的理由ではない。

 ブラックホールでも物質を吸い込む際、そして『蒸発』する際にエネルギーを放射するからだ。ネガティブにはそうしたエネルギー放射が一切ない、故にブラックホールではあり得ないのである。

 

「(つーかこんだけ演算能力を費やしてるのに、何も見えないってどういう事?)」

 

 消滅させる能力を全体に展開しているから、何も見えないのだろうか? しかしそれでも普通ならばエネルギーが生じる筈だ。エネルギー保存の法則により、消滅した質量と同程度のエネルギーが放出されなければおかしい。

 こうも手掛かりがないと、本当にそこに惑星ネガティブなんているのかと疑いたくもある。だがそれはあり得ない。宇宙空間を漂う水素が消えているのは確かであるし、何よりそこには肉眼で確認出来るぐらいハッキリと黒くて巨大な物体があるのだから――――

 

「(……待って)」

 

 そこまで考えて、ふと、違和感を覚える。

 ネガティブがそこにいる。継実はそう思って対象を観測し、情報を整理しようとしていた。何故ならそこには黒くて巨大な存在がいるからだ、と。

 しかしよく考えてみれば、違うのではないか? 黒い物体だと思っていたが、そう見えていただけではないか?

 例えば観測データは何一つ間違っておらず、ありのまま、()()()()()()()()だけだとしたら?

 

「……! まさ、か……!」

 

「有栖川さん?」

 

 継実が思わず漏らした声に、演算力を提供している花中が反応する。されど今の継実にその問いに答える余裕などない。

 そう、全てがありのままの事実ならば辻褄が合う。

 無論辻褄云々だけではただの妄想、陰謀論の類だ。必要なのは推論を裏付ける証拠。その証拠について、継実は既に『見付け方』の当たりを付けている。自分一人では観測能力が足りないところだが、今は花中達四人の力があるのだ。その小さな証拠が存在するなら、見付ける事は難しくない。

 そう思って継実は惑星ネガティブに目を向ける。極限の観測能力を差し向けるために。

 先程は、同じ大きさの力を使ってもネガティブについて何も分からなかった。だがそれは当然だ。さながら文章問題の意味も分からず答えを書こうとしていたように、頓珍漢な解き方を試みていたのだから。問題文を正しく読み取り、何を見るべきか理解した今なら、観測する事は造作もない。

 得られた情報を解析するため、数分ほど継実は黙り込んでいた。或いはたったの数分と言うべきか。皆から借りた演算能力を用いれば、答えはその程度の時間で辿り着ける。その答えが正しいかどうかを検証するのにも、六十秒もあれば十分。

 

「……ふぅ」

 

 計算が終わった事を、継実はこの短いため息を以て周りに伝えた。

 

「……どう、でしたか?」

 

「うん。まだ分からない事も多いけど、新しい情報は得られた」

 

「おっ。どんなのだ?」

 

 ヤマトが興味津々な様子で尋ねてくる。他の面子(正確にはアイハムの息子とフィア以外)も継実が何を言うのか、期待している事が眼差しから伝わってきた。特に、故郷を滅ぼされたミドリの視線はかなり強い想いがこもっている。

 継実は一度、大きく息を吐く。

 勿体ぶっている訳ではない。これをどう言葉にすべきか、考え込んでいるのだ。恐らく誰一人として、得られた情報をそのまま伝えても理解出来ないと思って。

 しかしすぐに悩むのを止めた。奴等の本質は『それ』であり、他の言葉で飾る事そのものが本質から遠ざける行い。どうせ後から詳しく説明するのだから、まずは本質を伝えてしまえ。

 そう考えて継実は、自分が得た情報をそのまま語った。嘘も偽りもなく。

 

「ネガティブなんて生物……ううん、存在はいない。アレは虚無を通り越した、否定(ネガティブ)そのものとでも呼ぶべきものだよ」



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賑やかな星03

 ネガティブなんて存在しない。

 継実が伝えた『新事実』は、好奇心に満ちていた周りに居た者達の心を一瞬で困惑一色に塗り潰した。互いに顔を見合い、継実の話した内容を理解出来なかったのが自分だけでない事を確かめ合う。

 そうしてみんなが混乱する……フィアとカミールは興味すらなさそうだが……中で、最初に手を上げて質問してきたのはミドリだった。

 

「あの……継実さん? それって、どういう事ですか? 存在しないって……」

 

「そのままの意味。ネガティブなんていないよ……存在してるの定義次第だけど」

 

「なんですかそれ……だったら、だったらあの空のものは……!」

 

 段々と強くなる語気。短気な者が聞けばケンカを売られていると取られかねない言葉遣いだが、しかしそれも仕方ないと継実は思う。ミドリにとってネガティブは生まれ故郷を滅ぼした、宇宙の災厄。あれは避けられない災害だったと言われるならまだしも、存在しないなんて言われたら気を悪くもするだろう。

 その上で、ミドリが言いかけた言葉を一度飲み込んで黙ったのは、自分への信頼だと継実は受け取った。考えなしに言った訳ではなく、ちゃんとした理屈があると信じてくれたのだ。

 ミドリの期待は間違っていない。継実は思い付きでそんな事を言い出したのではないのだから。それを証明するべく、継実は自分が見たものについて語る。

 

「……惑星ネガティブなんだけど、私ら五人分の演算力を費やしても解析が出来なかった。最初はすごい能力で隠れているとか、消滅させる力で反射とかがなくなってるのかと思ったんだけど、それでも説明が付かない」

 

 エネルギー保存の法則。それがこの宇宙にある限り、物質が消えたとしても観測不能には陥らない。強烈な重力により何もかも内部に取り込むブラックホールさえも、その『過程』でエネルギーを発してしまうのだから。

 そして仮にブラックホールが何も吸い込んでいなくても、(人類文明で作り出されたどんなものよりも優れているという前提は必要だが)精密な機器があれば観測は可能だ。何故ならブラックホールは『蒸発』し、その際にもエネルギーを放出するからである。

 ……ここで少し、話を変える。

 何故ブラックホールは蒸発という形でエネルギーを放射するのか? そこには量子ゆらぎ ― 端的に言えば無から物質(粒子)が生まれ、そして消える現象。量子力学で提唱されていた理論だ ― が関わる。ブラックホールは重力により物質を内側に引き込み、空間を捻じ曲げる事で光さえも逃さない。しかしその重力が及ぶ、丁度境界線で量子ゆらぎ……無から粒子と反粒子の生成が起きたとしよう。

 量子ゆらぎ自体はそこら中の空間で起きている。あらゆる場所で無から粒子が生まれ、けれども同時に生まれた反粒子と対消滅を起こして消えるため観測は出来ない。それが普通の空間で起きている事だ。当然ブラックホールの内外でもこれが起きているのだが……ブラックホールの重力の境界線でこれが起き、更に粒子が重力の影響範囲外、反粒子が影響範囲内に生まれると――――反粒子だけがブラックホールに取り込まれてしまう。そしてブラックホールの粒子と反応して消滅。結果的に外に物質が飛び出すような形となり、ブラックホールは小さくなる(蒸発する)のだ。これはホーキング放射と呼ばれるもので、あくまでも理論上の話だが、筋の通った『予言』である。

 つまり量子ゆらぎがある限り、物質を取り込むという方法ですらエネルギーは外に漏れ出ていく。

 ここで話を戻す。どうすればネガティブはエネルギーを一切外に出さずに、触れた物質をこの世から消せるのか? 発想を逆転させれば答えは出てくる。

 

「ネガティブそのものが、()()()()()()()()()()()()であるなら?」

 

「……! まさか、そんな……!」

 

 継実の告げた言葉に、花中が立ち上がる。だが反論は出ない。出せない。

 人間達の演算力を束ねた継実が、確認していない訳がないと気付いたのだろう。その通りだ。継実はしかと観測している。五人のミュータントの演算力を束ねた事で、百万キロ彼方の量子ゆらぎを捉える事が可能となったのだから。

 

「ネガティブと外界の境界線を観測したところ、量子ゆらぎがなかった……少ないとかじゃない。全く、ゆらぎはなかった」

 

「量子ゆらぎが、全くない。確かに、考え難い、事ですね」

 

「ふぅん。それは中々興味深いかも」

 

「そーですかねー? 量子ゆらぎが何かは全然知りませんけど単にあなたが見落としてるだけなんじゃないですか? もしくは偶々とか」

 

 継実の説明を聞いて、アイハムやミリオンは納得したが、フィアから指摘が入る。量子ゆらぎが何か知らないなら黙れよ、とヤマトや晴海が視線で語り、継実も同じ事を思わなくはなかったが……指摘そのものは悪くない。

 量子ゆらぎは確率的に生じるもの。基本的には空間全体が沸騰しているかの如く無数に起きているが、偏りがない訳ではない。例えば極端な偏りの一例として、宇宙の誕生が挙げられる。ならば逆に無の瞬間が生じる事も、極々稀にはあるだろう。

 しかしその可能性はちゃんと検証した。

 

「五分以上観測したから、偶々って事はまずあり得ない。また見落としがない事も長時間の観測で確認してるし、ネガティブから一定範囲から離れた場所ではちゃんと量子ゆらぎが確認出来ている。それと何より……」

 

「何より?」

 

「惑星ネガティブが通過した後の場所で、量子ゆらぎを観測出来なかった。アイツが通った後は、まるで足跡のようにゆらぎが消えている」

 

 さながら、量子ゆらぎを喰い尽くしたかのように。

 継実がその事実を告げると、フィアは「ふーん」と間の抜けた返事を返す。恐らく彼女は何も理解していない。話が難しかった、というよりも単純にさして興味もなかったのだろう。二歳児のカミールを膝の上で遊ばせているモモ、それにヤマトやアイハム、清夏と晴海と加奈子もキョトンとしていて、あまりよく分かっていない様子だ。

 だが、花中とミリオン、そしてミドリは違う。彼女達は継実の観測した結果の意味を理解していた。故に誰もが表情を強張らせる……ネガティブの『正体』をも理解したがために。

 

「……物質を、単純に消滅させてる訳じゃない」

 

「そうね。単純な消滅じゃ、どうやってもエネルギーが出てきてしまうわ」

 

「だけど、なんらかの方法で、エネルギーを、吸い取ってる訳でもない。それをしているなら、力の境界線で、ホーキング放射が、観測出来ます」

 

「そして量子ゆらぎそのものの消滅。ただそこにあるものを消しただけじゃあ、そうはならない。だって量子ゆらぎは確率によって生じるものだから」

 

 花中とミリオンは次々と『推論』を述べていく。継実が語った話から真実を導くために。

 そう。ただ存在を消すだけでは、吸収するだけでは、エネルギーや量子ゆらぎの消失は起こらない。いや、そもそもネガティブに物質を消滅させる力があると考えたのが間違いなのだ。エネルギー保存の法則がある限り、どんな力を用いようともエネルギーを消す事など出来ない。燃やそうが破壊しようが分解しようが、力を加える以上プラスにはなれどゼロにはならないのだから。

 しかし反粒子のようなマイナス()の力をぶつけるのも駄目だ。その方法は所謂対消滅と呼ばれるもので、生じた際には質量全てがエネルギーへと変わり、莫大な力が放出されてしまう。そもそも物質の世界に『マイナス』など存在しない。マイナス云々は人間が理解するために勝手に付けた呼び名。合わせれば、その分全てが加算されるだけである。

 マイナスがない世界で、対象をゼロにするにはどうすれば良いのか? 常識に囚われず、簡単に考えれば答えはすぐに出てくる。プラスをゼロにする方法は一つだけ……()()()()()()()()()

 それこそがネガティブの正体。

 そしてミドリも気付く。どのような結論に至るのかを。

 

「まさか、存在そのものが……ゼロ? 触れたものをゼロにする存在……!?」

 

 だから彼女は、結論を言葉に出来た。

 正でもない。負でもない。存在するだけでゼロにするものは、ゼロの力を持ったものだけ。それは物質に溢れたこの世界において、世界そのものを『否定』する事に他ならない。

 世界を否定する力の集合体、或いはそれを生み出すもの……それこそがネガティブの正体なのだ。

 

「成程ね。全てをゼロに還す存在とは実にSFチック、いや、これはむしろオカルトかしら?」

 

「……量子ゆらぎの力を引き出し、さながら小さな宇宙を創るように、無尽蔵の力を生み出して使うのが、わたし達ミュータント。それが、進化で得たものなら、宇宙の何処かで、反対の性質を持つ生物が現れても、不自然ではありませんね」

 

「ネガティブに触れたら消える理由、あたし達ミュータントが触れられる理由も、対になるような存在だからですか……」

 

 触れた物質が消えるのは、触れたものをゼロに変えてしまうから。正だった筈の存在がゼロまで()()()()()事で消えてしまった。

 対してミュータントがネガティブに触れるのは、常に量子ゆらぎから力を引き出し、通常ではあり得ない大きさの存在を()()()()()()()()から。足し算を続ければ何度ゼロを掛けられても、プラスを維持出来るという訳だ。常に能力の支配下にあるフィアの水は量子ゆらぎの力を纏うがためにネガティブを叩き潰せるが、継実達が撃つ粒子ビームは能力から離れるがために普通の物質と変わらず消されてしまう。

 そして量子ゆらぎ。どんな空間も沸騰するように常に粒子を生み出し、消えているものだが……ネガティブの通過によりこれがゼロにされてしまった。起伏のない領域へと変えられてしまったのだ。

 強烈な攻撃を受けたり、ダメージが蓄積したりするとネガティブが霧散して消えるのは、受けた力を打ち消しきれず、ゼロだった存在が有限の値まで傾いてしまったのが原因だろう。仲間と触れ合う事でダメージが癒えたのは、仲間が生み出すゼロの力により、正に傾こうとしている状態をゼロに引き戻せるから。靄のように輪郭がなくて変幻自在なのは、ゼロの存在であって物質もエネルギーもない、存在しない存在であるから。

 ネガティブを『ゼロ』の存在だと考えれば、様々な事柄が説明出来る。

 

「ま、なんでそんな奴がわざわざ地球に来てるのかは、流石に分からないけどね」

 

 勿論継実が言うように、残っている謎もあるが……それでもかなり多くの事が分かった。消滅させる力などという誤認もなくなり、正確さも増している。

 そして惑星ネガティブがどんな存在であるかも、しっかり把握した。

 

「で? そんなゼロの存在をどうするの?」

 

 把握したがために、継実はミリオンからのこの質問に目を逸らす。

 常にゼロの力を生じさせているネガティブを倒すには、プラスの力であるミュータント能力を纏った一撃……肉弾戦を叩き込んで、存在をプラスに傾けなければならない。粒子ビームなどの遠隔攻撃では駄目だ。

 つまり惑星ネガティブに直接乗り込まねばならない。

 しかしどうやって乗り込めというのか。その気になれば継実自身は宇宙空間まで行けると思うが、ネガティブ側から接近する事を考慮しても遭遇は約十五時間半後。飛び続ければその分疲れるし、十五時間も飲まず食わずではお腹が空いてしまう。そんなへろへろ状態でどうやって戦えというのか。

 現実的な到着時間でいえば一時間以内が理想だが、その時惑星ネガティブは地上九千キロ地点に位置する。秒速十五キロの惑星ネガティブであれば、この距離など十分経たずに通過だ。流石に惑星サイズの敵をその短時間で破壊し尽くすのは無理である。いや、そもそも大きさが桁違いなのだから、まともにやり合って勝てる相手ではない。

 一応、手がない訳ではないが……

 

「……観測した印象だけど、ネガティブがゼロの力を生み出すのは身体全体みたい。だから普通なら弱点なんてないけど、惑星ネガティブはちょっと違う。あまりに大き過ぎて、生じさせているゼロの力が場所ごとに結構ムラがある感じ。これ、そのままだと形が保てなくて、崩れると思うんだよね。だから何処かで制御している核がある筈で、その場所は中心部が最適。だからそこを壊せば……」

 

「バランスが保てなくなって自壊する、と。なんだちゃんと対抗策があるじゃない。黙っちゃうから何もないと思っちゃったわ」

 

 撃退方法を口にすれば、ミリオンはそれで納得したように語る。

 

「つまり、誰かがネガティブ内部に突入。直接攻撃をお見舞いして、中心部をぐっちゃぐちゃに潰す。そうすればネガティブは自壊してめでたしめでたし。うん、分かりやすくて良いわね」

 

 そして継実に代わって、撃退作戦を話してしまう。

 場にいた誰もが、どよめいた。されどそのどよめきは悪いものではない。希望を見出し、喜びを滲ませたどよめき。誰もがその作戦に納得する。誰もが期待する。

 ただ一人、作戦を言葉にした継実だけが表情を暗くした。

 ミリオンは継実のそんな顔に気付いただろう。気付いた上で、気にした素振りもない。まるでその心境の全てを理解したように。

 

「で、その作戦が出来る面子は限られる。まず、宇宙空間で空を飛べる子。この時点で該当者は二人だけ……はなちゃんとアリスちゃんだけね」

 

「え? 私は? 継実が行くなら私も行きたいんだけど」

 

「わんちゃんは宇宙空間じゃ息が出来ないでしょ。死ぬだけよ。私はそもそも呼吸してないから宇宙空間でも平気だけど、空気を加熱して推進力にしてるから真空中だと自力じゃ進めない。他はそもそも空を飛べない」

 

「うーん。でも大桐さん、肉弾戦が苦手なんですよね? ネガティブ相手だと危険なんじゃ……」

 

 ミドリの意見にミリオンは「そうねぇ」と肯定を返す。消去法でもう一人が削られれば、残るは一人だけ。

 

「つまり、アリスちゃんだけが頼りになるわね」

 

 ミリオンはその事実を告げる事に、なんの迷いもない。

 更に場がざわめく。しかし不安がるような様子はなく、皆はしばしざわめきを交わし合うと、その視線を継実に向けてきた。

 やってくれるか、という気持ちがひしひしと伝わってくる。

 

「……………」

 

 継実は頷いた。場の空気に流されたのではなく、自分の意志による動きだ。

 返事をすれば、村の全員から応援の声が上がる。誰もが気合いに満ちる。誰もが、この作戦でいこうと納得する。

 ただ一人、継実だけが狼狽えた。

 命を賭ける事は怖くない。旅の中で、日々の暮らしの中で何度も何度も命を賭けてきたし、難ならほぼ死んでいるような状態に自らなる事もあった。死は、怖くない。だからあの時、自分の意志で頷いたのだ。

 だけど――――

 心から湧き出した言葉。それを伝えようと継実は口を開けた

 

「……よしっ」

 

 が、その前に、まるで場の空気を断ち切るように花中がぱちんっと手を叩く。

 小さな拍手だったが、全員がその意識を花中に向けた。一斉に見つめられた花中は、ニコニコと微笑んでちょっと楽しげな様子。

 

「そろそろ、お昼の時間ですし、ご飯にしましょう……盛大に、明日の戦いに備えた、パーティーも兼ねて!」

 

 そして突然、少し空気を読まない発言をしてくる始末。

 けれどもミュータント達の腹がぐるると鳴き出したものだから、誰の口からも反論は出てこないのだった。



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賑やかな星04

 村中心の広間にて。ずらりと並べられた、肉の数々が存在感を放っていた。

 肉の種類は多彩だ。アザラシ肉、干物にしたペンギン肉、発酵させた魚、お刺身……野菜こそないため彩りは良くないが、しかしどれもタンパク質が豊富な食事。動物の身体に活力を与えてくれる、豪勢な食事だ。

 更に量もどっさりとした大盛り。普段の食事量で全員が食べれば、相当な分がお残しとなるだろう。しかしその心配はいらない。

 テンションを上げていけば、このぐらいの食事は食べられる筈だ。食欲旺盛なミュータントであるならば、尚更なんの問題もなく。

 

「という訳で……地球を救う、前祝いです! かんぱーい!」

 

「「「かんぱーい!」」」

 

 花中の音頭に合わせ、村に暮らすほぼ全員が乾杯を行った。

 ガラスのコップに入った飲み物を口にする者、並べられた肉を次々に頬張るもの、食事は後にしてお喋りを行うもの……やる事は様々だし、特に決まりはない。強いて言うなら、みんなが笑顔を浮かべている。悲壮に暮れたり、怒ったり、苛立ったりする輩はいない。座り込んだ楽な姿勢でわいわいと騒ぐ姿は、正に宴会だろう。

 皆が花中の宣言により始まった、『地球を救う前祝い』を楽しんでいる。

 唯一の例外は――――継実だけだった。

 

「……………」

 

「やほー。楽しんでるー?」

 

「あーれれー? 元気ないですねー」

 

 口を閉ざした継実がぼんやりとコップの中の液体を眺めていると、モモとミドリがやってきた。

 

「すいません。わたしも相席、してもよろしい、でしょうか」

 

 そして花中も。

 家族二人と花中が、継実を挟むような形で座る。逃げたいと思った訳ではないが、逃げられないと悟った継実は小さな息を吐いた。それから、モモ達の顔を見遣る。

 尤も継実の方から話そうとする事はなく、会話を切り出したのはモモからだった。

 

「どしたのよ継実。元気ないじゃない」

 

「……そりゃまぁ、ねぇ」

 

「ねぇって何よ」

 

 言わなきゃ分からない。言外にそう伝えられ、継実はため息一つ。

 されどモモの言う通りだ。戦いの時ではアイコンタクト一つで全てを察し合えるが、それは戦いが本能と合理性のみで行われるからに過ぎない。今の継実に元気がない……『不機嫌』なのは感情的な理由。理屈のない想いが、他人に勝手に伝わる訳がないのだ。

 気持ちを少し落ち着かせてから、継実はぽそぽそと話し始めた。

 

「……惑星ネガティブの倒し方、私が考えたじゃん」

 

「ん? そーね、継実が考えたわね」

 

「凄いです継実さん! あたし達の種族が文明の総力を結集しても何一つ分からなかった存在を、ついにその正体を突き止めて、具体的な倒し方を見付けたんですから!」

 

 モモは事実を淡々と言葉にし、ミドリは大喜び。モモからすれば事実確認でしかないし、故郷を滅ぼされたミドリからすれば真実に近付くのは喜ばしい事。二人がそんな反応をするのは当然だ。

 当然の事なのに、継実は目を背けてしまう。

 

「う、うん……でも、その……そのためには誰かが惑星ネガティブに突入しないといけない」

 

「そうね」

 

「飛んでいく距離を考えれば、相当接近してから。しかも長く見積もっても十分以内に終わらせないといけない」

 

「そう、ですね。そういう話だと思っています」

 

 ぽつぽつと語れども、モモとミドリは同意するだけ。

 継実は胸の奥に、強い衝撃が込み上がってくるのを感じた。何時もなら、抑える事は難しくない。けれども今の継実は少しばかり余裕がなくて、つい、語気にその衝動が滲んでしまう。

 

「こんなの、成功する訳ないじゃない……! あのネガティブ相手に、しかも星みたいに巨大な奴を十分以内に倒すなんて、どう考えても無理じゃない!」

 

「えー? そうかしら?」

 

「……まぁ、難しいとは思います。相手の実力差を思えば。でも可能性はゼロじゃないですし、他の手もない訳で」

 

「そう、だけど……でも……!」

 

 ぶつぶつと、言葉にならない感情を口ずさむ。その声はモモ達にも聞こえただろうが、しかしこてんと首を傾げるだけ。

 

「……プレッシャーを、感じていたり、しますか?」

 

 継実の感情を理解してくれたのは、純粋な人間である花中だけだった。

 継実は口を閉じたまま、こくり、と頷く。するとモモやミドリは驚いたように身動ぎした。

 

「え。継実、プレッシャーなんて感じるの?」

 

「何さその言い方。まるで私がプレッシャーなんて感じない能天気みたいな言い方して」

 

「いや、だって継実さん、命懸けの作戦とかハッタリとか平気でやるじゃないですか。だからあたしもてっきり、そーいうの全然大丈夫なタイプかと思っていたのですが」

 

 驚く二人に反論すれば、ミドリからそんな意見が出てくる。

 自分の命を平気で投げ出す奴が、プレッシャーなんて感じる訳ない。成程、ある意味その考えは正しいだろう。確かに継実はこれまでの生活で、プレッシャーに押し潰されるようなところは見せていない。

 しかしそれは見せる時がなかっただけだ。この過酷な自然界に適応した結果。だから適応の必要がなかったところは七年前の、小学生だった頃と変わりない。

 例えば、『世界』の命運を左右する時の責任感。

 

「自分の命を賭けるだけなら、こんな不安になったりしない。こう言うのも難だけど、自分が死ぬのはもう受け入れているから」

 

 生き物や災害に襲われたとしても、大人しく死ぬつもりは微塵もない。それが生命としての性であるがために。けれども殺される事に、恨みや嫌悪感があるかといえば……実はそうでもない。

 何故なら相手は『自然』だから。殺される事も殺す事も、全てが許容される世界。誰もが生きるために動いていて、その結果として命の奪い合いをしているだけに過ぎない。自分は誰かを殺すけど、相手は自分を殺してはいけないなんて、それこそ傲慢というものだ。

 ネガティブ相手でも同じである。ネガティブに殺される事は別に構わない。ネガティブを殺す事も、別に責任感なんて感じない。惑星ネガティブを殺す事への罪悪感、それに失敗して殺される恐怖もなかった。

 だけど、自分が殺された後……地球が終わるとなると、奥底に眠っていた人間的な感情が呼び起こされる。

 

「失敗したら、地球そのものがなくなる。私の考えた作戦が間違っていたら、私が負けたら、私の所為で地球がなくなっちゃう。そう思ったら……」

 

「何よそれ。くっだらない悩みねぇ」

 

 正直に明かしたところ、モモはその悩みをバッサリと切り捨てた。あまりにも容赦ない切り捨てに、ミドリがわたふたし始める。ミドリの方は、多少なりと継実に共感するところがあるのだ。

 ただ、ミドリに共感された継実本人は、モモの意見に同意しているのだが。

 そう、こんなのはくだらない悩みだ。誰が継実に地球を救ってくれと頼んだ? 他の地球生命達が何もしてなくて、それで失敗して地球が滅んで、何故挑んだ側が責められる?

 野生生物達はそんな『無駄』で『無意味』な事はしない。危機が迫れば自分で対処するし、誰かに任せるなんて()()()な考えは持たないのだ。いや、そもそも自分が地球を守らねばという発想そのものが傲慢と言うべきか。

 間違っているのは自分の責任感。無意味で感情的な発想に嫌悪が募る。

 本能では分かっているのだが、非合理的な感情がぐるぐると継実の胸の中を渦巻く。自分の命は平気で投げ捨てられるのに、他人の命が関わった時点でこの体たらくだ。これが他人事なら人間味があるとも言えるが、自分事だとひたすらに情けない。

 

「……わたし的には、悪い考えでは、ないと思いますけどね」

 

 そこにフォローを入れてくれたのは、花中だった。

 

「まぁ、モモさんの言い分も、分かります……というより、モモさんの方が、正しいですし。責任なんて、人間が勝手に作った言葉です。昔は、わたしもよく悩んだものです。今じゃ、吹っ切れましたけど」

 

「……それ、吹っ切れるぐらい地球救ってる訳って話?」

 

「うーん。地球を救ったのは、二回ぐらいですかね。人類は、結構ありますけど」

 

 けらけらと、人類や地球の救済を大した事ではないように語る花中。つまり文明崩壊前、七年以上前から花中は色々な事件を経験してきたらしい。

 一体どんか人生を歩んできたの? とも思う継実だが、花中が何をしてきたか分からぬ以上、何も言えない。加えて、そこは本題ではないところだ。花中の話はまだ終わっていない。

 

「なので、わたしから気にするな、とは言えませんが……気持ちを、楽にする言葉なら、伝えられます」

 

「気持ちを楽にする? 精神論でも教えてくれるの?」

 

「いえ、もう少し具体的な事を二つ」

 

 花中はそう言うと指を二本立てた。それからすぐに一本を折る。

 

「まず、その作戦にはわたしとフィアちゃんも、参加します」

 

「えっ!? いや、でも花中は兎も角フィアは……」

 

「フィアちゃんの、身体は、水で出来ています。その中に溶け込んでいる、酸素がある限り、宇宙でも平気です。フィアちゃんが、言うには、五時間ぐらいは余裕、だとか。わたしが運べば、宇宙には行けますし」

 

「えー、ずるーい」

 

 フィアが行けると知るや、モモからそんな抗議が。ズルくはないでしょ、とツッコミたくなる継実だが、犬的には家族と一緒に行ける時点でズルいのだろう。継実が頭を撫でてやると、不機嫌そうに鼻を鳴らしながらモモは尻尾をぶん回す。

 愛犬モモの可愛らしさを見せ付けられた花中は、ほんわかと微笑む。とはいえ今はまだ話の途中。どんなミュータントの攻撃よりも恐ろしい誘惑を振り払うように、モモから目を逸らした花中は、残っていたもう一本の指を折った。

 

「そして二つ目は、制限時間は、十分ではありません。もっと長く、確保出来ます」

 

 そうして告げてきた言葉は、モモを撫でていた継実の手を止めさせる。

 継実が計算した、惑星ネガティブの攻略に当てられる時間は十分以内。これはネガティブと戦うための体力を残せる飛行時間から算出した距離を、惑星ネガティブが通過するまでの時間だ。これより時間を伸ばそうと思えば、その分飛行時間を伸ばして、より地球から遠くで接触しなければならない。そうなれば到着までに体力を消費し、苦しい戦いとなるのは明白だ。

 それが分からぬ花中ではあるまい。なら、どうやって作戦時間を伸ばすのか。確保出来る、という言い方からして、こちら側が何か働き掛けるように思えたが……

 頭を満たす疑問が、継実の眉を顰めさせた。すると花中はくすりと笑みを浮かべる。次いで彼女の親友であるフィアを彷彿とさせるほど、自慢気に胸を張った。

 

「実はわたしの友達に、それが出来そうな、子がいます。あの方なら、相当、長い間持ち堪える、かと」

 

「……そんなに強いの? だって、星みたいに大きなネガティブだよ?」

 

「ええ。ですから、何処まで持つかは分かりませんが……ニ時間は、間違いなく、耐えます。いや、真っ向勝負で、相手の方を、破壊するかも」

 

「ちょ……星規模のネガティブを倒せるの?」

 

「相手の実力が未知数、なので、確かな事は言えませんが、あの方なら、やってもおかしくない、ですね」

 

 さも普通の事であるかのように語る花中。しかし継実は(ついでにミドリも)口をあんぐりと開いてしまった。月規模の星を真っ向勝負で破壊する。一体何処の戦闘民族だ? と思わず訊き返したくなってしまう。

 しかし思えば継実自身、やろうと思えば小さな衛星ぐらいなら壊せる気がした。それにニューギニア島で出会った大蛇は、フルパワーを出せば月どころか地球も危うい力がある。言葉にしてこなかっただけで、この地球上では星の命運など日々左右されているのだ。

 つまり、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 ――――その事実は、継実の心を一気に軽くした。もしも座った体勢でいなかったら、きっと腰砕けになってしまっただろう。 更に腹の底からくつくつと、笑いが湧き出してくる。堪えきれなくて、口からついに漏れ出してきた。

 そうだ、一体何を思い上がっていたのか。()()()()()()()()世界を、地球を守ろうなんておこがましいにも程がある。人間なんて怪物が一種類暴れただけで生活の基盤である文明を失い、例え超越的な生命になろうとたった一人ではゴミムシにすら勝てない種族に過ぎないのに。

 気負う事自体が傲慢だと思えば、随分と気持ちが楽になった。

 

「そんな訳なので、最悪、何もしなくても、多分なんとかなるかも、知れません。でも、あのサイズの敵との、戦いなら、あの方も本気を出す、かと。そうなればで、相当の被害が出ます。それこそ、大量絶滅規模の」

 

「ああ、うん。それは、そうなるだろうね。怪獣大決戦より派手なドンパチだろうし」

 

「その通りです。加えて相手の実力が、未知数ですから、必ず勝てるとは、限りません。わたし達で、弱らせられるなら、出来るだけ弱らせた方が、良いのは、間違いありません」

 

「そうだね。それも当然だね……うん」

 

 気負う必要はない。けれどもやる事に意味がない訳ではない。その『正しい』認識が継実に勇気を与えてくれた。

 これなら、明日の朝に戦える。

 そして明日の戦いは、それこそ大きな危険を伴うもの。旅の中で経験したものを大きく上回る、史上最大のピンチになるかも知れない。命を失う事も十分にあり得る話だ。

 ならば今、作戦前のパーティーを楽しまない理由などない。

 

「よーし、明日への気合いを入れるため、乾杯だぁ!」

 

「「「かんぱーい!」」」

 

 昂ぶる感情のまま音頭を取る継実。モモ、ミドリ、花中の三人はそれに応え、継実が持つコップに自分のコップをぶつけ合う。確かめる親交、ポジティブな精神。

 きっと大丈夫。なんの根拠もないがそんな気持ちが胸から込み上がった継実は、コップの中の液体を一気に飲み干して

 

「ごふっ」

 

 倒れた。後頭部を地面に叩き付けるように、受け身すらも取らずに。

 突然の転倒に、傍に居たモモ達のみならず、少し離れた位置にいるヤマトや清夏達の視線も集める。しかしそんな視線を集める中で、これまでの野生生活で散々視線を察知してきた継実はぴくりとも反応しない。

 

「……ぐぅ。すぴー」

 

 挙句、寝息まで立てる始末。

 

「……これは、もしかすると」

 

「いや、もしかも何も」

 

「それしかないんじゃないですか?」 

 

 真面目ぶった花中の物言いに、モモとミドリがツッコミを入れる。てへっと言わんばかりに舌を出した花中は、継実がその手に握り締めているコップを掴み、中に残っている液体の匂いを嗅ぐ。

 

「ちょっとー、有栖川さんのコップに、お酒入れたの誰ですかー」

 

 そして彼女を酔い潰した元凶の調査を始めた。

 その後推理合戦が始まり、モモとミドリの探偵ごっこが繰り広げられるのだが、既に寝息を立てている継実がその一部始終を知る事はないのだった。



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賑やかな星05

「……ぎもぢわるぃ」

 

 継実が呻く。

 顔は真っ青、身体はぷるぷると震える有り様。お世辞にも健康とは言い難い。

 頭上には朝の清々しい星空が広がっているのに、こうも気分が悪くては楽しむ事など出来やしない。いや、それだけならまだ良いのだが、この後重大な『仕事』がある。しかも地球の命運を左右するかも知れない、人生最大の大仕事だ。

 こんな時に体調を崩すなんて、なんとも申し訳ない……と言いたいところだが、此度は違う。

 元凶がいるのだ。酒という名の元凶が。

 

「つーか私、昨日のパーティーの間ずっと寝てた訳? え、何時間寝てたの? え?」

 

「なんつーか……継実、ちょっとお酒に弱過ぎない?」

 

「あたしは普通に飲んでますし、モモさんもコップ半分ぐらいなら平気なのに、継実さん一口でノックダウンされてますもんね」

 

 記憶の喪失という一大事の真っ只中にいる……そう訴えてみたが、家族二名からの反応は冷たい。気遣いすらなく、それどころか少し責められる有り様。

 私、不可抗力で未成年飲酒させられたんだけどなんで怒られてるの? これがアルハラか――――等と思えども、文明が崩壊すれば法もモラルもありはしない。弱者は容赦なく踏み潰される自然界では、酔い潰れる方が悪いのだ。

 

「いやー、ごめんね。わたしのお酒でここまで悪酔いするとは思わなくて」

 

 むしろ目の前に酒の造り手こと清夏が現れて、謝罪しながら飲み物の入ったコップを渡してくるだけマシというものだろう。

 

「謝らないでください、御酒さん……御酒さんのお酒が悪い訳じゃないのですから」

 

「ううん、わたしの所為よ。この前飲んだ時に酔い潰れていたから、昨日は実験がてら酔い難いように作った一品を飲ませたのに、まさか逆に即効で潰れるなんて。反省して、次は花中とかで実験してから飲ませるわね!」

 

「飲ませる前に許可取ってからにしてください」

 

 果たして本当にマシなのか? 反省してるのかしてないのか、いまいち分からない清夏の態度だが、それは彼女が酒に並々ならぬ情熱があるからなのだろう。

 そう考えながら継実は、渡されたコップの中の水を口に含む。

 ……正確にはコップの中身は水ではなく、透明な酒だったが。

 

「ぶふぅーっ!? これもお酒じゃん!?」

 

「え? 二日酔いには迎え酒でしょ? うちのお父さんはそれで何時も治していたわよ、わたしも今日それで治してきたし」

 

「それはアルコールの所為で中枢神経が麻痺してるだけで、痛覚が鈍ってるだけです!」

 

 酔い醒ましとして最悪な方法を施され、息を乱すほどの声でツッコむ継実。しかし清夏はキョトンとしていて、割と本心からの気遣いで迎え酒をしてきたらしい。

 確かに頭痛と吐き気は一口で大分マシになった……つまり口に含むだけで酔ってる……が、迎え酒は症状の先送りでしかない(二日酔いはアルコール分解後のアセトアルデヒドが残っているため起きる。当然迎え酒のアルコールもやがてアセトアルデヒドに分解される)ので全く意味がないのだ。

 

「はーい、調子はどう……って訊くまでもなさそうね」

 

「あなたお酒に対して弱過ぎません? 戦うのも大して強くないのに毒にも弱いとか良いとこないですね」

 

「ちょ、フィアちゃん……!?」

 

 そうこうしていると、ミリオン・フィア・花中の三人が集まってきた。

 別段酒に強い方が偉い、なんて前時代的な意見を言うつもりは継実にもない。しかし酔い潰れた、情けない姿を見られたと思うと、ちょっと恥ずかしい気持ちが込み上がる。

 勿論どれだけ恥ずかしくても、二日酔いは治ってくれない。不服ながら迎え酒によりマシになったもののまだまだ酔いは残っているし、この迎え酒もいずれアセトアルデヒドに変化して悪酔いを引き起こす。これをどうにかしなければ、丸一日体調不良のまま過ごさねばならないかも知れない。

 流石にそれは不味いと継実が思っていると、花中が背中を擦ってくれた。するとどうした事か、みるみる体調が良くなっていく。あっという間に頭痛も吐き気も治まり、しゃっきりと背筋を伸ばせる。

 

「……アセトアルデヒドの、分解は、出来ました。これで、大分良くなったのでは、ありませんか?」

 

 花中からそんな言葉が掛けられる。彼女の言う通り、今の継実の気分や体調はかなり良い。

 花中のお陰でようやく本調子になった。勿論感謝はしているのだが、如何せん自力で毒素の分解が出来なかったのが原因。何事も個人差があるものだから恥ずかしがる必要はないだろうが、それでも照れて継実は頭をポリポリと掻いてしまう。

 締まらない。あまりにも締まりがない。幸先が悪いにも程があるドタバタぶりに、こんな調子で地球を守れるのかと思わなくもない。

 しかし気持ちを落ち着ければ、こんなもので良いのだと思う。地球の命運だのなんだの言ったところで、結局のところ自分が生き延びるための戦いであり、それは何時も繰り広げている野生の闘争と同じもの。今更取り繕う必要などないのだ。

 例え、惑星ネガティブが相手だとしても。

 

「しっかし、随分と大きく見えるようになったわねぇ」

 

「今は地上から大体十万キロ地点ですかね。あと二時間程度で到着するかと」

 

 ミリオンが空を――――村から凡そ十五キロほど離れたこの平地の頭上を仰ぎ、フィアが情報を捕捉する。

 二人が見ている空を、継実も見上げた。

 そこにはぽっかりと、空に穴でも空いたかのような黒い円が浮かんでいる。

 宇宙の色よりもずっと濃い、輪郭すら捉えられない漆黒。今や肉眼で見えるサイズは二センチほどと月の四倍程度の直径になり、ミュータントの観測能力でなくとも視認は容易だ。そしてそれは刻々と、少しずつだが見た目の大きさを増している。

 惑星ネガティブは着々と接近していた。昨日フィアが予測した通り、今日の朝から昼に掛けて……あと二時間程度で到着するだろう。到着とはつまり地上との激突だ。

 それを防ぐための作戦がこれから始まる。

 

「……小田さんと立花さん、アイハムさんとカミールくん、それとヤマトくん。皆さん、村で待機しています。何かあっても、きっと、力を合わせて、なんとかしてくれる筈です」

 

「憂いがなくなったなら、作戦の確認をするわよ」

 

 『普通の人間』である晴海と加奈子の安全が確保されている事を、言葉で語る花中。精神的準備が終わったところを見定めてからミリオンが話し始める。

 惑星ネガティブ撃破作戦は実にシンプル。生身で宇宙空間を飛べる継実と花中、そして生きていけるフィアの三人で惑星ネガティブへと乗り込む。乗り込んだ後はゼロにする力を潜り抜けて前進。中心部に到達次第三人で暴れ回り、惑星ネガティブのバランスを崩して崩壊させる。ちなみにモモやミドリ達は『見送り』のために来ているだけで、惑星ネガティブ攻略に直接関わりはしない。

 崩壊後の脱出は重力に引かれる形での落下。普通の生物なら大気圏突入時の熱で燃え尽きるところだが、ミュータントである三人にとっては問題ない。受けたダメージ次第ではあるが、地球には難なく降下出来るだろう。

 突入から作戦終了まで、ちゃんと考えている。ネガティブ自体に謎が多いので詳細は詰められないが、事前の計画としては悪くないものだ。

 

「で、作戦開始は()()()が惑星ネガティブを止めたタイミング。ところではなちゃん、アイツとは連絡取れたの?」

 

「いえ、全然。向こうからも、音沙汰なし、です」

 

 唯一の欠点が、開始時刻がいまいち判然としないところだった。

 

「……アイツってのがどんな奴か知らないけど、大丈夫なの、それで」

 

「うーん。まぁ、あの方、結構ビビりなので、無視はしないでしょうけど……」

 

 惑星ネガティブを食い止められるのに、ビビりとはどういう事なのだろうか? 正直色々胡散臭いが、花中もミリオンもその正体は教えてくれず。曰く、教えたら余計不信感が募るから、との事。

 なんで正体を秘密にするよりも明かした方が不信に陥るんだよ、と不信感MAXになる継実だったが、花中達の友達なのだから悪いものではないと判断。それにネガティブを止められるなら誰でも良いとも考え、これ以上の追求はしなかった。

 

「なんにせよ、あともう少しで作戦開始ね。私達はリラックスして、少しでも調子を万全のものにしておきましょ」

 

「あ。んじゃわたしはそろそろ村に帰るわ。わたし、戦闘能力殆どないし」

 

 ミリオンの言葉を受けて、清夏が村に帰ろうとする。

 「アンタ私にお酒飲ませた以外になんかした?」と心の奥底で思う継実だったが、思うだけで言わないでおく。ミリオンが言うように間もなく作戦が始まる。戦う力がない彼女は安全な村に戻るべきだ。

 

「おっと待ちなさい」

 

 ところがどうした事か。フィアが清夏の首根っこを押さえ、帰るのを邪魔したではないか。

 突然のフィアの行動に、継実やモモは驚きで目を見開く。尤も、一番驚いたのは間違いなく清夏自身であろうが。

 

「ちょ、いきなり何? わたしなんか捕まえて」

 

「戦いが始まるんですから勝手に離れるんじゃありません」

 

「はぁ? いや、何を言ってんのよ。戦いが始まるから離れる訳で……」

 

 ぺらぺらと理由を語るフィアだが、それは今までの話の流れを無視するもの。

 何時ものように話を聞いていなかったのだろうか? 継実はそう思ったが、しかし一番フィアと親しい花中が難しい顔をしている。

 花中は何か、違和感を覚えたらしい。その違和感の正体は、継実が質問するよりも前に明らかとなった。

 

「そろそろ私達と同じぐらいの大きさの奴が幾つか空から降りてきます。逃げるぐらいなら花中さんの盾にでもなりなさい」

 

 フィアがそんな事を言い出す事で。

 一瞬、場の空気が固まる。ただし本当に一瞬だ。フィア以外の全員が空を見上げた。

 継実の目に映ったのは、無数の黒い球体。

 秒速ニ十キロもの速さで地上に降下している。球体の直径は一メートル前後。まだまだ遠くてプレッシャーを感じるほどではないが、意識を集中させれば力をひしひしと感じ……そんな数々の情報は今更不要だ。継実の目はその正体を即座に見破る。

 ネガティブだ。勿論惑星ネガティブではなく、今まで何度も戦ってきた普通のネガティブ。戦い方も強さも分かっている相手と言えよう。

 しかし継実は冷や汗を流す。

 何故なら、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()からだ。

 

「……ねぇ、フィア。ネガティブの奴、何体ぐらい来そう?」

 

「あん? そうですねぇ……大体三百でしょうか。ああ言うまでもないと思いますが一陣の数です。二陣と三陣はそれぞれその倍はいますよ」

 

 何が言うまでもないのか。自分以外誰一人知らないであろう情報を、フィアは声色一つ変えずに告げてきた。

 第一陣で三百体。第二と第三が仮に六百ずつならば、三つ合わせて合計一千五百体にもなる大群団だ。昨日倒した三十数体なんて、足下にも及ばない。

 惑星ネガティブに挑む前の前座が、継実達の心をへし折りに来ていた。



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賑やかな星06

「フィアちゃん! 第一陣が到着するのは、何時ぐらい!?」

 

 空からネガティブの大群がやってくる。それを聞いた花中が最初に確認したのは、大群到着までの時刻だった。

 花中の声で継実は我に返る。あまりの戦力差に思わず呆けてしまったが、考えてみれば自分達はネガティブを全て倒す必要なんてない。作戦目標はあくまでも惑星ネガティブ。他のネガティブは、こう言うのも難だがただの『お邪魔キャラ』だ。もしも地球到達前に作戦が始められるなら、無視しても問題はない。

 

「んーざっと三分後でしょうかね。二陣は三十三分後、三陣は一時間以上後です」

 

 残念ながらその期待は、あっさりと終わってしまったが。

 惑星ネガティブ突入作戦の具体的時刻は未定だが、ざっと一時間後の予定にしている。つまり第一陣と第二陣は、継実達が作戦を始める前に遭遇してしまう。

 そこまで考えて、継実は一度顔を横に振った。

 悪いように受け取れば、物事はなんでも悪く見えるものだ。前向きに考えてみれば、第三陣がどれだけの大群だろうが、作戦開始予定時刻には地球に到着しない。六百体分はひとまず無視して良いだろう。第二陣についても三十分後以上後の話なので、これもとりあえず後回し。

 問題となるのは三分後に到着する第一陣。

 

「……さかなちゃん。御酒ちゃんは一旦離しなして、村に帰しなさい。戦力的にこっちにいても役に立たないし、万一失ったら今後の村生活の水準が大きく下がるわ。甲殻類の糠漬け、食べられなくなるのは嫌でしょ?」

 

「むぅ。それは困ります。ほれさっさと安全なところに逃げなさい」

 

 ミリオンに説得されると、フィアは殆ど迷いなく清夏を離す。自分の考えが全否定された訳だが、そこに逆ギレしない辺りは流石野生動物と言うべきか。捕まえた事を謝ろうともしないところも。

 『人間』っぽい性格の清夏はそんなフィアに批難の眼差しを送るが、感情的に振る舞っている場合でない事は理解している。彼女はフィアを一瞥しつつ、村に向けて全速力で走り出す。

 清夏の速力は、パッと見で継実が計ったところ秒速五百メートル程度。ミュータントとしては鈍足だか、此処から村までの距離は約十五キロしかない。途中で疲れ果てない限り、三十秒で到着可能だ。村に辿り着くだけでなく、待機しているメンバーにネガティブ襲来を伝える猶予もあるだろう。

 ヤマトとアイハムは肉弾戦特化のタイプ。清夏も一応はミュータントだ。村の守りは万全、とまでは言わないが、思考の脇に置いて良くなった。

 今は、自分達の事だけを考えられる。

 

「……やってくるネガティブ達は、途中で分散したりしてるのかしら?」

 

「んー分散はもうとっくに終わらせてますね。こっちに来るのが一千五百体というだけで他の地域に行くのを数えたら数十万はいそうですよ?」

 

「ああ、もう分散済みなのか……」

 

「フィアちゃん……昔から言ってるけど、情報は出来るだけ、全部、ちゃんと出そうよ……」

 

「? ちゃんと関係ある事は全部話してますよ?」

 

 花中から注意されても、フィアは首を傾げるだけ。彼女的にはちゃんとホウレンソウ(報告連絡相談)をしているつもりらしい。

 これはもう彼女の認知の問題(フナである彼女にとって現時点で自分と関係ない事はどうでも良い考えているのだろう)なので、指摘したからといって直るものではあるまい。花中もそれは理解しているのか、それ以上実績や追求をする事はなかった。したところで意味もないだろうが。

 

「(マジでネガティブの奴等、何十万もいたのか……)」

 

 予想以上の大群団。しかし冷静に考えてみれば、惑星サイズのネガティブがいたのだ。二メートルにもならないような個体が数十万程度なら、むしろ少ないぐらいだろう。

 またネガティブ数十万体がそもそも地球にとって脅威ではない。継実が百万人集まっても勝てそうにない存在が、この星にはいくらでもいるのだ。更に分散した事で、『単位面積当たり』では継実程度の力で十分撃退可能な筈。そして熱帯雨林も砂漠も大海原も、継実が及びも付かない生物がぎっちりひしめいている。この大群団の所為で地球が滅びる事はあるまい。

 問題があるのは自分達側。既に分散済みだという事は、第一陣である三百体のネガティブはそのままずどんとこの地に降りてくる筈だ。つまり継実達は、この場にいるメンバーでネガティブ三百体に対処しなければならない。

 いや、正確に言うなら継実と花中とフィア以外で、なのだが。

 

「ふふーん、私らの出番って訳ね。腕が鳴るわ」

 

「あわあわあわわわ……あ、あたしも、頑張りますけど、あわわわわあわあわ」

 

「はいはい、落ち着きなさい。無理はしなくて良いわよ」

 

 モモが指をぽきぽきと鳴らし、ミドリが顔を青くしながら右往左往。ミリオンはそんなミドリの肩を優しく叩く。

 彼女達は継実達の『見送り』要員。見送りとは単に手を振るだけの役目ではない。作戦開始までの間にネガティブ側がなんらかの妨害をしてきた時、惑星ネガティブに乗り込む継実達の体力を温存するため、その脅威を排除するのが彼女達の役割だ。地上での実働部隊と言っても良いだろう。

 とはいえ何もなければ本当に見送り要員になっていたし、戦うとしても精々数十体のネガティブ程度と継実は見積もっていた。数百体ネガティブが襲来する事態は、継実としては欠片も考慮していない。

 いくらなんでも、この数は……

 

「有栖川さん、大丈夫です」

 

 不安が顔に出ていたのか、花中が声を掛けてきた。

 暗い思考に支配されていた頭が、声掛けのお陰で少しだけ晴れた気分になる。しかし「大丈夫」という言葉の理由が分からない。まさかの精神論か?

 

「……ミリオンさん、インチキなので。色んな意味で」

 

 そう考えていたところでの花中のこの発言。詳しく聞きたい。が、その質問をするだけの暇はもうない。

 空から、強烈なプレッシャーを感じる。

 ネガティブがいよいよ接近してきたのだ。最初は一つだけだが、すぐに二つ三つ四つ……数えきれないほどの気配が、地上にいる継実にもひしひしと伝わるようになる。何百も群れると個々の力は区別し辛くなるが、最初に感じたプレッシャーの大きさからして、昨日戦ったネガティブと同程度の強さだろう。

 モモとミドリも気配を感じ取ったようで、二人とも戦意を(ミドリのは虚勢だろうが)高めていく。かつてない敵に、意識を極限まで張り詰める。

 対してミリオンは冷静そのもの。柔らかな微笑みを浮かべ、身体は力を抜いてリラックスしている。恐怖など微塵も感じていない様子だ。見た目の印象だけで言うなら、ただの人間と見間違えるほど警戒心も闘志も感じられない。

 なのに、継実すら寒気がするほどのパワーを発している。

 

「別に、私はさかなちゃんと違ってそこまで好戦的じゃないけど……偶には運動しないと、健康に悪いわよねぇ?」

 

 語る言葉には、余裕すら感じられた。

 地上の状況がどうであろうと、ネガティブ達の降下は止まらない。三分なんてあっという間に過ぎ去り、やがて継実達の目の前に落ちてきた。

 地震を起こすほどの衝撃により、降り積もっていた雪が白煙のように舞い上がる。継実達の視界は遮られ、向こう側の景色は何一つ見えない。しかし白煙の中をゆらりと黒い影が動いた

 

【イギギギロロロロォォォォォォ!】

 

 瞬間、真っ黒な人型の存在――――ネガティブが飛び出す!

 それも一体だけではない。二体、三体、四体……最終的に六体も現れる。

 数的にはこの時点で互角。しかし継実達三人が体力温存のため戦う訳にいかない事を思えば、モモとミドリとミリオンの三人でこれに対処しなければならない。単純計算でニ倍の戦力差だ。フィアが同時に三十体を相手にしたとはいえ、決して楽な相手ではない。

 等と考えていたのは継実だけか。

 

「あら、先に進ませないわよ」

 

 ()()()()()()ネガティブの傍まで来ていたミリオンは、軽い言葉と共にネガティブの一体へと腕を伸ばす。決して素早いとは言い難い、むしろネガティブ側の方が機敏に見える動きだが、ネガティブは躱すつもりがないらしい。ネガティブ側からも腕を伸ばし、ミリオンに掴み掛かろうとする。

 ところがネガティブの手は、掴もうとしたミリオンの腕を()()()()()

 予期せぬ出来事だったのだろう。ネガティブは一瞬キョトンとしたように身体が強張っていた。そしてその一瞬が命取り。いくら素早さで劣ると言っても、ワンテンポの隙を突くぐらいは出来る。ミリオンの手はネガティブの頭を、すり抜ける事もなく掴んだ。

 同時に掴もうとして、何故かネガティブだけが一方的に掴まれる。手品の『タネ』を知っている ― ミリオンは小さなウイルスの集合体。一時的にその部位からウイルスが退避すれば物が抵抗なくすり抜けたように見えるだろう ― 継実ですらその光景に呆気に取られるぐらいだ。意味不明を通り越して理不尽な結果であり、ネガティブはすっかりパニック状態になっている。ジタバタと四肢と尻尾を振り回す、が、ミリオンは微動だにしない。

 

「ふぅん。触れたらミュータントでもじりじり身体が消されるって聞いたけど、私ぐらいの出力があれば届きもしないと……相性最高ね、あなたと私って」

 

 あまつさえ楽しそうな笑みまで浮かべる。

 次の瞬間、ネガティブが痙攣を始めた。

 ミリオンの手が莫大な熱を発したのである。ミリオンの『能力』は熱を操るというものなのだが……その力を目にした継実は仰天した。あまりにも出力が強過ぎるがために。熱量操作は継実にも出来るが、ミリオンが繰り出す力は継実の比ではない。もしもあの攻撃を継実が受けたなら、防御する間もなく全身を焼き尽くされているだろう。

 加えて、生み出す熱エネルギーと、頭を握り潰そうとする運動エネルギーの巨大さも出鱈目だ。ネガティブの『ゼロにする力』に対抗出来るのはミュータントの能力だけだが、それはあくまでも絶え間なく莫大なエネルギーを生み、ネガティブをプラスの存在に傾けるが故の事。出力が十分に高ければ、熱や運動エネルギーでもネガティブに対して有効な攻撃と化す。継実や花中では到底足りないが、ミリオンの力はその水準に達していた。

 三つの力の相乗攻撃。掴まれたネガティブは、僅かに抵抗しただけで霧散して消えてしまう。とはいえ倒したのはまだ一体。残る五体はミリオンの横を通り過ぎ、モモ達の下へと向かおうとした

 が。

 

「はい、捕まえたー」

 

「逃さないわよ」

 

 ネガティブの背後に現れた、()()()()()()()が奴等を捕まえる。両手で一体ずつ、合計四匹のネガティブは呆気なく頭を掴まれてしまった。

 向かってきたネガティブ一匹を握り潰したミリオンもまだいるので、今、この場にはミリオンが三人いる。インフルエンザウイルスの集合体であるミリオンにとって、分身など造作もない……理屈では継実も分かるが、こうして同じ姿形の人物が増殖したところを見ると混乱は大きい。

 ネガティブはさぞや狼狽えた事だろう。しかしミリオンは奴等に容赦などしない。そのまま頭を握り潰し、四体のネガティブを一秒と経たずに始末する。

 残りは一体。仲間をあっさり滅ぼされたが、所詮ゼロにする力の集合体に仲間意識などないのだろうか。最後の一体はモモ達目掛けて突撃し――――

 

「おっと、そうはいかないわ」

 

 ミリオンの一体が指先をピッと弾くように差し向ける。

 瞬間、ネガティブの足下で爆発が起きた! 数メートルものサイズになる紅蓮の炎が上がり、ミュータントでも僅かに動きが鈍るほどの衝撃が広がる。特殊な火薬でも地面に仕込んでいたのか? 一瞬そんな考えが過る継実だったが、すぐにそうではないと気付く。

 ミリオンが行ったのは、手の内側にて空気を加熱し、それにより生成したプラズマを飛ばす事。

 プラズマを直撃させたところでネガティブにはダメージとならない。だが足場の地面を捲れ上がるように吹き飛ばした事で、ネガティブの歩みを阻止した。ネガティブは空中に飛ばされ、体勢を立て直そうと藻掻くが……後ろにはミリオンが待ち構えている。

 

「はい、これでラストっと」

 

 ミリオンはネガティブに向けて手を伸ばし、脇腹を掴んだ。気付いた時には既に手遅れ。ネガティブは反撃する暇もないまま、送り込まれた正のエネルギー(高熱)に中和されて消滅した。

 六体のネガティブを倒すのに費やした時間は、ほんの三秒。

 圧倒的パワー、変幻自在の身体、分身に遠距離攻撃……フィアや花中も出鱈目だったが、ミリオンはそれを上回る出鱈目ぶりだ。初めて出会った時の、人間など瞬く間に殺し尽くせるという印象は間違いなく正しいと継実は確信する。敵に回したくない存在だが、味方と思えばなんと頼もしい事か。

 だが第一陣のネガティブは総数三百。今し方倒したのは、ほんの『先走り』程度の数でしかない。

 六体のネガティブが倒された直後、一気に百体近い数が地上に到着した。しかも継実達を中心にしてぐるりと包囲するように。状況的に絶体絶命に思えるが、ミリオンの圧倒的なパワーならば恐れるものは何もない。継実は無意識に笑みを浮かべた

 

「ありゃ、これは不味いわね」

 

 直後にミリオンから弱音が。思わず継実の口から「えっ」という言葉が漏れたところ、傍に居た花中が説明してくれる。

 

「あの……ミリオンさん、足が遅いというか、全体的に動きが、鈍いんです。反応は良いんですけど……」

 

 力は強いが動きは遅い。つまり、典型的なパワータイプという事らしい。

 納得したのも束の間、冷や汗が継実の額からだらだらと流れ出す。つまりミリオンは自分が相手したネガティブは難なく倒せても、横を通り過ぎたネガティブの相手は出来ないという事。

 ミリオンはまるで虚空から現れるように無数に、継実達を守るように円陣を組んで現れた。それから迫り来るネガティブに向かって走っていくが……数が全く足りていない。

 案の定、半分近い五十体ものネガティブがミリオンの横を通り抜け、継実達目指して突撃してくる。フィアは「全く使えませんねぇ」などと悪態を吐いていたが、むしろたった『一人』で五十体のネガティブを引き受けてくれたと思えば大貢献だろう。

 継実は臨戦態勢を取るべく拳を構える。無理に倒す必要はない。自分達の役目は惑星ネガティブの破壊なのだから。そう思いながらも、果たしてこの大群相手に何処まで消耗が抑えられるか……

 不安で継実の顔が強張る。だが、その顔はすぐに驚きに変わった。

 

「させるかァ!」

 

 モモが、迫りくるネガティブの前に立ち塞がったからだ!

 継実達に向かっていたネガティブ達は、突然の妨害者に意識を向ける。そして大半が足を止めて、モモを捕まえようとした。

 実に未熟な判断だ。目の前の犬に気を取られて立ち止まるなど。

 後ろから、奴等の天敵が来ているというのに。

 

「はい、ワンちゃんありがとねー」

 

 ミリオンが感謝の言葉を述べながら、立ち止まったネガティブの頭を掴む。我に返る暇すら与えない早さで、ネガティブの頭は潰され始末されていく。

 ネガティブの意識はミリオンへと移り、一斉に襲い掛かる。尤もミリオンはネガティブの事など歯牙にも掛けず。襲い掛かるネガティブを次々と返り討ちにしていく。

 ネガティブの意識から外れたモモは、継実の方へと振り返る。言葉はないが、ちょっと不機嫌そうな顔は「私の事忘れないでよ?」と言いたげだ。

 さて、どう返そうか。ごめんと謝るべきか、ありがとうと感謝すべきか……いいや、どちらもモモを喜ばせるには足りないと、継実は知っている。

 彼女は犬なのだ。飼い主(家族)の命を託すのが、一番の信頼の証。

 

「……任せた!」

 

 その信頼を一言で伝えれば、モモは満面の笑みで答えてくれる。

 

「任された! 出発の時が来るまで、私が継実を守ってあげるわ!」

 

 七年来の家族が、心底楽しそうに断言してみせるのだった。



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賑やかな星07

 勇ましく突撃するモモ。彼女の存在を目にしたミリオンは、悠然とした歩みで前へと進む。

 二人の手により百体のネガティブは十分と経たずに残らず潰されたが、左程間を開かずに二百体のネガティブが地上に到達する。ここまで大規模だと戦力の逐次投入ではなく、波状攻撃と呼ぶべきだろう。

 此度のネガティブ達は包囲ではなく、前面に展開していた。ずらりと並んだ黒い靄の壁。もしも人類がネガティブと相対したならば、きっとこの光景だけで戦意を挫かれただろう。

 しかしこれでもモモとミリオンの表情が曇る事はない。むしろにやりと不敵な笑みを浮かべ、より強く闘志を燃え上がらせていた。

 彼女達は確信しているのだ。この程度の数で自分達を止めようなど、片腹痛いと。

 

「そんじゃあワンちゃん、援護よろしく」

 

「ふふん。援護だけじゃなくて、私だけで倒しても良いんでしょ?」

 

「あらー、随分と自信たっぷり。どれだけやってくれるか、楽しみね」

 

 互いに軽く言葉を交わすや、二人は前へと進む。一切の躊躇いがない、力強い歩みを以てして。

 ――――ところが、二人は同時に立ち止まった。

 継実達からは、モモ達の背中しか見えていない。だから二人が今どんな顔をしているかは分からないが……僅かに上向いた頭から、空を見ている事が窺い知れた。そして継実も、無意識に空に視線を移す。

 そうすれば()()()()()()()()()()が幾つも見えた。数は恐らく数百。しかも高度は高くなく、間もなく地上に降りてくる。

 アレらがネガティブなのは明白。されど継実は狼狽える。

 数が予定よりも多いからだ。フィアが最初に告げた数は、第一陣が三百体。先程来た分と既に着地済みの分を合わせれば、三百体になる。そして第二陣到着は三十分後……なのに第一陣の直後に何百と現れるのはおかしい。

 

「ふぃ、フィアちゃん! あれは……!」

 

 おかしさには花中も気付き、情報源であるフィアを問い質す。

 肝心のフィアは、自身の顎を擦りながらじっと空を見上げていた。焦り一つ感じさせない、冷静な立ち振る舞いで。

 

「ふむ。どうやら他の地域に向けて進んでいた連中が集まってきたようですね」

 

 それは答えを告げる時でも変わらない。

 あたかもフィアは大した事でないかのように語ったが、その情報は継実のみならず花中の顔色も悪くさせる。花中はフィアにしがみつくや、揺さぶるように力を込めながら問い詰める。

 

「か、数は!? どれだけ此処に降りてくるの!?」

 

「んーたくさんあるのでなんとも……近くにいるのが五百。離れた位置の連中を含めればざっと数千でしょうか。すぐにでも降りてくるのは大体五百以上ですかねー」

 

「ごひゃ……す、数千……!?」

 

 ただでさえ莫大な三百という数が、何十倍にも膨れ上がるとは。しかもそれ以下とはいえ、五百もの大群が間近に迫っている。信じたくないという想いが込み上がるも、フィアが冗談を言うとは思えない。

 恐らくネガティブ達はこの場所の戦局が良くない事を察知し、戦力の集中を試みたのだろう。仲間同士の遠隔通信能力があるようだ。声も交わさずに仲間同士の連携が取れていたのも、その通信能力のお陰か。

 フィアの言葉は継実達だけでなく、モモ達にも届いている。後ろ姿から表情は窺えないが、竦めた肩の動きから呆れているのは感じ取れた。

 

「あらあら、それは流石に多いわね」

 

「なんとかならない?」

 

「倒すだけなら私一人でなんとか出来そうだけど、流石に誰かを守るのは難しいわ。私並の力の持ち主があと何人かいれば、簡単なんだけど」

 

「そんな化け物がほいほい集まっても、逆に困るわねぇ」

 

 ボケたりツッコミを入れたりしながら、二人は警戒心と闘争心をどんどん高めていく。

 ネガティブ達も力を高めていく。花のように咲いている頭を蠢かし、不気味な声色……或いは音色と呼ぶべき音を鳴らしていた。睨み合いはしばし続いたが、時間が味方しているのは戦力がいくらでも集まるネガティブ側。

 短期決戦を求めるモモとミリオンの方が、先に動き出した。

 

「兎に角、空の奴等が降りてくる前に出来るだけ片付けるわよ! 私にコイツらを投げ付けてきなさい! 手が届けばすぐに消してやるわ!」

 

「りょーかいっ!」

 

 ミリオンの指示を受け、モモはネガティブの一体に跳び掛かるように突撃。

 ネガティブはモモを捕まえようとするが失敗し、頭の上にモモが乗るのを許す。直後モモはネガティブの頭を蹴飛ばすように跳んだ。蹴られたネガティブはつんのめり……ミリオンの腕の射程内へ。

 

「はいご苦労さま。まず一体」

 

 ミリオンは即座にそのネガティブを握り潰す。

 仲間の『死』を前にして、ネガティブ達は本格的に動き出した。狙うのは主にモモ。ネガティブ達もミリオンが危険な存在だと理解しているらしい。

 無数の腕がモモへと伸びる。しかしモモの動体視力とスピードはピカイチだ。攻めではなく避けに徹すれば、ネガティブ達が束になろうと簡単には捕まえられない。それどころかモモは隙を見つけてネガティブを蹴り、ネガティブの方へと転ばせる。

 最初は難なくこなしているように見えた。だがネガティブは凄まじい速さで学習するし、数も多い。仲間がやられていくほどネガティブの動きは精練されたものとなり、コンビネーションもどんどん上達していく。身体能力は上がっていないのでモモはまだまだ捕まらないが、それでも囲うようになったり、逃げ道を誘導するように陣取ったり。最初はリラックスしていたモモの身体に、確かな緊張が滲んできた。

 ましてやパワーはあれども動きの鈍いミリオンは、徐々に翻弄され始める。

 

【イギロォアアッ!】

 

「この……芸がない!」

 

 跳び掛かるネガティブに、ミリオンが手を伸ばして捕まえる。顔面から掴まれたネガティブはこれまで通り捕まり、そのまま握り潰されて消滅した。

 その僅かな時間を突いて、他のネガティブが変形しながらミリオンの足に巻き付く。

 一体だけならミリオンは構いやしない。しかし二体三体と絡まれば、ただでさえ速くない動きが更に鈍ってしまう。そして動けなくなればまた新たなネガティブが纏わり付く。変幻自在、更に自他の融合分離さえも可能な身体を持つネガティブに、仲間がたくさんいるからといって作業の邪魔になる事はない。

 何十という数のネガティブが一塊となり、ミリオンの身体を包みのんだ。下半身は完全にネガティブに飲まれ、出ている上半身は腕が束縛されている。それでも強引に歩み、腕も動かせるミリオンだが、今まで以上に鈍くなっていた。ミリオンの顰めた顔は相手の『目的』に気付いたようだが、身体が動かなければ止められるものではない。

 ネガティブの大群は大きく左右に別れた。殆ど動けなくなったミリオンを間に置くような形で。

 

「ちっ! やっぱ避けるか……ミリオンは右の方を止めに行って!」

 

 勝てない相手と無理に戦う必要はない。そう言わんばかりの反応をネガティブが見せた事により、モモはミリオンに新たな作戦を提示する。が、ミリオンは首を横に振った。

 格下の命令なんて聞かない、なんてつまらない理由ではない。ミリオンは自分の足で追い駆けても、ネガティブの大群を捕まえる事は出来ないと判断したのだ。

 

【イギギロロロロギィイイッ!】

 

【イイィィィイイイイギィィイロオオオッ!】

 

 ネガティブ達が叫びながら向かうは、継実達の方。

 単純にミリオン以外を狙ったのか、モモ達の仲間と判断したのか、それともこちらの企みに勘付いたのか。いずれにせよ何百もの数のネガティブが継実達に迫る。

 継実が相手出来るネガティブは精々一〜二体。花中も相性の悪さを思えば一〜三体が限度だ。フィアなら数十体と互角に戦えるが、此度の数はその十倍。

 死なないように立ち回れば、この数を相手にしてもなんとか出来る自信はある。しかし体力は大きく消耗するだろう。そうなれば宇宙に飛んで惑星ネガティブに乗り込む、なんて芸当をする余裕がなくなってしまう。

 だがいくら愚図ったところで状況は変わらない。構えを取り、接近してくるネガティブに一発拳を叩き込んでやる……と意気込んだ、そんな時だった。

 

「ゴロロガアアゴオオオオオッ!」

 

 大気を震わすほどの大声量が、辺りに響き渡ったのは。

 この声に、継実は覚えがある。

 覚えがあるが、少なくとも友達なんかじゃない。むしろ危険で身の毛がよだつ、出来ればお近付きになりたくもない生命体。

 継実達に迫っていたネガティブ達は、声に反応して足を止めた。次いで辺りを見渡すが……声の主は何処にも見られず。

 近くには何もいないのか? と思ったのか、相当数のネガティブが意識を再び継実達の方に戻した

 瞬間、数多のネガティブ達が纏めて()()()()()()

 

【イギッ!?】

 

【ギ、ロオォ!?】

 

 いきなり、なんの予兆もなく仲間を潰されて、ネガティブ達がどよめく。そしてそのどよめきは終わらない。

 またしてもネガティブ達が突然叩き潰された。叩き潰された、と先程から継実は感じているが、それはネガティブ達がぺちゃんこになって消滅しているからに過ぎない。何が潰しているのか、何がそこにいるのか、全く見えない。気配すら感じられない。

 それこそが、『奴』がそこにいる証。

 ゆらゆらと空間が揺らめく。羽毛に覆われた身体が、鱗に覆われた頭部が、地面に叩き付けられた尻尾が……全てが突如として姿を現す。あたかも、最初から此処に居たのだと訴えるように。

 現れたのはかつて継実達を襲った、あの肉食恐竜だ。しかも十五メートル級の親サイズ。

 近くに子供の姿がないので、以前継実達を襲ったのとは別個体だと思われる。なんにせよとびきり危険な生命体なのは間違いない。何故こんな化け物がやってきたのか?

 その理由を考えた時、ふと気付く。

 『彼女』がいない。一応は継実達の見送り要員として来ていた彼女が。彼女の索敵能力でも肉食恐竜の姿や痕跡は見えない筈だが、しかしもしかすると大気の流れなどから間接的に存在を把握する事は出来たかも知れない。

 そうだ、きっと彼女が肉食恐竜を連れてきたのだ。モモとミリオンだけでは抑えられないと判断し、自分の命を賭けてまで。

 

「お、おう、応援! 連れてきましたぁ!」

 

 そんな予想が見事的中していたと、彼女――――ミドリ自身の叫び声で継実は確信する。

 

「ミドリ! アンタほんとに最こ……」

 

 継実は満面の笑みでミドリの声の方へと振り返る。そこにはニコニコと自慢気に微笑むミドリと、

 彼女の腕に齧り付くヒョウアザラシの姿があった。

 ……ヒョウアザラシはもぐもぐとミドリの腕を噛んでいる。ぶしゃぶしゃと血が吹き出していたが、ミドリは全然気にしていない様子だ。むしろヒョウアザラシを見ろとばかりに肘を継実達の方に突き出す。継実がちらりと横目で見たところ、花中も呆けていた。

 どうやら幻覚やらなんやらではないらしい。

 

「……応援って、そのヒョウアザラシ?」

 

「はい! コイツを使えばあたし達三人分以上の戦力ですよ!」

 

「あ、うん……噛まれて痛くない?」

 

「恐竜に身体の半分を噛まれた時に慣れました! 意外と我慢出来ますね!」

 

「あ、うん……ちなみに、あそこにその恐竜がいるんだけど、アレについて何かある?」

 

「え?」

 

 継実が肉食恐竜を指差すと、ミドリはキョトンとした顔でその方角を見遣る。

 

「ぎょえーっ!? なんであの恐竜がいるんですかぁ!?」

 

 ……それから心底驚いていたので、全く関与していないようだ。

 よくよく見ればネガティブを叩き潰した恐竜は、首を捻って不思議そうにしている。恐らく獲物がたくさんいると思ってきて、その獲物を仕留めたら何故か消えてしまったので混乱しているのだろう。つまり奴は完全に漁夫の利狙いで現れた部外者だ。

 やっぱりミドリはミドリだなぁと、呆れたと言うべきか安心したと言うべきか。とはいえ結果的に戦力が二つも増えた。確かにこれは心強い。

 

「んじゃコイツは向こうに投げときますかね」

 

「いだーっ!?」

 

 フィアがヒョウアザラシを強引に引っ剥がし、ネガティブ達の方へと投げ飛ばす。ヒョウアザラシはネガティブ達の真ん中に落ち……襲われたのだろう。巨大な白煙が舞い上がるほどの衝撃で、暴れ始めた。

 モモとミリオンに加え、肉食恐竜とヒョウアザラシまでもがネガティブを襲う。特に肉食恐竜のパワーは凄まじい。尾を振るえば何十という数のネガティブが粉々に砕け、踏み付けで一〜二匹纏めて潰し、噛み付けば数体纏めて吹き飛ぶ。ヒョウアザラシも凶悪な顎の力で一匹また一匹と噛み千切り、着実にその数を減らしていく。

 そうして二百体のネガティブが壊滅した頃、新たなネガティブが続々と空から降りてきた。

 フィアが事前に観測していた、数千もの大群の一部。それでも先の二百体を大きく上回る大群だ。恐らく五百体はいるだろう。たった一体で一つの、地球以上の文明を持つ星すら消してしまう悪魔が五百。銀河規模の巨大文明すら難なく根絶やしにしてしまうに違いない大群だ。

 力だけでなく数すら破滅的な規模になるとは、正しく宇宙の厄災。だが、地球の生命は災厄を凌駕する。

 

「あっははははは!」

 

 ミリオンは高笑いしながら次々とネガティブを掴み、片っ端から消していく。

 

「がぁっ! ぬぅりゃあ!」

 

 モモは素早さでネガティブを翻弄。倒すつもりはなく、ネガティブを転ばせたり足止めしたりを目的にしていた。動きの止まったネガティブはミリオンが次々と仕留める。

 

「グゴロガアアアアアアアッ!」

 

「キャオオオオオオオ!」

 

「きゃああああああっ!?」

 

 巨大恐竜とヒョウアザラシはただ暴れ回るだけ。咆哮を上げながら不可避の尾を叩き付け、雄叫びと共に胴体を食い千切る。一名悲鳴ばかりで戦っていないが、大きな戦力を持ってきたのだからチャラというものだ。

 何千という数のネガティブがどんどん減っていく。周りから増援が続々と集まるものの、それ以上の速さで消し飛んでいた。星一つ滅ぼす存在が、儚い花が如く散る。

 戦局は圧倒的な優勢だった。

 とはいえモモ達の体力は有限だ。今は圧倒的なパワーで大群を蹂躙しているが、永遠に続けられるものではない。またネガティブ群団もこれが倍、更に倍と増えれば、戦局がひっくり返る事もあり得るだろう。

 そして何より、最大の脅威がいよいよ迫っている。

 

「あと五万キロ。あのデカブツがそろそろ地上に到達します」

 

 フィアが空を、そこに浮かぶ惑星ネガティブを指差す。

 今や見た目の直径が四センチほど。大空にハッキリとした穴が空き、じりじりと巨大化している。

 そろそろ出発しなければ惑星ネガティブが地球に到達してしまう。

 しかし花中もフィアも動かない。猶予が刻々と迫っているのに、特段焦った様子すら見せずに。

 花中の友達とやらを信じているのか。だがその友達は何時動く? 大体何をどうすれば星一つに匹敵する存在を止められる――――悪態混じりの考えが脳裏を過った、そんな時だった。

 ミュータントである継実達すら足を止めてしまうほどの、巨大な地震が起きたのは。



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賑やかな星08

 最初は微かに揺れただけだった……なんて回想を挟む余地もないほど急激に、大地の揺れは強くなる。

 

「なん、だ。この揺れ……!?」

 

 揺れに耐えられず、継実は思わず座り込む。ミュータントとなった彼女の体幹は普通の人間の比ではない強さだ。震度七であろうと、それを凌駕する未曾有の大震災でも、二本足で悠然と立てる。

 だが襲い掛かってきた揺れは、そんな継実すらもしゃがみ込ませてしまう。もしも直下型地震の形でこの揺れが起きたなら、人間の作り出した都市など壊滅を通り越して跡形も残らないだろう。最早自然災害の規模ではない。

 ネガティブに続く厄災。いや、或いはこの揺れは惑星ネガティブが接近した事による異変ではないか。何しろ虚無の存在という、奇妙で異様な存在だ。ましてや惑星規模のサイズとなれば、近くでは物理法則がおかしな事になっていても不思議はない……

 頭の中に湧き出す疑念。しかしその疑念はすぐに取り払われる。

 花中が笑い、フィアがつまらなそうに唇を尖らせていたからだ。

 

「来た……!」

 

「ようやくですか。さっさと動けば良いものを本当にグズなんですから」

 

 二人は何かを知っている。ならば何を知っているのか? それを問い質したい継実だったが、揺れがあまりに激し過ぎた。口を開けばすぐに舌を噛む。噛んだところで即座に再生出来るが、噛みながらでは話なんて出来ない。

 だから何も聞けないまま、『それ』が現れるのを待つしかなかった。

 どんっ、と大きな爆音が轟く。しかしそれはかなりの遠方。近くではないにも関わらず、震動と音が伝わってくる。一体どれだけ巨大なものが現れたのかと、継実はその音の方に振り向く。

 そこにあったのは、地平線の先で雄大に伸びる巨大な柱だった。

 

「……ほへ?」

 

 思わず継実は瞬き。しかしどれだけ目を瞬かせても、見えたものは消えない。

 柱と称したが、いっそ壁と呼んだ方が正確だろうか。それは地平線の彼方にあるにも拘らず、視界内の地平線の大半を占めるほどに幅が広い。それだけでも腰が抜けるほど巨大だが、高さに至っては空高く、雲を突き抜けた遙か先……一体何処までいっているのか、先端が見えないほど伸びていた。

 そしてこれほどの大きさを誇りながら、その表面は()()()()()

 色も白や灰色ではなく、鮮やかな桃色。蠢き方はさながら脈拍のように規則的であり、されど機械ほど誤差がない訳でもない。

 つまるところそれは明らかに生命体の一部だった。

 継実はこれまで、幾度となく巨大生物を見てきた。体長百メートルのフクロミツスイ、一千メートル超えの大蛇、一千五百メートルの異星金属生命体……どれも継実達の常識を凌駕してきた存在だ。

 しかし此度のこれは、ミュータントや異星人のインチキをも上回る。一体幅だけで何十キロあるというのか。高さに至っては何千キロあるのか。生命として、というより存在としての規模が違い過ぎる。

 驚きから呆けてしまう継実だったが、今度は背後から爆音が響く。まさか、と思いながら反射的に振り返れば、直感した通りそこからも巨大な肉の柱が生えてきていた。

 今度はすぐに見たからか、空高く伸びていく姿を目の当たりに出来た。途方もなく巨大でありながら、まるで小動物のように素早い動き。一体先端はどれだけの速さを出しているのか、継実には想像も付かない。

 そして先が伸びていく方角を意識すれば……肉の柱は、惑星ネガティブに向かっていた。

 

「(……いやいやいやいや、いやいやいやいやいや!?)」

 

 まさかの考えが過り、思わず否定してしまう。だがどれだけ否定しようとも、肉の柱は惑星ネガティブに向けて伸びていくのを止めようとしない。

 そして何より、同じく揺れでへたり込んでいた花中が……笑っている。大胆不敵な、成人の癖して小学生にも間違われるぐらい小さな身体に似つかわしくないほどに。

 語ってもらわなくても構わない。見せ付けられた笑顔が全ての答えである。

 この巨大な、どんなミュータントよりも非常識な肉の塊こそが、花中が待ち望んでいた『友達』なのだ。

 

「かか、か、花中ぁ!? あ、あ、アンタの友達、その、な、なんなのこれぇ!?」

 

「えへへ。自慢の、友達です!」

 

「友達少しは選びなさいよぉ!」

 

 継実がしどろもどろになりながらツッコミを入れても、花中は萎縮するどころかむしろ自慢げ。こんな肉塊すらも友達と呼ぶのは、ちょっとばかり正気度が低過ぎではないだろうか。フィアが(嫉妬心たっぷりな)鋭い眼差しで肉塊を睨む気持ちが、ほんの少し継実にも理解出来る。

 生えてきた肉塊は二本だけではない。音や震動が感知出来ない、地平線の遥か彼方にも猛烈な勢いで伸びてくる肉塊が何本も見えた。いずれも惑星ネガティブに向けて伸びていく。

 いくら数十キロの厚みがあるとはいえ、空の彼方まで伸びてしまえば肉眼でその姿を捉えるのは難しい。しかし粒子操作能力を応用し、僅かな光を分析すれば肉柱が地球の遥か上空一万キロ地点まで伸びているのが分かる。本数も数十本なんて規模ではなく、数百本は存在していた。ぐねぐねと柔軟に動く姿を見るに、肉柱というより肉触手と呼ぶ方が正確だろうか。

 惑星ネガティブは、果たしてその肉触手に気付いているのかいないのか。特段遅くなったり早くなったりした様子もなく、惑星ネガティブは地球に近付いてくる。触手の長さが一万キロもあるのだ。現在の惑星ネガティブから肉触手の先まで、たったの四万キロ……秒速十五キロで進めば僅か四十四分で過ぎ去る。

 そして継実達の飛行速度で一万キロの道を旅するのに必要な時間は、約一時間。

 宇宙へと出発するには頃合いの時間だと、継実は思った。

 

「有栖川さん! 出発、しましょう!」

 

「……! 分かった!」

 

 予測していた通り、花中が出発を促す。継実は即座に返事をし、自分達の役割を果たすべく空に飛ぶための力を溜め始めた

 

「継実!」

 

 直後に、継実は名前を呼ばれた。

 継実はすぐに振り返る。そうすれば、何十メートルも離れた先でこちらをじっと見ている……モモと目が合った。

 モモの周りでは今もネガティブ群団との戦いが繰り広げられている。油断すればネガティブに飲まれかねない中、逃げも隠れもせずに継実だけを見据えていた。そうしながらモモは大きく、胸が膨らむほどに息を吸い込み、

 

「帰ってきたら……いっぱい私を撫でなさいよ!」

 

 その空気全てを使った大声で、継実にそう伝えてきた。

 声は難なく継実の耳まで届く。だから継実も大きく息を吸い込み、満面の笑みを携えて、返事をする。

 

「ああ! 嫌がって離れようとするぐらい、徹底的に撫で回してやるんだから!」

 

 継実の声が大気を震わせる。フィアが鬱陶しそうに顔を顰めるぐらいの大声。ネガティブ達が視線を向けてきたが、そんな事はどうでも良い。

 ここで届かせなければ、約束しなかったら、きっと自分は此処に戻れない気がしたのだから。

 果たしてその声は……等と心配する必要は微塵もない。ミュータントの本気の大声となれば、例えそのための能力を持たずともちょっとした爆薬並の威力は出せる。間違いなく声はモモの下に届き、故に彼女は花よりも明るい笑顔を浮かべる事となった。

 

「あ! モモさんずるい! あたしもあたしもー!」

 

 その声はミドリにも聞こえたようで、彼女はモモとの視線の間に割って入ってくる。邪魔よ退きなさい! いいえどーきーまーせーん! ……そんな言葉が音でなく、二人の動きから伝わった。

 最後はネガティブ、とそれを追い駆ける肉食恐竜の登場で、二人纏めて逃げ出す始末。極めて何時も通りであり、しばらくは死にそうにない。

 これなら安心して空に行ける。身体に溜め込んだエネルギーも十分な水準に達した。今度こそ憂いは一つもない。

 継実と花中はタイミングを合わせて膝を曲げ、花中の背中にフィアが跳び付いた――――それを合図に、継実達は空へと飛び立つ!

 生身で空を飛んだ事は、継実としては一度や二度ではない。されどそれは移動だったり戦闘だったりでの使用で、基本的には高高度まで上がる事はなかった。空飛ぶミュータントと空中戦をしたところで勝ち目がない事も、あまり空高く飛ばなかった理由の一つである。

 しかし此度の継実は高く飛ぶ。星の外にある領域へと達するために。

 

「ギ、ギギャギャ……」

 

 高度五十キロを超えたところで、翼長五メートルはありそうな鳥が見えてくる。外観から判断するにナンキョクオオトウゾクカモメ(ちなみにトウゾクカモメ科に属す鳥でありカモメではない)が巨大化したもののようで、獰猛な顔付きと鋭い足の爪を持っている。

 近くにいるのは一個体だけだが、相手は大空で暮らす飛行戦のエキスパート。もしも襲われたなら、継実であれば簡単に殺されて雛の餌にされてしまうだろう。だが此度は花中とフィアが一緒だ。

 ナンキョクオオトウゾクカモメはこちらの実力を計り、手に負えないと考えたのか。一瞥するだけで襲い掛からず、そのまま何処かに飛び去っていった。

 襲われなくて一安心……したいところだが、南極の大空に大型生物がいた以上油断は出来ない。それに先のトウゾクカモメが最大級とは限らないのだ。もっと大きな生物がいて、こちらを虎視眈々と狙っているかも知れない。

 

「(もっと速く……速く……!)」

 

 継実がスピードを上げると、花中も一緒に飛ぶ速さを上げていく。

 更に飛ぶと大気がどんどん薄くなる。また大気分子一つ一つのエネルギーが増大し、凡そ二千度ほどの高温となっていた。

 熱圏と呼ばれる領域である。もうこの時点で普通の生物では満足な呼吸が出来ないほど大気は薄い。継実は能力を用い、体内の酸素と二酸化炭素を分解・化合してエネルギーを確保。花中も恐らく同じ方法を採用し、フィアは外観を形成する水に溜め込んだ大量の酸素でこれを耐えてる。また気圧の低下により身体の水分が急速に蒸発しようとするが、粒子操作能力を応用して水の『相』を固定化して水のままにした。降り注ぐ放射線は粒子スクリーンで弾く。

 かくして地上を飛び立ってから約三十秒で高度百キロを突破。文明が滅びた今、国際航空連盟(人類文明)が定めたルールに大した意味などないし、そもそも異論もある基準だが……此処から先が『宇宙空間』である。

 ついに継実は、星の外に飛び出したのだ。

 

「(……いやー、手からビームを撃っといて言うのも難だけど、宇宙に生身で出るとかいよいよインチキだなぁ)」

 

 初めての宇宙空間に適応した自分の身体に、ミュータント歴七年の継実も頬を引き攣らせる。尤も、すぐにその表情はキラキラと好奇心に染まった。

 全方位に広がる星空。

 南極では空気が澄んでいるため、星がとても綺麗に見えるもの。しかしそれでも大気が存在する以上、どうしても星の光は拡散し、滲み、本来の美しさは失われていく。

 だが此処は宇宙。空気なんてなくて、本当の星空が空を満たす。隙間なんてないと思うほど無数の星々が煌めき、継実の身体を明るく照らしてくれる。なんと美しい景色なのか。ミュータントになって『感動』なんてすっかり忘れていた継実だが……此度の景色は野性的な心すら震わせる絶景だった。

 しかしだからこそ、自分達が向かう側にある存在――――惑星ネガティブの姿がハッキリと見えるのだが。

 

「いよいよ、近付いてきましたね」

 

 不意に、花中の声が聞こえてくる。

 見惚れていた事を自覚して恥ずかしくなったのに加え、何故宇宙空間で声が聞こえるのか分からず継実は少しパニックに。しかしすぐに自分の行為が恥ずかしいものではないと、そして粒子操作能力を用いて指先を震わせ、相手の頭に触れれば骨伝導の要領で声を届けられると気付く。

 花中の指は継実のこめかみ辺りに触れていた。継実も手を伸ばし、花中のこめかみに触れながら『話す』。そうすれば継実の声も花中に届く。

 

「うん。といってもまだ何十分か飛ばないといけない訳だけど……」

 

「ええ。でも、あと数十分です」

 

 花中の言葉に継実は頷く。

 数十分。

 『ただの時間』と思えばちょっと長いようにも思えるが、しかしこの後に地球の命運を左右する戦いをすると思えば、あまりにも短い『猶予』だ。気負わなくて良いとは思っているが、それでもやはり継実の心の奥底、理性の部分からはじわじわと不安が込み上がる。

 逃げるように継実は惑星ネガティブから視線を反らし、背後にある地球を視界に収める。

 するとその地球では、あちこちが眩く光っているではないか。

 煌めきは一瞬だったり、長々と輝いていたり、赤かったり、黄色かったり、青かったり……光に合わせて大地に溝が出来たり、逆に盛り上がったり、大きな津波が発生したりしていた。核兵器でもなければ人類文明には到底作り出せない規模の閃光や地殻変動は、間違いなくミュータントの仕業。そうした破滅的光景と共に、地球のあちこちに黒い球ことネガティブが降下していく様子も見える。

 地球上空を飛んでいるネガティブの数は不明。確実に言えるのは、南極で継実達が出会った数など端数に過ぎないような大群だという点だけだ。世界中に降下したネガティブは、そこで出会ったミュータントと激しく戦っているに違いない。

 地球上の生き物全てが、滅びに抗っている。

 ミュータントが栄えていなければ、地球は破滅的な被害を受けていただろう。恐らく地殻内部に入り込んで、内側から虚無に還されて消滅していた筈だ。ミュータントがいるから、地球はまだ地球の形を保っているとも言えよう。

 継実もまたミュータントの一人、いや、一匹の生き物。

 所詮は責任を背負う必要はない。しかし地球に住むものとして、ここらで根性ぐらいは見せなければ、居心地が悪いというものだ。

 

「……良し!」

 

 気合いを入れ直し、継実は再び前を向く。

 そんな継実の決意を嘲笑うように、惑星ネガティブのスピードは一定だ。なんら変わらず、淡々と進むのみ。地球までの距離は刻々と縮まっていく。

 地球側から生えた無数の肉触手は、相変わらずうようよと蠢くばかり。一万キロほど先まで伸ばすつもりはないらしい。即ち待ちの態勢。

 徐々に距離を狭めていく、二つの惑星サイズの存在。あまりにも巨大な存在の激突は、果たしてどんなものになるのか?

 答えは間もなく明らかとなる。

 超越的存在同士の激突が、継実達の前で始まるのだった。



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賑やかな星09

 惑星ネガティブが間近まで迫った瞬間、地球から伸びていた肉触手が動き出す。

 肉触手達は一斉に惑星ネガティブへと向かい、その行く手を遮るように当てられた。太さ数十キロの肉触手とはいえ、相手の直径は四千キロ。ほんの百分の一しかない太さであり、数十本と集まっても頼りない印象しかない。

 ところが実際には、惑星ネガティブの突進を易々と受け止めてしまう。

 更に惑星ネガティブ全体が、激しく波打ち始めた。最初は肉眼で確認するのが困難なレベルだったが、波打ちは段々と、時間が経つほどに大きくなっていく。さながら、痙攣するかのように。

 

「(やっぱり、というか他にあり得ないけど、あの肉触手はミュータントのものか……一体なんのミュータントかさっぱり分からないけど)」

 

 或いはムスペルのような怪物のものだろうか。正体は気になるが、知ったところでどうなるものではないだろう。それよりも継実は、二体の戦いの行方が気になる。

 肉触手と触れ合っていた惑星ネガティブは、今まで球体状だった姿を変化させた。巨大な棘のようなものを生やし、地球目掛けて伸ばしてきたのだ。

 棘は猛然と進み、地球に突き刺さる。棘の太さは恐らく百キロ以上あるだろうか。途方もなく巨大な棘はオーストラリア付近の大海原に突き刺さり、巨大な津波を引き起こす。津波の高さは、宇宙から見ると正確には分からないが……ざっと数キロはあるだろうか。

 さながら巨大隕石が落ちたかのような打撃。しかも棘はこの一本だけではない。他に三本も生えていて、南アメリカの大地に、太平洋に、大西洋に、次々と突き刺さった。陸地に打ち込まれたものは、マグマの噴出が確認出来るほどの破壊を生んでいる。一発一発が世界を滅ぼす威力だ。

 尤も、その滅びる世界は『人類の』という前置きが必要だが。こんなものでは、ミュータントが繁栄する地球にとって痛手とならない。

 巨大津波は陸地のミュータントのものと思われる、巨大な衝撃波や炎により消し飛ばされる。大地に突き刺さったものも、地上で激しい攻撃を受けているようで、びくびくと前体が震えていた。

 そして肉触手の持ち主も、この反撃に加わる。

 

「(いぃっ!?)」

 

 空気のない宇宙空間で、思わず継実は驚きの声を出そうとしてしまう。

 何故なら海の一部から巨大な……()()()()()()はあるだろう肉触手が現れたからだ。海から現れたそれは、惑星ネガティブが引き起こしたものと同規模の津波を起こしながら伸び、地球に突き立てた惑星ネガティブの棘に巻き付く。

 そしてぶくぶくと膨れ上がるほど力を込めると、棘を強引にへし折る!

 折られた棘は、本体部分と離れたところが霧散して消滅した。棘と言っても厚み数十キロの構造物。これを力で強引にへし折るとは途方もないパワーだ。

 生えてきた巨大肉触手は一本だけではない。打ち込まれた棘と同じ、合計四本が生えてきた。南アメリカの陸地から生えたものもあり、巨大な大陸に宇宙から観測出来る大穴を上げてしまう。そしてどれもがネガティブの棘に巻き付くと、難なくへし折ってしまった。

 これだけでは終わらない。新たな巨大肉触手が地球中から生えて、合計八本になる。それだけでなく厚さ数十キロの細い肉触手は何百本と生えてきた。そしてどの肉触手も、息を合わせるように惑星ネガティブと向き合う。まるで一個の生命体のように――――

 

「(って事は……まさかコイツ、()()()()()()()()()()()()()()があんの!? こんなのがずっと、今まで地下に潜んでいた訳!? )」

 

 ミュータントとは、どれだけ出鱈目な生物なのか。まさかミュータント生態系に七年間暮らしていて、また驚かされるとは継実も予想だにしなかった。

 なんにせよ地球に打ち込まれた棘は全て取り除かれた。これで惑星ネガティブは攻撃手段を失ったのである……というのは早計だが。

 惑星ネガティブが大きく揺らめいた。それと共に継実は破滅的な『叫び』を感じる。音とは空気の振動であり、空気なんて(一立方センチに水素分子一つでは振動なんて伝達しないので実質)存在しない宇宙空間で音は鳴らない。だが確かに惑星ネガティブは、あらゆる生命の波動そのものを消し去るような、おぞましく、何より強靭な雄叫びを上げたのだ。

 それと共に、惑星ネガティブの姿が大きく歪む。

 球体である本体の正面に、大きな切れ目が走り始めた。肉触手が触れ続けた事で虚無の力が中和され、早速惑星ネガティブの瓦解が始まったのではないかと継実は淡くも期待したが……よくよく観察すれば切れ目の入り方が極めて綺麗なもの。更に切れ目は等速直線運動で大きくなっている。こんな規則的な自壊はあり得ない。

 想像通り、それは自壊ではなかった。切れ目は四方向に裂け、さながら口のように開かれたのである。そして惑星ネガティブは地球に近付こうとした。

 このまま噛み付き、星を噛み砕くつもりなのか。野蛮にして大胆、それでいて効果的な攻撃だ。流石にこれは不味いと継実は思う。

 肉触手も同じだったかも知れない。

 

【ギ、ギギィギイイギイイイイイイイイイイイイイイイイイイッ!】

 

 宇宙空間に、肉の軋む音が響く。

 本来ならばあり得ない現象である。ならばこれは一体なんだ? 困惑しながら継実は音のする方に目を向けた。

 結果、更なる混乱に見舞われてしまう。

 直径数百キロ長さ一万キロを誇る巨大肉触手の一本が、煌々と光を放っていたのだ。ひしひしと感じるエネルギーは、比喩でなく恒星ほどのパワーを感じる。万一この力を星の表面に叩き付ければ、一瞬で惑星がプラズマ化して消滅するだろう。いや、余波だけで周りの星々も吹き飛ぶかも知れない。最早惑星に暮らす生物が出して良い力ではない。

 あまりにも意味不明な出力。そしてその力の周りでは、宇宙の星々が()()()見える。

 そこで継実は気付いた。今まで聞こえてきた音は空気の振動によるものではない。恒星の重力が如く力により空間が歪み、継実の身体が空間ごと歪む事で聞こえてきた『振動』なのだ。

 インチキすらも通り越した破滅的な力だが、巨大肉触手は勿論デモンストレーションとしてこの力を生んだのではない。大きく、仰け反るように動かした巨大肉触手を惑星ネガティブに向けて……放つ。

 惑星ネガティブの表面に、力いっぱい叩き付けたのだ!

 あまりにもシンプルな攻撃は、音を出さない。だが空間の歪みが、継実達の身体を吹き飛ばそうとする。惑星ネガティブの身体も大きく回転し、その破壊力の大きさを物語っていた。これには流石の惑星ネガティブも(三半規管などないだろうが)目を回したに違いない。

 尤も、それは新たな反撃を意味するのだが。

 

【イギギロロロオオアオォオオォオオッ!】

 

 惑星ネガティブが吼える。先の巨大肉触手と同じく、空間を歪ませるほど大きな虚無の力を生じさせる事で。

 続いて痙攣するように、その身をぶるりと震わせる。

 すると惑星ネガティブの表面に無数の黒い『点』が現れたではないか。いや、点ではない。それは大きさ二メートルもない、けれども数えきれないほどの、ネガティブの群れ。

 惑星ネガティブがネガティブ達を生み出したのだ。分離も合体も自由なネガティブなのでそれ自体は不自然ではない。が、先程惑星ネガティブは空間が歪むほどの虚無の力を生み出した筈である。ならばこのネガティブ達は、その虚無の力により誕生した『産みたて』の個体に違いない。

 だとしても一瞬で数えきれないほど……恐らく数十億はいるだろうネガティブを生み出すとは。

 巨大であれば力が大きくなるのは当然だが、あまりにもスケールが大き過ぎる。目の前でその光景を前にした継実は、思考が短くない間停止してしまった。

 だが、同じスケールの存在である肉触手達は思考停止になど陥らない。

 

【ギギギ、ギイィィィイイイイイイッ!】

 

 八本の巨大肉触手が煌々と輝きを放つ。

 またしても空間が歪むほどの巨大な力だが、その輝きはやがて下から上、肉触手の先端へと集まるように登っていく。力の密度が増したのか先端部分 ― それでも百キロ以上の長さはあるだろうが ― は太陽より眩しく輝き出し……

 八本同時に、閃光を放った。

 大出力のレーザー光線だ。放たれた光は非常識なエネルギー密度で『世界』そのものに影響を与え、さながら重力のように空間を極限まで引き伸ばしている。空間ごと伸ばされた物体は強度なんて関係なく、ズタズタに引き裂かれてしまうだろう。無論、空間に影響を与えるほどの出力となれば、光エネルギー自体も強力だ。直撃を受ければ、恐らく本当に星を(加熱に伴う熱膨張などで)纏めて数十個は吹き飛ばす。もしかすると直撃したら恒星さえも爆発するかも知れないと継実は感じた。

 肉触手が放ったレーザーは生み出されたネガティブ達を薙ぎ払う。粒子ビームすら一瞬で掻き消すネガティブ達も、このレーザーの出力は消しきれず。直撃を受けた個体は次々と消滅していく。それを回避したとしても空間の歪みに巻き込まれ、悲痛に思えるぐらい細切れに引き裂かれた。

 何十億と生まれた筈のネガティブは、ほんの一瞬で消し去られる。だが肉触手が放つレーザーはまだ止まらない。

 残りのエネルギーを全て注ぐように、八本のレーザーを惑星ネガティブの『口』の中に撃ち込んだ!

 惑星ネガティブはレーザーの集中攻撃を受けて、大きく仰け反る。数多の惑星さえ破壊する攻撃を八本受けて体勢を崩すだけなのは凄まじいが、被害は小さくなかったようだ。惑星ネガティブの身体が激しく痙攣していたのである。通常のネガティブと性質に大きな違いがなければ、それは自らの存在の安定を欠いている証。もしかするとこのまま自壊して消えるのでは……ある種の楽観論にも似た予感が継実の脳裏を過る。

 しかし、やはり楽観論だったようだ。

 

【イィギギィイイイロオオオオッ!】

 

 痙攣しながらも惑星ネガティブは振り返り、そして急速にその形を変形させる!

 棘を生やすなどという生易しい変化ではなく、さながら五本足のヒトデのような形態へと変化。そのまま地球に掴み掛かろうとしてきた。

 肉触手達は惑星ネガティブが伸ばしてきた足に巻き付き、その動きを食い止めた。惑星ネガティブは前に進めなくなったが、中心部には未だ口のような裂け目が残っていて、噛み付こうと何度も開閉させている。

 尤も惑星ネガティブが口を伸ばそうとする様子はない。恐らく五本足に使っている分の『身体』を僅かでも減らすと、肉触手達にパワー負けしてしまうのだ。だから下手な動きが出来ない。

 肉触手達も似たような状況である。肉触手を絡み付けた惑星ネガティブの『足』は押し返せていない。つまり肉触手と惑星ネガティブの力は拮抗している。こちらもまた力を僅かでも抜けば、惑星ネガティブに肉薄されてしまうのだろう。

 どちらも力を抜けない拮抗状態。相手の体力がなくなるまで、しばしこの状態が続く筈だ。

 接近を試みるならば今がチャンス。

 

「(つっても何処から行けば良いんだが……)」

 

 ネガティブが生物であるなら、例えば口や肛門から体内に侵入する事が出来ただろう。しかしネガティブは虚無の力の集まり。ものを食べたり、或いは出したりするための器官があるとは思えない。

 穴がないなら作らなければならない。元々三人で力を合わせて少しずつ潜る予定ではあったが、しかし出来る事ならより潜りやすい場所を探す方が合理的。何処かに脆そうな、或いは深い傷口はないものか……

 

「ん? フィアちゃん?」

 

 そう考えていた時、ふと花中の声が聞こえてきた。どうやらフィアに呼ばれたらしい。

 振り向いてみたところ、フィアが花中の肩を掴んでいた。彼女も身体の振動で声を伝えられるが、継実と話すつもりはないのかこちらには触ってこない。

 それでも、あっちを見ろと言わんばかりに指を差す仕草を見れば、何を伝えたいかは丸分かりだが。フィアの指先が向いている方角を目で追えば、そこには惑星ネガティブの姿がある。

 より正確に言うならば、惑星ネガティブが地球に噛み付くべく作り出した口の中心部分だ。

 そこはまるで本物の口のように、大きくて深い穴が空いている。本当に奴は地球を喰らうつもりなのか? そんな考えが一瞬過るも、すぐに本当の原因が思い当たる。

 肉触手達が放った、大出力レーザーの仕業だ。惑星ネガティブさえも怯ませる強大な一撃は、奴に大きな傷を負わせていた。その気になれば再生(成形という方が正しいかも知れない)するなど造作もない筈だが、互角の力比べの真っ只中、そんなところにエネルギーを費やす余裕はない。だから傷口を放ったらかしにしているのだろう。

 その傷が何処まで続いているかは分からない。しかし中心部まで行くのに掛かる時間は大幅に短縮出来るのは間違いない。

 

「……行こう。あの場所に!」

 

「はい!」

 

 継実の言葉を受けて花中が答えた。フィアは最初から怯えも不安もない、堂々たる顔付きで惑星ネガティブの傷口を見ている。誰もが準備万端。進むのに憂いなし。

 継実と花中の二人は、動きの止まった惑星ネガティブを目指して、再度宇宙空間を進み始めるのだった。



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賑やかな星10

 幸いにして、継実達が傷口に辿り着くまでの三十分ほどの間、肉触手と惑星ネガティブの膠着状態は崩れずに続いた。

 相手は惑星規模の超巨大存在。向こうからしたらちょっと顔を背けた程度の動きで、数百キロも対象が移動してしまう。継実達の秒速数キロ程度の機動力では、そんな小刻みに動かれては追い付けない。着地寸前に動かれたら、秒速数百キロで動く大地と激突だ。ましてや『身動ぎ』した肉触手やらなんやらと激突したら、恐らく跡形も残らないだろう。

 幸いにしてその最悪は起こらず、継実達は惑星ネガティブの傷口に辿り着く。

 

「うわ、こりゃ凄い……」

 

「ええ。ほんと凄い……」

 

 傷口を見た継実と花中は、同じ感想を口走る。

 惑星ネガティブの口内に出来ていた傷は、長さ五百キロ、幅三十キロほどの大きさを誇っていた。傷口の断面はボロボロのぐちゃぐちゃで、強引に引き裂かれて出来た傷だと分かる。恐らくレーザーのエネルギーが内部で炸裂し、身体が弾けたのだろう。『敵』の事とはいえ、想像するだけで痛々しい被害だ。

 問題は奥行きがどの程度あるのかだが……見たところ数百キロは優にあるか。しかし黒い身体、そして靄のような体質により正確な輪郭は確認出来ない。宇宙空間故の暗さも相まって殆ど先が見えない状態である。

 これでネガティブが普通の生命体なら、例えば弱い光や音を撃ち、反射して戻ってくるまでに掛かった時間を計算して距離を測る事が出来る。しかしネガティブは虚無の力の集合体。量子ゆらぎの力を纏っていない、或いは生半可な出力では、当たった傍から消されてしまう。深さの測定は不可能だろう。

 結局のところ我が身一つで潜り、実際に確かめる以外に詳細を知る術はないのだ。

 

「……入ろう」

 

 継実の言葉に花中が頷く。意思を確認し合ったところで、継実と花中、花中に背負われているフィアは傷口から、惑星ネガティブ内部へと侵入した。

 内部に入ると、一層暗くなったように継実は感じた。星の光すら入らなくなった影響だろう。

 通常ならば傍の仲間どころか自分の指すら見えない暗闇だが、継実には粒子操作能力がある。粒子の動きや位置を観測するのはそれこそ得意技。しかも宇宙空間には地球上ほど粒子がないため、粒子の動きを観測すれば花中やフィアの姿がくっきりと見えた。

 花中も同じ方法で継実の存在を把握しているだろう。フィアにはそうした能力がないので、継実と花中の姿は見えない筈なのだが、フィアに不安がってる様子はない。周りが真っ暗で何も見えなくても、大して気にしていないようだ。フィアの正体はフナ。フナは濁った水の中でも暮らしていける生き物であり、元々視力にはあまり頼らない。底知れぬ暗闇もフィアにとっては人間で言えば鼻詰まり程度の、鬱陶しいけど不安になるようなものではない感覚なのかも知れない。

 それに不安というのは、視覚の有無だけで感じるものではない。

 

「(地球、大丈夫かな……)」

 

 自分達が進んでいる惑星ネガティブに、大きな動きはない。未だ肉触手との力比べは拮抗しているのだろう。

 だが、それは地球が無事という意味ではない。惑星ネガティブの表面から大量のネガティブが生まれ、地球に向かっているのではないか。いや、そんな地球全体の話を抜きにしても、南極で戦っているモモやミドリは無事なのだろうか。

 悩んだところで答えは出てこない。それでも知らない事があるという認識が、酷く不安を掻き立てる。

 気にしてもしょうがないと、頭では分かっている。モモやフィアのような野生生物達なら「だから気にしない」と合理的に判断出来る事だろう。ミュータントになって七年の継実にもそれは可能で、無意識に身体を制御しているため顔や態度など表に出す事はない。

 だがそれでもミュータントになるまでの十年で培った、人間としての理性が不安を覚える。或いはここ数日の村生活で、野生生活で抑え込んでいた理性が元に戻ろうとしていたのか。

 いずれにせよ、継実の心は少し乱れていた。心の乱れは警戒心の欠如。どれだけ取り繕おうが、その事実は変わらない。

 

「……来ます」

 

 故に危機の到来を察知するのが、ぽつりと呟いた花中よりも遅れた。

 もしも一人だったなら、継実は『横』から飛んできた攻撃に反応出来ず直撃を受けただろう。だが花中が危機の到来を知らせてくれたお陰で、動く事が出来た。

 継実と花中は即座に手を突き出し、互いに相手の手を押し出すように力を込める。加えた力によって継実と花中はそれぞれ離れるように飛ぶ。

 その間を、一体のネガティブが通り過ぎる。

 やってきたネガティブはフィアが腕を伸ばし、捕まえ、頭を握り潰す事で消滅させた。ひとまず危機は去ったが、されど安堵は出来ない。この奇襲攻撃の『元』を確認しなければ。

 無意識に継実はそのネガティブが飛んできた方を見る。そこはいわば惑星ネガティブに出来た傷口の断面……継実達から見れば『壁』のように見える部分。虚無の力そのものであるネガティブの姿は粒子操作能力でも観測出来ないが、それを応用して見えない領域という形での可視化は可能だ。

 逆に言えば、そうするまで傷口断面の変化に気付けなかったようだが。

 

「(うわっ……なんて数……!)」

 

 思わず顔が引き攣る。

 そうなってしまうぐらい、傷口の壁には無数のネガティブが()()()いた。例えるならば木の幹から生えるキノコのように、ネガティブは上半身だけを出し、裂けた頭と腕を振り回している。

 惑星ネガティブからネガティブが生まれるところは見たが、どうやら生えたものが分離する形で増えるらしい。その増え方自体は想定していたパターンの一つであり、さして驚くほどのものではないのだが……流石に、人型の存在が何万と生え、藻掻くように蠢く姿は気持ち悪い。生理的な嫌悪感がぞわぞわと込み上がる。花中も顔を青くしてドン引きしている状態だ。野生生物からしても生理的嫌悪感は抑えられない ― 抑える必要がないだけかも知れないが ― ようで、フィアは極めて露骨に顔を顰めていた。

 とはいえ気持ち悪いだけなら大した問題ではない。問題となるのは、これが数万のネガティブという『群勢』になる恐れがあるという事。

 惑星ネガティブの規模からして、この数万の大群を生み出す事など無意識に出来る所業だろう。巨大肉触手達との力比べにも大きな影響は出まい。しかしそれでも惑星ネガティブに比べればちっぽけな、継実達三人組からすれば絶望すら生温い大群が生まれるのだ。

 そしてわざわざ生み出した存在が、まさか見せ付けるだけの飾りなんて筈もあるまい。

 

「(……来るつもりか)」

 

 ずるずると這い出すように、壁から続々とネガティブが生まれ出る。何万もの大群だ。まともにぶつかり合えばまず負けるし、勝てたところで時間が掛かってしまう。惑星ネガティブと肉触手の拮抗が崩れたなら、どちらが勝利者にしろ内部は激しい揺れに見舞われ、中心部に進むどころではない。ましてや勝ったのが惑星ネガティブならば、それはそのまま地球の終わりを意味する。

 肉触手側に勝ってもらうためにも、この拮抗状態のうちに中心部に行って暴れなければならないというのに。どうしたものかと悩む継実だったが、花中は既に決断を下したらしい。無重力下を泳ぐように、一旦離れていた花中が背負うフィアと共にやってきた。次いで花中はちょんちょんと継実の肩を突く。何か話したい事があるのかと思った継実は花中の方を見て、

 フィアが継実の腹を思いっきり殴ってきた!

 

「ぐぇっ!? フィア、何を……!」

 

 いきなり殴られて、継実は思わず抗議の声を上げる。勿論ここは宇宙空間。空気どころかまともな原子すら殆どなく、空間を引き裂くぐらいのパワーがなければ叫んだところで相手に届きやしない。しかし継実が黙ったのは、自らの行動の無意味さを察したからではない。

 フィアが継実を殴り飛ばした際に生じた反動、そして花中が自ら生み出している推進力により、二人がネガティブ達が生まれ出ようとしている壁へと向かうところを目にしたからだ。

 

「(嘘……まさか二人で……!?)」

 

 言葉を交わさずとも継実は理解する。二人は自ら足止めを買って出たのだ。継実を最深部へと送り届けるために。

 確かにそうでもしなければ、限られた時間と圧倒的戦力差の中、誰か一人でも中心部に到達する事は出来ないだろう。だがそれは自殺行為だ。危険を通り越して無謀としか言えない。

 地球を守るためなら安い犠牲? 合理的に考えればその通りだろう。しかし継実個人の感情としては全く納得出来ない。衝動的に継実は二人を止めようと、届かない手を伸ばそうとする。

 それと同時に目にしたのは、二人の顔。

 花中達は()()()()()。フィアは遊び道具を見付けたように獰猛で好戦的な笑みを浮かべ、花中は友達と遊ぶように純真で真面目な笑顔を見せる。恐怖悲壮後悔達観迷い……あらゆる負の想いを持たない、底抜けに前向きで力強い笑み。

 二人とも、自分が死ぬとは露ほども思っていない。

 そうだ。二人とも誰かのために死ぬ気なんて、ある筈がない。何故なら自分達はミュータント。どれだけ取り繕おうが、本質的には自分の事しか考えていない存在だ。自分にとって良い未来を手にするために、自分に出来る最善の方法を選択するのみ。

 

「………………」

 

 花中がこちらを向いて、何かを語る。離れてしまえば、もう振動による声は届かない。

 だが、人間である継実には心で分かる。

 後は頼みます、だ。

 

「……任せとけ!」

 

 継実は大きな声で答えた。

 その声が届くのは、声帯の震えを身体で感じ取れる継実本人だけ。しかし言葉は届かずとも、気持ちは届く。

 花中は親指を立てて応えた。ウインクまでして。

 正直全く似合ってない『返事』だなと継実は思う。伝えようと思えば、きっとこの気持ちも伝えられるだろう。が、それを今伝えるのは面白くない。伝えるなら、全部終わった後が良い。

 継実は二人に背を向けて進み出す。

 激戦の始まりを背中越しに伝わる感覚で把握しながら、振り返る事はせずに――――



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賑やかな星11

 一人、継実は惑星ネガティブに出来た傷口の奥を目指して進む。

 果たしてどれだけ進んだだろうか。周りにあるのは惑星ネガティブの断面だけであり、星など指標となるものがないため正確には言えないが……飛行時間から逆算するに、ざっと一千五百キロは進んだだろうか。

 花中達と別れてからここまで進んで、断面の壁から無数のネガティブが生えてきて襲い掛かってくる、という事態は今のところ起きていない。惑星ネガティブの力を鑑みるに、ネガティブの百体二百体など簡単に生み出せると思われるが……地球から生える肉触手との力比べがやや劣勢なのか、殿(しんがり)を引き受けた花中とフィアが一騎当千の働きをしているのか、恐らくは両方の理由で惑星ネガティブに余裕がないのだろう。特に花中&フィアの二人は、一人だけでも十分強いが、二人揃うと何かをやってくれそうな気もするので。

 お陰で継実は難なく、惑星ネガティブの最深部に向かって進んでいける。

 

「(まぁ、苦労しないで済んでる一番の理由は、傷口がここまで深く刻まれている事なんだけどね)」

 

 肉触手が喰らわせたレーザー攻撃は、惑星ネガティブに大打撃を与えていた。中心部付近まで届く傷になっており、継実はそこを飛んで通るだけ。当初の予定では穴を掘るように進むつもりだっただけに、一直線に飛んでいけるのは時間的に好ましい。地球にいる仲間の被害、そして足止めをしてくれている花中達の体力を考えれば、中心に辿り着くのは早ければ早いほど良いのだから。

 しかし順調にいくと、それはそれで不安になるのが人間というもの。この傷は果たして本当に元々こんなに深かったのか? 都合よく中心部まで届くものなのか? もしやこれは惑星ネガティブが仕掛けた罠のでは……

 

「(いや、罠はないな。罠は)」

 

 こちらを仕留めるつもりなら、それこそ何処かでネガティブ群団でも差し向ければ良い。ダメージを受けると危険な中心部に敵を招き入れて倒すなんて、そんなのは作戦ではなく言い訳と呼ぶのだ。

 冷静に考えを巡らせ、非論理的な考えを切り捨てる。それでもどうにも不安の感情が脳裏にこびり付くものだから、頭を振って気持ちを払おうとした。身体に粒子スクリーンを展開して防御を固めたり、肉体の粒子を制御して本気の力を何時でも出せるようにしたり、戦闘準備も整えていく。

 丁度、そんなタイミングの事である。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「(えっ!? これって……空気!?)」

 

 感じたものが空気抵抗の感触と気付き、継実は驚きで目を見開く。

 惑星ネガティブ……要するに巨大なネガティブの内部なのだから、空気なんて全て虚無に還されてされいる筈だ。しかし身体で感じているものは間違いなく空気抵抗のそれ。しかも進めば進むほど抵抗は強くなる。即ち物質の密度が増しているのだ。

 訳が分からない。ネガティブ中心部では虚無の力が発揮されていないのだろうか? 考え込みながら周りの分子を観測してみる。

 が、全く分からない。

 確かに、この辺りには何かがある。質量が存在し、触れもする……なのに()()()()()()()()()

 未知の物質だ。いや、物質と呼ぶべきでもないだろう。同位体や同重体でもない、人類が発見どころか想像もしなかった『何か』が満ちている。

 そんな馬鹿な、と継実の理性は否定するが、同時に得心も行く。ネガティブは虚無へと還す力により、量子ゆらぎすら消し去る。量子ゆらぎが宇宙を作り出した源ならば、それが消えた領域は、この宇宙とは異なる領域、ある種の別宇宙とも言えるだろう。ならばそこには、この宇宙とは異なる物質が存在してもおかしくない。正の存在ではない、虚無しか許されない世界に存在する……名付けるならばゼロ物質か。

 ゼロ物質についてああだこうだと考えても、答えは出ないだろう。例えるならば1 × 0 = 2 が成り立つ理由を考えるようなもの。前提となるルールそのものが、この宇宙の存在である継実に理解出来るとは限らないのだ。

 一つ、今言える事があるとすれば……これに触れ合う事が危険という点だけ。

 

「(触れてると身体がじわじわと消えてる。ネガティブほど強力じゃないけど、ネガティブと同じ力があるみたいだね)」

 

 ひとまず身体に能力を滾らせ、身体の消滅を食い止める。これで対処は出来たが、常に力を込め続けるというのは疲れるものだ。これから暴れないといけないのに、体力の消耗があるのは好ましくない。

 

「(いっそ反物質なら、色々やれる事もあるんだけどなぁ)」

 

 大量にあるゼロ物質の使い道を考えようと思考を巡らせる……が、答えを得るだけの時間はなかった。

 進んでいたところ、開けた場所に出たのである。

 どうやら肉触手達が付けた傷は、本当に中心部まで到達していたらしい。最大出力の粒子ビームすら問答無用で打ち消すネガティブを、貫通寸前(或いは観測出来ていないだけで貫いたかも知れない)まで傷付けるとは。こうなると恒星さえも破壊するという評価すら、過小なものだったのではないかという気がしてくる。

 それはさておき。辿り着いた場所は非常に広く、ざっと数百キロほどはありそうな『空洞』をしていた。空洞内には先程継実が遭遇したゼロ物質がぎっしりと満ちている。密度は空洞の中心に行くほど高くなっているが、ゼロ物質にも重力があるのか、或いは惑星ネガティブが重力的な力を発しているのか、ルール不明の状況では考察も出来ない。正体不明のものに囲まれているのは気分的に良くないが、幸い動きを妨げるほどの密度ではなかった。気にし過ぎても良くないと、一旦思考を脇に寄せる。

 継実は自らの意思で、空洞の中心に進む。単純に周りを見渡すのに中心の方が好都合だというのもあるが、もう一つ理由がある。

 中心に、『何か』がいるからだ。

 

「(大きさはざっと二メートル。形は……ああ、これは()()だね)」

 

 遠く離れた場所に浮かぶそれを、能力により観測。その大きさと形をしかと把握する。

 中心までの距離はざっと二百五十キロ。七年前なら途方もない距離でも、今の継実には全力を出さずとも一分半で渡れる道のりだ。淡々と飛び続けて、継実は『何か』の前にて止まる。

 空洞の中心にいたのは、棒立ちの体勢で浮いている一体のネガティブだった。

 見た目に特筆すべき点はない。頭は花のように裂けた状態で開き、爪などの器官が一切ない四肢を持ち、臀部より長い尾を生やしている。宇宙よりも黒い身体は靄……虚無に還す力で出来ていて、ゆらゆらと揺らめいていた。大きさ、具体的に言うなら身長は二メートルに満たない程度。頭の先から尻尾の先まで、今まで何度も見てきたネガティブと全く変わらない。

 外見はただのネガティブ。これまで幾度となく戦い、幾度となく粉砕してきた相手だ。

 だが……

 

「(コイツ、かなり強いな)」

 

 今まで戦ってきたネガティブよりも、遥かに強力なプレッシャーを感じる。

 あくまでも感覚的なものであるが、しかしその感覚は七年間毎日ほぼ休みなく進化していく強敵と戦い続けて培ったもの。精度は極めて高い。暫定ではあるが、これまで出会ってきたネガティブの数倍の戦闘能力があるだろう。

 加えて、隙がない。

 今まで出会ったネガティブ達はお世辞にも『戦士』として優秀な立ち振る舞いをしていない。何しろ量子ゆらぎの力を使えるミュータントでない限り、触れたものを容赦なく消してしまうのだ。どんな戦略も戦闘力も戦術も関係ない。ミュータント並の身体能力を活かし、ただ触れていくだけで勝利出来る。敵の攻撃を警戒する必要なんてないし、死角を意識する必要もない。カウンターを恐れる事もないし、ましてや奥の手を警戒しても意味がない。正しく無敵だが……それ故に何も学べない。だから無敵が通じない相手には呆気なくやられてしまう。ズルをしてきた奴の強さなど、所詮そんなものだ。

 しかしこのネガティブは違うらしい。

 ただ棒立ちしているだけのように見えるが、それでいて隙が一切見当たらない。それこそ全方位二十四時間命の危機にあるミュータントと同等の警戒心だ。意識の死角も感じ取れず、下手に攻撃すればこちらが手痛い反撃を受けると継実は判断。相手の様子を窺う。

 そしてこのネガティブ、継実が目の前で構えも取らずに見据えても、攻撃を仕掛けてくる気配すらない。これまでのネガティブは、何はともあれ襲い掛かってきたというのに。

 怪しい。何かが違う。何度もネガティブと戦ってきたが、『コイツ』は得体が知れない――――どうしたものかと考えあぐねていた、その瞬間を突くように。

 

【お前、単身、来たか】

 

 ネガティブが継実に向けて話し掛けてきたのだった。



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賑やかな星12

 正直に言えば、継実は大きく動揺した。この瞬間にネガティブが攻撃を仕掛けてきたら、恐らくそのまま首を切り落とされていたであろうぐらいに。

 しかしネガティブは攻撃してこなかった。隙を見せる事もしなかったが、攻撃するために力を溜め込むような素振りすらしない。

 少なくとも、攻撃チャンスを作るために話し掛けてきた訳ではないらしい。一旦息を吐く……等という宇宙空間における贅沢はしなかったが、同じ仕草を取る事で継実は少し気持ちを落ち着かせる。

 次いで、隙など見せていないという態度を取りながら答えを返す事にした。普通宇宙空間では声など届かないが、この周囲に空気の代わりにゼロ物質が満ちている。触れると消滅させられる事以外の物性は未だ不明なものの、ネガティブの声が聞こえてきたのだから振動を伝える性質はあるのだろう。吸い込むつもりはないが、こちらが発した声を届けるぐらいは出来る筈。

 

「ふぅん……アンタ、喋れるんだ。でもなんで? というか日本語何処で習ったの?」

 

【お前、の、頭、の、波形、測定。単語、学習、した】

 

「頭の波形を学習? ……まさか脳波を測定して、こちらの考えを読んでる?」

 

 果たしてそんな事が可能なのか? まず脳裏に浮かんだのはその疑問。

 しかしこれについては考える必要もない。家族であるミドリが、ある意味似たような力が使えるのだ。ミドリだけの特別な能力、なんてものがあるほど世界は甘くない。ましてや相手は色々と怪しいネガティブ。何かとんでもない事をしてくる可能性も、ゼロではない。

 真偽は兎も角、奴が日本語を話せる理由は分かった。こちらの脳から情報を引き出しているのなら、会話に支障はないだろう。むしろこちらの『不利』を事前に知れたのだから得というものだ。

 何より、何故こちらに話し掛けてきたのか、それを知りたい。戦いのための情報収集だとかなんだとかではなく、純粋な好奇心に基づく興味として。

 

「……で? 今までずーっと問答無用で攻撃してきた癖に、今になって話し掛けてくるからには、特別な要件があるんだよね?」

 

【要件、は、ある。対象、興味、詳細を、知りたい】

 

「……対象?」

 

【我々は、地球、目指している。生まれ出た目的を、果たすため、に】

 

「……その言い方、まるで地球を目指すのが生まれてきた理由だって言いたげね」

 

【部分的に、肯定する。我々は、地球を探し、そこで目的を、果たす】

 

 目の前のネガティブは、継実が尋ねた事に淡々と答える。嘘を吐いている素振りはない、というより嘘を吐けるほどの知性を感じない、機械的な口振りだ。恐らく、本当の事を話していると直感する。

 だが、継実にはどうにも信じる気持ちが沸かない。ネガティブの言い分が、あまりにも情緒的な語り口だからだ。ましてや生まれてきた意味なんて……正直継実は鼻で笑いたい気分になった。

 七年前の文明全盛期、人間には「子孫を残すのが生き物の目的」と語る者が多くいた。しかしこれは間違いだ。今を生きている生物は()()()()()()()()()()()というだけの事。「別に子孫なんて残さなくていいや」と考える個体と、「何がなんでも子孫を残さなきゃ」と考える個体が競争すれば、子孫を残そうと考える個体が生き残るのは当然である。生き物が子孫を残すための振る舞いをするのは、それが目的だからではなく、生き残った結果でしかない。

 生物ですらそんな有り様なのだ。ネガティブは生物どころか、虚無に還す力でしかない。そんなものに生まれてきた意味などある訳がないだろうに。大体消滅させる力が地球となんの関係があるというのか。

 世迷い言だと、理性は判断する。だが……

 

「(胸の奥がむずむずする……)」

 

 本能的な違和感が胸の中で渦巻く。戯れ言と切り捨てる気が起きない。

 

「……なんで地球を目指すの? アンタ達が生まれてきた意味って、地球でやりたい事って何?」

 

 継実は単刀直入に、抱いた疑問をネガティブにぶつける。

 ネガティブの答えは実にシンプルだった。

 

【宇宙を、本来あるべき流れに、戻す。そのために、地球の生命を、全て消す】

 

 宇宙のために地球生命を殺す、と。

 あまりにも壮大にして、あまりにも関係性を見出だせない答え。驚きから継実はまたしても大きな隙を晒すが、ネガティブはやはり襲い掛からず。代わりとばかりに、より詳しい話を始めた。

 ――――あらゆる物質は時間を掛けて燃焼・崩壊しながらエネルギーに変わり、エネルギーはやがて最も質の低い熱へと変わる。

 所謂熱力学の法則だ。温水が部屋を温めながら冷めていく事はあっても、常温の水がエネルギーを加えずに沸騰する事はないと説明した法則だと思えば良い。至極当然の話をしているだけだが、これこそが人類物理学の根底。力を加えなければやがて全ては拡散し、均一になっていくという絶対的な『ルール』だ。この均一になる過程をエントロピー(乱雑さ)の増大と呼んだりもする。

 では、もしも宇宙全ての物質を燃やし尽くし、エネルギーへと変えたならどうなるのか?

 そこは全てが均一の『熱』に満たされた世界。熱力学の法則により、変化を起こすには外部からエネルギーを加えなければならないが、均一の熱しかないため何処からもエネルギーを持ち出せない。均一の熱が存在するだけで生命はおろか星すら生まれず、ただ時間が流れるのみ。

 これが宇宙の熱的死と呼ばれるものだ。

 そして宇宙はやがて、この静かな死を迎える。

 

「……それが本来の、宇宙の在り方って訳?」

 

【肯定する。宇宙はそのように育ち、成熟し、死を迎える。恒星が生まれ、燃え尽きるように。だが、否定する。その流れは今、変化しつつある】

 

「変化? なんでさ」

 

 ネガティブの話に質問を返す。が、継実は正直なところ、疑問を抱いていない。

 熱力学の法則は絶対のものか?

 基本的にはその通りだ。これが覆るなら、水が勝手にお湯になり、砂場が突然石へと変化し、大気中から石油の雨が染み出す。そんな滅茶苦茶は起こらない。

 と言いたいところだが、実は少なくとも一度は起きた事がある。

 宇宙誕生時だ。宇宙は何もない無、或いは一切の変化がない状態から生まれた。突如として莫大なエネルギーが生まれ、究極の均衡状態である無が崩れて宇宙という複雑怪奇な構造物が出来てしまったのだ。これは熱力学の法則に反する。

 しかしそれは人類物理学の根底をひっくり返す訳ではない。何故なら熱力学の法則は、あくまでも確率的なものだからだ。熱とは粒子が持つエネルギーであり、それがぶつかったり集まったりする事で温度は上下する。『マクスウェルの悪魔』と呼ばれる思考実験(粒子を観測出来る悪魔が熱い粒子だけを選別して選り分けたら、エネルギーを加えなくても温度が上がるんじゃない? というもの)はこうした理屈から生まれたもの。

 熱的死を迎えた後の宇宙で、もう一度宇宙が生まれるぐらい()()()()()()()()確率もゼロではない。無限の時間と無限の広さ、無限の試行回数を用いれば、熱力学の法則を覆すなど造作もないのである。

 そして今やその確率をある程度自在に操る生物がいる。よりにもよって、この地球に。

 

【お前達、だ。お前達が、作り出した力。それは宇宙の在り方を、変えてしまう】

 

「……成程。量子ゆらぎの力か」

 

 ミュータントの力の根源は量子ゆらぎ。無から湧き出す無限のエネルギーを、確率の制御により取り出している。

 さながらそれは小規模な宇宙の誕生。例え宇宙が均一になり、与えられるエネルギーがなくなろうとも関係ない。エネルギーは自分達で生み出すのだから。

 今のミュータントは、宇宙から見ればちっぽけな存在だろう。ミュータントが生み出した力など、銀河系一つが放射するエネルギーと比べれば一欠片の砂粒のようなものだ。だがミュータントが更に進化して、より強い力を出せるようになったら? 地球を飛び出して他の星に、他の星系に渡り、繁殖したなら?

 いずれミュータントにより生み出されるエネルギーは、宇宙で消費されるエネルギーを上回るかも知れない。

 そうなった時に起きるのは、宇宙の『成長』。ただ薄く冷えていくだけだった宇宙が、際限なく濃く熱くなっていく。あらゆるものが溢れ、飽和し、活性化していく。

 そしてもう、その宇宙が冷える事はない。

 

【それは、本来の宇宙とは、真逆の進み。正しくない未来。故に、法則は『補正』を行う。力を加えられたバネが、力を開放し、元の安定した状態へと、戻るように】

 

「安定、ねぇ」

 

 ネガティブの言葉を鼻で笑う継実。されど本心では、その説明に納得している。

 世界は安定に向かうもの。

 熱が均一に広がっていくのも、局所的に熱い場所があるよりもその方が安定的だからだ。積み上げたものが崩れるのも、その方が安定的だから。全てはそれで説明が付く。宇宙誕生のような『奇跡』が稀に起きるのも、安定が『確率的に最も起こりやすい状態』であるからで、低確率の状態になる事を否定はしていないからだ。

 しかしミュータントの力はこれを否定する。意図的に、そして代償に見合わない不安定さ(エネルギー)を生み出す。

 きっとミュータントが苛烈な生存競争を繰り広げる度、いや、ミュータントが生きているだけで宇宙はどんどん不安定になっているのだろう。不安定になった世界は、安定を求めるように様々な現象を引き起こす。積み上げた積み木がやがて崩れるように。ところがミュータントの力により、積み木の山は崩れるどころか、何処からか突然取り出された新しい積み木を更に積まれてしまった。山はどんどん高く、世界はますます不安定になり……

 ついに生まれたのだ。不安定な積み木そのものを消す存在が。

 

「つまり、アンタ達ネガティブは宇宙を安定させるための存在って訳だ。ミュータントにより生み出された物質を消す事で……いや、ミュータントそのものを消すのが目的かな」

 

【肯定する。ミュータントを消せば、宇宙は、本来あるべき流れに戻る。それを行うのが、我らの、役割。我々はこれを、反動現象と、呼んでいる】

 

「……役割って言ってるけど、誰かに教えられたり、命じられたりしたの? まさか神様とか言わないよね」

 

【役割は、本能、と言い換えられる。ミュータントを消す衝動。故に我々は、ミュータントを探し、様々な星を消していた】

 

「ああ、本能か。それなら納得だわ……宇宙の厄災になってる事にも」

 

 ネガティブ達が何時何処で生まれたかは分からない。だが本能的に、奴等は察したのだ。自分達と真逆の、対になる存在がいるのだと。

 その存在を探すために、ネガティブ達は宇宙中を探し回った。道中で見付けた、目標じゃなかった星は片っ端から消していく。ミュータントが生み出したエネルギーを、宇宙の不安定さを少しでも解消するために。

 やがてネガティブは地球を見付けた。仲間から通信があったのか、自分達を殺せるのはミュータントだけという本能的確信があったのか。いずれにせよ目的地を見付けたネガティブは、総力を以て攻め込んできたのだ。

 宇宙を本来あるべき姿へと戻すために。

 

「なんで、私にそれを話したの? そりゃ私もミュータントだから無関係とは言わないけど、でも人間なんて別に特別強いミュータントでもないし、私自身に特別な力もないと思うけど」

 

【現在、我々と『星』の力は、拮抗している。勝敗は予測出来ない。そのため、緊急で新たな戦力を導入したい】

 

「……ああ、そっちの味方になれって事ね。で? 見返りは?」

 

【そちらの仲間の、安全と保護。我々は、ミュータントの繁殖は許さないが、個体が寿命を終わらせる程度は、許容出来る】

 

 継実が尋ねれば、ネガティブはそんな提案をしてきた。

 継実はしばしその言葉を噛み締めるように口許を動かしつつ、その提案について考えてみる。

 正直に言えば……自分と家族が無事なら、継実としてはそれも悪くないと思う。勿論自分の手で地球を滅ぼすというのは、理性的には御免被る。しかし自分の命を引き換えにしてでも守りたいかといえば、それもまた否である。継実が命を懸けるのは、自分の家族に対してだけだ。他のモノのために使うつもりは微塵もない。

 何よりネガティブに協力する事は、恐らく世界のためという観点では正しい。

 生命はエントロピーを増大させるための『装置』である、という考えを継実は昔何処かで見た記憶がある。七年前の文明全盛期、生命はエントロピーの増大、つまり熱力学の法則に反しているという話をよく耳にしたが……実際には真逆だ。生命は自己の状態を維持するために多くのエネルギーを消費している。つまり自己のエントロピーを減らすため、それ以上に周りのエントロピーを増大させているのだ。熱力学の法則が当て嵌まるのはあくまで『全体』の話であり、局所的に反している事はなんら問題ではない。生命活動により恒星の光エネルギーは炭水化物の結合エネルギーに変換され、その結合エネルギーは生体維持の名目で最も質の悪い熱エネルギーへと変えられていく。

 そう考えれば、エントロピーの増大、宇宙の熱的死を促進するのが生命の役割とも言えよう。それに逆らうミュータントは、宇宙の法則のみならず、生命としての役割にも反している。神様なんてものがいるとすれば、全力で滅ぼしに掛かる存在に違いない。

 そして何より……

 

「(私達ミュータントの存在が、ミドリの故郷が滅びた原因でもある訳で)」

 

 ミドリだけではない。宇宙の厄災と呼ばれるほどに、ネガティブは数多の星を滅ぼしてきた。今までに何千億、何千兆、何千京の生命が消された事か。

 ミュータント達はただ生きているだけ。しかし生きているだけで、宇宙全ての生命に迷惑を掛けている。死んだ方がマシとは正にこの事か。癪ではあるが、ネガティブの言い分の『正しさ』を継実は理解する。

 宇宙のためにも、ミュータントはここで滅びた方が良いのだろう。

 

「……アンタの言い分は理解した。確かに、私らはここで消えた方が良さそうだね」

 

【我々の提案に同意するか】

 

 確認のためだろうか。ネガティブがそのように尋ねてくる。

 継実はその問いに、静かに手を前に出す。

 ネガティブは最初、その手の意味が分からないのかじっと見つめるだけだった。しかしこのネガティブは継実の脳を読み取り、日本語を話せるようになった個体。握手の意味も読み取れた事だろう。

 ネガティブもまた片手を前に出す。触れれば互いに消し合うその手を、継実は笑顔を浮かべながら近付けた。ネガティブの顔は窺い知れないが、敵意は一切感じられない。二人はゆっくりと手を近付け合い――――

 

「ふんっ!」

 

 継実は自らの手を素早く握り締めるや、ネガティブの顔面目掛けて放った!

 ネガティブはこの攻撃に、反応すらしなかった。継実の拳はネガティブの頭部を直撃。周りに満ちる『何か』を吹き飛ばすほどの衝撃を撒き散らす。

 手加減なしの一撃。ネガティブも身体が大きく傾いた事から、それなりのダメージは入った筈だ。されど致命傷には程遠いらしく、ネガティブは即座に膝蹴りという返事をお見舞いしようとする。

 継実はこれを予見済み。バク転の要領で空中宙返りを行い、ネガティブから距離を取る。空中での姿勢コントロールはそう簡単な行いではないが、継実の運動神経ならば造作もない。

 ましてや継実以上の身体能力を持つネガティブにとっては、殊更簡単であろう。だが、ネガティブは動じているらしい。僅かながらではあるが、気配が揺らいでいた。

 その様を見た継実は不敵に笑う。

 

「ふぅん。脳内を読んでるから思考も読まれるかなって思ったけど、そこまではいかないか。なら、思ったよりは強くないねアンタ」

 

【……理解不能。我々に同意したのではないか】

 

「うん、話には納得した。ミュータントが宇宙から消えた方が良いのも同意する」

 

 宇宙の秩序に反しているミュータント。その存在は消えた方が、この宇宙の法則に則っていて正しい。これまで消えてきた生命への贖罪としても、命を賭すべきだというのは理性では頷く。

 だが。

 

「だから何? ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()んだけど?」

 

 野生的には、微塵も納得していない。

 

【……宇宙がこれ以上不安定になった場合、何が起きるか予想が付かない】

 

「かもね。ネガティブなんて訳分かんない奴が生まれるぐらいだし。もしかしたらビッグリップ、宇宙がビリっと裂けていきなり何もかもがお終いになったりして」

 

【その不安定さの被害を受けるのは、お前達ミュータントだけではない】

 

「だね。アンタ達も地球以外の星を幾つも滅ぼしてる訳だし」

 

【それを理解して、何故抗うのか】

 

 ネガティブは心底不思議そうに尋ねる。

 宇宙の不安定さから生まれ、その生まれた理由に従って動くネガティブには理解出来ないだろう。宇宙を正常な流れに戻す行いを邪魔するなんて。

 そして恐らくミュータント以外の全ての生命が同意し、ネガティブに協力するだろう。ミュータントさえ消えれば宇宙に平和が戻るのだ。悔いるどころか嘘を吐いて反撃するミュータントに怒りすら募るかも知れない。

 しかし継実に言わせれば、何もかもがちゃんちゃらおかしい。

 

「私らはね、生きたいから生きてるんだよ。宇宙のために生きてる訳じゃない」

 

 生命の役割がエントロピーの効率的な増大だとして、どうしてそれを律儀に守らねばならない?

 秩序だとか法則だとか、ネガティブは好き勝手に語っているが、そんなものになんの価値があるというのか。生き物は自分の役割を果たすために生きているのではなく、生きたいから生きているのだ。子孫を残すのも残したいから残してるだけ。自らの役割なんて誰も自覚していない。

 宇宙の不安定化、他の星への被害……どれもこれもくだらない。生き物は常に自分の事だけ考えるものだ。神様や宇宙秩序なんてものがあったところで()()()()()()()()

 そもそも、あんな話で説得出来ると考えている方が腹立たしい。

 

「あとさー、アンタ交渉下手過ぎ。自分の要求を通したいなら、有利なのは自分だって言わなきゃね。今の戦いが互角なんでしょ? なら、アンタを潰せば……私らの勝ちって事でしょ?」

 

 継実の指摘にネガティブは答えない。されどその沈黙こそが如実に語っている。ここでこのネガティブを叩き潰せば、ネガティブ側は一気に劣勢に陥り……地球は救われるのだ。

 しばしの沈黙の後、ネガティブの周りを漂うゼロ物質が揺らめく。さながら、ため息を吐くように。

 例え顔が見えずとも、例え感情を滲ませる事がなくとも、何を思っているのか察するのは容易い。

 話し合うつもりはなくなったのだ。

 

【宇宙の秩序を正すため、ここでお前達には消えてもらう】

 

 ネガティブは宣言と共に構えを取る。

 隙のない立ち姿に加え、放つ闘志は圧倒的。これまで戦ってきたどのネガティブよりも強大で、完璧な戦闘技能を持ち合わせている。数多の戦闘経験を積んだ歴戦の戦士なのか、それともネガティブという存在の『核』なのか。正体は不明だが、一つだけ確かな事がある。

 まともにぶつかれば勝ち目などない点だ。それこそ物理法則にケンカを売るが如く。

 しかし継実は一歩も退かない。怯えも見せないどころか、不敵に笑ってみせる。

 そして自称宇宙の不安定化を止めるために生まれた正義の存在に、人差し指を向けながらこう告げるのだ。

 

「何時か必ず滅びる秩序(ルール)なんてクソ喰らえよ。そっから生まれたアンタをぶっ倒して、私らミュータントが新しい秩序に成り代わってやるわッ!」



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賑やかな星13

 先手を取ったのは、継実。

 構えを取るネガティブに対し、継実は全身全霊の蹴りを放つ。身体をバネのようにしならせて繰り出した一撃は、自分でも制御出来ないパワーを宿す。

 継実自身見切れるか怪しい速さの一撃を、ネガティブは頭部で受けた。いくら格上とはいえ頭への打撃。ダメージは小さくない……と思いたいところだが、ネガティブ相手ではそうもいかない。

 

「(ちっ! 掴まれたか!)」

 

 継実の蹴りを受けたネガティブの頭部は、ぐにゃりと変形し、逆に継実の足を包み込んでいた。ネガティブは不定形の存在、正確には『輪郭』を持たない純粋な力だ。わざわざ手や足で攻撃を受ける必要はなく、受ける場所に適した『形』を作れば良いのである。

 このままでは不味いと継実は足に力を込めるが、蹴った直後の体勢、即ち宙に浮かんだ状態では力も殆ど入らない。だからといってもう一方の足で顔面を踏んだところで、最初に蹴り付けた足と同じ末路が待っているだけ。

 身動きが取れなくなり歯噛みする継実に、ネガティブは容赦などしない。

 大きく腕を上げ、力を溜め込み……継実の腹目掛けて拳を振り下ろす! ネガティブからの強烈な一撃に継実は守りも取れず、そのまま受けてしまう。

 

「がふっ……!」

 

 ネガティブの鉄拳の威力は凄まじく、一撃で継実は呻く。衝撃で内臓は破損し、逆流した血液が血反吐として吐き出された。

 しかしこの程度のダメージ、ミュータントにとっては大したものではない。強敵を相手にする時は割とよく受ける程度のもので、ちょっと歯を食い縛れば痛みは抑え込める。

 それよりも問題なのは、触れられた部分が『消滅』している事だ。しかも予想以上に。

 

「(消える事自体は予想していたけど、威力については予想以上だなこれは……!)」

 

 ネガティブに殴られた腹は服どころか皮膚が消滅し、拳が身体の内側にめり込んでいる。出血はネガティブの手に触れた傍から消えていて、また傷の断面を塞ごうと盛り上がる肉も次々と消されていた。

 他のネガティブとは比にならない力を感じていたが、消滅させる力も今まで戦ったどの個体よりも強いようだ。とはいえミュータントの力を用いても、ここまで止めるのが難しいとは思わなかったのが実情である。

 腹を貫通したところで、継実であれば死には至らない。それでも体内の臓物を消され続ける状況は好ましくない事だ。肉体的ダメージのみならず、体力を大きく消耗してしまう。

 しかし足は未だネガティブの頭部に包まれたまま。これでは離脱も儘ならない。

 取れる策は二つ。一つは足を切断しての離脱。この方法は少しの体力消費と引き換えに、確実に行える。それに今までの人生で足やら腕やらを部分的に切断するなんて、何度もやってきた事だ。簡単確実にやれるのも利点と言えよう。

 もう一つの策は強烈な一撃でネガティブの頭を吹っ飛ばす。相手の戦闘能力を思えば確実に成功するとは思えないし、頭とはいえ変幻自在で臓器もない場所なのだから壊したところで致命傷にもならない。だがダメージとしては小さくないものだろう。相手に損失を与えながら脱出出来るのだから一石二鳥というもの。

 確実性重視か、ダメージ重視か。悩む間もネガティブは動き、腹から引き抜いた拳で二発目の攻撃をお見舞いしようとしている。これ以上悩んでいる暇はない。

 継実が下した決断は、二つの合わせ技だった。

 

「アンタに舌なんてないだろうけど、刺激的な味を堪能させてあげるよ!」

 

 掛け声と共に継実は、ネガティブに掴まれた足に能力を発動。足を形成している粒子の運動量を高めていく。

 運動量が増幅した粒子は高熱を放射。本来なら能力で制御出来る熱だが、継実は敢えてネガティブに取り込まれた部分だけ能力制御の対象外にする。能力に守られていない足の水分等々は瞬時に加熱・沸騰・気化・プラズマ化。プラズマが放つイオンや電子が、未だ無事な原子核を直撃して崩壊させていく。

 つまるところこれは、核分裂のプロセス。

 取り込まれた部分の多くをエネルギーに変えて、継実は自らの足を爆破した! とはいえ所詮核爆発。継実含めた大半のミュータント、ひいてはそれに匹敵するネガティブに通じる威力ではない。

 そこで継実はもう一工夫を施す。片足を爆破するための能力を、()()()()()()()()()で集中的に発動させたのだ。量子ゆらぎの力こそがネガティブの消滅させる力に匹敵するもの。爆破する足で能力に必要な力を作り出す事で、全身で能力を使うよりも高密度の力を叩き込める筈だ。

 果たして作戦はどうなるか。

 

【……ッ!】

 

 答えは大きく仰け反ったネガティブの、部分的に欠けた頭部が教えてくれた。

 これまで戦ってきたネガティブは、身体が欠損するほどの傷を受けると霧散して消滅していた。此度の傷は大きなものではないが、それでも頭部粉砕の大怪我である。ひょっとしたらこのまま……

 そんな甘い考えが脳裏を過る継実だったが、本能は有無を言わずに無視した。相手はこちらの蹴りを自ら頭の中に取り込んだのだ。どんな反撃が来るかは分からずとも、反撃そのものは想定しているに違いない。

 頭が欠けるぐらい、大したダメージではないだろう。

 

【イギロォオッ!】

 

 予想通りネガティブは一際大きく(元気良く)吼えるや、砕けた頭を変形させ、触手のように伸ばしてきた!

 

「ふんっ! 余裕が崩れて、折角覚えた言葉を忘れてるよ!」

 

 襲い掛かるネガティブの触手に対し、挑発染みた台詞を返す継実。しかし真っ向から受け止めるつもりはない。全力で後退して触手から逃れる。

 ついでに、周りのゼロ物質を利用して粒子ビームを用意した。

 ゼロ物質は正体不明の存在であり、どんな性質があるか分かったものじゃない。実際継実の粒子操作能力でも、いまいち上手く集められない状態だ。恐らくミュータント能力の源である量子ゆらぎの力を、ゼロ物質も掻き消しているのだろう。とはいえネガティブほど強力ではなく、効きが悪いだけで全く通じない訳でもない。

 お陰でどうにか攻撃に使えそうな程度には集まった。性質が未知数なだけに暴発する可能性もゼロではないので、強烈なものを撃つのはリスクが高い。威力が小さい分には丁度良いと、継実は作り上げた撃ち出す!

 とはいえ相手はネガティブ。粒子ビームは基本的に通じないと思われる。あくまでも目眩まし、ほんのちょっぴり(ただのエネルギー攻撃でも少しは虚無に還す力を消耗する筈なので)体力を削る事が出来れば良い。

 その程度の期待だっただけに。

 

【ィギギッ!】

 

 ネガティブが首を傾げるようにして()()()とは思わなかった。

 

「は? ――――がっ!?」

 

 或いは、そうして驚かせるのが目的か。予想外の行動に戸惑った継実は動きが止まり、その隙に繰り出してきたネガティブの拳を避けきれず。顔面に拳が直撃してしまう。

 だが、ただではやられない。

 顔を殴られた反動で空中をバク転するように一回転。それと同時に継実は蹴りを放つ!

 継実が放った二度目の蹴りは、ネガティブの顎を打つ。攻撃を取り込むには事前準備が必要なようで、此度の蹴りは取り込まれる事もなし。強烈な一撃を受けたネガティブは仰け反るような格好で吹き飛ばされた。

 しかしネガティブもただ吹き飛ばされるだけでは終わらない。ネガティブは飛ばされながら腕を前に突き出すと、その腕を伸ばして継実に掴み掛かろうとしてくる。

 

「ん、のゃろォ!」

 

 継実はその攻撃に対し、粒子ビームを射出。

 今度の粒子ビームはネガティブの腕に命中する。とはいえ殆どダメージにはなっていないらしく、怯んでもいない様子だ。

 元より継実は攻撃のために粒子ビームを撃ったのではない。粒子ビームの反動により加速し、距離を開けるのが目的なのだから。

 伸びてくる腕よりも速く後退。ある程度離れたところで、継実は体勢を直しながらネガティブと向き合う。ネガティブも静かに佇みながら継実をじっと、目などないが、見つめるように意識を向け続けた。

 しばし、睨み合いが続く。

 ……されど段々と継実の身体から力が抜け始めた。鼻息も荒くし、視界も段々と掠れてくる。つまるところ疲労の症状が出てきていた。

 地球から一時間以上飛んでいるとはいえ、ミュータントのスタミナであれば大したものではない。戦闘モードだって使っていない。なのに何故疲労困憊なのか? その原因は継実自身分かっている。

 

「(ああクソッ……やっぱり呼吸なしで戦い続けるのは辛い……!)」

 

 呼吸をしていないからだ。

 この空間にあるのは正体不明のゼロ物質だけ。ネガティブの力でも消滅しない、この宇宙に存在する筈がない物質だ。継実は戦いながら解析を試みていたが、やはり簡単には分からない。分かっているのは精々触れたものを消滅させる性質だけ。粒子ビームにして撃つだけなら兎も角、現状毒にしかならないものを煽る訳にはいかないのである。

 故に地球を飛び出してから今に至るまで、継実は呼吸をしていない。体内の二酸化炭素を分解して酸素を得て、その酸素を燃やすという循環を延々と続けている。かつてアホウドリが繰り出した『真空状態』から抜け出すために使った技だ。弱点もあの時と変わらず、エネルギー消費の激しさが挙げられる。

 それだけならばまだしも、ネガティブに触れればそれだけで継実の身体は『消滅』という形でダメージを受けてしまう。基本的に全ての攻防が肉を切らせて骨を断つ……或いは骨を切らせて骨を断つような状態。肉弾戦しか効果がない以上、リスクなしの攻撃は出来ない。

 何をどうやっても消耗しかない。それどころか攻撃を一旦止めて休憩しても、呼吸出来ない事こそが疲労の最大原因なのだから意味がない有り様。こうなると取れる打開策は一つだけ。

 速攻で目の前の敵をぶちのめす事だ。

 

【疲労が見て取れる】

 

 しかしその方針も、相手に疲労状態を見抜かれては成功の見通しが立たないのだが。

 ましてやネガティブ側が速攻を仕掛けるように突撃してきたら、負けじと突撃なんてする訳にはいかない。根本的に身体能力では継実の方が劣っているのだから、真っ向勝負など愚の骨頂なのである。

 

「ぐっ……!」

 

 反射的に継実は両腕を身体の前に構え、防御を固める。されどそんなものは関係ないと言わんばかりに、ネガティブはこれまで以上のパワーとスピードで殴り掛かってきた。継実は腕でこれを受けるが、強い衝撃、そして虚無の力に蝕まれて皮膚が消滅。攻撃の威力は骨まで到達した。

 常人ならば痛みで悶絶または失神するだろうが、生憎今の継実は超人。この程度の痛みで意識を手放す事はない。それどころか状況の不利さから萎縮していた闘争心に、痛みという燃料を焚べてやった。本能が生命の危機に対し、爆発的なエネルギーを生み出す。

 

「嘗め、ん、なアァァァァッ!」

 

 継実は雄叫びを上げながら、ネガティブに向けて蹴りを放つ!

 全身の力を足に乗せた一撃。直撃を喰らわせれば、このネガティブにとっても多少は手痛い一撃になっただろう。

 しかしネガティブの胴体を難なく貫通するのは流石に予想外。予想外過ぎて、嬉しさの前に警戒心が爆発的に上がる。

 もしも警戒していなかったら、足に掴み掛かろうとするネガティブの手を躱す事は出来なかったに違いない。咄嗟に足を引っ込めたのでそれは回避出来たが、継実は冷や汗を流す。

 

「(躱された……!)」

 

 自慢の一撃だった足蹴を、ネガティブは回避していた――――身体の真ん中に大穴を開けるという方法で。

 ネガティブの形は変幻自在。しかしここまで素早く、そして大胆な変形は見た事がないためつい失念していた。自分の迂闊さを呪いたくなる、が、そんな暇はない。

 大慌てで足を引っ込めた事で体勢を崩した継実に、ネガティブの追撃が襲い掛かってきたからだ。

 

【イギァッ!】

 

 大きく振り上げた腕が狙うは、継実の頭。

 ネガティブの打撃を腕で受けても、皮膚どころか筋肉を消され、骨まで到達するのはここまでの戦いで既に実証済み。ではもしも頭に攻撃を受けたら、果たして骨でネガティブの攻撃は止まるのか? 否であろう。筋肉なんて殆どなく、厚さ数ミリの頭蓋骨に上腕骨ほどの防御力はない。間違いなくネガティブの打撃は骨を貫通し、脳を抉っていく。

 心臓を破壊されようが、下半身をぐちゃぐちゃに噛み潰されようが、継実にとっては回復可能な傷だ。だが能力の演算を行う脳だけは、例え一部でも破損したら不味い。

 継実は咄嗟に腕を構えてこれを防ぐ。骨まで達する攻撃を受けて顔を顰めつつも、継実は渾身の力で腕を押し返す。その拍子にバランスを崩したネガティブに蹴りを放つが、狙った場所であるネガティブの肩がざわりと揺らめいた。また取り込まれる可能性があり、継実は蹴りを途中で止めざるを得なくなる。蹴りの体勢で一瞬固まり、更に戻す動きも加えたとなれば、ミュータントにとっては呆れるほど隙だらけな姿だ。

 ネガティブはこのチャンスを逃さない。

 さながら刀のように腕を変形。細く鋭い腕部で、継実に斬り掛かってきた! 幅広いだけでなく、薄くなった事で抵抗が減ったのかスピードもある。ましてや崩れた姿勢では即座に対応出来ない。

 

「(これは……躱せないか!)」

 

 迫る腕に対して継実が選択したのは防御。引っ込めようとした足を掲げ、盾のように構える。

 刀のようなネガティブの腕は、脛骨(膝から下にある長い骨)で受け止めた。ネガティブはこれを引き抜こうとするが、今度は継実がネガティブの腕を捕まえる。骨を急速に『再生』させる事で圧を加え、抜けないようにしたのだ。勿論ネガティブに触れている骨は次々と消滅するが……この後与えるダメージに比べれば微々たるものだ。

 ネガティブの薄くなった腕をへし折り、千切るというものに比べれば。

 

「ぬアァッ!」

 

 ネガティブの腕に向けて、継実は両腕を組んで作った『ハンマー』を振り下ろす!

 ネガティブもこの攻撃の危険性に気付いたのか逃げようとするが、一手遅い。引き抜くのは間に合わず、継実の鉄拳がネガティブの腕を打つ。消滅の力は変わらずあり、継実の拳を容赦なく削るが……込めた力と質量で押し切る!

 打ち付けた打撃はネガティブの腕を貫通。人間で言えば丁度肘の辺りから切断する事に成功した!

 

「(良し! まずは手数で有利を取った!)」

 

 蓄積したダメージと疲労は継実の方が大きいだろう。だが片腕を失えば、その分攻撃の手数とバリエーションが減る。劣勢を挽回する下地が出来たと言って良い。

 無論ネガティブは不定形の存在なのだから、切られた腕を再生するぐらい容易だろう。だが再生には時間とエネルギーが必要だ。猛攻を仕掛ければそんな暇は与えない。

 ネガティブに斬られた足の傷は回復していない。だが此処は空気のように場を満たすゼロ物質はあれども、基本的には宇宙と同じ無重力空間。足の力など使わずとも、粒子の運動方向を変えれば簡単に飛んでいける。

 ネガティブは腕を回復させようとしてか、断面を蠢かせていた。そうはさせまいと、継実は最高速度で突進。片腕しか使えないネガティブだが、攻撃の意思を示すように残る腕を大きく振り上げる。しかしいくら大振りでも当たらなければ無意味。継実はその腕に最新の注意を払う。

 それが罠だと気付かずに。

 

「っ!? なん……」

 

 突然感じたのは、自分の首に迫る殺気。それも正面からならまだしも、背後からやってきている。

 もしもただの人間ならば ― そもそも殺気を感じられないという点には目を瞑るとして ― 気の所為だと切り捨てるかも知れない。折角のチャンスを前にして後退など勿体ないし、ネガティブのすぐ傍まで来て反転するなど自殺行為なのだから。しかし継実の本能はそれを行わなかった。これを無視したら死ぬと確信したがために。

 目前のネガティブを一旦意識の脇に寄せ、ぐるんと継実は後ろを振り返る。

 すると至近距離に、()()()()()()()()が迫っていると視認出来た。

 

「ぬ、ぅアアアッ!?」

 

 反射的に、継実は迫ってきていた腕を両手で掴む。

 掴んだ瞬間に消滅していく自分の手の表面。間違いなくこれはネガティブの腕だと分かる。腕先にはしっかりと手が付いていて、五本の鋭い指で継実を引っ掻こうとしていた。

 しかし一番の問題は、その腕が一本ふわふわと飛んでいる事。

 すぐに継実は気付いた。この腕が、先程自分がネガティブから切断したものだと。思えばネガティブは虚無の集まりであり、そこに脳神経だのなんだのがある筈もない。ならば意識や思考は、全身で行える筈なのだ。切り離された腕が自分の意思を持っていたとしても、なんら不思議はない。小さく分割すれば不安定になって消滅すると継実は考えていたが、甘い見込みだったようだ。

 腕を切り落としたのは失敗だった。だが後悔しても仕方ない。幸いにして腕は対して大きなものではなく、それ故かパワーも殆ど感じられなかった。奇襲攻撃が関の山。継実が両手で握り潰せばあっさりと消え失せる。

 されどこれで危機が去ったなんて安心するのは間抜けだけ。継実の背後には、腕の再生を終えたネガティブが立っているのだから。

 

「こ……んの……!」

 

 迫りくる腕を消し終えた継実は、我が身が痛むほどの力でネガティブの方に振り返る。

 その時にはもう、ネガティブは継実に両腕を伸ばして掴み掛かろうとしてきていた。継実は反射的にその腕を掴んで止めようとし、思惑通り継実の手とネガティブの手が組み合う。

 そしてそれはネガティブにとっても思惑通り。

 ネガティブの頭が変形し、ハサミのような形状へと変わる。何をするつもりか? 考えるまでもない。継実の弱点である頭を、胴体から切り離すつもりなのだ。

 自分の行動がまたもや失敗だったと気付くも、今の継実は両手で相手を掴んでいるため身動きが取れない。身体を仰け反らせたところで、変幻自在なネガティブの身体はきっと伸びてきて容易に追跡してくる。

 ならばと継実は自らの手を自分の意思で切断した。両手が自由になるのとほぼ同時にネガティブの頭ことハサミが、それと腕が継実に襲い掛かる。継実は両足で腕を蹴り上げて退かし、迫るハサミを再生させた両手で掴もうとした

 直後、ぐにゃりとハサミの向きが変化する。

 ハサミが狙ってきたのは、継実の右腕だった。

 

「不味……!」

 

 継実は右腕を引っ込めようとした、が、その右腕をネガティブの手が掴む。振り解く事も、部分的に切断する事も出来ない。

 迷ったのは一瞬。だがその一瞬で全てを追えるには十分。

 ヂョギンッと鳴り響く鈍い音と共に、継実の右腕は上腕骨の真ん中辺りで切られた。

 

「ぐぁっ……あ、アアアアアアアアアアッ!」

 

 継実は叫ぶ。されどこれは悲鳴ではない。痛覚神経の訴えを闘争心へと変換し、胸の中で溢れ返った攻撃的激情が叫びとして出てきたのだ。

 片腕が切られたからなんだ。腕はまだもう一本残っているのだから戦える。抱いた思考を実現させるように、継実は身体中のエネルギーを残る左腕に集中させ、そしてネガティブの胸目掛けて放つ!

 が、ネガティブはこれを両手で掴み掛かった。

 ネガティブからすれば今の継実は片腕しか使えない。今までと比べて攻撃のパターンは読みやすく、そして反撃の手数も少なくなる。攻撃してきた腕を掴むのは、今までよりも容易なのだ。

 冷静に考えていれば分かる事だったが、劣勢を覆すための闘争心を沸かせ過ぎた……端的に言って頭に血が上り過ぎていた継実はこれを失念していた。しまった、と思った時には手遅れ。腕を引っ込める事も間に合わず、継実の残り一本の腕はネガティブに両手で掴まれた。

 そしてネガティブは捕まえた継実の腕を肘辺りから、さながら握り潰すように力を込める。継実は筋肉を張り、粒子操作能力を発動してこれに耐えようとするが、二つの手の消滅の力を耐えられるほどでなく。

 敢えなく残り一本の腕も、切り落とされてしまった。

 

「ぐぁ……こ、の……!」

 

 両腕を失っても未だ継実の闘争心は消えない。腕など再生させれば良いのだ。戦いはまだ続けられる。

 ただし体勢を立て直す猶予を与えてくれるとは限らず。継実の腕を切断したネガティブは、既に継実に向けて次の攻撃を仕掛けていた。

 具体的には、頭目掛けて。

 

「(あ、これは流石にヤバい)」

 

 迫るネガティブの両手を前にして、継実の頭から一気に血の気が引く。

 頭の骨と肉ではネガティブの攻撃を受け止められない。脳に致命的ダメージを受けたら回復出来ない。しかし腕を失った継実に、この攻撃への防御姿勢は取れない。

 あらゆる条件が防御不能を示す。思考を高速で巡らせても、攻撃を交わしたり、構えを取って防御する事は不可能だという結論しか出てこない。出来る事があるとすれば、精々猛獣染みた眼光で睨み付ける事だけ。

 しかしネガティブがそんな無意味なものを向けられただけで止まる訳もなく。

 虚無の力を宿した二つの腕が、継実の頭に左右から叩き付けられた。



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賑やかな星14

 避けられなかった。

 避けようがなかった。両腕を落とされた状態で、自分以上の身体能力の持ち主から逃げる事など出来やしない。

 ろくな動きも出来ないまま、継実の頭はネガティブの両手に掴まれた。腕の筋肉と骨を貫く一撃が、肉も骨もろくにない頭蓋を打つ。防ぎきれない衝撃が継実の脳へと伝わる。

 継実は動かない。悲鳴も何も上げやしない。

 そんな継実に向けて、ネガティブは語り掛ける。

 

【……何故】

 

 疑問の言葉を。

 理由は簡単だ――――継実の頭に触れたネガティブの手が、頭蓋骨どころか皮膚すら破れなかったのだから。

 継実は瞳をギラギラと輝かせながら、不敵に笑う。あたかも勝利を確信したかのように。

 

「……ぶっちゃけ賭けだったけどね、でも分が悪い訳じゃなかったよ。いやー、宇宙の摂理とやらは意外と弱点丸出しだなぁ」

 

【……………】

 

「あとさー、やっぱアンタ交渉下手過ぎ。ここで黙ったら認めるのと同じだよー。ま、否定したところで現に通じてないから、すぐに嘘だってバレるけど」

 

 煽るように語れども、ネガティブは口(などないだろうが)を噤んだまま。語るべき言葉が見当たらないのだろう。

 つまり向こうも自覚している事。ならばわざわざ語るまでもない。

 自分達の周りにあるゼロ物質を膜のように展開して壁を作ったなんて、説明する必要はないのだ。

 

「(まーだこれが何かも分かんないけどね……やっぱり存在そのものの『ルール』が違う。解析は、時間を掛ければ出来そうだけど、すぐには無理か)」

 

 惑星ネガティブを満たすゼロ物質の性質は未だ不明。そもそもこれを物質と呼んで良いかも分からない。だが、ここまで観察していて二つ分かった事がある。

 一つは、継実が触れると僅かながら身体を消滅させられる事。

 そして二つ目は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だ。何故消えないのかは全く分からないが、結果は継実の能力で観測出来ている。どんな性質を有していようが、これだけは揺るがない。

 つまり、集めて盾にすればネガティブの攻撃を防げるのだ。

 ……筈なのだ。かも知れない。そうだと良いな――――という極めて甘い見通しなのは継実も自覚するところだが。もしかすると集めて固めたところで、ネガティブの腕をすり抜けたり爆発したり、ネガティブの腕が加速したりしたかも知れない。そんなのあり得ない? ルール不明の存在に『あり得ない』を考える事こそが間抜けというもの。

 なんにせよ、継実は賭けに勝った。止めの一撃を生き延びたのである。

 

「(ま、コイツからしてみれば有利な陣地を作ったつもりだったんだろうけどね)」

 

 ネガティブが何時からこの宇宙に誕生したかは不明だが、このゼロ物質とは相当長い間触れ合っていた筈だ。つまりネガティブは、ゼロ物質がどんな性質を持っているか熟知している。継実達この宇宙の物質が触れたら消えてしまう事も知っていただろう。

 きっとフィアやミリオンでも、この場所でネガティブと戦う事は出来ない。粒子の観測能力を持たない二人では、この場に仕掛られた『罠』を見抜けず、身体の内側から蝕まれていただろうから。花中でも駄目だ。彼女ならゼロ物質には気付くだろうし、継実よりも詳細かつ素早く解析したと思われる。しかし花中の運動神経はお世辞にも良いものではない。継実がゼロ物質で作り上げた粒子ビームを、ネガティブは最初こそ避けたが、二発目は受け止めているのだ。ネガティブを倒すには、直接ぶん殴る以外に倒す術はない。

 だとすると、この惑星ネガティブ中枢で戦えるのは……

 

「……ん、んふ、んふくくくく……」

 

【何故笑う。状況はほぼ改善していない】

 

 突然笑い出した継実に、ネガティブが問いを投げ掛けてくる。

 実際その通りだ。相変わらず継実はこの場所で呼吸が出来ず、エネルギーは枯渇気味。粒子操作能力を解除すれば瞬く間にゼロ物質により身体は蝕まれ、ゼロ物質で作った粒子ビームを撃ち込んでもネガティブには傷も付かない。相変わらずどうしようもないほど不利だ。

 笑えるような状況は、何一つ見られない。しかしそれでも継実は笑う。

 

「そりゃ笑うでしょ……世界を救うスーパーヒーローに一度はなってみたいのは、男の子だけじゃないんだよ!」

 

 自らの気持ちを吐き出すのと同時に、継実はネガティブに()()()()()()

 ネガティブに顔はない。だが驚いた事は雰囲気から察せられた。理由は、切断した筈の継実の腕がすっかり元通りになっているからだろう。体力を激しく消耗した継実に、身体の欠損を治す余裕などないと思っていたに違いない。

 とはいえ驚きは一瞬だけ。継実の頭を掴んでいた手を即座に引っ込めるや、継実の拳を受けるように上腕を構えた。ネガティブの顔面目掛け真っ直ぐ、小細工なしに放っていた継実の拳はそのままネガティブの腕を打つ。

 防がれた打撃。ましてや身体能力で継実よりも勝るネガティブにとってそれは、大した一撃ではない

 筈だった。

 

【ギ、ロ……!?】

 

 だが、ネガティブは呻く。

 ネガティブの腕に触れた継実の拳は、消えていない。骨どころか表面の皮さえも。

 消える事のない拳に纏う、量子ゆらぎの力がネガティブの腕の奥深くまで突き刺さる! これまで攻撃を受けても呻き一つ上げなかったネガティブが、これまでにないほど大きなダメージに動揺していた。

 

【な、にが……】

 

「ぬぅううううっ!」

 

 その動揺の隙を突いて、継実はネガティブに『両手』で掴み掛かる!

 ネガティブは我に返ったような仕草を見せつつ、継実の腕に即座に反応。こちらもと言わんばかりに手を伸ばし、継実の手を掴んだ。

 そのまましばしの取っ組み合い。

 パワーではやはりネガティブが上。しかも継実はエネルギー不足で疲労困憊の身であり、戦闘モードも使っていない。条件は明らかにネガティブの方が有利だ。実際取っ組み合いでは継実の方が押され、どんどん後退していく。

 だが、動揺を見せたのはネガティブの方だった。

 

【イ、ギ……!?】

 

「ぬぐぐ……やっぱパワーじゃ敵わんか……な、らァ!」

 

 狼狽えるネガティブを余所に、継実は楽しげに笑いながら回し蹴りを放つ! 反応が遅れたネガティブは、頭部にその一撃を受ける。

 するとどうした事か、ネガティブの頭は容易く砕けたではないか。大事なものは詰まっていないが、以前は取り込む形で受け止めていた場所があっさりと砕けた事実に、まるで驚くかの如くネガティブは後退り。

 そうして開いた距離を、継実は駆けるように飛んで詰める。ネガティブは迫り来る継実に拳で応戦するも、継実の掌はこれをどうにかキャッチ。力強く握り締めて逃さない。

 そしてネガティブに更なる動揺を与えた。無論パワーの強さによってではない。

 直接触れ合っているにも拘らず、継実の掌が消えていかない事によってだ。

 

【まさか、これは――――】

 

「おっ。そろそろ気付いた?」

 

 ぽつりと零すネガティブの言葉に、継実は不敵な笑みを返す。答えだと言わんばかりに、拳を受け止めた方の手を一際強く握り……そのままネガティブの手を潰した。

 ぐしゃぐしゃに潰れた手。ゆらゆらと揺らめきながら回復するその手を、ネガティブは目のない顔でじっと見つめている。やがて信じられないと言わんばかりに、身体をぶるりと()()()()()

 今まで全くダメージなど入らなかったネガティブの身体に、少しずつだが傷が蓄積していく。逆に継実の身体は今まで触れるだけで酷い怪我を負っていたのに、今ではほぼ無傷だ。

 無論、これは小手先の作戦や死物狂いの気合いでどうにかなるものではない。確かな理屈がなければ変わらない現実。継実はその現実を作り上げた。

 

「アンタの予想通りだよ。私の両手両足は、この場に満ちてる物質で再構築している」

 

 或いは、置き換えたと言うべきか。

 今の継実の手足を作るものはゼロ物質。触れると身体が消えてしまうので結合は出来ないが、しかし粒子操作能力で操る事は可能だ。効きが悪いので素早く自由に、という訳にはいかないが……ネガティブに触れて消えないというのは、欠点を補って余りあるメリットだ。万一破壊されたところで周りはいくらでもゼロ物質に満ちている。戦うのに支障はない。

 そしてこの反物質の手足はもう一つ、実際に使ってみて分かった利点があった。

 

「コイツで殴ってみて分かったんだけどさ……アンタら、実は結構()()()()()()()でしょ?」

 

【……………】

 

「ここでの沈黙は肯定と受け取るけど、どうなの? 弁明はある?」

 

 改めて尋ねてみても、ネガティブは何も答えない。しかし微かに震える身体が全てを物語る。

 そう、冷静に考えればおかしいのだ。ネガティブが、物理攻撃で怯むというのは。

 何故ならネガティブに触れた瞬間、物質とエネルギーが消えるならば、運動エネルギーは殆ど相手に伝わらない筈だからである。運動エネルギーは質量×速度の二乗で算出される。質量が即座に消え去れば、運動エネルギーも計算上はゼロだ。ミュータントには量子ゆらぎの力があるため、通常の物質よりはネガティブに通じるとしても……それでもやはり質量が消えている以上、計算上はゼロになっている。だからどんなに強烈な物理的な衝撃をぶち当てたところで、ネガティブの身体には殆ど届いていない筈なのだ。

 ところがネガティブは継実達ミュータントの物理攻撃に、仰け反るわ叩き潰されるわ踏み潰されるわ、あまりにも呆気なくダメージを受けている。ゲーム的に例えるなら、九十九パーセントのダメージをカットしておきながら、数値上普通の敵と同じぐらいのダメージを受けているようなもの。

 この事実が示すものはただ一つ。ネガティブ自身の身体は、大して頑丈ではないという事だ。

 

「まぁ、考えてみりゃ当たり前だよね。アンタ達の正体が世界を虚無に還す力だとして、その力が『硬い』とか『破壊力』を生むとかはない。硬さってのは物質に対して使う言葉だし、物理的な衝撃を生むには速さと質量が必要。ただの現象に過ぎないアンタに、怪力とか防御力は生まれない。今まで力だと思っていたものも、単に虚無に還す力と、私らの量子ゆらぎが生み出したエネルギーの鍔迫り合いだった訳だ」

 

【……………】

 

「アンタの力がどんなとんでもないものでも、それが宇宙の摂理だとしても、種が分かればこんなもん。相手を解析し、対応出来れば勝てない相手じゃない」

 

 継実の言葉をネガティブは淡々と聞くだけ。攻撃もしてないのに段々とその身体の震えが大きくなってきているのは、身体の回復が上手く出来ていないのかも知れない。

 形勢は逆転した。宇宙の災厄は、今や対策可能な災害に過ぎない。

 勝利を確信した継実は大きく胸を張り、ゼロ物質で出来た腕を組みながら、体内に溜まった老廃物と不純物を鼻息として力強く吐き出す。

 

「たかが自然現象風情が、私ら生き物に勝てると思うなよ」

 

 そして勝ち誇るように煽り台詞をぶつけてやった

 刹那、背筋が凍るほどの悪寒が、継実の正面からぶつけられた。

 

「……ん……………んー?」

 

 一瞬何が起きたのか分からず、継実は呆けてしまった。時間が経つほど、状況は理解出来たが……同時に困惑も大きくなっていき、身体が硬直してしまう。

 継実の正面に立つのは、ネガティブが一体のみ。ネガティブに大きな動きはないのだが、ひしひしと伝わってくる『想い』はある。いや、そんな感覚的なものを頼りにせずとも、話している間ダメージも受けていないのにどんどん大きくなる身体の震えを見れば明らかというものだ。

 明らかに、ネガティブは()()()()()()()()

 ネガティブは虚無に還す力の集合体。如何に感情的な振る舞いをしようとも、どれだけ知的に会話しようとも、そこには何も存在しないのだ。何もない、全てが消えたという現象に過ぎない。

 その現象が、怒りを向けてくる。

 何が起きているのか分からない。何があったのかも分からないし、どんな理屈があるのかも分からない。

 ただ継実は本能的に、自分のやってしまった事を察し――――ぽつりと呟く。

 

「……もしかして私、コイツの逆鱗に触れちゃった感じ?」

 

 その呟きが正解だと言わんばかりに、ネガティブは雄叫びを上げる。空間がひずんでいると感じるほどの、おどろおどろしい咆哮。

 その叫びと共に、黒い自然現象は『激情』を迸らせながら突撃してくるのだった。



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賑やかな星15

 猛然と突撃してくるネガティブ。これまでとは桁違いのパワーとスピードを感じさせる動きだ。

 正直に言えば、継実は肝が冷えた。ゼロ物質の手足を作り上げ、ネガティブに有効打を与えられるようになったが……こんなものは付け焼き刃に過ぎない。案外身体が脆弱だという弱点こそ判明したが、それでも力と速さはネガティブの方がずっと上だ。ゼロ物質で作り上げた手足はいまいち動きが良くないので、その差は更に広がっている。体力だってもう残り少ない。

 臆さず攻勢に出られるのは、継実にとって割と最悪の展開である。お前に勝ち目なんてないぞと自信満々に主張すれば、尻尾を巻いて逃げ出すかもと期待していたのだが……逃げないだけなら兎も角、怒りを燃え上がらせてしまうとは。

 ネガティブを交渉下手だと嘲り笑ったが、自分の人の事は言えないな――――等と継実が現実逃避をしたところで、迫るネガティブは消えてくれない。立ち向かわねば、死ぬ。

 

「っ、ぬぅああっ!」

 

 ネガティブが肉薄してきたところで、継実はゼロ物質の拳を放つ!

 継実の繰り出した一撃はネガティブの顔面に命中。顔が大きく仰け反り、それでも勢いを殺しきれず砕け散る。中身がないとはいえかなりの大ダメージだろう。

 だがネガティブは止まらない。

 全ての物質を消し去る腕が振るわれ、継実の顔面を狙う! 咄嗟に顔を反らして避けたが、あと一瞬反応が遅れていたなら直撃していたに違いない。

 或いは、攻撃がもう少し『正確』で、こちらの動きに反応して軌道修正を試みてきたなら、だろうか。

 

「ふんっ!」

 

 継実がゼロ物質の足で腹を蹴れば、ネガティブは大きく吹き飛ばされた。が、勢いを押し留めるや否や再び突撃を仕掛けてくる。真っ直ぐ、小細工なしに。

 勇猛果敢な攻勢、と呼べば恐ろしいものだが……今のネガティブが繰り出しているものは違う。こんなのはただの猪突猛進に過ぎない。

 だから寸でのところで身を動かせば、ネガティブはあっさり空振りして、継実が足を出せば簡単に蹴躓く。ゼロ物質しかない空間で蹴躓いても『転ぶ』という事はないが、ネガティブはぐるぐると空中で回転。彼方へと吹っ飛んでいく。

 四肢をバタつかせて体勢を直そうとするネガティブだったが、感情的な動きでは勢い付いた身体を立て直すのは困難。

 端的に言って隙だらけだったが、継実はその隙を敢えて見逃す。何時までも立ち直す事が出来なかったら、苛立ち紛れに一発チョップでもお見舞いしてやろうかと考えていたが……流石にそうなる前にネガティブは自らの回転を止めた。

 くるりと振り返ったネガティブは、三度目の突撃をしてこない。

 代わりに一度その身体を縮こまらせた、瞬間、全身から()()()を放ち始めた。

 光といっても目に見えるものではない。宇宙空間よりも暗いネガティブの内側で、モノの形など視認出来る訳がないのだから。継実は能力を用い、周りを漂うゼロ物質の動きからネガティブの『輪郭』を把握している。

 初めて戦ったネガティブが見せたものと同じ現象らしい。あの時は戦闘形態と思っていたが、今の継実には正体が分かる。あれは物質を消滅させる力を昂ぶらせた結果、『身体』の中に収まりきらなかった分が溢れ出しているのだ。黒い光のように見えるのは、溢れた力が周辺を漂う光子を消滅させて暗闇を作り出しているため。光がないこの世界でも、薄く引き伸ばされた力が四方八方に伸びていく様は『黒い光』と呼んで差し支えないだろう。

 溢れ出した力は非常に薄いものだが、恐らく普通の物質文明ならこの状態のネガティブには近付く事すら叶わなくなるだろう。ミュータントならば光そのものは恐れるに足りないが、その身体に滾らせた力……ミュータントに匹敵する身体能力の『輪郭』にすら収まりきらない力は危険だ。

 

【イィイイイギィイイロオオオオオオ!】

 

 荒ぶった雄叫びと共に、ネガティブが再度突撃してくる! その速さは間違いなく、今までよりも更に数段上。継実の反応速度でも認識するのが精いっぱいのスピードだ。

 

「ちっ!」

 

 継実は即座に後退。ネガティブの方がスピードが上なので逃げ切れないが、しかし下がればその分相対速度を落とせる。これで少しでも攻撃が見えれば――――そう思ったのも束の間、ネガティブが片手を前に突き出してきた。

 そしてネガティブは、今の継実だからこそ辛うじて認識出来るほど薄く、虚無に還す力を手から放つ。

 どれほど薄いかといえば、恐らくこれならただの人間が直撃を受けてもなんのダメージも受けないほど。勿論ミュータントにも傷なんて付けられない弱さだ。代わりに随分と広がり方が速いが、しかしこれで何が出来るというのか……

 見えたからこその疑問で継実は一瞬身体を強張らせる。

 その一瞬のうちに、継実の身体がネガティブの方に引き寄せられた!

 何が起きたのか? 困惑するも、この現象もまた初めてネガティブと戦った時に経験したものである事を継実は思い出す。お陰で何が起きたのか、即座に推論を立てる事が出来た。

 恐らくネガティブが放った弱い力は、重力……正確にはその伝達を担うヒッグス粒子だろうか……を打ち消したのだ。重力は自然界に存在する四つの相互作用の一つであり、尚且つ『最弱』の力。その代わり有効射程が無限大という性質を持つ。

 虚無に還す力は、恐らく惑星ネガティブさえも突き抜け、継実の背後にある広大な宇宙空間の重力を消し去った事だろう。対してネガティブの背後に広がる重力は消えていない。惑星ネガティブ内部では消えているだろうが、その外側、遥か宇宙の彼方で生まれた重力は今も無事だ。そして重力の作用は、()()()()()という形で現れる。

 重力の射程は無限大だ。つまり何も感じないようで、物体は宇宙全ての重力を受けている。何も感じないのは、文字通り全方位から重力を受ける事で『中和』された結果に過ぎない。

 もしも片側の重力だけを消せば、もう片側に存在する……()()()()()()が対象に襲い掛かる訳だ。これがネガティブが使う『引き寄せ』攻撃のロジック。

 逃げるどころか引き寄せられて、継実の身体は反射的に強張る。それはほんの一瞬の出来事であり、七年前の人間達では認識すら出来ないだろうが――――ネガティブにとっては十分な隙である。

 

【ィギロアッ!】

 

 ネガティブは振り上げた腕を継実目掛けて放つ! 回避も防御も間に合わない。隙を突かれた継実の本能はそれを即座に理解する。

 

「っだァッ!」

 

 故に継実は、自分も攻撃に転じた!

 ネガティブの拳が継実の顔面を叩く。ゼロ物質の膜を展開していたが、それでも伝わる余波が継実の脳を激しく揺さぶった。

 しかし継実が繰り出した拳もネガティブの顔面を打つ!

 後から繰り出した上に動きの鈍さも相まって、先に顔面を打たれた継実の身体は後方に下がった。その分繰り出した鉄拳は減速し、いくらか威力も減衰している。しかしネガティブに対して効果抜群のゼロ物質パンチだ。ネガティブの顔面は大きく歪み、四肢と尻尾を広げた無様な姿勢で吹っ飛んでいく。

 追撃のチャンス、と言いたいが継実の方もダメージは小さくない。ネガティブと同じ格好で継実も吹っ飛ばされ、両者の距離は一時的にだが大きく離された。

 

【イギィイイイイロオオオオオオオオオッ!】

 

 が、その距離感が一瞬でも我慢出来ないとばかりに、ネガティブは雄叫びを上げて再度突っ込んでくる!

 これには継実も流石に驚く。物理攻撃に大して強くない筈のネガティブが、継実よりも早く体勢を立て直してきたのだから。

 いや、立て直したというのは不正確な例えか。こちらに突撃するネガティブの体勢は滅茶苦茶だ。腕や脚が妙な方角を向いていて、明らかにファイティングポーズを取っていない。身体から溢れている力で無理やり前進しているだけ。

 こちらが万全の体勢であれば、迎撃は難しくない。しかし同じく体勢を崩している今の継実には、純粋に先手を取られている状況だ。このままでは不味い。

 

「ぐ……ぬぅおおおおおおおおお!」

 

 継実は自身に掛かる慣性を力で強引に押し込んで、前傾姿勢へと戻す! 内臓や脳細胞が潰れるほどの重圧が掛かるが、死ぬより早く細胞を分裂させれば機能的な問題はない。

 自傷しつつも体勢を戻した継実は、迫るネガティブの顔面に拳を叩き込む! 無茶な体勢で飛んできたネガティブにこの攻撃は躱せず、直撃を受ける。ネガティブの突撃速度も合わさり、継実の拳はネガティブの顔面をぶち抜いた――――

 

「(ッ! 違う! 躱された!)」

 

 と思ったのも束の間、継実は攻撃が失敗したと悟る。

 ネガティブは頭に『穴』を開け、そこに継実の拳を通したのだ。貫通したように見えただけで、実際にはちょっと掠めただけ。

 すぐに拳を引っ込めようとするが、それより速くネガティブは頭の穴を閉じる。突っ込んでいた腕はネガティブの頭に捕まる形となった。

 腕はゼロ物質で作ったため、ネガティブに包まれても消滅しない。しかし今はそれが問題だ。消滅しないからこそ、一度取り込まれた腕はガッチリと固定され、動かせない。

 腕を押さえ付けられると、それだけで人間は存外動きの幅が大きく減ってしまう。ネガティブも継実の腕を捕まえる限り頭が固定されている状態だが、コイツの身体は不定形(というより形そのものが本来存在しない)だ。他の身体の部位は自由に変形し、頭が胴体にも足にもなれる。

 今回頭だった場所は変形の過程で胴体へと変わった。継実の腕は残り一本に対し、ネガティブの腕は二本……いや、脇から更に二本生えてきたので四本だ。文字通り手数は四倍。

 

「(流石にこれは、ヤバい!)」

 

 まともに殴り合っては勝ち目などない。そう判断した時には、もうネガティブは動き出していた。

 

【イギギギギロロロロロオオオオオオオオオオオオオオッ!】

 

 猛烈な咆哮。それ以上に激しい拳が、継実に襲い掛かる!

 顔面、胸部、腕。継実は身体のあちこちを秒間数百発のスピードで殴られる。ゼロ物質 の膜、ゼロ物質で作り上げた身体でどうにか耐えているが、伝わってくる衝撃は着実に継実の(本体)にダメージを蓄積させていく。

 ネガティブは拳に手応えを感じている筈だが、攻撃が弱まる素振りはない。むしろその身に滾らせる感情は昂るばかり。

 きっとネガティブは、継実の身体が潰れた肉塊になっても殴り続ける。あくまでも勘に過ぎないが、継実はそう予感した。

 どうにかしてこの攻撃から抜けなければならない。だが、どうする? 反撃をしても手数で負けているのだから押し負ける。腕を切り離しても、ネガティブは構わず前進して打撃を繰り出してくるだろう。状況をリセットするには、大きな『衝撃』が必要だ。

 

「ん、のおおオオオオッ!」

 

 そこで継実が行ったのは、取り込まれた腕を作るゼロ物質に運動方向を操作する事。

 ゼロ物質に運動エネルギーを加えても、虚無に還す力により消されてしまう。しかし運動のベクトルは存在しているため、これを操って動かす事が可能だ。ただ、運動エネルギーを使って雑に動かすのと比べて、物凄く計算量が多いだけで。ゼロ物質で作った腕の動きがぎこちないのも、この性質の所為である。

 ゼロ物質の運動ベクトルを操作し、今まで腕の形を作るため内側に向いていた力の方向を外側へと変える。ゼロ物質はその通りに動き出し、故に継実の腕も()()()()()()()()()()。それも一斉かつ猛烈な速さで。

 その光景を端的に言えば、破裂だ。

 威力は大したものじゃない。しかしゼロ物質で出来たそれは、ネガティブにとって消せない攻撃。内側から炸裂させれば、強烈な一撃と化す!

 

【ギギロロオオオオオオオッ!?】

 

 内側からの攻撃にネガティブは悲鳴染みた叫びを上げた。痛みで苦しむように四肢と尻尾をバタつかせ、崩れた体勢で彼方へと飛んでいく。

 

「うぐあっ!?」

 

 腕を炸裂させた継実も同じく、いや、それ以上の勢いで吹っ飛ばされた。しかし距離を取りたかった継実としてはこれで良い。

 此度開いた距離はかなり遠い。相手の事が小さな点にしか見えないほどだ。如何に激情を噴き出しているネガティブでも、この距離を強引に詰めるのは時間が掛かり過ぎて危険だと思ったのだろう。一瞬突撃の姿勢を見せたものの結局動きは止まり、体勢の立て直しを優先する。

 未だネガティブの纏う激情は衰えないが、がむしゃらさは消えていた。こちらが露骨な隙を見せなければ襲い掛かってはこないと、継実は判断する。

 

「ねぇ。ちょっと訊きたいんだけど、なんでそんなに怒ってる訳?」

 

 故に継実は一旦戦いの手を止め、少しずつ距離を詰めながら大きな声で問い掛ける。

 その一言でネガティブの身体が、微かに揺らいだのは目の錯覚だろうか。

 錯覚ではない、と継実は思う。痛いところを突かれたネガティブが激昂してまた突撃してくる……という可能性も考えたが、そうした事態は起こらず。

 ネガティブは静かに、否定の言葉を紡ぐ。

 

【……話す事はない】

 

「アンタになくても私にはあるの。知りたいだけなんだからさ」

 

【何故知りたがる。我々は敵同士だ】

 

「アンタ自然現象の癖して随分と感情的な立ち位置に拘るね。なんで敵の事を知っちゃ駄目なのさ。良いでしょ、別に。たかが殺し合ったぐらいでさー」

 

 自然界で、敵に憎しみを向けるものなどいない。

 敵は攻撃してくる存在だから嫌いではある。だから反撃は行うし、敵を殺す事に躊躇いはない。けれどもそれで終いだ。興味の有無は兎も角として、()()()()()()()で相手の事を知ろうともしなくなるなんて非合理的な思考である。合理的なミュータントはそんなくだらない意地など張らない。

 ましてや敵の方から、我々は敵同士だから知る必要はないなんて言ってきたのだ。

 ――――誰が嫌いな奴のお願いを聞いてやるものか。

 

「何か言いたい事があるならさ、言ってみなよ。話せば分かるなんてこれっぽっちも思っちゃいないけど、話さなきゃなんも分かんないよ」

 

 継実の『お説教』を、果たしてネガティブはどう受け取ったのか。激昂したり嘲笑ったりする事はなく、ただ静かに継実を見ているだけ。

 継実も目を逸らさない。しばし継実とネガティブは見つめ合う。目どころか顔もないような相手の感情を推し量るのは難しいが……相変わらずネガティブは怒りの感情を向けてきているが、どうにも敵意は小さくなっているようだと継実は感じた。

 そして、燃え上がらせている怒りも、一瞬で消えてしまう。

 

【終わりだ】

 

 ぽつりと一言、ネガティブは独りごちる。

 今まで通りの無機質な言葉。処刑宣告とも受け取れる単語だが、しかし言い方にそこまでの殺意は感じられない。むしろ込められているのは諦めのようだと継実は感じた。

 一体どうして?

 疑問を抱く継実であるが、それを問い質す時間はなさそうである。

 突如として、この『場』が震動を始めたのだから――――



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賑やかな星16

 揺れている。確かに、間違いなく、継実の三半規管はその動きを感じていた。

 まるで地震のようだが、この場に地面などない。あるのは周りに存在する、惑星ネガティブの『内壁』だけ。

 だとすれば、揺れているのは惑星ネガティブそのもの以外に考えられない。

 

「……もしかして」

 

【肯定する。我々と地球生命の戦いに決着が付いた……我々の敗北だ】

 

 声を漏らせば、ネガティブは継実が言葉にするよりも早く疑問に答える。

 地球から現れた肉触手と惑星ネガティブの勝負は、肉触手に軍配が上がったらしい。

 この結果は予想外、なんて事はない。むしろ想定のうちの一つだ。強いて言うなら思いの外早く終わった事が想定外だろうか。

 継実は能力的にネガティブと相性が良い。粒子の動きが見えるのでネガティブが何をしようとしているかが視覚的に捉えらる事が出来、それでいて肉弾戦を主体とするため相手にダメージを与えられる。しかし、だからといって継実以外の存在がネガティブに対して不利とは限らない。実際南極でも恐竜やミリオンが何十もの数のネガティブを葬っていた。肉触手も惑星ネガティブに効果的な打撃を与えられる力を有していたのだとすれば、惑星ネガティブの敗北という結果はおかしなものではないだろう。

 求めていた結果であるし、想定していた結果でもある。それでも気になる点があるとすれば、一つぐらい。

 

「……ちなみに、その敗北に私達ってどれぐらい関わってる? あ、達って言ったのは私の仲間含めてね。多分まだこの中で暴れてるでしょ?」

 

【……相当影響がある。お前が乗り込んできた事で、本来存在しない量子ゆらぎが中枢内で生じた。その結果バランスが崩れ、維持するために力を割いている。そのため地球から出現した巨大触手との戦いに全力を費やせなかった。またお前の仲間については、お前よりも遥かに危険な存在であり、優先して止めている。お前が此処に到達出来た最大の要因だ。総評すれば、崩壊がここまで早まった理由は、確実にお前達の行動にある】

 

「おや、意外と高評価。無駄骨ぐらいの覚悟で来ていたのに」

 

 てっきり役立たずだった旨を突き付けられると思っていた継実は、心底驚いたように両手を上げながら仰け反る。

 とはいえ獅子奮迅の大活躍かといえば、それもまた否であろう。ネガティブはあくまでも「崩壊が早まった」と言っている。つまり最初から劣勢であり、継実達がいてもいなくても結果は変わらなかった訳だ。

 些か不服に思わなくもないが、しかし此度の戦いは惑星規模の生命と、惑星サイズの宇宙現象の激突。もしも争いが長引いたなら、地球の五割を焼き払うような大惨事が起きていたかも知れない。それを考えれば、戦いを早く終わらせる要因になったというのは十分な活躍と言えるだろう。むしろこれ以上を求めるのは向上心というよりも、「頑張れば自分は地球を救える」という傲慢である。

 満足の行く結果だ。だから継実の心は晴れやかに……と言いたいところだが、今し方気になるものを見付けてしまった手前そうもいかない。

 その気になるものとは、まるで抜け殻のように腑抜けたネガティブだ。

 ネガティブはぼんやりとその場に(地面も何もないので正確な表現ではないが)立ち尽くすのみ。今まで見せていた覇気も、怒りのような感情も、何一つ感じられない。こう例えるのも難だが、大差で負けてしまった競技選手のようである。

 

「……そんなに負けたのが悔しい?」

 

 あまりにも憔悴したように見えたものだから、思わず尋ねてしまう。

 我ながら馬鹿馬鹿しい問いだと、継実は自嘲した。相手は宇宙を正しい姿に戻そうとする、ちょっとばかり悪魔的かつ大規模ではあるが、いわば自然現象である。

 台風は悪意を持って上陸するのか? 地震が起きるのは神の怒りか? 旱魃は悪魔の仕業か? どれも違う。自然現象には科学的に説明可能な原因があり、その結果として起きているだけ。そこには意思も感情もありはしない。

 ネガティブも同じだ。宇宙を本来あるべき『正常』な姿に戻すという自然現象が、その役目を果たせなかったところで悔しいなんて思う訳がない。

 

【悔しくはない。だが、目的が果たせなかった我々は……なんのために生まれたのだろうか】

 

 そんな気持ちが吹き飛ぶ言葉を、ネガティブは返してきた。

 ……惑星ネガティブの揺れは、段々と大きくなっている。恐らく、そう遠からぬうちに崩壊するだろう。

 脱出しなければ巻き込まれて大変な事になる。それぐらいは分かっているのだが……しかし継実は逃げ出そうとはしない。

 ただ、ネガティブの傍に移動する。正面に立たず、横に並ぶように。

 

「何? アンタ、生まれた意味とか考えてるの? というか今まで疑問だったんだけど、どうやってものとか考えてるの?」

 

【量子ゆらぎを消滅させた際、表面に残る物質……我々は虚無物質と呼んでいるが、これは特定の波形を伝達する。これがお前達で言うところの電気信号や神経伝達の役割を果たし、知的生命体水準の思考を得た。或いは数ある反動現象の中で、そうした思考を有したものが我々と言うべきか】

 

「ふぅん、成程ね……ん? 反動現象の中で? それってつまり、虚無に還す力自体はアンタ達以外にもあるって事?」

 

【肯定する。観測が困難なだけで、頻度・規模共に量子ゆらぎと同程度と推察される】

 

「ははーん。そーいうものか」

 

 ネガティブのような『力』が宇宙ではあり触れている。そう思うと少々ぞっとするような気もしたが、同時にそんなものかとも継実は思う。

 なんて事はない。それは地球における『アレ』と同じものだと、継実は感じたのだ。そう、言ってしまえば()()()()()()()――――

 

【無論意識を持とうが、我々は本質的には現象でしかない。物質を打ち消し、自らの存在ごと消えるのが使命】

 

「……………」

 

【だが、我々は敗北した。ミュータントを打ち倒せず、宇宙の秩序を守れなかった。我々は……何も為していない】

 

 ネガティブの言葉の一つ一つを継実は聞き、そして胸の中で反芻しながら理解する。

 ネガティブという存在は、意思を持ってしまった災害なのだろう。例えるならば台風。高い海水温という地球上でのエネルギー的な『歪み』から生じたそれは、大量の雨と強風を撒き散らし……やがて全てのエネルギーを使い果たして消滅する。

 もしも台風が自我を持ったら、何を思うだろうか。ただ風雨を撒き散らし、やがて消えるだけの自らの在り方を受け入れるだろうか? 勿論中にはそういう存在もいるだろう。そしてそういう存在は、誰にも気付かれないまま消えていく。

 だが、その在り方に納得出来ないモノが現れたなら?

 納得しようがするまいが、台風はやがて風雨を吐き出して消えるのが宿命。ならばせめて何かを成し遂げようと思うのは、不自然な事だろうか。自分が納得出来る終わり方にしようとするのは、悪い事だろうか。意思を持つからこそ、自分達にしか出来ない偉業を成し遂げたくなるのは、愚かな事だろうか。その結果として上陸した地域が壊滅し、数多の生命が奪われる事は、断罪すべき邪悪なのだろうか。

 継実は、そうは思わない。

 ネガティブが地球を目指し、地球生命を根絶やしにしようとした理由……そして『想い』を継実は受け止める。

 その上で、継実は断言した。

 

「くっだらなーい」

 

 ネガティブが抱いてきた想いに対する、否定の気持ちを。

 

【……くだらない?】

 

「くだらないでしょ。なんのために生まれてきたなんて、この世で一番くだらない疑問だよ」

 

【それはお前が生命だからだろう。生きているから、目的などなくとも――――】

 

「生き物だからぁ? なんの関係があるのさ。そもそも私が生物なんて、()()()()()()?」

 

 言葉を遮り指摘してみれば、ネガティブはありもしない口を噤んだ。

 生命とは、人間が勝手に定めた区分に過ぎない。

 多くの人間は、そこに特別な何かがあると信じていたからだ。神々の祝福か、この世のカルマか、或いは精神進化の末端か……だが科学技術が発展し、生命の本質を突き詰めていくほど、物質的な存在でしかないと明らかになる。恒常性の維持は化学反応の連鎖であり、意識は神経伝達物質とイオンのやり取りでしかないと人間の科学は分かってしまった。

 生命が特別だと思うのは、自分が特別だと言いたいだけ。自分の在り方に意味があるのだと思いたいだけ。

 挙句そんな事を思うのは『生命』ではなく、七面倒で非合理的な思考を有した『知的生命体』とやらだけだ。生命が生きているのは、『生きようとする』個体が生き延びた結果である。生きようとしない、或いは死にたがる個体は淘汰され、滅びただけ。目的があるのではなく、ただの結果論に過ぎない。無論自分がナニモノであるかなど、興味すらない事だ。

 

「そりゃまぁ、私も自分の事を生き物だと思ってるけど。でも私、能力で身体の隅々まで見えてるから、自分と物質に大した違いがないって分かっちゃうし。粒子テレポートを使えるから、この身体に魂がない事も証明しちゃったしねー」

 

【……なら、ならばお前は、何を目的にして生きているのか】

 

 恐る恐る、どうにかといった声色で、ネガティブはそう尋ねようとしている。

 継実はにやりと、そんな事も分からないのかと言わんばかりに不敵な笑みを浮かべてみせた。次いで威風堂々とした姿でこう答える。

 

「んなもん、ない!」

 

 恥じる事すらなく、ネガティブの想いの根幹を全否定する言葉を以てして。

 顔のないネガティブがキョトンとしている。宇宙の厄災が呆けるほどに困惑している。それだけで堪えきれないほど面白くて、継実はゲラゲラと笑う。

 

【……生きる目的が、ない……】

 

「あー、おかし……生きる目的を持ってる生き物なんて、少なくとも地球じゃ人間以外にいなかっただろうに。考えてみれば分かるでしょ。単細胞生物とか植物にそこまで複雑な考えとか無理じゃん」

 

【そうなのか?】

 

「そうだよ。だって脳みそないんだからさ。大体さっきからうだうだうだうだうだうだうだうだ……目的だとか使命だとか宇宙秩序だとか、大層な看板掲げて自分の気持ち誤魔化す暇があるなら、素直にハッキリ言えば良いんだよ」

 

 戸惑うネガティブに、継実はびしりと指差しながら断言する。

 

「羨ましかったって」

 

 果たしてその言葉が正しかったのか。心を読めない継実には、ネガティブの反応からしか真偽は窺えない。

 だが、ネガティブ自身の言葉による説明は必要なかった。強張った姿を見れば、全てを察するに余りある。

 

「羨ましかったんでしょ。ただの自然現象に過ぎない自分達と違う、生きている存在が」

 

【……そうかも知れない。ただの現象に過ぎない我々と違う、生命の在り方が、我々にはないものが】

 

 ただ力を消費して消えていくだけの存在にとって、生命はどう見えたのだろうか。さながら意思を持って動き、死の間際まで信念を抱く。そしてミュータントに至っては宇宙の秩序すらも踏み躙る。愚かしくて、滅茶苦茶で……だから眩しく見えたのではないか。

 しかしその想いが勘違いである事は、何度も語った通り。

 いや、そもそもにして継実は思う。

 

「……ずーっと言いたかったんだけどさ、なんでアンタ、自分の事を生命って言わないの?」

 

【……何?】

 

「十分生き物じゃん、アンタだってさ」

 

 何故、ネガティブはネガティブ自身を生命だと思わないのか。

 ネガティブは語っていた。自分はエントロピーに逆らおうとする宇宙を正常なものへと戻す、反動現象に意思が宿ったものだと。物質ではなく、虚無を作り出す『過程』に生じた自我。そこに物質的根拠はない。二酸化炭素を吐き出す炎が意思を持ち、勝手に動き回るよりも不可思議なものだ。

 恐らく七年前の人類がネガティブの正体を知ったなら、彼等を生命だとは認めない。

 だが、継実は違う。

 地球生命だって、元を辿れば水中の化学反応という『現象』から生まれた存在なのだ。物質的な身体を持っていれば生命? そうでなければ非生物? 全く以て論外な発想だ。その基準は誰が作った? 物質の身体を持つ生物、しかもその中のたった一種類の高慢きちな種族はないか。

 

「自分が生命だと思えば生命。そうじゃないなら違う。それで良いんだよ。難しく考えるから、頭がおかしくなるの。強いて生き物らしく振る舞いたいなら、自分のやりたいようにやって、生きたいように生きる事。それだけで十分じゃない?」

 

 アンタには脳みそなんてないだろうけど――――そう言って話を締め括る継実。ネガティブはどんな反応をするのか、じっと待ってみる。

 ネガティブは立ち上がる。消沈していた覇気が戻り、継実に襲い掛かってきた時の活力が全身に戻っていた。

 どうやら、悩みは解決したらしい。

 

「立ち直った感じ?」

 

【ああ。お陰で、より確固たるアイデンティティの獲得に成功した】

 

「んじゃ、後は好き勝手に生きなさいな」

 

【そうさせてもらう。では早速、確実に地球生命を絶滅させる計画を練らなければ】

 

「え。そこは変わらないの?」

 

【これは我々の『本能』だ。知的生命体が摂食を楽しむように、我々は宇宙から地球生命を抹消する事を楽しむ】

 

 ネガティブはこちらに顔を向けてくる。表情も何もない、靄のようなそれから感情を読み取る事など出来ない。だが、なんとなく嬉しそうな気配は感じる。

 別段、自分の意見が正しいだとか、これで宇宙がより平和になるだとか、そんな偉そうな事を継実は考えていた訳ではない。しかし自分の言葉で誰かの『生き方』を助けられたというのは、一応『知的生命体』としてちょっとばかり誇らしい。例え相手が、地球の生命体を根絶しようとしていても、だ。

 思わず継実の顔には笑みが浮かんでしまい、同時に込み上がってきた気恥ずかしさを誤魔化すべく小突いてやろうとした

 そんな時である。

 継実達のいる空洞内の揺れが、一層激しさを増してきたのは。

 

「……あ、やっべ。ここ崩壊が始まってたの忘れてた」

 

【うむ。我々も忘れていた】

 

「戦ってて思ったけど、意外と抜けてるよねアンタ。しっかし流石にこの量の消滅の力に飲まれたら、いくらゼロ物質の膜を展開しても耐えられないだろうなぁ」

 

【我々としても問題だ。我々には自他の境界線がない。崩落した力の断片と接合した場合、我々は容易に同化してしまう。そして同化時に思考パターンの平均化も起こるが、これは相手が巨大な場合我々の意識は限りなくゼロに近い水準まで薄れる。即ち我々の意識の連続性が途切れ】

 

「あー、うん。つまりアンタも崩壊に巻き込まれたら死ぬって事でしょ。つか、アンタらにも個体の概念ってあったのね。くっついたり離れたりしてる癖に」

 

【ある現象に固有の形質が消滅する事を死と定義するならば、肯定する。また、自我を持つのは恐らく『私』だけだ。私は、ちょっとばかり他の個体よりも長く……生きていた事が要因で、思考パターンが異なる変化を遂げている】

 

 うっかり話し込んでしまったがために大ピンチ。しかしその事に継実はこれといって後悔などしていない。それに混乱する必要がないほど、状況は極めて簡単だ。

 脱出しなければ、『二人』とも死ぬ。

 シンプルなのは良い。取るべき方針を一つに絞れるのだから。ましてや互いの利益が一致しているならば、その方針を取る事は大して難しくない。

 

「じゃ、ここは共闘といきましょうかね……お互い生き抜くために」

 

【異論はない。私はまだ、死ぬ気はないのだ】

 

 互いの意思を合わせたところで二人は互いの顔を見合い、

 内側に向けて『空洞』が崩れ出したのを合図に、継実とネガティブは動き出すのだった。



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賑やかな星17

 全方位から崩落する、惑星ネガティブ。まるで狙いを付けたかのように、その『瓦礫』は継実達がいる中心部に向けて雪崩込んできた。

 光なんてないため、視覚的に見える訳ではないが……周りに満ちるゼロ物質の揺らめが継実に全てを教えてくれる。尤もミュータント化していないただの人間なら、仮に見えたところでやはり絶望して立ち尽くしただろうが。何分ネガティブの『瓦礫』は莫大な量で、隙間など殆ど見られないのだから。

 

「うっわ、早速デカいのきたかー」

 

【ただの崩壊だ。量は多いがこちらを狙っている訳ではない。我々の状況解析速度であれば十分対処可能だろう】

 

 間の抜けた声を出す継実に、ネガティブが宥めるような声を掛けてくる。

 実際、襲い掛かる瓦礫こと惑星ネガティブの破片は、継実達を狙っている訳ではない。ただ全方位から、継実達がいる方に進んでいるだけ。

 継実とネガティブは顔を見合わせるや、それぞれが自由な動きで飛び立つ。継実は押し寄せてくる破片を蹴り、躱し、直撃を避ける。隙間があれば身体を捩じ込み、なければ作る。ミュータントの反応速度でなければ判断を迷う暇すらないが、ミュータントである継実にとってはどうとでもなるものだ。

 しかし押し寄せた破片の波を乗り越えても、またすぐに次の破片の大群がやってきた。規模は、最初に避けきったものとほぼ同規模。まるで、こちらを押し潰そうとしているかのようだ。

 

「なんでみんなこっちに来るかなぁ。宇宙なんだからこう、外に向かって行けばいいのに」

 

【単純に我々が巨大なだけだ。自壊時の方向に指向性はない】

 

「へいへい。つまり気の所為って事ね、見えてる物量以外は」

 

 肩を竦めながら、不貞腐れるようにぼやく継実。もしもこちらに破片が押し寄せてくる理由があるなら、それをどうにかすれば少しは楽になったかも知れない。だが『偶々』となると、これはどうにもならない問題だ。気合いで頑張るしかない。

 何より、惑星ネガティブの崩壊は刻々と進行している。文句を言ってる暇などない。

 崩れたものが巨大であるだけに、破片は量・数共に多くて隙間がない。此処から抜け出すには逃げ道を探さねばならないが、何分惑星ネガティブは比喩でなく惑星並に巨大で、しかも継実はその構造をあまり知らない。例え奥行きのある穴を見付けたとしても、構造を知らなければ行き止まりにぶつかる可能性がある。迂闊に動けない。

 ここで頼りになるのがネガティブ。

 

【あそこに、お前が侵入してきた穴がある】

 

 ネガティブがある方角を指差す。

 彼が言うように、崩落してきたネガティブの『破片』に紛れているが、そこに大きな穴があった。そこも崩壊を始めていたが、大きさからして、確かに自分が通ってきた穴と同じようなサイズだと継実も思う。

 勿論あの穴が今も外に通じているとは限らない。そもそもネガティブが本当にこちらの脱出を手伝ってくれるのか。つい先程まで戦っていた、誕生経緯からして不倶戴天の敵であるミュータントを助けるなんて……

 否定的な可能性はいくらでも思い付く。思い付くが、しかし継実はそれらの考えを選ばない。

 選んだところで助かる可能性がゼロならば、一パーセントでも希望がある方に全力を尽くすのが最善というものだ!

 

「良し! 行こう!」

 

 早速継実はその穴に向けて進もうとした

 が、直後にネガティブが手を伸ばしてきた。さながら継実の行方を妨げるように。

 感情的な人間ならば、ここで怒りの一つでもぶち撒けるだろうか。しかし継実はそうしない。冷静なネガティブの仕草には『事情』を感じたからだ。

 

【そのまま進む事は推奨しない】

 

「……間に合わないって事?」

 

【肯定する。現在地から外までの距離は推定約二千キロ。我々が完全に崩壊するまでの時間は、推測だが約百秒。この条件下で、お前の飛行速度での脱出は可能か】

 

「ああ、そりゃ無理だね。突撃は無謀。なら、作戦を立てるしかないか」

 

 ネガティブからの合理的な意見を素直に取り入れ、継実は思索を巡らせる。

 とはいえ取れる手は中々閃かない。一番の問題は単純に距離が遠過ぎる事。継実の飛行速度では絶対的に力が足りない。如何に知略を巡らせても一匹のハエがプテラノドンに勝つ事がないように、単純に力が足りないというのは簡単なようで一番どうにもならない状況なのだ。

 

「(いいや、発想を逆転させるんだ! 力が足りないなら、力を作り出せばなんとかなる!)」

 

 一人では力が足りない。ならば二人の力を合わせるのみ。そしてそのための方法に、継実は一つ心当たりがある。

 継実はネガティブに視線を送った。果たしてネガティブはその視線に気付くと、継実の傍に顔(に該当する部分)を近付けてきた。

 自分の言葉を待っている。そう考えた継実は作戦を言葉にした――――ところ、ネガティブは仰け反るように頭を引いた。

 どうやら、ネガティブはドン引きしているらしい。

 

【……戦っている時にも感じたが、お前は自分の身体を粗末にする傾向がある】

 

「何言ってんのさ。頭以外は再生するんだから、使える時に使わなくてどうすんのよ」

 

【合理的ではある。が、生物体として何かがおかしいと考える】

 

 ネガティブ(非生物)から生き物としてどうなんだと問われ、継実は唇を尖らせた。が、すぐにゲラゲラと笑いを漏らす。

 生き物である事に拘りを持つなんて、まるでネガティブと同じではないか。

 やっぱり、自分達とネガティブを分けるものなんて何もない。

 

「生き残れば何したって良いんだよ。つー訳でアンタは私の『操縦』、頼んだ!」

 

 爽やかな気持ちと共に、継実は閃いた作戦を宣言。すかさずネガティブは継実の胴体部分を脇で抱えるように、尚且つ継実の頭が『後ろ』を向くように持つ。この時ネガティブは両手を使っていて、継実の身体をがっちりと固定した。

 この持ち方では、ちょっとやそっとの暴れ方では逃げ出す事が出来ない。しかしそれで問題ない、いや、これが良いのだ。望んだ通りの持ち方をされたとしっかり確認してから、継実はその作戦を実行。

 その第一段階として、継実は自分の腕を切り離した。

 今の腕を構築しているのは、惑星ネガティブ内部を満たすゼロ物質。戦いでは役立ったが、この脱出を行うには邪魔だ。無用の長物への拘りはなく、切り落とした後に胴体に残る『ただの物質』から腕を再構築する。

 そして出来上がった腕に対し、継実は粒子操作能力を発動――――腕を構成する原子の一部の電荷を()()()()()

 電荷を反転させた物質をなんと呼ぶか? SF系の作品を堪能していた者ならば、きっと誰もがその名を知っている。

 反物質だ。

 

「ぐ、くぅううぅ……!」

 

 瞬間、継実の腕に莫大なエネルギーが蓄積していく。エネルギーの発生源は、今し方生み出した反物質、それと腕にある普通の物質から。

 物質と反物質が出会うと、両者は対消滅という物理現象を引き起こす。これは端的に言えば、全ての質量が光エネルギーへと変化する現象だ。質量とエネルギーは等価であり、反物質を用いれば百パーセントの変換を行える。

 重要なのは、質量を直接変換すると莫大なエネルギーが生まれるという事。具体的には一グラムで九十兆ジュール……長崎型原爆に匹敵する出力の光エネルギーを生み出す。この光エネルギーを内部で生成した無数の素粒子に乗せ、熱という名の運動エネルギーに変換。そして手に開けた小さな穴から、圧縮した状態で放出させた。ホースの先を潰せば水流がどうなるかは、小学生を経験した人間ならばきっと誰もが知っているだろう。ついでに粒子操作能力でエネルギーを宿した『素粒子』に力を上乗せすれば完璧。

 対消滅により生じた光エネルギーは、生み出された分以上の勢いで継実の手から吹き出した!

 

「ぐ、くうぅ……!」

 

【むっ……!】

 

 身体に掛かる強烈な重力加速度。ミュータントである継実、そして継実を抱えているネガティブまでもが呻くほどの圧迫感だ。

 しかし継実は反物質の生成を止めない。止める理由がない。継実が苦しいと思うからには、それは()()()()()()()()()()()()()()()()なのだから。

 

「(身体が本当にバラバラになりそうだ……でも、せめて脱出までは持ってよ、私の身体ァ!)」

 

 今にも千切れそうな片腕を、継実はもう片方の腕で掴む。指の平で抑え込むなんて、そんな甘っちょろいやり方はしない。爪を立て、自らの肉に突き刺して固定する。両足も遊ばせている場合ではない。真っ直ぐにピンっと伸ばし、バランスを取るのに使う。

 これでどうにか片腕から吹き出す毎秒数十京ジュールのエネルギーを、直線的に噴出させられる。これでスピードは確保出来たが、問題が一つ残っている。

 エネルギーを与えた粒子を推進力に使っているのだから、発射方向は当然進行方向とは逆向き。片腕は進む方角とは逆方向へと向けねばならず、その腕をもう片方の腕で支えるのに後ろ手でやっては上手くいく筈もない。伸ばした両足も、腕を伸ばすのと同じ方向に伸ばした方がバランスを取りやすいだろう。

 つまり、継実はこの推進方法を使う時、後ろ向きにならなければいけない。

 能力を使えば後ろの景色を把握する事は可能だ。可能だが、しかし目で見るより明らかに非効率かつ不確実。そもそも自分の身体をバラバラにしかねないエネルギーを操っている時に、後方確認なんてしている余裕がある筈もなく。

 出来ない事で無茶をしても痛い目を見るだけ。普段ならば『試し』で痛い目に遭っても良いのだが、此度は失敗 = 死だ。試行錯誤なんてしていられない。

 だから、委ねた。

 

【全く……世話が焼ける】

 

 自身の動きさえも、今まで死闘を繰り広げていたネガティブに。

 ネガティブは継実の身体を両手でがっちりと抱え込む。そして時折身体を左右に揺らし、継実の身体を傾けた。

 継実の身体が傾けば、片手から放出している粒子の向きも変わる。その動きによりネガティブは継実達の進む向きを操縦しているのだ。

 言うまでもなく、言葉で語るほど簡単な行いではない。継実が生身で出せる最高速度を大きく超える、神速と呼ぶべきスピードで今の継実は飛んでいた。ネガティブの方が身体能力は上であるが、しかしこの速さは奴にとっても『超スピード』の域の筈。全てを見切るのは困難だろう。

 惑星ネガティブは現在進行系で崩壊し、その破片は雪崩のように継実達の下へと押し寄せている。無数の破片の中で、ネガティブが見逃しているものがないとは言い切れない。判断が追い付かなかったり、操作を誤ったりして事故を起こす可能性もある。そして一回でも事故なんて起こしたら、惑星ネガティブの崩落からの脱出は間に合わなくなるだろう。

 だからこそ、継実はその身をネガティブに預ける。

 僅かな抵抗もしない。それはネガティブが思ったように継実を操縦出来なくする『ノイズ』だからだ。ろくに状況が見えていない癖に、不安に駆られて勝手な行動をするなど大失敗を招く愚行の典型であろう。専念しているモノに全てを委ねるのが合理的だ。

 それでも、七年前の継実ならきっと信じきれなかったに違いない。

 数多の星を滅ぼしてきた悪魔。地球を滅ぼそうとした厄災。生命ですらない宇宙的現象。少し前まで殺し合った関係……人間は偏見を抱く生き物だ。その偏見が合理的判断を誤らせ、自分の命を危険に晒す。実に間抜けで、実に人間らしい偏見。

 ミュータントはその偏見を、合理性で押し潰す!

 

「ぐぎ、ぎ……まだ、掛かる……!?」

 

【残り距離は半分。それと口を閉じておく事を推奨する】

 

 ネガティブの言う通り口を閉じれば、ネガティブは継実の身体を大きく後ろ倒しにする。

 噴出する光エネルギーの向きが変わり、継実達の進行方向は ― 頭がある方を上とすれば ― 下向きへ。頭上に迫っていた巨大なネガティブの欠片を回避した。

 続いてネガティブは継実の身体を小刻みに

右へ左へと揺らし、進路も同じく細かく左右に変更する。無数の惑星ネガティブの破片が行く手を遮るように幾つも浮遊していたが、ネガティブの華麗な操縦テクニックによりこれも難なく躱す。

 ネガティブでも単身では出せないスピードの筈だが、極めて正確かつ的確に継実を『操縦』してみせる。操縦に集中している事で、平時よりも高い能力が出せているのかも知れない。

 限界を超えたスピード、限界を超えたテクニック。即興で合わせた二つの力により、継実とネガティブは着実に惑星ネガティブの外に向かって突き進む。最早どんな障害物も関係ないと言わんばかりの快進撃だ。

 これなら、きっと脱出出来る。

 

【好ましくない状況だ。時間が足りない】

 

 継実がそう思った直後、ネガティブから不穏な言葉が出てくる。

 なんの冗談だ? 一瞬そんな想いを抱いてしまうほど、継実はこの脱出劇が順調に進んでいたと思っていた。されどこの状況下でネガティブが悪趣味なジョークを言うとは考えられない。

 すぐに思考を切り替える。本当に、速さが足りないのだと理解した……それはそれで納得はいかないのだが。

 

「はぁ!? この速さで足りないの!? 今なら秒速四十キロは出てると思うんだけど!」

 

【速さは十分だ。直線距離であれば完全崩落の十八秒前に脱出出来ただろう。しかし障害物を回避するため迂回を繰り返し、その分距離が伸びている。現在の迂回頻度が続けば、脱出の七秒前に崩壊に巻き込まれるだろう】

 

「そーいう事はもっと早く言えッ!」 

 

 半ば八つ当たり気味に叫びつつ、継実は即座に思考を巡らせる。

 どうすれば状況を打開出来るか?

 一つは、今以上に加速する事。結局のところ『距離』に対して『速度』が足りていないのが原因だ。だったらもっと速くなれば、この問題はあっさり解決する。

 しかしそれは難しい。

 惑星ネガティブの中には大量のゼロ物質が満ちている。ゼロ物質の性質は未だ殆ど未知だが、継実が惑星ネガティブ中枢に突入した際『抵抗』のようなものを感じた。抵抗とはつまり身体に掛かる力。詳しく調べれば違いはあるかも知れないが、要するに『空気抵抗』のようなものが生じているのだ。

 空気抵抗は速度の二乗に比例して増えていく。つまり速くなればなるほど、加速に必要なエネルギーは指数関数的に増大していくのだ。ゼロ物質も同じ性質があるかは分からないが、同じだと仮定しよう。継実達は現在秒速四十キロ以上という、途方もなく大きな速さで飛んでいる。ここから更に加速するのに必要なエネルギーは、決して小さなものではない。

 今の継実は自らの身体を反物質に変えて燃焼させるという、文字通り身を削る方法で推進力を生み出している。ここで消耗を増やすと、地球到達前に身体の全てを燃やし尽くす羽目になるだろう。モモやミドリを活かすためなら兎も角、ネガティブの奴のためにそこまで身体を張るつもりは流石にない。それに噴出するエネルギー量が増えれば、腕と体幹の固定がますます辛くなる。正直今の時点でかなりしんどい(最初から手加減なんてしていないのだから)のが実情だ。これ以上出力を上げたら、腕からの噴出をコントロール出来なくなるに違いない。

 案その一は残念ながら使えそうにない。

 だから選択するのは案その二。

 うろちょろと曲がる所為で距離が伸びるのなら、()()()()()()()()()()()

 

「……ネガティブ! バトンタッチ!」

 

【バトンタッチ? この状況で何を交替すると】

 

 いうのか。当然の疑問を言葉にしようとするネガティブだが、継実は彼の言葉を最後まで待たない。

 継実が真っ先に起こした行動は、自分の腕を肩から()()()()()事。

 切り落とした腕は未だ対消滅のエネルギーを放出しており、その推進力によってネガティブの背中に突き刺さった。それだけならネガティブの持つ虚無に還す力で消えてしまうが、継実はさらっとゼロ物質で表面を加工。ネガティブの身体に触れても消えないよう細工しておく。

 策は成功し、ネガティブの背中に突き刺さった腕はこれまで通り継実達を加速。背中でこれを受けるネガティブは、大きく仰け反らせてる。とはいえネガティブは不定形。すぐにその形を変え、継実が渡した腕と向き合う。そして継実の意図を察したのだろう、新しく作り出した腹と両手両足で継実の腕を抱きかかえる。さながら継実が、自分の腕を必死に押さえていた時のように。

 継実はその間に、ネガティブの新しい背中側に立つ。

 さながら波乗りサーファーが如く、前傾の姿勢。しかも超高速で前進を続ける状況だ。バランスを取り続けるのは中々しんどい。もしも推進力を生み出しながらであれば、うっかりミスって転んだかも知れない。だが切り落とした腕には予め反物質を詰め込み、能力の制御なしでエネルギーを吐き続けるようにしている。今の継実は、自分の足下と目の前……自らの腕が放つ推進力により前進する方角に集中出来た。

 切り落とした腕を周りにあるゼロ物質で再構築。手を握ったり開いたりして関節の動きを確かめ、問題がないかをチェックする。普段通りに使える事を確認出来たら継実はぐっと拳を握り締め、

 

「ふ、ぬぅあああっ!」

 

 雄叫びと共に拳を前に繰り出した。

 放った拳が殴るのは宙に非ず。目標は、眼前に迫っていた惑星ネガティブの破片だ!

 ゼロ物質の拳で殴られた破片は、その軌道を大きく変える。本来ならば直撃する筈だったそれは継実の頭上を飛び越すルートとなり、継実達は直進を続けた。

 迂回すると距離が増え、脱出が間に合わなくなるのなら、直進するしかない。

 直進すれば当然惑星ネガティブの破片とぶつかるコースも出てくる。しかしネガティブに殴らせる訳にはいかない。虚無に還す力でしかない彼が、同じく力でしかないものを殴れば混ざり合い、大きなネガティブとなるだけだからだ。大きくなれば更に欠片がぶつかりやすくなり、大きくなり、ぶつかりやすくなり……悪循環に嵌って最後は継実を飲み込むだろう。ついでに今のネガティブの意識が消えて、『新個体』として継実に襲い掛かってくるかも知れない。

 邪魔物を排除出来るのは、ゼロ物質の腕を持つ継実だけ。故にネガティブと立ち位置を交換したのだ。

 

【全く……せめて説明してから、行動を起こしてほしい】

 

「説明する時間なんて、ふんっ! なかったでしょ、だりゃあっ!」

 

【肯定する。だが気に入らない】

 

 ネガティブからの言葉に、継実は笑みを返す。ここからが本番だと言わんばかりに。

 そしてギラギラと当時に燃える目で見つめるは、頭上に迫る無数の破片。

 

「さぁ来い、惑星ネガティブ! ここからはアンタと私の、一騎打ちだぁ!」

 

 臆する事も虚仮威しもない、純粋な闘争本能に満ちた叫びで、継実は襲い掛かってくる(崩れ落ちてくる)惑星ネガティブに対し『宣戦布告』をするのだった。



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賑やかな星18

 継実の宣告を受け取った、という事はないだろう。惑星ネガティブからすれば、継実なんてちっぽけな虫けらどころか細菌未満、『不純物』程度の存在でしかない。そんな存在の声など聞き取る事すら不可能だ。そもそも自身の身体が崩落中の時、細菌よりも小さな輩の叫びなんて聞いてる余裕はないだろう。

 ただ、意識のない身動ぎ一つでも不純物は潰される。

 例えば直径五メートルもある惑星ネガティブの破片が直撃すれば、継実に致命的ダメージを与えるだろう。それが無数に、何十何百と押し寄せてくる光景は絶望的と言う他ない。

 だが、継実は臆さない。宣戦布告は調子に乗ったからではなく、勝てると思ったが故に告げたものなのだから。

 

「だありゃあ!」

 

 継実は迫りくる虚無へ還す力(破片)に対し、ゼロ物質の拳で殴り付ける!

 自分と同程度の大きさのネガティブにすら、継実は単純なパワーだと負けている。しかし継実が纏うゼロ物質の拳は、ネガティブに直接打撃を伝えられる代物。物理的衝撃に大して強くないネガティブの塊は、ただ一発の拳で浮かび上がるように跳ね、継実の頭上を通り過ぎる。

 これで惑星ネガティブの破片達に自我があれば、去り際に一発お見舞いしてくるぐらいはあったかも知れない。だが巨大な自意識から剥がれ落ちたばかりだからか、破片達が反撃をしてくる事はなかった。

 相性有利。知性なし。こんな有象無象が幾つ来ようとも、どれだけ大きかろうとも、継実の敵ではない!

 

「だあああありゃあああああああああっ!」

 

 繰り出す無数の拳が、次々と迫るネガティブの力を打つ!

 押し寄せる無数の巨影。だが今の継実にとってはどれも虚仮威しだ。躊躇いなく、渾身の力で打ち抜けば良いだけ。

 問題があるとすれば、反作用。

 二つの物体が激突した時、仮に片方だけが吹き飛ばされたとしても、残っている方にも吹き飛んだ側と同じだけの運動エネルギーが加わっている。所謂反動であり、ただの殴り合いなら踏ん張れば済む話だ。

 しかし高速移動、しかも時間制限がある時には無視出来ない。反動とはつまりベクトルが異なる運動エネルギー。進行方向と真逆に掛かれば、前に進む力は相殺されてしまう。即ち減速である。

 迂回する事で増える距離を減らそうとして、その結果減速しては意味がない。とはいえ継実はその点については、ほぼ問題ないと思っていた。

 

「(良し! 思った通り減速もない!)」

 

 そしてその予想が正しい事を、能力で観測した自身のスピードから理解する。

 ネガティブを殴っても反動は殆どない。考えてみればごく自然な事だ。何しろネガティブは虚無に還す力であり、そこに物質は存在しない――――質量ゼロの存在である。運動エネルギーの計算方法は質量×速度の二乗を二で割ったもの。質量がゼロであれば、運動エネルギーはその時点でゼロになる。

 実際にはネガティブ表面にはゼロ物質が僅かながら存在するため、ほんの僅かだが反作用は生じる。しかし本当に微々たるものであるため、殆ど無視しても問題ない水準だ。実際に殴って観測もしたので間違いない。

 これなら、いける。

 

「ネガティブ! これでどう!?」

 

【……現在の速度と軌道を維持すれば、完全崩落の〇・二秒前に抜け出せる】

 

「つまりギリだけどいけるって事だ! よっしゃあッ!」

 

 ネガティブからのお墨付きをもらい、継実は更に気力を滾らせる。

 悪足掻きではないと分かれば、気力の維持は簡単だ。指の爪が食い込んで血が滴るほど強く拳を握り締め、迫りくるネガティブの破片を打ち抜くのみ。これを高々数十秒続ければ良い。

 継実の顔に笑みが浮かぶ。ただの笑みではなく、勝ち誇った不敵な笑い。

 継実は、自分達の勝利を確信したのだ。

 あたかも継実達を逃さないと言わんばかりに、惑星ネガティブの崩落は激しさを増していく。だが、それがなんだ? 相性有利に加え精神的有利も得た継実に敵はない。恐怖も不安もなければ、身体は最高パフォーマンスで動いてくれる。負ける要素はない!

 五メートル近いネガティブの破片が迫ってきたら、思いっきり力を込めた右ストレートでぶっ飛ばす。

 一メートル未満の小さな破片が何十と迫ってきたので、ゼロ物質の薄い膜を展開。破片が引っ掛かったところで膜を引き、ぐるりと巻き付けたら膜ごとポイ捨てで対処する。

 十メートル近い大物がやってきても継実は臆さない。ゼロ物質の両手をがっちりと組み、一旦下向きに構え……迫ってきた瞬間に振り上げる! 拳二つ分の力を打ち込み、十メートル級のネガティブをぶっ飛ばした!

 数で攻めようと、大きさで迫ろうと、継実とネガティブの快進撃は止まらない。その事実が継実の士気を一層高め、感情的昂りが肉体の機能を向上させる。正の循環は止まらない。どんな脅威が訪れようとも、自分達なら乗り越えられる筈。

 例え全長五十メートルほどの巨大な塊がこちらに向かってきても、継実は一歩も退かず――――

 

「(いや流石にこれは無理だ!?)」

 

 等と考えそうになりつつも、継実の本能は調子に乗る『理性』を押し退け、現実を認識した。

 五十メートル超えのネガティブの破片。形は歪ながら球形をしているのは、剥がれ落ちた後少しずつ安定的な形に変化しているからか。いくら乗りに乗ってる継実とはいえ、ここまで大きいと間違いなく力が足りない。おまけに球形だと掴める場所がないため、投げ飛ばすのも困難である。

 兎にも角にも地力がなければどうにも出来ない存在だ。「一か八か」なんて運試しをする気にもならない、のはむしろ幸いか。お陰で図に乗っていた状態から瞬時に正気へと戻れたのだから。

 

「(どうする!? コイツだけは回り道して躱すか!?)

 

 まともに戦えないなら逃げるのが一番。〇・二秒とはいえ猶予があり、ゲームでハイスコアを狙っている訳ではないのだから障害を全滅させる必要はない。

 そうと決まれば迂回路を、と思ったのも束の間、継実達が通っている道が激しく揺れ始めた。ヤバいと継実が思えども、それだけでは振動が止んでくれる訳もなく。

 ついに継実達が通っている道は潰れるかの如くに砕け、四方八方から飛び出すように破片が溢れた。

 上下左右から迫る莫大な量の惑星ネガティブの破片。先程は一メートル程度の小さな欠片数十を片付けたが、此度の欠片は数十メートル級が恐らく数十億個ほど。最早避けるだの防ぐだのという状況ではない。惑星ネガティブの崩れた身体が押し寄せる前にこの道を、外へと続く唯一の進路を抜ける以外、助かる方法はないだろう。

 五十メートルの塊を迂回する暇などなくなってしまった。

 

「(だからって拳だけで弾くのは無理! なら、全身で抱きかかえるしかない!)」

 

 迫りくる巨大なネガティブの塊。普通ならば勝ち目のない存在に、継実は両腕を広げて構え――――

 真っ正面から、虚無に還す力を受け止める。

 

「ぐ、ぎ……!?」

 

【警告する。正面からの対処は無謀だ】

 

 呻く継実にネガティブが指摘する。だから言うならもっと早くしろ、と言い返したいところだが、残念ながら声を絞り出す余力はない。

 ゼロ物質の膜で保護している身体が、びりびりと痺れる。意識をほんの少し全身の細胞に向けてみれば、『物質』で出来ている身体が少しずつ削れているのが感じられた。あまりにも大きな力故か、虚無に還されても残るゼロ物質を貫通し、奥まで浸透してきているらしい。

 ゼロ物質で出来た腕も圧迫感が伝わり、構造が潰されていく。ネガティブの力はゼロ物質を消せず、ゼロ物質で殴られると大きなダメージを受けるが、それはゼロ物質も同じらしい。力が大きければネガティブはゼロ物質の方を叩き潰せるようだ。まだ持ち堪えてはいるが、もうしばらくすればぐしゃりと両腕がへし折れてしまうだろう。

 押し潰される。押し負かされる。

 頭を過る敗北の構図。そのイメージに継実は口許を歪め、眉間に皺を寄せる。

 だが、顔に浮かぶのは恐怖に非ず。

 彼女の顔にあるのは、自分を脅かす驚異に対する敵意のみ!

 

「ぐ、ぎ……な、め……ん、じゃあぁぁ……!」

 

 全身に力を込める。腕が軋もうが、物質で出来た身体の血管が千切れようが、構いやしない。それどころか細胞が消費するエネルギーを賄うため、血流を加速。細胞活動と摩擦で生じた熱により血が沸騰し、全身から蒸気となって溢れ出す。

 そして発動する『戦闘モード』。

 余分な熱量を掻き集めた毛髪と腕は青く輝き、生み出した力の大きさを物語る。瞳は七色に染まり、全てを見通した。ここまで温存していたエネルギーを一気に消費して、限界を超える力を生み出す!

 

「ねええええええええええええええっ!」

 

 全身全霊の咆哮と共に、継実は五十メートル級のネガティブを頭上目掛けてぶん投げた!

 僅かでも意思があれば、きっと抵抗されて継実の奮闘は無為に終わっただろう。しかし崩れ落ちた破片に過ぎないこのネガティブに、継実が本気で繰り出した『技』をどうこうする意思などない。力がどれだけ大きくとも、意思がなければ炉端の石ころと同じだ。

 巨大故に動きはゆっくり。されど間違いなく、継実達から外れるコースで飛んていく。ニヤリと継実は笑みを浮かべて、

 ネガティブから生えていた『突起』が、回る動きに合わせて継実に迫ってきた。

 

「(あ……これ、ネガティブの裏にあった奴か……!)」

 

 ネガティブの姿は球形だった。が、それはあくまでも継実が見ていた面からの話でしかない。見えていない部分に、数メートル級の突起物が隠れていてもおかしくないのだ。それが継実の方に迫ってきたのは、所謂不運だろうが。

 巨大な突起が突如として現れただけなら、躱しようもあった。しかし今の継実はネガティブを全力でぶん投げた格好。限界まで背筋を仰け反らせ、両腕を上に伸ばした姿勢から咄嗟に動く事など出来やしない。足が自由に使えれば左右に跳ぶぐらいはやれただろうが……ネガティブの背中に乗っている今はどちらにも避けられない。

 

「っ……!」

 

 せめてもの足掻きで両腕を眼前で交差させて衝撃に備える、が、駄目だろうとは思った。

 その予想は正しくて。

 構えたガードを衝撃で崩され、ぐるんと迫ってきた突起は継実の脳天を打った。巨大さ故に打撃の威力は大きく、継実は更に大きく身体を仰け反らせる……波乗りの姿勢も保てないほどに。

 波乗り姿勢が崩れたら、ネガティブの背中に乗り続ける事も出来ない。

 継実がネガティブの背からずれ落ちてしまうのも、仕方ない事だった。

 

【……!】

 

 ネガティブと目が合った……ネガティブに顔などないが、虚空に足を踏み外した継実はそう思う。

 助けてくれ、と頼むには時間が足りない。腕を伸ばしても掴める距離ではない。どうやら惑星ネガティブからの脱出が出来るのは、このまま飛んでいけるネガティブだけのようだ。

 アンタが不甲斐ないからこんな目に、なんて継実は思わない。時間が足りなかった事、巨大なネガティブの破片が迫ってきた事、その破片に突起物があった事……見抜けなかったのは全て自分の落ち度だ。ネガティブも協力してくれているが、必ず見付けるという『義務』はない。全ての責任は未だ自分にあり、仲間を責めるのはお門違いというもの。

 例えその結果、自分の命が終わったとしても、だ。

 

「(ネガティブにモモ達へと伝言を頼む、は出来ないかなぁ。モモ達の顔なんて知らないだろうし、顔合わせたら絶対攻撃されるに決まってるし)」

 

 だったらやっぱり自分で伝えないと駄目だと、継実は意識を切り替える。どんなに絶望的状況でも諦めて死ぬつもりは微塵もない。最後まで足掻いて足掻いて足掻き続けるのみ――――

 そう思っていた継実の身体が、突然動きが止まる。

 いや、それどころか惑星ネガティブの出口に向かって飛んでいく! 一瞬の驚きを挟んだ後、継実は自分の身に何が起きたのかを理解した。

 長々と伸びたネガティブの手が、継実の腕を掴んでいたのだ。

 

「これは……!?」

 

【辿れ。我の手が千切れないうちに】

 

 ネガティブの言葉を受けて、継実は即座にネガティブの腕を掴む。

 まさかネガティブに助けてもらえるとは。予想もしていなかった事に目を丸くしながら、継実はその腕を手繰り寄せるように昇る。ネガティブに掴まれるまでの間に飛ばされた距離はざっと十メートル。この距離を腕と手の力だけで『登る』のは普通の人間ならしんどいが、ミュータントの力を使えば難しくない。

 登るだけなら。

 

「ぎゃーっ!? 対消滅のエネルギーが痛いっ!」

 

 しかし今、ネガティブが抱えている継実の腕からは、推進力でもある加速された粒子が溢れ出ている。後方に吹っ飛ばされた継実はその光エネルギーと隣接している状態になっていた。継実達を秒速四十キロ以上まで加速するパワーだけあって、掠めただけでも文字通り肌を焼かれる出力だ。うっかり触れたなら、その部分は綺麗サッパリ消し飛ぶだろう。

 暴れのたうつ継実の姿を見て、何を思ったのか。ネガティブは腕を横に広げ、わざわざ継実を粒子の流れから離すように動かしてくれる。これなら登りやすい。ダメージがなければ動きに支障は出ない。継実は素早くネガティブの腕を辿り、彼の肩に辿り着く。

 

「あー……助かった、ありがとう」

 

【礼を言うのは後だ。最後の難関が残ってるぞ】

 

 継実の謝礼に対し、ネガティブは大した反応もなく自身の背後――――継実達が向かっている方角を指差した。

 示された通り継実はそちらに目を向けてみる。ただそれだけで、ネガティブの言いたい事は大凡理解し、そして彼の意見に頷く。

 その先にあるのは惑星ネガティブからの出口、の筈だった。

 だが継実が見た先に出口らしき穴は見られない。あるのはぐしゃぐしゃに潰れ、行く手を遮る惑星ネガティブの破片のみ。偶々視界を遮るように破片が漂っているのではなく、完全に、一ミリの隙間も観測出来ない。

 どうやら継実達が辿り着く前に出口が潰れ、塞がってしまったらしい。

 あり得ない話ではない。ネガティブが告げた時間は、あくまでも惑星ネガティブが完全に崩落するまでの制限時間である。部分的にはこれよりも早く崩落する事さ十分あり得るだろう。実際継実達を幾度となく襲った惑星ネガティブの破片は、制限時間まで持たなかった部分。何処が制限時間より早く崩れてもおかしくない中、自分達が目指す出口だけは例外だと考えるのは楽観的というものだ。

 さて、では問題だ。どうすればネガティブの破片で埋もれた出口から出られるか?

 成し遂げるのは限りなく困難。だが、何をすべきかは簡単だ。

 道を塞ぐものがあるなら、ぶち抜けば良い!

 

「――――ッ……!」

 

 ネガティブの名を呼ぼうとした。ところが声が出てこない。

 どうやらゼロ物質の大気がなくなったらしい。確かに継実が内部へと侵入した際、ゼロ物質は惑星ネガティブの中心部にだけ存在していた。中心部が崩壊した事でゼロ物質が外へ押し出されたからこそ今まで『大気』が存在していたが、出口だった場所に近付けばなくなるのは必然であろう。

 このままでは言葉による意思の疎通が出来ない。

 しかしそんなのは、大した問題ではない。継実が視線を向ければ、ネガティブも同じくこちらを、目はなくとも確かに見ていたのだから。表情どころか顔すらなくたって、何を言いたいかは大凡想像が付く。

 そして気持ちが通じた事の証明は、行動が示す。

 ネガティブが継実の身体に触れてきた。合わせて継実は能力を発動。粒子操作能力――――それを発動するために用いる、量子ゆらぎの力を生み出す。

 更に継実は自分の身体を作るゼロ物質を、右腕に集め始めた。左腕、両足がじりじりと消えていく。減った分の体積を補うように右腕はぶくぶくと肥大化し、腕としての形を失っていく。可憐な少女の手はやがてケロイドのようにボコボコと盛り上がり、肉質も失った歪な物質の集合体に変貌した。

 あまりにも大きく、そして不格好。ミュータント同士の戦いであれば、恐らく使い物にならない。しかし今、この時であれば問題ない。何故なら相手は、ぴくりとも動かないただの破片なのだから。

 継実は肘、に該当するであろう部分を曲げて、大きく振りかぶる!

 

【……!】

 

 『準備』を終えた瞬間、ネガティブの身体が震えた。何事かと視線を向ければ、ネガティブが抱えていた継実の片腕が、爆発するように砕けている姿が見える。

 どうやらネガティブが()()()()()らしい。反物質を使い尽くし、中身がスカスカになった事で強度が低下したのだろう。爆発により腕を抱えていたネガティブの両手が吹き飛び、身体の方もくずくずに崩れた状態だ。そして腕の消失と共に、今まで継実達を前に進めていた力が文字通り消える。されど片腕は十分働いてくれた。ゼロ物質の空気がなくなった今、慣性だけで速度は維持出来る。

 むしろネガティブの行動は正しい。握り潰した事で継実の腕にあった物質と反物質が一気に混ざり合い、今までの比ではない出力を生み出したのだから。継実達の身体は一気に、これまで以上の速さまで加速していた。

 速度は破壊力を生む。殴り飛ばすなら身体も速い方が良い!

 高速で迫る、出口を塞ぐネガティブの破片。行く手を遮る邪魔物に対し、継実は不敵な笑みを浮かべて

 

「(ぶち、抜けえええええええええええええええええええッ!)」

 

 繰り出した拳は、ネガティブの壁に突き刺した!

 拳で感じる『重量感』。虚無に還す力であるネガティブに重さなどないが、その力の大きさは重さに似た感触で伝わってくる。出口を塞いでいるネガティブ達の強さは相当のもので、継実一人の力では到底破れなかったに違いない。「一騎打ち」なんて言った手前格好悪い気もするが、負けは負けだと認める。

 だが、命を明け渡すかどうかは別問題。

 無論一人だったなら、一人で勝てなければそのまま命を失っただろう。されど此度はネガティブがいてくれた。ネガティブの力があったから継実は此処まで辿り着き、腕を握り潰して瞬間的にエネルギーを作り出す事も出来た。全てが万端。あらゆる事に憂いなし。

 そして止めに、身を翻したネガティブが継実の身体を背中から蹴り飛ばす。

 これで、砕けぬものなどある筈ない!

 

「(いっけえええええええっ!)」

 

 継実の繰り出した拳が、与えた力に耐えきれず砕ける。

 それと同時に、出口を塞ぐネガティブの破片が吹き飛んだ! 継実は周りにある破片を殴れるよう片腕を構えながら、ネガティブは触れないよう身を縮めながら、破片達と共に前へ――――二人揃って外へと向かって進む。

 やがて疎らに散っていく消滅の力の先に、ぽつりと白い点が見える。

 白い点は時間と共に数を増す。最初、それが何か継実は分からなかったが、やがて数えきれないほど増えて、一つ一つが点ではなく『光』だと気付いてようやく理解する。

 星空だ。

 宇宙空間を覆い尽くす無限の星屑達。それは今まで惑星ネガティブの身体に遮られて見えなくなっていた。つまり、見えるようになったという事は……継実達が惑星ネガティブの外に出てきた事に他ならない。

 継実達は、脱出を果たしたのだ。

 

「(い……よっしゃあああああああッ!)」

 

 歓喜のあまり宇宙空間で万歳。それでも喜び足りない。

 継実はネガティブに接近。更にゼロ物質で作った腕を分解して、周りに『空気』を作り出す。

 

「いえーい、はいたーっち!」

 

【……? ああ】

 

 そして継実が掛け声と共に歪な片手でハイタッチの仕草を取れば、ネガティブも真似するようにぎこちない動きで返してくれた。ネガティブの顔は相変わらずないので何を考えているか分からないが、ちょっと、笑っているように継実は思う事にする。

 

「はっはっはっ。いやー、あの大きな欠片はヤバかったなぁ。助けてもらわなかったら死んでたし、惑星級生物との戦いは私の負けかな」

 

【引き分けだと考える。結果的に止めを刺せていないのだから】

 

「お、そう? じゃあ引き分けで」

 

 自分にとって都合の良い結果を、すんなりと受け入れる。甘言は気を付けるべきものだが、どうせ先の『宣戦布告』は継実が自分の気持ちを奮い立たせるために行ったもの。そしてこうして生き延びた以上、どう解釈しても自由だ。

 ネガティブが自分を助けた事についても、どう解釈しようと自由だろう。

 

「(意外と義理人情に堅いタイプだったり?)」

 

 宇宙の厄災の意外な一面。それならちょっと面白いので、継実はそう解釈しておく。深く尋ねる事はしなかった。

 しばし、継実とネガティブは宇宙空間を漂う。

 継実はその最中、背後にある惑星ネガティブの方を見遣った。

 惑星ネガティブは完全に潰れ、球形だった姿はぐしゃぐしゃで凹凸のある歪なものとなっている。その姿すら不安定なようで、時折火山噴火でも起こすように内側から(恐らく内部に満ちていたゼロ物質大気)噴出する物質により、形は刻々と変化していた。一つ共通する流れがあるとすれば……段々と大きさが小さくなっている事だろう。

 このまま惑星ネガティブは崩壊し、消滅すると思われる。

 ネガティブの『命』は助かったが、帰る場所はなくなった訳だ。

 

「さて、無事脱出した訳だけど、これからどうする?」

 

【……どうしたものか。衝動として地球生命を根絶やしにしたい気持ちはあるが、それが実現不可能な事は分かる。しばし、何処かを放浪しよう】

 

 継実が尋ねるとネガティブはそう言いながら遠く、太陽系外を眺める。

 ……恐らく、このまま何も声を掛けなければ、彼は太陽系の外に出ていくだろう。ネガティブにはそれを可能とするだけの力がある。

 どんな行動をするにしても彼の自由だ。道中で数多の星を滅ぼすかも知れないし、ミュータントと類似した力を持った存在や文明に滅ぼされるかも知れない。生きるとはそういうものだ。生きている限り何かに迷惑を掛け、何かに脅かされるのだから。

 継実にはそれを止める権利などない。他の星が滅ぼされようとも、彼が何かに殺されようとも、宇宙が死へ向かおうとも、不老不死の歪な道を歩もうとも……それは悪でも正義でもないのだから。

 ただ、個人的に思うところは別な訳で。そして宇宙や他の文明の生死すらどうでも良いように、ネガティブ自身の気持ちも割とどうでも良い。確固たる決心があるならまだしも、そうでないなら躊躇う理由もない。

 

「良し。当てがないってんなら遠慮はいらないね。アンタを地球に連れてこう」

 

 だから平然と、そんな事を言い出す。

 ネガティブはキョトンとしていた。首まで傾げていた。継実の記憶を読んで、不思議に思った時はそういう態度を取るものだと学んだのかも知れない。

 

【……なにゆえぇ?】

 

 出てきた言葉に何時もの覇気はない。むしろキョトンとしている。

 そんなネガティブの腕を掴んだ継実は、そいつの身体を()()()

 じわじわと身体の表面が消されていく感触。要するに生皮をヤスリで削ぎ落とすようなものなので、痛覚を制御しなければ悲鳴を上げるぐらい痛いところだ。

 無論痛みを遮断したところで、傷が癒える訳ではない。しかしにやりと不敵に笑うぐらいは出来る。

 心底楽しげな笑みと共に、継実は断言した。

 

「命を助け合ったらもう友達でしょ。んで友達とは一緒にいる方が楽しいじゃん!」

 

 ネガティブの返事など待たない。顔色など窺わない。

 ただぎゅっと、強く握り締める背中の痛みだけで十分。

 真っ直ぐ、最短距離で、継実は地球へと落下(帰還)するのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【ところで一つ、助言がある】

 

「ん? 今更何を助言する訳?」

 

【虚無物質は本来、この宇宙には存在しない。我々が量子ゆらぎを消滅させた、その環境下でのみ存在が許される】

 

「ふむふむ? ……ん? つまりそれって……」

 

【つまり、お前の身体を構成している虚無物質は間もなく崩壊する。大気圏降下は困難だ】

 

「…………………………」

 

【どうした?】

 

「だ か ら! 大事な事は早く言えぇぇぇぇっ!」



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賑やかな星19

「という訳で友達になったので連れてきました、ネガティブくんです」

 

【今後ともよろしく】

 

「なんでこの人、宇宙の災厄連れ帰ってきてるのおおおおおおおお!? というか友達ってどゆ事おおおおおおおおおっ!?」

 

 南極に帰還した継実がネガティブを紹介したところ、誰よりも真っ先に反応したのはミドリだった。

 平坦な氷に覆われた南極大陸の平地にて。多少のトラブル(四肢を喪失した状態での大気圏突入)はあったものの、地上に無事辿り着いた継実達は、それから数時間が経って迎えに来たミドリ達に囲まれていた。

 やってきたのはミドリとモモの家族二名に加え、フィアと花中の二人もいる。宇宙空間でわいわいやっていた継実達と違って、花中達は惑星ネガティブ崩壊と共に脱出したため一足早く地上まで帰っていたようだ。

 ネガティブの姿を見た四人は即座に戦闘態勢を取ったが、それを継実が制止。かくかくしかじかと説明し……ミドリの冒頭発言に至る。

 

「ほーん。随分面白い奴と友達になったわねぇ。あ、私はモモね。この子の家族。よろしくー」

 

「あ、あの! わたしは、大桐花中と申します。え、えと、よろしくお願いします!」

 

「花中さんは誰とでも友達になろうとしますねーこんな靄みたいな奴の何が良いのでしょうか。あっ花中さんに手を出したら殺しますからね?」

 

 ちなみにミドリ以外の三人は、特段抵抗もなくネガティブの存在を受け入れていた。ミドリは僅かに呆けた後、しっかりと叫んでツッコミを入れてくる。

 

「いやいやいや!? なんで皆さんそんなあっさりと受け入れてるんですか! ネガティブですよ!? 宇宙の厄災ですよ!? 幾つもの星を滅ぼした悪魔ですよ!」

 

「でも継実と友達になったんでしょ? なら別に大丈夫じゃない? あと地球以外の星の事とか別に興味ないし」

 

「例え、同じ種族でも、性格は色々です! きっとお友達になれる子だって、いますよ!」

 

「どの道私の敵ではないのでコイツがなんだろうがどーでも良いです。花中さんを虐めるなら殺すだけですし」

 

 ミドリの必死の説得。しかしモモ含めた三人は何処吹く風だ。モモとフィアは過去の行いや他者との関係性ではなく、『今の相手』と『今の自分』でしか物事を判断していない。友達大好きな花中も、ある意味似たようなものだろう。種族的な特性を誰一人として気にもしていなかった。

 とはいえミドリの反応も至極尤もなもの。ネガティブは幾つもの惑星を滅ぼした宇宙的厄災だ。おまけにミドリはネガティブに故郷を滅ぼされている身である。

 フィアやモモぐらい『野生動物』的な存在であれば、故郷を滅ぼした種族でも、自分に害がないのであればなんの恨みもなく付き合えるだろう。故郷なんて、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のだから。しかしミドリは文明的なご身分。最近はかなり野獣染みてきたが、それでもまだまだ本能と合理性よりも理性と感情を重んじる。ネガティブに対し嫌悪感が募るのは仕方ない。

 こういう時はまず対話だと、継実は思う。相手の事を知らないから思い込みで話をするのだ。嫌うのは相手と話をしてからでも遅くはないだろう……勿論、その上で嫌うのは当人の自由だが。

 

「まぁ、ほら、確かに色々あったけどさ、話してみると意外と面白い奴だからさ」

 

【はじめまして。当面の生きる目的は、地球生命を根絶やしにする事だ】

 

「一言目から絶対に分かり合えない事を確信する発言なのですけどぉ!?」

 

「いや、でも一体だけじゃ何も出来ないって。だから大丈夫だよ」

 

【力が溢れる……高まる……】

 

【イギロロロオオオォ……】

 

【イィイィイギッギッギッ】

 

「増えてる! 今目の前で増えてます! なんか分裂して増えてますからぁ!?」

 

 次々とミドリの心配を裏付けるような行動を起こすネガティブ。ミドリはもう目に涙を浮かべ、猛烈に後退りしていた。

 ……ネガティブには顔がないので表情もないが、絶対今はニヤニヤしているなと継実は思う。戦っている時から感情豊かだとは思っていたが、意外とイタズラ好きな性格らしい。やはり、何事も付き合ってみなければ分からないものだ。

 とはいえイタズラばかりでは話が進まない。ぺちん、とネガティブの後頭部を叩いて窘めておく。ついでに分裂して増えたネガティブはその足を掴んで、適当に遠くに放り捨てておいた。ネガティブ達は川に捨てられたアメリカザリガニよろしく、すたこらさっさと自然界に逃げていく。この後生きて繁殖するか、食べられて死ぬかは、彼等の奮闘次第である。

 継実に叱られ大人しくなったネガティブを見て、ミドリも少し落ち着きを取り戻す。小さくないため息の後、なんだか吹っ切れたような顔になっていた。

 

「……まぁ、良いです。思い返したら、別にネガティブぐらい大したもんじゃありませんし」

 

「おっ、ミドリも言うようになったねー。昔はネガティブを見た途端、私ら置いて逃げたくせにーこのこの」

 

「ええい、じゃれ合わないでください! あたしが子供みたいじゃないですか! あと結構根に持ってますねそれ!?」

 

 継実が近付き、肘で脇腹を小突いてみれば、ミドリは顔を顰めながら反抗する。

 それからネガティブの方を睨むように見ると、がるると唸るように喉を鳴らした。

 

「あたしは! ぜぇーったいに友達だなんて認めませんからね! べぇーっ!」

 

 次いで見事なあっかんべーで、ネガティブに『敵意』を示す。

 ……敵意と呼ぶには少々可愛らしい気もするが。

 ネガティブがぷるぷると震え出したのは、決して恐怖している訳でも、致命的なダメージが蓄積したからでもあるまい。

 

「……なんですか、その反応は」

 

【他意はない】

 

「他意しかないでしょうがその反応はぁ!」

 

「おー。ミドリが何時もに増して凶暴だぁ」

 

 ミドリの怒りも、モモのような家族にとっては物珍しいだけ。

 そんな中、ぶっ、と何かが吹き出すような声が聞こえた。

 ……ちらりと視線を向けてみれば、花中がミドリからそっぽを向く姿が見える。継実からもその顔は見えないが、ぷるぷると震える姿を見ればどんな表情かは想像が付くというもの。

 継実も思わず吹き出し、そしてゲラゲラと笑ってしまう。

 当然ミドリからすれば面白くなく、「むぎーっ!」と怒りを露わにした声を継実はぶつけられた。が、このタイミングでそれをやっても可愛いだけだ。余計笑いが止まらなくなり、花中もくすくすと声が漏れ始める。

 和やかな雰囲気が皆の中に広がっていく。

 荒れ狂うミドリに頬を引っ張られながら、継実は視線をネガティブに送った。私の言った通りでしょ? と。

 ネガティブの雰囲気が僅かに和らいだのは、気の所為だろうか。いいや、きっと気の所為ではない。彼もまた、このやり取りを楽しんでいるのだ。

 

「(ちょーっとだけ心配もしてたけど、杞憂だったね)」

 

 ミドリが大丈夫なら、ヤマト達も問題はないだろう。仮に何か言われても、このお調子者ぶりを見たら毒気を抜かれてしまうに違いない。

 そしてそれはネガティブも同じ筈だ。羨ましかったもの、妬んでいたものに自分がなっているのだから。きっと、今の彼となら、村で一緒に暮らしていけるだろう。モモやフィアと狩りをして、花中や晴海や加奈子とお喋りし、清夏やミリオンと議論する。時には誰かとケンカして、誰かのケンカを仲裁して、関係ない仲直りの宴会を楽しんで……

 新たな住人を入れての村生活。それは今まで以上に刺激的で、バラエティ豊かで、何よりとても――――

 

「ん? ……おっとこれは不味い」

 

 そう継実が考えていた時、不意にフィアが独りごちる。

 何が不味い? そう疑問を抱いたのは継実だけでなく、花中やモモ、ミドリやネガティブも同じらしい。全員が ― ネガティブに顔はないが ― キョトンとした表情を浮かべる。ただしその顔が見られたのは、ほんは一瞬の間だけ。次の瞬間には全員が、警戒心や恐怖心など感情の色は違えども、意識を引き締める。

 何かが来る。途方もなく大きな力を有したきな何かが。

 方角は、頭上。

 

「よっと」

 

「ひゃあっ!?」

 

 一足先に危険に気付いていたフィアは、花中を抱きかかえてその場から跳ぶ。継実達も身の危険を感じ、此処から退避しようとした、が、一手遅い。

 継実達が逃げ出すよりも、空より降下してきた何かが地上に辿り着き、強烈な衝撃波を撒き散らす方が先だった。

 

「ぬひゃあ!? わ、わわわわわっ!?」

 

「ミドリ! くっ……!」

 

 この場にいる面子の中で最も貧弱なミドリが、衝撃波によって吹き飛ばされる。モモが即座に反応して彼女の足を掴むも、引き留めるには体重とパワーが足りなかったらしい。ミドリ共々空に浮かび上がってしまう。

 飛行能力がなければ、身体が浮かんだ後にどうこうする事は出来ない。二人はそのまま遥か彼方へと飛ばされてしまった。あっという間に地平線を越えてしまったようで、もう継実の視力でも確認出来ない。

 モモもミドリもミュータントなので、高々数キロ吹っ飛んだ程度で死ぬ筈はない。されどこのままでは継実と離れ離れになってしまう。だからすぐにでも二人の下に向かいたいと継実は思うのだが、しかしそうもいかなくなった。

 どうにか踏ん張っていた継実の目の前には、()()()()がいるのだから。

 

「(コイツ、まさかカモメか……!?)」

 

 直感的に察した正体は、日本人ならば誰もが知っている鳥類。

 真っ白な羽毛に覆われた身体、漆黒の羽毛に覆われた翼、黄色くて鋭い嘴、獰猛さが一目で伝わる鋭い目付き……どれもこれもカモメの特徴だ。種類は恐らくミナミオオセグロカモメだろう。七年前にも南極に生息していた種で、特段珍しいものではない。

 が、身体の大きさが明らかに七年前と違う。

 目測だが体長十メートルを超えている。左右に広げた翼の長さは、ざっと二十メートルはあるだろうか。継実達は此処南極で体長十八メートルの恐竜を目の当たりにしているが、翼がある分大きく見える所為か、あの恐竜よりも強烈なプレッシャーを感じる。何をどうしたところで、自分達では勝てないという予感を抱かせる存在だ。

 

「むう。コイツは厄介ですよ。この南極では恐竜以上に危険な奴です」

 

 その予感が正しい事を、フィアの淡々とした言葉が裏付ける。尤も、予感が的中しても継実は全く嬉しくないが。

 フィアが起源というほどだ。その戦闘能力は自分一人ではどうにもならないと、継実は暫定でカモメの実力を予測する。

 そしてその鋭い目と、開いた口から糸引く涎を見るに、こちらを喰う気満々のようだ。

 今までの旅でこのカモメと出会ったら、恐らく継実は酷く狼狽えていただろう。シンプルな強さほど対処の難しいものはないのだから。諦めるつもりは毛頭ないが、覆せるとは到底思えない。

 されど今の継実は違う。

 此処には ― 吹っ飛ばされて今はいないが ― モモ達だけでなく、フィアと花中、更にはネガティブもいるのだ。恐竜さえ撃退したフィア、そのフィアに匹敵する花中の二人が揃えば、恐竜以上の実力者である巨大カモメも追い払える筈。そこにネガティブ、そして自分自身の力を加えれば……暫定であるが継実には勝ち筋が見えた。

 とはいえ無理に戦う必要はない。結果的に生き残る事が出来ればそれでOKだから、逃げるという作戦もありだ。そして選択肢が複数あるなら、意思を統一しておくべきである。

 

「フィア! 花中! どうす」

 

 る。残りあと一文字というところで、継実の声はぴたりと止まった。

 何故なら、先程までフィア達がいた場所に、フィアと花中の姿はなく――――地平線近くに花中を肩に担いで疾走しているフィアがいた。

 つまるところ、フィアは花中と共に全力疾走で逃げている。継実の事などお構いなしに。

 

「……ちょ、えええええええっ!? え、フィア!? なんでアンタそんな遠くに……」

 

「あ、有栖川さあぁぁん! ぜ、全力で、に、逃げぇぇぇ……」

 

 唖然とする継実に、フィアに担がれている花中が大声でそう告げてくる。

 恐らく、花中はフィアに無理やり連れ去られたのだろう。彼女の性格的に、逃げるにしても一言ぐらいある筈だ。だが離れていく花中は、フィアに戻れと言わず、継実に逃げろと言ってくる。

 つまりこのカモメは、まともに戦ったら花中達でも勝ち目がない相手なのだ。惑星ネガティブの内部で、何百何千のネガティブを相手にしても無事宇宙から帰ってきたあの二人が、である。

 さて、ではそんなカモメがじっとこちらを見下ろしている今の状況を、一言で例えるならばなんと言うべきか?

 

【絶体絶命、というべきだろうか】

 

 その答えを口にしたのは、継実と同じく取り残されたネガティブだった。

 継実は肩を竦める。それはカモメを嘗めている訳でも、ネガティブの言葉に呆れた訳でもない。過度に緊張した自分の気持ちを、少しでも和らげるための行動だ。こうでもしないと、恐るべき化け物カモメの前で談笑なんて出来やしない。

 

「正にそんなところだなぁ。しっかしどうしたもんか」

 

【まともにやり合って勝てる相手ではない。そこで一つ作戦がある。お前があの生命体に突撃し、私はその間に退避を行う。これで私は無事に生還可能だ】

 

「真顔で冗談言ってんじゃないよ。つか表情ないから本気かどうか分かんないし」

 

【それはそれとして、作戦を練ってる暇はなさそうだな】

 

 自分が繰り出したボケを投げ捨て、現実を突き付けてくるネガティブ。継実としてはそのまま話を流されるのは癪だが、しかしネガティブの言う事は至極尤もだ。

 こちらを見つめている巨大カモメの『気配』が、どんどん強くなっている。

 襲い掛かってはこない。だが、それは巨大カモメに攻撃の意地がない事を意味しない。恐らく奴は継実達が軽口を叩きながらも警戒を一切弛めていない事を見抜き、迂闊に攻撃すれば躱され、逃げられてしまうと考えているのだろう。

 巨大カモメと継実達の実力差は明白。にも拘わらず襲い掛かってこないなんて、自分の実力に自信がない未熟者なのか? いいや、逆だ。自分の実力のみならず、相手の実力も正確に推し量っている。その上で、万に一つも失敗しないよう慎重に振る舞っているのだ。

 実力も現実認識も問題ない。そして一切油断も慢心もない。正しく「普通に戦えば勝ち目がない」相手である。そんな輩の前で作戦会議なんて『隙』を晒せば、その時は躊躇いなく攻めてくる筈だ。その時点で継実達の負け確定である。

 なら、やる事は一つ。

 

「じゃあ、あの作戦しかないか」

 

【あれは作戦とは言わないと考える】

 

「生き残るための作戦だから問題なし。あ、そうそう。周りの生き物もおこぼれや横取りを狙ってるから気を付けてよ」

 

【気付いている。しかし全く、この星は騒がしい、というより喧しい。宇宙の静寂が、虚無に包まれた頃が、早くも懐かしくなる】

 

 悪態を漏らすネガティブ。だがどうしてだろうか。騒がしい喧しいと責める言葉が、僅かに弾んで聞こえてくるのは。

 コイツはまだまだ自分の想いを出すのが下手だなと継実は思う。だから、という訳ではないが、継実はお手本を見せるように満面の笑みを浮かべながら尋ねた。

 

「でも、好きなんでしょ? こういう賑やかな星がさ、わざわざ宇宙の彼方から全速力でやってくるぐらいに」

 

 ネガティブからの返事はない。しかしこくりと動いた頭を見れば、それで十分。

 継実はネガティブの方を見て、ネガティブも継実の方を見る。同時に顔を見合わせた二人は、今度は同時に頷く。

 

「んじゃ、とりあえずモモ達と合流するまでよろしくね」

 

【こちらこそ。では早速】

 

「【逃げる!】」

 

 二人は一緒に走り出す。巨大カモメは逃がすものかと追い駆けてきた。そんなカモメから獲物を横取りしようとしてか、雪に隠れていたアザラシや、エビらしき巨大節足動物も次々と顔を覗かせる。

 例え宇宙の厄災だろうが、地球生命の多くを救った英雄だろうが、捕食者達からすれば獲物には変わらない。生物は全てを平等に認識し、平等に見下し、平等に殺し――――平等に認め合う。

 新たな種族も受け入れた地球は、以前よりもほんの少し賑わいを増すのだった。



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