ヴァイオレット・エヴァーガーデンと旦那様 (瑞穂国)
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ヴァイオレット・エヴァーガーデンと旦那様

「愛してる」、をくれたのです。

 

 

 

 失ったはずの右の目に、昨夜も夢を見た、そんな気がしていた。

 それは遠く、しかし決して離れた場所ではない。ふとした時には思い出せる距離で、さして時間の経っていない記憶。

 目が覚めてしまえば、夢は消えてしまう。寝ている間の映像は不鮮明だ。ひとたび起きてしまえば欠片も残りはしない。

 あれはいつのことだったろうか。

 一つ、たった一つだけ、憶えていたのは。

 この腕の中に抱き留めた、温もりのことだった。

 

「――ま」

 

 微睡みから少しずつ、意識が現実へと戻ってくる。軍をやめて以来、どうにも目覚めが遅くていけないとは、薄々感じてはいた。特に、ここ数か月は尚更。肩に触れられれば、あるいは靴音だけでも目を開けたのに、今は朝陽の色に少しずつ溶かされながら、夢を忘れつつ、目覚めていく。

 

「――な――ま」

 

 どこかで鈴の音がする。ああそれとも、これは笛の音だろうか。あるいは単に、ガラス細工のコップを、子供が悪戯で鳴らすかのような。玲瓏な響きに耳を傾ける。ああ、なんて澄んだ、美しい音なのだろう。どれ程の名演奏者がこの音を奏でるのだろう。春の陽射しに包まれるような、柔らかな音の調べ。

 

「旦那様」

 

――ああ、いいや。違うな。

 それが声だと、ようやく気づいた。そしてそれが、自分を呼んでいる声なのだとも。意識を少し現実へ近づければ、寝転んでいるベッドに誰かが手をつき、私の体を揺すっているのがわかった。

 それがまた、不可思議な揺すり方だった。加減がわからないのか、野花でも撫ぜるような微かな揺すり方をする。かと思えば、夏に打ち付ける荒波の如く体を弄ばれる。そんな、何とも可笑しな起こし方に、私の意識は急速に現実へと引っ張られていった。

 重たかった左の瞼を開く。

 夢から私を引き上げた彼女は、島自慢の海にも負けずに澄んだ蒼い瞳で、こちらを見つめていた。

 ゆるるかに揺れるのは金砂の髪。鼻先に触れそうな近さの髪からは、微かに整髪料の香りが漂う。

 

「旦那様」

 

 私を呼ぶのは薄桃色の唇。細く薄く、けれど年相応に潤んだ唇が、澄んだ音色を奏でている。

 ヴァイオレット。私がそう名付けた少女は、林檎色の頬をして私の顔を覗き込み、不器用な手つきで体を揺すっていた。

 

「お目覚めですか、旦那様」

 

 目が合ったヴァイオレットは、微かに笑う。それこそ、本当に笑ったのかどうかがわからないくらい。よく見ていなければ見逃してしまうくらい。けれどその口角が、確かに持ち上がっているのを、すぐ近くにいる私は見て取ることができた。

 

「おはよう、ヴァイオレット。――すまない、起こしてくれてたのか」

「おはようございます。ええ、その――待っていたのですが、そろそろお時間が」

 

 壁掛け時計を目で示すヴァイオレット。時計の示す時刻は、彼女の出勤する時間にはまだ余裕がある。けれど、毎朝の準備のことを考えれば、彼女の言う通りそろそろギリギリだ。

 

「ああ……とことん緩み切っているな、私は。全て君に任せっきりだ」

 

 ヴァイオレットの助けを借りて体を起こした私は、情けなさ由来の恥ずかしさで頭を掻く。そんな私の様子に首を傾げ、ぱちくりと瞬きを一つした彼女は、

 

「いえ、お気になさらず。――旦那様の寝顔という、報酬もいただいていますので」

 

覚えたての冗談を、今度は満面の笑みで、囁くのだった。

 

 

 

 隻眼隻腕の私にとって、朝の支度というのは一苦労だった。

 まず、距離感というのがうまく測れない。それから片手では、シャツに袖を通して、ボタンを留めるだけでも多大な集中力を要求される。寝間着から着替えるだけでも、一人では最低三十分の時間がかかった。

 ヴァイオレットは、そんな私の支度を、毎朝手伝ってくれた。

 最初のうちは、ベッドに横たえた体を起こすところから、寝間着を脱がして、シャツを着せてと、全部がヴァイオレットに任せきりだった。ズボンまでやらせるのはさすがに気が引けたから遠慮したが、結局半ば強引に脱がされた。下着だけは自分で取り換えた。そんなやり取りがしばらく続いた。

 今は少し違う。

 

「――終わりました、旦那様」

「ああ」

 

 私の背後へ回っていたヴァイオレットが、離れる気配がする。朝起きて、彼女が真っ先に私へ身に着けてくれたものを――鈍色をした金属の手を、私は改めて見つめる。

 試しに、親指を動かしてみる。動いた。

 人差し指も動かしてみる。動いた。

 中指、薬指、小指、全部を動かしてみて、どれも問題なく動くことを確かめた。

 

「問題なく、動くな」

「はい。問題なく動きます」

 

 薄明の髪を陽射しの中で揺らして、ヴァイオレットは笑った。

 インテンスの戦いで両腕をなくしたヴァイオレットが、そうしたように。今は私も、機械仕掛けの義手を相棒としている。兄さんからの強い勧めがあったからだ。

 

――「女一人、抱きかかえてやれないでどうする」

 

 手紙に綴られた言葉は相変わらずの調子で、しかしそれがどうにもむず痒く、そして無性に喜ばしかったのを今でも覚えている。

 義手をすることには、ヴァイオレットも賛成していた。彼女の義手も用立てた職人の下で世話になり、初めて義手をつけた時には、

 

――「少佐とお揃いです」

 

と、何とも無邪気に頬を染めていた。

 義手のおかげで、随分と生活は様変わりした。

 まず、朝の支度に使う時間が、随分と短くなったし、自分一人でもできるようになった。ある程度片手間でもボタンを留められるようになって、そうするとちょっとした言葉を交わす余裕が産まれた。島で代筆業を続けるヴァイオレットも、そんなちょっとしたおしゃべりに付き合ってくれた。

 料理ができるようになった。……いいや、これは少し――かなり、語弊がある。元々まともに料理なんてしたことはなかった。カルボナーラ一つ、作ることさえできなかった。この点に関しては、私はまだまだヴァイオレットの足元にも及ばない。せめてオムレツくらい、作れるようになりたい。これはこれからの課題だ。

 ブドウの収穫もできるようになった。右手で鋏を使って、左手で葡萄を支える。瑞々しい果実を扱うのはまだおっかなびっくりだが、郵便業の合間にやって来たヴァイオレットが隣にいたりして、それに言葉にはできない幸せを感じている。

 兄さんの言ったように、ヴァイオレットを抱きかかえることもできた。かつてそうした時は、細くて軽い体に驚いて、そして震える瞳でこちらを見る小さな存在に、ただ笑いかける他なかった。数年の時を経て、立派に成長したヴァイオレットは、その時間の分と義手の分だけ重みを増していて、私の腕には収まりきらず、しかし翠玉の瞳だけは、あの頃と同じように私を見つめていた。けれどしばらくすると、ヴァイオレットは薔薇色に頬を染めて、そんな顔を両の手で覆い、微かな声で「幸せです」と呟いた。私はそんな彼女に、ただ笑いかける以外のことができなかった。

――変わったと言えば。

 

「朝食の支度もできていますよ、旦那様」

 

 ヴァイオレットからの呼び方も、いつの間にか変わっている。

 

――「少佐」

 

 私を見つめるマリンブルーの宝石は、いつも私を、その肩につけた階級で呼んでいた。

 再会してしばらくも、ヴァイオレットは私を少佐と呼び続けていた。軍をやめている私をそう呼び続けるのも何だか妙だなと思っていたが、それがある日、「少佐」から「旦那様」に変わっていた。

 

「ヴァイオレット――」

 

 どうして、私を旦那様と呼ぶんだ。そんなことを訊きそうになって、慌てて口を噤んだ。

 今更、確かめることではないはずだ。

 

「旦那様?」

 

 ヴァイオレットはまたも首を傾げている。かぶりを振った私は、彼女の用意した朝食の前に腰掛けて、わざとらしい言い訳を考えた。

 

「ああ、いや、なんでもない。君の名前を呼んでみただけだ」

「そう、ですか」

 

 不思議そうにしながらも、ヴァイオレットはそのまま席に着いた。二人きりの朝食が始まる。

 きつね色のパンに、ママレードを塗る。まだ慣れない右手の扱いに苦戦し、眉間に力を入れながら、慎重に、明るい黄色のジャムを広げた。そんな私に、ヴァイオレットは穏やかな微笑を向けていた。

 

「どうしたんだ?」

「いえ。旦那様が、ママレードを塗っています」

「……ああ。私はママレードを塗っているよ」

「はい」

 

 何とも中身のない会話と、端から人が聞いていれば思うかもしれない。しかし彼女に限って、それは違う。

 ヴァイオレットは確かめているのだ。ただ目の前の出来事を、ありのまま言葉にして、そうして確かめている。

 何を確かめるのか。

 それは、多分、私という、存在のことだ。

 

「君は塗らないのか、ヴァイオレット」

「私も塗ります」

「そうか。――なら、君の分も、私が塗っていいだろうか」

 

 ヴァイオレットの前、まだオレンジのドレスをまとっていないパンに目を遣った。彼女はわずかに迷う素振りを見せた後、こくんとその首を振る。左手を伸ばして彼女のパンを取り、スプーン山盛りにすくったママレードを、こんがり焼けた茶色いパンに乗せた。スプーンの腹で、ママレードを薄く広げると、柑橘類独特の、つんと鼻をくすぐる甘い香りが漂う。

 

「できたよ、ヴァイオレット」

「――旦那様に」

 

 私の手からパンを受けとりながら、ヴァイオレットはぽつりと呟いた。朝陽を反射する黄色い宝石を、同じように朝を宿した翠の瞳が、穏やかに見つめている。

 

「旦那様に名前を呼ばれるのは、嬉しい、です」

「……そうか」

「私の名前は――ヴァイオレットは、旦那様にいただいた名前です。それがまた、一層、嬉しいのです」

「……そうか」

 

 ヴァイオレットはなお、ママレードの塗られたパンを見つめている。翠玉を嵌め込んだ瞳を揺らめかせ、内なる輝きを映しこんで、ただ静かに。

 その瞳を、同じように、私も見つめていた。

 

「旦那様には、たくさんのものをいただきました。ヴァイオレットという名前も。ママレードの塗ったパンも。数えきれない言葉も。代えがたい温もりも。――このブローチも」

 

 彼女の胸元に輝く、エメラルドのブローチ。かつて少佐だった私が、彼女に贈ったものだ。それを、彼女はずっと大切に、持っていてくれた。

 

「『愛してる』も、くれました」

 

 薄い唇が開いて、ママレードの乗ったパンにかじりついた。小さな口と同じ大きさの歯形がパンには残って、その欠けた分を口に含むヴァイオレットは、微かに口角を上げながら咀嚼する。二口目も、三口目も、彼女は同じようにしていた。

 

――「愛してる」

 

 インテンスの戦い。薄らぐ意識の中、私はただその言葉だけを、彼女に伝えていた。伝えたかった。伝えなければと思った。そうすると、自然と口は動いていた。

 ずっと、愛していた。初めて彼女をこの胸に抱いた時から、ずっと。

 

 

 

「愛してる」、をくれたのです。

 

 

 

 ヴァイオレットはそう言う。

 でも、少し違うんだ。

 これほど人を愛したことはなかった。

 これほど人を愛したいと思ったことはなかった。

 だから、ヴァイオレット。どちらかと言えば。

「愛してる」のその言葉を、君が私にくれたんだ。

 君が私にくれた感情を、私は君に、伝えたかったんだ。

 

 

 

 二人きりの朝食の時間は、あっという間に過ぎていく。皿を片付けて、それぞれの仕事道具を詰めた鞄を取り、二人揃って家を出た。島の学校へ向かう私は、今日は代筆を頼まれているというヴァイオレットを途中まで送り届け、別れた。

 手袋をした手を振って、ヴァイオレットは歩いていく。彼女は自動手記人形(オート・メモリーズ・ドール)。依頼主の言葉を、祈りを、願いを、想いを拾い上げ、手紙を綴る少女。

 私に「愛してる」をくれた君だから。君はきっと、たくさんの人の「愛してる」を汲み取る、よきドールであるだろう。



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ヴァイオレット・エヴァーガーデンと接吻

「愛は議論ではなく事実で試される」

 

 

 

 ふとした瞬間に、視線を感じている。

 例えばそれは、毎朝義手をつけてもらい、自分の支度をしている間。シャツに腕を通し、ボタンを留めて、襟を正している時。

 例えばそれは、朝食の支度をしようと、キッチンに立っている間。二人分のオムレツを見事に焦がし、まだまともな方をヴァイオレットの皿に乗せる時。

 例えばそれは、紫色の宝石となった、旬のブドウを収穫している間。鋏を手にし、収穫の頃合いを見計らって、一つ一つ籠へ摘み取る時。

 それは例えば、学校で教えている子供たちの答案に、目を通している間。土が水を吸うように、一日ごとに成長していく彼ら彼女らに、頬を緩める時。

 それは例えば、狭いベッドに温もりを感じながら、身を預ける間。ランプの灯を落として夜の帳を降ろし、「おやすみ」と囁いて目を閉じる時。

 ふと気づけば、マリンブルーの瞳に見つめられている。

 何かを言う訳ではない。何かの意図があるのはわかるのだが、純真無垢な瞳は私を見つめるばかりで、言葉を語ってはくれない。ヴァイオレットはただじっとして、その瞳だけを私へ向け続ける。

 

「……どうしたんだ」

 

 その度、私は彼女へ尋ねてみる。何か用事だろうかと。何か私に求めるものがあるかと。

 

「いえ……なんでもありません、旦那様」

 

 しかし決まって、答えは得られなかった。問いかけるたび、ヴァイオレットは瞬きをして瞳の光を揺らせる。一瞬目を伏せた後、彼女は取り繕うように別の作業を始めてしまう。その取り繕い方というのがまた不器用で、すでに洗った皿を拭いてみたり、わざとらしく箒を手にしたり、油を入れたばかりのランプを気にしたりと、おかげで彼女が何かを口にできずにいることは明らかだった。

 ヴァイオレットから答えが得られない度、私もまたどうしたものかと、頭を掻いた。隠し事のできないヴァイオレットだ。素直で、それ故に少し頑固で融通のきかないところもある、ヴァイオレットだ。そんな彼女が何かを取り繕うというのはよっぽどのことで、だからこそこれ以上詰め寄って聞き出していいものか迷う。

 それに、どことなく、私を見つめる視線には、彼女自身の強い意志のようなものを感じていた。私に何かを求めるわけではなく、まして命令を待つわけではなく、ヴァイオレット自身の意志を感じている。小指を絡めて約束をしたあの夜に見せてくれたのと同じ瞳。少佐であった私には見せてくれなかった――いいや、たった一度、インテンスで私を助けようとした時にだけ見せたのと同じ瞳。

――それなら、待っていて、彼女に任せて、大丈夫……だろうか。私の方が二倍近く歳を重ねているとは言っても、ヴァイオレットはもう妙齢の女性だ。私の後をついてきた、か細く、そして苦しいほどに儚かった幼い少女の姿は、どこにもない。ホッジンズから散々聞かされてきた通り、ヴァイオレットはもう十分立派な、一人の女性だ。

 真っ直ぐな曇りなき空色の目を、信じよう。ヴァイオレットなら大丈夫だ。そう心の中で念じながら、私はまた自分の作業に戻る。

 そんなことを、一週間ほど続けていた。

 

 

 

「完了しました、旦那様。動かしてみてください」

 

 毎朝の習慣となっている義手の装着作業を、今日もヴァイオレットが手伝ってくれた。

 ベッドに腰掛けたまま、右手の義手を動かしてみる。親指から順に動かしていって、手首やひじの関節も動作を確かめる。毎朝同じように繰り返す確認作業を、ヴァイオレットは隣で食い入るように見つめていた。

 

「ありがとう。問題なく動くよ」

「はい。問題なく動きます」

 

 毎朝同じ言葉を、彼女と交わしている。取り留めのないそのやり取りを、好ましく安堵して受け入れている自分がいる。知らず知らずのうちに、毎朝、彼女が側にいることを確かめている。

 隣に座り、真剣な表情で義手を見つめているヴァイオレット。顔の半分を朝陽で染める彼女を見ると、どうにもならない頬の緩みを自覚する。あるいはこれを、幸せと呼ぶのだろうか。

 ふと、彼女はどうなのだろうと、思った。

 しばしの時間を――しかし決して短くない時間を、ヴァイオレットと供にしている。離れていた時間を埋め合わせるにはきっと足りないが、それでも二人で色々なものを手に取りながら歩む時間だった。「愛してる」と告げた君と、初めて並んで歩く時間だった。

 ヴァイオレットは、その時間をどう感じたのだろうか。彼女が思い描くような、聖人ではなかったはずだ。彼女が慕うほど、素敵な人間ではなかったはずだ。

 たくさんのものに触れて、たくさんの人に出会って、私の教えられなかったたくさんたくさんのものを見てきたヴァイオレット。それでも、君は私の側にいたいと、思ってくれるのだろうか。

 揺れる金糸の髪を見つめていた。女性の髪の整え方なんて知らなくて、妹の世話をしたという部下から聞き出した情報をもとに、全くの手探りで私が揃えていた頃とは違う。絹のように細くしなやかで、風が吹けばさらさらと流れるほど、よく手入れの行き届いた彼女の髪。それを、私ではもうどうしたってできないような、複雑な編み込み方でまとめている。落ち着いたダークレッドのリボンも、彼女にはよく似合っていた。

 その時、顔を上げたヴァイオレットと目が合った。空とも海とも思える、ひたすらに澄み切った蒼の色。心を鷲掴まれる煌めき。その光だけは、私もよく、知っていた。

 

「旦那様――」

 

 囁きに合わせて、薄桃の唇が微かに動いた。最後の音を発した後も、何かを語ろうとするように半開きの唇からは、それ以上の音は聞こえてこなかった。

 スカイブルーの瞳を見つめていた。少しづつ近づいて、大きくなっていく、ヴァイオレットの双眸。翠玉の中には隻眼の私だけが映りこみ、まるで彼女という存在に、その瞳に、吸い込まれてしまったような錯覚を受けた。

 夜の乾きを潤していない唇に、仄かな風を感じる。

 

 

 

 ちゅっ

 

 

 

「っ?!」

 

 衝撃は、さやかな感触よりも五秒ほど遅れて脳髄を叩いた。

 何かが唇に触れたことは、わかった。

 それが、わずかな湿り気と、甘い香りを伴っていたことも。

 それが、雲のような柔らかさと、太陽のような温かさを持っていたことも。

 それが――それが、手のひら一つ分も離れていないところでこちらを見つめる、ヴァイオレットの唇であったことも、わかった。

 それを、その行為を、世間では一般に何と言うのかなど、最早確認する必要もなかった。

 

「ヴァイ……オレット」

 

 これほど狼狽えて、頭の中を真っ白にして、ただただ彼女の名前を呼んだのは、船上のヴァイオレットを引き留めた時以来だった。

 私に不意打ちのキスをしたヴァイオレットは、ほんのりと頬に赤みを差しながら、ようやく、零さなかった言葉の続きを、たった今私に触れた唇から発した。

 

「接吻、というものを、してみたのです」

「そ、それは、わかってる。どうしてまた急に」

「……『愛は議論ではなく事実で試される』、そう聞いたのです」

 

 胸元のブローチに手を添えて、ヴァイオレットはそう言った。引用したのはとある(ことわざ)で、友人のドールが教えてくれたのだという。

 

()()と会えない間、ずっと、『愛してる』を考えていました。それが、どんな意味の言葉なのか。どんな時に口にする言葉なのか。どんな気持ちで語る言葉なのか。ずっと、ずっと、探していたのです」

 

 ドールとしての日々を、ヴァイオレットはそう語った。青い瞳を伏せがちに、()()の託したエメラルドのブローチを手に握りしめて、彼女はなおも言葉を選んでいる。

 

「『愛してる』も、少しずつわかるようになったのです。ですがそれを、自分が口にできるのかが、わからないのです。旦那様に『愛してる』を告げようとするたびに、多くのことを考えて、そうして言葉にはできずに終わってしまうのです。でも……それでは、ダメだと、思ったのです」

 

 そのことを、ヴァイオレットは友人のドールへ相談したのだそうだ。そうしてそのドールが、「愛は議論ではなく事実で試される」と、彼女へ教えてくれたという。

 

「ずっと、『愛』とは何かを、考えていました。けれど考えるだけではダメなのです。言葉にしなければダメなのです。形にしなければダメなのです。――私は、私は、この気持ちを、旦那様にお伝えしたいのです。『愛してる』は、全てを理解したわけではありません。私のこの感情が、旦那様の『愛してる』と同じなのか、それもわかりません。それでも、それでも、どうしても、伝えたいのです。伝えずにはいられないのです」

 

 そこにあったのは、とても真剣な、一人の女性の眼差しだった。ここ一週間ほど、私へ注がれていたあの視線だった。とても真っ直ぐで、ひたすらに純粋で、そして強い意志を宿した瞳。

 

「それで、君は、私に、キスを、したのか」

「……はい。『愛は議論ではなく事実で試される』、そうなので」

 

 ちなみに、キスという手段をヴァイオレットに教えたのは、島の子供たちらしい。

――どこから、何から、話をすればいいだろう。私はまず、自分の髪を掻くところからはじめた。

 

「……ありがとう、ヴァイオレット。驚いたけど、とても嬉しいよ」

「……嬉しい、のですか。私のキスは、嬉しい、のですか」

「嬉しいよ。とても嬉しいんだ。今すぐ君を抱き締めたいくらい、嬉しいんだ」

 

 すぐ近くのヴァイオレットに手を伸ばし、抱き寄せる。残った左手と、感覚に慣れてきた右手。そこに力を込めて、ヴァイオレットを抱き締める。

 抱き締めたヴァイオレットの体には、彼女には珍しく、変な力が入っていた。胸元で微かな音ともに彼女が息を吐き、それに合わせて強張りが無くなっていく。

 そのまま、しばらくの間、ヴァイオレットを抱き締めていた。

 

「……君は、どうだったんだ、ヴァイオレット」

 

 ぽろりと、そんなことを尋ねてしまった。キスの直前まで、「ヴァイオレットはどう感じているのだろうか」と、そんなことを考えていたからだろう。つい、彼女の感想が、知りたくなってしまった。

 

「私、は……」

 

 掠れた声がする。数秒の間の後、胸元から顔を上げ、ヴァイオレットがこちらを見た。彼女は困った様子で細い眉を下げている。

 

「よく、わかりませんでした。口づけというのは、初めての経験で……うまく、確かめることが、できませんでした」

 

 潤んだ瞳が揺れて、私を見つめていた。見つめる瞳が、何を求めているのか――私に何をしようというのか、今朝はちゃんと、理解できた。

 

「もう一度、確かめてもよいでしょうか、旦那様」

「――もちろん」

 

 私が頷くと、すぐにヴァイオレットの顔が近づいてきた。蒼い宝石の煌めきに、二度目は確信犯的に、吸い込まれていく。

 唇が重なる。触れるだけだった一度目とは違う。ヴァイオレットはぎこちなくその柔らかなものを押し付け、それに私も応える。よりはっきりと、彼女の存在を感じた。瑞々しい果実を口にしたような感触。蜂蜜にも似た甘い香りと、焼き立てのパンにも勝る柔らかさ、そして朝を告げるかのようなヴァイオレットの体温。

 ヴァイオレットが瞼を閉じる。長い睫毛が震えていて、それをぼんやり「美しい」と思った。

 つられるようにして、残った左目の視覚を奪う。見えるものがなくなると、他の感覚が一層研ぎ澄まされた。重なった唇の感触はもちろん、身をよじる衣擦れの音、唇の合間から聞こえる水音、服越しに伝わる彼女のメロディ。

 機械仕掛けの手が、私の左手に重なった。そっと握ってきた手に、指を絡ませる。不思議と、ヴァイオレットの暖かさを感じた気がして、それが手を伝う彼女の感情なのだと改めて気づいた。

 春の陽射しにも似た想いに、私の心も暖められていく。

 どれほどの時間、そうしていただろうか。永遠にも思える時間だった。心は温かさで満ち、これが幸せなのだと確信できた。これ以上の幸福などないかもしれないとさえ思った。それ故に永遠だと感じた。けれど実際には、息の続かなかったヴァイオレットが唇を離すまでの、二十秒ほどであったはずだ。

 離れていく唇を、名残惜しく感じた。

 ヴァイオレットが瞼を上げ、再び翠を嵌め込んだ瞳と目が合う。波間のように揺れ動くそこには、いまだ私だけが映っている。

 

「……あ」

 

 目が合うと、みるみるうちにヴァイオレットの顔が赤くなる。頬を薔薇に染めることはあった。この腕に抱え上げるたび、彼女は照れた顔を両の手で覆い隠していた。しかしここまで、赤く染まったことがあるだろうか。ライデンの夕陽にも負けない艶やかな赤に、私の方が恥ずかしくなってしまう。

 つい今しがたまで私と繋がっていた唇が、何某かを語ろうとする。薄く開いたピンクの間からすーっと何度か息を吐き出し、言葉にならない声を紡ぐヴァイオレット。やがてその唇が、ようやく、言葉らしい言葉を発した。

 

「――嬉しい」

 

 しみじみと呟く言葉に、私はただ、頷くしかなかった。

 短い言葉を確かめるように、ヴァイオレットは何度も何度も、繰り返す。その一つ一つに、私は首肯した。

 

「嬉しい。嬉しい、です。嬉しいです。嬉しいのです。――これ以上ないほど、幸せなのです」

 

 いくつもの薔薇を咲かせながら、ヴァイオレットは微笑んだ。晴れやかな表情が、やはり私にはどこか気恥しく、けれど心の限りに笑う彼女に応え、精一杯の笑顔で返す。

 こうして、一つ一つ、愛の事実を試されるのなら。そうして、君との愛を確かめていけるのなら、どんなに幸せだろうかと私は思うのだ。

 もう一度、ヴァイオレットを抱き締める。彼女の腕が、ゆっくりと、私の背中に回っていった。



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ヴァイオレット・エヴァーガーデンと恋人繋ぎ

――それは多分、一番ささやかな、「愛してる」の形。

 

 

 

「ねえ、郵便屋さん」

 

 私が今の職場としているエカルテ島灯台の郵便局には、小さなお客様がよく訪問されます。

 目の前の少女も、そうしたお客様のお一人です。

 真珠のように真ん丸の瞳を、星空よりも多くの輝きで満たす少女は、つい今しがたまでタイプライターで遊んでいたはずです。私の使っていたブラインド・タッチの教科書を頼りに、一文字一文字、難しい顔を作りながら文字を打っていた少女が、気づくとカウンター越しに私を見ています。

 仕分けの終わったお手紙と、少女の顔。両方を一度ずつ見て、私は手紙の束を置き、少女の方へと向き直ります。少女はそんな私の目を真っ直ぐに見つめて、好奇心を一杯に詰めた表情で頭を揺らしておりました。

 

「はい。どうされましたか」

「郵便屋さんは、先生の奥さんなんでしょう?」

 

 純真無垢な問いかけに、体が固まるのがありありとわかりました。それはあたかも、油を差し忘れた機械みたいに。体の自由が、全く、効かなくなってしまったのです。

 どういう、ことなのでしょう。唯一まともに動いた瞼を二度三度と瞬かせながら、突然この身を襲った金縛りに、私は対処しようとしていました。

――一先ず、少女の言葉は、全てつつがなく、理解できたのです。いえ……本当のところは、いくつか疑問が残るのですが、ともかく言葉の意味としては理解できたのです。

 先生。少女が先生と呼ぶのは、ギルベルト・ブーゲンビリアという元陸軍少佐のことです。二年ほど前にこの島へ辿り着いた時にはジルベールと名乗り――そして今は、本名のギルベルトを名乗って、島の子供たちの先生をしております。私が長い間、ずっと探してきたお方。私がお側にいたいと願うお方。私の、何にも代え難く、どんなものと比べることもできず、命に代えても守りたく、そしてその命の限りを尽くしたい、一番大切なお方。

 その、「先生の奥さん」とは……つまり奥方のことであり、結婚した男女のうちの女性の方を、すなわち妻のことを差す言葉で……要するに、目の前で鼻息を荒くしていらっしゃる小さなお客様は、私が旦那様の妻なのかと、そう尋ねておられるのです。

 機械仕掛けの肺をこじ開けて息を吸い、私はようやく、お客様へ返答をします。

 

「私は、旦那様の――」

「そう、それ!それよ、郵便屋さん」

 

 紡ごうとした言葉は、しかし興奮したご様子で右の人差し指を突き出す少女に、遮られてしまいます。ぐいぐいと、小さな体のどこにそんな迫力をお持ちなのか、少女はカウンターより乗り出して、私の方へと顔を近づけてきます。それに気圧されるばかりの私は、半歩後退りながらなお、少女の大きな瞳のみを見つめていました。

 

「どうして、ジル――じゃなかった、ギルベルト先生のことを、お名前で呼ばないの?」

「……旦那様のお名前を呼ぶことと、私が旦那様の……妻であることに、何か関係がありますでしょうか」

「関係大ありよぅ」

 

 前にのめって、バランスを崩しかけた少女を支え、カウンターの向こうへとお戻しします。床に足が届いた少女は、綺麗な瞳を揺すって感謝の言葉を述べ、今度は慎ましやかな様子で頬杖をつき、しかしやはり大きな目をぱっちりと開いて、私の方を見つめておりました。

 

「だって、旦那さんと奥さんは、名前で呼び合うものでしょう?私のパパとママがそうだったわ」

 

 少女が語ったのは、私の知らない、「普通の夫婦」のお話でした。

 そういう、ものなのでしょうか。これまでいくらかの本を読みました。その中にはもちろん、古今東西の恋愛話というのも、ありました。しかし、多くの小説は二人が結ばれるところで終わっていて、結ばれたその後を――夫婦となった後のことを描いたものは、極々稀であったと記憶しています。

 恋愛話においては、愛し合う二人は確かに多くが名前で呼び合っておりました。しかしそれは恋人同士、あるいはそれ未満での話。夫婦というのが、普通、お互いをどのように呼び合うのかを、私は知りません。

「旦那様」という呼び方は、もしや、とてもおかしな呼び方なのでしょうか。

 

「お嬢様のお父様とお母様は、お互いに、お名前で呼び合っていらっしゃったのですか」

「ええ、そうよ」

 

 少女は一しきり頷いて――しかしながら、不意にその目を、カウンターへと落とされました。あたかもそれは、コップの水面のような、儚い揺らめきで――「悲しみ」という感情が、ありありと浮き出た瞳の色。

 

「……お墓にお花を供える時も、いつもパパの名前を呼んでるの」

 

――そんなことはあり得ないとわかってはいても、この心臓が、キュウと細い縄で締め上げられたような、そんな心地がするのです。

 エカルテ島には、若い男性がほとんどいらっしゃいません。大陸戦争で多くの方が徴兵され、そして決して戻っては来なかったと、聞き及んでおります。それは、少女のお父様も例外ではございませんでした。

 ……さらに詳細に述べるならば、エカルテ島より徴兵された方は、私や()()の所属していたライデンシャフトリヒ他南部連合ではなく、ガルダリク他北部連合に参加されており――つまり戦場で、私は彼らを敵と認識していたのです。

 ふと気づけば、胸元のブローチを握り締めておりました。

――寒いのです。季節はまだ、冬に差し掛かろうとするばかりなのに。背中が震えて張り詰めるほど、寒さを感じるのです。

 もし。もし。もし、私が彼女のお父様と同じ戦場におり。そしてもし、もし、この手にかけていたのなら。そんな悪い想像をしてしまうのです。

 わかっております。私や()()の部隊と、エカルテ島の方々が所属した部隊は、全く別の戦線で戦っておりました。幸いにも、私と少女のお父様は、戦場ではお会いしていないはずなのです。

――それでも。縛り上げられた心臓が、凍ってしまったかのように。北の豪雪に、この身が埋もれてしまったかのように。寒くて仕方がないのです。

 

「ねえ、郵便屋さん」

「……はい。なんでしょうか、お嬢様」

 

 浅い呼吸で心臓を落ち着かせながら、再度私を呼んだ少女へ、返事をします。悲しみを湛えていた瞳はすでにその色を変えていて、また最初と同じ、きらきらと数十カラットの金剛石にも勝る煌めきを見せておりました。私には、小さな少女の方がよほど、強くて逞しい、一人の大人に見えたのです。

 

「一番簡単な『大好き』の伝え方って知ってる?」

「……一体、どのような方法でしょうか。お嬢様はご存じなのですか」

 

 少女の話題には、強く興味を引かれたのです。私は、つい先程少女がそうしていたように、今度はその反対に、カウンターより身を乗り出して、小さなお客様へと顔を近づけます。

 少女はクスリと悪戯っぽく笑われて、それから隠し事を、内緒話をするようにして、私の耳へと口を近づけてまいりました。

 

「それはね――」

 

 少女の囁くお話は、私にとっては目から鱗の内容で、そよ風のような声に感心して頷きながら、彼女が柔らかな微笑みを残して離れていくまで聞き入っておりました。

 

「――ね、簡単でしょう」

「――はい。簡単です」

 

 満面の笑みを浮かべる少女は、「お名前が呼べないのなら、試してみてね」とそう言い残して、家路につかれました。

 

 

 

「ヴァイオレット」

 

 茜差す郵便局の前に、そのお方の声がするのです。朗らかな春の日にも似た、菫を照らす陽射しにも似た、冬の一日を穏やかに温める太陽のような、そんな声がするのです。

 微かな潮風になびくのは、群青を宿した深い黒の髪。眼帯をした右の目と、エメラルドを嵌め込んだ左の目。夕焼けの中、私を呼んだそのお方の口は確かに持ち上がり、とても穏やかに微笑んでおりました。

 

「旦那様」

 

 私を呼ぶ方を――旦那様を、私もまた呼ぶのです。すると、不思議と胸が高鳴って、太陽に当てられたわけでもないのに、頬が熱くなるのです。踏み出した足が、そのままふわりと空気を掴んで、空へと昇ってしまうのではと、そんな心地がするのです。あるいはこれが、「幸せ」と、そういうものなのでしょうか。

 旦那様と私、二人で並んで、灯台の郵便局を後にします。

 

「今日は手紙の配達日だったね」

「はい。今日は十通、届いております。これから皆様のところへ、お届けしてまいります」

「ああ、それがいい。皆、待っているよ。――私もついて行こう」

「はい。ぜひ」

 

 週に一度、大陸の郵便社よりエカルテ島に手紙が届きます。その日は決まって、夕方にそれぞれのお宅に手紙を届けるのです。そしてその時間は、旦那様との、少し長い散歩の時間でもあります。

 週に一度のこの日を、私は心待ちにしているのです。

 

「ごめんください。エカルテ島灯台郵便局です」

 

 家々の扉をノックして、そう名乗ると。まず真っ先に聞こえてくるのは、慌ただしい子供たちの気配。「手紙だ!」と大はしゃぎする声まで聞こえて、それから数秒とせず扉が開かれるのです。

 挨拶は決まって、「こんばんは、郵便屋さん。先生」と、何百種類という花を束ねたような満面の笑顔。私はそれに「こんばんは。お手紙が届いております」と返事をして、仕訳けた手紙をお渡しします。手紙を受け取った子供たちが、「ライデンの叔母さんからだ!」とか、「病院のお爺ちゃんからだよ」とか、「お兄ちゃん、もうすぐ帰って来るって!」とか、そんな風に喜ぶ頃合いで、お母様やおばあ様、おじい様が顔を出されます。

 他愛のない世間話を少々。最近は、手紙の代筆のご依頼を受けることもあります。それから、時には夕ご飯のお裾分けなどを頂くこともあります。最初の頃は全て丁重にお断りしていたのですが――

 

――「頂いておきなさい。皆、君に感謝したいんだ、ヴァイオレット」

 

 旦那様の言葉と、それにおじい様が強く頷かれてからは、ありがたく頂戴することとしております。

 本日も、自家製だというパンを、バスケット一杯に頂いてしまいました。そのバスケットを、旦那様はごく自然に私の手から取ってくださるのです。その何気ない所作が、嬉しくて仕方がないのです。

 

「――どうした、ヴァイオレット?」

 

 陽もまもなく全て沈もうという中、ふと気づけば、旦那様の横顔を見つめておりました。私の体とは反対側の、右の手にバスケットを提げる旦那様は、薄暗い世界の中でも、その燭台のようなエメラルドの瞳で私を照らし、そして見つけ出してくださるのです。それがまた、堪らなく、嬉しくなるのです。

 こんなに。こんなに。こんなに、嬉しい、が積み上がってしまって。私は一体どうなってしまうのだろうと、胸元に手を握るのです。

 

「さすがに、暗くなるな」

 

 九通を届け終わる頃には、太陽はすっかり水平線の向こうへと消えておりました。エカルテ島灯台にも明かりが灯って、それを頼りにする船たちが夜に溶けた水平線を行きます。

 最後のお宅でランタンに火を分けてもらい、私はなおも、十通目の手紙の届け先を目指します。郵便局からは一番離れた、漁師のおじ様が暮らしている小さなお宅までは、歩いて十分ほどがかかります。

 ランプの小さな明かりを頼りにすると、自然と旦那様との距離が縮まります。ふわりと漂うのは、甘酸っぱいブドウの香り。今日は、子供たちとともに、ワインの仕込みを手伝っていたと、そうおっしゃっておりました。

 並んで歩く私たちの歩調は、ぴたりと一致しております。元より、()()の歩く速さというのを、私は憶えております。ずっと、ずっと、ずっと、その背中を追いかけてまいりました。だから私は、旦那様の歩調を、憶えているのです。

――今は、どうなのでしょう。私が、旦那様の歩調に、合わせているのでしょうか。それとも旦那様が、私に歩調を合わせてくださっているのでしょうか。それは、境界の曖昧な夜の中で見分けることが難しく、しかしそれを無上の喜びと感じる私が、確かにここにいるのです。二人で刻んでいるリズムは等しく同じで、ただそれだけの事実に、胸の辺りが暖かくなるのです。

――だからこそ。

 旦那様の顔を窺うのは、これで何度目でしょうか。ランプに照らされるのは、宵の明星にも勝るきらめきの、エメラルドグリーン。いつかの日より、いくらか柔らかくなった顔立ち。変わらずに優しい旦那様は、バスケットとランタンを携えており、その両の手は塞がっております。それを……浅ましくも今の私は、寂しいと、もどかしいと、感じているのです。

 少女の耳打ちが、鮮明に蘇ります。

 

「――旦那様」

「どうした、ヴァイオレット。足元が見にくいか?」

「……ランタンを」

 

 立ち止まり、左の手を差し出して、私は旦那様に求めます。今、旦那様が左の手に提げている、淡い光を揺らすランタン。

 

「ランタンを、お預かりしてもよろしいでしょうか」

「ああ――構わないが」

 

 差し出されたランタンを受け取り、私たちはまた、歩き始めます。チラリと、たった今空いた旦那様の左手を、見遣りました。頬の熱さがばれてしまうのではと、そんな心配をして、私は足元を照らすようにランタンをやや下げます。

 

「旦那様に、一つ、お尋ねしたいことがあるのです」

「何を、訊きたいんだ?」

「……その……私と、旦那様は――私は旦那様の、妻、なのですよね」

 

 隣の旦那様が、激しく咳込みました。ええ、今回に限っては、私としても、随分と変なことを訊いていると思うのです。旦那様の反応にも、納得できるのです。

 共に暮らしております。それが幸せなのです。しかし、正式に婚姻をしたわけではなく、つまり法律上、旦那様と私は夫婦というわけではないのです。そうなれたのならと、そんな淡い願いを込めて「旦那様」とお呼びしてまいりました。

 側にいたいと願っております。永遠に。この命の限りを、旦那様に尽くしたいのです。しかし、側にいるというのは、必ずしも夫婦である必要はなく、つまり私が側にいたいと願うこと、それを旦那様が許してくれることと、私たちが夫婦になることは全く別の話なのではと、そう思ったのです。

 

「ヴァイオレット――」

 

 数秒咳込んだ旦那様が、足を止めて私を呼ぶのです。その声に応えるのが、ほんの少し、怖い、のです。しかし切り出したのは私で、ですから唇を噛み締め、旦那様の方を見ます。

 ランタンの小さな光など、さして役には立たず。ただ穏やかな感情を宿す翡翠色の光を頼りに、私は旦那様と目を合わせました。エメラルドに映る感情の名前を、今の私は、少しはわかっております。

 

「すまない。ちゃんと、口にするべきだった。伝えたつもりになってしまっていた。――私はまた、君を悩ませてしまった」

 

 その、(感情)の、名前は――

 

「ヴァイオレット。君を心から愛している。――それは、君に私の、妻になってほしいということだ。ずっと側にいて欲しい。私もずっと、君の側にいたい」

 

 その、言葉を。三度目の、その言葉を。旦那様が、私にくれた、その言葉を。

 今夜、初めて、私は涙を流すことなく、聞き届けることができたのです。

 

「私は、ずっとそのつもりで、君と過ごして来た。――君が、私を『旦那様』と呼んでくれるのも、同じことだと思っていたのだが……違った、だろうか」

「――いいえ。いいえ、いいえ、いいえ。違いません。相違ありません。私も、旦那様の、妻になりたく――勝手ながら、『旦那様』と、お呼びしておりました」

「そう、か……それなら、よかった」

 

 旦那様の微笑みに、胸は痛いほど、高鳴っているのです。

 旦那様の腕が、私へと伸びてきます。温もりを残した左手と、二人でお揃いの右手。その腕に引き寄せられ、大きな胸の中に抱き締められます。何度でも思い出すのは、煙と硝煙と、微かな花の香り。今の旦那様からは、先程と同じ甘酸っぱいブドウの香りがしていて、しかしそれはワインのように、私の頭を蕩かし火照らせるのです。

――これは、きっと、嬉しさ以上。幸せ以上。それを確かめたくて、ランタンを持っていない右腕を、旦那様のお背中に回しました。しがみつくしかなかった背中に、今はこの手が届くのです。

 

「……旦那様」

「なんだい、ヴァイオレット」

「妻、として……一つ、お願いがあるのです」

「うん」

「――手を」

 

 たった今、旦那様の背中に回した機械仕掛けの手に、力を込めます。そこに感覚はありません。「指が動く」という感触はあっても、旦那様の背中の大きさを、温もりを、感じる神経は無いのです。

――それでも。

 

「手を、繋ぎたいのです。旦那様と手を繋いで、歩きたいのです」

 

 何度も顔を埋めた旦那様の胸元より、顔を上げます。こちらを窺うのは、一等星よりうんと大きな輝き。たった一つになった、美しいそのきらめきが、暗闇に私を捉えて、決して欠けることなく微笑んでおりました。

 

「わかった」

 

 体を離した旦那様が、左の手を差し出します。それはあたかも、御伽話に聞く王子様のようで、私はこれまで抱いたことのない、ふわふわと妙な心地で、その手に私の右手を重ねました。旦那様の手が、私の手に指を絡め、きゅっと握ります。私もそれに応え、繋がった右の手に力を込めました。

 

「君は、これがしたくて、私からランタンを取り上げたのか」

「はい。その通りです」

「……君は、とても可愛い女性(ひと)だ」

 

 なおも微笑んでいる旦那様に、私も自然と、頬を緩めておりました。今、きっと私は、林檎やトマトのような顔をしていて、それがどうしようもなく気恥ずかしく、しかし何にも代え難く幸せなのです。

 最後の一通を届けるべく、道を歩きます。二人で歩調が揃っています。揺れるのは、私が手にしたランタン、旦那様が手にしたバスケット、そして、二人で繋いだ、この手と手。

 

「君の手は、温かいね」

機械仕掛け(オートメイル)の手です。暖かくはありません」

「いや……私が言いたかったのは、そういうことではなく」

「冗談です。――私も、温かさを、感じております。旦那様の手は、とても、温かいです」

「――そうか」

 

 言葉を交わすたび、跳ねるように、繋いだ手が揺れるのです。感覚のないはずの、神経の通っていないはずの、温もりなんてないはずの手から、旦那様の想いを感じるのです。それがまた、私の胸を弾ませるのです。堪らなく嬉しいのです。

 

――「手を繋ぐと、『大好き』って伝わるんだよ」

 

 旦那様。大好きな旦那様。……愛しい旦那様。

 伝わっていますでしょうか。私の大好きは、伝わっていますでしょうか。いまだ口にできてはいない「愛してる」も、伝わっていますでしょうか。

 また、旦那様と目が合います。それも、そのはずなのです。私は先程から、旦那様の横顔を見つめてばかりなのです。訳もなく息を吐いて、ぼうっと、見惚れてばかりなのです。

 夜道を、旦那様と二人、ランタンの光と、お互いの温もりを頼りに、歩いていきます。週に一度、ささやかで特別なこの時間が、やはりどうしたって、私の宝物なのです。



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ヴァイオレット・エヴァーガーデンと「ギルベルト様」

 愛しい人の、その名前は――

 

 

 

 かつて私に従っていたヴァイオレット・エヴァーガーデンという少女は、自分の願望というのを決して口にしない少女だった。

 

――「少佐」

 

 彼女が私を呼ぶ時。それは次の命令を待っている時。何をすればよいのかと、碧い瞳は私に問いかけた。

 

――「少佐」

 

 彼女が私を呼ぶ時。それは一冊の本を読み終えた時。次はどんな本を読めばいいのかと、私に尋ねた。

 

――「少佐」

 

 彼女が私を呼ぶ時。それは一枚の報告書を書き上げた時。これでよいのかと、碧い瞳で私を窺った。

 

――「少佐」

 

 彼女が私を呼ぶ時。それはエメラルドのブローチを見つけた時。私の瞳に例えたそれに、「美しい」と胸を抑えた。

 

――「少佐」

 

 ……一度、彼女から、願望らしきものを聞いたことがある。「少佐の命令を聞いていたいのです」と、彼女は瞳に涙を溜めて訴えた。これまでに見たことがないほど必死に、彼女は私に何かを伝えようとしていた。届かないことが、もどかしくて仕方ないのだと、そう語るような表情が痛々しかった。

 言葉を教えても、それがなんなのか、どんな意味なのか、どう使えばいいのか――私は、そんな簡単で、そして大切な事を、彼女に教えていなかった。

 

――「心から、愛してる」

 

 思えば、まずそれを、伝えなければいけなかったんだ。瓦礫の山、硝煙の夜、銃弾と爆音の飛び交う中ではなく。ただ穏やかな日差しの下で、抱き締めた彼女にそう伝えていたのなら。少なくとも彼女の運命は、変わっていたのかもしれない。

 わかっている。それはもう、今更の話だ。

 

――「少佐」

 

 涙に枯らした声には、確かに伝えたい想いが宿っていて。言葉を知らなかった少女が、私から離れた場所で、たくさんのことを学んだのだと、思い知らされた。想いを語らず、願いを語らず、心を語らず、言葉を語らなかった声に、その全てが乗っていた。

 

――「少佐」

 

 言葉を知らなかったのは、私の方だったのだと、彼女に呼ばれるたび、思うのだ。

 

――「旦那様」

 

 何かを告げるたび、ただその一言を口にできるのが嬉しいのだと、そう語るように微笑む彼女を目にするたび、思うのだ。

 言葉は、まるでヴァイオレットのようだ。時にその鋭利さは、人を傷つける。けれどその本質は、やはりどうしたって美しい。暖かく、優しく、あたかも春の野に咲く紫の花のように、美しい。その美しさに、心を、奪われていく。

 言葉を知らなかった私は、言葉を知った彼女に、相応しいのだろうか。言葉の美しさを知る彼女に、相応しいのだろうか。もし、そうでないのなら。

――相応しく、ならなければ。彼女の側にいるために。彼女に側にいてもらうために。何より、その想いの限りを私へ伝えようとする、彼女に応えるために。

 私にも、伝えたい想いがあるのだから。

 今からでも遅くはないはずだ。私も彼女と同じように、言葉を知っていこう。そこに秘めた想いを、込めた願いを、託した心を、正しく、彼女へ伝えるために。

――だからまず、手始めに、私は万感の思いを込めて、彼女を呼ぶのだ。

 

「ヴァイオレット」

 

 愛しい君の、その名前を。

 

 

 

「雨が来そうだ、ヴァイオレット」

 

 一足先に帰っていたヴァイオレットに、私は外の空模様をそう伝えた。島の天気は変わりやすい。潮流の関係か、季節風の関係か、雨は突然現れて、何もかもを濡らしていく。

 玄関から家の中に入った私は、キッチンから顔を覗かせたヴァイオレットへさらに言葉を続ける。

 

「洗濯物を取り込んでくる」

「はい。では、私はこのまま、夕食の準備を続けます」

「ああ、お願い。今夜も楽しみにしている」

「――はい。ご期待に沿えるよう、奮励努力します」

 

 厳めしい言葉で、柔らかい笑みを浮かべるヴァイオレット。ミトンをした姿が、随分と様になっていた。エヴァーガーデン家のメイドに教わったという料理は、疑いようもなく私のためであり、それが益々、私の頬から締まりをなくしてしまう。

 

「すぐに戻る。戻ったらまた、料理の手解きをして欲しい」

「はい。お待ちしております、旦那様」

 

 薔薇色の微笑みに見送られて、私は勝手口から家の裏に出た。

 三メートルはある竿が二本、軒下に掛けたロープが一本。そこへ、私とヴァイオレット、二人分の洗濯物がかかっていた。それから今日は、二人で使っているベッドのシーツや毛布も干している。まだ、雨に伴う風は強くないが、取り込むには一苦労しそうだ。

 手際よく、作業を進めなくては。ヴァイオレットも待っている。そう思って、まずは大きなシーツ類から取り込んだ。タオル、要りようになってきたコート、私たちの衣服。取り込み、畳んでは積み上げ、時折雲の動きを気にしながら、ひたすらに手を動かした。どうにか、雨が降るのには間に合いそうだと、そんな見立てを立てる頃。一番の難関が、私の前に現れる。

 女ものの――つまり、ヴァイオレットの、下着類。

 こればかりは、何度繰り返しても慣れない。家事のうちと割り切れれば簡単なのだろうが、それでも、妙齢の女性の下着を、男である私が扱ってもいいものだろうかと悩む。世の夫には、それを平然とやってのける者もいるというが、私はまだそこまで成熟できていない、未熟な夫だ。

 軍にいた頃の、白に無地と指定されたものではなく。年相応に飾った、おそらく今の流行りであろう、ヴァイオレットの下着。衣類は、そのほとんどがホッジンズや友人のドールが選んでいたと、ヴァイオレットは言っていた。もし、これがホッジンズの趣味だったのなら――もちろん、そんなことはないわけだが――いかに親しく、また恩義のある友人と言えど、殴っていたかもしれない。

 一度、大真面目に、ヴァイオレットに相談したことがある。しかし、私の感覚がよくわからなかったらしいヴァイオレットは、愛らしく小首を傾げて、

 

――「私も、旦那様の下着を洗って、干して、取り込んでおります。問題はないと思われますが」

 

と、不思議そうに言うばかりだった。

 誰にも聞き届けてもらえないであろう、溜め息を一つ。意を決して、私はヴァイオレットの下着に手を伸ばした。一つ一つ取り込み、畳む間、まるで爆弾の解体でもしているかのような心地だった。

 干してあったものを全て取り込んで畳み終わり、布の山を抱えて家に戻った。タンスやクローゼットにそれらを仕舞い、太陽の香りがするシーツを敷いて、息を吐く。雨はまだ降っていない。

 

「終わったよ、ヴァイオレット」

 

 キッチンを覗くと、丁度、ヴァイオレットがオーブンの火を見ているところだった。私と彼女で手作りした耐熱煉瓦製の窯には、赤々とした薪が積まれている。その色合いから火加減を見ていたヴァイオレットが、私を振り返った。

 

「ありがとうございます――」

 

 旦那様。いつもならそう続くであろう言葉を、ヴァイオレットは意図的に切った。「旦那様」の、その一文字目の形になった唇が、一度、ぴたりと閉じる。

 空を写し取ったヴァイオレットの瞳が、ランプの光を浴びて、揺れていた。それを、逡巡と、羞恥と、私は読み取った。私を見つめるヴァイオレットが、その瞳の奥で何かを迷い、しかしどうにかして形にしようとしている。

 そうして、碧には決意が宿る。覚悟を決めた薄桃を、ヴァイオレットはゆっくりと、開いていく。私はただ、そんな彼女の表情に見惚れ、そして彼女が紡ぐであろう、玲瓏な響きの「美しい」言葉に、耳を傾けていた。

 

「ありがとうございます――ギル、ベルト、様」

 

 その、音の連なりに――幾度となく耳にしたはずの言葉に、私は目を見開いた。

 

「ヴァイオレット……今、私の、名前を、呼んだのか」

「……はい」

 

 俯いて、ヴァイオレットは小さな返事を寄越した。さらりと流れた髪の隙間に、燃える薪と同じような、真っ赤な耳が見えている。両の手を腿のところで重ね合わせて握り、彼女は恥じらうようにして体をよじる。金糸の髪がまた揺れて、潤んで彷徨うサファイアの瞳と、薔薇色に染まる柔らかな頬を、垣間見た。

 

「旦那様に、ヴァイオレットと呼ばれるのが、嬉しいのです。その声を聞くだけで、胸がふわふわと、空を飛ぶ心地がするのです。鼓動で痛くなるくらい、幸せなのです。――ですから、旦那様も、お名前でお呼びしたら……嬉しいかと……思い……私も、ギル、ベルト、様と、お呼びししたく……」

 

 声はすぼんでいく。しかしそれとは反対に、私の胸にはどんどん強く、響いていく。

 ギルベルト。

 その音に、心を奪われていく。

 その言葉が――名前が、胸に染み入ってくる。

 不思議と、目頭が熱くなった。

 

「――顔を上げておくれ、ヴァイオレット」

「い、今は、ダメです。ダメなのです。きっと、今の顔を、見られたら……恥ずかしくて死んでしまうのです。大切な――大切なお名前を、やっと、お呼びできたのです。それが嬉しくて、堪らないのです」

 

 顔を上げないヴァイオレットに、また、涙が溢れ出そうになる。

 ギルベルト。

 君は、それほどの想いを、私の名前にくれるのか。君は、それほどの想いで、私の名前を呼んでくれるのか。

 決壊寸前の涙を堪えて、笑う。

 

「ヴァイオレット」

「……はい」

「大丈夫。顔を上げて。――私もきっと、君に見せられないような顔をしている。でも、どうしても、君の顔を見て伝えたいんだ。ヴァイオレット」

 

 ただ、名前を呼ぶだけなのに、こんなに胸が高鳴るんだ。私の名付けた君の名前を、溢れて止まらない想いで呼ぶことが、こんなにも嬉しいんだ。

 そしてそれ以上に、君が私の名前を呼ぶことに、頬を染める程の喜びを見出していることが、嬉しいんだ。

 

「……はい。――はい」

 

 ヴァイオレットが、ゆっくりと、俯いた顔を上げる。揺れる髪は太陽よりも明るく。頬は熟れた林檎よりも赤く。潤んだ瞳は海よりも碧く透き通ってたゆたう。柔らかな唇は、その動揺を伝えるように震え、しかし彼女の感情を隠すことなく緩み、微笑んでいた。

 

「――ありがとう、ヴァイオレット」

 

 その想いに応えたくて、涙を堪え、精一杯に、笑う。

 

「私の名前を呼んでくれて、ありがとう。――心の底から、嬉しいんだ」

「――はい」

「心臓がどうにかなってしまいそうなほど、嬉しいんだ」

「――はい。――はい」

 

 私の言葉一つ一つに、ヴァイオレットは頷く。短い「はい」という返事に、彼女の全てを預けるようにして、頷く。

 視界が滲む。それでも私は、笑っている。

 そんな私に、ヴァイオレットもまた、笑顔を向けている。

 握りしめていた両の手を、ゆっくりと私へ差し出す。ミトンをした手が、私の頬を包む。そこに、ヴァイオレットの温もりを感じている。

 

「――旦那様は、泣いて、いらっしゃるのですか。それとも、笑って、いらっしゃるのですか」

「どちらもだ。どちらもなんだ、ヴァイオレット。嬉しくて、泣いていて。嬉しくて、笑っているんだ」

「――はい。わかります。私にもよく、わかります」

 

 ヴァイオレットが笑う。薔薇にも勝る艶やかさで。向日葵にも勝る大きさで。秋桜にも勝る優しさで。私を包む暖かさで、ヴァイオレットは笑う。

――そうして、彼女は願いを、口にする。

 

「――ギルベルト、様と。そうお呼びして、よろしいでしょうか」

「もちろんだ。私も君に、そう呼ばれたいと願っている。――ヴァイオレット」

 

 私の言葉に、ヴァイオレットは一際大きく、頷いた。離れていくミトンの手に、涙が一滴、頬を伝う。

 ヴァイオレットと二人、夕食の支度を進める。暖まったオーブンには、白身魚とたくさんの野菜を敷いた、プレートを入れる。昨日ヴァイオレットがお裾分けしてもらったというパンは、数枚スライスしておいた。

 私とヴァイオレット、二人並んで、のぞき窓からオーブンの中身を窺う。魚の焼き加減に耳を澄ましていたヴァイオレットは、ふと、ミトンを外した手を胸元に当てて、呟いた。

 

「――初めてのことで、上手く、『ギルベルト様』と、呼べませんでした」

 

 スカイブルーの瞳を、ヴァイオレットは私に向ける。彼女の頬はいまだ紅潮していて、その艶やかな色合いを、堪らなく可愛らしいと、美しいと、愛おしいと思いながら、私は彼女の言葉を待つ。

 

「……練習が、必要です」

 

 胸元に手を当てたまま。深呼吸を一つ挟んだヴァイオレットが、唇を開いた。

 

「――ギル、ベルト、様」

 

 美しい音の連なりに、私はまた耳を澄ました。

 

「――ギル、ベルト、様」

 

 愛しい人の声に、目を閉じ、聞き入っていた。

 

「――ギルベルト、様」

 

――ああ。嗚呼。なんて。なんて。こんなにも、美しいのだろう。

 

「ギルベルト、様。――ギルベルト様」

 

 君の呼ぶ私の名前は、どうしてこんなにも、美しいのだろう。

――一度、名前を捨てようとした。何もない、「ジルベール」として、生きていこうとした。ギルベルト・ブーゲンビリアという男を、殺そうとした。

 ……けれど、できなかった。

 ヴァイオレットが、私の捨てようとしたものを、拾い上げた。零れたブドウを拾うように。あたかもそれを宝石のように。一つ一つ拾い上げ、抱えて、そうして私の前に差し出した。その時になってようやく、私はその大切さに気づいたのだ。

 

 

 

 ギルベルト。

 

 

 

 父と母が、産まれたばかりの私に、くれた名だ。

 

 

 

 兄さんが、不器用な瞳と心で、愛してくれた名だ。

 

 

 

 友人が、じゃれつく声で、慕ってくれた名だ。

 

 

 

 私が、心のどこかで誇り、胸を張った名だ。

 

 

 

 そして、ヴァイオレットが、心と想いを綴って編み上げ、今鮮やかな美しさをくれた名だ。

 

 

 

「ギルベルト様」

 

 その名の、似合う人に。

 

「ギルベルト様」

 

 その名が、相応しい人に。

 

「ギルベルト様」

 

 君が、美しさをくれた名に。玲瓏な響きで口にする名に。喜びの限りで呼びかける名に。

 その名に、相応しい人に。その微笑みに、相応しい人に。

 私はなっていこうと、そう決意するのだ。



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ヴァイオレット・エヴァーガーデンの「愛してる」

「――心から、愛してる」

 

 

 

 想い、というものは、決して消えるものではないのだと、出会ってきた多くの方々と、代筆をしてきた多くの手紙に、教えられました。

 幼き頃より、続く想い。離れていても、続く想い。死してなお、続く想い。たくさんの、消えることのない想いに、触れてまいりました。

 多かれ少なかれ、人には伝えたい想いがあり。けれどそれは、必ずしも届くものではなく、時には本人の意思とは関係なく、永遠に、伝えられなくなることもあります。

 想い、というものは、決して消えることはなく。伝えられなかった想いも、消えることはなく。どこへも書き出せず、どこへも行くことはなく、それ故に、自分の心に、残り続ける。

――私にも、そんな想いが、あるのです。

 きっと、始めから、愛していたのです。エメラルドグリーンの瞳と、初めて出会った、あの時から。何百の宝石よりも美しく、光を受ければ海のようで、光を映せば空のようで、光を宿せば星のようで、そんな瞳に出会ったあの時から、ずっと。私を、優しく抱き留め、受け入れてくださったあの時から、ずっと。

――伝えられなかった想いは、この身の内に残り、積もっていくのです。

 始めから、愛していたのです。ただ、当時の私は、言葉を知らず。今思えば、心も知らず。それ故に、感情を知らず。けれど、想いは確かにあって、伝えられない故に表へ出ることはなく、形にはならずに、ただ私の内に積もり続けたのです。

――届かぬと知ってもなお、想いは積もり続け、膨らみ続けたのです。

 ずっと、愛していたのです。お会いできない日々も、ずっと。この感情を自覚して、貴方の言葉を理解して、私の想いに気づいてからも、ずっと。月日が経てばたつほど、届かない想いは、私の内につのっていったのです。

 しんしんと。しんしんと。それはあたかも雪のように、時を重ねるたび、あなたを想うたび、私の内に残り、重なり、つのって、積もり続ける。

――雪は、今も降り続けているのです。

 

 

 

 今冬初めての雪が、エカルテ島を白く染めております。断崖に近い海岸線、舗装されていない道、収穫の終わった葡萄畑。音もなく、ただ白い残像を引きずる雪が、しんしんと、しんしんと、それらの上に降って、積もっていくのです。小さな島はもうすぐ、海に浮かぶ雪ウサギに変わることでしょう。

 冬支度の雪化粧をまとう島の景色を、私は灯台の郵便局より眺めます。今日は代筆業務もなく、また手紙をお送りになる方もなく、反対に定期の郵便飛行機もなく、葡萄畑の作業もなく、小さなお客様がいらっしゃる時間には早く。椅子に腰かける私は、ただぼうっと、ひらひら舞う雪を見つめるのです。ストーブの上のやかんの音が、やけに大きく聞こえておりました。

 雪の季節。それは、つまり……ギルベルト様と再会してすでに一年以上が経ったことの示唆であり、同時に私がCH郵便社を辞めて、エカルテ島へと移り住んでまもなく一年という示唆でもあります。

 月日が過ぎるのは、あっという間の、できごとです。お会いできなかった日々も、お会いできてからの日々も、私には等しく一瞬で、しかしかけがえのない輝きと共にある日々なのです。

――けれど、その流れる早さと、私の体感とは反対に、一年という時間は、物事が変化するには十分すぎる長さなのだとも、思うのです。こうして、時折一人の時間を過ごしていると、それを改めて感じます。

 多くのものが変わりました。その中で、また私自身も変わっていきました。かつて、「少佐」とお呼びすることしか知らなかった方を、「旦那様」とお呼びするようになり、そして今は、「ギルベルト様」と、その素敵なお名前を口にすることができる。それが、無上の喜びであると、この上ない幸せであると、今の私にはそれがわかるのです。

 変わったものは、呼び方に限りません。それこそ、上げ出したらキリがないほど、たくさん。その一つ一つが、私にとっては天に昇るほどに嬉しいことなのです。

 穏やかな朝。暖かなキスが私を起こし、あるいはささやかな口づけでギルベルト様を起こします。二人で一日の支度をして、ともに出掛け、手を振って分かれるのです。

 淑やかな昼。少しずつ整えた郵便局に、時折、島の子供たちとともにギルベルト様が現れます。海を見つめながら昼食を取り、はしゃぎ回る子供たちを見守るのです。

 静かな夜。二人並んでキッチンに立ち、夕食の支度をします。ギルベルト様はあまり器用ではなく、やや苦戦する彼を、失礼ながら可愛らしいと思ってしまうのです。

 一つ一つは、本当に小さく、ささやかな変化なのです。それでも、私にはそれが好ましく、また新たなギルベルト様を知るたび、頬をどうしようもなく緩めてしまうのです。

――思えば、多くが変わった、一年でした。

 けれど。ずっと、変わらずに、残っているものもあるのです。

 しんしんと。しんしんと。雪は降り続け、積もり続けております。白くなった入り口のガラスに目を遣ると、ぼんやりと私の姿が映っておりました。しかし、私が見つめているのは、数時間後にそこへ立ち、小鳥のさえずるノックと、やがて訪れる春を思わせる声と、鮮やかな赤い花のような笑顔で私を呼ぶ、愛しい人の姿なのです。

 

――「ヴァイオレット」

 

 胸元のブローチに、触れます。そのまま、ゆっくりと、自分の唇に、触れます。

 

「ギルベルト様――」

 

 その先に続けたい言葉は、白い空気に溶け込んでいきました。

「愛してる」。一番大切な言葉を、私はまだ、口にできておりません。初めてその言葉をいただいた時から、あるいは初めてその温もりに触れた日から、ずっと、私の中に降り積もっている言葉。

 お伝えしようと、しているのです。例えば、名前を呼ぶこと。例えば、手を繋ぐこと。例えば、接吻をすること。言葉にできない「愛してる」を、その代わりに、事実で確かめているのです。けれど、やはり、言葉というのは大きく、想いというのは大きく、事実を確かめるほどに「愛してる」は私の中へ降り積もっていくのです。

「愛してる」。私にそう伝えてくれたギルベルト様に、私もやはり言葉で伝えたいのです。私の想いを、伝えたいのです。

 

「……伝えたいのです」

 

 あなたを想うたび、心の内を舞う雪の花。今日もまた、小さな六花が、積もっております。

 

 

 

 雪のおかげか、寒さゆえか、すぐ隣の温もりを、いつもより近くに感じております。

 白い息を吐き、鼻先をやや赤くしている、ギルベルト様。雪を凌ぐための傘を差したその左腕に、私は右腕を絡ませておりました。必然、ギルベルト様との距離は近く、雪のために音がかき消される分、私たちの吐息と、高鳴る心臓の音だけが、はっきりと聞こえておりました。

 傘は、二つ、あったのです。ギルベルト様の分も、私の分も、傘は二本、確かにあったのです。けれど――

 

――「私が、そうしたいんだ」

 

 ギルベルト様が、二人で一つの傘を使わないかと、そう言われて。そうして私も、その提案に、頷いて。

 折からの寒さと、降り積もる雪を、言い訳に。傘とトロリーバッグをギルベルト様に預け、この身はその左腕に委ね、降り積もった雪を踏み締めるのです。触れ合った二の腕からは、例え厚手のコート越しであっても、ギルベルト様の温もりを感じずにはいられません。

 

「寒くはないかい?」

「……はい。ギルベルト様のお側は、いつでも温かいです。――温かい、は幸せです」

「……ああ、そうだね。私も温かいよ、ヴァイオレット。温かくて、幸せだ」

 

 そんなことを話しながら、いつもよりゆっくりと、歩くのです。灯台からの道を、吐息を絡ませながら、歩くのです。

 頬に熱を感じるのは、きっと、雪のせいでも、寒さのせいでも、ありません。

 しんしんと。しんしんと。私たちの周りに、雪は降り積もり。そうしてまた、あなたを見つめ、頬を燃やし、想いはつのっていく。

 今晩のメニューが暖かいシチューに決まる頃、二人の家に帰り着きます。玄関の庇の下で、傘の雪とコートの雪を落とし、部屋の中へ。日中留守にしていたために、部屋の中にも寒さが入り込んでおりました。

 

「急いで火をつけよう」

 

 コートを壁に掛けたギルベルト様は、私の肩に毛布を掛けて、すぐにストーブの前へと移ります。屈んで火をつける準備をするギルベルト様の隣に、特に理由もなく、私も膝をつきました。やることは、無いのです。ただ私は、ギルベルト様の横顔を見つめ、火の準備を見守るだけです。

 ギルベルト様の左目が、私の方を窺いました。目を細めて微笑んだギルベルト様は、火打石を鳴らし、紙の切れ端に火種を作ります。それをストーブに入れると、中の細い枝が次第に燃え始めました。火の様子を見ながら、ギルベルト様は比較的小さな薪を数本、ストーブへくべます。薪が増えるたび、ストーブの赤さが増して、それがギルベルト様の横顔を照らしております。

 エメラルドの瞳に、光が、揺れています。さざ波のような揺れに、心を、奪われておりました。気づくとその目は私を見つめていて、美しい色で私へ笑いかけるのです。

 

「直に、暖かくなる。ヴァイオレットは、それまで温かくしていなさい」

 

 そう囁いたギルベルト様の左手が、こちらへと伸びてきます。前髪に触れた手が摘まみ上げたのは、小さな小さな綿雪。それは、ギルベルト様の指先で、すぐに溶けてなくなりました。それをぼんやり見ていると、また、ギルベルト様の手が、私へと伸びます。

 暖かな手のひらが触れたのは、私の頬でした。

 

「君の頬は、もう少しで、凍ってしまいそうだ」

 

 そう言って、ギルベルト様の指が、頬を撫でるのです。手のひらには確かな温もりがあって、それが冷えた頬には心地よい。いまだ暖かさには程遠い部屋の中、触れられた頬だけが、一足早く、雪解けを迎えたかのようです。

――しんしんと。しんしんと。降り積もった雪が、解けるように。その温もりに、溶かされて。

 

「ギルベルト、様」

 

 想いは今、確かに、溢れ出たのです。

 立ち上がり、キッチンへ向かおうとするギルベルト様を、その袖を摘まんで引き留めます。一度不思議そうな顔をしたギルベルト様は、しかしすぐに膝を折ってくださり、また、私の前に戻ってきます。

 

「どうしたんだ、ヴァイオレット」

 

 朗らかな春の声が、私を呼びます。あたかも雪解けを報せるかのような、暖かな響き。ギルベルト様にいただいた、私の名前。その響きが、また一段と、心臓の鼓動を強くするのです。

――想いを、つのらせてまいりました。想わない日は、決して、なかったのです。日を追うごとに、想いは降り積もり。今、確かに溢れたのです。あなたの温もりに溶かされて、溢れたのです。

 紡ぎたい言葉は、もう、決まっているのです。

 

 

 

「愛しています」

 

 

 

 想いは、溢れ。今、ようやく、言葉になったのです。

 

 

 

 言葉を口にした途端、胸の辺りが、温かさで満ちていきました。

 一番――代え難く、掛け替えのない、大切な言葉なのです。

 その意味が、わからず。その意味を、知りたくて。その意味に、触れたくて。歩んできたのです。

――ああ。ああ。なんて。なんて。なんて、温かい、言葉なのでしょう。たった一つの言葉が、これほどまでに、心を温かくするのですね。たった一つの言葉が、これほどまでに、この身を温かくするのですね。

 

「あなたを、愛しています。ギルベルト様」

 

 もう一度。今度はゆっくり、噛み締めて、口にするのです。光満ちるエメラルドの瞳を見つめて、一番伝えたい人に、一番伝えたい言葉を、届けるのです。

 ふと、暖かなものが、頬を伝っておりました。右の頬を、一筋流れたのは、涙。溢れた想いが、雫となって、私の目より零れておりました。

 笑おうと、したのです。笑って、伝えたかったのです。「愛してる」と、笑顔で、伝えたかったのです。これまで出会った多くの方が、そう望まれていたように。今愛しい人と生きる私は、笑って、「愛してる」を口にしたかったのです。

 いいえ、笑っております。笑っているのです。私の口元は、「愛してる」を告げて、確かに緩んでいるのです。温かな言葉と、温かな心のまま、笑っているのです。

 しかし、涙は、止まらないのです。堪えることは叶わず、ただ流れ出るのです。溶けた雪が、大地へと染み出し、山を流れるかのように。涙は止めどなく、溢れるのです。

 ああ。私は。今、やっと、知ることができたのです。理解することができたのです。

 

「今……やっと……少佐の言葉が、理解できたのです。少佐は……あなたは、こんなにも――こんなにも温かい言葉を、私に、くださったの、ですね」

 

「愛してる」の、その言葉を。どれほどの想いを込めて、編み上げ、言葉にしてくださったのか。あの場で、私に「生きろ」と告げて、どれ程の温かさで私を包み込んでくださったのか。

――始めから、愛していたのです。それが今、理解できたのです。

 涙の伝う私の頬に、ギルベルト様の手が、伸びてきます。触れた指先は、変わらず温かで。雫を拭う仕草も、温かで。

 今の私には、わかるのです。ギルベルト様が、どれほど私を想ってくださるのかが。そして私も、どれほどギルベルト様を想っているのかが。

 

「ヴァイ、オレット。泣かないでおくれ、ヴァイオレット」

 

 そう訴えるギルベルト様のお声も、大きなものを堪えるようにくぐもって、震えているのです。霞んだ視界に捉えたエメラルドの瞳は、いつもと変わらずに穏やかで、優しく、温かく、しかしその端一杯に涙を溜めているのです。お名前で初めてお呼びした時と同じように、いいえそれ以上に、喜びに満ちた表情はくしゃくしゃで、けれどそれが、堪らなく愛おしい。

 

「いいえ、いいえ、いいえ。泣いております。けれど、それ以上に、笑っております。――嬉しくて、嬉しくて、泣いているのです。嬉しくて、嬉しくて、笑っているのです」

「――ああ。私もだ、ヴァイオレット。嬉しくて、堪らないんだ。愛おしくて、堪らないんだ」

 

 涙を流す私たちは、きっと、世界で一番幸せな笑みを浮かべているのです。

 ギルベルト様が、左手だけでなく、右手も私の方へと差し出します。それにつられるようにして、私も両の手を、彼へと伸ばします。それぞれの手が、お互いを探り当て、引き寄せて、抱き締めます。ギルベルト様の薫りに包まれ、ギルベルト様の温もりに包まれ、ギルベルト様の優しさに包まれております。

 私もまた、ギルベルト様を包みます。この手はもう、あなたの背中まで、届くのです。その背を包み、暖めることも、できるのです。きっと、私の「愛してる」で、あなたを包めるのです。

 涙も笑顔もそのままに。ギルベルト様の左肩に顔を埋めたまま、私は呟きます。

 

「ようやく、お伝えできたのです」

「――うん」

「ようやく、言葉にできたのです」

「――うん。――うん」

 

 短い頷きには、あたかもギルベルト様自身の想いが全て、乗せられているような気がいたしました。

 涙を零した肩より、顔を上げます。自然、こちらを見つめるギルベルト様の瞳と、目が合いました。揺れる瞳に映る色は、「愛してる」という感情。そして、その真ん中に、私が映っているのです。

 手を、繋ぎます。手のひらを合わせて。指と指を絡めて。温もりで包んで、愛しさで紡いで、手を繋ぐのです。

 名前を、呼びます。こつんと額を合わせて。吐息の混じる距離で。愛しい人の、その名前を呼ぶのです。

 そうして、一つ一つを確かめて。その先に、また、言葉を紡ぎます。

 

 

 

「愛して、います」

「心から、愛してる」

「愛して、います。あなたを、心から、愛しています」

 

 

 

――そうして、誓いの、口づけを。ただ、喜びの限りに。ただ、幸せの限りに。ただ、「愛してる」の限りに。

 

 

 

 私の、これまでの、全ては。あなたに、ただその言葉を伝えるために、あったのです。

 

 

 

 私の、これからの、全ては。あなたに、ただその言葉を伝えるために、あるのです。

 

 

 

「――心から、愛しています」




予告通り、このお話で一区切りとさせていただきます。
ただ、まだいくつか、温めているお話はあり…まだしばらく、続くかもしれません。
現状では、結婚式のお話は、出そうと考えております。
ですが、一先ず、ここまでお付き合いいただいたことに感謝いたします。


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ギルベルト・ブーゲンビリアと春を待つ君

ご無沙汰をしております。一週間ほどではありますが。

予告していた結婚式のお話に取り組んでおりますが、予想よりも時間を擁しておりますので、閑話休題です。入場特典に多大なる影響を受けております。朝のお話が大好物です。


 朝まだきに包まれて。春待つ君を抱く。

 

 

 

 腕の中に、温もりがある。

 柔らかな、温もりがある。

 花の香りの、温もりがある。

 幸せという名前の、温もりがある。

 覚醒しきらない意識。左の瞼を照らす穏やかな光と、窓の外を楽し気に飛び交う鳥たちが、辛うじて朝であることを伝えている。しかし、春と呼ぶには早いこの頃は、夜の肌寒さが朝まで残る。ベッドを出るのには、相応の覚悟が必要だ。

 寒い朝に目覚めるより、今この胸に抱く温もりに、長く触れていたい。そんなことをぼんやりと考えて、左腕に力を込めた。衣擦れの音。自然、温もりと柔らかさと香りを、より強く感じる。胸が幸せで満ちていく。

 

「……ギルベルト……様……?」

 

 それは、雲雀の声だろうか。耳に届くか届かないかの、微かな吐息に混じって、玲瓏な声が私を呼ぶ。朗らかな春の陽気を響かせる音色が、私に瞼を上げさせた。薄ぼんやりとした視界を、徐々に徐々にピントを合わせて、そうして声の主を見る。

 碧い瞳が、今日も私より早く、朝陽の光を宿していた。

 丁寧に紡がれた生糸のような、細く滑らかでしなやかな黄金の髪。名工が丹念に仕上げた陶器を思わせる白い肌には、ほんのりと薔薇の色が乗る。嵌め込まれた碧い宝石は、光の加減で、澄み切った空にも、たゆたう海にもなる。瑞々しい果実のような桃色の唇は、いくつもの美しい言葉を編み上げる。

 細い眉を八の字にして、ヴァイオレットが私を見つめている。困惑と羞恥が入り混じる表情に、私は問いかけた。

 

「起こしてしまったか」

 

 金砂の髪をさらりと揺らして、ヴァイオレットは首を振る。早朝の小さな金剛石を纏った睫毛が震えた。碧い瞳を白い瞼の下に隠して、ヴァイオレットは私の胸元に顔を埋めた。額と頬をこすりつける拍子に、彼女の髪が私の鼻先をくすぐった。甘やかな香りが鼻腔を撫ぜる。

 

「どうか、もう少し、このまま」

 

 きゅっと、銀の手が私の服を摘まむ。朝の空気へ溶けてしまいそうな声に、私は頷いた。

 

「休日だから、少しの寝坊は許されるだろう」

「――はい」

 

 眩い金糸に、口づける。私の心をすっかり蕩かす君に、触れずにはいられない。右手の義手を外している朝が、一番もどかしい。右手があれば、もっといろんなことを、君にしたい。両の腕で抱き締めてもいい。片方の手で髪を梳くのもいい。もう片方で頬に触れよう。頭を撫でるのは、子供扱いと拗ねるだろうか。

 左手しかない今、私にできることは、愛おしい温もりを手放さないよう、抱き締めることだけ。細く嫋やかな最愛の女性を、抱き締めることだけ。それだけでも、こんなに、幸せだ。

 

「ギルベルト様の匂いに、包まれています」

 

 ぽそりと、胸元のヴァイオレットが呟いた。形のよい鼻先を押し付けられる感触がくすぐったい。思わず苦笑いを零す。

 

「男の匂いなんて、いいものじゃないだろう」

「いいえ――ギルベルト様は、いい匂いがします。嗅いでいると、とても安心するのです」

「……そう、か」

 

 一瞬、答えに詰まった。安心する。そう言われて嬉しいが――男として、果たして素直に、喜んでいいものか否か。一つのベッドで、ぴたりと密着し、抱き合っているというのに、「安心する」と言われては――もしや一人の男として見られていないのではと、余計な心配をしてしまう。

 ……そんな風に、余計なことを考えていたから、罰が当たったんだろう。

 胸元のヴァイオレットが、微かに身をよじる。寝間着がこすれた拍子に、彼女の香りが漂った。甘やかな香りに脳は一瞬で痺れ、くらくらと眩暈がする。

 そんな私の様子には気づいていない様子で、ヴァイオレットはゆっくりと唇を開いた。

 

「安心、するのですが……」

 

 言い淀む間があった。言葉を探しているのか、口にするのを躊躇っているのか、別の何かが思い留まらせるのか。胸元に埋まるヴァイオレットの表情は見えない。微かに開いた唇から、そよ風のように漏れる吐息だけ、感じている。

 きゅうっと、ヴァイオレットがその両手に力を込めた。

 

「安心、するのですが……今は、ドキドキ、します。胸の辺りが、痛いくらい、ドキドキします」

 

 ついに言ってしまった。そう言わんばかりに、ヴァイオレットはなお強く、私の胸に額を押し付ける。赤く痕になってしまうのではと、まったく見当違いの心配をしたのは、彼女の言葉が残した衝撃のせいだ。

――だから。これから、止めることのできない胸の高鳴りを、ヴァイオレットに直接聞かれるのは。やはり余計なことを考えた私への、罰なのだろう。

 

「ヴァイオレット」

 

 左手に込める力を強くする。それへ応えるように、ヴァイオレットの細い足が、私の足を絡めて重なる。ヴァイオレットという存在が、私と一つになったような、そんな錯覚を抱いた。

 

「愛してる」

 

 桃色の耳に囁く。ちゃんと、届いているだろうか。ちゃんと、聞こえているだろうか。もしかして、早鐘のような私の心臓がうるさくて、届いていないんじゃないか。そう思うくらい、私もドキドキしている。

 胸元のヴァイオレットが、身じろぎを一つ。

 

「……ギルベルト様の、心臓が……私と、同じ、リズムです」

 

 呟く声に、幸福と微笑みが乗っていることだけ、はっきりとわかった。

 ヴァイオレットがこちらを見上げる。碧い瞳には、確かな朝陽の色と、仄かな薔薇の色。けれど、揺れる水面に映るのは、淡い緑ただ一つだけ。

 その、色の、名前を。幾度となく、知ってきた。

 

「愛しています」

 

 微笑むヴァイオレットに、どうしようもなく愛しさは溢れる。額に口づけると、彼女は照れたように口元を緩めて、また、その瞳を隠した。それに倣い、私も目を閉じる。

 朝にはまだ早い。

 春には少し早い。

 朝まだきに包まれて。

 春待つ君を私は抱く。

 そして、春が来たのなら――

 

 

 

 きっと、一番綺麗な君を、見れるのだろう。



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少佐の罪と罰、戦闘人形の「生きてほしい」

結婚式のお話前の閑話休題二つ目。

時系列的には一つ目のお話よりも前のお話となっております。


――罪に罰があるのなら、それは罪を思い出すことだろう。

 

 

 

 罪は時と場所を選ばない。幸せな時間、穏やかな空間、その只中に突如として現れて、この身を苛んでいく。目の前の景色を歪ませる。その感覚を、痛いほど、知っている。

 それは確かな罰。罪を罪と知りながら、それを正すことを怠った、私への罰。右目と右腕だけでは足りない。ふとした瞬間に襲い来るこの痛みこそが罰。

 大切だと思いながら。愛してると告げながら。その両腕を奪い、消えることのない傷を残し、そしてその罪を償うことなく逃げた、彼女に対する罪。

 一生、消えることはない。これは火傷だ。私が生きる限り、残り続ける。私が生きる限り、背負い続ける。罪へ当然のように付き従う、報いで罰。

 

「……少佐は、なぜ、悲しい顔をされているのですか」

 

 朝靄を払う音色が、私の意識を現実へと戻す。玲瓏な声に呼ばれて、私はヴァイオレットを見た。スカイブルーの瞳が、かすかに光を揺らして、私を見ている。そこへ映る私は、幾筋も眉間に皺を寄せて、苦しげに唇を噛み、そして今にも泣き出しそうだった。

 ヴァイオレットは、私のシャツのボタンを、留めてくれていた。隻眼隻腕の私が散々苦労していた朝の支度を、ヴァイオレットは嫌な顔一つせず、手伝ってくれる。

 ただ――ボタンを留める、その手は。私の袖を引いた、あの手ではなく。私の手を取った、あの手ではなく。私を救おうとした、あの手ではなく。ヴァイオレットの顔と同じ、陶器のような白亜の手ではなく。美しい光沢を帯びた、しかしどうしようもなく冷たく硬い印象の、鈍色の手。

 ヴァイオレットの瞳を直視できず、私は目元を震わせて、俯く他なかった。唇を噛み締め、涙だけは堪える。

 これは私の罪だ。ヴァイオレットの前で泣く資格など、私にはない。

 

「……君の、腕は……もう、どこにも、ないんだな」

 

 最後のボタンに手をかけたヴァイオレットが、ぴたりと、動きを止める。碧い瞳に、どんな感情が揺れているのか、私には確かめることができなかった。

 怖かった。ずっと、怖かった。私を「しょうさ」と呼んだ少女が。言葉を覚えていく少女が。私へ温もりをくれた少女が。私の瞳を「美しい」と評した少女が。いつか、失われてしまうのではないかと、怖かった。

 それを自覚していながら、私は「武器」としてヴァイオレットを使い続けた。傷ついて欲しくないと言いながら、彼女を戦場へ駆りだし続けた。ヴァイオレットの、あまりにも純粋で無垢な信頼に、甘えて。

 望めばいつでも――あるいは初めから、彼女を傷つけずに済んだのに。私はそうしなかった。

 今でも、怖い。そうやって、ヴァイオレットを傷つけた私が、彼女の側にいることで、また彼女を傷つけるのではと、そう思うと怖い。

 もう、二度と、ヴァイオレットに傷ついてほしくない。

 

「……少佐も」

 

 カタリと、微かに震えながら、ヴァイオレットが手を動かす。ボタンを離した銀の指先が、そっと、私の胸元に触れた。あたかも触れるのを怖がるように、その動きは静かで慎重だ。

 

「少佐も、火傷を、していらっしゃるのですね」

 

 呟いたヴァイオレットが俯く。さらりと垂れ下がった前髪の合間に見えたのは、震える睫毛と、揺れる瞳。彼女が唇を噛み締めるのに合わせて、指先がシャツを摘まむ。

 赤い唇が、わなないている。

 

「以前、社長がおっしゃっておりました。私は、たくさんの火傷をしている、と。いつかそれに気づく時が来る、と」

「……それは、つまり」

 

 友人が――ヴァイオレットを見守ってきたホッジンズが、彼女に何を言わんとしたのか。あまりに抽象的な「火傷」という響きが、今の私には痛いほど理解できた。

 

「火傷を、しておりました。……私は、この火傷を背負って、生きていかねばならないのです。この先、一生」

 

 震える瞼の下に、碧い瞳が隠れる。

 言葉は出てこない。幼かったヴァイオレットに、ただ命令されることしか知らなかったヴァイオレットに、その火傷を背負わせたのは紛れもない私だ。私以外の何物でもない。彼女を苦しめているのは、私なのだ。

 その火傷は、本来、私が背負わなければならないものだったのに。

 

「……すまない……すまない、ヴァイオレット」

 

 言葉はそれしか出てこなかった。ただ、彼女に首を垂れるしかなかった。いくら乞うても許されるものではない。

 罪は消せない。この先、一生。

 

 

 

「それでも、生きていて、欲しいのです」

 

 

 

 静かな声は、しかしそれまでになく強く、確かな願いでできていた。

 碧い瞳に、見つめられている。揺らめくサファイアの光は、その縁へ大きな水溜りを作っていた。それでも決して、逸らすことなく、私を見つめている。儚く、切なく、けれど強い光を宿して、そこにある。

 

「社長は、こうもおっしゃいました。自動手記人形として私がしてきたことも消えないのだ、と」

 

 ヴァイオレットは、震えている。それでも、彼女は立っている。願いと祈りを込めて私のシャツを強く摘まみ、震えながら、立っている。

 ……声が、出ない。ヴァイオレットは、何も特別な少女ではなかった。戦闘の技量は、常人よりもあったかもしれない。けれど、その心は、同じ年頃の少女と変わらず、繊細だ。それを、私は最終決戦の前夜に思い知らされた。

 傷つき、悲しみ、涙し――それでも、一生懸命に生きようとした。火傷を背負ってなお、生きようとした。

 こつりと、ヴァイオレットが額を私へこすりつける。

 

「生きて、欲しいのです。それでも少佐に、生きていて欲しいのです。私の側に、いて欲しいのです」

 

 私の胸にいるのは、一生懸命に生きた、一人の女性。一生懸命に生きている、一人の女性。

 彼女の名は――

 

「ヴァイオレット」

 

 震える体を、抱き締める。

 私という男は、どこまでも、どうしようもない。ヴァイオレットを傷つけたくないと言いながら、こうして彼女を震えさせている。余計な心配をさせて、その心を傷つけた。

 やはり、私という男は、ヴァイオレットには相応しくない。

 

「少佐っ、少佐っ」

 

 それでも、私を呼び続ける彼女を。

 側にいて欲しいと言う彼女を。

 鈍色の手で一生懸命に私のシャツを摘まむ彼女を。

 どうしようもなく、愛している。

 どうしたって、離れることはできない。

 ヴァイオレットのいない世界など、考えられない。

 けれども、この罪は消えず。

 この罰は永遠に続くだろう。

 

 

 

 それでも、私は君と、生きていたい。

 

 

 

「ヴァイオレット。すまない。余計なことを言った。……君をまた、傷つけた」

 

 震える指でシャツを握り締めながら、ヴァイオレットは首を振る。白いワンピースの背を撫でた。どうか少しでも早く、その震えが収まるようにと、願って。

 小さな白い耳に、可能な限り誠実に聞こえるよう、言葉へ心を込めて、語りかける。

 

「私は君と生きていきたい。――だから今度こそ、君をちゃんと守る。君が、もう二度と傷つかないように、ちゃんと守る。君を二度と傷つけないように、ちゃんと守る」

 

 罪を犯し。罰を背負い。なお彼女と生きたいと願う私。ならば、今度はちゃんと、彼女を傷つけないように、守る。

 胸元のヴァイオレットが、ようやく、顔を上げてくれた。一筋涙を伝わせ、「本当ですか」と問いかける彼女に、私は神妙に頷いて答えた。

 空の色を写し取る瞳が、揺れる。幾千もの煌めきに、心を奪われる。

 

「――では、私も、少佐をお守りします。少佐が、もう、何も失わないように、お守りします。ちゃんと、お守りします」

 

 潤んだ瞳でそう告げて、ヴァイオレットはまた、私の胸へ身を預けた。機械仕掛けの手が、私を離すまいとしている。

 残った左腕で、ヴァイオレットを抱き寄せる。力の限りに、その体を抱き締める。けれど今の私では、どうしても、彼女を包むことはできない。彼女を包む右腕が、私にはない。

 まずは、そこから始めよう。昇る朝陽に、私はそう決意した。

 

 

 

「動かしてみとくれ」

 

 ルーペを押し上げた初老の男性が、私を見つめてそう言った。それまでされるがままだった私はその言葉に頷き、()()へ意識を集中する。

 インテンス以来、空白となっていた私の右腕。そこへは今、光沢をまとった銀色の、機械仕掛け(オートメイル)の腕が装着されている。ヴァイオレットの義手も製作したという、ライデンでも評判の義手職人製だ。

 親指を動かすイメージをする。すると、キリキリと軋みながら、畳んでいた親指が動いた。続いて人差し指、中指。一本ずつ、指を開いていく。それを、今度はもっと連続して、滑らかに。

 一通り腕の動きを試して、職人の顔を窺った。彼は満足そうに首肯して、私を見る。

 

「あとは、あんたの努力次第だね」

「――はい。ありがとうございます」

 

 一言お礼を言って頭を下げると、職人は小さく手を挙げて答えるだけで、すぐに別の仕事に取り掛かってしまった。ただ、その口の端が愉快そうに持ち上がっているのだけ、わかった。

 

「少佐」

 

 装着室から出ると、待っていたヴァイオレットがこちらへ駆け寄ってくる。それから、もう一人。

 

「……それで、よかったんだな」

 

 艶やかな黒髪を三つ編みにした男性が――兄さんが、ヴァイオレットの後に続いて私のもとへやって来る。義手職人のところへ案内してくれたのは、兄さんだ。

 元々、少し前の手紙で、兄さんは私に義手の装着を勧めていた。義手の装着を決めて、ライデンへ行くと連絡したら、わざわざ駅まで迎えに来てくれた。

 深い緑の目が、新品の私の義手を見つめている。細めた目が、そのまま私の目を見た。

 

「うまく使えよ。その、右手」

「――ああ。わかった」

 

 うまく使え。兄さんがそこへどんな意味合いを込めているのかを、何となく、理解できた。

 

「うまく使うよ。……ちゃんと、使うよ」

「……そうか」

 

 相変わらず、兄さんの言葉は短く、少ない。手紙の方が、余程たくさんのことを語ってくれる。

 

――「女一人、抱きかかえてやれないでどうする」

 

 ややぶっきらぼうなその言い回しが、何とも兄さんらしいと思った。

 

「――それじゃあな。お袋の墓参りくらいは、していけよ」

 

 踵を返した兄さんは、軽く片手を挙げて去ろうとする。広く大きな背中に、ヴァイオレットがぺこりと頭を下げた。

 

「ありがとうございました、大佐」

 

 兄さんが一瞬足を止めて、振り返る。エメラルドの瞳が私とヴァイオレットを見て、すぐに明後日の方を向いた。

 

「いや……案内をしただけだろう」

「はい。ありがとうございました」

 

 やはりぺこりとお辞儀をするヴァイオレットへ、兄さんはやや微妙な表情を浮かべた。小さく溜め息を吐くと、また片手を挙げて、去っていく。

 

「兄さんは、行かないのか。墓参り」

「この前行ったばかりだ。それに、恋人二人の逢引きを邪魔するほど、野暮ではないんでな」

 

 そう背中で言い残して、兄さんは車上の人となった。その姿が見えなくなるまで見送り、改めてヴァイオレットと向き合う。

 キラキラと瞳を輝かせ、ヴァイオレットは私の右腕を見ていた。

 

「少佐に、右腕があります」

「ああ。どう、だろうか」

 

 尋ねながら、右腕を動かしてみる。肘のところで捻り、畳んで、伸ばして。指を順に開き、握る。左手ほど滑らかな動きはできない。ヴァイオレットのように使いこなすには、それなりに時間と努力が必要だ。

 右腕を見つめていたヴァイオレットが、おもむろに自分の右手の手袋を外した。現れるのは、彼女の手。ライデンの光を浴びて輝く、ヴァイオレットの手。

 その手を、ヴァイオレットは私の右手へと伸ばす。鈍色の指先が触れ合って、カチリと、高い音がした。

 ヴァイオレットが微笑む。碧い瞳に陽光を映してきらめかせ、薔薇色の頬と薄桃の唇を綻ばせて、私へ笑いかける。

 

「少佐とお揃いです」

 

 嬉しくて仕方ないという風な表情が、たまらなく愛おしい。

 

「ヴァイオレット」

 

 名前を呼ぶ。手を伸ばす。残された生身の左手と、装着したばかりの機械の右手、その両方を伸ばす。

 ヴァイオレットの背中へ、手が届く。そのまま、ゆっくりと、彼女を抱き締める。義手の加減はまだうまくできないから、慎重に。

 

「少佐……?」

 

 驚き戸惑った様子で、腕の中のヴァイオレットが私を呼んだ。

 その背中に、私の腕が回っている。左腕と、右腕。その両方で、今度こそ、彼女を包むことができる。

 

 

 

「ずっと、こうしたかった」

 

 

 

 この右腕は、君を守るためにある。

 君を傷つけないためにある。

 

 

 

 君と生きるためにある。

 

 

 

 それは、例えば料理をすること。

 例えば洗濯をすること。

 もしかしたら手を繋ぐことで。

 君に触れることで。

 そして、心から、君を抱き締めること。

 

「君を守る。君と生きていく」

 

 誓うように、約束をするように、ヴァイオレットの耳へ囁く。

 

「――はい」

 

 ヴァイオレットの返事は短い。けれどその、短い返事に、彼女の全てが詰まっているような気がした。

 ヴァイオレットがシャツを摘まむ。不思議と、その機械仕掛けの指先から、温もりを感じていた。

 一分ほどそうした後、ヴァイオレットを解放する。薔薇色の頬を、ヴァイオレットはすぐに両の手で隠してしまった。嬉しさと恥ずかしさと戸惑いをない交ぜにした表情で、私と義手と地面を、視線がぐるぐると行ったり来たりしていた。

 ライデンの街へ、二人して歩き出す。まずは、母の墓参りをしよう。それから、ホッジンズのところへも顔を出さなければ。そんな予定を話しながら、石畳の上を二人で並んで歩く。

 私たちの間で、機械仕掛けの小指が絡まり、歩調に合わせて揺れていた。

 



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ギルベルト・ブーゲンビリアの花嫁

予告しておりました結婚式のお話です。

第一章はギルベルト。


「なあ、あの日の君は、本当に綺麗だったなぁ」

 

 

 

―――――

 

 

 

 春を迎えるにはいまだ早い、肌を刺すような冷たい風が、エカルテ島の断崖から吹き上げている。コートの裾を巻き上げる程の風。わずかに残った雪を舞い上げる風。しかし、目の前の海面を、水上機特有の浮舟(フロート)を吊り下げた郵便飛行機が滑走していくのを見るに、特別強い風というわけでもないようだ。実際、眼下へ打ち付ける波は穏やかそのものだった。

 離水に十分な速度を得た郵便飛行機が、海面滑走を終え、機首を上げる。軽やかな発動機の音が響いて、水上機はその機体を空中へと躍らせた。二翅プロペラを力一杯に回転させて、郵便飛行機は見る間に高度を上げていく。

 顔馴染みの操縦士が、こちらへハンドサインを寄越した。親指を立てるその仕草に、私も同じサインを返す。大きなゴーグルが、まもなくオレンジになろうという太陽を受けて、きらりと光った。

 島の上空を一周して、郵便飛行機は水平線へと飛び去っていく。私と操縦士で今日一日を費やして整備した発動機に、異常はないらしい。ともかく、一安心だ。

 水上機は、あっという間に小さくなっていく。郵便社所属機特有の真っ赤な機体色をした、双葉双フロートの機影は、すぐに空の蒼へ溶けて見えなくなった。

 無事に飛び去った機体を見送ってなお、私は断崖から海を眺めていた。碧い海と、蒼い空。その境界線が溶けてなくなる、彼方の水平線。陽光を煌めかせる風景は、いつだか子供たちが言っていた「海は真珠飾り」の言葉のままだ。決して絢爛ではなく、されど見るもの全てを惹きつける、魔性ともいえる魅力。たゆたう景色に息を飲む。

 その景色に、最愛の人の姿を、重ねずにはいられない。

 

「ヴァイオレット」

 

 今頃は、先に夕食の支度を始めているであろう、彼女の名前を呟く。春に咲く美しい紫の花。その名前は、不思議と目の前の景色に馴染み、溶けあって一つになる。

 息を吸って、大きく吐く。冷たい潮風は、胸に痛いほど染みる。爽やかとは言い難いが、悪い気分ではない。懐かしくもある。潮風を浴びれば、帆を一杯に張った船で、沖に出た日々を思い出す。船長であり、舵を握る父の指示で、兄さんと二人、無数のロープを操った。子供の頃に染み付いたからか、今でもロープ一つ一つの名称を(そら)んじることができる。私の担当は、もっぱら二本目のマスト――メインマスト(メン・マス)とメン・スルーだった。

 余計なことを考えている。海を見ていると、どうにも感傷に浸ってしまう。物思いに耽ってしまう。それは例えば、幼い頃の思い出であったり。若かった頃の、過ちであったり。つい最近の、幸福であったり。そして――

 

「考え事かね」

 

 しわがれた声がする。振り返ると、白い髭を蓄えた老人が、こちらへ歩み寄ってくるところだった。私も、ヴァイオレットも、この島へ移り住んでから、特にお世話になった方だ。親愛を込めて、「おじいさん」と呼ばせてもらっている。

 白髭のおじいさんは、愛用のコーンパイプをふかしながら、私の隣に立つ。皺を刻んだ目元を細め、静かな瞳でこちらを見据えた。

 

「あんたは、いつも何かを考えているね」

「いえ……そんなことは」

 

 明確に否定できる言葉がない。海を眺めていると、考え事をしてしまうのは事実だ。ここのところは、特に。

 

「わしでよければ、話を聞くがね」

 

 煙を吐き出す声に、問い詰めるような響きはない。ただ、「そうすると整理のつくこともある」と、温和な瞳が語っている。以前はその優しさに甘え、何も話さなかった。自分の出自も、島へ来た理由も、何一つ話さなかった。

 でも、今は。

 

「……大切な、ことなんです」

 

 大切なことだから。話を聞いてくれる人に、素直に、話そうと思った。

 おじいさんは目を細める。

 

「ヴァイオレットさんのことかね」

「……はい」

 

 ゆっくりと吐き出された紫煙が、風に乗って天へ昇る。おじいさんは、それ以上を問いかけない。ただじっと、私の言葉を待っていた。

 

「今度、彼女と正式に、結婚しようと思うんです」

「それはめでたい。おめでとう」

「ありがとうございます」

 

 ヴァイオレットと再会し、そして共に暮らして、一年の時間が過ぎた。四年という時間を埋めるのに、そしてその間に大きく変わった私たち自身を埋めるのに、その時間が長かったのか、短かったのかはわからない。ただゆっくりと、けれど確かに、お互いの変化に、馴染んできた。一日一日を大切に、新しい二人を、積み上げてきた。

 想いは変わらない。私はヴァイオレットを愛している。彼女の幸せを願っている。叶うのなら、この手で、彼女を幸せにしたい。それが私の幸せなのだと、痛いほど理解した。

 そして、ヴァイオレットの想いも、胸が詰まるほど、理解した。

 

――「愛しています」

 

 かつての私が告げた、遅すぎる言葉を、大切に抱えて暖め、そして彼女自身の言葉として、私へ伝えてくれた、その想い。

 ヴァイオレットが、どれだけ私を想ってくれるのか。それを思うたび、涙が出そうになる。

 それほどの想いを伝えてくれた彼女を、愛したい。私に「愛してる」の言葉をくれた彼女を、愛したい。この身が尽きるまで、一生をかけて、大切にしたい。

 だからこそ――

 

「結婚式はどうするのかね」

 

 私の悩みは、それに尽きた。

 風が吹く。コートの合わせ目から、寒さが体を貫いた。やはり春には、まだ早い。

 

「……それを、悩んでいます」

 

 私の言葉に、おじいさんは穏やかに息を吸って、そして煙とともに吐いた。

 結婚を決めてから、色々なことを、ヴァイオレットと話した。とは言っても、一年の時間の中で、多くのことはすり合わせてきていた。改めて決めるようなことはほとんどなかった。ただ――結婚式のことだけは、決まらなかった。

 二人で話し合った選択肢は二つ。エカルテ島で挙げるか、ライデンで挙げるか、だ。

 

「エカルテ島の皆さんには、計り知れない恩義があります。彷徨っていた私を、受け入れてくださった。この一年間も、ヴァイオレットと共に、たくさんお世話になりました」

「お互い様さね。わしらも、あんたたちがいて助かっておる」

「……感謝しても、しきれません。もう一度、生きてみようと思ったんです。ヴァイオレットとともに、この島で、もう一度」

「……それは、嬉しいがね」

 

 おじいさんもまた、海を見る。太陽の色が変わり始めた。しかし、夕焼けにはまだ遠い。水平線に近づくほど大きくなっていく太陽に、目を眇める。

 

「この島で、結婚式を挙げるべきだと、思うんです。これから私たちが生きていく、この島で。皆さんに感謝するためにも。――ただ、」

 

 鴎が飛んでいる。さざめく波頭のその先に。

 魚が泳いでいる。揺れる波間の狭間にて。

 貝が潜んでいる。敷き詰めた砂の絨毯に。

 美しい島だ。美しい海だ。私たちは、ここで生きていく。そこに迷いはない。

 それでも。

 

「ただ、ライデンで挙げるべきとも、思うのです。ヴァイオレットが多くの時間を過ごした場所です。彼女にとってかけがえのない人たちもいる。この島の人たちと同じくらい、感謝したい人たちがいるのです」

 

 親友の顔が浮かぶ。ヴァイオレットの仕事仲間も。それから、兄さんの顔も。

 結論は、出なかった。どちらも、私たちにとっては大切な場所で、かけがえのない人々だ。

 これからを生きていく場所。

 これまでを生きてきた場所。

 そのどちらで、二人の門出を迎えるべきかなんて、そう簡単な話ではないはずだ。

 

「どうする、べきでしょうか」

 

 呟いただけの問いかけが、風に溶けて飛ばされる。見上げた空は、雲一つない澄んだ色だった。今夜は綺麗な星が見えるかもしれない。

 じっと、話を聞いていたおじいさんが、深く息を吐いた。言葉を選ぶような間の後に、落ち着いた声が聞こえてくる。

 

「あんたも、ヴァイオレットさんも、似た者同士だ。色んなものを、一人で抱え込み過ぎる」

 

 おじいさんへ顔を向ける。皺の刻まれた表情は、島の子供たちを諭す時と同じ色をしていた。

 

「ギルベルトさん。わしはな、ずっとこの島で生きてきた。じゃが、妻は違う。妻とは島の外で出会った。全く別の場所の出身じゃ」

 

 小さな瞳が、島の外へと向けられた。断崖絶壁の先へと、私もまた目を向ける。太陽が、いよいよ橙色に染まり始めていた。波頭に触れるか触れないか、いましも水平線と一つになろうという光が、その装いをゆっくりと、しかし確実に変えていく。

 太陽の姿が、海面に伸びて、映っていた。あたかも、海の上を渡ってエカルテ島へと続く、一本の道のように見えた。

 

「結婚する時には、二人で、この島で、生きていくことを選んだ。今のあんたたちと同じさね。――じゃが、結婚式は、妻の故郷で挙げた」

「……それは、どうして、ですか」

 

 遠くを見つめる目が、優しさで細くなる。きらりと光る瞳が、果たしてどんな景色を思い起こしているのか、私にはわからない。ただ、そんな風に、笑って過去を振り返る表情が、おじいさんにとってどれほど幸福な瞬間だったのかを、物語っていた。

 簡単なことだと、おじいさんは何気ないことのように言う。

 

「わしが、そうしたかったんじゃ。妻の生まれ育った場所で、一番綺麗な妻を、見たかった。――ただ、それだけのことさね」

 

 ぽかりと紫煙が漂う。くゆる煙が、空へ上がることもなく、しばらく私たちの周りを包む。

 

「……わしらのことを考えてくれるのは嬉しいがの。結婚式は、あんたとヴァイオレットさん、二人の大切な日じゃろう。――あんたたちの好きにしていいんだ。それが一番の結婚式さね」

 

 海を見つめていた目が、私へ向けられている。好々爺という言葉の相応しい、柔和な微笑み。弓なりの瞳と目が合う。

 

「あんたは、どうしたいんだね」

「……私が、どうしたいか、ですか」

 

 海へ目を遣る。太陽が完全なオレンジ色に変わっていた。おぼろげなふちが水平線に触れ、潰れて溶けていく。日没前の、一番の輝き。海は大理石のごとく白に染まり、夕焼けがその上にビロードの絨毯を敷いた。

 眩さに目を眇める。そのまま、私は目を閉じた。途端、吹き抜ける風の轟を聞く。海鳥の口ずさむ歌を聞く。鼻には潮の香り。それから、しないはずの太陽の香り。近づきつつある春の雰囲気を、感じている。

 

――「ギルベルト様」

 

 その、春の中に、ヴァイオレットが立っている。

 光の加減で、金にも、白にも見える、ヴァイオレットの髪。

 透き通るほどに白い肌を、仄かな薔薇の色が彩る。

 海とも空とも見えるシアンブルーの瞳に、私が映っている。

 潤んだ薄桃の唇が紡ぐのは、私の名前と、それから――

 ……ゆっくり、目を開く。

 

「ありがとうございます。――私は、これで」

 

 おじいさんに一礼して、踵を返す。やるべきことが――やり()()ことが、できたからだ。

 それを知ってか知らずか、おじいさんは何も言わず、コーンパイプをくわえたまま小さく頷いた。こちらを見つめる瞳だけが、「いってらっしゃい」と私を見送ってくれた。

 私たちの家を目指す。そこで待つ人を想う。そうすると、自然と足取りが早くなった。一歩を踏み出すたびに歩幅が開いて、足の回転が速くなる。気づいた時には、駆けだしていた。緩やかな坂道を駆け上っていく。固く重いコートが、今は鬱陶しくさえあった。

 

 

 

 玄関を開くと、暖かさが迎えてくれる。

 まだストーブが欠かせない季節だ。真っ赤な薪の色に、この家の温もりを実感する。

 迎えてくれる暖かさがあるというのは――嬉しいのだ。玄関を開けたところで、思わずほうっと息を吐いてしまう。ただ、起きて、ご飯を食べて、寝るだけだった場所が、彼女と暮らし始めてからというもの、驚くほどに鮮やかに色づいた。

 ストーブの赤に、これほど心を奪われることは、無かった。

 

「ただいま、ヴァイオレット」

 

 家の中へ声をかける。愛しい人の名前を呼ぶ。

 返事はすぐにあった。短い「はい」という声は、一足先に春を迎えていて。鈴を鳴らすように軽やかで、美しい響きが私の耳朶を打つ。その声に、ずっと、耳を傾けていたいと思った。

 タタタと小走りが床を叩く。キッチンから顔を出したヴァイオレットの碧い瞳が、すぐに私を見つけてくれた。途端、パッと無数の花が咲く。大きく表情が変わったようには見えない。けれど、ヴァイオレットは確かに笑っていて、綻んだ頬と、煌めく瞳で、私を迎え入れる。小さな花弁の開く気配を感じて、やはり一足早く、彼女のもとへは春が訪れていたのだと思った。

 

「ギルベルト様。おかえりなさい」

 

 ヴァイオレットは、オーブンの調子を見ていたらしい。ホッジンズの送ってきたエプロンをして、ミトンを手に嵌めている。その姿のまま私を迎えてくれるところが、無性にむず痒い。可愛らしく、愛おしい。

 コートを脱いで壁に掛けながら、ヴァイオレットに尋ねる。

 

「遅くなってしまった。すまない。今夜はグラタンだったね」

「はい。今夜はグラタンです。今、オーブンを温めていたのです」

 

 頷いて答えるヴァイオレットが、私の隣で笑う。距離が近づいた分、今度はより鮮明に、その表情を見て取れた。碧の瞳はしかと私を捉えて、光を躍らせる。金砂の髪と睫毛が、さらりと揺れてリズムを刻む。薄桃色の唇は言葉を紡ぎ、そしてその端を微かに持ち上げる。美しい人が、私を見つめて、薔薇色に微笑む。

 

「私は……マカロニを茹でればいいだろうか」

「はい。マカロニを茹でてください。私は肉と野菜の下準備をします」

 

 ホワイトソースは、一緒に作りましょう。ヴァイオレットはそう言って、エプロンとプリーツスカートをひらめかせる。キッチンへと戻る彼女のフリルが、しゃなりと優美に揺れていた。

 

「ヴァイオレット」

 

 真白な背中に声をかける。と同時に手を伸ばして、ヴァイオレットを抱き締めていた。頭一つほど小さな彼女の体が、すっぽりと腕の中に収まる。抱き締めた拍子に、ふわりと甘やかな整髪料の香りが漂った。

 ぴくりと、ヴァイオレットは肩を跳ねあげる。驚かせてしまっただろう。呼吸を数秒止めている間、早鐘のように打つヴァイオレットの鼓動を感じていた。

 大きく息を吐き、吸って、また吐くヴァイオレット。呼吸に合わせて、胸が上下する。息を吐いた拍子に、体から強張りが抜けていくのを感じた。ぽすんと小さな音がして、ヴァイオレットがその身を私の方へと預ける。軽やかで、しかし確かな重みのある彼女の存在をこの胸へ受け止め、なお強く抱き締めた。ヴァイオレットを抱くための右腕へ、彼女の震える右手が重なる。

 花の香りを纏い、はらりと揺れる髪の合間に見えたのは、その先端までトマトのようになった、愛らしいヴァイオレットの耳だった。

 ヴァイオレットの唇が、言葉を紡ぐ。

 

「ギル、ベルト、様……その……このように、抱き締めていただくと、嬉しいのですが……ですが、急に抱き締められると……驚きます。……驚いて……胸の辺りが、苦しくなって……ドキドキ、して、しまいます」

 

 素直に訴えるヴァイオレットが、益々愛おしくなる。なお強く彼女の体を抱き寄せ、その温もりも、柔らかさも、香りも、全てを腕の内で感じる。かすかに漏れるお互いの吐息が、ストーブで温まる部屋の中で混じり合った。

 朱に染まるヴァイオレットの耳へ、私は囁く。

 

「ヴァイオレット。話がある。私たちの、結婚式に、ついてだ」

「……はい」

 

 聞いております。そう言うように、ヴァイオレットが左手も私の右腕へ重ねる。きゅっと、ミトンをした手が、器用に私の袖を掴んでいた。

 決定的な言葉を口にする前に、一度目を閉じた。左の目から視界を奪うと、一層鮮明にヴァイオレットの存在を感じた。私たちしかいない家には、薪の弾ける音以外、存在しない。それ以外の感覚は全て、ヴァイオレットのものだ。

 目を開く。ついさっき、瞼の裏に見た彼女の姿が、腕の中で言葉を待つヴァイオレットに重なった。

 

「結婚式は――ライデンで、挙げよう」

 

 そうして私は、私のやりたいことを、口にした。

 ヴァイオレットが、微かに息を吸う。トクリと、彼女の心臓が鳴る。私は、ヴァイオレットへ私の考えを伝えるべく、さらに言葉を続けた。

 

「ウェディングドレスを着た君を、ライデンの街で見たいんだ。君が、たくさんの人と出会ったライデンの街で、一番綺麗な君を見たいんだ」

 

 碧い海。優雅な夕陽。煉瓦の街。ヴァイオレットが、自動手記人形となり。多くの人に出会って、言葉を紡ぎ。そうして「愛してる」を理解した、街。

 微笑む君を思い描く時、いつも脳裏によぎるのは、ライデンの風景だった。

 

「私のわがままを、許してくれるだろうか」

 

 想いの丈を告げて、ヴァイオレットに尋ねる。私の好きにしていいと、君はそう言ったけれど。君の想いも、私は知りたい。

 

「ギルベルト様――」

 

 玲瓏な声が、かすかに震えて、言葉を紡ぐ。

 

「では、私も、わがままを言って、よろしいでしょうか」

「ああ。好きなだけ言ってくれ」

 

 はらりと金砂の髪が揺れる。細くしなやかな髪の隙間から、朱い頬と碧い瞳が垣間見えた。

 きゅうっと、重なる彼女の手に、力が籠る。

 

「私も――ライデンで、式を挙げたいです。ギルベルト様に教えていただいた、ライデンの美しい夕陽の中で、式を挙げたいのです。一番素敵なギルベルト様を、ライデンの街で見たいのです」

 

 愛しい人のわがままを、私は大切に抱き締めた。

 あまりの喜びに、どうにかなりそうだ。事実、ヴァイオレットを抱き締める以外のことが、全くできていない。言葉にしたいことは、たくさんあるはずだ。しかしそのどれも形にはならなかった。

 言葉が出なくて、もどかしい。

 

「ギルベルト、様?」

 

 そんな私を、ヴァイオレットが不思議そうな目で見る。マリンブルーの瞳に応える言葉を、私は一つしか知らなかった。

 

「――幸せにする」

 

 あまりにもありきたりな誓いの言葉が。きっと使い古されている約束の言葉が。私の気持ちを伝えるものとして、そしてヴァイオレットの想いに応えるものとして、相応しいのかはわからない。想いはいくら届けたって足りないくらいだ。いつだってヴァイオレットは、それ以上のものを私へくれるのだから。

 

「君をきっと、幸せにする。そう約束する。ヴァイオレット」

 

 それ以外に浮かばない言葉を、繰り返す。私にとって、彼女こそが世界の全てだ。それ以上なんて考えられない。

 抱き締める私へ応えるように、ヴァイオレットは両の手で私の左手へ触れた。ミトンをしたヴァイオレットの手は、丁度私の手を包める大きさをしている。機械仕掛けの手の温もりを、ふかふかとした布越しに感じた。

 微かな吐息が漏れる。それが、ヴァイオレットが微笑む証だと、知っている。

 

「――そのお約束は、もう、叶っております」

 

 小さな囁きが、赤い唇から零れた。

 

 

 

 ライデンの駅舎は、相変わらずの賑わいを見せていた。大陸縦断鉄道の完成と、それに伴う鉄道網の拡充の影響か、私が知る頃より倍近い人が駅のホームを行き交う。大きな旅行鞄を携えた紳士淑女もいれば、小さな工具箱を抱えただけの労働者も見えた。皆が皆、それぞれの目的があって、汽車を待っている。

 鉄道は、今や珍しいものではなくなった。少し前の馬車と同じ、人間の徒歩の延長線で、移動手段。蒸気機関車への感動は薄れ、近頃はヂーゼルや電気で動く鉄道まで現れた。車窓の風景は、着実に当たり前のものとなっていく。

 それでも、鉄道での旅には、不思議と心躍るものがあった。

 

「もう、着いてしまったのですね」

 

 向かい合わせの座席。減速していく風景を見つめるヴァイオレットがそう呟いて、残念そうに眉尻を下げる。

 船と鉄道を乗り継いで、丸三日の長距離移動だった。だというのに、私も彼女と同じ感想を抱いている。

 視界の先、どこまでも果てしなく続く、碧の世界を見た。

 線路の右にも左にも、溢れんばかりに咲き誇る、一足早い春の訪れを見た。

 青々とした森をたたえる、孤高にして堂々たる山の頂に、いまだ残る冬を見た。

 そして、大陸中の美しい景色の合間に、積み上げられた人々の賑わいを見た。

 ヴァイオレットの言う通りだ。流れていく風景に目を奪われ、ヴァイオレットと語り合う。停車した駅で弁当やサンドウィッチを買って、それを二人で食べる。眠る時は同じ方の椅子に座って、身を寄せ合って眠る。そうして過ごした三日間は、本当にあっという間の時間だった。

 

「君といると、三日なんてあっという間だ」

「――はい」

 

 窓の外から私へと視線を移し、ヴァイオレットは口元を緩めて頷いた。

 

「不思議です。ギルベルト様へ会いに行くときは、まるで永遠のように感じたのです。それが今は、本当に一瞬の出来事で――不思議でたまりません」

 

 ごとりと、客車が揺れる。それから、蒸気の吐き出される甲高い音。いよいよ列車は、ライデンの駅に到着したのだ。

 車両に乗り合わせた人たちが、おもむろに立ち上がり、それぞれの荷物を手にした。小さなバックを抱えただけの紳士が、真っ先に車両を後にする。大きな旅行鞄を棚から降ろす夫婦。待ちきれない少女が先に駆け出して、それを慌てた様子で兄と思しき少年が追い駆ける。そうして駅へ降り立った人たちを、迎える人もいた。

 

「……降りようか」

「はい」

 

 ヴァイオレットと二人、立ち上がる。二人分の旅行鞄を棚から降ろして、乗降口へと向かった。乗降口の小さな階段をホームへと先に降りて、ヴァイオレットを振り返る。

 

「ヴァイオレット、鞄を」

「――はい」

 

 自分のバックをホームへ置き、差し出した右手に、ヴァイオレットが大きなトロリーバックを預けた。ずしりとした重みを受け止めて、義手が小さく軋む。

 そして、反対の手を、差し出す。

 

「ヴァイオレット、手を」

「いえ、私は――」

 

 私は大丈夫です。そう言おうとしたのだろうが、ヴァイオレットは言葉を切った。戸惑った視線が、差し出した手と、私の顔を、行ったり来たりする。

 そんな彼女に、私は素直な願望を、隠すことなく告げる。

 

「君と、手を繋ぎたいんだ。――ヴァイオレットは、私と手を繋ぐのは、嫌か?」

 

 私の言葉に、ヴァイオレットの瞳が真ん丸になった。道中のどんな景色にも勝る美しさで、碧の瞳が輝いている。眩い宝石の只中に、私が映っていた。

 ヴァイオレットの頬が、薔薇色に染まる。アクアマリンの双眸が、光を揺らした。

 

「ギルベルト様は、時々、ズルいです」

 

 震える唇で訴えて、ヴァイオレットはゆっくり、その手を私へと差し出す。愛用の手袋をしたヴァイオレットの手が、私の手へそっと重なった。その手を離すまいと、私は力を込める。ヴァイオレットの手を、取る。

 一段、一段、確かに踏み締めるようにして、ヴァイオレットは車両より降りてくる。いつか読んだ御伽話の王子の真似をして、最愛のお姫様の手を、私は静かにエスコートする。

 ホームへ降り立ち、両の足を揃えたヴァイオレットが、頬を春の色にしたまま、微笑む。その表情があまりにも愛おしくて、私はつい、また素直な気持ちを告げてしまう。

 

「……すまない。――けど、これからも時々、ズルをしそうだ」



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クラウディア・ホッジンズの愛娘

結婚式第二章。

ホッジンズのお話。


「ねえ、ヴァイオレット。あなたきっと、世界で一番、幸せな花嫁になるわ」

 

 

 

―――――

 

 

 

 その電話は、金曜日の、よりにもよって終業時間直後に、かかってきた。

 俺の会社――CH郵便社には、電話が一台ある。普段、カトレアとアイリスが詰めている、自動手記人形(オート・メモリーズ・ドール)の専用オフィス。その一角に、ドールへの依頼専門の電話が、設置されていた。その電話が、耳障りな叫び声を上げている。

 オフィスルームの片づけをしていた俺は、内心で溜め息を吐いた。週末の仕事終わり。今夜はこのまま、どこかで酒でも飲もうと思っていたのだ。

 

「ベネディクト――」

 

 まだ残っているはずの副社長へ、電話へ出てくれと頼もうとした。だが、俺がその頼み事をしきる前に、件の男から反応が返ってくる。

 

「ホッジンズが出てくれ。今手が離せない」

 

 ……相変わらず、社長使いの荒い。俺は諦めて、まとめかけの書類をそのままに、社長室を後にした。赤い絨毯の上を足早に歩き、ドールのオフィスへ足を踏み入れる。出張代筆後、そのまま帰宅した二人のドールの姿は、そこにはない。人っ子一人いない夕闇の部屋の中に、駄々をこねる子供のような電話の音が鳴り響いている。

 

「はいはい。今出ますよ」

 

 子供をあやす心持ちで電話の前に立ち、送話器を取った。ベルが鳴り止む。

 

「もしもし。こちらはCH郵便社です。申し訳ありませんが、当社は本日の営業を終了しておりまして」

 

 定型的な文章で、電話の相手が口を開く前に告げる。これで引き下がってくれれば御の字。引き下がらなければ、社長のサービス残業確定だ。最も、会社の規定的に、社長にはそもそも残業と残業代いう概念が存在しないわけだが。そんなものを決めたのは誰だと言いたいが、草案を練ったのは紛れもない俺自身だった。

 相手の言葉を待つ。すぐに、電話の向こうの人物が、口を開くのがわかった。

 

『――ホッジンズか?』

 

 聞き覚えのある声に、一瞬思考が固まった。しかし体は勝手に動いて、ひょっとこ口みたいな受話器を掴む。腹の底から声が出た。

 

「おまっ、ギルベルトかっ!?」

 

 オフィスに俺の声が響く。自分の声に、自分で耳鳴りがしている。それは、電話の相手――ギルベルトも同じだったらしく、俺たちはしばらく電話口で悶える羽目になった。

 数秒がして、ようやくギルベルトが口を開いた。

 

『……君は、電話でも、元気だな』

 

 苦笑いする声に、肩でもはたいてやろうかと思った。

 

「お前なあ、もっと手紙寄越せよ。ていうか電話があるなら、毎日でもかけてこい。皆、お前とヴァイオレットちゃんのこと、心配してるんだぞ」

『なら、君の会社でも、エカルテ島に郵便飛行機を出してくれ。今の配達頻度だと、一月に一通が限度だ。電話は――今、エカルテ島郵便局の電話を無断で借りてる。だから、この通話のことは、内緒だ』

 

 ギルベルトの答えに脱力する。滑走路もない島へ郵便飛行機を出すには、水上機か飛行艇が必要だ。会社として成功しているとはいえ、そこまで大々的に空の郵便を整備するには時間がかかる。

 その件は、とりあえず今度、ベネディクトと相談するとしよう。

 声のトーンを一段低くする。ここからが本題だ。

 

「……それで。電話を無断で使ってまで連絡を寄越すなんて、何かあったのか」

 

 余程急な要件だったから、手紙ではなく電話を使ったのだろう。エカルテ島で何かあったのか。まさか、ヴァイオレットちゃんに何かあったんじゃないか。そんないやな想像をしてしまい、身構える。

 が、俺の覚悟とは裏腹に、電話口のギルベルトは、至って穏やかな口調で切り出した。

 

『ああ。君に、真っ先に伝えようと思ってな』

「何を」

『――ヴァイオレットと、正式に結婚する』

 

 親友の言葉に、全身の強張りを解く。もっとも、また別の意味で緊張がせり上がって来て、凝った肩に鈍痛が走った。開いた口からすぐに言葉が出ず、何とか肺と喉を振り絞って、我ながら掠れた声で答えた。

 

「そう、か……。おめでとう、ギルベルト」

『ありがとう』

 

 穏やかな声に、胸の内から込み上げるものがあった。それを、ぐっと堪える。

 もう、一年だ。エカルテ島でギルベルトを見つけて。そして、ヴァイオレットちゃんが彼のもとへ行ってしまって。二人が共に暮らし始めて、一年。

 

――「急がないで欲しい。まずはゆっくり、二人で過ごして欲しい。頼むよギルベルト。俺にとっても、ヴァイオレットちゃんは大切な人なんだ」

 

 まるで、父親みたいなことを親友に懇願したのも、一年前だ。結婚するにしても、時間は必要だと思った。それは、ギルベルトがヴァイオレットちゃんの変化に慣れる時間であり。ヴァイオレットちゃんがギルベルトの変化に慣れる時間であった。

 ……そろそろ、そういう話が来るとは、思っていた。離れていた四年もの間、ヴァイオレットちゃんは――そしてギルベルトも、ずっとお互いを想い続けていた。離れていても、愛していた。片時も忘れることはなかった。だから、二人が結ばれることに違和感はなかったし、反対する意思もない。ただ、ある程度覚悟はしていた。

 たった四年だけど。それでも、共に過ごしたヴァイオレットちゃんは、俺にとって、本当に家族のような存在だ。その彼女が、親友の妻となる。俺の元を離れて、ギルベルトのところへと行ってしまう。

 この一年で、もう、随分と慣れたつもりだったけど。やはり改めて、寂しさを感じずにはいられない。心の片隅に、ぽっかりと大穴を穿たれたように。さむしい風がそこへ入り込んで、なお俺の心を冷やしていく。

 寂しいよ。ヴァイオレットちゃん。

 

『それで、ホッジンズ。ここからが本題なんだが――』

 

 黙ったままの俺に、ギルベルトが切り出す。目元まで昇ってきた涙を押し戻し、「なんだ」と俺は尋ねた。

 

『私たちの、結婚式なんだが――ライデンで挙げることにした』

 

 ……思考が止まるなんて、生易しいものじゃなかった。文字通り、全ての思考が吹き飛んだ。頭の中が真っ白になった。ぼろぼろとあらゆるものが抜け落ちて、危うく送話器を取り落としそうになる。

 折角押し留めた涙が、感情とともに溢れた。どれ程歯を食い縛っても、流れた涙は止められない。溢れて零れて滴って、電話台の上に溜まっていく。視界が滲んで、前がよく見えない。

 

「そうか……っ。そう、か……っ」

 

 震える唇の間から、それだけ絞り出すのがやっとだった。

 ヴァイオレットちゃんの晴れ姿が見れる。この街で、俺のいるこの街で。彼女がたくさんの人と出会い、たくさんの想いを受け止め、たくさんの心をしたためた、ライデンの街で。ヴァイオレットちゃんとギルベルトの結婚式が、見れるんだ。大切な女の子と、大切な親友の、そんな大切な二人の、結婚式が、見れるんだ。

 こんなに嬉しいことを、俺は知らない。

 どうしてもう泣いているんだ、とギルベルトはまた苦笑して、しばらく、待っていてくれた。

 

「すまん、あんまり、嬉しくてな」

『変わらないな、君は。――夏になる前には、式を挙げたい。だから、急だけど、来週二人でそっちに行く。二週間くらい、下見をしたい。君はその辺り詳しいだろうし、手伝ってもらえると助かる』

「ああ、任せとけ。来週だな」

『ああ、そうだ。ヴァイオレットも、君たちに会えるのを楽しみにしてる』

 

 飛び上がりたい気持ちを抑え、短いやり取りを繰り返して、電話を切った。丁度その時、部屋の扉が開いて、ベネディクトが現れた。彼は俺の顔を見るなり、怪訝な表情で尋ねる。

 

「なんだよ、どうしたホッジンズ。電話の相手、誰だったんだ」

 

 目元の涙を拭いつつ、ベネディクトへ答える。社長使いの荒い副社長相手でも、自然と頬を綻ばせずにはいられなかった。

 

「ギルベルトからだった。ヴァイオレットちゃんとの結婚式を、ライデンで挙げるって。来週、準備のために、こっちへ来るって」

 

 俺の言葉に、ベネディクトは両眼を見開いた。それから、彼には珍しく、心の底から嬉しそうに笑った。

 

「マジかっ!そっか、そっかぁ……ヴァイオレット、ライデンで結婚すんのか」

 

 確認するような呟きに、何度も何度も頷いた。その度にまた、涙が溢れそうになる。歳を食うと、涙腺が緩んでいけない。

 

「よしっ」

 

 涙を振り切ろうと、気合を入れ直す。

 

「今日はもう帰る。色々――準備しないと」

 

 来週なんて、あっという間に来てしまう。酒なんて飲んでる場合じゃない。式場とか、ドレスの手配とか、二人のためにしてやれることはいくらでもある。時間なんて足りないくらいだ。

 

「手伝えることがあったら、何でも言えよ」

 

 やはり珍しく、そんな言葉を寄越したベネディクトに見送られ、俺は足早に会社を後にした。

 

 

 

 二人がライデンにやって来たのは、次の週末だった。

 拡張の進むライデンの駅舎。丁度今ホームへ入ってきた汽車が、長旅の疲れを吐き出す。響く蒸気の音を聞き届けながら、俺はホーム中央の時計を確認した。時間的に、二人が乗っているのはこの汽車で間違いない。

 妙な緊張をしている自分がいる。頬を張って深呼吸を一つ。それから、俺は後ろを振り向いた。CH郵便社の面々が、そこにはいる。ヴァイオレットちゃんとの再会が、皆待ちきれない様子だ。

 

「あの汽車みたいだね」

 

 到着した汽車を指差すと、真っ先にベネディクトが歩き出した。それへ、カトレアとアイリスが続く。三人とともに、俺も汽車へと足を向けた。

 ライデン駅で一日に乗降する人間の数は、日に日に増えている。首都の主要駅であるし、この駅からさらに細分化した路線へと接続していることもその要因だろう。人々の足は確実に鉄道へと移っていて、それを示すようにたくさんの人が行き交う。

 俺たちの目指す列車からも、たくさんの人が降りてくる。鞄を小脇に抱えた紳士。杖をつく老夫婦。急ぎ足の職人。あどけない少女が人形を抱えて走り去ったかと思うと、それを追いかけるように兄らしき少年が飛び出して来た。大きな鞄を抱えた両親は、それから随分遅れてあたふたと現れる。その頃には、少女と少年は祖父母に抱き留められていた。

 ふと、頬から力が抜けた。慌ただしい光景も、穏やかな光景も、ここではいくつもの光景が見られる。行き交う人が増える程、駅という空間に詰まる物語が増える。

 もちろん俺たちも、そのご多分に漏れない。

 

「ホッジンズ。迎えに来てくれたのか」

 

 直に聞くのは、実に半年ぶりとなる親友の声。右眼に眼帯をした精悍な顔立ちの男が、俺の前に立つ。宵闇色の髪を撫でつける髪型は陸軍時代と同じだが、穏やかな目つきが、最早彼が軍人ではないことを理解させる。

 そして、そのギルベルトの、隣には。

 

「ご無沙汰をしております、社長」

 

 月明りの髪。蒼海の瞳。薔薇の唇。春色の頬。真白なスカートと、プルシアンブルーのジャケット、ダークレッドのリボン。

 

「久しぶり、ギルベルト。――ヴァイオレットちゃん」

 

 俺が笑いかけると、ヴァイオレットちゃんは碧い瞳をかすかに細めた。表情の変化は、相変わらず小さなものだ。けれどよく見れば、彼女が確かに微笑んでいるのがわかる。

 その、本当に小さな変化が、ヴァイオレットちゃんの成長だ。絵に描いたような無表情で、どんな心も表に出すことはなかった彼女。しかし今では、こうして、ほんの少しでも、心が表情に出る。そんな些細な変化が、俺は嬉しくて堪らない。

 ……変化といえば。ちゃっかり、ヴァイオレットちゃんはギルベルトと手を繋いでいる。頬が微かに朱を帯びているのはそれが原因かと、俺は思い至った。

 正直、どんな表情をしていいのかわからない。娘に初めて男ができた時の父親というのは、こういう心持ちなのだろうか。

 

「元気そうじゃない、ヴァイオレット」

 

 そのヴァイオレットちゃんの肩を叩き、じゃれるように腕を回して、アイリスが笑う。ヴァイオレットちゃんのすぐ近くで、ぱっと青い花が咲く。それに、ヴァイオレットちゃんはこくりと頷いた。

 

「はい、元気です。アイリスさんも元気そうです」

「あたしは元気よ。ヴァイオレットに負けないくらい、じゃんじゃん手紙書いてるんだから」

「はい。これからもじゃんじゃん書いてください」

「まっかせなさい。――ところで、ヴァイオレット」

 

 ヴァイオレットちゃんの肩を抱くアイリスが、チラリと下の方へ目線を映す。その見つめる先を追うように、ヴァイオレットちゃんも視線を落とした。アイリスの見つめる先には、指を絡めて繋がる、ヴァイオレットちゃんとギルベルトの手。

 

「ギルベルトさんとは、いつも手を繋いでるの?」

 

 俺は思わず咽そうになった。そして実際に、微かに咽たのがギルベルトだった。咳払いを一つして、視線を明後日の方へ逸らす。

 ヴァイオレットちゃんは、繋がった手を見、アイリスを見、ギルベルトを見、そしてこちらを見て、もう一度アイリスへ瞳を向けた。頬の朱が、ほんの少し、強くなる。

 

「いつもでは、ありません」

「じゃあ、よく、繋ぐの?」

「アイリスさんのおっしゃる『よく』がどの程度か、わかりません」

 

 ヴァイオレットちゃんの返しに、アイリスはしばらく唸る。怪しい色を帯びる琥珀色の瞳には、なんとしても聞き出そうという強い意志を感じた。

 

「それじゃあ、出掛ける時は繋ぐの?」

「……はい。繋ぎます」

 

 嘘を吐けないヴァイオレットちゃんは、それで観念したように、頷いた。にまりと、アイリスは若干悪い笑みを浮かべる。

 なんと、言うか。思い返せば、ギルベルトに対する俺が、きっとあんな感じだったのだと、今更ながらに思った。

 

「そっか。やるじゃん、ヴァイオレット」

「……恋人同士が手を繋ぐのは、当たり前ではないのですか」

「……だ、そうですけど。どうなんですか、ギルベルトさん」

 

 突然会話の矛先を向けられたギルベルトは、一瞬言葉に詰まった様子だった。エメラルドの瞳がわずかに宙を泳いだことは、俺とおそらくベネディクトだけが気づいていた。

 ギルベルトは、自分を窺うヴァイオレットを見て、それからアイリスへ目を向け、答える。

 

「……当たり前かどうかは、わかりませんが――私は、繋いでくれると、嬉しいです」

 

 照れた様子のギルベルトを、横からベネディクトが小突く。ヴァイオレットちゃんはといえば、汽車のように白煙を噴き出しそうな勢いで、真っ赤に頬を上気させて俯いていた。その頬を、アイリスがつつく。

 ……変わったと言えば、ギルベルトもそうだ。無表情ではなかったが、俺以外の前では表情の変化に乏しい奴だった。自分を見せない、という点では、ヴァイオレットちゃんよりさらに徹底していた。

 そのギルベルトが、こうして、人前で照れて微笑んでいる。

 その変化はきっと、ヴァイオレットちゃんのおかげなのだろう。ギルベルトの存在が、ヴァイオレットちゃんを変えたように。ヴァイオレットちゃんの存在が、ギルベルトを変えた。

 ……ああ、本当にまずい。今にも、泣き出してしまいそうだ。この分だと、結婚式まで身が持たないかもしれない。

 

「ね、積もる話は、ランチを取りながらにしましょう」

 

 柏手を打って、カトレアがそう言った。時刻は丁度お昼前。二人が着いたらご飯にしようと、さっきまで話していたところだ。

 カトレアが二人へ微笑みかける。

 

「長旅で疲れているでしょうし、お腹も空いているでしょう?」

 

 顔を上げたヴァイオレットちゃんが、頬の赤みを残したまま、頷く。

 

「疲れてはおりませんが、お腹は空きました」

「んじゃ、決まりだな。さっさと荷物置いて、飯にしようぜ」

 

 ギルベルトの肩を軽く叩いて、ベネディクトが駅の出口へと歩き出す。「もう、ほんとに勝手」とカトレアが眉をひそめて、その後に続いた。アイリスもヴァイオレットの側を離れる。

 

「……行こうか」

 

 二人へ肩を竦める。顔を見合わせて、同じ笑みを浮かべたヴァイオレットちゃんとギルベルトが、頷いた。

 

 

 

 いつものレストランで、早めのランチを取る俺たちの会話は、当然のように二人の結婚式の話題になった。

 ヴァイオレットちゃんもギルベルトも、式はごく近しい人たちだけで――つまりギルベルトの生存を知っている人たちだけで、挙げたいらしい。人数は多く見積もっても二十人弱。ほとんどの人間が顔見知りだし、それくらいの方が、披露宴の風通しもよくていいだろうと思う。

 式場は、俺からいくつか候補を提示した。海の見えるチャペル、街一番のホテル、花愛ずる庭園。時間を見つけては足を運んで吟味した、どこも二人にぴったりの場所だと思う。

 ただ……候補の中には、郵便社の社屋も、入れておいた。元々は古式ゆかしい建物であるし、風情もある。ライデンの海も街も見渡せて、眺望も申し分ない。身内だけでやるのなら、あそこも十分、場所として候補に入ると思う。

 ライデンに滞在する二週間の間に、どこも見て回ると、二人は答えた。

 そこまで話が進めば、自然、式の二人の衣装にも――特にヴァイオレットちゃんのウェディングドレスにも、話が及んだ。

 食後のコーヒーに手を付けるのも忘れて、アイリスが興奮気味に傾倒する。

 

「はいはいっ。ヴァイオレットのドレス、一緒に選んでもいいですか!?」

 

 アイリスの提案には、俺も賛成だ。

 

「いいんじゃないかな。折角だから色々着せてみてよ」

 

 俺の賛同に気をよくしたのか、アイリスはヘアバンドで留めたオリーブグリーンの髪を揺らして、大きく頷く。その目が、隣のカトレアも捉えた。

 

「カトレアさんも、行きましょうよ。エリカさんも誘って」

「ええ、もちろん、大賛成。こういうの、やってみたかったのよね」

「――ね、ヴァイオレット。どうかな」

 

 味方を二人得たアイリスが、改めてヴァイオレットちゃんを見た。ベネディクトが、コーヒーカップ越しの横目で、その顔を窺っている。

 仲良く紅茶をすするヴァイオレットちゃんとギルベルトが、ぱちくりと瞬きをして、顔を見合わせた。ギルベルトが左目を細め、小さく頷く。「君のしたいようにしなさい」と、そう言っているような気がした。

 

「では――ギルベルト様も、一緒に」

「だめよ、ヴァイオレット」

 

 ギルベルトを連れて行くと言い出したヴァイオレットちゃんに、カトレアが待ったをかける。人差し指を突き出し、「めっ」とヴァイオレットちゃんをたしなめていた。

 

「新郎は、結婚式の当日まで、新婦の花嫁衣裳を見てはいけないの」

「そう、なのですか」

「そう。だからヴァイオレットのドレスは、当日まで秘密にしないとダメよ」

「――それでは」

 

 困った様子で、ヴァイオレットちゃんが眉尻を下げる。碧眼がティーカップへ落ち、次いで隣のギルベルトを見た。

 

「それでは、ギルベルト様の好みが、わかりません。ギルベルト様の見たい私に、なれません」

 

 その瞳に映るのは、今も、ただ一人だけだ。

 これには、ギルベルトが小さく息を吐き出して、目元を緩めた。震えながらギルベルトだけを見つめ続ける瞳を、彼もまた見つめ返す。

 

「ヴァイオレット。君の着たいドレスを着たらいいんだ。君の選んだドレスが、私の好みだ。私の見たい君なんだ」

 

 わかるかい。確かめるように、あるいは願うように、ギルベルトは静かにヴァイオレットちゃんへ語りかけていた。きっと今、机の下で、彼女の手を握っている。

 いけない。これはまずい。目の前の光景へまた涙が零れそうになり、それを堪えてごまかして、俺は笑みを作った。とびきり優しくしたつもりだけど、随分不格好な顔になっていたはずだ。

 やはり、歳は食いたくないものだな。

 ヴァイオレットちゃんは、いつもそうしていたように、胸元のブローチに触れた。それからこくりと、金砂の髪を揺らして頷く。

 

「はい……わかりました。そうします。――アイリスさん、カトレアさん、お願いしてもよろしいでしょうか」

 

 問われた二人は、一も二もなく頷いていた。アイリスが満面の笑みを浮かべて、柏手を打つ。

 

「夕方にはエリカさんも合流できるみたいですし、ディナー食べながら作戦会議しましょうよ。仕事の合間とか合わせないとですし」

「いいわね。折角だからルクリアさんも誘って、おしゃれなお店でも行きましょう。もちろん、女だけで、ね」

「もちろんです」

「承知しました。――婦人会、ですね」

「……それは、少し違うと思うわ、ヴァイオレット」

 

 盛り上がる女性陣に、完全に取り残された俺とギルベルト、ベネディクト。眉尻を下げながら笑うギルベルトと、肩を竦めたベネディクトに、どこか投げやり気味に提案する。

 

「なら、俺たちも男だけで、夕食にするか」

「……ま、たまにはいいか」

 

 珍しく賛同したベネディクトが、その碧い瞳を半分にして、ギルベルトを流し見る。

 

「そこの男へ、ヴァイオレットと結婚する前に、言っておくことが山ほどある」

 

 ここにも、ヴァイオレットちゃんの保護者が――兄が一人、いた。

 ヴァイオレットちゃんに似た金髪碧眼の副社長に、ギルベルトが苦い顔で答える。

 

「……どうか、お手柔らかに頼むよ」

 

 

 

 二か月が、あっという間に過ぎた。

 穏やかな春の陽射しが包む、CH郵便社の社屋。一時代昔の風情を醸し出す赤レンガの建物が、一日限定で結婚式の会場になっている。この日のために仕立てた一張羅に身を包んだ俺は、とある扉の前で、緊張由来の硬い息を吐いた。

 ……時間というものは、驚くほど残酷に、冷酷に、無慈悲に、過ぎ去っていくものだ。

 ヴァイオレットちゃんのいない一年は、彼女と過ごした四年の月日が一瞬に思えるほど、長い時間だった。いつもよぎるのは四年分のヴァイオレットちゃんで、彼女のいない目の前の光景に、色褪せた写真のように姿が重なる。オフィスを覗いても、彼女はいない。いつものレストランに、彼女はいない。屋根裏の部屋に、彼女はいない。社長室へ俺を訪ねることもない。ふとした瞬間に思い出して、そして自分でもどうしようもないくらい切なくなって、涙を流しそうになる。実際、随分泣いたはずだ。そんなことを繰り返していたから、本当に、十年二十年という月日を経たように、思えてならなかった。

 だというのに、二人が結婚を決めてからの二か月は、あっという間で。光陰矢の如しとは誰が言ったのか。気づけば春は深まり、結婚式の当日になった。ライデンにはもうすぐ、夏の便りが届く。

 

「……時計も、カレンダーも、宛にならないや」

 

 感傷的な呟きを空気へ溶かし、意を決して扉をノックした。木製のドアが、軽やかな音色を響かせる。

 

「ヴァイオレットちゃん。入っても、いいかな」

 

 彼女につきっきりだったカトレアは、もう支度は終わったと言っていたけれど。俺は扉の中へ、改めて問いかける。屋根裏部屋でのやり取りを、思い出す。

 

「はい。開いております」

 

 鳥のさえずりに似た声に導かれるようにして、俺はドアノブに手をかけた。扉を開く。

 新婦の控室に様変わりした部屋。その中央、大きな姿見の前に腰掛けるヴァイオレットちゃんが、こちらを振り返る。

 息が詰まるかと思った。

 純白のウェディングドレスは、シンプルなAラインのオフショルダー。細かな刺繍の入った長手袋で腕のほとんどを隠す代わりに、肩を大胆に出している。スカートの部分には、ドールとして働いていた頃を思わせるふわりと大きなフリル。あしらわれた薔薇の刺繍が、匂い立つようだ。そして胸元には、ヴァイオレットちゃんがずっと大切にしている、エメラルドのブローチ。

 花嫁は、俺を見て微笑む。碧い瞳に見つめられて、鼻の奥がツーンとした。式が始まる前に泣くわけにはいかないと、零れそうな雫を堪える。

 

「とってもよく、似合ってるね。ヴァイオレットちゃん」

「ありがとうございます。皆さんが一緒に選んでくれたおかげです」

 

 カトレア、アイリス、エリカ、ルクリア。いい仕事をしてくれた四人のドールたちは、今頃エントランスでヴァイオレットちゃんが降りてくるのを待っているだろう。

 白い薔薇の前に、膝を折る。見れば見るほど麗しい新婦のマリンブルーと、高さが揃う。穏やかさをたたえて、ヴァイオレットちゃんは俺を見つめていた。

 

「しかし、新郎より先に新婦の花嫁衣裳を見てよかったのかな」

 

 いまだヴァイオレットちゃんのドレスを見ていない親友を思う。ギルベルトは随分前に着替えを終えていて、一度この部屋を訪ねたそうだ。その時はまだヴァイオレットちゃんの準備が終わっておらず、カトレアに突き返されたという。哀れだ。

 ギルベルトは今、遅刻中の兄を――ディートフリートを玄関先で待っている。

 目を瞬いて、ヴァイオレットちゃんが紅の差す唇を開いた。

 

「問題ないと思われます。それに……殿方は、焦らすくらいが丁度いいと、カトレアさんがおっしゃっておりました」

「うん。あんまりやり過ぎると泣いちゃうから、ほどほどにね」

 

 言うまでもなく、ギルベルトはヴァイオレットちゃんを溺愛している。焦らすなんてことをしたら、本当に泣き出しかねない。

 レースを揺らして、ヴァイオレットちゃんは頷いた。

 

「はい、そうします。――焦らす、は苦手です。焦らそうと思っても、私が我慢できなくなってしまいます。今も、早くギルベルト様にお会いしたくて、堪らないのです」

 

 胸元に手を重ねて微笑む花嫁が眩しくて、俺は両の目を眇めた。

 ヴァイオレットちゃんも、ギルベルトを愛している。それは俺もよく知っている。碧い瞳に映るのは、いつでも一人の男だけだ。

 ギルベルトの側にいることが、ヴァイオレットちゃんの幸せだ。

 

「社長」

 

 玲瓏な声が俺を呼ぶ。そう呼ばれることには随分と前に慣れて、もう、俺の日常みたいになっていた。オフィスを覗けば、彼女が俺を呼ぶ。いつものレストランで、彼女が俺を呼ぶ。屋根裏の部屋を訪ねれば、彼女が俺を呼ぶ。長旅から帰着した彼女が、社長室を訪れて俺を呼ぶ。

 

――「社長」

 

 あと何千回だって、そう呼ばれたらいいのにと思っていた。

 

「今までお世話になりました」

 

 もうそれは叶わない。ヴァイオレットちゃんが、ヴァイオレットちゃん自身の幸せを、見つけたから。

 

「……そんなこと、言わないでよ、ヴァイオレットちゃん」

 

 堪えたはずの涙が、主人の意志に関係なく、目尻より流れ出た。

 

 

 

 兄というには、無理があるけど。

 父というには、頼りないけど。

 それでも君は、俺の家族みたいなものだ。

 大切で、大切で、大切で、誰よりも大事な、本当の娘みたいな。

 君の幸せを、誰よりも願っている。

 君の幸福を、誰よりも祈っている。

 だから、お願いだよ、ヴァイオレットちゃん。そんな、お別れみたいなこと、言わないでよ。

 

 

 

「社長、お願いです、泣かないでください」

 

 困った表情で、ヴァイオレットちゃんが俺の顔を覗き込む。碧い瞳が震えている。ギルベルトだけを見つめ、追い駆ける美しい瞳に、今の一瞬だけ俺が映っている。

 どうしていいのかわからない様子で、ヴァイオレットちゃんは両の手を宙に彷徨わせていた。彼女を困らせている。それがわかっているのに、涙は一向に止まってくれない。新調した一張羅の袖で拭っても拭っても、後から後から溢れてくる。零れて床に滴る。

 

「社長……失礼、します」

 

 ふわりと春が俺を包んだ。

 手袋越しの硬い腕が、不器用な加減で俺の背中へ回った。恐る恐るという様子で、ヴァイオレットちゃんは少しずつ、俺を抱き締める。

 自分でも、間の抜けた顔をしているのがわかった。

 

「ヴァイ、オレットちゃん……?」

「……これで、よろしいのでしょうか」

 

 自信なさげな手つきで、ヴァイオレットちゃんの手が俺の背をさする。戸惑いながら、俺を慰めてくれている。

 泣かないでくださいと、体温のない手のひらが俺に語りかけた。

 そんなヴァイオレットちゃんの背中に、俺もぎこちなく腕を回す。大切な愛娘を抱き締める。

 

「……不思議です。社長に抱き締めていただくのは、初めてのはずです。――ですが、とても懐かしく感じます」

「……うん。俺も、初めての気がしないよ」

 

 春の香りに目を閉じる。また少し、ヴァイオレットちゃんの抱き締める力が強くなる。

 

「……私は孤児です。父も母も知りません。故郷もありません」

 

 そうだった。軍の病院へ引き取りに行ったとき、ヴァイオレット・エヴァーガーデンという少女には、何もなかった。帰るべき場所はどこにもなかった。

 ギルベルトというたった一つの止まり木さえ、失っていた。

 それを……俺はどう思ったのだろう。哀れと思ったのだろうか。

 少し、違う気がする。切なさはあった。ギルベルトを待ち続け、ただ真っ直ぐに想い続ける少女を見るたび、胸が詰まった。

 不器用で、生真面目で、融通が利かなくて、けれどただひたすらに真っ直ぐな少女。

 その姿が愛おしくてしかたがなかった。ただただ生きて欲しかった。

 親友に託されたからではなく。

 俺は心から、彼女の幸せを願っていた。

 そして、願わくば。もし、叶うのなら――

 

 

 

「ですが、帰る場所はあったのです。見守ってくれる人も、おりました」

 

 

 

 今も願っている。ヴァイオレットちゃんの幸せを。

 

 

 

「社長。ありがとうございます。たくさんたくさん、ありがとうございます。帰る場所をくださって、ありがとうございます。私の故郷でいてくださって、ありがとうございます。私の――私の、家族でいてくださって、ありがとうございます」

 

 

 

 今も願っている。ヴァイオレットちゃんの故郷から。ヴァイオレットちゃんの家族として。

 君の道行きが、幸せの花で敷き詰められた、素敵なものでありますように。

 

 

 

「ヴァイオレットちゃん、幸せに、なるんだよ」

「はい。私はすでに、幸せで一杯です。それは、社長のおかげでもあります」

「うん。うん、そうだね。君はきっと幸せになるよ。だってほら、俺がこんなに、ヴァイオレットちゃんの幸せを願ってるから」

「はい。ではその分も、ありがとうございます」

 

 腕に込める力に迷いはない。十秒ほど愛娘を抱き締め、そして手を離す。目元を拭うと、それ以上の涙は零れなかった。

 

「泣き止みましたか」

「うん。ごめんね、取り乱して」

「いえ、問題ありません。――社長には、やはり笑顔が似合います」

 

 言われてようやく気づいた。そうか、俺は笑っているのか。大切な女の子の結婚式に、ちゃんと笑顔を見せているのか。

 それなら、よかった。

 折っていた膝を伸ばして、立ち上がる。階段を上ってくる足音がした。きっとギルベルトだ。

 

「……下で待ってるよ、ヴァイオレットちゃん」

「はい。すぐに参ります」

 

 踵を返して、扉へ向かう。ドアノブに手をかけたところで、一番大切なことを言い忘れていたと気づいた。俺を見送るヴァイオレットちゃんを振り返る。

 

「結婚おめでとう、ヴァイオレットちゃん」

 

 笑って口にできた言葉に、世界で一番の花嫁は、幸せという色の微笑みで応えた。



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ディートフリート・ブーゲンビリアの宝物

結婚式第三章。

ディートフリートのお話。


「いやぁ、それにしても。今日はここ数年で一番の、綺麗な青空ですなぁ」

 

 

 

―――――

 

 

 

 人間とは、学ばない生き物なのだなと、決して反省などしないのだなと、そんなことを考えていた。

 美しい碧をたたえる、ライデンの海。風もなく、波も小さな、穏やかな海。その海を、鋭利に研ぎ澄まされた鋼鉄が割いていく。海軍伝統のバウ・スプリットも、ドルフィン・ストライカも、一切を排除した直立艦首に、風情などありはしない。鈍色の舳先はただ乱暴に、残酷に、容赦なく、身勝手極まりないエゴで蒼海を砕いていく。その様を眺めていると、どうしても、眉間の強張りを消し去ることができなかった。

 エメラルドグリーンの海には、いつだって弟の姿が重なる。そして遠い水平線のマリンブルーには、最近彼女の姿が重なるようになった。

 今日という日は、そんな二人の、新たな門出の日であり、あたかもそれを祝福するような青空を、我ながらきつい表情で見つめていた。

 

「浮かない表情ですなぁ、大佐」

 

 そんな顔を見られていたのか、隣に立つ男が俺にだけ聞こえる声で話しかける。鋼鉄の檻のような艦橋の中、付き添いとして俺の隣に立つ中佐は、肩幅に開いた足を踏ん張り、やたらといい姿勢でこちらを見ていた。

 

「物思いに耽るとは珍しい。本艦に、何かご不満な点でも?」

「いや、なに。――あれだけの戦争を経験しておきながら、我々は全く、反省する気などないのだと思ってな」

 

 空と海の彼方へ向いていた意識を、すぐ目の前の現実へ戻す。俺が立つのは、鋼鉄の箱、その中。

 ライデンシャフトリヒ海軍が産み出した、新たな海の怪物(新鋭戦艦)。そいつは、従来艦など一笑に付す、実に十門もの主砲を備えた恐るべきモンスターだ。美しさをたたえた海を、野の花を踏み潰すがごとく割いていく、黒鉄の城。それが、俺を閉じ込めた――いいや、俺が自ら閉じこもった、鋼鉄の牢獄の正体だった。

 直立不動の中佐は、やはり俺にだけ聞こえる笑い声を小さく上げ、答える。

 

「大佐らしいお言葉です。――元造船技官として言い訳をさせていただきますと、本艦含めた新鋭戦艦の建造計画が立ち上がったのは、戦争が終結する一年前。まだ、講和の糸口すら、掴めていなかった頃です。本艦の建造は、時流としては必然だったかと」

「……だとしても、だ。戦争が終わってなお、こんなものを造る海軍も、それを止められない我々も……随分と愚かなものだな」

「容赦ないですなぁ。――しかし、なるほど。大佐のおっしゃることも、一理ある」

 

 中佐がそう言って目を細めた瞬間、百雷にも勝る砲声が艦上に轟いた。新鋭戦艦の主砲が、右舷に向けて砲炎を噴き上げた瞬間だった。右舷へ指向可能な四基の連装主砲塔、その内の右砲が、揃って彼方の目標へ砲弾を撃ち出す。幸いというべきか、目標は敵の水上艦艇ではなく、ただの浮標だ。今日は海上公試。完成したばかりの新鋭戦艦の、その性能を確かめる通過儀礼だ。主砲の射撃も、その一環に過ぎない。

 つんと漂った硝煙の香りに、思わず天を仰いだ。しかし、目にしたかった空はそこにはなく、俺の前には、無機質な鋼鉄の天井が広がるばかり。

 ああ。ここは鋼鉄の牢獄なのだ。やはり空は見えない。

 そして、やはり。雲一つない澄んで晴れ渡る空の蒼にも、光と命をたたえて育む海の碧にも、俺という男は相応しくない。

 

「――『Fleet in Being』」

 

 砲声が収まる頃、特に前置きなく、中佐が口を開いた。見えない天を仰ぐのをやめ、俺は視線を彼へと戻す。

 

「……なんだ、それは」

「父がよく口にしていた言葉です」

 

 中佐の父といえば、それなりに名の通った海軍軍人だ。多くの(ふね)で艦長を務めた、根っからの現場主義者。

 先人の言葉が、妙に耳に引っかかった。

 

「どういう意味だ」

「『動かざる艦隊』、あるいは『静かなる海軍』といったところでしょうか。海軍の意義とは、戦うことではなく、ただそこに存在し続けることにある、と」

 

 現場主義者らしからぬ言葉に、ほうと、思わず感心する。続きを促すと、中佐はさらに言葉を繋げた。元から、話をするのが好きな性質(たち)だ。

 

「我々は、確かに軍人ですが――多くの者は、大佐と同じように、戦闘を望んではおりません。戦えば誰かが死にます。それは自分かもしれない。自分でなくても、誰かの命が代わりに奪われる。最初から、負けが決まっている勝負です。そんなもの、誰も望んではいないはずです」

 

 軍人らしからぬ言葉を聞いているのは、この場では俺だけだ。咎めはしない。しかし、それ以上の言葉を遮るかのように、新鋭戦艦の主砲が二度目の咆哮を上げた。砲声が収まるまでの間、中佐は目を細めて黙る。

 雷鳴の余韻が消えると、彼はまた口を開いた。

 

「ですが、我々は軍人です。軍人が平和を望むのなら、そのために選ぶ手段は、最も現実的で、最も非人道的で、最も非平和的にならざるを得ない。すなわち、より強大な武力を保有することで、敵が侵攻しようという意志を削ぐ」

「抑止力、だな。それが『Fleet in Being』か」

「半分は。残り半分を、父はこう言っておりました。『俺が望まない限り、俺の(ふね)は戦争をしない』。――戦争は、いつの時代も人がするものと、私は考えます。どれ程強力な武器であろうと、()()が戦争をすることはありません。銃の引き金を引くのは、いつだって人間の意志です」

 

 彼女、と中佐はいつでも船をそう呼ぶ。あたかも自分を戒めるかのように。そして今は、その響きが俺の中にも深々と突き刺さる。

 彼女は武器だ。かつて俺がそう断じた――そう思おうとした少女の姿が、頭を過った。

 ふと、俺は中佐に、尋ねてみたくなった。

 

「では――武器が意志を持ったら、どうなる」

 

 中佐は、一瞬目を見開いたのち、特に考える素振りもなく答える。

 

「さて――どうでしょうか。案外、戦争を嫌って、戦いを拒み――愛することを、選ぶかもしれません」

 

 断定しない言葉ではあったが、どこか確信じみたものを、感じずにはいられなかった。

 それからしばらくは、お互いに無言だった。ただ艦橋に立ち、次々に撃ち出される主砲の砲声を、聞いていた。

 それも一段落する頃、改まって中佐が口を開く。

 

「しかし――やはり、今日の大佐は珍しい。職務中に、これほど私のおしゃべりに付き合ってくださるとは。何かあったのですか?」

「いや……別段、何もない。たまたま、今日はそういう気分だっただけだ」

「さようですか。たまたま、ね」

 

 含みを持たせた笑みが、俺を見ている。常々思っているが、俺などより余程、この男の方が冴えているし、切れる。しかも、それを完璧に隠しながら、しかし時折冗談めかして混ぜ込んで見せてくる、性格の悪さ。

 大きく息を吐き、目を逸らす。それをどう解釈したのか、中佐は半歩俺の方へと近づき、さらに小さな声で――蒸気タービンの音に紛れそうな囁きで、言った。

 

「……そういえば、今日は弟君の――ギルベルト・ブーゲンビリア元陸軍少佐の、ご結婚式のはずでは?」

 

 思わず目を見開いた。大きな声を上げそうになり、慌ててボリュームを下げる。

 

「な――ぜ、貴様がそれを知っている」

「これでも一応、大佐の右腕を自負しておりますので。大佐のご予定は、なんでも把握しております」

「……物好きめ」

 

 せめてもの抗議で吐いた悪態は、朗らかな笑みに軽々と流された。

 中佐は、尚も小さな声で、話を続ける。

 

「生きていらっしゃると聞いた時も驚きましたが、まさか心に決めた方までおられるとは。お相手は確か、」

「ヴァイオレット。ヴァイオレット・エヴァーガーデンだ」

 

 中佐よりも先に、彼女の名前を口にした。

 碧い瞳の女性。ギルベルトを、ずっと探していた少女。一度はあいつを失い、挫け、悲しみ、それでも生きて、忘れず、願い、信じ、そうして再会できた女性。ギルベルトが、憚ることなく愛を注ぐ、女性。

 言葉を遮ったことに気を悪くした様子はなく、中佐はやはり微笑を張り付けたまま、さらに小さな声で続けた。

 

「元少女兵で――以前、大佐が拾い、弟君に預けた少女、ですよね」

 

 ……嫌なことを、思い出させる。俺は返事をすることも、頷くこともなく、自分の足元に視線を移した。

 

「行かなくて、よろしかったのですか」

 

 一番、訊かれたくなかったことを、中佐は口にした。軽く睨んでも、この男には無意味だ。涼しい笑顔で全て流されてしまう。半ば諦めて溜息を吐くが、中佐が追撃の手を弱めることはなかった。

 

「海上公試など、お断りしてもよかったのに。私だけでも事足ります」

 

 ぐうの音も出ない、正論だ。海上公試への誘いはあったが、断るのは簡単だった。事実、忙しさや私事を理由に断ったことは何度もある。それで、俺の心証が悪くなることもない。

 だが、今回ばかりは――今日ばかりは、俺はここへいなければならないのだ。

 我ながら、自嘲気味な笑みが漏れる。

 

「……行けるわけがないだろう」

 

 そうだ、行けるわけがない。行ってはいけないのだ。俺のような男は。

 強く、両の拳を握る。

 ギルベルトにも、ヴァイオレットにも、多くのものを押し付けてきた。都合の悪いもの、全てを二人に押し付けた。いらぬ苦労を、全て、全て、押し付けた。

 俺が、二人を、不幸にしたのだ。

 例え今、二人がめでたく結ばれようと、その事実に変わりはない。二人の門出に、これからの幸福に、俺という男は必要ない。いてはいけないのだ。俺がいては、また、二人が不幸になるかもしれない。

 ようやく、自由になったのだ。ようやく、愛することができたのだ。ようやく、幸せを掴めたのだ。

 もう、それを、壊してほしくない。どうか静かに、けれど確かに、愛を育んでほしい。

 本来、その願いすらも、烏滸がましい。

 

「……なるほど。拗らせていらっしゃる」

 

 どこまで悟っているのか。あるいは全て知った上で言っているのか。どこか呆れ気味な響きを伴う中佐の言葉に、今度こそ本気で睨みつけた。しかし、やはり彼に効果はなく、剽軽に肩を竦めて微笑を作り、中佐は別の方へと顔を向けた。近くにいた男を、彼は呼び止める。

 

「通信長。一つ、頼みがあるのだが」

「はっ。いかがされましたか」

 

 それまでの微笑を隠し、真面目腐った表情を作る中佐は、やはりわざとらしく腕時計を確かめた。直立不動の通信長へ、彼は口を開く。

 

「実は、司令部宛に電文を打つことになっているのだが」

「はっ。すぐに電信室へ伝えます。文面は、なんと」

「それなんだが……なにしろ、極秘の文面でな。私の職権では、君に内容を告げることもできない。悪いが、電信室まで案内してくれないか」

 

 中佐の言葉は、全て初耳だった。何も聞かされていない俺は、ただ黙ってそのやり取りを聞いていた。だが、そんな俺を、中佐は手招く。

 

「さ、大佐。急いで参りましょう」

 

 彼に急かされるまま、俺は艦橋を後にした。

 

「どういうつもりだ」

 

 電信室への道すがら、目線だけで尋ねる。しかし返ってきたのは、軽やかなウィンクが一つ。「任せてください」とでも言いたげな所作に、気づかれないよう溜息を吐くしかなかった。

 案内された電信室から人払いをし、近代軍艦らしく通信機器が敷き詰められた部屋に、俺と中佐だけが残される。人がいなくなったのを確かめると、中佐は早速、並んだ通信機を弄り始めた。無線電話はすぐに立ち上がり、受話器を肩と頭で挟んだ中佐は、メモ帳を器用に開いてダイヤルを回す。

 

「――もしもし。ああ、そうだ、私だ。――ああ。――ああ、そうだ。手筈通りに頼む。――ああ。――よし、繋いでくれ」

 

 交換局に問い合わせていたのだろう。短いやり取りの後、中佐は再び黙る。その目が、メモ帳と腕時計を、交互に行ったり来たりしていた。

 一分ほどがして、ようやく、中佐が口を開いた。

 

「――もしもし。――はい。――はい、そうです」

 

 丁寧な口調からして、相手は彼よりも目上の――つまり、俺と同等かそれ以上の階級を持つ人物だろうか。俺が思考を巡らせる間も、中佐は短い返事とやり取りを繰り返す。

 彼の目が、俺を捉えた。

 

「――はい、おります。――畏まりました。今、替わります。――大佐、お電話です」

 

 そう言って、中佐は俺に、椅子と受話器を勧めた。状況説明はいまだゼロだ。だが、渡された受話器を取らないわけにもいかず、椅子に腰かける。受話器へ口を開くまでの少しの間に、「相手は誰か」と小声で尋ねたが、「守秘義務がありますので」と笑顔ではぐらかされてしまった。

 

「……もしもし」

 

 やや身構えつつ、受話器へ定型文を投げかけた。すぐに返事はない。耳に当てた受話器からは、顔の見えない誰かの気配を感じるが、それだけだ。声は聞こえてこなかった。

 もう一度、呼びかけようとして、口を開きかけたその時。電話の相手は、ようやく、声を発した。

 

『……兄さん、なんだな』

 

 電気信号の伝えた声は、今日一番の衝撃を、俺に与えた。両の目をかっと見開く。

 電話越しでだって、聞き間違えるはずはない。この世界でただ一人、俺のことをそんな風に呼ぶのは――

 

「……ギルベルト」

 

 よもや、今日、その声を聞けるとは思っていなかった。ゆえに、何度も口にしてきたはずの弟の名前は、随分と掠れた音になって、俺の口から漏れ出る。海軍のどんな高官と言葉を交わすよりも強い緊張感が、体を支配する。

 中佐に抗議の視線を送るが、彼は電信室の入り口に立ったまま、「何も聞いていません」とでも言いたげに余所を向いていた。

 

『何をしてるんだ、兄さん』

 

 電話越しのギルベルトが、俺に問いかける。全神経を耳に集め、言葉を選びながら、口を開いた。

 

「お前、これから結婚式だろう」

『そうだ。もう、会場にいる。ヴァイオレットも、直に準備ができる。――兄さんこそ、どこで、何をしてるんだ』

 

 どう、言い訳をしようかと、考えている。この期に及んで、俺はまだ、弟に嫌われたくないと思っている。そんな自分に、心底反吐が出る。

 ごまかしはなしだ。どうせ、聡明なギルベルトには、すぐにばれる。

 

「……新鋭戦艦の、海上公試中だ。場所は……まあ、軍機だ」

『……どうして、結婚式に来てくれないんだ』

 

 そんなこと、訊いてくれるなよ。お前だってわかってるだろ、ギル。

 

「……わかってるだろう。俺が行くべきじゃない」

『どうして?』

 

 幼い子供みたいなことを言わないでくれ、ギル。頼むから。

 

「……行ってはいけないんだ、ギル」

『私は兄さんに来て欲しい。だから招待状を出したんじゃないか』

「俺は……っ」

 

 噛み締めた歯の奥から、声が漏れる。

 俺だって行きたいさ、ギル。行って、お前の晴れ姿を、見たいんだ。どうせ俺のことだから、かっこつけて「幸せになれよ」なんて言って。お前はきっと、ちょっと呆れたような顔をして、それから苦笑いして、それでも――それでも、ヴァイオレットの肩を抱いて、「ありがとう」なんて言うんだろう。

 俺だって、そうしたいさ、ギル。

 だけどな。

 

「俺が、お前たちを不幸にしたんだ」

『私もヴァイオレットも、今、幸せだ』

「だとしても……っ!……今は、そうだと、しても。俺が、二人を不幸にした事実は変わらない」

 

 お前たちに、数えきれない苦しみを押し付け、背負わせたことは、消せないんだ。

 

「お前に、ブーゲンビリアの責務を、押し付けて。手に余るからと、幼いヴァイオレットを、武器として押し付けて。お前が――お前が、いなくなったら。今度は、お前の死を、ヴァイオレットに押し付けた。散々押し付けて、苦しめて――それで、祝うのか。そんな資格、俺にはないだろう」

 

 ギルベルトは何も言わない。電話口の向こうで、ただ静かに、俺の言葉を聞いている。

 いいか、ギル。不出来な俺を、兄と呼び続ける必要はない。お前も、ヴァイオレットも、もう自由だ。俺という過去は捨てて、幸せになれ。もう、俺という不幸を、招き入れるな。

 

「俺に会うべきではないんだ、ギル」

 

 兄らしいことなど、何一つ、してやれなかった。ならせめて、その責任くらい、果たすべきだ。

 ギルベルトは、最後まで、黙ったままだった。もう、これ以上の言葉は、いらないはずだ。

 

「じゃあな、ギル。切るぞ」

『――それでも』

 

 離そうとした受話器から、ようやく、ギルベルトの声が聞こえてきた。

 ああ、くそ。俺という男は、この期に及んでなお、弟の言葉を途中で切ることができない。

 

『それでも、来てほしい』

 

 聞こえてきたのは、有無を言わせぬ言葉だった。決して譲るつもりはないと、頑固な響きは、どこか親父そっくりだった。

 

『兄さんの言いたいことはわかる。正直に言えば、兄さんを殴りたいと思ったことも、一度や二度じゃない。――だけど。それでも、今、会いたいんだ』

「……ギル」

 

 声が、詰まる。突っぱねる言葉が、喉から出てこない。

 

『兄さんに、見てほしいんだ。兄さんに、祝ってほしいんだ』

 

 口が乾く。半開きのまま動かない唇が震える。

 

「どうして……」

 

 どうして、そんなことを言うんだ。

 どうして、わかってくれないんだ。

 どうして、わがままを言うんだ。

 漏れた「どうして」の先に紡ぐべき質問は、いくつかあったはずだ。けれど、どうしようもない俺が、その先に弟へ問いかけたかったのは。

――どうして、俺に、来てほしいんだ。

 

『決まってるじゃないか』

 

 中途半端な質問に、しかし答えなんてわかりきったことのように、ギルベルトは答える。

 

『兄さんは、兄さんじゃないか。――たった一人の、兄さんじゃないか』

 

 ……電話は、声を届ける。だが声だけだ。電気信号が遠くから届けてくれるのは、音という振動だけで、人の姿までは見えない。どんな態度も、目には入らない。

 だが、態度は見えなくとも。

 声には、表情が出る。

 声には、感情が乗る。

 そしてそれが、近しい者ならば。例えば――

 産まれたばかりの姿を、愛おしいと思い。

 初めての寝返りに、手を叩き。

 よたよたした歩みに、頬を緩め。

 俺を追いかける姿を、振り返り。

 そうやって、育つところを見てきた者なら。たった一人の、愛する弟なら。

 その姿は――電話口の向こうにある表情は、容易に、俺の脳裏へ浮かんでくる。

 

「ギル、ベルト……俺は……行って、いいのか」

『……だから、そう言ってる。兄さんは頑固だな』

 

 呆れた声音が、笑ってる。

 翡翠の瞳が、笑ってる。

 何度も、何度も、何度も、何度も、数えるのも馬鹿らしいくらい、俺に向けてくれた笑顔が、目の前に浮かぶ。

 奥歯を噛み締める。きつく目を瞑り――そして開く。さっきまでよりもずっと、強い覚悟が必要だった。

 

「わかった。――今行く」

 

 受話器を置く。それを待っていたように、中佐が声をかけてきた。

 

「お話はついたようですね」

 

 変化のない微笑みに頷く。

 

「ああ。……中佐」

「はい」

「本艦には、水上機が搭載されていたな」

「ええ。弾着観測と艦隊間連絡用に、二機」

 

 新鋭戦艦に水上機の搭載を盛り込んだのは中佐だ。

 

「飛ばせるか」

 

 俺の質問に、中佐は今日一番の笑顔を浮かべた。そこで俺は悟る。なるほど、ここまで織り込み済みか。

 

「すでに用意をさせています。あと三分ほどで発艦準備が整います」

「わかった。ここは任せる。急用ができた」

「承知しました。あとはお任せください。――急いだほうがよろしいですよ。ここから、航空作業甲板まで、二分はかかります」

 

 言われるまでもない。中佐の開けた扉から廊下に出て、走り出す。水密扉をいくつもくぐり、タラップを登って、上甲板へと出る。水上機発艦用の航空作業甲板は、艦の一番後ろだ。そこまで一気に駆け抜ける。

 ギルベルト。

 ただその名前だけを、頭の中で何度も呼び続けていた。

 

 

 

 ライデンが一望できる場所に、CH郵便社は建っている。一時代前の風情を残す、赤レンガの社屋。一日限定で結婚式の会場となった建物の前に車を止めさせて、俺は降り立つ。

 海軍省で軍装は脱いできた。今袖を通しているのは、用意だけはしていた、この日のためのスーツ。

 

「ご武運を、大佐」

 

 運転手を務めた少尉が、どこかおどけて言った。しかしその励ましは、半分近く本気だっただろう。今の俺の心持ちは、どんな戦場へ向かった時よりも、緊張の糸で張りつめている。

 走り去る車を見送り、俺は改めて、郵便社の建物へ体を向けた。

 玄関に、一つだけ、人影がある。建物の庇の下、影になったそこで、薄緑色の宝石が一つ、輝いている。

 

「……すぐに行くと、言っただろう」

 

 俺の言葉に、影が動く。庇の下から現れたのは、随分久しぶりに見る弟の顔。やや険しい表情に今更募らせる言い訳もなく、俺は黙ってギルベルトと向き合っていた。

 

「……五分遅刻だ、兄さん」

「……そう、か。すまん」

 

 まともに目を合わせられず、足元に視線を落とす。道中、色々と考えたはずの言葉は、一つも出て来はしなかった。

 春の風が、沈黙の合間を吹き抜ける。

 

「……ギル。俺は、」

 

 意を決して、唇の合間から、言葉を紡ごうとした。けれど、何一つまとまらない。弟に告げるべき言葉が、見つからない。結局、また口を噤んだ。まったく、どうしようもない。

 

「兄さん」

 

 そんな俺のすぐ前に、ギルベルトが立つ。綺麗に磨かれた靴だけが、目に入る。

 

「兄さん。――来てくれて、ありがとう」

 

 その言葉は、あまりにも弟らしい言葉で。俺は声に導かれるまま、顔を上げる。

 春の日差しの中に、エメラルドが一粒。大きな大きな、エメラルドが一つ。世界中のどんな宝石より美しい、エメラルド。その翠の色が、純白の中で、一際強く輝いている。

 

「――ギル」

 

 言葉は紡げない。だがその感覚は、数瞬前とは大きく異なった。言葉は見つかった。言いたいことは、喉のところまで出ている。問題は、その喉が詰まって、声が出ないこと。

 代わりに、涙が、出そうだ。いつかのように、穏やかな笑みを浮かべるギルベルトに。もう二度と、そんな笑みを向けてくれるとは思えなかったのに。その微笑みを目にする資格が、俺にはないと思っていたのに。

 お前は、今でも、そうやって、俺に笑いかけてくれるのか。

 

「……似合ってるじゃないか」

 

 本当に言いたいことの替わりに、ギルベルトが着ているものへの感想を述べる。結婚式に相応しい、純白のタキシード。長い前髪を撫でつけて固める髪型は、陸軍時代のそれと同じ。だが今の方が――その衣装の方が、ずっと似合っている。

 

「ありがとう。兄さんに、見て欲しかった」

「あ、ああ。……お前の、その衣装を見るのが、ずっと、夢だった」

「大袈裟だな」

 

 ああ、大袈裟だ。でも嘘じゃない。

 ギルベルトが苦笑する。柔らかな眦が下がる。すっと穏やかな所作で踵を返し、ギルベルトは俺を手招いた。

 

「すぐに始まるから。兄さんも入って。――もう一人、見て欲しい人がいる」

 

 郵便社の建物へ向かう背中。広い肩幅が、どうしようもなく、俺の弟だということを思い知らされる。

 ……大きく、なった。大きくなったな、ギル。

 

「なあ、ギル」

 

 大きくなった背中に、呼びかける。

 

「何だよ、兄さん」

 

 振り向く姿に、遠い夏の日が、重なる。

 なあ、ギル。お前、どうして、俺を見るたびに、笑うんだ。

 良い兄ではなかったはずだ。

 お前に好かれるような人間じゃなかったはずだ。

 お前に尊敬されるような人間じゃなかったはずだ。

 ひどく出来損ないの、どうしようもない人間だったはずだ。

 お前に何もかもを押し付けて。

 ヴァイオレットに何もかもを押し付けて。

 なあ、ギル。こんな俺でも、祝っていいのか。

 こんな俺でも、お前は会えて嬉しいというのか。

 こんな俺にも、お前は祝福して欲しいというのか。

 こんな俺が、お前たちの幸福を、見守ってもいいというのか。

 

 

 

「幸せになれよ、ギル」

 

 

 

 この、言葉は。その笑顔に、報いるものだろうか。

 ずっと――ずっと、愛していた。

 憎たらしく思ったこともある。

 妬ましく思ったこともある。

 けれど。だが。でも。しかし。

 その全てが愛おしい。

 俺の弟になってくれた、お前を。

 俺を……不出来でも、兄にしてくれたお前を。

 初めて、この腕に抱いた、あの日から。

 ずっと、愛している。

 

 

 

「幸せになれよ、ギル」

 

 

 

 同じ言葉を繰り返す。それ以外の言葉が出てこないからだ。

 言いたいことはたくさんある。

 言うべきこともたくさんある。

 募り積もった感情を全て吐き出すには、言葉が足りない。

 だからお願いだ、ギル。

 今は、今だけは、一番伝えたい言葉を、伝えさせてくれ。

 身勝手で、罪の意識もない、烏滸がましい俺の願いを、祈りを、口にさせてくれ。

 

 

 

 ギルベルトが笑う。鼻から空気の抜ける、微かな音。それが、涙の混じる音だと、知っている。

 

「兄さんの願いは、もう、叶ってるよ」

 

 ああ、そうだったな。もう、掴んだんだ。ようやく、手にしたんだ。

 でもな、ギル。

 お前はギルベルト・ブーゲンビリアだぞ。

 俺の自慢の弟だ。

 俺の最愛の弟だ。

 世界で一番の、俺の弟だ。

 だから。

 だから。

――だから。

 

 

 

「なら、もっと幸せになれ。ヴァイオレットとともに、幸せになれ。世界で一番、幸せになれ。――お前は……お前は、俺の……たった一人の、弟なんだから」

 

 

 

 だから、世界で一番、幸せになっていいんだ。

 

 

 

 呆れたように、ギルベルトは苦笑いする。けれどすぐに、力強く、頷いた。

 ライデンの風に吹かれる俺の頬を、熱いものが流れた気がした。だが気のせいだ。俺という男にも、今日という青空にも、二人の幸福な門出にも、そんなものは似合わない。

 きっと、どこかで、雨でも降ったんだろう。

 指先で雫を弾く。建物へと入っていくギルベルトには、見られていなかったはずだ。



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ヴァイオレット・エヴァーガーデンの結婚

結婚式第四章。

ヴァイオレットのお話。


「おめでとう。二人はきっと、幸せになる」

 

 

 

―――――

 

 

 

 時折思うのです。これはもしかすると、夢なのではないのだろうかと。あまりにも幸福で、あまりにも温かくて、あまりにも穏やかで、それ故にこれは夢なのではと、ぼんやりそんなことを思うのです。

 大きな姿見に、花嫁が映っております。全ての支度を終え、雪色のドレスに身を包み、純白のベールで顔を隠す、一人の花嫁。それが、私自身であることが、いまだに不思議な現実なのです。

 そして、もう一つ。

 

「ヴァイオレット。入ってもいいか」

 

 軽やかな音を響かせるドアの向こうより、その方のお声がします。何度も耳にしてきたお声です。いつも耳にしていたいと願うお声です。いつまでもお側にいて欲しいと祈るお声です。私へくださった名前を、誰よりも大切に、愛しさと慈しみに満ちた音色で呼んでくださるお声です。

 姿見より目を離し、扉を振り返ります。お会いしたい方が、その向こうにはおります。早くこの姿を見せたい方が、その向こうにはおります。

 

「――はい」

 

 けれど不思議と、返事に窮したのです。ドレスを指先で摘まみます。言葉にできない緊張で、喉が貼りついております。上手く、声が出ません。

 霞んで春に溶けてしまいそうな私の声は、けれどしかとドアまで届いていた様子。カチリとノブが回って、開いた扉の隙間より、その方は現れます。

――呼吸の仕方を忘れてしまいそうです。

 後ろ手に扉を閉めるギルベルト様。その姿は、先程まで姿見に映っていた私と同じ、頭の先から足元まで眩い純白。ホワイトスノーのタキシードが、すらりと長身のお姿に似合っております。

 まるで――御伽話の王子様のようで。エメラルドの瞳に吸い込まれて、息が詰まってしまいます。

 似合っております。素敵です。かっこいいです。言葉にしたいことが次から次に溢れて、しかしどうしてもそれを声には出せず、もどかしさでまた息が詰まります。

 椅子へ腰かけたまま、動けない私。同じように、ギルベルト様も扉の前で私を見つめ、そのまま動かずにおります。結婚式を目前にして、不思議な沈黙が私たちの間に流れておりました。

 

「ギルベルト様――」

「ヴァイオレット――」

 

 どれほど見つめ合っていたのでしょうか。気恥ずかしさが頬を熱くするのを感じて、ようやく唇をこじ開けると、お互いの声がお互いの名前を呼びました。綺麗に揃った声がまたむず痒くて、思わず頬が綻ぶ。弓なりになった薄緑の瞳が、きらりと光っておりました。

 ギルベルト様が、ゆっくりと私の方へ歩み寄って参ります。左目に嵌る宝石が、その間もずっと、私を見つめております。窓から差し込む春の陽射しが揺れる只中に、ギルベルト様を見つめる私が映っておりました。

 私のすぐ前までやって来たギルベルト様が、膝を折ります。椅子に腰かける私より、ギルベルト様の方が少しばかり、お顔が低くなりました。

 

「とても素敵だ。すごく似合っている。――綺麗だ、ヴァイオレット」

 

 あたかも夢のような言葉に、惚けて息が漏れるのです。

 

「あんまり綺麗で、言葉が出てこないんだ」

 

 同じです。私もギルベルト様に見惚れて、あなたの言葉に心奪われて、言葉が出てこないのです。

 

「――ギルベルト、様も」

 

 ようやく、貼り付いた喉をこじ開け、声を紡ぎます。

 

「ギルベルト様も素敵です。とてもよくお似合いで――見惚れておりました」

「……そうか」

 

 微かな赤が、ギルベルト様の頬を染めます。眦を下げ、口元を緩めて、ギルベルト様が私へ微笑みかけるのです。そうするとまた、私は息を飲んで言葉を紡げなくなるのです。

 胸の辺りが、ふわふわと不思議な心地がします。あたかも翼を得た鳥のように、この身があの空へ飛び立ってしまうような、そんな錯覚を抱いております。

 幸せです。いいえ、きっとこれは、幸せ以上なのです。あなたに見つめられていること。その微笑みを目にすること。あなたのために、婚礼衣装を着ていること。そのどれもが、幸せの一言では表せない、無上の喜びなのです。

 

「……夢のようです」

 

 夢のように。あまりの幸福で、地に足がつかず。宙を漂う心が、いずこかへ飛んでしまいそう。

 

「……ああ。本当に、夢みたいだ」

 

 頷いたギルベルト様。潤んだ瞳が数多の光を帯び、薄緑色の宝石に幾千の彩をまとわせます。それは正しく、今私の胸にあって輝くブローチと同じ。初めて美しいと感じた、私の宝物。

 瞬きができません。今目を閉じてしまったら――この夢が、終わってしまいそうなのです。

 

「――でも、夢じゃない」

 

 ギルベルト様の右手が伸びます。白い手袋をした手。それが私の頬に触れ、優しい動きで撫ぜるのです。手袋の下にあるのは、私と同じ、冷たく硬い機械仕掛けの手。それなのに、触れられたところが暖かく、心地よい。

 頭を傾け、私はその温もりに身を委ねました。

 目を閉じます。暖かな感触は消えることなく、むしろより鮮明に浮かび上がるのです。

――ああ。これは、夢ではないのですね。

 

 

 

「ギルベルト様が、おります」

「――ああ。私はここにいるよ、ヴァイオレット」

 

 

 

 春色のお声が答えます。

 

 

 

「私のお側に、おります」

「君の側にいる。これからはずっと、君の隣にいる」

 

 

 

 指先が慈しむように頬を撫でます。

 

 

 

「私の頬に、触れております」

「触れている。君の存在を、感じている」

 

 

 

 愛しさで奏でられた言葉に耳を澄ましております。

 

 

 

「とても穏やかに、微笑んでおります」

「君があんまり可愛らしいから、頬が緩んでしまうんだ」

 

 

 

――目を開きます。

 エメラルドの瞳と、目が合います。ずっと私を愛してくださった瞳。私が愛してやまない瞳。堪らなく愛おしい人の瞳。

 その美しい瞳の中に、微笑む私がおります。

 

「夢では、ないのですね」

「――うん。夢ではないよ」

 

 あなたは確かにここへいらっしゃいます。

 私も確かにここへおります。

 陽射しの中で向かい合い、確かに見つめて、ここにおります。

 私の頬へ触れるギルベルト様の手に、私の手を重ねることができます。

 反対に私の手を伸ばせば、ギルベルト様の手を取り、指を絡めることもできます。

 夢は、夢でなく。

 触れるたび、現実になっていくのです。

 幸福が形になっていくのです。

 愛しさが形になっていくのです。

 

「ギルベルト様」

 

 絡めた手を、強く握ります。

 

「口づけを、くださいますか」

 

 贅沢な願いを口にします。

 これほど幸せでなお。

 これほど愛しくてなお。

 私はまだ、求めてしまうのです。

 どうか、どうか、愛しさの証を。

 もう、この心より溢れてしまうほどに、いただいておりますが。

 どうか、どうか、もう一つ、あなたの証を。

 私の唇に、くださいますか。

 

「――わかった」

 

 微笑みのままに、ギルベルト様は頷きました。重ねた左手と、絡めた右手の力を緩めて離すと、ギルベルト様は両の手でベールに触れます。私の顔を覆う、薄くて半透明の一枚の布。悪いものより私を守ってくれるという布は、同時に私とギルベルト様を隔てる壁でもあります。

 そのベールに、ギルベルト様が静かに指をかけます。私は小さく頭を垂れ、目を閉じてその時を待つのです。

 ゆっくりとベールが持ち上がっていくのを感じます。隔てていたもの、隠していたもの、それが少しずつ取り除かれていきました。

 さらりと春の風を孕んで、ベールは私の後頭部へと降ります。

 

「――顔を上げてくれ、ヴァイオレット」

「――はい、ギルベルト様」

 

 優しい声に導かれるまま、私は目を開き、顔を上げました。

 愛しさで輝くエメラルドの瞳に、愛しさで微笑む私がいるのです。

 

「君が、よく見える」

「はい。ギルベルト様がよく見えております」

 

 隔てるものなどなにもないのです。

 あなたは確かに、そこにいらっしゃるのですから。

 阻むものなどなにもないのです。

 あなたは確かに、触れられるのですから。

 拒むことなどなにもないのです。

 あなたは確かに、愛してくれるのですから。

 

「ヴァイオレット」

 

 ギルベルト様が私の名を呼びます。美しい響きで奏でられる、私の名前。その美しさが、ギルベルト様がたくさんの想いを私の名前へ込めているからだと、知っております。

 左の手が私へ伸びて、髪に触れます。指先が髪を撫ぜ、慈しむように手櫛を通します。それから、あたかも宝物を扱うように、優しい手つきで私の頬へ触れるのです。

 

「ヴァイオレット。君を愛している」

 

 はい。存じております。そのお心を、今ははっきりとわかるのです。ギルベルト様がどれほど私を想い――愛してくださるのか。それがはっきりとわかるのです。

 そして、私も――

 

「愛しています。ギルベルト様」

 

 そう、伝えずにはいられないほど、心から愛しております。

 

 

 

 額を、重ねます。

 

 

 

 手を、重ねます。

 

 

 

 指を、絡めます。

 

 

 

 鼻先を、触れます。

 

 

 

「愛してる」

「愛しています」

 

 

 

 間近で笑って、どちらからともなく目を閉じます。

 

 

 

 そうして、誓いの口づけを。

 

 

 

 重ねた唇に、ギルベルト様の熱を感じます。繋がった私たちの間で、お互いの体温を交換します。流れ込むのは愛おしさ。触れたところから、ギルベルト様の想いが私の内へと入り、全身を巡るのです。

 温かいです。あなたの想いが、温かいのです。重ねた手のひら。絡めた指。触れる唇。その全てが愛おしく、また愛おしさでこの身が温かくなる。私の心が温かくなる。

 ……これ以上の幸せなどないと、思っておりました。けれど、ここに確かにあるのです。幸せ以上を、今感じているのです。何度も何度も、「これ以上などない」と思い、けれどその度にギルベルト様はこれ以上を与えてくださる。

 今、幸せです。これ以上ないほどに、幸せなのです。もしかするとギルベルト様は、また、今以上の幸せを与えてくださるのかもしれませんが。いいえ、きっとそうに違いありませんが。それでも今が、私には一番の幸せなのです。

 愛しい人が、ここにいる。

 愛しい人に、触れている。

 愛しい人と、手を繋いでいる。

 愛しい人の、お名前を呼べる。

 愛しい人とキスを交わして。

 そして、愛しい人に、「愛してる」と告げられる。

 それが一番の幸せなのです。

 ギルベルト様。愛しい、ギルベルト様。

 ですから、私は。

 

 

 

 きっと、一番幸福な、花嫁なのです。

 

 

 

 名残惜しく思いながらも、唇を離します。もう、式の時間です。エントランスでは、きっと皆さんが待っております。

 花婿様が私の髪を撫ぜ、指先で梳いて、それから静かに立ち上がりました。

 

「行こうか、ヴァイオレット」

「はい。ギルベルト様」

 

 差し出された左手に、そっと私の手を重ね、添えます。その手を、ギルベルト様の手が包むのです。

 

――「ヴァイオレット、手を。私の側を離れるな。ずっと側にいるんだ」

 

 あの頃より、少しも変わっておりません。私の手を取り、引いて、導いてくださる。その手の温もりは今でも、変わっておりません。

 私はその手と生きていく。この方の側で生きていく。それが私の幸せなのだと、随分と前より気づいておりました。

 

「ギルベルト様」

 

 温かな手に引かれて立ち上がります。愛しい名前を呼んだ私の瞳を、ギルベルト様が見つめ返しておりました。

 

「どうした、ヴァイオレット」

 

――どうか。

 

「どうか、私を、離さないでください」

 

 繋がれた手を、私も握ります。感覚などないはずの手で、ギルベルト様の手の感触を確かめるのです。

 決して離しません。もう、二度と。

 どうか離さないで。もう、二度と。

 そう願い繋ぐ手に、ギルベルト様もまた応えてくださる。握られた機械仕掛けの手が、カチリと軋んで音を立てる。

 

「君を離さない。決して。もう二度と、離しはしない。――約束する」

 

 そのお約束を心に刻み。私はギルベルト様とともに、扉の外へと歩み出すのです。

 

「はい。私も離しません。ずっとお側におります。――お約束します」

 

 

 

 可愛らしいフラワーガールが、私とギルベルト様の前に立ちます。赤髪の三つ編みを揺らし、白い歯を見せて笑う少女――テイラー。一杯に花の詰まった籠を掲げてから、テイラーは真っ赤な唇を開きました

 

「綺麗だね、ヴァイオレット」

 

 琥珀色の瞳がきらりと輝きます。その瞳に私もまた頬を緩めました。

 

「ありがとうございます。テイラーのお召し物も素敵です」

「えへへ、そう?」

「はい。とてもよく似合っております」

 

 テイラーはまた白い歯を覗かせてはにかみます。体を揺らすのに合わせて翻るスカート。可愛らしい、という言葉の似合う様子に、隣のギルベルト様も微笑みます。

 

「テイラーちゃん、ありがとう。フラワーガールを引き受けてくれて」

「――ん、任せて。幸せを運ぶのが、一人前のポストマンだから」

 

 満面の笑みのまま、テイラーが親指を立てて突き出します。その仕草に私はギルベルト様と顔を見合わせ、そして揃って同じサインを返すのです。

 

「おい、テイラー。そっちだけで話してんなよ」

 

 下の階より、ベネディクトの声が聞こえてきます。その声にキラキラと瞳を輝かせたテイラーが、二階通路の手すりより身を乗り出し、エントランスを見降ろします。そこにはベネディクトが――そして私たちを待つ方たちがいるはずです。

 

「今行くよ師匠ー!」

「わかったから!危ねえから乗り出すな!」

 

 ベネディクトの静止も聞かず、手すりの上で器用に手を振るテイラー。軽やかに床に戻ってきたテイラーが、恭しく一礼して踵を返し、廊下を歩き始めます。大手を振り、踵の音も高らかに歩を進めるテイラー。「ついてきて」と言いたげな背中を追いかけて、ギルベルト様とともに一歩を踏み出しました。

 社屋の中央、エントランスへと続く長い階段。社長がこの日のために新調したという、エカルテ島の雪のような白いカーペット。階段の両側には、溢れるばかりの春の花々。それらの続く先に、こちらを見つめる人たちがおります。

 

「――新郎新婦、入場です」

 

 カトレアさんの伸びやかな声がエントランスに響きます。それに合わせて、テイラーが階下へ恭しく一礼。彼女は顔を上げると、花びらを絨毯の上へ敷き詰めながら、一段一段階段を下りていきます。楽し気に揺れる夕焼けの赤髪、その頭上から降り注ぐ色とりどりの花びら。三つ編みの少女は正しく、彼女の言う通りの幸せを運ぶポストマンです。

 そのテイラーを、ベネディクトが優しげな瞳で見つめています。

 

「ヴァイオレット」

 

 雪の絨毯を進むテイラーに目を向けていた私を、ギルベルト様が呼びます。声に導かれて、エメラルドの瞳に顔を向けました。ギルベルト様は左の目を――そしておそらく、眼帯の下の右目も、柔く細めて微笑んでおりました。その目は階段の先を見て、そしてまた私の目を見つめるのです。薄緑の宝石に宿るのは春の陽射し、真白な絨毯、鮮やかな花々。それらに囲まれた私。

 繋いだ私の右手を、ギルベルト様はゆっくりと引き上げ、手繰り寄せ、そして――

 

 

 

 手の甲へ口づけてくださる。

 

 

 

 たったそれだけの仕草に、どくりと心臓が強く打つのです。初めての経験ではありました。私の手にギルベルト様がキスをするのは今までにないことです。機械でできた手に感覚はなく、手袋をした手に感触はなく、それ故ギルベルト様の唇の柔さも体温も甘やかさも感じようはないのです。それだというのに、その感触は鮮明に私の脳裏へ焼き付けられます。

 

「――行こう、ヴァイオレット」

 

 眦を下げるギルベルト様に頬の熱をごまかすことはできず。頷く前に見えたギルベルト様の瞳には、頬を朱にした私が映っておりました。

 エントランスへの階段を一段降ります。ギルベルト様の手にエスコートされ、雪のカーペットへ足を降ろす。こつりと二人の足音が揃って音色を奏で、メロディーを刻むのです。

 こつり。こつり。二人の歩調が揃っております。二人のリズムが揃っております。一歩を踏み出すたび、白い絨毯の上で私たちの歩みが重なるのです。

 

 

 

 その旋律を、愛と、誓いと、幸福と、呼ぶのでしょう。

 

 

 

 階段の踊り場にて、一度、歩みを止めます。二階にいる時よりずっと近くなった、ギルベルト様と私を見つめる目。見守っている方たち。

 人として未熟な私を見守り、時に諭してくださった方。

 ドールとしての私を支え、ともに働いてくださった方。

 大切な人の大切さを、私と分かち合ってくださった方。

 

「ギルベルト・ブーゲンビリア。ヴァイオレット・エヴァーガーデン。――さあ、誓いの言葉を」

 

 紫水晶の瞳を細め、カトレアさんがこちらを見ます。

 誓いの言葉。それは本来、教会などの神前で、神様に向けて交わされるものです。ですが、CH郵便社は教会ではなく、またここへいる方たちに神職者はおりません。誓いの言葉は、ギルベルト様と私、二人の間で交わされるものです。神様へ誓いを立てることを、ベネディクトは強く反対していました。とても不機嫌だったようにも思います。

 特定の神様を信仰している訳でもないギルベルト様と私には、むしろこちらの方が自然であるような気がするのです。

 誓いの言葉を先に述べるのは、ギルベルト様です。エントランスよりこちらを見守る方々へ目を向けるギルベルト様。その横顔を窺います。

 

「――ヴァイオレット。少し、手を離してもいいかい」

 

 私にだけ聞こえる声が、問いかけます。私は頷き、ギルベルト様と繋いでいた右手の力を弱めます。

 左足を引き、わずかに身を屈めるギルベルト様。「愛してる」と囁きかける瞳に、ギルベルト様が何をなさろうとしているのかを、私はすぐに理解しました。

 

 

 

 ふわり。

 

 

 

 膝裏に添えられた右腕。肩を支える左腕。ギルベルト様はその両腕で包むようにして、とても軽やかに私をその胸元へ抱え上げます。

 ギルベルト様は、時折これをなさるのです。洗濯物を干し終えた朝に。野原にランチボックスを広げる昼に。配達業務へ向かう夕方に。湯浴みより上がった夜に。短い質問で尋ね、こうして私の体を抱き上げてくださる。

 ギルベルト様を一番近くに感じる時間なのです。この身はギルベルト様の温もりに包まれており。少し腕を伸ばせばギルベルト様の頭を抱えることができる。そして二人の吐息が混じるほどに、私たちの顔は近くなるのです。エメラルドの輝きを、私一人のものにできるのです。

 今も、同じです。

 ギルベルト様の瞳に見つめられております。

 ギルベルト様の瞳を見つめております。

 ギルベルト様の温もりに包まれております。

 一番近くに、ギルベルト様を感じております。

 

「ギルベルト、様――」

 

 惚けて息が漏れるのです。すぐ間近のお顔より目が離せないのです。私の世界の全てが、ギルベルト様ただ一人になるのです。

 

 

 

「――誓います」

 

 

 

 よく通る声が。しかしとても穏やかで、柔らかく、優しく、まるでこの社屋を包み、窓より祝福している春の陽射しのように朗らかなお声が、私のすぐ側でするのです。

 私を見つめる薄緑に、私の碧が映っております。

 

 

 

「ヴァイオレットを心から愛しています。必ず幸せにします。決して離れることなく、側にいます。――二人で生きていきます」

 

 

 

 それが、ギルベルト様の誓いの言葉。心からの約束の言葉。

 

 

 

――私はその言葉に応えたいのです。ギルベルト様の「心から」には、いつだって応えたいのです。

 

 

 

 そのために生きてきたのです。

 

 

 

 そのために生きていくのです。

 

 

 

「誓います。心よりギルベルト様を愛しております。あなた様を幸せにします。いかなる時も寄り添い、幸せになります。――二人で生きて参ります」

 

 

 

 ギルベルト様の首へ伸ばし絡めた腕へ、わずかに力を込めます。すでに触れる寸前の私たちの顔が近づきます。

 

 

 

「――二人とも、おめでとう」

 

 

 

 温かな人たちの祝福に包まれて、きっと世界一幸福な私たちは、世界一の喜びを抱えて、口づけを交わすのです。



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ヴァイオレット・エヴァーガーデンと年の瀬

ご無沙汰をしております。

ヴァイオレットとギルベルトのお話に、たくさんの反応をいただき、ありがとうございます。

短いですが、一年の最後を迎える、二人のお話をば。
「愛してる」と結婚式の、間のお話になります。


 ゆく年は、あなたと共に。

 くる年も、あなたと共に。

 

 

 

 吐いた息は、そのことごとくが白い靄になって、まるで煙みたいにあたりに漂い、やがて夜闇に溶けていきました。長い息、短い息。踏み出す歩調に合わせ、踏みしめる雪の音に合わせ、白い息が宙を舞います。その、なんでもない、ありふれた冬の景色に、かじかむ鼻先のことも忘れて、心を躍らせておりました。

 エカルテ島には、もう間もなく、新しい年がやって参ります。私がCH郵便社での業務を終え、島へと移り住んだのは年が明けてからでしたから、これが私が初めてエカルテ島で迎える新年となります。

 CH郵便社が社屋を構えるライデンでは、年越しの催し物が盛大に行われておりました。大通りには屋台が並び、暖かい格好をした人々が行き交う。花火なども上がっておりました。ですから私も、新年を迎えるということに、そうした賑やかな印象を抱いておりました。

 エカルテ島の年越しは、ライデンとは随分様相が異なります。

 

「……静かだ」

 

 お声と共に、白い息が舞います。声の主を――隣を歩くギルベルト様を、私は振り向きました。掲げたランタンに照らされる横顔、冬用のお召し物に覆われていないギルベルト様のお顔は、鼻も頬も、朱くなっております。ランタンの光を映すエメラルドグリーンの瞳を細めて、ギルベルト様は海の方を見ておりました。

 

「……はい、とても静かです」

 

 年を暮れようというエカルテ島に、賑やかな音はありません。自動車の発動機音、花火の炸裂音、人々の喧騒、ライデンの年末にはありふれていた音が、どれもこの島にはありません。時折、穏やかな風が吹き抜けていくのみです。島の海を飛び交う海鳥も、今宵はどこかで羽を休めている様子。

 音からは隔絶された島。それゆえ……エカルテ島の一年は、殊更にゆっくりと、暮れていくように感じます。

 

「ライデンの年越しとは、また違う雰囲気だろう」

 

 白い息を纏うギルベルト様の瞳が、海から私へと視線を移しました。柔らかい光を帯びた翠玉が、私を見つめます。冬の寒さにも、暖かさを失わない色の中に、私が映っておりました。

 ギルベルト様の問いかけに、頷きます。

 

「はい。とても静かで……穏やかです」

 

 ギルベルト様の見つめた海を見て、そして今度は島を――点々と、静かに新しい年を待つ、人々の明かりが灯る島を、見ます。街灯の整備もまだの島は、そのほとんどが暗闇に包まれていて、綺麗な黒に塗りたくられたよう。そこへ灯る明かりたちは、さながら淡く夜を照らすランタンかキャンドルの火のようで、ふぅと息を吹きかければ消えてしまいそうな、そんな錯覚すら抱きます。

 けれども……不思議なもので、人の暮らす明かりというものは、その大と小とに関わらず、心を暖めるものです。そこに人の営みがあることを、揺らめく明かりが教えてくれるのです。淡く、ともすれば夜に溶けてしまいそうな光でも……不思議と心は温まるのです。

 エカルテ島の静かな夜が、その温もりを、改めて感じさせます。

 

「静かで、穏やかで、暖かいです」

「……そうだな。けど、君はなんだか、寒そうだ。鼻が赤い」

「……それは、ギルベルト様も、同じかと思います」

 

 そうだろうかと呟いて、ギルベルト様は手袋をした右手で鼻を掻きました。はにかんだ表情に、私も頬を綻ばせてしまいます。そうすると、やはり心は踊るのです。

 心の踊るまま、温かな心地を引き連れて、しばらく島の道を歩きます。

 

「――着きました」

 

 白い息とともに、目的地へ到着したことを告げます。灯台より島の峰を挟んだ反対側、人の明かりより遠いところです。

 見上げた空に、私の口より漏れ出た白い靄が昇っていきます。予報通りに雲量〇の夜空。そこへ私の息が吸い込まれていきます。いえ――ギルベルト様と、私の息が、混じり合って昇っていくのです。

 息の昇っていく先を、見つめておりました。白い霞の行く先を――満天の星空を、見つめておりました。

 

「しかし――」

 

 雪を払った大きな岩に、二人で並んで腰掛けます。ぴたりと、より近くなるギルベルト様との距離。差し出されたスープを受け取ると、ギルベルト様は目を細めて、また星空へと視線を向けました。

 

「君に、星を見ないかと言われたのは、意外だった」

「……そう、でしょうか」

 

 スープを啜ろうとして、ギルベルト様を窺います。星を見上げるギルベルト様は、けれどすぐにふっと表情を緩めました。緑玉を嵌め込んだ左の目が、すぐに私を見つけて、微笑むのです。

 

「いや……そんなことは、ないな。――どうして、星を見ようと?」

 

 ギルベルト様の問いかけに、明確な答えはないのです。想いはいつも曖昧で、そしていつも以上に衝動的で……けれどその、まったく不明瞭なままでもいいのだと、そう思うようになってきたのです。

 星空の下、スープを啜れば、思い起こすことがあるのです。

 

「……以前、シャヘル天文台より、写本のご依頼をいただいたことがあります」

 

 私が自動手記人形となって、一年もしない頃のことです。思えばあの時も、今夜と同じような厚いコートを着こんで、温かいスープを供に、星を眺めておりました。

 

「その時、共に働いた職員の方より、星のことを教えていただきました。丁度、アリー彗星の観測された頃のことです」

 

 暁へ向かって尾を引く、二百年に一度の大彗星。リオン様の準備された望遠鏡より観測した彗星は、壮麗の一言に尽きました。奇跡と称するに値する偶然を見つめたこと、それを共有したリオン様のことも、よき思い出として刻まれているのです。

 最後に交わした言葉も、よく憶えております。

 

「その、職員の方は、収集課員として働くことを、望まれておりました。おそらくは今も、貴重な古書や記録を探して、大陸中を旅されているかと」

「……まるで、自動手記人形みたいだ」

「はい。私もそう思います。仕事のために大陸中を歩いて回る。一年のほとんどを、旅をして過ごす。――自動手記人形と、似ています」

 

 私の言葉に、ギルベルト様はまた目を細め、続きを促します。暖かなスープで唇を湿らせ、私は話を続けます。

 

「そのお方と、別れ際に約束をしたのです。もし、また、どこかで会うことがあったのなら――その時はまた星を見よう、と」

「それで、ヴァイオレットは星を?」

「はい。お会いした時に、今度は星のお話ができるようにと、思ったのです。――そして知れば知るほど、星の不思議な世界に、興味が湧きました」

 

 あの時、何も知ることなく見上げていた星空が、今は尽きることない物語の宝庫に思えてなりません。夜空に瞬く星の、その輝きが、一層増したようにも感じるのです。

 今宵も同じように、けれどまた違った想いで、星を眺めております。

 

「……きっと、またお会いできることは、奇跡のようなことだったのです。それこそ、アリー彗星をもう一度目にするほどの、奇跡のはずなのです」

「……そうだな」

 

 テルシス大陸は、広く、それに比して人は小さく……出会いは、それ自体が奇跡のようなものなのです。一度お会いした方と別れたのなら、再び会えることというのは、星を掴むよりも難しいことなのかもしれません。

――それでも。

 

「けれど今は、またお会いする日が来るような、そんな気がしております。――もう、」

 

 隣のギルベルト様へ、より身を寄せます。ぴたりと隙間なく。コート越しでも、お互いの温もりが伝わるように。

 そんな私の肩を、ギルベルト様が抱き寄せます。窺った瞳に、「おいで」と言われているような気がして、私は恐る恐る、大きな肩へ頭を預けました。

 小さな口づけが私の髪に落とされます。

 

「――もう、二度と、お会いできないと思っていたギルベルト様と、こうして、お会いできたのですから」

 

 そこまで告げると、頬の熱を感じました。残ったスープを含みます。野菜の優しい甘みが、暖かさの中に溶けておりました。

 

「きっと、会える。私もそう思うよ、ヴァイオレット」

 

 囁くギルベルト様に、私はこくりと頷くのみでした。

 しばらくそうして、静かに星を眺めておりました。月明りはありますが、星の煌めきを邪魔するほどではなく。喧騒とは程遠い世界に、穏やかな時間を共有するのはギルベルト様のみ。その幸せが溶け込むスープも、二人で作ったスープなのです。

 

「……ヴァイオレットは、本当に、たくさんの人と出会ったんだな」

 

 ふと呟いたギルベルト様の声には、溢れそうな喜びが乗っておりました。見上げて窺ったお顔が、そのお声と同じように、優しく微笑んでおります。

 

「私も知りたい。君が、どんな人と出会ったのか。どんな景色を見てきたのか。――君の話が聞きたい」

 

 ギルベルト様の言葉に、二度三度と瞬きをします。けれど数瞬後には、どうしようもなく頬が綻ぶのです。

 

「はい、喜んで。――けれど、少々長いお話になります。ですから、お話は家に帰ってからにいたしましょう」

「そうしようか。――それなら、今はこうしていよう」

 

 肩を抱く腕に、少し力が籠ります。寒さの中に、ギルベルト様の感触が、一層鮮明になります。

 二人寄り添って、星を眺めます。混じるのは白い息。漂うまろやかな柔い湯気。言葉を交わせば甘やかで。感じる熱が幸せの証。

 

 

 

――そうして、あなたと、この一年を過ごすのです

――そうして、あなたと、新しい年を迎えるのです。




どうかよいお年をお迎えください。


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