神典【流星の王】 (Mr.OTK)
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序章
零 生まれ落ちるは仮初の王


 始まりは大海 彼の者は罪を背負いて、果てのその先へ歩んで行く


【『冥』の位を極めし魔術師 カーター・オルドラの自伝より抜粋】

 

 世に、カンピオーネと呼ばれる存在が在る。

 

 彼らは如何なる運命にあったのか、『まつろわぬ神』という天上の神を人の身で在りながら殺害し、神々のみが保持することを許された『権能』を簒奪せしめた者達の事である。

 

 さて、ある呪法により永い時を生き永らえている私だが、何の因果か、とあるカンピオーネの保護者、もしくは後見人のような立場を強いられた。それも二人も。

 

 しかし、どちらも性格に差はあるものの実に私好みの人間であり、また、彼らも私を慕ってくれていたので、私は彼らと彼らが大切に思っている者達を私の同胞、ひいては家族として迎え入れたのである。

 

 では、ここから先は数奇な運命により共に道を歩む事となった、二人のカンピオーネについて記そう。

 

 まず、欧州はフランスで勢力を張っている『神獣の帝』ことシャルル=カルディナル。私が彼と出会ったのは今から――

 

 

 ――(中略)――

 

 

 次に、極東は日本のカンピオーネ。『流星の王』こと吉良 星琉。

 

 彼はその特異性故か、二つ名が魔術結社によって違いがあるという不思議な特徴がある。

 

 欧州の賢人議会、王立工廠、イタリアの七姉妹は『騎士王』と称し、五嶽聖教からはあの羅濠教主直々に『梅の王』の名を授けられ、アメリカのSSIからは『セイル・ユレイナス・キラ』と天王星を冠して畏敬され、日本では『陰陽王』と崇められた。

 

 このように様々な二つ名を持つ彼だが、それは主に彼の精神性に依るものだ。

 

 彼の気性は実に穏やかで理性的であり、通説としてのカンピオーネとは真逆の類のものである。その象徴として、彼はそれまでのカンピオーネとは全く異なった形でカンピオーネとなったのだから。

 

 死の危機に瀕し、人間の持つ強い生存本能によって運良く神を殺せたわけでもなく、神をも超えるほどの純粋な力量によって殺したわけでもなく、神殺しの神具の力を以って殺したわけでもない。

 

 ――彼は、神と契約を交わし、神の死を幇助することによって、カンピオーネとなったのだ。

 

 

◇◆◇◆

 

 

「……気持ち良いな」

 

 中東はオマーン、その首都マスカットを南東に下ったとある海岸に、その少年は居た。

 

 歳は十歳くらいだろうか、まだまだ成長途中の幼い子供の容貌だ。

 

 少年は目を閉じて、何かを受け止めるかのように両腕を広げて立っている。

 

 少年は自然を感じる事が好きだ。それは例えば森林浴だったり、空高く飛ぶ鷹を撮影することや、今のように潮風を感じることなど様々である。

 

 少年の夢はいずれ世界のありとあらゆる国を旅し、オーロラや滝に浮かぶ虹という自然の神秘を体感し、カメラに収めることなのだ。

 

 さて、少年はこの地へ家族とやってきた日本人だ。父の仕事の関係でドバイ首長国の首都ドバイへ家族とやってきていたのだが、少年の要望で近隣諸国を巡っている途中、この地に立ち寄っていた。

 地に立ち寄っていた。

 

 そして少年は近くの海岸へ自分の未知の自然がないかとやってきたのだが、あまり期待以上のものは見つからなかったようだ。辛うじて背後に広がる荒野は大地の荒々しい生命力を体現していて少年の興味を引いたが、逆に言えばそれだけしかなかった。

 

 何も見つからないよりはマシか、そう少年が感じ、家族の元へと帰ろうとした時、生き物を見つける。

 

「……?」

 

 少年がどんな生き物か確かめるために駆け寄ると、それは白い蛇だった。自然が好きな少年は動物にも詳しかったのだが、荒野に現れる白い蛇なんて聞いたこともない。

 

 どんな蛇なんだろうと少年が特徴を調べようとすると、少年は蛇が血を流していることに気づいた。どうも傷を負いながら這って来たようで、岩肌には蛇が流した血の跡が見える。

 

 そして同時に、少年は蛇が酷く衰弱していることに気付き、命が長くないことを確信した。

 

 白い蛇は確か吉兆の証だったはず、と少年はどこかうろ覚えの知識を思い出し、蛇を看取ることに決めた。

 

「ごめんね、君の傷を治してあげることはできないけど、せめて僕が君の最期を看取るよ」

 

『なれば、妾の願いを聞き入れてはくれぬか?』

 

「え?」

 

 突然頭の中で響いた声に少年が驚くと、次の瞬間、蛇が見目麗しい女性へと変貌したではないか。

 

 腰にまで届く煌びやかな星を思わせる長い銀髪、瞳は海を思わせる深い青色で、肌は白磁のように白く澄んでいた。ゆったりとした白のワンピースを着ているのだが、胸はふくよかに膨らんでおり、腰はくびれていて、正に絶世の美女と表現するに相応しい容姿と体型である。

 

 しかし、体のあちこちにある傷から血が流れ出ていて顔面は蒼白。痛みを堪えていることを示すように眉間にシワを寄せていた。

 

 突然蛇が人になった事と、その人があまりにも綺麗だったことに目を白黒させている少年に、美女は願うような、縋るような甘い声音で少年に呼び掛ける。

 

「妾の名はティアマト。大いなる太母神であり、全ての神の母なる神である。少年、其方の名を妾に聞かせてくれぬか?」

 

「えっと……吉良、星琉です」

 

「キラ・セイル……それが其方の名か。……黒き髪と(まなこ)、名の響きから我が霊眼に垣間見える東方の景色……そうか、其方は極東に住まう者なのだな」

 

 ティアマトは少年――星琉の名を聞くと、見る者全てが虜になるような微笑みを浮かべ、慈愛の眼差しを注ぎながら、愛しい者の名を呼ぶように星琉の名を確かめた。そしてまた、鈴の音のような美しい声で星琉に語りかける。

 

「では星琉よ、もう一度問おう。妾の願いを聞き入れてはくれぬか?」

 

「は、はい! なんですか!?」

 

 少し緊張して、震えた声で応答してしまった星琉だったが、それも仕方なかった。何故なら彼は今、手負いとはいえ女神と対峙しており、その圧倒的な存在感に気圧されていたのだから。

 

「妾は直に死へ至るであろう。それもあの憎き《鋼》の天使、熾天使ミカエルの狼藉でな」

 

 憎々しげ語る様子に恐怖を感じて、星琉はたじろいでしまう。

 

 しかし、ティアマトの表情はすぐに痛みを堪える苦い表情へと変わる。死に至るほどの傷なのだ、その痛みは星琉の想像では決して思い至ることは出来ないだろう。

 

「星琉よ、其方の手で妾に引導を渡してくれぬか」

 

「それって……?」

 

 女神の言葉の意味する所が分からず首を傾げる星琉に、ティアマトは厳かな雰囲気で言う。

 

「妾に……死を」

 

 星琉は呆然とし我を失っている。この女神が何を言ったのか、理解できなかった。

 

 だが、それも当然だろう。まさか自分を殺せ、などと頼まれることを一体誰が予想出来ようか。

 

 しかしティアマトも至極真面目だ。この幼子に意味が解らずとも、確かにそれを為してもらわねばならない。

 

「かの熾天使に与えられる死と、其方に与えたれる死では大きく価値が異なる。優しき児よ。どうか妾の屍を越え、世に原初の平穏と静寂を与えて欲しい……」

 

 星琉はティアマトの言葉を完全に理解することは出来なかったが、自分に殺されることが女神にとって重要であることだけは漠然と理解出来た。

 

 だが、たとえ女神にとって重要であったとしても、星琉に殺す決断が出来るはずもない。ティアマトは星琉の心を見抜き、優しく言葉を続ける。

 

「案ずるな、いずれにせよ妾は死ぬ。それに妾は死ぬが、滅びるわけではないのだ」

 

 気付けば、星琉は知らず知らずのうちに涙を流していた。まるで避けられない別れを惜しむかのように。

 

 するとティアマトは星琉を抱き寄せ、まるで母親のように星琉の頭を優しく撫でる。星琉としても不思議な気持ちだった。このティアマトという女神とはたった今会ったばかりで、まだ半時間と経っていない。であるというのに、どうしてこんなに悲しい気持ちになるのだろうか。

 

 理由も分からぬまま、ただただ星琉は涙を流す。

 

「星琉、其方は妾の為に涙を流してくれるのか。優しい子だな」

 

 ティアマトはそんな星琉に慈愛の笑みを浮かべ、止めどなく涙を流す星琉の目尻を拭うと、星琉の頬を両手で包み込み、口付けした。

 

「んっ!?」

 

 突然の出来事に声にならない悲鳴をあげる星琉。

 

 しかし、ティアマトから受け渡されているナニカを感じ取り、それを受け入れようとティアマトからの口付けを自分から享受していく。

 

 十秒ほど続いた微かに淫靡な水音は、銀色の橋が二人を繋ぐことで終わりを告げた。

 

「其方に妾から加護を与えた。大いなる、母なる海が、其方の行く道を護るであろう」

 

 ティアマトのその言葉も星琉はどこか上の空、ちゃんと聞こえているかは定かではない。

 

 しかし、それが真実であることを示すように、星琉の右手の甲に見慣れない文字が輝き、消えた。

 

 ティアマトがそれを見届けると満足そうに頷き、虚空から何かの爪を呼び出して、同時にティアマトと星琉を閉じ込めるかのように魔法陣が浮かぶ。

 

「太母神ティアマトが契約の祝詞を告げる。人の子、吉良 星琉よ。汝、妾と契約を交わせ。さすれば妾は其方に妾の子らを託し、其方を王へと至らせん。だがそれは仮初の位。其方が我が仇敵である《鋼》の熾天使より権能を簒奪せし時、完全なものとなるであろう」

 

 呼び出した爪を星琉に握らせ、誘うように腕を大きく広げる。

 

 星琉は何か言おうとするが、グッと言葉を飲み込み、顔を伏せた。そして……。

 

「契約……します」

 

 一言告げて、星琉はその爪でティアマトの胸を突き刺す。すると同時に、星琉は自分の中に何かが流れ入ってきているのを感じていた。

 

 その時、ティアマトが星琉の後ろを見遣り、誰かに向けて言葉を発する。

 

「現れたか、魔女パンドラよ。些か稀な事態であったから現れぬ可能性もあると見ておったが、杞憂に終わったようだな」

 

 星琉が振り返ると、そこにはピンクブロンドの長い髪をツインテールにして背中に流している少女がいた。

 

 ……いや、少女という表現は的確ではないか。決して豊かではないその身体であるが、少女では決して醸し出すことの出来ない、異性を捕らえて離さない蠱惑的な色香がある。

 

「お初にお目にかかりますわ、ティアマト様。確かにこのようなことは初めてではあるけれど、他ならぬ女王様自身がそれを認めていらっしゃるんだもの。こちらとしては願ったり叶ったりだわ。それにしても良かったのかしら? 女王様はご自身で敵となる者を作ってしまったのよ?」

 

「構わぬ。妾が妾自身で決めたこと。そんなことよりも、憎き《鋼》に嬲られ屠られるよりも、妾のような者に涙を流す、優しき幼子に看取られる方が余程好い。さぁパンドラよ、妾ももう時間が無い。疾く転生の儀を始めよ」

 

「うふふ、とっても解りやすい理由ね。共感出来るわよ、ティアマト様。それで、あなたが私の新しい息子ね?  へぇ、あの子とそう変わらないじゃない」

 

 そう言って無邪気な笑顔を星琉に向けるパンドラ。そんな彼女の様子に、星琉はティアマトと感じたものとはまた別の動悸を感じた。

 

「さあ皆様! 祝福と憎悪をこの子に与えてちょうだい! 中つ東の地より生まれし七人目の魔王。神と契約を交わし、神の死を幇助することによって生まれた異端の魔王に、聖なる言霊を捧げてちょうだい!!」

 

「吉良 星琉よ! このティアマトが神殺しとして新生する其方に祝福と慈愛を授けん! 其方は妾が授けた権能により、神々と争う運命を課せられた。されど案ずるな、必ずや妾の子らが其方を慕い、守護するであろう。故にあらゆる敵を屠り、その骸の上で王の威光を知らしめ、やがては妾を悪魔へと貶めた憎き熾天使を地に這い蹲らせよ!!」

 

 宣言すると同時に、塵となって消えるティアマト。その死顔は、どこか満足そうでもあった。

 

「あら、あの子だわ。残念、もう少しあなたとも話がしたかったのに……」

 

 何かに気付き、風のように消えゆくパンドラ。しかし、また別の声が星琉に掛けられる。

 

「おー、いたいた……っと、生憎間に合わなかったか。ティアマトはもう殺られた後みたいだな」

 

 少し高い声、変声期を迎えていない少年の声だ。星琉が振り返ると、そこには自分より背も歳も上だと思われる白髪の少年がいた。

 

「貴方は……?」

 

 訝しげに尋ねる星琉とは対照的に、少年は楽しくて仕方がないという風に答える。

 

「君の同族。神を殺し、その権能を簒奪した人間さ。――さて、色々状況は呑み込めてないだろうが、取り敢えず着いて来るといい。順を追って説明するには、場所が場所だからね」

 

 少年はそう言うと、星琉という存在を見透かすかのように目を細め、告げる。

 

「という訳で、ようこそ、神と人間の戦場へ。歓迎するよ、何も知らない新人君」

 

 これが、後の『    』であり『     』――その原型である『流星の王』が誕生した瞬間である。

 




 魔王への転生 それは闘争による栄華と零落への扉ではなく、只々昇華の為だけのものである


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熾天使の章
壱 彼の地に来たる星


 熾天使の喇叭は始まりを告げる


 京都のどこかの森の深奥にある、誰にも知られていない大神社。妖しい月の光が境内に差し込み、そこで見事な剣戟を繰り広げている二人の人間を照らしていた。

 

 一人は赤い着物に草履を履いた、齢十八程の中性的な容貌の人物。右手に一切の光を反射しない、闇夜を思わせる漆黒の刀を、左手に日の光のように輝く白い刀を持ち、二刀流の形を取っていた。

 

 この人物の着物は普通の物とは違うのか、普通ではありえない程軽やかに舞い、両方の刀を順手、逆手と自由自在に持ち替えて相手を翻弄している。

 

 もう一人は赤のインナーに黒のジャケット、ズボン、ブーツと全体的に落ち着いた雰囲気の十四、五歳程の少年――吉良星琉。着物の人物と全く同じ刀を二刀流で、同様の太刀筋を描いて応戦していた。

 

「ふぅん……四元式は完成。他の特式もまずまずって所。お前にやった『式』は発展途上だけど……それにしても、たった五年半でよくここまでモノにしたな。普通ならまだ基本の四元式も覚束無いだろうに……羅刹王ってのはみんなそうなのか?」

 

 軽く雑談するような調子で語りかけるこの人物だが、空を奔る黒白は嵐のような熾烈さを以て星琉を襲う。徐々に徐々に速度を増す斬撃に、星琉は歯を食いしばって着いて行く事しか出来ない。

 

「……っ!」

 

 首筋を襲う黒い閃光を弾き、星琉の黒が狙うはそれを持つ手。しかし、すぐに逆手へと持ち替えられたそれに防がれて失敗。同時に白い軌跡が描かれ、星琉はそれを遮るように逆手に持った白で防ぐ。

 

 しかし何が起こったのか、しかと防いだはずの星琉は五メートル程弾き飛ばされた。

 

 遂に均衡は崩壊した。膠着状態とはいえ互角に応じていた星琉だが、今ではもう防戦一方だ。

 

 嵐のような剣閃は更に威力と速度を増し、端から見ている分にはまるで流星群のよう。金、金、と刀が触れ合う度に音が奏でられ、それが百に達しようとした時、今までよりも一際甲高い音が鳴り響き、星琉の後方に彼が持っていた黒白の双刀が石畳に突き刺さる。それとほぼ同時に、星琉は頸動脈に白刀の峰を、心臓の辺りに黒刀の柄を当てられていた。

 

「……参りました」

 

 星琉がそう降参を告げると、着物の人物は星琉に突きつけていた双刀を左右の腰にある鞘に納める。それを見て一息ついた星琉は立ち上がり、石畳に突き刺さったままの双刀を回収した。すると不思議なことに、双刀は霞むように揺らめきながら重なって一つの刀となり、次の瞬間には星琉の左腕に消えた。

 

 しかし、着物の人物はそれを気にした様子もなく、気怠げに話し始める。

 

「お前を見つけて、その後色々あったから折れるかとも思ってたんだけどな……なかなかどうして、よく最後まで着いて来たよ、お前は」

 

「あはは……まあ、強くならなきゃ死んでしまいますからね。師匠には感謝してます」

 

 頭の後ろを掻きながら、星琉は照れたようにそう言う。着物の人物は邪険に扱っているように見えるが、これがこの人物なりの褒め言葉だと理解しているからだ。

 

「ま、そこらの雑魚には権能を使わなくても勝てるだろ。そうだな……『剣の王』に二、三歩劣る聖騎士位ってとこか。それ以下の奴に負けるなよ、殺すぞ?」

 

「き、肝に命じておきます」

 

 星琉の背中に嫌な汗が伝う。何故なら、星琉は知っているからだ。

 

 この人物が『やる』と言ったら『やる』ことを、『殺る』と言ったら『殺る』ことを。

 

 星琉がこの人物の言う『雑魚』に対して意にそぐわない結果を出したと知れば、一も二もなく自分はこの世からおさらばするだろうと、星琉は経験から分かっていた。この人物には権能を使わない限り、今の星琉が勝つことは出来ないのだから。

 

「それじゃあ、これで失礼します。他の皆さんにもよろしくお伝えください」

 

「ああ。鈍ったと思ったらいつでも来いよ。鍛え直してやる」

 

「ありがとうございます。その時は、また」

 

 星琉は感謝の気持ちで、着物の人物はニヒルな雰囲気で微笑み合い、別れの挨拶を済ませる。次いで視線を虚空へと向けて手をかざし、魔の術を手繰る言霊を発する。

 

「『天、地、冥の三界結ぶ、闇夜の中に三叉路を紡ぎ、私の心の向かう場所へ、月の導く十字路を繋げ』」

 

 すると、星琉の身体は何かに溶けるように揺らめき、最後には消え失せた。

 

 星琉の持つある権能による『転移』だ。

 

 星琉の後ろ姿を見送った着物の人物は、今はもう居ない彼の事を思って、少し期待するような様子で呟いた。

 

「さて、あいつはどれ位まで生き続けられるかな……?」

 

 

◇◆◇◆

 

 

 星琉にその連絡があったのは、十六歳の誕生日を迎えてから暫く経った、ある日の夜の事である。

 

 晃が霊気を利用して掘り上げた天然温泉の露天風呂で入浴を終え、星琉に宛がわれていた宿代わりの社務所で音楽を聴きながら読書をしていた時に、星琉の持つスマートフォンのコール音が鳴り響いたのだった。

 

「はい、もしもし」

 

『よう星琉。元気か?』

 

「先生? どうしたんですか? こんな時間に」

 

 電話の相手は星琉が『先生』と慕う人物。欧州の魔術師や結社からは『『冥』の位を極めし魔術師』と呼称され、異端とされているカーター・オルドラという人物であった。

 

『悪い。けどちょっとお前の耳に入れときたい事があってな……いいか?』

 

 そう言われて時計を見る星琉。遅過ぎる、という時間ではない。少々の長電話をした所で、彼の生活に支障は無い。

 

「大丈夫ですけど、何かあったんですか?」

 

『驚きのニュースだ。つい先日、イタリアのサルデーニャ島で九人目のカンピオーネが誕生した。それも、お前と同い年の日本人だ』

 

「っ!! 本当ですか?!」

 

『ああ、名前は草薙護堂。一見、タッパがあって野球少年でリア充予備軍でしかない奴なんだが、色々と厄介そうでな。ペルシャの軍神ウルスラグナを殺したらしい』

 

「ウルスラグナ……」

 

 その神の名に、星琉は思考を巡らせた。

 

 ペルシャの軍神ウルスラグナといえば、ゾロアスター教において英雄神、光の神であり、勝利という概念を神格化した神である。十の姿に変身して勝利を掴む、常勝不敗の神だ。

 

 修業の旅の途中、沖縄で新たな権能を手に入れた星琉だが、今戦えば果たして勝てるかどうかという強さだと予想される神だろう。が、カンピオーネとなる人物に常識は通用しない。たとえ非力な人間であっても、神を殺しうる資質を持っているのだ。

 

『ちょっと前にコロッセウムが半壊になった事件があったんだ。表向きはテロリストの仕業ってことになってるが……』

 

「その草薙護堂が?」

 

『ご名答。“猪”の化身でやったらしい。他にもサルデーニャのカリアリ港や、ミラノのスフォルツェスコ城も破壊したみたいだ』

 

「スフォルツェスコ城って……美術館ですよね?!」

 

『そっちは“剣の王”と一緒にやったらしいがな。どうやら“剣の王”が草薙護堂に興味を持って、ケンカを吹っかけたらしい』

 

 聞いていて星琉は頭が痛くなってきた。日本人は比較的平和主義な人種のはずだが、たまたま戦闘好きな人物がなってしまったのだろうか。もしくは権能という神の力に溺れているのか……。

 

「一体、どうやって神殺しを?」

 

『流石にそこまでは分からん。だが戦闘があったと思われる時間、地上から空に向かって太陽の光が差したらしい。多分それだな。やれやれ、どんな魔道具を使ったのやら』

 

 呆れたように言うカーターだが、それも当然である。神を殺す事の出来る魔道具が、まさかノーリスクで使うことなど出来るはずがない。どんな代償を支払ったのかは分からないが、神殺しに成功していなければかなりの確率で死んでいただろう。

 

「でも先生、どうして僕にそれを?」

 

『一つは忠告だ。すぐ足元に導火線があるぞって言うな。で、もう一つは『先輩』からの『お願い』だ』

 

「『お願い』……ですか」

 

 カーターの言う『先輩』とは彼の事ではなく、彼の被保護者の事だ。星琉の始まりの時からずっと世話になっている――

 

『『新しいカンピオーネを調査して報告してほしい』だとさ。どうする? お前は同格の『王』だから、断ることも出来るが?』

 

「まさか。引き受けますよ。僕としてもその草薙護堂くんの事を知りたいのは同じですしね。うん……でもどうしようかな……」

 

『必要だったら結社の名前を使ってもいいって言ってたぞ。そういう対外関係の事も、これからはしっかり考えないとな。“剣の王”みたいなフリーランス紛いに生きるなら話は別だが』

 

「あははは……」

 

 カーターの冗談めかしたような提案に、それはそれで魅力的かもしれないなぁなどと考えながら、星琉は曖昧に笑って返した。カーターは、まさしく先生――教師のような期待と、僅かな心配の感情を混ぜた声音で言葉を続けた。

 

『まあ、困ったら頼って来いって事だ。アイツもお前が結社に入ってくれたら万々歳だと常日頃から言ってるからな……っと、少し話し過ぎたか。じゃあ、元気でやれよ、星琉』

 

「はい、先生もお元気で」

 

 

◇◆◇◆

 

 

 そんな会話があったのが数日前。現在時刻は午後二時七分。東京は表参道の青山通りに星琉はやって来ていた。

 

 有名なブティックや洒落たレストランが並ぶ町並みは陽光で輝き、外回りと思われる会社員や、三月下旬の今は丁度学校が春休みの期間で、かつ日曜日故か、着飾った中高生の女子達が闊歩している。

 

 黒を基調とした手提げ鞄を携えている星琉は、その中でも全国でチェーン展開している星が散りばめられた看板のカフェに入った。

 

 店内でキャラメルの掛けられた、一応コーヒーに分類される、或いは乳飲料に分類される甘い飲み物とスコーンを注文して支払いを済ませると、店外に備え付けられた、テーブルで隔てられた二つの椅子が向かい合わせになっている席を選び、そこに腰を下ろす。

 

 口の中でふんわりと広がるクリームと、そよ風に乗って香るベリーのジャムを付けたほろほろとするスコーンを齧りつつ、日本神話の成り立ちについて研究された本を片手に待つこと二十分ほど。星琉の視線が集中していた字面から離れてある男性の姿を捉えた。

 

 齢は二十代半ば頃だろうか。草臥れた背広と少し緩められたネクタイに、掛けられたシンプルなデザインの眼鏡の奥に伺える眼は理知的で人の好さそうな印象を与えるが、星琉としてはどこか疑惑を抱いてしまうようなもの。

 

 一見やる気のなさそうなふわふわとした青年に見えるが、しかし彼の歩く姿は一般人のそれではなく、何かしらの訓練を受けたような印象を持った。

 

「いや、申し訳ありません。どうやらお待たせしてしまったようで」

 

「いえ、こちらがお伺いする立場ですから、お気になさらず」

 

 突然話しかけられたように見える星琉だが、しかし目前の青年はこちらの目印――星琉がつい先程まで読んでいた本を目にしてやってきたのが分かった為、何の気負いもなく挨拶を返した。

 

「申し遅れました。私、正史編纂委員会の甘粕冬馬と申します。以後お見知りおきを」

 

「はじめまして、甘粕さん。天元流特別相談役の吉良星琉と申します。どうぞよろしく」

 

 二人が握手をすると、甘粕の目が星琉の食べていたスコーンに向けられ、自分も注文に行ってもいいかと尋ねた。星琉がもちろんと返事をして数分後、甘粕はブラックコーヒーとマドレーヌを銀のトレーに乗せて星琉と向かい合う形で座る。

 

 甘粕が着席すると同時に、星琉は右手で緩く握り拳を作り、テーブルを軽く小突いた。

 

 誰にも見えぬ波紋が広がり、星琉と甘粕を包む。星琉はたったあれだけの操作で、認識阻害と遮音の結界を張ったのだ。

 

 そのことに気付いたのか、一瞬目を見開く甘粕だったが、すぐにあの人の好さそうなポーカーフェイスを取り繕い、咳払いを一つ。

 

「周囲へのご配慮、感謝します。では吉良さん、あなたは『官』である私達、正史編纂委員会とは対極に位置する『民』の代表的組織『天元流』の特別相談役。そんな方が一体どのようなご用件が?」

 

「……つい先日、イタリアのサルデーニャ島で新たなカンピオーネが誕生したのはご存知でしょうか?」

 

 甘粕の疑問に対してまた違う質問をする星琉。しかし甘粕もその質問に用件との関連があると察したのか、少し思い出すような素振りを見せた後、滑らかに答えた。

 

「風の噂程度には聞いていますよ。なんでも日本人で高校生の男の子だそうで。もしもそれが本当なら、おそらく日本人では史上初のカンピオーネでしょうね」

 

「その情報は本当です。名前は草薙護堂。東京都文京区根津に住む、この春から私立城楠学院の高等部に通うことになっている今年十六歳の少年……」

 

 そう言いながら、星琉は持参した鞄から草薙護堂に関して調べられるだけ調べ上げ、纏めた資料を甘粕に渡す。甘粕はそれを興味深そうに眺めて、ある程度流し読みした所で星琉に視線で先を促した。

 

「僕は新たなカンピオーネである彼に接触して、その人となりを見極めたいと思っています。極端な例ですが、東欧のヴォバン侯爵のような存在なのか、あるいはアメリカのジョン・プルートー・スミス氏のような存在なのか……事と次第によっては、僕は彼を止めるために剣を掲げるかもしれません。同じ、カンピオーネとして」

 

「なるほど…………え?」

 

 流し読みしていた資料に再び目を通していた甘粕の視線が、不意に星琉に向けられた。星琉は柔らかくも確かな決意を持った表情を崩さず、甘粕の反応を待つ。

 

 恐る恐るといった様子で星琉の表情を伺う甘粕。気のせいか、彼の肌に穏やかな春の陽気に似合わない量の汗が流れているような……。

 

「えーっと……吉良、さん」

 

「はい」

 

「私の聞き間違いでなければ、今ご自身の事を――」

 

「草薙護堂と同じ、カンピオーネである、と」

 

 そのやりとりに目を丸くして小首を傾げる甘粕。その内徐々に口角が吊り上がっていって、ついには笑い出した……のだが。

 

「……うわはははっ! 日本一の武術流派と噂される天元流のお方は、どうやら冗談もお上手なよう……で……」

 

「…………」

 

 甘粕の胸中を表すように、彼の視線が四方八方に旅行している。星琉はそれを指摘することもなく、悠然と微笑むのみ。それがある種のプレッシャーのようにも感じ取れてしまう甘粕は、今だけ荒事で磨かれた自分の感覚を恨んだ。

 

「……………本当に?」

 

「ええ、本当です」

 

 にっこりと笑みを浮かべながら、一分の隙もなく自信を持って即答する星琉。そんな彼に対して甘粕は、未だ呆然として固まったままだ。顔が青白く見えるのは、きっと気のせいだろう。身体が小刻みに震えているように見えるのも、恐らくは目の錯覚だ。

 

 ――後に甘粕は語る。「生涯であの日ほど、緊張で死にそうになった日は無かった」と。

 

 

◆◇◆◇

 

 

「いやぁ、今日は嬉しいやら恐ろしいやら、ともかく疲れたよ。甘粕さん」

 

「それには完全に同意ですな。午後からはまさに嵐のように過ぎ去った一日でしたからねェ」

 

 家主を迎える、情緒溢れるアンティークが散りばめられたお洒落な一室。そこに二人の正史編纂委員会の人間がここに帰って来た。

 

 一人はそのエージェントである甘粕冬馬。彼の表情は大きく疲労と描かれており、肩が落ちているのも気のせいではないのだろう。

 

 そんな甘粕とは対照的に、まるで未知の物に心を躍らせるような表情を浮かべるのは、甘粕の上司であり、高校三年生という若さでありながら、そのやんごとなき手腕を発揮して正史編纂委員会・東京分室の室長を務め、自身もまた武蔵野の媛巫女である関東圏を掌握する男装の麗人――沙耶宮馨。

 

 傍から一目見た分には、彼女の纏う爽やかな雰囲気や言葉遣いに気を取られて性別の判断を誤り、美少年と認識してしまいそうな、或いは、歌舞伎の女形と言われてしまえばそれで納得させられてしまうような中性的な美貌の持ち主は、部屋の奥に備えられた自分の大仰なデスクに向かい、高級感漂うチェアに身体を休ませ、甘粕が中央の大きいソファに座ったことを確認すると、話を続ける。

 

「それで、甘粕さんの印象として吉良さんはどんな感じなんだい? どうせ緊張していたのは初めて会った時だけで、会食のときは飄々としていたんだろう?」

 

 馨がその報せを聞いたのは午後四時ごろ。何人かいる女性の恋人の一人と逢瀬を楽しんでいた頃だ。

 

 普段恋人達とのデートの時はスマートフォンの電源を切っている馨だったが、甘粕から緊急連絡用の特殊な番号で掛かって来た為に已む無く応答すると、彼は信じられないことを口にしたのだ。

 

――カンピオーネが接触してきました。騙っている可能性もありますが、恐らく本物かと。

 

 何の冗談だ、と馨は思ったが、普段の部下からは考えられないほど真剣な口調で言うので、デートを楽しんでいた恋人を口八丁手八丁で丸め込むと、すぐさま甘粕の許へと向かった。

 

 今日は四月一日だったかな、むしろそうであってほしいなという馨の願いも虚しく、部下の報告が自分を騙すものでなかったことを確認する。

 

 甘粕の話によると、そのカンピオーネはどうやら自分達の協力を仰ぎたいようで、更にはその為の約定も決めているらしい。しかし代理人でしかない自分ではお応えする事が出来ない、今夜夕食を食べながら話し合いの場でも、と言って一時離脱に成功したのだとか。

 

――というわけで、今夜は魔王様と会食ですな。

 

 へらへらと何でもなさそうに言いのける甘粕に苛立ちが浮かばないわけでも無かったが、今はそんな事を言っている場合ではなかった。

 

 取り急ぎ馨は有名な日本料理店の予約を無理やりもぎ取ると、夜に会うはずだった恋人の一人に急用で会えなくなったことを連絡。こちらもなんとか丸め込むことに成功すると、次に自分が知っている霊視持ちの媛巫女の中で最も強い霊感を持つ少女を呼び出し、会食に出席するように伝えた。これは、カンピオーネであると自称する人物が、本当にカンピオーネであるかを見極めてもらうためである。

 

 甘粕は出来るだけ内密に、と言うように件のカンピオーネから釘を刺されていたらしいので、会食のメンバーは馨、甘粕、媛巫女の少女、カンピオーネの四人であった。

 

 件の御方に遭遇した媛巫女の少女は、確かにその人物がカンピオーネであると断言し、馨の内心の緊張が最高潮に達した状態で会食は始まる。そして今、それが無事に終わって帰宅した所なのだ。

 

「いえいえまさか。何か粗相をしてしまわないかと始終緊張しっぱなしでしたよ。ですがそうですねぇ……御し易そうには見えましたが、あれは出来るだけ触らない方がいいタイプでしょうな」

 

「へぇ……と言うと?」

 

 甘粕の御し易そう、という意見に関しては、実は馨も同意だった。彼女の吉良星琉という人物の第一印象は『お人好し』であり、そのうえ正史編纂委員会のような組織との対外関係の構築には疎いような感じを受けたからである。

 

 しかし、そうであるならば利用しない手は無いはずだ。『カンピオーネ』というネームバリューはそれほど大きな力を持っているのだから。

 

「利用しようと思えば、恐らく高い確率で利用されたと匂わせることなく出来るでしょう。しかし、その後の吉良さんの反応が私としては怖い所です。今回だって最初は天元流に貸しを作るはずが、まさかの魔王様ご降臨でしたからねェ」

 

「じゃあ、僕達はどういうスタンスで吉良さんとお付き合いするべきだと思う?」

 

「あちらが提示して来た通り、ビジネスライクな関係がベストだと思いますよ。とても強力な、それこそ核兵器並みの傭兵を雇ったとでも思えば。後はこちらから恩を売っておく。吉良さんは心優しいお方のようですから、きっと利子を付けて返して頂けるはずです」

 

「なるほどね……」

 

 甘粕の論に、馨は完全に納得した。要は『優しい奴ほど怒ると怖い。だから優しくして、優しくされよう』ということなのだろう。確かに、それが一番無難で確実なものかもしれない。

 

 『相互扶助』と『不可侵』。星琉が正史編纂委員会に求めたのはこの二つだ。

 

 『相互扶助』というのは、例えば今回の場合であれば草薙護堂を調査するため、城楠学院への『転校』の手続きを正史編纂委員会に依頼し、それを為してもらうこと。見返りは、星琉が集めることの出来た草薙護堂の情報全て。

 

 反対に正史編纂委員会からの依頼も、自分の出来る範囲内であれば、金銭等を見返りに受諾すると星琉は提案した。

 

 そして『不可侵』。これは、自分は正史編纂委員会に属さない、そちらの事情に踏み込まない。だからそちらも必要以上に接触するな、ということだ。

 

 馨はこの二つの約定を、正史編纂委員会の代表として受け入れた。彼女としても、星琉が正史編纂委員会の中に入り込んで好き勝手されるのは避けたかったし、星琉の派閥争いに巻き込まれたくないという言葉を聞いて、彼が干渉して来ないという確信を持てたというのもある。

 

 ただし、星琉は天元流――『民』の立場ではあり続けるようだ。

 

――『官』と『民』。互いが互いを監視し、監視されあう仲が良いと思っていますから。

 

 この言葉には流石の馨も苦笑を禁じえなかったが、確かにそういう考えがあってもおかしくはないと思ったので、これについても了承した。……まあ、相手がカンピオーネという存在である以上、どちらにしても拒否権があってなかったようなものであるが。

 

 ただ、『民』の立場であるとはいえ、基本的に中立の立場でいると星琉は言った。カンピオーネ相手に言質をとっても仕方ないのかもしれないが、とりあえず馨はこの言葉を信じる事にしている。

 

 ついでと言ってはなんだが、約定とは関係なしに、星琉は自分の存在を出来る限り秘密にすることも馨達に求めた。衆目に晒し、注目を集め、動きにくくなることも無いだろう。いずれはばれるとは思うが、自分から動きにくくなる必要はない、と。

 

 確かに、と馨は考えた。日本に外国の魔術師に紛れ込まれるのはこちらとしても面倒だし、限定的とはいえカンピオーネの威光に早速あやかれないのは残念だが、しかし自分達は『王』がいる事を知っているのだ。瑣末な問題かもしれない。いやむしろ、懐刀がカンピオーネなどという規格外の伝家の宝刀とは誰も思うまいと馨はひそかに笑みを浮かべ、納得した。

 

 ……そういう風に思いつつもどこか強引に、全てが彼の思うように持っていかれた気がしないでもなかったのだが。

 

「さて、差し当たり吉良さんの編入手続きをしておかないとね。後は住居もだけど……」

 

「一人寂しく登校するよりも、可愛い女の子と一緒に登校する方が私は嬉しいですけどねェ。そこからただならぬ関係に発展しちゃったりするかもしれませんし」

 

「やっぱり、甘粕さんもそう思うよね?」

 

 にやりと悪戯っ子のような、或いは時代劇に登場する悪代官のように口角を上げる二人。その時に誰かが何かしら感じ取ったかどうかは、定かではない。

 




 しかし、星は玉座に認められていない


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弐 春風の日々を

 どのような人生にも波がある 穏やかな時は、誰にでも等しく訪れる


 四月一日、平日。CDコンポから流れるお気に入りの音楽を目覚まし代わりに、星琉はゆっくりと布団から身体を起こした。

 

 腕を頭上に伸ばして筋肉を解し、同時に欠伸を一つだけ零すと、布団から抜け出して閉じられたカーテンを開ける。窓の外からは太陽が昇り始める様子と、その山吹色の陽光に照らされる東京の光景が一望出来た。

 

 正史編纂委員会から『相互扶助』の約定通りに宛がわれた住居は、とある十一階建てマンションの八階に位置する1SLDKという少々広過ぎるのではないかという間取りの部屋。正直、星琉としては家賃やら何やらの関係で一階や二階で、もう少し狭くてセキュリティが杜撰(ずさん)でも何の問題も無かったのだが、あちらに引く気がなく是非にと言われてしまい、果ては家賃などもあちらが持つと言われてしまえば仕方が無い。

 

 現在時刻は六時。今日から通うことになる学校の始業式は八時半からなので、十分時間に余裕はある。

 

 眠気でふらふらすることなく、きびきびとした様子で布団を畳み終えると、洗面台で顔を洗い、歯を磨く。それが終わると学校の制服に着替えて、寝巻きはそのまま洗濯機へ放り込む。

 

 シンプルなデザインの黒いエプロンを付けて、冷蔵庫から卵、ベーコン、ヨーグルト、キュウリやレタス、トマトを取り出し、食器棚からボウル型の木皿と小皿、少し大きめの平皿を取り出すと、慣れた手付きで二枚の食パンをオーブントースターに入れ込んで焼き始め、その間にさっとベーコンエッグを作って平皿に盛り付ける。

 

 野菜も適度な大きさに切って木のボウルに容れて簡単サラダに、ボウル型の小皿にはヨーグルトを適量流し込む。

 

 そうこうしている内にトーストが焼き上がった事を告げる音がしたので、焼きたてのそれもまた皿に移し、塩コショウを振り掛けた。ヨーグルトとサラダを冷蔵庫に戻すときにトーストに塗るためのジャムを取り出し、お箸とバターナイフも用意したところでリビングのテーブルへ。

 

「いただきます」

 

 手を合わせ、食材に感謝してから料理に手を付ける。星琉の食べる速さは速くもなく遅くもなくといった所だが、特に量が多い訳でもないので、およそ十五分程度で完食する。

 

 食べ終わるとすぐさま洗い物をして、面倒事を早目に済ませておく。コーヒーを淹れて一服した所で掃除機をかけ、部屋全体をある程度綺麗にすると、時計は七時五十分前を指し示していた。

 

 その時、唐突に星琉は自分の失態に気付く。

 

「あ、そっか……今日からお弁当作らないといけないんだっけ」

 

 九歳という幼すぎる年齢でカンピオーネなどという超自然の存在となって以来、神話や魔術に関する勉強、天元流での修業、その節々で繰り広げられたまつろわぬ神との戦いの日々に明け暮れた星琉は、小学校も中退であるし、中学校にはそもそも入学してすらいない。つまり、これから始まる高校生活は彼にとって六年振りの学校生活なのである。当然、と言って良いのかどうかは分からないが、『お弁当』という概念がしっかりと頭の中に入っていなかったのだ。

 

 お弁当は明日からにして、今日は道中で何か買ってから学校に行こう、そう心に決めた星琉は、学校指定の鞄を持って玄関へ向かう。

 

 靴を履いて、きちんと靴紐を結んで、ふと後ろを振り返る。

 

 まだまだこの部屋には馴染んでいないけれど、それでも、今日から新しい生活が始まって、ここは自分の帰って来るべき新しい家で……そう考えると、なんだか心が躍った。

 

「……いってきます」

 

 返事は当然無かったけれど、まるで自分が『普通』の高校生になれたような気がして、少しだけ星琉は笑みを零しながら、扉を開いた。

 

 

◇◆◇◆

 

 

「あ……」

 

「君は……」

 

 私立城楠学院へ向けての通学路の途中、たった五分歩いた所で星琉は顔馴染みに出会った。

 

 日本人としては少々黒が薄い茶色の長髪。制服姿の線の細そうな身体は淑やかな雰囲気を醸し出していて、事実彼女は星琉が知る中でも一番大和撫子と呼ぶに相応しい人物だった。

 

「おはよう万里谷さん……で、よかったよね?」

 

「はい、左様でございます。おはようございます、吉良星琉様。わたくしのような一介の巫女の名をお覚え頂き、恐悦至極にございます」

 

 挨拶をしながら少々失礼とは自覚するものの、恐る恐る名前の間違いが無いかを確認する星琉に対し、肯定と挨拶、同時に深々としたお辞儀を返して来た少女――万里谷祐理。

 

 同年代の少女が深々と頭を下げるという異常な光景を繰り広げられた事に冷やりとしながら辺りを見回す星琉だが、幸いな事にここは閑静な住宅街で、周りには二人以外誰もおらず、星琉はそっと胸を撫で下ろした。

 

 星琉が祐理と初めて対面したのはついこの間、正史編纂委員会の東京分室室長・沙耶宮馨やその部下の甘粕冬馬と対談した時の事だ。

 

 馨の話によると、万里谷祐理という少女は霊視に関して類まれなる才能を誇っており、過去にとある事情でカンピオーネと関係したことがある経緯から、その同朋を見分けることが出来ると言う。

 

 つまりは星琉が本当にカンピオーネであるかを疑っていたということで、馨も大変失礼を、と畏まっていたが、別段星琉は気にしなかった。むしろどうやって自分がカンピオーネであるかを証明しようかと頭を捻り、最悪権能を使うしかないかなぁ、などと愚考をしていたくらいなので大助かりだったのだ。

 

 それはともかくとして、星琉としてはこの間から変わっていない――むしろ魔術関係者としては当然なのかもしれないが、祐理の自分に対する言葉遣いや態度を何とかしなければ、という思いに駆られ、困ったような表情を浮かべながら祐理に諭す。

 

「えーっと、万里谷さん。申し訳ないんだけれど、出来れば普通に話してもらっても構わないかな? その、同級生に話し掛けるみたいな。ずっとそんな調子だと僕も疲れるし、万里谷さんだって疲れるでしょ? それに、学校でまでそんな畏まった態度だと、あらぬ疑いを掛けられるかもしれないし……最悪、様付けだけは止してほしいなぁと思うんだけど……」

 

 どう? と視線で尋ねられる星琉に対し、祐理は納得したような顔になり、星琉に了承の意を告げる。

 

「畏まりました。では以降、そのように致します」

 

「…………」

 

 微妙に……分かっていないような気がする。いや、元々祐理がそういう言葉遣いなのかもしれないが、と星琉は思いつつ、もう一度訂正する。

 

「あー、うん。ごめん。僕の言い方が悪かった。学校だけじゃなくて、こうして誰もいないところでも敬語じゃなくて――というか、普段通りでいいよ。難しいかもしれないけれど、その、僕がカンピオーネであることを気負って欲しくない、と言うか……」

 

「はぁ……?」

 

 要領を得ない、という表情を浮かべる祐理に、どう言ったものかなぁと更に頭を捻る星琉。少しの間そうして何も無い時間が流れたが、星琉が意を決したように一つ頷くと、祐理に言う。

 

「要はその、友達みたいに気軽に話し掛けてもらえたら嬉しいなぁって思うんだ。うん」

 

 少々恥ずかしげに視線を外す星琉に、そこで漸く祐理は、彼が何を言いたかったのかを理解した。そして戸惑いがちに、おずおずと星琉に尋ねる。

 

「その……よろしいのでしょうか?」

 

 その言葉に祐理に自分の言いたかったことが伝わったと分かった星琉は、にっこりと微笑みながら言う。

 

「うん。是非」

 

 そんな星琉の様子に、どこかほっとしたような表情を見せて、祐理はこれから同級生となる男子に向けて、再び挨拶をした。

 

「では、これからよろしくお願いします……吉良さん」

 

「こちらこそよろしく。万里谷さん」

 

 そうして、二人並んで登校を始める。学校に着くまでの間、二人は互いの趣味趣向について話を繰り広げていた。

 

 二人の共通の話題として広がったのは、お茶やお菓子だ。京都のお茶より静岡の方がすっきりした味わいだ、あの銘柄は香りがよく立っている、あの店の和菓子がお薦めだ、など、およそ普通の高校生では一切話題に上らないような話だが、祐理は家柄が旧華族であり、その嗜みとして茶道や華道を習っていたし、星琉は自分の趣味として日本茶や紅茶、その付けあわせとして相応しい和菓子、洋菓子を調べたり、勉強や修業の息抜きに作って振舞ったりしていたので詳しかったのだ。

 

 意外と話が弾むことに二人ともが内心で驚きつつも、どちらもが楽しげにお喋りを続けていると、星琉の視界に一見のコンビニが映り込んだ。腕時計を見ても、まだまだ時間に余裕はある。

 

「ごめん、万里谷さん。ちょっとコンビニによっていってもいいかな?」

 

「はい、構いませんけど……何か買っておかなければいけないものでもあるのですか?」

 

「実はお弁当を作り損ねちゃったんだ。だから、お昼ご飯におにぎりでも買っておこうかなって」

 

「お昼ご飯……ですか?」

 

 疑問符を浮かべる祐理に、星琉こそ疑問符を浮かべたかった。自分は別段何か可笑しな事を言った覚えは無いのだが……。

 

 すると祐理は、ちょっと困った顔になりながら星琉に言う。

 

「あの、吉良さん。お弁当を忘れられたのでしたらわざわざコンビニで買わずとも、お昼休みに学校の購買に買いに行けばいいでしょうし、そもそも今日は始業式とちょっとした事だけですから、お弁当は必要ありませんよ」

 

「…………あ」

 

 祐理に指摘に、確かに、と納得する星琉。ここでもまた、学校に通っていなかったが故の小さな弊害が出てしまっていた。

 

 が、しかし、これに限って言えば少し考えればすぐに分かることだった。何故なら……星琉自身が持っている学校指定の鞄が、教材どころか筆記用具とクリアファイルしか入っていなくてこんなにも軽いのだから。

 

 そう自覚してしまうと、自分がどれだけ滑稽な事を言っていたのかが理解出来てしまって、途端に恥ずかしくなってしまった。自分の顔が赤面していくのが嫌というほど分かってしまう。

 

「あっ、あはははは! そ、そうだよね、今日は始業式だけだよね! 全く、僕は何をとち狂った事を言ってたのかなぁ?」

 

「き、吉良さん……?」

 

「さあ行こう万里谷さん! コンビニなんかに用は無いから早く学校に行こう!」

 

「え、ちょ、ちょっと待って下さい吉良さん!」

 

 急に早歩きになりだした星琉に慌てて着いて行く祐理。

 

 そんな二人が過ぎ去った通り道を、穏やかな春のそよ風が駆け抜けた。

 

 

◆◇◆◇

 

 

 私立城楠学院は中高一貫の進学校であり、中等部と高等部の校舎は別々だ。校門から見て右手前に中等部の校舎が、左手奥に高等部の校舎が存在し、その間に理科の実験室や調理室、生徒会室などが存在する副次的な校舎が存在していて、それらは一本の渡り廊下で全て繋がっていた。

 

 高等部に進学したことで校舎が変わり、下駄箱のある場所も変わった。祐理と星琉は高等部の校舎の方へ歩みを進め、校舎前に張り出されたクラス割の張り紙を眺める。

 

「僕は……五組だね。万里谷さんは?」

 

「私も五組です。ですが、これは……」

 

「うん、十中八九、委員会が仕組んだだろうね」

 

 何せ、『吉良星琉』の次に書かれているのが『草薙護堂』なのだ。これが星琉だけならともかく、祐理まで一緒なのだから流石に偶然とは言い難い。

 

 自分のクラスの確認を終えると、二人は下駄箱に行って外靴を脱ぎ、鞄から持参した上履きを取り出してそれに履き替える。

 

 二人の左手側には階段があり、二階や三階に続いている。右手側には廊下が続いていて、すぐ傍には保健室があり、次に職員室、突き当たりに図書室が存在した。

 

 二人は階段を上って二階へ。ちなみに、二階が一年生の教室、三階が二年生の教室、四階が三年生の教室で、更に開放的な空間の屋上にも行けるようだ。こちらは昼食時に使う生徒が少なくないのだとか。

 

 祐理は自分の席に着いた所で、この間の会談から今までにかけての吉良星琉という人物について反芻する。

 

 初めて会った会談の時の印象は『仕事人』だろうか。

 

 一目見た時は霊視の啓示が上手く降りて来なかったのか、彼の内に神の幻影が見えなければカンピオーネだとは思えなかった。

 

 『民』の代表格である天元流の特別相談役という役職。馨や甘粕に対して全く物怖じしない姿勢。柔らかく丁寧な口調ではあるものの、どこかその様子には上に立つ者の風格や威厳が備わっているようにも感じた。冷静かつ決して本心を悟らせず、妙な言い方かもしれないが、まるで透明な仮面を被っているかのようだった。

 

 見下されているわけではなく、対等に見られているのでもなく、何処か違うところから全てを俯瞰されているような感覚を、祐理はあの時感じ取っていた。

 

 緊張、恐怖という感情もあったが、それよりも大きかったのは驚愕だ。

 

 祐理にとって、カンピオーネという存在のイメージは『暴君』に尽きる。自分勝手で世を省みず、ただただ戦場を求める羅刹の君。

 

 これは祐理がある一人のカンピオーネを基にした勝手なイメージでしかないのだが、世にいるカンピオーネを見ても凡そ当て嵌まってしまうのだからどうしようもない。

 

 そんな中、『世間の知らないカンピオーネ』――吉良星琉の行動は、そんな祐理のイメージを覆すものだった。

 

 星琉が正史編纂委員会に求めたのは、新たに生まれたカンピオーネの調査なのだと言う。必要があれば剣を掲げ、そのカンピオーネ――草薙護堂を止めると。その為に、顔の利く正史編纂委員会に協力を申し出たのだとか。

 

 この話を祐理は自身の霊感によって、一点の曇りもなく嘘ではないと確信していた。仮に草薙護堂とやらが世に牙剥く事があれば、目前の彼は本当に止める為だけに、力なき民草を守るために戦うだろうと直感したのだ。

 

 それだけで、祐理の中から星琉に対する恐怖は消えた。それは無論、権力的な立場にいないからではあるのだろうけれど、彼が民草の為に剣を取れる誠実な人物であると彼女の中では格付けされたからだ。

 

 とはいえ、緊張が解れる訳ではない。魔術的な立場としては星琉の方が圧倒的に高みにいるのは間違いないし、例えば星琉が市井を守ろうとするのは、そうした『高みにいる者としての義務』としている可能性もあったからだ。

 

 そうであれば、決して粗相をすることは出来ない。自分達は彼の守護を得られる代わりに、常に捧げなければならないのだ。それが、自分達の義務なのだ。彼が『相互扶助』という約定を持ちかけたのも、きっとそういう背景があるのだろう。『不可侵』というものや、自分の存在を内密にして欲しい、その方が動き易いからという彼の言葉も、祐理を含めた甘粕、馨の全員が、驚くほど素直に納得していたのは、今でも記憶に残っている。

 

 かと思えば、今朝の出来事は祐理にとって予想外も良い所だった。

 

 以前の様子とは打って変わった対応を祐理にする星琉。あまつさえ、『同級生の友達のように話し掛けて欲しい』などと求められ、年相応の少し間の抜けた所を見せられたりしたのだ。驚くのも無理は無いと思う。

 

 けれど、きっとどちらも吉良星琉という人間の側面なのだと祐理は思う。彼の事を一割も理解してはいないと思うが、その時その時に相応しい態度を取るのが、吉良星琉という人間なのだと祐理は捉えていたのだ。

 

 さて、祐理が色々と物思いに耽っている内にショートホームルームが始まり、体育館へ行くように促される。その先で始業式が始まり、校長先生の有難いお話や、吹奏楽部による演奏があったりなどした。

 

 それからまた教室へ戻ると、今度は一年五組の室長、副室長、書記を決め、それが終わると所属する委員会や授業を補佐する係りを決めたり、次は自分のしたい部活動の届出をしたりと意外と慌しい。

 

 全ての作業を終えたのは、中途半端にも十時を過ぎた頃だった。帰りのショートホームルームも済ませ、高等部一年の登校初日は終了である。

 

「吉良さん」

 

 さようならー、と号令に合わせてクラス全体が担任に挨拶をした直後、散り散りになって行くクラスメートを掻き分けて祐理が星琉を呼ぶ。鞄を肩に提げながら振り返った星琉は返事をする代わりに疑問符を頭の上に浮かべ、視線で祐理に先を促した。

 

「実は、少しお訊ねしたい事があるのですが……」

 

「ん、何かな?」

 

 祐理としては正直、こんな事を星琉に訊ねるのはどうかと思わないでもなかったのだが、出来るだけ早急に済ませるように言われているし、何より友達のように接して欲しいと言っていたのだから、きっと大丈夫だろう。

 

「あの……携帯電話というのは、どのような物がいいのでしょうか?」

 




 果たして、その日々は現か幻か


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参 黄昏か夜明けか

 巫女は、その星を見つけた


 祐理の話によると、先日の会食が終わった後に、馨から『今週中に携帯電話を持っておくように』と言われたらしい。何でも彼女との連絡を取るのに四苦八苦したのが原因だとか。

 

 祐理としては正直不要だと思っていたのだが、馨から『東京分室の室長――ひいては委員会からの命令』と厳命されてしまっては何も言えない。しかしながら祐理は重度の機械音痴であり、何が何やら判別がつかない。両親に頼ってみてはと星琉は言ったのだが、その両親は共働きで付き合って貰えるような状況ではないと言う。

 

 なるほど、先日の会食があったのは日曜日だ。今日はその日から一週間と経っていない。社会人に春休みは存在しない方が多いので、確かに今までは両親と共に行く機会はなかっただろう。

 

 それに、今朝方友達のように接して欲しいと言ったのは自分自身だ。この程度の範疇であれば、頼ってもらう事、手を貸す事に何の問題もない。魔術絡みでないのだから当然ではあるが。

 

 あるいは、こうして接点を持たせるのが彼女――というより委員会の狙いなのかもしれないと考えたが、流石にそれは邪推が過ぎるかと頭の隅に追い遣った。祐理に対する星琉の今に至るまでの印象は『清浄そのもの』だ。とても権謀術数に長けているとは思えなかった。

 

 これでも、他人を見る目はあると星琉は自負している。何よりも自らが扱う天元流は『理解する』『把握する』という事に重きを置いているのだ。

 

 ――世界や自然を把握し、その理を理解し、己の業とする。

 

 ――敵を見て、その肉体や技量を把握して、その精神を理解して、己の流れに引きずり込む。或いは相手の流れを乱す。

 

 それが『天元流』という流派の特徴。その中で行われた修練や実戦で、星琉は自然と人を見る目が養われていたのだ。

 

 こんな些細な事に対しても深く考えなければいけないなんて、自分の考えすぎだろうかと自問すると共に、政治的な駆け引きというのは面倒だなぁという呆れに似た感情を抱き、星琉は祐理に提案したのだ。

 

 即ち、携帯選び、よければ付き合おうか? と。

 

 祐理は一瞬呆気に取られたような表情を見せたが、すぐによろしくお願いします、と軽く頭を下げたのだった。

 

 しかしながら、祐理にはやらなければいけないことがあるのだという。妹が帰ってくるから、昼食を作りに帰らなければいけないと。

 

 そういう訳で昼食は別々で取り、確認する限り祐理の家と星琉の住むマンションは近かったので、また後で待ち合わせをしようという結論に落ち着いた。

 

 そして、午後二時。城楠学院の通学路の途中にある街路樹の一角。

 

「お待たせしてすみません、吉良さん」

 

「ううん、今来た所だから大丈夫」

 

 星琉はベージュのチノ・パンツに白のシャツ、黒のベストとモノトーンに纏めた格好で立っており、非常にリラックスした様子だった。対して祐理は彼女の雰囲気通りのふわりとした白いワンピースを着ていた。

 

「それじゃあ、行こうか」

 

「はい、よろしくお願いします」

 

 

◇◆◇◆

 

 

 待ち合わせ場所を発って三十分。二人は目的地のとある携帯電話販売店に到着していた。店内に入った瞬間に目に入る、様々な機種のディスプレイ。そのあまりの数の多さに、機械類が苦手であると自負している祐理は変に気圧されてしまう。

 

「えーっと、万里谷さんはどんなのがいい? デザイン重視とか、機能性重視とか」

 

 携帯電話の立て掛けられた棚から棚へと歩き続ける星琉が、祐理に訊ねる。

 

「か、簡単なのがいいです……」

 

 ディスプレイのそばにある簡単な説明を読んでも、何が何だかさっぱり分からない祐理は力なさげに答えた。

 

「簡単なの? じゃあ、これでいいかな」

 

 そう言って星琉が手にしたのは、星琉が持つ携帯電話と色違いの同機種。いわゆるスマートフォンというやつだ。

 

『最新機種=操作が複雑』という等式が頭の中で成り立っている祐理は、一瞬呆然としてしまう。しかし、すぐに気を取り直して星琉に抗議の声を上げた。

 

「無理です! こんな難しそうなもの……!!」

 

「そうかな? そんなに難しくないと思うんだけど……。それに、これなら僕が教えられるよ?」

 

 うっ、と祐理は言葉に詰まる。こういう物には必ず取り扱い説明書が付いてくるが、それを理解するのにも四苦八苦する祐理には、星琉から教えてもらえるというのは実に魅力的なものであった。

 

 うんうん唸りながら思案する祐理だったが、やがて伏し目がちに星琉を見て、それでお願いします、と了承するのだった。

 

 カウンターに行って順調に契約を進めて行くと、店員がこんな話を持ち掛けた。

 

「料金プランなのですが、家族割、友達割、それと……恋人割というのもありますが、いかがなされますか?」

 

「はい?」

 

 にこやかに話しかける店員を見てポカンとする祐理。

 

 家族割、友達割は分かる。しかし、恋人割というのは……?

 

 そんな風に祐理が疑問に思っていると、星琉が店員に間違いを指摘した。

 

「ああ、違いますよ。僕と彼女はクラスメートです。機械が苦手だと聞いてアドバイスを求められたので、付き添いとしてここにいるんです」

 

「あ、そうだったんですか〜。てっきり美男美女のカップルかと」

 

「か、カップル?!」

 

 自分とは全く縁のない言葉を聞いて思わず声を上げてしまう祐理。周りの人からはそういう風に見えるという事実に、驚きしかなかった。

 

 店員の間違いに、祐理は大慌てで反論をまくし立て始める。

 

「そ、そんな! 私と吉良さんはそんな関係ではありません!! 実際にお会いしたのはとある事情があってのことですし、今日こうしてお付き合い頂けたのも吉良さんがお優しいからで、そんな恋仲という特別な関係であるわけではなくて……」

 

「ま、万里谷さん、ストップストップ!」

 

 はっ、と我に返る祐理と苦笑気味の店員。こちらを注目する他の客。祐理は色々な意味で恥ずかしくなって縮こまってしまう。

 

 そんな些細なトラブル(?)はあったものの、無事に契約を終えた祐理。

 

 ありがとうございました〜、という店員の言葉を背に受けながら二人は店の外に出た。

 

「さ、さっきは、お見苦しい所をお見せしてしまい、すいませんでした」

 

 恥ずかしげに声を潜めながら、しかし確かに星琉に聞こえる音量で謝罪する祐理。星琉は一瞬何の事か分からなかったが、直ぐに理解した。生真面目な人だなぁ、などと考えながら、星琉は応える。

 

「気にしなくていいよ。万里谷さんみたいな美人さんなら、むしろ得した気分だから」

 

「び、美人!?」

 

「うん。知らない? 万里谷さんって学年で一番美しい女子って言われてるみたいなんだけど」

 

「何ですかそれは!?」

 

 それは、星琉が一年五組の近くに座っていたクラスメート――井沼(いぬま)正敏(まさとし)という人物から聞き及んだ情報だ。彼は城楠学院で有名な祐理と一緒に登校して来た星琉が気になっていたらしく、気さくに話し掛けて来てくれて、その事を聞いた。

 

 星琉のような編入生以外、つまり中等部から高等部へエスカレーターで進学した生徒の間では、祐理と星琉がどういう関係なのかという噂で持ちきりだったらしい。一応星琉は家が近所だったと言っておいたが、どこまでそれが正しく伝わっているか……。

 

 それはともかくとして、どうやら祐理自身は噂を知らないようだ。驚愕、困惑、羞恥と次々と顔色を変えて行き、それを見て星琉は朗らかに笑った。

 

 

◇◆◇◆

 

 

 うららかな春の陽射しに身を照らされながら、二人はとあるカフェでティータイムを楽しんでいた。というのも、星琉がどうせだったら設定まで終わらせてしまわないかと提案し、それを祐理が受け入れたからだ。

 

「さて、じゃあ始めようか」

 

「は、はい! よろしくお願いします!」

 

 椅子を立ち、緊張気味な祐理の脇に立ってあれこれと指示する星琉と、それを聞きながらあたふたと操作をする祐理。端から見れば実に仲睦まじいように見えて、暖かい視線が集まっていた。ただ、一部は陰鬱な雰囲気が漂っていたが。

 

 

 それから三十分後……。

 

 

「お、終わりました……」

 

 柄にもなく椅子の背に深くもたれ掛かりながら、祐理は大きく息を付く。機械音痴であることをぽろっと零してしまった祐理は、その後更に電話やメールの使い方を細かく教えられることになってしまい、余計気疲れしてしまったようだ。

 

「お疲れ様、万里谷さん。これで電話とメールは大丈夫かな?」

 

「おそらくは。まだ、少し不安ですが……」

 

「まあ、そこは慣れるしかないかな」

 

 意外と長くなってしまい、もう一杯注文したコーヒーを飲み干しながら星琉は言った。

 

 出ようか、と星琉が促すと、祐理は頷いて立ち上がる。伝票は星琉が持って行き、レジで全額支払った。

 

 祐理は自分も払うといったのだが、星琉は気にしないでとだけ言って支払ったのだ。

 

「あの、やはり私も……」

 

「気にしなくていいよ。誘ったのは僕だし、男として甲斐性がある所を見せた方が良いかなー、なんてね」

 

 おどけたように言う星琉に祐理はクスリと笑い、ありがとうございますとお礼を言った。

 

「そうだ万里谷さん。これから何か予定あったりする?」

 

 思い出したかのように尋ねる星琉。祐理は心なしか、星琉の声に期待の色が混じっているような気がした。

 

「いえ、特に何もありませんが……?」

 

「じゃあせっかくだし、このまま街へ遊びに行こうと思うんだけど、一緒にどうかな?」

 

「お誘いはありがたいのですが……私、街にはあまり詳しくなくて……」

 

「気にしなくて良いよ。そんなの僕も同じだからさ」

 

 星琉の問いに、祐理は申し訳なさそうな顔をして答える。が、返って来たのは意外な返答。てっきり街の案内を頼まれるものとばかり思っていた彼女は多少面食らうが、結局は街を見て回ることに。

 

 本屋によって気に入った本を立ち読みしたり――

 

「万里谷さんはやっぱり古典を?」

 

「はい。やはり巫女ですから、そういう物の方が馴染みあって」

 

 ウィンドウショッピングを楽しんだり――

 

「あ、あの服かっこいいかも」

 

「吉良さんは意外とお洒落を気にする方なんですね」

 

「子供の頃に色々あってね。そういうセンスを磨くように教育されたからさ」

 

「そうなんですか……」

 

 ワゴン車で売られているクレープを公園のベンチで食べたりと――

 

「こういうものを食べるのは初めてです……」

 

「やっぱりお家柄、俗世と関わってはいけない! とか?」

 

「あ、いえ。単純に媛巫女としての修業が忙しかっただけですよ」

 

 そんな風に他愛のない話をしながら、二人は本当に楽しんだのだった。

 

 

◇◆◇◆

 

 

「今日はありがとうございました」

 

「ううん。むしろごめんね、付き合わせちゃって」

 

「気にしないで下さい。私も楽しかったですから」

 

 夕暮れ時、人によっては世界が一番美しく映る時間。鮮やかな紅い光が照らす電信柱の立ち並ぶアスファルトの道で、二人は歩きながら話していた。

 

 祐理の家はもう目前。星琉の住むマンションまではここからもう少し歩かなければいけない。

 

「それじゃあ今日はこれで。また明日ね、万里谷さん」

 

「……あの! 一ついいですか!」

 

 背を向けて帰ろうとする星琉に、祐理は少しだけ大きな声で尋ねる。

 

 星琉と二人で街を巡る中で、祐理は気になることがあった。公園でクレープを食べている時に五歳位の子供達が遊んでいるのが二人の目に入ったのだが、その時の星琉の表情が慈しむような、泣きそうな表情だったのだ。

 

 全く対極に位置する二つの表情。何故そういう風に見えたのかは祐理自身にも分からないが、どうしても気になっていた。

 

「……吉良さんは、何の為にその力を使うのですか?」

 

 けれど、祐理の口から出た言葉は全く別の問い掛け。

 

 星琉が浮かべた対極の表情の理由。それは、会ったばかりの自分では簡単に踏み込んではいけないと、そう感じさせるもので……。

 

 

「……決まってるよ」

 

 

 それは誇らしげな表情で――

 

 

「僕はこの力を、力なき人々を守る為に使う」

 

 

 哀しげな表情だった。

 

 

◇◆◇◆

 

 

 

 …………。

 

 

 もう少し……もう少しです……。

 

 

 忌むべき魔獣の王に二度も傷つけられ……毒を盛られたこの身体も……直に快復する……。

 

 

 待っていなさい……異教の悪魔よ……。

 

 

 私の持つこの剣と天秤……そしてこの位に掛けて……必ずやあなたを断罪し……救済しましょう……。

 

 

 おお……主よ……!!

 




 闘争の時は近く、神への賛歌が標となろう


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肆 いくさの予兆

 魔王との邂逅 これの意味する所は


 卯月と皐月を股に掛ける黄金週間と呼ばれる日を過ぎ、そこから更に三日程経ったある日。夕食後に紅茶の香りを楽しんでいた星琉は、自宅のインターホンによって現実に引き戻された。

 

 備え付けの画面を覗いてみると、そこには相変わらずくたびれた背広を着た、あの胡散臭そうな人物、甘粕冬馬がいた。

 

「はい、吉良ですが」

 

『ああ、吉良さん。よかった、ご在宅でしたか。少しお耳に入れておきたい事とお渡ししたい物がございまして、こうして馳せ参じさせて頂いた次第なんですが……よろしいでしょうか?』

 

「分かりました。今開けますね」

 

 突然の訪問に少し戸惑った星琉だが、甘粕は右手にカバン、左手に大きめの袋、おそらく菓子折りの類であろうものを提げており、追い返す訳にはいかなかった。

 

「どうぞ」

 

「お邪魔させて頂きます。それとこれ、つまらない物ですが、お納め下さい」

 

 カメラ越しでは伺えなかったが、袋には有名菓子店のロゴが描かれており、やはり菓子折りだったようだ。

 

 ありがとうございます、とお礼を言って受け取り、甘粕を招き入れた星琉は、彼を椅子に座らせて新しく紅茶を入れ直し始めた。

 

 ヤカンに紅茶用にと買ってあるミネラルウォーターを入れて、IHクッキングヒーターで熱し始める。その間にティーポットとカップ二つを用意し、電気ポットのお湯を注いで両方を温めておく。

 

 戸棚から小皿と茶葉を用意。今回は来客ということで、オーソドックスな味わいと香りのティンブラにするようだ。

 

 ポットのお湯を捨てて、ティースプーンで二杯入れる。その間にヤカンのお湯が沸騰したようなので、ポットの茶葉がお湯の対流でよく動くように勢い良く入れる。

 

 ティーコジーでポットを包み込んで保温しながら蒸らしている間に、先程受け取った菓子折りの封を切る。中身はマドレーヌやパウンドケーキの切り分けなどで、適当に見繕って小皿に盛り付ける。当然、小さなフォークも忘れない。

 

 そうこうしているうちに三分が経った。ティーコジーを取り外して蓋を開け、ティースプーンで中を一混ぜ。

 

 茶漉しで茶殻を漉しながら、濃さが均一になるように回し注ぐ。この時、“ベスト・ドロップ”と呼ばれる最後の一滴は来客用に。

 

「お待たせしました。紅茶なんですけど……コーヒーの方が良かったですか?」

 

「おお! これはこれは、ありがとうございます。紅茶もいけますから大丈夫ですよ。いやしかし、いい香りですねェ。私は紅茶なんて専らティーパックですから、こういう本格的なのは初めてです」

 

 お菓子を盛り付けた小皿も用意して、ささやかなティータイム。ある程度紅茶とお菓子を味わった所で、星琉が切り出した。

 

「それで、今日はどういったご用件でこちらに? 草薙くんについてなら以前にも報告したように、今はまだ深く踏み込んではいませんが」

 

 草薙くん――即ち草薙護堂についての調査は今の所大きな変化は見せていない。一応『表の顔』では友人関係を築きはしたが、それだけだ。

 

 正直な所、星琉はあまり急ぐつもりはなかった。というのも、どうも草薙護堂という人物は想像以上に『普通』だったからだ。

 

 もしかしたら素性を隠しているだけなのかもしれないが、それならそれで仕方が無い。彼の――いや、どんな人物であろうと全てを調べ切るのならば、自分の捜査能力ではまだまだ時間が必要だ。

 

「おっと、そうでした。ははは、紅茶とお菓子の美味しさにすっかり目的を忘れていましたね」

 

 相変わらずおどけた様子を見せる甘粕だが、その内容を話し始めると少し険しい声色になった。

 

「えーっとですね。件の魔王様――草薙護堂氏についてちょっとした情報を入手しましたので、相互扶助の協定に則ってこれをお教えさせて頂こうかと」

 

「甘粕さん、それなら電話でも良かったのでは……」

 

 星琉がそう意見すると、甘粕は珍しく露骨にニヤリとして鞄から資料を取り出す。

 

「いえいえ、実はこんな資料を集められたので、やはりお渡ししたほうが良いだろうと思いまして」

 

「はぁ……?」

 

 いまいち要領を得ない甘粕の応答に首を傾げる星琉だが、その資料を見て眉を顰める。そこには美少女の顔写真と共に、プロフィールや経歴等が書かれてあった。

 

「草薙護堂の愛人だそうです。いやぁ、高校一年生で愛人だなんて退廃的ですねェ」

 

「愛人……ですか」

 

 甘粕の物言いにちょっと引っかかるものを感じたがそれを無視し、資料上の美少女について星琉は話を続ける。

 

「エリカ・ブランデッリ。神の子と魔神バフォメットを奉るテンプル騎士団の後裔――赤銅黒十字の秘蔵っ子ですね」

 

「おや? ご存知でしたか」

 

「草薙くんの愛人というのは知りませんでしたけど、有名所はそれなりに抑えているつもりですよ。似たような所で言えば青銅黒十字のリリアナ・クラニチャールや、五嶽聖教の陸鷹化。後は――正史編纂委員会の清秋院恵那さんとか」

 

「ははは、よくご存知で」

 

 自分の組織の内部情報が知られているにも関わらず、表情を崩さない甘粕。

 

 正直な所、星琉はそこから何か別の話題に発展させるわけでもなく、単純な確認をしたかっただけなので、特に何か言う事もなく、また聞き役になる。

 

「まあそれはそれとして、その資料は草薙護堂氏を判断する材料の一つとしてお受け取り下さい。個人の趣味趣向とか、戦力として見てもいいでしょう。で、ここからが本題なんですが……」

 

「今まで本題じゃなかったんですか……」

 

「いえいえ、今までも本題でしたよ。ただ、これは本題の本題といった所でしょうか」

 

 やけに遠回しな言い方をする甘粕に若干疲れた様子を見せる星琉だが、次の甘粕の言葉を聞いて雰囲気が変わる。

 

「草薙氏はこのエリカさんからある物を受け取り、日本に持ち込んだらしいんですよ。それがどうも曰く付きの神具のようでして」

 

「……へぇ」

 

 それが事実だとするのならば、確かに本題の本題と言うに相応しい。星琉にとっては、絶対に近い程看過出来ぬ事柄だ。

 

 

 ◆◇◆◇

 

 

 星琉が甘粕から情報を受け取ったその週の木曜日。護堂は妹の静花と、祖父の一朗の三人で夕食を楽しみ、後片付けをしていた。その時に、草薙家の固定電話が鳴ったのだ。

 

「あ、いいよ、あたしが出るから。――はい、草薙です。どちら様でしょう?」

 

 洗い物をしていた兄と祖父にそう言って、受話器を取り上げて応答する。

 

「き、吉良先輩ですか? 一体どうなさったんですか、あたしの家にお電話を下さるなんて……」

 

 どうやら静花の茶道部の先輩のようだ。いつだったか興奮してその『吉良先輩』なる人について話していた覚えがある。洗い物を終えて居間に戻ってきた護堂だったが、通話はまだ続いている。

 

 そういえば、吉良という名前には聞き覚えがある。もしかして、と妹の様子を伺っていると、まるで狙い澄ましたかのように水を向けられた。

 

「は、はい、確かにいますけど……どうして先輩がうちの兄に? ……個人的な相談? はあ、分かりました。ちょっと待って下さいね。――お兄ちゃん、吉良先輩が替わってくれって」

 

「おう、サンキュ……もしもし、草薙ですけど」

 

『あ、草薙君。こんばんは』

 

「よう、やっぱり吉良か。どうしたんだ? こんな時間に」

 

 聞こえた声音は自分の想像通りのものだった。

 

 吉良星琉。城楠学院高等部一年に編入して新しく出来た友人だ。席は自分と一つ違いで、物腰柔らかな人物。

 

 最近、春休みの頃からおかしな事に巻き込まれている護堂としては、日常での新しい友人というのは一種の清涼剤のようであった。

 

『ちょっと草薙君に聞きたいことがあってね』

 

「聞きたいこと?」

 

『うん。一つ聞きたいんだけど、草薙君、つい先日イタリアに行ってたよね?』

 

「……何でお前が知ってるんだよ?」

 

 確かに自分はイタリアのローマに行っていた。が、それを星琉に教えた覚えは無いし、他の誰にも告げなかったのだから彼が誰かから聞き及べるはずも無いのだが……。

 

『何で知ってるかっていうのは……まあ、仕事だからかなぁ』

 

 ここで護堂は既に嫌な予感がしてきた。やめろ、やめてくれ……吉良は『そっち側』の人間じゃ……!!

 

『赤銅黒十字の大騎士エリカ・ブランデッリさんから何を受け取ったのか。都合のいい日に見せて欲しいんだけど――』

 

 神は死んだ、と言ったのは誰だったか。受話器を握りながら護堂は膝から崩れ落ち、学校生活という日常にまで入り込んでくる非日常を恨まずにはいられなかった。

 

 

◇◆◇◆

 

 

 そして翌日。学校が終わってから一度帰宅して私服に着替えた護堂は、地下鉄に乗って星琉から指定された待ち合わせ場所である七雄神社の最寄り駅である芝公園駅で下車して、ファックスで送られてきた地図通りに道を辿って行った。

 

 彼の肩からはショルダーバッグが提げられており、その中には星琉から持って来るように言われた、ローマから持ち帰って来た物が入っている。

 

 さて、七雄神社に向かう途中で、護堂はある一つの考えに思い至っていた。それは、自分が今持っている『コレ』は、実は自分が考えている以上に危険な物なのだろうか、ということ。

 

 やっぱり、コレをエリカに押し付けられたのは失敗だった……などと後の祭りである事を思いながら歩き続けた護堂は、ようやく目的地の入口までやってきた。

 

 そこにあったのは、やけに高い石段という最後の難関。それを軽く息を弾ませながら登り切り、ついに待ち合わせ場所である七雄神社に到着した。

 

 鳥居をくぐり、境内に足を踏み入れた護堂を出迎えたのは、護堂と同じ私立城楠学院高等部の制服である学ランを着た星琉と、彼の後ろに居る巫女装束の少女だった。

 

 少年の方は吉良星琉だ。しかし、少女の方は……?

 

「よくいらしてくださいました。草薙護堂様。カンピオーネである貴方様に対し、恐れ多くも身分を偽って御友人として振舞っていた無礼、並びに突然のお電話による御呼び立てという無礼を、どうかお許し下さい」

 

「は……?」

 

 学校の時とは違い、えらく畏まった様子で星琉とその彼女は深々と頭を垂れた。

 

 顔を上げた二人の雰囲気は対照的で、星琉の方は非常に落ち着いており、にこにこと笑みを浮かべている。そして女子の方はと言うと、目に見えて緊張と恐怖、それと咎めの色が少しだけ伺える。

 

 はて、自分は彼女に何かしたのだろうか?

 

「改めて自己紹介させて頂きますね。僕は――」

 

「ちょ、ちょっと待った!」

 

「はい? どうかなされましたか?」

 

「いや、どうかなさいましたかも何も。何だよ吉良? そのえらく畏まった言葉遣いは」

 

 自分の尋ねたことにああ、と納得の様子を見せた星琉は、さも当然であるかのようにその問い掛けに応える。

 

「いえ、つい先ほどまでは何も知らぬ御友人として振舞っておりましたが、こうしてカンピオーネたる御身と相対した以上、相応の敬意を払うのは一術者として当然の行為であり――」

 

 またこれか、と護堂は肩を落とす。確かにこっち側の関係者というのを隠していた事に思う所が無いわけではないが、別に何かをされたわけでもないし、日は浅いが本当に友人として付き合っていたのでそう言う風に距離を置かれるのは正直嫌だった。

 

「そんなの別にいいよ。学校の時みたいなので大丈夫だから」

 

「……そっか。じゃあお言葉に甘えさせてもらうね」

 

 心なしか、星琉の視線が柔らかくなったように感じた護堂。口調も気軽なものになって少し安心した。

 

 他の人達じゃ中々こうは行かないからなァ、などと益体も無い事を考えながら、今度こそ星琉が言葉にするのを黙って聞いている。

 

「じゃあ改めて。天元流特別相談役の吉良星琉だよ。よろしく」

 

「正史編纂委員会に所属する媛巫女の万里谷祐理と申します。よろしくお願いいたします」

 星琉と祐理が自己紹介を終えると、護堂は確認するように二人に尋ねる。

 

「えーっと、要するに吉良達も魔術師達の仲間って事でいいんだよな? ほら、ヨーロッパにいるみたいな。日本の連中と会うのは初めてなんだ」

 

「うん、その認識で大きな間違いはないよ。ただ万里谷さんと僕とでは少し立場が違うんだけど……まあ細かい事だから気にしなくても大丈夫」

 

 星琉がそう言うと、護堂は何かを探すように辺りを見回した。そして、星琉に尋ねる。

 

「えっと、今ここにいるのは俺達だけ? 誰か、他の人はいないのか?」

 

 それは、神社が妙に静か過ぎるが故の単純な質問だった。特に意味はない。

 

「そうだよ。まあ、気にしないで。大した事じゃないからさ」

 

「……まあ、お前がそう言うなら良いけどさ」

 

 ここで護堂は話題を変えようと思い、そう言えばとついさっき気付いた事を尋ねた。

 

「そういえば、吉良はどうして俺がカンピオーネだって判ったんだ? 俺、何も言ってないはずだけど」

 

「それは僕じゃなくて、万里谷さんのお蔭なんだ。彼女はカンピオーネやまつろわぬ神などの超自然の物を見抜く能力を持っているんだ」

 

「へぇ~」

 

 感心したように護堂が祐理に視線を向けると、彼女は少したじろぎながらも一つお辞儀を返してきた。俺って嫌われてるのかなァ、と若干傷つく護堂だったが、星琉の呼び掛けで直ぐにその事を頭の隅に追い遣った。

 

「それで草薙君、早速君がイタリアから持ち帰って来た物を見せて欲しいんだけど」

 

「別に構わないけど、何で吉良はあのメダルの事を知ってるんだよ?」

 

「メダル……? いや、流石に形状までは知らなかったよ。ただ草薙君がエリカ・ブランデッリさんから何かを託された、という情報が入っただけで」

 

「いや、情報ってどこから誰の情報だよ。ていうか電話の時も訊こうと思って訊きそびれたけど、何で吉良はエリカの事知ってるんだよ!」

 

 捲し立てるように問い掛ける護堂に、まあまあ落ち着いてと星琉が宥めながら、護堂にとっては少し信じ難い事を答える。

 

「情報源は話せないけど、エリカ・ブランデッリさんはこっちの業界じゃそれなりに有名だよ。聖騎士パオロ・ブランデッリの姪、才能溢れる美少女騎士としてね。それと草薙君の事は前々からカンピオーネじゃないかって噂されてたから、色々と調べられてるんだ。例えば――君がイタリアで世界遺産を破壊した事とか」

 

 ピシリ、と固まる護堂。まさかそんな事まで把握されているとは夢にも思わなかったのだ。

 

「いや……えっと、あれはなぁ……」

 

「まぁ、終わってしまった事は仕方が無いことなんだけど。草薙君、君がイタリアから持ち帰ってきた物を見せてくれるかい?」

 

 露骨に話題を変える星琉だったが、護堂としてもこれ以上自分の悪行について追求されたくなかったので、素直にバッグからメダルを取り出す。

 

 そのメダルは拳大程の大きさだった。素材はおそらく、磨き上げられた黒曜石の類。表面には人の顔を描いたと思われる稚拙な絵と、その人面の頭髪のように十数匹の蛇の絵が刻まれていた。所々絵は消えかけており、石自体も磨耗している様子で、かなりの年代物である事を伺わせる。

 

 星琉はそれを見るなり石のように固まって、信じられないといった様子で護堂を見ていた。

 

「……万里谷さん、お願い」

 

 茫然自失としていた星琉はどうにか自分を取り戻し、祐理にメダルを受け取るように促した。

 

 護堂は、目の前で自分にもう一度一礼する祐理に少しドキリとする。

 

 万里谷祐理という少女は、護堂から見ても確かに吹聴したくなるような美少女と言って差し支えなかった。

 

 美しいだけでなく、しっとりとした上品さと聡明さ。加えて、今浮かべているやや険しい表情からも、凛とした気丈さが伺える。

 

 ただまあ、その険しい表情を向けられているのが自分である、ということがままならないのだが……。

 

 何とも言えない微妙な表情の護堂からメダルを手渡された祐理は、それを見るなりハッと息を呑んだ。

 

 その様子に、護堂は最後の方が尻窄みになりながら尋ねる。

 

「やっぱり、危ない物なのか、これ?」

 

「……おそらくは。古い、ひどく古い神格にまつわる聖印。蛇神、大蛇(オロチ)の印……いえ、もっと根源的な、母なる大地と巡る螺旋の刻印……。エジプト、アルジェリア……これは私の直感ですが、このメダルは北アフリカで出土した物ではないでしょうか?」

 

「えっと、よく知らないけど、俺の友達はゴルゴネイオンって呼んでいたんだ。万里谷……さん達は、これの事に詳しいんじゃないのか?」

 

 護堂に対する怯えの表情が見え隠れする祐理からの問いに、確と答えられない事を申し訳なく思いながら、護堂は問い返す。

 

「いいえ。私は欧州やアフリカの神格については、ほとんど存じ上げません。ただ霊視と霊感を頼りに、漠然と感じた事を口にしただけでございます。吉良さんはどうか分かりませんが……」

 

 そう言って祐理が視線を向けると、星琉は幾分か落ち着いた様子で護堂に問う。

 

「草薙君……これは明らかに『まつろわぬ神』の神具だ。カンピオーネである君が、まさかそれに気付かないはずがないと思うんだけど……?」

 

「ん、まあ、そうだよなァ……。 やっぱり神様絡みのヤバイ物だよなあ……」

 

 そんな護堂の投げ遣りな返答に、あからさまに溜息をついて非難の目を護堂に向ける星琉。

 

 その眼差しはどこか力があって、護堂は自分でも無意識の内に僅かに身構える。

 

「判っているのならどうして持ち帰って来たの? この神具がどんな神様縁の物であろうと、争いの種になることは自明の理。君は東京を滅茶苦茶にしたいの? 何の関わりも無い一般の人達の事を考えなかったの?」

 

 星琉の非難の言葉と表情が護堂の胸に突き刺さる。ふと見れば祐理も同様の表情を浮かべていて、一気に良心の呵責に襲われる護堂。

 

「そ、それは俺も心配だったんだけど、大丈夫じゃないか? これを欲しがってるのって、あっちの女神さまらしいから。あの連中、多分日本の位置も国名も知らないはずだぞ」

 

「甘い」

 

 護堂の楽観的な言い訳を、まるで知ったかのように星琉は一刀両断した。

 

「そのメダルは女神の情報が刻まれた魔導書。いわば女神の分身。たとえ地球の裏側にあったとしても、女神はそのメダル(自分自身)を見逃す事はないと思うよ」

 

 星琉の浮かべた険しい表情が、彼の言葉に真実味を持たせていた。

 

 自分の楽観的な推測を後悔して冷や汗が背中を伝うが、けれど次の星琉の言葉でそんなものは一気に引いてしまう。

 

「それとも、草薙君は人々の命よりも未来の伴侶を取る、ということなのかな? 愛ゆえに、と言われてしまえばそれは一つの決断であり、僕達が入り込む余地はないのだと一応の理解は出来るけど……」

 

「……ってちょっと待て!? 伴侶って誰の事だよ?!」

 

「草薙様、お惚けになられずとも結構です。調査書にもしっかりと書かれておりますので」

 

 護堂が声を荒げると、目の前の祐理が続きを口にした。

 

 調査書? と疑問符を浮かべる護堂だったが、突如として星琉の手中に紙の束が現れ、それを護堂の眼前に突き出す。

 

――エリカ・ブランデッリ 魔術結社《赤銅黒十字》所属。年齢:十六歳。身長:一六四センチ。スリーサイズ:八六・五八・八八。備考:十六歳という若さで大騎士クラスというブランデッリ家の才女。《赤銅黒十字》の中でも騎士筆頭の称号『紅き悪魔』を授けられている。…………草薙護堂の愛人。――

 

 書類に詳述されている個人情報を眺めて、護堂は絶望的な気分にならざるをえなかった。心なしか、祐理の視線も厳しくなったような気もする。

 

「待て、吉良、万里谷さん。これは俺についての良くない噂を事実と間違えて書いている。捏造だ。ガセネタなんだ。少し俺の言い分もきいてくれないかッ?」

 

「えっと……流石にここまで深い人間関係を間違えるということはないと思うんだけど……」

 

「ガセネタの意味は存じ上げませんが、もしかして遊びだとでもおっしゃるつもりなのですか……?」

 

 孤立無援。全く聞く耳を持たない星琉と祐理に頭を抱えたくなる護堂だったが、更に頭を抱えたくなる事実――否、人物に気が付いた。

 

 待て。お前が何で、そこにいる?

 

「わたしの護堂をいじめるのはいいかげんにしてもらえるかしら。知らないようだから教えてあげるわ。いい? 草薙護堂を愛するのも、苛むのも、オモチャにするのも、この『紅き悪魔』にだけ許された特権なの。あなた達如きが彼を責める権利はないのよ」

 

 いるはずのない、そして聞くはずのない女の声。

 

 驚く護堂の視線の先には、話題の張本人――エリカ・ブランデッリの姿があった。

 




 主役は、ただ一人である


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伍 その女神の名は

 夜の帳が落ち、いくさの時は迫る


 星琉がエリカに抱いた第一印象は『女王』だった。

 

 赤み掛かった金髪は長く艶やかで、豪奢めいた印象を与えている。しかしそれだけではなく、彼女の身に纏う雰囲気がそう感じさせるのだろう。

 

「どうしたの、護堂? メドゥサに見つかった侵入者みたいな顔をしているわよ」

 

 蜂蜜のような甘い声で護堂に呼び掛けるエリカ。しかし、呼び掛けられている当の本人はため息をついた。

 

「そりゃ、会うはずのない人間と出くわしたからだ。おまえな、ここは東京だぞ。ミラノじゃないんだぞ? こんな所で油を売っている理由は何だよ?」

 

「理由? 相変わらずバカな人ね。遠距離恋愛中の恋人が、相手の住む町にやってくるのよ。愛しい人の顔を見るために決まっているでしょう?」

 

 護堂の傍へと寄り掛かるエリカ。彼女の服装は黒のタンクトップに赤いカーデガンを羽織り、下はデニムのパンツという出で立ち。そんな格好をした金髪の少女と古めかしい神社の境内との組み合わせに、星琉は当然、違和感を覚えざるを得なかった。

 

「こっちへ来て、護堂。あなたがいるべき場所は、いつだってわたしの傍なんだからね」

 

 護堂の腕を取り、自分の腕と絡めて傍へと引き寄せるエリカ。

 

 その様子に、やはり調査書に間違いはなさそうだな、と思う星琉は、逢瀬を楽しもうとする二人に苦言を呈そうとした祐理を手で制し、言葉を掛ける。

 

「魔術結社《赤銅黒十字》に所属する、《紅き悪魔(ディアヴォロ・ロッソ)》のエリカ・ブランデッリさんですね? 貴女方の仲をとやかく言うつもりはありませんが、貴女が今ここに現れたのはこの神具と関係あるのでしょうか?」

 

 星琉のその言葉にエリカは目と口の端を吊り上げて、どこか満足げに答える。

 

「あら、鋭いじゃない。A評価をあげてもいいわね――実は、わたしよりも先に来たのを追いかけて、日本まで飛んできたのよ」

 

「……来たって、何が?」

 

 半ば予想がつきつつも、先を促す護堂。エリカはその問いに答える。

 

「もちろん『まつろわぬ神』が。護堂がローマであった女神さまと特徴が一致するわね」

 

「やっぱりかよ!」

 

 護堂の嘆きの叫び声と同時に、星琉も舌打ちをしてしまう。

 

 最悪の想定が当たってしまった。日本の、それも都会である東京で、被害を考えずに全力を出せる場所は皆無と言ってもいい。

 

 まつろわぬ神がやって来たという事実に、祐理も顔が青ざめている。

 

「何でローマから追いかけてこれるんだよ? 俺は自分の出身地なんて話してないぞ!?」

 

「その点に関しては、わたしたちが甘かったみたい。海を越えた程度じゃ、誤魔化せなかったのね」

 

 魔術師であればどんな凡夫であれ簡単に予想がつく事態に、肩を竦めながらいけしゃあしゃあと言いのけるエリカに苛立ちを感じながらも、星琉は冷静に事の成り行きを見守る。ともかく、『まつろわぬ神』の情報を集めなければ……。

 

「少し前から聞いていたんだけど、彼女は霊視術の使い手みたいね。ちょうどいいから、どこの神様が来たのかを託宣してちょうだい」

 

 まるで知己の仲であるかのように、また、そうしてもらうことが当然であるかのように言いのけるエリカ。そんな彼女の不遜とも取れる態度に、星琉は表情を僅かに曇らせる。

 

「託宣? そんなことが出来るのか?」

 

「多分ね。今此処にはゴルゴネイオンがあり、あの女神と直接出会った護堂もいる。彼女が真の霊視術師なら可能なはずよ」

 

「……と言うことなんだけど、もし良かったらお願いできないかな? いや、もちろん事の元凶は俺達だし、頼めた義理じゃないってのは理解してるんだけど、この通り」

 

 祐理に対して頭を下げる護堂に、星琉は彼の評価を少しだけ上方修正する。

 

 やはり見る限りではあるが、どうも戦闘好きには見えない。日常生活を好む普通の高校生。いくら霊視術師とはいえ、祐理は一介の呪術師に過ぎないのだ。そんな彼女にこうしてきちんと頭を下げて頼むという護堂の姿勢は、評価に値する。

 

 もしかしたら破壊行動を起こしたのも何か理由があったのかもな、と考えを改めながら、こちらに視線を向けている祐理に一つ頷き、霊視をするよう伝える。

 

「分かりました。では草薙様、そのメダルを右手に、御身のお手を左手にお預け下さい」

 

「あ、ああ、それは別に良いんだけど……あのさ、万里谷さん、その話し方はやめてくれないか? 俺と同じ一年生なんだよな。だから別に、吉良と一緒で敬語じゃなくていいよ」

 

 護堂のその言葉にキョトンとする祐理。奇しくもそれは、吉良が彼女に言ったそれとよく似ていた。

 

「で、ですが、身分だって違いますし……」

 

「身分って、いつの時代の言葉だよ。俺はそんな大したヤツじゃないぞ。……まあ、慣れてないなら無理しなくて良いけど、せめて、もう少し気楽に話してくれ。あと、俺は君の事を万里谷って呼ぶから、そっちも呼び捨てにしてくれ。草薙でも護堂でもあだ名でも、好きにしていいから」

 

「あら護堂。わたしがいる目の前で他の女を口説くだなんて、いい度胸してるじゃない」

 

 そんな護堂の物言いに、少し面白くないといった表情をするエリカ。若干青筋を立てているように見えなくもない彼女に、護堂は声を荒げて反論する。

 

「全然違う! 俺は単純に堅苦しいのが嫌で、名前で呼び合わないかって言っただけだろ!?」

 

 取りようによってはどっちにも取れるな、なんて至極下らない事を考える星琉。万里谷の返答は……?

 

「では、草薙さん……と。それでよろしいでしょうか?」

 

「ああ、それでいいよ。……なあ万里谷、ちょっとずつ下がってってないか?」

 

「き、気のせいでしょう! ええ!」

 

 いや、気のせいではない。確かに万里谷は少しずつ下がって護堂と距離を取っていっていた。おそらく、エリカの『口説く』というからかいの言葉を額面通りに受け取ってしまったらしい。どうやら、呼び方についての距離は縮まったが、心の距離はむしろ離れてしまったようだ。

 

 そそくさともう一度護堂の近くに行き、右手にメダル、左手に護堂の手を恐る恐る受け取る。その様子に、護堂は若干心に傷を負った。

 

 そんなことは露知らず、祐理は霊視を始める。

 

「草薙さん、あなたは以前、到来したまつろわぬ神と遭遇されたのですね。その時、どのような印象を抱かれましたか?」

 

「そうだな……夜。あの女神がどんなヤツかは知らないけど、俺は夜の神様だと感じた」

 カンピオーネの直感というのは馬鹿にならない。常人とは比べ物にならないほど鋭いのだ。

 

 護堂の夜という単語に、祐理の内でぼやけたイメージが浮かび上がり、次第に確かな形と成っていく。

 

「夜……闇夜の瞳と、月の髪を持つ幼き……いえ、幼いのではなく、古の位と齢を……《蛇》を略奪されたが故に幼く……まつろわず……。その名は……まつろわぬ神霊の御名は――!!」

 

 さっと右手を引き、ギュッとゴルゴネイオンを握り締める祐理。

 

 護堂も少し影響を受けたのか、目を見開いてエリカと目配せし合った。

 

「視えたようね。どうだった? もしかして、あなたも知ってる女神さまだとか?」

 

「アテナ……だね?」

 

 ほとんど確信を持った様子で、鋭い眼差しで護堂とエリカを見遣る星琉が先に答えた。それに、祐理は信じられないといった様子で頷きを返して答える。

 

「――はい。吉良さんのおっしゃる通り、草薙さんが遭遇し、日本に到来した女神の御名は、おそらくアテナです」

 

 

◇◆◇◆

 

 

 護堂とエリカが慌ただしく七雄神社を発って暫く。星琉は『まつろわぬ神』らしき超自然の者を発見したという報せを持ってきた甘粕と話していた。

 

「草薙君の事ですが、なんというか……自覚が足りない、というのが僕の抱いた印象ですね。彼はまだこちら側の事をよく分かってないのかもしれません。もしくは逃避しているのか……。ただ、自ら好んで破壊の限りを尽くすような性格ではないと思います」

 

「ふむ、そうですか。ご報告、ありがとうございます。それで、彼らが招き入れた『まつろわぬ神』というのは、一体どんな神様なんです?」

 

 甘粕の問い掛けに、星琉は厳しい面持ちで答える。

 

「智慧といくさの女神、アテナです。また厄介な奴を連れて来てくれました……」

 

 多少げんなりした様子の星琉の答えに目を見開く甘粕。まさかそんなビッグネームが出るとは思っても見なかったのだろう。

 

 しかしその後、逆に甘粕は納得したような顔になった。

 

「ははあ、なるほど。それなら今広がっている暗闇にも納得出来ますね。確か、かの女神さまは月――つまり、夜の属性も含んでいたはずですからね」

 

「それで、星琉さんはどのようになさるのですか?」

 

 落ち着いている甘粕とは対照的に、『まつろわぬ神』という超常の者が現れたことに対して、動揺している祐理は尋ねる。

 

「アテナはまだ完全じゃない。だからこそ、このゴルゴネイオンを求め、自身の完全な力を取り戻そうとしてる。だから……」

 

 

 

「その前に、殺す」

 

 

 

 星琉が何か呪術を唱えたわけではない。ましてや、権能を使ったわけでもない。なのに、甘粕と祐理は周囲の温度が下がったように錯覚し、心臓が締め付けられているような感覚がした。

 

 星琉から発せられる、紛う事なき殺気。それが、二人の感覚を狂わせている。

 

「二人は早く、ここから避難して下さい。すみません、甘粕さん。もう少し準備する時間があれば、幽世に連れ込んで被害を抑えられたんですが……多分、色々壊してしまうと思います」

 

 申し訳なさそうに言う星琉に、少しは慣れたのか、甘粕はまた普段の飄々とした顔に戻り、星琉の懸念を少しでも軽くする言葉を送る。

 

「いえいえ、たらればを言っても仕方がないですし、私達は元々そういう間柄でしょう。吉良さんはただ、全力を以てまつろわぬ神を打倒して頂ければいいんですよ」

 

「……助かります」

 

 甘粕の言葉に少し心が軽くなったが、出来るだけ被害を出さないようには気を付けようと思う星琉だった。同時に、すぐに頭の片隅に追いやられるだろうな、とも思っていたが。

 

「吉良さん……」

 

 呼ばれた星琉が祐理の方を見る。

 

 祐理は、何かを祈るように胸の前で手を組み、少し悲しげな表情で星琉の目をじっと見詰めていた

 

「……御武運を」

 

 たった一言。けれど、その言葉には強い想いが篭っていて――

 

「……うん、ありがとう」

 

 自分の勝利を願ってくれる少女に柔らかく微笑み、星琉は七雄神社を後にした。

 

 向かう先は、闇を広げ続けながら悠然とこちらに歩を進める女神の許へ……。

 

 

◇◆◇◆

 

 

「さて、吉良さんもああおっしゃられていましたし、私達は退散しましょうか」

 

 なんというか、微妙に緊張感を持っていないように見える甘粕の態度は素なのだろうか、と時々思ってしまう祐理。

 

 彼女の視線は甘粕には目もくれず、ただ星琉が向かった方向を見続けていた。

 

「甘粕さん。私はここに残ります。なんだか、胸騒ぎがするんです」

 

 星琉が自分に微笑み掛けた時、なんだか彼がひどく遠い場所へ行ってしまうような感覚を覚えた祐理。だからこそ、彼女は星琉の言い付けを破って、七雄神社に残ろうとしていた。

 

「……はぁ、霊視術師のあなたの直感は馬鹿に出来ませんからねェ。給料以上の働きはしたくないんですが、祐理さんに何かあったらどやされるのは私ですし……。仕方ありません、私もここで、吉良さんの代わりに万里谷さんの護衛もどきをしながら、王の帰還を待つ事にしましょうか」

 

「はい、お願いします」

 

 やれやれ、と肩を竦める甘粕に有難さを感じながら、祐理は返事をする。

 

 拡がり続ける闇は、遂に七雄神社をも覆った。

 




 流星は裂かんとし、その輝きを増す


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陸 約束の仇敵

 カンピオーネとは、唯人ではない 仇敵であるまつろわぬ神は、大凡彼らの気配を目敏く察する

 吉良星琉は、唯人ではない 神の死を幇助し、その権能を手に入れた者である


 星琉が修めた天元流という流派の基本は、四元式と総称される火式(かしき)水式(すいしき)気式(きしき)土式(どしき)である。

 

 これらが示すところというのは、攻撃・回避・移動・防御という、戦闘における基本的な行動の中の業や極意のことなのだが、天元流には最も重要な要素が他にある。

 

 

 ――『気式・疾空(しっくう)』――

 

 

 今、星琉は空中を移動していた。飛翔しているわけではなく、空中を蹴って駆けているのだ。

 

 突然だが、霊気という存在をご存知だろうか? 化学用語のエーテルではなく、かの哲学者アリストテレスが考案した元素だ。

 

 アリストテレスは四大元素である『火・水・(空気)・土』だけでは不十分とし、これらの元となる五番目の元素を生み出したのだ。それが霊気である。

 

 霊気は、語源を『天空に漲る霊気』というギリシア語の『アイテール』から来ており、その通り天空に満ちているとされた。

 

『熱・冷・湿・乾』の四つの性質を持ち、『熱・湿』で『気』を、『熱・乾』で『火』を、『冷・湿』で『水』を、『冷・乾』で『土』を生み出すとされている。

 

 表の世界では否定された概念であるが、実際には存在している。

 

 天空に満ちるだけでなく、森羅万象は霊気に結びつけられた四大元素により存在しており、動物も植物も鉱物も、電気や熱といったエネルギーでさえ、これで説明出来るという説もある。

 

 実際、霊気が凝縮したモノの形の一つが呪力であることが確認されており、神力もその派生であるとされている。

 

 少し話が逸れてしまったが、天元流ではこの霊気に重きを置いている。

 

 最も近い技術は錬金術だろうか。森羅万象を解き、霊気へと還元して、それを更に自然現象へと変換し、己の力とするのが天元流の戦闘術である。

 

 今、星琉が行っているのは空気を霊気へと還元し、『熱・乾』の性質を組み合わせて『気』を生み出し、更にそこから『突風』へと転換。それを推進力として駆けているのだ。

 

 この技法を天元流では『気式・疾空』と呼んでいる。

 

 学ランから、かつて天原晃と戦った時の黒いズボンに赤のインナー、黒のジャケットという自身の戦闘服へと魔術を使って着替えた星琉は、闇を拡げながら人知を超えた速度で道路を悠然と歩き続ける、少女の姿をしたアテナの前に降り立った。

 

「え……?」

 

「む……?」

 

 突然目の前に現れた星琉に対し、幾分かの怪訝な感情を込めて視線を送るアテナ。それに反して、星琉は七雄神社を発った時とは打って変わった動揺、信じられないものを見たような表情を浮かべた。

 

「ヘカ……!!」

 

 僅かに言葉を漏らす。だが、我を思い出したかのように頭を振ると、じっと見据えるようにアテナを注視する。その様子は、どこか哀しさを帯びているようにも見えて……。

 

「……人間よ。あなたからは妙な気配を感じる。それにどうやら妾が求めし《蛇》をその胸に秘めているようだな。我がアテナの名に於いて命ずる。答えよ、あなたは何者だ?」

 

 自分が絶対的強者であるという自尊と威厳を以って命令するアテナ。それに対して星琉は静かに息を吐き、言葉の代わりに射抜くような眼差しを寄越す。そんな彼の様子にアテナは少し不機嫌そうに言葉を紡ぐ。

 

「あなたは妾の声が聞こえぬのか? それとも口が利けぬ――!!」

 

 気付けば、語り掛けるアテナの眼前に星琉が迫り、黒白の双刀を振るっていた。

 

 アテナは咄嗟に右腕を突き出し、死神を思わせる漆黒の鎌を顕現させ、これを以て防いだ。

 

 鍔迫り合いの状態で、侮蔑の眼差しを星琉に注ぎながらアテナは言う。

 

「この力……その刀……神殺しか――!! よもやこの極東の地に仇敵が二人もいるとわな! 名乗りも上げずに攻撃とは……騙し討ちもいくさの作法ではあるが、これは些か無礼ではないか?! 神殺しよ!!」

 

 星琉の返答はなく、彼は軽く地を踏みしめて後退する。それだけで、約八メートルは距離を取れた。

 

 アテナは悟る。この神殺しは、己と対話をする気がないのだと。

 

「……よかろう。あなたが何も語らぬというのなら、妾もただあなたを討ち、《蛇》を手にするまで」

 

 闇夜を思わせるアテナの双眸が、更に昏くなった。

 

 星琉と同様、軽く一歩踏み出すだけでその間の距離を詰めるアテナ。同時に、鎌を右から横薙ぎに振るう。

 

 星琉はそれを左手に持つ白刀を逆手に持ち替え、角度をつけて鎌を滑らせる。更にそれを、順手で持った右手の黒刀で上から叩き付けた。

 

 

 ――『火式・衝煉(しょうれん)』――

 

 

 鎌の柄と黒刀が触れ合った瞬間、一切の音もなく鎌が弾け、コンクリートの地面に減り込んだ。

 

「何っ!?」

 

 これもまた天元流の業。『火式・衝煉』。特殊な体の動かし方と霊気の操作により、全ての力を一方向に統合し、相手の防御を抜く業だ。

 

 星琉の腕力、黒刀と鎌が衝突したときの衝撃が地面に向かう形でアテナの鎌に放たれたのだ。

 

 驚愕するアテナを余所に、星琉は右手をそのまま地面に着かせ、片手倒立の形で下半身を捻り回し、左足でアテナに『衝煉』を交えた回し蹴りを繰り出す。

 

 鎌での防御は間に合わないと思ったのか、それから手を離し、左腕を曲げて防御するアテナ。が、当然防御しきれるはずもなく、小さな身体は地滑りし、土煙を上げながら後退した。

 

 一回転し、右手右膝を着いた片膝立ちの状態になった星琉は、流れるように立ち上がりながら左腕を振り上げる形で白刀を投擲。

 

 縦回転しながら迫り来る白の凶刃に、顔を上げたアテナは間一髪の所で回避する。彼方へと行くはずだった白刀は、しかし次の瞬間に星琉の手に舞い戻っていた。

 

 この一連の攻防を経験して、アテナの目が闘志の炎を燈す。

 

「なかなかの武であるぞ、神殺し! 妾が三位一体のアテナでない事が口惜しいほどにな!」

 

 アテナも鎌を呼び戻し、構える。次に星琉とアテナが採った行動は、奇しくも全く同じであった。

 

 即ち、一撃離脱(ヒットアンドアウェイ)

 

 一寸先も見えない闇の中で、数々の火花が舞い散る。どちらも退かず、怯まず、ただ敵を討たんと交錯し続ける。

 

 互角……いや、僅かに星琉が優勢だが、決定的になるものではない。

 

 二十程の火花が咲いた所で、両者は一度動きを止めた。所々己の衣服が傷付いているのを見て、アテナはため息にも似た感心を漏らす。

 

「流石であるな、神殺し。闘神としての妾の心はあなたを強敵だと認め、あなたとのいくさに歓喜に酔いしれている。智慧の女神たる妾の心は警告を発し、一刻も早く《蛇》を奪還せよと命じている。今の妾ままでは勝てぬ、とな」

 

 アテナの唇の端が僅かに吊り上がる。同時に、星琉は双刀を握り直した。

 

 瞬間、アテナが星琉の首を刈り取ろうと跳躍した状態で鎌を振るう。

 

 前傾姿勢になることで星琉はそれを回避するが、アテナは振り切った流れのままその場で前方宙返りし、切っ先で地面に縫い付けようとする斬撃を繰り出した。

 

 前転してやり過ごすが、アテナは反撃を許さない。バックステップを踏んですぐさま星琉の目の前に現れ、その見た目からは想像もつかない膂力で凶刃を素早く振るう。

 

 左右に三日月を描き、下から刈り上げ、上から振り下ろす。対する星琉は、流麗と言ってよい巧みさで双刀を操り、冷静に対処した。

 

 右腕に白刀を、左腕に黒刀を添えるようにそれぞれ構え、左右の斬撃を見事に受け流し、下からの刈り上げには後転跳びで回避し、振り下ろされる死には双刀を交差させて受け止めた。

 

 両者の力が均衡した時、星琉が内なる権能を呼び起こす聖句を唱える。

 

「二つの道の始まりから、(わたし)は冥き世に導く者。故に星屑は標となり、月影は剣となり、夜空は盾となり、原初の闇なる星月夜は、三叉路にて呪言となる!」

 

「何っ……この力は!?」

 

 ギリシア神話の女神であるヘカテーより簒奪した権能『闇夜に眩き月星の唄(スペル・オブ・マギカ)』。

 

 三相一体、月夜と冥府、そして魔術の女神でもあるヘカテーより簒奪したこの権能は、簡単に言えば『ヘカテーが出来る事が出来るようになる』権能だ。

 

 残念ながら星琉はまだこの権能の完全掌握に至っておらず、その全容を把握し切れていない。

 

 そしてこの権能は、何故か夜にしか発動できない。そういう制約であるというわけでもなく、だ。

 

 まあ、それはともかくとして。

 

 アテナの拡げた闇の一部が明け、半月が現れた。降り注ぐ月光は、ただ星琉だけを護るかのように淡く照らす。

 

『月影は剣となり』。その聖句の通り、星琉の身体は月光により強化され、力が漲る。結果、均衡していた膂力は、しかし星琉の権能により大きく差がつき、鎌を勢いよく押し返した。

 

 体勢が崩れるアテナ。その隙を見逃す程、星琉は甘くない。

 

「ッァァァアアアア!!!!!!!!」

 

 二刀流最大の強みである手数の多さを最大限に発揮し、刺突と斬撃を織り交ぜながら縦横無尽に攻め立て、狂気とも感じる咆哮と共に、アテナに死を与えんと肉薄する。

 

「くっ、妾の同胞を弑していたか!」

 

 感嘆の声を零しながら怒涛の刺突を避け、斬撃を逸らすアテナだが、かつての己に近しい力を得た星琉に次第に押されていく。

 

「疾ッ!」

 

 星琉が迅雷の如き刺突を繰り出すと遂にアテナは避け切れなくなり、首筋に赤い死線を刻まれながら脚を縺れさせてしまう。

 

 星琉はすぐさま黒刀で『衝煉』を用いて斬り上げ、鎌を強打すると、くるくると円盤を錯覚させながら飛んでいった。

 

 アテナの両腕は鎌を弾き飛ばされた時の衝撃により、空中で何かに吊られているかのように上がっており、完全に身体ががら空きだ。

 

 絶好の好機と見た星流は、双刀を順手から逆手に持ち替え、アテナの身体にその命を絶つ斬撃を刻み付け――

 

 

 

 

“退けっ!!”

 

 

 

 

「っ!?」

 

 ――ることはなく、何処からか聞こえた懐かしい声に寸での所で反応し、微かな痛みを感じながら後ろに跳んだ。

 

 同時に着地する、高速で落下してきた黄金の閃光。それに伴って起こる衝撃波。星琉もアテナも、多少の退行を余儀なくされた。

 

「……絶好の隙を衝いたつもりだったのですが、回避されてしまいましたか」

 

 落下してきた『それ』は、人の形をしていた。

 

 端正な顔立ち、柔らかい光を放つサフラン色の髪、空を思わせる薄い碧眼、細身だが、しっかりとした体格、それを包み隠す一片の汚れもない純白の衣。

 

 何よりも特徴的なのは、背中から生えている、闇の中にあるというのに一切の翳りがないエメラルドグリーンの翼と、頭上にある光輪。

 

 つまりは――天使。

 

 現れた謎の天使は、芝居がかったように言葉を続ける。

 

「突然ですが、まずは礼を言いましょう、少年。十一もの悪魔を生み出した異教の悪魔、ティアマトを私の代わりに殺害してくれた事を。そして懺悔します。それによって、貴方にはかの悪魔の業を背負わせることになってしまった……。せめて苦しみを感じぬまま、眠りに就かせてあげようと思ったのですが……神殺しの忌み名は伊達ではない、という事でしょうか」

 

「お……前は――!!」

 

 心の、魂の奥底から沸々と怒りが湧き上がってくるのを感じながら、星琉は一度も見た事も会った事もないはずの、この天使の真名を確信していた……否、識っていた。

 

 それは、自分の忌むべき相手。始まりの女神と約束した、堕とさなければならぬ天使――!!

 

「ミカエルッ――!!」

 

 

 

 

 《鋼》の熾天使 まつろわぬミカエル――降臨。

 

 

◇◆◇◆

 

 

「む……」

 

 突如乱入し、悠然と佇んでいたミカエルを黒い風が襲う。それに気付いたミカエルは黄金の剣を振りぬき、斬り祓った。

 

「ああ、そういえばもう一匹いたのでしたね。取り逃がした相手に夢中で忘れていました」

 

 ミカエルの視線の先にいたのは、先程とは背格好や衣服も違うアテナの姿。

 

 外見は十七、八歳程。現代の衣装から古風な長衣へ変わり、可憐な少女から端麗な乙女へと成長したまつろわぬアテナ。

 

 星琉は自分の衣服を確認して、舌打ちした。ゴルゴネイオンを入れておいた胸ポケットが縦に切り裂かれていたのだ。

 

 おそらく、先のミカエルの斬撃を完全には避け切れず、アテナの手中に収まってしまったのだろう。

 

「貴様……よくも妾と神殺しのいくさに水を差してれくれたな」

 

 しかし、アテナの浮かべる表情は憤怒であった。その様子に、ミカエルは首を傾げる。

 

「おかしいですね。私は貴女が殺されそうになる瞬間――つまり、その少年が完全な隙を作ったときに割り込んだはず。そうして貴女は生き延びているのですから、私には感謝こそすれ、怒気を露にするというのはおかしいでしょう?」

 

「馬鹿を言うな。状況如何ではなく、間に割り込み、いくさの邪魔立てを働いた事こそが腹立たしいのだ」

 

 ミカエルの弁をすっぱりと切り捨てるアテナ。それに対し、ミカエルは呆れた様子で言葉を返す。

 

「やはり、闘神というのは度し難い程に愚かですね。何故わざわざ闘争を求めるのか……」

 

「はん、戯言を。あなたこそ、気に入らぬ神々を邪神、邪竜と定め、その剣で調伏させて来たのであろう」

 

 一触即発の雰囲気の女神と天使。星琉は出来るだけ事態が好転するように、ある一つの策を試みた。

 

『聞こえるか、アテナ』

 

「ん? これは……ほう、あなたか、神殺しよ。なるほど、確かにかの女神を弑したのならば、『精神感応』による思念の会話が出来るのも道理よな」

 

『……一時停戦と共同戦線を張る旨を申し入れたい。一考願えないか』

 

 アテナが見破ったように、星琉が今行ったのは『精神感応』という、ある特殊な血統でなければ行えない特別な魔術だ。これが出来るのはもちろん『闇夜に眩き月星の唄』の恩恵である。

 

 星琉からの呼び掛けに目を見開くアテナ。そこから導き出せる感情は驚愕、懐疑、困惑。

 

「……正気か? 我らは互いに仇敵同士。だというのに、あなたは妾に背を預けるというのか?」

 

『預ける訳じゃない。共通の敵を屠るために手を結ぶだけだ。同舟相救う、という言葉があるだろう? 僕と貴女の戦いは、それからでも遅くはないはずだ』

 

 星琉からの提案に少し思案した後、アテナは答えた。

 

「……よかろう、神殺し。あなたと共闘してやろうではないか。ただし、あなたの名を妾に告げるのが条件だがな」

 

『…………』

 

「察するに、あなたは己の内を敵に晒したくないのであろう。だがな、名も明かさぬ者に一時の信用も置けるはずがなかろうよ。ましてや妾とあなたの関係は、殺し殺される関係。それが手を結ぼうというのだから、当然であろう?」

 

 アテナの述べるところは実に正しい。星琉もそれは分かっている。

 

 今現在の最優先事項は、何を以てしてもミカエルを殺害する事。ならば、アテナを引き込めば相当な戦力になる事は想像に難くない。

 

『……吉良星琉。それが僕の名だ』

 

 星琉の名を聞き、一つ頷くアテナ。つまり、星琉の言葉を聞き入れたという印に他ならない。

 

 しかし、それを無に帰す者が現れた。

 

「見つけたぞアテナ! ……って、吉良!? あともう一人も誰だよ?!」

 

「ミカ、エル……様……?!」

 

 そう、それは、星琉と同じ東方の神殺しである草薙護堂と、その愛人のエリカ・ブランデッリである。

 

「……ふむ、まさかとは思っていたが、生きていた――いや、蘇ったか。草薙護堂よ。それでこそ我らが仇敵よな」

 

 落ち着き払った、しかしどこか喜色が伺えるアテナの声。彼女は護堂を一瞥すると、星琉の方に向き直り、声を掛けた。

 

「事情が変わった。妾はまず、討ち漏らした草薙護堂と決着を着けねばならぬ。共闘は出来ぬが、勝負はあなたに預けよう」

 

 それだけ言うと、アテナは護堂の方へと向かって行った。

 

 結局の所、星琉は渡す必要のない情報を明け渡しただけ。タイミングの悪い護堂に思うところがあるものの、ともかくまつろわぬ神を二柱も相手取る、という絶望的な状況は回避出来た。

 

 ミカエルに視線を向ける。赦し難き熾天使は、ただ憂いの表情を星琉に見せていた。

 

「止めておきなさい。貴方の成そうとしているとても罪深き事であり、同時に無駄な事でもあるのですよ」

 

「黙れ!!」

 

 次の瞬間には、黄金と黒白が鬩ぎ合っていた。

 

 唐突に起こった衝撃に、大気が震える。まるでファンファーレのように……。

 

 

◇◆◇◆

 

 

「待たせたな、草薙護堂。しかし、あなたも中々しぶといではないか。少し見直したぞ」

 

 正直に言えば、今この場の状況に護堂は混乱していた。目の前にいる銀髪の乙女は、カンピオーネ特有の直感の御蔭か、すぐにゴルゴネイオン――《蛇》を取り戻したまつろわぬアテナであることを理解していた。

 

 しかし、あれはついさっき話していた同級生が持っていたはずで、けれどもその同級生は天使と戦ってるし、あの天使を見てから隣にいるエリカの様子がおかしいし、そもそもあの天使誰なんだ、というのが彼の胸中。

 

 いや、と混乱を振り払う。今はそんな事を考えている暇はないのだ。目の前のまつろわぬ女神をどうするか、それが最も重要な事なのだから。

 

 護堂はアテナを睨み付けながら、強い語調で言う。

 

「なあ、最後にもう一度だけ確認するぞ。俺はあなたが何もしないで帰るのなら、見逃してやろうと思っているんだ。どうだ、そのつもりはあるか?」

 

 そんな護堂の言葉にアテナはつまらなさそうに、拗ねた子供のような様子で答える。

 

「そのように興の無い事を申すな。妾は古き三位一体を取り戻したばかりでな。少し前まではあそこにいる神殺しと《蛇》を巡って争っていたのだが、無粋な《鋼》が水を差しおった」

 

 忌々しげに天使を睨み付けるアテナ。その眼力は、それだけで殺せるのではないかと思うほどに鋭く、厳しいものだ。

 

「妾はかの神殺しと共に奴を追い払おうとしておったのだが、そこであなたが妾の前に再び現れるではないか。だからこそ、こうしてこちらにやってきたと言うのに、あなたという人は……」

 

 何故か呆れたような視線を向けられているのだが、こちらにそんなものを向けられる謂れはない。なんて身勝手な女神さまだ、というのが護堂の心中だ。

 

「そら、言葉を交わすのはもう良い。そろそろ妾を愉しませてくれ。先程の神殺しとのいくさが中途半端に終わって、まだ燻っておるのだ。先刻は計略を以てあなたを出し抜いた。ならば、次は武を競おうではないか!」

 

 アテナのこの言葉に、護堂はようやく腹を据えた。交渉は決裂。互いの意見は平行線。ならば……。

 

「あんたのご要望に応えてやるよ。この国から腕ずくで追い返してやる。俺に負けた後で、尻尾を巻いて逃げ出すといい!」

 

 エリカに視線で退避するように伝え、彼女はそれに頷きを一つ返す。

 

「善き哉! ここで雌雄を決するか、草薙護堂よ!」

 

 エリカが長い金髪を大きく靡かせて大きく跳躍したと同時に、快哉を叫んだアテナが腕を振り上げた。

 

 直後、闇の中からアテナの眷族と思われる数十羽の梟が羽ばたき、同様に、極彩色の鱗を持った体長五、六メートルを軽く越すであろう蛇が、波のように群れを成して這いずって来る。

 

 今この場では全力が出せないと踏んだ護堂は、アテナと距離を取るために走り出した。

 

 

◇◆◇◆

 

 

 殺害者(星琉)断罪者(ミカエル)光を齎す者(護堂)闇を齎す者(アテナ)

 

 それぞれのいくさが今、始まりを告げた。

 




 蛇の女神は、二人目の王を見抜けない


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漆 天空乱武

 それは女神の痛み それは女神の怒り
 それは星の悲しみ それは星の嘆き


 白と金、黒と金、火花が散り散り、舞い踊る。剣と刀が巡り合う度、闇夜の世界を武闘の華が彩る。翠が翔ける、影が駆ける。金音が鳴り、相克を成す。

 

 黒が熾天使の喉笛を穿たんと奔った。それを首を傾ける最小限の動きで避け、お返しとばかりに横薙ぎに金を振るう。

 

 白が金の軌跡を断つが、途轍もない衝撃が神殺しを襲い、苦痛に顔を歪めた。

 

 星琉とミカエル。両者は運命の悪戯とでも言うべきなのか、異様な程に対極の位置にあった。

 

 星琉は二刀流という、手数の利によって敵の攻撃を防ぎ切り、翻弄させ、隙を見出し、あるいは生み出させて果敢に攻め立てる『動』であり『量』であり『柔』の剣であるのに対し、ミカエルは竜という巨獣を相手取ってきた故か積極的に動く事はなく、僅かな突破口を見つけて一撃一撃が必殺の威力を備えた斬撃を放つ『静』であり『質』であり『剛』の剣を両手で振るう。

 

 その威力足るものや、先程アテナ相手に完全に膂力で優っていた星琉が、ミカエルの攻撃を往なそうとすれば軽く吹き飛ばされ、防げば多大な衝撃が身体を襲う事や、戦いの最中、星琉が巧みに回避した際、アスファルトに剣が打ち付けられるとその威力によって十メートル程の地割れが出来たという事からも伺えるだろう。

 

 しかし、一撃一撃が重い為か、手数は決して多いとは言えない。よって、星琉は辛うじて傷を負う事だけは防げていた。

 

 そういうわけで、両者は互いに殆ど無傷。千日手の状態だ。

 

「母なる海より生まれし神獣(モノ)地球(ほし)となりし太母神の子。我が内なる王権の獅子よ。その体躯を以て疾く駆け、悉く打ち砕き、母の威光を誇示せよ!」

 

 しかし、星琉が権能を発動する為の聖句を唱えた。直後、彼の背に獅子の幻影が浮かび上がり、ミカエルに向かって咆哮する。

 

 ミカエルはその事象に訝しがる。己の身に何かが起こった訳ではない。では、今の聖句は一体何を意図したものなのか?

 

 起こっただろう異常を探っていると、それが何であるかはすぐに明確になった。

 

 己を弑逆しようとする黒の刀を防ぐと、それまで感じなかった力強さを感じた。それに次いで襲って来る、白の刀との連戟。それまではその合間にある小さな空白を突いて反撃していたのだが、剣を振るう速度が今までよりも速くなっており、隙が速度で塗り潰されている。

 

「せあっ!」

 

 黒の刀を防ぐ。が、同時に襲い掛かった白の刀がミカエルの右腕を少し傷付けた。

 

 背中の翡翠の翼をはためかせ、空中に浮遊して一時離脱し、ミカエルは星琉を見下ろす。

 

「なるほど。かの悪魔から簒奪した権能は、奴の生み出した十一の魔獣の力をその身に宿す権能。それによってあなたは、獅子の力を宿したのですね」

 

「…………」

 

 無言で睨み付け、否定も肯定もしない星琉だったが、ミカエルの読みは的中していた。

 

 

 ――『地球なる女神の(ビースト・ガーディアン・)守護神獣(オブ・ザ・ゴッデス)』――

 

 

 ティアマトから簒奪し、星琉が名付けた権能だ。

 

 能力はティアマトが神話において生み出した十一の『神に値する』神獣――蠍の尾を持つ竜(ムシュフシュ)七叉の大蛇(ムシュマッへ)(ウシュムガル)角の生えた毒蛇(バシュム)海の怪物(ラハム)獅子(ウがルルム)狂犬、或いは獰猛な犬(ウリディンム)蠍人間(ギルタブリル)嵐の魔物(ウム・ダブルチュ)魚人間(クルール)翼持つ雄牛(クサリク)――を従える能力だ。

 

 それは、ミカエルが言ったように自身に宿すことも出来れば、神獣自身を召喚する事も出来る。

 

 今、星琉が宿した神獣はウガルルムと言い、身の丈数十メートルを越える巨大なライオンだ。

 

 古来、ライオンは王権の象徴であり、身に宿せばあらゆる人間を従える威圧感や、ライオンの持つ怪力、俊敏さ 、強靭さが備わる。

 

 このように様々な能力を持つ権能だが、それ故に発動の条件も存在する。それが、神獣を行使出来るのは一日に一度だけというものや、十一の神獣それぞれに、身に宿す為や召喚する為の条件があるというものだ。

 

 今回のウガルルムの場合、相手が自分よりも膂力、俊敏さ、強靭さが全て上回っていなければならない。

 

 しかし奇妙な事もあって、神獣を行使するのに数の上限はないのだが、何故か一体しか扱えなかったり、地母神に分類されるまつろわぬ神相手には権能自体が使えなかったりする。なので、アテナ相手にこの権能を使う事はなかったのだ。

 

 これは、権能特有の条件のような感覚はしない。星琉としては、まるで初心者でも扱えるようにする為の安全装置(セーフティ)のような印象を受けている。

 

 何故そんな印象を受け、そのような制限が存在するのか定かではないが、星琉は既に折り合いを付けていて、特に気にしてはいない。

 

「母なる海より生まれし神獣(モノ)地球(ほし)となりし太母神の子。我が内なる聖魔併せ持つ竜よ。その心の昂ぶりにより、魔風を暴れ狂わせ、災禍を祓い、母の復讐を果たせ!」

 

 星琉の周りに風が渦巻いて竜の形を成し、先程の獅子の幻影と同じようにミカエルに咆哮すると、その形を解いて星琉の身体に融けた。

 

 ムシュフシュとは、元々バビロン神話の神王マルドゥクを倒すために生み出された神獣であり、その事からも強さは神一柱に匹敵する。

 

 十一の神獣の中では最も強力な破壊力を持ち、神話ではマルドゥクの騎獣でもあったので、マルドゥクから突風の加護を得ている。また、都市の守護獣として崇められていた経緯から、災厄を祓う力を持つとされる。

 

 融合条件は『風を操る、又は飛行能力を持ち、かつ《鋼》の属性を持つ敵と相対すること』である。

 

 天翔ける事を許された星琉は、中空に居るミカエルとは少し距離を置いた場所まで飛び上がり、停滞する。

 

「次は邪神竜……少年、あなたは随分と魔獣達の扱いに手馴れているようですね。恐らくは、魔に魅了され、心を明け渡してしまったのでしょう」

 

「…………」

 

 権能を操る様子に、悲痛な面持ちで語り掛けるミカエル。対して、星琉は無言を貫く。しかし、ミカエルはそれを特に気にした様子はなかった。

 

「ですが、案ずることはありません。すぐにあなたの内なる業を裁き、魂を浄化して差し上げます」

 

 そう言うと、ミカエルは自身の胸の前で十字を切った。するとどうだろうか、切った十字が黄金に輝き出し、六つの小さな十字架となってミカエルの周囲を飛び回り始めたではないか!

 

「業を課せられし憐れな神殺しよ。“封魔”“破邪”“懲悪”“懺悔”“浄罪”“正義”“救済”を顕す、“主”より賜りし十字の聖痕を刻まん」

 

 大気がざわめき、海風が避けろと囁く。

 

 それに従って大きく上空へ飛び上がると、同時に金色の十字架から光線が放たれ、星琉のいた場所を貫いていた。

 

 星琉が回避に成功したと判るや否や、六つの十字架は星琉を三次元的に取り囲み、集中砲火を始める。

 

「くっ!」

 

 上下左右、正面、背後。空中という場を十全に利用した攻撃に、苦戦を強いられる星琉。

 

 海の沖へ向かうように飛行能力を全力で行使し、自分を射抜かんとする光の矢を回避しながら、状況を打破する手を打とうとする。

 

「風よ。都を守護せし聖なる――」

 

「させません」

 

「ちっ!」

 

 空気を断ち切る音を立てながら振り下ろされる剣を、星琉は双刀を逆手に持ち、腕を交差させながら刀が平行になるように構えて受け止める。

 

 しかし、ミカエルの斬撃は強力だ。聖句の詠唱は中断されてしまった。

 

「ぐっ!」

 

 三つの光条が星琉の両脚を穿つ。苦悶の声を上げながら、痛みのせいで刀を持つ手が僅かに緩む。

 

 ミカエルはその隙を逃さず、剣を切り上げて双刀の壁を崩すと、がら空きの星琉の身体を一蹴した。

 

「ぐあっ――!」

 

 その攻撃が綺麗に決まり、大きく吹き飛ぶ星琉。

 

 その先の上空で、五つの十字架が()()ると円を描き、円錐を作るように少し離れた場所にあるもう一つの十字架に光を集めている。

 

 それが目に入った瞬間、双刀から鼓動を感じ、反射的に星琉は新たな権能の聖句を唱えていた。

 

「我、破壊神の祝福を受けし者也。我、死を殺せし者也。我、善の聖獣と成りし者也。故に我は万象を分断し、絶縁させ、破壊する者也!」

 

 聖句を唱えた直後に放たれる高熱の閃光。蹴られた時の衝撃で身体が上手く動かせない星琉に回避する術はない。

 

 しかし、両手の双刀が意思を持つかのようにひとりでに動き出し、光線を真っ二つに分断した。よく見ると、双刀の刀身は宵闇色の呪力に包まれている。

 

 双刀に振り回されて崩れた体勢を立て直すと、星琉は刀に語り掛けた。

 

「済まない、《墜天》」

 

「《何、気にせんでよいわい。儂はお主の害となる全てを断つ佩刀。当然の事をしたまでよ。……ま、闍婆(ジャワ)の坊主の権能を使ったがの》」

 

 星琉が《墜天》と呼ぶ刀は彼の権能なのだが、今は権能としての能力により、本来の姿とは別の黒白の双刀の形を採っている。

 

 この墜天自身にミカエルの光線を断つ術はないのだが、星琉の唱えた聖句によって発動した権能に、その力があった。

 

 それが、インド神話の『マハーバーラタ』に登場する、破壊や舞踏の神であるシヴァの祝福を受けた王子『サドゥワ』から簒奪した権能『縁切り断つ破壊の星運(プロヴィディンス・オブ・デストラクション)』である。

 

 この権能は、サドゥワが死神バタリドルガを死神という役職から解放し、天国へと昇天させたという神話を体現した権能だ。

 

 この権能の制御下に置いた物はまず、森羅万象を『分断』する力を得る。

 

 更に、対象に対して知識がある場合、『絶縁』の概念、『破壊』の概念が知識の深さの度合いにより段階的に備わり、『絶縁』の概念が備わると不死性や神格すら『絶縁』させて、『破壊』の概念によってその神格を破壊する『神格破壊』が出来るようになる。

 

 (ただ)し、『分断』というのはあくまでも『分ける』だけであり、物理的攻撃力は皆無だ。

 

 更に、『地球なる女神の守護神獣』と同様の不可思議な制限はこの権能にも存在し、発動している間は常時呪力を消費し続け、任意での解除は不可能であり、星琉が呪力切れを起こすか、対象が生死に関わらず戦線離脱するしか解除されることはない。しかし、それらを加味しても強力な権能であることには変わりないだろう。

 

「『分断』……破壊神の力ですか。長引かせれば厄介になるかもしれませんね。これで終わりにしましょう」

 

 神妙な面持ちでそう言うと、ミカエルは天に捧げるように剣を掲げ、聖句を唱え上げようとする。

 

「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の“主”よ! “主”の栄光は地の全てを覆う! されどその光を疎み、忌み嫌い、是とせぬ邪悪なる者在り。おお“主”よ! 全ての父なる偉大な“主”よ! 熾天使ミカエルの名の下に、今一度導きの翼を! 悪魔を降す黄金の焔剣を、私の手に授け給え!」

 

 爆発するように吹き出したミカエルの呪力。詠唱が終わって、仄かに光り始めた黄金の剣。それと同時に東の方角から風が吹き、豪、と火が燈った。

 

「古代バビロニアにおいて、上では天が命名されず、地が名前を持たなかった時――つまり、原初の混沌とした海しか存在しなかった時代。その原初の女神がティアマトです。塩水という意味を持ち、淡水の意味を持つアプスーという伴侶がいました。この二柱の神を以て海となっていたのです」

 

 朗々とミカエルが言霊を紡ぐ度、火は燃え盛って炎となり、炎は勢いを増して焔となった。

 

 これこそがミカエルの最も特徴的な力。他教の神を悪魔と見做し、来歴を説き明かす言霊によって焔を滾らせ、剣を鍛え上げ、神格を斬り裂き、降魔調伏を成す『まつろわす黄金の焔剣』。

 

「時は過ぎ、次々と新たな神が生まれ――」

 

 しかし、ミカエルが更に剣を研ぐ為に言霊を紡ごうとしたその時。

 

 

 風が――大いなる風が、そよいだ。

 

 

「風よ。都を守護せし聖なる清風よ。祓い給え、浄め給え。闘争は要らぬ、災厄は要らぬ。我が求むるはただ安寧のみ」

 

 静かに、されど冥き広大な夜空全体に、確かに響き渡るように唱えられた聖句。

 

 それは、先程ミカエルに妨げられたもの。凶を祓い、神の権能すら一時的に封じることの出来る守護の風。

 

 焔が、消えた。呪力で構成されていたが故に、六つの小さな十字架も消え失せた。

 

「なっ?!」

 

「――っ!」

 

 自らの武器が消失し、呆気に取られているミカエルの隙を逃すまいと、星琉は急接近して斬撃を放つ。

 

 一合、二合と剣戟を演じ、鍔迫り合いになる。すると、ミカエルは今までとは打って変わった様子で激昂した。

 

「貴様! “主”が給いし焔を薄汚れた魔獣の風で掻き消すなど、なんと罪深き事を!?」

 

 しかし、星琉はそんなミカエルを気にすることもなく、目を見開き、ミカエルに集中する。

 

 

 視界が――変わる。

 

 

 ミカエルの『存在』を見抜く為に、星琉の眼が『縁切り断つ破壊の星運』によって変質したのだ。

 

 反芻する。心中で、仇敵の『存在』を解き明かす知識を。

 

 

 ――ミカエル。“神の如き者”という意味を持つ天使、及び大天使の長。御前の君主であり、『懺悔』『正義』『慈悲』『清め』等多数の属性を持つ天使。また、第四天の支配者であり、イスラエルの守護天使。ヤコブの守護者であり、サタンを成敗する者――

 

 

 宵闇色の呪力が少しだけ赤みを帯び、黄昏色の呪力に変色した。『絶縁』の概念が宿った証拠である。

 

「む……?」

 

 権能の変化に懐疑の様子を見せるミカエル。しかし、この天使はその本当の意味をまだ理解していなかった。

 

 

 ――ミカエルは《鋼》に属する天使であり、その要因は様々。竜となったサタン――つまり、《蛇》を討伐しており、後の聖人である聖ジョージの前身となる。また、太陽と水星の守護天使である事から、鉄を鍛えて《鋼》と成す火と水の要素が伺える――

 

 

 黄昏色の呪力は更に赤みを帯びて、東雲色となった。これが『破壊』の概念が宿った証拠であり、その時になって漸くミカエルは事の重要性を理解した。

 

「『絶縁』と『破壊』……? それは…… まさかっ!?」

 

 星琉の使った権能の真の力に感付き、驚愕の表情を浮かべるミカエル。

 

 確かに、一番始めの段階で破壊神に由来する権能である事には気付いていたが、それがまさか『まつろわす権能』に酷似した物だとは思いも寄らなかったのだ。

 

「くっ……咎人の分際で!!」

 

 焦りの表情を浮かべたミカエルは鍔迫り合いの状況を強引に崩し、豪快な振り下ろしを繰り出した。

 

 風切り音と共に迫り来る凶刃。しかし星琉はそれを、逆手に持ち替えた白の刀だけで受け止めた。

 

「何だと!?」

 

 自身の予想が裏切られた故に、戸惑いの声を上げるミカエル。

 

 本来であればその膂力の差により、星琉は斬撃の衝撃に耐え切れず後退し、仕切り直しの状況となっていただろう。

 

 だが、『縁切り断つ破壊の星運』は『破壊』の概念まで宿らせた時、副次効果として身体能力が強化されるのだ。

 

 よって、今の星琉の膂力はミカエルと同等かそれ以上であり、真正面から受け止める事が出来たのである。

 

 

 ――キリスト教においては、死者に救済と不死を与え、信者の魂を永遠の光。即ち“主”の下へ導く存在として『慈悲深き死の天使・聖ミカエル』とされた――

 

 

「っ――!!」

 

「ぐうっ!」

 

 星琉の黒い刺突が、ミカエルの脇腹を(えぐ)った。

 

 左腕に力を入れる。風翼を使ってやや前方に翔け出すよう上昇気流を巻き起こし、すれ違い様に翡翠色の左翼を真っ二つに下から刈り取る様に斬り裂く。

 

「あ゛ア゛ぁ゛あ゛ァ゛!!!!」

 

 清麗な天使とは思えないようなしゃがれた悲鳴を上げるミカエルだが、星琉はそれでもまだ足りないとでも言うかのように、更に刃を鍛える。

 

 

 ――ミカエルは確かに《鋼》の属性を持つ天使。だが、『不死』の属性を備える逸話は存在しない。それなのに何故『不死』足り得るのか……それを解く鍵は、ミカエルに与えられた階級にある――

 

 

 響き続ける剣と刀を打ち付け合う金音。それは、星琉の内の激情を表すかのような熾烈さだった。

 

 

 ――『熾天使』という名前は『燃える』『焼却する』『破壊する』というヘブライ語の動詞『saraf』から来ており、熾天使の火を点けて破壊する――即ち、まつろわす能力の事を指す――

 

 

 目まぐるしく繰り広げられる刀剣の乱舞。それはさながら、鋼の嵐と形容出来るかもしれない。

 

 そんな中、星琉とミカエルの間で綺羅綺羅(キラキラ)と輝く粉塵のような物が舞っていた。それに気付いた星琉は更に攻撃する速度を上げ、剣戟を加速させる。

 

 

 ――そしてそれは、エジプトのファラオが額に着けている、金の蛇の蛇形記章から発展したと思われる。翼がない、もしくは二枚、四枚ある蛇形記章は、中近東に広く見られる事象――

 

 

 輝く粉塵は、双刀と剣が触れ合う度に舞っている。

 

 そう、粉塵の正体はミカエルの持つ黄金の剣の欠片。圧倒的な『破壊』の概念に、刃毀れを起こしていたのだ。

 

 

 ――また、ミカエルの起源はカルデアにある。かつてカルデアで偉大な神として崇拝されていたミカエルと、蛇形記章との関係はかなり密接であると考えられる。更に、『熾天使』の複数形を指す『Seraphim』の語源はカルデア神話に登場する『セラピム』という稲妻の精霊だ。このセラピムは『六枚の翼を持つ蛇の姿をして、炎のように飛んだ』と言われており、ここから転じて熾天使としてのミカエルが『剣』に関連する事も示している。空を切り裂くように見える『稲妻』と、それによって起こる火災、即ち『炎』は『剣』と密接な関連性を持つ事象だからだ――

 

 

 ミカエルには反撃の手がなく、防戦に徹するしかない。しかも、その攻撃を防ぐ事で精一杯で、刃毀れに気付いていないようだ。

 

 白で金を弾き、黒が天使を斬り裂かんと閃く。ミカエルの首筋に、明確な死線が刻まれた。

 

 

 ――中近東において、蛇は毒や火を吐いて身を守るとされていた。更に、ヘブライ語の『saraf』は火を吐く蛇に対しても使われる。……『翼を持ち、火や毒を吐く蛇』――即ち、『竜』。かつての《蛇》としての己、それがミカエルを『不死』たらしめる理由。そして、キリスト教の教義の中で天使となったミカエルは、人の性格も持っていた――

 

 

 ……見えた、ミカエルという『存在』が。

 

 そして完成する。ミカエルを弑逆するための権能が。

 

 

 ――『翼持つ智慧ある稲妻の蛇』――それがミカエルという『存在』の根源!!――

 

 

「ぜああっっ!!!!」

 

 鈍い音が鳴る。星琉がミカエルを完全に説き明かした瞬間に二時の方向に切り上げた黒が、黄金を強打して半ばから折ったのだ。

 

「ば……かな……」

 

 自身の武器が破壊された事が信じられないといった様子で、身体の動きが止まって完全に死に体のミカエル。

 

 そんな大きな隙を見逃す程、星琉は甘くなかった。

 

「せいっ!」

 

 白刀を逆手に持ち替え、黒の軌跡を辿る様に斬る。しかし浅い。これでは決定打になりえない。

 

 だから星琉は身体を右に回転させ、逆手に持ち替えた黒刀で後ろ手にミカエルの胸を穿つ。

 

「がっ……!」

 

 星琉の追撃はまだ終わらない。逆手に持った白刀をもう一度順手に持ち替え、左に身体を回転させて刀を薙ぐ。

 

 その時、“ムシュフシュ”の力を完全に解放し、斬撃にありったけの風を纏わせて放った。

 

「っ――!」

 

 

 ――透式・暴風閃乱――

 

 

「ぐアあ゛ァ゛――!!」

 

 “ミカエル”という存在を、神格を斬り裂いた手応えが確かにあった。

 

 白刀の一閃はミカエルの鎖骨下を斬り裂き、放たれた暴風はミカエルを吹き飛ばしながら、鎌鼬でその身体を乱れ斬りにして行く。

 

 暴風が凪いだ。ミカエルは事切れた様子で、海へと墜ちて行く。星琉はそれを追撃することもなく、ただ見つめていた。

 

 本当ならば、先の斬撃でミカエルの首を撥ねるつもりだった。しかし、『地球なる女神の守護神獣』であった不可解な制限と同様に、『縁切り断つ破壊の星運』にも使用した際の副作用のようなものがあり、それで腕が下がってしまったのだ。

 

 その副作用とは、全速力で超長距離を走り切ったような極度の疲労。それに加え、命懸けの戦いという極度の緊張状態でもあったため、精神的疲労もあるようだ。

 

「はぁっ……はぁっ……終わった……」

 

 目を閉じて、まるで何かに伝えるかのように天を仰ぐ星琉。

 

 ……後は、アテナを殺すだけ。

 

 その思考に胸の痛みを感じながら疲れた身体に鞭打って、もう一つの戦場へと飛んで行こうとした時、東の空が紅く染まった。

 

 太陽が昇る。おそらく、護堂の持つウルスラグナの権能の化身だろう。そしてそれは、おそらく『白馬』だろうと星琉は予想していた。

 

 東から西へと馬車で空を駆る太陽神の伝承は、多くの文明で見られる。ウルスラグナの仕える光明神ミスラも同様の神話を持つ故に、『白馬』の化身は太陽と密接に関係する力なのではないか、と考えていたのだ。

 

 冥府神のアテナにとって、太陽の力というのは天敵だ。これで決着が着くと言うのなら、それが最高ではあるのだが、はたして……。

 

 

◇◆◇◆

 

 

 己を堕とそうとする星の引力を、与えられた傷のせいで無抵抗に受け入れさせられながら、ミカエルは自分が間違っていた事をようやく理解した。

 

 あの神殺しは……『アレ』は違うのだ。私の救済を必要としない、存在自体が罪悪の、“主”が必要としない存在なのだ。

 

 だが、自分はそれを見抜く事が出来ず、断罪の剣を受け入れてくれるのだろうと、目前に迫る『死』という救済に、一時の恐れを抱いているだけなのだろうと勘違い――油断していた。

 

「(情けない、不甲斐ない。天秤を持つ私が邪悪を見抜けないなど……)」

 

 沸々と、憤怒と憎悪の感情が込み上げて来る。それは自分にでもあり、自分を討ち倒して存在する神殺しにでもある。

 

 何故私が墜ちているのか、何故私が見下ろされているのか。

 

 そこに居るべきは私のはずだ。破邪顕正を為し、信者を導く私のはずだ。

 

 何故、奴が存在することを許されているのか。

 

 

 ……許せない。

 

 

 許せない許せない許せない許せない赦せない赦せないゆるせないユルセナイ赦せないユルセない赦せナイ許セなイユルせナイ許せナい許さナい赦さなイ赦サナいゆるサナイユルさなイ許さナい赦サナい殺し害し滅ぼし消し去り斬り裂き燃やし破壊し八つ裂きにし焼却し切り刻み首を撥ね心臓を穿ち目を斬り腕と脚を切り落とし慈悲を乞わせ乞わせ乞わせこわせコワセ壊せ壊せ壊せ――!!!!!!!!!!

 

 

 呪詛に応えるかのように、ミカエルは東の空から同胞が顕れるのを感じた。それも、自身の力となる太陽を引き連れて。ミカエルは、その太陽の出現を“主”からの啓示と受け取った。

 

 即ち、『今一度、神殺しを滅ぼせ』と。

 

 感動で、涙が溢れた。既に敗北したとも言えるこの状況で、まだ“主”は自分に機会を与えて下さるのか、と。

 

「“主”の……御心のままに……」

 

 神殺しに直接神格を斬り裂かれたせいで、ミカエルに残された神力は決して多くはない。

 

 しかし、その少ない神力は『ただ同胞を呼び寄せる』という単純な指向性と、『“主”の啓示を果たす義務感』――つまり、ミカエルの『自己存在意義』の強化によって至純へと達し、今この場で一番の力を得た。

 

 

 

「来たれ、太陽を守護する我が許に。同胞よ、白馬へと化身し、古き我が七光を運ぶウルスラグナよ。常勝不敗の貴方の“勝利”を、私の手に齎し給え」

 

 

 

◇◆◇◆

 

 

「っ――!?」

 

 息が詰まる。喉が渇く。驚愕に、目を見開く。

 

 響くはずのない声を、唱えられるはずのない聖句を、星琉は感じ取った。

 

 闇夜に昇り切った太陽から放たれる、灼熱のフレアの閃光。それはあろうことか、星琉の頭上を通過して海へと――ミカエルが墜ちた場所へと照射されていた。

 

 されど海水が蒸発するようなことはなく、まるでその閃光を飲み込んでいるかのようだ。

 

 少しして、閃光の着水点から天を衝く様に白い光柱が立った。

 

 ……いや、『天を衝く様に』ではなく、『天に捧げる様に』という表現の方が正しいかもしれない。

 

 数分後、並々と海へ注がれた閃光は消え去り、東の空に昇った太陽もまた、自然の中へ沈んだ。

 

 同様に、光柱も段々と細くなって行き、最後には光の糸となって消えた。

 

「聖なる、聖なる、聖なる万軍の“主”よ。“主”の栄光は地の全てを覆う。されどその光を忌み嫌い、是とせぬ邪悪なる者在り。おお“主”よ。全ての父なる偉大な“主”よ。熾天使ミカエルの名の元に、今一度導きの翼を、悪魔を降す、まつろわす白金の焔剣を、私の手に授け給え」

 

 先程聞いて、直後に無効化した聖句がまた聞こえた。それは己の“主”を奉るような響きではなく、決意を告げるような響きだった。

 

 言霊を紡ぎながら光柱から現れたのは、六つの白焔の剣を翼にし、右手に薄く光を放つ、刃の部分が波打つ焔のように変化した白金の大剣を持った天使。

 

 紛れも無い、先刻殺したはずのミカエルだった。

 

「嗚呼、“主”よ。貴方の御慈悲に感謝します」

 

 瞠目していた目を開く。その瞳は、金色に輝いていた。

 

「神殺しよ。私はどうやら勘違いをしていたようですね」

 

 淡々と、何の色も読み取れない、ただ事実を再確認する声が響く。

 

「私は貴方を、要らぬ業を背負わされた憐れな人間なのだと、私が救うべき人間なのだと、そう思っていました」

 

「…………」

 

 星琉は何も語らない、語れない。おそらく、何を言った所で天使は耳を貸さないだろうから。

 

「だが違う。貴様は奴と――サタンと同じだ。存在してはならない、禁忌の者」

 

 口調が変わった。それと同様に、ミカエルの纏う威圧が、殺気が、その質を変えた。

 

 白金の大剣を天に掲げる。すると、翼剣が折り畳まれて大剣と融合して行き、優に五十メートルを越える、もはや武器ではなく兵器と言うべき、太陽のフレアを纏った燦然と輝く剣となった。

 

「私は、“主”の勅命により、お前の存在を滅却する。――神殺しよ、懺悔の時だ」

 

 

 

――悔い改めよ――

 




 陽はまた昇るのだ 何時の時代も


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捌 輝き始める星

 陽はまた昇る しかし同時に、月もまた輝くのだ


「我が元に来たれ、勝利のために。不死の太陽よ、我がために輝ける駿馬を遣わし給え。駿足にして霊妙なる馬よ、汝の主たる光輪を疾く運べ!」

 

 東京湾のすぐ傍にある浜離宮恩賜庭園。開園時間が終わり、無人となったこの広い庭園で、護堂とアテナは戦いを繰り広げていた。

 

 原初のアテナの出自を『教授』された護堂は、ウルスラグナの『戦士』の化身を使い、ミカエルと同様のまつろわす権能『智慧の剣の言霊』を用いてアテナの神格に瑕を穿った。

 

 そして今、アテナを討ち倒す前段階として『白馬』の化身を使い、アテナに隙を作らせようとしたのだが……。

 

「おお――やはり来るか。忌々しき駄馬め!」

 

 東の空から曉の曙光が溢れ出すのを見遣り、憎々しげに吠えるアテナ。そんな様子に、護堂はその後の展開を想像しながらアテナに語る。

 

「本当なら、この化身が一番使い辛いんだ。ただ、今回はあなたがやりすぎたおかげで問題なかった。――何しろ『民衆を苦しめる大罪人』にしか使えない化身だからな」

 

 原初の闇夜を創り出し、人々を混乱に陥れたが故に使えるのだと、そう言った。

 

「行くぞアテナ! 闇を蹴散らす太陽の火を、たっぷり味わ――えっ!?」

 

 

――来たれ、太陽を守護する我が許に。同胞よ、白馬へと化身し、古の我が七光を運ぶウルスラグナよ。常勝不敗の貴方の“勝利”を、私の手に齎し給え――

 

 

 フッ、と『白馬』の手応えが消えた。権能の主導権を奪われたような、今まで味わった事のない感覚。

 

 果たして、護堂のその感覚は正しかった。

 

 アテナに向かって振り下ろされるはずだった白焔の罪科の鉄槌は、あろうことかアテナの頭上を通り越して、東京湾へと向かって行った。

 

「な……何でだよ?! アテナはそんな所にいないだろ!?」

 

 自分は確かにアテナを標的にしたはず。不測の事態に混乱する護堂。

 

 少しして、閃光の着水点から天を衝く様に白い光柱が立った。

 

「また……また貴様か……!!」

 

 直後、アテナが怒りの声を出しながら鎌をもう一度構えていた。

 

 マズイ……自分は既にアテナに対抗する手段が全て潰えてしまっている。

 

「護堂っ!!」

 

 頭の中で対抗策を弾き出そうとした時だ。彼の相棒であるエリカ・ブランデッリが、護堂を背に護るように、彼方から華麗に舞い降りた。

 

「エリカ!? 何でここに来たんだよ! 逃げろ!」

 

「馬鹿言わないで、逃げるのはあなたよ! アテナは私がなんとか食い止めるわ。だからその間にあなたは出来るだけ遠くへ、早く!」

 

 エリカが自身の愛用する、刀身の細い長剣、魔剣《クオレ・ディ・レオーネ》を構え、アテナと対峙する。

 

 無茶だ、と護堂は思考した。確かに、エリカであれば幾分かはアテナと相対し、時間を稼げるだろう。

 

 だがそれまでだ。その時間稼ぎをした後に待つのは、他でもないエリカの死。アテナから逃げ切る事は叶わないだろうし、そうするはずもない。

 

 何故なら、逃げの一手を繰り出せば、アテナが標的にするのは路傍の石と同価値のエリカではなく、宿敵たる護堂だろうから。

 

 そしてそれは、エリカの望む所ではない。今のエリカは文字通り命懸けで、愛する男を護ろうとしていた。

 

「エリ、エリ、レマ・サバクタニ! 主よ、何ゆえ我を見捨て給う!?」

 

 

 ――『主よ、何故我を見捨て給う』――

 

 

 人の身であるエリカが唯一、神であるアテナに傷を付ける事の出来る秘儀。古の聖者が死に際し、神への絶望と渇望を篭めて詠んだ禍歌にして賛歌。

 

『孤独』『絶望』『困窮』『呪詛』といった暗き想念の言霊を世界に満たし、術者たるエリカに負の力を与える。

 

「『我が骨は悉く外れ、我が心は――」

 

「待て、草薙護堂とその騎士よ」

 

 更に言霊を紡ぎ、アテナとの戦闘に備えようとしたエリカだったが、なんとアテナの方から待ったが掛かった。

 

 一体何を、と訝しがる護堂だったが、アテナの目を見て一つの事に気付く。

 

『白馬』の攻撃が逸れた時、確かにアテナは怒りを表していた。しかし、その怒りの矛先は自分達に向けられていないように思う。何となくだが、外れている気はしなかった。

 

 護堂はアテナの一挙一動に気を張りながら、耳を傾ける。

 

「草薙護堂。あなたの望みは妾がこの地から立ち去る事であったな?」

 

「それが……どうしたんだよ?」

 

「あなたが妾の願いを聞き入れるのなら、あなたの望みを叶えよう」

 

 一瞬、護堂はアテナが何を言っているのか理解出来なかった。

 

 そして理解した瞬間、諸手を上げて喜びたくなった反面、少しばかり詰まらない気持ちも浮かび上がる。

 

「何だって突然、そんな気になったんだよ」

 

 だからだろうか、少々不貞腐れ気味にアテナに対してそう声を掛けたのは。そして、アテナはそれに答える。

 

「勘違いするな。妾はあなたから逃亡するのではなく、仕切り直しを望んでいるのだ。今、あなたの騎士を見て全て理解した。草薙護堂、あなたは『白馬』を囮にするつもりであったな?」

 

 智慧の女神の彗眼に、ゴクリと唾を呑む護堂。そんな護堂の様子に我が意を得たり、といった様子でアテナは言葉を続ける。

 

「なるほど、妾はこの騎士の事を失念していた。『白馬』の焔から身を守っている間に、絶望の言霊を吹き込ませたその魔剣を突き立てられていれば、妾は確かに敗北していたであろう」

 

 しかし、と逆接を入れた後、アテナは宣言する。

 

「妾は妾の敗北を認めぬ。妾は健在であるが故に。しかし同時に、妾は妾の勝利も認めぬ。あなたが妾を倒し得る策を持っていたが故に。よって草薙護堂よ、妾はあなたに再戦の約定を申し入れたい。これを受け入れるのであれば、妾はあなたの命を見逃し、この地を去るが……どうだ? あなたにとっても悪い話ではなかろう」

 

「ぐっ……」

 

 アテナの物言いに呻く護堂。

 

 確かに悪い提案ではない……というか、受け入れざるを得ない。先程からずっとアテナを倒す算段を立てようとしていたが、どうやっても良い方法が思い浮かばない。

 

 『再戦』という部分が頭に痛いが、アテナの言う通りここは見逃してもらわないと、エリカの命も危うい。

 

「……わかった。あなたとの再戦を約束する」

 

「ふふ、賢明よな。せいぜい妾との再戦までに、神殺しとしての経験を積んでおくがよい。――さて、妾もこの地を去らねばな。だがその前に……」

 

 憤怒の炎を燈した目を細め、空を見上げるアテナの背から翼が生えた。茶色っぽく、無数の斑模様が入った翼。

 

 アテナの化身の一つ、夜空を自在に飛び回る聖鳥であり、智慧の象徴。同時に、冥府より来たる死の使い、アテナが好む、猛禽の化身。梟の翼だ。

 

「さらばだ! 草薙護堂! 壮健であれ、あなたを討つのは、このアテナなのだから!」

 

最後にそう捨て台詞のような言葉を吐くと、アテナは滑らかに飛翔して行く。

 

 そして、アテナの姿が小さくなってようやく、闇夜は未だ広がったままだが、いずれ晴れるだろう。

 

 護堂はほぅっと息を吐いて気を緩め、同様にエリカも構えを解く。

 

「なんとか……切り抜けたみたいね」

 

「ああ。一時凌ぎみたいだけど、まあよかったよ」

 

「それにしても護堂、あんな方向に『白馬』を放つなんて、一体何があったの?」

 

 エリカの質問に護堂は首を振って分からないと答える。それを聞きたいのは護堂だって同じだ。

 

「なんか、ちょっと狂わされた感じがしたんだよ。えーっと、『同胞よ、私の元に来たれ!』みたいな言霊が聞こえたような……」

 

 護堂の証言にエリカは顔を青ざめさせ、恐れ慄くように呟く。

 

「まさか……!?」

 

 その時、海上で今の時間帯では有り得ない光が――太陽の柱が建ち、夜空を一瞬の内に断ち切った。

 

 

◇◆◇◆

 

 

 

 片手で、一瞬で、振り下ろされた。その斬撃は海を割り、闇を切り開く。

 

 超常的な高熱により海水が蒸発し、辺りは蒸気に塗れたが、そんなものとばかりにミカエルが元に戻った大剣を振るうと、一気に晴れた。

 

「……外したか」

 

 ミカエルが巨大な光剣を振るった方向、その反対側に星琉がいた。

 

 彼はムシュフシュの力を限界まで引き出してなんとか回避出来たのだが、その表情は濃い焦りで彩られている。

 

「(どうする……どうすればいい……何か方法は!?)」

 

 自身の持つ権能で最も破壊力のある『縁切り断つ破壊の星運』はもう使えない。ミカエルの来歴の殆どを使ってしまい、概念を宿らせる事が出来ない。

 

 ムシュフシュの能力の『禍祓いの魔風』も使えない。あれは強力だが、それ故一戦につき一度しか使えないからだ。

 

「考え事か?」

 

「なっ!?」

 

 少なくとも五十メートルは離れていたはずの天使が眼前にいた。

 

 星琉が知る由もない事だが、ミカエルが『白馬』の力を吸収した際に『白馬』の持つ駿足の速度を獲得し、先程とは違って移動速度が格段に上昇していたのだ。

 

「“勝利”の光よ……」

 

 ミカエルがおもむろに、掌打の形で左手を突き出す。そこから吹き出したのは、太陽の放つ超高熱のフレア。

 

 星琉は咄嗟に回避を試みるが、至近距離だったこともあって、腕を少し焼かれてしまう

 

「っつ――!!」

 

 額に脂汗を浮かべて呻く星琉。掠めただけなのだが、その熱さと痛みは尋常ではなく、皮膚が焼け爛れている。

 

 しかし、ミカエルがそんなことを気に掛けるはずもなく、追撃の手が下る。

 

 白金の大剣での豪快な一閃。そこから繋がる、六つの剣翼を用いた七刀流の戦法。

 

 例えばミカエルが右に薙ぎ払えば、左翼の三本が追い撃ちを掛け、更にミカエルの身体が回転して剣翼が星琉の身体と直角を成した瞬間、右翼の三本が左翼と入れ代わるように刺突を繰り出す。

 

 例えばミカエルが縦に斬り付ければ、袈裟、逆袈裟、同じ軌跡での斬り上げと、左右の三本の内、上下の二本を使ってⅩを二重に描くよう追撃する。

 

 剣翼に駆動限界は存在しないようで、ミカエルを中心に、時に剣翼自体が回転して、360°、上下、前後、左右と、縦横無尽に軌跡を描き続ける。

 

 星琉に先程までの勢いはなく、しかしそれでも、小さな傷は付けられながらも大きな傷を負う事は防げている。

 

 疲労状態でもその程度は戦えている事に、ミカエルは面倒臭そうに顔をしかめた。

 

「ふん、些か程度にはやるようだな」

 

 そう言って星琉から少し距離を取るが、残念ながら星琉は攻勢に出る事が出来ない。攻勢に出ることが出来るほど程、体力が回復していないからだ。

 

「さて、どこまで明かしたのだったか……ああ、他の偽の神々どもが生まれた所までだな」

 そう思い出すように独り言を呟くと、ミカエルの姿がぶれ、一瞬の輝きと共に消えた。

 

「――ッ!!」

 

 

 ――『心眼』――

 

 

 一条の閃光を置き去りにしていきながら、大剣を肩に担いで星琉へと向かって来るミカエル。

 

 条件反射で発動するように鍛えた眼は、高速で動くミカエルを見逃す事はなく、コマ送りの要領で視覚情報を脳に伝達してくれる。

 

 必要最小限の動きで防御の姿勢を取り、振るわれる大剣を受け止められる場所へと双刀を持って来た。

 

 身体に二トントラックでも衝突したかのような衝撃と負荷によって、星琉は吹き飛ばされる。後ろ手に見えるのは、また大剣を肩に担いだ状態のミカエル。

 

 剣人一体の体当たり、とでも表現すればいいのだろうか。ミカエルはその超常的な飛行速度と膂力にものを言わせた攻撃を繰り出したのだ。

 

「『新しい神々は徐々にティアマトらに反抗的になりだした。ティアマトは気が滅入りながらもそんな息子達に寛大であったが、息子達によって夫のアプスーが殺され、旧き神どもに唆されてからは生来の闘争心を剥き出しにする。これは、海が穏やかである時と、荒れ狂う時がある二面性を示している』」

 

 高速で動きながら説いているからか、ドップラー効果を伴って聞こえてくる始まりの女神の来歴。

 

 一瞬、ミカエルの姿が目に移った。翼剣は剣の形を取っておらず、光の玉になっている。どうやらあれが加速装置の役割を担っているようで、ミカエルは光玉から神力を噴き出して加速しているようだ。

 

 ミカエルが高速で動く度に瞬く輝きは、あれが神力を噴き出した時の様子、ということか。

 

「『さて、後にティアマトはエアとダムキナの息子であるマルドゥクと戦う事になる。マルドゥクはティアマトを討ち倒す役割を担う代わりに、他の神々に自分が神々の上に立つ王であることを認めるよう要求し、これは受け入れられる』」

 

 尚も続くミカエルの猛攻に、星琉は空中を球のようにあちこちへと吹き飛ばされる。そんな状況にあるというのに、それでも星琉は知覚を鋭敏化させ、ミカエルを心眼で視認し、死力を尽くして耐え続けていた。

 

「『そんなマルドゥクに対し、ティアマトは自身の残忍な面の中でも、野蛮な本性を代表する十一の魔獣を生み出し、それらに神の持つ光輝を纏わせて神々の片割れとした。更に、ティアマトを支持する旧き神々の中から、キングという神に神々の上に立つ至上権を与えて夫として迎え入れ、魔獣の軍の総司令官に任命した』」

 

 僥倖なのは、ミカエルの飛行速度は上昇しているようだが、行動速度自体が上昇しているわけではないようで、一度の攻撃に斬撃は一度だけ、ということだろうか。

 

 この事実のお陰で、星琉は衝撃による身体への負荷はあるものの、防御に徹する事で致命傷を負う事だけは避けられている。

 

「『キングとマルドゥクの戦いは、マルドゥクが機転を利かせてキングの至上権を手に入れて勝利する。そしてティアマトが登場し、マルドゥクと戦う事になるが、その戦いでマルドゥクは主に自らの手で作った弓、三叉の矛、そして網を使用する』」

 

 とはいえ、逆転の一手がまだ考えついていない。このままではジリ貧であることに変わりはないのだ。カウンターを喰らわせようにも、片腕の防御では力負けする可能性が高い。

 

 ミカエルは、着実に『まつろわす剣』を研ぎ続ける。白金の大剣に火が纏わり付き、炎へ、業火へと勢いを増して行く。

 

「『これらの内、弓と矛については戦争と狩猟に扱われた物だが、網に関しては狩猟に使われていただけでなく、神々が人間を捕らえる時に使われていた。神と人間――つまり、次元の異なる存在の神話上の対決というのは、狩猟に似ているのだ』」

 

 少しずつ、光玉からの神力の放出量が増大して、ミカエルの動きが速くなっていく。どうやら、来歴を説き明かすことによって研がれるのは、あの大剣に限った話ではないらしい。

 

「『どんな狩猟であれ、それが狩猟であるのならば、狩人の勝利で終わるのが道理。マルドゥクがティアマトに対し網を使用したのは、つまり原初の神ティアマトが野蛮な神と見做され、マルドゥクよりも低次元の神とされた、という事実に外ならない』」

 

「――つあっ!!」

 

 怒涛の攻撃に折れそうな精神を一括する意味で吼え、星琉は耐える、耐え続ける。反撃の糸口は見つかった。後はタイミングを見計らうだけ……!

 

「『他の神々の認可を得て、合法的な至高神とされたマルドゥクに対し、ティアマトは怪物達を神々の世界に引き入れた事や、神の持つ光輝さを分け与えた事、更に神々の同意を得ぬまま独断で息子の一人であるキングに至上権を委ねた事から、ティアマトは非合法を表し、キングはその象徴である』」

 

「うぁっ――!!」

 

 肺から空気が抜ける。防御が上手く合わせられず、身体を逆袈裟に斬られてしまう。

 深くはないが、浅くもない。まつろわす白金の焔剣は十分に研ぎ澄まされており、星琉の内に存在する十一の魔獣の中で、“ムシュフシュ”は勿論、“魚人間(クルール)”と“蠍人間(ギルタブリル)”が斬り裂かれ、存在が感じられなくなった。

 

「『マルドゥクがティアマトに勝利したという事実は、つまり合法が非合法に勝利したという事を意味しており、ティアマトは狩猟の対象にされる獣と見做され、狩猟に使われる武器で殺された。これは、前世代を代表する女神を政治的に無能な地位へと貶める意味が含まれており、それは、マルドゥクが殺したティアマトの死骸を切り裂く事でも表された』」

 

 ミカエルの『剣』が、『まつろわす白金の焔剣』の精錬が、終わりを告げる。

 

「『そう、ティアマトとは、零落し、自らの子の叛逆を押さえ込めず、原初の女神――太母神としての神性を否定され、まつろわされた惰弱な邪神なのだ!』」

 

 ミカエルの白金の大剣が、一際大きく輝きを放つ。

 

 波打っていた業火は鳴りを潜め、代わりに大剣を覆うように恍な光が放射状に溢れていた。

 

 真下から胴体を両断しようとするミカエルの突撃に、星琉は双刀を交差させて堪える。しかし、ミカエルはそんな防御は知った事かとばかりに力任せで強引に大剣を振り切り、星琉を天高く弾き飛ばす。

 

「何故、私があんな一辺倒な攻撃ばかりしていたのか分かるか?」

 

 ミカエルが何か話しているが、星琉は構わず身体を捻り回し、来るべき攻撃に備えようとして――

 

 

「お前を、確実に殺す為だ」

 

 

 目前に、ミカエルがいた。

 

 

「な――!?」

 

 ミカエルが右薙ぎに放った斬撃は、咄嗟に防御に用いようとした黒刀を弾きつつ、星琉の胸を刔る。

 

 続けて、ミカエルはそれまでとは段違いの速さで大上段に構え直し、正中線に沿って大きく振り抜き、星琉の脇を通り過ぎる。

 

 星琉は胸の痛みを無視しつつ、右手を白刀の峰に添え、掲げる形で懸命に斬撃を受け止めようとした。

 

 

 ――『日輪の聖十字斬』――

 

 

 しかし、ミカエルの剣は本来、『神の武器庫』から持ち出された『どんな堅い剣も一刀のもとに切り落とす』事の出来る剣。彼が本気を出した事によってその力が顕著となり、星琉の刀は折られ、胸を深く切り裂かれてしまった。

 

「あ――」

 

 肉の焼け爛れた匂いを漂わせながら、真っ逆様に海へと墜ちていく星琉。ミカエルはそれを、塵芥でも見るかのように見下ろし、蔑みの色で呟いた。

 

「悪足掻きを……」

 

 ミカエルがそう呟いた訳は、先の一瞬の攻防にあった。

 

 十字架を完成させる縦の斬撃が繰り出されようとしたその瞬間、星琉は防御をしながら後ろに下がるように『疾空』を用い、十全な攻撃を喰らうのを回避したのだ。

 

 とはいえ、せいぜい一割、多く見積もって一割五分程度の軽減。星琉には成す術もない。

 

「だが、これで終わりだ」

 

 いつの間にか新たな翼を生やしたミカエルが、右手を広げているのに何故か落ちない大剣の先を、墜落している星琉に向かって突き出す。

 

 背中の六つの光玉が大剣の柄の周りを()()ると回り、標的に照準を合わせる為の光の道を作り出した。

 

 

「滅びよ」

 

 

 無慈悲な宣告と共に打ち出される、太陽の白焔を纏った白金の剣。

 

 朦朧とする意識の中で、星琉が自らの死を覚悟したその時――

 

 

正義を冠するゴルゴンの楯(アイギス)よ! 妾を死守せよ!」

 

 

 高らかな宣言と共に、星琉は誰かに抱き抱えられ、白金の流星は闇の天蓋に妨げられていた。

 

「何をしているのだ! 吉良星琉! あなたに預けた勝負を放棄することを、妾が許した覚えはないぞ!」

 

「ア……テナ……?」

 

 そう、星琉を助けたのは、天地冥界の属性を併せ持つ、三位一体の女神。つい先程は死闘を繰り広げていた、まつろわぬアテナだった。

 

「ぐぅぅぅォォォオオオオッッッ!!!!!!!!」

 

 母なる女神らしからぬ、されど闘争の神として相応しい雄叫びを上げながら、なんとアテナは白金の流星の軌跡を逸らしたではないか!

 

「何っ!?」

 

 驚愕するミカエル。それも当然だ。怨敵に止めを刺したと思っていたら、そこには予想だにしなかった乱入者がいたのだから。

 

 そこに生まれた隙を、アテナは見逃さなかった。

 

「我が現身の一つ、メドゥサよ! 二度も妾の邪魔立てを働いた、煩わしき《鋼》の天使の時を止めよ!」

 

 その言霊が発された瞬間、まるで映像が停止するかのようにピタリとミカエルの動きが止まった。

 

「ちぃっ! 小賢しい真似をっ!」

 

 憎々しげにアテナを睨むミカエル。アテナは肩で息をしながら、悔しげに呟いた。

 

「くっ、今の妾では、動きを止めるので精一杯か……!!」

 

 突如勃発した攻防の中で、星琉は息も絶え絶えになりながらも、意識を完全に覚醒させる。

 

「どうして……貴女が……」

 

 星琉の疑問に、アテナはフン、と憤慨した様子で理由を話す。

 

「言ったであろう。奴は妾のいくさを二度も邪魔立てした。あなたと、草薙護堂とのいくさをな。これは、その意趣返しというわけだ」

 

 その言葉が終わった瞬間、二人の横を六つの閃光と白金が翔けた。それらはミカエルの下へ辿り着くと、守護するように壁を作り出す。

 

「……闇の神力も、蛇の神力も使い切った今の妾では、奴に止めを刺せん。奴を留める事の出来る時間も後僅かだ。吉良星琉よ、あなたに勝算はあるのか?」

 

「あ、る……!!」

 

 それは本当の事だ。先程はミカエルの強化具合を見誤ったが故に今のような状況となってしまったが、それでなければ逆転の手は確かにあった。

 

 未だに諦めず、不撓不屈の精神を見せ付ける星琉に、アテナは獰猛な微笑みを浮かべながら告げる。

 

「よかろう。あなたとは共闘の約定を結んでいたが故、それに則り、あなたの傷を癒し、妾の残りの神力を託そう。それで奴を討て」

 

 今度は星琉が驚く番だった。まさかアテナの方からそんな提案がされるとは思ってもみなかったのだから。

 

「貴女を……後ろから……殺すかも、しれない……よ?」

 

「だとしても、道連れにする位は出来よう。それに、あなたはそのような事はせぬよ。智慧の女神たる妾にその可能性を示唆した事が、その証拠だ。……時間がない、早急に済ませるぞ」

 

「なんンッ!?」

 

 瞬間、アテナが星琉の唇を奪う。当然だが、そこに淫らなものや色っぽいものはなく、ただ淡々とした作業としての様子しか伺えない。

 

 本来であれば、星琉はただただその行為を受け入れ、享受するのみであったはずなのだが……。

 

「ンンッ?!」

 

 苦悶の声を上げたのはアテナだ。

 

 唇を重ね、治癒の魔術を施し、いざ神力を譲渡し始めたその瞬間、先程までアテナの腕の中でぐったりしていたはずの星琉がバネのように身体を跳ね起こし、アテナの頭と腰に腕を回して、アテナを求めるように情熱的な口付けを返して来たのだ。

 

「はっ……ぅん……ん……はんッ……あむ……んぅ!!」

 

 星琉がアテナの内を強く、優しく攫い、時にアテナと絡み、またはアテナを星琉が内に迎え、繋がり、溶け合う。

 

 戦の中にあるまじき淫靡な水音が、二人の間に響き渡る。

 

 五秒程で情交を思わせる口付けは終わりを告げ、銀の懸け橋が二人の間を名残惜しむように繋ぐ。

 

 そして、星琉は自らの内に在る権能『闇夜に眩ゆき月星の唄』をまた一段階掌握した事を感じ取った。

 

 アテナはほんの少し頬を赤く染めつつも、不敵に笑みを浮かべながら、確信した様子で星琉に言葉を掛ける。

 

「妾から『大地の女神』足る概念だけを奪い、同胞の権能を我が物へと一つ馴染ませたか。ふふ、賢しい奴め」

 

 智慧の女神たるアテナは、何故星琉があのような行動を起こしたのかをしっかりと理解していた。

 

 アテナが初めに星琉と戦った時、星琉の使った権能はアテナと起源を同じくする女神の物であった為、すぐにその能力――即ち、三位一体の女神たる己達と全く同じ能力を行使する権能であると見破っていた。しかしそれ故に、ある違和感を覚えていたのだ。

 

 あの時の己は三位一体を成していなかった。そうであるのならば、三位一体を成している権能を持つ神殺しは、己を圧倒出来たはずなのでは、と。

 

 その違和感は、先の行為の中で完全に拭えた。

 

 要するに、星琉の権能もまた、ゴルゴネイオンを求めていた時のアテナのように不完全なものだったのだ。

 

 今現在、三位一体のアテナとなったアテナの神力には『大地』『冥界』『天上』と、それに付随する概念が宿っている。

 

 アテナが星琉に神力を譲渡した際、そこには『大地』の概念が宿っていた。

 

 そしてその後の行為で、星琉は『雌牛』『恐るべき女』『石化の邪眼』『オリーブ』と、『大地』に付随する概念のみをアテナから抽出し、吸収していたのだ。

 

 それにより、星琉の権能は三位一体を成し、権能を一部掌握するに至ったというわけである。とはいえ、完全に掌握するにはまだまだ時間も経験も足りないようだが。

 

「行け、吉良星琉。妾が手を貸したのだ。敗北は許されぬぞ」

 

「……ありがとう」

 

 仇敵に向けるものとは思えない程の柔らかな笑顔でアテナに感謝の意を告げ、星琉は意識を己の内側へと向け、語り掛ける。

 

 ミカエルの『まつろわす白金の焔剣』により、守護神獣は皆、傷付けられてしまった。しかし、そこにいる天使は、自分達の母を死に追いやった張本人なのだ。憎んでも憎み切れない、不倶戴天の怨敵なのだ。

 

 どうして赦す事が出来ようか。何故このまま黙する事が出来ようか。

 

 立たねばならない、立たねばならない、母の為に、母の為に――!!

 

 身体が熱くなり、権能が滾っているのを星琉は感じた。

 

 だが、一度斬り裂かれた権能を無理矢理行使しようとしているのだ。上手くいかないかもしれない。最悪、死に致るかもしれない。

 

 それでも果たさねばならぬのだ。母を殺された怨みを、晴らさねばならぬのだ。何故なら、母も、神獣達も、そして星琉自身も、それを望んでいるのだから!

 

「母なる海より生まれし神獣(モノ)地球(ほし)となりし太母神の子。我が内なる荒ぶり猛る雄牛よ! 天を翔けて嵐を起こし、地を駆けて蹂躙し、母の怒りを知らしめよ!!」

 

 荒ぶり猛る雄牛――クサリクとは、ギルガメシュ叙事詩に登場する天の雄牛と同一とされ、ムシュフシュに匹敵する力を持つ、翼を持った雄牛である。気性は荒く、嵐を起こし、神話では地上に七年間の飢饉をもたらすなど非常に破壊力が強い。

 

 クサリクを身に宿すには七日間の断食を行わなければならないが、それによる恩恵は大きい。

 

 天翔ける事を許されるのは勿論。嵐を巻き起こして場を撹乱し、完全解放時にはあらゆるものを撃ち破る肉体と突撃力を得る。

 

 だが今、嵐は巻き起こらない。最大の特徴である突撃力も十全とは決して言えない。感覚としては、せいぜい一割程度だろうか。

 

 アテナの下から飛び立ち、止まったままのミカエルと相対する。どうやら彼の女神は遥か上空へと飛翔して、高みの見物といくようだ。

 

 ゴルゴンの邪眼による拘束が解けたミカエルは、忌々しげに星琉を睨む。

 

「空恐ろしい奴だ。まさか、あの女神を手篭めにしていたとはな。淫蕩の罪をも重ねるか」

 

「…………」

 

 言葉は、ない。正直な事を言えば、今、星琉はなんとか両腕に力を入れ、意識を保つのでやっとだった。

 

 満身創痍。顔面蒼白。疲労の色がありありと伺えるし、アテナに治癒の魔術を掛けられたとはいえ、それまでのダメージが大き過ぎた。

 

 更に、斬り裂かれたはずの権能を無理に行使しているせいか、心臓が早鐘を打ち、何かに貫かれているような痛みを感じる。

 

 それでも、星琉は戦いを放棄しない。手に入るはずのなかった機会を、今一度手にしたのだから。

 

「……来い、《墜天》」

 

 それだけで、星琉の右手にいずこへと消えた黒刀が現れた。

 

 更に、半ばから折れている白刀が光の粒子となって黒刀に吸い込まれると、刀身全体が青み掛かり、はばきや鍔、柄まで形状が代わり、非常に美麗な刀へと様変わりする。

 

「《うむ、ここに居る。……済まんかったの、容易く折られてしもうて。次は、やられん》」

 

 本来の姿へと戻った《墜天》は、真銘を『流星刀・墜天之尾羽張(ついてんのおはばり)』と言い、先程の双刀以上の鋭利さを伺わせた。

 

『流星刀・墜天之尾羽張』は意志を持つ権能である。何故権能に意思があるのか、星琉には全くその理由が解っていないのだが。

 

 《墜天》は意思を持つが故に、ミカエルの大剣を受け止められなかった事を悔やみ、己で己を研ぎ澄ましていた。

 

 今度は担い手を護れるように。邪魔立てする輩を斬り捨てられるように。

 

 そんな自分の佩刀の様子に星琉は頼もしさを感じ、小さく頷いた。

 

「貴様の悪運もここまでだ。大人しく……死ね」

 

 大剣を正眼に構え、万全の体勢を整える。先程のように、半ば不意打ちのような攻撃は出来ない。

 

 何故なら、あれは星琉がミカエルの全速力を見誤ったからこそ絶大な効果を発揮したのであって、知られた今となっては見切られると考えていたからだ。そして、それは正しい。

 

 爆発的にミカエルの神力が膨れ上がり、大気が怯える。

 

 そう、ミカエルは自らの原点に立ち返るように、力押しで星琉を殺すつもりなのだ。星琉には随分と、ミカエルの存在が大きく見えた。

 

 ――だが、諦めるつもりはない。

 

「ふぅ――」

 

 息を吐き、落ち着いている心を更に鎮め、明鏡止水の域へ。

 

 墜天を左の腰に、居合斬りを繰り出すかのように構える。この時、右手は刀に対して逆手に、左手は順手に持っていた。

 

 それは、ミカエルから見ても不思議な構えだった。最高の一撃を繰り出すのに、わざわざ左右の手を反対に持つなどおかしい。

 

 何かあるのでは、と考えるが、それすらも叩き斬る、と一切の雑念を捨てた。

 

「…………」

 

「――――」

 

 今度こそ、両者の決着を妨げるものは存在しない。

 

 大いなる二つの存在に風すらも配慮しているのか、辺り一帯は完全な無風状態だ。

 

 

 ――そして、その時は訪れた。

 

 

「ハァァアアッッ!!」

 

 動き出したのはミカエルだ。光条を引きながら、風を置き去りにして翔ける。

 

 星琉は……動かない。ただ、刀を身体の前に静かに出し始めただけ。

 

 そんな仇敵の様子にミカエルは勝利を確信した。

 

 あの速度では防御が間に合うとは思えない。そして、あの刀の長さでは自分の攻撃の方が先に届く。

 

「ゼアッ!」

 

 星琉の胴体を狙って右に薙ぐ。大剣は星琉の脇腹から斬り込み、真っ二つにしようとして――

 

 

 半ばで、鋼の感触がした。

 

 

「ぐっ――!!」

 

 吐血する星琉。彼は、刀を自分の腹に突き立てて、大剣の斬撃を阻んだのだ!

 

「馬鹿なっ?!」

 

 ミカエルは急いで大剣を引き抜こうとするが、それよりも速く星琉が前屈みになり、右腕全体で引き抜かれぬよう大剣を抱え込んだ。超高熱に焼かれる事も厭わずに!

 

「があっ!!」

 

 続けて吐き出されたミカエルの苦悶の声。それは、彼の首元を星琉の手刀が穿った故。

 

 しかし、ミカエルは焦る事はなかった。何故なら、自分は『不死』であるのだから。

 

「ああ、()っているさ……」

 

 ミカエルの内心を見抜いたかのような物言い。それは、偶然ではなかった。

 

「ウルスラグナの化身を奪い取るだなんて……ただ『太陽』の属性を持つだけでは……無理だ。そうだろう――『ミスラ』」

 

「ッッ!?」

 

 驚愕に目を見開く。何故、自分の古き名を知っている!?

 

「気付いたのは……ウルスラグナの『白馬』を強奪したこと……それと、お前の聖句だ」

 

 途切れ途切れにではあるが、星琉はもう一度、ミカエルの来歴を説き明かす。

 

「ゾロアスター教で……ミスラは『契約の守護者』と言われ……語義として……『契約』の意味が込められている……」

 

「くっ!? 離せぇっ!!」

 

 大剣は固定されているので、星琉を足蹴にして拘束を抜け出そうとする。しかし、幽鬼のような表情の星琉はびくともしない。

 

「そしてお前は……『契約を司る大天使ミカエル』とも……言われ……同神であるのが……お前の『古き我が七光』という部分で……解った」

 

「がっ――!!」

 

 唐突に、ミカエルの抵抗が止まった。彼の天使は極寒の寒さに曝されたかのように打ち震えている。

 

 星琉の繰り出した手刀は、何の変哲もないものではなく、掌握が進んだ『闇夜に眩き月星の唄』を使って生み出した暗き禁忌の力――『死』の神力を纏わせていた。

 

 来歴を説き明かす事によって『縁切り断つ破壊の星運』が再び効力を発揮し、ミカエルの太陽神としての『不死』を徐々に『絶縁』、『破壊』していき、『死』の言霊がじわじわとミカエルを苦しめだしたのだ。

 

「ミスラは……司法神ともされ……死後の審判における……重要な判官だ……。善悪の天秤を以て……人の罪業を量るお前と……同様なんだ……そうだろう? だから――」

 

 

 星琉は、穏やかな微笑を浮かべ――

 

 

還れ(死ね)。『サバティエル』」

 

 

 死を、宣告する。

 

 

「き、貴様ァァアアア!!!!!!!!!!」

 

 

『サバティエル』。それは、ミカエルの神秘的な名前。

 

 最後に最も重要な来歴を説き明かし、それが引き金となって、『不死』が壊れた感覚がした。

 

 手刀が跳ね上がり、ミカエルの首から頭頂までを両断する。

 

 顔を真っ二つにされたミカエルは、激しい憎悪と憤怒の表情のまま墜ちて行き、海に入る前に砂塵となって消滅した。

 

「勝っ……た……」

 

 勝利を実感した瞬間、視界が反転する。

 

 頭から風が流れていて、ああ、墜ちてるんだな、と、星琉は他人事のように考えていた。

 

 このまま死ぬかもしれない、と考えながら、不思議と恐怖はなかった。

 

 身体が、冷たい水に包まれる。海に入ったようだ。

 

 かなりの高さから墜ちたはずなのに、一切の衝撃がなかった事に疑問を抱くも、すぐにどうでもよくなった。

 

 ふと、海の中にあるはずのない、銀色の何かが目に映る。

 

 ――髪だ。銀色の髪が、海の流れに靡いている。

 

「(アテナ……?)」

 

 星琉はその髪の持ち主を、自分に手を貸してくれた戦女神だと思った。しかし、それは間違いである。

 

 その証拠に、それの眼の色は真夜中の空のような黒ではなく、深く、青い――

 

「(海色の……瞳……)」

 

 ふわりと、優しいぬくもりを感じ、抱きしめられた感触がして――

 

 そこで、星琉の意識は途切れた。

 




 大海は、その腕を大きく広げる 太陽を沈め、星を抱く


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玖 母なる海

輝ける星 勝利を攫む者 運命は絡み合い、女神は一時の微笑みを見せる


 上空で星琉とミカエルの戦闘を眺めていたアテナは、星琉の逆転劇を魅せつけられた瞬間、身体が震えた。

 

 恐怖による震えではない。武者震い――強者を見て感化された震えだ。

 

 戦いたいと、純粋にアテナは思った。

 

 アテナにとっての心躍るいくさというのは、己の身一つで武技を競い合い、信念をぶつけ合うような戦いだ。

 

 その点で言えば、草薙護堂という神殺しは些か歯ごたえのない人物だった。

 

 不発に終わったとはいえ、己を出し抜こうとした狡猾さは評価に値するだろうが、しかしそれは他者の助けがあって初めて成立するものであり、彼一人の力ではない。

 

 いや、もしかするとそれが彼の『力』なのかもしれないが、アテナ自身それは余り好まなかった。

 

 まつろわぬ神と神殺しの一騎打ち――それが正しい形式であり、そこに他者の介入等以ての外である、というのがアテナの持論なのだ。

 

 ……辱められた事が関係していないわけでもないが。

 

 その点、己は不完全で、かつ戦闘が中断されたとはいえ、吉良星琉との戦いは心躍った。そして今繰り広げられた、命懸けでの逆転劇。

 

 ……まあ、吉良星琉も草薙護堂と同じく、アテナの嫌う権能と似通ったものを使うようだが。

 

 しかし、こんな戦士といくさを目の当たりにして、これで戦いたいと思わなければ嘘だと、アテナは獰猛な微笑を浮かべる。

 

 ミカエルが墜ちて光の粒子(・・・・)となって身体が解け、続いて星琉がその後を追う様にその光を纏って墜ちていく。このままでは海に墜ちた時の衝撃で、死んでしまうかもしれない。

 

「世話の焼ける奴だ……」

 

 いずれ、己と戦ってもらわねばならぬ存在だ。今死んでもらっては困る。

 

 空気を無視して飛翔し、星琉を助けようとするアテナだったが、しかし途中で止まってしまう。それは、星琉の右手の甲に女神の加護を意味する光る楔形文字が見えたからだ。

 

「……ほう、弑した女神から加護を授けられているとはな。益々以て興味深い奴だ」

 

 おそらく、ミカエルを迎撃する時に使った権能の女神からであり、それは海に関連する、もしくは海の女神の物だろうと、智慧の女神たるアテナは見ていた。その証拠に、大海は水しぶきを一切立てず、彼の身体に負担を掛けないようにして受け入れたのだから。

 

「吉良星琉……あなたはどうやら智慧の女神たる妾ですら、想像の及ばぬ存在のようだ。いずれまた、我らに相応しき星の廻りと聖地にて、雌雄を決しようぞ――!!」

 

 相手がいないにも関わらず、高らかに宣戦布告をして、アテナは闇に紛れていずこへと消えた。

 

 

◇◆◇◆

 

 

「『……よ……わ……!』」

 

「……甘粕さん、何かおっしゃりましたか?」

 

 その頃、七雄神社にて星琉の帰りを待っていた祐理は、唐突に声が聞こえたような気がして、同じく星琉の帰りを待つ甘粕に尋ねる。

 

「いえ、何も言ってませんが……」

 

 甘粕の返答は否だった。であれば、あれは空耳だったのだろうか?

 

「『来よ……よ……わ……の…………を…………ぬ!』」

 

「(……違う。空耳なんかじゃない。声……いえ、これは……思念?)」

 

 空耳ではないと確信した祐理。目を閉じて精神を落ち着け、心を研ぎ澄まし、より正確に受信しようとする。

 

 すると――

 

「『来よ、来よ、癒し手よ。妾の愛し子を、死なせてはならぬ!』」

 

「――!!」

 

 突如、祐理の脳裏に映像が映った。

 

 ――十字に斬られた身体。焼け(ただ)れて骨まで見える右腕。死人かと見紛う程の青白い顔。半ばまで斬られた腹からは、血が流れ出している――

 

 これは……!!

 

「甘粕さんっ!!」

 

「は、はい?」

 

 大声で名前を呼ばれた甘粕は、突然の事に少し驚いた様子だ。しかし、祐理は今そんなことを気にしている余裕はなかった。

 

「私を、海へ連れて行って下さい!」

 

「……は?」

 

 

◇◆◇◆

 

 

 

「うーん……このポジションは私じゃなくて、吉良さんのはずなんですがねェ……」

 

「甘粕さん! 急いで下さい!」

 

 甘粕のぼやきに対し、一喝する祐理。

 

 七雄神社にて海へ向かって欲しいという祐理に対し、甘粕は渋った。何故ならまだそこは戦闘区域になっている可能性が高く、危険だからだ。

 

 しかし、祐理が霊視……いや、啓示で見えた内容と、自分を呼ぶ声が聞こえた事を話すと、甘粕はようやく首を縦に振った。

 

 まあ、その際の言葉が「あれ、これもしかしてガチのパターンですか?」なんて緊張感の欠片もないものだったが。

 

 二人は今、民家の屋根から屋根へと飛び移り、海を目指していた。甘粕が祐理をおんぶする形で。

 

 流石は忍びと言うべきなのか、甘粕は人一人背負っているというのに、それと感じられない程身軽である。

 

 やがて海に近付いて来ると、浜辺に二人の人影がいるのが見えた。一人は横たわっており、もう一人が膝枕をして介抱しているようだ。

 

 近くに降り立って祐理を下ろし、それからよく見てみると、介抱している人物は実に美しい人物だった。そう、まるで女神かと見紛う程に……。

 

「吉良さん!!」

 

 謎の人物に構わず、祐理は星琉の傍へと駆け寄る。

 

 彼の身体は先程脳裏に映った通りに満身創痍で、死んでいてもおかしくない程のものだった。甘粕もすぐに追い付き、その惨状を目の当たりにする。

 

「これは……すぐに救急車を手配します。万里谷さんは出来る限りの応急処置を」

 

 スマートフォンを取り出して、いつもの飄々とした態度とは打って変わり、真剣な様子でどこかへと連絡を取る甘粕。しかし、未だにアテナの残した影響から復旧していないようで、連絡が取れない。

 

 ちらりと三人を見た後、甘粕は祐理に近くの病院まで直接行き、救急車を連れて来るという旨を告げ、音も無く消え去った。

 

 それを見送った祐理は一先ず出血を止める為に治癒の魔術を掛けようとするが、ピタリと動きを止めた。

 

 星琉の傷は内臓にまで達しているほど深く、重い傷だ。そんな患部に中途半端に治癒の魔術を掛けてしまっては、後々不都合が起きるかもしれない、そう思い至ったのだ。しかしそれでは、このまま星琉が失血死してしまう可能性もある。

 

 それに祐理は、徐々に星琉の息が浅くなっているような気がしてならなかった。このままでは、本当に星琉が死んでしまう。

 

「ど、どうすれば……」

 

 最悪のイメージが沸き起こり、軽い錯乱状態に陥ってしまった。祐理は今にも泣き出してしまいそうだ。

 

 そんな彼女の手に、ひんやりと冷たい感触がした。目の前にいる女性が、祐理の手を掴んでいたのだ。

 

「《巫女よ。妾が手を貸そう》」

 

「貴女は……っ!!」

 

 ――母なる海。大いなる海。子等に叛逆され、落魄し、天地開闢の贄とされた女神。その残滓――

 

「《妾という『存在』を視たか。中々に有能な巫女ではないか》」

 

 祐理は、その類い稀な霊視の才能により、女性が人間ではなく、女神の加護が形を持った存在であることを見抜いた。

 

 それは徐々に透き通って、最終的に液体となり、祐理の身体を一息に包み込む。

 

「っ!!」

 

「《案ずるな。呼吸は出来るであろう?》」

 

 伝えられて気付いた。確かに液体に包まれているはずなのだが、呼吸は出来るし、目を開く事も出来る。

 

「《妾は全ての生命の母なる女神の残滓。残滓と言えど、生命に対する智慧の深さは元の妾と違わぬ。巫女よ、妾の言う通りに行動するのだ。妾の愛し子を救う為に》」

 

「はい……吉良さんを……助けて下さい……」

 

 その助言を最大限に聞き入れる為なのか、祐理は霊視をする時の忘我(トランス)状態に近い状態になっていた。

 

 同時に確信していた。これが成功すれば、必ず彼を助けられると。

 

「《始めるぞ。まずは、愛し子という『存在』を掴むのだ。肉体だけでも、精神だけでも、魂だけでもない。それら全てを俯瞰するように》」

 

 小さく上下する星琉の胸に手を置き、目を閉じる。

 

 しばらくすると、ぼんやりとした靄が浮かび上がり、暗闇の視界の中で次第に人の形を成して行く。

 

 手足や頭などもしっかりとした形になり、彼の中を巡る二つの流れを感じ、一際大きく輝く塊も見つけ、『吉良星琉』という『存在』の感覚を掴めた感触がした。

 

「《よし、次だ。傷の部分に手を当てよ。そして、中の様子を先程行った『存在』を掴む要領で探るのだ》」

 

 言われた通りに傷口に手を当て、身体の内側の負傷具合を探る。案の定、いくつかの臓器が傷付いており、治療を要した。

 

「《それでは駄目だ。もっと、もっと深く、愛し子を理解するのだ》」

 

 意識が遠退く……いや、離脱する。

 

『幽体離脱』だ。祐理の身体から白い煌きが抜け出し、星琉の身体へ入って行った。

 生命の流れ……精神の流れ……魂魄の在り処……『吉良星琉』という存在の■■……。

 

 

 ――『■■の■■』『』『』『』…………『太陽』『大地』『水』『雷』『火』『刀剣』『死』『十字路』『三叉路』『魔術』『三日月』『半月』『満月』『■齢』『夜』『老婆』『冥界』『天界』『聖獣』『分断』『絶縁』『■壊』『転■』『■高』『殺■』『交戦』『■定』『承諾』『決■』『不■』『不戦』『否定』『■絶』『十一』『神なる神獣』『神殺し』『■■■』『■■の■』『契約』『加護』『流星』『綺■星』『友愛』『敬■』『親愛』『■愛』『慈■』『■情』『善性』『天■』『自■』『■存』『同■』『■調』『■解』『融■』『調■』『理■』『■■』『■■』――

 

「――っ!!」

 

「《ほう、妾の助力があって捉え易くなっているとはいえ、そこまで深く読み取るか。死に近付いて抵抗が薄いというのもあるだろうが、愛し子が受け入れたのか、もしくは才があるのだな。巫女よ》」

 

 自分の『存在(なか)』を駆け巡った■■に、祐理は安心感と罪悪感を覚えた。

 

 安心感というのは、星琉という『存在』に対して、罪悪感というのは、軽々しく触れてはいけないモノに触れ、識ってしまったような気がしたからだ。

 

「《よし、治療に取り掛かるぞ。とはいえ、これから行うのはただの治癒ではなく、《生命再生》――命を生み出す儀式だ。心して掛かるがよい》」

 

「はい――!!」

 

 雑念を頭から振り払い、自分が成すべき事に集中する。

 

 そう、今は余所事に構っている暇はないのだ。一分一秒が惜しいのだから。

 

「《言霊を紡ぐ必要はない。妾がその代替となるからな。汝はただ、愛し子の『存在』の欠損した部分を紡いで行けばよい。方法はもう、理解しておるな?》」

 

「はい……吉良さんの『存在』に、私の呪力を馴染ませ、同化させればよいのですよね」

 

 無言の肯定を感じ、祐理を包み込んでいた液体は彼女の両手に集まる。これが言霊の代替、ということだろう。

 

 意識をもう一度、『吉良星琉』に向ける。

 

 欠損した部分の『存在』を、肉体に、精神に、魂魄に逆らわず、拒絶されぬよう丁寧に埋めて行き、馴染ませ、生命を紡ぐ。

 

『吉良星琉』と同化した呪力は、自然に血となり、肉となり、死の淵から彼を呼び戻す。

 

 やがて、腹部の治療が終わった。『吉良星琉』を掴んだ際、十字の傷は致命的なモノではないと()った祐理は、次に右腕の治療に移った。

 

 玉のような汗を額に浮かべ、これまでにない緊張感と疲労感を感じながら、祐理は懸命に術を掛け続ける。

 

 やがて、右腕の治療も完了した。祐理の目に映るのは、傷一つない星琉の右腕。生気の感じられる、血の通った顔色。

 

「よかった……」

 

 星琉の様子に安堵の気持ちが込み上げて来るのを感じながら、意識が遠退いて行く。先程のように肉体から精神が離脱するのではなく、本当に気を失うんだな、と祐理は理解していた。

 

 意識が途切れる瞬間、女神の加護からの思念が心に響く。

 

「《御苦労であった、巫女よ。願わくば、これからも愛し子を支えて欲しく思う》」

 

 祐理はその願い出に何と答えたのか、気を失ってしまって自分でも分からなかった。

 

 しかし、気絶した祐理の浮かべている表情は、誰もが安心するであろう、柔らかく、暖かな、優しい微笑みだった。

 




涙を海原へ還そう その雫は、もう必要ないのだから


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終 そして彼は

 太陽は沈み、星は煌きを増す

 満ち足りた月は、未だ天頂に至らず


 ――ふと、星琉の意識が覚醒した。

 

 黒と白を一対一で混ぜた、どちらにも偏っていない灰色。そんな形容が相応し過ぎる場所に、彼は居た。

 

 空は無く、大地も無い。地平線も無くて、全体が灰色の箱に閉じ込められたのかと思ってしまう程だ。

 

 星琉は立っていると思っているのだが、果たしてそれは本当に立っているのか分からない。もしかしたら、浮いているのかもしれない。沈んでいるのかもしれない。逆さまかもしれない。横たわっているのかもしれない。

 

 そんな不思議な場所に彩りを持ち込むのが、星琉と、そしてもう一()

 

「久しぶりね! 星琉!」

 

 歳は十四歳程。ピンクブロンドの髪を所謂ツインテールという型にしており、細身の身体、低い身長、繊細に整った可愛いらしさを感じさせる顔立ちと相俟って、相当幼い印象を与えられる。

 

「わっ! か、義母さん!?」

 

 いきなり抱き着いて来た少女に狼狽する星琉。

 

 星琉が『義母』と呼ぶ彼女こそ、この灰色の世界に彩りを与えるもう一人の人物――否、女神。魔王カンピオーネを誕生させた夫婦、不死者エピメテウスとその妻パンドラ。

 

 そう、この少女こそ『パンドラの箱』で有名な女神、パンドラなのだ。

 

 ちなみに、この灰色の空間は『生と不死の境界』という場所で、地上では『イデアの世界』や『メーノーグ』と呼ばれる場所である。

 

 パンドラは一通り星琉との抱擁を楽しむと、満足した様子で離れた。

 

「ホント、星琉しか『義母さん』って呼んでくれないのよね~。新しく魔王になった護堂も『パンドラさん』なんて他人行儀だし……。どうしてかしら?」

 

「えーっと、何でだろうね? あはは……」

 

 頬を掻きながら誤魔化すように苦笑する星琉。確かに、いきなり現れた見た目自分より年下そうな少女に『ママって呼んでね』なんて言われても、応じる人なんて極僅かだろう。しかも、その僅かの中の半数以上は、相当に特殊かつ倒錯的な人種だろうと思う。

 

 星琉の名誉の為に記しておくが、当然彼にそんな趣味はない。ただ何と無く、自然に『パンドラが義母である』という事を受け入れ、そうであるが故に『義母さん』と呼んでいるのだ。

 

「ま、いいわ。それよりも星琉、ミカエル様討伐おめでとう! あんな強力な《鋼》の神格を倒すだなんて、あたしも鼻が高いわ。これでようやく、星琉も本当の意味で『カンピオーネ』になれたわね」

 

「え? どういう事?」

 

 パンドラの言い方では、星琉は今までカンピオーネではなかったかのように聞こえるが……?

 

「ほら、あなたってティアマト様と契約して権能を譲渡してもらったでしょ? で、契約内容は『ミカエル様を殺すまでは仮初の王で、権能を簒奪出来たら本当の意味で王になれる』。覚えてない?」

 

「……ううん。ちゃんと、覚えてる」

 

 それは、未来で人生を振り返った時に、確実に転機であったと言えるだろう出来事。

 あの辺境の地で、偶然に偶然が折り重なって結ばれた契約。

 

「で、今回晴れてミカエル様の権能を簒奪出来たので、あなたは本当の意味でカンピオーネになれたのよ!」

 

「それって……今までと何か変わりあるの?」

 

 義母から祝福されているとはいえ、結局今までとやることは変わりないのでは? と星琉は思ったのだが、パンドラの反応は違った。

 

「大有りよ! これであなたはより伸び伸びと戦えるようになるんだから!」

 

「どういうこと?」

 

 パンドラの言葉に疑問符を浮かべる星琉。伸び伸びと戦えるというのはどういう事だろうか?

 

「うーん、最初から説明するわね」

 

 コホン、と一つ咳払いをして、パンドラは思い出すように星琉に説明を始めた。

 

「まず、ただの人間をカンピオーネにするには、人間がまつろわぬ神を弑逆した後で、あたしがある魔道具を使って、殺されたまつろわぬ神から溢れ出る神力を権能に加工するの。そして、人間から神殺しに転生させる大呪法で権能を授け、カンピオーネに転生させるのよ」

 

 ふむふむ、と相槌を打つ星琉。視線でパンドラに続きを促す。

 

「ここで重要なのは『人間がまつろわぬ神を殺す』っていう部分なんだけど、星琉の場合は少し話が違うでしょ?」

 

「僕は、ティアマトさんを『殺した』んじゃなくて、『介錯した』」

 

「その通り。まあ一応『殺した』っていう括りには入るんだけど、あの方も弱り切ってたから……本来ならその魔道具は使えないはずだったし、あなたもカンピオーネになることは出来なかったはずなの。でも、それを可能にしたのが――」

 

「あの人と結んだ、ミカエルを殺すっていう『契約』」

 

「ご明察♪」

 

 偉い偉い、とパンドラに頭を撫でられる星琉。顔が赤くなっているのは羞恥のせいだろうが、少し嬉しそうに見えるのは気のせいなのだろうか。

 

「もっと正確に言えば、その『契約』と、ティアマト様が自分から権能を『譲渡』したっていう事。この二つの点でなんとか転生の大呪法を発動出来て、あなたはギリギリカンピオーネになれたの」

 

「そこはかとなく不安を感じる言い方するんだね」

 

「実際そのせいで、今まであなたは半分人間、半分カンピオーネっていう中途半端な存在だったからね~」

 

「……え?」

 

 パンドラからの爆弾発言に固まる星琉。というか、半分人間で半分カンピオーネとはどういう事だろうか。

 

「流石に、ただの人間を神殺しに転生させるのは無茶が過ぎるせいか、変な風になってる所が多いのよ。なんだけど、星琉は更に『契約』やら『簒奪』じゃなくて『譲渡』やらでもっと変な風になっちゃったみたいね」

 

「ぐ、具体的には……?」

 

 恐る恐るといった様子で星琉が尋ねると、パンドラは人差し指を立てて口に当て、「えーっとぉ」なんて言いながら答えた。

 

「まずミカエル様の不意打ちが分からなかったから、多分カンピオーネ特有の獣みたいな直感力が働いてないでしょ~。まつろわぬ神と遭遇しても精神と肉体が高ぶって最高潮に達してないみたいだし~。ま、肉体の頑強さはそうでもないみたいだけど。後、星琉は他のカンピオーネと違って、本当に自分の深い所に権能を保存してるから、完全掌握には凄く時間が掛かりそうだし」

 

 指を折って一つずつ確認するように挙げていくパンドラ。

 

 これ幸い……というわけではないが、星琉は便乗して気になっていた事を尋ねた。

 

「じゃ、じゃあ、権能に変な違和感を覚えるのも……?」

 

 そして、それに対するパンドラの答えは――!!

 

「あ、それは違うわよ」

 

 星琉が思わずコントのようにこけてしまう程、あっさりとした否定だった。

 

「星琉の言う違和感っていうのは、ティアマト様の権能が大地母神に対して発動出来なかったり、サドゥワ様の権能で呪力を消費し続けたり、ヘカテー様の権能が夜にしか発動出来なかったり、天之尾羽張様の権能が十全に使えなかったりって事でしょ」

 

 星琉が無言で頷いて答えると、パンドラは我が意を得たりといった様子で続ける。

 

「それらは全て『契約』のせいよ。ティアマト様が仰られていたでしょう? 『仮初の位だ』って」

 

 つまり、仮初の位の――未熟であるが故の安全装置のような制限。それがあの違和感の正体だったのだ。

 

「そういう事だったのか……。それにしても、僕って随分他のカンピオーネと違うんだね」

 

 星琉がそう言うと、パンドラは安心させるような笑みを浮かべながら言う。

 

「何も悪い事ばかりじゃないわ。権能が奥底にあったからこそ、ティアマト様の神格を斬られても辛うじて“クサリク”様が使えたんでしょ」

 

 そう言われて思い出した。ミカエルに神格を切り裂かれたにも関わらず、不完全とはいえ“クサリク”を使えたのはそういう理由があったらしい。しかし……。

 

「さっきも言ってたけど、奥底にあるってどういう事? 他の人達はそうじゃないの?」

 

 星琉がそう言うと、パンドラはとんでもない、といった風に首を横に振り、説明を始めた。

 

「カンピオーネの権能は、人の身では当然扱えない力。だけど、星琉は『半分人間、半分カンピオーネ』っていう時期があって、『半分カンピオーネ』だから強大な権能を獲得する事は出来たんだけど、『半分人間』だからそれを扱い切る事が出来なかったみたいなのよね。だから『吉良星琉』っていう『存在』の奥底に、一部の機能を制限して半ば『封印』するような感覚で無理矢理押し込む事で、あたかも十全な権能を保持しているかのような形にしたみたい。それが、奥底にあるっていう事よ」

 

「なるほど……プログラムでいう圧縮みたいなものなのかな」

 

 星琉の納得いった様子に満足げなパンドラは、更に星琉の長所を話していく。

 

「それに、あなたは気付いてないかもしれないけど、直感力と同等の力を元から持ってる。極め付けに、あなたは『訓練』が出来るじゃない」

 

 その言葉にはっと思い出したような表情を浮かべる星琉。パンドラはおかしそうに話を続けた。

 

「カンピオーネは総じて中身が魔獣みたいなものだし、『とにかく実戦あるのみ☆』みたいな所があるんだけど……。『最適化』とでも言えばいいのかしら? これも多分、おかしくなってしまった所の一つだと思うんだけど、あなたは色んな事を吸収して、1の訓練を10にも50にもしてしまう、他のどのカンピオーネにもない力を持っているの。星琉はホントの例外ね。普通のカンピオーネが『獣らしくなった』とすれば、星琉はより『人間らしくなった』と言えるのかも」

 

「そっか……でも、10に50って……また微妙な数字だね」

 

 星琉が苦笑しながらそう言うと、パンドラはそりゃあそうよ、と言葉を続ける。

 

「やっぱり実戦が一番経験を積める事には変わらないもの。違う?」

 

「いえ、仰る通りです」

 

 降参とでも言う風に星琉が両手を挙げると、何を思ったのか、パンドラは両手で星琉の頬を包み込み、顔を覗き込んだ。

 

「ねえ、星琉。あなたは人類の歴史を通して見ても、そしてきっと、これから遥か先の未来でも、ただ一人だけの特別な神殺しであるはずよ。それが良いことなのか、それとも悪いことなのかは分からない。けど、きっとあなたにしか出来ない事があるはずだわ。星琉が星琉だからこそ、出来る事がね」

 

「うん……」

 

「だから、あなたはあなたのまま、素直に生きればいい。だって、あなたは地上最強の戦士の一人なのよ。深く考える必要なんてないない!」

 

 パンドラの激励と言える言葉に、星琉は自分の答えを返し始めた。

 

「なら、僕は考えるよ。考えて、行動して、反省して、また考えて……。そうして僕は生きて行く。神殺しの道を、歩んで行く」

 

「……はぁ。ホント、星琉が神殺しなのが不思議で仕方がないわ。お義兄様(プロメテウス)の息子って言われた方がしっくり来るぐらい」

 

 星琉の返答に呆れた様子のパンドラ。そんな彼女に、星琉はしっとりと笑みを浮かべながら言う。

 

「それでも、僕は貴女の義息子だよ。義母さん」

 

「……もう、卑怯な子」

 

 照れ臭そうに言うパンドラに微笑む星琉。そんな彼の身体は、少しずつ透け始めていた。

 

「そろそろお別れね。あ、星琉の住んでる島には最強の《鋼》が眠っているわ。すぐにどうこうってわけじゃないだろうけど、一応注意しておきなさい。いい?」

 

「うん、気を付けるよ」

 

 本当ならその『最強の《鋼》』とやらについて詳しく聞きたかった星琉だが、パンドラは『女神』で、星琉は『人間』だ。世界の理に縛られ、教えてもらえることは少ないだろう。

 

「それと、ちゃんとティアマト様に感謝して、媛巫女の女の子にはお礼をするのよ。あの子が頑張ってくれなかったら、今頃あの世にいたんだから」

 

「そっか、万里谷さんが……。分かった、ちゃんとお礼をするよ」

 

 義母からの言い付けに、了承の意を告げる。とはいえ、此処から現実に戻る際に色々あるらしく、此処での事は全て『無意識の領域』に残り、ほとんど覚えていられないらしい。

 

 それでも、星琉にはこの言い付けは忘れないだろうと、そんな確信があった。

 

「それじゃあ、またね。星琉」

 

「うん、またね。義母さん」

 

 手を振って送り出す義母を背にして、そこで星琉の姿は消えた。

 

「…………」

 

 自分の可愛い義息子を見送った後、パンドラは悲痛な表情を浮かべ、呟く。

 

「……でもね、星琉。あなたは……本当は――」

 

 

◇◆◇◆

 

 

「…………あ」

 

 目が覚めて、正方形に区切られた斑のタイルが犇く天井が見えた。腕には点滴が打たれていて、呼吸器も取り付けられている。どうやらここは病院の個室で、星琉は寝かし就けられているようだ。

 

 呼吸器を外し、どうにかして身体を起こす。まだまだ全快とは言えないようで、それだけの動作で少し辛さを感じた。

 

「ナースコールは、っと」

 

 ベッドの周りを探して、螺旋状のコードの繋がったスイッチを見つける。それを押そうとした所で声が聞こえた。

 

「吉良……さん……」

 

 目を向けて見ると、そこには呆然とした様子の祐理が。星琉はぎこちない動きで右手を軽く挙げて、挨拶をする。

 

「や、万里谷さん。こんにちは……かな?」

 

 少しおどけた様子でそう言うと、祐理はその茶色い双眸からぽろぽろと涙を零し始めた。そんな彼女の予想だにしない反応に焦る星琉。

 

 しかし、祐理はそれを気にした様子もなく、星琉の寝るベッドに近付いて彼の左手を取ると、両手で包み込んで頭に当てた。

 

 そのまま顔を伏せると、鳴咽と共に言葉が聞こえて来た。

 

「よかった……よかった……!!」

 

 万感の思いが篭ったその言葉に、星琉はようやく、自分がどれだけ祐理に心配を掛けていたのかを理解した。

 

 そうして星琉は、そんな祐理を慈しむような声色で言う。

 

「ごめんね……ありがとう」

 

 

◇◆◇◆

 

 

 一段落すると、祐理は担当医に星琉の目が覚めた事を伝えに行った。そうして暫くすると、連絡が行ったのか、祐理が甘粕と馨を引き連れて来た。

 

「こんにちは、吉良さん。どうですか、その後の体調は?」

 

「それなり、ですかね。まだ全快とは言い難いです。……それで、あの日の詳細をお聞きしたいのですが」

 

「ああ、ではそのお話は私から」

 

 星琉の問い掛けに、馨に代わって甘粕が前に出て説明役を買って出る。

 

 そんな彼の話によると、今はもうあれから五日も経っているらしい。その間、星琉は昏睡状態だったのだとか。

 

 人的被害はゼロ。物的被害については、星琉が出した分にはゼロ。草薙護堂がやらかしたらしい。

 

 だがまあ、仕方がないのかな、とも星琉は思った。

 

 世間の被害など気にせずに、何よりもまつろわぬ神を殺す事に全力を傾けなければ簡単に命を落としてしまうのだ。戦闘が行われた範囲は荒れるだろう。

 

 とはいえ、被害が出ないように事前に準備するぐらいは出来るはずだ。例えば、被害が出ても問題ない場所を見つけるとか。

 

「私が見つけた限りでは、吉良さんはかなりの重体でした。交通がアテナのせいでストップしていたこともあって、救急車も到着が相当遅れましたので、これは駄目かなぁ、と思っていたのですが」

 

「万里谷さんが助けてくれたんだよね。ありがとう」

 

「わ、私はそんな……顔を上げて下さい!!」

 

 頭を下げる星琉に慌てた様子でそう言う。祐理の表情は少し恥ずかしそうであった。

 

「そうだ、祐理。君は一体どんな呪術を使ったんだい? 他の術師達が驚いていたよ。『治癒術で治療出来る範囲を越えている』って」

 

「そう言えば、吉良さんを介抱していた女性って誰だったんでしょう? いつの間にかいなくなっていたんですが……」

 

「そ、それは……」

 

 言葉に詰まる祐理。正直に言えば、彼女もどう説明していいのか分からないのだ。そんな彼女に助け舟を出したのが、星琉である。

 

「それは、僕の仕業なんですよ」

 

 甘粕と馨の視線が星琉の方に向く。内心、バレてくれるなよ、なんて考えながら、星琉は話す。

 

「僕の権能の中に、他者を補助する権能があるんです。使うには相当厳しい条件を達成しないといけないんですが、意識を失うギリギリで発動に成功して。それが多分、万里谷さんを手助けしたんだと思います」

 

 へぇ~、という様子で頷く二人にホッとしていると、看護師が入って来て何やら馨に耳打ちした。

 

「吉良さん、草薙護堂さんとエリカ・ブランデッリさんがいらっしゃってるみたいですけど、どうします? 面会されますか?」

 

「……そうですね。呼んでもらっていいですか? あ、皆さんは居て下さって構いませんよ」

 

 少しの間考えて、星琉は二人と会うことにした。別に隠す必要もないし、自分はもう十分考えられるようになった。魔術界に対して正体を現すのも頃合だと思ったのだ。

 

 

◇◆◇◆

 

 

「まずは、御身に対して働いた非礼に関する謝罪を。その節は存じ上げてなかったとはいえ、一介の騎士が増徴した真似を致しました。申し訳ございません」

 

 入るや否や、片膝をつき、右手を胸に当てるという騎士の礼を取って謝罪を始めたのは、

『紅き悪魔』ことエリカ・ブランデッリだ。恐らく、七雄神社での初めての邂逅の事を言っているのだろう。

 

「あの時の事は何も気にしてないよ。ゴルゴネイオンについては、思う所がないわけじゃないけどね」

 

「怒って……ないのか?」

 

 そう言って星琉の様子を伺うのは護堂だ。どうやら彼は、星琉が怒っているものだと思っていたらしい。

 

 そんな彼の問い掛けに、星琉は笑って答える。

 

「どうして怒るのさ? それより草薙君も、アテナとの戦いお疲れ様。ちょっと暴れすぎのような気もするけどね」

 

「うっ、面目ない……」

 

 浜離宮恩賜庭園の惨状を思い出したのか、うなだれた様子の護堂。しかし、すぐに顔を上げるとどこか決意したような眼差しを星琉に向けた。

 

「なあ、吉良。安静にしてる所申し訳ないんだが、聞きたい事があるんだ。、少し、構わないか?」

 

「うん、いいよ。何かな?」

 

 さあ、おそらくここからが本題である。騎士の礼は解いたが、相変わらず畏まった様子のエリカの代わりに、護堂が尋ねて来た。

 

「何でお前は、自分の正体を隠してたんだ?」

 

「君の人柄を見極める為。調査書だけを見ると、どうにも破壊魔のような印象しか受けなかったからね」

 

「ぐっ……」

 

 返す言葉もない、といった様子の護堂だが、それも無理がないだろう。

 

 気を取り直して、次の質問へ。

 

「あの天使って何者だったんだ? まつろわぬ神ってことは分かってるんだけどさ」

 

「あれは、熾天使ミカエルだよ。名前ぐらいは聞いた事あるんじゃない?」

 

「「「「み、ミカエルっ!?」」」」

 

 その場にいた殆ど全員が驚いていた。エリカだけはやっぱり、といったような表情であったが。

 

「じゃ、じゃあ、吉良はいつカンピオーネになったんだよ。エリカとか、誰も知らなかったみたいだから……」

 

「七年前、だよ。僕が小学三年生、九歳の頃だ」

 

「「「「「なっ!?」」」」」

 

 今度はエリカも交えて全員が声を上げるが、それは当然かもしれない。何せ、星琉がカンピオーネになった年齢はあまりにも幼過ぎる。

 

 まあ、実力で『殺した』わけではないので、そんな年齢でカンピオーネになることが可能だったわけだが、わざわざ異常性を見せ付ける必要はない。

 

「ん? っていう事はドニの野郎よりも先輩なのか?!」

 

「ドニっていうのが“剣の王”サルバトーレ・ドニ卿の事を指しているのなら、そうだよ。僕は彼よりも早くカンピオーネになった。世界的に見れば、僕は七人目のカンピオーネってことだね」

 

 驚きの連続で心此処に非ずな面々だったが、一人だけ例外がいた。

 

「一つ、よろしいでしょうか?」

 

 星琉を探るように、見極めるかのように発言したのは、先程とは違ってすっくと姿勢良く立っているエリカだ。

 

 てっきり、同じカンピオーネである護堂に、自分の気になる事を全て質問させるつもりだと星琉は踏んでいたのだが……。恐らく、あまりにも星琉の返答が予想外だったのが原因だろう。

 

「何かな? ブランデッリさん」

 

「……御身は七年もの歳月の間、どのようにして御自身の正体を隠され続けたのでしょうか?」

 

 いつの間にか、他の面々も興味深そうに聴き入っている。それもそうだろう。星琉は自分の素性をひた隠しにして来たし、カンピオーネ相手ということで、薮蛇を避ける為に誰も聞こうとはしなかったのだから。

 

「それは、僕が先輩――フランスのカンピオーネ、『神獣の帝』シャルル=カルディナルと、彼の魔術結社《漆黒真珠》に少しの間保護されていたからだよ。僕は先輩からこの世界の事を知り、身を隠す術を学び、人知れず過ごして来たんだ」

 

 絶句、といった所だろうか。それも致し方ないことではあるのだが。

 

「ごめん、ブランデッリさん。ここまでにしてもらっていいかな? まだ疲れが残ってるみたいで、少し休みたいんだ」

 

 少し困ったようにそう言うと、エリカは険しい表情で了承の意を告げる。

 

「……承知致しました。お大事になさって下さいませ」

 

 傍から見た分には解らないだろうが、星琉にはエリカが本当に社交辞令で挨拶をしたのだと分かった。別に、それに思う所は何も無いのだけれども。

 

「あ、おい! エリカ! ……えっと、お大事にな、吉良」

 

 どこか様子のおかしいエリカを追い掛ける為、簡単に挨拶を済ませてそそくさと護堂も退出した。

 

「さて、私達もお暇しましょうか。吉良さん、この度はお疲れ様でした。ゆっくりと養生して下さい。――ああ、そうそう。後でお教え頂いた口座に謝礼金を入金しておきます。それが報酬という事でどうか一つ」

 

 かつての協定の際に決めていた事を告げ、それでは、と軽い挨拶をして出ていく甘粕。馨もまた、今度はお茶をしながらでも、と述べて出ていった。

 

 そして祐理も挨拶をしようとしたのだが……。

 

「あ、万里谷さん。頼みたいことがあるんだけど……」

 

「? はい、何でしょうか?」

 

「もしよければ、これから休んだ分と、休む事になる分の勉強を教えてもらいたいんだ。……頼めるかな?」

 

 頬を掻きながら申し訳なさそうに言う星琉。頼み事の内容は勉強ということで、祐理も断る理由はなかった。

 

「分かりました。では、学校が終わったらすぐに来ますね」

 

「うん、ありがとう。助かるよ」

 

 また明日、と言う祐理に、また明日、と返し、祐理が帰った事を確認してから、ベッドに寝そべる。

 

 程なくして、星琉は穏やかに夢の世界へと旅立って行った。

 

 

◇◆◇◆

 

 

 護堂は不思議に思っていた。先程、自分の同族であり、実は先輩であると判明した人物――星琉のお見舞いをしてから、エリカの様子がおかしい。

 

 言うなれば……『焦燥』だろうか。彼女は何かに焦っているような感じがする。

 

「おいエリカ、どうしたんだよ?」

 

 目の前を早歩きで歩き続けるエリカの肩に手を掛けて、こちらを向かせる。

 

「……護堂、あなたイタリアに来る気はない?」

 

「は?」

 

「だから、イタリアに移住する気はないかって聞いてるの」

 

 エリカの口から発された言葉は突飛過ぎるものだった。それ故にしばし放心状態だった護堂だが、我に返るとすぐに反対の意思を見せる。

 

「ば、馬鹿言うな! 移住なんて出来る訳ないだろ?!」

 

「聞いて護堂。吉良星琉様は《漆黒真珠》に保護されていたと言っていたわ。つまり、個人的な繋がりがあると見るのが正解。それにあの様子じゃ、日本の正史編纂委員会とも繋がりがあると見ていいでしょう。今のあなたは四面楚歌の状況なのよ。イタリアに来た方が安全だわ」

 

 真剣な口調で言うエリカに少し驚きながら、言われた事を吟味する。

 

「いや、四面楚歌って、俺は誰とも敵対してないぞ」

 

「そうなる可能性があるって事よ。例えばあなたと吉良星琉様が敵対したとする。彼は味方してくれる大きな組織が二つもある。だけど護堂、あなたには私しかいないのよ。これを四面楚歌と言わずに何と言うの?」

 

「待て待て! 何で俺が吉良と敵対するんだよ?! 俺は平和主義者だし、吉良だってそんな血気盛んな奴じゃない。仲良く出来るって!」

 

「どうかしら? 何かの拍子で敵対する可能性だって零じゃないだろうし、それに……」

 

「それに……何だよ?」

 

 何かを言いかけてそのまま口ごもるエリカ。護堂はその先を聞き出そうとするが、エリカは何でもないわ、と言って切り上げた。

 

「ともかく、最悪の場合は移住することも考えておいてちょうだい。これは、あなたの為なのよ、護堂」

 

 そう言ってまた歩き出すエリカ。護堂は釈然としないものを感じながらも、彼女の後を追うのであった。

 




 義母は何を思い、何を購うのか


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拝謁の章
一 己の歩む道


 草薙護堂は神殺しである。ひょんな事からまつろわぬ神となったペルシャの軍神ウルスラグナと対決して勝利を収め、世界でも九人しかいない類稀な存在へと昇華した――いや、してしまったのである。

 

 先日、ある因縁が付いて回ってしまったギリシアの大地母神、三位一体、天地冥界の三属性を併せ持ったまつろわぬアテナと対決し、辛くも引き分けに終わった。

 

 その事から、彼は自分自身でも神殺しの活動に慣れてきているなぁ、と感じている。不本意な物ではあるとも思っているが……。

 

 しかし、草薙護堂は神殺しであるが、同時に日本人であり、高校生である。如何に神殺しの魔王へ至ったのだとしても、それは魔術界に於いての話。数々の社会問題や政治に翻弄される表の世界に於いて、彼はただの一般市民でしかなく、当然の事ながら学業に勤しまなければならない。

 

 さて、魔王となったことによって、護堂には彼の主観で少し怪しげな人々と交流を持つようになった。勿論、それは魔術関係者であり、そのほとんど全員が外国人である。

 

「さあ、お昼にしましょう、護堂。今日はあなたが飲み物を買いに行く日だったわよね」

 

 目の前の制服という平凡な服装であるにも関わらず、誰よりも存在を際立たせる絢爛な雰囲気を持つ美少女――エリカ・ブランデッリもまた、日本人ではなくイタリア人である。また、魔術結社『赤銅黒十字』の大騎士という位に位置する天才魔術師らしい。その辺りの事情を護堂はよく知らないが。

 

 では、何故そんな彼女が日本にいるのか。はたまた、何故護堂と同じ学校に通っているのか。

 

 理由は単純明快だ。即ち『新たなる王、草薙護堂の寵愛を受けられるよう尽力せよ』と、彼女の所属する『赤銅黒十字』からの指令が出されたからである。

 

 無論、そんなものは只の建前であり、エリカ・ブランデッリ自身が護堂と共に居る事を望んでいるのは『赤銅黒十字』とて諒解している。だからこそそんな指令を出したのではあるが。

 

「ああ、そうだな。何がいい?」

 

 最近の護堂は、こうしてエリカと共に食事をするのが常である。その際の約束事として『一日置きの交代制で買い出しに行く』という風に決めていた。今日は護堂の当番だ。

 

「今日は紅茶にしようかしら。レモンティーをお願いするわ」

 

「分かった。レモンティーならあったはずだ。行ってくる」

 

 最近はマシになって来たエリカの注文に安堵する護堂。一番最初の時など、昼食の飲み物にワインかシャンパンがいいと言い出し、酒屋に行こうとした程なのだ。そんな彼女を叱り飛ばしたのは常識人として当然の事である。

 

 教室の外に出ようとした瞬間、護堂の耳にまるで地の底深くから響くような声音が聴こえた。

 

「草薙の野郎、またエリカちゃんと優雅なランチタイムか……」

 

「ちっ、この恨み辛みをアイツにぶつけることが出来れば……!!」

 

「食中毒になれ喉を詰まらせろそして死に晒せぇ!」

 

 非常に不穏な言葉が聞こえてきたが、護堂は須らく聴こえないフリをして教室を出る。というよりも、この手の妬み嫉みの言葉はエリカが転校して来た当初から囁かれている物なのだ。しかし、何だかこの負の空気は日を追う毎に肥大化しているような気がする。気のせいだと思いたい所だが、果たして……。

 

 俺の平穏な生活はいつになったら訪れるのかなぁ、などと益体も無い事を考えながら、階段を降りて四つの自販機が設置されている場所へと向かう。すると、意外な先客がそこに居た。

 

「あれ、万里谷?」

 

「草薙さん? こんにちは」

 

 慎ましやかな様子で護堂に挨拶をしたのは、同じクラスの万里谷祐理だ。決して浅い関係ではないが、深いというわけでもない。

 

 同じ世界に身を置く知り合い、ないし友人。それが二人の共通認識であった。

 

「万里谷も飲み物を買いに来たのか?」

 

「はい。先程の体育の時間の後、水筒のお茶を全て飲み干してしまいまして、それで」

 

 少し恥ずかしげにそう言う祐理に、その理由が分からなくて少し首を傾げる護堂。しかし、まあいいかとすぐに考えるのを止めて、エリカに頼まれていたレモンティーの売ってある自販機に小銭を投入する。

 

 同じタイミングで別の自販機に小銭を入れる祐理。白魚のように滑らかな彼女の指は、緑茶を購入するボタンを押した。

 

 落下音と共に吐き出された飲み物を透明なプラスチックの窓から取り出すと、護堂はふと尋ねる。

 

「なあ万里谷。吉良のその後の調子ってどうなんだ?」

 

 それは、自分と同じカンピオーネである吉良星琉の事。アテナと対決した同日、同時間に熾天使ミカエルと対決していたもう一人のカンピオーネ。護堂はカンピオーネであるのに比較的まともな感じのする彼の容態が気になっていたのだ。

 

「傷も治りましたし、体力も回復して、直に退院出来るそうです。吉良さんに何か御用でも?」

 

「あー、うん。用って程でもないんだけど……」

 

 教室に帰ろうとする祐理の後を着いて行く。護堂と祐理は同じクラスなので、それは自然な成り行きであった。

 

「万里谷は今日、吉良の所に行くのか?」

 

「はい、そのつもりですけれど……それが何か?」

 

 道すがら護堂がそう尋ねると、少し不思議そうな様子で祐理は答える。質問ばかりの護堂を少しだけ訝しりながら。

 

「もし良ければなんだけどさ、俺も今日、吉良の見舞いに行ってもいいかな?」

 

「……私は構いませんが、エリカさんもご一緒されるのですか?」

 

 祐理が疑念の眼差しを向けるようになった。どうやら護堂とエリカの事を警戒しているらしい。とはいえ、護堂は何かする気があるわけでもないので、素直に話を続ける。

 

「どうだろ。もしかしたら来るかもしれないけど、今の所は分からない。何でか知らないけどあいつ、吉良にはあんまり関わるなって言うんだよ。俺はそれが納得いかない。吉良はカンピオーネだけどまともな奴だし、俺だってそうだ。だからきっと仲良く出来ると思う。それに、色々聞きたい事があるし」

 

 不満気な様子の護堂を見つめる祐理。少しして、分かりましたという言葉と共に祐理は告げた。

 

「分かりました。では放課後、ご案内しますね」

 

「ああ、よろしく頼む」

 

 

◇◆◇◆

 

 

 時が経って放課後、護堂は鞄を持って、祐理と一緒に下校する。

 

 その隣にエリカの姿はない。彼女はここ最近何か用事があるようで、護堂の隣にいることはあまり多くない。

 

 ……実は、エリカは星琉がカンピオーネであると判明したあの日から、日本の呪術師とのパイプを繋ごうと尽力していた。

 

 しかし、その経過は芳しくない。日本は欧州の魔術界とは勝手が違うようで、エリカが護堂にゴルゴネイオンを日本に持ち帰らせた事や、星琉がカンピオーネである事が瞬く間に広まっており、護堂に与する呪術師があまり集まらないのだ。それこそ、護堂との時間を犠牲にしなければならない程に。

 

 とはいえ、いつも別れ際につらつらと、護堂と一緒に帰れない事を悔やむ言葉を並べながら頬にキスして行くので周りは二人の仲を疑う事は無かったし、エリカの護堂に対する気持ちの本気さが伝わって来てむしろ男子生徒の嫉妬の念が膨れ上がり、護堂が冷や汗を掻く程だ。

 

 エリカの尽力も露知らず、護堂は祐理を隣にして下校しようとしている。そんな彼の姿を見た生徒はもちろん……。

 

「く、草薙の奴、エリカちゃんだけでなく万里谷さんとまで……!!」

 

「ま、待てよ。万里谷さんって吉良とお隣さんフラグじゃなかったのか!?」

 

「これが噂のNTRってやつなのか……ちくしょう……」

 

 何だかおかしな事になっているような気配がしたが、それらを無視してなんとか学校を発った。

 

 星琉が入院している国立東京第三病院までは、城楠学院から歩いて十分程のバス停から、更に二十分程バスに揺られて到着する。

 

 そこは一見普通の病院の様に見えるが、その実態は多いに違う。一般の人々も診ていないわけではないのだが、入院するということはまずない。

 

 その理由は、例えば強力な呪いに掛かっただとか、先天性のなんらかの呪力障害であるといった裏事情に関する患者が入院しているような病院だからだ。その他、魔導書の解読・解析や、国内外の魔道具の研究なども行われており、研究機関としての側面も持っている。

 

 バスを下車し、病院の入口の自動ドアを通り過ぎて受付へと向かう祐理と護堂。受付の女性の看護師が護堂を見た瞬間に顔が引きつったのは、決して気のせいではない。

 

「吉良星琉さんのお見舞いに来たのですが……」

 

「は、はい! こちらに記入をお願いします!」

 

 緊張気味の看護師を他所に、バインダーに挟まれた見舞客記名欄に名前を記入する祐理。ペンを手渡され、その下に記入する護堂。

 

 看護師がそれを受け取ると、やっぱり、と小さく呟いてから部屋番号を教えてくれた。

 

 星琉の入院している部屋に向かうまでにも、同じように畏敬の念が篭った視線に護堂は晒されて居心地の悪さを感じた。エレベーターに乗って祐理と二人きりになった時にため息を一つつき、尋ねる。

 

「なんだか皆こっちを見てたけど、俺、何かしたかな?」

 

「何かした……というわけではなくて、単純にカンピオーネという規格外の存在に恐れているのだと思います。この病院は正史編纂委員会の傘下の病院ですから、大抵の情報は出回っているんです。もちろん、草薙さんの事も」

 

 苦笑気味にそう告げる祐理に、げんなりする護堂。やはりカンピオーネという肩書きは、この業界では大き過ぎる威光を発揮するらしい。

 

 七階に到着して、エレベーターを降りる。辺りは当然静かで、音と言えば二人や他の人々の足音だけだ。

 

 少し歩いて、教えられた番号の札の付いた部屋に辿り着く。祐理がドアへと近付いて行って、コンコンとノックをする。

 

『はい。どうぞ』

 

 部屋の中から入室を許可する返事が聞こえた。扉を開いて中へと入って行く祐理に、護堂も続く。

 

 窓からさんさんと太陽の光が差し込む病室。そこは、ドラマなどで社会的に重要な役柄の役者にあてがわれるような大きめの個室だった。その中央の少し大きめのベッドに臥し、患者服を着た星琉が迎える。

 

「こんにちは、万里谷さん……と、草薙くん? 珍しいお客様がいらしてくれたね」

 

 突然の来訪者を邪険に扱う事もなく、星琉は笑顔で出迎えて見せた。正直な所、護堂はエリカの忠告もあって自分に悪い印象を持たれているのではないかと思っていたので、この反応から一先ず目の敵にはされていないと分かり、ホッと胸を撫で下ろした。

 

「こんにちは、吉良さん。お身体の具合は如何ですか?」

 

「うん、いい調子だよ。傷も完全に塞がったしね」

 

 自分の身体に手を当てながらそう言う星琉に、祐理は目に見えて安心したような表情を見せる。

 

 そして、窓際にあるガーベラの供えられた花瓶を手に取ると、水を替えに行ってきますね、と病室を出て行った。

 

「草薙くんもわざわざ来てくれてありがとう。疲れたでしょ? 座って」

 

 星琉に勧められて、護堂は近くにあったパイプ椅子に腰掛ける。

 

「悪いな、いきなり来て」

 

「ううん、寝たきりっていうのも暇なんだ。誰かが見舞いに来てくれた方がよっぽど嬉しいよ。……それで、僕に何か用があるのかな? もしかして、宣戦布告?」

 

そう言って視線が鋭くなる星琉。護堂は身構えて……。

 

「って待て! 何でそんな話になるんだよ?!」

 

 星琉の言ったことがおかしい事に気付き、思わず立ち上がって突っ込んでしまう。

 

「え? 違うの?」

 

「違う! そんな物騒な話じゃない!」

 

 質の悪い事に、星琉は本気で目を丸くしていた。どうやら本当に護堂が宣戦布告に来たものだと思っていたらしい。

 

 はぁ、と溜息を一つつきながら護堂はもう一度パイプ椅子に腰掛け、星琉に言葉を掛ける。

 

「あのなぁ吉良、何でそういう考えに達したのかは……まぁ、何と無く想像はつくけど、俺は平和主義者なんだ。基本的に戦うのとかは好きじゃないんだよ。俺が今日ここに来たのは、単純に吉良と話がしたかったからなんだ」

 

「話? どうしてかな?」

 

「エリカの奴がさ、俺と吉良が敵対するっていう風に考えてるみたいなんだよ。俺はそんなつもりはないし、むしろ仲良く出来たらなって思ってるんだ」

 

「そう……」

 

 少し顔を逸らして、深く考えるような仕草を見せる星琉。それから、彼は笑みを浮かべて護堂に言う。

 

「そういう風に言ってくれるのは嬉しいな。草薙くんはカンピオーネでも珍しい、まともな考え方をする人なんだね。……草薙くん?」

 

 星琉のその言葉に呆気にとられたような表情を見せる護堂。様子を伺うように星琉が声を掛けると、護堂は深く感銘を受けたように星琉の手を取った。

 

「そんな風に言ってくれたのはお前が初めてだ、吉良。やっぱりちゃんと分かってくれる人っているんだな!」

 

「え、えーっと……」

 

 満面の笑顔を浮かべながらこちらに身を乗り出す護堂に、さしもの星琉も掛ける言葉が見つからない。というか、どんな反応をすればいいのか分からなかった。

 

 

◆◇◆◇

 

 

「さて、草薙くんは僕と話をしに来たんだよね。いつもは万里谷さんに勉強を見てもらってるんだけど……」

 

「あー、じゃあもしかして俺、邪魔だったか?」

 

 星琉の言葉にバツの悪そうな表情を浮かべる護堂。しかし、そんな彼に花瓶の水を替えて戻って来た祐理が助け舟を出した。

 

「今日ぐらいはお休みしてもいいのではないでしょうか? 吉良さん、他の皆さんよりも随分と先に進んでいられますし」

 

「そうだね。今日はお休みにしようか。草薙くん、何か聞きたいことはある?」

 

 そう振られて、少し考え込む護堂。聞きたい事と言えばやはり……。

 

「吉良がどうやってカンピオーネになったのか聞きたいな。無理にとは言わないけど」

 

 星琉が祐理の方を見ると、彼女も恐る恐る期待を篭めた眼差しを星琉に注いでいた。

 

「うーん……じゃあ、草薙くんがカンピオーネになった経緯を話してくれるならいいよ」

 

「俺も? ……まあ、いいか。――あれは、俺が高校生になる前の春休みの話だ」

 

 そうして語り出す護堂。イタリアにいる祖父の友人に、昔の忘れ物を届ける事になった事。イタリアのサルデーニャ自治州で出会った不思議な少年の事。その後に出会った絢爛豪華な美少女――エリカ・ブランデッリの事。現れた神獣。まつろわぬメルカルトの顕現。対峙した少年の正体がペルシャの軍神ウルスラグナであった事。それを祖父の友人――『地』の位を持つ魔女、ルクレチア・ゾラの忘れ物『プロメテウス秘笈』により、神殺しを成した事。

 

「――っていうのが、俺に起こった事だ」

 

「草薙くん、まつろわぬメルカルトはどうしたの? ここまで聞いた話じゃ、撃退した様子じゃないみたいだけど」

 

「ああ、それはな――」

 

 星琉の当然の疑問に、護堂は更に話を続ける。カンピオーネになったと告げられ、直後拉致監禁された事。地方の魔術師と相対し、ウルスラグナの権能を用いてこれを撃退。自分の異常性が身を以て理解出来た事。

 

 時が過ぎ、再びメルカルトと相対するも敗北。しかし、エリカの魔術に助けられて九死に一生を得た後、再戦して引き分けにまで持ち込んだ事。その後、日本に帰国したのだが、しばらくして“剣の王”サルバトーレ・ドニに喧嘩を売られ、辛くも勝利した事。

 

 全て話し終わった後、星琉は苦笑しながら、祐理は微妙な表情で護堂に言った。

 

「なるほど。それが君の今までの破壊事件の真相か」

 

「仕方ないと言えば仕方ないのでしょうが……」

 

「うっ、それは……そ、それよりも、今度は吉良の番だぞ」

 

 あまりにもおざなりで露骨な話題の転換だったが、星琉はそれを特に追及する事もなく、話を始めた。

 

「うん、それじゃあ話そうかな。――あれは七年前、僕が九歳の時の事だ。父さんの仕事の都合で、僕の家族はドバイへ行くことになった」

 

 そして語り始める、カンピオーネになるまでの軌跡。ドバイの天候が日本とは全く違ったこと。自然を写真に撮ることが好きだった事。たまたま隣国に立ち寄った時、白蛇に化身した女神と出会った事。

 

「その女神は僕と出会う前にミカエルと戦っていたみたいで、瀕死の重傷を負っていた。そして、僕に介錯を願ったんだ」

 

「わざわざ殺してくれって言ったのか?」

 

「うん。大嫌いな《鋼》に殺されるぐらいなら、僕に殺された方がよっぽどマシだって言ってた」

 

「変な女神さまだな……。それで、その女神の名前は?」

 

 恐る恐るといった様子で護堂が尋ねると、星琉は神妙な顔付きになって答えた。

 

「……秘密」

 

「は?」

 

「え?」

 

 目が点になる護堂。その様子は、今まで静かだった祐理も同様であった。

 

 対して星琉はいたずらが成功して満足したような、更に護堂に対して少しの咎めと疑念を込めた眼差しを注いだ。

 

「草薙くん。僕の予測が正しければ、君の持つウルスラグナの権能には、神の来歴を知る事によって発動するものがあるよね? それも、逆転の一手、切り札となりうるのものが」

 

「っ!?」

 

 護堂は息を呑んだ。それは星琉の言葉が正しいことを示している。不敵な笑みを浮かべながら、星琉は更に言葉を続けた。

 

「僕自身も、そういう能力を持つまつろわぬ神と戦った事があるんだ。だからこそこの予測に至ったわけなんだけど……悪いね、草薙くん。僕は臆病者だから、そう簡単に君の刃となる情報(モノ)を渡すわけにはいかない。何時(いつ)、何処で、どんな形で敵になるか分からないからね」

 

「吉良は……俺と戦うつもりなのか?」

 

 二人の間に、少しだけ険悪な雰囲気が流れる。祐理は心配そうにその様子を窺っているが、どちらかといえば星琉の方に注視している様に見えた。

 

「もちろん、戦わないで済むならそれに越した事はないよ。けれどね、僕達という存在はただ一人だけでも核と同じだけの危険性を孕んでいる。僕が絶対の正義、だなんて言うつもりはないけれど、もしも君が道を外れるような事をした時に、恐らく一番に僕が止める立場になるだろう。そういう意味でも、戦う可能性は決して零じゃない」

 

「けどそれは、吉良にだって言える事だよな。お前が道を外したら、俺がお前を止める。……なんだ、確かに絶対戦わないって保証はどこにもないな」

 

 ここに至って漸く、護堂はエリカが焦っていた理由が少しだけ分かった気がした。

 

 よくよく考えてみれば、目の前の柔和な少年だって、自分と同じカンピオーネ――奇人変人の一人、同じ穴の狢なのだ。今までが静かだっただけで、これからもそうである保証は何処にもない。だったらそう簡単に彼が自分の不利となる情報を渡さないのも当然な訳で。

 

 先に自分がよく考えもせずに話してしまった事を失敗したと後悔しながらも、その辺りのことはエリカからよく言われていたので、不用意なことは言っていないはずだと無理矢理飲み込んだ。もしも言ってしまっていたら、その時はその時だと開き直ったとも言う。

 

「それじゃあ話を続けよう。その後すぐに、僕の周りが目まぐるしく変化した。僕がカンピオーネになった直後、僕は先輩――シャルル=カルディナルに出会ったんだ。二人共、先輩や《漆黒真珠》については知ってる?」

 

 エリカからある程度聞いたと言う護堂と、ある程度は調べたと言う祐理。二人の答えに、星琉はそれらの説明は不要と判断して話を進める。

 

「先輩に連れられた僕は、そこで始めてこの世界の事を知った。魔術や呪術、まつろわぬ神やカンピオーネの事を……。そして、事件が起こった」

 

 そう言って、顔を少し伏せる星琉。その表情は苦く、悲しげであった。

 

「すぐ近くで、まつろわぬインドラが顕現した。結果的にはシャルル先輩が撃退したけど、街中での事だったから死者も出たし、沢山の建物が壊された。そうして気付いたんだ。『僕はこれから、こんな闘争の日々を歩んで行かなければならないんだ』ってね」

 

 星琉の独白に、護堂と祐理も表情を曇らせる。護堂は身を以って経験しているから、祐理は星琉の負った傷の深さを知っているからだ。

 

 だが、更に衝撃的な事を星琉が告げる。

 

「そして僕は、シャルル先輩の許で修行することになった。その際、両親の中の僕に関わる記憶を消してもらって」

 

「え……?」

 

「なっ!? どういうことだよ?!」

 

 自分に関する記憶を消す。それはつまり、自分の存在を無かったことにするのと同義だ。

 

 確かに祐理は前々から不思議に思っていた。この病院は呪術関係者の割合が多いが、決して一般人の立ち入りが禁止されているわけではないのだ。

 

 何度となく星琉の所へ訪れていた祐理だが、不思議と星琉の両親と出くわしたことはない。ある日は面会時間終了直前まで居座った事もあったのだが、それでも片親にすら会う事はなかった。共働きで忙しいのだろうかと思っていたのだが。

 

「カンピオーネとなった以上、普通の生活には戻れない。ただ存在するだけで、超常の力を持つまつろわぬ神々との戦いの運命が待ち構えている。ただの人間が着いて来られるものじゃない。それに僕は幼かったから、どこかの魔術師が魔術界とは何も関係のない父さんと母さんを誘拐して、僕を傀儡にしようとする可能性もあった。父さんと母さんを、僕のせいでそんな世界に巻き込みたく無かったんだ」

 

「……それ、吉良が悲劇のヒーローを気取ってるだけじゃないのか?」

 

「草薙さん?!」

 

 少し苛ついた様子の護堂が、星琉にそう突っかかる。確かに星琉の言う事は一理あるかもしれないが、だったら守れば良い。奪われたのなら、力尽くで取り戻せばいい。そう考えたからだ。

 

「……どうだろう。人によってはそう思えるかもしれないね。ただ、僕はそれが最善だと思ったからそうしただけだ。そこに後悔はないよ。僕には両親から貰ったこの身体と、名前があるから」

 

 未だ翳りのある表情で儚げな微笑みを浮かべる星琉。だからだろうか、護堂はこの場に居るのが嫌な感じがした。星琉に妙に突っかかったのもその為だ。

 

 ついさっきと同じように険悪な雰囲気になっていると、看護師が病室に入って来て面会時間が終わる事を告げに来てくれた。時計を見てみればもう六時過ぎだ。

 

「……じゃあ、またな。吉良」

 

「また明日お会いしましょう。吉良さん」

 

「うん。またね、二人共」

 

 こうして、護堂と星琉の病室での会談は、少し後味の悪さを残して終了したのだった。

 

 

◆◇◆◇

 

 

 ――夜。星琉はベッドに寝転がりながら、虚空を見つめて呟く。

 

「軍神ウルスラグナの権能か。十の化身を基盤にしたものらしいけど……」

 

「《敵ではない……かの?》」

 

「まさか。たとえカンピオーネになったのがつい最近でも、同格であることには変わりない。誰も彼も等しく脅威だ。もちろん、草薙くんも」

 

 尋ねたのは、星琉の内に存在する《墜天》だ。

 

 星琉にとって草薙護堂が神殺しへと至った経緯。そんなものに興味はない。彼の保持するウルスラグナの権能の効果、制限、それらにしか興味はなかった。

 

 ただし、まともな感性を持つ者であれば自分の弱点としかならない情報を簡単には漏らしたりしない。現に、護堂は出来るだけ権能の事について話さないように努めていたのだから。しかし、それでも分かることはある。

 

「賢人議会のレポートを見る限り、草薙君の権能は大味過ぎるのにバリエーションが豊富だ。『猪』の召喚と『白馬』のフレアなんて何の関連性もない。アテナの言葉から蘇生の能力を持つ化身――多分『雄羊』だろうけど、それだってまた別系統だ。だから――」

 

「《だから?》」

 

「レポートにも書かれていたけど、何かしらの強い制限があると予想出来る。それが把握出来れば彼との戦闘はかなり優位に立てるはずだ。『少年』と『山羊』はそも能力から不明。隠しているのか未だ覚醒していないのか……彼がカンピオーネになった時期から考えると後者の方が確率は高いかな。『強風』や『白馬』はいまいちはっきりしないし、けど効果として厄介な『戦士』は今日鎌を掛けて当たりを引き出した。『雄牛』や『鳳』はブランデッリさんとの対決でも使っていたみたいだから、自分の能力限界が閾値である可能性が高い。『猪』は大きな物を標的にしないと召喚出来ないって今日言っていたし、『雄羊』は蘇生という能力から考えると身体の損傷率……いや、致命傷を受けた時に自動蘇生する可能性もあるな。そうすると『駱駝』は一体……」

 

 冷めた瞳で淡々と護堂の権能に対する考察を深める星琉。今はまだ何もするつもりなどないが、いつか戦う時が来た時の為に想定しておく。

 

 人の心は移り変わるもの。変わらない事など滅多にあるものではない。

 

 情報はあるに越した事はない。想定をしないよりも、想定して万が一に備える方がずっと良い。そう普通にいかないのがカンピオーネという存在だが、それでもだ。

 

「《もしもその時が来たとしたら、お主は奴を斬れるかのぅ?》」

 

「斬れるさ。当然だろう。そうじゃなきゃ、吉良星琉じゃない」

 

 一部の間も、僅かな躊躇もなく、星琉は言い斬った。その様子に、《墜天》は満足感を星琉に伝える。

 

 ああ、もしもの時の為にメルカルトの情報も集めておかないといけない。

 

 ……けれど、今はもう眠ろう。僅かな休息の時なのだから。

 

 護堂を斬ると想定しても、しかし心の奥底ではそのような状況にならない事を願いながら、星琉は瞼を閉じた。



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二 日々と日々の狭間で

 雲一つない灰色の空。流れ落ちる滝は水の煌めきがない。辺りの木々は白と黒の濃淡でしか色がなく、まるで世界全体が墨絵で描かれたかのようだ。

 

 そんな場所に、異彩を放つ存在が一つ。

 

 右手に青み掛かった三尺三寸の静謐な刀を、左手に同様の長さの絢爛な黄金のファルシオンを持ち、その二振りの刀剣をだらりと下げている。背には呪力で編まれた三対六枚の黄金の翼があり、瞑想をするように佇む姿は神秘的な雰囲気を醸し出していた。

 

 ある意味異物とも言える存在――星琉が静かに目を開く。視線の先には何もないが、しかし彼は誰かを捉えていた。

 

 姿が掻き消える。否、それは星琉が目にも留まらぬ速さで動いた結果。

 

 少し離れた場所に現れ、刀剣を縦横無尽に振るう。袈裟、刺突、切り上げ、逆袈裟。繰り出されるその剣閃、正に流麗なる清流の如し。

 

 後退する。右に左に身体を振る様は、何かを避けているように見て取れる。傾けながら構えられる刀剣は、何かを受け流しているのか。

 

 前方へ跳躍して、身体を捻り回しながら刀で一閃。次いで、剣もその軌跡をなぞった。

 

 着地した、と思われる瞬間には、彼は既にある程度離れた場所へ。常人の身では考えられない程の驚異的な身体能力と瞬発力だ。

 

 ――息を一つ吐く。今度は真上へ跳躍し、最高度で星琉は停滞した。

 

 歯を食いしばり、唇がキュッと真一文字に結ばれる。すると、背にあった翼は鋭利になり、六振りの光剣となった。

 

 眉間に皺が寄っていく。その険しさに比例するかのように、光剣は二振り、三振りだけの緩慢とした動きから、徐々に四振り、五振りと本数が増え、躍動的なものへと移行していった。

 

「……やっぱり、難しいな」

 

 ため息をつきながら、自身の行動に関する感想を零す。

 

 

 ――『天日の翼と日輪の星剣(フェンサー・オブ・ザ・サン)』――

 

 

 そう名付けた熾天使ミカエルから簒奪した権能は、星琉に太陽の光と熱を持った呪力の翼、白金の星剣を与え、星琉はそれを幽世にて訓練していた。

 

 通常、幽世に訪れるには特殊な霊薬を摂取し、《世界移動》という大掛かりな魔術を行使しなければならないのだが、星琉は先日掌握の進んだ『闇夜に眩き月星の唄』によって現世での転移だけでなく、それら一切の手順を省略して現世と幽世の間を自由に行き来出来るようになったのだ。

 

 それはさておき、取り敢えずある程度権能の力を確認した星琉は、権能を解除して地に降り立った。

 

「天、地、冥の三界結ぶ――」

 

 幽世から現世へ『世界移動』する為の聖句を唱える。すると、星琉の影が膨れ上がり、彼を包み込み、その場から消し去った。

 

 幽世での修業。それが、今の星琉の朝の日課である。

 

 

◇◆◇◆

 

 

「んーっ! 今日はいい天気だなぁ」

 

 ミカエルを討ち取ってから一ヶ月程が過ぎ、六月の終わりが近付いていた。あの戦いで出来た傷も完治し、無事に退院して学校にもしっかり復帰している。

 

 近頃は梅雨の時期らしく雨の降る日が続いていたのだが、今日は久しぶりの晴天、それも雲一つない快晴だ。

 

 一つ伸びをして、さんさんと降り注ぐ陽光を一身に浴びたら気分は爽快。通学路の途中の民家に咲いている、朝露に濡れた青い紫陽花を眺め、六月の風情を感じる。

 

「おはようございます、吉良さん」

 

「おはよう、万里谷さん」

 

 通学路の半分程を歩いた所で、祐理と合流した。特に申し合わせた訳ではないのだが、ここの所祐理と一緒に登校するのが星琉の常だったりする。

 

 歩き続ける二人の間に会話はない。しかし、どちらも気まずそうな様子は見せておらず、むしろその閑静な空気を楽しんでいるようにも見えた。

 

 ミカエルとの戦いが終わってからというもの、星琉と祐理の関係は少しだけ変わったかもしれない。

 

 それは彼氏彼女というわけではなく、信頼出来る仲間、もしくは戦友、というのが一番近いだろうか。

 

 友人と言うには少し近い。恋人と言うには少し遠い。知り合いと言うには関係が浅くなくて、親友と言うには日が浅い。そんな二人の距離関係。

 

「「あ……」」

 

 そよ風が吹く。何と無く、夏の香りが漂ったような気がした。

 

 

◆◇◆◇

 

 

「んで、お前はどうやって学校一の美少女である万里谷さんと懇意になったんだ? 星琉」

 

「あ、それあたしも訊きた~い! 皆気になってるんだよ。吉良くんはどうやって祐理ちゃんを落としたのかって!」

 

「えっと、二人が期待してるような事は何もないんだけど……」

 

「お、おと……!?」

 

 四限目の授業である数学が終わり、昼休みの時間。星琉は祐理と友人である正敏、そして正敏の彼女である同じく一年六組の御崎綾と机を合わせて昼食を摂っていた。

 

 御崎綾という人物は背が低く、155cm程しかない。髪は栗色のセミロングで、くりっとした目と身長に反比例した胸、人懐っこい性格が特徴だ。

 

 そして話題に上がったのが星琉と祐理の接点。祐理は綾の『落とした』発言に顔を赤くし、口をぱくぱくとさせて驚いている。

 

 無論、正敏と綾は魔術界と全く関係のない一般人なので、本当の事を話す訳にはいかない。

 

「万里谷さんとは同じ部活だし、仲良くするのは別に変な事じゃないでしょ。あと御崎さん、別に万里谷さんは僕の彼女でもなんでもないから、そこの所間違えないように」

 

「えぇ~、ホントかなぁ~? 祐理ちゃんどうなの?」

 

「そんな綾さんのご想像するような関係ではありません! 変な勘繰りは止して下さい!」

 

 綾はその性格故か祐理と打ち解け、名前で呼び合う程度にはすぐに親しくなった。

 

 とはいえ、周りの迷惑にならない程度の大きな声の否定で、正敏と綾も二人がそんな関係ではないと――

 

「ね、どー思う?」

 

「うーん、ビミョーなんだよなー。なんつーか、自然と嵌まってるような感じはするんだけど……脈があるかないかと聞かれると、分かんね」

 

「二人とも僕の話ちゃんと聞いてた?」

「お二人とも私の話をちゃんと聞いてましたか?!」

 

「「おお! シンクロ率99.89%!」」

 

 ――分かっていなさそうだ。まあ、誤解されるような返答の仕方をした星琉と祐理にも一因はあるだろうが。

 

 気分によって変わったりするが、基本このようにして四人で食べるのが最近の風景だ。

 

 学校一の美少女であり、かつ成績も優秀という才色兼備を体現したような人物である祐理は、高嶺の花のような扱いでクラスでも何と無く浮いていたのだが、星琉や正敏、綾と一緒に昼食を摂るようになってからは他の女子に一緒に食べないかと誘われる事も多くなった。

 

 では男子はというと……全くである。

 

 実は一度、勇気ある男子生徒――鎌田健(かまたたけし)君が四人の食事に交ぜてくれと割り込もうとしたのだが、一瞬、注意していなければ分からない程度の時間で、祐理が戸惑った表情をした。

 

 それに気付いたのは綾だった。彼女は祐理のその一瞬の表情である程度察し、男子禁制を言い付けたのだ。

 

 当然、「吉良と井沼はどうなんだよ!?」と男子勢からブーイングが出たのだが、「正敏はあたしの彼氏だし、吉良くんは部活仲間だから例外なの! 祐理ちゃんは繊細で男に慣れてないんだから、狼を入れるつもりはありません!」という綾の言葉で女子勢が一致団結。男子勢は鎮静化した。その代わり、負のオーラがクラスの一部に溜まったり、星琉や正敏にぶつけられるようになったが。

 

 実は綾、一年五組の室長である。何と無く無茶な男子禁制の主張が通ったのも、女子勢が一致団結して味方になったのも、彼女の妙なリーダーシップ故である。カリスマ性と言い換えてもいいかもしれない。

 

 それはさておき、そんな風にいつも通りの昼食を楽しんでいた四人だったが、突然の闖入者によって一時中断されることとなった。

 

 一年五組の戸をガラガラと開けたのは、同じクラスの草薙護堂だ。彼と彼の恋人(?)であるエリカ・ブランデッリの噂は学年中に広まっており、当然彼を敵視する者は多い。

 

 しかし、彼はそんなものには目もくれず、誰かを捜すかのようにキョロキョロとして星琉と祐理を見つけると、どこか必死な様子で近付いて来て、尋ねた。

 

「なあ吉良、万里谷、突然で悪いんだけど、今日の放課後、時間あるか? もし都合がよかったら俺の家に来てくれないか」

 

 放っておいたら頭を下げそうな勢いで話す護堂。傍目から見たら拝み倒しているように見えるかもしれない。

 

「うーん、僕は特に用事はないし、お誘いは嬉しいけど、突然お邪魔して大丈夫なのかな?」

 

「全然大丈夫だ! じゃあ、来てくれるんだな?」

 

「そうさせてもらおうかな。それにしても、突然どうしたの?」

 

 この二人、護堂が星琉の入院中に見舞いに来ていた事もあって、たまに近くのバッティングセンターに行ったりなど、友人と言える程度の付き合いはしていた。

 

 しかし、家に誘われたのは今回が初めてだ。悪巧み……ではないが、何か事情があるのでは、と星琉は踏んでいた。

 

「……実はな、一緒にエリカも来るんだよ。それで、吉良と万里谷には俺の弁護をしてもらいたいんだ」

 

 護堂とエリカの関係について、星琉は正史編纂委員会の調査書と、入院中に話してくれた護堂の証言の二つの情報源がある。その時は万里谷も一緒に見舞いに来ていたので、彼女も同様だ。

 

 星琉としては他人の恋路にとやかく言いたくはないのだが、当の本人がこう言うのであれば仕方がない。

 

「分かった。でも、僕の主観で話すし、嘘を言うつもりはないから、必ずしも君を擁護する事になるとは限らないよ。それでもいい?」

 

「吉良の主観っていうのが気になるけど……来てくれるだけマシだ。ありがとう、吉良! それで、万里谷は?」

 

「男性のお宅へいきなりお邪魔するのは正直気が引けるのですが……そういう事情なら仕方ありません。お引き受けいたします」

 

「ありがとう、万里谷! じゃあ、そういう事で!」

 

 意気揚々とした様子で自分のクラスへ帰っていく護堂。正敏は唖然とした様子で星琉に尋ねる。

 

「おい星琉、お前は万里谷さんと仲良くなってると思ったら草薙までか。いつの間にそこまで仲良くなったんだよ?」

 

「ちょっと、事故の時にね」

 

 あの夜の戦いの後の入院は、名目上交通事故に遭って入院していた、という事になっている。だから間違っている訳ではない。

 

 ふーん、とどこか意味ありげな視線を向ける正敏だったが、それ以上追究することはなく、星琉と祐理もまた、昼食に意識を戻した。

 

 

◆◇◆◇

 

 

 草薙家のお宅は城楠学院の校舎から十数分程歩いた、文京区根津の商店街にある古書店だった。護堂によれば、もう店は閉めているらしい。

 

 彼に連れられて居間へと案内してもらうと、そこには後輩である静花と、初老と思われる人物がいた。

 

「おかえり、お兄ちゃん。ねえ、聞いて。おじいちゃんが今日の晩御飯、手巻き寿司にでもしよう……か、だって……。一緒に、お買い物に……」

 

「ああ、お帰り。今日はたくさんお客様を連れて来たね?」

 

「……ええと、何て言うか、色々あって友達を連れて来る」

 

「ふうん。色々、ねえ?」

 

 意味ありげに呟いてから、静花はこちらに会釈した。

 

「こんにちは、万里谷先輩、吉良先輩。そちらの方はお兄ちゃんと仲良しのエリカさんでしょ? 知ってるよ……色々(・・)聞いてるから」

 

 どことなく怒っているような雰囲気を漂わせ、エリカに対する敵愾心を隠そうともしていない。

 

 しかし、エリカはそんなものどこ吹く風、といった様子で自己紹介を始める。

 

「こんにちは、静花さん。前にお電話でお話しさせていただいたことがあったわね? はじめまして、おじいさま。今日は突然お邪魔して、ごめんなさい。わたし、どうしても護堂のご家族とお話してみたかったんです。許してくださいね?」

 

「ほほう。……ま、とにかく座りなさい。今お茶を用意してくるよ」

 

 護堂に促されて大きな卓を囲む。中心に護堂、右隣にエリカ、左隣に星琉、更にその左隣に祐理が座る。護堂の正面には静花がいて、その隣で二人の祖父がにこやかに微笑んでいる。

 

「そちらの君達も、護堂の友達ということで構わないのかな?」

 

 不意に、こちらに水を向けられた。なんだかんだで挨拶が出来ていなかったので、この気遣いはありがたい。

 

「初めまして、吉良星琉と申します。草薙君とは最近知り合いまして、良いお付き合いをさせて頂いています。茶道部に所属しておりまして、静花さんにもお世話になっています」

 

「万里谷祐理と申します。今日はぶしつけに押しかけてしまい、申し訳ございません。吉良さんや静花さんと同じく、茶道部に所属しております」

 

「じゃあ、二人とも静花の先輩でもあるわけだね。護堂と仲良くなったのも、それが縁で?」

 

 二人の丁寧な挨拶に頷いた祖父――一朗が、何気なく尋ねる。これに星琉が答える前に、静花が答えた。

 

「それが、あたしは無関係なんだよね。お兄ちゃんと吉良さんと万里谷さん……はそんなにかな? ともかく、いつの間にか仲良くなってたの。エリカさんとも、いつ知り合ったか謎だし。前に電話でおしゃべりした時は、日本語がお上手だから外国の人だなんて思わなかった。……エリカさんとお兄ちゃん、ものすご~く仲良いんだよね? 学校中の噂になってるよ」

 

 どうやら、二人の仲は学年だけに留まらず、学校中に広まっていたらしい。意外な事実に少し面食らっていると、静花の言葉に護堂は反論する。

 

「確かにエリカとは仲が良い方だと思うけど、それだけだって。静花にだって仲の良い友達ぐらい、何人もいるだろ」

 

「少なくともあたしには、転校初日に婚約宣言するような友達はいないけどね」

 

 カウンターを喰らってあっさり撃沈である。驚きの内容だが事実だ。流石にあの時は星琉も虚を突かれたものだ。

 

「わたしと護堂のことが噂なんかになってるんだ。なんだか照れくさいわね」

 

「噂のネタを作っている本人が言っても説得力ないぞ。いつも嫌がる俺を無理矢理巻き込むのはエリカじゃないか!」

 

「もう、そういうこと言わないでよ。……いつも無理矢理じゃないんだし」

 

 すっ、とエリカが護堂に手を伸ばす。

 

 彼女と護堂の手が重なり合いそうになった瞬間、星琉は思い切り護堂のシャツの背を引っ張った。

 

 近くに座っていたからこそ出来た事であり、何が起こったか分かっているのは星琉と護堂とエリカだけだ。祐理や静花、一郎には見えていない。

 

「のわ?!」

 

 結果、護堂は座りながら後ろ向きに転倒した。端から見れば実におかしな光景だろう。

 

「もう! 何やってるのよお兄ちゃん!」

 

「い、いや……えっと……済まん」

 

 妹からの叱責にたじたじの護堂。小声で星琉に抗議をする。

 

「何するんだよ!?」

 

「あのままブランデッリさんに手を握られてたら、彼女の思う壷だったんじゃないの? だから強引にでもあんな行動に出たんだけど」

 

 少し考える様子を見せた護堂。もしも手を握られていたらその後どうなっていたのかを想像したのだろう。

 

「……悪い、助かった」

 

「どういたしまして」

 

 そんな風に二人でこそこそしていると、静花が訝しげに声を掛けた。

 

「……何二人でこそこそ内緒話してるんですか? 何か聞かれたくない事でも?」

 

 なんだか後輩が刺々しい。もしかしたら、と思う所があった星琉は、それを確認する為の言葉を発した。

 

「いや、静花さんはお兄さんっ子なんだなぁって話をね」

 

 にこりと微笑みながらそう言うと、静花は顔を真っ赤にさせながら星琉の言葉に反応する。

 

「な、何言ってるんですか!? あたしは別に……」

 

「でも、何だか草薙君が構ってくれないから意地悪を言ってるように見えるんだ。万里谷さんはどう思う?」

 

「わ、私ですか?!」

 

 まさか自分に振られるとは思っていなかったのだろう。少しの間祐理は戸惑った様子だったが、星琉の目を見て何となく察したようだ。

 

「えっと……そう、見えなくもない……ですね」

 

「ま、万里谷先輩まで……!? 違いますからね! あたしは別にお兄ちゃんの事なんか何とも思ってないんですから!」

 

 先輩二人の思わぬ攻撃に必死に弁明する静花。どうとも思っていないならエリカの事もどうでもいいはずなのだが、それは言わぬが花だろう。

 

 しかし、それを好機と見たのか、エリカが口を挟む。

 

「それじゃあわたしと護堂の仲は、静花さんも公認って事で良いのね?」

 

「そ、それは……うぐぐ」

 

 どうでもいいと言った手前、否定する事が出来ない。敵に塩を与える結果になり、やっちゃった、と思う星琉だったが、残念ながら時は戻らない。

 

「……ってちょっと待て! 俺とお前の仲ってただの友達だろ?!」

 

「もう、護堂ったら、まだそんなつれない事を言うの? 別荘ではあんなに熱い夜を過ごしたというのに……」

 

「ちょっとお兄ちゃん!? エリカさんが言ってる事どういう意味!?」

 

 妖艶に微笑みながらそう言うエリカ。星琉と祐理は護堂から彼が神殺しになるまでのいきさつを聞いているが、流石に二人の間に何があったのか、その細部までは聞き及んでいない。

 

 護堂から助けを求める視線が向けられるが、昔話を盾にされてはどうしようもないのだ。

 

 しかし、この話題の流れを断ち切ったのは意外にも、途中から空気のように同席していた一朗だった。

 

「盛り上がってる所悪いんだが、おしゃべりは一度中断して、そろそろ夕飯の準備を始めようか。今夜は手巻き寿司でも久しぶりに作ろうかと思ってね。もう酢飯の仕込みは済んでいるんだ」

 

 立ち上がりながらそう言う一朗。彼はそのまま言葉を続ける。

 

「魚屋の桜庭さんにはさっき電話して、いいネタを選んでもらっている。護堂と静花は、二人で受け取りに行ってくれ。……ああ、三人分を追加してもらうのも忘れないように」

 

 エリカ、星琉、祐理の順番で人当たりのよさそうな笑みを向け、話し掛ける。そこには年長者の威厳のようなものが感じられた。

 

「君達も一緒で構わないだろう? せっかく来て下さったんだから、これぐらいはさせてもらわないとね。もちろん、門限の時間や他に用があるなら、話は別だ」

 

「いいえ。ぜひご相伴させていただきますわ、おじいさま」

 

 気品を感じる一礼をしながら、即座にそう言ったのはエリカだ。急な訪問であったにも関わらず、躊躇いもなく相伴する旨の返事をする辺り、日本人とは違う。それを示すように、祐理と星琉が順に遠慮した様子を見せた。

 

「そんな……いきなりお邪魔して、お食事まで御馳走になるだなんて……」

 

「土産すら持って来ていないというのに、流石にご迷惑ではありませんか?」

 

「構わないよ、じいちゃんはこういうのが好きなんだ。大勢集まって、手料理を食べてもらって、ついでに酒を飲んでって」

 

 そんなものは無用だ、と護堂は気を遣う二人に言ったのだが、この誘い文句には一つ問題があった。

 

「お、お酒、ですか!?」

 

 最後の一言に反応したのは祐理だ。真っ当な倫理感を持つ彼女にとって、未成年の飲酒は認められるはずがない。

 

 やっちまった、といった様子の護堂が、所在無さげに一朗に問う。

 

「あー……流石に今日はないと思うけど。そうだよな、じいちゃん?」

 

「ダメかい? 僕と護堂だけなら問題ないだろう。エリカさんもきっと大丈夫じゃ――」

 

 悪びれる様子もなく、孫に酒に付き合わせようとする一朗。イタリアの文化を知っているのか、エリカも巻き込もうとしている。

 

 実際、イタリアでは十六歳から飲酒可能であるので、確かにエリカも酒を飲んだことはあったりする。

 

「頼むから、今日は飲むのを止めてくれ。エリカの奴も飲み出すとザルなんだ!」

 

 一朗の提案を取り下げるよう求める護堂なのだが、迂闊にも彼は墓穴を掘ってしまった。

 

「あら護堂、適度なアルコールは健康にも友情にもいいのよ?」

 

 エリカのその言葉に、静花の眉がピクリと吊り上がる。どうやら護堂の掘った墓穴に気付いたようだ。

 

「ねぇ、お兄ちゃん。今の話、何? それって、二人でお酒飲んだ事があるって意味じゃないの! 詳しく事情を説明しなさい!」

 

「あっ……いや、待て! 話せば長いんだ!」

 

 再燃した妹の怒りと、どこ吹く風のエリカ。それを微苦笑で見守る一朗と星琉。祐理も言葉にはしていないが咎めの表情を浮かべており、残念ながら護堂に味方はいなかった。

 

 

◆◇◆◇

 

 

「今日は御馳走様でした。皆様にもよろしくお伝え下さい」

 

「ごめんね、こんな遅くまでお邪魔してしまって」

 

 夜も深くなろうとする午後八時。祐理と星琉が草薙家を去ろうとしたのはそんな時間だ。

 

「いや、こっちこそ悪かったな、二人とも。無理言って来てもらったのに、こんな時間まで引き留めちゃって」

 

 玄関口で別れの挨拶をしながら、見送りに出た護堂はすまなそうにそう言った。

 

「いいえ。私も楽しかったです」

 

「うん、賑やかでよかった。またお誘いしてくれると嬉しいな」

 

「そうか。そう言ってくれるとありがたいよ。じゃ、気をつけて帰ってくれよ」

 

「はい、失礼いたします」

 

「またね、草薙君」

 

 祐理は丁寧に頭を下げ、星琉は気軽な調子で別れを告げる。あの後、結局二人は夕飯を御馳走になることになった。

 

 祐理は未成年の飲酒が行われないように警戒しつつ、星琉はゆったりとした様子で手巻き寿司を味わった。

 

 流石、商店街の魚屋といった所か。使われたネタの鮮度がスーパーなどとは段違いで、非常に美味であった。

 

 そうして食欲を満たしながら、祐理が一番口数が少なかったものの、会話も楽しんだものだ。

 

 エリカは話題も豊富で、相手のリズムを尊重した軽やかな話術で、全員とおしゃべりを楽しんだ。星琉相手には硬さが残っていたが、これは仕方がないだろう。

 

 護堂はどちらかと言うと、食事に集中していた。しかし、会話をしない訳ではなく、適度に話の輪に入って箸と口を忙しなく動かしていた。

 

 反対に、星琉は食事よりも会話に重きを置いていただろう。同じ男子で食欲旺盛な護堂と比べ、彼の三分の二程しか食事に手をつけなかった事が、それを物語っている。エリカのように自発的ではないのだが、話題を広くする事に彼は長けており、その辺りで会話を盛り上げていた。

 

 静花とは同じ部活なので、ある程度気心が知れていて、あまり気を遣わずに済んだ。

 

 主催者の草薙家の祖父も気配り上手で、居心地が悪くなることもなく、非常に楽しめたと言っていいだろう。

 

「万里谷さん、結構遅い時間だし、もしよければ家まで送るけど、どうかな?」

 

「……そうですね、お願いします」

 

 電灯の照らすアスファルトの夜道を、人の肩幅一つ分離れて、星琉と並んで歩く。

 

 そういえば、と祐理は気になっていた事を尋ねた。

 

「吉良さんは台所をお借りして、何を作っていらしたんですか?」

 

 食事の途中、星琉は草薙家の祖父に耳打ちし、台所に案内してもらっていた。料理をしていた事は分かったのだが、それが食卓に出る事はなかったので、不思議に思っていたのだ。

 

「ああ……あれはね、酒の肴を作らせてもらっていたんだ。『皆が帰った後にでもどうぞ』ってね。でもあの様子じゃ、今頃食べてるかもしれないな」

 

 暢気にそう言う星琉だったが、祐理は目を丸くしていた。まさか、そんなものを作っていたとは夢にも思わなかったのだ。

 

 疑念の目が、星琉に注がれる。

 

「あの、もしかして吉良さん、お酒を飲まれた事があるのですか?」

 

「ん、まあね」

 

 悪びれる事もなく、あっさりと答えた星琉。そんな彼の態度に、祐理は憤慨した様子で苦言を呈する。

 

「法律違反じゃないですか! お酒や煙草は二十歳になってからと言われているでしょう!?」

 

「んー、でも、月見酒なんて風情が感じられるよ。夜桜を花見しながら一杯、っていうのも風流だね。ほろ酔い気分で気持ち良くさ」

 

「気持ち良くさ、じゃありません!」

 

 星琉の意外な一面に、祐理は拗ねるようにいじけていく。

 

「……少し、ショックです。吉良さんはまともな方だと思っていたのに……」

 

「自分から進んで飲み始めたわけじゃないよ? 師匠に付き合わされて――」

 

「結局飲んだ事に変わりありません! もう! 健康が損なわれても知りませんよ!」

 

「その辺りはきちんと(わきま)えてるさ。大丈夫、大丈夫」

 

 普段と違って、どこか陽気な感じの星琉。そんな彼の様子に翻弄されていると、懐かしい黒電話の音が祐理のポケットから鳴り響いた。彼女のスマートフォンの着信音だ。

 

「はい、もしもし。……ええ、大丈夫です。どうかなされましたか? …………甘粕さん、私の霊視は何でも『視える』程便利なものではありませんよ。何もわからない時だって多いのですから。…………承知いたしました。明日の放課後でよろしければ、ご協力いたします。……分かりました、『LEAFY』ですね。……はい、お休みなさい」

 

 画面をタップして通話を切り、ポケットに仕舞い込む。ちょうどそのタイミングで星琉が言葉を掛けた。

 

「委員会からお仕事?」

 

「はい、何でも、いわくのある魔導書を鑑定して欲しいのだそうです」

 

「魔導書……か」

 

 少し興味のあるそぶりを見せる星琉だったが、それ以上聞き出そうとはしない。

 

 ……やがて、祐理の家が見えて来た。

 

「わざわざ送って下さって、ありがとうございました」

 

「気にしなくていいよ。マンションまで直ぐだし、いざとなれば『転移』ですぐに帰れるからね」

 

「そんな事で魔術を使うのもどうかと思いますが……」

 

 苦笑しながら言うと、それもそうだね、と、発言した星琉自身も苦笑する。

 

 涼やかな夜風が、二人の間を流れた。

 

「じゃあ、また明日ね。万里谷さん」

 

「はい、また明日」

 

 微笑み合う二人を、満ち足りない月が見守っていた。

 

 

◇◆◇◆

 

 

【二一世紀初頭、新たにカンピオーネと確認されたフランス人についての報告書より抜粋】

 

 ケルトの神王ルーは、数々の能力を持つ神格です。

 

 太陽神、光の神、戦いの神でありながら、知識、技術、医術、魔術(呪術)、発明、詩、音楽など、あらゆる技能に秀でています。

 

 ローマ神話のメルクリウスと同格に扱われ、更に、旅人や商品の神テウタテス、戦いの神エスス、雷神タラニスもルーの神格の一つとされています。

 

 シャルル=カルディナルとは、この神王ルーを殺害し、カンピオーネとなった者なのです。

 

 

【欧州魔術師名鑑――シャルル=カルディナルの項より抜粋】

 

 現在では『神獣の帝』と呼ばれる彼は、フランスの出身である。

 

 生後間もなく天涯孤独の身となった彼は、十歳の頃に神殺しに成功し、カンピオーネへと成り上がった。

 

 さて、ここまで読まれた読者は、この経歴を見てとある人物を思い出すと思う。……そう、サーシャ・デヤンスタール・ヴォバン侯爵だ。

 

 シャルル=カルディナルとヴォバン侯爵の境遇は非常に似通っている。しかし、彼とヴォバン侯爵には二つの違いがあった。

 

 一つ、彼には天涯孤独の身の頃から共に生きて来た、現在では彼の腹心であり、最年少の聖騎士であるアンヌ=メディシス(※詳細は別項『アンヌ=メディシス』を参照)が居た事。

 

 一つ、カンピオーネとなった彼は、『冥』の位を極めし魔術師であるカーター・オルドラ(※詳細は別項『カーター・オルドラ』を参照)と出会い、義理の親子となった事である。

 

 カーター・オルドラの許で多くの魔術を学び、また数々の神殺しを成功させてきた彼は、中欧を纏める魔術結社《漆黒真珠》を設立した。

 

 魔術結社《漆黒真珠》はフランスを中心に勢力を張る組織だ。

 

 構成員はシャルル=カルディナルを総帥、アンヌ=メディシスを副総帥に置き、カーター・オルドラの弟子達、地元フランスや周辺の国の魔術師、はたまた非魔術師の存在もあり、その形は『黒王子』の名で知られるカンピオーネ、アレクサンドル・ガスコイン氏の『王立工廠』に似ているだろう。

 

 その主な活動はフランスや周辺国の魔術界の統治であり、また裏表問わず犯罪者の取り締まりも、地元の警察と協力して執り行っている。

 

 

【魔術結社《漆黒真珠》より、グリニッジの賢人議会に提出された報告書より抜粋】

 

 先日、まつろわぬミカエルが顕れた事は諸兄ら賢人議会も知る所であると思う。

 

 かの天使は我らが王――シャルル=カルディナルがかつて相対したのだが、後僅かという所で逃げおおせられたのも知っているだろう。

 

 そしてかの天使はかつての傷を癒し、復活し、そして弑逆された。信じられない事かもしれないが、これは純然たる事実である。

 

 では、一体誰がかの天使を弑逆したのかということになるのだが、ここで我等《漆黒真珠》は王の勅命により、ある秘密を明かそうと思う。

 

 それは、現在明かされている八人のカンピオーネとはまた別のカンピオーネについてである。

 

 一般に、七人目のカンピオーネというのは五年前にケルトの神王ヌアダを弑逆し、『斬り裂く銀の腕』を簒奪したサルバトーレ・ドニ卿とされているが、これは真実ではない。

 

 何故なら彼よりも以前に、具体的には今から七年前にとある神を弑逆し、カンピオーネとなった少年が居るからだ。

 

 諸兄らは我等が王がとある時期、徹底的に情報統制を行っていたのを覚えているだろうか。

 

 王の謎の行動に数々の推測を立てられただろうが、その真実はその少年の為である。

 

 その少年はカンピオーネとなった当時、なんと齢九歳と非常に幼かった。

 

 そんな年齢で神殺しを成功させた事に才有りと見た王は、自身の義父であり《漆黒真珠》元帥であるカーター・オルドラ氏と、元帥の友人であり、また我等《漆黒真珠》と同盟関係にある日本の『民』の一派、《天元流》の当主、天原晃氏の協力を得て、少年の育成を買って出たのだ。

 

 ただし、諸兄らに誤解してもらいたくないのは、彼は王の配下ではなく、彼もまた『王』の一人である、という事だ。

 

 七年もの歳月を掛けた結果、少年は王の予想以上に成長し、まつろわぬミカエルを討つにまで至った。

 

 かの『王』の名は――吉良星琉。

 

 

◇◆◇◆

 

 

「こーれはまた、随分と突拍子もない展開になりましたねェ」

 

 六月の終わりに近付いたある日の午後八時前。どこか小洒落た雰囲気の部屋。その中央にあるソファに座りながら、三冊の書類に対ししかめっ面を浮かべながらそうぼやくのは、くたびれた背広を着た青年、甘粕冬馬だ。

 

 星琉がミカエルを討ってから暫く。賢人議会から発表された文書は魔術界を騒然とさせた。

 

 それも当然だろう。何せ、カンピオーネと呼ばれる存在がもう一人いたのだから。

 

「まさか、《天元流》が《漆黒真珠》と繋がっていただなんてね。御蔭で上はてんやわんやしてるよ」

 

 そう言って甘粕のぼやきに応えるのは、大仰なデスクに座る男装の麗人。正史編纂委員会・東京分室の室長にして、関東圏を掌握する重鎮、沙耶宮馨だ。彼女の顔には疲れの色が浮かんでおり、いつもの精彩を欠いているように見える。

 

「唯一の救いは、《天元流》が正史編纂委員会を乗っ取ろうとかそういう動きがない所ですか」

 

「いくつかの派閥は唆したみたいだけどね。まあ、そうなる事は滅多にないと思うよ」

 

 どこか自信のある様子の馨。不思議に思った甘粕は、彼女に問い掛けてみる。

 

「そこまで言い切るとは、何か根拠でも?」

 

「うん、まあちょっとした用事であちらさんの所に訪ねた事があってね。当主に聞いてみたんだよ。『天元流が正史編纂委員会に成り代わるつもりはないんですか?』って」

 

「ほうほう、それは思い切った事を聞きましたね。それで?」

 

 片手に酒でもあれば、クイッといくような様子で面白そうに聞く甘粕。

 

 馨は肩を竦めながら、どうもこうも、と切り出しながら答えた。

 

「『他の奴らを統治するのは面倒だ。オレには門弟だけで十分だよ。そういうのはお前達に任せる』だってさ。身構えてるこっちが馬鹿みたいに思える位、やる気のない回答だったよ。まあ、何処まで本気かは分からなかったけどね」

 

「へーえ、そうなんですか。馨さん、その《天元流》の当主ってどんな方なんです?」

 

 やる気のない回答、という事ですぐに興味をなくしたのか、次の質問をする甘粕。対する馨はげんなりした様子で答える。

 

「一言で言えば『化け物』だよ。二世紀も生きててなお腕が衰えていない。確実に日本最強の侍だ。もしかしたら、剣術だけなら世界一、と言っても過言じゃないかもしれないね」

 

「二世紀ですか……それは凄いですね。……ん? お爺さんなんですか?」

 

「いや、中性的な青年だよ。どうも彼は肉体年齢を若く保つ術を見つけたらしい。世の女性が知ったらどうなることやら」

 

「あなたも一応、その『世の女性』の一人なんですが……ま、瑣末事ですかね」

 

 まるで他人事の様に言う男性のような女性の上司に、呆れたような様子の甘粕。馨は特にそれを気にした様子もなく、話を続けた。

 

「そういえば、甘粕さんは知ってるかい? 正史編纂委員会が天元流を吸収出来ない理由を」

 

「はい? あちらの武力が強すぎるからじゃないんですか?」

 

 馨からの突然の問いに答える甘粕。彼の答えは天元流を知る者であれば誰でも知っているような回答なのだが……。

 

「うん、それもある。けど、それだけじゃない。ねえ甘粕さん、『虎の威を借る狐』って分かるよね。天元流に対しても虎の威を借りれば、吸収出来るかもって思わない?」

 

 馨の言う『虎』とは、正史編纂委員会の後ろに居るとある存在の事を指している。

 

 それを指摘された甘粕は、途端にそういえば、という表情になった。

 

「じゃあ何でそうしないのか。答えは単純明快、『意味がないから』だよ」

 

「……『意味がない』とは?」

 

「僕らの『虎』と同じ存在が天元流にも居るのさ。しかもそれは元から居たんじゃなくて、天元流の当主が幽世で偶然見つけて、正史編纂委員会に対抗する為に『虎』にしようと勝負を挑み、勝利を収め、そうなってもらったんだってさ」

 

 甘粕は開いた口が中々閉じなかった。というかなんだ、そのチートというか、もはやバグというべき存在は。

 

「……冗談ですよね?」

 

「もちろん、勝利云々は誇張表現だろうと思うよ。それだったら更にもう一人カンピオーネが存在する事になるしね。ただ確かに存在する事には変わりないんだ」

 

「何もせずにこのまま静観が正解というわけですか」

 

「そういうこと。薮を突かなきゃ蛇は出ないんだから」

 

「蛇っていうか、もしそうなら竜の逆鱗を突きそうですけどね」

 

 ハハハ、とお互いにひとしきり笑った所で、甘粕が立ち上がり、書類の束を馨のデスクにばらまいた。その書類とは数々の履歴書であり、どれもL判サイズのカラー写真がクリップで添付されている。

 

 写っているのは全て十代の若い少女達だった。大人っぽい娘、あどけない娘、快活そうな娘、垢抜けた笑顔の娘、大人しそうな娘と百花繚乱だ。

 

「で、どうします? 吉良さんは万里谷さんがいらっしゃるからいいとして、草薙護堂氏に送り込む人材は?」

 

「うーん、女の子相手ならある程度分かるんだけどね。男の子に関してはさっぱりだよ」

 

「……ですから、普通逆でしょうに」

 

 今日でもう二度目になる上司の性癖を使ったこのやり取り。二人にとっては『お約束』のような物だ。

 

 そんな風に二人でふざけ合いながら遊んでいると、甘粕のポケットから某有名アニメの主題歌が鳴り響いた。彼のスマートフォンの着信音だ。

 

「はい、もしもし、私です。……ああ、例の。はい、はい…………そうですか、やはり彼女に頼るしかありませんかねェ。あぁいえ、こちらの話です。報告、ご苦労様でした。もう誰にも触らせないようにしておいて下さい。後はこちらで何とかしますので。……はい、では」

 

「例の魔導書かい?」

 

 甘粕が通話を切った所で馨が話を切り出したのだが、彼はずっとスマートフォンをいじくり回している。

 

「ええ、今度は奇声を発しながら精神世界へ長期旅行だそうです。いやぁ、参った参った。これは祐理さんに頼るしかなさそうですねェ」

 

 軽薄な様子でそう言うと、彼はスマートフォンを耳に当てた。先程の会話からして、祐理に掛けているのだろう。

 

「もしもし、祐理さんですか? 甘粕です。夜分晩くにすいませんね。今、お話ししても大丈夫ですか? ……実はですね、折り入って頼みたい事があるんですよ。ルーマニアだかクロアチア辺りから流れてきたとかいう魔導書が見つかりましてね、本物かどうかパパッと鑑定して頂きたいなと。………………ははっ、またまたご謙遜を。魔術の本場であるイングランドや東欧でも、祐理さんを上回る霊視術師はいなかったと聞いてますよ。……ま、駄目で元々、軽~い気持ちで構いませんから、協力してくださいよ。……ええ、では明日の放課後、学校近くの喫茶店の『LEAFY』で落ち合いましょうか。……はい、それでは、お休みなさい」

 

 通話を終えて、スマートフォンを仕舞う甘粕。馨は右手で頬杖をつきながら、ある一冊の履歴書を左手でひらひらと弄んでいた。

 

「それで、何の話でしたっけ?」

 

「草薙さんに誰を送り込むのかって話。僕としてはこの娘がいいと思うんだけどな~」

 

 そう言って放り投げて渡すと、甘粕は珍しく引き攣った顔を見せた。

 

「か、彼女を選んだ理由は?」

 

「裏表がない。ここの家は沙耶宮の分家で、彼女には会った事があってね。冒険活劇とかが大好きな娘だから、純粋に草薙さんの冒険譚とか、まつろわぬ神との戦闘に興味があるんだと思う。他の娘達はほら、草薙さんの権力にも興味があるんだろうし、それは草薙さんにとっても望む所じゃないでしょ」

 

 なるほど、と甘粕は納得する。確かに、擦り寄って来る異性が金や権力目当てというのは印象が最悪だ。

 

 だがしかし、馨の人選には一つの問題があった。

 

「彼女、『西』の方ですけど、大丈夫なんです?」

 

「ま、『西』がどうのこうのはさほど問題じゃないよ。世代交代もしてきたし、いつか融和を図ろうとは思っていたんだ。彼女にはその先駆けになってもらおうかなってね」

 

 媛巫女の所属には、馨と甘粕の話題でも出たように、『東』と『西』の二つに分かれている。一応静岡を境界として、それより東か西かで分けているのだ。

 

 立場的には同じはずなのだが、何となく『東』の方が上のような雰囲気になっており、その昔は『西』の方が上の雰囲気だったのだが、江戸時代辺りから日本の中心が東方面になり、皇居も東京へと移転してから如実となったようだ。

 

 馨は常々それを払拭したいと考えていて、そんな彼女にとって『草薙護堂篭絡計画』に『西』の人材を登用するのはもってこいだった。

 

「というわけで甘粕さん、彼女にしよう。今の時期じゃ中途半端だから、草薙さんの学校で二学期が始まった頃にしようかな。衣食住の手配、任せたよ」

 

「はいはい、分かりましたよ。明日は魔導書の件、浜離宮恩賜庭園や吉良さんの事、他にも仕事があるというのに、人使いの荒い上司ですな」

 

「なに、甘粕さんが使えるのが悪いのさ」

 

 甘粕の持つ履歴書。そこには、焦げ茶色の髪をボブカットにした、快活ながらも家庭的な雰囲気を漂わせる美少女の写真があった。

 

 ――名前:絹臣(きぬおみ) 美由(みゆ) 年齢:一六歳 現住所:三重県鈴鹿市山本町○丁目××-× 備考:椿大神社(つばきおおかみのやしろ)に務める『西』の媛巫女。『民』である《天元流》で武術を修め、封印術に長けている。――

 



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三 唸る老翁

「所で祐理さん。吉良さんとはその後、どんな感じですか?」

 

「はい?」

 

 草薙宅を訪れた翌日。祐理は約束通り待ち合わせ場所に迎えに来た甘粕の車に乗って、仕事へと向かっていた。先の質問は、その道中で運転席にいる甘粕が唐突に問うたものだ。

 

 しかし、助手席にいた祐理はその意図が読めず、首を傾げる。

 

「ですから、件の大魔王殿と祐理さんの個人的関係ですよ。 どうですかね? 二人きりの部室でイケナイイベントがあったり、帰り道に嬉し恥ずかしな展開になってたりしませんかね?」

 

「……甘粕さん、あなたが何を確認されたいのか、ちっともわかりません」

 

 にべもなく切り捨てる祐理に、甘粕は言い訳するかの如く言葉を並べた。

 

「いえね、吉良さんとはビジネスライクな関係を築くということで落ち着いてはいるんですが、もう一人の大魔王殿である草薙護堂氏に関しては試行錯誤している最中でして。その参考にさせてもらおうかと」

 

「私と吉良さんの個人的関係が、委員会の方針に影響するのですか?」

 

「します。大いにしますとも」

 

 いつになく真面目な様子で言う甘粕は、車を首都高に入れて、渋谷方面へと向かわせる。空は若干曇りだし、雨が今にも降り出しそうだ。

 

「……ぶっちゃけて言えばですね、私たちは草薙護堂氏と敵対関係になりたくありません。いざとなれば吉良さんに泣き付くつもりではあるんですが、彼との関係はとても希薄です。『依頼を請けたくない』と言われてしまえば、私たちにはなす術もありません」

 

「……そうでしょうか? 私には、吉良さんがそういった脅威からの守護を断られるとは思えません。こちらに非が無ければ、ですが」

 

 少しだけ、語気を強めて断定口調で言う祐理。対して甘粕は、「そうだと良いんですけどねェ」と苦笑しながら返した。

 

「出来れば、十分に親密な関係を保ちつつも、彼の行く末――この先どのような魔王に育つか見極めがつくまで、最終的な関係の構築を保留したい。そんな虫のいいことを我々は目論んでまして」

 

 甘粕たち正史編纂委員会が、何故これほどまでに慎重な対応を採っているのか。

 

 これが欧州であれば話は別だ。あちらでは幾人ものカンピオーネと共存してきた歴史があり、どのような対応を採ればいいのか、過去が教えてくれるからだ。

 

 しかし、彼らはこの二十一世紀に到るまで、一度も自国に誕生したカンピオーネと接触したことがない。それ故に、正史編纂委員会は真っさらな状態で共存の方法を探すしかないのだ。

 

「で、いざという時の為に、彼と親密な交友関係の下地も作っておきたいわけです。……この辺りは、最初に草薙護堂を発見した《赤銅黒十字》が実に上手い手を打っています」

 

「エリカさんの所属する結社が、ですか?」

 

 思い当たる節のない祐理が不思議そうに確認して返すと、甘粕は悔しいのかそうでないのかよくわからない調子で答えた。

 

「はい。結社の幹部候補を個人的な愛人として送り込んで、公的には無関係なのに彼の能力を存分に利用しています。あれは狡くていい方法です、ほんとに」

 

 ――愛人!?

 

 甘粕が何を言いたいのかを理解し、祐理は声を荒げて糾弾する。

 

「あなた方はエリカさんのような人を、更に増やすおつもりなのですか!?」

 

「神様の権能を持つ大魔王といっても、所詮は若い男の子ですからねー。そんな若人は、可愛い女の子でたぶらかすのが一番確実です。これぞ古典にして王道。ほら、旧約聖書に士師サムソンを陥れた美女デリラの話があるでしょう?」

 

「聖書を引き合いに出して誤魔化さないで下さい!」

 

 へらへらと軽薄に笑う甘粕に、憤慨の態度を示す祐理。いや、この場合は甘粕のみならずそういう指針の委員会に対してか。

 

 顔も知らない美少女が草薙護堂に纏わり付き、彼の好意を得ようと媚をうる。そんな場面を想像して、反吐が出るような思いになった。自分ならば絶対にやらない。

 

 そんな風に考えていると、想像の中で草薙護堂が吉良星琉になり、顔も知らない美少女は祐理自身に変わった。

 

 そうして、急に不安に駆られる。もしかしたら星琉には、自分がそういう目的で近付いているように見えるのだろうか、と。

 

「どうしました? 急に黙り込んでしまって」

 

「あ、いえ……何でもありません」

 

 気遣うように声を掛ける甘粕に対し、そんな気のない返事を返す祐理。

 

 それからはずっとその事を考えてしまって、車内は目的地に着くまで無言であった。

 

 

◆◇◆◇

 

 

 青葉台の閑静な一角にある公立図書館。そこが今回の目的地だ。

 

 関係者以外の入館、利用は一切認められておらず、そもそも近隣の住民はこの施設がどういったものかはっきりとは認知していないらしい。

 

 時折見掛ける人影は、全て正史編纂委員会の関係者だ。そんな場所に、祐理は甘粕の案内で足を踏み入れる。

 

 図書館としては、とても在り来りな造りだ。

 

 規則正しく街路樹のように立ち並ぶ本棚と、そこに敷き詰められた万の書物。

 

 しかし、そのいずれも普通の書物ではなく、魔術や呪術について記された専門書――魔導書や呪文書、それらの禁書の類ばかりだ。ここは、そういった危険な叡智の結晶を世間から秘匿し、隔絶し、管理する為にあるのだ。

 

「青葉台の『書庫』……話には聞いていましたが、来るのは初めてです」

 

「用がなければ来る必要のない場所ですしねー。じゃ、少し待っていて頂けますか。問題の(ブツ)を持ってきますので」

 

 そう言って、甘粕は図書館の奥へと入って行った。

 

 二階にある広い閲覧室で待たされる事になった祐理は、なんとなく辺りを見回す。人がほとんどいない事を除けば、特におかしな所のなさそうな場所である。

 

 しかし、棚に並ぶ数多の書物から溢れ出している怪奇の気を、祐理の霊感は如実に感じていた。

 

 未知に対する恐怖を少し感じながらも、今は魔導書に対する好奇心が勝り、祐理は書棚の木々を探索し始める。

 

 本の題名の多くは、英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、ヘブライ語等の横文字ばかりだ。日本語で書かれた書籍は、ぱっと見で三割にも満たない。

 

「……あら?」

 

 そんな中で一つ、背表紙に何の文字も書かれていないという奇妙な本を見付けた。邪悪な気配は感じられなかったので、本の縁に人差し指を掛けて抜き出す。

 

 それは、黒い革表紙の本だった。表にも裏にも題名は書かれておらず、中を見ると白紙ではなく、黒く塗り潰された頁ばかりだ。

 

「どういう書物なのかしら……」

 

 祐理がそう呟いた瞬間、ちくりと何かが刺さったような痛みが走る。そして突然、開いていた頁に日本語で文字が浮かび上がった。

 

――汝、我が叡智を学ぶに相応しき者なり。願わくば、汝がこれを正しき為に用いん事を――

 

「え……きゃっ!?」

 

 少しすると文字が消え、本がひとりでに閉じていく。そうして右側を背にして表紙まで戻ると、黄金の文字でタイトルが浮かび上がった。

 

 ――『霊典・幽現目録』――

 

 それが本の題名だった。著者はカーター・オルドラ。

 

 魔術や呪術の秘奥について記述された書物。その中には時を経る内に自ら魔力を蓄え、希少ではあるが意思を持つにまで至った『特別品(スペシャル・ワン)』も存在するという。

 

 おそらくこれもそういった逸品の中の一つなのだろうが、今のは一体何だったのだろうか?

 

 そうして混乱の中にいると、甘粕が件の魔導書らしき本を携えて戻って来た。

 

「お待たせしまし……どうしたんですか?」

 

「あ、甘粕さん……これが……」

 

 少しおどおどとした様子で『霊典・幽現目録』を差し出す祐理。

 

 触れてはいけないと特に言われた訳ではないのだが、勝手に文字が浮かび上がってしまったのは問題があるだろうと思ったのだ。

 

 しかし、甘粕の応対は彼女の予想外のものであった。

 

「ああ、これですか。余程高名な魔術師が書いたのか、とても強い力が秘められている事は分かっているんですが、何が書かれているのかはさっぱりなんですよ。水に浸しても火であぶっても、うんともすんとも言わないんです」

 

「え……?」

 

 甘粕の言いようでは、彼にはこの黄金の文字が見えていないように思える。不思議に思って魔導書にもう一度目を移すと、確かにそこに黄金の文字は綴られていなかった。

 

 では、さっきの現象は一体何だったのだろうか?

 

「ま、祐理さん程優れた霊感を持つ方なら善い物と悪い物の区別がつくとは思いますが、これからは余り不用意に触れないで下さい」

 

 問い質す間も与えられず、本は甘粕の手によって元の位置に戻された。

 

 浮かんだ文字の事を伝えようとした祐理だが、甘粕はそんな彼女に気付かず、自分の話を進める。

 

「それでですね、視てもらいたいのはこれなんですよ。強力な守護の呪文で守られていまして、無理に読もうとするとイヤ~な事態になるので、誰も鑑定出来ないのです」

 

「……嫌な事態、ですか?」

 

 一先ずあの魔導書の事は置いておいて、鑑定が終わってからもう一度言う事に祐理は決めた。そうして、甘粕に話の続きを促す。

 

「はい。部屋の隅で踞って他人には見えないエンゼルさまと会話したり、アバババババとか奇声を発しながら精神世界への長期旅行に旅立ったり」

 

「そんな危険な本を人に鑑定させないで下さい!」

 

 唐突に告げられた相当重要な情報に、祐理は冷や汗を掻きながら苦言を呈した。

 

 しかしそれも当然である。そんな危険とわかっている物に、誰が好き好んで関わりたいものか。

 

「大体それほど危ない術で守られているのなら、かなり強力な魔導書と見て間違いなさそうじゃないですか! 鑑定の必要はないと思うのですけど……」

 

「ああ、そこで人間の欲は怖いという話になりまして。何て事のない魔導書もどきに強い守護の術をかけて、いかにも稀少本ですって感じに見せて高く売り付ける手口があるんです。なぁに、祐理さんなら本を読まなくても鑑定出来るから大丈夫ですよ」

 

 曇りのない笑顔で無責任な事を宣いながら、甘粕はテーブルに革で装丁された薄めの洋書を置いた。

 

 ――『Homo homini lupus』――

 

 どうやら、ラテン語で書かれた物のようだ。装丁の傷み具合や紙の質感などから、少なく見積もっても百年以上は前の古書のように見受けられる。

 

「もしこれが本物ならば、一九世紀前半のルーマニアで私家出版された魔導書になります。その昔、エフェソスの地で密かに信仰された『神の子を孕みし黒き聖母にして獣の女王』の秘儀について記した研究書で、読み解いた者を『人ならざる毛深き下僕』に変えてしまったと言います。ま、狼や熊辺りが定番ですかね」

 

 つらつらと流水のように薀蓄を披露する甘粕。祐理はその中にあった彼の微妙な含みを持たせた物言いに気付き、問い質す。

 

「変えてしまったと言われますと読み終わった時には姿形が変わり果てていたように聞こえるのですが……。それだと、魔導書というより呪いの本のような――」

 

 恐る恐ると、出来れば外れていて欲しいという思いを込めてそう言った祐理だが、甘粕は感心して、爛々と目を輝かせながら大きく頷いた。

 

「おお、鋭いですね。正解です。これ、魔術の伝道書にして、狼男を次々と増殖させる呪詛が込もった呪いの魔導書なんです。ですから、本物ならかなりレア物なんですよ!」

 

「そんな事を嬉しそうに言わないで下さい!」

 

 もしかしたら甘粕はそういった物に興味のあるオカルトマニアなのかもしれないが、流石に不謹慎である。

 

 ともあれ、これは祐理に与えられた仕事なのだ。しっかりと責務を果たさなければ……そうして、早く帰ろう。

 

 そんな風に考えながら、魔導書と向き合う。霊視を得る為に精神を研ぎ澄ませ、心を空にしながら。

 

 得られるイメージは、鬱蒼とした森に住まう魔女、それを崇め奉る獣達。――その中でも存在感を一際感じさせるのは、狼、熊、鳥……。

 

「これは、呪いの書などではありません……読み手に十分な見識があれば、この本に秘められた力に侵されず、知識だけを獲得する事が出来るはずです」

 

 霊視によって、この魔導書の存在定義を漠然とだが理解した祐理は、夢現な様子でそう呟き続ける。

 

「姿形を変容させるのは、呪詛ではなく試練――資格無き者が紐解かぬようにする為の仕掛けなのです」

 

 断定口調でそう言う祐理に、甘粕は感心した様子で納得したように頷いた。

 

「ははあ。つまり、これは本物だと。一目で見抜くとは流石ですね」

 

「たまたま分かっただけです。次もこう上手くいくとは限りませんから、あまり当てにしないで下さいね」

 

 そんな風に念を押しつつ、祐理は自分の霊視の精度が向上している事に気付いていた。

 

 この魔導書の事を深く理解出来ている。表面上の部分であれば、全て理解したと言って良いほどに。

 

 一体何故、と疑問に思っていると、不意に甘粕が消えた。

 

 いや、それだけではなく、周りに犇いていた本棚も、霊視していたあの魔導書も消え失せ、祐理はただ一人真っ暗闇の空間に投げ出されていた。

 

 湿度の高いじめじめとした空気。思うにここは、洞窟であろう。

 

「これは……幻視? あの魔導書のせいかしら?」

 

 驚きはしたが、取り乱す様な事はなかった。そう多くあることではないが、強大な呪力を秘めた物や存在――あの魔導書やまつろわぬ神などに接触した直後、祐理は霊視が高じて幻視する事があるのだ。

 

 祐理の視界に、蠢く何かが映り込む。そちらに意識を向け、闇の中で見えにくかったので目を凝らそうとした瞬間、まるでその闇に慣れたかのように視界が明瞭になり、焦点が自然と定まった。

 

 それは鼠のように見えた。徐々に徐々に大きくなっていき、やがて鼠としては有り得ない程の体躯となった。しかしそれも当然だ。鼠は既に鼠ではなく、犬――否、狼となっていたのだから。

 

 狼は一つ遠吠えすると、四つ脚ではなく二足で直立するようになった。これは、人狼の姿である。

 

 どうしてこんな幻視を? あの魔導書に接触したせいなのだろうか?

 

 そんな風に祐理が疑問に思っていると、人狼はゆっくりと歩みを進めて暗闇の洞窟から地上へと抜け出した。

 

 そうすると、大蛇を見つけた。人狼は勢い良く襲い掛かり、牙で噛み付き、爪で切り裂き、蹂躙して殺戮する。

 

 その後、頭上に天高く輝く太陽へ求めるように手を伸ばす。

 

 果たして、人狼はその光輝なる灼熱の恒星を、素手で掴み取ってしまった。その上、それを己が物にせんと、支配する事を指し示すかのように呑み込んでしまう。

 

 そうして人狼は、一人の老人へとまたもや変貌した。そしてそれは、かつて祐理が対峙したことのある人物。カンピオーネと判断出来るきっかけになった人物。

 

 長身痩躯、彫りの深い、理知的な面差し、そして何よりも印象的な、エメラルドを直接嵌め込んだような双眸。

 

 東欧と南欧を支配する古参のカンピオーネ。だというのに、老いを全く感じさせない魔王は輝く邪眼を祐理に向け、目的の獲物を前にしたかのような獰猛な笑みを浮かべる。

 

「――ヴォバン侯爵!? そんな、あなたが何故!?」

 

 極寒の地に身が晒されたような、心臓が鷲掴みにされたような恐怖が祐理を襲った。

 

 しかしその直後、祐理の目の前に先程の漆黒の本が現れて独りでに開くと、その頁から闇が溢れ出し、一人の人間の形を成して、祐理を守護するかの如く古きカンピオーネに立ちはだかる。

 

「吉良……さん……」

 

 心の奥底で生まれた確かな安堵を感じながら、祐理は意識を手放した。

 

 

◇◆◇◆

 

 

 次に祐理が目を覚ました時、そこは見慣れた七雄神社の社務所の自室であった。

 

 ――ひどく喉が渇いている。まるで数日間、ずっと何も飲まなかったかのように。

 

 汗で濡れた白衣と袴に不快感を覚えながら、乱れた髪の具合を直し、何か飲み物を求めて台所へ向かう。この社務所はその気になれば生活基盤を築く事も出来る作りで、有事の際には寝泊まりすることもあるのだ。

 

 祐理が台所へと向かうその途中、何処かで見たような草臥れたスーツが目に入った。甘粕だ。

 

「ああ、祐理さん。よかった、目を覚まされましたか。何か、体調に異常は?」

 

「特におかしなところは、何も――。私はあれから、どうなったのですか?」

 

 祐理がそう尋ねると、甘粕は苦笑して、やれやれといった仕草を見せながら、説明してみせた。

 

「例の魔導書を霊視して頂いた直後、急に意識不明に陥られましてね。慌てて七雄のお社まで連れ帰った次第です。……いやはや、宮司や権禰宜にもたっぷり叱られてしまいました。畏れ多くも媛巫女様に何をさせているんだ、と。ご迷惑をお掛けしました」

 

 そう言って頭を下げる甘粕。今の彼にはいつもの飄々とした様子は無く、誠意の篭った謝罪だと伺えた。

 

 しかし、頭を上げた次の瞬間には先程の誠意篭った姿勢は何処へやら、興味深そうな様子で祐理に尋ねる。

 

「それはそれとして、あの時様子が変でしたけど、何かとんでもないモノでも視えたんですかね?」

 

「っ! そう、ですね……。奇妙なものは視えました」

 

 咄嗟に祐理の口から出たのは、そんな曖昧な言葉であった。

 

 カンピオーネの一人であるヴォバン侯爵を霊視するなど、只事ではないはずだ。しかも、かの魔王と出会ったのは四年も前の話であるし、東欧由来の魔導書を霊視したせいで記憶が甦ったのか、はたまた別の要因か、祐理自身何故彼の者の姿を幻視したのか、理解出来ていない。

 

 だが、軽々しく話すべきではない事は理解していた。ヴォバン侯爵の名を出せば事が大きくなり過ぎるのは、火を見るよりも明らかであるからだ。

 

「ですので、可能であれば念の為、 もう一度あの魔導書を視たいのですが……。よろしいでしょうか?」

 

 祐理がそう尋ねると、甘粕は難しそうな表情を浮かべながら、仕方ないとでも言うように苦笑して答えた。

 

「うーん、また何かあったら宮司達の雷が落ちちゃうんですがねェ……。ま、いいですよ。元々祐理さんを巻き込んだのは此方の都合ですし、祐理さんが協力して下さると言うのなら、拒む理由もありませんからね。……さて、祐理さんの無事が確認出来た所で、私も失礼しますか。今日はお疲れ様でした」

 

 祐理が礼を言う間も無く、とっとと帰って行った甘粕。そんな彼に一瞬呆気にとられるも、そういう人だったと嘆息する。

 

 お風呂に入って、今日はもう寝てしまおう。

 

 胸の奥底で燻る小さな不安を押し込めて、祐理はそう思った。

 

 

 ◆◇◆◇

 

 

 同時刻、東京都某所。

 

 かつてとある華族の別邸であったという美しい日本庭園の中に、そのホテルは建っていた。

 

 そのホテルの庭園内に造られた、別棟である伝統様式の日本家屋風のスイート。天婦羅や刺身などの、日本を代表する和食の献立が並ぶテーブル。そこに、明らかに日本人ではないであろう二人の男女がいた。

 

 男女と言っても恋人や夫婦などでは無く、外見上は祖父と孫という関係がピッタリ当てはまる様子だ。その実態はそんな和やかなものとは程遠いものであるが。

 

「所でクラニチャールよ、例の巫女の消息は掴めたかね?」

 

 二人の内の一人、酒杯に注いだ日本酒を手酌で飲み干す人物が、銀褐色の髪を一つに束ねた少女に問い掛ける。

 

 彼の者の名は、サーシャ・デヤンスタール・ヴォバン。『ヴォバン侯爵』と人は呼ぶ。世に九人しか存在しない神殺し――カンピオーネの一人であり、恐らくは300年以上生き続けていると考えられている魔王だ。

 

 彼の声音は重く落ち着いた様子を窺わせ、広い額と落ち窪んだ眼窩、日焼けした様子のない蒼白い肌、銀髪はただ老いを感じさせるのではなく、積み重ねた年月の重みをも言外に伝える。それらが相俟って、何かしらの分野の教授と言われても全く違和感が無いだろう。

 

 だがしかし、その本質は全くの真逆である。

 

 そもそも何故、ヴォバンは日本に居るのか。その理由からして知的な外見を大いに裏切っているのだから。

 

 その理由というのは、かつて世界中の巫女を集めて行った『神の招来』――まつろわぬ神を現世に招来する大魔術を再び行う事。その為に必要な人材を、以前の微かな記憶を頼りに日本を訪れていたのだ。そう、万里谷祐理を求めて……。

 

「いえ。申し訳ございませんが、未だ消息は掴めておりません。お許し下さい」

 

 頭を垂れながら、クラニチャールと呼ばれた少女――本名リリアナ・クラニチャールはそう告げた。

 

 彼女の所属は、エリカ・ブランデッリの所属する《赤銅黒十字》とライバル関係にある魔術結社《青銅黒十字》である。

 

 何故彼女がヴォバンの隣に侍っているのか。それは、彼女の祖父と、エリカ・ブランデッリ、草薙護堂が原因だ。

 

 新たに新生した八人目――否、人目のカンピオーネ、草薙護堂。その愛人の座にライバル関係にある《赤銅黒十字》の幹部候補であるエリカ・ブランデッリが就いた事で、リリアナの祖父は大いに対抗心を刺激され、孫娘を別の魔王に差し出す事で対等に立とうとしたのだ。

 

「……ふむ、そうかね。まあ構わぬよ。どうやら運良く、小鳥の方から籠の中へ飛び込んできた所でな。少し糸を手繰り寄せれば、どうとでも居場所は突き止められそうだ」

 

 祝いの席の時に使われるような大振りな酒盃を煽りながら、ヴォバンは唇の端を吊り上げる。

 

 彼の妙な――詩的な言い回しに眉を顰めるリリアナだったが、ヴォバン自身が何故そのように言ったのかを明かした。

 

「つい先程の話だがね、何者かがこのヴォバンを幻視していたのだよ。何が切っ掛けとなったかは知らぬが、この私の気配を霊感により探り当て、常ならぬ者を見通す眼力によって霊視したわけだ。――大した巫力だと言えないかね?」

 

 そんなヴォバンの様子に戦慄するリリアナ。彼女はカンピオーネの異常性について、幾つか風の噂で聞き及んだ事がある。

 

 その一つがカンピオーネは総じて並外れた直感力により危険を察知し、その動物的な本能によって神の気配を感じ取る、というものだったのだが、まさか自分に対して行使された霊視術を見破るなど、聞いたこともなかった。

 

 並大抵の……いや、たとえどれだけの才能があったとしても、霊視術を見破るなど人間には出来ないだろう。この老人の能力は、一体どこまで規格外なのか……!!

 

「そやつが探していた巫女かは知らぬがね。それだけの巫力を持っているのだから、捕らえれば十分、私の役に立つだろう」

 

 くつくつと微笑しながら、ヴォバンは水でも飲むように酒を呑み干し、無造作に食物を喰らっていく。食べ合わせなど、全く気にした様子も無い。彼にとって食事というのは、自身に必要な動力源を供給するための『作業』でしかないのだ。

 

「さて、クラニチャールよ。どうやら君は探し物が苦手なようだから、誰に探索を任せようか? ……やはり、この手の仕事は魔女に限るかな。――マリア・テレサよ、来るがいい」

 

 ヴォバンの呼び掛けに呼応して現れたのは、黒いつば広の帽子を目深に被り、同じく漆黒のドレスを纏った、一般的な魔女に対するイメージを体現した格好の女性の……死者。

 

 これこそがヴォバンの権能の一つ、『死せる従僕の檻』。自らが屠った人間の魂を現世に縛り付け、生きる屍として絶対服従させる権能。

 

「かつて魔女なりし死者よ。この私を幻視してみせるほどの霊視術者だ。居場所を探るのはさして難しくもあるまい。生前の技を駆使して、見つけ出してみせろ」

 

 この命令に、マリア・テレサは生気の無い蒼白の顔を、錆びた機械人形のようにぎこちなく縦に振って応え、姿を消す。

 

 ヴォバンに狙われた少女の未来を憂い、リリアナは深くため息をついた。




活動報告にてご意見募集中。この後のお話についての事なので、よろしければ皆さんの声をお聞かせください。


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四 流星に願いを

 翌日、普段通りに学校生活を送った祐理は、真っ直ぐ七雄神社へと向かって、社務所で巫女服へと着替えていた。今日はまたあの書庫に行くが、同時にこの場所での仕事もあるからだ。

 

 そうしていると、聞こえてきたのはスマートフォンの着信音。発信者は甘粕だ。祐里は画面をフリックして応答する。

 

「もしもし、万里谷です」

 

『ああ、祐理さん。こんにちは、甘粕です。突然なんですが、私の方で野暮用が入りまして、送迎と案内に関しては代わりの者を向かわせました。今しばらくお社の方でお待ち下さい』

 

「分かりました。わざわざありがとうございます」

 

『いえいえ、これも必要な事ですから。それでは』

 

 

◇◆◇◆

 

 

 それから一時間後、つい先日訪れた青葉台の図書館前に到着する。

 

「では、一先ず私はこれで」

 

「ありがとうございました」

 

 祐理が頭を下げた後、彼女を送り届けた委員会の者が車を走らせて行く。それを見送ってから祐理は図書館の中へと入っていった。

 

 ……なんだか嫌に静かだと祐理は感じた。

 

 元々が図書館であるのだから、静かなのは当然だ。けれど、今この静寂というのは図書館の持つ穏やかな静寂ではなく、何か得体の知れないものが潜んでいるような、そんな不安を駆り立てるような静寂だ。

 

 受付のロビーに辿り着いた。ここには昨日、正史編纂委員会の職員が退屈そうに欠伸を噛み締めながら座っていたのを覚えている。部外者の入館を禁止し、時には実力行使で排除する為の門番のような役割を背負っているからだ。

 

 が、今ここにその職員の姿は無かった。休憩をしているのだろうかと祐理は思ったが、確か昨日は二人の職員が座っていたはず。二人ともが同時に休憩を取るとは少し考えにくい。

 

 違和感と焦燥感に駆られながら、それでも祐理は図書館の奥へと進んで行く。

 

 広い廊下、一階の閲覧室。行けども行けども人は見当たらない。

 

 ここで祐理はある事を思い出した。そういえば、甘粕は自分の代わりの案内人を用意してくれると言っていなかっただろうか。だが、祐理を出迎える人間は一人もいなかったはずだ。

 

 不安と孤独に締め付けられる胸の痛みから逃げるかのように、祐理の歩みは自然と足早になる。

 

 一階の本棚の木々の間を隅から隅まで巡る。けれど、それでも人の姿は全く見当たらない。

 

 階段を駆け上がって二階に向かい、また暫く探して漸く人影を見つけた。その事に安堵して声を掛ける祐理。

 

「あの、すみません。今日は一体どうなさったのですか? どなたの姿も見えませんでしたので、驚いて……しまい……」

 

 挨拶の言葉を述べていた祐理の口がどんどん窄んでいって、それに比例するように目は見開かれていく。

 

 祐理が見つけたその人物は文字通り真っ白で、まるで雪の彫像のようだった。顔も手足も胴も、身に着ている衣服でさえも、何もかもが。

 

 これは……塩だ。かつて神の怒りによって滅びた都を省みた者は、塩の柱と化したという。

 

 今、祐理が見つけた人物もそうだ。以前は三十代前後の男性だったはずの人間は、既に物言わぬ命無き塩の塊でしかないのだ。

 

 昨日と同じ……いや、それ以上の恐怖が込み上げ、見えぬ何かから逃げるように走り出した。

 

 入口へ、この図書館から抜け出して、そして――

 

「すまない、万里谷祐理……」

 

 そんな謝罪の言葉が聞こえた後、身体に衝撃が走り、意識が遠退いていく。

 

「助……けて……」

 

 気を失って倒れた彼女の身体をリリアナが持ち上げる。無論、ヴォバンの所へ連れて行くためだ。

 

 そんな彼女の表情は苦渋に満ちている。果たしてこれが、民草を守る『騎士』のするべきことなのだろうか、そう表れていた。

 

「《…………》」

 

 そんな中で誰にも気づかれないまま、一冊の本が静かに闇に融けて消えた。

 

 

◆◇◆◇

 

 

「またな、星琉」

 

「また明日ねー!」

 

「うん、またね。正敏、御崎さん」

 

 翌日、星琉は校門前で正敏と綾に別れの挨拶をしていた。今日も何事もなく平和な一日だった。ある一点の異常を除けば。

 

「万里谷さん……どうしたんだろう?」

 

 万里谷祐理の欠席。それも、彼女の性格からは少し考えにくい無断欠席だ。

 

 もしかしたら連絡出来ない程に具合が悪いのかもしれないと思った星琉は、お節介かもしれないと思いつつも彼女の家を尋ねようと思い至った。

 

「……!!」

 

 だが次の瞬間、彼は空間の異常を感じ取って身構える。

 

 そうして目の前に現れたのは一冊の黒い本。星琉はその本に見覚えがあった。

 

「先生の魔導書……?」

 

 それはかつてのある日、先生と慕うカーター・オルドラが直筆で著したという、世界に数冊しかない意思ある魔導書。それが何故こんな所に?

 

 そんな風に疑問に思っていると、魔導書が独りでにそのページを開き、文字を浮かび上がらせて訴え掛けた。

 

 ――我が創造主の弟子であり、神殺しである吉良星琉よ。どうか我が見初めし主を救って欲しい――

 

「主……?」

 

 ――我が主の名は万里谷祐理。今は彼の古王、サーシャ・デヤンスタール・ヴォバンによって囚われの身となっている――

 

「なっ……万里谷さんが!?」

 

 魔導書がすいっと空中を滑って星琉の手に収まると、彼は何処とも知れない場所を幻視した。

 

 不気味な程静かな雰囲気の建物。照明の落とされた奥の場所。そこに、恐怖に震える彼女と、それを鳥籠の中の鳥でも見るかのような眼差しを注ぐ老人がいる。

 

 現実に引き戻された。星琉は手許の魔導書に目を向けて言う。

 

「道中の案内は任せた」

 

 ――承知――

 

 呪力を練り上げ、自らを強化し、隠蔽する闇夜の影を纏う。

 

 戦闘態勢に入った星琉は、やや曇り始めた空を睨みながら、力強くコンクリートの地面を蹴って空中を駆けた。

 

 

◆◇◆◇

 

 

 ふわりと木の葉が舞い降りたかのように重さを感じさせない着地をした星琉。彼の目前には、祐理が囚われているという図書館がそびえ立っている。

 

 魔導書からの情報によれば、それは数多の魔導書が納められている事を除けば唯の図書館のはずだ。 

 

 だが、星琉は感じている。その異様な空気を……その圧倒的な存在感を……。

 

「……()るな」

 

 誰ともなしにそう呟く。その言葉にはただただ冷徹さのみが備わっており、或いはそれは、星琉が自身を奮い立たせるための、意識を切り替えるためのスイッチだったのかもしれない。

 

 星琉の心の変化に伴い、脳が彼の肉体を万全な戦闘態勢に整える。

 

 感覚を鋭敏に、感覚を愚鈍に。その場の状況を的確に把握し、最も必要な、最も適した存在へと肉体の構成を変化させる。

 

 これはカンピオーネとしての能力ではなく、天元流のごくごく基本的な業。天元流の者であれば誰しもが習得している技術。故にその精度の差によって実力が如実になる業。

 

 ――外界と適応する。それはつまり、自分自身(内界)に適応させるのと同値だ。お前のその異常な精度の高さは、ともすれば自己中心的ともいえる才能だよ。

 

 かつてそう星琉に言い放ったのは、彼の師であり、天元流当主の天原晃だ。彼の言うとおり、中でも星琉は外界に対する適応能力がずば抜けて高かった。

 

 故に理解出来る。把握出来る。この奥に居る存在がどれほど強大で、どれほど埒外で――どれだけ似通い、対等なのかを。

 

 視力や聴力の向上、体温を恒常的に保つなど、雨降る空の夜に十分適応した。

 

 《墜天》が漆塗りの鞘に納められた状態で星琉の左側の腰に現れる。対して右側には、白塗りの鞘に納められたファルシオンが現れる。

 

 戦闘準備は整った。能面のように表情を消し去った星琉は、確かな足取りで図書館の中へと入って行く。

 

「――っ!」

 

 一瞬だけ顔をしかめたものの、直ぐに無表情に戻る星琉。この図書館に侵入した瞬間、彼は此処が敵陣であると再認識していた。

 

 『苦しい』と感じた。『憎い』と思った。『重み』を背負わされた。『辛い』と動悸がした。この世ならざる者達が、この図書館全体に犇いていると――星琉にとって敵である者達が蠢き潜んでいる事を敏感に察知したからだ。

 

「二人……」

 

 星琉が図書館のエントランスから少し奥に足を踏み入れてそう呟いた瞬間、擦り切れた着衣とターバンを纏い、片手に海賊刀を持った人影と、幅広の長剣を両手持ちにした鎧騎士が突如として現れ、星琉を襲う。

 

 しかし、星琉はそれを確と把握していた。そして彼らこそが、星琉が敵陣であると再認識した原因そのものでもある。

 

 ターバンを巻いた人物の顔は青白く、頬はこけ、瞳は茫洋としていた。つまり、死相を浮かべていたのだ。鎧騎士は兜で顔が隠れている為にその表情は伺えないが、恐らく同様のものであろうと星琉は推測する。

 

 彼らには生気や覇気、或いは『存在感』というものがあまりにも微弱で、かつ余りにも場違い(・・・)なように感じるのだ。

 

 無意識に下唇を噛み締め、力強く床を蹴り出す。

 

 

 ――疾式(としき)・『颶渦太刀(くかたち)』――

 

 

 襲撃者達が各々の武器を振り下ろし切る暇さえ与えず、星琉は彼らの脇を一瞬の間に駆け抜ける。――蒼黒の刀と黄金の剣を抜き打って。

 

 直後、塵芥と散る死者達。彼らの居た場所には小さな竜巻が渦巻いていた。

 

 星琉がした事は、ただ彼らの辺りの空間を斬り裂いただけ。彼らには触れてすらおらず、悪く言えば空振っただけだ。

 

 だが、その一閃によって起こった旋風を、星琉は霊気の操作によって竜巻の域にまで威力や風速を転換し、幾重もの風の斬戟へと昇華させて死者達を滅ぼした。

 

 これこそが『疾式・颶渦太刀』。自然現象である鎌鼬を参考にした、威力としてはそれの倍以上である剣術の一つ。

 

 ちなみに、この『疾式』という式は式人の証であり、『四元式』とは全く違う独自の式――特式の一つだ。星琉はこの式の正当な式人ではないが、当主である天原晃から教授され、会得している。その天原晃も『疾式』の式人ではないのだが……今は捨て置こう。

 

 先の戦闘、正確には死者達によって、星琉はこの先で待ち構えている人物を特定出来た。死者を操り、なおかつ自分(神殺し)と同等の存在となれば、該当者はたった一人。

 

 ――サーシャ・デヤンスタール・ヴォバン。通称『ヴォバン侯爵』。

 

 星琉を含めた九人のカンピオーネの中で最も『暴君』という言葉が当て嵌まる人物。死者を操る権能は確か『死せる従僕の檻』という名を冠されていたはず。

 

 他には……と星琉がヴォバン侯爵についての記憶を掘り起こそうとしていた時、死者達とは全く違う、生ある存在感を放つ者が目前に迫っている事に気付き、足を止めた。

 

 星琉の目の前に現れたのは、銀褐色の髪をポニーテイルにし、青の生地に黒の縦縞が入った戦装束を纏う痩身麗人だった。彼女は星琉に気付くと、恭しく一礼する。

 

 星琉はその少女の事を知っていた。何よりも青と黒(ネラッズーロ)の衣装が彼女の所属をよく示している。

 

「《青銅黒十字》のリリアナ・クラニチャールか……」

 

「わたしの名を存じ上げて頂けているとは……恐悦至極です、吉良星琉殿。ですが、今一度名乗らせて頂きたい。――お初にお目に掛かります。我が名はリリアナ・クラニチャール。誉れ高き《青銅黒十字》の大騎士であり、現在はヴォバン侯爵の付き人を勤めております」

 

「……それで、僕に何の用かな? 《神の招来》を経験したことのある君なら、僕が急いでいる事位分かるはずだ。邪魔をするというのなら、容赦はしないよ」

 

 そう言ってリリアナに冷めた眼差しを送る星琉。リリアナはほんの僅かに身体をビクリと震わせたが、すぐにそれを隠して星琉に言う。

 

「カンピオーネたる御身の邪魔立てなど滅相もございません。わたしはただ、御身をヴォバン侯爵の許へ案内する為に馳せ参じた次第でございます」

 

 星琉の目を見ながらそうはっきりと言うリリアナは、とても真摯で騎士然としていた。『暴君』足るヴォバン侯爵の付き人と言うには違和感を覚える程に。

 

「そう……なら、早速案内して欲しい」

 

「かしこまりました。では、こちらへ」

 

 本当ならば魔導書があるので案内の必要はないのだが、魔導書の意思が祐理の許へと向かいたがっていたのを受け取り、星琉は先に行くように意思を伝える。魔導書は、御意と一言だけ告げて、闇に紛れた。

 

 

◇◆◇◆

 

 

 リリアナに連れられて階段を上り、星琉は二階の閲覧室へと案内された。そこには木製の椅子に座る、皺の一切ないスーツを着こなした背の高い老人と、いつもの白衣と袴の姿でいる祐理が。

 

 この老人こそがヴォバン侯爵。見た目こそ知性を感じさせ、まるで大学で講義を行う教授のような印象を受けるが、その本性は戦闘に飢えた獣に過ぎない。まあ、その獣という印象こそがカンピオーネの典型的な像ではあるのだが。

 

「クラニチャール、道中の『王』の案内、ご苦労であった。下がってよいぞ」

 

「はっ」

 

 ヴォバンの言葉を受け入れ、星琉から数メートル離れた場所に下がるリリアナ。どうやら彼を囲って逃げ道を断つ……という意味ではなさそうだ。

 

 リリアナが自分の言葉通りに下がったのを見届けると、ヴォバンは星琉を不遜な態度で眺める。その眼差しに込められた感情は、怠惰、侮蔑、それと……僅かな期待と懐古。

 

「随分と若いな。そういえば、私が『王』となったのも君ぐらいの歳頃であった……名乗り給え、少年。我が名は名乗らずとも知っていようが、私は君を知らぬ」

 

 気だるげな、しかし射抜くような眼差しを、虎の瞳を思わせる翠玉の眼を以って星琉に注ぐ。それに対して星琉は全く気負うことも、怯む事もなく、静かだが確かな力を持たせて言い返した。

 

「……如何に若輩とはいえ、僕も『王』の一人。同格の者に対しての礼儀を弁えない者に、名乗る名などない」

 

 この言葉にヴォバンはぴくりと眉を動かしたが、やがてニヤリと獰猛な獣を思わせる笑みを浮かべると、くつくつと星琉を小馬鹿にするように嘲笑う。

 

「くくく……同格? 私と貴様が? ……小僧、胡乱な事を言うのは止し給え。なるほど、確かに貴様と私は同様にカンピオーネであろう。だが決して同格ではない。貴様など、このヴォバンの権能を以ってすれば直ぐに灰と化すのだぞ」

 

 その言葉に含まれているのは絶対的な自信。星琉の事を歯牙にも掛けぬ程の裏付けされた年月、経験、権能を想起させる、王者としての言葉。不敬を働いた者に対する、審判を下す前の言葉。

 

 しかし、ヴォバンの機嫌は悪くはならなかった。むしろ活きの良い格好の獲物(・・・・・)を見つけたかのような、仄暗い喜悦を浮かべている。

 

「だがまあ、唯々諾々と従う軟弱な者よりは好ましい。……さて、我が名はサーシャ・デヤンスタール・ヴォバン。魔術師どもは『ヴォバン侯爵』と呼ぶ。小僧、わざわざこの私が自ら名乗ってやったのだ。貴様も名乗り給え。礼儀は弁えているのだろう?」

 

「……吉良星琉だ。万里谷さんを返してもらう為、ここに来た」

 

 ちらりと星琉が祐理の方を見遣ると、彼女は明らかに憔悴の表情を浮かべていた。しかし、どこか傷付けられた様子も、魔術に侵された様子もない。星琉はそのことに安堵しつつ、何かを言い出そうとする祐理に微笑みかけ、首を振る。何も心配しなくていい、直ぐに助けるからと、視線に想いを乗せて。

 

「ふむ、その娘は貴様の家族か? 妻か? それとも愛人か? 貴様の所領へ無断で入り込んだ無礼は詫びよう。しかし、この娘は稀有な能力を持つ巫女であり、私の役に立つ。故に我が所有物、資産とするのだ。まあ、許せ」

 

 鷹揚に言い放つヴォバンに対して特に変化を見せない星琉。その様子に訝しがるヴォバンだったが、その理由は直ぐに分かる事となる。

 

「ヴォバン。お前が許しを請う必要はない。何故なら――」

 

「えっ!?」

 

「何っ!?」

 

「これは!?」

 

 瞬間、祐理の目前に魔導書が現れ、驚く間もなく閃光弾もかくやという程妖しく強烈な金色に光輝き、室内を明るく照らし出したかと思えば、彼女は自分の影に呑み込まれていた。これにはヴォバンも後ろに控えていたリリアナも驚愕する。

 

「万里谷さんはもう返してもらった。再び奪われるつもりもない。諦めてホテル暮らしの旅を続けた方が賢明だぞ、狼王(老翁)

 

「小僧ッ!! 貴様ァ!!」

 

 ヴォバンが自身の体を半ば狼に変化しながら吼えるが、既に遅い。星琉もまた闇に紛れ、図書館から姿を消した。後に残されたのは、ただただ刺々しい静寂のみ。

 

「舐めた真似をしてくれたな……!!」

 

 怒り心頭のヴォバンは、その握力で椅子の腕を握り壊した。やがて緩慢な動きで立ち上がると、今はいない星琉と祐理に向かって高らかに宣言する。

 

「よかろう! 貴様を我が獲物として認めてやる! どこにでも往き、どのようにでも身を隠すがいい! 貴様の命と娘の体を奪い取る為、私は貴様を地の果てまで追いかけ、狩り立てる事を誓うぞ!」

 

 

◇◆◇◆

 

 

「万里谷さん、大丈夫? 寒くない?」

 

「そ、それは大丈夫ですけど……」

 

 ヴォバンと舌戦を繰り広げ、出し抜き、祐理を奪還した後、いつの間にか夜となった東京の建造物の群れの上空を、星琉は祐理を横抱きにしながら『天日の翼と日輪の星剣』の翼を以って翔けていた。

 

 翼の数は二対四翼。残りの一対二翼は球体となって二人の周りを包み込んでおり、外側は先程から降り出した豪雨を蒸発させ、暴風を受け流し、内側は晴天の暖かさを与えている。

 

 星琉が祐理を奪還する為、また自身が逃走する為に使用したのはもちろん『転移』の魔術だが、祐理に使用された魔術はその中でも更に高度な『転位』の魔術である。

 

 『転移』の魔術が相当に高位――魔女の血を引く者にしか扱えないのは常だが、その魔女達でも離れた相手に対して、『転移』と同等の効力を発揮する『転位』の魔術というのは至難のものだ。

 

 そもそも、『転移』の魔術とはどういうものなのか?

 

 『転移』の魔術を行う際には、必ず別概念の媒体が不可欠となってくる。それは例えば呪力と魔法陣であったり、火であったり、水であったり、風であったり、今回の祐理と星琉のように影であったりだ。

 

 この媒体概念は、前提条件として『転移の始点と終点に存在』し、『使用者を大きく超える』『無形かつ天然自然の概念』でなければならない。何故なら、この概念の質量が少なかったり、人工のものであったりすると、そこから自身の『存在』への還元が不完全なものになってしまう可能性が高いからだ。

 

 世界は霊気によって構成されており、つまりはこの世の森羅万象は根源的な部分で同一なのである。その表現方法が『無形の現象』であったり、『有形の生命』であったりと違うだけで。だからこそ、『転移』という魔術は成り立っている。

 

 『転移』の魔術を使用すると、まず使用者の『存在』が霊気となり、無形の媒体概念に変換される。その後にまた、別の場所で無形の媒体概念から使用者を構成する分の霊気を抽出し、有形の『存在』へと還元される。これが『転移』の魔術の正体だ。

 

 では、何故『転位』の魔術がより高位な魔術なのか。それは、有形の生命を構成するものが関係している。

 

 我々が霊気という部分で同一であるというのは前述の通りだ。しかし、細かく見るのであれば当然差異は存在する。それは美醜や健康などの肉体の差異であり、自らの思考回路の大元である精神の差異であり、我々を構成するより根源的な要素である魂魄の差異である。

 

 少し話は戻るが、『転移』の魔術によって無形から有形へと還元される時、一体何を以って使用者は使用者としての形を得るのだろうか? どうして有形から無形へと変換された時、その無形の概念に呑み込まれたりしないのだろうか?

 

 それは『自己』という存在の情報全てを理解しているからだ。肉体の情報、精神の情報、魂魄の情報、これら全てを正確に把握しているからだ。この情報を以って使用者は無形から有形へと再構成することが出来、無形の概念に呑み込まれたりすることもない。

 

 人間は、無意識の領域で『自己』という存在の全てを正確に理解し、把握している。しかし、それ以外の有形無形問わずの存在を理解し、把握することは決して不可能ではないが、それに極めて迫っている。

 

 だからこそ、『転位』の魔術は――『他者を自分の手で転移させる』のは至難の技なのだ。何せ、『自己』ではない『他者の存在』を理解しなければならないのだから。

 

 この『転位』の魔術を使用できるのは通常、絶対隷属の契約を交わした人間や己が使い魔など、自らの『存在』全てを曝け出した人間、あるいは自分が一から作り上げた『存在』にしか使用出来ない。

 

 では何故、星琉はこの『転位』の魔術を祐理に対して使用する事が出来たのだろうか。

 

 彼がカンピオーネだからだろうか? 魔術において強烈なアドバンテージを得る権能『闇夜に眩き月星も唄』を保持しているからだろうか? 或いは、祐理が星琉に対して絶対隷属をいつの間にか誓っていたか、知らぬ間に誓わされていたからだろうか? ……そのどれもが正しくはない。

 

 残念ながらと言うべきか、当然と言うべきか、星琉は『万里谷祐理』という存在を十全には理解し、把握出来てはいない。如何に魔術においてアドバンテージを持っていようとも、絶対の規則から、定められた過程から逃れることは出来ない。

 

 星琉が『転位』の魔術を行使出来た理由。それは、あの魔導書のお陰だ。

 

 あの魔導書――『霊典・幽現目録』は、その閲覧者を選ぶ意思ある魔導書だ。

 

 これは、著者である『冥』の位を極めし異端の魔術師、カーター・オルドラのある思いが込められているが故、その条件に当て嵌まるかどうかを裁定する為に、意思を持つように書かれたのだ。

 

 そして、祐理はその条件に見事当て嵌まり、正当な所有者として先日、本人の与り知らぬ所で認められていた。その際、魔導書は裁定の為に、『万里谷祐理』という存在を全て記録(・・)していたのだ。

 

 よって、星琉はこの魔導書に記録された『万里谷祐理』の存在の情報をまるまる抜き出して利用することで、『転位』の魔術を行使し、祐理を奪還する事に成功したのである。

 

 さて、こうして祐理を図書館の入口近くに『転位』させ、同様に自分もその場所に『転移』し、こうして逃走劇を繰り広げているわけだが、それも長くは続けられないだろう。

 

 ヴォバンの事は、伝聞ではあるもののある程度の性格を把握している。それを参考にするのであれば、彼の王が自分の言う通りに引き下がったりはしないだろうと星琉は考えていた。彼は今、どこで迎え撃つべきかと場所を探しているのだ。

 

 そんな中、祐理が再び口を開く。

 

「吉良さん……どうして、どうして私なんかを助けに来たのですか! あんな、侯爵を敵に回すような真似をしてまで……!!」

 

 祐理は、泣いていた。それが何に起因したものかは星琉には分からなかったが、少なくとも彼女にとって本当に余計な事をした、という事ではなさそうだ。

 

 ――今だって、ヴォバンに対する恐怖でこんなにも震えているのだから。

 

 それでも祐理は気丈に言葉を続ける。隠し切れていると思っているのかいないのか、星琉の行動を否定するような言葉を続ける。

 

「私が侯爵の許にいれば、全て丸く収まるんです! あなたがわざわざこんな危険を犯してまで、私を連れ出す必要はなかった!」

 

 祐理の言葉を、星琉は言われるがままに受け止める。彼女の言葉はある側面では正しいからだ。

 

 ヴォバンが祐理に求めるのは、『神の招来』を成功させる為の巫女としての資質。それさえ手に入るのならば、彼の王は積極的に東京を戦場とすることはなかったかもしれない。少数を切って多数を生かす事を善しとするのならば、星琉の行った事は悪しとすべき事だろう。

 

「あなたと侯爵が争えば、また大きな被害が出るに決まっています! それに、吉良さんの身にだって危険が――」

 

「けどそれは、万里谷さんだって同じことでしょ?」

 

 祐理の言葉を遮って、星琉はそう告げる。彼女を差し出す事など、彼に出来るはずがないのだ。

 

「確かに、万里谷さんを差し出せば事なきを得るだろう。けど、それじゃあ君が危険に晒されたままだ。ミカエルと争って死に掛けた時、僕は君に命を救われた。だから今度は、僕が君を救う番だ。……いや、これもちょっと違うかな」

 

 助けられたから助ける。救われたから救う。星琉の祐理に対する感情は、そんな損得勘定や等価交換のようなものではない。もっと自分勝手で、独り善がりで、感情的なもの。

 

「万里谷さんに居なくなって欲しくない。だから僕は君を連れ出した。それだけだよ」

 

「そんな……」

 

 微笑みながら掛けられる星琉の言葉に絶句する祐理。その表情に込められた感情は、驚愕と困惑。そして、少しばかりの不審。

 

「吉良さんは、その力を……力なき人々を守る為に使うと……そう、仰られていたではありませんか……あれは、嘘だったのですか……?」

 

 先程とは打って変わり、聞き逃してしまいそうなほど小さな声で言葉を紡ぐ祐理。そんな彼女に対し、星琉は表情を引き締めて言う。

 

「嘘じゃないよ。僕は人々守る為に力を振るう。けどね、万里谷さんが思っているよりもずっと、僕は感情的な人間なんだ。だから、万里谷さんを切り捨てるような真似は出来ない。さっきも言ったように、君に居なくなって欲しくないから」

 

 そうして更に、その眼に決意を込めた様子を見せつつ、少しだけ唇を歪めて言い放つ。

 

「それに、僕がヴォバンを追い払って、誰も、何も傷付かない最高の結末が待っているかもしれないじゃないか。それを目指すことは、悪い事じゃないでしょ?」

 

 今度こそ、本当に祐理は言葉を失った。星琉の言葉のどこにも、強がりも嘘もなかったからだ。

 

 目の前の少年が本気で、誰も傷付かない未来を目指していると痛感したから。

 

「そんなの……無理です」

 

「大凡の考えはもう頭の中にあるよ。緻密とは言い難いけどね」

 

「吉良さんと侯爵では、権能の強さも数も違います……」

 

「僕は侯爵の権能の大体の能力も知っているし、あちらは僕に関しての情報は殆どないはずだ。どうにかやりようはあると思う」

 

「生きてきた年数が、経験が、潜り抜けてきた修羅場が違います。吉良さんでは、侯爵に勝てません……」

 

「格上の相手だなんていつもの事さ。それをどうにか引っ繰り返してしまうのも、カンピオーネっていう存在だしね」

 

「あなたは……馬鹿です」

 

エピメテウス(愚者)の落とし子だから、それは正当な評価だと受け止めるよ」

 

 そのまま少しの間、言葉を交わさなくなった二人。しかし、星琉がどうしてもという雰囲気を醸し出して、祐理に訊ねる。

 

「……ねぇ、万里谷さん。君の気持ちを聞かせて欲しい。僕は君を助けたい。けれど君は、人々の為に生贄となっても構わないと、そう思ってるのかな?」

 

「……そう、です。だから――」

 

「本当に?」

 

 祐理の息が詰まる。一時、飛翔を止めて、空中に滞空する星琉。彼は祐理の顔を不安げに覗き込み、少しだけ腕の力を強める。そうされる事で、彼女はより一層星琉の存在を感じてしまった。

 

 だから、どうしようもなく思い出してしまったのだ。短い間だけれども、星琉と過ごした何ら特別な事のない、穏やかな日々を。

 

 

 

「君の、本当の気持ちを聞かせて? そうすれば、僕は全力でその気持ちに応えるから」

 

 

 

 暖かな眼差し。彼の黒い眼は、優しく包み込む闇のようで……けれど、そこに恐怖はなくて――

 

 

 

「わた……しは――」

 

 

 

「うん」

 

 

 

 柔らかな声。私の耳朶を打つ深い声音は……どうしようもなく私の心を慈しんでいて――

 

 

 

「私は――!!」

 

 

 

「教えて、万里谷さん。君は、何を望むの?」

 

 

 

 だから、私は――

 

 

 

「たす、けて……ください……せいるさん――!!」

 

 

 

 ――彼と離れたくなくて、狂おしいほどの気持ち()が溢れた。



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五 狼王は星明りを喰らう

「ふん、どうやら此処にいるようだな」

 

 目の前で鬱蒼と生い茂る木々を睨み付け、意図せず塩の塊としてしまった事を特に何も思うことなく、ヴォバンはそう呟いた。

 

 ヴォバンが保持する権能の一つ、グリニッジの賢人議会が《貪る群狼(リージョン・オブ・ハングリーウルヴス)》と名付けた権能によって特定した獲物(星琉と祐理)の潜む場所は、港区の白金台にある『国立科学博物館附属自然教育公園』だ。

 

 この公園は辺りが都会らしい様相を見せるのに反して、自然の面影を多く残す数少ない森である。普段であれば春夏秋冬で様々な表情を見せ、訪れてきた人々を楽しませるのだが、今は夜の闇と暴風雨が相俟って、木々がざわざわと蠢き、いつもと違う不気味な雰囲気を醸し出している。

 

 しかし、ヴォバンはそんなものに全く臆する事なく中へと歩みを進めた。何よりも、自身の所有物を盗むなどというふざけた真似を、虚仮にされた御礼を獲物にする為に。

 

 公園に踏み入れた瞬間、この地一体に違和感を覚え、ヴォバンの感覚は結界だと判断した。それも己を閉じ込める為、呪術に耐性のあるカンピオーネでもそう簡単に破る事の出来ない、権能で用意された結界だと。

 

 その事実にヴォバンは口角を上げた。果たして、捕らえられたのはどちらなのかと考えながら。

 

 さて、《貪る群狼》には神獣に満たない神使程度の力を持つ狼を生み出す事が出来る能力がある。その狼とヴォバンは感覚的に繋がっており、それによって彼はこの公園に獲物がいる事を察知したのだ。

 

 しかし、感じられるのは己が生み出した狼達が次々と消されていく感覚だ。とはいえ、当然といえば当然である。神使程度の実力でカンピオーネに敵うはずもない。

 

 これはゲームだ、とヴォバンは考える。ルールは非常に簡単で、自分の所有物を盗みだした泥棒を捕まえ、奪われた物を取り返す。ただそれだけ。

 

 しかし、ただの泥棒よりかは――かつて自分に対し挑戦した、騎士や魔術師どもよりかは難易度が高そうだ。若輩とはいえ、自分と同じ位にある者なのだから。

 

 とはいえ、全身全霊を以って相対するかといえば否である。相手はヴォバンにとってはやはり『獲物』に過ぎず、所詮このゲームは後に《神の招来》によって降臨させたまつろわぬ神との戦いの前座に過ぎないのだから。

 

 悠然と歩みを進めるヴォバンだったが、ふと背筋を寒気が撫でた。自身の下した魔王としての直感に従い、その人間離れした身体能力にモノを言わせて大きく跳躍する。

 

 その直後、ヴォバンが元居た所を木々の中から薄暗い青い光が奔り、また木々の中に消えた。――二人の獲物の内の一人(星琉)だ。

 

「こそこそと……確かに盗人らしき相応の振る舞いだが――」

 

 狼を自身の近くで更に増産し、公園の隅々にまで放つヴォバン。しかし、どうしてももう一人の獲物(祐理)が見つからない。匂いも気配も何もない。

 

 同時に、星琉からの攻撃も続く。木々から木々へ、闇から闇へ。匂いは何故か嗅ぎ取れない。普通どんな人間にも体臭はあるものだし、消しているなら消しているで『消している』という事が判るものなのだが、それもない。更に、ヴォバンが無意識に呼び寄せた(・・・・・・・・)嵐とも相俟って、その姿を捉える事が出来ないでいた。

 

「小僧……あの巫女を何処へやった」

 

 ヴォバンの問い掛けに対する答えはなく、代わりに与えられるのは凶刃のみ。ざわざわと木々がざわめくが、それすらもヴォバンの癇に障るばかり。

 

「ちぃっ! 小賢しい真似を!!」

 

 いずれも直感に従って危なげに、しかし確実に回避していくヴォバンだが、段々とこの状況に苛立ちが募っていく。

 

 すると、彼はあることを考え付き、探索にと生み出していた狼を消し去った。どうやら目的の巫女は盗人が何処かに隠したようだ。ならば、その在り処は隠した者の死体(・・)からゆっくりと聞き出せばいい、と。

 

「遊びはもう終わりだ! 貴様を殺して娘を差し出してもらうぞ!」

 

 そうヴォバンが叫んだ瞬間、彼の身体が銀の体毛に覆われ、人狼へと変化して見せた。更にそこから完全な狼へと化身し、一気に身体が数十倍に膨れ上がる。その全長、およそ三十メートル。

 

「WOOOOOOOOOOONNNNNN!!!!!!!!!!!!!!!!」

 

 遠吠えを一つ、嵐の中でも特に響いたその声が東京を揺るがした後、巨大な狼は左右に腕を振り、辺りの木々をその鋭い爪で軒並み薙ぎ払ってしまった。

 

 大きく飛んだ木々が地響きを立てながら狼王に道を明け渡していると、狼王の耳に雨音とは別のパシャパシャと水飛沫を立てたような音がして、そちらに顔を向ける。

 

 ――いた。獲物がいた。服が僅かに裂けた様子を見せながら、やや水気のある場所で右手に蒼黒い刀を携え、跪いている獲物が。

 

 

◇◆◇◆

 

 

「くっ……!!」

 

 予想していなかったヴォバンの能力に歯噛みする星琉。何よりも姿を捉えられていないという好条件を払われてしまったのは痛かった。

 

 星琉とヴォバンの何よりの差は、その絶対的な経験だ。何せ二十年も生きていない星琉に対し、ヴォバンは少なくとも三百年もの間、まつろわぬ神々と敵対してきたのだから。

 

 それを覆す為、まず星琉は正面衝突を避ける事に決めた。祐理をとある場所に匿い、木々が生い茂って姿を隠し易いこの公園を戦地に選んだ。ヴォバンの権能の一つが少なくとも狼に関するものであることは知っていたので、『闇夜に眩き月星の唄』で夜の世界と同化し、匂いも気配も紛れさせた。

 

 しかし、この地にやって来たヴォバンに対する奇襲は悉く回避され、それどころか力技によって星琉が組み立てた好条件を取り払われてしまった。

 

「GRRRRRRRRRRRRR……!!!!」

 

『漸く姿を現したか……もう一度訊くぞ小僧。貴様、我が所有物を一体何処に隠した?』

 

 巨狼の唸り声と同時にヴォバンの声が響く。一見すると不思議な状況だが、これは精神感応の一種のようなものだと判断。

 

「…………」

 

 星琉は何も語らない。語るつもりも、謂れもない。この狼の手から祐理を守るのが目的なのだから、露程の情報だって明け渡すものか。

 

 星琉の背に、夜に似合わぬ光が集まる。やがてそれは形を成し、三対六翼の剣翼となって顕れ、更に黄金の剣を左手に、星琉は疾風の如く飛翔した。

 

「ハアァッ――!!」

 

 常人では視界に納められず、大騎士ですら圧倒されるだろうその攻撃は、確かに巨狼の前脚を捉えはした。

 

「GRAAAAAAAAAAAA!!!!!!!!」

 

『効かぬわぁ!!』

 

 しかし、生物とは思えぬ筋肉の堅牢さを発揮して、その巨狼の身体は星琉の一刃を殆ど通さなかった。それどころか、僅かに食い込んだ部分で刃を捕らえ、そのまま前脚を振るって蝿でも叩き落とすかのように弾き飛ばす程だ。

 

 しかし、星琉もただでやられる訳ではない。刃が通らない事は想定の一つとして(・・・・・・・・)頭の中にあったので、巧い具合に狼王の脚から離脱し、決して巨狼から目を逸らす事はしなかった。

 

「WOOOOOOOOOONNNNN!!!!!!!!!!」

 

「チィッ!!」

 

 

――水式・氷鸞(ひょうらん)――

 

 

 だからこそ、己の身を引き裂こうとするその爪を両手の刀剣と培った技術(天元流)で滑るように躱し、その圧倒的な膂力に力負けしそうになりながらも、何とか空中に飛翔して仕切り直す。

 

「GRRRRRRRRRR……」

 

『ふん、三対六翼で空を翔けるか……恐らくは天使、それも熾天使から簒奪した権能だな? それにその剣……そうか、貴様は熾天使ミカエルから権能を簒奪したのだな!』

 

 余裕綽々と言った様子で唸り、星琉の権能を看破する巨狼。心なしか、その鋭い牙を見せる口はニヤリと人間が口角を上げて笑っている様にも見えた。

 

『ククク……あの『神の如き』天使を屠っていたとはな。若輩にしては中々やるではないか、小僧。ともすればこの『狼』の権能で片を付けるつもりだったが……なるほど、それでは些か手間が掛かりそうだ』

 

 自らの手札を吟味し、どのようにしてこの闘争を愉しもうかと思案しているのが分かる。

 

 簡単に言えば、星琉は舐められているのだ。お前など、どのような手を使おうとも簡単に討てる。言外に、狼の瞳がそう告げていた。

 

「『母なる海より生まれし神獣(モノ)地球(ほし)となりし太母神の子。我が内なる王権の獅子、狂い乱れし狗よ。その体躯を以て疾く駆け、叛逆の喉笛を悉く噛み千切り、母の威光と狂気を響動(どよ)ませよ!』」

 

 ティアマトを(なぞら)えた聖句を唱え、星琉の眼前に二体の神獣が顕現し、咆哮する。

 

 その内一体はミカエルと戦った時、己に融合させて力を得た、狼王と同程度の体躯を持ち、獅子の顔と人間の身体。右手に短剣を、左手に槌鉾を持ち、腰巻をした怪物。強烈な日差しや熱を齎す存在としての太陽の象徴や、字面からは嵐としての象徴の側面も持つウガルルム。そしてもう一体が――

 

「行くぞ。ウガルルム、ウリディンム――!!」

 

――GRAAAAAAAAA!!!!!!!

 

「キヒヒヒヒヒヒ!! アイツを()ればいいんだね!! キヒヒ!」

 

 ウリディンム――『狂った犬』という文字の意味を持つティアマトが生み出した十一の神獣の一柱。メソポタミアでは守護精霊の一つとされ、ウリディンムを象った魔除け人形はバビロン第2王朝、新アッシリア時代、セレウコス朝時代で稀に見られた。

 

 その姿は、上半身が人間、下半身が獅子の肉体という当に異形と呼ぶに相応しい様相だ。また、南の空に現れるケンタウルス座の東にある星座――狼座を表す言葉でもあり、その歴史は前三千年紀にまで遡るもの。

 

 ウリディンムを召喚する条件は非常に緩い。何せ『戦場』であれば十分にこの怪物を召喚することが出来るのだから。

 

『フハハハハ! 神獣まで召喚出来るというのか貴様は! ハハハ! いいぞ小僧! もっと、もっと私を愉しませろォ!』

 

 いっそ狂っていると思えるほどの高揚と興奮の声を上げながら、襲い来る神獣をヴォバンは迎撃する。

 

 獅子の槌鉾をひらりと躱し、その肉に喰らいつく。狂犬の文字を持つ異形に殴られ掛かれば、後ろ足で蹴り飛ばす。爪と短剣を交錯させ、異形と狂気を交え、ヴォバンの気分は最高潮に達しようとしていた。

 

 肉を抉る、抉られる。傷を負わす、負わされる。血飛沫が舞い、苦悶の声が渦巻き、歓喜の咆哮が嵐を加速させる。

 

 楽しい、愉しい、心地良い。

 

 笑ってしまう、哂ってしまう、嗤ってしまう。

 

 これだ。これこそがヴォバンの求めた戦場(モノ)だ。生死を賭けた、血肉沸き踊る自らの生きる場所(死に場所)

 

 だが、足りない。こんなものではまだ足りない。こんな神獣(モノ)ではまだ足りない。やはり同格の神か神殺しでなくては、自分は満足することなどない……!!

 

 ふと一瞬だけ、二体の神獣から意識を外してみた。しかし、星琉の姿は何処にもない。

 

 逃げた? いや、そんなはずはない。ヴォバンが直感する所、あの少年は『勇者』だ。己や同族のような自分を第一とする『魔王』ではない。自分の為ではなく、他者の為に動く存在だ。そんな人物があの巫女を守るために、こんな負けに等しい状況で撤退を選ぶはずがない。

 

 果たして、ヴォバンのその考えは正しかった。

 

 背後から感じる小さな悪寒。一時の気の迷いとしてしまいそうな微かな違和感。それをどうしても無視することが出来ず、ヴォバンが狼の狭い視界を疎み、首を右に回して後ろへ向けると、そこには自分の背中を伝って登ってくる星琉の姿が。

 

『何だと?!』

 

 

――気式・浮雲(うきぐも)――

 

 

 それは、自分の重さを世界に伝えさせない歩法。『気式・疾空』の基礎技術を含んだ業であり、筋力ではなく霊気で干渉する事によって内界(自分)外界(世界)を隔絶させる技術を利用している。これによって使用者の重量は外界に伝わることは無く、水面の上でも自由に歩く事が出来るようになり、今回のように重さを掛ける事無く何かを登ったりすることも出来るのだ。

 

「っ――!!」

 

 ヴォバンに気付かれた事を悟った星琉は、『浮雲』が既に意味を失っていると判断し、体重を掛け、一気に加速してその眼前に迫る。彼を遮る存在は何も無く、ヴォバンもまた、格下を相手にしているという油断を盾にされていた。

 

「ぅ……おぉ――!!」

 

 

――透式・雷火墜刀(らいかついとう)――

 

 

 雷と火を纏った《墜天》を逆手に斬り上げ、狼王の右目を天に捧げるかの様な体勢で奪い去り、反撃を食らわないよう巨大とはいえ狼の身体という不安定な足場から油断無く離脱する。

 

「GRAAAAAAAAAAAAA!!!!!!!!」

 

『ガァアアアアア――ッ!!!!』

 

 血飛沫を目から噴出させながら絶叫するヴォバン。これを好機と見た星琉は、この一閃を足掛かりにして一気に畳み掛けようと駆け出した。

 

 しかし忘れてはいけない。ヴォバンもまた埒外の存在であるカンピオーネの一人。そう簡単に事が運ぶ訳も無い。

 

 狼王が大きくその口を開いた。噛み付くつもりかと想定し、意識だけ身構えた星琉だったが、その考えは自身を襲う強烈な暴風によって大きく否定された。

 

「ぐぅっ――!!」

 

 身体が軋み上げるほど強い負荷が風圧により掛かり、先程の焼き増しの様に大きく離される星琉。

 

 それでも一矢報いようと、神獣達に精神感応で命令して隙の出来たヴォバンを襲わせようとした。しかし――

 

「WOOOOOOOOOOOOOOOOOOONNNNNN!!!!!!!!」

 

 ヴォバンが一つ、大きく長い遠吠えをした時だった。それはまるで何かを呼び寄せるような咆哮で、反撃の狼煙でもあった。

 

 

――疾風怒濤(シュトルム・ウント・ドランク)――

 

 

 それは、ヴォバンが所有する風雨雷霆を統べる権能。彼はこれを今まさに行使しようとしていた。

 

 明滅する曇天。雨夜に轟く雷鳴。空を斬り裂く幾重もの落雷。それらは全てこの公園に集う様に振り下ろされ、星琉達を襲う。

 

――GROAAAAAAA!!!!

 

「ゲヒャアアアアアア!!!!」

 

 その雷電、熱量に苦しげな声を上げる神獣たち。どうやら致命的なダメージだけは追っていないようだが、目に見えて傷付いているのがその黒く焼け焦げた肌からも分かる。

 

「我、破壊神の祝福を受けし者也。我、死を殺せし者也。我、善の聖獣と成りし者也。故に我は雷をも断ち切り、魔狼を討ち取る者也!」

 

 しかし星琉だけは違った。無差別に降り注ぐ雷を自身に害するものだけに『心眼』によって焦点を絞り、『縁切り断つ破壊の星運』によって『分断』の力を得た黄金の剣と、本来持つ属性故に雷に干渉することの出来る《墜天》を以って雷光を斬り捌いて往く。

 

 十秒ほど続いたその嵐の舞台を裂帛の気合で何とか乗り切った。しかし残念ながら、神獣達はもう動けないだろう。

 

「『母の許へ還ろう。我が守護獣達よ』」

 

 そう呟くと、ウガルルムとウリディンムの身体が光の粒子へと解け、悔恨の感情を伝えながら星琉の内に還る。

 

 星琉に残された呪力は多くない。今からムシュフシュやクサリクという神獣達の中でも最上位の彼らを使役する事は出来ず、かといって未だ続く嵐の権能に対して有効だろう手は一つしか考え付かない。

 

 秒にも満たぬ時間で思考が纏まると、身体はそれに合わせて準備を開始していた。

 

 片刃の黄金剣に集う六本の光翼。それは大いなる権によって統べられ、闇夜を斬り祓う大いなる剣となる。

 

 それは、かつての夜の再来だった。ミカエルが復活した時に星琉に放った巨大な太陽の焔剣。星琉はあの剣を再現したのだ。

 

 無論、規模や威力は多少なりとも劣化している。あの時の大剣ミカエルがウルスラグナの『白馬』の力を吸収し、それを利用して鍛え上げたものだからだ。

 

 《墜天》を地面に突き刺し、巨大な焔剣となった剣を両手で持つ。

 

 地を蹴り、駆け出す。霹靂を心眼と身体捌きで避け、暴風には太陽の呪力で逆らい、空を駆けてヴォバンの眼前へと肉薄する。

 

「ハアアアアアァァァァァァァ――!!!!!!」

 

 

――透式・陽焔剣爛(ひえんけんらん)――

 

 

 身体を大きく弓形に逸らし、己の全てを使って大上段から振り下ろされた絶世のその一閃。ありとあらゆる物体を溶かし、斬り裂き、滅却し、まつろわぬ神ですら生半可な力では阻むことが叶わぬであろう、太陽の力を存分に宿したその一撃。ヴォバンに対して放たれた、嘗ての仇敵の力を己の物にした星琉のその剣は――

 

 

 

『嘗ァめるなァァァァァァァ!!!!!!!!』

 

 

 

「なっ――!?」

 

 ――狼王に噛み付かれ、受け止められ、その身を斬り裂けずにいた。

 

 星琉は混乱する。この剣の焔は当に太陽のフレア。分かり易く言えば護堂の権能であるウルスラグナの十の化身の『白馬』に相当する程のもの。躱されるのならいざしらず、まさか受け止められるとは思ってもみなかった。

 

「ゥ……ォォオオオオオオオオ!!!!!!」

 

 しかし、星琉は即座に意識を変え、剣に呪力を注ぎ込む。受け止められている理由は解らないが、ここまで来た以上退くという選択肢は無く、ただただ力技で押し込むばかり。

 

 燃え上がる焔剣。燦然と輝く陽光。誰もが希望を抱くような、生命を煌かせたかのような力強い光。

 

 

 

 ――しかしそれは、狼王によって甲高い音を立て、あえなく噛み砕かれた。

 

 

 

「っ――?!」

 

 喰われた、星琉はそう理解する。ただの獣の力ではなく、この狼が何らかの形で太陽と関連しているからこそ、このようにして噛み砕かれたのだと、星琉は漸く理解出来た。

 

 しかし、それはあまりにも遅すぎるもの。

 

「がっ――!!」

 

 空中で死に体になった星琉を狼王の爪が襲う。それは吸い込まれるように星琉の体に刻み付けられ、同時に遠くへ追いやる一撃となる。

 

 空気の抵抗を強く受けながら地面を二回跳ね、三転する星琉の身体。地に臥す彼の周りには、ただただ紅い一輪の華が花開きだす。

 

 そして、星琉の頭にはヴォバンの苦しげながらもどこか悦びを滲ませる精神が届いた。

 

『ぐっ……ククククク、面白いぞ小僧。まさかこのヴォバンから片目を奪い去るとはな! だが運が無かったな。私に太陽の力は殆ど効かないのだよ。……しかし、私も耄碌したものだ。目の前の小僧がどれほどの曲者……いや、貴様の場合は単に実力と言うべきか。それを初見とはいえ見誤るとは……。だが、それに見合うだけの収穫があったと言えよう』

 

 ああ、視線を向けずとも分かる。今目の前にいる狼の顔は、きっと牙を剥き出しにして愉悦に歪んでいるはず。だとすれば、ヴォバンの気が目前の勝利で緩み切っている以上無い好機だ。

 

 腕に力を入れ、脚は駆け出す準備を。剣と刀は既に自分の下に呼び寄せた。後は狼王の首を刈り取るのみ。

 

 激しい雨と暴風が星琉の身体を襲うが、そんな事は全く気にならない。

 

 そして、刀剣を握る手に力を入れた星琉は――

 

 

 

 ――また、自ら咲かせた紅い華に臥すしかなかった。

 

 

 

『ん? おお、まだ意識があったのか。あの手応えでは既に意識は無いものと思っていだが……中々しぶとい。まつろわぬ神との戦いの前座としては、貴様は十分に私と敵対してくれた。あと五年もあればこのヴォバンの足元には届くほどの『勇者』になっていただろうに……それだけが全く以って惜しい』

 

 弾む声が癇に障る。打ち付ける雨が身体を冷やす。流れる血が、自分の意識を奪っていく。

 

 駄目だ。ここで意識を失うという事は、助けを求めた彼女を見捨てる事だ。それだけは……それだけはやってはいけない!

 

 顔を上げ、ヴォバンを睨む。歯を食い縛って、全身に力を入れていく。身体の奥底からなけなしの呪力を練り上げる。まだ……まだ終わっていない――!!

 

『いいや、終わりだ。ここまで戦った貴様に敬意を表して、死後は我が手駒ではなく、あの巫女の騎士としてやろうではないか。光栄だろう?』

 

「だ……まれ……っ!!」

 

 

――力を……力を……力を! あの狼王を打ち倒す力が欲しい! 彼女を助け出せる力が欲しい! 護りたい存在(もの)を護れる力が欲しい!

 

 

――その為には何が足りない! それを成すには何が必要だ! それを得るには何を捨て去ればいい!

 

 

 心が(はや)る。精神が研ぎ澄まされる。魂が猛り狂う。星琉はこれ以上無いほどの激情を、内に宿していた。

 

「は……ぐ……っ!!」

 

 だが、雨に濡れた泥を握り、腕をついて起き上がろうとしても、また倒れる。星琉はもう、内に秘めるそれらを外に出す事は出来ない。既に彼の肉体は、如何に常人と画しているとはいえ、とうに限界を通り越しているのだから。

 

『さらばだ、吉良星琉よ。貴様の力はこのヴォバンが有効に活用してやる。――永遠にな』

 

 狼王が大きく口を開き、そこに光が集まっていく。これは――太陽の光。星琉が先程まで剣に統べていた太陽の光だ。

 

 もう一度ヴォバンに目を向ける。強烈な光で見え辛くなっているものの、彼の狼王の背後に、彼は五つの幻影を視た。

 

 緑の肌に白い包帯を幾重にも巻きつけ、王の冠を被った神。風を纏い、雨を従え、雷を携えた三柱の神。竪琴と弓を持ち、陽光を背に負いながら、何故かその光で出来た陰をも背負っている神。

 

 

――『オシリス』『風伯』『雨師』『雷公』『アポロン』――

 

 

 この瞬間、星琉は『闇夜に眩き月星の唄』を更に掌握し、霊視能力を獲得していた。

 

 夜の闇から星が降るように直感したこれらの神の名。おそらくヴォバンが殺め、権能を簒奪した神々の名だろう。

 

 ……足りない。だが足りない。この程度の情報では、ヴォバンを打倒するに足り得ない。もっと深く、核心を捉えるように、全てを知るように――己を理解するように、世界を把握するように。

 

 強く、強く、渇望した。薄れ行く意識の中で、それでも掴もうと必死に意識の手を伸ばした。

 

 

――今、何かに触れた。

 

 

――□□の柔らかな微笑みが浮かんだ。

 

 

――天を、地を、火を、水を、空気を、土を、光を、闇を、太陽を、月を、木を、雨を、風を、雷を、嵐を、狼を、死者を、■■を、■■を、■■を、■■を、■■を、■■を、■■を……………………。

 

 

――■■■■・■■■■・■■■■を…………。

 

 

――今、何処かに繋がった。

 

 

――ああ、此処は……きっと……。

 

 

「ま……りや……さん……」

 

 

 迫り来る太陽の光焔を茫洋な瞳に映しながら、護りたかった人の名を呟いて、星琉の意識は(ほど)けていった。

 



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六 集いし王

『デヤンスタール・ヴォバンの名前を知ってるかい?』

 

 草薙護堂にその連絡が来たのは、星琉達を家に招待してから数日後の夜の事だった。

 

 電話の相手はイタリアのカンピオーネ、サルバトーレ・ドニ。護堂にとっては少々苦手としているというか、出来るだけ関わり合いになりたくない相手だ。

 

 電話番号を、ましてやメールアドレスすら教えていないにも関わらず、自分の配下に調べさせてまで態々こうして連絡を寄越してきたサルバトーレ。そんな彼が護堂に伝えたかった事、アドバイスというのが……。

 

『このじいさま、今東京に居るはずだから、ちょっとケンカでも売りに行くと良いよ。俺の縄張りに入ってくるなー、とか言ってさ』

 

「誰がそんな真似するか!」

 

 などという実に益にならないものだった。

 

 平和主義者を自称する護堂としては、そんなケンカを売りに行く等という行為は選ぶはずが無い選択だ。それがカンピオーネ相手だというのなら尚更である。

 

 いや、しかし……と護堂はふと思い出した。自分と同じ日本にいるカンピオーネ、吉良星琉の事を。自分が道を外れようとすれば止めると言った彼だ。もしかしたらそのヴォバンとやらが何か仕出かそうとした場合、彼が動くかもしれない。

 

「……大体、何でそんなのが日本に来るんだよ?」

 

 そう考えた護堂は、サルバトーレとの会話で熱くなっていた頭を冷やし、努めて冷静な様子で彼に尋ねた。内心は嫌々であるものの、有益な情報があるのなら得ていた方がいい。そしてもし出来るのならば、その情報を星琉と共有出来ればいいと考えながら。

 

『ふふふ、教えてあげても良いけど、条件がある。――我が友にして兄とも慕う勇士サルバトーレよ、あなたの助力が必要だとおねだりしてくれれば、すぐに』

 

「絶対に言わない。教えてくれなくて結構」

 

 自分でも何の戸惑いも無く、条件反射で言葉が出てしまっていた。だが仕方が無い。情報も大切かもしれないが、このサルバトーレ(アホ)を友とも兄とも呼ぶのは絶対にゴメンなのだ。そもそも慕ってなどいない。

 

『仕方ないなぁ。じゃあ代わりに、彼の事を教えてくれるっていうのでもいいよ』

 

「彼?」

 

 サルバトーレの言う『彼』の事が分からず、首を傾げる護堂。そんな護堂に対し、サルバトーレは飄々とした口調ながらも、そこに秘められた抑え切れない闘志と喜悦を孕ませた声音で、護堂の疑問を解く。

 

『やだなぁ、護堂は。彼だよ、彼。護堂と同じ日本人のカンピオーネ。実は僕の一つ先輩だったっていう吉良星琉の事さ、分かるだろ?』

 

 ああ、なるほど。と護堂は納得した。星琉の情報については《漆黒真珠》とかいうフランスの魔術結社が一気に触れ込んで回ったのだ。戦闘狂で妙に鼻の利くこの男の耳に入っていたとしても、なんら不思議ではない。

 

『何でも、熾天使ミカエルを倒したんだってね? イタリア(こっち)でもみんなの話題の種になってるよ。テンプル騎士団とかキリスト教関連の人達が特にね』

 

 そりゃそうだろうなァと思う。彼らからすれば信仰対象を殺されたのだ。その心中を正確に推し量る事は出来ないが、たまったものではないだろう。実際、エリカが微妙な顔をしていたのを覚えてもいるのだから。

 

 まぁ、その後の彼の怪我の具合を知っている自分としては、それがどうしたという心境ではあるのだが。

 

「ていうか、そういう事なら尚更教えるつもりは無いぞ。むしろ機会があればあんたの情報を全部ばらしてやってもいい位だ」

 

『それは流石に止めて欲しいけど……その言い方からすると、護堂はもう彼に会ったんだね?』

 

 どこか期待と興奮に満ちた様子を見せるサルバトーレを相手に、護堂はしまったと内心舌打ちをした。

 

 何も知らないと、この場面では言うべきだったのだ。この男はアホではあるが愚鈍ではない。抜け目が無い、と言ってもいい。事この話題に関しては、彼が好む闘争に関連するかもしれないものである。その特徴が十分に発揮される土俵だ。

 

「ああ、会ったよ。あんたとは比べ物にならないほど良い奴だった。友って言うのならあんたじゃなくて吉良とだな」

 

 出てしまった言葉は取り返せない。故に護堂は肯定した。下手に否定してボロを出してしまうよりも、認めてしまったほうが何かと都合が良いのではないかと思ったからだ。実際、この言葉は頭から尻尾まで――友の部分ですら事実なのだから。

 

『えー、それは酷く無いかい護堂? 流石の僕も妬けちゃうなぁ……そうだ! 僕も今から日本に行こうかな! 先輩にはちゃんと挨拶しておかないとね!』

 

「絶対に来るな!」

 

 胡乱な事を言い出したサルバトーレ(アホ)に頭を痛めながら護堂は電話を切った。これが、ある夜の一幕である。

 

 

 ◇◆◇◆

 

 

 もし、護堂が今サルバトーレに会えばこう言うだろう。『あんたも偶には人の役に立つ事があるんだな』と。

 

 港区の白金台にある国立科学博物館附属自然教育公園。そこに護堂は脚を踏み入れていた。理由は星琉を助けるためだ。

 

 数十分前、突如東京を襲う嵐が発生した事に僅かな引っ掛かりを覚えつつも、大した問題だとせずに自宅で過ごしていた護堂にある二人の男女が尋ねて来た。名を沙耶宮馨と甘粕冬馬。日本の呪術界を取り締まる正史編纂委員会という組織の重鎮と付き人らしい。

 

 ――突然のご訪問、大変失礼致します。草薙護堂様、どうか貴殿のお力をお借りしたいのです。

 

 正史編纂委員会の事は多少星琉から聞き及んでいた護堂。同じく知り合いの万里谷祐理がこの組織に所属している、という程度の事は知っていたので、取り敢えず話だけは聞く事にした。

 

 するとその内容は『星琉がヴォバンと戦い、劣勢に立たされている』というもので、護堂の協力を仰ぎたいというものだったのだ。

 

 もしもこれが何の前情報も無ければ疑っただろうが、しかし数日前にサルバトーレからそのヴォバンとやらの事を聞き及んでいた護堂は、この話をある程度信じ、彼らの嘆願を承諾した。

 

 条件として設定した、相棒であるエリカを迎えに行く事を現場に行く前に済ませてこの公園にやってきたのだが、事態は思った以上に切迫しており、星琉が巨大な狼の前に倒れ、彼の血であろう赤い水溜りに臥していたのだ。

 

 その光景で意識が完全に戦闘状態に移行した護堂は、最も手応えがあると常に戦闘では感じるものの、この巨狼相手には何故か頼りないと直感した『白馬』の権能を発動した。

 

「我が元に来たれ、勝利のために。不死の太陽よ、我がために輝ける駿馬を遣わし給え。駿足にして霊妙なる馬よ、汝の主たる光輪を疾く運べ!」

 

 ウルスラグナの聖句を唱えると、嵐が何時の間にか止んでいた(・・・・・・・・・・・・・)空の東方から曙光が溢れ出し、一直線に目の前に居る巨大な狼に向かって太陽の焔が放たれていた。

 

「GRRAAAA!?」

 

『何?!』

 

 それに気付いた巨狼もまた、その焔に向かって殆ど同じ焔を照射した。二つの超高温の熱線は互いに干渉し合い、拮抗し、やがて焔の光柱を公園の中心に(そび)え建たせる。

 

 その熱の余波を浴びて公園の木々は一気に灰と化してしまったのだが、護堂はそんな事を欠片も気にしていなかった。今は何よりも星琉の無事を確かめるべきだと思ったからである。

 

 とはいえ、自分は巨狼を警戒していなければならないので迂闊に動く事は出来ない。故にエリカに視線を寄越して彼の事を頼むと、彼女もそれに無言で頷き、星琉の許へ向かおうとした。

 

「こっちに来る必要はないぜ」

 

 しかし、その時には星琉の傍に二人の女性と一人の男性がいた。女性二人は星琉の身体を大事そうに抱きかかえ、男性は護堂達の方をちらりと見ながらも、ほぼ全ての意識を巨狼に対して向け、視線を鋭くさせながら聖句を唱え始めた。

 

「さあ刮目せよ! 喝采せよ! 神々を弑逆せし魔王の位へ、己が名を(つら)ねる俺が命じる! 憤怒を、裁きを、悲哀を、恵みを、無であり有を内包する、我が手に集いし天の貌。矢となれ、()となれ、(つぶて)となれ! 天をも喰らう地の獣の咆哮、今此処に顕せ!」

 

 青年がまるで軍隊の指揮官のように腕を突き出すと、そこから雷電の矢、暴風の刃、豪雨の礫といった自然の脅威が撃ち出され、巨狼に直撃した。するとそれらが融け合い、極所的過ぎる嵐と化して巨狼を急襲し、今まで東京を襲っていた嵐を凝縮したかのような強烈過ぎる雨と雷で狼の巨躯を覆い隠してしまった。

 

 目の前で唐突に起こった予期せぬ出来事に呆然としてしまう護堂。しかし何とか意識を持ち直して、目の前の人物達と辺りを警戒しながら話し掛ける。

 

「あんた達……何者だ?」

 

 護堂のその言葉に、青年は何者をも恐れる事の無い威風堂々とした様子で悠然と答えた。

 

 

「俺の名はシャルル=カルディナル。『神獣の帝』と畏敬される神殺しの魔王。偉大なる異端の魔術師――カーター・オルドラの義息子(むすこ)であり、新たなる可能性を秘めた神殺し――吉良星琉の兄貴分だ」

 

 

 ◇◆◇◆

 

 

 それは数十分前。フランスはパリ。魔術結社《漆黒真珠》の本部。護堂が正史編纂委員会の二人からの救援要請を請けていた時の事。

 

 赤い絨毯が敷かれた長い回廊を、黒真珠のピアスをつけた長い金髪の人物が歩いている。瞳は透き通った碧眼で、その容貌はまるで西洋のビスクドールのように整っていた。

 

 第一ボタンを外した白のシャツ、白と黒のストライプのカジュアルスーツを羽織り、下はスラックスと一見男性のような出で立ちだが、服越しにでも分かる程豊かな胸部がそれを否定する。

 

 彼女の名前はアンヌ=メディシス。魔術結社《漆黒真珠》の副総帥であり、史上最年少で聖騎士となった才女だ。

 

 アンヌは今、自らの主である人物の許へ向かっていた。その表情は普段と変わらないように見えるが、歩く速度が少し速いような気もする。

 

 少しして、突き当たりに大きな扉が見え、彼女はそれを勢い良く開ける。

 

「入るぞ、シャルル」

 

「ん、どうしたアンヌ? 珍しくノックもなしに」

 

 アンヌの呼び掛けに応答したのは、三つの黒真珠が嵌め込まれたアンクルを付けている、全身黒の服で覆われた長身痩躯の青年。短く纏めた白雪のように綺麗な白髪に、目を合わせるだけで酔ってしまいそうなワインレッドの瞳。アルビノではないかと疑えるような容姿だ。

 

 彼こそが魔術結社《漆黒真珠》の総帥であり、『神獣の帝』と畏怖されるカンピオーネ、シャルル=カルディナルその人である。彼は昼寝でもしようとしていたのか、部屋にあるソファーで横になっていた。

 

「つい今しがたの事なのだが、ヴォバン侯爵が《神の招来》を行う為、日本に向かっていたとの情報があった」

 

「はあ? あのジイさんまたやるつもりなの?」

 

 《神の招来》。それは、数ある高等魔術の中でも特に至難とされる、『まつろわぬ神』を招来する大呪の秘儀である。

 

 それは今から四年前にも同じ人物主導で行われており、シャルルはヴォバンの戦闘好きに辟易していたのだが、ある一つの事に気付いた。

 

「……ていうか、日本って事は星琉がいるじゃん!」

 

 そう、日本にはつい最近、自分の組織からカンピオーネである事を公表した弟分がいる。アンヌは今更その事実に気付いたシャルルに呆れた様子で問い掛けを重ねた。

 

「だからこうして報告に来たんだろう。で、どうするつもりだ?」

 

 うーん、と悩む様子のシャルル。しかし、その思案の時間も三秒に満たない少ないものだった。

 

「流石に、星琉にジイさんはちょーっと早いかな。……よしっ、アンヌ、俺も日本に行く。師匠に連絡しといて」

 

「飛行機か? 神獣か?」

 

「神獣。そっちの方が断然速いからな。弟分のピンチとなっちゃあ、のんびりしてられないでしょ」

 

『神獣の帝』と呼ばれるだけあって、シャルルは数々の神獣をある権能により『飼っている』。その中には空を飛ぶ神獣も当然おり、移動には最適なのだ。

 

「分かった。ただし今回は私も行く。いいな?」

 

「えぇー……それじゃあ《漆黒真珠》の運営はどうするんだよ?」

 

 シャルルが不満げに言う理由は、《漆黒真珠》が実質アンヌの指揮の下に成り立っているからである。

 

 シャルルは一応総帥という立場であるのだが、対『まつろわぬ神』ぐらいでしか動く事がなく、ほとんど形だけのようなものなのだ。つまり、アンヌが動く事になれば《漆黒真珠》の運営が著しく滞る事になるのだが……。

 

「何、最近執行部も中々やるようになってきたからな。私達が居なくなってもキチンと機能する事が出来るかどうか、抜き打ちテストのようなものだ」

 

「ふーん、なるほどね。そういう事ならまあいっか」

 

 代案がある、という事で、アンヌの同伴を認めたシャルル。そして彼はもう一人、自分の『護衛役』を自負している騎士に呼び掛ける。

 

「カティアー! 突然だけど日本に行く! 大至急用意して!」

 

 すると、一秒と経たず部屋に新たな人物がやってきた。背丈はシャルルやアンヌより低く、流せば肩甲骨辺りまであるであろう黒髪を後頭部で輪にし、黒真珠の付いた金の簪で留めている女性。

 

 彼女の名前はカティア。ファミリーネームはない。シャルルの自称護衛役であり、主に彼をサポートする役目を負っている。《漆黒真珠》の第三位だ。

 

「マスター。準備完了」

 

「早いな!? いや、お前はそういう奴だけど……。まだ俺が用意出来てないんだ」

 

「問題ない。ここで待ってる」

 

 素っ気ない返事だが、カティアは単純に感情を表に出すのが苦手な人物なのだ。シャルルもその事は良く分かっているので、特に気にはしない。

 

 こうして《漆黒真珠》の第一位から第三位までの来日が決定したのだ。

 

 

 ◇◆◇◆

 

 

 以上が日本に至るまでに繰り広げられたある一幕なのだが、今この場に居る彼らの雰囲気は張り詰めた空気で満ちている。シャルルも星琉には古き王の相手は荷が重いと踏んでいたが、まさかここまで危険な状態だとは思っていなかったのだから。

 

 今、可愛い弟分の胸から大量の血液が流れ出している。彼が死の淵に立たされている事を、どうしても見て取れてしまう。今はまだカンピオーネ特有の生命力でなんとか命を繋いでいる様だが、それも何時まで続くものか。

 

 シャルルは唇を噛み締め、怒りを押し殺した声音でアンヌとカティアに告げる。

 

「二人とも、星琉を師匠の所に連れてってくれ。あの人なら何とかなるかもしれない」

 

 指示された二人は無言で首肯すると、星琉の身体に負担を掛けないようにして『跳躍』の魔術を発動し、夜空に消えた。

 

「お、おい! ちょっと待てよ!」

 

「悪いな、草薙護堂。突然アポもなしに日本に来た事は謝るが、まずはあのジイさんをどうにかしなきゃならん。苦情とかは後で受け付けてやるから、今は黙って下がってろ」

 

「ふざけんな! そんな風に言われてノコノコ引き下がれるわけ無いだろ!」

 

 シャルルに近付いて来たのは無論の事、護堂とエリカだ。ただしエリカは護堂の後ろに侍り、決して前に出ないようにしていたが。

 

 そんな二人に対して若干面倒臭そうな表情を浮かべるシャルル。彼としては今護堂に構っているよりも、この後の事を考える方が重要なのだ。

 

 

 ――『天喰らう地獣(ザ・ビースト・オブ・インドラジット)』――

 

 

 後に賢人議会にそう名付けられる権能は、シャルルがバラモン教、ヒンドゥー教の神であるインドラから簒奪した権能である。インドラは雷霆神でありながら嵐の神でもあり、シャルルはそこを権能として色濃く取得したようだ。

 

 その能力は『風雨雷霆を吸収し、それを支配下に置く』というものだ。その応用性は多岐に渡り、例えば今回の様に一点集中という範囲を限定した嵐として再び発現させる事も可能だ。

 

 ただし、弱点といえる部分ももちろん存在する。

 

 まず第一に、この権能はあくまで吸収してこそ意味のある権能であり、シャルル自身が嵐を起こすという事は出来ない。つまり、原動力である嵐は必ず余所から得なければならない受動的な権能なのだ。

 

 第二に、この権能によって嵐がシャルルの中に吸収されると、その現象を己が物とする為に、必ずシャルル自身の呪力に一度変換され、そこから応用が可能になる。それはつまり――

 

「……ククク、貴様もこの地に来ていたか。しかし、まさか私が呼び寄せた嵐に傷付けられるとはな。確か、この国では『飼い犬に手を噛まれる』という諺があるのだったか。どうやらまた一つ、新たな権能を手に入れた様だな。シャルル=カルディナル」

 

 風雨雷霆の轟音の中、しかし確かに声が聞こえると、まるで何かに弾かれたかの様に嵐は霧散した。その中から現れたのは巨大な狼ではなく、右目を切り裂かれ、血の涙を流している長身痩躯の老人だった。

 

 護堂は直感する。この老人こそ、先程まで星琉と争っていたヴォバン侯爵その人であると。

 

「チッ、やっぱダメージはそれなりにしか入らないか……」

 

 シャルルが舌打ちをしながらそう愚痴を零したのは、『天喰らう地獣』の第二の弱点についてだ。

 

 先にも述べたように、取り込んだ嵐は一度シャルルの呪力として変換してしまう。その為、カンピオーネの呪力耐性がある程度通用するようになってしまい、ダメージが軽減されてしまうのである。

 

 とはいえ、元は脅威的な自然現象。如何に威力を減衰したとしてもただで済むはずも無い。その証拠にかの老人の衣服は襤褸(ぼろ)切れ同然であり、やや焦げ臭さを感じるのだから。

 

「よう、ジイさん。久しぶりだな。ここから先は俺が相手してやるよ。今日こそ心置きなく逝かせてやる」

 

「ほう、それは面白いな」

 

 威勢良く挑発するシャルルと、それに対して喜ばしい事のように言葉を返すヴォバン。しかし、それに待ったを掛ける人物が此処に居た。

 

「待てよ! 喧嘩するなら余所でやってくれ! こんな所で戦われたらいい迷惑だ!」

 

 声を荒げて二人の戦闘開始を妨げたのは、もちろん草薙護堂その人である。平和主義者を自称する彼からすれば、目の前の火種を看過出来る筈も無い。

 

 しかし、事この事態に関して言えば決して良い手とは言えなかった。その証拠に、シャルルもヴォバンも護堂に対して胡乱な物でも見るかのような表情を浮かべていたのだから。

 

「さっきから小僧……クサナギゴドウと言ったか。貴様は一体何だね? これは王同士の戦場。一端の魔術師風情が立ち入りして良い領域ではないぞ」

 

「こいつもその王だよ。少し前にウルスラグナを弑逆した新参のカンピオーネだ」

 

「……ほう、貴様がか。成る程、あの太陽の焔は貴様の仕業か……」

 

 まるで品定めでもするかのような視線を向けるヴォバン。護堂もその不躾な視線に負けじと睨み返す。

 

「ふ、まあいい。吉良星琉の姿も消えた。巫女が見つかる様子も……いや、見つける必要すらなくなった。新参の者になど興味も湧かん。精々この辺りが潮時か」

 

 微妙な空気が流れる中、意外にも沈黙を破ったのはヴォバンだった。

 

 それに驚いたのはシャルルだ。まさかヴォバンが引き上げるような言葉を発するとは思わなかったのだから。

 

「どういう風の吹き回しだ? 何を企んでやがる」

 

「何も企んでなどおらんよ。手慰み程度ではあるが、今宵は中々骨のある相手と戦え、後の楽しみも出来た。満足には程遠いが、まあ良しとしよう。貴様と戦うのも悪くはないが、余所事に気を取られているようでは相手にするのも馬鹿らしい。故にこの地にもう用は無い。ただそれだけの事だ」

 

 嘘をついている様子は微塵も無い。むしろ嘘をつく必要が無いのはシャルルとて諒解している。だからこそ不可解なのだが。目の前の老人は闘争の中に生き甲斐を見つける根っからの戦士である。だからこそまつろわぬ神を招来しようなどと画策したのだから。

 

 眼光鋭く老翁を睨みながら、シャルルは問い掛ける。

 

「おいジイさん。あんたさっき『巫女を見つける必要がなくなった』とか言ってたな。どういう意味だ? その巫女とやらが誰かは知らないが、どうせまつろわぬ神を招来する為の生贄だろう。あんたはそれを求めて日本にやって来たんじゃなかったのか?」

 

「それを貴様が問うのか? 吉良星琉を新たなる可能性を秘めた神殺しと称した貴様が」

 

「……テメェ」

 

「貴様の言う通りだ、シャルル=カルディナル。吉良星琉は喜ばしい事に我々とは違う。他人の為に戦い、他人の為に身を滅ぼされる『勇者』だ。奴が一体どこまで強くなるのか、私には愉しみで仕方がない。それを我が牙で喰らう事もな」

 

「ないな」

 

 くつくつと哂うヴォバンに苦々しげな表情を浮かべるシャルルだったが、護堂の異を唱える言葉に両者とも言葉を失う。

 

「あんたみたいな自分勝手な奴に、吉良が負ける訳がない。その時が来たら喰われるのはあんたの方だ」

 

 どこか確信を持った護堂の物言いに、ヴォバンはその翠玉の瞳を爛々と輝かせて彼を見据える。まるで新しい玩具を見つけたかのように。

 

「吼えたな、面白い。小僧、私と吉良星琉との戦いに割って入って来た事といい、貴様も新参ではあるようだが、中々に曲者のようだ。先に喰らうのも悪くはないかもしれんな」

 

 そう言うと、ヴォバンはもう何も言う事はないとでも言うかの様に背を向けた。護堂は初めから引き止めるつもりなど無く、シャルルもそのつもりはないようだ。

 

 そうしてそのまま古き王は闇に消え、様々な王が集った長い戦いは、漸く終わりを告げるのだった。



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了 戦いの果てに

 伸ばす――伸ばす――意識を伸ばす。護りたい存在(もの)を護る為に。害悪を払う為の(知識)を手にする為に。

 

 潜る――潜る――意識の奥に。何かが其処にあるはずだから。あと少しで其処に至れるはずだから。

 

 そうすれば……君を――

 

 

◇◆◇◆

 

 

 気が付くと、星琉は全てが輝く世界に居た。不純な存在(もの)が何もない、純粋な存在(もの)だけが存在する世界。

 

――此処は……?

 

 声に出そうとして、何も音はしなかった。疑問に思って喉に手を当てようとしたが、動かせる手も、声を発する喉も存在していないようだった。そもそも、今の彼には『肉体』という物がないようだ。

 

 ただし、五感は働き、思考も出来た。……いや、五感が働いていると言うよりは、もっと奥深い何かで『感じ取っている』ような……そう、例えば――

 

 どういうことだろうと考え込むが、輝く世界の中心。一際(きら)めく星々のうねり。それを感じ取った瞬間、星琉は今自分が目の当たりにしているモノの全てを理解した。

 

 『其処』には、ありとあらゆるモノが存在した。人間を含めた動物も、植物も、鉱物も。空も海も大地も、晴れや雨や台風といった天候も、気圧や地震、重力などという事象さえ『其処』にはあって、地球上に存在する全てのモノが、『其処』には在った。

 

 ――そうか、此処は……。

 

 

◆◇◆◇

 

 

 落ちる、墜ちる、堕ちて行く――暗い、昏い、奈落の底へ。

 

 上る、登る、昇って行く――輝き、煌く、天上の界へ。

 

 星琉はまた、先の世界とは別の場所にいた。上下が白黒に別れている世界。あるいは左右が黒白に別れている世界。存在するのは白と黒だけ。他のどのような存在も星琉の他には何も無く、そのちょうど境界に星琉は立ち尽くしていた。

 

 此処は何処だろうとまた考える。今度は肉体があり、右手を口元に寄せて思案する。

 

 まずは世界を見渡してみる。視界に映るのは一面白の世界か、あるいは黒の世界。特に大きな変化も無く、星琉に何の影響もない。

 

 ……かと思うと、黒の世界に変化があった。何も無かったその世界に、一つの小さな黒い星が現れたのだ。世界と同色でありながら、しかし明確に目視出来たその星を見て、星琉は戦慄する。

 

――あれは、善くない存在(モノ)だ。其処に在るだけで害悪を振り撒く、災禍の凶星……。

 

 だが何故だろうか。星琉はその星を善くないモノだと感じながらも、そこに得も言われぬ感情の叫びを聞いたのだ。言い表せない、激しい心の叫びを。

 

 黒い星に、一歩近付く。星琉の身体は、完全に黒の世界に入り込んだ。

 

 もう一歩踏み出す。懐かしさを覚えた。この感覚は一体何なのだろう……?

 

――い■■■……。

 

 唐突に声がした。どこか遠くから聞こえるような、途切れ途切れでありながら、意を汲み取れる自分を呼び止める声が。

 

 星琉が後ろを振り返ると、何も無かったはずの白の世界に人影があるではないか。

 

 身長は星琉より高い。肩ほどまで伸びた焦げ茶色の髪。純白の外套を纏い、かつ背を向けていたのでその体格は伺えなかったが、感じ取れる覇気が只者ではない事を星琉に報せる。

 

――その星■近■いて■い■ない。君■■解し■い■■ずだ。

 

 背を向けながら語り掛ける青年の右手に、一振りの刀剣と思われる形をした光が顕れる。その光を一目見て、星琉は瞬く間に心を奪われた。

 

 長さが一メートルはあろう幅広の光。どのような刃かは伺えなかったが、陽光の如く白金に輝くその様は、触れただけで潰されてしまいそうな程の圧力を感じさせる。その圧倒的な存在感が、どうしようもなく――心地良かった。

 

 身を翻して黒の世界を抜け出し、白の世界へ歩みを進める。一歩一歩進む度に、青年の姿が近付いて行く。そんな中で、星琉は不思議な感覚に囚われていた。

 

 満たされて行く……強く、大きな力に。何者をも寄せ付けない圧倒的な力。護るべきモノを護れる力。

 

 削ぎ落とされて行く……まるで、最初から存在しなかったかのように。自分の中の『■』。大切な、とても大切な『■』。

 

 青年の背中に追い付きそうだ。後少し……もう十歩進めばその目的を果たす所まで来た時、背後の世界から闇が溢れ出した。やがてそれは少女の姿となり、星琉を後ろから捕らえた……否、抱きしめていた。

 

――星琉さん……!

 

 振り払わなければならないと思った。当たり前のように、そうすることが自然なように、其処にあった黒の世界から生じた闇は、白の世界を侵してはならない。等しく■■■■■■達のように滅さなければならない。そうした考えが頭を過ぎった。

 

 けれど何故だろう。この闇を振り払おうとは思わなかった。手放したくないとさえ思った。

 

 この暖かさは何だろう。一体、名前を呼ばれた時に篭められていたものは何だろう。分からない。判らない。解らない。

 

 わからないから、振り返った。其処にあるものを確かめる為に。自分が感じた事を確かめる為に。

 

 そうして、其処に居たのは――

 

 

◇◆◇◆

 

 

「……ぅ」

 

 意識が浮上して、目が覚める。直ぐに開けた視界で一番最初に映ったのは、水晶のような涙をぽろぽろと流しながら自分の手を取る、『護りたかった』人の姿。

 

「ま……りや……さん……?」

 

「はい……はい……! 良かった……本当に、良かった……!!」

 

 涙を流す姿が、いつかの彼女と被る。間違いない。この暖かさは、星琉が護りたいと想った存在……。

 

「…………」

 

「……星琉さん、どうかしたんですか? どこか痛みますか!?」

 

 だからこそ、星琉は涙を流していた。何よりも彼女が無事であったことに。この暖かさを感じられる事に。そして狼王に敗北した、自分の惨めさと悔しさ。祐理に対する申し訳なさで……。

 

「ごめん……ごめん……!!」

 

――僕は君を……護れなかった……!!

 

 

◇◆◇◆

 

 

「ふぅ、これで一応一件落着って所か」

 

 紺色の甚兵衛羽織を纏った黒髪黒目の二十歳半ば頃の男性が、日本家屋の縁側に座り、熱い緑茶を啜りながらそう呟いた。

 

 澄み渡った晴れやかな夜空が臨める今日。三日月は僅かに漂う雲が掛かり、風は穏やかに流れ、近くにある湖は月影を反射してキラキラと輝いている。

 

 日本は富山県、飛騨山脈の南東部。日本三霊山の一つに数えられる立山の麓に位置するその場所に、『冥』の位を極めし異端の魔術師――カーター・オルドラの家はあった。

 

 瓦葺の屋根にひさし。フローリングではなく畳を張り、壁もクロス張りではなく土壁を採り入れる。土間や床の間、障子が用いられて風通しが良くなるように設計された、正に伝統的な日本家屋と呼ぶに相応しい家。生粋の日本人でも住む人が少なくなってきたこの建築を、カーターは大層気に入っていた。しかし、この家を気に入っているのは彼だけではない。

 

「はー、やっぱ日本は良いなぁ。俺もこっちに来ようかなぁ」

 

「やめろ。そんな事になれば日本が面倒臭ぇ事になるだろうが!」

 

 今この家には、カーターの他に弟子が一人と、その他五人の人間が居る。その内の一人が義息子であり、弟子であったフランスのカンピオーネ、『神獣の帝』と称されるシャルル=カルディナルである。

 

 シャルルはちぇーっと唇を尖らせてカーターの隣に腰を下ろすと、真剣な顔付きになって尋ねる。

 

「星琉はもう……大丈夫なんだよな?」

 

「……ああ。命に別状はないし、身体を欠損した訳でもない。健康体そのものだ」

 

「そっか……」

 

 ほっと一息つくシャルルにカーターは同意するが、しかし今の状況は『彼女』が居なければ成り立たなかっただろう。最悪の場合だって在り得たかもしれない。

 

「万里谷祐理……か」

 

 

◇◆◇◆

 

 

 ほんの一日前の話だ。唐突に電話が掛かって来て、世界でも十人に満たない人外であるシャルル(義息子)から「今から神獣で東京に行くよ」などと軽く言われて呆けたのは記憶に新しい。

 

 いや、確かにヴォバン侯爵が来日しているとは知らなかったのだが、しかしいきなりそんな常識外れな事を言うのは如何な物かとカーターは思う。まぁ、だからこそシャルルはカンピオーネたり得る者なのだろうが。

 

 シャルルが神獣で駆け付ける時、それは大抵急を要する時だ。故にカーターは、自分が生涯を掛けて極めて来た異端の魔術を用いて早急に情報収集し、ヴォバン侯爵の来日と現在進行形での星琉との対決を掴んだ。シャルルの目的がこの戦いの仲裁だと当たりをつけると、その場所に一直線に辿り着けるように魔術で手配をし、同時に念の為自分も現場近くに急行した。

 

「師匠!!」

 

「大師……!!」

 

 そこで目の当たりにしたのは、シャルルの側近であるアンヌとカティアに抱きかかえられた満身創痍の星琉の姿。気を抜けばすぐにでも息を引き取ってしまいそうな彼の姿には、カーターも険しい表情を隠せなかった。

 

「(助けられるか……?)」

 

 カーターの用いる魔術は、その特異性故に幅広い応用性を持つ。カンピオーネ特有の魔術耐性も、その『特異性』故に有効である事は実証済みである。

 

 ただし、ある一つの条件があり、その条件を満たす為に非常に多くの時間が必要になる。はっきりと言ってしまえば、この時点で星琉の命を救う事はほぼ不可能に近かったのだ。

 

 だがその時、カーター達の目の前に大きな闇が地面から噴水のように溢れ出した――『転移』の魔術だ。それが直ぐに収まったかと思えば、そこには一人の巫女服と思しき衣服を着た少女が倒れており、その頭上に黒の背表紙に金字の本が浮かんでいた。そうして、カーターの意識に呼び掛ける一つの意思。

 

――創造主よ、我が主ならば……――

 

 その意思が一体何なのか、カーターは瞬時に理解した。当然だ、何せ自分が手塩に掛けて書き上げた自らの知識の結晶体なのだから。そこから流される少女に関する表面上の知識を仕入れ、納得する。

 

「日本に資格者が現れた事は知っていたが、こうもドンピシャだとはなぁ……これも縁って奴なのかね。アンヌ、カティア、武器を下ろせ。大丈夫だ、この巫女は星琉を救う為の鍵になる」

 

 カーターは突然の闖入者に各々の得物を『召喚』し、警戒していた二人の騎士を諌め、しばしの間その少女を見守る。

 

「ん……」

 

 果たして、少女は目覚めた。身体を起こし、胡乱気な眼がしっかりと開かれると、一点に重体な星琉の身体を見て目を開き、次いでカーター達を見遣る。声を出そうとするが、それよりも先にカーターが割り込むように少女――万里谷祐理に話し掛けた。

 

「万里谷祐理。目覚めたばかりで驚いている所悪いが、後にしてくれ。星琉を助けて欲しい」

 

「……っ!! 分かりました!」

 

 一瞬戸惑いの表情を浮かべた祐理だったが、恐らく魔導書――『霊典・幽現目録』が自分達の情報を渡したのだろう。直ぐに表情を引き締めて、星琉の治療に取り掛かった。そう――

 

 

 『生命再生』……『魂魄に直接干渉する』という、カーターと全く同系統の魔術を用いて……。

 

 

◇◆◇◆

 

 

 月が刃を見せる今宵、星々が瞬く空を見上げながら、星琉は湖の(ほとり)で静かに立っていた。反芻するのは、ヴォバン侯爵と繰り広げた戦いの事。

 

 はっきりとしている事は、あれが自分自身の全力で、全くヴォバンには及ばなかったという事だ。

 

「……っ!」

 

 ギリッと歯を食い縛り、拳を握り締める。その様子には、自身に対する怒りがありありと見て取れた。

 

 カンピオーネとなって六年近く経つ。何も知らなかった幼い子供の時を切り捨て、魔術を学び、戦う術を得た。なのに、これ以上ない敗北を喫してしまった。それも負けてはいけない類の相手に……。

 

 星琉は自分が意識を失ったその後の事を聞き及んでいた。先輩であるシャルルと、同郷の護堂が駆け付けてくれた事。ヴォバンは満足した様子で、自分から日本の地を去った事。そしてその後、瀕死の所をまた祐理に救われた事。

 

 護ると約束したのに、逆に護られてしまった。彼女は何も関係の無い、平穏な所で暮らしているべき存在なのに……巻き込んではいけないのに……。

 

「難しい顔してるな、星琉」

 

 背後の木々から話し掛ける声がした。親しみを乗せた、少し高い男性の声。

 

「……先輩」

 

「よっ、師匠から酒をくすねて来た。一緒に呑もうぜ」

 

 現れたのは痩身白髪の青年、星琉よりも先にカンピオーネとなった魔術結社《漆黒真珠》の総帥、シャルル=カルディナル。彼の手には酒瓶と猪口が握られており、酒盛りをする気が満々だった。

 

 どっかりと星琉の横の地面に座り込むと、それに習うように星琉も静かに腰を下ろした。シャルルが栓を開け、猪口に注いで星琉に渡し、次いで自分の分も注ぐ。

 

「んじゃあ……星琉が生きていた事に、乾杯」

 

「……乾杯」

 

 猪口を合わせずに乾杯し、二人ともが星の映り込んだ酒を一気に呷る。シャルルはその味に快活な表情を浮かべるが、対照的に星琉の顔は晴れない。

 

「くぅーっ! やっぱ日本酒って美味いな。ワインもいいけど、こっちの方がすっきりする」

 

「……そうですね」

 

 心ここにあらずな星琉の返事に、空いた猪口に酒を注ぐシャルルは苦笑する。それはまるで、落ち込む弟を仕方ない奴だと見守る兄のような、暖かみのある表情。

 

「ヴォバンのジイさんは強いよ。何せ三百年生きてる怪物だからな……まぁ、同じカンピオーネである俺たちも同類なんだけど」

 

「……でも、先輩は痛み分けにまで持って行ける」

 

「そりゃあ、何度もあのジイさんとは戦って来たからな。経験の差、って奴か」

 

 あっけらかんとシャルルは答えるも、星琉の表情は納得がいかない様子だ。より一層の(かげ)が差す。

 

「……けれど僕は、あの人に負けてはいけなかった。平気で人々に災いを(もたら)す、あんな人には」

 

「――そうか。星琉、お前はあの時の事(・・・・・・)をまだ……」

 

 星琉が無言の肯定を見せると、それから少しの間、会話が途切れた。代わりにお互い酒が続き、その度に星琉は顔を俯かせ、翳っていく。そんな彼の様子にシャルルは嘆息し、遠い目をして酒を注ぎ、目前で静かに水面が揺蕩(たゆた)う湖を眺めながら、もう一杯呷る。

 

 『あの時の事』……それはシャルルの胸にも深く刻まれているある意味での敗北の記憶。シャルルは既に過ぎ去った事として飲み下していたが、目の前の弟分はそうでもなかったらしい。

 

「そうだよな……お前はそういう奴だよ。だからこそ俺は――」

 

 星琉が何かを確かめるように一人呟くシャルルを見ると、彼はどこか儚げな表情を浮かべていた。その胸中がどういった物か分からないまま、酒が三分の一進んだ程度で彼はその場を立ち上がる。

 

「さて、むさ苦しい男同士での前座はお終いだ。後は二人で仲良くやってくれ」

 

 シャルルが視線で星琉の注意を後ろに注がせると、そこには木に寄りかかり、所在無さげにこちらを見ている祐理の姿が。

 

 彼女も見られている事に気付いたのか、少し慌てた様子で木の後ろに姿を隠す。しかしまたもう一度少しだけ顔を出して、こちらの様子を伺っていた。

 

「可愛い娘だな。マリヤ・ユリだっけ? 師匠が才能あるって注目してたぞ。星琉の彼女か?」

 

「万里谷さんは、そんなのじゃないよ。僕の……恩人だ」

 

「どーだかねぇ……」

 

 星琉が祐理に向ける眼差しを見てくつくつと笑うシャルル。そんな様子に星琉は不審の目を向けるが、彼は背を向けてじゃあな、とカーターの家に帰ってしまった。

 

「…………」

 

「…………」

 

 シャルルが去った後、二人の間には静寂が場を満たした。星琉が呼び寄せる事も無く、祐理が木の傍から離れる事も無く。

 

 しかし程無くして、祐理がおずおずと星琉に近付き、やがてその隣に腰を下ろした。彼女の表情は、とても緊張した面持ちだ。

 

「……お酒は、二十歳からと言ったはずですよ」

 

「……イタリアとかだと、高校生からでも飲酒は可能だよ」

 

「ここは日本です。『郷に入りては郷に従え』。星琉さんならご存知でしょう?」

 

「……そうだね」

 

 そんな他愛の無い話で静かに、儚げな表情を浮かべて笑みを零す星琉の様子に、祐理は少しだけ胸を撫で下ろした。彼が目覚めてからというもの、どこか元気が無かった気がしていたからだ。

 

 だが、そこから会話は途切れてしまう。気まずい空気が二人の間を流れ、夜風が肌を浚って冷やす。

 

「……ごめん」

 

 やがて、重石を乗せられた罪人のような様子で、星琉は搾り出すように声を出した。そのあまりにも重苦しそうな彼の表情に、思わず祐理は息を呑む。

 

「万里谷さんを護ると約束したのに、僕はヴォバンの前に敗れて……また、君に助けられてしまった」

 

 まるで、祐理に助けられた事自体が罪であるかのように言葉を零す星琉。どうして彼がそんな風に言うのか、その理由が掴めないまま、祐理は言葉を返す。

 

「星琉さんは、ちゃんと約束を護ってくれましたよ。危険だからと幽世に匿ってくれて、ヴォバン侯爵と戦われて、私を護り通してくれました」

 

 

「けどそれは、先輩達がいたからこそだ……僕一人じゃ、君を護り通せなかった」

 

 ――また、またあの表情だ。いつかの夕暮れ時に見せた、哀しみを隠し切れて居ない表情。

 

 星琉の言葉は、誰かを頼ろうとする事自体を否定しているようだった。何故そこまで他人の力を頼ろうとしたくないのか祐理は分からなかったが、彼のその様子が余りにも危うく見えて。

 

 だからだろうか、祐理は無意識に、星琉の手を引き止めるように両の手で包み込んだ。

 

「え……?」

 

 祐理の突然の行動に驚きの声を零した星琉。果たして、自分の無意識の行動に内心驚いたのは祐理自身だ。しかし、心のどこかではその行動に納得している自分がいる事に気付いた彼女は、星琉の顔を上目遣いに覗き込むようにして言葉を掛ける。

 

「星琉さん。あなたが全てを抱え込む必要は、ないんですよ。委員会の方々や、草薙さん、『神獣の帝』様も、私だって! ……星琉さんが求めれば、きっと助けになってくれるはずです。星琉さんは、独りじゃないんですよ」

 

 と、そこまで言葉にして、祐理は顔を赤く染めて星琉から逸らした。自分があまりにも彼の傍に近付き過ぎている事に、今更ながら気付いたのだ。

 

「す、すみません! 私ったら、知ったような口を利いて……」

 

 胸の奥がとくんと弾んで、少しだけ痛い。けれど、それは嫌な痛みではなくて、嬉しいような、恥ずかしいような、もっと感じていたいと思う痛み。

 

「――ううん、ありがとう。少し、気が楽になったよ」

 

 柔らかに微笑む星琉の顔をちらりと見て、祐理も同じように微笑んだ……頬を赤く染めたままで。

 

 彼が傷つく姿を見たくない。けれど、彼が命懸けで自分を護り通してくれた事に、甘い痺れが走った。

 

 彼が微笑んでくれた。たったそれだけの事なのに、彼の力になれたような気がして、とても嬉しい。

 

 今まで感じた事のない心が祐理の中で駆け巡る。さっきまで普通に話せていたのに、急に恥ずかしくなってしまって、星琉の顔を直視する事が出来ない。

 

「あ、あの、私は、先に戻っていますね。星琉さんも、体が冷えない内に、帰って来て下さいね?」

 

「うん、分かった。お休みなさい、万里谷さん」

 

「お、お休みなさい……星琉さん……」

 

 少しずつ小声になりつつも、なんとか挨拶を返す事が出来た祐理。自分でも詳細が分からない心の変化に少しだけ戸惑いつつも、その不思議な心地良さに身を委ねながら、祐理は木々の中へ消えた。

 

「『独りじゃない』……か」

 

 祐理の気配が十分に遠退いた後、星琉はさっきまで祐理の温もりを感じていた両手に視線を落とし、そっと呟いた。

 

 人は、独りで生きて行く事は出来ない。どんな事にも、どんな物にも、誰かの手を借りて生きているのだ。それは、星琉にとってカンピオーネの先達であるシャルル。魔術の師であるカーター。武術の師である晃。同郷のカンピオーネである護堂。そして、自分の中で大切な存在である――祐理。

 

 

 それだけじゃない。沢山の人に助けられ、導かれ、今の自分がある事を、星琉は十分に承知しているつもりだ。だからこそ――

 

「だからこそ、僕は『独り』でいなければならない」

 

 刀剣のような鋭い眼差しで、夜空を見上げて呟いた。鋼を思わせる意志の宿った、何者をも拒むようなその言葉。

 

 

 三日月の輝きは鈍く(ひず)み、静かなる湖面は寂しげに波を立たせた。



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悪魔の章
first 後を濁さず


 お、お久しぶりです……。(恐縮) 前回投稿から約一年後の投稿。亀どころかセミレベルの更新速度ですねhahaha! 本当にお待たせしてすみませんでした。orz

 新章『悪魔の章』開幕です。どうぞよろしくお願いいたします。 


「そもそも、この世界に存在するものは全て、それこそ人も動物も植物も鉱物も、果ては現象や幻想でさえ本質的には同じものだ」

 

 深き深き樹海の中。尋常であれば知られることのない場所で、一人の青年――カーターが黒板を背に授業を開いていた。

 

 生徒は少女が一人。巫女服を着た、およそこの場には相応しくないはずの存在――祐理だ。

 

「その本質っていうのが『霊気』だ。その昔アリストテレスが提唱し、否定されたもの。しかし、完全な正解ではないが、そう間違った事は言ってなかったんだな」

 

 話していて喉が渇いたのか、近くにあったガラスのコップを持ち上げるカーター。ところが容器の中には何も入っておらず、彼の渇きを潤せるはずがなかった。

 

 しかし次の瞬間、祐理の目に信じられない光景が映る。

 

 空の容器に顔を顰めたカーターだったが、仕方ないといった様子で意識を集中させる素振りをみせた。すると、容器の中にひとりでに透明の液体が湧いて出たのだ。

 

 祐理の驚きを尻目に、こくこくと液体を飲み干すカーター。やがて彼女の表情に気付いたのか、どこか悪戯っぽい眼差しを注ぎながら説明する。

 

「んくっ。アリストテレスは霊気――エーテル、或いはアイテールとも言うんだが、これを天空にのみ満ちる輝ける元素と定めていた。しかし、実際にはこんな風に全てのものの(もと)となるものだった、という話だ」

 

「……霊気を操る事が出来れば、どんな事も可能なのですか?」

 

「応とも。勿論、個人の力量に依るが、さっきみたいに水を生み出したり、火、気、土を生み出すことを中心に、全ての自然現象――いや、もっと大きく『概念』を操る事が出来ると言っても過言じゃない」

 

「概念、ですか」

 

 思う所があるのか、落ち着き払った様子でその言葉に考え込む仕草を見せる祐理。そんな彼女をカーターは喜悦を込めた眼差しで見守っていた。

 

 しかしこれが聡明なエリカであったならば、その言葉の異常性に気付けただろう。全ての『概念』を操る――それは万象を操るということ。それは魔術師が、魔女が、生涯掛かっても到達し得ない極致。それをさらりと言ってのけるカーターにも、そしてその可能性を秘めているという祐理にも、彼女は最大級の警戒をしたことだろう。

 

「んじゃ、今日はここまで。次の日までにさっき俺が言った『概念』の意味を考えてくること。いいな」

 

「……はい、わかりました」

 

 早速カーターに言われた『概念』について考え始めている様子の祐理。そんな彼女を見たカーターは満足そうに頷き、彼女を見守っていた。

 

 

◇◆◇◆

 

 

「魔術を教えて欲しい?」

 

 祐理がカーターにそう詰め寄ったのは、侯爵が去り、星琉の治療が為されている時だった。

 

 頼まれた当のカーターはと言えば、腕組みをしてうなり、考え込んでいる。値踏みするように怪訝な眼差しを祐理に注ぎ、瞑目してから返答した。

 

「……悪いが、俺がお前に教えられる魔術は何もない」

 

「ですが、オルドラ様はこの書をお書きになられたのですよね? でしたら――」

 

「あー、何か勘違いしてるようだから言うが、ぶっちゃけ俺は魔術師としての才能は全くのゼロだぞ」

 

 カーター・オルドラという人物は日陰の者である。今でこそ広く名の知れている彼だが、そもそもその原点は『出来損ない』だ。

 

 カーターはその昔、絶望的に身体に恵まれなかった。幼い頃は貧弱、病に罹りがち、何度も死の淵に立ったものだ。それでもなんとか生き延び、時が経ってとある魔術結社に所属すれど、剣も、槍も、棒も、徒手も、ありとあらゆる武の才能が欠如していた。

 

 師からは落伍者の印を押され、同輩からは憐憫と嘲笑。庇護すべき親ですら、失望と諦観を見せ付けた。やがて、カーターは自分以外の全てを捨てた。親も、師も、同輩も、故郷をも捨てて世界へと旅立ったのだ。

 

 カーターは魔術師としては三流以下である。何せ、この世界の魔術師というのは魔術と武術、両方を極めて一流となるのだから。

 

 しかし、彼に一切の才能がなかったかといえば、それは否である。

 

 彼は、誰にも劣らぬ明晰な頭脳(理性)。常人では持ち得ない死生に対する理解(本能)。尋常ではないカタチを持たぬ存在への感受性(精神)。それらを持ち合わせ、『人間』としての内面の格――『霊格』が圧倒的に高かったのだ。

 

 それは、彼の生まれ持った才能だっただろう。幼い頃の臨死体験のせいだろう。併せて、偶然か必然か幽界を覗き、その才能と経験で少しだけ理解『出来てしまった』せいなのだろう。やがて、彼は己の才覚を存分に振るい、その拠点を幽界へと移す。それは余りにも異例な事だった。

 

 そも、幽界とは『生と不死の境界』。肉体より精神、物体より霊体の方が優位な世界であり、たとえ魔術師であろうと特別な霊薬を服用し、『世界移動』という高度な魔術の使用が不可欠だ。

 

 更に、幽界は人間が住まうべき場所ではない。長く存在すれば精神に主導権を握らせてしまい、肉体を崩壊させてしまう。だが、彼はその特徴を理解し、理論を構築し、幽界の理に則って逆らう事なく、肉体と精神を確立させ、自己という存在を確定させた。

 

 やがて、彼は幽界を起点とした研究を始めた。即ち、魂魄に関する研究である。研究材料には全く困らなかった。何せ、幽界自体が魂魄そのものを扱う世界なのだから。

 

 更に、幽界は果てなく膨大だ。人間としての一生を掛けようと、何千何万の年月を掛けようと全てを知ることは不可能だろう。研究が終わる事は全くなかった。

 

 幽界を巡って、妖精王に拝謁する事もあった。眠りに就いているまつろわぬ神だった者を見つけたこともあった。エルフの国や、忘れ去られし妖怪や魔物の郷を訪れた事もあった。

 

 どれだけ時間が経とうと気にしなかった。むしろ、時間という概念を意識の外に放り出していた。

 

 だからだろうか。気付けば、彼の肉体はその成長を止めていたのだ。

 

 驚きはしたが、悲観はしなかった。不老不死というわけではなかったし、ただ単純に老化が極端に遅くなったまでのようだったからだ。むしろ、そういう身体になってからこれまで以上に研究は進んだ。まるで何かに導かれるかのように、カーターは日に日に新たな発見をしていったのだ。

 

 やがて彼は辿り着く。世界の全史、虚空の記憶。始源から終末までの運命を全て記したその場所へ。

 

 この世では、『隔世者(かくせいしゃ)』と呼ばれる存在が極稀に現れる。それは世界の理を理解したもの。星の真実を発見した者達のことだ。

 

 彼ら彼女らは魔術界では大きな意味を持つ。例えば歴代の『地』の位を極めた最高位の魔女、『天』の位を極めた魔女。悟りを開きし者。神の声を聞きし者。

 

 カーターはその『隔世者』となっていた。つまり、世界でも最高位の魔導を極めし者に。

 

 ――魂魄を探求し、魔導を極め、私たち最高位の魔女と同列に並びし者……さしずめ『冥』の位を極めし魔導師、といった所か。

 

 こう発言したのは当代の『地』の位を極めし魔女だったという話で、これによりあまりにも例外すぎる彼の魔術界での二つ名が決まったのだ。当の本人は知ったことじゃないと一蹴したらしいが。

 

 それはともかくとして、祐理もここまでの仔細は知らないものの、カーターが師事するにはこれ以上ない存在であるということは理解しているのだ。それは彼も承知のはず。では何故……?

 

「だから、それがそもそもの間違いなんだって。『地』の魔女は同列だなんて()かしたみたいだが、そんなことはない。俺が使える魔術は、ただ一つの事柄に収束しているんだよ」

 

「魔術が……一つだけ?」

 

 そんなことが信じられるのだろうか。これだけ力を持っていると言われる魔術師が、たった一つしか魔術を使えないなど。

 

 驚愕を露にする祐理を尻目に、カーターは大きく息を吐く。といっても、そこに込められた感情は負のものではなく、こちらに同意するかのような物だった。

 

「そりゃ信じられないよなぁ。まぁ、俺の場合は『至ってしまった』のと、かつそれが一つに見えないから問題な訳なんだが……」

 

 では、その具体的な内容とはどういう物なのだろうか。食い下がる祐理に、カーターはとんでもないことを言った。

 

「自身の内界から真理を汲み出し、外界に発現させて干渉する――『万象定義(Define the world)』。簡単に言えば、俺はこの世の道理に則した事であれば何でも出来るって事だ」

 

「何……ですか、それ。そんなの――」

 

 ――まるで神の如き全能の魔術ではないか。

 

「おいおい、俺の話聞いてたか? 『この世の道理に則した』って言っただろう。つまり、老いるし、死ぬし、生き返らないし、生き返らせられない。定義出来る事にも限界があるし、カンピオーネや神々にも抗えない。まぁ、普通の人よりかは外れてるだろうが、それでも人間の範疇だ(・・・・・・)カンピオーネ(規格外)なんかじゃあない」

 

「で、では、何故この魔導書を――『霊典・幽現目録』を著されたのですか? 自身の内界から、つまり、オルドラ様にしか使用できないのであれば、この書を残された意味は何なのでしょうか?」

 

 祐理の疑問は当然であった。魔導書に記されている物には様々な意味がある。例えばそれは神への賛美、怪物への畏怖、悪魔との契約など。ただし、それが魔術師の魔導書であるのならば意味は一つしかない。つまりそれは、魔術師自身が後継者を生み出すための手段――遺産なのだ。

 

 だが、カーターの言葉が真実であるのならばこの魔導書は全く意味を為さない物となってくる。遺すべき魔術がカーターにしか使えないというのならば、形にする意味がないのだ。

 

「あー、それは……ぶっちゃけて言えば実験という名の悪ふざけだったんだよ。霊府(・・)――じゃなかった、『隔世者』にしか知り得ない情報を魔導書として遺せば、一体どんな事が起こるのだろうっていうな。まぁ、結果として意志を持つ『隔世者候補探知機』みたいな効果を持った物が出来て、お前が引き当ててしまった訳なんだが……そんなつもりなかったんだけどなぁ」

 

 どこか遠い所に目を向けてぼやくカーターに思う所はあったが、ぐっとそれを飲み込む。今度はカーターが祐理に疑問を投げかけた。

 

「そもそもだ、万里谷祐理。お前はどうして魔術を習いたいんだ? お前は媛巫女という日本で特別な立場にあり、それに則した呪術を習得すればそれでいいだろう。態々畑違いの分野に出す必要も、余裕もないんじゃないのか?」

 

「それは……」

 

 痛い所を突かれた。カーターの言葉は最もであり、何一つ間違った所はない。祐理は未だ半人前で修行中の身であるし、呪術と魔術では術式体系が違うのだから、そこを一から理解しようとすれば相応の時間が掛かるのは必然。けど、それでも……。

 

「――私は、星琉さんの支えになりたい」

 

「……ほぅ」

 

 小さく呟くように、しかし確かな決意を込めて吐露すると、カーターは冷徹な表情で声を漏らした。

 

 びくりと体が強張る。しかし、ここで後ずさってはダメだと直感した祐理は、負けじとカーターを睨み返す。

 

「ふむ、『芽』はある……か。まぁいいだろう」

 

 はぁ、と一つ大きく息を吐いてから、カーターは諦めたような、しかしどこか嬉しそうな様子で応えた。

 

「お前が勤めている神社――七雄神社だったか。そこに(ゲート)を作っておくから、学校が終わったらこっちに来ること。都合が悪ければ魔導書を通して教えてくれればいい。あと、俺が出来るのはお前の才能を伸ばす講義だけで、術に関してはからっきしだからそこは期待しないように」

 

「そ、それって……」

 

 その言葉の意味する所に気付いた祐理は息を呑む。それを見たカーターはニヤリと笑みを浮かべ、続く言葉を放つ。

 

「折れるか咲くかは知らないが、お前には確かに『至る』才能がある。この世界の理と深淵、叩き込んでやるよ」

 

「あ、ありがとうございます! オルドラ様!」

 

 勢いよく、されど上品に頭を下げる祐理にカーターは苦笑する。確かに、講義とはいえ自分の教える事は、世の魔術師が羨んで仕方のない知識の宝物庫。が、様付けされるのは慣れていないのでむず痒い。

 

「様付けは止してくれ。普通に先生と呼んでくれればいい。俺はそこまで高尚な人間じゃないもんでな」

 

「分かりました、先生。これからよろしくお願い致します」

 

 エリカ辺りが聞けば何をおかしな事をと否定する所だが、魔術師の価値観を持たない祐理はすんなりとその言葉を受け入れたのだった。

 

 

◇◆◇◆

 

 

 あれからしばらく経つが、祐理の成長は芳しい。一を聞いて十を知る、とまでは行かないが、『世界』に対しての知識を着々と身に付けている。

 

 しかし、『知識を付けるだけ』ならば誰にでも出来る事なのだ。問題は『どうやって霊府に至り、己の形を識るか』だ。こればかりは外の人間がどうこう出来る事ではない。基本的に、己を識る事ができるのは自分だけなのだから。

 

「(さて、これが良い方向に繋がればいいんだがなぁ。もしくは咎められるか?)」

 

 目の前で概念について纏めている祐理を見て、星の名を持つカンピオーネを思い浮かべる。彼は、祐理の今の状況をどう思うだろうか。何か特別な思い入れを抱き、闘争から遠ざけようとしているようだが……。

 

「あの、先生」

 

「ん、どうした?」

 

 少しばかり回想に浸っていると、祐理から問い掛けが訪れた。概念についての事だと思っていたカーターだったが、どうやらそれは違ったらしい。

 

「星琉さんの事なのですが、二日ほど前から学校をお休みされていて……体調でも崩されたのでしょうか。何かご存知ではありませんか?」

 

「……ああ、なんだ。てっきり教えてるもんだと思ってたんだが、そうじゃなかったか」

 

 面食らい、意外そうにそう言ったカーターに、祐理は引っかかる物を感じた。しかし、それはほんの小さな違和感ですぐに消えてしまったが。

 

 そして、カーターは祐理の予想だにしない事実を語る。

 

「星琉は今――」

 

 

◇◆◇◆

 

 

 快晴の空の下、黒のパンツに白のインナー、水色のシャツと夏らしい服装の星琉は、黒のキャリーバッグを引き下げて彼よりも背の高い人々の間を歩いていた。

 

 彼が今いる場所は、日本から遠く離れた異国の地。時差16時間、距離にして成田空港から5451マイル離れたアメリカ合衆国はカリフォルニア州に位置するロサンゼルス国際空港。

 

 入国審査を滞りなく済ませた彼は、空港内のとあるカフェで一席分の結界を作り、コーヒーを飲みながら本を読んでいた。

 

「あなたが、セイル・キラで間違いないかしら?」

 

 頭上から掛けられた声に、星琉はゆっくりと視線を持ち上げる。彼の目に入ったのは眼鏡をかけた理知的な女性だった。ショートヘアの燃えるような赤髪。クールビューティーという言葉こそ相応しい彼女は、やや硬い表情で星琉を見ていた。

 

 結界を判別出来る、という事は、魔術の世界の関係者という事になる。甘粕と邂逅した時にも使用した方法だ。星琉は友好的な笑みを浮かべて挨拶をする。

 

「こんにちは。あなたがベスト教授……では、ありませんよね?」

 

「ええ、私はあなたの迎えとして来たの。教授は大学の研究室で待っているわ。すぐに行きましょう」

 

 そう言って先を急ごうとする彼女だったが、何かを待つような星琉の眼差しに、思い出したかのように新たに言葉を発する。

 

「ああ、名乗り遅れたわね。アニー・チャールトン、教授の研究助手をしているわ。よろしく」

 

 ――これが、後に星琉が『ウラヌス』と尊称されることとなる事件の始まりだった。




 三章は過去編だと言ったな……すまない、あれは嘘になってしまった。

 というわけで、原作主人公よりも一足早く海外進出でございます。お休みから復活したと思ったらこのオリ設定の山。ど、どうか受け入れていただければ幸いです。質問でも何でも受け付けますからお願いします!←

 では、詳しい話は活動報告にて。読了ありがとうございました。


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second 星なる人と聖なる人

カンピオーネ!ⅩⅨ 魔王内戦 10月25日発売! (ダイレクトマーケティング)


 発端は一週間前、カーターに頼みごとがあると呼び出された事だった。

 

――こいつを、サマンサ大学の外国語文学科に在籍するジョー・ベストっつー教授に渡して来て欲しいんだ。頼めるか?

 

 そうして手渡されたのは一冊の魔導書。チラリと見た所、妖精と神隠しについての魔導書のようだ。無論、著者はカーターである。

 

 通常であればこういった物の遣り取りは投函の魔術を用いるのだが、この魔導書が備える秘録は並の物ではない。近代の魔術師が著した物であればいざ知らず、この世の真理に辿り着いた者の書物。その為、魔術が作用しないのだ。 

 

――なに、そう悪い結果にはならんだろ。お前のことも世間バレしたし、アメリカの守護聖人と話をつけておくのも悪くないんじゃないか?

 

 お前も興味があったんだろ? と締めくくるカーターに、星琉はその意図を悟る。カーターはアメリカのカンピオーネ――ジョン・プルートー・スミスとコネクションを構築しろというのだ。

 

 とはいえ、こちらに自由意志はある様子。断っても問題ない雰囲気ではあった。そう軽々と他のカンピオーネに会いに行く必要もないし、義務もない。世間に星琉の存在は知られたが、だからといってこの先必ず関わり合いになるとは限らないのだから。

 

 しかし、星琉はこの頼みごとを承諾した。ジョン・プルートー・スミスの風評については彼も聞き及んでいたし、そこを加味してもコネクションを構築しておくのは間違いではないと判断したからだ。そういうわけで彼は遠い異国の地に臨んでいる。

 

「ここからは私の車で移動しましょう。30分も掛からないわ」

 

 アニーが迎えに来たのは赤いBMWのアクティブツアラー。ここ最近でも女性向きという事で話題になっていたものだ。コンパクトなボディでありながら、室内はゆったりと、広く美しく見えるよう設計されており、ストレスのかかりにくい空間となっている。

 

 日本と違い、アメリカでは運転席が左側だ。アニーがそこに乗り込み、星琉が右側の助手席に乗り込む。やがて、二人を乗せた車は活気あるロスの街へと静かに発進した。

 

「セイルは、アメリカに来るのは初めてかしら?」

 

「いえ、何度か。小さい頃に本場夢の国に家族で訪れたりしましたよ」

 

「夢の国? ああ、そういう事。日本とは勝手が違ったんじゃないかしら?」

 

「ええ、迷子になっちゃいました……今となっては、掛け替えのない良い思い出です」

 

 憂いを含めたその笑みに、アニーは彼の事情を大方察する。詰まる所、彼は両親との繋がりを失くしてしまったのだろう。それがどのような別れなのかは分からない。ただ、彼の表情を見る限りでは……。

 

「すみません、なんだか変な空気にしちゃって」

 

「謝ることはないわ。訊いたのは私だもの。むしろ私が込み入った事を訊いたと謝るべきだったわね、ごめんなさい」

 

「はは、ならお互い様ですね」

 

 居た堪れない雰囲気をどうにか払拭したが、妙なしこりは残ったままで、ぎこちない会話が続いた。

 

 しかし、これがあるべき姿ではある。アニーは所詮一般の魔術師に過ぎないし、星琉は世界で数人しかいないカンピオーネだ。そうであるがゆえに数奇な運命の下にあり、常人を置き去りにするしかない。

 

「そういえば、セイルはガールフレンドなんかはいるのかしら? 噂に聞くもう一人の日本のカンピオーネのゴドウ・クサナギは愛人がいるという話を聞いたけれど」

 

 本人が聞けば激しく否定しそうな、しかし既に外堀の埋められている事実をアニーが持ち出す。そこに星琉は苦笑を浮かべる他ないが、否定も肯定もしない。

 

「その事については、まだ何とも。ただ、護堂くんについては昔から好意を持たれやすい少年だったみたいですよ。俗に言う天然ジゴロってヤツです」

 

「そう。それで、あなた自身は?」

 

「僕は……」

 

 ふと脳裏を過ぎったのは、桜を思わせる雰囲気を持った、心の優しい、芯の強い女の子。因縁の熾天使との戦いの際には命を救ってくれた恩人。

 

 次に浮かんだのは、少し昔に出会った明朗快活な女の子。天元流の修行の(かたわら)、偶々出会った長い射干玉の髪を持った彼女。カンピオーネという身分を隠し、短い間だったけれども、共に剣の道の極みを目指して深山幽谷を駆けた嵐の剣姫。

 

――いつかまた、絶対会おうね!

 

 春日のような笑顔と共に、結ばれた小指の暖かみを思い出す。もしかしたら、叶うとは思わなかった約束が果たされる、そんな時が来るのかもしれないと未来に期待しながら。

 

 そして……カンピオーネになったばかりの、本当に幼い頃の事。

 

 カンピオーネという存在、まつろわぬ神という意味、神々と世界の関係性を理解しきれていなかったかつての日。

 

――ああ、心優しき人の子よ。貴方は夜を越え、私に勝利した(死を制した)。ならばそれを誇示すれども、悲嘆する事はないでしょう。

 

――けれど、だからこそなのですね。星の流れを、燦めきを顕す貴方。これからは私の当代となる貴方。

 

――祝福を遺しましょう。憎悪などあるものですか。私は貴方の中で生き、三叉路にて導きましょう。

 

――だから、ねぇ……どうか泣かないで、星琉。

 

「……どうかした?」

 

 少し考え込みすぎたのか、やや心配そうな様子でこちらを伺うアニー。回顧から現実に引き戻された星琉は、なんでもないと首を横に振っり、先の問いに対する答えを出す。

 

「『君臨すれども統治せず、王者は常に孤高であれ』ですよ」

 

 答えになっているようなそうでないような、はぐらかした答えに眉をひそめるアニーをよそに、星琉は前を見据えたのだった。

 

 

◇◆◇◆

 

 

 

「ようこそおいで下さった、チャンピオン・セイル。遠路はるばるお越し頂き感謝します」

 

「ご歓待痛み入ります、ミスターベスト。お会いできて光栄です」

 

 互いに右手を差し出し合い、固く結ぶ。カーターの友人だというジョー・ベスト教授は老齢の黒人であり幻想文学界では著名な研究者らしい。

 

 主な研究内容としては『伝承と妖精の関係』『エルフの存在における自然現象の定義』『幻想と現実における境界の研究』などなど、中にはカーターと共同で研究していたものもあるようだ。

 

「アニーも案内をありがとう。出来るだけ早く研究を仕上げたかったのでね」

 

「構わないわ。特に用事もなかったし、日本のチャンピオンにも興味があったしね」

 

 少しずれた眼鏡を直しながら、特に表情を変えずにそう言うアニー。意図によっては怒っているように見えるのかも知れないが、星琉は短い時間ではあるものの、彼女がそういった感情表現に乏しいであろう人物なのだと判断していた。

 

「カーターとは数十年来の友人でね。まあ友人とは言っても、実質私の師匠のような存在なのだが」

 

 そう言いながら、私物なのであろうコーヒーミルの取っ手をくるくると回し、豆を挽くジョー。

 

「アニー、君はいつも通りのブラックでいいだろう。チャンピオンもブラックでよろしいか」

 

「ええ」

 

「はい、ありがとうございます」

 

 手慣れた手付きを見る限り、コーヒーをよく嗜好している事が伺えた。星琉もコーヒーをよく飲む方ではあるが、豆から淹れた事は経験がない。

 

 ペーパーフィルターとドリッパーを経て抽出されたコーヒーは、研究室内を芳しい香りで満たした。

 

「どうぞ。たしか日本ではこういう時『粗茶ですが』と言って差し出すのでしたかな」

 

「ええ。といっても、随分と丁寧に淹れられているみたいですが」

 

「ははは、チャンピオンに対して適当な物を出すわけにもいきますまい。そもそも私自身がこだわりを持っていますからな」

 

 差し出されたコーヒーを一啜りすると、鼻腔にスッキリとした香りと程よい酸味、苦味が舌を満たす。

 

「美味しい……」

 

「教授のこだわりは生半可ではないもの。もし彼が幻想に対する興味がなければ、きっとコーヒーに関する研究をしていたはずよ」

 

「む、それはそれでアリかもしれんな」

 

 ご覧の通り、とでも言うように肩をすくめるアニーとおどけたように考え込む仕草を見せるジョー。そんな二人の様子に信頼関係が見えて、星琉の顔もほころぶ。

 

「さて、そろそろ本題に入るとしよう。チャンピオン、私がカーターに頼んでおいた魔道書は……」

 

「ええ、ここに」

 

 キャリーバッグから引っ張り出されたその書を見て、ジョーは唸り、アニーは目を見開く。星琉が取り出した魔道書は、見るだけで解るほど大いなる神秘を込められていることが伺えたからだ。

 

 確かに、という言葉と共に魔道書を受け取るジョー。その場でパラパラと捲り、内容を大まかに確かめる。

 

「やはり、こういった事はカーターの右に出る者はいないな。流石は魂の深淵を覗きし者……ああ、すまないチャンピオン。礼が遅れてしまいましたな。わざわざ届けてくれて本当にありがとう、これで私も研究の続きが捗りそうだ」

 

 謝礼に関しては既にカーターとやり取りをしてあるそうなので、星琉が受け取るべき物などはないようだ。つまり、これでカーターからの依頼の目的は果たしたわけである。

 

「さてチャンピオン、貴方はこれからどうされるのですかな。まさかこのまま直ぐ日本へと帰られるわけではないのでしょう?」

 

「それは、もちろん。僕はアメリカに、三つの目的を以って訪れました。一つは、貴方へ先生の魔道書を渡すこと。一つは、この国のカンピオーネである“守護聖人”ジョン・プルートー・スミスに謁見すること。そしてもう一つは、数年前、ロスの自然公園に顕現した月と獣の女神アルテミス。そしてアルテミスによって獣に変えられてしまった人々」

 

 これをするかどうか、星琉は迷った。基本、秘匿を(よし)とする自分ではあるのだが、これもカンピオーネによってもたらされた被害の一つである。それを見て見ぬ振りをするのは、どうにも許すことが出来なかったのだ。

 

「僕は、彼らを元に戻すためにロサンゼルスを訪れたのです」

 

 

◆◇◆◇

 

 

 夜、下弦の月がようやく登り始めた時間。星琉はあるホテルのプレミアスイートを訪れていた。ここは当初、星琉が予約していたホテルではなく、わざわざジョーが星琉のキャンセル料を肩代わりしてまで取った最高級ホテルであった。

 

 結果として、星琉の目論見は成功していた。アルテミスによって呪いを掛けられた人々は、星琉の持つ、同じく月の神であるヘカテーの権能『闇夜に眩き月星の唄(スペル・オブ・マギカ)』によって解呪され、再び人として生きることを許されたのだ。

 

――本来であれば、この程度の謝礼では足りますまい。何せ、もう助けられぬと思われていた人々を救って下さったのですから。

 

 年月は経ってしまっているものの、数年程度だ。浦島太郎でもあるまいし、社会復帰は十分に可能との事だった。同時にその事に対してはSSI――アメリカの魔術界が責任を持つとも。

 

――それに、ここであればスミスも気兼ねなく訪ねられるでしょう。

 

 そう言われてしまうと星琉も断れない。だが、やはり一人にはやや広すぎる室内。少しだけカンピオーネという肩書きに辟易としながらも、それもまた今更だと思考を切って捨てた。

 

 それから暫く、湯船に浸かってしっかりと疲れを取った星琉は、ホテルに備え付けられたガウンではなく、いつも使用している作務衣を着ていた。

 

 ソファに深く腰掛け、テレビをつけてニュースを見る。特に強く報道されていたのは『行方不明事件が多発している』というものであった。

 

 その多くが青少年であり、特に反抗期に差し掛かる初等部から中等部にかけての子供達が行方不明となっていた。

 

「…………」

 

 星琉は報道されている現場にいたわけではない。しかし、彼の眼は女神のそれと同じ物。テレビの画面越しであり、時間も経っているであろうにも関わらず、星琉は現場の誰かの残留思念を読み取った。

 

「『宵の明星』か」

 

 呟いたのは、彼の記憶にない組織の名前。読み取りはしたものの、実際にどういった集団なのかは星琉にもまだ知る由がない。しかし、それに応えるかのような声が背後から投げかけられる。

 

「『宵の明星』。『蠅の王』と並ぶ組織力を持つ邪術師集団だな。とはいえ、最近は衰退の一途を辿っており、めっきり噂も聞いてはいなかったが……」

 

 いつの間にか開け放たれている窓。夜風にはためくマントは紳士の証か。虫を思わせる複眼のバイザーは生物的な生々しさを抱かせるはずであるのに、その凜とした佇まいから理知的なもののようにすら思わされてしまう。

 

 常人では侵入が不可能なはずのこの場所での、明らかに異常な事態。しかし星琉が動じた様子は全く見せず、後ろを振り返らないまま来訪者に話しかけた。

 

「初めまして、ですね。お会い出来て嬉しいですよ、ミスタースミス」

 

「こちらこそ、噂に名高い隠れた王と邂逅出来て光栄だよ、ミスター吉良」 

 

 

◇◆◇◆

 

 

 一触即発、といった雰囲気ではないものの、互いに探り探りの警戒に似たものは拭えない。しかし、ふっと力を抜いたのは同時であった。

 

「やめよう。私は、それなりに君の性質を把握できていると思っている。少なくとも無意味に力を振りかざすことのしない、私たち(カンピオーネ)の中で圧倒的に善良であるという稀有な存在。であるならば、こんな気を張った面会は不毛だろう?」

 

「ええ、仰る通りです。現代にいる他のカンピオーネの中でも、あなたのことは特に調べさせていただきましたからね。良い意味で参考にすべき、あなたの活動の仕方を」

 

 そうして星琉は振り返り、右手を差し出した。スミスも迷うことなくその手を取り、固く握り返す。

 

 流れるような所作で二人は向き合うように座り、会話を始める。そこに、先ほどのピリピリとした様子はなく、むしろ親しい友人と語り合うかのようであった。

 

「君にはとても感謝しているんだ、星琉。アルテミスによって呪いをかけられ、獣としての生を余儀なくされてしまった人々に、再び人としての生を与えてくれたのだからね」

 

「大したことではない、とは言いません。僕が拠点とする国は日本で、アメリカはスミス、あなたの拠点だ。本来であれば、僕が手を出す必要性はなかった。ですが――」

 

「君の正義感が、善意が、慈悲が、彼らを救った。ふふ、私は人々から『いいとこ取り』などと言われることもあるのだが、今回に関しては君に持って行かれてしまったようだ」

 

 いつの間にかスミスはボトルを取り出し、これもまたいつの間にか用意されていたグラスに注いで赤紫色の湖を創った。

 

 ふわりと香る芳醇な空気。君もどうだとスミスが勧めると、それでは一杯だけと星琉が応える。

 

 グラスを持ち、一口呷る。その滑らかな所作に、スミスが感心したように息を漏らした。

 

「ずいぶんと飲み慣れているようじゃないか。君はまだ未成年ではないのかい?」

 

「カンピオーネに未成年なんて概念が通じるなら、今頃ハイウェイで赤ん坊がツーリングしてるんじゃないですか」

 

「ハハハ! それもそうだ! それで――」

 

 スミスはソファアに深く腰掛け、足を組んだ。思ったよりも細身に見えるその足の先は、リズムをとるようにゆらゆらと小さく揺れていた。

 

「君は何を望むのか。富か名声か、はたまた愛人か……私には、君がどれも求めているようには見えないのだがね?」

 

 そう、これはただの面会ではない。王から王へと与えられる、報酬の話。あるいは、落とし所を見極めるための交渉といったところか。

 

「では、遠慮なく――僕が救ったアルテミスの呪いより解き放たれた人々、さらに関連するものを守護する権利を頂戴したい」

 

「話にならないな」

 

 その要求を、スミスは考えるまでもないと両断する。星琉は顔色を一つも変えない。

 

「つまり君はこう言いたいわけだ。『私の自治権(アメリカ)の一部をよこせ』と。君が欧州の魔術結社『漆黒真珠』と繋がっているのは知っている。君自身が日本の呪術組織の一つ『天元流』という組織に身を置いているのも知っている。そんな相手に自分の懐で好き勝手できる権利を与えると思うかい?」

 

 星琉はただ静かにスミスを見据える。意見するのでもなく、いいくるめようとするのでもなく、無表情でスミスの仮面を射抜くように見つめる。

 

 やがて、ふっと表情を和らげると、大仰にソファに背をもたれかけた。

 

「当然ですね。僕があなたと逆の立場でも、同じ結論を出すでしょう。本当に……面倒だ」

 

 この話が通らないことは星琉だって当然分かっている。ゆえの見せかけの要求(ポーズ)。他の者は知らないが、少なくとも星琉は今の自身を『日本の代表』と定めている。『自分はそれだけの価値はあるのだ』と相手に示しておかねば、いつかどこかで足元を見られてしまうかもしれない。

 

「それで? 君の本当の要求は一体何かな?」

 

 無論、スミスはそれを分かって付き合っていた。星琉の面倒だ、という言葉に内心同意を示しつつ、その先を促した。

 

「今回の行方不明事件、それを僕にも調査、解決させて欲しい」

 

 

◇◆◇◆

 

 

 時刻は日付が変わり、一時を過ぎたばかり。スミスが去った後、それでも眠らない街を窓から見下ろしながら、星琉は考えにふけっていた。

 

「正義の味方にでもなるつもりか、か」

 

 星琉の要求は概ね受け入れられた。スミスの助手であるアニーと共に、という条件付きで、彼はアメリカの地に居座ることを許されたのである。

 

 その際、スミスから星琉に投げかけられた言葉が、先ほど呟いた台詞だった。

 

 しかし、それも当然と言える。今回の行方不明事件の裏側に、魔術結社の存在があることを星琉は嗅ぎ取った。だが、根本的にこの問題は星琉と関係のないものだ。ここは日本ではなくアメリカで、スミスやベスト教授という解決すべき人々もいる。わざわざ星琉が出しゃばる意味がないのだ。それこそ、全てを救おうとする『正義の味方』でもない限りは。

 

「そうじゃない。そういう話じゃ……ないんだ」

 

 全てを救うことが出来ないだなんて、そんなことは分かりきっている。出来ているのなら、そもそも自分はここにいない(・・・・・・・・・・・・・)

 

 『正義の味方』を気取るつもりなんてない。戦いに浸りたいわけでもない。ただ単に、無意味にしたくないだけ(・・・・・・・・・・・)

 

 伸ばされた白月の手。冷たい指に拭われる涙。殺すべきなのは彼女で。殺されるべきなのは自分で。

 

「ん……?」

 

 携帯が震え、音を鳴らす。こんな時間に誰が、と疑問を持つが、画面に表示された名前を見て少しホッとする。

 

「もしもし」

 

「『も、もしもし。星琉さん、ですか……?』」

 

「うん、僕だよ。こんばんは、万里谷さん」

 

 電話の相手は日本にいる媛巫女だった。緊張しているのか、少し声が震えている。

 

「『あ、あの、少しお時間よろしいですか?』」

 

「構わないよ、どうかした?」

 

 祐理の様子から、きっと時差のことは忘れてるんだろうな、と星琉は思った。常識的な彼女が、こんな夜中に電話を掛けてくるとは思えなかったからだ。日本の時間だと、今は夕方の5時過ぎ。今は、カーターの下で授業を受けているのだろうか。

 

「『あの、私……星琉さんがアメリカに向かっていたなんて知らなくて。今日、先生からそのことを聞いて……』」

 

「うん」

 

 当然だ。だって、彼女には何も伝えなかったから。今回のことは、彼女には何も関係がないことだから。

 

 

 

「『星琉さん』」

 

 

 

 だから、

 

 

 

「『無事でいてください。必ず、帰って来て下さい。』」

 

 

 

 その言葉に、

 

 

 

「『星琉さんに……会いたいです』」

 

 

 

 どうしようもないくらい、泣きたくなったんだ。




エタってないです。(大嘘)


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