粧説帝国銀行事件 (島田イスケ)
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シンデレラ

クルマはピカピカのパッカードだった。今の日本で自動車と言えば、進駐軍の兵士が乗るジープか、オンボロのトラックか、バスだ。泥がこびりつき、(ほこり)にまみれているものだ。

 

〈乗用車〉というものはこの国の道を走っていない。けれどもそいつは乗用車で、夏は終わったがまだ強い九月初めの陽射しを受けて輝いていた。黒塗りの車体にクロームの飾り。すべてが磨き上げられている。

 

だが乗るまでが(ひと)苦労だった。弁護士に囲まれながら平沢(ひらさわ)が警視庁のビルを出た途端、待ち構えていた報道陣が津波のように押し寄せてきたのだ。

 

「平沢さん、何か一言(ひとこと)!」「今のお気持ちは?」

 

てんでに(わめ)き立てる。「大金の所持について説明を!」「詐欺のお金を浮浪児に配ったというのは本当ですか?」などという声も聞こえた。そして何十というカメラ。レンズがこちらに向けられて、シャッターが忙しく切られる。

 

平沢はその中を弁護士団に護られながら抜けてパッカードに向かった。カボチャの馬車に乗るため急ぐ灰かぶり姫(シンデレラ)の心境だった。この釈放がいつ取り消しになるかわかったものではない。クルマに乗り込む寸前呼子(よびこ)の笛が鳴り、『今度こそ決定的な証拠が出たぞ! そいつを行かせるな!』。そんな声が背後から聞こえるのではないかという恐怖に脚がもつれて靴が脱げ落ちそうだ。

 

車道に止まるパッカードまで10メートルもありはしない。だがその距離を遠く感じた。近くに見えてもたどり着くことのできないもののように。

 

「平沢さん! 建築中の家を放って七か月も――」

 

などと怒鳴るブン屋の声。対して弁護士が、

 

「平沢画伯(がはく)の容疑はすべてデッチ上げです! これは人権の蹂躙(じゅうりん)であり、芸術への冒涜(ぼうとく)に他なりません! 警察の捜査は違法なもので、画伯は陰謀の犠牲者なのです。戦前の特高(とっこう)と何も変わるところがない! これは絶対許せぬことで、潔白が証明されたからいいというものでありません。今度の件をわたくしはどこまでも追及、糾弾(きゅうだん)する考えであります!」

 

とかなんとかと叫び返す。だが平沢はただただこの場を逃げ去りたかった。それ以外に何も考えることができない。

 

弁護士の後に続いてクルマに乗り込む。後に別の弁護士もまたクルマに乗り込んでくる。報道陣が道の先を塞いでいるが、

 

「いいから出すんだ!」

 

弁護士のひとりが言った。パッカードが人波を掻き分けながら発車する。

 

車内は席が向い合せになっていた。前に三人、後ろに三人が膝突き合わせて座る格好だ。運転席との間はガラスで仕切られている。平沢は後列の真ん中で、弁護士五人に取り巻かれるかたちとなった。

 

「いやあ良かった。危うく事件の犯人にされるところでございましたね、平沢先生。しかしわたしが弁護人になりましたからは、どうぞご安心ください。官憲どもにはこれ以上、指一本でも触れさすものではありません」

 

とひとりが言う。平沢が「はあ」と応えると、

 

「えーえー、そうでございますとも。わたしが弁護人になりましたからは、大船に乗ったつもりでいてくださいませ。てんぷら()大家(たいか)にして日本画壇(がだん)の至宝であられる平沢大暲(たいしょう)大先生を必ずお護りしてみせます。先生のためであるならたとえ火の中水の中、B-29の空襲の中というものでありまして、たとえ命に代えましても……」

 

「平沢先生、わたしは先生の無実を固く信じておりました。平沢先生ほどのお方が、人の道に外れることなどするはずがない。ましてや帝銀事件などと。有り得ぬことだ。不心得な探偵どもが、なんというたわけたことをと怒りに震えておりました。しかしわたしが弁護人になりましたからは……」

 

「これは人権侵害です。民主国家の名に恥じることです。平沢先生。わたしは今度の件について、堪忍袋の緒が切れました。警察が先生にしたことは許せない! 許しては決していけないことなのです。わたしは戦います、先生。先生のために、先生のために、平沢先生のためにです。たとえ国家権力が相手だろうとわたしは退()かない!」

 

「先生。わたしが弁護人になりましたからは……」

 

と他の四人もまくしたてる。全員、しゃべるのを止めたなら途端に死ぬ病気でもあるかのように口を休めることがなかった。『お前はそういう病気なのか』というのは平沢自身が人生の中で人から言われ続けてきたことだが、その平沢が、『あ』とか『い』とか口を挟む隙も余裕も暇もなかった。さすがにそれを生業(なりわい)とするプロの力は違うようだ。

 

ただ、弁護士の話というのは、聞いておもしろいものではなかった。五人が五人、同じ主張をひたすらエンエン繰り返すだけだ。彼らの話は〈話〉ではなく、自分の頭で考えて出す言葉はひとつもなく、他人にもらった決まり文句を大声でツバを飛ばしてギャンギャンギャンギャン喚き散らすだけなのわかる。

 

2分もすると平沢は彼らのツバでビショ濡れになった。この連中が自分を釈放させたものとは思えなかったが、

 

「しかし平沢先生、ひょっとすると今度のことは、先生にとってかえって良かったかもしれませんよ」

 

とひとりが15分ほどがなり続けた後でようやくちょっと疲れた調子に言った。他の者らが「なにおうっ?」と血相変えてまた怒鳴ったが、

 

「考えてもみてください。先生の名がこの件で広く知られるようになったのです。日本だけでなく海外の新聞にまで平沢貞通(さだみち)の名が書かれ、十億人が今それを読んでいる……」

 

と彼が続けて言うと、他の四人の顔つきが変わった。

 

「おお、そうだ!」とまたひとり。「これまでは、日本はともかく外国では先生の名は知られてなかった。しかしこれからは違う!」

 

「そうだ! きっと世界中から、先生の絵を求める人間が我も我もと集まってくる! オークションで何万ドル、何万ルーブルの値が付けられて――」

 

「おお! そうだ!」「そうですとも!」

 

クルマの中で五人が手を振り回し、席からぴょんぴょん飛び上がって天井に頭をぶつけたり、その場でグルグルグルグルとでんぐり返したりし始めた。うちひとりは右の窓からニョロニョロと走るクルマの外に出て行ったかと思うと屋根の上でタップダンスでも踊るらしい音をしばらくさせてから左の窓からまたニュルニュルと戻ってきた。ついてはわたしを法律上の相談役に。何を言うんだこのわたしがと、互いに押しのけ合いながら狭い車内でさらに平沢にくっついてくる。全員が平沢の靴を今にも舐めそうだ。

 

平沢はただ茫然として、そんな彼らのさまを眺めるばかりだった。ついさっきまで絞首刑で死ぬのはもちろん、画家としての生命も絶たれたものと思っていたのだ。それがこうしてこんなクルマに乗ってることも信じられない。頬をつねれば目が醒めてすべては夢であったということになるのじゃないか。このクルマもカボチャに変わってしまうのではないかと怖くてならなかった。

 

が、それも(つか)()だ。自分を囲む者達の言葉をようやく理解したとき、雷に打たれたような衝撃が身を包み込んだ。世界中からおれの絵を買いに人が集まるだって? オークションで何万ポンド、何万フラン、何万クローナの値段を付けて売られるだって? 描けば描くだけガッポガッポとカネが入る?

 

そうだ、そうなるに決まっている! 勝ったぞ、と平沢は思った。画家生命は終わりだと思わされた瞬間は、手錠を掛けられ、東京まで連れてこられたこのあいだが初めてじゃない。12人が死んだと知ったあの日から。いや、それより前からずっと、何年も十何年も毎日がその繰り返しのようであったが、しかしこれからは違う。遂におれは勝ったのだ。

 

そう思った。「そうだ!」と叫んだ。体の奥から次々に言葉が溢れ出るのを感じ、平沢もまた弁護士達に負けない声で勢い良くしゃべり始めた。パッカードはまだ見ぬ彼の自宅がある中野(なかの)に向かっているようだが、

 

「これからはぼく自身は絵を描かず、若いもんを十人ばかり雇って出来のいいやつにぼくの銘を入れて出す。それでやっていきたいですね。絵描きどもには一割もくれてやればいいだろうから……」

 

「ほう、なるほど、そんな手が。さすが大家(たいか)と呼ばれる方は違いますね」

 

「うわはっは。『ぼくが描いた』とぼくが言ったらぼくが描いた絵になるでしょう。それは贋作(がんさく)と違うわけです」

 

「素晴らしい。そのときはぜひわたくしに……」

 

などと話しているうちに、

 

「おや、どうやらそろそろですね」

 

とひとりが言った。気づけばクルマは中野の道を走っていて、平沢の家への角を曲がるところになっていた。すると通りの先にたくさんの人がいる。

 

「おお、先生、ご覧ください。先生のためにあんなに人が……」

 

二百から三百人はいるだろうか。確かに平沢の家の前だ。大群衆と呼ぶべき人で道が塞がっている。平沢の帰宅を知って出迎えに来た人々に違いなかった。

 

弁護士達が両側の窓から身を乗り出した。「やあやあ皆さん、どうもありがとうございます。平沢画伯がここに帰ってまいりましたあーっ!」などと叫んで笑顔で手を振る。

 

そうしてクルマは進んでいった。その先にいる人々も応えるように手を振り上げる。

 

が、次の瞬間に、飛んできたのは歓声でなかった。何か実体のあるものだった。何百という小さな物体。

 

それが雨か(あられ)のように飛んでくる。そして当たった。パッカードの車体と手を振る弁護士達に、カウンターのパンチとなって。

 

石だった。無数の石を群衆がパッカードに投げつけてきたのだ。フロントガラスに蜘蛛の巣状のヒビがバチバチといくつも入る。まともに喰らった弁護士達がぎゃっと叫んで身をハネさせる。車体にもガンガン当たって傷や凹みだらけになったものらしい音と振動が伝わってきた。

 

そして、声だ。「人殺し野郎ーっ!」「町を出てけーっ!」そう叫ぶ声。自分を迎える者達が(つぶて)とともに投げる怒声を平沢は聞いた。



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うどん

〈乗用車〉というものは今の東京を走っていない。走っていても日本人は普通乗れない。〈戦後〉の道を()き交うのは路面電車と〈(りん)タク〉だ。馬の代わりに自転車が引っ張る馬車のようなもの。ペダルを漕ぐのは日本人だが、しかしそれすら普通の日本国民には乗れない。

 

接収住宅に住む白人が家族で乗るものと決まっている。そうして日本の道を走る。町のようすをのんびりと眺められるスピードでだ。町と言っても並ぶのはどこへ行っても露店であり、人がものを買っているのが輪タクの席から見て取れる。戦勝国の人間が馬に劣るが馬より安い労働力の人足(にんそく)が引く車で彼らの子供に敗戦国とはどういうものかわかるよう眺めさせてやりながら通るためにあるのが今の日本の道だ。標識はすべて英語で書かれている。

 

日本は敗戦国であり、古橋(ふるはし)七兵衛(しちべえ)も勝負に敗けた人間だった。普段は飲まない酒を露店で飲んでいて、干したコップを置いて「お代わり」と店主に言ったが、

 

「そのくらいにしといた方がいいでしょう」

 

「まだ二杯しか飲んでない」

 

「二杯()れば充分ですよ。それ以上は眼が潰れるかもですよ」

 

古橋が黙っていると、

 

「わかってくださいよ。ウチは別に酒を飲ます店じゃない。うどんを食わせる店なんですから」

 

「じゃあ、うどん」

 

と古橋は言った。刑事になってからずっと、麺を口にしたことはない。それは長シャリというものであり、事件捜査を長引かせるものだからだ。もしもうっかりサア食べようとしたところで、『殺しがあった』といって呼ばれでもすれば、丼を置いてすぐさま現場(ゲンジョウ)に駆け付けなければならない。それが仕事だが、戻ってきたときその麺は戦時中の水団(すいとん)よりひどい食い物になってるだろう。だから蕎麦だのうどんだのといったものは食べないと決めた。

 

これまでは。けれど、構うものかと思った。どうせこれから先に刑事(デカ)の仕事など、おれにはもうないかもしれない。ならばゲンを担ぐのになんの意味があると言うのか。

 

「あいよ。うどん一丁ね」

 

言って店主はうどんの玉を鍋に入れて湯がき始めた。それから、「一緒にタマゴはどうです」と加える。張られた札に眼を走らすと、うどん一杯が伍圓(ごえん)に対して玉子一個が六圓とあった。うどんよりタマゴの方が高いらしい。

 

「いいよ別に」

 

と古橋は言った。振り返って通りを眺める。路面電車が警笛を鳴らしながら過ぎていく。街は宵の口だった。九月の初めともなれば、昼の間は暑くともこの時間には涼しく感じる。

 

こんな露店の中にいれば尚更だ。古橋は肌寒いほどに空気を感じた。

 

平沢の野郎、今頃どうしていやがるんだろうなと思う。おれと違って勝利の美酒に酔いしれているわけだろうか。しかしあいつは捕まえたとき、参拾伍圓(さんじゅうごえん)しか持ってなかったはずだが。

 

だからええと、うどんは七杯しか食えない。タマゴ付きなら三杯しか食えない。それでどうするつもりか知らんが、あいつのことだ。また人をだまくらかしてうまいことやっていくのに違いなかろう。

 

この事件はGHQの実験であるがゆえに解決不能。検察までがそんな結論を出してしまったからにはもう……。

 

「うどんお待ち」

 

丼が卓に置かれる音とともに声がした。古橋はどうもと言って向き直った。箸を取る。蕎麦なら刑事になる前によく食っていたものだが、しかしうどんというものを食べてみるのは初めてだった。

 

これがうどんか、ずいぶんと太いもんだなと思いながら箸でつまんで、まず一口食べようとする。そのときだった。

 

「ミスター・フルハシ?」

 

背後から声が聞こえた。英語らしい。ガイジンさんがいつの間にかすぐ後ろに立ったらしいなと思ったが、自分に関係あることとまったく考えなかったので気にせずそのままうどんを食べることにした。一口目を口に入れる。

 

その途端だ。「ヘイ」という声とともに背中を小突くようにされた。うどんをすすり込もうとしていたところだからたまらない。

 

古橋は汁とうどんにむせてゲホゲホと咳き込んだ。振り返ると男がひとり困ったような顔で立ってる。

 

白人だ。いくら涼しくなり始めたと言ってもほんの少しでしかない時節にスーツにネクタイ姿。

 

そしてその後ろにジープが一台止まっていた。運転席にもうひとり、《MP》と書いたヘルメットを被った軍服姿の白人。これは一目(ひとめ)憲兵(ミリタリーポリス)とわかる。

 

「なんだ?」

 

と古橋は、丼と箸を手にしたまま言った。スーツの男はペラペラペラと何か言ったが古橋には何かわかるはずもない。

 

そこへうどん屋の主人が、「『ミスターふぐ刺し』とかなんとか言ってるみたいですけれど」

 

「おれは食ってるとこだと言え」

 

「知りませんよそんなもの」

 

ペラペラペラペラ。

 

「お客さん何か悪いことしたんじゃないですか」

 

「だからおれは食ってるとこだ」

 

古橋は箸と丼を持ったままに男を睨みつけた。男はスーツの内側に手を突っ込んだ。進駐軍の人間はそこにコルトのなんとかいう拳銃を仕込んでて、何かといえば抜くという話を聞いたことがある。

 

だからひょっとしてそれかと思った。しかし違った。その男が取り出したのは紙幣を束ねてクリップで留めたものであり、一枚抜いて卓に置いた。

 

聖徳太子の百圓札だ。それから男はうどん屋の主人に向けて何か言った。古橋にはもちろん理解できなかったが、しかし今度はなんとなく意味が理解できるような気がした。うどん屋もまた男の言葉を理解したように古橋に見えた。

 

『この男を丼ごともらっていくぞ。これで足りるな』と言ったのだろう。もちろん足りるに決まっていた。



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マサ

『皆さん! 皆さんは間違っています! 平沢画伯は潔白が証明されたのがわからないのですか!』

 

弁護士が声を()らして叫んでいる。声を嗄らして叫んでいるが、叫ぶと石を投げられるので、家の中から壁越しだ。ガラスがみんな割られてしまった窓から石が飛び込んでくる。

 

パッカードは平沢と弁護士達を降ろした後で群衆に蹴飛ばされたり棒で殴られてボコボコにされたりしながら逃げ去っていた。棒を持つ者が平沢を本気で殴り殺す気でいたならば平沢は殴り殺されていただろう。あるいは首に縄かけられて木の枝に吊るされてるか、簀巻きで川に流されているかだ。幸いにしてそこまでのことにならなかった。平沢は家に駆け込み、窓に石を投げられているだけで済んでいる。

 

これまでのところ。『構うこたーねえ、火ぃ点けて全部燃やしちゃおうぜ!』なんて声も聞こえてくるが、

 

『平沢画伯は日本画壇に確固たる地位を築いておられるそれは立派なお方なのです! そんなお人が悪いことなどするはずあると思いますか!』

 

弁護士がまた叫んだ。途端に石がまたガンガンと投げつけられる音がして、

 

『見ろ! こいつも同罪だ! まとめて焼き殺すしかねえ!』『おう! そうだそうだ!』

 

などと声が聞こえる。しかし口だけで、ほんとに火を放つ度胸を持つ人間もなさそうだった。

 

これまでのところ。しかし、

 

「どーすんのよ」

 

とマサが言った。平沢の妻だ。7ヶ月ぶりに亭主が帰ってきたというのに、

 

「あなた、どうしてこの家に来んの。こういうことになるっていうのがわかんなかったの。まったくもう」

 

「ここはおれの家だ」

 

「へーえ」と言った。「そうだったの? 居候(いそうろう)にでもなろうっていう人かと思った」

 

「あのな」

 

「それとも、下宿人かしら。お金入れない人を置く余裕なんかないんだけど」

 

「カネは入れたろう」

 

「いつのことよ。7ヶ月前。帝銀事件の2日後のこと。確かにもらいましたわねえ。八萬。それで全部かと思えばもう八萬圓、偽名で預金してたんですって? 他に何人か借金返した人がいたりー、伊豆にご旅行あそばせてたりー、()萬かそこら余計に持ってたことが突き止められてるんですって? アラ、合計ジューマチ萬圓! そりゃ新聞も書き立てるわねえ!」

 

「そのお金は……」

 

言ったところで、

 

『先生は春画(しゅんが)をお描きになられたのです!』と弁護士が群衆に叫ぶ声がまたこちらの壁越しにも聞こえてきた。『わたくしにだけ先生は、真実を話してくださいました。拾八萬は春画を描いて得たカネなのだと! 恥ずかしくて言えなかったが、弁護士にだけは話すと言ってわたしに打ち明けてくれたのです! だから先生は無実なのです!』

 

「そうなの?」

 

とマサ。『あの野郎』と思いながらに平沢は、

 

「そんなわけないだろう。春画なんか千圓にもなるもんか。あいつら何もわかっとらんのだ」

 

「そうよねえ。ってゆーか、あなたが描いたんじゃ、百圓にもならないんじゃない?」

 

グサッときた。もちろん、それが事実だった。さらにマサは続けて言う。

 

「あなたの絵を買う人は、文展(ぶんてん)無鑑査(むかんさ)大家(たいか)が描いた絵ならばなんでもいいっていう人でしょう。社長室の壁にとにかく高い絵を飾って人に見せたい人よね。そういう人がなんで春画に高いお金を出して買うわけ?」

 

「うるさい。だから春画など描いてないって言ってるだろう」

 

『わたしは先生のその絵を見ました!』と弁護士の声。『まさにウタマロ、いや、至高の芸術作品そのものでした! しかし現代の日本では、男と女がまぐわう絵というものはただ猥褻(わいせつ)烙印(らくいん)を捺されてしまうだけでしょう。だから先生は「描いてない、描いてない」とお言い張りになられるのです。けれどもわたしには、本当のことを話してくれた。その絵も見せてくださったのです!』

 

『だったらオレにもその絵を見せろーっ!』

 

『いえ、ですからそれはですね、弁護士には守秘義務というものがありまして……』

 

「嘘をつくから突かれた時に答えることができなくなるのよ」マサは言った。「いつもあなたに言ってきたよね。あの弁護士はあなたと同じね。自分で自分をまずい立場に追い込んでる」

 

「なんだよ」と言った。「ああ? お前も、おれが事件の犯人だと思ってるのか」

 

「どうかしら。違うと言えるの?」

 

「違うと言えるよ。やってない。天に誓っておれは事件の犯人じゃない。完全に潔白だとお釈迦様に向かって言える」

 

「ふうん。とにかく、出てってくんない? ここをあなたの家と思わないでほしいんだけど」



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Aアヴェニュー

古橋とうどんの丼を乗せたジープはタイムズ・スクエアを抜けてAアヴェニューに入った。つまり銀座・有楽町界隈を抜けて皇居の濠端(ほりばた)だ。横に皇居の石垣と森、反対側に戦前からのビルが並ぶ大通り。

 

〈日比谷通り〉と元は呼ばれていた道だ。しかし現在、東京都心の道はすべてが占領軍になんとやらアヴェニュー、かんとやらストリートと名前を変えられている。〈Aアヴェニュー〉はA、B、C、D、Eアヴェニューと彼らが名付けた通りの中で第一の道。

 

戦争中に米軍は皇居とその周辺に空襲をかけることがなかった。焼夷弾で焼かれたのは貧乏人が住む区域だ。爆弾で吹き飛ばされたのは学校や、服や歯ブラシを作る工場(こうば)だ。戦闘機が銃撃したのは列車や路面電車であり、そこから出てきて逃げ惑う人々だった。千発のタマを収めた弾倉を(から)にしないで基地や空母に戻るわけにはいかないからと。

 

それが飛行機乗り達が上から受けていた命令。けれども皇居周辺にそんな雨が降ることはなく、濠を囲む天皇陛下万歳なビルは全部が陛下万歳な顔のまま建っている。ただし英語の看板を付けられ、アメリカ、イギリス、オーストラリアの旗を屋上に掲げさせて。

 

ビルが無傷で残っているのは、GHQが国を占領した後で使いたいと望んだからだ。日比谷通り――かつての帝国主義国家日本の中枢だった通りは今、連合国の日本占領政策の中枢へと変わっていた。濠端にはスチュードベーカー、オールズモビル、ビュイック、リンカーン、パッカード、キャデラック、ロールスロイス、ベントレーといった高級乗用車がズラズラと合わせ鏡を見るかのように止まっている。今の日本で乗用車というものは道を走るものではない。走っていても人が見かけるものではない。だがあるところにはあるものだ。

 

もっとも、車種の見分けなどできない古橋からすれば、たんに全部が〈高価(たか)そうなクルマ〉としかわからぬが。ジープは通りを南下しており、(ほり)の周りをこのまま行けばZアヴェニューに折れ曲がって桜田門。警視庁捜査一課の刑事である古橋にはこれは見慣れた光景でもある。

 

ジープに乗ってうどんを食べつつ、などというのは初めてだが。古橋を無理に後席に座らせて自分は助手席についた男は、それきり話しかけてもこない。ジープの運転手も何も言わない。どうせ口を利いたところで英語では古橋にはわからないが、それにしてもなんだというのか。

 

いや、心当たりはある。白人さんが今日のこの日におれに用があるのならそれはあいつの件しかあるまい。だからあいつの件だろうと察しはつくがしかしなんで……。

 

それにおれをどこに連れてく気なんだろう。やっぱり先の角を曲がって桜田門の警視庁ビルか。まさかこのまままっすぐ行って、〈アーニー・パイル劇場〉とやらの中に入れてくれるわけでもあるまい。

 

などと思いつつうどんを食べ終え、つゆまで全部飲んだところでちょうどジープが速度を落とすのがわかった。道の傍に寄せて止まる。

 

皇居内濠(うちぼり)の南端手前。Zアヴェニューとの交差点前だ。助手席の男が振り向いてきて何か言った。

 

『着いたぞ。降りろ』

 

と言ったのだろう。自分が降りて古橋を(うなが)すような眼で見てくる。

 

「ここ?」

 

と言った。まさか、と思いながらに古橋はそこにそびえるビルを見上げた。

 

〈ビル〉と言うよりまるで要塞。(ピカ)が落ちてもビクともしないのではないかと思えるシロモノだった。国に内乱が起きたとき、陛下を護る砦となるため建てられそこにあるかのような。濠を囲むビルの中でも一際(ひときわ)威圧的な構え。

 

けれどもそれがもともと猿が持つのには似合わぬものだとばかりに今は白人に使われている。〈第一生命ビル〉だった。今は簡単に〈ダイイチビル〉とだけ呼ばれる。

 

GHQ(ジェネラル・ヘッドクォーターズ)の本部となる建物として。つまり、こここそが総司令部(GHQ)。進駐軍の日本占領政策の中枢の中の中枢だった。連合軍最高司令官(SCAP)ダグラス・マッカーサーの城として執務室が置かれる建物。古橋は今そこに、自分が連れて来られたのだと知った。



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小説

「古橋さーん、電話だよーっ!」

 

と長屋のおかみさんが自分を呼ぶ声がしたとき、古橋は部屋で小説誌を読んでいた。

 

午後6時過ぎ。1月の日が暮れたばかりで夜は若く、古橋は29歳だった。読んでる話はおもしろかったが、苦々しい気分でもいた。アメリカのニューヨークを舞台とするサスペンスもので、無実の罪で死刑判決を受けた男が牢の中で〈その日〉を待ってる。外では彼を救おうとする女が事件を追っている。

 

のはいいのだが、男がかけられた濡れ衣が25くらいのまだ若く美人の妻を殺した罪で、彼を救おうとしているのが20くらいのよりピチピチした女なのだ。どうしてそういうことになったかのいきさつが書かれてないのだが、しかし冤罪死刑囚氏は、事件の前により若い女の方に『妻と別れてキミと結婚するヨ』とかなんとか言ってたらしい。だから彼女は不倫の恋の相手であるそいつを救おうとしているのだ。

 

そこが古橋は気に入らなかった。そのうえ、なんとこの男は、妻が殺されていた時刻に別の女をナンパして、街で遊んでいたのである。だからボクは無実です、ナンパ相手を見つけてください! というので不倫相手の子は幻のナンパ相手の女を探す。

 

という話なのだがつまり全体が古橋の気に入らなかった。こんな男は無実でも別に死刑でいいんじゃないか。見捨てろ。浮気とかナンパとか、することのない男を見つけろ。それがキミのためじゃないかと、ヒロインに対し言いたくなる。殺しはともかく、キミはこの男に騙されてるんじゃないかな。一緒になってもすぐ正体を現して、5年後にキミは捨てられるんじゃないのか。

 

だから真犯人(ホンボシ)を捕まえるのは、こいつの死刑が執行された後の方が良くないか――そんなふうに思えてならない。この小説がアメリカで出たのが今から6年前。1942年らしいがあの戦争中にこんなものが読まれていたのか。まだ日本が太平洋でバカスカ勝ってた頃ではないか。

 

なんでそんな時勢にこんな――ガダルカナルの兵隊も、これを楽しんで読んでいたのか? としたら、どうも理解に苦しむ。こんな野郎はこの島のジャップに渡して銃剣で突かれ、丸焼きにされて食われてしまえばいいんだと読んで思わなかったのだろうか。

 

そんなふうに感じてならない。国が存亡の危機にあるとき女をナンパし浮気している男は死刑だ! それでいいではないか。しかしその男は、ボクは妻を殺してません無実なんですと言って泣く。事件の前にボクは妻と不仲でしたが、だからと言って殺してません。

 

どうして不仲だったと言えば、ボクは何も悪くなく、妻の方にすべての原因がありました。ボクを愛してないくせに、『別れよう』と言うと『イヤだ』と応えるのです。ボクをバカにして笑いながら、『絶対に離婚してあげないわ』と、毎日がその繰り返し。

 

そういうやつだったんですよあいつは! ですが殺してません、信じてくださいと男は言うが、刑事としては殺人事件そのものよりも、そこが『なんで』と問い詰めたいところだった。なんで奥さん、あんたとの離婚を拒んでいたわけなのさ。しかしそれは説明されず、刑執行の刻限が迫る。果たしてその日その時までに、〈幻の女〉を見つけられるか?

 

どうでもいいと思いながらもおもしろく読んでたところに呼び出しだ。警視庁で刑事をやってりゃ非番取り消しはいつものことだ。「はーい」と言って受けに行く。

 

それが今年の1月26日だった。(おもて)に出ると地面には雪。昼間に降って止んだものが解けずに残っている。おかみさんに「寒いっすねえ」と言いながら受話器を取った。

 

「古橋です」

 

『殺しだ。10人ほど死んでる』

 

「10人? ヤクザの出入りかなんか?」

 

『いいからすぐに来い。場所は――』

 

言われて椎名町(しいなまち)へ。古橋が住む目黒から、池袋で西武線に乗り換えてすぐ一駅だった。駅前に交番があったので、警察手帳を出して言った。

 

「本庁の一課です。殺しの現場(ゲンジョウ)への道を……」

 

「ご苦労様です。その先の角を曲がってすぐですよ」

 

地図を見せて教えてくれる。歩いても1、2分の距離らしかった。

 

「ありがと」

 

言って飛び出した。けれどもすぐ『あれ?』と思った。〈その先の角〉と言われたその角を曲がろうとしたその時だ。

 

道が入り組んでいる。先でいくつもに分れていて、それぞれにカーブしていて見通しが利かない。地図ではさほど感じなかったが、実際に眼にしてみるとまるで迷路だ。

 

とは言っても下町の道はどこでもこうだろうが、電話では殺しの現場は銀行だと聞いていた。こんなところに銀行の支店?

 

そんなものを建てる場所かな、と見て思う。民家が並ぶ裏通りで、見える範囲にあるのは塀や庭木ばかり。銭湯でもやるには良くても、銀行が支店を構える道のようには見えなかった。

 

ほんとにここでいいのかよ、と思いながら足を進める。宵闇に雪をまぶして道は白黒のまだら模様だ。木の板塀に《YANKEE GO HOME》と書いた紙が貼られていたりするが、これはつまりその家に出入りしてるヤンキーさんがいるってことか。

 

たぶんそうなんだろうな、などと思いつつ歩いて行くと、カーブを抜けたところで行く手に人だかりが見えた。この寒空にまたずいぶんな人数だ。事件と聞いて集まってきた野次馬だろう。

 

なら現場に違いない。古橋は雪にぬかるむ道を急いでそこまで行った。

 

「警察です。通してください」

 

言って人を掻き分ける。その先では警察の人間とわかる者らが何人も立ち働いていた。どうやら到着――というところで、しかしまた『あれ?』と思う。

 

ほんとにここで間違いないのか? そんな疑問をまず感じる。目の前にある建物は、古橋には銀行の支店のように見えなかった。




W・アイリッシュの『幻の女』が〈宝石〉に掲載されたのは1950年。従ってここで古橋が読んでいるのは別の作家の別の作品ということになります。


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ファン

〈ダイイチビル〉の六階にまで上がると窓に夜の皇居が一望できた。一望できてしまうことに愕然とした。自分がそれを見ていることに恐怖すら覚える。

 

皇居だ。それが広がっている。正面に皇居外苑があり、その向こうに石橋と二重橋があってその先に伏見櫓(ふしみやぐら)。まるきり時代劇映画のサムライの城そのまんまな。

 

そんなものが現代のこの東京の真ん中にあること自体異様だが、その左に少し離れてあるのが宮殿(きゅうでん)。今は〈人間〉となったお方が畏れ多くもお住みになられるお屋敷だ。それがふたつの(むね)をこちらに向けて建っていて、窓のひとつひとつまでもがつぶさに見える。

 

それも上から見下ろすかたちで。ふたつの棟の奥の方を中まで覗ける距離と角度で。だからこの場に狙撃兵を連れてくれば、そのお方をいつでも狙い撃てるだろう。

 

その向こうに吹上(ふきがみ)御苑。それに東御苑が見えて、さらに向こうに北の丸公園。そして千鳥ヶ淵(ちどりがふち)の池に街の灯りが映っているのまで遠く覗いて見ることができる。

 

つまり、皇居全体が。そして右手に国会議事堂。

 

これが一度に見渡せる。見渡してしまえることに愕然とする。愕然を通り越して慄然とし、蒼然とする思いだった。

 

嘘だろ、という言葉しか頭に思い浮かばない。古橋が立ちすくんでいると、

 

「眺めは気に入りましたか?」

 

と声がした。たどたどしいが日本語だ。部屋に置かれたひとつきりのデスクに向かっていた男が発したものだった。

 

「ちょっとしたものでしょう。こちらへどうぞ。そこへお掛け願えますか」

 

デスクの向かいに置かれている椅子を示した。だが古橋は動かなかった。窓辺に立ったまま、

 

「イヤだと言ったら?」

 

「強制はできない」

 

男は言った。着ているのは米軍の軍服らしいが古橋にはどういう種類のものなのかはわからない。その頭上で天井から吊り下げられた大きなファンが回っている。

 

竹とんぼのお化けのような代物だ。元からそこにあるものか、彼らが取り付けたものなのか、古橋にはそれもわかるわけなかったが、自分が椅子に座ったらそいつがギューンと回転を増して落ちてきて、鋭い刃で千枚斬りにされるのじゃないかと思えて怖かった。けれどもそれは言わずに立ったままいると、

 

「ですがあなたを見込んでお呼びしたんですよ。名刺くらい受け取ってほしいな」

 

デスクの上のペンなどまとめてある場所から男は何か取り上げて、手を伸ばして古橋に勧めた椅子の前に置いた。小さな四角い紙だ。

 

「わたしの名刺です」

 

古橋が黙っていると、

 

「あなたは名刺一枚から、平沢貞通を捕まえた」

 

「おれじゃない。霧山(きりやま)警部補の仕事ですよ」

 

「かもしれないが、あなたはその名刺班に(みずか)ら加わったんでしょう。百人の刑事の中でそんなのはあなたひとりだけと聞いたが」

 

古橋は応えなかった。すると男は一本の瓶を取り出してデスクに置いた。

 

「年代物のバーボンがある。一杯どうです」

 

「酒は()らない」

 

と言った。さっき三杯目の酒を飲もうとした人間のセリフじゃないと自分で思うが、本当のことだ。普段は飲まない。しかし男は気にしたふうもなく二個のグラスに酒を注ぎ、ひとつを名刺の横に置いた。もう一杯を自分で取る。

 

「コーヒーがいいなら持ってこさせますが」

 

日本語式に『こーひー』と言った。『カウヒイ』と聞こえる英語の発音でなく。

 

「ミスター・フルハシ」酒を飲んで、「シチベイ・フルハシ――それとも〈(マムシ)(ナナ)〉とお呼びしましょうか。あなたに名刺や酒よりもいいものを差し上げたくて来てもらった」

 

グラスを置いて古橋を見た。『なんだい』と古橋が言うまで今度は自分が黙っている気らしかった。古橋は言った。

 

「なんだい」

 

「野球は好きですか? アメリカでは、みんなが選手のサインを欲しがる。ベーブルースのサインボールなんかは子供の羨望の的です。それにクラーク・ゲーブルのサインや、ウィリアム・アイリッシュのサイン入りの『幻の女』」

 

「知らないな」

 

「そうですか。わたしがあなたにあげたいのは、わたしのボスのサインですが。今の日本でたぶん誰もが欲しがるものと思いますよ。マッカーサー元帥(げんすい)閣下のサイン入りの重要文書――どうです、欲しくありませんか」



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コール

石は飛んでこなくなった。『火ぃ点けてやる』という声や、『出てこい、ブッ殺してやる』という声や、『引きずり出して木に吊るそうぜ』という声も聞こえなくなった。別に弁護士が叫ぶ言葉に外の者らが納得したわけではない。

 

『あの事件はGHQの実験だーっ! あんたらにそれがわからんのかーっ!』

 

そのように叫ぶ新たな勢力が来たからだ。家の前に群れる者らは、その者達に左右から挟まれる形となった。だから石を投げたりできない。

 

というだけの話である。後から押し寄せてきた者達は、『実験、実験』とコールを始めた。

 

『ジッ、ケン、だ! ジッ、ケン、だ! ジッ、ケン、だ! ジッ、ケン、だ!』

 

『ジッ、ケン、だ! ジッ、ケン、だ! ジッ、ケン、だ! ジッ、ケン、だ!』

 

そして衆を率いる者が、

 

『帝銀事件はGHQの実験であーるっ! やったのは〈七三一〉の隊員であーるっ! だから平沢が詐欺師であろーと、過去に放火をしていよーと、この七か月北海道で人目を避けて暮らしていよーと無実なのは無実なのだーっ!』

 

と叫んで皆が、

 

『おーっ!』

 

と応える。いつもであれば閑静な中野の夜の住宅街に、そんな声が鳴り響いた。

 

『たとえ大家(たいか)とは名ばかりのヘボ絵描きであろうともだーっ!』

 

『そうだーっ!』

 

「どっちにしてももうこの家に住めないわね」

 

とマサが言う。平沢は新聞を読みながらに「うるさい」と応えた。

 

「横でゴチャゴチャ言うな。新聞が読めんじゃないか」

 

「あなたこの状況でそんなもの読めるの?」

 

『ジッ、ケン、だ! ジッ、ケン、だ! ジッ、ケン、だ! ジッ、ケン、だ!』

 

群衆のコールが聞こえる。対して昼からいた者達が、

 

『ハン、ニン、だ! ハン、ニン、だ! ハン、ニン、だ! ハン、ニン、だ!』

 

と返し始めた。中に混じって、

 

『お前らバカじゃねーのか? 変な噂を信じてるだけだろ!』

 

と叫ぶ声も聞こえる。平沢は言った。

 

「おれにはな、お前の声がいちばんうるさく聞こえるんだよ」

 

『ジッ、ケン、だ! ジッ、ケン、だ! ジッ、ケン、だ! ジッ、ケン、だ!』

 

『ハン、ニン、だ! ハン、ニン、だ! ハン、ニン、だ! ハン、ニン、だ!』

 

「そーでしょーねえ。この七か月、よっぽど静かに心安らかに暮らしていたんでしょーねえ」

 

『出所不明の大金を持ってたからってそれがなんだーっ! 春画を描いて一年間忘れていたものでないとは言い切れなーいっ!』

 

『バカかーっ? だったらそんなもん、なんで偽名で預金するんだーっ!』

 

「なんで偽名で預金したの?」

 

「うるさい。だから新聞を読ませろとおれは言ってるんだ」

 

『詐欺師だから犯人と言えなーいっ! あんなものは詐欺とも言えなーいっ!』

 

『じゃあ小切手の主は誰だーっ! 〈幻の男〉を見つけてみろーっ!』

 

「アイリッシュの小説みたいになってきたね」

 

「誰だそいつは。おれは知らん。なんにも思い出せん」

 

「自分に都合悪いことは」

 

「だからうるさいんだよ。新聞を読ませろと言ってるだろう」

 

『ジッ、ケン、だ! ジッ、ケン、だ! ジッ、ケン、だ! ジッ、ケン、だ!』

 

『ハン、ニン、だ! ハン、ニン、だ! ハン、ニン、だ! ハン、ニン、だ!』

 

『ジッ、ケン、だ! ジッ、ケン、だ! ジッ、ケン、だ! ジッ、ケン、だ!』

 

『ハン、ニン、だ! ハン、ニン、だ! ハン、ニン、だ! ハン、ニン、だ!』

 

「黙っていたけど、読めましたか」

 

「だーっ!」

 

と言った。新聞をビリビリ破る。

 

「あなたが悪いのよ」とマサが言う。「放火に横領、詐欺、放火。あなたがさんざん悪いことしてきたのは知ってるけど」

 

「今『放火』って二度言った」

 

「何度もやってんでしょうが。それは知ってるけど、あたしに言わせりゃこの七か月よ。北海道でなーにをやっていたわけなの。建築中のこの家ほっぽり出しちゃってさあ」

 

「だからそいつは親父が死にかけてだな」

 

「おとーさま。あなたが破いた新聞には『元気だった』って書いてあるけど読まなかったの?」

 

「お前が横で邪魔するから読めなかったんだ」

 

「おとーさまは元気なのよね」

 

「ああ、ピンピンしているよ。おれはどういう嘘が書いてあるのか知りたくてだな……」

 

そこでハッと気づいた。慌てて言った。

 

「いや、死にかけていた。今日明日にも危ないんじゃないかな。そんな話聞いてないか」

 

「『元気だ』という話以外聞いてません」

 

「そうか」と言った。「ええと、新聞……」

 

それは破いてしまった。しかし、

 

「ほら」

 

言って渡された。ドンと分厚い新聞紙の束。平沢が警察に捕まっていた二週間分だろう。

 

「好きなだけ読んでれば?」

 

外からはまだコールが聞こえ、『平沢のやつはこの七か月、北海道で何をしてたと言うんだーっ!』という声がする。対して、

 

『そんなのは関係なーいっ! GHQの実験なのが確かだから画家の平沢は無実なのだーっ!』

 

『バカのひとつ覚えはやめろーっ! 病気の親を看病してたとでも言うのかーっ!』

 

そこでピタリと止んだ。中野の街に今なぜか、急に静寂が戻ったようだ。平沢は新聞を広げて自分について書かれている記事を探した。

 

だが静けさは続かなかった。十秒ほどでまた声が聞こえてくる。

 

『そんなのは関係なーいっ! GHQの実験なのが確かだから画家の平沢は無実なのだーっ!』



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リディキュラス

「つまり委任状ですよ」

 

男は言った。

 

「あなたに仕事を頼みたい。マッカーサー元帥閣下直々(じきじき)の依頼という形をとってね。『シチベー・フルハシに重要な任務を委任する。関係各位に最大限の協力を求む。その遂行を妨害する行為に対してはうんぬんかんぬん。ダグラス・マッカーサー』というやつ。魔法の鍵ですね。それを持てたら、今の日本でどんな扉もあなたの前に開かれぬものはないでしょう。GHQの便箋(びんせん)にそれをタイプしわたしのボスのサインをもらってあなたにあげようと言うんです。どうです、欲しくありませんか」

 

男の上でファンがグルグル回っている。古橋は立ったまま、何も言うことができなかった。

 

「コーヒーが良ければ持って来させますが」

 

「なんで……」

 

「あなたは若いですね」と言った。「29歳? いや、先月で30歳か。その若さで警視庁捜査第一課。〈マムシのナナ〉の二つ名を持ち、捕まえた犯罪者は数知れず。記録は読ませてもらいましたよ。そして平沢を捕まえた」

 

「おれじゃない」

 

「霧山警部補だ。あなたはその名刺班に自分から加わった」

 

「それは……」

 

「警察はあの事件を我々がやった実験と見ている。GHQの秘密機関が、〈七三一〉の元隊員を使ってやらせたものとね。どう考えますか」

 

「バカバカしい」

 

「そう。我々もそう言いたい。7ヵ月間、ずっと説得を続けてきました。バカな考えをやめて別の線を追ってくれとね。そう言いつつ我々も、あなた方名刺班に期待したわけでもなかったんだが」

 

グラスにまた酒を()ぐ。それから言った。

 

「ねえ、お願いします。こっちへ来てそこに座ってくれませんか」

 

「ああ……」

 

古橋は近づいた。怖がりな野良猫が、エサにつられて恐る恐る人間に寄っていく心境だった。

 

椅子を引き、回るファンを見上げながら腰掛ける。やはりそいつが落ちてくるような気がして落ち着かない。

 

男もそれに気づいたらしく上を見た。

 

「それ、気になるなら止めましょうか」

 

「いい」

 

と言った。名刺を見る。英字とともに日本語で名と肩書が記されていた。

 

 

 GHQ/SCAP-G2

 連合軍最高司令官総司令部 公安部民間情報課

 ジョン・F・セバスチャン

 

 

「セバスチャン?」

 

「どうぞお見知りおきを」

 

笑った。グラスを掲げてから、

 

「帝銀事件。確かに異常な事件ですね。我々もあなた方が平沢を見つけるまでは犯人は〈七三一〉の元隊員と考えていた。だから松井名刺からは、何も出てこないだろうと――ただし事件の裏にいるのは、ソ連か中国のスパイだと考えていたのだが。あるいは、北朝鮮――〈七三一〉の隊員だった犯人は、毒を持って東側への亡命でももくろんだ。あの事件はそのための実証試験だったのじゃないか、という考え方です」

 

「なんだと?」

 

「そんなふうに考えたことはありませんか?」

 

「いや……」

 

「妙なものだな。『七三一が犯人』と言えば、誰もがその裏にいるのは我々GHQだと思う。なぜ我々がそんなことやらなければならないのか、ソ連や中国の仕業という線は考えてみないのか――わたしは人に会うたびそう聞きました。わたし自身は絶対にやつらの仕業だと思ってたんです。今となってはお笑いですがね」

 

言ってハハハと本当に笑い、酒を飲む。それから言った。

 

「困ったことに聞いた誰もが、『事件の裏にGHQ』の考えを変えてくれることがなかった。わたしがそう聞くこと自体が、事件の裏にわたしがいる証拠とされてしまうわけです。『ソ連・中国はいい国だ。〈東〉に秘密などはない。どんな悪いこともしない。だがアメリカは悪い国。なのであるから帝銀事件はアメリカの実験なのに違いない。以上証明終わり』とね」

 

「うん」

 

と言った。グラスを見る。やっぱ飲むことにしようかな、と思った。

 

「我々は今この日本を占領している。信じてくれないかもしれないが、別に好きで占領してるわけではない。必要だからしてるのですよ。一応はまあ、あなたがたのためを思って占領してんだ。その我々がなんでまた帝銀事件みたいなことをやらなけりゃあいかんのか。ナンセンス。リディキュラス。わたしとしてはそう言いたい――英語の意味はわかりますか?」

 

「わかりません」

 

「ま、『バカバカしい』ってことです。しかしこの国のインテリゲンチャは、そんな見方をしてくれない。ロシア語の意味はわかりますか?」

 

「まあ……」

 

「この事件は我々の占領政策にとって、思わぬ障害になっていました。そして日本警察には、解決できないものと見ざるを得なかった。捜査本部も『GHQの実験』との見方をとって、ただそれだけに的を絞っての捜査をしている状況と知っては……だから絶望していました」

 

セバスチャンは言った。グラスを置いて、

 

「そこにあなたが現れた。フルハシサン。この事件を解決できる者がいるならあなただけだ――我々はそう判断しました。マッカーサー閣下の依願の名のもとに、あなたに独自に帝銀事件の捜査をしていただきたい」



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沓脱

その建物は古橋の眼に、銀行の支店のように見えなかった。普通の一軒家に見えた。門があって、奥に普通の民家にしか見えないような家があり、格子戸(こうしど)が開いて私服・制服の警察官が出入りしている。

 

中に知った顔を見つけた。声をかけ、

 

「古橋です。いま着いたとこなんですが」

 

「あ? ああ、ご苦労さん」

 

「『銀行』と聞いたんですが、ここって……」

 

「うん、銀行だよ。そうは見えないだろうけど」

 

門を指差す。なるほど門柱に、《帝国銀行椎名町支店》と書いた札が貼ってあった。

 

しかし、「ホントに銀行?」

 

「中を見りゃわかる」

 

入ってみた。するとなるほど、内部は確かに銀行支店か郵便局という感じだった。カウンターに相談窓口。その向こうに事務机が並んでいる。

 

今はどの席にも行員が着いてはおらず、警察の人間だけが間を行き交っていた。奥に見える仕切りの中に皆が入っていき、そこから出てきて店の外へと通り抜けていく者がいる。

 

どうやら、現場はこの建物の奥らしい。古橋もさらに踏み込んでいった。

 

すると仕切りの先はますます普通の民家のようだった。沓脱(くつぬぎ)があって大量の黒い靴。おそらく中に入っていった刑事や巡査のものだろうが、後でどれが誰の靴だかわかるのか。

 

そんな疑問を感じながらも古橋もまた靴を脱いだ。1月の冷たい木の廊下を靴下はだしに歩く。

 

しかし、土足で踏んでいった者も多いらしくて泥だらけだった。左右には(ふすま)の戸が並んでいる。

 

刑事になっていくつも事件をやってきても銀行が現場というのは古橋には初めてだったが、妙なところだな、と思った。銀行ってどこもそういう造りなのか。それともここだけ普通じゃないのか。

 

襖が開いて、床の畳が覗いて見える部屋がある。やっぱり、畳張りなのか。どう見ても普通の民家だよなあと思いながらに古橋はそこまで行って中を見た。

 

死体が並んでいた。

 

 

 

   *

 

 

 

「被害者は16名だ。通報を受けて最初の警官が着いたときには半分はもう死んでいた。息のある者を病院に運んだが、何人かは助からんだろう」

 

とキャップの鈴木が言う。つまり古橋が所属する刑事部屋の部屋長だ。古橋は「はあ」と応えて、

 

「全員がここの行員なんですか。なんか、子供が混じってたけど」

 

「それはここの小使いの子だな。一家で住み込んでたんだ」

 

「そんなのまで殺した……毒を飲ませたって言うんですか?」

 

「ああ。詳しくはまだわからんが、どうもそういうことらしい」

 

〈男〉は午後3時過ぎ、窓口業務を終えて表の戸を閉めたばかりの支店に裏口からひとりで入ってきたという。東京都防疫課の者とか言ってそれらしき腕章を腕に巻いていた。近所で伝染病があったのでここにいる全員が予防薬を飲まねばならない、言われて皆が男の出す〈薬〉と称するものを飲んだ。

 

ところがそれはどうやら猛毒だったらしい。皆が床をのたうつ間にその男は――。

 

「とりあえず、わかっているのはただそれだけだ」

 

「はあ」と古橋はまた言った。「つまり、強盗(タタキ)ってことですか。その間にカネ持って逃げた……」

 

「それなんだが、あれを見ろ」

 

指差された。店舗内だ。行員の作業机が並ぶ中に、札束が山と積まれた卓がある。

 

出納(すいとう)係の台らしいな。カネ目当てならあれ全部持っていってるはずじゃないか?」

 

「それは」

 

と言った。なるほど蕎麦屋が蕎麦の丼を客の眼に見えるところに何十も積み重ねているみたいだ。どこからでもよく見えそうなところに大量の現金。

 

それがメチャメチャに荒らされた現場の中に残されている。

 

「タタキなら、あれを持ってかんはずがない。つまりこれはタタキじゃない」

 

ひとりが言って、他の者達が(うなず)いた。だが古橋は、そう言い切ってしまうのは何か違うような気がした。なぜだろう、と思ったが、

 

「とにかくこれでは、指紋なんかはちょっと期待できそうにないな」

 

言われて思考を中断する。

 

「最初にテッキリ集団中毒と考えて、近所の人を集めて救けようとしたそうなんだ。それでゲンジョウが踏み荒らされた。それも、雪に濡れた靴でな。ただの野次馬も入ったし、こっそり写真撮ってった新聞記者(ブンヤ)なんかもいたらしい。そんなやつらが畳の上まで……」

 

皆が暗い顔で頷く。鈴木は言った。

 

「もう検証は明日にまわすしかないだろう。何人か助かってくれればいいが、全員に死なれたらお手上げかもな」



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ジョーカー

『次のニュースです。本日午後3時頃、東京都豊島区において毒を用いた強盗殺人と見られる事件が発生しました。警察の発表によると……』

 

とラジオのアナウンサーが原稿を読み上げる声が聞こえたとき、平沢瞭子(りょうこ)炬燵(こたつ)に当たり、トランプのカードを手にしていた。やっていたのはババ抜きのゲームだ。

 

気にしないで続けていたが、ふと、向かいに座る男が、

 

「タイリョーサツジン?」

 

と言った。エリー。米軍の兵隊さんだ。日本語はほんの少ししかわからない。

 

が、ほんの少しならわかる。ラジオが言っていることがいくらかわかったらしかった。英語で瞭子に、

 

「『大量殺人(ジェノサイド)』と言ってるのか?」

 

「ええと」

 

と言った。()かれても、こっちはニュースなど聞いてなかった。それに、自分はやっといくらか英語が話せる程度に過ぎない。

 

結局答える。「さあ」

 

「またこないだの嬰児殺し(ベビーキラー)みたいなのかな」

 

とまた英語で聞かれる。ついこの前に世を騒がせた〈寿産院(じゅさんいん)事件〉の話だろう。ひどい事件だった。ベビーブームに乗じた夫婦が赤ん坊をひとり殺して弐千圓、ふたり殺せば四千圓という商売を思いつき、ほんとにやって弐拾萬稼いで笑っていたという話だが、

 

「ちょっと違うみたいね。銀行がどうとか言ってるよ」

 

「ふうん」

 

「そんなこと、アメリカでは起こらないよね」

 

「そうでもないさ」カードを見ながら、「どこも同じさ。聞いた話じゃ、どこかの国ではペニシリンを水で薄めて売ってるやつがいるとか言ったな。ぼくらみたいな〈シンチューグンジン〉の中に。それをやってしまうと……」

 

難しい話になりそうだった。自分の英語力ではたぶん、理解できないことだろう。英語ができてもやっぱり理解できないかもしれない。そう思ってエリーが見せてるカードの中から一枚取った。

 

「ヤーイ」と言われた。「ババヒイタ」

 

日本語だ。こういうのばかり覚えている。

 

「ふたりでババ抜きやって何がおもしろいのよ!」

 

これも日本語で言ってやったが、

 

「ボクワオモシロイ」

 

おもしろいらしい。毛唐(けとう)の考えることはわけわからない。なんでこんなやつらに戦争で敗けたのだろうか。

 

エリーは月曜が非番とかで、ここのところ毎週この家で時間を過ごしている。バラックだ。ひどく寒い。これから寒さがますます厳しく頃と言うのに。

 

本当ならば今頃隙間風など吹かぬ家に住めているはずだった。けれどもそれは半年もずっと工事が止まったまま、窓の向こうで柱が組まれているだけの姿を野にさらしている。自分は本来その家の庭となるべき場所に建てた小屋の中で暮らしている。これでは北海道の方が東京よりも暖かかった。

 

礼文(れぶん)の家には暖炉があり、薪を燃やせていたのだから。けれどもこの〈家〉にはこの炬燵だけで、中でタドンがふたつほど赤く光っているだけだ。

 

不完全燃焼。

 

と言うんだっけ。英語にしたらなんていうんだろうと思いながら向かいに座る男を見た。

 

エリー。マイ・ラブ。ソー……なんだろう。こんなとこからわたしをさらって、どこか〈陽の沈まない〉ところへ連れていってくれないだろうか。

 

思った。こんなこと口に出し、やたらな人に聞かれたらまた怒られるんだろうけども。戦時中に不自由のない暮らしをしていたやつが何を言う。東京都民が空襲に脅え、芋の(つる)を食ってたときに、お前ら家族は文展無鑑査の画家かなんか知らないが……とか言って。

 

知ったことか、と思う。あたしがやった戦争じゃないじゃん。日本が勝つと信じてたのが悪いんじゃないの。あたしはただ、勝手な親に振り回されてここに住んでいるだけよ。

 

こんなバラック小屋に。けれども今の東京都民は、皆バラックで暮らしている。家を建てるお金が無いから。

 

それは我が家も同じだけれど、しかし我が家は事情が違う。(あるじ)である父親が、いいかげんな人間だからだ。

 

などと瞭子が思ったところに、そのいいかげんな人間が、

 

「帰ったぞおっ!」

 

帰ってきた。バラック小屋は狭いので、居間や玄関の区別がない。戸が開くと冷たい風がビュウビュウ吹き込む。

 

「早く閉めてよ!」

 

「おう、すまんすまん」

 

閉めた。しかし木枯らしに、ただの薄板である戸はガタガタと震えている。

 

「おっと、トミー君じゃないか。また来とったのか」

 

「オジャマシテマス」

 

「何しとるんだ。ババ抜きか? ふたりでやって何がおもしろいんだ?」

 

「おとーさんの知ることじゃないでしょ」

 

「そう言わずに、おれも混ぜてくれ。外は寒くてしょうがない」

 

「なんなのよそれ」

 

「炬燵はひとつしかないんだからしょうがないだろう」

 

「それもおとーさんのせいでしょ」

 

「だからそう言わずにだな」

 

と、言ってるところに流しにいた母のマサが、

 

「今日はずいぶん遅いわね。帰ってこないのかと思った」と言いながらやってきた。「何してたの?」

 

時計を見た。『遅い』と言っても8時を過ぎたところだが、この父親がいつも昼間に外で何をしているか家族でさえ誰も知らぬし、家に帰ってこないことも珍しくない。

 

「何。静香(しずか)んところでタドンをもらってきたんでな」

 

「ふうん」

 

と母。〈静香〉というのは結婚して家を出ている瞭子の姉だ。『そんなことが帰りが遅くなる理由にはならない』という顔もしたが、確かに父は大きなボストンバッグを手に提げていて、それをドンと床に置いた。

 

「それ、全部タドンなの? またずいぶんな量ね」

 

「ソレワナンデスカ?」

 

とエリー。父は、

 

「タドンだ。今その炬燵に入れるところを見せてやろう」

 

「やめてよお父さん」

 

「何を言っている。これだけあるんだ。ケチケチしないで四つくらい……」

 

母が、「ふたつで充分でしょう」

 

「四つだ」

 

「ふたつで充分よ」

 

「わからない女だな。この平沢大暲が『四つ』と言ったら四つなんだ」

 

「何がヒラサワタイショウよ」

 

「まあ見とけって。すぐにもあの家、また工事を始めさせてやるからな。拾萬圓の金屏風を描く仕事が入ったんだ」

 

「またいつものホラが始まる」

 

「今度は本当だ」

 

「何言ってんの。キンビョーブ。そんなもんにお金を出す人がこの御時勢に……」

 

言われてこの父親が、珍しくちょっと困った顔をした。

 

「そうか」と言う。「そう思うのも無理ないかな」




平沢貞通には息子がふたりに娘が3人いるのですが、この作では静香と瞭子のふたりだけということにします。


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怪人二十面相

<章=怪人二十面相>

 

「いや……」と言った。「ちょっと待ってくれ」

 

「ほう」とセバスチャン。「まあこんなこと、急に言われても困るでしょうね」

 

当たり前だ。独自に事件の捜査をしろ、マッカーサーの名のもとに? そんな話をいきなりされて困らぬやつがいるものか。

 

これは手の込んだ冗談で、おれはかつがれてるんじゃないかと思った。しかしここは〈ダイイチビル〉で、窓に皇居と議事堂が見える。頭の上ではファンがグルグルと回っている。こんなことが江戸川乱歩の小説で怪人二十面相が子供を騙す仕掛けみたいにできるわけがない。

 

ならば、これは本当なのか。しかし〈帝銀〉の捜査と言うが……。

 

「あれは平沢のやつがホシだ」

 

「あなたはそう思ってるんでしょ」

 

「それでいいのか? 『別のやつを捕まえろ』とか言うんじゃ……」

 

「犯人が別にいるならね。わたしはどうでも構わない。あなたはどう思うんですか」

 

「絶対に平沢だよ」

 

「結構。それでやってください。できる限りのバックアップをさせてもらうことにします」

 

「いや、しかしそうは言うが……」

 

「平沢貞通は釈放された。『犯人ではない』とされてね。(くつがえ)せばいいでしょうが」

 

「いや、そう言うけどだな」

 

「『簡単なことじゃない』。簡単とは思ってませんよ。でも、あなたならできるんじゃないかと思って頼んでるんだ。わたしの話がちゃんとわかってなかったですか」

 

「いや。しかし、しかし、しかし……」

 

頭上でファンがグルグル回る。古橋も、それにつられて首がグルリと一回転しそうな気がした。

 

マッカーサーの名入りの通行許可証(パス)? それはもちろん特急列車の乗車券(パス)だろう。日本中どこでも行ける夢の極東エキスプレスの。

 

みじめだった6月の旅を古橋は思い出した。そして、その後の苦しい捜査。キチガイ呼ばわりされながらにやっと捕まえた平沢貞通。

 

けれどもその平沢を、検事はアッサリ釈放した。おれはあいつの取り調べもさせてもらえることがなかった。

 

なのに新聞にはおれが拷問をしたと書き立てられて……だが、けれども今ここでパスをもらえばそれが覆せるのだろうか。

 

「GHQと言えども無論絶対の権限は持たない」セバスチャンは言った。「平沢をまた捕まえて、起訴し有罪にしてしまえ、と警察や検察や裁判所に言うことはね。できない。本国(くに)では事件があるたび、政府がそれをやっているなんてことを言う者もいるが」

 

「まあ」

 

と言って頷いた。アメリカでは殺しがあれば、街で適当な黒人をしょっぴいてきて殴って吐かせ、12人の陪審員すべて白人の法廷で有罪・死刑。それが日本が手本とすべき理想の司法だと弁護士は言う。

 

「この日本ではそうはいかない。たとえば『霧山警部補にもう一度逮捕状をくれてやれ』なんていうのを裁判所に言ってやることはできんのです。それは越権行為だし、そうでなくてもいろいろとまずい」

 

「まあ」と言ってまた頷く。

 

「わかるでしょう。そこであなただ。ひとりの刑事をマッカーサーの特命捜査官として指名し、日本警察とは別に独立して動く権限を与える。我々にできることはその程度。あなたが誰に目星をつけて事件を追うかは知らない、ということにする」

 

「は?」と言った。「いや、そんなこと言うが……」

 

「そう。名刺班の一員で、平沢に手錠を掛けた刑事のひとりであるあなたを選んでその言い分は通らんでしょう。しかし、事件解決には、これしかないと判断した。これはほとんど達成不可能な任務(ミッション)だが、やれるとしたらあなたしかない。そして、悪いがあなたには、結果あなたがどうなろうと我々GHQ当局は一切関知しないからそのつもりで、と言わねばならない」

 

そんなこと言いながら、セバスチャンはニヤニヤと楽しそうに笑っている。

 

「だが、あなたは刑事の仕事を命懸けだと言うんでしょう。『俺はいつも命懸けでホシを挙げてきたのだし、平沢を捕まえて東京へ連れてきたのも命懸けだった』と」

 

「それは……」

 

と言った。それ以上に返す言葉はなかった。確かにそんなことを、平沢を護送したとき津波のように押し寄せてきたブン屋に向かって大声で叫び立てた覚えはある。

 

セバスチャンは、「それならひとつ、命懸けの仕事ができるところを見せてくれませんか。ことがこうなった以上、平沢をまた捕まえるには決定的な証拠が要る。これはほんとに命懸けになるかもですが、あなたにそいつを見つけてきてほしいわけです」

 

「わかるよ」と言った。「だが……」

 

「とても難しい。それもわかっているつもりです。おまけに、何を見つけてもGHQのデッチ上げに違いないと言われるでしょう。となれば……」

 

「なんだ?」

 

「それを元に平沢から全面自供を取らねばならない。マッカーサーの委任状があればあなたが取り調べられる。その邪魔だけは、今度は誰にもさせずに済むというわけです。〈マムシのナナ〉と呼ばれる腕でナントヤラ病の嘘つき男を落とせるか、という話でもあるわけだ。フルハシサン。これもあなたに命懸けでやってみせてほしいんですよ」




この作では〈キチガイ〉という言葉を頻出させることになりますが、帝銀事件のGHQ実験説を信じる者が平沢犯人説を取る者達をそう呼んだ事実を描くに必要なものです。


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竹槍

「で、どうすんの」マサが言った。「今はともかく、遅くなったら本当に長ドス持って踏み込んでくるのがいるかもしれないわよ」

 

表からはまだ『実験だ、実験だ』『犯人だ、犯人だ』のコールが聞こえてくる。時刻はまだまだ宵の口という頃合いだ。

 

「そうだなあ」

 

と平沢は言うしかなかった。日本刀とか戦争中の銃剣とか、竹槍なんか持ったやつが、『天誅(てんちゅう)!』だとか叫んで入ってこないとも限らない。ズバッとやられてウギャーッとなる見込みは高いと言わねばなるまい。来るとしたら深夜遅くなってからではないか。

 

「でなきゃ、火ぃつけられたりとか。どうすんのよ。本当にそんなやつがいたりしたら、あたしまでここで焼け死んじゃうじゃない。あたしは焼けて死ぬのはイヤよ」

 

「そうだなあ」

 

とまた言った。新聞を読んで、今は国民のほとんどがこの自分を帝銀事件の犯人に間違いないものとみなしているとわかっていた。

 

警察に捕まっていた二週間。最初の4、5日間は記事では〈無実の人〉という扱いになっていた。平沢画伯はてんぷら画の大画伯。文展無鑑査の偉いお方で、日本が誇る芸術家であらせられる。そんなお人が犯罪など、まして毒殺帝銀事件など犯すはずがあるでしょうか。

 

読者の皆さん、わかりますよね、という調子の書き方だった。警視庁では〈蝮の七〉の異名を持つ極悪刑事が朝から晩まで殴る蹴るしていると書かれ、その上役のへっぽこ警部はいつも占いで〈犯人〉を捕まえてくる人物として知られている。今度の事件も懇意にしている占い師に《名鑑を感謝す》と名刺の裏に一筆書いて贈っているのが判明した、といった記事が(おど)っていた。

 

が、それが数日し、事件前に平沢が詐欺を働いていたことが明るみになると風向きが変わる。さらに放火だ。過去に何度も平沢の周りで放火とわかる火事があり、そのたびに保険金を受け取り転居している。するとしばらくしてまた火事が。平沢が越した隣の家は必ず放火で燃えて死者も出ているという話が、事実として書かれていた。

 

そりゃ何度もカネをいただきはしたけれど、『必ず』じゃねえぞと思いながらに読み進める。すると新聞の記事は続けて、

 

――平沢は確かに若い頃には高く評価された画家だったが、この20年はサッパリ売れず、画壇では〈過去の人〉扱いされていた。とは言ってもそれなりの地位を利用して懐を肥やし、戦争中は芋畑の地主としてタンマリ儲け、皆が餓えていたときにひとりタラフク食っていた。そして今この戦後になって、『ふたたび絵の世界において名声を』と考え東京に出てきたようだが、しかしまったく売れない絵を売り歩く日々だったらしい――。

 

などということが書かれていた。中野の高級住宅地を買って豪邸を建てようとしたが地代を払えず、家は柱が組まれたきりで工事が長く止まっていた。ところが帝銀事件の直後、建設会社にカネが払われまた家が建てられ始めた。

 

一月末に平沢は急に大金を持ったのだ。ところがしかし、その平沢は、建築中のその家と家族を放ってひとり北海道に移り、バラック小屋で人目を避けるように暮らしていたという。霧山警部補と〈蝮の七〉に捕まるまで七ヵ月ずっと――。

 

などということが書かれていた。では平沢は七ヵ月間そこで何をしてたと言えば、何もしていなかった。その間の収入はゼロ。そして一月末のカネをどう入手したかは不明。

 

帝銀事件の犯行で得たものでないと言うのなら――などということが書かれていた。このとき平沢が得たカネは、確かにわかっているだけで拾参萬四千圓。ただし、他に伍萬ほど一緒に得ていたと見られており、つまり帝銀の被害額拾八萬と一致する。

 

しかも、なんと平沢は、うち八萬を偽名で作った銀行口座に預金していた。それが1月28日。帝銀事件の二日後なのだ!

 

などということが書かれていた。困ったことにどれもこれもが事実だった。

 

『そんなのは関係なーいっ! GHQの実験なのが確かだから画家の平沢は無実なのだーっ!』

 

という声がまだ表から聞こえてくる。しかしなんだかだんだんに泣き声が混じってきたようだった。

 

『だからバカのひとつ覚えはやめろって言ってんだーっ! モンタージュの顔にそっくりだろうがよーっ!』

 

と返す声。こちらはどんどん力を増していっているように感じる。

 

「うーん」

 

と平沢は、ただ唸る以外になかった。

 

「どうすんの」

 

とマサ。しかし『どうすんの』と言われたところでどうすりゃいいのか。

 

「あなたが首吊りゃいいんじゃないの? 木に吊るされる前に自分で吊るのよ。死刑台に吊るされる前に自分で吊る。それでみんな納得するんじゃないかしら」

 

「お前……」

 

「だってあなた、警察でも自殺未遂したんでしょう。新聞に書いてあったわよ」

 

「あんなもん芝居に決まってんだろう」

 

「そうよねえ。普通、よっぽど頭がイカレてなけりゃそう思うよねえ。でもGHQ実験説を信じる人ってマジであなたが無実と信じちゃっているんでしょうね。バカもいいとこ」

 

「そう思うかな」

 

「そうよ。どーすんのよあなた」

 

「うーん」

 

とまた平沢は唸った。たとえ今夜が無事に済んでも明日から道を歩けない。それはどうやら明らかだった。いつグサリと包丁で背中を突かれるかわからない。

 

と考えるよりなかった。となると、結論は……。

 

「逃げるしかないな」

 

と平沢は言った。



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ラスラス

本格的な捜査は翌日始まった。少しずつ細かな事実が明らかになる。

 

まず最初に古橋が感じた疑問だが、ゲンジョウとなった建物は元は質屋であったのを銀行が買ってほぼそのままに支店として使っていたものだったという。聞き込みにまわってみると近所に住む人の中にも、それが銀行だったのを知らない者が多くいた。

 

「特にこの戦後になって住むようになった人の中には……」

 

古橋はひとり(つぶや)いて、自分が歩いてきた道を振り返って眺めてみた。

 

「ここら辺も戦前とは変わってるってことなんかな」

 

カーブのためにすぐ先が見えない。だが『ここら辺』だけでなく、この東京全体が。この建物がかつて質屋だったのが見かけはそのまま銀行になっているように。

 

そうして見かけは変わらぬままに、どこもかしこも変わっているということじゃないのか。帝国主義から民主主義に。天皇制から分権制に。そして質屋は銀行に。

 

瓦屋根に格子戸だ。何をどう見ても普通の民家だ。だが看板に《帝国》とあり、犯人はこれが銀行と知っていた。どういうことだろう、と古橋は思った。

 

結局、変わっているようで、何も変わってないのじゃないのか。人間が変わらないのなら。銀行強盗・質屋強盗なんていうのはそこらの素人(トーシロ)が、カネに困って刃物(ヤッパ)を手に近くの店をタタキに入るというのが実は多い。それがいちばんお決まりの話だ。

 

ドストエフスキーの『罪と罰』。主人公のラス……ラス……ええとなんだっけが、借金苦から金貸しの因業(いんごう)ババアをブチ殺す。

 

ソ連――いや、当時はロシアか。小説が書かれた当時にそこで実際に似た事件があったと言う。

 

そしてソ連となった今は、犯罪なんかひとつもないとインテリゲンチャは言う。バカだ。では、こいつはなんだろう。ホシは素人(しろうと)玄人(くろうと)か。

 

アメリカには、強盗の玄人(プロ)がいると言う。大抵はふたりか三人で、『ホールドアップ』と叫びながら店に押し入りでっかい銃をぶっ放す。

 

それがプロだ。プロだから、複数でやる。単独でやらない。単独でやるのは英語でアマチュアという。

 

しかし、こいつは単独だった。だが毒を使うというのは……。

 

トーシロがやることなのか? まさか、という気がした。ズブの素人がやることともまた思えない。

 

こいつはプロだ。だがアメリカのプロとは違う。ラスラスなんとかがやったように、計画を企みながらこの道を歩く……。

 

そうだ、と、古橋は思いながらに道を歩いた。裏にまわって犯人が使った木戸の前に立ち、周りを眺めやる。

 

戦時中に〈B-29〉の編隊は山手線の内側とさらにその東を焼いたが、池袋からちょい西のここは空襲を免れたらしい。だからこの質屋だった家も焼けずに残っているのだろうが、周囲にはバラック小屋のようなものも多く見えた。瓦屋根とトタン屋根と半々というところだろうか。

 

戦争の前と後では町に住む者も入れ替わっている。古橋が聞いてまわった中には、戦前にここが質屋であったのを知ってはいたが銀行に変わっているのを気づかずにいた者もいた。

 

見かけが変わってないからだ。けれどもその一方で、新しくこの町に来て銀行を利用していた者もいる。かつては質屋であったのを初めて知って『へえ』と言った。

 

なるほどね、妙な銀行だと思っていた、と。そんなところで事件が起きた。

 

どういうことだろう、と思った。警視庁捜査一課の刑事と言っても、その中では若く新米の自分には近所の聞き込みしかさせてもらえない。より重要な捜査はすべて先輩格の者達のものだ。

 

が、それでもな、と思った。まずは、与えられた仕事を果たしてみることだ。聞いてみてみた。この町に前から住んでたんですか。最近やって来たんですか。戦後になって? 戦争中は何をしていたんですか。あの建物が銀行で、前には質屋だったのを知っていましたか。

 

そこから何か浮かぶものがあるかもしれないと思ったからだ。結果は、あるようなないような。靴の底を意味もなく擦り減らしただけのような。

 

刑事(デカ)の仕事は命懸けだ。もしその中にラスラスなんとかがいやがって、『あ』とか言っておれの後ろを指差すから振り向いてみたら背中をブスリとヤッパで刺されちまったりとか、『お茶でもどうぞ』なんて言われて湯呑みを出すから飲んでみたら、例の犯行に使った毒と同じものが入っていて『グエエ』だなんてことにならないとは限るまい。一応は相棒と組んで仕事をするけれど、ひとりの相手に話を聞くときこちらがふたりでやることはない。それでは相手が委縮する。聞ける話も聞けなくなる。

 

だから聞き込みはひとりでやった。メモを取りつつ相手の眼の色を窺って、こいつがラスラスではないだろうなと疑いながら。

 

質問しながら顔を見ていて、そいつの眼がもしも赤く光って見えたらそれが(タマ)()り合いになるかもしれない狩りの獲物だ。

 

それが刑事というものであり、おれが刑事になってしまったこの戦中・戦後と呼ばれる今の世では特にそうではないのかと古橋は考えていた。生きるためには誰もが闇の世界に足を踏み込まなければならない。どこかの裁判官のように、ヤミの高い食糧を買わずに生きるわけにいかない。

 

古橋が履く靴の底の革は擦り減り、ゴムの底に替えたかったがしかし食うだけで一杯だった。しかたないから自転車の古タイヤをもらってきて靴底の形に切り、自分で釘で打ち付けていた。その靴底をまた擦り減らして一日歩き、捜査本部が置かれた目白(めじろ)署に戻る。先に戻っていた相棒の天城(あまぎ)という刑事が言った。

 

「この事件(ヤマ)だけど前に未遂が二件あったらしいって。3ヵ月前と一週間前。手口はほぼそっくり同じで、ホシの人相も同じらしい」



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