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序章 Once upon a time ...
第1話 マーガレットは魔法使い


 1983年の夏のある日、一人の青年がある店の前で足を止めていた。

 

——アンティークの販売・買取・修理 マッカーデン商店(McCudden's Shop)

 

 古びた看板に掲げられた店名と地図に示した目的地を何度も見比べ、ここで間違いないことを確認する。店先のショーウィンドウにはテディベアやフランス人形、またブランド品のティーカップや手巻き式の懐中時計が飾られていた。

 その隙間からは店内の様子が見え、青年はカウンターで読書に耽る10、11歳くらいの少女を見つけた。託された封筒の宛名を確認し、彼女が「マーガレット・マノック」であろうと確信する。そして、彼がここに来た目的を果たすため、入り口の扉に手をかけた。

 

 

 

 チリンチリンと軽やかにベルが鳴る。誰かが店にやってきたことに気がついたマーガレットは本から視線を上げた。彼女の膝の上で微睡んでいたペットの鴉も首を持ち上げ、入り口の方を向く。

 そこには暑い夏の日だというのにスーツを着て、紫色のネクタイをきっちり首元まで締め、さらにその上からローブを羽織った若い男がいた。彼女は内心では変な恰好と思いながらも、普段どおりに「いらっしゃいませ」と声をかける。

 青年は声をかけてきたマーガレットに対してぎこちない笑みを浮かべていた。その目はキョロキョロと動き回っていて、緊張しているのかどこか落ち着かない様子だ。マーガレットは彼がなにか探し物をしているのではと考えた。

 そこで彼女は膝から鴉を下ろし、彼に近寄った。すっかり目を覚ました鴉はマーガレットの後ろをちょこちょこと歩いてついて来る。

 

「なにかお探しですか? わたしでよければお手伝いします」

「い、いえ。わ、わ、私が探しているのはみ、み、ミス・マノックです」

 

 未婚女性を表す言葉(Miss)に違和感を覚えたものの、マーガレットはきっとこの青年は母のことを探しているのだと合点した。

 

「母になにか御用ですか? 今、呼んできますね」

「お母様ではなく、そのわ、わ、私がお会いしたかったのは、マーガレット・マノック、き、君なのです」

「わたし、ですか?」

 

 マーガレットは小首を傾げる。ついでに彼女の足元でも、鴉が飼い主と同じように首を捻っていた。

 マーガレットの頭の中にはなぜ、どうしてとたくさんの疑問が浮かんでいた。彼女が困惑しているのは、青年がわざわざ何かしらの術を使わなくともわかるようなことである。

 青年は意を決し、一つの封筒を少女に差し出した。

 

「こ、これをき、き、君に渡すようにと」

 

 マーガレットは分厚い羊皮紙の封筒を受け取った。そこにはエメラルド色のインクでマッカーデン商店の住所と「マーガレット・マノック様」と宛名が書いてある。恐る恐る封筒を裏返してみると紋章入りの封蝋がしてあった。

 

「あの、開けても?」

 

 マーガレットが尋ねると青年は黙って頷いた。彼女は丁寧に封を開け、中の手紙を広げる。そして、思わず声を上げた。

 鴉も飼い主がなにに驚いているのか知りたかったのか、少女の肩にとまって手紙をのぞき込んでいる。

 

 その手紙はマーガレットが聞いたこともないような勲章や肩書をたくさん持った校長の名前から始まり、彼女がホグワーツ魔法魔術学校への入学が許可されたことや返信にはふくろう便なるもの使わなければいけないことが書かれていた。どれも彼女には馴染みのない言葉だ。

 

「ホグワーツ、魔法魔術、学校?」

 

 マーガレットの頭の上には数えきれないほどの——もちろん目には見えない——クエスチョンマークが浮かんでいた。目を白黒させ、手紙とそれを持ってきた青年のことを交互に見る。

 

「ホグワーツはそ、そ、その名の通りま、魔法使いの子供たちにま、ま、魔術を教えるためのが、学校です」

「魔法使い? 魔術を教える学校?」

 

 少女は今し方聞いたことを復唱し、目をつぶって考え事を始めた。その間、何度かうーんと小さく唸っていたが、考えがまとまったのかゆっくりと目を開けた。その青い瞳はきらきらと輝いている。

 

「なら、わたしも魔法使いってこと、ですか?」

「そ、その通りです」

 

 マーガレットは息を呑んだ。

 

「き、き、君は魔法使いです。だから、こ、こうしてホグワーツから迎えに来ました」

「それなら、あなたも魔法使い? それから、その学校、えっと……ホグワーツ! そう、ホグワーツ魔法魔術学校から来たのなら、あなたは先生なんですか!」

 

 マーガレットは畳みかけるように質問をした。興奮を抑えきれず、顔には満面の笑みを浮かべている。彼女が急に前のめりの姿勢になったからか、左肩につかまる鴉は一瞬バランスを崩していた。

 青年は少々気圧された様子ではあったが、その一方で少女の好奇心の強さに感心していた。魔法使いの卵をホグワーツに迎え入れるという目的のため、そして少女の期待に応えるため青年は口を開いた。

 

「も、もちろん私も魔法使いです。わ、わ、私はホグワーツでま、マグル学の助手を務めるクィリナス・クィレルという者です。ど、どうぞよろしく」

「クィレル先生、はじめまして! こちらこそよろしくお願いします」

 

 マーガレットはクィレルがぎこちない動作で差し出した手を握ると、白い歯を見せて笑う。それから、彼のことをまじまじと見つめ、「魔法使いって本当にいたんだ」と呟いた。

 

 

 さて、マーガレットにはこの魔法使いに聞きたいことが山ほどあった。ホグワーツはどこにあるのか、魔法使いはどんなことを勉強するのか、それから先ほどの会話で聞いたマグル学とはいったいどのような学問なのか……。いくら質問しても、彼女の知りたいことは尽きないだろう。だからこそ、彼女は最も知りたいことについて彼に聞いた。

 

「あの、先生は魔法が使えるんですか?」

「も、もちろん。ま、ま、魔法を見たら、もっと驚きますよ」

 

 クィレルはローブから一本の杖を取り出した。マーガレットはその一挙手一投足を見逃してなるものかと食い入るように彼のことを見つめる。彼女の左肩にとまる鴉も青い双眸をじっと彼の方に向けている。

 クィレルは杖を構えたまま今一度店内、そして外の様子を確認した。この店は車通りに面した場所にはあるが、幸い、今は人や車の往来もなく、また新たに客が入ってくる気配もなかった。ここには自分と自分を見上げている少女と少女の肩にのる鴉しかいないようだ。

 非魔法族(マグル)に魔法を見られる心配がないことを確認したところで、今度はどのような魔法を見せようかと考える。そして、年季の入ったレジスターの横に様々なブリキの玩具が並べられていたことに気づいた。

 

「そ、それでは」

 

 クィレルが杖を軽く振るうと、ぜんまい仕掛けの鳥の玩具がふわりと宙に舞い上がった。彼がもう一度杖を振ると小鳥はくるくるとマーガレットの上を飛び回り、やがて彼女の手のひらの上に舞い降りた。マーガレットは感動のあまり言葉を失っていた。

 

「ミス・マノック、こ、これが魔法です」

 

 11歳の少女は目の前に立つ若い魔法使いのことを尊敬のまなざしで見上げていた。

 

 

 

「これが魔法……」

 

 いつの間にかマーガレットの瞳からは一粒の涙が零れていた。今まで自分が生きてきた世界の常識を覆すような衝撃的で神秘的な出来事に心を奪われ、瞬きをすることすら忘れていたらしい。鴉はそんな飼い主の頬にぴったりと顔を寄せ、一緒になって魔法使いのことを見つめている。

 

「すごい、本当にすごいです! 先生、もう一回。もう一回見せてください!」

 

 マーガレットは胸を高鳴らせ、弾むような声でクィレルにお願いする。浮遊呪文(一年生で習うような初歩的な呪文)でもこんなに称賛されるのかとクィレルはすっかり気を良くしていた。

 再び杖を振り、今度は飛行機の玩具を浮き上がらせる。あっちこっちへ縦横無尽に飛び回る飛行機を見上げ、少女は「すごい! 夢みたい!」と歓喜の声を上げていた。

 右旋回、左旋回、急降下からの一回転。そして、実際の飛行機が着陸するときのようにカウンターを走らせてから玩具の動きを止めると大きな拍手が沸き起こった。鴉も飼い主の拍手に合わせ、くちばしを「カッ、カッ」と鳴らしている。

 

 すっかり魔法に魅入られたマーガレットの頭の中は、自分も魔法を使えるようになりたい、早くホグワーツに行きたいという思いでいっぱいになっていた。

 

「先生! わたしをホグワーツに——」

「マーガレット、そんなに大きな声を上げてどうしたの?」

「お母さん! ねえ、お母さん聞いて! わたし、魔法使いだったの!」

 

 なにやら騒がしい店内の様子を見に来たメアリー・マノックは、「わたし、魔法使いだったの!」という娘の突拍子のない言葉に面を食らったようだった。

 

「魔法使い?」

「うん、魔法使い。先生も魔法使いなの」

 

 娘が「先生」と呼んだその男は、夏だというのにスーツの上に外套——それこそ魔法使いが着ていそうなローブ——を身につけた不審な人物だった。彼は少女の母親と目が合うと「こ、こんにちは」と硬い笑顔を向けた。

 一方のメアリーは怪訝な顔をしていた。娘の腕を引き、謎の男から遠ざけるとそっと耳打ちする。

 

「マーガレット、本の読みすぎよ。魔法使いなんてファンタジー小説のなかのもの。本当にいるわけないでしょ」

「本当だよ。だって、クィレル先生が魔法を見せてくれたの」

 

 娘が親しげに「クィレル先生」と呼んだことで、メアリーのこの男に対する警戒度がぐんと高まった。娘を隠すように男の前に立ちはだかり、両手を腰に当てる。

 

「どこのどなたか存じませんが、娘に変なことを吹き込むのはやめていただけます?」

 

 顎を前に突き出し、出て行けと無言の圧をかける。母親が娘の身を案じ、自身を追い払おうとする気持ちもわかる一方で、このまますごすごと引き下がるわけにもいかないクィレルはどうしたものかと困った表情を浮かべていた。

 マーガレットも大人たちの不穏な空気を察したようで、母親の陰からひょいと顔を出した。いつの間にか鴉は彼女の頭の上に移動していて、縦に並んだ二つの顔がクィレルのことを見つめている。

 

「先生、もう一度魔法を見せてください。そうすれば、お母さんも信じてくれます!」

「マーガレット! いい加減にしなさい!」

 

 メアリーはマーガレットの両肩に手を置き、娘と目線を合わせた。彼女は娘が嘘をついているとばかり思っていたが、その父親譲りの青い瞳は自信と期待に満ちていた。

 

「お母さん、ほら見て」

 

 マーガレットは頭上を指さした。メアリーが少し目線を上げると、鴉もくちばしで上を指している。メアリーがさらに上を見上げると、小さな飛行機の玩具が円を描きながら飛んでいる。彼女は信じられないものを見たといった様子で頭を振ったが、飛行機はまだ彼女の頭上を飛び続けていた。

 ふと背後の男に目をやると、彼は右手で持った杖の先端を飛行機に向けていた。娘が「先生」と呼ぶこの男が本当に魔法を使っているのだとメアリーは理解してしまったのだ。

 メアリーが再びマーガレットの方に顔を向けると、少女は「ほらね」と悪戯っぽくウインクをした。メアリーは驚嘆し、ただ一言こう呟く。

 

「お父さんたちにも見てもらわなきゃ」

 

 メアリーはふらふらと立ち上がると、そのまま店の奥へと消えていった。やがて慌ただしく階段を上がる音が聞こえ、ついで落ち着かない様子で動き回る足音や陶器が割れる音、また「なんだって!」と叫ぶ男性の低い声が聞こえていた。

 マーガレットは鴉を腕に抱きかかえ、クィレルの隣に立った。彼女は階上の喧騒をよそに、「どうやって魔法をかけているんですか?」だとか、「杖はどうやって手に入れるんですか?」とクィレルに質問し続けている。彼は少女の疑問の一つ一つを丁寧に答えていたが、彼女の母親が老夫婦を連れて戻ってきたために話を途中で切り上げた。

 

「彼が魔法使いなのかい?」

 

 白髪の紳士は静かに口を開いた。メアリーが頷くとマッカーデン氏は小さく唸り、整えられた口髭を撫でた。

 

「魔法使いが実在するとは、私は聞いたことがないのだが……」

「でも、本当にこの人が……。あの、先ほどの()()をまた見せてくださいませんか?」

 

 メアリーはこわごわとクィレルに尋ねた。彼は二つ返事で了承すると、慣れた手つきで杖を振るった。今度はテディベアを浮かび上がらせ、目を丸くしている三人の大人たちの前まで運ぶ。そして、もう一度杖を振るとテディベアは華麗なタップダンスを披露した。

 一曲踊り終えたテディベアが恭しく一礼すると、マーガレットは「ブラボー!」と歓声を上げた。新たな魔法を目撃し、彼女の興奮は最高潮に達していた。対して、彼女の母親と祖父母は口をぽかんと開けたまま放心状態にあった。

 

「い、いかがでしょうか。これでま、ま、魔法使いの存在を信じていただけますか?」

「ね! クィレル先生は魔法使いなの。だから、わたしはホグワーツ魔法魔術学校で先生に魔法を教えてもらうの!」

 

 奇跡と呼ぶにふさわしい光景を見せられ、三人のマグルたちは魔法の存在を認めるしかなかった。魔法使いの実在など子供の頃にしか信じていなかった彼らだが、大人になってからそれが本当であったことを知ることとなった。

 

 しかし、彼らが見たのは可愛い愛娘になぜか「先生」と呼ばれている男が魔法を使ったという事実だけである。そう、マーガレットが魔法使いかどうかはまだわからないのだ。

 

「それで、マーガレットも魔法使いなのです?」

 

 そうクィレルに問いかけたのはマッカーデン夫人だ。彼女は一度咳払いをしてから言葉を続けた。

 

「この子があなたのように魔法を使ったところなんて、あたくし一度も見たことがないの。なのに、マーガレットが魔法使いなのですね」

 

 メアリーとマッカーデン氏も無言で頷いていた。彼らもマーガレットが魔法を使っているところを今まで一度も見たことがなかった。

 そして、それはマーガレット自身も同じで、彼女にも自分が魔法を使えたという憶えは全くない。彼女は鴉をぎゅっと抱きしめ、心配そうにクィレルのことを見つめていた。

 

 さて、その肝心のクィレルだが、彼はこのような質問がくることをすでに想定していた。ホグワーツでこの仕事の準備をしている際、他の教授陣から新入生とその家族に魔法の存在を認めさせる——つまり魔法を実演してみせる——のは簡単であることを聞いた。

 そして、もっとも苦労するのは子供が魔法使いであるということを信じられない家族を説得し、ホグワーツへの入学の許可を得ることだというのも聞いていた。そこで、クィレルは前もって練習してきた言葉を口にした。

 

「ほ、ホグワーツの入学者リストには、11歳の誕生日までにま、魔法の才能を示した者の名前が自動的に記録されます。もちろん、そこにみ、ミス・マノックの名前もありました。つ、つまり、ご家族の知らないうちに、そして彼女自身も気づかないうちに魔法を使っていたのではないでしょうか」

 

 マーガレットは胸を撫でおろし、嬉しそうな表情を浮かべた。しかし、彼女の保護者たちはまだ納得がいっていないようで訝しげな顔をしている。

 

「しかし、しかしだね、私たちはそのボク、いや、ホグヴォーズだったか——」

「ホグワーツ。ホグワーツ魔法魔術学校」

「ありがとう、マーガレット。……さて、ミスター・クィレル。私たちはそのホグワーツなどという場所を見たことも、聞いたこともない。そんなよくわからない学校に私たちの大切なマーガレットを通わせるわけにはいかないのだよ」

 

 祖父の言葉を聞き、マーガレットの顔が再び曇った。いくら自分が魔法使いであるとはいえ、それまでマグルとして生活してきた彼女は魔法界のことをなにも知らない。だから、ホグワーツ魔法魔術学校のことも今はまだ名前しか知らないのだ。それゆえ、家族を説得できるだけの知識など持ち合わせていなかった。

 今、この場で三人の大人たちを説得できるのは、魔法界から来たホグワーツのことをよく知る年若い魔法使いだけである。だから、マーガレットはクィレルにすがるような視線を向けていた。

 

「そうです。それに、マーガレットはこの子の父親が最期まで愛し、守り通した娘ですもの。もし、またこの子になにかあったら、あたくしたちは彼に顔向けできませんの」

 

 ここで父親の話題が出たことはクィレルにとって好都合だった。なにせ彼はマーガレット・マノックの家族を説得させるためのとっておきの情報を得ていたのだから。

 彼は自分のことをじっと見つめている少女に目配せをし、それからマーガレットを魔法使いたらしめるもう一つに理由について語った。

 

「……み、ミス・マノックのお父様はホグワーツの卒業生です。彼は魔法界の生まれで、そ、それも代々優れた魔法使いを輩出する家の出だったそうです。と、とても優秀な生徒だったと当時を知る先生方が話していらっしゃいました」

 

——マーガレットの父親(マイケル・マノック)は魔法使いだった。

 

 この衝撃の事実に彼の娘も、妻も、義理の両親も言葉を失った。鴉もマーガレットの腕の中で瞼を閉じていた。

 クィレルには時間が止まってしまったかのように思えたが、表の通りを走る車の音からそうではないことがわかる。

 

 メアリーは口元に震える手を寄せ、「マイケル……」と亡き夫の名前を口にする。その瞳には涙が浮かび、今にも溢れ出してしまいそうだった。マッカーデン氏はしきりに、「そうか、そうだったのか」と繰り返し、自分を納得させるかのように頷いている。マッカーデン夫人は「たしかに、彼らしいわね……」と呟くと、あとはただ黙って天を仰いでいた。

 そして、マーガレットは俯いたまま鴉のことを優しく撫でていたが、ゆっくりとその動作を止めた。

 

「先生、本当にお父さんは魔法使いだったのですか?」

 

 顔を上げたマーガレットからは笑みが消えていた。そのため、一見すると悲しんでいるようにも、落ち込んでいるようにも思えた。しかし、その青い瞳はしっかりと前を見つめ、希望に輝いている。

 クィレルは言葉での返答の代わりに力強く頷いた。その答えを見届けたマーガレットは三人の大人に向き合い、一言一言を噛み締めるように言葉を紡いだ。

 

「お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん。わたし、お父さんのことがもっと知りたい。お父さんがどんな人だったか、もっと教えてほしい。だから……、だからホグワーツに行きたい。お父さんと同じ場所に行きたい、同じものを見たい、同じものを学びたい。だって……、だって……」

 

 鴉はマーガレットの腕の中から床に降り立つと、彼女のことを見上げた。青い二対の瞳が見つめ合う。マーガレットは覚悟を決めたように頷き、その小さな拳をぎゅっと握りしめた

 

「だって、わたしはお父さんのこと、()()()()()()()()から。だから、少しでもお父さんに近づきたい!」

 

——それは11歳の少女の心からの叫びであり、願いであった。

 

 メアリーは拳を握り、小さく震える娘のことを強く、強く抱きしめた。そして、頭を撫でながら優しく娘に語り掛ける。

 

「マーガレット、行っておいで。マーガレットが知りたいもの、見たいもの、聞きたいものをたくさん吸収してきなさい」

 

 マーガレットは顔を上げ、しっかりと母と向き合った。メアリーはもう一度だけ娘の頭を撫でた。そのせいで母親から受け継いだマーガレットご自慢の黒髪は少し乱れていた。

 

「だって、あなたはパパの自慢の娘なのだから」

 

 

▼ ▲ ▼

 

 

 それらからの話は恐ろしいほど順調に進んだ。あれほど愛娘をホグワーツに通わせることを渋り、クィレルに対して疑いの目を向け続けていた大人たちは、人が変わったかのようにマーガレットが魔法使いとしての人生を歩むことに賛成し始めたのだ。

 

 クィレルはホグワーツでの教育や学生生活の過ごし方、また入学に向けての準備について説明した。彼が少し話を進めるごとに保護者たちは息を呑み、目を見開き、ときには小さな悲鳴を上げた。しかし、彼らは驚くべき魔法界の実態をどれほど知ろうと、マーガレットのホグワーツ入学を取り消すということだけは決してしなかった。

 そしてマーガレットだが、彼女は始終楽しそうにクィレルの話を聞いていた。時々、膝の上に座る鴉に視線を落としてはなにか語りかけ、にこにこと笑っている。

 

「そ、そ、そ、それから、ホグワーツへの入学にあたって教科書やが、学用品を揃える必要があります。そして、それらの品はま、魔法界でしか購入することができません。そのため、非魔法族出身やま、魔法に触れずに育ってきた子供たちは教員が引率し、か、か、買いに行くことになっています。で、ですので、み、ミス・マノックを魔法界に連れて行きたいのですが、よろしいでしょうか?」

 

 メアリーはそれを了承し、一週間後にマーガレットとクィレルがダイアゴン横丁へ行くことが決まった。9月1日よりも前に魔法界へ行けると知り、少女は顔をさらに輝かせた。

 

 

 

 最後にいくつかの確認をすませ、クィレルが表に出た時にはもうずいぶんと日が傾いていた。それほど長い時間この場所にいたのかと驚いたが、苦痛だったとか疲弊したと感じることはなかった。

 

「先生、今日はありがとうございました。先生に色んなことを教えてもらえて、とっても楽しかったです!」

 

 自分を見送るために外に出てきたマーガレットの言葉を聞き、クィレルも自身が今日の仕事を楽しんでいたことを自覚した。一週間後、この少女がなにに驚き、なにに感動するのか。そして、その度に彼女が自分にどんな質問をしてくるのかが、今から待ち遠しいと思った。

 

「こ、こちらこそ。一週間後が楽しみですね」

「はい、とっても! 先生のこと、お待ちしています!」

 

 鮮やかな夕焼け空の下で二人は握手を交わした。マーガレットが見上げたクィレルの表情は、彼が夕日に背を向けていたためによくは見えなかった。が、彼のグレーの瞳が自分のことを優しく見つめているのに気がついた。

 彼女には憶えがなかったが、父親というのはこういう目をしている人なのだろうかとふと思った。

 

「で、では、また会いましょう」

 

 マーガレットは遠ざかっていくクィレルの後ろ姿を見つめていた。そこには、もしかしたら彼が新たな魔法を使うかもしれないだとか、箒を使って空を飛ぶかもしれないといった期待もあった。しかし、一番の理由はあの魔法使いのことをもっと見ていたかったから、もっと知りたかったからであった。

 

 クィレルはある路地の前で立ち止まると、吸い込まれるようにそこに入っていった。マーガレットは少し離れた場所からその様子を眺めていたが、そこが行き止まりであるということを思い出し、急いで彼の方へ向かった。駅に向かうにはもう一つ奥を曲がらなければいけないところ、彼が道を間違えたのだろうと思ったのだ。

 

 マーガレットが路地の入口に立ったちょうどその時だった。

 

——ポン。

 

 突然、路地の奥から大きな音が聞こえてきた。

 マーガレットは路地の中をのぞき込んだ。しかし、建物の外壁に沿って道が曲がっているため、外からだとこの奥でなにが起きたのかまでは確認することができない。

 危ないから人目のつかない場所には一人で勝手に行かないように、と彼女は保護者たちから厳しく躾けられている。そのため、本来ならこういった場所にはできる限り近づかないようにはしているのだが、今はあの音がなんだったのか確認したいという好奇心の方が勝ってしまっていた。それにこの先に誰かいるとしても、それはあの魔法使いであるはずという安心感もあった。

 

 マーガレットは一歩ずつ慎重に路地を進み、一番奥の行き止まりまでたどり着く。しかし、そこにクィレルの姿はなかった。もちろん、途中で彼とすれ違うというようなこともなかった。

 この行き止まりは三方を高い壁で囲まれている。つまり、この路地から出るならば——壁をよじ登らない限りは——道を引き返さなければならず、要するにマーガレットとすれ違わなければならないはずだ。

 しかし、クィレルがこの路地に入っていく姿を最後に、マーガレットが彼のことを見つけることはなかった。あの若い魔法使いはまるで手品(magic)のように忽然と姿を消したのだ。

 

 そこで、ようやくマーガレットはクィレルが魔法(magic)を使ってこの場から消えたのだということに気がついた。魔法ならこの不可思議な現象のことも説明できてしまう。

 

 昨日までのマーガレットなら、人が突然姿を消したことに恐怖を感じていただろう。好奇心に負け、この路地に入ってしまったことも後悔しただろう。 

でも、今日からの彼女は違う。マーガレットは魔法を知った。そして、自分の知らないことが世界にはまだまだたくさんあることを改めて知った。だからこそ、それらを学べることが楽しみで仕方なかった。

 

 

 

 不意に背後から鴉の鳴き声が聞こえた。マーガレットが振り返ると、そこにはあの青い目をした鴉がいた。

 

「ネモ、迎えに来てくれたんだね。さあ、帰ろう」

 

 マーガレットが両腕を前に伸ばすと、ネモと呼ばれた鴉は彼女の胸元に飛び込んできた。マーガレットはネモも抱きしめ、優しくその頭を撫でる。

 

「ねえ、ネモ。魔法ってすごいんだね。わたしも先生みたいな、それからお父さんみたいな魔法使いになりたいな」

 

 マーガレットがネモに語りかけると、ネモはそれに答えるかのように小さく「カア」と鳴く。

 マーガレット・マノックはこれから始まる新しい日常への期待に胸を膨らませ、夜の気配が近づく空を眺めていた。

 




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第2話 魔法界へようこそ【前編】

 そして一週間が過ぎ、マーガレットはクィレルとともにダイアゴン横丁へと向かうこととなった。待ちに待った魔法界への第一歩を踏み出す日である。

 約束の時間——の十分前に店先に現れた青年は初めて出会った際のいかにも魔法使いらしい姿とは打って変わり、白いシャツに茶色のズボンといったってシンプルな恰好をしていた。シャツの袖をまくっているところが実に夏らしい。

 一方、マーガレットはドット柄の青いワンピースをまとい、ピクニックに使うような大きなバスケットを提げていた。

 

「今日の先生の恰好、あんまり魔法使いっぽくないですね」

 

 駅へと向かう道すがら、頭の中に浮かんでいた素朴な感想をマーガレットは口にした。

 

「ま、ま、魔法使いっぽくない、ですか?」

 

 クィレルは困ったように笑う。

 

「この前着ていらっしゃったあの暑そうなローブ、あれがいかにも魔法使いっぽかったです」

 

 「暑そうでしたか」と呟くクィレルの笑みは先ほどよりも自然で、いくらか緊張が解けた様子だった。

 

「み、ミス・マノック、魔法使いはマグル——ああ、マグルというのは魔法を使えない人々のことですが、彼らにま、魔法のことを知られてはいけないという決まりがあります。だ、だから、人前でむやみやたらに魔法を使えないし、その存在を隠さなければならない。ゆえに、目立たないようにしなければならないのですよ。と、特に今日のような町中を歩く日には」

 

 少女はなるほど、と思いながら話を聞いていた。一週間前にこの魔法使いがわざわざ人目につきにくい路地まで移動してから魔法を使っていたのは、この魔法界の決まりごとが原因だったらしい。

 マーガレットは自分が今まで生きてきた社会と同じように、魔法界にも様々なルールがあるということを頭に入れた。

 

「そういえば、ま、魔法使いらしさでいえばミス・マノック、き、君もなかなかですよ」

「わたしも、もう魔法使いらしいですか?」

 

 マーガレットはきょとんと首を傾げている。クィレルが自分のどこに魔法使いらしさを感じたのかよくわかっていない様子だった。今日のコーディネートを確認するが、別におかしなところはないはずだ。

 

「ふ、服装のことではなく、君の飼っている大鴉(レイブン)のことですよ。ま、魔法界には使い魔として生き物を飼う習慣があります。か、鴉も人気がありますが、彼らは賢いからこそ仕える相手を選ぶ。だ、だから、鴉の飼い主は優秀な魔法使いだと考えられています」

「なるほど。魔女と鴉の組み合わせは物語の中だけではないのですね」

 

 二人が歩きながら話していると、マーガレットのバスケットに被せてあった布が突然もごもごと動き出した。クィレルが不思議に思って眺めていると、徐々に赤いチェック地の布がめくれていく。そして、めくれた布の隙間から青い目の鴉が顔をのぞかせた。

 マーガレットは「あっ!」と声を上げた。バスケットを持つ手と反対の手で口を押えている。ネモはクィレルと目が合うと「こんにちは(Hello)」とも聞こえる鳴き声を発した。

 

「つ、連れて来たのですか……」

「ごめんなさい、驚きましたよね。その、お出かけをするときは、いつもこうやって連れて行くんです。あの、今日はお留守番させるつもりだったんですが、朝からずっとこのバスケットに入ったままで……。えっと、どうしてもついて来たかったみたいだったから、一緒に連れて来てしまいました」

 

 マーガレットが頭を撫でると、ネモは気持ちよさそうに瞼を閉じた。

 

「ネモ、お願いだからいい子にしていてね。先生にご迷惑をおかけしちゃだめだからね」

「その子はネモというのですか」

「はい。小説のキャラクターから取りました。ネモ、先生にご挨拶して」

 

 マーガレットが声をかけるとネモはぺこりと頭を下げる。このような芸もできるとは、ずいぶんと躾けられた鴉なのだなとクィレルは思った。

 

「一緒について来たがるとは……。き、君によく懐いているのですね」

「ネモとはずっと、ずっと一緒にいるんです。それこそ、この子が卵から生まれた時から。いつもわたしのそばにはネモがいて、家族からは姉妹みたいだって言われています」

 

 マーガレットがもう一度頭を撫でてやると、ネモは首をバスケットの中に引っ込めた。マーガレットは中が見えないように布を被せ直す。

 

「いい子いい子。……そうだ、先生。お聞きしたいことが」

 

 マーガレットはバスケットを抱きかかえると、先ほどまでよりも声を落としてクィレルに話しかける。

 

「ホグワーツにネモを連れて行くことはできませんか? 必要なもののリストには、ふくろう、猫、ヒキガエルのことしか書いていなくて……。大鴉(レイブン)はやはり連れて行けないんでしょうか?」

「い、いえ、推奨されるのがその三種類でして、申告さえすれば他の動物を連れて行くこともできます。それに、ネモはよく躾もされているようですし、な、なにより人になれている。だから、ミス・マノックとともにホグワーツでも生活できるかと思います」

「本当ですか! よかった……」

 

 マーガレットはゆっくりと微笑む。

 

「ネモ、これからもずっと一緒にいようね」

 

 マーガレットは抱きしめていたバスケットに向かって優しく語りかけた。ネモは姿こそ見せなかったものの、飼い主の言葉に答えようとしたのか、大きな声で「カア! カア!」と鳴いた。

 ちょうどすれ違うところだった歩行者がぎょっとした様子でマーガレットたちの方を見た。しかし、肝心の鴉の姿が見えなかったためか、首を捻ったまま去っていってしまった。

 

「すみません、先生。魔法使いは目立たないように、ですよね」

「た、たしかにその通りですが、これくらいはだ、大丈夫ですよ。ま、魔法を使えることが知られなければいいので。それに……」

 

 クィレルは周りに人がいないことをよく確認し、再び口を開いた。

 

「いざという時はき、記憶を消せばいいので」

 

 クィレルはてっきり「そんな魔法もあるんですか!」とマーガレットが驚くものだとばかり思っていた。しかし——

 

「そんな魔法があるんですか……」

 

 マーガレットの声は微かに震えていた。心なしか、顔色も悪く見える。

 

「み、ミス・マノック、大丈夫ですか?」

 

 クィレルの声が聞こえなかったのか、マーガレットはなにも答えない。

 

「ミス・マノック? ま、マーガレット?」

「はい! あぁ、あの……。ごめんなさい、先生。少しぼうっとしてました」

 

 そう言って、マーガレットはニッと笑った。声の調子も元に戻っているし、顔の血色も良い。先ほど具合が悪そうに見えたのは気のせいだったのだろうか、とクィレルは思った。

 

「その、先生に教えていただきたいことがあるんです」

「は、はい、なんでしょうか?」

「えっとですね、まずは……」

 

 それから目的地に着くまでの間、マーガレットは質問をし続け、クィレルはそれに答え続けた。魔法界のこと、ホグワーツのこと、それからクィレルの教えるマグル学のことなど質問は多岐に渡り、ちょっとした授業のようであった。

 勉強熱心な生徒の相手をするのに集中していたものだから、先ほど覚えた違和感のことなどクィレルはすっかり忘れていた。

 

 

▼ ▲ ▼

 

 

 地下鉄を降り、二人と一羽はチャリング・クロス通りまでやって来た。この日が週末だったからか、通りはかなりの賑わいだ。

 ネモが表の様子を見たがっているのか、バスケットにかけている布がもぞもぞと動いている。マーガレットも早くネモを外に出してやりたかったが、鴉を連れているとそれだけで目立ってしまう。今はまだバスケットの中で“いい子”にしていてもらうため、布の隙間からネモの体を優しく撫でていた。

 

「み、ミス・マノック、あの建物が見えますか?」

 

 通りを歩いていたところ、ふいにクィレルが一軒のパブを指さした。

 

「はい。あれは……パブですか?」

「そのとおり。あ、あそこは『漏れ鍋』といい、ダイアゴン横丁の入り口、つ、つまりは、魔法界の入り口になっています」

「こんなところ、そのマグルの人たちが大勢いるところに入口があって大丈夫なんですか!」

「そ、それが大丈夫なのです。ま、マグルたちが入ってこないよう細工が施してあるので」

 

 たしかに、薄汚れたパブの両隣にある書店とレコード店には絶えず人が出入りしている。しかし、件の漏れ鍋には誰も寄りつかないようだった。マーガレットは魔法使い以外にはあの店が見えていないのではないかと考えていた。

 

「で、では、行きましょう」

「はい、先生!」

 

 マーガレットはクィレルの後を追って店に入った。薄暗い店内では、とんがり帽子をかぶった二、三人の老女がグラスを傾けていた。また、先日のクィレルのようにローブを身にまとった男性もいる。

 いつの間にかネモもバスケットから顔を出し、表の様子を眺めている。頭を絶えず動かしていることから、ネモも魔法使いたちの様子に興味津々のようだ。

 

 二人と一羽は彼らの脇を通り過ぎ、パブの裏手にある小さな中庭まで来た。

 

「こ、ここから魔法界に入ります」

 

 ここが入口だと言われても、マーガレットにはピンとこなかった。なにせここは四方がレンガの壁に囲まれているのだ。先ほど通ったパブへの出入り口を除けば扉らしいものはなにもないし、その先に広がっているはずの魔法界の景色さえ見えない。

 マーガレットが首を傾げている間、クィレルは壁のレンガを慎重に数えていた。ネモはそんな彼の様子を熱心に見つめている。

 

「じゅ、準備は、いいですか?」

 

 いつの間にかクィレルは杖を構えていた。彼はマーガレットが首を縦に振ったことを確認すると、杖の先で壁を三回叩いた。すると、突如としてレンガが動き出し、次の瞬間にはアーチ形の入り口が出来上がっていた。マーガレットがのぞき込むと、その先には石畳の道が曲がりくねって先が見えなくなるまで続いている。

 感動、驚嘆、好奇心——。様々な感情が溢れてきて、マーガレットはそれらを頭の中で上手く整理することができなくなっていた。ゆえに、まるで時間が止まったかのように動きを止め、アーチの先を見つめる。同じように、ネモも向こう側に広がる魔法界のことをじっと見ていた。

 

 クィレルが咳払いをしたことで、マーガレットはハッとした様子で彼の方に顔を向けた。クィレルはマーガレットと目が合うと、ふっと笑ってこう言った。

 

「ミス・マノック、魔法界へようこそ」

 

 マーガレットはクィレルに手を引かれ、魔法界への第一歩を踏み出した。

 

 

▼ ▲ ▼

 

 

 グリンゴッツ魔法銀行をあとにしたクィレルの手には大量の金銀銅貨が入った麻袋が握られていた。マーガレットが保護者たちから預かっていたマグルの貨幣を魔法界の貨幣に両替したのだが、どうもかなりの大金を持たされていたらしい。一週間前に目安として伝えた金額よりも遥かに多いのは明らかだ。さすがにこの大金を11歳の少女に持たせるわけにはいかないと思い、自身の鞄の中にしまった。

 

「先生、次はどこに行きますか?」

 

 歪んだ外観の銀行やそこで働く小鬼たちを見て、すっかり魔法界に魅了されたマーガレットは目を輝かせながらクィレルに聞いた。

 

「り、リストに書いてあるものを順に揃えていきます。まずは、教科書を見に行きましょう」

「はい!」

 

 

 

 一行はフローリシュ・アンド・ブロッツ書店に足を運んだ。本を愛し、読書を趣味とするマーガレットは初めて訪れる魔法界の書店に胸を高鳴らせていた。彼女は本棚一杯に並べられた色や高さもバラバラな背表紙を眺めるのに必死で、リストアップされている教科書を探すのは自然とクィレルの役目となった。

 

「み、ミス・マノック、あまり私から離れないでくださいね」

「はい、先生。魔法界って本当に面白いですね。どれもこれも初めて見る本ばかりです!」

 

 本の背に書かれたタイトルはどれも初めて見る名前で、マーガレットが今まで読んできたような有名な文学作品ですら、一冊も見つけることができなかった。

 そんな未知の世界を巡るなかで、彼女はある一冊に本に興味を持った。棚の高い位置に置かれたその本を取ろうとして手を伸ばす。しかし、まだ成長途中のマーガレットの身長ではうまく手が届かない。つま先立ちになり、腕を指先までまっすぐ伸ばしたことで、なんとか背表紙に指が届いた。後は本を棚から抜けば——と思った瞬間のことだった。

 

「きゃあ!」

 

 マーガレットはバランスを崩し、そのまま後ろ向きに倒れていく。彼女の背後には本棚があり、このまま倒れれば頭をぶつけてしまう。死ぬかもしれないという最悪の考えが彼女の頭をよぎった。

 

「危ない!」

 

 マーガレットの悲鳴に聞き、彼女が今にも倒れて頭をぶつけそうなことに気がついたクィレルはすぐさま杖を抜いた。彼がマーガレットに向かって杖を振ると、彼女の体はぴたりと動きを止める。

 マーガレットはなにが起きたのかよくわからず、自分に対して杖を向けているクィレルの方を向いて目をパチパチとさせていた。

 

「み、ミス・マノック、け、怪我はないですか?」

「はい。あの、ありがとうございます。えっと、先生が魔法で助けてくれたんですよね?」

「そ、そうです」

 

 クィレルはマーガレットを助け起こし、彼女が怪我をしていないことを確認する。一応、バスケットの中にいるネモのことも見るが、そちらも大丈夫なようだった。

 マーガレットの顔は気恥ずかしさからか、それとも別の理由からかほんのりと赤くなっていた。

 

「先生が助けてくれなかったら、危ないところでした……。本当にありがとうございます。あの、魔法ってすごいですね。人を守ることもできるだなんて……」

「そ、そんなに大した魔法ではありませんよ。と、ところで、ミス・マノック、どの本を取りたかったのですか?」

「あそこにある『ホグワーツの歴史』という本です」

 

 クィレルはマーガレットが指差した本をいとも簡単に本棚から取ってみせた。

 

「こ、これですか?」

「はい、ありがとうございます! あの、先生。この本も買っていっていいですか?」

「ええ、もちろん」

 

 幸い、マーガレットが持たされていた資金は潤沢にある。もしや彼女の保護者たちはこれを見越して多めに持たしていたのかもしれないとクィレルは考えた。

 

「よかった。わたし、ホグワーツのことをもっと知りたくて……。この本でもう少しでもお勉強できたらなと思って」

「いい心掛けです。そ、そうだ、恐らくその本にも書いてあるでしょうが、ホグワーツには四つの寮があるのですよ。勇気ある者が集うグリフィンドール、忍耐強く忠実なハッフルパフ、目的を遂げるための狡猾さを持つスリザリン、そして賢く、意欲ある者を受け入れるレイブンクロー。わ、私はレイブンクロー寮生でしたが、そこには君のように本が好きで知識に貪欲な学生が多くいました」

 

 クィレルは知的好奇心の強いマーガレットのことだから、彼女も自分と同じ寮に組分けされるのではないかと考えていた。マーガレットも彼の説明を聞き、レイブンクロー寮に対して強い興味を持った。

 

「そんな面白そうな寮があるんですね。わたしもレイブンクローに行きたいです!」

「レイブンクローは君のような学生をき、きっと受け入れるでしょう。さ、さてミス・マノック、残りの教科書も探しに行きましょうか」

「はい! あ、先生。あの本も買いたいのですが、いいですか?」

 

 結局、クィレルは教科書八冊とマーガレットが希望した書籍五冊を購入した。それなりの金額を会計では支払ったが、彼女の保護者たちが持たせた資金はまだ十分に残っている。これなら他の学用品も無事に買い揃えられるだろう。

 

 

▼ ▲ ▼

 

 

 書店を出た一行はその足で鍋屋や望遠鏡の店を回った。それから、リストには載っていないが、マグル育ちのマーガレットが持っていなかった羽根ペンや羊皮紙も文具店で買い揃えた。

 

 こうして、いくつかの買い物をすませたマーガレットたちはマダム・マルキンの洋装店を訪れた。時節柄か、店内にはマーガレットと同い年くらいの子供たちが多くいて、店員たちも忙しそうに動き回っている。

 自分がいると彼らの仕事の邪魔になるかもしれないと考え、クィレルはマーガレットに代金を預けると、自身は店の外で待つことにした。

 

 マーガレットを待つ間、他の店でも見ていようかとクィレルは考えた。店に入るときには気がつかなかったが、洋装店の向かいは時計屋のようだ。彼はなんとなくショーウィンドウに飾られた金や銀の時計を眺めていた。

 そういえば、とクィレルは自分がホグワーツに入学する際に父親から時計を贈られたことを思い出した。

 

 入学おめでとう、と書かれたメッセージカードとともに離れて暮らす父から送られてきた腕時計。魔法界において時計といえば成人祝いの品であり、当時のクィレルはなぜ父が時計を選んだのだろうと思った。しかし、マグル学を学び、マグルの文化や社会について詳しくなった今となっては、あの時計には「頑張れ」という父からのエールが込められていたことがわかる。

 そして、クィレルは思い出した。マグルの父から時計を受け取った際に抱いた「なぜ」という疑問、あれがマグル学に興味を持ったきっかけだったことを。魔法界だけでなく、父が生まれ育った世界のことも知りたいと思ったからこそ、こうしてマグル学の研究の道にクィレルは進んだのだ。

 

 ショーウィンドウを眺めながら、自身の過去を思い出していたクィレルだったが、ふと例の新入生のことを思い浮かべた。そういえば、あのマーガレット・マノックという少女も「お父さんのことがもっと知りたい」と言っていたことを彼は思い出す。

 父のことを、父が生まれた魔法界のことを、父が育ったホグワーツのことを知りたい。それは、まるでかつての自分自身の姿のようでもあった。

 

 クィレルは考えた。ならば、自分が少しでも魔法界のことを、それからホグワーツのことをマーガレットに教えてあげればいいのではないかと。その手始めとして、新たな世界に飛び込んでいく彼女に入学祝いの時計(エール)()ってもいいのではないかと。

 あの少女をこうして魔法界に連れて来た以上、その責任が自分にあるようにクィレルは感じていた。それは思い上がった考えだったかもしれないが、この時の彼は自分のことを「先生」と呼ぶ()()()()()()の存在に気を良くしていたのだった。

 

 こうして、クィレルは時計店の重厚な扉に手をかけた。

 

 

▼ ▲ ▼

 

 

 時計店を出ると、ちょうどマーガレットも制服の採寸と購入を終えたところだった。こちらに向かって歩いてくるクィレルの姿を見つけると、彼女はにこにこと笑いながら彼の元へと駆け寄った。

 

「先生、次はどこにいきますか!」

「そ、そうですね。揃えなければならないものも、残るはあと一つです。だから、それを買いに行きましょうか」

 

 マーガレットの顔がぱっと輝いた。

 

「もしかして——」

「その、もしかしてです。恐らく、み、ミス・マノックが今日一番楽しみにしていた買い物ではないでしょうか。で、では、オリバンダーの店に向かいましょう」

 



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第3話 魔法界へようこそ【後編】

お気に入り登録、評価、感想等々、本当にありがとうございます!

まだまだ拙い部分もありますが、少しでも読んで面白かったと思っていただけるように頑張っていきたいです。


 マーガレットとネモとクィレルは昔からの建物が立ち並ぶ横丁のなかでも一際歴史を感じさせる店の前にいた。

 

——オリバンダーの店 紀元前382年創業 高級杖メーカー

 

 扉に書かれた剥がれかかった金色の文字を読み、マーガレットは胸を弾ませた。ここは魔法使いの必需品である魔法の杖を取り扱っている店である。つまり、ここに来たということは自分の杖を手にする瞬間がついにやって来たということであった。

 一週間前からこの時を最も楽しみにしていたマーガレットは落ち着かない様子で踵を上げたり下げたりしている。バスケットの中のネモは飼い主が動き続けているせいで少し居心地が悪そうだった。

 

「こ、ここはオリバンダーの店といって、魔法界にその名を知らない者はいない杖の名店です。杖を買うなら、ここに限ります」

「先生もここで杖を買ったんですか?」

「も、もちろん。君と同じように、ほ、ホグワーツ入学に合わせて買いに来ました」

 

 クィレルは自分の杖を取り出すと、ペン回しの要領でくるりと回してみせた。それは持ち手から杖先に向かって蔓が巻き付いているようなデザインをした黄褐色の杖だった。

 

「先生の杖、とっても素敵ですね。どうして、この杖にしたんですか?」

「それは、こ、この杖が私を選んだのですよ」

 

 予想とは違った答えが返ってきたため、マーガレットは首を傾げた。クィレルはそんなマーガレットの姿を見て、「実際に体験してみればわかりますよ」と扉を開けた。

 

 

 

 チリンチリンと店の奥の方でベルが鳴った。小さな店内のいたる所に棚が置かれ、そこを埋め尽くすように細長い箱が収められている。なかには棚に入りきらず、床から天井まで積み上げられている箱の山もあった。

 何百、いや、もしかしたら何千もの杖がここにはあるのだろうかとマーガレットは考える。このなかに将来の自分の杖があると思うとその出会いが楽しみな反面、マーガレットは本当に自分の杖が見つかるのだろうかと緊張もしていた。店内が図書館のように静かなのもその緊張を高める原因となっていた。

 マーガレットは足元にバスケットを下ろすと両手を握り合わせ、ごくりと唾を飲み込む。そんな彼女のことをネモは下から見上げていた。

 

「いらっしゃいませ」

 

 いつの間にか、柔らかい声の老人が目の前に立っていた。店の薄明かりの中でも光る銀色の瞳が特徴的だ。

 

「こんにちは」

「こ、こんにちは、オリバンダーさん。き、き、今日はこの子の杖を見つけに来ました」

「それは、それは。きっとあなたを気に入る杖が見つかることじゃろう」

「わたし()()気に入る?」

 

 マーガレットが問いかけると老人の目はさらに輝きを増した。

 

「そう、杖の方が持ち主の魔法使いを選ぶのじゃ。例えば、あなたをここに連れ来たクィリナス・クィレルさんの杖は23センチのハンノキでよく曲がる。そして、芯はユニコーン」

 

 クィレルは老人が自分の杖を憶えていることに感心しきっていた。

 

「ハンノキは硬くて曲がりにくい木材じゃが、思いやりがあって親切な者を選ぶ。このように杖自身が最も親しみを感じる持ち主を選んでこそ、それは最高の杖になるのじゃ」

 

 この老人が言うとおり、マーガレットもクィレルのことをなんでも教えてくれて、自分を助けてくれる親切で優しい先生だと感じていた。だからこそ、ハンノキの杖が彼を選んだことにも納得がいく。

 杖が使い手のことを選ぶということは、杖に気に入られるということはこういうことなのかとマーガレットは理解した。

 

「では、お嬢さんの杖を探そうか」

 

 オリバンダー老人はポケットから巻き尺を取り出したが、不意になにかを思い出し動きを止めた。

 

「おお、そうじゃ。お嬢さんの名前を伺ってもよいかな」

「マーガレット・マノックといいます」

「マノック……。では、マイケル・マノックさんの娘さんか。道理で同じ目をしていなさるわけじゃ」

 

 老人の口から父の名前が出たことに、マーガレットはひどく驚いた様子だった。父のことをよく聞くため、老人の話に一層耳を傾ける。

 

「わしは自分の売った杖はすべて憶えておる。あなたのお父さんが買われたのは27センチの長さで芯はドラゴンの心臓の琴線。カシノキで出来た堅実な杖じゃった。カシノキは真実と知恵を象徴し、内面の強さと深い知識の井戸を持つ者を好む。あなたのお父さんはそんな杖に選ばれた方じゃ」

 

 オリバンダー老人が語る父の人物評は、マーガレットが()()を通して知った父の姿に重なるところがあった。少女はまた一歩、父に近づけた気がした。

 

「さて、それではマノックさん。拝見しましょうか。杖腕はどちらかな」

「杖腕?」

「き、利き腕のことですよ、ミス・マノック」

 

 マーガレットが聞きなれない単語を耳にして混乱していると、クィレルが優しく教えてくれた。なるほど魔法界では利き手をそう表現するのかと理解したマーガレットは右腕を持ち上げる。オリバンダー老人は腕の長さや指の長さ、また手の甲の幅などを測ると棚からいくつかの箱を取り出した。

 

「では、マノックさん。まずはこれをお試しください。ブドウの木にユニコーンのたてがみ。32センチでややしなる。手に取って、どうぞ試してください」

 

 マーガレットは杖を取り、以前クィレルがやっていたように軽く振ってみる。その瞬間、指先に温かさを感じた。これがわたしの杖——と思った瞬間にはオリバンダー老人によってその杖はもぎ取られていた。

 

「少し、違うのう。次はレッドオークにドラゴンの心臓の琴線。22センチ、曲がらない。さあ、どうぞ」

 

 マーガレットは再び杖を構えた。しかし、杖を振り下ろすと今度は店内にあった箱の山が崩れ落ちる。これは自分には合わない杖だとマーガレット自身も直感的に気づいた。

 それは老人も同じ意見だったようでマーガレットから早々に杖を回収し、それから自身の杖を一振りして箱を積みなおした。

 

「ごめんなさい」

「お気になさるな、誰もがこうやって自分に合う杖を見つけるのじゃ。さて、次は……。おお、これじゃ。マツの木にユニコーンのたてがみ。27センチ、驚くほど振りやすい」

 

 それは白っぽい色をしていて、まっすぐとした木目が特徴的な美しい杖だった。優しく杖を握ると、指先だけでなく体の奥底から温かくなる感覚を覚えた。

 

「さあ、振ってごらんなさい」

 

 マーガレットはすうっと息を吸い込み、杖を掲げた。その様子をクィレルたちは固唾を呑んで見守っている。

 少女は優美に杖を振るう。すると、杖の先から金色の光の粒子が溢れ出してきた。光の粒は渦を巻くようにして宙へと舞い上がり、やがてゆらゆらと漂いながらマーガレットに降り注ぐ。

 まるで、「ピーターパン」に出てくる妖精の粉みたいだとマーガレットは思った。物語のように体は浮かび上がらなかったが、それでも心は天にも昇るような気持ちだ。

 クィレルは小さく「おー」と感嘆の声を上げ、オリバンダー老人は「ブラボー!」と叫んでいた。ネモは床を跳ね回り、光の粒を黒い羽根にまとわせている。

 

「マツの杖は独創的な使い方を喜ぶ。きっと、マノックさんの好奇心と探求心に応えてくれるはずじゃ。それから、そうじゃ、マツの杖は長生きする者と相性が良い。あなたのこれからの長い人生をともに歩み、ともに学び続けるものとして、この杖は友となるじゃろう」

 

 マーガレットはますますこの杖のことが好きになった。その美しい見た目も手に持った時の馴染むような感触も気に入った。そして、なによりもこの杖が自分を認めてくれたということが嬉しかった。

 

 マーガレットは杖が箱に戻され、紙で包まれていくのをずっと見つめていた。そうして丁寧に包装された箱がマーガレットに手渡される。直接杖を手にしているわけでもないのに、また体の奥底が温かくなったように感じた。

 クィレルが杖の代金を支払い、オリバンダー老人のお辞儀に送られて二人と一羽は店を出た。その時のマーガレットは数十分前までよりも少し大人っぽい顔をしていた。

 

 

▼ ▲ ▼

 

 

 これにてダイアゴン横丁でのすべての買い物が終わった。あとはマッカーデン商店へと帰るだけなのだが、初めての魔法界に圧倒されて少し疲れていたマーガレットを気遣って、一息いれてから発つことをクィレルが提案してくれた。

 

 一行はフローリアン・フォーテスキュー・アイスクリームパーラーにいた。ショーケースの中ではバニラ、チョコレート、ストロベリー……と馴染みのあるフレーバーが冷やされている。バタービール味という初めて聞く名前のフレーバーもあったが、見た目はいたって普通のアイスクリームだった。マーガレットはいくら魔法界といえども、食べ物は自分が知っているものと同じなのだと——少なくともこの時は——思った。

 

 マーガレットはなにを食べるか迷っていた。彼女が一番好きなのはバニラ味のアイスクリームだ。しかし、せっかく魔法界に来たのだからバタービールのような初めて出会う味も食べてみたかった。それに他のアイスもなんとも美味しそうで、簡単には決められない。

 

「ま、迷いますか。一つに絞らなくてもいいですよ」

「本当ですか! その、本当にいいんですか!」

 

 クィレルが頷くと、マーガレットはごくりと喉を鳴らした。目がギラギラと輝いている。それを見て、クィレルはなぜだか寒気を感じた。

 

「先生、ありがとうございます! えっと、すみません。バニラとストロベリーとかぼちゃ、それからバタービールをください!」

「わ、私はチョコレートを」

 

 寒くなったのはクィレルの財布だった。

 

 

 

「甘くて、冷たくて、とってもおいしいです!」

 

 マーガレットとクィレルは通りに面したテラス席に座っていた。ネモは飼い主の膝の上で日向ぼっこをしている。

 マーガレットはアイスクリームを一口食べるごとにうんうんと頷き、その味を堪能していた。口角がみるみるうちに緩み、幸せそうな顔をしている。

 一方、クィレルは甘ったるいチョコレートアイスをちびちびと口に運んでいた。これは食べる量の違いを考えた彼なりの気遣いであった。

 

「み、ミス・マノックはアイスクリームがお好きなのですか?」

「はい! アイスも、ケーキも、それからチョコレートも。甘いお菓子はなんでも大好きです!」

 

 マーガレットは満面の笑みを浮かべながら、再びアイスクリームに口をつけた。いつの間にか、彼女のグラスの中身は半分まで減っている。クィレルは彼女の旺盛な食欲に驚きつつ、スプーンを口に運ぶペースを少し速めた。

 

「そうだ、先生」

 

 不意にマーガレットはスプーンの動きを止め、クィレルの顔をのぞき込んだ。

 

「な、なんでしょうか」

「先生、魔法界には忘れてしまったものを思い出す魔法や道具というのはないんでしょうか?」

「忘れてしまったものを、ですか?」

 

 今日一日だけでもマーガレットはかなりの量の質問をしてきたが、今度のそれはそれまでのものとは性質が異なるように思われた。その質問は彼女が目にしたものについてでも、ホグワーツに関することでもない。頭の中に突然浮かんできた疑問をぶつけてきたようにクィレルには感じられた。

 

 しかし、彼はすぐにその考えを改めることとなった。青い双眸が自分に対して期待のまなざしを向けている。ふと思いついた質問の答えにこれほどの期待を寄せる人間はそうそういないだろう。突拍子のないように思えた少女の疑問が、実はずっと彼女の心の奥底にしまってあったものだったことに気づく。

 マーガレットが何故「忘れてしまったものを思い出す方法」を知りたがっているのかクィレルは興味を抱いたが、まずは自身の先達としての役割を果たすことに集中した。

 

「お、思い出し玉というなにか忘れ事をしているときに忘れ事があるということを教えてくれる道具ならあります」

「なるほど。そんなこともわかるだなんて、やっぱり魔法ってすごいですね。……でも、その思い出し玉では忘れている事の中身まではわからない、ということですか?」

「はい、そのとおりです。き、記憶を消す忘却術はありますが、記憶を元に戻す魔法というのはま、まだ見つかっていません」

「そう、ですか……」

 

 マーガレットはクィレルから視線を外した。期待に満ちていた瞳には、今や落胆の色が広がっている。

 

「み、ミス・マノック、ど、どうしてそのような魔法があるかを知りたかったのですか?」

 

 マーガレットはまばたきを何度も繰り返していた。まさか自分が質問をされる側になるとは思ってもいなかったようだ。

 

「それは、わたしが……」

 

 マーガレットはなにか言いかけて口籠った。唇を噛み、じっとなにか考えている様子だった。ネモはそんな飼い主のことを心配そうに見上げている。

 

「わ、わ、私がふと気になって聞いてしまっただけですから、む、無理に答える必要は——」

「いえ。先生はわたしの質問に何度も答えてくださいましたから、今度はわたしの番です」

 

 マーガレットは視線を落とし、ネモのことを見た。一人と一羽の視線が交錯する。クィレルには俯いた少女がどんな表情をしていたのかはよく見えなかった。

 

「あの、わたし、お父さんのことをなにも憶えてないんです。その、わたしは7歳になる前に事故に遭いました。お父さんは、わたしをかばってその時に……。わたしは、お父さんに助けられたんです。でも、その時にそれまでの記憶を全部失ってしまって……。えっと、今でもお父さんのことを思い出せないんです。だから、魔法でなら思い出せるかなと思って……」

 

 一週間前にマーガレットが口にした「なにも憶えていない」という言葉はそのままの意味だった。つまるところ、マーガレットはいわゆる“記憶喪失”である。彼女には事故に遭うまでの記憶が一切ない。そのため、事故で命を落とした父親のことも憶えていない。そして、失われた記憶を今も取り戻せずにいるのだ。

 

 マーガレットがふと顔を上げると、自分のことを見つめるグレーの瞳と目が合った。

 

「……! あの、でも、いつかきっと思い出せるって信じてるんです! その、お母さんもおじいちゃんたちもお父さんのことをたくさん教えてくれました。写真だって見せてくれました。それでも、まだ思い出せていないけど、でも魔法界で、ホグワーツでお父さんと同じものを見て、聞いて、学べば、お父さんにもっと近づくことができれば、お父さんみたいな魔法使いになれれば、なにか思い出せるんじゃないかなって——」

 

 マーガレットは自分がずいぶんと早口で喋っていたことに気づき、口元を押さえ頬を赤らめていた。

 

「父への思い、でしたか……」

 

 クィレルは誰に聞かせるわけでもなく呟いた。だから、彼女は父親のことと彼に関係すること、つまりは魔法界やホグワーツについて人一倍知りたがっていたのかと合点がいった。

 

「その、ごめんなさい。あの、おかしなことを言っていましたよね」

「い、いえ、おかしくないですよ。こ、こちらこそ君が話しづらいことを聞いてしまい、すみませんでした。それから君の記憶についてですが……、たしかに今はまだ取り戻せるような術はありません。しかしホグワーツでなら、なにか別の方法やきっかけが見つかるかもしれない」

 

 クィレルはふと、あるマグルの作家が残したとされる言葉を思い出した。

 

「ミス・マノック、こ、この言葉を知っていますか? 『人間が想像できることは、人間が必ず実現できる』」

「ジュール・ヴェルヌ、ですよね? 『海底二万里』の」

 

 マーガレットは“ネモ”のことをちょんちょんとつついた。

 

「そのとおり。よく知っていますね。これはマグルの持つ際限ない想像力と日々進歩し続ける科学技術をたたえるような言葉ですが、ま、魔法族にも当てはまるものだと私は考えます。ま、魔法というものも、ああしたい、こうしたいという想像が大切なものです。た、例えば、動物が杯に変わった姿。例えば、と、遠くにあるものが手元まで引き寄せられる様子。思いを強く持つほど、魔法は成功しやすくなる。魔法はそ、想像を形にするものです。だからこそ、き、君がお父様のことを思い出すという夢を持ち続ければ、いつか魔法は応えてくれるのではないでしょうか」

 

 マーガレットはクィレルの言葉を聞くと表情を和ませた。潤んだ青い瞳がきらりと輝く。

 

「そうですよね! わたしが魔法使いだったのも、きっとそのためなんですよね。あの、先生に聞いてもらえてよかったです。まだまだ時間はかかるかもしれないけど、わたしの記憶もいつかは思い出せるんだって思えました」

「そうです。ぜ、絶対に思い出せますよ」

 

 ネモもマーガレットを元気づけようとしたのか、彼女の肩にのると頬に体を寄せた。日向ぼっこをしていたせいか、黒い羽が暖かくて気持ちがよい。マーガレットはお礼代わりにネモの頭を撫でてやると、ネモはそっと目を閉じた。

 

「み、ミス・マノック、アイスが溶けてしまいますよ」

「あっ、本当だ。……うん、少し溶けていてもおいしいアイスです」

 

 マーガレットはぬるくなったアイスクリームを口にすると、再び幸せそうな顔になった。一口、また一口と口に運んでいく。彼女が完食するまで、そう時間はかからなかった。

 

 

▼ ▲ ▼

 

 

 目を輝かせたり、白い歯を見せたり、頬を赤らめたりと今日一日で様々な表情を見せてきたマーガレットであったが、今この時は真っ青な顔をしていた。ネモもふらふらとした足取りで彼女の周りを歩いている。

 

「……だ、大丈夫ですか?」

 

 行きと同じように地下鉄に乗って帰ってくればよかったのだが、荷物が多かったこと——それからクィレルがマーガレットにまた魔法を見せたかったということ——もあり、一行は姿現しであの行き止まりの路地まで帰ってきた。

 

 自分も魔法を体験できるということで、姿をくらますまでのマーガレットはとても楽しそうに笑っていたが、初めての姿現しを経験した後は血の気のない顔で遠くの空を眺めていた。

 

「すみません。その、ちょっと、気持ち悪くなっちゃって……。魔法って大変ですね……」

「す、姿現しは慣れるまでが大変ですから」

「でも、こんな魔法も使えるだなんて、やっぱり先生はすごいですね」

 

 具合が悪そうではあったが、それでも新たな魔法を体験したマーガレットはどこか嬉しそうな様子だった。

 彼女は何度か深呼吸を繰り返し、ようやく吐き気を感じないようになるまで落ち着くと、再び口を開いた。ネモも調子を取り戻したようで、自らバスケットの中に戻っていった。

 

「先生、ご心配おかけしました。もう大丈夫です」

「では、行きましょうか」

 

 狭い路地を抜け、大きな通りに出ると二人は並んで歩いた。マッカーデン商店までは二、三分もかからない距離だが、その僅かな時間にも9月1日の出発時刻やホグワーツ特急への乗り方といった多くのことを確認していた。

 

 そして、あっという間に二人と一羽はマッカーデン商店の前まで来ていた。店の中ではメアリーがちょうど閉店の準備をしているところだ。

 

「先生、本当に色々とありがとうございました。今日もとっても楽しかったです。次にお会いする時はホグワーツですね」

 

 マーガレットは名残惜しそうに右手を差し出した。しかし、クィレルはすぐには彼女の手を取らず、自身の鞄の中から一つの包みを取り出した。

 

「わ、別れの前に。ミス・マノック、き、君にこれを……」

 

 マーガレットは手渡された包みをしげしげと見ていた。

 

「あの、開けてもいいですか?」

「も、もちろん。……気にいってもらえれば嬉しいです」

 

 マーガレットは包装紙を丁寧に開け始めた。緊張のせいか、それとも興奮のせいか手元が震えている。

 赤色の包装紙を開けると、茶色い木箱が姿を現した。そして、その木箱の中には金色に輝く懐中時計が収められていた。蓋には鴉のシルエットが彫られている。なんてお洒落で美しい時計なのだろうとマーガレットは思わず感嘆の声を漏らした。

 

「わ、私からの入学祝いです。ミス・マノック、き、君がホグワーツで多くのことを学べるよう、応援しています」

「ありがとうございます、先生。」

 

 マーガレットはこの時計のことも杖と同じくらい気に入った。彼女は懐中時計を胸に抱き寄せ、白い歯を見せて笑う。その反応を見てクィレルは満足げな表情を浮かべた。

 

「では、ミス・マノック。またホグワーツで会いましょう」

「はい! 必ず会いに行きますね!」

 

 少女にとっては()()()()()()、青年にとっては()()()()()()。とはいえ、お互いこれから出会う多くの教師の、そして多くの学生の一人でしかない。でも、この時のマーガレットにとってクィレルは()()()()()であったし、クィレルにとってもマーガットは()()()()()であった。

 だからこそ、この交流が少しでも長く続くことを願い、二人は固い握手を交わしたのだった。

 

 

▼ ▲ ▼

 

 

 1983年9月1日、マーガレットはメアリーとともにキングズ・クロス駅の九番線と十番線のプラットホーム上にいた。ホーム上にも時計はあるのだが、マーガレットはわざわざポケットから懐中時計を取り出して今が10時半であることを確認する。

 

「マーガレット、本当にここであっているの?」

「うん。九と四分の三番線への行き方は先生と何度も確認したから大丈夫だよ」

 

 マーガレットは自信満々に答えた。周りを見渡してみれば、彼女と同じように大荷物を手にした家族連れの子供たちが何組もいる。自分と同世代の魔法使いたちの姿を見つけて、マーガレットは嬉しくなった。今すぐにでも九番線と十番線の間の柵に向かって歩き出したかったが、はやる気持ちを抑えて母の方に体を向けた。

 メアリーはマーガレットの両肩に手を置き、しっかりと目線を合わせる。

 

「マーガレット、忘れ物はない? アイスと時計のお礼はちゃんと持った?」

「トランクに教科書も学用品も服も入れました。それから先生へのお礼もちゃんと持ったよ」

「よくできました。それと、次に帰って来るのはクリスマス休暇ね。それまではあなたと会えない。だから、ちゃんと手紙を書いてね。もちろんお母さんも、おじいちゃんも、おばあちゃんもあなたに手紙を書くから」

「うん! さっそく今晩もお手紙を書くね! 出せるのは、明日になっちゃうかもしれないけど……」

「それで大丈夫よ。あなたが元気で、楽しく生活していることがわかればいいの。それから……」

 

 メアリーは一度言葉を切った。目の前にいるはずの娘の姿がぼやけてよく見えなくなっていた。

 

「つらくて、苦しくて、どうしようもない時は……帰っておいで。学校なんて飛び出して、家に戻ってくればいい。お母さんたちはいつでもあなたのことを待っているから」

「でも、そんなことしたら怒られちゃうよ」

「うふふ、たしかにそうね。でも、大丈夫よ。どんなに怖い先生が、どんなに恐ろしい魔法使いがあなたを連れ戻しに来たとしても、必ずあなたを守るから」

 

 メアリーは気丈に笑った。娘を安心させるためにも、自分が今ここで涙を流す訳にはいかない、と。

 

「ありがとう、お母さん。大好きだよ」

 

 マーガレットは母に抱き着いた。メアリーも娘のことを強く抱きしめた。次に娘と会う時、彼女はどれくらい成長しているのだろうと考えると楽しみでもあり、少し寂しくもある。

 本当はこのままずっと抱きしめて、マーガレットをホグワーツになんて行かせたくなかった。それでも、メアリーは娘の背を優しくさすり、ゆっくりと彼女から離れる。

 

 メアリーはマーガレットが自分との別れもほどほどに早く九と四分の三番線へ行きたかがっているとばかり思っていた。しかし、その娘の青い瞳にも溢れんばかりの涙が溜まっていた。

 

「ほら、マーガレット。笑顔で行っておいで」

「……うん。お母さん、行ってきます。おじいちゃんとおばあちゃんにもよろしくね」

 

 マーガレットは袖口で涙を拭うと、悪戯っぽい笑顔を見せた。彼女は右手に祖父から譲り受けた大きなトランクを持ち、左手にはネモの入ったバスケットを提げた。まだこのプラットホームがマグル側の世界だからか、ネモはバスケットの中で息を潜めている。

 

 マーガレットは母に背を向けると九番線と十番線の間の柵の真正面に立った。

 

「そうだ……」

 

 マーガレットは顔だけメアリーの方に向けた。希望に満ちた青い瞳の下で赤い唇が弧を描いている。

 

「たくさん勉強して、たくさん魔法を覚えて、わたし、お父さんみたいな魔法使いになる! だから、行ってきます!」

 

 マーガレット・マノックは九と四分の三番線に向かって一直線に駆け出した。メアリーは彼女が柵にぶつかると思って、思わずその後ろ姿から目をそらしてしまった。

 しかし、メアリーが再び正面を向いた時には、娘の姿はどこにもいなくなっていた。

 

「……行ってらっしゃい、マーガレット。きっと、お父さんがあなたのことをいつまでも見守っていてくれるわ」

 

 言いそびれてしまった見送りの言葉を呟き、メアリーはキングズ・クロス駅を後にした。




マーガレットの夢:記憶を取り戻す・父親のことを思い出す

次回、マーガレットとホグワーツ入学卒業の日
(序章最終話、そして1991年「賢者の石」編に繋がるお話となります)


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第4話 マグル学教室で会いましょう

 1983年9月2日——前日に入学式を終えたばかりのこの日、大鴉(レイブン)を肩にのせた少女はある教室に向かっていた。大股で歩いているからか、一歩踏み出す度にローブの裾が翻り、青い裏地が顔をのぞかせる。

 

 この少女——マーガレット・マノックの想像どおり、ホグワーツ魔法魔術学校は魔法と神秘に満ちていた。動く階段、喋る肖像画、それから校内をうろつくゴーストたち。どれも彼女が初めて目にするようなものばかりだ。

 あちこち見ながら歩いていると、つい階段を一階多く降りすぎたり、つい廊下を長く歩きすぎたりしてしまう。そのせいで、マーガレットは今日一日だけでも両手で数えきれないほど道に迷いかけていた。

 

 しかし、今は一緒に教室に向かう同級生も道順を丁寧に教えてくれる監督生もいない。寄り道をしたい気持ちをぐっと抑え、メモを取り出す。慣れない羽根ペンで書いたせいで字は少々読みづらいが、今の彼女にはなくてはならないものだ。

 

「階段を降りて……。それから、北塔に向かう。で、ここがその北塔で目的地は二階。階段は……あった!」

 

 マーガレットは階段を駆け上がり、ようやく目的の教室の前までたどり着いた。授業時間ではないからか、木製の扉は閉ざされている。息を整え、彼女は元気よく扉をノックした。

 しばらくの間はなんの反応もなかった。もしかして留守だったのだろうかとマーガレットが考えていると、ゆっくりと扉が開いた。恐る恐るといった様子で顔をのぞかせたのは、彼女が会いたがっていた例の青年だった。

 

「クィレル先生、こんにちは!」

 

 マーガレットは白い歯をのぞかせにっこりと笑った。

 

「み、ミス・マノック、こんにちは……」

 

 クィレルは驚いたような顔をしていた。きっと、マーガレットがこんなにも早く自分に会いに来るとは思っていなかったのだろう。

 

「先生、時計とそれからアイスのお礼をお渡ししにきました。その、受け取ってください」

「あ、ありがとうございます」

 

 マーガレットは大事に抱えていた緑色の包みをクィレルに渡した。

 

「紅茶とビスケットです! とってもおいしいですよ!」

「こ、これは……。あぁ、ロンドンの老舗百貨店のものですね。い、いいものをいただきました。ありがとう」

 

 クィレルの言葉を聞き、マーガレットはほっとした表情を浮かべた。魔法使いに贈り物をするのは初めてであったから、なにが喜んでもらえるかずっと心配だったのだ。そのため、マーガレットがおいしいと思うお菓子を選んだのだが、間違っていなかったようだ。

 

「み、ミス・マノック、よくこの教室の場所がわかりましたね」

「監督生さんに聞きました。それから、行き方を忘れないようにメモも取りました。でも、何度か迷っちゃいました……」

「それは……。た、大変だったでしょう」

 

 マーガレットはこくりと頷いた。

 

「でも、色々なものが見られてとっても面白かったです! ホグワーツってこんなに摩訶不思議なところだったんですね。もうすっかり気に入っちゃいました」

「それはよかった。そ、そうだ。ミス・マノック、この教室まで来るのに疲れたでしょう。一息入れるついでに、す、少しお話していきませんか? き、君が持ってきてくれた、ビスケットでも食べながら」

「いいんですか! ぜひ喜んで!」

 

 マーガレットはとびきりの笑顔をみせた。クィレルは教室の扉を大きく開け、彼女のことを迎え入れる。

 

「ミス・マノック、———————————」

 

 

 

 それからの時間はマーガレットにとって、とても楽しく、心地の良いものだった。温かい紅茶とおいしいお菓子、それから自分が知りたいこと、知らないことをなんでも教えてくれる()()。マーガレットはこのマグル学の教室——正確には研究室だが——にいる間、時間が経つのを忘れるほどクィレルとの会話に夢中になっていた。

 気がつけば夕食の時間。マーガレットにはまだまだ聞きたいこと、話したいことがたくさんある。しかし、もう帰らなければならない。別れ際に「また会いに来てもいいですか?」と聞けば、クィレルはにっこりと笑って頷いた。

 

「先生、また会いましょう!」

 

 この日、マーガレットは初めてマグル学教室を訪れた。そして、次の日も、そのまた次の日も彼女はこの教室に足を運んだ。

 それから、この時の彼女はまだそんなことを知る由もなかったが、寮の談話室や図書館にいるよりも多くの時間をこのマグル学教室で過ごすようになるのであった。

 

 

▼ ▲ ▼

 

 

 そして、1990年6月。卒業式を翌日に控えたこの日、マーガレットは校内を忙しなく駆け回っていた。道順を書いたメモも、もう彼女には必要ない。

 マーガレットは寮の談話室で七年間をともに過ごした仲間たちと別れの言葉を交わし、大広間ではかつて勉強を教えた後輩たちから祝いの品を受け取った。それから各教授への挨拶を済まし、通いなれたマグル学教室に足を運んだのは夕方になってからのことだった。

 

 マーガレットとネモは北塔二階のマグル学の教室に足を踏み入れた。授業中とは違って誰も——それこそ教授も——いない教室はひどく静かで、どこか寂しげに感じられる。

 ここは何度も訪れた教室ではあるが、もう生徒として来ることはないのかと考えるとマーガレットは感慨深かった。

 

「先生、マノックです。いらっしゃいますか」

 

 マーガレットが声をかけると、彼女を招き入れるかのように研究室の扉が開く。部屋の中では彼女の恩師が忙しそうに書物の整理をしているところだった。普段なら棚にぎっしりと本が詰められているはずだが、今はところどころに隙間ができている。

 

「お忙しいところすみません。少しお時間をいただいてもよろしいですか?」

「えぇ、そろそろ私も休憩しようと思っていたところでした」

 

 マーガレットとクィレルは向かい合わせでソファーに腰掛け、ネモはマーガレットの膝の上に座った。クィレルが杖を振るうと二人の間に紅茶が現れる。マーガレットは初めてこの現象を見た時にはずいぶんと驚いたが、卒業間近の今となってはもう見慣れたものだった。

 マーガレットは紅茶を一口、口に含んだ。華やかにベルガモットが香るアールグレイ。彼女が最も好きな紅茶だ。

 

「ついに君も卒業ですか。少し早いですがおめでとう」

「ありがとうございます!」

 

 マーガレットは愛想のよい笑みを浮かべた。クィレルは彼女の胸元に輝く首席(HEAD GIRL)バッジを一瞥し、紅茶を啜る。

 

「初めて出会った七年前は魔法界のことなどなにも知らなかった君が、今や賢きレイブンクローを代表する生徒の一人。ま、まったくもって君は優秀な生徒でした」

「いえ、わたしが優秀だなんて……。わたしはただの知りたがり屋で、わからないことがあるとじっとしていられなかっただけです。……それに、そんなわたしに色んなことを教え、助けてくださったのは先生じゃないですか」

 

 マーガレットにまっすぐ見つめられていることに気づき、クィレルは思わず視線を逸らした。灰色の瞳に困惑の色が浮かぶ。

 

「わ、私が君に教えられたことなど、たかが知れています」

「いえ。先生からは本当にたくさんのことを教わりました。例えば、——杯になれ(フェラベルト)!」

 

 マーガレットは膝の上のネモを一瞬でゴブレットに変えてみせた。

 

「これが初めて先生から教わった呪文でしたよね。でも、すぐには覚えられなくて……。この教室に何度も通って、先生に何度も教えていただいて、やっとできるようになった時はとっても嬉しくて!」

 

 マーガレットは懐かしそうに笑う。

 

「あぁ、そうだ。——戻れ(レパリファージ)!」

 

 ゴブレットは高速で回転し、元の鴉の姿に戻った。目が回ったのか、ネモは頭をゆらゆらと揺らしている。

 マーガレットはネモの体を撫でながら、再び口を開いた。

 

「これ以外にも、もっともっと色んなものを先生のおかげで知ることができました。呪文なら——そう、盾の呪文(プロテゴ)。あの呪文に興味を持ったわたしが、当時はまだ習えるような学年でもなかったのに、先生にお願いして無理やり教えていただきましたよね。でも、そのおかげで12ふくろうだってパスできました。それから、教えていただいたことは勉強だけでなくて……。魔法使いのチェスをしたこともあれば、一緒に森へ押し花の材料を採りに行ったり、トロールを観察しに行ったりもしましたよね。どれも大切な思い出です」

 

 マーガレットはそこで一呼吸置いた。

 

「……だから、これからもどうぞよろしくお願いします。ホグワーツの教員となるにはまだまだ未熟な魔法使いです。それに、未だ先生から学ばせていただかなければならない身です。だから、先生にご迷惑をおかけすることもあるかもしれません。それでも、助手として先生のお役に立てるよう精進します」

 

 マーガレットが恩師の元を訪ねたのは、なにも今までの感謝を伝えるためだけではなかった。ホグワーツを卒業後、彼女はマグル学の助手としてクィレルのもとで働くことが決まっていた。だからこそ、その挨拶と今後の打ち合わせのためにマグル学教室に足を運んだのであった。

 

「君にはなんの心配もしていませんよ。ところで、き、君に一つ聞きたいことがあるのですが」

「なんでしょうか?」

「まだ、ちゃんと聞いたことがありませんでしたので。……君はどうしてマグル学の教員を選んだのでしょう? 君の夢はお父様との記憶を思い出すことでしたよね。失った記憶を取り戻すための研究を行うのなら、もっとふさわしい職場があったのではないか、と。君の成績なら魔法省で忘却術師として働くことも、聖マンゴに癒者として勤めることもできたでしょうに」

 

 マーガレットは口元に手を当て、考える素振りを見せた。今度は目をそらすこともなく、クィレルはその様子をじっと観察している。

 

「たしかに、その二つの職に就くことを考えたこともありました……。忘却術師は魔法界で最も記憶の取り扱いに長けた仕事ではありますが、記憶を消すことに主軸が置かれています。だから、わたしには抵抗がありました。また、癒者となっても人の記憶を元に戻せるようになるわけではない。かつてのわたしのように記憶を取り戻せずに苦しむ患者の姿を見たら、またわたしも苦しくなってしまいそうで……。だから、わたしはどちらにも向いていないと思いました」

 

 そう語るマーガレットの表情はどこか寂し気だった。

 

「難しいですね、記憶というものは。この七年間、なにか取り戻せる方法ないだろうかと図書館で調べたり、他の教授たちに聞いてみたりもしました。それでも、まだなにもわからないままです。それこそ、失われた『レイブンクローの髪飾り』にでも頼らねばならないものなのかもしれませんね」

 

 マーガレットの失われた記憶は魔法界に来たからといって戻ることはなかった。それに、いくら探したところで記憶を取り戻す方法を見つけることもできなかった。

 

「実は、何度か実家を継ごうかとも考えたこともあったんです。もう記憶が戻らないのならば仕方ないかな、と。マッカーデン商店、あそこはかつてホグワーツを卒業した父が働いた場所でもありますから、父のようにはなれますし」

 

 当時のマーガレットは悩んだ。非魔法族の世界(自分が生まれ育った場所)に戻るべきなのだろうか、と。マーガレットも家業の手伝いをすれば父と同じ道を歩むことになる。それでは記憶は戻らないかもしれないが、父のようになることを目標としていたマーガレットにとっては最善の選択のようにも思えていた。

 

 しかし、彼女は七年前に抱いた魔法への希望を、そして魔法で叶えたい夢を諦めることはできなかった。

 

「でも、絶対に思い出したいんです。記憶はないけれど、それでも父はわたしの大切な人で、永遠の目標なんです。だから、わたしは魔法界で夢を追い続けることを選びました。『夢を持ち続ければ、いつか魔法は応えてくれる』はずですから」

 

 『夢を持ち続ければ、いつか魔法は応えてくれる』と口にしたマーガレットの表情はとても晴れ晴れとしていた。曇りのない青い瞳はしっかりと前を——クィレルのことを見つめている。

 

「そして、魔法界に残ろうと決めたその頃でした。フリットウィック教授がホグワーツで教員として働けば、仕事の傍らで自分の研究や調査を進めることもできるのではないかと提案してくださいました」

「だから、ホグワーツの教員に?」

「はい。先生もご存知かとは思いますが、マグル学はわたしが一番好きで、得意な教科です。魔法族から見た非魔法族の社会——つまり、魔法界で生まれた父の見ていた世界を少しでも知ることができますから。だから、一番父に近づくことができる教科だと思いまして。それに、ふと思い出したんです。先生が以前、わたしのような生徒がマグル学の研究に参加すればいいのにと言ってくださったことを。あの言葉が、とても嬉しくて——」

 

 マーガレットは白い歯を見せて笑った。

 

「だから、先生のご期待に応えられるよう精一杯励みます」

「……。なるほど、そ、そういうことでしたか。では——ミス・マノック、さっそくですが君に任せたい仕事があります」

 

 マーガレットは初仕事への期待で胸をいっぱいにしていた。青い瞳は将来への希望に満ち溢れ、きらきらと輝いている。

 

「く、9月からの一年、き、君がマグル学の教鞭をとってください」

「はい、頑張り——。え? わたしが、ですか?」

 

 マーガレットは首を傾げた。彼女が任されたのは助手の仕事である。教授の授業の手伝いをすることはあっても、一年間ずっと助手が授業を受け持つということはまずない。

 マーガレットは唇をぎゅっと結び、不安げにクィレルのことを見つめている。彼女の緊張を感じてか、膝上で座っていたネモもその居住まいを正した。

 

「私は次の一年間、け、研究のために休暇をとることにしました。その間の講義を助手、つまりは君に任せるつもりだということも伝えましたが、校長も他の教授たちもミス・マノックが引き受けるのなら問題ないだろうと快く認めてくださいました。ですから、9月からはき、君が学生たちにマグル学を教えてください」

「あの、待ってください! わたしには先生の代わりなんてできません。それに、わたしはまだ先生に教わりたいことが——」

 

 マーガレットは顔を赤くして、ひどく動揺していた。なにか言おうとするが、口をパクパクとさせるだけで言葉が出てこない。ネモはそんな飼い主を少しでも落ち着かせるために鳴き声を上げて気を引こうとするが、マーガレットの耳にはそれすらも入ってきていなかった。

 

 クィレルは静かに腰を上げ、本の整理を再開した。自身の蔵書を検知不可能拡大呪文がかけられたトランクに詰め込んでいく。マーガレットに背を向けたまま、彼は淡々と作業をこなしていた。

 

「ミス・マノック、マグル学をよく学んでいる君なら知っていることかと思いますが——」

 

 クィレルの声が聞こえたことで、ようやくマーガレットは冷静さを取り戻した。視線を動かし、彼の背中を見る。

 

「——マグルの世界は今まさに大きな変革の時を迎えています。ある国では都市を分断していた壁が取り壊され、またある国では革命が起きた。それまで彼らの世界を二分していた思想のうちの一つが瓦解しようとしている。だから、私はその混沌を知るために東に行こうと考えています。ですから——」

「先生、それなら——」

 

 クィレルが振り返るとそこには口元をわずかにゆがめ、歪な笑みを浮かべるマーガレットがいた。七年もの間、クィレルはマーガレットと交流を深めてきたが、それは彼が初めてみる彼女の表情だった。

 

「いえ、なんでもありません」

 

 マーガレットは瞳を閉じ、一度大きく深呼吸をした。そしてゆっくりと目を開くと、先ほどまでとは打って変わって自然な笑みを浮かべた。

 

「……先生、いつ出発されるんですか?」

「明日、君たちの式が終わった後に。ミス・マノック、これが引き継ぎの資料です。……君に無茶なお願いをしているのは、わかっています。でも、きっと君は……大丈夫なのですよ」

「先生、それは買い被りすぎですよ」

 

 マーガレットは手渡された書類の表紙を撫でながら小さな声で呟いた。

 

「でも、それだけ先生が期待してくださっている、ということですよね」

 

 マーガレットは冷めた紅茶をゆっくりと飲み干した。そして、ソファーから立ち上がり、本棚の前に立つクィレルの隣に並んだ。かつては見上げなければいけなかった青年の顔が、今では目線の高さとほぼ変わらないところにある。

 マーガレットが指で合図をすると、ネモは彼女の左肩にとまる。肩に鴉をのせたマーガレットの立ち姿はまさしく魔女と呼ぶにふさわしいものだった。

 

 マーガレットはクィレルの方を向いた。胸に手を当て、「先生、今まで本当にありがとうございました」と感謝の言葉を口にする。ネモもまるでお辞儀でもするかのように頭を下げていた。

 

「それから、休暇中のことはお任せください。先生の代わりを務めるには、わたしは力不足です。それでも、わたしに任せてよかったと思っていただけるように全力を尽くします」

「……期待しています」

 

 マーガレットは横目で本棚を見た。そのあまりにも片づけられた棚を目にしてしまうと、本当に恩師はこの部屋に戻ってくるつもりなのだろうかと不安を感じた。

 

「あの、先生。先生がマグル学教室に戻ってきてくださるその日まで、わたしはここで待っています。だから、必ず帰ってきてくださいね」

 

 マーガレットは右手を差し出した。そして、クィレルはその手をそっと握り返す。

 

「一年後、また先生にお会いできる日を楽しみにしています。そのときはぜひ休暇中にどんなことがあったのか教えてくださいね。では……。また会いましょう、先生」

 

 マーガレットはそっと手を離し、マグル学教室から立ち去った。すっかり慣れていたはずの寮への帰り道も、この日はなぜだかとても遠く感じた。

 

 

 

 マグル学教室で過ごす時間——それは彼女にとって、いつも楽しく、心地の良いものであった。彼女がホグワーツで学生として生活していた七年間、その思いは()()()()()()()()()()()()()

 

 しかし、七年という長い年月が過ぎるにつれて、あの教室の中でなにかが変わっていた。そして、マーガレットはその変化に気づかないまま、ホグワーツでの学生生活を終えようとしていた。




次回から第1章「賢者の石」編となります。

学生時代の主人公について、マグル学教室でなにが変わってしまっていたのかについては第1章の最終話で触れる予定となっています。


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第1章 「賢者の石」(June,1991~June,1992)
第1話 ミス・マノックはマグル学教授


——「賢者の石」編、開幕。


▽ △ ▽

 

 

——マーガレットは夢を見ていた。

 

「マーガレット、君のお父さんは——」

 

 口髭を蓄えた白髪の紳士が少女に語りかける。

 

「君のお父さんは勤勉で、とても賢い人だった。彼はマッカーデン商店のため、私たち家族のため、そして君のためによく働いてくれた。彼は覚えが早くてね、教えた私よりもよほど仕事ができた。例えば——」

 

 マッカーデン氏は少女の手のひらに上に小さな宝石箱を置いた。少女がバラのカメオのついた蓋を開けると、音楽が流れ始める。

 

「これはマイケルが修理したオルゴール。きれいな音だろう。これはパーツの痛みがひどくてね。私も修理できず、お手上げ状態だったよ。でも、彼は諦めずこれを元通りに直してみせた。いや、本当に見事だった。魔法でも使ったのかと思ったよ」

 

 マッカーデン氏は静かにオルゴールの蓋を閉めた。音楽が止まり、二人を静寂が包み込む。

 

「……マーガレット、これはお父さんが君に残したものだ。だから、大事に持っていなさい」

 

——ありがとう、おじいちゃん。

 

 少女が顔を上げると、そこにはもう祖父の姿はなかった。その代わりに、今度は美しいグレイヘアの女性が少女の方を向いて微笑んでいる。

 

「マーガレット、あなたのお父さんは家族思いで、優しく誠実な人だったの」

 

 マッカーデン夫人は優しく少女の頭を撫でた。

 

「彼はいつもあなたを喜ばせようと、楽しませようとしていた。憶えていないとは思うけど、彼はあなたに色んな物語を語り聞かせていたの。グリム童話にアンデルセン童話、それから()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()もあったの。きっと今のあなたも気に入るようなお話よ」

 

 マッカーデン夫人はもう一度少女の頭を撫でた。

 

「だからね、マーガレット。あたくしは、あなたが彼のことを思い出せると信じているの」

 

——ありがとう、おばあちゃん。

 

 少女が瞬きをすると祖母の姿は消え、今度は黒髪の若い女性が現れた。少女は目を赤く腫らした母のことを見上げる。

 

「マーガレット、あなたのパパはね——」

 

——わたしのパパ。わたしのお父さんは……。

 

 

▽ △ ▽

 

 

「夢か……」

 

 マーガレットはソファーの上で目を覚ました。昨夜は読書の途中で眠りに落ちたらしく、胸の上には読みかけの小説がのっかっている。

 押し花のしおりを本に挿み、マーガレットはゆっくりと上体を起こした。サイドテーブルにおいた懐中時計で時刻を確認すると、普段よりも早くに目が覚めてしまったようだ。もう一度眠ることもできる時間ではあったが、なんとなく再び横になる気にはならなかった。

 

 マーガレットはソファーにもたれ掛かり、先ほど見た夢について考えていた。彼女は家族から父親の話をよく聞かされていた。だから、マーガレットは父の記憶を失いながらも、彼の()()を知識として知ることができている。もっとも後付けの知識であるのだから、憶えているとも、思い出したとも言えないのだが。

 今回の夢の内容もこうした今までの知識の一つでしかなく、どれもマーガレットが記憶を無くした直後に家族から聞いた内容である。「夢のお告げ」によると、夢の解釈は未来を占うもっとも大切な方法だそうだが、今日彼女が見た夢は未来の予言などではなく過去の再現でしかない。

 

 マーガレットは大きくため息をついた。そろそろ支度でもしようかと体を動かしたところで、膝の上になにかがのっかっていることに気づく。目線を下ろせばつぶらな青い瞳と目が合った。

 

「ネモ、おはよう」

 

 マーガレットが頭を撫でながら声をかければ、ネモは「カア」と元気よく鳴いた。

 

「久しぶりに夢を見たの。お母さんたちがいてね……。そろそろ会いに行かないとね」

 

 この一年間、マーガレットは実家に帰っていなかった。というのも、彼女がホグワーツの教員になったからである。学生の頃はクリスマス休暇などで帰省していたため、家族の顔を丸々一年見ずに過ごすということはまずなかった。

 しかし、ホグワーツの教員になった以上そうもいかない。教師の仕事はなにも生徒に教えるだけではない。()()()()()()()()()()()()ことも大切な仕事だ。そのため、生徒が学校に残るような休暇はマーガレットも城を離れるわけにはいかなかった。

 

 ホグワーツでの寮生活を通し、家族と離れて暮らすことにも慣れたマーガレットではあったが、一年間も帰っていないとさすがに実家を恋しく思った。今は生徒がいない夏季休暇中であるから、すぐにでも帰ることはできる。しかし、マーガレットにはこのホグワーツで待たなければならない相手がいた。

 

「もう一年経つんだよ。だからもうすぐ——」

 

 ちょうどその時、マーガレットのお腹が鳴った。グーという音が部屋中に響く。マーガレットはネモを抱き上げ、気恥ずかしそうに笑った。

 

「お腹空いたね。朝ご飯、食べに行こうか」

 

 

▼ ▲ ▼

 

 

 普段なら生徒たちで溢れかえる大広間も夏季休暇中はがらんとしている。今朝はマーガレットたちが一番乗りだったらしく、他の教授たちはまだ誰も来ていなかった。

 

 別に急いで食べる必要もなかったのだが、空腹だったこともあり、マーガレットはあっという間に朝食を平らげた。マーガレットはオムレツとハムステーキ、サラダにポタージュ、それからバターをたっぷりと使ったクロワッサンを、ネモはゆで卵とベーコンとブルーベリーを食べた。さらに、マーガレットはデザートして出てきたカップケーキも別腹ということでぺろりと食べてしまった。

 食後の紅茶で一息ついていると、背後から声をかけられた。

 

「ミス・マノック、今朝は早かったようですね」

 

 特徴的なキーキー声を聞き、マーガレットは振り返る。彼女の予想通り、そこにはフィリウス・フリットウィック教授が立っていた。

 

「おはようございます、フリットウィック教授」

「張り切っていますね」

「いえいえ、いつもより早く目が覚めただけですよ」

 

 教授は眉を上げ、「おや」と呟いた。わたしが早起きするのはそんなに珍しかっただろうか、とマーガレットは不思議に思う。

 

「そうですか。てっきり、今日はクィリナスが戻って来るから早起きしたのだとばかり」

「今日ですか!?」

 

 マーガレットは思わず声を上げた。そろそろクィレルがホグワーツに戻って来る頃だとは思っていたが、それがまさか今日だとは思いもしなかった。

 

「聞いてなかったのかね?」

「はい、なにも。研究のお邪魔になってもと思って、この一年はあまり先生とも連絡を取っていませんでしたから……」

 

 マーガレットの発言を受け、フリットウィックは本当に驚いたような顔をしていた。

 

「私も先ほど聞いたばかりだったが、まさか君もなにも知らなかったとは……」

「でも、そろそろ戻っていらっしゃる頃かとは思っていました。研究室の片付けも昨日終わらせたところだったので、ちょうどよかったです」

 

 クィレルが戻ってくる以上、そうゆっくりもしていられない。マーガレットはネモに合図をし、椅子から立ち上がった。

 

「ミス・マノック、昼過ぎに迎えの馬車を出すそうだ。君も行ってくればいい」

「はい、そうさせていただきますね。色々と教えていただき、ありがとうございました」

 

 マーガレットは教授に礼を言い、大広間から立ち去った。待ちに待った恩師との再会の日というだけあり、彼女の足取りは軽い。ただ、フリットウィックは彼女の後ろ姿を心配そうに見つめていた。

 

 

▼ ▲ ▼

 

 

 馬なし馬車——かつては自動車がそう呼ばれたこともあるそうだが、この魔法界においては()()()()()()()()()というものが実在する。いや、正確には「いない」のではなく「見えない」のだが。

 

「セストラル。天馬の一種で『消える魔力を備えるが、縁起が悪いと思っている魔法使いが多い』。その理由は、見た人にありとあらゆる恐ろしい災難が降りかかると言われているから」

 

 マーガレットは虚空を見つめながら、「幻の動物とその生息地」の一節を暗唱した。

 

「でも、本当にセストラルの姿を見ることができるのは、『死』を見た者だけ。……たしかに、見えないでいられる方がいいのかもね」

 

 マーガレットはホグズミード駅でクィレルの到着を待っていた。その間、彼女はホグワーツから乗ってきたこの「馬なし馬車」のことを観察していた。

 マグルは科学技術によって馬を必要としない「馬なし馬車」を生み出し、魔法族は目には見えない馬に引かせることで「馬なし馬車」を編み出した。ある目的のために、それぞれが歩んだ過程の違いとそれによって変化した結果というのは、マグル学を研究するマーガレットにとっては興味深い比較対象だ。

 

「次の論文のテーマはこれにしようかな? でも、セストラルの姿が見えないと難しいか。ネモはどう思う?」

 

 マーガレットが話しかけると、ネモはクイッと首を傾けた。

 

「うーん。やっぱり難しいのかな」

 

 ネモにつられ、マーガレットも首を捻る。そして、その様子を後ろから見ている者がいた。

 

「み、ミス・マノック?」

 

 懐かしい声が聞こえ、マーガレットは振り返る。そこにはスーツと暑そうなローブをまとい、頭に大きなターバンを巻いた青白い顔の男がいた。彼はマーガレットの顔を見ると、ピクリと頬を動かした。

 

「先生! お久しぶりです。お元気でしたか?」

「は、は、はい。ま、まあ」

「一年間の研究休暇、お疲れさまでした。また、こうして先生にお会いすることが嬉しいです」

 

 マーガレットは握手をしようと右手を差し出した。しかし、クィレルはその手を見つめるばかりで、一向に握り返そうとしてこない。

 

「先生?」

「あぁ。こ、こうするのも久しぶり、ですね」

 

 彼は恐る恐るといった様子でマーガレットの手を握った。緊張しているのか、表情が硬い。

 軽い握手を交わしながら、マーガレットはクィレルのことをまじまじと見つめていた。一年ぶりに再会したからか、彼の姿や様子がかなり変わっているように感じる。見慣れないターバンはもちろんだが、顔もやつれてしまっている。

 マーガレットはこの一年の研究休暇の間、クィレルの身になにかあったのではないかと心配になった。

 

「先生、本当に大丈夫ですか? どこかお体の調子が——」

「い、いえ。な、長旅で少し疲れが溜まっているだ、だけです」

「そうですか……。あの、先生。わたしにできることがあれば、なんでも言ってくださいね。だって、わたしは先生の助手ですから。きっと、お力になれると思います」

「……それは心強いです」

 

 クィレルはぼそぼそと喋った。その声を聞き、マーガレットはどこか安心する。服装や顔つきはたしかに一年前とは変わっている。しかし、その声は間違いなく彼女が()()と慕う男のものだった。

 

「ここでな、長話をするわけにもいかない。ほ、ほ、ホグワーツに行きましょう」

「それもそうですね。ホグワーツに帰りましょうか、先生」

 

 

 

 一行を乗せた馬車は鬱蒼とした森の中を進んで行く。マーガレットは向かいに座るクィレルのことを見ていた。彼は頻繁に目を動かしたり、ずっと手を揉んでいたりとどこか落ち着かない様子だ。彼女の視線に気づき、クィレルは俯けていた顔を上げた。

 

「な、なんでしょうか?」

「あぁ、すみません」

「なにかき、き、気になることでもあ、ありましたか?」

 

 クィレルはぎこちない笑みを浮かべる。

 

「はい。その、頭に巻いてらっしゃるターバンが気になりまして」

「こ、こ、これですか! こ、これは……」

 

 クィレルは肩をぶるっと震わせた。

 

「これは、ぞ、ぞ、ゾンビをやっつけた際にあ、アフリカの王子からも、もらいました」

「ゾンビ! 先生はゾンビに会ったのですか!」

「は、はい」

 

 少しでも冷静になって考えれば実に怪しい話ではあるのだが、マーガレットはゾンビが実在するらしいということと、それをクィレルが討伐したらしいということにすっかり興味を惹かれていた。

 

「ゾンビが本当にいるだなんて知らなかったです。ドラゴンやユニコーン、トロールと空想上の生き物だと思っていたものが本当にいるのがこの魔法界ですが、まさかゾンビまでいたなんて! 先生、どうやってゾンビを倒したのですか? やはり頭を狙うのでしょうか? それとも、インセンディオで全身を燃やしてしまったとか? それから、ゾンビに噛みつかれると、噛みつかれた人もゾンビになってしまうのですよね? 先生は大丈夫でしたか? あれ? でも大丈夫じゃなかったら、こうして戻ってきてくださらないですね」

 

 マーガレットの畳みかけるような質問の嵐にクィレルは思わず苦笑する。

 

「ミス・マノック。ゾンビに噛まれた相手もゾンビになるというお約束は、マグルの映画が——うっ」

 

 クィレルは急に呻き声を上げ、頭を抱え込んだ。肩が激しく上下に動いている。マーガレットは膝にのせていたネモを下ろし、彼に近寄ろうとした。

 

「先生!」

「な、なんでもない。なんでもな、ないです」

 

 クィレルは手を突き出し、しきりに「なんでもない」と呟く。それはマーガレットに対してだけでなく、自分にも言い聞かせているかのようであった。

 

「でも、先生。わたし、先生のことが心配です」

 

 マーガレットは改めてクィレルのそばに寄ろうとした。右手を彼の震える肩に伸ばす。しかし——

 

「私に構うな!」

 

 差し出した手はクィレルによって振り払われた。パチンという乾いた音が客車に響く。マーガレットは呆然としながら、じんわりと痛む手を引っ込めた。

 

「ごめんなさい。出過ぎた真似をしました」

「ミス・マノック、き、君を傷つけるつもりは——」

 

 クィレルの顔はひどく青ざめていた。マーガレットに手を上げてしまったことに動揺し、そんな自分に対して怯えているかのようだった。

 

「いえ、大丈夫です。音をしましたけど、痛くはなかったですし」

 

 マーガレットは相手を安心させようと笑みを浮かべる。一方で、彼女の膝の上にいるネモはクィレルのことをじっと睨みつけていた。

 

「ですが、わ、私のしたことは……」

「先生、本当にお気になさらないでください。たまたま、先生の手とわたしの手が当たってしまっただけですよ」

 

 マーガレットはニッと笑う。そんな彼女のことをクィレルは眩しそうに見つめていた。

 

 ちょうどその時、馬車が止まった。窓の外を見ると、そこはもうホグワーツ城の入り口だった。

 

「着きましたね。降りましょうか」

「そ、そうですね」

 

 一行が客車から降りると、馬車は森の中へと消えていった。その車だけが走り去っていく姿はマグルの「馬なし馬車」(自動車)とあまり変わらないな、とマーガレットは思った。

 

「わ、わ、私はダンブルドア校長と話すことがあるので、まずこ、校長室に向かいます」

「わかりました。それなら、先にトランクを研究室まで運んで置きましょうか?」

「だ、大丈夫です。じ、自分で持って行きます。で、では……」

「はい、また後で」

 

 二人は入り口で別れた。一人は校長室のある東の塔へ向かい、もう一人と一羽はマグル学教室のある北塔へと歩みを進めた。

 

 

 

 研究室へと戻ってきたマーガレットは、クィレルを待つ間に昨夜の読みかけの本でも読んでいようかと考えた。しかし、なぜか集中力が続かない。本にしおりを挿み、ソファーに体を投げ出す。

 恩師も帰ってきた。なのに、なぜ自分の心はざわついているのだろうか。マーガレットは胸に手を当て、大きく息を吸った。

 

 気を紛らわすため、なんとなく昨日掃除をした部屋の中を見回していると、デスクにオルゴールが置かれたままであったことに気がついた。このマグル学研究室の本来の主がいつ帰って来てもいいようにと部屋に置いていた私物は全て片付けたつもりでいたが、あのオルゴールだけはしまい忘れていたらしい。

 

 マーガレットは魔法でアンティークものの宝石箱を浮かび上がらせ、慎重に自分の手元まで運んだ。三回ネジを巻き、バラのカメオがついた蓋を開けると、オルゴールは「トロイメライ」を奏で始めた。

 マーガレットは膝上で丸まっているネモを撫でながら、聞き慣れたメロディーに耳を傾けていた。オルゴールの調べと手のひらから伝わるぬくもりに癒され、次第に瞼が重くなる。今朝、普段よりも早起きしたこともあり、このまま目を閉じてしまえば眠ってしまうことはわかっていた。だが、あまりの心地よさに睡魔に抗うこともできなくなっていた。

 

 

▽ △ △

 

 

——マーガレットは再び夢を見ていた。

 

「マーガレット、あなたのパパはね……」

 

 メアリーは少女のことをじっと見つめ、静かに口を開く。

 

「あなたのパパはとっても勇気のある人だったの……。だから、だから彼はあなたを守って……」

 

 メアリーは少女のことを強く抱きしめた。メアリーの頬を一筋の涙が伝う。

 

「パパはあなたのことを誰よりも愛していたわ。だから……。だから、どうか忘れないで。マイケルのことを……」

 

 少女は母の腕の中で独りごちる。

 

——ごめんなさい、お母さん。ごめんなさい、お父さん。わたし、なにも憶えてない。

 

 

△ ▽ △

 

 

 コンコン、という扉を叩く音でマーガレットは目を覚ました。慌てて髪を結え直してから扉を開けると、そこにはエメラルド色のローブを着た魔女が立っていた。

 

「ミス・マノック、こちらにいましたか」

「マクゴナガル教授、いかがされましたか?」

 

 マクゴナガルはマーガレットの姿を見つけるとほっとしたような表情を浮かべたが、すぐさま普段どおりの厳格な顔つきに戻った。

 

「ミス・マノック、至急校長室まで来てください」

「承知いたしました」

 

 マーガレットはネモを肩にのせ、マクゴナガルとともに校長室に向かった。ホグワーツで働くようになってからは何度か校長室を訪ねることもあったが、学生の頃の感覚が抜け切らずいつも緊張してしまう。いったい今日はどのような用なのだろうかと考えていると、不意にマクゴナガルに声をかけられた。

 

「ミス・マノック」

「はい、なんでしょうか」

 

 教授は後ろを歩く元生徒のことをちらりと見た。

 

「この一年、ホグワーツで働いてみてどうでしたか?」

「どうでしたか、ですか? その、感想ということでしょうか?」

「えぇ。教員となって、あなたがどのようなことを感じたのかをぜひ知りたいのです」

 

 急に求められた感想ほど難しいものはない。「簡単でした。教師の仕事は楽ですね」だとか、「大変でした。もうこんな仕事はしたくないです」などと言うわけにはいかない。もっとも、マーガレット本人はそんなこと微塵も思っていないのだが。

 

「ミス・マノック、難しく考える必要はありませんよ。あなたの素直な感想を聞かせてください」

「そうですね……」

 

 マーガレットは軽く目を閉じ、頭の中の考えをまとめた。

 

「教師の仕事は、自分にとても合っているように感じました。もちろん、教師としてはまだまだ力不足ですし、学ばなければならないことはたくさんあります。でも、自分が今までに覚えた知識だとか、身につけた技術を人に伝えるというのはとても楽しいですし、しっくりときました。この仕事に巡り合えて、本当によかったと思います」

 

 マーガレットの言葉を聞き、マクゴナガルはふっと口角を上げた。

 

「ホグワーツにとっても、あなたのように勤勉で熱意に溢れる教師を迎え入れられたことは幸運でした。さて、着きましたね。——爆発ボンボン!」

 

 マクゴナガルが合言葉を唱えると、石の怪獣像はまるで生きているかのようにピョンと飛び跳ねた。石像の背後にあった壁が左右に割れ、螺旋階段が現れる。

 

「ミス・マノック、校長がお待ちです。あなたに大事な話があるそうです」

「はい、わかりました」

 

 緊張の面持ちでマーガレットは階段に乗った。エスカレーターのように動く螺旋階段は一人と一羽を上へ上へと運んでいく。

 階段の先では輝くような樫の扉が彼女のことを待っていた。マーガレットは一度大きく深呼吸をしてから、グリフィンを象ったドアノッカーに手をかけた。

 

「マノックです。失礼いたします」

 

 扉が音もなく開く。マーガレットは円形の部屋の奥、事務机に座る立派な髭を蓄えた老人の姿を見つけた。アルバス・ダンブルドアはマーガレットに気がつくと優しく微笑み、手招きして彼女のことを呼び寄せる。

 

「やあ、マーガレット」

「あの、どのようなご用件でしょうか?」

「そう緊張せずともよい。君といくつか話したいことがあるのじゃ。まずは、そうじゃな……。最近、君が気に入った菓子はあるかのう?」

「気に入ったお菓子ですか?」

 

 大事な話があると聞いていたものだから、マーガレットはその予想外の質問に驚きを隠せなかった。ぽかんとしている彼女を見て、ダンブルドアはくすくすと笑う。

 

「おいしい菓子を食べたいのなら、君に聞くのが一番だと耳にしたことがあってのう」

「はあ……」

 

 マーガレットが甘いもの好きなのは、このホグワーツでもまあまあ知られていることだ。マグル学に教壇に立っていたこの一年の間にも、何度か寮点狙いの生徒からの貢ぎ物——もちろんすべて断った——があったほどだ。

 それくらいに知られた話ではあるのだから、いつの間にか校長にもその噂は伝わっていたのだろう。

 

「そうですね。最近の好きなのはオーガニックのビスケットでしょうか。ザグっとした食感で、食べ応えのあるところが気に入っています。それから、紅茶にもワインにも合うので、どんな時にでもおいしく食べられるのがいいですね。ロンドンにいる家族が手紙と一緒によく送ってきてくれるので助かっています」

「それはなかなかおいしそうじゃな。わしもロンドンに行ったときには食べてみようかのう」

「はい、ぜひ」

 

 自分の好きなものについて話したからか、マーガレットの緊張は和らいでいた。自然と口元も緩み、心も軽くなる。その様子をダンブルドアは微笑ましそうに見つめていた。

 

「お気に入りのお菓子についてなら、いくらでも話せるかと思います。ですが、大事なお話というのは、このことではないですよね?」

「そうじゃな、そろそろ本題に入ろうか」

 

 ダンブルドアは明るいブルーの瞳をマーガレットに向けた。すべてを見透かすようなまなざしで見つめられると、マーガレットはなぜだか居心地の悪さを感じた。

 

「マーガレット、これからの君の仕事についての話じゃ。この一年、教授のいないマグル学教室をよくぞ支えきってくれた。これからも助手として、その能力を遺憾なく発揮してほしいと思っておる。じゃが、ちと問題があっての」

 

 マーガレットはごくりと唾を飲み込んだ。心臓の鼓動が徐々に早まる。

 

 彼女はなぜ自分が呼び出されたのかを考えていたが、ある一つの可能性に思い至っていた。それは自身のマグル学教授の助手という仕事に関することだ。

 このホグワーツでは、それぞれの教授が助手を置くことは滅多にない。今は教授であるクィレルも元々は助手であったが、あれは前任のマグル学教授が高齢で引退を考えていたからであり、教授職の後継者を育てるためであった。

 

 対して、マーガレットはどうか。ホグワーツに留まり、研究を続けられるようにするために助手という道を選んだのであって、彼女自身は次の教授を目指しているわけではない。言ってしまえば、校長や教授たちの恩情によって雇ってもらえているだけで、いつクビになってもおかしくない立場なのである。

 そして今日、マグル学教授がホグワーツに戻ってきた日にマグル学助手が呼び出された。一年の研究休暇を経て、もし先生の考えが変わっていたとしたら? 校長に助手はいらないと伝えてあったとしたら?

 

——もしかしたら、自分はもうホグワーツにいられないのかもしれない。

 

 マーガレットはダンブルドアからは見えない位置で拳をぎゅっと握りしめた。

 

「そこでじゃ。マーガレット、君をマグル学教授として正式にホグワーツに迎え入れることとなった」

「そうですか。わたしがマグル学の教授に——」

 

 よかった、まだホグワーツに残ることができる。マーガレットはまず安堵した。次に自身が教授として認められたことへの喜びを感じた。だが、なにかがおかしいことに彼女はすぐ気がついた。

 

「わたしが教授ですか? クィレル先生がいらっしゃるのに?」

 

 マーガレットは混乱していた。口を開くも続く言葉が出てこない。彼女の右肩にとまるネモもくちばしを半開きにして首を捻っていた。

 

 そもそも、ホグワーツは各教科に対して教授が一人いる。言い換えれば、それぞれの教科に教授が二人以上いることはない。そして、マグル学にはすでにクィリナス・クィレル教授がいる。だからこそ、マーガレットはマグル学教授にはなれないはずである。そう、クィレルがマグル学教授を辞めない限りは。

 

「そのクィリナスじゃが、来年度はマグル学ではなく闇の魔術に対する防衛術を教えることとなった。したがって、マグル学教授が不在となる。だからマーガレット、君が新たな教授となってほしいのじゃ」

 

 たしかにマーガレットの恩師はマグル学だけでなく、呪いやそれに対抗する防衛呪文への造詣も深い。マーガレットも在学中は何度も彼から実技を教わってきた。深い知識と確かな技術を持ち合わせるクィレルが闇の魔術に対する防衛術の教授に任命されるのは納得の人選ではある。

 だが、マーガレットはどうしても「なぜ」という思いを捨てきれなかった。なぜ、あの教師がホグワーツを去っていく教科をクィレルが教えなければならないのか、と。

 

「ダンブルドア校長。クィレル先生が闇の魔術に対する防衛術を教えることとなったのは、他にあの教科を教えられる人がいなかったからでしょうか?」

「たしかに、そのことが一つの要因でもある。じゃが、クィリナスは自ら闇の魔術に対する防衛術の教授に志願したのじゃ。マグル学はどうするのかとも聞いたのじゃが、あとはミス・マノックに任せるとのことじゃった」

 

 マーガレットは静かに目を閉じた。恩師の姿が瞼に浮かんでは消えていく。

 

「そうでしたか……」

「クィリナスからは、なにも聞いていなかったようじゃの」

「……はい」

 

 マーガレットはわずかに頷く。ダンブルドアは手を顔の前で組み、小さく唸った。

 

「あぁ、クィリナスと一番親しい付き合いがあったのは君じゃったが……。そうか……」

 

 しばしの沈黙の後、ダンブルドアが再び口を開いた。

 

「マーガレット。今、このホグワーツのマグル学を任せられるのは君しかいないのじゃ。頼まれてくれんかの?」

 

 マーガレットは一年前のことを思い出していた。あの日、恩師と交わした約束を、胸に抱いた決意を彼女が忘れることはなかった。そして、これからも忘れはしないだろう。

 

 ゆっくりとマーガレットは目を開けた。覚悟を決めた青い瞳はただ前だけを見つめている。

 

「かしこまりました。マグル学教授の任、謹んでお受けいたします」

 

 こうして、マーガレット・マノックはマグル学教授になった。




今後は週に一回程度を目安に更新していきたいと考えています。
「賢者の石」編完結まで時間がかかってしまいそうですが、どうぞよろしくお願いします。



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第2話 マグル学教授と「生き残った男の子」

 マグル学教授への就任が決まってから、マーガレットはとにかく忙しい日々を送っていた。一度は片づけた荷物を再び研究室に並べ直すことから始まり、シラバスの作成、備品の整理、それから資料や書籍の収集と休むことなく9月に向けての準備を進めていた。

 

 そして、それは新しく闇の魔術に対する防衛術の教授への就任が決まったクィレルも同じようであった。ホグワーツに帰って来てからの彼はほとんど研究室を出ることがなく、マーガレットと顔を合わせるのも食事の席くらいであった。

 学生時代のマーガレットであれば、恩師に会うため研究室にも足を運んだことだろう。しかし、ホグワーツの教師になり、その大変さを理解してしまった以上、そういうわけにはいかない。同じ城の中にいるのだからお茶をしながらゆっくり話す機会もどこかであるだろうと考え、マーガレットは夏が近づく6月を乗り越えた。

 

 

 

 そして、7月。マーガレットは父の命日に合わせて帰省していた。当初は一週間程度の休みをもらえればいいと思っていたが、副校長から一か月でもいいと言われたため、彼女は7月を丸々ロンドンで過ごすことにした。

 

 休みの間、マーガレットはマッカーデン商店の手伝いとして店に立つこともあれば、マッカーデン氏の代わりに時計やオルゴールを修理することもあった。時にはどうしても修理できない物が店に持ち込まれることもあったが、そういった物はマグル学の貴重な資料としてマーガレットが持ち帰ることになった。

 また、仕事がない日には家族揃ってウエスト・エンドに出かけたり、一人で博物館に足を運んだりと充実した余暇を楽しんでいた。もっとも、マーガレットにはマグル学の授業のためにマグルの歴史や文化を改めて学ぶという目的もあったのだが。

 

 こうして7月を最愛の家族と過ごす時間、そして自身の見識を深めるための時間として使っていたマーガレットであったが、それももうじき終わろうとしていた。今日は7月30日。明日はホグワーツへと帰る7月31日だ。マッカーデン商店のマーガレットから、ホグワーツのマノック教授に戻る日でもある。

 だから、マーガレットは家族とともに過ごす夏休み最後の夜を楽しもうとしていた。

 

 

 

「マーガレットの教授就任を祝って乾杯!」

 

 赤ら顔のマッカーデン氏は上機嫌でグラスを持ち上げる。孫娘としばらく会えなくなる寂しさからか酒が進み、今夜の彼はずいぶんと酔いが回っているようだった。

 

「まさか、このマッカーデン商店から教授が誕生するとは! おめでたい。本当におめでたい!」

 

 黙々とアンティークの修理をしているような普段のマッカーデン氏からは想像もつかないような姿だが、三人の女性たちは「やれやれ」だとか「またか」といった表情を浮かべている。ネモですらも口を半開きにさせ、呆れ顔とでもいった様子だ。

 

「教授とはいうものの、わたしには他の教授たちのように優れた実績があるわけでもないから……」

 

 ビスケットをかじり、マーガレットは苦笑いを浮かべた。自分は「変身現代」のような高名な雑誌で賞を取ったわけでもないし、決闘チャンピオンになったわけでもない。それに、前任のマグル学教授のように様々な呪文を無言で扱えるほど、魔術に長けているわけでもない、と。

 だからこそ、彼らと同じ教授という役職に自分などがいることはマーガレットにとっては複雑なのであった。教授になれたことはもちろん嬉しい。が、本当に自分でよかったのだろうか。ホグワーツで忙しく動き回っていた間はそんなこと考える暇もなかったが、家族と過ごし少し余裕も生まれた今だからこその悩みだ。

 

「しかし、この一年はミスター・クィレルの代わりに先生を務めたのだろう?」

「でも、それまで先生がやっていらした授業をわたしが真似していただけ。ほら、また先生がマグル学の教壇に戻って来てくださるものだと思っていたから。なるべく授業の雰囲気や内容を変えないようしようと思って」

「それもあなたの才能だとあたくしは思うのだけど」

 

 グラスを揺らしながら、マッカーデン夫人は呟いた。

 

「でも、もう先生の助手ではないからその手は通用しないかな。ちゃんと自分で考えないと」

「そうか……。だが、君は論文を書いて、雑誌にも載せてもらえただろう?」

「あれはクィレル先生の前の教授が編集長をしてらっしゃる雑誌で、わたしが学生時代に面識があったから声をかけていただけたの。だから、マグル学の教授としても、一研究者としても、まだまだこれから」

「でも、君は研究をし、それを論文に書いた。そして、それが雑誌に載った」

 

 マッカーデン氏はマーガレットにまっすぐ顔を向けた。酔って真っ赤な顔をしているが、言葉ははっきりとしている。

 

「それは立派なことじゃないか。マーガレット、君は真面目だから自分が教授にふさわしいのか悩んでいるのだろう。そして、それは当然のことだと思う。だが、それで卑屈になってはいけない。君は一年間授業を受け持った。論文だって書いた。君は……教授になろうと、いい先生になろうと頑張っている。そして、君がそういう努力をできる人だからこそ、教授を任されたのではないかね」

 

 祖父の言葉を聞き、マーガレットの心が軽くなった。「ホグワーツのマグル学を任せられるのは君しかいない」と言われたあの時、たしかに自分はマグル学教授になることへの覚悟を決めた。その決意を翻してしまうことこそが、マーガレットを次のマグル学教授にと推してくれた恩師への裏切りになる。だからこそ、今はただ前に進むしかない。

 

「ありがとう」

「お礼を言われるほどのことではないさ」

 

 マッカーデン氏はグラスをあおった。そして、これがいけなかった。

 

「はあ……。しかし、マーガレット・マノック著『マグルのチェスと魔法使いのチェス ~ただ駒が違うだけなのか~』だったか。私も読ませてもらったが、ははは、実に面白い研究だったじゃないか! マーガレットにチェスを教えたのは私だが、はは、それがあのような研究に結びつくとは。ははは」

 

 マッカーデン氏は笑いがこらえられないといった様子だった。祖父が酔っている姿は何度も見たことがあったマーガレットであったが、こんな酔い方をしているのを見るのは初めてであった。

 

「私は父から『自分が学んだことはすべてにお前に教える。だから、お前も子供になんでも教えなさい』と言われて育った。ははは、だからこそ、メアリーにも、マーガレットにも様々なことを教えてきたつもりだが、それが論文に、それも一つの本になるとは……。はは、あの書斎に家族の名前が載った本があるなど、ははは、夢のようだ」

 

 マッカーデン氏はずっと笑っている。その様子を見て、マーガレットはビスケットを口に運ぶ手を思わず止めてしまうし、ネモもあんぐりと口を開けている。

 

「マーガレットは初めて見るかしら? お父さん、とっても嬉しいことや悲しいことあったときは、こんな風になるのよ」

 

 メアリーは困ったように笑っている。しかし、今の話を聞く限りはマーガレットの教授就任が祖父にはとても嬉しいことだったのだろう。だからこそ、止めることができないといったところか。

 

「……あたくし、スコットと初めて出会った時はなんて真面目で誠実そうな方なのって思ったの。でも、お酒が入るとこう。彼の寡黙でミステリアスな雰囲気にあたくしは惹かれましたのに」

 

 そう語りながら、マッカーデン夫人は三本目のワインボトルを空にした。

 

「お母様から結婚するなら自分と似た男にしろと言われていましたが、お酒の強さはまったく似ていませんでしたわ」

「しかしだね、エミール。私と君はよく似ているよ。私はよい骨董品を追い求めて、ははは、世界中を旅した。一方、君は私のことを追って世界を回り、最後はイギリスまでやってきた。はは、私たちは似た者同士なのさ」

 

 どう考えても酒のせいではあるが、今夜のマッカーデン氏はやけに饒舌だ。ははは、と楽しそうに声を上げる。そんな夫に影響されてか、何杯ワインを飲んでも顔色一つ変えなかったマッカーデン夫人もほんのりと赤くなっている。

 

「こんなにいい気分なのは、ははは、マイケルと初めてあった日以来か? いや、メアリーのお腹の中に子供がいるとわかったときか? ははは、そうか、マーガレットが魔法使いだとわかったあの日ぶりか。ははははは」

「マーガレット、こうなった時のお父さんの話は長いわよ。でも、きっと楽しい話が聞けるわ」

「ははは、ならば順に話そうか。まず、私がマイケルと初めて出会ったのは1971年6月のことだった。あの日は——」

 

 母の言うとおりになりそうだなと思いながら、マーガレットはビスケットを半分に割った。片方を自分の口に放り込み、もう片方をネモに食べさせながら祖父の語る長い長い昔話に耳を傾けていた。

 

 

▼ ▲ ▼

 

 

 翌朝、マーガレットはメアリーとともにキッチンに立っていた。母はゆっくり休んでいればいいと言ってくれたが、ホグワーツにいるとこうして料理を作る機会というのはそうそうない。それに、昔のように母と一緒に朝食を作れることがマーガレットにとってはなによりも楽しかった。

 メアリーが慣れた手つきでポーチドエッグを作るのを横目で見ながら、マーガレットはベーコンを焼いていた。ほどよく焼き色をつけ、トーストしたマフィンにのせる。後はポーチドエッグをのせ、その上からソースをかければエッグベネディクトの完成だ。

 

「マーガレット、ロウェナとネモのベーコンも焼いてあげて」

「うん」

 

 フライパンに油を引き直し、新たに三枚のベーコンを並べる。それをカリッカリになるまで焼き上げ、二枚はネモ用のプレートに盛りつける。もう一枚は食べやすい大きさに切り、野菜や果物の入ったサラダにのせた。

 

「できたわね。マーガレット、ロウェナにご飯を持っていってもらってもいい?」

「もちろん。ネモもおいで」

 

 マーガレットは少し離れたところからキッチンの様子を見ていたネモに声をかけた。すると、ネモは飼い主に向かって一直線に飛んできて、普段どおり彼女の左肩にとまる。

 マーガレットはサラダボールをのせたトレーを持ち、ロウェナのいる部屋へと向かった。

 

 かつて父が仕事場として使っていた部屋は、彼が亡くなった時からほとんど変わっていない。ルーペやドライバーなどの仕事道具が収められたキャビネット。童話や児童文学と小さな子供が喜びそうな本がたくさん並べられた本棚。家族の写真を飾ったコルクボード。そして、ペンスタンドや山積みのノートが置かれた作業机。

 ここで待っていれば、父がふらりと帰って来るのではないか。この部屋に足を踏み入れるたび、マーガレットはいつもそんなことを考えていた。

 

「おはよう、ロウェナ」

 

 マーガレットは窓辺で微睡む一羽の鴉に声をかけた。年老いた鴉は首を傾け、マーガレットの姿を見つけると小さく「こんにちは(Hello)」と鳴いた。

 ロウェナは父が学生の頃から飼っていた大鴉(レイブン)だ。幼い頃はなぜロウェナという名前なのだろうと思ったが、ホグワーツに通った今ならわかる。ホグワーツ創設者の一人、叡智の塔を築いた偉大なる魔女、ロウェナ・レイブンクローに因んだ名前だ。

 

「ロウェナ、ご飯だよ。今日もね、お母さんと一緒にみんなのご飯を作ったんだ」

 

 特製のサラダを机に置くと、ロウェナは嬉しそうにくちばしを鳴らした。その音は拍手のようにも聞こえ、マーガレットはロウェナが自分のことを褒めてくれているように感じた。

 

「ロウェナは優しいね。ありがとう」

 

 マーガレットが頭を撫でると、ロウェナは気持ちよさそうに目を閉じた。親子というだけあり、ネモとロウェナの仕草はよく似ている。

 

「ロウェナ。またしばらく会えなくなるけど、元気でね」

 

 自分の頭から離れていく手をロウェナは名残惜しそうに見つめている。その様子を見てマーガレットも少し切なくなった。左肩にとまるネモも青い双眸を母に向けていて、自分と同じようなことを考えている気がした。

 ロウェナはかなりの高齢だ。年々、動きも緩慢になっていき、自らの羽で飛ぶことも減っている。そのため、部屋から出ずに一日を過ごすことも多くなっているそうだ。

 今は元気そうでも、いつお別れの時がやってきてもおかしくはない。それが次の一年でないことを祈り、マーガレットはもう一度ロウェナの頭を撫でてから父の部屋をあとにした。

 

 マーガレットがリビングに戻ると、すでに朝食の準備は終わっていた。マッカーデン氏は今朝の新聞を読み、マッカーデン夫人は近所の空き家にそろそろ人が越してきそうだという話をメアリーとしていた。

 マーガレットは母の隣に座った。ネモも彼女の肩から飛び降り、テーブルの上に立つ。鴉が食卓の上にいるなどお行儀の悪い光景ではあるが、これはまだ幼かった頃のマーガレットが「ネモと一緒がいい! ネモとご飯食べる!」とごねた名残であり、もうこの家にはそれを咎める者も、おかしいと感じる者もいなくなっていた。

 

「お待たせしました」

「ありがとう、マーガレット。……さて、みんな揃ったかな」

 

 新聞をたたみながら、マッカーデン氏は家族の顔を——もちろんネモも含めて——一つ一つ確認した

 

「まず、昨晩は見苦しい姿を見せてしまった。申し訳ない」

「いつものことですから」

 

 この家の朝は決まってマッカーデン氏の謝罪から始まる。もっとも、子供だった頃のマーガレットは真面目で厳格な祖父がなぜ謝っているのかはわからなかったが。

 

「ありがとう、エミール。……さて、今朝もメアリーとマーガレットが朝食を作ってくれた。今日を最後に、マーガレットの作る食事がしばらく食べられないのは悲しいが……。だが、また一年後の楽しみが増えたと思おう。では、マーガレット」

「えぇ、どうぞ召しあがれ!」

 

 ホグワーツに行ってからの八年、マーガレットを取り囲む環境は常に変化し続けていた。しかし、家族とともに迎える朝はいつも変わることがなかった。

 

 

▼ ▲ ▼

 

 

 昼頃、マーガレットはチャリング・クロス通りを歩いていた。それぞれの手には検知不可能拡大呪文をかけたトランクと赤いチェック地の布を被せたバスケットが提げられている。着替えや書物、それから授業で使うための様々なマグル製品にロンドン中で買い集めたお菓子が一つのトランクに収まっているのだから、本当に魔法は便利だ。

 楽器店やハンバーガーショップ、映画館の前を通り過ぎ、ちっぽけな薄汚れたパブの前で彼女は立ち止まった。

 

「ネモ、準備はいい?」

 

 小声で話しかけると、ネモは同じく小さな声で「カア」と返事をした。両手がふさがっているためにネモを撫でてやることはできないが、その分は後でおいしいお菓子でもあげようとマーガレットは考える。

 

「それじゃあ、行こうか」

 

 一度深呼吸をし、マーガレットは漏れ鍋に足を踏み入れる。と同時に、ネモはバスケットから飛び出し、彼女の左肩にとまった。ブラウスにデニムのパンツ、そしてローブも帽子も身につけていないマグル同然の姿だが、ネモのおかげでずいぶんと魔女らしくなる。

 空になったバスケットをトランクに詰め込みながら、マーガレットはダイアゴン横丁へと繰り出す前に冷たいドリンクでも一杯飲もうかと考えた。どこかいい席はないだろうかと店内を見回していると、見覚えのある人物がいることに気がついた。

 

「先生! クィレル先生!」

 

 マーガレットが声をかけると、クィレルの肩が大きく跳ねた。まさか、ここで彼女に出会うとは思っていなかったのだろう。

 

「み、ミス・マノック。き、帰省していたのでは?」

「はい、ついさっきまで。一か月間のお休みをいただいていましたから。このあと、ダイアゴン横丁で少し買い物をしてからホグワーツに帰ろうかと。先生もお買い物ですか?」

「わ、わ、私も新学期に向けての準備をするためにき、来ました」

 

 クィレルは今年、闇の魔術に対する防衛術の授業を担当することになっている。当たり前ではあるが、今まで彼が教えていたマグル学とは教科書も違えば、扱う道具も違う。それゆえに、準備しなければならないものが多いのだろう。

 

「新しい教科を教えるとなると、準備することも多くて大変ですよね。あの、荷物持ちでも、教室の片付けでも、お手伝いできることはなんでも言ってくださいね。だって——、あ」

 

 「わたしは先生の助手ですから」と言いたかった。だが、もうそうではないことを思い出し、マーガレットは口を閉じた。

 

「き、君が助手なら、ですが……。い、今はその気持ちだけ受け取ります」

「すみません」

「い、いえ。それに、き、君も大変でしょう。だから、わ、わ、私のことは気にしないでください」

 

 クィレルは硬い笑みを浮かべた。きっと、それはマーガレットを安心させようと思ってした表情なのだろう。しかし、それは彼女にとってはかえって不安を感じさせるものだった。

 最近、マーガレットはクィレルが自分に対して壁を作っているように感じていたが、それが思い過ごしではないような気がしていた。

 

 クィリナス・クィレルは人が変わった。——一年間の研究休暇を終えてホグワーツに帰ってきた彼のことを見て、何人かの教授が口にした言葉だ。そして、決して口には出さなかったものの、マーガレット自身もそう感じることはあった。

 たしかに恩師には神経質なところがあるし、緊張するとどもってしまうことがあることも知っている。しかし、なにかに怯え、周囲の人々と距離を置こうとするような人ではなかったはずだ。

 噂では黒い森で吸血鬼に会ったからとか、鬼婆といやなことがあったからなどと言われているが、それが原因なのだろうか。本当にそのせいで恩師は変わってしまったのだろうか、とマーガレットのなかで疑問が膨らんだ。

 

「あの、先生?」

「は、はい」

「先生は——」

 

 ちょうどその時、店の中が突然静かになった。そのため、自然と二人の会話も止まる。クィレルはマーガレットから視線を逸らし、人が集まりだした店の入り口に目を向けた。

 

 この瞬間、マーガレットは強い安堵を覚えた。と同時に、好奇心の赴くままに行動しようとしていた自分自身に嫌悪感を抱いた。

 一年の研究休暇の間になにがあったのか、クィリナス・クィレルの身にいったいなにが起きたのかということが噂でしかないのは、本人が本当のことを語りたがらないからなのだ。だというのに、マーガレットはそれを聞き出そうとしていた。

 人には誰しも——もちろんマーガレット自身にも——他人に踏む込まれたくないものや聞かれたくないものというのがある。だからこそ、「あの研究休暇の間、なにがあったんですか?」と口にしなくてすんだことに安堵する一方、そんな当然のことを忘れていた自分自身を嫌悪した。

 

「ごめんなさい。今のことは忘れてください」

 

 マーガレットは謝るが、クィレルはなにかに気を取られていて彼女の声など聞こえていないようだった。

 

「先生?」

「あれが、ハリー・ポッター……」

「ハリー・ポッター?」

 

 マーガレットはその名前をどこかで聞いたことがあるような気がした。記憶をたどり、「近代魔法史」や「二十世紀の魔法大事件」といった本に「ハリー・ポッター」なる人物が出てくることを思い出す。

 しかし、なぜクィレルがそんな有名人の名を口にしたのか、マーガレットにはわからなかった。だが、彼の視線の先にきっとその答えがあるのだろうと考え、彼女もクィレルと同じ方向を見る。

 そこにはホグワーツの森の番人であるハグリッドと彼の連れらしき眼鏡をかけた細身の少年がいた。そして、店の中にいる誰もがその少年に話かけようとしたり、握手をしようとしたりしている。

 

「ハグリッド? それから、あの少年は?」

「か、か、彼が、ハリー・ポッター。か、かの有名な『生き残った男の子』です」

「彼が『例のあの人』を倒した『生き残った男の子』なんですか?」

 

 マーガレットは驚いていた。

 

「まだ子供じゃないですか」

 

 ホグワーツに通うまではプライマリースクールに通っていたマーガレットにとって、歴史の授業で習うような偉人というのは当たり前のように自分よりも年上——そして故人——なのである。その印象は、ホグワーツで魔法史を学ぶようになってからも変わることはなかった。

 だというのに、その教科書で学んだはずの人物が目の前に、それも自分よりも幼い姿でいるというのは不思議な感覚だった。

 

「あ、あれは十年前のことですから。き、き、君はあの時代を知らない。だから、あ、あまりピンとこないのでしょう」

 

 クィレルの言う通り、八年前に初めて魔法界にやって来たマーガレットは、十年前の暗黒の日々のことを知らない。そのため、「例のあの人」のことも、それから「生き残った男の子」のことも教科書に出てくる存在としてしか知らず、あの時代の魔法界を生きた人々とは感覚が異なるのだ。

 

「か、彼は今年、ほ、ほ、ホグワーツに入学するそうです」

「そうなんですか! それなら、彼はハグリッドと一緒に学用品を買いに来たんですかね」

「お、おそらく」

 

 マーガレットは八年前にクィレルと一緒に魔法界を訪れたときの自分のようだなと思っていると、不意に声をかけられた。

 

「おお、クィレル教授! それに、マーガレットも!」

 

 声のした方を見れば、誇らしげな顔をしたハグリッドが手を招いている。彼が直々に呼んでいるからか、「生き残った男の子」を囲んでいた人混みが二つに割れ、マーガレットとクィレルが並んで通れそうな道ができている。

 

「先生、行きましょうか」

「そ、そ、そうですね」

 

 ハリーは自分に近づいてくる一組の男女の姿を交互に見ていた。一方は大きなターバンを巻いた青白い顔の男、もう一方は肩に鴉をのせた若い女。いったい何者なのだろうという疑問が少年の中で膨らむ。

 

「ハグリッド、この人たちは?」

「ハリー、クィレル教授とマーガレット——いや、マノック教授だ」

「今までどおり、マーガレットで構わないです」

 

 ハグリッドと親しげに話すマーガレットのことをハリーは不思議そうに見上げている。

 

「ハグリッドと知り合いなんですか?」

「はい。わたしがホグワーツの学生だった頃から」

「ハリー、クィレル教授もマーガレットも元はホグワーツの学生で、今は二人ともホグワーツの先生だよ」

「ぽ、ぽ、ポッター君」

 

 クィレルは一歩前に進み出た。まばたきを何度も繰り返し、声も上擦っている。

 

「お会いできて、ど、どんなにう、うれしいか」

 

 ハリーが有名人だからクィレルは緊張しているのだろうか、とマーガレットは思った。

 

「クィレル先生、よろしくお願いします。それから……」

 

 緑色の瞳がマーガレットの方を向いた。マーガレットも一歩前に出て、右手を差し出す。

 

「はじめまして、わたしはマーガレット・マノックといいます」

「はじめまして……」

 

 ハリーはマーガレットと握手をする間、ずっと彼女の顔——ではなく彼女の左肩にのるネモのことを見ていた。

 

「マノック先生、この鳥は?」

「この子は大鴉(レイブン)です。名前はネモといいます。ネモ、ミスター・ポッターにご挨拶を」

 

 ネモがぺこりと頭を下げる様子をハリーは面白そうに見つめていた。

 

「魔法使いって、みんな先生みたいにペットを飼っていらっしゃるんですか?」

「みんなではないですが、飼っている人も多いです。このネモとはわたしが小さい頃から一緒にいますが、ホグワーツ入学をきっかけにふくろうや猫を飼う人もいますよ」

 

 マーガレットの話をハリーは目を輝かせながら聞いていた。マーガレットがふとハグリッドの方に目を向けると、彼もにっこりと笑っている。生き物が好きなハグリッドのことだから、ハリーがペットに興味を持っていることがわかって嬉しいのだろうとマーガレットは考えた。

 

「ハグリッドはホグワーツでも一二を争うほど生き物に詳しい人物です。きっと色々なことを教えてくれますよ」

「そうなの、ハグリッド?」

 

 ハリーが話しかける。が、ハグリッドはなにやらぶつぶつと呟いていてなにも聞いていなかった。

 

「ヒキガエルは流行遅れ。猫は俺が好かん。ハリーならふくろうか……」

 

 突然、ハグリッドがパンと手を叩いた。その大きな音にハリーも、クィレルも、マーガレットも、ネモも、いや漏れ鍋にいた誰もが驚いた。

 

「よし、買い物がごまんとあるぞ。ハリー、おいで」

 

 なにかを思いつき、すっかり上機嫌となったハグリッドはハリーを連れて中庭へと向かった。その後ろ姿を見送りながら、あの少年も動くレンガの壁やその向こうに広がる魔法界の景色に心を奪われるのだろうかとマーガレットは考えていた。

 

「み、ミス・マノック」

 

 不意にクィレルから声をかけられた。

 

「か、か、彼らのことを見ていたらは、八年前のことを思い出しました」

「八年前、ですか?」

「み、ミス・マノックを見上げるぽ、ぽ、ポッター君の瞳がか、かつての君のようでしたので」

 

 マーガレットはそっと目を閉じ、先ほどのハリーとのやり取りを思い出す。たしかに、自分やネモ、それからクィレルを見上げる少年の瞳はキラキラと輝いていた。八年前の自分はああだったのかとマーガレットは今になって知った。

 

「あぁ、あの頃は楽しかった……」

 

 マーガレットの青い瞳は悲しげに微笑むクィレルの姿を映した。

 

「先生、——」

「あ、あぁ。そ、そうでした。よ、用事があるので……。わ、わ、私はさ、先に失礼します」

 

 クィレルはまた神経質そうに笑った。それにつられ、マーガレットも少し硬い笑みを浮かべる。

 

「そうですか。では、またホグワーツで会いましょう」

「で、では……」

 

 足早に去っていく男の後ろ姿を青い目をした鴉が見つめ続けていた。




誤字報告ありがとうございました!
改めて読み直してみると誤字脱字がたくさん見つかって……。なぜ投稿前に気づけないのか。

それから、作者の確認不足で原作の設定とのずれがあったので少し序章を書き直しました。(懐中時計の件)
マグルの作者的に時計は入学祝いのイメージでしたが、魔法族にとっては成人祝いでしたね、うん。


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第3話 一年の始まり

ホグワーツの謎(ホグミス)の内容に触れる部分があります。


馬車よ、移動せよ(ロコモーター・コーチ)!」

 

 マーガレットが呪文をかけると、馬車が列をなして動き始めた。移動呪文自体はそこまで難しいわけでもないのだが、いかんせん台数が多いために集中力が必要となる。彼女の肩にとまるネモも飼い主の緊張を察し、鳴き声一つ上げずにその様子を見守っている。

 やっとの思いでハグリッドたちの待つ場所まで馬車を運ぶ。頬を伝う汗をタオルで拭い、水筒に入れてきた冷たいレモネードで一息いれる。

 

「いや、マーガレットもうまいな。おまえさん、この仕事は何回目だ? クィレル教授の手伝いをしていたから、もうかなりの回数になるだろう」

「まだ二回目ですよ。先生の手伝いをすることも多かったとはいえ、9月1日のこの時間にホグワーツにいることは去年までありませんでしたから」

 

 今日は9月1日。二年生から七年生までがこの魔法の城に帰って来る日であり、初々しい一年生たちがこれからの七年間をどの寮で過ごすのかを組分け帽子によって決められる日である。

 そのような特別な日だからこそ、こうして朝からホグワーツの教職員が式に向けて準備をしているのである。例えば、変身術と呪文学の教授には大広間の飾り付けを、魔法生物飼育学教授と森番は馬車を引くセストラルの世話を。そして、マグル学教授には()()()()非魔法族にも馴染みが深かった馬車の手入れが任せられていたのであった。

 

「俺も魔法で手伝えりゃいいんだが、こればっかりはな」

「でも、それはわたしもです。わたしにはセストラルが見えない。だから、ハグリッドやケトルバーン教授のことは手伝えないですから」

「おまえさんはセストラルが見えないのか!」

 

 マーガレットが頷くと、ハグリッドは少々驚いた様子だった。

 

「父親を亡くしていると聞いていたから、マーガレットにも見えるもんだと」

「あれはわたしがまだ小さい頃のことで、事故の瞬間のことも憶えていないですから……」

「すまねえ。つらいことを聞いちまったな」

 

 ハグリッドは眉尻を下げ、申し訳なさそうな顔をしていた。

 

「いえ、わたしは大丈夫です。こういう話をするのも、もう慣れてますから」

「セストラルは一生見えないままの者もおれば、ミス・マノックよりもうんと若いのに見えている者もおるからな。人それぞれというわけじゃから、彼女はたまたまセストラルが見えなかっただけじゃな。だから、二人とも気にすることはないということじゃ」

 

 少し二人からは離れた場所で作業をしていたはずのケトルバーン教授が、いつの間にかすぐ近くまで来ていた。魔法生物のいるところ、そして魔法生物の話題があるところなら、ケトルバーンはどこにでも現れるという噂をマーガレットは聞いたことがあったがそれは真実のようだ。

 

「まあ、人間は誰しも死というのは避けられぬものじゃ。ゆえに、そのうちミス・マノックも見えるようになるじゃろうから、楽しみにしておくのじゃな」

 

 ケトルバーンはマーガレットに対し、慰めになっていない慰めの言葉をかけた。「そう、ですね」とマーガレットも苦笑いを浮かべるしかない。

 

「大きな翼、黒いたてがみ、鋭く光る目。よくセストラルは気味悪がられるものじゃが、その姿はとても美しい。ミス・マノックは大鴉(レイブン)を可愛がっておるじゃろう。ならば、君も気に入ると思うのじゃ」

 

 シルバヌス・ケトルバーン魔法生物飼育学教授——彼を一言で表すと「変人」といった言葉がぴったりだ。62回以上もの停職処分、アッシュワインダーに呪文をかけて大広間を火事にするなど、彼の奇人変人っぷりを表すエピソードは数多くある。

 しかし、この高齢の教授の魔法生物に関する知識と扱い、そして彼らに向ける愛情は確かなものだ。だからこそ、教師という魔法生物のことを人に教え、彼らのことを面白いと、愛おしいと、守りたいと思ってもらうための仕事があっているのだろう。

 マーガレットはそこに教授として目指すべき一つの姿を見たような気がした。

 

「そうじゃ、ハグリッド。()()はどこにいる? ダンブルドアがあのような魔法生物を欲しがるとは意外じゃが、貸したのじゃろ?」

「フラッフィーなら四階の右側の廊下におりますだ。なんでも()()()()に必要だそうで」

「それは初耳じゃな」

「守るため、ですか?」

 

 ハグリッドはあからさまにしまったという顔をした。恐らく、マーガレットたちが知らない、知るべきではないことを話してしまったのだろう。

 

「マーガレット、ケトルバーン教授。今のことは聞かなかったことにしてくれ。ダンブルドアから秘密にするように言われていたんだ」

「わしは()()()がどこにいるのかがわかれば充分じゃ。自分で見つけたことにしておこうかのう」

「えっと……。わたしはなにも聞かなかったです」

 

 その犬がどのような魔法生物なのか、それに一体なにをなにから守るのか、もちろん本当のことを知りたかったが、これ以上の深入りはハグリッドを困らせることにしかならないようだった。マーガレットは知りたがりとしての気持ちをぐっと抑える。

 マーガレットとケトルバーンの言葉を聞き、ハグリッドは安堵のため息を漏らした。

 

「マーガレットも教授だったから、つい気が緩んじまった。すまねえ、このことは内緒で頼む」

 

 マーガレットは無言で頷く。ネモも首を上下に動かし、飼い主の真似をして頷いていた。

 

「しかし……。フラッフィーじゃったか、あれがいるなら生徒たちはあの廊下に近寄れないのう。『呪われた部屋』の騒動が終わったと思ったら、今度は『禁じられた廊下』か。今年もまたずいぶんと面白いことになりそうじゃ」

 

 ケトルバーンは声を上げて笑った。マーガレットも彼がなにを思い出して笑っているのかはすぐにわかった。

 

「あの『呪い破り』たちですね」

「そうか、今年はもうあいつらがおらんのか」

 

 呪い破り、七変化、動物もどき(アニメ―ガス)に自称「ホグワーツ最強の魔女」。まだまだ印象深い後輩たちはいるが、マーガレットの一つ下の学年には優秀で個性的な学生が多かった。彼らがホグワーツで成し遂げたこと、ホグワーツに残したものというのは数えきれないほどある。

 

「そうだ。ハグリッド、今年のペットパーティーはどうしますか?」

「おお、そうか。あれもあいつらが始めたのか」

 

 ホグワーツのペットパーティーはマーガレットが三年生だった時に始まった。変身術の授業の帰り際にマクゴナガル教授から声をかけられ、ネモの友達を探せるならと参加したのがマーガレットと例の「呪い破り」たちとの交流のきっかけだった。

 元々はハグリッドの飼っている犬のファングの猫嫌いを克服するために始まったそうだが、ホグワーツ中のペットが集まることと、ペットにも飼い主にもおいしいお菓子がたくさんあったことが好評を博し、毎年開催することになった。

 

「去年まではあいつらが全部準備してくれたが、今年はどうするか?」

「それなら、わたしがやりますよ。あのパーティーは寮も学年も越えて集まれます。それなのに、なくしてしまうのはもったいないですから」

 

 マーガレットがペットパーティーをなくしたくない理由は他にもあるのだが、ここでは黙っておくことにした。

 

「それはいいことじゃ。それなら、わしはパプスケインを連れてこようかのう。あれは毎年人気じゃったからな」

「マーガレットが引き継いでくれるんなら安心だ。実はな、ハリーの誕生日プレゼントに白ふくろうを買ったんだ。ペットパーティーなら、きっとハリーも来てくれるぞ」

「それは楽しみです。今年はどれくらいの人が来てくれますかね」

 

 ホグワーツを去った者もいれば、これからホグワーツにやって来る者もいる。今年の組分けはどうなるのだろうか、とマーガレットは数時間後の歓迎会に思いを馳せていた。

 

 

▼ ▲ ▼

 

 

 日も傾き出した頃、マーガレットは研究室の中を何度も行ったり来たりしていた。時折、姿見の前で立ち止まっては髪を結わえ直したり、ローブの襟を正したりしている。

 

「緊張してきた……」

 

 被り慣れない三角帽をいじりながら、マーガレットは独り言を呟いた。この数年、毎年ホグワーツの入学式に参加していたが、今年はその立場も心構えも違う。二年前までは生徒として、昨年は教師になっていたとはいえまだ助手だった。でも、今は教授である。当然、生徒たちから向けられる視線というのも変わるだろう。だからこそ、せめて形だけはちゃんとしようと考えていた。

 長いこと鏡の中の自分とにらめっこをしていると、背後から「カーカー」と鴉の鳴き声が聞こえてきた。マーガレットが我に返って振り向くと、水を張った桶の中で退屈そうにしているネモと目があった。

 

「あぁ、ごめんね。ネモも仕度しないとだね」

 

 式に向けて身だしなみを整えなければならないのは、なにもマーガレットだけではない。きれい好きなネモも水浴びをしていたのだが、飼い主が鏡にばかり気を取られているせいで桶から出られずにいた。

 マーガレットは消失呪文でたっぷりと水の入った桶を片づけると、続けて熱風呪文でネモの体を乾かし始めた。まだこれらの呪文が使えなった頃は、わざわざ空いているトイレの洗面所まで行かなければならなかったり、勝手に中庭の噴水まで水浴びをしに行ったネモのことを探しに行ったりしなければならかった。

 それはそれで楽しかったとは思うものの、魔法が使えるのはやはり便利である。それに、暖かい風を浴びて気持ちよさそうにしているネモのことを見ると、やはり魔法が使えて良かったと思うマーガレットであった。

 

「いい子いい子」

 

 艶のある黒い羽を乾かしながら、ネモの頭を撫でる。ネモはマーガレットの手のひらに頭を寄せ、とても嬉しそうにしていた。

 

「ネモ、もう大丈夫だよ。さて、今の時間は……」

 

 マーガレットはローブの内ポケットから金の懐中時計を取り出して時間を確認した。もう間もなく新入生の歓迎会が始まる時間だ。

 マーガレットはもう一度姿見の前で服装を整え、大きく深呼吸をした。そして、鏡の中のネモと目線を合わせ、指で招くような動作をする。すると、ネモは大きく飛び上がり、宙を旋回してから彼女の左肩につかまった。

 

「よし、行こう!」

 

 

 

 マーガレットが大広間に着くと、すでに多くの生徒たちが席に着いていた。今朝までの静寂に包まれた空間とは打って変わり、今は子供たちの楽しげな話し声で城内が満たされている。

 そして、大広間で入学式の開始を待つのは生徒だけではない。すでに多くの教授たちが——珍しく占い学のトレローニー教授も含めて——席に着いている。今いないのは新入生を迎えにいったハグリッドとマクゴナガル教授、それから校長と他数名の教授くらいだろうか。

 昨年はまだ助手だからと教職員テーブルの一番端に座っていたマーガレットであったが、今年は魔法史のビンズ教授がすでにその席に座っていた。ならば別の席を探さなければと考えていると、ちょうど恩師の隣が空いていることに気がついた。

 

「先生、お隣いいですか?」

「は、はい。ど、ど、どうぞ」

 

 マーガレットはクィレルの右隣の椅子に腰を下ろした。その時、どこからかニンニクの臭いがした。ハロウィーンの時のかぼちゃの甘い匂いのように厨房からだろうかと思ったが、隣にいる人物のことを思い出してそうではないことに気づく。

 クィレルが黒い森で吸血鬼に会ったという噂はどうやら本当だったらしく、いつからか彼は吸血鬼除けのためにニンニクの臭いをまとうようになっていた。初めはマーガレットも驚いたものの、次第にニンニクの臭いで以前母から教わった少し古くなったフランスパンでつくる自家製ガーリックラスクの味を思い出すようになり、今では臭いよりも急にお腹が鳴ってしまわないかの方が気になるようになってしまっていた。

 

「み、ミス・マノック、す、少し遅かったですね」

「正装する機会もあまりなかったので、準備に時間がかかってしまいました……。でも、どうですか? いつもに比べたらより魔女らしくなっていますかね?」

 

 ローブも帽子もきちんと採寸して仕立ててもらったものではあるが、それでも自分が服に着られてしまっているように感じる。おろしたてのローブの裾が床についてしまわないよう、マーガレットは椅子に座りなおした。

 

「え、ええ。か、肩にのせたネモはも、もちろんですが、その()()()()()()()がず、ずいぶんと魔女らしいですよ」

「そうですか! よかったです」

 

 マーガレットはほっとした様子だった。ついに自分も魔法使いらしいローブが似合うようになったのかと白い歯をのぞかせて笑う。

 

「少しでも形から入れればと思っていたんです。わたしは実力も経験もまだまだですから……」

「で、ですが、き、君はあのマクゴナガル教授よりも若く教授の座に就いたでしょう? それだけの実力とこ、今後への期待があるからこその、し、史上最年少教授ではないですか」

「とは言っても、一年早いだけですよ。それに、先生とも二年しか違わないです。でも、最年少教授ですか……」

 

 マーガレットはなにかを懐かしむかのように呟いた。

 

「そういえば、わたしの一つ下の学年にホグワーツの——それも史上最年少の先生を目指している子がいました」

「き、君以外にも教師を目指している生徒がいたのですか」

「はい。あの『呪い破り』のお友達に。彼ら、マグル学はとっていなかったはずですから、先生とは面識がなかったかもしれませんが」

 

 「呪い破り」と聞き、クィレルもピンときた様子だった。

 

「あぁ、か、彼らでしたか。じ、授業を教えたことはありませんが、会ったことはあります。謝恩行事の時にはい、インタビューを受けました」

「そういえば、あの子はマクゴナガル教授のプレゼンをしていましたよね! 多くの教授にインタビューをして回った聞いていましたが、先生のところにも行っていたんですね」

 

 マーガレットがまだ学生だった頃、ホグワーツで働く人々を労うための謝恩行事があった。そして、その時に行われたのが教授たちの功績や人柄をたたえるプレゼン大会である。例の「呪い破り」はマクゴナガル教授のプレゼンを担当していたが、どうやら同僚へのインタビューということでクィレルのもとにも足を運んでいたようだ。

 

「そういえば、わたしのところにもインタビューが来たんでした。先生のプレゼンを担当したメルーラ・スナイド、彼女がなにか先生のことで知っていることを教えてくれないか、と。だから、先生がなんでも知っていらっしゃることとか、無言呪文を使いこなしてらっしゃることとか、色々と話したんです」

「み、ミス・スナイドも面白い生徒でした。ま、マグル学には興味がま、ま、全くないようでしたが、わ、私が無言呪文が得意なことは知っていて……。い、インタビューそっちのけで、呪文の練習ばかりしていましたがき、君が情報源でしたか」

 

 クィレルは「なぜメルーラ・スナイドが自分が無言呪文に長けていることを知っていたのか」という長年の疑問が解け、どこかすっきりとした様子だった。

 

「ということは、み、ミス・マノックはミス・スナイドとも面識があったのですか」

「はい。ペットパーティーがきっかけで、私が三年生の時に知り合ったんです。あのパーティーのおかげで、わたしの交流関係もずいぶんと広がりました。そういえば、昼間にハグリッドと今年もペットパーティーをやらないかと話していたのですよ。あのパーティーを最初に始めた彼らはもういませんが、寮も学年も超えて交流できる貴重な機会ですからなくしてしまうのはもったいない、と」

「そ、それはいいですね。ですが、き、君の場合、あのパーティーで出されるお菓子が目当てではないのですか?」

「あはは、バレちゃいましたか」

 

 図星をつかれ、マーガレットは気恥ずかしそうに笑う。クィレルもほんの少し表情を緩めたようであった。

 

「ずいぶんと盛り上がっているようですな」

「せ、セブルス……」

 

 いつの間にか二人の背後にはねっとりと黒髪、鉤鼻、土気色の顔をした男が立っていた。セブルス・スネイプ教授はクィレルの隣に座ると、その暗い瞳をマーガレットに対して向けた。

 

「マノック教授、あなたはもうホグワーツの一生徒ではなく、教える側の人間ですぞ。いつまでも学生気分が抜けずにいるのはいかがかな」

「はい、気をつけます」

 

 マーガレットにとって、スネイプは嫌いではないが苦手な教授の代表格であった。かなり厳しく、彼から寮点をもらったこともほとんどないが、それでも七年間は魔法薬学の授業で世話になった教授である。それに、記憶魔法薬の作り方を個人的に教えてもらった恩もある。

 しかし、どちらかといえば彼女はスネイプのことが苦手であった。

 

「いつまでも()()が傍にいてくれるわけではありませんぞ」

「そうですね……」

 

 まったくの正論であり、マーガレットはなにも言い返せない。スネイプはその冷たい瞳を今度はクィレルに向けた。

 

「クィレル、あなたも自身の立場をよく考えるべきでは?」

「は、はは。き、君は厳しいな……」

「あなたがホグワーツの人間ならば、当然のことでしょう」

「なぜ……」

 

 スネイプは暗く冷たい黒い瞳をクィレルに向け続けていた。そこには敵意のようなものがにじんでいるように思える。それが自分に向けられているものではないとわかってはいたが、マーガレットは心臓をぎゅっと握られているような感覚を覚えた。

 マーガレットはスネイプがずっと闇の魔術に対する防衛術の教授になりたがっているという噂をふと思い出した。クィレルがマグル学教授だった頃のこの二人の仲というのは特別親しかったわけでもないが、険悪だったわけでもない。もしかして、クィレルが闇の魔術に対する防衛術の教授に選ばれたことに対して、スネイプは嫉妬しているのだろうか。

 スネイプと対峙する新任の闇の魔術に対する防衛術の教授に同情を寄せつつ、やはりこの魔法薬学の教授は苦手だなと思うマーガレットであった。

 

「セブルス、クィリナス。ここは祝いの場じゃ。二人とも、もうちょいと明るい顔をしてくれんかの」

 

 ダンブルドアはいつの間にかテーブルの真ん中にある大きな金色の椅子に座っていた。校長から直々に明るい顔をしてほしいと言われたものの、スネイプはより一層むっとした表情に、クィレルはより一層おどおどとした表情になった。対して、彼らに声をかけたダンブルドアは穏やかな笑みを浮かべ、明るいブルーの瞳を真正面——つまりは大広間の入口に向けている。

 大広間には生徒も、教職員たちも揃っていた。グリフィンドール側の席の端の方に一年生を迎えに行ったハグリッドがいることから、もう間もなく式が始まることがわかる。

 

 ホグワーツの一年は新入生の組分けと彼らの歓迎会から始まる。教授となって9月1日以前からこの城にいるようになったとしても、この日が一つに区切りであるということに変わりない。

 

「ネモ、また一緒に頑張ろうね」

 

 ネモの頭を撫でながら、マーガレットは小さな声で呟いた。ネモも飼い主の耳元で小さく「カア」と鳴く。事あるごとに最愛のペットと交わすやり取りではあるが、それはいつも彼女に元気と勇気を与えてくれる。自分は独りではない、と。

 

 二対の青い瞳が大広間の入り口に立つエメラルド色のローブの魔女とその後ろにいる襟の黒いローブを身にまとった小さな魔法使いたちの姿を捉えた。ネモは興奮したのか、それとも彼らのことを歓迎しようとしたのか、一度翼を大きく広げた。それを見て、マーガレットの頬も思わず緩んでしまう。

 

「さて、本当に始まるね」

 

 こうして、マーガレット・マノック教授の最初の一年が始まった。




最近、ホグミスを始めました。今回の話(ペットパーティーの件など)もそうなのですが、今後もホグミスの設定を取り入れられればなと思っています。
ちょうど三年になったところなのですが、どうしてクィレル先生のマグル学を受けることができないのでしょう? ルーピン先生(まだ先生じゃない)もロックハート氏もいるのになぜクィレル先生はいない? クィリナス・クィレル“マグル学”教授は何処に……

【追記】
ホグワーツの謎にクィレル教授が登場したので一部書き直しました。(2020/12/11)


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第4話 ハロウィーンの悪夢

「今日はここまで。宿題は魔法族の動く写真と非魔法族(マグル)の写真の類似点と相違点について2000文字程度でまとめてください。レポートの提出は一週間後です。では、また」

 

 授業が終わると生徒たちは一人、また一人と教室を去っていく。彼ら全員が部屋から出たことを確認し、マーガレットは大きなため息をついた。なにせ今日は一限から授業があり、今やっと最後の授業が終わったのだ。それに、研究室には今日回収した宿題のレポートが山のように積み上げられている。

 少しでも疲労を癒すため、マーガレットはローブのポケットに入れていたチョコレートを口に放り込んだ。

 

 マーガレットは助手として一年、教授としてはすでに二ヶ月も教壇に立っている。そのため、一年前の9月の頃や教授の仕事を任された直後と比べれば、それなりに余裕のある日々を過ごしていた。

 しかし、自身の研究や趣味に当てられる時間は少し増えたものの、それでもまだレポートや小テストの採点に費やす時間の方が多かった。現に、今夜は何杯もの紅茶を飲みながら作業をしなければならないだろう。

 

 マーガレットは再び大きなため息をついた。それならばすぐにでも次の仕事に入った方がいい。彼女は机の上の荷物をまとめ、研究室に授業で使った資料を片付けに行った。しかし、数分後に再び姿を現したマーガレットはマグル学教室を飛び出し、足早にどこかへと向かった。

 

 

 

 マーガレットとネモはホグワーツの廊下を歩いていた。城内のいたるところにはかぼちゃをくり抜いたランタンが飾られ、ろうそくの炎が怪しげな影を作り出している。今日は10月31日。年に一度のハロウィーンである。

 厨房では朝から屋敷しもべ妖精たちが晩餐で出すための料理を作っていて、パンプキンパイのおいしそうな匂いが廊下中に漂っていた。

 

「ネモ、今年も楽しみだね」

 

 マーガレットにとって、ハロウィーンは一年のうち三番目に好きなイベントである。一番目が母の作るケーキが食べられる誕生日、二番目が祖母の作るブッシュ・ド・ノエルが食べられるクリスマス。そして、お菓子で溢れるハロウィーン。

 特に、7月の誕生日と12月のクリスマスは実家で祝うことがほとんで、反対にハロウィーンはすっかりホグワーツで楽しむことが恒例となっていた。魔女の仮装をして近所の家々をまわるマグル流のハロウィーンも楽しかったが、絶品のかぼちゃ料理をお腹いっぱいになるまで食べることができるホグワーツのハロウィーンもマーガレットは大好きだった。

 というわけで、レポートの採点という大仕事に取り掛かる前に、まずはおいしいものや甘いものをたくさん食べて英気を養おうとマーガレットは考えたのであった。

 

 大広間では何千匹ものこうもりがマーガレットたちの到着を待ち受けていた。そのこうもりたちがかぼちゃのランタンに火を灯すことで、ホグワーツのハロウィーン・パーティーは始まる。

 マーガレットが席に着くと、金色の皿の上に今夜の食事が現れた。かぼちゃのグラタンにかぼちゃのスープ、それからパンプキンパイとかぼちゃづくしである。この後もかぼちゃのプリン、かぼちゃのアイス、パンプキンタルトにかぼちゃジュースと甘いデザートがこれでもかというほど続く。

 マーガレットはこの甘いかぼちゃ尽くしのメニューが大好きであったが、やはりこれが苦手な者もいるようだ。例えば、彼女の二つ隣の席に座るスネイプ教授はげんなりとした表情でちぎったブレッドを口に運んでいた。

 

 今日は魔法薬学教授の顔がよく見えるなあ、と思っていたマーガレットであったが、それが食事の席でいつも彼女の左隣に座る恩師の姿がないからだということに気がつく。時計を確認すれば、夕食が始まってからもうそれなりの時間が過ぎていた。

 普段から大広間に来ない占い学のトレローニー教授ならともかく、クィレルまでいないことにマーガレットは胸騒ぎを覚えた。

 

 新学期の準備で忙しくしていた6月のように、最近もクィレルと顔を合わせるのは食事の席くらいであった。三年生からの選択科目であるマグル学とは違い、闇の魔術に対する防衛術はホグワーツの全生徒を対象としているのだから、一日の授業数も採点する課題の量もマーガレットとは桁違いである。そのため、クィレルが自身の研究室から出てくる機会は減り続ける一方だった。

 さらに仕事の量だけでなく、疲労も増しているようだった。8月を過ぎたあたりから一段と顔色が悪くなり、そのうち過労で倒れてしまうのではないかとマーガレットも心配に思うくらいであった。

 もしや新学期が始まって二ヶ月が過ぎようとしている今日、このハロウィーンの夜になにかあったのではないか。食べかけだったパンプキンタルトを口に詰め込み、マーガレットは防衛術の教授を探しにいこうかと考える。

 

 ちょうどその時だった。クィレルが大広間に駆け込んできたのは。

 

「トロールが……トロールが……」

 

 ずっと走っていたのか息も絶え絶えで、顔も青ざめている。ただ事ではない様子のクィレル教授を見て、徐々に生徒たちの騒めきも大きくなっていく。クィレルはうわごとのように「トロールが……」と繰り返し、やっとの思いでダンブルドアの席の前までたどり着く。

 

「トロールが……地下室に……お知らせしなくてはと思って」

 

 まるで糸がすべて切れてしまった操り人形のようにクィレルはその場に倒れ込んだ。

 

「先生! 大丈夫ですか、先生!」

 

 マーガレットは真っ先にクィレルに駆け寄った。あんな倒れ方をした後だったが意識はあるらしく、マーガレットの呼びかけに対してクィレルは弱弱しく頷いていた。

 

 一方、生徒たちは大混乱だった。そこかしこで悲鳴が上がり、恐怖のあまりその場で動けなくなっている者もいれば、我先にこの場から逃げ出そうとしているものもいる。

 しかし、ダンブルドアが杖の先で何度か爆竹を爆発させたことで、その場は静かになった。

 

「監督生よ」

 

 校長の威厳に満ちた声が大広間中に響く。

 

「すぐさま自分の寮の生徒を引率して寮に帰るように。それから、地下室に寮があるハッフルパフとスリザリンには、それぞれスプラウト先生と——そうじゃな、フリットウィック先生に同行してもらうかの」

 

 スリザリンは寮監ではないのかと思い、マーガレットは先ほどまでスネイプが座っていた席を見るがすでにその姿はなかった。

 

「トロールは先生方が対処してくださる。では、寮で楽しいハロウィーンのパーティーを続けるのじゃ」

 

 ダンブルドアに続き、他の教授たちも大広間から地下室へと向かっていた。生徒たちも監督生を先頭に、整然とした様子でそれぞれの寮へ帰っていく。

 

「わたしもトロールを探しに行きますが、先生は無理なさらないでくださいね」

「は、はい。わ、私ももう少しや、休んでから……合流します」

「わかりました。では、先に向かいます」

 

 まだクィレルの顔色は悪いままだ。早く医務室に連れて行くべきなのではとも思うが、まずはこの城に混乱を生み出した原因を探し出さなければいけない。

 ならば一刻も早くトロールを見つけなければ、とマーガレットは立ち上がった。しかし、普段ならどこへでも一緒に行くはずのネモが彼女の左肩から飛び降りた。

 

「ネモ? どうしたの? 一緒に来ないの?」

 

 ネモは「カー」と鳴き、クィレルのそばで立ち止まった。飼い主の代わりに自分がクィレルことを見ていようでも言いたいのだろうか?

 

「ネモが先生のそばにいてくれるの?」

 

 ネモは「カア」と鳴き首を上下に振った。どうやらマーガレットが想像したとおりのことをネモは考えているようだ。

 ネモはさらにクィレルに近づき、彼のことを見つめていた。マーガレットはどうするべきか悩んだが、賢いネモなら少しでもクィレルの役に立つことができるだろうと考えた。

 

「……先生。人を呼んでくるとか、物を運ぶとか、それならネモも先生のお力になれるかと思います。ですから、なにかあったときはネモを頼ってくださいね」

「は、はあ」

「ネモ、わたしの代わりをお願い」

 

 マーガレットはネモとクィレルだけが残る大広間を後にした。

 

 

 

 トロールといえばあの大きな体に、遠くからでもわかるような独特の匂いが特徴だ。しかし、城中に充満しているかぼちゃの甘い匂いのせいで、トロールの悪臭はかき消されている。それゆえにトロールの捜索は難航していた。

 とはいえ、このまま発見が遅れてトロールが城内を荒らしたり、物を壊したりしたとしても魔法で簡単にもとに戻すことができる。それに、生徒たちは夕食のために大広間に集まっていて、このトロールの侵入を受けて一斉に寮へと戻った。だから、マーガレットはそこまで切羽詰まったものを感じていなかった。そう、彼らを見つけるまでは。

 

「あなたたち、そこでなにをしているのですか!」

 

 どこからかドアの閉まる音が聞こえ、マーガレットは急いでその発生源を探しに向かった。トロールにドアを開けたり閉めたりする知能があるとは思えないが、その音はたしかに自分以外のなにかが近くにいるという証拠である。

 しかし、マーガレットがある女子トイレの前で見つけたのは、トロールでもなければ城内を捜索している他の教授でもなかった。

 

「どうしてグリフィンドールがここにいるのです」

 

 黒髪の少年と赤毛の少年は互いにしまったという表情をしていた。黒髪の少年はマーガレットも見覚えがある生徒だった。夏に漏れ鍋で出会った、「生き残った男の子」ことハリー・ポッターだ。

 それに、赤毛の少年のことも——正確には彼の兄たちをだが———知っていた。グリフィンドールの監督生が「末の弟もグリフィンドールに組分けされた」と話しているのを聞いたが、彼がそのウィーズリー家の末弟だろう。

 

「マノック先生、これは……」

 

 説明しようとハリーが口を開きかけた時、三人は甲高い、恐怖で立ちすくんだような悲鳴を聞いた。赤毛の少年——ロン・ウィーズリーの顔は真っ青になっている。

 

「ハーマイオニーだ!」

 

 ハリーとロンが同時に叫んだ。

 

「この中に誰かいるんですね」

「ハーマイオニーが、ハーマイオニー・グレンジャーが中に!」

 

 その名前は直接面識がないマーガレットも聞いたことがあった。今年の一年生にはとても勉強熱心で大変優秀な生徒がいるという話は三年から始まる選択科目の教授たちにも伝わっていた。マーガレットの記憶がたしかなら、「ハーマイオニー・グレンジャー」はその生徒の名前であったはずだ。

 

「それから、僕たちが閉じ込めたトロールも!」

 

 マーガレットは自身の鼓動が速まるのを感じた。しかし、頭はそれと反比例するかのごとく冷静になっていく。

 

「わかりました。二人とも、扉の前を開けてください」

 

 生徒(子供)たちを守るため、マーガレットは木目の美しいマツの杖を構えた。

 

「——粉々(レダクト)!」

 

 鍵のかかった木の扉が一瞬で砕け散る。すると、汚れた靴下と、掃除したことがない公衆トイレの臭いを混ぜたような悪臭が漂ってきた。間違いなく、この中にトロールがいる。

 マーガレットはすぐに呪文を唱えられるよう、杖を構えたまま女子トイレに突入した。ハリーとロンも杖を手にし、彼女の後に続く。

 

「ミス・グレンジャー!」

 

 ハーマイオニー・グレンジャーは奥の壁にはりついて縮み上がっていた。彼女はハリーとロン、そして彼らが連れて来た教授(大人)の姿を見て、安堵の表情を浮かべた。しかし、自分に迫ってくるトロールの存在を思い出し、小さな悲鳴を上げた。

 

「二人はここを動かないでください。ミス・グレンジャーのことは必ず助けますから。——鳥よ(エイビス)!」

 

 白い杖の先から真っ黒い鴉が何羽も飛び出した。鴉たちはトロールの真後ろで「ガアガア」とがなり立てる。鴉の鳴き声に気を取られたトロールはゆっくりと振り返り、その小さな瞳をマーガレットたちの方に向けた。

 

「『石』になれ——太陽の光よ(ルーマス・ソレム)!」

 

 白く、暖かな光がトイレ全体を包み込んだ。その光が眩しかったのか、トロールは顔を大きな手で覆って動かなくなった。

 

「本当に、石になったんですか?」

 

 ハリーが恐る恐るマーガレットに尋ねる。

 

「いいえ、()()()()()動かなくなっただけですよ。それに、あれは山トロールです。逃げるには十分な時間が取れるはずですが、そう長くは持ちません。すぐに逃げられるよう、二人は入り口の近くにいてください」

 

 ハリーとロンが砕けた扉の残骸の近くに立ったのを確認し、マーガレットはハーマイオニーのもとに歩みを進めた。石のように動きを止めているとはいえ、4メートルもあるトロールの姿は見る者に恐怖を抱かせるには十分である。

 マーガレットも恩師から教えてもらったおかげで弱点を知っていたからよかったものの、棍棒を振り回して暴れているトロールと対峙するなど相当な勇気が必要だ。

 

「ミス・グレンジャー、よく頑張りました。もう大丈夫ですよ」

 

 床に座り込んでしまっているハーマイオニーにマーガレットは手を差し伸べる。ハーマイオニーは弱弱しくその手も握り返した。

 

「さあ、戻りましょうか。……えっと、立てますか?」

 

 ハーマイオニーは首を横に振る。

 

「私……。私、腰を抜かしちゃって。だから……」

「わかりました。大丈夫ですよ」

 

 身体浮遊の呪文をかけるため、マーガレットは杖を構えた。しかし、ある異変に気づく。

 マーガレットが助けにきたことでほっとした表情をしていたはずのハーマイオニーが、再び恐怖の滲んだ瞳で上を見上げていた。ガクガクと小さな体を震わせ、必死になにかを伝えようと口を動かす。

 

「せん、せい……。う、しろ……」

 

 ブァーブァーという低い唸り声が背後から聞こえてきた。それから、なにかを引きずるような音も聞こえてくる。

 相手は凶暴な山トロールであり、森トロールや川トロールに比べれば太陽の光にも強い個体である。しかし、あれだけ強い光を浴びたのだから少なくとも五分間は石のように動かなくなるはずだ。なのに、一分もしないうちにこのトロールは再び動き始めた。

 マーガレットは杖を強く握りしめる。

 

「マノック先生、危ない!」

「——護れ(プロテゴ)!」

 

 マーガレットが振り向きざまに出現させた見えない盾とトロールの振り下ろした棍棒がぶつかり合った。ゴンッという重い音がトイレに反響する。もし盾の呪文が間に合わなかったとしたら、マーガレットの命はなかったかもしれない。

 トロールは再び棍棒を掲げ、勢いよく振り下ろした。その攻撃も見えない盾によって防がれる。が、トロールはそれでもなお攻撃の手を緩めはしなかった。

 いくら盾の呪文があるとはいえ、このままでは埒があかない。

 

「こっちに引きつけろ!」

「やーい、ウスノロ!」

 

 マーガレットとハーマイオニーの窮地を察し、ハリーとロンは砕けた扉の欠片や壊れた洗面台の破片をトロールに向かって投げ始めた。しかし、まだ11歳の子供が魔法の力も使わずに投げているので、トロールに当たったところで大したダメージにはならない。彼らのことなどお構いなしに、トロールは棍棒を振り続ける。

 

「あの、トロールの動きを止められれば」

「でも、どうやって止めるんだ! そんな呪文、僕たちはまだ習ってやしない。やっと今日、物を浮かび上がらせる呪文を習ったくらいだ」

「ロン、それだよ! 動きを止められなくても、あの棍棒で殴れなくすればいいんだ!」

 

 ハリーとロンは互いに顔を見合わせて頷いた。そして、同時に杖を構える。

 

「——浮遊せよ(ウィンガーディアム・レヴィオーサ)!」

 

 棍棒はトロールの手から飛び出し、空中高くに上がった。握っていたはずの棍棒を見失い、トロールは不思議そうに首を傾げている。ハリーの予想通り、棍棒をなくしたトロールはマーガレットたちへの攻撃を止めた。

 トロールの手から離れた棍棒は空中で一回、二回と回転し、やがてゴトンと音を立ててハリーたちの近くの床に転がった。その音を聞き、トロールはゆっくりと振り向く。棍棒を取り戻すため、今度は彼らへと近づいていく。

 

「ミス・グレンジャー、一人で歩けますか?」

「はい。もう、大丈夫です」

「怖いかもしれませんが、トロールに見つからないよう壁際の洗面台の下を通って彼らのところまで行ってください。その間はわたしがトロールの気を引きます。だから、あなたたちは逃げて」

 

 ハーマイオニーが立ち上がると、マーガレットは彼女を守るようその一歩前に立った。ローブのポケットから丸いボール型のチョコレートをいくつか掴み、そのうちの三つをハーマイオニーの手のひらにのせる。

 

「ここを出たら彼らと食べてくださいね。甘いものを食べると幸せな気持ちになれますから。さて……」

 

 マーガレットは残りのチョコレートをトロールの後頭部に向かって投げた。

 

「——肥大せよ(エンゴージオ)! ——爆発せよ(コンフリンゴ)!」

 

 トロールの背後で肥大化したチョコレートが爆裂する。爆発の音とともにチョコレートの甘ったるい香りがあたりに漂った。トロールは歩みを止め、マーガレットに顔を向ける。

 

「ハロウィーンですから、お菓子ならいくらでもありますよ。——爆発せよ(コンフリンゴ)!」

 

 菓子をしまっているポケットには検知不可能拡大呪文をかけているため、チョコレートの用意ならいくらでもある。そのため、爆発の音や光、それから匂いでトロールの気を引き続けるのは容易だった。棍棒のことなどすっかり忘れたトロールはマーガレットに向かって一歩、また一歩と迫って来る。

 マーガレットがちらりと横を見た。すでにハーマイオニーはトロールの横を抜け、もうすぐハリーたちと合流できそうなところまで来ていた。自分の役割は果たせそうだとマーガレットは安心する。

 

 マーガレットは再び視線を戻した。トロールは拳を握りしめ、腕を大きく振り上げている。棍棒がなかったとしても、あの大きな手で押しつぶされてしまってはひとたまりもない。

 

「——護れ(プロテゴ)!」

 

 盾で攻撃を弾き返す。トロールが再び腕を振り上げた。その瞬間こそが反撃の機会である。マーガレットは杖先をトロールの顔に向けた。

 

「——太陽の……(ルーマス……)。どうして!」

 

 その時、マーガレットはなぜこのトロールが日光を浴びてもなお動くことができたのか気がついた。マーガレットが呪文を唱えようとした瞬間、トロールはたしかに目をつむった。この山トロールは光を避けるための行動を取ったのだ。ということは、先ほども顔を手で覆い、光を遮ったことでダメージを軽減したのだろう。

 しかし、トロールの脳はとても小さく、ほとんど食事のことしか考えていない。そのため、野生のトロールというのは狩りで獲物を追っている間にも勝手に日光を浴び、勝手に動けなくなる程度の知能しか持たない。誰かから知恵を授けられない限り、自身の弱点のことなどトロールが知っているはずないのだ。

 

「——撃て(フリペンド)!」

 

 マーガレットの唱えた呪文はトロールの硬い皮膚に跳ね返された。こうなってしまってはもうこの怪物を止められない。

 トロールは限界まで腕を振り上げた。ハリーとロンの叫ぶ声が聞こえ、ハーマイオニーの悲鳴がトイレに響く。

 マーガレットが死を覚悟したその時、突如として黒い影が現れた。

 

「ネモ?」

 

 青い目の鴉はトロールの眼前に飛び出すと、くちばしでその小さな目玉をつつき始めた。この攻撃は効いたようで、トロールは手を振り回して鴉を追い払おうとする。

 

「ミス・マノック、そこを退いてください」

「はい! 先生!」

 

 そこには黄褐色の杖を構え、真剣な表情をしたクィレルがいた。太い腕に当たらぬよう慎重にトロールを避け、マーガレットは恩師のもとに駆け寄る。ネモも飼い主が安全な位置まで退くとトロールへの攻撃を止め、彼女の左肩へと戻る。

 

 獲物を逃がしてなるものかとトロールは咆哮を上げた。しかし、それにも一切動じることなくクィレルは無言で杖を振る。

 床を転がっていた棍棒が勢いよく吹き飛んだ。それは美しい放物線を描き、トロールの顔に当たる。ぐしゃっとなにかがつぶれるような音がマーガレットの耳に届いた。

 トロールは後ろによろめき、壁に後頭部を強打した。その反動で今度は顔から床に倒れ込み、ピクリとも動かなくなった。

 

「これ……死んだの?」

「いや、ノックアウトされただけだと思う。……たぶん」

 

 三人の生徒は、信じられないとでも言いたげな顔でうつぶせに伸びているトロールと闇の魔術に対する防衛術の教授のことを交互に見ていた。

 

「ミス・マノック、け……あぁ、け、怪我はあ、ありませんか?」

「はい、わたしは大丈夫です。それよりも……あなたたちは怪我しませんでしたか?」 

 

 マーガレットはハーマイオニー、ロン、ハリーの順に彼らの顔を覗き込んだ。三人とも首を縦に振り、「大丈夫です」と答える。

 マーガレットは杖をローブにしまい、表情を緩めた。

 

「よかった。本当によかったです」

 

 マーガレットが安堵のため息を漏らしていると、バタバタと足音が近づいてくることに気がついた。

 

「突然、鴉を追いかけ始めたと思えば——。これは……」

 

 まず、真っ先に女子トイレに飛び込んできたのはスネイプ教授だった。それから少し遅れて、マクゴナガル教授もやって来る。彼女は床に倒れ伏したトロールとその傍らに立つ三人の生徒を見て驚きの表情を浮かべていた。

 

「一体全体、これはどういうことなのですか」

「マクゴナガル教授、わたしが説明いたします。彼ら——ミスター・ポッターとミスター・ウィーズリーがここにミス・グレンジャーとトロールがいると教えてくれたのです。ですから、彼女を助けようと……。しかし、わたしだけでは危ないところでした。ミスター・ポッターとミスター・ウィーズリーがトロールに立ち向かってくれたからこそ、なんとか彼らを守ることができました」

「では、誰がこのトロールを?」

「それはクィレル先生です」

 

 マクゴナガルは驚きの、スネイプは疑いのまなざしをクィレルに向けた。そのクィレルは先ほどの雄姿が嘘だったかのように、頼りなさそうで、弱弱しい笑みを浮かべている。

 

「わ、わ、私はじ、自分ができることをし、したまでです」

「そうでしたか。ここでなにがあったのか、大体のことはわかりました。そして、あなた方です」

 

 マクゴナガルは三人のグリフィンドール生のことを見た。

 

「殺されなかっただけでも運がよかった。しかし、寮にいるべきあなた方がどうしてここにいるのですか?」

 

 生徒たちは黙り込んでしまった。ハリーとロンは互いに顔を見合わせ、気まずそうな顔をしている。

 

「マクゴナガル先生。聞いてください——二人とも私を探しに来たんです」

 

 口を閉ざしたままの少年たちに代わり、ハーマイオニーが理由を説明し始めた。

 

「ミス・グレンジャー!」

「私がトロールを探しに来たんです。私……私一人でやっつけられると思いました。——あの、本で読んでトロールについてはいろんなことを知っていたので。もし二人が私を見つけてくれなかったら、もし二人が先生を呼んできてくれなかったら、私、いまごろ死んでいました」

「ミスター・ポッター、ミスター・ウィーズリー。では、あなた方はミス・グレンジャーを探すため、寮には戻らなかったということですか?」

 

 ハリーたちは黙ったまま首を縦に振った。マクゴナガルは小さくため息をつく。

 

「そういうことでしたか」

 

 マクゴナガル教授は三人の生徒をじっと見た。

 

「ミス・グレンジャー、なんと愚かしいことを。たった一人で野生のトロールを捕まえようなんて、そんなことをどうして考えたのですか? グリフィンドールから5点減点です」

 

 そして、マクゴナガルはハリーとロンの方に向きなおった。先ほどまでに比べれば、その表情はずいぶんと柔らかいものだった。

 

「先ほども言いましたが、あなたたちは運がよかったのです。もし、あなたたちだけでトロールと出会ってしまったら、とても恐ろしいことになっていたでしょう。しかし、それでも友人を助けるために動いた勇気、そしてトロールに立ち向かった度胸は評価します。ミスター・ポッター、ミスター・ウィーズリー、二人に5点ずつあげましょう。さて、怪我がないならグリフィンドール塔にお戻りなさい。生徒たちが、さっき中断したパーティーの続きを寮でやっています」

 

 ハリー、ロン、ハーマイオニーの三人は女子トイレを後にした。マーガレットは彼らの後ろ姿を見送り、胸を撫でおろす。

 

「私はダンブルドア先生にご報告しておきます」

 

 マクゴナガル教授はいまだに動く気配のないトロールをちらりと見てから、マーガレットの方を向いた。

 

「ミス・マノック、あなたも無事でよかった。ここは彼らに任せ、あなたも戻りなさい」

「はい。そうさせていただこうかと思います」

 

 マクゴナガルは足早に校長室へと向かった。

 

「ここは私だけで結構。クィリナス、あなたも研究室に戻ったらいかがかな」

 

 スネイプはトロールのことをじっと見つめていた。

 

「しかし、あなたがトロールを倒したとは」

「わ、私はぼ、ぼ、防衛術を教える身です。こ、これくらいは、できますよ」

「いや、あなたの技量は知っていますとも」

 

 クィレルは一瞬だけ険しい表情になった。

 

「先生?」

「み、ミス・マノック、少し話したいこともありますし、け、研究室まで送りますよ。せ、セブルス、後はお願いします」

「ありがとうございます、先生。スネイプ教授、お先に失礼します」

 

 マーガレットはクィレルとともにトロールの悪臭とチョコレートの香りが入り混じったトイレをあとにした。

 

 

 

「み、ミス・マノック、本当に怪我はしていませんか」

「はい。本当に大丈夫ですよ」

 

 マーガレットはにっこりと笑った。それを見て、クィレルもわずかに表情を緩める。

 

「でも、わたしがこうして怪我一つしていないのも先生のおかげです。()()先生に助けられてしまいました」

「いえ、わ、私は……」

 

 クィレルは自信のなさそうな顔をしているが、ある程度の知識を持っていたマーガレットでさえ苦戦したあのトロールを彼はたった一撃で倒してみせた。それに、それがただのまぐれではなく、クィレルがそれくらい実力者であることはマーガレットもよく知っている。

 

「あ、あの場に間に合ったのはね、ネモのおかげです。ね、ネモが突然カーカーと鳴き始め、どこかに向かってと、飛んで行ったものですから。い、急いで追いかけてみれば、き、君たちがいたというわけです」

 

 マーガレットは左肩にとまるネモのことを見た。ネモはマーガレットと目が合うと、褒めてと言わんばかりに体を飼い主の顔にすり寄せた。

 

「そうだったのですか。ネモ、いい子いい子」

 

 マーガレットが頭を撫でてやると、ネモは気持ちよさそうに目を閉じた。クィレルはその様子を優しげなまなざしで見つめていたが、マーガレットと目が合うと慌ててそらした。

 その時、マーガレットはふと彼に聞きたいことがあるのを思い出した

 

「そうだ、先生。あのトロールのことで、気になることがあったのです」

「な、なんでしょうか」

 

 クィレルは再びマーガレットの方を見た。

 

「あのトロール、太陽の光が効かない……と言いますか、どうすれば太陽の光を浴びても動くことができるかを知っていたのです」

「そ、それは……ど、ど、どういうことでしょうか」

 

 マーガレットは自分が見たものをすべてクィレルに話した。太陽の光が弱点であるはずなのに、トロールが石のようにならなかったこと。光を見ないようにするため、目をつむるという知能がトロールにあったこと。それから——

 

「あのトロール、山トロールでしたよね。ホグワーツの周りにいるのは森トロールと川トロールですから、野生の山トロールが迷い込んでくるというのは不思議といいますか……。その……」

「き、君はこう考えているのですか? あ、あのトロールはだ、誰かがホグワーツに入れたのでは、と」

 

 クィレルは目を伏せ、なにか考え事を始めた。

 

「あの、わたしにはわからなくて……。ですが、先生はトロールにお詳しいですから、なにかご存知かもしれないと思って?」

「た、たしかにトロールの弱点はた、太陽の光ですが、それにつ、強いトロールというのもいます。例えば、ち、知能が高く守衛をするようなトロールもいるでしょう? 守衛の仕事を任せても、ひ、光に弱いままだとや、役に立ちませんから、そういったトロールにはた、太陽の光からの身のま、ま、守り方を教えることもあるようです」

「なるほど。そうだったのですね」

 

 ならば、きっと今日のトロールはかつて人間の下で働いてトロールが再び野生化したものなのだろう。それならば、山トロールがこのホグワーツに現れたことも説明がつく。マーガレットは納得し、ほっとした様子で笑った。

 

「と、トロールにものを教えるのはそ、それなりの知識とぎ、技術さえあればできることです。き、君も知っているかとは思いますがわ、私にもできます」

 

 マーガレットは頷いた。彼女がまだ学生だった頃、クィレルとともに森トロールを見に行ったことがある。その際に近づいて観察しても大丈夫なよう、クィレルは自身やマーガレットが餌ではないということをトロールに覚え込ませていた。

 

「ですから、き、君は……。今夜の騒動を引き起こしたのはわ、私ではないかとは思いませんでしたか?」

 

 マーガレットはクィレルを見つめたまま、目をパチクリさせていた。恩師のことを疑うなど、マーガレットにはありえないことなのだ。

 

「まさか。だって、わたしを助けてくださったのは先生ではないですか」

「そ、そうですか。き、君がそう思ってくれるならば、よかった」

 

 クィレルは小さく笑った。そこには安堵と疲労の色が入り混じっている。

 

「そうだ、先生。トロールをノックダウンさせた先生の『退け(デパルソ)』、本当にお見事でした。わたしは『呼び寄せ呪文(アクシオ)』もその反対呪文(デパルソ)もあまり得意ではありませんから、自分だったらあれほど正確には当てられなかっただろうな、と。あの、先生? もしよかったら、また以前のように先生から魔法を教わってもいいですか?」

 

 そこまで言って、マーガレットははっとした。

 

「もちろん、先生がとてもお忙しいことは承知しています。あの、先生のお時間がある時でかまいませんから」

「それはまた……。そ、そのようなき、機会があるとよいですね」

 

 クィレルは肯定とも否定ともとれる曖昧な笑みを浮かべた。

 

「い、いつになってしまうかはわかりませんが、いつかき、きっとそのような時間を作るとや、約束しましょう」

「本当ですか! ありがとうございます、先生!」

 

 マーガレットは青い瞳を輝かせた。白い歯を見せ、心の底から嬉しそうに笑う。

 

 気がつけば、二人はマグル学教室の前に立っていた。

 

「き、君も疲れたでしょうから、ちゃんと休んでくださいね」

「はい。先生もしっかりと休まれてくださいね。今日は先生に助けていただきましたから、今度はわたしが先生のお手伝いをなんでもさせていただきます」

「い、いえ、大丈夫ですよ。き、君も大変でしょうから」

「ですが……。あぁ、そうだ」

 

 マーガレットはローブのポケットからたくさんのチョコレートを取り出した。赤や青、金に黒、ピンクとカラフルな包み紙で包まれている。

 

「先生、ハッピー・ハロウィーン! 赤はミルク、青はダーク、金はホワイトのチョコレートです。どうぞお食べください」

「こ、こんなにたくさん……。き、君は本当に甘いものが好きですね」

 

 クィレルは自身の手の中にあるチョコレートの小さな山をじっと見つめていた。

 

「み、ミス・マノック、ありがとう。大事にいただきます。……そ、それではおやすみなさい」

「おやすみなさい、先生。いい夢を」

 

 マーガレットとクィレルはそれぞれの自室へと帰った。パンプキンパイを食べたのが遠い昔のように思えるが、時計を見ると実はまだ一時間くらいしか時は過ぎていなかった。

 

 今夜はレポートの採点をするつもりであったが、マーガレットにその体力は残されていなかった。部屋に戻ってきて早々、ベッドに倒れ込む。ネモも飼い主の隣でうずくまり、寝る体勢を整えていた。

 そして、マーガレットは眠りに落ちた。

 

 

▽ △ ▽

 

 

——その夜、マーガレットは夢を見ていた。

 

 夢の中の彼女の目の前には扉があった。その扉は鍵が開けられ、半開きになっていた。隙間から扉の向こう側が見える。

 扉の向こうには闇が広がっていた。そして、闇の向こうからは雷のような音が——いや、低い唸り声が聞こえてくる。この先になにかがいる——でも、それはなに?

 

 理性では、この先に進むべきではないということはわかっている。しかし、知りたがりとしての本能はこの先になにがいるのかを見に行こうとしていた。

 現実の彼女なら前者の考えを優先するだろう。しかし、夢の中の彼女は後者を選択したようだ。無意識のうちに一歩、また一歩と扉に向かっていく。そして、人ひとりが辛うじて通れるくらいの隙間に体を滑り込ませた。

 

 扉の先は真っ暗で、最初はなにも見えなかった。しかし、なにかがいる気配は感じられる。しかも、気配は一つではなかった。正面に一つ、右に一つ、そして左に一つ。全部で三つある。

 幸い、暗闇にも目が慣れてきた。では、その気配の正体を探ろうと顔を上げる。そして、彼女は見てしまった——。

 

 そこには、床から天井まで空間を全部埋め尽くしてしまうほど大きな犬がいた。その犬は血走った目と黄色い牙を招かれざる侵入者に対して向けている。そして、彼女は()()が一つではないことに気がついた。

 怪獣のようなぎょろりとした目玉が六つ、ヒクヒクと動く鼻が三つ、よだれの垂れ下がった大きな口が三つ。犬は全部で三匹いる——いや、違う。三つの頭はすべて一つの胴体に繋がっている。ならば、これは三つの頭を持った一匹の犬だ。

 

 三頭犬が一歩近づいてきた。たった一歩しか動いていないはずなのに、元々大きく見えていた顔がさらに大きくなる。ただ、彼女は黙ってそれを見上げている。

 

 やがて、魔犬は大きな腕を高く振り上げた。このまま振り下ろされれば、彼女は間違いなく鋭い爪の餌食になる。

 

——この夢はなんだろう?

 

 夢の中の彼女は考えていた。巨大な魔法生物と対峙しているこの状況は、まさに今夜のトロールとの戦いの再現だ。しかし、目の前にいるのはトロールではなく、三つの頭を持つ三頭犬。その物語を読んだことはあっても、その姿を実際に見たことはない。

 

——それなら、これはなにかの予言?

 

 三頭犬の振り下ろした右腕が、あと数センチで顔に触れるという瞬間にマーガレットは目を覚ました。

 

 

▽ △ ▽

 

 

「はぁ、はぁ……」

 

 ベッドから飛び起きたマーガレットは何度も肩で息をしていた。冷たい汗が頬を伝う。

 

「なにか夢を見ていたはずだけど……。あれは……」

 

 急に目を覚ましたせいか、マーガレットは先ほどまで見ていたはずの夢の内容をまったく思い出せなくなっていた。

 マーガレットは夢のことを思い出そうと、目を閉じてうーんと唸る。しかし、なにも思い出せない。ふと膝の上に重みを感じて下を向いてみれば、ネモが彼女のことを見上げていた。

 

「ごめんね、ネモ。わたしのせいで起こしちゃったかな?」

 

 マーガレットが頭を撫でてやると、ネモはクイッと首を傾げた。くりくりした目で飼い主のことを見つめている。一方、マーガレットはトロンとした目でネモのことを見ていた。

 

「わたしね、夢を見たの。でも、それがどんな夢だったか憶えてなくて……。はあ、また眠くなってきちゃった」

 

 マーガレットはネモを抱きしめ、再びベッドに横になった。そして、またすぐ眠りに落ちた。しかし、あの夢の続きを見ることは二度となかった。




週に一回程度を目安に更新すると書いておきながら、まったくできてなくてすみません。今後もこんな調子かと思います。

独自設定も増えてきたので、少々解説させていただきます。

二次創作ではわりとお馴染みのトロールの弱点を本作でも取り入れさせていただきました。
これは作者が勝手に考えていることなのですが、魔法族から見た非魔法族の面白いところの一つに、非魔法族は虚構(フィクション)だと思っていても、魔法族にとっては現実(リアル)であるものというのがあるかと思います。魔法しかり、魔法生物しかり。
そのため、非魔法族にはファンタジー小説として流布しているけれども、魔法族が読めば実は本当のことだったら面白いと思い、太陽の光に弱いトロールを取り入れさせてもらいました。
でも、トルーキンのトロルは本当に『石』になってしまうのですが、この差については次話でマグル学教授に説明していただきます。やっと主人公の授業風景が書ける。

独自設定・独自解釈のオンパレードになりそうですが、少しでも面白いとか、ありえるかもしれないと思っていただけたら嬉しいです。


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第5話 ある午後の一コマ

  11月に入り、寒い日が続くようになった。校庭には毎朝霜が降り、夜は吐息が白くなる。だんだんと冬が近づいているのだ。

 ネモは肌寒いのか、先ほどから飼い主にぴたりと体を寄せている。マーガレットは目を細め、膝の上で丸くなっているネモをローブで包んだ。9月の頃は多少暑苦しく感じたローブも今ではちょうどよい。

 

「週末に向けて、どの寮も盛り上がっていますね」

 

 賑やかな大広間の様子を眺めながら、マーガレットは隣に座るクィレルに話しかけた。彼は口に入っていたサンドイッチを飲み込み、口元を拭う。

 

「く、く、クィディッチ・シーズンですからね。こ、今年はど、どの寮が優勝するのでしょうか」

 

 ハロウィーンのパーティーが終わり、ホグワーツのクィディッチ・シーズンが始まろうとしていた。クィディッチの勝敗は寮対抗杯の行方をも左右する。そのため、代表選手であろうとなかろうと、この時期の生徒たちの話題はクィディッチ一色となる。

 

「わたしとしましては、やはりレイブンクローに勝ってもらいたいところですが……。今年はグリフィンドールも応援したいです」

「百年ぶりのさ、最年少シーカー……。ハリー・ぽ、ポッターがき、気になりますか」

「はい。わたしも最年少の教授ですから、最年少のシーカーである彼に少し親近感を覚えまして」

 

 マーガレットはグリフィンドールのテーブルに座るハリーの姿を見つけた。彼の周りにはロンやハーマイオニー、同じチームの仲間であるウィーズリーの双子が集まっている。

 本来ならばクィディッチのチームには二年生からしか参加できない。しかし、一年生のハリーは特例としてチームへの参加が認められ、シーカーとして試合に出場することが決まっていた。彼がシーカーであることは極秘のようだったが、その()()はホグワーツ中に広まっていて、もちろんマーガレットの耳にも届いていた。

 

「マクゴナガル教授の特別措置もありますし、彼がどんな試合を見せてくれるのか楽しみですね」

 

 グリフィンドールの寮監がハリーにニンバス2000を送ったことは、これもまた()()ではあるのだが誰もが知っていた。マーガレットはその秘密をフリットウィックから聞き、彼女もその秘密をクィレルに話していた。クィディッチは生徒のみならず、教師たちをも熱くさせる。

 

「ということは、み、ミス・マノックの週末の予定はグリフィンドール対スリザリンですか?」

「はい、そのつもりです。先生も見に行かれるのですか?」

「は、はい。せ、せっかくの機会、ですから」

 

 マーガレットは相槌を打ちながら紅茶を綴っていた。ミルクティーの優しい甘さが体を温めてくれる。

 食後の紅茶でほっと一息ついていると、不意にクィレルが口を開いた。

 

「み、み、ミス・マノック、もし君がよければ、い、一緒に試合を見ませんか?」

 

 マーガレットは目をパチクリさせていた。そして、その次の瞬間には顔をパッと輝かせた。

 

「一緒に、ですか?」

「き、君が嫌でなければ」

 

 気恥ずかしかったのか、それとも別の理由があったのか、クィレルはマーガレットから目をそらした。そのため、隣に座る女が満面の笑みを浮かべていることに少し遅れてから気づいた。

 

「ぜひご一緒させてください! そういえば、先生とクィディッチを観戦するのは初めてですね」

 

 生徒たちの集まる寮の席と教員や来賓の集まる席は場所も——それから高さも——違う。そのため、マーガレットは今まで一度もクィレルとクィディッチを観戦したことがない。

 

「週末がとっても楽しみです!」

「そ、そうですね。わ、私も週末に向け、()()しなければならないことがた、たくさんあります」

 

 「準備」という言葉を聞き、マーガレットは不意になにかを思い出した。彼女は懐中時計を取り出し、今の時刻を確認する。

 

「あ、もうこんな時間なんですね。そろそろ戻らないと」

 

 マーガレットは紅茶を最後の一口まで飲み干すと、膝の上にのっかっているネモを抱き上げた。

 

「すみません、先生。次の授業の準備があるので、お先に失礼しますね」

「わ、わかりました。ご、午後も頑張ってください。……そ、そうだ。み、ミス・マノック」

 

 クィレルはかつての教え子を呼び止めた。マーガレットは足を止めて振り返る。二人の視線が絡み、しばし沈黙が流れた。

 

「……。す、す、すみません。なにを聞こうとしたのかわ、忘れてしまいました」

「そうですか。思い出したら、またいつでも声をかけてください」

 

 マーガレットはにっこりと愛想のよい笑みを浮かべた。

 

「では、またあとで。先生も午後のお仕事、頑張ってくださいね」

 

 ネモを抱きかかえたまま、マーガレットは小さく手を振る。クィレルも今度ばかりは遅れることなくそれに気がついた。

 クィレルも手を振り返す。しかし、その動作はどこかぎこちなかった。

 

 

▼ ▲ ▼

 

 

 マーガレットは一人研究室で次の授業の準備をしていた。先ほど本棚から抜き出した本とあらかじめ作っておいた書名リストを交互に見比べる。どうやら一冊の漏れもなく、目当ての本はすべて用意できたようだ。

 ローテーブルに積み上げた本をマーガレットは慎重に持ち上げた。魔法を使えば簡単に運べるのだが、なんとなく本は自分の手で持ちたかった。それに扉の先のマグル学教室にまで運ぶだけなのだからそこまで大変な仕事ではない。

 

「ネモ、そろそろ行くよ」

 

 マーガレットが声をかけると、デスクの上に鎮座していたネモは首を持ち上げた。じっと狙いを定め、飼い主の左肩にぴょんと飛び移る。マーガレットはネモがいつもの定位置にいることを確認し、慎重に隣の教室まで歩みを進めた。

 

 

 

「グリフィンドールとレイブンクローのみなさん、マグル学へようこそ」

 

 教室にはすでに生徒たちが揃っていた。彼らは赤や青、緑色のビニールチェアに座り、教科書を読んだり、隣の生徒と話したりして授業が始まるのを待っている。マーガレットは机に本を並べ、教室にいる生徒全員の顔を見回した。

 マグル学の教室は一学年の生徒を全員収容できるくらいの広さがあるのだが、今は二寮を合わせても十数名の学生しかいない。もっとも、マグル学の受講者は毎年このくらいである。この教室が人で溢れているところをマーガレットは——それから、その先代、先々代のマグル学教授たちも——見たことがない。

 

「それでは授業を始めましょう」

 

 受講生が少ないため、出席の確認もすぐに終わってしまう。マーガレットは出席簿を閉じ、理髪店にあるようなパーマ機のついた椅子に腰を下ろす。彼女が机に置いてあるOHP(オーバーヘッドプロジェクター)を動かすための準備をしている間、ネモは飼い主の左肩から膝の上へと移動していた。

 

 このホグワーツ城には様々な魔法がかけられている。その影響でホグワーツの中ではマグルの作った電子機器は正しく動作しないとされている。たしかに、このマグル学の教室にはブラウン管テレビやビデオデッキ、公衆電話などが置かれているが、それらが実際に使われているところを生徒に見せることはできない。

 しかし、一方でこのホグワーツでも使うことができる機械というのも存在する。それを発見したのは先々代のマグル学教授であり、動力に電気以外を用いるといった彼の改良のおかげで疑似的に動かせる電子機器というのも増えた。例えば、このOHPもその一つである。電気でランプを光らせる代わりに瓶に詰められた炎を光源にすれば、マグルが学校やオフィスで使うのと同じようにこの機械を使うことができるのだ。

 というわけで、マーガレットが電球代わりの瓶詰の炎をOHPにセットすると、黒板代わりの白いスクリーンがパッと明るくなった。

 

「さて、ふくろう試験を控えた皆さんは自分が将来どのような仕事をしたいのか考えている時期かと思います。マグル学を学ぶあなたたちのなかには、マグルと関わりのある仕事——例えば、魔法省の魔法事故惨事部を目指している人もいるのではないでしょうか。では、将来忘却術士になるかもしれない皆さんに一つ問題を出しましょう」

 

 マーガレットはファイルから慎重にフィルムを取り出し、OHPにのせる。スクリーンにはマーガレットが昨夜、紅茶を飲みながら描いた額から角を生やした馬の絵が投影された。

 

「あるマグルの子供がこの絵を描き、『これはユニコーンだ』と言いました。さらに、その絵を見た親は『ユニコーンの角には不思議な力があるんだよ』と子供に教えました。さて、繰り返しますがこの絵を描いた子供も、それを見た親も魔法族とはなんら関係のないマグルです。しかし、彼らはユニコーンのことを知っています。では、もしあなたが忘却術士だった場合、あなたは彼らの記憶を修正しますか?」

 

 一瞬、教室にざわめきが起きた。それは当然だとばかりに頷いている生徒もいれば、この子供のような経験があるのか投影された絵をじっと見つめている生徒もいる。

 そして、一人の男子生徒が「僕を指してくれ」と言わんばかりに、まっすぐと手を挙げていた。

 

「では、ミスター・ウィーズリー」

 

 教授の指名を受け、パーシー・ウィーズリーは自信満々に口を開いた。

 

「『幻の動物とその生息地』には『魔法生物や怪物について、マグルが常に無知であったわけではない』との記述がありました。マグルもドラゴンやグリフィン、ユニコーンといった魔法生物のことを知っています。しかし、それは想像上の生き物としてであり、マグルは魔法生物が実在することまでは知らないとされている。つまり、この絵のユニコーンはマグルの考える架空のユニコーンであり、彼らがユニコーンの実在を知らない以上は記憶を修正する必要はないと考えられます」

「そのとおりです、完璧な答えでしたね。グリフィンドールに5点」

 

 マーガレットはユニコーンの落書きの他に、「貴婦人と一角獣」といった魔法生物を描いた芸術作品をスクリーンに投射する。

 

「このようにマグルの芸術作品には多くの魔法生物が登場しています。それに、絵画や彫刻だけではありません。神話や童話、小説など、マグルの文学にも魔法生物はたびたび登場します。つまり、マグルにとってもドラゴンやユニコーンといった魔法生物はよく知られた存在なのです」

 

 マーガレットはフィルムを取り替えた。次のフィルムには、マグルの文学作品がぎっしりと書き込まれている。

 

「では、今日はマグルの文学を参考に、マグルと魔法生物の関係性について学んでいきましょう」

 

 ギリシャ神話のケンタウロス、エジプト神話のスフィンクス。さらには「狂えるオルランド」のヒッポグリフやシェイクスピアの書いた妖精(フェアリー)が登場する戯曲など、様々なマグルの物語をマーガレットは紹介した。

 マグル学教授は説明を終えるまでに三回もフィルムを交換していた。これは彼女が読書好きであるためについ多くの作品を紹介してしまったせいでもあるが、それくらいマグルにとって魔法生物の登場する物語はありふれているという証拠でもあった。

 

「『アーサー王物語』が実在の魔法使いマーリンの活躍を後世に伝えているのと同じように、魔法生物の存在というのも数多の物語を通じて語り継がれてきました。それは口から口へと伝わり、いつの間にか魔法族にも非魔法族にも広まる共通の物語になったのです。しかし、ある頃から魔法界をマグルから守るためにその存在を秘匿する必要がでてきました。魔法史でも、マグル学の最初の授業でも教わったであろう『魔女狩り』があった頃のことですね」

 

 マグル学はマグルの生活や文化、それらを支える科学技術のことなどマグルに関するものを多岐に渡って教える学問だ。しかし、三年生が受ける初めてのマグル学で教えることはいつも、そしてどの教授でも同じなのである。

 魔法族と非魔法族がなぜ別れることとなったのか、つまりは国際魔法使い機密保持法が生まれた歴史的背景を教えることなっている。これは()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()からだ。

 

「暗黒の日々を経験した魔法使いたちは『国際魔法使い機密保持法』を制定しました。そして、それと同時期にあった国際魔法使い連盟のサミットでは、どうすれば魔法生物の存在がマグルに気づかれないかということが話し合われました。この討議の結果、魔法生物をマグルの目から隠すということ、こうした生物は想像上のものであって、実際には存在しないとマグルに思い込ませることが決まりました。つまり、マグルから魔法生物の実在を隠すことはできても、存在を忘れさせることはできないと結論づけられたのです。すでに魔法生物の物語は時代も、言語も、国も超え、マグルたちにも広く知れ渡っていたため、世界中のマグル一人一人に忘却術をかけることも、魔法生物について記された本をすべて焼くことも、もはや不可能になっていたからですね。……さて、ここまでは大丈夫ですか?」

 

 生徒たちがノートを取り終えたことを確認し、マーガレットは机の上に散らばっていたフィルムを片づけた。

 

「ですから、マグルも魔法生物の存在を知っているのです。しかし、マグルは魔法生物が実在していることまでは知りません。ミスター・ウィーズリーが答えてくれた通り、彼らが知っているのは物語に出てくるような架空の存在としての魔法生物であり、魔法使いの知る魔法生物と必ずしも同じというわけではありません。では、その一例を紹介しましょう」

 

 マーガレットが新たなフィルムをセットすると、スクリーンの中心に大きなトロールの絵が現れた。もう一枚フィルムを重ねると、絵の左側にトロールの説明が投影される。

 

「ハロウィーンの一件もありましたから、トロールを例に挙げて説明します。ニュート・スキャマンダー氏の『幻の動物とその生息地』では、トロールは『身の丈4メートル、体重1トンにもおよぶ恐ろしい生き物』であり、『けた外れの力と並外れてばかなことの両方が特徴』と述べられています。そして、M.O.M.分類もXXXX(危険)とされている凶暴な生物ではありますが、いくつかの研究から彼らは日光に弱く、太陽の光を浴びると動けなくなることもわかっています。これが魔法界に伝わるトロールの生態です」

 

 マーガレットは再びフィルムを重ねた。今度はマグルの物語に登場するトロールの特徴がまだ空いているスクリーンの右側に現れる。

 

「もちろん、トロールのこともマグルは知っています。マグルにとって、トロールは北欧の国々の伝承に登場する妖精の一種です。大きな体を持ち、怪力であること。また、凶暴だが知能があまり高くないところなど、わたしたちの知るトロールと同じ生物のように思えますね」

 

 国や地域によって多少の違いはあるものの、マグルの知るトロールの特徴は魔法界で知られているものと大きくは変わらない。その昔、トロールを見てしまったマグルやマグルに話を聞かせてしまった魔法使いがいたということなのだろう。

 

「しかし、マグルが知っているのはあくまでも伝承上のトロールです。伝承、つまりは人から人へと伝言ゲームのように受け継がれてきたものですから、その途中で内容や真意が誤って伝えられてしまうことがあります。例えば、太陽の光を浴びて動かなくなったトロールのことを過去の魔法使いたちは『石になる』と表現しました。皆さんにはあまり馴染みのない言い回しかもしれませんが、最近ですとギルデロイ・ロックハート氏の『トロールとのとろい旅』でこの表現が出てきましたね。あぁ、少し話がずれてしまいました。もちろん、この言葉は『石のように動かなくなる』の意味ですが、それを伝え聞いたマグルは言葉の通りに解釈し、トロールが『石になる』のだと思い込みました。そうしてマグルたちは凶暴なトロールが石に変わるという物語を新たに作り上げ、魔法使いから見ても架空の魔法生物を生み出したのです」

 

 マーガレットは机に並べていた本を一冊手に取り、適当にページをめくった。

 

「わたしたちのような実在の魔法生物を知っている者からすれば、その物語が事実とは違うとわかります。しかし、マグルにはそれが正しいのか、間違っているのかは判断できません。だからこそ、より面白く、より楽しい物語こそが彼らの答えとなるのです。それは……わたしたちが耳にするような噂話とよく似ているのではないでしょうか。本当はその真偽を確かめることもできるのに、人から人へと広まるうちに大きくなっていった噂に面白みを感じ、真実とは異なる偽りの物語に満足してしまう。これは魔法使いもマグルも関係ない、人の性なのかもしれませんね。もっとも、そのおかげで魔法界の秘密を守ることができているのですが」

 

 マーガレットは椅子から立ち上がり、杖をOHPに当てた。「——呪文よ終われ(フィニート)」と唱えれば、スクリーンを照らしていた光が消える。

 

「今日はここまで。宿題はマグルの文学に出てくる魔法生物は実際の魔法生物とどう異なるのかをまとめてきてください。本は自分が持っているものを選んでもいいですが、わたしの蔵書もお貸ししますので借りたい方は前に取りにきてください。レポートの提出と本の返却は一週間後です。では、また」

 

 マグル出身の生徒でも、相当な本好きでなければ教科書以外の本をわざわざホグワーツに持ってこない。魔法界出身の生徒なら、なおさらマグルの文学など持っていない。

 というわけで、マーガレットはほとんど生徒に本を貸し出すこととなった。そして、今は教室に最後まで残った女子生徒の相手をしているところだ。

 

「ペネロピーはどの本にしますか。あらすじなら説明しますよ」

「本はこれにしようかと。小さい頃に読んだことがありますから。実はマーガレットさんに聞きたいことがあって残ってたんですよ」

 

 ペネロピー・クリアウォーターはレイブンクローの生徒であり、マーガレットが監督生になった年に入学してきた後輩でもある。そのため、マーガレットが教師となってからも、こうして時折会話を交わすような仲であった。

 

「最近の噂のことなんです……。マーガレットさんなら本当のことを知ってらっしゃるだろうから」

「なんでしょうか? あ、わたしに菓子を渡せば寮点がもらえるというのは嘘ですからね」

「そんな噂もありましたね。でも、わたしがお聞きしたいのは……ハロウィーンの夜のことなんです」

 

 あの夜、なにか噂になるようなことはあっただろうか? なにも思いつかず、マーガレットは首を傾げた。

 

「トロールを退治したのはクィレル教授だって噂されているんですけど、違いますよね? 防衛術の授業でも常にビクビクしていらっしゃるから、クィレル教授がトロールに立ち向かったとは思えなくて。マグル学を教えていらっしゃた頃ならまだしも……」

「わたしもあの場にいましたが、トロールを退治されたのはクィレル先生ですよ」

 

 「なんですって?」とペネロピーは驚きの声を上げた。彼女があんまりにもショックを受けているようだったで、マーガレットはあの夜の出来事をすべて話すことにした。

 ある一年生たちがトロールに襲われていたこと、その生徒たちを助けようとしたら今度は自分が窮地に立たされたこと。そして、絶体絶命の瞬間にネモとクィレルが助けに来たこと。

 一連の話を聞き終えると、ペネロピーは妙に納得した様子で「だからですか」と呟いた。

 

「クィレル先生はトロールのことにも詳しくて、わたしが今日の授業で話したような知識も、かつて先生から教えていただいたものばかりです。さて、そろそろ教室を閉めますが、他になにか質問はありましたか?」

「いえ、大丈夫ですよ。トロールのことだけじゃなくて、あの噂のこともわかりましたから」

「あの噂? どんな噂ですか?」

 

 それは純粋な好奇心からの質問だった。しかし、ペネロピーは少々気まずそうな顔をすると、「本は一週間後にちゃんとお返しします!」と言い残し、慌ただしくマグル学教室を出て行った。

 

「ネモ。わたし、なにか噂になるようなことあったかな?」

 

 マーガレットが問いかけるが、ネモはなにも答えなかった。つぶらな瞳で飼い主のことをじっと見つめ返すばかりである。

 

「わたしが知らないなら、ネモも知らないよね」

 

 マーガレットはほんの少し寂しそうに笑った。ネモはそんな飼い主の肩をいつもよりほんの少しだけ強くつかんでいた。




【追記】
ホグワーツの謎にマグル学の教室が実装され、教室の内装が判明したので教室の様子や授業の行い方などを書き直しました。(2020/12/12)


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第6話 No Smoke Without Fire

 そして迎えた土曜日の朝、マーガレットは「日刊預言者新聞」を読みながら大きな欠伸をした。レポート採点のために昨夜は遅くまで起きていたので、今朝は少し寝不足なのだ。また、彼女の夜更かしに付き合ってしまったネモも、まだ眠たいのかデスクの上で丸くなっていた。

 マーガレットはまだ温かい紅茶を飲み、ページをめくる。ベルガモットの風味が口いっぱいに広がった。

 

 事件や政治、文化、社会情勢にゴシップまがいのものまでこの新聞には様々な記事が載っているが、マーガレットはこの日、とある記事に目を止めた。

 

 

◆ ◆ ◆

 

記憶を失いし男

 

 十一月五日、自身の名前すら忘れている男性が聖マンゴ魔法疾患障害病院に搬送された。男は名前の他に住所や年齢、また自身が魔法使いであることも忘れているもよう。診察した癒者によると、何者かが忘却術をかけたのではないかとのこと。

現在、治療が進められているが回復の見込みは低いとのことで、病院は彼に関する情報を集めている。心当たりがある方は聖マンゴ魔法疾患障害病院にご一報を。

 

◆ ◆ ◆

 

 

 記事に目を通し、マーガレットは紅茶を啜った。普段ならアールグレイのすっきりとした香りが心を軽くしてくれるが、今はそんな気分になれなかった。

 

「この人も……」

 

 マーガレットは顔も名前もわからないその男性に同情を禁じえなかった。なぜなら、彼も自分と同じ記憶喪失だからだ。大切なことを憶えていないことの悲しみ、思い出せないことの苦しみは彼女もよく知っている。

 そして、その失われた記憶を取り戻すことの難しさをマーガレットは身をもって知っていた。

 

「忘却術、ですか……」

 

 忘却術(オブリビエイト)——それは、マグルから魔法界を守るためになくてはならない呪文で、マグル学を教えるマーガレットも授業で何度も紹介したことがある。

 忘却術は人の記憶を操作することで彼らがなにも知らない(憶えていない)状況を作り出すことができる。しかし、一度消してしまった記憶は戻らないとされていて、この呪文を正確に使いこなすにはそれなりの技量が必要とされている。だからこそ、忘却術師というその道のエリートたちがいるのだ。

 

「ネモ。わたしが記憶喪失になった原因も忘却術だと思う?」

 

 マーガレットは新聞からネモに視線を移す。しかし、眠たいからかネモは無反応だった。

 

「ネモもわからないよね……」

 

 記憶喪失の原因は様々あるとされている。例えば、強いストレスといった心理的な原因、脳の損傷といった身体的な原因。そして——忘却術。

 マーガレットは自分がなぜ記憶を失ったのかということを知らない。しかし、たくさんの本を読み、尊敬する恩師からたくさんの話を聞くうちに自身の記憶喪失の原因は忘却術なのではないだろうかと考えるようになった。

 

 とはいえ、そう考える理由は一つしかない。それは、自分の記憶が一切戻らないという点だ。

 事故のあと、医者は「父親を亡くしたことがショックだったのだろう」と言った。だから、父の死を乗り越えていけば、そのうち記憶が戻るだろうと。しかし、一年経っても、五年経っても、そして十年以上に月日が流れても記憶が戻ってくることはなかった。

 だからこそ、記憶を二度と戻せなくなる危険な呪文(忘却術)を学んだ時、これが原因なのではないかとマーガレットは思ったのだ。

 

「ネモ。いつか、この聖マンゴにも行ってみようか。癒者の方からお話を聞いたりしたら、なにかわかるかもしれないもんね」

 

 今度はネモも頷いた。それを見て、マーガレットは安堵の表情を浮かべる。そして、ネモの頭を何度も撫でていた。

 

 

 

 さて、研究室でゆったりとしてマーガレットだが、この日の彼女は記憶喪失など関係なく、なにか重要なことを忘れていた。

 トントンというノックの音が静かな部屋に響く。マーガレットが「どうぞ」と声をかけると扉はゆっくりと開いた。そして、大きなターバンを頭に巻いた男が姿を現す。

 

「おはようございます、先生」

「お、おはよう。ミス・マノック、そ、そ、そろそろ、時間です」

 

 ゆったりと紅茶を飲んでいたマーガレットは「あっ!」と声を上げた。飼い主につられ、ネモも「カッ!」と素っ頓狂な声を出す。

 

「すみません、ゆっくりしてしまっていました。急いで準備しますね!」

 

 マーガレットはカップを片付けると、大慌てでコートに袖を通した。それから、学生時代から使っている青いマフラーを首に巻き、姿見で自分の姿を確かめる。

 クィレルはその様子をぼんやりと眺めながら、時折左手につけた腕時計を見ていた。 

 

「お待たせしました。……あの、まだ時間は大丈夫ですよね?」

 

 ミトンの手袋をポケットにつっこみながら、マーガレットは問いかけた。

 

「し、試合まで……あ、あと30分です」

「それなら、急がないとですね。ごめんなさい、待っていただいて」

 

 「いえ」と呟き、クィレルは小さく首を横に振った。彼もローブの上から厚手のコートをまとい、紫色のマフラーを巻いている。二人ともクィディッチ観戦の準備は万端といったところだ。

 マーガレットは未だにデスクの上にいるネモを抱きかかえた。トクトクという心臓の動きとじんわりとした温かさが指先に伝わる。寒空の下では、きっとこの温かさをありがたく感じることだろう。

 

 

▼ ▲ ▼

 

 

 クィディッチ競技場は城から少し離れたところにある。そのため、移動にはそれなりに時間がかかるのだが、今のマーガレットにはそれが嬉しかった。なにしろ、久しぶりに恩師とゆっくり会話を交わすことができているのだ。

 

「それにしても、今日はいい天気ですね。絶好のクィディッチ日和です!」

 

 マーガレットは澄んだ空を見上げていた。彼女の瞳はその空の色と同じくらい青く透き通っている。

 

「き、君はく、く、クィディッチが好きですね」

「はい! スカイ・パーキンとオリオン・アマーリの息のあった連携やエリカ・ラスの力強いプレーを観ていたら、すっかりクィディッチに魅せられてしまいました」

 

 極々単純に説明してしまえば、クィディッチとは魔法使いたちが空飛ぶ箒にまたがってするスポーツである。そんなファンタジー小説や児童文学の中で出てきそうな、いかにも魔法界らしいゲームをマーガレットが面白く感じないわけがなかった。

 それに、彼女がホグワーツに学生としていた頃は、スカイ・パーキンといったスター選手たちが活躍していた時代である。だからか、クィディッチ・シーズンは今にも増して盛り上がっていた。マーガレットもその空気に当てられた一人なのだ。

 

「それに、父もクィディッチが好きだったそうですから」

 

 ネモの体を撫でながら、マーガレットは呟いた。

 

「以前、マクゴナガル教授から聞きました。父はクィディッチの熱心なファンだったようで、レイブンクローの試合のときにはフェイスペイントまでしていたそうですよ。わたしはそこまでしたことはないのですけどね」

 

 マーガレットは声を立てて笑った。父がどのようなフェイスペイントをしていたのかを想像すると、じわじわとおかしさがこみ上げてくる。

 

「試合そのものが面白いのはもちろんですが、クィディッチを観ていると、父のことをほんの少しでも知ることができたような気になれます」

「そうでしたか……。ミス・マノック、わ、私がいない間になにかお、思い出しましたか?」

 

 黙って首を振るマーガレットのことを、クィレルは黙ったまま見つめていた。

 

「……あいかわらずです。でも、『夢を持ち続けていれば、いつか魔法は応えてくれる』ですから」

 

 そう言って、マーガレットは白い歯を見せて笑った。その笑顔は今日の空のように晴れ晴れとしている。

 

「まだ読めていない図書館の本もありますし、まだ使いこなせない呪文もあります。このホグワーツはまだまだ知らないものばかりです。その知らないもののなかに、わたしの記憶を取り戻せる方法もきっとある。だから、夢を持ち続けられるんです! ……あぁ、すみません。わたしばっかり喋っていましたね」

「い、いえ、かまいませんよ。い、今は、こうしてき、き、君の話を聞く方が好きですから」

 

 マーガレットはクィレルのことをまじまじと見つめていた。

 

「あの、わたしも先生のお話を聞くのが好きです。先生のお話は、わたしにたくさんのことを教えてくれますから」

「そ、そうですか」

 

 クィレルは一瞬だけ口元を歪めた。それはぎこちない笑顔にも、苦しそうな表情にも見えるものだった。

 

「先生?」

「な、なんでもありません」

 

 その時、どこからか歓声が聞こえてきた。視線を前に戻せば、そこはクィディッチ競技場である。試合はまだ始まっていないが、ゲームの開始を待つ生徒たちの興奮が競技場の外にいても伝わってくる。

 

「つ、着きましたね。い、行きましょうか」

 

 そう言って、クィレルは歩みを速めた。マーガレットも少し歩幅を広げ、彼の後を追う。

 

 

 

 二人は長い階段を上り、空中高くに設けられた観客席に座った。マーガレットはネモを膝の上に下ろすと、懐中時計で今の時刻を確認する。

 

「もうすぐ11時ですね」

 

 マーガレットは時計をポケットの奥深くにしまい込み、大きな欠伸をした。

 

「だ、大丈夫ですか?」

「あぁ、すみません。昨日のうちに仕事を片付けてしまおうと思って、少し遅くまで起きていたんです。ほら、クィディッチはいつ終わるのかわからないですから」

 

 もう一度出そうになった欠伸を噛み殺し、マーガレットは気恥ずかしそうに笑った。

 

「せ、せっかくの休日ですから、い、いい気分転換になるといいですね。そ、そ、そうだ。君にこ、これを」

 

 クィレルはコートのポケットから小さな箱を取り出した。鮮やかなピンク色の箱には濃い緑色の文字で「ハニーデュークス」と書かれている。マーガレットにも馴染みのある店の名だ。

 

「こ、こ、この前のチョコレートのお、お礼です」

 

 クィレルは箱を開け、中身をマーガレットに見せた。箱の中は四つに区切られ、その一つ一つに大鍋チョコレートが詰められている。

 

「大鍋チョコレートですね! 先生、ありがとうございます!」

 

 マーガレットは箱を受け取り、満面の笑みでチョコレートを眺めていた。

 

「あの、さっそく一ついただいてもいいですか?」

「も、もちろん。さあ、ど、どうぞ」

 

 マーガレットは大鍋型のチョコレートを一つ、口の中に放り込んだ。それを舌の上で転がし、風味を楽しんでから噛み砕く。すると、とろりとした甘いソースが口いっぱいに広がった。

 

「とってもおいしいです! これはキャラメルですね」

「く、口に合いましたか?」

「もちろんです。とっても甘くて、心も身体もぽかぽかとしてきました」

 

 マーガレットはチョコレートを食べると、また大きな欠伸をした。大好物のチョコレートを食べて心が和らいだのか、急に眠気が強くなってきたのだ。

 

「……そ、それはよかった」

 

 マーガレットがもう一度欠伸をしていると、ちょうど選手たちがグラウンドに入場してくるところだった。競技場中で歓声が湧き上がり、真紅と深緑のローブを身にまとった勇士たちを迎え入れる。

 しかし、今のマーガレットにはその大歓声すら、どこか遠くに聞こえていた。

 

「ミス・マノック、ど、どこか具合が悪いのですか?」

 

 ぼーっとしてしまっていたからか、クィレルが心配そうに話しかけてきた。

 

「大丈夫、です。なんだか、眠たくなって……」

 

 そう話している間にもマーガレットの瞼は下がり始めていた。

 

「今日の試合、とても、楽しみ、でしたのに……」

 

 選手たちは箒に跨り、空へと舞い上がる。もう間もなく試合が始まろうとしているのに、マーガレットは今にも眠り込んでしまいそうだった。

 

「ミス・マノック。寝ていいのですよ」

「いい、ですか?」

 

 

 クィレルはマーガレットの耳元で「はい」と囁いた。その返答を聞き、マーガレットは軽く微笑む。

 

「ありがとうございます、先生……」

 

 マーガレットは首をカックンと揺らし、恩師の肩に寄りかかった。驚いたクィレルは肩を跳ね上げかけたが、それをぐっと堪える。

 マーガレットはチョコレートの箱を大切そうに持ったまま、深い眠りへと落ちていた。

 

 

 

 クィレルはマーガレットの顔をのぞき込み、彼女がよく眠っていることを確かめた。そして、うっすらと笑みを浮かべる。

 ちょうどその時、マダム・フーチが試合開始の笛を鳴らした。競技場がまた一段と大きな歓声に包まれる。その大歓声の中、クィレルは自分たちにしか聞こえないように言った。

 

「ご主人様、これで手筈どおりに事がなせるかと」

 

 

▽ △ ▽

 

 

——マーガレットは夢を見ていた。

 

 少女は一人、車窓からの風景を眺めていた。ロンドン、キングズ・クロス駅の九と四分の三番線を出発した蒸気機関車はスコットランド、ホグズミード駅に向けて走り続ける。

 つい先ほどまではこのコンパートメントにも他の生徒たちがいたのだが、皆どこかに行ってしまい、気づいたときには少女とそのペットだけになっていた。今は人目を気にしなくてもいいので、少女はバスケットから大鴉(レイブン)を出し、自分の膝の上にのせていた。

 

「ネモ、『組分けの儀式』ってどういうふうにするんだろうね」

 

 少女の問いかけに対し、鴉は「カー」と鳴いた。ご丁寧に首まで傾げているのだから、わからないとでも言いたいのだろう。

 

「わたし、どこの寮になるのかな……」

 

 黒一色のローブをまとった少女は、どこまでも続く青い空を見つめていた。

 

「車内販売よ。なにかいりませんか?」

 

 えくぼのおばさんがニコニコ顔で、ぼんやりと窓の外を眺めていた少女に声をかけた。車内販売、つまりはお菓子が買えることに気がついた少女は鴉を腕に抱きかかえてワゴンに駆け寄る。

 そこには、バーティー・ボッツの百味ビーンズやドーブルの風船ガム、砂糖羽根ペンに杖型甘草あめなど、彼女が初めて見るような魔法界のお菓子がたくさんあった。

 なにを食べるのか迷いに迷った結果、少女は大鍋ケーキと蛙チョコレートを買うことにした。ニコニコと笑っているおばさんに銀貨を渡し、彼女は再び元の席に腰を掛けた。

 

 まず少女は蛙チョコレートの箱を手に取った。彼女がこの世でもっとも好きな食べ物であるチョコレート、それも初めて食べる魔法界のチョコレートである。

 少女が慎重に箱を開けると、やけにリアルな蛙の形をしたチョコレートと一枚のカードが現れた。彼女の興味はもちろんチョコレート——ではなく、意外にもカードの方にあった。

 

「これ、なんだろう?」

 

 少女が手に取ったカードには一人の女性の肖像が描かれていた。黒の長髪に黒い目の厳しそうな顔つきをした美しい女性。肖像の下には「ロウェナ・レイブンクロー」と書かれている。

 

「ネモ! ロウェナ・レイブンクローのカードだよ! あのレイブンクローだよ!」

 

 少女は青い瞳をきらきらと輝かせながら、レイブンクローの肖像を見つめていた。

 

「レイブンクロー寮! クィレル先生がいらっしゃったレイブンクロー寮のレイブンクローだよ!」

 

 ホグワーツへと向かう汽車の中で創設者のカードを手に入れたことを、少女はただの偶然ではないように感じた。知識のレイブンクロー、もしかしたら自分もその寮の生徒になれるのではないか。少女は組分けへの期待を膨らませる。

 

「もしかして、わたしもレイブンクローの生徒になれるのかな」

 

 カードをじっと見つめながら、少女は嬉しそうに笑った。一方、彼女のペットの大鴉(レイブン)は彼女の膝の上で、なぜか「カアカア」と鳴いている。

 

「ネモ、どうしたの? あ、チョコレートは食べちゃダメだからね。ネモが食べると死んじゃうんだから」

 

 膝の上の鴉を適当に撫で、少女はカードの裏を読み始めた。飼い主がこっちを見てくれないからか、大鴉(レイブン)は「ガアガア」とより大きな声で鳴き始める。

 

「ロウェナ・レイブンクローがホグワーツの場所と名前を決めたんだって……。ネモ、だからチョコレートは食べちゃダメだよ。あとで一緒にケーキを食べようね……」

 

 少女は魔法使いカードに夢中だったが、なにかを思い出してふと顔を上げた。

 

「そっか! ネモのお母さん(ロウェナ)の名前の由来って、このロウェナ・()()()()クローだったんだ! ネモ、これはお母さんたちにも教えてあげないとだね。——あれ?」

 

 少女はようやく膝の上に視線を向けた。しかし、そこにいるはずの鴉の姿がない。それに、よく見れば蛙チョコレートもなくなっている。

 もしかして、大鴉(レイブン)が食べてしまったのだろうか。少女は血の気が引いていくのを感じた。

 

——はやく、わたしの大切なネモを探さないと。

 

 少女は再び顔を上げた。そして、黒い翼を大きく広げ、今まさに少女の頭に飛びかかろうとしている鴉の姿を見た。

 

 

▽ △ ▽

 

 

  ネモに額を蹴られ、マーガレットは目を覚ました。別に蹴り自体は大したものでもないのだが、蹴られたことで変な方向に動かしてしまったのか首がじんわりと痛い。

 

「痛い……。ネモ、どうしたの?」

 

 危ないから頭を蹴るのはなるべくやめて欲しいのだが、こういうときはネモがなにかを伝えたがっていることをマーガレットは経験から知っていた。ネモがくちばしを向けている方角に視線を動かし、なにを伝えたがっているのかを探る。

 ネモのくちばしの先、そして観客たちの視線の先には、空高くまで上がった箒から振り落とされそうになっている選手がいた。ユニフォームの色を見るにグリフィンドールの選手のようだ。このグリフィンドール対スリザリンの試合でなにかが起きていて、ネモは飼い主を叩き起こしてでもそれを伝えたかったらしい。

 

「あれは……。先生、いったいなにがあったんですか?」

 

 自分が眠っている間のことを聞こうと、マーガレットは隣に座るクィレルのことを見た。しかし、彼はなぜか目を押さえて試合の様子など見ていなかった。

 

「先生、どうかなさいましたか?」

「ネモの翼がめ、目に当たりました」

「すみません。ネモがわたしを蹴った時、先生にも当たってしまったんですね……。ごめんなさい。痛みはないですか?」

 

 マーガレットの謝罪をクィレルは黙って聞いていた。彼は顔を伏せたまま、大きな溜め息を吐く。その様子をマーガレットとネモはじっと見つめている。

 

「先生?」

 

 その時、観客たちがより一層騒がしくなった。なにか動きがあったのかとグラウンドに目を向けるが、マーガレットが目にしたのは天へと昇る白い煙だった。

 

「煙?」

 

 火のないところに煙は立たない。そこに煙があるのなら、そこには必ず炎もある。

 

「火事だ!」

「燃えてる! 燃えてるぞ!」

 

 観客たちも炎の存在に気づき、観客席はとたんに混乱に陥る。そうこうしている間にも煙はどんどん高くまで昇っていく。

 

「きゃあ!」

 

 その混乱の最中、マーガレットも前の席の観客に体を押された。体勢が崩れ、椅子から落ちる。手にしていた箱の中身が宙を舞い、地面に落ちていった。

 仰向けに倒れたマーガレットは一瞬なにが起きたのかがわからず、目をパチクリさせていた。そんな彼女のことを青い目の鴉とグレーの瞳の男がのぞきき込む。

 

「み、ミス・マノック、だ、大丈夫ですか?」

「大丈夫です。あの、火事は?」

「も、もう火は消えました。ど、どういうわけか、せ、セブルスのコートが燃えていたようです。……あぁ、起き上がれますか?」

 

 クィレルの差し出した手を掴み、マーガレットは体を起こした。それから、地面に散らばったチョコレートを箱に戻す。もったいないが、こうなってしまってはもう食べることができない。

 

「ごめんなさい。せっかく先生からいただいたものなのに……」

「し、仕方のないことです。き、き、君が気にする必要はありません。わ、私が捨てておきましょうか」

 

 マーガレットの答えを聞く前に、クィレルは箱を手に取った。そして、コートの内ポケットにしまいこむ。

 

「あの……、本当にすみません」

「い、いえ。それに、た、た、たかがチョコレートですよ」

「はい、そうですよね……。そうだ、試合はどうなったのでしょうか?」

 

 思い出したように二人はグラウンドを見るが、ちょうどその時に試合の終了を告げる笛が鳴った。

 

「グリフィンドール、170対60で勝ちました!」

 

 実況が興奮した様子で試合結果を叫び続けている。観客たちの熱気も冷めやらず、最年少シーカーの奮闘を——スリザリン以外は——たたえている。

 

「わたし、すっかり試合を見逃してしまいました」

 

 マーガレットは悲しそうに呟いた。今日の観戦を楽しめるようにと昨夜は仕事を頑張ったのだが、そのせいで試合中に眠ってしまっては元も子もない。

 

「み、ミス・マノック。今日の試合のことなら、わ、わ、私が話しましょうか? も、もちろん、()()()を教えられるわけではありませんが」

 

 クィレルの言葉を聞き、マーガレットは途端に嬉しそうな顔をした。

 

「本当ですか! 先生、ぜひお願いします!」

 

 幸い、仕事はすべて昨日のうちに片づけてある。クィディッチは観れなかったが、そのぶん他の楽しみが増えたことにマーガレットは心を躍らせていた。




ホグミス、ありがとう。始めててよかった。

いつか登場したらいいなとは思っていたものの、まさか本当にお会いできるとは(しかも、こんなに早く!)思っていなかったクィレル“マグル学”教授。
そして、ついに入れたマグル学の教室。
驚きやワクワクの詰まった素敵なシナリオでした。

というわけで、新しく設定が明かされたことを受けて一部書き直しをします。
今現在、考えているところとしましては、「第1章第3話」でのホグミス主人公たちとクィレル先生の接点。それから、「第1章第5話」のマグル学教室の描写や授業の進め方です。
教室に色々な道具がある様子とか、プロジェクターを使う授業といった面白い設定を無視してしまうのはもったいないので。
今後マグル学の教室に呪われた部屋の入口があった! といった設定が明かされたらどうしようもないのですが……。

どう書き換えたかだとか、どう解釈して取り入れたかといったことは、また次回以降のあとがきでご報告させていただければと思います。それでは、また。


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第7話 教授たちのクリスマス

 その日、マーガレットは鴉の鳴き声で眠りから覚めた。まだ朝早いというのに、ネモは飼い主の体の上で元気よく飛び跳ねている。

 今はホリデーシーズンで授業がない。そのため、朝早くに起きる必要もないので、マーガレットとしてはまだベッドに横になっていたいのだが、ネモは少しでも早く飼い主に起きてほしいらしい。

 

「おはよう、ネモ……」

 

 鳴り止まない目覚まし時計を止める時のように、マーガレットはネモの頭に手を伸ばした。しかし、鴉は鳴きやまない。飼い主に二度寝をさせるつもりはないようだ。

 

 とはいえ、マーガレットもなぜネモがこれほどまでに興奮しているのかはわかっていた。彼女は仕方なくベッドから起き上がり、ぐっと体を伸ばす。外は一面の銀世界で、窓枠には綿菓子のように真っ白い雪が積もっていた。

 

「雪、降ったんだね」

 

 道理で今朝は肌寒いはずだ。マーガレットはガウンを羽織り、靴下がぶら下がる暖炉に火をくべた。パチパチと音を立てながら、炎はゆらゆらと揺らめく。マーガレットは暖炉の前に座り込み、その赤い炎に手をかざす。

 

「暖かい……。ネモもこっちにおいで」

 

 ネモはベッドの上からマーガレットの膝の上へと移った。マーガレットは鴉の頭を撫でると、吊り下げていた靴下を暖炉から取り外す。ネモは「M」と「N」の文字が縫いつけられた赤い大きな靴下のことをじっと見つめていた。

 

「ネモ、メリー・クリスマス! 今年はどんなプレゼントが届いたかな?」

 

 マーガレットは靴下の中に手を突っ込んだ。検知不可能拡大呪文のかかった靴下の中からプレゼントを引っ張り出すとネモはくちばしを鳴らして喜んだ。

 

「最初のプレゼントは……」

 

 マーガレットは箱にかけられたリボンを解く。いくつになってもこのプレゼントを開ける瞬間というのはドキドキする。

 最初のプレゼントの中身は「クリスマスおめでとう(Joyeux Noël)!」と書かれたメッセージカードとブッシュ・ド・ノエルだった。マーガレットが毎年に楽しみにしている祖母からのプレゼントだ。

 マーガレットとしては一年間ずっと楽しみにしていたお菓子なのだから、すぐにでも食べてしまいたい。しかし、まだ朝食も食べていないし、こういったクリスマスのお菓子は家族といった大切な人と一緒に食べるからこそおいしい。だから、マーガレットは自分の気持ちをぐっと堪え、封印もかねて箱にリボンをかけ直した。

 

「お次は……」

 

 マーガレットは再び靴下の中に手を入れた。そして、次から次へとプレゼント取り出していく。祖父からは本を、かつての後輩(教え子)からはお菓子を、同僚からは文房具を、親戚からはワインをもらった。どれも心のこもったプレゼントだ。

 

 さて、靴下の中のプレゼントも残るは一つとなった。

 

「きっと、これがお母さんからのプレゼントだね。今年はなにかな?」

 

 メアリー・マノックは毎年クリスマスに手作りの品を家族に贈る。ある年はお揃いのクリスマスセーター、またある年はミトンの手袋。彼女がなにを編んだのかは、クリスマスの朝になるまでわからない。

 マーガレットは「マッカーデン商店(McCudden’s Shop)」の名前の入った包装紙を開ける。そして、思わず感嘆の声を漏らした。

 

 母のプレゼント、それは手編みのマフラーだった。白い花(マーガレット)の模様が編み込まれた青いマフラーとそれに比べて一回りも二回りも小さな青い花(ネモフィラ)の模様が編み込まれた白いマフラー。マーガレットとネモのために作られた世界でただ一つのマフラーだ。

 マーガレットは自分とネモの首にマフラーを巻いた。それだけでマーガレットは心も体も温かくなったように感じる。マフラーを身につけたネモはぴょんぴょん跳ね、全身で喜びを表現していた。

 

「ネモ。わたしたち、幸せだね。こんなに素敵なプレゼントを、こんなにたくさんもらえて」

 

 もちろん、マーガレットもプレゼントをただもらっていただけではない。祖父には書き心地の良い羽根ペンを、祖母にはグラドラグス魔法ファッション店で見つけた星の刺繍のスカーフを、母には魔法界で人気の作家の新作を、それと魔法使いの友人たちにはロンドンから取り寄せた紅茶とお茶菓子の詰め合わせを贈った。どれも相手の喜ぶ顔を思い浮かべながら選んだ品だ。

 しかし、マーガレットにはまだ渡せていないプレゼントがあった。

 

 マーガレットはサイドテーブルの引き出しから、丁寧にラッピングされた一冊の本を取り出した。別に送り忘れていたわけではない。ただ、このプレゼントだけはどうしても自分の手で渡したかったのだ。

 

「先生、喜んでくださるといいな」

 

 プレゼントを抱え、マーガレットは小さく笑った。

 

 

▼ ▲ ▼

 

 

 マーガレットは闇の魔術に対する防衛術の教室の前に来ていた。例のプレゼントを抱え、コンコンとリズミカルに扉を叩く。

 

「先生、マノックです。いらっしゃいますか?」

 

 教室の中で人が動く気配がした。しかし、扉は一向に開かない。マーガレットはもう一度——今度は少し強めに——扉を叩いた。

 

「あの、開けていただいてもいいですか? 先生にお渡ししたいものがあるんです」

 

 コツ、コツという足音が徐々に近づいてくる。その間、マーガレットは髪を触ったり、左肩にのるネモのことをちらっと見たり、どこか落ち着かない様子だ。

 扉の向こう側の気配が足を止めた。錠を外す音が聞こえ、扉がゆっくりと開く。防衛術の教室に充満していたニンニクの臭いが漏れ出し、マーガレットは思わず顔を手で覆う。

 

「み、み、ミス・マノック、ど、どうかしましたか?」

 

 今日のクィレルはまた一段と疲れているようであった。顔色は悪く、声も震えている。そして、それを誤魔化すために上げている口角も、無理をしているせいかピクピクと痙攣していた。

 

「お休みのところすみません。あの、先生にこれを受け取っていただきたくて……」

 

 マーガレットはラッピングされた一冊の本を差し出す。しかし、クィレルはその贈り物をなかなか受け取らなかった。

 

「こ、これは? わ、わ、私にですか? ど、どうして?」

「クリスマスのプレゼントです。先生、メリー・クリスマス!」

「め、メリー・クリスマス……」

 

 プレゼントがようやくクィレルの手に渡った。彼はマーガレットからの贈り物をまばたきもせずに見つめている。それは嬉しいからというよりも、どうして自分がプレゼントをもらえているのかを理解しきれていないからといった様子であった。

 

「く、クリスマス……。あぁ、そうか。今日はく、く、クリスマスでしたか」

 

 クィレルはうっすらと笑う。それは先ほどまでの作り笑いとは違う、いくぶんか自然な笑みだった。

 

「こ、今年はいったいど、ど、どのような本でしょうか。み、ミス・マノック、開けても?」

 

 マーガレットはこくりと頷いた。クィレルがマッカーデン商店の包み紙を丁寧に開けると、一冊のハードカバーが姿を現す。

 

「今年はわたしの好きな本を先生にお渡ししたくて……。もうお読みになっていたら……、その、ごめんなさい」

「い、いえ、本はいくらあってもこ、困りません」

 

 青い表紙には「海底二万里(TWENTY THOUSAND LEAGUES UNDER THE SEA)」と金色の箔が押されている。

 

「か、『海底二万里』ですか」

 

 クィレルはネモに一瞥をくれた。彼がパラパラとページをめくると、本の間から一枚のしおりが滑り落ちる。

 

「これは……」

「家の庭にアスターが咲いていたので、押し花にしてみました。よかったら、そのしおりもお使いください」

 

 クィレルは押し花のしおりを拾い上げる。その青いアスターの花は夏の庭で摘んだままの美しさを保っていた。

 

「アスター……。あ、アスターは花占いの花でしたか」

「はい。『その花の占いを神々の(ことば)だとお思い』*1でしたか。わたしも小さい頃は花びらをむしってよく遊んでいました。あぁ、でも押し花にしてしまっては、そうやって遊ぶこともできませんね」

「で、ですが、その代わりこ、こうして花の姿をとどめることができます。き、き、君もずいぶんとお、押し花作りが上達しましたね……」

「それは、もちろん——」

 

 マーガレットはにっこりと笑う。

 

「先生に教えていただきましたから!」

「そ、そんなこともありましたね……」

 

 対して、クィレルはひどく沈んだ顔をしていた。

 

「み、ミス・マノック、こ、こうしてプレゼントをもらった以上、き、君にもなにかお返しをしたのですが、わ、私は今日がクリスマスだということを忘れていてな、なにも用意できていません。お返しはす、少し待っていただいてもいいですか」

「いえ、お返しは気になさらないでください。これもわたしが先生にお渡ししたくて持ってきただけですし」

「で、ですが……」

 

 マーガレットは考える。優しい恩師のことだから、彼女がいらないといってもなにかしらお礼を用意することだろう。しかし、ここ最近の彼はクリスマスのことを忘れてしまうくらい疲れているようだ。そのような人物に自分へのお返しを用意してもらうのは彼女も気が引ける。

 

「それなら……。先生、あとで一緒にケーキを食べてくださいませんか? 祖母がブッシュ・ド・ノエルを送ってくれたのですが、わたし一人で食べるにも少し大きくて。先生も一緒に食べてくださると嬉しいです」

「そ、そ、それではわ、私がもらうばかりでは」

「でも、わたしが先生のお時間をちょうだいしてしまうわけですから……。だから、これでおあいこにしませんか?」

 

 「わ、わかりました」とクィレルはマーガレットの提案を受け入れた。

 

「ありがとうございます! 去年はついにケーキを一人で丸々食べられる! と喜んだはいいものの、そのあと夕食が食べられなくなってしまって……。ブッシュ・ド・ノエルはネモに食べさせてあげるわけにもいきませんし、先生がいてくださって助かり——」

 

そんなことを話していると、マーガレットのお腹がグーと鳴った。彼女は途端に顔を赤らめ、恥ずかしそうに俯く。

 

「えっと……。その、すみません……」

 

 マーガレットが顔を上げると、クィレルは顔を伏せたまま口元に手を当てていた。小刻みに肩が揺れていることから、彼が笑っていることがわかる。

 

「き、き、君は……。君はほ、ほ、本当に変わりませんね」

「あはは、そうですね。こればっかりはずっと、()()()()()()()()んだと思います」

 

 

▼ ▲ ▼

 

 

 朝食の席はとにかく賑やかであった。食器の擦れる音や話し声、それから魔法のクラッカーの大砲のような爆発音など、ありとあらゆる音を耳にした。ホリデーシーズンであり、多くの生徒たちが帰省しているのだから普段よりも人は少ないはずなのだが、それを感じさせないくらい大広間は活気に溢れていた。

 それから、普段は厳しく生徒たちを見守る教師たちも、今日この日ばかりは肩の力を抜いていた。和やかな雰囲気の中、彼らもクラッカーを鳴らしては中から飛び出してきた帽子を被ったり、ジョークを読み上げてはクスクスと笑ったりと生徒たちと一緒になって年に一度のクリスマスを楽しんでいた。

 

 その大広間の賑わいと比べてしまえば、マーガレットが今いるマグル学教室はとても静かだった。どれくらい静かかというと、七面鳥のローストやクリスマスプディングをお腹いっぱい食べ、今は飼い主の腕の中で眠るネモの寝息が聞こえるくらい静かであった。

 マーガレットはネモを抱きかかえたまま杖を振った。すると、蓄音機から聞き慣れたクリスマスソングが流れ始める。マーガレットが鼻歌交じりにもう一度杖を振ると、教室に飾ってあったクリスマスツリーに灯りがともった。

 

「ネモ、見てごらん。とってもきれいだよ」

 

 今度はマーガレットがネモを起こす番だった。ネモはゆっくりと瞼を開けると、光り輝くツリーを見上げて「カア」と感嘆の鳴き声を上げる。

 マーガレットは懐中時計を見た。長針と短針が12の位置でぴったりと重なったその瞬間、誰かが教室の扉をノックした。

 

「先生、お待ちしてました!」

 

 扉を開けると、そこにはマーガレットの予想どおりクィレルが立っていた。彼は古いチェス盤を両手で抱えている。

 

「魔法使いのチェスですか? 懐かしいですね」

「も、もし、君さえよければひ、ひ、久しぶりに遊んでみませんか?」

「いいんですか! ぜひ喜んで! 今日こそは負けませんよ」

 

 クィレルを迎え入れるため、マーガレットは教室の扉を大きく開けた。

 

「そうだ。こうしてこの教室で先生とお会いすることは多かったですが、今日はわたしが出迎える側なんですね」

「そ、そうですね」

 

 マーガレットは悪戯っぽく笑う。

 

「先生、マグル学教室にようこそ」

 

 クィレルはひどく懐かしい言葉を聞いたような気がした。

 

 

▼ ▲ ▼

 

 

「び、ビショップをC5へ。——チェック」

「えっと……。クイーンをC5へ」

 

 白のクイーンが黒のビショップを盤の外に弾き出した。しかし、マーガレットの表情は晴れない。

 

「ナイトをH5へ。——チェックメイト」

 

 クィレルはニヤリと笑った。負けたマーガレットは天を仰ぎ、大きなため息をつく。ネモは飼い主を励ますため、彼女の左頬に体を寄せた。

 

「負けました……。去年一年は論文を書くために、また一からチェスの勉強をしたり、マクゴナガル教授にも相手をしていただいたりして、少しは上手くなったつもりだったのですが……。あはは、やっぱり先生はすごいです」

「そ、そうでしょうか」

「そうですよ! だって、わたしは今まで一度も先生に勝てていないんですから」

 

 ネモの頭を撫でながら、マーガレットはあっけらかんと笑った。勝ちたいという欲がないわけではない、負けて悔しくないわけでもない。しかし、マーガレットにとって、このクィリナス・クィレルという人物は常に自分の一歩も二歩も先を歩く人であり、彼女がずっとその後を追ってきた人である。

 だからこそ、彼に負ける(勝てない)ことを当然のように思っていた。

 

「た、たしかに、チェスはいつも私がか、か、勝っていますね。で、ですが、それはき、君の手筋がわかりやすいからで……。あ、あぁ、み、み、ミス・マノックがへ、下手だというわけではなく、き、君と何度もチェスをするうちに弱点がわ、わかったといいますか……」

 

 だからいつも勝てないのか、とマーガレットは納得した。マーガレットもなんとなく恩師の戦術などはわかっているつもりでいたが、それはお互い様であったわけだ。

 

「た、たしかに、み、ミス・マノックのチェスの腕は上がっていました。で、ですが、君の戦い方の癖は変わっていなかった。だ、だから、君に勝つことができた」

「先生がお気づきになった戦い方の癖を、わたしにも教えてくださいませんか? 先生みたいにもっとチェスが上手くなりたいんです!」

 

 クィレルは思い出した。かつて、「先生みたいにもっと魔法が上手くなりたいんです!」とマグル学教室に何度も足を運んでいた少女がいたことを。そして、そのなんでも知りたがる少女に自分はなんでも教えようとしていたことを。

 

「そ、そ、そうですね……。例えば、君はキングを守ることにばかり集中してしまう。たしかに、キングを取らせないことはなによりも重要です。しかし、キングを守ろうとするあまり、相手のキングを狙うことがおろそかになってしまっては、どんな試合も勝てませんよ。それから——」

 

 そして、クィレルは思い出した。今、自分が話しかけているのは魔法界のことをなにも知らない“マグル育ち”の少女ではないことを。そして、その少女がホグワーツの教員として自分と肩を並べられるようになるまでに成長していたことを。

 

「ミス・マノック、この話はこれくらいにしましょう。こ、これ以上、君が上手くなったわ、わ、私が勝てなくなってしまう」

「そうですか……」

 

 マーガレットは見るからにしょんぼりとしていた。

 

「昔のように、なんでもかんでも先生に教えていただくわけにはいきませんもんね……」

 

 しかし、彼女ももう大人である。次の瞬間にはパッと明るい顔になり、何事もなかったかのように笑う。

 

「先生、そろそろケーキでもいかがですか? もう少し遅くなってしまうと、わたしがまた夕食を食べられなくなりそうですし」

「そ、そうですね。そろそろ、食べましょうか」

「では、準備してきます! 先生、少しお待ちくださいね。おいしい紅茶も淹れてきますから」

 

 マーガレットはネモを連れ、ティーセットが置いてあるマグル学教授の研究室(かつてはクィレルがいた部屋)に引っ込んだ。

 一方、一人マグル学教室に取り残されたクィレルは頭を抱え、小さな呻き声を漏らす。

 

「マノック、君は本当に変わらないな」

 

 そう呟く彼の顔には自嘲気味な笑みが滲んでいた。

*1
ゲーテ『ファウスト』より




前回の投稿から二週間以上あいてしまいました。お待たせしてしまい申し訳ありません。
このようなのんびり不定期更新の作品ですが、お気に入り登録をして次話を待っていてくださる方や、評価や感想で応援してくださる方がたくさんいてくださり、とても嬉しいです。

さて、前回のあとがきで触れました書き直しについて、この場でご報告させていただきます。書き直した内容についてと、どのように取り入れたのかという自分なりの解釈についても述べさせていただければなります。(なお、ホグワーツの謎のネタバレとなる記述もありますのでご注意ください)

①ホグミス主人公たちとクィレル先生の関係性(第1章第3話)
書き直し前→授業を教えたこともないし、直接話したこともない。城内で見かけたり、マーガレットとの会話の中で話題になったことがあるといった程度
書き直し後→授業を教えたことはないけれども、インタビューを受けたことがある

「ホグワーツの先生達の特別なお祝い!」クエストは2年次から遊べるそうですが、本作では3年次(マーガレットが4年生の年)にあったイベントということになっています。マーガレットが4年になる年にクィレル先生が助手から教授になるという本作の設定とすり合わせるため、このように解釈しました。「もうすぐ長期の有休休暇でヨーロッパを旅する」というクィレル先生の発言とはずれが生じてしまうのですが、そこは本作での設定の方を優先させていただきました。(クィレル先生が長期休暇を取ることをマーガレットは卒業式の前日まで知らなかったので)
ちなみにですが、ホグミス主人公の性別や所属寮はあえて決めないで書いています。

②マグル学教室の内装や授業風景(第1章第5話)
書き直し前→机と椅子と黒板だけといったシンプルな教室。大学にあるような大教室のイメージ
書き直し後→教室兼資料室。様々なマグルの製品で溢れている。授業では今や懐かしきOHPを使う

ホグワーツでは電化製品が使えないとされてますが、これに対する作者なりの考えと本作での設定を書かせていただきます。魔法が干渉するから電化製品は本来使えないのですが、本作では動力を電気以外に置き替えられるか否かをホグワーツでも使うことができるかの線引きにしています。ですので、OHPは電球ではなく炎などを光源に使えばOK(とはいえ、かなり無理がありそう)、今回の話で出てきた蓄音機はそもそもぜんまい式だからOKといった感じです。反対に、音を電気信号に変えて伝える電話などはその性質上ホグワーツでも使えるようにするのが難しいのかなと思います。
今後もこういったホグワーツならではの電化製品を登場させられたいいなと考えております。

長々としたあとがきでしたが、お読みくださりありがとうございました。


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第8話 ペットパーティーへようこそ

 年が明けた。実家に帰省していた生徒たちも帰ってきたことでホグワーツもまた賑やかさを取り戻す。積んでいた小説を読んだり、ネモと雪遊びをしたりと冬休みを満喫していたマーガレットも授業の用意やレポートの採点に追われ、空いた時間に論文——トロールの事件があったことから、今回はマグルに伝わる魔法生物の伝承とその実像の違いについて書くことにした——を書くという教授の日常に戻っていた。それに、開催が近づくペットパーティーの準備までしなければならないのだから、やらねばならないことは多い。

 とはいえ、マーガレットもずっと教授の仕事をしているわけでもない。準備を週末になれば菓子を買いにホグズミードに足を運んだり、こうしてクィディッチを観戦したりと、ホグワーツで過ごす日々ももちろん楽しんでいた。

 

 

 

「もうすぐ始まりますね……」

 

 クリスマスプレゼントのマフラーを首に巻いたマーガレットはグリフィンドール対ハッフルパフの試合が始まるのを今か今かと待っている。彼女の膝にのるネモもお揃いのマフラーを巻いていた。

 

「今日をずっと楽しみにしていました。やっと最年少シーカーの活躍をこの目に焼きつけることができます」

「それは……よ、よかった」

「でも、こんな試合もあるんですね。マダム・フーチではなく、スネイプ教授が審判をすると聞いた時は驚きました」 

 

 マーガレットはグラウンドに立つスネイプを見る。赤と黄色の旗や垂れ幕で彩られた競技場の中でその黒づくめの恰好はどこか異様な雰囲気を放っていた。

 

「てっきり、マダム・フーチになにかご用事があるのかと思っていましたが、そうではないんですね」

 

 マーガレットとクィレルのいる場所からコートをはさんだ向かい側の観客席にマダム・フーチとマクゴナガル教授、それからダンブルドア校長が座っていた。クィディッチのファン同士、会話も弾んでいるようだ。

 

「どうしてスネイプ教授が審判をすることになったのか、先生はなにかご存知ですか?」

 

 マーガレットは自分の疑問の答えを知っているのではないかと、クィレルに期待のまなざしを向けた。

 しかし、彼は自分の手をじっと見て、わずかに口元を歪めていた。

 

「先生?」

「は、は、はい。ど、どうかしましたか?」

 

 マーガレットが軽く肩をつつくと、クィレルの肩が大きく跳ねた。集中していたのか、マーガレットの声は届いていなかったらしい。

 

「大丈夫ですか? 先生、最近はお疲れの様子といいますか、なんだか難しそうな顔をしていらっしゃることが多いですから」

「す、す、少し考え事をしていました。さ、最近は考えねばならないことがお、多くて……」

「そうでしたか」

 

 青白い顔のクィレルはぎこちなくなく笑った。少し前までは今にも倒れてしまいそうなほど疲れた顔をしていた彼だが、現在は今にも死んでしまいそうなほど疲れた顔をしている。

 そんな恩師の癒しに少しにでもなればいいと、マーガレットはポケットからいくつかチョコレートを取り出した。

 

「先生、よければどうぞ。考え事をするときに甘いものはぴったりですから」

「あ、ありがとう」

 

 クィレルは青い包み紙のダークチョコレートを手に取り、マーガレットは赤い包み紙のミルクチョコレートを口の中に放り込んだ。その様子をネモは羨ましそうに見上げている。

 

「か、考え事の一つといいますか……。ミス・マノック、君に聞きたいことがありました」

「はい、なんでしょうか?」

「一年の旅を終え、ホグワーツに戻ってきたら君に聞こうと思っていました。もっとも、今更聞かなくともわかりきったことではありますが」

 

 クィレルは冷たいグレーの瞳でマーガレットのことを見た。それは彼女を見極めるような視線であり、マーガレットは心臓を掴まれるような感覚を覚えた。

 

「……そう緊張しなくとも。ただ、私がここにいない間、君がなにを思って()()の仕事をしていたのかが知りたいだけですよ」

 

 いったいなにを聞かれるのだろうと身構えていたマーガレットはその質問に少し安堵した。いつかマクゴナガル教授からもされたような他愛のない質問だ。

 

「その、人に教えることはこんなに楽しいことだったのかと思いました。それこそ、わたしは人に教えてもらってばかりでしたから」

「……き、君らしいですね。で、ですが、大変だと思ったことは? 辞めたいと思ったことは?」

 

 大変だと思わなかったわけがない。それこそ、マグル学教授の助手として教壇に立っていたあの一年間は授業の準備に追われ、レポートの採点に苦しみ、論文に頭を悩ませて眠れない夜もあった。

 それに、ホグワーツで働くことの大変さを知るたび、ほぼ毎日のように研究室に顔を出していても決して自分のことを邪険には扱わなかった恩師の偉大さも知った。その恩師と比べてしまえば、マーガレットは自分が教師には向いていないように思うこともあった。

 しかし、それでもホグワーツで働くことにはマーガレットなりの意義があった。

 

「辞めたいとは絶対に思いませんでした。もちろん大変なこともありましたけど、それ以上にこのホグワーツに残れることが嬉しくて……。それに——」

 

 マーガレットは目を閉じた。これは考え事をする時の彼女の昔からの癖だ。

 

「それに、こうして…………、わたしにとってもなによりも重要なんです。だって、…………はわたしの——わたし……」

 

 その時、試合開始のホイッスルが鳴った。観客席からわっと歓声が上がり、そのせいでクィレルはマーガレットの言葉を一部聞き逃してしまった。しかし、彼はなんとなく聞き返す気にはなれなかった。

 

「そ、そうでしたか。き、き、君の気持がわかってよかった。……し、試合も始まりましたし、この話はこれくらいにしましょうか」

「はい」

 

 マーガレットは顔を正面に向ける。試合開始早々にハッフルパフにペナルティ・スロー——マーガレットもどのような反則行為があったのかはわからなかった——が与えられ、波乱の展開となっていた。

 ニンバス2000にまたがり、空高くをぐるぐると旋回していた最年少シーカー(ハリー)が不意に動きを止めた。彼は真下を見つめ、箒の柄をぐっと下に傾ける。観衆はハリーが金のスニッチを見つけたことを悟り、大歓声を上げた。

 指を十字に組んだマーガレットは息をすることすらも忘れ、グリフィンドールのシーカーが急降下していくのを見つめていた

 

 ハリーの箒がスネイプのまたがる箒の脇をかすめていった。次の瞬間にはハリーは急降下をやめ、頭上高くにスニッチを握った手を掲げた。

 観衆は再び大歓声を上げた。マーガレットは興奮で震える手で懐中時計を取り出す。

 

「これは……。新記録ですよ! こんなに早くスニッチを捕まえるなんて!」

「ハリー・ポッターがやりました! 前代未聞の新記録です! マクゴナガル先生も今年一番の笑顔です!」

「ジョーダン!」

 

 その歴史的な快挙に観客も選手たちも大盛り上がりだった。校長のダンブルドアもグラウンドに降り、グリフィンドールの勇士たちをたたえている。負けたハッフルパフの選手たちも相手チームの健闘に拍手を送っていた。

 

 

 

 その熱狂は試合が終わってからも続いた。競技場から城へと戻る誰もが「ハリー・ポッターがすごい」だとか「今年のクィディッチ杯はグリフィンドールで決まりだ」と口にしている。

 マーガレットも記録に残るような名試合を見ることができて大満足だった。前回のグリフィンドール対スリザリン戦は見逃してしまったが、今回の試合だけでもグリフィンドールの新シーカーがいかに将来有望な選手なのかを知ることができた。

 

「もっと先の話ではありますが、これはレイブンクロー対グリフィンドールの試合も楽しみですね。もっとも、どちらのチームを応援するのか悩んでしまいますが」

 

 マーガレットはそう言って横を向いた。しかし、今はクィレルがいないことを思い出し、独り言を言っていた恥ずかしさから顔を赤らめた。

 試合終了後、マーガレットは恩師とともに城に帰るつもりでいたのだが、クィレルは用事があるとのことで先に行ったのであった。だから、今はマーガレット一人しかいない。

 

「そうだ、先生はご用事があるんだった。最近はとくにお忙しいみたいだし、来週のペットパーティーも先生は来られないかもしれないね。ネモ、少し寂しいね」

 

 マーガレットはそう言って左肩のネモの頭を撫でようとした。しかし、彼女はその時にようやく気がついた。いつも自分と一緒にいるはずのネモもなぜかいないことに。

 まさかの出来事に不安を感じないわけでもないが、マーガレットとネモはもう十年以上の付き合いである。マーガレットはネモが一人でどこかへ飛んで行くことがあることも、絶対に一人で帰ってこられることも知っている。だから、もうしばらくしても帰って来なかった探しに行き、それまではネモのことを信じて帰りを待つことにした。

 その結果、マーガレットが大広間で夕食を食べている際にマフラーを巻いた青い目の鴉は帰ってきたのであった。

 

 

▼ ▲ ▼

 

 

 そして一週間が過ぎた。この日、マーガレットとネモは訓練場にいた。別に先週のクィディッチの試合に影響されて、箒飛行の練習に来たというわけではない。マーガレットはマグル学教室から運んできた蓄音機を台の上に置き、カエルの聖歌隊のレコードを流し始めた。

 普段は飛行術の授業が行われる訓練場だが、箒の代わりに料理や菓子をのせたテーブルや色とりどりの風船が並べられている。そう、今日はペットパーティーなのだ。

 

「フィルチさん、助かりました。わたし一人だけでしたら、時間どおりに準備が終わらなかったと思います」

「マクゴナガル先生が私に手伝えと言ったから手を貸しただけだ」

 

 アーガス・フィルチはつっけんどんに答える。しかし、いつもに比べれば彼の機嫌が良いことにマーガレットはなんとなく気がついた。

 

「今年もフィルチさんが来てくださって嬉しいです。このパーティーはハグリッドのペット(ファング)フィルチさんのペット(ミセス・ノリス)がいないと始まりませんから」

「ミセス・ノリスがこのパーティーを気に入っているからな」

 

 フィルチは腕の中の飼い猫に視線を向けた。ミセス・ノリスとマーガレットの左肩にのるネモはテーブルの上のローストビーフをじっと見て、喉を鳴らしている。きっと彼女たちはすぐにパーティーが始まってほしいと思っているのだろう。

 

「そろそろ生徒たちが来る時間ですね」

「騒がしくなるな」

「それは否定できませんね。でも、今年もきっと楽しいですよ。フィルチさんとミセス・ノリスもどうか楽しい一日を」

 

 フィルチはふんと鼻を鳴らしたが、ミセス・ノリスの毛並みがいつもよりも整えられているところを見るにパーティーが嫌で嫌でたまらないというわけではないようだった。

 

 

 

 12時に近づくにつれ、訓練場には徐々に生徒たちが集まり始めた。一年前に見た顔もあれば、ハリー・ポッターのような一年生たちの姿もある。今年は人が来なかったらどうしようかと実は不安に思っていたマーガレットであったが、その心配も杞憂に終わった。

 それに、ペットや魔法生物が好きな生徒たちが集まっているからか自然と会話も生まれているようだ。そこかしこから「君のペットは?」とか「可愛いね!」という言葉が聞こえてくる。ケトルバーン教授がパフスケインを引き連れてきた時には誰もが黄色い声を上げていた。

 11時59分にハグリッドがファングを連れて会場入りした。そして、懐中時計の針が12を指したことを確認し、マーガレットは開幕の挨拶を始める。

 

「ペットパーティーへようこそ! こうして多くの人が集まってくれたこと、とても嬉しく思います。さて、このペットパーティーは七年前にファングとミセス・ノリス、このホグワーツで活躍する二匹のために始まりました。きっかけは一匹の犬と一匹の猫が仲良くなるためでしたが、そこからホグワーツにいるペット同士、その飼い主同士、そして生き物を愛する者同士の交流の場として発展してきました」

 

 マーガレットが左肩にのるネモを撫でると、ネモは「カア!」と鳴いた。マーガレットと同じく、ネモもペットパーティーの歴史を見てきた一人(一羽)だ。

 

「生き物を愛する者同士、ともに語り合いましょう。ペットの飼い主同士、ともに悩みを分かち合いましょう。それから、ペット同士、種類や育ちが違ってもそこにはわたしたちと同じような友情が存在するのでしょう。ですから、ペットパーティーはそんな人と生き物とのつながりを大切にする場であってほしいと思います。みなさん、ぜひ今日という一日を楽しんで!」

 

 こうしてパーティーが始まった。マーガレットが一仕事を終えてほっとしていると、ハグリッドが話しかけてきた。

 

「よお、マーガレット。おまえさんのおかげで今年もいいパーティーになりそうだな。ハリーたちも今日をずいぶんと楽しみにしとったぞ」

 

 ハグリッドが指さす方を向くと、ハロウィーンの時に出会ったグリフィンドールのあの三人組がいた。

 

「あれは俺がプレゼントしたフクロウだ。ハリーは『ヘドウィグ』と名前をつけた」

「雪のように真っ白な羽。とても美しい子ですね」

 

 マーガレットがヘドウィグのことを褒めると、ネモが頭をつついてきた。どうやらネモはヘドウィグに嫉妬したらしい。

 

「おまえさんのネモもやっぱり賢いな。いくら大鴉(レイブン)が賢い鳥とはいえ、人間の言葉を理解できるやつはそうそういやしねぇ」

「そうですかね。言葉がわかってくれるなら、もう少しわたしの言うことも守ってほしいのですが……。ネモ、わかってるよ。この世界で一番美しくて、一番可愛らしいのはあなたなんだから」

 

 マーガレットが黒檀のように黒い羽を撫でてやると、ネモは嬉しそうに顔を摺り寄せる。

 

「マーガレット、せっかくだからあいつらとも話してきてやってくれ。それに、もしかしたらネモもヘドウィグと仲良くなれるかもしれねえ」

「それもいいですね。チューリップとデニス*1、それからタルボット*2も卒業してしまいましたから、ネモにもまた新たな友達を作ってあげたいですし」

 

 マーガレットはハグリッドと別れ、ハリーたちのもとに向かった。ハリーはヘドウィグにハムを与え、ロンはスキャバーズがチーズをかじるところを観察している。そして、ハーマイオニーはケトルバーン教授のパフスケインをずっと撫でていた。

 

「こんにちは」

「マノック先生、こんにちは」

「三人ともおひさしぶりですね。まだ始まったばかりですが、パーティーは楽しんでいますか?」

 

 マーガレットが問いかけるとハリーとロンは大きく頷いた。一方、ハーマイオニーはマーガレットの肩にのるネモのことをじっと見つめていた。

 

「そうだわ。マノック先生がいつも連れていらっしゃる鴉は先生のペットなんですか?」

「はい。名前をネモといいます。ネモ、ミス・グレンジャーにご挨拶を」

 

 ネモが頭を上下に振るとハーマイオニーは目を輝かせた。

 

「賢い鴉がペット。それなら、先生はレイブンクローのご出身でしたか?」

「はい、そうですよ。まあ、ネモはわたしがホグワーツに来る前から飼っていましたから……。わたしがレイブンクローに組分けられたことと、ペットが大鴉(レイブン)であることは偶然だとは思いますよ。それに——」

 

 マーガレットは懐かしむように笑った。

 

「わたしは組分けの時、レイブンクローかグリフィンドールかを組分け帽子にずいぶん悩まれたんです。だから、わたしのペットがネモだったことと、わたしがレイブンクロー生だったことは本当にただの偶然だと思います」

「でも、寮を象徴するような生き物を連れているのってとってもいいと思います。ハリーもロンもペットを飼っているし、私も飼ってみたいと思うようになったんです。それで、なにがいいのかずっと考えてて……。このペットパーティーでなにかいい案が見つからないかなと思ったんです」

 

 ハーマイオニーはマーガレットにメモを見せた。その一行一行にどのペットがなにを食べるかだとか、飼うためになにを用意しなくてはならないかだとかが細かく書いてある。ハーマイオニー・グレンジャーが勉強熱心な生徒だということは風の噂で知っていたが、マーガレットはこのメモからもその片鱗を垣間見たような気がした。

 

「それなら、ハーマイオニーはグリフィンを飼えばいいんじゃない?」

「それとも紋章のライオンとか? ライオンを飼える場所なんて、動物園くらいしか知らないけど」

「どっちも飼えないわ。だって休みの間、家に連れて帰れないもの」

「たしかに、もう少し飼いやすい生き物でないとですね」

 

 マーガレットたちが和やかに話していると、一人の少年が現れた。

 

「僕のヒキガエルを見かけなかった?」

「ネビル、またトレバーがいなくなったのか?」

「うん。僕から逃げてばっかりだよ……」

 

 丸顔の少年——ネビル・ロングボトムはすっかりしょげていた。

 

「トレバーと一緒にあっちでカエルの聖歌隊のレコードを聴いていたんだ。それで、僕がお菓子を取りに少し目を離したらトレバーがいなくなって……」

 

 ネビルは目に涙を浮かべ、今にも泣きだしそうだった。ハリーたちはすぐ見つかるよと励ますが、それでも彼はずっと悲しそうな顔をしている。

 マーガレットはちらりと左肩にのるネモのことを見た。ネモも時々、勝手にどこかに行ってしまうことがある。そんな時、マーガレットはネモが帰って来るのか心配になる。きっと、ネビルも同じ不安を感じているのだろう。

 

「わかりました。きっと、トレバーもそう遠くには行ってないはずです。ですから、わたしもあなたと一緒に探します。必ずトレバーを見つけてあげましょう」

 

 マーガレットがそう声をかけると、ネビルはほんの少し元気を取り戻したようだった。

 

「おーやおや。お菓子が大好きなマルガレーテ(グレーテル)、なにか探し物かい?」

 

 マーガレットが振り返ると、そこにはホグワーツ城のポルターガイストがいた。ピーブズはマーガレット(Margaret)がお菓子好きだからか有名な童話に因み、いつも「グレーテル」*3と呼んでくる。

 

「ピーブズ。そうだ、一応聞きますが……彼のカエルのトレバーを知りませんか?」

マルガレーテ(グレーテル)もすっかり教授の顔になったなあ」

 

 ピーブズはマーガレットの質問には答えず、ケラケラ笑っている。しかし、マーガレットはわかっていた。こういう時は決まってピーブズがかかわっているのだと。

 

「わたしはマーガレット。それに、あなたがこうもタイミングよく現れたということは、あなたがトレバーを隠したということでしょう」

「チッ、チッ、チッ、隠したんじゃないさ。飼い主に置いてかれた可哀そうなカエルとパーティーにも出られず、暗い部屋に閉じ込められたままの可哀そうな犬を友達にしてやろうとしたのさ」

 

 ピーブズはゲラゲラと笑い声をあげた。その様子を見て、ハリーたちは顔をしかめている。ポルターガイストに振り回される大変さを彼らはすでに知っているようだ。

 

「僕、トレバーのことを置いていったんじゃないよ。それに、トレバーは今、犬と一緒にいるの! トレバーが踏みつけられたり、食べられたりしちゃったらどうしよう!」

「ピーブズ、これ以上あなたがふざけるようなら『血みどろ男爵』をお呼びします。それが嫌なら、わたしをトレバーの元まで案内して」

 

 マーガレットは青ざめた顔のネビルの肩をさすりながら毅然と言い放つ。

 

「怖い怖い、それなら案内してやるよ。マルガレーテ(グレーテル)、パンくずの道しるべをたどっておーいで」

 

 マーガレットがふと足元を見ると、いつの間にかカップケーキが置かれていた。点々と並べられたカップケーキの道しるべは城の中まで続いている。

 

「少し待っていてくださいね。トレバーは必ず連れて帰りますから」

「先生、僕も……。僕も、一緒に行きます。早く、トレバーを助けに行かないと」

「わかりました、一緒に行きましょう。ネモ、先導をお願い。すぐに戻りますから、皆さんはパーティーの続きを楽しんで」

 

 ネモを先頭に、マーガレットとネビルはトレバーの救出へと向かった。

 

 

 

 童話とは違い、カップケーキの道しるべは途切れることなく続いていた。マーガレットたちは一応カップケーキを回収しながら向かっていたが、四階にたどり着いた頃には二人ともすっかり両手が塞がっていた。

 薄暗い廊下を歩き、ある扉の前にたどり着く。先を行っていたネモとトレバー誘拐事件の犯人であるピーブズが二人の到着を待っていた。

 

「遅かったねえ。マルガレーテ(グレーテル)、そんなにお菓子を食べていたら悪い魔女に食べられちまうよ」

「だから、わたしはマーガレット。マーガレット・マノック。それより、トレバーはどこですか?」

「この扉の先だよ。ほーら、あそこにいるだろう?」

 

 ピーブズが軽く押すと、扉は音を立てて開いた。扉の先はマーガレットたちのいる廊下よりも暗く、なにがあるのかははっきりとはわからない。しかし、それでも一匹のヒキガエルがいることだけはわかった。

 

「トレバー!」

「ハハハ、あとは楽しんで! ハッハのハー」

 

 ネビルは嬉しそうな顔でトレバーに駆け寄る。その様子を見て、ピーブズはヒューという音とともに姿を消した。

 マーガレットもネビルたちのもとに行こうと一歩足を踏み出す。しかし、後ろからなにかに引っ張られるような感覚を覚えた。思わず振り返ると、ネモがローブの裾を引っ張り、飼い主が扉の向こう側に行かないように引き留めている。

 

「ネモ? どうしたの?」

 

 その時、ネビルの悲鳴が聞こえた。彼は腕に抱えていたカップケーキをすべて放り投げ、腰を抜かして床にへたり込んでいる。

 マーガレットはなにがあったのか確かめようと目をこらした。そして、ネビルに一歩、また一歩と近づいていく巨大な犬の姿を見た。

 

「あれは!」

 

 その犬はただ大きいだけではなかった。怪獣のようなぎょろりとした目玉が六つ、ヒクヒクと動く鼻が三つ、よだれの垂れ下がった大きな口が三つ。大きな顔が三つあるが、胴体は一つ。神話や物語に出てくるような三頭犬の姿がそこにはあった。

 ピーブズが「暗い部屋に閉じ込められたままの可哀そうな犬を友達に」と言っていたのだから、トレバーのいる場所に他の生物がいることはわかりきっていた。それに、よくよく考えればこの場所は9月にダンブルドアが今年いっぱいは入っていけないと言っていた四階の右側の廊下だ。自分がもっと慎重だったならば、とマーガレットは悔やむ。しかし、今は反省よりも生徒の救出の方が先だ。

 

「ネモ! 前のトロールの時みたいになるかもしれない。急いで先生を、クィレル先生を呼んできて!」

 

 しかし、ネモは飼い主のことが心配なのか、咥えたローブをなかなか離さない。

 

「ネモ、わたしは大丈夫。だから、わたしの言うとおりにして」

 

 ネモはマーガレットの顔をじっと見つめていたが、「カア」と小さく返事をするとその場から飛び去った。マーガレットはネモが少しでも早く戻って来ることを祈りながら、三頭犬を刺激しないよう慎重に「禁じられた廊下」へと足を踏み入れる。

 

 三頭犬はマーガレットには目もくれず、ずっとネビルのいる方向を見ていた。一歩近づいては喉を鳴らし、また一歩近づいては他の頭が喉を鳴らしている。

 マーガレットが隣に来るとネビルは彼女のローブに裾をぎゅっと掴んだ。

 

「先生、僕たち食べられちゃう」

 

 ネビルの心配はもっともだった。いざ近寄ってみると三頭犬はとんでもなく大きかった。それこそ、まだ体の小さなネビルだけでなく、マーガレットも一口で食いちぎられてしまいそうなほどの大きさだ。

 

「あの時、トレバーを助けようなんて思わなければよかった。やっぱり僕にそんな勇気なんてなかったんだ……」

「そんなことありませんよ。だって、あなたは今もトレバーのことを守ろうとしているじゃないですか」

 

 ネビルはなにかに気づき、手元を見た。彼は左の手のひらにのったガマガエルを右の手で大切そうに包み込んでいる。

 

「あなたはトレバーのことを助けたいと、守りたいと思って行動した。それに、上手くいかなかったとしても、それは絶対にあなたに勇気がないということにはなりません」

 

 マーガレットは両手に抱えていたカップケーキを宙に放り投げた。そして、右手で杖を構え、左腕は恐怖で震えるネビルの肩に回す。

 

「でも、愛と勇気の物語はハッピーエンドの方がいいですし、わたしはそうであってほしいと思う」

 

 三頭犬の真ん中の頭が大きく口を開けた。マーガレットは盾の呪文(プロテゴ)を唱えるため、杖を大きく振り上げた。しかし、そこで予想外のことが起きた。

 

 どういうわけか三頭犬はマーガレットたちではなく、彼女たちの周りに散らばったカップケーキを食べ始めた。三つの頭それぞれが小さなカップケーキを舌の上で転がし、その甘味をよく味わってから飲み込んでいる。

 三頭犬はマーガレットたちには目もくれず、ただただカップケーキを食べ続けていた。てっきり自分たちが狙われているとばかり思っていたマーガレットとネビルは目を白黒させている。

 

「犬って、カップケーキが好きなんですか?」

「それよりも肉の方が好きだとは思いますが……。そんな冥界の番犬ではないですし……。あ、『三つの頭を持つ犬(ケルベロス)』でしたか」

 

 マーガレットはギリシャ神話に出てくる「ケルベロス」のことを思い出した。冥界の番犬として冥界から逃げようとする亡者や反対に冥界に入ろうとする生者を貪り食う恐ろしい生き物とされているが、ケルベロスには弱点がある。

 一つ目は音楽。エウリュディケを追って冥界に訪れたオルフェウスの美しい竪琴の音でケルベロスは眠ってしまったとされている。

 そして、もう一つの弱点がお菓子といわれている。ケルベロスは甘いものが大好きであり、菓子を食べている間はその目の前を通ることができるとされている。まだ人の身であったプシュケもその方法で冥府の門をくぐったのだ。

 つまり、神話に出てくる三頭犬と同じように、この「禁じられた廊下」の三頭犬もお菓子が好きで、それを食べている間は他のことなど気にならなくなってしまうらしい。

 

「このこともぜひ論文で取り上げたいですね」

 

 論文で紹介するいい事例が見つかったとマーガレットは独り言ちた。研究のためにもうしばらく観察していたいが、神話と同じならば三頭犬が大人しくなるのは音楽を聴いている間か、お菓子を食べている間だけだ。マーガレットはゆっくりと腰を上げ、この場から離れる用意をし始める。

 

「立ち上がれますか? それから、トレバーはちゃんといますか?」

「もう大丈夫。トレバーもここに……」

 

 ネビルもゆっくりと立ち上がった。まだ足が少し震えているが、それでもあの扉くらいまでなら歩けそうだった。

 

「ゆっくりとで大丈夫ですから、行きましょうか」

「うん」

 

 マーガレットに支えられ、ネビルは一歩足を踏み出した。しかし、なにかが足に引っかかり、彼は顔から転んでしまった。幸い、三頭犬は食事に夢中でマーガレットたちにはいまだ気づいていない。

 

「ごめんなさい」

「いいえ、謝る必要なんてありません。これに足が引っかかってしまったんですね。これは……」

 

 マーガレットが見たところそれは仕掛け扉のようであった。ネビルはその取っ手に足を引っかけてしまったようだ。もう一度ネビルを立ち上がらせ、二人はさらに慎重に禁じられた廊下の外へと向かう。その間、マーガレットはあることを思い出していた。

 

——フラッフィーなら四階の右側の廊下におりますだ。なんでも()()()()に必要だそうで。

 

 9月1日にハグリッドから聞いたあの話。自分たちのいる場所がその四階の右側の廊下なのだから、あの三頭犬こそが「フラッフィー」なのだろう。そして、フラッフィーは守るために必要な存在。ということは、あの仕掛け扉の先にはその守らなければいけないものがあるのではないだろうか。

 マーガレットは扉をくぐる直前にもう一度だけ振り返った。三頭犬はあいかわずカップケーキを食べている。その姿はどこか愛らしいが、大きく開いた口からのぞく牙は鋭く、三頭犬がいかに番犬として優れているのかを物語っている。

 それに、マーガレットはその凶暴性をよく知っていた。大きな顔が迫ってくる恐怖、腕を振り上げた時の絶望感。本で読んだのではなく、実際にこの目で見たことがあるような気がしていた。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。しかし、マーガレットはその感覚の原因を思い出せずにいた。

 

 ネビルとともに扉をくぐり、魔法で鍵をかける。これでもう三頭犬に襲われる心配もなくなった。

 

「よく頑張りましたね。もう大丈夫ですよ」

 

 マーガレットはローブの内ポケットからチョコレートを取り出し、にっこりと微笑んだ。

 

「甘いものを食べると元気がでますよ。これを食べて、みんなのところに帰りましょう」

 

 

 

 マーガレットとネビルが訓練場に戻るとハリーたちが駆け寄ってきた。彼らはネビルが無事にトレバーを連れ帰ったことを確認すると、「やったね」とか「よかったわ」と声をかけていた。

 そして、マーガレットたちの帰りを待っていたのは生徒だけではなかった。

 

「ミス・マノック。君は……無事でしたか」

 

 マーガレットは声の聞こえた方向に視線を動かす。そして、クィレルの姿を見つけると白い歯をのぞかせて笑った。

 

「先生! 来てくださったんですね!」

「来たといいますか、()()()に呼ばれたといいますか……」

 

 クィレルの視線の先にはネモがいた。マーガレットが指で招いてやると、ネモは彼女の左肩にとまる。

 マーガレットはいつものようにネモの頭を撫でるが、ネモはいつものようには目を閉じなかった。その代わりに、クィレルのことをじっと睨みつけている。

 

「しかし、わたしを呼ぶ必要などなかったのでは? 君一人でどうにかなったようですし」

「それは——」

「ネビル! またあの廊下に行ったのかい!」

 

 ハリーが突然声を張り上げた。そのせいでマーガレットもクィレルも思わず子供たちの方を向いてしまう。

 

「ハリー、声が大きいわ」

「ごめん……。でも、どうやってあの怪物犬がいる廊下からトレバーを連れて帰ってきたんだ?」

「それは……。最初は僕たちも食べられちゃいそうだったんでけど、あのでっかい犬がカップケーキを食べ始めて……。その間にトレバーを捕まえて逃げてきたんだ」

「おったまげー。あの馬鹿でかい怪物がお菓子を食べる間はおとなしかったって?」

「うん。たしか、マノック先生が『ケルベロス』って言ってた」

 

 ハリーたちはマーガレットのことを見た。皆、説明してほしそうな顔をしている。

 

「ケルベロスというのは、古代ギリシャやローマの神話で語られる冥府、つまり死後の世界にいる頭が三つもある大きな犬のことです。ケルベロスは冥府から逃げようとする亡者を食う恐ろしい存在とされていますが、実は弱点があります。その一つが——」

「音楽を聴かせる。竪琴の名手オルフェウスはケルベロスに美しい音楽を聴かせ、眠らせることで冥界下りを成功させたのよ。それに、ケルベロスは甘いものも好きだったわ! 『ケルベロスにパンを与える』ってことわざもあるくらい!」

 

 ハーマイオニーは顔を真っ青にさせていた。

 

「そうよ。あの三頭犬をどうにかする方法なんて、とっても簡単じゃない! こんなの誰でも知っているわ!」

「どうしよう。これが——」

「待ってください。ミス・グレンジャー、あなたたちもあの部屋に入ったことがあるのですか?」

 

 マーガレットからの質問に、ハリーたちは気まずそうに顔を見合わせている。

 

「叱るつもりだとか、減点するつもりだというわけではありませんよ。あなたたちはまだ一年生ですし、きっと道に迷ってあの廊下に迷い込んでしまったのでしょう」

 

 ハーマイオニーは咄嗟に頷いた。正確には道に迷ったわけではないのだが、目の前の教師がそう勘違いしてくれるならば、それに越したことはない。

 

「わかりました。あなたたちが前に入ってしまったことは、ここだけの秘密にしましょう。だから、フラッフィー——あの三頭犬のこともあなたたちの胸の内にとどめておいてくださいね。とくにミスター・ウィーズリー、あなたの双子のお兄さんたちにはくれぐれも教えないように。彼らがもし、そのことを知ったらなにをしてくれるかわかりませんから」

 

 ハリーたちは揃って首を縦に振った。

 

「ありがとう。では、この話はここまで。パーティーはもうしばらく続きますから、どうぞ楽しんで」

 

 グリフィンドールの一年生たちを見送り、マーガレットは安堵のため息を漏らす。しかし、ほっとしていられるのも束の間だった。彼女の肩に死人のように冷たい手が置かれたのだ。

 

「なるほど。だから、君は禁じられた廊下の三頭犬から無傷で逃れることができたのですか。あの怪物とマグルの神話に出てくる架空の生き物の類似性に気がつくとは……さすがマグル学教授」

「いえ、今日のことは偶然といいますか——」

 

 マーガレットは言葉に詰まってしまった。今、自分に話しかけているのは彼女が尊敬してやまない恩師であるはずなのに、その声も、表情も、仕草も、なぜだかすべてが別人のように感じる。光の加減のせいか、彼の薄い灰色の瞳も今は緑色に見えていた。

 

「先生?」

「君は私にはできなかったことも成し遂げてみせる。あぁ、また君はそうやって、そうやって私を……」

 

 クィレルは無意識のうちにマーガレットの右肩を掴む力を強めていた。マーガレットは思わず小さく悲鳴を上げる。

 

「先生、少し痛いです」

 

 クィレルは慌ててマーガレットから手を離した。そして、ふらふらと後退ると、また()()()()雰囲気に戻っていた。

 

「す、す、すみません。よ、用事があることをお、思い出しました。わ、私はこれでし、失礼します」

 

 クィレルは逃げるようにその場を去っていった。マーガレットはじんわりと痛む右肩を押さえながら、その後ろ姿を見送ることしかできない。

 今の彼女には、かつての恩師にどう話しかければいいのかがわからなかったのだ。

*1
「ホグワーツの謎」に登場するレイブンクロー生チューリップ・カラスとそのペットのカエルのデニスのこと

*2
「ホグワーツの謎」に登場するレイブンクロー生タルボット・ウィンガーのこと

*3
「マーガレット」のドイツ語が「マルガレーテ」、その愛称が「グレーテル」



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第9話 禁じられた森の一夜【前編】

少々長くなりましたので前編・後編に分割しました。

※一部、R-15に相当するような描写や残酷な描写があります。


 季節は冬から春へと変わり、じきに夏が——つまり一年の終わりが訪れようとしていた。一年の終わりといえば学年度末のパーティーだが、今年はグリフィンドールとスリザリンの首位争いが激しく、近年まれに見る接戦が繰り広げられている。

 スリザリンが七年連続で寮杯をいただくのか、それともグリフィンドールがかっさらうのか。その結果は、クィディッチ最終戦のグリフィンドール対レイブンクローまでもつれ込もうとしていた。

 

 とはいえ、その前に立ちふさがるのが試験である。学年末の試験を来週に控え、教師も生徒もホグワーツにいる誰もが忙しそうにしている。マーガレットも試験問題自体はずいぶんと早くに作り上げたものの、一年の終わりに向けてやらなければならないことは多かった。

 

 

 

 その夜、マーガレットは手書きの原稿を横目で見ながら、タイプライターに向き合っていた。雑誌に掲載する論文をこうして清書しているのだ。

 魔法界には読み上げた内容を書き写してくれるような清書向けの羽根ペンもあるのだが、マーガレットもタイプライターのカタカタという音を聞きながら作業をするのが好きだった。それに、先代、先々代のマグル学教授も「マグル学を教える以上、少しでもマグルの生活を体験してみなければ」と活版印刷で書類を作ったり、タイプライターでレポート書いたりしていたので、マーガレットもその前例にならうことにした。

 数日間に分けて行っていた清書作業も残るは一行だ。作業を進めるうちにタイピングもずいぶんと速くなった。あっという間に最後のピリオドまで打ち込み、「できた!」と喜びの声を上げる。しかし、彼女と一緒になってその完成を喜んでくれるものはいなかった。

 

 マーガレットは部屋の中を見回し、ネモの姿を探す。だが、ネモはどこにもいなかった。ここ最近、飼い主が論文のことばかりに集中してかまってやれていないからか、ネモは勝手にどこかへと出かけていることが多かった。だが、マーガレットが作業を終え、眠るような時間になるといつの間にか戻っている。ゆえに、マーガレットもあまり深くは考えていなかった。

 しかし、今日は切りの良いところ——つまりは最後——まで作業していたからか、その普段なら眠っているような時間もゆうに過ぎている。なのに、ネモは帰ってこない。

 マーガレットはあまり良くないものを感じた。ネモになにかあってからでは遅い、と真夜中のホグワーツを探索することを決心する。彼女は半袖のブラウスの上からいつものローブを羽織り、研究室をあとにした。

 

 

 

 ネモの捜索は難航した。ネモが水浴びのために立ち寄りそうな中庭や二階の女子トイレものぞいてみたが鴉の姿はどこにも見当たらなかった。それに、女子トイレのゴーストも今夜は——正確には今夜だけでなく、ここ最近とのことだが—ネモを見ていないそうだ。

 マーガレットはホグワーツ城をさ迷っていた。水浴びをしているわけではないとなると、ネモがどこにいるのかなんて皆目見当もつかない。しらみつぶしに一部屋一部屋探しているとあっという間に朝になってしまいそうだ。どうしたものかと廊下で考え事をしているとある人物が声をかけてきた。

 

「これはミス・マノック。こんな夜中に出歩くとは。はあ、ミス・マノックがまだ学生だったのなら、これですぐにでも罰則が与えられたのに」

 

 マーガレットが振り返ると、そこには管理人のアーガス・フィルチと彼の飼い猫のミセス・ノリスがいた。

 

「フィルチさん! そうだ、フィルチさん。わたしのネモを見かけませんでしたか?」

「あの鴉か?」

「はい。その、ネモがどこかに行ったきり、帰ってこなくて……それであの子を探しているところなんです」

 

 ホグワーツの夜を見張る彼ならなにか知っているかもしれない、とマーガレットは期待を寄せる。

 

「あの子か……。少し前になるが、闇の魔術に対する防衛術の研究室の前で見かけたな」

「本当ですか! クィレル先生の研究室ですね。フィルチさん、ありがとうございます。助かりました!」

 

 フィルチへの礼もそこそこにマーガレットはホグワーツの長い廊下を駆け抜け、恩師のいるであろう部屋へと向かう。なお、残されたフィルチは教師が廊下を走った場合、その罰則はどうするべきなのかと一人考えていた。

 

 

 

 全速力で走っていたからか、マーガレットの息はすっかり上がっていた。呼吸を落ち着かせながらネモを探す。しかし、部屋の外にはいないようだった。

 ネモは研究室の中にいるのだろうか? クィレルはネモがマーガレットや彼女の家族の次によく懐いている人物だ。それは彼と過ごした時間の長さを考えれば当然のことである。だから、飼い主と遊べないことに拗ねた大鴉(レイブン)はクィレルのもとに遊びに来ていたのかもしれない。

 それなら先生にご迷惑をおかけしてしまったな、と考えながら、マーガレットは扉をノックした。しかし、一向に開く気配がない。

 

「あ、もう先生は寝ていらっしゃるのかな」

 

 ネモもだが、自分もまた迷惑なことをしてしまったとマーガレットは反省する。それに、クィレルがもう眠っているのならば、ネモもここにはいないだろう。マーガレットは扉に背を向け、次の探し場所を考えようとする。

 

 だが、マーガレットは廊下に落ちていた一枚の黒い羽根を見つけた。マーガレットはその羽根を拾い上げ、直感的にそれがネモのものだと判断する。たしかに、ネモはここにいたようだ。

 

「そうだ。——追跡せよ(アヴェンギジウム)!」

 

 マーガレットが呪文を唱えると、黒い羽根はふわりと宙に舞い上がった。そして、まるで風で運ばれているかのように廊下を漂いながら進んで行く。黒い羽根はもとあったところ——つまりは、ネモのもとに戻ろうとしている。

 マーガレットは杖を構えなおし、ネモの羽根の行方を追った。

 

 

▼ ▲ ▼

 

 

 黒い羽根のあとを追いかけ、マーガレットは禁じられた森にまで入り込んだ。羽根が森の中に入るのを見た際はマーガレットもさすがに引き返すべきかと考えた。しかし、ネモがこの危険な森の中にいるのなら、なおさら早く連れて帰らなければと思ったのだ。

 月明かりと杖先に灯した光のおかげでいくらか歩きやすい。マーガレットは足元と前を行く黒い羽根とを交互に見ながら木々の生い茂る森の中を進んでいた。

 

 しばらくすると、マーガレットは不思議なものを見つけた。木々の隙間から純白に光輝くものが見える。その光はまるで太陽の光ように強く輝いていて、この薄暗い森の中ではなおさらよく目立っていた。

 黒い羽根はまるで吸い寄せられているように白い光に向かっていった。マーガレットもその羽根を追っているのだから、自然とその光に近づいていく。

 そして、ようやく開けた平地に出たところで、マーガレットはその光るもの正体を知った。

 

 それはユニコーンだった。真珠色に輝くたてがみを持ったユニコーン。しかし、ユニコーンはひどい怪我をしていた。長くしなやかな足から銀色の血を垂れ流している。

 ユニコーンはマーガレットの姿を見つけると、悲痛な鳴き声を上げた。マーガレットには動物の言葉なんてわからない。しかし、それはユニコーンが「助けて」と言っているように感じた。

 

「大丈夫。わたしが治してあげるから」

 

 マーガレットはゆっくりとユニコーンに歩み寄った。ユニコーンは立ち上がることもできないのか、彼女が近づいてくるのを静かに見つめている。

 マーガレットはユニコーンの傍らに腰を下ろし、足の傷口に触れた。傷は彼女の想像よりも深かったようで左手に銀色の血がべっとりとついてしまったが、彼女は治療を優先するため杖先を傷口に向けた。

 

「——癒えよ(エピスキー)!」

 

 傷口が一瞬熱くなり、すぐに冷たくなった。この治癒魔法(エピスキー)は軽度の傷を癒すための呪文なのだから、ユニコーンに対してどこまで効果があったのかはわからない。

 しかし、力なく横たわっていたユニコーンがもう一度立ち上がれる程度の効果はあったようで、ユニコーンはふらふらと歩き始めてしていた。

 

「待って、また傷口が広がってしまったら大変だから。——巻け(フェルーラ)!」

 

 マーガレットの杖の先から包帯が現れ、ユニコーンの足に巻きつく。気慰め程度にしかならないかもしれないが、ないよりかはましだ。

 治療を終え、マーガレットが一安心していると、あの「カアカア」という鳴き声が聞こえてきた。マーガレットの背後にはいつの間にかネモがいた。

 

「ネモ! 探したんだよ」

 

 マーガレットはネモを抱きしめようとする。しかし、ネモはマーガレットの腕をすり抜け、彼女のローブを咥えて引っ張り始めた。

 

「ネモ、どうしたの?」

 

 鴉はなにも答えない。力の限りを尽くして飼い主のローブを引っ張るだけである。しかし、たった一羽の鴉には飼い主を動かせるほどの力などあるわけがなかった。

 

 月が雲で隠されたのか、急にあたりが暗くなる。ユニコーンは怯えたようにいななきを上げ、森の奥へと走っていってしまった。それに、ずっと自分のローブを咥えていたネモも今は「ガアガア!」と威嚇の声を上げている。

 マーガレットはようやくネモがなにをしようと、なにを伝えようとしていたのかを理解した。早くここから、この危険な森から逃げろと伝えていたのだ。

 

 マーガレットは杖を握りしめ、ネモの視線の先を見る。そして、全身をマントで包み隠した黒い影の姿を見つけた。

 

「なにをしているのですか!」

 

 マーガレットはゆらゆらと近いてくる黒い影に杖を向けた。影が一歩、また一歩と近づいてくるごとに周囲の空気が重く、冷たくなっていくのを感じる。マーガレットは体がこわばってしまい、蛇に睨まれた蛙のように身動き一つ取れずにいた。

 そんな飼い主を守るため、ネモが影に飛びかかった。地面を力いっぱい蹴り、黒い翼を大きく広げる。しかし、赤い閃光を胸に受け、ネモは地面に墜ちた。

 

「ネモ!」

 

 黒い影はいつの間にか杖を抜き、それをマーガレットに向けて突き出していた。影は杖を構えたまま、少しずつ間合いを詰めてくる。

 ネモを射抜いた赤い閃光。その見た目と効果から、あれはおそらく失神呪文だったのだろう。しかし、呪文のようなものは聞こえなかった。ということは無言呪文だろうか。

 マーガレットの恩師もよく使ってはいるが、あれはかなりの経験を積んだような魔法使いでなければ実戦で使いこなせないような技術。それを、目の前の黒い影はいとも簡単にこなしてみせた。

 

 マーガレットは恐怖を感じていた。まだ若く、経験も浅い彼女がたった一人で立ち向かっていい相手ではないと、早く逃げろと本能が警告を発する。しかし、ネモを置いていくことはできない。

 震える杖腕を左手で支えながら、マーガレットは影に杖を向けた。

 

「——武器よ……(エクスぺリ……)

 

 マーガレットが呪文を唱え終わるよりも早く、紅い閃光が飛んできた。腕に鈍い痛みを感じ、マーガレットをマツの杖を落としてしまう。いくら自分が魔法使いだと、戦うために(守るために)魔法を使うことができるといっても、それをコントロールするための杖がなければ元も子もない。

 マーガレットは地面に転がる杖に手を伸ばした。しかし、いつの間にか足縛りの呪いをかけられていたらしく、両足がぴったりとくっつき思うように動けない。バランスを崩し、マーガレットはそのまま地面に倒れ込んだ。

 

「どうして、こんなことを……」

 

 再び月が出てきた。しかし、影は目深にフードを被っていて、マーガレットを見下ろすその顔や表情はよくわからない。ただ、杖も奪われ、立ち上がることもできない無力な女に杖を突きつけるのみである。

 

 しかし、マーガレットはその杖に見覚えがあった。先ほどまでは薄暗くてよくわからなかったが、月明かりに照らされた今ならわかる。

 ツタが巻きついたようなデザインの黄褐色(ハンノキ)の杖——それはマーガレットが自分の杖の次に馴染みのある杖といっても過言ではない。その杖の動きを見て、彼女は杖の振り方を学んだ。そして、その杖の持ち主は——。

 

「……先生。先生、なんですか?」

 

 マーガレットは震える声で呟いた。

 

 どうか自分の見間違いであってほしい、勘違いであってほしい。これはなにかの間違いなのだ。これは悪い夢なのだ。心の中で何度も自分に言い聞かせる。

 しかし、彼女の願いは脆くも崩れ去った。

 

「気づかれましたか」

 

 それはマーガレットもよく聞き慣れた声だった。

 

「嘘……。そんな、噓ですよね」

「嘘?」

「だって、先生がこんなことするはずが……」

 

 男は呆れたようにため息をつく。

 

「ミス・マノック、君は私の声も思い出せないと?」

 

 マーガレットは必死に首を横に振った。彼女がずっと慕い続けていた人物とネモを昏倒させ、自分に呪いをかけたこの人物の声が同じことくらいわかっている。でも、だからこそ、その事実をマーガレットは認めたくないのだ。

 

「気づかれた以上、隠す必要もありませんか」

「そんな……。そんな……」

 

 影をゆっくりとフードを脱いだ。グレーの瞳が月明かりを受けて怪しく輝く。

 

「クィレル、先生……」

 

 絶望に染まったマーガレットの顔を見て、クィレルはわずかに口元を歪めた。ターバンを巻いていないからか、それともその軽薄な笑みのせいか、マーガレットにはこのクィレルが彼女の知るクィレルとはまるっきり別人のように見えていた。

 

「どうして、ですか?」

「どうして? どうして自分がこんな目にあわなければならないのか、と?」

 

 クィレルはマーガレットの杖を拾い、指でくるくると弄ぶ。杖を奪われ、ネモも意識を失っている以上、マーガレットはどうすることもできなかった。ただ、怯えた瞳でかつての恩師のことを見上げる。

 

「それは……君()()が私の邪魔をするからですよ」

 

 未だに動かないネモのことを一瞥し、クィレルはこう続けた。

 

「近頃はあの鴉にずっと監視されて、ずいぶんと動きにくかったよ。ご主人様もあれには大層腹を立てていらっしゃった。あぁ、そうか。ならば、今ここで殺してやってもいいのか。ユニコーンを殺すより、余程簡単だ」

「やめてください! ネモは、ネモは関係ありません!」

 

 クィレルはちょっとした冗談のつもりだった。しかし、マーガレットはそれを本気と受け取ってしまったらしく、すっかり顔を青くしていた。

 ネモはなによりも大切な彼女のペットだ。マーガレットが七歳になった日に生まれ、それからずっと同じ時を過ごしてきた妹のような、いや、もはや彼女の半身のような存在である。だからこそ、誰であろうと——それがかつての恩師であろうと——ネモを傷つけさせるわけにはいかないのだ。

 

「関係ないと? あの鴉は今夜も私のあとを追ってこの森までついて来た。その挙句、飼い主である君まで来た。マノック、君がそう命じたのでは? ダンブルドアかスネイプにでも頼まれたのかもしれませんが、そうやって私たちの動きをあの鴉に探らせていたのでしょう?」

 

 たしかに、ここ最近はネモが勝手にどこかに行っていることも多かった。しかし、そのネモがクィレルのもとにいたことも、それにクィレルがなにか企んでいるらしい——それも、校長たちをも敵に回すようなホグワーツにとって害ある企み——ということもマーガレットは今、知ったのだ。

 

「わたしは、わたしはただネモを探して……。ネモがどこでなにをしていたかなんて、わたしも初めて知ったんです」

「だから、自分はなにも知らないと? このことはすべて偶然だと?」

 

 マーガレットは小さく頷いた。だって、それが事実なのだから。

 しかし、クィレルは納得していなかった。杖をネモに向け、真実を吐けと脅す。

 

「そう信じろと? あの鴉が君の右腕のような存在だということは、私もよく知っている。それに、ずいぶんと利口に君の指示を聞くことも。君以外に、誰があの鴉に命令を出せる!」

「でも、本当に! 本当に知らないんです!」

「もういい」

 

 その時、マーガレットのものともクィレルのものとも違う声が聞こえた。そう遠くない、むしろかなり近くから聞こえたはずなのに声の主の姿はどこにも見当たらない。

 

「誰、誰ですか?」

「クィレル、その小娘を少し痛めつけてやれ。そうすれば、口を割るだろう。その方法は——お前もわかっているはずだ」

「しかし、ご主人様——」

 

 クィレルの顔に緊張が走った。しかし、謎の声は愉快そうに喉を鳴らして笑う。

 

「その小娘を負かしてやりやったのだろう。自分の方が強いと、自分の方が優れていると見せつけてやりたかったのだろう。ならば見せてやれ。闇の魔術でもって、お前の実力をしめしてみろ」

 

 クィレルは杖をぐっと握りしめた。そして、杖先をまっすぐマーガレットに向ける。

 

「そうでした。私は、彼女に勝ちたくて——」

「先生、わたしは——」

「——苦しめ(クルーシオ)!」

 

 刹那、マーガレットの全身に激痛が走った。華奢な女性のものと思えないような叫び声を上げ、彼女は地面に倒れ伏す。視界が歪み、まともに呼吸すらできない。一瞬だけだったとはいえ、それでも死んだ方がましだと思わせるには十分な痛みだ。

 

「ははは。なにが監督生だ、なにが首席だ、なにが最年少教授だ。こうして、私には手も足もでなかったのに!」

 

 苦しそうに喘ぐマーガレットの姿を見て、クィレルは高笑いした。より強い魔法使いは、より優れている魔法使いは彼女ではなく自分なのだとようやく証明できたのだ。

 しかし、そうやって笑えば笑うほど、なぜだか涙が頬を濡らしていた。

 

「あぁ、そうか。いくら君が優秀な魔女でも、この杖がなければなにもできないのは当たり前か」

 

 クィレルはマーガレットを抱き起こし、その右手にマツの杖を握らせる。これで反撃でもしてみろということなのだろうが、マーガレットの口からはヒューヒューと音がするばかりでとてもではないが呪文を唱えられるような状況ではなかった。

 

「あれだけで根をあげるとは。クィレル、おまえが妬み嫉んだ女は所詮この程度でしかなかったようだな」

「はい……」

「しかし、これでは話も聞けないな。まあ、よい。ここまで弱っているのなら、簡単に記憶をのぞき見ることもできるだろう。クィレル、わかっているな」

 

 クィレルは黙って頷いた。マーガレットの顎を持ち上げ、顔をのぞき込む。恐怖で見開かれた青い瞳に赤い目をした男の姿が映り込んだ。

 

「——開心(レジリメンス)!」

 

 マーガレットはあの心臓をぎゅっと掴まれるような感覚を再び覚えた。しかし、今回はそれだけでない。マーガレットの頭の中で数々の記憶が走馬灯のように浮かんでは消えていった。ネモを探し、森に足を踏み入れた瞬間のことや三頭犬を見た日のこと、それからクリスマスにチェスで負けてしまった時のことなど記憶はどんどん遡っていく。

 その間、マーガレットはされるがままであった。記憶を、心を読む魔法に抵抗するすべなど彼女は知らなかったのだ。

 

「……本当になにも知らなかったのか」

 

 開心術はマーガレットが本当になにも知らなかったということ——つまり、ネモに指示も出していなければ、ダンブルドアともスネイプとも繋がっていないこと——の証明にしかならなかった。

 膨大な量の記憶を見て疲れたのか、クィレルは軽く目を閉じて頭を休ませている。マーガレットは彼が自分を見ていないことを確かめ、視線だけを動かして地面に横たわるネモのことを見た。

 今なら、ネモだけでも逃がしてやることができる。そう確信し、マーガレットは杖を握りなおす。

「——蘇生せよ(リナベイト)!」

 

 少し声がかすれていたが、それでもマーガレットは呪文を唱えることができた。ネモは目を覚ますと一瞬だけ飼い主のことを見た。そして、次の瞬間には力強く地面を蹴り、黒い羽を大きく広げて空へと飛び立った。

 ネモが逃げたことに気づき、クィレルもすぐさま失神呪文を放つ。しかし、ネモはその追撃をすべてかわし、ホグワーツ城に向けて飛び去った。

 

「マノック……」

 

 クィレルはマーガレットを地面に押さえつけ、馬乗りになった。杖を首筋に当て、もう片方の手で相手の杖腕を押さえつける。男性と女性、体格の差も力の差も明らかであり、こうなってしまったらマーガレットにはなすすべもない。

 

「鴉だけを逃がして、君は逃げそびれたか」

「いいえ。ネモだけを逃がせればいいと思ってやりました」

 

 首筋に杖を押しつけられ、マーガレットは呻き声を上げた。

 

「たかが鴉のために、自分はどうなろうとかまわないと?」

「……はい」

「小娘、ならば貴様の望むとおりにしてやろう」

 

 謎の声が愉快そうに言う。

 

「クィレル、小娘に忘却術をかけろ。今夜のことはすべて忘れさせてしまえ」

 

 忘却術と聞き、マーガレットの顔に恐怖が広がった。

 

「先生、それだけは……それだけは、やめて」

 

 磔の呪いをかけられることも覚悟していた。この場で殺されることも覚悟していた。しかし、再び記憶を失う覚悟だけはできていなかった。

 

「お願いです。今夜のことは、絶対に、誰にも、言いませんから……」

 

 マーガレットの見開かれた目から涙があふれ落ちる。

 

「だから、わたしから、わたしから記憶を奪わないで……。もう、あんな思いは——」

「——忘れよ(オブリビエイト)!」

 

 

 

 青い目の鴉に導かれて禁じられた森へとやってきたホグワーツの森番が意識を失っている女を見つけたのは、それからしばらくしてからだった。




独自解釈、独自設定、独自展開となんでもありな本作ですが、最大の改変はクィレル先生の闇落ち理由を「みんなを見返してやりたい」から「たった一人のかつての教え子を見返してやりたい」に変えたところだと思います。


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第10話 禁じられた森の一夜【後編】

 マーガレットが目を覚ましたのはその二日後だった。彼女が真っ先に目にしたものは真っ白な天井——ではなく、青い目をした目をした鴉。ネモは飼い主が瞼を開けるとベッドの上で飛び跳ね、くちばしを何度も打ち鳴らしていた。

 

「目を覚ましましたね、ミス・マノック」

「マダム・ポンフリー……。ここは……」

 

 マーガレットは自分が医務室にいることに気がついた。

 

「あなたは禁じられた森の中で倒れていたのですよ。ハグリッドがここに連れてきた時にはすでに意識もなく、こうして二日も眠り続けていました」

 

 二日も眠っていたと聞き、マーガレットは慌てた。少しでも早くあのマグル学教室に戻らなければいけないのに体が思うように動かない。

 

「ミス・マノック、あなたには休息が必要です。ですから、まだこの医務室を出る許可は出せません」

「でも、わたしには授業が……」

「ミス・マノック、あなたが教授であったとしても、ここではわたしの指示に従っていただきます。それから、もう今日の授業は終わりましたよ」

 

 マダム・ポンフリーの言うとおり、窓からは赤い西日が差し込んでいた。もうそろそろで夕食の時間だろうかと考えていると、マーガレットのお腹はグーと音を立てた。二日も寝ていただけあり、彼女の胃袋は空っぽだったのだ。

 

「お腹を空かせる元気があるのならば、明日にもここを出られるでしょう。わたしは一度ここを離れますが、しばらくは横になっていてください。あなたが目を覚ましたら呼ぶようにと、ダンブルドア校長から承っておりますので」

 

 マダム・ポンフリーが去り、医務室にはマーガレットとネモだけが残された。マーガレットはゆっくりと目を閉じ、どうして自分がここに運び込まれることになったのかを考える。しかし、いくら考えても研究室で論文の仕上げを行っていたことまでしか思い出せない。

 

「わたし、()()憶えてない……」

 

 そう呟いたマーガレットの手は小さく震えていた。ネモはそんな飼い主の表情を心配そうにのぞき込む。

 

 しばらくすると、マダム・ポンフリーがダンブルドアを連れて戻ってきた。マダム・ポンフリーはいつまでに面会を終わらせるようにとダンブルドアに伝えると、再び医務室を出ていった。

 

「マーガレット、君と少し話をしたいのじゃ」

 

 マーガレットは小さく頷く。ダンブルドアは微笑み、ベッドサイドに置かれた椅子に腰を下ろした。

 

「寝たままでよい……。マダム・ポンフリーからあまり長居はしないように言われていてな。じゃが、どうしても君から聞かなければならないことがあるのじゃ。マーガレット、君が禁じられた森の中で倒れていたのは知っておるか?」

「はい、マダム・ポンフリーから聞きました」

「そうか。では、どうして禁じられた森にいたのかは憶えておるか? なにかを追いかけて森まで行ったのか。それとも、誰かに呼ばれたのか行ったのか。わしに教えてくれぬか」

「それは……、それは……」

 

 マーガレットの体が急にガタガタと震え出した。

 

「ごめんなさい。あの……、あの、その夜のことをわたし……えっと、その、なにも憶えていなくて……。本当に……ごめんなさい」

「マーガレット、思い出せないことに罪悪感を覚える必要はない。落ち着いて、落ち着いて」

 

 眼鏡の奥の明るいブルーの瞳と目が合う。その透き通るような目を見つめていると、なぜか思い出せなかったはずの論文を書き終えたあとの出来事がぽつぽつと頭の中に浮かんでくる。

 

「あの夜、わたしは……。わたしは、ネモを探しに行きました。もう寝る時間だったのに、ネモがどこにもいなかったんです。二階の女子トイレも中庭も探して、最後に防衛術の——クィレル先生の部屋にも向かってみたら、ネモの羽根が落ちていました。だから、それに追跡魔法をかけて……」

「では、君はネモのことを追いかけていたのじゃな」

 

 ダンブルドアは驚いたのか、マーガレットとネモを交互に見て、「そうじゃったのか……」と呟く。

 

「あの、ダンブルドア校長……。ごめんなさい。わたしは、その、ここまでしか……思い出せませんでした」

「いや、これで十分じゃ。それに、この先の記憶はきっと君にとっては辛いものじゃろう。無理に思い出す必要はない」

 

 ダンブルドアはマーガレットの震える左手を包み込むように握った。老魔法使いの手は温かく、マーガレットはほんの少し気持ちが楽になった。

 

「君があの夜の出来事を思い出せないのは、きっと忘却術が原因じゃ。ハグリッドが君を森で見つけた時、君の左手にはベッタリと銀色の——ユニコーンの血がついていた。あとでハグリッドやケトルバーン先生が調べたところ、足に包帯を巻いたユニコーンも見つけたそうじゃ。そこから推測するに……あの夜、あの森にはユニコーンを殺そうとしていた者がいた。そして、森に迷い込んだ君は瀕死のユニコーンとその不届き者を見つけてしまったのじゃろう。君のことじゃ、きっとユニコーンを助けようとした。しかし、反対に君が襲われ、記憶を消されたのじゃ」

 

 ダンブルドアはマーガレットの手をそっと離し、ベッドの中にしまった。

 

「そういうことがあったものじゃから、他の先生方にも協力していただいてな、禁じられた森の警備を少し強めることにした。それと君の勇気ある行動のおかげでユニコーンはまだ一匹も殺されていない」

「それは……よかったです」

 

 でも、マーガレットには一つ気になることがあった。あの夜、わたしが誰かに襲われたということまでわかっているのならば、この老魔法使いはそれが誰なのかを聞くためにここに来たのではないか、と。

 

「ですが……、ダンブルドア校長。ユニコーンを襲い、わたしの記憶を奪った犯人は誰なのでしょうか? その、わたし自身はなにも、なにも思い出せないからお答えできないのですが、校長先生はそれを聞くために、ここにいらっしゃったのではないかと思いまして……」

 

 ダンブルドアは一瞬だけ厳しい表情になった。

 

「……それがじゃな、わしらもさっぱりわからないのじゃ。じゃから、マーガレットから話を聞けるのが一番よいのかもしれないが……それは、君があの夜のことを思い出したということ。つまり、また君が危険に晒されるかもしれぬ」

 

 その時、マダム・ポンフリーが夕食を持ってマーガレットのベッドに近づいてきた。

 

「おや、もうこんな時間か。では、わしも戻るとするか。じゃが、最後にもう一つだけ。マーガレット、どんなに大切なものでも、そのすべてを守りきれるわけではないのじゃ」

 

 そう言い残し、今世紀で最も偉大な魔法使いは医務室をあとにした。

 

「すべては守りきれない……」

 

 マダム・ポンフリーが運んできたおいしそうな夕食をぼんやりと見つめながら、マーガレットは今しがた聞いた言葉を反芻していた。

 

 

▽ △ ▽

 

 

——その夜、マーガレットは夢を見ていた。

 

 彼女は夜の森の中にいた。森は真っ暗でシーンとしていて、ときおり吹く風が彼女の黒髪を撫でる。

 彼女は自分の視線の先に純白に光輝くものを見つけた。

 

——あれはなんだろう?

 

 暗い森の中でその白い光は一際目を引いていた。好奇心に駆られ、彼女は一歩足を踏み出す。そして、月明かりに照らされた落ち葉を踏みしめながら、森の奥へ向かっていた。

 一歩前に進むごとに光は強くなっていく。しかし、それと比例するかのように周囲の温度は下がっていた。それに、なにかが腐ったようなにおいも漂っている。彼女は自分の足が微かに震えていることに気がついた。これ以上進むべきではない、と理性ではわかっていた。

 

 しかし、それでも彼女は前に進み続けた。そして、銀色の血を流し、地面をのたうち回る哀れなユニコーンの姿を見てしまった。

 彼女は知っていた。ユニコーンは強い魔力を持った生き物で、そのユニコーンが怪我することなどそうそうない。ということは、このユニコーンは何者かに襲われたのだろう。そして、このユニコーンは()()()()()()()。つまり、——。

 

「ここでなにをしている?」

 

 つまり、ユニコーンは襲った犯人は()()()()()()()。夢の中の彼女が最後に見たものは、自分に杖を向ける男の姿だった。

 

 

▽ △ ▽

 

 

 真夜中に目を覚ましたマーガレットはまず真っ先にネモを抱きしめた。ネモも目を覚まし、飼い主の耳元で優しく「カア、カア」と鳴く。

 

「ごめんね、ネモ。起こしちゃったよね。あのね、怖い夢を見ちゃったの……」

 

 マーガレットが再び口を開くには、ずいぶんと時間がかかった。その間、ネモはずっと飼い主のことを見つめていた。

 

「ユニコーンが襲われている夢。それでね、そのユニコーンを襲った犯人が……先生だったの」

 

 マーガレットはもう一度ネモのことを抱きしめた。

 

「姿を見たわけじゃない。けど、あの声は、あの杖は確かに先生だった。でも、こんな夢を見てしまうなんて、わたしが先生を疑っているみたいで……」

 

 マーガレットは震えていた。もちろん夢が怖かったせいでもある。しかし、一番彼女が怖かったのは、自分が恩師に対して不信感を抱きかけていることだった。

 

「ネモ、きっとただの夢だよね。未来の予言でも過去の再現でもない、ただの夢だよね?」

 

 マーガレットの質問に対し、ネモは「カーカー」と答える。しかし、マーガレットにとってはネモの返答などどうでもよかった。あれはネモに問いかけているようで、実は自分に言い聞かせるためのものでしかなかったのだから。

 

 その後、あの夢の続きを見てしまうことが怖くてマーガレットは一睡もできなかった。

 

 

▼ ▲ ▼

 

 

 結局、マーガレットがマグル学教室に戻れたのは翌日の昼過ぎだった。顔色の悪さ——睡眠不足が原因だろう——をマダム・ポンフリーに指摘され、それが改善するまでは医務室から出してもらえなかったのだ。

 

 マーガレットは明日からの授業再開に向けて教室の掃除をしていた。たった数日帰ってこなかっただけなのに、いつも使っているOHPには薄っすらと埃が積もっている。実家でも使っている毛ばたきをパタパタ動かすが、その動きはどこか精彩を欠いていた。

 

 マグル学教室に戻ってきてから、マーガレットはずっと考え事をしていた。いったい、いつクィレルに会いに行こうか、と。きっと今までだったならば、まず真っ先に恩師のもとに顔を出しに行っていたことだろう。

 しかし、あの夢を見てしまったからか、どうしても闇の魔術に対する防衛術の教室に足を運ぶ気になれなかった。このマグル学の教室を出ようとすると、なぜか足がすくんでしまうのだ。

 あれほどいつも会えることを楽しみにしていたのに、今は顔を合わせてしまうことが怖い。マーガレットは苦しい胸のうちを誰にも明かすことができずに一人苦しんでいた。

 

 だが、再会の時はすぐに訪れてしまった。教室の扉をノックする音を聞き、マーガレットは体をこわばらせた。彼女がなかなか返事をしなかったからか、もう一度——今度はより力強く——扉がノックされた。

 

「開いています。その、どうぞお入りください」

 

 マーガレットはそれを言うだけでもやっとだった。

 

「は、は、入りますよ」

 

 扉の向こうには頭に大きなターバンを巻き、手にハンノキの杖を握る男の姿があった。彼の姿を見て、ネモは「ガアガア」と威嚇の声を上げる。しかし、彼はネモにかまうことなく、後ろ手で扉を閉めるとゆらゆらとマーガレットに近づいてきた。

 

「き、き、君が倒れたと聞いたときはお、驚きました。た、体調はいかがですか? ま、まだ顔色がよくないようですね。それに、そんなに震えて……。ミス・マノック、どうかしましたか?」

 

 クィレルに言われて、マーガレットは自分の体が震えていることに気がついた。少しでも震えを押さえようと、自分で自分の体を強く抱きしめる。だが、あまり効果はなかった。かえって、内に秘めたクィレルへの恐怖心を自覚してしまうだけだった。

 

「君はあの夜のことをなにも憶えていないと聞きましたが……。もしかして、なにか思い出しましたか?」

 

 マーガレットの体が一際大きく震えた。手にしていた毛ばたきも床に落としてしまう。

 

「ミス・マノック、正直に教えてくれませんか。あの夜、なにがあったのか憶えているのでしょう?」

 

 マーガレットは首を横に振った。あの夜のことは憶えてない、それは本当のことだ。だって、彼女が見たものは夢でしかないのだから。

 クィレルはマーガレットに杖を向けた。それを見て、ネモはクィレルに飛びかかる。また、あの夜の出来事が再演されようとしていた。しかし——

 

「——杯になれ(フェラベルト)!」

 

 突然、ネモがグルグルと回転し、ゴブレットへと姿を変えた。床に落ちた黒いゴブレットはクィレルの足元を転がる。クィレルが視線を上げると、マーガレットがいつの間にか杖を構えていた。

 

「あの、ごめんなさい。わたしが倒れてから、えっと、少しネモも気が立っているみたいで……。ごめんなさい、先生に不快な思いをさせてしまいました」

 

 マーガレットはゆっくりと杖を下ろした。自分に戦う意思がないことをしめすために。

 しかし、彼女ももうわかっていた。きっとあの夢は自分が失った記憶の一部なのだと。だから、ユニコーンを傷つけたのも、自分を襲ったのも目の前にいるかつての恩師なのだということにも気づいていた。

 だからこそ、本当はここから逃げるべきなのだ。ネモも自分を逃すため、彼に立ち向かおうとした。なのに、マーガレットはネモの思いを裏切った。

 

「ごめんなさい……。ごめんなさい……」

 

 その謝罪はクィレルに向けてでもあったし、ネモに向けてでもあった。

 

「先生、正直にお話しします。あの夜、あの森の中であったことは本当に、本当になにも憶えていないんです。でも、昨晩、夢を見ました。その、森の中で傷ついたユニコーンと……先生の姿を見てしまう夢を」

 

 マーガレットはもう立っていられなかった。床に崩れ落ち、目から大粒の涙を流す。

 

「ごめんなさい。夢だって、わかってはいるんです。でも、なぜだか先生にお会いするのが怖くなってしまって……。でも、わたしが一番怖かったのは、自分が先生に疑いや恐怖を少しでも抱いてしまったことで……。本当に、本当にごめんなさい」

 

 逃げなければいけないと、誰かに真実を伝えなければいけないとマーガレットも頭ではわかっていた。けれど、そうしてしまったらクィレルがどこか遠くにいってしまうような、もう二度と会えなくなってしまうような気がしたのだ。

 

 何度も何度も謝るマーガレットの肩にクィレルは手を置いた。マーガレットはふと顔を上げるが、視界が滲んでいるせいで彼の表情はよくわからない。

 

「ミス・マノック、それは……それは悪い夢ですよ」

 

 マーガレットはクィレルの言葉をただ黙って聞いていた。もちろん、それが嘘だということはわかっている。でも、今はただその言葉を信じたかった。それが本当であったらいいのにと思っていた。

 

「——戻れ(レパリファージ)! ミス・マノック、立てますか?」

 

 床に転がったままになっていたゴブレットを元の姿に戻し、クィレルはマーガレットに手を差し出した。ネモはもう大人しくなっていて、飼い主たちの様子をじっと観察している。

 マーガレットは彼の手を掴み、ゆっくりと立ち上がった。しかし、まだ足が震えているせいで、彼女は前に倒れそうになる。しかし、クィレルに抱きとめられたことで、マーガレットが転ぶことはなかった。

 

「あの、助かりました。()()先生に助けていただきましたね」

 

 クィレルの胸にもたれ掛かり、心地良さそうに目を閉じながらマーガレットは呟いた。

 

「だから、これからも()()わたしのことを助けてくださいませんか」

「それは……」

 

 クィレルは言葉を詰まらせた。

 

「できない約束です。もう、私と君は会うことがないのですから」

「先生、それはどういうことですか?」

 

 マーガレットは目を開けた。そして、クィレルの顔を見ようとする。しかし、彼の顔よりも先に自分たちのことを見ている三つの小さな顔を見つけてしまった。

 

「ねえ、やっぱりあの二人——」

「ロン、あなたにデリカシーってものはないの?」

「でも、フレッドもジョージも、それからパーシーまで言ってたう——」

「ロン!」

 

 顔を真っ赤にしたハーマイオニーがロンの口を塞ぐ。一方、彼らがなにを話しているのかよくわかっていないハリーはマーガレットと目が合うと「マノック先生、クィレル先生、こんにちは」と挨拶した。

 

「その……。あなたたち、どうかしましたか?」

「私たち、マノック先生にお聞きしたいことがあって来たんです。でも、お取り込み中でしたか?」

「い、い、いえ。わ、私ももう帰るところでした。で、では……。さようなら、ミス・マノック」

 

 クィレルはハリーたちのことを一瞥し、マグル学教室から出て行った。

 

「……あぁ。あの、ミス・グレンジャー、どのような質問ですか?」

「マノック先生、あの三頭犬のことを誰かから聞かれませんでしたか?」

「三頭犬のこと、ですか」

 

 マーガレットは記憶をたどるが、とくに思い当たるようなことはなかった。

 

「そのようなことは……なかったはずです」

「それは……、先生が禁じられた森で襲われた時もですか?」

「あなたたちも知っていましたか。やはりホグワーツではすぐに噂が広まりますね」

「僕たちはハグリッドから聞きました。それから、ユニコーンのことも……。ひどい奴がいたもんだって」

 

 ハーマイオニーの代わりにハリーが答えた。

 

「実は、あの夜のことはあまりよく憶えていないんです。だから、なにがあったかということは、わたしにもわからなくて……」

「あの森に誰がいたのかもわかりませんか? 例えば、このホグワーツにいる誰かだったかもしれないとか」

 

 マーガレットの瞳孔が開いた。それはほんのわずかな変化であったが、ハーマイオニーは見逃さなかった。

 

「……その、ごめんなさい。誰に会ったのかも憶えていないの。それに、わたしが襲われたのは多分偶然ですよ。えっと、ネモを探して森に迷い込んだら、たまたまユニコーンを見つけてしまったみたいですから」

「わかりました。マノック先生、お忙しいところ失礼しました」

 

 ハーマイオニーは男子二人を連れてマグル学教室を出た。急ぎ足で階段を降り、踊り場で立ち止まる。

 

「ハーマイオニー、なにかわかった?」

「わかったわよ。マノック先生は禁じられた森でこのホグワーツにいる誰かと会っているわ。だって、憶えていないとは言っていたけれど、私が質問したら動揺していたもの」

「ということは——」

「きっとフラッフィーのことを聞き出すために襲われたんだわ!」

 

 彼らは賢者の石の守りがそう長くはもたないことを悟った。

 

 一方、賢者の石のことも、それをめぐる陰謀のこともまだ知らないマーガレットは恩師から言われた「さようなら」の意味をずっと一人で考えていた。




第1章「賢者の石」編もいよいよクライマックスです。
このあとのお話はなるべくまとめて投稿したいと考えているので執筆に少々お時間をいただきます。
次の投稿はしばらく先となってしまいそうですが、どうぞよろしくお願いします。では、また。


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第11話 「すべての望みをすてよ」【前編】

 6月4日——ついに試験が終わり、生徒たちはみな浮足立っていた。勉強漬けの日々から解放された彼らは友人とのおしゃべりに興じたり、さんさんと日の射す校庭で遊んでいたりと思い思いの時間を過ごしている。

 マーガレットも二年前まではそんな生徒たちの一人であった。研究室のソファーに寝転がって読書に勤しんだり、仕事を終えてひと息ついているマグル学教授とお茶をしたりとそれはそれは楽しい時間を過ごしていた。

 

 しかし、それも遠い日の出来事のように思える。マーガレットにとって、あの頃は毎日が充実していた。マグル学の教室やクィレルの研究室で見るもの、聞くもののすべてがマーガレットの胸を躍らせた。だからこそ、彼女はこの場所で過ごす時間が大好きであった。

 だが、彼女の恩師にとってはどうだったのだろうか? あの森での一件があってから、彼女はそんなことを考える機会が増えていた。

 

 マーガレットとクィレルがマグル学教室で最後に会ってから一週間以上が過ぎている。クィレルの「もう会うことがない」という言葉のとおり、あの日からマーガレットは一度も恩師の姿を見ていなかった。

 昨年の6月にクィレルがホグワーツに戻ってきてからはお互いに多忙だったこともあり、顔を合わせる機会はかなり減っていた。しかし、それでも食事の席などで挨拶を交わすことくらいはできていたはずなのだが、最近はその機会すらもない。

 クィレルがマーガレットを避けている事実は誰の目から見ても明らかで、マーガレット自身も自分は恩師に嫌われていたのだと思うようになっていた。

 

「だって、嫌われて当然だったもの……」

 

 採点の手を止め、マーガレットは頭を抱えた。ネモは飼い主のことを心配そうに見上げている。

 

 クィレルに嫌われてしまっていたことも、もちろんマーガレットにとってはショックであった。しかし、自身が教師となった今ならば、かつての自分が嫌われても仕方がない生徒だったことはわかる。授業の準備に試験の採点、それから自身の研究と教授の仕事はとにかく忙しい。なのに、あの頃の自分は相手のことをよく考えずに研究室に顔を出しては勉強を教わったり、遊び相手になったりしてもらっていた。

 クィレルはそんなマーガレットのことも一度も邪険には扱わなかった。でも、それはきっと彼が優しい人だったからなのだ。マーガレットは思う。ずっと恩師の優しさに甘え続けていた自分など嫌われて当然だ、と。

 

「わたし、どうすればいいの……」

 

 嫌われているのならばこのまま顔も見せず、話しかけもせずに過ごせばいい。でも、かつてのような関係に戻れないからこそ、マーガレットとクィレルには話し合わなければならないことがあった。それはずばり、マグル学教授の席についてだ。

 二年前、マーガレットはクィレルの助手としてこのホグワーツで働き始めた。クィレルが長期の研究休暇を取っていたため、あの一年授業を受け持っていたのはマーガレットだったがマグル学教授はクィレルである。

 そして一年前、クィレルは闇の魔術に対する防衛術の教授になり、マーガレットはマグル学の教授になった。問題はクィレルがなった闇の魔術に対する防衛術だ。防衛術は教師がみな一年以内に辞めていくといういわくつきの教科。マーガレットの在学中も何人もの教師が時には不慮の事故で、時には事件を引き起こして一年もしないうちにホグワーツを去っていった。クィレルもきっとそのジンクスどおりに職を辞するのだろう。

 だが、闇の魔術に対する防衛術の教授を辞めたあと、彼はどうするつもりなのだろうか?

 

「先生、この教室に戻ってきてくれませんか……」

 

 マーガレットは独り言を呟いた。でも、それは彼女の心からの願いであった。クィレルから一年間の別れを告げられたあの日、マーガレットはクィレルに言った。わたしはここで待っている、だから必ず帰って来てください、と。わがままを言ってしまえば、その約束を守ってほしいのだ。

 

 でも、今のままではクィレルが帰ってこられないこともわかっている。マーガレットはペンをスタンドに立て、部屋をぐるりと見渡した。

 ずらりと本棚に並べられた小説、戸棚にしまったクッキー缶、デスクに置かれたオルゴール——どれもこれもがマーガレットの私物で、この部屋の主が彼女であることを主張している。

 マーガレットはオルゴールに手を伸ばし、そのネジを巻いた。そっと蓋を開け、「トロイメライ」の調べに耳を傾ける。瞼を閉じると、この部屋の在りし日の情景が胸をよぎった。

 

 本棚に並んだ写真の動く図鑑や文字が浮き出る百科事典、棚に飾られた異国の花で作った押し花の額縁、デスクに置かれたくるくると回り続ける地球儀——どれもこれもがクィレルの私物で、今はこの部屋に一つとして残っていない。

 

 マーガレットはオルゴールを閉じ、歪な笑みを浮かべた。こんなに変わってしまった部屋で帰りを待っているなど傲慢な考えだったように思う。

 

「わたしがここを去れば、先生も戻ってきてくださるのかな?」

 

 マーガレット自身、それが一番丸く収まる方法だと思った。これなら、クィレルが教師を続けることもでき、元教え子を助手として手元におく必要もなくなる。それに、あの禁じられた森での出来事もマーガレットが口を噤んでさえいればクィレルが犯人だと露見することはない。わたしがホグワーツを去ればいい、マーガレットはそう自分に言い聞かせていた。

 

「ネモ、いい考えだと思わない?」

 

 マーガレットはネモに語りかける。しかし、ネモはマーガレットをじっと見つめたまま、なんの反応もしめさなかった。

 

「あはは、難しいね。でも難しいからこそ、ちゃんとこのことはクィレル先生と話さないとだね。……先生、もう一度だけでもわたしと会ってくださるかな」

 

 マーガレットはネモの頭を撫でながら、明日のことを考えていた。試験も終わった明日ならばクィレルとも会えるかもしれない。彼の研究室の前で待ち続けていたら姿を見せてくれるかもしれない。

 もし尊敬する恩師ともう一度だけ話せるのなら、その時は今までのことをすべて謝り、今までの感謝をすべて伝え、そしてお別れすればいい。

 

 でも、それは今日じゃなくて明日。できることなら、その日がもっと先ならばいいのに。そんなことを考えながらマーガレットは一日を過ごし、明日を迎えるため眠りについた。

 

 

▽ △ ▽

 

 

——マーガレットは夢を見ていた。

 

 目の前には大きな扉。彼女はその扉には見覚えがあった。四階の右側の廊下(禁じられた廊下)——あの三頭犬がいた場所だ。時折、扉の向こうからフラッフィーの唸り声が聞こえてくる。

 彼女は扉にもたれかかり、全身を使って押してみる。しかし、ピクリとも動かない。以前この場所を訪れた時とは違い、扉には鍵がかけられている。

 夢の中の彼女はそれ以上先に進もうとはしなかった。固く閉ざされた扉に背を向け、暗く冷たい夜の廊下をじっと見つめる。その身じろぎひとつしない姿は近衛兵に似ていて、誰もここを通さないために見張っているようでもあった。

 

 扉を開けるのでもなく、ここから立ち去るのでもなく、どうしてこの場所に残ろうと思ったのかは彼女にもわからない。ただ、この選択が正しかったことを彼女はすぐに知った。コツ、コツという足音が近づいてくる。そして、闇の中からある人物が姿を現した。

 

——クィレル先生。

 

 クィレルもこちらに気がついたのか一瞬だけ足を止めた。そして、重々しい足取りでこちらに向かってきながら、消え入りそうな声で「またか……」と呟く。

 夢の中とはいえ、彼女にとってはずっと会いたかった、話したかった人との再会である。

 

——わたし、先生とお話ししたいことがあるんです。

 

 彼女はクィレルに話しかけようとした。しかし、なぜか声が出ない。口は動くのだが、言葉に出せないのだ。

 

「今度はなんのつもりですか?」

 

 クィレルは深いため息をついた。彼はずっと俯いていて、目の前にいるはずの彼女と目を合わせようともしない。

 

——どうして? なんで声が出ないの?

 

 どんなに話しかけたいと、どんなに自分の思いを聞いてほしいと願っても声は出せないままだった。

 

「いや、聞いたところで答えられないか」

 

 彼女がどんな状況にあるのかをクィレルはわかっているかのようだった。彼はじっと足元を見つめ、わずかに口元を歪ませる。

 

「君が言葉を話せたら、最後に一つ伝言でも頼めましたが……。あぁ、これで君と会うことももうないでしょう」

 

 クィレルは彼女の脇を通り過ぎ、扉に手をかけた。彼の唱えた解錠呪文で鍵は簡単に開いてしまう。

 

——先生、行かないで……。

 

 これが夢だということはわかっている。けれど、今この人のことを止めなければ、もう二度と会えなくなってしまうような気がする。会えなくなって、顔も声もいつかは忘れ、思い出も憧れもいずれ思い出せなくなってしまうように彼女は思った。

 

——もうあんな思いはしたくないのに。わたしは()()大切なものを失って(忘れて)しまうの?

 

 クィレルは軋む扉の向こうに一歩足を踏み入れる。そして、ゆっくりと振り返るとまた視線を下に向けた。なにかを名残惜しそうに見つめながら、彼は静かに口を開く。

 

「さようなら、——」

「——行かないで(カーカー)!」

 

 その時、ようやく彼女の喉が震えた。大きく口を開け、声を立てる。しかし、彼女が発したそれは人の言葉ではなかった。

 わけもわからず、もう一度声を出そうとする。だが、口から漏れるのは「カア」とか「ガー」という鴉の鳴き声だけであった。

 

「誰を呼ぶつもりですか? 君のご主人様も今頃は夢の中でしょう?」

 

 呆れと憐憫の入り混じったような声が上から降ってきた。彼女はゆっくりと顔を上げる。青い瞳と灰色の瞳、二つの視線がようやく交わった。

 

 

 

「——ネモ」

 

 クィレルは自分のことを見上げる青い目の鴉に杖を向ける。

 

「私の邪魔をしないでくれ。今更だということはわかっている。でも、もう君たちのことを傷つけたくはない」

 

 この鴉が静かに自分のことを見送ってくれるのならそれでいい、彼はそう思っていた。飼い主の元に戻り、また何事もなかったかのように次の朝を迎えればよい、と。

 しかし、鴉はクィレルの顔をまじまじと見つめ、再び大きな声で「カーカー」と鳴いた。

 

「クィレル、とっとと片づけろ」

「……はい」

 

 その声に抗うだけの力などクィレルからはとっくに失われていた。無理に抵抗したところで今度は身体の主導権を握られ、操り人形と化すだけである。ならば、まだ自分の意識があるうちに……。

 

「許してほしいとは言いません」

 

 クィレルの杖から放たれた赤い閃光が青い目の鴉に迫る。しかし、鴉はそれをひらりとかわし、三度「カーカー」と鳴いた。

 それが正しいのかはわからない。けれど、クィレルにはその鳴き声が自分に対して「行くな」と言っているように聞こえていた。

 

「私にはもう戻れる場所など……」

 

 青い目の鴉はクィレルのローブの裾を咥えるとその場にぺたんと座り込んだ。そして、灰色の瞳をじっとのぞき込む。

 

「愚か者め、たかが鴉になにをぐずぐずしている。早くしろ」

「申し訳ございません、ご主人様。すぐに」

 

 クィレルは自分のことを見上げる青い目の鴉にもう一度杖を向けた。鴉はそれでもクィレルのローブを離さない。

 

「——麻痺せよ(ステューピファイ)!」

 

 

▽ △ ▽

 

 

 マーガレットは目を覚ました。

 

「……ネモ?」

 

 鴉の名前を呼ぶが返事はない。体を起こし部屋の中を見回すがネモはどこにもいなかった。

 

「ネモはどこ……」

 

 マーガレットはふと窓の外を見た。空は暗く、まだ深い闇に包まれている。

 その光景が夢の中のあの廊下の景色と重なった。

 

「あの夢、もしかして……」

 

 サイドテーブルに置いてある金の懐中時計に手を伸ばす。時計の針も今が真夜中であることをしめしていた。日が昇り、次の朝が始まるまではまだ十分に時間がある。

 

「きっと、間に合うよね」

 

 マーガレットはベッドから飛び起き、白いネグリジェの上にいつものローブを羽織った。それから、長い黒髪を後ろで一つに結え、白い杖と金の懐中時計をそれぞれローブの内ポケットにしまう。

 

「フラッフィー、ケルベロス……。それなら——」

 

 デスクに置いたオルゴールを手に取ると、マーガレットは急いで研究室をあとにした。そして、禁じられた廊下へとまっしぐらに駆けていく。

 

 

 

 誰とも出会うことなくマーガレットは四階までたどり着いた。すっかり呼吸も荒くなり、息をするのも苦しいが立ち止まるわけにはいかない。肩を上下させながらも禁じられた廊下に向かって歩み続ける。

 

「ネモ!」

 

 一羽の鴉が大きな扉の前で力なく横たわっていた。マーガレットはネモに駆け寄り、その体を抱き上げる。トクトクという心臓の動きが指先に伝わり、マーガレットは安堵の笑みをこぼす。

 

「よかった……。——蘇生せよ(リナベイト)!」

 

 呪文を唱えると、ネモはゆっくりと目を開けた。始めは青い瞳をキョロキョロと動かしていたが、飼い主の顔を見つけると瞳孔を広げて彼女のことだけを食い入るように見つめていた。

 マーガレットはそんなネモのことを強く抱きしめる。彼女は目にうっすらと涙を浮かべていた。

 

「あのね、不思議な夢を見ちゃったの……。ネモがクィレル先生を引き留めようと、たった独りで頑張っている夢。……でも、夢じゃなかったんだね」

 

 マーガレットはあの夢が()()だったのではないかと考えていた。マーガレットも自身に占い学のセンスがないことは知っていたし、今までになにか予言を当てたという経験もない。

 しかし、夢から覚め、ネモが部屋にいないと気がついた時、あの夢のとおりのことが起きようと、いや、()()()()()()()()()と直感的に思ったのだ。

 そして、その直感は正しかった。ネモは禁じられた廊下の前にいたし、失神呪文で意識を失っていた。つまり、この扉の向こうには——。

 

「ネモ、クィレル先生はこの先にいるんだね」

 

 飼い主の腕の中でネモは小さく頷いた。マーガレットはローブの袖で目元を拭い、いつものようにネモを左肩にのせる。

 

「わたし、どうしても先生にお話ししたいことがあるの。だから……。ネモ、一緒に来てくれるよね?」

 

 ネモは飼い主のことを見つめ、「カアカア!」と元気に鳴いた。それを聞き、マーガレットも安心したように笑う。

 

「ネモ、ありがとう。ネモがいてくれるなら、きっと大丈夫」

 

 マーガレットはゆっくりと扉を開けた。扉の軋む音とグルルルという唸り声が聞こえてくる。

 

「待っていてください、先生」

 

 杖を抜き、大きく深呼吸をする。そして、マーガレットとネモは禁じられた廊下に再び足を踏み入れた。

 三頭犬も侵入者の存在に気づいたようで三つの頭を持ち上げ、低い唸り声を発した。足がすくんでしまいそうになるほどの威圧感だが、マーガレットは冷静にオルゴールの蓋を開けた。小さな宝石箱から心地の良い音楽が流れ始める。

 三頭犬の六つの目すべてがすぐにとろんとし始めた。だんだんと唸り声が消え、足取りもおぼつかなくなる。やがて膝をついて座り込むとそのまま深い眠りについてしまった。

 

「神話のとおりにこれで寝ちゃうんだ……」

 

 マーガレットは床に倒れていたハープの隣にまだ音楽の流れ続けているオルゴールを置く。そして、犬とぶつからないよう慎重に仕掛け扉のもとまで移動し、その引手を思いっきり引っ張った。仕掛け扉が跳ね上がり、足元に広がる真っ暗闇が姿を現す。

 

「——光よ(ルーモス)! 階段も梯子もない。いったい、どこまで落ちればいいんだろう?」

 

 底が見えない。マーガレットはこの暗闇が永遠と続いていて、地の底まで落ちてしまいそうに感じた。

 

「『この門をくぐる者はすべての望みをすてよ』*1

 

 マーガレットはずいぶんと昔に祖父から読み聞かされた叙情詩の一節を諳んじた。

 この仕掛け扉はまるで地獄の門だ。禁じられた廊下は守るための場所。三頭犬の試練を乗り越えてこの扉をくぐっても、底にはまた新たな試練が待っている。多くの苦難に直面し、奥までたどり着いたところで絶望しかないのかもしれない。しかし、それでも——

 

「けど、この門をくぐらなければなにも始まらない。それに……。ほら、『おまえの行く地獄は、わたしにとっては天国だ』*2だったかな。先生がこの先にいるのなら、落ちていくのなんてちっとも怖くない。むしろ、それよりも怖いのは——」

 

 その時、フラッフィーの唸り声が聞こえた。耳を澄ませば、オルゴールのメロディーもずいぶんとゆっくりになっている。あれが止まれば、三頭犬も目を覚ますのだろう。ならば、やるべきことはもう一つしかない。

 

「ネモ、行こう!」

 

 返事の代わりに、ネモは飼い主の肩を力強く掴んだ。マーガレットは左手でネモの頭を撫で、右手では絶対に落としてしまわないように杖をぎゅっと握りしめる。そして、彼女は先の見えない暗闇にその身を投じた。

*1
ダンテ『神曲』より

*2
ユゴー『ノートル=ダム・ド・パリ』より




かなり投稿があいてしまい申し訳ありません。ですが、その間もお気に入り登録をしてくださる方や感想をくださる方がいてくださり、とても励みになりました。ありがとうございます。

さて、前回のあとがきで「このあとのお話はなるべくまとめて投稿したい」と書いたのですが、書き溜めができなかったのであいかわらずの不定期更新になってしまうかと思います。卒論の息抜きに書き進められるかな、と思いましたが私にはできませんでした。とはいえ、卒論の方は無事に片がついたので、まずは第1章「賢者の石」編の完結を目指していきます。


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第12話 「すべての望みをすてよ」【後編】

 冷たい湿った空気を切って、マーガレットは下へ、下へと落ちていく。行く手を見極めようと下を見下ろすがなにも見えない。白うさぎを追って不思議の国へと迷い込んだアリスが落ちたうさぎ穴もきっとこんな場所だったのだろう。

 

「——緩めよ(モリアーレ)!」

 

 マーガレットは杖を自分の胸に当て、呪文を唱えた。クッション呪文をかけた途端、落下のスピードが緩まる。

 上を見上げると、入口の穴は切手ぐらいの小ささに見えた。かなり高い所から落ちていたようだ。

 

 マーガレットはゆっくりと着地する。その瞬間、体が沈み込むような感覚を覚えた。どうやら地面が柔らかいらしく、クッション呪文を唱えなかったとしても、それなりに安全にここまで落ちてくることができるようだ。

 まだ暗闇に目が慣れないため、次はどこに向かえばいいのかがわからない。しかし、今はじっとしている時間が惜しい。

 

「どこかに扉とか通路はないかな」

 

 マーガレットは前に進むため、右足を上げようとした。しかし、なぜか足が持ち上がらない。

 よく目を凝らして足元を見れば、両足にツルが絡みついている。振りほどこうとすれば、ツルはよけいに足を締め上げる。

 

「これは……悪魔の罠!」

 

 マーガレットは何年か前の薬草学の授業でこの悪魔の罠について学んだ。その時、悪魔の罠には動くものを締めつける習性があるので正しい撃退方法を知り、冷静に対処できるようにとスプラウト教授から言われた覚えがある。

 

「悪魔の罠は暗闇と湿気を好む。それなら——太陽の光よ(ルーマス・ソレム)!」

 

 部屋の中が真昼のように明るく、そして暖かくなった。悪魔の罠は強い光にひるんだようでその拘束を緩める。

 さらに、部屋が明るくなったことでマーガレットは奥に進むための通路を見つけることができた。

 

「あそこを進めばいいんだ。ネモ、しっかり掴まってね」

 

 マーガレットは悪魔の罠のツルの上を駆け抜け、細い通路に体を滑り込ませた。ツルもここまでは伸びていない。気を抜くことはできないが、いくらかは安全な場所のように思える。

 

 マーガレットとネモは一本道を進んでいた。その道は下り坂になっていて、彼女たちをこのホグワーツ城のさらに奥深くへと誘う。

 しばらく歩いていると、前の方からなにかが擦れるような音や金属のぶつかり合う音が聞こえてきた。

 

「この音、鳥が飛んでいる音みたいだけど……。あ、ネモも見て! 出口の先、あそこでなにか動いてる」

 

 マーガレットたちは通路の出口を目指す。彼女たちが前に進めば進むほど、鳥の羽音らしき音は大きくなっていった。

 出口を出ると、そこはまばゆく輝く部屋だった。暗い場所からいきなり明るい場所へと出てきてしまったものだから、マーガレットが思わず目を細くする。

 部屋の向こう側には分厚い木の扉。あれがきっとさらに奥に進むための扉なのだろう。そして、高いアーチ形の天井の下を宝石のようにキラキラとした無数の小鳥が——。

 

「鳥じゃなくて……。あれは……()? 鍵が、空を飛んでいる?」

 

 金の鍵や銀の鍵、大きな鍵に小さな鍵。その一つ一つに羽が生えていて、部屋の中を縦横無尽に飛び回っている。

 

「もしかして、あの群れの中に先に進むための鍵が?」

 

 マーガレットは扉に駆け寄り、銀製の取っ手を引いた。だが、やはりと言うべきか扉には鍵がかかっている。開錠呪文も唱えてみるが、それでも扉は開かない。

 マーガレットは錠をよく調べた。

 

「おじいさまからピッキングのやり方を教わっておけばよかった……。錠がこれなら、鍵は古いもので……それから大きくて、取っ手と同じ銀製かな」

 

 探すべき鍵はわかった。しかし、マーガレットは頭上を仰ぎ、うーんと唸る。

 魔法にかけられた鍵は何百羽もいる。しかも、それが絶えず動き回っているのだから、その中から正解の鍵を見つけ出すのはかなり大変だ。さらに、見つけたところで今度はそれを捕まえなければならない。

 マーガレットは部屋に箒が置いてあることに気づいた。きっとこれで鍵を捕まえろということなのだろう。しかし、マーガレットはどちらかといえば飛行訓練の授業は苦手であったし、クィディッチの選手たちのように箒を意のままに操る技術など持ち合わせていない。

 

「どうすれば……」

 

 マーガレットはぽつりと呟いた。思考を巡らし、自分でも鍵を取ることができそうな方法を考える。

 追いかける、動きを止める、引き寄せる。箒や魔法を用いるそれらの方法は、きっとそのどれもがこの試練における正攻法なのだろう。しかし、マーガレットはそれらとは異なる()()()()()()()方法を思いつく。

 

「ネモ、あの扉の鍵を見つけて。ネモなら、できるよね?」

 

 マーガレットが視線を向けるとネモは力強く頷き、飼い主の肩から飛び立った。鍵の群れの真っただ中を突っ切り、高々と舞い上がる。そして、すべての鍵を追い越すと天井ぎりぎりをぐるぐると旋回し、目当ての鍵を探し始めた。その姿は金のスニッチを探すシーカーだ。

 

 ネモはきっとやってくれる、マーガレットはそう確信していた。しかし、ネモは鍵をなかなか見つけることができない。というのも、他の鍵がブラッジャーのようにネモ目がけて飛んでくるからだ。すべてかわしてはいるものの、避けることに集中してしまっていればおちおち捜索もできない。

 

「わたしも、わたしのできることをしないと」

 

 マーガレットは杖を頭上に構えた。片目をつむり、狙いをよく定める。

 

「——撃て(フリペンド)!」

 

 マツの杖の先から白い光の弾が放たれる。それは一直線に飛び、天井近く飛んでいた鍵に当たると弾けた。呪文をうけた鍵は真っ逆さまに床に落ちる。それはもちろん探している鍵ではなかったが、邪魔が減ったからかネモは嬉しそうに「カア!」と鳴いた。

 

「——妨害せよ(インペディメンタ)! ——動くな(イモビラス)! フォローはわたしに任せて、ネモは鍵を見つけることに集中して! ——撃て(フリペンド)!」

 

 ビーターが棍棒を振るうように、マーガレットは虹色の羽の渦に向かって杖を振り続ける。そのおかげで部屋の中を飛んでいる鍵も少しずつ減っていた。そんななか、マーガレットはすばしっこく動き回る大きな銀色の鍵を見つける。

 

「あれは——。ネモ!」

 

 マーガレットは明るいブルーの羽が生えた鍵のことを指さした。ネモもそれに気づいたらしく、鍵を目で追いながら捕まえるタイミングを見計らっている。そして、自分のちょうど真下をその鍵が通ろうとした瞬間、ネモは頭を下げて降下の準備に入った。

 

 それからの出来事はあっという間だった。ネモはお目当ての鍵に向かって急降下しながら大きく口を開けた。鍵の方も黒い大きな影が迫っていることに気づいたようだったが、飛行の名人である大鴉(レイブン)からは逃れられなかった。

 鍵を咥えたまま、ネモは床すれすれを滑空する。そして、翼を大きく羽ばたかせて減速すると扉の前に着地した。

 マーガレットはネモに駆け寄り、その頭を撫でる。

 

「いい子いい子。ネモ、さすがだね」

 

 マーガレットはネモが咥えていた鍵を受け取った。ネモに捕まった時に折れたのだろうか、片方の羽が曲がってしまっている。その姿が痛ましくてマーガレットは直したいと思うが、元気になったことでまた逃げられてしまってはたまらない。先を急ぐためにも、マーガレットはしっかりと掴んだ鍵を鍵穴に突っ込んで回す。

 カチャリと鍵の開いた音がした。開いたと思ったのも束の間、件の鍵は飛び去ってしまった。羽が曲がっているために弱々しい飛び方ではあるが、もうずいぶんと高くまで飛んでいった。

 

「あの鍵も直してあげたいけど、でも……。ネモ、先に進もう」

 

 マーガレットが「おいで」と合図するとネモは彼女の左肩にのった。マーガレットは銀の取っ手に手をかけ、ぐっと引っ張る。扉の先にはまた暗闇が広がっていた。

 

 

 

「次の試練はなんだろう」

 

 マーガレットは真っ暗な部屋に足を踏み入れる。が、一歩中に入ると光が部屋中を満たした。

 

「これは——」

 

 マーガレットは目の前の光景に驚き、言葉を失った。ネモも飼い主と同じように口をぽかんと開けている。

 白と黒の正方形を交互に並べた床の上に石の彫刻が並んでいた。その彫刻の中には王冠を身につけているものもあれば、剣を持っているもの、馬に乗っているものもある。

 

「もしかして、ここはチェス盤の上?」

 

 手前側には黒い駒、向かい側には白い駒。そして、その白駒の奥にまた新たな扉がある。ならば、先に進むためにはこの盤上で勝利をおさめなければならないということだろう。

 

「チェスをしなきゃ、奥には行けないってことかな」

 

 それは独り言のつもりだった。だが、黒のクイーンがマーガレットの方を向き、首を縦に振った。マーガレットが目を白黒させていると黒のクイーンはチェス盤を下り、彼女に持ち場を譲る。

 

「あなたの代わりにわたしが盤に上がればいいの?」

 

 黒のクイーンは再び頷いた。

 

「こういうチェスは初めてだけど……。でも、先に進むためには頑張らないと」

 

 マーガレットは黒のクイーンがいたマスの上に立った。そして、先攻の白駒が動き出すのを待つ。しかし、なかなかゲームが始まらない。なぜだろうと部屋の中を見回すと、いつの間にか黒のビショップが盤から下りていた。

 

「ビショップ、元の場所に戻って! あなたの代わりはいないの!」

 

 しかし、黒のビショップは一向に戻る気配がない。これではいつまで経っても始められない、とマーガレットは頭を悩ませる。しかし、そんな時だった。

 不意に左肩が軽くなった。なにごとか思って視線をやれば、ネモが黒のビショップが元いたマスに向かって飛んでいる。

 

「待って、ネモ! これが魔法使いのチェスと同じなら、ネモが怪我をするかもしれない!」

 

 マーガレットが声をかけても、ネモは振り返らなかった。なんの躊躇いもなく空いたマスの上に降り立つ。

 

「ネモ?」

 

 ネモは飼い主のことを見て、元気に「カアカア!」と鳴いた。そして、その鳴き声をきっかけに白のポーンが前進する。ようやく試合が始まったのだ。

 

黒のビショップ(ネモ)を守るためにも、わたしが頑張らないと。……よし、ポーンをE5に」

 

 マーガレットの指示どおりに駒が動く。

 

「大丈夫。わたしだって、絶対に守ってみせるから」

 

 自分を勇気づけるため、マーガレットはそう呟いた。

 

 

▼ ▲ ▼

 

 

「ビショップをC5へ。これで——」

 

 マーガレットはもう一度よく盤面を見渡してから口を開いた。

 

「——チェックメイト!」

 

 白のキングは脱いだ王冠をマーガレットの足元に放り投げた。黒の勝利で試合が終わったのだ。マーガレットはまず真っ先にネモのもとへと駆け寄る。

 

「やったよ! わたしたち、勝ったんだよ!」

 

 胸に飛び込んできたネモを抱きしめ、マーガレットは嬉しそうに笑う。彼女はこのゲームで黒のキングはもちろん、黒のビショップ(ネモ)も守り切ることができた。いわば、完全勝利である。

 駒もマーガレットたちの勝利を認めているようで、左右に分かれて扉への道を開けている。前を通ると駒は礼儀正しくお辞儀をして彼女たちのことを見送った。

 マーガレットはネモを抱きかかえたまま扉を開け、次の通路を進む。

 

 

 

「フラッフィーはハグリッドが用意したんだよね。ということは、悪魔の罠はスプラウト教授、さっきのチェスはマクゴナガル教授。それから、あの翼の生えた鍵は……箒があったからマダム・フーチ? いえ、ああいう遊び心のある魔法はフリットウィック教授かな」

 

 ネモの頭をマーガレットはそっと撫でる。

 

「この場所には多くの先生方がかかわっている。ということは……。ネモ、クィレル先生もなのかな」

 

 マーガレットはふと足を止めた。

 

「先生の試練か……。ちゃんと超えられるかな……」

 

 マーガレットはハッとした様子で顔を上げると、ネモを安心させようと小さく笑った。

 

「あぁ、ごめんね。前に進まないといけないのに、弱気になんかなっちゃいけないね」

 

 ネモを左肩にのせ、マーガレットは再び歩き出す。そして、次の扉の前までで再び足を止めた。

 

「この声……」

 

 マーガレットは耳をすませる。扉の向こうからはブァーブァーという低い唸り声が聞こえていた。その音だけで、マーガレットはこの先になにがいるのかを理解する。

 

「……クィレル先生らしい試練です。ネモ、絶対にわたしのそばから離れないでね」

 

 マーガレットは扉を押し開けた。むかつくような悪臭が辺りに漂う。マーガレットはローブの袖で鼻を覆い、唸り声を上げながら棍棒を振り回している山トロールのことを観察していた。

 トロールの奥に扉が見える。あれが奥に向かうための扉であることはまず間違いないが、その前でハロウィーンの時に見たものよりも一回りほど大きなトロールが棍棒をぶん回しているのだから迂闊には近寄れない。

 幸い、トロールはまだこちらに気づいてはいないようだ。そのため、落ち着いて突破口を探すだけの時間はあった。

 

「ハロウィーンの時と同じ山トロール……。きっと、あのトロールにも太陽の光は効かない。それなら、あの時の先生と同じ方法でやってみよう」

 

 マーガレットはローブのポケットに手を突っ込んだ。そして、ボール型のチョコレートを三つ取り出し、床に向かって投げる。

 

「——肥大せよ(エンゴージオ)! ——固まれ(デューロ)!」

 

 三つのチョコレートが三つの巨石に変身し、ゴロゴロと床に転がる。あのハロウィーンの夜にクィレルが棍棒を弾き飛ばしてトロールを倒したように、マーガレットも大きな石をトロールの頭にぶつけようと考えたのだ。

 

「まずはこっちを向いてもらわないと。——太陽の光よ(ルーマス・ソレム)!」

 

 白い光が部屋中を包み込む。その光があまりにも眩しかったものだから、マーガレットは少し目を細めた。

 トロールも部屋が突然明るくなったことに驚いたのか、ほんの数秒間動きを止めていた。しかし、()()()()()動かなくなったわけではない。マーガレットの方を向くと雄叫びを上げ、棍棒を振り上げる。

 

 マーガレットは顔の前に杖を構えた。青い瞳はしっかりと前を見つめている。

 

「どうか、どうか今だけは先生のことを超えさせてください」

 

 そして、杖をまっすぐ前に突き出す。

 

「——退け(デパルソ)!」

 

 一つ目の石が勢いよく吹き飛び、トロールの顔に迫る。上手くいった、とマーガレットは思った。

 しかし、現在はそう上手くいかない。石はたしかにトロールの巨体目がけて飛んでいたが、振り回されていた棍棒に打ち返される。マーガレットには当たらなかったものの、彼女の背後の壁にぶつかって石は砕けた。

 

「嘘……。今のは?」

 

 マーガレットは冷たい汗が頬を伝う感覚を覚えた。鼓動が早くなり、指先が震えそうになる。

 

「えっと、今度こそ。——退け(デパルソ)!」

 

 もう一度呪文を唱えた。しかし、石は明後日の方向に転がっていく。打ち返された時の動揺が杖さばきにも出てしまったのだ。

 

「それなら、その、——放せ(レラシオ)!」

 

 今度は呪文を少し変えてみる。マーガレットの期待どおり、三つ目の石は大きな放物線を描き、トロールのもとへと向かう。

 しかし、正確な位置に飛ばすことを意識し過ぎたばかりに今度は速度が足りていなかった。そのため、トロールは飛んできた石を悠々とキャッチすると、そのまま片手で握りつぶしてしまった。

 

 石がなくなり、マーガレットは再びポケットに手を突っ込んだ。そして、最後のチョコレートを取り出す。

 

「これが最後の一つ……」

 

 普段ならばもっと多くにお菓子を持ち歩いているのだが、そういった準備は毎朝の起きてからの日課だった。それに、頭を使う試験の採点をしていたということもあり、ポケットの中の備えはかなり少なくなっていたのだ。

 

「——肥大せよ(エンゴージオ)! ——固まれ(デューロ)!」

 

 先ほどと同じようにチョコレートを石に変える。そして、杖腕に左手を添え、狙いを定める。

 

「——退け(デパルソ)!」

 

 四つ目の石はトロールの眉間を目がけて真っ直ぐに飛んでいく。コントロールもスピードも十分だ。

 しかし、あと少しのところでまたもや棍棒に阻まれる。石はトロールが振り下ろした棍棒に打ち返され、今度はマーガレットに迫る。

 

「——護れ(プロテゴ)!」

 

 ドンッと重い音がした。石は盾の呪文にぶつかり、粉々に砕け散る。自分の身を守ることはできたが、それと同時に貴重な攻撃手段を失った。

 

「どうしよう……」

 

 投石作戦が失敗した以上、次の方法を考えなければならない。マーガレットはからのポケットに手を入れるが、もちろんそこにはなにもない。念のために反対のポケットや内ポケットも調べるが菓子()しまっていなかった。

 

「もしかして、これなら……」

 

 マーガレットは内ポケットから金の懐中時計を取り出した。その懐中時計には首からも下げられるように金のチェーンが繋がっている。

 

巨人殺し(Giant Killing)。ダビデ王とゴリアテの逸話」

 

 マーガレットはかつて教会の聖書で読んだ物語を思い出す。のちにイスラエルの王となる羊飼いの少年ダビデが投石具と石だけで2メートル超もある巨人ゴリアテを倒したという伝説。

 マーガレットは手のひらにのせた懐中時計をじっと見つめていた。古代から語り継がれる英雄と自分を比べてしまうなどおこがましい。だが、ダビデがゴリアテを倒したのと同じように、自分も目の前のトロールを倒せそうな気がしていた。

 しかし、マーガレットは大きく頭を振る。

 

「ううん。でも、この時計は大切なものだから…」

 

 クィレルから入学祝いとしてもらった時計。長年使っているだけのことはあって蓋に多少の傷はついているが、それでもまだ新品と遜色のない輝きを放っている。それをトロールに投げつけるなど、時計を壊そうとしているようなものだ。

 だが、扉の前に立ちふさがるあのトロールを倒さなければ奥へは進めない。奥に進めなければ、その先にいるはずのクィレルとも会うことはできない。だからこそ、ここで立ち止まったり、諦めたりするわけにはいかない。

 

 そんな時、マーガレットはふと祖父の言葉を思い出した。

 

——これはマイケルが修理したオルゴール。いや、本当に見事だった。()()()()使()()()のかと思ったよ。

 

 そういうことだったのか、とマーガレットは納得する。あのオルゴールの修理に父は本当に魔法を使っていたのだろう。だって、割れた皿も欠けたティーカップも魔法でなら傷一つ残さずに元に戻すことができるのだから。

 しかし、万能な魔法にも元に戻せないものはある。人の命、過去の記憶、それから友情や信頼。どんなに魔術を学んだところで、これらを元どおりにすることなんてまずできない。

 

 マーガレットは懐中時計を握りしめた。もし時計は壊れたとしても直すことができる。また以前と同じ時間を刻むことができる。

 でも、もしここで立ち止まっていたせいでクィレルと会うことができなかったら? もう一度話す機会を失ってしまったら、それを取り戻すことはできるのだろうか?

 マーガレットは心を決めた。

 

「ネモ、わたしはこれからとっても愚かで、とっても馬鹿なことをする。だから、応援してね」

 

 マーガレットは金のチェーンを右手で強く握りしめ、体の横で振り回し始めた。次第に速度がつき、ぶんぶんと風を切る音が聞こえる。

 トロールはこちらを直接襲うつもりがないようで、扉の前から一歩も動かない。そのため、マーガレットも狙いがつけやすかった。

 

「わたしは英雄でもないし、偉大な魔法使いでもない。でも!」

 

 マーガレットは想像する。自分の投げた懐中時計がトロールの眉間に命中するところを。

 

「『人間が想像できることは、人間が必ず実現できる』! だから、わたしにだってあなたは倒せる!」

 

 マーガレットはチェーンから手を離す。それからのことは彼女にはスローモーションのように見えていた。

 金の懐中時計はマーガレットの手を離れ、トロールの顔を目がけて飛んでいく。金のチェーンが尾のように伸びていて、マーガレットはまるで流れ星みたいだと思った。

 トロールはあいかわらず棍棒を振り回している。先ほどはあの棍棒に何度も攻撃を阻まれた。しかし、金の流星はその無骨な棍棒と太い腕の隙間を通り抜け、トロールの顔に迫る。マーガレットの中で期待が確信に変わった。

 トロールの眉間をマーガレットの懐中時計が射た。ゴツンという鈍い音が耳に届き、トロールが後ろによろめく。

 

「本当に、倒せた?」

 

 トロールは壁に頭をぶつけ、その反動で今度は床に顔から倒れ込もうとしている。視線も定まっておらず、あきらかに気を失っている。

 マーガレットは片手を握りしめ、思わずガッツポーズをしそうになる。しかし、その気持ちもすぐに消えてしまった。トロールが倒れ込もうとしている床に懐中時計も落ちていることに気がついた。このままでは時計はトロールの下敷きになってしまう。

 

「——こ……(アク……)。ネモ!」

 

 マーガレットが呪文を唱えるよりも先にネモが動いた。ネモは力強く翼を羽ばたかせ、懐中時計のもとへ向かう。そして、飛行したまま懐中時計を足で掴むと急旋回してマーガレットのもとまで帰ってきた。

 あまりの早業に言葉を失っているマーガレットのことを、ネモはつぶらな瞳で見上げている。

 

「……。あぁ。ごめんね。ネモがあんまりにもすごくて驚いちゃったの。いい子いい子。ネモのおかげで助かったよ」

 

 マーガレットはネモから懐中時計を受け取った。ぶんぶん振り回してから投げたのだからもっと傷がついたり、故障してしまったりするものだと思ったが、蓋が一か所凹んでいるだけであとは何の問題もなかった。

 

「動作も異常なし。……少し蓋が凹んじゃったけど、これはここであったことの記録になるから、直さなくてもいいのかもね」

 

 マーガレットの言葉にネモは「カアカア」と答えた。ネモも彼女の意見に賛成しているようだ。

 トロールはすっかり床で伸びていた。これなら、しばらくの間は動かないだろう。

 

「ついておいで、ネモ」

 

 マーガレットはトロールの脇を通り、扉に手をかける。

 

「ネモ、ゴールはきっともうすぐだよ。だから、もう少しわたしと一緒にいてね」

 

 扉の先では新たな試練が彼女たちを待ち構えていた。

 

 

 

「あれは薬瓶? なら、今度はスネイプ教授かな」

 

 部屋の中心にテーブルが置かれていて、その上に形や大きさの違う七つの瓶が一列に並べられている。

 マーガレットは扉の敷居をまたぐと、通ったばかりの入口でたちまち紫の炎が上がった。と同時に、前方のドアの入口にも黒い炎が上がる。ネモは少し驚いたのか、飼い主の肩の上でぴょんと跳ねた。

 マーガレットは瓶の横に置かれていた巻紙を手に取って読み上げた。一通り読み終わると、「あぁ、なるほど!」と声を上げる。

 

「これは論理の問題。なんだ、とっても簡単!」

 

 学生時代、寮の談話室に入るためにこの手の問題は何度も解いてきた。だからこそ、少し考える時間があれば絶対に答えを導き出せるという自信があった。

 マーガレットは何度も巻紙と机に並んだ瓶を見比べ、時折うーんと唸る。その間も彼女はしきりに手を動かしていたが、一つの瓶を指さすと「これが先へ進むための薬だね」と言った。

 一番小さな瓶を手に取り、マーガレットはそれを炎にかざした。中身はさらさらとした青い液体で、瓶を軽くゆするだけでもちゃぷんという音がする。

 

「量は少ないけど、わたしたちの分はちゃんとありそう」

 

 マーガレットは薬を一口飲み、身震いした。ネモが心配そうに彼女の顔をのぞき込む。

 

「大丈夫だよ、ネモ。急に体が寒くなっちゃっただけ。さすがスネイプ教授だね。この薬、とてもよく効くみたい。ほら、ネモも口を開けて」

 

 マーガレットはネモの口の中に防火薬を三滴ほど落とした。瓶の中にはあと一人分、ほんの一口の量の薬が残っている。ネモも一度体をぶるりと震わせるとマーガレットの肩にしっかりと掴まった。

 

「急ごう!」

 

 マーガレットは黒い炎の中を駆け抜ける。そして、最後の部屋へとたどり着いた。

 

 

 

 その部屋の中央には大きな鏡が置かれていた。

 

「先生? クィレル先生? 先生、どこにいらっしゃいますか?」

 

 マーガレットは何度も声を上げるが、返事は返ってこない。それに、クィレルの姿もない。

 

「わたし、間に合わなかったのかな……」

 

 悪魔の罠、空飛ぶ鍵、魔法使いのチェスにトロールとの戦いと、この場所にたどり着くまで彼女は必死に走り続けていた。しかし、その努力もあと一歩足りなかったのかもしれない。そう思ってしまうと、どっと疲れが出てきた。

 マーガレットは部屋の真ん中でへたり込み、目の前の鏡をのぞき込む。いったい、自分は今どんなにひどい顔をしているのか、と。

 

 しかし、鏡には彼女の想像とは大きく違うものが映っていた。

 きらきらと輝いている青い大きな目、血色のいい赤い唇とそこからのぞく白い歯、少しウェーブがかった黒い髪。七歳くらいだろうか、あどけない顔の少女が鏡の中でニコニコと笑っている。

 マーガレットもその少女のことを知っていた。父のことを調べるうちに何度も彼女の写真は目にしてきた。あれは()()()()()()()()()()()()()()()だ。

 

「どうして……。どうしてあなたがいるの……」

 

 鏡の中の少女はなにも答えない。だが、その代わりに腕を大きく伸ばして手を振っている。それは誰かを呼んでいるような仕草だった。

 マーガレットは鏡に見入ってしまっていた。だから、少女の後ろからなにかが近づいてくることにもすぐに気がついた。

 履き古した革靴、すらっとした茶色のズボン、腕まくりをした白いシャツ。それから少し癖のある茶色い髪に少女と同じ海のように深く、空のように澄んだ青い瞳。鏡の中の青年は少女の肩に手を置き、優しく微笑んだ。

 

「お父さん? お父さんなの……」

 

 マーガレットは初めてだった。写真以外でこうして父の姿を見るのは。それに、彼が動いている姿も見るのも初めてだった。

 鏡の中の少女と青年はお互いに見つめ合い、幸せそうに笑う。きっとこの光景こそ、マーガレットが記憶を失うまでは当たり前のようにあったはずの日常なのだ。

 

「お父さん……。お父さん……」

 

 マーガレットは何度もそう呼びかける。しかし、鏡の中の父が今の娘の姿を見ることはなかった。

 

「『わたしはあなたの顔ではなく、あなたの心の望みを映す』。そういえば、君の夢はずっと前から変わっていませんでしたね」

 

 その言葉とともに、鏡の裏から一人の男が姿を現した。



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第13話 二つの顔を持つ男

今回は少し長めです。

※一部、R-15に相当する描写や残酷な描写(流血表現)があります。


 その男は鏡の横に立ち、マーガレットのことを見下ろしている。女は幼い頃の自分と父親の姿が映る鏡からゆっくりと視線を上げた。

 

「クィレル先生。……あの、わたし、その、先生と——」

「マノック、どうして君がここにいる!」

 

 石造りの部屋にクィレルの声が響く。その震える声は怒っているというよりも焦っているようであった。彼はマーガレットの肩にのるネモのことをキッと睨む。

 

「私の邪魔をしないでくれとも、これで会うことももうないとも言ったはずだ! なのに、どうして!」

 

 マーガレットは彼の言葉を聞き、あの夢が現実であったことを悟る。

 

「ごめんなさい。ただ、どうしても先生にもう一度だけでもお会いしたくて……。だって、先生は今夜、このホグワーツを去るおつもりですよね?」

 

 クィレルは表情をこわばらせ、自身の体の後ろに右手を隠した。そして、マーガレットからは見えない位置でいつでも呪文をかけられるように杖を握る。

 

「……君はどこまで知っている?」

「四階の右側の廊下に先生がいらっしゃるのをネモが待っていたこと。先へ進もうとする先生のことをネモが止めようとしていたこと。それから、先生がネモに失神呪文をかけたこと。……その、今夜あの場所で先生とネモの間にあったことはすべて知っています」

 

 まるで実際に見てきたかのように語るマーガレットにクィレルは驚きを隠せなかった。

 

「どうしてそこまで。君はあの場にはいなかったはずでしょう?」

「はい。あの、信じていただけないかもしれないのですが、また夢を見たんです」

「夢?」

 

 マーガレットは小さく頷く。

 

「おかしな夢ですよ。わたしが禁じられた廊下にいて、そこに先生がいらっしゃったんです。夢の中だけど、先生にお会いできて嬉しいなと思ったのに、声が出ないせいでお話しすることができなくて。やっと声を出せたと思ったら、それは『カーカー』という鴉の鳴き声。気がついたら自分の体がネモに変わって……」

 

 マーガレットは「みぞの鏡」を見つめ、わずかに口元をゆがめた。それは笑っているようにも、苦悶しているようにも見える表情だった。

 

「本当におかしな夢ですよね。でも、そうですね。えっと、あの夢のおかげでわたしはもう一度、こうして先生にお会いすることができました。……怖かったんです。先生()いなくなってしまったら、()()二度と会うことができなくなってしまったらどうしようって……。でも、もう一度だけでも会いたいという望みをちゃんと叶えられたんです」

 

 虚像の少女とその父親から目をそらし、マーガレットはおもむろに立ち上がる。そして、彼女は今の自分自身の姿が映り込む灰色の瞳を見た。

 

「わたし、先生とお話ししたいことがまだまだあるんです。それが先生にとってはご迷惑でしかないということもわかっています。でも、もう少しだけわたしに時間をくださいませんか? もう一度だけでいいんです。昔みたいに暖かい紅茶でも飲みながら、一緒にいさせてくれませんか? 先生、だから——」

 

——マグル学教室に戻ってきてくれませんか。

 

 その一言を言うためにマーガレットは仕掛けられた罠をいくつも乗り越えてきた。しかし、彼女のその言葉は同じく仕掛けられた罠をいくつも掻い潜り、ここまでたどり着いた少年の声によってかき消された。

 

「あなた()()が!」

 

 ハリー・ポッターは黒い炎を背に、目を見開いていた。

 

「ミスター・ポッター? どうしてあなたがここに?」

「先生たちこそ! マノック先生、あなたも『石』を狙っていたんですか!」

「『いし』? それはなんですか?」

 

 マーガレットはハリーがなぜここにいるのかも、そうして彼の言う「いし」のこともわからない。ただ、クィレルのあとを追いかけていただけである。

 しかし、彼女の隣に立つもう一人の教授は、その「石」を求めてこの禁じられた廊下の最奥までやって来ていた。だからこそ、彼はハリーの言う「石」のこともよくわかっていた。

 

「ポッター、君も『賢者の石』のことを知っているのか」

 

 その声はとても落ち着き払っていた。ハリーはいつも——彼自身が知る限りのいつも——とは違う、どもってもいない、痙攣もしていないクィレルを前に警戒心を強める。

 

「ネモにばかり気を取られていましたが、まさか生徒が知っていたとは。それも、『生き残った男の子』である君が……」

「先生、どういうことですか?」

「マノック、賢者の石は君も知っているでしょう? 金を作る石、『命の水』の源、私にはどうしてもその石が必要なのです」

 

 「賢者の石」のことはマーガレットも本で読んだことがあった。卑金属を黄金に変え、人間を不老不死にするという深紅の石。数多の錬金術師が追い求め、手にすることがなかった伝説。

 その「賢者の石」が実在するということをマーガレットは初めて知った。だが、ここは魔法界だ。ユニコーンやトロールと同じように、かつては架空の存在だと思っていたものが実在する世界。だからか、あの「賢者の石」が現実に存在ということにはそこまでの驚きを感じなかった。

 いや、それよりもその錬金術の秘宝をなぜか恩師が探しているということに彼女は驚きを隠せなかった。

 

「そういえば、二人とも僕の誕生日にダイアゴン横丁にいたじゃないか! グリンゴッツの強盗もあなたたちだったなんて!」

 

 ハリーは信じられなかった。マーガレットとクィレル、この二人は彼が初めて出会ったホグワーツの教師である。片や神経質ではあるものの真面目そうな男、片や鴉を連れた人当たりのよい魔女。けっして、第一印象は悪くなかった。だからこそ、彼は裏切られたような気分だったのだ。

 

「僕は……スネイプが犯人だと思ってたのに……」

「セブルスですか?」

「スネイプは僕を殺そうとした!」

 

 ハリーの言葉を聞き、クィレルは笑い声を上げる。それは冷たく、鋭い笑いだった。

 

「たしかに、セブルスはまさにそんなタイプに見える。君の父親と彼はホグワーツの同窓で互いに毛嫌いしていたからか、君のことも憎んでいるようでしたから。しかし——」

 

 クィレルは真剣な表情でハリーのことを見つめる。

 

「ポッター、君はいくつか大きな勘違いしています。一つは君のことを殺そうとしていたのは私であり、反対にセブルスは君を救おうとしていたこと。それから——」

 

 その時、マーガレットはクィレルに腕を引っ張られ、バランスを保てず後ろによろめいた。ネモも驚いてしまい、思わず彼女の肩から飛び立つ。クィレルは倒れかかったマーガレットを羽交い締め、彼女が身動きできないようにした。

 あまりにも突然の出来事であったためにマーガレットも抵抗することはできなかった。

 

「先生? どうしたんですか?」

 

 マーガレットが問いかけるが、クィレルはなにも答えない。ハリーもこの急展開にはついていけていないようで、口をぽかんと開けていた。しかし、ネモは飼い主の身に起きていることを理解したようで、「ガアガア」と威嚇の声を上げる。

 

「静かに! ネモ、今度こそ私の邪魔をするな。また邪魔をしようものなら、私は君の飼い主を殺す」

 

 ネモは鳴くのを止め、地面に降り立った。クィレルはネモがこれ以上抵抗しないことを確認し、再びハリーの方を向く。

 

「ポッター、君のもう一つの勘違いはミス・マノックも私の仲間だと思い込んだことです。彼女は私の計画とはなんの関係もない。ただ、私のことを探して不運にもここまでたどり着いてしまっただけなのですよ」

「でも、あなたたちはよく一緒にいたじゃないですか! それに、これは僕を油断させるために仲間割れのふりをしているだけかもしれない」

 

 ハリーの疑念はもっともであった。マーガレットとクィレルが()()()()()()間柄であることは彼も知っている。だからこそ、マーガレットが無関係であるということも、ここにいるのは偶然であるということも信じきれないのである。

 

「たしかに君の言うとおり、これは人を油断させるための罠かもしれない。その可能性を見落とさないということは、君は私が思っていたよりも賢い生徒のようですね」

 

 その感心しているような言葉とは裏腹に、クィレルは大きくため息をついた。

 

「……しかし、それも君の思い違いです。私と彼女はその昔、教師と生徒の関係だっただけ。今は仲間でもなんでもない。これがその証明です。——裂けよ(ディフィンド)!」

 

 マーガレットの右肩に鋭い痛みが走った。彼女は短い悲鳴を上げ、力の抜けた右腕をだらりとたらす。ローブの肩口の部分が裂けていて、その下の白いネグリジェに赤い血が滲んでいた。

 ネモは飼い主が危害を加えられたというだけあり、すごい剣幕でがなり立てる。

 

「ネモ、大丈夫だよ……。これくらい、大したことないから」

 

 マーガレットは「大したことない」と言ったが、右手に思うように力が入らないことから彼女自身これがかなり深い傷であることは気がついていた。とはいえ、深い傷ではあるが魔法薬を飲み、医務室で二、三日休んでいれば完治しそうなものではある。

 ネモは飼い主の意を汲み、そのくちばしを閉じた。だが、ハリーはマーガレットの指先から滴り落ちる血を見てしまったがために、すっかり顔を青くしている。

 

「どうして、そんなことを……」

「彼女がここに姿を現した時、私はどうしたものかと思いましたがまさか人質として使えるとは……」

 

 クィレルはマーガレットの首筋に杖を突きつけた。

 

「ポッター、この鏡の前に立て。君が『賢者の石』を見つけ出し、私に渡すんだ。それができないのなら、今度は彼女の首を切る」

「逃げて! 早く逃げて! 先生! どうして彼を、ミスター・ポッターを巻き込むんですか!」

 

 マーガレットは叫ぶ。しかし、彼女はクィレルに口を塞がれた。

 

「こうするしかないんだ。『賢者の石』はきっとこの鏡に隠されている。しかし、『わたしはあなたの顔ではなく、あなたの心の望みを映す』。この鏡をのぞいたところで、私も君も『石』を見つけることはなかった。だから……ポッター、ここへ来い!」

 

 マーガレットはハリーに逃げてほしかった。しかし、彼はその場から一歩も動かない。

 ハリーもここから逃げるべきだということはわかっていた。相手は大人の魔法使いだ。まず立ち向かうことなんてできない。

 だが、彼は勇気のグリフィンドールに選ばれた少年である。ハロウィーンの日だって、トロールに襲われていたハーマイオニーを助けようとした。だから、彼はマーガレットを見捨てて逃げることはできなかった。

 

「ここへ来るんだ」

「僕が『石』を見つけたら、僕もマノック先生も解放してくれますか?」

 

 ハリーの問いかけにクィレルは黙って頷く。それを見て、ハリーはクィレルの方に歩いていった。

 クィレルはマーガレットを抱えたまま横にずれる。鏡の前が空き、そこにハリーが立った。

 ハリーはじっと鏡を見つめている。彼になにが見えているのかはマーガレットにも、クィレルにもわからない。だが、そう時間もかからないうちにハリーはズボンのポケットから血のように赤い石を取り出した。

 

「ありました」

 

 ハリーの手の中で輝く真っ赤な石を見て、クィレルはほっとしたような顔をする。

 

「ポッター君、それを早く私に」

 

 クィレルはマーガレットの口を塞いでいた手をハリーに向けて伸ばした。ハリーもクィレルに『賢者の石』を渡そうとするが、あと少しのところでその手を止める。

 

「ちゃんと『石』は見つけました。だから、先にマノック先生を離してください」

「……わかりました。もちろんですよ」

 

 クィレルはマーガレットの拘束を解こうとする。だが、彼のその行動を止める者がいた。

 

「待て」

 

 突然、クィレルでも、ハリーでも、もちろんマーガレットのものでもない声が響いた。

 

「クィレル、なぜおまえは勝手にこいつらを逃がそうとしている?」

「ご主人様、『賢者の石』はもう見つかりました。ですから、彼女たちは必要ないのではないでしょうか?」

 

 マーガレットはその声を夢で聞いたことを思い出す。彼女をこの場所まで導いたあの夢の中であの聞こえた声。声の主の姿まで見えないところも夢と同じだ。

 

「愚か者め」

 

 謎の声は怒りに満ちていた。クィレルはこの声を恐れているようで、彼が怯えきっていることが手の震えを通してマーガレットにも伝わってきていた。

 

「ですが——」

「おまえ、わかっているのか? そこにいるのはハリー・ポッターだ。十年前、この俺様の身体を滅ぼし、ただの影と霞にすぎない惨めな存在にしたあの赤ん坊だ。あの日の借りを今こそ返してやろうではないか」

 

 マーガレットの知識と謎の声が言ったことが徐々に結びついていく。1981年10月31日、ハリー・ポッターが「生き残った男の子」と呼ばれ、英雄視されるようになった出来事。もしや、この声の正体はかつて魔法界を恐怖と憎悪に陥れた張本人ではないだろうか。

 しかし、そんなはずはない。「例のあの人」はあの日、ハリー・ポッターによって滅ぼされたはずだ。だから、生きているはずなんてない。だが、それでも今のマーガレットは謎の声の正体が彼なのだとしか思えなかった。

 

「クィレル先生、どうして先生が『例のあの人』——ヴォルデモートと手を組んでいるんですか?」

「小娘、おまえもずいぶんと命知らずなようだな」

 

 クィレルの震えが一段と大きくなった。

 

「彼女は——ミス・マノックは魔法界での生活があまり長くないので、ご主人様の偉大さをよく理解していないのです」

「クィレル、なにを恐れている? あぁ、そうか。おまえはこの小娘への情をまだ捨てきれないのか。しかし、“マグル育ち”だったか。ふん、穢らわしい。俺様が『命の水』で新たな身体を創造した暁にはこの小娘を真っ先に殺してやろう。俺様の復活を祝して流される最初の血だ。光栄に思え」

 

 ヴォルデモートは愉快そうに言う。

 

「さて、クィレル。俺様は英雄などと呼ばれている小僧が死ぬ姿をもっとよく見たい。わかったな」

「……かしこまりました」

 

 クィレルはハリーに背を向けると片手で頭に巻いたターバンをほどき始めた。マーガレットはまだ拘束されたままだったが、その様子が鏡に映り込んでいたために一部始終を見ることができた。

 ターバンがすべて地面に落ちた時、ハリーは悲鳴を上げた。マーガレットも鏡に映った横顔しか見られなかったが、彼女も悲鳴を上げそうになる。クィレルの頭の後ろに、もう一つの顔があったのだ。

 

「ハリー・ポッター……」

 

 ヴォルデモートはすっかり怯えてしまったハリーの姿を見て口元をゆがめる。ハリーはギラギラと血走った目で見つめられ、身動き一つできない。彼の心はヴォルデモートへの恐怖で支配されていた。

 

 そして、マーガレットも絶望していた。死んだと思われていたヴォルデモートが生きていたことも、クィレルが彼の手下となり自身の頭に匿っていたことも信じたくなかった。それに、自分はともかくヴォルデモートはハリーまで殺そうとしている。

 なんとかあの少年だけでも助けてあげたい。しかし、この拘束を振り切ったところで、満足には動かせない右手で杖が握れるのかもわからない。どこまで逃げ切れるのかもわからない。

 だが、それでも彼女は賭けに出ることを選んだ。自分の大切なものを守りたいという願いのために。

 

「ネモ!」

 

 飼い主の呼びかけを聞き、ネモはクィレルの後頭部に襲いかかる。と同時に、マーガレットはクィレルの右足を思い切り踏みつけた。予想していなかった彼女たちの反撃に拘束も緩み、マーガレットはクィレルの腕から抜け出した。

 彼女はハリーに駆け寄り、左手で彼の腕を引く。彼がまだ成長途中の一年生だったということもあり、多少引きずるようではあったが、それでもクィレルたちから離れることができていた。

 

「捕まえろ! 捕まえるのだ!」

「頑張って! 走って! あと少しでこの部屋から——」

 

 その時、マーガレットはハリーの背に赤い閃光が迫るのを見た。杖を構えようとするが、やはり右手は動かなかない。万事は休したかにように思われた。

 だが、マーガレットは諦めなかった。杖腕は動かない。しかし、足は動く、体も動く。頭だって動いている。彼女はくるりと方向転換をすると、ハリーを守るように立ちふさがった。自分が代わりに呪文をうけるつもりなのだ。

 

「これで、わたしも——」

 

 彼女は知っていた。かつてその身一つで娘の命を守ろうとした父親のことを。自分はそうして助けられた命、ならば今度は自分が助ける番なのだ。

 マーガレットの胸に赤い閃光が命中した。薄れゆく意識の中、彼女は何度も「これでいい、これでいい」と自分に言い聞かせる。しかし、左の頬を伝う一筋の涙を止めることはできなかった。

 

 そして、マーガレットは冷たい石の床に倒れ込んだ。

 

 

▽ △ ▽

 

 

「先生! マノック先生!」

 

 マーガレットの瞼は固く閉じられていた。ハリーがどんなに体を揺すっても彼女は目を覚まさない。ネモも飼い主の傍らに降り立ち、耳元で呼びかけるがそれでも彼女の目が開くことはなかった。

 

「クィレル、おまえも死の呪いの使い方はわかっているであろう?」

「……はい」

 

 クィレルは地面に膝をつき、頭を押さえた。

 

「申し訳ありません。ご主人様、お許しください」

「さっさと殺してしまえばいいものを。まあいい」

 

 鏡越しにハリーとヴォルデモートの目が合った。

 

「小僧、あとはお前だけだ。もうおまえを守ってくれる先生はいないぞ。さあ、『賢者の石』を俺様に渡せ」

 

 ハリーは手の中の賢者の石を見た。燃える炎のように赤い石。勇気の寮(グリフィンドール)のシンボルカラーと同じ色の石だ。

 だから、ハリーは勇気を振り絞った。

 

「やるもんか!」

「捕まえろ!」

 

 ハリーは杖を握る。しかし、クィレルの放った武装解除呪文によってヒイラギの杖は彼の手を離れた。

 「賢者の石」を奪い取ろうとクィレルが手を伸ばす。ハリーはそれを押し返そうと必死に抵抗した。鋭い痛みが額の傷跡を貫こうと彼は抵抗を続ける。

 

 散々もみ合った結果、先に手を離したのはクィレルだった。彼は痛々しい悲鳴を上げてハリーから遠ざかると、火傷を負った左手を見つめていた。

 

「手が……私の手が!」

 

 ハリーの目にも真っ赤に焼けただれ、皮がベロリとむけたクィレルの左手が見えていた。そして、ハリーはクィレルが自分に触れることができないのだと気づく。それがどうしてなのかはわからない。けれど、この力があれば敵を退けることができると彼は思った。

 

 呆然としているクィレルのもとにハリーが忍び寄る。

 

「殺せ! 今度こそ死の呪文を唱えるのだ」

 

 だが、クィレルは混乱しているようでヴォルデモートの言葉など聞こえていなかった。

 ハリーは今が好機だと思った。目の前の敵は自分のことを殺そうとしている。自分のことを助けようとしてくれたマグル学教授も気を失っていて動かない。このままでは殺されてしまう。

 しかし、彼にはそれに対抗するだけの力がある。ならば。殺されるまえに殺してしまえばいい。だから、ハリーは手を伸ばし、火傷を負った手を見つめ続けているクィレルに一歩、また一歩と近づく。

 

「ハリーくん、ここはわたしに任せて」

 

 誰かがハリーの肩に触れた。少年が驚いて振り返ると、そこには“青い瞳の魔女”が立っていた。

 

「マノック先生?」

 

 彼女はハリーと目が合うと、にっこりと微笑む。その表情は戦いの真っただ中だというのにとても穏やかだった。

 

「もう大丈夫です。ほら、その手も下ろして」

「先生! でも、僕ならあいつらを倒すことができます! みんなのことも、ホグワーツのことも守ることができます!」

 

 ハリーがそう言うと、彼女は少し悲しそうな顔をした。

 

「あいつ()を倒す、ですか……」

 

 ハリーもその言い方がよくなかったことはすぐに気づいた。ヴォルデモートはともかく、そのヴォルデモートに憑りつかれているクィレルとこの女性の関係が特別であることは彼もわかっている。

 しかし、ヴォルデモートをこの場から退かせるためには、その宿主も倒さなければならない。彼らを引き離す手段を知らない以上、ハリーは自分が生き残るためにはこれしかないと思っていた。

 

「僕にはそうするしか……。それに、マノック先生も今度こそ殺されちゃうかもしれない!」

「わたしはまだ死なないよ」

 

 “青い瞳の魔女”はまっすぐ前を見つめていた。彼女の肩にのる()()()の鴉も同じくまっすぐ前を見つめている。

 

「わたしには守らなくちゃいけないものがある。だから、まだ死ねない。それに……」

 

 彼女はハリーと目線の高さを合わせると、彼の手を包み込むように握った。

 

「ハリーくん。相手が誰であれ、人を殺すのはとても辛くて、苦しいことだよ。それこそ、()()()()()()()()()()()()なくらい。その痛みも悲しみも、ずっと独りで抱えていかなくちゃならない」

 

 ハリーは思った。どうしてこの人は()()()()()()()()()()()()()語るのだろうか。

 ハリーはゆっくりと腕を下ろし、“青い瞳の魔女”から視線をそらす。なぜだか、今は彼女に対して恐怖のようなものを感じていた。

 

「……だから、わたしはハリーくんにも()()()にもそんな思いはさせたくない」

 

 “青い瞳の魔女”が左手で杖を振ると、ハリーは自分の体がひんやりとしたような気がした。あの薬品を飲んだ時と同じような感覚だ。

 

「スネイプ先生の薬の効果もまだ残っているから、これでもう一度あの炎の中を歩けるはず。ハリーくん、ここはわたし一人で大丈夫。ハリーくんは『賢者の石』を持ってここから逃げて」

 

 “青い瞳の魔女”はハリーの頭を優しく撫で、鴉に拾ってこさせたヒイラギの杖を彼に返した。そして、ゆっくりと振り返ると、杖を握りしめた左手をまっすぐクィレルに向ける。

 

「ハリーくん、わたしもあのヴォルデモートが許せない。人の命をなんとも思わず、誰かの大切なものを奪おうとする。だから、わたしはあの男が許せない」

 

 そして、彼女は左の頬を拭った。

 

「それから、()()()を泣かせる男も許せない。ハリーくん、ここはわたしに託してくれませんか」

 

 彼女に対しての恐怖が消えたわけではない。それでも、ハリーは今の彼女の言葉を信じてもいいように感じた。

 ハリーは頷き、炎の燃え盛る扉に向かって駆け出す。

 

「逃がすな!」

 

 ヴォルデモートが叫んだ。呆然と“青い瞳の魔女”のことを見つめていたクィレルも我に返り、ハリー目がけて失神呪文を放つ。しかし、その赤い閃光は盾の呪文によって阻まれた。

 

「こうして杖を握るのは久しぶりだけど、やればできるものですね」

 

 黒い炎の中を突き進むハリーの後ろ姿を見送りながら、“青い瞳の魔女”は呟く。

 

「小娘、よくも俺様の邪魔をしてくれたな」

「あなた()邪魔? わたしはただクィレル先生とお話がしたいだけなんです。だから、あなた()邪魔の間違いですよ」

 

 そう言って、“青い瞳の魔女”は白い歯をのぞかせて笑った。

 

「……クィレル、あの女を殺せ」

「しかし、賢者の石を取り戻さなければ」

「それよりも、だ。俺様を愚弄したことを後悔させてやる」

 

 クィレルの青白い顔がさらに青ざめた。

 

「しかし——」

「クィレル、これはあの小娘が自ら選んだ道だ。ならば、それに応えてやろう。お前がためらう必要はない。さあ、嬲り殺せ」

 

 ゴクリと唾を飲み込み、クィレルは杖先をかつての教え子に向ける。“青い瞳の魔女”はそんな彼のことをじっと見つめていた。

 

「クィレル先生、大丈夫ですよ。わたしは絶対に先生に殺されません。それに、()()()は先生がいなくなったら、とっても悲しむんです。だから、わたしは絶対に先生のことも助けます」

「このクィレルを助けるだと? 笑わせるな、小娘。この男がなにをしたのかもう忘れたのか」

 

 ハンノキの杖の先から赤い閃光が放たれる。しかし、それはマツの杖から伸びる紅い光線によって打ち消された。

 クィレルはもう一度杖を振る。今度は白い光弾が迫ってくるが、“青い瞳の魔女”は冷静に盾の呪文で弾き返した。

 

「……忘れるわけはないですよ。馬車の中で()()()の手をはたいたこと、クィディッチの試合中に()()()に眠り薬入りのチョコレートを食べさせたこと。禁じられた森で()()()を襲ったこと、そのあと()()()を避けるようになって、寂しい思いをさせたこと。それから、こんな怪我を負わせたこと!」

 

 “青い瞳の魔女”は右肩をさすっていた。

 

「それでも、わたしはクィレル先生のことを許します。先生が『許してほしい』と言わなくたって許しますよ。だって、()()()がそれを望んでますから」

 

 クィレルが放つ呪文をかわしながら、なおも彼女は語りかける。

 

「クィレル先生、()()()がずっと先生に言いたかったのに、言えなかったことをわたしが代わりに言いますね。——先生、マグル学教室に戻ってきてくれませんか?」

「でも、私にはもう戻れる場所など……」

「ありますよ。だって、()()()には先生が必要です」

 

 “青い瞳の魔女”は一歩、また一歩とクィレルに近づいていく。切断呪文が頬を掠め、濡羽色の髪の毛がパラパラと地面に落ちた時ですら彼女は歩みを止めなかった。

 

「クィレル、なぜ止められない!」

 

 ヴォルデモートが腹立たしそうに叫ぶ。だが、今のクィレルには謝っている余裕などなかった。彼の頭の中は別のことでいっぱいだったのだ。

 彼は呪文をかわしたり、反対呪文を唱えたりしながら近づいてくる“青い瞳の魔女”に向かって叫んだ。

 

「君は、いえ、あなたは誰だ!」

 

 ふいに”青い瞳の魔女”がその場に立ち止まった。そして、クィレルのことをじっと見つめる。

 

「……さすがはクィレル先生。()()()のこと、よく見ていらっしゃるんですね」

 

 そう言って、彼女は満面の笑みを浮かべた。それは彼が()()()()()()()()ことに対して、喜びを抑えきれないようだった。

 

「もちろん、()()()のことを一番近くで見ているのはわたしですけど」

 

 海のように深く、空のように澄んだ青い瞳がきらりと輝く。そして、クィレルはすべてを悟った。

 

「マノック、あなたはマ——」

 

 “青い瞳の魔女”はクィレルに駆け寄り、彼の口元に指を当てる。

 

「その名前はもうわたしのものではないです。わたしは“誰でもない”。クィレル先生、それならいつものように“誰でもない(ネモ)”と呼んでください」

 

 青ざめた唇からそっと手を離し、“青い瞳の魔女(ネモ)”は悪戯っぽく笑った。そんな彼女のことをクィレルは虚ろな目で見つめている。

 

「クィレル先生、あの子には先生が必要です。だって、あの子(マーガレット)は先生のことを——」

 

 だが、突然ヴォルデモートが邪悪な笑い声を上げた。

 

「そうか。そういうことか! おまえ()俺様のように……。つくづく癪に触る小娘たちだ。今すぐにでも滅ぼしてやりたいが——待て。ダンブルドアはどこまで知っている?」

 

 突然、クィレルの体から黒い靄のようなものが出てきた。力を失い、床に崩れ落ちそうになったクィレルを抱き支えながら、“青い瞳の魔女”はその靄が人も顔を作り出していく様子を見つめていた。

 

「まさか、すべて気づかれていたのか? だから、おまえのこともホグワーツに、自分の手元に置いたのか?」

「なにを言っている!」

「哀れだな。自分が駒であることも気づけないとは。だが、おまえには礼を言わねばならん。おまえのおかげで、()()にはこういう使い方があることもわかった。ならば、一刻も早く次の策を考えねば」

 

 ヴォルデモートの顔が霧散していく。クィレルの後頭部からもう一つの人面も消えている。これはきっと彼をヴォルデモートの支配から解放できたということだ。

 だが、まだすべてが終わったようには思えない。

 

「小娘、今回は見逃してやろう。だが、おまえもおまえが大切にしているものもいずれすべて滅ぼしてくれる」

「そんなことはさせない。わたしは守ってみせる!」

 

 そして、ヴォルデモートは姿を消した。あとに残されたのは“青い瞳の魔女”と弱りきったクィレルだけである。

 

「クィレル先生、しっかりしてください。目を開けてください」

 

 必死に呼びかけるが、クィレルの体温を徐々に下がっていく。彼女にも覚えがあった。これは人が死ぬ時の感覚である。

 

「先生、逝かないでください! 先生までいなくなったら、あの子は……」

 

 彼女はもう駄目かもしれないと思った。また自分はマーガレットの心を傷つけてしまうのかと思った。

 

——だが、奇跡が起きた。

 

「先生! クィレル先生!」

「……夢を見ていました」

 

 クィレルは未だ微睡の中にいて、その口調はとてもゆったりとしていた。

 

「あれは、きっとマーガレットと私が初めて会った日のことです。鮮やかな夕日に照らされた彼女が多くの夢を語っていました。……彼女はいいペットを飼っていますね」

 

 “青い瞳の魔女(ネモ)”は黙って首を横に振る。

 

「そうですか……。あぁ、そうだ。できればあなたの口から彼女に伝えてほしいことがあります」

「先生、わたしがあの子に話しかけることはできないです。だから、クィレル先生が直接伝えてくれないと」

「それが、できたらいいのですが」

「できますよ。だって——」

「マーガレット、それを決めるためにも彼をわしに預けてくれないかな」

 

 振り返ると、そこにはいつの間にかダンブルドアが立っていた。

 

「いや、今の君のことをマーガレットと呼ぶのはふさわしくないのかのう?」

 

 普段なら好々爺然としているダンブルドアだが、この時ばかりは雰囲気が違った。氷のように冷たいブルーの瞳が彼女のことを射抜くように見つめている。

 

「ダンブルドア先生、クィレル先生は悪くないです!」

「じゃが、彼は生徒に危害を加え、『賢者の石』を盗み出そうとし、そして君たちの心も体も傷つけた。じゃから、正しく裁かれるべきではないかのう?」

 

 ダンブルドアの主張はもっともである。それが正義というもので、彼女も自分が間違ってことをしようしているのもわかっている。

 だが、その正しさに従った結果、あの子がさらに傷つくことになったら? あの子の願いを守ってあげられなかったら?

 

 彼女はその炎のように熱を帯びた青い瞳でダンブルドアを見つめ返す。彼の明るいブルーの目を直視していると、なにかが頭が入り込んでくるような感覚があって気持ち悪かった。しかし、それでも彼女は決して目をそらさなかった。

 

「それでも! わたしはクィレル先生にあの子のそばにいてほしいです。その願いのためなら、わたしはダンブルドア先生とだって戦います。前に『どんなに大切なものでも、そのすべてを守りきれるわけではない』と先生は言いました。でも、わたしはマーガレットの大切なものをなんだって守りたい。だって、そうじゃなければわたしが今、こうして()()()()()意味がないですから!」

 

 ダンブルドアは小さくため息をついた。そして、目の前の“青い瞳の魔女”に今度は慈しみにあふれたまなざしを向ける。

 

「……そうか、君はそのために生きているのじゃな。ならば、わかった。ここは君の意思を尊重しよう。それから、たしかにマーガレットには彼も必要じゃからな」

「本当、ですか?」

 

 ダンブルドアは首を縦に振った。それを見て安心したのか、“青い瞳の魔女”は声を上げて笑う。そうして笑っているうちに、徐々に体の力が抜けていた。

 

「慣れないことをしていたのじゃから、君も疲れたじゃろう。あとはわしに任せて、ゆっくりと休むがよい」

「ありがとうございます。本当、ありがとう。これで、あの子も……」

 

 そう言い残し、“青い瞳の魔女”はクィレルに折り重なるようにして意識を失った。

 

「マイケル、君はずいぶんとつらく、悲しい選択をしたようじゃな」

 

 ホグワーツ城の地下、見えない天を仰ぎながら今世紀もっとも偉大なる魔法使いは呟いた。




これが書きたかった!!!(Part1)

※主人公が誰かさんに憑かれている際、「“青い瞳の魔女”」や「彼女」と表記していますが、これはどうしようか散々悩んだあげく見た目(身体の性別)に合わせることにしました。


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第14話 悲壮劇の一年

▽ △ ▽

 

 

——マーガレットは夢を見ていた。

 

 宙に浮かぶ何千ものろうそく、きらきらと金色に輝く皿とゴブレット。それから天井に広がる満点の星空。

 忘れるわけがない。これは入学式の日、つまり少女が初めてホグワーツに足を踏み入れた日に見た景色だ。少女は青い瞳を大きく開き、その神秘的で感動的な光景を目に焼きつけていた。彼女が胸に抱いた鴉も飼い主と同じようにどこまでも続いていそうな夜空を見上げている。

 

 いったいなにが始まるのだろうと少女が胸を高鳴らせていると、エメラルド色のローブを身につけた魔女が四本脚のスツールと継ぎ接ぎだらけのとんがり帽を新入生たちの前に置いた。

 先ほどまでは少女と鴉のことをジロジロと見ていた同級生たちも、今はそのおんぼろ帽子に好奇の視線を向けている。それに、上級生も先生も、広間にいる誰もがその帽子のことを見つめている。

 少女がごくりと唾を飲み込むと、帽子が突然歌い始めた。比喩でもなんでもなく、本当に帽子が歌い始めたのだ。少女は驚き、まるで人間の口のように動いている帽子の破れ目を凝視していた。

 

 歌う帽子は自らのことを「組分け帽子」と名乗り、その考える帽子を被ることで君の行くべき寮を教えようと歌い上げる。帽子が歌い終わると、大広間にいる誰もが拍手喝采した。もちろん少女も手が赤くなるまで拍手をしていた。

 拍手がまばらになってくると、エメラルド色のローブの魔女が長い羊皮紙の巻紙を手に、一歩前に進み出る。

 

「ABC順に名前を呼ばれたら、帽子を被って椅子に座り、組分けを受けてください」

 

 いよいよ組分けの儀式が始まろうとしていた。

 

 エメラルド色のローブの魔女が一人目の生徒の名前を大きな声で読み上げる。すると、眼鏡をかけた少年がロボットのように手と足を同時に動かしながら前に出てきた。彼は椅子に座り、帽子を目が隠れるほど深く被る。すると、一瞬の沈黙の後に帽子は「レイブンクロー!」と叫んだ。

 レイブンクローのテーブルから拍手と歓声が上がる。緊張気味だった少年は青いローブの一団に迎えられほっとした様子で彼らと同じテーブルに着いた。

 Aが終わればB、Bが終わればCと次々に名前が呼ばれ、ハッフルパフ、スリザリン、グリフィンドールと生徒たちは続々と組分けされる。

そのように儀式が着実に進むなか、少女はある人物を探していた。

 

 この大広間には組分けの儀式を見届けるためにホグワーツの生徒と教職員たちが集まっている。ということは、少女に入学証を渡しに来たり、ダイアゴン横丁で一緒に入学の準備をしたりしてくれたあの青年もこの場にいるはずだ。

 そして、少女の予想どおり新任のマグル学助手も上座の教職員テーブルに座っていた。彼はテーブルの一番端から組分けの様子を見ていたが、少女の視線に気がつくと少々ぎこちない笑みを浮かべ、小さく手を振ってくれた。少女は彼が自分のことを憶えていてくれたのだと嬉しくなる。

 

「マノック、マーガレット!」

 

 ついに少女の名前が呼ばれた。少女はぎゅっと鴉を抱きしめ、小走りで前に出る。椅子に腰掛けると、エメラルド色のローブを着た魔女によって帽子を深く被せられた。目の前が真っ暗になる。

 

「これは、これは」

 

 低い声が少女の耳の中で聞こえた。少女は直感的にこれが帽子の声だと気づく。

 

「なんと、なるほど。いや、これは面白い。こんなのは初めてだ! 君には記憶がない、なにも憶えていない。言うなれば、君は空っぽになってしまったのか。だから、それを埋めようと貪欲なまでに知識を求める。そんな君には、あの知識の塔こそがふさわしい!」

 

 「あの知識の塔こそがふさわしい」と言われ、少女は嬉しくなった。帽子が「レイブンクロー!」と叫ぶ瞬間を今か今かと待つ。

 

「ゆえに君は——。いや、しかし——」

 

 急に帽子が唸り出した。少女は急に不安になって、鴉ごと自分の体を強く抱きしめる。

 

「君には勇気がある。それは自分を犠牲にしてでも大切なものを守り抜こうとする勇気だ。だからこそ、君をグリフィンドールに入れるべきなのかもしれない。しかし、君ほど意欲的な者をレイブンクローに入れられないのは……」

 

 帽子は迷っていた。この少女をレイブンクローに入れるべきか、グリフィンドールに入れるべきか。

 一方、少女も悩んでいた。たしかにレイブンクローの生徒にはなりたい。だが、グリフィンドールも悪くないとは思うのだ。

 

 少女は母の言葉を思い出す。母は「あなたのパパはとっても勇気のある人だった」と言った。そう、少女の父親は()()()()なのだ。だから、勇気の寮に進めば、彼のことをもっと理解できるかもしれない。

 しかし、行きの汽車の中でロウェナ・レイブンクローのカードを手にしたときの興奮を少女は忘れることができなかった。

 

「君はどうしたい? 君はどうなりたい?」

 

 帽子が問いかける。君はどんな人物になりたいのか、と。

 

 少女のなりたいものは決まっている。それは、父のような人だ。父のように賢くて、父のように優しくて、そして自分の命を守ってくれた父のように勇敢な魔法使い。

 しかし、少女は父のことを憶えていない。だからこそ、その父のような人というのがよくわからない。どんなふうに賢くて、どんなふうに優しくて、どんなふうに自分の命を守ってくれたのか。

 

——わたしは……。わたしは——。

 

 そして、少女は思い出した。自分の知らないことをなんでも教えてくれるくらい賢くて、記憶がないことをいつかきっと思い出せると励ましてくれるくらい優しくて、自分がこけて頭をぶつけそうな時に魔法で守ってくれた頼れる大人のことを。

 

 少女は思う。わたしがなりたいのはあの魔法使いのような人なのだ、と。

 

——わたしはレイブンクローがいい。クィレル先生と同じレイブンクローがいい。

 

 少女は確信を持って帽子に思いを伝える。

 

「よろしい。それならば君は——レイブンクロー!」

 

 少女は帽子が最後の言葉を広間全体に向かって叫ぶのを聞いた。彼女が帽子を脱ぐと、拍手が巻き起こる。青いローブをまとった一団は大歓声を上げ、少女を自分たちのテーブルに招く。

 少女が席に着くと、「あんなに長い組分けは初めて!」とか「おしい、あと少しで君も組分け困難者(ハットストール)だったよ」とレイブンクローの上級生が声をかけてくれた。本当にレイブンクローの生徒になれたのだと少女は嬉しくなる。

 ずっと抱きかかえていたネモを膝に下ろし、少女は上座のテーブル——の一番端の席を見た。どうやら彼も少女のことを見ていたようで二人はすぐに目が合った。彼も少女がレイブンクローに組分けられたことを喜んでくれているようで、少女の顔を見るとふっと微笑む。

 その笑顔が写真の中でしか見たことがない父の表情とどこか似ているような気がした。

 

——父のような人(彼のような魔法使い)になりたい。

 

 この日、少女は魔法界で新たな夢を見つけた。

 

 

▽ △ ▽

 

 

 長い眠りから目覚め、マーガレットが最初に見たものは自身のことを凝視している一対の青い瞳だった。彼女は記憶の糸を手繰り寄せ、それが誰のものであるのかを思い出す。

 

「……ネモ?」

 

 マーガレットが名前を呼ぶと、ネモは彼女の顔に頭をすり寄せた。飼い主の頬に何度も触れながら、ときおり嬉しそうに喉を鳴らす。それはマーガレットの無事を確かめているかのようでもあった。

 

「おはよう。今日は甘えん坊さんだね。あれ? この匂い……」

 

 マーガレットは微か消毒液の香りが漂っていることに気がつく。どういうわけか、私室ではなくて医務室のベッドの上で眠っていたようだ。起き上がろうとするが、右肩に包帯がきつく巻かれていて思うように体を動かせなかった。

 彼女は枕に頭を沈めたまま、どうして自分がここにいるのかを考える。寝起きで思考はぼやけていたが、それでも彼女は意識を失う前になにがあったのかをすぐに思い出した。

 幸か不幸か、今度の彼女は記憶を失っていなかった。

 

「わたし、あの時……。そうだ。わたしには、まだ——」

 

 まだ伝えられてない言葉がある。マーガレットは飛び起きた。身体にかかっていたブランケットがベッドからずり落ちる。

 だが、片足を下ろしたところでマーガレットは動きを止めた。視線を感じ、ゆっくりと後ろを振り返る。彼女の目線の先には立派なひげを蓄えた老魔法使いがいた。

 

「おはよう、マーガレット」

「……ダンブルドア校長?」

「ずいぶんとよく眠っていたのう」

 

 ダンブルドアは柔和な笑みを浮かべている。

 

「その顔はあまりぴんときていないようじゃな。君は一週間ほど眠っていたのじゃよ」

「一週間も?」

「そのとおり、一週間じゃ。おぉ、そうじゃ。長く眠っていたのじゃから、君もお腹が空いているのでは? 一ついかがかな?」

 

 そう言って、ダンブルドアは五角形の箱を差し出した。一度しか買ったことがないが、マーガレットもその特徴的な箱には見覚えがある。

 

「これはハリーが君のお見舞いで来た際に置いていったものじゃ。わしもロンドンまで行っていたのじゃから、君が前に教えてくれたビスケットでも買ってこれたらよかったのじゃが」

「あの、校長はどうしてここに? その、私が目を覚ますのをわざわざ待っていらっしゃったんですか?」

「あぁ、それはじゃな——」

 

 ダンブルドアは蛙チョコレートの箱をサイドテーブルに置いた。そして、彼は腰かけていた椅子を一歩前に引き、真剣な顔をする。

 

「君が目を覚ましたあと、誰よりも先に話がしたかったのじゃ」

「話、ですか?」

 

 マーガレットの表情が曇る。

 

「あぁ、でも——。あの、少し待っていただけませんか?」

 

 ダンブルドアの答えを聞くことなく、マーガレットは彼に背を向けた。ネモを抱きかかえ、ベッドから立ち上がる。

 一週間も眠ってしまっていたのだ。だから、なおさら急がなければならないと彼女は思っていた。

 

「その、先にどうしても行かないといけないところが——」

「マーガレット、そう急ぐこともなかろう」

「ですが……」

「君はクィリナスに会いたいのじゃろうが、それはできぬ」

 

 マーガレットは静止する。

 

「……どうしてですか?」

「もうここにクィリナスはおらんのじゃよ」

 

 彼女は以前にもそのような言葉を聞いたことがあった。あれはたしか、今日のように病院のベッドで横たわっていた時だ。「あなたのパパはもういないの」と口にする母の目は赤く腫れていた。

 

「もういない? わたし、()()……」

 

 マーガレットは目の前が真っ暗になるような思いだった。ひどい虚脱感に襲われ、前に進むことも立ち続けることもできなくなる。

 

「あの、クィレル先生は……。その、まさか——」

 

 ベッドに腰を下ろし、マーガレットは言葉を詰まらせた。顔もすっかり青ざめている。

 

「……そうか。やはり()()なにも知らないのじゃな」

 

 マーガレットはネモを抱いたまま、不安そうに頷いた。すべてではないものの()()記憶を失ってしまったのか、()()大切なものをなくしてしまったのかと思うと怖くなる。

 だが、不安を募らせるマーガレットとは対照的にダンブルドアは非常に落ち着いた様子だった。椅子から立ち上がり、ゆったりとした動作で床に落ちたブランケットを拾い上げる。そして、それを折りたたみ、マーガレットの膝の上にかけると彼は静かに口を開いた。

 

「わしの言い方がよくなかったようじゃ。マーガレット、よく聞いてほしい。クィリナスは生きておる」

 

 マーガレットはゆっくりと顔を上げる。虚ろな青い瞳に再び光が灯った。

 

「本当、ですか?」

 

 期待と不安の入り混じった視線を浴びながら、ダンブルドアは首を縦に振る。

 

「よかった……。その、よかったです……」

 

 マーガレットの目から大粒の涙がこぼれ落ちた。

 

「生きているなら、()()会えますもんね。……あの、それなら先生はどちらにいらっしゃるんですか?」

「そうじゃな……。今はもうホグワーツにはいないとしか伝えることができぬのう」

「それは……」

「クィリナスはもうホグワーツの教師ではない」

 

 ダンブルドアを見上げるマーガレットの顔にかげりが差す。

 

「一年前、彼はアルバニアの森の中でヴォルデモートと出会い、その強大な力に飲み込まれてしまった。そして、ヴォルデモートのために『賢者の石』を手に入れようとし、その過程で生徒たちや君のことを傷つけた。クィリナスは……許されざることをした」

 

 マーガレットは黙って聞いていた。彼女の頭の中であの夜の出来事が走馬灯のようによみがえる。

 

「あのようなことがあった以上、クィリナスにホグワーツの教師を続けてもらうわけにはいかないのじゃ。そのことは君もわかってくれるかのう」

 

 自分はともかく、ハリーのような生徒にまで危害を加えようとしたことは、あるべき教師としての姿と真っ向から反していた。それがずっと慕っていた恩師だったとしても、その過ちを見過ごしてはいけないことは彼女だってわかっている。だが、彼女は頷くことができなかった。

 

「マーガレット?」

「それなら……クィレル先生だけでなく、わたしも教師を続けるにはふさわしくない人間だと思います。あの夜、わたしが未熟な魔法使いであったばかりにミスター・ポッターを危険にさらしてしまいました。それに、あれだけ先生のおそばにいようとしながら、わたしは先生の身に起こっていたことになにも気づきませんでした。ホグワーツに危機を招いた一因はわたしにもあると思うんです」

 

 マーガレットは静かに目を閉じ、審判の時を待つ。だが、ダンブルドアは険しい表情でマグル学教授のことを見つめていた。

 

「マーガレット、君の生真面目さや正義感の強さというのはわしも評価しているつもりじゃ。しかし、その意見は本当に君のそういった部分からきているものかのう? それは()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だけではないのか?」

 

 その言葉がマーガレットの胸にぐさりと突き刺さる。思えば、彼女はいつも()()のあとを追いかけていた。

 

「わたしはただ……。その、わたしは先生()のように、(先生)のようになりたくて——。えっと、だから……」

 

 マーガレットの瞳が揺れる。

 どうしてレイブンクロー生になることを望んだのか、どうしてマグル学の教師になることを選んだのか。それは父のようになりたかったから? それとも、恩師のようになりたかったのか?

 それがもう自分自身でもわからないほど、彼女は父への憧れと恩師への尊敬を重ね合わせていた。

 

「どうやら、わしらは少々思い違いをしていたようじゃ」

「その、ごめんなさい。あの、わたし……」

「君が謝ることではない。君の真意に誰も、それこそ君自身も気づけなかっただけじゃ」

 

 そう言って、ダンブルドアは自慢の白髭を撫でた。

 

「実はじゃな、わしは君がクィリナスに好意を抱いているものじゃとつい最近まで思っておった」

「……好意ですか?」

 

 マーガレットは困惑の表情を浮かべる。好きか嫌いといえば、クィレルのことはもちろん好きだ。マーガレットはかの教師のことを敬愛している。

 

「その、わたしは先生のことをお慕いしています。だから、わたしが先生に好意を持っているのというのは思い違いではないのでは……」

「たしかにそのとおりなのじゃが、わしが言いたかったのは……君とクィリナスが恋愛関係にあるということじゃ」

「わたしと先生がその、恋愛関係?」

 

 マーガレットは口をぽかんと開けていた。彼女の腕の中でネモも同じように口を開けている。

 

「君はクィリナスによく懐いておったからのう。君にそういう考えはなかったのじゃろうが、周りからはそう見えていたのじゃ」

「あの、ダンブルドア校長以外にもそう考えていた方がいらっしゃるんですか?」

「そうじゃな、少なくともミネルバやフィリウスはそう思っていたようじゃ。おぉ、そうじゃ。それから、この手の噂話はわしら教員よりも生徒たちの方がよく知っているのじゃった。……その驚きようだと、君の耳にまでは届いてなかったようじゃがな」

「あの、その、まさか生徒たちにはわたしと先生が恋人同士だと思われていたんですか!」

 

 ダンブルドアは頷いた。その瞬間、マーガレットの顔が赤く染まる。

 

「君たちに関する噂はずいぶんと前からあってじゃな。噂されている君にとっては不愉快かもしれぬが、そのおかげで『秘密』を守ることができてのう」

 

 ダンブルドアは声を落とした。この医務室にはマーガレットとネモとダンブルドアしかいないのだが、それでもこの話を他人に聞かせるつもりはないらしい。

 

「ヴォルデモートの手先であったクィリナスが『賢者の石』を狙い、その野望をハリーと君が打ち砕いたというのがあの夜のできごとじゃ。わしはこのことを『秘密』にしておきたのじゃが、マーガレットも知ってのとおり、このホグワーツで秘密ということはつまり、学校中に知られてしまうということじゃ。じゃから、真実(秘密)を隠すための(秘密)が必要でのう」

 

 ダンブルドアは右手の人差し指を立てた。

 

「一つ目はハリーが『賢者の石』を守ったという噂。『石』を奪うため、何者かがホグワーツを狙っていた。ハリーはその計画にいち早く気づき、友人とともに立ち上がった。その結果、()()()()()()()()()()()()()ものの彼らは『石』を守り抜いた。ハリーはこのこととそのあとのクィディッチでの活躍があってのう、一躍グリフィンドールに寮杯をもたらした英雄となった」

 

 今度は中指を立て、ダンブルドアは話を続ける。

 

「二つ目の噂じゃが、これはハリーたちの活躍の同日同時刻にあったこととされている。ある一組のカップルがずいぶんとひどい喧嘩をしてのう。二人とも医務室送りとなり、先に目を覚ました方がホグワーツから去ることを決めたそうじゃ。生徒たちはその喧嘩の理由を女教諭が大事にしていた菓子を彼氏の方が勝手に食べたからだの、にんにくの臭いに耐えられなくなっただの好き勝手言っておるが……。マーガレット、君はなにか知っておるかね?」

「いえ……。その、考えておきます。ですが、本当にそんな(秘密)でもいいんですか?」

「人というのは適当なもので、より楽しく、より面白いのならばそれが偽りの物語であっても満足してしまうのじゃよ。とくに心躍るような英雄譚と他人事の悲恋はいつの時代も受けがよくてのう。この噂話の真実を知っているのは当事者たちと一部の教員くらいのものじゃ」

 

 マーガレットはマグル学の講義で噂話の有用性についても触れたことがあったが、まさか自身の秘密を隠すために使うことになるとは思ってもみなかった。

 

「とはいえ、クィリナスの罪が消えるわけではない。彼は自分の犯した罪と向き合う必要がある。だから、君に彼がどこにいるのかを教えることはできない。理解してくれるかな?」

 

 マーガレットはネモのことをぎゅっと抱きしめて頷いた。

 

「ホグワーツを離れる前、クィリナスはすべてを話してくれた。じゃから、彼の身になにがあったのか、なにを思ったのかをわしが君に話すこともできる。じゃが、それらのことは彼自身が伝えるべきだとわしは思う」

「それは、つまり……」

「つまりはそういうことじゃ。いずれは君たちを会わせたいと思っておる。マーガレット、クィリナスは生きている。死んでなどおらん。君の父(マイケル)君の恩師(クィリナス)は違うのじゃよ」

 

 マイケル・マノックのようにクィリナス・クィレルもマーガレットの前から姿を消した。しかし、彼は生きている。死によって二度と会えなくなってしまった父とは違う。

 そんな単純なことにマーガレットはようやく気がついた。

 

「時間はかかるかもしれないが、クィリナスは必ず帰ってくる。だから、どうかその時がくるまで待っていてくれんかのう」

 

 その時がすぐに訪れるのか、それともうんと先になるのかなど、マーガレットにはわからない。けれど、いつかまた会えるのならば待てない理由などなかった。

 父のように死に別れてしまったわけでも、記憶のようにいつになっても戻らないわけでもない。だって、あのアルバス・パーシバル・ウルフリック・ブライアン・ダンブルドアが「必ず帰ってくる」と言ったのだ。

 

「待つのは、なれています。だって、もう十年以上は記憶が戻るのを待っているんですから。それに比べたら、きっと先生を待っているのだなんてあっという間です」

 

 光を取り戻した青い瞳がきらりと輝く。その様子を同じ色の瞳がじっと見上げていた。

 

「だから、もうしばらくマグル学の教授を続けさせてください。その昔、クィレル先生が戻ってきてくださるその日までマグル学教室で待っているとお約束したんです」




——「賢者の石」編、閉幕。

大変お待たせいたしました。前回の投稿から二ヵ月近く過ぎ、ようやく「賢者の石」編を完結させることができました。遅筆家の私ですが、まずはここまで書くことができたのはひとえに感想や評価など読者の皆様の温かい反応があったからだと思います。本当にありがとうございます。そして、これからも応援していただけると嬉しいです。

さて、今回のあとがきでは主人公(マーガレット)について語らせていただければと思います。
所々匂わせていたので気づいた方もいらっしゃるかもしれませんが、彼女のモデルはゲーテの『ファウスト』に登場する「マルガレーテ(グレートヒェン)」です。名前もドイツ語の「マルガレーテ」を英語の「マーガレット」に変えただけという案直っぷり。オリジナルのマグル学教授とか、魔法使いの親を亡くした“マグル育ち”の魔女といった設定よりも一番最初に決まったのが彼女の名前でした。
というのも、本作は原作一巻で早々に退場してしまうクィレル教授を救済したいと思いから始まりました。そのため、どうすれば彼を生かすことができるだろうかと頭を悩ませていましたが、そのなかでクィレル教授はファウスト的な人物であるのだと思うようになりました。果てしない知識を求め、自身の魂を引き換えに悪魔(卿は悪魔ではないのですが)と契約を交わし、最終的には破滅してしまうところとか。
なら、ゲーテ版『ファウスト』にならって「永遠に女性なるもの」をぶつければよいのでは? と思ったのが主人公マーガレット誕生のきっかけです。そのため、マルガレーテ(グレートヒェン)をベースに、年上の賢い男性を恋い(?)慕う女性キャラクターという主人公像ができあがりました。もっとも、マーガレットには兄妹がいなかったり、恋仲になって云々といったことがなかったり、子殺しはしていなかったりと元ネタとは異なる部分の方が多いのですが……。
マーガレットは物語においても、また作者にとっても都合のいいキャラクターではありますが、それもまた自身が破滅に導かれてもなお、かの博士を許し、愛し続けた少女のオマージュだと思っていただけるとありがたいです。

長々と語らせていただきましたが、これにて今回のあとがきは終了です。冒頭でも書いたように「賢者の石」編は完結、次話からは「秘密の部屋」編! といきたいところなのですが、その前に幕間の物語として前日譚を書こうと思っています。本編はずっと主人公視点でしたので今度は——。
なかなか進まない本作ですが、原作二年目開幕までもうしばらくお付き合いいただけると幸いです。それでは、また。


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幕間1 マグル学教室へようこそ【前編】

「クィレル君、いよいよ明日は君の初仕事だねえ」

 

 シカンダー教授に声をかけられ、クィレルはびくりと顔を上げた。彼の灰色の目の下にはうっすらとくまができている。

 

「仕事熱心なのは大いに結構。しかし、最近あまり眠れていないようだが、大丈夫かい? 大切な仕事の前だ。今日はもう横になった方がいい」

「い、いえ……。た、大切な仕事ですから、なおさらし、失敗するわけにはいきません」

 

 そう言いながら、クィレルは羊皮紙の封筒にエメラルド色のインクで書かれた住所を手元においたロンドンの地図で何度も確認していた。

 

「し、心配なんです。し、失態を演じてしまうのではないか、わ、わ、笑われてしまうのではないかと……。シカンダー教授。わ、私はやはり教師にはむ、む、向いていない。い、今からでもチャリティを助手にした方がよいのではないでしょうか?」

「バーベッジ嬢かね?」

「チャリティならだ、誰を相手にしていても常に堂々としていますし、こ、この入学証を届ける仕事もマグルの家に行けるのだと喜んだことでしょう。……わ、私よりもよほどこの仕事向きだ」

 

 チャリティ・バーベッジはクィレルよりも一年早くホグワーツを卒業した女性で、今は新進気鋭のマグル学の研究者だ。クィレルは自身よりも彼女の方が教師としての能力も、研究者としての熱意もあるように感じていた。

 

「たしかに、彼女はこの仕事に関してなら喜んでやってくれただろうねえ。だが、バーベッジ嬢にはホグワーツで働くことはできないと断られてしまったのだよ。教師となってしまえば、ここからはあまり離れられない。彼女は研究室で集めた文献を読み漁るだけよりも、実際にその目で世界を見てまわりたいそうだ。いや、フィールドワークとは羨ましい」

 

 そう語るシカンダー教授はどこか遠い目をしている。

 

「しかし、いい時代になったものだねえ。数年前までは研究のためにホグワーツを出るなど危険すぎて考えもしなかったよ。だが、『例のあの人』がいなくなった今はこそこそと隠れて論文を書く必要もないし、城の外にいる家族の心配をする必要もない。それに、バーベッジ嬢やクィレル君のように、マグル学を好きだとか楽しいと言ってくれる若者も少しずつ増えてきている。僕が長くこの仕事を続けてきたなかで今が最もいい時代だよ」

「な、ならば、私などにあとを任せず、まだ続けられたらいいではないですか」

「クィレル君、君は定年というものを知っているかい? なんでもマグルはある年齢まで歳を取ったら仕事を辞めるそうじゃないか。ならば、マグル学教授である僕もマグルの流儀にのっとり、後進に道を譲るべきだと思うのだよ。それに、定年後のマグルは悠々自適な第二の人生を謳歌するそうだが、僕にもやってみたいことがあってねえ」

 

 シカンダー教授はデスクの引き出しの奥から飛行機の玩具を取り出すと、それを魔法で浮かび上がらせた。ブリキの飛行機は教授の杖の動きに合わせてクィレルの頭上を飛び回る。

 

「クィレル君、君は飛行機には乗ったことはあるかい?」

「は、はい。旅行の際に何度か」

 

 旅が好きだったマグルの父の影響で、クィレルも幼い頃からよく旅行に出かけていた。そのため、ヒースローからダブリンやシャルル・ド・ゴールに向かう飛行機にも彼は乗ったことがある。

 

「そうか。いや、なんとも羨ましい。クィレル君、僕は飛行機に乗りたいのだよ。行先はどこでもいい。ただ飛行機に乗りたい。というのも、僕は飛行機に一度も乗ったことがない。僕にとって飛行機は下から見上げるだけものだった。おかしな話だろう? 授業で生徒たちにはマグルの素晴らしい発明だと教えているのに、その教師が一度も体験したことがないなど」

 

 シカンダー教授は長いこと上を見上げていたが、ふとクィレルに目線を向けた。

 

「だから、クィレル君に次の教授になってくれないかと声をかけたのだよ。君は僕とは違う新しい知識を持っている。その知識をこれからのマグル学のため、ホグワーツのために生かしてほしい」

「しかし、わ、私では……」

「なに、心配することはない。マグル学は僕が長年誇りを持って教えてきた教科。それを君になら任せたいと思ったのだ。それだけ君に期待しているということだよ。これでも僕は目利きには自信があってだね、君は君自身が感じているよりもずっと教師に向いていると思うのだよ」

 

 クィレルはこの教授が自分のどこに教師の適性を見出しているのかわからなかった。だが、面と向かって「期待している」と言われてしまうとどうにも断れない。

 自分の力を認めてもらえるのなら、自分のことを必要としてくれるのなら教師の仕事も悪くはないのかもしれない、そう思ってしまうのだ。

 

「き、期待にこたえられるようど、努力します」

「その調子だよ、クィレル君。それに君は明日のことで色々と心配しているようだが、なに大丈夫さ。相手は魔法界のことはなにも知らないマグル出身の子供。こういう簡単な魔法を一つ見せてあげるだけで奇跡だと大喜びだよ」

 

 シカンダー教授が杖を振ると玩具の飛行機は空中停止した。彼がもう一度杖を振ると、今度は垂直降下でデスクの真ん中に着陸する。その動きがクィレルにはヘリコプターのように見えた。

 

「だ、だといいのですが……。じ、実は私が今回入学証を届けにいく生徒は教授がおっしゃるようなま、ま、マグル出身の子供とは少々違うようなのです」

「おや、そうなのかい?」

「ち、父親がホグワーツの卒業生とのことで……。し、シカンダー教授、マノックという名前はご存知でしょうか?」

「マノック?」

 

 シカンダー教授の顔が驚きの色に染まる。彼がなにか知っている様子なのは誰の目から見ても明らかであった。

 

「まさか——。クィレル君、君が明日会いに行くその新入生の名前は?」

「ま、ま、マーガレット・マノックという生徒です」

「ということは、あの時の……」

「か、彼女のことをご存知でしたか。ど、どんな子供なのでしょうか?」

 

 シカンダー教授は首を横に振る。

 

「いや、名前だけだよ。彼女の父親と祖父のことなら、まあそれなりに知っているのだがね」

「そ、そ、祖父のこともですか?」

 

 今度はクィレルが驚きの表情を見せる番であった。新入生の父親について聞くつもりが、まさかそのまた父親についても話を聞けるとは思ってもいなかったのだ。

 

「ああ。マノックは僕の同級生だったのさ。マノックの家系は代々レイブンクローに組分けられるようで、彼自身ももはや執着といってもいいほど知識欲が強い孤高の人だった。その息子のマイケル・マノック君も賢く、優秀な生徒でね。あんなことさえなければ今頃は……」

 

 教授の言う「あんなこと」がいったいなんであるのかがクィレルにはわからない。だが、教授のどこか苦しそうな顔を見てしまうと軽々しく尋ねることはできなかった。

 

「でも、そうか。その子供も魔法使いだったのか。クィレル君、これはまだ僕の想像でしかないのだが聞いてほしい。明日、君がその入学証を渡すマノック嬢だが、彼女はきっと好奇心旺盛なお嬢さんだよ。だから、君の話だって興味津々に聞いてくれるさ」

「それならと、とてもありがたいですが、な、なぜそうお考えになったのですか?」

 

 クィレルに問われ、シカンダー教授は笑みを浮かべる。どうやら教授は自身の予想に相当な自信を持っているようだ。

 

「なぜって、彼女はあのマノックの家の子だ。首席の祖父と、12ふくろうの父を持つ娘。彼らはもうこの世にいないとはいえ、彼女にはその()が流れている。だから、きっとマノック嬢にも()への並々ならぬ思いというのは受け継がれていると思うのだよ」

 

 強い好奇心と高い探究心を持ち、知識に貪欲。マーガレット・マノックがこのとおりの少女であったことを、クィレルはそう遠くないうちに知るのであった。

 

 

▼ ▲ ▼

 

 

 マーガレット・マノックとクィリナス・クィレルが初めて出会ったのは1983年の夏のこと。そして、二度目の出会いはその一週間後、三度目の出会いはそのおよそ一ヶ月後の9月2日のことであった。

 この日、所用で図書館へと出かけたマグル学教授に代わり、クィレルは教室の後片付けをしていた。作業自体は物を運んだり、器材の掃除をしたりと簡単なものである。だが、こうして一人で黙々と仕事をしていると、どうしても今日の自分の仕事ぶりが頭をよぎってしまう。

 

「……私はマグル学の助手を務めるクィリナス・クィレルです。どうぞよろしく」

 

 生徒たちを前にして何度も言葉を詰まらせた自己紹介も、独り言ならば自然に言える。シカンダー教授はクィレルのことを教師向きだと評していたが、彼自身あまりそうは思えていなかった。

 やはり自分には教師の仕事などできっこないのではないか、とネガティブなことばかり考えてしまう。

 

 だが、教室の扉をノックする音に彼の思索は邪魔をされた。シカンダー教授なら自分の教室なのだから勝手に入ってくるはずだろうし、放課後のこの時間にわざわざ訪ねてくる生徒がいるようにも思えない。だがしかし、このまま扉を開かないわけにはいかなかった。

 クィレルは恐る恐る扉を開ける。すると、そこには肩に大鴉(レイブン)をのせた青い瞳の少女が立っていた。

 

「クィレル先生、こんにちは!」

「み、ミス・マノック、こんにちは……」

 

 マーガレットはクィレルの姿を見て、顔をぱっと輝かせる。「またホグワーツで会いましょう」とは言ったものの、まさかこんなに早くやってくるとは思っていなかった。だが、あまり悪い気はしない。

 

「先生、時計とそれからアイスのお礼をお渡ししにきました。その、受け取ってください」

「あ、ありがとうございます」

 

 クィレルはマーガレットが大事そうに抱えていた緑色の包みを受け取った。「ナイルの水(Eau de Nill)」色ともいわれるその特徴的な包み紙の色は彼にも見覚えがある。

 

「紅茶とビスケットです! とってもおいしいですよ!」

「こ、これは……。あぁ、ロンドンの老舗百貨店のものですね。い、いいものをいただきました。ありがとう」

 

 クィレルの言葉を聞き、マーガレットはほっとした表情を浮かべた。この少女は本当によく表情が変わるものだ、とクィレルは思う。

 

「み、ミス・マノック、よくこの教室がわかりましたね」

「監督生さんに聞きました。行き方を忘れないようにメモもとったんですけど、何度か迷ってしまいました」

「それは……。た、大変だったでしょう」

 

 マーガレットはこくりと頷いた。彼女の肩の上の鴉も首を縦に振っている。

 

「でも、色々なものが見られてとっても面白かったです! ホグワーツってこんなに摩訶不思議なところだったんですね。もうすっかり気に入っちゃいました」

「ならよかったです」

 

 楽しそうに語る少女の姿を見ていると、クィレル自身もなぜだか楽しい気持ちになる。だからだろうか、彼はつい口を滑らせた。

 

「それはよかった。そ、そうだ。み、ミス・マノック、この教室まで来るのに疲れたでしょう。一息入れるついでに、少しお話していきませんか? き、君が持ってきてくれた、ビスケットでも食べながら」

 

 自分にはまだ仕事がある。それに、人と話すこともあまり得意ではない。けれど、今だけはそんなことなど忘れ、ただ彼女と話がしてみたいと思ってしまった。

 

「いいんですか! ぜひ喜んで!」

 

 クィレルからの誘いにマーガレットはとびきりの笑顔でこたえる。白い歯をのぞかせるその心の底から嬉しそうな笑い方はクィレルに安心感を与えた。

 クィレルは教室の扉を大きく開け、彼女のことを迎え入れる。

 

「ミス・マノック、マグル学教室へようこそ」

 

 

 

 クィレルは向かい合って話ができるよう研究室にマーガレットを通した。少女はふかふかのソファーに腰を下ろすと、目をきらきらと輝かせながら部屋中を見回している。彼女の膝の上の鴉も飼い主と同じように首をせわしなく動かしている。

 

「み、ミス・マノック、紅茶はお好きですか?」

「はい! もちろん大好きです」

「そ、それはよかった。す、すぐ用意できるのが、それくらいしかないもので」

 

 そう言って、クィレルは軽く杖を振った。すると、湯気が昇る二つのティーカップがテーブルの上に姿を現す。マーガレットは息を呑み、ベルガモットが香る紅茶と向かい側に座るクィレルのことをまじまじと見つめていた。

 

「クィレル先生、その、今のも魔法ですか?」

「は、はい。これも魔法です」

 

 マーガレットは大きく息を吐く。

 

「すごいです! こんなことができる魔法もすごいし、それを使いこなす先生もすごいです!」

「い、いえ。こ、こ、これくらいはたいしたことありませんよ」

 

 魔法界との接点をもたずにずっとマグルとして生活していたため、マーガレットは目にする魔法のすべてに驚き、感動していた。だから、魔法界での生活が長いクィレルからしてみれば彼女の反応というのは少々大袈裟にも感じられる。

 だが、自分のことを「すごい。すごい」と称賛してくれるこの生徒の存在が彼にとっては非常に心地よかった。

 

「そうですか? でも、わたしはそんなことないと思いますよ。だって、わたしは先生みたいには魔法を使えないですから。あの、今日は変身術の授業があって、マッチ棒を針に変える呪文を習いました。でも、ちっともうまくいかなかったんです。その、ようやくわたしも魔法を使えるんだってとっても楽しみだったのに……」

 

 マーガレットは見るからにしゅんとしている。

 

「は、初めはみんなそうですよ。それに、わ、わ、私もどちらかといえば実技が不得意な方でした」

「先生がですか?」

「は、はい。き、き、君と同じくらいの歳の頃は呪文がうまく唱えられずに、く、苦しい思いをしました。いくら練習をしても、そ、それでも授業では失敗ばかり。ま、ま、周りからはいつもか、からかわれていました」

 

 あまり振り返りたくない過去について語ってしまい、クィレルはしまったと思った。ふと顔を上げ、マーガレットの表情を確認する。だが、そこには彼が恐れていたような蔑みや嘲りの色はなかった。

 

「あの、クィレル先生の気持ちが少しわかります。わたしも事故のあと、できないことやわからないことが多くてつらかったです。それに、周りの人のことが怖くなることもありました。だって、みんなが知っていることを、その、わたしだけが知らなかったんですから……」

 

 マーガレットはネモを胸に抱きしめ、悲しそうな顔をする。クィレルは彼女もまた自身の触れたくない過去について口にしたのだということを悟った。

 

「……す、少し紅茶が冷めてしまいましたね。それから、び、び、ビスケットも食べましょうか」

 

 クィレルは再び魔法で紅茶を用意し、マーガレットのお礼の品の中から円筒型の缶を取り出した。

 

「み、み、ミス・マノック、君は甘いものが好きでしたね。あ、甘いものを食べるとし、幸せな気持ちになりますよ」

「ありがとうございます、先生」

 

 ビスケットを口にし、マーガレットはみるみるうちに笑顔になる。

 

「うん。久しぶりに食べましたが、ここのビスケットはやっぱりおいしいです!」

「ひ、久しぶりでしたか」

「はい。その、前にわたしとネモで全部食べてしまって、お母さんに怒られちゃったんです。だから、なかなか買ってもらえなくて……」

 

 クィレルは思わず苦笑いを浮かべた。フローリアン・フォーテスキュー・アイスクリームパーラの一件で知ってはいたことだが、この少女は好奇心だけでなく、食欲も相当強いらしい。

 

「そ、それなら、今日は思う存分食べていったらいいですよ。いざとなれば、このビスケットの数を増やしたり、大きくしたりすればいいのですから」

「それも魔法ですか?」

 

 クィレルが頷くとマーガレットとネモは喉を鳴らした。それがおかしくて、クィレルはよけいに顔を綻ばせる。

 彼の言葉に甘え、マーガレットは再びビスケットに手を伸ばした。クィレルはその様子を見つめながら紅茶を啜る。

 

「さ、先ほどの話の続きになりますが、か、かつての私はたしかにろくに呪文も唱えられないような、そんな学生でした。で、ですが、今の私は違います。現出も消失も、肥大も縮小も魔法で思いのまま。わざわざ呪文も唱える必要もなければ、ホグワーツでは学べないような闇の魔術も知っている。私を馬鹿にした誰よりも本を読み、勉学に励み、知識をつけることで私は力を手にすることができました。そう、知識は力なのです」

 

 言い終わってから、少々話し過ぎたかもしれないとクィレルは思った。マーガレットが相手だと彼はどういうわけか()()()()()()

 

「知識は力……。あの、それならわたしもクィレル先生みたいになれますか?」

「わ、わ、私みたいにですか?」

「はい! たくさん勉強して、いろんなことを知って、わたしも先生みたいな賢い人になりたいんです!」

 

 マーガレットは屈託のない笑みを浮かべる。彼女の青い瞳はきらきらと輝いていた。

 

「だって、先生はわたしの憧れですから!」

 

 マーガレットのなにげない一言にクィレルは一瞬思考が止まった。「先生はわたしの憧れ」——その言葉を頭の中でなんでも反芻する。

 

「ふっ……。ははは、はは」

 

 突然、クィレルが声を上げて笑い始めた。彼がなぜ笑っているのかがわからないマーガレットはきょとんとしている。

 

「クィレル先生? あの、その……。わたし、なにかおかしなことを言っちゃいましたか?」

「いいえ。いえ、ちっとも! むしろ、憧れと思われていることが嬉しくて……」

 

 劣等感に苛まれ、みんなを見返してやりたいと思いから学問に打ち込んだ少年時代。どんなに闇の魔術の理論に通じようと、どんなにマグル学では優秀な成績を修めようと彼の欲求は満たされぬままだった。

 しかし、今この時は違う。彼の対面にいるマーガレット・マノックという少女は彼が求め続けていた尊敬のまなざしを向けてくれる。それに、彼がほしくてたまらなかった賛美の言葉も贈ってくれる。

 どうりで、どうりで彼女の存在が心地よく、口も軽くなるはずだとクィレルは合点する。

 

「私が憧れ、ですか……。ならば、君の夢が叶えられるように私も力を貸します。ミス・マノックの知りたいこと、学びたいこと。そのすべてを私が教えましょう」

 

 自分が知識を授ければ、自分が力を見せつければ、この少女は惜しみのない称賛を浴びせかける。クィレルはそう理解した。

 一方、マーガレットはその下心に気づくことなく、クィレルに対して熱い視線を向けている。

 

「ありがとうございます、クィレル先生! その、学びたいことが、知りたいことがたくさんあるんです。でも、どうしよう。いっぱいありすぎて、まずはなにを教えてもらえば……」

 

 マーガレットは目をつむり、うーんと小さな唸り声をあげた。彼女はずいぶんと悩んでいる様子だ。

 

「ミス・マノック、それならこの呪文はどうですか?」

 

 クィレルは杖をマーガレットの方に向け、変身させたいもの輪郭を思い浮かべながら杖を振った。すると、マーガレットの膝の上でネモがグルグルと回り始め、次の瞬間にはゴブレットに姿を変える。

 

「ネモが変身しちゃった……」

 

 マーガレットはぽかんと口を開けたまま、漆黒の杯を見つめていた。

 クィレルがもう一度杖を振ると、ゴブレットは大鴉(レイブン)に戻る。自分の身になにが起きたのかよくわかっていない鴉は飼い主と同じようにぽかんと口を開けていた。

 

「これは『杯になれ(フェラベルト)』という呪文で、生き物をゴブレットに変えることができます。まだホグワーツで学び始めた君には少し難しいかもしれませんが、きっとできるようになりますよ」

 

 クィレルの言うとおり、まだマッチ棒を針に変えることもできないマーガレットにとって、動物を無機物に変えるこの呪文の習得は難しい。しかし、だからこそ彼はあえてこれを選んだのだ。

 呪文が難しければ難しいほど、習得に時間がかかればかかるほど、この少女は自分のことを頼ってくるはず。そして、自分が教え導き続ける限り、彼女からの感謝と称賛を一心に浴びることができる。

 

「どうですか? 一緒にやってみませんか?」

 

 クィレルの誘いにマーガレットは大きく頷いた。裏の事情はどうであれ、クィレルの魔法はたしかに少女の心を掴んでいた。

 

「わたし、頑張ります! クィレル先生のように、きっと知識を力にしてみせます!」

 

 

 

 こうしてクィレルとマーガレットの最初のマンツーマンレッスンが始まった。

 理論を説明すればマーガレットは興味深そうに相槌を打ちながらメモを取り、杖の振り方を実演すればその無駄のない動作に感嘆の声を上げる。そして、その反応の一つ一つがクィレルを喜ばせた。

 だから、マーガレットにとっても、クィレルにとっても、この時間はとても楽しく、心地の良いものだった。しかし、楽しい時間というのはいつもあっという間に過ぎてしまう。

 

「クィレル君、お客さんかい?」

 

 クィレルもマーガレットも会話に夢中になっていたものだから、その声が聞こえるまで部屋に誰かが入ってきていたことにも気がつかなかった。マーガレットは後ろを振り返るとそこには高齢の男性が立っている。

 

「し、シカンダー教授!」

「いや、教室の片付けが済んでいないようだったからどうしたのかと思ってね。よかった、ここにいたのか」

「す、す、すみません……」

 

 クィレルは肩をすくめた。マーガレットの相手をしていた時とは真反対の自信のなさそうな顔をしている。

 

「クィレル先生、ごめんなさい。その、わたしがお邪魔をしちゃったんです」

「い、いえ。君を誘ったのはわ、私ですから」

「おや、誰かと思えば君はマノック嬢か!」

 

 シカンダー教授はぽんと手を叩くと、その手をマーガレットに向けて差し出した。

 

「僕はマグル学を教えているシカンダーだ。どうぞよろしく」

「わたしはマーガレット・マノックです。その、よろしくお願いします」

 

 マーガレットとシカンダー教授は握手を交わす。その間、教授は彼女の青い瞳をじっと見つめていた。

 

「なるほど。君はお父さんともおじいさんとも同じ目をしているね」

「シカンダー教授はお父さんを知っているんですか!」

 

 マーガレットは驚き、思わず大きな声を上げる。

 

「もちろん。君のお父さんは僕の教え子の一人だったんだ。それから、君のおじいさんは僕の同級生でね。僕はマノックと名のつく人にはなにかと縁があるようだ」

「あの、ホグワーツでのお父さんはどんな人だったんですか?」

「うむ、そうだね……」

 

 マーガレットの問いかけに、シカンダー教授は少々悩んでいるようだった。

 

「そうだな。彼は君も着ているその青いローブにふさわしいような、真面目で賢い生徒だったよ」

「お父さんもレイブンクローの生徒だったんですか!」

 

 興奮しているのか、マーガレットの顔が赤くなる。彼女の青い瞳の輝きもますます強さを増した。

 

「マノック嬢はお父さんと同じレイブンクローで嬉しいのだね」

「はい! まさかお父さんもレイブンクローだっただなんて……。お父さんとも、クィレル先生とも同じでとっても嬉しいです!」

「そういえば、クィレル君もレイブンクローだね。でも、そうか。君がこうして喜んでくれるのなら、マノック君も君がホグワーツにいること、同じレイブンクローの生徒になったことをきっとあの世で喜んでくれているさ」

 

 シカンダー教授の言葉を聞き、マーガレットはにっこりと笑う。だが、シカンダー教授の方はなぜだか悲しそうな顔をしていた。

 

「さて、諸君。そろそろ夕食の時間だ。マノック嬢、君は急いで大広間に向かった方がいい。入学したばかりなら、この城はなにかと迷いやすい。常に時間には余裕は持っておくことが大事だよ」

 

 マーガレットは新品の懐中時計を見た。たしかに夕食の時間が刻一刻と迫ってきている。

 

「本当だ……。でも、わたしはまだクィレル先生と——」

「み、み、ミス・マノック、この続きはまた今度にでも。も、もとより、今日一日ですべて教えられるとは思っていません。わ、わ、私は君に時間をかけて教えていければと考えています」

「あの、クィレル先生。それなら、また会いに来てもいいですか?」

「もちろん。私はいつでもここで、き、君のことを待っていますよ」

 

 クィレルは柔らかい笑みを浮かべ、しっかりと頷いた。

 

「ありがとうございます! 先生が待っていてくださるだなんて、とっても嬉しいです」

 

 マーガレットは呪文の練習台にされて疲れ果てているネモを抱きかかえると、すっとソファーから立ち上がる。

 

「今日はもう戻りますね。その、お邪魔しました。シカンダー教授、もしよろしかったらまたわたしのお父さんのことを教えてくださいませんか? わたしはお父さんがどんな人だったのかもっと知りたいんです。それから、クィレル先生。今日は本当にありがとうございました。先生のおかげでわたしも少し魔法を使う時のコツがわかってきました。だから、これからももっともっとたくさんのことを教えてください! それと、紅茶とビスケットもとってもおいしかったです!」

 

 一度は部屋の外に出たマーガレットであったが、扉の隙間からもう一度だけ姿を現した。

 

「先生、また会いましょう!」

 

 そう言って、マーガレットは手を振りながら研究室を去っていた。

 

「……クィレル君」

「は、は、はい」

 

 授業の後片付けをすっぽかしていたのだ。シカンダー教授からお叱りを受けるものだとばかり思い、クィレルは身構える。

 

「君、ずいぶんとあのお嬢さんに懐かれたねえ」

「す、す、すみません?」

「おや、どうして謝るんだい? もう生徒から慕われているなど、とてもいいことではないか」

 

 シカンダー教授は嵐のように去っていった先ほどのあの少女のことを思い浮かべていた。

 

「好奇心旺盛で勉強熱心。それに鴉も連れているとはさすがマノックの子供だ。だが、彼女はちゃんと甘えられる大人を見つけられたようで安心したよ。クィレル君、あのお嬢さんにどんなことを教えてあげたんだい?」

「へ、変身術を教えていました。で、で、ですが、彼女はまだまだま、魔法には不慣れでしたので、まずは杖の握り方やイメージも持ち方といったき、基礎的なことを中心に話しました」

「なるほど、生徒の出来に合わせて教え方を変えたのか。僕が思ったとおり、やはりクィレル君は教師に向いている。だから、あのお嬢さんだって君にまた教わりたいと思ってくれたのさ。クィレル君、人に物事を教えるこの教師の仕事というのは案外面白いものだろう?」

 

 あの少女(マーガレット・マノック)と出会った今ならわかる。自分がずっと求めていたものを手に入れられるこの仕事はまさに天職だと。

 青年は少女を通し、理想の自分の姿を見た。そして、少女もまた青年を通して憧れの父の姿を見ている。

 

——順調に回り出したかのように思われた運命の歯車にはわずかな狂いが生じていた。




これが書きたかった!!(Part2)
頭のいい男性キャラクターが年下の女の子にクソデカ感情を向けるのが大好きなんだ……。

まあそれはそれとして。
前任のマグル学教授のお名前はホグミスに登場するマグル学の先生から拝借しました。名前は同じだけれども全くの別人という設定です。
もともと原作にはバーベッジ教授がいるのに、ホグミスがわざわざオリジナルキャラクターを用意するってことはもしや敵なのでは? 作者は訝しんだ。


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幕間2 マグル学教室へようこそ【後編】

 それからというもの、マーガレットは来る日も来る日もマグル学教室の扉を叩いた。そして、クィレルが姿を見せると「先生、こんにちは!」と言って、にっと笑う。

 

 ある日——マーガレットは一冊の本を抱えていた。

 

「先生、今日はこの呪文のことを知りたいんです。その、クィレル先生は防衛術もお得意だと聞いたので……」

 

 マーガレットは図書館から借りてきたというその本を開いた。彼女が指さすページには「盾の呪文」の理論がびっしりと書き記されている。

 

「『盾の呪文』がとても難しい呪文ということもわかっています。でも、どうしてもこの魔法を使えるようになりたい。その、わたしも父や先生のように誰かを守れる魔法使いになりたいんです! だから、先生? わたしにもをこの呪文を教えてくださいませんか?」

 

 マーガレットはクィレルのことをじっと見上げていた。期待に満ちた視線を向けられ、クィレルはまんざらでもないといった表情をする。

 

「もちろん。君ができるようになるまで、一から教えてあげますとも」

 

 クィレルはまた一つ称賛を得た。そして、マーガレットもまた一つ知識を得た。

 

 

 

 またある日——マーガレットは研究室に飾られた額縁を眺めていた。

 

「クィレル先生、あの押し花は先生がお作りになったんですか?」

 

 クィレルが頷くとマーガレットは感嘆の声をあげる。

 

「いつもとっても素敵だなと思っていたんです。先生はこういうこともお得意なんですね。すごいです!」

 

 マーガレットはクィレルに尊敬のまなざしを向けていた。

 

「それほどすごいことでもないですよ。コツさえ掴めば、君にだって作れます」

 

 マーガレットはますます目を輝かせる。こうなった彼女が口にする言葉はいつも決まって——。

 

「クィレル先生、わたしにも教えてくださいませんか? わたしも先生のように、素敵な押し花を作ってみたいんです!」

 

 そして、クィレルが返す言葉もいつも決まっていた。

 

「もちろん。君ができるようになるまで、何度だって教えますとも」

 

 クィレルはまた一つ称賛を得た。そして、マーガレットもまた一つ知識を得た。

 

 

 

 そして、またある日——マーガレットはいつもの紅茶(アールグレイ)を飲みながらクィレルの土産話を聞いていた。机に並べられた写真はどれもクィレルが夏の間に旅をしていた北欧で撮ったものだ。

 

「トロールにバレエを教えただなんてすごいです!」

 

 マーガレットは一枚の写真を見つめていた。少女の身長の数倍はありそうな大きなトロールがつま先立ちで立っている動く写真だ。

 写真の中のトロールが見事な旋回(ピルエット)を見せると、マーガレットは「ブラボー!」と大きな拍手を送った。

 

「私はトロールについては特別な才能がありますから」

「さすがはクィレル先生! 先生は本当に色んなことを知ってらっしゃいますね」

 

 相も変わらず、マーガレットはきらきらとした瞳をクィレルに向けている。

 

「先生から聞いたトロールのお話も、わたしには知らないことばかりでした。わたしにとってトロールは物語の中の生き物でしたし、防衛術や魔法生物飼育学の教科書でも挿絵でしか見たことがありませんでした。だから、こうして写真があるとなんだか不思議な感じです。それに、わたしが初めて本で読んだトロールとは全然違うんですね。あのキャラクターは本物よりももっと小さくて、丸くて……。そう、カバみたいだったんです!」

「カバ? あの動物園にいるカバですか?」

 

 人に近い形をしているトロールの姿と四足でのしのしと歩くカバの姿が結びつかず、クィレルは首を傾げた。

 

「はい。顔の形がそっくりなんです。でも、そんな姿でも妖精(トロール)だから、カバに間違われると怒るんですよ。そのキャラクターはとっても人気があって、小説やコミックがたくさん出版されています。わたしも小さい頃は、よくお母さんに読んでもらいました。トロールだけど、とっても可愛いんですよ!」

 

 本の虫というだけあり、こうして物語について語っているときのマーガレットは生き生きとしている。

 

「先生にお話していたら、わたしも久しぶりにあの本が読みたくなってしまいました。そうだ! 今度、ふくろう便で家から何冊か送ってもらうことにします」

「そのようなトロールがいるとは……。マグルの考えることは面白いですね。ミス・マノック、もしよければその本を私にも貸してくれませんか?」

「もちろんです! 先生にも読んでいただけるだなんて、なんだかとっても楽しみです!」

 

 マーガレットは満面の笑みを浮かべた。自分の好きなものの話を聞いてもらい、それに興味を持ってもらえることは誰だって嬉しいのだ。

 

「ありがとう。君が貸してくれたり、クリスマスに贈ってくれたりするおかげで、マグルの本を読む機会もずいぶんと増えました。……ミス・マノック、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。そうすれば、私もさらに知識を増やすことができますから」

「そう、ですか?」

 

 クィレルにとっては何気ない言葉だったのかもしれない。しかし、その言葉はしっかりとマーガレットの胸に焼き付いた。

 

「その、少しでも先生に恩返しができているのならよかったです。だって、わたしもいつも先生に教えていただいてばかりですから……」

「教えるのは教師()の役目です。だから、これからも君が学びたいことや知りたいことはなんだって教えましょう」

「ありがとうございます、クィレル先生!」

 

この約束のとおり、マーガレットはクィレルから多くの知識を、その引き換えにクィレルはマーガレットから多くの感謝と称賛を得た。

 

 

 

 そして、時は流れ——マグル学教室で過ごす日々の中でマーガレットは着実に知識と力を身につけていた。

 それは、彼女の尽きることのない好奇心のおかげでもあったし、それを満たしてやれるクィレルの親切な——それでいて打算的な——な指導のおかげでもあった。それに、かつてこのホグワーツで優秀な成績を修めた祖父と父の血を受け継ぐ者としての実力というのも、もしかしたらあったのかもしれない。

 

 だが、その真相はどうであれマーガレット・マノックという少女が学年でも一、二を争うほどの秀才であることに変わりはない。

 クィレルも初めのうちは彼女の成長を喜んだ。だって、彼女が筆記試験で満点を取った理論も実技試験で加点をもらった呪文をすべて彼が教えたのだから。彼女の優秀さがしめされるほど、その師である自分自身も偉大になれたような気がした。

 

 ただ、マーガレットの成長はクィレルが考えているよりもうんと早かった。

 

 

 

 1987年9月1日——式典を夜に控え、クィレルは独りマグル学の教室にいた。組分けの儀式が始まるまではまだ時間がある。時間潰しにでもと本を開くが、なぜだか内容が頭に入ってこない。

 クィレルは大きなため息をついた。新しい監督生の発表を聞いてからどうにも心が休まらない。それはきっと良い知らせであったはずなのに、彼はどうしてか素直に喜べなかった。

 

 外の空気でも吸ってくれば、少しでも気が晴れるだろうか。クィレルは重い腰を上げ、扉の前に立つ。

 だが、彼が取手に触れるよりも先に扉が開いた。開かれた扉の先には青い目の鴉を連れた青い瞳の少女(胸騒ぎの元凶)が立っている。

 

「先生、こんにちは!」

 

 クィレルの姿を見つけ、マーガレットは目を細めた。彼女の左肩にのる鴉もクィレルの顔を見ながら「こんにちは(Hello)」と頭を下げる。

 

「ミス・マノック、どうして君がここに?」

「一刻も早く、先生にお伝えしたいことがありまして。その、わたしも監督生になれたんです!」

 

 マーガレットはローブにつけた銀色のバッジを指さした。

 

「……あぁ、聞きましたよ。おめでとう」

「ありがとうございます!」

 

 マーガレットは()()()()()()()愛想のよい笑みを浮かべる。

 だが、クィレルにはその笑顔の意味をいつもと同じように受け取ることができなかった。マーガレットの屈託のない笑みが、彼の目にはかつての自分に向けられた嘲りの笑みのように映る。

 

——この時だった。クィレルに焦りが生まれてしまったのは。

 

 監督生には学業成績や素行、生徒や教師からの評判が良い生徒たちが選ばれる。つまるところ、監督生の地位はその生徒がいかに秀でた魔法使いであるかの証明といっても他ならない。

 クィレルもかつてはその栄光を手にすることを夢見た一人だった。しかし、彼のおどおどとした態度は本来の恵まれた才能を覆い隠し、神経質な性格は彼と他人との間に溝を生む。

 どれほど願おうと、どれほど努力しようとクィレルが監督生バッジを手にする機会はついぞ訪れなかった。

 

 だが、目の前にいる女学生はその銀のバッジをつけている。数年前は魔法界のことや呪文の一つも知らなかったはずの少女が、今では知識の塔を代表する生徒の一人となった。

 かつて落ちこぼれとからかわれた自分といつの間にか誰もが認める優等生にまでなってしまった一番の教え子。歯車の狂いはどんどんと大きくなる。

 

「このことを先生にまっさきにご報告したかったんです。だって、これはクィレル先生がわたしに色々なことを教えてくださったおかげですから! 今まで本当にありがとうございます。それから、——」

「み、み、ミス・マノック! ……話はそれだけですか?」

 

 クィレルは思わずマーガレットの話を遮った。彼女の前でどもってしまったのは、いったいいつ以来だろうか。

 

「その、ご報告とお礼ができたらと思いまして……。だから、えっと、これだけです」

「そ、そうですか。それなら、君はもう大広間に向かった方がいい。さっそくか、か、監督生の仕事があることでしょう」

 

 クィレルは努めて冷静を装っていた。だが、どうしても言葉が詰まってしまう。そんな彼のことをマーガレットは心配そうに見つめている。

 

「クィレル先生、大丈夫ですか?」

「だ、大丈夫です。私もまだ支度が終わっていないもので、す、少し焦っているだけです。……もういいですか?」

「その、お忙しいところをお邪魔してしまい、申し訳ありませんでした。先生、また来ますね」

 

 去っていくマーガレットの後ろ姿を見送ることなく、クィレルは扉を閉めた。遠ざかる足音を聞きながら、彼はずっと顔を覆っている。そういえば、マーガレットを教室に迎え入れずに帰してしまったのはこれが初めてであった。

 

 青い目を細め、白い歯をのぞかせて笑うマーガレットの表情がクィレルの頭から離れない。かつて自分のことを嘲笑った同級生たちと今日の彼女の笑顔はよく似ていた。

 いや、それがただの思い込みであることは彼自身もわかっている。だが、自分のうんと後ろを歩いていたはずの少女が、気づけばあと数歩のところまで迫ってきていたことに焦りと恐怖を感じてしまっていた。

 でも、クィレルは教師であり、マーガレットは()()生徒である。教える者と教えられる者、導く者と導かれる者。マーガレットがホグワーツから去るその日までその関係が逆転することはない。

 

 だから、まだ自分は彼女の先生でいられる。まだ自分は彼女の憧れのままでいられる。クィレルはそう願っていた。

 

 

 

 だが、少女の成長(歩み)が止まることはなかった。

 

 五年生の終わり——マーガレットはふくろう(OWL)試験で12科目すべてをパスした。父と同じ12ふくろうの称号をいただき、彼女の名声はさらに高まる。

 クィレルはマーガレットに己の影を踏まれたような気がした。だが、彼女は()()生徒である。まだ追いつかれはしないはずだ。

 

 

 

 六年生のある日——マーガレットは数日ぶりにクィレルのもとを訪れた。日々の勉強と監督生の仕事が忙しく、彼女がマグル学教室に顔を出す機会はずいぶんと減っている。

 

「ミス・マノック、最近はあまり顔を合わせることがありませんが、どうかしましたか?」

「すみません、最近はどうにも忙しくて……」

 

 12ふくろうのため、一日に何コマも授業を受けていた去年までの方がよほど忙しかったのではないか? クィレルは浮かんできた疑問を冷めた紅茶とともに飲み込んだ。

 

「そ、そうですか。それは仕方ありませんね」

「もっと先生に教えていただきたいこともあるのですが。ただ、今は前のように()()()()()ことができなくて……」

 

 なにか後ろめたいことでもあるのか、マーガレットは曖昧に笑う。

 そして、その表情がよけにクィレルに疑念を抱かせた。自分はもう、彼女には必要のない人間なのか、と。だが、彼女は()()生徒である。まだ教師である自分の背中を見ているはずだ。

 

 

 

 ついに始まった最後の一年——周囲の予想どおり、マーガレットは首席に選ばれた。今のホグワーツでもっとも賢い生徒が彼女であることを疑う者は誰もいない。

 それはクィレルとて同じであった。マーガレット・マノックという少女をここまで導いてきたのは彼である。少女のため、そして自分のためにありとあらゆることを教えてきた。そして、自分が与えてきた知識をマーガレットがすべてものにしていることは彼自身が一番よくわかっている。

 クィレルはそう遠くないうちにマーガレットに追いつかれるような気がした。彼女はもうすぐ生徒ではなくなろうとしている。

 

 

 

 そして、いもり(NEWT)試験を控えたある日——クィレルが職員室で仕事を片付けていると、不意にフリットウィック教授が声をかけてきた。

 

「クィリナス、ちょうどよいところに」

 

 職員室に帰ってきたばかりのフリットウィックはたくさんの資料を抱きかかえていた。そのうちの一つ、「あなたはマグル関係の仕事を考えていますね?」という小冊子はクィレルにも見覚えがある。あれはたしか将来の職業選びにあたって読むようなものだ

 

「フリットウィック教授、いかがなさいましたか?」

「君に聞きたいことがあるのです。クィリナス、ミス・マノックから進路の相談をうけたことはありませんか?」

「ミス・マノックの進路ですか?」

 

 フリットウィックは頷き、ため息をついた。

 

「先ほどまで彼女と面談をしていたのですが、少々困ったことがありましてね。ミス・マノックは以前、将来は実家(マグル)の仕事の手伝いを考えていると言っていました。しかし、気が変わったようで今日の面談ではもう少し魔法界(こちら)で頑張ってみたいというのですが、肝心のどこで働くのかは決められていないようで……」

「なぜ気が変わったのでしょうか?」

「なんでも、もうしばらくは諦めずに魔法界で記憶を戻すための方法を探してみたいというのです。ですから、私も忘却術師や癒者の仕事などを紹介してみたのですが、あまりぴんとこなかったようで。君ならなにか話を聞いたこともあるのではと思ったのだが……」

 

 クィレルは首を横に振る。父のことを知りたいというマーガレットの夢についてならばよく知っているが、彼女の将来のことなど聞いたこともなければ、聞こうとしたこともなかった。

 

「夢のことは何度も聞きましたが、将来のことはなにも。ミス・マノックも最近はその記憶を思い出すための方法探しのため、よく図書館に行っているようで、あまり私のところにも来ていなかったので」

 

 彼女がマグル学の教室にあまり顔を出さなくなったのが先か、自分が忙しいからと嘘をつくようになったのが先か。今ではよく憶えていないが、彼らがあまり顔を合わせなくなっていることは確かだった。

 マーガレットの意思を知らない以上は自分が役に立てることもないと思い、クィレルはその場から立ち去ろうとする。だが、フリットウィックにすぐ呼び止められた。

 

「もしかすると、このホグワーツでならばミス・マノックも満足のいく研究ができるかもしれません。教師になれば禁書の棚の本もいくらでも読めますし、彼女も事情を知っている君が近くにいた方が安心できるでしょう。クィリナス、ミス・マノックをマグル学の助手にしてみるというのはどうですか?」

 

 フリットウィックに背を向けて立ち止まったまま、クィレルはなにも答えない。

 

「ミス・マノックなら成績も申し分ないですし、彼女以上にマグル学が好きな生徒は今のホグワーツにはいないでしょう」

「……」

「君との付き合いも長いのですから、いい助手になると思いますよ」

「……」

「それに、君と一緒に働けるとなればミス・マノックも喜ぶことでしょう!」

「……そ、そうでしょうか?」

 

 そう口にしたクィレルは引きつった笑みを浮かべていた。だが、フリットウィックにはその表情が見えていない。

 

「首席までなったミス・マノックに助手を任せるなど役不足のように思えます。それに、もう彼女にはあまり私から教えられるようなことはありません。ですから、彼女の期待にどこまで応えられるか……」

「クィリナス、それは考えすぎというものですよ。ミス・マノックは君と一緒にいられるだけで嬉しいでしょうから。それに、クィリナスだっていつでも彼女と会える方が楽しいでしょう?」

 

 たしかに、昔はあの少女のコロコロ変わる表情を見ていたり、時間をかけて勉強や知識を教えたりすることが楽しかった。いや、きっとそれは今でも楽しいことのはずなのだ。だが、教えれば教えただけ、彼女はありとあらゆるものを吸収し賢くなる。

 それがクィレルには怖かった。彼女に与えられる知識がなくなってしまったら? 彼女からの称賛が得られなくなってしまったら? マーガレット・マノックという魔女に追い越され、いずれ見向きもされなくなるのではという恐怖が彼の心を蝕んでいた。

 

「フリットウィック教授、な、なにはともあれ、まずはミス・マノックにも聞いてみなければ。わ、私たちが勝手に彼女の将来を決めるわけにはいかないですから」

「それもそうですね。では、すぐにミス・マノックに伝えてきましょう。クィリナス、よい返事だといいですね」

 

 それから一時間もしないうちに、マーガレットが自ら()()()()を伝えに来たのは言うまでもない。

 

 

 

 こうしてマーガレット・マノックがマグル学の、クィレル教授の助手となることが決まった。その肩書は助手ではあるが、教授と同じくホグワーツの教員であることに変わりはない。

 

——ついにこの時が来てしまった。

 

 クィレルはそう思った。ついにあの少女が自分に追いついてしまったのだと。

 彼の隣に立ち、マーガレットは「先生、これからもよろしくお願いします」と微笑む。彼女の青い瞳は未だに憧れの先生(クィレル)の姿を映していた。

 

 まだあの少女の憧れであり続けたい。まだあの少女には追い越されたくない。けれど、彼女に教えられることも、誇れることももうずいぶんと減ってきた。どうすればよいのだろうかと独り頭を抱える。

 

 そして、ふと思ってしまった。そうだ、前任のマグル学教授のように自分も知識を深める旅に出ればよいのでは、と。

 マグルの世界では冷戦の終結が宣言されたばかりで、彼らの歴史というものはまた新たな段階に差し掛かろうとしている。マグル学者として、そして幼い頃から世界を見て回っていた者として、それには純粋な興味があった。

 ベルリンの街を西と東に分断していた大きな壁が崩壊したことも、ルーマニアやアルバニアといった東欧の国々で革命が起きていることもいったいどれほどの魔法使いが知っているのか。もしかすると、あのマグル育ちの少女ですら、それらの出来事は新聞に書いてあることくらいしか知らないのかもしれない。

 学者としての実績も、教師としての知識もきっとこの旅で増やすことができる。そうすれば、まだまだマーガレットには追い越されず、まだ彼女の憧れのままであり続けられる。

 

 そう心に決めてからのクィレルの行動は早かった。ダンブルドアに一年間の休暇を願い出て、マクゴナガルやフリットウィックにも来年は研究のためにホグワーツを離れるつもりだと告げる。

 クィレルの突然の決断には誰もが驚いていた。校長も副校長も、それから学生時代から世話になっている寮監も一言目には「どうして急に」と、二言目には「ミス・マノックはどうするのか?」と聞いてくる。その度にクィレルは「今しかないと思いまして」と答え、「私がいない間はミス・マノックにマグル学の講義を任せるつもりです。彼女ならきっと大丈夫ですから」と言った。

 皆が皆、それですぐに納得してくれたわけではない。けれど、「クィリナスがそう言うのなら」ということで、結局は彼の思いどおりに事は進んだ。

 

 ただ、一つ彼の計画どおりにいかなかったことがあるとすれば、マーガレットに自分が一年間の研究休暇に出るということを卒業式の前日まで言い出せなかったことだろう。

 

 

▼ ▲ ▼

 

 

 かくしてクィレルは長い長い旅に出た。旅の始まりはドイツのベルリン・テーゲル空港。人も文化も分断していた大きな壁は消えたものの、未だ統一はなされていない国で数週間を過ごしたのち、彼は東欧諸国へと向かう。

 革命の口火を切ったポーランド。「静かな革命」を成し遂げたチェコスロバキア。対して数多の血が流れたルーマニア。かつての偉大な指導者を失い、解体への気運が高まるユーゴスラビア。そして、混迷を極めるアルバニア。

 

 

 

 アルバニアでのフィールドワークの最中、クィレルは奇妙な噂を耳にした。

 

「あの森には亡霊がいる」

 

 ホグワーツに長いこといれば亡霊など、さして珍しくはない。しかし、噂の震源である森に近づけば近づくほど、彼はその亡霊への興味を惹かれていた。

 

「なんでも森を彷徨っているのは、イギリス中を恐怖のどん底に陥れた『闇の帝王』の魂らしい」

「間違いない。あれは『例のあの人』だ! 『例のあの人』が生きていたんだ!」

 

 「闇の帝王」、「例のあの人」——その言葉を聞いてなにも感じない魔法使いなどいるわけがない。ある者は恐怖を、またある者は怒りを。そして、この時のクィレルは好奇心を抱いた。

 

 「例のあの人」が生きている? いや、そんなはずはない。なぜなら、彼は「生き残った男の子」によって倒された。それに、どうしてイギリスから遠く離れたアルバニアの森に「例のあの人」の魂がいるのか。

 おかしな噂だと一笑に付すのは容易い。けれど、クィレルはその噂の真相を確かめてみたくなった。

 本当に「例のあの人」がいるなど、彼ははなから信じていない。けれど、遠い異国の地で宝探しに勤しむのも面白いかもしれないとクィレルは考えた。彼の頭の片隅にはそういった土産話が好きそうな少女の顔が思い浮かんでいたのだ。

 

 だが、クィレルは軽い気持ちで森に足を踏み入れたことを後悔することとなる。

 

 「例のあの人」は——ヴォルデモート卿は生きていた! アルバニアの暗い森の奥深く、哀れで愚かな男がやって来るのを彼は待ち続けていたのだ。

 

 魂だけの存在となっても相手は史上最も強力かつ危険な魔法使い。我が身可愛さに一目散に逃げようか? それとも栄誉と実力の証明のために戦おうか? そんなことを考える暇もなく、クィレルはヴォルデモートに取り憑かれた。いくら防衛術が得意とはいえ、「闇の帝王」を前にした彼になす術はない。

 

 身体に自分ではない何者——それがヴォルデモートであることは言うまでもない——の魂が入り込んでくる。暗い記憶が頭に流れ込み、心は冷たい感情で満たされる。

 己のすべてがヴォルデモートの手に落ち、気づけば体にまでおぞましい変異が起きていた。

 

 

 

 クィレルがホグワーツに帰還したのは、それからしばらくあとのことだ。後頭部の変異を隠すように大きなターバンを巻き、長旅の疲れと日々の悪夢のせいで顔はすっかりやつれていた。

 ご主人様の機嫌を損ねてはいけない、自分が「例のあの人」の手先となったことを悟られてはいけない。極度の緊張状態に晒され続けていたせいで、どもりは学生の頃よりもひどくなっている。

 

 

 

 ただ、そんな変わり果てた男のことを待っていたのは、昔から変わらぬ笑みを浮かべる青い瞳の魔女だった。




投稿頻度も話の展開も遅いことへのお詫びと作者自身の気分転換もかねて、ありえたのかもしれない「もしも」の掌編を。
(本編には直接かかわりのない物語であるため、あとがきを使わせていただきました)


▽ △ ▽



 その日、()()()()()()()()を身にまとい、青い目の鴉を連れた黒髪碧眼の少女はグリフィンドール寮の寮監と向かい合って座っていた。

「では、面接を始めましょうか」
「はい、マクゴナガル教授。どうぞよろしくお願いします」

 今日はふくろう(OWL)試験に先んじて行われる面接の日。寮監を相手に将来の進路について話し合う。もちろん、それは実家の手伝い(マグルの仕事)を考えているマーガレットも例外ではなかった。

「さて、ミス・マノック、この面接はあなたの進路に関して話し合い、六年目、七年目でどの学科を継続するかを決める指導をするためにものです」

 マクゴナガル教授が言った。

「ホグワーツ卒業後、なにをしたいか——を聞く前に、少し雑談でもしましょうか」

 マクゴナガル教授は机に散らばっている資料を手元に集めながらこう続ける。

「一年次、学年一位。二年次も学年一位。三年生になってからも……学年一位。そして、マグル学の試験では歴代最高得点。あなたに三年生からは12教科すべてを履修したいと言われた時はどうなることかと思いましたが、この成績ならば魔法省にも掛け合ったかいがありました」
「それもこれも先生方のご協力のおかげです! あの時、わたしのわがままを聞いてくださって、ありがとうございました!」

 マーガレットは胸に手を当て、感謝の意を伝える。だが、マクゴナガル教授の表情はどこか硬い。

「毎日大変だとは思いますが、よく頑張っています。昨日も図書館で熱心に本を読んでいるあなたを見かけました。それから、クィリナスも褒めていましたよ。『ミス・マノックは本当に勉強熱心で教えがいがある』と。先日は日が暮れるまで『盾の呪文』の練習に付き合ってもらっていたそうですね」
「試験も近いので、もう少し精度をあげられたらいいなと思いまして」
「それはよい心がけです。……ですが、一つ気になることがあります」

 マクゴナガル教授の口調が急に厳しくなった。マーガレットは思わず姿勢を正す。飼い主の緊張を感じ取り、ネモも首をぴんと伸ばしていた。

「クィリナスは()()()()()()、ミス・マノックと『盾の呪文』の練習をしたと言っていました。それも、夕食の時間になるまでずっと。ですが、昨日の放課後、私はたしかにあなたのことを図書館で見かけました」
「……もしかして、人違いだったのでしょうか?」
「自寮の生徒を私が見間違えるはずないでしょう」

 マーガレットは血の気が引く思いだった。今まで隠し通してきた、そして誇張でもなんでもなく墓場まで持っていくつもりだった秘密がバレようとしている。

「ミス・マノック」
「……はい」
「今、『逆転時計』は持っていますか?」
「……」

 マーガレットは震える手で金の砂時計を引っ張りだした。

「ミス・マノック。二年前、私はあなたになんと言いましたか?」
「……この時計は貴重なものですから、大切に使いなさい。……ですよね?」
「たしかにそうも言いました。他には?」

 マーガレットは蛇に睨まれた蛙のようにすっかり委縮している。

「『逆転時計』の使用には危険が伴います。くれぐれも過去の自分に出会わないように」
「それもあなたに忠告しましたね。他は?」
「……『逆転時計』を授業以外では決して使わない」

 マクゴナガル教授は大きなため息をついた。

「そのとおりです。まさかあなたが規則を破っていただなんて……。いったい、いつからこういうことはしていたのですか?」
「えっと……」

 マーガレットの目が泳ぐ。彼女は回答を渋っている様子だったが、ネモにせっつかれてからようやく重い口を開いた。

「その、三年生の頃から、……です」

 これにはマクゴナガル教授も驚いたようだ。

「そんなに前からですか! なんのために!」
「12教科分の宿題と予習で忙しくて、クィレル先生にお会いできる時間がどうしても減ってしまって……。あの、だから、『逆転時計』を……」

 マクゴナガル教授は再びため息をついた。重い沈黙が二人と一羽を包み込む。

「——ミス・マノック」

 教授が静かに口を開いた。マーガレットは叱られるものだとばかり思っていたが、その声色はどこか優しげだ。

「あなたはクィリナスに恋をしているのですね」

 マクゴナガル教授の言葉にマーガレットも、ネモも、目を丸くする。

「……恋?」

 そう噛み締めるように呟いたのはマーガレット。

「……カア?」

 そう素っ頓狂な声を上げたのはネモ。

「ミス・マノック、なんとしてでも会いに行きたいというその気持ちは、そこまでしてでも一緒にいたいというその思いはあなたが彼に恋をしているということですよ」

 マーガレットは考える。クィレルのことはもちろん好きだ。
 賢くて、優しくて、わたしのことを助けてくれる人。記録の中の、かつてのわたしが大好きだった父に似ている人。
 少女はかの青年にずっと憧れていた。そして、父のように慕っていた。

——()()失いたくない。もっと、ずっと、一緒にいたい。

 この感情が「恋」というものなのだろうか?

「これが、恋……」

 それが本当に恋なのか、まだ恋を知らない少女にはわからない。けれど、わからないからこそ、きっとこれが恋なのだと彼女は思い込んだ。

 鼓動が早まる。頬が赤く染まり、青い瞳が潤む。変わりゆく飼い主の顔をネモはただ呆然と見つめていた。

「そっか……。そういうことだったんだ……。これが恋! マクゴナガル教授、わたしもようやくわかりました。これが人を好きになるっていうことなんですね! ジュリエットも、グレートヒェンも、ジェインとエリザベスもみんなこんな気持ちだったんですね!」

 マーガレットは本当に名作のヒロインたちの心を理解したのだろうか。
 でも、恋する乙女がなにを望むのかは彼女だって知っている。

「マクゴナガル教授のおかげで、わたしはどうしたいのかわかりました! わたしはクィレル先生のことが好きです! これからも、いつかこのホグワーツを卒業してからも、ずっと、ずっとおそばにいたいです! だから、この気持ちを一刻も早くお伝えしてきます!」

 マーガレットは首に下げた「逆転時計」に手をかけた。一刻も早く自分の気持ちを伝えるために、一刻(30分)ほど時を遡るつもりなのだ。

「ミス・マノック、話はまだ——!」
「マクゴナガル教授! 進路のことですが、わたしはクィレル先生のもとに永久就職します!」」

 そう言って、マーガレットは慣れた手つきで砂時計を半回転させた。瞬間、彼女の姿が部屋から消える。

「これは大変なことになりました……」

 時間旅行へと旅立ったマーガレットを見送ったのは、頭を抱えるマクゴナガル教授とくちばしを開けたまま、石のように固まっている青い目の大鴉(レイブン)だけだった。


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幕間3 誰でもない【前編】

 

「もうすぐ始まりますね……」

 

 クリスマスプレゼントのマフラーを首に巻いたマーガレットはグリフィンドール対ハッフルパフの試合が始まるのを今か今かと待っていた。彼女の膝にのるネモも色違いのマフラーを巻いている。

 

「今日をずっと楽しみにしていました。やっと最年少シーカーの活躍をこの目に焼きつけることができます」

 

 そう語るマーガレットの青い瞳はきらきらと輝いていた。

 

——彼女は本当に変わらない。

 

 隣に座るマーガレットの表情を横目で見ながら、クィレルはそんなことを思う。

 

 一年間の壮絶な旅を終えたクィレルに対する人々の態度というのはまちまちであった。ある者は彼と距離を取るようになり、ある者は彼を軽んじるようになり、極々一部の者は彼を不審の目で見るようになった。

 だが、マーガレットだけは違った。彼らがまだ教師と教え子の関係であった時のように、彼女はいつもクィレルのことを先生と慕い、憧憬のまなざしで見つめる。それが彼にとっては嬉しかった。

 

 だが、それは同時にクィレルを苦しめるものでもあった。変わらないマーガレットの存在は自分があまりにも変わってしまったことを否応なしに自覚させる。

 クィレルは自分の()()()()を見て、わずかに口元を歪めた。

ご主人様の命を受け、グリンゴッツに忍び込んだ。城にトロールを招き入れ、まだホグワーツに来て日の浅い生徒たちとかつての一番の教え子の命を危険に晒した。そして、「生き残った男の子」を殺そうとした。

 自分はもうホグワーツの教師ではなく、ホグワーツの敵となったのだ。

 

 今の変わり果てた自分がマーガレットの憧れであり続けようなど、おこがましいことはわかっている。でも、彼女にだけは自分の愚かな部分を見られたくない。

 だから、ご主人様に言われるがままハリー・ポッターを殺そうとしていたあのクィディッチの試合の日も、彼女がなにか見てしまわないように眠り薬を盛ったのだ。

 

「先生?」

 

 マーガレットに軽く肩をつつかれ、ようやく彼女が自分に話しかけていたことに気がついた。

 

「は、は、はい。ど、どうかしましたか?」

「大丈夫ですか? 先生、最近はお疲れの様子といいますか、なんだか難しそうな顔をしていらっしゃることが多いですから」

「す、す、少し考え事をしていました。さ、最近は考えねばならないことがお、多くて……」

「そうでしたか」

 

 マーガレットは心配そうな顔をしていたが、ポケットからチョコレートの包みを取り出すとにっと笑う。

 

「先生、よければどうぞ。考え事をするときに甘いものはぴったりですから」

「あ、ありがとう」

 

 魔法薬の入っていないビターなダークチョコレートを口の中で転がしながら、クィレルはふと思い出す。そういえば、一つ知りたいことがあった。

 

「か、考え事の一つといいますか……。ミス・マノック、君に聞きたいことがありました」

「はい、なんでしょうか?」

「一年の旅を終え、ホグワーツに戻ってきたら君に聞こうと思っていました。もっとも、今更聞かなくともわかりきったことではありますが」

 

 一瞬、ご主人様に教えられた開心術でも使ってみようかとクィレルは考えた。だが、感情がすぐ顔に出る彼女相手にはその必要もない。

 

「……そう緊張しなくとも。ただ、私がここにいない間、君がなにを思って教授の仕事をしていたのかが知りたいだけですよ」

 

 マーガレットがクィレルの身になにがあったのかという真実を知らないのと同じように、クィレルもマーガレットがあの一年をどのように過ごしていたのかを知らない。だから、教師という自らと同じ立場となり、彼女がなにを思ったのかを知りたかった。

 

「その、人に教えることはこんなに楽しいことだったのかと思いました。それこそ、わたしは人に教えてもらってばかりでしたから」

「……き、君らしいですね。で、ですが、大変だと思ったことは? 辞めたいと思ったことは?」

 

 本当はマーガレットが弱音の一つや二つを吐くことを期待していたのかもしれない。そうすれば、まだ彼女に教えられることはあるのだと、まだ自分は追い越されていないのだと安心できたから。

 

「辞めたいとは絶対に思いませんでした。もちろん大変なこともありましたけど、それ以上にこのホグワーツに残れることが嬉しくて……。それに——」

 

 その時、試合の開始を告げるホイッスルが鳴った。観客たちはわっと歓声を上げ、クィレルのすぐ隣にいるはずのマーガレットの声をもかき消す。

 

「それに、こうして先生のもとでまだたくさんのことを学ばせていただけることが、わたしにとってなによりも重要なんです。だって、先生はわたしの——わたしの憧れですから」

 

 

▼ ▲ ▼

 

 

「……あなたの怪しげなまやかしについて聞かせていただきましょうか」

「で、でも私は、な、なにも……」

「いいでしょう」

 

 グリフィンドールの勝利を祝うかのようにホグワーツ城が赤い夕日に照らされていた頃、薄暗い森の中には二人の男と彼らの様子を木の上から見下ろしている者()()がいた。

 

「それでは、近々、またお話をすることになりますな。もう一度よく考えて、どちらに忠誠を尽くすか決めておいていただきましょう」

 

 魔法薬学教授はマントを頭からすっぽりとかぶって来た道を戻る。一部始終を目撃した緑色の瞳の少年は誰にも見つかることなくその場から立ち去った。

 

 あとに残されたのはある一点を見つめ、石のように立ち尽くす防衛術の教授と——。

 

「……ネモ?」

 

 突如、彼の目の前に舞い降りた青い目の鴉だけだった。

 

「どうしてここに?」

 

 鴉はじっとクィレルのことを見上げている。首に巻かれた白いマフラーが、この大鴉(レイブン)がマーガレットのペットであることを物語っていた。

 

「ミス・マノックは? 君がいないと心配するでしょう?」

 

 ネモは——当たり前だが——なにも答えない。

 だが、その代わりにある者が口を開いた。

 

「聞け、クィリナス」

「ご、ご、ご主人様。……い、いかがなさいましたか?」

「この鴉。貴様をつけてきたのではないか?」

 

 いくら鴉が賢い生き物とはいえ、それはないだろう。わずかに首を傾けているネモを見ながら、クィレルはそんなことを思う。

 

「貴様がホグワーツにトロールを招き入れた時もそうだ。ずっとあとをつけてきて、貴様が三頭犬を相手に苦戦している姿も見ていたではないか」

「た、たしかにそうでしたが、あれはミス・マノックが『わたしの代わりに』と……」

「『わたしの代わりに』貴様を見張れとでも命じていたのだろう」

「まさか!」

 

 クィレルが悲鳴にも似た声を上げた。まさかそんなはずはない。縋るような思いで青い目の鴉を見る。

 けれど、ネモはなにかを感じ取ったのか、クィレルを置いて空高く飛び立った。

 

「……逃げたか。クィレル、あの女にも用心しろ。貴様はずいぶんと信用しているようだが、あれにはなにか裏がある」

「そ、そんなこと……」

 

 クィレルはマーガレットの顔を思い浮かべる。きらきらと輝く青い瞳、コロコロと変わる表情。それらは彼女がまだ少女であった頃となにも変わらないはずだ。

 

「貴様はあの女のことを変わらないと思っているようだが、本当にそうか? 誰も彼もが貴様への態度を変えるなかで、どうしてあれだけが昔のままだといえる? 貴様のことを探るため、嘘をついているとは思わないのか?」

「彼女は、ミス・マノックは私のことを——」

「開心術も使っていないのに、よくもそこまで信じられるものだ。あぁ、そうか。貴様はまだ自分はあの女に慕われていると思い込んでいるのか。だが、あれも貴様と同じ()()なのだろう?」

 

 忘れかけていた焦燥の念が再び動き出す。マーガレットがいずれ自分を追い越す(脅かす)存在であることを一番に理解しているのはクィレル自身だ。

 

「あんなのが教授とはホグワーツも落ちたものだな……。クィレル、くれぐれもあの女に出し抜かれるな。貴様もあれには負けたくないだろう?」

「……はい」

 

 ヴォルデモートの言葉はクィレルにとって猛毒であった。毒が全身を回るかのように、不安が頭の中を駆け巡り、恐怖が彼の心を蝕む。

 

 いつの間にか、西の空にあったはずの太陽は沈んでいる。夜の闇がすぐそこまで迫っていた。

 

 

▼ ▲ ▼

 

 

——そして、それから数ヶ月ほど経った夏の夜に事は起きた。

 

 その夜、クィレルはヴォルデモートに命じられるまま禁じられた森にいた。彼の目線の先では足に深い傷を負ったユニコーンがもがき苦しんでいる。

 今夜、クィレルに下された命はユニコーンの血を捧げろというものだった。ユニコーンの血は口にした者の命を長らえさせる。しかし、その血が唇についた瞬間からその者は呪われた命を生きるということもクィレルは知っていた。

 だが、ずいぶんと長く憑りつかれていたせいで、クィレルにはヴォルデモートに抵抗するだけの気力も体力も残されていない。自分がヴォルデモートを生かしているのか、それとも自分が生かされているのか。それはもう、彼自身にもわからない。

 

「クィレル、とどめを刺せ。その血を早く——待て。誰か来る」

 

 咄嗟にクィレルは身を隠した。息を殺し、大きな樫の木の影から様子をうかがう。誰かの姿はまだ見えないが、落ち葉を踏みしめる足音は徐々に徐々に近づいていた。

 

 禁じられた森に、それもこんな真夜中に目的もなくやってくるなどまず考えられない。現にクィレルだって、ヴォルデモートの命があったからここにいた。では、この足音の主はいったいなんのために真夜中の森にいるのか?

 暗闇に目をこらすが姿は見えない。だが、足音はたしかに近づいてきている。ならば、自分はつけられていたのか。そうクィレルが考えるのは自然なことだった。

 

 ハグリッド、スネイプ、そして——ダンブルドア。自分に疑いの目を向けているであろう人間の顔は、ただ一人をのぞいていくらでも思い浮かぶ。だから、誰が来たとしても今更驚くようなことはない。クィレルはそう思っていた。

 だが、月明かりに照らされてその姿を現したのは青い目の鴉だった。

 

 ネモは手負いのユニコーンのことを凝然として見る。そして、その光景をクィレルは呆然と見つめていた。

 どうしてあの鴉がここにいるのだと疑問が渦巻く。だが、考えれば考えるほど、これは偶然などではないという思いが強くなった。

 

 思い返せばハロンウィーンの夜、ネモはクィレルから片時も離れなかった。禁じられた森でのスネイプとの密談もネモは盗み聞いていた。

 それだけではない。食事の席でやけに隣からの視線を感じることもあれば、夜の見回りを終えると私室の前で待ち伏せされていることもあった。

 

 大鴉(レイブン)がなぜこんなことをしているのかはわからない。けれど、その行動になにかしらの意図があることは確かで、今夜の出来事を見られた以上はこのまま放っておくわけにもいかなかった。

 

「ここでなにをしている?」

 

 逃さないよう背後から近づき、鴉に杖を突きつける。クィレルの存在に気づき、ネモはゆっくりと顔を向けた。

 

「君はいったい……。なんのつもりなんだ」

 

 鴉はなにも答えない。

 ただ、クィレルのことをじっと責めるような目つきで見ていた。

 

「その目……」

 

 自分を見つめる鴉の青い目が、かつて自分のことを見上げていた少女の青い瞳と重なる。

 

「……マノック」

 

 海のように深く、空のように澄んだ青色をクィレルは直視することができなかった。目の前にいるのはただの鴉(ネモ)であるはずなのに、なぜかマーガレットに見られているような気がする。

 クィレルにそう錯覚させるほど、ネモの目は飼い主とよく似ていた。

 

「君も私のことをそんな目で見るのか」

 

 冷たい視線がクィレルに突き刺さる。この青い目をこれ以上は見たくない。そして、この青い瞳に見られたくない。

 だからだろうか——。

 

「——息絶え……(アバダ)

 

 彼の知るなかでもっとも恐ろしい呪文を口にしかけていた。

 

 自分がしでかしかけたことへのおぞましさで我に返れば、ネモの姿はどこにもない。咄嗟に辺りを見回すが、大鴉(レイブン)の漆黒の体はすでに夜の闇に溶け込んでいた。まだ近くで見張っているのかも、飼い主のもとに帰ったのかもクィレルにはわからない。

 とはいえ、()()逃げられたことだけはたしかだった。

 

 だが、ゆらゆらと近づいてくる光をクィレルは見つけた。一羽が去り、一人が残され、そして()()誰かが来る。

 まだ姿は見えないが、クィレルはそれが誰であるのかもう確信していた。今度はただ一人の顔だけが彼の頭に思い浮かんでいたのだ。

 

「……マノック。あぁ、そうか。三頭犬に比べれば、私一人など大したことないと」

 

 思い出すのは数か月前のこと。青い目の鴉に導かれた先でクィレルが目にしたのは、禁じられた廊下にいたかつての教え子の姿。ハロウィーンの夜のように、彼女が自分の助けを必要としているのだと彼は思った。

 

 だが、その期待は裏切られた。

 

 防衛術教授が、そして魔法薬学教授ですら歯が立たなかった三頭犬から無傷で逃げおおせた現マグル学教授。ペットパーティーの会場に帰ってきた彼女が種明かしとして口にしたのは非魔法族(マグル)に語り継がれる物語。

 そんな有名なエピソードを前マグル学教授のクィレルが知らないはずもない。

 どうして早く気づけなかったのか。そして、どうしてよりにもよってマグル学の知識でマーガレットに先んじられたのか。

 

「たしかにあの時は出し抜かれたが、私には知識()がある。まだ追い越されてなどいない。まだ、君に負けてなど……」

 

 杖を握る手に自然と力がこもる。クィレルは思った。あの魔女よりも自分こそが強い魔法使いなのだと、優れた魔法使いなのだと証明できるのは今夜なのではないか。

 偶然か必然か、こうして舞台は整えられたのだった。

 

 

▼ ▲ ▼

 

 

 禁じられた森での一件はおおむねクィレルが思い描いたとおりに事が進んだ。

 かつての恩師を前にしてマーガレットは手も足もでなかった。その間の彼女にできたことといったら、怯えた目でクィレルを見上げることくらい。

 クィレルとマーガレット、二人の力の差は歴然としていた。

 

 だが、その一方でクィレルの予想とは違うこともあった。

 近頃のネモの行動はすべて飼い主たるマーガレットの指示によるものだとばかり思っていたが、どうやらそうではないようだ。

 クィレルがのぞき見たマーガレットの記憶からわかったことといえば、彼女があの森を訪れたのは本当にペットを探していたことということ。それにどれだけ記憶を遡ったとしても、マーガレットがクィレルのことを疑っている様子はなかった。

 

 しかし、マーガレットがなんの命令もしていないとすると、ネモは自らの意思でクィレルを見張るような動きをしていたことになる。

 だが、そんな都合の良いことはあるのか? 相手はたかが鴉ではないか。

 

 だからこそ、クィレルはもう一度確かめなければならないと思った。

 ネモがあの森にいたのはただの偶然だったのか。それとも、マーガレットがまだなにか隠しているか。

 彼女が医務室にいる間はダンブルドアの目もあって近づけなかったが、今ならばじっくりと問いただすこともできる。そう考え、クィレルはマグル学教室の扉を叩いた。

 

「開いています。その、どうぞお入りください」

 

 二度目のいささか乱暴なノックのあと、部屋の主は声を裏返らせてそう答えた。

 

「は、は、入りますよ」

 

 クィレルは静かに扉を開ける。西日の差し込む教室の中には一人と一羽が立っていた。

 

「き、き、君が倒れたと聞いたときはお、驚きました。た、体調はいかがですか? ま、まだ顔色がよくないようですね。それに、そんなに震えて……。ミス・マノック、どうかしましたか?」

 

 クィレルが姿を現したことに対し、マーガレットはあきらかに動揺している。彼女の怯えた瞳を見て、クィレルは手にしていた杖を握り直した。

 

「君はあの夜のことをなにも憶えていないと聞きましたが……。もしかして、なにか思い出しましたか?」

 

 あの夜のことをマーガレット・マノックは憶えている——。

 彼女の体が一際大きく震えたのを見て、クィレルはそう確信した。

 

 忘却術の理論は完璧に覚えていたはずだったが、使うのは初めてのことだったからうまくいかなかったのだろうか。それとも、ダンブルドアになにか吹き込まれたのだろうか。

 が、その理由がどうであれ、マーガレットに記憶があることはクィレルにとって好ましくなかった。

 「ガアガア」とうるさい鴉の声は無視し、クィレルはマーガレットとの距離を詰める。

 

「ミス・マノック、正直に教えてくれませんか。あの夜、なにがあったのか憶えているのでしょう?」

 

 もう一度記憶を消すべきか。それとも、今度はもっともっと長い眠りにつかせ、自分がこの城を去るまで目覚めないようにするべきか。

 そのどちらにせよ、マーガレットが相手ならそう難しいことでもない。

 

 クィレルはずっと震えたままのマーガレットに杖を向けた。飼い主の危機を察知し、ネモも飛びかかる。また、あの夜と同じことが——

 

「——杯になれ(フェラベルト)!」

 ——起きなかった。

 

 大鴉(レイブン)は突然ゴブレットに姿を変えると、音を立てて床に落ちた。クィレルは足元を転がる黒い杯に呆気に取られていたが、この呪文を唱えた者が目の前にいることを思い出す。

 

「あの、ごめんなさい。わたしが倒れてから、えっと、少しネモも気が立っているみたいで……。ごめんなさい、先生に不快な思いをさせてしまいました」

 

 そう言いながら、マーガレットは杖を握った右腕を下ろした。クィレルは自分がこの予想外の出来事に動揺している間に彼女が反撃しようと企んでいるのだと推測していたが、どうやらそうではなかったようだ。

 

「ごめんなさい……。ごめんなさい……」

 

 俯いたまま、マーガレットはしきりに同じ言葉を繰り返す。その声は今にも泣きだしてしまいそうだった。

 

「先生、正直にお話します。あの夜、あの森の中であったことは本当に、本当になにも憶えていないんです。でも、昨晩、夢を見ました。その、森の中で傷ついたユニコーンと……先生の姿を見てしまう夢を」

 

 床に座り込み、ボロボロと涙をこぼすマーガレットのことをクィレルはただ黙って見ている。

 

「ごめんなさい。夢だって、わかってはいるんです。でも、なぜだか先生にお会いするのが怖くなってしまって……。でも、わたしが一番怖かったのは、自分が先生に疑いや恐怖を少しでも抱いてしまったことで……。本当に、本当にごめんなさい」

 

 クィレルはマーガレットが嘘をついていることに気がついた。だが、それは彼女があの夜、あの森であったことを憶えていないと言ったことではない。その真偽など、今の彼にとってはこの際どうでもよかった。

 

 クィレルがマーガレットに触れると彼女は小さな悲鳴を上げ、肩をびくりと震わせた。そして、恐る恐るといった様子で顔を上げる。彼女の青い瞳には涙と恐怖の色が浮かんでいた。

 

——彼女は本当に変わらない。

 

 今更ながらクィレルはそう思った。マーガレットは感情がよく表情に現れるたちである。楽しいことがあれば笑い、面白いことがあれば目を輝かせる。

 そして、今は怯えで瞳が揺れていた。彼女が()()()()()()()のはその視線の先にいるクィレルその人。なのに、それを否定するために、自分の心をも騙すために彼女は嘘をついた。

 

「ミス・マノック、それは……」

 

 いっぱいに溜めた涙のせいでマーガレットの青い瞳はきらきらと輝いている。そのどこか懐かしいまなざしがクィレルの良心を呼び覚ました。

 

「……それは悪い夢ですよ」

 

 クィレルの嘘をマーガレットはただ黙って聞いていた。

 

「——戻れ(レパリファージ)! ミス・マノック、立てますか?」

 

 ゴブレットから元の姿に戻った大鴉(レイブン)は飼い主が自分たちを襲った男の手を取るところ、そしてうまく立ち上がれず彼の胸にもたれ掛かるところをじっと見ていた。

 

「あの、助かりました。()()先生に助けていただきましたね」

 

 こうして()()マーガレットはかつての恩師への変わらぬ感謝を口にする。

ならば、変わってしまったのは——。

 

「だから、これからも()()わたしのことを助けてくださいませんか」

「それは……」

 

 憧れなのだと、あなたのようになりたいのだと自分の背中を追い続けた教え子をクィレルはもうこれ以上裏切りたくなかった。

 

「できない約束です。もう、私と君は会うことがないのですから」

 

 かけられた言葉にも、伸ばされた手にもクィレルは気づかないふりをする。そして、折よく現れたグリフィンドールの一年生たちと入れ替わるようにマグル学教室をあとにした。

 

 

 

 今日のことでクィレルには痛いほどわかったことがある。それは、マーガレットがずっと変わらず、自分のことを慕い続けてくれていたということだ。

 だというのに、自分は勝手な思い込みのせいで、情けない嫉妬のせいで彼女のことを疑い、傷つけた。

 

 長い階段を下りながら、クィレルは自嘲ぎみに笑う。

 この魔法の城に仇なす者がホグワーツの教師であるなど馬鹿々々しい。かといって、ユニコーンも大鴉(レイブン)も、かつての教え子の一人も殺せない自分が死喰い人を騙るとはなんの冗談だ。

 そして、とある少女の憧れであり続けることから自ら逃げ出したなど愚かしくてたまらない。

 

 今はあれほど愛したマグル学の教授ではなく、闇の帝王の忠実なる下僕にもなれない。そして、大切な教え子を導き、ときには守ってやれるような「先生」に戻ることはきっとできない。

 ならば、この変わり果てた自分は何者なのか? クィレルは自分の行く末も帰るべき場所も見失った。彼はもう “誰でもない”のであった。




たいへんご無沙汰しておりました。
次話で「賢者の石」編の本当のラストです。


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幕間4 誰でもない【後編】

 マグル学教授で別れを告げてから、クィレルは徹底的にマーガレットを避けるようになった。日々の講義が終われば部屋にこもり、食事の席にも顔を出さないようにした。

 ヴォルデモートはクィレルがマーガレットを追及しないことが面白くなかったようで、事あるごとに罰を与えた。だが、その身体の痛みはかつての教え子に手を上げてしまったことへの心の痛みに比べればどうということはない。

 

 とはいえ、クィレルの精神は着実にすり減っていた。それに、命を長らえさせるユニコーンの血も口にすることもできていない。

 クィレルは自分の限界が近いことを悟っていた。だから、ヴォルデモートが「今度こそ『賢者の石』を手に入れろ」と命令を下したときには、失敗すれば自分に先はないことも気づいていた。

 

 

 

 禁じられた廊下に向かって、クィレルは夜の校舎を歩く。この日のため、偽の知らせでダンブルドアをホグワーツから追い出した。それに、他の教授たちも今頃は試験の採点に追われているか、眠っているような時間だ。

 彼の邪魔をするものはいない。少なくとも、禁じられた廊下にたどり着くまではすべて順調に進んでいた。そう、あの黒い影を見るまでは。

 

「今度はなんのつもりですか?」

 

 青い目の鴉はクィレルがやって来るのをじっと待っていた。

 

「いや、聞いたところで答えられないか」

 

 禁じられた森での一件もあるため、ネモの行動は気になる。だが、近くに飼い主がいる様子もないし、一羽の鴉にできることなど限られている。

 それに、今は一刻も早く賢者の石にたどり着かなければならない。だから、クィレルにはネモにかまっている余裕などなかった。

 

「君が言葉を話せたら、最後に一つ伝言でも頼めましたが……。あぁ、これで君と会うことももうないでしょう」

 

 解錠呪文で扉を開け、三頭犬の待つ部屋へと足を踏み出す。そして、もう一度だけ背後を見た。

 ネモは飼い主とよく似た青い目でクィレルのことを見つめている。

 

「さようなら、——」

 

 クィレルの言葉を打ち消すように、ネモは力強く鳴いた。

 

「誰を呼ぶつもりですか? 君のご主人様も今頃は夢の中でしょう?」

 

 クィレルは杖を構える。だが、ネモは逃げようともしない。

 

「ネモ、私の邪魔をしないでくれ。今更だということはわかっている。でも、もう君たちのことを傷つけたくはない」

 

 クィレルの頼みを聞いてもなお、ネモは「カーカー」と鳴き続ける。

 

「クィレル、とっと片づけろ」

 

 ヴォルデモートの怒気をはらんだ声が頭に響いた。

 

「許してほしいとは言いません」

 

 クィレルは足元に向けて失神呪文を放つ。しかし、ネモはその赤い閃光を軽い動作でかわし、もう一度「カーカー」と鳴いた。

 「行くな」と「戻れ」と言われているような気がする。

 

「私にはもう戻れる場所など……」

 

 青い目の鴉はぺたんと床に座り込んだ。そして、クィレルのローブの裾をくちばしで咥えたまま放さない。

 

 もしかして、この大鴉(レイブン)は飼い主の思いを伝えようとしているのだろうか。そんな考えがクィレルの頭をよぎる。

 

「愚か者め、たかが鴉になにをぐずぐずしている。早くしろ」

「申し訳ございません、ご主人様。すぐに」

 

 いや、そんな都合のいい話があるわけない。

 

「——麻痺せよ(ステューピファイ)!」

 

 

▼ ▲ ▼

 

 

 クィレルがハリーに向けて放った赤い閃光はマーガレットの胸を射た。青い瞳から一筋の涙を流し、彼女は冷たい床に崩れ落ちる。

 

「先生! マノック先生!」

 

 ハリーが駆け寄るが、マグル学教授は完全に意識を失っていた。体をどんなに揺すっても彼女は目を覚さない。

 最愛のペットの声もマーガレットにはもう届いていなかった。初めは何度も飼い主への呼びかけをしてたネモも今は口を閉ざし、ただ彼女の顔だけを見つめている。

 

 一方、マーガレットに失神呪文をかけた張本人であるクィレルはひどく動揺していた。

 彼女の右肩を裂き、杖を握れなくしたのは、かつての教え子に無駄な抵抗をさせないため。いわば、これ以上は傷つけないためであった。

 

「クィレル、おまえも死の呪いの使い方はわかっているであろう?」

「……はい」

 

 だが、マーガレットは自らを犠牲にすることを厭わなかった。

 

「申し訳ありません。ご主人様、お許しください」

「さっさと殺してしまえばいいものを」

 

 逃げることも、抵抗することもできないマーガレットを殺すのは容易いことだろう。

 きっとご主人様の気分ひとつで自分は彼女を殺さなければなくなる。クィレルはそう思った。

 

「まあいい。小僧、あとはお前だけだ。もうおまえを守ってくれる先生はいないぞ」

 

 だが、幸いにもヴォルデモートの関心は賢者の石にある。ならば、あの石さえ手に入れればご主人様は少しでも気をよくしてくれるかもしれない。

 

「さあ、『賢者の石』を俺様に渡せ」

「やるもんか!」

「捕まえろ!」

 

 クィレルは武装解除呪文でハリーの杖を奪い、賢者の石に手を伸ばした。絶対にあの石を奪わなければならない。その一心だっだ。

 だが、ハリーも石を取られてはなるものか、必死の抵抗でクィレルを押し退けようとする。

 

 そうして揉み合っていると、クィレルは自分の左手にひりひりとした痛みを感じた。痛みはどんどんと強くなり、あっという間に左のてのひらが真っ赤に焼けただれる。

 

「手が……私の手が!」

 

 クィレルは混乱していた。いったい、自分の身に何が起きたのかなどさっぱりわからない。なにやら頭の後ろから騒がしい声が聞こえるが、今は構ってなどいられなかった。

 

 それに対し、ハリーは冷静だった。理由はわからないが、彼は敵が自分に触れることができないのだと気づく。そして、この力を使えば敵を退けることができるとも考えた。

 この手で触れればすべてを終わらせることができる。そう思い、一歩二歩と前に踏み出したハリーの肩に白い手がかけられた。

 

「ハリーくん、ここはわたしに任せて」

 

 その声はクィレルにもはっきりと聞こえた。顔を上げれば、少年の背後には“青い瞳の魔女”が立っている。

 

 ありえない。クィレルは真っ先にそう思った。どうして彼女が立っている? 己が放った赤い閃光(失神呪文)はたしかに彼女の胸を射た。だから、彼女だって一度は倒れたのだ。

 なのに、なぜ彼女は立ち上がったのか。なぜあの青い瞳が自分のことを見つめているのか。

 クィレルの明晰な頭脳をもってしても、その謎の答えは見つからない。

 

「もう大丈夫です。ほら、その手も下ろして」

 

 “青い瞳の魔女”は白い歯をのぞかせ、にっこりと微笑む。それはクィレルが今までに何度も見てきたはずの笑顔。

 だが、彼はなにかがいつもと違うように、そして、それが今回ばかりは自分の思い込みではないように感じた。

 

 焼けただれた左手の痛みも、「生き残った男の子」が再び生き残るために抱いた決意(殺意)も、あの“青い瞳の魔女”への違和感に比べたらちっとも気にならない。

 

「わたしはまだ死なないよ」

 

 ()()()の鴉を肩にのせ、“青い瞳の魔女”ははっきりとそう言った。

 

「わたしには守らなくちゃいけないものがある。だから、まだ死ねない。それに……」

 

 “青い瞳の魔女”はしゃがみ、ハリーの顔をのぞき込む。それから、彼女はなにか語りかけていた——クィレルには聞こえなかった——が、しばらくするとハリーの頭を撫でて立ち上がった。

 

「ハリーくん、わたしもあのヴォルデモートが許せない。人の命をなんとも思わず、誰かの大切なものを奪おうとする。だから、わたしはあの男が許せない」

 

 “青い瞳の魔女”は白い杖を握った()()をクィレルたちに向けてまっすぐ伸ばす。

 

「それから、()()()を泣かせる男も許せない。ハリーくん、ここはわたしに託してくれませんか」

 

 そう言って、彼女はまだ涙の筋が残る左頬を拭った。青い瞳の奥で怒りの炎が静かに燃えている。

 それは、クィレルが今まで一度も見たことがないマーガレットの表情だった。

 

「逃がすな!」

 

 ヴォルデモートの声で我に返る。疑念もともに振り払うかのように、杖を大きく振った。

 赤い閃光が逃げるハリーの背中に向かって伸びる。けれど、盾の呪文がそれを阻んだ。

 

「こうして杖を握るのは久しぶりだけど、やればできるものですね」

 

 左手で杖を弄びながら“青い瞳の魔女”はそう嘯く。一方、クィレルはその姿にさらなる違和感を覚えた。

 見間違いか? それとも記憶違いか? いや、そんなはずはない。たしか、マーガレット・マノックの利き腕は——。

 

「小娘、よくも俺様の邪魔をしてくれたな」

「あなた()邪魔? わたしはただクィレル先生とお話がしたいだけなんです。だから、あなた()邪魔の間違いですよ」

 

 “青い瞳の魔女”は白い歯を見せて笑う。しかし、その目は笑っておらず、氷のように冷たい視線をクィレルの背後にある鏡に向けていた。

 “青い瞳の魔女”は表情をコロコロと変える。けれど、そのどれもがクィレルが見たことはないものだった。そして、そのどれもができることなら見たくはないようなものだった。

 

「……クィレル、あの女を殺せ」

「しかし、賢者の石を取り戻さなければ」

「それよりも、だ。俺様を愚弄したことを後悔させてやる」

「しかし——」

 

 クィレルの意思とは裏腹に杖を握る手に力がこもる。彼に取り憑いているご主人様はかなり腹を立てているようだ。

 

「クィレル、これはあの小娘が自ら選んだ道だ。ならば、それに応えてやろう。お前がためらう必要はない。さあ、嬲り殺せ」

 

 もう怒りの感情になど飲み込まれたくない。けれど、クィレルにはそれに抗うための気力も体力も残されていなかった。ご主人様に命じられるまま、“青い瞳の魔女”に杖を向ける。

 かつての教え子を自らの手で殺してしまうかもしれないことへの恐怖で彼の身体は震えていた。けれど、杖を構えた利腕だけは標的にしっかりと狙いを定めている。

 

「クィレル先生、大丈夫ですよ」

 

 その声は異様に大人びていた。

 

「わたしは絶対に先生に殺されません。それに、()()()は先生がいなくなったら、とっても悲しむんです。だから、わたしは絶対に先生のことも助けます」

 

 そう言って、彼女はふっと笑う。クィレルのことを見つめる青い瞳は自信に満ち溢れていた。

 

「このクィレルを助けるだと? 笑わせるな、小娘。この男がなにをしたのかもう忘れたのか」

 

 ヴォルデモートの挑発にも、“青い瞳の魔女”は毅然とした態度を崩さない。自身への攻撃を盾の呪文で弾き返しながら、淡々とマーガレットの身にあったことを振り返る。

 

「……忘れるわけはないですよ。馬車の中で()()()の手をはたいたこと、クィディッチの試合中に()()()に眠り薬入りのチョコレートを食べさせたこと。禁じられた森で()()()を襲ったこと、そのあと()()()を避けるようになって、寂しい思いをさせたこと。それから、こんな怪我を負わせたこと!」

 

 マーガレットの利き腕(彼女の右腕)はだらりと垂れたままだった。

 

「それでも、わたしはクィレル先生のことを許します。先生が『許してほしい』と言わなくたって許しますよ。だって、()()()がそれを望んでますから」

 

 なぜ自分自身のことを()()()というのか。“青い目の魔女”は姿も声もマーガレットその人であるはずなのに、決定的に何かが違う。

 

 ならば、彼女はいったい誰なのか?

 

「クィレル先生、()()()がずっと先生に言いたかったのに、言えなかったことをわたしが代わりに言いますね。——先生、マグル学教室に戻ってきてくれませんか?」

 

——“青い瞳の魔女”は誰よりもマーガレット・マノックを理解している。

 

「でも、私にはもう戻れる場所など……」

「ありますよ。だって、()()()には先生が必要です」

 

——“青い瞳の魔女”は誰よりもマーガレット・マノックを大切に思っている。

 

 あともう少しで彼女の正体がわかりそうだという時に、クィレルは切断呪文によって()()()()と同じ色をした髪が切り落とされるのを見た。

 

「クィレル、なぜ止められない!」

 

 ヴォルデモートの声など、もうクィレルには届いていない。自分の目の前にいる人物のことで彼の頭はいっぱいだった。

 

「君は、いえ、あなたは誰だ!」

「……さすがはクィレル先生。()()()のこと、よく見ていらっしゃるんですね」

 

 “青い瞳の魔女”は嬉しそうに笑っている。その大きく口を開ける仕草はあの大鴉(レイブン)とよく似ていた。

 

「もちろん、()()()のことを一番近くで見ているのはわたしですけど」

 

 海のように深く、空のように澄んだ青い瞳が——マーガレットが何度もマイケル・マノック()と同じだと言われてきた青い瞳がきらりと輝く。

 

「マノック、あなたはマ——」

 

——マイケル・マノック。

 

 クィレルはマーガレットの父の名を口にしようとしたが、青い目の魔女は嗜めるかのように彼の唇に人差し指を当てた。

 

「その名前はもうわたしのものではないです。わたしは“誰でもない”。クィレル先生、それならいつものように“誰でもない(ネモ)”と呼んでください」

 

 “青い瞳の魔女(ネモ)”は口元から指を離し、いたずらっぽい笑みを浮かべる。その笑顔はマーガレットのものとよく似ていた。

 

 死んだはずの人間が元の身体を失ってもなお生きているなど。ましてや、その魂が他者に取り憑き、生者のように振る舞うなどまずありえない。

 けれど、クィレルにはそうとしか思えなかった。そして、こうして目の前で起きていることを信じられるのは自分だけだとも思った。

 例のあの人が生きているという噂話を信じなかったせいで、闇の帝王の手に落ちた哀れで愚かな男など自分一人しかいないのだから。

 

「クィレル先生、あの子には先生が必要です。だって、あの子(マーガレット)は先生のことを——」

 

 そのとき、クィレルの体がぐらりと揺れた。膝をつき、倒れそうになったところをなんとか支えられる。

 クィレルの体からは黒い靄のようなものが立ち上っていた。それが自分を支配していたヴォルデモートの魂であることに彼は気づく。

 だが、解放されたからといって、体の自由は戻ってこない。ずいぶんと長い間、闇の帝王を身に宿していた彼はもう精も根も尽き果てていた。

 

「——先生、しっかりしてください! 目を開けて——」

 

 先生と自分のことを呼ぶ声が遠くに聞こえる。頭が軽くなり、体の芯が冷えていくのをクィレルは他人事のように感じていた。

 もう目を開ける力も、口を動かす力も残っていない。最期になにも残すことができないなど、実に呆気のない終わり方だ。

 だが、それがきっとあの子を疑い、傷つけた自分への罰なのだとクィレルは思った。

 

「先生、逝かないでください! 先生までいなくなったらあの子は……」

 

 薄れゆく意識の中、クィレルは青い目の魔女に強く抱きしめられることをはっきりと認識した。

 

 

▽ △ ▽

 

 

 クィレルは夢を見ていた。

 

 鮮やかな夕焼け空の下、一人の少女が立っている。その後ろ姿はクィレルにも見覚えがあった。

 

「——、迎えに来てくれたんだね。さあ、帰ろう」

 

 黒髪の少女は振り向くと腕を前に伸ばし、誰かを待っている。青い目の鴉はそんな彼女の胸元に飛び込んだ。

 

「ねえ、ネモ。魔法ってすごいんだね。わたしも先生みたいな、それからお父さんみたいな魔法使いになりたいな」

 

 マーガレット・マノックはきらきらと輝く青い瞳で空を見上げている。

 ネモは そして、クィレルはそんな少女の姿を静かに見つめていた。

 

 

▽ △ ▽

 

 

 クィレルは目を覚ました。明るく、幸福な記憶が頭に流れ込み、心は温かい感情で満たされている。

 およそ一年前、アルバニアの森でヴォルデモートに取り憑かれたときと似た、何かが入り込んで来るような感覚があった。が、自然と不快感はない。

 それはヴォルデモートのようにクィレルを支配するのではなく、弱りきった彼の心と身体に力を分け与えていた。

 

「先生! クィレル先生!」

 

 自分の名を呼ぶ声が今ははっきりと聞こえる。あの記憶の持ち主(ネモ)はきらきらと輝く青い瞳をクィレルに向けていた。

 

 

▼ ▲ ▼

 

 

「これが私の知るこの一年のすべてです」

 

 クィレルの話をダンブルドアは黙って聞いていた。

 

「……校長はいつから私が裏切り者だと気づいていましたか? もしや、初めから?」

「なにも最初からすべてわかっていたわけではない。……今となっては、もっともっと早くに君の苦しみに気づいていればと思うばかりじゃよ」

 

 医務室を重い空気が包み込んだ。衝立の向こう側から規則正しい寝息が聞こえてくる。

 

「……じゃが、わしにはもう一つ気づけなかったことがある。気がつくまでにずいぶんと時間がかかってしまったが、マーガレットとネモのことじゃ」

 

 ダンブルドアは視線を衝立に——隣のベッドで今もなお眠り続けるマーガレットたちの方に向けた。

 

「クィリナス、今回のことでわしは皆にいくつか秘密にしなければならぬことがある。そのなかでも、とくに隠さなければならぬのがマーガレットのことじゃ。このことを知っているのはわしと君。そして、ヴォルデモートだけ」

 

 今世紀もっとも偉大な魔法使いと闇の帝王。その両名と自分だけが知っている秘密。

 だが、その重大な秘密もそう遠くないうちに忘れてしまうのだろうとクィレルは思った。

 

「アルバス・ダンブルドア。それなら、アズカバンに行く前に一つ教えてくれませんか。あのネモはいったい何者——。いえ、どうして魂だけの存在となってもなお、生き続けることができるのです? それに、例のあの人も——」

「それがどのような手段でということを聞きたいのならば、その質問には答えられぬ」

 

 ダンブルドアはピシャリと言った。

 

「しかしじゃな、君も勘づいているのだろうが、ネモが生まれた原因とヴォルデモートが不死を手に入れたからくりは同じじゃろう」

 

 ダンブルドアは大きなため息をついた。

 

「魔法の中で最も邪悪なる発明。あれらは本来この世に存在してはならぬもの。じゃから、わしはすぐにでもあの大鴉(レイブン)を排除するべきじゃと思っておる」

「そんな。それではミス・マノックが悲しみます。()()彼女に大切なものを失う辛さを味あわせなければならないと?」

「そのとおり。それはわしも望まぬことじゃ。それに、ネモとマーガレットとの繋がりはあまりにも強い。それを断ち切ってしまってはマーガレットにも悪い影響を与えてしまう」

 

 言葉を選びながら話すダンブルドアの姿を、クィレルは黙って見つめていた。

 

「たしかにネモは邪悪な存在ではある。じゃが、その力をマーガレットと彼女の大切なものを守るために使おうとしている。自らのために使うヴォルデモートとは違ってのう。……じゃから、わしは決断を先延ばしにした。今はまだマーガレットたちのことを見守ろうと思う」

 

 ダンブルドアのブルーの瞳が今度はクィレルに向けられる。

 

「そのためにも、マーガレットにはホグワーツに残り、マグル学の教師を続けてもらう。じゃが、いつも彼女たちのことを見ていられるわけではない。とくに、マーガレットがこの城にいないときにはのう。……クィリナス、ゆえにその役目を君に任せたい」

「わ、私がですか? 私はこのままアズカバンに送られるのではなかったのでは?」

「クィリナス、少々気が早いのう。わしはまだ君のことをどうするとも言ってなかったはずじゃが」

 

 きょとんとした顔のクィレルを見て、ダンブルドアはくつくつと笑っていた。

 

「なにも罪の償い方は一つしかないわけではなかろう。それに、これは君にしか任せられぬ。マーガレットには己を導いてくれる()()の存在がまだまだ必要じゃ。だから、彼女が父のように慕っているクィリナス、君が適任なのじゃよ」

 

 ダンブルドアの口調は穏やかである。だが、クィレルが否と言えるような雰囲気ではなかった。

 

「おや、起こしてしまったかのう。ちょうど、君の話をしていたのじゃ」

 

 ダンブルドアにつられて視線を上げれば、衝立の上に青い目の鴉が立っている。

 ネモはじっとクィレルを見下ろしていたが、やがて彼のベッドの上に降り立った。

 灰色の瞳と青い目。二つの視線が交錯し、妙な緊張が生まれる。

 

「あ、あ、あなたは——」

 

 クィレルがなんと声をかけるべきか悩んでいると、もう一方が先に行動を起こした。

 ネモは翼を広げ、深々と頭を下げる。鴉は人の言葉を発さないが、それでもなにを伝えたいのかはクィレルにもわかった。

 

——あの子をよろしく。

 

 きっとそう言っているのだ。

 

 クィレルは思う。この人物にマーガレット・マノックのことを頼まれてしまった以上、決して断ることはできない。

 

「あなたがそれを望むのなら。その役目、謹んでお受けいたします」




これにて第一章「賢者の石」編は本当に終幕です。
自分の筆の遅さに呆れつつも、ここまで書き続けることができたのは読者の皆様のお気に入り登録や評価、温かい感想のおかげです。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。そして、まだしばらくはお付き合いいただけると幸いです。

さて、ではあとがきで色々と語らせていただければと思います。
以前のあとがき(第1章14話)でも書かせていただきましたが、本作はクィレル教授を救済したい! という思いから始まっています。
ですので、みぞの鏡を前にしたクィレル&ヴォルデモートVSハリーのシーンに主人公を乱入させることは最初から決めていたのですが、どのように救済するのかはかなり悩みまして……。
映画版だと灰となってしまうクィレル教授ですが、原作だと火傷が原因で命を落としたように読める。本作での設定はどうしようかとポッターモアの記述(エッセイ集『権力と政治と悪戯好きのポルターガイスト』参照)を読んでいると、ヴォルデモートに憑りつかれていたことによる精神的、肉体的な負担が原因で衰弱死したようにも……。
ん? これはつかえるのでは? 憑りついていたヴォルデモートの魂が抜けたことで弱ってしまうのなら、もう一度別の誰かが憑りつけば生かすこともできるのでは?
それなら、主人公に『分霊箱』でも持たせるか!!!

……と、こうして生まれたのが主人公「マーガレット・マノック」とそのペットの鴉、もとい置き土産代わりの分霊箱「ネモ」というわけです。
分霊箱は所有していたり、それに対して感情を持ったりしてしまうとその中の魂に入り込まれてしまいます。だから、クィレル教授にはマーガレットにクソデカ感情を向けてもらう必要があったんですね。
分霊箱周りの解釈はかなり無理やりなところもあるかとは思いますが、ここはひとつあったかもしれない都合のいい物語ということで。

長々としたあとがきにまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
では、また第2章「秘密の部屋」編でお会いしましょう。


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第2章 「秘密の部屋」(July,1992~July,1993)
幕間1 絶命日パーティーへようこそ


息抜き回。


——マーガレット・マノックがまだホグワーツの学生であった頃の話である。

 

「先生、絶命日パーティーってご存知ですか?」

「絶命日パーティー? あぁ、聞いたことはあります。ゴーストが自分の死んだ日を祝うパーティーのことでしょうか」

 

 クィレルが答えると、マーガレットは大きく頷いた。

 

「あっていましたか。ですが、どうしてまた?」

「いえ、先生なら行ったこともあるのかなと思いまして。あの、実はほとんど首なしニックの絶命日パーティーが近々あるそうで。それで、マートルに行ってみないかと誘われたんです」

 

 

 

——思い出すのは昨夜のこと。

 

「あなた、絶命日パーティーって知ってる?」

 

 いつものように他の生徒がめったに寄り付かない三階の女子トイレでネモに水浴びをさせていたところ、「嘆きのマートル」が声をかけてきた。

 

「絶命日パーティー、ですか? えっと、わからないです。初めて聞きました。マートル、ホグワーツにはそんなパーティーがあるんですか?」

 

 マーガレットの反応を見て、マートルはふふんと鼻を鳴らした。

 

「わからないの? わたしは知っているのに? へえ、あなたでも知らないものがあるのね」

 

 ()()マーガレット・マノックに「わからない」と言わせることができたからか、マートルは得意顔をしている。今の彼女はずいぶんと機嫌がいいようだ。

 

「はあ、気分がいいわ。だから、特別に教えてあげる。絶命日パーティーっていうのは死んだ日を祝うパーティーのことよ。まあ、ゴーストの誕生日みたいなものね」

「なるほど。ゴーストならではの、そんな面白い文化があるんですね! ありがとう。マートルのおかげで、また新しいことが知れました」

 

 ゴーストによる、ゴーストのためのパーティーと聞き、マーガレットは興味を示さずにはいられなかった。

 

「絶命日パーティーのこと、想像しただけでもわくわくしちゃいます。いつか、わたしも行ってみたいです。もしかして、マートルも今度その絶命日パーティーをするんですか?」

「え? わたしの死んだ日はもっと先よ。それに、わたしが絶命日パーティーをしたってどうせ誰もこないわ……。みんながわたしをどう思ってるか、あなただってそんなことわかってるでしょう!」

 

 先ほどまでの上機嫌なマートルはどこへやら。不貞腐れて便器にぶくぶくと沈んでいく彼女をなだめ、マーガレットはようやく絶命日パーティーの話題が出たわけを聞き出した。

 

「……今度、ほとんど首なしニックの絶命日パーティーがあるのよ。それで、わたしにも招待状がきたの。絶命日パーティーって楽しいのよね! ……って、誰かが言ってるのを聞いたわ。でも、実際にパーティーに行ったことはないの」

 

 今度はマートルがおいおいと泣き始めたものだから、マーガレットの足元に水溜りが広がる。

 

「わたしにパーティーに来てほしいと思っているゴーストなんていないってわかってるし。誰も嘆きにマートルの相手なんかしたくないって思ってるのよ!」

「マートル。なら、わたしがマートルの相手になります。それなら、マートルもパーティーに行けるんじゃないですか?」

 

 マートルは急に泣き止み、マーガレットに対して分厚いレンズ越しに疑いの目を向けていた。

 

「……あなた、なにを企んでいるの?」

「なにも企んでいませんよ。話を聞いていたら、本当はマートルも絶命日パーティーに行ってみたいのではないかと思って」

「嘘よ。あなたもわたしをからかって遊んでるんでしょ」

 

 マートルはまだマーガレットのことを信じきれていないのか、「嘘でしょう」という目つきで彼女のことを見ている。

 

「それはありえないですよ。マートルに嫌われて、そのせいでこのトイレが使えなくなったらわたしもネモも困るんですから。それでも信じてもらえないなら……。そうだ。わたし、実は一つ企んでいることがあるんです」

「やっぱり企んでいるんじゃない!」

「はい。わたしは絶命日パーティーのことがもっと知りたい。だから、そのためにマートルにはわたしを誘ってもらいたいのです。マートルはパーティーに行ける、わたしは知識が増やせる。これでお互いさま」

 

 マーガレットが語った動機にマートルは妙に納得したようすだった。

 

「あなたのその自分の知識欲のためなら、手段を選ばないところは実にレイブンクローらしいわね」

「レイブンクローらしい?」

「えぇ。レイブンクロー生のそういう嫌な部分をたくさん見てきたわたしが言うんだから。……わかったわ。招待状には一人なら友人を連れてきてもいいとあったし、あなたを連れて行ってあげる」

 

 ゴースト主催のパーティーなど、今後誘われる機会があるかもわからない。だから、マーガレットがマートルの誘いを喜ばないわけはなかった。

 

 

 

「——ということで、ニコラス卿の絶命日パーティーに参加させてもらえることになったんです!」

「それは楽しみですね。そのパーティーはいつあるのですか?」

「10月31日の夜だそうです」

 

 マートルはハロウィーンの日の夜に地下牢で待っていると、ついでにもし来なかったらただじゃおかないとも言っていた。

 

「10月31日……。それなら、ハロウィーンのパーティーに君は出ないということですか?」

「はい。残念ですけど、今年はそのつもりです。マートルとの約束ですから」

「ミス・マノック、君は今年もあの料理の数々を楽しみにしているものだと」

 

 ホグワーツでは毎年、ハロウィーンの夜に大広間でパーティーが行われる。そして、そのパーティーではホグワーツの屋敷しもべ妖精たちが腕によりをかけた絶品の数々が提供される。

 かぼちゃのプリン、かぼちゃのアイス、パンプキンタルトにかぼちゃジュース。母や祖母が作るケーキのおいしさにも決して劣ることのない味。

 

「ハロウィーン・パーティーなら、また来年も参加できますから。それに、マートルが教えてくれました。絶命日パーティーにもご馳走が用意されているそうなんです」

 

 今年はかぼちゃ尽くしのメニューが食べられないのが残念だが、絶命日パーティーではゴーストのための食事が待っているそうだ。

 いったいどんなお菓子が用意されているのか。ゴーストのようにふわふわと宙を漂うコットンキャンディだろうか、身の毛もよだつほど冷たいアイスクリームだろうか。

 まだ考えていただけだというのに、マーガレットのお腹がグーと鳴った。

 

「ミス・マノック、君はやはりお菓子のことばかり考えていますね」

「あはは、バレちゃいましたか」

 

 恥ずかしそうに笑うマーガレットを見て、クィレルは目を細める。しかし、彼は不意に険しい表情をした。

 

「そういえば……。ミス・マノック、『嘆きのマートル』は他になにか言っていませんでしたか? 例えば、どんなご馳走が待っているとか」

「いえ、とくには。わたしも行ってからのお楽しみだと思って、詳しくは聞かなかったんです

 

 マーガレットの答えを聞き、クィレルはなにやら大きなため息をつく。彼はなにか考え込んでいるいようだった。

 

「先生?」

「ミス・マノック。そのパーティー、私も一緒に行きましょう。ゴーストたちのパーティーに生徒が一人だけというのも心配ですから」

 

 マーガレットは青い瞳をぱっと輝かせた。

 

「本当ですか! クィレル先生とご一緒できるなんてとっても嬉しいです! きっと素敵な夜になります!」

 

 マーガレットは白い歯を見せて笑う。一方、彼女の笑顔を奪わないですむ方法はないかとクィレルは頭を悩ませていた。

 

 

▼ ▲ ▼

 

 

 そして迎えた10月31日。朝から城内はかぼちゃの甘い香りで満たされている。

 今日は待ちに待ったハロウィーンの日だ。マーガレットは絶命日パーティーが楽しみで、朝から胸を高鳴らせていた。

 

 だから、その日の授業はどれもこれもがどこか上の空だった。

 占い学の授業でティーカップ占いの復習をしているときも、カップの底に残ったおりがジャック・オ・ランタン——トレローニー教授は髑髏だと言っていた——にしか見えなかった。

 魔法生物飼育学ではレタス食い虫が餌を食べる様子をスケッチしながら、今夜の自分の食事のことばかり考えていた。

 そして、今日一日の最後の授業であるマグル学が終わると誰よりも早く寮へと帰っていった。

 

 

 

 クィレルとの待ち合わせの時間になり、マーガレットはいつものようにマグル学教室の扉を叩く。

 

「クィレル先生、マノックです」

「マノック嬢じゃないか。どうしたんだい?」

 

 だが、姿を現したのは現マグル学教授のシカンダー氏だった。

 

「シカンダー教授。その、クィレル先生はいらっしゃいますか?」

「おや? 彼ならパーティーに行ったのではないか?」

 

 クィレルとは教室で待ち合わせをすることにしていたのだが、どうやら先に会場へと向かってしまったらしい。

 シカンダー教授に礼を言い、マーガレットは地下牢へと向かう。途中、大広間へと向かう生徒たちと何組もすれ違った。二つのパーティーがもうすぐ始まろうとしている。

 

「あれ? クィレル先生は?」

 

 一段下がるたびに温度まで下がるような階段を下り、ようやく地下牢にたどり着いた。だが、そこにもクィレルの姿はない。いったい彼はどこに行ってしまったのか?

 マーガレットが頭を捻っているとマートルがやって来た。

 

「ちゃんと来たのね。あら? あなた、いつも連れてるペットはどうしたの?」

「ネモですか? え、いない!」

 

 クィレルもだが、ネモの姿がないことにもマーガレットはやっと気がついた。

 

「いったいどこに? わたし、探してきます!」

「待ちなさいよ。あなたがいなくなったらパーティーに遅れるわ。そしたら、周りになんと言われるか……」

 

 くるりと踵を返したマーガレットの前にマートルが立ち塞がる。

 

「でも……」

「あなたのペット、また水浴びでもしてるんじゃない? だって、あの鴉はわたしのいるトイレに勝手に入って来るのよ。器用に蛇口を開けて、小綺麗になって帰ってくんだから」

 

 たしかにネモがどこかに行ってしまうことはままある。そして、マーガレットがわざわざ探しに行かずとも帰ってくるのだ。

 ネモのことは心配といえば心配だが、約束がある以上マートルを待たせるわけにもいかない。だから、今夜もそのうちに姿を見せるだろうと結論づけた。

 

「そうですね。きっとネモは大丈夫です。マートル、絶命日パーティーに行きましょう」

 

 ネモもいつの間にか帰ってくるかもしれない。それに、先にパーティーに行ったというクィレルも遅れてやってくるかもしれない。

 この時のマーガレットはそう思っていた。

 

 

 

「これは、これは……。このたびは、よくぞおいでくださいました……」

 

 悲しげな挨拶とともに、ほとんど首なしニックは二人を招き入れるようにお辞儀をした。

 

「ニコラス卿、今日はお招きいただきありがとうございます。この日を、とても楽しみにしていました」

 

 マーガレットも制服のスカートを軽く持ち、カーテシーをする。その所作はずいぶんと板についていた。

 

「親愛なるミス・ワレン、ミス・マノック。どうぞ楽しんで。ダンスにオーケストラ。それから、ご馳走もご用意いたしました」

 

 ビロードの黒幕の向こうには信じられないような光景が広がっていた。

 何百という数のゴーストたちがフロアをふわふわと漂い、ワルツを踊っている。そして、黒い幕で飾られた壇上ではオーケストラが鋸を使って恐ろしい音楽を演奏していた。

 

「これが絶命日パーティー……」

 

 マーガレットは感嘆のため息とともに、白い息を吐いた。地下牢はひどく冷えていたが、マーガレットは寒さが気にならないほど興奮していた。

 

「踊り続けるゴースト、荘厳で不気味なシャンデリア。あっちにはケーキまで! すごい。まるで“幽霊屋敷”……。あとは、伸びる絵画や歌う彫像もあれば完璧ですね」

 

 いつかは行ってみたいアメリカの遊園地は思い浮かべながら、マーガレットは早口で捲し立てる。

 

「ちょっと。わたしを置いて一人で勝手に楽しくならないで」

「あぁ、ごめんなさい。それなら、わたしたちもまずは踊りましょうか。マートル、お手をどうぞ」

 

 マーガレットが手を差し出すとマートルはなぜか慌てていた。

 

「どうかしましたか?」

「あなた、わたしがダンスなんて踊れると思ってるの? わたしが今まで人とダンスなんて踊ったことがあると思ってるの! わたしに失敗させて、笑うつもりなのね!」

 

 マートルがまだ生きていた頃の事情はよくわからないが、ホグワーツではときおりダンスパーティーが開催される。だが、生徒全員が参加できるわけではなく、上級生でないと招待されない。

 だから、マートルがワルツを踊ったことがないというのも——彼女の性格も考えれば——理解できる。

 

「そんなことないですよ。マートル、わたしに任せてください。これでもおばあさまからダンスの基礎はみっちり教え込まれているんです」

「……絶対に、わたしに恥をかかせないで」

「もちろん。楽しい夜にしましょう」

 

 

 

 一曲踊り終えた二人の前に鮮やかなオレンジ色のパーティー帽をかぶったポルターガイストが現れた。

 

「ピーブズ……」

「マートル、マルガレーテ(グレーテル)。楽しんでるかい?」

「えぇ、おかげさまで。それと、わたしはマーガレットです」

 

 マーガレットが答えるとピーブズはケタケタと笑った。

 

「お菓子が大好きなマルガレーテ(グレーテル)。早く食べにいかないとご馳走がなくなっちまうよぉ」

 

 ピーブズはマーガレットをからかって面白がっているようだ。マーガレットは少しムッとするが、ここで反応してはピーブズの思うつぼ。

 

マルガレーテ(グレーテル)、おつまみはどう?」

 

 そう言って、ピーブズは皿を差し出してきた。その皿の中身を見て、マーガレットは思わず顔をしかめる。

 

「ピーブズ、からかうのもいい加減にしてください。これ、黴だらけじゃないですか」

「おやおや? マルガレーテ(グレーテル)は今夜のご馳走を知らないのかぁ?」

 

 意地の悪い笑みを浮かべながらピーブズは長テーブルを指さす。遠目からだと墓石を模した灰色のケーキくらいしか見えない。

 マーガレットは恐る恐るご馳走の山に近づいた。

 

「嘘……」

 

 そして、言葉を失った。どうして、今までこの腐った食べ物の臭いに気づかなかったのか。

 肉料理には虫が湧き、チーズは緑色の黴に覆われ、ケーキは真っ黒に焼け焦げていた。そして、マーガレットが愛するような甘いお菓子はどこにもない。

 

「あなた、もしかして知らなかったの? って、絶命日パーティーも知らなかったんだから、当然よね」

 

 マーガレットの背後でマートルは笑いをこらえている。

 

「可哀そうなマルガレーテ(グレーテル)! せっかくのパーティーなのに、なにも食べられないなんて!」

 

 ゴーストのご馳走を前に崩れ落ちたマーガレットのことを、ピーブズはゲラゲラと笑い続けていた。

 

 

▼ ▲ ▼

 

 

「あの時のあなたの顔、思い出しても笑えてくるわ」

 

 パーティーが終わり、三階の女子トイレに戻ってきてからもマートルはときおり思い出し笑いをしていた。

 

「でも、おかげで楽しい夜にはなったわ。……その、ありがとう」

「こちらこそ。誘ってくれて、ありがとうございました。ご馳走は食べられなかったけど、わたしも楽しかったです」

 

 それは別に強がっているわけでもなかった。たしかにマートルと踊ったダンスは楽しかったし、ほとんど首なしニックや太った修道士のような他の寮のゴーストたちの話を聞くのも興味深かった。

 それに、あのご馳走は食事をすることができないゴーストでも味がわかるよう、強い風味をつけるために腐らせたと知れたことはとても勉強になった。

 

 だが、ハロウィーンの甘いお菓子をお腹いっぱい食べられなかったことだけが、マーガレットの心残りになっていた。

 

「お腹空いたな……」

 

 「嘆きのマートル」のトイレをあとにし、マーガレットはぽつりと呟く。そういえば、ネモもクィレルも絶命日パーティーには姿を現さなかった。

 今からでも大広間に行ってみようか。しかし、懐中時計の針はもうすぐ消灯時間を指し示そうとしている。

 ハロウィーン・パーティーはとっくに終わっていた。

 

 絶命日パーティーもそれなりに楽しかった。だからこそ、誘ってくれたマートルのことを恨むつもりはない。

 しかし、ハロウィーンの夜のかぼちゃ尽くしのメニューを楽しめなかったことだけは来年まで引きずってしまいそうだった。

 

 そう、一年も待たなければならない。()()()()に終わったハロウィーン・パーティーが次に開催されるその時まで。

 

「……そうだ」

 

 マーガレットはローブの下に隠していたあるものを取り出す。それは砂時計がついた金のネックレスのようなものだった。

 

「『逆転時計』……。これを使えば……」

 

 三年生になった日、これをマクゴナガル副校長から直々に手渡されたときのことを思い出す。

 

——いいですか。逆転時計の使用には危険がともないます。だから、あなたは細心の注意を払う必要があります。まず、過去の自分、ないしは未来の自分に出会ってはいけません。

 

 これは12科目すべての授業を履修するために常々気をつけていることだ。過去の自分がいつどこにいたか、どのルートで校内を移動していたかをマーガレットは憶えるようにしている。

 

——それから、これは貴重なものですから大切に扱いなさい。

 

 それも重々承知している。だから、こうして首にかけて肌身離さず持っているのだ。

 

——当然のことですが、「逆転時計」を授業以外では決して使わないように。

 

 それはわかっている。ミス・マノックなら大丈夫だと信頼されているから、こうして「逆転時計」を借りることができたのだ。

 だがしかし、今夜もしマーガレットが逆転時計を使ったとして、それに気づける人はいるのだろうか。だって、彼女はずっとゴーストたちしかいない絶命日パーティーにいたのだから。

 

「マクゴナガル教授、ごめんなさい。一回だけ、今夜一回だけですから」

 

 マーガレットは息を吸い込み、一思いに砂時計を回転させた。周囲の風景が歪み、体が後ろ向きに飛んでいくように感じる。この感覚にもずいぶんと慣れてきた。

 やがて、周りの物がまたはっきりと見えるようになる。

 

 マーガレットはローブのポケットから懐中時計を取り出した。時計の針が今度は一日の授業が終わった直後の時間を指している。

 これなら誰にもバレることなく、ハロウィーン・パーティーにも参加することができる。マーガレットはそう思った。

 

 だが、そんな彼女のことをじっと見つめているものがいた。

 

「ネモ! ここにいたんだ!」

 

 青い目の鴉はここが自分の定位置である飼い主の肩に飛び乗った。マーガレットが頭を撫でてやると、ネモは嬉しそうに目を閉じる。

 

「なんだ、ネモはずっとわたしと一緒にいたんだ。……あ! もしかして」

 

 マーガレットは考えた。ネモはこうして自分のそばにいた。ならば、クィレルも自分と一緒にいたのでは?

 だから、絶命日パーティーにいたマーガレットの元には来れなかったのではないか、と。

 

「ネモ、急ごう。きっと、まだクィレル先生はマグル学教室にいらっしゃる!」

 

 こうして授業終わりの生徒たちの流れに逆らい、マーガレットはマグル学教室に再びたどり着いた。幸い、今日の自分は誰よりも早く寮に帰ったのだからマグル学教室で鉢合わせてしまう心配もない。

 

「クィレル先生、マノックです!」

 

 マーガレットがまたいつものように扉を叩くと、今度はクィレルが顔を見せた。

 

「ミス・マノック、どうかしましたか? もしかして、忘れ物ですか?」

「いえ、その……。先生、わたしと一緒にパーティーに行ってくださいませんか」

「それはもちろんですが……。ミス・マノック、いくらなんでも来るのが早すぎます。まだなにも準備ができていない」

 

 クィレルはマーガレットの早すぎる来訪に驚いている様子だ。

 

「ミス・マノック、少し待っていてください。かぼちゃパイが焼きあがるまで、まだ時間がかかりますから」

「パイですか?」

 

 どうして恩師がパイの焼き上がりを待っているのだろうと首を傾げる。

 

「厨房の屋敷しもべ妖精に頼んで、今夜の食事を用意してもらっています。……なにせ、絶命日パーティーで出てくるようなご馳走は人間には食べられませんから」

 

 クィレルの言うとおり、ゴーストのご馳走がとても自分が食べられるようなものではないことをマーガレットは先ほど知った。

 そして、そのことに早くから気づいたクィレルは、マーガレットが絶命日パーティーを選んだマーガレットが腹を空かせることがないようにと食事の手配をしてくれていたらしい。

 

「あの、わたしのためにですか? 先生、ありがとうございます!」

「いえ、これくらいは。ですので、絶命日パーティーに行くのは少し待ってください」

「そのことなのですが、わたしもハロウィーン・パーティーに行くことにしました。」

 

 クィレルはあれほど絶命日パーティーを楽しみにしていたマーガレットにいったいどのような心境の変化があったのかが気になった。

 だが、食べ物のこと、とくに甘いお菓子のこととなると目の色が変わる彼女のことだ。知識欲よりも食欲の方が勝ったのだろうと分析する。

 

「わたし、もうお腹ぺこぺこなんです! そうだ、先生。せっかくですから、焼きたてのパイを食べさせてもらいましょう! みんなよりも一足早くパーティーを始めるんです」

「君は本当に……。わかりました、さっそくパーティーに向かいましょう」

 

 こうしてマーガレットにとって、今夜二度目のパーティーが始まった。




「嘆きのマートル」と絶命日パーティーに行くのはホグミスの「絶命日パーティーでの決闘」クエストが元ネタ。

pixivでも本作の連載を始めました。再編集版ということで書き直しはしていますが、ストーリー自体は変わりません。とはいえ、こちらも読んでくださる方がいらっしゃると嬉しいです。
文章力向上のためと、こちらに上げる新しい話が書けない時の息抜きがてら更新していきたい……。


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第1話 21歳の誕生日

「マーガレット、誕生日おめでとう」

 

 (メアリー)がそう言った。

 

「こうして君の誕生日を祝えて嬉しいよ」

 

 祖父(マッカーデン氏)がそう言った。

 

「ケーキにアイスクリームにチョコレート。あなたが好きなものをなんでも用意したわ」

 

 祖母(マッカーデン夫人)がそう言った。

 

 1992年7月26日。今日はマーガレット・マノック21歳の誕生日。

 家族四人と二羽の大鴉(レイブン)が揃ったリビングは飾り付けられ、食卓には手作りのアイシングケーキが置かれている。

 

「今年もありがとう!」

 

 マーガレットが22本のろうそくを吹き消すと、盛大にクラッカーが鳴った。鴉の親子もくちばしをカチカチと鳴らしてお祝いしている。

 メアリーはバースデーケーキをホールのままマーガレットの元に運び、ネモの前にはカップケーキを置いた。マーガレットはそのカップケーキにろうそくを立て、火を灯す。

 

「こうしてお祝いするのは16度目だね」

 

 そう、今日の主役は一人ではなかった。

 7月26日、それはマーガレットの誕生日。そして、ネモの誕生日。

 

「ネモ、お誕生日おめでとう!」

 

 今度はネモがろうそくを消す番だった。鴉は羽を大きく広げ、思い切り羽ばたく。

 

「ネモはどんなお願いをしたのかしら」

 

 ろうそくから立ち上る煙を見つめながら、メアリーがそんなことを呟いた。

 

 

 

 ちょうど夏休みの期間ということもあり、マーガレットが誕生日を実家で家族と共に祝うのは毎年の恒例となっていた。

 母が作った絶品のケーキを朝から頬張る。それが今も昔も変わらないマーガレットの誕生日の過ごし方。

 そして、誕生日のお楽しみはもう一つあった。

 

「マーガレット、私からのプレゼントだ」

 

 マッカーデン氏は一冊の本をマーガレットに手渡す。祖父からは毎年、彼が選んだ珠玉の一冊をもらう事がお決まりとなっていた。

 

「ありがとうございます」

 

 年季の入った革の背表紙とそこに箔押しされたタイトルを見て、マーガレットは目を見開いた。

 

「『海底二万里(Vingt Mille Lieues Sous Les Mers)』、これは……。まさか、初版本?」

「そう、そのまさかだよ。およそ百年前に出版されたものだ」

 

 ページは多少茶色に変色しているものの、目立った傷や汚れもない。ずいぶんと大切に扱われてきた本のようだ。

 

「その本は私の父が残したコレクションの一つでね。言ってみれば、家宝のようなものだ。だが、このままでは宝の持ち腐れ。こういうものは知識と同じように受け継がれてこそ意味がある。マーガレット、受け取ってくれるかい?」

「こんな貴重なものを……。もちろん、大事にします」

 

 マーガレットはたくさんの想いが詰まっているこのプレゼントがとても嬉しかった。

 

「喜んでもらえたようでなにより。実は、君が成人したら渡したいと、ずっと考えていたものなんだ」

「成人したら、ですか?」

 

 マーガレットは首を傾げる。

 彼女はすでに酒を嗜んでいるし、姿現しの試験にも合格している。マグルとしても、魔法族としてもすでに成人しているのだが。

 

「えっと……。そういえば、昔の法律は21歳で成人、でしたっけ?」

「そのとおり。君が生まれる少し前に変わってね。今は18歳で成人とされているが、やはり21歳の誕生日にもなにか特別なお祝いがしたい。そう思ったのさ」

 

 アンティークショップを営むというだけあり、マッカーデン氏は歴史や伝統を重んじる人である。

 

「だが、こう何度もお祝いをしていたら、その特別感もなくなってしまうかな?」

「いえ、とっても嬉しいです。だって、こんなに成人を祝ってもらえた人なんてそうそういませんから。()()()()()()使()()()()()()()、それに、この家の子供だったからこんな貴重な経験ができたんです!」

 

 17歳の時に魔法族として、18歳ではイギリス国民として、そして今日とマーガレットは3度も成人を迎えた。だから、21歳の誕生日はいつもよりも少し特別な記念日になったのだった。

 

 

▼ ▲ ▼

 

 

 その夜、マーガレットは本を読んでいた。読んでいるのはもちろん祖父から譲り受けたばかりの初版本だ。

 

「そうだ、ネモ」

 

 マーガレットはふとペットの鴉に声をかける。

 

「ネモは自分の名前の由来を知っている?」

 

 ネモはマーガレットに向かって「カア」と鳴くと、本の背表紙を軽くくちばしで叩いた。

 

「そう、よく知っているね。ネモの名前はこの『海底二万里』のネモ船長からもらったの」

 

 そう言って、マーガレットはオルガンを弾く男性の挿絵を指さす。

 

「実はね、ネモが生まれた日におじいさまからもらった本も『海底二万里』だったの。お父さんが一番好きな本だったから、なんだって」

 

 マーガレットは本棚から一冊の本を取り出した。箔押しされた題字が少し掠れていて、持ち主がその本を何度も読んでいることを物語っている。

 

「ネモと初めて会った時、わたしがこの本を持っていたからネモって名前になったの。ネモ船長にちなんでネモ。そういえば、主人公のアロナクスっていう案もあったかな。もしかして、ネモはそっちの方がよかった?」

 

 マーガレットの問いにネモははっきりと首を横に振った。

 

「あはは、そうだよね。わたしがネモに最初にあげた誕生日プレゼント、気に入ってくれてて嬉しいな」

 

 マーガレットは本をベッドサイドに置き、ネモのことを抱きしめる。そうしていると、なぜだか心が温かくなった。

 

「お誕生日おめでとう。ネモ、これからもよろしくね」

 

 マーガレットはネモを抱きしめたまま、眠りについた。

 

 

▽ △ ▽

 

 

——マーガレットは夢を見ていた。

 

「マーガレット、お誕生日おめでとう」

 

 母がそう言った。

 

「こうして君の誕生日を祝えて嬉しいよ」

 

 祖父がそう言った。

 

「ケーキにアイスクリームにチョコレート。あなたの好きなものをなんでも用意したわ」

 

 祖母がそう言った。

 

 1979年の7月26日。今日はマーガレット・マノック7歳の誕生日。

 家族()()が揃ったリビングは飾り付けられ、食卓には手作りのアイシングケーキが置かれている。

 

 だが、主役の表情は暗かった。

 少女はまだ事故の傷が癒えない片腕を三角巾で吊り、パーティーハットの下には包帯を巻いている。彼女は数日前に病院から戻ってきたばかりだった。

 

「誕生日と退院のお祝いだから、たくさん食べてね。でも、その前に……」

 

 少女の母はライターを取り出すと、ケーキのろうそくに火を灯す。八つの小さな炎がゆらゆらと揺れていた。

 

「マーガレット、火を消して」

「消せば、いいの?」

「そう。心の中でお願いごとをして、一気に吹き消すの」

「どうして?」

 

 わざわざつけた火をどうしてすぐに消してしまうのだろうか。少女には理由がわかない。

 だが、博識な祖父がそのわけを教えてくれた。

 

「誕生日にするおまじないのようなものさ。そうすると願いが叶うと言われているのだよ」

「そう。どんなお願いでもいいのよ。お菓子がいっぱい食べたいでも、本がたくさん欲しいでも。……きっと、叶うから」

 

 少女は考える。自分の願いとはなんだろう。こういう時、なにを願えばいいのだろうか。それが彼女にはわからない。

 

 そう、()()()()()。彼女は事故で記憶を失った。つまり、知らない(憶えていない)ことばかり。

 だから、少しでも早く、少しでも多くのことを思い出したい。そう思った。

 

誕生日おめでとう(Happy Birthday)! マーガレット!」

 

 少女がろうそくを吹き消すと、パンッとクラッカーが鳴った。色とりどりのテープが少女の視界に飛び込む。

 母は慣れた手つきでケーキを四つに切り分け、一番大きなピースを少女の皿に取り分けた。その様子を祖父母は微笑ましそうに眺めている。

 

「さあ、どうぞ」

「砂糖をたっぷりと入れたミルクティーはいかがかな?」

 

 少女の前に数々の大好物が並べられていく。

 だが、彼女の手は動かないままだった。

 

「マーガレット、大丈夫?」

「利き手が使えなくて食べづらいのでしょう? それなら、あたくしが食べさせてあげますわ」

 

 祖母が一口大にしたケーキを少女の口元に運ぶ。

 しかし、少女は口を固く閉じたままだった。

 

 どうしたものかと大人たちは顔を見合わせる。楽しいはずのパーティーは重い沈黙に包まれた。

 

「……マーガレット、やっぱりパパがいないと寂しい?」

 

 母の質問に対し、少女はうつむいた。どう答えればいいのかがわからないのだ。

 彼女には記憶がない。父との思い出も忘れた。大好きだったはずの父のことを何一つとして憶えていない。

 だから、母の言う「寂しい」という感覚がわからない。

 

 けれど、心にぽっかりと穴が空いてしまったような感覚だけはたしかにあった。なにか大切なものを失ってしまったのだということは今の彼女にもわかる。

 

「その、ごめんなさい。憶えてなくて、ごめんなさい」

 

 少女が口にしたのは謝罪の言葉だった。

 甘いお菓子がどんなに好きだったのか憶えていない。本を手に取ることがどんなに楽しかったのかもわからない。そして、父のことをどんなに愛していたのか思い出せない。

 それが、少女には苦しかった。怖かった。そして、悲しかった。

 

「マーガレット、謝らないで。あなたはちっとも悪くないのだから」

 

 母は娘を抱きしめる。そして、祖父は孫娘の頭を撫でた。

 

「君が憶えていないこと、君が知りたいことはがなんでも教えよう。大丈夫、ゆっくり思い出していけばいい」

「そうです。だから、甘いお菓子で元気を出して。マーガレット、召し上がれ(Bon appetit)

 

 少女の小さな口にケーキが運ばれた。

それは彼女にとっては()()()の味。でも、どこか懐かしいような気もする。

甘くて、おいしい。それは記憶喪失の少女にも変わらずに芽生えた感情だった。

 

「……おいしい」

 

 少女の顔にこの日初めての笑みが浮かぶ。大人たちも嬉しそうに笑っていた。

 

「いっばい食べてね。マーガレットに喜んでもらいたくて、おばあちゃんと一緒にたくさん作ったの」

 

 母と祖母からのプレゼントはすっかり少女の心をつかんだ。甘いお菓子を食べれば食べるほど、心の隙間を埋められるような気がした。

 

 少女がお腹いっぱいになるまでケーキを食べた頃、祖父が包みを一つ差し出した。

 

「マーガレット、これは私からのプレゼントだ」

 

 少女が受け取ったプレゼントは片手だけで持つには少し重かった。

 

「毎年、私は君の誕生日に本を贈っているんだ。今年はなににするか迷ってね、これを選んだよ」

 

 両手を使えない少女の代わりに母が包みを開ける。中から現れたのは青い表紙に金の箔押しでタイトルが書かれた一冊の本。

 

「『海底二万里』。マイケルが、君のお父さんがもっとも好きだった物語」

「人の想像力は素晴らしい! と、よく言っていたわ。『地底旅行』に『八十日間世界一周』。『透明人間』や『タイム・マシン』。パパはそういうお話が大好きで、あなたによく読み聞かせていたの」

 

 この本がどんな物語なのかが少女にはわからない。けれど、父が好きだったというのなら、きっと自分も好きになれるように思う。

 

「ありがとう。その、大事にするね」

「君が気に入ってくれれば、きっとマイケルも喜ぶよ」

 

 少女は父との思い出の本を胸に抱いた。そして、誕生日パーティーの間も、パーティーが終わってからも手放さなかった。

 そうしていると父の存在をほんの少しでも感じられるような気がしたから。

 

 だから、少女は本を抱えたまま眠ろうとした。けれど、隣の部屋から聞こえる()のせいで彼女は寝れなかった。

 

「この声……」

 

 少女はベッドを降りると本を小脇に抱え、廊下に出た。そして、鍵のかかっていない隣室の扉を開ける。そこは父が仕事場として使っていたという部屋だった。

 少女よりもはるかに背の高いキャビネットと本棚。たくさんの写真を飾ったコルクボード。道具が置きっぱなしにされた作業机。

 そして、窓辺に置かれたクッションの上で一羽の大鴉(レイブン)が鳴いていた。

 

「えっと、ロウェナ?」

 

 母に教えてもらった名前を呼ぶと、鴉は鳴くのを止めた。まるで誰かが来るのを待っていたようだ。

 少女は恐る恐る鴉に近づき、声をかける。鳴き声に気づき、部屋に駆けつけた大人たちはその様子を見守っていた。

 

「あの、どうしたの?」

 

 少女は鴉の足元は肌色のぶよぶよとした謎の物体があることに気がつく。

 

「産まれたのね!」

 

 母が歓喜の声を上げた。祖父母も「奇跡だ」とか、「まさかマーガレットと同じ日に」などと興奮気味に話している。

 けれど、少女の数少ない記憶の中にそれに関する知識などなかった。

 

「あの、あれは?」

「この子はね、ロウェナの赤ちゃんよ」

「ロウェナの赤ちゃん……。ごめんなさい。わたし、この子のことも憶えてない。なんてお名前なの?」

 

 少女は申し訳なさそうに呟く。父のことを憶えていないと口にした時と同じように、また家族を悲しませてしまうと思ったから。

 けれど、少女の母はにっこりと笑っていた。

 

「マーガレット、わたしたちもこの子のことはまだなにも知らないわ。だって、この子は生まれたばかりだから」

「それに、名前だってまだない。マーガレット、君がこの子の名前を決めてあげればいい」

 

 この赤ん坊のことをまだ誰も知らないと聞き、少女は安心した。けれど、彼女はまたすぐに困ってしまった。

 名前というのは、どのようにつければいいものなのか?

 

「マーガレット、それなら物語の中から選ぶのはどうだい? 君が好きなキャラクターの名前をこの子につけてあげるんだ」

 

 少女は自分が好きだった本のことも憶えていない。けれど、彼女の手元には大好きだった父との思い出の一冊の本がある。

 

——海底二万里(Twenty Thousand League Under the Sea)

 

 父がもっとも好きだったという物語。

 

「これ……」

「海底二万里か。たしか主人公の名前はアロナクス。なら、この子の名前はアロナクスにするかい?」

「あら、海底二万里といえばネモ船長じゃありませんこと?」

「ネモ……」

 

 誰でもない(ネモ)——7歳の、それも記憶喪失の少女がそのラテン語の意味を知っているはずもない。だが、彼女にはその名前が生まれたばかりの“まだ何者でもない”大鴉(レイブン)にはぴったりであるように思えた。

 

「ネモ。この子の名前はネモにする」

 

 青い瞳がきらりと輝く。

 

「お誕生日おめでとう。ネモ、これからよろしくね」

 

 これがマーガレットとネモの出会いだった。




連載1年半以上が過ぎ、やっっっと原作2年目を始められそうです。
本作の完結とファンタビの完結、どっちが先になるのかな……。


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第2話 再会と新たな出会い

 8月のとある水曜日、マーガレットとネモはハグリッドとともにダイアゴン横丁に来ていた。時節柄かホグワーツの生徒とその保護者たちの姿も多く見える。きっと彼らも新学期に向けての準備をしているのだろう。

 

「ハグリッド、ケトルバーン教授のおつかいはこれで終わりでしょうか?」

 

 マーガレットは自身が教えるマグル学とケトルバーン教授が教鞭をとる魔法生物飼育学の準備のために買い物をしていた。

 というのも、あの魔法生物飼育学の教授はこの休暇中にドラゴン保護区を訪れたらしく、その際に()()義手と義足を燃やしてしまったらしい。そのため、不自由な教授の代わりに、こうしてマーガレットたちがおつかいをしているのだ。

 

「その安全手袋で最後だ。あとはおれが必要な『肉食ナメクジの駆除剤』を買いに行く」

 

 マーガレットは先ほど買ったドラゴンの革製の手袋を検知不可能拡大呪文がかかったトランクに詰め込んだ。

 

「『肉食ナメクジの駆除剤』……。なら、お次は薬問屋ですか?」

「いや、ノクターン横丁に行こうと思うちょる。あそこならより強力なやつが手に入るってもんだ」

「ノクターン横丁?」

 

 マーガレットは目をパチクリさせた。かつて恩師がノクターン横丁のことをどのような場所と言っていたかを思い出す。

 

「その、ノクターン横丁は危険なのでは……。昔、興味本位で近づかないようにと教えていただきましたから」

「たしかに危ねえし怖いところだが、あそこにしか売ってないようなもんもあるんだ。まだ行ったことがないんなら、マーガレットも一緒にくるか?」

「いいんですか?」

 

 ハグリッドはすでに何度かノクターン横丁を訪れたことがあるようだ。ゆえに、恩師の言いつけを守り続けていたマーガレットにはその誘いが魅力的であった。

 

「まだホグワーツに通っとるような子供を連れて行くわけにゃいかないが、今のおまえさんなら大丈夫だろ。なんせ、闇の魔術に対する防衛術の教授と決闘までしたんだからな」

 

 ハグリッドに背中を軽くポンと叩かれ、マーガレットは思わずよろめく。だが、そのおかげで彼女の取り繕ったような表情がハグリッドに見られることはなかった。

 

「……えっと、そうですね。防衛術には、その、ほんの少し自信がありますから」

 

 ハグリッドも含めた多くのホグワーツ関係者の間では、生き残った男の子が賢者の石を守りきったあの夜、ある一組の男女が決闘まがいの大喧嘩をしたことになっている。

 ダンブルドアが言ったとおり、賢者の石を巡る騒動の真相はごくごく一部の人間しか知らないようだ。

 

「マーガレットはクィレル教授に色々と教えてもらっていたからな。そのおまえさんたちが喧嘩別れしちまっただなんて、おれはなんだか悲しいよ」

 

 そう語るハグリッドの目にはなぜか涙まで浮かんでいた。これにはマーガレットも苦笑いを浮かべることしかできない。

 そもそもマーガレットとクィレルは恋人の関係にあったわけでない。だから、別れたという表現も正しくはない。

 しかし、噂を否定してしまえば、嘘で隠された真相がいずれ暴かれてしまうかもしれない。マーガレットが恩師と()()()()()ためにも、それは避けなければならないことだった。

 

「だが、闇の魔術に対する防衛術の教師がまた一年で変わっちまうんだな」

「そう、ですね……」

「マーガレットは次に誰が来るとか、もう聞いたか?」

 

 マーガレットは首を横に振った。校長であるダンブルドアが各教科の教師を任命するのだが、彼からはまだなにも聞いていない。

 思い返せば、クィレルがマグル学から防衛術の教授になることを聞いたのもかなり急だったのだから、防衛術の後任をまだ知らないことについてもあまり気にしていなかった。

 

「マクゴナガル先生がダンブルドア先生になにか言っとったが……。お、着いたぞ。ここがノクターン横丁だ」

 

 店の軒先に掛かった古ぼけた木の看板にはたしかに「夜の闇(ノクターン)横丁」と書かれている。一本違う通りに足を踏み入れただけなのに、空気が重たくなったようにマーガレットは感じた。

 縮んだ生首が飾られている店や巨大な黒蜘蛛が蠢く大きな檻が置かれた店。闇の魔術に関する物を売っているような店ばかりが立ち並んでいる。

 

「おれは駆除剤を買ってくるが、おまえさんは好きな店でも見ていてくれ」

 

 「あとで待ち合わせだ」と言って、ハグリッドは奥へと行ってしまった。

 

「たしかに不気味な場所……。あんまり遠くに行かないほうがいいかも。ネモも勝手にどこか行かないでね」

 

 ふらふらと通りを歩いていたマーガレットだが、ある店の前でふと足を止めた。

 店の名前は「ボージン・アンド・バークス」。ショーケースには不気味な髑髏や古い瓶が並べられている。

 

「ここ、アンティークショップだ」

 

 ノクターン横丁の中でも一番大きなその店は、どうやらアンティークショップのようだった。アンティークショップといえばマーガレットの実家もそうである。

 幼いころから骨董品はずいぶんと見慣れているが、そういえば魔法界ではどのような品物が取り扱われているのだろう。

 好奇心の赴くままマーガレットがショーウィンドウをのぞき込んでいると、中から二人組が出てきた。

 

「おや。マグル学の教授がこのようなところに」

「マルフォイ理事! その、お久しぶりです」

 

 姿を現したのはホグワーツ理事のルシウス・マルフォイとその息子ドラコ・マルフォイ。ホグワーツでは何度か顔を合わせたことはあるが、こうして外で言葉を交わすことは初めてであった。

 

「なにをしていたのかね?」

 

 冷たい灰色の瞳がマーガレットを見据える。別にやましいことをしていたわけではないのだが、なにか責められているような、そんな視線だった。

 

「ウィンドウショッピングです。その、アンティークショップということで、この店に興味がありまして」

「マグル学の教授がここに用があるとは……。もしや、9月からは闇の魔術に対する防衛術を教えることにでもなりましたかな? 前任者とはずいぶんと仲がよろしかったと聞いているが」

 

 マルフォイ氏の言葉にドラコは肩を震わせて笑っていた。どうやら件の噂は授業などでもほとんど接点のないスリザリン生にまで伝わってしまっていたようだ。

 

「……えっと、たしかにそうですね。ですが、とくにそういった話は。ダンブルドア校長にも、マグル学の教師を続けさせてほしいとお伝えしていますし」

「あなたには決闘の才があると耳にしたものだから、それで選ばれでもしたのかと」

 

 あのホグワーツで秘密を秘密のままにするのはずいぶんと難しいはずだが、最も偉大な魔法使いの作戦はうまくいっているようである。

 

「マルフォイ理事のお耳にも届いてしまっていましたか……。お恥ずかしい限りです」

「理事会にはあなたのあの行動を問題視する者もいた。我々に教授の任命権はないとはいえ、身の振り方は考えていただきたいものですな。こんな場所にいたら、それこそまた良からぬ噂が立つというもの」

「……ご忠告痛み入ります」

 

 足早に去っていくマルフォイ氏と彼の後ろをついていくドラコを見送りながら、マーガレットは一つため息をつく。

 

 というのも、マーガレットはどうにも彼らのような純血貴族が苦手であった。

 純血主義者を中心に、未だに魔法界にはマグルやマグル生まれへの偏見がある。そのため、マグル学それ自体も他の学問に比べて軽んじられているというのが現状であった。

 とはいえ、マーガレット自身は半純血の生まれであるから、表立って差別されはしない。しかし、彼女のマグル育ちという経歴やマグル学教授という肩書が、ある人々には歓迎されていないことを薄々感じてはいた。

 

 マーガレットはマルフォイ氏が出てきた店の看板を見上げる。ボージン・アンド・バークス——純血貴族も御用達にしているアンティークショップ。

 中には珍しい品も多くあるのだろうが、自分の趣味に合うような物はない気がした。この店に入るのは辞めておこうと踵を返す。

 

 だが、不意に背後から声をかけられた。

 

「マノック先生!」

 

 マーガレットが子供の声で振り返ると、そこには眼鏡をかけた黒髪の少年——ハリー・ポッターが立っていた。

 

「ミスター・ポッター? どうしてここに?」

「僕、迷子になったんです。煙突飛行粉が——」

 

 訳を聞けば、どうやらウィーズリーの家族とともに煙突飛行でダイアゴン横丁に来たはずが、誤ってノクターン横丁に来てしまったようだ。

 彼の姿をよく見れば服は煤で汚れ、眼鏡も壊れている。マーガレットはトランクから取り出した愛用の毛ばたきでハリーの体を払い、得意の修復呪文で眼鏡もあっという間に直してみせた。

 

「なるほど。初めての煙突飛行で失敗してしまったのですね。なにか怖いことはありませんでしたか?」

 

 ハリーは首を横に振る。

 

「マノック先生はどうしてこんなところに? よくここに来るんですか?」

 

 今度はマーガレットが首を横に振った。

 

「わたしもここに来たのは初めてです。あぁ、こういうことを言ってしまうと、ミスター・ポッターを不安にさせてしまいますね。よければどうぞ」

 

 マーガレットはローブのポケットから丸い棒付きキャンディーを取り出す。そして、ハリーに好きな物を選ばせると、自分はプリン味のキャンディーを口に咥えた。

 本物のプリンのような甘い味が口いっぱいに広がる。

 

「ハグリッドと一緒に買い物をしていたんです。新学期の準備のために」

「ハグリッドも?」

 

 ハグリッドの名前が出たことで、ハリーは安堵の表情を浮かべた。

 

「ハグリッドも直に戻ってくると思いますが、ここで待っているのも……。ミスター・ポッター、ダイアゴン横丁に戻りましょうか。ミスター・ウィーズリーたちもきっとあなたを探していることでしょうし」

 

 「さあ、行きましょうか」と、マーガレットは右手を差し出した。

 

「マノック先生、もう腕は大丈夫なんですか?」

 

 言われてみれば、ハリーと最後にあったあの夜、マーガレットは怪我のせいで右腕が動かせなくなっていた。

 

「あぁ、そういえば。えっと、おかげさまですっかり治りました」

 

 マーガレットは歩きながら、前に後ろにと肩をぐるぐる回してみせる。マダム・ポンフリーの処置により傷一つ残っていないおかげで、怪我したことなどすっかり忘れていた。

 

「教えるのがマグル学とはいえ、ホグワーツの教師が杖も握れず、ろくに魔法も使えないとなれば面目が立ちませんから」

 

 ハリーはこのマグル学教授の言葉になにか違和感を覚えたが、その正体までは思い出せない。気のせいだろうかと頭を捻る少年のことを青い目の鴉が見下ろしていた。

 

「でも、あの夜はそのせいであなたに怖い思いをさせてしまいましたね。ごめんなさい、ミスター・ポッター。クィレル先生のこと、わたしがもっと早くに気づいていれば……」

「僕もずっと犯人を勘違いしていたから……。それに、一瞬でも僕はマノック先生のことを疑った……」

「それは仕方のないことですよ。だって、わたしとクィレル先生は()()()()()だったそうですから」

 

 そう言って、マーガレットはわざとらしく肩をすくめる。

 

「いったい、いつからそんなふうに言われていたのでしょうね」

「その、僕はロンから聞きました。それで、ロンはフレッドとジョージから。フレッドとジョージはパーシーから。そして、パーシーはチャーリーがそんなことを言っていたって」

「そんな昔からですか!」

 

 驚いた拍子にマーガレットは口に入れていたキャンディーを噛み砕いてしまった。

 チャーリー・ウィーズリーがホグワーツにいた時期といえば、それこそまだ自分が学生だった頃の話である。まさか、それほど前からあった噂だとは——。

 

「どうりでみんなが知っているわけですね……」

 

 

▼ ▲ ▼

 

 

 二人と一羽は人通りの多いダイアゴン横丁まで戻ってきた。はぐれないように気をつけて歩いていると、ふとハリーの名前を呼ぶ声が聞こえた。

 声のする方を向けば、ふわふわとした栗色の髪をたなびかせ、一人の少女が駆け寄ってくる。

 

「ハリー! 会いたかったわ! ロンの家族と一緒なのよね? だけど、隣にいるのは……マノック先生?」

「そう。ロンの家から煙突飛行でここまで来る予定だったんだけど、僕だけはぐれちゃって……。でも、偶然マノック先生に会えたんだ」

()()マノック先生に助けてもらったのね。ハリーから聞きました。マノック先生も賢者の石を守るのに協力してくださったって」

 

 たしか、ハリー・ポッターは()()()()()「賢者の石」を守り抜いたそうだ。

ということは、二つの噂話の真実を知る当事者には彼女も含まれているということか。

 

「ハーマイオニーとロンは全部知っているんです。ダンブルドアが二人には本当のことを話してもいいって」

 

 噂をすれば、そのもう一人の当事者の姿も見えた。赤毛の一団がこちらに向かって駆けてくる。

 

「ハリー。いや、せいぜい一つ向こうの火格子まで行きすぎたくらいであればと願っていたんだよ……」

 

 この一家の大黒柱と思わしき男性は肩で息をしていた。彼の後ろにはウィーズリー家の男兄弟たちがぞろぞろと続いている。

 

「おや、あなたは? ハリーを見つけてくれたのですか?」

「はい。ホグワーツでマグル学を教えているマーガレット・マノックと言います」

「あぁ、マグル学の! 私はアーサー・ウィーズリー。魔法省のマグル製品不正取締局で働いています。パーシーから話は聞いていますよ」

 

 マーガレットは一瞬どきりとした。まさか、またあの噂について言われるのではないか、と。

 

「あなたはマグル育ちで、マグルの生活にもかなり詳しいそうですね。さらには、マグルの道具を直すのもお得意だとか! いや、ぜひとも話がしてみたい。私もマグルの物が好きで、いろいろと集めているのですよ」

 

 そう語るウィーズリー氏の瞳は少年のようにきらきらと輝いている。マグル学に強い興味があるのか、マーガレットに出会えたことも心から喜んでくれている様子だ。

 マーガレットがずいぶんと前に目を通した「純血一族一覧」によればウィーズリー家も聖28一族の一つであったはずだが、他の純血一族の魔法使いとはずいぶんと雰囲気が違った。マルフォイ氏と会ったばかりだから、なおさらそう感じる。

 

 マーガレットがウィーズリー氏と話しているうちに、赤毛の少女を連れたウィーズリー夫人とノクターン横丁から戻ってきたハグリッドがやってきた。

 ハグリッドはハリーがダイアゴン横丁にいることをとても喜んでいたが、彼がノクターン横丁にいたことを知るとひどく驚いていた。

 ウィーズリー夫人もノクターン横丁と聞き、かなりのショックを受けた様子だった。ハリーがまた迷子になってしまわないようにと、彼の手をしっかりと握りしめる。

 夫人がもう片方の手を繋いでいる赤毛の少女は、母親越しに黒髪の少年のことを見つめていた。

 

「さあ、もう行かにゃならん。みんな、ホグワーツで、またな!」

 

 ハリーたちはこれからグリンゴッツに行くそうで、そう長話もしてられない。それに、マーガレット自身もまだ買い物が残っている。

 ホグワーツでの再会を約束し、彼らとはここでお別れだ。

 

 

▼ ▲ ▼

 

 

 その後、マーガレットはハグリッドとは別行動でダイアゴン横丁を巡っていた。ケトルバーン教授のおつかいの際は魔法生物に詳しいハグリッドがいた方が助かったが、残りの買い物は自分一人でゆっくりと回れる方がいい。

 それに、久しぶりのダイアゴン横丁なのだから、フローリアン・フォーテスキュー・アイスクリームパーラーであの絶品アイスクリームも食べて帰りたかったのだ。

 そして、いくつかの寄り道のあと、マーガレットはフローリシュ・アンド・ブロッツ書店を訪れた。

 

「それにしても、すごい人。なにかの発売日だったのかな」

 

 この時期の書店はいつも混んでいるのだが、今日は一段と賑わっている。

 黒山の人集りから視線を上げれば、大きな横断幕が上階の窓に掛けられていた。

 

「サイン会、自伝『私はマジックだ』。著者は……ギルデロイ・ロックハート!」

 

 マーリン勲章勲三等、闇の力に対する防衛術連盟名誉会員、週刊魔女チャーミングスマイル賞を五度も受賞した魔法界の大ベストセラー作家。それがギルデロイ・ロックハート。

 今をときめく人気作家のサイン会ということで、書店には多くの魔女たちが詰めかけている。

 

 店の奥では黄色い声を上げているご婦人方ほどではないが、マーガレットもロックハート作品の熱心な読者であった。かの作家の著作は全部読んだし、さらにはすべて買い揃えてホグワーツの自室の本棚に並べている。

 吸血鬼との船旅や泣き虫妖怪と過ごした休日。幼い頃より怪奇小説やファンタジー文学に慣れ親しんだマーガレットにとってはいい読み物であった。それに、それが作者の実体験だというのだから、なおさら心が躍る。

 

 マーガレットは平積みされた新刊を一冊手に取った。表紙を飾る著者の写真は自信に満ちた表情を浮かべている。

 作家と直に会えるような機会というのはそうそうない。それに、一年のほとんどをホグワーツ城で過ごしているのならばなおさら。

せっかくなのだからサインももらってみようか。マーガレットは長い長い行列の後ろに並んだ。

 

 

 

 ようやくサインの順番が回ってきたのは、マーガレットが「私はマジックだ」をちょうど読み終えた頃だった。視線を上げれば、ギルデロイ・ロックハートはすぐそこに。

 波打つブロンドの髪と輝くブルーの瞳。真っ白な歯を見せつけるような笑顔に瞳の色と揃えた忘れな草色のローブがよく似合っている。

 これは世の魔女の皆様が夢中になる理由もわかるというもの。作家というよりも役者のようだとマーガレットは思った。

 

 とてつもなく大きな孔雀の羽根ペンをさらさらと動かし、これまた大きな丸文字のサインをロックハートは書き上げる。

 

「ありがとうございます。あの、今回の本もとても面白かったです」

「そうでしょうとも! しかし、私の冒険はたった一冊で語り尽くせるようなものではありません!」

 

 ロックハートの白い歯がカメラのフラッシュを浴びて輝いた。

 

「そして、私はさらなる功績を残すことでしょう!」

 

 紫色の煙がポッポッと上がる。日刊預言者新聞の記者は雄弁に語るロックハートの姿を何度も写真に収めていた。

 シャッターが切られるたびに、ロックハートは表情やポーズを変える。が、なにかに驚いたのか一瞬だけ気が抜けた表情になった。ブルーの瞳がじっと一点を見つめている。

 

「もしや、ハリー・ポッターでは?」

 

 ロックハートが立ち上がると人垣がパッと割れ、彼の前に道ができた。そして、その道の先にはマーガレットも知っているあの少年——ハリー・ポッターが立っている。

 ロックハートは列に飛び込むとハリーの腕を掴み、人々の前に引きずり出した。

 生き残った男の子と人気作家。魔法界では知らない者がいない二人の有名人が握手をすると自然と拍手が沸き起こる。

 

「みなさん」

 

 写真撮影がひと段落すると、ロックハートはハリーの肩に腕を回した。

 

「なんと記念すべき瞬間でしょう! 私がここしばらく伏せていたことを発表するのに、これほどふさわしい瞬間はまたとありますまい! ハリー君が、フローリシュ・アンド・ブロッツ書店に本日足を踏み入れたときには、この若者は私の自伝を買うことだけを欲していたのであります。——それをいま、喜んで彼にプレゼントいたします。無料(ただ)で——。この彼が思いもつかなかったことでありますが——」

 

 いったいなにを発表するつもりなのか。マーガレットはなかなか本題に入らない演説に耳を傾けていた。

 

「まもなく彼は、私の本『私はマジックだ』ばかりでなく、もっともっとよいものをもらえるでしょう。彼もそのクラスメートも、実は、『私はマジックだ』の実物を手にすることになるのです。みなさん、ここに、大いなる喜びと誇りを持って発表いたします。この9月から、私はホグワーツ魔法魔術学校にて、闇の魔術に対する防衛術の担当教授職をお引き受けすることになりました!」

 

 ロックハートがそう宣言すると聴衆の熱狂は最高潮に達した。割れんばかりの拍手の音が鳴り止まない。

 

「あのギルデロイ・ロックハートが新しい防衛術の先生?」

 

 一方、まさか目の前の作家が自分の同僚になるとはこれっぽっちも考えていなかったマーガレットは左肩の鴉と一緒にぽかんと口を開けていた。

 また波乱の一年が始まろうとしている——。




おかしい。この作品を書き始めた頃は金ローで賢者の石をやっていたのに、気づけば死の秘宝part2まで放送されてる……。


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第3話 Ford Anglia's Flying Circus

It's!


 1992年の9月2日。この日は朝からとにかく賑やかであった。なにせ、ふくろう便で赤い封筒が——「吼えメール」が届いたのだ。

 ウィーズリー夫人による息子とその友人へのお説教が大広間の石の壁に反響していた。

 

 

 

 新学期早々、なぜこのようなことになったのか。事の起こりは昨日まで遡る。

 昨日は9月1日。子供たちがキングス・クロス駅からホグワーツ特急に乗り込み、ホグワーツ城へと戻ってくる日である。だから、マーガレットも生徒たちを乗せる馬車を磨いたり、式典の準備を手伝ったりと忙しくしていた。

 

 ここまでは例年と変わらない一日であった。違うことといえば、昨年よりも余裕を持って身支度を終えたことくらい。

 だが、マーガレットが部屋でくつろいでいると一匹の猫が現れた。空中に佇む銀色の猫——これはマクゴナガル教授の守護霊だ。

 

「大変なことになりました。至急職員室まで来てください」

 

 わざわざ守護霊を使って招集が掛けられるなど、めったにないことだ。マーガレットが急いで職員室に向かうと、すでに多くの教授が集まっていた。

 いないのはこういった場にはまず姿を現さないトレローニー教授、ホグワーツ唯一の幽霊教師ビンズ教授、それと新しい闇の魔術に対する防衛術の教授であるロックハートくらいか。

 

「ミス・マノック、待っていました。これを見てくれませんか? こういったことはマグル学を教えるあなたが一番詳しいでしょうから」

 

 マクゴガナル教授から手渡されたのは今日の夕刊預言者新聞だった。一面の見出しには「空飛ぶフォード・アングリア、訝るマグル」と書いてある。

 どうやら首都ロンドンやイングランド東部のノーフォーク州、ボーダーズのピーブルズといった街の上空で空を飛ぶ青いフォード・アングリアが数名のマグルに目撃されてしまったらしい。

 

「ミス・マノック、確認です。マグルは空を飛ぶ乗り物も持っているそうですが、そのフォード・アングリア、ですか? それも空を飛ぶものなのでしょうか?」

「いえ、空を飛ぶ自動車はまだ発明されていません。ましてや、60年代に発売されたようなこの車なら、なおさら空を飛べるわけが……。まず、魔法が関係しているのは間違いないかと」

 

 マーガレットが所感を伝えるとマクゴナガル教授は口を真一文字に結んだ。ため息を吐いたり、頭を抱えたりしている教授もいる。

 この後始末に駆り出されるのであろう魔法省の職員や忘却術師のことを思えば、それはそれは大変なことになるだろう。が、どうしてホグワーツの教師たちがこの件に関し、これほどまでに心配しているのかがマーガレットにはわからない。

 

「マクゴナガル教授、このニュースがどうかしたのですか? その、この手の事件はまま在る事では……」

「えぇ、そうですね。ですが、これに乗っているのが我が校の生徒の可能性があるです」

「ホグワーツの生徒? たしかにこの車はロンドンから北へ、まるでホグワーツへと向かってきているようですが……。しかし、そもそも生徒たちは汽車に乗っているはずでは?」

 

 普通、ホグワーツ生はロンドン、キングス・クロス駅九と四分の三番線からホグワーツ特急に乗り込む。だから、今頃の生徒たちは汽車に揺られているはずだ。

 

「先ほど、ホグワーツ急行からふくろう便が届きましてな。差出人はグリフィンドールの監督生パーシー・ウィーズリー。なんでも汽車の中に弟とハリー・ポッターの姿がないと。はて、彼らはどこにいるのですかな」

 

 眉間に皺を寄せているマクゴナガル教授に代わって、スネイプ教授が答えた。彼は薄い笑みを浮かべている。

 マーガレットはもう一度夕刊預言者新聞に目を落とした。よくよく意識をして読めば、空飛ぶフォード・アングリアの目撃された場所がホグワーツ急行の線路が引かれた土地でもあることに気が付く。

 

「空飛ぶ車はホグワーツ特急を追いかけている? つまり、この年代物のフォード車にはホグワーツにたどり着きたい誰かが乗っている。だから、ホグワーツ特急に乗っていないミスター・ポッターとミスター・ウィーズリーがその誰かなのでは? と、いうことですね」

「ミス・マノックも吾輩と同じ結論にいたったようですな」

 

 他の教授たち概ね同意見のようで、あちらこちらから肯定の言葉が聞こえた。

 

「えぇ、考えれば考えるほどその推測どおりに思えてきます。ですが、今は彼らの到着を待つしかありません。話を聞かないことには、どう処罰すべきかも決められませんから」

 

 マーガレットはこの時ほど厳しい表情のマクゴナガル教授を見たことがなかった。そして、この時ほど意地悪い顔のスネイプ教授も見たことがなかった。

 

 

▼ ▲ ▼

 

 

 結局、マーガレットの推理は当たっていた。

 ホグワーツ急行に乗り遅れた二人の生徒は空飛ぶフォード・アングリアでホグワーツ城までやって来た。それも自分たちで運転してきたというのだから驚きだ。

 

 赤い吼えメールが真っ赤な炎となって燃え尽きるのを見届けたのち、マーガレットはホグワーツ城の外へと出た。天を仰げば、雲一つないような青空が広がっている。

 ネモは飼い主の肩を離れ、風に身を任せていた。黒い翼を大きく広げ、空を滑るように飛ぶ。

 今朝の騒々しさがまるで遠い過去になってしまったかのような、そんな清々しい朝だった。

 

 薬草学の温室まで来れば、目的地が見えてきた。昨夜、空飛ぶフォード・アングリアがぶつかったという「暴れ柳」まではもうすぐ。

 大きな柳の木の下には二人分の影があった。一人は小柄で継ぎはぎだらけの三角帽をかぶった魔女、もう一人はトルコ石色ローブを風になびかせている魔法使い。

 

「スプラウト教授、ロックハート教授。おはようございます。いい天気ですね」

 

 マーガレットが声をかけると二人の教授は振り向いた。

 ロックハート教授はこぼれるような笑みを浮かべている。陽光を浴び、白い歯がきらりと輝く。

 

 だが、もう一人の——スプラウト教授の顔を見て、マーガレットはどきりとした。なぜなら、普段は快活でいつも笑みを浮かべているような彼女が不機嫌な顔をしていたからだ。

 けれど、スプラウト教授はマーガレットの姿を見ると、すぐに頬を緩ませた。

 

「ミス・マノック、いいところに。『暴れ柳』に包帯を巻くのを手伝ってください」

 

 さすがは薬草学の教授(マスター)。スプラウト教授は恐れることなく木に近づき、彼女がコブに触れると「暴れ柳」は静まった。

 スプラウト教授の指示を受け、マーガレットは「暴れ柳」の枝に包帯を巻いていく。プレゼントボックスにリボンをかけるときのように丁寧に、丁寧に。

 

「あっという間に終わりましたね。おかげで私の出る幕がなくなってしまいました。私の知る『暴れ柳』の治療法をお見せできるかと思ったのですが」

 

 ロックハートは残念とでも言いたげな様子だった。

 

「以前、旅の途中で私はこのエキゾチックな植物と出遭ったことがあるのです!」

 

 あれはいついつ、どこどこでのこと。ロックハートが一人で語り続けるのを、マーガレットは後片づけの手伝いをしながら聞いていた。

 

「そういえば、ミス・マノックはどうしてここに?」

 

 巻き取った包帯を手渡した際、スプラウト教授からそんなことを聞かれた。

 

「その、例のフォード・アングリアを一目でも見られないかと思いまして。小さい頃、海を走り、空を飛ぶ不思議な車のお話を何回も見せてもらっていました。だから、空飛ぶ車には憧れがあるんです」

 

 少し恥ずかしそうに、と同時にどこか感慨深そうにマーガレットは語った。

 

「やっぱり魔法はすごいですね。まさか空飛ぶ車まで作れてしまうだなんて……」

 

 いつまでも魔法界は、ホグワーツはマーガレットにとって驚くべきことばかり。

 

「スネイプ教授がおっしゃっていたとおり、今ここにはあのフォード・アングリアはないようですね。でも、もう少し探してみようかと思います」

「悪戯好きの子供たちより、あなたが先に見つけてくれるのならば私たちにとっても安心です。ですが、空を飛んでいるところをマグルに見られてしまわないように気をつけてくださいね」

「もちろんです、スプラウト教授。わたしも車の運転はできませんので、勝手に動かすわけにはいきませんから」

 

 マーガレットはマグル育ちではあるが、それはあくまでも11歳までのこと。だから、彼女は運転免許を持っていない。

 そのため、空を飛ばしていなかったとしても、車を運転しているところをマグルに見つかってしまうわけにはいかないのだ。

 

「目立ちたいから車を飛ばすなど、もっての外ですとも! そんな方法で目を引こうなど、ハリーには困ったものだ。しかし、彼に有名になることへの味をしめさせてしまったのは私なのです。『有名虫』を彼に移してしまった。ですから、より有名である私からの助言がハリーには必要でしょう!」

 

 いつの間にか会話に参加してきたロックハートは笑顔でウィンクすると、「それでは、私はハリーと話さねば」と城に向かってすたすたと歩き出した。

 彼の姿が遠ざかるのを眺めながら、スプラウト教授はほっと息をつく。

 

「とても助かりました、ミス・マノック。では、私は授業がありますから。探し物が見つかるといいですね」

 

 スプラウト教授は使い切らなかった包帯を両手に抱え、温室へと向かっていた。

 教授の後ろ姿を見送り、マーガレットは空を見上げる。

 

「ネモ、おいで!」

 

 マーガレットが呼ぶと、ネモは彼女の左肩にふわりと舞い降りた。

 

「どう? フォード・アングリアは見つけられた?」

 

 ネモは首を横に振る。そして、まったくもってわからないとでも伝えたいのか首を真横に傾けた。

 

「そっか……。空からは手がかりも見つからなかったか」

 

 包帯でつるされた「暴れ柳」の枝が風でぶらぶらと揺れるのをマーガレットは眺めている。

 

「そういえば……」

 

 自分が憶えているもっとも古い記憶のことを思い出した。

 

「わたしもあんなふうだったな。頭も腕も包帯でぐるぐる巻きにされて。そっか、あの『暴れ柳』も自動車とぶつかったから——」

 

 「カーカー」とネモはマーガレットの耳元で鳴く。その鳴き声でマーガレットの思索は途切れた。

 

「あぁ、ごめんね。嫌なことを思い出しちゃった。そうだ。ネモは気づかなかったみたいだけど、わたしは消えたフォード・アングリアの手がかりを見つけたの」

 

 マーガレットは杖を足元に向ける。そして、わずかに残されたタイヤの跡を示した。

 

「『君はただ眼で見るだけで、観察ということをしない。見るのと観察するのとでは大違いなんだぜ』*1……なんて。ごめんね、ちょっと言ってみたかっただけ。それに、空高くからはこのタイヤ痕も見えなかったと思うから」

 

 少し機嫌を損ねた助手にお詫びのショートブレッドを与え、名探偵は推理を続ける。

 

「空飛ぶフォード・アングリアは『暴れ柳』にぶつかり、不時着した。その後、ミスター・ポッターとミスター・ウィーズリーを残し、フォード・アングリアは走り去る。そして、このタイヤ痕の方向には——『禁じられた森』」

 

 口いっぱいに頬張っていた菓子を飲み込んだからだろうか。ネモの喉元からごくりと唾を呑むような音が聞こえた。

 

「あとはネモが教えてくれたとおり、空からは何も見えなかった。なら、フォード・アングリアは隠れているのだと思う。例えば、木々が生い茂る深い深い森の中、とか」

 

 はっきりとした証拠はない。けれど、マーガレットは確信していた。空飛ぶフォード・アングリアは「禁じられた森」の中にあるのだと。

 

「ネモ、——」

 

 マーガレットが声をかけるよりも先に、ネモは飼い主の肩から飛び降りると翼を大きく広げた。まるで通せんぼしているようだ。

 マーガレットが一歩前に進むと、今度は胸を張ってさらに翼を大きく見せようとする。その様子を見て、マーガレットはふっと笑った。

 

「ネモ、城に帰ろうか。大丈夫だよ、わたしがフォード・アングリアを探しに『禁じられた森』へと行くんじゃないかって、心配してくれたんだよね」

 

 マーガレットはネモを抱き上げると、何度も頭を撫でる。

 

「いい子いい子。ありがとうね」

 

 「暴れ柳」にくるりと背を向け、ホグワーツ城に向かって歩き始めた。ネモはマーガレットの腕の中で飼い主の青い瞳をじっと見上げている。

 

「わたし、『禁じられた森』で襲われたんだよね? だから、またそんなことがあったら大変でしょ? それに——」

 

 記憶を消されたため、マーガレット自身はよく憶えていない。だが、自分がネモを探しに向かった先である人物に襲われたこと、そして、その人物が誰であるのかは知っていた。

 だから、その人物がもうホグワーツにはいないこともわかっている。ならば、再び襲われてしまうのではとマーガレットが怯える必要はないはずだ。

 けれど、——。

 

「それに、わたしが困ったときにいつも助けてくださっていたクィレル先生も今はいらっしゃらないから、ね。わたしは先生に甘えてばかりで……」

 

 彼女の敬愛する恩師ももうホグワーツにはいない。

 

「ネモ、どうしたの? そんな顔して。大丈夫、心配しないで。だって、ハロウィーンの夜にトロールと戦ったり、真夜中の『禁じられた森』で襲われたり。それから、例のあの人に殺されかけただなんて、そんな一年が二度もあるわけないでしょう?」

*1
コナン・ドイル『シャーロック・ホームズの冒険』より




And Now...


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第4話 ギルデロイ・ロックハートという作家

切りが良いところで分けてしまいましたが、当初は前回の第3話と今回の第4話が一つのお話になるつもりで書いていました。
ですので、今回は短めです。


 その午後、マーガレットはロンドンの実家から送ってもらったタブロイド紙を読んでいた。普段ならば手に取らないような大衆紙だが、今日はどうしてもこういった新聞で探したい記事があったのだ。

 

「ロンドン上空に未確認飛行物体。目撃者は語る——車が空を飛んでいた!」

 

 マーガレットのお目当ての記事は、嘘か本当かわからないようなゴシップばかりを集めたタブロイド判の新聞に載っていた。タイムズやデイリー・テレグラフのような高級紙ならば、まず扱わないようなニュースだ。

 

 この未確認飛行物体の一件は、ネス湖の怪獣——世にいうネッシーというのはマグルがつけた名前で、実際には世界最大のケルピーだそうだ——が再び目撃された()()()という記事の下に数行程度でまとめられていた。

 その扱いを見るに、この記事を書いた記者はまさか本当にフォード・アングリアが空を飛んでいたとは思ってもいないようだ。

 

「夕刊預言者新聞にはマグルに目撃されたとあったけど、これなら心配いらないか。UFOの目撃談なんて、それこそよくある話だし」

 

 未確認飛行物体がどうとか、宇宙人がどうとか。そういった話題はいつでも、どこでも尽きないもの。マーガレットだって、クィレルと出会うまでは魔法使いの実在よりも宇宙人の存在の方を信じていたくらいだ。

 つまり、マグルにとっては今回の一件もそれくらいにありふれた出来事。いったいどれだけの人間がこの事件を本気にするというのか。

 

 新聞と一緒に届けられた祖父からの手紙には、「この新聞社が真実を報じるのは初めてではないか」と書かれていた。いくらなんでもそこまで信用のない新聞もあるものなのか。

 だが、マーガレットよりもよっぽど長くマグルの社会で生活している彼がそう言っているのだから、きっとそういうものなのだろう。

 

 マーガレットは新聞を閉じ、ほっと一息つく。

 頭も使ったことだし、なにか甘いものが食べたい。時計を見れば、午後のティータイムにはちょうどいい時間だ。

 淹れたての紅茶をカップに注ぐと、ベルガモットの華やかな香りが研究室いっぱいに広がった。今日のおやつはバターの風味が濃厚なショートブレッドなのだが、これがまた紅茶とよく合う。

 ついつい手が止まらなくなった。赤いタータンチェックの柄の箱をもう一つ取り出し、紅茶をもう一杯淹れる。

 だが、ショートブレッドを摘み上げて口に運ぼうとしたまさにその時、コンコンという扉をノックする音が聞こえた。

 

「開いてます。どうぞ——」

 

 「——お入りください」とマーガレットが言い終わらぬうちに、来訪者はずかずかと部屋の中に入ってくる。やってきたのは波打つようなブロンドヘアの男。

 

「私です。ギルデロイ・ロックハートです!」

 

 ロックハートはマーガレットの目の前まで来ると、ひらりとローブの裾を翻した。

 

「ロックハート教授? その、どうかなさいましたか?」

 

 ロックハートの突然の来訪にマーガレットは驚きを隠せない。ネモと一緒に青い瞳を丸くしている。

 

「喜ばしいことでしょう。こうして日に二度も私に会えたのですから! その熱い視線を見ればわかりますとも。あなたも私のファンだということが」

 

 そう言ってロックハートはウィンクした。彼の言動は自分自身への絶対的な自信に満ちている。

 

「マノック教授は幸運の持ち主ですね。なにせ、私に会いたがっているファンは多くいますから。今朝、ふくろうが運んできたものは『吼えメール』だけではないのですよ。私宛のファンレターも多く届けられました。私の教師としての輝かしい功績を早く読みたい。次のサイン会が楽しみだ、と。この私を待っているファンはごまんといます。しかし、マノック教授はいつでも——もちろんプライベートな時間は除きますが——私に会える。これもあなたが私と同じく、ホグワーツの教師だからこそ。ですから、そんな同僚であるマノック教授に少々手伝っていただきたいことがあるのですよ。実は困ったことになりまして……」

 

 ロックハートが考えているほどマーガレットは彼の熱烈なファンではない。だが、ともにホグワーツ魔法魔術学校で働く教師ではある。

 

「困ったこと、ですか。わたしでよければお手伝いしますよ。少しはお力になれるかと思います」

「ありがとう。では、防衛術の教室に来てください!」

 

 肝心の用件についてはなにも言わないまま、ロックハートはその身を翻した。そして、振り返ることなく、つかつかと歩き出す。

 マーガレットは持ったままだったショートブレッドを口に詰め込むと、杖を一振りしてティーセットを片付けた。

 そして、作家のマシンガントークにあてられてポカンとしているネモを小脇に抱え、彼のことを追いかけた。

 

 

▼ ▲ ▼

 

 

「これは……。いったい、どうしてこんなことに?」

 

 防衛術の教室でマーガレットたちのことを待っていたのは、まさに惨状とでも呼ぶべき光景だった。

 何枚もの窓ガラスが割れ、破片があちこちに飛び散っている。それに壁や床には黒いインクが振りまかれ、破られたノートの切れ端まで散らばっていた。

 そして、天井にぶら下がっていたはずのシャンデリアがなぜか床に落ちている。

 

「ピクシー小妖精の取り扱い方を教えようとしましたら、ちょっとしたパニックになってしまいましてね。たかがピクシーですが、生徒たちには刺激が強かったようで」

 

 そう言いながら、ロックハートは籠の中のピクシーを指差した。甲高いキーキー声がマーガレットの鼓膜を震わせる。

 

「なるほど、ピクシーが原因でしたか」

「えぇ、そうなのです! やつらは上へ下へと縦横無尽に飛び回りました。窓が割れてガラスの雨が降り注ぎ、本やノートの引き裂かれたページがあちこちで舞い上がる。もちろん私はピクシーを捕まえようとしましたが、その矢先に頭上からシャンデリアが落ちてきたのです! ですが、今まで数々の偉業を成し遂げた私にはどうということはありません。咄嗟の判断で机の下に潜り込み、事なきを得ましたとも。しかし、私がほんの少し気を取られている隙に、この小悪魔たちは悪戯を続けたのです。おかげで私一人ではどうしようもないほど物は壊され、教室も荒らされてしまいました」

 

 たしかにピクシー妖精はその小さな見た目とは裏腹に、MOM分類もXXXと有能な魔法使いのみが対処するべきで決して無害な生き物ではない。

 とはいえ、ギルデロイ・ロックハートはトロールとともに旅をしたこともあるような腕利きの魔法使い——であるはず——だ。その彼がピクシー相手にここまで苦戦するとは。

 

「こういった魔法生物の扱いは、ロックハート教授ならお手のものだと思っていました。ピクシーも意外と侮れない生き物なんですね」

「ええ、普段の私ならば一切れのケーキ(Piece of cake)を食べながらでも、ピクシー妖精を一匹残らず捕まえることができますとも。ですが、今の私にはある問題が……」

 

 ロックハートは額に手を当て、大袈裟にため息をついた。そして、たっぷりと間を取ってから彼は再び口を開く。

 

「杖がないのです!」

「杖が? ですか?」

「そう、杖がないのです! なんと一匹の恐れ知らずなピクシーが私の手から杖を奪い去り、窓の外へと投げてしまったのです! ですから、私は自分の杖を——ちなみに私の杖は桜の木で、芯はドラゴンの心臓の琴線のわずかに曲がるものですが——探しに行かなければなりません。しかし、教室はこの有り様。明日も授業はあるというのに、これは由々しき事態です。ですので、初めは管理人のフィルチさんに教室を片付けておいてくれと頼みました。しかし、彼は『お前は魔法を使えるだろう』と話を聞いてはくれません。今は杖がないから、魔法が使えないというのに! そこで、マノック教授に一つ頼み事が」

 

 輝くブルーの瞳をマーガレットに向け、ロックハートはふっと笑った。唇の隙間からは白い光が溢れる。

 これが週間魔女のチャーミングスマイル賞を五度も取った男の、魔女すら魅了する笑み。

 

「マノック教授には私の代わりに、この教室を元に戻しておいてほしいのです!」

「杖はすぐにでも見つけに行かないとですよね。わかりました。修理やお掃除は得意ですからお任せください」

「ありがとう。お礼に私がサインした『私はマジックだ』を差し上げましょう」

「あ、その本はもう……」

 

 マーガレットはロックハートの著作をすでに集めているし、『私はマジックだ』に関してはサイン入りのものを持っている。

 とはいえ、作家先生は教卓の上に置かれたままだった本——幸いにもその本はピクシーの被害を受けていなかった——を開くと、とてつもなく大きな孔雀の羽根ペンを取り出した。

 

「今朝の貴方の働きぶりを思い出し、私はこう考えました。マノック教授ならばこの教室を元通りにしてくれるだろうと。それに、この教室の片づけは前にもしたことがあるそうですね」

「たしかにそうですが……。あの、どこでその話を?」

 

 闇の魔術に対する防衛術が新しい教授を迎えるにあたり、彼女が知らないうちにホグワーツを去ってしまった前任者の荷物を片づけたのは他でもないマーガレットだ。

 だが、ロックハートは少し前にホグワーツに来たばかり。だから、彼はその一件も、あの噂話も知らない——はずなのだが。

 

「マノック教授が前任の防衛術の教授と特別親しかったと耳にしたものですから。なんでも自ら志願したそうですね。いえ、未練がましいなどとは思いませんよ。忘れられない思いとは、なんとも感動的ではありませんか。もし私が恋愛についての話を書くことがあれば、一つ参考にさせていただきましょう」

 

 マーガレットは自分の顔が熱くなるのを感じた。きっと鏡を見れば、そこには熟したリンゴのように真っ赤な顔をした自分がいたことだろう。

 あの噂の有用さもわかってはいるが、ここまで広まっていてはさすがに訂正もしたくなる。

 

「ロックハート教授は少々誤解なさっています! たしかにクィレル先生にはとてもお世話になりましたが、それは皆さんが考えているような——」

「隠す必要はありませんとも。私は作家です! ですから、人から話を聞き出すのは得意なのですよ。そして、それこそがベストセラーを生み出す秘訣ですとも」

 

 マーガレットへなかば押し付けるように本を渡すと、ロックハートはさっさと教室から出て行ってしまった。

 

「作家には変わった人が多いって聞いたことがあるけど、ロックハート教授もそうみたい。ネモもそう思うよね?」

 

 飼い主の腕の中で青い目の鴉も頷く。

 人から話を聞きだすのは得意だと言っていたが、人の話をあまり聞いてはいないのではないか。ロックハートに対し、マーガレットはそう思った。




ありがたいことに、評価の投票を100件もいただくことができました。
まさかこれほど多くの方に読んでいただけるとは、おまけにこれほど多くの高評価をいただけるようになるとは思ってもいませんでした。
評価や感想、お気に入りの数にここすきなど、その一つひとつが励みになります。本当にありがとうございます。そして、これからもどうぞよろしくお願いいたします。


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第5話 「継承者の敵よ、気をつけよ」

Back to Hogwartsの日に帰ってこれました。


——眠れるドラゴンをくすぐるべからず。

 

 いわずと知れたホグワーツ魔法魔術学校のモットーである。そして、マグル学の教授にも代々似たような言葉が伝わっていた。

 

——管理人を怒らすべからず。

 

 マグル学を教える者としてホグワーツ城で悠々と働きたいのならば、真っ先にうかがうべきは校長の意向でも、理事会の顔色でもない。ホグワーツ魔法魔術学校の管理人——アーガス・フィルチ氏の機嫌である。

 いつ、誰が言い始めた言葉なのかはわからない。だが、いたずら仕掛け人(マローダーズ)の伝説を見ていたシカンダー元教授もニンファドーラ・トンクスとその友人たちの活躍を聞いていたクィレル前教授もその教えの意味を知っていた。

 だが、この言葉の重要性を一番よく理解しているのは現マグル学教授のマーガレットだろう。

 

 

 

 その日、マーガレットはフィルチの事務室にいた。部屋の中は彼がホグワーツの生徒たちから没収した品々で溢れている。ゾンコの「いたずら専門店」で売っているような悪戯道具もあれば、マグルの生徒が持ち込んだのであろう玩具もあった。

 学生時代には幸いなことにまったくといってもいいほど縁がなかった場所である。だが、教師となってからは何度ここを訪れたことだろうか。マーガレットの記憶力をもってしても正直あいまいである。

 

「くそっ、これをあいつらに貸しただと……」

 

 そうぶつぶつと呟きながら、フィルチは黒い羽根ペンを動かしていた。そして、ときおりマーガレットのことを憎らしげに眺めるのである。

 今日の管理人は非常に機嫌が悪い。薄汚い部屋の中で唯一ピカピカに磨き上げている手枷や鎖にいつ手をかけてもおかしくないくらいに機嫌が悪かった。

 

——管理人を怒らすべからず。言うは易く行うは難し。

 

「どうして教授はこんなものをあいつらに渡したので?」

 

 マーガレットは気まずそうに視線を下げる。フィルチの机の上には二足のローラースケートが置かれていた。これこそが管理人の機嫌を損ねてしまった原因だ。

 

 このローラースケートはマーガレットがマグル学の教室で管理しているものである。そして、つい数日前にウィーズリー家の双子に貸していたものであった。

 それが今この場所にあるということは、つまりはあの双子がフィルチの怒りを買って結果として没収されてしまったということだ。

 

「彼らに貸してほしいと頼まれてしまいまして……」

「あいつらがなにか企んでいるとは考えなかったのか?」

「その、考えていなかったんです。その時は……」

 

 管理人殿のご指摘はごもっともである。かの兄弟の悪戯好きを知っていれば迂闊としかいいようがない。

 だが、あの時のマーガレットはこれっぽっちも疑っていなかった。それどころか、喜んでこの二足のローラースケートを貸したのである。

 

 

▼ ▲ ▼

 

 

 ことの発端は一週間ほど前にさかのぼる。その日の授業を終え、独り教室の片づけをしているときに彼らは現れた。

 

「よう、マノック先生」

「お邪魔するよ」

 

 ときおり、フレッド・ウィーズリーとジョージ・ウィーズリーはこうしてマグル学教室にやってくる。彼らはマグルの道具に興味があるらしく、ふらりと教室に現れてはあれこれ手にとって遊んでいた。

 おそらくは彼らの父、アーサー・ウィーズリー氏の影響なのだろう。ある時ふと兄弟が教えてくれたのだが、ハリーとロンが乗ってきた例の空飛ぶフォード・アングリアの持ち主はウィーズリー氏で、あれが空を飛ぶように改造したのも彼の手によるものだそうだ。

 

「先生、しばらくこれを貸してくれない?」

 

 フレッドとジョージはローラースケートを手にしていた。悪戯が多いからと棚の奥にしまっていたはずだが、彼らはいつの間にか見つけてしまったようだ。

 

「この教室の中で遊ぶのは構いませんが、その、外に持ち出すのは……」

 

 量産品のなんの変哲もないようなローラースケートとはいえ、歴代のマグル学教授たちが集めた貴重なコレクションのひとつである。生徒たちを信頼していないわけではないが、万が一紛失ということがあっては前任者たちに顔向けができない。

 

「そこをなんとか!」

「実はクィディッチの練習に使おうと思っているんだ」

「クィディッチの練習にですか?」

 

 クィディッチといえば箒にまたがり、空を飛んで行うスポーツだ。だから、陸を滑って遊ぶローラースケートがどのように練習へと生かされるのか。

 マーガレットにはいまいちピンとこない。

 

「クィディッチが好きなマノック先生なら聞いただろ。スリザリンの奴ら、マルフォイの父親にお揃いのニンバス2001を買ってもらったんだぜ。悔しいけれど、僕たちの箒よりも性能がいいのはたしか」

「だからこそ、練習でその差を詰めないといけないのにピッチも使われてばっかり」

 

 スリザリン・チームが最新型の箒を揃えたというのはすでによく知られた話だ。それに、練習場所を巡ってグリフィンドールとスリザリンの間でいざこざが起きているとも聞く。

 グリフィンドール・チームは二年連続のクィディッチ杯を目指しているし、スリザリンは昨年度の雪辱を果たすことに躍起になっている。例年以上にこの二寮の間では熱い火花が散らされていた。

 

「だから、これを貸してもらいたいんだ。これならピッチが使えなくても練習ができるから」

 

 そんなことを話しながら、双子は靴紐を固く結ぶ。そして、慣れた様子で教室の机と机の間を縫うように滑っていた。

 

「ビーターは息を合わせることが重要。だから、例えばこうやって。いくぞ、ジョージ!」

 

 フレッドは飾ってあったバスケットボールを滑りながら手に取ると、ジョージに向かって投げた。すると、ジョージが持ち込んだクラブでボールを打ち返す。

 そうやって、二人はしばらくラリーを続けていた。初めはボールがどこに飛んでいくのかを冷や冷やとしながら見守っていたマーガレットであったが、次第に双子の息の合ったプレーに魅了されていた。

 

 なるほど、これならばローラースケートでもクィディッチの練習ができるだろう。様々な悪戯をやってきたというだけあり、彼らの創造力や行動力には目を見張らされる。

 

「たしかにいいアイデアです。それに、クィディッチの練習にもマグルの玩具が使えるだなんて素敵ですね」

「先生もそう思うだろう? だからさ、グリフィンドールの優勝のためにも力を貸してくれよ」

「スリザリンの奴らをあっと言わせてやりたいんだ」

 

 こうしてマーガレットはあのウィーズリーの双子に二足のローラースケートを貸してしまったのであった。

 それから一週間もたたないうちに、ローラースケートにロケット花火を取りつけて校内を暴走する二人の姿を見ることになるとは、まさかこの時は思っていなかったのである。

 

 

▼ ▲ ▼

 

 

「それで、あなたがあの管理人の代わりに掃除をやっているってわけ」

 

 デッキブラシ片手に黙々と床の掃除を続けるマーガレットを見下ろし、「嘆きのマートル」はにやりと笑う。ホグワーツの教授ともあろう者がこうして罰則を受けているのが面白くてたまらないのだろう。

 

「わたしもこのホグワーツ城には長くいるけど、フィルチの言いなりになっている教授を見るのは初めてね」

「これも没収品を返してもらうためです」

 

 二度と同じような悪戯をされないよう、フィルチは没収したローラースケートをマーガレットに返したがらなかった。彼の怒りはもっともだし、その責任の一端はマーガレットにもあるのだから仕方がないことだろう。

 とはいえ、マグル学の貴重な教材をあの薄汚れた管理人室で埃をかぶらせておくわけにはいかない。

 そこで、フィルチに何度も頭を下げ、彼の仕事を手伝う代わりに例のローラースケートを返してもらえることになった。

 

「でも、わざわざハロウィーンの日に罰則を行うだなんて。あの管理人って本当に性格が悪いわね。甘いお菓子が大好きなマノック教授、急がないとパーティーに遅れちゃうわよ」

 

 三階の女子トイレを水浸しにした犯人はまるで他人事のようにマーガレットをからかう。思わず何か言い返してしまいそうになるが、マートルの言うようにこのままではパーティーの始まる時間にぎりぎり間に合うかといったところ。

 ここはぐっと堪え、マーガレットはブラシをモップに持ち替えた。そして、今度は床に広がった水を吸い取っていく。

 

「マーガレット、あなたももう先生なんだから魔法でさっさと片づければいいんじゃない?」

「いえ。フィルチさんとの約束は魔法を使わずに、でしたから」

 

 アーガス・フィルチがいかなる罰則でも魔法を使わせないのは有名な話だ。彼は魔法を嫌っている。恐らく、それは彼が——。

 

「フィルチさんとはなるべく友好な関係を築いておきたいので、そのためならばこれくらいの手間は惜しみません。もし、また今回のことのようなことがあったとき、交渉もできないとなると困ってしまいますから」

 

 だからこその管理人を怒らすべからず。今回はなんとか返してもらえることになったが、没収されたままの物だってたくさんあるのだ。

 

「さて、あとは……。ネモ、水遊びはもうおしまい」

 

 飼い主がせっせと働いているのを横目に、洗面台で沐浴を楽しんでいた大鴉(レイブン)は体を大きく震わせた。そのせいで飛び散った水滴をマーガレットはさっとふき取る。

 懐中時計を開けば、ハロウィーン・パーティーはこれから始まるといったところだった。マートルが絶命日パーティーに行くからと先に姿を消したときには間に合わないかとも思ったが、今から向かってでも遅くはない。

 

 洗面台の割れた鏡をのぞき込み、マーガレットは髪を整える。そして、魔法でローブの汚れを取り払ってから大広間へと向かった。

 

 

▼ ▲ ▼

 

 

 かぼちゃのランタンで飾りつけられた大広間に生徒たちが続々と流れ込んでいく。だが、その入り口に猫を抱きかかえた一人の男性が立っていた。

 マーガレットに罰則を科したその人、アーガス・フィルチだ。

 

「マノック教授、掃除は終わりましたかな」

「もちろんです。かなりきれいになったと思いますよ。……マートルが泣きださない限りは」

 

 フィルチはふんと鼻を鳴らした。彼の腕の中のミセス・ノリスはじとっとした目でマーガレットのことを見ている。これは——疑いの目だ。

 ミセス・ノリスはするりと飼い主の腕を抜け出すと、マーガレットの脇をすり抜けて人混みに紛れていった。

 

「教授がちゃんと働いてくだすったかは、ミセス・ノリスが見てくるさ」

 

 ミセス・ノリスが審査官とはずいぶんと厳しいジャッジになりそうだ。けれど、ちょうどマートルは絶命日パーティーに出席していて、あのトイレにはいない。

 ということで、ミセス・ノリスにも今日のマーガレットの仕事ぶりは満足していただけることだろう。

 

「あのマグルのくだらない玩具はわたしの部屋にある。パーティーのあとにお返ししよう」

「ありがとうございます! フィルチさん」

 

 ホグワーツの管理人殿と多少は友好な関係を築けているのだろうか、とマーガレットは思った。

 

 

 

「ホグワーツのハロウィーン・パーティーは今年も最高です!」

 

 心配事が解決したからか、または一仕事終えたあとだからか。この日のマーガレットの食欲はいつも以上に旺盛だった。

 パンプキンパイをぺろりと平らげたのを皮切りに、次はタルトにアイスにプリンと彼女が手にしたフォークとスプーンは一向に止まる気配がない。

 そして、その飼い主と同じ量を青い目の鴉も一緒になって食べているのである。

 

「マノック教授は……よく食べられるのですね」

「はい、甘いものは大好きですから!」

 

 あのロックハートもさすがにマーガレットの食べっぷりには張り合えないようだった。

 

「ミス・マノック、それでは余計に失恋の悲しみを食で癒しているように見えますぞ」

 

 スネイプ教授のちくりとした物言いがマーガレットはどうも苦手である。けれど、彼はあの決闘騒動の真相を知っているうちの一人だ。

 その忠告がただの嫌味ではないことは十分に伝わった。

 

「そうですね。これ以上あれこれと噂されたくないですから、わたしも気をつけます。でも、そんなふうに言われてしまうと、かえって去年のことを思い出してしまいますよ」

 

 ちょうど一年前はあのトロールの一件があった日だ。城中が大騒ぎとなった去年に比べれば、今年のハロウィーンは和やかで、パーティーもしめやかに終わろうとしていた。

 

 満腹になった子供たちが寮へと帰ろうとする。談笑する教師たちもそのあとに続く。誰もかれもが、この楽しいハロウィーンの夜を過ごしていた。

 誰かが「継承者の敵よ、気をつけよ!」と叫ぶその時までは——。

 



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第6話 決闘クラブへようこそ

バトル回()


秘密の部屋は開かれたり

継承者の敵よ、気をつけよ

 

 石になったミセス・ノリスとともに見つけられたこの言葉は、たちまちホグワーツの話題の中心となった。どうしてフィルチの飼い猫が襲われたのか、誰が——どうやら第一発見者のハリー・ポッターが疑われている——犯人なのか。今日も廊下で、図書室で、大広間で生徒たちのひそひそと噂し合う声が聞こえる。

 

 そのようなこともあり、あのハロウィーンのあとのアーガス・フィルチはますます気難しく、ますます怒りっぽくなっていた。件の現場を行ったり来たりしては壁の血文字を落とそうと血眼になり、そうでないときは校内の廊下を隅々まで徘徊し、生徒にいちゃもんをつけては処罰に持ち込もうとする始末である。

 そして、マーガレットもまだ例のローラースケートを返してもらえずにいた。ハロウィーン・パーティーのあとはそれどころではなかったし、今声をかけたところで彼の機嫌を損ねることは目に見えている。

 管理人を怒らすべからず。わざわざ眠れるドラゴンを起こしにいくこともないだろう。

 

 それに、マーガレットにはフィルチがあそこまで追い込まれてしまう気持ちというのも少しわかるのだ。ホグワーツのありとあらゆるものを嫌い、そしてありとあらゆるものに嫌われた管理人であるが、そんな彼が唯一心から愛しているのがミセス・ノリスなのである。

 もし、己の半身のような存在の大鴉(レイブン)があの雌猫と同じ目にあったとしたら。果たして自分は冷静でいられるのだろうか?

 

 石像のように医務室のベッドに鎮座するミセス・ノリスの姿を見ると、マーガレットはそんなことを考えずにはいられない。左肩にのるネモの頭をそっと撫で、杖を片手にゆっくりと立ち上がる。

 

「——花よ(オーキデウス)!」

 

 色とりどりの花束をサイドテーブルに置かれた花瓶にさす。これが誰かの慰めにならないことも、結局は自己満足でしかないこともマーガレットもわかっている。けれど、ミセス・ノリスの少しでも早い回復をこうして願わずにはいられなかった。

 

「また元のミセス・ノリスにお会いできる日を楽しみにしています」

 

 マーガレットはミセス・ノリスの冷たい体を撫でる。飼い主以外にはまず懐かないこの猫に触れられる日がくるとは。

 

 特別にお見舞いを許してくれたマダム・ポンフリーに挨拶をし、マーガレットは医務室をあとにする。元のミセス・ノリスと再会するまでに、何度も花を生けることになるだろう。

 というのも、ミセス・ノリスを蘇生させるための薬を作るにはマンドレイクの成長を待たなければならない。そして、現状それ以外に蘇生できる方法がないというのだ。

 

 石になったミセス・ノリスが発見されたあと、ホグワーツの教授たちはそれぞれの知恵を出し合い、なにが起きたのかを突き止めようとした。

 だが、今まで多くの呪い破りを送り出してきた数占い学のベクトル教授もこの現象にはお手上げであったし、変身術のマクゴナガル教授からはこれが呪文によるものだとすれば、学生が扱えるようなものではないとの意見だった。マーガレットもマグル学の立場から見た者を石に変える能力があったというメデューサの神話を紹介したが、魔法生物飼育学のケトルバーン教授によるとそれと関連するような魔法生物は思いつかないとのことだ。

 また、闇の魔術に対する防衛術のロックハート教授も色々と自身の経験について語ってはいたが、「マンドレイク回復薬」以外にこの騒動を収めるすべを知っているようではなかった。

 

 これがただの悪戯であるわけがない。あの夜、職員室に集まった誰もがそう思ったはずだ。

 ()()アルバス・ダンブルドアに「最も高度な闇の魔術をもってしてはじめて……」とまで言わしめたのだから。

 となると、気になることは一つ。

 

——秘密の部屋は開かれた

 

 会議が終わったあと、マーガレットは足早に自室へと帰った。そして、本棚から一冊の本——ホグワーツの歴史を引っ張り出す。

 恩師とともに訪れた初めての魔法界で買った本。入学前に何度も何度も読み返していた思い出の一冊だ。

 すでに眠そうなネモを膝にのせ、マーガレットはページを繰る。もうずいぶんと夜も更けていたが、それでもあの「秘密の部屋」の伝説を確かめずにはいられなかった。

 

 ホグワーツ魔法魔術学校は偉大なる四人の魔女と魔法使いによって創設された。勇猛なるゴドリック・グリフィンドール、慈愛深きヘルガ・ハッフルパフ、聡明にして沈着なロウェナ・レイブンクロー。そして、残る一人がサラザール・スリザリン。

 始めの数年間、創設者は和気藹々と若き魔法使いたちの教育にあたっていたそうだ。だが、学び舎の門戸が広く開かれていくと、彼らの中で意見の相違が生まれた。ホグワーツには選ばれた生徒のみが入るべきだと、魔法教育は純粋に魔法族の家系にのみ与えられるべきだとスリザリンが主張したのだ。

 これによりスリザリンと他三人の創設者との溝は深まる。とくに、彼と親友であったグリフィンドールとの仲は修復できないまでとなり、その結果としてスリザリンはホグワーツを去ることとなった。

 

 そのスリザリンが人知れずホグワーツに残したとされるのが「秘密の部屋」。どこにあるのかも一切不明。歴代の校長ですらもその秘密の場所を突き止めることができずにいる。

 伝説によれば、「秘密の部屋」には恐怖——なんらかの怪物だと信じられている——が封じられていて、その扉を開くことができるのはスリザリンの真の継承者だけ。

 

——継承者の敵よ、気をつけよ

 

 こうしてミセス・ノリスが襲われた今、恐るべき脅威がホグワーツに解き放たれたということだろうか。しかし、「秘密の部屋」の存在は伝説とされている。

 この魔法界の長い歴史を知るビンズ教授ですら、これは神話であって作り話なのだと一蹴することだろう。それくらいに「秘密の部屋」というのは実態のないものなのだ。

 

 だが、マーガレットは思う。ドラゴンがいて、アーサー王伝説の大魔法使いマーリンも実在し、空飛ぶ車まであるような魔法界でなぜ「秘密の部屋」だけはあるはずがないといえるのだろうか。

 

 

▼ ▲ ▼

 

 

 そして、再び事件が起きる。

 グリフィンドールとスリザリンのクィディッチがあった翌日の朝、職員室に集められた教授たちを前にダンブルドアは「『秘密の部屋』が再び開かれた」と言った。

 今度の被害者はグリフィンドールの一年生。コリン・クリービーというマグル出身の少年だ。彼がカメラ片手に、ハリーの追っかけをしている姿はマーガレットも見かけたことがある。

 

「あの文章にあった『継承者の敵』というのは、サラザール・スリザリンがこのホグワーツにいるべきではないとした者たちのこと。つまり、そのように解釈しろと?」

 

 バスシバ・バブリング古代ルーン文字学教授の確認に、ダンブルドアはしかりと答えた。薄々勘づいていた理由とはいえ、なぜあの少年が石にならなければなかったのかと思うとマーガレットは悔しさを感じる。

 スリザリンはマグル生まれの魔法使いがホグワーツに入学することをよしとしなかった。そして、コリンはその非魔法界の出身である。だから、彼は「継承者の敵」として狙われた。

 それに、ミセス・ノリスもそうである。ミセス・ノリスはアーガス・フィルチ(スクイブ)の飼い猫。魔法族生まれのマグルであるフィルチのことを継承者はどう考えるのか?

 その疑問の答えこそがハロウィーンの夜にマーガレットが目にしたものなのだ。

 

 

 

 管理人の飼い猫に続き、一人の生徒が襲われたというニュースは瞬く間に学校中に広まった。一年生は塊となって校内を移動するようになり、一人になれば襲われてしまうのではないかと怯えている。

 とくにマグル出身の子供たちが感じているのであろう恐怖というのは計り知れないもので、彼らのことを思うとマーガレットは胸が痛んだ。つい数か月前までは初めて体験する魔法の世界に目を輝かせていた彼らだが、今ではその顔に暗い影を落としている。

 

 なにか生徒たちを元気づけるようなことができないだろうか。例えば、毎年行っているペットパーティーを今年は時期を早めて実施してみるとか。愛らしい魔法生物たちと甘いお菓子があれば彼らも少しは笑顔を取り戻してくれるだろう。

 

 だが、マーガレットが計画を立て始めたのと時を同じくして、ある男が動き出していた。

 

「ですから、『決闘クラブ』を開催いたしましょう!」

 

 休み時間の職員室でギルデロイ・ロックハートは高らかに宣言する。

 

「生徒たちに自らを護る術を伝授するのです。闇の力に対する防衛術連盟名誉会員の私から決闘の極意を直に学べる。これは大いに役に立ちますとも」

 

 大仰な身振りを交えながら、いかに自分の主催する決闘クラブが素晴らしいのかについて語るロックハートの姿をマーガレットは遠巻きに眺めていた。

 

「決闘クラブですか……。そういえば、フリットウィック教授は決闘チャンピオンでしたよね」

「それは昔の話ですとも。もうすっかり腕もなまってしまいましたよ」

 

 この生徒思いの人がいい寮監がかつて決闘チャンピオンだったと聞いたときには、マーガレットもずいぶんと驚かされた。だが、彼の今でも無駄のない杖捌きや呪文選びの正確さを知れば、それも納得である。

 

「ダンブルドア校長先生、ぜひとも決闘クラブ開催の許可を」

「ギルデロイ、それは面白そうな案じゃな」

 

 ダンブルドアはそのブルーの瞳を三日月形に細めた。

 

「ホグワーツ魔法魔術学校の校長として、わしは決闘クラブの開催を認めよう。じゃが、ギルデロイだけではクラブに集まった生徒全員に指導してやるのは難しいじゃろう。そこで、助手を立てることをわしはすすめようと思う」

「助手ですか! たしかにそれはよいアイデアですね!」

 

 どうやらロックハートが熱弁したかいもあり、決闘クラブの話はうまくまとまったようだ。あとは助手が必要とのことだが、それなら適任がここにいるのではないか。

 マーガレットは先ほどまで会話していたフリットウィック教授の方を向いた——のだがいない。いつの間に、と小首を傾げる。

 

「マノック教授、私の話は聞いていらっしゃいましたか? この度、決闘クラブを開催することとなったのです」

「はい。その、ロックハート教授の声はよく聞こえますから。えっと、とても面白そうですね」

 

 ロックハートに突然話しかけられ、マーガレットは驚く。まさか、自分に声をかけにくるとは考えてもいなかった。

 そして、なんとなく嫌な予感がする。

 

「そうでしょうとも、そうでしょうとも! 私の数々の冒険の中であった戦いについて知る読者は多くいますが、私が杖を取り勇敢に戦う姿を見た者はいないのです。ですから、生徒たちは実に幸運でしょう。英雄たる私と優秀な魔女であるマノック教授の決闘を目撃することができるのですから」

「ロックハート教授と? わたしが? 決闘?」

 

 普段の聡明さはどこへやら。話についていけないマーガレットはネモとともに、ぽかんと口を開けていた。

 

「あなたは前任の防衛術教授と決闘をし、見事勝ったと聞きました。ですから、私の相手役に相応しいと。では、決闘クラブの助手は頼みましたよ」

「あの、待ってください! その、わたしは決闘なんてしたことありません! たしかに、去年は色々とありましたが……。ですが、あれは噂になっているようなこととは違って!」

 

 マーガレットがいくら訴えようと、ロックハートの背中は遠ざかっていく。

 以前、マーガレットは彼があまり人の話を聞いていないのではと感じたが、その評価を改めざるをえなかった。ギルデロイ・ロックハートは人の話をまったく聞いていない。

 

 

 

「では、助手のマノック教授をご紹介しましょう」

 

 生徒たちの顔が一斉にマーガレットの方を向いた。どうしてこうなってしまったのかは未だにわからないが、こうなってしまった以上は与えられた仕事をまっとうするしかない。

 愛想のよい笑みを浮かべ、軽く会釈する。

 

「マノック教授はみなさんご存知のとおり、前任の闇の魔術に対する防衛術の教授と決闘をされています。ゆえに、みなさんのよきお手本となってくれるでしょう。そして、もう一人もご紹介しましょう」

 

 ロックハートはマーガレットの隣に立つ黒装束の男性の紹介を始めた。

 

「スネイプ教授です。スネイプ教授がおっしゃるには、決闘についてごくわずか、ご存知らしい。訓練を始めるにあたり、このお二人には短い模範演技の手伝いをしていただきます。では、まずは私とマノック教授の手合わせをお見せいたしましょう!」

 

 マーガレットは金色の舞台の中央に歩み出る。宙に浮かぶ何千本もの蝋燭に照らされた彼女の後ろ姿を青い目の鴉が見送る。

 

「マノック教授、この私に手加減は無用ですとも」

 

 両者は向かい合って一礼。マーガレットはスカートの裾をちょこんとつまみ上げ、ロックハートは深紫のローブを翻して大げさに頭を下げた。

 そして、今度は互いに杖を突き出す。

 

「ご覧のように、私たちは作法に従って杖を構えています」

 

 この時、マーガレットは緊張していた。相手はあのギルデロイ・ロックハート。ときには山トロールや雪男とも一戦交えた——と彼の著書にはかいてある——魔法使いだ。

 彼はこのような戦闘にも慣れているはずだが、マーガレットは違う。

 

「1——2——」

 

 とはいえ、マーガレットとクィレルにまつわる例の噂話を多くの生徒が信じてくれている以上は、あまりふがいない姿も見せられない。

 

「3——」

 

 ならば、覚悟を決めて正々堂々と真っ向から挑むべし。

 マーガレットは左足を踏み込み、右手を高く上げた。そして、勢いのまま杖を振り下ろす。

 

「——武器よ去れ(エクスペリアームス)!!!」

 

 白くしなやかな杖先から、紅い閃光が走った。光線を真正面から受け、ロックハートの体と彼の手を離れた杖が宙を舞う。その様を見て、彼のファンであろう女子生徒たちが悲鳴を上げた。

 マーガレットはもう一度杖を振る。

 

「——緩めよ(モリアーレ)! ロックハート教授、大丈夫ですか?」

 

 一度は床にしりもちをついたロックハートであったが、彼はまた何事もなかったかのように舞台上へと戻ってきた。

 

「もちろんですとも。生徒たちに見せた方が、教育的によいと思いましてね。あれが、『武装解除の術』です。——ご覧のとおり、私は杖を失ったわけです。——あぁミス・ブラウン、ありがとう。——武器よ去れ(エクスペリアームス)。覚えておけば、いざというときに役立つ呪文でしょう。もっとも、私にとってはいとも簡単に止められる魔法ではありますが……。さて、では次の模範演技をお見せしましょう。今度は私とスネイプ教授の——」

「ロックハート教授。せっかくマノック教授をお呼びしたというのに、我々は彼女の決闘の腕前をほんの少ししか拝見していないではないか。ミス・マノック、次は吾輩と手合わせ願おう。あなたなら多少はまともな見本になるはずだ」

「わたしですか?」

 

 その決闘の腕前というのをマーガレットはもう見せたくはないのだが、スネイプは普段よりもさらに不機嫌な様子で否とは言えそうにない雰囲気だ。

 

「わかりました。その、お手柔らかにお願いしますね」

 

 マーガレットは再び舞台の中央に立った。そして、その真正面にスネイプも立つ。

 彼らの寮監が杖を手にすると、スリザリンの生徒たちは大いに盛り上がった。こういったときのスリザリン生の団結力というのは強い。「スネイプ先生負けるな」、「マグル学の教授なんてやっつけろ」という声が聞こえてくる。

 だが、マーガレットに対してもレイブンクロー、ハッフルパフ、グリフィンドールの三つの寮の生徒たちから「マノック先生負けるな」、「スネイプなんてやっつけろ」といった声援が送られていた。

 

「では、作法に従い杖を構えて」

 

 ロックハートの掛け声で、大広間はしんと静まり返る。一礼、そして杖を構えた。

 

「1——2——3——」

「っ、——護れ(プロテゴ)!」

 

 漆黒の杖から放たれた白い光弾が盾の呪文によって弾かれる。今この場で起きたのはただそれだけのこと。

 しかし、多くの生徒は目を白黒させるばかり。だが、無言呪文と盾の呪文の難しさを知る上級生たちは声を呑んだ。

 

「ミス・マノックは無言呪文の対処にも慣れているようで。さしずめクィレルに教わったのでしょうな」

「えぇ、そうですね」

 

 マーガレットは呼吸を整える。杖の動きをよく見ていたからよかったものの、盾の呪文が遅れていたら自分は白い光弾(フリペンド)に吹き飛ばされていた。

 スネイプがまた杖を振る。マーガレットもとっさに盾の呪文を唱えようとしたが、なにかがおかしいことに気がついた。杖先が自分のいる真正面を向いてないのである。

 スネイプ教授はいったいなにを? マーガレットの視界の端でなにかが動き、思わずそちらを見てしまった。

 大広間のビロードのような黒と金色の舞台の間の宙に深い紫色が浮いている。あれは——ギルデロイ・ロックハートだ。

 

「——武器よ去れ(エクスペリアームス)! ミス・マノック、決闘中によそ見とは感心しませんな」

 

 マーガレットのマツの杖はスネイプ教授の手の中に。スリザリンの生徒が歓声を上げる。

 

「ロックハート教授、これは失礼を。どうやら手元が狂ってしまったようだ。もっとも、あなたならいとも簡単に止められるかと思っていましたが」

 

 壁に激突するまで吹き飛ばされたロックハートは床に大の字になって伸びていた。女子生徒たちが悲痛な声を上げている。

 

「ミス・マノック、吾輩の寮には魔法省への就職を考えている者が数名いる。先ほどのあなたの技量を見たあとならば、彼らも喜んで教えを受け入れるだろう」

「なるほど、そういうことでしたか。わかりました。この決闘クラブの場を借りて、できる限りのことを教えてみます」

 

 マーガレットは杖を受け取り、舞台から降りた。すると、まずはネモが彼女の左肩に飛び乗り、それから十数人の生徒がぞろぞろと周りに集まってくる。

 おそらくはスネイプ教授が前もって話をしていたのであろう。ぱっと見でもスリザリンの生徒が多い。マグル学の授業とは様子が違い、マーガレットはなんだか新鮮な気持ちになった。

 

「では、いつも教えているようなこととは違うことをなので、上手に説明できないところもあるかもしれませんが……。どうぞ、よろしくお願いしますね」

 

 

 

 マーガレットは上級生たちを相手に呪文の練習をしていたが、それ以外の生徒たちはロックハートとスネイプのもとで決闘を行っていた。マーガレットがときおり見た限り、決闘と呼ぶよりも戦闘、むしろ喧嘩といった方がいいような気もしたのだが。

 そのため、ロックハートはモデルとして選んだペアを代表にし、決闘させることにしたようだ。

 そして、そのモデルに選ばれた組み合わせがハリー・ポッターとドラコ・マルフォイ。一人はいわずと知れた「生き残った男の子」、もう一人は純血一族出身のスリザリン期待の新星。

 それまで盾の呪文を何度も唱え、杖を振るい続けていた生徒たちも次第に手を止め、その一騎打ちを見届けようとしていた。

 

「構えて。1——2——3——それ!」

「——ヘビ出でよ(サーペンソーティア)!」

 

 ロックハートの号令のあと、すばやく杖を振り上げたのはドラコ。彼の杖の先から黒いヘビが姿を現し、二人の少年の間にドスンと落ちた。まわりの生徒が悲鳴を上げてあとずさりしたものだから、そこだけ広くあいていて少し離れた場所にいるマーガレットにも様子がよく見える。

 ヘビは鎌首をもたげていて、いつ襲いかかってもおかしくはない雰囲気だった。そんな怒ったヘビを前に、ハリーは身動きができない。

 

「動くな、ポッター。吾輩が追いはらってやろう……」

「私におまかせあれ!」

 

 バーンという大きな音とともに、ヘビは二、三メートルも宙を飛んだ。そして、再び床に落ちてきたヘビは怒り狂い、近くにいたハッフルパフ生に滑り寄り、牙をむき出しにする。その彼をかばおうとしたのか、今度はハリーが前に進み出でなにか叫んだ。

 このままでは彼らが危険だ。マーガレットはヘビに向かって杖を構える。しかし、この離れた場所から狙おうとすると的が小さい。

 そのとき、ふいに左肩が軽くなった。黒い影が黒いヘビに向かって一直線に飛んでいく。

 

「ネモ?」

 

 ネモはいつの間にか大人しくなったヘビの首を咥えると、床を強く蹴って大きく羽ばたいた。まさかの乱入に誰もが唖然としている。

 鴉はヘビを咥えたまま蝋燭の灯すらも届かない天井の黒に姿を消した。次第に広間のざわめきが大きくなる。

 

「ミス・マノック、これはどういうつもりか」

「いえ、わたしにも……。ネモ、戻ってきて!」

 

 マーガレットが叫ぶと、はるか頭上から「カアカア」という声が聞こえた。そして、ネモは何事もなかったかのようにマーガレットのもとまで帰ってくる。

 しかし、咥えていたはずのヘビがどこにもいない。魔法で現れたものだから消えたのか、あの漆黒の中に置き去りにしてきたのか。それとも——。

 

「ネモ、まさか食べちゃったりはしてないよね?」

 

 青い目の鴉ははっきり「カー」とだけ鳴いた。



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第7話 Curiosity Killed the Cat

Cat has nine lives.


 静かなクリスマス休暇が終わり、新学期が始まった。また、マグル学の授業や自身の研究とマーガレットは忙しい日々を送っている。

 だが、彼女はあいかわらず医務室に通っていた。今日は外の雪景色を思わせるようなスノードロップの花束が見舞いの品である。

 

 それにしても、この場所の風景もミセス・ノリスのお見舞いを始めたときに比べるとずいぶんと変わっていた。衝立で囲まれたベッドが決闘クラブの翌日に一台、クリスマスのあとに一台増えている。また、「秘密の部屋」の怪物の被害者が出たのだ。

 あの決闘クラブの翌日、新たに二人が冷たい石となって発見された。一人はハッフルパフの2年生ジャスティン・フィンチ‐フレッチリー。ちょうど前日の決闘クラブでヘビに襲われかけていたマグル生まれの少年だ。彼は今、コリン・クリービーの隣のベッドで横たわっている。

 そして、もう一人の被害者が「ほとんど首なしニック」ことニコラス・ド・ミムジー・ポーピントン卿。彼もまた黒く煤けた姿となって発見された。石となってもなお、彼にはゴーストの宙に浮かぶ性質が残っていた。そのため、彼は医務室のベッドの上ではなく、誰の邪魔にもならないような階段の一番上まであおぎ上げられたのであった。

 

 では、衝立で目隠しされた三台目のベッドは使っているのは誰か? それはハーマイオニー・グレンジャーであった。

 彼女はずいぶんと長いこと医務室にいる。それはクリスマス休暇が終わり、他の生徒が戻ってきてからも変わらずで、彼女も襲われたのだ——なにせ、彼女はマグル生まれである——という噂も流れていた。

 だが、その噂が真実ではないことは確かである。マーガレットも彼女の顔を見て直接お見舞いを伝えられたわけではないが、気慰めにでもと差し入れた本が翌日には長い感想文とともに返ってきたこともあったし、今は彼女の級友が日々の宿題を届けている。

 

「マダム・ポンフリー、ミス・グレンジャーに一つお渡ししていただきたいものが」

 

 マーガレットはマダム・ポンフリーに封筒を手渡した。

 

「今年もまたペットパーティーをするんです。次の週末の予定なのですが、ミス・グレンジャーの体調が良いのなら、ぜひ遊びに来てもらいたいのです」

「まだ少し難しいかもしれませんが……。ですが、あとで本人には伝えておきます」

「ありがとうございます!」

 

 そう、今年もペットパーティーを開催することにしたのである。そのために、屋敷しもべ妖精たちに食事の手配をお願いしたり、ケトルバーン教授とも連れてくる魔法生物の打ち合わせをしたりと休暇の間も準備を進めてきたのである。

 

 だがしかし、昨年までとは一点違うことがあった。今年は会場の準備をすべて一人で進めなければならないのである。

 小言や嫌味を言いつつも、フィルチは毎年ペットパーティーの準備に手を貸してくれていた。そして、当日になると普段よりもほんの少し機嫌がいいフィルチといつもよりも丁寧にブラッシングされたミセス・ノリスが姿を現す。

 これは学生時代から毎年のようにこのパーティーに参加していたマーガレットだから知っていることである。

 

 だが、今年もペットパーティーをすると知ったフィルチは、たいそう腹を立てた様子でマーガレットのもとに乗り込んできた。曰く、「石になったミセス・ノリスを見世物にでもして楽しむのだろう」と。

 マーガレットはもちろん、誰にもそのようなつもりはないのだが、フィルチは頑なであった。彼はこの数か月でさらに疑い深く、ますます人を信じなくなっている。

 結局は「このようなときだからこそ、子供たちには楽しいパーティーが必要じゃろう」というダンブルドア校長の一声で例年通りペットパーティーを開催できることなった。けれど、マーガレットとフィルチの間には新たに溝が生まれたのである。

 

 

▼ ▲ ▼

 

 

 そして迎えたペットパーティー当日。寒空の下、多くの生徒たちがパフスケインを撫でまわしたり、甘いお菓子を食べながら談笑したりと思い思いにパーティーを楽しんでいた。

 首に青いはマフラーを巻いたマーガレットはその様子を遠くから眺めている。彼女の左肩にのるネモもお揃いの白いマフラーを巻いていた。

 

「これほど冷えているのなら、火蟹も連れてくればよかったかのう。それとも、アッシュワインダーの方が——」

「ケトルバーン教授、アッシュワインダーだけはやめてください」

 

 ケトルバーン教授がアッシュワインダーに呪文をかけ、「豊かな幸運の泉」の芝居でイモムシを演じさせて大広間を火事にする惨事を引き起こしたことは今でも語り草となっている。

 

「おう、マーガレット。遅れてすまんかったな。ハリーたちも連れてきたぞ」

 

 ファングを連れたハグリッドとともに、ハリーとロンの兄妹たちがやってきた。どうやらハーマイオニーはまだ医務室から出ることができなかったようだ。

 だからだろうか。マーガレットが声をかけても、ハリーとロンの二人はどこか元気がない様子だった。

 

「ハグリッド、ちょうどいいところに。火蟹を連れてくるのを手伝ってくれんかのう」

「はい、ケトルバーン教授。ほら、お前さんたちは先にパーティーを楽しんどれ」

 

 ハグリッドはファングのリードをハリーに預け、ケトルバーンとともに訓練場を離れる。

 

「今年も来てくれたのですね。たくさん遊んで、たくさん食べて帰ってください。もちろん、ミス・グレンジャーへのお土産も持っていってくださいね」

 

 屋敷しもべ妖精たちの働きのおかげで、ケーキやクッキーなどがところせましと並べられている。ネモも早く食べたくてたまらなかったのか、飼い主よりも先にお菓子を取りに行っていた。

 

「マノック教授、紹介します。僕たちの妹のジニーです」

 

 パーシーの紹介に合わせて、兄たちの後ろに隠れていた赤毛の少女が小さく頭を下げる。

 

「マーガレット・マノックです。どうぞよろしくお願いしますね。ミス・ウィーズリー」

「よろしく、お願いします」

 

 ハリーとロンばかりに気を取られていたが、彼女もまた元気がない様子だ。

 

「ジニーは入学してから色々なことがあったから、ひどく落ち込んでいるんです。クリービーとは隣の席で授業を受けたりもしていましたから……。なので、このパーティーで少しでも励ませればと。ほら、あっちには猫がたくさんいるぞ」

 

 けれど、赤毛の少女はその場を動こうとしない。

 

「しかたない。ロン、ジニーを頼む。『甘いものを食べると元気がでる』とマノック教授がよくおっしゃっているから」

 

 パーシーは妹たちの分のお菓子を取りに向かった。残ったのはマーガレットとどこか暗い顔をした子供が三人。

 

「その、ミス・グレンジャーとお会いできなくて残念です」

「ハーマイオニーも行きたがっていました。けれど、まだ外に出るのは……」

「そう。あれじゃあね……」

 

 そう口にするハリーとロンはなぜか毛づくろいする猫の方を向いていた。

 

「あぁ、そうだ! ジニーは無類の猫好きなんです。だから、パーシーがペットパーティーなら楽しめるんじゃないかって!」

「そうでしたか。なら、きっとこのパーティーが気に入りますよ。実は今日は猫だけではなくて、ケトルバーン教授にニーズルも連れてきていただきました。ニーズルはとても賢くて素敵な魔法生物ですよね」

 

 そんなことを話していると、マーガレットは頭をこつんとつつかれた。いつの間にかネモが戻ってきたようで、どうやら自分の方が「賢い」だろうとでも主張したいようだ。

 

「いい子いい子。ネモが賢いことはよくわかっているから。そういえば、このペットパーティーの始まりにも猫がかかわっているのですよ。そこにいるファングと今日はこの場にいないミセス・ノリスのために——」

 

 そのとき、ジニーが小さく悲鳴を上げた。顔を真っ青にして、小刻みに震えている。

 

「あたし、寮に戻るわ。部屋で休むから」

 

 そう言い残し、赤毛の少女は走り去っていった。

 

「ジニー、ミセス・ノリスが襲われたことにもショックを受けてるみたいなんだ」

「ごめんなさい。わたしが不用意なことを……」

「先生は気にしないで。最近、ずっとあんな調子だから」

 

 ロンはさらに浮かない顔つきになった。娯楽よりも勉強や監督生の仕事の方が大好きなパーフェクト・パーシーがわざわざ連れてきたのだから、あの末妹は彼ら兄弟にそうとう大切にされているのであろう。

 

「そういえば、ヘドウィグはどうしたのですか? 今日は連れてきていないのですね」

「ほら、ペットパーティーって交流の場でしょ? でも、僕とわざわざ関係を持とうとする人なんて今はいないから」

「それは……」

 

 その時、皿いっぱいにカップケーキをのせたパーシーが帰ってきた。が、彼は妹が寮に戻ったことを知ると、皿を弟に渡してグリフィンドール塔へと足早に向かった。

 

「ミスター・ポッター、あなたがスリザリンの継承者かもしれないという噂のことですね」

 

 結論から言ってしまえば、あの決闘クラブはハリーにかけられていたスリザリンの継承者なのではないかという疑いをさらに深めることとなった。

 一つ目に彼がパーセルタングであったこと。二つ目に「秘密の部屋」の怪物の三度目の被害者が前日の決闘クラブでヘビに襲われかけたジャスティンであったこと。

 事実だけを並べてみれば、ハリーが疑われてしまうのもしかたがない。

 

「マノック先生は僕がスリザリンの継承者だと思いますか?」

 

 マーガレットははっきりと首を横に振った。ハリーにサラザール・スリザリンの血が流れているのかということも、ハリーがヘビ語でなんと叫んでいたのかも彼女にはわからない。

 けれど、あの時のハリーの行動はマーガレットの目には勇気ある(グリフィンドールらしい)行動として映っていた。

 それに——。

 

「あなたがもしスリザリンの継承者なら——誰よりも純血主義を理想として掲げるものであったのなら、『賢者の石』を守って『例のあの人』の復活を阻もうとするわけがないじゃないですか。だから、わたしはミスター・ポッターを信じます。絶対に」

 

 マーガレットがそう告げるとハリーはほっとしたような顔をした。

 

「先生がそう思っていてくれてよかった。あのあと、マノック先生のことも『継承者の敵』って呼ぶ奴らがいたから……」

「ネモのことですね……」

 

 ハリーたちを助けるためであったのか、それともヘビを逃がしてやるつもりだったのか。実はその両方かもしれないが、ネモはあの黒いヘビを連れ去ると何事もなかったかのように飼い主のもとまで帰ってきた。

 だが、大鴉(レイブン)のこの行動が少々物議を醸していた。スリザリンの象徴であるヘビを喰ったのではないか、と。

 もちろん、飼い主本人はそんなはずがないということはよくわかっているのだが。

 

「ネモがあのヘビを食べたという噂ですが、まずありえないことなのです。あの、ネモはこのように——あれ、またいない。あっちのお菓子でも取りにでもいっているのかな? ともかく、ネモがヘビを食べるわけがないです」

 

 マーガレットはロンの持つ皿からカップケーキを一つ手に取った。ミックスベリーの、いかにもネモが好きそうなものだ。

 

「ネモはこういったものしか——その、わたしと同じものしか食べません。えっと、わたしがそういうものしか与えていないわけではありませんよ。生まれたときからずっとそうで、虫を食べさせようしてみても絶対にくちばしを開けませんでした。肉や魚も焼かないと食べませんから、ヘビやネズミを丸呑みなんてまずありえないんです」

 

 つまり、あの青い目の鴉はずいぶんと美食家であり、ずいぶんな偏食家なのでもある。

 

「ですから、ネモがヘビを食べたというのはでたらめ。なのに、『継承者の敵』だなんて……。でも、この一年の噂だとかで、人から色々と言われることにも慣れてしまいした。ですから、わたしは大丈夫です」

 

 隠し事をしなくてよいということだけあり、ハリーとロン相手にはマーガレットもずいぶんと話がしやすい。

 

「とはいえ、この騒動がいち早く収まってくれることが一番ですが……。でも、ミスター・ポッターにミスター・ウィーズリー、去年のように自分たちで解決しようとしてはいけませんからね」

 

 マーガレットが軽く釘をさすと、彼らは顔を見合わせる。

 ちょうどその頃、ハグリッドとケトルバーン教授が火蟹を連れて帰ってきた。飼い主の姿を見つけたファングが一直線に走り出す。それに引っ張られて、ハリーたちは自然に人の輪の中へと入っていった。

 

「あの火蟹、わたしが学生だった頃よりも一段と大きくなってる」

 

 きらきらと輝く甲羅の宝石を眺めながら、マーガレットは手にしていたカップケーキを頬張る。人もペットもおいしく食べられるスイーツという難しい注文にも、ホグワーツの屋敷しもべ妖精たちはよく応えてくれた。

 

 それにしてもまだネモが帰ってこない。ふらりとどこかにいなくなるのはいつものことだが、それでもそばにいないと心配に思うのが飼い主心。

 そこで、マーガレットは会場を回りながらネモの姿を探すことにした。

 

 

 

 例年のごとく、一番人気なのはパフスケインだ。魔法族出身の子供も、非魔法族出身の子供もその愛らしさに骨抜きにされていた。

 それから、火蟹のコーナーではケトルバーン教授による臨時授業が開催されている。火傷をしない世話の仕方などはふくろう試験で出題されることもあるからか、とくに五年生の生徒が真剣な表情で話を聞いていた。

 そして、マーガレットは去年のペットパーティーで出会ったネビルとも再会した。今日は蛙のトレバーも彼のそばにいる。

 

 パーティーはおおむね盛り上がっているようである。

 だが、マーガレットはそのなかで一人気になる生徒を見つけた。生き物と触れ合うでもなく、お菓子を食べるでも、他寮の生徒と交流するでもない。ただ、ベンチに腰かけ本——その判型からしてタブロイド紙だろうか——を読んでいるブロンドヘアの女生徒。

 去年までのパーティーで顔を見かけたことがないのだから、おそらくは一年生なのだろう。試しにマーガレットはその青い裏地のローブを見にまとう少女に声をかけてみることにした。

 

「パーティー、楽しんでくれていますか?」

 

 少女はびっくりしたような顔をしている。

 

「このペットパーティーには初めての参加ですよね? はじめまして、わたしはマーガレット・マノック」

「知ってるもン、マグル学の先生」

 

 レイブンクロー寮の少女は再び雑誌に目線を落とした。彼女が読んでいるのは「ザ・クィブラー」というタブロイド紙のようだ。

 これはマーガレットも知らない雑誌である。魔法界にはまだまだ知らないことが多くあるものだ。

 

「『しわしわ角スノーカック』はいないの? ペットパーティーにはめずらしい生き物もいるって聞いたから来たんだよ」

「『しわしわ角スノーカック』ですか?」

 

 これまたマーガレットの知らない魔法生物だ。『幻の動物とその生息地』など、今までに読んだ魔法生物学の本の記憶を片っ端から思い出すが、そのような名前の生き物には憶えがない。

 

「ここにはいないですね……。その、しわしわ角スノーカックという生き物は初めて知りました。その、どんな生き物なんですか?」

「しわしわ角スノーカックはスウェーデンにいるの」

「なるほど。それから、どのような見た目なんですか? しわしわ()……。それならユニコーンのような姿でしょうか? それとも鹿のように角が二本も? そういえば、サイにも角がありますね」

 

 マーガレットは想像力を働かせた。「しわしわ角スノーカック」、名前だけでもその姿がいくらだって思い描ける。

 だが、ブロンドの少女が告げたのは意外な一言だった。

 

「しわしわ角スノーカックは誰も見たことがないんだ」

 

 誰も——あのニュート・スキャマンダーでさえも——見たことがない。それはつまり、しわしわ角スノーカックという魔法生物は()()()()()ということだろうか?

 

「でも、しわしわ角スノーカックはいるんだもン。ただ、今は誰も信じていないだけ」

 

 少女は読んでいた雑誌から視線を上げ、マーガレットのことをじっと見つめていた。

 

「……しわしわ角スノーカックのことをあたしが信じていても、先生は笑わないんだ」

「どうして? だって、シュリーマンは——えっと、あるマグルの考古学者は誰もが実在すると思っていなかった古代の遺跡を掘り当てました。彼は幼き日に心を奪われた一つの物語を信じていたのです。信じ続けることでなにかが変わる。わたしの知るマグルの歴史というのはそういうものですよ」

 

 少女はその銀色の瞳を見開く。

 

「なら、先生もなにか信じているの?」

「はい。わたしは自分の記憶がいつか戻ってくると信じています。事故で記憶喪失になったせいで、わたしには7歳までの記憶がありません。だから、たくさんのことを忘れてしまいました。ずっと信じているのに、ずっと思い出せないまま」

 

 マーガレットは物悲しげに微笑んだ。だが、彼女の青い瞳がきらりと輝く。

 

「でも、わたしが憶えていなくても、知らなくても、7歳まで(あの頃)の思い出が()()()()()()にはならない。そう信じたい、わたしは」

 

 マーガレットの言葉をレイブンクロー生の少女はじっと聞いていた。

 

「『人間が想像できることは、人が必ず実現できる』。やっぱり、いい言葉。だから、わたしは夢を見ること、信じることをやめてしまいたくはないんです」

「しわしわ角スノーカックは想像じゃないもン」

 

 少女は再び「ザ・クィブラー」に目を落とす。

 

「そうですね。……あの、あなたの名前をうかがっても?」

「ルーナ。ルーナ・ラブグッド」

「ミス・ラブグッド。よかったら、来年もこのペットパーティーに遊びにきてください。わたしもしわしわ角スノーカックのことをもっと知りたいですから、調べてみますね」

 

 ルーナは一瞬、ちらりとマーガレットのことを見た。そして、またすぐに視線を下げる。

 わずかな動作ではあったが、それがマーガレットには頷いたようにも見えた。

 

「では——」

 

 その時、金縛りにかかったかのように体が動かなくなった。ぞくぞくという寒気が全身を襲う。立っていられなくなって、思わず地面に膝をついた。

 

「先生?」

 

 ルーナがマーガレットの異変に気づく。しかし、その声はもうマーガレットに届いていなかった。

 呼吸すらままならなくなり、意識が遠のく。そして、マーガレットの視界はブラックアウトした。

 

 

▽ △ ▽

 

 

——マーガレットは夢を見ていた。

 

 足元に広がるは冷たく、大きな水溜まり。顔を上げれば、石造りの手洗い台と割れた鏡。ここは——三階の女子トイレだ。

 「嘆きのマートル」は不在なのだろうか。彼女の泣き声は聞こえない。けれど、その代わりに忍び寄る誰かの足音が聞こえた。

 音の主はぴったり背後までくると足を止める。

 

あなた(お前)あたし()をつけてきたの()?」

 

 それは少女の声だった。それもまだ幼さを残した少女の声。けれど、その声はとても冷たく、邪悪だった。

 

あなた(お前)、あのマグル学の先生()の……。ちょうどいい」

 

 なにかが這い寄ってくる。気配だけでもそれがとてつもなく大きいことがわかる。

 いったいなんなのだろうか。その正体を確かめたい。けれど、恐怖で体が動かない。割れた鏡を見つめたまま、立ちすくむ。

 

「——」

 

 その瞬間、黄色いなにかが視界に映り込んだ。

 

 

▽ △ ▽

 

 

「はあ、はあ……」

 

 マーガレットはベッドから飛び起きる。久しぶりに悪い夢を見た。目が覚めてからも、体がガクガクと震えている

 

「そうだ、ネモ。ネモ、おいで」

 

 マーガレットは最愛のペットの名を呼んだ。幼い頃から今まで、こうして悪夢を見たときはネモを抱きしめて心を落ち着けている。

 けれど、今はベッドサイドにネモの姿がない。

 

「ネモ? どこにいるの?」

「ミス・マノック、目を覚ましましたね。具合はいかがですか?」

 

 声の方を向けば、マクゴナガル教授がいた。どうやら、自分は医務室のベッドの上にいるようだ。

 まだ頭がぼんやりとしているが、マーガレットは自分がペットパーティーの会場で突然倒れたことを思い出した。

 

「すみません。立ち眩みでしょうか、急に息苦しくなってしまって……。今は落ち着いたかと思います」

「そうですか……」

 

 マクゴナガル教授によると、意識を失ったマーガレットのことをハグリッドたちがここまで運んできたそうで、それから数時間は眠ったままだったそうだ。

 

「あの、あの子は——ネモはどこにいるかご存じありませんか?」

「そのことですが……。ミス・マノック、これから話すことは落ち着いて聞いてくださいね」

 

 マクゴナガル教授が目くばせをすると、マダム・ポンフリーがワゴンを押してきた。その上には——。

 

「ネモ?」

 

 石になった大鴉(レイブン)の姿。

 

「そんな……。えっと、そんなはずは……。ネモが、襲われただなんて……」

「『嘆きのマートル』が三階の女子トイレであなたの鴉が倒れていると知らせにきてくれました。ミス・マノック、このマフラーには見覚えがありますね」

 

 マーガレットに水にぐっしょりと濡れて重たいマフラーが手渡された。青いネモフィラの花がデザインされた白いマフラー。これは間違いなくネモのものだ。

 

「これ、ネモのものです。その、今日もわたしが巻いてあげました」

 

 マーガレットの青い瞳から涙がぼろぼろと零れ落ちる。彼女がこうして泣いていると、頬に黒い体をすり寄せて慰めてくれる存在がいつもはいる。

 けれど、その鴉は今や冷たい石に。

 

「どうして……。ネモがいなかったら、わたしはどうなっちゃうの……」

 

 健やかなるときも、病めるときも。喜びのときも、悲しみのときも。マーガレットとネモはいつも一緒にいた。

 だから、これがマーガレットにとっては初めてのネモのいない日常の始まりだった。




次回で「秘密の部屋」編完結です。


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第8話 秘密の茶会

 この日もまたマーガレットは医務室にいた。ネモが石になってから季節は春になり、そして今は夏が近づいている。授業と見回りと眠るとき以外はこの場所にいる生活もすっかり当たり前になっていた。

 

 あれからさらに「秘密の部屋」の怪物の被害者は増えた。レイブンクローの監督生ペネロピー・クリアウォーターとハーマイオニー・グレンジャーが物言わぬ冷たい姿となって発見された。言わずもがな、どちらもマグル生まれである。

 そして、ホグワーツで起きたことはそれだけではない。この一連の騒動を形だけでも収めるために、森番のハグリッドがアズカバンに連行された。また、十二人の理事の協議の結果、ダンブルドアは停職となった。

 だというのに、怪物の脅威は未だ消えず、「秘密の部屋」を開けた犯人も見つかっていない。

 

 けれど、ただいたずらに時がすぎているわけではなかった。

 スプラウト教授によるとマンドレイクの収穫が迫っていて、今夜にでも薬が調合できるそうだ。現に今もマダム・ポンフリーとスネイプ教授がその打ち合わせをしている。

 マーガレットは石のネモの頭を撫でた。こうしているとほんの少しでも心が落ち着く。

 

「朝食の席で姿が見えないと思えば、こちらに」

 

 マダム・ポンフリーとの話を終えたスネイプ教授が声をかけてきた。

 

「やけ食いの次は断食かと噂されておりますぞ」

「その、断食だなんて。えっと……。あの、トースト一枚はちゃんと食べていますよ」

「あなたにしてはずいぶんと少ないのでは?」

 

 スネイプの指摘の通り、ここ最近のマーガレットは食事があまり喉を通っていない。気がつけば、紅茶数杯だけで夕方まで過ごしてしたということもしょっちゅうだ。

 あれだけ愛してやまないお菓子への執着も今は薄れている。昨年までホグワーツにいた()()に準えて、マノック教授は人が変わったとまでいう者もいた。

 

「それにずいぶんと疲れがたまっているご様子。マノック教授、我輩が『生ける屍の水薬』でも処方いたしましょうか?」

「生ける屍の……。でしたら、その、助かります。近頃、あまり眠れていないので……」

 

 だが、マーガレットの感謝の言葉を聞き、スネイプは鼻で笑う。

 

「まさか、かつては首席にともなったあなたがこの薬の効果を忘れたと? 生ける屍の水薬は非常に強力な眠り薬。それこそ、飲んだ者が一生眠り続けるほど。ただ眠気を誘うだけならば、眠りの水薬で十分ですな」

「えっと……。そう、でしたね」

「あなたが正しい魔法薬の知識を答えられなかったのは、これが初めてだ。それほどまでに自身が弱っていることをあなたは自覚された方がいい」

 

 それだけ言い残し、スネイプはさっさと医務室を出て行った。不愛想ではあるが、多少は同僚として気にかけてもらえているということだろうか。

 だが、こうした日々もきっと今日でおしまいだ。夜には最愛のペットが目を覚ます。そうすれば、一緒に甘いお菓子をお腹いっぱいになるまで食べることもできるはずだ。

 

「ネモ、またあとで来るからね」

 

 長く続いた日々のルーティンも今日が最後になるのだろう。ベッドサイドの花瓶に()()()ネモフィラの花を生けた。

 

 

▼ ▲ ▼

 

 

 夜になれば、襲われた生徒たちがみな目を覚ます。明日になればすべての謎が解ける。誰もがそう思っていた。

 だが、事態はそれよりも早くに動いた。

 

「生徒は全員、それぞれの寮にすぐ戻りなさい。教師は全員、職員室に大至急お集りください」

 

 午前の授業がもうすぐ終わろうかというとき、マクゴナガル教授の声が廊下に響き渡った。マーガレットはざわつく生徒たちを落ち着かせ、寮へと戻るよう改めて指示を出す。そして、教室に誰も残っていないことを確認してから職員室へと急いだ。

 

 職員室には続々と教授たちが集まっているところだった。みな当惑や恐怖の表情を浮かべている。

 

「とうとう起こってしまいました」

 

 マクゴナガル教授が静かに口を開いた。

 

「生徒が一人、怪物に連れ去られました。『秘密の部屋』そのものに中へです」

 

 マーガレットは息を呑む。マクゴナガル教授は蒼白な顔で新たに見つけられた伝言について全員に聞かせた。

 

「あの、それで、その、連れ去られた生徒は誰なんですか?」

 

 マーガレットが震える声で問う。

 

「ジニー・ウィーズリー」

 

 そう答えるマクゴナガル教授の声も震えていた。

 

「全校生徒を明日、帰宅させなければなりません。ホグワーツはこれでおしまいです。ダンブルドアはいつもおっしゃっていた……」

 

 そのとき、職員室のドアがバタンと開く。そこには遅れてやってきたロックハートが立っていた。

 

「大変失礼しました。——ついうとうとと——なにか聞き逃してしまいましたか?」

 

 先生方の視線が一点に集中する。そして、スネイプ教授が一歩進み出た。

 

「なんと、適任者が。まさに適任だ。ロックハート、女子学生が怪物に拉致された。『秘密の部屋』そのものに連れ去られた。いよいよあなたの出番がきましたぞ」

 

 そういえば、今年の防衛術の教授は輝かしい功績を持ったまさに怪物退治の適任者ではないか。

 

「そのとおりだわ、ギルデロイ。昨夜でしたね、たしか、『秘密の部屋』への入口がどこにあるのか、とっくに知っているとおっしゃたのは?」

「私は——その、私は——」

「そうですとも。『部屋』の中になにがいるか知っていると、自信たっぷりにわたしに話しませんでしたか?」

「い、言いましたかな? 覚えて——」

「あの、ロックハート教授」

 

 スプラウト教授、フリットウィック教授に続いて、マーガレットが口を挟んだ。

 

「その、ロックハート教授がそこまで『秘密の部屋』のことを解き明かしているとは、知りませんでした。ですから、どうか少しでも早くこの問題を解決してください。そして、その、ネモをあんな目に合わせた犯人を懲らしめてやってください。どうか、お願いします!」

 

 マーガレットは深く頭を下げる。そのおかげで、絶望的な目で唇をわなわなと震わせるハンサムからは程遠い顔をしたロックハートと、憎しみに満ちた目を彼に向ける教授たちの姿を見ずにすんだ。

 

「よ、よろしい。へ、部屋に戻って、し——支度をしてきます」

 

 ロックハートは一人で出て行った。

 

「さてと。これでやっかいばらいができました。寮監の先生方は寮に戻り、生徒になにが起こったのかを知らせてください。明日一番のホグワーツ特急で生徒を帰宅させる、とおっしゃってください。他の先生方は、生徒が一人たりとも寮の外に残っていないよう見廻ってください」

 

 マクゴナガル教授の号令に合わせ、教授陣も一人また一人と職員室をあとにする。もちろん、マーガレットもそのうちの一人であった。呼吸を整え、一歩を踏み出す。今は自分の仕事に集中しなければ。

 「秘密の部屋」の問題の解決も、石になったペットとの再会も、その時が来るまでただ待つことしかできないのだから。

 

 

▼ ▲ ▼

 

 

 その夜の医務室はこれ以上ないほど賑やかであった。普段ならばこのような無秩序を許さないであろうマダム・ポンフリーも今回ばかりは目をつむっている。

 なにしろ、マンドレイク蘇生薬のおかげで石になっていた生徒たちが次々と息を吹き返し、それを祝いにパジャマ姿のまま駆けつけた友人たちがそこらじゅうにいるのだ。

 

「マノック教授」

 

 ネモの番を待っていたところ、アーガス・フィルチ氏に声をかけられた。彼の腕の中には目を覚ましたばかりのミセス・ノリスがいる。

 

「あなたに、これをお返しする」

 

 そう言って、彼は乱暴に麻袋を突き出してきた。中をのぞくと二足のローラースケートが入っている。「秘密の部屋」のあれやそれやですっかり忘れていたが、まだ返してもらっていないのだった。

 

「今後はくれぐれも生徒に——とくにあのウィーズリーには遊ばせないようにしていただきたいですな」

「そうですね。わたしもよく注意しておきます。あれ……。えっと、これは?」

 

 袋の中をよく見れば、底の方に五角形の箱が入っていた。取り出してみれば一目瞭然、これは蛙チョコレートだ。

 

「蛙チョコレート?」

「それは、あれだ。没収したものが誤って入ったのだろう」

「没収品。でしたら、その、お返ししないとですね」

 

 だが、マーガレットが差し出した箱をフィルチはいっこうに受け取ろうとしない。

 

「いつどこで没収したかも憶えとらん。だから、このままマノック教授の物にしていただいてもかまわない」

「いえ、ですが……」

「なら、ミセス・ノリスからの見舞いの礼だ」

 

 それだけ言って、フィルチはとっとと医務室を出て行ってしまった。

 

「没収品が誤って……。それも、わたしが好きなチョコレート……」

 

 マーガレットは思わずくすりと笑う。きっと本人を問い詰めたところで本当のところはわからないのだろうが、これはあの管理人がわざと入れたものなのだろう。

 マーガレットはありがたくこのチョコレートいただくことにして、ローブのポケットにしまい込んだ。

 

「お待たせしました、ミス・マノック。これで最後になります」

 

 マダム・ポンフリーがネモに蘇生薬を投与する。すると、たちまち大鴉(レイブン)の青い目に光が宿った。

 

「……ネモ」

 

 ネモは飼い主の顔を目にすると、ゆっくりと目をつむって小首を傾げる。まるでなにか思い出そうかとしている様子であった。

 

「ネモ、大丈夫だよ。『秘密の部屋』の怪物はもう倒されたんだって」

 

 そう語りかければ、ネモはくちばしを何度も打ち鳴らした。マーガレットは久方ぶりに最愛のペットを抱き上げる。

 

「わたし、ネモがいないととっても寂しかったんだ」

 

 マーガレットはネモをぎゅっと胸に抱きよせ、黒い羽根に顔を埋めた。たしかに聞こえるトク、トクという心臓の音にこれ以上ない安心を感じる。

 

「だから、これからもずっとわたしのそばにいてね」

 

 マーガレットの言葉にネモは「カア」と鳴いた——のだが、その鳴き声は飼い主の腹の虫の鳴き声にかき消された。

 

「驚かせちゃってごめんね。安心したら、なんだか急にお腹が空いてきて。これから大広間でパーティーがあるんだって。もちろん、一緒に行ってくれるよね?」

 

 白い歯をのぞかせ、マーガレットはにっこりと笑う。今度の「カア!」という鳴き声は彼女の耳にもしかと届いていた。

 

 

▽ △ ▽

 

 その夜、彼女はふと目を覚ました。枕元を見れば、まだ大鴉(レイブン)はすやすやと眠っている。

 眠れる鴉を起こさぬよう、ゆっくりと体を起こす。彼女の青い目が月明かりを浴びて輝いた。こうやって夜空を眺めたのはいつ以来だろう。

 いつもベッドサイドに置いている懐中時計を手に取った。日付はとっくに変わっているとはいえ、夜明けまではまだ時間がある。まだ()()()()()()()()()()()はまだ時間がある。

 彼女はローブを身にまとい、それから()()()を手にすると独り部屋を抜け出した。

 

 

 

 宴会中はあれほど賑やかだったのに、今のホグワーツ城はしんと静まり返っている。壁の肖像画たちも目を閉じ、うつらうつらと船を漕いでいる者もいた。

 すっかり片づけられた大広間を通り過ぎ、中庭に出る。はるか頭上の月は雲で隠されていた。

 彼女は噴水の縁石に腰をかける。そして、部屋から持ち出したローラースケートを履いた。これはきっと今夜だからこそできること。

 

 彼女がローラースケートで遊ぶのはずいぶんと久しぶりのことだった。だが、こういった一度経験したものは意外と体が覚えている。左、右、左……と噴水の周りを軽やかに滑り始めた。

 次第に速度が上がっていく。しばらく味わえていなかった風を切る感覚が心地よい。だが、ここ最近の中ではかなりの運動になったからだろうか、あっという間に息が上がる。

 少し休憩しようかと縁石に腰を下ろしたとき、ある男が現れた。

 

「……ダンブルドア校長先生」

 

 アルバス・ダンブルドアはそのブルーの瞳を三日月型に細める。視線を交わせば思わず吸い込まれてしまいそうになる、そんな目だ。

 

「こんばんは。どれ、隣に座ってもよいかな?」

 

 相手が頷くのを待ってから、ダンブルドアはゆっくりと腰を下ろす。

 

「今は一休みといったところかのう。それならば、紅茶はいかがかな」

 

 ダンブルドアが杖を振ると、二人の間にティーセットが現れた。その芳醇な香りからしてアサッムだろうか。たっぷりの砂糖とミルクを加え、よくかき混ぜる。

 

「いただきます」

「どうぞ召し上がれ。それと、飲みながらで構わぬのだが、少々わしの話に耳を傾けてはくれぬかのう。わしが君に聞いてほしいのは『秘密の部屋』であったことについてじゃ」

「ハリーくんたちによって怪物が倒されたということは、もうわたしも聞きましたが」

「それよりもさらに詳しい話じゃ」

 

 そして、ダンブルドアは語り始めた。

 ジニー・ウィーズリーが「スリザリンの継承者」によって「秘密の部屋」に攫われたこと。その「秘密の部屋」をハリー・ポッターとロン・ウィーズリーが見つけたこと。

 「秘密の部屋」の怪物とはバジリスクであったこと。そのバジリスクを操るスリザリンの継承者とはかつてホグワーツにいたトム・リドルという男子学生であったこと。

 ハリーとロンがバジリスクとトム・リドルを倒し、ジニーを救い出したこと。そして、彼らの偉業に参加できなかったとある作家(詐欺師)のこと。

 

「ギルデロイがしたためた冒険譚。あれらはすべて他人のものじゃ。人から聞いた話を記憶ごと奪い取り、ギルデロイは自分のものとした」

「どおりで。あの人、なんだか胡散臭いと思っていました」

「おや、()()あまり驚かないのじゃな」

 

 半月型の眼鏡の奥でブルーの瞳が爛々と輝く。

 

「……ところで、そのトム・リドルは何者だったんですか? 50年前の生徒が、どうしてホグワーツに?」

「トム・マールヴォロ・リドル。当時はまだ学生じゃったヴォルデモートその人。君が一年前に戦った『闇の帝王』の若き日の姿じゃ」

 

 ロックハートの真実はともかく、トム・リドルの正体にはさすがに驚きを隠せなかった。

 

「どうしてまたヴォルデモートが? まさか去年のクィレル先生のように、また誰かが憑りつかれていたんですか!」

「クィリナスの時とは少し状況が違うのう。どちらかといえば、今の()のようなことをトムはしていたのじゃよ」

 

 ダンブルドアは懐から一冊の日記を取り出す。その黒い日記の真ん中には大きな穴が開いていた。

 

「これが『分霊箱』と呼ばれるもの。不死を手にするために、人を殺すことで引き裂いた己の魂を閉じ込めた器。……君にも心当たりがあるじゃろう、()()

 

 青い目の魔女(ネモ)は否定も肯定もしない。だが、その瞳はこの夜空のように暗かった。

 

「今回の一件で確信した。ヴォルデモートはやはり分霊箱を作っておる。それもこの日記帳一つではない、複数じゃ」

「……ダンブルドア先生、どうしてそんな重要なことをわたしに聞かせようと思ったんですか? だって、わたしはヴォルデモートと同じ()()()ですよ」

 

 自らのことを()()()とまで言い切った者の顔を、ダンブルドアは直視できない。だが、それでも彼は話し続けるほかなかった。

 

「だからじゃよ。トムは——ヴォルデモート卿は自分と他の者とは違う、自分こそ特別と思っておる。だからこそ、ヴォルデモートは分霊箱を作ることができた。そして、そんなことができるのは自分しかいないとも思っていた。じゃが、そこにマーガレットと君が現れた。君たちはスリザリンの血を引いているのでもなく、純血一族の出身でもない。ヴォルデモートからしてみれば何一つ特別なところなどないはずなのに、特別な自分と同じく分霊箱を作り上げた。それをあやつは快く思わないじゃろうな」

「だから、わたしやマーガレットがいずれまたヴォルデモートに狙われると?」

 

 ダンブルドアが頷く。

 

「ネモ、君は以前『マーガレットの大切なものをなんだって守りたい』と言っておったな。そして、君も気づいているとは思うが、その願いの中には君自身も入っておる。では、これから君はどうやってマーガレットのことも、君自身のことも守る? 君が杖を握るには、こうしてマーガレットの体を借りなければならないなかで」

「それは……。えっと、トム・リドルのように、わたしも自分の姿を現すことができれば……」

「それはおすすめできないのう。まずマーガレットへの負担が大きすぎる。それに、君自身も本当の姿は見せたくないじゃろう」

 

 ダンブルドアの指摘はすべてがそのとおりであった。マーガレットを守るためにマーガレットを苦しめるなど本末転倒。そして、己の正体はマーガレットにもっとも知られたくないことだ。

 

「じゃから、一つの答えとしてこれはどうじゃろうか。経験を積み、マーガレット自身に強くなってもらう。そのための()()なら、わしにも心当たりがあるものでのう」

「それは、つまり——」

「では、君もスケートの練習はほどほどにのう。君が無茶をすると、またマーガレットが眠り続けてしまうのでな」

 

 ダンブルドアが去ったあと、青い目の魔女(ネモ)はぼーっとしていた。東の空もぼんやりと白み始めている。

 「分霊箱」——人を殺すことで引き裂いた己の魂を閉じ込めた器。思い出したくないあの日のこと。けれど、忘れてはいけないあの時のこと。その記憶が頭の中を駆け巡る。

 

「そうだ……」

 

 ローブのポケットに手を突っ込み、五角形の箱を取り出す。そういえば、チョコレートはずいぶんと長いこと食べていなかった。

 蛙チョコレートといえば思い出すことが一つある。マーガレットがホグワーツ特急で初めて蛙チョコレートを買ったときのこと、彼女はロウェナ・レイブンクローのカードに夢中になりすぎて肝心の蛙の形をしたチョコレートに逃げられてしまったのだ。ネモが必死にそのことを伝えようとしていたのに、である。

 今夜は逃げられてしまわないよう、慎重に箱を開ける。そして、左手で掴んだ蛙を口の中に放り込んだ。

 久しぶりに食べたチョコレートの甘さが体中に染み渡る。「甘いものを食べると元気がでる」。マーガレットがよく口にするその言葉の効果はたしかであった。

 

 

▼ ▲ ▼

 

 そして、また一年が過ぎた。マーガレットも里帰りをし、今はマッカーデン商店の店番をしている。

 この骨董品店はあいかわらず客足が遠く、そのおかげで読書が捗る。

 

「それにしても、まさか全部嘘だっただなんて……」

 

 マーガレットの独り言に、鴉は「カア、カア」と気のない返事をした。昼食のあとだからか、ネモは飼い主の膝の上で微睡んでいる。

 マーガレットが読んでいるのはあのギルデロイ・ロックハートの最新作にして、おそらく最終作の『私は誰だ(Who Am I)?』である。ともにホグワーツで働いている間にもいくらか違和を感じることはあったが、まさかその功績すべてが他人のものだとは思ってもみなかった。

 それもただ自分のものにするだけでなく、記憶ごと奪い取ったのである。記憶がないことで苦しい思いをしているマーガレットとしては強い憤りを感じざるをえない。

 だが、そのロックハートすらも今は記憶を失っている。それを自業自得だと笑うべきか。罪の意識すらないとはおめでたいと呆れるべきか。それとも、罪を償う機会すら失ったのかと憐れむべきか。

 

「ネモ。やっぱり今度、聖マンゴに行ってみようか。あちらがどこまで憶えているのかはわからないけれど、改めてロックハートさんとも話がしてみたい。もしかしたら、わたしの記憶喪失についても、なにかわかるかもしれないしね」

 

 今度はネモもなにも答えなかった。寝てしまったのだろうか。

 ペットの寝顔をのぞき込もうと視線を動かしたとき、入口のドアノブが回るのが見えた。

 

 チリンチリンと軽やかにベルが鳴る。誰かが店にやってきた。姿勢を正し、普段通りの挨拶を。

 

「いらっしゃい、ませ……」

 

 その男の客は暑い夏の日だというのにスーツを着て、紫色のネクタイをきっちり首元まで締め、見慣れたローブを羽織っていた。緊張しているのか彼の手は震え、口元にはぎこちない笑みを浮かべている。

 マーガレットは鴉を膝の上からカウンター台へと移すと、彼に近寄った。そして、愛想のよい笑顔で話しかける。

 

「……なにかお探しですか? わたしでよければお手伝いします」

「い、いえ。わ、わ、私が探している人はもう目の前にいるもので……。お久しぶりです、ミス・マノック」

「クィレル先生! こうして()()お会いできる日をずっと、ずっと楽しみに待っていました!」

 

 マーガレットはクィレルの両手を包み込むように握りしめた。その様子を青い目の鴉は穏やかな顔で見守っている。




——「秘密の部屋」編、閉幕。

連載を始めてから2年が過ぎ、ようやく原作2年目の終了までたどり着くことができました。長かったような、短かったような。いまやこの作品を書いていることが、すっかり人生の一部となってしまいました。このまま7年目まで書き続けたいな……。

さて、第1章のあとがきでは主人公マーガレットについて語らせていただきましたので、今回は青い目の鴉こと「ネモ」についてご紹介させていただきます。
ネモの名前の由来は作中では『海底二万里』の「ネモ船長」としていますが、構想段階ではギリシャ神話の記憶の女神「ムネモシュネ」からの連想で「ネモ」という名前を思いつきました。
その後、記憶喪失の7歳児がムネモシュネを知っている、ましてやペットの名づけに使うのはおかしいのではと思い、現在の「ネモ(誰でもない)」に落ち着きました。
ですが、記憶の女神の名前を元にしているだけあり、ネモは主人公の失われた記憶のまさにキーパーソン(キーバード?)。主人公の活躍とともに、ネモの動向にも注目していただけたらと思います。

次回からは主人公がクィレル教授とも再会し、いよいよ第3章のスタートです。
作者自身もびっくりするような筆の遅さ、それによる不定期更新上等な本作ですが、のんびりお付き合いいただけると幸いです。
それから、新章開幕に向けて今までの感想や評価をいただけると、とても作者の励みになります。ぜひ気が向いたときに、お一つよろしくお願いいたします。
それでは、また。


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第3章 「アズカバンの囚人」(July,1993~)
断章 Once upon a July


——これはありえたかもしれない「もしも」の物語。


▽ △ ▽

 

 

「ここが魔法界!」

 

 7歳の誕生日を迎えたその日、少女は初めて魔法界を訪れた。彼女は青い瞳を大きく開き、隣にいる父親に話しかける。

 

「ここにいる人はみんな魔法使いなの?」

 

 その問いかけに父親は「そうだよ」と頷いた。少女はますます目を輝かせる。

 

「ロンドンにはこんなにたくさんの魔法使いがいるなんて、わたしちっとも知らなかった!」

 

 レンガの壁に向こう側にまさかこんな世界が広がっていたとは。

 三角帽子を被った魔女、すれ違う人々のカラフルなローブ。店先に並べられた鳥かごや叩き売りされている大釜。そのどれもが少女にとっては目新しい。

 

「ここはダイアゴン横丁。ここなら魔法使いに必要な物がなんでも揃っているんだよ。だから、魔法使いの子供はここで魔法学校の入学準備をするんだ」

「魔法学校! もしかして、パパもその学校を卒業したの?」

 

 父親は小さく頷いた。

 

「本当に! なら、わたしも魔法使いなんだからそこに通えるんだ! もしかして、9月からはその学校の生徒になるの?」

「いや、まだもう少し先だよ」

 

 残念そうに肩を落として歩く娘の頭を父親が優しく撫でる。

 

「11歳の誕生日を迎えたら入学証が届くんだ」

「なら、あと4年も待たないといけないの?」

 

 少女は不満そうにくちびるを突き出した。その顔が愛らしくて、父は思わず口元を緩める。

 

「4年なんてあっという間だよ。そんなことを言ったら、ホグワーツでの7年間の方がもっとあっという間だ」

「その学校、ホグワーツって言うんだ。不思議な名前」

「そうだね。その名前のようにすべてが摩訶不思議で、魔法界一興味深い場所だよ」

 

 まだ名前だけしか知らないけれど、少女はその魔法学校のことがとても好きになれるような気がした。

 

「魔法界ってとっても素敵。わたし、もうこの世界が大好きになっちゃった」

「……そうか。それならよかったよ」

 

 これからどんどんと育っていくであろう娘のことを見て、父は小さく笑う。

 

「よし。それじゃあ、このダイアゴン横丁で君の誕生日プレゼントを探そう! 普通では買えないような玩具や本がここにはたくさんある。さて、なにか欲しい物はあるかな?」

「あのね、もう欲しい物は決まってるの!」

 

 少女は父の手を取り、にっこりと笑った。

 

「わたし、杖がほしい! パパが持っているのみたいな魔法の杖!」

 

 「お願い、パパ」と少女は甘えた声を出す。そうすれば、父が多少のわがままも聞いてくれることを彼女はこの歳ですでに理解していた。

 もちろん、父親も可愛い娘の願いはなんだって叶えてやりたい。今だって彼はそう思っている。

 だが、時には父だろうとできないことがあった。

 

「ごめんね、杖はまた今度にしよう。杖は君がもう少し大きくなったらね」

「もう少し? それなら、クリスマスのプレゼントならいい?」

「……もっとかな。ホグワーツへの入学が決まったら、一緒に買いに行こう」

 

 わずかなうめき声を上げ、少女はその場に立ち止まる。彼女は青い瞳を見開き、父のことを見上げた。

 

「4年はちっとも()()()()なんかじゃない! わたし、そんなに待てない!」

 

 少女は頬をめいっぱい膨らませる。その姿はまるで餌を頬袋にため込んだリスのよう。

 

「パパ、わたしももう魔法が使えるんだよ? だから、お願い。わたしもわたしだけの魔法の杖が欲しい」

「いいかい? あの時も教えたけれど、子供は魔法を使っちゃいけないんだ。魔法は便利だけど、とても危険なもの。だから、学校でちゃんと勉強してからじゃないと使えない。もしも杖を持っていたとしても、それをこの前みたいに振ってみることだってできないんだ」

「それでもいいから! 例えば、お部屋に飾っておくだけ! ね? ちゃんとお約束は守るから」

 

 そう言って、少女は父親に思いきり抱き着いた。ずいぶんと勢いがあったものだから、父は思わずよろめく。

 けれど、彼の意志は揺らがなかった。

 

「ちゃんとお約束は守る、ね。それなら、ポシェットの中を見せてもらってもいいかな?」

「ポシェット? それなら別に——あ」

 

 なにかを思い出し、少女は肩から掛けていたポシェットを体の後ろに回す。

 

「隠していたって、パパには全部お見通しさ」

 

 その言葉に観念したのか、少女はポシェットを黙って差し出した。その中には水筒やメモ帳のほかに、キャンディ包みのチョコレートがたくさん入っている。

 

「この前、ママとどんな約束をしたか憶えているかい?」

「……このチョコレートはしばらく食べちゃだめって。わたしが一人でいっぱい食べちゃったから……」

「そうだね。それなら、今の君はちゃんと約束を守れているのかな?」

 

 少女は首を横に振り、「ごめんなさい」と呟いた。その小さな後頭部を父の大きな手が優しく撫でる。

 

「わかってくれれば、それでいい。このことはママには内緒にしよう。誕生日にこれ以上叱られるのは君も嫌だろう? さあ、気持ちを切り替えてプレゼントを探しに行こう」

 

 父に背中を押され少女は再び歩き出した。

 

「杖は買ってあげられないけど、このダイアゴン横丁には素敵なものがまだまだある。例えば、ここは『イーロップのふくろう百貨店』。魔法使いはふくろうを使って手紙や荷物を届けるんだよ」

 

 店の前を通りすぎる少女のことを籠の中の白いふくろうがずっと目で追っていた。

 

「わたし、ふくろうよりも大鴉(レイブン)の方が好き」

「パパもさ。さて、君が気に入りそうな店となると……。そうだ、『フローリシュ・アンド・ブロッツ書店』はどうだろう? 魔法界随一の品揃えを誇る本屋さんだよ」

 

 本屋という言葉に少女は興味をそそられる。少女は読書を趣味としていたから、魔法使いの読む本にも関心があった。

 けれど、すれ違う人々が持っている魔法の杖の方が少女にはどうしても魅力的に見えた。

 

「魔法界の本というのはとっても面白いよ。例えば、『怪物的な怪物の本』という本があるんだ。あの本は生きている本でね、すぐ暴れて噛みついてこようとするんだよ。って、こんな危ない本はまだ渡せないか。さて、パパのお姫様(プリンセス)はなにが欲しいかな?」

 

 父は横を歩く娘のことを見る。けれど、そこに娘の姿はなかった。

 

「——マーガレット? どこだ? マーガレット!!!」

 

 

▽ △ ▽

 

 

 マーガレット・マノックはダイアゴン横丁を走っていた。父の目を盗み、一目散に魔法の杖の店へと向かう。

 歪んだ外観の銀行、ショーウィンドウに飾られた箒、ペットショップの見慣れない生き物たち——。走れば走るほど、彼女の眼前に広がる世界が変わっていく。

 けれど、一つ困ったことがあった。

 

「——きゃあ!」

 

 石畳に足を取られ、少女は勢いよく転ぶ。スカートからのぞくひざ頭には真っ赤な血がにじんでいた。

 

「……痛いよ。……それに、ここどこ?」

 

 少女がダイアゴン横丁に来るのは今日が初めてである。よって、杖の店がどこにあるのかなどちっとも知らなかった。

 つまり、彼女はどこに行けばいいのかもわからずに走り続けていた。そして、今どこにいるのかすらもわからないのだ。

 

「ごめんなさい、パパ。わたしがちゃんと約束を守らないから……」

 

 少女は青い瞳から涙が零れ落ちる。こんな悪い娘のことなんて、父は嫌いになってしまったかもしれない。

 今の彼女は心細くてたまらなかった。

 

「だ、だ、大丈夫、かい?」

 

 少女が顔を上げると、一人の()()が手を差し伸べていた。

 

「ひ、ひどいけ、怪我だね。じ、じっとしていて」

 

 少年は人目を忍ぶように黄褐色の杖を握る。

 

「え、エ、——癒えよ(エピスキー)!」

 

 少年が小声で呪文を唱えると、少女の擦り傷はたちまち癒えた。これこそ少女が憧れてやまない魔法(magic)

 

「ありがとうございます !お兄さん!」

 

 少年の手を取り、少女は満面の笑みを浮かべる。その青い瞳から涙はすっかり引いていた。

 

「お兄さんも魔法使いなんですね!」

「そ、そ、そうだね」

「わたしも魔法使いなんです!」

 

 少女はえへんと胸を張る。けれど、いくら自分が背伸びをしたところで、この少年には到底届かない気がした。

 

「でも、お兄さんみたいには魔法を使えません。……杖もまだ持っていないんです」

 

 少年の杖を少女はじっと見つめる。

 

「そうだ、杖! お兄さん、その杖はどこで買いましたか?」

「ど、どこで買ったか? ど、どうして?」

「わたし、パパとはぐれちゃったんです。パパにまだ早いよって言われたのに、わたしがどうしても魔法の杖が欲しくなって……。それで、一人で杖のお店を探していたんです」

 

 なるほど少女が一人で泣いていたのは、彼女が迷子であったからかと少年は合点した。

 

「だから、杖のお店に行けばパパも探しにきて——きっと探しにきてくれると思うんです」

「こ、こ、この杖は『オリバンダーの店』でか、買いました」

「オリバンダーの店……。 お兄さん、そのお店への行き方を教えてくれませんか?」

 

 ときおり言葉を詰まらせながらも、少年は道順を丁寧に伝える。少女はメモを取りながら、真剣に彼の話を聞いていた。

 

「——と、これがオリバンダーの店へのい、行き方。わ、わ、わかったかい?」

 

 少年が尋ねれば、少女は笑顔で頷く。しかし、手元のメモに記された字は拙く、彼女がまだ幼いことを物語っていた。

 そんな少女を再び一人にしてしまうのは、いくら人付き合いが苦手な少年でも気が引ける。

 

「や、やはりわ、わ、私が案内します。つ、ついてきて」

「本当に? ありがとう、お兄さん!」

 

 少年のあとを一回りも小さい少女が追いかける。その様子は、はたから見ればまるで兄弟のよう。

 

「お兄さんはホグワーツに通っているんですか?」

 

 それも少女が少年のことを「お兄さん」と呼ぶのだからなおさら。

 

「そ、そうだね」

「なら、もう魔法の勉強をしているんですね。いいな。わたしはあと4年も待たないとホグワーツに行けないんです。お兄さん、ホグワーツでの生活は楽しいですか?」

 

 少女はきらきらとした目で少年のことを見上げていた。

 

「た、た、楽しい、かな」

 

 少女は再び、「いいな」とうらやましそうな声を上げる。

 

「……ほ、ほら、見えてきた。あ、あそこがオリバンダーの店」

 

 少年が指さした先にはこの古い建物が立ち並ぶ横丁のなかでも特に歴史を感じさせる店があった。

 

——オリバンダーの店 紀元前382年創業 高級杖メーカー

 

 文字が剥がれかかっているが入口の扉にはそう書いてある。少女は窓から店中をのぞくが、父の姿はまだない。

 が、代わりに店主と思しき老人と目が合った。彼は少女に向かって、おいでと手招きする。

 

「入ってもいいのかな?」

 

 少女は扉に手をかけると、吸い込まれるように店の中へと入っていった。ここまで連れてきてしまった以上は彼女を放っておくわけにもいかず、少年もあとに続く。

 

「いらっしゃいませ」

 

 老人は柔らかい声をしていた。特徴的な銀色の瞳が薄明りの中できらりと光る。

 

「こんにち——きゃあ!」

 

 少女が声を発すると同時、床から積み上げられていた箱の山が突然崩れた。驚いた少女は思わず少年に抱き着く。

 

「わたしがぶつかっちゃったんだ。ごめんなさい」

「お嬢さんのせいではありません。お気になされるな」

 

 落ちた拍子にいくつかの箱は開いてしまったようだ。少女が目をこらすとそこには杖が入っていた。

 少女はそのうちの一つを拾い上げる。

 

「この杖、とっても素敵。真っ白で、パパの黒い杖とは正反対」

「それはマツの木にユニコーンのたてがみ。27センチで驚くほど振りやすい。たしかに良い杖ではあるが、お嬢さんの杖ではないのう」

 

 老人は杖を一振りすると、あっという間に店内の様子を元通りにしてしまった。

 

「この杖がどうやらお嬢さんに早く会いたがっているようなのじゃ」

 

 老人が一本の杖を差し出す。

 

「ブドウの木の杖は相性がいい者が部屋に入ってくると、魔法を発することがあってのう。どうもこの杖はお嬢さんを持ち主に選びたいようじゃ。なにせ、お嬢さんが店の前にやってきただけで、箱ごとわしの手元に飛んできてのう」

 

 少女が利き手で杖を取った瞬間、杖の先から金色の光の粒が溢れ出した。

 

「まるで妖精の粉みたい……」

 

 少女はうっとりとした様子で雪のように降り注ぐ光を見つめている。少年もその幻想的な光景に心を奪われていた。

 

 しかし、彼女たちは唐突に現実へと引き戻される。

 

「ごめんください。ここに黒い髪の女の子はきま——マーガレット! マーガレット! 探したよ、マーガレット」

 

 父は娘を抱き上げると、強く抱きしめた。

 

「パパ、とっても心配したんだ。本当に無事でよかった。もう二度と、勝手にいなくなってはいけないよ」

「ごめんなさい、パパ。わたし、どうしても魔法の杖がほしいと思っちゃったの。けれど迷子になって、とっても後悔したの」

「迷子に? でも、よくこの店を見つけられたね」

 

 父は少女を下ろし、不思議そうな顔をする。

 

「それはね、お兄さんがここまで連れてきてくれたの。わたしが転んで怪我していたところを助けてくれて、とっても親切だったんだよ」

 

 父親は娘の恩人の手を握った。

 

「君がマーガレットをここまで連れてきてくれたんだね。本当にありがとう。僕はなんとお礼をしたらいいか」

「い、い、いえ。彼女がこ、ここにくればき、きっとお父様がさ、さ、探しにくると言っていたので」

 

 少年は父親と少女の顔を順に見る。二人とも深く、澄んだ色の青い瞳をしていた。

 

「ところでマーガレット。その杖は?」

 

 父親に指摘され、少女ははっとする。そうだ、杖はまだ持たないと約束しているのだ。

 

「この杖がわたしに持ってほしいんだって……。でも、返してくるね。だって、パパと約束したから」

 

 少女は杖を店主の老人に返す。だが、次の瞬間にはたしかに老人に手渡したはずの杖が再び彼女の手の中にあった。

 そのまさかの出来事に少女は目を白黒させている。

 

「その杖はお嬢さんのことをえらく気に入って、離れたがらないようじゃのう」

「つまり、マーガレットはこの杖に選ばれたと? まさか、こんなに早く杖が見つかるとは……」

 

 父親は大きなため息をついた。そして、バッグの中からガリオン金貨の入った財布を取り出す。

 

「オリバンダーさん、これをいただきます。マーガレット、誕生日プレゼントはこの杖でもいいかな?」

「うん! パパ、ありがとう! ずっとずっと大事にするね」

 

 こうして少女は予定より4年も早く杖を手にすることとなった。老店主に見送られ、三人は店をあとにする。

 

「さて、よければ君になにかお礼をさせてもらえないかい? この子をオリバンダーの店で見つけられたのは、君のおかげだからね。そうだな……。例えば、『フローリアン・フォーテスキュー・アイスクリーム・パーラー』のサンデーなんてどうだろう?」

「アイスクリーム・パーラー! そんなお店もあるんだ! お兄さん、一緒に行きませんか? わたしもお兄さんにお礼がしたいです」

 

 少女は父親に「それは君が食べたいだけだろう」と咎められた。

 

「でも、わたしはお兄さんともっとお話ししてみたいの。ホグワーツのこととか、お勉強のこととか」

「す、す、すみません。じ、実はよ、予定があるのです」

「そんな!」

 

 少女は悲鳴にも似た声を上げる。

 

「そうか。それなら仕方がないね」

「ゆ、友人と会うことに。だ、だから、わ、わ、私はもうい、行かないと」

 

 本当は予定などなかった。友人と会うなど真っ赤な嘘。少女と話す時間ならいくらでもある。

 けれど、この少女とこれ以上親しくなることが、この少女にこれ以上自分の中に踏み込まれることが怖い。そう少年は感じていた。

 

「お兄さん、それならこれを持っていってください!」

 

 少女はポシェットの中のチョコレートを一掴み、少年の手に握らせる。

 

「わたしからのお礼です。それから、これはお兄さんがお友達と一緒に食べてください」

 

 そう言って、少女は持っているチョコレートをすべて少年に渡してしまった。

 

「あの、お兄さん。また会えますか? わたしももう少し大きくなったら、ホグワーツにいけるんです。だから、そこでまた私のことを見つけてくれませんか?」

「……ど、どうかな。君が入学する頃にわ、私はもうホグワーツを卒業しているから」

 

 口の中が苦い。まるでダークチョコレートを食べたかのよう。それが少女の初恋の味だった。

 

「……そうですよね。でも、今日お兄さんに出会えて、本当によかった!」

 

 少女の青い瞳はなぜだか輝きを増している。

 

「だから、いつかきっと()()()()()()()()!」

 

 7歳の誕生日、少女はちょっとだけ大人になった。

 

▽ △ ▽




ご無沙汰しております。

元々書くの遅い方なのに最近はさらに進みが遅く、気分転換と執筆の練習もかねて本編とは断絶した「もしも」の話を書いてみたら予想以上に筆がのりました。
本来はまたあとがきにでも掲載するつもりだったのですが、それにしては長くなってしまった。
少女と年上男の交流を書くのはやっぱり楽しい。


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第1話 再会

——「アズカバンの囚人」編、開幕


「クィレル先生! こうして()()お会いできる日をずっと、ずっと楽しみにしていました!」

 

 クィレルの手を包み込むように握りしめ、マーガレットは破顔する。

 その様子を見て、クィレルのふっと息を吐いた。張り詰めていた緊張の糸が切れる。

 

「君は……君は本当に変わらない」

 

 今まで何度か口にした言葉とともに、彼の目から一粒の涙がこぼれ落ちた。そして、そのことに気づいたマーガレットの表情が今度は困惑へと変わる。

 

「先生?」

「そういうところも君は変わらないのですね。……実はこうして再び君に会うことが不安でした。君が僕の姿を見たらどんな顔をするのか。もしかしたら、拒絶されるのではないかと」

「そんなこと——」

 

 クィレルは首を横に振った。それ以上は言うな、そう伝えたかったのだろう。

 

「ミス・マノック、君は私のことを怒っても、嫌ってもいいのですよ。わたしは許されないことをした。その事実は決してなくなりません。でも、こうしてもう一度君と話がしたかった……。君に会って、謝りたかった」

「先生、顔を上げてください」

 

 クィレルはゆっくりと顔を上げた。くもりなき青い瞳がきらきらと輝いている。

 

()()先生に会うことができた。わたしにはそれで充分です」

 

 クィレルは思った。こうして変わらぬマーガレットの様子を見るに、きっと彼女は自分のことを許してくれるのだろう。そして、再び先生と慕ってくれるのだろう、と。

 けれど、己の罪がそう簡単に許されていいものなのか。かつての教え子の優しさが今の彼には心苦しい。

 

「ですが、ミス・マノック——」

 

 その時、マーガレットの左肩にふわりと青い目の鴉が舞い降りた。そして、ネモは大きく左の翼を大きく広げると——。

 

「ネモ!」

 

 クィレルの頬をはたいた。ペットのまさかの行動にマーガレットは慌てふためく。

 

「先生、ごめんなさい! その、痛みはないですか? なにか冷やすものを持ってきますね!」

「いえ、大丈夫です。ネモもずいぶんと加減をしてくださったようなので」

 

 はたかれた瞬間、クィレルは思わず顔をそむけてしまった。が、痛みはまったくといいほど感じない。これは本気ではなく、形だけの仕草だったというわけだ。

 

「君が気にしていなくても、ネモはそういかないのでしょう。大切な君のことを私は危険な目に合わせたのですから」

 

 マーガレットの肩の上でネモはうんうんと首を縦に振っていた。だが、その青い目に怒りの炎は燃えていない。

 ネモは再び翼を広げた。そして、まっすぐ前へ——クィレルの顔の前に差し出す。

 

「……握手、でしょうか?」

 

 クィレルが尋ねれば、ネモは一声「カア!」と鳴いた。大鴉(レイブン)の黒い翼にクィレルはそっと手を伸ばす。

 

「あなたも私を許してくれますか?」

 

 クィレルの手が翼に触れると、ネモは深々と頭を下げた。一年前、クィレルに「あの子をよろしく」と伝えたときと同じ仕草だ。

 

「……必ず役目は果たします」

 

 ただ罪滅ぼしのためではない。自分(クィリナス・クィレル)は望まれてここにいるのだ。そう青い目の鴉に背中を押されたような気がした。

 

「あの、これで仲直りですね!」

 

 ほっとした様子でマーガレットは再び笑みを浮かべる。ネモもくちばしを鳴らして喜んでいた。それに釣られ、クィレルも口元を綻ばせる。

 

「そうだ、先生。ちょうど時間もいい頃合いですし、その、お茶はいかがですか?」

「では、お言葉に甘えて。ちょうど私も、君と話をする時間がほしかったので」

「本当ですか! ……嬉しいです」

 

 マーガレットは意気揚々と店の入り口にかけられた開店中(Open)の札をひっくり返した。そして、閉店中(Closed)の札が揺れる扉の鍵をかける。

 

「どうぞ二階に。一応、店内は飲食厳禁なので」

「店じまいにはまだ早いのでは?」

「きっと大丈夫です! そうそうお客さんも来ませんから」

 

 クィレルをリビングに通し、マーガレットはお茶の支度を始めた。お気に入りの白磁のティーセットと手作りのマドレーヌをテーブルに並べていく。

 

「久しぶりに母と焼いたんです。よろしければ、先生もお食べください」

 

 温めたティーカップに紅茶を注ぐと、華やかな香りが部屋いっぱいに広がった。マーガレットとクィレルは向かい合って座り、ネモは飼い主の肩の上からテーブルの上へと移る。

 

「今、お母さまは?」

「その、おじいさまたちと買い物に。おかげで話を聞かれることもありませんし、ちょうどよかったです」

 

 マーガレットは祖父が朝食の席で読んでいた新聞をテーブルの隅に寄せた。その一面には「凶悪犯脱獄」という言葉の下に長髪の男のマグショットが載っている。

 

「今の魔法界の状況を知ったら、心配されてなんと言われるかわかりませんし。それに、家族は『賢者の石』の一件も『秘密の部屋』の一件も知らないので……」

 

 ティーカップをつまみ上げ、マーガレットはそう呟いた。湯気とともに立ち上るアールグレイの香りが鼻腔をくすぐる。

 

「『秘密の部屋』のことはここに来る前にダンブルドアから聞きました」

「そうだったのですね」

「まさかバジリスクがあの校舎の中にいたとは……」

 

 紅茶を啜り、クィレルはため息をついた。

 

「ミス・マノック、大変でしたね。そして、君たちが無事で本当によかったです」

「あのときはネモが石のままだったらどうしようかと不安でした。ですが、スプラウト教授やスネイプ教授、それからミスター・ポッターたちのおかげで、またこうして一緒に」

 

 マーガレットは隣の大鴉(レイブン)の頭を撫でる。ネモはマドレーヌで頬をいっぱいに膨らませていた。

 

「あの、先生はこの一年をどのように過ごしていらっしゃったのですか?」

「そうですね。その話もしなければ……」

 

 軽い咳払いのあと、クィレルはこう続ける。

 

「実はダンブルドアの助言を受け、私は合衆国にいました」

「合衆国!」

「はい、アメリカで一番の大都市ニューヨークに。その間はダンブルドアの古い知人を頼り、ある魔法について学んでいました」

 

 クィレルのグレーの瞳がマーガレットの青い瞳を見据えた。

 

「……ミス・マノック、君は『開心術』を知っていますか?」

 

 軽く目を閉じ、マーガレットは小さく唸る。今までに受けた授業や読んだ本の知識をひねり出すが、「開心術」と聞いて思い当たるものは一つもない。

 

「えっと、わからないです。クィレル先生、その『開心術』について私に教えていただけませんか?」

 

 その言葉を聞き、クィレルはほっとしたように笑った。彼は懐かしく、楽しかった昔を思い出す。

 

「もちろん。では、さっそく始めましょうか」

 

 こうしてマッカーデン商店の二階にてクィレル教授による出張授業が始まった。

 

 

▼ ▲ ▼

 

 

 クィレルによる「開心術」の講義が終わるとマーガレットは大きく息を吐いた。いつの間にか窓の外には赤い夕空が広がっている。

 

「『開心術』にそれを防ぐ『閉心術』。そんな魔法があるだなんて、ちっとも知りませんでした!」

 

 勉強疲れした脳を癒そうとマドレーヌに手を伸ばした。しかし、皿の上にはなにも載っていない。宙を切る飼い主の手を見つめ、ネモは口元をせわしなく動かしていた。

 

「先生のお話を聞いていただけでも、頭がこんがらがってきてしまいました」

「ホグワーツで教えていないということもありますが、『開心術』も『閉心術』も扱える魔法使いの方が少ないです。ですから、それだけ難しいということ。しかし、いずれ君には習得してもらわねばならないのですが……」

 

 クィレルはマーガレットの表情を見る。口では混乱していると言っているものの、彼女の青い瞳はきらきらと輝いていた。

 

「……ミス・マノックなら大丈夫ですね」

 

 出会った頃よりもはるかに賢く、たくましくなった教え子に向けてそう呟く。彼女への焦りや嫉妬はもう過去のものだ。

 

「そうだ、先生。よく習うより慣れよ(Practice makes perfect)と言いますよね。だから、実際に『開心術』を体験してみたいです!」

「今日はまだ説明程度のつもりでしたが……。しかし、一度好奇心に火がついた君を止められないことは私もよく知っています」

 

 クィレルの言葉を聞き、マーガレットは嬉しそうに笑う。

 

「では——。『開心術』の基本は相手と目を合わせることです」

「目を?」

 

 マーガレットはクィレルの言うとおりに目を合わせた。かくして二人は見つめ合う形となる。

 

「熟練者はこれだけで心が読めるそうですが、私はまだ呪文を唱えねばなりません。ですので——」

「あー、お取り込み中失礼するよ」

 

 ごほんという咳払いが聞こえた。マーガレットが振り返ると、祖父のマッカーデン氏が立っている。

 

「ただいま。マーガレット。で、そちらは……」

 

 マッカーデン氏は口髭を撫でた。そして、鋭い視線をクィレルに向ける。

 だが、マッカーデン氏の後ろに立つマッカーデン夫人とマーガレットの母メアリーは微笑みをたたえ、温かい目でクィレルと娘の姿を見ていた。

 

「突然の訪問になってしまい申し訳ありません。ご無沙汰しております。ホグワーツで教師をしておりました、クィリナス・クィレルです」

「あら、クィレル教授。マーガレットがお世話になっております」

 

 メアリーは娘の恩師に愛想よく挨拶する。血色のいい唇の隙間から白い歯をのぞかせるその笑い方はマーガレットとそっくりであった。

 

「こうしてお会いするのはいつ以来でしょうか? でも、マーガレットからいつも話を聞いているものですから、あまりお久しぶりの気もしませんね」

 

 メアリーはくすくすと笑う。だが、なにかを思い着いたのかぽんと手を叩いた。

 

「そうです。教授、よろしければご一緒に夕食はいかがですか?」

「いえ、お気遣いなく。とても嬉しいお誘いですが、お茶までいただいた上に夕食までは……」

「気遣いだなんて! もちろん、教授にもご予定があるでしょうから無理にとはいいません。でも、マーガレットのことです。きっとまだ話し足りないこともあるでしょうから」

 

 そう言ってメアリーはマーガレットに目配せする。だが残念なことに、マーガレットは母の言動の真意に気づけなかった。

 とはいえ、マーガレットとしても母の提案はありがたいものだ。できる話は限られてしまうとはいえ、久しぶりの再会なのだから話し足りないことはいくらでもある。

 

「あの、ぜひご一緒にいかがですか? わたしも、もう少しだけ先生とお話しできると嬉しいです。例えば、アメリカでどこへ行ったかとか?」

「まあ! 教授はアメリカに行かれていたのね! アメリカ旅行の話はわたしも聞きたいわ」

 

 一人は無意識に、もう一人は意識的にクィレルから選択肢を奪う。だが、それに気づいているのは一組の老夫婦だけだった。

 

「そうですね……。では、お言葉に甘えて」

「ぜひ! 母と祖母の料理はとってもおいしいんですよ!」

 

 マーガレットの言葉に同意しているのかネモが「カア!」と鳴く。

 

「夕食までの間、さっそくアメリカでのことを聞かせていただいてもいいですか? 先生はディズニーランドには行かれました? 『地球上でもっとも魔法がある場所』だなんて素敵ですよね。わたしもいつかは行って——」

 

 突然、メアリーがマーガレットの肩に手を置いた。

 

「マーガレット。クィレル教授とお話したいのでしょうけど、料理を手伝ってくれるかしら?」

「でも……」

「せっかく教授が来てくださったのよ。あなたがおもてなしをしないと」

 

 メアリーはあいかわらず愛想のいい笑みを浮かべている。しかし、目つきだけは鷹の目のように鋭かった。

 

「クィレル教授、マーガレットも料理はとっても上手なんですよ。では、少々お待ちくださいね」

 

 母に腕を掴まれ、マーガレットはキッチンへと連行される。クィレルとネモは彼女たちを見送る事しかできなかった。

 今まで傍観していたマッカーデン氏は客人に向けてこう呟く。

 

「見苦しいところをお見せしてすまない。こういうときのメアリーは誰にも止められないものでね。だが、あんなに張り切っている娘を見るのは懐かしい。23年前を思い出すよ」

 

 

▼ ▲ ▼

 

 

 前菜にスープ、メインディッシュは牛肉の赤ワインソース添え(ボルドレーズ)。そして、デザートにはカヌレ。

 マーガレットが腕によりをかけた料理は前評判どおりの味であった。おいしい食事のおかげで会話も弾み、つい長話をしていれば夏の短い夜がいつの間にか始まっている。

 

「先生、今日は本当にありがとうございました。久しぶりに先生とお話ができて、とっても楽しかったです。その、またお会いできる日が楽しみです」

 

 クィレルを見送るため、マーガレットは表に出た。月明かりが二人の顔を照らし出す。

 

「別れの前に。ミス・マノック、君にこれを」

 

 クィレルはポケットから包みを取り出し、マーガレットに手渡した。

 

「あの、開けてもいいですか?」

「もちろん。……気に入ってももらえるといいのですが」

 

 マーガレットが丁寧に包みを解く。プレゼントの正体は銀の透かしに青い石を埋めこんだコンパクトミラーであった。

 

「ミス・マノック、『両面鏡』という道具は知っていますか?」

「名前を聞いたことはあります。でも、手にしたのは初めてです」

 

 一見するとなんの変哲もない鏡である。よく磨き上げられた鏡面に不思議そうな顔のマーガレットが映りこむ。

 

「たしか……この鏡を通して離れた相手とも会話ができる魔法具でしたよね?」

「そのとおり。では、使い方を説明しますね」

 

 クィレルは懐から金色のコンパクトミラーを取り出した。その中心には赤い石がはめこまれており、マーガレットのものと対になるようなデザインである。

 

「鏡に向かって相手の名前を呼ぶ。例えば——ミス・マノック。たったこれだけです。電話のように誰とでも通話できるわけではありませんが、対の鏡を持つ相手とならばこうして顔を見ながら話すことができます」

 

 説明のとおり、先ほどまでマーガレットの顔が映りこんでいた鏡面に今度はクィレルの顔が浮かんでいた。

 

「ミス・マノック、今後はおもにこれで連絡を取り合いましょう。ふくろう便よりも早いですし、電話とは違ってホグワーツの中でも使うことができます」

 

 クィレルがコンパクトを閉じると、マーガレットの両面鏡は再びなんの変哲もない鏡へと変わる。

 

「話は変わりますが、君はシリウス・ブラックのことは知っていますね」

「ピーター・ペティグリュー氏を殺し、その場に居合わせただけの13人の命も巻き込んだ『例のあの人』の信奉者、ですよね」

 

 マーガレットの解答にクィレルは頷いた。

 

「つい先日、そのブラックがアズカバンから脱走しました。魔法省はブラックがハリー・ポッターを襲うために脱獄したと考えています。もっとも、それは間違いではないでしょう。しかし、ダンブルドアは君の身にも危険が及ぶのではないかと考えているようです」

「わたし、ですか?」

 

 マーガレットはその凶悪な脱走犯がなぜ我が身を狙うのかが本気でわからない様子だ。

 

「ミス・マノック、君は私を救おうとして『例のあの人』と戦い、生き残った。図らずもハリー・ポッターと同じになってしまったのですよ。それをブラックが知ったとしたら、君にまで憎悪を向けかねない。ですから、この両面鏡を肌身離さず持っていてください。そして、君の身に危険が迫ったときはすぐに私を呼んでほしい」

「でも、それでは先生まで——」

「私は死にませんよ。私には守らなければならないものがある。だから、まだ死ねない。マーガレットのことは私が代わりに守る。そう約束しているので」

 

 ほんの一瞬、クィレルとネモの視線が交わった。

 

「……少々話しこんでしまいましたね。ですが、最後に一つだけ。私はダンブルドアからとあることを任されています。先ほど教えた『開心術』と『閉心術』、あれを——とくに後者の『閉心術』を君に覚えさせろ、と。いわば、もう一度君の先生になれということです。ですから……」

 

 クィレルが手を差し出す。

 

「ミス・マノック、これからもどうぞよろしく」

「クィレル先生! こちらこそよろしくお願いします」

 

 その大きな手を握り返し、マーガレットはとびきりの笑みを浮かべた。

 こんなに寂しくないお別れは、彼女にとってはいつ以来だっただろうか。




新章のスタートを記念いたしまして、主人公マーガレットとネモを描いていただきました!
依頼を受けてくださった「つつみぐさネコ」様に、この場を借りてお礼申し上げます。

【挿絵表示】

※掲載許可承諾済み

また、新たに表紙も設定いたしました。
読了報告や作品ページの紹介をTwitterでしていただけますと、タイムラインにマーガレット教授が現れます。
ぜひお試しくださいませ(隙あらば宣伝)

お気に入り登録、評価、感想、ここすきはいつでもお待ちしております。
その一件、一件が作者の励みとなりますので、どうぞよろしくお願いいたします。
それでは、また。


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第2話 教師と癒者と作家

 聖マンゴ魔法疾患障害病院は首都ロンドンにある400年近い歴史をもつ魔法病院だ。だが、マーガレットがここを訪ねるのは今日が初めてであった。

 その理由は二つ。一つは幸運にも今までこの病院に通うほどの病気や怪我をすることがなかったから。

 そしてもう一つ。マーガレットは病院という場所があまり好きでない。今の彼女にとってのもっとも古い記憶———入院していた頃のことをどうしても思い出してしまうのだ。

 記憶喪失についてなにかわかるかもしれないと、マーガレットは何度か聖マンゴを訪れることも考えていた。が、どうしても決心がつかずにいた。

 けれど、そんな折に転機が訪れる。ある朝、ホグワーツからのふくろう便がマーガレットの家に大きなトランクケースを届けた。

 

——この荷物を聖マンゴ病院にいる持ち主に渡してください。

 

 添えられた手紙にはエメラルド色のインクでそう書かれていた。

 

 

 

 マネキンに手招かれ、マーガレットとネモは『パージ・アンド・ダウズ商会』の流行遅れなショーウィンドウを突き抜ける。聖マンゴ病院の受付はロンドンの街中とはまた違った喧噪に包まれていた。

 絶えず悲痛な声を上げている若い魔法使い、笑い続ける魔女、風船のように宙に浮かんでいる幼い娘とその父親。英国魔法界きっての大病院というだけあり、マーガレットが本でも読んだことがないような症例の患者がここには多くいた。

 

 マーガレットは案内係の列に並ぶ。職員の座るデスクの後ろの壁一面には掲示やポスターが張られていた。そして、聖マンゴの癒者(いしゃ)にしてホグワーツの校長も勤めたディリス・ダーウェントの肖像画——もっともこの日、彼は不在であった——も掛けられている。

 

 順番がきて、マーガレットが案内魔女に要件を伝えると五階に上がるようにと言われた。

 マーガレットは大きなトランクケースを抱きかかえ、両側の壁に肖像画がかけられた階段を上がる。額縁の中の癒者(いしゃ)たちはマーガレットたちの姿を見つけると病状がどうだ、治療法がどうだと好き勝手に話し始めた。

 とくに中世の魔女と思わしき癒者(いしゃ)はネモに向けてポリジュース薬での変身の解き方を熱弁している。もっとも、マーガレットに言わせればネモは生まれてからずっと大鴉(レイブン)なのだが。

 

 そうこうしているうちに一人と一羽は五階にたどり着いた。『呪文性損傷』という札が廊下の入り口に掛けられている。

 

「あなたがマノック先生ね」

 

 ライムのような緑色のローブを纏い、髪にディンセルの花輪を飾った癒者(ヒーラー)が声をかけてきた。彼女は柔和な笑みを浮かべている。

 

「はじめまして。ヤヌス・シッキー病棟担当のミリアム・ストラウトよ」

「マーガレット・マノックと申します。お忙しいところ、わざわざ時間を設けてくださりありがとうございます」

 

 ストラウト癒師(いし)は微笑んだまま首を横に振った。

 

「いいのよ。なにせ彼のお見舞いに来てくれたのは、あなたが初めてなの。さあ、どうぞ。病室まで案内しますね」

 

 癒者(いしゃ)はドアを開け、廊下を奥へ奥へと突き進む。そして、「ヤヌス・シッキー病棟」と書かれたドアを杖で指し、解錠呪文(アロホモーラ)を唱えた。

 

「ギルデロイ、お客さまよ!」

 

 名前を呼ばれ、ベッドの上の男は顔を上げる。ブロンドの髪が揺れ、ブルーの瞳がマーガレットの姿をとらえる。

 

「おや、あなたは?」

「お久しぶりです、ロックハートさん」

 

 ロックハートは首を傾げたまま、目を瞬かせていた。そして、ときおり「あー」とか「うー」と幼児のような声を上げる。

 

「……その、わたしはロックハートさんとご一緒に働いていたんです。一年間だけ、ですが」

「私と? 私はいったい、どんな仕事を?」

 

 ロックハートには記憶がない。彼は「秘密の部屋」で忘却術を浴び、なにもかも忘れてしまった。もちろんマーガレットのことも、そして自分自身のことも憶えていない。

 だから、この長期療養者向けの隔離病棟に入院させられているのだ。

 

「えっと……。その、学校の先生です。ロックハートさんはホグワーツ魔法魔術学校で闇の魔術に対する防衛術を教えていらっしゃいました」

「私が? 教えて? ——私が?」

 

 ロックハートは狼狽え、何度も同じ言葉を繰り返していた。かつての彼ならば、ホグワーツの教師というその輝かしい功績を嬉々として語っていたことだろう。

 だが、今のギルデロイ・ロックハートからはかつて一世を風靡した語り手としての才すらも失われていた。

 

「あの、今日は荷物をお持ちしたんです。ロックハートさんが教室や部屋に飾っていらっしゃった写真や肖像画。それから、本もありますよ」

 

 マーガレットは重たいトランクを床に下ろし、中から比較的小さな写真立てを取り出す。華美なローブを身にまとった被写体はにっこりと白い歯を見せて笑っていた。マーガレットがよく知るロックハートその人である。

 

「これが——私?」

 

 たった一枚の写真をロックハートは食い入るように見つめていた。あまりにも長く見ているもので、しまいにはあの——あくまでも写真だが——ギルデロイ・ロックハートが照れ始める。

 ただ、それほどまでに写真の中の自信たっぷりな男の姿と現在の自身の姿がどうしても結びつかないようだった。

 

「これは……なんでしょうか?」

「それはロックハートさんのサインですよ」

「サイン?」

 

 ロックハートは写真に添えられた特徴的な丸文字を指で丁寧になぞる。そして、彼は満足そうに笑った。

 

「私の名前はこう書くのですね」

 

 あぁ、そうかとマーガレットは得心する。昔の彼女と同じように、彼も自分の名前の書き方さえもわからないのだ。

 

「あの、実際にサインを書いてみませんか? ロックハートさんはそれはたくさんのサインを書いてらっしゃいました。だから、なにか思い出すきっかけになるかもしれませんよ」

 

 マーガレットはインク瓶と孔雀の羽根ペン、それとまだサインの書いていない写真の束をベッド脇に並べる。こうすると彼がしばしば開催していたサイン会のようであった。

 

「これも私の物ですか?」

「そうです。この羽根ペンはロックハートさんがよくお使いになっていたものなんですよ」

 

 ロックハートは羽根ペンを握るように持つ。そして、ペン先をインクにどっぷりとつけた。

 だが、ロックハートがその加減を忘れてしまっていたため、余分なインクがぼとぼとと滴る。真っ白なシーツに黒いシミが広がった。

 

「あらあら、きれいにしましょうね」

 

 ストラウト医師が杖を振ると、あっという間にベッドが整えられる。そして、彼女はインク瓶の蓋を固く閉めた。

 

「ギルデロイにはまだ難しかったかしら」

 

 ストラウト癒師(いし)はあいかわらず微笑みをたたえているが、対するロックハートの顔には悲しみや焦りの色がうっすらと浮かんでいる。

 その姿が記憶を失い、未知に怯えていた幼き日の自分自身のようにマーガレットには感じられた。

 

「あの、よろしければ、これをどうぞ」

 

 マーガレットはポケットに差していた一本のボールペンを差し出す。彼女が普段から使っていたもので、もちろんラッピングなどもされていない。だから。贈り物には不適当な物。

 しかし、マナーだとかを考えるよりも先に体が動いていた。

 

「すみません。その、プレゼントとして用意したものではないのですが」

「それは?」

「バイロー*1です。えっと、バイローというのはマグルがよく使う文房具で、インクがペンと一体になっているからすぐに字を書くことができるんです」

 

 カチッという小気味よいノック音、滑らかな書き心地。マーガレットお気に入りのメーカーの一品というだけあり、使いやすさは保証書つきだ。

 ペンを受け取ったロックハートはゆっくりとサインを書き上げる。その出来は以前に彼が書いたものとは比較のしようもない。

 しかし、その拙い字を見てロックハートは満足そうにしていた。

 

「簡単に字が書けますね! これならば、いくらだってサインも書けるでしょう!」

 

 無邪気に笑うロックハートにつられ、マーガレットも小さく笑う。

 記憶を失うということは——例え、それが己のしたことへの罰であったとしても——悲しいこと。その苦しみがマーガレットにはわかる。

 だから、ほんの少しでも自信(自身)を取り戻したロックハートの姿が彼女には好ましく思えた。

 

「プレゼントまでもらって。よかったわね、ギルデロイ。では、マノック先生。少し、お約束していたことについて話しましょうか」

「おや、もう行ってしまうのですか? ぜひ、またお会いしましょう! このバイローのお礼に私のサイン入りの写真をお渡ししなければなりませんから」

 

 ロックハートの言葉にマーガレットは頷く。ネモも飼い主を真似て首を縦に振った。

 

「わかりました。では、またうかがわせていただきます。バイローも気に入っていただけてよかったです。今度は替え芯もお渡ししますね」

「おや! それでは写真を2枚——いえ、さらに増やさなければ!」

 

 

▼ ▲ ▼

 

 

「ありがとう、マノック先生。あなたが来てくれたおかげで、ギルデロイもずいぶんと楽しそうだったわ」

 

 ストラウト癒師(いし)はマーガレットを病室からは離れた空き部屋に通した。

 

「いえ、こちらこそありがとうございます。このように忘却術についてお話をうかがう機会をいただけて」

「気にしないで。それに、お礼はキアラ*2に。彼女がぜひあなたに協力してあげて、と。彼女から紹介を受けた際に少し聞いたのですが、マノック先生は記憶がないそうですね」

「はい。7歳になる前に事故に遭い、それまでのことをすべて忘れてしまいました」

 

 先ほどまでは穏やかな表情をしていたストラウト癒師(いし)の目つきが、みるみるうちに真剣なものへと変わっていく。

 二人が向かい合うように座っていることもあり、まるで診察が始まったようであった。

 

「そうなのね。忘却術が原因で?」

「いえ、それがなにもわからないままで……」

「記憶が一つも戻らないとなると、やっぱり忘却術が原因かしら……。でも、マノック先生は——こう、なんというか——それにしては()()()()としているわね。記憶が全部なくなったというのに」

 

 ストラウト癒師(いし)の奥歯にものが挟まったような言い方に、マーガレットは眉を寄せる。

 

「ごめんなさいね、マノック先生のことをおかしいと言っているわけではないの。これはあくまでも癒者として多くの患者を診てきた者としての意見ね。よく知られているように、忘却術は適切に使用すれば一部の記憶だけをピンポイントに消すことができるわ。例えば、昨日の夕食のメニューとか。そして、もし忘却術で昨日なにを食べたのかを思い出せなくても、生活に大きな支障は起きないでしょう? 忘却術師もその支障が起きない程度の記憶修正を行うの」

 

 ストラウト癒師(いし)はなおも話し続けた。

 

「でも、この聖マンゴのように運ばれてくるような患者は違うわ。そのほとんどがギルデロイのようになにもかも——そう、記憶以外にも多くのものを忘れた人。ほら、ギルデロイは言語能力に問題があるわ。入院当初よりは多少よくなっているけれどね。でも、時にはもっと酷くて、歩き方すら忘れている人だっているのよ。だから、そういった患者と比べるとマノック先生からは後遺症のようなものがあまり感じられないの。キアラからなにも聞いていなかったとしたら、先生が一度記憶を失っていることにもまず気づかないわ」

 

 ストラウト癒師(いし)は首を傾げ、マーガレットのことをまじまじと見つめている。

 

「そう。言うなれば、記憶だけが——思い出だけが消されたよう。失礼だけど、その事故というのは?」

「それは交通事故で——その、マグルの自動車に轢かれました。わたしは一命を取り留めましたが、父はわたしをかばって……。だから、医者には事故のショックで過去を思い出せなくなったのだろうと言われました」

 

 その当時は家族も、そして彼女自身もこの診断を受け入れていた。だって、非魔法族に伝わる記憶喪失の原因はおおよそこのようなものだから。

 しかし、魔法を知った今となってはもっと他の理由があったように感じる。そして、それはストラウト癒師(いし)も同じ意見のようだった。

 

「不思議ね。その事故の際に忘却術をかけられたのだとしたら、どうして記憶を全部消す必要があったのでしょう? それに、自動車というのは魔法族(わたしたち)の命を奪うほどのものだったかしら……」

 

 忘却術にはかなりの知見があるストラウト癒師(いし)でもこれ以上はお手上げのようだ。彼女は申し訳なさそうに肩をすくめる。

 

「ごめんなさい。あまりお力になれなかったわね」

「いえ、とても勉強になりました。あの、それともう一つ。ロックハートさんの記憶は——忘却術によって消えた記憶というのはやはり元には戻らないのでしょうか?」

「そうですわね。日々の生活と治療によって多少の改善がみられることはあります。ですが、すべてを思い出すことはありませんわ。それが忘却術ですもの」

 

 マーガレットが魔法界にやってきて、すでに10年以上の時が過ぎた。けれど、記憶が戻る兆しは未だに見えない。

*1
ボールペンのイギリスでの呼び方

*2
「ホグワーツの謎」に登場する癒者を目指しているハッフルパフ生キアラ・ロボスカのこと




ホグワーツ・レガシーの発売おめでとう!&7月のswitch版の発売を心待ちにしています!
およそ110年前のマグル学の教室にも行けるとのことで楽しみです。
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第3話 吸魂鬼

 1993年の9月1日は朝から冷たい雨が降っていた。叩きつけるような雨の音。それと、暖炉で燃える炎の音に耳を傾けつつ、マーガレットはある新三年生の時間割に目を通していた。

 

「九時、『占い学』。同じく九時に『数占い学』。それから——『マグル学』も九時。新学期早々、ミス・グレンジャーも大変ですね」

「えぇ。ですから、()()()であるあなたの意見も助言も必要かと思ったのです」

 

 この時間割の制作者であるマクゴナガル教授がマーガレットのこと見つめる。彼女の事務机の上には金色に光り輝く「逆転時計(タイムターナー)」が置かれていた。

 

「もちろんです。時間旅行中はなにに気をつけるかとか。タイムパラドックスを起こさないためにはとか。そういったことなら、いくらでもアドバイスできるかと」

「こればかりは私やアルバスよりも、よほどあなたの方が慣れているでしょうからね。それに、ミス・マノックの前例があったので魔法省への説得も順調にいきました」

「それなら良かったです」

 

 マーガレットは小さく笑う。

 

「あなたのときはずいぶんと渋られたのですよ。貴重な『逆転時計(タイムターナー)』を一生徒に渡すとは危険だと。しかし、ミス・マノックが()()()()()()()()()使()()()()()おかげで、魔法省もホグワーツに再び貸してもよいと」

「……それなら良かったです」

 

 マーガレットはあいかわらず笑みを浮かべていた。だが、それはどこか貼りつけたような笑顔——。

 マーガレットのことを誰よりも知っている賢いネモがくちばしで飼い主の頬をつねる。

 

「どうかしましたか?」

「い、いえ。その、ネモはお腹が空いたのだと思います。たぶん、きっと。……ほら、口を開けてね。いい子、いい子」

 

 口止め料代わりのファッジを与え、マーガレットはネモの頭を撫でた。だが、青い目の鴉はまだ足りないとばかりに口を開けている。

 マーガレットはもう一度ローブのポケットに手を突っ込んだ。そして、賄賂をもう五粒取り出す。ネモは目を細め、喉を鳴らした。——交渉成立。

 

「さて、詳しいことはまたグレンジャーが来てから話しましょう」

 

 マクゴナガル教授は「逆転時計(タイムターナー)」を事務机の引き出しの中にしまい、ポンと手を叩いた。

 

「生徒たちの到着まではまだ少し時間がありますね。ミス・マノック、紅茶のお代わりはいかがです?」

「ありがたくいただきます。教授も追加のお茶菓子はいかがですか?」

「では、あなたのおすすめをいただきましょうか」

 

 マーガレットは()()()()ポケットから緑色の缶を取り出す。その中には葉っぱの形をしたビスケットがぎっちりと詰め込まれていた。

 マクゴナガル教授はティーリーフビスケットを摘み上げ、マーガレットは淹れたての紅茶が注がれたティーカップを持ち上げる。

 

 とその時、一羽のふくろうが部屋の中に滑り込んできた。雨に打たれたふくろうは羊皮紙をくわえている。

 

「ふくろう便、でしょうか? あの、まさか去年のようなことがまた!」

 

 マクゴナガル教授はマーガレットと顔を見合わせた。ハリーとロンがホグワーツ特急に乗り遅れ、フォード・アングリアが空を飛んだ日のことを思い出す。

 ふくろうは手紙をマクゴナガル教授に受け渡すと、燃える炎の前で暖を取っていた。

 

「差出人は——新しい防衛術の教授からです。ホグワーツ特急でなにかあったのでしょう」

 

 マクゴナガル教授は真剣な表情で手紙を読んでいる。その間、マーガレットはふくろうのびしょ濡れの体を乾かしてやっていた。

 

「あぁ、これは——」

「手紙にはなんと?」

「ホグワーツ特急が吸魂鬼(ディメンター)の捜索を受けた、と。そのせいで気絶した生徒もいるようです。まったく。なんということでしょう」

 

 マクゴナガル教授は紅茶をぐいと飲み干して立ち上がる。それに合わせ、すっかり熱を取り戻したふくろうも飛び立っていった。

 

「だから、アルバスは吸魂鬼(ディメンター)の派遣に反対していたのです! 私は校長にこの件を報告にしてきます。それから、ポピーにも具合を悪くした生徒を診てほしいと伝えなければ。 ——守護霊よ来たれ(エクスペクト・パトローナム)!」

 

 マクゴナガル教授は猫の守護霊を医務室へと走らせ、自身は校長室へ足早に向かう。

 一方、部屋の留守を任されたマーガレットは抱いた腕をさすり、窓の外の暗い空を眺めていた。そして、灰色の空に一段と黒い靄のようなものが漂っているのを見つける。

 

吸魂鬼(ディメンター)……」

 

 北海に浮かぶ孤島の監獄「アズカバン」。吸魂鬼(ディメンター)はそのアズカバンで看守の役割を務めている。

 魔法省は「殺人鬼」シリウス・ブラックの捜索と捕獲のため、吸魂鬼(ディメンター)をホグワーツに派遣した。なのだが、彼らの姿を見ていると守られているという安心感ではなく、その薄気味悪さへの不快感ばかりを覚える。

 

 マーガレットがこの吸魂鬼(ディメンター)を初めて目にしたのはつい最近のことである。だが、未知に対するいつもの好奇心もこの時ばかりは鳴りを潜めていた。

 黒いベールの中身、なぜ吸魂鬼(ディメンター)は生まれたのか。どうして人々の幸福を餌とし、絶望を与えるのか。そのようなこと、マーガレットは知りたいとも思わない。

 知識への興味よりも、吸魂鬼(ディメンター)と関わることでまた記憶を失うかも知れないという本能的な恐怖の方が勝っていた。

 

「ネモも吸魂鬼(ディメンター)にはあんまり近づかないでね」

 

 マーガレットが声をかければ、ネモはこくりと頷いた。そして、飼い主の頬にぴたりと身体を寄せる。

 

「どうしたの、ネモ?」

 

 どうやらネモはディメンターのことを怖がっているようだ。マーガレットは小さく震える大鴉を肩から下ろし、胸に抱きかかえた。

 

「ネモ、大丈夫だよ。ディメンターは人間にしか興味がないんだって。それに……。ほら、見て」

 

 マーガレットは杖を握り、ゆっくりと目を閉じた。そして、最も幸福な記憶を思い浮かべる。

 

 彼女の胸をよぎるのは自分が魔女だと知ったあの日のこと。

 本物の魔法使いに出会ったことへの興奮。目の前で繰り広げられた魔法(magic)への感動。

 そして、父も自分と魔法使いであったとわかった時、マーガレットの心は大きく動いた。

 

「——守護霊よ来たれ(エクスペクト・パトローナム)!」

 

 マツの木の白い杖の先から青白い靄が噴き出す。だが、広がった光はすぐに霧散していった。

 

「やっぱり、マクゴナガル教授のようにはいかないか……。でも、これなら少しは心強いでしょ?」

 

 マーガレットはさらに強くネモを抱きしめる。こうしていれば、吸魂鬼(ディメンター)への恐怖心も自然と和らぐというもの。

 

「ネモ、あなたのことはわたしが守る。だから、大丈夫だよ」

 

 飼い主とペット。互いが互いを大切に思い、守るべきものだと考えている。

 けれど、青い目の鴉の思いを青い瞳の魔女が知ることはない。

 

「……そのために、わたしももっと学ばないといけないけれど」

 

 そう言って、彼女は胸に——内ポケットにおさめた「両面鏡」に手をかざした。静かに目を閉じ、ゆっくりと一呼吸。

 だが、マーガレットは突然くすくすと笑い始めた。そして、ぽかんと開いたネモの口にビスケットを詰め込む。

 

「甘いものを食べると元気がでる。わたしがいつも言っているでしょう?」

 

 マーガレットはあきらかにサイズの合わないポケットにクッキー缶を捩じ込みながら、空いた右手で杖を振った。机の上のティーセットが戸棚のもとあった場所に並べられる。

 

「——風よ(ヴェンタス)!」

 

 暖炉に風を送れば、炎はさらに勢いを増した。暖かい空気が部屋全体を覆う。

 さすがに抱きしめられたままでは暑かったのだろう。ネモはマーガレットの腕から抜け出し、定位置である左肩の上にのる。

 

 どこからか子供達の声が聞こえてきた。ホグワーツ城が賑やかさを取り戻そうとしている。

 マクゴナガル教授が二人の生徒——ハーマイオニー・グレンジャーとハリー・ポッターを連れて戻ってきた。

 彼らは固い表情で椅子に腰を下ろす。が、なにかと縁のある若い女教授の姿を見つけると少し緊張が解けたようだった。

 

「ルーピン先生が前もってふくろう便をくださいました。ポッター、汽車の中で気分が悪くなったそうですね」

 

 軽いノックの音が聞こえ、マダム・ポンフリーが慌ただしく部屋に入る。

 

吸魂鬼(ディメンター)を学校の周りに放つなんて」

 

 マクゴナガル教授が怒りを露わにしたように、マダム・ポンフリーも魔法省に不満があるようだ。彼女はハリーの前に屈み込み、その額に手を当てる。

 

「倒れるのはこの子だけではないでしょうよ。そう、この子はすっかり冷えきっています。恐ろしい連中ですよ、あいつらは。もともと繊細な者に連中がどんな影響を及ぼすことか 」

「僕、繊細じゃありません」

「ええ、そうじゃありませんとも」

 

 ハリーの脈を取りながら、マダム・ポンフリーは上の空で答えた。

 

「この子にはどんな処置が必要ですか?」

 

 マクゴナガル教授が校医に問いかける。

 

「絶対安静ですか? 今夜は病棟に泊めたほうがよいのでは?」

「そうね、少なくもチョコレートは食べさせないと」

 

 マクゴナガル教授とマダム・ポンフリーとハリーとハーマイオニー——この小部屋に集まった全員の視線がマーガレットに注がれた。

 

「チョコレートですね。とびきり甘いものなら、ハワイのマカダミアナッツチョコレートはいかかでしょう?」

 

 例のポケットからアメリカ土産の定番を取り出す。小さなポケットの中からその何倍もあるはずの大箱が現れたことにハリーは少々面を食らっていた。

 

「マノック先生、チョコレートはもう食べました。ルーピン先生がくださいました。みんなにくださったんです」

「そう。本当に? それじゃ、『闇の魔術に対する防衛術』の先生がやっと見つかったということね。治療法を知っている先生が」

 

 去年とは違って、ということをマダム・ポンフリーは言外ににおわせる。

 

「ポッター、本当に大丈夫なのですね?」

「はい」

「いいでしょう。ミス・グレンジャーとちょっと時間割の話をする間、外で待っていらっしゃい。それから一緒に宴会に参りましょう」

 

 ハリーとマダム・ポンフリーが廊下に出るのを待ってから、マクゴナガル教授は話し始めた。

 

「ミス・グレンジャーが希望した科目すべての履修が認められました。ですから、あなたは人よりも多くの授業を受けなければなりません。なので、これを渡しましょう」

 

 マクゴナガル教授が逆転時計を手渡す。ハーマイオニーはその黄金に光輝く魔法具にすっかり魅了されていた。

 

「これはなんですか?」

 

 マクゴナガル教授はマーガレットに目配せを送った。そもそも、マーガレットがマクゴナガル教授の事務室に呼ばれたのはこれが理由である。

 

「それは『逆転時計(タイムターナー)』です。一回ひっくり返せば一時間、二回ひっくり返せば二時間前に戻ることができます。つまりはジュール・ベルヌの思い描いたタイムマシンがあなたの手の中に、ということです」

 

 ハーマイオニーは信じられないという顔をしているが、無理もないことだ。時間旅行は全人類の夢。それを叶えようというのだ。

 かつてのマーガレットだって、今のハーマイオニーと同じ顔をしていただろう。

 

「もちろん、『逆転時計(タイムターナー)』の使用にあたってはいくつかの規則を守っていただきます。『逆転時計(タイムターナー)』は貴重なものですから扱いには気をつけるように。それから、誰にも口外してはいけません。そして、本来の目的以外では決して使用しないこと。いいですね?」

 

 ハーマイオニーは「はい」と答えた。首から下げた『逆転時計(タイムターナー)』を赤い裏地のローブの中にしまう。

 きっと()()()大丈夫だろう。マーガレットはそう思った。

 

「『逆転時計(タイムターナー)』の使い方や注意点は明日、わたしが改めて説明します。ですから、ミス・グレンジャーはわたしのマグル学をまず始めに受けにきてください」

 

 ハーマイオニーはとても嬉しそうな顔で頷く。

 

「では、宴会へと参りましょう」

 

 部屋の外ではハリーが待っていた。四人は大理石の階段を下り、組分けを終えたばかりの大広間へと入る。

 生徒二人はグリフィンドールのテーブルに座り、マーガレットとマクゴナガル教授は教職員テーブルへと向かった。今年も闇の魔術に対する防衛術の教授——たしかマクゴナガル教授が「ルーピン先生」と言っていた人物——の隣の席が空いている。

 一昨年は皆様方が気を利かせてくださったため。昨年は誰も座りたがらなかったため、今ではすっかりこの場所がマーガレットの定位置だ。

 

「お隣、失礼します」

 

 マーガレットが声をかけると、新しい防衛術の教授は軽い会釈をした。

 彼の顔には疲労色が濃くにじんでいて、髪は白髪混じり。それに身にまとうのは継ぎを当てたローブ。少々老けて見えるが、クィレルの少し年上といったところだろうか。

 

 ダンブルドアが挨拶のために立ち上がった。毎年、このタイミングで校長がいくつかの注意を行うのだが、今年はとくに重要なことを述べていた。吸魂鬼(ディメンター)についてだ。

 

「誰一人として吸魂鬼(ディメンター)といざこざを起こすことがないよう気をつけるのじゃぞ」

 

 ネモが呻くような低い声で鳴いた。

 

「楽しい話に移ろうかの。今学期から、嬉しいことに、新任の先生を二人、お迎えすることになった。まず、ルーピン先生。ありがたいことに、空席になっている『闇の魔術に対する防衛術』の担当をお引き受けくださった」

 

 マーガレットは隣の席の人物に向けて拍手を送る。やはり彼がホグワーツ特急からふくろう便を出し、ハリーたちにチョコレートをあげた人物というわけだ。

 

「もう一人の新任の先生は——ケトルバーン先生は『魔法生物飼育学』の先生じゃったが、残念ながら前年度末をもって退職なさることになった。手足が一本でも残っているうちに余生を楽しまれたいとのことじゃ。そこで後任じゃが、うれしいことに、ほかならぬルビウス・ハグリッドが、現職の森番役に加えて教鞭を取ってくださることになった」

 

 先ほどよりも大きな拍手がハグリッドに対して送られた。ハグリッドの目には嬉し涙が浮かんでいる。

 

「さて、これで大切な話はみな終わった。さあ、宴じゃ!」

 

 ダンブルドアの合図に合わせ、金の皿や盃が目の前に現れた。マーガレットがこよなく愛するデザートの数々もすでにテーブルに並べられている。

 だが、食事に前に彼女にはするべきことがあった。マーガレットは改めて隣に座る新任の教授に声をかける。

 

「はじめまして、マグル学のマーガレット・マノックです。どうぞよろしくお願いします」

「リーマス・ルーピン。先ほどご紹介にあずかったとおり、闇の魔術に対する防衛術の担当だよ。こちらこそよろしく」

 

 マーガレットはふとルーピン教授の視線が自分の手元に注がれていることに気づいた。つられて目線を落とせば、マカダミアナッツチョコレートの箱を持ったままだったことを思い出す。

 

「……ルーピン教授はチョコレートがお好きですか?」

「ああ、失礼。おいしそうなものを持っているなと思ってしまってね。たしかに甘いものは好きなんだ」

 

 気恥ずかしそうに笑うこの教授に対し、マーガレットは親近感を覚えた。今年はどのような人物が防衛術の教授の席に座るのかと多少心配していたが、彼とならそれなりに友好な関係を築けそうだ。

 

「あの、よろしければお近づきのしるしにどうぞ。わたしも甘いものが大好きで、その気持ちがよくわかりますので」

 

 初めは遠慮していたルーピンであったが、最終的にはマーガレットの熱意に押し切られる形でチョコレートを受け取ったのであった。

 

 

▼ ▲ ▲

 

 

 朝から降り続いていた雨はパーティーの間に止んでいた。ただ、窓の外では青白い月が冷たく輝いている。

 宴会でご馳走をたらふく平らげたネモはすでに夢の中にいた。白いシーツの上でその真っ黒い身体が規則正しく膨れたり、縮んだりしている。

 髪を下ろし、寝巻き(ネグリジェ)に着替えたマーガレットはベッドに腰掛けた。そして、銀のコンパクトミラーを手にする。

 

「……クィレル先生」

 

 マーガレットが自分の顔に向かって語りかけると、「両面鏡」にクィレルの顔が映し出された。

 

「こんばんは、先生。遅くなってしまい、ごめんなさい」

「いえ、気にしないでください。ホグワーツの宴は盛り上がるものですから。新学期のご馳走は楽しめましたか?」

「それはもちろん!」

 

 マーガレットが笑うとクィレルも口元を綻ばせる。

 

「それはよかった。さて、今日の話は手短にすませましょう。明日の君は朝から忙しいでしょうから」

 

 クィレルの気遣いがこの時ばかりはもどかしい。いつだって恩師との会話が楽しいのだから。

 

「実はホグズミードに引っ越すことになりました」

「ホグズミードに、ですか?」

「はい。ホグズミードに」

 

 マーガレットは青い瞳を大きく見開いた。クィレルはつい数か月前までアメリカにいたというのに、今度はホグズミードだ。物理的にも精神的にもその距離がぐっと近づいた。

 

「閉心術の訓練をする場所を探していたところ、よいコテージを紹介してもらえましてね。ホグズミードならホグワーツからも近いですし、君の負担も軽くできるかと思いまして」

「あの、とっても嬉しいです! 先生がホグズミードにいらっしゃるなら、いつでもお会いできますね!」

 

 嬉しくて、たまらずマーガレットが大きな声を出したものだから、大鴉(レイブン)が目を覚ます。ネモは半開きの青い目で飼い主が持つ「両面鏡」をのぞき込んだ。

 

「ネモ、ごめんね。起こしちゃったね」

 

 安眠を妨げられ、ネモは不機嫌そうに鏡面をつつく。

 

「こらこら、駄目だよ」

「し、失礼しました。ミス・マノック、また連絡します。おやすみなさい。ネモも……いい夢を」

 

 マーガレットも「おやすみなさい」と伝え、コンパクトミラーを閉じた。そして、ネモを抱きしめたままベッドに横たわる。

 クィレルも言っていたように明日は朝から忙しい。けれど、今夜の速まった鼓動のままではなかなか寝つくことができなかった。




本編の主人公は第1章幕間2のあとがきとは違い、クィレル教授へのストーカー行為逆転時計(タイムターナー)』の濫用がバレていません。

おかげさまでお気に入り件数が1500を超えました! この少しづつ伸びていく数字が作者の励みになります。本当にありがとうございます。
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第4話 マグル学へようこそ

一話丸ごと授業回。


「マグル学へようこそ」

 

 9月2日の午前九時ちょうど。マーガレットの明るい声がマグル学教室に響いた。

 

「わたしはこの講義を担当するマーガレット・マノック。そして、こちらはわたしのペットで、時には授業のアシスタントもしてくれるネモです」

 

 紹介に合わせ、青い目の鴉は「こんにちは(Hello)」と頭を下げる。

 記念すべき今年度最初の授業はグリフィンドールとハッフルパフの三年生が相手であった。ハーマイオニー・グレンジャーといった見知った顔もいる。

 が、ほとんどが初対面といっても差し支えないような生徒であった。ゆえに、出席を取りながら一人ひとりの顔と名前を憶えていく。

 

「改めまして。マグル学へようこそ。このクラスでは、非魔法族の社会を支える科学技術と、有史以来の文化芸術を学びます。マグル学の授業ではみなさんが杖を振ることはありません。それから大釜をかき混ぜることも、星や手相を読むことも。もちろん箒で空を飛ぶこともありません。……魔法使いのみなさんには少し物足りない授業かもしれませんね」

 

 マグル学を取る目的は簡単に単位を取るためか、怠けるため。そう言われ出したのはいったいいつからだろうか。

 

「この魔法の城で非魔法族の歴史や文化について学ぶ必要性を見いだせない。マグル学がそう思われてしまう学問であるということも事実。ですが、魔法使いであるからこそ『マグル』について知る意味がきっとある。わたしはそう考えています」

 

 マグル学教授ははっきりとそう言った。

 

「マグル学をどうして学ぶのか? マグル学はなんのためになるのか? その意義をほんの少しでもこの講義で感じ取ってもらえれば嬉しいです。では、さっそく。授業を始めましょう」

 

 マーガレットは一枚のフィルムをOHP(オーバーヘッドプロジェクター)に置く。真っ白なスクリーンに「国際魔法使い機密保持法」の文字が映し出された。

 

「すでにみなさんは魔法史でも学んだことかと思いますが、このマグル学でも改めて説明をしましょう。『国際魔法使い機密保持法』、1689年に成立した法律。魔法界の存在を隠すことを決めた、つまりは魔法族を非魔法族から守るための取り決めですね」

 

 マーガレットが受けた最初のマグル学の授業もこのテーマから始まった。当時マグル学を教えていたシカンダー教授が「すでに勉強したことでつまらないだろうが、魔法省の教育要綱で決められてしまっていてね」と苦笑いしていたことを思い出す。

 

「この法が成立した背景にありましたのが、そう『魔女狩り』です」

 

 テンプル騎士団の迫害やジャンヌ・ダルクの処刑といった異端審問は古くから行われ来たが、いわゆる魔女狩りが最盛を迎えたのは16世紀後半にかけてから17世紀にかけてのことである。

 マーガレットは浮遊呪文を唱え、フィルムをふわりと宙に浮かばせた。

 

「——燃えよ(インセンディオ)!」

 

 真っ赤な炎に包まれ、フィルムは一瞬にして燃え尽きる。あとに残ったのは黒い煙と白い灰だけだった。

 

「魔女の疑いをかけられ有罪となった者の多くは火刑に処されました。その数は六万人にもおよぶといわれています。ですが、その犠牲者のほとんどが本物の魔女などではありませんでした」

 

 もちろん魔法族からも犠牲者が出なかったわけではない。だが、簡単に姿をくらませることができるのだから、多くの魔法族はそもそも捕まることすらなかった。

 それに、47回も火あぶりにされた『変わり者のウェンデリン』は魔法で炎を凍らせて死を免れたそう。処刑を娯楽として楽しんでいたのは非魔法族だけでなかったということは留意すべきであろう。

 

「とはいえ、魔女狩りが魔法族にはとって恐ろしくなかったといえば、そうではありません。血と炎で染め上げられた迫害と告発の歴史は魔法族にも非魔法族にも大きなトラウマを与えました。とくに、国際魔法使い機密保持法制定のきっかけとなったのが1692年にアメリカであった——。そうですね、誰かわかる人は?」

 

 真っ先に手を上げたのは——やはりというべきか——ハーマイオニー・グレンジャーであった。マーガレットが指名すると、彼女は迷うことなく「セイラム魔女裁判」と口にする。

 

「そのとおり。では、続けて質問です。これはどの国での出来事でしたでしょうか?」

「アメリカです。セイラム村で起きた魔女狩りだから、セイラム魔女裁判と呼ばれています」

「すばらしい! グリフィンドールに五点」

 

 生徒に賞賛と寮点を与えている教授に代わり、大鴉(レイブン)がOHPに新たなフィルムを置いた。スクリーンに大きく映し出されたのはアメリカの地図。その右上をマーガレットは杖で指す。

 

「1692年からのおよそ一年半、アメリカ合衆国マサチューセッツ州のセイラム村——現在のダンバースという土地——では大規模な魔女裁判が行われました。逮捕され、投獄されたのはおよそ150人。そして、19人もの人々が絞首刑に処され、1人が拷問の末に死んだというそれは悲惨な出来事です。しかしながら、この一連の裁判で魔女と告発された人々の中に本物の魔女は誰一人としていませんでした」

 

 セイラム魔女裁判——それは魔法族にとって、そして非魔法族にとっても有名で、つまりは人類史において最も悪名高い魔女裁判。ある劇作家はこれを「人類の歴史のなかで最も不可解にして最も恐るべき出来事」とまで評したほどだ。

 

「では、どうして魔法族でもない人々が()()として断罪されねばならなかったのでしょうか? 今日の授業では国際魔法使い機密保持法の制定に深く関係するセイラム魔女裁判について学びましょう」

 

 マーガレットは一冊の(ペーパーバック)を手にする。それは豪奢な教科書でもなく、分厚い歴史書でもない。イギリスのどこの書店でも買えるような一般的な文庫本だった。

 

「セイラム魔女裁判は現代においてもショッキングな出来事として人々に記憶されています。例えば、1953年にはこの魔女裁判を題材としたある戯曲が発表されました。その名は『るつぼ(The Crucible)』。るつぼというのは化学や錬金術の実験で物を溶かすためのつぼ、転じて様々な物や人が混ざり合っている状態のことを表す言葉ですね」

 

 ゆっくりと息を吸い込み、マグル学教授は冒頭のワンフレーズを読み上げる。

 

「『人類の歴史のなかで最も不可解にして最も恐るべき出来事の一つの本質を見出す』ため、この作品(創作)は当時の裁判記録や残された手紙をもとに書き上げられました。ですので、この戯曲では()()()()()()()()()()()概ね歴史に沿った物語が展開されます。つまりはセイラム魔女裁判について知るのなら、この『るつぼ』という作品はぴったりだということ。では、今日はこの作品のあらすじをなぞりながら授業を進めましょう」

 

 OHPの灯りを消すとマグル学教室の中は薄暗闇に包まれた。まるで舞台が幕を開ける前のような、そんな空気が漂う。

 

「ある夜、森の中で少女たちが踊っていた。これが物語の始まりです」

 

 飼い主の言葉に合わせ、ネモは教卓の上でくるくると回り始めた。右の翼を横に、左の翼を正面に伸ばして三拍子のステップを踏むところを見るに、ワルツでも踊っているつもりなのだろう。

 これも別にマーガレットが教えたわけではないのだが、つくづく賢い鴉である。

 

「これをある大人が目撃してしまいます。そして、彼女たちのことを糾弾するのです。たしかに、皆さんも夜に寮を抜け出して遊んでいたら先生方に怒られてしまいますね。ですが、彼女たちの行動はみなさんのように叱られて、減点されたからといって許されるものではなかったのです」

 

 これまた飼い主の言葉に合わせ、ネモは遊びを止めると今度は罰が悪そうに体を縮めた。今年度最初の授業というだけあり、アシスタントも演技に力が入っているようだ。

 

「この当時、セイラムの地に住まうのは清教徒(ピューリタン)の人々でした。そもそも清教徒(ピューリタン)とは——と、いったことも説明すべきなのですが、この歴史について話すと本当に、本当に長くなってしまうのでいずれ改めてしましょう。今日はまずセイラムの人々は神の教えを大切にし、()()()生活を送っていたということを知っていただければ——」

 

 マーガレットはぐるりと教室を見渡し、うっすらと目を閉じる。小さな唸り声を上げ、なにかを考えていた。

 

「えっと……。そうですね……。みなさん風にいえば、このホグワーツの校則をすべて覚え、それからフィルチさんからの注意一つひとつを守って日々を過ごしていた。と、いったところでしょうか?」

 

 フィルチとのそう悪くない関係を維持するために管理人の逆鱗に触れるようなことはしないようにと心がけているマーガレットですら、ここまで徹底した生活には息苦しさを感じることだろう。

 

「では、物語に戻りましょう」

 

 生徒の注目を集めるため、教授は大きく咳払いした。そして、彼らの注意を十分にひきつけてからネモの隣——つまりは机の上に立つ。

 これには生徒だけでなく、大鴉(レイブン)までもが目を見開いた。

 

「そして、おかしなこと——正しくないことはさらに続きました。さて——」

 

 刹那、マーガレットは手にしていた本を頭上に放り投げる。

 

「——裂けよ(ディフィンド)! ——風よ(ヴェンタス)!」

 

 切断されたページは風でさらに高くへと舞い上がった。浮き上がりそうなスカートを軽く押さえながら、マーガレットはなおも授業を続ける。

 

「踊りに参加していた少女の一人が気を失い、眠ったままとなってしまいました。大人たちはますます混乱していきます。子供たちはいったい? どうして自分の娘が、と」

 

 生徒たちもますます混乱していた。先ほどまで彼らが見ていた賢い鴉——そもそも鴉がそのようなことまでできるのかという疑問は置いておく——は話に合わせて踊ったり、演技をしたりしていた。

 しかし、教授のこの行動にはなんの脈絡もないのである。どうして本を裂く必要があったのか? なぜ風を吹かせているのか? その理由が彼らには()()()()()

 

「おや? みなさん、わたしがなぜこんなことをしているのかわからないといった顔をしていますね。そう、()()()()()。それでいいのです。——直れ(レパロ)!」

 

 宙に浮かぶ紙切れの一枚一枚が差し出された左手に集まり、あっという間に元の文庫本へと戻る。

 マーガレットは静かに机の上から降りた。その左肩にネモもふわりと飛び移る。

 

「こうして魔法で元通りにできるとはいえ、物を壊すのはあまりいい気分がしませんね……。行儀の悪いところをお見せして申し訳ありません。」

 

 マグル学教授は悪戯っぽく笑った。

 

「みなさんはこう感じたことでしょう。テーブルの上に乗るなどありえない。本を粗末に扱うなど信じられない。だから、なぜそんなことをしているのか理由を知りたい、と。いえ、きっと理由があるはずだ。そう思ったのではないでしょうか?」

 

 先ほどまでの笑みを顔から消し、マーガレットはいつになく真剣な表情になる。

 

「セイラムの大人たちも同じことを考えました。少女たちはなぜ踊っていたのか? それも暗い森の中で、燃え盛る炎を囲んで。それは彼らの信じる()()()からは外れた行為でありました。だから、なにか理由があるはず。そう考えるのはごく自然なことですね」

 

 だから、彼らは理由を探し始めた。時に威圧的に、時に感情的に少女たちを問い詰めた。

 そして、ある一人の少女———アビゲイル・ウィリアムズという()()()の少女が口を割ったのだ。ある召使いが悪魔を呼ぶために行った。わたしのことも悪魔の仲間に引き入れようとしている、と。

 

「この二十世紀を生きるみなさんなら、そのような言い訳を信じるなど。ましてや、それで人を罰しようとは思わないでしょう。しかし、悪魔は人間を堕落させるものとして長きに渡ってキリスト教世界で恐れられてきました。それに、現代の非魔法族も原因のわからない不思議な現象を幽霊の仕業にしますが、当時はそれが悪魔でした」

 

 マーガレットは深いため息をつく。

 

「ですから、セイラムの人々は信じたのです。少女たちの奇行は悪魔のせい、娘が目を覚まさないのも悪魔のせい。……それに、穢れなき純粋で無垢な子供が嘘をつくはずが——罪を犯すはずがない。そうも考えたのでしょう」

 

 今度はネモがため息でもつくかのように「カー」と鳴いた。

 

「では、原因がわかりました。悪いのは悪魔である。では、これにて一件落着——と、なっていれば、今日こうして国際魔法使い機密保持法を学ぶことはなかったのかもしれませんね」

 

 これはまだ悲劇の始まりでしかない。

 セイラムの村民たちは次にこう考えた。この清廉なる地に悪魔を呼んだ魔女は誰だ?

 最初に捕まったのは少女たちとともに踊っていた召使。次は村のはずれ者だった女たち。その次は信心深い妻や母。時には罪をかけられた家族を救おうとした男たち。

 アビゲイルを中心とした少女たちは次々に村人を魔女として告発していった。

 

「そして、魔女裁判は火にかけられた()()()のごとく加熱していきます。魔女として告発してしまえば、昔から疎ましく思っていた者や土地をめぐって争っていた者、自身の権威を脅かす者に恋の邪魔者も簡単に牢屋へ、そして絞首台へと送り込むことができたのですから。こうして老若男女のありとあらゆる欲望と憎悪を煮詰め、セイラムの魔女裁判は一年半もの間続いたのです」

 

 マグル学教室は重い沈黙に包まれていた。『人類の歴史のなかで最も不可解にして最も恐るべき出来事』との評価は誇張でもなんでもなかったというわけだ。

 そんな空気を振り払うかのように、マーガレットはわざとらしく手を叩いた。

 

「そうでした! そもそもどうして少女たちが踊っていたのかを話していませんでしたね。もちろんですが、本当に悪魔を呼ぶつもりなんてありませんでした。占いやおまじないで遊んでいたら、それがまるで『ワルプルギスの夜』のようになってしまったとのことです。現代よりももっと娯楽の少ない、抑圧の時代を生きた少女たちにはそのちょっとしたいけないことがとても刺激的だったのでしょうね」

 

 視線を手元の本に落とし、教授はなおも話し続ける。

 

「……ですが、アビゲイル・ウィリアムズだけはもっと刺激的なものを()っていました。それは——()。彼女はジョン・プロクターという男に恋していました。しかし、ジョンにはエリザベスという妻がいました。……『汝、姦淫するなかれ』。つまり、アビゲイルの恋心は()()()ものではありません」

 

 マーガレットが諳んじたのはモーセの十戒の一節。つまりそれに反するということは、神から与えられた戒律に背くということ。

 少女は己の身をも焼きつくす、燃え上がるような恋をしたのだ。

 

「ですから、彼女はその恋が成就するようおまじないをかけたのです。恋敵であるエリザベスを呪い殺すためのおまじないをね。しかし、それはみなさんが使うような魔法ではなくただおまじない。本来ならちょっとした気慰め程度で、なんの効果もありません。でも、魔女裁判によってアビゲイルの呪いは本物へとなりました」

 

 そして、魔女の容疑をかけられた一組の夫婦の顛末が語られた。

 少女の企みによって牢につながれていた妻は、彼女が妊娠していたために裁判が収束するまで生き残ることができた。しかし、妻を助けようとした夫にも魔女の疑いがかけられ、彼は19人の犠牲者のうちの一人となった。

 では、セイラムの地に呪いをかけた少女は? 彼女は歴史(物語)の舞台上から忽然と姿を消したのであった。

 

「これがアーサー・ミラー作『るつぼ』のあらすじとなります。まったくもって()()()()ですね。『恋は盲目(Love is blind)』という言葉もあるように、恋愛はときに理性を失わせてしまうものですから」

 

 教授がそう発言したことで、多くの生徒が苦笑いを浮かべた。

 マーガレット・マノック現マグル学教授が学生時代から付き合いがあったクィリナス・クィレル前マグル学教授をこの城から追い出したことはホグワーツにおける公然の秘密である。

 

「えっと……。あの、授業を続けますよ」

 

 マーガレットは閉じた本をテーブルに置いた。彼女はふっと息を吐きだし、その青い瞳で生徒たちのことをまっすぐ見つめる。

 

「では、ここからは物語(創作)ではなく歴史(現実)の話をしましょう。みなさんは授業を真剣に聞いてくれていました。ですが、わたしが今日話したことには申し訳ないことにいくつかの嘘があります」

 

 OHPに再び光が灯った。スクリーンには証言台に立つ少女を描いたセイラム魔女裁判の絵が映し出される。

 

「例えば——アビゲイル・ウィリアムズ。わたしは彼女のことをさも悪女のように語りましたが、実際の彼女は12歳の少女でした。それから、ジョン・プロクターも戯曲では30代半ばと描写されていますが史実では60歳で亡くなっています。12歳の少女にそれほどまでの破滅的な恋というのはまだ早い気がしますね」

 

 マーガレットの肩の上でネモも首を縦に振っていた。

 

「作中の彼らの年齢が史実と違うのは、魔女裁判が激化した原因の一つとしてアビゲイルのプロクターへの横恋慕という物語が必要だったからでしょう。では、アビゲイルを含めた少女たちは本当の所どうして村人を次々に魔女として告発したのかでしょうか? 集団ヒステリー説や集団幻覚説など、現代では医学や科学の面からの研究も行われています。しかし、本当の原因は()()()()()まま」

 

 そう、いくら科学技術や歴史研究が進もうと真相はわからぬまま。そして、もし当時にタイムスリップをして調査をすることができたとしても、疑心と恐怖が溶け合ったるつぼの中で真実を見つけることは困難を極めることだろう。

 

「ですが、今さっきあるものがさも原因であるかのように語り、恐ろしいとまでわたしは言ってしまいました。憶えている人はいますか? では、次はハッフルパフから——。目が合ってしまいましたね、ミスター・マクミラン」

 

 アーニー・マクミランは少し考えてから「恋」と答えた。

 

「話をよく聞いていました。ハッフルパフに五点」

 

 授業は佳境を迎える。

 

「人はわからないことに対して恐怖や戸惑いを覚えます。だから、その原因や理由を求めようとするのです。この営みのなかで学問は発達し、人々の暮らしは発展してきました。ですが、セイラム魔女裁判のように誤った答えに縋りつき、より大きな過ちを犯してきたことからも目を背けてはなりませんね。では、歴史を学んだわたしたちが同じ間違いを繰り返さないためにはどうすればいいのか? ——と、これに対するみなさんの考えを最初のレポート課題にしましょうか」

 

 教室にざわめきが起きた。マグル学を取る目的は簡単に単位を取るためか、怠けるためとはよくもまあ言ったものである。

 

「そう難しく考えなくていいですよ。例としてわたしがどう考えているのかをお伝えしましょう。()()()()。わたしはそう信じています。知識は例えるなら光のようなもの。えっと、なにも見えない暗闇の中にいても、(知識)があればなにかがわかるはず。それに(知識)が集まれば集まるほど、その、闇の奥にある真実も見ることができますからね。だから、たくさんのことを学び、たくさんのことを知りたいと思うのです」

 

 マーガレットの青い瞳は爛々としていた。それを見つめる鴉の青い目も煌々と輝いている。

 

「では、今日はここまで」

 

 授業が終わると生徒たちはぞろぞろと教室を出ていったが、ハーマイオニー・グレンジャーだけが最後まで残っていた。

 

「では、始めましょうか。ミス・グレンジャーは12ふくろうを目指すということですが、かつてあなたと同じ『逆転時計(タイムターナー)』を使っていた者としてその挑戦を嬉しく思います」

「ありがとうございます。マクゴナガル先生から聞きましたが、この『逆転時計(タイムターナー)』を最初にホグワーツで使った生徒はマノック先生なんですよね」

 

 マーガレットはにこやかに頷く。

 

「はい。でも、そうなったのもあまり褒められた理由ではないんですよ。本来は()()授業ですよね? でも、せっかくホグワーツに通っているのに学べない授業があるのは嫌だと駄々をこねてしまったんです。それで、マクゴナガル教授がわざわざ魔法省と掛け合ってくださいました」

 

 魔法生物飼育学、占い学、数占い学、古代ルーン文字学、そして——マグル学。どの選択科目を履修するか三日三晩悩み続け、その間はお菓子も喉を通らなかったのが今となっては懐かしい。

 

「とはいえ、あなたのような熱心な生徒のためになるのなら、あの頃のわたしもわがままを言ったかいがありました」

 

 マーガレットは白い歯をのぞかせて笑った。

 

「12ふくろうは今までにも何人かいるのに、『逆転時計(タイムターナー)』まで使った人は先生以外いないのですね」

「そうですね。履修していない教科でもふくろう試験を受けることもできますから、それで12ふくろうを目指す人もいます。聞いた話によるとわたしの父もそうだったそうです。それに、ミス・グレンジャーも知っている人ならパーシーも」

 

 その他にマーガレットはウィーズリー家の長兄の顔を思い浮かべる。そして、この十数年にもう一人いると聞いていたことも思い出した。

 

「そういえば……。クィレル先生が学生の頃にも一人、12ふくろうがいたと聞きました。たしか純血の魔法使いだったと聞いたような……」

「純血……。ロンの家も純血ですよね」

 

 マーガレット自身は違うが、こうして考えてみると12ふくろうを達成するような魔法使いは純血一族の出身が多い。

 

「ミス・グレンジャー。純血だから魔法使いとして優れているとか、マグル生まれだから劣っているとか。そんなことは決してありません。現に2年前までは杖を握ったこともなかったであろうあなたが、今では学年一位の成績を修めているのですからね。でも、12ふくろうに純血の魔法使いが多い理由は……」

 

 マーガレットは首を傾けた。それを真似てネモも首を横に倒す。

 

「家の歴史、でしょうか。ミス・グレンジャー、図書室の禁書の棚を見たことはありますか?」

 

 昨年はロックハートから許可を得ていたので、ハーマイオニーは堂々と頷いた。

 

「あそこには危険な書物がたくさんありますよね。それこそ今では発禁となっているようなものも。でも、羨ましいことにそういった本が代々受け継がれている家庭もあるそうですよ。ですから、長きに渡って魔法界で繁栄してきたような家ならば、もっと多くの貴重な書物があるのではないでしょうか。それに、受け継がれるのは物だけではありません。知識や経験などは親から子に与えることもできますから。お堅くいうのなら『文化資本(le capital culturel)』というものですね」

 

 マグル学の教授らしく、マーガレットはマグルの社会学の言葉を用いる。

 

「これに関しては、どうしたって環境や経験が。その人が生まれ、育っていくまでの過ごした時間がものを言ってしまう。まあ、ですから『逆転時計(タイムターナー)』があるのです。人より多くの時間を過ごすことで人より多くの経験を積み、知識をつける。……いざやってみるとこれが大変ではあるのですけどね」

 

 繰り返される一限目、尋常でない量のレポート。「逆転時計(タイムターナー)」を使うと、12教科すべてを受けると決めたからこその苦労は多くあった。

 けれど、マーガレットがそれで得た知識は多かった。それに、そのおかげで得た恩師と過ごした時間はなによりも大切な経験へとなった。

 ならば、今度はこの生徒が頑張ってよかったと思えるようにしたい。マーガレットはそう決心し、金の懐中時計を手にした。そして、以前のように今日一日の自分の行動を思い出す。

 

習うより慣れろ(Practice makes perfect)。大丈夫、今回はわたしが着いていますから。ミス・グレンジャー、時間旅行(タイムトラベル)の準備はいいですか?」

 

 今世紀もっとも「逆転時計(タイムターナー)」を使いこなした魔女が得意げに笑った。




ドラコ・マルフォイ役のトム・フェルトンはジョン・プロクターの遠い親戚とのこと。

大変ご無沙汰しておりました。Back to Hogwartsには間に合いました。
この半年の間、スタジオツアー東京がオープンしたり、魔法の覚醒の配信が始まったり、呪いの子は新キャストがデビューしたりとWizarding Worldは大盛り上がりでしたね。
スタジオツアーにはクィレル教授の衣装も展示されていて感動しました……。

そういえば、ホグミスついに卒業までいきましたね。これでハリーの物語がホグミスと重なる——え? クィレル教授が旅行から帰ってきた? それもターバンを巻いて? あっ…(察し)


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