東方捨鴻天 【更新停止】 (伝説のハロー)
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序章
序章・第零羽「小さな烏」


年が明け、天命を全うしたPC。後継の来訪に至り、自身も新しくなって帰って来た“伝説のハロー”の小説です。
友人が発案提供、それを基に作成したものです。友人に感謝感激雨霰からの歓喜の嵐。
今までにないくらい頑張りました。楽しんで頂ければ幸いです。
シリアス好きな作者故、ほのぼのとした空気は少ない……いや、心温まる空気は殺伐とした中では必須だろうか。

では、本編へ。どうぞ!



―――暖光が満ちている。

見上げれば、左の端から右の端まで一面に広がる水色の天井。その一面に際立ち、誰にも邪魔を受け付けないと思わせる存在、不変の光を届けるお天道様。いつもそれらを邪魔する、漂う白い奴等は一切いない。

故、一色の澄んだ青空で、煌々とした太陽を映えさせる。

そこに吹きこまる暖かく心地良い風が、ふわりと地上へ舞い降りる。大地に根を張る命を撫で、御蔭で豊かな様子を植え付けた。

 

そんな晴れ晴れとした光の下で、幼子の二人は出会った。

 

おしゃべりする二人は、庭に足を向ける形で長い廊下に隣合せにして腰掛けている。初対面の幼子がするだろうその会話をしている真っ最中だった。

場所は、どこかの住まいだろう、木材をふんだんに使った和式のとても立派な屋敷だ。

 

「え……俺が?」

 

その小さな声の発言者は、二人の内の片割れ。年端もいかぬ幼い少年だった。

黒い髪に灰色の瞳という容姿の男児。麻で出来た簡素な衣袴を身に纏う彼は、疑問の様子で隣を見やった。

 

「うん。私と“友達”になってくれる?」

 

少年の隣には同じくらいの幼い女児がいて、そわそわと不安げに上目遣いで問い掛けて来る。

幼子でありながら美麗と形容される容姿を持ち、質素だが白い絹の衣装を纏う彼女は、艶やかな黒い髪を揺らしながら期待を込めて見つめている。

 

「え、えっと……」

「私じゃ、いや?」

「ぁ、……いやじゃないよ! でも、俺なんかでいいの……?」

「うん! 私は君と“友達”になりたいの」

 

決して嫌ではない。嫌ではないが、彼には戸惑いがあった。

 

 

それは、少年に訪れた予想外の出会いから始まった。

その気になれば、二人は既に出会っていただろう。積み重なった須臾のように、過ぎ去っていく日々の中で。

しかし、少女の方に問題があった。

その理由は極めて単純―――少女自身だった。

 

少年は、自分と同い年の少女をまじまじと見やり、少女の容姿を感取する。

 

(本当にきれいな子だなぁ……)

 

湧水が反射させる日光のように、白く映える幼い故の柔肌。腕を拡げれば中にすっぽりと埋まってしまいそうな、すらりとした華奢な身体。限界まで潤いに潤った果実のような桃色に染まった唇を備え、将来の彼女が別嬪様になる事が約束されているとはっきり言える整った顔立ち。

これ程までに麗しい娘子と友になれると思えば、誰もが勢いよく了承する事だろう。

しかしながら、彼女の親―――特に父親はそこを良く思わず、他者への接触をあまり持たせようとはしなかった。

つまりは親によって、相互の接触が断たれていたのが原因であろう。理由は誰にも教えられていない。当然、他の家の子供が知る由などある筈もない。

過保護だな、と周囲からの声も上がっている。

 

ところが、その父親は何を思ったのか、そんな懐の我が子を連れて少年の家を訪ねて来た。

 

だが、遊びに来たのではない事は雰囲気で十分に解った。

少年にとって、本来ならば同じ枠組みの者同士、親しくなれる間柄になれても、箱入り娘な彼女だけは難しいと感じていたが、どういう訳かその機会が生まれた。

よもや、こんな形で出会い、友になれるとは思わなかっただろう。これは少年にとって好機だと言える出会いなのだった。

 

しかし、しかしだ。

 

(俺が友達で、本当にいいのかな……)

 

真っ先に湧いたのは、自分には不釣り合いではないかという甚だしさ。

少女の置かれている特異さを理解している少年は言葉を吐く事すら出来ず、躊躇してしまう。

少女は優れた血族故に、親と同等の才能を有していると聞く。対する少年には、子供だからなのかもしれないが、千里眼の持ち主でも隠れた才能を垣間見る事が出来なかった。

そうであっても、嬉しい故に仲良くなりたい気持ちがあって、本当は駄目なのだろうけどもそれを受け入れてしまっている烏滸がましさがある。背中をちくちくと引っ掻かれているような感じがして、とてもじれったい。

仲良くなりたくても、自分と彼女の差がそれを許さない。が、許さなくても仲良くなりたい。

どうすればいいのか、と必死に知恵を働かせる少年だが、どうも妙案が浮かんで来ない。

そんな少年の躊躇いを見てしまった少女には、当然ながら暗い影が落ちる。

 

「……だめなの?」

「あ……」

 

そんな少年の戸惑いに、悲しげに俯く少女。折角の綺麗な顔が、要らぬ影で塗り潰される。

 

止めろ、汚すな、遮るな、どっかいけ。

 

憤りが腹の底で募る。

少年はどうにか出来ないかと必死で考えるが、そんな難しい事は彼の管轄外。先程と同じように妙案などありはしないのだ。

 

故に、彼が取る行動は一つだけだった。

 

「―――うん、いいよ! 俺と君は、今から“友達”だ!」

「ぇ……ほんとっ? 本当に……嘘じゃないよねっ?」

 

少女の悲しい顔を見たくなかった彼は、すぐさま了承する。対して少女は数瞬呆けるが、必死な形相で問い詰める。

少年は彼女の為に、友達になる事を選んだ。そう、彼女の為に。

 

「もちろん! 俺が君の初めての友達さ!」

「うれしい……。ありがとう!」

 

そして、幻視した。

 

「ぁ…………」

 

―――小さな太陽を。

 

地上の御天道様は小さいながらも目を細める程に眩しく、暖かく美しい日差しは誰にも侵されぬ童の陽光を宿している。

あどけない無垢な瞬きに、思わず見蕩れた少年は思わず息を呑む。他の男共が見たら嫉妬に駆られるだろう。

 

なんだろうこれは、なんなんだこれは。

 

頭が目の前の娘の事しか考えられなくなり、心臓が忙しなく鼓動する。ずっと魅入ってしまう程の未発達な魅力が濃縮された―――さながら、大和撫子。

彼の視線は確実に強奪され、熱があちこちで膨らんでいく。

 

「ずっと友達でいようね、こうか君」

「―――はっ! ぇっ、と……う、うん。ずっと、みつみちゃんの友達でいるよ」

 

嬉しさのあまりきらきらとした屈託のない笑みを向ける少女に対し、少年は夢から覚めたようにどきまぎしながらも力強く頷いて見せる。誤魔化しの苦笑を隠し切れない少年は、少女に釘付けになっているのだった。

 

こうして幼い二人は、優しく見守る日差しの下で約束を交わした。

小さく細い指を絡め、重ね合わせた小さな手と―――背に生えた、二対の影の如き黒い羽根を掲げて。

 

 

二人は人間ではなかった。それは―――。

 

その証拠は、背から生える真っ黒な羽根。

 

そんなの普通に考えれば、“妖怪”と呼ばれる人外でしかないだろう。

妖怪の殆どは異形揃いであるが、しかし、この少年少女は違う。妖怪には変わりないが、知能が並みの動物よりも高い、或いは非常に強い力を秘めている。また、純粋な妖獣よりも高い潜在能力がある事を示しているのだ。

彼等のような、まるで烏が持つ漆黒の羽根を生やした人外など、当て嵌まる例は限られる。

 

それは―――妖怪。其は闇の化粧。

 

人間の空想が生んだものと形容されるが、この世では実在している。人間然り、妖怪然り、神様然り―――多種の生命達が古の時から今も尚、各々の生き様を謳歌し続け、幻想に満ち溢れた世界で息をする。那由多の果て、曼荼羅と呼ばれる世界―――天地開闢の時から長きに渡って今も尚続く光景だ。

 

二人がいるそこは世界の一部、とある島国の北東に存在する大森林の中に築かれた集落。

地上を象徴する緑は海のように拡がって、山々を中心とした生命溢れる自然が陣取る。でん、と構える住処を護るように構築されていた。

 

住まうのは“天狗”という妖怪。

 

天狗とやらは、妖獣あるいは奇怪なものが妖怪化し、主に風にまつわる超常へと姿を変えたものである。彼等もその例の通りに、黒き鳥類―――即ち、烏から変じた妖怪である“烏天狗”と呼称される狡賢い連中だった。

しかし、その程度。故に、彼等は集団行動を取るのだ。

 

―――だが時に、ある者は場違い故に切り離される事もある。

 

弱い者が一人または極めて少数の者が際立って厳存したり、異端的な問題を抱えていたりする場合に起きてしまう事。

それは鴻鵠の中に紛れる雀の如く、例外が存在したりするのだ。

 

だからこそ、無情に引き起こされる悲劇がある。

 

(あくた)程度でちっぽけな烏だが、それでも輝いている。唯一異彩な彼はそこに紛れ、心を許した太陽と共に瞬いている。

 

―――いずれ来たるだろう、別離の時を知らぬまま。

 

世界は、ちっぽけな個人の視野で見渡す事など不可能だ。

何故なら、他でもない全能の神―――天主がそう定めたから。

この世に起こる事は全て是である。否と告げる事は出来るが、そこに存在する事は天主が許した事なのだ。

だからだろうか―――

 

私は創造主に成りたくはない。自分が作った悲劇を見るに堪えないから―――。

 

とある神格はそう言った。

 

 




如何でしたでしょうか。以前より良くなったと思いますが、読みやすさなどの解釈は人それぞれですからね。
これからも頑張っていきたいです。


因みに、連続投稿です。


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序章・第一羽「殻はいつ割れるか」

ここから始まるのは、過酷な茨の道への加速。世の中、よくある事。



白き落雪を乗り越えて、極寒が開けた季節。

時期は暖かくなり始めた辺りで、動物達を常日頃から見守るようになった。

風は強く吹いてはいないが、肌寒さを感じさせる程冷たく、人の肌を容易に乾かせるだろう。まだ残滓が漂っている最中だった。

 

そんな最中の出来事だ。

 

「何度やれば気が済むのだ……劫戈(こうか)っ!」

 

狩りから帰って来て早々、劫戈は烏天狗一族の長の説教を受ける。

 

場所は烏天狗らの縄張りを意味する門前。群れが拠点を置く森の中、その玄関口だ。

木で作られているそれは、端に烏の羽毛を弦で括りつけて、烏のものだという事が一目で解るように工夫されている。雨風対策すらされていない簡素なものだが、手間が掛かる反面、何度でも修復出来きて変更が利く。

 

そんな門の前で、がみがみと煩い声が風に乗る。

説教の回数は、初めて怒られてから何回目なのか忘れてしまう程のものである。数十回目ではないだろう、もう既に三桁は達しているのかもしれない。

 

「まったく……いい加減にしろ、小僧が!」

 

目の前で怒鳴る老爺、他の誰よりも長生きで老練な男性―――射命丸津雲(つぐも)は、この烏天狗一族の長を務めている。口煩く厳しい人で生真面目な人だが、群れで小さな劫戈への対応はいつも苛立ったもので、優しい顔を向けられた事があるのか怪しいものだった。

説教の理由は単純。

彼、劫戈が足を引っ張ったから、らしい。

 

「……申し訳、ありません」

「何度言わせる……獲物の牽制が利いている時にお前と来たら、暇を持て余す! いい加減にせんか、お前は!」

「返す言葉も……ありません」

「小僧……儂は何度もその言葉を聞いたぞ。同じ過ちを繰り返すなど滑稽の極み。若人は皆、力を示し、我等烏一族に貢献しておるのだ。謝れば済むとでも思うたか? 若輩者達の訓練も含んでいるというのに……恥を知れぇッ!!」

「……っ!」

 

しゃがれた怒声は、怒りに染まった皺だらけの顔で発せられ、酷く厳しい様子を呈した。

くどくどと煩い事この上ない説教なのだが、津雲の言う事は大いに過ちを含んでいる為、劫戈としては説教と言うよりも八つ当たりされているように感じた。

 

このような津雲の取り合おうとも思わぬ姿勢は、優れた自分等がそのような愚考を成す筈がないという彼等の傲慢から来ていた。自分の方針は間違っているとすら思わず、自分等が正しいと言わんばかりに、劫戈を欺瞞な事を吐く餓鬼としか扱っていない。

一族の中で劣る劫戈を見下げ、悦に浸って優れる己を見せつける。最早、十八番に近いものだ。

 

(老衰したジジイが……何も見えていない癖に)

 

陰口を貯水する劫戈は、理不尽だと思う。

 

この世に生まれて十と余年。

集団で行う森での狩り。生きる為、血肉を追う殺伐とした日常風景。同世代の男達と一緒に行う食料の確保は、野良動物を捉える初歩的なもので、誰もが経験し継続する最重要な事だ。

幼い頃からやっているが、どうしてか上手く連携が取れない。いや、取らせてはくれなかったのが実状だ。

 

「くっくっく……」

「へっ……弱いくせに意見しちゃってよぉ」

「俺の指揮だってのに、言う通りにしないからなぁ。これだから劣等は」

 

長から視線を横へと移すと、離れた場所で五人の仲間が意地悪そうに嗤っている。

そう、今まさに嗤っている仲間の彼等に、狩りの最中にちょっかいを出され、連携を乱された。

その挙句、獲物を取り逃がした責任を擦り付けられてお前の所為だなどと理不尽を連発してくる。

今日までのこの罵倒や説教は、彼等が引き起こした劫戈へのいじめが発展したものだったのだ。

 

「……ッ!」

 

何て汚い野郎共。男として如何なものか。

そう内心で奴らを非難し、劫戈は怒りを湧き上がらせる。

 

「がッ―――!?」

 

そこで長からの鉄拳をくらう。眼にも止まらぬ容赦ない手加減無しの一撃。

抱いた怒りをも吹き飛ばす勢いで飛ばされ、門の木にぶつかり、地面にどしゃりと沈み込む。体全身に痛みが走る他、顎が砕けたんじゃないかと思えるくらいの衝撃で頭がぐらついた。

 

これがこの群れでの実力主義体制の実状。

実力は絶対であり、小さな間違いや失敗すらも厳罰対象になるのだ。

―――要は、常に優れる者であれ、という事。

長として群れを支える責務故に、弱い者には厳しく教育し、強くさせようとするのは解る。しかし、幼い身には厳し過ぎる。それでいて、傲慢な性格も相俟って、彼にとって居心地の悪い風潮が出来上がっていた。

 

良く思っていないのは自分を含めて他に何人いるのだろうか。

門の先にある集落から、様子を見る視線が幾つか。

未熟であるから、視線の持つ複数の意味を一度に理解するのは難しい。それでも、劫戈には少しだけ解った。

長の方針に逆らう者はいないように感じる。皆、保身で精いっぱいなのだろう。

取り敢えず痛む頬を押さえながら、顔を向けて長の視線を受け止める。

 

「劫戈、お前の父から厳しい沙汰がある。覚悟しておけ」

「……っ。はい」

 

俯きながらの小さな返事となった劫戈。

さっさと去ろうとする津雲の冷たい言葉に若干慄くも、理不尽を受けた衝撃の大きさが意識を塗り替える。此度の罰は今まで以上に厳しい罰を言い渡される事に嫌悪感を持つが、返事をしなければ更に怒鳴られてしまうのだ。

 

「―――いっつぅ……」

 

頭に響いた鈍痛が、今まで受けて来た虐待的な仕打ちを甦らせる。

 

何度反論しようとも、親や大人達に救いを求めても、取り合ってはくれなかった。

劣等扱いの非才の存在など足手纏いであり、疎ましいとしか思われていないのが現状だったのだ。

最早、弱小の少年ではどうしようもなかった。

 

―――故に、彼は話し合いを諦めてしまっていた。

 

老獪な長然り、優良な両親然り、意地汚い仲間達然り、誰も自分に手を差し伸べてくれる者はいないと知ってしまったから。だから、人目のある場合はその場に任せ、お前が悪いと罵倒されるのを耐え抜く日々を受け入れた。

精々、今は覚めない良い夢を見ていろ、というように。

いつか、飛び起きるような驚きを刻み込んでやる、と意気込んで耐えるのだ。

 

津雲が不機嫌を撒き散らして集落の奥へと向かうと、今まで端に居た五人もの少年達が蟻の群れのように押し寄せる。

そして、劫戈を囲み、口々に罵り始めた。

 

「ぶははっ! 無様だなぁ、劫戈(こうか)!」

「劣等がでしゃばるからだ。ばぁ~か!」

「何処にいるのか解らない、影が薄い劫戈くぅん? どうしようもないですね~? ハハッ」

「またお前と組むとなると嫌になるよ。あのさぁ、お前連携に向いてないんだから、来るなよ……本当にさぁ」

「足引っ張り続けるとか、やめてよね。足手纏いは引っ込んでいてくれよ」

 

周囲から罵られる醜態を晒し、悔しげに睨むしかない劫戈。

 

次々と飛来する罵倒の数々に、悔しさを纏わせ必死に耐える。彼は現在進行形、侮蔑の眼で蝕まれ、終わりの見えない苦痛だらけの網を突き進んでいた。

 

(煩い、黙れ、何もしゃべるな……)

 

憤りが腹の底で蠢き、積を増していく中で彼は口を開く。

 

「……俺だってやれる。皆の手助けくらい出来るんだ! その眼で―――」

 

「ならん」

 

冷淡な静止が響き、あれほど騒がしかった若人達を静まらせる。冷たく鋭い刃が差し込まれた場は、物静かに成り替わった。

各々は、凍えてしまう錯覚に囚われ、身動きが制限されてしまう。

 

「っ!? ち、父上……」

 

唯一その声音と雰囲気を知る劫戈が振り向くと、そこには彼の親がいた。

津雲に呼び出されたのだろう、若い者達とは全く異なる威厳に満ちた衣装を纏う者。群れの上位者。群れの中でも名高い家名を持つ男性。筋肉質で屈強な男とは真反対の細身な身体を持つが、麻の衣服越しでも引き締まった体格をしているのが解る程に鍛え抜かれている。目付きが据わっているのは一目瞭然で、経験貧しい子供等でも理解出来る強者。

男は劫戈の実父であり、群れの中でも非常に優れた“精鋭”に名を連ねる日方(ひかた)という者だ。

 

彼を物で例えるなら―――“鎗”。

 

細い得物だが、薙ぎ払う事も出来る鎗。

細身でひ弱そうに見えても、中身は圧倒的攻撃力を備える矛。

 

鋭く言い放つ様は、鎗のように飛び出す言葉は、常時貫徹の矛として劫戈に降り掛かった。

 

「お前は集団での狩りに出てはならん。我が家の汚名を拡げる行為でしかない」

「そ、そんな……」

「お前は一人で行け」

「……ひ、一人で、って……う、嘘ですよね―――?」

「碌に飛べぬお前が行っても、他への迷惑だ。また、他の者と同じ場所での狩りも禁じる。場の空気を下手に荒らされては、獲物に乱れが生じてしまう。明日改めて、指定した場所を通告する。今日は代わりに私が行く、森で鍛練なり遊ぶなりしていろ」

 

間隔がなく、すらりと言われた無関心に近い冷酷な言葉。

面倒そうな色が口調から推察出来る通り、日方の態度は本当に彼の親なのか、と疑問視する程の冷淡なもので、顔すらも似ていない事も更なる拍車を掛けている。対し、群れを重要視する方針とは真逆の言葉に、口を開いて唖然とする劫戈。

 

普通ならそのような事は在り得ない。群れとは互いを支え合うものだからだ。

しかし、そんな集団での行動を徹底する群れの中で、彼が爪弾きにされるのは、彼の存在自体がそれを妨げているのが理由であった。

此処にいる劫戈はそれを打ち壊してしまう要因であり、どうしようもない異例に他ならない為に、狩りへの参加を否定された。

 

それを見た仲間達は、如何したものかと、互いを見合わせた。

今まではからかう程度で、親までが出て来る程なものではなかったからでもあり、こんな状況になるなど誰が予想しようものか。困惑するのも無理もなかった。

家には家のやり方がある訳で、下手に入る訳にもいかない。上下関係がある今、あまり関わりたくない雰囲気が出来上がっていた。

お前が行けよ、といった具合で互いに肘で突き合い、先頭にいた若者達の筆頭が仕方ないと言わんばかりの気まずい様子で割って入った。

 

「―――えっと……日方様、俺達と一緒に行くと解釈しても?」

 

言葉を選んで恐る恐る訊ねる若者筆頭。

 

「ああ。今回は特別に教授してやろう。大物を仕留め、高らかになれるようにな。先に行け、後で追いつく」

「っ! 承知しました。―――よぉし、行くぞ。お前等!」

「ひゃっほう!」

「おうよ!」

「よっしゃぁ!」

「こりゃ、腕が鳴るぜぇっ!」

 

烏独特の黒い翼―――元の数倍近い大きさのそれを広げ、我先へと空を掛け上がる。繋がるものがない自由な空間へ飛翔する。狩りの時間だ、と若者達はうきうきとしながら一斉に飛んでいく。勢いは上々、良い出発だった。

また、精鋭の筆頭争いに参じている者からの励ましは若人にとって、非常に心強い後押しになる為に皆張り切っていた。

本当は、関わりたくないと言うのが本音だろうが。

日方の言葉に意気揚々と飛び立つ者達は、殻破れぬ烏とその親鳥を置き去りにして行く。残ったのは、抜け落ちて舞う黒い羽毛とそれを巻き上げる轟風のみ。

 

未だ、言葉を失ったままの劫戈。

そんな彼から興味が失せたように離れると、一瞥すらもなく翼を拡げた。

何色にも染まらぬ黒い翼は、劫戈の精神的衝撃で濁った眼に強く焼き付ける。

そして、日方は漸く口を開く。

 

「夕刻までには帰れ。良いな?」

「……はい」

 

一方的に近い投げやりな言葉は、まさしく鎗。劫戈の心に深く突き刺さった。

無情に告げられ、その場に残された劫戈はずっと立ったまま、仲間と父親が駆け抜ける空を眺めていた。

 

天狗は総じて、頭の回転が速く、策が巧みで非常に狡賢い強みがある。

先祖代々受け継がれて来た生きる道。群れでの集団生活は、時が経つに連れて肥大化して大所帯となった為に、ある程度の規律やらを立てていく事を定めた。

結果、文武最優良の者を長とし、実力的な差で決まる体制が形成されていく。彼等は群れる為、実力主義の風潮が生まれつつあったのだ。

 

それは他の妖怪からも然り、周知の事実であった。

 

―――だが、これは何だ。

 

腕をいっぱいに伸ばしたくらいの長さしかない羽根は、他の烏天狗と比べて一回り小さい。―――故に、跳べるが、飛べない。

最弱と見下される微量な妖力は、大笑いされる程の少なさで弱々しい。―――故に、敵味方に察知されにくい為、連携を根底から破壊するお荷物。

 

神は小さな雛の烏に残酷な運命を与えた。

 

劫戈は脆弱な烏天狗として生を受けてしまった。

親からの徹底的で厳しい教育を受けたのにも関わらず、周りと比べて見ると明らかに劣っている。母からは醜いとまで言われる始末。

彼がそう思い始めたのは、親友である彼女と出会って数年経過した最近になってからだった。

 

強き者が正しい世の中、弱肉強食の世。

その中で、こんな小さくて弱っちい烏は、ある意味で異形だった。

 

「畜生……」

 

悔しさの尾が引く、嗚咽交じりの呟き。

 

「……俺はぁッ! 頑張っているのに……どうしてこんな思いを、しなきゃならないんだ!」

 

悲痛に声を上げたが、疲労の所為でその声量は小さい。

 

悲しい。悔しい。そして何より、虚しい。

 

誰にも手を貸して貰えない、助けてはくれない。押し寄せる感情の渦は、負の思考を連鎖させてく。視界に映る仲間の鬱陶しげな視線が、じりじりと迫っているようにも見えた。

孤独になっていく事への苦痛が、心を追い詰め、自棄になりそうな感情の乱れが蝕んでいく。

 

「……くそぉッ!」

 

だが、呑まれる事は許さない。呑まれてはいけない。湧いた負を嫌悪し、眼を強く瞑って意地でもぐっと耐える。耐えるのには慣れてはいるが、今出来る気勢はこれで最後。後は、考えないようにしないといけない。振り払うように、空を仰ぎ見た。

相変わらずお天道様は煌々とした暖かな光を降らせるが、その暖かさに似合わぬ光は痛いくらいに眼を焼く。黙って見つめても、最中に吹いた冷たい風が身体の傷を撫で、心身の傷を抉るだけ。

 

「どうしたらいい……」

 

彼の心情はその一言に尽きた。

妖怪がそれを言うのか、と自分でも馬鹿らしく思えるがそんな状況ではない。

太陽を天に見立てた“神”に答えを求めても、いつもどのような苦行に置かれていても答えてはくれない。

 

(自分でどうにかしろ、って? それなら当の昔にやっているんだよッ)

 

人間以外に顔、いや、視線すらも向けてはくれない神様。

同じ命ある人間達はいつも祈って助けを請うて成就しているのに、妖怪である自分等はいつも日陰者で見向きもされない。無慈悲な扱いであった。

挙句には、とある王国では不浄なる者として祓われる始末なのだ。

 

希望を見出しては絶望を思い知る。己に立ちはだかる壁を壊し、奴等の先を踏破するには、現状手段がないのは明白だった。

 

ここにいても意味はない。

劫戈は踵を返して、これから何をするか考え始めた。

 

(……また鍛練でも―――)

 

「劫戈っ!」

 

後ろの空から、知った声が彼を呼んだ。

 

 




次話は近い内に投稿予定。


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序章・第二羽「彼の陽」

前回、近い内に投稿とか言った癖に遅れました。申し訳ありません。作者も多忙な身になってしまったのです。この時期ですから、察して下さい。
では、どうぞ。

どれ程に過酷な状況であっても、眩しく輝く大事なものがある。



「劫戈っ!」

 

響き渡ったのは少女の悲鳴に近い呼び声。

 

「劫戈……」

 

そして、切ない声に変わる。その名の持ち主にしか聞こえない程の小さい思いが、耳の中で木霊していく。

間違える筈もない、麗しく澄んだ声だ。

振り返った先の目上に迸る疾走の風から、一人の人妖が劫戈目掛けて飛び寄り、手を伸ばした。

 

「―――光躬(みつみ)……?」

 

まさか、と思いながら唖然と呟いた。

目の前にいる馴染深い人物に、今まで募らせてきた腹の中にある火が収まっていく感覚を覚える。

 

美麗と形容される容姿を持つ、烏天狗一族切っての将来有望な少女。烏天狗一族の長の孫娘であり、自分とは正反対の文武に秀でた天才と期待されている娘。

種族間でのいざこざや抗争に赴く精鋭烏天狗の候補筆頭としての逸材さは、期待通りに他と比べるまでもない。

そんな親友の名は、射命丸光躬。

 

背に纏めた艶やかな黒髪を(なび)かせ、鮮やかな紅い双眸を潤わせながら、彼女は劫戈との距離を消す。

劫戈は、何故彼女がここにいるのか解らず困惑した。

 

「光躬、狩りはどうし―――」

「劫戈っ……血が……!?」

 

余程心配なのか、劫戈の言葉すら素通り。

肩で息をしている時点で、狩りから戻った矢先とは言えない。狩りの時間は彼女の枠組みが後で、本来此処にいることがおかしい筈なのに、目の前にいる。

 

―――心配だった。

 

つまりはそういうこと。

 

間違いなく、狩りの最中に抜けて来たと推測するのが妥当だろう。

恐れ入る感知能力、天才は凄まじい。

 

光躬は姫に相応しいとも豪語出来る程の上等な衣服が乱れる事すらも構わずに、血が垂れる口元に手を伸ばそうとする。

 

「やめろ……」

 

だが、劫戈は彼女の温情を素っ気なく返してしまう。

あの長である津雲の血筋とは思えないくらい、優しく他者を思いやる程良く出来た光躬。そんな娘に心配されていると、彼は湧き上がる苦しい劣等感に苛まれるのだ。

 

親友なのに不釣り合い。当然、堪らなかった。

 

偶然だったとはいえ、親しい仲に成れたのに。不甲斐ない自分が彼女に余計な気を遣わせている、と負の思考が浮き上がる。

 

「でも劫戈、手当てしないと……!」

 

それでも、素っ気ない態度の劫戈に躊躇わず手を差し出す姿は、さぞかし称賛される事だろう。

光躬の赤い瞳を見た彼は、眼を逸らした。敬遠の念が湧き上がり、眼を直視出来ない。

 

(何で、そんな目が出来る……)

 

いつも自分を助けてくれる彼女に迷惑を掛けてばかりと思った劫戈は、光躬から視線を逸らして逃れようと意地を張る。自分を気遣うそんな心優しき親友が眩しく見えてしまい、距離を置きがちだった。

 

彼を助けてくれる人はいない―――この一人の少女を除いて。

嬉しくあるが、悔しくもある。

 

自分と関わり過ぎている様子を見られると、余計彼女の立ち位置を悪くしてしまうのではないか。

いつまでも女子に助けてもらうのは、我慢ならないという情けない男の意地。

 

それらが混ざり合って、暗い影が生まれる。

 

「……大丈夫だ」

 

突き放すように、冷淡に言葉が出た。

痛みで痺れた頬は顎自体に響いている為、感覚はあやふや。勿論、口から垂れた血を手で拭っても、口の中は地の味で満たされているまま。差し伸べられた手を取らずに立ち上がり、光躬の心配を無視した。

彼女の方が劫戈よりも背が少し高い為、若干ながら視線を上に向ける形になる。成長期の彼女を見て、まだ追い抜けないのかと再度、内心で落ち込む劫戈。

 

「これくらい……放っときゃ治る」

「そんな事言っちゃ駄目だよ。ほら、湧水に行こう? 傷を冷やさないと……」

「……自分でやるから、いい。どっか行ってろよ。長や両親が気にするぞ」

「私の事よりも―――」

 

「お前が大丈夫でも、俺に捌け口が回ってくるんだよ―――ッ!」

 

はっ、と劫戈はその言葉を言ってから後悔した。

 

「ぁ……ごめんなさい……迷惑、だったよね……」

 

叱られた子犬のようにびくりと畏縮する光躬。頭ごなしに怒鳴られたからだろう。

 

(俺は何をやってるんだ……光躬は何もしてないじゃないかッ!)

 

苛立ちを含んだ口調で彼女の事を考えない発言をしてしまった劫戈は、自分を救いたい一心で構ってくる光躬を、心底眩しく感じるからといって突き放した事に自己嫌悪した。

彼女にだけ心を許していたから、罪のない彼女にそんな事をした自分に余計苛立った。

 

「いや違う。怒鳴って、悪かった……」

「……ううん、いいよ。私もごめんね?」

 

すぐに自分の非を認めて謝る劫戈に対し、それでも光躬は明るい笑顔を向けた。

本当に眩しい娘、例えるなら生粋の太陽。自分には勿体ないなと劫戈は内心で嘲る。

 

「違う……俺に非があるんだ。光躬が気にする事じゃない」

 

今度こそ向き合う形で返事をし、あの老爺め、と内心で長を恨む。

劫戈は川辺に向かうべく、歩を進めようとするが勿論、光躬もそれに着いて行こうとする。

 

「―――っ!? 父様……」

「え……?」

 

するとそこへ、立ちはだかるようにその場に現れた。

 

「どこに行ったのかと思えば、彼といたのか」

 

怪訝な様子の劫戈にとって、聞いた事くらいはある人物の声。

 

二人の眼に映ったのは偉丈夫。

男の纏う雰囲気はまさに歴戦の戦士のそれであり、近付こうとすれば練磨されてきた濃密な妖気が空間ごと切り裂いてしまうだろう。それだけでなく、鍛え抜かれてがっちりとした筋肉は、見た目も猛々しさを漂わせている。妖怪らしく猛々しい姿は、二人に畏怖の象徴を垣間見せた。

烏天狗の群れに於ける長の右腕であり、長に次ぐ最強の烏天狗。名を射命丸空将(たかすけ)。長の息子にして光躬の実父である。

 

子供の二人にとって、空将という大物の出現に肝を冷やす羽目になった。

劫戈には空将との面識はなく、実を言うと今初めて対面した為、どのような人物なのかはよく解らない。他の仲間のように己を貶し、罵倒でもされるのではと思い、いつも以上に委縮してしまう。

 

「む……父上に殴られたのか。あの人も、子供に手を出すなど酷な事をする……」

「え……?」

 

しかし、愁い交じりに放たれた言葉に対して目を丸くして呆けたのは劫戈か、それとも光躬の方だったか。またはどちらもかも知れない。

それは取り敢えずとして、彼の偉丈夫は説教の類云々ではなくて心配の意味で見に現れたと二人は瞬時に判断する。何しろ、その眼つきは優しさが篭っていたのだ。娘である光躬が安堵すれば、自然と言葉を使わなくても劫戈も安堵出来た。

 

認識を改めよう、この人は良い人だ。劫戈はそう判断する。

 

空将(たかすけ)さん、か……)

 

光躬ほどではないけれども、芯が良い人だと思った。

隣の光躬はそう思っている事が顔に出ているよ、とでも言いたそうに劫戈に視線を向けている。頬を緩ませて見ている事に気付くのと、空将の口が開くのは同時だった。

 

「早く冷やして来なさい」

「……! はいっ、父様!」

 

厳かでもありながらも穏やかに空将が促せば、光躬は我に変えって嬉しそうに笑みを浮かべながら劫戈の手を引き、先導するように急かす。

 

「お、おい。光躬……」

「早く冷やそっ?」

「……。お、おう」

 

―――天と並ぶ眩しい瞬き。

 

今までの嫌な事を忘れさせてくれる彼女の満面の笑みに、劫戈の心はすっと和らいだ。

二人は空将の見送りに手を振り、湧水へ向かう事になった。

 

周囲に生い茂る森林は清々しい風を齎し、季節の暖かさを吹き込む。耳を澄ませば、同胞である烏達のじゃれ合いやら微笑ましい歌声が聞こえてくる。人間に侵されていないからこそ、森は穏やかな状態を保てている。

群れが居を置く山奥の森は、数百匹の烏の群れとそれを率いる烏天狗の共同体を住まわせるくらい非常に広大である。それは間違いなく大規模な群れとして必要不可欠なもので、人間達と同様に独自の社会を構築する前兆がそこにあったのは明白だった。

侵そうものなら、すぐに天狗の餌食になる―――妖怪の山ならあり得る事だ。

 

その奥地にある湧水地点は自然の恵みの一つで、湧き出る水は多くの烏や烏天狗に愛用されている。山の各地にたくさんあるのだが、二人はここをよく使う。ここは居住区から、歩いて済む距離にあって一番近いからだ。

 

「悪いな、隣使うぞ?」

 

先客に烏の番がいた。

かぁー、と一声鳴く雄の烏は、立場上目上の者に対する了承の声を出す。番は少しした後、二人の邪魔しないように飛び立っていった。

 

懐から取り出した手拭いを石の水貯めに突っ込み、片手で自然の清涼を味わう。

 

「っ!」

「私の手は冷たい?」

 

そこで不意に頬を襲撃される。

劫戈の灰色の眼に映るのは、白魚のような手。それを伸ばしている光躬だった。

 

「……あ~。ひんやりして気持ちいい」

「ふふっ。でしょう?」

「……ていうか、手拭いの意味が……」

「なら、私が手拭いになる」

 

懇ろさ溢れる視線で、劫戈をじっと見つめる。

 

「な、なるって……光躬、それは……ちょっ―――」

 

言葉を濁すのは、眼前の美少女の肢体に眼が追ってしまったからだ。

木々の合間を掻い潜った日差しを二人は被っている。纏うのは心地良い太陽の抱擁。

そんな輝きと相俟って、衣装から露出した手足は煌々と彼の眼に焼き付かせる。

未だ未成熟の身体は発展途上の真っ只中であるのに、大人顔負けの色香を持っているという男殺し。数年後には世に遍く男という男を虜にし、他の女を悉く打ち倒してしまうのではなかろうか。

 

これ以上綺麗になったら、もう目が離せ―――。

 

「劫戈……じっと見られると恥ずかしいよ……」

 

頬を赤らめ、視線とそっと逸らす仕草もまたそそられる。ごくり、と息を呑み、食い入るように見てしまう劫戈は、光躬の心の通行止め区域に触れた。

 

「―――劫戈……?」

「あ……? あ、いやいやっ。違う、これは違―――」

「何か、いやらしい事でも考えたの?」

「だから違うって!」

 

誤解だと言わんばかりに、非難の眼を向ける光躬に慌てた口調で否定する。

 

「ふぅん……?」

「うっ……。わ、悪かった。許してくれ」

「本当に悪いことしたと思ってる?」

「もちろんだ!」

「そう……?」

 

それなら、と正面に向き合って顔を近づける光躬。罪悪感を持った劫戈は、内心で挙動不審に震えながら、彼女の動向を見つめるしかない。

 

劫戈がびくついている中で、光躬の取った行動は―――手を回して、抱きく。そして、劫戈の胸で、顔を埋めたのだった。

 

「そういうのは……お、大人になってからだからね……?」

「―――」

 

突然のしおらしい態度に絶句した。

 

(え、なにこれ……)

 

初々しさ丸出しの行動に、呆ける劫戈。

押し当てられた成長途中の胸の柔らかい感触やら、甘い匂いによる頭の痺れやらで、体中が熱くなる。御蔭で、心地良いそよ風が、ひんやりとした冷風に切り替わった。

今まで募った火よりも別物の火が腹の中で着火、思考が疎かになりそうで、自我の崩落に陥る。

が、劫戈という男は、耐える男だ。

 

「え……えっと、だな。大人になってからなのは、まぁ……当たり前だけど、なぁ……?」

「んぅ?」

「……っ!? そ、そういうの止めろ! 反則だ、反則!」

 

猫が甘えるような仕草で小首を傾げる光躬。

それを至近距離で見た劫戈は、火を噴きだしそうな程に顔を赤で染め、声を荒げる。

 

「解った、解ったから一端、離れろぉっ!」

「わっ、わわっ! ご、ごめんなさいぃっ!」

 

もう駄目だと限界を感じた劫戈は、“彼の陽”を引き剥がす。

二人しての慌てる様子を、先程飛び去った筈の烏の番が微笑ましく空から眺めていた。二匹にとっては、いちゃつくようにも見えたそうな。

 

その後、暫くの間は無言で時を貫くのだった。

 

 

 

――――――

 

 

 

それからどれ程経っただろうか、冷水で濡らした手拭いを頬に当てていると、後ろから近付く気配に気付いた光躬が振り向く。

 

そこには、黒い翼をはためかせ、器用に降り立つ少年がいた。

どことなく劫戈に似ている少年は、劫戈達と変わらない服装の上に天狗として精鋭を表す上等な掛物を着用していた。所謂、優れた天狗の証である。

 

巳利(みとし)君……?」

 

晩飯時の伝達を受けたのだろう、巳利と呼ばれた劫戈の弟が呼びに来た。

 

「……光躬様? 何故、こんな奴と……いや、それよりも―――おい、父上が呼んでいるぞ」

「……ああ、分かった」

「早くしろ、皆が待っているんだ。―――光躬様もお戻りを。心配事になされぬよう願います」

 

まるで独り言のように言い放たれた言葉は、間違いなく劫戈への言伝。打って変わった後半は光躬への礼儀正しいもので、巳利のねっとりとした熱い視線がじわじわ押し寄せる。

 

対応の温度差がえらい違いである。

好意交じりの視線を受ける光躬は嫌悪感を必死に隠し、微笑で誤魔化そうとしていた。

 

「え……う、うん。わかったよ。巳利君」

「……出来れば、このような奴と行動を共にするのはお止め下さい。些か、神経を疑ってしまいます。貴方様のような麗しい御方が、こんな汚らわしい奴と一緒にいるだけで背筋が冷えます。貴方様は射命丸の御息女なのですよ、自覚なさってください。どうか、どうか御考え直しを……」

 

巳利が切実に再考の意を唱えていると、瞬時、その場にいる男二人は凍り付く。

 

その理由―――光躬が無表情だったからだ。

 

 

 

「―――黙って帰りなさい、巳利君」

 

ぞわり。

 

口調こそ穏やかだが、底冷えするかのような低い声音。

それ以上は許さないという怒りの念が滲み出たもの。女子が持てるものなのか、本当に当人なのか、と疑わしくなる憎悪のようなもの。

 

巳利は光躬の逆鱗に間違いなく触れた。

 

巳利は震えながらも、ぐっと踏み堪えて見せた。

一方の劫戈は光躬の豹変振りに驚きを隠せずにいるようで、眼を見開いている。

 

無情に見つめる光躬に、息を吐いて巳利は失いかけた平常を繕う。

 

「……ふ、ふん。こんな出来損ないにどういう理由があるのかは解りませんが、後悔しても知りませんよ。……では、戻らせてもらいます」

 

それを伝えた本人である巳利は、劫戈を睨み付けるように侮蔑を吐き出す。

そして、何事もなかったかのように、劫戈と離れたい一心とでもいうように飛び去って行った。

 

「…………光躬、俺は戻る。お前も家に帰った方がいい」

 

記憶に留めるのは危険だと判断した劫戈は気にせず、まずは光躬を自宅へ戻るように促した。視線を向け、細心の注意を払ってだ。

 

「う、うん。気を付けてね」

 

(戻ってくれたか……)

 

声を掛ければ、いつもの彼女がいて、彼は安堵する。

 

「ああ……」

 

去り際でも心配そうな表情を向けてくる光躬に、劫戈は軽い返事をした。

 

―――どんな処分を受けるのだろうか。

 

内心で不穏になる胸中を悟らせないように努めて、彼女が帰路に着くのを見送った。

 

 




二度、書いていて砂糖吐いた。自分でも何書いてんだ、とツッコミ入れたい(笑)
やべぇ……劫戈と光躬のやり取りェ。
だがな、だがしかしな。これは、喉から手が出るほど欲しいものに変わるんだよ(ゲス顔)


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序章・第三羽「夢、堕つる」

序章など、所詮は前座。まだ始まったばかりなのだ。

彼には夢があった。塵でも芥でも、それでも夢があった。



お呼びを受けた劫戈は、光躬を見送ってから帰路に着いていた。

道中、誰も見ていない筈なのに、擦れ違うような視線を受ける気がする。そこまで緊張しているのか、と苦笑して、いつものように緩やかな歩みで自宅に向かう。

 

彼等、烏天狗は妖怪である。

普通は野生動物故に“家”と言う巧妙な作りの住居概念はない。

しかし、彼等は動物だからこその住まいがある訳で、人の姿であるからこそ従来の巣穴やらは在り方や造りが優れない為に不要とされていった。

 

では、どのような住まいになったのかというと―――至って単純、人間の建物を基盤としただけ。

普通の野生動物や妖獣は野営が殆どなのだが、彼等は知能が高い。厳密には狡猾なのだが。

故に人間の農民や豪族の住まいを真似て、試行錯誤を繰り返して高床の住まいを構築し、食料を蓄えるべき倉庫も造り上げ、安全な場所を確保した。

縄張りである山の斜面に左右されないように造られたそれは、地形状況を良く考えた上で建てられている。人曰く偏狭な山の地形を考察し、得た知識で再現してみせた結果でこうなったのだ。

 

山の最奥、力ある烏の家が密集する地帯へ踏み入り、彼は家に赴いた。

僅か数人で住むにしては、他の家々よりも二倍近く大きい贅沢な作り。人で言う豪族の住まいを真似ている。その家こそ、優良な実力者に数えられる木皿儀家の邸宅。

 

彼―――“木皿儀(きさらぎ)劫戈(こうか)”自身の家だった。

 

「只今戻りました」

 

入口の段差を上った先の玄関口で十分な声量で伝えても、当然の事といった風に返事はない。

いつもの事か、と思いながら戸を開けて中に入る事にする劫戈。その内部では、そこで彼と相対するように、両親と弟の家族全員が揃って待っていた。

 

「漸く来たか」

 

だが、家族としての温かな出迎えが待っている訳ではなく、そこにあるのは敵視の眼による拒絶の意であった。

鋭い眼光の父を筆頭に、怨嗟の眼を向ける母、諦めに近い冷めた視線の弟。

そんな三人の眼に射抜かれ、彼は一歩後ろに引いてしまう。

 

「―――っ」

 

息が詰まる。そして、瞬時に悟った。

 

もしかしたらという、震え上がってしまう程の巨大な底知れぬ闇の恐怖。言われてしまうのではないかという、拒否したくても無比にやってくる不安感。

 

言うな、言わないで、こんな様でも必死に生きているんだ、だから―――

 

「もうお前は我が烏天狗一族の面汚しでしかない。今すぐ―――この群れから出て行け」

「―――っ!!」

 

一番危惧していた事が、現実になってしまった。

瞬間、彼の頭の中は純白に染まり切る。

 

―――なんたる無情。

 

冷酷なまでに厳しい両親は、凡愚の息子を助ける気などなかった。

 

「どうした、早くしろ」

「……っ」

 

父親からの宣告は、あまりに唐突で憎しみの感情が込められている。

当然、息子である劫戈からすれば何の冗談だと言いたくなるが、言われてしまっても文句は返せなかった。

 

 

実力主義に強く影響された木皿儀家に生まれた彼は、優秀な親からの期待を受けて生を受けた。

だがどうしたことか、彼は非才―――否、非才にも程がある凡愚だった。

烏の象徴である漆黒の羽根は一回り小さく、鳥類ならば得意な筈の長距離飛行が出来ない。

妖力はそこら辺の妖獣以下とまで形容出来る少なさで、どれほど教え込んでも制御が碌に出来ないし、意味を成さない。

 

最早、天狗と言えるのか怪しいものだ。

 

劫戈は己の出生を悔やんだが、諦める事はしなかった。

それでも耐えて来た。

努力を惜しまなかった。

寝る暇も惜しんで鍛練に没頭した、苦手な飛行の練習をした、文学の知識も必死で覚えた。幼い頃からの鍛練を欠かす事なく、ひたすら熟し尽くしたのだ。

だが、それは出来て当然の事であって常識でしかなかった。同世代の仲間も皆が精進している姿に、悔しがって追い付く程度。

 

近頃になって、劫戈は大いに焦った。

このままでは役立たずの烙印を押され、いずれは野放しにされる。家畜に近い扱いを受けるのではないか、良くて死ぬまで駒扱いなのではないか。

 

彼には夢がある―――だから、そんな惨めで御先真っ暗な未来は嫌だ。

 

それからは、過度な負担だという事を承知で、それでも内容を増やして続けた。

未成熟の身体で、休みを返上で噛り付いた。光躬との会合も出来るだけ減らし、ひたすら勉学や修業に打ち込み、先達等の知恵が詰まった書物を読み漁った。

 

全ては認めてもらう為に、光躬を安心させる為に、知力と武力の二面の強さを求め続けたのだ。

だからこそ、ここで言わなければならない。

 

どれほどの侮蔑を受けようとも、いつも迷惑ばかり掛けている彼女に追いついて、いつも心配してくれる親友を助けられる男になって―――

 

「―――待って下さい!! 俺は、俺はだれよりも……努力しています! まだ結果を出してはいませんが、いずれ……いずれは、名に恥じない烏天狗になってみせます!」

 

―――伝えたい事を言うのだ。出会ったあの日に誓ったのだから。

 

もう俺は大丈夫だ、と彼女を安心させてやりたいんだ。

なのに、追い出されるなんて、その願いが叶わなくなるなんて。

それだけは絶対に嫌だ。

 

認めたくない一心で、ありったけの思いをぶつける。耐えて来た男の意地を見せろ、と己に言い聞かせるように震える拳を握り切った。

 

「どうか、御考え直しを―――」

 

縋るように必死に懇願する。どうか、それだけは止めてくれ、と強く願う。

 

「猶予は既にあげているのよ。努力するだけで結果が出てこない無能な子に用はないわ」

「口先だけの行動に、待つ必要性はない。お前はもう要らぬ」

 

だが、帰って来た答えは、母と父の殺気と侮蔑を孕んだ眼と、冷酷な切り捨て。

 

「殺されないだけでも有難いと思え」

「……っ!?」

 

絶句し、思考が凍り付いた。

衝撃的な一言によって身体の力は抜け落ち、劫戈はその場に尻餅を着く。

すると、冷たい眼を向ける巳利が劫戈の目の前に立った。

 

「何やってんだ。早く出てけよ、無能野郎」

「なっ……巳利……兄である俺をそんな呼び方するのか!?」

「追放される奴が木皿儀の名を名乗る資格はないし、お前はもう家族でもない赤の他人だ、当たり前だろう。これ以上醜い顔を見せないでくれるか、という意味で言っているんだ」

 

弟の巳利。

正反対の存在であり、劫戈が切望した才を持つ者。

羨み、恨んだこともある。が、それはもう意味を成さないところまで達している程に、明確な差があった。

己の背に備えた烏の象徴を見せつけるように、高らかに見下す態度で振る舞う。

 

「何度言えば解るんだよ、面汚し風情が。それとも……言っている事が解らないのか―――ああ、理解力が貧しいからなのか。とんだ恥晒しだなぁ……」

 

自分よりも優れた才の持ち主である巳利からの家族とは思えぬ残酷な罵倒。居場所はないと言わんばかりに攻め立てる家族。

悔しさと悲しみで目頭が熱くなる。

 

だが、泣いてはやらない。

 

ここで泣いてしったら、終わってしまうと知っているから。

ここで心が折れたら、二度と戻れる気がしないから。

 

「それで結局、光躬様に甘えるんだよなぁ……女子に頼りっきりとか、恥を知れよ。本当は不釣り合いだって解っているんだろう? どんな手を使ったかは知らないが、光躬様の隣はお前に相応しくない」

「それは……わかってる」

 

知っている、解りきっている、そんなことは。

 

彼女と出会って、何度も話す内に打ち解けて、元気をくれた。

いつしか抱いた淡い好意。そこから大きくなった恋心。

だが、立ち位置も器も大きく劣る自分は、彼女の隣には相応しくない。もう叶わないと頭はいつの間にか理解してしまった。手遅れなのだと思ってしまう自分がいる。

 

彼女と手を繋いでいたかったと願う。努力を積み重ねたがしかし、結果は皆の御荷物。

想い人が許そうとも、誰一人認めて貰えないこんな男に誰が惚れようものか。

悔しさのあまり拳に力が込められる。

家族の一員、弟であるとは云えども、正論を掲げて罵倒する者には悔しい思いでいっぱいだ。去り際に、一発でいいから殴ってやろうかと考える。

 

「……いや、彼女の場合はお前に御情けを掛けているのか、あぁ? ああ、傑作だ! ははっ、はははっはっはっはっ……―――!!」

 

しかし、一方的に放たれた弟の無慈悲な言葉と嘲笑いに、身体が硬直する。

自分は結局の所、群れにおいて辛うじて生き延びているようなものだ。温情ある光躬だけにしか助けてもらえていない。

 

それはつまり、甘えさせてもらっている。情けを掛けられているという事と同義で―――

 

「ぁ……」

 

そこまで思考して、彼の中でしがみ付いていたものが剥がれ落ちた。それは今まで、失ってはいけないと必死に守ってきたもので、失くしたが最後、絶対に二度と戻ってこない―――存在意義。

 

 

あれ、なんだこれは。

 

 

自分がいる意味あるのだろうか、という疑問が劫戈の中で現れ出た。

初めて抱いた己への否定の念。心のどこかが、おかしくなってしまったのか。

いや違う、そんな馬鹿な事がある筈はないのに、心に穴が開いたような虚しさはなんだろうか。

何もかもが崩れていくようで、落ち着かないもどかしさ。

 

否、知っている。本当は、認めたくない我が儘だ。

 

「―――」

 

思い起こされる苦悩と血が滲む努力の日々。自分に向けられた光躬の笑顔。

彼の中で遍く記憶―――思い出は、騒音を立てて無惨にも砕け散った。

 

―――瞬間、色を失った瞳から大粒の思い出が零れ落ちる。

 

「おぉ、泣いてんのか? こいつは無様だな! ってかさ、早く消えろ―――」

 

そこまでが限界だった。

 

身を翻し、嗚咽を噛み殺して地を掛けた。

他人と比べて一回り小さな羽根で補助するように加速させつつ疾走し、追い詰められた獲物の如く尋常ではない速さであらゆるものを置き去りにする。何もかもを無視したがむしゃらな疾走は、今まで出した全力よりも速い。突風を引き起こし、居住区を襲い巻き込んで突き抜け、上がった悲鳴を風音で掻き消す。

 

彼の思考は周りを気にする事も出来ず、ただ一点の悲哀によって心荒れ狂った。

 

「■■■■■―――ッ!」

 

それは悲鳴か、それとも怒声か。

声に成らぬ程の形容し難い雄叫びを放ち、獣のように木々を掻き分けていく。

瞬くに充血した眼を備え、鬼のような形相で突き進む姿は、獣の猛々しい本能を彷彿とさせた。

されど、涙を撒けるその姿は、己の悲運に苦しむかのようだった。

 

 

 

ねえ、劫戈の“夢”って、なあに?

 

俺の“夢”ぇ? え、知りたいのか? なんでまた……

 

えっとねぇ、応援したいなぁって思ったの!

 

ふぅん……。俺の“夢”は―――

 

 

 

ふと浮かんだのは―――。

 

 

 

―――群れの……皆の役に立ちたいんだ。

 

 

 

砕けた願い。

 

「■■■―――ッ! ■■■■―――ッ!!」

 

慟哭。

唯一信じた輝き全てから、裏切られたような気分だった。

 

 




推敲しながら、テラリアの自宅を要塞化していたのだが、しかし、感情的になってしまって集中出来ず不貞寝していた作者である。テラリアが楽し過ぎる。ドツボ。
さて、私情は此処までにしまして―――序章はまだ続く。以上。


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序章・第四羽「我、貴方を想ふ」

書き方を少し工夫しています。
小説は本当に難しいな、と痛感させられてしまう。映像は見るだけで良いが、文章は一癖も二癖も違うんですよね。既存の小説を読み漁って「こんな表現もあるのか」と驚かされる毎日です。

あ、今回は副題通り、別視点から見てみよう、という感じです。

序章は全体で前座、続くのは然り。
憂え悲しむ者は、いつも見守っていた。だが、手を伸ばしても届きはしない。



彼女―――光躬が劫戈と出会ったのは、一番嬉しいと思える記憶だった。

 

鮮明に覚えている、閉鎖的な日常を変えたその日を。

自分を逃がさなかった呪縛。物心が付いてから数年間、光躬は家で軟禁に近い生活を送った。

理由は父・空将から教えて貰ってはいたが、鮮明ではなく詳細は暈されていた為、不満が募る毎日だった。

 

劇的な変化を。

外への探求心を。

同年代の烏天狗達との交流を。

未だ飛んだ事のない広い空を。

 

―――ただ求めた。希った。

 

「いつか外に出られる時が来る」

 

淡い優しさを持つ父から言われた言葉は彼女にとって、未知への接触を予期するものであって欲しいと願い、時を待った。

 

そして、光躬が十の齢となった際、それは叶った。

 

「まずは、知り合いの元に行く」

 

外出が許された日、光躬は空将の知人に会いに向かう。

そこで出会ったのは、射命丸の次に名高い“木皿儀”の長子だった。

 

「えっと、はじめま……して?」

 

通された客間の奥で、ぎこちない挨拶を発したのは交流を第一に許された少年―――劫戈。

 

光躬が彼と出会うまでの、彼への認識は、未熟な少年というものだった。

烏天狗の中でも凡愚扱いで、弟の巳利だけでなく末端の年下にも負けていると専らの噂だったからだ。同年代からは罵られ、親からは虐待紛いな事をされているのでは、という疑惑も聞いた事もある。度重なる狩りの失敗で、二日も食事をなかった事もあったそうな。

祖父や父に、可愛そうだから止めてあげて、と言ったが、それでも周囲の大人達が黙認している所か一緒になってやっているのを後日見て、結局は止められなかった事を悔やむ結果になったことも少なくない。

光躬自身、本人との会話は一度もなく、遠目で何度か目撃にした事はあっても、自分の事が目一杯で特別気にも掛けなかった所為もあった。

 

どうしようもない凡愚な少年、そんな印象だった(・・・)

 

「……? 貴方……烏天狗、だよね?」

 

―――彼を直に見るまでは。

 

今までに隣に並ぶ者はいない“天才”と称される才能。

彼女が軟禁紛いな生活を送っていたのはそれを理解していた空将の判断故だったのである。

幼子でありながら規格外な存在だったのは、後に父から教えられても尚、冷静だった理解力然り。成熟し切った大妖怪の妖力に平然と耐える胆力然り。頭角を出し始めた大人顔負けの聡明さ然り。

大人すらも戦慄させるほどの才能だった。

格の違い、とまで誇大化しかけた才能を、光躬は生まれた時から、烏天狗の中で最強の祖父・津雲をも超えるこの才能を持っていた。

 

だからこそ、光躬は劫戈を見て、怪訝に思った。

 

どうして、こんなにも妖力がおかしいのか―――と。

 

劫戈は、妖力が雀の涙程度しかなく、その“在り方”が異なっていた。彼女の“眼”が、彼の妖力が妖力としての力を(・・・・・・・・)発揮し切れていない(・・・・・・・・・)事を見抜いた。

色に例えて、妖力を黒と仮定すると、劫戈のそれは―――何かが混じった、何かで薄くなった灰色であった。

 

こんな事があり得るだろうか、純粋な妖怪からこのような存在が生まれるなど信じられない―――驚愕が光躬の思考を支配した。

 

「……え? どういうこと?」

 

聞いても当の本人は自覚なし。

光躬にとって衝撃的なもので、同時に、劫戈に興味を抱いたのだった。

その時は不思議と、追求しようという気持ちよりも他人と遊びたいという気持ちが勝ってしまい、結局聞けずに終わった。だが光躬は、仕方がないとはいえ、後に後悔するとは知る由もないのだ。

まずは軽く挨拶を済ませ、好きな食べ物を聞いては聞き返すなど、おしゃべりを楽しんだ。

 

「私と“友達”になってくれる?」

「え……俺が?」

 

光躬は劫戈に、友達になるよう誘った。

今まで憧れていた、互いに支え合う存在―――友。他人という枠組みを知らない光躬は、友と呼べる存在を欲していたから。

 

「うん。私と“友達”になってくれる?」

 

惑う劫戈に再度聞くと、彼の様子を余計に悪化させる事になる。

 

「え、えっと……」

「私じゃ、いや?」

「ぁ、……いやじゃないよ! でも、俺なんかでいいの……?」

「うん! 私は君と“友達”になりたいの」

 

はじめての異性であり、一緒に遊んだ子。

是非、友達になって欲しい―――そう強く願う光躬は劫戈の返答を待つ。

肝心の彼はというと、眼を彷徨わせて、口を僅かに開こうとして閉じる。それの繰り返しで、葛藤しているようであった。

 

「だめなの?」

「あ……」

 

その時の光躬は悲しく思った。

 

(私じゃだめなのかな……?)

 

やはり閉じ込められていたままなのか。

憧れた友という存在が、あと一歩で産声を上げる。その瞬間がすぐそこにあるというのに、相手は戸惑っている。

 

光躬は瞬時に理解する。

 

劫戈の戸惑いの裏に隠れた強い躊躇い。彼の底辺に根付いた不釣り合いという控えめな思い。大元となった悔しさの感情を。

 

ただ悲しかった。相手をこんなにも困らせる自分の立場が、“射命丸”という名が。

 

だが―――

 

「―――うん、いいよ! 俺と君は、今から“友達”だ!」

 

決意溢れたその言葉で、光躬の愁いは吹き飛んだ。

 

「ぇ……ほんとっ? 本当に……嘘じゃないよねっ?」

 

男しての独占欲か、純粋な好意か、本当は違うのかも知れないが、何かを振り切ったような眼は、光躬が間違いないと思うのは容易いものだった。

 

胸が止まって、急に動き出す感覚。己という個を見てくれた劫戈が、何よりも嬉しく感じた。

 

「もちろん! 俺が君の初めての友達さ!」

「うれしい……。ありがとう!」

 

こんな思いは知らない、温かい―――未知に満たされたかのようで、心も身体も和らいでいく。

 

小さく細い指を絡め、重ね合わせた小さな手―――親愛の証。

 

それから二人で一時の間、去り際まで遊び、友達になった。優しく見守る日差しの下で、一日が満ち溢れたのを光躬は忘れない。

 

 

 

 

 

 

光躬は自覚していた。

 

己を縛っているのは才能云々ではない―――“射命丸”という血筋が、己を縛り付けている、と。

 

光躬には―――烏が、妖怪となって烏天狗へとなった時から、常にその先頭に立ち、率いて来た祖父がいる。実力こそ他者を従える道理、真理と捉えている祖父の在り方は、妖怪としては是なのだろう。賛同者は数多く、取り除くのは正直、雲を手で掴むようだった。

だが、光躬個人としては否定してしまいたかった。

 

元凶は祖父、津雲。

名声、威厳、遵守、それらが綯交ぜになり、“射命丸”は誇大なものへと肥大化し、結果的に個を棄てた、実体の掴めない規則が生まれてしまった。

強者に従うだけの盲目的な上下関係の誕生である。

 

それが群れの中で必死に足掻く劫戈を苦しめた。

劫戈を救うべく、彼に手を差し伸べ、祖父に撤回を求め、父や母にも助けを請うた。

 

「彼奴は何度叱ろうと変わらん愚図だぞ。何故、尊大な力を持てぬ輩を諭さねばならんのだ」

 

忌々しそうに祖父から返ってきた言葉が、傲慢な針となって光躬の心に突き刺さる。

 

 

そんな上から目線で何が変わると言うのか。おかしいに決まっている―――いや私がおかしいのだろうか。

これが当たり前だろうか―――劫戈が傷付いて欲しくないという願望で、自らを歪めたのか。

そもそも私は―――。

 

 

傲岸不遜な祖父。

どこか諦めている父。

肩身が狭い母。

祖父に付き従う年配の者達。

風潮に染められていく同年代達。

 

そして、孤立している劫戈。

 

光躬は悔やむ。

たった一人の親友を救えない無力な自分を。

 

こんなもの、望んだ訳じゃない―――と悔やむ。

 

どうにかしたくて、気休めに手を伸ばす事しか出来ず、結果的に劫戈を苛ませている。

時には悔しさから、離れようと突き放してくるが、それで罪悪を感じるのか和解するに至る事も少なくない。光躬だけが劫戈を繋ぎ止め、それを維持している。

 

親友だから、救いたい―――と願う。

 

傷の舐め合い。互いを拠り所にする。

どんな時でも劫戈はいつも光躬を見、光躬も劫戈を見ていた。それだけは変わらなかった。

 

だからこそ、好きになれたのだ。

彼と出会って、何度も話す内に打ち解けて、元気をくれた。

胸の熱さが大きくなる。身体が火照り、燃えてしまいそうな錯覚が内側で暴れ出す。

 

―――恋をした。

 

 

彼と共にいられる手段を探した。だが、良い手立てはない。

いっそ群れから出て行こうと思ったが、自分等は子供である。大人に守られる身の丈である。それがどうして、危険伴う未知の場所へ向かう事が出来ようか。

狩りが出来るとは言え、それは群れの恩恵と大人達の導き故だ。自分の実績ではない、仮初だと光躬は知っている。いくら優れた才能を持っていようが、ちやほやされている自分が強者揃う外界へ出れば格好の餌となるのは明白。どう足掻こうと逃げ場はないのだ。

 

説得を試みても、頼りになる唯一の親や群れを護る精鋭達では話にならない。その子達である同年代も皆同じの、八方塞がり。

 

自責の念が募っていく。

愛おしいのに、こんなに想っているのに、何故救えないのか。

光躬は気付いている。今の自分は劫戈を救えない―――と。

 

思わず吐露した事もあった。

 

「どうしたらいいの? 私は、貴方を救いたいのに……」

 

想い人を救えず、泪を流す日々。

 

「……お前の所為じゃない」

 

励ましの為にそう言ってくれた想い人は、いつも自分に非があると言う。

 

 

弱い自分が悪い、群れに付いて行けない凡愚、足を引っ張る無能―――。

 

 

言い出したら際限がなく、無理に浮かべた笑みは、嘲笑にしか見えなかった。

それは違うと言えば、事実だからどうしようもないと返される。覆したいのに、

ああ言えば、こう言う。会話は坩堝に嵌まっていく。

 

無神論を持つ妖怪であるが、天に―――神に祈らずにはいられない。

 

 

お願いだから、彼を苦痛から救ってください―――と。

 

 

そう祈る光躬に対して、劫戈は笑ってこう言った。

 

「神に頼んでも意味ないぞ。問題は、俺がどうするのかなんだから」

 

祈る光躬としては救いの手を払い除けられたような気分だったが、一人で耐えて上へ登ろうとする姿勢は劫戈らしいと言えば彼らしいものだった。

 

「それに伝えたい事がある。だけどまだ言えないんだ。だから、待っていて欲しい―――俺が皆を見返して、群れに貢献出来るようになるまで」

 

強い意志が込められた言葉は、光躬に向けられたのと同時に、自分への鼓舞でもあった。光躬はそう判断する。

 

「劫戈……うん。私、待つよ。貴方なら出来ると信じてるから。だから―――」

 

光躬は応える。

劫戈なら出来ると信じて、僅かな支えに成ろうとも彼を応援する。

 

だから待つのだ。いつか、劫戈が伝えたい事を言うその時まで。

そして、その時に―――

 

 

私の想いも伝えるね―――と光躬は心に誓う。

 

 

◇◇◇

 

 

「嘘……―――」

 

嘘だと言ってください、神様。これは妖怪である私達への罰ですか―――まず光躬はそう思った。

 

光躬が見る光景は、彼女が信じられるものではない。

唖然と視線を向け、一点を見ている。端から見れば驚いているだけに見えるのだろうが、正確には絶望の一言だった。

 

「■■■■■―――ッ!」

 

視線の先には見せた事もない形相で泣き叫び、風刃を纏いながら走り抜ける想い人がいた。

気が狂ったように、人格が壊れたように、言葉に成らぬ呪詛紛いな慟哭を放っている。彼の眼は虚ろで正気はなく、おそらく誰も何も眼中にないだろう。

 

(一体何を言われたらこうなるの……!?)

 

木皿儀宅付近からの突風に逸早く気付いて来れば、獣妖怪のように鬼の形相で悲鳴染みた雄叫びを撒き散らす劫戈の姿を見た。

もしかしたら最も恐れていたこと―――劫戈は父から追放と宣告されたのでは、と戦慄する。

 

「……っ!」

 

心臓が止まりそうな衝撃に、思わず胸を抑え込んでしまう。

 

唖然としている内に、裂傷齎す突風は木々を突き抜け、野山を切り抜いて行く。その方角に何があるのか、光躬は知っている。

故に、その末路を予期してしまった光躬は、目の前しか考えられなくなる。

 

「―――っ!? ま、まって……こ、うか…………まってぇ……!」

 

彼は跳べるが(・・・・)飛べない(・・・・)

このまま進めば、喪われてしまう。大事な人が―――それは駄目だ。

 

「―――止まってぇぇえええ!! 劫戈ぁぁぁあああああ!!」

 

堰を切ったかのように、辺り一帯を震わせる風神の如き妖力が迸る。

悲痛な静止の声と共に羽ばたき、劫戈が齎したであろう突風を超える烈風を地面に叩き付け、空へと身体を押し出す。己が持てる全力で穿跡を辿り、先行する劫戈を飛翔して追い掛けた。

彼女が飛び去った瞬間、地面を炸裂する爆音が辺りに木霊し、悲鳴を掻き消していった。

 

 




今回は光躬の心情を書いた。救いたい気持ちと自分への自責で余裕がない。
どうでしょうかねぇ。う~ん……表現ムズイよぉ。orz
光躬は、現段階におけるチートスペック所持者です、はい。でも立場は、謂わば“お飾り”程度。だから救えない。
劫戈が何故貶められ、追放という結果に至ったのか。その一端の“謎”が今回明らかになったでしょう。序章以降、その理由が明らかになります。最も重要なのは劫戈の地力の実態ですが、これも後ほど解るようになります。


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序章・第五羽「奈落へ」

大学を甘く見ていた作者です、長くなりました。

遂に来た、序章、最終話。
さりげなく二人はいちゃいちゃ。そして長い。
非情、残酷、無慈悲。その果てには何が待つ―――?




……てくれ―――。

 

静で止まり、音もない。

そこは、草木の地獄絵図。

吹き荒れた突風が居住区から始まり、大地をも諸共穿ち、生い茂る緑を貫いていた。途中でその勢いがなくなって消えたのだろう、木々が全くない手前で、彼は制止している。

 

「ぉォアああ、ウあアァゥ……ッ」

 

言葉に成らぬ何かを吼え、もがくように暴れる。

突風を齎した張本人である木皿儀劫戈は、今にも倒れてしまいそうな前のめり体勢で留まっている。後ろから何かに引っ張られている状態だった。

 

「ああぁあ、アアあぁアあァ……ッ!! ぉォオおあぁあアぁ―――ッ!!」

 

非常に近付き難い、悲哀で染められた形相で再び吼える劫戈。

衣服がはだけ、襤褸切れになっている事も構わず、涙や吐息を激しく吐き散らす。突き出した腕が辺りの空を引っ掻き、風切り音が鳴ったと思うと、周囲の葉を切り裂いて舞わせてしまう。まさしく獣のよう、と形容されるものであった。

そんな危険極まりない事も相俟って、悍ましさすら感じ取れるだろう。

 

しかし、彼の胸中は、外面とは裏腹に異色だった。

 

助けてくれ―――と。

 

無念の果て、穿たれた心の臓が千切れてしまいそうな激痛に、彼は只々打ちひしがれていたのだ。

だと言うのに、彼を繋ぎ止める彼女だけは一切感じていなかった。

 

「劫戈……」

「―――!」

 

その優しげな呼びかけに、びくり、と彼の身体が止まる。風が止み、ゆっくりと時間が流れていく感覚が彼を包んだ。

劫戈は虚ろな眼を見開き、己がどうなっているのかをようやく把握する。

 

背から回された、細い華奢な腕とふわふわとした心地良い常闇のような羽根。

 

既知の温かさ―――と、彼は気付き、正気を取り戻す。

 

視線を下に向ければ、予想通りのそれがあった。

 

「な、なんで……光躬……?」

 

唖然と呟いた劫戈の眼に小さな光が灯る。

しかし、それは弱々しく、今にも崩れてしまいそうなものだった。

 

「光躬……どうして……俺を―――」

 

訊こうとして、劫戈は言葉を切った。

彼は背から伝わってくる微かなそれに驚愕し、困惑しながら立ち尽くす。

 

「―――っ……」

 

―――嗚咽。

 

“彼の陽”は泣いていた。

声を噛み殺して泣いている。震えを押し殺し、哭いているのがすぐに解った。

 

「…………」

 

劫戈は申し訳ない気持ちで眼を伏せ、その場に力なく座り込む。後ろに引っ付いている光躬への配慮は勿論忘れはしない。

ゆっくりと膝を折って、地に我が身を預けて落ち着かせた。

 

 

 

 

 

そよ風が頬を撫で、荒れ狂った思考が元に戻るべく冴えていくのを助長させる。

 

どれほど経っただろう―――と、空を見上げた。

 

日が傾いている今、橙色の光芒が間近に迫る。然程時間が経過しているとは思えないのだが、劫戈にとって、とても長く感じられた。

 

「なぁ……光躬」

 

不意に、劫戈が声を掛けると、光躬の頭が僅かに反応して動いた。

 

「…………なに?」

「俺を……俺を、追って来たのか?」

「うん」

 

劫戈の問いに、光躬はこくりと頷き、答えた。

彼女の顔は、劫戈からすれば窺い知れない向きであるが、しかし、悲しそうで辛そうな表情は見なくても手に取るように解った。

 

「そうか……」

 

力を抜いて、覇気のない様子で呟く。

漏らした吐息には無情が流れ出ているのが、光躬には露骨だった。

どうして、こんなにも感情を殺しているのか。と、光躬は怪訝に思う事だろうと推測出来てしまい、苦笑する。

劫戈には光躬の考え、疑問がすぐに浮かぶ。それを齎しているのが己だと知っているから。

 

(どうしてだよ……)

 

理由は、彼の声に乗って肥大化する感情で、夢が打ち砕かれた事で、今まで思えなかった事が露わとなる。

 

「なんでなんだよ―――」

 

声は震え、光躬の元へ直接届く。

突然変異とも言える感情の変化で、その声音は今までとは違っていた。

 

「―――なんで来たんだ! 光躬ぃ!」

 

劫戈の口から出て来たのは怒り。

それを向けられた光躬を困惑させるのに十分過ぎるもので、面を食らわせた。

しかし、光躬という娘はその程度で怯みはしない。

 

「な、なんで、って……貴方を失いたくないからに決まっているでしょう!?」

「本当にそうか……?」

 

何を言っているの、と突然の事に声を荒げる光躬に対し、疑心を抱いて冷淡に聞き返す劫戈。

唯一信頼を寄せる光躬へ疑う心などありはしない劫戈は、この時ばかりは彼女を疑っていた。

本来なら、あり得ない事だというのに。

 

「自分の為―――自分が良い位置に立ちたいから、そうしているんじゃないのか?」

「え……?」

 

光躬は唖然と、今にも泣きだしそうな顔を劫戈に向ける。

冷たく濁る眼。その眼だけを向ける劫戈に、光躬は視線を合わせ、必死に劫戈の心を知ろうと探り出す。劫戈の虚ろな灰色が光躬の千里眼を容易く冷たく阻み、見透かせまいと強く睨み付けた。

 

「う、ぁ……っ」

 

それと共に胸へ槍が突き刺さったような激しい痛みを受け、余計に宝玉のような紅い瞳を潤わせる光躬。

それでも彼女は止めない、彼の痛みを知っているからこその行動だった。

離れたくない一心で、探り出そうとして、多くの凍てる茨に阻まれる―――が、ようやく見抜いた。

 

劫戈がそんな態度を取ったのは、彼の勝手な思い込み。

唯一信じた輝きから裏切られてしまった―――と、思うあまり、他者への不信に陥っているのである。

 

群れの中で辛うじて生き延びている。

温情ある彼女だけに助けて貰っている。

 

孤立した劫戈の身としては、肩身が狭い思いだっただろう。

巳利の言葉で崩れ去った“夢”は、もう叶わないと劫戈は知った。打ち壊され、知ってしまった。

群れから捨てられ、彼女の隣にはいられない、共に歩めない。

そして何より、伝えられない―――溜め込んで来た儚い想いを。

 

故に、ここ最近の劫戈は簡単に揺らいでしまう程、心が摩耗していた。

その摩耗の抑止力となっていたのは光躬、ただ一人だったのである。

 

 

(―――俺はお荷物……俺は厄介者……都合の良い(あぶ)れ者……―――っ!)

 

 

だが、堰が崩れてしまった今、劫戈は彼女を信じる事を拒んでしまっている。

例えるなら、今まで大事だと思ったものが酷く汚れてしまって、思わず手放してしまうようなもの。思わず捨ててしまう、不信感。

まさしく疑心暗鬼。小さな疑いが、肥大化して大きく捉えてしまっていた。

 

「……!」

 

僅かに怯えるように震える劫戈の眼を、彼女は見逃さなかった。

 

今まで、劫戈を救おうと、手を伸ばして来た光躬。

だが、彼女には具体的な打開策など無く、感情の赴くままに流されて行動したに過ぎない、その場凌ぎ。それは周りの大人達の所為でそうなってしまって、無理もないと言えばそうなのだ。

それが知らず知らずの内に、想い人の心をすり減らしていた事と同時に己の浅はかさを知る。

 

―――光躬は全てを察した。

 

光躬だから出来た芸当。ならば、と言わんばかりに、劫戈を抑え込む細い腕に優しい力を込めた。天賦の如き才能の持ち主たる彼女は、想う人の為にそれをやって見せる。

母が我が子に見せる慈愛の笑みを向け、安らぎと清い慕情が一つ、劫戈を包み込む。

 

「―――大丈夫。大丈夫だから」

「また……そう言って―――っ!?」

 

力なく冷たく振る舞う彼は言葉を失う。

 

劫戈は感じた、太陽の抱擁を。

 

包んでくれる光躬を突き動かした、単純で一番大事なものを、感じた。

 

劫戈は理解した、光躬の想いを。

 

助けたい、救いたい、一緒にいたい―――といった想いを、理解した。

 

光躬の全てが、劫戈に流れ込む。

熱く燃え上がるような、確かな“それ”が伝わって来た。

 

それでも、それでも―――と、ひしひしと温もりが教えてくれる。

 

しかし―――

 

「―――っ! ……止めろよっ! もう……放って置いてくれ―――」

「駄目っ。そんなことはしない」

 

劫戈は泣きそうに顔を歪め、振り解こうとする。

悲しみではない、悔しさでもない。今の彼には、別の感情があったから。

 

「結局……おまえ……も……そう、なんだろ……?」

「……?」

「お前も……俺を影で嗤っているんだろ!?」

「こ……劫戈っ―――?」

 

今抱く疑問と疑心が、光躬に叩き付けられた。

彼の濁った感情が暴発し、光躬の入る隙を与えず攻め立てる。

 

「そうなんだろっ!? 天才って言われている癖に、無能な俺にいつも構って……そんなに凄い優しい奴だって言われたいのか!? 俺を餌にして、評価されたいんだろう!?」

「ち、違う! そんな事ないっ! 私は―――」

「俺を憐れんだか!? 俺を踏み台にして楽しいか!?」

「違う!! 劫戈、私は貴方が―――」

 

 

「俺を惨めにするなぁっ! 俺をそんな眼で見るなぁぁあああぁあぁあっ!!」

 

 

遂に、劫戈は錯乱する。

悲痛に声を張り上げる彼は光躬の腕の中で、苦しむように両の手で黒い髪を掻き毟ろうとして―――

 

「私は……私は貴方が―――」

 

そんな中、穏やかで小さな声。はっきりとした制止の腕が入り込んだ。

がっちり掴んだ劫戈の腕は微動する事もなく、光躬の白魚のような指で止められている。

それだけでなく、いつの間にか、後ろから抱きついていた体勢から、光躬は正面へと移っていた。

瞬きの速度で行われた行動に、劫戈が気付く事はない。

心乱れた彼にそんな余裕はないし、ましてや動揺しようものなら光躬が行動し終わってからになるのだから。

 

何も映さない灰色の眼を愛おしそうに見つめる光躬は、ゆっくりと顔を近づけて口を開いた。

 

「―――好き、だから」

 

劫戈は―――劫戈という烏は止まった。

 

「……!」

 

告げられた言葉が、劫戈の胸で炸裂する。

穿たれたような衝撃に、痛みなどありはしない。寧ろ、若干の驚きと嬉しさとが劫戈を満たしていく。

狂気が入り掛けて荒野となった心に、それらが打ち勝った。

数瞬何も考えられなくなる劫戈は、光躬に全ての意識を取られることで、正気を得るに成功する。

 

「好きだよ、劫戈」

「……っ!!」

 

もう一度。

今まで露骨でも隠して来た彼女への想いが蘇り、彼の心に巣食っていた黒い靄を吹き飛ばしたのだ。

濁った眼が光を得、鉄を思わせる光沢を宿した。待ちに待った、本来の燈火を。

 

「―――み……光躬、お、俺は……」

「やっと……戻ってくれた」

「っ……ごめん、ごめんっ! 俺は、俺はお前を……」

「いいの、気にしないで。劫戈の所為じゃないよ」

「…………」

 

自責の念故か、沈痛に俯く劫戈。

そこには今までのような繕う嘲笑はなく、本気で思いつめる顔が出ていた。

己が何を口走ったのか、想う彼女にどんな罵倒を浴びせたのか。後悔で精一杯な劫戈は光躬を直視出来ず、真下を向いて誤魔化すしかなかった。

 

「―――劫戈っ。こっち向いてっ?」

 

そこで光躬は劫戈の両頬に手を回すと、じぃっ、と恍惚とした笑みを向ける。

対して若干戸惑う劫戈は、雄の本能として顔が熱くなるのを感じた。

 

そして、眼を閉じた彼女は程なくして―――劫戈と重なった。

 

「み、みつ……―――っ!?」

「んっ―――」

 

啄むようで深い接吻が、空かさず唇を奪い取る。

 

(え―――ちょっ―――)

 

次いで、いつの間にか首に腕を回された事に気付いた劫火は、体勢的に動く事が叶わない。眼をこれでもかと見開いた彼は、頓狂な表情を出したかと思うと激しく狼狽し出し、いきなりの行為に問いただそうとする。

 

(な……っ!?)

 

だが、口が上手く動かない上に、息も続け難い。

それも当然。光躬の舌が口の中へと入り込み、覆うように口内を舐め回され、己の下を引き出される始末。

 

「ぷはっ……お、おまっ……いきなり何を―――っ!?」

「ちゅっ……んぅっ―――」

 

一層力を込めて無理矢理引き、問う瞬間に再開される。

 

驚きで引っ込んだ舌が連れ戻され、何度も絡め合わさる。淫猥な水音が、重ねる都度に唇の間で漏れ、光躬の甘い吐息やら臭いやらが頭をぼんやりとさせ、理性を掻っ攫って行く。

欲しいと言わんばかりなその執拗な行為で、劫戈の頭の中で火花が散る。

 

しかし、それは束の間。

 

「ぷ、はぁ……はぁっ、はぁっ」

 

ゆっくりと身を引いて、息を整える光躬。

 

「ぅっ…………」

 

噎せ返りたくなる深く甘い吐息が劫戈の頬を打ち、銀色の糸が口から零れて地に沈む。

紅眼を己から逸らさない妖艶な姿を晒す光躬をついつい官能的に捉えてしまう劫戈は、しかし、強引な手段で確実に我へと返っていた。

 

(―――本当に……狡いな、こいつ……)

 

内心で、困ったように感服する。

表では顔を真っ赤に染めているだろうが、互いは全く気にしていなかった。

 

「あー……さっきは、ごめんな、光躬。―――俺も……」

 

腰の括れに手を回して抱き寄せ、静まった頭で再度謝意を込める。

 

「―――お前が好きだ」

「……っ」

「好きなんだ」

「っ!!」

 

先の光躬の想いを聞いて、秘めていた想いが溢れた。

振り切ったように想いを伝え、壊れ物を扱うように優しく撫でる。次いで、感極まった光躬を腕で閉じ込め、離さないと言わんばかりに抱き締めた。

 

「劫戈ぁ……」

「……光躬」

 

劫戈としては、過去の約束も成功の先への執着も、今はどうでも良くなっていた。

 

沸き立つ想いが、止まらない。

これ以上は無理でも相手を己へと抱き寄せる。一つになろうとするほどに腕で包み込む。

もう、言葉は要らなかった。

 

そして、自然と、瞼から嬉しさが流れ出た。

 

 

片や凡愚、片や天才。

追放された劫戈、期待された光躬。

 

誰も望まれはしないだろう、二人の結び。

 

 

離れるものか―――と、艶ある髪が鼻を擽る。

離れない―――と、厚い胸に埋もれる。

 

 

二人は望む、誰が何と言おうとも。否定する者がいれば、悉く断ってしまうだろう、熱い想い。

 

しかし、それは幻想。浸っていたい妄想。

 

 

だからこそ、二人は気付けなかった―――。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

「―――夢見る時間は終わりです、光躬嬢」

 

入り込んだのは鑓の風、その声。

二人の烏が抱き合っているその時に、小さなそれが入り込んだ。

 

「づぁっ!?」

「きゃぁ……っ!?」

 

無防備な二人はそれ(・・)に叩き付けられ、軽々吹き飛ばされる。

異様でいて、どこか当然とも言える不可思議な、乱れ飛ぶ妖風。噴き抜いた乱れ風は、黒い色が混じっていた。

容易く飛ばされ、抉れた地面に叩き付けられる二人は、衣服に付いた土を舞わせながら、転がるように突っ伏した。

 

二人は―――いや、劫戈に直撃したそれは、余波だけで、文字通り光躬の動きを止めた(・・・)

 

「うぅ……っ!?」

 

突如襲った黒き妖しい風に、呻く光躬は己に起きた事態を、混乱した頭で把握する。

 

「物分かりの無い貴女様への御仕置きです。いくら貴女様でも、私の“痺れ風”は防ぐなど出来はせんでしょう」

「あ、あ……なたは……っ!?」

 

ここで闖入した者が羽音を聞かせて光躬の目の前に降り立った。

その人物を目にして、光躬は瞠目する。と、同時に戦慄が身体を貫いた。

 

(そんな……そんなのって……)

 

その人物は―――鎗だった。

どことなく、劫戈に似ている男性。明らかに不機嫌そうな表情を隠す事無く向け、見下しているような態度。群れの誰もが知っている男―――“鎗”と比喩される強者。

精鋭中の精鋭、木皿儀日方。己の父親に次ぐ、烏天狗等の長たる津雲の腹心。

 

「集落に被害を出すとは……やはり、役立たずは役立たずのまま、寧ろ悪化するか」

「……ち、父上……! づぅぁっ……!?」

 

日方からの侮蔑が、劫戈へと疾風と共に飛来し、言葉を掻き消す。

襲来した風の柔撫でが、劫戈の背に破裂音を巻き起こした為だ。背の衣服に血が滲み始め、痛々しい傷跡が覗かせ、彼を苦しめる。

 

動作無しで、この制圧能力。

更に身体が痺れ、微動する程度しか動けない二人では、どうする事も出来はしなかった。

 

「ひ、日方様……。私を……連れ戻しに、来たんですか?」

「無論。そして他にもある」

「……ほ、かに?」

「貴女様は馬鹿ではない。追放されたこやつを引き連れて戻るような事は、まずない。かといって、二人で逃げ果せるとも思ってもいない。私は先達ですよ、娘子の行動くらい読めぬもので精鋭が務まりましょうか。故に、此処に来た事も推察出来ましょう」

「……ま、さか……っ」

 

光躬はその答えに至り、我が身を震わせた。

 

嘘でしょう―――と。

 

同時に、全身のしびれを凌駕する鈍痛が、光躬の頭を打った。血の気が引き、衝動に駆られて暴れたくなる。

 

知りたくない、思いたくもない―――と、頭の中がぐちゃぐちゃに掻き回される感覚。

 

「……貴女様がいつまでもこの凡愚を引き摺らぬようにする」

 

一方で、日方は無情にも言葉を紡いでいく。

 

「頭が痛いものだよ、全く。まあ、私の独断ではあるが、今後の憂いを払えるのなら、問題ないだろう」

「っ……」

 

冷めた眼で、ぎろり、と睨まれた劫戈は息を呑む。

光躬はそんな彼が心配で、視線を行ったり来たりさせて焦燥に襲われて行く。

 

「私も妻も、何故このような者が生まれたのか甚だ疑問だ。……どこで間違えたのだろうな。そもそも、間違いはなかったのか……? ―――どちらにしろ、私の責任なのだがなぁ」

 

独白に近く、感傷に浸る日方は瞑目しながらゆっくりと二人の元へ近付いて行く。

 

「足手纏いなど不要。強者の脚を引く邪魔でしかない使えぬ愚か者を、いた事を忘れるように始末するのだ。群れの皆も、意見などあるまいて」

「ち、父上……まさか俺を―――!?」

 

劫戈が見上げた先には、静かな憤怒があった。

 

「せめてと思った慈悲などないし、光栄になど思うなよ、反吐が出る。出来損ないがァ……―――私自ら引導を渡してくれるッ」

 

これが親のすることか―――と、光躬の腹の中は悲嘆で渦巻いていた。

 

酷く冷たくて、凍えてしまう錯覚。望まれない息子の劫戈があまりに不憫で、胸が痛んだ。

対し、親からの死の宣告を受けた息子はというと―――

 

「ひ―――……日方ぁぁあああああああああっ!!」

 

感情の咆哮。

それは初めて生まれて、肉親に対して抱いた憤怒だった。

鬼のような形相で声を張り上げ、自分の父親を激しく睨み付ける。普段大人しい光躬が、ここまで激情を露わにしたのは光躬としては初めて見たのだった。

 

「はん―――……お前に何が出来るというのだ」

 

その変わり様を見た日方は、逆に嗤った。

その態度に、遂に光躬も怒りの形相を向け、劫戈と共に睨んだ。

 

手を差し伸べなった男が何を言うか―――と、嘲笑うかのように見下す男へ憤りを誕生させた。

 

「愚か……実に愚かだ」

 

麻痺して動けない子供二人に大層な扱いである。

 

「がぁっ―――!?」

 

劫戈の頭部が、勢いよく踏み付けられる。

実力的に敵わぬ事は自明の理であり、更に麻痺で自由を奪っているのだから、どうしようもないのだ。

群れの全面子に負けている彼では、精々罵倒が精一杯。ましてや傷を負わせる事は不可能。何度やっても同じだろう。

 

―――悔しい。

 

今の劫戈の表情から読み取れる感情は、光躬にとっても今抱いている感情だった。

 

「これ以上、光躬嬢を落とすな、誑かすな。劣等の分際で、烏滸がましいのだよ!」

「―――ぐっ、がぁっ!?」

 

首根っこを力強く掴まれ、日方の前に掲げられる劫戈。

締まる音が響き、激痛に顔を歪める彼は抵抗らしい抵抗も出来ず、呻く事しか出来ない。

 

「劫戈ぁっ!!」

「……ふぅむ。よほど毒されたと見える。ならば、確実に終わらせよう」

 

光躬を軽く見やった日方は黒い笑みを見せ、劫戈を掴む手とは違う手を劫戈に向け加えた。

 

その光景に光躬は戦慄し、思考が止まった。

 

 

止めろ、やめろ、ヤメロ―――。

 

 

顔面蒼白に成り掛ける彼女の思考は、ただ一点を見て繰り返す。

何度も何度も頭が身体へ命令を飛ばす。が、それは日方の“痺れ風”に阻まれてしまっている。

 

 

劫戈を助け為に、劫戈の為に―――と。

自分はどうなってもいいから、彼だけは―――と。

 

 

だが、冷酷にも、それは訪れてしまった。

 

「……黄泉に、逝くがいい!!」

 

日方の手から噴き出た―――竜巻が劫戈を襲う。

 

「……み―――」

 

荒れ狂う特大の暴風。

劫戈の突風が赤子と思えるほどの凶器。光躬の烈風に匹敵する黒い(つむじかぜ)

 

その中、呟かれたのは―――

 

 

 

「―――つみ……。ごめん―――」

 

 

 

悲しそうな謝罪だった。

 

光躬の時間が止まる。

彼女の眼に映るのは、貫くような風の渦が右眼に吸い込まれ、捻じ込まれる残酷な構図。眼を穿たれ、鮮血を撒き散らす想い人。

放り出された宙を、操り人形のように彼方へと飛んでいく。

 

その行き先は、光躬が劫戈を失わんと止めた理由。

 

腕から肉が擦れる音を無視して、咄嗟に手を伸ばす。

 

―――が、そこは虚空でしかなく、己は倒れ伏している。

無意味な行為で終わってしまう。腕など在っても意味はなかった。

 

 

 

「―――いやぁぁぁああああああああああああああああああっ!!」

 

 

 

絶叫が響いた。

無論、光躬の悲鳴。

 

彼女の視線が辿った先は、大地がない空―――即ち、崖。

 

山の頂上から平地の底辺。

落ちたら、まず助かりはしない。

だが、それは人間か小動物の話で、妖怪はあまり問題視されない。

 

 

されど、弱小妖怪に扱われる劫戈は果たして―――言うまでもない。

夕空を貫く嵐の如き黒い旋風は、劫戈を連れて彼方へと遠退いて行く。

 

「この高さと私の風に依る勢い……ふっ―――死んだな」

 

努めて平常を装っている日方は、心底嬉しそうに口元を吊り上げた。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

今まで感じた事のない勢いのある浮遊感の後、身体が何かを貫いたり潰れたりする音が木霊する。更に水っぽい何かが滴り落ちる音も響いた。

重苦しい鉄の臭いと共に、痺れが余計に加速していき、あちこちの肉が重くなった。

 

 

 

天を恨むのは、非遇な日を除いて他はない。

 

幸な事に、身体の感覚はなかった。寧ろ、それで良かったのだろう。

死歿、逝く寸前の今際、右側は真っ赤で何も解らない。何より、それで良かったのだろう。

 

何も感じないなら、苦しむ事はない―――と、安堵した。

 

死んでしまおう、己は疲れてしまった。もういいよね。

 

落ち着いた諦観が彼を満たしていく―――

 

 

 

―――と、そこへ白い何かが入り込んだ。

 

「おやおや、子供がこんなところで死に瀕しているとは……息はあるようだがのう―――」

 

餓えている、そんな白い牙が見える。

 

劫戈が最期に見たのは、年老いた白い人狼だった。

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

打ち穿った愚か者を視界から消えた事を確認する、鎗な男。

 

己の風を消し去りながら、飛ばした彼方を一瞥し、光躬に悠然と近付く日方は、不思議なものを見たと言わんばかりに瞠目する。が、それは一瞬の事で、面白くない顔をありありと晒す。

 

「……―――」

「さて……光躬嬢」

 

俯き、眼を見開いて放心する光躬を呆れながらに、声を掛けた。

 

「……日方様―――」

 

反応してか、光躬は逆に日方に呼び掛け、顔を向けた。

 

「……? なんでしょう―――か……っ」

 

「日方…………貴方は、私に初めて―――憎悪を抱かせたわ」

 

とても、とても、血走った紅い眼で。

 

 

とても、とても、憎悪に満ちた濁る眼で。

 

 

底なし沼、解らぬ深淵。妖怪ですら踏み入れぬ未踏の地。

それの如き感情が、光躬から溢れ出す。そっと静かに流れ出るそれ(・・)は、霧あるいは靄のようで、彼女の抱く感情に従って蠢いた。

 

「な、なんだっ!? ……これは―――」

 

遍くように現れた黒に包まれていく日方は、身体を微動する事も叶わない。

 

 

憎い―――。

 

 

憎い、憎い、憎い―――。

 

 

憎いぞ、お前のような俗物は―――と、黒い感情が支配する。

 

 

駆け抜ける、迸る。内に秘めた憎悪は、決して外には出て来ない。

それは深く、深く、光躬を染めていく。彼女を異形の何かへと変えていくように。

 

「私は絶対に、何を言われても、何を言われようと―――彼を踏み躙ったお前(・・)を、決して許さない。未来永劫、彼が受けた苦しみを味わうといいわ」

 

表情すら変えず、ただ静かに言葉を羅列する様は、悪鬼よりも恐ろしい。餓鬼などと比較するに値しないくらい、光躬は黒い何かへと変貌していた。

 

「―――」

 

勿論、日方は話す事も出来ない。

光躬が呼び込んだそれ(・・)が日方を柔らかに包んでいった。

 




序章、了。
次回は第一章へ突入。劫戈の未来は、どうなるのか―――。

推測された方(友人)がいらしたので、次代設定を一部解放します。この物語における序章時点の天狗ですが、各種族に割り振られた役割がまだ生まれていない時期、鬼と邂逅していない時代という事で御理解下さい。


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第一章 誇り高き爪と牙
第一章・第一羽「白き者達」


漸く、第一章突入。劫戈の歩む道が、本当の意味で幕を開ける。

「プロローグなげえよ」と思われた方はいるでしょう。執筆していく内に、気付いたらこうなってしまったのです。

遅くなりました。……課題を処理している最中に、更なる課題を上乗せしていく先生……本当に酷い人だ。御蔭で、執筆が狂いそうです。勘弁して欲しいものだぁ……。
まあ、上手くやれない作者の問題なのですがね。
書き方を悩んだ事も含みます。結果、以前のものに戻しました。試行錯誤の末、以前の方がしっくり来ると判断したからです。

とかなんとか長ったらしいが、本編に行ってみよう。


追放され、事切れる最期の瞬間、眼にしたのは―――



陽の光を注がせる火の塊は、永日を与えた。

払暁(ふつぎょう)を超え、お天道様が覗いている。曇り無し、濁り無き空には、射光が奔るのみであった。

 

それを劫戈が感じたのは、重い瞼を開いた時だった。

 

「―――」

 

意識が、感覚が戻る。

 

「ぁ…………?」

 

渇いた喉から疑問の音が漏れ出た。

 

「―――づぅぅ……ぎぃっ、が、ぁぁっ!?」

 

鈍い思考を整えようとして―――途端、激しい烈痛に襲われた。

のた打ち回りたいが、身体が鉛のように重苦しい。全身に巡る痛みに感覚を奪われ、己が横たわっている程度しか解らない。

 

そして、きつく閉じた視界の裏で思い出す。

 

 

―――己がどんな裂傷を受けたのかを。

 

 

「はっ……はぁっ……め、眼が―――ッ?」

 

閉じた右の視界は鮮血一色に染まっており、瞼を開いても閉じている時よりも激しく痛むだけで内容は変わらない。

それだけでなく、何かが己を穿っているような感覚は、引き裂かれそうな痛みは胴体から伝わり、尋常ではないほどの激痛を齎している。吐き気すら込み上げて来そうなほどだった。

劫戈がそれを認知したのは、彼が耐える事を主とする人格を持っていたからで、駆け巡る痛みに耐えた先のもの。至極簡単で、本人からすれば酷い衝撃を受けただろう事実。

 

父から穿風を受け―――右眼を失った。

 

どうやって助かったのか、どうして己は見知らぬ場所で横たわっているのか。

 

そんな疑問が脳裏で犇めくが、今は痛みに掻き消され、上手く思考出来ない劫戈にはそれどころではなかった。

 

「……あぁぁ―――そう、か」

 

そこで唖然と脱力し、己がまだ生きている事を、夢ではなかったという事を、漠然と理解する。

 

「……―――」

 

脱力を行ったからか、意識が朦朧とする。容易く、維持していた自分が飛び退く―――

 

 

「―――おっと、いかん。ついつい転寝(うたたね)して眼を放してしもぅたか」

 

「……ぇ?」

 

突如、頑なな津雲とは色が一切異なる老爺の声が、痛みを(・・・)吹き飛ばした(・・・・・・)

肉体を引き裂く感覚が、穴でも開いているんじゃないかと思える穿孔の感覚が、あんなに苦しみを齎していた痛みが、たった一声で嘘のようになくなってしまった。

 

「痛かったろう。じゃが、儂がおるからのう、もう大丈夫じゃぁ」

 

穏やかで優しげな声音が降って来た。

あまりに突然で、予想外な事に困惑する劫戈は、動かす事の叶う左の眼だけで声の主を探し出す。

 

視界に映るのは、束にされた狐色の細長い草のようなもの。それが敷き詰められた天井に、それから同じ素材で繋がった壁と思しきものが木の柱を取り巻いている―――草木の帳。

 

つまるところ、己が横になっている場所はどこかの、誰かの家。

 

玄関口と判断出来る場所から、陽光が入っているところを見ると、間違いなく家なのだろう。烏天狗だからこそ、居住概念が違えども一目で家だと解った。

余裕が出て来た御蔭か、いつもの思考が出来るようになっている事に気付く劫戈は、まずは声の主を探そうと、思考そっちのけで事を優先した。

 

「意識はあるかい? 何でもいい、声を出してはくれんかな?」

 

すると、視界の上から白が見えた。

劫戈は思わず眼を見張る。問いを投げ掛けた人物は、ちょうど頭上のすぐそこに座っていたのだ。

至近にいる気配くらいなら察知出来る筈なのに、視界に入ってからようやく気付いた。痛みで余裕がなかったとはいえ、隠れている訳でもないのに、居場所を掴む事が叶わない事実。

 

―――凄い。

 

単純に、慄く、という念が余計に劫戈を呆けさせた。

畏怖というものだろう。妖怪として、純粋な強者に惹かれる必然。闇の化粧たる条理。

もしかしたら、津雲を超えているんじゃないか―――僅かながらの嬉しさが、劫戈の中で生まれ込み上げていた。

 

そんな事を一切知らぬ相手は、困ったように眉を寄せ、白い顎鬚に手をやって弄っている。

 

「どうしたぁ。わしの声が聞こえんかな?」

「……っ。いえ、えぇっと……その」

「なんじゃ……ちゃんと起きとるではないか。まあ、はっきりしとるなら良いか」

 

良かった良かった、と老爺は腕を組んでにこやかに微笑む。

 

よくよく見ると、老爺は口調や容姿が老いているものだが、何かが食い違っているようにも見えた。

皺が割り込んでいる顔は、端麗な顔つきを残しており、それは津雲のような老練さを醸し出している。年老いたと言うのにも関わらず、瞳の奥には未だに色褪せない意志が灯っているのだから、只者ではないと解る。老巧な人、と言えるだろう。

それに加えて、優しげな態度を取られると、敬うべきと捉えてしまい、自然と恐縮してしまう。

また、彼の者の姿は人のそれだが、頭の上には獣を表す耳と自分等よりも鋭い犬歯、つまり牙がある。

 

そんな特徴的な部位を持つ存在は、烏天狗の集落の周りに―――ただ一つ。

 

「―――白い狼……?」

 

「うむ、いかにも。わしらは誇り高き、白い狼じゃぁ」

 

唖然と見上げる劫戈の様子を怯えていると捉えたのか、老爺は大丈夫だと言わんばかりに落ち着かせるような屈託のない笑みを見せた。

 

「なぁに、獲って食ったりはせんよ。わしは子供が好きでのう。目の前に傷付いた童が降って来て助けないほど腐っておらん。いやはや、あの時は久方に魂消(たまげ)たわい」

「…………本当、に?」

「大丈夫じゃぁって、烏など不味くて食えたものでもないわい」

 

いかにも食した事があるかのような言葉に、顔が引きつる劫戈だったが、なんとか持ち直す。

 

だが、聞き落としてはいけない。忘れてはいけない。

 

死を覚悟した時、己の視界に映ったのは紛れもなく、目前の老爺。

この者は互いを一体どんな種族なのか、どのような関係にあるのかを理解していて助けた。意図があるかないにせよ、ただ子供が好きという理由で助けたと答える老爺は、安易な思考の持ち主なのかと思わせる。

お人好しか、単なる馬鹿―――は言い過ぎだが、どうして、としか言えないものだった。

 

「お前さん、隣山の烏じゃろう?」

「―――」

 

老爺の問いに、劫戈は困惑と複雑の色しか禁じえない。

 

そう、目の前にいるのは―――烏天狗が現在敵対している種族だからだ。

 

劫戈は実物を見た訳ではないが、それでもその露骨過ぎる特徴を見てすぐに解った。次いで、己はそんな相手の懐に捕まっているのだと瞬時に悟る。

 

「まだ巣立つのには幼過ぎる。訳ありと見たが」

 

明らかに恐々としている一方で、老爺は神妙な顔に一変し、踏み入るように問うて来る。

対し、劫戈は表情を顰め、知られたくない故に目を逸らす。

他種族が他種族の事を心配するように慮ってどうするのか―――理解が出来なかった。

 

「言ったろう、食ったりはせんし、殺したりはせん。何があったか……このわしに話してはくれんかのぅ?」

 

横になっている己には逃れる場所はない。身を乗り出して、吸い込まれそうな眼を向けてくる老爺は、実に子供を心配する大人だった。

 

「ここにはわしだけじゃ。腹を括って、何もかも吐き捨てても良い。どうじゃ?」

 

(―――……)

 

この老爺、実は全て解って言っているのではないだろうか。だとしたら、なんて厳しくて酷くて―――優しい狼だろうか。

 

 

白い狼の一族は、遠く離れた隣山を塒とする群れ(・・)だ。

群れの在り方は烏天狗とは異なるだろうが、群れと言うのは一人だけの意志でどうにかなるものではない。千差万別、多くの意志が集った群れ。それを上手く動かすには、相応の意志を動かす強い意志を持つ者を必要とする。好き勝手出来ないのは明白。

 

異物が入り込んだら、排除するか取り入れるかの二択を、群れの為に選ぶ。

 

その二択をどうするのか。排除するなら、何も生かす必要もないし、助けるという形で連れ込まれた劫戈の現状からしてこれの線は薄い。となれば、必然的に取り入れる方面が強い。

そうするにはまず何を行うのか―――それが今の行いだ。

 

そう、劫戈は解釈していた。故に、その範疇を覆される事となる。

 

劫戈は、目の前の老爺が、己を理解しようとしている意図を浅はかながらも知る。

 

(群れの為、じゃない……のか?)

 

そして疑惑、衝撃。

群れの為に―――とはとても言い難い真摯さを、老爺の表情から読み取ったからだ。相手の口から、経緯の他に意志も含めて聞きだそうとしている。

彼にとって、己を理解しようとする、羨みたくなるほどの大人を、今まで見た事などなかった。

 

そんな大人、在ったことなど、一度も、ない。

 

だからこそ、思わず気を緩める事に戸惑いはなかった。

 

「―――聞いて、くれますか……」

 

込み上げる思いに、声が掠れた。

何を言っているんだ、という戸惑いを含むものの、劫戈自信が自覚する大きな期待があった。

 

「もちろんじゃぁ。話してみなさい」

 

全く知らない他者の温もりが、優しく穏やかに促してくれる。

ゆったりと、待ち続ける姿勢があるのを、劫戈はただただ嬉しさを感じた。

 

「……俺は―――」

 

それに従い、劫戈は己を曝け出して行った。

 

 

 

 

――――――

 

 

 

 

白い狼の老爺は、黙って聞いてくれた。

 

内に秘めた毒を吐き出すように語った内容を、受け入れるように反芻しているようであった。

それが嬉しくて、堪らなく心嬉しくて、堰を無視して止め処なく涙と本音が零れていく。それに対抗するように、聞けば聞くほど爺は皺を余計に濃くさせ、表情を険しくさせていく。特に、名を知った際には、どうしてか一瞬だけ見る眼を変えた。

 

「俺は……俺は、どうして生まれて、来たんでしょうか。どうして……生きて、いるんでしょうか……」

「お前さんの話を聞く限り、意味はあった筈じゃぁ。ただ……全てとまではいかんでも、お前さん自身を是と認めてくれる大人達に恵まれなかった事が、何よりの不運じゃった。少なくとも、一人はいたようじゃが……」

「……貴方のような方が、身近にいて欲しかった……」

「すまぬのう……。生憎と、わしは狼じゃて」

 

悔やむ気持ちが、琥珀色の眼から伝わってくる。

落ち着いていて、どこか餓えている―――でも、それでいいという強者の瞳。今は弱りに弱った小さな黒雛を慈しみ、見守っていた。

 

「今回のお前さんは運が良い。出くわしたのが、わしで良かったのう」

 

老爺は一笑いし、艶が抜け落ちた白髪と頭垂れた耳がふわりと動く。

老いても尚、実に見事と言える立派な耳が、力を取り戻したと言わんばかりに背筋を伸ばした。

 

「―――っ」

 

それだけで、息を呑んだ。

自然な動作が畏敬の念を呼び、玉の冷汗を溢れさせ、劫戈の意識を釘付けにする。瞠目するのに十分過ぎた。

頭上に座る老爺が、巨大な(・・・)白い狼(・・・)に見えるからだ。

 

「わしは、わしらは、誇り高き白い狼じゃぁ」

 

子供に言い聞かせるように、白い狼は劫戈の心へ言葉を直行させる。

 

「故―――わしらは、仲間を絶対に見捨てぬ。見捨てた輩は餓鬼畜生にすら劣る」

 

老爺らしい口調はどこかへ吹っ飛び、凄味の効いた声で己が掲げているだろう思想を告げる。

 

この狼に対して恐怖などない。在るはずがない。

劫戈が抱いたのは一点の尊敬概念。一時を置いて思う―――老爺の言葉で心が洗われた気がした。

 

(ああ……この人は―――)

 

敵対意識を持っていた烏天狗が馬鹿らしく思えて来た。

 

なんて素晴らしい人―――もとい、狼なのだろうか。津雲が醜く矮小と思えてしまうほどに天淵の差がある。

そうだ、この者は―――

 

(妖怪というより―――王だ)

 

誰からも慕われる理想の形。

その偉大さを敬いたい、その背中に付いて行きたいと思える器。

 

「わしはお前さんを群れに迎え入れようと思ぅとる」

 

「……え?」

 

劫戈の唖然を置き去りに、この老爺はとんでもない事を言い放った。

 

頭がおかしいんじゃないか。いや、どうしてそうなるのか。

 

ひたすら困惑し、思考が迷走する劫戈は口を開いて止まってしまう。

それを見た老爺は己が言った言葉に何も感じていないのか、じっと劫戈の言葉を待っているようだった。

まるで、その先を予見しているかのように。

 

「―――ど、うして……」

「ん?」

 

「どうしてそんな事を……」

 

「伊達や酔狂で言っとるのではないぞ。居場所がないなら、ここに居れば良いと言っておるのじゃぁ」

「でも―――」

 

それでいいのか、と言いかけて口を閉じた。

白い狼として映る老爺の隣に人影を捉えたからだ。老爺と同じく白い耳と尻尾を携えた者―――白い狼。

 

「と、いう事じゃぁ―――(はる)よ」

 

突如、立ち入った第三者を一瞥し、口を開いたのは老爺の方だった。

 

「はぁ……全く。私にそれを言うなんて、どうかしていますよ?」

 

息嘯(おきそ)に次いで呆れたように、返答する第三者。

成熟した女性らしい若干低めの声だが、されども女性らしい高さを失っていない。光躬とは別の一線を超えた美声。

声の持ち主は差し込む逆光で顔が解らないが、第三者は声から察して女性。(はる)と呼ばれた彼女は老爺と知己なのだと思わせる。

 

「良いではないか。途中から聞いておったんなら解るじゃろう。あれ(・・)には関与しとらんし、敵意も害意も持っておらん。十分信用に価すると、わしは思うがのう」

「ええ、でしょうね。貴方様の観察眼でなら嫌でも丸解りですから、皆、異論はないでしょう」

 

現れて早々、彼女は老爺と議論を交わし始めた。

自分をそっちのけで始まった会話に面を食らうも、劫戈は己の立場が左右されるという事が垣間見えたので静観に徹した。

 

「でも、よろしいのですか?」

「それはわしがお前さんに言うべき言葉なんだがのう」

「……嫌がらせですか? 決めておいて私に問うなんて酷いですね。……知っている癖に」

「お前さんも解っとるなら良いじゃろうて。この子に―――何も知らぬ子に罪はないのじゃから」

 

「……私はそこまで落ちぶれていません」

 

老爺の言葉に反応して、榛は次ぐ言葉を選んだ様子を見せ、間を開けた。少しばかり声が沈んでいる様子からして、なにやら複雑な理由があるらしい。

 

「子に当たるなんて事をしたら、あの人に、顔向け出来なくなるでしょ」

「む……それもそうじゃな―――っとぉ。すまんな、待たせてしもぅたのう」

 

僅かに愁いが見えたと思ったら、矍鑠に視線を直す老爺。

悪戯して悪かったよ、とでも言える表情が劫戈の視界に入り、ようやく大事な話が戻って来た。

調子が崩れそうでも、狼の姿は依然と残っている。だからこそ、劫戈も己の肉体が許す限り気を引き締めた。

 

「お前さんは、どうして……と問うたな。なぁに―――答えは単純じゃぁ」

 

間を置き、老爺はにかっと白い牙を見せ―――

 

「わしらは子を()っぽって悦に浸っとる阿呆ではない。これも何かの縁。故に、ここに住まえ。このわし―――」

 

ただ微笑み、迎えてくれた。

 

「誇り高き白い狼の長たる、この―――五百蔵(いおろい)の名に誓って、住まう事を許す!」

「……っ」

 

数瞬、硬直した。

劫戈は白い狼から発せられた一字一句を反芻し、己全てに染み渡らせる。

 

 

腹の底と目頭が熱くなっていくのを自覚する。この感覚は経験があった。

 

 

光躬に抱いた恋心か―――否。

では、光躬の想いを知った時か―――否。

 

 

(そうだ……これは―――)

 

 

本気で、他者からの温情に嬉しさを感じた時のもの。

名前も知らなかった人物に優しくして貰った際に理解した、親切心への感謝の意。

 

「……っ!!」

 

―――感極まった。

 

直後、劫戈は今までにないくらいの歓喜と感謝の思いが、一つしかない灰眼から溢れ出る。溜りに溜まった愁雲を掻き消して、募りに募った悲嘆が泡沫の如く吹き飛び、枯れ掛けた心に欣幸を呼ぶ。

 

そして、それらは嗚咽となって五百蔵達の耳に木霊していった。

 

 




五百蔵から手が差し伸べられ、救われた劫戈は、彼の言葉に感涙する。

今更ですが、御意見や質問があれば、メッセージか感想にてお願いします。

例大祭まで一週間を切りますね。この伝説のハロー、戦利品を得るべく友人と共に行って参ります。楽しみだぁー! いえぇぁああー! ―――おっと、失礼。こういうイベントがあると、ついつい舞い上がってしまう質でして……色んな意味で、執筆に影響しそうで怖いです(笑)
では、次回に。(^.^)ノシ


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第一章・第二羽「母」

陽気の変動で体調を崩し、課題作成に追われ、執筆時間を持って行かれる―――治ったと思った風が再発。かなしいなぁ……。ストレスと疲れで駄文しか浮かばないヨォ……。

今回は五百蔵の隣にいた『榛』が出番です。
では、どうぞ。

6/12、加筆修正入りました。


夜の前、薄暮時。

 

橙色に姿を変えた日が沈む今、童子を見つめ続ける五百蔵の傍に影が入った。

 

「……のう、(はる)よ。止血の薬は溜め処にはあとどれくらいあったかのう?」

 

 

五百蔵に問われた者は積み束ねた茶色の穂綿を持ち、そのままゆっくりと隣に座り込む。入り込んだのは榛という、人の形をした白い狼の女だった。

 

雪の如く白い耳と尻尾を携えた彼女は、整った顔立ちを持っている。まさしく端麗であり、ただ綺麗という言葉で表すのは適切ではないが、そこに大人らしい(あで)やかさがあり、同時に五百蔵独特の穏やかさが垣間見えた。

 

そんな彼女は毛並の整った尻尾を一揺らし、微笑と共に口を開く。

 

「まだいっぱいありますよ。十分に事足ります」

「おお、そうかそうか。なら、困らんのう。早速頼むぞ」

「はい」

 

それっきり彼女は無言のまま、麻袋に詰まっている小さな黄色い粒―――花粉を、膝の上に置いた簡易的な平たい石板の上に乗せ、その内の固まった一部の一つ一つを丁寧に(ほぐ)しながらその形を崩していく。

 

止血の薬―――蒲の花粉から得られる恩恵。先達の知恵を経て、己等に反映させた薬の生成法。

 

その作業を、五百蔵は一瞥しつつ己の妖力を少しずつ注いで―――童子の痛みを鎮めてやっていた。

 

「……やはり似ていますね、あの男と」

「もう止せ、榛や」

「解っています。わかっていますよ……。ただ、あの男が自らの子供にまで手を下すほどの下種だと知って、怒っているんです」

 

沸々と湧き上がっているだろう怒りと共に榛の耳が微動する。心底不快だと、一目で解る仕草だ。

ふむ、と五百蔵は相槌をして再度劫戈に視線を向ける。憐れむようで、残念がるような眼を送り、己が処置した彼の右眼を優しく撫でた。

 

視線だけ、眠り込んだ童子から離さず、じっと見定めるように観察する榛。

五百蔵と同じく、片時も童子から眼を離さなかった。

 

重苦しい沈黙が幾何か続く中、徐に、五百蔵が口を開く。

 

「一目見た時は解らんかったが、まさか奴の子とは思わなんだなぁ……。親にも恵まれなかったのは、あまりに痛いのう」

 

 

小さなはぐれ烏―――木皿儀劫戈。

白い狼の群れに引き取られ、心から歓喜したその日、彼は泣き疲れて深い眠りに着いていた。涙した跡が残っている顔は、今までになかったかのような安らぎに満ちている。

 

どれほどの苦境に置かれ、肩身狭い思いをして来たのか。

 

話を聞いた限り、劫戈が以前いた群れは彼にとって地獄と大差ないだろう。だが同時に、唯一縋れる存在がおり、地獄であろうとも居続けられたのは事実。年老いた五百蔵なら十分に解り得る事だった。

そして何故だろうか、違和感を覚えた。

 

大妖怪手前とも謳われる者の子にしては、凡愚であるなど非常に疑わしい事に。

 

劫戈は、凡愚である。それはもう、本人の口から出た通り、本当の事なのだろう。

一目見た五百蔵とて、そう判断しかけた(・・・・)ほどだ。

だが、五百蔵は内心で頭を振り、確定ではないとしていた。これは何か理由があると、己の何かが訴えたのだ。

 

一番、何よりも怪訝となった最大の理由は―――妖力。

 

五百蔵をして、歪んでいると思わせたほどの歪な形。闇の化粧に値するか、しないかの曖昧な何か。

劫戈の妖力は極端に少なく、何かが混在している有り様。その少なさ故に、本気で気配を消せる事が出来たなら、完璧な隠密を可能にするだろう。対して、強者との正面衝突にはめっぽう弱い欠点も孕んでいるが。

 

ともかく、烏天狗以前に、妖怪という種としておかしな点が原因で追い出されたのは明白―――それが五百蔵に引っ掛かりを覚えさせていた。

 

(わしは何を見落としている……。いや、そう疑う時点で真理が見えぬか……では―――)

 

そこで、五百蔵は思考を止め、頭の中の疑念を振り払う。

踏み込んではいけない、と己の本能が訴えたのを知覚したからだ。今は何も詮索せずに彼と向き合うべきであり、余計な事は必要ない。

 

「木皿儀劫戈……か。堅苦しくて小煩い烏連中の子にしては、珍しい性格じゃなぁ。まあ、予想はしていたが、何だか人間臭いところもあるのう」

 

顎髭を弄り、まじまじと劫戈の顔を見やる五百蔵は再度、彼の頭を撫でた。

眼から零れ出た血が染み付き、黒い髪が鉄臭さを纏って泥のように湿っている。それを不快に思うことなく触れ、妖力を染み渡らせるべくゆっくりと流し込む。

 

長く生きた己が知り得ない未知の存在は、徐々に失った色を取り戻していく。

 

―――面白い。

 

口の端が吊り上がる。

間違いなく明日を超えた日々が明るくなる。きっと、報われなかった小さな烏は無事に飛べるだろう。

五百蔵の見立てでは、そう思えた。

 

「わしが鍛えたら、奴等は度肝を抜かすのではないかなぁ? はっはっはっはっは―――あ、いふぁっ……!?」

 

五百蔵が実に楽しみと言わんばかりに笑うと、それを遮るものがあった。

遮ったのは、隣にいた榛の細い手。彼女は呆れた視線を送り、器用に襤褸切れで片手を拭きつつ、開いた方の手で五百蔵の頬を抓っていた。

 

「止めてください、五百蔵様。まだ彼は子供ですよ」

「むぅ、何を言うか。子供とは言え、(ちがや)と同じくらいじゃぁ。あっという間に大きくなるわい。この子なら大丈夫じゃぁよ、わしが保証する」

「……ほどほどにして下さいね、五百蔵様?」

「わかっとるよぉ。心配せんでも良いではないか」

「……はあ。それに振り回されるこっちの身にもなって下さいよぉ」

 

不満そうに口を尖らせる榛に対し、五百蔵は―――

 

「はははっ。別に良いだろう? 偶には刺激が欲しいのじゃぁ、解ってくれ」

 

榛の苦労を無視するかのように、小さく且つ豪快に笑った。

 

「またそうやって……。お父さん達やお爺ちゃん達を困らせて来たんですか? …………でも私は許しませんよ」

「ぬ。今回は今までとはいかんか。婆さんに似てきたなぁ、榛や」

「私はぁぁ……―――自重しろと言っているんですよ、曾祖父様ァ……?」

「あー…………わーったわい。ほんと、お前さんは婆さんに似てきたのう」

 

見て明らかな榛の態度に押され、すぐに承諾。

少し怒り気味に釘を刺す榛は、やれやれと慈しむ視線を向ける五百蔵。この老爺にとって、榛は何より可愛い曾孫の一人であった。

 

大事な、大事な―――。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

「―――あれ……?」

「あ、起きた?」

 

劫戈が起き上がった直後、左の視界に違う白がいた。

見やすい配慮だろうか。丁度、左手にて視界に入る真ん中の位置に女性が座っている。劫戈が起きるのを待っていたようだった。

 

「いきなりで悪いけど、頃合いだから身体起こすね」

「えっ? あ、あの―――」

 

言うや否や、寝ぼけ(まなこ)の劫戈がその言葉に反応する前に、慣れた手つきで背に手を回した。

女性は負担を掛けないよう支えながら状態を起こさせる。己が怪我を負って他人に迷惑を掛けている事が頭を過るも、劫戈はそれを理解しつつ甘んじた。純粋に、凡愚の己に手を差し伸べられた事が嬉しかったからだ。

 

瞬時、頭が上がると今まで味わっていた違和感がなくなっているのに気付いた。髪の毛に付着していた筈の血がなくなっていたのである。

僅かに残った冷たく湿った鉄の臭いから、拭き取られたのだと判断する劫戈。ここまで丁寧な気遣いに、また激しい動揺が生まれた。

そして、申し訳なさが押し寄せ、思わず涙ぐんでしまう。

 

彼は、それと並行して申し訳なさを抱く中で、女性の顔を見て硬直した。

 

(ぁ―――母上……?)

 

若干赤くぼやけて見えた怜悧な女性の顔が、頭の隅にある残滓と一致する。まだ優しかった頃の母を思い浮かばせたのは、言うまでもなかった。

 

以前、こんな風に背を支えてくれた経験は、幼少の時以降から一度もない。他者の足を引っ張れば、いつも叱られる事が大半だった。

僅かに残っていた母への期待の祈りが、今では結局跳ね除けられたものの、確かに実現していた。

 

目の前にいるのは見知らぬ女性―――白い狼の一族。

光躬とは違う、貫き通るような大人の女性らしい声の持ち主は、榛という狼の妖怪だと思い出す。時折揺れる、雪を纏めたような白さの尻尾が視界の端に見え隠れし、印象的な優しげな赤い双眸が劫戈を捉えている。

本当に五百蔵の群れの一員なのだと、十二分に理解出来た。

 

「まだ痛い?」

「……いえ、もう……大丈夫です」

 

努めて、非常に努めて感情を押し殺し、返答する。

またも泣いてしまいそうになるのを堪えていた劫戈は、一度深く瞑目してから横目から入るように榛を見やって、息を詰まらせた。

 

とても綺麗だった。

 

劫戈は彼女に魅せられた。

雪が纏われているのではないかと思う純白の長い髪。光躬と比べて若干明るい赤い瞳。成熟しているからこその流れる美に満たされた肉体。

世の男は放って置く事はしないだろう、男の理想を集めた魅力に富んだ女性。

 

しかも、光躬に劣らず端麗な容姿である。

故に、感情に掻き立てられてしまうのは男の性だろうか、それとも榛という妖怪の隠された独自の艶美なのだろうか。その真意は解らない。

 

五百蔵と親しげに話していたこの者は一体何者だろうか。

関与したくなる下心が込み上がってくるのを感じて―――

 

 

 

―――劫戈。

 

 

 

大事な子に呼ばれた気がした。

 

「―――っ」

 

劫戈はすぐに顔を歪める。

隠す事も出来ないくらいの自己嫌悪は、彼の強い自制でも抑えられないもの。失って、思い出として残ったものが、彼を色欲からの脱出を成功させた。

 

(何をやっているんだ。馬鹿か、俺は……)

 

己の大事な思い出に泥を塗った気分で、余計な事を考えてしまったと己を内心で責める中、榛はそんな劫戈の感情の変化を無言で見ていた。

深呼吸を何度か繰り返し、榛という女性に向き直るとその眼を見て、払拭出来た涼しい顔を見せた。

 

「大丈夫?」

「すみません。もう、本当に、大丈夫です」

 

悟られる訳にはいかない。

間を置いて、心配そうな視線を向ける榛に劫火は落ち着いて言葉を返したのだった。

 

 

 

――――――

 

 

 

「……うん、ようやく塞がったね」

「こんな事になっていたなんて……」

 

目覚めて早々、劫戈は改めて己に刻まれた惨状に絶句する。

止血の薬を塗した麻布が取れた今、傷だらけの裸身が久しぶりの外気に触れていた。

そこには夥しい創面が、あちらこちらに残されている。その幼い身体に、どれほどまでに残酷な物が突き刺さっていたのかを解らせる。

 

「身体に違和感は?」

「平気です。驚くくらいに」

 

感情が落ち、抑揚がない返事を返す。

己の身体をまじまじと見やる劫火は、どんな傷を被ったのかを完全に理解する。

 

烈風で引き裂かれ、胸部全体に広がる裂創痕。勢いで枝やらが貫通したであろう腹部の刺創痕。山の堅い岩石に打ち付けたと思しき痕も各々の肢にも見受けられた。

 

最後に、何より酷い右眼。

まさしく穿孔。最早、右眼と言う箇所は、もうそこにはない。抉れた跡のみが残っているだけである。赤く充血した肌が、大きな傷だと言う意味を助長していた。

 

そんなあまりに痛々しい姿を見た榛は、改めて顔を顰めた。

 

「右眼は……もう見えない。一生、見えないままで過ごす事になるわ……」

「そう、ですか……」

 

顔を顰めながら、しかしはっきりと説明する榛に対し、劫戈は項垂れた。

榛はそんな劫戈を見て、折り畳んでいた白い布を取り、広げて劫戈の背に回る。彼女の手には、五百蔵が着ていたのと同じ白を基調とした衣服が、今まで劫戈が来ていた麻布とは違うものが用意されていた。

異なる点を挙げれば、白を基調としながらも襟から肩に掛けて黒の直線が二条並んで入り込んでいる事くらい。それは劫戈から見て、とても斬新で好印象に映った。

 

元より着ていた衣服は視界の端にて役目を終えており、ズタズタな上に血で染まっていて、目に余る酷さで着る気も起きない。

用意されたのは、それに代わるべく榛が新しく拵えたものでもある。急遽用意したのにも拘らず、素人眼でも丁寧に造られているのが解った。

 

(……慣れてそうだなぁ。お子さん、いるのかな? だとしたら……)

 

どう見ても、己には勿体ないと思えてしまう劫戈は、戸惑いがちな視線を背後へ送る。

それを受けつつも、榛は意にも介した様子もなく、劫戈の肩に衣服を掛けた。それはもう、当たり前のように。

それ故か、遠慮を止めるべきか内心で唸る劫戈を、見透かしているような視線が貫く。

 

「あの……」

「いいのよ。貴方の為に用意したんだから。他に着るものないでしょ?」

「はい……有難う御座います」

 

やはり、と一秒前に読んだ未来は、その通りであった。

 

「話を戻すけど……君の右眼は五百蔵様曰く、頭蓋が露出する程に損壊してしまっていたらしくてね、応急処置で塞いだそうだよ。潰れた目玉は残っていると腐るそうだから、抜いたって。今、何が見える?」

「……。黒くて真っ赤です。……本当に目玉がないのか解らないですけど、右に何も入ってない感覚です」

 

失った右眼に手を宛がい、そう返した劫戈は心底おかしい、と思う。

己がまだ生きている事に、何度目になるのか解らない疑問を抱くのは当然であると言えた。

 

彼は、死んだと思った。

 

傷跡を見るからして、瀕死の重傷だった筈である事は、明らかで間違いはない。それを、五百蔵が容易く治してしまったのを劫戈は知り、唖然と呆けていたのは先刻の事。懐深いだけでなく、その器は高みにあった事に膨れた驚きが隠せない。

 

「本当に、凄い方なんですね……五百蔵さんは」

 

五百蔵―――白い狼一族の長。

よく解らない理由を言ってさっさと瀕死の傷を処置してしまったという、老爺。死に掛けの身体を、妖力で無理矢理塞ぎ、あまつさえ痛みを鎮めてしまう、偉大な白い狼。

 

 

曰く、神代の頃から悠久の時を生きる白い狼。

曰く、非常に長い時を生きているから知識に困らない。

曰く、肉体構造を把握し、それを完全に活かしている。

 

 

驚嘆する劫戈を見て、長を褒められたからか、榛は僅かながら笑みを浮かべる。

 

「そうよ。あの方は本当に凄い……私達よりも上にいて、いつも見守って下さる先達様」

「…………」

 

何よりも誇れる存在だ、と伝わってくるその綺麗な瞳が劫戈を捉えた。

 

彼は長よりも、まさしく獣の王。

この群れの長である事を誰もが認めているのだろう。自慢げに語る榛から十分過ぎるほどに伝わってくる。

劫戈は実に羨んだ。羨み過ぎて、烏滸がましいと考えてしまうほどに。

己がいた群れにいて欲しかったと、心底思わずにはいられない。だが時は遅く、それ以前に種が違うだけでなく、敵対している現実。彼の胸中に、酷い羨望が少なからずあってもおかしくはなかった。

 

着替えて、再度横になる劫戈の心情は複雑で埋められていた。頭の中は、ついさっきの事を整理するのに追われるのだ。当然とも言える事だろう。

 

「傷は塞がったけど、まだ安静に……言わなくても、賢い君なら大丈夫よね?」

「はい。何から何まですみません、榛さん」

「いいのよ。子供は大人に甘えていいのだから」

「はい……本当に……」

 

慣れない優しげな言葉が掛けられ、少し発言が支えてしまう劫戈。

彼にとって、女性の心の包容力は絶大だった。心臓に刺さった棘が、すっぽり抜けていった気分に陥る。晴れ晴れとしているとも言えるのか、無意識で嬉しさを感じた。

 

「ありがとうございま……―――」

 

強い安堵に、言葉が続かなかった。

瞼が落ちるのを感じて、せめて、改めてお礼を言いたいなと考える。すると、呆気なく睡魔の闇に襲われた。

 

「……母上―――」

「だ……ょ……うぶ。お……すみ―――」

 

声も聞き取れぬ中、彼は愛おしそうに撫でられたのを感じたのだった。

 

 

 

 

―――◇○◇―――

 

 

 

暁から始まり、日華が差し込む雲の上。

そこは懸け橋の最果てにして、黄金に満ちた殿堂。金色の塔が聳える光輝の場所。斜日の如く注がれる光芒は、黄昏に劣らぬ眩しさがあった。

 

そんな神々しい光景から開けた位置に、人型の飛輪が一つ佇んでいた。

 

「またも……我が声が届かぬ……」

 

打ちひしがれるように、小さく呟いた。

凛々しく麗しい声の主は願っていた事を物語る。

 

生まれた意味がある。そう、伝えてあげたい。

 

流した黄金の髪が寂しさや虚しさを体現するかの如く揺れ動く。叶わない事への思いが、肉体へと影響する。

 

「……時が流れ、幾星霜」

 

彼の者より、頭頂の宝珠が照らし、憂えの光が人型の飛輪より零れていく。

紅焔となって吹き上がるのは発した光か、憂えか。または双方か。突き抜けるのは、太陽の端を想起させる威光の世界、十万億土。

 

「ようやく生まれたのだ……」

 

念願か、悲願か。それはもう、渇望したほど。

 

情景が変わり、怒りの仄日が念願の色を埋め尽くす。

思慮深き普段とは違い、思考が乱れるほどの焦燥と打ちのめされる事への静怒。

 

何故こうも上手くいかないのか。何度も思考し、繰り返し、俟ちかねた。

 

「……待ちに待ったのに―――」

 

現れたのは必然であるが、それまでの道程に至るにはあまりにも長過ぎた。それでも待ち続け、現在(いま)に至るのだ。

 

「救えぬ我が身を呪う他ない」

 

私が許しているのだから、何故にこうも縺れていくのだろうか。

 

滾った意志、内に秘めた静かな怒りが、紅蓮の焔となって迸り―――握り拳に砕かれる。散る華のように、炎粉が掻き消えていく。

 

「どうか許しておくれ、愛し仔よ」

 

凛々しき美声の主、纏った黄金が赫灼する。

謝意を込め、瞼を閉じる様は、落暉を思わせる。眩いその姿が、露わになる事はない。

しかし、そう思わせるのに十分な声音でもあった。

 

「いずれ、そなたに会えたなら、まずは謝らせてはくれまいか」

 

誰に向けられたかは、彼の者のみが知る事実。

 

手を伸ばした先に、光芒を差しこませる。

一つの祈りが、日華を従える天道となって、条先が掻き消えながら地へと落ちて行った。

 

 

 

「―――例え、罪に成ろうとも」

 

 

希望を託した愛し仔よ、どうか許してくれ。

 

―――この■■(わたし)を。

 

 




捕捉:止血の薬。蒲の花粉から得られるもの。五百蔵が教えた妖怪独自の生成法と解釈して下さい。元は「因幡の白兎」から引っ張って来たものです。実際、漢方薬になるとか。先人の知恵は素晴らしい。

「こういう爺さんをチートに届かないまでも、作中上位レベルに仕上げたい」という熱意から、五百蔵に『妖怪的ハイスペック』を与えた。
え……やり過ぎだって? いえ、物語上必要(・・)なんですよ。妖怪なら、もっと恐ろしい奴がいてもおかしくないですしね。―――賢者とか、スキマとか。大事な事なので―――(スキマ送りにされました)

あと、最後に出て来た人。
何者なのかは、ある程度察しがつくでしょうが、念のため伏せて下さい。
初の視点切り替え専用versionは、『彼の者』の為に用意し、パッと見で解るようにしたものです。普段は◇が三つですが、こちらは殺風景から御洒落なレベルにアレンジアップ。―――特に深い意味はありません。あしからず。

では、最後に……―――例大祭楽しかったです、今更ながら。次回も楽しみであります!
ヒャッハーァァァァァアアアア!! 
も、もふ。もみじ、もふが、もふもふしすぎて、もふもふ……

※この後書きは、投稿時にて、テンションがMax状態の作者によるもので、少々荒んでおります。いつもと違う様子である今回は、生暖かい眼で見て御了承下さい。


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第一章・第三羽「若き者」

講習や試験で大変忙しかった作者です。執筆の暇が作れない間は辛かった。
休みが来るのを長く感じてしまい、酷く脱力が続いている現状です。
休みは大事。休みは本当に大事。過度な勤勉は身体を壊しかねませんね、ホントに。

それはさて置き、今回は準主人公のお披露目。本文へ行ってみよう。
では、どうぞ。

6/18、群れとの対面部分を微妙に加筆修正


眼が覚めた。

 

視界は闇色が広がっており、夜なのが鮮明に解る。

鳥目である故に、暗い場所は一際弱い。それを横合いから取り払ってくれている光源が、外から入り込んでいるのは唯一の救いだった。

 

普段はさっぱりしているのに、今は気怠さがある。それを齎しているのは、紛れもない空腹であった。

伸びをしても拭えない怠さが、気分を害していく。それでも妙な重さを無視して、身を起こして気が付いた。

 

「あ……あれ?」

 

ふわふわの毛並に眼が持ってかれる。見慣れない生き物、それが帳の中にいた。

劫戈と大差ない、真っ白い毛に覆われた体躯。横に倒された、細く見えるが引き締まっている力強い四肢。時折、ふわりと浮かんでは地に落ちる事を繰り返す、尻から伸びる筆の穂に似た塊。

寝ているのか、すやすやと一定の呼吸を繰り返している。

 

「狼……?」

 

その見知らぬ真っ白い狼が地に身を預けている事に、劫戈は首を傾げた。

劫戈の呟きに反応してか、狼の耳が微動。首を擡げて劫戈を一瞥し、さっと確認。寝起きにて待ってましたと言わんばかりに身を起こして劫戈の眼前に進み出た。

睨むわけでもなく、ただただ優しげな垂れ目でじっと見詰める白い狼は、僅かに面白みの含んだ息を吐いた。

 

「お主が起きるのを待っていた。はぐれ烏よ」

「お……俺を?」

 

予想していなかった低い声。

巌を思わせる重い声に、群れの一員なのだろうと見当を付け、劫戈は戸惑いながらも狼に問う。

 

この時、どうして異種族との会話が成り立っているのか、という疑問を抱かなかったのは当然でもあった。

妖獣と思しき狼と会話した事は初めてな劫戈だが、見事に成立していたのである。彼は妖怪であり、己の起源種である烏と会話できるように、妖獣との会話が然も当然に行えるのだ。

故に、相手の狼も気にする事もなく話しかけ、劫戈もそれに答える事が出来ていた。しかし、人語を介さなければならない事は大前提であるが。

 

劫戈の問いを受けた白い狼は佇まいを直して頷いて応じた。

 

「うむ。我は(ほお)と言う。見ての通り、白き狼である」

「頬……? 変わった名前なんだね」

「む……」

 

発音はともかく、劫戈の異なった意味の捉え方に、朴と名乗る狼は一瞬だけ顰める。気にしているのだろう、朴にとって仕方はなかったようだった。

 

「我の名の由来は顔の方ではないぞ。落葉の事を差す言葉から来ている」

「え!? あ、あ……ごめ―――いや、すみません」

 

出会って早々、機嫌を悪くさせてしまったと苦笑いする劫戈。無意識に語尾が敬語になっていた。

対し、ふむ、と納得した様に頷き、優しげな垂れ目を細めた朴は笑う。

 

「ふはははは……構わんよ。長から授かった名だ。紛らわしいが、これでも深い意味があるのだよ」

 

先程と打って変わって砕けた口調になった朴は、意外な気さくさを見せる。劫戈の反応を見て悟り、名を嗤われたと本来なら憤る筈が、意にも介せず流した。

劫戈はまたもや、経験のない優しさに、涙腺が緩んでしまう。

 

だが、泣いてはやらないのが、劫戈らしい忍耐。嬉しさが上回ったからでもあろうか。気を取り直す事に成功し、己を自然体へ戻した。

 

「名前の、意味……?」

「うむ。まあ、教えてはやらぬがな」

「す、すみません。さっきの事を気にしているなら謝ります……」

 

 

ここで劫戈らしい反応が出た。

年上と思しき朴の名を嗤ってしまったと判断する劫戈は、すぐさま丁寧に謝罪の意を述べる。長である五百蔵の恩恵で置いて貰っている身で、群れの一員である相手をうっかりであれ、大事な名を傷付けてしまったのだ。

劫戈の中で焦燥と過去の経験から来る畏縮癖が現れる。無理もなかった。

 

「むぅ……やはり。なんだか、堅いな」

 

だからといって嗤わない朴は、やれやれといったように神妙な態度で首を振る。

 

「もっと肩の力を抜け。気を張り過ぎだぞ」

「は、はい、解りまし―――あ……あ、あれ?」

 

いつものように(・・・・・・・)畏縮し掛けた劫戈は、実に間抜けな顔で隻眼を点にした。

 

「気にするなと言った。いいな?」

「いや、でも朴さん……はい、解りまし―――解った。おう、解った! もう敬語は使わないから許してくれ!」

 

食い下がろうとする劫戈に、有無を言わせぬ鋭い一睨みが命中。

朴の好意的な態度に呑まれて口調が緩くなった劫戈は、内心で慌てる心を隠しながら謝意を表に出さぬよう抑えていた。

 

「まだ、お主より若い身であるからな。遠慮は要らぬぞ」

「……えぇっ? 全然、そうは見えない……。狼だから……なのか?」

「総じてはお主よりも年上だが、妖獣となってから季節が巡っていないからな。未だ若い部類に入る」

「わ、若い……のか?」

 

朴が強制した最大の理由はそれであった。

何より、彼が己を若いと言ったのは、動物が妖獣へと新生した年月を抜きにした妖怪としての歳と比較したためである。劫戈の境遇と心情を理解しての配慮も含まれるだろう。慮られた劫戈は終ぞ気付く事は無かった。

 

「さて……話を戻そうか。長にお主の案内役を頼まれていてな。今日、群れの皆と顔を合わせたいとの事だ」

「五百蔵さんが? もう……外に出ても?」

「もちろんだ。その為に我が迎えに来たのだ」

「わかった。行くよ」

「立てるな?」

「ああ……―――うおぉっ!?」

 

無意識に実行した―――筈だった。

慌てた声を上げた劫戈の眼前には、下に敷かれた筈の藁が映り込む。次いで、立ち上がったと思った矢先に倒れ込んでいた事に驚く。思考が素早くその原因を理解するのに時間は要らなかった。

 

数日間も寝たきりになっていたのだ。全身の筋肉が痺れて上手く動かす事が叶わないのは、当たり前だと言えた。

 

劫戈は膝立ちに成り、ゆっくりと足を地に付けて力を込めていく。

 

「ぅ……ぐっ……―――っ!」

 

覚悟して立ち上がろうとするものの、足に上手く力が入らず、そのまま転げてしまう。

 

そんな弱りに弱り切った小さな烏を、朴は厳かにも見える面持ちでじっと見つめていた。

劫戈が自らの力で立つ事を待っている―――否、望んでいる事は一目瞭然であった。彼の垂れ目が期待の眼差しで劫戈を捉えて離さないからだ。

 

「ぉ、おおお……っ」

 

視界の隅でそれを知覚した劫戈は、己が弱っている事を理解しながらも、その期待に応えようと歯を食いしばる。再度立とうと自力で這い上がるべく、手に込めた力具合を確かめるように、上体を起こしていった。

 

遂に、劫戈は地に立ってみせた。

 

「それで良い。己の意志で立てたお主は、誰も嗤う事非ず」

「あ……ありがとう」

 

満足気に頷く朴は小さな烏を称えていた。

種が違えども、その眼は語るのは憂心。語らぬとも手に取るように解る優念。

 

何度、嬉しさを感じれば気が済むのだろうか。

 

「さあ、行こうぞ。長が首を長くして待っている」

「案内……頼む」

 

劫戈の心情を余所に、朴は帳の外へ足を向ける。己を称えた白い狼に導かれて、劫戈はまだ見ぬ者達との邂逅を受け入れた。

 

 

 

――――――

 

 

 

まず眼に入ったのは、かつての集落を想起させる藁作りの塒。

そして、待っていたぞ、という視線。

 

「…………」

 

意志が湧き上がり、高揚が増えていく。劫戈は言葉を失い、巣立ちの時を垣間見た気がした。

 

でも、今は違う。

 

場違いを抱く複雑な視線と、好奇心や怪訝といった視線が交差する。乱雑な視線内は、決して居心地の良いものではなかった。

 

(これは……堪えるなぁ……)

 

最初こそ面を食らった劫戈だが、それでも足を踏み出す。朴を先導にして五百蔵のいる場所へ誘われ、狼達の視線の中を潜って行った。

開けた場所には白い狼と人妖が集まる場所を見ると、彼等の中心にて、腕を組みながら胡坐で座って寛いでいる五百蔵がいた。傍らには、お世話になった榛や見知らぬ者が取り巻くように控えている。

五百蔵は劫戈を見やり、にやりと笑う。

 

「ようやく来たか、待っておったぞ。朴や、案内ご苦労だったな」

「礼には及びませぬ、長」

 

先導していた朴は、劫戈の隣へと移動し、そこに控えた。

周囲には火元が置かれ、火の明かりで五百蔵の顔は鮮明だ。

取り巻く人の形をした男女の妖怪は、皆が五百蔵と同じ白い髪で、同じく耳と尻尾を備えている。十数人程度の顔ぶれは、逞しそうな者もいれば厳つい者、穏やかな者と区々だった。

 

「長、この子が例の?」

「うむ、そうじゃぁ」

「なるほど……」

「なんと、まぁ……奴にそっくりだな」

 

ただ、微妙に険しさが混じる表情が多くを占めていたが。

 

 

(奴って……)

 

劫戈は己に向けられたそれを無視し切る事が出来なかった。

薄々と父の顔を思い浮かべると、激しい嫌悪が内から覗かせ、不穏に駆られる。挙句には腹の底から黒い炎が湧き始め、今すぐ叫んで吐き出したい気分になるものの、時と場を弁えなければ信用を失う他ない。劫戈は己を抑え、若干ながら大きく息を吐く程度に留めた。

 

「さて、劫戈よ。ここにおるのはわしの群れ、その面々じゃぁ。話はある程度通しているが、まずは自ら自己紹介じゃぁ」

「―――はい」

 

五百蔵に促され、抱いた嫌悪を掻き消すように強く頷いて、一歩踏み出た。

 

「烏天狗一族が一人、木皿儀劫戈と言います。この度は、未熟な私を救ってくださり、感謝以外の念を持ちません」

 

名乗りつつ、頭を深く下げる。

真摯に言葉を述べ、心情を吐露する様子は、光躬を倣った誠意の込められたもの。さながら、出来る子(・・・・)を表した。

 

(これが出来れば世渡りが出来るって言っていたけど―――きっと上手く行く筈だ)

 

我ながら完璧と思える礼を付け加えた劫戈は、速過ぎず遅すぎずの間を置いて、ゆっくりと頭を上げ―――

 

「……あ、あれ?」

 

笑いを堪える五百蔵と苦笑いの榛を除いた一同が目を丸くしていたのを見た。

その反応を見て、何を間違えたと思う劫戈は困惑する以外にどうしようもない。上手く出来たつもりが、失敗してしまったのか。この先、大丈夫だろうかと思えてきてしまう。

挙句には、恥かしさも含んできた。

 

(え……どうしたらいいんだ、これ……)

 

そんな劫戈に対し、狼の面子は―――

 

「どうなっている……?」

「俺は夢でも見とんのか、こりゃぁ」

「なんとも、まぁ……真面目な子だねぇ」

 

彼等が驚いたのは、それもその筈。

烏天狗は狡賢く傲慢な性格で有名だからだ。彼等の驚きも尤もである。まさか、頭を下げてまで礼を述べられるのは、初めてだったのだろう。劫戈の恥を無視して、唖然としていた。

 

「はっはっは! 気にする事は無いぞ、劫戈。挨拶にしては十分過ぎじゃぁ」

「えっ? は、はい……?」

「そこまで畏まる必要はないんじゃぁよぅ……。お前さんの姿勢は中々じゃが、あまり畏まり過ぎると反って鬱陶しく思えてしまうから気を付けぇや」

「わ、わかり……ました」

 

ぎこちない返答ながら、劫戈の小さな心配は杞憂に終わる。気にする必要性はないと判断して、彼は一切を忘れる事とするのだった。

 

「さて、改めて皆の者よ。こやつはわしが偶然拾ったはぐれ烏。見ての通り、見事に天狗にそぐわない者じゃぁ。わしとしてはこのような惜しい幼子を放ってはおけん。故に、群れで預かるつもりでいる。皆の者、再度問うぞ」

 

立ち上がりながら語り出した五百蔵は、ぐるりと群れの面子を見渡す。流石と言うべきか、その長らしい姿は貫禄溢れるものだった。

誰もが長を眺めている。大人から幼い子供までが自分達の先達を、唯一にして大きな長を。

 

 

「―――異論は、あるか?」

 

強く、深く、投げられた問い。

それは普段の五百蔵の声ではなく、津雲が陳腐に思えるもの。明らかに、圧倒的に、格の違う荘厳な声音が発せられていた。

 

 

ぞわり。

 

(―――ッ!!)

 

劫戈の内で、畏れが暴れ回った。

息が切れかけ、鳥肌が駆け巡る圧力が来たる。大妖怪の片鱗を見たからか、その身が震え上がった。

必死に息を繰り返そうとして、腹に力を込め続けて耐え抜く。それを無視するかのように、再確認とも取れる会話が五百蔵の回りで継続していた。

 

「なし」

「ないな」

「同意する」

「今更ないよ」

 

一方で、狼達は口々に五百蔵の言に異を唱えなかった。

各々が同意する中、榛だけは何とも言えない複雑な表情を晒して五百蔵を見据えている。

 

「……。―――(ちがや)が何を言うか、解りませんよ?」

「榛よ。わしは決めた。お前が預かれ」

 

「は―――?」

 

榛は、言い放たれた事に停止を余儀なくされた。

取り直した劫戈も、綺麗な顔が固まる瞬間を捉える。周囲も固まり、困惑の声を上げ始めた。

 

「お、長……それは冗談でしょう!?」

「五百蔵様、正気ですか!?」

「榛に奴の子を預けるなんて……酷ではないですか!」

「……それは解っておるとも」

「ならば、何故ですか!?」

「貴方様は忘れたなど言わない筈! この子の親が何をしたか―――」

 

怒号、論争。

劫戈そっちのけで始まった事態に、左右される側の劫戈は唖然とするしかない。群れの面々は慌てて、長の奇行を止める構図が出来ていた。

前にも既知な事だった。

 

「……榛が、榛だからこそ適任だと、わしは見抜いて(・・・・)おる」

「茅はどうするのですか!? 茅は……あの子が納得する筈が……!」

「大丈夫じゃぁ。あの子はいつまでも餓鬼ではない。解ってくれる」

「そういう問題では―――」

 

「あの……茅って、誰なんでしょうか?」

 

置いてけ堀を食らってしまった劫戈が遂に動いた。隣に朴を連れて、熱を帯び始めた会話の中へと飛び込んだ。

己の身が左右されているのは確か。劫戈は勇気を持って入った話を聞こうと、彼等と対面する。

 

「茅は……私の弟よ。私より…………気にしているのよ」

 

応えたのは、悲しそうに返した榛だった。

綺麗なその容姿を伏せるように、耳をも垂れる様が、どこか大切な何かを失ったようにも見えさせた。

 

「……気にしている?」

「ええ……。あの人を―――」

「待て、榛。わしが言う」

 

榛が原因を言いかけると、急いた五百蔵が待ったを掛けた。五百蔵が気遣うように榛の頭を撫で、発言しようとした彼女を無理矢理止める。

 

「……まさか―――」

 

小さく漏れ出た。

それを見た劫戈は、己の中にある疑問に亀裂が入るのを感じた。朴は隣で静観しているが、彼の呟きで察したのか、はっと口を開く。

 

「お主、それ(・・)を聞くのか!」

「―――その茅君が……気にしているのが、大丈夫じゃない、と?」

 

聞かなくてはならない気がした。

劫戈は朴の咎めるのを敢えて無視して五百蔵に問う。重大な何か在る事を確信して。

 

「大丈夫とは言った。……じゃが、一つ問題があってのう」

「問題、ですか?」

「うむ。あやつは―――」

 

五百蔵がそう返した時だった。

 

 

 

 

「―――木皿儀、と言ったか?」

 

 

滲み出た怒りが現れた。

 

「聞いていたぞ。お前、さっき……木皿儀と言ったな?」

 

その声の持ち主は、集う白い狼達を掻き分けて出て来た。

劫戈は初めてその人物を見た。裏にいたのだろう、そして何より己を同じくらいの少年だったからでもある。

 

榛と同じ赤い瞳、雪色の耳、同じく尻尾。全身を白に染めた少年が、一歩一歩踏みしめて距離を詰めて来ていた。

 

「茅……!」

「な……もう戻って来たのか……」

「いつの間に戻ったんだ……」

 

周囲の者達は、少年に向けて予想外と言った風に呟く。まるで遠ざけていたかのような口ぶりから、劫戈は知己の関係だと理解する。

少年は敵意ある眼で劫戈を睨み、それを受けた劫戈は既知を垣間見た。

 

それは、あまりにも似ていた。

 

 

 

父・日方が己に向けた―――憎悪(・・)に。

 

「っ!?」

 

思わず呻く。

 

 

「待って! (ちがや)―――」

「てめぇッ! どの面提げて来やがったぁッ!!」

 

慌てた榛の制止を振り払い、少年は劫戈の胸座を取る。劫戈がそれに瞠目するのは、胸座を掴まれたからだけではなかった。

十分距離が開いていた、離れていた。―――だが、眼前にいる上に接触している。

 

榛達が止めるよりも速い。

認識と動作が遅れる中で、それを確かに聞いた。

 

 

「親父と御袋と、義兄さんの仇だぁっ!!」

 

 

聞いてしまった(・・・・・・・)

 

 

怒号と共に開いた腕を振り上げる少年。

言葉の意味を理解する寸前、顔に突き刺さった痛みが劫戈を吹き飛ばした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――筈だった。

 

 

 

「うがぁ……―――っ!?」

 

視界内で宙を舞っていたのは少年の方だった。

少年の拘束から解かれた劫戈は、その場に尻もちを着き、唖然と見上げると―――

 

「頭を冷やしなさい、茅」

 

咎める意を乗せた声。

ただ静かに、劫戈を守らんとする雪色の人狼―――榛が立ち塞がっていた。

 




準主人公登場。
そして、当初はあやふやだった榛さんのイメージが、大人っぽくした椛に決定。

今回の話で気付いた方。はい、榛さんは未亡人でござんす。本当はこんな事を思ってはいけないのだが、書いていて萌えてしまった(笑)
はい、すみませんでした。


もふがもふもふしすぎてもふもふ


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第一章・第四羽「其は烏」

眠い……。
さぁて、今回の捨鴻天は―――秘密の一端を垣間見る……!
では、どうぞ。

7/06、誤字修正入りました。


私の仔が泣いていた。

 

私の愛おしい仔たちが、嬲られ殺される。

何度も生まれて、それを繰り返し、繰り返し、繰り返す。

 

賢く翼を強めた者、水地の恩恵を蓄えた者、闇の化生に堕ちた者。

 

我が身の自由が利けば、救えた筈であろうその命。

 

私は強かった。ただ喰らい殺す事を求められて生まれたから。

だが、それだけでしかなかった。強いだけで、護る事は出来なかった。

 

何度も己の無力さを噛みしめ、祈る事しか出来ない我が身。

 

唇を噛み千切り、血涙を流して幾星霜。

我が仔を如何にして救うかを考え、考え、考えた。

 

そして、思い至った。

我が愛し仔等を護る為のそれは、しかし博打に近い方法でもあった。

 

選ばれた者は私の名を継ぎ、『永劫の干戈』となる必要があるから。

 

―――それでも、諦められる筈はない。あり得ないし、選り得ないのだ。

 

 

――――――

 

 

それが今、遂に生まれ、地に立った。愉快だ、歓喜だ、狂喜だ。

これを待っていた、待ちに待ったぞ、愛し仔よ。それを保てる器、我が現身、我が愛し仔よ。

 

この■■(わたし)を許しておくれ、そして生まれてきてくれて、ありがとう。

何者に承らなくとも、私と彼女はそなたを祝福する。絶対に、賛辞を持ってして讃えよう。

 

「生きてくれ、私の愛し仔よ。―――私を継ぐ者」

 

どれほどの苦難であろうとも、この世にたった一つだけの羽根を授かった汝は―――。

 

 

 

光の輪が、悲哀を募らせる。己の焔を滾らせ、佇みながら哭く。

 

悲哀漂う彼の者はそれ(・・)を見て、瞠目してから―――微笑んだ。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

尻もちを着いた、異なる出で立ちの少年二人は唖然とし、雪色のその姿に見入った。

一方は美しくも儚げである背中を、一方は許せない相手を庇った姿を。互いが挟むような形で、視界に入って来た。

そこには、雪色の女狼―――榛が、小さな烏と己の弟の為に立って、そこいた。

 

「茅。彼―――劫戈君は誰も殺してはいないわ。彼を恨むのは筋違いよ」

 

榛は言い聞かせるように口を開いた。姉として、大事な弟を気遣う姿勢で諭すように、至って穏やかに。歳の離れた弟である茅を制するべく彼女が立ちはだかる。

 

「私達の両親を殺したのは木皿儀の血族ではあるけれど……この子ではないわ。正確には、彼の父である日方という男。歳から考えれば、劫戈君が生まれて間もない頃の筈だし……何より、彼は今までその事を知らなかった。彼は恨まれる子ではないのよ」

「木皿儀……日方、ぁ? そいつの父親が、殺した……?」

「そうよ」

 

信じられないといった茅と、理解して冷静でいる榛の問答。

叩かれて赤くなった頬をおさえて、詰め入るように訊ねる茅は立ち上がって歩む。それに反応して劫戈も釣られるように立ち上がり、どうなるのかを見守った。

 

「確証は……あるのか、姉さん。嘘をついているってことは?」

「私は彼を信じる事が出来たわ。知らなかった烏の内部事情も知れて、殺された意味も納得したから。……貴女もちゃんと、彼と話してみなさい。きっと、解る筈だから」

「俺は……―――違う、そうじゃない! 俺は、姉さんは悔しくないのかって言っているんだっ!」

 

それでも、削がれぬ勢いに、劫戈は思わず後ずさる。

憎しみを宿した仇敵を見る眼が劫戈に突き刺さって、視線を逸らさせぬ磔を呈した。逃げ場はないと、言わんばかりに。

 

「義兄さんが、帰ってこないんだ! 今まで……俺達がどれほど苦しめられた事か!」

「―――私だって!! 忘れてないわ……!」

 

言い返した榛の声は震えていた。穏やかに返していた榛は、抑え込んでいた感情を御し切れなかったのだろう。泣き出す一歩手前の表情をしていた。

 

一度締めた心の蓋は、完璧とは言い難い。封じ込めた封が開け掛かっているのが、ここまで観ていた劫戈でも十分に見て取れた。

 

(やっぱり……)

 

劫戈の中で暗い影が出来るのは、榛の泣き顔を齎した正体が己と関係している事にあった。彼はそれを解っているし、榛の気持ちを知ったからこそ、酷く心が痛んだ。

 

「あの(ひと)が、帰って来ないのは……来ないのは―――」

「もう良い、榛や」

「っ……おじいさまっ……」

 

いつの間にか、五百蔵が榛の隣にいた。

込み上がった愛別離苦を必死に抑える榛を、五百蔵はその寛大的な腕で抱擁する。すると、榛は堪らず、しがみ付いて嗚咽を洩らし始めた。

その場で(くずお)れる榛を、五百蔵はゆっくりと抱き抱えて、あやすように撫でてやる。その様子を大人達と狼達は心配そうに、気まずそうに見守っていた。

 

「―――茅よ。お前も、もう良い」

「……。わ、かりました」

 

歯切れが悪そうに頷く茅は、立ち去ろうと歩を進め、劫火の前まで近付いた。続いて怒りの眼差しを向けたまま、劫戈と同年代の顔を酷く歪める。

 

「劫戈と言ったな。確かにお前は殺してないんだろう。だが、お前の父親は、殺したぞ」

「お……俺は―――」

 

非難めいた言辞が、劫戈を捉えて離さない。日方が齎し、根付いた遺恨は簡単には消えない事が、劫戈の身に染みていく。

その憎悪が向けられた劫戈としては堪ったものではない。怯えるように、小さく呟くしかなかった。

 

「……やっぱり認められねぇ。お前だってあの烏の子供の一人なんだろうが。ここに来たのは、本当に偶然なのか? 彼奴らの仲間なら……間者か何かなんじゃないのか?」

「ま、待って……誤解しないでくれ。俺は、何もそういう事でここに―――」

「劫戈よ。お前さんは返答してくれるな。ややこしくなるのが眼に見えている」

 

言葉で割って入った五百蔵からの注意を受け、劫戈は口を閉ざす。穏やかさが消え去ったこの場で、顔も向けない事もあり、蛇に睨まれた蛙の如く縮こまった。

 

「なんで庇うんだよ……! なんで俺達の、白い狼の群れ(ここ)に、烏がいるんだ! 明らかにおかしいだろう! まさか、アンタに限って、言葉巧みに騙されたっていうのか、五百蔵爺さん!!」

「それについては、わしが、ここにいて良いと許しただけだ。騙されている事は無い」

「なっ―――正気か、五百蔵爺さん……!? こいつは、あの(・・)っ! 木皿儀の血族……射命丸の意志(・・・・・・)を色濃く継いだ汚い血族だぞ!?」

 

「―――……!」

 

ぐらり。

蔑まれた事だけでなく、後者に入っていた言を受けて視界が歪んだ。

 

 

なんだと、どういうことだ。射命丸の意志とは何だ。自分は、そんな事を知らない。

 

 

光躬、空将、津雲―――この三名の誰かに当て嵌まる事なのは確かな事なのだろうか。茅が言った事が頭の中で反芻されていく最中で、ひたすらその意味を考える。

 

総意か―――それは否。

であるならば、否定的な光躬、厳しさを感じ得なかった空将の存在が成り立たない。二人は除外対象になると仮定する。

 

木皿儀は現状、射命丸の右腕的存在の血族だ。主な行動として長の補佐に回り、群れを治める中で常に強者共を集めた精鋭を率いては他種族に己等の優位性を見せる。常に上位種である為に、外敵から群れを護る抑止力となる為に。

 

では、何故に榛と茅の親類を殺したのだろうか。

 

優位性を見せるという事もあるが、その必要があっただろうか。完膚なきまでに痛めつければ、それだけで済む場合も実在する。痛めつけられた者達が、周囲に口頭で注意するによって抑止力が強まる事もあるのだから。死んでしまってはその強さが明確に表れて来ない事もあるのに。

 

殺す必要など、必要はなかった筈だ。

いや、その必要はあったのだろう。現に犠牲となってしまっている。

 

―――では、何故か。

 

その答えは最も単純で、もう目の前にある。探す必要はなかった。

劫戈はすぐに解った。血肉を与えられた者だからこそ、理解に至ったのだ。

 

「―――……っ」

 

結果を考えた末、答えに至り、寒気がした。

息子すら手に掛けようとしたあの男なら、殺りかねない。つまりは傲慢さ故の誇示。たった、それだけの為にこんな事態が起きてしまった。

 

仕方がない事なのだろう。烏天狗は、他種族との小競り合いが大きくなった世を、巧みな情報網で逸早く察知している。

 

曰く、海を隔てた大陸の強力な妖怪が攻めて入って来た。

曰く、風水が妖怪の対抗手段として注目されるようになり、より浸透し始めた。

曰く、猛威を振るっていた大妖怪が、人の皮を被った怪物に敗れて死に体で北に逃げ込んだ。

 

―――等々、群れを持つ者達を震撼させるには十分だった。

 

それらを知るに至った故に、急いた対処で、遺恨が広がっていった。それが、五百蔵の群れに過剰な被害を齎していた。

そんな謂れ因縁を、劫戈は深い思案の中で思い知る。

 

だから―――

 

 

 

 

 

 

 

「―――烏天狗は、貴方たちの怨敵なんですね……」

 

 

 

 

 

 

 

その一言が―――場を鎮めた(・・・)

 

劫戈の言動は無意識(・・・)だった。

それは非常に妙で、形容し難いもの。憎悪を、糾弾を、受け入れたような情の深いもの。小馬鹿にするようなものではない落ち着き払った言辞。

 

「―――!」

 

劫戈自身でもそれに驚き、瞠目した。

己だけれど、己ではない何かが、どこか高みから呟いたような気がしてならない。思わず出た言葉にしては、清浄過ぎていて困惑ものだった。

 

(―――俺は、今……何を言った……?)

 

音が消えた感覚。澱んだ空気が澄んでいく。

その場の誰もが思った事だろう、青い空が降りて来たようだ、と。無数に広がった温かさが、その場に居合わせた者達に染み込んだ気がした。

 

「お前……何を……?」

 

劫戈が己に何か施したのか、相手が困惑しているのか、茅は甚だ疑問に思う。

先程まで吼えていた彼は先程の憎悪の眼を無くし、怪訝さを纏うものとなっていた。そう、まるで最初から恨んでなどいなかったように。

それは涙を流していた榛も同様だった。曾祖父である五百蔵の胸に埋めていた時、押し寄せていた悲しみが忽然と失せていた。それはものの見事に、綺麗に抹消されたかのように。

 

「俺は…………」

「劫戈君……今、何をしたの?」

「―――お前さん、今のはなんだ? どこかで会った御方に近いような気がする……。何をした、何故じゃぁ?」

 

「え……え?」

 

榛と五百蔵に問われても、劫戈は答える事が出来なかった。それは当然だ。

自分で言ったのか酷く曖昧で、無意識にしては何かが違うもので、どこかがずれていた。

 

それを見抜いた五百蔵は深入りせず、無理矢理納得する事で幕を閉じる事とする。

 

「……ふむ―――なるほど、無自覚か。まあ、良い。……皆は仕舞いじゃぁ、仕舞いじゃぁ!」

 

手を二度打ち合わせ、それが解散の合図と捉えて、狼達は各々の塒へと散って行く。人狼の者も最後まで気に留めていたが、親族と思しき狼等を連れて戻って行った。

 

「お前さんらは残れ。頷き通すまで話そうぞ」

 

暫くが経ち、火元に()べた薪が弾ける音のみが駆け抜ける。

未だにその場に居続けるのは、五百蔵と茅。そして、劫戈と榛に朴。火の明かりを受けながら、火元を囲うように座り込む各々は、去って寝静まった今、身体を温めていた。

 

「すっかり、気が削がれたのう。茅、続きはわしとで話じゃぁ」

「ああ、納得出来る答えをくれ」

 

先達と若き者の瞳が交差する。反する、老い故の落ち着きと、若さ故の慌てるような勢い。

二人は一対一で話す気でいるらしく、三名を残して対面して語りだした。

 

「……俺はどうすれば?」

「では、我らと。劫戈よ」

「ぁ……朴?」

「そっとしておくのが賢明な雄の判断だ。拗れるのは避けたい」

「……っ。そうだな……」

 

話の最中にも口を挟むな、と言われたばかりな劫戈。

群れには群れの方針があり、長の言葉は絶対だ。寛大で壁を作らぬ友好的な姿勢の五百蔵が、豹変したかの如く厳としたのだから、余計に遵守されるべき事であった。

 

「榛殿も、それでよろしいか?」

「ええ、黙って聞いていましょう」

「……ですね」

 

三者は、五百蔵と茅の問答を見聞きし待つ事とした。

 

今宵を見守る星は一つ。

 

そして、横に光輪が一つ。それは確かに、小さな烏を見て―――微笑んでいた。

 

 

 

――――――

 

 

 

茅は五百蔵の話を聞いては、何回か、聞き返す事を繰り返している。それに含まれるのは、機嫌が悪そうな表情と言動。食いつくように、真実と理由を一緒に話す五百蔵へと耳が注がれる。

 

「―――その理由は?」

「その前にこれに至るまでの事を話そう。―――劫戈の父、日方は……津雲の親友に当たる男の息子なのじゃぁ。津雲も十分過ぎるほど厳格な男だが、奴……劫戈で言う祖父はそれ以上でな。婆さんやわしでも拱くほどに高圧的な男じゃぁった。息子たる日方は鏡写し、と言えばよかろう」

「……それで?」

「ふむ。……長の右腕。群れの方針に口出しでき、最も他種族を殺して回っている者。十分過ぎる事じゃぁ……。彼奴が日方を右腕に置いたのは、その親友の道を踏襲しているからだろうて。―――これで十分に解るかのう?」

「ああ。……日方は、傲慢……なん、だな……」

 

茅は怒りで震えた声を洩らした。

 

息子の劫戈を甚振った事実を知った時から、理由に至ったと語る五百蔵。そんな彼からの詳しい話を聞いた茅は実直に信じた。だが、ここで終わりとはいかない。

 

「殺され掛けて、五百蔵爺さんが助けた……と、いう事だな?」

「然りじゃぁ」

「そうか…………確かに恨むのは筋違いだったな」

無表情で呟く茅だが、瞑目の後に、強い意志を宿す紅い瞳を見せた。

 

「―――だが、信じるかどうかは別だ。烏天狗なんだ、信用に価する行動で示して貰わなくちゃ俺は信じられない」

「うむ。それで良い」

 

鵜呑みにせずに己で確かめるといった風の茅を、感心したように頷く五百蔵はそれで言葉を切る。

そして、あらぬ方へ顔だけを向けて、ほうと吐息一つを洩らした。

 

五百蔵の視線の先には―――隣山。烏天狗の根城。

それを睨み、老いを思わせぬ彼の眼が細められ、今まで見せなかった恨みの籠る眼を見せた。

周囲の劫戈達は、思わず身震いしたと思うと、各々が戦慄した。同時に悟る―――はやり、と。

 

「日方―――思い起こさせてくれよるのぅ」

 

―――ドン。

 

両肩に何かが落ちて来た。何が起きたのか、劫戈には解らなかった。

 

「ああ、そろそろ……重い腰を上げねばならねぇか」

 

一瞥して己の肩を確認するも、やはり、そこにはなにもない。故に、察した。

低音の重みが圧し掛かるのが解る。籠められたのは、果たして恨みか、怒りか―――言わずもがな。

 

「―――首を洗って待っていろ、塵芥(ゴミ)が……」

 

温厚な者ほど、怒ると恐ろしい。

口調が別人と成り掛けている。矍鑠さを通り越して、今にも喉を噛み切ってしまうようだった。

 

「―――っと、すまぬ。大人気ないのう……」

 

あっという間に、重苦しい空気が霧散した。

切り替えがうまいのも大妖怪だからだろうか。けらり、と心配させまいと笑った。

 

(……五百蔵さん)

 

長として、恨んでいるのは当然だろう。

かつて群れにいた末端として、複雑な心境である。劫戈は、内心でその気持ちを抑えていた。

 

 

ふと、仰ぎ見た空。黒の帳は、静かに己等を包み込んでいる。

 

今宵の夜空は、星一つしかなかった。

 




今回の話の要点はズバリ、劫戈の『兆候』。
そして、新しい作品の足場がさらりと誕生。怪物が云々です。実は案を温めています。

次回予告―――途中で茅君の視点へ移ります。(え、これだけry


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第一章・第五羽「脆い羽根」

気が付いたら少し長くなっていたわい。
栄養ドリンクを飲み干して、今までにない集中力を発揮。どんだけ(笑) いつもこうだったらいいのに……精進あるのみ、ですね。
その小さな烏、脆い羽根に込められたもの。
では、どうぞ。



美味い羊肉を堪能してから、雲一つない晴天な翌日。

 

「さて、修業と行こうか!」

「……へ?」

 

夜明けと共に告げられた唐突な五百蔵の発言に、寝ぼけたままの劫戈は素っ頓狂な声を上げた。

 

差し込む日差しは間を眩ませる。が、照り付けるほどでもない。それでも劫戈には非常に辛いものであった。

何せ、今までのこの時間帯は寝ている時である。彼の眼は開いていても頭が冴える事は無い。烏は鳥の仲間、その上位種である烏天狗も同じなため、仕方のない事だった。

 

突っ立ったまま、今にも閉じそうな重い瞼を持ち上げるも、欠伸の連発で余計に眠気を誘う。

 

「ふぁぁ~……眠いぃぃ~……」

「これ、寝るな。飯を抜きにされたいのか?」

「俺は烏ですよ、ぉぉ……」

 

ふらふらと、眠気の波に乗って頭という船が揺れ動く。

 

「しゃぁあないのう。昨晩、器量を測ると言ったのを忘れたか」

「んむ…………俺の……?」

 

言風を受けて波が傾いた。

そう、遡ると寝る前に言われた言葉。器量を測るという、劫戈としては突発的なものだった。

それが今、行われようとしているのだ。周りから偉大と称される者からの教授なのだから、今まで味わった事のないものとなるだろう。

 

 

そうだ。なにを甘えている暇がある。こんな機会を失って良いものか。

 

 

強くなりないという念は、凡愚が染み付いた劫戈自身、捨てていなかった。

故に、突き動かされた。

 

「―――はい」

 

すぐに了承した。甘えは許されないと思い出し、気を引き締める。

 

与えられた塒から出ると、複数の白い生き物が視界の中で横切る光景が飛び込んできた。

狼達が起き始めた辺り、皆の起床時刻なのだろう。通り道の隅で、朴がさり気無く長に対する挨拶として頭を垂れていた。

 

「行ってくるぞ」

「御気を付けて。劫戈も、な」

「おはよう、(ほお)。行ってくるよ」

 

朴と挨拶を交わして、五百蔵に続く。

五百蔵に連れられた劫戈は朝飯を取る事もなく、すぐ近い縄張り内の森へ向かう事となる。烏故に、朝に弱い彼は早朝の眠気に耐えながら後を追った。

 

「榛が飯を作るまでじゃぁ。戻ったら食う事になる」

「はい」

 

最初は辛い様子の劫戈だが、活力源たる朝食は事を終えてから榛が用意するとの事で、当然ながら御預けである。軽く返事だけして、二人は寝床を離れて行った。

木々が生い茂るところまで進み、行き止まりかと思いきや、林の中へ入り込んで雑草が倒れた獣道を直進。五百蔵は見当も付かない場所へ案内させる気だった。

 

「……?」

 

不安げに周囲を見渡しながら後を着いて行くが、老練な五百蔵の事である。何かの算段があっての事だろうと、劫戈は回らない頭でそう判断した。

そう思っている内に案内されたのは―――

 

「ここじゃぁ」

「おぉ……すごい」

 

修行場と称する、手を加えて一変させた場所だった。

林の合間を爽やかな風と共に通り抜け、太陽の光を遮る事は無い。林の中なのに、あらゆるものが直に入り込む不思議な空間だ。

 

切株が無数に並んだ地へ来た二人は、丁度良い台として切株に乗り立って対面する。

そこは、修業の場。雑草一本も生えていない切株だけの場所。まるで遮られた別空間のようだった。

 

さて、と一つ間を置いて、五百蔵が切り出す。

 

「始めようかのう」

「……どんな修業をするんですか?」

「うむ、簡単じゃぁ。妖力を操ってもらうのじゃぁよ」

「は、はぁ……」

 

期待を込めて問うたものの、五百蔵の大層な事ではないとでも言える態度に、劫戈は微妙な返事しか返せなかった。

 

「妖力を、操る……ですか?」

 

どう考えても初歩じゃないか、と唸る劫戈の反応は当たり前だった。

 

妖力とは、基本的に妖怪の在り方を決める源である。各々の意志や思いに応じて起伏し、その強度や濃度が変化したりする力なのだ。

妖力は妖怪の力故に、持ち主の意のままに操る事が出来る。一点に集めて向きを持たせて放ったり、膜にして広げ纏ったりと、妖力はそのような多様さを見せる。妖怪によって様々だが、五百蔵は、極めれば基本どんな事も出来ると言う。

 

これを前提にし、操る修行を行うとの事だった。

 

はっきり言って遍く妖怪が笑い飛ばすであろう。そんなの初歩である、と。

 

「初歩でもあるが、されど侮るなかれ。意味はあるのじゃぁ」

「でもそんな、ただ操る、と言われても……どのようにすればいいんですか? 俺は成功した事がないので、出来るかどうかなんて……」

「むぅ? そう、か……。まずは手本でも見せようかのう。そうじゃなぁ…………お? あれが丁度良いのう」

 

五百蔵は劫戈の疑問に、顎に手をやって暫し考えると端に立つ木に向かう。

ひょい、と一っ跳びで、瞬間移動(・・・・)の如く近付いた。

 

「き、消え……!?」

「たとえば……このような、のう」

 

五百蔵は劫戈の驚きを余所に、目当ての木を指差した。

それは、劫戈の胴体よりも太く大きな木。天に向かって立派に生えた緑の象徴は、五百蔵よりも何倍も十倍も高かった。

 

そんな木に対して、五百蔵は人差し指で軽く突く。

 

「よく見ておれー」

 

瞬間―――触れた木が弾け飛んだ。

 

「―――は?」

 

木片が頬を掠め、夢などでなく実際に起こったと理解させた。

未だ生命が宿っている証を残した木葉が、風に乗ってゆっくりと落ちていくのが解る。無理矢理に力が込められて、痛々しく損壊した木の音が耳に残っている。

 

あまりに衝撃的だった。幹も、根も、木を構成する全てを―――跡形もなく爆散させたのだ。

 

実に呆気なく、そして恐ろしい行為である。

 

そんな馬鹿な、彼の胸中はこれ一つだろう。

触れただけで木が粉々に爆散するなど、誰が予想出来ようか。言葉で表すのは簡単だろうが、劫戈にはそんな出鱈目が出来てしまう事が信じられず、ただただ驚愕していた。

 

「木が……え、そんな……」

「わしくらいになると、これは朝飯前になるのじゃぁ。まぁ、危な過ぎてお前さんには教えられんがのう。どうしても、というなら―――」

「覚えたくないですっ!」

「うむ。賢明な判断じゃぁ。それで良い」

 

関心ものじゃぁ、と頷く五百蔵を見ながら、実直に返答した劫戈の背には冷汗が伝っていた。

 

「何故見せたんですか」

「先達の芸くらい見たいじゃぁろう?」

「…………」

「くっくっく……」

 

五百蔵はその様子を、喉で笑う。

劫戈は思わず血の気が引き、己もいずれああなるのか、と慄きながら息を呑んだ。

 

「気を取り直そう。緊張は解れたかのう?」

「ぁ…………御蔭様です。有難う御座います」

「良い、良い。構わん」

 

五百蔵は更に笑って返した。

無意識だろうか、劫戈も釣られて口元で小さな笑みを浮かべていた。この老爺、子供を十全に解っている、と劫戈は内心で驚く。

 

「まずは言わせてもらうぞ……お前さんは妖力が極端に少ない。そこで、じゃぁ……。一番効率の良い方法で鍛えようと思ぅとる」

「……それは、どんな方法なんですか?」

「これじゃぁ」

 

劫戈の問いに、五百蔵の両手が彼の眼前に突き出される。それは何かを持っているようで持っておらず、掌間の中央で細く光る何かがあるだけだった。

 

「これは……糸?」

「そう。お前さんにはこれをやってもらう」

「糸を妖力で作れ、と……?」

「うむ、まずはやってみよ。間違いは途中で指示を出すからのう」

 

眼を凝らせばすぐに解る、蜘蛛の糸と見紛うほどの細い糸を、五百蔵は作れと要求する。

修業の内容は、単純明快。掌間で妖力を注ぎ込んで細い棒を作り、更に細くして糸にしていくという作業で、実に単純としか思えなかった。

 

「ふー……。よしっ」

 

余計な事は忘れ、気合を入れて励む事にする劫戈。

彼の少ない妖力が、腕を伝わって掌へ。集まる黒い何かが掌から溢れ、燐光となったそれはどんどん線状として密集していく。

 

だが―――

 

「あ……」

 

糸が出来る前に、太いまま捩じ切れた。

 

これが、この修業の落とし穴である。

一見、聞くと単純な行為ではあるが、それが真に意味するのは妖力制御の精密さを要求する事。たかが小さな妖怪が見様見真似で簡単に出来る芸当では、決してありえない。

 

故に、二度目は細過ぎて切れた。

 

「っ! まだ……っ」

「待たんか。そんな一度に多く注いでは逆流する、急いてはいかん」

「は、はい……」

 

しかし、今度は。

 

「力むな。肩に力が入り過ぎておる」

「こう……?」

「指に力を込めるな? 手の腹で良い」

「……!」

 

すぐに直せと指示が来て、すぐに指示通り実行する。

なんと厳しく、なんとも嬉しい指導だろうかと誰もが思う事だろう。弱小妖怪ならば、各々が畏怖し憧れる大妖怪が自ら細かく教えてくれるのだから、劫戈の熱心な食らい付き様も当然だろう。

 

まだ、と意気込む中で、今度は破裂する。

 

(……落ち着け。焦っちゃ駄目だ!)

 

己に存在する小さな力。己の力にして、己を器とする妖怪の象徴。

ただ集中するのみ。引き出して、両腕へと持っていき、ゆっくりと手と手の間で繋ぐ。

 

「……よし」

 

手への経過から繋がったなら、今度は細くする作業。

これに最も集中力を要する。決して欠いてはならないものだ。

 

「―――っ」

 

指の細さまでは順調だが、それ以降がどうも上手くいかなかった。

 

ぐにゃり。

 

妖力の棒が、無視するように乱れて揺れ動く。引き延ばして余分な量を腕へと戻していくものの、言う事を聞かない。己の一部でありながら、なんとも反抗期な事か。

 

髪から滴った汗雫が、黒が―――。

 

「うぐっ」

 

―――霧散するかのように弾けた。

 

 

何故、少ない。何故、言う事を聞かない。何故、俺だけ。何故、何故、何故、なぜ、なぜ、なぜ、ナゼ―――。

 

 

ぶわ、と汗が噴き出す。

額には玉のような汗が浮かび、凄まじい疲労感が身体を駆け巡った。重くなる身体が、それを自他ともに伝える。

 

「つっ。はぁ……はぁ……」

「ふむ……」

 

それでも、再度妖力の糸を組み上げる―――千切れ、棒が出来て、千切れ跳ぶ。

 

「―――ぬ……?」

 

それでも、と懸命に励む劫戈を見守る中で、五百蔵は何かを感じ取る。普段前へ垂れている耳が微動した。

 

「えっ? な……何か拙い、ですか?」

「む……おお、相済まぬ。なに、茅も修業しておるようでな。少し気になってしもうたのじゃぁ」

「―――っ。……茅君が?」

「気にせんで良い」

「……はい」

 

茅の事に関して露骨な反応を見せた劫戈だったが、五百蔵からの一言で気にしない事にした。

 

それ以降から何度も続ける劫戈だが、線の出来は区々で雑。最終的に千切れる事を繰り返した。

そんな時、見かねたように五百蔵が口を開く。

 

「のう……お前さん、前にこれ(・・)と似たようなものをやった事があるなぁ?」

「うっ……!?」

 

五百蔵の確信の籠った指摘に、劫戈はびくりと反応する。

これ、とは言わずもがな。本来ある筈の戸惑いがない事から見事に見抜かれた。

生まれもしない戸惑いの無さは、五百蔵の指摘通り。別に恥と言う訳ではないが、劫戈はどこかで迷っている節が見受けられていた。

 

どうしてそれを、と賢明な顔を焦りと驚きに切り替え、五百蔵の静かで長く待つ問いに口を開く。観念するように、吐き出すように。

 

「……前に何度か、試した事があって……。でも、糸を作るのは、初めてです……」

「なるほど、道理で……順応が早いわけじゃぁのう」

 

納得する五百蔵は、一時中断して息を整える劫戈を見た。彼の灰色の隻眼には、期待が半分、焦燥が半分混じった雑念が浮かんでいる。他にも、根付いた曇りがあった。

 

「……今日はこれで良いじゃろう」

「え? 五百蔵さん……?」

「さぁ、飯じゃぁ。食べに行こうかのう」

 

まだ始まったばかりだと言うのに、突然の中断を言い渡す五百蔵。

困惑する劫戈を促し、五百蔵は顎に手を添えて朝食を取りに戻るように言いつけた。

 

「疲れたじゃぁろう。明日に向けて、今日の反省を考えておくのじゃぁ。発展経過を見る」

「は、はい……。わかりました」

 

お天道様は、いつも通り過ぎて気味が悪い。

その日は、五百蔵は劫戈に特に何もさせず、暫し考えると伝えられて、ただただ夜が明けていくのだった。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

「今度は緩い。力を籠めろ」

「はい!」

 

翌日明朝、昨日と同じ場所。

五百蔵は劫戈の発展経過を見て、指示を飛ばす。

 

同時に、思考に耽っていた。

 

考える内容は勿論の事、はぐれ烏こと、木皿儀劫戈である。

 

彼の妖怪としての弱さは、実力主義の世の中では底辺でしかなく、逆らうなど出来はしなかっただろう事は、劫戈の話や性格で判明済み。

烏天狗の長である射命丸津雲の方針は、“強き者で在れぬ者は不要”を掲げている。劫戈が追放されたのは定めであり、覆しようのない彼自身の弱さが元凶。

 

この弱さと先日の焦りを見れば、五百蔵はその理由を思い至り、長らしく頭を捻る事となった。

劫戈は一見、大人しい良い子に見えるが、内面でも冷静を装ってはいるが、荒れて消耗しているだろう。考えれば、十分に思い至れる事。

 

(ああいう子は、良くも悪くも怒りを溜め込みやすい。故に、危うい。そろそろかのう……)

 

劫戈は耐える子供であるが、同時に脆い面をひたすら隠す傾向にあった。初見から向き合っていたからこそ、言動と思考の把握が容易である。

既に五百蔵は、劫戈の在り方を看破していた。

 

心の在り方は、少し不安定。されど打ち込む姿勢は好ましい二律背反。

 

危ういと言える心境があり、それ故の焦りがある。

彼は大物になってくれる気がする。芽吹いた期待感が、底知れぬ何かがあるという思いが膨れていく。

だが、先の焦りが邪魔をする。子供には、明らかに悪影響なものだ。

 

 

ならば―――

 

 

払拭せねば、と考え始めた傍ら、彼の千里眼(・・・)に雪色が入り込む。

 

(ん? ふぅむ……お前もか)

 

五百蔵は呆れ返って、それを齎した者を見やった。

 

彼の眼は千里眼なる特殊なもの。かつて、妖怪を極めた先に会得した慧眼。

実際の眼に映る修業場の風景と、眼にしていない塒近辺の様子を見る事が出来ていた。

 

榛に一言伝え、そのまま早歩きで塒から離れていく一匹の人妖。

思考の渦から戻った五百蔵の矍鑠とした赤い眼に映ったのは、いつものように修業場へ向かう、干し肉を咥えた若い曾孫の後ろ姿。ここの所、仏頂面しかしていないのが顕著だった。

 

「……修業どころではないのう」

 

全く、と内心で愚痴を吐きつつ、はぐれ烏に眼を向け直す。

間違いなく引き摺って、心中を窘めている。それが今の両者(・・)だった。初日以降、会っていなくとも、互いに己を諌めているのが丸解りである。

 

 

丁度、頃合いか。

 

 

「さて……劫戈よ。一度止めて、わしと話そうかのう」

「……え?」

 

五百蔵は、二人の懸念を払うべく切り出した。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

日差しを受けて緑が反射し、嬉しそうに木々が天を昇る。

その逆も然り。対する日光は、それを是とするそんな彼等を助長させるべく、静かに佇む木々に降り注ぐ。耳を澄ませば川の音や小鳥の囀りすら聞こえてくるのも、いつもの後景だった。

 

そんな生い茂る林を背に、一人開けた場所で揺れ動く者がいた。

 

雪色の耳と尻尾を携え、紅い眼で前に置き据えた丸太を睨む少年―――(ちがや)

彼は白の纏いを装い、機敏に拳を前へ弾き飛ばす。半袖に通された腕が、視認できない程の速度で、何度も繰り返した。

 

「……ッ!」

 

突き出した拳が空を切り、全身の肉を伝った汗が散る。

汗が地に着くまでの間、そこにあった風が唸りを上げて弾き飛ばされ、風切り音が響いた。

 

「―――はぁッ!!」

 

瞬間に次撃、右から左の拳へ切り替える。

早業というよりも、彼にとってはそれが当たり前の速度で繰り出されていた。膂力が余す事無く引き出した上で空気に叩き付けられる。

 

轟、と周囲に伝播する。その後、汗一滴が地に落ちた時、事が終わっていた。

 

僅かな間を置き、―――派手な音を立てて、丸太が石を割ったように砕かれる。下半分は衝撃に耐えられずに横に倒れ転がり、上半分は小さな木片となって勢いよく宙を舞った。

 

彼の前方にどっしりと構えられていた丸太は、彼の胴体並みの太さである。

拳を直撃させた訳ではない。拳には風を切る程度の負担しか掛けられていないのだから。

 

「よし、上出来だな……」

 

そう、拳を突き出した際の拳圧で、ものの見事に砕いていたのだ。

 

まだ若いながらも日々を練磨に注いでいる茅は、今日も数百を超えた回数を熟している。故に引き締まった肉体は、次代の若者らしい頼もしさを備えて、このような事も平然と行えた。

 

「ふう……この辺でいいか」

 

溜息一つ洩らし、傍に置かれた丸太の上に茅は腰掛ける。一時の休憩を取ろうとした時、不意に、気に入らない男を思い出した。

 

(木皿儀劫戈、か……)

 

五百蔵が連れて来たはぐれ烏。ここ数日間、五百蔵に連れられて力量を測る日々に明け暮れていると言う。

 

若手の中で年長の彼は毎日の修業を怠らないが、奴も奴で怠るどころか食いつく姿勢を見せたと、様子見に行った姉から聞かされた。それは好ましいのだが、個人的には烏に長が教え込むと言うのは些か行き過ぎているのでは、と考えてしまう。

他の者が立ち会っても気まずく円滑に修業出来ないというのも頷けるが、やはり長が出るほどの事ではないだろう。とはいえ、他にやりたがる者はいないのも事実。

 

だからこそ、長の五百蔵が直々に教授しているとの事だった。

 

「烏の癖に……」

 

実に面白くなかった。いきなり現れた者が、怨敵の息子で、尊敬する長に見込みがあるからと言われては。

 

「所詮は烏だろうが……何を仕出かすか解ったものじゃないのに。……くそっ」

 

これは己が嫌う嫉妬なのだが、やはり認めたくない気持ちが強かった。なんとも苦しい二律背反。

 

 

姉は許した。長も許した。では、己は―――。

 

 

「チッ……苛立つなぁ……」

 

舌打ち、顔を顰める。

本当は知っている、劫戈に罪はないのだと。それでも木皿儀の血を継いでいる者を許す気にはなれない茅は、どうしても認められなかった。

五百蔵の教えに従い、修業中の身に私怨を混じるのを嫌う彼は、邪念を払おうと立ち上がった。

 

「滝行でもやるか……―――あ?」

 

川を上った先にある滝へ向かおうとしたところで、瞠目した。

眼に飛び込んでいたのは、先程まで罵っていた対象だったからだ。

 

男の子らしい短さで、ぼさぼさな上に汗でやや濡れている黒い髪。同じく、腕くらいに長い黒一色の羽根。

閉じられた右眼の跡は、外見的にも喪失させるだけでなく、蟀谷から上に向けて刻まれた痛々しい裂創跡の中央に晒されている。

姉の榛によって新調された衣服は、烏天狗の麻衣裳ものではなく、白い狼一族独特の白い布へ変えられている。

 

言うまでもない、木皿儀劫戈、その烏。

何かを決心したような眼で見てくる彼は、茅を唖然とさせた。

 

「お前、何しに―――」

「俺の……」

 

来た、と問おうとしたが、先に言われて遮られる。いきなり来てなんだと思う茅だが、子等の年長者としての矜持故に怒鳴るような事はしない。

 

「俺の話を聞いてくれませんかっ?」

「……はぁ?」

 

真面目な内容らしい劫戈に対し、茅は頓狂な声を上げて戸惑った。

 




ようやく、劫戈の実力が公開出来ました。まあ、一部ですが。
当初は、劫戈と茅だけの視点にするつもりが……何故か五百蔵の視点が入っていた。集中していた筈なのに、意図していないのに入り込んだ。―――流石、五百蔵。大妖怪パネぇ(アホか

今回のお披露目はこんなもんですね。では、次回もお楽しみに ……。( -_-)ノシ



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第一章・第六羽「我が身に流れる血」

立ち向かえ、小さな烏。天は観ている―――。
では、どうぞ。

※8/15に投稿したものに大幅な修正を入れ、改めて投稿しました。



我が身に流れる血は、誕生から呪われていた。

 

この世には人間がいて、対抗するように妖怪達が跋扈する。久しい近年より、海を隔てた大陸から、伝来した外来物を多く垣間見るようになった今の世。

 

そんな世で、俺は本当に必要とされていなかった。

 

突如、飛来した噂。

其は―――人の形をした怪物。

其は―――発展する対妖の技術。

 

その脅威を退ける能力は、日増しに求められた。

群れが必要としたのは、ただ強固で頼もしい存続能力。数多の脅威を退け、目的を果たせる実行力。揺れ動くだろう未来を乗り越える術。

 

結局は強者がモノを言うのだ。

種の存続において、弱き者が置いて行かれる時代がそこにあった。

 

 

やっと、考える余裕が生まれて、酷く恨んだ。

 

 

孤独と叶わぬ夢が、苛立ちとなって腹の中に降り積もっていく。

 

第一の原因は、はやり血統だ。

常に厳しい父とそれに倣う母がいて、己よりも数段優れた弟がいた。凡愚と違って、酷く羨ましいくらい強く賢い者達。

だから、どうして場違い過ぎる俺は生まれて来たのだろうか、と思い悩む日々が多々あった。爪弾きに会う事が慣れてしまうほど、うんざりしてしまうほどに。

 

そんな時、あの日から変わった―――いや、確実に変わった。出会いは些細な事だったと記憶している。

 

近所付き合いというありふれた事で出会った、麗しい娘。

いつも自虐するばかりな己とは正反対に、笑顔を向ける()―――光躬。眩しいくらい大きい存在だった。

 

君の眼を見て。

君の声を聞いて。

気付くと救われていた事は数え切れない。

 

「―――私と友達になってくれる?」

 

幼さが齎す些細な思慕。

この一言がなければ、今頃己は壊れていたのかもしれない。

君はいつも、木皿儀劫戈という俺に救いを齎した。ただ嬉しかったのを覚えている。

 

数年が経つと、やはり凡愚は拭えないのが解ってきた。

羨ましかった、欲しかった、認めてもらいたかった。当たり前な妖怪らしい姿を。

どれほど、我が身を痛めつけるという度が過ぎた努力を繰り返したのだろう。周りが見えないくらいに、血眼になって鍛練した事だけは解る。

 

しかし、やはり凡愚には変わらない。

己のやっているのは将来実る事なのだろうか、凡愚は死ぬまで凡愚なのではないか。

 

君は笑ってくれるが、それは一時の安らぎに変わった。心のどこかで、諦めていたのかもしれない。君に甘えるようになった。

 

遣り方を違えたのか。どれほどの鍛練を繰り返したのか。思い出せない。

 

叱られ。

怒鳴られ。

嗤い罵られ。

目指す夢と諦観の間にある、深く暗い谷を往復する。

 

「―――この群れから出て行け」

 

父母、弟は冷たく見離した。

群れから勘当される事実を知ると、必死に撤回するよう求めた。

ここで追い出されたら、今までの努力を、夢を否定されてしまう気がしたからだ。

 

だけど―――本当は、光躬と離れたくなかったから、なのかもしれない。いや、多分そうなのだろう。

 

弱くて、小さくて、(あぶ)れた。故に、叫んだ。

 

 

助けてくれ。

 

 

醜く我を狂乱に委ね、涙した。

それに応えた君は俺を包み込んでくれた。君が許しても意味はない、と疑い罵倒しても尚、涙を流しながら離さなかった。

 

なんということだ。

醜い己とは正反対で、君は優しくて温かい。

 

「好きだよ、劫戈」

 

諦念の先に待っていたのは告白。

女独特の甘い情愛が伝わり、一時の合間に心へ染み渡っていく。

 

 

ああ、俺だって好きだとも。ああ、そうだとも。

 

 

だが、悲しいかな。

所詮は若者故の情動。それは全てを覆せる力に遠く及ばない。

俺は周知の凡愚、君は周知の天才。追放された俺と期待された君とでは、結局は叶わないのだから。

 

俺は木皿儀の子、凡愚の烏。

最初から、奴の息子として生まれて来なければ。

 

我が父よ、血肉を与えた日方よ。

こんな凡愚を救ってくれた白き狼の親族を殺した者よ。貴様の血縁者など、誰が望むものか。故に、俺は忌避する。

 

 

 

嗚呼、太陽。

 

すまない、我が陽よ。

 

生きる事を諦めてしまって。

約束を果たせそうになくて。

君に対面出来る気がしなくて。

 

君を想ってしまって、すまなかった。

 

悲しませて、泣かせて、後悔させたと思う。いっそ、俺なんか忘れて幸せになってくれると嬉しい。

 

 

呪われた我が身は、酷く使い物にならない。憤りが募るばかりで、実らせるどころか、花を咲かせるにも至らなかった。

 

もう君には―――。

 

 

 

振り返るのを止めて、眼を開けても、何処にも君がいない。

せめてもう一度、会って謝りたい。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

続いていた無言の圧力。

雪色の耳と尻尾が微動すらせず、持ち主の意志でただ佇んでいた。

 

「……で、話ってのは、なんだ?」

 

許可を出すように、仏頂面なまま問い掛ける茅。

物言わぬ木々が囲む開けた場所で、劫戈に話をしようと持ちかけられた彼は年下の小さな烏を見やった。

 

そんな茅を見据えた劫戈は、ただ静かに灰色の隻眼を一度瞑目―――そのまま跪き、頭を垂れた。

 

「謝罪させて欲しいんです」

「あぁ?」

「俺の父が、貴方達の親族を殺してしまった」

「お、おい―――」

「本当に……すみませんでした……!」

 

茅は茫然とした様子で劫戈を見ていた。

罪悪を自覚し、震えながら悔い改める劫戈は、どこか盲目的に己の咎を責めているようでもある。茅でも十分過ぎるほど、劫戈の怯える様を見受けた。

 

 

どうか、許してください。

 

 

吐き出すように、恐れるように己の事を打ち明ける劫戈の胸中は、それ一色に埋め尽くされていた。

 

「―――なにをやってる……」

「謝っても許されないのは解っています。だから……それでも、気が済まないなら、俺を―――」

「何やってんだ、お前はぁっ!!」

 

対し、憤りを感じた茅。堪らずといった風に叫ぶ。

 

「馬鹿がっ! 俺は、お前にそんな事をして欲しいんじゃねぇ!」

「……!」

 

片膝を付き、劫戈の両肩を掴んだ茅は、姿勢を元に戻そうとする。

が、若手でも明らかに強者の部類に入る茅でも、びくともしなかった。その有り様に驚く茅を余所に、彼は謝罪を止めようとはしない。

寧ろ、己の罪でないのにも拘らず、ただ何かに恐れ、許しを請うようであった。

 

「お前って奴は、なんて面倒な奴なんだ……!」

 

呆れて何も言えなくなって、天を仰ぐ茅。

 

「ったくよぉ……あぁもう、解ったから顔上げろ」

「…………」

 

漸く頭を上げた劫戈の顔は、酷く沈んだようなものだった。たった一つの瞳は不安に揺れ動いている。

今までの真面目な顔が見る影もない無様を晒す。それ故か、茅の呆れ顔に微かな引き攣りが入った。

 

「あー……取り敢えず、だ」

「……?」

 

一間置いて。

 

「―――歯ぁ食いしばれぇッ!!」

「ぶっ―――」

 

雪色が振り抜き、小さな烏は宙を舞った。

どさり、と身を横たえた烏を覗き込んで、弱々しい態度に口を尖らす。

 

「うぅ……っ!?」

「怯えんな、阿呆。そんな物腰じゃ、舐められて終いだぞ。俺が本気だったら今頃、死んでる。そんな態度で謝られても警戒されるだけだ」

「―――っ!」

「前の群れでもそうだったのか? ここは天狗とは違う! いいか、お前は迎えられた。まあ俺は、少なくとも今の内だけは反対だがな」

 

それは置いといて、と続ける茅。

挙動不審に震える烏に檄を飛ばし、活気付けようとする。

 

「―――遜らず言いに来いってんだよ。そんなだから気に入らねぇんだ」

「ぁ……っ! わ、わかりました……」

 

茅の深めに発した声が、情緒不安定だった彼の元に届く。

ようやく、本来の我に返る。精神に異常を来した劫戈は正気に戻った。

 

「よし、話せ。なにがお前をそうさせた?」

 

 

 

――――――

 

 

 

「やっぱり五百蔵爺さんの差し金か……」

 

嘆息し、天を仰ぐ。

座り込んで見上げた空はまだ青く、日も眩しいくらいに出ている。文字通り、晴天だ。

 

「……まったく」

「うぐっ……」

 

だというのにこれである。

隣には左頬を赤く腫らした小さな烏がいて、沈痛に耐えていた。いじめられたかのような酷い顔で、色々と台無しになっている。

 

どうしてこうなったのかを問い質され、劫戈は茅に理由を説明した。

 

五百蔵から気に留める事があると看破され、茅や榛らに対して自責の念があったという事を見抜かれたという。優しく接してくれた恩人達を、知らぬ間に苦しめてしまった事実を知って心が痛む思いだったらしい。

五百蔵が保護してくれたとは言え、いずれは殺されてしまうのではないか。

 

劫戈は、微かに抱いた。対する茅にはそんな気は毛頭なかったのだが。

 

「す、すみませんでした……」

「ああ……いいよ、構わねぇ。もう、手は出さないし、文句も言わないからよぉ」

 

茅は空気を払拭する勢いで無理矢理話を切り出す。

同時に、雪色の耳が力なく萎れていく様子が、とても彼に似合わなかった。

 

「で、だ……」

 

いい加減に向き合おうと、姿勢を正して劫戈に幼さを僅かに残した顔を向けた。そして、歯切れ悪く口を開いていく。

 

「あー……その、だな……。俺は最初、お前を疑っていたんだ。間者なんじゃないかってさ」

「それは……当然、だと思いますけど……」

 

活気溢れる兄ちゃんを思わせるいつもの茅は、ばつが悪そうに話し出した。いつもと裏腹な態度だが、彼の眼は劫戈から一切逸らさず真摯に向き合っている。

劫戈も対等に話すべく、姿勢を正しつつ抜け切らない敬語でそう返した。

 

「長が許したのが……姉さんが許したのが、どうしても信じられなくてな―――今じゃぁ情けないと思ってる」

「……無理も、ないですよ。家族が殺されたのに、簡単には……」

「許す気はねぇよ」

 

すぐさま返答された。

 

そう、許せる筈はない。

温情深い一族は、間違いなく家族を大切にする。一族なら、隣人でも知り合いであっても。

見当違いなのは両者ともに理解している。が、感情はそうかと言われれば、そうもいかないのが理性を持つ生き物の性である。

 

「です、よね……」

「それは後だ。なんで、あんな態度を取った?」

 

茅はある程度の予想が付いているも、敢えて吐かせようと問うてくる。

瞳を閉じた劫戈は、静かに俯いた。

 

「俺は……俺は、長や父から……虐待されて、いました。だからっ……!」

 

茅は黙って耳を傾ける。

その紅い瞳で見据えながら。

 

「だから……大事な人を奪ってしまった事が、怖かったんです……」

 

劫戈は絞り出すように吐露した。

そう、希ったものを持つ救いをくれた者達への幸を壊してしまった。幸をくれた者達に、不幸を与えるという皮肉。

 

己が生まれぬ間に父が殺した事で、間接的でなくとも血での繋がりがある。幼い彼は、それで咎められると思わざるを得なかった。

 

「別にお前が奪ったとは誰も言ってないだろ……」

「それは知ってます。でもっ!……俺も同じ木皿儀だから!」

「お、俺は……確かに同じとは言ったが、お前自身を責めた訳じゃ……―――あぁ、悪い。そう解釈したのか……」

 

茅は苦虫を潰した顔を晒した。

そんな彼らしくない滑稽な姿は、劫戈の視界では上手く映らなかった。

 

「…………?」

 

気が付くと、視界がぼやけていた。意識はしっかりしているというのに。

頬を伝うのは、温かい水のような何か。込み上げてくるのは、果たしてなんなのだろうか。

 

今の劫戈にはとても理解が及ばなかった。茅はそれに逸早く気付き、その根底を理解する。

 

「お前は……そうか。俺達の……」

「―――憧れたんです……温かい家族に……!」

 

続くように吐き出す劫戈。

自分にはないものを他者が持っている事に対する羨望。

でも、手にする事はなかった。壊れやすい割れ物を繊細に扱うように、見守る事しか出来ないから。

 

 

群れとまではいかなくとも、せめて家族が優しかったら。

 

 

助けてくれた五百蔵には、かつて一瞬で諦めた劫戈の理想を体現した家族がいた。見ず知らずの己を助けてくれた恩人から、羨望に勝る癒しの念が注ぎ込まれる感覚。劇的な変化をくれた思いを、数日経った今でも心に残っている。

 

だから、関与していなくても、深い傷を負わせてしまっている事に罪悪感を抱いたのだ。

 

「俺は、俺は……木皿儀日方の……!」

「もういい……寧ろ俺には、八つ当たりのようにお前を責めた非がある。―――劫戈、この前は責めてすまなかった」

「責められて、当然なん、です……おれも……ごめんなさい」

 

二人は頭を下げて謝った。

 

劫戈は瞼に溜め込んで。

溜め込み過ぎて。

 

「ごめん……なさ――――――ぅ、うぁぁあああああ……」

 

決壊した。

堰を突き破って泣き崩れる劫戈を、謝罪の意を示した茅はそっと優しく彼の肩に手を置いた。

 

「責められて当然、か……。変わった妖怪(やつ)だよ、お前は」

 

それ侮蔑ではなかった。ただ、感慨深く一つの個性を魅入る言辞。

若き千里眼の持ち主―――茅は悲しみ故に涙する弟を宥める気持ちで、小さな烏に接していた。

 

今まで苦しかったのか、と思う茅。

千里眼が開花し始めた茅は、劫戈の貧しい苦境故の心境を見抜く。

彼は五百蔵の曾孫であり、白き狼の群れを率いる太祖の血を継ぐ者。榛に次ぐ、直系だ。

物理的な距離や物事の起因をも見抜く千里眼は、彼にも遜色なく引き継がれている。まだ練度も浅い若い身でありながらも、今では断片的にならば見る事が可能だった。

 

故に、茅は僅かながらも、劫戈が抱く感情を読み取っていた。

劫戈の妖怪らしからぬ姿勢、利己的な面を持たない優しい心を。

 

そこで茅は不意に、何を思ってか口に出す。

 

「なぁ、泣き止んだら……約束して欲しんだがよ」

「なんっ……です……か?」

「いやぁ、なに……男なら、もう泣くんあじゃぁねぇよって言いたいのさ」

「……泣くなって、言われても……止まり、ませんよっ……どうしろ、って……言う……です?」

 

茅は息を吐き出した。隠さず呆れて。

 

「はあ、言うと思った。喜べ、そんな弱っちぃお前にはやって貰う事があるぜ」

「……?」

 

嗚咽が深過ぎたのか、深く息を落として返答する劫戈。

 

「―――俺と戦え、喧嘩しろ!」

「……は?」

 

それは、茅らしい考えだった。

その言葉に思わず頭を上げた劫戈。何を言い出すんだ、と言わんばかりに顔を驚愕に染める。御蔭で涙が引っ込んでしまった。

茅はそれを愉快そうに見て、劫戈を立つように促した。

 

「取り敢えず、力をぶつけて来なぁ! この場合は純粋な力じゃなくて意志を、だがな」

「俺の……意志……を?」

「そうだ。お前は前々から痛感してたんだろ、妖力の無さを。ならよぉ、妖力じゃなくてお前の意志の強さを見せてみろってんだ」

「え…………」

「負けない、勝ちたい、一泡吹かせる……! そんな感じでよ、なんでもいい。ほら、俺は妖力を一切使わねぇから……素手で来い」

 

さっ、と跳躍。

唖然と見ている劫戈から大きく離れ、拳を構える茅。

揺れた雪色の尻尾の毛先で器用に手前へ―――挑発として揺らされる。指の代わりとしては力がなく、とてもふわふわしていた。

 

「―――もう泣かないって俺に示せ!!」

 

物静かな尻尾とは裏腹に、茅本人は大きく吼え鼓舞する。

対して、劫火は。

 

「と、言われても……」

 

当然ながら動揺した。

相手に何か意図があってのものなのか、と探ろうとする。が、既に茅はやる気に満ちており、赤い瞳が力強く己を見据えている。どうにもならないのは明らかだった。

 

「大丈夫だ、嘘はつかねぇよ。何度も言うが、妖力は無し、ただの素手で遣り合うだけだ」

「…………」

 

簡単だろ、と笑んで見せる茅を無言で見る劫戈は、はっと短く息を吐き出した。

 

目の前にいる雪色の若い狼は、己を試そうとしている。ならば、応える他ないだろう。

相手は五百蔵の曾孫である。烏よりも思慮深いのは、既に見て話して感じていた。

 

 

五百蔵のように、茅もまた己を測ろうとしているのではなかろうか。

 

 

無言で考える。

茅も、言葉を発さず待っている。拳で語れ、と。

 

(そういうことなら……今は委ねます)

 

もう言葉は要らなかった。

 

「―――わかりました」

「へえ……良い眼出来んじゃないか……よし、来い!」

 

返答に至って、たった一つの灰色には、今まで見せなかった強い光が宿っていた。

 

邪魔にならぬよう小さな羽根を背に畳み、二つの拳を握って茅を真似る。陳腐で素人な構えだが、特別な技能など要らない。今はそれで良かった。

 

脚に力を入れ、沈ませ即弾く。人はそれを、地を蹴る、と言う。

 

「う、ぉぉぉおおおお……っ!!」

 

意を決した小さな烏は、飛び出した。

 

白い狼はただ笑む。これで良い、と。

遠くで眼を光らせる長を意に介さず、両者は対峙した。

 

 

 

それは劫戈にとって、初めて挑んだ異種との戦い。どんな形であれ、小さな烏を前へと踏み出させた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――これは後に、白い狼一族間に於ける“隻眼のはぐれ烏”の武勇伝として語り継がれる事となる。

 

 




次回は茅と劫戈が殴り合う話。


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第一章・第七羽「拳語り」

投稿は実に一ヵ月ぶりですね。
執筆時間が取れず、憤りが募っていく長期休みでした。ありえんよ、ってくらいくっそ忙しいぃ……チクショウメェェ!
失礼、愚痴りました。

―――這い上がれ、少年。
今回は作者の大好きな戦闘シーンです。いつも以上に熱が入ってしまい、推敲に手間取りました。頭が一種のカオス状態(笑)で執筆しましたです、はい。書き方も若干工夫。
※本主人公、“劫戈”の顔のみの手書き設定絵を後書きの方に用意しました。飽く迄イメージなので、悪しからず。
では、どうぞ。

サブタイトル変更、1/11に実行。


若気の至り―――それは是。

 

だが、今だけは違った。

 

思い返せば、欠点はいくらでもあるものだ。年寄りは、意外と分かっていらっしゃるようで、簡単に見抜かれてしまうのも頷けた。

 

短慮が、誤解が、浅はかさがあった。青いな、と言われるのは当然であったのだ。

 

 

 それは―――いや、今は止そう。

 

 

熟考する暇などないのだから。寧ろ、それでいいのかもしれない。

 

全ては、拳で―――語ればいい。

 

突き出した拳は思いを乗せ、風を切り、茅の頬に届く。

 

「ぅぐっ!?」

 

左横から拳が突き刺さる。

だが、逆に痛みで声を上げたのは劫戈自身の方だった。視界が勢いよく巡り、二度三度、空と地が反転する。

 

「づ―――ぶっ!?」

 

それだけに飽き足らず、劫戈の顔面に衝撃が来る。

 

一つの攻め手に対し、容赦を知らない乱打の応酬。

四つ、六つ―――いや、それすらも捉えられない拳の数を両腕で必死に防ぐ。物の数が錯覚するほどの拳が、視界内で乱れ飛んで来る恐ろしさを知った。

 

「は、はやっ―――」

 

声を張り上げる前に、再度、拳が迫る。

地を背に、腕を交差して顔だけを護ろうとする劫戈だったが、背筋が凍る感覚を覚える。慌てて身を転がしてその場から脱出、腕を最大限に使って跳ね退いた。

 

「……っ!」

 

劫戈が身を起こして見渡すと、ある程度、背筋が氷解する。離れて正解だったのだと実感した。従わなかったら、今頃は餌食になっていただろう。

茅は顔を驚きに染め、拳を打ち上げた姿勢で固まっていた。

 

「今のが見えたのか……いや、感じ取ったのか? 冗談だろ……」

「冗談……。それはこっちが言いたいよ」

「はっ。喧嘩に手を抜くとか、相手に失礼…………え、もしかして、喧嘩は初めてとか、言わないよな?」

「……前に、何度か―――っ!」

 

茅の戸惑いに、目を逸らしながらそう軽く言って返す。茅から苦笑が返ってくるのを置き去りにし、劫戈は仕返しとばかりに再び突っ込んだ。

 

「うおっ!?」

 

容易い不意打ち、直進に駆けた。

今度は正面から迎え撃つ拳に備えて、ギリギリの距離を見計らって身体を捩る。拳がいつ来るのか解らないので、ほぼ勘で動いた。

 

「―――だろうと思った!」

「がっ……!」

 

当然、と言わんばかり、応対された。

 

「正面から来るのは結構だがよ、それだとこっちが殴り続けるだけになっちまうぞ? いいのか、それで」

 

茅の拳はとにかく速かった。視界に捉えられないくらいの拳の速度に、振り回されて見切れる道理がない。

今まで以上の衝撃を頬に受け、頭から吹き飛ばされた。弧を描いて、空を横断する。

 

「っ……!」

 

接地の瞬間、あまりの痛みに顔を顰める劫戈。

あちこちを擦り剥いて、血が滲む四肢を放り、しかし顔だけは茅からは離さなかった。

 

「―――」

 

無傷で立つ茅は、まだ終わらないだろう、と戦意を失う事なくこちらを見据えている。

劫戈は圧倒的な実力の開きに戦慄した。油断、慢心、そのどちらでもない余裕の態度が解ったからだ。

 

(違い過ぎる……)

 

言うまでもなく当然。茅と劫戈の差など見なくとも、即刻断言出来るほど瞭然だった。

 

 

 食いつかねば、意志を示せないのに。

 

 

悔しいのは然りだった。再確認して奥歯を噛み締める。

劫戈は一度、拳を解いて握り直すと、茅に向かって駆け出した。無策な突貫とも取れる行動だが、劫戈は愚かであると解っていても前に進んだ。

 

(あめ)ぇぞ!」

 

懐に入った時、茅は反射的に劫火の顔を打ち抜いた。肌を弾ける音が木霊する―――が。

 

茅が放った右の拳は、劫戈に当たってはおらず。

 

「っ……うまい、ことをっ! やる、なぁっ!」

「ぉぉおおおっ……!」

 

もう一度打ち込むも、劫戈には届く事はなかった。劫戈は―――茅の拳を、己の拳で迎え打っていたからだ。

 

拳が今まさに迫った音速にて、見事な事に、劫戈は相殺に成功していた。

彼は見えてから対処したのではない。殴られた箇所を鑑みて飛来する場所を予測し、拳に合わせたのだ。

 

「へぇ―――だから甘いっての!」

「っ!?」

 

されど、それは完全な迎撃とは言い難いものではある。即興である為か、欠点が大いに露見してしまっていた。所詮は、まぐれ(・・・)当たり。

 

茅はすぐさま拳を開き、劫戈の拳を掴み取る。動く間もなく劫戈は手前へと急速に引かれた。前のめりになる身体は、抵抗らしい抵抗を許さない。

眼前には茅はおらず、既に懐に入られていた。あっという間に、位置が逆転していた事に瞠目せざるを得ない。

 

一つ、肉が叩かれる打撃音。

 

「ぅ……か、はっ……!!」

 

今度は胴体に衝撃が走る。肺の空気が容赦なく外に奪われた。

 

視界がゆっくりと流れていく。息が苦しく、何もかもが遠のく、死に近いしい感覚に、僅かな既知を感じた。

 

あの時と同じだった。そう、父―――日方に眼を穿たれた時と。

 

(―――い、いやだっ! あんな男なんかに……っ!!)

 

当然の拒絶を起こした。忌避すべきと判別した父親の仕打ちが脳裏に甦り、逃れようと必死にもがく。

しかし、どんなに命じても身体が言う事を聞かない。刻まれた記憶は、弱った身体に容赦なかった。

負けてしまうのだと、諦観が湧いて出た。もう駄目か、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

だが、その時、何故か大きな違和感が劫戈を襲った。

 

(ぁ…………あれ?)

 

瞬きの間に、浮遊感が彼を包む。血液をぶちまけたような赤い景色が常に映り出されている右の視界にて、それは起こった。

 

右側のそれは、じわじわと―――声すら上げる事も許さぬ速度で左の方へと到達。一面血壁の右奥が、涅槃になった。

 

そして。

 

「――――――!?」

 

視界に映ったそこは、春夏秋冬が入り乱れる花鳥風月だった。

 

 

『―――愛し仔よ』

 

 

声を聞いた。

己という枠組みを超えた外部からの声を。

 

遍く全てが止まった。

何かが語りかけてくるという事象の中で、それ(・・)は何処かで聞いた事のある、凛々しき女声。

 

 

(貴女は誰……?)

 

 

『―――いずれ解る。安心せい』

 

 

最初に、父や母とは違う親しみ深さ。

 

 

『少し助言を授けようぞ』

 

 

次に、慈しみを感じた。

懐かしい声とは違う。聞き覚えはない筈なのに、心は知っている気がした。誰なのかは解らない。

果てには、別のものが流れ込んでくる。

 

 

妖力は要らない。

ただ純粋に。

意志を見せろ。

 

 

それは劫戈の中で、反芻し廻った。喧嘩の前に定めた事柄。

 

 

 それでいいのか。

 

 

今なら解る。それで良いのだと。

 

 

『どれほどの悲しみでも、苦しみでも、絶望であっても』

 

 

身を痛めても、悔やんでも、挫けても。

 

 

『跳ね除ける勇気を持て』

 

 

優しく繋がれた思いに、心が洗われたように震えた。

 

(―――ありがとう……)

 

 

『詠え、紡げ。汝を謳おう―――』

 

 

 

 

             ―――■ ■■■■ ■■■―――

 

 

 

ただ小さな願いを、現実へ。

錯綜されたその身を変えよう。

言の葉を繋ぎ、本来の在り方へ。

 

 

『汝に幸あれ……』

 

 

何かの景色が掻き消える次の瞬間、何かが駆け巡った。

 

 

 

「あ……」

 

劫戈は気付くと、空にいた。胴を打たれて―――平然と後ろへ跳躍した空中で。

 

不思議と、打ち込まれた筈の痛みはない。

頽れた形跡も、吹き飛ばされた風切りも、不利になるような事は何も起こらなかったと伝わって来ていた。だが、どこから伝わったのかは解らない。本能的知覚だろう、としか判別出来なかった。

 

この際、どうでも良い事だ。

 

問題は目の前に映る現状だった。最優先にすべき事がある。

 

「……今のは確実に入った筈だぞ―――お前、何かしたか?」

 

僅かに狼狽する茅だが、劫戈は至って正常だ。肉体の不調もなければ、精神的な負荷もない。

逆に言えば、正常である事が異常に思える程だ。

 

着地し、自然体に佇む。息を一つ吐き、風に乗るのを無視して。

 

「負けるかぁぁああああああああああ―――!!」

 

絶叫。

飛び出したのは、咆哮が靡いた時。脱力からの全力疾走を取った。

 

「っ……うおぉおおっ!?」

 

茅は劫戈のあまりの気魄に、慌てつつも正拳の構えで迎え撃つ。上体を捩り、繰り出す右腕を胴より後ろへ引いて、振り抜く体勢を取った。

 

そんな事は知っている。だからこそ直感で動く他ない。

 

(あ―――これは……)

 

この時、劫戈の頭は異様に冴えていた。誰か(・・)の御蔭で冷静になっていたからかもしれないが、何よりも相手に食らいつくと言う熱意が彼を突き動かしたのだ。

水が沸騰する手前、それを操作する微細な手際とも言える。この短時間で見事に、無意識ながらやっていた。

 

故に。

 

「なっ!?」

 

茅は驚愕と崩落に襲われ、文字通り脚を取られる。

事が成功したと解った劫戈は、己が初めて笑みを浮かべている事を認識した。

 

劫戈の視界に入った茅は、右の拳を腰辺りで引き絞り、左の拳を劫戈へ向かって突出していた。劫戈が通り過ぎも(・・・・・)しなかった(・・・・・)場所へ。

 

茅は生来の千里眼で咄嗟に垣間見る。本能から来る危機感知能力。それは問題なく発揮し、劫戈を捉えた。

 

彼もまた意識してではなく、無意識に取った行動だった。

 

しかし、それは既に遅かった。

 

残った片足で、迷わず地を蹴る。迷わず、身を後ろへ。

 

「――――――!」

 

言葉なく視線が落ち、交差する頃。滑稽な顔を晒しているそれへ、右拳が突っ込んだのを劫戈は感じた。

 

「―――ぶ……っ!!」

 

鋭い衝撃が茅を揺さぶり、身体を引き連れて吹き飛ばした。

 

「ぐ……―――だがなっ!」

 

鋭い痛みで身体が動きを止める。

しかし、それでも尚、滔々の如き吹き飛びに抗う。回転させる事で強引に体勢を変え、茅は両足を接地。踏鞴を踏みつつ後退を拒否した。

勿論の事、前のめりになっている劫戈は、成す術もなく茅の拳が届く距離に据え置かれてしまった。

 

「う―――っ!?」

「お、らぁぁぁあああああっ!!」

 

地を蹴った音が、肉を打つ音と重なった。

彼もまた全力での疾駆から、その勢いを利用した殴打を繰り出した。茅本人の動体視力をも超えた速度で。

 

「ご―――」

 

それは逃げの手を失っている劫戈の顔面を捉え、問答無用で戦意を刈り取る。始まりから見せた殴打よりも、別格の一撃だった。

錐揉みしながら地に叩き付けられ、それでも勢い止まらず。

 

「う、ぐぅぁ……」

 

端っこの木にぶつかって漸く静止した。

劫戈は最後に何が起こったか理解出来なかったが、殴られたのを知覚していた。

 

「認識がずれた? いや、あれは……気配が察知出来なかった―――まあ、この際どうでもいいか」

 

ふと、茅は笑った。嗤うのではなく。

 

落ち行く瞼。

力が入らぬ劫戈は、木に背を預けてじっと茅を見ていた。その胸中を歓喜の思いで満たして、身体に走る痛みに顔を顰める。

 

「俺に一撃入れた年下はお前が初めてだ……。やりゃ出来るじゃねぇかよ」

「……でも、まけ……ました」

「いいんだよ。勝ち負けなんて」

「で、も……」

「十分、納得出来たからな。いいのさ」

 

近付き、しゃがみ込んで視線を合わせる茅は、ぐったりとした劫戈を撫でてやる。優しげに口元を吊り上げる茅は巌な態度でもなく、満足気な表情を劫戈に向けた。

 

「お前を認めてやるよ。劫戈(・・)

「ちが、や……―――」

 

一間置き、劫戈が切望した言葉を伝える。返そうとした劫戈は遂に限界を迎え、意識が途切れた。

真っ暗闇に呑まれたものの、その表情は安堵と歓喜に染まっていた。安らぎに満ちて、小さな烏は疲れて眠りに着いた。

 

 

 

両者は最後まで気付かなかった。

 

 

劫戈の背から、吹き飛んだ拍子に羽毛が抜け落ちていた事を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――それが銀色に輝き、掻き消えた事を。

 

 

 




二人の喧嘩は、本当に喧嘩の類だろうか、と作者自身疑問に……。空回りしたかもしれない―――まあ、いいか。
劫戈に直結する存在への伏線。今後に響いて行きます。

↓設定絵になります。

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第一章・第八羽「思い出して」

本作とは別に、幻想入りする話を書いてみたいなと思い、捨鴻天ほったらかしで設定を構築していました(オイ)
ただ、普通とは違う斜め上なものになってしまって……遊び心でやったのに書きたくてたまらなくなりました。
まあ、それは置いておいて、本編に行きましょう。

思い出す―――それは、忌まわしいもの。凡愚の濫觴。
では、どうぞ。




 

かつて、暖光が満ちていた。

それは暖かく、しかし冷たさに埋もれた傷跡だった。

 

(……あ、れ?)

 

気が付くと、そこに彼はいた。生い茂る緑に囲まれ、ただ佇んでいた。

辺りに見える緑の群れは、二度と見る事は無いと思っていた、生まれ故郷のもの。嘉卉(かき)の葉擦れが、烏の囀りが、川のせせらぎが、虫のさざめきが、一斉に聞こえ出す。

 

(ここは……ここは、まさかっ!?)

 

その光景に、劫戈は思わず息を呑む。奏でられた自然の音色に、呼吸が震えた。空っぽの右空洞に込み上げるものがある。

 

そして。

 

(なん、だ……?)

 

その先に、小さな烏を見た。

蹲る子供がいる木陰は悲壮と嗚咽に包まれており、それを心配そうに多くの烏達が垂れ下がる葉の隙間から覗いている。

 

(―――なっ、馬鹿な……!?)

 

声を掛けようと歩み出る前に、突如現れたそれを見て気を取られた。

現れたのは、蹲る子供と同じくらいの少年だった。思わず驚愕を呈する劫戈を余所に、木陰へと近寄った少年は言葉を発する。

 

「みつみちゃん、どうしたの?」

 

少年が名を呼ぶと、蹲っていた子供―――少女が反応する。振り返った彼女は、泣いていた。

乱雑な木々の中で、繊細で華奢な身を蹲って、泪を流していた。幼いにも拘らず妖美な顔を悲しみに歪めて。

 

「―――こうか君……」

 

(これは……)

 

少し離れた所で、寄り添う少年を劫戈自身は唖然と見ていた。二人は己という第三者がいるのも関わらず、そっちのけで会話を続けている。己よりも更に幼い二人は、劫戈が何よりも知っていた。

 

「え……ど、どこか怪我したの!?」

「……違う、よ……そうじゃ、ないから……」

 

(光躬と……俺?)

 

慌てて少女の泪を拭ってやる少年は、紛れもなく己だった。眦に触れた覚えもある。

 

なぞる光景を見る劫戈は疑問に襲われた。過去の己を見ているのか、どういった理由でみているのか。

 

だがそれはすぐに解る事だと思う。これは現実ではない、己が心のどこかで求めた夢か何かだろうと結論付ける。

 

(そうだ、覚えている。これは―――)

 

映し出される光景は劫戈にとって懐かしい、幼い頃の記憶だった。只々無垢で、碌に何も知らなかった幼少時代の己等。

 

少年はしゃがんで、少女をあやしながら事に至った理由を聞いていた。

 

「え……長とけんかしたの?」

「……うん」

「どうしてそんなことを……」

「っ……いいの、気にしないで。私のわがままを聞いて、くれなくて……かなしいだけだからっ」

「そ、そう……?」

 

無理に笑顔を作る少女を、怪訝に見やる少年。無理に聞かないで、と暗に言っているのを読み取った少年は、踏み込んだりはしなかった。

 

(あの時ははぐらかされたけど、凡愚()と関わるなって事だったんだよな……)

 

後に解った事を思い出し、自嘲気味に目を伏せる劫戈。

己への不信感もなく、ただ練磨を繰り返していた幼き日。妖怪としては弱小で、酷い凡愚で無自覚。

それは、罵られ、嗤われ始めた時にようやく判明した事だった。

 

 

 

凡愚。

 

罵倒の基盤となった劫戈の評価は、第一に父親が口にした。簡単には拭えない暗黙の暴力が瞬く間に群れ中へと無慈悲に伝播していく。

群れの使い物にならないという理由が、群れの為に貢献しようと琢磨する劫戈の心に罅を入れ、自他共に認めてしまった。

 

 

群れに凡愚は要らない。

 

烏天狗の塵。

 

射命丸光躬の御荷物―――。

 

(光躬……君はあの時から―――いや、俺が関わったから……ああなったのか?)

 

記憶に刻まれた今までの光躬。彼女の眼、聞こえた声、過ごした日々。

それは―――劫戈しか向けられていない眼、最も感情に富んだ声、彼女自身よりも劫戈を優先する物事。

 

劫戈、というよりも男からすれば、とても嬉しいものだろう。

 

だが、よくよく考えてみれば、執着しているようにも思えた。劫戈ただ一人を慕う盲信染みた行動。

そうさせたのは他でもない、己だった。

改めて、彼女との関係が異常なものに映る。込み上げた不穏なものに、懐かしさが塗りつぶされ、眩暈がしそうだった。

 

尚も劫戈を余所にして、しゃがんでいた少年は、立ち上がって小さい手を差し伸ばした。

 

「じゃあ、俺とあそぼうよ」

「え……?」

「いやなことは、わすれよう! ほら!」

 

少年の手は、少女からすれば救いに見えただろう。嫌な事を忘れようとする恣意的なものだ。

 

しかしそれは―――魅力がたっぷり込められた堕落の手。

それで少女を毒してしまったのだ。今なら解る、己は彼女を誑かした害悪だったのだと。

 

(ああ、そうだ。俺は馬鹿だ……とんだ大馬鹿だ)

 

出来損ないの癖に、調子に乗って彼女を好きになった。

天地、その差を知らぬが故の烏滸がましさを、幼き己は知らないというのに好いてしまった。

 

(俺に関わらなければ、彼女は……)

 

泣かずに済んだのかもしれない。劫戈という凡愚に盲信しなくて済んだのかもしれない。

 

今言える事は、己は彼女の隣に相応しくないという事。

劫戈は激しく後悔した。大事に思い過ぎて、発露した好意で彼女を歪めてしまったと。

 

思考すればするほど深みに嵌まっていく。

 

「ねえ……」

 

すると。

 

「……みつみちゃん?」

「ねえ、劫戈(・・)

「え―――」

 

少女が、少年を―――見ずに、こっち(・・・)を見た。

 

「ねえ、貴方はどうして凡愚なの?」

 

(っ!?)

 

肝が凍り付いた。

何を言われたのか、劫戈には解らなかった―――いや、理解したくなかった。

 

 

 見るな、あれはまやかしだ。己の自責から生まれた虚言だ。

 

 

 

好き通った紅い眼が、無感情にじっと見つめてくる。恐ろしいものを見ているのに、逸らす事が叶わない。

あんなにも綺麗だった紅い瞳が、食いついて離さない。

 

突然。

 

(なっ!)

 

暗くなって、何も見えなくなった。

 

と、思えばすぐに明るくなって―――景色が若干変わっていた。

 

(こ、ここは……?)

 

広がった景色に、困惑する劫戈。

嘉卉たる故郷の木である事は変わらないが、生えている木々の丈が見て解る程伸びている。

 

「―――そっちにいったぞぉっ!」

 

劈く幼い声。

放った声の主に、劫戈は思わず振り返った。と、同時に、それらは通り過ぎた。

 

「よっし! 上手く引き込んだぞ、追え!」

「……あっちにはっ! 誰が行ったっけ!?」

「確か、劫戈がいた筈だけど―――」

 

(お前達は……)

 

背に備えた黒い羽根、麻の衣服、童顔の幼子。己を罵り嗤った、同期達だった。

忘れたくても忘れられない憎き顔共が揃って、何かを追っている。

 

言うまでもない、狩りだ。

 

獲物を捕らえ、食料にする。実に、言葉では単純でいて、困難を極めた行いだ。

 

先祖の時代から継がれ、妖怪として確立した烏天狗。

群れる者は基本、連携で狩りを行う。烏天狗も例外ではないが、成熟して人間を凌駕する知覚を得ると、単体での狩りを行うようになる。連携するのは主に、幼く未成熟な子供等だ。

 

劫戈も追放されるまで、連携した狩りの経験がある。内容は散々ではあったが。

 

(このまま行くと……俺が、取り逃がすんだよな)

 

そして、この先で起こる事を、己は誰よりも知っている。他者は全く以って知る由もないし、信じられない事だ。

 

いや、信じる事など、誰が出来ようか。

 

歴史を準える、もとい―――傷を抉られる気分だが、そういうものなのだ。割り切る他、道はない。凡愚、それが劫戈に課せられた、重く振り落せない事実だった。

 

ひゅ、と地を蹴って跳躍した。

若干の浮遊感と僅かな滑空感を、劫戈は懐かしい風の音を含めて感じ取る。その中で、追っていた少年等を悠々と追い越した。

今見ている記憶から、数年経過した劫戈の身体とは明確な体格差がある。今の彼と、かつて見下し蔑んだ少年等との身体能力は比べるまでもなかった。

 

それを流し目で見る劫戈の胸中は、僅かな優越感と悲しい感懐で染まっていた。

案の定、そこには烏共に追い詰められた鹿がいた。焦りを抱え、迫り来る烏天狗への警戒として四方八方を見渡している。

 

(茂みの中だったな……)

 

丁度、鹿を見ている正反対の茂みの影に、上手く隠れている少年―――かつての己がいた。

葉と葉の間から眼を覗かせて、今か今かと待ち望んでいるその眼は劫戈にとって、とても哀れに思えた。

 

 

劫戈自身の眼に見えない存在に対する探知能力は、まさしく妖怪の底辺―――残念な事に人間並みである。妖力や気の流れ、呼吸音から心音、臭いなどでの感知を始めとして、一切合財が人間と同等か少し飛び出た程度。迫害されるのも頷けた。

そんな劫戈に出来るのは、並の妖怪とは段違いの第六感での危機察知ぐらいで、あまりお世辞にもならないものだった。

 

それが木皿儀劫戈という妖怪の格なのだ。

 

後に思い知らされる事になるが、この頃は己も他者と何ら変わらないと誤解している時期だ。木皿儀の子だからと、粋がる生意気な餓鬼だから己を信じて疑わない。

 

それが崩壊したのが眼前の出来事だ。

 

「―――」

 

少年が瞠目した。

 

劫戈は、己が妖怪として底辺だと理解している。どうしようもない弱小だと。

 

それに加えて、これ(・・)なのである。

 

少年のぎょっとする顔を、劫戈は左の視界に捉えた。茂みから飛び出そうとするその瞬間の出来事である。

幼いが故、彼の精神的衝撃は、心に強く圧し掛かっていた。

 

「え……なんで―――」

 

言い切るよりも早く、鹿は劫戈等から反発するように跳躍した。完璧の筈だった、と唖然する少年を置き去りにして。

 

(そう……俺が獲物に近付くと、必ず(・・)気付かれる)

 

背後から、音もなく、慎重に、進み出て、手刀を叩き込む寸前で―――獲物は怯えた眼で少年を視界の中央に捉えた。

鋭敏化された生存本能が齎す危機察知能力なのか、まるで見えているかのように劫戈が飛び出すより逸早く逃げ果せてしまう。決してもたもたしていた訳でもないし、臆して襲う瞬間を逃した訳でもない。教わった通りに、瞬きが起きた瞬間を狙って飛び出したのにも関わらずこれだ。

 

(こうして見ても、未だに原因が解らない……)

 

獲物となった筈の鹿は、劫戈の手が届き得る範囲を超えた広い距離で知覚する動きを見せていた。こんな信じがたい事が毎度である。

この摩訶不思議現象が、今までの狩りに必ず起こっていた事を親にも相談したが、結果はどうにもならずであった。問題視されるというよりも、連携が足らんと一蹴されてしまっていたのだ。

 

(最初の狩りで……。向こうは、何故こうも簡単に気付ける……?)

 

しかも、二度目以降は予めそこに劫戈がいる事が解るかのように避けるのだから、尚更打つ手がない。ならばと、視認外距離から襲ってみても、すぐに察知されると言う残酷な結果が待っている始末。

 

「なんで、なんだよぉっ……!」

 

悲痛に叫び追うものの、少年は跳べても飛べない。ならば走る―――いいや、無茶だった。

いくら妖怪とは言え、幼少期の身体能力を超える動物など、ごまんといる。妖力の操作も満足に出来ない為、加速も不可能だった。

 

子供に容赦ない現実だ。

 

「どうして……!」

「おい、劫戈……お前っ! なにやってんだよっ!」

「おい、どうした!?」

 

見る見るうちに置いて行かれて見失った。

そんな少年に血相変えて掛け付けた同輩達との様子を、劫戈は身体も眼も離さず見続けた。当時の、封印したいくらいの醜い己を。

その後の獲物は、突如変貌した動きを見せた。最初の逃げる勢いが桁違いになり、どんなに回り込んでも突破口を作るという出鱈目を披露したからだ。

子供等ではお手上げ状態となり、大人になる段階を進む筈が、息詰まって恥辱を得るという予想外の展開になってしまった。

 

それから容赦なく月日が経っていく。

二度目、野兎。一定の距離を保たれ、失敗。

三度目、鹿の親子。阻害として進行方向に枝を投げようとして退避され、失敗。

四度目、鼠。仲間が仕留め、成功。が、速過ぎる上に察知出来ず、連携すら出来なかった。

五度目―――。

 

(結局、原因は不明。俺がいるから、狩りは一向に成功しない……)

 

何度も繰り返し、取り逃がし、連携という概念に喧嘩を吹っかける有り様。救い難い、群れへの不貢献者を呈していた。

 

一度や二度の失敗は、多少は眼を瞑ってくれるが、何度も起こすようでは流石に大人達も怒り心頭だろう。貢献したいのに、逆に足枷となる皮肉。

 

麒麟児であったなら、どれほど良かったか。腸が煮え繰り返る思いだった。

 

「――――――」

 

(っ、光躬……?)

 

目を伏せようとした時。再び暗闇に包まれたと思うと、目の前に光躬が現れた。さっきまで見ていた姿よりも少し成長した―――日方によって吹き飛ばされる最後、眼に焼きついた姿で、だ。

 

今の彼女は異様で。それでいて、不気味だった。

 

音もなく、声もなく、今まで向ける事のなかった無感動の顔で、劫戈を見つめている。

 

「――――――」

 

彼女の口だけが動く。

美しい筈の顔が能面のようで、伝来した仏像の如く固まっていた。見ているようで見ていない。発音しているようでしていない。

口の動きから、同じ言葉を一定の間隔で羅列していくのが解る。疑問しか浮かばない光躬の行動から、聞き取れる規模の微かな声量が漏れ始めた。

 

「――――――」

 

(…………っ!?)

 

すぐに悟り、汗が噴き出した。

 

(み、みつみ……や、めろ―――)

 

味わった事のない恐怖が、劫戈を襲った。その場から一歩も動く事が出来ず、息も絶え絶えで震えが止まらない。

 

(や、やめろ……)

 

聞きたい筈の声で、予想を裏切る言葉を呟いている。望む言葉とは真反対の悪夢を放っている。

劫戈の心を抉るには十分過ぎるものだった。

 

「凡愚め。凡愚め。凡愚め。凡愚め。凡愚め。凡愚め。凡愚め。凡愚め。凡愚め。凡愚め。凡愚め。凡愚め。凡愚め。凡愚め。凡愚め。凡愚め。凡愚め。凡愚め。凡愚め―――」

 

遂に聞きたくなかった言辞が紡がれる。劫戈は身が引き裂かれているのかと思った。だが、生きている事を認識しているのもまた事実。

 

これは身を引き裂く悪夢だ。

募った負が、己を攻め立てる。行き場を失くした感情が、己の中から放たれた。

凡愚―――いや、屑。多くの者を狂わせる害悪として罵られる。

 

(―――……ぁぁぁああああああっ!! やめろっ! やめろっ!!)

 

そこで、不意に脚先の感覚が消えていく事を理解する。確認する暇はなく、もがいて抜け出そうとした。

劫戈が更に悲鳴を上げると、追い打ちを掛けるように、無数の黒い手が彼に絡みついた。それらは一つ一つが在り得ない握力で、劫戈の細い身体を握りつぶす勢いで殺到してくる。

 

(やめろ、やめろっ!! やめてくれ、やめ―――!)

 

引きずり込まれる、奈落の底。

 

「おいで」

 

おいで、おいで、と。

 

聞いた事のない光躬の、悍ましき声が響いた。

 

(――――――)

 

全身を覆い尽くした手と痛みに、悶える暇も与えられない劫戈は、天へと必死に手を伸ばした。されども、黒い何かが劫戈の逃れを拒む。

 

「おいで、凡愚」

 

その愉快そうな一言で―――遂に力尽きた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『―――否』

 

(――――――っ!?)

 

強大な否定の意志が闇を祓った。その差は川と海の違い。

一瞬にして劫戈は解放され、暗闇が消え去り―――春夏秋冬が入り乱れる花鳥風月に抱かれた。

温かな若葉が包み、暑い深緑が守り、穏やかな紅葉が癒し、冷たい吹雪が闇を討つ。

 

 

『己を責め過ぎるのは良くないな』

 

 

大自然溢れる万象へ黄金の光と共に優しげな声が注がれた。それはかつて聞いた厳かでいて、慈しみのある女性のものだ。

今まさに、劫戈を赤子のように抱き上げていた女性から放たれていた。母のようで、母ではない誰かから。

 

 

『そなたが思っている程、想い人は脆くはなく、そなたを罵る事は無い』

 

 

人間や妖怪とは程遠い―――こことは違う場所から来たと思われる未知なる黄金の存在は、自らの腕に抱いた劫戈へと語り掛ける。

女性の顔は、綺麗とか、美しいとか、そんな陳腐なものでは表し切れないものだった。最早、それらを超越しした窈窕たるものでいて、女性として極まっている。

そんな女性を見た劫戈は絶句する他なかった。全ての雄を狂わせてしまうかのような輝かしさを持つ金色の眼を向けてくる。

 

灰色と視線が交差した。

 

 

『……はっきりとではないが私が見えるのか。ようやく解き放たれたな……心底嬉しいぞ』

 

(…………)

 

輪郭は勿論見えるものの、鮮明とまではいかない。金色が眩しくて全体像が掴めない。そんな女性から薄らと笑みを向けられた気がした。

 

回した手で劫戈の頭を撫で、彼を安堵させる女性もまた、憂いが晴れたように安堵していた。

光躬や榛とは違った優美さを持つ彼女に、劫戈は言葉を失い、眼を動かせないでいる。見惚れていると言うよりも、異なった事が起きているのだ。

圧倒的な格に、本能が動く事を許さず、そこから先の動きを阻害していた。顔を覗き見るのが恐ろしく思っているように。

困惑の濫觴(らんしょう)が解らず、劫戈は更に困惑を深めた。

 

 

『安心せい。想い人とは、いずれ、会う日が来るであろう。私とそなたが、こうして会えたように』

 

 

不意に開いた手が翳され、緩やかな眠気を誘う。母を超えた何かが慈愛の下に微笑むだけで、劫戈の周囲を舞う風は鎮まった。

ゆっくり、自然と瞼が落ちていくのに、そう時間は掛からなかった。

 

 

『恐れるなかれ。会おうた時に問えばよい。信じているのであるならば、必ずや、応えてくれるであろうて』

 

 

優しく、優しく、言い聞かせる女性。

負の感情が見せた一時の悪夢は終わり。何事もなかったかのように、劫戈は解放される。

 

(あ……―――)

 

そこへ繋がる言葉はなく、劫火から静かに寝息が漏れる。瞼を閉じ切る直前、声の主を見た気がしたが、最早彼にそれを認識する力はなかった。

 

 

『……巣立ちの時は、無事に迎えた。飛べる(・・・)日は近い』

 

 

そっと労わるように彼の頬へと置かれた手には、黄金の燐光が纏われていた。

金色の宝石から光る雫が零れ落ちると劫戈の右眼跡を濡らし、ゆっくりと瞼の間から染み込んでいく。吸い込まれてから、再度、女性は彼を覗いて念願の思惟を告げる。

 

 

『ここまで長かったな、愛し仔よ』

 

 

棚引く黄金の髪の下で、屈託のない至高の笑顔を向けた。

我が子のように、抱き締めた。大事な、大事な、翹望(ぎょうぼう)の果てに生まれた仔を、繊細なものを扱うように、ゆっくりと。

 

 

『嗚呼……ようやく会えたな。待望の仔よ、私の―――』

 

 

 

それは彼女にとっての宿願―――憂いと愁いを払拭する希望。

劫戈に課せられた、険しい宿命の始まりだった。

 

 




今回ですが、副題の通り、「思い出して」なので劫戈は“過去”を夢として追憶する内容となっています。そこへ途中介入する謎の御方が……。
尚、本話は劫戈の細かな実態が描写されていなかった事を反省として執筆しました。ただ凡愚云々だけは物足りないな、という事で至った次第です。現時点での彼がどんな妖怪なのか御分かり頂けたらと思います。
諄いようですが、直に接してきた御方。これだけ描写したら正体に気付いている方いるんじゃ……いや、そんな事は無いか(疑心暗鬼)

自分で作った謎を、少しずつ明らかにしていくのって結構しんどいものですね。


次回、近い内に投稿。


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第一章・第九羽「傷痕」

今回は珍しい―――いや、初かも知れないほのぼのとした空気が投入。予想外でしたが……まあ、書いていて思わず楽しんじゃったのだから仕方がない。
ワテは一体、何に目覚めただぁ……?(困惑)

では、どうぞ。



黄金は再度、闇へ変わった。

しかし、どこか違う。無数の光る点が散らばっている壁が、途方もない遠方に見えた。

 

「―――はっ!?」

 

意識を完全に取り戻した劫戈は、飛び起きた。

 

「駄目よ。もう少し休みなさい」

 

が、肩を掴まれてすぐさま横に戻された。ぽすん、と後頭部に柔らかい感触と共に、榛の声だと認識する。

 

「えぁ、あ……?」

 

目を白黒させる劫戈は、左眼に映った白い影を訝った。白い衣服の内側から齎された膨らみ、形は急ではなく滑らかな曲線を描くもの。劫戈の拳二回りほどの大きさを持ち、見るに柔らかそうな印象を受ける盛り上がった二つの丘。

それは女性の象徴―――

 

「心配……したのよ?」

「あっ……」

 

悲しげな榛の声音。劫戈のなんとも場違いな思考を切り捨てたのは、それを見せつけ抱かせた彼女本人だった。

 

「ご、ごめんなさい」

「ふふ。分かれば宜しい」

 

素直に謝れば、榛は微笑みながら頷いた。劫戈は深く反省すると共に、たった今己が膝枕されている事に漸く気付く。羽毛に似た感触が心地良い。

見渡せば辺りはすっかり真っ暗で、唯一残された光源は月くらい。茅と喧嘩を繰り広げた筈の周囲の風景は大きく異なっており、今も家替わりにさせてもらっている塒が近くにあった。

 

「うごごごぉぉ…………」

 

すると妙な呻き声が降ってきた。茅の声だ。

様子がおかしいと思って視界を巡らせると、少し離れた所で発見する。さっきまで拳を交えていた筈の茅は、頭を両手で抱えながら、苦しそうに悶絶していた。

 

「お姉ちゃん、茅お兄ちゃん凄く痛そうだよ?」

「大丈夫よ、(ひよ)。いつもの自業自得だから、心配しなくても大丈夫」

 

それを見守るのは、群れの中で何度か目にした事のある少女が二人だった。

 

白く染められたような容姿の少女等は、劫戈が群れに置かれた時から遠巻きに見ていた子達だ。内側に跳ねた灰色に近い白の髪形が二人揃ってそっくりなので姉妹なのかと思っていたが、会話から察して間違っていないようである。

 

劫戈は二人を見知っているが、名も知らなければ、会話もした事がなかった。明らかに避けられていると言う状況で、積極的に仲良くなろうとする気が中々起きないのであるから、当然でもあるのだが。

 

眉を八の字にして今にも駆け寄りそうな子が妹で、そんな妹を留めて素っ気なく返した大人しめな子が姉なのだろう。二人とも背丈が低く、劫戈よりも年が少し低そうな子等だった。

 

「かぁ~……痛ってえなぁ。久しぶりにくらったぜ」

「ちゃんと反省なさい。いきなり喧嘩するなんて、何を考えているの」

 

痛みから復活した茅は愚痴を洩らし、その愚痴に対して咎める榛の会話を邪魔しないように黙って聞く劫戈。

 

「言葉で云々は苦手だって、姉さんも知ってるだろ。無茶言ってくれるなよ」

「それを直しなさいと言っているのよ。御蔭で怪我してばっかりでしょう」

「確かにそうだけども……。何かなぁ、しっくり来ないんだよ」

「もう、貴方って子は……」

 

先が思いやられる、と言いたげな榛は、天を仰いだ。端麗な顔が呆れに染まる。

姉を呆れさせた弟は脳天を押さえながら、横になっている劫戈に近付き覗き込んだ。

 

「よっ」

「うわっ!」

 

いきなり声を掛けられ、ぎょっとする劫戈。茅は頭を掻いて苦笑していた。

 

「いやぁ悪ぃな……調子に乗ってやりすぎちまったよ」

「あ……いや、こっちも思いっきり殴ったし……ごめん」

 

気さくに振る舞っている茅に、劫戈は一瞬唖然としながらも己が非を持ち出して謝罪する。

 

「……」

 

互いに苦笑する様子を、榛は何も言わずに見ていた。一人、寂寞を漂わせたかに思えたが、笑みを浮かべて感心した顔に変える。

喧嘩した事で解り合ったのだろう、蟠りがなくなって喜ばしいと思えた榛は静かに笑みを零していた。

 

「ほら、立ちな。男ならしゃきっとしろ。いつまでも姉さんに甘えるな」

「え……あ、ああ」

 

僅かに痛む身体を起こし、差し出された手を取る。取った瞬間に強く引かれて立ち上がるが勢い良過ぎて踏鞴を踏む。

 

「うお、っと……」

 

僅かに転びそうになったが、そこは男の意地が防ぐ。

 

「あー! またそんな事言ってー! お兄ちゃんだって榛お姉ちゃんに甘えてるのにー!」

 

すると高い声が遮った。と思うと、劫戈の前に華奢な影が入り込み、茅に飛びついた。

 

「ちょっ……(ひよ)、余計な事言うなよ!」

「他人の事言えないのにねぇ……」

「うっせぇよ!」

 

更に近寄ってきたもう一人の少女に対し、間髪容れず言い返す茅。どこからどう見ても親しいのは瞭然だった。

 

鵯と呼ばれた一番幼い子は、茅に抱きついたまま胴の辺りを頬摺りしている。若干戸惑いつつ撫でてやる茅を含め、くっ付いている二人の姉等は微笑ましく見ていた。

 

「世話が焼ける弟なのは変わらないけどね……」

「姉さんまで!?」

「……情けないよね」

「くっ……お、お前等なぁ……」

「―――も、もう止めてあげた方が……」

 

恥かしさに耐え切れなさそうな茅を見かねた劫戈は、生まれて初めての助け舟を出す。

姉弟と姉妹を含めた団欒に割って入るのは忍びないが、認めてくれた少年を放って置くのは劫戈にはとても出来ない事だった。

しかしながら、弱々しく入った為か、あまり良い効果は期待出来そうもなかった。

 

「気にしなくていいよ、木皿儀劫戈」

「えっ?」

 

名を呼ばれた。

すぐ隣まで来ていた少女に、劫戈はたじろぐ。事静か過ぎて全く挙動が読めなかったのだ。いつの間に、と彼が呟く暇もなく相手が口を開く。

 

「始めまして、私は沙羅(さら)。茅が嫌っていたけど、もうそうでもないのね―――」

 

沙羅と静かに名乗る少女は、成程見事に儚げな印象を抱く子だった。言うまでもなく美少女だろう。耳も、髪も、尻尾も、榛の雪色と違う灰色に近い白―――曇った白色を持っている。

ただ、活発で幼さ全快の鵯とは違い、大人びている彼女は、はやり鵯の姉なのだとすぐに解った。

 

「……」

「えっと……俺に何か?」

 

自己紹介するなり、沙羅は押し黙った。じっと見つめてくる、突然の行動に劫戈は困惑する。

彼女は、物を観察するような仕草で劫戈を見て―――否、僅かに眼が揺れている。驚いているのか、慄いているのか、それとも嫌っているのか、解らない。ただ解るのは、見透かしているからこそ、そうなったのだという事だけだった。

 

暫し間を置いて。

そして、徐に口を開いた。

 

「……貴方は、怖い人」

 

 

 なんだって?

 

 

「闇であって、闇を否定出来る者」

 

突然の事に呆ける劫戈は、沙羅が言った事を困惑のまま聞き入った。

 

「私達以外にとって、生まれた事が喜ばしい。例えるなら、そう……憑き者(・・・)

「憑き者……?」

 

憑き者。その表現は、そう言葉にした彼女にしか、いや或いは五百蔵くらいにしか解らないだろう。

疑問に満ちた表情で復唱するが、一体どういう事なのか、理解し難い事だ。千里眼のような、何かしらの異能で見たのかも知れないと、劫戈は感じていた。

 

「君は……何を見たんだ?」

「……忘れて。詳しくはよく解らないから。多分、大爺様も」

 

大爺様、とは五百蔵だろう。

片鱗を見た己でも凄まじいの一言が飛び出る、白い狼の群れ長。いや、己が知らないだけでそれ以上の怪物なのかも知れない。

そんな大妖怪でもよく解らないと言うのだから驚きだ。

 

実際、劫戈は何度も不可解な出来事を経験している。他者が知らない事を、己でも知らないのは必然であった。

 

(あれは……。でも、怖くはなかった。落ち着くとは違う何かが……)

 

意識を手放している間の記憶に焼きついた、優しい声と衝撃的な窈窕たる女性。夢にしては現実味を帯び過ぎている。

 

(―――いや、止めよう)

 

五百蔵に保護されて以来、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のは事実だが、夢の女性と関係があるのだろうと推測は出来る。

 

嬉しそうに、喜んでいた、笑んでいた―――。

祖母のようで、母親のようで、姉のようで、でも違う。

己を包み込むような偉大な御方―――。

 

しかし、どこまでも考えても解らないままなので、思考の片隅に追いやる事にした。現状、考えても意味はないのだから。

 

沙羅と話し、考え込んでいる内に、茅が榛と鵯にいびられていた。不貞腐れたように、視線を顔ごと逸らしている。

 

「もう、拗ねないの。劫戈君とは大違いね」

「んなっ!? 沙羅、おま―――」

「とっても素直な子だった。茅とは全然違う」

 

沙羅がとどめを刺した。

もう勘弁してくれ、御慈悲を、と呟いて苦悶に耐え切れんと頭を両手で抱える茅は、とことん虐められた幼子のようであった。

 

「ああ、それと……劫戈君」

「は、はい……?」

 

一通り茅と、話と言う名の戯れを終えた榛に呼ばれ、いつも通り反応する劫戈。

眼が細められ、榛の端麗な顔が冷笑に転じた。優しく撫でる仕草とは正反対の様子に切り替わった事に、戸惑いを隠せない劫戈は―――

 

「今後……喧嘩なんてしないように、ね?」

「―――はい! すみませんでした!」

 

落ち着いた佇まいで注意する榛の背後から、怒りの形相を剥き出しにした鬼を見た―――気がした。

 

「あぁ……疲れた……水浴びすっか。なぁ、どうよ?」

 

そこで茅は呟き、空気を切り替える。釣られるように、榛や沙羅も賛成とばかりに頷いた。

まるで慣れたように―――いや慣れているのだろう。関心を引くのが上手い。

 

「そうね……最近は寒かったから、汗を流せていなかったわね」

「劫戈も泥だらけだしな、行くとすっか」

「うん、行こー! 行こー!」

「よーし、行くぞ。劫戈、ここに来てから全く浴びてねえだろ? 汗と泥で凄い事になってんぞ」

「え……え?」

 

言うや否や、腕を引かれて誘われる。今日で何度目になるのか忘れた困惑すら許さぬ勢いで、一瞬の浮遊感に呑まれて茅に軽々と担がれた。

 

「ちょっ―――」

「遠慮すんな。修業が終わるとすぐ寝ちまうし、余裕がなかったってのは知ってるからよ」

「あ。まあ、そうだけど……っ」

 

言われてみれば、と納得の顔になる劫火。

転々と会話を続ける茅だが、行動はそれ以上に早い。あっという間に、川辺に到着していた。あと数歩で水に浸かる距離だ。

 

「鵯、行くよ。茅は彼を降ろしてからだから」

「はーい、お姉ちゃん。お兄ちゃん、先行くねー!」

「おーう、悪いな」

「あ―――」

 

そこは白い狼の群れが根城とする山を一線する大きな川だった。頂上から湧き出た水が池として溜まり込み、堰となった石などを壊して出来たものである。

木々を拒むように、周りには拳ほどの大きさの石が無数に鎮座し、畔を形成していた。水底の深さは、子供の腰くらいでそこまで深くはない。

 

―――と、ここまで来るのに数秒程度。

あまりに早過ぎる移動に、担がれて逆さになっている劫戈は唖然としてしまう。

だが、そんなことはどうでもいい。彼にとって、一番重要な懸念事項が浮かび上がっていく。それは川の水流音を認知すると肥大化していった。

 

「……って!? えぇっ!? ま、待っ!?」

「うおっ? おい、何だよ、どうした?」

 

驚愕と疑問を混ぜ、暴れ出したのを訝った茅と榛は、何事だと劫戈を見やる。今まで見た事のない慌てふためき様に、どこか痛めたのかと不安げに榛が視線を向けた。

 

「劫戈君、どこか痛めたの?」

「い、いぇっ、しょっ……。そういうのじゃ、なくてっ……!」

 

戈見間違える程に動揺している劫戈の様子は、集った面々に尋常ではない事を物語る。一端、劫戈を降ろした茅は、改めて正面から声を掛ける。

 

「どうしたんだよ。まさか、怖いとか? まあ、お前は烏だし、仕方ないだろうけど……」

「み―――」

「み?」

 

一度、息切れで区切った劫戈の二の句を、雪色の姉弟は首を傾げた。

息を呑んで、劫戈は急いたように口を開く。

 

 

 

 

「皆、一緒に入るって事ですよねっ!?」

 

 

 

 

「は?」

 

よく解らないと言ったように、茅は眉を寄せる。榛の方はきょとんと、劫戈が発した言葉の意味を計り兼ねている。

何を言いたいんだ、と言わんばかりに、耳が四つへなりと傾げた。

 

「だ、だから……!」

 

上手く伝わらなかった事を鑑みて、劫戈は解り易く伝えようと再度声を張り上げる。

 

「異性同士で入るって事ですよねっ!?」

「……あー、そういう事か。まあ、そうだけども」

 

何を当たり前の事を、と劫戈に疑問の視線を向ける茅。劫戈が何故慌てるのか理解出来ず、一応肯定する。

 

「えっと、茅? 彼はそういう意味で聞いたんじゃないわよ?」

 

榛が、劫戈の言いたい事に辿り着いたようで、茅の反応に苦笑しつつ指摘した。

 

「え……姉さん、解るのか?」

「ええ。ちょっと複雑ね……。豪胆な御爺様の群れだから、劫戈君からすれば、それはもう驚いて仕方ないと思うわ」

「ああ、文化の違いか。なぁんだ、てっきり水が怖いのかと……」

「うん、そうだけどね……ええと、茅」

 

最期まで弟の反応に苦笑しっぱなしの榛。

 

「つまりは、彼は異性に裸体を見せた事がないのよ」

「そう、か。……んっ? んんっ!?」

 

目玉がこれでもか、と飛び出る勢いで劫戈に向けられる。驚きと訝りが半々と言ったところか、茅は盛大に脱力した。

 

「……ここじゃぁ、男も女も皆一緒に水浴びするよ。毎度、一人ずつ、或いは男女ずつか? そんな面倒な事しねぇって。寧ろ、離れるのが一番危ねぇんだ……」

 

後半の言辞が重苦しいものに変わったのは、言うまでもない。殺された茅の義兄、榛の夫。間違いなく、それと関係があるのは瞭然だろう。

しかし、この時の劫戈はそれ所の思考を持ち合わせていなかった。

 

「は、恥かしくないの!? い、色々と……色々と見えちゃうんだよ!?」

「恥ずかしくないのかって、そんな事言われても……」

 

茅は困ったと言わんばかりに隣の実姉に視線を向ける。苦笑のまま、どうしようか悩む榛には打開策が思い浮かばなかった。

 

「私達はこれで慣れちゃっているから……」

「どういう環境で育ったんだよ、お前……」

 

他種族との交流が皆無に等しいので、こう言う他なかった。

食い違うのは当然だった。烏と狼の文化は大きく異なり、その大半が互いの常識の範疇になかったという事。無理もないし、誰も悪くはない。

 

白い狼の彼等は、別に下心があってそうしている訳ではない。別々に行動しては危険という事で、集団で固まり、常としたのが始まり。群れを思った五百蔵の方針なのだから、おかしい事ではなかった。

 

無論―――それが、烏天狗が関わった事でそうなったなど、劫戈が知る筈もない。

 

信じられない。戦慄に襲われた衝撃が、劫戈の顔が物語る。

 

「いやいやっ! 恥じらいくらい持とうよ!?」

 

二人の反応を見て、更に声を荒げた。

 

「そうじゃなきゃ、誰に裸体を晒しても平気です、って言ってるみたいじゃないかっ!!」

 

 

 

 

その言葉に一同は、沈黙した。

 

 

 

 

水の流れる音だけが聞こえ、時間がゆっくりと流れていくようでもあった。雪色の姉弟の後ろでは、ばしゃばしゃと跳ねていた水音が消える(・・・)

 

「ふぇっ……?」

 

静けさの中で、声が漏れた。幼い女性特有の高めの声であり、劫戈の目の前に映る茅と榛のものではない。

 

「…………」

 

訝る三人は、ゆっくりと声の主へと顔と視線を向けていく。

 

「―――」

 

川の中央で、何も纏わず、生まれたままの姿で佇む沙羅がいた。瞠目し、唖然と口をぱくぱくさせている。

隣には、姉の様子に首を傾げる鵯がおり、いきなり止まったからだろう、お姉ちゃんどうしたの、と小さく呼び掛けていた。そんな妹の心配を余所に、姉は滴る雫を帯びる白い耳と尻尾がぴんと伸び、見て判る程震えている。

 

「沙羅……?」

 

そこから先は無言だった。

その代わり、茅は沙羅を訝り見る。それが―――食い入るように見ていると思わせてしまった。

 

「ぁ……きゃぁぁあああああああああ―――!!」

 

堪らず絶叫。

顔を熱した様に真っ赤にして、必死に、二つの膨らみと茂り始めていた秘所を両手で隠す。劫戈の言葉に思うところがあったのだろう。彼女を襲った衝撃はどれほどのものだったのか。

 

「え……ちょっ! 沙羅―――」

 

それは、近くに置かれていた、一回り以上も大きな岩を持ち上げるほどだった。

親しい仲の彼女が取った突然の行動に、思わず茅は心配になって、そして固まった。

 

「見ないでぇっ!!」

 

冷めていた沙羅に、火が灯った。声を張り上げ、己の痴態を見せまいと、白い色を纏わせて振り被る。

 

「ば―――」

「うわっ」

 

見えない物が茅に迫って、通り過ぎる。と、次が迫った。

 

「やめっ、やめろって!?」

 

見えない速度で岩を投げ込む沙羅を、恐ろしげに制止するよう呼び掛ける。その中で器用に避ける茅だが、勢いを増した四回目になって、遂に躱し切れなくなった。

 

「……うぉぉわぁぁっ!?」

 

上体を仰け反らせ、後ろに倒れ込む。そして―――

 

「え―――ぁぐっ!?」

 

劫戈に飛び火した。

回避する事も許されず、顔面に重い衝撃を受けた劫戈。力が抜け、そのまま前へゆっくりと倒れていく。

 

「劫戈君っ!?」

 

ごしゃり。

 

「……うっ」

 

そこまで勢いはないものの、見るからに痛そうな音を立てて倒れた。二重の痛みに、劫戈は呻く事しか出来ない。

川辺から水底まで石が敷き詰められたそこは、生身の生き物が叩き付けられれば十分に痛みを受ける場所だ。劫戈の意識を刈り取るのは、容易いものだった。

 

「わー! お姉ちゃんが怒ったぁ!」

 

そんな事を意に介さず、鵯が面白げに声を上げた。能天気にはしゃぐのは幼さ故だろう。

 

「お兄ちゃん、さっきからお姉ちゃんばっかり見てぇー! 鵯、お姉ちゃんに負けないもん!」

 

鵯はそう言いだすと、茅へ向かって未発達の華奢な体躯を見せつけようと駆け出した。川の水を跳ね散らしながら、姉には譲らないと言いたげに迫っていく。

 

「鵯っ!? なんでそうなる!?」

「見ないでっ、茅ぁぁっ!!」

「ばっ……沙羅ぁああ!? だから投げるな―――」

 

うっすらと意識が遠のく中、聞こえて来たのは、混沌としたやり取りだった。

 

 

 

――――――

 

 

 

意識が戻る。辺りは未だ夜だった。

月明かりしか頼れるものがないくらいの明るさであるのは変わらず、然程時間が経った様子ではなかった。

 

「はぁ……」

 

今日は何度、気を失えばいいのだろうか。実に困ったものだ、と嘆息する。

 

「……づぅっ」

 

まだ顔面が痛む。特に鼻全体とその奥が、重く感じる程に痛かった。

 

「でも―――」

 

被害を被った劫戈だが、未経験で困惑の渦に呑まれるも、心底では楽しんでいる己がいる事に気が付いた。

 

「―――なんだか、面白い子達だなぁ……っと?」

 

笑みを浮かべながら上体を起こすと、掛けられていた麻布が落ちた。

気にする事無く見渡すと、己が横になっていた所が川辺から少し離れた場所だと理解する。その石の上に、丁寧な事に(こも)が敷かれていた。

 

「あれ……?」

 

そして、妙な事に、体が濡れているような気がする。上半身の衣裳が脱がされており、汗と混じった泥や擦り傷から滲んでいた血が無くなっていたのだ。

 

総じて誰がやったのかは疑問に思うまでもない。

 

そこまで考えて、茅達はどこにいったのか気になった。辺りは誰もおらず、朗らかに暖かさを撒いている火元が一つだけ。

人間と同格の探知能力しか持たない劫戈としては少し不安があった。

 

「ど、どうしよう……」

 

劫戈は不穏に駆られた。一人は嫌いではないが、少しずつ他者の暖かさを覚えて来た彼にとって、心細いものがある。

 

そこでふと、水を掻き分ける音。

 

(―――!)

 

右方を向いて―――息が止まる。眼が己の意志を無視して見開かれ、その場に張り付けられた。

 

 

そこには、彩る事を否定する無地―――静かに月を見上げる雪色があった。

 

「あら、起きた?」

 

澄みきった声で問う彼女は、一体誰なのだろう。

 

「さっきはごめんさないね。沙羅ちゃんはいつも大人しいんだけど……」

「え……?」

 

単純に、とても綺麗な女性だった。

月浴による光と雪色が水面に反射して、神秘的に彩っている。まるで、女神が舞い降りたようだった。

月を取り込んだと思しき彼女の声は驚いてしまうほど知っている。劫戈は唖然と、一切何も纏わぬ女性に声を掛けようと口を開く。

 

「あっ、あの……えっと……ぁあぁっと―――」

「だ、大丈夫……?」

 

しどろもどろに口を開いて、しかし上手く言葉に出来ない。挙句、相手に心配されてしまい、恥かしくて俯いた。

胸を締め付ける冷めた思いと、寂しさを埋める暖かい思いが入り混じる中、劫戈は視線を戻した。

 

「―――榛さん」

 

落ち着いて発した。

雪を纏ったように光り耀く彼女。月に照らされて、誰なのか解らなくなった女性の正体は榛だった。

劫戈が気絶している間、どうやら汚れを落としてやり、一人水浴びしていたようだ。

 

「どうしたの?」

 

この時の榛は、笑顔を向けていた。

が、劫戈としてはどこか寂しそうにも見えた。そうだった、というよりはそうだろうと劫戈は内心で断言する。確信めいたものは要らず、ただそう思わざるを得なかったと思えた。

一色に染められた愁い顔が映えるも、そんなものを見ても劫戈は嬉しくない。彼は努めて必死に、込み上げた暑苦しい驚きを抑え込んでいる。

 

「―――は、榛さん……。その傷は……?」

 

そこまで言って、また息が止まった。

聞いた時には既に遅く、劫戈は後悔に苛まれた。

 

影が榛の背から前へ動く。月の光を反さなくなり、それがはっきりと見え始めた。

彼女の腹部、丁度臍の下辺りから左腰向かって広がる、切り裂かれたような傷痕。ごっそり抉れている訳ではないが、傷付いていたと思しきそれはあまりに痛々しいものだった。

 

「……これは、ね」

 

榛は懐かしむように、しかし苦しむように、傷跡を撫でる。視線を落とし、傷を負った時を思い出したのだろうか、苦笑した。

やはり、と劫戈は榛の顔に張り付いた笑みに力がなかった事を理解する。風が嘶き、肩に掛かった髪を流した。

 

「これは―――」

 

聞く事に覚悟はあった。

裸体に刻まれたそれは、決して勲章などではない事は、榛の穏やかな性格なら明白だ。考えたくもないが、応えは今の劫戈なら十分に解る。

 

そう。

 

「あの(ひと)と……あの(ひと)との子を失った時の傷」

「――――――っ!!」

 

聞いてしまったと、失態を悔やむ。拳を握り、己を心の内で罵った。

 

「貴方は聡い子だから、黙っていてもいずれ知られてしまう。いつか話さないといけないと思っていたけれど……」

 

榛は、言い出せなかったのだ。理由は、言わずもがな。

 

「それは―――父が……日方が、やったもの……ですね?」

「……ごめんなさい。貴方はまた自分を責めてしまいそうで……」

 

絞り出した声を聞いて、頷いた榛は目を伏せる。

 

そこで榛は隠していた理由を含め、控えめながらも、知って欲しいと語り出した。

 

殺された夫とその彼との子を奪ったのは、紛れもない木皿儀日方であった。しかも、五百蔵の孫夫婦である、榛達の両親も犠牲になった、とも。

腹部の裂傷痕は日方からの不意打ちを受けた時のもので、奴から受けた旋風は柔らかな肌を腹の子諸共切り裂き堕胎、見るも無残に絶命させた。

結果、五百蔵の治癒でも元に戻らない程、精神的な傷も相俟って痕として残ってしまったという。

 

「…………」

 

劫戈は言葉を失う。衝撃の事実を知り、卒倒してしまうのではないかと思えるくらいに顔面を蒼白にさせていた。

 

「っ!」

 

榛はその顔から眼を一瞬だけ逸らし、ゆっくり戻して続ける。垂れた耳が、榛の心をそのまま体現しているようでもあった。

 

更に、弟と劫戈の最悪の出会い、糾弾と不和。

劫戈自身は知らないが、以前、日方が榛の夫を殺したと知った時、傷悴してしまいそうな顔をしていた。そこへ追い打ちを掛けるように、劫戈自身の自責と重なり、余計に踏ん切りが付け辛かった。

故に、榛は言い出す事が出来なくなくなってしまったのだ。

 

「そう……だったんですね……」

 

納得。

幾何か平常を取り戻した劫戈はすぐに口を開く。その理由を問いたかった。

 

「どうして、そこまで俺に気を遣うんです? 確かに、俺は関係ないかもしれませんけど……それでも、俺は日方の……」

 

皆知っている。

 

木皿儀という血統の名を。

勘当されようとも否定出来ない、劫戈という日方の息子を。

 

でも。

 

「だって……」

 

榛は笑んでいた。

その訳は、難しい事ではない。彼女らしさ故のものなのだから。

 

「だって―――子供が傷付くのは辛いじゃない」

 

その言葉を聞いた瞬間、目頭が熱くなった。

 

あの時のように、と。何の罪のない子を傷付けるのを忌避する榛は、劫戈にとって優しくも眩しい存在だった。

劫戈は、ただ俯くしかなかった。

 

「貴女は……優し過ぎますよ。でも、そうで良かった」

 

震える呟き。

それは水を掻き分ける音と重なり、跡形もなく震えを打ち消した。その場で涙を押し殺す劫戈。彼の元へ、榛は黙って近付き、しゃがんで抱擁した。

 

「ごめんね」

「いいえっ。むしろ、俺の方こそ……」

 

背をさする手は、とても滑らかで少し冷たい。対する心は温かいのだろう。

今まで以上に嬉しくて、劫戈は心を氷解させる。無意識だが、光躬以外の存在で初めて、心の底から安堵した。

 

「…………は、榛さん」

「んっ……?」

 

少し頭が冷えた所で、目頭から顔全体に熱が移っていく。ぼやけていた左の視界が、榛の尊く壮大な双子の丘を捉えた。

急いで逸らしたが、桃色の頂点が眼に焼きついてしまった。

 

 

 忘れろ、忘れろ。ふしだらな思考を棄てろ。

 

 

(―――隠したいっ!)

 

赤く染まっていたのだろう。榛が、そんな劫戈の反応を見てくすりと笑ったからだ。

なんとも雄らしい、そんな風に見られてしまった事に悲しくなった。

 

だが、そんな事は徒労でしかない。榛は慣れてしまっている。

 

「いいのよ。そういうものなんでしょう? 男の子って」

「う……」

「子供がいたら、こうして笑う事が出来たのよね……」

「っ! 榛さん……」

「解ってるわ。だから、ちょっとずるいけど……ね」

 

白魚のような指が口に添えられた。

 

「貴方を、私の養子に迎え入れていい?」

 

それは、五百蔵が劫戈を迎え入れた時に放った、“預かれ”の意味。はぐれた烏へ差し伸べられた、救いの手にして、彼を護る砦への道。

 

「―――」

 

劫戈は瞠目して、言葉を発しようとして止めた。伝えようとして、口を閉ざしてしまう。

恩を受け入れる事に躊躇いがあり、己で良いのか決めあぐねていたからだ。

 

「駄目、かな?」

 

眉を吊り下げる榛。

劫戈を尊重しようとする彼女の姿勢は、心底嬉しかった。

 

しかし、皮肉な事でもあった。

掛け替えのない、大切なものを奪った男の息子を、養子にしようというのだから。躊躇を禁じ得なかった。

 

 

 その事をどう思って―――いや、そんな事は考えるまでもないだろう。

 

 

そんな事を承知で言っているのだ。榛が、そうならば―――

 

 

「はい、俺で良ければ」

「……!」

 

その言葉で、榛は嬉しそうに笑った。群れに来てから初めて見た、満面と形容出来る笑顔を向ける。

潤んだ赤い双眸から、雫が一つ零れた。

 

「うん……うん、うんっ。劫戈君、よろしくね」

「じゃ、じゃあ、改めて。……劫戈(こうか)です。よろしくお願いします」

 

己で良ければ、と負い目を感じながら承諾。今まで一線を引いていた関係を止め、親睦を深めようと誓った。

 

 




シリアスにほのぼのとした空気を突っ込もうとした結果がこれ。見事に、融和(?)しとる。

今回は榛の過去がチラリする御話となりました。榛の過去は女性にとっては少し辛い話かもしれません。女性読者でこういったものが苦手な方、すみません。謝罪します。
新キャラも増えた。解るでしょうが、榛の夫の妹達。榛と茅の義妹です。近い将来、茅君が『リア充』確定だね、やったね。

書いておいてなんですが……榛ェ。「ちゃんとべべ着ろ!」←どっか聞いた、杖を持っている緑色の顔した妖怪の台詞。確か、戦国時代が舞台のアニメの敵っぽいキャラ。名前は忘れた。


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第一章・第十羽「烏鳴き」

今回は、本作品での貴重なほのぼの回(最後は無視)となります。慣れていない所為か、少し急ぎ足かもしれませんけど。

では、始めよう―――。

2019/6/2 誤字修正


隻眼の烏は飛躍した。

 

木皿儀という名を捨て、ただの劫戈(こうか)となった彼は切磋琢磨を繰り返した。

白い狼、榛の養子となって、ある程度の月日が流れていく。その過程で、相応の練度が積み重なっていった。

 

木枯らしを待つ、色変わり。

時は緑から赤へ移り変わる季節の節目。劫戈にとって十数回目を迎える紅葉だった。積もり重なり合っていた積翠はどこへやら、高嶺から麓まで赤一色に染まっている。

遂に、空気が冷たくなり始め、食べ物がおいしくなる季節がやって来たのだった。

 

山の中腹にある川の畔で、小さな烏―――劫戈の姿があった。

群れの塒から離れたそこで、小さくも精強な羽根をはためかせて飛び跳ねるように水辺の真上に躍り出る。

 

―――しかし、そんな事をすれば、獲物にどのような事が起こるのかは明白だった。

それでも、劫戈は迷いもなく、獲物を仕留めんとばかりに羽搏いた。彼自身が関わると理解し難い現象が起きてしまう事を、他でもない本人が痛いほど知っているというのに。

 

飛び出せた理由は―――今までのような愚は犯さないからだ。

 

「そこだ……っ!」

 

確信して声を上げる劫戈。隻眼となった彼の眼は、閉じられていた。

たった一つしかないというのに、敢えて使わずに研ぎ続けた鋭感で察知する、予想する、先を読む。

 

五百蔵に叩き込まれた事を再度、頭の隅で認識する。

最初に、眼の向きでどこに気を回しているのかを知り、相手の身体の構造から動きを読み、表情や様子から次の行動を予測し、どう動くべきかを判断する。

そして、観察に徹した眼を遮断して、動く。

 

―――瞬間、彼の脳裏では命を八つ、正確な位置で捉えていた。

 

相手に悟られてしまうのなら、と見出した結果。視線も、気配も、意志をも読ませない事を徹底した。真っ暗な頭の中で、目まぐるしく勘と音とで予測する。

生き物は、狙おうとする意志が視線となって自然と向かってしまう傾向にある。意識しても、殺気や気配を悟られかねない。今までもそうだった。

 

そこで到達した結論は、伝わってしまう要素を限界まで絞れば良い。その要因である眼を開けている時間を最小限にし、いざという時に閉じる―――というものだった。

 

今の劫戈は、防衛本能の一種なのか、見えない右からの音や感触などの能力が鋭敏化されていた。五百蔵の指導の恩恵で、風や音の流れが伝わるのが以前よりも強くなっている。

 

これを逆手に取り、彼は独自の個性で新たな力を身に着ける事に成功していたのだ。

 

今彼が空を跳んでいるのは、そうした強い自信の現れである。もう、あの頃とは違うという事をまざまざと見せつけていた。

 

―――故に、これを狩りに最大限発揮させる。失敗の繰り返しであった狩りを、成功に塗り替える為に全力で熟す。

 

羽を持つ未知の影を遅れて察知した魚群は、一斉に逃げ始めた。

自身を狙う脅威から逃れまいと、怯えるように全身を駆使する魚群。睨みを利かせて追い込み、わざと水流に抗わせるよう攻め立て、退路を限定させた。

 

「―――ふっ!」

 

続けて目前の宙を蹴り、羽根を交差させるように大きく前へ叩き付けた。

 

風が水面を弾き、鈍色の何かが迸った。飛沫が空を濡らし、周りの赤と異なる色で彩っていく。

 

劫戈は闇雲に風を起こしたのではない。

乱雑に打ち込んだそれは一気に立ち昇り、それは渦となって魚群を引き上げる。その為、川の流れに乗ればすぐに逃れる事は必然だったというのに、八匹の獲物はそれが出来なくなっていた。

彼らの命運は、既に劫戈の掌中だった。

 

「―――見事なり」

 

第二者が横合いから獲物を掻っ攫う。白が一閃、通り抜けた。

静かに呟いた狼―――朴の視線は、生活圏外へ放り出された魚群を捉えていた。笊碁笥(ざるごけ)の取っ手を器用に咥え、宙に放り出された魚群を空のそれへと飲み込ませる。

 

後退して降り立った劫戈が朴の元へ駆け寄ると、すぐに捕えた獲物を覗き込んだ。

 

「どうだ?」

「ふむ……。重畳だな」

「やった!」

「戻ろう。……長が首を長くして待っている」

「ああ、行こう!」

 

嬉しそうな劫戈の笑顔に、朴は微笑みで返した。二人はそのまま、皆が待つ塒へと歩を向けて空と地を走る。

 

拾われた時、広大に感じられた筈の木々の軍勢は、劫戈にとっては最早、優しい庭と化していた。季節が変わる日々を通った故の成果といえば、そうなのだろう。彼の成長が順調である証だ。

 

塒との距離はそこまでなく、普段の走力で勝つ事など到底敵わない朴との並走が出来る速さで跳躍し続けるので、あっという間に到達した。

 

はっきりと見えてきた榛はいつものように、塒の中央に設けた空きで火元を明かり代わりにして、魚を調理していた。

この日は秋刀魚である。せっせと群れの腹を支える女中と一緒に小枝を口から尾を突き抜けさせ、一匹ずつ夕餉に向けて手際よく用意して行く。男連中が狩りをし、女が飯の支度をする狼の群れでは、見慣れた光景であった。

 

そこで、ひゅうと一つ音が鳴る。

 

「―――榛さん、獲って来ました!」

 

風を切り、そこに舞い降りた。

朴が差し出した笊碁笥(ざるごけ)を、中身が見えるように榛へ手渡す劫戈。夕餉に用いる秋刀魚を川から調達し、集落へ戻って来た所だった。隣にはいつの間にか、お供した朴が満足気に控えている。

 

「あら……! どうだった?」

「うむ、榛殿。劫戈は一人で追い込んでくれました」

「はい……頑張りましたよ!」

「凄いじゃない! よく頑張ったわね」

 

榛は笊碁笥を受け取って中身に驚きつつ、釣られるように微笑んだ。

 

劫戈の顔には、今まで無かった笑顔が宿っていた。

ここ数年、光躬だけ見せた曖昧なものではなく、誰にも見せる事のなかった本物の笑顔が確かにあった。

養子になるまでは、温かい群れに混入した異物であると自虐する劫戈だったが、もうその面影はない。彼の顔には憂いなど一切見受けられず、誰とでも明るく接する勢いだった。

 

そんな劫戈は一度瞑目し、でも、と続けて隣に控える朴に顔を向けた。

 

「……追い込んだのは俺であって、見つけられたのは朴の御蔭でもあるんだ。だからこれは二人で獲ったものでもあるんだ」

「二人とも、ご苦労様。ありがとうね」

「榛殿、この程度の手助けは褒めるほどではないぞ」

「えぇー? そうかなぁー……」

 

朴が榛の賛辞を否定すると、わざとらしい声音を発した。疑わしく朴を見やる劫戈は、間を置いて確信めいたように口を小さく開く。

 

「朴……本当は照れてるんだよねぇ?」

「あら……そうなの?」

 

からかう笑みを浮かべて、朴を尻目に見やる劫戈。榛もまた、劫戈に乗ってからかいの笑みを見せた。

その時、朴の目元が僅かに動く。劫戈の左眼に映ったものは、錯覚ではなかった。

 

「は、榛殿まで…………これは随分と―――はぁ……そう言うのであれば、受け取るとしましょう」

 

大人の対応、とでも言える反応を返した朴は、溜息と共に賛辞を潔く受け取った。頭と共に耳が垂れ、やれやれと物語っている。

 

「―――まったく……お前さんらに謙遜など不要じゃぁ。若者は、素直に受け入っておれば良いと言うに」

「あ、五百蔵様……」

 

そこへ、呆れつつ面白そうな様子の五百蔵が割って入り、皺が刻まれた両の手で劫戈と朴を交互にぽんぽんと頭を優しげに叩く。劫戈は照れくさそうに、朴は珍しい事に惑っていた。

 

「五百蔵様、見て下さい」

「どれどれ……。ほう……これは大漁だのう。よく獲って来よったものじゃぁ」

 

笊碁笥の中身を見せる榛に、五百蔵は感心して劫戈を褒め称えた。

劫戈が獲って来た秋刀魚の数は八匹であり、数日前よりも五匹も多い。彼の進歩具合の良さ故に、声音が若者に期待を寄せる老爺のそれとなった。

 

「なんだ、なんだ? 劫戈坊主はそんなに秋刀魚取って来たんか?」

「おおっ! 八匹もかっ!? となれば、今宵は酒を引っ張れるな!」

 

鼻が良くて耳が良い、面子が次々に声を上げた。

 

「だからってがっつくなよ? お前が食らいつくと他の奴の分がなくなっちまう」

「お前こそ、この前隠れてがっついていたよな?」

「な、(かば)!? 馬鹿野郎っ! 言うなよ!」

 

壮年の人狼がけらけらと若い男性を弄っている。

白い耳と毛並の良い尻尾を立てて、人狼の大人達が挙って集まり出して騒ぎ出す。遠巻きに見ていた狼達も視線だけであるが、楽しそうに劫戈達を向けるに留めていた。

 

 

 

皆の表情は揃って笑顔に溢れていた。

 

榛もそうだった。

劫戈の義母となってからというもの、榛にも笑顔が戻るようになった事を五百蔵は嬉しそうに語っていた。

劫戈は、受け入れた時に下した判断は、間違いではなかった、とも言った。御蔭で、五百蔵や榛達の団欒に加わる事が出来、受け入れられた事に深い感謝の念を抱いた今では、涙しながら多くの大人達に囲まれて宴を経験したのはいい思い出である。

 

談笑する中で、劫戈に近づく二つの白い影が―――

 

「お疲れ、お二人さんよぅ!」

「痛―――! (あし)さん、痛いですって!」

 

ばしっと背を叩く、男性―――(あし)と呼ばれた人姿の白い狼妖。

ふははは、と豪快に笑う彼に対して、しかし痛がりながらも満更でもなく笑みを零す劫戈。そこへ、肩辺りまで伸ばした白い髪を揺らしながら、葦の後ろにいた女性が声を掛ける。

 

「やれやれ……労いがそれかい? いい加減、止めてやりなよ」

「ぁあ? いいじゃねぇかよ、(しきみ)よぉ。こいつも満更でもなさそうなんだぜ?」

 

呆れ顔を向けるのは、榛と同じ歳くらいの勝気な態度の姉御―――(しきみ)と呼ばれる女性だった。

榛に勝るとも劣らない美人さんだが、嫋やかさを持つ榛とは対照的に凛々しい顔が似合っている。まさしく姉御肌の狼だった。

 

「そうかもしれないけど、ほどほどにしときなってのよ。……ま、とにかくお疲れ」

「ゆっくりしとけよぉ」

「そうしておきます」

 

白い狼の群れに於ける、大人陣の代表格でもある二人は劫戈を労いの言葉を掛ける。

 

「何てったって―――今宵は盛り上がるからなぁ!」

「……さっきから若いもんを調子付かせているのはアンタかい! って、いつの間に酒持ち込んだのよっ!」

「おおぅ、怖いこというなよ! どちらにしろ飲むんだ―――」

「それはアタシのだよ、阿呆っ!!」

 

葦の手に酒が入った碗があるのを目にした樒は激しく声を荒げ、取り返そうと素早く腕を伸ばして―――躱される。何度も伸ばす内に、視界から腕が消える速度でじゃれあい染みた行為が始まった。

まだ日が落ちていないにも拘らず、賑やかになっていく。喧嘩腰に近いが、なんだかんだ言って、仲が良いのはこの群れならではであろう。

 

「じゃ、じゃあ、俺はこれで……」

 

とりあえず乾いた笑みを返し、茅を探そうとその場を離れる事にした。

義妹達と反対側の川に向かったと記憶している劫戈は、察してくれた朴と共に歩き出した。二人して苦笑しつつ、後ろのやり取りを聞き流しながら。

 

 

 

――――――

 

 

 

葉のさざめきを聞き、獣道を掻き分けて、狩りの真っ最中であろう茅達の元へ往く。

歩きながら、しみじみと語り合うのは、はぐれ烏と静かな狼だった。本来なら面妖ではあるが、互いは知らんと言わんばかりに親睦を更に深めていく。

 

「よく話せたな。苦手と言っていたろうに」

「な、なんとか、ね……」

 

話題は先ほどの会話の事だった。

漸く群れの面子と馴染めるようになり、大人達や茅の義妹達と交流を持つようになった劫戈は、多くの交流を持てた。一部を除いて、だが。

今まで失敗続きだった狩りにも参加し、劫戈独自の特性を活かして成功を収めていたからというのも幸いしている。着々と進んでいるようで、実に良い事だった。

 

改めて感心する朴に、劫戈は自嘲の息を漏らす。

 

「上達したものだ」

「五百蔵さんのお蔭さ。俺の異常性ってやつを、あの人は理解してくれた。でなきゃ、ここまでやれはしないよ」

「然り。だが、それを続けたのはお主自身だ」

「そうだね……」

 

毎日が楽しい、嬉しい。

 

以前と比べて大違いの現状に、劫戈は充実感と本当の安息を得た。

罵られる事も、蔑まれる事も、貶められる事も、まるで嘘のようで疑ってしまいそうになる。理想が別の形で叶ったと思える、今までにない躍動感が不穏を誘っていた。

後が怖いとは思うが、ようやく得られた今を、楽しむべき時に楽しむべきと判断して、劫戈は劇的に変わった今を思う。

 

(光躬……俺は、やっと温かいところに来れたよ)

 

脳裏に焼き付いた少女が唯一の気がかりだが、今は戻れる事は出来ないだろう。戻るとしても、その後がどうなるか解りきっているからだ。

 

訪れた温かさと安らぎを得て心を癒す彼の今を、想える少女はどう思うのだろうか。

 

そんな思考に耽る劫戈を尻目に、朴は横槍しないように黙って歩を進めている。そんな朴の配慮を感じ取った劫戈は、すぐに思考の波を振り払った。

 

「……そろそろ、見えてくると思うんだけど……?」

 

そこで、朴が突然立ち止まり、それを劫戈は訝る視線を向ける。

 

「ほ、お―――っ!?」

 

なんだこれは、とでも言いたげな程に崩れた顔をした朴を見て、劫戈は思わず固まった。釣られる形で、劫戈も顔の崩壊を許してしまいそうになる。

 

「ちょっ……え、な、何!? 何が起きた!?」

「はぁ…………」

 

慌てる劫戈とは反対に、盛大に溜息を吐いた。

尋常ではない何かを感じ―――いや、聞き取ったのだろう、耳が驚くほど綺麗に天へと向いている。

 

「―――あまり好まんのだがな。ましてや、割って入るのは……」

「は?」

 

意味が解らない、というように朴の小さな呟きに反応する劫戈は、朴に問おうとして―――失敗する。朴は既に飛び出していた。

 

「お、おい! 朴!?」

 

静止を掛けようとするが、止まらない。返事は後で返す気でいるのか、劫戈の声が届く距離でも敢えて無視しているようだった。

だからこそ、思い至る。茅達に何かあったのではないかと思わずにはいられなかった。

 

「―――っ!」

 

折り畳んでいた羽根を広げて風に乗って跳躍した。

視界の中で紅葉が通り過ぎていく幻想的な景色を無視して、二度三度、地を蹴る。羽根に力を普段よりも一層込めて、羽搏いた。

すぐにとはいかないが、朴に追いつくのは早かった。

 

朴が立ち止っている少し後ろで降り立つと―――思考が驚愕と疑問に染められた。

 

「―――」

 

劫戈の眼に映ったのは三人の妖怪、白い狼の群れの一員達。先程、心配した茅、沙羅、鵯の三名だ。

 

「なんだこれ……」

 

彼の唖然とした呟きはその有様を悠然と表していた。

 

手前には、疲れた表情を浮かべ、がっくりした様子で腰を下ろしている茅。奥には、互いに顔を烈火の如く真っ赤に染めて、茅をそっちのけで口論している沙羅と鵯がいた。

 

その場で固まっている訳にもいかないので、いつもとかけ離れた茅の元へ。

 

「えっと……茅、なにがあったんだ?」

「んぁ……あぁ?」

「これは……何とも言えんな……」

 

生返事をされ、元気が感じられない事が伝わってきた。続きが来ないのであるから余計だ。

茅の重傷を見て、朴は呆れて言葉が出てこない様子である。劫戈は、これは酷いなと思いながら、今度は姉妹喧嘩の様子を見やった。

 

「何度も言わせないで、鵯!」

「お姉ちゃんだって、さり気なく睦まじくしてるのにぃ! ずるい! 私だって……!」

「貴女のは過激だって言っているのよ! それはもっと大人になってからよ!」

「お兄ちゃんと(つがい)になるのは鵯だもん! 早くても変わらないもん!」

「なぁ……っ!? それでこの前、榛姉さんに怒られたんでしょう!?」

「大丈夫だもん! えっとぉ、えっとぉ……き、きせーじじつ? さえあれば、お姉ちゃんなんか―――!」

「既成事実ぅっ!? ちょっと待ちなさい!! 絶対許さないわよっ!」

 

飛び交う姉妹の怒声。

口論の内容から、茅に関して―――それも色々と将来に問題となるだろう言葉が混じっている。茅が疲れ切った表情を浮かべているのが、痛いほど解った。

 

「いやだっ! 鵯は今度こそ、お兄ちゃんと子作りするのぉ!!」

「こづっ……!? そ、そもそも、私達はまだ子供産めない身体でしょう!!」

「ふふーん! お姉ちゃん知らないんだねぇー? 五百蔵さまが、“せいじゅく”はあともう少しだって教えてくれたもーん!」

「へ、へぇ……すると私の方が先に成熟するのかしら?」

 

一方は聞き入れられない事に対する怒りで、もう一方は本来口にしない筈の慣れない言葉に対する羞恥心から、紅葉に負けないくらい顔を真っ赤にさせた二人。

 

「鵯はずっと前から、よやく、してたもん!」

「茅と番になるのは私っ!!」

 

熱が急上昇する中、止めに入った方が良いか、朴に視線を向ける。劫戈自身、こういうのは慣れていないものなので、どうしたらいいのか決めあぐねてしまうのだ。

 

「取り敢えず、茅が説得を(こころ)みて駄目だったようで、この有様だ。止むを得んので、連れて一度離れよう」

「そ、そうだね……。本当に……沙羅ちゃんって、鵯ちゃんに劣らず大胆なところあるね」

「何を今更……」

「え?」

 

朴が呆れつつ劫戈を見る眼を細める。劫戈は、どういう意味だ、という疑問の意しか思えない顔を晒す他なかった。

 

「お主は鈍い方なのか」

「え……あ、ぁ、いやっ……そうじゃ、ないけど」

 

何を、とは敢えて言わない。または天然なのか。

朴にそう思われてもおかしくはない反応をした事を悟った劫戈は、とても説得力のない言葉しか出て来ず、二の句を詰まらせた。

 

「さぁ、行くぞ」

 

そういって力の抜けた茅を背に乗せて、そそくさと離れていく朴。実に器用であるが、茅は干された布のように、ぞんざいになっていた。手足がぶらりと垂れる様は、傍から見れば死体を運んでいるようにも見えなくもない。

 

「あ、はは……仕方ないか」

 

苦笑しながらも、劫戈は茅を見て一人思考に耽る。

 

(―――どうして……)

 

茅は何故、二人の気持ちに応えないのか。はっきりと伝えてしまえば、このような事態にはならずに済むというのに。

実のところ、茅の義妹達への反応は曖昧であり、恋愛事情にはあまり興味を示そうとしない。その所為か、沙羅と鵯がここ最近になって激しく姉妹喧嘩するようになった。

 

その原因は至って単純である。そう―――未来の伴侶はどちら、か。

 

異性として意識し始めて、熱烈な求愛行動に発展し掛けている姉妹に、茅は頭を悩ませている様子だった。

仲裁に入るのは、決まって自分か朴、最後の砦としての榛である。

 

劫戈としては、はっきりして欲しいと思っている。巻き込まれる側は堪ったものではないからだ。

 

(どちらとは言わないけど、お似合いだよなぁ)

 

 

結ばれるなら、早くして欲しい。というのが、劫戈の望みだった。

もう親族という関係、あと一歩という距離。近いようで遠いのかもしれないが、そうだから結ばれやすい筈だ。

大人達が陰で挙って、もったいない、と嘆くのも解る。

 

(本当にお似合いだ……)

 

想いを寄せた大事な存在。

今後を共にする番。

未来の伴侶。

 

腕が重なり、寄り添い、指が絡み、視線が合う。その先には―――

 

 

 

 

 ―――ずっと一緒にいようね、劫戈。

 

 

 

 

「―――っ!」

 

誑かすような幻聴に、胸が痛んだ。

羨んでいるのだろうか―――いいや、間違いなく羨んでいる。茅とその姉妹達に。

 

片時でも、自分を重ねて己を慰めていたなど、実に恥ずかしい事だ。浸りかけて、冷汗が溢れ出した。

 

そうであれば良いという妄想を、頭を振って打ち消す。

 

(やめよう……)

 

そんな事をしていたら気が狂ってしまう。そうあって欲しくても、覆したくても、そうならないのだ。

そう、己の場合はもう手遅れなのだから。

 

ただ、友となった男を祝福してあげよう。それでいい。

 

その友たる茅は、朴の背中でぐったりしている。劫戈は感謝と羨望の念を同時に抱いて、視線を向けた。

視線を受ける茅は―――丁度よく揺られている為か、気持ち良さそうに寝息を立てていた。

 

その時、慌てて追い付いて来た姉妹の声が聞こえ、劫戈は溜息と苦笑を漏らした。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

腹の傷は治った。

だが、身体の震えが止まらない。

 

「―――」

 

息が止まる。詰まってしまって、動かない。

胸に込み上げるのは冷たい何かで、判別出来るのは、恐怖一択だった。

 

続いて、喉と頭がおかしい。

締まっているようにも感じるが、痛みは感じられないし何かが触れているという感覚もなかった。

 

己は正常だ。正常―――の筈だ。

 

「―――ッ」

 

息が再開する。忙しなく動いてくれた。

脳裏に、残像が過ぎった。

忘れたいのに忘れられない、悪夢のような―――否、あれが、あれそのものが悪夢だ。

 

ああ、忘れたい。思い出すだけで恐ろしい、認めてたまるか。

 

―――あんなもの。

 

人の癖に。ヒトのくせに、何故―――妖怪である己が恐怖するのか。一体誰が、理解出来るというのか。

神のようで、神とは言い難い未知の存在―――あれ(・・)はこの世のものではない。

故に、理解出来なかった。

 

「妖怪……仙人? あ……天人?」

 

何を馬鹿な事を言っているのだろう。

ふざけるな。一緒にするな―――格が違う。あれは腕の一薙ぎで己に致命傷を負わせた怪物だ。

 

「じ、地獄の遣い? て……天界の獣? 冥府の、主……?」

 

全て違う。どれに当て嵌まるとかの問題ではない。あれ(・・)は、異様で、異常で、異物だ。

この世に在ってはならない。在ってはいけないのだ。

 

「ああ……いやだぁ! なんだ、あれは! なんでおれは出会ったッ!?」

 

ただ、いつものように人間を喰らって、腹ごしらえするつもりで襲った。だというのに、天地がひっくり返った事が起きるなんて誰が思うだろう。

 

牙も爪もない、貧弱な人間に―――逆に殺され掛けるなんて、信じられない。

 

「おれは妖怪だぞぉっ……兄弟の中で誰よりも強い大妖怪だぞぉっ!」

 

納得出来ない。ふざけるな。

たかが人間とはもう言わないが、あれ(・・)からは何も(・・)感じ取れなかった。

 

妖力―――に似ているが畏れがない。

霊力―――とはかけ離れていて痛くない。

神力―――に近いが何故か我が身を焦がさない。

 

寧ろ、鳥肌が立つほど優しい―――虹色の光を纏っていた。

 

出会った時には、ただの人間だと思ったのに、どうしても未知としか思えなかった。他の生き物だなんて、己の感覚が間違える事はまずないのだから。

 

「そういえば……」

 

だが―――おや、おかしい。いつの事だっただろうか。おかしくない筈の頭は、それを覚えていない。

 

明らかにおかしい。何かが間違っている。

 

「な、ンだ……?」

 

眼前に現れたのは―――虹色。

人にして、人に非ず。人の“カタチ”をした何か。

 

「あ―――」

 

鉢合わせ。

 

瞼を閉じても、いる。

視線を変えても、いる。

 

「ヒ―――」

 

掠れた声が空を裂いた。血の気が引いて、息がままならない。

 

「居るな」

 

雑魚を散らせる眼光で睨む―――が、背けられない。

 

 

「い、居るな……」

 

一撃で岩をも切り裂ける自慢の爪を向けて―――空を切る。

 

「い、い―――」

 

すると、翳された手が己を染めるように、治めるように振るわれる―――気がした。

 

「居るなって言ってんだぁぁあああ―――!!」

 

 

もう、限界だった。

 

 

「―――ァァァァァァァアアアアアアアアアアアッ!!?」

 

視界が歪んで、黒から白へ塗り替わっていく妙な感覚。頭が嬉しさと面白さを利かせ、蕩けたように身体が軽くなっていく。

視点が定まらないが、どうでも良かった。

 

「ヒ、ヒハァ、ハハハァ……ッ!!」

 

己の声を聞きつけた兄弟達が駆け寄ってきたが、どうでも良かった。

 

―――今は、とても、解らないのだから。

 

そして、面白おかしい、歪に染まった狂声があちこちで木霊した。

 

 

 




最後の視点は一人称なので、激しく狂っとります。狂気を再現しようとした結果、意味不明な言葉が多くなりました。「これが狂気!」ってのがやりたかったんですが……駄目ですかね?
副題の「烏鳴き」とは、烏の鳴き声で吉凶を占うというもの。俗信ではあるが……。
さて、どのように鳴かせましょうかねぇ……。


―――悲劇スイッチ入りまーす。


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第一章・第十一羽「陰日向」

今回は榛の視点から始まります。内容が、女性の方にとって不快にさせるかもしれないので、先に謝罪しておきます。すみません。
五百蔵の秘密が暴露され、後は……読んで御理解下さい。
では、続きをどうぞ。

12/28、誤字脱字修正


雲遮らぬ晴天にて。

 

赤い眼を往復させ、榛は劫戈を探していた。

塒からそこまで離れていない修行場の広場に行ったことは五百蔵から既に聞いている。赤と茶色に染まった景色の中を掻き分けて行った。

 

吹き抜けるように風が舞うのを感じると、広い場所に出る。無論、修行場であった。

 

「あっ……」

 

目的の探し人は、その真ん中で横になっていた。

 

「遅いと思ったら……」

 

そこから、少し離れた場所の草原。

そこは端から端まで一走りで到達出来る、広くもなければ狭くもないほどの空間だった。心置きなく、誰にも邪魔される事はないだろう。

すうすう、と小さな烏は大の字で寝息を立てていた。そんな無防備を晒している彼の元へ、歩み寄っていく。

 

「……涎出ちゃってる」

 

思わず笑みが出た。

劫戈は修行で疲れたのだろう、実に幸せそうに眠っているものだから、少し起こすのが忍びないと思った。取り敢えず、その開けた草原で腰を下ろす。

よほど疲れているのだろう。隣に座る榛に気付く事なく、手足を投げ出してぐっすり眠っていた。

 

「ぐっすり、ね……」

 

雪色の尻尾を膝に乗せ、すやすやと寝入る劫戈を見守る榛は手を伸ばす。

慈しむように、出会った時よりも僅かに伸びた前髪を払うと、右目がある筈の場所に抉られた傷跡が陣取っている。実の父から受けたらしいそれは、五百蔵が治療したにも拘らず、未だに強く刻み付けられていた。

 

「――――――」

 

失われた右目を、掌で優しく包み込み、ゆっくりと撫でる。それだけで、彼の胸中が如何に痛めつけられて来たかを悟った。

 

眼を瞑る。脳裏にあの忌まわしい日を思い起こした。

 

 

 

――――――

 

 

 

五百蔵が不在の時を狙って、群れが襲われた。

殺気立っていた日方が優れた配下を率い、問答無用で同胞を殺し回って行った。

無論、予め何かあった時の為にと作った穴倉の中へと女、子供を先に逃がし、男達が立ち塞がる。群れ総出で迎え打ったが、流石に大妖怪への領域に片足を突っ込んでいる輩を止めるのは困難であり、多くの仲間や親類を失う事となった。

地を走る者と空を舞う者の差は、動きの自在さにある。行き場を取られればすぐに連携は瓦解すると知っている日方は、徹底的に潰して回った。

 

蹂躙された。

それは、白い狼の群れが少数精鋭に近い構成であった事、五百蔵のみが強力過ぎた事による惰性があった事にも起因する。数の差も、積み重ねた練度も、圧倒的に烏天狗が上であり、もはや敵う道理はなかった。

 

夫は憤怒に駆られ、烏の癖に烏合にもならない雑魚を一掃する。

五百蔵の腹心を任されるほどの逸材となった彼だけが唯一対抗しうる戦力だ。

彼ならば、と期待を寄せるが、天狗最強と名高い津雲が相手では突破口を許してはくれない。他の大人連中も数に翻弄され、気を回す事が出来ないでいる。

 

その隙をいいようにされるという、最悪なものだった。

 

矛先が向けられた時、走馬灯を埋め尽くすほどの思いがあった。

本来ならば茅以上に強い筈の己は、子を身籠っている為に、戦う事は愚か、満足に動く事は出来ない。迫りくる理不尽に憤り、対して何も出来ない事が悔しかった。

 

悲しくて堪らなかった。

生まれてくる子の母として、生ませてやれず、抱いてやれず、外の世界を見せてやれない。無力に打ち拉がれる思いで、ただ悲しかった。

 

両親が、己を庇う。肉を引き裂き、骨を断つ一撃で肉片と化す。最初は父が、次は母が犠牲になった。

思わず叫んでしまい、いい的になった。

逃げ果せれば良かったものを、不意を突かれる。日方に眼を付けられ、万事休す。そんな時―――

 

夫が振り切って戻って来た。

そして、他でもない己を抱擁した。

 

一対多の中、足手纏いでしかない妻を、しかし彼は捨て置く事をしなかった。

 

直後、意識が暗転し、気が付くと全身の激しい痛みに呻いた。

朦朧とする意識の中で、怒り狂った咆哮を上げる五百蔵が、数十近い烏を葬ったのを見た。安堵する中、血生臭さと生暖かい何かに包まれている感覚に疑問を覚えつつも意識を手放した。

 

 

起きてから視界に映ったのは、よくぞ生きていてくれた、と涙ぐむ高祖父の姿だった。

周りには、傷付いて互いに寄り添う狼たちがいて、遺骸に縋り付いて泣いている者がいたのが音で伝わってくる。見渡そうとしても、腹部の鈍痛と動かないほどに重い我が身で呻く他なかった。

 

真っ先に夫はどこかを聞くと、五百蔵は押し黙る。答えは見つめる先にあった。

視線をすぐ隣に移すと、彼はいた。寝かされ、無惨な姿で冷たくなっている状態で。

 

それを見て、悲鳴を上げ、悟った。夫が身を挺して守ったのだと。

激痛を伴う事を無視し、もう動かない彼に泣きついて、置いて逝かれた事に納得いかず、必死に名を呼んだ。

 

彼は片腕が無く、腹から下も無かった。

何度呼びかけても、返事もなければ微動する事もない。愛した夫を失った事実が心に刻まれていくだけだった。

 

笑い合った事も、触れ合った事も、充足を与えてくれた事も、全て思い出の中へ追いやられた。これから作っていく事は叶わない。

 

だが、絶望の淵に立たされたというのに、更なる悪夢が待っていた。

 

泣き散らす己に、五百蔵は泣きながら謝って来た。若者を守るべき先達がなんという為体(ていたらく)だ、と自責する五百蔵。高祖父は悪くないと知っている己は彼の御方を宥めるも、その腕に収められている小さなものを見て固まった。

 

一瞬、血溜まりかと思ったが、形があった。バラバラにされたと思われるそれは夫の手足かと思うも、違うものと推測出来る。

よく見れば、五百蔵の方手で押さえられて、妖力での治療を受けている己の腹部から出ている管と繋がっている。五百蔵が慌てて告げようとするも、それが決定打になった。

 

血が繋がっていたからだろうかは解らない。その正体はすぐに解った。

 

 

 

 

それは―――生まれてくる筈の我が子だった。

 

 

 

――――――

 

 

 

見つめる先には、憎き男の顔を受け継いだ子がいる。でも、恨みをぶつける相手ではない。彼もまた、被害者なのだ。

 

間違いなく殺すために向けられた鎌鼬は眼を穿ったが、子供だから簡単に死ぬだろうと手加減された故に、生を掴めた。あの日、腹の中にいた我が子と違って、彼は生きる事が出来た。

何故、我が子ではなくて貴方が生きているの、と思うがそれは我が子を救えなかった己の未熟さ故だ。そのような事は守れなかった己の責任でしかないし、もう帰っては来ない。

 

だから、今ある命を大切にする他ない。

 

生まれ出る命が。

祝福すべき新たな命が。

あるだけで素晴らしい筈の命が。

 

―――こうも傷だらけで、悪意に犯されている。

 

何故ここまで非常になれるのか、何故子供をここまで痛めつけられるのか、背筋が凍る思いだった。

 

「そんな事は、もうさせない」

 

私がいる限りは、と心に誓う。

ふと、呻きが聞こえて、そこへ見やると苦しそうにする劫戈が映った。我に返り、力を込めてしまった手を引っ込める。

もう目を覚ます寸前だ。感傷に浸る己の所為で起こしてしまったと反省し、頭を振る。

 

神妙な顔を見せまいと、子供に見せるべきではない顔を終い、この子の母としての顔に切り替える。劫戈が不安にならないように努めて、起きるのを待った。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

懐かしい夢を見た。

 

光躬と追いかけっこしている夢。まだ、大人に何も言われる事のなかった頃の夢だ。

 

だが、どんな会話をしたのか忘れて―――否、吹き飛んでしまった。

 

目が覚めると、白い双子山が見えたのだ。

前にも似た光景だな、と既知を感じて、それの正体を理解すると同時に顔が熱くなった。

 

「やっぱり、男の子ね」

「―――!!」

 

声が裏返る。ばっちり知られていた。

さぁー、と血の気が引いていき、悲鳴が出そうになった。恥ずかしさのあまり、眼を逸らすしかない。

榛の方はからかっているようで、咎めているような視線を向けて来る。

 

「凝視するのはあまりよろしくないからね?」

「……はい、ごめんなさい」

 

否定など出来るものではないと思う劫戈は声を絞り出す。男として生まれたのなら、その反応は仕方がないのだから。しかも年頃の男の子なら、無理もなかった。

申し訳なさやら、恥ずかしさやら、情けないやら、でもちょっぴり嬉しいやらで、顔が熱を持つ。綯交ぜの気持ちで頭が埋め尽くされた。

 

「っ!」

「ふふふっ」

 

それでも榛は笑って撫でる。優しく包み込むような手は、慈愛溢れる思いが詰まっていた。

そんな榛の手を、温かいな、とまんざらでもなく受け入れる劫戈。心地よい風と相まって、思わず笑みが漏れているのに気付かなかった。

 

そこで。

 

「……あ、そういえば」

「ん、どうしたの?」

 

すっかり忘れていた事を思い出す。今の状況なら絶好の機会であると判断し、素早く身体を起こして榛に向き直った。

 

「五百蔵さんの事を訊かせてください」

 

今まで気になっていた事を口にした。

 

 

 

――――――

 

 

 

五百蔵という大妖怪には、少し謎がある。

多くの狼達から尊敬され、慕われている。それは良いのだが―――どこか妖怪らしくないところがあった。

 

滲み出る親しみ易さだ。妖怪らしい強さ、統率者―――つまりは王のような大妖怪たる格があるにも関わらず、気さくに話しかけてくるお爺ちゃんという印象が強い。津雲と対照的、いや真反対とも言えるだろうか。

だからだろう、劫戈は近しい何かを感じて止まなかった。

 

五百蔵という大妖怪は大いに魅力で溢れている。劫戈は以前から五百蔵について知りたかった。

 

最初は己を支持してくれた恩師であるから、もっと知ってみたいという探求心が働いたからでもあった。試しに、朴や群れの大人達―――葦、樒などの者達に聞いて、ただ凄いのだとくらいの言葉で濁され、期待出来る返答がもらえなかった。

 

少し不貞腐れた。

その所為で思考を鈍らせてしまった為に、修行でもして忘れようと一人打ち込んでいたのだが、気付いたら疲れて寝てしまったというのは榛には内緒である。

 

起きれば、血族であり身近にいる榛が現れた。実に好都合と言えば好都合であり、戸惑いもなく問うた訳である。

 

「そうだったのね。葦さんも、御人が悪いわね……。わかったわ、そういう事なら教えてあげるね」

 

あっさり了承した榛が代弁すると言った。劫戈の期待は大きく膨らんでいく。

劫戈の眼は、さぞ輝いている事だろう。そんな彼を、榛は暫し見つめたかと思うと、顔を笑みで綻ばせた。

今の榛にとっては少し違うようにも見えたが、好奇心に突き動かされている劫戈は気付く事はない。

 

「五百蔵様のどこが知りたいの?」

「全部です!」

「ぜ、全部ね……」

 

苦笑しながらも背筋を伸ばし、毛品のある咳払いをする榛。劫戈もそれに倣うように、慌てて背筋を伸ばし、榛の言葉を俟った。

 

「まず、五百蔵様の先祖は、この倭の国とは違う場所……つまりは、違う大陸で生まれた妖怪なのよ」

「えっ…………あぁ……」

 

驚き、そして納得が行ったように頷いた。

劫戈は己らがいる山々や大地がある倭の国を“島”と呼ばれている事を一応知っていた。海を越えた先にある別の、島とは比べ物にならないほどの広大な土地を“大陸”と呼ぶ事も、忌々しい父に教わっていたのだ。

その大陸では、島である倭の国よりも比べるのが烏滸がましいとさえ思ってしまう、凄まじく強大な妖怪が跳梁跋扈しているというのだ。そこで生まれたとあれば、納得は出来よう。

 

「海に面した大陸から遥か西。“北欧”という場所で生まれたと聞いているわ」

「ほくおう……?」

 

聞きなれない言葉に、鸚鵡返しの如く呟いた。

大陸とは言え、あまりに広過ぎる土地。そこから西へ海しか見えなくなる場所へ進むと、五百蔵の先祖が生まれた故郷があるというから驚きだ。

 

「北欧では、多くの神々がいて、色々と穏やかではない日々があったそうよ」

「え……神達は争っていたんですか……?」

「似ているけど、少し違うかも。人間を見守っている神がいて、互いを高め合っていた神もいて、親を殺した神もいる。千差万別、と言えばいいかしら」

「……」

 

聞いた内容は小難しい、全く範疇外の事だった。

 

神といえば、妖怪を汚らわしい獣や邪な化生と宣っては問答無用で排斥する印象しか抱けない。妖怪連中からすれば、挙ってふざけるなと言いたい癪に障る存在で知られるのが一般的だった。

 

劫戈は唖然としながらも、榛から齎された情報を咀嚼した。

実に物騒な場所で生まれ、強く生き抜いて、大妖怪になった。そして、現在に至る。

大体の事情は解ったが、そこには謎が残った。劫戈はそこへ行き着き、すぐに榛へと問う。

 

「どうして、ここに来たんですか?」

 

謎の正体は、それに尽きるだろう。

多くの山々、川、果ては海までが待ち受けているのに、大陸から渡って来たというのだから、どんな事があったのか。

正直、圧倒的な存在だと思える五百蔵、その先祖が簡単に死ぬとは見えないし、信じられない。物騒な場所でも力が示せれば、何ら問題はない筈なのだ。それが妖怪なのだから。

 

劫戈の疑問に、予想していたのか、榛はそれはね、と続ける。聞き入る劫戈に聴かせるように、言葉を繋いでいく。

 

「五百蔵様の御祖父様。私から言えば、六世前の方ね……。その御方は神が生んだ狼だとされているわ」

「へえ、神から……って、え!?」

「―――ふふっ……」

 

それで、と続きを所望し、食いつく劫戈の反応に榛は微笑する。上品に、笑みが零れる口を手で遮った。

 

にっこり顔に、ふわりと垂れた耳、細められた赤い瞳。隠れた艶やさがあり、実に映える仕草だった。

 

「――――――!」

 

その仕草に、思わず瞠目した劫戈。必死に顔を取り繕うが、隠すのに失敗して崩れた酷い顔を晒した。

 

「ふっ……ふふふ……」

 

それが堪らず、堪え気味の笑い声が上がった。

 

「は、榛さん。からかわないでくださいっ」

「あら、こんなお義母さんは嫌だった?」

「―――ッ! いえ、それは……」

 

苦言が即行で返され、それに乗ってしまう。そんな中でも、劫戈は少なからず嬉しさを感じていた。

 

「……嫌じゃ、ないですけど」

 

だから、笑みを見せる。他でもない、己を引き取ってくれた義母(ひと)に対して。

 

「……そう。ごめんね」

「いえ……」

 

謝るも、ふと、笑みを止めて視線を落とす榛。何とも言えない己に、内心で嫌悪した。

 

「……まだお義母さんって呼んでくれないのね」

「あ―――」

 

一瞬、呼吸が止まった。

何気ないようで悲しそうな声音で本音を漏らしたであろう、目の前にいる女性は、それはもう大事な人だ。故に敬意を込めて母として見、敬称を付けて呼んでいる。

 

されど、気安く“お義母さん”と呼べなかった。

 

抵抗があった、恥ずかしかった―――そんなものはない。が、どうしても避けてしまう。何かに拒まれているような気がして、だけどもそんな事がなかったように、よく解らないでいた。

 

「もう、ちょっと……待って、くれませんか」

 

故に、先延ばしにするしかなかった。

苦笑を装い、劫戈は己の内にある歯切れ悪い思いに嫌悪する。情けなくて、恩を仇で返そうとする姿勢を見せる現況に、腹の底で酷く嫌悪した。

 

「―――無理に言ってごめんね」

「いえ……すみません」

 

榛も個人的な願望も少なからずあるのか、言及して来なかった。

これは他でもない劫戈本人の問題だ。だから、敢えて言及はせずに、榛は優しく、忘れてもいいように謝罪した。

 

「それでだけど……」

「あ、えっと……五百蔵さんのお祖父さん、からでした」

 

気を取り直す二人。顔は笑みが張り付いている。どこからどう見ても、親子水入らずの光景がそこにあった。

 

「そうだったわね。……その御方、親族から酷い仕打ちを受けたらしいの。残った親兄弟も、祖を残して皆狩られてしまったそうなの」

 

飛び出したのは、己と似た境遇の話。同情とか、憐れみとか、それらの感情をかなぐり捨てて、思わず聞き入った。

 

「五百蔵様は、その御方が密かに産んでいた仔等の余蘖(よげつ)なの。身の危険を感じて、倭神の介護下にあるこの地に住処を変えた狼の子孫」

 

それはまるで御伽噺のように、語られていく。葬った記憶の墓を掘り返すような話だ。

 

「流れる血は倭とは違えど、この地で五百蔵様は生まれた」

 

それから、長い時間を過ごし、やがて一匹になった頃。五百蔵は多くの出会いと別れを経験し、倭の国を巡り続けたという。

 

「五百蔵様が妖怪となってから少しして、この山に行き着いた頃の事よ。数代前の昔、白い狼は烏天狗に家畜のような扱いを受けていたの……」

「もしかして五百蔵さんは……」

「もちろん五百蔵様は憤ったわ。でも、突然現れた余所者でしかなかった。だから、最初は静観していたそうよ」

 

曽祖父にして白い狼の群れの開祖である五百蔵。そんな偉大な曽祖父を語る曾孫娘は、とても誇らしげで、我が身のように嬉しそうであった。

 

「我慢ならなかったんでしょうね。虐げられるのが、耐えられなかった。だから―――」

「だから、五百蔵さんは狼達を引き抜いて狼を守るために群れを作った、そういうことですね?」

 

それを遮ったのは訊ねた劫戈自身。途中で語りを妨げるのは悪い気がしたが、合点がいった事に嬉しくて、つい口が滑ってしまった。

けれど、榛は何も言わなかった。聡い劫戈ならすぐに解ると踏んでの事だろう。

 

「……そう、確執が生まれたのはそこからなのよね。五百蔵様も、自分で撒いた種だ、って言っていたし……」

 

互いに、神妙な顔になるのは避けられなかった。

持ち出した話題がこんな事になるなんて思いもしなかった、というのは言い訳にしかならない。予想していなかったから、納得と困惑の合間を行ったり来たりするしかなかった。

 

「いろんな意味でお相子……生易しい言葉だけど、そうなってしまうのよね」

「榛さん……」

 

なんと声を掛ければ良いのか、劫戈は榛の名を呟くだけで、横顔を見る他なかった。

ただの好奇心で訊いたつもりが、反って暗い話になってしまうなんて予想も出来ようもない。榛の心を抉ってしまったのではないか、と内心では恐々としていた。

 

「話してくれて、ありがとうございます」

 

榛の悲しそうな顔を見るのが嫌だった。端麗な顔が憂いに染まるのを、是とは出来ないのは男の性。

故に、早く切り上げるのが妥当だった。

 

「榛さん、戻りましょう。俺を探していたんですよね?」

 

暗い圧空を振り払うように立ち上がって手を差し出す。

榛が迎えに来た、と解釈するのは容易だ。いつもなら茅か、彼と一緒にいる鵯あるいは沙羅が呼びに来るのだから。

 

「まだ余裕はあるけれど、ね」

 

苦笑する榛は劫戈の手を取る。彼女を立たせて、後は塒に向かうだけだ。

余計な言葉は要らない、義母を伴い群れの皆がいる場所へ行く。短い道のりではあるが、それだけで十分だった。

 

―――二人が親と子の充足を感じるのは。

 

榛の手を握る劫戈の手は、いつもより力強く且つ優しかった。

その後ろ姿を誰かが見ていたなら、間違う事もなくこう言っただろう。

 

―――親子、と。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

翌日、陰りない朝。

 

「ふんふふ~ん♪」

 

鼻歌交じりに塒から少し離れた海岸へ向かっているのは、小さな狼の娘子―――(ひよ)。姉と同じく白い耳と尻尾を持つ妖怪の子供だった。

今は、宴の名残で気の抜けた大人達の輪からこっそり抜け出して、山を降って少し経ったところ。ご機嫌だったのが後押しして、一人で出歩いてしまっていた。

普段なら、こんな事は絶対にしない。大好きな姉や義兄に再三言い付けられているからだ。

 

しかし、彼女は破ってしまった。

 

全ては、姉に負けたくない意志が強い故に、好意を寄せる義兄の為に。こうして、海岸へと向かっていた。

 

おめかしして気を引きたい。

 

たったそれだけの単純で、大きな思いで足を運ぶ。恋は盲目とはよく言ったものであるが故に、彼女は無茶を承知で―――

 

「わあぁ……!」

 

目を奪われた。

水平線で眩しいくらいに乱反射する光が、眼を更に輝かせる。潮風がゆっくりと流れ、日が注ぐ光景は、まさしく眼だけでなく心も奪われる絶景だった。

 

「ん~っ! 綺麗……」

 

太陽が顔を覗かせる時間であり、空気も冷たいものから温かいものへと切り替わる。身に染みる空気が心地良かった。

自然の中で生まれた妖怪なら、心底最高の気分だろう。鵯は眼を閉じて、余韻すらも余す事無く浸った。

 

「さぁて、探そっ!」

 

勢いよく飛び出して、海岸の砂浜へと辿り着く。足の裏に刺さる土とは違った細かな感触に、くすぐったさを感じて一人笑い出して踏鞴を踏んだ。

 

「あははっ。なにこれぇ!」

 

さくさく、と鵯が動く度に砂の音が奏でられ、波音に乗っては掻き消えていく。

しかし、目的は忘れない。一通り楽しんで、打ち上げられた岩のある方へ走り抜けた。

 

岩の影から伸びているものを見て、目を見張り、顔を輝かせた。

 

「……あったぁ!」

 

目的のもの―――藤色の花。

秋に入る頃に顔を出し始め、冬に入ると一切見られなくなる秋の七草の一つだ。愛らしい小さな花弁を持つそれは、博識な五百蔵に“なでしこ”と呼ばれている。

 

今の鵯の機嫌は最高潮だった。

これさえあれば、男はイチコロといった具合に大はしゃぎ。幼い心は、未来の期待に打ち震えた。

 

大事に、そっと、丁寧に茎から千切り取る。花弁が痛まないように、慎重に慎重を重ねた。

 

すると、手のひらには求めたものが―――

 

「あれ……?」

 

そこでふと、気付く。

 

―――自分の影が大きくなった。

 

差し込む日の出が眩しいから背にしていた事もあって、海は一切視界に入っていなかった。だからこそ、気付く筈もない。何か(・・)が後ろに陣取っている事など―――

 

「―――……っ!?」

 

 

 

 振り返るな、振り返るな―――絶対に、振り返るな。

 

 

 

背筋が凍るとはこの事か。冷汗と悪寒が止まらないだけでなく、身体が金縛りに遭ったように動かない。

 

鵯はこれを知っていた。むしろ経験があると言っていい。

そう、かつて悪ふざけで五百蔵に叱られた時に似たもの。

 

―――他でもない、恐怖だ。

 

されど今回ばかりは、置かれた状況と格が圧倒的に違う。怒りから来るものでは断じてなく、正真正銘の敵意、或いは殺意からの恐怖だ。

 

杞憂だったなら、どれ程楽な事だろう。小さな希望観念が溢れ、きっと気のせいだと助長させる。他にどう思えようとも、今の幼い彼女にはそれしか抱けず、それ以外頭の中に無かった。

 

そして―――ゆっくりと振り返った。

 

「ぁ……、……ぁっ―――」

 

鵯が出せた、言葉にならない声はそこまでだった。

 

彼女の赤い瞳に映ったのは、自分よりも何倍もの体躯の存在。鼻息が荒く、全身毛だらけで濡れている。それが、血走って焦点の合わない眼を向ける彼の者が、大きな腕を振り被る姿が、瞳に強く焼き付いた。

人間のような二足でいて、四肢の先端には鋭利な爪が、華奢な容赦なく襲う。悲鳴すら上げる暇もなかった。

 

自分がどうなるのか思考する瞬間、身体に飛来した衝撃で意識が刈り取られた。

 

―――二度と目を覚ます事のない一撃なのは確かだった。

 

 




補足しておきますが、烏天狗と白狼との軋轢の発端は、元は五百蔵と津雲の衝突です。
五百蔵の元ネタはもうお解かりでしょう。彼は……そうですね。そういう存在なのだと思って下さい。
彼の先祖が辿った道を解りやすく例えると―――
故郷にある企業に勤めようとして、ブラック過ぎて止めたくなり、邪魔されない土地に移って個人事業を始めた。
―――といった感じです。……五百蔵の若い頃を別枠で書きたいなぁ。いつになるやら(遠い目)

……遂に悲劇が始まった。
あぁ、自分で書いておいてなんですが、犠牲者の一人が幼い少女だというのはね……心が痛みますね。―――白々しくてすみません。

今回もコミケ行ってきます。実に楽しみだ、イヤッホォォオオイ!
会場で御会いした貴方にはきっと福が来るでしょう(棒読み)。



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第一章・第十二羽「襲来と、犠牲と」

もう少しで第一章も遂に終わりを迎えます。これから始まる、劫戈の本当の飛躍にもうしばらく御付き合い下さいませ。今回は、大人たちのターン。
さあ、続きをどうぞ。



 

早朝、見事な晴れだというのに空気が重かった。

 

「――――――っ!」

 

その時、五百蔵は本能で危険を察知した。

全感覚で得た情報が脳へと伝わると同時に、眼を見開き迷わず意識を海岸に向ける。突然やって来た状況を理解したのだろう、温和な彼の表情からは感情が抜け落ちていた。

血肉が引き裂かれた音を、幼子の失意と恐怖の声を、聴く。見知らぬ大きな妖気を、余所者が縄張りに踏み込んだ事を、知る。

 

「起きよッ!!」

 

空を裂かんとばかりに吠えた。

 

「―――アオオオォォォォォン!!」

「皆起きろぉ!!」

 

一番早く反応したのは朴、続いて茅だった。

寝静まっていた群れの上方の面々が目を覚ますと、誰もが顔を顰めて何が起きたのかを悟る。耳が無意識に跳ね、眼には怒りの意志が灯る。

 

「……ぅ、う……ん?」

 

慌ただしく覚醒していく狼たちの中で、誰よりも意識がはっきりしない劫戈が塒からふらふらと出て来た。

愚鈍に染まった顔で辺りを見回すも、朝に弱い彼は、周囲が騒音を起こしているとしか認識していない。何が起きているのか、間違いなく解っていなかった。

 

「ん~……?」

 

首を傾げながら、その場に座り込もうとして―――そこへ、慌てた榛がやって来た。

 

「ぼさっとしないで、劫戈君! 敵襲よ、逃げる準備をして!」

「え―――?」

「早く!!」

「……は、はい!」

 

真正面から榛に肩を揺さぶられ、漸く目が覚めた劫戈は事態の理解に及んだ。榛の慌てた声を聞いたのは新鮮であるが、今はそんな悠長な考えは放棄する以外に選択肢がない。

駆け足で共に女性陣が固まっている方へと向かった。

 

「女子供は先に壕へ移動させろ、早くせんかぁ!!」

 

慌てる事はなく、しかし早口な声には余裕がないと取れた。

 

「我に続けぇええ!!」

 

いつの間にか先頭へ移動した朴が一声上げた。聞き付けた者は一目散に行動を開始する。

 

向かう先は、掘って造った奥深い穴―――豪。

山の至る所に点在する逃げ場であり、もしもの時を想定して造られた隠れ穴である。保存の利く食料や道具などを置く倉庫としての意味もあった。

 

先に三匹の雄の狼を行かせ、雌たちと人型の者がその後に続き、雄はその周囲を守るように円を描いて配置に付く。以前、襲われた事を活かしたのだろう、迅速な動きで向かわせた。

 

ところが―――

 

「―――沙羅ちゃん!?」

「鵯! 鵯、どこに!? どこにいるの!?」

「沙羅ちゃん、戻って!」

 

突如、榛の制止を振り切って沙羅が引き返してしまった。これは不味い、と茅が連れ戻そうと逆走する。

 

「沙羅、何やってる! 戻れ!」

「鵯が……鵯がいないの! 匂いしか残っていない! 茅、茅ぁ!」

 

理由は至極単純。彼女は姉であったが故に、血を分けた妹がいない事で情緒不安定に陥っていた。

烏天狗が襲ったという過去にも起因するのだろう、また悲劇を繰り返されるのかもしれない。そんな恐れを抱いていると、それを見ていた劫戈は眉を歪める。近くにいた榛もまた、そんな彼の顔を見て眉を歪めた。

 

「なん……こんな時に―――」

「ちがやにいちゃん、こうかおにいちゃん、ひよちゃんがいないよ!」

「こわいよぉっ! なんかくるのぉ!?」

「なんだって!? 本当に誰も見てないのか!」

「鵯ちゃんっ! 聞こえたら返事をして、鵯ちゃん!」

 

劫戈は、心配げな親たちにしがみ付く子供たちに鵯が本当にいないのか、その他の子供たちに声を呼び掛けて確認して回る。榛も参加し、移動しながら周囲に気を配った。

沙羅と同じく白い髪に耳、尻尾を容姿の一部として持つ子等は、皆鵯よりも幼く、茅の腰に届くかどうかという幼だ。

 

鵯がないのは一目瞭然だろう。

しかし、僅かな焦りと入り乱れた気配や匂いが邪魔をしてしまう。見渡し、少し間を置いて、現状が更に深刻になると理解した。

 

「爺さん、鵯が―――!」

「聞こえておる! こちらで探す、早く行かんか!」

 

五百蔵に伝えなければと声を張り上げるが、既に聞こえていたらしく即座に催促が飛んで来た。

その間に、茅が離れた子供たちの緊張は盛大を超えてしまう。事態が、彼らの冷静さをゆっくりと削っていった。

 

「おきたらひよちゃんいなかったんだよ!」

「なにがくるの? こわいのやだぁ!」

「ぼくみてないよ!」

「いやだよぉぉぉ……こわいよぉっ!」

「大丈夫。今は逃げる事を考えて? ちゃんと探すから、ね?」

「大丈夫だ! 俺たちだけでも早く行くぞ!」

 

感情を統御出来ず激しくなった幼子らの反応を、慌てる事無く上手く対処する榛。劫戈も努めて表に出さないように続く。

 

「近くにいりゃいいが……」

 

顔を悲痛に歪める沙羅を強引に引っ張って来た茅は、周囲に意識を向けて千里眼を放った。

ところが、海から山一帯に進む禍々しい妖気が帰って来るだけ。鉄がこびり付いたような胸が気持ち悪くなる臭いも感じ取った。

 

「ええい! くそっ!」

 

茅は八つ当たり気味に、走る最中で眼前に突き出た枝を殴り飛ばし、破片への引導を渡した。珍しく苛立っているのは誰でも解った。

そんな悪態を付くしかない茅の悔しそうな顔を、劫戈は尻目にしていた。

群れを襲った何かに対して、不穏な何か感じ、それが表情に現れ出る。恐怖とは違う、胸に渦巻く嫌悪感が、心を落ち着かない。半分、上の空に近かった。

 

そんな劫戈は、榛たちと共に己よりも幼い子供を連れて急ぐのだった。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

豪へと避難する一行を背に、古株の五名―――(かじ)(しきみ)(かば)(いさ)(あし)を含め群れ長の五百蔵を筆頭とした男連中が殿として残るものとした。

凡そ十数の命を非難していくのを尻目で確認し、海岸から近づいてくる気配に眼を向け直した。

海岸から磯の匂いと、邪気の混じる妖気や鉄の臭いが、鼻を刺激する。実に腹立たしい気分になるのを抑え、声も発さずに視覚に入らぬ敵を睨んだ。

 

感じ取れた気配は三つ。

一番強いと思しき者は、ただならぬ妖気を振り撒きながら先頭を進む者だろう。

 

静かになった木々の中から、草木を掻き分ける音と荒れた息遣いが聞こえてくる。

 

「この邪気に紛れる血の匂いは、鵯……か……」

 

無情のようで、だがこれでも十分に感情を露わにしている震えた声を吐き出す。五百蔵に怒りの火が宿るのは当然だった。

温和な程、逆なる感情は非常に強くなりやすい。故に、今の彼は腹の底に宿った怒りに震えている。

 

支配されはしない、逆に支配する。怒りは何よりも大きな力を生むが、付け入る隙になり兼ねないのを解っての事だ。

 

「どこの誰だが、知らんが―――潰す」

 

怒気の孕む意志。それに応えるかのように迎え打たんとする者等が現れた。

 

感じ取れる妖気が一層濃くなる。迫り来る暴力の塊を体現すると同時に、発されている妖力は妖怪を妖怪とする要素としては、邪すぎて異様な揺らぎを呈していた。

 

それは、酷く醜い姿の三匹の樋熊だった。

いや、見た目の“二足の獣”の姿形ならば、という推測に過ぎない判断で樋熊とした。大きさは大体、大の大人が三人分固まったくらいだろうか。

海水に浸った毛は妙に逆立ち、四肢に備えられた鎌のような四本の爪は、余計に異形としての姿を際立たせている。血走った双眸は焦点が合っておらず、ギョロリギョロリと周囲を忙しなく動かしっぱなし。息は荒れ、吸った瞬間には吐き出しているという、最早生き物としての正気は終わっているかのようでもあった。

 

見るに悍ましい狂獣、表現はそれに尽きた。

 

それを見た者達は、各々に忌まわしげな視線を向けた事だろう。五百蔵も内心で、とんでもないものが来た、と思いつつ視線を鋭くする。

 

「長……」

「どうした、(いさ)よ」

 

緊迫する中、しわがれた女性の声が五百蔵に問う。

 

発したのは(いさ)と呼ばれた古株、人型の妖狼。五百蔵と同じく、色素の抜けた白い毛色の耳と尻尾を携えた老婆は、腰まで伸ばした髪を背の半ばあたりで一つに束ねており、どこか包容力のある御婆ちゃんを思わせた。

ゆったりとした雰囲気の中に気品を感じさせる彼女は、いわば副長の立ち位置にいる。後を任せた榛の夫が死去した後、再度その地位に戻って五百蔵を陰ながら支えている。群れの中で最年長の五百蔵を抜きにすれば、次に彼女が来るだろうという程に高齢で、下手をすれば足手纏いになり兼ねないだろう。

だが、副長の地位は伊達ではない。若者には劣るものの、他の同年代でも抜きん出た実力が、副長に足る証拠であった。

 

「貴方は、あれを止められますか?」

「あれ、とは奴らの頭か」

 

そんな彼女の言辞に、顎で指しながら五百蔵は問う。

悠長にしている時間はないが、しっかりとした打算を聞くべく、彼女は隣へと歩み出ていた。問うた本人にも解ってはいるが、相手の底が知れない為に長の判断を煽ったのだ。

 

奇妙な樋熊。

見据えた先の三匹は明らかに正常な様子ではない。かといって、互いに傷付け合う事は一切ない。気が振れても尚、厄介な事に仲間意識はあると見て取れた。実に性質の悪い事だ。

 

「ええ」

「決まっとる……頭はわしが抑える。他の者は、取り巻きを任せる」

 

五百蔵は即決し、真ん中の樋熊を標的に選び踏み出した。それに続くのは気さくで豪快な性格の葦と勝気な態度の姉御で知られる樒、そして誠実そうな細身の男性―――楫。

 

「久しぶりに暴れる訳だ、遠慮は要らんよな?」

「いいんじゃない? 随分と頭逝っちゃっているみたいだし、あれ」

「―――浅慮無く潰す。それだけだ」

 

陽気な言辞の二人に対して、楫は誠実そうな顔に似合わず物騒な発言をする。切れ長な双眸が、冷酷に敵を捉えた。

 

「おうよ、任せてくれや」

「足を引っ張らないようにね」

「葦だけにって? はっ、笑えないねぇ」

 

獲物を狙う笑みを浮かべる三人に続いて、斑と体格の良い壮年の男性を思わせる樺の両名が歩み出る。

 

「―――行くぞ」

 

合図は一言で十分。十数の人狼は一斉に行動を開始した。

地を駆け、風を切り、獲物を囲む。群れらしい狼特有の取り囲む群狼的戦術が繰り広げられ、三匹の樋熊は唸りを上げて歩を止めた。

取り囲む群狼は殺気を飛ばしては抑えるという威嚇で他方から刺激しつつ、相手の標的を大きくずらしていき、隙を付いては徐々に相手の体力を欠いていく戦法だ。

 

狼達に囲まれ、されど先程とまったく変わった様子を見せない樋熊。

訝しんでいるのか首を傾げ、顔を周囲に向けるが、やはりその眼は不気味なまでに焦点が合っていない。

ただ、鬱陶しそうにしていた。

 

「―――ァァァアア?」

 

声―――否、瘴気のようなものが吐き出された。

すると、あれほど静かだった気配が、打ち壊される。三匹の身体から突き破るように、妖力が雷の如き音を立てて噴出した。

いや、厳密には音を立てている訳ではない。噴出した妖力は実に禍々しく黒く染まっており、それによって弾き出された空気が音を鳴らしているのだ。

 

「……ォォォォオオオオオオ―――ッ!!」

 

一気に高ぶった咆哮。

四足で這っていた三匹は、漢書を現すかのように両腕を力強く天へと振り上げる。所謂、宣戦布告の姿勢だった。

眼に見えて、それは酷く単純なもの。樋熊達は、狂っていながら最小限の理性が残っているという、厄介極まる状態に陥っていたのだ。

 

たったそれだけで、気圧された。

 

唖然と、動きが止まる一同。カタカタと手足が震える男連中は、完全に呑まれてしまっていた。

 

「わしと同等か、それ以上だと……!?」

 

そう吐露したのは唯一気圧されなかった五百蔵のみ。

冷静に分析するのは、戦いにおいて優劣を決定付ける要素でもあるが故に、僅かに驚き次にどうすべきかを思考する。

 

 

 なんだ、これは。なんなんだ、こいつは。

 

 

五百蔵を除く一同は、眼を張り、戦慄すると、各々がそう思っただろう。息を飲む事が叶わずに、掠れた息しか出来ずに硬直する同胞達の様子を知覚した五百蔵は、同胞の胸中を察した。

そのどれもが五百蔵に僅かに勝るか劣るかの領域で、腐ったような邪な妖気と存在感は共に嫌悪を催した。古株の者も、各々の顔を険しくさせているのも無理もない。

 

それが―――仇となる。

 

「―――いかん! 伏せろ!」

 

千里眼を以ってして感じ取ったが、時は既に遅い。今起きている不測の事態を早く悟れなかった事に、内心で後悔する事となる。

 

 

ぐちゃり。

 

 

羽虫を叩く仕草を思わせた。

三匹は囲いの中にいない。いるのは肉体を炸裂させた同胞の隣だったり、首を無くした同胞に組み付いていたり、呆気なく同胞を黄泉の彼方へと送らされた。

 

しかも、大将格の一匹は―――己の眼前へ。

 

「―――ぬぅぉぉおおお……っ!?」

 

振り下ろされる寸前の両腕を、手首を掴む事で受け止め、腰を落としつつ踏ん張る。軋む音と共に、両足に掛かる負担に耐えられなくなったのか、地面が陥没し始めた。

千里眼で見えていた筈なのに、身体で対応するには遅かった。つまり、こいつらは大妖怪級に位置するのだと判断出来る。

 

「く……抜かった……!」

 

ぎり、と歯を食いしばる音が口内で響く。

何故気付けなかった、と後悔の念が渦巻くも、それどころではない。こんな奴をあと、二匹も相手取らなければならないという現実に、それを他に任せてしまった事実に、焦りを覚えた。

ちりちりと肌を刺激する、禍々しい妖気が樋熊の体表の上を踊る。触れている手にも伝わって来る異常な妖気―――邪気が冷汗を齎す。

 

「―――退()けッ!! お前らでは相手出来ん!!」

「そういう訳にはいかんよ、長ぁッ!!」

 

不味いと感じて声を荒げるも、反論するように葦が声高らかに叫ぶ。葦は、首を失い事切れる同胞を陰にして、樋熊の鼻を狙い手刀を繰り出していた。

それに反応し、首を傾げるだけで回避して見せる、同胞を爪で切り殺した裂き熊(てき)。仕方なく、悪態を吐きながら離れた。

 

「子らを守れずして何が先達かぁ!? やるしかねぇだろぉ!!」

「それで死んでは元も子もなかろうが!!」

 

長と葦が意見をぶつけ合う中、葦に加勢するように楫は、次々と飛来する一撃必殺を、来る矛先を読んで右へ左へと軽やかに躱していく。遂に、楫は血走った眼を見据え、反撃に出る。

互いの爪と手刀が残像として、間を埋めていく攻防が行われた。

 

「言っている場合か……っ!」

 

しかし、侮るなかれ。

相手も弱点を重々承知しているのか、回避に徹している。

反撃の応酬量は、傾きつつあった。体格差も相まって、避けるのが大きくならざるを得なくなる楫。遂に避け切れなくなり、頬を掠めて耳を横半分に裂かれてしまった。

 

「楫……!!」

「よそ見するなよ、大将!」

 

鮮血が散ってもお構いなしに声を荒げる楫に、だが、と五百蔵は喉から出掛かった反論を止める。

 

「あんたの相手は、樋熊の大将(ソイツ)だろう……!」

「……っ。―――任せるぞ」

 

楫の強い言辞に五百蔵は、情けなさに痛めつけられながら引き下がった。

 

情愛深さは随一だが、それが祟っている。長寿故に残酷なものを何度も見て来た事もあるから、失いたくない思いが勝ってしまうのだ。

 

そうしている内に、押し切れない事がじれったいのか、樋熊の大将(あいて)は噛み付きに移行し、むせ返りそうな生臭さのそれを突き出して来た。

 

「チィッ!」

 

首を動かし抵抗。薄皮一枚、持って行かれる程度に済ませる。

すると、視界の端で、樒と斑が震えて動けない男連中の背を叩いている光景が映った。すぐに樋熊の元へ移り、戦線に参加していく。

 

「心残りの者は下がりなさい! 無駄死にするわ!!」

「貴方達はまだ若い……死ぬ順番を間違えないようにね」

 

案じた樒が首取り樋熊(あいて)の横薙ぎをしゃがんで回避して叫び、斑が不意打ちの手刀と共に男連中を注意しつつ同胞を爪で切り殺した裂き熊(てき)を狙う。それは結局、どれも避けられてしまう。

それを見て、格の違い差に怯えた様子の男達には段違いな強さだと十分解っただろう。

 

古株の言葉を聞き、無念といったように、歯を食いしばり、背を見せる事無く後退していく同胞を尻目にして、五百蔵は内心で胸を撫で下ろす。

 

だが、安心は出来ない、古株の者がまだ残っている。意識を向け直すと、各々は戦闘を止める事無く奮闘していた。

 

樒は首取り樋熊(てき)の背へ回り込み、放って来た裏拳の如き一撃を飛び越えた。その隙に爪で目を狙うも、間一髪で首を傾けられてしまい、耳を持っていくだけに終わる。

耳を奪われたのを気にしたのか、薙ぎ払うように大きく爪を振り回す。

 

「致し方ない。我らが引き受けねば、なッ!」

 

楫が、首取りの樋熊(てき)が放った大振りの爪戟を、的確な動きで踊るように安全圏へ回避する。なんでも無さ気に言うが、その言辞には万感の覚悟が宿っていた。

 

「当然よねぇ!」

「最期までお供しますよぉ、長ぁ」

 

樒と葦が笑って返した。

くはは、と声を漏らす気さくな男は、五百蔵が望まぬ死に立ち向かおとする。他でもない群れの為に。

 

「残ると……いうか?」

 

最早、戦法は瓦解した。どう足掻いても、策は意味を成さない乱戦状態。

 

ならば全力衝突しかない。悲しいが力及ばぬ者は放置するしかない、この状況では止むを得ないと皆が思うだろう。

 

「当然だよ、五百蔵様」

 

丁度、突進した樋熊の顔面を踏みつけて跳躍した樺が答える。脳天から体重を加えられた樋熊はそのまま、前のめりに地へ滑り込んで無様を晒した。

 

五百蔵は、頷いて反論しない古株の判断を受け入れた。

 

 

―――我らだけでも残ります、という言外の意志を。

 

「お前たち……」

 

己には勿体無かった。なのに、現実は非常で許してくれない。

 

五百蔵は徐々に押し込んで来た爪の脅威を、眼前に陣取る樋熊の脇を通り抜けて避け、脇腹に回し蹴りを見舞う。

 

「ぬぅぅうううん―――ッ!?」

 

が、まるで鋼鉄を蹴ったような感触を感じ、その反動で大きく後退した。

 

何の冗談だ、と目を見張る。

岩すらも粉砕する五百蔵の蹴りを受けて尚、毛が切れる程度の掠り傷で済ませているのだ。樋熊の体表の防御が如何ほどか、目の当たりにした斑や楫が、すぐに理解に至る。

 

故に、頭へ集中した爪戟を開始すると、樋熊らは見事に避ける動作を繰り返していた。

 

「なんと厄介な……ぐぅっ!」

 

振り向きざまの一閃が襲い来る。

悪態を吐くが、樋熊の大将(あいて)の猛攻に押され始め、頬や肩を切り裂かれてしまう。しまいには、懐に爪の刃が届き、僅かに後ろへ仰け反っていても、深い傷となった。

 

 

 これでは奥の手(・・・)を出さずにはいられんかっ!

 

 

脳裏に、本来の姿が()ぎる。

だが、被害が大き過ぎるのが難点だ。下手をすれば同胞を巻き込み兼ねない。

惑いつつも、樋熊の大将(あいて)が放つ怒涛の爪戟を躱し、掠め、後退していく五百蔵は数舜、周りを見渡す。

他の樋熊もまた、楫、葦、樒、樺、斑の五名に猛襲と回避を幾度となく攻防を繰り返している。打破する道を閉ざされていく事に対する焦りに、舌を巻く他なかった。

 

奥で、血が空を舞う。

 

「くぅ……」

 

肩口を押さえ、怯む斑。爪の一撃が深かったのだろう、年による衰退も混じって苦悶の表情が浮かべていた。

そこで、少し距離を取った樺が―――

 

「ならば―――頼んだ、姉上!」

 

斑に声を掛けた樺が裂き熊(てき)の懐を目指す。その大きな体格故の剛体を活かし、突進を繰り出し突っ込んだ。

 

「か、樺……待って……何故―――貴方が先に……!?」

 

これからやろうとしている事を悟ったのだろう、斑が青褪める。

悲痛に顔を歪ませる斑を無視し、構う事無く突っ込んで振り下ろされた腕を左手で受け止める樺。が、左腕が何条にも切り捌かれた。

樺が脆いのではない、樋熊の爪があまりにも強力過ぎるのだ。抑え込む事が出来ないくらいの、馬鹿げた切れ味の爪は容易く、樺の腕を一瞬で肉片へと変えた。

「樺……!?」

「……おぉ、おおおおおおおおおおおお―――ッ!!」

 

目の当たりにした斑が叫ぶが、樺は釘付けにせんと叫ぶ。

切り裂かれ、血肉が吹き飛んでも飛び込んで、それでも強引に距離を詰める。近ければ近いほど、腕は脅威にならない。爪の脅威を脱し、弱点に届き得る間合いへと潜り込んだ。

 

ただ残る脅威は一つだが。

 

「―――取ったぞ」

 

その一言を発し、樺は―――首から下の胴を噛み砕かれた。

 

 

ぐちゃ。

 

 

音が死んだ。五百蔵は、瞠目する。

 

「―――」

 

誰もが絶句する。そして、血塗れとなった樺は力無く吊るされ、樋熊に咥えられながら事切れた。

 

あと一歩というところで、彼は散った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――瞬間。

 

「――――――ッ!?」

 

樋熊の、言葉すら壊れた悲鳴が血飛沫と共に上がった。

 

 

 

それは、脱力からの一撃。

樺の右腕が、樋熊の眼を貫通し、反対側の眼を突き破っていた。

 

近距離ならば、回避は困難。まさしく必中の神速斬撃。

死しても尚、意志宿る肉体が腕を振るわせ、完全な致命傷を負わすまでに昇華された爪が、樋熊の眼を穿っていたのだ。

噛み付かれたのは、この為の布石。

 

故に、それはまたとない大きな隙となる。

 

「死ぬ順番を間違えるなと、あれほど……!!」

 

斑は涙を流しながら、瀕死となってのたうち回る樋熊の首に手を据え、振り上げる。

めきょり、と音が響くと当時に、白い靄のような妖力を纏った手刀が降り抜かれた。それだけで、樋熊は物言わぬ木偶と化す。

 

絶好の隙を、()に与えたのは、勇敢な()だった。

 

「馬鹿者……」

 

五百蔵は見ている事しか出来なかった事を悔いるが、この場で心に最も多大な衝撃を受けているのは斑だろう。群れに貢献して来た親しい姉弟だからこそ、その心情は見ていて居た堪れない。

 

親の仇を見るように鋭く、声に出して言わねばならない。

 

「オ、オオ、オォォ……」

 

沈黙を破るのは樋熊の方だった。

同胞を殺された事に気付いたのだろう。今まで五百蔵と相対して来た樋熊は、頭を振る動作の後、五百蔵を葬らんと飛び掛かって来た。

 

「貴様等……」

 

振り下ろされた腕を今持てる膂力で殴り飛ばし、絞り出すように問う。

 

「何が目的で、此処へ来た?」

 

殴った際に切った拳から滴る血を気に留めず、再度、反対から振り下ろされた腕を殴る。殴られた腕は有らぬ方へと向き、苦悶を感じているように後退る樋熊。そこから、暴れようとする樋熊の大将(あいて)を抑え込んだ。

 

「何を求めて、此処へ赴いた?」

 

樋熊は答えない。

代わりに、噛み付こうと頭を突き出して来た。

 

「答えんのか。言葉を捨てたか?」

 

瞬間、跳ね返すように頭突きを繰り出す。

 

「わしは、のう……」

 

ごきり、と相手の牙が数本折れる音が聞こえ、己の頭に刺さった事で額を伝う血が顔を濡らした。

 

身体が震える。

悲しみ―――もある。

怒り―――もある。

 

 

 もういいだろう。同胞は、この憤怒を察しているだろうから。

 

 

優しい、慈しむ、愛情、容赦―――それらを頭の中から排除する。

 

オレ(・・)は……なぁ……」

 

頭が憤怒を受け入れた。理性で以ってして憤怒を支配し、力へと転化する。

胎動する我が身をそのまま、本来の姿へと肉体が造り替えられる。しわがれた身体に、今まで封じていたものが溢れて来るのを感じた。

 

かつて神から生まれ、“地を揺らす者”を冠した暴力の塊。

子孫として受け継いだそれへ―――

 

『―――テメェみたいなヤツが、一番(きれ)ぇなんだよォォオオッ!!』

 

―――巨大な白い狼の姿へと。

 




長いので半分に切りました。五百蔵が遂にブチ切れ、本来の姿へ戻ります。
今回の犠牲者。

裂き熊と呼称された樋熊(名前は無い)
その他、白狼モブ


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第一章・第十三羽「窮地と、悲嘆と」

前回の後書きで半分に切ったと言いましたが、改訂して詰め込みたいものを加えていく内に文字数が多くなってしまいました。また半分に出来るんじゃないかってくらいに、今回は一万字を軽く超えた長い内容になっています。

さて、今回で大人のターンは終わりです。次には……
はい、続きへ行ってみよう。

2/22、後半の一部を修正。


山全域に激震と戦慄、憤怒の遠吠えが迸る。

 

まるで、爆発。

 

今、この世に彼の“大地を揺らす者”が、その生き残りが顕現した。

大木を思わせる強靭な四肢はしっかりと大地を踏み、荘厳に佇ませる。曇りない白き毛に包まれた体躯は、神々しくも荒々しかった。

 

それは一匹の狼。

五百蔵は、数人の大人を固めたような図体の樋熊と比べても、十分に匹敵する体躯へと変化していた。

僅かに開いた口から、短く息を吐いて殺意を滾らせる。樋熊よりも多く、羅列している鋭い牙を見せ、言外に殺すと意思表明する様は何者か。

 

其は他にならずして、“地を揺らす者”。

 

そこに在るだけで大気が震え、その存在感だけで大地をも鳴動させる、神話の狼。倭の妖怪ではなく、遥か北欧の地を起源とする狼の子孫。

 

その者の名を、五百蔵―――厖地元座(だいちのもとおき)五百蔵(いおろい)と呼んだ。

 

いつもの優しさを捨てて、赤い双眸が敵を映した。

 

「グゥッ!?」

 

それに反応した樋熊は、今までの虚勢を崩すかのように一歩、また一歩、地を踏んだ。臆したようではあったが、踏み留まっている事から、戦意は失われていない事が解る。

 

恐れなく、後退から前進へ繋ぐ。

 

「…………ゥゥ、ウウウオオオオアアアアアアアアアアアッ!!」

 

それは、好戦的な意志で、迎え撃とうという意味で、応えた。汚らしい唾液を吐き散らし、面白いぞ掛かって来い、と言わんばかりに腕を振り回す。

 

突如現れ、群れの塒を侵したこの樋熊。

五百蔵に匹敵する樋熊だったが、尚も底が見えないくらい拡大しているようにも見える。五百蔵の行動に反応して妖力の強弱を付けているのが何よりの証拠であった事から、未だに力量計れぬ何かを秘めているのは確かだった。

 

そして何より、狂っているようでいて正気があるようにも散見出来るのだから、樋熊の非常識な状態が垣間見えるだろう。血走っている眼は明らかに焦点が合っていないし、変質したと思しき妖力は禍々しい邪気へと化している。

 

どれほどの歳月を積み重ねたのか、と首を傾げたくなるほどに濃密で、本能が忌避したくなる威圧感と嫌悪感が込み上げてしまうだろう。

それほどに濃く、おかしい妖気がどうしてそうなったのか、何故にこんなになるまで放置したのかは言うまでもないかもしれない。

元から樋熊には大妖怪としての才能が溢れていたのだ。が、過程はどうであれ、その果てに狂ってしまった。

 

もう、本来あるべき妖怪には戻れないだろうという事は明白だった。

五百蔵は経験則から。樋熊は、本能の漠然とした感覚から。

 

吠えて返して来た樋熊に、五百蔵はほう、と感心する

 

『吠えるか。オレを前にして』

 

五百蔵の腹の内は油断を許さぬといったもので占められている。油断なく、動向を予見し、見据えた。

 

「―――ァァアアアッ!」

 

瞬間。

樋熊の体表から、はっきりとした黒い靄が噴出した。紛れもない邪気である。

 

眼に見えるほど濃いそれは、まず体表に浮いていた膜とも言えるものが輪となって広がり、辺りへ突き進む。続いて追いかけていく黒い靄は空気に溶けて霧散した。

 

その余波に巻き込まれた者は無惨であった。

木々が絶命し、麓にいた魚が次々に卒倒する。既に樋熊が移動する一個の災厄と化している。しかも“この状態”となれば、最早、妖怪の領域から踏み出しているかもしれないと言っても過言ではない。

 

そんなものを正面から受け―――否、己の妖力で弾き返す五百蔵は思わず鼻先を震わせ、顔を僅かに顰めた。

 

『……オレの前で吠えるな、今際の言葉など要らんぞ』

 

荒れた口調で、されど狼の姿で厳かに言辞を吐く五百蔵。実にどうでもいいといった風な上に、一方的で刺々しいものだった。

 

『懇願しても許さん、さっさと戮されていろッ!』

 

早口に言い切り、音を置き去りにする速さで飛び出した。その場から消えて数瞬してから、土が弾けた音が響くという芸当を見せる。

対して、黒く変化した樋熊も釣られる形で認識。恐ろしいまでに、視界と聴覚から消え去った五百蔵の後を追う反応を発揮した。

 

撒き散らされ、ぶつかり合う妖力が金切り声を上げて衝突し、互いを押し殺さんと拮抗する。

その間に、白と黒の二色は数条の影となって交差していた。二度、三度、四度、向きを変えては突撃し、攻撃と回避を同時に行う刹那の中で、相手の動きを互いに読み取っていく。

 

「オオオオオオオオオォォォッ!!」

 

黒い樋熊は唸り声を上げながら、逆立つ剛毛を備えた躯体を軽やかに横へ滑り込ませ捻る。すると、先ほど視覚から消え失せた五百蔵の姿が現れ、さっきまでいた樋熊の場所を瞬迅の速さで通過していた。

重量を感じさせない速さで行った確実な回避は、五百蔵の突貫を避けるに足りた。次に樋熊は、仕返しとばかりに振り向き様に右腕を振り抜く。

 

問答無用に骨肉を断ってしまう鋭い鎌のようなそれは、死神が樋熊に味方していると思わせる得物だ。海岸で肉片と化している鵯の血に汚れた四本のそれは、人型の時のように五百蔵の皮膚を容易く切り裂くだろう。

だが―――

 

「グ、ゥオオゥゥッ……!?」

 

事を起こす前に五百蔵が、振り抜こうとした右腕に噛み付いていた。並んだ牙が分厚い毛を押し退け、柔らかい肉へと入り込む。

 

―――予め見切っていたからこそ、先手を取った。

 

何度も相対していれば、解る事であった。本能から来る回避行動は、五百蔵からすれば見飽きており、予測は十分。樋熊の爪は実に脅威で、急所に貰えば即死しかないのは解り切っている。防ぐ余裕はなく、かといって無闇に先手を打とうにも反応されてしまうのだから、打つ手がないかに思われていた。

 

ならば、と五百蔵は考え行動し、今に至っている。

 

敢えて泳がせ、樋熊から繰り出させることで隙を作り、攻撃の合間に攻撃を挟み込むという、“攻撃は最大の防御”を実践した。

 

五百蔵は、そのまま千切れんばかりに顎を閉じようと力を込める。

 

『―――見えてんだよォッ!!』

 

ごぎり、と樋熊が反応させる暇を与えず四肢の一つを潰した。強引に噛み砕かれてへし折れた樋熊の右腕は、止めど無く血を滴らせ、関節が増えたように見せていた。

 

「グッ、グ、オオオオオ、オオオォォォッ……!?」

 

あまりの痛みに苦悶の声を上げる樋熊は、右腕を庇いながら残された左腕で五百蔵を掴み掛かろうとする。

が、空を切る。五百蔵は樋熊が痛がっている合間に、爪が届く距離から離れていた。俊敏な動きをするのは、何も樋熊だけではない。

 

「ア、オォ……オオオッ」

 

すると―――忌まわしく、恨めしそうに、焦点の合わぬ眼が動いた。痛みの原因を作った五百蔵を探しているのか、ぎょろりとした仕草で血走った双眸が左へ下へと、右へ上へと行き交う。

 

距離を取っていた五百蔵は鋭い眼光で睨む。仇敵への嫌悪感を募らせた彼は、ただ吐き捨てる。

 

『―――貴様は苦しめて戮す』

 

五百蔵の怒りは消えない。

怪物同士の戦いは、更に熾烈さを増していく。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

樹木を突き破る波動が、木端微塵にしてしまうのではないかと思わせる烈風を齎した。

 

衝突の余波を受けて盛大に吹き飛ばされた面子―――葦、樒、楫。そして樋熊は、地を転がり、勢いを殺していく。斑がいないのは、違う方へと飛ばされた可能性が大きかった。

次いで、身体に染みついた動きを見せる。起き上がり早々に距離を詰める者と離れる者に分かれていた。

 

「チッ!」

 

相対者の中で、一番近かった楫だけが樋熊の飛び掛かりに反応した。舌打ちしながらも冷静に努め、姿勢を屈めて無防備な股を潜り抜けて対処する。

 

五百蔵と相対する樋熊とは違う個体の樋熊である。顔の造りに面影があった。親類か弟分に値するのだろう。

そう、楫は潜り抜ける際に樋熊の顔を見て、一瞬の思案で感じ取った。

 

「―――喉を遣れ!!」

 

楫が周囲を見て、瞬時に熟考し、次の手として叫ぶ。司令塔としての能力に長けている彼ならではの判断だった。

今敵対している樋熊は、動きが先ほどより鈍くなり、口から血を流している。五百蔵からの余波を受けて吹き飛ばされた際、無理な姿勢で弾き出されたのだろう。内臓を出血させるほどの内傷を負っていた。

 

「隙を作る。喉を潰せ」

 

素早く姿勢を整えつつ、楫は油断無く、樋熊を冷静に見据える。

 

余談ながら、楫は榛の夫とは親友であり、かつては副長の座を競い合ったほどの実力者であった。楫には、火力面で一歩劣るものの、判断力に疎遠は無く、集団を引っ張るには十分過ぎる力がある。

それを理解している為に、葦と樒は楫の行動と樋熊の出方を俟つ。

 

「なるほど、ねぇ」

「今なら好都合か」

 

五百蔵の変化に慣れている彼等は凌ぎ方を知っている。故に、波に乗って飛ばされていった。

だが、知っているとはいえ、成功は五分がいいところ。乱れ飛ぶ物体となった妖力が飛んで来るのだから、当たり所が悪ければ何かしらの裂傷を負う。最悪の場合、樋熊と同じく内傷を負った事だろう。

三人は奇跡的に、危惧したそれにはならずに済み、樋熊は例外として受けていた。樋熊が傷を負ったのは、予想外の所見であったと言うのが大きな要因である。

 

結果的に、好機となった。

 

―――が、油断はならない。大妖怪を舐めては、忽ち身を滅ぼす事になってしまう。

 

そこで、樋熊はずしりと両足で踏ん張り、両腕を横へ広げた構えを取った。妖怪であるから無形だが、反撃に向いているのは見て解った。

 

その奇異な行動に、三者は僅かに戸惑いの表情を浮かべる。

 

「言葉を理解している……の? ちょっと、やだ。こいつ、なんなのよ」

「狂っているけど正常、ってか? 冗談なら他所でやって欲しいなぁ」

 

ぼやく樒と葦。二人の言っている事は、正気の理性を持った者ならば、尤もな意見だった。

なんという常識外れ、妖怪なのに頭が御釈迦になっているのはどういう事か。こんな相手取りたくない相手に会ったのは、彼等は初めてだろう。

 

「―――切り崩すまで!」

 

魁となり、そこへ飛び込んだのは楫だった。その言動に、緩んだ二人の顔が引き締まる。

 

樋熊が振るい、楫の命を刈り取る―――事はない。切られて舞ったのは数本の白い髪の毛であり、楫の命ではなかった。

楫は爪から逃れる為に仰け反り、前髪の毛先が持って行かれただけの最小限の回避に済ませていた。以降は、樋熊の爪が空を切り、その隙に楫の貫手が飛び出す。

そこからは、何度も繰り返された爪戟、手刀と貫手が行き交う。矛先を逸らし、致命傷を避け、互いにその場で釘付けにする。

 

「―――ッ!」

 

再び尋常ではない反応速度で、樋熊は頭を捻って回避に移行する。裏拳の応用で繰り出された楫の手刀と同時に挟撃する形で飛来する葦の拳は、真横から鼻を狙ったものであった。

乱入した葦の拳と楫の手刀は当然避けられ、樋熊に絶好の機会を与え、凶悪な両腕が真上から一気に振るわれる。

勝機をごっそり奪われ、二人は餌食となる―――

 

「ざぁ~んねぇんっ!!」

 

―――事は無かった。

それは、隙を誘う行為だった。故に樒は、盛大にほくそ笑む。

 

入り込んだ葦は勢いを殺さず、身を翻して後退。楫は樋熊の視界を遮るべく前へ躍り出た。その合間に、横から樒が隙を付く形で入り込む。

 

丁度、樋熊を囲う三角形の頂点に三者は位置している。楫が正面から相対し、葦がその右側に、樒が左から突っ込む―――三者の連携を円滑に出来る状態だった。

 

樋熊の振り切った腕は何も切り裂く事無く、視界は接近した楫によって遮られ、樒は踏み込んだ左足を軸にして左回りに回転を加えていた。

三者の行動はどれも独立していて、しかし単一の存在には脅威であった。

 

 

樋熊は返し刀のように腕を上へ振るうも、その手首を掴まれる。正面の腹に潜り込んだ楫と逃れた筈の葦がそれぞれ抑え込んでいて、思うように動かせなかった。内臓への傷が響いているのだろう、それも相まって僅かに空回りしている。

 

「これが……全力ぅっ!」

 

回転によって遠心力を加えた、樒の右腕が勢いに従って樋熊の首を捉える。眼に見えないほどに加速した手刀が、迸る白い妖力と共に繰り出された。

あまりの速さに腕から先が残像と化し、放った樒でも認識を狂わせる。まさしく渾身の一撃だった。

 

樋熊が反応して首を捻ろうとするも、楫と葦がそれを許さない。二人掛かりで押さえつけられた腕がその場に固定されたように動かなかった。

そして―――

 

落雷の如く、衝撃が走る。

炸裂した音と感覚に、樋熊の喉へと寸分の狂いも無く直撃した。

 

 

「ガ……―――あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!!」

 

 

突如、理性ある声が木霊した。瞬間―――黒い妖力が樋熊の全身から飛び出て、悲鳴に似通った音を立てて消失する。

 

「は―――!?」

「ぐぉおおっ!?」

「え―――なに……っ!?」

 

予想外な出来事に誰もが瞠目すると共に、大きく距離を取る三者。本能が危機を知らせ、手を出す事を控える他なかった。

各々が驚愕に染まったのは無理も無いだろう。

 

消えた黒い妖力は、初めて出会った時に見たものだ。三匹いる樋熊の内の五百蔵が相手取っている者から発した異常なものと酷似している。

だが、放たれた直後、鳴動させながら大気の中を突き進んだ筈なのだ。でなければ、今のようなその場で消える事は無い。

つまりは―――禍々しい妖力が消えた、という事だった。

 

三人が驚愕するには十分であるが、それだけではなかった。

 

今まで相対していた樋熊だが、明らかに状態がおかしいのだ。

樒が放った一撃は、剛毛ごと引き裂いて喉に到達し、潰したのである。その証拠に、真っ赤な鮮血を垂れ流し、胸一帯を濡らしている。樋熊にとっては十分を通り越した痛手であろう。

 

それは良い。問題は、態度や雰囲気にあった。

 

「う゛う゛ぅ……っ!」

 

焦点が合わず、血走った眼は―――理性ある光を取り戻し、苦痛に耐える者の眼をしている。焦点が戻り、喉に手を宛がって蹲る姿は、子供のようにも見受けられた。

 

「……おかしい」

 

楫が呟く。

先程と比べて、まるで別の人格に切り替わったかのように変貌を遂げた。

 

―――故におかしい。

 

否、おかしく(・・・・)なくなっていた(・・・・・・・)

 

「正気を、取り戻したのか……?」

「こ、この土壇場でかっ!?」

 

樋熊の妖力が、負傷した喉に集中する。治癒しようというのだろう、敵がいるにも関わらず、妖力を回復に回していた。

 

「おい、どうするよ」

「ちょっと、困ったわね……」

「む……」

 

三者は攻めるべきか、決めあぐねてしまう。勿論、可愛そうなどという生易しい事では無く、罠であるという事を危惧しての事だった。

 

しかし、好機であるのもまた事実。攻め入るには今が絶好の機会となるだろう。

 

だが、狩りで追い込まれた獲物は、追う側よりも凶暴な存在に豹変する事もあるのだ。樺の命を賭した行動を鑑みて、今は攻めるのは得策では無いと判断するのが妥当である。

それを知っている彼らは、互いに頷き合い、しばし見定める事とした。

 

確実に仕留める為に、まずは出方を見ようと、視線を戻した。

 

「あ、あ…………ぃちゃ、ん……いた、い」

 

苦しそうに、言葉を発した。理性ある眼で、ある程度癒した喉で、はっきりと。

 

「た……す、けて」

 

助けて、と。

 

「―――あ、あれじ、あん……ちゃん」

 

消え入りそうな声で懇願した。

 

そこで三者は気付いた。耳が違わず音を拾う。

 

ここまで言われては、流石に気付く。

狂った元凶は、今尚、本来の姿となった五百蔵が相手している樋熊だという事に。

 

あれ(・・)が、兄……だと?」

「大元はあっちってことになるのか」

「哀れな事だわ……巻き込まれた訳ね」

 

複雑ではあったが、怒りは捨てていない。狂っていたとはいえ、同胞を殺された事実は覆しようもないのだ。

五百蔵の群れにいる古株だからこそ、群れの脅威になった者を放っておくほど親切心はもっていない。

 

「仕留めた後、斑を回収しに行く」

「あの傷だと早めに治療した方がいいしな」

「さっさと終わりにしましょうか」

 

故に留めを刺すべく、楫を筆頭とする葦と樒は仕留めの行動を取る。

 

 

 

 

―――三者は忘れていた。樋熊が発した言葉が一体何を意味するのかを。

 

 

 

 

各々は白い妖力を絞り出す事で、その身に得物を降ろす。葦の拳には風を裂く勢いで纏わりつき、樒の指には手刀として即席の刃を形作り、楫の脚部には無数の刃が纏われた。

 

「よし、さっさと―――」

 

そこまできて突然、耳まで切り裂かれた時の傷が残る楫の顔を、大きな影が覆う。

 

気付いて見上げた時には、既に遅かった。

 

「っ!?」

『……ぉぉぉおおおおおおお―――っ!!』

 

真上から長大な何か―――背を向けた五百蔵が飛来していた。

 

 

 

――――――

 

 

 

激震。

 

辺り一帯、木々、土、塒をも何もかも、木端微塵に変えた。勢いがあり過ぎたのか、地形を変えて轟音と共に辺りを吹き飛ばし、そこにいた者達をも巻き込んだ。

 

これには、流石に冷静な楫ですら声に出さずにはいられなかった。

 

「あ、あの姿の大将を……まさか、投げ飛ばすとは……!」

 

転がる中で戦慄し、樋熊への認識を再度改める事とする楫。

吹き飛ばされ崩した体勢を戻した彼は、すばやく周囲を見渡す。舞い上がった砂煙で見通しは劣悪と化しており、匂いすらも辿れない音と直観に頼る他無い状況へと追いやられた。気配でも解るが、近くでなければ難しいだろう。

 

楫は横から気配を感じ、視線を動かす。樋熊とは違う小さな影があり、それが同胞であるとすぐに解った。

 

「葦、楫―――」

「大声を出すな……樒」

 

丁度傍に来た樒を手繰り寄せた楫は、声を荒げそうになる彼女の口を強引に塞ぐ。頷き返す樒に尻目に、姿勢を屈めて油断無く周囲を見渡し、砂煙が晴れるのを俟った。

今下手に動けば位置を悟られる上に、神速に迫りそうな速さで繰り出される爪戟を避けられるか曖昧であったからでもある。圧倒的に不利となった今、動くのは控えねばならなかった。

 

『……テ、メェェエエエエエエエエエアアアアアアアアッ!!』

 

楫と樒の砂塵しか移さぬ視野の中で、五百蔵が絶叫した。怒り、憎しみ、それらを乗せて樋熊に体当たりを決めたのを音で感じ取る。

 

何が起こっているのかは二人には解らない。吹き飛ばされ過ぎて、葦と斑がどこにいるのかすらも把握出来ない現状では仕方なかった。

 

五百蔵が認識して咆哮したからだろうか、波動のお蔭で一気に砂塵が晴れた。

 

「な―――」

 

砂塵が晴れた二人の視野に入ったのは―――真っ黒に変貌した巨躯の樋熊という異物だった。

 

「――――――」

 

唖然とするしかなかった。

黒い樋熊が、憤慨して暴れる五百蔵を片足で首を踏み、地に縫い付けていたのだ。横たわる五百蔵を動けぬように、大木の如き足で強引に抑え込んでいる。

 

「あ、葦……っ」

 

震える樒の声が楫の耳に届く。

二人が唖然とする理由は、五百蔵が圧倒されている事だけではない事は、起きている光景で嫌でも認識していた。

何故なら、黒い樋熊の掲げた腕の先には、胴体を抉られて事切れている葦がいたからだ。無惨にも、血の花を咲かせ、黒い樋熊の左腕を真っ赤に染め上げている。

 

唖然とする以外に、どう反応すれば良いのか、二人は答えを持ち合わせていなかった。状況が一変し、そんな光景が広がっていたのだから。

 

黒い樋熊が腕を振るった。

 

『…………―――ッ!!』

 

塵を放り捨てるように、葦の骸は弧を描いて打ち捨てられる。一部始終を見ていた五百蔵を挑発するような行動は、遠くで見ていた楫や樒でも怒りを燃やすには十分だった。

 

少なくとも二人には解っていた。

長兄であろう、黒く変化した樋熊は弟の懇願に応じて、救援に駆け付けたのだと。

でなければ、あのように間の合った介入などあり得る筈はない。

 

狂っていながら、正気でいて狂っている。

 

言葉に表し難いが、今はそうとしか言えないだろう。常識外れな黒い樋熊は、一妖怪としては現実逃避したくなる怪物だった。

 

樋熊の弟は変わらず苦悶一色のまま、黒い樋熊を盾にして奥で回復に徹している。

 

「ゥゥアアア……オオオオオッ!!」

『ぐぅっ……!』

 

黒い樋熊が力を込め、五百蔵の首をへし折る勢いで踏み付ける。踏み付けられた五百蔵は伊達ではなく、そう簡単にやられはしない。何とか逃れようと足掻く五百蔵は、肉体全身から妖力を呼び寄せた。

 

「まさか、この状況で御業(・・)を放とうと……!?」

「ち、ちょっと待って……みわざ? え、嘘でしょ?」

 

楫は瞠目し、それに困惑するのは樒。巻き込まれぬようにと、気取られぬ静けさで後退しつつ五百蔵と樋熊の行方を見据えた。

 

これから行われようとしているのは、紛れもない大妖怪が大妖怪たる片鱗である。最初から放っていれば良かったかもしれないが、放つにしても、当たらなければ効果は無いし、下手をすれば山一つ消し飛びかねないという危険を孕んでいる為だからだ。

 

「樒は初めてだったな。いい機会かもしれん―――よく見ておけ」

 

大妖怪になった者には、妖怪としての畏れを体現化した力が、元来から備わっている。それを技として、昇華したのが“御業”。神格の成す偉業などをそのように言うのだが、大妖怪となれば話は別だ。人間からすれば、神の如き怪物が他者を害するのも、守るのも、等しく“御業”という分類として見られる。

 

其れは紡がれた。

 

                ―――嗚呼―――

 

思わず聞き入りそうな、澄んだ声。

大気を一瞬震わせ、次に音が消えた。何も聴こえさせない、と言わんばかりに。

 

              ―――偏ニ立チ入リキ―――

 

老爺とは思えぬ青年を思わせた声。

樋熊が異変に気付いて、首を傾げるも、発したであろう口からは何も聞こえてこない。

 

               ―――障礙ナレバ―――

 

或る日の、懐かしい言辞で五百蔵が詠う。

時が止まり、迸って現れたそれは白い燐光となり、口元に集っていく。

 

               ―――生クルナリ―――

 

我が祖は、地を揺らす者なるぞ、と言い表す。

眩い光が五百蔵の口へと入り込み、更に閉じた牙の隙間へ入り込む。

 

               ―――死スルナリ―――

 

今こそ、証明する。

地に横たわる五百蔵だが、その態勢でも十分なのだろう。横目で黒い樋熊を睨み付け、それに樋熊が一瞬、固まった。

 

               ―――逸スルハ無キ―――

 

地を揺らし、壊し崩し、川を造るのだ。

首だけを起こし、正面に見据えた五百蔵は、黒い樋熊へ矛先を向けた。

 

慄いたか。

臆したか。

怯えたか。

 

どれでも良い、関係は無い。ただ滅する一撃なのは明白だった。

 

『―――受け取れ』

 

 

其の名は―――

 

                      【殲呀】

 

―――と言った。

 

 

「――――――」

 

白が膨れ上がって暴発した。

 

光の塊、妖力で具現化したものだろうか。それが一体どのような形をしたものなのか認識すら出来ない程の巨大な光を放ち、青い空を突き抜けて割った。悲鳴が消えるほどの光が辺りを支配する。

 

速度、威力、妖力の質からして、同格以下は凌ぐ術を持たない力だろう。寧ろ、凌げるのか怪しいものだった。

現に―――

 

「オ、オオ……」

 

黒い樋熊の右腕が消失していたからだ。

右腕という存在を消し去った、というのが実に恐ろしいものだった。低級の妖怪からすれば、妖力によって格段に強化された肉体の一部を、問答無用で消し飛ばすのだから脅威以外の何物でもない。

 

それを見ていた楫と樒は、息を呑んだ。

 

だが、それ以上に―――

 

『これを避けるか……!!』

 

胴体を目掛けて放ったようだったが、黒い樋熊は後ろへ身体を逸らす事で逃れていた。肩から先の右腕を犠牲にする事で、邪魔になっていた部分を切り捨てる事で、凌いでいたのだ。

だが、鮮血を撒き散らし、肩から先を失うという致命傷となった事はあまりに大きい。この事実こそ、黒い樋熊は五百蔵を、意識外であっても、再認識した事だろう。

 

「オオオ、オオオ、オオオオォォォオォオォ……」

『ぬぅぅううううううううんんッ!!』

 

自由の身となった五百蔵は即座に立ち上がり、仰け反って苦悶に声を上げる樋熊に向かって突っ込んだ。その隙は逃さないと言わんばかりに、樋熊に詰め寄る。

 

ところが、五百蔵の突進が黒い樋熊を捉える事は無かった。

樋熊は予想外な事を仕出かす。黒い残像を残して、五百蔵の視野から逃れ、予想外な方向へ。

 

―――飛び越えたのだ。

 

彼の無防備な背を一切傷付ける事無く、両足を開いて五百蔵を受け流すように、その場で飛び越えた。

 

「アァァァ、アアァァァッ!!」

 

そのまま踏み出して転進し、急加速して突っ込んでいた。しかも方角は―――

 

はっ、と我に返る楫と樒。

 

二人がいる方向だった。しかも、明らかに狙っているとしか思えない。

 

―――逃げる手しか無い。

 

致し方無く、楫は即決した。判断と行動の遅延が、最悪の事態を招いてしまう為だ。

 

「チッ―――樒、退け。急ぎ皆に知らせ、山を降るようにしろ」

「え? ぁ……楫っ!?」

 

一方的な物言いに硬直した樒を後ろへ大きく突き飛ばし、楫は前へ躍り出た。黒い樋熊の餌食になってしまう、進行方向の直上へと。

 

「相手してやる―――木偶」

 

罵倒しつつ、敢えて矛先を己へと向けさせるのは楫、ただ一人だった。

本来ならば二人で避けるのが理想的だが、樋熊の跳躍力は五百蔵並である事を承知していた為に、助からないと踏んでの事だ。

例え、横に跳んだとしても、間に合うか定かではないし、何より―――黒く変化した樋熊と相対した瞬間から、呆気なく殺される未来しか見えてこなかったのだろう。

 

楫は十全で無くとも熟考した。何としても逃れる術を見出した―――その結果が、自己犠牲へと繋がったと言える。

せめて、せめて未来に託すしかない、と後を五百蔵や斑、力ある者に託すしかないとしたのが楫の考え。押し付けとも言えるが、最早手がない。僅かに顔を歪ませる彼としては無念の心境だったに違いない。

 

花のように、散る時は、散る。

 

故に、彼は立ち向かった。

 

「覚悟は出来ている。我が命で一矢報いよう」

「…………っ」

 

樒は楫の覚悟を理解する。言辞から読み取り、戸惑いと悲しみの表情を押し殺して背を向けないようにしつつ、後退していった。

 

「ア、アアアアア、ァアア?」

 

悠然と立つ楫を見て、樋熊は何を言ったのかは解り得ない。

嘲笑っているのだろうか、黒い樋熊は狂った酷い顔を向ける。焦点の合わない眼は変わらず、虚空を映している。

 

巨体全体を曖昧にする程の速さで突っ込んでくる樋熊を、楫は決死の表情で迎え撃つ。その身全体に、持てる妖力を注ぎ込んで強化し、最大限の抵抗と言わんばかりに踏ん張った。

 

『止せぇぇぇえええええッ!!』

 

取り直して駆け出した五百蔵の制止を無視する楫は、それでも、逃げの一手を選ばなかった。その胸中は彼にしか解らないが、何かが彼を突き動かしていた。

 

迫り来る黒い樋熊―――最早、怪物と言った方が良いのかもしれないそれに対し、成す術なく命を散らす事になるだろう。

樋熊にとって弱者にしか見られないというのに、呆気なく死ぬかもしれないというのに、逃げずに真正面から―――“窮鼠猫を噛む”を体現しようとしていた。

 

大きな口を開き、黒い樋熊は疾走する。対し、楫は両腕を引いて振りかぶり、前面へ突き出す姿勢になる。引き絞って、接触に合わせての迎撃に移った。

 

距離が無くなる瞬間。

 

「ッ!!」

 

 

 

 

―――だというのに、またもや黒い樋熊は予想外な事を仕出かした。

 

 

 

 

「―――は?」

 

両の拳が空を切った。繰り出した妖力の暴風が衝突する事は無い。

と同時に、黒い樋熊とは全く違う風圧がその身にぶつかる。疑問と驚愕の中、何が起きたのかを模索する前に、眼前にいる筈の黒い樋熊が消え失せているのを知った。

 

そして。

 

ぐちゃ。

 

「―――あ、ああああああああっ!?」

「し、樒……?」

 

楫が振り返ると、黒い樋熊が、樒の左脇腹へ食らい付いていた。

 

「な……何故だ」

 

何故、躍り出た己にではなくて、彼女に向かったのか。

何故、薙ぎ払われる筈の己は無事でいて、彼女に食らい付いているのか。

 

楫は露骨な疑問を顔に浮かべて凍り付いた。理由が解らず狼狽え―――青褪めながら気付いた、否、気付いてしまった。

 

気付いた時には遅く、どのような過程になっても変わらぬ結末がそこにあった。

 

その理由は―――樒の右手。付着しているのは樋熊の喉を潰した際の血。

何も言うまい、決定的だった。

 

肉親の救援に来て、それで何をするのか。

そんなものは決まっている。報復以外にないだろう。

 

―――故に、容赦は無かった。

 

「ぐふっ……こ、のぉぉおおおおっ!!」

 

腸を齧り潰され吐血するも、それでも抵抗するべく腕を動かす。意地でも仕返ししてやると、女性には似合わない殺意の籠った形相を絶やさない。

朦朧とする意識を抑える為に奮い立たせ、喉が裂けんばかりに吠えた。

 

「……まだぁ! 終わらないのよぉっ!!」

 

自由が利く左手で樋熊の頭部目掛けて強引に叩き付ける。狙いは、血走って焦点の合わない眼、それ以外にない。

今使えるありったけの妖力を込めて、何度も叩き付けた。間髪許さず、何度も、何度も。

 

『離せぇぇええええッ!!』

「ぉぉぉおおおおおおおおおおおおっ!!」

 

そこへ五百蔵と楫も加わり、五百蔵は樋熊の後ろから首へ食らい付き、楫は樒のすぐ傍へ向かう。樋熊の口元に取り付いた楫は牙で傷付く事も厭わずに、片足を下顎に引っかけ、両手で持ち上げようと上顎を掴んだ。

首からはミシミシと食い込む音を伴い、どろりと血が溢れ出る。五百蔵の仕業だろう、鋭い牙を備えた顎によって肉を抉っている。

 

「く……そぉぉおおおおっ!」

『頸が断てぬだと、ぉぉおおおおおっ!!』

 

されど、届くに値しなかった。

食らい付いた顎は、樒を捕えて閉じたまま。樋熊の暑苦しい毛を纏った体表は、柔軟な筈の頸部でも致命傷を頑なに拒む。それでも五百蔵の噛み付きが堪らないのか、口元に纏わり着く楫が煩わしいのか、樋熊は邪魔をする者を払いのけるべく残った左腕を行使させた。

 

『させるかっ!』

 

が、あっさりと止まった。打ち上がる勢いで振るわれる筈だった凶悪な腕は、五百蔵の前足によって強引に引き止められる。

 

「……っ! ぐぅ……っ!」

 

その最中にも、樒は痛みに顔を顰めながら、腕を樋熊の瞼へと絶えず打ち付ける。

眼は殆どの生物が有する情報源を受け取る部位だ。樋熊は眼を潰されたくはないのだろう、その行為が生命線を繋ぐと解っているのか、固く瞼を閉じて樒の打撃を通さないように耐えている。

 

『ええいっ! 離せと、言っている!!』

 

五百蔵は顎に、更なる力を込める。

彼の咬合力は、腕や脚の殴打よりも数十倍以上の威力を発揮する。かつて、彼の先祖がとある神格の腕を噛み千切った事があるように、それは恐ろしいまでに物体を破壊する事だろう。

そんな彼の首を断つ方がより優位だったに違いは無い。しかしながら、実際に、樋熊は首すらも安易に千切り飛ばせないほどの強固さを誇っている。妖力を使おうにも、両者から溢れ出る黒と白の妖力はぶつかり合い、活用出来る暇無く軋む音を生み出すだけに終わっていた。

合間に挟まる楫も妖力による強化で、顎を閉じさせまいと必死に抉じ開けるべく踏ん張っていた。彼も妖力を牙の隙間へと流し込み、開かせる力を行使する。

だが、二者のお蔭で拮抗するものの、ぎしりと樋熊の咬合が競り勝ち、口が徐々に閉じようとしていた。

 

「……もういいっ! 五百蔵様、楫……もう助からない!」

『弱音を吐くな、阿呆!』

「……っ! ―――く、ぅあああっ!!」

 

樒は同胞思いの長の行動を見つめながらも、諦めずに左手で叩き続けた。

拒まれると知っていても、それでも続けた。たとえ、指が折れても、手首が折れても、真っ赤に腫れ上がっても―――。

 

「う、あぁあああ……ぁあああぁああ―――!! 届けぇえええええっ!!」

 

意識を掻っ攫いかねない激痛の中で叫び、渾身の一撃で―――潰した。

 

ほっそりとしているのに、最早、骨に血肉が纏わり付いているようにしか見えない樒の腕だが、確実に樋熊の瞼を越えてめり込む。肉塊と化しても脅威を成す腕には、強固な膜を破るに足る威力があった。

 

それに安堵し、楫を見る樒は優しげな眼を向ける。

 

「く……上がれ、ぇぇええ!!」

 

牙が手に食い込んでも救おうとする楫に、樒は微笑んで見せた。

 

「馬鹿ね……不器用なんだから、あんたは……」

「何をっ……しき―――」

「嬉しかったよ、楫」

 

まるで今際のようなそれに、楫は息を詰まらせた。

 

「……なに?」

「私はあんた―――」

 

だが、樋熊は許さなかった。

 

「が―――はっ……」

 

届かせぬと。理不尽にも、樒の言葉は届かなかった。

すり潰される音と共に、腹が破裂するように噛み千切られる。樒は、そのまま脱力して動かなくなった。

 

「ごめ……かじ…………」

 

呼吸すらも消え、音が止んだ。

 

 

 

そして―――楫の視界で、目まぐるしく事が起きた。

 

『―――楫、離れろ』

「……っ!?」

 

その言辞に背筋を凍らせた楫は、勢いよく飛び退いた。

 

再び、【殲呀】が放たれた。今度は外す事の無い至近距離。

楫を襲ったのは、実に冷たく感情を超えた何かと、激しい炸裂音と眩い光。

 

彼が飛び退いて尚、認識出来たのはこれくらいだった。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

震えあがりそうなほどの妖力の波を感じて、劫戈は大妖怪の片鱗をひしひしと思い知っていた。びりびり、と肌に入り込んでくるような振動が何度か起きている。

 

「少々、長いな……」

 

朴が呟いた。茅の周りに集まっている子供達が不安になる言い方だが、言わなくても解るほど長い時が流れていたのだろう。今までよりも、非難している時間が長いと判断すれば頷ける。

 

「五百蔵さん、皆……」

 

大丈夫だろうか、と不安に思う。

 

それもそうだろう。近場の豪へ避難してから、かなりの時間が経っている。暗い豪内で、口々にいくらなんでも遅いと言う女性陣からの言葉に、何かあったのではないかと思わざるを得なかったからだ。

 

「爺さん達は強い。大丈夫だ」

 

そう、言ったのは茅だった。一緒にいる子供達や沙羅を案じて言ったのだろう、複数の安堵する息遣いが聞こえた。

 

暗い為、周囲に何があるのかはっきりとしないが、誰がいるのかは音で把握出来ている。情けない事に、震えている手を握り締める事で隠しながら、迎えの時が来るのを待っていた。

 

「そうだ、大丈夫だ」

 

そう言い聞かせるも、不安は拭い切れないでいた。それは五百蔵の大妖怪たる一端を見ている劫戈や茅を除いた、ここにいる子供以外の誰もが同じ事を思っている事だろう。

そんじゃそこらの妖怪では相手にならず、瞬殺されて終わるのが目に見えている、と誰もが解っている。

 

そこで、僅かに地揺れが起き、すぐに止んだ。

 

「……榛さん?」

 

震えを抑えていた拳が包み込まれた。出来るのは隣にいる榛しかいない。

手を取ったのは榛だとすぐに解ったが、どうしてそうしたのかは解らなかった。

 

榛もまた、震えていた。

 

突然の襲来が、過去の出来事を思い出させるからだろうか。それとも、何か嫌な未来を漠然と察知したのだろうか。

恐らくは両方―――故に掛けられる言葉を、己は持ち合わせていない。例え、持ち合わせていても、はっきりと言えるかは別問題だった。

 

「大丈夫です」

 

だから、それしか言えないのだ。

 

蓋をして閉じ籠るように、余計な事を口にするのは好きではなかった。抑え込みやすい性格であると自覚しているが、別段直そうとは考えていない。

己の配慮が害悪になるならば、どうにかするつもりではあるが―――今は榛の為に、何も言わずにいる事にした。

 

ただ、義母に安心して欲しかっただけ。

 

「え……?」

 

無意識だったのだろう。榛の手を空いた手で包むと、たった今気が付いたように声を漏らした。

暗くてよく解らないが、彼女が慌てたようで戸惑うような表情をしている。何となくだが手に取るように伝わって来た。

 

「大丈夫、榛さん。五百蔵さん達なら……大丈夫です」

「―――っ……劫戈君……」

 

安心させたい気持ちが伝わったのか、震えが止まる。同時に、落ち着いて応答してくれた。

 

義母である榛は、家族を失う事に恐怖を覚えている。夫と子供を喪ったのだから当然だ。

それは、長くはないが、季節が変わる間一緒にいたのだから察する事が出来た。話をし、触れ合い、生活を共にしたからこそ察するに至っている。

 

過去を話す時の表情は、いつだって悲壮しか浮かんでいない。無理をしているのは、嫌でも解ってしまう。

 

彼女は親で、己は子供。

 

そう扱ってくれた人に、悲しんで欲しくないと思うのは今までに無かった。衝動が、心が、そう思わせる。

 

子として扱ってくれたのが嬉しかった。哀れに思ったのかもしれないが、同情でも嬉しかったのだ。

 

父親に捨てられるあの日まで、同情すらもされた事は無かった。事実、幼馴染の言葉は大きかったが、やはり先を行く大人達に見向きもされないのは苦痛でしかなかった事もある。

 

親の愛情を知れず、冷たくされ続けて、半分諦めてもいた。幼馴染の励ましに応えつつ、努力を続けて、親に否定され、更に諦めを募らせる。

認めて欲しいと叫んで、結果捨てられた。取り戻せないと絶望した時、既に遅くて、本気で諦めた。

 

―――そんな時に、(あなた)と出会い、養子に迎えられた。

 

心底、歓喜した。隠していたが、とても感涙したのを覚えている。

褒めてくれたのが嬉しかった。ちゃんと向き合って、見ていてくれたのが嬉しかった。

 

最初は甘えさせてくれたが、凡愚だと知ると掌を返したように見限り、最後まで冷たかった生みの親とは歴然の差だった。

 

母親がこんなにも温かいのだと―――愛情を初めて知った。

 

感謝と尊敬の念でいっぱいで、返し続けたい大恩が出来るほどの温かさをくれた。求めてくれるのなら喜んで力になりたい、と思えるほどに。

 

 

 この恩を返せるなら、異種族である己はこの群れで貢献する。

 

 

だから今度は、貴女に恩を返すのだ。家族と言ってくれた、唯一無二の義母に。

榛の手を包み返す。悲しまないで、苦しまないでくれ、と言うように優しく握った。

 

「大丈夫、心配は要りませんよ。俺が一緒にいますから」

「……っ!」

 

努めて柔らかに伝えると、瞠目したのが解った。落ち着いてくれたら何よりだ、と思いながら、見えないが隣にいる榛の顔に見えるように頷く。

 

「…………」

「あれ……?」

 

すると、榛はそわそわとしだした。息遣いが少し変わったのが、明らかな程に。

それを感じたのか、怪訝に思った茅が振り返る気配がした。

 

「……まさか、そういう風に……言うなんて」

「へ?」

「だ、大事な娘を差し置いて……私に言っちゃうの?」

 

苦笑混じりの小声で問われた。

 

「え……」

 

質問の意味を咀嚼し、鑑みる。

 

今、榛の手を握っている。

そして、甘く囁いたと誤解されかねない言動をやった。

 

「あ―――」

 

してしまったと気付いた。

なんてことを、と実に間抜けな顔を晒す。意図している訳ではない、あまりに無意識だった事を指摘されて気付いた為に、顔に熱が帯びてしまう。やってしまった、なんてことだ、と恥じた。

思考して、往復する思考の中で何が要因かを探すと、一番に該当する事があった。

 

「―――光躬の影響かな……」

 

思い当たる節はそれしかない。苦笑が抑えられなかった。

 

実のところ、烏天狗の女性は以外と熱烈な面がある。直球に言うと、“性欲が強い”故に、それに応えようとする男性は無意識にそうなってしまったりする。

 

幼馴染に影響され、そんな風になってしまったのか、と感慨深くなりそうだった。

 

安心させるためとは言え、行き過ぎていた。茅の呆れと怒気が籠った視線が痛く感じてしまうのは錯覚か、幻影か、それとも現実か。

 

「……安心させたかっただけですよ」

 

言う勇気が薄れて小声になってしまったが、理解してくれたのか榛もくすりと苦笑。茅もまたやれやれと言ったように息を吐いて、まったく、と漏らしていた。

 

「……もう大丈夫。ありがとう」

 

榛が笑った。己も笑って、どういたしましてと返す。

すると、ふさふさとした尻尾が嬉しそうに揺れて、背に回してきた。己は尻尾がないので、粗末な羽根を背に回す。

 

それは親愛や友愛の証で、五百蔵の群れならよくやる行動であった。親しい者や家族に向けた、感謝や喜びの意を伝える行為である。

少しだけ、烏天狗のと似ている気がした。

 

 

 

そこへ―――

 

「―――遅い帰りのようだ」

 

静かに傍観していた朴の呟きが訪れる。それが、終わりの合図だった。

 

 




結構、楫さんの扱いが酷いというか……。でも、大人達を描くにあたって、必要な存在でしたので、彼に焦点を当てた内容になっています。
榛さん……彼女はヒロインじゃない。ヒロインの如く書いていますが、断じて言います、ヒロインじゃないんです(泣)
今更ですが、時代的に考えて外来語は控えていますので、使わないのは仕様です。舌打ちや狂った声などの表現、詠唱などにカタカナは用いますが、それ以外の名詞などでは用いないようにしています。作中で、五百蔵を指して“フェンリル”と明記しなかったのはこの為。作者の妙なこだわり、とでも思って下さい。まあ、前書きや後書きでは別ですが。
そして、本作で初の試み……御業(ドヤッ
読み辛いようでしたら、今後改訂しようと思います。是非とも、読者様の意見が聞きたいので、感想欄か、メッセージ送信でお願いします。無ければ、そのままで結構です。
今回判明した事。
○五百蔵は彼の有名なフェンリル。
○樋熊の兄弟達の長兄の名、読みは「あれじ」、字は「荒而」。
○樋熊兄弟が狂った大元は長兄。
○妖怪には“御業”と呼ばれる技がある。所謂、必殺技。
今回の犠牲者
葦、樒


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第一章・第十四羽「その身を捧ぐ者」

……副題から察する方、無言にて御閲覧下さい。
ここまで来てしまった読者様。覚悟はよろしいか?

悲劇「俺の出番だな」




 

「―――遅い帰りのようだ」

 

と、朴の呟きに、豪にいる誰しもが意識を出入り口へ向ける。一人ずつしか通り抜けられないほどに小さなそこに、己もまた眼に差し込んでいる眩い光を見る。

 

暗い豪内は、鳥類である烏にとっては、朝でありながらも真っ暗に感じる。そんな中に嫌でも入り込む光となれば、眩しくて堪らないのだが、ここは我慢するところ。大人達が頑張ってくれているのだから、贅沢な事は言えないだろう。

 

顔を顰めながらも凝視した。そこには、一対の耳を者達の影がちらほらと映る。

 

「帰って、来た?」

「よかった、帰って来た!」

「待ちくたびれたぜ、……? どうした?」

 

戻って来た大人を見て、茅は逸早く訝る。

次々と明るくなる子供たちの表情とは裏腹に、恐々とした表情の男たちが覗き込んでいた。こちらの安堵した表情を見せると首を突っ込んだ男が急ぎ口を開ける。

 

「みんな、急いで場所を移してくれ! このままだとまずい!」

「え? 何を言って―――」

「……っ!」

 

ただならぬ何かを感じて、訊き返す―――と同時に、朴が急に立ち上がった途端、勢いよく駆け抜けていく。こちらが反応するには、あまりに遅すぎていた。

 

「は―――……朴? どうした!」

「待て! 朴、待て!」

 

茅は朴に制止を掛けるも、無視する朴は豪から飛び出していく。何かしらの気配を察知したのか、外にいる大人達の元へと急いでいた。

 

「くそっ!」

「お、おい! 茅!」

「茅!? 何を……」

「朴を連れ戻して、ついでに外を見て来る!」

 

悪態を吐きながらも素早く動く茅は、朴の後を追う。

彼の行動と、豪から出るように言う男達の言葉に、女性陣と多数の他の狼達は困惑する。かつて天狗が強襲した時と類似した事が起きている、としか判断する他ない彼女らは躊躇いと僅かな恐怖が、実行に移すべき意志を弱めてしまっていた。

 

そんな中、己も追わなければならない気がした。茅の後を追うべく行動する。

 

「榛さん、皆を連れて早く……!」

 

隣の義母に、戻って来た大人達の意志に従った方がいいという旨を伝えて立ち上がった。

 

「―――っ?」

 

言葉を投げかけ、向かった先に行こうとする―――が、義母が衣服を掴んでいたのに気付く。破れそうになるのを構わず、強く握りしめていた。

義母の顔は、豪である為に暗く窺い知る事が出来ないが、何かを恐れるような思いが伝わって来た。

 

行ってはいけない。

 

そう言っている。そんな気がした。

だが、どちらにしろ、豪を出なくては危ないのだろう。入り口付近で待っている彼らはよくよく見れば、明らかに焦っているようにも見受けられる。

 

先程、朴が飛び出し、茅も連れ戻そうとして後を追った。

ならば、何かが迫っていると見て間違いはない。妖怪―――否、動物としての本能が危ないと訴えている。

 

大人達が焦るほど、外は危険だろう。子供を前に出させていい事ではないと知っているからこそ、義母は首を縦に振らないのだ。

 

だが、己は決めていた。

 

義母に、友に、恩師に―――。

 

群れに貢献して、恩を返すのだと。

かつての群れで出来なかった恩返しを、群れの支えを、成し遂げるのだと。

 

「俺は先に行きます! 榛さんは皆と外に!」

「ちょっと、劫戈君―――」

 

困惑気味で声を上げる義母の制止を無視し、大丈夫だと自己完結して聞き流す。一方的だった事には内心で反省するが、今は言っている場合ではないのだ。

胸騒ぎ、とでも言える何かが胸中を駆け巡る。それは、豪への入り口に近づくに連れて大きくなっていく。

 

逸早く、状況を理解するべきだ。大人達の様子に感化されたのか、焦燥が募る。

 

「朴、茅っ! どこにっ…………?」

 

飛び出してすぐに見回すと二人はいた。

探すまでもなく、豪のすぐ近くに佇んでいた。五人いる周囲の男性陣は何故か、纏っている焦りが一層濃くなったようにも見える。

皆して一点を凝視しているようで、入り口から出た己からでは、彼らの背しか窺い知れなかった。

 

「うっ…………!?」

 

大人の集中する場所へと視線を向けて―――頭の中で悲鳴が木霊した。

信じがたいものを味わったように、全身が軋むほどの重圧がぶつかってくる。思わず呻き声を上げて、膝を着いた。

 

本能が告げている、あれ(・・)は危ないと。

 

「はっ……あ、……あ、れは、なんだ……!?」

 

それを見た。いや、見てしまった(・・・・・・)

 

「お前ら……お前ら、お前らァァァ……!」

 

現れたのは、樋熊の妖怪だった。

大人の頭三個分の顔を憤怒に染め、恐ろしく思える鋭利な爪で草木を薙ぎ払いながら闊歩する姿は、死を宣告する存在にも見えて仕方なかった。本気の殺意、と表現するのが妥当な眼光が、こちらを凝視している。

体毛よりも薄い茶色の妖力は、怒りに任せて身体から放たれている。並の妖怪―――少なくとも、周りにいる大人達が持つよりも濃く、突き刺さるような冷たさがあった。

湯気のように立ち上っている妖力は纏われたというより、流していると言えた。感情を優先にして、操作を怠っているのだろう。

 

「ひっ……」

 

泣きそうになった。

背筋が凍りつき、カタカタと震えてしまう。身体が完全に言う事を聞かなくなっていた。

 

纏う濃密な妖力、力を誇示する体躯、憤怒の感情。

 

そして、なによりも“眼”。

かつての父、日方を思わせる恐怖よりも恐ろしい、明確な殺意が己を襲い掛かっている。歯向かうと想像しただけで意識を放棄してしまいそうだった。

 

 

 ああ、奴は大妖怪だ。これはまさしくそうだ。

 

 

胸中で悟る。弱小妖怪が真っ向から歯向かえるほど、甘い存在では断じてない。大妖怪は伊達ではないのだ。

眼に見えるくらいに濃密になった妖力は、その残滓だけでも、妖怪として底辺にいる己では塵芥に等しいだろう。認識しただけで眩暈がするくらいだった。

 

凄まじい妖気に押し潰されそうで、その場から動く事が出来ない。身体が己の意志とは無関係に、命令を聞いてくれないのだ。

 

「なんだ、よ……あれ……」

 

絞り出すように問うた。誰にでもない、知っている、応えてくれる者に。

 

「ぎゃ―――」

 

残念ながら、この場にはいない。

 

気が付くと、樋熊に一番近いところにいた男性が短い悲鳴を上げていた。男性は背から夥しい量の鮮血を噴き出し、崩れるように倒れる。

男性の前には、樋熊が腕を振り抜いていた姿で立っていた。樋熊の爪には男性のものを思しき血がこびり付いている。

 

「許さない……許さない、許さないぃぃィィィィィイイイッ!!」

 

憤慨する樋熊は、親の仇を見るように男性陣に吠える。

 

「う、うわぁぁああああっ―――」

「ひ、ひぃっ……あがぁ―――」

「死ね……死ね、死ぃぃねぇぇえええっ!」

 

雄叫びを上げながら、樋熊は恐怖で固まった男性陣を襲っていく。瞬く間に、容赦無く、刈り取られた男性達は、再び動く事は無かった。

 

 

 訳が分からない。一体、彼らが何をしたんだっ!

 

 

何が許さないのか、何故殺されなければならないのか。

突然現れて、いきなり殺しに来た。樋熊の存在を拒否したくて、忌避したくて堪らない。

 

「こ、こんな……こんなのってない……」

 

今すぐ逃げたい。しかし、後ろには義母達がいる。

想像を絶する展開に、頭が追い付けない。このような理不尽、己にどうしろというのか。

 

あっと言う間に、五人いた男性陣は切り刻まれていた。臆し恐怖した己の視界内で、子供がこの場で最も安心を獲得できる存在達が、無惨にも殺されてしまった。

 

己はただ恐怖に拉がれて佇んでいるだけ。

 

「……し、死ねって言うのか」

 

大人を瞬殺した樋熊に、己が―――脆弱な烏程度が挑んで、どうなるというのか。

 

 

無論、死ぬ未来しか見えてこない。危機的状況をひっくり返す事は愚か、生き残れる未来が想像出来ない。

 

どうすれば良いのか逡巡する中で―――果敢にも飛び出す者がいた。

 

「な―――茅っ!? 朴までっ!」

 

白い影、二つ。

それは身近にいた二人だった。

 

「そうも言っていられないだろう! お前は下がってろ!」

「女子を連れて下がるのだ!」

「う……」

 

間髪入れずに言い返される。

だが、引き返す訳には行かなかった。

 

「だ、駄目だっ! 行ったら死んじゃうんだぞ!?」

 

思わず叫んだ。

 

己の代わりに二人が死ぬ。後ろにいる女性陣を逃すため。庇われた。

 

頭の中で目まぐるしく飛び交うそれらが反応し、今の言葉が無意識に出ていた。

樋熊を何とかしなければ、死ぬ未来しか浮かんでこないという共通認識はある。かと言って、簡単に死ぬような場所に飛び込む意志は無かった。

 

悔しいが―――抱けなかった。

 

胸が痛む。右目が抉られたような痛みが、場所を変えて蘇る。激しく息が乱れた。

群れのために、と意気込んだというのに、何も出来なくて。あの樋熊を止めたくて、でも何も出来そうになくて。

 

無力で悔しい。

 

己は何のために出て来たのか。そんなものは決まっていた。

 

それは、群れの役に立ち、貢献し、支えていくため。

 

そう、決めた筈なのに何も出来ない現状は、あまりに苦痛にしか感じられない。理不尽を振り払う力も知恵も無く、ただ時間を浪費するに終わってしまう。

 

「ぬ、ぬぅうう? お前もかぁぁあああっ!!」

 

樋熊が茅と朴の接近に気付き、怒りの矛先を向ける。腕が消し飛んだような錯覚させる速さで振るわれ、茅を無惨に切り刻まんとした。

 

「ちが―――」

「やられるかっ!」

 

姿勢を打ち付けるように崩し、地面すれすれの位置まで低くして回避する。その隙に、朴は俊敏さを活かして樋熊の後ろに回り込み、樋熊へと飛び掛かっていた。

 

「じゃぁぁあまぁああだぁぁあああ!!」

 

瞬間、それに反応した樋熊は腕を返すように振り払う。

 

「ぐおぉぉ……っ!!」

 

凶悪な爪が命中する―――と思われたが、朴は飛び掛かった際の姿勢から、その場で強引に身体を捻り、爪の通る個所から逸れるように回避した。捩じって身体を回転する事により、加わった遠心力で横へ逸れるという芸当を見せ、思わず息を呑む。

空中で見事に回避した朴に、安堵しながらも肝が冷える感覚に気が気ではなかった。

 

無茶な動きをする朴に対し、茅もまた樋熊の前へと躍り出る。攻めているようで攻めていない挑発に、樋熊は見事に引っかかり、茅に襲い掛かる。

 

「危ない……!」

「当たり前だ! だが―――」

 

八本四対、両手の先にある爪が、茅目掛けて勢いよく振るわれる。農具の鎌を思わせるそれは、茅が地を踏んだその場所を薙ぎ払う。

 

「当たらなきゃいい話だ!」

 

風を切り、茅を裂くそれは、血肉を捉える事は無かった。腕が振るわれる向きとは逆の方へと身体を流し、勢いに反しないような位置へ逃れる。

得意の千里眼で予見しているのだろう。相手が動くと同時か、それよりも早く対処している。慎重に動いているのが、妖怪同士の戦いを知らない己でもよく解った。

 

大丈夫そうで安堵する―――が、それどころではない。

問題は己がどうするかに掛かっている。

 

「ど、どうする……?」

 

二人に任せても良いのだろうか、と迷ってしまう。相手は強大な存在であり、先日まで狩りにようやく慣れて来た己が飛び込むなんて自殺行為以外にない。

そう、妖怪にとって児戯事な狩りを慣れたばかりの己が、愚かにも大妖怪に挑むなんて馬鹿馬鹿しくて、くだらないとさえ思えて来る。

 

「俺は……」

 

くだらない。くだらない―――のだが、友が戦っている傍らで逃げる事は実に情けない。

 

引き際とか、実力差とか、それは解っている。たかが、小さな烏が挑むなんて、肉片にしてください、と言っているようなものだ。

 

情けなかったのだ。

ただ、挑む勇気が抱けそうに無い、と思ってしまった事が情けなかった。

 

何かしてやれる事があれば、精いっぱいやりたい。己を拾ってくれた群れに迫った危機ならば、尚更の事。

 

「でも、何も……」

 

でも、何も出来ていない事実が胸を痛ませる。苦悶の声を漏らす事しか出来ない。

 

「俺は……何も―――」

 

そこで、不意に腕を掴まれた。

 

「え……?」

 

振り返ると、悔し涙を浮かべる榛がいた。その遠くには、逃れる女子達の姿がある。

豪から出て理解したのだろう、彼女らはすぐに逃げ果せていた。その中に混じって、心配そうに振り返る沙羅の眼は涙で濡れている。

 

「は、榛さ―――」

「逃げるのよ! 今は!」

 

言葉を遮られ、逃げろと催促される。良かったと思う半面、己は何もしていない無力感を覚える他なかった。

 

「で、でも……朴と茅が!」

 

逃げる機会は今しかない。頭では理解している。

 

が、感情では納得が行かなかった。

榛は頑なに聞き入れず、頭を縦に振る事はない。沈痛そうな表情を浮かべた後、茅に顔を向けた。

 

「茅……私の弟なら、必ず戻りなさい!」

「言われなくとも、っていうか! 劫戈を連れてってくれ! 集中……っとぉ! 出来ない、からよ!」

「ええ……!」

 

茅は樋熊の両腕から繰り出される必殺を、躱し、躱し、翻す。

だが、どれも掠り傷を残している。怒りに任せた攻撃を避け切れるとはいかなかった。

 

「朴……茅……戻って! 早く戻って!」

 

義母に肩を掴まれ、引かれながらも、止めようと声を出した。あんなものを見てしまっては、引き止めねばと声を上げるしかない。

 

「気にすんな! それにな、こんな奴に殺されねえし、ここで死ぬ気はねえよ!」

「強敵ではあるが、避けに徹すれば良いだけだ」

 

樋熊の猛攻を掻い潜り、挑発を繰り返す茅は笑って返してきた。朴は変わらず縦横無尽に翻弄し、樋熊の矛先を乱していく。

 

「退いてくれ! 死んだら元も子もないだろっ!?」

 

危険極まりない樋熊を相手取る二人はまるで恐れを知らぬ聖人君主のようだ。

それで死んでしまってはどうしようもないと言うのに、二人は逃げの選択だけはしなかった。己と違って、やらねばならない、と駆り立てているのだろうか。

 

「我と……」

「俺がやらないでどうする!!」

「な、何も……今じゃなくても、いいじゃないか!」

 

そんな二人を、羨みながらも再度言い放った。今己が止めなければ、二人は相対を続けるだろう。

だから―――

 

「聞き分けろ、馬鹿野郎!!」

「でも……!」

「お願いだから、劫戈君っ……」

 

何度も言っているのに、聞いてくれない。義母は戦えなくとも己以上の力を残しているが故に、子供でしかない己を強引に引き寄せて来る。

 

「烏の若者よ、行くのだ! お主は、戦ってはならん!」

「そんな……っ!」

 

樋熊と睨み合い、声だけを向けて来る朴に叱咤されるが、二人を放棄するなどどうして出来ようか。

二人の意見を、己は許せそうになかった。一歩間違えば、大人達のような最期を遂げてしまうのだから。

そんな状況で、女性陣の非難する時間を稼ぐ二人の勇姿は、こんな己に羨ましいと同時に悔しい思いを抱かせた。

 

「駄目だっ! 榛さん、離して下さいっ!! 早く二人を―――」

 

義母はがっしりと己を掴んで離そうとしない。寧ろ、両腕で抱き寄せるように、暴れるこちらを抑え込んで来る。背の羽根を使って無理にでも行こうとするも、背は義母の柔らかな身体と密着している為に抑えられ、広げる事がままならず無駄に終わってしまった。

 

「くどいぞ阿呆!」

「早くしないか、大馬鹿者め!」

「待ぁぁああああてぇぇええいいい!!」

 

樋熊は今も尚、茅と朴を狙っていた。怒りで周りが見えていないようで、執拗に腕を振り回して追跡する。

 

「お前もくどい……っての!」

 

樋熊が腕を振り上げた瞬間、脇の間を通り抜けて地を転がってやり過ごす茅は、起き上がりと同時に妖力の込めた拳を無防備な背に叩き込んだ。身体を捻った際の勢いを乗せた一撃は、遠心力と相まって大きな威力を生む事だろう。

一応効いたようで、樋熊はうつ伏せに倒れた。

 

「はっ! 単調だな。腕さえ届かなきゃこっちのもんだ」

「……痛い、なぁぁああああ」

 

だが、それほど大きな傷にはなっていない。すぐに起き上がり、向き直って―――

 

「うらぁぁぁああああああああああっ!!」

 

飛び掛かっていた。

錯覚だろうか、ゆっくりと動いていく。あのままでは茅が殺される。

 

 

 殺される?

 

 

今、樋熊は宙に浮いている。

その樋熊がゆっくりと進んでいく先には、驚きながら視線で追う茅がいる。身体は動き出そうとしているが、樋熊の飛び掛かる速さとは段違いに遅い。

 

「あ―――」

 

あ、と声が漏れていた。それは己のか、茅のものかは解らない。

樋熊の爪が、茅の喉元を目掛けて振り下ろされた。茅と見ている己と義母も、迫る死に見ている事しか出来なかった。

 

 

 

瞬間。

 

 

 

「づぅ、ぁあっ!?」

「―――……ぐぅッ!!」

 

茅を、白い何かが掻っ攫っていた。茅は死から逃れ、白い何かと一緒に地を転がる。

 

「っ!? ほ……朴……っ!」

「まだ来る!」

 

それは朴だった。

再度、突っ込んで来る樋熊から、咄嗟に飛び退く二人。茅は無傷であった。

 

「助かった、朴。頃合いか……」

「そうはいかぬな、もう少し留めよう……」

 

茅は無傷だ。されど、茅を救った朴は首から下の胴を樋熊の爪が掠めていたのだろう。軽くは見えない縦に入り込んだ切り傷は、朴の身体を赤く染め動きを鈍くする。

 

「その傷で何を……っ!」

 

茅は絶句し、表情を凍て付かせた。

 

「左前脚が動かん……。もう使い物にならんだろう」

「―――!」

 

眼前には樋熊の猛襲が迫っている。避けねば死んでしまう。

表情の鋭さを無にした朴は―――茅を突き飛ばした。

 

「お前―――!?」

「くっ……」

 

その所為で、朴は姿勢を崩してしまう。樋熊はそれを好機と見たのか、矛先をそのまま朴に追いついていた。

 

「まずい……! やめろ、この野郎ぉっ!!」

 

茅が拳を構え、妖力を飛ばす。大木に大穴を開けるそれが、白い塊が樋熊の横腹に当たったというのに、びくともしなかった。

流れるように樋熊は朴を捉え、無慈悲に腕を振り下ろした。

 

「……朴っ!!」

 

朴は笑ってこっちを見て来た。義母の腕の中で、暴れる事を忘れて見入ってしまう。

 

こんな空気を己は知らない。初めて味わう未知の空気だ。

 

「我はこの身を捧ぐ。たとえ、死ぬ事になろうとも」

「…………っ」

 

恐怖、または畏怖でもなかった。

別の何かが、己の中で揺れ動いた。迷いの無い、勝気な顔を浮かべる狼を見て、頭の中が真っ赤に染まる。

 

「若人よ、過ちを受け入れよ。この命をお主の糧に―――」

 

それを最後に、朴はバラバラになった。白い毛皮、とても濃い紅い液体、特徴的な狼の顔、四肢となる腕と脚―――臓物と骨が、内側から飛び出すように散らばる。

五つの物体に寸断された朴は、最早、生き物としての形を残していなかった。ただ、物言わぬ肉片に変わっただけに終わったのだ。

 

「そん、な…………」

 

唖然、しかない。

頭の中で、思考が逡巡し、飛び交う。動くのは身体でなく、頭のみだった。

 

 

 二人を置いて、逃げれば良かったのか?

 

 

そんな馬鹿な、と内心で愚痴る他無い。

あのまま逃げていても樋熊はどちらにしろ、追い付いてくる。誰かが、殿を務める必要があったのは解らなくもない。危険な行為だが、やらねばならなかった。

では―――己が素直に退けば、朴は助かったのではないだろうか。死なせたくないからこそ、退いてくれと言い続けて、時間を掛け過ぎた。

 

その結果、死なせてしまった。

 

時間稼ぎの為に、立ち向かったのに己がそれを無駄にしてしまった。

何度も引けと催促した相手の気持ちを踏み躙ってしまった。

 

その結果、死なせてしまった。

 

危険だ、危険だ、と言っておきながら危険に瀕していたのは己の方だったと、今気付かされた。あのまま引けば危険は最小限に抑えられていたというのに、だ。

 

それは、“過ち”。

 

浅はかで未熟な、己の過ち。

 

「■■■■■――――――!!」

 

認識した瞬間、叫んでいた。

 

「あっ―――!?」

 

義母の腕を強引に引きはがし、怒りながらも愉悦そうに歪めている樋熊の顔に突っ込んだ。樋熊がこちらを向くと同時に、突き出した右拳が顔面に突き刺さる。

 

ああ、大妖怪になんて事を、などと思うつもりは微塵も無い。

恐怖など消し飛んでいる。今は、腹の底から熱く煮え滾る感情が溢れているのだ。

 

「ぎぉぉぁあっ!?」

 

変な悲鳴が腕の先で聞こえたが、知った事ではない。無理やり叩き込んだ甲斐あってか、首を捻らせるくらいには持って行けた。

その反動で互いに吹っ飛んだ。勢いが足りなかったかもしれない、と視界がぐるぐる回る中で思う。

 

「痛い―――お前……許さないぞぉおぉおおおおぉおおおお!!」

 

すぐに起き上がって距離を取ると、駄々を捏ねるように地面を何度も叩く樋熊がこちらを睨んでいた。

 

「……お前こそ許さないぞ。何より、この、俺自身も……」

「おい、馬鹿っ! 来るな!!」

 

許さないのは己の方だ。なんて事をしているんだろう。

 

だが、身体が上手く言う事を利かないでいる。寧ろ、湧き上って来る怒りにうずうずして仕方がなかった。

 

今まで以上に怒りが己を支配している。冷静になれと言われたら、恐らく冷静になれそうにないだろう。逆に溢れんばかりのこの悲憤を受け入れても十分だ。

今まで、どれほど、どれほどに耐え忍んできたか。

 

誰よりも吠える。奮起してやった。

迫った理不尽に立ち向かう―――朴がそうしたように、己もまた立ち上がらねばならない。朴が身を賭して、そうしたように。

 

 

 こいつは、(ころ)す!

 

 

奮起するのだ。

意を決して、この小さな烏も立つんだ。目の前にいる、いなくてもいい大妖怪を、潰してやらねば気が済まない。

 

「殺してやる……!」

 

 

 

―――それがいけなかった。

 

 

 

「―――……ぁ、あ、ああ?」

 

樋熊が動きを止め、こちらを嘗め付ける仕草で首を向けて来た。一丁前に吠えたのが癪に障ったのだろうか、樋熊は訝りながら凝視する。

 

「くっ……」

 

冷汗と悪寒が我が身を襲うが、抵抗と言わんばかりに睨んでやった。大妖怪の前に立つ者は否応無しに薙ぎ払われると知っていても、今だけは逃げたくなかったから。

 

「お……お前は、なんだ……」

「見て解るだろ! 烏天狗だ、くそったれ!」

 

相手からすれば、粋がる蟲か、鬱陶しい羽虫だろうか。

だが関係ない。そんなものは関係ないのだ。

 

「お前がぁ……烏ぅ?」

 

何度も見やる怪訝な視線に、思わず困惑する。一体何を疑問に思うというのか。

 

「狼の群れに、はぐれた烏が混じって悪いか!」

 

また、吠えた。力強く放ったそれは遮られる事無く響く。次いで睨み、拳を握り、いつでも反応出来るように腰を落とした。

 

周りは静かで、何かが動く気配が感じられない。こちらからは見えないが、義母と茅は己の行動に唖然としているのかもしれない。

 

樋熊が向き直り、まるで変なものを見たかのような目を向けて来た。先ほどの行動に対して、樋熊はゆっくりと返答する。

 

「違う……違う、違う違ぁぁあああうう……」

 

返って来たのは、否定の意。

 

「……なに?」

 

怒りの所為で、あまり考える余裕がない。率直に聞き返した。

 

すると―――

 

「お前はぁ―――烏天狗じゃなぁぁあああい。知らない、何かぁぁ……」

 

などと言った。

 

「――――――は?」

 

思わず面食らった。

だが、気を取り直す。もう一度、睨んで弱気を見せないように努め、言い返す事にした。

 

「なにを、訳の解らない事―――」

「そうだ……お前、あんちゃんに傷をぉぉ負わせたぁぁあああ、あいつ(・・・)ぅに……」

 

こちらが言い返すよりも先に樋熊が遮り―――

 

「に、に、似ていぎぃ……ぃ」

「……っ!?」

 

驚いた時には、既に変わっていた。

 

「似て……ヤガルナァァアアアアア―――ッ!!」

 

樋熊は―――顔が崩れて醜くなっていた。

はっきりと、茶色から黒く変化した毛の一本一本が見え、血走った二つの眼がこちらを捉えて動かない。涎を纏っている、生臭くて、尖った牙が並ぶ口が、収められていた舌を解放した。

 

そんなにも鮮明に見えるのは―――

 

 

「ぁ――――――」

 

 

―――鼻先に移動していたからだった。

 

 

死ぬのか。

 

 

驚く暇もなく、視界が流れ動く。次に、横からの衝撃が身体を襲った。

 

不思議と、痛みは無い。痛い、と感じる事も出来ないのか。

 

更に、白い影が己を覆った事だけが、理解出来た。白い髪と空に撒き散らされた赤い水滴が見えた。

 

ああ、死んだのか。

 

 

 誰が―――?

 

 

死んだ―――否、生きている。ゆっくりと動いていく狭まった視界の中で、色ははっきりと見えているのだ。

では、どうして無事なのだろう。

 

目の前には白き者。見間違える筈がない、大事な義母がいる。

 

「―――榛さん?」

 

何が起きたのか解らなかった。いや、したくなかった、というのが正しいだろう。

 

己の中で、音が死んで、時が死んだ。

 

「―――榛さあああああああああああああああん!!」

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

夢を見ている気分だった。

 

 

 

閉まっておいた、懐かしい思い出達が、泡のように浮かんで来る。

 

 

 

生まれて間もない幼き日。

両親が、笑って出迎えてくれた。

五百蔵様も一緒にいて、斑さんや樺さん、楫君や樒も皆で祝ったね。

 

月日を経て、子供を謳歌する時期。

隣には、同い年の貴方(・・)がいて、一緒に遊んでいた。

今思えば、貴方(・・)は達観していて、皆が知らない言葉を知っていたり、五百蔵様しか解らないような事も話していたりして、周囲に馴染めなかったね。

 

弟が生まれて歓喜した日。

まさか自分が姉になるなんて思わなかった。

ちゃんと弟を導けるお姉ちゃんになれれば良いけど、って思ってもいたかな。五百蔵様直系の雪色の毛を、綺麗だね、って褒めてくれたのは貴方(・・)だけだった。貴方(・・)も妹の沙羅ちゃんと鵯ちゃんが生まれて、お兄ちゃんになったんだよね。

 

大人の仲間入りを果たした日。

一緒に過ごして、一緒に大人になった。

私の隣には貴方(・・)がいて、貴方(・・)の隣に私がいるのが決まっていたね。楫君が貴方(・・)をからかう傍らで、樒が羨ましそうにしていた事もあったよね。

 

想いを伝えて、番になった日。

無意識だったのかな、気付いたら魅かれていた。

副長になった貴方(・・)は、五百蔵様に次いで妖怪としての格が高くて、今まで誰も思いつかなかったような戦い方で回りを驚かせて、群れを支えてくれたね。誰もがその実力を認めて、私も皆に混じって貴方(・・)を称えていたのよ。

私が浮かれて抱き着くと、優しくて温かい腕で抱擁してくれたのはとても嬉しかった。

 

貴方(・・)との子を身籠った時。

長いようで短い時の中で、遂に母となる日が来たのだと感慨深い思いを抱いた。

群れの皆が祝福してくれて、両親が号泣していたのには茅と一緒に苦笑いしたかな。端っこで吹っ切れた樒には申し訳ない気分にもなったけど、結局はおめでとうって言ってくれたのよね。五百蔵様も、遂に玄孫が生まれるのか、とか真剣そうに呟いていたのだったかしら。

生まれてくるこの名前は考えてあるって言っていたけれど、押問答しても結局教えてはくれなかったね。

 

 

 

何もかも奪われた、あの日。

両親が死んだ、貴方を喪った。貴方(・・)の声が聞けない、貴方(・・)に触れる事が出来ない、愛した貴方(・・)に何も―――。

貴方(・・)を弔ってから、私は死んでいるような気分だった。

最愛の貴方(・・)を失って、女性として子が望めなくて、最早、蛻の殻としか言えなくなった私は、明日を迎える感覚がおかしくなった。

忘れられなくて、ずっと寂しさを隠して生きていた。五百蔵様も茅も沙羅ちゃんも鵯ちゃんも、樒も楫君も斑さんも樺さんも葦さんも、笑顔を装って皆を騙して、無理していないと取り繕う私をどう思ったかな。

 

時を感じなくなって、私は壊れてしまったわ。

 

 

 

そして、茅が前よりも大きくなった頃。

悲しみを隠して生きる中、幼い烏と出会った。

憎きあの男の子を引き取った事で、時間が戻っていく感じがしたのは錯覚じゃなかったと思う。接している内に烏天狗とは言い難い子なんだと理解出来た。それに変な話だけれど、男の子というだけで貴方(・・)との子が、この子なんじゃないかと不思議に思ってしまったわ。

義理であっても、母として見てくれた事が嬉しかった。酔っていたかもしれないけども、ただこの子の母になれて良かったと思えて来るのよね。

過去は戻らないけど、貴方と紡いだ温かい思い出が蘇るような気がしたから。

 

 

 ……。

 

 

今度は、私の番。

 

 

 ……そう、か。

 

 

そう。

 

 

 ……そうなんだね。

 

 

貴方(・・)が、身を挺して私を守ったように。

 

 

 

――――――

 

 

 

眼を見開くと、灰色の左眼が特徴的な息子がいた。顔を青褪めさせて、必死に自分を呼び掛けている。

 

「――――――さん! 榛さん……しっかり、しっかりしてください!!」

 

音が聞こえ始め、涙を流して激しく取り乱していたようだった。尻目で、茅が時間を稼いでいるのが解るが、そう長くは持たないだろう。

 

「ごめんなさい、ごめんなさい! 榛さん……榛さん! 俺の……俺のっ、所為でっ」

 

今、自分は両膝を着いた息子に、上向きに支えられているのだと解る。状態は、全身に力が入らない上に、寧ろ抜けている感覚しか解らず、全く宜しくは無い。

眼前で泣きじゃくる彼を樋熊の凶刃から庇ったのだから、当然と言えば当然だった。

 

視界と意識が朦朧とするが、頬に添えられた手がしっかりと繋いでくれていた。

 

「こ、うか、くん……いる、の……ね?」

「はい……はい、います。ここにいます!」

 

涙で視界がぼやけているだろうが、そんな彼にでも伝わるように笑う。嘘偽りの無い笑みを、彼に向けた。

 

「よかった……」

「……っ!!」

 

声は辛うじて出せるが、自分の事は解っていた。故に最後の力を以ってして、彼に伝えねばならない。

 

「お、俺の所為でっ……」

「違う……前に、言ったで、しょ……?」

 

動揺するように、瞠目する彼を余所に、言葉を繋いだ。

 

「こ、どもが、傷付く……のは……辛いか、ら……」

 

そこで喉からの違和感を受けて咳き込むと、生温かい血が溢れた。命の残量とでも言えるのか、首を伝って留まらずに流れていく。

 

「ごほっ……」

「い、いやだ……ここでお別れなんてっ!」

「ご、めん……ね?」

「ま、待って……まだ……」

「わた、しも……まだ」

 

まだ、まだ、と。

そう、感じられた。言葉を交えなくても、ひしひしと伝わって来る。

 

「まだ、貴女に……」

「まだ……あなたと……」

 

親子として感じた時間は少ないと言うのに。

でも、現実は甘くはないと知っている。思わざるを得ないのは、我が儘だった。

 

「恩を返せて……ないのに」

「すごし……てい、たかっ……た、かな……」

 

瞼が重くなった。自分の意志とは裏腹に、下がっていく。

 

「死んじゃ駄目だ! 駄目だ……榛さんっ!」

「あなたは……いき、なさい……」

「だめ、だよ……は、る…………さん……っ」

 

焦る息子はぐちゃぐちゃになった顔を向けて来るが、その顔はもう暗くなって見えなくなった。嗚咽と温もりしか感じ取れない。

 

別れは、いつか訪れるものだから、残念には思うものの、後は時間が解決する。せめて、息子の笑顔が見たかった事は、隠しておく。

 

泣かないで欲しいのに伝わっていないのか。貴方は私がいなくても大丈夫、泣かなくても大丈夫、と伝えなくてはと内心で焦った。

 

「そんな……だめだ―――おかあさん!!」

「……っ」

 

だというのに、この子は。

 

 

 嗚呼―――なんて嬉しい事を言うのか、この子は。

 

何故だろうか、一人にしてはいけない気がする。

一人で立ち上がるには早いかもしれない―――否、最初から(・・・・)無理(・・)なのだろう。ならば、()である自分がその未熟な背を押さねばなるまい。

 

親として跡を託そう。

 

まだ意識ある内に決心し、最後の力を己が内に集めた。

 

もう、言葉は発せない。

ならば、と。

 

 

 ごめんなさい。まだ、逝けそうにないわ。

 

 

 

 

 

『―――大丈夫だよ、榛。君の成したいようにするといいさ』

 

 

 

 

 

最期に、謝罪を告げると―――優しく返って来た。

 

 

 ごめん、なさい……ありがとう―――。

 

 

感極まる思いで言葉が詰まり掛けた。

彼の、息子の―――劫戈の生きる力に成れるよう、己の持てる全てを掻き集めて、己を “牙”と化す。見える色、感じる色は、全て雪色一色に変わり、己を形作っていく。

 

妖怪から―――妖刀へ。

 

妖怪としての我が秘術―――この“命”を貴方の“干戈”に。

 

彼ならば使いこなせる筈。

たとえ、使えなくても、自分が付いている。振り回されるなど、決して無いし断じて無い。

 

 

 

私は―――我は、(はしばみ)

銘を、『(はしばみの)爪牙(そうが)』となそん。

 

 

 

意識が遠のくその最中、祝詞を授ける事にする。それは全霊を懸けた力の具現。

 

        ―――我を、汝に与ふ。故、汝に能ふ者無し―――

 

 




書いていたら、凄く感情的になっていました。
さて、榛の夫がどんな人物か、察した方もいるかもしれません。実は裏設定なんです。故に、故人として描いています。
さて、榛さん死んじゃった(しらっ
しかし、逝ったのではない。それは次回に判明します。
今回の犠牲者
朴、モブ白狼……榛


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第一章・第十五羽「巍峨の如き鴻鵠」

“狼の背に乗る烏は、誰も知らぬ鴻鵠となる”

因みに、副題は「ぎがのごときこうこく」と読みます。「巍峨」の意味は、山などが高く聳えるさま、です。



「くっ……―――姉さん……っ」

 

茅は目の前で相対する樋熊の爪から必死に逃れる道を選んでいく。樋熊を真正面で引き付けながら、背後にいる二人を気に掛けているのか、時折視線は背後を向いた。

視線には、力無く血溜まりを作って倒れている榛を、劫戈が必死に何かを呼び掛けている様子が映る。半分、戦いに集中しているからか、警戒と音は樋熊に向いているために声を聞き取れずにいた。

 

「くそ、ったれがぁっ!」

 

視線を戻し、叫ぶ。

己の事を一先ず置いて、気になるのは姉の安否だった。樋熊の爪があちこちを切り裂き、掠り傷を作っているが懸念するほどの致命傷ではない故に、背後を気にする。

 

「お、おおおっ! 邪魔、邪魔ぁっ!」

「―――っ!」

 

姉を襲った時と比べて色が茶色に戻った樋熊の言辞と横薙ぎの爪を捉えると共に身を屈めてやり過ごす。空を切る音が遅れて聞こえ、赤黒い水滴が舞うのを尻目に、回避から転じて振り抜かれた腕を押し殴った。

 

「ぅげぁっ!?」

 

珍妙な声で驚く樋熊も、流石に予想外だったということだろう。

勢いを殺し切れず、振り抜いた腕を戻す事が出来なくなった樋熊は、茅の拳に押されて一回転するという痴態を晒す。過剰な勢いが樋熊の自重を傾かせ、前に突っ伏す。

「ぬぅぅ―――んっ!!」

「ぎぃ、ぇえぇぁ……っ!!」

 

その隙を逃さず、渾身の膝蹴りを鼻に食らわせた。骨ごと鼻を砕かれた樋熊は、言葉を放棄した悲鳴を上げて、鼻を押さえながらのた打ち回る。

相当効いたようで、ばったん、ばったん、と体を地面に叩き続けている。でかい魚を真似ているようで、気味が悪い。

 

「ざまぁみろ……―――っ!?」

 

身を翻して背後の二人の元へ向かう、としたのだが。

茅が感じ取れる気配は、消え逝く身内と義理の甥が一つになっていく感覚であった。姉はもう助からない、と以前の出来事が重なって彼に突きつける。

 

―――榛の骸が消えた。流れ出た血も、髪の毛一本すらも残らずに、掻き消えた。

 

光となって粉のように散り散りと化す、と言う方が適切だろうか。その瞬間を、実弟たる茅は唖然と見るしかなかった。

 

時間が止まった―――否、長い間、時間を浪費したかのように思えた。

 

「姉さん……」

 

茅が見た、姉の最期の眼は光を灯さず、ただ安堵を残すのみだった。

肩を震わせて看取った劫戈を叱責したくて堪らなかった。が、そんな事は出来なかった。一族以外に、特に烏天狗に良い感情を抱いていない白い狼が、怨敵たる烏天狗の息子を庇う行為自体在り得ないというのに、姉は庇ったのだ。

 

榛は子を守る為に、笑みながら逝ったのだ。責める言動は許されない。

 

そう、心に言い聞かせた。

血の繋がりを持つ身内が死んだ事を受け入れるのは簡単ではない。仲が良ければ尚更だろう。

 

「くそ、がっ……」

 

―――それでも抑え込んだ。

 

怒鳴り散らしたい気分を、努めて、強く努めて、黒い感情を息として吐き出す程度にした。そして、泣いているだろう烏の子に駆け寄り、力む身体を抑えて小さな肩を掴む。

 

「……姉さんがお前を守ったんだ……。無下にしたら、許さんぞ」

 

憎々しげに劫戈の背を睨む。お前の所為だ、と仇敵を見るように影で威圧した。

 

「早く立て、行くぞ」

 

責めるに責められない事を半分ほど隠し、最低限の言辞で留めて退散しようと催促した。

対する劫戈は、ゆっくりとした動作で頭を動かした。榛を喪う原因を作ったと自責しているからだろう、肉親に合わせる顔がないとでも思っているに違いない。

 

無言で顔だけ振り返り、茅に惨状―――涙していただろう酷い顔を見せた。

 

「な―――」

 

瞠目。劫戈の顔を見た途端、あまりに予想外な顔に青褪めて絶句した。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

―――僅かに時は戻る。

 

榛の骸が消えた。流れ出た血も、髪の毛一本すらも残らずに、掻き消えた。

 

光の粒と化す榛は空気に溶けて、しかし劫戈の腕の中に戻って来ていた。その一部始終を、劫戈は一つ残された灰眼に焼き付けていく。左から滴る涙と、右から溢れる鮮血を絶え間なく流しながら―――。

 

その時、肩が、震えが伝わるほどの手に掴まれた。背後に茅が戻って来ており、息遣いに黒い感情が混じっていると理解出来る。

劫戈は申し訳ないと自責する中で、どんな顔を向ければ良いのか解らなかった。

 

「……姉さんがお前を守ったんだ……。無下にしたら、許さんぞ」

 

憎々しげな言辞。お前の所為だ、と言っているのがすぐに感じ取れた。

 

「早く立て、行くぞ」

 

逃げるのだろう、樋熊の生きている気配が感じ取れる事から、脅威は去っていないと察する。

徐に、ゆっくりと背後にいる茅に顔を向けた。

 

「な―――」

 

すると茅は瞠目し、青褪めた様子で唖然とする。

 

それはもう酷い顔だろう。

劫戈の顔は、左眼から涙が零れ落ち、悲壮に歪んでいるのだから。それだけでなく―――右眼の瞼が開かれて傷跡が露わになっており、どろりとした半固形の血が顔半分を真っ赤に染め上げていたのだから。

 

茅の反応を無視して顔を戻す劫戈は、そこでふと引っ掛かりを覚えた。

 

おかしいと思えて来てしまうのは、以前のように気配を(・・・)感じ取れなかった(・・・・・・・・)からなのだ。

それ故に、今身に起きている事を鑑みて―――

 

         ―――我を、汝に与ふ。故、汝に能ふ者無し―――

 

「―――っ!」

 

嗚呼、そうか、と納得した。

木霊した榛の声に、茅が驚きの表情に染まっている。劫戈の腕の中で一体何が起きているのか、彼はただただ見やる事しか出来なくなっていた。

 

それは賛辞、祝福、願望。

 

拭った顔は落涙の跡が残る。右目からは変わる事無く、鮮血が零れ落ちていく。

 

「―――貴女には、たくさん迷惑を掛けました」

 

            ―――目覚めの時は来たれり―――

 

「優しい人だ……貴女は」

 

自責に苛まれ、己を激しく責める中、その失敗を次に生かすべく劫戈は立ち上がる。彼は不幸を齎したという後悔の念を持つが、そんな義理の息子を、榛は“それ”になっても尚、許していた。

 

             ―――汝は飛ぶ事叶わぬ―――

 

彼は瞼を閉じ、身を委ねた。

 

「嗤わなかったし、受け入れてくれた」

 

            ―――ならば、我がその背を押そふ―――

 

肉体という器が無くなった彼女は、夢幻となって息子を抱擁する。その小さな羽で前に進めぬのなら、新たに大きな翼を与えよう、と。

 

              ―――汝の大事なものが―――

 

「います、好いた娘くらい……。やっぱり、解りますか」

 

両手から伝わって来るのは、感情から感覚、思考といったものまでに至る。まるで他人を傍に置いているようなものだろう。

気味悪い事など無く、寧ろ嬉しさ半分、悲しさ半分といったところ。

 

「でも、貴女も同じです」

 

            ―――その掌から零れぬように―――

 

「……もう、零れてしまいました……他でもない貴女がっ……」

 

歯を食い縛って項垂れた。

生きていて欲しかった、と口には出せない。出しても意味がないと彼は知っているし、手遅れである事に変わりなかったからだ。

 

              ―――我は汝を背に乗せ―――

 

「はい―――受け入れます。己が未熟だったということを……」

 

榛がどのような過程で今の思いを抱いたのかを知る劫戈は、己の失態を受け入れて誓う。項垂れたのも束の間、強い意志を灯した灰色の瞳が、両手に現存する“それ”を見た。

無骨でありながら、どこか美麗だと思える流形。雪色一色の反り返った“それ”は木、あるいは骨であろうかとも判別が出来ないほどの長物であった。

 

           ―――飛び立てるまで 共に駆け抜けん―――

 

「貴女に……そこまでしてもらうなんて」

 

雪色一色で埋め尽くされたそれは穢れが見当たらない。長物は―――義母たる榛だったもの。生前を反映してか、とても眩しく麗しい造形であった。

 

銘を―――

 

(はしばみの)爪牙(そうが)

 

―――とす。

 

芸術的観点を無視して一見、整えられた棒のようにも見える“それ”。その端に、切れ目が入っている事に気が付いた。

劫戈は抱えていた“それ”を持ち直し、それが一体何を意味するのか解った上で、確信を持ってその部分に手を掛ける。

両手で持って共に抜き放ち―――

 

「……感謝に、堪えません」

 

声と“それ”を持つ左手が震えた。眼だけでなく脳裏に焼き付く光景に感極まったからだ。

 

現れたのは、曇り無き一本の刃物にして、差し込む日に応じて輝き返すものであった。

 

それは、無始曠劫の時より伝わり、実用され続けている人間達の得物。最近になって誰かが派生させ、武器として突き詰めた形状へと辿り着いた代物。

所謂、片刃の剣―――“刀”と呼ばれた、斬るための武器である。

 

劫戈自身、実物を見るのは初めてであるが、無慈悲な教育にて培った知識が、違う事無き刀だと確信を持たせた。一昔前の人間が扱っていた刺す事に特化した真っ直ぐな両刃剣のそれとは違い、片方に刃があり反り返っているという特徴を持つ。

 

「……綺麗だ。ただ、綺麗だ」

 

一瞬、呆気に取られる。

武器というよりも自然の華と形容出来るほど、その刀身は眩しいまでに、白銀に照り返していた。

劫戈の片腕ほどの長さを持ち、無駄というものを感じさせない。柄となる部位と刀身に挟まれた(はばき)には、『(はしばみ)』と彫られており、その部位だけは榛の名の由来となったであろう黄色がかった薄茶色で彩られている。

 

自らの命を賭して劫戈を空へ解き放つのだと。榛が己の命を武器とした代物―――“釼”。

 

榛が命を刃に変えた。他でもない、息子の為に、その命を賭して。

 

劫戈は釼を通して流れ込んで来る底知れぬ力を受け止めながら、柄を握り締める。対し、鞘を腰紐に差し込んで無沙汰となった右手は顔へと延びる。顔の右半分を覆っていた血に触れ、引き剥がすように振るった。

 

「―――貴女が繋いだこの命で、皆の命を繋ぎます」

 

灰色の隻眼には、強い意志が込められた。

今、この瞬間―――幼い烏は産声を上げ、殻を突き破る刻を迎えた。

 

固まって動けない茅を押し退けて、劫戈は樋熊に眼を向けた。

 

「下がってくれ。奴は、俺が()る……!」

「え……ぁ、ああ―――」

「あ、あ……あうぅぁ……う、嘘だっ」

 

正気に舞い戻った茅が言い切る前に、今までのた打ち回っていた樋熊は、鼻を押さえて既に起き上がっていた。

しかし、先程まで猛威を振るっていた威勢は、最早どこ吹く風。恐れを成したように怯えて、慄いて後退りする。

大妖怪、など名ばかりの木偶と化した樋熊に、哀れ者を見るかのような目を向ける劫戈は、彼と榛だけの土壇場を作り上げる事とした。

 

              ―――我は、賭した狼の背にて―――

 

それは先達となった亡き義母に続く太祝詞にして、抑圧された劣等感を覆す啓示のような絶対なる意志。

 

              ―――能う者無き爪牙と翼を得る―――

 

背から生えていた一対の羽根が根元ごと散った。力を失った羽根は、骨格も纏めて千切れてぼとりと生々しい音と共に地へ沈む。役目を失ったように落ちると、勢いに乗って羽毛が舞い、榛が横たわっていた目の前の血溜まりに入り込む。

 

それを合図に、次の瞬間、それは起こった。

 

背から噴出したのは―――黒。

 

黒ではあるが完全な黒ではなく、青を微かに帯びた黒。烏が持つ独特な濡羽色のそれであり、劫戈には今まで貧相で脆弱なものでしかなかった、烏天狗ならではの一部。

 

そう、それは即ち。

 

「我は劫戈(こうか)……(はる)の全てを譲り受けた者」

 

――― 一対の“翼”だった。

 

例えるなら、“巍峨の如き鴻鵠”。

白い狼の爪牙を携え、黒き翼を備える烏と化す。

 

少年の体躯には不釣り合いな大きさのそれは、露骨ながら力の強大さを表している。広げた際の風切り音、巻き起こる風、どれも大人の烏天狗を凌いだものであった。

大妖怪手前の木皿儀日方と比べるならば、五分五分の領域と思わせる凄みを醸し出している。

 

劫戈には解る。妖力の質と量は、共にかつての己を上回っている。それだけでなく、今まで到達出来なかった妖怪らしい人外の力を発揮出来る状態にある、と。

他でもない、榛の命を文字通り背負っているから、ここまで至れたのだろう。

 

力の相乗が起きているのは当然であった。

 

命を釼に変えたのならば、そこから得られる力は莫大なものとなる。一妖怪が保有する一生分の妖力やら固有能力やらが詰まっているからなのだ。

 

榛が行った秘術は、御業に劣らぬとも相応の価値がある―――他者を昇華させる技であった。彼女は今、劫戈の手に収まっている釼そのものとして、彼を強者へと押し上げる。相対する樋熊を超える為に。

 

離れて見ていた茅も、それが強く解った。姉である榛が、劫戈の為に全てを捧げた事を。劫戈が握る釼に、榛の願いが宿っている事を。

 

爪牙、翼―――それらが揃った今の彼ならば、敵を叩き伏すに足りる。

 

「―――聞こえたろう、我が母の言葉が。“我に能う者無し”、と」

「ヒィ―――」

 

息詰まる様子を見せる樋熊。翳された白銀の刀身を、まるで神と遭遇したかのような形相で首を何度も振って否定している。先ほどまで毛に纏わり付いていた薄茶色の妖力が剥がれるように垂れ流されるほど、制御意識を掻っ攫われてしまっている様は実に滑稽に見えた。

 

この時点で、二人の格差は―――明白となっていた。

 

妖力は質の濃さと量がものを言う。質が濃く量が多い者、あるいは操作が巧みな者ほど争いに競り勝ち、どのような場面でも優位になれるからだ。

大妖怪の特徴がこれに当たるのだが、その逆は当然ながら弱小妖怪、または低級妖怪と区分される。

 

眼前の樋熊は、大妖怪並みの妖力持ちだ。勿論、弱小妖怪如きが正面から歯向かえるほどの弱い存在ではない。対等でも断じてない。

妖力は質と量と操作が重要であるならば、現状は好機だ。樋熊は今、妖力を垂れ流しにし、操作を怠っている。所謂、“宝の持ち腐れ”状態と言える。

 

詰まる所、垂れ流し状態では、本来の強さを発揮し得ない。それが、その慢心こそが―――勝機へと繋がるのだ。

 

―――今が、まさにその時であった。しかも劫戈は榛の恩恵の下にある。

 

「く、くそ……くそっ―――クッソォォォオオオオオオッ!!」

 

奇声と共に振り下ろされた死への誘いは、劫戈の首を捉えた。数々の白狼を葬ってきた凶刃は、子供でしかない劫戈の細くひ弱な首など呆気無く刎ねる事は間違いない。

劫戈は怯えに怯えきって、認知する事も出来ないままあの世に送られる事だろう。たとえ、榛が身を挺した事で延命しても、所詮は一時の猶予である。偶然にも死を回避出来たとして、樋熊が得物を前にして止めるとは考えられない。絶え間なく続いていくとしたら、果たして小さな烏は避けられるか。

 

見えなければ、攻撃の予知も初動の見極めも出来ぬまま肉片に変貌する。

 

そんな最中、劫戈は達観したような顔で、それが迫るのを見ていた。

 

「―――これが、妖怪の視る世界か」

 

速過ぎて眼で追えない樋熊の爪を―――しかし、劫戈は怯える事無く冷静に、はっきりと見ていた。今まで感知出来なかった世界を、彼はゆったりとした時間で認識し、相手より上回る速さで動く。

 

今、彼は榛の命を背負っている。それは、大妖怪に通ずる力を得たと同義なのである。

 

「ああ、痛いな……」

 

劫戈は悲嘆が籠った声と共に、樋熊の凶刃を防ぐ。肉よりも薄い筈の片翼で防ぎ切ってみせた。丁度、手羽の甲に当たる部位で、恐ろしいほどの切れ味を持つ爪を押し留めている。

 

拮抗するように、互いを反発させる羽毛と爪。

爪によって押され、しなやかさを得ながらも、劫戈本体には全くの外傷を通さない。薄くて撓んで当然の翼は艶やかでいて、樋熊の爪を通さないという非常に堅牢なものと化していた。

 

「チィ、ィィィイイイイイイイイイッ!!」

 

舌打ちと奇声を同時に発する樋熊はその事実を是としないのか、強引に突破しようとする。

見事に防いだ劫戈だったが、その防御は完璧とは言えなかった。羽毛が爪に耐えられなかったのか、遂に食い込んだ爪によって裂かれてしまう。

 

「今の俺はこんな痛みしか感じられない……」

 

―――ところが、裂いたのは表面のみ。血が薄らと滲む程度に済ませている。

信じられないものを見るように狼狽する樋熊は、眼を限界まで見開いて、小さな烏を凝視する。

 

「な……なんだ、お前……さっきとまるで違う……! 何をした!?」

「榛さんは……いや、皆はもっと痛かった筈だ」

 

樋熊の問いに、劫戈は絞り出すように全く違う事を呟く。話が噛み合っていないのは、彼が樋熊の言葉に耳を貸していないからだった。

 

「こんなものよりも痛い筈だ……けど、それほど痛く感じない」

 

限界まで開いた瞼を超えて、目玉の代わりと言わんばかりに溢れるのは、どろっとした血。

 

「父から受けた、この痛み……。全く以って辛く感じない!」

 

顔が強張っていく劫戈は、流れ出る血を意に介さず言葉を吐き出していく。

 

「お前には解るまい……! 胸を刺すこの痛みは……そんな爪なんかより―――比べ物にならないんだよォッ!!」

 

咆哮して。

踏み込んで。

左腕を振り上げて。

 

「だから―――殺す」

 

全力で―――反撃した。

 

「ぁ、が―――」

 

樋熊の右腕が、肩口まで縦に引き裂かれて吹き飛んだ。

血潮が沸き上がる次の瞬間には、劫戈は消え失せて樋熊の背後に現れていた。

 

音が遅れて着いてくる。

 

「ギィ―――」

 

樋熊の悲鳴が、動作が、追い付けない領域の中で、劫戈は駆け抜ける。あまりの速さに体の止めが効かず、地面に着いた足は土を削り取って大きく樋熊から距離を作った。

 

「―――ィィァァアアアアア…………あァッ!?」

「……うるさい」

 

劫戈が再度駆け抜けると、樋熊の悲鳴は無理やり中断させられた。今度は膝から下の左足が、吹き飛んだ為だ。

勿論、劫戈が振るった釼によるものであった。通り抜ける際に一閃を加え、堅く備わっていた剛毛を物ともせずに突破して切り飛ばしていたのだ。

 

「ぐぅ、ぅうあああ……!! い、痛い! 痛いぃぃいいい!! よ、っくもォォォオオオオオッ!!」

 

痛みで我に返ったのか、樋熊は怒気を含むも理性の利いた眼で劫戈を睨む。頭に血が上っているようで冷静に動いた樋熊は、垂れ流しにしていた薄茶色の妖力を纏め上げた。そこへ真っ赤な血が集まり始めて、樋熊の周りに集結する。

 

「壊れろぉぉおおおっ!!」

 

意志に応じた血潮は形を変えて、無数の三日月を形作る。こうして出来上がった血の飛刃は、劫戈目掛けて襲い掛かった。まるで烏天狗が扱う鎌鼬のような複数の飛翔物は、弧を描きながら空気を引き裂いて劫戈に迫る。

 

「無駄だ」

 

それに対し、劫戈は冷静に対処して見せる。かつての彼ならば、恐れ戦いたであろう死への恐怖を、この時は一切抱かなかった。左手に携えた、“釼”と化した義母の恩恵であるのは間違いないだろう。

 

大きな翼が灰色の光を―――妖力を乗せ、何度も弾き飛ばす。飛来する脅威から、劫戈は前を覆うように広げた翼で身を守り、鉄同士がぶつかり合う甲高く固い音を響き渡らせた。

衝突した時には、血の刃は在らぬ方へ飛ばされ、離れた茂みあたりに命中する。葉を跡形もなく切り裂き、木を裁断して地面すらも穿って、瞬く間にそれらを解体した。

その威力は血でありながらも、樋熊の爪とほぼ同じものとなっている事は明白であった。しかし、劫戈の翼を突破する処か、傷付ける事すら至っていない威力で留まっていた。

 

「なっ……ぁ……―――」

 

またもや、樋熊の顔には驚愕の意が宿る。焦燥も多く混じり、血の気が引き始めていた。

 

かつては微量でしかなかった劫戈の妖力は、今では身体から溢れるほどの量と、樋熊が追随出来ないほどの質へと昇華されている。灰色であるのは、彼の黒と榛の白が一つになったからだった。

 

前を覆った翼から劫戈は顔を覗かせると、堅牢でいて軽やかな翼を横で待機させた。最初に受けた傷が妖力を纏ったお蔭で癒されたのか、濡れ羽色の翼はふわりとした動作と共に艶やかな光を放つ。

 

そして。

 

「―――この世から去ね」

 

徐に、呟いた。

樋熊はその言辞を以って唖然と戦意を失い、突っ立ったままだった。というよりは、受け入れがたい事態に、放心していたと言った方がいいかもしれない。

 

 

圧倒的な力の差。

 

 

一対一であるというのに、大人と子供であるというのに、弱小と猛者であるというのに―――。

 

 

即席であっても、多くの命が彼を救ったのも―――全ては事実。

 

 

冷汗を掻く茅は目元を引き攣らせ、弱小から脱却した劫戈を見やる。

 

「あいつが……日方の息子であるのを忘れかけてた……」

 

今の劫戈は烏天狗としては、最早上位の存在となっていた。それを見ていた茅含めた樋熊は、察する他無い。

 

名の知れた烏天狗は、今の世では有名である。代表的なのは頭から、津雲、日方、空将の三名だ。

 

それらを彷彿とさせるような佇まいを感じさせる劫戈は、茅にとって怨敵に見えただろうが、劫戈と言う存在が全く新しい存在として映っただろう。

 

 

―――“隻眼の烏天狗”の誕生だった。

 

 

死の宣告から少しして―――劫戈が姿を消した。

 

直後、大きな体躯の樋熊が宙を舞う。その体躯で相当な重量があるにも関わらず、樋熊は顎を砕かれながら打ち上げられていた。

 

「……うげぇ―――ぎゃ、ぁああああああっ!?」

 

震え上がった悲鳴が上がると、四方八方から切り刻まれる樋熊。

速過ぎて最早、黒い何条もの線にしか見えない、あちこちから斬撃を繰り返す劫戈。

汚い血潮を撒き散らして、地面を海と化すのは一体どっちの仕業か解らなくなっていく。血肉が飛び、骨が細断され、悲鳴が上がるという現状を、つい昨日まで弱かった小さな烏が行っていた。

 

「これで―――」

 

斃す、という彼の中にある意志で、実現した斬殺劇。

もう樋熊は、上と下が生き別れた達磨と化していた。悲鳴を切らし、口から泡を吹いて虫の息となっている。

 

「終いだぁぁあああっ!!」

 

雪色の一閃。振りかぶって樋熊の首を刎ね、遥か上空へと突き抜けた。その衝撃に耐えきれず、樋熊の頭部は拉げ、分散されて無数に千切れ飛んだ。いずれは蛆虫らの餌となるだろう。

 

樋熊だった肉塊が地を揺らしてそこへ落ちる。ぐちゃぐちゃに打ち捨てられ、無惨に狩られた小鹿のような残骸へと成り果てたのだった。

次いで、向き直って釼を振り払う劫戈は、釼―――“榛爪牙”を掲げて見る。雪色の釼は、汚れすらも残していなかった。

 

「……」

 

文字通り樋熊を切り刻んだ劫戈は、勝利を掴んだ。しかしながら、顔に出ている通り、彼の胸中は素直に喜んでいなかった。

 

もう一度、彼は右の顔を拭う。手に付着した血はどろりとしていて、水より流れが悪い。

彼の意志に反して、常に開いた瞼は血を出し続けている。だというのに、全く意識を悪くさせないでいたのは、痛みという感覚が麻痺していた事だ。戦闘中は一切気にしなかったのもそうであろう。

指で強引に瞼を閉じさせると、不思議な事に溢れた血は流れを止めた。

 

だらり、と腕を下げ、脱力する。

 

「空……こんな風に見るのは初めてだ」

 

彼が佇んだのは、かつて憧れて、そして諦めてしまった筈の蒼空。曇りの無いそこは、惨劇が起きたというのに、恨めしいと思えるくらい最高の晴れ具合でもあった。

 

「空は良い。でも、嬉しくないな……」

 

劫戈はふと、薄明の中、常に見ていた太陽に向く。無情で固まった彼の顔を、温かく照らした。

 

茅が声を掛けるまで、彼はそこに居続けた。そうしていたのは、冷たさを紛らわす為だったかもしれない。

手から滴る血を無視して―――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――血の雫が地に落ちる前に、銀色になって掻き消えたのを無視して。

 

 




第一章、了。
今回の後書きでは、犠牲者を記しません。次回で生存者を明確にしたいと思います。その次回では、第一章から時間が経過した戦後処理のような話です。白狼編は終わり、物語は次のステージへ移る準備に入ります。

気付いたら、この小説を投稿して一年が経過していました。早いものですね……それに比べて進行スピードは遅いですよね、すみません(悲)
だというのに、今も尚お気に入りとして下さっている読者様、更には高評価を下さった方には感謝しか申し上げる言葉がありません。本当に有難う御座います。
さて、大学二年目となった作者は今まで以上に忙しくなってしまいました。本当に、忙殺されそうです。大変申し訳ないのですが、もしかしたら遅筆に更なる拍車が掛かるかもしれません。これは飽く迄、始まった現段階での事なので、今のところ断言は出来ず……。御了承のほどを願います。


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幕間 其の一

幕間です。時系列は第一章が終わってすぐになります。今回は試験的な導入を兼ねて、主人公が身を置く場所とは違う他勢力からの視点で、彼らの状況を追求して行こうと思います。
ここで、今まで空気だった……方々達が出番です。



真っ白。

既存の緑豊かな地平を塗り替えんと、覆い被さる飛花の如き白粒。それらによって塗り上げられ、一面銀色に染まった一風景。

 

玲瓏の雪を眺められる、囲炉裏を置いた和室にて。冷える空気が流れ込む中、囲炉裏は一室を守るように暖気を留める。

 

一室にいる人外の二者は、囲炉裏を挟んで対面していた。

 

「―――ご苦労だった」

 

低い男性が放つ労いの言葉に、対面者の幼げな少女は礼儀正しく静かに首を垂れる。

正座から身体を前へ倒すその仕草は様になっており、幼いながらも作法がなっている精神と、肩口まで短く整えられた艶やかな黒い髪や少し大き目な赤い瞳、細い鼻などを収める顔は、様式美を備えていた。また、彼女の着ている衣装は肩と二の腕が見える上部と、腰に巻かれた赤い帯や腰から脚部を覆う、白と黒を基調とした非常に丁寧で上等なものであると解る造りをしており、幼げな少女の端麗な美顔を際立たせていた。脚に至っては、太腿が前掛けのような部位の合間から覗き見る事が出来、さり気ない色気を漂わせている。

 

対し、そんな少女の行いに満足げに頷く偉丈夫は、男の纏う雰囲気も相まって、歴戦の猛者を思わせた。

彼の着る装束は、少女の装束よりも大きく、紺色の装飾が帯や肩、袖口などに施されている。そこから解る彼の肉体は、相も変わらず鍛え抜かれて猛々しさを備えていた。

 

褒められた彼女は、首を垂れた姿勢から身体を戻し、正面の男を見据え一言。

 

「礼には及びません。この程度、私にとってはお容易い御用です」

 

鈴の音を思わせる高い声で誇らしげに主張するのは、正面に不動の姿勢を決めている偉丈夫がいたからだろう。

少女を見据える男性―――射命丸空将は、少女の父だった。父が相手故に、少女は仕事をやり遂げた事を認めて貰わんと訴える。

 

「うむ」

 

空将は、平然と受け止める。我が子の活躍を特別扱いしていない様子で、組織の頭としては全うな対応をした。認めてはいるようではあり、娘への対応はそこまで冷たくは無かった。

 

 

叩いたような音と共に、弾けた火の粉が昇り行くと―――ふわり。

 

 

そこへ一吹き、通り抜ける風があった。

 

「―――あら、戻っていたのね、(あや)

 

うら若い少女の声音でその言葉を発したのは、空将の裏手より音も無く影を見せた者。文と呼ばれた少女と同じく天狗独特の装束を身に着けた大変麗しい少女だった。

 

「お姉様……」

 

ただ少し違うのは、華を模した刺繍で着飾られているという点と、少女と似通った美顔を持ち併せていた点だろう。その少女は一目で年が上であると解る通り、文よりも、背が少しばかり高くそこまで華奢とはいかない肉付きで、妙に落ち着いた様子でいる。

 

背後から突如現れた天狗独特の装束を優雅に着こなす少女に対して、空将は惑う事もなく怪訝な表情で尻目に問う。

 

「巳利との話は終わったのか、光躬」

「ええ、父様。つい先ほど」

「……奴は何と?」

「御心配無く。いつもの種族誇示でした」

「まだ、つまらん事を言っているのか、あの阿呆は……」

 

呆れたように嘆くように頭を振る空将。先ほどの態度を軟化させ、日方の方針にも困ったものだ、と愚痴を漏らす。

父親の事を隅に、姉妹は互いに顔を合わせて苦笑する。父を困らせた少女は流れる動作で腰を折り、空将の隣に座り込んだ。

穏やかだというのに、大人顔負けな美貌を向けて来る姉に対し、妹の文は終始平常ではいられなかった。

 

「それで……文。例の噂、どうだったの?」

「……は、はい」

 

その問いに文はすぐには答えず、緊張した面容で姿勢正しく向き直る。咎められる訳ではないが、文は雲の上にいる存在を仰ぎ見るかのような態度を自身の姉―――光躬に向けていた。

 

文の態度には、憧憬と敬愛の念が込められている。それはもう、姉の隣にいる父に向けるものとは別格と思わせるほどだ。

 

それもその筈。

光躬は組織の中で発生した派閥の内の一角である改革派の頭であった。表向きには父親の空将が出張っているが、その実、光躬が派閥を完全に掌握している。女の身で優秀な男どもを秀逸するのは、光躬以外に存在しない。

将来、優秀になると期待されている文もそうだが、光躬との力の差は圧倒的であった。特別視されるのは必然であったのだろう、光躬自身もそれを優位と受け取って行動し、優れた才能を発揮しているのだから文としては頭が上がらなかった。

 

「以前より、噂になっている烏天狗の事ですが……」

 

緊張しながらだが、文は事を伝える事とする。待望の視線を注ぎながら聞きたくて堪らないといった姉の思いを受け止めながら。

 

「―――白い狼の群れで度々見られる“隻眼の烏天狗”の特徴は、黒い髪と灰色の左眼、抉れた右眼……そして、大の大人を超えた大きな翼……」

 

そこまで聞き及んだ、光躬の眼が細められた。

瞬間、文は息が詰まった。次に伝える内容で、姉の機嫌が左右されると解っているからである。

 

「数年前……北から来訪した樋熊の一件以来、その噂を耳にしてきたが……よもや本当だったとはな」

 

そこで黙していた空将が仲裁に入る。不穏な空気を察して霧散させ、最大限に跳ね上がり掛けた次女の緊張を解した。

 

「……ごめんなさい、文。無意識に睨んでしまったわ……」

 

艶やかな声で謝罪する光躬だが、腹の内では焦燥と凄みの込められた真摯さが行き交っているようだ。僅かに震えた語尾に、隠しきれていない感情が乗せられていた。

 

「それほどまでに成長したというのか……」

 

その動揺は、空将にも伝搬される。話に食いついてきたのは何も光躬だけではなく、空将も興味を惹かれるものであった。

 

「これは私見ですけど……数年前の樋熊の件で、彼の才能が開花したと見て良いと思います。それ故に、容姿の共通点と異常な力を内包した翼の理由が頷けます」

 

文は鈴のような声音を返すと、姉の方に視線を向けて決定打を放つ。

 

「―――お姉様」

「……本当に、彼、なのね?」

 

懐かしむように、悲しむように、嘘偽りがないか確かめるように、光躬は震える声で呟いた。

はい、と力強く頷く文は、嘘を吐いているようではない。明らかな自身と時間を掛けた諜報によって得た内容でもあった為だ。

 

「彼―――木皿儀劫戈様は生きておられます」

「なんだと……! それは真か……?」

 

信じられないと言ったように訊ねる空将は、開いた口が塞がらなかった。

 

「どうやら、五百蔵様が救命なされた御様子。その後の樋熊来訪の件に置いて御存命なされ、今日に至るまで大事なく生きておられるようです。渡りの烏と雀達から齎され、私が再三確認を行った情報ですので、間違いはないと断言出来ます」

「そう―――」

「光躬、解っておろうな?」

 

空将は長女の声を鋭い声で切り離し、隣で感情を打ち震わせている彼女を見つめる。言葉にせずとも、何を言いたいのか、娘である光躬は十分解っている様子だった。

 

「……解っています。御心配には及びません。でなければ、彼に顔を合わせる事など出来ませんから……」

「うむ……」

 

ならばよい、と言わんばかりに剣呑な雰囲気を霧散させる空将は、正面で怯えるように縮こまってしまった次女の文を見て、強張った顔を緩める。文もそれを見て、安堵したのか濃い目の溜息を吐き出し、胸を撫で下ろした。

 

「今回で一度、偵察を打ち切る。暫くの間、ご苦労だった。しばし時を持って、再開するものとする。―――戻って良いぞ、文」

「あ……は、はい。失礼しました!」

 

やや緊張も解れたと思ったが、そうでもないらしい身体を立ち上がらせる文は、ぎこちない動きで退出していった。空将はそれを見届けてから、間もなく憂い顔を露呈する。

 

「……他者を矮小と見下し、己の矮小さに気付かない者はいずれ落ちる、と言ったな」

「…………」

 

文に次いで、空将に背を向けていた光躬が立ち止まる。光躬の顔は空将には見えないが、見透かすように背後を一瞥する。

 

「光躬……お前が至った考えは、群れの大半が敵に回るだろう。だが、この父は否定せんし止めもせぬ。誰とは言わんが、彼を受け入れるだけでなくお前自身を受け入れてくれるよう努めよ。私は……ただ、お前の幸せを願っている」

「そうですか……では、この光躬―――為出ずるべく、行って参ります」

 

光躬が発した、背筋が凍りかねない、しかし甘い声音。その冷徹な言辞に応える者は、濃い溜息を吐いた。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

少女―――光躬はただ静かに、絶壁の頂点で佇み、見据えていた。そこはかつて、生き別れたと思っていた想い人と最後にいた場所である。

 

言葉は要らなかった。眼に焼き付いた過去の惨劇と、視界に入り込む薄暗い雪の流れを見て、幼い小さな烏が無惨に吹き飛ばされた空に視線を注ぐ。

 

諦観が入り混じった悲しげな表情が脳裏に焼き付いて離れなくて、何度も想起させる。這い蹲ってでも、手を伸ばそうとして、けれども届く事はなかった。想い人が名を呼んだというのに、胸の内に沸き上がる感情は、決して歓喜などではない、心を苦界に染める情念が占めていた。

 

あの日より数年経った今、胸に抱いた禱が形と成し得る身となった今。

烏天狗の群れは相も変わらず、人に畏れられ山一つを根城にしている。栄華を誇っているとは言い難いが、住まう天狗一同としては十分な安息を得ている。序列による支配ではあるが、外敵に対する節制、結束を高める集団活動は見る見る内に拡大していき、今では妖怪種最大の勢力と化していた。

近年になって天狗に成ろうと苦行をこなす人間も現れるようになり、天狗の存在が大きくなっていく様子は、いずれは天下が取れそうなほどだった。

 

多くの天狗達は鼻高々に誇示する。

 

 

 

 だから、なんだというのか。

 

 

 

今の体制が気に食わない。受け入れられない。

最早、一番優れた種族とか、誰が誉れある優秀な存在とか―――そんな事は心底どうでも良かった。

 

過去の思いを馳せらせ、脳裏を数多の思い出で埋め尽くしていく。

 

幼い頃、少年に恋をした。

身分や自力の差もあったが、それでも恋をしていた。

周囲に否定されても尚、頑なに愛を注いだ。唯一、固く閉ざされかけた暗闇の中、光明を見せてくれた無二の存在故に。

 

欲しくもない才能を持ったが故に、大人達に期待されて無言の応えを強いられる。肩身が狭く、苦しい身に落とされた。

 

そんな時に、少年は見本を見せるかのように生き方で示した。群れに役立ちたいという夢を持って、がむしゃらに努めようと必死に向かう―――そんな姿に惹かれたのだ。

 

時間を重ねて、多くの思い出を集め、互いに想いを共有した。声を掛けあって触れ合い、励まし合いながら、幼少を少年と一緒に過ごす。

何よりも満たされていた。比べるまでもなく、非常に満たされていた。

 

 

―――そんなある時、少年は己の前で排斥されてしまった。

 

 

己は勇気がなかったと、思い知った。

大人達に歯向かう意思が、思考が、理想が、一切合切欠けていたという事。少年へ延びる救いの手は気休めとなり、己が現実から逃げる術と化した事。

どこかで安堵し、無意識に納得し、結局は救う事を途中で放棄してしまっていた。

 

つまり己は、大事な人を苦の道に追いやったのだ。

少年が否定されたのは己の至らぬ行動の所為だという事。彼に注ぐ愛も、否定される程に弱かったという事。

それ故に、不要と断じられ、苦痛を胸に隠し、耐えた少年は排斥された。

 

失って気付いた。

 

―――全ては己の我が身可愛さ。

 

なんと浅はかで身勝手な事だろうか。

 

実に浅はかなり、それは甘え。

故に、己は気付いた。それは―――ただの逃げだと。恋でもなければ愛でもない、異物が胸の内に育っていたのだと。少年を愛していながら、救う道を奔走すらしていなかったと。

愛した少年を苦しませ続け、己の逃げ隠れる盾として扱ったのだ。無意識であったとはいえ、救いに価せぬ醜い卑劣な己に、心底絶望した。結果がどうであれ、救えなかったのではなく、救わなかったと言えるだろう。

 

だから。

 

だから―――変わった。

 

「たとえ貴方が許しても、私自身が許せないわ……」

 

思わず零れたのは、悲痛に染まった言辞と生温かい雫だった。

 

「これは贖罪……」

 

理想を胸に、己は立ち上がった。今まで陰で力を蓄え、少年と同じような境遇の賛同者を募らせてきた。

たとえ、長と血の繋がりがあったとしても、覆したい反抗の意志と今の群れへの憤慨が勝っている故に、矛を握るとした。

 

古い体制を滅却し新たな基盤を作る為に。

虐げる弱者を無くし、互いを守り、共に支え合える群れにする為に。

 

「必ず……」

 

それを成し得るまでは、自信を許せない。成し遂げなければ、己は下種である。

 

己の中に抱いた思惟や感情を、対立する二つの内、どちらか片方として具現させる能力。

 

悲憤、感嘆などには“滅び”を齎し。

歓喜、礼賛などには―――“栄え”を齎す。

 

まるで地祇の如き所業を、我が物のように見舞う事を是とする力。

古い体制に縛られる不要な者には“滅び”を与え、より良き体制を望む者には“栄え”を与える。無慈悲極まりない破滅と、願ってもない思考の栄華を振りまいてしまう、気に恐ろしき代物であった。

 

ある程度、己の範疇にあるこの無比な力で、日方を呪って以降、怠る事無く下準備を行って来た。少年を想う故に、敵対者に慈悲は無い。

賽は投げられた、この日から、改革が始まるのだ。

 

「……劫戈」

 

想い人の名を呼ぶ。胸を剣で抉られる気分だった。

妹からの情報で、嬉しい事に少年は生きていた。愛しい少年は無事に生きており、今はかつてより対立している白い狼の群れにいる。

 

「……待っていてね、必ず変えるから」

 

会いたくて、会いたくて、迎えに行きたくて堪らない。会って、己のすべてを吐露して、和解したい。

 

でも、今は迎えに行けない、行けるなど許される筈もないだろう。理想を成し得るその時まで。

でなければ、会わせる顔もない。それだけでなく、納得もいかないのだ。

 

内に秘めた想いを凍てつかせ、しかし今は温かく微笑む。

 

「時が来たら迎えに行くから……―――」

 

それが―――彼に捧げる贖罪なのだから。

 

 

一陣の風、草木が一揺れする。降り注ぐ雪が地へ向かうのを止め、空へと逆戻りするように舞った。

 

「―――お姉様」

 

そこで不意に声を掛けられた。首だけ振り返ると、妹の文がいる。彼女の後ろにはまばらながら、若い子達、近くにはその子らの親と思しき大人が揃っていた。その数、三十人は下らない。

 

「何かしら」

「すべての準備が整いました。間もなく、待ちに待った決行の時が来ます」

「……解ったわ。皆、宜しいですね?」

 

返答はない。集った者達は、すでに意を決していたようであった。

 

「皆、異論無しとするならば、覚悟は宜しいと見なします」

 

少女―――光躬は、今こそ立ち上がった。これから始まるのは、下剋上。

仮初ではなく、本当の愛を捧げる為に。かつて苦しんでいた想い人が、安心して戻って来られるように。

落雪の時、完全に振り返る光躬の顔に怜悧さが宿る。没する日を払うような氷を纏い、冷酷な顔を現出させた。鋭い真紅の瞳が、集いし者達を見据える。

 

「祖父……いえ、津雲を排除します。殺さなくても構いません。長の座を失墜させ、父様と我々の監視下にある地に追いやります。さあ、行きますよ」

「はい、お姉様の御心のままに……」

 

文以外はただ静かに首を垂れ、賛同の意を表した。

各々が剣や鉾を携え、いつでも出陣可能な姿で待っている。後は、改革派の女頭たる光躬の掛け声を俟つのみだ。

 

「―――容赦は要らぬ、奴らは敵だ。敵は殺せ」

 

感情を殺した冷たい声に、一同は黒い翼で羽搏き応えた。

 

 

 

―――その日、天狗達は未だかつて無かった、内紛を味わう事となる。

 

 

 




光躬が一世一代の大勝負に出る……!?

烏天狗の正装である衣装は、香霖堂天狗装束と思ってくれれば幸いです。
更新速度に関してですが、なんとか遅筆悪化は逃れました。読者の方々には、お付き合い頂いている事に感謝の旨と同時に、これからもこの小説をよろしくお願いしたく思います。

追記:某聖人二人が幻想卿へ来訪する動画を見て、思わず涙腺崩壊。と、同時に悟りそうになりました(笑)
レミィ、美鈴、椛、映姫の個人エピソードは……全く以って感涙させられました。本当に、東方には素晴らしいキャラがいっぱいいますね。彼女らをいとも容易く救済なさる開祖様には、頭が上がりません(笑)。



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第二章 馳せる干戈の烏
第二章・第一翼「冷たき雪の中で」


大学で、鬼畜なレポート地獄が到来。どういうことなんでしょうかね。一ヶ月に七つ作成したのは生まれて初めてでした……。締め切りに追われ、追加の課題に発狂しかけ、小説そっちのけでやる羽目に……。いや、ほんと、連続徹夜じゃないと終わらないとか、それだけで斃れるかと思いました(涙)
お蔭で、当初の展開が頭からすっぽり抜け落ちて、中途半端な前文が出来ていたので、止む無く全て破棄し、再構成から物語進行に至った次第です、はい。

ということで、お待たせしました、第二章、始動です。
さっそく物語を本格的に動かしていきます。



吹き荒ぶ粉雪の風を受けて、木々は葉を白く染める。

 

唯一染められないのは、木の頂点に陣取った人型。背より生えた黒く大きな翼を携える異形の者だった。白い雪を拒絶するように目立つ黒い髪は、雪を被っても微動せずにいる。

風の流れと同時に、灰色の鈍玉が無感動に、横へ往復する。息を殺して気配を潜ませ、獲物を狙うが如く、山一体の様子を視界に収めている。

 

「…………」

 

彼―――木皿儀劫戈は、腰から伸びる白鞘の柄を撫でる。いつでも抜けるようにと、手元に置いたそれは、不変の如き白さを保っていた。

それを、視界に入れる事無く、割れ物を扱うように優しく撫でる。

 

彼は明くる日を重ねてきたからだろうか、幼い顔立ちは鳴りを潜めていた。練磨を繰り返して鋭くなったと解る眼は強い意志を放ち、愛想を失させながらもはっきりとした青年らしい風貌を纏っている。背も伸びたようで、以前の頭頂なら今の胸辺りだった事だろう。容姿に名残があるが、大きな差が出来ていた。

凄惨な傷跡を残している右眼は前髪で隠れているが、頼れる灰色の隻眼で余す事無く周りを見渡していた。風の流れを読み取り、気配の流れを肌で感じ取る芸当をやっている。

手に収まる義母を得た幼い日より研鑽し続け、逞しく成長した彼ならば、出来てもおかしくは無かった。

 

そこで風、と鼻に入り込む臭いに、僅かな反応を見せる。

 

「今日も、か―――」

「おーい」

「…………茅」

 

劫戈は視線を落として、眉を潜める。不穏な空気を感じるも、呑気な呼び掛けに遮られてしまったからだ。

声の主は拾われた時から付き合いの長い義理の叔父、とは言え、あまり歳は変わらぬ友である。丁度、劫戈が立っている木の真下にいた。

根っ子に片足を乗せて、僅かに開いた枝の隙間から劫戈を見上げている。実に器用でいて、緊張感の無い行動であった。

呆れながらも、そんな茅に向けて劫戈はやれやれと言ったように口を開く。

 

「どうしたんだ……?」

「お前こそ、どうしたよ。何か、良からぬものでも見えたか?」

「ああ……」

 

少し面倒なものを、と言おうとして止めた。長い付き合いの中で、既に茅は解っている筈である。

溜息が大きな白い息となって、落ちていく雪と同化する。

 

「言わずもがな、見えたろう」

「ああ、いやでも見える(・・・)ぞ」

 

視線を戻せば、遠方に見えるのは烏天狗の山にして劫戈の生まれ故郷。劫戈にとって、かつて追われた、群れが居を置く根城であり、最も気にする場所であった。

 

「まだ派手にやってるのなぁ、天狗の山は。しかも、一ヶ所や二ヶ所じゃあねぇな」

 

群れの内で揉め事か、と疑問に思わせる山の状況は、劫戈を間違いなく不安にさせるものだった。

 

あちらこちらで赤い発光が上がっているが、それは山火事などではない燃え広がり方で、燃えてはすぐに鎮火する事が起きていた。時折、垣間見える閃光も、積もった雪と一緒に舞っている。

木々が倒れると思いきや、滑るように根元から吹き飛んでいく。その余波が風に乗って届いてくるほどだ。

この有様を、両者は戦いのものであるとすぐに理解していた。

 

「故郷が心配か?」

 

茅の問いに、劫戈はすぐには答えない。じっと耐え忍ぶように故郷を、見ている。

 

―――内乱。

思い当たる節などそれくらいであった。三日前から連日続く状況は、侵略でも受けているとは考えにくいのだ。一体どうなっているのか、見当がつかない状況である。

 

「……」

 

短く息を吐いた。

内心、気が気でないのがありありと伝わる、劫戈の鋭い闘志を纏う態度は、今にも飛び出しそうなほどだった。肌やら衣服やら滲み出る灰色の妖力が、靄のように立ち上る。

 

「―――」

「いや、いい……言わんでも解るよ」

 

諌めるような態度はなく、茅はただ身を引いた。

それに対し、介入せんとする勢いの劫戈だが、一向に飛び立とうとする気配はない。寧ろ、血の気盛んに見えて、身体は真逆な事に静を保っている。

以前の劫戈なら、どうしたかは想像するに難くない。まっすぐ突っ込んだかもしれないが、今の彼は立場が昔と大きく異なっている。

 

「一応言っておくが……お前が飛び出そうものなら、俺は止めるぞ」

「いや、もう大丈夫だ。……気になって仕方がないだけだ」

「気になっただけだってぇ? こりゃ、槍でも振るんじゃないか?」

「比喩でも止めろ、物騒だ」

 

などと、冗談となった後半は頭の中から洗い流し、視線は外さず見続けて、思案に耽る。

とはいえ、それは刹那の如くすぐに答えを出していた。

 

「―――俺は、天狗の群れ(あそこ)に相応しくない」

「そうか……。でも行きたそうにしてたぞ?」

「……行きたくないと言えば、嘘になる。本当は、行きたいんだ。行って……」

 

そこで劫戈の言葉は途切れた。喉から出さず、抑えるべき黒い感情として飲み込んだ。

今の彼を見れば、多くの者が嗤うだろう。大妖怪に差しか帰る手前の力はあっても、故郷の危機になって助けに行かないという情けない姿を晒している。

その事実を無理やり鎮めて、顔を苦痛に歪める。

 

もし、怪我しそうものなら、救いたい。

もし、困っているのなら、力になりたい。

 

しかし、今更行ってどうなるというのか。劫戈とて、馬鹿ではない。

 

群れを、親からも勘当され、剰え殺されかけた。されど生き延び、敵対する群れに救われた。その群れに行き着いて、恩を返そうと努めている。

 

この事実が、劫戈の望む道を邪魔していた。

 

敵対する側に着いた今、隣家の火の粉を被りに行く愚か者はいないだろう。そんな暗黙の中、敵対する群れに助太刀しては、大きな面倒事を起こしかねない。

救ったとして、恩を売る事に成功するにしても、見返りを求めていないとしても、相手は差しのべた手を素直に受け取りなどしない。

寧ろ、怪しむのが当然だろう。漁夫の利を狙う敵として、その場で討たれかねない。

 

以前、樋熊が襲ってきた時、烏天狗勢力は疲弊し切った白い狼一族を、好機として襲いはしなかった。

逆に、我関せずを貫いていた方だった。

敵対者が勝手に苦も無く死んでくれるなら、手を出すに越したことはないと判断されたのだろう。

焦って逃げ果せようとしていたのに、拍子抜けしたとも言えよう。重傷を負った五百蔵も揃って、事が終わった後、烏天狗の襲撃を警戒していたにも関わらず、何も起きず仕舞いだった。

 

烏天狗は余程の事が無ければ、放逐する気でいる。というのが、五百蔵の考えだった。長年敵対して来た五百蔵からすれば、ありがたい事であったに違いない。

 

それは―――劫戈という、一つの個としては納得しかねるものであった。

 

「五百蔵様は動けないし、今の皆に迷惑をかけるわけには……いかない」

 

群れが大事だと思うからこそ、劫戈は動けないでいた。

 

そう、今。

たった今、逆の出来事が起きているのだ。

 

今の劫戈は余所者であり、故郷の危機だからと言って、手を出せば要らぬ多くの危険を孕む。

 

だからこそ、彼はじっと我慢しているのだが―――

 

「けれども、救いたいのは嘘じゃない……!」

「そりゃぁそうだ。幼い頃から一緒にいた女の子を火中に放っとくなんて男が腐るわな。―――だが、駄目だ」

「解っているよ……」

 

茅は険しい顔で劫戈に注意する。一瞬でも態度を変えた茅の赤い眼は、耐える強さを持つ事を語っていた。

 

「悪いが、耐えてくれ。俺としても、背を押してやりたい気分だが、俺にも背負った(もん)がある。お前も例外じゃない」

「ああ……」

 

助けに行けない事は、本当に悔しい。が、口にも態度にも出さない。彼は無意味であると知っているからだ。

 

樋熊の襲来から、本日を以って丁度五年が経過した。

結果は散々であった。五百蔵は未だ再起不能なほどの重傷を負い、五名いた幹部は二名のみ存命。他、男連中と妖獣の大半が死亡した。

(かじ)は負傷した(いさ)を拾い、後を追っており、五百蔵が最後の一匹を仕留めて、事は終わりを迎えていた。

当時、五百蔵が負傷し、白い狼の群れは瓦解。長に代わって、茅と劫戈は生き残りを集める事に奔走し、同時に犠牲者を埋葬した。

 

劫戈が欠けるだけで、非常にまずい状況なのだ。それは本人も知っている。

実質、群れを守れるのは、生き残って動ける数人の大人達と、若手の中で最有力な茅と劫戈のみ。

とてもではないが、軍勢に攻められたら一溜まりもない。生き残れるか怪しい方である。

傷付いた長、動けない大人数人と、戦えない子供等が生き残った群れの現状―――選択肢は一つに絞られた。

 

劫戈は守り手となる事を選び、何としても守ると決意していた。

 

「そろそろ戻る。沙羅はまだ本調子じゃねぇからな」

 

茅の義妹たる沙羅は、樋熊の襲来から生き残った娘である。が、彼女は実妹、鵯の変わり果てた骸を見て、危うく発狂しかけ、情緒不安定に陥ってしまった。

今は落ち着いているが、肉親を失ったという心に刻まれた傷はあまりに大きい。

 

「……すまない。無駄に付き合せた」

「いいってこった」

 

本当は片時も離れる訳にはいかない筈だ。一番仲が良く、唯一支えてやれるからこそ、傍にいてやらなければならないというのに。

 

「俺の事は気にしないでくれ。もう大丈夫だ、心配は要らない」

「へいへい、いいっての」

 

茅は何でもない風に振る舞う。

劫戈は背を向ける茅に、感謝と申し訳なさを込めて言った。無暗に動かないよう、釘を刺しに来ている友に向かって。

 

徐に、劫戈は視線を立て直した集落の方へ向け、更に奥へ灰色の瞳を走らせる。

 

そこには、いくつもの石から成る山が築かれていた。

樋熊が持ってきた狂喜は、少なからず相対した者に悪影響を及ぼしており、残滓に充てられた子供が不調を訴え、早五年が経過している。一向に良くならない者は衰弱し、その冷たい石の下で眠っていた。

巻き添えになった者、生き残る事が叶わなかった者、勇敢に戦って死した者―――そんな彼らの墓だ。

その中には死ぬ瞬間まで、狩りで世話になった者、共に笑い合った者、男の象徴(おのこ)を茶化してきた者も混じっている。

 

「―――っ」

 

すぐに視線を外し、元に戻した。彼らの遺体に縋り付いて慟哭を漏らす女性陣が脳裏に蘇って来る―――母の最期の顔も例外ではない。

 

「……彼らの死を、守ろうとした思いを、無駄にしてはいけない」

 

言い聞かせるように、はっきりとした口調で呟く。背負った母の命を、再度噛み締めるように。

 

更に―――

 

「光躬……」

 

冷たき雪の中で、想い人の名を呟いて。

未だ荒れている山を見据えながら。

 

「君は今、どうしてるんだ……?」

 

その問いに誰も応える者はいない。ただただ、冷たい塊と弱い風だけが舞うだけだ。

隻眼の烏天狗は独り、内乱の行く末を見守った。

 

 




お待ちかねのメインヒロイン様が遂に―――まだ出ない(笑)
しかも主人公は最善策を講じた為に、ヒロインの元へ行こうとしない構図がェ……。
大事なものが増えれば、逆に弱点が増えるという典型例です。前からやってみたかった(フフッ
あ、五百蔵様が出てきてないし、幹部連中も……茅の嫁も―――ん?
まあ、出番なら今後、いくらでもありますし、今回くらいはいいかな……?(眼逸らし)


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第二章・第二翼「小さな訪問者」

本当に、大変遅くなりました。オリジナルの執筆と家庭での私用、コミケに長ったらしいバイトと……まあ、お察しください。あれ……? 夏休みの筈なのに、休んでた気がしない……。なんてこった……。
これから物語は大きな騒動に移っていく。では、どうぞ。



 

白き狼の群れが居を置く山では、銀色の世界が終わっていた。

吹雪が消え去り、雪が解けて太陽が戻る。吹き抜ける風にはまだ肌寒さが残っており、照り付ける太陽を物足りないとばかりに受け止める木々が活力を得て盛っていた。

 

「今日は……どうした?」

 

早朝、誰に問う訳でもなく、自然と問いが漏れた。

劫戈は最も高い木の天辺に乗り、相も変わらず天狗の山を眺めていた。無論それだけでなく、五百蔵の群れが住まう山一帯を見渡せるが故に、警戒を怠ってはいない。

彼自身、ここへ頻繁に来ている為に、何度目になるか数えていない。それほどまでに気になって仕方がないというのが傍から見ても十分に解った。

 

結果的に内乱は六日続き、今は落ち着きを取り戻していた。一番にそれを見て、劫戈は安堵の息が溢れ、強張っていた身体から無駄な力が抜ける。

 

しかしそれは一瞬の事であり、次には苦い顔に変わった。

 

彼は内乱が収まったと言う事には安堵出来たが、余計に気になってしまっていた。当事者ではなく傍観者という立場にあった故に、事情を全く知らないし解らない。

 

「結局は、何も出来なかった……」

 

無力感を得た劫戈は嘆息する。惚れた女の元へ助けに、身の安全を確認しに行けない、情けない男―――と、自己嫌悪した。

 

「―――気になるかのぅ?」

「……! 五百蔵さん」

 

老爺の一声に劫戈は振り返りながらすぐに飛び降り、労わりの言辞を取る。向けた相手は、件の樋熊と戦い負傷した群れ長、五百蔵(いおろい)だった。雪色の耳や赤い眼が、緑だらけの山で何よりも目立つ。

 

「まだ寝ていなくては駄目でしょうに。(いさ)さんに怒られますよ」

「解っておるよ。寝るのも結構だが、体が鈍り過ぎるのも困るのでな」

 

そう言って肩を竦める五百蔵に、劫戈は短く、そうですかと返す。内心で、仕方がないな、と思いながらも彼は特に何も言わなかった。

 

樋熊の一件で自由な身動きが取れなくなってしまった五百蔵は、軽く歩く程度しか出来ないでいた。劫戈が身を寄せるところの大妖怪が重傷を負い、再起不能に陥ったのは実に痛い事だ。全ての狼は、危機感を感じている。

正直、安静にしていて欲しかったというのが劫戈の本音だ。

今出歩いている様子から傷が段々と癒えて来ているものの、樋熊の残した狂気は計り知れない恐れを抱かせた。不調を訴え死に至った幼子ら然り、直接的に傷を負った五百蔵がこの有様なのだから。

 

「久しく御業を使ったものでな……体の彼方此方が痛むわい。年は取りたくないもんだ」

「まだ動ける癖に何を言っているんです?」

「傷を抜きにしたらの話じゃぁよ、それはぁ」

 

五百蔵の身体は、五体満足で問題なし。しかし、衣服の下は痛々しい生傷が大半を占めていた。格上の大妖怪でなければ、間違いなく死んでいただろう。

 

「あの樋熊……中々の猛者だったが、狂喜に振り回されとった。彼奴が狂気を完全に支配していたならば、わしはとっくに死んでおったな。そうでなくともこの有様じゃぁ」

 

そう言う五百蔵だが、彼は順調に回復している。今、彼は好きに動いている様子を見せておかねば、群れの者達が安心出来ず、他の勢力から付け入る隙を大きくしてしまうという心配から、意図して歩いているといったものだった。

五百蔵との会話からそう感じた劫戈は、老爺の茶目っ気に呆れていた考えを改め沈黙する。

 

「……貴方は……」

「なぁに、若者が心配などするな。今は死なんよ―――いや、死ねぬの間違いか」

「五百蔵さん」

「年寄りは若者より早く死ぬものだ。それが定め……なのだが、わしはちぃとばかり違うがの」

「何を馬鹿な……その若者に教授する年寄りが先に死んだら、誰が若者を育てるのですか? 先達よりも生きられませんよ」

「ほう……言うようになったな、劫戈。まあ、それには一理あるな」

 

死の順序を説く五百蔵に、自分の考えを混ぜて説得するように述べる劫戈。

何でもないように言う五百蔵だが、この矍鑠な老爺は果たしてどのような心境で若者や子孫を看取って来たのか。それでも尚、こうして喜怒哀楽を持ち、しっかりと理性と感情を持っているのは、強靭な精神を持っている事の裏付けなのだろう。

その事を考える劫戈は、思わず五百蔵の顔を見やった。初見では元気なお爺さん、としか印象を持てない顔だから、余計に気にするのだ。

 

「五百蔵さん、本当に……大丈夫ですか?」

「はぁ……大丈夫だと言っておろうに。信用せい、若者よ。年寄りの言葉は聞くもんじゃぁ」

「……解りました。もう何も言いません」

「うむ、それでよい」

 

一通り会話して言を切ると、烏天狗の山を眺めた。物静かで実に不気味な様子を呈しており、誰から見ても近寄り難い雰囲気を晒す山を二人は見やる。

 

「気になるかのぅ?」

「ええ、まあ」

「わしが思うに、世代交代じゃろう。お前さんの代は、聞けば射命丸の孫娘がおるだろう? 何かと火中に身を置くのが多いからなぁ、あの血筋は。生来の性かもしれん」

「え……? 言われてみれば……」

「でも津雲だけかと思っていましたが」

「珍しく日方が苛烈で色が濃い分、比較的温厚な空将は薄れる。あれでも大妖怪に近いと知っておろう?」

「そう言われると、空将さんもそんな感じが……ええ、確かにしますね」

 

烏天狗が世代交代の時期であると、五百蔵は予測する。活気盛んな射命丸の血筋故に光躬は巻き込まれたのだろうか、と考えるも答えが出ない劫戈は、じっと山を見つめた。

視線を外さず、敵対する関係になった者達の顔を思い浮かべる。憎悪は湧かない、浮かべた程度では。憤怒は湧かない、出会うまでは。腹の底で蓄え、相対した瞬間に噴火するのだから。相対した時でいい、まだ発露させるべきではない。

そう思って、劫戈は自分の黒い感情を心身の奥底に封じ込めた。

 

「……ぁ、あ?」

 

そこで劫戈は肩を叩かれ、我に返る。五百蔵が呆れた視線を送り、溜息一つ漏らす。

 

「変な気は起こしてくれるなよ?」

「勿論……今の立場を解っているつもりです。居場所となったこの群れを裏切るような行為は一切しません」

 

赤い双眸と灰色の隻眼が交差する。ふん、と五百蔵は鼻で笑うと、面白く喉を鳴らした。その仕草には、長者らしい余裕がちらほらと見える。

 

「近々、騒がしいからな。目の前の烏山といい、鬼が出たとかいう西の荒れ山といい……下手をすれば素戔嗚が降りて来そうじゃぁ」

「……素戔嗚? まさか高天原の素戔嗚尊ですか?」

「わしの毛が逆立った。つまり、天から神格が降りて来るという予兆。こっちは悪ければ巻き添えじゃのぅ」

「止めて下さいよ! 冗談じゃない!」

 

ふはは、とからかうように笑う五百蔵の眼は笑っていなかった。声を荒げる劫戈は、それに慄きながら気付く。

 

「え……冗談ですよね?」

「神が降りればそのまま悪寒が身を貫く―――のじゃが、今回はそうでもなかった。落ち着いたのだろう。何があったか、までは解らんがのぅ」

「……素戔嗚が降りる前に、落ち着いた……?」

「うむ。だが、どうなったかは解らん」

 

それを聞いて、安堵の息を吐く劫戈は、五百蔵から視線を外して肩を落とす。

素戔嗚尊といえば力を象徴する神であり、介入されたならばこの地は戦場と化すだろう。並の妖怪は抗う術なく蹂躙され、大妖怪もただでは済まない。敵対関係にある者達の中で一番出会いたくない神々と相対するなど、劫戈にとって生き残れる自信はなかった。

そんな神が降りて来るほどの事態となれば、相当の馬鹿をやらかした以外にない。神は見ている、悪と宣う者達の所業を。人や土地を守るが故に、神は害悪となる妖怪に容赦はないのだ。

 

「まあ、わしらは大丈夫じゃぁ。わし含め、わしの群れは人なんぞ食わんし、この山から出て人を襲うといった事もせぬ」

「……五百蔵さん?」

 

自信満々な言辞に、劫戈は五百蔵の姿を眼に移す。彼の狼の背に、釼を拵えた何者かが一緒に口を動かしている―――気がした。

 

劫戈の中で、今のは何だ、と一瞬の疑問が湧く。見間違いにも思えるが、そうでもないので気に留めない事にした。

 

「この惨状じゃし、来てもおかしくはなかったがのぅ。何故か(・・・)、降りてはこなかったが」

 

幻と思われた影は消え去り、五百蔵は振り返って考察を述べ続ける。劫戈は話に耳を傾けながら、五百蔵に倣うように、背後に見える惨状を視界に入れた。

 

それは、自然が冒された痕跡―――異彩を放つものが山の中にちらほらと混じっている。それは以前、樋熊の襲来で冒された緑であった。

在り得ぬ異形の来訪で薙ぎ倒された木々は、未だに予期せぬ脅威を生々しく物語っていた。節理に従ってその命を糧にし、別の自然を育む母となるも、刻み込まれた数条の爪痕が怖気立つ邪気を放っている。当たり前である木色は浅黒く変色し、腐敗したようにぐずぐずとした、見るに堪えない不快なものと化していたのだ。

 

全ては来訪した樋熊によるものである。

 

「あの樋熊……」

「わしの御業を見切り、至近での二度目にも反応したが、組み付いている以上は避けられん。案の定、胴体ごと吹き飛んだ」

「その代わりに、貴方は腹を……」

「なぁに、直に治るわい」

 

そう言って、五百蔵は腹部を抑える。視線でそれを追う劫戈は、突然やって来た樋熊に対し、心底恐怖していた。

 

五百蔵から事の顛末を訊き、樋熊の抹殺に成功したと知る当時の劫戈は、心身共に疲弊し切っていた。また、彼だけでなく群れもそうだったに違いない。

大半の大人を失い、子供を死なせ、群れとしての在り様を失い過ぎた。群れ長は身体が限界な上に重傷を負ってしまい、後を任せられるのは運よく生き残った幹部の楫と斑、若者の中で突出していた茅と劫戈だけだったのだ。

 

群れが完全に癒えるまで、まだ時間が掛かる。それ故に、十分に動ける劫戈と茅は瓦解した群れの再建を急いだ。

今ではもう長代理を任せられるほどに成長した茅、その支えになる劫戈は群れの中心者となっていた。重役の代行として日々練磨する若者達に安堵しながら、彼らに任せっきりで自責の念を持つ生き残りも互いに手を取り合って群れを形作っている。

数は以前と比べて三分の一でしかないが、幹部である楫や斑が助力していた事もあって、それでも群れを保てていた。

 

「なんとかなりました……が、またあのような事が起こらないとは言えません」

「その時は、この山を捨てるしかあるまいなぁ……」

「そろそろ別の山に移っては? 五年も経って、完全とはいかないまでも移住は出来ると思いますが……」

「今のままで他の山に行くとなると、住処を掛けた争いになるぞ。ただでさえ、烏と睨み合っているのだぁ……余所がどう出るか、予想に難くない。遣るべきではない、いざという時までは」

「……そうですか」

 

今は慎重に、と暗に言う五百蔵に、劫戈は井の中の蛙故に危機感が薄い。樋熊が襲って来たのは

未だ他の勢力は周りの山を陣取っている。烏天狗や鬼だけでなく河童や他の妖獣が暴れ回る山々は未踏の地として扱われ、同時に互いを牽制する事で住処を成り立たせていた。

 

「今は所謂安定期……下手に動けん。かと言って、黙っている訳にもいかん」

「何とかしたいものですね……」

「茅にも同じことを言われたわ。年寄りが役に立たぬとは……情けないものじゃぁ」

 

何とかしたいが、現状がそれを簡単に許さない以上、仕方がない。愚痴を漏らす五百蔵は苦々しい表情だった。

 

「話しても埒が明かんな。すまんのぅ、劫戈。年寄りの愚痴に付き合わせた」

「いいえ、構いませんよ。今の事でなら漏らしても誰も文句は言えませんから……」

 

うむ、と言い残して、五百蔵はその場から去った。塒へ向かったのだろう、今の老体には少し長居し過ぎたかもしれない、と劫戈はそう思いながら背をじっと見つめた。

 

「……」

 

風が頬を撫でる。丁度昼に差し掛かる日の温かさと冷ややかな風が心地良いので、その空気に身を預けようと劫戈は木の天辺へと跳んだ。

懐かしい幼少の時と変わらない季節の空気は、劫戈の内に残した想う娘を想起させた。

 

烏天狗の群れ、かつての住処での小さく醜い少年の事情―――抗う術も無く追放され、想い人と離れ離れになった。幼いが故の女々しい感情が残って、忘れようにも中々忘れられない。

狼の群れに命を助けられ、しかし敵対する状態となった。今は双方に矛を引いているが、いつ衝突するか解ったものではない。今までは平気だったが明日かもしれないし、明後日かもしれない。もう既にこちらへ侵攻しているかもしれないのだ。

 

事実、恩師たる狼達を守れるのは、はぐれた烏―――劫戈と、長の曾孫である茅のみ。敵対するのは、津雲、空将、日方、その他―――戦力差は明白だった。だから、嫌でも劫戈は動かねばならない。

 

もう戻れないと言う事は、解っていた劫戈だが、心が認めたくなかった。群れに置かせて貰っている事には感謝しているが、いざ烏天狗と戦うとなれば―――しかも想っている娘と戦うとなれば、果たして自分は彼女に矛を向けられるだろうか、と劫戈は感情を黙した中で自問自答する。

 

想う娘に会いたくて、あの太陽のような笑顔を見て、触れ合いたい―――。

 

「ああ……くそっ」

 

劫戈はそこまで考えて、中断した。考えても意味はなく、最早、手遅れなのだと言い聞かせる。

 

「俺がこんなままで、皆が安心出来るものか」

 

諦めたくない感情を押し殺して、群れの一員としての務めを全うするべく引き締めた。五百蔵との話し合いで一時肩の力を抜き、放棄していた見張りを引き続き行う。

 

注意深く、灰色の隻眼で見るのは、山の全体。動く小さな獣の気配、空気や川の流れ、木々の葉が揺れる様子等々―――。

何か変化はないか、と鋭く目を凝らして探索すると、彼は不自然な風の流れを感じた。自然なものではなく、無理やり向きが返られるような意図的な流れである。

烏天狗の山の中腹辺りから、飛び出した一つの飛影は白い狼の群れが居る、つまりは劫戈が居る山へ向かっていた。

 

「は?」

 

真っ昼間から侵入する妖怪を察知した。思わず間抜けな声が漏れてしまう。

 

「なん……」

 

敵か、という考えに移った瞬間、それは覆された。

そして、限界まで瞠目した。それは懐かしさと深い労わりを覚えるものであり、空を飛ぶ鳥類の妖怪なら、隣人へするような親愛感覚を得るだろう。風に敏感な種族故に、だ。

進行方向に対して、邪魔にならないように、不快感を与えないように飛ぶとは、何のつもりだろうか、と劫戈は動揺する。速過ぎず遅過ぎず、そんな飛び方をしている、一羽の烏が現れた。

 

「嘘だろ……」

 

その者は、あまりにそっくりで、されど幼い、という印象を劫戈に与えた。

 

「光躬……じゃない?」

 

劫戈の唖然とした呟きは当然のものだった。彼が知る想い人は同い年であり、向かって来ている少女と思しき娘ほど幼くはない。

困惑と驚愕が入り混じる中、あっという間に鮮明になって来る飛影は、ゆっくりと劫戈の眼前へと到達した。凛とした振る舞いを見せる烏の少女に、劫戈は内心で警戒する。

 

「……何用か!」

 

明らかに想い人ではない事を言い聞かせ、取り繕って目の前にやって来た烏天狗の少女へ無感情な声を放った。何もしない訳ではなく、既に白鞘の柄に手を掛けていつでも抜刀出来る状態にする。

 

「―――突然の来訪、失礼致します」

 

すると、少女は鈴を鳴らしたような幼い声で応えた。

それに伴い、無防備を相手に示す行為でもある、両手を衣装の袖から出して腹の前で交差した。浮いているまま丁寧なお辞儀までする。

 

劫戈は怪訝になるものの、努めて少女の動きを逃さず視界に入れる。用があってやってきたのは明白だが、敵意が全く感じられない事から、話でもあるのかと見当を付ける。

 

同時に、塒の方で気配が騒がしくなっている事を感じ取る。最大戦力として劫戈が相手している事もあってか、そこまで慌てていないか、とさり気なく今後の行動の事を視野に入れていた。

 

少女がお辞儀から元の姿勢へ戻る数瞬の間に行われた思考を一時中断し、劫戈は油断なく攻撃的な光を宿した灰色の隻眼で見据えた。対し、少女は微笑むように口を開く。

 

「お初御目に掛かります。私、烏天狗の治める山より長代理としての任を預かり、この度参りました―――射命丸文と申します」

 

その者は、烏天狗勢力からやって来た、使者であった。

 

 




現在最高クラスの大妖怪である五百蔵さん、ちょっと危ない状況に陥っています。月日を経たとはいえ、樋熊の爪痕が残る住処には平穏なし。その分、劫戈と茅が出張らなければならない。一応、五年の歳月が二人を大妖怪へと近付けている事もあって、群れはギリギリ生活出来ています。
最後は文、原作キャラの一人にして、文々。新聞の著者で知られている幻想郷最速の烏天狗。本小説での設定では、彼女はまだ知名度がないほど幼く、姉の光躬に付き従う専属のような役に付いています(幕間其の一を参照)。


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第二章・第三翼「射命丸文」

大変……! 大変、お待たせであります!言い訳は、後書きに。
さて、本編行きましょう。少し駆け足で、今まで遅れを取り戻し―――戻せたらいいなぁ……。
あと、今まで不安定な書き方でしたが、もうちょっとでいいスタイルが築けそうです。



 

突然の訪問者は“射命丸文”と、名乗った。

 

「射命丸……文と言ったか?」

「はい。……何か?」

 

(射命丸? 懐かしい名だが……でも文だって?)

 

無邪気な顔で首を傾げる娘に、相対した劫戈は何とも言えぬ顔を浮かべる。あまりに似過ぎていていたからだ。

 

「君は射命丸の血縁者……で合っているか?」

「ええ。私は射命丸の血縁ですよ。貴方様もご存知かもしれませんが、父は空将(たかすけ)です」

 

彼は払うように首を振り、取り敢えず彼女を五百蔵の下へ案内する事にした。戦闘目的以外で訪ねて来た以上は、招き入れる必要がある。

飛んだ方が早いのだが、敢えて歩いて案内する事にする。彼の歩は、重かった。

 

その途中、劫戈は終始、値踏みするような視線を受ける。

と言うより、興味の色合いが強いかもしれないが、訪問者の視線を浴び続けた。幼げな透き通った瞳は邪念といったものを一切含んでいない。それ故に、劫戈は非常にむず痒い思いをする羽目になっていた。

 

「うーん……」

「っ……何だ? 俺に何か付いてるか?」

 

じっと向けられる視線に気が気ではない様子の劫戈に、文は何も答えない。寧ろ、一挙一動を逃さないと言ったように見つめている。

劫戈としては早く五百蔵に引き継いで貰いたくて仕方がなかった。

 

(まるで……いや、光躬にそっくりだなぁ……)

 

忘れられない女性の妹。あまりにそっくりで、しかし少しだけ違う、そんな娘っ子だ。懐かしい声がその小振りな口から聞こえてきそうだった。

 

「―――そんなに似てますか?」

「へぁっ!?」

 

思えば何とやら。思わず歩が止まる。

素っ頓狂な声が飛び出た。肝に冷や水が掛けられた飛び上がり、後退りする。

無理もない―――耳元で呟かれては、劫戈であってもそんな声を挙げていただろう。

文はからかうように笑うと、耳元から離れた。劫戈は文の甘い声の余韻が残っているのか、歪な百面相と化して耳を押さえた。

 

「い、いきなり何をっ!?」

「お姉様から貴方様の事は窺っています、木皿儀劫戈様。努力を惜しまぬ素敵な殿方だと……」

「へ、へぇ……光躬から?」

 

ここで劫戈は涼しげな顔をしながらも、冷汗をどっと流して戦慄した。

 

(は……速い! 動きが……見えなかった!)

 

耳元に寄られた時、あまりに早過ぎて反応出来なかったのだ。思わず、畏怖の念を抱かずにはいられまい。

幼子でもやっぱり射命丸の血筋。桁外れな速さは健在である。

 

(ああ、違う。この娘は……光躬、じゃない!)

 

―――ふと腹の底に黒い靄が沸き上がった。

 

「―――っ!?」

 

はっと息を呑んで、劫戈は咄嗟に顔を隠した。右目の穿跡を隠す前髪の下で、押さえ込む手が震えている。

そんな劫戈の行動に、呆気に取られた文は血の気を引かせた。

 

「あ……!? す、すみません! ご不快にさせてしまいました、申し訳ありません!」

「ぁあ……違う……気に、しないでくれ……少し、驚いた……だけだから」

「ほ、本当にすみませんでした。出過ぎた真似を……!」

 

顔を青くさせている文に、劫戈は戸惑いながらいいんだと頭を振る。そう、文の所為ではないと言いながら。

彼の腹の底から沸き上がった黒い靄が、豹変させようとしていたのだ。普段の彼らしくない事だった。

 

(落ち着け、相手は射命丸の血筋だが……この子とは今まで面識がなかった筈だ、恨んでどうする!)

 

「あの……すみませんでした。大丈夫でしょうか?」

「あ、大丈夫だ……何分、久しいから、驚き過ぎたんだよ」

 

若干おろおろする文に対して劫戈は責苦を言えない。いや、幼子を一方的に叱るような事は出来る訳がなかった。

 

(俺もそうだったからな……)

 

黒い靄が気勢を挫かれ、納まっていく。

一瞬に湧き出た不快なモノを、無理にでも腹の底で眠りに着かせる。劫戈はふっ、と息を吐き出し、仕切り直して文に対面した。

その様子は先程と変わらぬものになっていた。

 

「……光躬から……聞いたって、言ったね?」

「あ……は、はい。お姉様は貴方様の事をよく話されていました」

 

何とも不思議な話だった。

劫戈の目の前には、生き写しと見違う幼い光躬がいる。その娘は全く酷似した顔で、酷似した声で、光躬を姉と呼ぶ。

何ということだろうか。劫戈は光躬と話している気分になりそうだった。一通り仕草は若干違うものの、少し態度を変えればそっくりである。

 

そうか、と劫戈は頷く。再び歩が進んだ。

 

「しかし、驚きました」

「む、何がだ?」

「話で聞く限りは、今の貴方様はお姉様から聞いた姿とは全く違います」

「……まあ、年月食えば成長するからな。違ってもおかしくはないだろう」

「あ、いえ、そうではなくてですね……」

「ん……?」

 

劫戈は訝しんで歩を止め、文の顔を覗く。すると、文が眼を輝かせて見上げて来た。

 

「お話で聞くよりも、素敵です! 特に、その翼はなんですか!?」

「え……あ、これは……その、だな」

「百聞は一見に如かず、とはこの事ですね! これほどの大きさ、しかもお姉様に負けず劣らずの綺麗な艶! これほどの翼は初めて見ました! 弛まぬ努力をされたのは本当だったのですね!」

 

褒め千切られて圧倒されかける劫戈だが、努力という言葉に、その顔は浮かなかった。

 

烏天狗の翼の大きさは、所謂強さの証である。

妖力の濃さ、操り方、この二つが秀でた者こそ大妖怪である。劫戈自身は別段、大妖怪という訳でもなく、妖力に秀でている訳でもない。実に、素の能力は勿論のこと、翼の頑強さや白鞘の切れ味は樋熊との戦いで証明されているが、それは―――。

 

それは努力とは言えない、自分のものでもない。ただ貸し与えられたもの(・・・・・・・・・)だった。

 

「―――これだけは違うんだ」

「え?」

 

それ故に、劫戈は否定する。これは、自分の力ではないと言わんばかりに。

 

「命を、貸してくれたんだ……」

「ど、どういうことですか?」

「いや……この話は止めよう」

 

劫戈は首を横へ振り、無理にでも止めさせた。

彼には重く伸し掛かる過去だ。それ以上、触れて欲しくなかったというのもあるだろう。

そして、今度は。

 

「さて、さっきから訊かれてばかりだから、今度は俺が訊く番だ」

「は、はい。これは失礼しました。どうぞ、なんなりと」

 

強張った表情から、それに相応しい低い声音が出た。劫火干戈の今にも迫りそうな態度に、文は僅かに驚き委縮してしまう。

 

(そうだ、訊かなくては……! 光躬の事を!)

 

これは何という僥倖だろうか、好機にも程がある。

群れから追放された時から今までみっともなく生きて来た劫戈が、抱いた問いとは何か。

訊きたい事は山ほどあるようで、文は問い詰められるのではないかと身を引き締められた。文を見つめる灰色の隻眼が、ほんの一瞬だけ―――煌き―――優しい眼になる。

 

「なぁ、光躬はどうしてるんだ?」

 

すると、まるで隣人に語り掛けるように問うた。

 

「―――?」

 

そして突如、劫戈は困惑に陥った。

 

この時の劫戈の感情は昂ぶり、込み上げる強い衝動に駆られていた。黒い靄が沸き上がった直後から、妙な気分に誘われていたのだ。

だが、そのような事にはならず、一瞬の内に落ち着いてしまった。文の顔を見たからなのか、それとも何かが(・・・・)鎮めたのか、彼自身解らなかった。

今尚も記憶から消えぬ想い人の事で飛び掛かってでも問い質してもおかしくはない筈なのに、そのような衝動は終ぞ起きなかった。

 

「お姉様ですか? 一時期は落ち込んでいられましたが、今はお元気ですよ」

「そ、そうか。それは、良かった」

 

何事もなかったかのような会話が成立する事に、妙に薄ら寒い感覚を得ながらも劫戈は光躬が元気でいると聞いて安堵した。

 

「ただ、長らくお会いになっていない為か、貴方様の事を話される時はとても悲しそうでした」

「あー……彼女は、なんと言っていた?」

「―――“会いたい”、と。ずっと、貴方様がお帰りになられる日を待っていると思います」

「…………そうか。だが、俺は―――」

「……?」

 

劫戈は最後まで言い切らず、文から顔を逸らしてしまった。そんな劫戈に、文は首を傾げる。

彼の心中は、冷たく、しかし温かい空気で二分されていた。それは、文には解らない。

 

「……」

 

文はそれ以上踏み入るのを止めた。

劫戈の暗い表情を見て、口を噤む。恐らく、自分には解る事はない苦悩だろうと結論付けて。

 

「それ以上は……申し訳ありませんが、長である五百蔵様への会談にて伝えさせて頂きますので、群れの現状に触れる事は今のところ教えられません」

「……それもそうだな。ああ、解った。務めの最中にすまない」

「いいえ、お気になさらず」

 

文はそこでさっぱりと話を切り上げた。群れに関すると付け加えて。

それ以上長くさせない為でもあるだろうが、顔には務めを果たそうとする者特有の硬い表情が現れていた。

文は劫戈にやんわりと頭を下げる。

そこには、幼い身ながらも会話に耽らない姿勢が在った。射命丸の名は伊達ではないようで、よく教育され抜いた賜物であると解る。

 

二人は丁度、塒の手前、山の中腹まで来た。少し開けた場所の真ん中で五百蔵が待っている。

五百蔵の手前には茅がおり、穏やかでない表情で文を睨み付けている。劫戈は取り敢えず、五百蔵の元まで案内したので、紹介してから静観に移ろうとした。

 

「―――とは言え、会談には貴方様にも出て頂くつもりですので、逸早く知られると思いますよ。御心配には及びません」

「は……なんだって? それはどういう―――」

 

劫戈は驚いて振り返ると、上手くいったと微笑みながら通り抜ける文がいるではないか。問い質そうとするが、文は劫戈よりも早く動いてしまっていた。

その先には五百蔵と茅、集まった生き残りの面子がいる。

 

「この度は、突然の来訪に際し、御無礼を。お初御目に掛かります。五百蔵様とお見受けしますが」

「これは随分、可愛らしい娘が来たものだのぅ……うむ、然りじゃぁ。そう言うお前さんは?」

「ああ、失礼……射命丸文と申します」

 

あっと言う間に、群れ長と訪問者の会話に入ってしまう。劫戈は、してやられたと言う顔を露骨に見せ、数歩下がって話を見守る方へと移った。

その幼いながらも堂々とした来訪者に、白い狼達は警戒しながら呆然とするしかなかった。

 

「なんだ……この感覚は」

 

そんな中、劫戈は唖然と呟き、苦しそうに胸を押さえた。

痛みではない。全く別の何か。

 

彼女は(・・・)……烏天狗は一体何を考えている……?)

 

妙な胸騒ぎを覚えたのは、果たして間違いであっただろうか。

 




小説を、息を吸うように読む同志と相談し、今までの文字数が長くて読みにくいという意見から、一話分の文字数を少し減らしました。読みやすくなったとは思いますが、どうでしょう?
作者としても書きやすいと感じていますし、問題だった更新速度も改善されると思い、今回からこのスタイルで行こうと思います。前の方が良かったとおっしゃる方には、申し訳ありませんがこちらの都合で決めさせて頂きます。御了承下さい。

以下、前書きの続き……言い訳です。
以前、秋季例大祭に赴き、文ちゃんのフィギュアを買ってヒートアップしていたのにも関わらず、その後に講義のレベルアップやそれに伴い、執筆時間と意欲が大幅に減滅。結果、執筆に行き着けず……挙句、気疲れから体調を崩し、インフルかと思われるほどに体力を根こそぎ奪われ、喉が潰れる。二週間まともにしゃべれず、気力はごっそり。スランプにも陥り、もう散々でした(´; ω ;`)
そして、気が付けば冬のコミケ。「行くかぁ」と焦らずゆっくり行きまして―――復活。気が付いたら書けていた……。そんなありさまです。
もう、処刑台に一歩踏み出すのは御免だぁ……。



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第二章・第四翼「誘いの追い風」

早く更新出来そうとか言っておきながら、大変遅れました。申し訳ありません。
お気に入りが減っていても仕方ないと思っていたのですが、然程変わっておらず……読者様には上げる頭がないです。
遅くなった原因は、実を言うと軽いスランプを起こしていました。今は意欲が湧き、落ち着いてきたのでなんとかなっています。
執筆していて納得いくものが書けない事が続き、気が付いたら某赤い龍を宿す変態が主人公の二次とか某軍艦を擬人化して海を取り戻していく話の二次とかが混ざっていまして……自分でもすっちゃかめっちゃか状態で、書き終えて「……なぁにこれ」とか言いながら混乱すると、ようやく自分が疲れているのだと認識しました(最初は病気かと思いましたが)。期末試験後、長期休みとは一体……というほどに忙しかった事もありまして、その影響もあったようです。
ああ、これ言い訳ですね、すみません。
でも、若いのに病気(精神病)になったのではないかと、一ヶ月くらい疑心暗鬼になっていたのは事実です……。
皆様も身体だけでなく精神面でもお気を付けください。つらい、という言葉では言い表せない苦痛を経験し、身に浸みているので解ります。あれは、恐ろしいものです。

あ、それよりも本編ですね。長くなってしまいましたが(笑)、さくっと本編行きましょう。
ではどうぞ。




 

(嗚呼……これは、なんという……)

 

劫戈は眉間に皺が寄るのを禁じえなかった。

射命丸文が持ってきた情報と提案が、白い狼にとって酷く悩む事であった為だ。

 

「……参ったものだのぅ」

 

敷いた茣蓙に、来訪者を包囲する形で座る妖怪たち。その中で、来訪者の正面に座る五百蔵は、やはりかといった様子で感嘆の溜息を吐く。

もしかしたらという予想をしていたのだろう。横で険しい顔をする茅を始めとした楫や斑より余裕があった。

 

今、烏天狗が居を置く山で、二つの派閥間で争いが起きているという事実は、山の惨状を見ればすぐに解る事だった。

本来ならば天に向かって聳えた巨木が、無惨に薙ぎ倒され、雪に交じり、焼け焦げた場所まである始末。巻き込まれた栗鼠や小鳥の巣が理不尽さを物語っていた。

 

「やれやれ、じゃぁ……」

 

実のところ、烏天狗が如何様な事をしようが、それが白い狼の群れ(こちら)の不利益に繋がらぬならば関係し得ない。というのが、黙って参列する彼らの共通意識である。

以前より敵対し、報復の往来、互角の困憊を繰り返した。どれほどの血が流れ、強者や赤子が失われたか、嫌と言うほど思い知っている。

 

五百蔵が何故に、呆れ憂えるのか。

それの理由は二つ。

 

まず、群れが総じて、烏天狗に絡まれる事を嫌ったから。

 

次に、群れが数を半数ほどにするほど弱り切っているという事。これが何よりも大きい理由になっていた。

 

(こんな時に……いや、こんな時だからこそ、という事か)

 

そこへ、烏天狗側の事情が更に絡んで来る事が何よりの憂いとなった。

新世代と旧世代間で互いの思想排斥を掲げた内乱に、五百蔵達はいい迷惑であった。本格的な武力衝突は一時収まっているが、激化する事は間違いない。

 

「他所でやれ、と言いたいが……そうも言っていられんか」

「我らは、貴方様方の事情も重々理解しております。この誘いがお嫌であるという事も……ですが」

 

とある提案を持ちだした文は言葉を一度切り、真摯な態度が深刻な顔へと変じ始めた。

 

「今はそれ処ではないのです。貴方様方が立ち向かった樋熊は、干戈を交えなかった我らにとっても十分以上の脅威であると認識しております」

「昨日の敵は今日の友、という事かのぅ?」

「お察しの通りです。だからこそ、感情論ではなく未来の赤子を思って欲しいのです。我らは、もうこれ以上種を徒に失う愚行を是としたくはない……それが我ら烏天狗子孫の総意なのです」

「言われんでも解っておる。わしとて、今の状態は危険であるし、不毛であると思っておるからこそな……」

 

群れのこれからを憂える五百蔵の穏やかな顔は―――否、その貌は般若へと一瞬で変じた。

 

「―――本来なら言葉をも交える気の()ぇ、テメェら烏と会話してんだよ。なぁ?」

「っ……はい」

「北からの不穏な動きに対し、わしらは一致団結しなければ、種の繁栄、もしくは種の存続すら危ういものとなる……解っておるよ、解っておるとも。しかしな、娘っ子よ」

 

 

 

「今更ぁよ、全部水に流そうってのは……都合が良過ぎゃしねぇかよ?」

 

非常に荒々しい口調で文を攻め立てる五百蔵。

 

大人気ないなど関係は無かった。相手は射命丸の血統たる者であり、紛れもない強者の一族だ。長に最も憎悪され敵対した血縁に手加減は要らないし、それに加えて射命丸と名乗った時点で、腹の中を曝け出して貰わなければ、信用など皆無に等しいのだ。

 

良い顔して腹の中では相手を嗤う、常套なる行為。それをやるのが烏天狗なのだから。

 

ここにいる劫戈の場合は、彼自身が特殊な場合であった為に、五百蔵は出会った瞬間に看破していたというのもあり、例外だった事実の下で例外視されている。

 

それに比べて、射命丸文は白い狼一族から見れば初見の烏天狗。一体何を考えているのか、腹の中で何を思っているのか、と敵愾心を剥き出しにしてしまうほど皆が警戒していた。

 

その様子を、劫戈は少しやり過ぎだと思いながらも見守る。

 

(……確かに、五百蔵さんの言葉も頷けるが……)

 

五百蔵だけでなく茅も鋭い険相で文を睨み、提案に対して反意を示す。茅からすれば、文は仇敵の一族でもあり、かつての劫戈にもしたように襲い掛かりそうな見幕を見せていた。

 

(皆……怒りに囚われている。身内が殺されたなら、無理もないが……それじゃ駄目だ)

 

事を冷静に見守り、整理していく劫戈は思案する。

 

(徹底した弱者排斥思想……だから、俺は捨てられ、殺されかけた。それが嫌だったんだろうな……―――痛いほど解るよ、光躬。俺だって嫌だった)

 

劫戈は、五百蔵までもがここまで怒りを見せる、持ち出された“提案”に対して、震えた。想い人が考えた事だとすぐに解って、心が震えたのだ。

そも、この事案―――厳密には文が光躬から伝えるよう託された提案は、思わず頓狂な声を漏らしそうなものであった。

 

 

“今までの諍いを無くし、共存共栄を目指しませんか”

 

 

その為の同盟(・・)であった。

 

もし良ければ、手を貸して欲しい。旧世代を駆逐した暁には、今までの犠牲を無駄にしない安住が求めた安住が待っている筈だから。

 

と、そんな提案を持ち込まれたのだ。

 

光躬は劫戈が生きている事を知っていると見て間違いない。でなければ、自分の息の掛かった妹を想い人が居る敵対勢力への使者にする筈がないのだ。

予てより、想い人の生存を信じて老爺共の思想を覆すべく力を蓄えて来た。そう思わせる―――光躬の願いが反映された提案。

 

ひたすら他種族を排斥し、自種を崇高とした烏天狗の新世代が掲げた提案は、旧世代からすれば、青天の霹靂であったに違いない。だからこそ、新旧で内紛が起きている訳である。

 

共に古い老爺共を駆逐し、新たに共存の道を歩もう、と次世代烏天狗の面子は訴えている。

これは実に好機であり、これを受け入れたならば今後は安泰となり、多くの者が万々歳な提案だった。

 

―――だが、白い狼の群れとしては、非常に受け入れ難い事であった。

 

「お前らはそれでいいかも知れないが、俺らの事は無視か? 俺の親族は殺されたんだ、お前の父親含めた連中にな! それを! 水に流せ、だと!?」

「なかった事にしよう、などとは言っておりません。ですが、我らの代で終わらせなければいつまでも続いてしまう、だからこそ……!」

 

茅が憤怒の下で口を開き、嫌疑を掛けられた文は反論する。

 

白い狼の群れが、その提案を受け入れられない最大の理由は、彼らの間に生まれた軋轢が原因だった。

先祖が家畜の如き扱いを受け、五百蔵のお蔭で脱したものの、諍いは拭えず流血が絶えなかった。どれほどの屍が築かれ、憎悪が産声を上げたか、軽視し過ぎであると。

 

「そもそも、お前らが樋熊(あれ)を嗾けたんじゃないのか? 俺達に選択肢を与えないように!」

 

茅は更に畳みかける。

実はもう一つ理由があった。烏天狗ならやりかねないという考えの下、茅が口にした事がそれだ。

 

「わ、私達がそのような事を出来るとお思いでっ? あの禍々しく御す事すら危うい樋熊を仕向けた、と? あり得ません!」

「本当にそう言い切れるのか?」

「ちゃんとした説明……あるよな、嬢ちゃん?」

 

ある程度嬲り弱めて選択肢を削ぐ事により、都合の良い戦力を我が方へと靡かせているのではないか。天狗なら、そんな狡賢い謀など容易いだろう、と。

誰しもが烏天狗を疑った。これは原初の頃から根付いた考えから来る当然の帰結である。

それ故に、多くの者が文を睨む。仇敵が、目の前にいる所為か、皆が殺気立っている。特に、古株の者達は射殺さんとするほどだ。

 

「確かに我ら天狗は狡猾だと自他共に思われていますが、身に余る事をする程に愚かではありません。聞けば、樋熊は狂していたと言うではありませんか。そのような輩を嗾けたとしても、我らが襲われないとは言い切れないのですよ?」

「はっ! どうだかな。実は、それが出来てしまう術がある……違うか?」

「そんな無茶な……我々の技はそこまで万能ではありません」

 

集中的に狙われる文は困り気味な態度を示す。

 

茅の指摘通り、烏天狗とて強敵との会敵を回避する或いは敵を誘導する為の“幻術”の類くらいはある。が、それは格上の樋熊に対して通用する物ではない。

元々、烏天狗は自然に生きる烏が祖先であり、自然を最大限に活かして身に着ける事こそ真骨頂たる妖怪。始まりは適度に自然を利用し、逃げに徹する事も少なからずあった。月日を重ね、妖力を使い出し、幻術―――つまるところ妖術の類が広まり浸透していったのだ。

相手を操る、ないしは誘い出して仕留める。という戦術を取るのは、刈る側でなければ成立しない。

一度会敵した劫戈自身は、樋熊には通用し得ないと試していないながら勘で悟っている。それは五百蔵も同じ筈であった。

 

(そうだ……烏天狗はそこまで万能ではない。だから集団で役割分担する事で欠点を補っている……。どうしようもない敵が現れた時は、退く事が第一だ。でなければ、ただの馬鹿でしかないから)

 

だからこそ、茅の言葉には無茶があると、そんな容易い術など無いと思えたのだ。それを証明しようにも樋熊はもう抹殺されているが、思い返せば相対した瞬間に通じる筈はないと理解出来ている。

 

しかし、それが間違っているとも言い切れない。

群れを離れていた間に、新たに生まれた術かも知れないからだ。狡猾な者ほど抜け道を造りたがる性故に、射命丸津雲或いは木皿儀日方辺りが造っていても何らおかしくない。

 

故に、劫戈には迷いが生じ、会話に飛び出せなかった。

 

(皆、怒りで見えていないのか? 五百蔵さんは気付いていないのか……!?)

 

内に焦燥が募る。

このままでは白い狼と烏天狗との軋轢は完全に悪化の兆しを見せ、いつ爪牙が振り抜かれるか解らぬ状況へと傾倒してしまう。

 

それほどまでに深くなり過ぎた。先祖が積み上げた憎しみは大きい故に。

 

「…………」

 

その憎しみを真に受けて、育っていくのは他でもない子孫らだ。

それは、白い狼の傷を知った時、榛を失った時、苦しい思いをした劫戈だから解る事だった。

 

「―――もう……いい」

 

誰かが楔にならなければ、崩れ去る明日がすぐそこにある。

そう思った劫戈の訴えは坩堝から溢れ、口から自然と出ていた。身体からは彼の悲しみを現すように妖力が漏れ出し、訴えるように震えている。

 

「もう、止めろ」

 

 

 

 

「もう止めよう。悲しい事はたくさんだ! こんな鼬ごっこをして何が楽しい!」

 

今まで黙って聞いていた劫戈の突然の発言に、呆気に取られる狼連中。そんな中、その言辞に反応した茅が険しい顔で劫戈を睨む。

 

「鼬ごっこ、だと? ……劫戈、言葉に気を付けろ。いくらお前でも……」

「なら茅! 殺されて奪われて、殺して奪って……それで子供らは喜ぶのか!? 俺達はそれで良いのか、嬉しいのか!? 相手を恨む事ばかりで、悲しんでばかりで! それで皆、心の底から笑えるのか!?」

 

我慢ならんといった劫戈は茅に詰め寄った。胸倉を掴んで怒気を孕んだ目を向ける。それだけに飽き足らず、周りを見回して叫んだ。

 

「もう沢山だろう! 遺恨を引き摺っても、憎しみや悲しみが増えていくだけだ! 皆、本当は解っている筈だろう。こんな事をしても子供らが苦しむだけだと!」

「……劫戈、お前―――」

「五百蔵さん、楫さん、斑さん。貴方達なら解っていると思っていたのに……。考えてください。このまま敵対して、最期まで殺し合って、赤子にそれを見せ続けるんですか!? 俺はそんなの御免です!」

 

灰色の隻眼が、兀然としたかのようなその場の者達を見やる。誰しもが口を噤み、各々はそれぞれの反応を見せた。

 

ある者は己の未熟さに眼を逸らし、ある者は頭を冷やして悔しげに俯き、ある者は感嘆を抱いて両目を伏せ、ある者は厳格に無表情となり、ある者は目を見張って唖然としていた。

 

一時の沈黙。

戒める時を、劫戈はただゆっくりと俟った。

 

「くっ―――」

 

その返答は、苦虫を潰したような―――ではなく、喜色を含んだ笑みだった。

 

「ふ、はっはっはっは……悪かったのう……劫戈よ。お蔭で頭を冷やせた―――もう良いじゃろうなぁ」

「五百蔵様……では?」

「うむ。楫、斑よ、お前さんらも……疲れたろう?」

「……ええ。毎度、三人分の酌を振る舞う事ばかりで、話が出来ないのは堪えます」

「若い者達だけでなく……弟に、置いていかれた事が一番堪えました」

「そうじゃ、そうじゃ……わしも……子を失い過ぎた……」

 

中核三名の眼は疲労と悲哀に満ちていた。かつての仲間、親族を脳裏に浮かべているのだろう。

劫戈と茅はただじっとそれを見て、事の結末を悟る。茅は己が浅はかだったと恥じ、劫戈は沈静化しつつある状況とこれからの事に安堵し、行く末を見守った。

情が深いと言うのは良し悪しだと漏らし、自らを嗤う五百蔵に茅はそんな事はないと頭を振る。

 

「茅よ……すまんな。お前には―――」

「いいんだ、爺さん……俺は異論ないぜ。劫戈(コイツ)にこう言われちゃ何も言えねぇよ」

「うむ……劫戈よ」

 

なんですか、と五百蔵に向き直る。

 

「お前さんの言葉、実に耳に痛かった。―――礼を言う」

「……同じ轍を踏むのは痛いんです。それが嫌だった、それだけです」

 

そう言って瞑目すると同時に妖力は霧散した。その瞬間、劫戈の後ろに苦笑する榛がいるのを、五百蔵は見た気がした。

 

「―――……! そうかい。あぁ、そうかい」

 

五百蔵は慈しむ目を向けた後、何故か委縮している文と対峙した。

 

「すまないのぅ。見苦しいところを見せたようで」

「いいえ。こちらこそ、頷きかねる内容を押し付ける形になってしまい、誠に申し訳ありませんでした」

「構わん。どちらにしろ、反発の覚悟はあったろう。だが、この劫戈に免じて了承しようと思う」

「は、その英断、感謝申し上げます。取り決めは明後日、もう一度来訪した際に話し合いの場を設けて頂きたく……」

「いいじゃろう。ただし、頭持ってこい。その時に確約しよう―――いいな?」

「承知いたしました。我らが統領―――射命丸光躬様に必ず伝えます。では、明後日に」

 

深く礼をする文を余所に、劫戈は露わになった“想い人”の名に微動した。過去の思い出が脳裏を掠めて、胸の内で万感交々到る。

 

「うむ、心得た。そちらも忙しいだろうからな、首を長くして待っとる」

「有難う御座います。我が統領も喜ぶでしょう」

 

幼い顔は年相応の明るい顔に代わり、今までの毒気が抜かれそうにもなる。姉とそっくりな面を以って笑顔を見せる文に、劫戈は将来が怖い気がすると思わざるを得なかった。

 

では、と発とうとする文は去り際に、劫戈をじっと見やって―――。

 

「ん? なんだ……」

「先程は一助となって下さり、有難う御座いました―――“お義兄様(・・・・)”」

「は……っ!?」

 

うっとりとした艶やかな笑みを向けて来た。明らかに、幼子がしていい顔ではない。

 

「いずれ、そう御呼びする日が来る事を……」

「待―――」

「では明後日、お会いしましょう」

 

と、そう残して文の姿が掻き消えた。眼で追うと、あっという間に空へ舞い上がり、烏天狗の山へと戻って行く後姿が見える。

その場には、衝撃が大き過ぎて呆然と取り残された劫戈と、後ろで腹を押さえて笑う茅がいた。

 




文は魔性、姉はその上をいく。

次回は、次回こそは早急に投稿したい……!!


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第二章・第五翼「はぐれ烏の先」

長らく、大変長らく、お待たせ致しました。

苦労しましたが、無事に執筆活動が再開出来ました。
本拙作をお読み頂いている読者の皆様、これからも何卒、宜しくお願いします。

何があったか解らない方は、活動報告の方に詳細が載っていますので御確認の程を。諸事情により少し予定より遅れてしまいましたが、無事に投稿出来て一安心です。

さて、大事な本編行きましょう。どうぞ、ご覧ください。



射命丸文は荒れている故郷へと戻っていった。それを最後まで見通した劫戈は、五百蔵に最終判断を仰いだ。

 

「わしと来い。皆を納得させる為には、今回ばかりはお前さんの言葉が要る。いい加減、現状維持は危ういからのう」

「じゃ、俺は皆を集めてくる」

 

劫戈が五百蔵の重い言葉にやや緊張する傍ら、茅は皆を集めると言い放って、幹部連中と一緒にさっさと行ってしまった。

残された劫戈と五百蔵は、伝えるべき広場に向かった。道中、劫戈は自分の感情や持論混じりに言ってしまった事もあり、不安がありありと表情に出ている。五百蔵は振り向くと、劫戈に笑みを見せた。

 

「何を不安に思う?」

「……あの、すみません。五百蔵さん。納得させる、と言っても……」

 

劫戈は歯切りが悪い。こうもトントン拍子に進んでいる事に加えて、群れの方針に関わるのは事実、初めてという事もある為だった。

烏天狗側の提案───というより懇願とも要請とも受け取れる内容だったが───に賛同を示したのは劫戈自身が先である。

憎しみや恨みの感情だけに囚われずに、子孫を存続させるにはどうすべきか。大恩ある群れのために出来る事は何かないか。

そんな考えを持つ劫戈だから、不安の募る現状が払拭出来ればと提案を呑むべきと主張したのだ。生まれる以前から樋熊と戦った時と似たような惨状が起きたと思うと、もう止めにしたかった。

 

主張したまでは良かったが、こうも重役扱いされてしまうとは困惑してしまってもおかしくはない。

 

「確かに、良い顔しない奴もいるじゃろう。しかし、このままでは良くないって事が解らんほど愚かではないぞ。わしらの群れはな」

 

心配するなと劫戈の肩を叩くのは、群れ長の五百蔵。彼はそのまま歩み出て、あっという間に集結していた白い狼達に向かって行った。

 

「……榛さんにみっともない姿を見せる訳にはいかないか」

 

白鞘を、撫でながら微笑みかけた。

 

愛情を注いでくれた義母が、きっと見ているであろうから。

 

「皆、伝える事がある───」

 

 

 

─────────

 

 

 

そうして皆に向かって。まずは同盟の受け入れを決定する旨を五百蔵が伝えた。

集められた面々は射命丸文が持ちかけた来訪と同盟への話を聞いて、疑問と困惑、怒りを露わにする。五百蔵は、彼らの言葉、思い、じっと黙って聞き及んでいた。幹部面子もまた静かに彼らの声に耳を傾ける。

 

何を今更、と。

言葉巧みに騙されるな、と。

烏を信じるなんてごめんだ、と。

 

深い軋轢から諍いが生まれ、祖父母の代から血の上に血を重ねる事が何度もあった。

 

それを耐え、それに耐えて───耐える事が日常化してしまった。

 

だからか、今の彼らは暴発一歩手前となりかけているのを劫戈は感じた。彼らは五百蔵の手前、勝手な振る舞いをしない事から、自重はしているようだが、果たしていつまで持つか解らない。

 

彼らの言い分は尤もであり、悲憤が募るばかりだった。

 

「そうじゃな。そうじゃろう……」

 

感慨深く、頷く五百蔵。

 

五百蔵も彼らと同じ苦しみを味わい、彼らの苦しみを分かち合い、共に抱えて生きて来た。五百蔵は年長者だ。他の誰よりも深い悲しみと激しい怒りを抱いたに違いない。

群れの狼達もそれを知っている。父祖たる五百蔵の長きに亘る苦しみを、彼らは傍で分かち合ってくれたからこそ知っていた。

 

この場にいる誰もがそうだった。

 

 

五百蔵の背を見やる劫戈も、自身の苦難の道筋を思い出す。木皿儀劫戈としてこの世に生を受け、ここまでやって来た道筋を。

 

 

 

幼き日、得も言われぬ理不尽を知った。最初は、解らなかった。

 

思うように狩りが出来ないからと酷い目に遭わされた。痛かった。

 

お前は弱くて使い物にならないからと恥辱を与えられた。辛かった。

 

本分を全う出来ないお前は足手纏いだからと殺されかけた。憎かった。

 

好きな娘と一緒に居るとおかしいからと恨まれて罵倒された。寂しかった。

 

優しく暖かな義母は子供の笑顔が守りたいからと自分を庇った。悲しかった。

 

感じて来た今、嫌と言うほど味わった。だから、二度と苦しみたくはなかった。

 

 

 

この世は苦しみに満ちている。

許せなかった。多くの苦しみを生み出す元凶達が。

故に抱いた、負の感情───腹の底から沸き上がる静かな憤慨を。

 

この世は苦しみに満ちていて、でも輝く太陽があった。

嬉しかった。苦痛よりも心地良いものをくれる者達がいて。

故に希った、親愛の熱───心の底から許し合える喜びと親愛を。

 

冷たく物言わぬ“世”という怪物に対し、暖かく包み込む“愛”という慕情がある。

 

苦しい事だらけだから、苦しくなくする為に暖かいものを欲して生きている。生き物なら、誰だってどんな奴だって、そうする。

人だってそうだ。敵わない強大な存在から身を守ろうと集まって、作って生み出し、工夫しながら暮らしている事が何よりの証左だ。

 

(人、も? ……ああ、そういえば人もそうだったか。妖も人も、変わらないのか……)

 

劫戈はふと、人間と妖怪があまり大差ない事に思い至った。知性があり、理性があり、感情がある。苦しい事に対して、苦しくなくする為に生きている。自然から生まれた、ただの獣ではないのだと。

 

『然り』

「───」

 

音が消え、色が失せた。

 

 

 

───◇○◇───

 

 

 

彼の見えない筈の右眼に、白い空間が入り込んだ。日差しのような眩しいそれが劫戈の視界を侵す。

 

「───」

 

突然の出来事だった。だが、劫戈は慌てる様子を見せない。

ただの変哲もない背景を見渡しているような、意識がはっきりしない虚ろなものと化していた。意図しない、想像も出来ない、不思議なものが目に映る。そこに金色の人型が現れ、劫戈の前へとふわりと漂った。

 

劫戈は絶句した。全ての雄を狂わせてしまいそうな金色の睛を持つ女性だ。

 

この場にいる者達は突如現れた金色の存在に、誰も目を向ける事無く凍り付いていた。口の動きは止まり、瞬きもなく、誰も認知していないようでもあった。

突然の事で茫然とする劫戈は自分が酔っているようなふらつきを覚えた。

 

『然り、ぞ。広い視野を持てたようで何よりだ』

「は……?」

『我が愛し仔よ……久しく見に来たが、なんとも逞しくなった。そなたの成長、嬉しく思うぞ。お蔭で届きやすくなった』

「……誰、だ?」

 

意識がぼんやりとする劫戈だったが、話し掛けられたお蔭か、反応する事が出来た。それでも動きは緩やかで、酒に酔った者を思わせる。

 

『なんと……! 今の私を認識出来るのか……いや、そうか』

「……?」

『そなたの義母のお蔭か。異種と言えど、優しい狼よ。これは良きかな、実に良きかな』

 

金色の人型は微笑み、嬉しそうな声音で一際大きい翼を労う手つきで撫でた。背から生える一対の烏天狗を象徴する黒く艶やかな翼を、誇らしそうに見やっている。

そんな金色の存在は、口調や声からして成熟した女性である。容姿は眩しくて曖昧だが、一目見れば忘れないほどの美しさ(まぶしさ)を放っていた。陳腐な言葉だが、とても美しい女性だ。

 

「誰だ……?」

『以前と違ってはっきり見えるのか。()()()()()()()()()()()()()……』

 

()()()()()()()()()劫戈は、どこか懐かしい感覚に陥る。

しかし、厳格過ぎる。荘厳な女性と言えば、実母くらいしか覚えがないがアレは刺々しい───なのに、眼前の女性はとても身近に居るように接してくる。

 

『すくすくと育っておるのは喜ばしいぞ、我が愛し仔よ。しかし……』

 

慈しむ様子の金色の女性は、微笑んでいたが、転じて悲しみの表情へと変わった。陰る彼女の顔は隠しきれない憂いがあるようだ。

 

『少し性急になってしまった事に謝罪をさせて欲しい』

「しゃ、ざい?」

『すまなんだ。本来は、もっと時間を掛けるべきなのだろうが』

「……よくわからない」

 

ぼやけた視界に映る金色の女性は意味不明な事ばかりしか言わない。半ば一方通行に感じ取れる劫戈は、自分の知らない事を知っているのではないかと咄嗟に感じた。

 

「あの、俺のなにを、知って……」

『ああ、すまぬ。そろそろ時間だ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()。せっかく順応しているのにそれを邪魔してはいかん』

「そんな……また何を言って……」

 

すまなさそうに微笑む女性は劫戈の発言を拒む。これ以上は危ないと暗に言っているようで、問答無用さを臭わせた。

 

「……俺のため、ですか?」

『然り』

「……そうですか」

 

ただ一言の肯定。

腑に落ちない劫戈だが、話を聞くには早すぎると思ってもいいのだろう。慈愛を感じ取れる以上は、身を案じている事は明白であった。

 

『ではな、愛し仔よ。次は()()()()()()()()

「ま、って……貴女はいったい……誰なん、だ?」

『私は■■■■。そなたの祖なる者よ』

 

そう言い残した女性は、金色の燐光を残しながら露と消えた。

 

 

 

───◇○◇───

 

 

 

その間、劫戈の時は停止していた。そう気付くのに、そう時間は掛からなかった。

 

(っ!? お、おれ……俺は何をしていた!?)

 

はっと我に返った。慌てて周りを見渡す劫戈だが、近くにいた茅は怪訝な視線を向けて来るだけ。

 

「馬鹿な……」

「おい、緊張してるのか? 落ち着けよ───」

 

茅が心配そうに見て来るが、それどころではない。劫戈が見渡すと先に見えた空間はどこにもなかった。

見えて聞こえる光景は、五百蔵が集まった狼達に説明をしている最中なのだ。

 

(今の遣り取りは夢ではなかった! では、なんだ。あれは、あの人は……いや、()()()()?)

 

劫戈は困惑した。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。意図的に忘れているような……。

 

(気にも留めないほどの遣り取りだった? 忘れたい内容だった? いいや、そんな筈はない! 今のは鮮明に覚えているぞ! どういう事だ!?)

 

過去にあれほどの女性との邂逅を、衝撃的な出会いを、覚えていないのはおかしい。薄い記憶であった筈はなく、記憶に残らない些事であるなど信じられない。まるで、会話もせずに柔肌を撫でた時の軽々しさだ。

 

(そう、まるで軽く触れて来たような……)

 

そう。

今回は何かが触れて来た。

 

そんな感じがした。

肉体的ではない。例えるなら、妖力のような形のない、何かが自分の意識に触れたとも受け取れる。凡愚だ、劣等と、罵られた劫戈だが、段々と自分の異常性が意識出来るようになってきていた。

そもそも何故、凡愚であった自分が得体の知れない存在と───

 

(………………いや、深く考えるのは止めよう)

 

混乱の極みに至りそうになって。ただただ、そういうものだと認識するしかない。

 

気持ちを切り替えろ。

今は、白い狼の群れが直面している危機を脱するために集中すべき時だ。五百蔵が気配を察しただろう、チラリと劫戈に視線を向けた

 

「───でな、劫戈の言を聞いて決めたのだ。こやつが言っていた事、皆も聞くと言い」

 

そこで主導権を手渡された。

下がる五百蔵に変わって劫戈がさっと前に出た。意志を確かに、胸を張って、出過ぎずに。

 

先程の慌て様はもうそこにはなかった。一礼し、皆へ向き直る。

 

「劫戈です。俺から言う事は、気付いている方は解っていると思いますが……」

 

一旦は言葉を切り、見渡して口を開く。

 

「皆の言いたい事は尤もでしょう。……烏天狗達と、今までとは違う意識を持った若手連中と手を組んでいこうと言ったのは、この俺です」

 

続けて、劫火干戈は口を開く。

 

「これ以上、遺恨は続けさせるべきではない。このままだと、俺達の子供達が今の俺達と同じ事を続ける事になります。終わらないんですよ。今までの事を、水に流せとは言いませんよ。だけど、ここで歩み寄る事をしなかったら? 他でもない自分達の子供の未来を壊す事に繋がるんです!」

 

殺し合いをいつまで続けるのか。子供達に不幸を残すのを是とするのか。劫戈は投げ掛ける。

 

 

 

 

ざわめきが起きた。疑義の視線が劫戈を貫くも、劫戈はしっかりと狼達を見て言葉を発する覚悟をした。

 

「これは、群れの未来を考えた上での結論なんだ。……正直、今のままでは群れが危ない。いくら五百蔵さんが居ても、限度がある事は明白だ。あの樋熊の事もあって、余計にそれを痛感した者はどれほどいる? このまま平穏であると思い込んでいる場合じゃない。だったら……!」

 

ここで劫戈の語句が強みを帯びた。

彼の頭の中には、彼らを説得させるとかの心配事は既になかった。どうか解って欲しいという願いから、訴えに変わっていたからだろう。

 

「他の妖怪と手を結ぶ必要がある! 幸い、力になってくれそうな者達が、俺達と手を取りたいと言ってくれた者達がいる! この機を逃したら、本当に危うい事になる!」

 

群れの面々は聞き入っていた。異種の若者がこうも、親身に語っているのを邪魔する者はいなかった。何人かは、同意を示すように頷いている。

幹部連中だけでなく茅も感嘆の様子で劫戈を見ていた。

 

「……移住なんかの細かいところは、向こう側の統領が来てから詳しく話す事になっている…………」

 

思わず身を乗り出しそうになっていた事に気付いた劫戈は、姿勢を正しながら、白い狼達を見回した。

 

「……俺は若く、生まれる前の事はあまり知りません。でも、喪う時の悔しさとか喪った時の苦しさとか、そういう気持ちは解ります」

 

沈痛な表情を見せ、己の翼に触れる。榛が自らを引き換えにして授けた恩恵は、劫戈にとって榛を喪ってまで欲しかった力ではない。

その事を悔やんでいるし、悲しんでいる。そう、皆には捉えられた。

 

「俺はそれを二度と味わいたくないし、自分の子供にそんな思いをして欲しくない。だから、もう終わりにしようと進言しました。皆さんはどうですか?」

 

劫戈の言葉が狼達に届いた。だが、黙して難しい顔をしている者だらけだ。

どれくらい経ったか、深呼吸した劫戈が集いを見渡して気持ちを持ち直した。言うべき言葉を劫戈は懇願の思いで、

 

「……どうか、ここは受け入れてください。お願いします」

 

一人頭下げた。

 

大丈夫なのかとか、信じられるのかとか、馬鹿な事を言うなとか。そういった糾弾を覚悟していた劫戈は、相手からは見えない眼を閉じて堪えていた。

 

だが。

 

(しん)

束の間の静寂が気になり、劫火干戈はゆっくりと首を上げた。

 

「……!」

 

彼は目を見張った。

そこにいる者達は、納得出来ないと言う不服そうな顔が消え失せており、安んじる場所をくれと言う気疲れしたような顔を浮かべる者が大半だった。

 

実のところ、幾人かの狼達はこの前の会議に参加せずとも優れた耳で聞き取っていた。長も幹部連中も賛同しているし、何より無事に明日を迎えられるのなら、とそう考えている者が多かった事から、介入は一切なかったのだ。

これが他種族や人間であったなら、不満が爆発してあの場に駆け付けた事だろう。

それでも大人しかったのは、偏に五百蔵が代表として怒りを見せた事が大きい。今までの恨みもあるが、元々温厚な種故の性が抑えていたというのもあった。

 

それでも生き残りの、取り残された者達の怒りは大きい

 

───が。

 

皆がこんな表情をしているのは、心に傷を負っている事が一番の理由だった。

突然現れて多くの同胞や伴侶を殺した樋熊への恨み、絶対の信頼を寄せる五百蔵すら圧倒し得る樋熊への畏れ、事が終わったからの虚脱感と喪失感、この後先を喪った者無しで明日を迎える憂い───原因を挙げればキリがなかった。

 

先程、反発の声を上げたのは不満を発散する為でもあった。本気であった訳ではない。

 

頭を上げ、内心で不安になる劫戈はもう一度、狼達を見渡した。

そして、劫戈は彼らの顔を見て、呆気に取られた。

 

「そりゃ、嫌さ。いっつも奴らの所為で……。でも、お前さんの言う事も一理ある」

「俺も父ちゃんが……。だけど、やっぱり嫌だな」

「あたしも、もう恨みっこは疲れたよ……」

「おいらもだ」

 

憤慨を見せた彼らだが、劫戈の意見を聞く事により、彼らも渋々と理解を示していき、いい加減に矛を収めよう、という意思が生まれつつあった。

 

「……お前さんがそこまで言うなら」

「あぁ、わかったよ。もう止めにする」

「これ以上、僻んでいても駄目よね……」

 

殆どが頷き、同意の声がちらほらと上がっているのを耳にした。何も異論はないと暗に伝えてくる。

五百蔵や茅は見渡すと、良かったと言わんばかりに安堵した様子だった。

 

そこで───

 

「───……な、に?」

 

空気が凍った。

 

 

 

 

 

 

群れの中に異物がいたのを、今になって五百蔵は悟った。

 

 

 

 

 

 

今更になって何を、と疑問を抱くだろう。

自他共に認める五百蔵は強者だ。狂乱なる樋熊の長兄を屠ったその実力は本物である。

だが老練な彼をして、ひやりと感じさせて、且つ思わせたのは、他でもない特殊な存在だった。

 

「皆、散れぇぇぇえええええ!!!」

 

ありったけの声量で叫ぶ五百蔵。

 

五百蔵が見つけた異物。

 

それは。

 

───()()()()()()()()()()()()()()()。五百蔵が気付けたのは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()に他ならない。

 

その異物は。

 

「な……んだ、これは……」

「どういう、ことだ!?」

 

劫戈と茅は、大慌てに散開しつつ危険から逃れる群れの狼達に交じって、信じられないものを見た。

 

異物の正体は、群れの一員だった。

 

「くっ……そんな事がありえるのか!?」

「どうしてお前が……!」

 

二人ともの心情はあり得ないの一言で、しかし認めてしまえる邪気を放ち始めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「何故だ、沙羅!?」

 

───沙羅だった。

 




長らくでした。以前投稿していた第二章・第五翼から、大幅に改訂した内容となっております。大まかなストーリーに変化はありませんが。

作者は忘れていた沙羅ちゃんをログインさせました。

近日、次話投稿予定。


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第二章・第六翼「授かりし翼は何色か」

お久しぶりでございます。

論文作成、成果なしの発表、残された僅かな時間で実験、長かった卒業。
実に多くの事があり、更にまたも休む暇もなく就業へ奔走、転居の準備……etc
生きるのは大変です。

さて、そんな作者が書くのは、烏天狗が()()()の物語。
彼の生きる道もまた大変です。

では久し振りの本編行きましょう。ちょっと長くなりましたが、どうぞ!



沙羅。

 

私は白い狼の一族。所謂、白狼の妖怪。

茅の幼馴染で、兄さんが榛さんと結ばれてからは茅と私は義兄妹の関係にあった。仲は悪くはないようだが、妹の(ひよ)を喪ってからは、日常は暗くなってしまった。それは数年経った今でも続いていたと思う。

 

最近、おかしな事が起こり出した。

 

毎夜、夢に見る。平凡な日常が邪悪な妖気を纏ったナニカに蹂躙される夢を。

 

樋熊の残した傷跡は癒えないでいる。

烏天狗に兄さんを殺されて、今度は樋熊に妹をも殺された。唯一身を寄せられる想い人()は、群れの幹部の一員となっている。直には長の補佐役か長代理を務める事になるだろうと遠目で見ていた。

段々と離れていく。彼の隣には、はぐれとなった隻眼の烏が居座っている。彼はとても稀有な妖怪で、妖怪には毒な筈の───()()()()()()()()()()()で、まったく変に見えた。でも、同時に妖怪には心地良い何かを持っている不思議な烏さんだった。

 

そんな彼を今更、憎いとは思わない。

彼の父親が兄さんを殺したとしても、憎いとは思えない。彼もまた父親に殺されかけ、大事な人と離れ離れになって、やっと助かった白い狼の群れ(私達の住処)で、無惨にも義母(榛さん)を喪った。

 

 

なんて理不尽。

 

 

私達は妖怪。人の畏れから生まれた、闇の化生だと自分達───妖怪は知っている。

だというのに、理不尽を味わっている。人が妖怪に襲われたような事を、逆に自分達が味わっている。

 

 

これはなんなの?

 

 

この身の中に現れ出でた、黒い感情? 否、靄のようなナニカは。

 

『──────』

 

言葉では表せられない、そう混沌みたいな───。

 

 

おかげで……御蔭で、痛い思いをした。死にそうになった。でもこれは、いつの事?

 

矛盾した現実()が、幻想()であって欲しいと何度も願った。

 

 

……ところがな、天は(屑野郎どもは)私達を(俺達を)知らんぷりをする(嘲笑っている)。何故なら、私達(我々)が妖怪だからだ。

 

 

なに、なんなの?

なにかが、怖いものが入ってきた気がする。

恐いよ、叫んでしまいたかった。

 

この苦痛を言えば、必ず幼馴染()は心配する。周りの子達も不安になる。

大人達にも要らぬ不安感を持たせる。そうして大事な人()は、もっと心配する。

 

今叫ぼうとしたら、出来なくなった。なんで、そんなのおかしい。

 

……おかしい(おかしくはねえ)目の前にナニカが迫る(そりゃ、オイラだぞ)

 

怖い、恐い。

振り払えれば楽かもしれなかったけれど、腕に絡みつく何かがあると思って───

 

振り向いて今すぐ手を伸ばせば、間に合うかもしれない。

でも、おかしいな。なんでだろう?

 

どうして身体が全然動かないの?

 

それに見えるものが黒い靄に見えてきて、ナニカが近寄って語り掛けて来る。嬉しそうに、ぼそぼそと呟いている。

 

『クヒャ、ハハッ……ならオイラに寄越せ、その身体』

 

思うように動かない身体。もう何も見えなくなった。

 

音も聞こえない。なんだろう、勝手に体が動いて、ナニカが膨れて飛び出した。

 

『アア、あアアアアああア、アア……気持チいイぞ!? ィいやッたァ! 外ダァ!!』

 

赤くて黒い、ナニカが胸から這い出て来た。何が何だか、解らない。見た事もないし聞いた事もないナニカが───。

 

でも、どうしてか気持ち悪さが無くなっていくのが解る。

 

少し寒くなって、瞼が重いけれど、もういいかな。

 

ああ、血がいっぱい流れ出ているのが解る。温かいのが離れていくからかな?

 

それに五体が変な方向を向いている。中身も抜け落ちて、眠いかな。

 

もう疲れた。

だれか、終わらせて。

 

 

 

助けて、兄さん。でもどこにもいない。

 

ごめんね、鵯。やっぱりどこにもいない。

 

お姉ちゃんね、もう駄目みたい。

 

……茅───話がしたいよ(まずはこいつ)会いたいよ(食っちまうか)

 

本当におかしくなっちゃったから。せめて貴方()に触れたいよ。

 

 

せめて───最期には、想い人()に。

 

 

 

 

 

 

 

……あれ。(んあ?)

 

 

 

 

 

 

おかしいな。

 

 

 

 

 

 

 

……あなたはだぁれ?(なんで、てぇめえがいる?)

 

 

 

 

 

 

 

そうなのね。

 

 

 

 

 

 

ああ、良かった。私の眼に間違いはなかった。

 

 

 

 

迷惑を掛けてごめんなさい。

 

 

 

 

───()()()()さん。

 

 

 

 

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 

 

狼達の視線を一斉に受ける彼女の表情は、能面のように虚無。それに加えて、寒気を催す邪気を放っている。

何かがあった事は明白だ。

これには茅が一番早く反応した。

 

「なんで……さっきまでいつも通りに……」

「……茅よ、お前は下がっておれ」

「爺さん……だけどよ! あれは、沙羅から溢れているものは……!」

「そんなもん解っとるわ! だから下がれと言っとるんじゃ!」

 

深刻な焦りを見せる五百蔵と茅。

それもその筈だった。親類に近しい者が、よりにもよって()()()()()()()()を放っているのだから。

沙羅から漏れ出している妖気、それに交じって黒い何かが(うごめ)いているのが見える。

 

 

「───」

 

何かが焼けるような、染み込むような不気味な音が沙羅の口から発せられる。もちろん、それは言葉ではない。

 

ぎょろり。

 

眼が動いた。茅は顔を青くしながら受け止める。

 

ギョロリ。

 

また眼が動いた。劫戈は冷や汗を流した。

 

「……い」

 

ひんやりとした声。

 

「……え?」

 

何を言っているのか、劫戈には聞き取れなかった。

だが声に当てられ、背筋が冷たくなるのが解る。隣の茅をチラリと見やれば、幼馴染の態度に思わず恐れ、どう受け取っていいのか解らず困惑していた。

 

「……ぃ……イ」

 

また。

 

「───」

 

追い打ちを掛けるように沙羅から不気味な声が響いた。何を言ったのかは解らない。

妖気が溶けだした。氷が水に変わっていくように、ドロリとした空気に変わって───いや、侵していく。

 

「───死して尚、オレの血族に宿るか。クソ樋熊」

 

尋常ではない怒気を露わにした五百蔵が妖気を漂わせて近付いていく。樋熊と殺し合った時のような言動へと豹変して。

そして、少しした所で止まる。

 

「五百蔵さん!?」

「誰も前に出るな! 呑まれるぞ…………チッ、一点に集めてこれか、化け物め」

 

大妖怪の白い妖力は邪な妖気に衝突し、ジュワッという音がしたと思うと、何度もパチパチと火が弾ける音が生じる。その異様な妖力の在り方は、見ているあるいは聞いている者達に心理的に作用した。

顔を青褪めさせて口元を押さえ込む者、目を逸らして耳を押さえ込む者、唖然としながら過呼吸に陥る者。

 

「これは……あの時の」

 

樋熊と遭遇した時の邪悪な妖気が劫戈達の視界にはっきりと見えた。

濃さが極限まで()()()妖力は、時に神力すら圧倒する事もある。質の悪い、怪物と化す事があるのだと、朧気ながら実父に教えられたのを思い出す。

 

「濃さが増している……あの樋熊はいったいなんなんだ!?」

 

劫戈の身体は終始震えている。年月を経た劫戈でさえ、樋熊の恐ろしさは十二分に覚えており、そして二度と相対したくない相手でもあった。それが、突然強大になって()()()()()()()()()。辛うじて気をしっかりと保てているのは、腰に差した愛刀(義母)のお蔭か。

五百蔵が前に出て防壁と化す今、茅はゆったりと耐えるように五百蔵の元へ歩いていく。

 

「五百蔵の……爺さん」

「なんだ」

「わりぃ、沙羅と話をさせて───」

 

茅の言に。

老練な狼は、あろう事か身内に殺意を向けた。

 

「駄目だ。もう、ありゃ手遅れだ」

「ッ!? 爺さん!」

「───お前もオレに始末されたいか?」

「な……!」

「無理だ。オレの妖力で拮抗、つっても直に超えられるだろうが……あれは樋熊の邪気だ。ずっと潜んでやがったんだ。もう心が食いつくされちまっている。楽にしてやるしかない」

「おい……。ふざけんな、なんでそうなる! どうして殺すんだよ!」

()()()()()()()()()()()()()()()()()。意味が解らないか?」

「……ッ!?」

 

五百蔵の言葉に、食い下がる茅は絶句し、その意味を()る。

 

今、以前樋熊の邪気に当てられた沙羅は、あの狂った樋熊に準ずる何かに変性しようとしている。兆候はなかったが、それが兆候でもあったのだ。潜伏し、心を徐々に浸食し、遂に今になって表へ出て来ようとしている。

 

蛹の中にいる蝶が()づるように。

 

要するに、もう亡骸に等しいのだ。中身は荒らされ、凌辱され、養分が入っているだけの入れ物と化している。

 

五百蔵の言葉はそういう意味であった。

 

茅は、崩れ落ちた。

信じられないといった顔を曝け出し、眼の焦点は合っていない。明らかに気が動転している。

 

「茅……!」

 

見かねた劫戈は茅の元へ。五百蔵に縋りつきそうになっている茅を劫戈は引き止めた。劫戈は五百蔵に顔を向けたが見向きもされない。じっと沙羅を見据えており、断腸の思いなのが伝わってくる。

 

「……もう、俺達じゃ駄目なんですか?」

「ああ」

 

淡々としていて、怒りが滲み出ている五百蔵の言葉。自分へ向けているのか、要らぬものを遺した怨敵に向けたものかは解らない。

 

(もう手遅れ……なのか?)

 

首を横に振る。下手に自分が手を出したら、拗れてしまう。

そう判断した劫戈はゆっくりと、茫然とする茅を引き摺る形で離れて行った。

 

すると、徐々に───沙羅の赤い瞳が劫戈へと動いた。片目だけだが、茅を追っているようにも見える。

 

そこでようやく、劫戈は知覚した。

 

今は亡き義母───(はる)を思い出させる赤い瞳が、劫戈の灰色の瞳を釘付けにするように映す。

 

「ぁ……」

 

()()()()()()()聴こえた。

 

肉を突き破る音と共に、鮮血を撒き散らす音と共に。

 

「アア、あアアアアああア、アア……気持チいイぞ!? ィいやッたァ! 外ダァ!!」

 

悍ましい、思い出したくもない。

でも、はっきりと覚えている。

 

憎々しい樋熊の声だ。

 

バシャリ

 

沙羅が仰向けに倒れた。

直後、華奢な身体を突き破って出て来た珍妙な赤黒い生き物───樋熊に見えるそれは、口元が愉悦に歪み、歓喜の狂声を上げた。

そんな小さな狂気の塊(樋熊)は、沙羅の胴体を突き破っていた。赤ん坊のようで赤ん坊を冒涜する生まれ方に、怒りが沸き上がる程の気味の悪さを覚えた。

人の赤ん坊ほどの大きさだ。されど樋熊の再来を意味した。

 

「貴様……オレの血族を弄ぶとはいい度胸だ!」

 

五百蔵は激昂して、襲い掛かろうとして───沙羅が奇妙な動きで立ち上がって来た。糸で引っ張られたような意志に反した動きだ。

五百蔵は訝しんだが、手刀による刺突の構えを取る。

 

「……いイのカぁ? まぁだ、助カルかもシれないンだぞぉ?」

「駄目だ! 五百蔵さ───」

 

言葉が終わる頃には、五百蔵は樋熊と一体化したと思しき沙羅の真横を通り抜ける。有無を言わさず殺し切るつもりで通り抜けるつもりだったのだろう。ほんの僅かな戸惑いから、躊躇ってしまったと見て取れる。

舌打ちと共に樋熊を睨み付けた。次いで、早く言えと催促する。

 

「キ、ヒャッハハハァ!!」

 

すると、それを好機と見た樋熊は黒い靄で辺りを包んだ。

そして顔を顰める狼の面々は、黒い靄から聞こえてくる沙羅の聲を聞いた。

 

(これは……!?)

 

 

 

天狗が来る?

天狗のところに行く?

……怖い(いイねぇ)

どうして……

天狗に?

嫌ぁ!

……殺される(楽しミだぁ)

いや、来ないで!

罠、罠なの?

……殺されちゃう(できっこねぇよ)

危ない、危ないのに

解ってる筈なのに

ねぇ、どこにいるの?

でも群れが危ないの!

……また死んでいく(くハ、気持ちいイね)

危ないから、でも

手を組まないと

鵯、どこ?

こわいよ(食っちゃる)

 

 

一気に流れ込んで来た。

 

「う───」

 

この数瞬の間、五百蔵の後ろに近かった劫戈は自分以外の黒い感情に触れて、心底苦しい顔をする。

 

感情の本流が、押し寄せて来る感覚。実際に起きている訳ではない。

劫戈は沙羅から発せられた黒い感情を()()()()()()()()()()()()()()のだ。

それだけの身の丈になった劫戈は出来てしまった。だが、自分の黒い感情ならまだしも、得体の知れない他人の黒い感情だ。

いつの間にか真正面に立つ少女は今にも折れてしまいそうで、突き飛ばせば呆気なく壊してしまえる。樋熊の攻撃すら弾いた強靭な翼で風を起こせば、切り裂かれ四散さえ出来てしまえる。

 

(茅の義妹だぞ……見殺しにしていいのか? もう、本当に助けられないのか?)

 

いっそ、楽にしてしまおうか。五百蔵は暗にそう言っているが、どうすればいいのか。

 

 

 

『───ならぬ』

 

 

 

だが、その身体(どっちつかずの身体)背負った者(背から視る者)存在(■■)が彼を踏み止まらせる。

 

あの時を思い出す。

 

───自分にとって眩しい太陽(光躬)が、手を伸ばしてくれた時の事を。

 

だから。

 

(───沙羅は……まだ救える!)

 

そう、直感的に確信した。

 

「五百蔵さん、下がって!」

「……何? 小蔵、戯言に───」

「“下がれ”と言った!」

「……ぬ、ぅ?」

 

有無を言わさぬ言葉で、無意識にて縛る。束縛を掛けられた五百蔵は、困惑を見せた。この時、劫戈には自然と出来てしまう程の気迫があった。

 

彼女はまだ救える段階にある。自分がそうだったように。

状況が二転三転し、多くの命が喪われた忌まわしい日を境に、沙羅という少女は壊れかけていたのだろう。茅が傍にいて気に掛けるべきだったろうが、生憎若手の中で最年長と言う立場にいる彼は率先して群れの立て直しに動いていた。頼りになる、支えとなる者が傍に居なくて、不安に陥り落ち掛けたと言っていい。

 

「茅、少し下がっていてくれ」

「ぁ……あ、ああ。わかった……」

 

だからこそ茅を下がらせる。これからやる事には力の抜けた彼が傍に居ては、危ないと劫戈は感じた。

 

(今の俺なら出来る! そうなんだな?)

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

そういう確信があった。

 

沙羅に向き、否───この場に集まった者達に向けて声を発する覚悟を決めた。腕を広げ、身の丈を超える大きさの翼を拡げて。

 

「五百蔵さん、どいてください」

「……な、に、を?」

 

五百蔵は背後から投げ掛けられた劫戈に困惑を隠せない。

大妖怪たる己を縛る若者がいままでどれほどいたか。恐らくいないのではないか。有頂天に達した困惑と疑問が五百蔵を動けなくさせていた

 

「……おいッ!?」

 

劫戈は前に出るなと言った境界線を意に介さず越えて行った。静止しようと声を荒げて───

 

五百蔵は瞠目し、凍り付いてしまった。

 

 

 

五百蔵は感じ取った。

 

『そうだ。届かせよ、我が仔よ』  

 

荘厳なる神性の声。主は、女だ。されども、どの体系かは解らない。

五百蔵は確かにその声と、神性を垣間見た。金色の大きな翼、輝く宝玉、母性溢れる美貌の女神。

 

―――我は辿り着く―――

 

―――(いのり)を画き―――

 

劫戈は祝詞を続ける。言葉を発するが、別人が言い放っているようにも見える。

口が勝手に動いている気がするも、かつての無意識下とは違い、自分の意識下で言葉を投げ掛ける。沙羅が半分(うわ)(そら)でも祝詞を重ねた。

 

―――想いを繋ぎ―――

 

―――祝詞を詠い―――

 

―――終を告げる―――

 

―――(オン)迦楼羅那(ガルダヤ)蘇婆訶(ソワカ)―――

 

 

 

其れは、偉大なる鴻鵠。邪悪を討滅する事を約束する、強く在りし聖なる鳳凰を示す真言。

 

地上全ての鳥類の祖にして、烏天狗の祖先にあたる神格。

 

その祝詞が示す力は妖怪が持ち得る“御業”の類とは別格。明確な神性によるものを由来とする絶技だった。

 

「なんダ、なんナンだ! なンでぇ、てめエェはぁ邪魔をスるンだァァぁ……────」

 

樋熊は消し飛んだ。たったそれだけの事で。

五百蔵すら震撼させた強大な狂気の塊を、百も生きていない若造が消し飛ばした。

 

 

言葉だけの浄化を齎す。それはかつて騒ぎを鎮めたものと同じ言動。

非常に妙で、形容し難い言辞。何もかも受け入れたような情の深いもの。悟った者が発するような、落ち着き払ったもの。

 

「沙羅。ここに……」

 

差し出された劫戈の掌中には、何があったのか。それは沙羅にしか解らず、確かに存在していたのだろう。

 

食い入るように見入る沙羅の瞳が揺れ動く。その様子を見ていた茅は何がどうなっているんだという心境で何も見えず怪訝になるが、彼女からははっきりと見えているのだろう。

 

「以前、君は俺に言ったね。“闇であって、闇を否定出来る者”と」

「ぁ……あ……あれ?」

 

 

 

───お姉ちゃん、もう大丈夫だから。

 

 

 

「……鵯?」

 

 

 

 

瞬間、フ───と()()()()が翼から放たれた。

光が晴れると、沙羅の眼から濁りが消えた。と、共に意識が掻き消える。

 

「お、おい!」

 

慌てて、唖然と見ていた五百蔵が受け止めに入った。不思議な事に、沙羅は五体満足で先の鮮血が嘘のように無くなっていた。

見渡せば、集まった者の何名かが力無く倒れているではないか。他に居た者はまるで寝起きのように瞼をパチパチとさせ、眼を擦っている。

 

「ふぅ……」

 

その場に座り込む劫戈は、滂沱(ぼうだ)の如き汗を流す。翼を団扇代わりにし、ぐったりとした。

やりきった風に疲れを癒す劫戈は、確信とまでは行かないが納得した表情で己の掌を見やった。

 

(そうか……俺は。だが妖怪……で合っているのか?)

 

今まで普通とは言い難い妖怪としての在り方に疑問が湧くが、半分ほど自然と、()()()()()()()と受け入れてしまっている己がいた。戸惑いなのか、安心なのかさえも解らない。

ただ、自分はこういう妖怪なのだという漠然とした事しか解らないのだ。

 

沙羅がかつて言った───“闇であって、闇を否定出来る者”とは、樋熊を例とした狂気に彩られた者を()()()()()()()()()()()なのかもしれない。

 

云々と思考の渦に入り込む劫戈だが、片足を突っ込んだところで脳天に拳を受けた。

 

「ぃだッ!?」

「おいこら! 勝手に終わらすな!」

 

見事に中心点へと入った苦痛に激しく顔を歪める劫戈に声を荒げて問いかける五百蔵。

 

「お前さん、いったい何をした!?」

「え、ぇ? ああ、いえ。邪気を祓い、ました」

「祓った、じゃと…………そうか。やはり、あの時見えたのは───」

 

「待ってくれよ! ど、どういう事だよ! あの邪気を祓う!? お前本当に妖怪か!?」

 

劫戈がさらっと言い放つと、五百蔵は神妙に頷き、事態に付いて行けなくなっていた茅は鋭い剣幕で詰め寄った。

本人としては己が何をしたのかは解っているので話すが、己の正体がよく解らなかった旨を頭に残していた。

だが、正体は不明でもある程度察する事は出来た。

 

「妖怪……でいいのかは、はっきりは解らない。けど、今のではっきりした。俺は半分妖怪なんだと思う。もう半分は……」

「…………」

 

肩の荷が下りたように言う劫戈に、茅は安んずるべきか呆れるべきか怒るべきか、複雑な気持ちになる。おっかなびっくりの劫戈は事の説明をした。

 

茅はこれで何度目になるか解らない複雑な思いに支配された。

 

幼馴染がいつの間にか不穏な感情を抱いていた事、それに気付けないほど群れ全体しか見ていなかった事も含め、弟分が何かを決意したように翼を拡げたらとんでもない事が起きたのだから。

 

銀色の何かが湧きだしたと思ったら、自然と不思議な事が出来た。

 

例えるなら───白銀の涅槃(ねはん)

 

その場が涅槃になったかのようだった。あらゆる雑念を吹き消したような空間とでも言えようか。

その中で、嫌悪感が込み上げる音が消え、澱んだ空気が澄み渡っていく。枯れた草木が息を吹き返したかの如く、普遍に広がった温かさが降りて来たようだった。

 

「そういう事もあり得るのかのぅ。……劫戈よ。お前さんは……神格の愛し仔だな」

「ど、どういう事だよ……爺さん?」

「先祖返りか、あるいは神に祝福されて生まれたか。稀有なものじゃぁ」

「は、はぁ?」

 

五百蔵は、厳しい顔で思案する。ジッと劫戈の隻眼を見通そうとしている。

 

「こ、今回はここ一帯の邪気を全て祓いました。何人か倒れたのは、その人達にも巣くっていたからだと……直感的にですがそう思います」

「ほう」

 

二人の遣り取りも聞いた茅は、前にもこんな事があったなぁ、と内心で語った。

 

「……不思議な奴だよな、お前は」

 

その茅の言辞は推し量れない感情が秘められていた。

 

「やっぱり……そう、なんだよなぁ」

「まあ、助かった事は確かだ。ありがとう」

「でも、こういう事が出来る妖怪って……ある意味、これは気味が悪いって事、なんだよな」

 

自嘲気味に俯く劫戈は、狼達を救ったと言うのに、歯切れが悪い。対する茅は先と打って変わって、明るく感謝の言葉を述べる。切り替えの良さは、誰かさんのお蔭で慣れてしまったようだ。

 

「そうかも知れんがよ。本当にそうとは限らねぇぞ」

「俺自身、よく解らないし……」

 

余念を振り払うようにガシガシと頭を乱暴に掻き、茅は周囲を見渡す。

 

「あーあぁ……」

「……これでは、しばらくは無理じゃなぁ」

 

意識がなく倒れた者、ぼーっとしている者、何が何だか解らず困惑する者。

 

混沌図が出来ていた。これでは当初の目的が果たせない。

邪気を祓ったはいいが、この有様だ。こんなことになるとは、誰が予想出来ようか。

 

三人は深い溜息を吐いた。

張りつめていた緊張は、もう既に霧散して存在しなかった。

 

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 

銀色の光が視界の端から入り込んだという事実。

昼間だと言うのに、視界が真っ白になる感覚。一瞬だけでも少し離れているのに凄まじいものであった。

 

あれから少し経って。

 

事の発端を五百蔵(いおろい)(いさ)は事を終えてから話し合っていた。千里眼で注視していなくても、劫戈から銀色の光が溢れたのを見ていた。

 

「五百蔵様……やはり彼は」

「然りだ、斑よ。あの子は神の愛し仔、つまりは“神憑(かみつ)き”じゃろうな。それもただの神憑きではない」

 

普段なら落ち着きを見せる斑だが、この時は声に焦りのようなものが混じっている。対し、彼の老爺が神妙に答えた。

 

彼の言う“神憑き”とは。

魑魅(ちみ)魍魎(もうりょう)(ひし)めくこの世には、主に人や物に()りつくものがいる。八百万の神のような霊体であったり、呪詛が積み重なって生まれた怨霊であったり、妖怪に乗り移られたりと、多くある事象の中で被る側の者を指すのが“憑き物”。

基本的に憑かれた者は大変な目に遭う。呪われ落命したり、死ぬまで言いなりになったりと様々である。

 

そんな憑き者の中でも特別なのが、“神憑き”である。

神霊の類───しかも名のある神に憑かれるのだ。憑かれると言っても、乗り移る、呪われる、加護を受ける、といったと様々な例がある。それだけで、尋常ではない恩恵と代償を強いる。

 

どちらにしろ、多くの視点から見ても碌な目には遭わないのだ。

 

五百蔵の言葉に、斑は怪訝な顔になる。皺が増え、ますますおかしいと口を開く。

 

「普通の類ではないと? そうは言いましても、妖怪の身でそうなっているのは明らかに異常です」

「うむ。劫戈は妖怪じゃぁ、それはそうとも。じゃが、相反する神気を持ち得ておる。あの祝詞を聞く限り、……鳥の神格じゃろうな」

 

妖怪でありながら神聖さを持ち、鳥の神格と繋がっている。

妖怪にとって神聖なものは猛毒である。だが、彼自身はケロッとしており、故に神に愛されていると表現された。

その証拠に、ある事が想起された。

 

「偶然とはいえ、幼子が日方(大妖怪)の一撃を受けて死なぬとは思えんからな」

 

それは尤もな証左足り得た。

 

「それに……」

 

五百蔵の脳裏には、初めて出会った血まみれの幼子の姿が蘇る。

死んでいる───そう思ってもおかしくはなかった。ただし、千里眼を使わなくともまだ息がある、生きていける、と根拠のない確信めいた何かが湧いたのだ。

 

だが、疑問が残る。斑はすぐに問う。

 

「本来の神憑きは人が成るものではないですか。妖怪など邪悪な生き物と淘汰される側にある筈。それに神気を帯びるなどと……我々には猛毒でしかないというのに」

「そう、その通りじゃぁ。じゃから、()()()()()()()()()この世を探しても片手で数えるほど稀じゃろう。妖怪が余程の事がなければ神に手を付けられるなどあり得ぬじゃろうて」

 

実際、劫戈は生きており、邪気を祓うなどという妖怪の領域を完全に無視した行為を披露した。今度は、明確に。

神憑きと思わない方がおかしい。五百蔵の知見の下で、断定されたも同然だ。

 

「偶然生まれた……とは言い難い。恐らく、何かしら望まれたんじゃろう。烏どもには解り得ぬほどのものを」

「となると、烏に連なる神に……何を望まれたとお思いです?」

「解らん。わしは元々この国の生まれではないからな……。そもそも神話のやりとりは首を突っ込まん主義じゃぁ。こちらで住まわせて貰っているのも、天照に許しを得ているからでもある。劫戈があのような事をしてしまったが、未だに音沙汰なしという事は()()()()()なのじゃろう」

 

まだ全貌は解らないが、関与している神々はきっと劫戈の存在を知っている。

そして邪魔する気もない。すくすくと育つのを待っていると見ていいだろう。

 

木皿儀劫戈は神憑きである。

彼が妖力を最低限しか持ち得ない理由は、その神聖さが相殺していたからだ。しかも持ち得るのは神力ではなく、()()だ。

古来より妖魔を祓う力である霊力と、恐れを撒いて怪を成す妖の証たる妖力の双方を持っている。普段は榛により後押しされた妖力が彼の妖怪としての力を振るうが、時に退魔の力として霊力を振るう事が可能と言う事になる。

なんという特異個体。稀有中の稀有だ。

 

「日方はこれを知っていたのか。今や、訊けぬが気になるなぁ」

「彼の木皿儀日方に見る目がなかったという事でしょう。彼は本来なら猛毒となる力で私達を救ってくれました。そんな子を受け入れてあげられなくては、大人が廃るというものですよ」

 

と、話を区切って斑が感嘆を込めて五百蔵を見る。申し訳なさが溢れているのが解った。

 

「……今回の件は、私共の落ち度。いかようにも……」

「罰するも何も。わしは殺す事しか考えられんかった。じゃからよ。誰も責められん」

「長を責めるなど致しません。ですが……今後はもっと注意しないとなりませんね。皆が、一人一人」

「本当にそうじゃなぁ……」

 

すまんのぅ、と頭を下げるやり取りは、疲れ切った老夫婦にも見えた。そんな関係ではないのだが、この群れは誰しもが、仲が良い事の証だろう。

 

そこで、ふう、と互いに息を吐いた。その息には、疲れやら愁いやら多くのものが混じっていた。

五百蔵は、徐に空を見る。澄み渡った昼の空だ。

 

 

 

「神が介入するという事は……何も気にするなという事か。それとも汝は渦中にあれという事か?」

 

 

 

その呟きは、そよ風に乗って消えて行った。何事もなかったかのように、風に乗って無になる。

 

 

───彼の者は、妖怪でありながら、神に許された愛し仔、之即ち、銀翼の烏也。




遅くなりましたが、劫戈が一体何者か。解って頂けたかと思います。
神格の正体はぶっちゃけ、作中の祝詞に答えがあります。よく解らない方は調べてくださればよろしいかと思います。

今更ながらハーメルンに斜体とか右寄せとかこんな文章機能があったんですね。ルビを振るか傍点くらいしか使っていなかったから、新しい試みでちょっと斬新な気持ちで満たされていました。

次投降するのは、転居して、ネット環境を整えて、仕事に慣れて、執筆してからになります。
それまで、皆様もお元気で!


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幕間 其の二

最新話は幕間その二です。必要と感じて投稿。
作者の動向は活動報告にて。



 

木皿儀(きさらぎ)巳利(みとし)は、苛立っていた。

 

これまでの所業に関して。

 

豪族を模した邸宅は悉く燃やされ没したという。今までの思い入れを無にするかのように。

 

栄華を極めんとした有力者の家々は全てこうなっている。昼夜問わず山を覆い尽くす喧騒と戦乱の気配が木霊する中で、彼はその光景を、悲憤を込めて見ていた。

 

目に焼き付けねばならないと本能的に感じた。この“火”は、ただの火ではないと。

 

それも数瞬、ただちに行動に移す。忙しなく潰走する同胞達を先に行かせ、燃える屋内で傍に転がっている遺体に向き合った。

重傷を負い意識を失った父・日方を抱えながら、切り刻まれ事切れた母の髪を一房、形見として懐に仕舞う。

 

父の伝って流れる血と母の撒き散った血と、自分から零れる血とで解らなくなる。

 

 

木皿儀巳利は、心底、苛立っていた。

でも、頭は冷静に行動出来ているのは彼が優秀な証だ。故郷を背に飛び立ち、脳裏にもう戻れないと思いながら、今後の動向を思案した。

 

 

 

「……くそっ!」

 

どうして、我々はこんな屈辱を味わっている。

 

そう思ったところで。ああ、そうか、とすぐに答えが出た。

 

思い返せば、実に忌々しい事に、血の繋がった兄がいると認識した時から始まった事だったか。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

父・日方の威光が届いている烏天狗の群衆は彼の血筋を敬い、同時に今にも追い越さんと競争していたからか時折、やっかみを受ける事も少なくなかった。烏から陰口をこっそり聞いたのは一度や二度ではない。

 

自分には由緒ある強者の血族としての誇りがある。彼の射命丸という長の家系に並び立つ、大妖怪の血が流れているのだ。

多少の憎まれ口は堪えよう。愚痴しか言えない者をいちいち相手にしていられない。父がそうしたように、強者の余裕は崩さないようにしてきた。

 

 

だが、身内の汚点はどうしても許容出来ないし、庇おうとは思えなかった。

 

 

実兄・劫戈。

 

愚兄賢弟という構図が出来た。

 

最初は凡愚なりに努力していると思っていた。しかし年月を経る毎に、呆れと諦めが膨れるようになった。

烏天狗一族の面汚し。生まれてくる事を間違えた異物。

実力主義に強く影響された木皿儀家に生まれた筈なのに、優秀な親から血を授かったのに、どういう訳か非才にも程がある凡愚の体を晒した。

烏天狗の証たる黒い羽根は誰よりも一回り小さく、そして長距離飛行が出来ないという愚劣。

妖力はそこら辺の妖獣以下とまで形容出来る少なさ。下っ端の烏と間違える程ではないかとまで嗤われる始末。どれほど教え込んでも妖力の扱いが満足に出来ず、同年代からは蔑視され続ける体たらく。

 

その反動故か、両親からの教育は厳しいものであった。前例があるのだから当然だろう。

だが、その期待に応えて見せたのは自分が“本物”の烏天狗だからだと自負出来る。与えられた血を余す事無く使い、研鑽し続けたのだから当然と言える。

同年代でも抜きん出た才能を自分でも感じる。妖怪としての強さは言うまでもなく、烏天狗としての在り方にも気を使い身に染み込ませて来たのは間違いではない。

父と母も褒めてくれたし、偉大な津雲殿も賛美してくれた事は印象強い事だ。

 

 

 

そんな、ある時。

 

 

 

兄が、光躬様と友と呼べる関係になった。烏の姫と呼ばれる御方と。

 

そんな馬鹿な、と一笑したが、それは信じがたい事に事実であった。

 

───そう、あって、欲しくなかった。

 

あの笑顔の眩しい御方に、何故凡愚が取り付いたのか。未だに解らない。

絆されでもしたのか、何か他者に言えないような弱みを握られたのか。彼女に会える時は限られると言うのに、触れ合えるまでの仲にまでなっていた事は、吐き気を覚えた。遣わせた烏に八つ当たりしそうになった程だ。

 

認めたくない。

どうして、あのような醜い搾り滓のような塵に……!

身内だから解る、あの汚い天狗擬きに、どうして我らの“太陽”を……!

 

こっそり会い、談笑する姿は、異性としては、実兄にしか向けられない。

 

何故だ。困惑が心を支配し、その日は鍛錬に集中出来なかった。

 

 

 

不要。

遂に、そう断じて追放を言い渡された兄。

 

縋るような目を向けて来たが、ずっと言ってやりたかった言葉を吐き出した。今まで誰がお前の尻拭いをやって来たと思っている。下々の連中に顔を出し、信用を失わないように振る舞い、団結力を確かなものにしてきたんだ。

いい加減、邪魔で堪らなかった。出来ないのなら出来ない者なりに、さっさと身を引いて失せて欲しかった。

 

すると、奇声を上げて逃げて行った。なんなのだ、あれは。

 

それ以降は、誰もが自分だけを見るようになった。木皿儀日方の子息は、巳利であると。

嗚呼、そうだ。異物はいなくていい、いてはならないのだ。優秀な一族の中に生まれた木偶は消え去る運命にある。秀才の足を引っ張るのはいつだって凡愚であり、望まぬ邪魔ばかりするのだから。

 

ゆくゆくは群れの将来を任せられるだろうと目されるようにもなった。光躬様との婚約を視野に入れるという。

 

それを聞いて、心の臓が止まってしまうのではないかと思った。

恐れ多い、しかしそれ以上に心が歓喜で激震した。生まれて初めて、暖かな感情を持てたかもしれない。

群れの為に報いんとして一層の努力を誓い、結ばれた暁には必ずや幸せを作ろうと躍起になった。

 

 

 

なった。

 

 

 

なった、のに。

 

 

 

なのに、光躬様は未だにあの男を忘れられない様子だった。

 

あの一見以来、宴の席での笑顔は張り付けたようで瞳は何も見ていないように冷たい。満足に会話も弾まない。素の笑みを向けるのは父親の空将殿か妹君の文殿くらいだった。

 

どうしても、納得がいかない。あの凡愚は消え去った筈なのに。

なぜ、光躬様は輝かないのだ。なぜ、あの男の話題に触れると美顔が曇るのだ。

 

どうして。

 

あの男の所為なのか。

 

それとも僕の所為なのか。

 

解らない、彼女の心が解らなくてどうしたらいいのかも解らない。

それとなく聞いても、彼女はあの男しか見ていない。話題を作ろうにも、興味なさそうに聞き流される。

 

幼き時分、兄の出来ない分を自分が背負って熟す父からの教育に、根負けしそうになって落ち込んでいた時。

優しく声を掛けて励ましてくれたあの日、眩しい笑顔を見せてくれたあの頃には戻って下さらない。

 

恋心を自覚したのは、それから暫くして。まだ子供だったと言う事もあってか、よく解らなかったのだ。

上下関係があったとはいえ、兄よりも先に出会ったと言うのに、冷たい眼を向けられる事が心に刺さった。

 

光躬様は僕を見てくれるが、僕自身を見てはくれない。

 

それから暫くして、強大な邪気を感じ、総出で山の警戒に当たった。隣の白い狼の縄張りに行き着き、血の匂いが流れてからの大轟音の後、白い狼の妖気が薄れると共に不穏な妖気はすぐに収まったようで、特にこれといった動きはなかった。邪気の類はすぐに鎮圧されたとみるべきだろう。

今こそ白い狼連中を討つ好機ではないかと群れの中で声が上がったが、今の白い狼連中と事を構える事は、死中に活路を見出し凶暴化した得物を追うようなものと空将殿に止められていた。同感である。あの名高い五百蔵を相手にするのは津雲殿か空将殿、そして父上と母上以外に出来ない。一応、若手集を率いて警戒すべく動き回る事になった。

何やら文殿が慌てて様子見に向かったが無視した。自分は立場ある身だ、やるべき事以外に干渉すべきではないだろう。

 

 

 

 

 

そうして、光躬様との仲は一向に進歩せず、数年が続いた。

 

天狗が栄華を誇る日は近い。未だ発展途上なのは現状を見るに明らかだ。だが、その事を話すと空将殿はいい顔をしない。烏天狗の一族は充分に勢力と呼べる存在だ。かつての敵対勢力との抗争を鑑みると、当時よりも強大になりつつあると父上は言う。

最近になって群れの中で津雲殿の方針に不満を持つ者達が表立つようになり、日常会話ですら何かしら意見衝突しているのを見かけるようになった。明らかに軋轢が生じていると、父上は嘆いていた。

 

光躬様は積極的に動くようになった。が、津雲殿の意に反しての行動が目立ち、空将殿が中立で押し留めているように見える。

なんでも、光躬様は意識改革をすると言いだしたのだという。

訊くところによると、今の群れは逆に勢力としての程度が低いのだとか。弱者を純粋な戦闘力で測るのではなく別の方面で鍛え存続させれば、他種族との衝突にも備えられるだけでなく今まで得られなかった未知の技量を習得出来るだろうと訴えていた。弱者を排斥すればするほど、群れの数は増え辛くなり、群れの下地を支えるに徹する者がいなくなるとも。

要は、弱者を切り捨てずに残して強者弱者問わずに役割分担を徹底すれば、最終的に群れとしての力は増すという事だ。

 

解らない訳ではない。

 

確かに、このところ北の勢力が挑発するように間者を差し向けて来ている。その対処に向かっているのは実力ある者だが、先輩方が時折翻弄されている感覚が拭えないと口々に漏らしているのを聞いていた。

群れへの危機だと思う。烏天狗は強いという認識を持たれているが故に、真正面から戦わないという考えが生まれつつあるのだろう。我々もそうならなくてはならないだろう。相手よりも狡猾で厄介な存在に。

 

ただ武技を身に付ければいいのではない。知力をもっと備えるべきなのだ。

 

解っている。

 

 

 

解っている、が。

 

 

 

その行動の根本が、あの男への恋慕だと知っている以上は、どうしても認められない。

 

津雲殿や父上を筆頭とする、烏天狗の伝統を不動とする派閥───旧来派。

光躬様や空将殿を筆頭とする、その伝統を作り変えて意識改革を謳う派閥───改革派。

 

この二つの派閥による対立が確固たるものになった。

 

群れの中で排斥されつつある伝統不変を掲げる旧来派の現状。増える若輩達が、指揮を執る光躬様へ傾倒していく。その美貌、時に見せる上に立つ者が持つ威厳、下に付く者達への配慮。どれをとっても我々にはないものだ。

津雲殿や父は説得を試みるも、悉く空振りに終わる。まるで()()()()()()()()()()()()

 

光躬様は、あの男を奪った父とその一派を恨んでいて、きった排斥したいのだ。日々の言動の節々からそう感じられるのが解る。

 

その中には、僕も含まれているのだろう。

 

悔しいし、悲しい。

 

もう、笑顔を見せるどころか、振り向いてはくれないのか。

 

 

 

 

 

落胆が心を占めるかのように雪が降りしきる夜、それは起きた。

 

 

 

 

 

急速に膨れ上がる悪寒が、我が身を襲った。

 

夜間の奇襲。すぐに風の牆壁を張り、家を防護する。父から教わった基礎の技は、我が意思の元に風を支配下に置ける。

 

襲って来たのは年配の烏天狗達だった。皆が、ただ役目を熟そうとする淡々とした眼をしていた。最早、敵対する派閥は眼中にないと言う事か、将来への取り組みでも考えているのか。

 

だが、簡単にやられはしない。父も母も、大妖怪に片脚を踏み入れる実力者。

 

しかし、今は寝起きで初動が隙だらけだ。そこへ空将殿が目にも止まらぬ一番槍を入れてきた。

 

一点突破は容易く防壁を貫き、家を内側から崩壊させ、更には妖術で火を起こした。長らく戦いに参加しなかった母が真っ先に狙われたのだと気付く。腕や感覚が鈍る者が狙われて当然だった。

これによって父上と取っ組み合いになって出て来た空将殿は、その身を返り血で汚していた。誰の者かは匂いですぐに解った。慢心が招いた失態だ。

 

間もなく援軍が来た。古参の烏天狗、父と結束の強い者達だ。対峙する先輩方数人を押し退け、他の若手連中と合流する。その中で、帰る場所は軒並み燃やされ、そして行き場を失いながら孤立している同じ旧来派を助けて回っているという。

 

そこへ。

 

一吹きの風が鳴った。

 

鮮血が舞う。振り向くと、かつて仰ぎ見た太陽がいた。どこかで見ていると思ったが、直接来るとは。

 

されど今や、可憐な美貌の中に黒い炎を隠す物の怪だ。微笑んで佇むだけなのに、首筋に手刀を添えられている感覚がする。

 

先程まで言葉を交わした数人は細切れにされていた。父も背後からの不意打ちを受け、更には正面から圧倒され、致命傷を受けてしまった。僕の傍へ蹴り飛ばされて気を失ってしまう。

 

「……父上……っ!? 光躬さ───」

「巳利、群れに尽くそうとした貴方の姿勢に免じて命までは取りません。早急に去りなさい。邪魔立てするならば殺しますが」

「……なぜ……何故、ここまでするのですか!? 光躬様! 津雲殿も父上も話し合いで解決しようとしていたではありませんかっ!」

「だから、どうしたのかしら? 馬鹿馬鹿しい」

「は……なにを……」

「貴方達は嗤ったでしょう? 彼を」

 

彼、とは間違いなくあの男だ。言われて、言い返せなかった。事実、幼い頃に虚仮にして、成長して尚も罵倒した事もあったから。

 

「居ない方が良い、邪魔で仕方ない、だから居なくなって清々した。───とっても心地良かった。ね? そうでしょう?」

 

凍り付いた笑みを向けて来る。その美貌に相まって恐ろしく感じた。

 

「私は心底恨んでいるの、貴方達を。どうして、と。毎夜自分に問いかけるの。どうしてあの時、劫戈を助けられなかったのか。どうして彼を迎え入れてくれる群れがないのか。どうして、どうしてと……」

 

今にも泣きそうな顔を見せる光躬様。今までそんな顔は見た事がなかっただけに驚いて、彼女が常に隠していた本当の感情を再認識出来た。

 

「巳利。貴方は私を好いていたのでしょうけど、終ぞ私を見てくれなかったわね」

「え……そんな、ことは……」

「気付いてなかったの? いつも私の眼を見ないで、視線も定まらない。幼い故に照れていたのでしょうけど、今やその視線は下心が多い。そして何か話したかと思えば、自慢話や群れの事ばかり……一切、私の事について訊いてこなかったわね」

「ぁっ……そ、それは……」

 

違うと言いたかったが、光躬様の言葉に嘘はない。思い返してみれば、自分に非があったのは事実だ。

見惚れて間違いはない美貌の少女と対面して、心が浮つかない方がおかしい。それでも光躬様からすれば不快極まりなかったのだろう。

結局、自分は幼いままだったのだ。大人の言いなりになって、自分が可愛いだけだった。

 

「無意識というのはね、心が常にそうあるようにしているから勝手にそうするものなのよ」

「……ぅっ」

 

弾んだ声、満面の笑み。誰もが眼にしたいと思うその美貌は───本気の殺意で溢れていた。

 

「彼を嗤わないだなんて……今後そうしないと、どうして言い切れるのかしら?」

 

嗚呼、光躬様。あなたは変わってしまわれたのではなく、僕が変えてしまったのか。

 

「私が話し合い如きで許すと思ったの? 思い上がるな、塵芥共……!」

 

 

 

 

 

 

 

 

「命は奪わないけれど、苦しんで死になさい。私が、黄泉に送られるまで呪ってあげます」

 

 

 

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……退け!」

 

何も言い返せず、そう指示するのが精一杯だった。

そうして生き残った一同は潰走するに至った。皆、悔やむ表情だが、父上が重傷を負った以上はそれも已む無し。寧ろ、空将殿と光躬様がいる時点で真正面から挑んでも勝ち目はない事は明らかだった。

 

目に映った火は、訣別の“火”と感じた。光躬様の冷たい瞳に隠れた憎悪の火の発露。

 

そうさせたのは我々。

 

しかし、それでもあの男だけは認めたくない。

 

頬を切る風が冷たく感じる一方で、腹の中に溜め込んだ憎悪は熱く滾っている。

 

「許さん……」

 

解っていても、それでもあの男を恨まなければ、今までの苦労が無駄になってしまう。

 

「……許さんぞ、屑が……死者がいつまでも光躬様の心を奪うな……!」

 

憎きあの男、劫戈さえいなければ。

あの凡愚極まる実兄さえいなければ。

 

取り戻せない時間、過去、幼き想い。

 

全部、奪われた気分だった。

 

「絶対に許さん……劫戈ァ……」

 

死者には言葉も掛けられない。やり場のない怒りを押し留めながら呪詛を吐くしか出来ない。

 

「光躬様……僕は……く、フハハ───あ、あぁ……何をやっているんだろうな、僕は」

 

光躬様にも愛憎を向けかけるも、頭を振る。愛を向けても、もう届かぬと知った。

そうだ、今はそれどころではない。改革派を名乗る連中に奇襲を受けた。論争を超え、遂に武力行使に出た。

別に予測出来なかった訳ではない。だが、やはり対立したくない人と対峙するのは、干戈を引っ込めたくなる“想い”があった。

 

本当は、言葉で解り合いたかった。

 

しかし、一方的な愛は、別方向の愛を跳ね除けてしまうもの。

言葉は届かず、傷付ける事も躊躇い、心と命を削るだけに終わった。

 

「……おのれ」

 

風を切り、空を舞う。白んだ虚空を睨む事しか出来なかった。

 




当初、悪い奴の印象が強かった巳利君。横恋慕の経験がある作者からすれば共感出来てしまう人物です。
経験を活かし、一日で書き上げてしまった。経験ってすげーな。
書いてて思ったのですが、こういうのはめっちゃ早く書けてしまうという……orz
あれ、王道な恋愛物とかやった方が上手く書けるんじゃね……? いや、この病んでいそうなヒロインみたいにはならないですよ。ええ、ヤンデレはトラウマなんです、実は。ただ本気で怒ったヒロインが一時的にヤンデレっぽくなるのはのは例外です。



ん? そういう作者の恋愛事情はどうしたかって?
作者は身を引きましたよ、ええ。相手はレベルが高すぎた、追い付く頃には手遅れですね。寧ろ、それで良かったのです。
現実の三角関係は駄目。特に親しい関係だったら尚更、下手すると修復出来なくなる傷を負うし負わせてしまいます。

別れ際の言葉は反則でした。ほんと、恋って悲しいね。



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第二章・第七翼「旭への追風」

前書きに長々と書くのは、邪魔になりそうなので後書きで。


遂に時が来た。

 

 

 

 

 

 

親しい者を喪い、もう何度目か解らない払暁。

 

顔を出した太陽を見る度に、脳裏に焼き付いた人物達の顔が浮かんで来る。白い狼の群れ、その若手最有力の二人は揃って差し込む日を見ていた。

差し込む日が墓石へと差し込み、暗みのあった二人の顔を照らしていく。

 

「なあ、茅。誰もが朝に目を覚ますように、永眠した者も目を覚まさないかと思ってしまうのは、残された者の我が儘だろうか」

「いいや……我が儘じゃない。けどよ、死をなかった事にしたくてもそれは出来ない。そんな事をしたら、衆生とは言えんだろうよ。“お天道様の下で生まれた生き物なら、妖怪であろうが死ぬ事は必然だ”……俺はそう爺さんに教えられた」

「……そうか」

 

今日までにどれほどの痛みを抱えて、耐え忍んで来ただろうか。

 

憂い顔の劫戈は、視線を下へ戻す。そこには墓石と布に丁寧に包まれたもの(・・)があった。

昨日の夜から掘り返し、一人一人の遺骨をまとめる作業を手伝っていたのだ。白い狼の群れの故郷とも言える場所に別れを告げねばならない故に、眠る者を置いて行く訳にはいかない。

二人がやったのは墓荒らしではない。一緒に連れて行く為に一人一人拵えた。

それらを終え、しばしの休憩しているところだ。二人は太陽が昇る様子を見つめながら、過去を振り返る。

 

「……俺は後悔している。他に樋熊達(あんな奴ら)を斃せる力があった筈だ、もっと何か出来たんじゃないか……って」

「俺だって同じだ。姉さんが死んだ時、お前が死なせたと思った。だが、よくよく考えて見りゃ、あの時、俺らは何も出来ていなかったってな……俺は樋熊相手ばかりで碌に何も出来ちゃいなかったって思う」

「だが、茅がいなければ俺達は……」

「言うな。戦う事が全てじゃない。すべて、じゃない」

 

悔恨を吐露する茅は懐の包みを優しく撫でた。

強く焼き付けるように抱き上げた鵯の入った包みを、悲しみと慈しみの眼差しで見やるのは赤い二つの睛。灰色の一つの睛はじっと厳かに茅を見ていた。

 

「今度こそ……」

「そうだな。今度こそ、俺達が群れを守ろう」

 

二人は向き合うと、互いに頷いた。その(ひとみ)に宿すのは決意。

群れを思うが故に、ここからは決意の行動であった。なんとしても成し遂げんとする強い誓いがあった。

 

異質な隻眼の烏天狗。

太古の血を引く若い狼。

 

失ったものは多く、喪ったものは大きい。

 

それを教訓にして、二度と繰り返さないようにと、これから手探りで群れを何とかしなければならないという重圧が二人の肩に圧し掛かっていた。

これからは若者の時代が来るのだから。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

開けた広場で待つ形で、立っているとその者達は現れた。

 

「物々しいとは思いますが、幾名か連れて参りました。交流を兼ねてという事ですが、ご容赦を」

 

光躬とそれに連なる烏天狗の面々からの真摯な要求とお辞儀を受け、白い狼達はひとまずは警戒の色を解いた。特に連れてこられた烏天狗連中は女性の数が多く、若い娘が多数を占めていた事も起因するだろう。誰だって、美人の笑顔には気が緩むものだ。

とはいえ、男性筆頭として彼女の実父である空将(たかすけ)がいる。その覇気は、彼の木皿儀日方にすら匹敵する猛者特有のそれ。

懇談の場で思わず、ギョッとした劫戈の背に冷や汗が流れる。数年ぶりの顔合わせだが、かつて出会った頃と比べて数段強まっているのを感じたが、静かに佇んで極力抑え込んでいるのが窺えた。

 

こうして移住に関してなどの交流を兼ねた話し合い、もとい───白狼と烏天狗の懇談が行われた。

 

「……」

「……」

 

最初は、ぎこちない笑みを浮かべながらの会話から始めようと相成った。

 

真ん中から少し離れた場所で全体を見渡した劫戈と茅は、現状を見てやはりこうなるかと嘆息した。

 

五百蔵と斑は、光躬と空将との話し合いに入っている。勇気を出してそれに続く者は半数以上いる事は悪い結果ではないのでそこは安堵出来る。

白い狼側は、積極的な若手烏天狗の巧みな会話能力に押されっぱなしであった。特に男性陣がそうである。相手が若い女性というのが仇になったようだ。会話しやすい、というより話し上手な娘達を連れてきた光躬の采配に感謝すべきか。

人型でないものは、終始もふもふな毛並みを理由に触れ合いが起きている。烏にはない毛並みに興味津々な若い娘達が群がっている始末だ。くぅん、と助けて欲しそうに視線を向けてくる狼に、苦笑を返すしか出来ない。がんばれ。

 

ここまでは良かった。

別に悪くない空気なのだ、ここまでは。

 

ただ、二人の後ろにいる女性陣に問題があった。

 

「難しいか……」

「俺らも会話に入るか? あいつらは躊躇ってのるのが多いし、催促してやりたい」

 

今、二人の後ろで躊躇う一部の女性陣がいる。

簡単にはいかないだろう事は予想出来ていた。今まで殺し合っていた種の仲なのだから。この日に来るまで説得して回ったが、それでも完全な和解は無理である事はこの状況に直面すれば明らかであった。

感情の問題とは、根が深いほど決着をつけるまで時間が掛かるものである。

 

折角だしどうにか打ち解ける方法はないかと唸っていると、二人の方へ寄ってくる数名の烏天狗がいた。人目を集める一回り大きな翼を持つ劫戈の下へ一直線である。茅は、おやおや、と隣の劫戈を見てニヤついている。

 

「お初目に掛かります、劫戈様」

「初めまして、劫戈様」

「光躬様から聞き及んでおります」

「え……ぅお!?」

 

皆口々に劫戈に寄って集って、といった状態と化した。

烏天狗の女性陣の話題とは、単純に優秀な男が多数を占めている。古今東西変わらぬ、その風潮故か、劫戈は恰好の的であった。劫戈様、と敬称まで付けられて呼ばれる始末だ。

というか光躬が集めた傘下の娘達なら、劫戈の事を聞き及んでいるのは間違いなかった。

一部、誇張を挟んで───恋煩いと惚気の怒涛談話───いるのだが、話題の人物はその事を知らない。

やって来た複数人の娘達に囲まれ、彼は当然ながら焦りに焦った。女性陣との会話は少ない訳ではないが、まるで敬うかのように、声を掛けられるのは初めてであった。

逆に白い狼の群れでは、一部を除いた皆が友人のように親しく声を掛けられるので、これまた違った感覚を味わう事となった。

眼を輝かせられて、質問攻めに会うのは、彼の中では初でもある。

 

「光躬様とはいつからどこまで進んでいたのですか? そこを詳しく!」

「幼い頃に接吻をしたと聞きましたよ~。意外と積極的なんですね?」

「綺麗なお羽根でいらっしゃいますね……さ、触ってもいいでしょうか?」

 

「え、ちょ……ちょっと」

 

娘達の勢いに困惑する劫戈を見た茅は思わず噴き出した。口を押さえて、腹を抱えて、視線を逸らす。

あかるさまに笑いものにしていた。遠くで五百蔵も斑もにこやか。光躬も、ただし彼女だけは目が笑っていないが。

光躬は、猛禽の如き瞳で獲物を射貫くかのように、劫戈の一挙一動を見ていた。

 

───他の女に色目使わないでね?

 

そう言われている気がした。試されているのかは解らない。

 

(勘弁してくれ……!)

 

劫戈は苦笑する。さて娘達が集まって来た事は好機であると、劫戈は務めを果たそうとわざとらしく咳払いをする。

 

「コホン……来てくれたところ悪いが、俺ばかり話しては意味がない。折角の場だから、輪を広げてくれないか?」

 

そう言って、後ろで躊躇っていた白い狼の女性陣へ振る。ここで関りを持たせて、会話に入れようと劫戈は行動を開始する。いきなり話を振られて困惑する女性陣を尻目に、烏天狗の娘達に目配せして催促した。

 

「ああ、これは失礼しました! 私、十鳥(じゅうとり)しずくと言います!」

「おう、俺は茅だ。よろしく。俺も加わろう。いいよな? これからの事も含めて話をしようぜ」

 

自己紹介を受けた茅もまた動く。丁度良いと言わんばかりに、十鳥しずくを筆頭とする娘達に声を掛ける。娘達は乗り気だ、劫戈と並び立つ有望な若手と目される白い狼の一角からお誘いを受けたのだから。

 

「ち、茅……」

 

茅が動いた事を歯切りに狼の女性陣は困惑を見せ始めた。中には嫌悪を隠さない者もいて、明らかに歓迎していない旨を露わにした。

待ったを掛けるように、年配の女性が前に出てきた。

 

「手を取り合おうとは言ったけど……やっぱり仲良くは出来ないわ。五百蔵様がいるからいいけど、怖いもの……」

 

白い狼の群れの中でも、それなりに歳を重ねた彼女は、悪感情を隠しもせずそう言った。

彼女は成熟してはいるが妖怪としては、若い茅にも劣る弱小の末端だ。弱肉強食故に、搾取される自然の摂理は解っている。だからこそ強者に怯え、逃げ延びて来た。

烏天狗に襲われ、夫子供を奪われ、取り残された。群れ全体が家族だからこそ気は紛れているものの、やはり愛する夫と我が子失って寂しいと思う事もあり、またその時の悲憤は彼女の中で未だ消えていない。

 

烏天狗の娘達も、この言葉に押し黙る。

 

「貴方は追い出されたとはいえ烏天狗でしょう? 私達とは種が違う。その子達の事を良く解るだろうし、間違いなく大事にされる。でも、私達は不安なのよ」

 

劫戈は彼女の前に出て、その訴えを受け止め、だからこそ自分のことも交えて説得しようと試みる。

 

「それは俺もですよ」

「えっ?」

「かつて俺を受け入れてくれた貴方達を、当時の俺は内心怖いと思っていた。茅が許してくれた事もあったが、それでも陰口や横暴も覚悟していたし、それを当たり前と思っていた。何故なら俺は烏天狗だから」

「……」

 

自分だってそうだったからだ、と劫戈は言う。茅としずくは口を挟まないよう静観し、厳粛に受け止めていた。

 

「でも、貴女達は恨んでいると言っても距離を置くだけで何もしなかったと記憶しています。貴女達は自分を抑える事が出来る人です。それはとても難しい事の筈だ。心を抑え続けるのは苦しい事なんだ。だから俺は純粋に尊敬している」

 

女性陣は瞠目した。同時に、申し訳なさを感じた。

 

彼女らとて、陰口を我慢した事はない。言った事は勿論ある。聞こえないようにしただけだ。

張り倒してやりたかったが、茅や五百蔵の眼があったから獲物を劫戈に見立てて八つ当たりしただけだ。

最初の内は、何度もあった。

だが、自然と受け入れるようになっていたのだ。白い狼を卑下せずに接する彼が誠実な存在であると解ったからだ。

今は過去とは違い、劫戈を信じている。群れを助けてくれたし、榛や朴の死に声を上げて涙したのは他でもない劫戈であったから。

 

そんな彼から、そう言われては。

 

───曇った心に、一筋の光が差し込まれた───

 

心を改めるべきなのだろう。

 

女性は、心揺さぶられた。

 

「……皆不安を抱えている、それは解っています。だから、いきなり全幅の信頼を持て、とは言いません。五百蔵さんとてそこまで言わない筈です。今は少しずつでいいんですよ。いずれは手を取り合えたらという事なんですから」

「皆さん」

 

劫戈の言葉に、娘達も誠意を見せんと前へ出る。しずくは凛とした表情を見せ、心からの言葉だとはっきり露わにした。

 

「過去を消すつもりはありません。これからは、どうか友好の士として、よろしくお願い致します」

 

十鳥しずくからも説得の言葉が出る。頭を深々と下げ、お辞儀をした。

傲慢で知られる烏天狗が頭を下げるなど、何の策謀かと疑うかもしれないが、彼女らは忠を誓った光躬の教育方針で培った“共栄の意思”の基で、友好を結びたいのだ。態度からも誠意を持っている事は明らかであった。

 

「……」

 

女性は沈黙した。姐さん、と後ろで控える狼娘達は心配そうに先立ちの女性を見やる。

 

彼女の脳裏に蘇るのは、戻らない愛しい日々、壊された時の絶望。

 

本当は。

 

本当は、罵倒したい。

 

本当は、張り倒して、手足の一つ圧し折りたい。

 

本当は、同じように子供を奪われる恐怖を与えてやりたい。

 

それが叶わないなら、自決してやる。

 

本当は、本当は、解っている。

 

そんな眼差しを向けられたら、思い出してしまう。

 

彼女は、亡き息子の悲しむ顔を幻視する。

 

女性は自信を敬う劫戈の懇願する眼を向けられ、彼女の中にあった黒い感情は───

 

───銀色の炎に───

 

彼の心に清められた気がした。

 

「ふぅ……」

 

疲れたように溜息を吐き、しかし不安の色を消し去った笑顔を見せる女性。

 

「わかった。すまなかったよ」

「ありがとうございます!」

 

烏天狗の娘は嬉しそうに笑みを漏らした。

 

「悪かったよ、劫戈。それにあんた達も」

「いいえ。むしろ、無理強いさせてしまいました。お詫び申し上げます」

 

そんな両種族が互いの非を認める光景に、劫戈と茅は微笑む。

 

「劫戈、ありがとう。思い出したよ。恨むのは疲れるね……」

 

そうして他の連中はおずおずといった風に挨拶から始まり、各々交流を重ねていった。彼女もまた談笑の輪に溶けていった。

劫戈は、感慨深く、それを受け止めていた。

 

(恨むのは疲れる、か。俺も……)

 

そこで劫戈は、はっとする。

 

「……! 光躬」

 

光躬が嬉しそうに見守っていた。思わず、魅入ってしまうほどに。

劫火干戈が間に入ってくれた事が嬉しいのだろう。隣に立つ空将は感心した様子だ。

 

時は進む。

不安の色はだんだんと薄れ、女性同士にしか解らない談笑で花を咲かせるようになった。よかった、と内心喜びながらその様子を見守る劫戈は、安堵の息を吐いた。今度は茅が率先して、会話の輪を作っていく。

少し離れて眺めていると、話が盛り上がったのか黄色い声が上がる。烏天狗の女性陣に囲まれた沙羅が顔を赤らめ、茅が恥ずかしそうに動揺している事から、内容を察した劫戈は我関せずといったようにその場を離れた。

 

途中、五百蔵が面白そうに笑っているのを見ると、劫戈は涼しい顔で頭を下げる。さっき笑われたので手を差し伸べません、という意味で。

 

すると劫戈の下へ光躬としずくがお礼に来た。その後ろで空将を連れている。

 

「ありがとう。劫戈」

「助けて頂き感謝申し上げます」

「いや、構わないさ。寧ろ助かったよ。俺だけでは駄目だったんだ」

 

その天狗らしからぬ謙遜する姿勢に、十鳥しずくはおお、と目を輝かせた。彼女はこれからの烏天狗の生き方を明るくするであろう(と目される)彼の姿勢を好意的に受け止めていた。

 

「……成長したのだな」

「空将さん……」

「お前は私に良い印象はないだろうが、礼を言う。此度は助かった」

「いいえ。俺はただ心に従っただけです」

「烏天狗と白い狼、異種の不和を解消した事、私には出来ぬ事だ。長く生きた身ではあるが役に立たぬ事が多い。だからこそ礼を言う」

「……」

 

痛感するように呟く不器用な男は、劫戈は押し黙る。今まで黙々と仕事を熟しただけ、役に立たないと自虐する空将を、劫戈は掛ける言葉を持たなかった。

 

「お父様。まだやり直せますから」

「空将様、少しお休みになられませんか? 光躬様、劫戈様、私はここで失礼しますね」

 

光躬がやんわりと宥めると空将は頷きながら、しずくに付き添われてその場を後にした。

 

十鳥しずくは気を利かせたのだろうか。彼は光躬と二人きりになる事となる。

 

(……ああ、懐かしい。本当に、長かったな)

 

光躬に会う、この瞬間をどれほど、俟ったことか。

 

「……光躬」

 

群れの一翼としてやるべき事に終始した劫戈は、ここで堪えていた私情を初めて露わにした。

 

「光躬」

「劫戈……」

 

対する光躬は、泣きそうだった。感極まって涙を溜めて、美顔を歪ませている。

 

時が止まっていると錯覚するほど、じっと互いを見ていた。

だが、その均衡はすぐに崩れた。

 

ふわり、と黒い羽根が舞う。

 

「劫戈っ!!」

「っ!」

 

劫戈が反応する前に光躬が彼の胸に飛び込んでいた。震える彼女を、劫戈は優しく抱擁してやる。

彼にとっての太陽だ。やっと会えたのだ、二度と離したくはない、絶対に。

 

「光躬……?」

「私……頑張ったよ……」

「そうか」

「貴方に会いたくて……あなたに、あえなくて……」

「……俺もだ」

「でも生きていてくれたから……いっぱいがんばったよ……!」

 

光躬は、当初印象付けていた冷静な姿勢と美しさを躊躇いなく拭い去るように、彼の腕の中で涙を流した。彼女にとっては、長らく死んだと思っていた想い人と、つい最近存命を知って出会う事が叶ったのだ。大人ぶっていた少女が、本性を曝け出して感涙してもおかしくはない。

 

「そっか……頑張ったな。本当によく頑張ったな」

「うんっ!」

「それに」

「……?」

「前よりも一層綺麗になったな。見違えたよ」

「ふふっ……貴方はとても逞しくなったね。翼も大きくなった」

 

また美しい“太陽”が笑った。懐かしい顔は、磨きが掛かったように綺麗になっていた。

 

「ああ。俺を助けてくれた人がいて、命懸けで力を授けてくれた人がいたんだ」

「そう……優しい人達に会えたんだね」

 

抱き合ったまま、劫戈と光躬は見つめ合う。

 

「ふふっ」

「あ……」

 

その美貌に見とれて。

 

「ふふっ……ふふふ」

「は……ははは───」

 

劫戈も一緒に笑った。

そうして笑い合ったのは、実に十年近い時を経ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「っ!!」

 

途端、二人は冷や水を掛けられたかのように顔色を変えた。

 

次いで、談笑する空気が凍った。二人を見て、もらい泣きしていた子達をも、顔を真っ青にしている。

 

その元凶は、突如来訪した人物だった。

二人は睨むように空の彼方を見ると、件の二人の烏天狗が空に舞い降りていた。その内の一方は、劫戈が最も知る人物であったが為に、彼は驚愕する。

 

「な……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……父上?」

 

 

 

 




読者の皆様、お久しぶりです。伝説のハローです。
最初に、評価10をくださった“日本人”様に遅れながら感謝の言葉を。ありがとうございます。
まさか私の拙作に10点評価が付けられるとは思わず驚愕しました。時間が経った今でも困惑し、且つ驚喜しております。お陰で執筆意欲が戻って来ました。本当にありがとうございます。

遅れました理由は……
しばらくの間、スランプに陥っていました。令和になる前に投稿しようとし、思うところがあり断念。
憂さ晴らしに、暇を見つけては戦場1&5に赴いては泥まみれになりながらのめり込むように傾倒し、某銃をモチーフにした人形を戦わせるアレをやって更に深入りし、そのまま中々執筆意欲が取り戻せず、ずるずると……。
そして平成が終わり、令和が来るという時を迎え、書かなきゃという使命感を感じて書き上げました。
絶えず毎日書ける文才人が羨ましい……。

ああ、それとアンケートがございます。お答えいただければと思います。気軽にどうぞ!


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第二章・第八翼「烏天狗の意地 上」

お待たせです。
お待たせしましたので、連続投稿です。閲覧の際には注意してください。
後書きに、現状開示出来る登場人物情報を載せています。



「父上……?」

 

劫戈はよく知る気配を感じ取り、思わず目を見張った。

光躬が険しい表情で、劫戈の腕から抜け出し、折り畳んでいた翼を広げた。いつでも、臨戦態勢は出来ている様子だった。

 

ふわり、と鋭い鎗のような男、木皿儀(きさらぎ)日方(ひかた)が舞い降りた。

突如現れた大妖怪の覇気に、各々は顔を強張らせ、警戒を露わにする。彼の日方の傍には側近と思しき若い烏天狗が付き添っていた。

 

「失礼する。……案ずるなかれ、我らの目的は白い狼にない」

 

見渡し、警戒する集った面々を厳かに見やる日方。そこにかつて崖の底に落とした息子───劫戈がいる事に怪訝な表情になる。

 

「なんだと……いや」

 

されど、それはすぐに切り替えられた。彼の者は、己のやるべき事を優先した。

とはいえ、お供に連れていた若い烏天狗はその限りではなかった。信じられないものを見たといった顔をしている。

 

「……その男は……まさか、生きていたのか!? そうか……そういう事、だったのか」

 

若い烏天狗が前に出ては、何やら悔しさと憎しみを感じさせる声音を発した。

劫戈を見て、黒い感情を絞り出すように声を上げる若手の烏天狗。無念、と言いたげに俯いている。

 

劫戈には身に覚えがないが、その言動から幼い頃に関わった者達かと訝る。

 

「お前は……?」

「貴様……貴様さえいなければ……」

「よせ、巳利(みとし)。目的を違えるな」

「っ! そうか……巳利、か」

 

小さく恨み節を零した、その若い烏天狗は劫戈の実弟・巳利(みとし)であった。

 

憎々しいという表情を見せる巳利に対し、劫戈は実弟との再会に懐かしさを覚えるが、その心情には怒りも恨みもない。

 

「巳利……」

 

ただ悲しみのもとに受け止めていた。

自分よりも優秀である故に、親に比較され、冷遇され、虐待紛いな教育を施された記憶が根強いものの、しかし巳利は烏天狗としての生き方を全うしていた。若輩であるからこそ先達を敬い、驕る事無く一直線に研鑽する姿勢はかつて同じ道標に立っていた劫戈だからこそ解る。白い狼の群れに身を寄せても、優れる実弟への羨望は薄れていなかった事を思い出した。

少し衰えても大きな妖気を放つ父に似たものを感じさせる実弟の姿は、かつて憧れた烏天狗本来の指標として映って見えて仕方ない。這い上がって蹴落としたいのではなく、隣に並び立って群れに貢献する喜びを分かち合いたい、という思いがあったが故に。

 

すると、巳利の反応を見た日方が口を開く。

 

「貴様……本当に劫戈か? 俄かに信じ難い」

「……ええ、そうです。お懐かしいですね、父上」

「殺されかけて尚、私を父と呼ぶか……」

「厳しく辛い思い出ですが、貴方を恨んだ事はありません。強い天狗である為には、必要な事だったと思っていますから。不要だと切り捨てたのも致し方ないと思います。俺だけが切り捨てられた? いいや、そんな筈がない。前例はいくらでもいたんでしょう?」

「……随分と私を評価するようになった。その上、私の所業を受け入れると?」

「はい」

 

即答する劫戈。その姿勢に、見守っていた者達も驚きと疑問が浮上する。

同時に、烏天狗の過酷な教育事情も妖ならではと思えば納得する者達もいて、感心するように感嘆の息を漏らす物が数名いた。その筆頭は、惚れ惚れするような熱っぽい吐息であったが。

 

「ほう……。心身共に強くなったのだな。全く、惜しいな」

「父上、今更こちらに来いなどと言われなきよう……。死にかけた先、俺には居場所が出来ました。それが白い狼の群れ(ここ)です。俺を受け入れてくれたここで、俺は俺なりに生きていくと決めています」

「そうか。あの頃と比べればその翼、欲するところだが……今や状況は変わっている。お前の好きにするがいい」

 

そう言って日方は劫戈が持つ一対の大きな黒翼を見る。劫戈が()()()()()()()()を感じ取ったのだろう、厳かに背を押す言動を取った。

 

この発言に、罵倒が飛んで来るのかと身構えていた五百蔵や光躬ら劫戈と親しい面々は驚きを露わにした。

 

日方も有力者となった烏天狗が身内にいた事を内心では良く思っていたのではないかと窺える発言であった。隣の巳利も困惑の色を隠せないでいる。彼の中では凡愚扱いの実兄が、父に素直に褒められた事に納得出来ないのだろう。

ともあれ、再会の驚きを収め、光躬が剣呑な雰囲気で前に出た。

 

「日方、何用ですか。貴方がわざわざ首を差し出しに来るとは思いませんが」

 

鋭い眼光で問い質す光躬。

殺意を滾らせた紅い瞳が日方を射貫く。今にでも殺してやろうか、と言外に語っていた。

 

「我らに逃げ場なし。ならば、と……我ら……いや、私は一党を代表し、一騎打ちを所望する」

 

この発言に、場は騒然となった。

ある者はなんだそれはと唖然とし、ある者は天狗の罠かと奇襲を警戒し、ある者は掛かって来いと真っ向から見据え、ある者はふざけるなと噛みつかんとして身構えている。

劫戈は、純粋な驚きと疑問で瞠目していた。まさか、そんな事をしに父が来るとは、と。

 

「なにを目的に……」

「光躬様ないし空将殿と一騎打ちし、勝ち越せば要求を呑んでもらうという算段くらいは立てそうですが?」

 

白い狼の群れは各々、突然の木皿儀日方の来訪に緊張の姿勢を見せた。大妖怪の領域に片足を突っ込んでいる猛者の登場である。茅は怪訝に睨みつけ、斑は日方の動向を気にしている。五百蔵は黙って両腕を組み、鋭い眼光で日方を射貫いている。

五百蔵は光躬を見やり、お前の仕業かと短く問う。彼女は首を振った。つまりは策謀ではないという事。

 

堂々と立つ日方に対し、空将が前に出た。

 

「理由を聞こう。日方」

 

その問いに、日方は静かに口を開く。

 

「私は最早、後輩に不要とされる身。ならば最期は古き妖の一翼として戦い散ると決心した。ここで勝ち得ても、残党狩りを凌げる余力はない。我らには最早、死に場所しか選べぬ。逃げ延びた彼奴らも、今は自刃し果てておる」

「なんと……」

 

一同は瞠目した。

 

潔く身を引く。

古強者としての誇り。

 

日方は烏天狗の中でも筋金入りの天狗らしい男。

 

へし折れたものは戻せない。挽回出来ぬほど大敗したならば、最早死を選ぶまでという意思を貫かんとした。

反感を買い続け群れを維持出来ず、更なる強者が後任となるならば、自分はもう必要ない。

 

最先頭の津雲は既に逝った。次は自分の番だと。

 

幕引きの戦いを求めてやって来たのだ。介錯を頼むように。

 

「その代わりに、巳利を助けて欲しい。巳利だけは助命すると聞き及んでいるが故」

 

日方の隣にいる巳利はその場に座し、覚悟していると言わんばかりに(こうべ)を垂れた。

 

「確かに、巳利は群れ全体から信頼があると多く助命の言を貰っている。一応、残党狩りは続けるが……解っておるな?」

「構わぬ。その為に、この命を差し出す」

「だ、そうだが。光躬?」

「……解りました、お父様。その潔さに免じて、巳利は命までは取らないと約束しましょう。受け入れる代わりにきっちり働いて貰います」

 

巳利を一応は受け入れた光躬。

彼女の眼は、深く怨みが籠められており、今にでも殺しに飛び掛かりそうであったが一党の長であるからか凛と佇んでいる。現に奮い立つ激情を抑えているようで、身体の至る所が痙攣しているのを劫戈は見た。

 

「光躬様、伏して傘下に降ります」

「許しましょう。その代わり、群れに尽くしなさい」

 

日方の傍らに座す巳利は立場を弁え深く頭を下げた。

怪我を負い、殺気や闘志を見せぬ様子の彼らを見て、光躬は日方の覚悟を見て態度を改めた。死は避けられぬ、ならばせめて戦って散りたい、と我を貫いてきた古参の妖怪は言う。

日方は覚悟を決めていた。

 

「相手は問わぬ」

「では、誰が相手を?」

「ここは私が───」

 

「待ってくれ!」

 

光躬が名乗り出ると、同時に制止の声が掛けられた。

焦ったような、絞り出すような、若い声。そこに込められた複雑な感情が、耳にした者を思わず制止させる強みがあった。

 

「俺に任せては貰えないだろうか。俺が、相手をする」

 

最期の一騎打ちを望む日方。光躬が迎え撃とうとするも、そこへ過去の因縁を断ち切るべく劫戈が名乗り出てきた。

この場で、今まで見せる事のなかった瞠目の表情をする光躬は、はっ、と劫戈を見やった。

 

対し、一番の驚きを露わにしたのは日方であった。

 

「何だと……?」

「は……?」

 

お供の巳利も、名乗り出た劫戈に呆然とし、言葉を失くしていた。

 

「劫戈……?」

「頼む、光躬。空将さん。俺にやらせてくれまいか……」

「劫戈! お前、元とはいえ父親だぞ!?」

「解っている……最期だからこそ、お願いしているんだ」

「なに?」

 

茅が正気かと声を荒げるが、劫戈が真剣な眼差しで見返した。絶句する茅に、五百蔵が劫戈に近寄り耳打ちする。

 

「劫戈よ。お前の真の目的は殺す事ではないのだな?」

「はい。今しかないと思っての事です」

 

彼の言動は、ここまで強くなったぞ、凡愚なりに這い上がったのだ、と父に示さんとしたものだった。

自慢したい訳ではない。蹴落としたいのではない。ただ、死にゆく前に示したいのだ。

 

彼は一匹の妖として、父という大きな壁を仰ぎ見ていた。それは、今も変わらなかった。

 

「幼き時分、彼の人の背を見て育ちました。今こうして研鑽を経た証を見せたいのです! お願いします!」

 

純粋に、武人の妖怪に。

貴方の息子は、頑張っています、と。

最期の機会となるだろう、この場で。

 

ただ茫然と父が首を差し出す最期を見届ける―――本当にそれでいいのか。

 

否、いい筈はないと感じた劫戈。

 

木皿儀劫戈として生きた彼は、それを否定した。感情的なものであるが、何としても日方に示したかった。

白い狼と烏天狗の両勢力がようやく手を結べた時に、例え他所でやれと罵られても、場違いだと非難されても。

 

この場しかない。二度とやって来ない最後の機会を無下にしたくない。

 

「どうか……!!」

 

木皿儀劫戈、改め―――榛の義子、劫戈は平伏して懇願する。

 

「だ、そうじゃが?」

「私は何も言わん。好きにしろ」

 

劫戈の主張に、空将は受け入れた。身を翻し、下がる。

 

茅は顔を顰めて唸る。彼は劫戈の元へ寄って、こう告げた。

 

「……父祖の仇なんだ」

「茅……」

 

見上げる劫戈は、友の苦しみにも似た表情を見た。

 

「本当なら、俺が首を噛み切ってやりたいが……」

「すまないとは思ってる……だけど!」

「───……はぁ」

 

苦しそうな、恨めしそうな視線を送る茅。

 

木皿儀日方こそ、彼ら白い狼の仇敵である一人。湧き上がる感情があって然り。

だが、彼は実姉が許して義理の息子として迎えた劫戈の懇願に耳を貸さぬほど薄情ではなかった。葛藤しているのが解る。

 

「……」

 

五百蔵や斑は何も言わない。

 

「…………解った。納得は出来ないが、な」

 

しかし、茅は苦い顔をして思い留まった。憎い相手ではあるが、彼としては親類を傷付けられるのは許し難いと感じている。

だが弟分の今まで見せなかった懇願に尋常ではないと察しての事だ。何より、五百蔵が落ち着いているのもある。

親殺しは、人々の間では禁忌とされるが、ここは妖の領域。人道は、全ての妖に当て嵌まる事はない。獣が跋扈する自然界では茶飯事である以上、人としての法則はない。

 

「すまん」

 

苦笑する劫戈───の後ろから微笑む銀色の姉を幻視した。

 

「っ……負けたら承知しねえぞ」

「ああ」

 

茅は逃げるように引き下がった。(いさ)が彼の肩に優しく手を置いて労う中、顔を覆っていた。

白い狼の面々は親類の多くを奪った日方を睨んでいる。

特に茅は父祖に留まらず、群れの中でも特に期待されていた義兄も殺され、それに留まらず実姉の胎に宿る赤子をも奪われた。以降、姉の身体を不能にさせられた事もあって、抱いている憤激憎悪は大きい。

斑は小声で周囲に聞こえないように、必死に腹の中に黒い感情を抑える茅を労っていた。

 

「後悔だけはするな。よいな?」

 

その傍ら、そう言って五百蔵は多く語るは無粋と、手短に見送る。劫戈の成り立ちを最初に聞いたが故に、彼の思いはよく解っているようだった。

 

光躬が最後に問いに来る。

 

「劫戈、出来るのね?」

「勿論だ。今まで何もしてこなかった訳じゃない」

 

そう、と想い人の成長を嬉しく思う反面、日方と言う強大な存在を知るからこそ、彼女の表情は曇っていた。心配である事は言うに難くない。

 

「これは俺の我儘だ……でも、頼む」

「解っているわ」

 

言外の意を汲む光躬は劫戈の手をそっと取り、包み込むように重ねた。

上目遣いの彼女は、劫戈を想う光躬としての情愛、一族を束ねる長としての信愛の念を劫戈に送る。

しかしそれはすぐに歪んだ。瞳の中に、失う事への恐れが見え隠れする。

 

でも、と。

 

「光躬……?」

「……やっぱり、私が」

 

劫戈の主張に、しかし光躬は静かに戦意を宿す。いや、彼女のそれは戦意と言うには優しすぎた。殺意とも呼べる深く暗い不動の気配。

美しい容貌に合わぬ黒いものを内包しているのを劫戈の単眼は見逃さなかった。ああ、()()()()()()と。

 

「それに……あの男には、私が───」

「大丈夫。もしそうなったら、男を名乗れないよ」

 

ぽん、と肩に置かれた手が、彼女の危うい空気を払った。呆気にとられる光躬。

 

「え……あ、あれ?」

 

困惑する彼女は、妙に心地良い火照りに襲われた。胸に(つか)えていた重苦しいものが外へと弾き出されたのを感じ取る。だが、実際には目に見えない何かだ。

あまりに自然体過ぎて、当の彼女は何をされたのか一瞬、理解が出来なかった。光躬の困惑は周りに首を傾げる要素を与えるばかりで、光躬が一人勝手に劫戈に言い包められているようにも見えた。

 

ただ劫戈は、自然とそのような事が出来ると理解して行使した。自分がどのような存在かは漠然としているが、ただ彼は自分にとっての太陽を遮る黒い靄を許容出来なかっただけだ。

 

「光躬。俺は大丈夫だ」

「そう……なら」

 

詳しくは後ほど、訊けばいい。妖の身たる己らは、腐るほど時間があるのだから。

 

()()()()()()()()()

「……?」

 

光躬は、劫戈の手を再び包み、祈るような仕草で意味深長な言辞を送った。残念ながら、彼はその真意を理解するには至らなかったが、それを激励と受け取る事にした。

男はそれで良い。想い人からの応援に、余計な邪心は要らない、と。

 

そうして劫戈は、父に向き合った。

 

 

 




ヤバい。
何がヤバいって、これ始めてから5年経つんだぜ((((;゚Д゚))))
ヤバいわ。吐きそう。BF5とMHWやって癒されて来ます。


さて、作者の個人的な事は置いといて。

現状開示出来る登場人物やその他、設定・補填などを別頁にて投稿しようかと思います。この開示条件に伴い、今後各章の間に挟む事になるので、栞を挟まれている方はご注意下さい。
また状況により各話の後書きなどに記載致します。途中で解らなくなる事がないようにと思ったが故の措置です。作者でさえ、たまにやらかしますので。

~現状開示出来る登場人物情報(一部抜粋)~
木皿儀(きさらぎ)巳利(みとし)
木皿儀家次男。劫戈を実兄と認めず、光躬の想い人になっている事を妬ましく思っている。津雲の風潮を強く受け、また育ちが劫戈の分の期待に応え続けた苦労人気質であった為か、生真面目。光躬の意向に反発心を抱いている。彼女が掲げた意識改革に理解はあるのだが、その根本にあるのは劫戈への恋慕と知っている為に反対であり、群れの中で排斥されつつある伝統不変を掲げる旧来派の現状に憂いている。再開した時は、劫戈への憎悪を募らせていた。

木皿儀(きさらぎ)日方(ひかた)
劫戈の実父。大妖怪に片脚突っ込んでいる猛者。劫戈を面汚しとして切り捨て、独断で殺そうとした。その為、光躬が初めて憎む相手となり、光躬の異能覚醒の発端となった。この時、何かされた。劫戈と光躬が再開し、光躬が意識改革に乗り出した以後、伝統不変を掲げる旧来派に属し、その筆頭格として改革派に反発する。そして、この時、何か重ね掛けされた。

射命丸(しゃめいまる)光躬(みつみ)
本作のヒロイン。烏天狗族長の祖父・津雲の孫娘。主人公・劫戈とは相思相愛……なのだが祖父、相手の両親と弟、他有力者から猛烈に反対されるも、唯一無二の雄と一途に想っている。烏天狗勢力の改革派の中心人物となり、実力主義を真っ向から否定。弱者を切り捨てるのではなく共に栄える道を模索する旨を提唱。尚、“異能”を除いた素の実力は、まだ原石であり、主人公よりも圧倒的に強かったりする。
劫戈を失い掛けた際、■■と■■を呼ぶ異能を開花させると、祖父と日方ほか敵対者に何かしたようだ。

射命丸(しゃめいまる)空将(たかすけ)
光躬の実父。当初、劫戈を昔の自分と重ねて哀れんでいた。密かに、同じ天狗となり得る狼と敵対する事に異を唱えており、愛娘の意志を聞き、かつての自分が成し得なかった意識改革に賛同、実現するべく派閥を支えた影の立役者。本当は良い人だが、出番もあまりなく発言力は弱い立ち位置。

射命丸(しゃめいまる)津雲(つぐも)
光躬の祖父。烏天狗らしさ満々の傲慢な堅物で、その風潮を群れに蔓延させ、劫戈の追放に起因する事となった。長く群れ長を続けたが、光躬の意識改革に影響が出ると判断され、排斥されて隠居生活。孫娘に、何かされた。
光躬曰く「屑、最低、傲慢、子供の邪魔しかしない(ごみ)」。


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第二章・第九翼「烏天狗の意地 中」

連続投稿です。閲覧の際には注意してください。
久しぶりの戦闘話です。



「お前が……」

「なんです?」

「こうも様変わりするとは、思わなかった……」

 

対峙する元親子。

 

日方が、微量でしかなかった劫戈しか知らない為か、今の過去と隔絶した劫戈の妖力の質量を感じ、雲泥の差といっていいものを覚えていた。

かつて矮小と断じ、されど弱小から脱却せしめた我が子。日方に届き得る大妖怪の強靭な妖力。

 

しかし、大妖怪は妖力の質量がものを言うのではない。制御する技量共に評価されるのだ。

 

まだ百年も生きていない幼子に、劣るほど日方は弱くないし簡単に届く存在でもない。

 

「父よ。木皿儀日方殿。不肖ながらこの劫戈がお相手致す」

 

畏まって劫戈が会釈する。

 

「うむ。こちらは相手を選ばぬ。餓鬼が何をなどと言うつもりはない。ただし、全力で掛かって来い」

「元より承知の上───!」

 

合図はない。

間髪入れずに、互いに飛び出した。勿体ぶる理由など何処にもない。

 

先手必勝と言わんばかりに両者は同時に初撃を放つ。交差するかに思われた、腕の横凪ぎと抜刀斬撃。

 

疾風と白刃が迫る。

 

「───っ!」

 

劫戈は直感の下に中断、納刀と同時に身体を捻るように回避して通り抜け、日方は無言無表情で躱されても折り返すように追撃した。両者の軌道が離れる最中で再度、日方から腕の横凪が振るわれる。まるで野草を刈る鎌のように劫戈へと襲い掛かる。

腕に纏われた妖力は瞬間的ながら濃密で、防御が出来なければ容易く命を削り取ったであろう。

 

(……来るっ!!)

 

喪失した右目が疼いた。

 

背から襲い来る即死の一撃に、劫戈は咄嗟に逆手で抜刀する。

幾度となく強敵を葬って来た大妖怪級の一撃だ。劫戈は相棒の白刃───榛爪牙から最大限の補助を受けてこれをしっかりと感知して迎え撃った。

 

「ぐぅ───っ!!」

 

メキッ、と鉄がひしゃげるような轟音。

 

劫戈は落石に当たったのではないかと錯覚した。幸い、更なる追撃はなかった。

弾き飛ばされるも、日方を視界から外さないように後退する。榛爪牙に刃毀れはなく、直撃を防げたが、僅かに腕が痺れてしまった。

 

「ほう、その刃……」

 

値踏みする声を聞いた劫戈は、躊躇いを敢えて見せるように、すぐに鞘に収めた。

 

「何故、納める?」

「……」

「今、お前は強者を相手にしているのだ。()()()()()()()礼を失すると思ったか? それとも誘いの隙か? 使えるものなら何でも使え、甘えるな」

「これは、義母です」

「……なるほど。お前を包む者は、義母か。五百蔵の血族と見受ける。ならば二人相手するつもりで行く」

 

よく見抜ける、そう感嘆する劫戈に焦りの汗が伝う。

 

「……流石に引っ掛かりませんか」

「年季が違うのだ、当然よ。なればこそ抜け、小僧。躊躇うな。我は格上なるぞ」

「……っ!」

 

鋭く睨む日方に、劫戈は畏怖の念を抱いた。

天狗の常道を行くと思い、敢えて慢心を誘ったが、それでは届かぬと思い直す。舐めて掛かった訳ではないが、これも経験の差。

今度こそ出し惜しみをしないと誓った。

 

「そら、ゆくぞ」

 

 

───我風(がふう)に裂かれ、塵と消えよ───

 

未熟者、と言わんばかりに語気を強める日方。翼を広げて、妖としての祝詞を紡ぎ出した。

 

【風滅爆衝】

 

 

「御業かっ!?」

 

短文ながら、それは妖怪の技としては上級。

 

規模の大きさから回避は無理と直感した劫戈は、痺れる腕で無理に白刃を抜刀、降り抜いた。迎撃の為に繰り出された、灰色の妖気を乗せた風が弧の字の障壁を形成する。

 

そして、違う色同士の妖力が激突し───爆散した。

 

「が、ぁっ!?」

 

辛うじて余波を片翼で凌ぐも、劫戈は怯む。後退する中、衝撃を受け流すしかない。

 

その威力たるや、凄まじい、の一言である。

余波でさえ、劫戈の経験上ないものであった。以前、敵対した事のある樋熊の邪気よりも強いと断言出来る威力である事は言うに難くない。

 

「ぐっ!」

 

持ちこたえ、姿勢を取り戻すと突っ込んでくる日方目掛けて、大きな両翼を一振り、小さな竜巻を正面に起こした。自然に発生するそれではなく、高速で回転する幾重にも束ねた風刃による防壁だ。

 

轟、と周辺の木々を仰け反らせる余波を生む。

 

「温いぞ!」

 

しかしその一言と共に、いとも容易く薙ぎ払われた。

 

妖力の力量の差は、質と量であるのは変わらぬ事実。

日方の妖力は黒々しく、大妖怪一歩手前と言える様相を見せている。今まで強敵を屠って来た実績もあって、絶大だ。無言で落ち着いている光躬も正面からはやり合いたくなさそうな顔をして観ている程だ。

 

対する劫戈は、小手先が通じぬと解ってはいるが、出来る事は出し切るつもりでいた。

とはいえ、一つ一つ出せる手札を易々と潰されていく光景は矢張り焦りを生むもの。

 

妖力の差は不明であった。榛と一緒の劫戈は質こそ大妖怪に匹敵するが、日方は小出しにするも歴戦の経験からか質量共に底知れなさを見せていた。御する力量は間違いなく日方が上である事は言うに難くない。

 

しかし。

 

榛爪牙(はしばみのそうが)

 

榛の妖気を自分の分と合わせて放出し、白刃に纏う。

 

劫戈は一人ではあるが、独りではない。

卑怯などとは言わないし、言われもしない。彼の義母が自らの意思で託し、利用出来るものは何でも利用せねば生き残れない世であるから。

 

妖ならば。烏天狗ならば。

 

これくらい出来ないで、吼えるな、と嗤われたであろう。

 

 

「……遅いぞ。努力はしたようだが、最初から何もかも上だった者を超えるには早過ぎる。勝機を、ただの思い上がりと───っ!?」

 

首を捻った日方の右頬から鮮血が流れる。

 

「ぬ……!」

 

発破音。

 

次いで、斜め上から飛来した槍を模した空気の渦が地へ衝突した。日方は首を捻って直撃を回避し掠めるに留めたが、その威力は自らに届いていると直感し、反応出来ていた。

日方が視線を戻せば、劫戈は恥じるように顔を歪ませていた。

 

「五百蔵さんに拾われてから烏天狗と戦うのは初めてだった。心のどこかで油断、慢心があった、が……ここからは一切なしと思って頂く!」

「……お前という大物を見抜けず、活かせなかったのは我が落ち度。私も老いたか……」

「っ!」

 

自嘲の色を虚しく見せた日方。

この堅物に、純粋に称賛される日が来ようとは、劫戈は内心嬉しかった。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

一方、観戦の席では、仰天の嵐が起こっていた。若い烏天狗の娘達は歓声を上げている程だ。

日方の言に、誰もが驚いている。空将は、劫戈の挙動を見逃さず分析しているようだった。

 

「あんなに強かったのか。五百蔵殿は後進を育てるのが上手いと見た。神狼の血族は伊達ではないか」

「わしを持ち上げるな。あれは劫戈の素質によるものじゃぁ。持ち前の才覚もある」

「ふむ。なるほど、そう言われると確かに。あの翼……否、力の根源は命を凝縮した刃か。助力を受けているとはいえ、それを十全に扱うとは。いくら才覚のある者でも、異な術もなしに異種の命を扱うのは容易ではない」

「ほう……しっかり見ておるな」

「私見ですがね」

 

五百蔵はさらりと空将を見た。

かつて戦場で一度会った事しかないが、空虚な雰囲気が印象に残る人物として記憶していた。今、見違えるように積極的に動いている空将の様子を見て、娘に尻を蹴られたかと内心笑っていたりする。

 

「ところでお前さん、劫戈を今になって受け入れるのは何を思っての事か」

「……徒に生を貪る真似は止めようと思ったまで」

 

今更ながら、と自嘲する空将に五百蔵は微笑んだ。

 

「おぬしらは変わったのぅ。嬢ちゃんのお陰か」

「……恋とは、天狗の鼻を折る力を持つのだと思い出したのです」

 

溜息と共に飛び出たその言葉に、五百蔵は口を閉じる。これ以上は言うまいと、笑いを堪えた。斑に脇腹を摘ままれながら。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

「ほほう……私に追随するとは……」

 

日方は驚きを露わにした。怪我を負い衰えた様子の日方は満足に全力を出せないでいる。

 

が、そこは経験豊富な妖怪である。劫戈の力量を冷静に測り、対処せんと動く。

 

掌に風が集まる。

謬、と空を切る音。

 

(風の刃を、放たずに集めた……!)

 

「遅い!」

 

劫戈に向かって放たれた球体は、徐々に大きくなり、速さも増していた。それだけではなく、単に直線的な回避を取っても追いかけてくる。

 

「くっ……うっ!?」

 

一瞬、防御を考えたが、日方が肉薄する方が早かった。

風刃を纏った横凪を、高度を低めて回避。髪の毛数本が散る中で辛うじて危機を脱する劫戈は、今度こそ迫っていた風刃の球体と衝突する。

 

「ぐっ……ぉぉぉおおおおっ!!」

 

されど自らの翼で防御、妖力を満遍なく行き渡らせた翼は堅牢だった。翼越しに掌底を叩きこみ、その衝撃で風の流れを乱し、粉砕してみせた。

 

「ほう、これを凌ぐか。ならば、この数は?」

「っ……」

 

日方は苦も無く、いくつも空に球体を浮かべた。

数にして八つ、全て同じものだ。絶句する劫戈の蟀谷から汗が伝う。

 

「嵐を小さく起こし、掌大に押し留めて操る……か。なんともえげつない技よ」

 

五百蔵が観戦する一同の言葉を代弁する。まさにその通り、多くの者達が息を呑んだ。

 

嵐は荒れ狂う強風を伴うもの。自然で起こるそれを妖が生じさせると、小規模であるが、全体の威力を一転に集める為に、それは凶悪な威力を発揮する。

元々、風が扱える烏天狗が行使しようものなら、更に悪辣なものと化す。

 

要するに、山々一体で生じた大嵐を圧縮して、一瞬でその身で受けるようなものだ。なんの力も持たない只の人が受ければ、細切れになるだろう。

 

だが。

 

「当たらなければどうとでもなる!」

「抜かせぇ!」

 

急上昇する劫戈は、回避すると思わせて回り込んだ。そして太陽を背にして、日方へ突っ込む。

 

「───!!」

 

球体が追いかける中、高速で交差する。

 

それは一瞬の攻防、結果は互いに無傷。

 

日方は掌大の風の幕を裏拳のように用いて劫戈の一閃をいなしていた。劫戈の振るった白刃は、防御や回避を見越して連撃としたが、悉く弾かれてに終わる。

 

十数近い攻防の交差を繰り返し、二人は上昇していく。

 

「先程の威勢はどこへいった!?」

「ぐっ……!」

 

日方の腕が槍のように劫戈へ伸びる。繰り出された刺突は、より苛烈になった攻防の所為か鋭さを増していた。

辛うじて顔面の直撃を避け、反撃に横一閃。

 

「!?」

 

が、迫る白刃を日方は真っすぐ伸ばした指で挟み、無力化してしまった。

 

再び、日方の攻勢が始まり、真下からの蹴りが劫戈を襲う。

すかさず右翼で守るが止まらぬ連撃が劫戈を苛む。離れたくても、剣先を掴まれて距離が変わらない。

 

「ぐ、ぁあっ!!」

 

妖力を込めた渾身の蹴りが、劫戈の防御をすり抜ける。執拗に胴体へ向けられていた蹴りが、突如として釼を持つ腕へと牙を剥いたのだ。ごしゃり、と右腕から嫌な音が鳴る。

 

しかし、劫戈は痛みに耐えながら好機到来と言わんばかりに、空いた手でつま先を掴んだ。

灰色の妖力が妖しく光る。

 

「むっ……!!」

 

一瞬の怯みを日方が見せる。まさか、圧し折るつもりかと身構えるのが解る。

 

直後、接触点から発破した。

 

弾ける音。

平手を打ち付けたかのような音とは裏腹に、遥かに凌駕する衝撃が日方のつま先を襲い───滅茶苦茶にした。

 

「ぬ、ぁっ!?」

 

熱した鉄を押し付けたかと錯覚する激痛を受けて、日方は驚愕しながら距離を取った。掴んでいた剣先をも手放してしまう。

 

彼が声を上げたのは、痛みによるものだけではなかった。

風を操るのが主体の烏天狗が、火を接触部から引き起こすなど前代未聞であったからだ。あまりに奇天烈な現象、目を白黒させて劫戈の左手を見やる。

 

「賭けだったが、なんとか上手くいったか……」

 

にやりと笑む彼の掌は、やはり焼け焦げていた。火を使ったのが解る火傷だ。

 

彼は、掌にある熱を無理矢理増幅させたのだ。手に搔き集めた妖力に強く熱する意思を込めて念じ、次いで外へ向かって弾けるように意識した。

結果、接触した部分が、あたかも爆発したかのような現象を起こした。局地的で小さなものだったが、それでも威力は恐ろしいものだった。

高温により皮膚は爛れ、肉は衝撃で一部の骨まで見える程に引き裂かれており、また普段では受けない筈の大きな圧力が加わった為に上手く動かせない。骨が肉を突き破っているのを見るに、もう役に立たないだろう事は明白だった。

 

「馬鹿な……」

 

それは、風の化生と言われた烏天狗の固定観念を塗り替えた。劫戈の見せたそれは、妖怪が脆弱な人のように学び方を変えれば、人のような器用さを得るという事実を意味した。

 

火傷を布で覆いながら釼を右腕から左腕へと持ち変え、驚き冷めぬ日方を攻め立てる。

 

「……まさか、斯様な芸当が出来るとは思わなんだ!!」

 

劫戈の接近に、意識を切り替えた日方は叫ぶ。心做しか、日方の口元は吊り上がっていた。

 

「五百蔵から教わったか! それとも独学か!」

 

白刃と手刀が交差する。金属音を響かせて、妖しい光を火花に乗せて。

 

「どっちもだ!!」

 

劫戈もまた叫ぶ。日方を押し込まんと力を込める。

 

「妖力は強引に引っ張るものじゃない。立ち登り、流れ行く先を、扇ぐだけでいい」

 

ゆらり、と煙のように立ち昇った妖気が、不自然に揺らめいた。

 

「手繰り寄せるのでもない。ただ、出て来たものを靡かせるだけでいい」

 

意思を持ったかと思えるほど素早く、滑らかに、劫戈の妖力は彼を中心に停留した。

 

「なに……!?」

 

溜まらず、その場から引いた日方。彼の蟀谷から一筋の汗が伝う。

長年の経験から齎される直感警鐘を鳴らしたのだ。現に、両者の妖力が触れる度に、見えない壁と壁がぶつかる様を引き起こしている。

 

劫戈は、その障壁を利用し自らの妖力を練り上げる。

 

もっと、もっと強い、もっと強力な、もっと強靭なものへと。

 

「“操る”とはこういう事だと気付くのに……長かった」

 

轟ッ!!

 

そして、白刃を軸として一個の竜巻が生み出された。刃に纏う、荒れ狂った無数の風。

それ一つ一つが風の刃を成していく。更に、形を整え、より鋭利な釼へと凝縮されていった。

 

―――汝、我を知れ―――

 

―――黒き風見(かぜみ)し濡れ羽の(おおとり)―――

 

―――羽搏(はばた)()いて立ち昇る―――

 

―――其は刃、其は(つぶて)、成して槍ともなそん―――

 

―――駆け抜けよ、嵐の(つるぎ)―――

 

 

―――【破怪嵐衝】―――

 

 

それは、日方の御業を見様見真似で、即席で作り上げた御業。

 

風害を纏った風刃なり。

 

「なんと……」

 

日方は今日何度目になるか解らない驚きを味わっていた。

劫戈の妖力はかつて感知した色は然程変わっていない。量も一般でいう普通とは言えない、底辺だったと記憶している。

 

だが目の前の文字通り成長した劫戈の妖力は異質に感じた。量はかつてと比べてそんなに変わっていない。

ただ質が変化していた。白刃の恩恵もあるだろう。何より、異様に大きい翼と刃が劫戈の格を高めている。だがそれだけの筈だ───何かが違う。

一見、義母が命を代償にして刃となり、妖力を貸し与えている───ように見える。溶け合っているのでもない。

 

 

 

何か、()()()()()()()()()()()()()()()()調()()()()()()()()()()()()

 

 

 

「なんだそれは……」

 

日方は、未知の力を見た。

 

長い月日を生きた経験が、それを見通し感知するところまでを可能としていた。五百蔵はこれを見抜いて育てたのか、光躬は最初からこれを知っていたのか。などと、今更抱いた疑問はすぐに掻き消えていく。それよりも、もっと見てみたいという思いが勝った。

実子が自らを大きく超えた存在になるという確信を抱いた日方は、得も言われぬ歓喜と共に心が震えた。

 

彼は、知らず知らずのうちに、笑っていた。もう嗤いはしない。

 

「行くぞ、父上ぇ!」

「……掛かって来い、()()ァ!」

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

「父上が、あんなに嬉しそうに……なぜ」

 

巳利は唖然と、二人の戦いに見入っていた。

木皿儀家の破滅を齎した遠因ともいえる実兄と闘う父は、憎たらしい筈の実兄に喜ぶような笑みを見せているのだ。

彼は困惑し、理解出来ずに、ただただその高度な妖としての闘いを目に刻んでいた。

 

「何故、だ……奴は、我々を……! 奴さえいなければ……だのに」

 

結んだ口元から血が見えた。

 

 




卑怯な切り方で、すんまそん。一応、ここまでです。続きは、近いうちに。

~現状開示出来る登場人物情報(一部抜粋)~
木皿儀(きさらぎ)劫戈(こうか)
本小説の主人公。根は真面目な少年風の烏天狗。なのだが、本人としては外部の者が関与した結果生まれた亜種ではないかと思っているが、まさにその通りである。
幼少期に虐待まがいな厳しい教育を受ける中、ヒロインの光躬と恋仲になるが、両親や周囲の有力者に猛反発され、遂には不要と断じられて群れを追放。実父・日方の独断で殺されかける。瀕死の中、敵対関係にあった白い狼の群れに拾われ、群れ長の五百蔵や茅、朴といった白い狼達との交流を経て、また榛の義子となり、研鑽していく。しばらく経った頃、突如として、狂気に呑まれた樋熊三兄弟に群れが襲われ、最中に朴や榛を失い、烏天狗種を超えた力を発現した。灰色の妖力とは違って時折、銀色の光が生じる。五百蔵曰く「彼は“神憑(かみつ)き”」であるらしく、烏天狗に関連する神格に祝福されていると推察されている。
尚、容姿は黒髪、灰色の瞳(右眼喪失)。妖力は、灰色。


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第二章・第十翼「烏天狗の意地 下」

まず誤字報告をして頂いた方にお礼申し上げます。
御業の書き方を変えました。

ハーメルンの特殊タグには助けられています。感謝。

何度も書き直した。大事な、大事な、戦闘話。描写、頑張りました。



 

蒼天の空の下。

闇色と灰色がぶつかり合う光景を、不安に眉を寄せた光躬が見ていた。二人の攻防を、一瞬たりとも見逃さぬようにと。

 

「劫戈……」

 

相対する二人は同じ烏天狗であり、血の繋がった親子。しかし、あり方は全く違う。

 

想い人を奪おうとした、実績もある上に風の化生を体現する強大な古き天狗。

役立たずの烙印を押され、しかし新たな風を起こし得る存在へ駆け昇る天狗。

 

実力差、経験の差は歴然。

しかれども、それは勝敗を決する絶対条件ではない。

 

現に、食い下がる劫戈は、古強者の日方に手傷を負わせている。

 

しかし一歩足りない。意表を突いたとしても、まだ足りない。致命傷になる御業を行使しても、直撃させられなければ意味はない。口だけ達者では勝てないのである。

 

日方の手刀、特に御業は厄介であった。掌大の嵐の塊なのだ。防御よりも回避が望ましい事は、発動の瞬間から察していた。

数多の敵対者が、骸を晒した風の化生たる絶技。

 

このままでは、彼が危ない。

 

(あの時のように……)

 

幼き日、引き裂かれた時のように。

奈落へ落され、生死を彷徨ったに違いない。

実際、劫戈は生きていたけれど、生きた居心地がしなかった。

 

(それだけは駄目っ! それだけは……)

 

今度こそ会えるか解らない。かつては死んだと諦めてしまったが、今こうして生きて言葉を交わす事が出来ているのだから。

 

「……日方」

 

鎗のような男を睨む光躬。時折、胴を穿つような抜き手や頭を吹き飛ばしかねない風球に、ひやりとする場面が多い。

 

───奴に掛けた、異能(まじない)を使うべきか。

 

光躬は思案する。彼女は、この闘いに乱入する腹積もりでいた。

 

劫戈の覚悟に水を差す事は解っている。とはいえ、救いたい気持ちが募る。喪ってからでは遅いのだ。今までしてやれなかった幼き日とは違うのだから。

元より、日方を許す気のない光躬は、将来の群れの為に冷たく切り捨てる算段であった。古く蔓延している身内をも蹴落とす血生臭い競争よりも同じ種として強固な信頼を築き、有能な筈の者が除け者にされずに切磋琢磨出来るようになれば、将来の群れの建設は安泰である筈と思っている。

 

故に、劫戈を除いた木皿儀の血族は抹殺すべしと腹に決めていた。誓い、とも言えよう。

 

 

光躬は、已む無し、と一歩踏み出そうと決意する。

 

 

「───え?」

 

 

一瞬、光躬は何が起きたのか理解出来なかった。

 

劫戈が御業を行使してから、常に()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

それは劫戈を起点とする小さな噴出孔、と形容出来るもの。

 

五百蔵曰く、木皿儀劫戈は“神憑き”である。妖怪の身でありながら神仏の祝福を受けた特異な存在。

 

烏天狗なのに、神仏に愛されるとはどういう事か、と当初、光躬は真剣に悩んでいたりする。神聖な存在である神仏とは相反する闇の化生たる妖怪を、如何な理由があってそのような事をしたのか聡明な光躬をもってしても解らなかった。

何の神かは予想出来ても定かではない。その正体は劫戈が微々たるものながら戦いの最中に垂れ流す未知の力が教えてくれるだろう。

 

だから、それはいい。

 

「そん、な……」

 

光躬は困惑し、呆然と呟いた。

徐々に、日方に掛けたもの───“呪い(まじない)”を、こそぎ取っていく感じがしたからだ。近い内に消え去るだろう程に弱まり、効力が失われていく。

 

いざという時に、確実に抹殺する為に掛けた、彼女の掌で強者をも殺す異能。

劫戈を喪った、と思い込んだ矢先に発言した“異能”だ。御業とは異なる、妖というあり方を無視する“妙なる法理”とでも言える代物。過去現在含めて、他の烏天狗には発現しておらず、強烈な妖術のそれとは一線を画すものであった。故に、当時格上だった日方に掛ける事が出来たし、その格上でもある津雲(つぐも)にも掛かった。

 

弱者強者問わず、敵対者を相手に試してきた。

その効果は覿面であったのだ。術者の光躬以外の者が払い除ける事は叶わない。

 

強者、弱者を問わない、“妙なる法理”。

 

だからこそ、それを神の如く神聖な力に近いもので払っていく様を見せられて、光躬は困惑した。“妙なる法理”が何に強くて何に弱いのかは今のところ解らないが、自分にしかない強力無比であった筈の異能が容易く消耗させられている。冷静に見て、種は違えど、劫戈もまた自分と同じ“妙なる法理”を持っていて、払い除けたのだと解釈出来るが。

でも、彼を助けるために邪魔者となった輩を折角排除出来る力を無力化されてしまった。

 

劫戈の実力は知っている。信じてはいる。しかし、人伝に聞いただけの評価。

 

光躬は実際に見た訳ではなかった故に、備えていた。だというのに、日方を自然と殺す事叶わなくなってしまった。その衝撃は大きい。

彼にしかない特異性に喜ぶべきか、なんて事をと咎めるべきか、素直に喜べず惑うばかりであった。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

二つの御業が交差する。風の刃が無数に束ねて必殺級にまで昇華された白刃と手刀が走り、空に十字を幾度となく描いていく。造られた嵐を携え、雌雄を決するべく殺傷の風を巻き起こす。

 

片や我流の劫戈。

 

───破怪嵐衝

 

片や古流の日方。

 

───風滅爆衝

 

突き、凪ぎ、払い、殴り、蹴り。弾き、いなし、打ち、逸らし、躱す。

五体を活かしての攻防の中で、翼をも使って殴打し、畏るる風魔で相手の急所を狙う。

 

「ぐっ!」

「ぬぅっ!」

 

攻防の中で生じる一瞬の隙。互いに突き崩そうと、腕や脚を伸ばしながら身体を捻って躱そうとし、肩や頬を掠める。余波で、羽根が抜けて舞い上がり、周囲の木々の枝が圧し折れて吹き飛んでいく。

劫戈はただ己の実力を示し、日方を打ちのめしたかっただけなのだが、最早、殺し合いの域に達していた。妖怪同士の験比べのようなものは実に殺伐と言えよう。

 

「はぁっ!」

「うっ……!?」

 

風球を伴う正拳突き。しかも人体並みに巨体。

 

反射で急下降、回避した。

右顔の半分、傷跡を掠めた。元より、右眼を失っていた劫戈だが冷や汗をかいた。下手をすれば、頭半分が潰れた果実と同類になっていただろう

 

(まずい……このままでは……!)

 

劫戈の中で焦りが募る。右腕は使い物にならず、今や肉の盾と化しており、追い詰められる。御業を維持するにしても、長い間の集中を必要とする。限られた妖力を絞るように練り上げ、致命傷を受けないように且つ相手に的確な傷を負わせなければならない。

 

しかも右腕の所為で少なくない血を流してしまっている。

血を流しているのなら、片方のつま先をやられた日方にも言える事だが、傷口を妖術で無理矢理塞いだのか出血は既に止まっていた。戦いの最中の出来事である。

 

傷の応急処置も早く、妖力の練り方も格段に上であり、大技も連発してくる。長期戦は非常に危険であった。

 

「どうした? 動きが鈍くなってきているぞ」

「さあ、何故ですかね……ふっ!!」

 

日方の鋭い眼光に、強がりを返す劫戈。

思い付きで振るった釼に纏わせている嵐の刃を直線状に飛ばす。御業を利用した飛び道具に近い使用だった。

 

ところが、四方から飛んできた風球がこれを圧殺した。パァン、と甲高い破裂音と共に、呆気なく消え失せた。

 

そこへ。

 

「おおおおッ!!」

「むっ!?」

 

間髪入れずに吶喊した。劫戈は驚く自分を封じ込め、勝機を見出して突っ込む。逆に日方は突飛な戦法を取る劫戈に瞠目する。

これくらいやってのけて、攻め続けなければ、相手の掌中から脱する事は出来ないと劫戈は痛感したばかり。

焦りを機会と糧にして、寧ろ日方が手玉に取られる勢いを求めて動き出す。

 

劫戈は躊躇いのない白刃を頚目掛けて振るう。

 

対し、日方は慣れたように頸を横へ逸らす。彼が逸れたまさにその後ろから風球が轟音を立てて劫戈に直進する。

 

「っ……う、おっ!!」

 

咄嗟に反応出来た劫戈は、振るった刃で正面から迎え撃つ。

 

衝突。

 

金属の戦慄(わなな)き声が響く。

 

「ぐ、がぁぁああっ……!!」

 

嵐の刃と衝突した風球は減衰していくが、風の刃が散るごとに、それは意思を持ったように劫戈に注がれていく。向きを与えられた風の刃は完全に消される事なく、雨のように至近距離の劫戈に殺到した。

 

彼の身体の至る所に裂傷痕を作っていく。

 

巧妙な技であった。劫戈に向かったその風球は、特別複雑な螺旋を与えられていたのだ。迂闊に迎え撃った場合、完全な無力化が不能な仕組みにされている。日方の経験が成せる恐ろしき妖技に、劫戈は本日何度目になるか数え忘れた冷や汗をかく。

 

しかし。

 

(だから、どうしたッ!)

 

風は壁ではない。抜け目が無数にあるのだ。

 

(突破口はあるっ!!)

 

風球は、元は風であり物体ではない。故に、抜け目を狙えば突き破る事は出来ると劫戈は柔軟な思考を以って瞬間的に判断する。

 

今の()()()()()()()()()()()()、彼は祝詞を紡ぐ。

 

―――駆け抜ける、嵐の(つるぎ)―――

 

―――乱れ駆けよ、風傷の流れ―――

 

より大きな破壊の風を、押し通す為に。

 

―――【破怪嵐衝・連華(れんげ)―――

 

嵐の釼が大きく膨れ上がる。

 

「……お、ぉあああああああああああッ!!!」

 

雄叫びと共に、劫戈は妖気を集中させて、左腕に掛かる負荷を無視して強引に振り抜いた。一点集中型の嵐の刃を竜巻のように延長させて回避した日方目掛けて届かせる。

 

更に昇華した御業であった。

 

「……まだ伸び代があるのか! 小賢しい奴めっ!」

 

隙を突こうとしていた日方は、思わず大きく距離を取る。

大してそこまで力を込めていない風球が破られたのに驚きはないものの、力技で打破せしめた事に日方は嬉色を隠せないでいる。

 

「越えるのか!? この私を! ならば、やって見せろ!」

 

この機を逃せない。

劫戈は生じた竜巻を利用し、渦に乗って回転する。進行方向に対して水平方向の回転だ。

そこに嵐の刃が榛爪牙を中心に暴風を起こす。四方八方の風向きを持つ不規則な渦───“乱気流”とでも言えようか。彼に力を増大させる勢いを与えるには充分であった。

 

風の化生の神髄。

 

凄まじい風の後押しと回転によって加速する劫戈は、音を置き去りにして眼にも止まらぬ速さで日方に肉薄した。瞬きすら許さず、百尺*1あった距離は既にない。

 

「───ぬ、ぅッ!!?」

 

灰色の突風。

 

胴に、袈裟懸け。日方の反応速度を超えて遂に届いたのだ。

致命傷。その裂傷は、斬撃による単純なそれではなく、錐で肉を抉って掻き回したかのような、見るに痛々しいものであった。

 

瞠目する日方は傷付けられて初めて、自分が斬られたのだと自覚した。

 

「……ぐ、ふっ───」

 

日方は吐血する。

 

 

 

 

 

 

だが、彼は笑みを見せた。

 

「っ!?」

 

悪寒を感じ、距離を取るべく後退した劫戈。片翼で半身を守りながら様子を窺うと、その正体はすぐに解った。

 

「釼は入った……けど、これは……」

「ぐっ……ご、ふっ───フ、フフ……くははっ!!」

 

避けなかった。

日方は致命傷になる攻撃を回避せずに受けたのだ。少なくない動揺が劫戈の内に飛来する。

何故、と。日方ならば回避や防御のそれすら出来た筈なのだ。

 

その答えはすぐそこにあった。

 

致命傷を受けて尚、喜色満面の日方がいたのだ。

 

「おお、震える……! 魂が震える! 息子相手に、命の危機を感じている! 滾るぞ、風の化生としての本能が疼く!」

 

不敵な笑みと共に、日方は眼を見開いて、劫戈を見据える。

そして彼から放出し始めたのは、目視可能にまで濃密になった暗い色の妖力。妖しく輝き、蠢いて、三対にも及ぶ闇色の翼を形作った。

過剰な妖力の放出。明らかに、何かを代償にしている。

 

「……っ!」

 

考えられるものは一つ、───寿命だ。

劫戈は呻いた。日方が命を燃やして、己に挑まんとしているのを理解したのだ。

 

かつて樋熊と相対した際の禍々しいそれとは異なるも、今眼にする日方の妖力は純粋な力の塊であった。命を絞り出し、将来の全てを力に変えているかのようだった。

 

───父からの最期の贈り物。

 

そう、解釈する劫戈の心中は荒れた。強者への畏怖と、父への感謝の念が入り交じり、身体が震えている。明らかな動揺であった。

日方は、劫戈の動揺を鋭く感じ取ったのか、貌に怒気を孕ませる。

 

「臆するな!! 震えるな!! 劫戈よ!!」

「ち、父上……!」

 

劫戈はこの時に立って、日方の絶大さを知る。

一個の命が、まるで台風と対峙しているかのような錯覚を覚えた。

 

 

「全力で行くぞ! ここまで来たからには───我を越えてみせぇぇええええいッ!!」

 

 

咆哮する日方は、大気を震わせる妖気をあらゆる方向に放った。数多の風が、日方の意思に共鳴して暴れ出す。

 

「くっ……うお、おぉぉおおぉおぉおおお!!?」

 

慌てて劫戈は大きく後退し、吹き荒れる風から逃れていく。予備動作なく、何もない離れた空間から闇色の風刃を引き起こし、飛ばしてくるのだ。

 

風であるにも関わらず、金切り音が響く。

 

(考えろ! 考えろ! 消耗している中で、どう対処する───!)

 

そこで本能を頼りに、榛爪牙で受け止めて干渉、風刃から微風へ無害化する。間髪入れずに、それを自らの力に転化する。元は自由な風なのだ、出来ない事はない。

 

次々と飛来する闇色の風刃を散らせて、己の背で集めて再利用する。灰色の風刃で殺到する闇色の風刃を相殺し、一部を日方へと向かわせる。

 

「くぅあ……っ!? で、出来た……!?」

 

曲芸紛いな事をやってのけた劫戈は己でも驚くも、そんな余裕はない。次々と迫りくる恐ろしき風の刃。対峙した当初よりも圧倒的に量と質、威力が増しているのだから。

 

「そうだ! それでいい!! しかぁしッ!!」

 

声を張り上げた日方の三対翼から断続的に刃が生まれて飛んでくる。

 

あるものは、緩やかな弧を描いて。

あるものは、素早く直線的に。

あるものは、ゆっくりと追いかけて。

あるものは、不規則且つ流動的に。

 

全部、ほぼ同時にだ。

 

「くそッ!!」

 

回避、防御。身を捻ってやり過ごし、嵐の釼を以って身を守る。

しかしながら、空中でしっかり双方をこなしているというのに、余波だけで体勢を崩され、吹き飛ぶように逸れるしかない劫戈。完全に劣勢と化していた。

 

「ぐっ!! 攻められない……!」

 

劫戈は心の底から畏怖していた。

日方の背を見て育ったというのもあるが、それは幼き間だけ。実際の実父の戦場(いくさば)を体感した訳ではなかった。

今まで烏天狗と敵対してきた全ての妖怪達との生存競争に置いて常に最前線にいたのが木皿儀日方という男である。強さが段違いなのは、言うまでもない。

 

榛の命を背負っている劫戈だが。

“神憑き”でもある劫戈だが。

 

目の前の実父だけには、勝てない。打ち負かせない。認めてもらえない。

 

そんな諦観が膨れ始めていた。

 

風の化生は伊達ではないのだと。まるで“異国の大狼(ふぇんりる)”を冠する狼へと変化した五百蔵を相手にしているよう。暴風の猛攻は、劫戈の心身共に削っていく。

 

「この程度で喚くな。返して見せろ」

 

闇色の刃が、風球に変わった。

全力になる前の風球と同じ。当然、嵐を束ねた極悪な球体だ。

 

更に強烈なのが来た。と、同時に。

 

「く……ごほっ……!」

 

日方の吐血が増えた。顔には死相も見え始めている。

胸の裂傷だけではなく、全体的に命への負荷が大きいのだろう。実に馬鹿げた行為であると取られ兼ねないが、日方はそうするに足ると判断して命を懸けている。そう、この場に来る時から。

 

劫戈は、馬鹿な奴め、などと思わない。

 

これだけの立ち振る舞いに、寧ろ一妖怪としての憧憬の念を持てるものがあった。

 

一度深手を負い、それでも尚、数多の面子を畏怖させ、己では届かぬと思わせる。

 

この場、この時ですら、日方は満面の笑みながら真剣な眼差しでいる。かつて向けられた侮蔑、感嘆、不信の色はどこにもない。

 

「父上……」

 

己がもっと父の期待に応えられていたら、もっと早くからその期待する眼で見てくれただろうか。

 

でも、そうすると榛の親愛を知る事はなかったかもしれない。

今までの出会いも、別れもどうなっていたか。

 

もう既に時は遅い。巻き戻る事はないし、戻す術もない。

 

(今更だな……)

 

状況は我に利あらず。

もし、たら、れば、を考えている場合ではない。

 

どうすればいい。

 

(どうすれば、いい……?)

 

どうすればいいのだろう。打つ手はないのか。

 

啖呵を切って返り討ち。なんと安い酒の肴か。

 

本当に、打つ手はないのか。

こうして悩んでいる内に、飛来する風球は止まない。ひたすら回避して、翼の甲でいなして、嵐の釼で障壁を張って乱して、逃れていく。或いは、自身へ転化していく。

時に左へ旋回し、時に宙返りし、時に右へ牽制動作を取ってやり過ごしていくものの悉く追随する風球は、刻一刻と劫戈を追い立てていく。

 

───劫戈はこの闘いの中で、表面上焦ってはいるが頭は冷静になりつつあった。

 

ある意味、日方の姿勢を改めて見て、冷静になれた。

 

(どうにかしたい……)

 

何か、方法はないのか。己には、何が出来るのか。

 

 

 

 

 

 

(あ……)

 

 

 

 

 

 

そんなもの。

 

 

 

 

 

───()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『───羽搏け、我が愛し仔よ。汝の赴くままに』

 

 

 

 

 

 

 

 

頭上から天女の声が聞こえた。

 

 

 

 

 

 

 

「───“我は汝の(もと)帰依(きえ)(たてまつ)る”」

 

無意識だった。

 

()()()()()()()()()()を唱えた瞬間、嵐の釼の灰色に()()()()()()

釼から燐光が漏れ出始めた。灰色の風を纏い、釼の軌跡から銀の残像が空に走る。

 

確信と本能に従って、釼を振るった。無造作な横凪ぎに見えるそれは、驚くべき事に闇色の風球を受け止めた。

あまりに風の圧が強過ぎるのか、風同士の鍔迫り合いで熱が生じた。眩い閃光を発し、視界を遮る。

 

「ぐっ……?」

 

だが今はそれどころではない。

風の流れが不適切と感じ、嵐の刃を小さく調整する。銀色の燐光が徐々に増していく。

 

「……まだ、昇るというのか。劫戈よ」

 

日方は増大する未知の光に驚愕する。

下方の観戦者から感嘆の声が飛び上がるが、気にしていられない。

 

「貴方に……何としても届かせるッ!!」

 

その事だけを考えて───風球を切り裂いた。

 

「ッ!!」

 

瞠目。

数瞬まで、弾くのがやっとだったのにも関わらず、不可能を可能にしていく。

 

信じ難い成長速度だ。だが、納得出来る。元来、劫戈は相応しい力と環境を与えてやれば出来る存在なのだろうと日方は悟っていた。劫戈はただの烏天狗ではない、事実として烏天狗にそぐわない力を持っていた。故に烏天狗流の教えは、逆に成長を妨げてしまった。

 

その証左が示された。

 

「ならば、これを見せねばな」

 

日方の雰囲気が変わった。空気が鳴動するほどの鋭い殺気を放つ。

 

「まだあるのかッ!!」

 

劫戈は手数の多さに慄いた。流石にもうないだろうと思ったが故に。

 

されど現実は非常なり。日方の御業には、底知れぬ切り札があった。

 

 

 

 

 

六つの闇色の風球が日方の前でくるくると回り始める。高速で円を描き、次第に一つに合わさった。

 

 

───汝、我を恐れよ───

 

───数多、我を照覧せよ───

 

 

闇色が更に濃くなっていく。

最早、嵐という単語では形容出来ない、暴力的で壊滅的で無茶苦茶な風球が出来上がる。

その意味は、誰しもが理解出来た。

 

 

───我は万物の風災───

 

 

神をも粉砕する、風の化生が持つ本物の畏業。

間違いなく、五百蔵の“殲呀”と同等かそれ以上の次元にある力。

 

 

───(ひと)しく 朽ち果てよ───

 

───我己(われは) 抗能否(あらがいあたわせず) 粉砕成(ふんさいす)───

 

 

 

 

真の妖とは、文字通りの災害を体現す。

 

 

 

 

―――漸鵠殲(ざんこくせん)―――

 

 

 

「刮目せよ、我が真の御業っ! 受け継がれし我が父祖の奥義をっ!!」

 

 

 

 

集められた風球が意思を持った台風と化す。暗雲の如く闇色の風魔、複雑怪奇な災禍を形成した。

 

 

 

誰しもが驚愕し、未熟な者は恐慌し、届かぬ者は戦慄し、同格の者は身構え、格上の者は溜息を吐いた。

 

何という理不尽。

 

止めるべきか、と年配者達は眼で会話する。

明らかに過剰だ、という意見と。まだ見守れる段階だ、という主張が交差する。この場で将来の期待を背負う若者に無理をさせ過ぎではないだろうか、とはいえ各々が求める時と場が揃ってしまっている。

日方に食い下がるという快挙を成し遂げる劫戈を案じてはいるが、折角の機会を台無しにするのは憚れると思う常連たち。

当人達の意見を尊重するべきとの落ち着いた眼差しが五百蔵(いおろい)より発せられ、そんな柔な育ちはしておらんと彼の者の眼が暗に語った。

 

無言のやり取りは、見守る方針に落ち着いた。

 

 

それはさておき。

 

 

 

 

 

「それが木皿儀の奥義……!」

 

轟音振りまく風害に対し、銀色の鴻鵠は凛として立つ。決して蛮勇を示そうとしているのではなく、確固たる不撓不屈の信念で立ち向かった。

打破しうるものを、()()()()()が故に。

 

 

───偶然なる眩い発光を。

 

 

「ならば風の化身よ、その先にある光を見よッ!!」

 

 

劫戈は応えて声を張り上げる。

打倒するに能うものが、彼にはあった。彼の黒翼が榛爪牙と連動するように銀色を放ち始め、彼の周囲に漂う妖気を吸い始める。今まで放出して辺りに散って充満していた妖力の残滓、妖気だ。それは彼自身のもあれば日方のものも交じっている。妖力を操作するという観点に於いて、彼は瞬間を以って両者の残滓を吸い込んでいく。

 

闘いの最中に覚えた自身への転化。

 

そして、己の中にある未知なる力の噴出孔を緩ませていく。

それこそが最善であると直感が働いて、身体がどうすべきか動き、頭が何をするべきかを思考する。

 

故に、発するは祝詞。

 

思うがままに形成された力の塊。

 

理不尽には、理不尽を以って返答せしめんとす。

 

 

───其の(まなこ)を焼いて───

 

 

眼に焼き付いたもの。

 

 

───其の泥濘(ぬかるみ)()いて───

 

 

感じた事のない熱量を知り至り。

 

 

───空を奔るは 知恵の熱波───

 

 

知恵を回して死地を超えんとして練り上げる。

 

 

───峻烈(しゅんれつ)なるを以って───

 

 

万物を滅する無慈悲を感じ得たが故に。

 

 

───我己(われは) 諷否(ほのめかせず) 消滅(けしはらむ)───

 

 

祝詞の文字通りに、灼光熱風を以って消し飛ばす。

 

 

 

 

 

 

 

―――槭滅火(せきめっか)―――

 

 

 

 

 

その祝詞で、劫戈の手元が劇的な変化を遂げた。纏っていた嵐の釼が、一挙に焔の釼へと転じたのだ。

数多の衆生を恐れさせた、神からの贈り物として伝わる火。それが突如として風から転じ、生まれ出でたというのだから目撃した面々は驚嘆を通り越して畏怖を抱く。

しかもそれは、風同士の鍔迫り合いで生じた熱光を基にしたもの。決して、何もない場所から火は生まれない。

それは嵐の釼を内側で幾重にも衝突させて生じさせたものである。

 

銀色の燐光を迸らせ唸る、(かえで)の如き赤い釼だ。

 

「う、ぉぉおおおおおおおおおおおおおおお───ッ!!!」

 

そして、全身全霊の振り下ろし。

距離も百尺以上も離れ、眼前には日方全力の御業が迫る中、避ける事も防ぐ事もなく、劫戈は間合いの外であるにも構わす焔の脅威を振り下ろした。

 

そうして突如、それは起きた。

 

 

 

 

 

「……見事」

 

 

 

 

 

日方は晴れ晴れと呟いた。

一点突破とも言える猛威を放たんとしていた彼は、無意味と断じてその場で抵抗せずに佇んだ。

 

劫戈の振り下ろしから生まれたそれは見渡す山々一面が紅葉によって真っ赤に染まったかのような、巨大な炎熱であった。

 

燃え盛る劫火。例えは幾らでもある、畏れるべき大火。

 

直撃していないにも関わらず、眼を刺すような痛みを伴う熱量だ。向きを与えられて日方に迫る熱波の壁。逃げ場など何処にもない。

例え、二百尺*2空いた空間であっても瞬く間に押し寄せる滅風に焼き殺されるだろう。

 

日方ですら、防ぐ気も逃げる気も失くす巨大な猛威であった。

 

 

 

 

 

 

敗北。

 

 

 

 

 

その二文字が彼の脳裏を(よぎ)る。

 

 

 

だが、強者を誇る彼には憤りも憂いもなかった。

 

 

 

 

 

あったのは、たった一つ。

 

 

「ふ─────」

 

 

純粋な安堵であった。

 

 

 

 

 

閃光と共に焔の津波が台風を食い荒らした。

 

眼を焼く焔熱が収束する。妖気を空気ごと焼き払った一撃は、日方を呆気なく墜落させる。

地に伏せた日方は、微動すらしない。全身の皮膚が炭化する程の火傷に加え、大きな一対の翼は消し炭になって崩れていた。

 

そこへ駆け寄った巳利(みとし)は、その惨状を知り、息を呑んだ。

 

「っ!」

 

他の観戦者は遠巻きに見ている。誰も近寄るべきではないと理解していた。

 

 

 

 

降り立つ劫戈。

 

「父上……」

「……新しきを求める若者の時代……古き者は、害悪でしかないか……」

 

半ば朽ち果てた日方は、力なく徐に呟いた。

純然と己の結末を受け入れているようであった。

 

 

「ならばよし……」

 

 

純然に、闇の化生として、後輩に畏怖を示せた嬉しさが彼にはあった。

 

「巳利よ。励めよ……」

「ち、父上」

 

涙声で、最期を見やる巳利。

 

「劫戈……どこにいる?」

「ここに」

 

間もなく返答する劫戈は、日方の傍で膝をついていた。

 

「いる、な……?」

「はい」

 

ひゅう、と掠れた声が漏れる。吐息のようで、吐血のようで、しかし小さく笑ったようだった。

 

「よくやった……」

 

これ以上の褒め言葉はない、と言わんばかりに日方は微笑んだ。

今まで見向きもしなかった挙句、排除と称して殺さんとした鎗のような男。最後の最期で、彼は自らの本分を全うして、捨て去った筈の長子に向き合った。

 

「悔やむな……私は長生きし過ぎた……妖は、獣が断崖を飛翔した衆生。しかれども不死ではない」

 

邪魔な老人は轍を残して立ち去るのみ、と語る。

 

すると彼はボロボロと崩れていく。炭化の影響ではない、妖力を使い果たしたのだ。自らの寿命を削って、奥義を放っていたが為に。

若輩の御業を受けても尚も存命出来てはいるが、身体が限界を迎えていたようだった。

 

「……父上」

「フ……まだ子供だな。お前は、私に、勝った……殺したのではない。誇れ───」

 

日方は、最期に息子を安んじて、敗北を認めて、笑んで───掻き消えた。

 

妖としての消滅だ。転生も蘇生もない。生の終わり。

 

 

 

「父上……ありがとう、ございました……」

 

 

 

震える声を絞り出した劫戈は、銀色の涙を落した。

 

 

*1
約30 m

*2
約60 m





前話では近日公開としたものの結局伸びる。
しかも分割した意味がないほど膨れてしまった。いや、戦闘を望む読者的にはいいのかもしれないが。

これが私の限界であった。

次回、第二章最終話。



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第二章・第十一翼「抱擁」

第二章最終話、ようやく終息します。

2020/07/08 後書き修正


 

「っ……劫戈!?」

 

光躬が声を張り上げる。

 

銀色の落涙の音が、土を叩く音で掻き消される。

 

日方の最期を看取って束の間、突如として力なく崩れ落ちた劫戈。

 

「……はっ……ごほっ」

 

額には球の汗が浮かび、吐血を起こして息も短く、顏も血の気が引いている。

 

観戦者達が、事態の急変に驚く。状況を把握した年長者達が指示を飛ばし、各々が行動を始めようとする矢先、光躬は一足早く劫戈の元へ。

劫戈は、すぐさま音もなく駆け付けた光躬に抱えられた。

 

「いけない……っ! 劫戈! 劫戈!?」

「ぅ……」

 

彼女は懸命に呼びかけるが、彼の反応は薄かった。

 

過剰な妖力の酷使、無理な機動の戦闘による反動が、今まさに劫戈を襲っていた。意識はあるが、眼は虚ろでほぼ無意識に近い。

大きな一対の黒い翼は重く垂れさがり、動く気配がない。艶やかさを失い、独特な彼の妖力を感じさせなかった。

 

劫戈の成長を我が事のように喜び、心躍るように魅入っていたが故に、劫戈の肉体への負荷を全く考慮出来ていなかったのを光躬は自覚した。顔を歪ませ、深く後悔を滲ませる。

 

「大丈夫、大丈夫だから……」

 

眼に見えるほどになった濃度の高い妖力を光躬は発する。烏天狗としては一線を画す、黄色の線が混じる黒い妖力だ。その存在感は、負傷した部分も含めて、何としてでも治すという意思を妖力全体から感じられる程だ。

劫戈を包み、治癒を高める効果を与えんと浸透していく。

 

それを傍で見ていた巳利は。

 

「……」

 

苦しそうに目を伏せ、しばしの間、何かを熟考した。

 

「っ!」

 

そして、意を決したように、劫戈を抱える光躬の隣へ。

 

「光躬様」

「……巳利?」

「彼は妖力欠乏を起こしている事はお判りでしょう。しかも見るからに過度な症状です。放置すれば命に関わります。すぐに妖力を分け与え、発作を緩和させるべきでしょう。幸い、親類は私です。最も親和性が高い」

 

不安と動揺を隠せない様子の光躬に、巳利は冷静且つ力強く申し出た。

 

「貴方がやるというの……?」

 

光躬は怪訝に巳利を見る。巳利を信用していなかったが故に、何より妖力欠乏を起こした劫戈を優先したいが故に。

 

妖力欠乏。

妖怪の妖力が底を尽くことにより生ずる症状を差す。妖怪の源である妖力・妖気そのものが枯渇すると、生命維持が困難になってしまう。妖怪は畏怖から生まれた想念の産物であるからこそ、己の根源たる闇の力───即ち、妖力の損失は存在そのものが根底から失われてしまう事と同義。闇の命は、生命力を使い果たして死滅、消滅を迎えるということ。日方が見せたような寿命を削って妖力を練る荒業があるものの、結局は死を早めるだけで延命にもならない。

ただし動植物がその形を変えた場合は、基本的に元になった生物と同じ法則に則り、食料や水で延命出来るため比較的、死の危険性は低い。

普段では欠乏するなど余程の事でない限り起きない。その余程とは、妖力を消費する闘争ぐらいか。あるいは、妖力を祓える神聖な力を有する者に害されるかだ。

 

この欠乏から回復する方法、回避する方法は多岐に亘り、自然治癒や食料の摂取、睡眠、妖怪独自の畏怖の吸収などがある。脱するのは難しくない。

ただ例外として、同種または近親者が存在する場合は分け与えられる事で脱する事が出来る。この方法は一番助かりやすく、一方で単一の個体である別種同士の妖怪では適用されない。

 

そういった事情から、妖力欠乏から助けたい光躬は巳利の提案に耳にする。

 

「はい。差し出がましいとは存じますが、彼を救うには最も早いと確信します故」

「……」

 

光躬は迷った。

今まで思想の違いや迷惑な恋慕から敵対し、日方や他賛同者達を葬って来た自分に対して、保身の為に言い寄っているようにも見える。光躬は巳利の言の通りにすべきかすぐに判断出来なかった。一人の女性として、想い人に近寄らせたくないという警戒心が勝ってしまったからだ。

 

巳利と劫戈の関係や実情を知る者達もまた、こぞって胡散臭さを覚えた。あいつに任せて大丈夫なのか、と茅が五百蔵や空将に訴えていた。その懸念は尤もだが、とはいえ大妖怪含む年長者が見張っている中で理性的な者が不利益になる事を仕出かす筈もない事は明らかだ。

 

判断に迷う光躬の元へ、五百蔵らを連れた空将が割って入った。

 

「巳利。お前の言は尤も。施術はお前がやるとして、私と光躬が立ち会う。それで良かろう? すぐに取り掛かれ」

 

落ち着き払った空将の素早い指示に、冷静さを取り戻す若者達。

すぐに劫戈をその場に横たえ、その脇で巳利は両手を翳し、妖力を少しずつ分け与え始めた。眼を閉じて、集中する。

 

「……くっ……なんだ?」

 

すると、巳利の脳裏に人型が現れた。

白い霊魂。その輪郭には人ならざる獣の耳と尻尾があった。その佇まいと、脳裏に現れたにも関わらず、発する妖気と気配が巳利を惑わせる。

 

(人……?)

 

劫戈への妖力を注ぎながら、しっかりと認識する巳利は呟く。

 

「───白い狼の女性……?」

 

途中、巳利は苦悶の表情で呟くものの施術は続行する。一部の白狼が反応するが気にしている場合ではない。

 

「…………」

 

しばし間を置くと額から汗が滴り始める。

自分に出来る最大限の事をしようとしている巳利に、光躬は警戒の色を弱めた。

 

そうして、しばらくの時間を要した。

 

闇色の光が巳利の掌から奔り、徐々に劫戈へと伝っていく。

息を吹き返したかのように艶が戻り、出血も止まって顔色も元に戻っている。

 

「……っ! く……はぁっ」

 

そして、今まで以上に大きく光った途端、巳利はふらりと後退って膝を付く。息を切らせる彼の顔は疲労に満ちていた。

 

「……成功、しました。もう大丈夫、です」

 

 

巳利が離れて少し間を置き、力強い黒が復活した。

 

 

そして、瞼が開いた。ぼんやりと虚ろ気味に蒼空を見ていた。

 

そんな劫戈だが、視界に入った女性を見て。

 

「みつみ……?」

「劫戈! 大丈夫?」

「ああ……ぃっ」

 

意識を取り戻した劫戈は、身体に残る痛みに顔を顰めながらも返答した。

 

「俺は倒れて……どうなった?」

 

混乱しながら身を起こす劫戈は、光躬に問い掛ける。倒れた所までは覚えていた劫戈だが、その先の記憶がなかった。

 

「巳利が、妖力欠乏に陥った貴方を助けたの」

「……巳利が?」

 

まさか、と驚いた劫戈は、少し離れたところで膝をつく巳利を見つめた。額に汗を見せる実弟に、劫戈は驚きのあまりすぐに声が出てこなかった。幼い頃に罵倒され、存在を否定され、縁を切られたも同然の関係であった筈の実弟に助けられるなど露ほど思わなかったからだ。

 

「お前が助けてくれたのか」

 

声を掛けると、巳利は顔を顰めながら背けた。

だが、努めて冷静に顔を戻した。実の兄弟はやっと視線が合う。

 

「……僕は、最初から敵わなかった。感情に任せ、愚かな事をした」

「巳利……」

「僕は、光躬様の軍門に降った。以降、貴方を害する事はないだろう」

「……俺は父を」

「父の事は既に承知、理解、納得している。父の臨んだ最期だった。その相手が貴方だっただけだ。恨む事はない。報復もない」

 

巳利は言い切ると、その場で深く頭を下げた。もうこれ以上は害する事はないと誓った通りに。

 

「───え、うわっ……!?」

 

すると見守っていた面々がこぞって劫戈を囲んで来た。

復帰した姿がはっきりと、彼ら彼女らの眼に映ったのだろう。劫戈と巳利のやりとりを余所に、歓喜に沸き立つのが解った。

 

「おにーちゃん、すごい!」

「頑張ったわね」

「あの日方を斃すとか、お前って奴は……!」

「わふっ!」

「恐れ入った、見事なり!」

「流石ですね! お義兄様!」

 

白い狼達に若い烏天狗集は、口々に賞賛の言葉を投げ掛ける。

烏天狗最強格相手に善戦して下した劫戈を賞賛する一同。集まる者達は喜んでいるが、その喧騒の中で茅だけは怒りを露わにしていた。

 

「おい! 劫戈!」

「え……茅?」

「何やってんだ! 無茶な戦い方をしやがって!」

「え……いや、あれは」

「御業を連発するとか、阿呆か!! 妖力欠乏になって当たり前だろ! 死にたいのか!」

「す、すみませんでした!」

 

茅の剣幕に押され、委縮する劫戈。遠巻きに見ていた五百蔵も咎めるような顔をしている。

 

「よくぞ凌いだ、と言いたいのじゃが、危ない戦い方じゃぞ、あれは。生きて帰るべき時には尚更、気を付けい」

「う……耳が痛いです」

 

自嘲気味に苦笑する劫戈。

逃げ場がない訳でもないのにも関わらず、目的を果たそうと躍起になるあまり、己の命を顧みない事をしでかした。全力を出し切る姿勢は好ましくても、自死を招く戦い方は褒められたものではない。まだ若輩である事は否めなかった。

 

拳骨でも落とすのか。五百蔵は渋い顔で、劫戈の元へ。

 

「じゃが」

 

しかし、五百蔵は穏やかに劫戈を労う。

 

「よくやった。お前さんは強い子じゃぁ」

 

それでも勝ちは勝ちだ。劫戈は五百蔵に優しい手つきで頭を撫でられた。

 

「日方相手によくぞ敢闘した」

「そうね。よく頑張ったわ、劫戈」

 

空将、光躬も続いて劫戈を讃え始めた。大妖怪に片足を入れていた日方を真正面から果敢に立ち向かい、見事打倒して見せた武勇を。

 

彼は褒められて思わず嬉しくなる。

 

「ありが……」

 

ありがとう、と言おうとした。だが続かなかった。

彼は口を噤んだ。喜びの感情は鳴りを潜めてしまったからだ。

 

「……」

 

劫戈は俯いて瞑想し、唸った。

 

その様子を多くの者は怪訝に思った。特に若い者達は。

 

劫戈の表情が歓喜でもなく、憤怒でもなかったからだ。

 

 

 

静寂が、その場を支配した。

 

 

 

そして彼は囲まれた中で寂しそうな、悲しそうな顔をした。

 

臨まれて応じた。自分の武威を示したかった。とは言え、実父を手に掛けたのだ。殺伐とした妖怪の摂理だが、心残りと言うものは少なからずあった。

 

この世に生まれ落ちてから今日まで。

生まれ、立場、感情、どれも複雑極まるが故に。

 

劫戈は呟くように声を絞り出した。

 

「……本当は、父とはもっと話をしたかったんだよ。……巳利、お前とも」

 

聴こえた巳利は無言で応える。彼は頭を下げたまま力を込めて瞑目していた。

 

(……己が神憑きでなければ、こんな事にはならなかった筈なのに)

 

内心で呟く劫戈だが、時間が戻る事はない。ただ進むのみ。地上の生き物は、己の領分の下で、止まらぬ時に従い生きるのみ。

 

その静寂の中で。

 

「劫戈」

 

そんな中、静寂を払うように光躬は言葉を投げ掛ける。肩に置かれた手はとても温かい。

 

 

 

──────。

 

 

 

「っ!」

 

劫戈は瞠目した。

向けられた彼女の眼は気遣いの籠った、慈しむものだった。

 

そこから察した劫戈は、悲しむのはいつでも出来ると思い留まった。

 

「そうだな……今は」

「ええ……───皆様!」

 

光躬は皆を見渡し、凛とした表情で声を張り上げた。重い空気を払うように。

 

「此度の懇談、思わぬ来訪者との一騎打ちと相成りましたが、見事、彼の劫戈が打ち破りました。───しかしながら、斯様な残党の横やりが起きた事を受け、我が方としましてはお時間を頂きたく存じます。お時間とは言いましたが、ご安心を。本日お集りのところ申し訳ありませんが、二度と起こさぬよう調整し、改めて懇談の場を持ちたいと思います」

 

佇まいは上位に君臨する姫のそれ。

伊達に女頭をやっていない姿勢で宣言した。

 

 

 

こうして、不安を呷る暗い出来事が起きたが光躬が頭を下げた事で、この出来事は落ち着く事となる。

 

 

 

白狼と烏天狗にとっての騒がしいその日は幕を閉じたのだった。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

寝床で目を覚ました巳利。

 

「……ああ、まだ明けていないか」

 

空はまだ、暗いまま。未だ、夜は明けていないらしい。

 

光躬以下派閥の管轄下に置かれて、与えられた仮の住まいでは簡単には休めなかったか。疲れ切っていたが故に、一足先に眠りに入ったものの駄目だったようだ。

 

己は生かされている。理解も納得も済んで、頭の中は透き通っている。

 

今や昼間以外の事を考える事は出来ず、実兄と実父の決闘風景を回想した。それはもう自らの生き方をひっくり返すほどの鮮烈さであったが故に。

 

終始、上位者に食らいつく未熟者。自身とて、届かぬ強者の実父に適うものか、とどこかで楽観視していた。

 

実兄は、腰に差した釼から恩恵を受けているとすぐに解った。背には烏天狗にしては大き過ぎる翼が何よりの証拠だ。

 

灰色の妖力は烏天狗ではあり得ず、総量も少ない異端児という印象は、長年定着したが故に簡単に払拭出来ない。白い狼の群れに拾われ、()の五百蔵に師事を受けたのならば、相応の力を得たと納得出来る。

直に会う事もあり、感じ取った妖力は総量に変化がなくても確実に強固になっていた。維持の仕方、練り出し方、平時でも均一を保ち続ける実兄の妖力制御は、自身にも劣るなどと口が裂けても言えない程になっていた。

 

戦闘の最中で、実証されたのだ。

 

妖力を発破させるという奇天烈な発想。

御業で追い込まれ、御業で返し、更に御業で対峙する雄姿。

 

まさに快挙と言えよう。これが同胞であれば、称賛ものだ。

だが、劫戈は違う。根底から何かが違うと、本能がそう叫んでいる。同一視してはいけない気がする。

 

そんな劫戈に対し、父は遠慮なく御業を披露する。

遂に明らかになる父の御業だ。木皿儀が繋いで来た妖怪の奥義であった。

 

祝詞を聞き及び、烏の体現を成す業だと理解した。我らの宵鳴きは凶兆を呼ぶとされ、事実それを体現した技と言える。

 

漸鵠殲(ざんこくせん)

あれこそ神格をも打倒する、風の化生が持つ本物の畏業なのだと。真の妖が起こす文字通りの災害だ。

漸鵠殲は、古く存在する巨嵐、台風の具現。それに意思を持たせ、自らの武器とする。鴻の啼き声が止む頃には、跡形も残さない。

 

かつて月に人が逃げたという古代において、妖怪同士で起きた生存戦争時に先祖が使った事があるという。

 

使われたという事は、本当の意味で、同等かそれ以上の御業しか返し技を持たない。

 

だというのに───。

 

得体の知れない御業を繰り出した。一瞬、劫戈の中に何かが膨れ上がったと思えば、まるで土砂崩れのように噴出していた。

 

それは、槭滅火(せきめっか)、というものだった。

 

嵐の釼が一瞬にして焔の釼へと変貌し、数多の衆生に死の恐怖を与える万物の火を使ったのだ。

(かえで)の如き赤は、山脈を一望して目に入る紅葉を表しているのだろう。脳裏に死の意識と山々一面に映える赤を連想させた。

その中には銀色があった。妖力とは言えない何か。その未知の力を感じ取り、生き物としての根底にあるものが震えた。身体が硬直し、冷や汗が背を伝うのを覚えている。

 

恐怖ではない。

憤慨でもなければ、悲嘆でもない。

 

そう、たった一つの念。

 

それは、畏れ。

 

その時には、全身全霊の父を見たという興奮はどこかへ消え去っていた。

 

どこか、跪きそうな、しかし忌避しそうな何かが心の中で渦巻く。

 

一体全体、どうなっているのか皆目見当もつかない。

 

広がる動揺に苛まれ、疑問がいくつも湧いてくる。

既に彼は奥義を体得していたのか。否、断じて否。では初めから使えたとでもいうのか。

そもそもな話、そのあり方を知ろうとも如何様に扱うかを教わっても尚、並大抵の妖怪では体得不可能な御業を、自然に放てる劫戈がおかしいのだ。

 

全く、ふざけている。

 

だが出来てしまえたのだ。実力がものを言う我々は素直に受け入れるしかあるまい。

 

そんな事を考えている間に奴は決定打を放った。槭滅火が父上の漸鵠殲を上回った時には、開いた口が塞がず、息も忘れる程の衝撃を受けた。

 

業火が父を焼き、致命傷を負わせた。ただでさえ、抗争で疲弊し、御業の連発で寿命を削る行為を重ねたのだ。もう助からないと解ってしまった。

 

父は、安堵していた。

 

妖怪としての畏怖を示し、最期を選んで散って行かれた。

息子としてはいつかは越えたい、と望んでいたからこそ悔しくて悲しかった。

 

同時に、最高の目標たる父を超えてしまった、超えるとは到底思えなかった実兄に先を越された事への憤慨が少なからずあった。

同時に、もう劫戈を覆す気力を失ってしまっていた。自分には劫戈を上回り、覆す力がない。文句しか言えないのだ。

 

父は安堵していた。邪魔な老人は轍を残して立ち去るのみ、と残して。

よくやった、と呟いたのは、どこかで劫戈に期待していて、己を超えてくれたからなのだろう。思い返せば、父は最後に敗北を認め、笑っていた事を鑑みれば、間違いない。

 

闘いを演じ、感じ取ったのだろう。長い事、研鑽を重ねた劫戈の事を。

 

烏天狗としては異質であるが、事実として大妖怪手前の若い強者。そういう事なのだろう。

 

ふ、と脳裏に過った。そういえば、と。

 

「……命の刃か」

 

その呟きは、妖力欠乏に陥った劫戈を助けた彼の感想だった。

 

彼が携えていた釼。

命名するなら、妖力の貸し借りが出来る命の釼だろう。そのあり方に関しては卑怯とは言うまい。事実、その命は束縛されておらず、劫戈の意思に応じていたのだから。

 

「銘は……」

 

巳利の脳裏には、分与した際の不思議な体験が蘇っていた。

 

白い狼の女性を。

 

 

 

 

──────

 

 

 

「え……はっ!?」

 

気が付くと不可思議な場所に立っていた。

真っ暗闇の空間。その中に自分を中心に仄かな明かりが照らされている。

 

「どこだ、ここは? どうなって……?」

 

おかしい。自分は妖力を欠乏した劫戈の治癒に従事していた筈だ。

見知らぬ場所にいる事に巳利は困惑したが、彼から少し離れた暗闇の中に、先ほど認識した白い狼の女性がいた。ただ暗闇の中に座っているのか、姿勢が低いうえに、視線を落としているようで顔は見えない。

 

不思議に思って近付いていくと、それに伴い明かりも移動する。

 

明かりの中に入り込む女性。

 

その全貌が明らかになると、何をしているのかが解った。

彼女は膝枕をしていた。力なく横たわる劫戈の頭を撫でながら。

 

穏和な雰囲気を放ち、慈愛深さを感じる。まるで幼子を包み込む母のような眼差しであった。

 

「貴女は?」

 

巳利は問いかけるが、女性は聞いていないかのように無視する。

 

「失礼……今、自分は実兄を救わねばならない任を帯びている。貴女の膝元にいる彼がそうだ」

 

すぐ傍まで移動し、彼女の前で問いかける。

 

「……救う?」

 

そこで初めて女性が反応した。救う、その言葉に。

耳が天を突き、伏せていた尻尾が荒々しく動く。次いで、赤い瞳がぎょろりと巳利に向いた。

 

「……散々、彼を罵り嬲ってきた貴方達がそれを成すと言うの?」

「っ!? 何を……」

「ずっと見ていたわ。私が彼に宿った日から。彼の中にある記憶も。寄って(たか)って、まるで餌を貪る禿鷹のように……なんと惨いこと」

 

冷たく鋭い視線で射抜かれた巳利。冷や水を浴びせられたように身体は動かない。

 

「でも致し方ないのでしょうね? 自分達は優秀で、それを証明する為に、誰かを虚仮降ろすしかなかった。彼が丁度良かったから」

「ぼ、僕は……」

 

突き刺さる、冷たい赤。その所為か、心の中に閉まった黒い感情が蠢いた。

 

「鬱憤晴らしに丁度良かった。心地良かった、そうでしょう?」

「やめろっ……!」

 

巳利の中で、遂に苛立ちが噴き出した。

 

「知った風な事を言うな!! 兄が凡愚なのは事実だった! だから僕に期待が伸し掛かった! 歴史ある木皿儀が舐められないようにするには、あれが手っ取り早い方法だったんだ! 津雲様とてそうだった! 兄が、妖として優れていれば……。あの時、思い留まらなければ穏便に済んだ筈なのに……!」

 

巳利はぶつけるように吐き出し続けた。今まで溜め込んだ黒い感情を。

 

「でも、兄は残り続けた。期待に応えようとした! そんな事出来ないと誰もが思っていたのに……! だから言ったんだ、そうしてきたんだ。無駄だから失せろ、と……!」

 

侮蔑、嫉妬、後悔。

 

「僕だって光躬様をお慕いしていた! でも、光躬様は兄を選んだ……! お情けを掛けられて!」

 

絞り出したのは、衝撃と悔恨。

 

「兄が全部持って行った! 大望を掴んだのは、優れていない筈の兄だった! 僕は優秀と言われても結局は駄目だった!」

 

至らなさへの慟哭。

 

「八つ当たりして悪いかッ!! 凡愚でしかなかった奴に、邪魔され続けた僕の心苦しさを知ったように語るなァ!!」

 

肩で息をするほどに巳利は激情を露わにした。この場は誰も見ておらず、この時は本音を吐露出来る故に。

全身から滲み出る闇色の妖気。初めて大きな感情を発露させたのだろう。高ぶりに応じて空気が震えたのは、日方の血筋である由縁か。

 

ともあれ、巳利は白い狼の女性に今まで溜め込んだ感情をぶつけた。いきなり現れて、劫戈を散々虚仮降ろした事を責めてきた。

だが、仕方なかったのも事実。巳利は幼い頃に、兄に向けられていた期待の矛先が一挙に向けられて精神的に落ち着く暇もなかった。唯一の安らぎは、恋した女子を眺める程度だった事。

 

「……」

 

ふと気が付くと、黙って聞いていた女性は冷たい表情を崩していた。納得したように、穏やかに。

 

「ああ……良かった」

「……何が?」

 

巳利は困惑した。黒い感情を叩きつけられたのにも関わらず、女性は嫌な顔一つしないどころか安堵しているのだ。

そんな巳利を余所に、女性は膝元の劫戈を撫でる。その手つきは幼子を労わるような慈愛の込められたもので、痛々しい眼の傷跡を気遣う仕草でもあった。

 

「貴方は解っているのね。そして悔やんでいる」

「え?」

「貴方の心には悔しい気持ちがあって、自分の無力さを恥だと思っている」

「それは……」

 

巳利は言葉を詰まらせた。目の前の女性との会話が、自分の為を想ってのものと気付いたから。激情が引っ込んでしまったのだ。

真っすぐ、女性は巳利を見ている。そう、見透かすように。

 

「やはり兄弟なのね。自分の非を認められる。好ましい事よ」

「……」

 

まるで母のようだ、と巳利は感じた。ただ実母はそんな事をしてはくれなかったと思い出す。父と同じように期待を向ける中、出来たら出来たで当たり前だ、では次もと言ってくる人であったから。

そんな家庭事情がある背景からか、気恥ずかしくて眼を逸らしてしまう巳利。

 

「自分に出来る事に全力で打ち込むところも、ね」

「や、やめてください」

 

ふふ、と微笑む白い狼の女性。

 

「貴方はこの子を救うつもりで来たのね?」

「……ええ。そうです」

「ありがとう。また喪わずに済むわ。お願いね」

「……貴女の名は?」

 

巳利は問う。彼女の名をどうしても知りたくなったのだ。

 

ふわり、尻尾が揺れ、悲しそうに眉が下がる。

 

「ごめんなさい。私はもう生者ではないから、その問いに答えられないわ。でもいつもこの子の傍にいるから解るでしょうね」

 

その言葉は、巳利に衝撃を与えた。劫戈が背負った(もの)の正体を知ったのだ。

 

「……まさか。貴女はあの釼───」

 

 

 

──────

 

 

 

その正体は、劫戈に宿る妖怪なのだろう。

彼女の魂と強く結ばれ、命の鼓動を助長させているのを感じ取れた。過去に、劫戈を助けるべく命を懸けたのだと察するのに時間は掛からなかった。

 

それだけではない、今や多くの先達に見守られているのが解った。

それ程までに大きな存在になっているのだと気付かされた。

 

対し、自分はどうだろう。順当に烏天狗社会で力を付けたが、何かしら大きな事をしていないし、特別なものを持っていない。

 

「僕は何を成しただろう……?」

 

地味だ。その一言に尽きる。

一族の為と陰で奔走し、胸を張った。しかし欲しい女の心を解せなかった。

 

光躬様に見向きもされないのも頷ける。

 

劫戈は違った。

 

這い上がって、吼えて見せた。求めた女の心に触れ、信頼を示していた。自分には出来ない事だったのは間違いない。

 

もう差は埋まらない。

 

「ああ……気が付けば、こんな様だな───」

 

言わなくても解る。実兄は最初からものが違う。それに甘んじる節はあるが、それでも相応に研鑽したのだと解る。それも含めて考えると、彼はやはり強者なのだ。

 

「……認めよう、木皿儀劫戈。我が実兄よ、貴方は強者だ。弱者と侮蔑した事、撤回する」

 

血筋を特別視しても、結局は平凡だった。

 

「光躬様……」

 

呟いて、初めて向けられた幼い笑みを思い出す。太陽のような笑みを。

 

そして心の中で決心する。

以降、自分は独り身でいよう。見合い話が来れば、種を撒く仕事と割り切る事にする。

光躬様への恋慕を直隠(ひたかく)しにして、横恋慕に徹しよう。もう、自分には相応しくはないのだから。

 

「……さて、明日から忙しくなる」

 

思考を切り替える。深く思考に耽っていたようだ。明日に備えねばならぬ。自分に課せられたものは多い。群れの繁栄に勤しむとしよう。

 

 

 

 

彼はあっさりと眠りに落ちていった。

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

その日の晩。夕餉を終えて、皆が寝静まった頃。

 

月夜の下、劫戈と光躬は樹木の大枝に腰掛けながら寄り添い合っていた。太陽のない闇元を月光と星々が照らし、二人だけの静謐を作り出している。

 

因みに樹木は、懇談の場を利用して一時的に張られた天幕から少し離れたところにある。大枝は人の胴体程に育った頑丈なもので、数人分は座る事が出来る。ここは誰にも邪魔されない手軽な場所だった。

 

そんな幻想的な風景を一望出来る場所ながら、劫戈は浮かない顔のままであった。

 

光躬は、劫戈の手を両手で優しく握った。包み込むように、労わるように。

 

「悲しまないで」

「……光躬?」

「日方……貴方の御父君は、討たれて本望だった筈よ。とても安心していたように見えたわ。きちんと貴方を認めたのよ」

 

彼女の慰めの言葉は日方の最期を強く思い起こさせた。

 

「悔やむな。誇れ───そう言っていたわ」

 

劫戈は、その言葉を言った父の顔を思い出した。

 

苦しむ事もなく、憤慨する事もなく───笑っていたのを。

頑なな烏天狗の特に鎗のような鋭い男が、一度捨て去った筈の子に向き合った事を。

 

あの時の思いやる心を思い出した。思わず、涙ぐむ劫戈。

 

「父上……」

「彼の人にはまだ向き合う心があったのよ。頑固な烏天狗だけれど」

 

日方の心情の変化は、彼の気まぐれによるものではなかったのだという。

 

「祖父を終わらせて、一派を追いやってから、心境の変化があったんでしょうね。でも貫き通す生き方しか知らなかった」

 

光躬は自身も津雲を抹殺し、日方らを僻地に追いやった事を吐露する。その結果、日方は封じ込めていたものを吐き出すように振る舞うようになった。

 

不器用な烏天狗だ。

 

「…………」

「あの後、解散してから部下に命じて僻地へ確認に向かわせたわ。残党は日方の証言通り自刃して果てていた……」

「貫き通す事しか出来なかった……か」

 

鎗のような男とはよく言ったものである。

 

ふう、と一陣の風。

暗い空気を払うように風が通った。

 

光躬は劫戈の頬に手を這わせる。見つめる赤い眼は、幼い頃から変わらぬ優しいものであった。

 

「今は悲嘆になるよりも、将来の事を見据えましょう。その為に私達は生きている」

「……なんだか、人間臭いな。その生き方は」

「人間だからと見下していては、いつか足元を掬われるわ。今の人間の政は私達より進んでる。力強さよりも賢い生き方をしているのよ」

「人間が、俺達よりも進んでいる……? 光躬は人間の生き方を知ったのか……」

 

信じ難いという風に劫戈は聞き返すと、光躬の得意顔を見て真実なのだと感心する。

 

「そうか……」

「ええ……」

 

二人は、互いに変わったと感じて笑った。ある種の終わりを感じたのだ。

 

旧きが終わり、新たな道へ。

 

劫戈の胸中に感慨深いものが到来した。今までの出来事───追放、邂逅、喪失、自覚、再会、死闘、死別───それらが脳裏に過る。つい昨日までの出来事のように思い出せるのは、彼にとって鮮烈な記憶であったからだ。

特に今回は、最も会いたかった光躬との再会と共に歩める可能性が確固たるものとしてやって来た事から始まった。更に、烏天狗と白い狼一族間の関係が改善されていく事にも繋がっている。

 

実に一石二鳥ものである。劫戈にとって親しい二つの群れが手を取り合うという大変喜ばしいものになってくれた。

 

遠く感じていた。

でも、再びこうして触れ合う事が出来ている。

 

「ねえ……劫戈」

 

劫戈の胸元にしな垂れかかる光躬の声で、はっと我に返る。白く細い柔らかな光躬の手を握り返した。

 

「どうした、光躬」

 

方や凡愚、方や天才。

這い上がった劫戈。求めて抗った光躬。

 

幼き日、望まれなかった二人の結び。

 

二人は、一つになる事を望んだ。否定する者を跳ね除ける、強い熱い想いが二人を引き合わせた。

 

かつて描いた絵空事、幻想に終わった筈の二人の仲は、今こうして実現したのである。

 

「やっと二人きりになれたね」

「ああ……そうだな」

「貴方が大きく感じられる。あの頃とまるで違う」

「まあ、あれから成長したしなぁ……」

「逞しくなってくれて私は嬉しいわ」

「そ、そうか? それは俺も嬉しいな」

 

そこから無言になった。次第に視線───赤い眼と灰色の眼───が重なり合った。じっと離さなくなる。

 

そして向き合うとゆっくりと吸い寄せられていった。互いの顔が眼前まで来ると、軽く啄むような接吻をした。

 

「本当に綺麗になったな、光躬」

「そう言う貴方は素敵になったわ」

 

ややあってどちらからともなく抱擁した。背の翼も加わって、互いに相手を包み始める。ただ劫戈の方が大きいので光躬の方が簡単に包まれてしまったが。

 

「温かい」

「……光躬は少し冷たい気がする。冷えたか?」

「違うわ。雌なんだもの雄に温めて欲しいのよ」

「っ!? こいつめ……」

 

腕の中でくすくすと笑う光躬に一瞬呆けた劫戈は一層抱擁を強めた。なんとも男が悦ぶ事を言うのだから劫戈も嬉しくなって笑った。

 

「劫戈」

「なんだ?」

「私と、夫婦になってくれますか?」

「もちろんだ」

 

その即答に、光躬は感極まって嬉し涙を流した。一筋の雫が頬を伝う。

 

「だけど嫁入り、か……?」

「私はどちらでもいいけれど、でも木皿儀を名乗るのは皆反対なのよ……お父様も反対していて」

「なら、俺が婿入りすればいい。それで解決だ」

「いいの?」

「ああ……もう未練はない。射命丸の名は慣れないけど」

「大丈夫。貴方なら」

「ありがとう」

 

婚姻に関しては劫戈が婿入りする事で落ち着いた。

 

彼は背を押された事で、木皿儀の性に未練は抱いていなかったが故に、円滑に決まった。ようやく劫戈と光躬は結ばれたのだ。

 

「……」

「……」

 

そして笑みが消えた。妙に甘い香りが劫戈の鼻を擽る。

 

「ねえ……」

「……ん?」

「しましょう?」

「……あー、今か……?」

 

艶やかな吐息交じりに問われ、劫戈は返答を濁した。

しましょう、と。察しが良ければ、何を意味するかは解る。光躬が劫戈に求めて止まない感情と行動を鑑みれば、今何をして欲しいのか言うまでもない。

 

しかし、寝静まっているとはいえ、ここは野外で、近場に天幕がある。耳鼻に優れる狼が多数寝ているのだ。羞恥心からそのような行為は憚れる。

 

「……後日じゃ駄目か?」

「いやよ、ずっと我慢してきたのよ。皆、私達の関係の事は解っているから、明日は堂々としていてね」

「えっ!? 待て……待て、光躬!」

「劫戈は嫌? したくない? ここまで来て、まだ我慢しろって言うの?」

「いや、それは……」

 

不満げに上目遣いで詰め寄る光躬。

対し、雌に求められて雄としては嬉しい劫戈だが、理性が制止を掛ける。

 

「それとも自信がない? 大丈夫。私も経験なんてないわ」

「そういう問題じゃないんだよ! 寝てるから、皆が!」

 

劫戈は未経験だが、知識と本能から何をどうすればよいかは理解している。それによって生じる音や臭いは、こっそりやるわけにもいかないものだ。誤魔化しが利かない。

 

「……ご、後日にしよう……な?」

 

頬に添えられた彼女の手をやんわりと握って返答する。

正直に言えば、彼もしたかった。とはいえ、安易に状況に流されてはならないと自制が利いてしまい、もどかしく思っていた。

 

「そう……今の貴方がその気でないのは解ったわ」

 

残念そうに俯く光躬だが、その赤い眼が妖しく光っていた。

不穏な気配を感じ取った劫戈は、顔を引き攣らせながら問う。

 

「光躬……?」

()()()()()()()()()()

「え──────っ!?」

 

瞬く間に、劫戈の視界は艶やかな黒に彩られ、鼻や肌は蕩けるような甘い感覚に襲われた。齎された快感が突き抜け、それを理解した瞬間、彼の中に眠る雄が歓喜し、本能が目の前の雌を認識して───。

 

 

 

その晩、二人は夫婦の契りを交わす。押し殺した嬌声と水気を含んだぶつかり合う音が響いた。

 

 

 

結局、彼の自制が意味をなさなかった。一挙に削り取られた理性は、役に立たずに終わったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……こんな時に。気の早い、仕方のない娘だ」

 

ある御仁は横になって寝ずの番をする傍ら、響いてくる情事の音を無視した。

 

夜明けはまだ遠い。願わくば、娘の性欲の強さに腰を抜かさないで欲しい、と彼は胸中で思った。

 

 

 

 

 

 

 

◇○◇

 

 

 

 

 

 

 

遥か天空。

 

地上を見やる、眩い焔を纏う黄金の女神がいた。その眼は穏やかで、我が子を見守る母のように佇む。

 

 

『……我が愛し仔は契りを結んだか』

 

 

ふう、と安堵する女神。

 

 

『まこと喜ばしい、無限の時を生きる我ら。汝らに幸あらんことを……』

 

 

そう言って微笑む。細められた目は、安堵と慈愛が宿っていた。

 

 

───が、その顔は一変した。

 

 

『しかし、(とき)は待ってはくれない。旭の軍神も憂いておられる』

 

 

女神は険しく顔を歪めた。自らの非力さを嘆くように。

 

 

『それまでは仲睦まじく、己の領分の下で栄えよ』

 

 

 

 

 

 

そこへ歩み寄る人影が一つ。雄々しい巨大な覇気を持つ存在、鬼を思わせる偉丈夫だ。

 

 

『───ここにいたか、迦楼羅(かるら)

羅刹(らせつ)か』

 

 

女神こと迦楼羅───婆羅門、護法十二天が一柱、鳥類を統べる神は、羅刹と呼ばれた男神を一瞥する。

 

 

『時間だ、始まるぞ』

『しばし……しばしの間だけ待ってはくれまいか。この眼に刻んでおきたい』

『……迎えに行ってやればよかったろうに』

 

 

羅刹は呆れながら、迦楼羅の末裔を見た。

天空からでは米粒にも満たぬ大きさにしか見えないが、距離を問わぬ神眼は見たいものをしっかりと視認可能である。

羅刹は冷静に分析する。邪なるものを焼き殺す黄金の焔は受け継がれなかったが、代わりに神妖独自の銀色の力が宿っていると。

 

 

『今や地上の妖怪であっても貴様の血を引く末裔で素養も高いならば誰も否定はせぬ。寧ろ、貴様の加護を持つ以上は地上では生きにくいだろう』

『いや……我が(かいな)では()いてしまう。直接触れられぬ』

『だから待っているのか』

『……なんのことだ?』

『あれが代行者になりうる力を付けるまで待っているのだろう? 覚醒すれば神格が触れても害される事もない。あわよくば後継者にも出来る』

『……』

『まあ、そういう事にしておく……』

 

 

まあ無理もないか、と羅刹は続けて呟いた。これから起こる事を考えれば已む無し、とも。

 

 

『さあ、行くぞ。事が終わり次第、また見に来ればいいだけだ』

『……───わかった』

 

 

地上観察を切り上げて踵を返すように、二柱は自身がいる場所よりも遥か上空を見た。

 

 

 

 

 

 

見据えた先には未知なる深淵が映っている。澄み渡る青空に、一点、異質な黒いものが顕れた。

 

泥水のように空を汚して浸透するそれは、得体のしれない何かが這い出て蠢いており、今にも何かが飛び出してきそうであった。

 

 

 

 

 

 

『我が子孫には指一本触れさせぬ……覚悟しろ!』

 

 

咆哮する迦楼羅天は邪龍殺しの焔翼を拡げた。これから一戦交える為に。

 

 

『来るがいい───外なる神よ!』

 

 

 




───第二章 了───

ここまでお読みくださり、ありがとうございます。

こんな結末ではありますが、ここで第二章は終わりと致します。
ハッピーエンドをご所望の方々は、ここで終わったとして下さい。

さて、ここで一部設定を補足しておきます。
最後に出てきたのは、インド神話の迦楼羅天で、これまで登場していた女神です。
拙作における烏天狗は、迦楼羅天の子供達の末裔が妖怪になったという設定。そして、その血筋である劫戈は先祖返りとも言える体質で、迦楼羅の加護を受ける“神憑き”になりました。また迦楼羅の思惑で、色々と間接的にフォローされていました。
その理由は、まあ本分最後のでお察しください。

この結末と設定には賛否両論があると思いますが、それが伝説のハローワールドという事です。

ここまで来るのに長い時間を掛けましたが、更に時間を要するでしょう。基本、遅筆なので余計に。
またこれ以上のアイディアが出ず、書けなくなってしまいました。更新を止めてじっくり再構成を考えつつ、書きたくなった新しい小説に注力したいと思います。



余談ですが、烏天狗に限った話ではありませんが、有翼人って凄いですよね。飛行しながら出来ちゃうんですよ、所謂スカイプレイ。まあ、安全面は別として。

では、これにて。




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