悪役貴族の矜持 (羽場)
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第0話 学生時代の記憶

 ――生まれて初めて地面に叩き伏せられた。

 

 ――そのとき噛んだ砂は、鉄の味がした。

 

 ――それは、決して忘れられない敗北の味だった。

 

 

 

 1

 

 貴族の子弟なら誰でも通う、ラ・ポーテ王立高等学校。

 そこで僕は、『あいつ』と同じ教室だった。

 あの黒い髪をした、憎ったらしい、僕の運命を決定づけたといっても過言ではない男と――。

 

 もっとも、入学してしばらくは、ほぼ他人同然だ。

 同じ教室であるし、全寮制でもある。もしかしたら、一言二言くらいは言葉を交わしたことがあったかもしれないが、あいにくと記憶にはない。

 興味のない者にわざわざ関わろうとするほど、僕も暇じゃなかった。

 

 そんな僕が、あいつと他人以上の関係になったのは、一年の課程も中盤に差し掛かったころ。

 大型走鳥類の騎乗訓練で、僕とあいつがバディになったのがきっかけだった。

 

「やあ、よろしく」

 

 これが始まりの挨拶。

 あいつがにこやかに笑って言い、手を差し出したのだ。

 

 だが、ちょっと待ってくれと僕は言いたい。

 その態度はだいぶおかしいんじゃなかろうか、とね。

 

 自慢じゃないが、僕はすでに教室の中心グループのリーダー的存在だった。

 なにせ僕の生まれは侯爵家。この威光の前には誰も太刀打ちできず、皆がこぞってゴマをする。

 

 それに僕自身の素晴らしさも忘れてはならないだろう。

 眉目秀麗にして頭脳明晰。そこを見込まれて、入学式の学年代表挨拶をしたのは誰であろう、この僕だったのだから。

 

 対してあいつはなんだ。

 根暗グループに属して、さして優秀さも見受けられない。

 貴族ではあるが、その家格は中の下といったところ。

 僕のような侯爵家の生まれからすれば、庶民と変わらないといって良かった。

 

 だからこそ、あいつの「やあ、よろしく」なんていう気安い挨拶と、手を差し出した馴れ馴れしさには反吐が出た。

 本来であるならばそこは、「どうかよろしくお願いします」と頭を下げ、僕が手を差し出したのちに、「ありがとうございます、ありがとうございます!」と感涙にむせびながら両手でもって、僕の手を握り返す場面だ。

 

 まあ、僕は優しいから、「あわわわわ」と立ち尽くすだけでも、及第点をあげただろうがね。

 偉大な人間を前にして、緊張に言葉を喋れなくなるというのはママあることだ。

 

 とにかく、僕が言いたいのは――敬意。

 そう、あいつには僕に対する敬意がまるで足りていなかった。

 

「僕の実家は、侯爵の位を戴く名門中の名門。少し口の聞き方がなっていないんじゃないか?」

 

 もちろん指摘したさ。同格だと勘違いされても困るしね。

 すると、あいつはちょっと驚いたあと、得意げな顔になってこう言ったんだ。

 

「この学校では皆が横一列。立場や地位は持ち出さないという規則ではなかったかい?」

 

 確かにそういう規則は存在する。

 僕は「なるほど」と答えると、あいつの手を取って握手を交わした。

 頭の中では、この空気の読めないこましゃくれをどうしてくれようか、と企みながら。

 

 

 

 2

 

 刑は速やかに執行された。

 僕の密かに伝えていた命令によって、昨日まであいつと仲良く話していた者たちが、揃って無視したのだ。

 

 再三になるが、僕は教室の中心グループのトップ。

 あいつを孤立させることなどわけはなく、そのときの「え?」と訳もわからずに立ちすくむあいつの姿といったら、これまでに見たどんな喜劇よりも滑稽だった。

 

 周囲からもクスクスという笑い声が聞こえ、嘲笑の視線があいつへと向けられる。

 なにも知らなかったのは、あいつだけ。

 そして、あいつは顔を真っ赤にして自分の席に座った。

 

 あいつの孤立無援は、以後もずっと続いた。

 それだけじゃない。あいつのあらゆる行動に対し、僕が中心となって揚げ足を取ったり、あるいは罠にはめたりした。

 そのたびに笑い声が巻き起こり、そうやってあいつは教室内における『娯楽の対象』という、憐れなポジションへと堕ちていった。

 

 もちろん僕に、酷いことをしている、という認識はまるでない。

 すぐに原因を理解してあいつが謝ってきたのならば、海よりも深い寛大さで、僕も許してやるつもりだったしね。

 

 しかし、あいつはそうしなかった。

 いや、もしかしたら自分がなぜイジメられているのか、いまだに気付いていないのかもしれない。

 そもそも、そういう察しの悪さが現在の状況を生んだのだ。

 

 やがて、この状況に耐えられなくなったあいつは、僕に直接文句を言ってきた。

 仮にイジメられる原因が不明であっても、イジメの主犯は僕であったし、その行動はわからなくはない。

 でも、僕はしらを切った。

 

「なんのことだい? 言いがかりはよせよ」

 

 だが、あいつはそんなことでは納得せずに、「ふざけるな! お前たちがいつもやっていることだろ!」と声を荒らげて突っかかってくる。

 そこで僕からの一対一の決闘の提案だ。

 

「こいつはとんでもない侮辱だ。よろしい、ならば決闘で勝負をつけよう」

 

 あいつの顔がギョッと引きつった。

 これまで暴力的な行為を僕は一切していない。

 だからこそ、そういった展開にはならないと高をくくっていたに違いない。

 

 こちらとしては、あいつに決闘を受ける度胸がないことは知っていたし、仮に決闘を受けたとしても、僕が負けることはありえない。

 武器術でも徒手格闘術でも魔法術でも、僕はこの教室で一番だったからだ。

 

 予想通り、あいつは逃げるように言葉を濁し、その場を取り繕った。

 そして、これこそが互いの上下関係を確定的なものにしたのだといっていいだろう。

 

 それから一週間が過ぎた、昼休みの教室。

 そこにあるのは、『対等』という価値観をポッキリと折られ、僕に屈服したあいつの姿――。

 

「おい、弱虫。焼きそばパン買ってこいよ」

 

 僕が言うと、あいつの顔がひどく歪んだ。

 口を一文字に縛って、悔しそうに、嫌そうに。

 

 あいつはすぐには動き出さない。

 ただ言いなりになるのは、プライドが許さないのだろう。

 

 しかし、「制限時間は三分な」という言葉を付け加えると、あいつは渋々といった様子で立ち上がり、教室を出ていった。

 言いなりになるのは嫌だが、制限時間に間に合わなかったときに強制執行される罰ゲームはもっと嫌だ、ということだ。

 教室を出たあとは、全速力で走っているに違いない。

 

 そして僕たちは、あいつが間に合わなかったときになにをやらせるかを、笑い声まじりに話し合う。

 これが、今では当たり前となった教室の昼休みの光景。

 馴れ馴れしく握手を求めたかつてのあいつは、もうどこにもいないのだ。

 

 しかし、この状況がそれほど長く続かなかったことは、あまりに予想外――。

 それこそ、買ってこさせた焼きそばパンの中に、あいつがこっそりと鼻糞を入れていたのを知ったとき以上に、思いもよらないことだった。

 

 

 

 3

 

 春、夏と季節が移り変わる。

 それに伴って、僕たちも二年生となった。

 

 別に進級したからといって、これまでと大きくなにかが変わるというわけでもない。

 教室のメンツはそのまま。せいぜい徽章の色が赤から橙になり、教室が廊下の東から廊下の西へと移動するのが、一年から二年への一般的な変化だ。

 

 けれども、うちの教室にだけは、ちょっとしたサプライズがあった。

 ある女が転入してきたのだ。

 

「えー、彼女は今日から皆さんの新しいお友達となります――」

 

 担任の中年女教師による、転入生の紹介を聞きながら、僕は「おや?」と思った。

 貴族学校はここラ・ポーテ王立高等学校しかない。

 そのため、転入とはおかしな話である。

 

 だが、担任の説明によると、転入生は教会所属の人間。

 そこでずっと教育を受けていたため、一年生課程は免除ということになったらしい。

 

 転入生はショートカットの黒髪で、顔は良く整っていたが、彫りは浅く、十代前半であるかのようなあどけなさを残していた。

 しかしその一方で、同学年にはない大人びた雰囲気を彼女は帯びている。

 なんというか、他人を路傍の石でも見るかのような、――そう、冷めているのだ。

 自己紹介でも、まるで誰とも仲良くするつもりはないとでもいうように、そっぽを向いて名前だけを口にした。

 なんという愛想のなさだろうか。

 

 もっとも、僕は彼女のことがちょっと気に入っていた。

 人形のような綺麗な容姿もさることながら、他人に媚びようとしない高潔さは、僕に通ずる部分があったからだ。

 

 ならばと思い、彼女に粉をかけようとしたのであるが、これは残念――。

 僕も他の者と同様、素気なくあしらわれるだけだった。

 

 まあ、別にどうでもいい。女なんて、ほかにいくらでもいるしね。

 世界の半分は女で、僕は侯爵家の跡継ぎだ。負け惜しみでもなく、本気でそう思っていた。

 しかし、どうにもこの転入生は特別な存在であったらしい。

 

 それは格闘訓練でのことだった。

 あいつと転入生をわざとペアにさせ、僕たちはヒューヒューと皆で冷やかしていたんだ。

 

 しかし、そんな周囲の空気を拒むように、転入生はあいつを叩きのめした。

 これには、一同等しく沈黙である。

 転入生の強さは僕ですら舌を巻くほどだったが、それ以上にあいつに対する容赦のなさ――必要以上にあいつをボコボコにする彼女の姿が、僕たちに言葉を失わせた。

 

 しかも、暴力だけで終わりじゃない。

 転入生の残酷ともいえる追い打ちが、その口から発せられたのだ。

 

「あなた、周囲からイジメられたままで、自分で自分を情けないとは思わないの?」

 

 尻餅をつくあいつに対し、上から軽蔑するように投げかけられた言葉――。

 あいつをイジメていた主犯の僕ですら、うげっ、と思わずにはいられない。

『イジメ』というキーワードには、はっきりと触れないでおく優しさが、僕にも、仲間たちにもあったからだ。

 

 性別の違いゆえか、男には越えてはならない一線があることを転入生は知らないのだろう。

 それとも知っていて、あえて言っているのか。

 

 どちらにしろ、性格に難ありだ。気遣いという人間に必須の要素が欠如している。

 将来、三度は離婚するだろうな、と転入生のかわいそうな未来を僕は確信した。

 

 なお、言われたあいつは、唇を噛むようにして転入生を睨んだ。

 ――が、逆に睨み返されて、地面に視線を落とす始末。

 なんとも情けないやつだと僕は思った。

 

 転入生もこれには、はぁ、と呆れ混じりのため息を吐いた。

 そして、彼女はとんでもない爆弾を落とすことになる。

 

「もう少し秘密にしておくつもりだったけど、あえて言うわ。私は教会に認められた『賢者』。――はい、これが証明のペンダントね」

 

 周囲の沈黙が、騒然へと変わった。

『賢者』とは、教会における最も栄誉ある称号。

 地位や名誉、業績や信仰などといったものに一切囚われず、求められるのはひたすら戦闘技量のみ、という話は世間の常識である。

 

 転入生が胸元から取り出したペンダントの意味こそわからなかったが、その成否の所在を担当教師に視線で求めると、教師はおもむろに頷いてみせた。

 つまり、転入生の言葉に嘘はない。

 それどころか、教師に驚いた様子がないところを見るに、最初から知っていたのだろう。

 僕たちには知らせないよう、あえて秘密にしていた、ということだ。

 

 ならばなにゆえ、これまで秘密にしてきた身分を転入生は明かしたのか。

 それを転入生が話したとき、この『問題』は『大問題』へと変わっていた。

 

「私が転入してきた理由は、この学校に勇者がいるという神託を大司祭様が授かったから。

 ひと目でわかったわ。あなたが勇者だって。今のあなたの情けない様を見る限り、正直、信じられないけどね。

 でも、あなたが勇者だってことは絶対に曲げられない真実であり、確定事項なのよ」

 

 勇者の予言。

 こともあろうに転入生は、あの弱虫を勇者だなどと意味不明な妄言を吐いたのだ。

 

 当然、なんの冗談だと誰もが笑った。

 僕もそうだ。仲間たちと共に腹が捩れんばかりに大笑いした。

 

 勇者とは、人類の英雄にして最強の証明。

 対してあいつは、どこからどうみても弱虫。それ以外の何物でもない。

 だいたい言われた本人ですら、なんの反応もできずに唖然としているのだ。

 

 あいつが勇者なら、僕は神か悪魔か。

 情けない者に対する叱咤激励にしたって、もっと適切な言葉があるだろう。

 僕は呆れてものも言えなかった。

 

「笑いたい者は笑えばいい。けれど、いずれ思い知るときが来るわ。そのときになってから手のひらを返したところで、はたしてどれだけの者が許されるかしら。

 せいぜい地面に額を擦り付ける練習でもしておくことね。特に彼をいいようにしていた連中は」

 

 転入生の語り口は、いつになく饒舌に、しかし嫌味たっぷりに。

 そして、周囲に向けたやや蔑むような視線は、僕を見つけるとひときわ冷たく、刃物のような鋭さに変わった。

 

 この場に、もう笑う者はいなかった。

 冗談でもなんでもなく、転入生が大真面目だということがわかったからだ。

 また、仲間たちがあいつをイジメることに否定的になったのも、このときからだった。

 

 

 

 4

 

 以来、教室内は熱を失ったかのように、ただただ白けた空気が漂っていた。

 いつもどおり僕があいつのことをからかうも、かつての爆笑はどこへやら、皆ノリが悪いのだ。

 

 要するに、転入生のあの暴露話が功を奏したといったところか。

 僕自身、あいつが勇者だなんて信じていなかったが、それでもあいつに対するちょっかいは減っていった。

 

 ただし、パシリは続けさせている。

 転入生もそのことについて文句を言ってくることはなかった。

 

 そして、そんな日々が続く中で事件は起きた。

 広場で行われた召喚の授業。本来なら、どこにでもいる小動物を喚び出すはずのものだ。

 しかし、教師が手本として喚び出したのは、なんの間違いか、全く別の存在だった。

 

 それは、獅子の顔をしていた。

 背にコウモリの翼を広げ、体は人間と獣の中間――ちょうどサーカスで見たゴリラのような外形だったが、その大きさはまるで違う。

 脚より長い両腕を地面に着けて、前かがみになっている状態であっても、その頭ははるか見上げる位置にあった。

 また臀部からはサソリの尾が生えており、こちらも腕や足がもう一本生えたかのような太さをしていた。

 

 誰もが知っている魔物だ。

 その知名度の高さは、身近にいるからではない。恐ろしさゆえだった。

 

 名前を『マンティコア』。

 並みの使い手では束になっても敵わない、上級の魔物である。

 

 ――ウォオオオオオオオオオオッッッッ!!!!

 

 マンティコアの雄叫び。さらに生徒たちの悲鳴を合図として、授業はあっという間に中止になった。

 すぐに教師陣が立ち向かったが、マンティコアの口から吐き出された火炎は、杖を燃やし、剣をも溶かした。

 頼りになるのは、教会に賢者として認められたあの転入生のみ。

 

「邪魔よ、下がりなさい!」

 

 転入生が颯爽と躍り出ると、教師をまるで邪魔者扱いするかのように言い放った。

 しかし、言うだけのことはある。

 マンティコアが放つ炎は、転入生が作り出した魔法障壁を突破できなかったのだ。

 

 ならば、と回り込んだマンティコアが、サソリの尾を矢のように伸ばして転入生を傷つけるも、その傷を転入生は一瞬で治した。

 マンティコアの尾には猛毒があるはずだが、それすら意に介した様子はない。

 逆に、転入生が放つ無数の氷刃は、面白いようにマンティコアの皮膚を切り裂いていく。

 

「おい、いけるぞ!」

「ああ、さすが賢者として認められるだけのことはあるな!」

「頑張れ、転入生――っ!!」

 

 こうなると、皆は逃げることを忘れて、その場に留まった。

 教会に認められた『賢者』という肩書に対する信頼もあっただろう。

 あるいは貴族としてのプライドが、ただ逃げることを許さなかったのかもしれない。

 もっとも戦線に加わることはなく、あくまでも遠巻きに転入生を応援するだけだったが。

 

 しかし、転入生が優勢だと思われた戦況は、実は全く逆だった。

 確かに転入生の防御魔法と治癒魔法は優れている。

 ――が、肝心の攻撃魔法に関しては、見た目の派手さに反して、マンティコアの表面を傷付けているだけ。致命の一撃を与えるには程遠かった。

 やがて、転入生は防戦一方となり、――そして魔力が尽きた。

 

「ゴバァ!」

「くっ――!」

 

 マンティコアの振るった豪腕が、転入生を捉え、数メートル先に吹き飛ばした。

 転入生のか細い左腕がだらしなく垂れ下がっていたが、もう彼女には治癒魔法を唱える力はない。

 

 絶体絶命だ。比喩でもなんでもなく、僕はそう思った。

 このままでは転入生は殺されてしまうのだ、と。

 

 広場には、再び恐慌とした悲鳴が巻き起こった。

「逃げろ! このままじゃ殺されるぞ!」と叫んだ誰かの声は、転入生に向けたものではなく、自分たちへのもの。

 薄情にも、転入生が死んだのちを見越してのことである。

 

 しかし、僕は逃げなかった。

 貴族としての矜持があるからだ。

 

 貴族の祖の大半は、かつて魔王率いる魔物との戦いで活躍した者たち。

 すなわち貴族とは、生まれながらの対魔物におけるスペシャリスト。

 中でも僕はとびきりだ。

 生まれもさることながら、その能力もほかの者たちより優れている。

 

 だからこそ、行かなければならない。

 貴族として、魔物に立ち向かわなければならない。

 

 しかし、そんな勇ましい気持ちとは裏腹に、足は一歩も動いてくれなかった。

 視線を落としてみれば、僕の足はガクガクと震えていた。

 今になって僕は、ようやく自分がどうしようもなく恐怖していることに気付いたのだ。

 

 一度自分の弱さに気付くと、あとはもう堕ちていくだけである。

 ほかの奴らが逃げているのに、なんで僕が立ち向かわなきゃいけないのか。

 相手は、教師でさえどうしようもならない……、教会に認められた賢者でさえ、敵わなかった魔物なのだ。

 勇気と無謀は違う。次の機会があれば、そのときこそ見事に倒してみせ、今日の汚名を雪げばいい。

 そんなふうに、今の自分を正当化するための言い訳が、心中に蔓延した。

 

 そして、ついに僕はこの場から逃げようとし、――しかし、僕の体は動かなかった。

 今度は恐れのためではない。

 僕の目が、僕の意識が、ある一点にのみ釘付けになったのだ。

 

 そこにいたのは、――あいつだった。

 ブルブルと恐怖に震えながらも、魔法で作った剣を握り、あいつはマンティコアの前に立ちはだかっていたのである。

 

 

 

 5

 

 結果を先にいえば、あいつはマンティコアを倒してみせた。

 最初こそ、おぼつかない戦いぶりだったが、危機一髪というところで突然動きが変わった。

 マンティコアから放たれた止めの攻撃を危なげなく躱すと、ただ一刀でもって相手の強靭な肉体を両断したのである。

 

 またこの際あいつの腕には、教科書で見たことのあるものが光っていた。

 勇者の紋章だ。転入生が言っていたとおり、あいつは勇者で、今その力が覚醒したということなのだろう。

 

 そこからは説明をするまでもないかもしれない。

 勇者の誕生はすぐに学校中に広まった。

 あいつは一躍人気者となり、そして僕は一日にして学校中の嫌われ者となった。

 

 勇者が人々から尊敬を集める存在であるがゆえだ。

 過去に勇者となった者の多くが、大なり小なり大陸の平和に貢献していたし、さらには魔王なんてものを倒した勇者もいた。

 

 勇者という威光の前には、どんな地位や立場も通用しない。

 実際にあいつは、マンティコアを倒して実力を示し、学校を守ってみせもした。

 そんな者をイジメていたのだから、嫌われ者になるのも当然だった。

 

 いや、嫌われ者どころか、完全に敵視されているといっていいかもしれない。

 ついこの間まで一緒になってあいつを笑っていた者まで、そんな視線を向けるのだから、なんと都合のいいことかと笑ってしまいそうになった。

 

 仲間からは「一緒に謝りに行こう」と言われた。無論、あいつにだ。

 彼らも敵視されている側であり、今の状況には耐えられなかったのだろう。

 

 しかし僕は、「謝りたければ、自分たちだけで行けよ」と突っぱねた。

 すると、仲間たちは勇者に謝って無事に許しを得たのか、その日から僕に話しかけることもなくなった。

 

 別にどうだっていい。今さらなんだというのだ。

 あの弱虫が勇者など、馬鹿げている。

 結局のところ、あいつは勇者という与えられた力があるだけで、それがなければただの人間だ。

 いや、それよりもっと酷い。なぜなら、勇者の力さえなければ、ただのいじめられっ子に過ぎないのだから。

 

 気に入らなかった。

 なぜあの弱虫が勇者なのか。実力的には、僕のほうがよっぽど相応しいはずなのに。

 

 これは決して嫉妬や妬みではない。

 あいつを選んだ、神に対する正当な意見だ。

 

 僕の胸の中で、日ごとに不満が積もっていく。

 周囲の僕に対する態度が、それに拍車をかける。

 

 一週間も過ぎると、すでにあいつが勇者であるということすら頭になかった。

 半ば捨て鉢となって、僕はあいつに決闘を申し込んだのだ。

 あいつは最初こそ拒否したものの、僕が徹底的に扱き下ろすと、ようやくこの申し出を受諾した。

 

 そして、来たる放課後。

 あいつが勇者となったあの広場にて、僕はあいつと向かい合った。

 

 観衆として多くの生徒たちが詰めかけている。

 教師も来ているが、止めようとする者はいない。

 それどころか、逆に立会人となって勝負を煽った。

 

「武器及び、殺傷力のある魔法の使用は禁ずる。ルールは以上だ。両者とも貴族の名に恥じぬ決闘をするように」

 

 こうして始まった決闘。

 あいつが勇者だなんて絶対に認められるか、という強い思いとともに、僕は魔法を放った。

 

 しかし、本当はわかっていた。わかっていたのだ。

 あいつのほうがよっぽど勇者に相応しいのだと。

 

 あの日の光景が、ずっと僕の瞼の裏に焼き付いている。

 恐怖に震えながらも、マンティコアの前に立ったあいつの勇敢さが。

 

 自分が勇者だと言われ、それに触発されたのか。

 もしくはすでに勇者としての、なんらかの力を得ていたのか。

 それはわからない。

 だが、マンティコアの前に立ったあいつは、確かに恐怖に震えていたのである。

 

 僕は生涯で、これほどまでに憎らしいと思ったことはなかった。

 ――あのとき、ただ震えるだけであった自分を。

 

 だから、この敗北は当然のものなのだと思った。

 受け入れようと思った。勇者という強大な存在に『敵』として立ち向かう。それだけでも十分に自信となる。自分に納得がいく。

 しかし――。

 

「ごめん」

 

 殺意が躍った。

 組み伏せられた僕に対し、あいつは憐れみの言葉を吐いたのだ。

 

 そして、ようやく理解した。全ては一人よがり。

 そうか。つまり僕は、あいつにとって敵ですらなかったというわけか。

 

 許せないと思った。

 絶対に許せるわけがない。

 

 関節を極められながらも、僕は無理矢理に立ち上がった。

 肩が外れてしまったが、そんなことはどうでもよかった。

 どんな痛みも、この怒りの前では無価値だ。

 

 僕は、禁じられていた殺傷力のある魔法を放った。それも掛け値なしの全力で。

「あっ」という教師の声が上がったが、知ったことではない。殺してもいいと本気の本気で思っていた。

 

 だが、そんな攻撃すら、今のあいつにとっては子どもの戯れに等しいのだろう。

 気付いたときには、僕は再び土を舐めていた。

 そして、焦ったように「それまで!」という教師の声が聞こえ、ワッという大歓声が広場いっぱいに轟いた――。

 

 



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第1話 勇者と魔王が戦い、そして……

 1

 

 ――魔王復活。

 この凶報は瞬く間に、それこそ波紋が広がるかのごとく大陸中へと伝搬した。

 

 とはいえ、歴史上において『魔王』という名が登場するのは、かれこれ千年以上も前のこと。

 神話やおとぎ話と同じように語られて久しく。

 そのため魔王が復活したなどと言われても、多くの人々はピンとこなかったことだろう。

 

 実際、初めて聞かされたときには、「そんなものは伝説だろ」「現実と妄想の区別はつけようぜ」と鼻で笑う者は多々あれ、真剣に受け止めようとする者は少なかった。

 さりとて、魔物たちの侵攻という、ある種の裏付けともいうべき事象も追加で知らされたとなれば、話は変わってくる。

 

 大陸の西側――『魔の領域』は瘴気が溢れ、人が住めず、魔物の生息域となっている土地だった。

 そこに棲む魔物たちが大群で押し寄せ、一夜にして国境付近の領地を滅ぼすと、声高に魔王復活を叫び、自らを魔王軍と呼んだというのだ。

 

 人々は震撼した。

 長い平和とともに忘れていたはずの恐怖が、今再び呼び起こされたのである。

 

 ――さて、魔王軍の勢いは国境を侵すだけにとどまらず、その後も甚だ躍進した。

 軍勢は十万を超え、おそらく人間側の態勢が整う前に、一挙に決着を付けようと考えたに違いない。

 

 事実、魔王軍の攻勢に対し、ろくな抵抗もできずに落とされた城や砦は数知れず。

 人間側の防衛ラインは日ごと押しやられ、村や町が消え、そこに住む人々は必死に逃げ惑った。

 

 もちろん、人間側もずっと手をこまねいていたわけではない。

 大陸の地図が三割ほど塗り替えられた頃、国中の軍隊はようやく結集された。

 さらには、アレフッド大湿原に魔王軍を誘い込むことにも成功しており、状況は大軍に対し大軍で相打つといった、一大決戦の様相を呈していた。

 

 しかし。

 この人類の命運を分けるかもしれない大一番に対し、人類の最大戦力たる『勇者』を戦線から外したのは意外である。

 

 勇者とは魔王と対をなす存在。

 今から何年も前にラ·ポーテ王立高等学校にて発見され、以来勇者はすでに表舞台に立っており、今大戦においても前線で無類の戦果を上げていた。

 多くの人々が魔物の牙にかかることなく逃げおおせたのも、この勇者の働きによるものだ。

 

 ――ならば、なぜこの一大決戦の舞台に勇者がいないのか。

 

 理由はただ一つ。

 人類側が勝負をかけたのは、『場』ではなく『時』だった。

 敵の戦力のほとんどが釘付けになるこの大合戦の場を、千載一遇の好機とした。

 

 用意したのは、百人からなる精鋭中の精鋭。

 これに勇者を加えた部隊でもって、手薄となった『魔の領域』へと侵入し、魔王城を急襲しようという作戦である。

 

 かくしてこの精鋭部隊は、大聖堂にて『精霊の祝福』を受けると、直ちに『魔の領域』へと向かった。

 目指すは魔王城。そして果たすべきは魔王の打倒である。

 

 

 

 2

 

 非情の行軍だった。

『魔の領域』に侵入した精鋭部隊であったが、瘴気にやられ、魔物にやられ、一人また一人と倒れていく。

 しかし、誰も足を止めない。誰も振り返らない。

 

「世界に平和を……!」

「必ず魔王を倒してくれ……!」

 

 倒れゆく者から託された思い――願い。

 それは、進みゆく者が抱いているものと、いささかも変わらない。

 その何事にも代えがたい純一無雑の悲願を胸に、精鋭部隊はひたすら前へと進んだ。

 

 魔王城に侵入すると、精鋭部隊の被害模様は一層激しさを増した。

 ある者は、より強力なモンスターの牙にかかり、ある者は自らをカナリア役として、より卑劣な罠にその身を投じた。

 無気力を常とする勇者の師匠や、プライドが人一倍高い騎士団長でさえも、自らが囮となってモンスターたちを引きつけ、精鋭部隊が進む道を開いた。

 

 そうして魔王がいる『玉座の間』に辿り着けたのは、たったの四人。

 されど、四人である。

 

 勇者、魔法剣士、女賢者、女呪術師。

 精霊の祝福を最も強く受け、また人類の希望を託された勇者のパーティ。

 この四人をこの場に送り届けるために、誰しもが自らを犠牲にすることを使命としたのだ。

 

「準備はいいか」

 

 尋ねたのは勇者。

 扉の前での最後の確認だ。

 

 魔法剣士、女賢者、女呪術師の三人は黙したまま、しかし決意は固く、(おごそ)かに頷きを返す。

 最後に勇者が力強く頷くと、「行くぞ!」と言って扉を開けた。

 

 すると、そこに待っていた者――。

 玉座に肩肘を突いて腰掛け、瞑想するかのごとくまぶたを閉じているのは魔王、それは間違いない。

 

 しかし、勇者は思わず尋ねた。

「お前が魔王か……」と。

 

 なにせ、その姿だ。

 輝くような銀色の髪。額から二本の角こそ生えているものの、人間と全く変わらないその顔は、非の打ち所がないと断言できるほどに端麗。

 惜しげもなく肌を晒した上半身は、彫刻のように均整の取れた肉体美で、背には純白の翼が三対生えている。

 

 息を呑むほどの……、いやさ、神々しさすら覚えるほどの美しさだった。

 それゆえに、勇者は尋ねざるを得なかったのだ。

 

「いかにも」

 

 異形の美丈夫は、まぶたをゆっくりと開け、透き通るような声で言った。

 無論、肯定である。

 

「魔王!」

 

 もはや迷いもなく、勇者は叫んだ。

 

「なぜ、大陸の平和を乱す! 土地か! 食糧か! 言葉が通じるのなら、話し合うこともできたはず!」

 

 生来の善性ゆえか。

 それとも勇者という絶対の当事者ゆえに、全ての事情を知ることこそが責任と考えたのかもしれない。

 だからこその、問いかけだった。

 

「わかるまい。小さな目線でしか物事を測れぬ人間などに、わかろうはずもない――」

 

 先ほどとは打って変わり、感情のこもった、低く重圧のある声で魔王が応じる。

 

「いかに言葉が通じようとも、所詮、生物としての本質が違うのだ。貴様らは我らを『魔』と呼ぶが、我らからすれば、貴様らこそ滅ぼすべき『魔』そのものよ」

「そちらから一方的に仕掛けておいて、なにを言う!」

 

 魔王のあまりの言いように、憤激を露わにする勇者。

 すると二人の会話を遮って、今度は女賢者が尋ねた。

 

「あなたたち魔物には、人間を倒さなければならない『正義』が存在する、ということなのかしら?」 

「生態系を大きく外れた我々が存在することの意味――いや、もういい。やることが変わらぬ以上、言葉は不要。

 我は魔王であり、貴様らは勇者とその仲間たちなのだろう? ならばあとは戦うだけだ」

 

 会話を打ち消すと、魔王がゆっくりと立ち上がり、手に喚び出した槍で地面を鳴らす。

 直後、天井と壁が消え、辺りを灰色の無限世界が覆った。

 

 ただし、これはあくまでも部屋を為す区切りを取り払ったに過ぎない。

 空と水平線がいかに広がろうとも、玉座や足下の石畳、柱や扉といった『玉座の間』を構成していた大部分は、依然として残っている。

 

「さあ、来い! 勇者とその仲間たち! 貴様らが滅びた暁には、人間どもは皆殺しだ! 種としての存在すら許さん! 必ずや根絶やしにしてくれるぞ!」

 

 宣言とともに、魔王がバサリと三対の白翼を広げ、暴風のごとき衝撃波が勇者たちを襲った。

 

「ぐっ……くっ……!」

 

 勇者ですら、動くことが容易ではないエネルギーの奔流。

 ほかの者では、その場に踏みとどまることしかできない。

 

 その間にも、魔王の翼は純白から漆黒へと変わった。

 髪も黒に染まり、鎧のごとき紫紺(しこん)の皮膚が全身を覆い、両目には爛々と赤い光が輝いている。

 

 すでにエネルギーの奔流は収まっていた。

 勇者たちの前にあったのは、その名に似つかわしい、ただそこにあるだけで恐怖を掻き立てられる魔王の姿。

 

 ――そして戦いは始まった。

 

 

 

 3

 

 一人前面に立った勇者が魔王と斬り結ぶ。

 戦闘能力に劣る女賢者と女呪術師が後方でサポートに回り、そんな女性二人の壁役として魔法剣士が守護に徹した。

 これが勇者パーティの最強の布陣である。

 

 戦いは熾烈を極めた。

 魔王が魔王たるに相応しき暴力の前にも、勇者たちは一歩も引かず。

 さしもの魔王も、その団結の前には眉をひそめざるを得なかったろう。

 

 されど、やはり魔王。

 その強さは度が過ぎていた。

 

 やがて魔法剣士が全身を漆黒の杭に貫かれて、巨大な柱に磔にされると、壁役がいなくなったことにより、女賢者も巨大な氷の中に封じられた。

 動けるのは人類の刃たる勇者と、戦闘能力の助長・阻害に特化した女呪術師のみ。

 

 ――進退窮まる。それが勇者たちの現状だ。

 だが、魔王もまた疲弊の色強く、なればこそ勇者は賭けに出た。

 

「俺に力を! ありったけの力をくれ!!」

 

 女呪術師の全呪力を一身に受けることにより、持てる力の限界を超える。

 勇者は一筋の雷光となって、魔王の懐へと飛び込んだのだ。

 

「おおおおおおおおおおおおお!!!!」

「オオオオオオオオオオオオオ!!!!」

 

 ガッチリと十字に組み合わさった勇者の剣と魔王の槍。

 至極単純な、力と力のぶつかり合い。

 

 バチバチとした稲妻がほとばしった。

 両者を取り巻く魔力エネルギーが球状のうねりとなって、なにものも存在し得ぬ死の空間を作り出していた。

 これも全て、両者の力の凄まじさと、その拮抗ゆえである。

 

「負けられない……! 俺たちは絶対に負けられないんだ……!!」

 

 魂のこもった、勇者渾身のもうひと押し。

 その剣が魔王の槍をどんどんと押し込み、そして刃は魔王の胸元をえぐり、ついに心臓へと届いた。

 あと一息。そう勇者は思った。

 

 ――が、及ばず。

 

 勇者と魔王。

 両者が反発する磁石のように弾かれると、先に立ち上がったのは魔王だった。

 

「ハァ、ハァ……さすがは勇者、我が宿敵よ。よもや、ここまで追い詰められようとはな」

 

 荒い呼吸だった。

 魔王の胸には大きな傷跡が残っており、その傷を中心にして、まるで陶器に入った罅のように、全身に無数の線が走っていた。

 だがそれでも、二本の足でしっかりと立っていたのは魔王なのである。

 

「ぐっ……、クソッ……!」

 

 一方の勇者。

 なんとか立ち上がり、一歩を踏み出したところでまた崩れた。

 もう一度、剣を支えに立とうとするも、剣を握ろうとする腕がもう動かない。

 

 地を這いつくばる勇者の身体は、すでに限界を迎えていた。

 先ほどの攻撃は正真正銘、全身全霊の剣。持てる力は、カラカラとなる最後の一滴まで出し尽くした。

 しかし、それをギリギリのところ――それこそ、ほんの薄皮一枚のところで魔王が耐えきったのだ。

 

「なんで……! なんで、動かない……! 動け……、動けよぉ!」

 

 体が動かないなんてことは、勇者もわかっている。

 それでも叫ばずにはいられない。

 

 ――あと一歩なんだ……! ここまで追い詰めた……! たくさんの人の願いが託されている! 世界中の人々の命がかかっている! なのに、なんで動かない……!

 

 なにもできないからこそ、やるべきことをこれ以上なくやり尽くしたからこそ、涙が出た。

 惨めに泣き、すがった。

 

 ――神様、お願いです……! どうか……どうか、力を……!! この命を失っても構いません、だからあと一振りするだけの力を……!!

 

 まずは、いるかもわからぬ神に。それが無理だとわかると、この場の仲間たちに。いや、ここにいない精鋭部隊の誰かでもいい。

 誰か、この場にたどり着いて、魔王に立ち向かってくれ――そう勇者は願い、祈ったのだ。

 

 ――あと一歩なんだ……! あと一太刀で世界に平和が訪れる……! だから誰でもいい……! 誰か、誰か……ッッ!!

 

 そんな切なる祈りが通じたのか否か。

 勇者の耳に、ギィ、と扉を開く重苦しい音が届いた。

 それは、この灰色の空間に、何者かの来訪を知らせるものである。

 

 ――来た……! 来てくれた……! 師匠か! それとも騎士団長か! 誰でもいい! 魔王を……、魔王を……!

 

 しかし。

 そこにいたのは、精鋭部隊に名を連ねてもいない、思いもよらぬ相手。

 

「くくっ、情けない声が聞こえると思えば、これはこれは」

 

 見下し、嘲笑するような声を勇者は聞いた。

 精鋭部隊の誰の声でもない。――が、不思議と聞き覚えはある。

 

 記憶を探りながら、なんとか首を回して勇者は声の主を見た。

 そして、まさか、と思った。

 

 勇者の脳裏に陽炎のごとくゆらめいたのは、六年以上も昔の学生時代の記憶。

 茶色い髪。切れ長の鋭利な目。口元に浮かぶ、いやらしい笑み。

 かつて己をいじめ、やり返されたあとも度々絡んできては敗北し、いつからかパタリと名前も聞かなくなっていた男――

 

「あ、悪役貴族……?」

 

 我が目を疑うかのごとき勇者の呟きが、その小さな音量にも関わらず、玉座の間に木霊した。

 

 



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第2話 魔法剣士の驚き

 1

 

 この場に相応しくない者の登場に驚いたのは、なにも勇者ばかりではない。

 虫標本のように、柱に磔にされていた魔法剣士も同様だった。

 

 というのもこの魔法剣士、元は勇者たちが通っていた学校の教諭である。

 担当である戦闘訓練でのみの関わり合いであったが、悪役貴族のことはそれなりに知っていた。

 

 端的にいえば、悪役貴族は侯爵家の生まれで、その性格は絵に描いたような傲慢不遜。

 家柄を笠に着た振る舞いが目立っていたため、問題児として教諭たちの間でも度々話題に上がっていたほどだ。

 

 勇者がかつて、この悪役貴族にイジメられていたことも、魔法剣士は知っている。

 その後、立場が逆転したことも。

 悪役貴族は孤立し、勇者が学校をやめて修行の旅に出たあとは、陰湿なイジメにもあっていた。

 

 ちなみに、女賢者も悪役貴族の同窓。

 つまり、驚きを露わにするべき一人なのだが、あいにくと彼女は氷塊の中に閉じ込められ、意識すらなかった。

 

 ――悪役貴族……なぜここに……。

 

 前述の通り、悪役貴族のことをそれなりに知っていたからこそ、魔法剣士はそう疑問に思った。

 当然、精鋭部隊に悪役貴族の名前は存在しない。

 そんな性格ではないし、なにより精鋭部隊に最も必要な要素――『強さ』が圧倒的に足りていなかった。

 

 勇者との最初の決闘のあと、悪役貴族はなにかに取り憑かれたかのように訓練をしていた。

 その現場は、魔法剣士も何度か見かけたことがある。

 周囲からは、「無駄な努力を」「勇者に勝てるわけがないのに」とせせら笑われ、実際に悪役貴族が勇者に決闘を申し込み、惨敗するということが度々あった。

 

 どれだけ努力しようとも、所詮は凡人の域を出ない才能なのだ。

 訓練によって他の生徒より秀でた存在になることはできるが、精鋭部隊のように選ばれし強さを得ることはできない。

 

 それゆえに、ここにいることが不釣り合い。

 もしやスパイか、とすら魔法剣士は思った。

 

「な、なぜ、キミがここに……」

 

 魔法剣士の疑問は、勇者が代弁してみせた。

 

「ふん、勇者だなんだといい気になっているお前が無様にやられる様を、わざわざ見物しに来てやったのさ」

 

 倒れ伏す勇者を鼻で笑うようにして、悪役貴族は言った。

 人類の存亡をかけるこの戦いすら、まるで興味がないといわんばかり。

 誰かを下に見ようとするその姿は、魔法剣士が知る悪役貴族のものと少しも変わっていなかった。

 

「ハ、ハ……ハハハハハハッッ!! これはいい! この土壇場において仲間割れか! 個人の主義主張など、種の存亡がかかったこの場においては、なんの意味もないというのに!

 いいや、それでこそ人間だ! 欲にまみれた人間そのままの姿なのだ!!!!」

 

 この勇者と悪役貴族のやり取りには、さすがの魔王も笑った。

 呆れと、蔑みとが入れ混じった大きな声で。高らかに。

 その反応からして悪役貴族はスパイではないらしいが、しかし、この魔王の笑いは悪役貴族には気に入らなかったらしい。

 

「……おい」

 

 ギロリと。

 悪役貴族の鷹のごとき鋭い眼が、魔王を射抜いたのだ。

 

「たかが魔王ごときが僕を笑ったのか?」

 

 相手が魔王だろうと関係ない。悪役貴族はどこまでも傲慢不遜だった。

 

「たかが人間ごときが我に物を言うのか?」

 

 魔王はあくまでも余裕をもって応じたが、されど空気が歪んだ。

 戦闘を予感させる前兆である。 

 悪役貴族もするりと剣を抜き、一丁前に戦うつもりのようだった。

 

 もちろん魔法剣士は、よせ、と思った。

 身の程を知れ、と。

 

 しかし、あに図らんや。

 魔王が何気なく放った槍の刺突を、悪役貴族が体を横にしてギリギリのところで避けてみせたのは、まさかともいうべき意外である。

 これには魔王も、「ほぅ」と感嘆に口を丸くしていた。

 

「『先読みの極意』か」

 

 魔王がすぐに悪役貴族の術を看破する。

 魔法剣士も同じ考えだ。

 

『先読みの極意』とは、知覚できるあらゆる情報を駆使し、未来を予見するという恐るべき秘技。

 しかし――、と魔法剣士は思った。

 

 ――所詮は小手先の技術。足りぬからこその、あがきでしかない。それでは勝てないんだ……。

 

 確かに、悪役貴族が『先読みの極意』を会得していたのには、魔法剣士も少しだけ恐れ入った。

 悪役貴族の年齢は勇者と同じで、二十を少し過ぎた頃。

 その若さで『先読みの極意』を会得するには、それこそ発狂寸前まで追い込むほどの修練を要したに違いない。

 

 だが、そもそも強者であるならば、先読みなどせずとも反射でこと足りる。

 結局のところ『先読みの極意』とは、弱者がたどり着く到達点でしかなく、無才の反射では足りない部分を、予見によって補おうというものだった。

 

 それに、だ。『先読みの極意』は、自分よりはるかに技量が上の相手にも渡り合える可能性を持つが、その瞬間は限りなく短い。

 欠点は、消耗の激しさにあった。

 未来を見通すことに対し、脳や精神にかかる負担はあまりにも甚大。決して何度も使える術ではないのだ。

 

 ――やめろ……もういい、十分だ……。たった一度、魔王の攻撃を防いだだけでも称賛に値する。面目は保たれる。だから、逃げろ……逃げるんだ……。

 

 魔法剣士のこの考えは、もはや憐れみに近い。

 仮に精鋭部隊の誰かであったのなら、命に代えてでも魔王を倒してくれ、と魔法剣士は願っただろう。

 それだけの強さを、精鋭部隊に所属する者たちは持ち得ていたのだから。

 

 だが、悪役貴族では無理であることがわかっている。

 魔王に勝てぬことが――、犬死することが火を見るよりわかりきっている。

 

 だからこそ、憐れんで、逃げろと思った。

 曲がりなりにも魔法剣士は教師であり、悪役貴族はかつての生徒。

 それくらいの情は魔法剣士も持ち合わせていたのである。

 

 しかし、すでに魔王は構えていた。

 槍の穂先を対手に向けて、魔力を全身にみなぎらせながら。

 

「――死ねッ!」

 

 魔王の放った槍が、空気を裂いて唸りを上げる。

 先ほどのような小手調べともいえる手加減はない。

 必殺の構えからの、渾身の一撃だ。

 

 が、意外や意外。

 その槍は、悪役貴族の頬を微かにえぐるにとどまった。

 

 されど二手目。

 魔王は息も吐かせぬ間に、引いた槍を左手一本で払いに転じ、悪役貴族の首を断とうとする。

 

 さらに間髪を容れず三手目。

 槍の払いに連動して右手で放ったのは、延長線上にあるものすべてを切り裂く、必殺の爪撃。

 しかし、そのどちらもが空を切った。

 

「猪口才な奴よ」

 

 魔王の猛攻は続いた。

 四手目は石突き、五手目は両眼からの熱光線、六手目は無数の羽根を弾丸のように飛ばした。

 さらに七手目、八手目、九手目――と次々に繰り出される魔王の攻撃は、いずれも必殺の名を冠すべきもの。

 

 しかし。しかしである。

 悪役貴族は、永遠とも錯覚する死の一瞬を生き延び続けていた。

 そして、十八手目までも凌ぎ切ると、とうとう魔王の顔色までもが変じはじめたのだ。

 

 

 

 2

 

 魔法剣士は、ありえない……、と驚きを隠せないでいた。

 ただの一度でも精神の消耗著しい『先読みの極意』。それも、相手が魔王ならばなおさらだ。

 事実、魔法剣士も『先読みの極意』を体得しているが、魔王が相手ではもって数度。

 

 決して魔法剣士の精神が弱いというわけではなかった。

 それどころか、魔法剣士には死ぬ覚悟もあるし、死よりも辛い目にすら耐える自信もある。

 

 しかし、この『耐える』という行為はつまるところ、単純な精神活動でしかない。

 対して『先読みの極意』には、瞬時に、かつ膨大な情報処理が必要になってくる。

 これを可能にするものは、ひとえに高度な意思の持続よりほかはなかった。

 

 特に、魔王ほどの者が相手であるならば、目に映る情報はもはや無限に近い。

 それは、一粒一粒の情報という砂が集まった『砂漠』に等しく、直後の最適行動は、その砂漠から『一本の針』を見つけ出すようなもの。

 この至難事を毎秒、寸毫(すんごう)の余白なく成功させることは、あらゆる苦痛や苦難を越えた、もはや想像にも及ばぬ狂気の所業なのである。

 

 今、悪役貴族は、文字通り永遠というものを体感しているはずだ。

 たった一秒を、無限に引き伸ばし、常に最善を選ばなければならないという地獄の中にいるはずなのだ。

 このような狂気の所業、精神がどれだけ擦り切れてもおかしくはなかった。

 

 ――なぜ、そこまでできる……なぜ、そこまでする……。

 

 だからこそ、悪役貴族の行動原理が魔法剣士にはわからない。

 魔法剣士が知る悪役貴族は、毎年一人はいるような権力主義の嫌味な生徒でしかなかった。

 それが今、目の前で、かつての姿からは及びもつかない奇跡を起こし続けている。

 

「いい加減しつこいぞ!」

 

 という叫びと同時、魔王から放たれた二十四手目の雷撃も、悪役貴族は魔法剣士の盾を拾うことで防いでみせた。

 続く二十五手目の槍による地面からの突き上げは、盾を弾くためのもの。

 しかし、盾が弾かれたときには悪役貴族はそこにおらず、耐久の落ちた自らの剣を捨て、より優れた魔法剣士の剣を拾っていた。

 さらに二十六手目では、再び剣と槍とがぶつかり合う――。

 

 その悪役貴族の戦いぶりに、魔法剣士もいつしか疑問を忘れてしまっていた。

 弱き者のあがきには、ときとして神の奇跡などよりも、はるかに人を魅了する崇高さを伴うものだ。

 目の前にある一瞬一瞬の攻防――煌めくような人間の可能性に、魔法剣士はただただ見惚れてしまっていたのである。

 

 そして、いよいよ三十二手目――。

 膠着していた事態が、大きく動いた。

 

「こんなことが!」

 

 魔王が驚愕とともに口から炎の息吹を放った。

 それは、あらゆるものを焼き尽くす紅蓮の炎であり、ついに悪役貴族を捉えることに成功した。

 

 いや、違う。その異常に魔王が気付いたときには、真っ赤に燃える火炎の中を、悪役貴族が全身に風をまとって突貫していた。

 魔王は袈裟懸けに槍を振るって迎撃しようとするが、悪役貴族はそれすらいなしてみせる。

 

「――しまっ!」

 

 魔王がとうとうつんのめったのだ。

 その一瞬を逃す悪役貴族ではない。

 悪役貴族の剣にはすでに風の魔法が付与されていた。

 

 ――あぁ……。その剣は、俺が教えた……。

 

 魔法剣士は確かに見た。

 悪役貴族が放った風の魔法剣が、魔王の……あの魔王の胸元を斬り裂くのを。

 

 思い出されるのは、無味乾燥とした授業であったはずの一コマ。

 教師という職業に情熱があったわけではない。仕事として機械的に教えていただけだ。

 

 だが、今――。

 自らの教えた剣が、誰かにしっかりと息づいていたことを魔法剣士は知った。

 なぜだかわからない。こんな状況にもかかわらず、胸がじわりと熱くなった。

 



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第3話 決着

 1

 

 肺と心臓とをえぐられて、血反吐を撒き散らす魔王の姿。

 しかし、その表情には傷の深さを危惧するよりも、悪役貴族に対する、より多くの驚きの色が存在した。

 

 そんな中、「なにが起きているんだ……」と、なんとか剣の支えで上体を起こした勇者が呟いた。

 悪役貴族が現れてからここまでの間、目に映るもの全てが、信じられないことの連続だったのだ。

 

 無謀だと思いつつも、奇跡よ起こってくれと願い、始まった悪役貴族と魔王との戦い。

 もはや限界だと思われた魔王は余力を残していた。

 

 が、そのさらに上をいったのが、悪役貴族だった。

 魔王の恐るべき攻撃を全て読み切り、一撃を食らわせるという神業。

 とても自分が知る、かつての悪役貴族にできることではない。

 そう勇者は思った。

 

 ならば、当然勇者は抱いてしまう。もしかして、という期待を。

 しかし、それをあざ笑うかのように、魔王は平然と立ちながら、ニヤリと口角を持ち上げて言った。

 

「――大したものだ」

 

 先ほどとは打って変わった、その口元。

 それは余裕の現れだ。

 

「およそ理解の範疇を超えている。だがそれは、お前が人間という枠に属するがゆえの意外でしかない」

 

 魔王は気付いたのだ。

 勇者らに受けた傷とは違い、悪役貴族から受けた傷は治癒される。

 それすなわち、勇者らとは違い、『精霊の祝福』を受けていない証し。

 

 埒外(らちがい)の存在でありながら、悪役貴族はどこまでも人間なのだ。

 なればこそ、より効果的な術があるというもの。

 

「いけない!」

 

 甲高い声で危機を叫んだのは、女呪術師。

 自身の専門であるがゆえに、魔王のなそうとすることを瞬時に察した。

 しかし、遅い。

 

「終わりだ! 喰らえ――死の呪法!」

 

 なにかを撒くかのごとく振るった魔王の腕より、無数の黒い蝶が舞った。

 それは死の先触れである。

 

 防ぐ方法は、五感を閉じるか、精霊の祝福を受けるか。

 その二つだけ。

 

 精霊の祝福を受けていない悪役貴族には、前者の方法しかない。

 しかし、これは難しい。

『先読みの極意』は五感の鋭敏さにこそ真髄がある。

 つまり、五感を閉じてしまえば『先読みの極意』は使えず、あとはただ魔王の攻撃を受けるのみとなってしまう。

 

 悪役貴族はこの死の黒蝶に魅入られるしかなかった。

 そして、魅入られた以上は、なにものも死に抗うことはできないのだ。

 

 すでに蝶は妖精となっていた。

 妖精たちはクスクスと妖しく嗤うと、その顔を恐ろしいものに変じさせ、悪役貴族へと殺到し――……

 しかし、横一文字に打ち払われた剣によって、掻き消された。

 

「な、なに!?」

 

 と、驚いたのは魔王ばかりではない。

 勇者も魔法剣士も、どちらも驚愕の表情を浮かべていた。

 悪役貴族は五感を失わず、ましてや精霊の祝福もなしに、死の呪法を打ち破ったのである。

 

「言っただろう? たかが魔王ごときと」

 

 あくまでも見下(みくだ)すように悪役貴族は言い、ゆっくりと剣を構えた。

 もはや魔王と対等。いや、それ以上だ。

 

 勇者と魔法剣士は、いける、と期待が確信に変わりつつあった。

 一方の魔王は、その心胆をこれ以上なく寒からしめた。

 

 片や喜び、片や憂い。

 そんな各人の思いが交錯する中、ただひとり女呪術師だけは、瞳から涙をこぼしていた。

 

 

 

 2

 

 それから何十合、何百合と、悪役貴族と魔王は剣と槍とを斬り結んだ。

 魔王が受けた傷は治癒によって塞がれるのだから、悪役貴族はジリ貧だ。

 事実、悪役貴族の形勢は徐々にではあるが、不利になっていった。

 しかし、本当にその認識は正しいのか。

 

「はぁー……、はぁー……、はぁー……」

 

 悪役貴族の息は絶え絶え。

 致命傷こそ逃れているものの、全身を無数の傷が覆い、皮膚は焼けただれ、一度もまばたきをしていない瞳からは、真っ赤な血が溢れている。

 

 まごうことなき半死半生だ。しかし、それでも食らいついてくる。

 幽鬼のごとく立ちながら、決して膝をつかず、その目には鬼火にも似た得も言われぬ光が灯っていた。

 

「き、貴様……何者だ。に、人間なのか……?」

 

 魔王のそれは、もう驚きではない。

 恐怖だった。

 

「……」 

 

 悪役貴族は答えない。

 しゃべるのも億劫だとでもいうように、荒い呼吸を整えようとするだけ。

 その普通の人間じみた姿がまた、魔王の心に激しい恐怖をかきたたせるのだ。

 

 ――確かに、人間だ。コイツはただの人間なはずなのだ……! なのに、なぜ倒れない……!

 

 なぜ、なぜ、なぜ。

 定まらぬ心のまま、魔王は槍を振るい、それを避けられまたも反撃を食らう。

 傷はすぐに治るが、しかし、心にはより深い傷が付けられた。

 

「人間が! たかが人間風情が!」

 

 攻撃の激しさとは裏腹に、魔王の精神はどんどんと減衰していく。

 深く、より深く――……。

 

 その有り様は、魔王というにはあまりに脆弱。あまりに不釣り合い。

 仮に魔王の心の模様を覗けるものがあれば、「こんな者が魔王か」とせせら笑ったに違いない。

 

 だが、これは仕方ないことだった。

 魔王なればこそ、どうしようもなく仕方のないことだった。

 

 そもそも、この魔王の恐れの根本にあるのはなにか。

 それは、『魔物』と『星』との関係性にほかならない。

 

 詳しく言えば、魔物とは星によって直接生み出されし存在――。

 星の生態系からは大きく外れ、それでいてどの生物よりも優れている。

 

 そして、その力でもって人間を殺し尽くし、この星から排除することを使命としていた。

 すなわち、魔物が人間に勝つことは星の法則ともいうべき、絶対的なものだった。

 

 もちろん例外はある。

 勇者たちこそ、それだ。

 

 勇者たちは精霊の祝福を受けた、選ばれし者。

 また、精霊とは星の一部に属しながら、人間に味方する異端。

 つまり、『精霊の祝福』とは『星の加護』に等しく、この面でいえば、勇者たちは魔王と対等の存在であるといえるのだ。

 

 対して悪役貴族は、何一つ加護を受けていない、まっさらな人間だった。

 にもかかわらず、優劣はすでになく、たかが人間が魔王と並び立っている。

 

 それは星のあり方を、根底から覆すもの。いわば、星の誤算。

 誰よりも世界の理を知る魔王だからこそ、恐れを抱くには十分だったのである。

 

 しかし、魔王はふと思った。

 今起こっている現象は、本当に星の誤算の産物であるのか、と。

 

 

 

 3

 

 ――星とは神ともいえる存在であるはずなのに、誤算などと、そんなことが本当にありえるのか……?

 

 それは決して気付いてはならない、禁忌すべきもの。

 信じるだけであった無垢なる存在が、開けてしまったパンドラの箱。

 いわば、全能の神に対する疑念といってもいい。

 

 ――もしも全てが、星の計算通りだとすれば……。

 

 そう考え、魔王はハッとなった。

 

 ――まさか、我々の使命の裏には、また別の目的があるのか……?

 

 悪しき予感だった。

 そんな馬鹿なと否定したくても、過去に一度、魔王は人間たちに敗れている。

 そのとき人間たちは、互いが互いに争う大戦乱のさなかにあった。

 魔王はこれを人間という種の愚かさだと思い、さらには自らにとっての絶好の機会とし、人間界へと攻め込んだ。

 

 ――だが、もしもあのとき我々が人間を攻撃しなかったら、人間たちはどうなっていた……? そのまま滅びた可能性もあったのではないか……?

 

 魔物という天敵の存在は、最終的に人間たちを一つにした。

 それが意味することとはなにか。

 まるで魔物という存在は、人間に利するためにあるかのようではないか。

 そう魔王は思ったのだ。

 

 ――あり得ぬ! 絶対にあり得ぬ!

 

 愚にもつかない考えであると、魔王は切って捨てた。

 

 ――人間は劣等。劣るがゆえに工夫をこらし、生態系の頂点に君臨するに至った。そのいびつさこそ、滅ぼすべき理由なのだ!

 

 ――人間の工夫はとどまることを知らず、いずれ想像もつかない……それこそ、星そのものを滅ぼしかねない災厄を呼び込むことになる!

 

 ――だからこそ、人間を滅ぼすために魔物が、そして魔王が生まれた!

 

 そこまで考え、しかし、またもや魔王の胸に湧く新たな疑念――。

 人間を滅ぼしたあとは、魔物が生態系の頂点に取って代わり、星という巨大な船の舵取りをする計画であった。

 しかし、この目的を付け足したのは、誰であろう魔王本人である。

 

 星から与えられた使命は、人間種の絶滅のみ。

 それ以上の命令は、この体のどこを切り取っても、何一つ刻まれてはいない。

 

 ――もし本当に星が人間の絶滅を望むのであれば、人間を絶滅させたあとの使命も、魔物に与えられてしかるべきではないのか。

 

 ――それがないということは、つまり星は、最初から魔物の勝利を否定しているということにならないか。

 

 魔王の頭の中を『猜疑(さいぎ)』という名の蟲が這いずり、蝕み、より巨大に肥え太っていく。

 そして、魔王は一つの結論へと行き着いた。

 

 ――まさか魔物とは、人間の進路を調整するための補助器のような……。

 

 しかし、魔王は全てを打ち消すように大きく笑った。

 

「フ……ハ、ハハハハハハハハッッ!!!!」

 

 認められなかった。

 魔物たちを束ねる王として、それだけは決して認められなかった。

 認めてしまえば最後、それは自身の存在否定となる。

 

 もはや後戻りはできない。

 真実がどうであろうが、自らの道を信じるしかない。

 ならば人間を滅ぼし、自らが正しかったのだと証明するまで。

 

 魔王の心から恐れは消え去った。

 王たるものの義務感として、心の全てを漆黒に塗りつぶした魔王は、三対の翼を広げて宙へと舞う。

 手にある『天地邪輪の槍』を力強く握り、空から人間たちを見下ろし、そして敢然と言い放った。

 

「人間よ! 天地を食い荒らすだけのおぞましき生物よ! 我がここに存在していることこそが、星の意志!

 滅べ! ただ滅べ! 貴様ら人間の歴史は露と消え、ようやく星の軌道は正されるのだ!」

 

 その激憤はなにに対してのものか。自分か、人間か、それとも自らを生み出した星に対してか。

 しかし、魔王の魂は黒い炎となって、轟々と燃えていた。

 この一撃で燃え尽きんばかりに、魔王の魔力は膨れ上がっていた。

 

 対する悪役貴族もまた風の魔力を溜めた。

 小細工無用。繰り返したちっぽけな反攻は、傷こそ与えられなかったが、確実に魔王の魔力と精神を削り、魔王を同じ場所に立たせていた。

 

 もはや力の総量でも、五分と五分。

 ならばあとは互いに自らを信じ、全ての力を出し尽くすのみ。

 

「ゆくぞ!」

 

 魔王が流星のごとく空から飛来し、悪役貴族もそれにぶつかった。

 辺りには突風が吹き荒れ、稲妻がほとばしり――、

 しかし、槍と剣は十字に組み合わさって決着はつかず、どちらの姿も依然としてそこにある。

 

「グッ……!」

「くっ……!」

 

 魔王と悪役貴族、その両者の口から漏れ出る唸り声。

 少し前の勇者と魔王の激突を再現したかのような、力と力のしのぎ合いだった。

 

 ただし、違う部分もある。

 今度は、第三者の介入が存在したのだ。

 

「魔王ォォオオオオオオオ!!!!」

 

 叫び声を上げながら、横合いから剣を振り上げ飛びかかってきた者――。

 一服の力を回復させた勇者だった。

 

「勇者ァァアアアアアアア!!!!」

 

 それはどちらの叫びだったか。

 いや、どちらもだ。魔王と悪役貴族のどちらもが、その名を叫んだ。

 しかし、対蹠的(たいしょてき)でもある。

 

 魔王は勇者の剣を防ぐために、槍から片手を離した。

 勇者を弾き飛ばすことは容易だったが、その一瞬が精神と力の合一を淀ませた。

 

 一方の悪役貴族。

 その心に、突如として石炭のごとき燃料が投下され、これまでで一番の輝きを放った。

 真夏の空に浮かぶ太陽のごとく、ギラギラとほとばしる激情を乗せ、悪役貴族は剣を押し込んだのだ。

 

「ヌウゥゥ――――ッッ!!!!」

 

 魔王も負けじと、今一度、両手で持って押し返そうとした。

 しかし傾いた天秤は、すでに勝敗を告げている。

 次の瞬間、悪役貴族の剣が魔王の槍を二つに断つと、そのまま魔王の胸を貫き、引き裂いたのである。

 

「ば、馬鹿な……」

 

 体を上下に分かたれた魔王が、天を仰ぎ見る。

 灰色の空間が破られ、戻ってきた玉座の間は、戦いの余波によって天井に穴が空いていた。

 その穴からキラキラと注ぐ陽の光にあたたかさを感じたとき、もうそこに魔王の命の灯火は存在しなかった。



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第4話 悪役貴族の矜持

 1

 

 世界は色を取り戻していた。

 辺りは灰色の空間から玉座の間へと戻り、穴が空いた天井からは光が注いでいる。

 また魔法剣士を磔にしていた漆黒の杭は消え、女賢者を封じていた氷塊もバシャリと水へと変わった。

 

 その光景に、勇者は身体を横たえながらも、ほっと息を吐いた。

 魔王の力が及んでいない。間違いなく魔王は死んだのだ。

 

 見れば、女賢者はすぐに状況を把握したようだった。

 この場にもう一人増えていたことに驚いていたものの、まずはこちらに駆け寄って、治癒魔法をかけてくれた。

 

「俺はもういいから、悪役貴族を治療してやってくれ」

 

 わずか数秒の治癒魔法でなんとか体が動かせるまでになると、勇者は言った。

 あれだけの激戦である。悪役貴族が勝利したとはいえ、無事であるわけがなかった。

 

 実際、悪役貴族は力を使い果たしたのか、最後の一撃を放ったあと倒れて、そのままだ。

 生きている気配こそ感じるものの、起き上がる様子はない。

 

 ちなみに、魔法剣士も重傷ではあるのだが、こちらは治癒魔法の心得がある。

 自分で自分に拙い治癒魔法をかけていた。

 

「悪役貴族……?」

 

 どこか聞き覚えのあるかのように、女賢者が口の中で反芻した。

 その反応に、勇者もクスリとつい笑いをこぼしてしまう。

 

「ほら、学生時代に同じ教室だった……」

「あなた、なに言ってるの? 魔王を倒してはしゃぎたくなる気持ちはわからないでもないけど、面白くないわよ?」

 

 信じたくないのか。まるで信じていないのか。

 とにかくわかっているのは、女賢者の悪役貴族に対する印象は最悪だってことだ。

 

「いいから頼むよ。早くしないと、死んでしまうかも」

 

 その言葉に従って、タタッと女賢者が、倒れ伏す悪役貴族のもとへと駆けていく。

 そして実際に顔を見れば、女賢者もようやく誰かわかったようだった。

 常日頃より沈着な彼女が見せた、珍しい間の抜けた表情。それだけ意外だったのだろう。

 

「魔王を倒した凄いやつさ」

 

 まるで我がことのように語りつつ、勇者は女賢者に遅れて、ゆっくりと悪役貴族のもとへと向かう。

 ……だが、おかしい。治癒魔法をかける女賢者の顔面は、蒼白としていた。

 

 勇者は、まさか、と思ったが、まだ死んではいない。

 悪役貴族からは、確かに生きるものの気配を感じるのだ。

 しかし、それならば治せるはず。

 

 蒼白の原因は、勇者が悪役貴族のそばにたどり着いて、ようやくわかった。

 女賢者の治癒魔法がまるで効いていないのだ。

 

「女賢者!」

「わからない……、傷が塞がらないのよ……!」

 

 詠唱を変え、女賢者は別の治癒魔法も試そうとするが、それもまるで効かない。

 すると、女賢者の肩に手を置き、魔法を止める者があった。

 

「……もういい。この魔王城には、治さねばならない者たちがほかにもいる。魔力の無駄遣いはよせ」

 

 女呪術師だった。普段の心優しい彼女からは想像できない冷徹さだった。

 だからこそ、ふざけるな! と頭に血が上り、勇者は女呪術師の胸ぐらを掴もうとした。

 

 されど、その手はすぐに止まった。

 女呪術師は泣いていた。ハラハラと両の眼から涙をこぼしていたのだ。

 彼女の冷たい言葉の裏に、なんらかの理由があることは明白だった。

 

「私にはわかるんだ……。呼吸はしている、心臓は動いている……、でも、命はそこにない……!」

 

 もはや自分を隠さず、女呪術師は自らの無力さを吐き出すように言った。

 勇者は、馬鹿なと思った。悪役貴族に対する、『死』という残酷な一文字に愕然とした。

 

「思えば、最初からおかしかったな。瘴気があふれる《魔の領域》。精霊の加護なしには、ここまでたどり着けるはずがない」

 

 横から割って入るように、魔法剣士が女呪術師に同意した。

 それを引き継いで女呪術師が言う。

 

「魔王が放った死の呪法。死に魅入られれば、決して逃れることはできない。精霊の祝福を受けた私たちなら別だが、彼はそうじゃない。

 だから、なぜだと私は思った。簡単なことだったんだ。……彼はすでに死んでいた。死んでいた体をここまで引きずって、魔王に挑み、そして、討ち果たした……」

「そ、そんな馬鹿なことが……」

 

 勇者は困惑した。わけがわからない。だってさっきまで動いていた。戦っていた。

 死んだ者が動くはずはないのだ。

 

「――想い」

 

 涙を拭い、若干の沈黙ののち、女呪術師が言った。

 

「想い……?」

 

 そう勇者は聞き返すと、女呪術師は小さく頷いた。

 

「命を失ってでも、と考えるなにか。私たちが世界を救いたいと思う以上に、この男には死してなおも動くに足る理由があったのだろう」

 

 途端、女賢者がなにかに気付いたように目を丸くした。

 もちろん勇者も知っている。悪役貴族のかねてよりの固執を。

 知っていて、歯を食いしばった。

 

 まさかと思ったのだ。まさか、そんなことのために。

 そんなことのために悪役貴族は……。

 

「なにか手があるはずだ! 心臓が動いているなら、なにか!」

 

 諦めてなるものか、と勇者は叫んだ。

 しかし女呪術師は、やはり首を横に振るだけだった。

 

「……魔力が急激にしぼんでいる。この者はもう死を受け入れている」

「そんな……」

 

 そのときだった。

 

「ふん。うるさくて眠れやしない」

 

 ハッとなって、勇者は歓喜とともに振り返った。やった! とその胸の中で叫んだ。

 思えば、何百回殺されようとも死なないような憎たらしさだった。だから大丈夫だと。

 

 だが、悪役貴族の顔を見た瞬間、その考えが間違っていることを理解した。

 目はぼうっと虚空を眺めている。見えていないのだ。

 それは治癒魔法が依然として効いていない証左であり、死の運命は決して覆されないということ――。

 

「悪役貴族……」

 

 名前を呼びながら、悪役貴族のすぐそばに膝をつき、勇者は尋ねた。

 

「なんで……」

 

 なんで、の先の言葉を勇者は言えなかった。

 いかようにも取れる問いかけだ。実際、訊きたいことはいくつもあった。

 だが、悪役貴族の答えは一つだった。

 

「なんで? はっ、ただちょっとお前が気に入らないから、手柄を奪ってやろうと思ってね。それだけさ」

 

 悪役貴族はあらぬ方を眺めながら、なんてことのないように憎まれ口を叩いた。

 それは勇者の記憶にある、悪役貴族そのままの姿だった。

 

「……で、魔王は死んだのか?」

「……ああ」

「僕が倒したのか?」

「そうだ! キミが、キミが倒した!」

「ふっ、そうか。お前が倒せなかった魔王を僕が倒した……そう、僕が倒したんだ。僕が上で、お前が下。これでわかっただろう」

「ああ、キミが上だ! 俺なんかよりずっと! よくわかった、わかったから……!」

 

 なんと言葉を伝えればいいのか。

 イジメられ、憎んだこともあった。しかし、自分が勇者となり、その後の顛末を考えれば、胸に残ったのは同情だった。

 いつか、わかりあえれば。――そんなふうに思ったこともあったかもしれない。

 

 しかし、そんな機会はなく、学校もやめ、勇者として旅立った。

 その後は修業と、時折送られてくる魔王の刺客と戦う日々だ。

 人類の危機と与えられた使命の前に、悪役貴族のことなどとうに忘れ去っていた。

 

 ――だがキミは、ずっと……。

 

 その思いが、こんなにも胸を締め付ける。

 まるで自分をとんでもなく薄情であるかのように思わせる。

 

「ふふっ……わかればいいんだよ、わかれば」

 

 ニコリと悪役貴族が口元を緩ませた。

 それは、勇者が初めて見た笑みだった。記憶にある嘲るような笑みではない。

 悪役貴族の心からの笑み。

 

 ゆえに勇者は理解した。はっきりと理解してしまった。

 悪役貴族は、やはりただそれだけのために、死を否定し続けたのだと。

 そして、それがなされたのならば彼は……。

 

「おい弱虫、僕はもう少し寝るからさ。起きるまでに、焼きそば、パン……を……」

 

 悪役貴族の言葉は、最後まで紡がれはしなかった。

 

「悪役貴族……?」 

 

 勇者の問いかけにも応えない。

 悪役貴族は瞼を固く閉じ、口元には満足したような微笑をたたえていた。

 

「おい、返事をしろ! 悪役貴族! 悪役貴族!!」

 

 何度も何度も。

 勇者の哀しい声が魔王城に響いていた――。

 

 

 

 2

 

 後世において悪役貴族の活躍が語られることはない。

 

『魔王は勇者とその仲間たちによって倒された』

 

 これこそが、魔王討伐という英雄譚における絶対不可侵の中核。

 悪役貴族の名は、精鋭部隊の一人として登場するだけである。

 

 誓って言うが、生き残った精鋭部隊の者たちと一緒に凱旋した勇者は、ありのままを王に報告している。

 しかし、王は悪役貴族の功績を認めながらも、『魔王を倒したのは、あくまでも勇者でなければならない』という宗教上の理由を持ち出した。

 その背景には、悪役貴族の家柄にまつわる政治的理由があるのだが、それについては省略する。

 

 王の意向が国の最終決定になると、勇者はあらゆる地位を捨て、隠遁した。

 それは、この決定に対する反抗心であるのかもしれないし、あるいは、この決定を通させてしまった自分のいたらなさに責任を感じたのかもしれない。

 とにかく勇者はいなくなり、そしてそれ以後、勇者の姿を見た者は誰もいなかった。

 

 勇者の仲間たちについても少しだけ触れておく。

 まずは女賢者であるが、彼女は教会へ戻り、神の僕としての毎日を送っている。

 次代の教皇であるとの呼び声も高いが、これには乗り気でないらしい。

 

 次に魔法剣士。彼は教職へと戻ったものの、しばらく勤めたあとその職を辞した。

 今は里に帰り、私塾を開いて、子どもたちに勉強と剣術を教えている。

 

 精鋭部隊については、おおよそ三割の者が生き残った。

 いずれも世界を救ったという栄誉と、多大な報奨に与り、それぞれの生活へと戻っていった。

 

 そして最後に女呪術師。勇者の仲間たちの中で、唯一彼女だけは、その後の消息が掴めていなかった。

 ただし、これについては、おそらく勇者と共にいるのだろう、というのが大方の予想である。

 

 かくして、世界は平和になった。

 魔物たちも今ではまた魔の領域で、穏やかに暮らしている。

 

 再び魔王が蘇るのかどうかはわからない。

 蘇るとすれば、それはなにがきっかけなのか。そのとき魔物はどうなるのか。

 

 主を失った魔王城はどこまでも静かだった。

 数年前、ここで人類の命運をかけた激戦があったなどと、信じられないほどに。

 

 しかし、いまだ深く残る戦いの爪痕が、それを否定する。

 犠牲は大きかった。多くの戦士たちが、ここに眠っているのだ。

 もちろん、悪役貴族も――。

 

 

 

 3

 

 玉座の間にある、石が積まれただけの粗末な墓。

 そこで悪役貴族は静かな眠りについている。

 しかし、今日ばかりはほんのちょっぴりだけ賑やかだった。

 

「あれから十年。今も平和は続いているよ。でも、仮初の平和だ。魔物がいなくなれば、今度は人間同士が争う。愚かな話さ」

 

 腰に立派な剣を佩いた男が、悪役貴族の墓の前で言った。

 

「……魔王は星の軌道を正すと言っていたけど、今ならその言葉の意味が少しわかる気がするんだ。俺たち人間のたどる道は、魔王の言うように間違っているんじゃないかって」

 

 人間の愚かさ。かつて世界を救おうと命を懸けてまで尽力したからこそ、男には余計にそれが見えてしまう。

 そしてそれはまた、男の心をとても虚しくさせた。

 

「一か十かで語るのは感心しないな」

 

 答えたのは、隣にいる髑髏の杖を手にした女だった。

 

「まったく……、ここ最近ずっと悩んでいるかと思えば、それが原因だったわけか」

 

 言いながら、はぁ、と呆れたように女が大きくため息を吐いて、言葉を続ける。

 

「人間はそれほど完璧ではないよ。だからこそ、たくさん間違える。それを認めないのは、高遠な理想が過ぎるというものだ。けれど、間違いを省みて修正することができるのも、また人間というものじゃないのかい?」

「……できるかな?」

 

 男は少し考え込んだあと、そう尋ねた。

 

「少なくとも私はそう信じたいね。そもそも神様じゃないんだ。人の歩む道が正しいかどうかなんて、簡単にわかるものじゃないさ。

 もし仮にその答えを知るときが来るのであれば、それは私たちが死んで何百年、あるいは何千年も経ってからかな」

「気の長い話だ」

「そういうものだよ。私たちが刹那の時間に魂を焦がしたように、これから先、その時代その時代を人々が必死に生き、そうやって人の歴史は紡がれていく。

 けれど、それもまた星の歴史からすれば、ほんの一瞬でしかないのだろうね」

「……なんだか、難しいな」

「私たちにできることは終わった。あとは、なるようになれってことさ」

 

 女がニコリと笑って言い、男も何度かまぶたをパチクリとさせてから、クスリと笑みをこぼす。

 

「さあ、そろそろ帰ろう。子どもたちが心配する」

「ああ。……じゃあ悪役貴族、俺たちはもう行くから。また来年。今度は子どもたちも連れてくるよ」

 

 それを最後に男女の影は去り、玉座の間に再び静寂が訪れた。

 天井から射し込む光筋が照らすのは、ひとりぼっちとなった悪役貴族の墓――。

 

 しかし、そこには美しい花があった。

 そして、その花の隣には、おいしそうな焼きそばパンがいくつも置かれていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 やがて、天井の穴から一羽の鳥がやってきた。

 茶色がかった、鳶に似た少し大きめの鳥だ。

 地上に降り立って、キョロキョロと視線をさまよわせている。

 

 その瞳が焼きそばパンを見つけるのは早かった。

 ひょこひょことパンに近寄って(ついば)めば、辺りに響かせたのは「クアッ!」という嬉しそうな鳴き声。

 

 よほど気に入ったのだろう。

 鳥は焼きそばパンのひとつを器用に咥えた。

 そして翼を広げ、再び天井の穴へ――どこまでも続く大空へと飛び立っていった。

 




これにて完結です。
ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。


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