ブーケトスの魔法 (Pond e Ring)
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Prologue: Receive a Bouquet






 

 

 

花束が宙を舞う。

 

 

 高く高くあがったそれを、周りの人はみな見ている。

 

 

 透き通るほどの綺麗な青色を背にした赤色はやけに映える。

 

 

 そして、その綺麗な放物線は、確かに静のいる場所へと迫ってきていた。

 

 

 ▼△▼△▼△▼△

 

 

 これで何度目だろう、と静は思った。

 周りの人々は穏やかな顔で、彼らを見つめる。

 

 その彼らは、純白のタキシードとドレスに身を包んでいる。

 そしてとても幸せそうに見つめ合い、微笑んでいる。

 

「おーっす、静ー!」

 

 静を呼ぶ声がした。その声の方を向くと、高校時代に同じクラスになった背が高めのボーイッシュな同級生がいた。

 

「久しぶり。静」

「あぁ、久しぶり」

 

 テーブルの上のグラスを手に取り少し口の中へと注ぐ。

 静は苦味の中にある甘味をいまいち感じられなかった。

 不味いという訳では無いが、甘味は無かった。

 

「すっごい、幸せそうだよね、ヒロコ。高校時代からずっとだよね、あの二人」

 

 同級生はウェディングドレスを羨むような目で見つめながらそう言う。

 静は、ただ「あぁ、そうだな」と返事を返す。

 

「私もそろそろ結婚しようかなぁ〜、彼とももう足掛け五年だし」

 

 そう呟いた同級生は、静にこう尋ねる。

 

「そういや、静は良い人いないの?」

「うん、まだいないかな」

 

 その答えを聞いて、その同級生は、寝耳に水とでもいった表情でいつものセリフを吐く。

 

「えぇ! 静、絶対モテるでしょ」

「いや、全然モテないんだな、これが」

「うっそー! 選り好みしてるだけなんじゃないの〜? 高校の時、モテモテで付き合ったりもしてたじゃん! 実はその中に私の────」

 

 思い出話が出た時、また静はおもむろにグラスの中のワインを口に注いだ。先程よりも多く──

 

 ──やはり苦い。

 

 合コンに行っても失敗続きだった。

 決して寄り付かれなかった訳では無い。

 ただ、二回、三回と会うと、自然に会わなくなり、連絡が途絶えることが多々あった。

 そして、その都度静は思った。

 ───私を愛し、私が愛せる人は本当にこの世にいるのだろうか、と。

 

 だが、そんな静にも、たった一人。たった一人だけ、もしかしたら、と思う人がいた。

 

 その人は、私のことをよく分かってくれていた、と静は思う。趣味も合うし、何より優しさが痛いほど伝わってきた。

 

 そして、ある冬の日。とある橋の上で、缶コーヒーを飲みながら、その人の前でいつもの癖で自虐に走ってしまった。

 

「まぁ、そういう私も計算違いばかりしてるから結婚できないんだろうけどなぁ。この前も友達の結婚式があってなぁ……」

「いや、そりゃ相手に見る目ないんですよ」

 

 その人の瞳は、真っ直ぐ私のことを貫いていた。

 嘘はなく、濁りとは無縁の澄んだ瞳。

 その瞬間、静の心の中の何かも貫かれた。

 

 ──鼓動が速い。

 

 ──頬が紅潮する。

 

 その場では何とか誤魔化したが、もう自分自身に嘘は付けなくなっていた。

 

 一度伝えてしまったこともあった。静を頼る彼に不意打ちで。もちろん本気ではなかった。一瞬赤面した彼も、すぐにそう受け取った。

 だが、ほんの一握りだけ、あわよくばと思ってしまったのだ。ズルい女だと、静は自分を卑しめた。

 

 

 決して抱いてはいけなかった。

 だって彼は、

 ──私の生徒なのだから。

 

 この甘酸っぱい感情は唾棄しなければならなかった。

 

 

 ▼△▼△▼△▼△

 

 

 放物線を描く赤色の花束は、間違いなく静の方へと飛んできている。

 

 それを掴めたら何かが変わる? 

 

 ──いや、きっと何も変わらない。

 

 そんな諦めが、静を支配する。静はもう悟っていた。きっと永遠に受け取る側だ、と。

 

 花束は飛んでくる。前方にいる女性達は必死に手を伸ばしているが、花束は捕まらない。

 

 そして目前まで花束が近づいた時、ふと一つの叶わざる願いが頭をよぎった。

 

 ────もし、その人と同級生で同じ時を過ごせていたら

 

 そんなどうしようもない願いが慈悲深い神様の心を揺らしたか。

 ストンと、赤色のブーケが手元に落ちる。

 

 

 

 その瞬間。

 

 

 

 ふと、視界が暗転した。

 

 

 

 

 ▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△

 

 

 

 

 気付くと静は、何故かどこか建物の屋上にいた。

 

 

 透き通るほどの青色の快晴の下。

 

 妙に身体は軽い。

 吸う空気もどこか清々しい。

 

 そして、ちょっとだけズシッとした全身の重みは、先程着ていた服と明らかに違う。

 これは、間違いなく、ブレザーだった。

 屋上というのも、間違いなく学校の屋上だ。目の前のフェンス越しに、校庭が見えるのだから。

 

 静は状況が飲み込めないでいると、背中側から古びれた扉が開く音が聞こえる。

 

「よぉ、平塚」

 

 静を呼びかけるその声は、聞いたことがある声だ。

 だからこそ、余計に分からなくなった。

 

 ──なぜ今あの人の声がする? 

 ──なぜあの人は私を呼び捨てにする? 

 

「缶コーヒー、お前の分買ってきたから、ほら投げ渡すから取ってくれ」

 

 

 静はそう言われるがまま、背中側を振り返った。

 缶コーヒーが放物線を描く。それは彼の顔を綺麗に隠した。

 そしてその缶コーヒーが、手元に辿り着く時、見えた彼の顔は、間違いなく、あの人なのだ。

 

 

「ナイスキャッチ。で、用事って何?」

 

 

 彼──比企谷八幡は、静と同じブレザーに身を包み、壁に寄りかかって腰を下ろすと、そう尋ねてきた──。

 

 

 

 

 

 

 

 

 








もし平塚先生が八幡と同級生だったらどうなるのか?
皆さんが一度は思ったであろう、その事を描いていけたらなと思います。

よろしくお願いします。


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一束: the Beginning of the Dream


──結婚式に出席した平塚静。高く舞上がったブーケは、彼女の手元に吸い込まれるように落ちていった。

そして平塚の両手にブーケが落ちた瞬間─気づくと、ある学校の屋上に、静は突然いた。

そして、比企谷八幡もそこにいた───。



 

 

「──で、用事って何?」

 

 比企谷八幡は扉のすぐ横の壁に背中を預けそのままそこに座り込んだ。

 その光景を見て、静は至極当然だが、混乱していた。

 第一に、静は先程まで式場にいたはずだ。それが、何で屋上に。さらに比企谷がいた。しかも呼び捨てで、タメ口だ。

 

「なぁ、比企谷。何でここにいる」

「いや、平塚が呼んだからでしょ」

 

 静が呼んだ、はずはない。それは、静はさっきまで結婚式に参加していたはずで、比企谷にメールを送るタイミングなど無いからだ。

 だが、比企谷がポケットから二つ折りの携帯を取り出し、カパッと、開けて画面を見せつける。

 

「ほら、お前がメール送ってるだろ」

 

 画面のメールの送り主は確かに静のメールアドレスで、文面も静がメールする時に用いるものだった。

 確かに昼休みに屋上に来い。と書かれている。

 ただ腑に落ちないのが一点、その二つ折りと、片方にしかない小さな画面、片方は押ボタン式のキーパッド。

 

「比企谷ってガラケーだったっけ?」

「いや、結構前からガラケーだが。ていうかポケベルなんて今更使うやついないだろ」

「ポ、ポケベル……? え、スマホは……」

「ス・マ・ホ……? 何だそれ、ASIMO的な何か?」

 

 静の記憶の中では比企谷は確かにスマホを所持していた。だが、この反応は明らかにスマホそのものを知らないような反応だった。嘘をついてるようにも見えない。

 ここで静の中に、有り得ない可能性が思い浮かんできたのだ。

 

「なぁ、比企谷。なんで今、私にタメ口きいてるんだ?」

 

 その有り得ない可能性を消すための質問だったが、比企谷の答えは、その可能性を消すことなく、むしろ強めることになった。

 

「え、そりゃ、()()()だから……」

 

 これまた比企谷が嘘をついてるように見えない。これで嘘をついているなら、静はきっと比企谷に俳優の道を真摯に勧めるだろう。

 

「なぁ、何か平塚さっきから言ってることおかしくねぇか?」

「いや、すまんすまん冗談だ。そりゃあ、タメ口は当たり前だろ?」

「めっちゃ、ビックリしたわ。何か怒らせるようなことしたかめっちゃ勘繰ったわ」

 

 比企谷は、安堵した様子でプルタブを開け、缶のマックスコーヒーを飲み始めた。

 おかしい、絶対に何かがおかしい、と静の心のうちの不安はより高まっていく。

 

「で、結局用事って何?」

「いや、用事は何も無い。ほら、生存確認だ、生存確認」

 

 適当な嘘をでっちあげると、比企谷は少し不貞腐れた顔をする。

 

「俺、お前と同じクラスなのに、生存確認って、俺どんだけ……」

 

 すんと肩を落とし、比企谷は露骨にガッカリしているようだ。

 

「まぁ、とにかく理由はない! ただ呼んだだけだ」

「はぁ……」

 

 比企谷は聞こえるほどのため息を吐くが、静はそれにあははと、作り笑いを返すしかできなかった。

 その時、左ポケットから明らかにバイブレーションの振動が感じられる。

 おもむろに手をつっこみ、それを取り出すと、それはガラケー、しかもこの青色のガラケーは、静が一○年以上前に愛用していたガラケーだった。

 

 ガラケーを開くと、画面には日付には『5/18』と写っている。これは、先程までの結婚式の日付と全く変わらない。

 ただ曜日が違う。結婚式の日は日曜日だったはず。

 だが、画面には『(火)』と写し出されているのだ。

 久しぶりであるのと、不安に駆られ指先が少し震えるため、静は届いたメールを開くことすらも手こずった。

 ぎこちない手つきで何とかメールの受信箱を開くと、このように書いてある。

 

『2004年度の総武高校体育祭に関する協議の日程調整 2年B組平塚静さんへ

 

 本文:5月の30日に決定致しました。時間帯は放課後で、関係者が集まり次第、会議を行います。よろしくお願いします』

 

 二○○四年、もう一○年以上前の年だ。そして、静が総武高校の生徒だった年。確かに二年の時はB組だった。

 信じられない。そんなことが起こりうるはずはない。背筋がゾクと冷える。メニューボタンを押して携帯電話のアドレス帳を開くが、確かに中学・高校からの付き合いの人のアドレスしか登録されていなかった。

 静はガラケーをブレザーのポケットにしまい、比企谷が腰を下ろしているすぐ横に腰を下ろす。

 

「え、平塚、き、急になんだ」

「今の総理は……?」

「……え、小泉純一郎だろ?」

 

 静の突然の質問に、比企谷はきょとんとした顔で答える。

 

「千葉県知事って、森田健作……?」

「んなはずないだろ、そんなことあったら千葉県大激震だわ」

「小島よしおって知ってるでしょ。そんなの関係ねぇの」

「いや、聞いたこともないんだけど、何それ相田みつを的な?」

「ジブリの崖の上のポニョも、いい映画だったよな」

「崖の上のポニョ? 初めて聞いた、そのタイトル。……ってかあったっけ、そんな映画、ってかどうした?」

 

 比企谷は突然の質問攻めに怪訝そうな表情をうかべるが、静はそれどころでは無かった。

 比企谷は、静の今、つまり二○一四年では当たり前のことを何ひとつとして知らなかったのだ。

 

 ───本当に二○○四年? 

 

 だとしたら、静は一○年以上前にタイムスリップして、しかもいないはずの比企谷がいるということになる。

 

 そこで静はハッと思い出した。ブーケを受け取る直前に願った、絶対に叶うはずのない願い。

 まさか、それが叶ったとでも言うのだろうか。

 色々思案していると、隣の比企谷は、少し横にズレる。

 

「さっ、さすがに、パーソナルスペースに入ってきすぎだ……」

「あ、ごめん……」

 

 顔を少し逸らした比企谷の横顔は、赤く染っている。

 

 静の胸はとくんと弾んだ。

 

 この仮説が本当だとするならば、静と比企谷は先生と生徒の関係ではない。

 先生と生徒の関係である時、こんな風に近付くことも多々あったし、比企谷が特別このような反応をすることは別段なかった。やはり、どこか姉弟のような関係だった。

 だが、同級生であると、近付いただけで、こんな反応を示してくれる。それが静にとっては無性に嬉しかった。

 

 長い沈黙。ただ静にとっては、それがとても心地よく感じられた。手元の缶コーヒーの絶妙な熱さが、余計にそうせる。

 比企谷の横顔は未だ染まったまま、思わず静の顔も綻んでしまう。

 そしてあまりに可愛らしくて、思わず比企谷の頭へと手を伸ばしていた。まるであの頃のように。

 

「ちょ、え、な、な、なんで撫でてくるの?!」

「あ、つい」

 

 飛び立った雀のように慌てふためく比企谷に振り払われた手のひらには僅かな温かみと、ふわっとした感触が残っている。

 静が総武高校を転出することになってからは感じることのなかったそれに、懐かしさと、愛しさが湧いてくる。

 

「──っ、本当になんなの。って、え、どうしてお前が泣くんだよ」

「私──?」

 

 静は比企谷に指摘されて気付いた。頬を真っ直ぐつたい落ちる涙に。

 

「俺に触るのそんなに嫌だった? いや、でも勝手に触られただけだし……。え、何それ、普通に泣きたくなるんですけど……」

「違う。ちょっと色々なことを思い出しただけだ……」

 

 そう、本当に色々なこと。不器用ながらももがき続けた少年と送った一年間のこと。

 それは間違いなく、教師人生、いや静の人生の中でも特に濃い時間だった。もし一年だけでなく、彼のその先を見ることが出来ていたら、もっと特別な時間は長く続いたかもしれない。だが、異動で別れてしまったが最後、あの時間にはもう戻れないのだ。

 

 そして、チャイムが鳴り響く。

 

「その、大丈夫か……?」

「うん、心配するな。別に大丈夫だ」

「そうか、まぁ、何かぶちまけたいことあるなら言ってくれ。俺なら誰かにバラすとかいう心配はないだろ。自分で言うのもなんだな、シルクロードの日本みたいなもんだ。千葉でいうなれば庁前駅」

「──比企谷は優しいんだな」

「……違う、辛気臭い雰囲気が嫌なだけだ」

 

 比企谷は「じゃ、先に行くわ」と言って、立ち上がりそのまま扉の中へと消えてしまった。

 相変わらず彼の背筋は、少し曲がっていた。

 

 その後も静は座っていた。空は、嫌味なほど、青く澄んでいる。

 静は横に置いておいた貰った缶コーヒーを開け、一口、口に含んだ。

 

「──甘っ……」

 

 殺人的に甘い。だが、この甘味は嫌じゃない、それどころか静にとって心地よいものである事は違いなかった。

 

 コーヒーを半分ぐらい飲み残しているが、時間が迫っている。

 静も立ち上がり、手でぱっぱと背中と(しり)を払った。そこで気付いたのが、スカートを身につけていることだ。

 自分には似合わないと思って、久しく身につけていなかったそれの着心地は凄く爽快感があった。

 身体もやはり軽い気がする。

 

 でも、本当にそんなことがあるのかと三度思った時、意外なことで、確信に近づいていった。

 

 

「あれ、私、タバコ吸いたい衝動がなくなってる……」

 

 

 それに気づいた時、静はおもむろに駆け出した。

 勢いよく扉を開け、階段を駆け降りる。コーヒーは零さないように。

 やはり軽い。身体が軽い。

 廊下を通ると、様々な生徒とすれ違う。すれ違う生徒の中には、さきほどまで結婚式にいた人もいる。そして皆、肌がとても潤っていたり、逆に面皰(にきび)が残ってたりなど、やはり若い時の姿であるのだ。すれ違う教師も皆、思い出のあの時のままの姿だ。

 

 静は、こう結論づけた。

 あぁ、これはきっと夢だ、と。

 なら存分に楽しみ尽くしてやれ、と。

 

 先程のメールにあった、二年B組の教室のドアを開ける。

 すると、一番廊下側の列の手前から三番目の席に、比企谷はいた。

 机に突っ伏しているが、その特徴的すぎるアホ毛で一発で分かる。

 静は、比企谷のもとに行き、肩をポンポンと二度ほど、優しく叩いた。

 

「ねぇ、比企谷!」

「痛い、痛い! な、平塚か、なんだよ今度は……」

 

 静が叩いた肩を手でさすり顔を歪めながら、面倒くさそうにする比企谷とは対照的に少し頬が緩んだ静は、こう尋ねた。

 

 

「私の席、どこだっけ……?!」

 

「────…………は?」

 

 

 ▼△▼△▼△▼△

 

 

 

 平塚は、一番窓側の列の一番後ろの席に座った。

 比企谷曰く、とても羨ましい場所に座りやがって、とのこと。確かに、学生の頃は一番後ろに座れるかどうかで一喜一憂していた、と静は懐かしむ。だが、教師の立場になった今では、一番後ろの生徒は態度が見えにくいので悩みの種の一つなのである。

 よく「後ろの方が見やすい」とは言ったものの、それはやはり単なる脅しで、何かをしているのは分かるが、その何かが分からないことが多々あるのだ。

 

 ──私も、この頃から変わったんだな。

 

 机の中を覗くと、教科書が何冊か入っている。そのうち一冊を取り出すと、確かに油性で二年B組平塚静と書かれていた。そして、机の脇のフックには懐かしのスクールバッグだ。ファスナーを開けると、懐かしさという感動が静の身におしよせた。これがおそらくタイムカプセルを開けた時の感動なのだと、静は思う。

 確かに朧気に残っている一○年前の記憶と一致している。

 筆箱を開けると尚更だ。

 

「うわぁ、このシャーペン懐かしいな……」

 

 静が、ひたすらノスタルジーに浸っていると、

 

「ねぇ、静」

 

 と、肩を叩いて一人の女子が話しかけてきた。

 話しかけてきたのは、先程までいた結婚式で、静に話しかけてきた長身のボーイシュな女子だった。やはり、若返っており、言い方は酷だが、目の前の彼女の方が明らかに肌がツルツルしている。

 それともう二人ほど、クラスメイトの女子がいる、背の並びは綺麗に大中小といった感じだ。

 

「ん、どうした?」

「聞きたいことがあるの、静に。静ってさ、最近あいつと仲良くない?」

「あいつ、って誰のことだ?」

 

 静がキョトンとした顔をすると、ボーイッシュな女子は、一番廊下側の列の手前から三番目のアホ毛が目立つ男が突っ伏して座っている席を指さす。

 

「あいつだよ。名前すらわかんないや。え、と」

「比企谷、か?」

「あぁ、そんな感じだった気がする」

 

「全然思い出せなかった〜」とボーイシュの女子が笑うと、「それは流石に失礼じゃない?」と言いつつも横の二人も、笑っている。

 静は薄々分かっていたが、この世界においても、比企谷はそういう扱いをされているのだ。

 

「それでなんでアイツなんかと仲良いの?」

 

 静は困った。別にこの世界の平塚静の記憶があるわけじゃない。だから、なんで比企谷と話すような関係になったのかはよく分からないのだ。

 しかし、理由は今の静にでも何となく分かる。

 

「……一緒にいて楽しいから、かな。話も合うし」

「えぇ〜、静にはもったいないよ〜! もっと、面白いやつ居るって、このクラスにも例えば……、大船(おおふな)とかさ!」

 

 

 そう言って、すぐ近くにいた中肉中背で金髪に染め、パーマをかけ、髪で遊んでいるような男子を指さす。指をさされると男子は照れくさそうに、パーマ頭を搔く。すると、セットしていたのか、分かりやすく髪が崩れた。

 残りの二人もボーイッシュな女子に同調し、

 

「あんな根暗なやつ、私は無理だなあー。それに悪い噂もちらほら聞くし……」

「いくら静がモテて女子に嫉妬されて面倒くさいからって、男除けにしてもね〜」

 

 と、堰を切ったように陰口を叩き、三人して顔を見合わせると、ゲラゲラと笑った。確実に嘲笑っている。

 そして、ボーイッシュの女子は再び、静の肩を叩き、告げる。

 

 

「友達にするなら、絶対、静にはもっと()()()がいるよ〜」

「そうか、()()()か──」

 

 ──いるはずなら、とっくに結婚できたはずなんだけどな」と、一○年前の少女たちに言っても伝わるはずがない。

 確かにこの時代、つまり青春時代は、モテていたと、静も自惚れではなく感じていた。実際告白されることも多く、多少なりとも交際関係になることはあったのだ。だが、どれもこれも長続きしなかった。

 だが静は異性と付き合う事には興味があったし、交際相手が嫌いになったという訳では無いのだ。むしろ、丁重に丁寧に腫れ物を触るように接してくれたのだから、嫌いになるはずもない。

 だが、相手に興味を持てたことは、ほとんど無かった。いや、断言しよう。一度も無かった。

 そして、それは大学に入っても、社会人になっても無かったのだ。

 静がよくネタにする彼氏に家財道具を持ってかれた原因の一つは間違いなくこれだ。だって、相手の人となりなぞ見ようともしなかったから。

 

 確かに静はよく自虐にはしているが、静に運命の人が現れなかったのは、モテるモテないの話ではない、どこか根本的な原因があったのである。

 

 だからこそ、現状、静の一番良い人は、

 

 ──私に()()()の感覚を与えてくれた。

 

 ──生まれて初めて()()()()と思うことができた。

 

 

「今のところ、比企谷以上に()()()は見当たりそうにないから、当分はこのままでいいかな」

 

 静は、優しい顔で微笑んだ。

 その言葉を聞き、その顔を見た三人は、面食らった顔をする。

 

「……ま、まぁ、静がそう言うんなら、いいと思うけど」

 

 長身の女子がそう言うと、周りの二人も「私もそう思う」と首を縦に振った。

 ちょうどその時、授業開始のチャイムが鳴る。周りの三人もそそくさと自分の席へと戻っていった。まもなくすると、教師が入ってきた。

 

「では、号令お願いします」

 

 教師が教壇に立ってすぐ呼びかけるが、号令はかかる気配がなく、しーんと教室は静かになった。

 すると、周りの目が一斉に静に向けられた。

 静はここで思い出した。

 

「このクラスの号令は平塚さんですよね……?」

「あっ、すいません。ボーッとしてました!」

 

 その瞬間、ドッと笑いが起こった。「平塚しっかりしろ〜」「お前は名前と同じで教室を静かにするのか」と野次が飛んできたり、「静意外と抜けてるんだよね〜」と女子からも詰られる。

 静も照れ笑いするが、ふと一番廊下側の列の前から三番目の席を見た。そこには先程と変わらずアホ毛がちょこんと立って、突っ伏しているだけの男がいた。

 

 また静の顔が綻ぶ。

 

「起立──!」

 

 脈絡もなく突然号令をかけた。

 静の様子を見ていた周りの人々は難なく立ち上がるが、一人突っ伏していた男はタイミングを外されたのか、慌てた様子で、少し遅れて立ち上がる。

 

 ──ふふっ、今のは傑作だ! 

 

「礼!」

 

 こうして静の夢は、始まりを告げたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 







拙文を読んでいただきありがとうございます。
拙作では平塚先生の恋人いたことになってる設定ですが、原作でいたということ(家財道具盗難)がほのめかされているので、悪しからず。。
でも、やはり彼氏に家財道具を持ってトンズラされるのは、相当ショックですよね。ぜひ、幸せになって欲しいものです。



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二束: Melting



──比企谷八幡は、総武高校二年B組の生徒である。
友達はおらず、基本授業時間はサボりか眠り、休み時間にはウォークマンに繋いだイヤフォンを両耳にさし、机に突っ伏すという何とも華のない寂しい生活を送っている。

これは、そんな彼の身に起きた、些細で大きな放課後の一幕である。





 

 

 “青春とは嘘であり悪である。”

 

 これは、八幡が高校二年生時に提出した作文の仮題である。本人曰く、ノーベル文学賞並の名著となりえるものであったらしいが、受け取った担任は読み始めてから数秒で顔色の雲行きが怪しくなり、読み終わる頃には眉間に数多の皺が寄り、見る人を怯えさせる般若(はんにゃ)の顔になっていた。

 当然のごとく本文の抜本的な改変を迫られたため、“青春とは真であり正である。”と改題したことで、呆れられながらも受理された。

 

「あの、一名様ですか」

「はい、一名でお願いします」

「ではあちらのせ─」

 

 だが、当然八幡の中の真理は依然として『青春とは嘘であり悪である』のだ。

 

「すいません、やっぱり二人でお願いします!」

 

 ──だが、近頃八幡はその真理を根底から覆すような危険性のある人物と関わるようになっていた。

 

「奇遇だな、比企谷」

 

 その少女こそ、今、突如割り込んできた少女──目鼻立ちがはっきりした端正な顔立ち、胸元までかかる濡れ羽色の長髪はより麗しさを際立てている。一○○人すれ違えば一○○人振り向く様な美貌を持つ──二年B組で同じクラスの平塚静だ。

 

「あと店員さん、禁煙席でお願いします!」

 

 平塚はしたり顔で言うが、禁煙席なのは高校生だからよほどなことがない限り当たり前で、こんな平日の昼下がりの混んでいない時間帯ならば尚更だ。

 

「……あぁ、えぇ、承知致しました。お客様」

 

 店員も当たり前の注文に少し戸惑う様子を見せながらも、八幡と平塚を四人がけのソファーの席へと案内した。平日の夕方ということもあり、混んではおらず、疎らに人がいる感じだ。

 

「……で、なんでここにいるんだよ」

「いいじゃないかぁ。たまたまだ、たまたま」

 

 平塚は八幡を軽くいなすと、ソファーに腰を下ろし、バッグを空いているソファーの上に置く。

 八幡は反対側のソファーに腰を下ろした。

 彼らが今いるこの場所は、高校生のお供、良心的な価格でチェーン展開に成功した千葉県発のファミリーレストランである。

 この店は八幡にとって数少ないお気に入りの場所であり、恐らくこの店舗屈指のヘビーユーザーなのだ。もちろんおひとり様でだ。

 

「──それとも何だ、私といるのがそんなに嫌か?」

 

 平塚はこちらの瞳をじぃっと見つめ、八幡の瞳を捉えてくる。八幡はその瞳を見つめ返すことはできず目線を反射的に反らしてしまう。

 一言二言軽口を叩いてやりたいものであるのだが、そうされると弱いのは男の性だ。

 

「いや、別に嫌じゃねぇけど……」

「なら良かった!」

 

 平塚は嬉しそうにはにかむと、早速メニューを広げ、ご機嫌に八幡が聞いたことの無い鼻歌を歌いながら、食い入るようにそれを見ていた。

 

 ──可愛い。その笑顔を向けられた時にすぐ思い浮かんだ言葉だ。八幡の心には小さなさざ波が立っていた。

 だが、すぐに冷静な自分が、これは自分だけに向けられているものではないと諭す。──営業スマイルだ、と。この時だけではない、平塚といる時、八幡は必ずこのように自分を諭す。

 

 平塚は間違いなく高嶺の花、それもエベレストの頂上レベルの高嶺のだ。

 才色兼備容姿端麗文武両道、おまけに高校生離れしたグラマー。何から何まで完璧をそのまま具現化したような人なのである。

 男子はその姿を見ればひとたび欲望を煽られ、女子は身近な憧れとして羨望する。

 人望も厚く、誰からも好かれ、学年問わず学内に知らない人はいない。そんなフィクションの中にいるような人物だ。

 

 ──だから、八幡は平塚静を忌み嫌う“青春”の象徴たる人物として、勝手に敵意を向けていた。

 高校に入学して平塚の存在を知った時から、八幡はスーパースター気取りの取り繕いの仮面に取り憑かれた女だと決めつけ、その他大勢の男子のように遠巻きにその姿を見ることもなく、無関心を決め込んで高校生活を過ごしていた。

 

 のだが、事態が大きく変わったのは二年生に進級してからのことだ。

 クラス替えの時、最初の五○音順の席でちょうど前後になり、後ろの平塚から話しかけられた事で、会話をするような仲になった。

 

 どうやら平塚にとっては中々他人と共有できなかったアニメの趣味があったりと、何かと都合のいい人間にあったようで、ちょくちょく話し相手として呼ばれ、休み時間を屋上などの人気のない場所で二人で過ごすことも多くなり、携帯のメールアドレスを交換するまでに至った。

 

 だが八幡はそれで勘違いをすることは無い。それはもちろん都合のいい人間に過ぎないと気付いてるからだ。

 平塚が自分以外の男子と仲良さげに喋っているところは、教室にいる中でもいくらでも見てきていた。

 その上、メールアドレスだって、あのタイプの人間はクラス全員のアドレスを掌握していることを八幡は重々知っている。

 しかもメールも、どこか他人行儀の堅苦しい文章だ。八幡は、メアドを交換した同級生の女子からフレンドリーなメールを寄越されて、女の子が自分に気があると勘違いした挙句、こっぴどく振られた過去があるのだから、この文章で気があるなど、毛頭思うはずもない。

 それに、平塚が男女構わずボディータッチだって平気にしているのだって見てきた。

 平塚にとって、男は百貨店の品物のように、選り取りみどりきみどりあおみどりで、自分の好きな物を選べるのだと、八幡は邪推している。いや、百貨店なんて大層なものではない、百円ショップのように安くだ。

 そんな平塚からしたら、自分はきっと異性でもなく、話を返してくれるロボットに過ぎないものだと八幡は考えていた。

 

 だが、()()()()()で話されるよりはよっぽど心地よかった。他人のためと大義名分のレッテルを貼って、優しさを振り撒く素振りを見せ、中身は、自尊心、自己肯定感、自己愛を高めるような青春の嘘・悪の根幹とも言える人々よりはよっぽど好感を持つことが出来たのだ。

 それに話を共有できる相手と話すことは正直楽しいのは認めざるを得なかった。だから、平塚を拒絶することは無かった。

 ただ一つ、()()()()()()()()()()()を常に抱いておけばいいのである。一本目に見える白線を引いて、その白線の内側へと踏み込まないようにすれば、間違いは起きないのだ。

 

「あ、これにしよう! それと、サラダと──」

 

 先程から平塚はまるで初めてファミレスに来た幼子のようにメニューに食い入っている。

 

 ──ところでだが、こうして学外で、二人きりで会うというのは初めての事だった。

 くどいかもしれないが、だからといって何か期待をしている訳では無い。ただ、話が合うから、それだけの関係だと八幡は重々に痛いほど理解している。

 

「それと、バニラジェラートも頼んで。よし決めた!」

「よし、じゃあ決まりだな」

「比企谷は見なくていいのか?」

「毎度おなじの頼むからな」

「結構通ってるって言ってたな、そういえば」

「まぁな。って、あれそんな話したっけ……?」

 

 平塚の発言に首を傾げるが、まもなく店員が来て、八幡はお馴染みのドリアとコーンスープとドリンクバーを注文した。

 

「えぇ、とじゃあ私は──」

 

 カルボナーラとサラダとジェラートを順に注文すると、最後に、

 

「あ、あとそれと、生ビールで!」

 

 瞬間、店員と八幡の「え?」という声が重なり、場は凍りついた。八幡も粗雑なフォローを思いついたが、墓穴を掘る気がしてならず、口には出せなかった。

 

「あれ?」

 

 当の平塚は何かおかしなこと言いましたかと訴えんばかりに、眉を(しか)めている。その場の三人が全員クエスチョンマークを頭にうかべるという、何とも滑稽な光景だ。

 

「お客様、未成年ですよね。なので、酒類は……」

「……あ、そうでした! あはは、すいません、じゃあドリンクバーで」

 

 店員は「ですよね」とでも言いたげな様子で、注文を繰り返すと、そのまま厨房へと戻って行った。

 

「なぁ、比企谷……」

 

 平塚は俯いて声と肩をぷるぷると震わせている。

 確かにこんなのはさすがに恥ずかしいし、あらぬ疑いもかけられる。

 八幡に求めるのは、──口止めか。しかし、求めなくてももとから口止めされているようなものなのだが。

 しかし、そんな八幡の心配も杞憂(きゆう)だったようで、

 

「私、未成年に見えるのかァ?!」

 

 体を机の前に乗り出して嬉しそうに尋ねてきたのだ。

 その平塚の予想外の反応に、八幡は当然豆鉄砲を食らったような顔になる。

 

「そりゃ、制服着てるし……」

 

 それに口には出さなかったが、周りと比べて確かに大人びてはいるかもしれないが、老けているようには見えない。

 

「そうか、そうかぁ…………、女子高生に見えるのかぁ……」

 

 もはや八幡にとっては訳が分からないが、目の前の平塚がとても満足気であるので、特にこれ以上言及することはしなかった。

 

 暫くすると、店員が、先程注文した料理を次々と運んでくる。そしてみるみるうちに席は皿で埋まった。

 

「うーん、美味しいな!」

 

 サラッとして長い横髪を耳にかきあげ、届いたカルボナーラをさっそく口に運び、頬張る姿も見事に絵になるものだ。

 

「ん、どうした、ジロジロ見て」

「い、いや、それが美味しそうだなと思っただけだ」

「ふ〜ん、そうかそうか」

 

 平塚は何かを見透かしたような目でこちらを見てくる。

 

「何だよ」

「まさか、私に見惚れてたんじゃないのか?」

「な、んなわけないだろ。第一俺は、隣の女子がすごい体調悪そうな様子だったから、ちょっと顔を見て『大丈夫?』って心配して声をかけただけなのに、『そんな目で見ないで余計気持ち悪くなる……』って泣かれてから、もう見ないようにしてるんだ。うわぁ、思い出しただけで涙でそう」

「……それは相手が酷いな」

「だよな。やっぱ俺の目は腐って、──って、へ?」

 

 予想外の返答に八幡は足を掬われる。

 

「比企谷はまぁ、綺麗とまではお世辞にも言えないが、良い目をしてると私は思うよ」

「そんなにおだてようたって、別に奢ったりはしねぇからな」

「じゃあ、証明してやる。ほら」

 

 静とバッチリ目が合う。すごいむず痒い。

 

「私は、むしろ嬉しいぞ」

 

 平塚はまたこちらに向けて微笑む。今度はどこか赤子を慈しむような、母性的な笑顔のように八幡は感じた。

 

「……ッ! 茶化すのもいい加減にしろ、そういう奴に限って後々陰で『気持ち悪かった〜』って叩いてるんだ。騙されないからな、俺は……」

「あぁ、残念だ。ふふっ、その一筋縄じゃいかないめんどくさいところ、やっぱり、比企谷だ」

 

 本当に調子が狂わされてしまう。平塚は常に会話をリードし、何処か余裕を感じさせるような立ち振る舞いをするのは前からも変わらずあることだった。だが以前にも増して、自分について知られているような気がしてならないのだ。本当にお手玉のように自由自在に扱われて、愉悦を感じられている気がしてならない。

 

「ごっ、ごほん。まぁ、いい。で、何が目的だ、平塚?」

「え、目的?」

「わざわざ相席してきたってことはなんかあるんだろ? そりゃ、アニメのことぐらいしかねーだろうけど」

「あ、あぁうーん、そうだな。えぇと、二○○四年……。ハッ─!」

 

 そこで平塚が話題に出したのはテレ朝日曜7時、そう今で言うスーパーヒーロータイムの話だった。そこからの八幡の先程までの気だるげさは吹き飛び、まるで別人格のように目を活き活きさせ始めた。

 確かに二○○四年は最早伝説的であり、長年仮面ライダー最高傑作と評される仮面ライダー555が終わり、仮面ライダー剣が始まった年であり、更に現在でも根強い人気を誇る特捜戦隊デカレンジャーが放映された年でもある。このことを八幡は知る由もないが、

 このいわゆるスーパーヒーロータイムについて熱く語り合った二人はこれだけでは飽きたりなかった。

 何を隠そう今年はとてつもないビッグタイトルが二つの番組の後枠に放映が開始したのだ。その名は──

 

「プリキュア!」

 

 平塚は過去一番と言っていいほどその大きくて円らな目をぱっちり開けて、キラキラ輝かせている。八幡もその名前を聞くと、アドレナリンが放出され、血肉が沸き立つほど昂るのを感じる。

 

「平塚も見てたのか。うん、あのアニメは良い。あれは絶対に名作になると確信してる。小さい女の子向けにフィーチャーしてるかもしれないが、大人も楽しめるようなバトルシーンとか、主人公コンビがいかに信頼しあっていくか描き出されていて、成長物語としてとてもいいんだ、それにな──」

 

 自虐の時以上の八幡の饒舌な語りに、平塚は全幅の理解を示した様子で大きく頭を降って頷いた。

 一通り八幡が語ったあと、今度は平塚が口を開く。

 

「そう、そうなんだよ! みんな可愛いけど、たくましくて、すっごいカッコイイんだ! そうだ、比企谷はなぎさ派かほのか派か、どっち?!」

「うむ、とても、とても、悩ましい。ほんとは両方と言いたいところなんだが、どちらか選べと言われたら、断腸の思いでなぎさ派だな」

「おぉ、その心は?」

「一見、普段の時はスポーティーで快活で、戦闘時には猪突猛進の戦闘スタイル、ほのかを引っ張っていくリーダー気質のように見せて、その実とてもナイーヴで女の子らしい一面がある。そのギャップがたまらないな。だからこそ、頑張れって応援したくなってしまうんだ」

 

 八幡のなぎさへの思いに、感銘を受けたのだろうか、

 

「だよなぁ、さすが比企谷だ!」

 

 平塚はとても高ぶった様子で周りの目を忘れバンと机を叩き、立ち上がった。

 

「これから先もたくさん出てくるプリキュアシリーズの中でも──」

「プリキュアシリーズ……?」

 

 八幡はプリキュアシリーズという言葉に当然即座に引っかかった。だってまだプリキュアは他にはいないのだから。八幡はなぎさとほのか以外に知らないのだ。

 

「はっ……!」

 

 平塚は明らかに失言した様子で口を手で抑える。

 

「シリーズって──」

「いや、この人気だったら間違いなく一○年後も続いてると君も思わないか?!」

 

 平塚の言い草を(いぶか)しむが、そこを八幡は突っ込むほど野暮じゃない。

 “語り合えれば”それでいいのだ。

 それにたとえ平塚が所謂メッカである大企業バン〇イのお偉いさんと何らかの繋がりがあってスーパーヒーローのようにプリキュアにもプリキュアシリーズとして続きがあると知っていたとしても、むしろ八幡にとってはそれがあると知れるだけで生きていける。コンテンツ自体の最終回(しけいせんこく)がないならば、それに越したことはないのである。

 だから八幡はこう答える。

 

「あぁ、思う。それに、もし、プリキュアがなくなってしまう、未来(あした)が来るなら。そんな未来(あした)なんか、俺はいらない」

「おおおおぉ、無限のリヴァイアスだぁぁあ!! サンライズの作品はなぁ───」

 

 このような訳で二人の会話は途切れることなく盛りに盛り上がり、店員が申し訳なさそうな顔をして「お静かにしていただけないでしょうか」と頼まれ、互いに熟した梅のように顔を真っ赤にするまでは、尽きることは無かった。

 その言葉でクールダウンした八幡は食べ終わった皿を空いてる方に除けて、腰の横にあるスクールバッグの中から勉強道具一式を、探り出し机上に置いた。

 

「ん、勉強するのか、偉いな、比企谷は」

「そりゃ、テストが近いからな。もう来週だぞ。まぁ、優秀な平塚さんには必要なものじゃないかもしれませんが」

「あぁ、そうか、テストだったな! 久しぶりだなぁ……」

 

 なんだか妙に嬉しそうかつ感慨深げな様子の平塚。

 普通なら嫌がる、もしくは嫌がりはしなくても、喜びはしないだろうと八幡は思う。八幡は生存確認するためだけに呼ばれた屋上の一件から平塚の反応が妙におかしいと感じていた。

 

 ──だが、八幡は無理に突っ込まない。

 八幡は、これまでの人生で危ない橋は渡るなをとても思い知ってるのである。しかも、全ての道が危ない橋に通ずることはよく知っているのだ。だから、こちらからは基本話題も出さないし、基本喋らない。それが八幡のモットーなのだ。

 そういう人となりであるので、八幡は嬉しそうにする平塚を横目に、ただ黙々とペンを走らせ始めた。

 

 そうして、先程まですこぶる騒がしかった席から一切の話し声が消えてから三○分程経った八幡は快調に進捗を産んでいたが、国語の試験範囲を解いてる時に、どうしても分からない問題にあたり、手が止まってしまった。

 

「比企谷、さっきから何を悩んでるんだ?」

「あぁ、実はなぁ、ここの先生の感情しかの解釈が。こうだと思ったんだが」

「あぁ、そこはだな、あぁ、先生の嫉妬のところか──」

 

 八幡が指し示したところを見ると、平塚は悩むまもなく、すぐに解説を始めた。さすがなんでも出来る優等生と八幡は思わず感心していると、

 

「うーん、ちょっと、ここからだと教えづらいな……。よし、そっちに座らせてもらおうかな」

「え、──」

 

 そう言ってすぐに、平塚は八幡の隣に座った。合わせて、ソファーの凹みがやや大きくなるのも感じる。

 

「よし続けるか。それで、ここはだな──」

 

 突然のことに八幡の心臓の律動はどうしようもなく速くさせられる。

 鼻腔をくすぐる甘い匂いがする。

 もう少しで触れそうな肩。

 下を見ようとすれば、暗がりとスカートの狭間から垣間見える腿。

 とにかく近い。意識が飛びそうになる。

 

 だが、平塚の横顔を見た時また冷静な自分が、諭した。

 彼女の横顔は何一つ変わっていない。別に特別ではない、普通の表情だ。

 男女分け隔てなく接し、誰とでもフランクに話す平塚にとって、普通のことなのだ。

 スっと自分の中に理性は戻り、平塚が指し示すノートに書かれた文へと目線を移した。

 そして、平塚は暫くノートを元に解説を続ける。

 

「──つまり、嫉妬だ。そこで先生は『Kの恋愛成就』を妨げることに躍起になったんだ」

「ほぉ、なるほどな」

「まぁ、その嫉妬が、議論の余地があるんだけどな」

 

 解説を聞いた八幡は思わず唸り、()()みと納得する。

 平塚の解説はとても分かりやすく、お世辞抜きで、学校の教員の説明よりも分かりやすいと感じた。

 

「すげぇ、学校の先生よりも分かりやすかったわ」

「ふふっ、さすがに褒めすぎだ、比企谷。そんなこと言っても何も出てこないぞ。私から出てくるのは拳くらいか」

 

「こんな感じでな」と平塚は右腕を前に突き出し、一本ずつ人差し指から小指へと順に指を折り、最後に親指を添えて拳を握った。その後にガっと肘を曲げる。

 これは間違いなく平塚の大好きな熱血アニメ『スクライド』の主人公が使う“衝撃のファーストブリット”の構えだ。既にその拳で殴られたことがある八幡の肝はその構えを見るだけで際限なく冷える。

 

「まぁ、本当に平塚の説明は」

 

 改めて八幡が褒めようとする、そんなよくある何気ない瞬間───、

 

「分かりやすかっ───」

 

 ──言葉が詰まった。

 八幡が何気なく平塚の横顔を覗こうとした時、頬をうっすら染めた平塚も八幡の顔を見ていたのだ。

 

 ──目を離せなかった。

 

 十数センチの至近距離で、

 身体も触れそうになる中で。

 二重でくりっとした目、長いまつ毛、やわらかそうな唇、少しだけ感じる熱っぽい吐息。

 それらが今八幡の目の前にあるのだ。

 

 ──言葉が出なかった。

 

 平塚の頬は次第に紅く、紅くなっていく。

 八幡も、じわりと顔が熱くなるのを感じていた。

 

 二人は長いようで短い時間互いに見つめあっていた。

 

 終わりを告げたのは突如平塚がサッと視線を下に向けた時だった。

 触れ合いそうだった二人の距離も、その瞬間互いにいない方へとずれて開いてしまう。

 

 

「……そ、そのだから……ありがとな……」

「…………う、うん、…………どういたしまして…………」

 

 

 交わす言葉もどこかぎこちなくなり、会話もこれ以上続かない。二人して押し黙ってしまった。

 

 ───だが、

 

 止まらない。止まらない。

 鼓動がうるさい。そして止まらない。

 酷く冷えきった自分が冷やして止めようとしても、今回は冷えてくれない。

 そんな顔を見てしまったら。

 そんな表情が自分に向けられてしまったら。

 

 ──熱い。熱い。

 ──止めなければいけないと分かっているのに。

 

「……ちょ、ちょっと、私、トイレ行ってくる……」

「あ、あぁ……」

 

 小走りで行ってしまったその後、平塚はだいぶ長い間戻ってこなかったような気がする。

 その間、八幡は気紛れにペンを持つ手を動かそうとしても(ろく)に動かなかった。それに、手元も妙に震えた。

 時間が経ってもまだ、心臓の脈拍は速い。

 いつもはクールに振る舞い、どちらかといえば男勝りで、誰にでも変わらない様子で接する彼女が八幡に初めて見せた、あの女々しく、酷く扇情的な表情が網膜にこべり着いて離れない。

 

「やべぇ……」

 

 そして、八幡は思わずこの言葉を口に出してしまった。

 

「……かわいすぎるだろ」

 

 その呟きは誰にも聞かれぬまま、角砂糖のような形をした氷だけ入ったグラスの中に吸い込まれていった。

 そして、ここで初めて八幡の心覆った分厚く硬く、冷たい()()()が、(ほて)りにやられて溶けているのをうっすらと自覚したのだ。

 

 

 

 

 







二話をご覧頂き誠にありがとうございます。
突然ですが、ここからは比企谷八幡視点となります。
平塚は先生の魅力を引き出すことが出来るかなと思ったためです。ご了承ください。

本編とは何も関係ないですが、原作でも語られる平塚先生が好きな熱血アニメ『スクライド』について少し。この『スクライド』は『コードギアス』シリーズで有名なSUNRISE×谷口悟朗監督に加え、黒田洋介脚本で描かれた熱血アニメです。『コードギアス』のスタッフということでお気づきだと思うのですが、この作品も面白い面白い。是非、平塚先生がハマったアニメを見てみてください。
ちなみに『無限のリヴァイアス』も『スクライド』と同じスタッフが作り上げた名作です。こちらの方も是非(ダイレクトマーケティング)

最後に。一話・二話のご感想を拝読させて頂きました。とても励みになっております。これからも叱咤激励の感想を頂けるととても有難いです。



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三束: Sports Festival!!!








 

 

 中間テストもすっかり終わり、若葉が顔を出し始める清々しい季節から、だんだんと鬱屈な雨降りの季節へと向かう頃。

 この総武高校では、蔓延(はびこ)っていた勉強ムードは完全に消え去り、次に訪れるイベントに向けて、着々と盛り上がりを見せている。

 

 だが、その盛り上がりを享受できるのはごく一部の生徒だけである。これを社会、いや、ここではあえて青春の闇だ、とでも言おう。

 

 校舎の内と外を隔てるスチール扉の目の前。そこにある三段程度しかないコンクリートの階段に座り込み、テニスコートから聞こえるラケットの快音を聴き、海風にそよぐ通路脇の草花を眺めている比企谷八幡は、無論その盛況を享受出来ない側の人間だ。

 

「あぁ、涼しい……」

 

 八幡は、この海風が(なび)く、人目のつかないこの場所を好んで利用していた。

 その名も──ベストプレイス。

 八幡が命名した名前からわかるように、彼にとっての数少ない憩いの場のうちの一つである。

 彼にとっての憩いの場はサイゼリヤと、ネットカフェ、それとこのベストプレイスぐらいである。

 だが、この場所は、やはり格別である。美味しい飯が出るわけでも、娯楽がある訳でもない。ただ、わずらわしいものが何も無く、閉塞感もない。ただ独りでいる事が心地いいのだ。よく、「一人きりの世界になったことを想像すると怖い」と言うのを聞くが、むしろ八幡にはそちらの世界の方が性に合っていそうだ。

 

 とにもかくにも、人知れず肩の力を抜いて所在なさげにのんびりしている。することといえば、手元にあるアンパンを一口齧るだけ。そして、咀嚼してそれを飲み込む、ただそれだけ。

 少し耳を澄ますと、風に乗って聞こえてくる人の声。目前にある校庭には人はいないが、バルコニーの方から聞こえているのであろう。

 誰かは分からないが、何をしてる人の声なのかはすぐに検討がついた。しかし、八幡は耳の穴を少し抑えると、また、手元のアンパンを一口齧った。

 

 平穏な時間、サイコーと心の中で呟く。

 

「あっ、比企谷みーっけ!」

 

 

 

 ──平穏な時間は壊れた。

 

 

 その瞬間、撃滅のセカンドブリットなる拳が八幡の鳩尾(みぞおち)を寸分たがわず貫いた。メリメリという鈍く、(はらわた)を抉り取られるような不気味な音を立てて。

 コハッという本来人間が出してはいけないような乾いた息まじりの声を漏らした八幡は、二段下のコンクリートの上へと衝撃で飛ばされたあとのたうち回り、あまりの激痛に鳩尾を抑えて、その場で(うずくま)った。打ちどころが悪ければ確実に彼の魂は遥か彼方の空へ昇っていただろう。

 

「ほら、練習戻るぞ♪」

 

 殴った張本人は屈託がなさすぎて逆に不気味な笑顔で、蹲っている八幡にわざとらしく鼻にかけた声で語り掛ける。

 

「い……や、動け……ない……」

「うっそー、どうして〜?」

 

 その人はあからさまに作った不思議そうな顔で八幡の様子を覗き込む。

 八幡は、今にも消え入りそうな声で振り絞って応えた。

 

「い……や、たった……今誰かさんに……思い切り……殴られたか…………ら……」

 

 ちょうど言い終えたところで本当に魂が抜けたようにパタッと、八幡は力尽きた──。

 

 ──暫くして、意識を取り戻し、ようやく動けるようになった後、鳩尾には未だに拳の形が分かるようなじんわりとした痛みを抱えたまま、何とか這いずって、階段まで戻ってくる。その隣には、先程までの嘘で塗り固められたような笑顔が消え、呆れ顔の平塚がそこに座っていた。赤色のハチマキが額にまかれ、練習のために結われたであろうポニーテールが海風に煽られヒラヒラと揺れている。

 

「──全く比企谷は相変わらずのサボり癖だな。これで何度目だ」

「さ、さぁ、どうだったかな……。お前が気づいてないだけで意外と練習行ってるんじゃないか。ほら、俺、影薄すぎて、割り勘の時払わなくて済むぐらいだし。いや、そもそも割り勘の機会がなかったわ」

 

 こういう時のための自虐ネタだ。まさしく怪我の功名である。

 

 ただ「ふ〜ん」と適当にあしらった平塚は指をおり始めた。「昨日は来たが、一昨日は来なかったよな──」と、一本ずつ指を折る。しかも、正確に。

 さすがにその指折りを見て身の毛もよだたない人間はいない。恐ろしい折檻だ。

 

「──なんだ、二回しか来てないじゃないか。サボってる回数の方がよっぽど多いんだが」

 

 ちらと、目が合う。瞳孔は右往左往だ。日陰のコンクリートが尻づたいに余計身体を冷え上がらせる。

 でなければ殺される。でも練習に出たくはない。わかりやすい葛藤が生まれ、そして勝手に口は動く。

 

「語弊があったな。これはサボってるんじゃなくて、尊い犠牲だ。本番一人いない状況を鑑みての予行練習のための犠牲なんだよ。ほらきちんと体操着も来てるだろ? ポッケには紅のハチマキ。ちゃんと心と心は繋がってるから。だから平塚さんも、もうわざわざここに来なくても──」

 

 ピタリと口が止まった。なぜなら平塚の顔が三度殴られた仏が見せそうな無機質な笑顔に変貌していたからだ。その目は一切笑っているように見えない。平塚の右手の握り拳は、ぶるぶると小刻みに震えている。

 

「──また、変な言い訳つけて。そういう訳の分からん言い訳も相変わらず得意だな。体操着着て、サボってないことを装う魂胆も気に入らない。なぁ、比企谷……?」

 

 平塚はポキリと順番に指を鳴らす。

 小指から順番に。人差し指を鳴らす音は一際大きく聞こえた。

 

「すいませんすいません。今から参加します。だからその抹殺のラストブリットを今にも放ちそうな拳は引っ込めてください」

「なら、よし」

 

 というわけで、八幡は不本意ながらも、その獅子の如き圧力に為す術もなく屈服し、参加することが決定した。

 

 ──遅ればせながらこの学校の体育祭について説明すると、この学校の体育祭は、クラスを半々に紅白に分かれ、全学年の総合得点で競う典型的な紅白戦だ。

 八幡は灼熱豪華の紅組であり、そして、彼にとっては運の悪いことに平塚も紅組なのである。

 本来であれば、誰からも咎められることもなく、悠々自適に日向ぼっこをすることができる。実際、去年の体育祭も同じように過ごしたのだ。

 

 ともあれ練習に参加することが決まってしまった八幡は重い腰を上げようとしたわけだが、どうやら体育祭のクラスの担当が用事で遅れているため、練習開始の時間までにはまだ余裕があるとのことだった。

 

「やっぱ、出たくねぇ……」

 

 八幡はまた往生際悪く乗り気が無いことをアピールし始めた。

 

「まだ言うか」

「だって自主練だろ? おかしくねぇか、俺は自主性なんて欠片もないのに」

「あぁ、あれは()()と書いて()()()()()()()()()()()()()()と読むんだ。つまり、理由が特にない君は強制参加だ」

「うげぇ。なら最初からそうと」

「これがJAPANなんだ、諦めろ。そんなんじゃ、社会人とかになった時、君は苦労するぞ。大人の社会はこんなことのオンパレードだからな」

「いや、俺は専業主夫になるから、別にその心配はないな」

「あぁ、そう言えば、そんな妄言吐いてたな君は」

 

 平塚の顔は分かりやすく苦笑いの表情をした。

 

「なぁ、比企谷。なんで君はそれほどまでに練習出たがらないんだ」

「コミュニケーションが必要になるからだな。腫れ物に触るように接してこられるのは、俺は御免だ。変な気とか使われたら、余計に気分が悪くなる」

 

「確かに一理あるな」と平塚は頷いた。

 

「でも、別に練習にでることぐらいだったら、苦じゃないんじゃないか? 君が苦手だと思っているコミュニケーションだって、今日の練習の大縄なら行わなくて済む。というか君がコミュニケーションが苦手だなんて私はそもそも思わないけどな」

「まぁ、それ以前に体動かすと、疲れるんだよ。それに尽きる」

「根幹はそこか。はぁ、まったく。というか、君、体育祭の実行委員だろ。そんなのでは面目が立たないぞ?」

「別になりたくて、なった訳じゃないからな。委員会決めサボってる間に何故か決まってただけだ」

「ほら、サボるからそんなことになるんじゃないか」

「疲れるからいやなんだよ。俺はたとえ社会的地位が低くなっても、疲れることは絶対しないと心に決めてるんだ。No, hard working」

「でも、体育祭の実行委員はきちんとやってるんだろう?」

「いや、サボってる。そもそも人数が五人って多いから、別に必要とされてないんだ」

「はぁ、そうか……。すごいな君は……」

 

 まさしく馬の耳に念仏である。八幡の天邪鬼さ、ある意味では一本筋が通ったその態度に、平塚はもうお手上げなようで、これ以降の説法は止まった。

 いつもは平塚に踊らされる側である八幡は、なんだか平塚を手玉に取ったように思えて、したり顔になった。

 

 一方、八幡には素朴な疑問が浮かび上がっていた。

 

「というか平塚はよく疲れないな。お前働きっぱなしだろ。もう、やりたくねぇな。ってなるだろ、普通」

 

 この状況では、煽りに聞こえるかもしれない。だが、煽りでもなんでもなく八幡は純粋に分からなかった。

 疲弊するまで、やる価値があるものとは到底思えなかったからだ。平塚の立場を鑑みると、行動の原理は巷で言われる()()()()()()()()()()()─貴族の義務、とかいう時代錯誤の精神なのかとさえ八幡は疑ってしまう。

 

「いや、私だってそりゃ疲れはするぞ。朝も昼も体育祭の練習。放課後も生徒会で体育祭の準備だからな。君と比べたら、天と地の差なんてものでも言い表せないくらいの差はあるな」

「それで賃金ゼロだろ? 最近流行りのブラック企業ってやつじゃねぇか。無理だな、俺には」

「馬鹿言え、本物のブラックを知らないくせに。賃金を貰っても、精神が満たされない労働、これが真のブラックだ。まだこっちは精神が充実してるから幾分マシだ」

 

 高校生の言葉であるはずなのに、平塚のその言葉には確かな重みと、説得力がある。口からのでまかせではなく、まるで経験してきたと言わんばかりの雰囲気だ。

 

「……お姉さん、人生何周目?」

「……親からの受け売りだ」

「はっ、すげぇこと子供に教える親だな」

 

 想定外の答えに思わず笑みが零れる。八幡は酷く現実的な平塚家の教育に一驚を喫するが、比企谷家も似たような節はあり、理解できない訳では無い、寧ろかなり共感している。

 

「まぁでも、やはり身体的疲労は残るな。肩こりも以前よりはだいぶマシになったが、やはり凝るには凝るんだ」

 

「ん〜……」とか細く高い声を漏らし、平塚は腕を高く突き上げ伸びをする。すると、薄着の体操着のせいか、ある所が押し出され、平塚のボディラインがくっきりと浮かび上がり、白の布地から下着が若干透けて見えるのだ。そして、一瞬見せる無防備な表情。

 それを見てしまった八幡の鼻の下も思わず伸びてしまっていた。肩凝りというのも、原因を察せてしまうのが、余計にそうさせる。

 これはしょうがないと、八幡は自分に精一杯言い聞かせる。

 伸びをしきった平塚は気持ちよさげに「ふぅ〜……」と息を漏らす。

 

「それでも、皆が楽しんでいる顔を見ることは、やはり私としても嬉しい。達成感があるんだ。結局は、そう、自己満足なんだよ」

「だとしてもできた人間だな。俺とはまるっきり正反対だ」

「ふふっ、まぁ、間違いないな。君は皆を笑顔にしたいというタイプではないからな」

 

 平塚は、少し間を置いた。

 サーと強めの海風が吹く。長い横髪の隙間から見える平塚の瞳は木陰の向こうの、だとしてもここではないどこか遥か遠くを見ているように見えた。そして、寂しそうに呟く。

 

「──正直それ以上に、たくさんの後悔があるんだ。ちっぽけなことから、取り返しのつかないようなことまで、本当にたくさん。私はそんな後悔をできるだけ残さないようにしたいんだ。手遅れになったら何も出来ないし、後で嘆いても、それこそ後の祭りだからな」

「ふぅん、お前にも後悔とかあるんだな。てっきり──」

 

 

 ──無縁だと思ってたわ。そう言おうとしていた。だがその横顔を見て、ふと八幡は思い出した。平塚が同じようにどこか遠くを見て、いつかの屋上で突然涙を流し始めたことを。

 随分前、八幡は平塚のことを青春の嘘で塗り固められた勝者であると思っていた。だからこそ、後悔とは無縁でいられると八幡は決めつけていた。

 だが、最近は違う気がしている。あの涙の理由はまだ分からない。他人を見ることを避けてきた腐りまなこには見抜くことなど出来なかった。

 八幡は口を噤んだ。おもむろに手でコンクリートの感触を撫でる。冷たくてザラついてて優しくない。

 そしてたった今、八幡は当たり前のことに気付かされた。平塚のことをこれっぽっちも知らないのだということを。その事に気づいたからといって、何かが変わる訳でもないが。

 

「これが私の理由だ」

 

 ちょっと口角を上げてはにかんだ平塚は、だから、と続ける。

 

「君も楽しんでくれれば、私はもっと嬉しいんだがな……。練習に参加して欲しいのも、君に楽しんで欲しいからなんだよ……」

 

 わざとらしく潤んだ瞳。見たことのないアヒルみたいな口。今、八幡は、求められている答えに気付かないほど鈍くはない。

 最初から平塚はこれが目的だったかもしれないが、耳を傾けてしまった時点で八幡の負けだ。

 億劫そうに瞼を落とし、右手でもみあげを二三回掻く。

 

「はぁ、あぁ、分かった分かった。ちゃんと行けばいいんだろ、これから練習に」

「そういうことだ!」

「ここで口ごたえしたら、言葉での返答の代わりに拳が返ってくるだろ」

「まぁ、そうかもな、あははは!」

 

 平塚は高らかに笑うが、拳を受ける八幡からしたら冗談の聞かない笑えない話だ。

 これで、八幡がこれから先も練習に参加することが決まった。結局、あっさり流されてしまっているのだが、不思議と悪い気分にはならず、むしろスゥとなにか吹き抜けたような春風に似た清々しさがあった。本当に不思議な話である。

 

「──あっ、そうだった!」

 

 唐突に、平塚は何かを思い出したようで、体操着の短パンのポケットをまさぐり、「後で伝えようと思ってたんだが、せっかくだし」と一片の折りたたんだ紙を取りだした。

 

「なぁ、比企谷!」

「今度は、何だ……」

「七月にはなるんだが、うーんと、この溜まりに溜まったストレスを発散しに行かないか──?!」

「……外に出かけるってことか?」

 

 平塚はこくりと頷く。クリっとした目を真ん丸にしてすごい期待の眼差しを差し向けてくる。だが、残念ながらこれに関しては八幡は平塚の望む答えは出せそうにない。

 

「平塚、申し訳ない、外出するって行為が俺にとっては基本、最大のストレスなんだ。だからその日は家で寝っ転がって──」

「よし、言質は取ったからな!」

「……いや、今取れる言質なんて無かったでしょ」

「喜んでいきます。むしろ行かせてください! お金払ってでも行かせてください! っていう言質だ!」

 

 八幡は、「はぁ……」と諦め混じりのため息をつく。

 

「捏造すぎて清々しいな。どうせ最初から拒否権はないんだろ」

「おお、その通りだ。今日の君はやけに物分りがいいではないか」

「……で、何するんだ?」

 

 八幡が気の無い素振りで尋ねると、待ってましたと言わんばかりに、平塚は「せーの!」と一人で掛け声をして、

 

「じゃじゃーん!! これだぁ!!」

 

 平塚は折りたたんだ紙をバッと四方に広げて、視界を覆うように八幡に見せつけた。八幡は少し身構えていたが、その紙に書かれていた予想外の内容に毒気を抜かれる。既に底をついてる八幡の中のやる気メーターが更に下がった。

 

「七夕祭り……。しかも、長生(ちょうせい)村……? 茂原(もばら)の近くじゃねぇか、なんでまた……」

「ここを見るんだ、ここを!」

 

 そうして指さされた所を見ると、普段は感情の起伏が激しくない八幡が「えぇ?!」と裏返り気味のやや掠れた声を出し、鉛でできたような腰を浮かすほど珍しく吃驚仰天してしまった。

 

『七夕大決戦~彦星と織姫は誰だ?! 最強カップルコンテスト~』

 

 確かに平塚が指を指したところにはそう書いてあるのだ。

 

「お、お前、カップルって」

「まぁ、待ちたまえ! それでは甲斐性のない君はどんなに説得しても参加しないことは重々わかってる。それに私も私なりにカップルコンテストに参加する理由があるんだ。さぁ、これを見たまえ!」

 

 そう言って平塚はさらに小さく書かれた大会の賞品。その中の二位の賞品を指し示した。

 

『2位:アニメコレクション詰め合わせ “スクライド” カズマ 劉鳳& “プリキュア ”キュアホワイト&キュアブラック フィギュア ガンダムプラモデル』

 

 なんだこれは。ピンポイントにもほどがある。金銀財宝──宝の山だ。

 自らの目を疑い、何度も擦り、何度も確認する。

 しかし、書かれている内容が変わることは無い。しかも、画像を見るからに安作りではなく、かなり上等なものだ。

 八幡の意思はここで決した。現金な男と言われても上等である。

 下振れていたはずのやる気メーターはMAXを振り切り、理論値を超えた。

 

「行く。絶対に行く」

 

 鼻息が自然と荒げる。

 

「おぉ、行く気になったか!」

「当然だ。特に欲しいものが揃ってるんだから、これを逃すチャンスはないだろ」

「うむ、やる気満々なのは結構だが、ただし比企谷、この大会に参加するための条件を設けるぞ!」

「え、そっちから誘ってきたのになんか条件あるの」

「あぁ、それはな───!」

 

 

 その日から、体育祭当日まで、八幡は練習に参加し続けた。雨の日も、風の日も、眠くなるようないいお天気の日も。

 平塚から突き出された条件とは「練習全てに参加し、体育祭に出場すること」だった。

 口約束では信頼できないため、釘をさしてきたのだ。

 確かに、平塚は男なんていくらでも用意出来るかもしれないが、八幡は無理だ。妹を彼女扱いさせる方法もなくはないが、小町は嫌がるだろうし、バレた時のリスクが大きい。

 何度か魔が差し、機を見計らって尊い犠牲という体のサボりをみたび敢行しようとしたが、当然平塚の目を誤魔化すなどの手は通じそうになく、律儀に全て参加したのだ。

 

 そして、あっという間に時は経ち体育祭当日。

 もう少しで梅雨が訪れるというのに、憎いほどに晴れ上がる空。

 まだ生徒が集まるには少し陽の位置が低い時間。目の前のグラウンドには、白線で作り出されたトラックが浮かび、その奥には白屋根のテントが窮屈に横並びしている。

 その中、八幡は、気だるそうにしながらも、赤いハチマキを手に握り、しっかりとグラウンドの地を踏んでいた。ただ、慣れない陽光には弱く、目を萎ませている。

 

「ひーきがやっ!」

 

 呼ばれて、萎んだ目がギョロと開く。八幡を呼ぶ女の声がする方へと振り向く。だが、この学校で八幡を呼ぶ女子なんて、一人しかいない。

 

「おはよう!」

 

 平塚は屈託のない笑顔を見せ、明朗快活な挨拶をかけてきた。八幡の重たげだった瞼も、少し軽くなる。

 

「あぁ、おはよう」

 

 八幡が挨拶を返すと、平塚は胸元に手を押し当てて、「よかった」と、安堵のため息を吐く。

 

「比企谷が本当に来てくれるか心配だったんだ」

「まぁ。そりゃ、金銀財宝、宝の山がかかってるからな」

「よし、じゃあ七夕祭りに一緒に出場するぞ!」

 

 とりあえず、これで第一段階はクリアということだ。そして、どこか靄がかっていたものが晴れ、胸がすいたような心地になった。

 その時、「しずかー」と、平塚を呼ぶ女子の声が聞こえた。

 

「もうそろそろだよー。来てー」

 

 呼ばれた平塚は元気よく手を挙げて「はーい」と、意気揚々と返事を返す。

 

「仕事か?」

「あぁ、生徒会のな。他にも今日やることがてんこ盛りにある。競技も大縄、騎馬戦、部活対抗リレー、学年対抗リレー、選抜リレーと沢山でなきゃならないし、競技の合間合間にも仕事が入ってるから、休む暇がないって感じだな」

 

「特にリレーがしんどいんだ」といやいやそうに平塚は愚痴をこぼす。その愚痴を聞いて、持つものの嬉しい悩みじゃないかと嫌味に思うのではなく、八幡は持つものじゃなくて良かったと少し幸福感さえも感じていた。

 

「まぁ、頑張れよ。無理しないほどにな」

「うん、分かった! 比企谷もな!」

「できるだけ頑張るわ」

「できるだけじゃなくて、絶対に、だ! ちゃんと見てるからな。じゃ、私仕事行くから。また後でな、比企谷!」

「あぁ」

 

 そうして、平塚は運営席の方へと行ってしまった。その背姿を見送ると、濡れ羽色のポニーテールが跳ねるように揺れている。

 

「すごい楽しみにしてたしな、あいつ……」

 

 ──頑張るか。

 

 と、浮かんだらしくない言葉は門番が睨みを利かせる声門に引っかかり、結局、それを呑み込んで、言葉に出ることは無かった。

 

 ところで、ここからの八幡は終日暇人なのかと言えば、そうではない。今回の体育祭では、クラスの体育祭実行委員に知らぬ間に任命されており、体育祭の実行委員までサボっていたら最終的には救護係という大層な役を担うことになってしまった。

 あの西欧の怪物のように陽光に弱く、重役出勤の常連である八幡がわざわざ一般の生徒よりも早く学校に来ているのはそのためだ。

 平塚の言う通り、きちんと出ておくべきだったが、これこそ後悔先に立たずだと、辛酸を嘗めて痛感する。

 ただ、彼が担当する朝の仕事は既に終わっているため、今は手持ち無沙汰である。だから、こうしてただ意味もなく校庭に立ち、白線で浮かび上がるトラックを眺めていたのだ。

 

 少し時間が経つと、一般生徒も徐々に集まり、騒々しさと額の紅と白のコントラストが淡白な色の校庭の中で目立っていく。

 そして、その喧騒を貫くアナウンスがかかり、まもなく体育祭が始まるという頃になった。

 

『──これから、第〇〇回総武高校体育祭開会式始めます』

 

 開会のアナウンスが鳴り響くと、「うおおお!」という野郎共の野太い蛮声や指笛の鳥の鳴き声のような甲高い音が響き、会場の熱狂は高まっていく。

 そして、そのままの勢いで、開会宣言を担当した生徒会長がマイクを天に掲げて、声高らかに、叫んだ。

 

「総武高校体育祭、開始でぇぇぇぇす!!!」

「「「いえええええ!!」」」

 

 砂埃が空に舞い上がる。

 

 ──総武高校体育祭は幕を開けた。

 

 次々と種目が行われていく。種目が終わる度にどっと動く人の大群に、せっせと会場を縦に横にと動く体育祭関係者。その様子を日除けの白テントの下で、談笑している大人たち。人それぞれ違う体育祭を送っている。

 そして八幡は観戦──ではなく、ベストプレイスでのんびりしていた。

 そんな八幡が出場した最初の種目は学年対抗の大縄だった。ここでは、八幡と平塚側の赤組は熱戦を繰り広げたものの、僅差で黒星となってしまった。

 結局、最後の最後で引っかかってしまったのは、練習に参加していなかった、というよりもできなかった女子であり、表向きではチームメイトは「ドンマイ!!」と声をかけていた。しかし、大縄が終わったあと、八幡がベストプレイスへと意味もなくひそひそと盗人のような抜き足差し足で帰る途中に、バルコニーの日影の下でチームメイトの女子数人がたむろし、「マジ最悪。あいつのせいだ」という恐ろしい発言と、それに周りの女子が赤べこのように首を縦にふり同調する様子を見てしまったのだ。

 これが、青春の現実だと、教科書に載せたくなるようなものであるが、火の元危険。君子危うきに近寄らず、という訳で飛び火しないように、ささっと足音を立てずに通り抜けた。

 

 これで八幡の出場する種目はもう残り二つである。

 それは男子対抗の棒倒しと、学年対抗全員リレーであるが、午前中にある棒倒しまでにもだいぶ時間があるため、友達のいない八幡には退屈なことこの上ないのだ。

 救護係のシフトに入っていて競技をぼんやり観戦するか、入ってなければ喧騒を避けてベストプレイスでぼんやりすごすかのどちらかだった。

 

 当分の間シフトが入らず、アスファルトの階段に腰を下ろして、イヤフォンを耳にはめながら流れゆく白い雲を見ていると、女子対抗の騎馬戦が始まろうとしている刻限になっていた。

 校庭に戻ると、大縄の時よりも観覧席の親の数もいっそう増え、やはり目玉種目ということもあり、今までの種目より熱量が大きい。

 八幡はこの時間ちょうど救護係のシフトが入り、救護テントの下から観戦することになった。

 

『それでは、騎馬戦に出場する生徒は、入場してください』

 

 アナウンスと共に、いかにもハンドメイドの木製の入場口からは鉄の城門から出てきたようにわらわらと女子の大群が校庭内へと押し寄せる。普段なら嫌がるであろう裸足でグラウンドを駆けるその姿は、可愛く取り繕ったりしようなどという乙女心は消え去り、敵を薙ぎ倒すために、旧き野生の心を取り戻しているように見える。まるで俗に言う、アマゾネスの戦士のように。

 そして、所定の位置に着くと、女子のそれとは思えない胴間声を上げ、激励の言葉が飛び交う校庭で、準備を促すアナウンスと共に、次第に騎馬が組み上がっていく。

 

 

 ──東側が、額に巻いた白のハチマキが鬣のように揺れ、白馬が如く優美さの中に、確かな熱意が感じられる、純白の白軍!! 

 その軍を率いる大将を務めるのは、バスケ部のキャプテンにして、清楚系という相反するステータスが見事に融合した熱血のご令嬢──麗しき白鳥・山王ヒロコだァァァ!! 

 

 

 西側が、赤色のハチマキの如く真っ赤に燃え上がり、猪突猛進、直往邁進にただ相手の騎馬へと挑みかかる真紅の紅軍!! 

 そして、この紅軍を背負って立つのは、その人望と額に宿す熱さを持った天性のリーダー・生徒会の紅一点! ──烈火の獅子・平塚静だァァァ!! 

 

 両軍の騎馬の準備が整い、いよいよ土俵に立ったァ!! 

 

「両軍、位置につきまして、よーい──」

 

 そして今ここに、紅白の雌雄を決する、戦いの火蓋が

 

「始め!!!」

 

 

 切って落とされるゥゥゥゥウ!!』

 

 

 と、いつからか始まっていたとてつもなく熱い放送部の実況が伝えるように、開始の合図と共に、両軍の騎馬は、恐れおののくことなく、敵の騎馬へと突っ込んでいった。

 あちらこちらで足踏みによる土煙が上がる中、かすかに崩れ落ちていく騎馬が見える。雄叫びを上げ、その手には敵の色のハチマキが握りしめられた騎馬も見える。

 敵勢に囲まれ、行き場をなくし為す術なく散りゆくであろう騎馬も見える。

 やはり女子のものとは思えない荒々しい叫び声が戦場に木霊し、周りの歓声と喝采が、より会場の興奮を捲し立てる。

 

「いけぇ! 白軍!」

「負けんじゃねぇぞ、紅ァ!」

 

 手に汗握る戦いは、実力伯仲のまま進み、白の優勢かと思えば、紅がすぐに取り返す。紅が二騎沈めれば、白が三騎沈める。一進一退の攻防が続いていた。

 

『ここで、紅組、騎馬を失ってしまったァァ! おおっと、それをすかさずカバーする紅組ィ! しかし、その猛攻を背中から羽が生えたようなステップで交わしていくゥ、まさしく戦場を舞う白銀のペガサスだァァァ!!』

 

 しかし着実に、それぞれの戦いに決着はつき、敗者は消え、終焉へと近付いていく。

 

 崩れ去った騎馬の夢を抱き、勝敗を決す大一番に残ったのは、

 

 ──紅組、大将平塚静の騎馬、一騎。

 

 ──白組、大将山王ヒロコの騎馬一騎、さらに一騎、合わせ二騎。

 

 

 一対二。紅組の完全な劣勢だ。このまま囲われれてしまえば、為す術なく取られるであろう。まさしく背水の陣だ。

 紅の雌馬は、二騎によってじりじりと戦場の端へ端へと後ずさっていく。

 

『このまま、白の勝ちになってしまうのか…………』

 

 あれほど熱かった実況が冷めてしまうほどの目に見えた盤上の趨勢。しかし、八幡には平塚の騎馬の闘志は消えてないように見えた。なぜなら八幡には見えたのだ。平塚がこの状況にしてニタァと笑ったのを。

 

「──ッ!!!!」

 

 突如、何かを叫んだ平塚に呼応するように、平塚の騎馬は、この終盤の局面にて、動きを一段階いや、二段階加速させたのだ。

 予想外の動き出しに、後手を踏んだ白組の二騎は、一瞬棒立ちとなり、隙が生まれる。

 そこを紅組の平塚の騎馬は見逃さない。

 平塚の騎馬は、大将騎馬ではない騎馬に、全速力で詰め寄り、その勢いに完全に気圧された騎馬は、立ち向かうことなく、翻して背を向けて逃げていく。

 しかし、走力は、紅組の騎馬の方が高かった。

 徐々に、徐々に距離を詰め、騎手の平塚が無理のある前傾姿勢になり、騎馬の背へと右手をぐんと伸ばす。

 

「よしッ──!!!!」

 

 確かに聞こえたその平塚の雄叫び、そしてその右手の中には白のハチマキが握りしめられていた。

 

『おおおおお!! なんとぉぉ、ここで紅組ィ、起死回生の一手に成功したァァ!!』

「おおおおおお、行ける」

「このままだぁあ!!」

 

 再び熱を盛り返した実況の絶叫が、会場を駆け抜け、興奮は瞬く間に伝播する。

 

「おぉ、すげぇ……」

 

 八幡も思わず感嘆の声を漏らし、戦場に立つ二つの騎馬一挙一動から目が離せなくなっていた。

 

 二つの騎馬は互いに睨み合い、距離を詰めては離してを繰り返し動きを牽制する。どちらかが動けば、確実に試合は動く。相手が油断する隙を互いに伺っているようだが、一向にその時は訪れない。

 

 そして二つの騎馬は、八幡のいる救護テントのちょうど目の前で、向かい合い、一度歩を止めた。

 そして、紅組の大将平塚は唐突に口を開いた。

 

「こうなるとはな」

「えぇ、そうね。こうも綺麗に1対1になると思わなかったわ」

 

 白組大将山王ヒロコと紅組大将平塚静、二人の少女は互いに笑う。

 山王と平塚、この二人の少女は何かと引き合いに出されることが多いのは八幡すらも知っていることだった。

 両者ともに容姿端麗かつ学業優秀かつ、強力なキャプテンシーをもつ人望の厚さを備えている。

 しかし、容姿においては、秋桜(コスモス)のように可憐で愛らしい山王と胡蝶蘭のように美くしく凛とした平塚。学業では、理系を得意とする山王に対し、文系を得意とする平塚。課外活動では、運動部に属する山王と生徒会に属する平塚。

 このように対極的であるからこそ、引き合いに出されることも多かったのだ。

 だからこのように対峙するのは運命なのかもしれない。

 ここでどちらが優れているか決することが出来るのだから。

 

「あなたとこうして戦えるのを待ち望んでいたわ!」

「あぁ、私もな! それに君にはだいぶ借りがあるからなぁ!」

「借り、ねぇ。そうね、私も色々あるから、ここできっちり返す!!」

 

 言い終えた二人は、互いの目をじいっと見つめ、そして腕を身体の前へと構えた。

 

 ──張り詰める。

 

 八幡だけでなく観客全員が息を飲んだ。

 

 刹那、二騎がまったく同時に動き始めた。

 二騎とも怯むことなく激しくぶつかる。大将の二人は、見事な身のこなしで騎馬を乗りこなし、山王が手を伸ばせば、平塚がすんでのところで避け、逆に平塚が腕を下からすくい上げるように振り上げ、白のハチマキを正確に捉えると、今度は山王がしなやかな動きで背筋を大きく反らし、その攻撃を華麗に(かわ)す。

 騎馬の下の三人も、上の大将が行動しやすいように見事なほどの安定感を保ちながらも、相手の虚をつけるように、足先の動きを機敏に変更し、距離を離すなどして器用に位置を変えていく。

 

 暫くの間二人の大将による高次元な組み手が続き、大衆は眼前の騎馬戦にまさしく釘付けになっていた。

 

 しかし、互角の勝負が長く続くと、下の騎馬の疲弊が目に見えて明らかになる。足元の動きが鈍くなり、騎馬がよろけはじめているのを、何とか大将が咄嗟の体重移動で安定させているという状態になっていた。

 

 そして、互いにもうほとんど攻撃の猶予しかないだろうということは第三者からも分かるようほどに、両者の馬の疲弊が見えた頃、大将ふたりが騎馬に激励の声を飛ばす。馬は膝が折れそうになりながらも、何とか大将を支え、その言葉に応えている。

 いよいよ勝負の行方は、上の二人に委ねられたという訳だ。

 

「ラストぉ!!」

「最後だァァ!!」

 

 大将の掛け声と共に、両の騎馬が最後の力を振り絞り、全身全霊で相手へと突っ込んでいく。

 

「──おりゃあああっっッ!!!!」

「──はぁああああっっッ!!!!」

 

 互いにめいいっぱい手を伸ばし、相手のハチマキ目掛けて手を伸ばす。なるたけめいいっぱい手を伸ばす。

 そして、互いの手が相手の額に届くか否かの、その瞬間──

 

 

 ──互いの騎馬は、力尽き、崩れ落ちていった。

 

 崩れた衝撃で土埃が高く高く舞う。

 その刹那、時が止まる。

 観客の歓声は止んだ──。

 

 八幡も思わぬ最期に開いた口が塞がらない。

 

 だが、ここで気が付いた。

 

「──ひ、平塚ッ!」

 

 観客も徐々に夢想から解き放たれ、現実を理解する。

 

「やばくねぇか?!」

「おいおい、大丈夫なのかよ、今の!?」

 

 観客が放つ言葉は、もはや歓声ではなく、阿鼻叫喚。

 状況を理解したものの悲鳴が、他人へと伝播し、誰もが最悪の事態を案じて手を覆う。

 騎馬は間違いなく崩れ落ちたのだ。重大な事故につながっているかもしれない。

 

 誰もが固唾を飲んで、土埃の中へと視線を向ける。

 八幡も、周りにあった救急箱を急いで手元に手繰り寄せる。

 

 ──だが、その不安は土埃と共に晴れていく。

 

 土埃が次第に晴れていくと、まず目に入ってきたのは、その場で毅然と立ち上がっている人影とその人影から空へ向かって突き出された一本の拳だった。

 

 そして、その拳には白の布地のハチマキがしっかりと握りしめられていた。

 

 そう、そこに立っていたのは。

 

 ニイッと少年のように無邪気に笑い、少し砂で汚れた深紅のハチマキを額に巻いた平塚静だったのだ。

 

『…………し、勝者、紅組ィぃいいいい!!!!! この歴史に残る大接戦を制したのは、紅組だァァァアア!!!』

 

 実況が伝えると、会場中に怒号のような歓声が響き渡る。この大熱戦を制したのは平塚率いる紅組だった。

 

 尋常ではない疲労により崩れ落ちた騎馬の面々も、幸いにも大きな怪我はなく、かすり傷程度で済んだようだ。

 

 そして、結果発表の後、白組大将と紅組大将が歩み寄り、互いの健闘を称える握手をすると、

 

『──魂が震える大激戦を演じてくれた、この両軍に惜しみない拍手を!!!』

 

 その実況の呼び掛けに応じ、観客席から拍手と、選手に向けた労いの声が飛び交った。八幡の手も自然と動いていた。

 

 

 ▼△▼△▼△

 

 

 その白熱した騎馬戦が終わると、次の目玉はいよいよ男子対抗の棒倒しなのだが、今年の棒倒しは例年と比べて異質だった。

 結果から言おう。全く盛り上がらなかったのだ。

 総武高校の体育祭では競技は基本的に一本勝負。一回で勝敗が決するため、先程の騎馬戦のように尋常じゃないほどの盛り上がりを見せるのだが、今年は誰も気づかない内に、棒が倒れてしまったのだ。

 倒した側も、倒された側も、何が起きたかを把握出来ずに、棒立ちになって呆然としているだけ。

 

『……こ、これにて、棒倒しは終了です。紅組の勝利となります』

 

 腑に落ちないような様子で実況が宣言すると、観客も先程の騎馬戦と比べたのか、

 

「全然面白くねぇじゃねぇかよぉ!」

「何やってんだよ、白組! 棒が勝手に倒れてったじゃねぇか!」

 

 と、ありとあらゆるところから非難轟々、バッシングの嵐が巻き起こる。

 そして、『棒倒しに出場とした選手は退場してください。部活対抗リレーに出場する選手は指定場所に──』と、退場のアナウンスがかけられ、不完全燃焼の男子たちはあっさりと撤収して行くことになった。健闘を称える拍手はなく閑古鳥が鳴くような物寂しい退場だ。

 そんな中、八幡も素知らぬ顔で、退場口をくぐり抜けようとしたが、「比企谷」、と退場口のゲートを背もたれに寄りかかっていた平塚に呼び止められる。

 

「なんだよ」

「ちょっと見せてみろ」

「え、ちょっ──」

 

 そう言って平塚は比企谷の唐突に前髪をかきあげて額を覗き込むと、途端に吹き出し、八幡の肩を強く叩き始めた。

 

「あははっ! 馬鹿だ、君は馬鹿だ、本当に馬鹿だ。あははは!」

 

 女子に触れられたことのない前髪をかきあげられて照れくさい八幡をよそに、平塚は笑いが止まらず、目には涙を浮かべている。

 笑いが止まらない理由は、八幡の額にあった。

 それは、八幡が額に巻き付けたやけに網目が目立つ白いハチマキだ。

 

「紅組で入場した出場者が、退場の時は白組と一緒に出てくることなんてあるかぁ!」

 

 平塚が涙を拭いながら言うように、確かに、八幡は紅組として入場した。しかし、試合途中に白組へと鞍替えしたのだ。救護係の時に、こっそり救急箱から調達した白色のガーゼを使って。

 そして、屈強な男子があちらこちらでぶつかり合う中、端の方で誰にもバレずに白組へと変貌した八幡は、そのまま誰にも気づかれることなく白組の陣地へと近づき、太くでかい木の棒を倒してしまったのだ。

 

「職権乱用と同士討ち。誰もなんで倒れたか分かってなかったのは、滑稽だった! まるでコントを見てるみたいだ。一緒に見てた中学の同級生とずぅっと笑いっぱなしだったよ」

「自分でもここまであっさりと上手くいくなんて思ってなかった。影の薄いのがこんなに役立つ日が来るとはな。まぁ、勝てば官軍だろ」

 

 八幡は額にある急造の白ハチマキの包帯止めを外し、少し巻いてからポケットにしまう。そして、額の下にはやはり、網目のない紅い色のハチマキが結ばれている。

 

「ふふっ、憎たらしいが、その通りだ。いやぁ、確かにあの子達に聞いてはいたが、ここまで滑稽だったとはなぁ〜」

「あの子達に聞いてた、ってどういう事だ……?」

「えっ、あっ、い、いたらしいんだよ。私の中学の友達の同級生に君みたいな戦い方をする人がな」

「へぇ……、そんなやついるのか」

 

 世界は広しと言えども、こんなキテレツというよりも、おそらく根本的なルールを無視した卑怯極まりない戦法を遂行してるやつが他にもいるということに、素直に感心する。そして、同時にその人の身の丈の狭さについても身に染みて同情せざるを得ず、胸が苦しくなった。

 ここで、平塚は「そうだ」と何かを思い出したように声を上げた。

 

「比企谷、私の騎馬戦観ててくれたか?! 結構凄かったと思うぞ!」

「……いいや、見てないな。仕事で席を外してたからな」

 

「格好よかった」と一言いえばいいのだが、素直に言うことが何だか気恥ずかしくて、誤魔化しの空言を吐いてしまった。それを真に受けた平塚は吊り上がり気味だった眉も下がり「えぇ」としょげてしまった。

 

「ちゃんと見ててくれよー。私結構活躍したんだぞー」

 

 ぺったりした頬をむくぅと膨らまして、「このばか」と文句を呟きながら、ちょんちょんと人差し指で八幡の肩を小突く。

 

 ──いや、何この可愛い生物。愛でたい

 

 露骨に不貞腐れる姿なんて初めて見るものだから、つい頬が緩んでしまう八幡だが、ふとアナウンスで平塚が出場する部活対抗リレーの召集がかかっていたことを思い出した。

 

「ていうか、そろそろ部対抗のリレーじゃねぇのか? もう、呼びかけ始まってるだろ」

「あぁ、まだ生徒会の仕事があってな、その後すぐに向かうんだ」

 

 すると朝、話した時と同じように、「大変すぎる」と愚痴をこぼし、朝と違って、駄々をこねる子供のように、この場を離れようとせず、愚痴を次から次へと八幡にぶつけてきた。

 

「第一、体育祭実行委員会に生徒会に仕事を回しすぎなんだ! なぁ、比企谷もそう思うだろ?!」

 

 訴えかけるような目で問うてくる平塚に、八幡は一言、返した。

 

「おう、頑張れ」

「ふんっ、言われなくとも、頑張るもん! べぇー、だ」

 

 余計拗ねてしまった平塚は言葉通り、べぇと舌を出す。

 これまた可愛らしい。

 疲れると幼児退行するタイプがいるというのは、よく聞く話ではあるが、平塚もどうやらそのタイプらしい。

 

「今度はちゃんと見ておくんだぞ」

「……あぁ、善処する」

「むぅ、善処じゃなくて──」

 

 平塚は、最後に八幡の眉間を人差し指で一突きする。

 

「──絶対だからな」

 

 ──可愛い。

 

 八幡は、平塚のお嬢ちゃんが安心できるよう「分かった」と言葉にして答えた。

 

 その後、八幡は青春の喧騒というただのバカ騒ぎにあてられて、ベストプレイスに引きこもりたい気持ちが沸騰寸前になるが、どうしてもあのいじらしかった平塚との約束は無碍にできず、律儀にクラスの観覧席の後ろに邪魔にならない程度に、座り込んだ。

 昼休み前最後の競技『男子・女子部活動対抗リレー』は、その名の通り男女に別れて、部活動の選抜メンバーで対決するリレーであり。紅白戦の結果には関係ない余興の競技である。そして、この競技には平塚の所属する生徒会も参加するため、平塚は女子生徒会の方で参加することになっている。

 

 そして、『まもなく、女子部活動対抗リレーが始まります。選手の方々は入場してください』と、アナウンスがかかると、八幡のいる観覧席には、雲散霧消していた男子が一斉に集まり、観覧席の前を独占してしまった。

 

「うおおお、バスケ部のユニフォームやべぇ、山王なんか特に。俺どうにかなっちまうよ」

「やっぱ、水泳部は最高だ……。一枚羽織ってはいるが、中身はスク水なんで。想像するだけでグハッ」

「陸上部の太もも、えろすぎるだろぉ……」

 

 普段見ない部活着姿の女生徒達を見て、発情した猿の如く鼻息を荒らげ、リビドーを爆発させている男子たちに視界を遮られる。このままだとよく見えないのだが、だからと言って、この群れを掻き分けてまで、観ようとするほどの気力は生まれなかった。

 

「おっ、あそこ、平塚が来た! やっぱ、可愛いなぁ」

 

 一人の男が発した言葉に、思わず目は動き、その男が指さす方を、群れの間を縫って、目をこらす。確かにそこに平塚はいた。

 

「やっぱ、平塚いいよなぁ。彼女にしてぇなぁ〜。そしてあのおっ、ゴホン。あの山脈を踏破したいなぁ〜」

「無理無理、お前みたいな変態ポンコツ相手にしないだろ」

「何〜?! この間だってな〜、──」

 

 ざわつく中から、平塚の話をする男たちの話し声はやけにクリアに聞こえる。そして、少し胸焼けときのように胸が少しヒリッとする。この慣れない痛みは最近感じ始めていた。休み時間、教室にいて机に臥せる時、他人の話し声が聞こえてきてしまうことはよくあったが、最近では平塚の話ばかりよく聞こえるようになった。そして、やはり胸がヒリッとする。それが嫌で、教室から抜け出すこともしばしばあった。

 

「肩を叩いてくれたなんて、そんなの平塚は誰にでもするだろ。それなら平塚は俺の話よく笑ってくれるし、なんならこの前、大野が俺の事平塚に勧めてたしな!」

「なっ?!」

「ずりぃぞ、それ!」

 

 ──ヒリヒリが続く。正体は分からない。

 

「……とは言ったものの、平塚は別になんとも思ってないんだろうな」

「確かに、フラットだよなぁ。男に興味あんのかなぁ」

 

 ──ヒリヒリが続く。正体は分からない。

 だが、フラットと耳にして、ふと目に浮かぶ。屋上にいる時、涙を浮かべていたあの顔。あの時向けられた、1度限りの平塚の上気した顔。あれ以来、一切見ていないそれぞれの顔を思い出すと、ヒリつきとは別の得体の知れない感覚が八幡の身体を風が吹いたように駆け巡るのだ。

 

「結局、友達止まりというか──」

 

 そんな中、『まもなく、女子部活対抗リレーを開始します。最初のランナーの方々はスタート地点に移動してください』と競技開始のアナウンスが届けられる。

 

「まぁ、良い。それより今は」

「そうだな、乳揺れを拝むぞぉ!!」

「「おぉ!!」」

 

 野郎共の最低な掛け声に、後ろの女子が「きもいし、最低」と至極ご最もな蔑みの言葉を彼等に向かって吐き捨てた。不幸中の幸いにも彼等には届いていないようだが、グラウンドに熱視線を送るる男子と、観客席に冷えた視線を送る女子という地獄絵図は変わらない。そして、その狭間にいる八幡であるが、その熱量の差に気づかず、少し上の空になっていた。

 

 絶対に聞き流せない、やけに引っかかる言葉があったのだ。

 ──勘違いしてはいけない。この言葉は、いまも胸の誰にも踏み入れないような奥底で、大きな図体でずしんと鎮座している。

 だが、いつからかふと考えるようになっていたのだ。

 

 ──平塚と八幡の関係は一体何なのだろうか。

 

 そう問うと、あっという間に答えが出る。というよりも、前からずっとそう自認していたからだ。

 

 ──やはり、単なる都合のいい話し相手なのだ。

 

 やけに気にかけてくるところも、結局は平塚の自己満足だ。カップルコンテストなる縁遠い大会に一緒に出かけるところも都合がいいからだ。

 すると、即座に次の問いが生まれる。

 

 ──では、そうとなるとそれこそロボットのように上位種たる存在が現れたら、簡単に気兼ねなく億劫もなく交換できるものなのだろうか。

 

 八幡の中にこの問いが湧いてくるたび、それこそ少し前までは答えが出ていたはずなのに、今では答えを紡ごうとすると、今ではヒリとしたこそばゆい痛みが襲ってくる。

 

()()()()()

 

 パーマ男は確かに言った。引っかかった言葉だ。その男と平塚は、『友達』ということらしいのは認識できた。まるで、悪いことのようにパーマ男は語っているが、そこには確かな繋がりがあるという事を示しているのだ。

 

 それに比べると──。

 

 そうして放心していた八幡の目を覚まさせたのは、野郎共の下卑た歓声とゴールの号砲だった。

 

「平塚も、凄かったなぁ!」

「まじで、バインバインだった。やべぇよ」

 

 おしくらまんじゅうとでも言わんばかりに男達でぎゅうぎゅうに詰まっていた観客席は既に開けており、懇談会を開かれていている。白線のレーンの内側に目を凝らして見ると、平塚が他の生徒会のメンバーと談笑しているであろう様子も見える。

 部活対抗リレーが終わったことは、火を見るより明らかだ。

 これはあれだけ見て欲しいと言っていたので、どやされると、数時間後の未来の様子を案じた。

 ──しかし、途端その未来も真っ暗に移る。

 

 

「そうだ、昼休み入ったら平塚に写真撮ってもらおうぜ!」

「うわぁ、お前下心見え見えだぞ」

「べっ、別にいいだろ。それに下心じゃねぇ。騎馬戦の感想を言うついでに、撮ってもらうだけだ」

「かかっ……! ほんとに、そっちがついでか?」

「うっせ!」

 

 

 そんな近くにいた男たちの会話を聞くと、八幡はおもむろに立ち上がり、その場を立ち去った。

 少し、耳の穴に人差し指を添えて。

 そのまま、昼休み明けの次の競技の開始まで、八幡はグラウンドに戻ることは無かった。

 

 

 ▼△▼△▼△▼△▼△

 

 

 昼休みが開け、スピーカーを通した声と、歓声が混ざりあった喧喧囂囂とした音が、静寂な校舎の中にまで響くようになる。だが、音は聞こえても声は聞こえない巨大な防音室のようなこの空間が妙に心地よく感じていた。

 八幡は校舎を彷徨(うろつ)いていた。そして人気のない階段の踊り場で腰を下ろし、菓子パンひとつの食事を済ませ、ただ出場する種目の呼び出しがかかるのをキリンとまでは言わないが首を長くして待つ。

 

 ──時計を見れば、もうまもなく、学年対抗リレーの呼び出しがかかる時間だ。重い腰を上げてその場を離れると、靴を履いて、昇降口から外に出る。

 集合場所に来て、自分の順番の位置に座る。奇数番組と偶数番組で分かれていて、八幡は後者だった。座ったその周りは、何々君早かったよね。だとか、何何ちゃんと写真撮れた。とかを恥ずかしげもなく和気藹々(わきあいあい)と話している。

 全くの無縁であるし、聞きたくもなかった八幡は、体育座りをし、膝に顔を埋めた。

 そして、係の人による声がけに合わせて立ち上がって、入場する。

 

『まもなく、2年生による学年対抗全員リレーが始まります』

 

 そのアナウンスと共に、第一走者が所定位置について、スタンバイした。学年リレーは紅組、白組をそれぞれ三クラスずつの三チームに分け、先着順で競う。つまり六レーン使うのだ。A・B・C、 D・E・F、G・H・I。そしてJをそれぞれのクラスに三等分に分配し、それぞれを前から1、2、3と振り分けている。つまり、八幡達のチームは白1だ。

 突然の余談だが、大抵第一走者は人気者であることが多い。運動できることとコミュニュケーション能力が高いことは正の相関関係がある事はまことしやかに伝えられているし、それは現実味がある。

 だから、クラスメイトたちは、人気者の彼らに向かって精一杯の声援を投げかける。第1走者も満更でも無い様子で、手を振って応える。

 はてさてこれが動物園のそれと何が違うのか、と思っていたこともあったが、さすがに自重するようになった。

 

『位置について、よーい』

 

 ドンっという号砲の合図で走り出す。

 八幡の順番は前から一五番目、この列にすると手前から八番目。真ん中というのは基本最も盛り上がりのない区間だ。つまり、八幡のような人物が割り当てられるのだ。

 リレーのバトン練習も幾度かしたが、特別問題などもなく、前後の人とそれぞれ一言二言交わして終わっただけだ。

 

 二番手に渡っても、声援は止まない。

 特に後ろの女子達が騒ぎ始めた。すぐ後ろは、教室で良く平塚と仲良くしている背が高く、少し痩せ気味で、ボブカットの女子だ。

 

「京ちゃん、京ちゃん! たっくんの番来たよ!」

 

 別の女子が長身の女子──京ちゃんを煽る。たっくんとは、このクラスで人気者のサッカー部の男子の事だ。

 

「ばっ、ばか! 余計なこと言うな! もう、そんなんじゃないし」

 

 すると、顔が見えない八幡にも分かるほど、照れているのが伝わる。その後も軽口を叩き合っている。肝心のたっくんのことは見ていないような気がするのだが、突っ込むことなど当然しない。

 その思いを寄せられているたっくんもミスすることなく、現状維持の順位でバトンを渡した。

 

 そして、そうこうしてるうちにいよいよ八幡の番が来る。

 一列の人達が全員走り出していくと、列先頭の八幡にお呼びがかかる。八幡の組の順位は現在四位である。

 隣の人は頬を何度か叩いて深呼吸をし、別の人は友達に「やばい緊張してきた〜」と不安を吐露する。何を勘違いしているのだろうかと思わず八幡は心のうちで嘲てしまう。この順目の走者は別に期待されていないのだ。ただトラックを走り、失敗しさえしなければそれでいいという簡単な役割だ。盛り上がるはずも無いから、緊張などする必要無いのである。つまり八幡含めこの順目の人達は受け取った時の順位をキープすれば良い。

 

 しかし、その八幡の中の常識に反し、この順目で、観客の歓声はドドッとあがった。

 その歓声の行先はこちらに向かってくる偶数番目のランナー。グングンとスピードをあげ、外回りで、一人、二人と抜き去っていく。その綺麗な漆黒のポニーテールは、淡白な色の景色の中で優雅にたなびいている。

 

「白1の方、準備してください!!」

 

 係の人に指示されたとおりにレーンの一番内側で、構えの姿勢をする。まもなく一番手に来るのは白1チーム。だが、走っているのは、いつもリレーの練習相手をしていた女子ではない。

 

「比企谷っ、ゴーッ!!!」

 

 聞き馴染みのある声に背中を押され、右手を後ろに構えて、走り出す。

 まだ距離はだいぶあったように思えた。

 リレーの練習相手とは、テイクオーバーゾーンだけは超えることだけはないようにと確認し合い、できるだけ手前で受け取るように決めていた。

 このままだと、出てしまうかもしれない。だが、身体は意に反して動いていた。

 

『頑張るんだぞ!』

『できればじゃない。絶対に、だ!』

 

 テイクオーバーゾーンのラインから出かかった時、差し出した右手に寸分違わずバトンが差し出された。それをギュッと強く握る。そして、そのままの勢いで走り出した。

 

「行けっ、比企谷っ! 全力だぁ!」

 

 また、グッと背中を押される。

『倒れなければいい。バトンを繋ぐだけでいい』という思考が回らなくなっていた。

 ただ、全力で、足を回して走る。

 コースの内側を抉りに抉るように。

 

 ──走る。

 ──走る。

 

 いつもリレーで走る時はハッキリしていた視界が、この時は、霞んで見えなかった。ただ、コースの茶色と端を踏んでいる一番内側の白線だけがぼんやりと見える。歓声は何も聞こえなかった。まるで自分一人だけの世界を、ひたすら何も無い場所を駆け抜けていくような感覚。

 

 気付けば数十メートルの距離があっという間に終わりを迎える。

 テイクオーバーゾーンがまもなく迫る。バトンの持ち手を変え、「行けっ!」と、息切れがかった乾いた声を張り上げた。

 

「行けっ! 比企谷ーっ!!」

 

 何も聞こえないはずの世界で、その声はここまで聞こえてきた。

 最後まで。走る。

 そして、次の走者の右手へと、バトンを差し出した。

 

 差し出した瞬間、周りの景色が急に現れ、軽い目眩で、足元が掬われるような感覚に襲われた。

 だが、そこで息つく暇もなく係員に白線の内側へと掃き出される。前方に目をやると、前のランナーは一位で走っていた。

 心臓の鼓動が速い。緊張というよりも、息が荒いがゆえの鼓動の速さだ。膝に手を付き、前かがみになってゆっくり呼吸を整える。

 そのまま、走り終わった列の最後尾で尻を地面につけた。息を深く吸う度、急激にかわいた喉元にそれが擦れて、ヒリヒリする。

 一番で受け取ったバトンを、一番で繋いだだけ。確かに、当たり前のことではあるのだが、鉄とプラスチックの合の子のような少しずしりとしてひんやりとしたバトンの感触はまだ手に残っていた。

 

 その後も、リレーは進み、お役を全うしたこの列の人たちも、緊張からの解放もあってか、自分の番を待っていた時以上に盛り上がりを見せていた。

 自分たちのクラスはいまだに一位をキープしている。一位でバトンを繋いでいることも、この盛り上がりを助長させているに違いない。

 

 レースも終盤へと差し掛かりボケーッと、行く末を眺めていたが、前の男たちが、「また、平塚が来る」と叫んだのを聞いて、目がまたおもむろに動いてしまう。反対側の、つまり奇数番目のランナーが今、全員出ていくと、その次に平塚がトラックの中へと足を踏み入れていた。

 

 奇数番目のランナーが、偶数番目のランナーに渡し、そのランナーが、平塚に渡す。

 その瞬間、

 

「すっげぇ、揺れてる!」

「静ファイト!」

「やばすぎる!」

「静、頑張れ!」

 

 純粋な欲望と純粋な声援が織り交じった。

 男たちの言うように確かに揺れていた。平塚の豊かな胸部は走る度に、縦に揺れる。それに魅了された男子たちは、悦びの声を狂ったようにあげるが、八幡は思わず息を飲んだ。揺れる胸だけじゃない、たなびくその漆黒の後ろ髪に、端正だが、少し歪むその横顔、そして懸命に腕を振り、必死に足を動かすその姿に、八幡は目を奪われていた。

 

 そして、平塚は周りの期待を裏切ることなく、バトンを一番手のままで渡した。走り終えた平塚はさすがに疲れた様子で、列の最後尾に座る。

 すると、すぐ後ろにいて大きな声援をかけていた長身の女子はいつの間にかいなくなり、ほか数名の女子と共に、さすがにくたびれた様子の平塚の元へと駆け寄っていた。「よかったよ!」「めっちゃ速かった!」と定型句みたいな言葉を投げかけ、平塚はそれに笑顔を返していた。

 

 特に波乱もなく、そのまま学年対抗リレーが終わった。

 八幡のクラスは、一着でゴールしていて、失格など特にしていなければ、一位となるわけだ。チームメイト達は、「凄い凄い!」「練習頑張って良かった」と輪を作って喜びを共有しあっている。

 練習の時は散々文句を垂れ、大縄の時には世にもおぞましい陰口を叩いていた人達が、「みんな最高のチームメイトだ!」だとお通夜のような雰囲気のチームにも聞こえるように大声で称えあっている。八幡以上に練習に来なかったサボり魔君も、「あそこのお前、めっちゃ速かったな!」とレースの様子を友人と興奮気味に語っている。

 結局、『勝てば官軍』なのだ。

 

 そんなクラスメイトの様子を見つめることもなく、八幡はどこか遠くを見ていた。共有できないのも慣れっこだ。輪に入れないのも慣れっこだ。でも、どこか──

 そんな時、バッと視界が変わった。

 でも、そのシルエットは今度ははっきり見える。

 

「やったな比企谷!」

「お、おう」

「いい走りだったぞ!」

「そりゃ、どうも。まぁ、別に俺は繋ぐだけだったからな」

「そうだ、私が一番になったんだからな、もしミスしてたら今頃どついてるだろうな」

 

 あはははと女子らしくない高笑いをかまし、どつきとは程遠い正拳突きのジェスチャーをする。

 

「っていうか、なんで突然平塚に変わってたんだよ」

「あぁ、それはだな──」

 

 平塚いわく、八幡の一個前を走る予定だった人は体調不良により、代走したということだった。つまり、平塚は二度走ったということだ。

 

「昼休み中に君に伝えようと思ったんだが、どこにもいなかったから伝えられなかったんだ」

「なるほどな」

「まぁ、何はともあれだ!」

 

 平塚はバッと両手を肩幅程度開き、前に構えた。

 八幡はその突飛な行動に瞠目(どうもく)する。

 

「その構えは何……? パントマイム?」

「何って、ハイタッチに決まってるじゃないか、このタイミングでパントマイムなどする訳なかろう? ほれ」

「……俺はやらん。触ったら比企谷菌に感染したとかいわれるぞ」

「そんな幼稚なことするわけないだろ……。全く」

 

 平塚は、ハイタッチ分の幅で掲げられた両手から、更に幅を広げた。

 

「じゃあ、ギュッて今から抱きしめられるのと、ハイタッチ、どっちがいい?」

 

 突然の二択に八幡は当然、動揺する。

 

「はっ?! わ、訳わかんねぇし」

 

 瞬きの回数が露骨に増え、眉も合わせてぴくぴく動いてしまう。

 

「ほれほれ、どっちだ」

「わ、分かったよ。ハイタッチすりゃいいんだろ」

「別に私はハグでもいいんだがな」

「からかうな」

 

 八幡も嫌々とハイタッチの構えをとる。

 

「イェーイ!!」

 

 互いに土にまみれてるものだから、叩き合うとパンと、乾いたが音が鳴った。だがそれでも平塚の掌は、想像以上に小さく、やわっこく感じられた。

 そして、八幡に向けて、平塚はあけすけもなくにっこり笑っていた。

 そういう笑顔に、男は弱い。冷静な自分は誰にでも向けられると知っているはずなのに、ジンジンと内側から暖まっていくのを感じた。

 

「比企谷はこれで終わり?」

「そうだな。最後に救護係のシフトは残っているが。お前は選抜リレーか?」

「あぁ、そうだな」

 

「頑張るぞ〜」と意気込んだ平塚は拳を握りしめて、ガッツポーズを見せつけた。

 だが今、思えばこれは空元気だったのだ。

 

 

 ▼△▼△▼△

 

 

 ──八幡は、保健室にいる。当然、サボりではなく、救護係として、だ。保健室の棚を上から下まで満遍なく確認し、今、ベッドで寝込んで休養している人の具合に適切なものがあるかどうかを品定めしているところだ。

 最初は、その人が倒れた時、騎馬戦の時と同様にとても心配されたが、十分に対話できるほどの意識があったことと、痛みを伴っていなかったことから、重篤な病気ではないと判断され、保健室での療養となっていた。

 

「……無理しすぎなんだよ」

 

 独り言が漏れ出る。正直、八幡は心配する必要は無いだろうと思っていた。だが、それは八幡の思い込みに過ぎなかったのだ。

 八幡が、ガーゼなどが入っているもう一つの棚を漁っていると、ギシッとカーテンで仕切られたベッドから、それが軋む音が聞こえた。その音を聞くと、すぐに棚から手を離し、カーテンを開け、目の前のベッドを覗く。

 そこには、やや青い顔で、はぁはぁと落ち着かない呼吸をして、布団をまくりベッドから腰を上げている姿が見えた。そして、目がやや虚ろになりながらも、こちらの方に視線を向け、いつもよりだいぶか弱い声音で、「比企谷……?」と確かめてくる。そうだと返すと、続いて、場所はどこと、やはりか弱い声で尋ねてきた。

 

「保健室だ」

「ほけんしつ……? 比企谷、具合でも悪いの……?」

「まぁ、通年悪いみたいなもんだが、いつも通りの具合だ、こっちは。今回、具合が悪いのは、お前の方だよ……」

「わ、わたし……、だって、わたしは……」

 

 続きを言おうとした平塚だったが、唐突に汗ばんだ額に手を当てて、呼吸音が大きくなり、辛そうに呼吸をしていた。八幡は、再び平塚を寝かせて、そっと布団を被せた。

 

「はぁ、はぁ……」

 

 目を瞑って、辛そうに呻く。顔にはうっすらと汗が浮かび、その綺麗な黒髪に滴っている。状況が状況であればひどくなまめかしいのだろうが、とてもそのよう情は湧かない。八幡は、棚から引っ張り出した、新品の白のタオルを冷水に濡らし、それを平塚のいかにも熱くなっていそうな赤いおでこにそっと乗せた。

 

「体育祭は……」

「もうそろそろで終わりだ」

「え、でも……」

「学年対抗リレー走り終わった後、お前、パタッと倒れたんだよ。ほんとに電池の切れた機械みたいにさ」

「……そうだっ、け。でも生徒会の仕事……」

 

 平塚は震える手で布団を握り、なんとか上体を起こそうとする。水に濡れたタオルもポロリと布団の上に落ちた。

 

「無理だ。やめとけ」

「怒ってる……?」

「あぁ、そうだ、少し怒ってるな。お前みたいなやつが働きすぎるから長時間労働がデフォみたいになって、俺みたいなやつがこき下ろされるんだよ」

 

 平塚を再び横たわらせて、また額にタオルをのせる。

 

「第一、騎馬戦も出て、リレー三種類も出たらこうなるに決まってる。いくらなんでもオーバーワークなんだよ」

 

 彼女を見て心に募ってたものが少し口から漏れ出ていた。

 

「特に騎馬戦なんか、最後まで残って、あんな滅茶苦茶な戦いして、別に倒れるまでしなくても──」

「比企谷、やっぱり、ちゃんと見てて……くれたんだ……」

「ち、違う、人間観察が得意なだけだ。たまたま校庭覗いたらたまたまやってただけだ」

「見ててくれて、嬉しいな……」

「──っ」

 

 そうやって弱々しくも、笑みを向ける平塚の姿を見て、もうかける言葉をなくしてしまった。

 

「喉乾いた……水……」

 

 そう言って再び起き上がろうとする。それを八幡は再び静止した。

 

「俺が取りに行くから、少し待っとけ」

 

 カーテンを開けて、すぐそこに生徒用として置いてあるペットボトルの経口補水液一本取りだして、それのキャップを緩めて平塚に差しだした。

 

「水よりもこっちの方がいいだろ。ほれ」

「ん、ありがとう……」

 

 平塚は口元を飲み口につけると、少しだけ傾けた。

 喉を鳴らす音がすこし聞こえる。それは、どこか妖艶で、少し、八幡にとっては耐え難いものがあった。

 

「じゃあこいつはここに置いとくから、好きな時に飲んでくれ。そろそろ保健の先生も来るし、お前の友達も見舞いに来ると思うから。安静にしとけよ」

 

 席から立ち上がり、逃げるように、離れようとした時、長袖ジャージの裾をキュッと力なく掴まれた。

 

「いっちゃうの……?」

「まぁ、そうだが」

 

 そう答えると、掴まれた袖が、少し平塚の方へと引っ張られる。

 

「待って──……」

 

 また少し引っ張られる。

 

「一人にしないで…………。もう少しだけそばにいて…………」

 

 ストン。八幡は席に座った。「ありがとう」の言葉には、素直にどういたしましてとは返せなかった。

 

「ねぇ、比企谷……」

「なんだ、また飲み物か?」

 

 平塚は一回横に首を振る。

 

「──楽しかった……?」

「……去年よりはな」

「よかった……、比企谷が楽しんでくれて……」

 

 その答えを聞くと、愁眉(しゅうび)を開き、平塚はすっと目を閉じ、穏やかな顔で、赤子のように寝息を立て始める。しかし、未だに袖を摘んだままだ。

 

 いつもは年不相応な出で立ちと振る舞いを見せる平塚の今の弱々しい、逆の意味で年不相応な幼さは、八幡にとっては驚くものと同時に、気持ちの悪い高揚感をもたらしていた。窓越しの夕日に照らされながら、安らかに眠るオレンジ色のその顔を見ていると、不意に八幡は手を伸ばしていた。

 

「んっ……」

 

 その時、少し平塚の寝相が崩れた。

 伸びた手がピタリと止まる。

 

 思いもよらない自らの行動に口元が大きく歪んだ。

 怖くなった。不安になった。制御装置が壊れてしまったのかと思った。

 

 が、今回はすぐに答えが出た。

 

 感じたことのない電流がビリリと走る。そして、将棋倒しのごとく得体の知れない感情の正体に気付く。

 

()()()()()()()()()

 

 目の前の平塚の姿を見て、今までの平塚の姿を見て、平塚の手の温もりを知って、そしてもっと、知りたくなったのだ。ポカンと口を開け、天井を仰ぐ。ヒリヒリとした胸の痛みも、きっとこれが根っこだった。

 

 だが、八幡は都合のいいロボットでなければならない。

 私的な感情は一切ない、ただ相手の望むことを、考えて行動するロボットなのであり、それをするだけでいいという簡単な仕事なのだ。

 期待はしない。勘違いもしない。だから、知ろうとしない。関わろうともしない。もししたら、ただ傷つくことを知っているから。

 だが、今、制御のプログラムが必死に押さえつけているが、ショートしかけている。

 端的にいえば、このロボットは壊れかけている。

 

 

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 とても簡単な話である。

 

 その結末を、浮かべることが酷く恐ろしくて、八幡は考えることをやめた。

 

 そして、力ない握り拳で、意味もなく自分の頬をこれまた力なく殴っていた。頬骨から出る鈍い音は、カーテンに遮られ、その個室に虚しく響いていた。全て見ていた夕陽は、まるで嘲笑うかのようにカーテンの隙間から八幡の顔を明るく照らしていた。

 

 

 

 

 






今回も拙文をお読みになっていただきありがとうございます。非常に長くなってしまいましたが、体育祭編をまとめて書かせて頂きました。
毎週更新と言っていたのに、随分週が経ってしまいました。申し訳ありません。
ここからは毎週更新目指して投稿するので、よろしくお願いします。



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四束: Someday in the Rainy Sky




──これは、体育祭が終わった一週間か二週間後のある日のお話




 

 

 日がとっくに顔を出した時間だというのに、真四角の窓の外は、灰色に覆われて暗い。そして、その灰色があまねくものに疎まれることに胸打たれたのか、しとしとと涙を流している。

 

 今は梅雨。

 

 梅雨はそもそも湧かない活力が灰燼(かいじん)と帰す季節でもある。そうなると、平日の学校なんてものは登校拒否したくなるのも摂理だ。

 

 この男──比企谷八幡も例外ではなかった。

 むしろ、遅刻の常習犯である八幡からすれば、雨の日は本当に学校に行く気が失せる日なのだ。それゆえ、当然遅刻率も晴れの日に比べて高くなっていた。

 唐突に、ジリリと容赦なく鳴り響く目覚まし時計。人の都合で鳴らされてるのに、人にここまで疎まれる存在はあるだろうか。

 無機質な音のうるさすぎるノックで無理やり起こされた八幡は、寝ぼけ眼を開くこともままならない。

 加えて、やけに体は重く感じるし、顔はいつもよりも火照っている。目を覚ましたあともぐずり続ける目覚ましをあやすために体を起こそうとすると、勝手に身体が右へ左へと振らついてしまった。自分の意識がどこか遠くにあるような違和感。試しに小声を出そうとすると感じる喉のイガイガ。そして、額に手を当てて原因に気付くのだ。

 

「あちっ……」

 

 

 風邪をひいてしまった。熱と倦怠感と喉のイガイガと頭痛のアンハッピーセットである。

 

 

 △▼△▼△▼△▼△▼△▼

 

 

 今朝、風邪をひいたと気付いてから数時間経った。

 貧弱ではあるが病弱ではない八幡が風邪をひくのは随分久しぶりのことだった。

 そういう訳で最初、妹の小町は、体調を崩した八幡の様子を見てズル休みを疑っていた。しかし、体温計の温度とそのガラガラ声から嘘ではないと気付いたようで、登校するまでの間に八幡のために濡れタオルやら何やらと色々と用意をしてくれた。

 その後、小町が家を出てからは、自分の部屋の布団にただひたすら籠り、うんうんと(うな)されながらも、一度眠りに落ちると、目が覚めた時には、大方症状は快方に向かっていて、小町が用意してくれた皮が剥かれたリンゴなどを頬張るほどの食欲は出てきた。()()()()()()()()である。

 

 かといって、本調子では無いのは確かで、別段精を出す趣味もない八幡は、ただ布団にくるまって、ボーッと天井を眺めているだけだった。

 

 ──()()

 

 世の人々にとってはきっと当たり前の感覚だろうが、八幡にとっては不思議で慣れない感覚だった。

 第一、少し前に「一人だけの世界でも生きていける」と心の中とはいえども豪語してみせた男が暇を感じている。

 正当な理由で学校を休んで、体調が優れないとはいっても、親鳥の両翼に包まれてすやすや眠る雛鳥のようにふかふかの羽毛布団に我が身を預けくるまり続けていることは、八幡にとったら最大限の幸福であるはずなのに、退屈すら覚えはじめていたのだ。

 

 そして、八幡が暇を持て余している中、つい先程妹の小町が、中学校を終えて帰ってきた。

 小町は帰ってくるなり、駆け足で八幡の部屋に入ってきた。少し髪と制服が濡れていて、息が少し上がりながらも、「お兄ちゃん大丈夫?」「まだ熱ある?」「なにか小町にして欲しいことある?」と、至れり尽くせりの手厚い対応を施してくれた。普段はごみぃちゃんなどと蔑んでくることもあるし、小生意気なことを言うこともあるが、こういう時には気が利くところは本当によくできた妹だなと八幡はしみじみ感心する。

 

 コンコンと二、三度部屋のドアが叩かれて、「お兄ちゃん入るよ〜」と小町の声が聞こえた。

 入ってきた小町は、白いタオルを入れた風呂桶を腰元に抱えている。

 

「はい、お兄ちゃん、これ、替えのタオル」

「ありがとな、小町。色々と迷惑かけちまって」

 

 髪などは乾いているものの、小町のセーラー服の浅葱色の襟元にはまだ濡れて滲んだ跡がぼんやりと浮かんでいる。

 

「いいのいいの。お兄ちゃんには小町しかいないんだから。小町がいなかったら、お兄ちゃん死んじゃうでしょ?」

「いや、そんなことは……」

 

 自信なさげに否定しようとすると、小町は濡れタオルを八幡の額にのせながら、「ないわけないでしょ」とさらに強く否定して返してきた。何も言い返すことはできない。兄の沽券は引きちぎられて、ボロボロだ。

 

「だぁから、しょうがないから、小町がいつまでも面倒見てあげる」

 

 とんでもないことをサラッと言ってのけた小町は、なにかに気づいた様子で「あっ!」と声をあげた。

 

「今のって、小町的にポイント高い!♪」

 

 遺伝子レベルのアホ毛はピンと張り、そして相も変わらず腹立つ顔とポーズを決めている。

 

「それを言わなければ、ポイント高いんだけど」

「うるさいなぁ、とにかく小町に、感謝してくれてもいいんだよ!」

「まぁそうだな、感謝はしてる。ありがとな小町」

「おー、お兄ちゃんが珍しく素直だ。風邪でもひいてるのかな?」

「ひいてるんだなぁ、これが」

「あっ、そうでした! ふふっ」

 

 そんな軽妙な会話を交わしながらも、小町はテキパキと手を動かしてくれている。

 少し前まで泣き虫だった気がしたのに、いつの間にか、しっかり屋さんになってしまった。八重歯の似合う子供らしいあどけない顔から、面影は残しつつも大人びた顔立ちにもなっているのを感じる。

 

 ──小町はいつか立派なお嫁さんになるんだろうな。

 

 そんな嬉しくあるようで、寂しくもある青写真を描いてしまう。

 いつまでも面倒見てくれると宣言してくれたが、きっとそんな小町ですらも八幡の元を離れていなくなってしまう日が来る。

 

『お兄ちゃん、じゃあね』

 

 ──ダメだ、そんなことになったら。

 

『今まで、ありがとう』

 

 ──小町っ……! 

 

 そう言い残して去っていく未来予想図の中の小町の背中は、どんどん小さくなっていく。その度に、本当に小さな背中だった時の妹との思い出が蘇ってくる。ただ違うのは手を伸ばしても、もう届かないということ。頭を撫でると、にひひと笑ってくれた小町はもう見れないということ。

 

 ──小町ぃ……

 

 気付けば、自然と手を伸ばして、兄弟の証であるつんととんがったアホ毛を巻き込んで、慈しむように毛並みに沿って無言で撫で始めていた。以前と変わらず、アホ毛は撫でる度に、反発して、シャキっとたってくる。

 

「な、な、なにっ、お兄ちゃん……?!」

 

 小町は兄の突然の挙動に、驚きはするも、抵抗はしなかった。顔を真っ赤に染めながらも、猫のように次第に目を細めていく。

 

「も、もう……やめて、お兄ちゃん、恥ずかしい……」

 

 流石に恥ずかしいようで、三○秒ほど撫でたあとでサッと手を払いのけられた。小町は「これだから、ごみいちゃんは……」と文句を垂れ流しているが、そんな癇に障っているようではなかった。むしろ満更でもなさそうに見えるのは、都合がよすぎるだろうか。

 

 小町はコホンと可愛らしい咳払いをして、「そういえばだけど、この風邪、昨日のでしょ。お兄ちゃんが帰ってる途中で大雨にあって、ずぶ濡れになってさ」と言う。

 

「多分そうだな」

「学校に傘忘れるアンド一応雨の予報出てたのに放課後サイゼしてたからでしょ! お兄ちゃんらしくないな〜。そういうところはきっちりしてると思ってたのに」

「そうだったな、ボケーッとしてたわ。これは梅雨のせいかもな」

「ふふっ、何その変な言い訳」

 

 一通り整理し終えた小町は皿に乗っていたリンゴがなくなっていることに気付き、皿を手に取り、お腹がすいてるかと尋ねてきた。

 

「まだあんまり食欲はないかな」

「うーん、じゃあまたリンゴにしよっか。一応何かしらあった方がいいと思うし」

「あぁ、頼むわ」

「はーい」

 

 小町はタオルをつけてた水が少し入った風呂桶や、リンゴの皿を小さなからだで全て抱え込んで部屋を出ていった。ドタンドタンと階段を駆け下りていく音が聞こえる。

 そして、ちょうどその時だった。ピンポンと家のインターフォンが鳴ったのは。この時間帯に来るのは、小町の友人か宅急便ぐらいだ。だから特に気にすることなく八幡は小町がリンゴを運んでくるのを待っていた。

 

 ──かれこれ一○分以上待っていた。しかもその間に下の階からドタドタと小町の足音が聞こえてくるうえに、時折、「えぇ?!」「本当ですか?!」「ストップ!」となにかと叫び声が響いてくるので、小町は何をしているんだと八幡は不思議に思っていた。だが、間もなくして、コトコトと階段をのぼってくる足音が聞こえ、そのすぐ後に部屋の扉が二回叩かれた。

 

「その、比企谷、入っていいか……?」

 

「いいぞ」と答えようとした時、八幡は強烈な違和感を感じ、おもわず上体を起こした。小町が額に乗せてくれた濡れタオルもポロリと落ちてしまう。八幡に問いかけてくるその声は、明らかに高めの小悪魔っぽさかつあざとさ成分の強い猫のような小町の声では無いのだ。

 しかし聞き覚えはある。声に張りがあり、あざとさなどは一切ないが、どこか安心できて、包容力のある声。小町の猫の声と比べたらまるで犬のような。

 だが、まさかいるとは思うまい。だってここは学校ではなく道端でもなく、必然の出会いも偶然の出会いもありえない比企谷家なのだから。

 

「返事がないな……。ってことは……、はっ! なにかあったのか?!」

 

 バタンと、思いっきり扉を押して入ってきたのは、

 

「比企谷っ、大丈夫かっ?!」

 

 あらぬ勘違いをして、青色へと血相を変えている平塚静だった。薄手の白シャツと、膝上丈のチェック柄のスカートと普段よく見る制服で身を包んでいるが、凛とした顔立ちと、そのスラっとした立ち姿、出るところは出て、引き締まるところは引き締まっている外見は相変わらず高校生離れしている。その左肘にはスクールバックが引っ掛けられ、リンゴを乗せた皿が左の掌の上にのっかっている。

 

「あ、あぁ……。全然、ってわけでもないが、お前が今思ってるよりは全然大丈夫だ、平塚」

 

 平塚静は「よかった」と胸を手に当てて、ほっと一息ついていた。

 良かったのかもしれないが、問題なのは平塚がそこにいることだった。平塚が八幡の部屋に入ってくることに違和感を拭いきれない。

 

「……なんで、いるんだ?」

「なんでって、そりゃあ、お見舞いに決まってるじゃないか!」

 

 平塚はにこっと笑って確かにそう言った。彼女はどうやらお見舞いに来たらしいのだ。

 

 

 △▼△▼△▼△▼△▼

 

 

 平塚は運んできたリンゴを八幡の勉強机に置くと、勉強机の椅子に腰掛けて、彼女のバッグの中からクリアファイルを取り出し、紙を数枚取り出した。

 

「これ、今日の授業のノートのコピーと宿題だ。ここに置いておくからな」

「あぁ……ありがとう」

 

 平塚はその紙を机の上に置いた。

 やはり、自分の部屋に同級生がいることへの違和感が拭えない。しかも同性ではなく異性がいることに。

 

「なぁ、平塚。なんでお見舞い来たんだ?」

「なんだ、そんなに私がお見舞いにこられるのは迷惑か」

 

 頬を膨らませて、ムスッとした顔になった。

 

「いや……、そういうつもりじゃなくてだな」

 

 予想外の反応に慌てている八幡を見て、いたずらっぽい笑みを平塚は浮かべる。

 

「あはは、冗談だ。お見舞いに来た理由は、()()()()()があるからだ、傘も返さなければならないし。それにあの時、看病してもらった礼もあるしな」

「……申し訳ない。変な気遣わせて」

「なに、君が気にする必要は無い。私がしたくてやってるだけだからな」

 

「それと」と平塚は付け加える。

 

「今日メールしたのに全然返信が来なかったからな。ちょっと心配になって、というのもある」

「あぁ、すまん。携帯まったく見てなかったわ」

「まぁ、風邪だからな。私も失念していた。嫌われてしまったかと思ったぞ。私もうっかり屋さんだな」

 

 八幡は枕の下に敷かれていたガラケーを手に取り、何気なく切られていた電源を入れた。

 すると、ガラケーの画面が光った瞬間に、『You got a mail!!』の輪唱が始まり、恐怖に怯えているかの如くバイブレーションが止まらくなった。

 ようやく収まり、恐る恐るメールを開いてみると、

 

『今何をしていますか。返信ください』

『学校お休みになっているようですが、昨日のことが原因でしょうか? 返信ください』

『授業内容などはどのようにお伝えすればよいでしょうか? 宿題とかも渡した方がいいですか。返信ください』

『無視しているんですか。やはり私のせいですか。ごめんなさい。謝りたいので、返信ください』

『学校終わりました。傘ともろもろを届けに行きます。返信ください』

『今、学校の近くのコンビニにいます。なにか買った方がいいものはありますか。返信ください』

『今、あなたの家の近くにいます。色々渡したいものがあるので、出てきて貰えますか。返信ください』

『今、あなたの家の玄関の前にいます。インターフォン押してもいいですか。返信ください』

『今、リンゴをあなたの部屋に持っていきます。よろしいですか。返信ください』

 

 八幡はあまりの恐ろしさに思わず携帯を投げ出しそうになった。メールになると言葉遣いが異様に丁寧になるのは知っていたが、そのことが相まってよりおぞましさを引き立てている。

 携帯が震えていた気持ちも痛い程を共感できた。

 何よりも恐ろしいのは、このメールも一部抜粋であり、一○秒おきにメールが受信されているものもあって、全て合わせたら、一○○通はくだらない(おびただ)しい量のメールがよこされているのだ。しかも、途中から、どこかの怪談でもみたような展開も始まっている。

 人の方が幽霊よりも怖いとは誠に正鵠を射ている。八幡の肝っ玉は干し梅の模様みたいにしわしわに萎みきっていた。

 

「……」

「ん、どうした?」

「……いや、何でもない」

 

 たった今、目の前で催されていた携帯電話の一人劇場を見ても何も感じていない様子を見て、平塚からのメールは必ず返信しようと、八幡は心に誓った。

 言葉に詰まっていた八幡の様子を見て、少し首を傾げながらも、「ところで」と平塚は切り出した。

 

「比企谷、肝心の体調の方はどうだ? 熱はあらかた落ち着いたとは、小町ちゃんから聞いたが」

「あぁ、それはもう大丈夫だ。しかもたった今さらに下がった。うん、平熱よりもだ」

「……? そうか、それはよかった」

「あぁ、今日はありがとうな。じゃあ……」

 

 上手く言葉が繋がらない。いかんせん、お見舞いというイベントに遭遇したことない八幡はお見舞いの慣わしなぞ、雀の涙も分からない。だから事の始末を追えなくなっているのだ。平塚はいつまでその椅子に座っている気なんだと、次の一手を伺うしかないのだ。

 そんな八幡のささやかな苦悩を知る由もない平塚は、「そうだ、今日、文化祭の実行委員になってだな」と新たな話題を切り出した。正直、平塚はもう帰るんだと早とちりていたものだから、「え?」と会話の流れにはそぐわないヘンテコな声を漏らしてしまった。

 

「え?とはなんだ」

「あぁ、えぇと、それはだな、実行委員会になるんだと思ってな」

「私に向いてないか」

 

 誤魔化そうとしたものの、明らかに平塚はまたむぅと不機嫌そうに頬を膨らませる。

 

「いや、平塚がまた無理をするんじゃないかなぁ、と思ってだな」

「……私の事、心配してくれているのか?」

 

 意外とあっさりごまかせてしまった。何とかごまかせたら、八幡は口が乗るタイプだ。

 

「まぁ、そういうことだ。だってお前、そういうの抱え込むタイプだろ」

「う、うん、確かにそうだな……。そういうこと言ってくれるのはやはり君だけだ……」

 

 平塚は少し(うつむ)いて、声を細めた。しかし、その言葉にはそこはかとなく()()()()()()()()が込められているように八幡は感じた。

 

「でも、私が決めたことだ、最後までやろうと思う」

 

 八幡は「そうか」と安堵の吐息が少し混ざった声で答える。その後、実行委員について色々聞くと、どうやら平塚は『物品係』としてその職務をまっとうするらしい。

『物品係』は、それぞれのクラス、有志団体の要望に応じて、物品を用意し、それらの引渡し、また管理を行う仕事だ。だから簡単に言えば、本当の縁の下の力持ちであり、働くのは文化祭の準備の前日と片付けの次の日で、文化祭当日は大きな仕事がないものである。と、八幡は思っていた。

 しかし、どうやら平塚によると話は違うらしい。

 

「物品班は、後夜祭のキャンプファイヤーの準備を任されているんだ」

「キャンプファイヤー、か。忌々しいな……」

 

『キャンプファイヤー』という言葉を聞いただけで八幡は眉が八の字になる。

 この学校のキャンプファイヤーは、漫画でよく見る文化祭の後にやるタイプのキャンプファイヤーだ。そして漫画でよく見る男女で踊れば、その二人はめでたく結ばれるといういかにも嘘くさい学校の伝説もあるのだ。

 つまり、八幡とは無縁であり、去年は校庭の中心で行われていたキャンプファイヤーがを見ることはなかった。かわりに火が吹くような勢いで帰途についたことは言うまでもない。

 しかし、この言葉は間違いなく八幡の真意であるが、失言をしたと思った。物品班にもなっている平塚はきっと楽しみにしているに違いないと容易に推測できたからだ。こんなことを言ったら、『抹殺のラストブリット』なる拳が八幡の脇っぱらに、別の意味で()()()()されるのではないかと、一筋の冷や汗がツターっと首筋を流れる。

 

 しかし、平塚は少し間を置いて、一言、「……私もそう思う」と口にする。予想だにしない言葉を聞いて、思わず目をまん丸くさせ、平塚の方を見やると、膝の上に乗せられた拳はプルプルと震え、口は真一文字に結ばれている。

 

「……何が伝説だ。ふざけるんじゃない! なんで他人がイチャコラするのを見せつけられなきゃならないんだ。伝説というのもヘタレな男女共がキャンプファイヤーに託けただけのクソみたいな伝説だ! なぁ、比企谷もそう思うだろ?!」

「お、おう……」

 

 そのあまりの平塚の勢いに、同意見の八幡ですらねこだましされたように怯んでしまった。

 

「すっかりそのことを失念していて、引き受けてしまったのは身から出た錆だ。だから、成功はさせる。だがな、もしイチャコラを必要以上に見せようものなら、私は、消化器でキャンプファイヤーの火諸共全てを消す……」

「おぉ……」

 

 感嘆の声とともに八幡はごくりと大きな息を飲んだ。これは、八幡なんて比でないほどの過激すぎるキャンプファイヤーアンチだったのだ。「なんでそんな嫌いなんだ」と平塚に尋ねてみたくはなるが、それこそ文字通りこの家が吹き飛ぶほどの地雷を踏むことになるかもしれないと思い留まった。

 ただ、平塚のような人がそういうことを嫌っているのは知らなかったし、こんな身近に仲間がいたことを知れて、口に出すことは無いが素直に嬉しくもあった。

 

「まぁ、頑張れよ。やるとしても()()()()程度にな」

「そうだな、善処する」

 

 善処するという言葉がここまで恐ろしく聞こえるのも中々ないかもしれない。というわけで、平塚の意外すぎる一面を知ったあとは、アニメの話に移った。相変わらずアニメのこととなると立て板に水のように話す八幡が話し出したことで、平塚の顔はうってかわって表情がほぐれ、笑顔が増えた。

 そして、一通り談笑すると、「そういえば……」と平塚は突然、部屋の周囲をクルクルと見回し始めた。

 この部屋にあるものといえば、三段の本棚とその棚の上に飾られた特撮系の数体のフィギュア、制服と最低限の私服が入ったウォークインクローゼットと勉強机ぐらいだ。

 

「平塚、どうした?」

「チェックだとも。男子高校生の部屋がどういうものか気になってだな。こんな機会はそうそうないしな」

 

 興味津々な顔で机の下など隅々まで見回すが、そんな平塚とは裏腹に八幡の背筋はピンと伸び、やたらと冷える。疚しいものや平塚に見られて恥ずかしいことはきっとほとんど無いはずであるし、あるにはあるがそれは小町にすらも見つからないように厳重に保管されているので、見つかるはずはないのだが、どうしても不安になってしまう。それにそれらを平塚に知られるのは、不安なんて言葉では言い表せないほどの恐怖があった。

 

「や、やめてくれ……」

「ふぅん?」

 

 平塚は親父がたまに見せるような見事なまでに腹立つにやけ顔をこちらを向けてくる。

 

「その反応から察するに、何か私に見られたくない、見られるとまずい、やましい事があるということかな?」

 

 想像以上に板についているにやけっ面を変えることは無い平塚は、たぶん親父と同じぐらい面倒くさいと、直感が伝えてくる。しかし、こういうのは相手が諦めるまで、シラを切り続けるのが鉄則なのだ。

 

「ない。そんなものはとっくにこの部屋からはデリートしてやったわ」

「ふぅん……?」

 

 相変わらずのにやけ顔だが、見透かされているのは百も承知だ。八幡は毅然とした態度でそれに向き合う。すると、にやけ顔は崩れ、「あっははは!」と大きな声で笑いだした。

 

「しょうがないな。私の良心に免じて詮索するのはよそう。知られたくないことは誰にでもあるしな!」

 

 その言葉を聞いて、ほっとした反面、妙に気になることが八幡の中に生まれた。

 

「なぁ、平塚」

「ん、どうした?」

「平塚は知られたくないこととかあるのか?」

 

 平塚は今、『知られたくないことは誰にでもある』と言ったが、平塚にもあるのだろうかと素直に疑問に思った。その答えはほぼ知っているが、一応、確認してみたくなった。

 その問いを聞いて、平塚は軽く笑う。でも決して茶化しているよう訳ではなく、その目はしっかり八幡の目を貫いていた。そして、口を開いた。

 

「そりゃ、私にだってある。無かったら後悔などしないしな。誰にも知られたくない、踏み入れられたくない私の『乙女の秘密の花園』はきっと君が想像しているよりもとても広いものだと思う」

「そうだよな。うん、やっぱりそうだよな」

 

 やはり、平塚もそうだった。これは決して、失望ではなくて、安堵のほうである。平塚を知れば知るほど、彼女が八幡が最も嫌いな青春の擬人化ではないことを知ることが出来る。そして、それを確認することで、安心できる。しかし、次の一言で、つかの間の安心が揺らぐ。

 

 

「──()()()()()()()()

 

 衝撃だった。

 条件反射で八幡は「どういうことだ?」という言葉を漏らしてしまう。完全に呆気にとられた。『知られたくないのに、知られたい』、こんな逆説は八幡の中になかったのだ。

「確かにおかしいことではあるな」と平塚は呟き、「でも」と続けた。

 

「その秘密の花園を見ても、外装だけは綺麗に塗装されて美しくて、でも一歩踏み入れたら中身は毒に冒された醜い花達に溢れて居る場所を見ても、受け入れてくれる人がいたら、この人になら知られてもいいって思えた人にはさらけ出してみたいんだ」

 

 平塚の顔は、いつになく真剣な表情に変わっていた。その言葉は一朝一夕のものではなくて、ずっしりと重く固い芯があった。普段から高校生離れしている彼女だが、その言い種、仕種が余計に年不相応の印象を醸し出している。

 八幡はその様子を見て、その言葉を聞いて、開いた口が塞がらなかった。

 だが、平塚の言うことは分からなくもなかった。

 というより、痛いほど分かった。

 自分の中にも()()()()()()()()()を、たった今、知ったのである。

 誰にも見られたくないもの、言えないことを好意的に、同情ではなく本心で真摯に受け止めてくれる人がいたらどれだけ心強くて喜ばしいのだろうか。八幡にはそもそも家族以外の他人と親しい関係がなかったから、こんな願望に気づく余地すら今までなかった。()()()()()()()()のである。

 それを、たった今他でもない平塚に気付かされたのである。

 

 そして、そんな奥底に閉じ込められていた願望に気づいた今、自分が()()()()()()()()()()()()()()()()()ことに八幡は気づいた。

 私的な感情を抱いている。期待をし始めている。勘違いをしかけている。もっと知りたくなっている。もっと自分から進んで関わりたくなっている。そして、知ってほしくなっている。きっと自分が傷つくことになると分かっているのに。

 今までは、相手の都合に合わせる、適度な距離感を保つ、自分からは動かない、そんなロボットでいるだけでいい、と割り切れたはずなのに、彼女を見る度に、彼女と話す度に、彼女を知る度に、それがどんどんできなくなっていく。不思議なほど簡単なことであるはずなのに。

 考えてみれば前々からそうだったのかもしれない。ただ、「こうでなければならない」という極めて理性的な制御装置が、ひたすら無理やりその感情を押さえつけ、奥へ奥へと押し込んでいたのである。

 

 だが、今それを潜り抜けて、急にありとあらゆる火口から噴き出してきたこの感情は、今までの人生の中で、抱いたことが無い、初めての感情だった。

 「病は気から」とは正しくその通りで、八幡にとってその感情というのは、()()()()()()()だったのだ。そして気づいてしまったが故に制御装置など、あっという間に破壊されてしまった。文字通り、歯止めが効かなくなってしまっている。

 

 冷静ではなくなる八幡をよそに、冷静になった平塚は、「私、今とても恥ずかしいことを言ってしまったな。忘れてくれ」とため息を吐いて自嘲気味に苦笑する。

 そして、平塚はおもむろに制服のスカートのポケットの中から携帯を取り出して、時間を確認する。

 

「お、もうこんな時間か。比企谷もよく考えたら病人だし、早くお暇しなくてはだな」

 

 携帯を閉じて、ポケットに再びしまい込むと、カバンのチャックを閉めて、平塚は急ぐように椅子から立ち上がった。

 

「じゃあな、比企谷。お大事に」

「……あ、あぁ、今日はわざわざありがとな」

「ほんとだ。このお礼はお高くつくからな」

「いや、このお見舞い自体がお礼じゃなかったっけ?」

「まったく、そこは男らしく『あぁ、分かった』と言うところじゃないか」

「残念ながら、俺はその論理が通用する相手じゃないんだよ」

「ぷっ……あはは!」

 

 平塚は吹き出すように笑った。「すっかり忘れてた」と笑いながら答えると、平塚は八幡に背中を向けて、扉に向かう。

 その濡れ羽色の黒髪が重なる綺麗な背姿を見送ることになるが、八幡の心の中はいまだにぐちゃぐちゃに掻き乱されているままだった。この未知の感情に気付いてしまった今、この先平静を保ち、ロボットらしく振る舞うことなどできなくなることは明白であるのだ。そして、この感情という名の酷く利己的な欲望を満たすために必要なことは、きっと明確かつ強固な親しい関係を構築することだということにも気付いていた。

 ロボットのように代替可能ではなくて、代替不可能な唯一無二の存在になることで、初めて満たされるのだ。

 世間の人が当たり前のように使う、八幡にとっては当たり前ではない関係。

 では、どうすればそんな関係になれるのか。

 それはきっと今八幡が、平塚に伝えるしかない。

 

 しかし、できない。

 

 なぜなら単純に、勇気がなかったからだ。

 失敗してきた過去が、そんな関係を結んだ他人を作ることができなかった過去が、今八幡の背中に何重にも積み重なって、重く重く何よりも重く、手を弛めることなく全てがのしかかってくる。

 

 あの時も、

 

『お前、ここ使うなよ。ここは今から俺らが使うから』

『じゃあ、一緒に……』

『お前は──じゃねぇんだから、無理に決まってるだろ。お前はあっちで一人で遊んでやがれ』

 

 あの時も、

 

『ねぇ、──になってくれない?』

『ギャハハハハ! お前なんかと──なんてなれる訳ないだろ!! ヒキガエルはカエルとでも遊んでれば?!』

 

 あの時も、

 

『あの子、いっつも独りだよね〜』

『──いないんだ〜。可哀想だね〜』

 

 あの時も、

 

『比企谷と──? ムリムリムリムリ?! だってあいつ気持ち悪いんだもん、なんか急に会話入ってきて、求めてねぇこと喋ってくるし、空気読めないし。あいつと喋るくらいなら、ASIMO君、だっけ。絶対、あのロボットと会話してる方がマシだろ!』

 

 あの時も、

 

『ていうか、そもそも比企谷君と──にすらなったつもりになんかないんだけどな、え、と、勘違いさせてたらごめんね。……っていうかメアド交換しただけで、そんなこと思っちゃうんだ……。あっ……、ごめん、全然、そういうつもりじゃ、気にしないでいいからね……』

 

 ここで拒絶されれば全てが終わる。こんな過去の経験達が、それだけは懇切丁寧に教えてくれるのだ。

 だが、伝えなければ、明確な関係を結べなければ、恐らく平塚静は、遠くないうちに八幡の元から離れていく。それはどうしても嫌だった。

 

 八幡が人知れずそんな葛藤を繰り広げる間に、平塚は扉に手をかけていた。だが、最後に平塚は「言い忘れてたことがあった」とこちらに振り返り、

 

「明日は、絶対学校に来るんだぞ!」

 

 と告げる。そして、続けざまに、

 

「君がいない学校は退屈だからな!」

 

 嘘偽りのない笑顔で、八幡に言った。平塚にとっては何気ない一言なのかもしれないが、八幡の胸はボッと熱くなり、グッと背中を押し、とても大きな一歩を踏み出す勇気を与えることになった。

 

「な、なぁ……!」

 

 想定以上に大きく上擦った声が出てしまい、その呼び掛けに平塚も胸を突かれた様子だった。その様子を見て、引き返したくなったが、覆水は盆に返らない。ここまで踏み出してしまったら、もう進むしかなかいのだ。

 

「ど、どうした比企谷……?」

「あのさ、別に無理ならいいんだが……」

 

 心臓の拍動が、異常な程に高鳴る。恐らく今までの人生で一番。ばくんばくんと。

 

「俺と、その、……」

 

 言葉につまる。中々出てこない、あの言葉が。

 

 ──ここでこそ、()()()()だ。

 

 そう強く強く言い聞かせて、腹を決める。

 喉が痛くても、呼吸を大きく吸って──、

 

 

 

 

「俺と()()になってくれないか────?!」

 

 

 

 

 言い終えた瞬間、ギュッと目をつぶった。きちんと言えたのかも分からない。きちんと伝わっているのかも分からない。心臓の鼓動は、収まることなく、むしろ先程以上にばくばくと破裂しそうな程に暴れている。

 全く時間はたっていないだろうが、一秒にも満たないほんの僅かな沈黙ですらも、永久の長さに感じる。そしてまだ平塚の返答が来ないことで、余計に心臓は暴れ、瞼を閉じる力も強くなる。

 

「馬鹿か、君は」

 

 どくん、と、心臓がここで最も大きな一拍を鳴らした。

 だが、その呆れるほど簡単な言葉によって、まさしくグサリと一突きされたように心臓の拍動は収まった。目の力みも一瞬で解ける。だが、平塚の顔を見れなかった。ただ陽が差さない向日葵のように下を向くしかなかった。

 

「はっ、はははっ、そうだよな……」

 

 安心と、それ以上の諦めと、さらにそれ以上の後悔で心の中で無数の自嘲が止まらない。新たな失敗、つまり黒歴史の一頁が今確かに、ここで刻まれようとしている。

 所詮自分は、平塚にとってのロボット。

 やっぱり、壊れたロボットは捨てられるのだ。

 

「そ、その、忘れてくれ……」

「全く、やっぱり馬鹿だな、君は」

 

 平塚は一呼吸置いて言った。

 

 

「とっくのとうに()()じゃないか、私たちは!」

「……え?」

 

 とてつもなく大きな泡を食わされた八幡が、黒目を右往左往させて、やっと捉えた平塚の顔は、これまた嘘偽りない笑顔であった。そしてそれは紛うことなき八幡へと向けられている。

 

「なんだ、君は私の事友達じゃないと思ってたのか?」

「いや、でも……」

「まぁ、確かに当たり前すぎて言葉にしたことはなかったな。では、ここでハッキリさせておこうではないか!」

 

 平塚は、八幡の瞳を捉えて離さないほど真っ直ぐ見つめ、八幡に向けて伝える。

 

「私、平塚静と君、比企谷八幡は、正真正銘の友達だ!」

 

 平塚は八幡のもとに歩み寄り、目の前にすっと、手を伸ばした。

 これの意味がわからない八幡ではない。

 八幡も手を伸ばし、互いの掌をギュッと合わせる。

 その瞬間、平塚の柔らかく優しい手の温もりが直に感じられた。そして、それは瞬く間に全身につたわり、今まで体験したことないほどの未知なる熱が一瞬にして八幡を支配した。

 そして、その手はどちらからともなく自然とほどかれる。そこにもの寂しさなどは八幡は感じなかった。確かな熱がこの身に伝わり、まだ残っているからだ。

 

「よしっ、比企谷、これからも、よろしくな!」

「あぁ、……よろしく頼む」

 

 こうして、平塚静という初めての正真正銘の友達は、八幡の中で、決定的に、他の人とは違うかけがえのない特別な人になったのである。

 

 

 

 △▼△▼△▼△▼△▼

 

 

 

 風邪の余熱か、はたまた先刻の余熱か。

 平塚が去った後も、ほとぼりが冷めない八幡は、ベッドで横になって、ただ訳もなく天井を見つめていた。実を結んだ勇気は、達成感となって我が物顔で懐の奥深くに居座っているが、今し方は目を瞑ってやることにした。今までの比企谷八幡にできなかったことをやってのけたのだ、それぐらいは許してやってもよかった。

 ふと、机の上のリンゴが目に入った。その一切れを手に取り、すぐさま齧る。ひときわ甘く感じる。しかし、妙な舌触りがあり、リンゴをよく見ると、皮がところどころ中途半端に残っていた。小町はこのようなミスを滅多にすることはないので、珍しいと感じながらも、そのリンゴの一切れを口の中に入れる。

 そして、もう一つ机の上にある平塚が渡してくれた授業ノートのコピー一式を手に取る。いくら渡してもらったものとはいえども、勉強の類のものを見通すのは少し億劫だったが、なんとかそれは振り払って、一枚ずつ見ていく。とても丁寧な字で書かれていて、非常に見やすい。順に、数学、英語、日本史、そして最後に、国語のノートのコピーの最後のページの裏面を見ると、

 

『お大事に。明日学校で待ってます』

 

 と大きく、特に丁寧な字で書かれていた。似合わないと分かっていながらも、相好(そうごう)を崩してしまう。

 ちょうど、その時、八幡の部屋を尋ねる人が一人。それは、もちろんこの家に今唯一いる妹の小町だった。

 部屋に入ってくるなり、八幡のいるベッドに駆け寄り、ダイヤモンドにも引けを取らないほど目を輝かせていた。八幡は、小町が入ってきた瞬間に、その茶化されるであろうにやけ顔を元に戻し、枕の下に急いでそのプリントを隠した。

 

「ねぇねぇねぇ、お兄ちゃん、どういうこと?!」

「……何がだよ」

「そりゃあ、静さんのことに決まってるじゃん!」

 

 小町は興奮気味にまくし立てる。

 

「あんな綺麗でスタイルもいい人がお兄ちゃんをお見舞いしに来るなんてどういう風の吹き回しなのさ」

「ただ、話をするだけの仲だ」

「話をするだけって、そんなことでわざわざ家にまで来ないでしょ」

 

 まさしくその通りだ。こういう時に頭が切れるのは厄介極まりない。

 

「まぁ、確かに、そうだな……」

「お兄ちゃんさぁ、小町はそんな子供じゃないよ〜。ほらほら、本当のこと小町に教えて♪」

「……」

 

 言葉を詰まらせていると、「教えて教えて♪」と顔を近づけてくる。風邪がうつるからと、布団を被って顔を隠しても、「教えて♪」と連呼してくる。

 実は、こうなると親父より面倒くさいのは小町だったりするのだ。

 このままだと(らち)が明かないので、事の顛末(てんまつ)を話した。

 

「というわけだ。どうだなんか文句あるか」

「ひゃー、あの自己愛の塊のお兄ちゃんがそんなこと。ふ〜ん」

「な、何だよ。気持ち悪いな」

「ま、というか。静さん、お兄ちゃんの傘もって帰ってきてたし、静さんからも『妹から傘貸してもらうから大丈夫だ。お前はこれ使ってくれ』ってお兄ちゃんから言われて渡された。って話は聞いてたけどね。ちょっと信じられなかったから、一応確認してみたけど本当だったんだ! お兄ちゃん、意外と隅に置けないじゃん!」

「カマかけたな?! 性格悪っ!!」

 

 唐突に大きな声を出したものだから、ゴホゴホと咳き込んでしまう。

 

「そこは策士と言ってくださいまし〜。というよりも、お兄ちゃんがついたおっきな嘘を静さんに伝えなかっただけでも、ね……?」

「……サイゼのハンバーグステーキ」

「ね……?」

「……リブステーキ」

「はい、査収致しました!」

 

 小町は満面の笑みを浮かべる。八幡は、いいお嫁さんになるという言葉は撤回することに決めた。絶対に婿さんは小町の尻に敷かれることになってしまうということに気付いてしまった。

 

「ま、とりあえず良かったねぇ、お兄ちゃん!♪」

「だ、だから、そんなんじゃねぇって」

「とりあえず、小町はそっ、としておきます! あっ、今の小町的にポイント高いっ!」

 

 いつもの、かつ本日二度目の腹が立つお決まりの文句とお決まりのポーズを見せつけられて、苦笑いするしかない。

 

「それに小町、少し──」

 

 不意に口をもごつかせる。小町の口許がすこしだけ縦に歪んだように見えた。

 

「少し、なんだよ」

「……んふふ、何でもない。『乙女の秘密の花園』は秘密のままの方がいい時だってあるでしょ?」

「秘密の花園って、……まっ、まさか、小町、お前っ?!」

「じゃあ、とっとと治して、()()の静さんに元気な姿見せてあげなきゃだね!」

「や、やめろ!」

 

 

 八幡の慌てふためく様子を見て「あははは!」と、無邪気に笑う小町。だが、それも何だか憎めない。むしろ、今日はそのからかいすらも心地が良かった。それは、何のおかげかは言うまでもなかったのである。

 余熱はまだ残っている。あの時初めて溶け始めた氷の壁は、灯り続けているその火によって崩れ始めていた。

 

 

 

 








拙文を読んでいただきありがとうございます。
皆様からいただいている感想、毎回毎回とても励みになっております。
これからも是非、よろしくお願い致します。



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五束一輪: Before Milky Way Rhapsody








 

 

 総武高校では期末考査も終わり、いよいよ夏休みがやってくる。期末考査と夏休みの狭間という、なんとも形容しがたい時期のある日の昼休み。

 校舎の内と外を隔てるスチール扉の目の前、八幡はそこにある三段程度しかないコンクリートの階段に座り込んでいた。テニスコートからはラケットの快音が届けられ、通路脇の草花は、この裏庭にこの時間になると足繁く通ってくる海風に身を任せて、ゆらゆらと揺れている。

 そして八幡は、その景色を楽しみ、慈しみながら、持っているお惣菜パンを頬張っていた。

 そう、ここはいつもの八幡の一番のお気に入りスポット、ベストプレイス。そしていつも通りの景色──のはずであるのだが、横を向けば、いつもと違うのは一目瞭然だ。

 海風になびく烏の羽のような黒い髪。そして筋の通った鼻、キリッとした目元が覗くその整った横顔からは、中性的であるがどこか妖艶さも漂わせている。

 

「なぁ、もし俺が体育祭の練習サボってたらどうしてたんだ?」

「うーん、殴ってただろうな」

 

 あまりにも予想通りの答えに苦笑いしながらも、「まぁ、でしょうね」と八幡は返さざるをえない。

 

「正直、今までの君を鑑みると一度や二度はサボるものだと思っていたからなぁ。だからその時は、拳一、二発で許してやろうと思っていたんだ」

 

 一度、手に持った缶のMAXコーヒーを少し口に流し込んだ後、平塚は「でも」と続ける。

 

「あろうことか君は全ての練習に来てしまったわけだからな。私としても拳がふるえなくて非常に残念だ」

 

 そう言って、平塚はMAXコーヒーを持っている手とは反対の手で一回、二回とストレートをしている。しかも、シュッシュッと柔らかな海風を鋭く切るようなキレのあるストレートだ。

 これを喰らっていたら、どうなっていたことやら、と八幡は、ただ苦笑いでその様子を見るしかなかった。

 

 こんな風に平塚と昼休みに一緒に昼食を取ることが増えたのは、ここ最近だ。以前にも平塚が誘う形は何度かあったが、こんなに頻繁にここ──ベストプレイスに集まるようになったのは最近のことであり、二、三日に一回は一緒に食事をとっている。

 平塚からは、「私は前々からこうして君とお昼を一緒に食べたかったのに、比企谷が昼休みになるとすぐいなくなるからできなかったんだ」と愚痴っぽく言われた。そのことに関しては思い当たる節がありすぎる八幡だったから、「すまん」の一点張りでその場を凌いだ。

 

 そしてこういう時間を過ごすようになってから、一つ気付いてしまったことが八幡にはあった。

 それは、一人で食べているよりも、隣に平塚がいて、話しながら食べているほうが、よっぽど心地よく、満たされるということだ。一人の世界が心地いいと達観したつもりで(うそぶ)いていたのに、こうもあっさりと掌を返してしまうと、ひどく都合の良い人間だなと自嘲してしまう。

 

「ん、どうした、比企谷?」

 

 平塚に声をかけられハッとする。

 覗き込むように近づけられたその顔は、あまりにも綺麗だった。だから、すぐに目を逸らしてしまう。

 

「近い近い。……ちょっと色々考えてただけだ」

 

 流石に、「平塚といるこの時間が心地いい」とは恥ずかしくて、口が裂けても言えない。

 普段なら綺麗な丘陵を描いている眉を曲げ、えらく勘繰った様子だったが、珍しくすぐ「ふ〜ん」と何かしら納得し、「そういえば」と何かを思い出した様子で口を開いた。

 

「あともう少しで例の()()が来るということか!」

「あぁ、そうだな。例の()()が来るな」

 

 暦も夏至を過ぎ文月に入る。そして、はや五日。本日の日付は七月五日の月曜日。あと少しで来るものといえば当然、七月七日、そう七夕である。ただ彼らが言う()()とは七夕とは少し違う。

 七夕の週の週末に開催される『七夕大決戦~彦星と織姫は誰だ?! 最強カップルコンテスト~』のことである。

 カップルでもない彼らが参戦する理由は、勿論最強カップルになるためではなく、コンテストの景品──二等賞のスクライド&プリキュアのキャラフィギュアセットがとても欲しいからという非常に欲にまみれた理由だ。だが、それゆえそのコンテストへの意気込みは他のカップルより人一倍強くなっていた。

 

「私は劉鳳が欲しいなぁ〜!」

「俺はカズマだな」

「よしっ、決まりだな! じゃあプリキュアは……」

 

 その瞬間、互いに睨みをきかせ合う。

 

「私は、なぎさだ」

「奇遇だな。俺もなぎさだ」

 

 その瞬間、戦争が始まった。

 平塚がなぎさの魅力を語れば、八幡がその倍魅力を語る。そうしたら平塚は八幡を唸らせるほどのなぎさに関する考察を語り、八幡はそれに対する反駁という形で、自分なりの考察を語り始める。そして、ほのかの魅力も忘れまいと語り始め──。

 そういう訳で二人は、飲むのも食うのも忘れ、ひたすら語らってしまった。そんな歯止めの利かない二人の様子を見かねてか、予鈴のチャイムが強引に終わりを告げる。

 

「はっ、もう鳴ってしまったな……」

「というか、まだフィギュアを取れた訳でもないのにな」

「……確かにそうだ」

 

 互いに顔を見あわせる。そして、あまりにも滑稽で両者とも吹き出してしまった。「あははっ、取らぬ狸の皮算用とは、まさしくこの事だな!」と目じりの涙を拭いながら平塚は言う。

 

「とりあえず、一緒に頑張ろうな、比企谷!」

 

 平塚が八幡の目の前に拳をグッと突き出す。しかし、それはもちろん八幡の鳩尾を突きぬけて、沈黙の臓器を驚かせるために打ち込むための拳ではない。

 八幡も親指を他の四本の指にくるみ込んで、軽く拳を握り、平塚の拳の方へと突き出した。

 

「あぁ、そうだな」

 

 二人はコツンと拳を突き合わた。骨にじーんと響きが残り、骨身の髄にじんわりと広がる。

 それと、もう一つ。八幡は平塚について最近になって知ったことがある。

 

「そうだ、今日私暇だから、放課後、ラーメン行かないか?! 私、美味しいところ見つけたんだ」

 

 それは、平塚が極度のラーメン通であることだ。

 

「あぁ、いいぞ」

「やった! 今日のは飛びっきり美味しいからな!」

 

 上機嫌になった平塚は、聞いたことのない鼻歌を奏でて、MAXコーヒーの空き缶二つを中庭まで捨てに行った。

 

 こうなったのも最近のことである。二人で帰ることも増え、どちらも自転車通学であるのをいいことに、平塚オススメの近場のラーメン店に引きずり回されるようになった。おかげ様で、太っていくことしかしらなかった八幡の貯金箱は最近はメキメキとダイエットに成功している。

 ただ、確かなラーメンの味と、美味しそうに頬張る姿を隣で見せられては、その出費も致し方ないと納得せざるを得ない。

 

 ──さて、今日はどんなところに連れていってくれるのだろうか。

 

 

 

 

 

 






拙文を読んでいただきありがとうございます。
本日の話は、閑話みたいなものなので、話は全く進んでいませんが、ご了承ください。

それと沢山のお気に入り登録と素晴らしい感想を読者の皆様から頂きました。本当にありがとうございます。これから皆様のご期待に添えるような、平塚先生の良さを最大限に引き出せるような作品を作って参りますので、今後とも応援のほどよろしくお願いします。
またこれからも叱咤激励の感想をお待ちしておりますので、是非一文したためて頂ければ幸いです。




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五束: Milky Way Rhapsody






 

 

 

「ただいまー、八積(やつみ)、八積でございます」

 

 車掌の一本調子のアナウンスが車内に響くと、目の前の自動ドアが開く。

 隣の杖を深く沈ませた白髭をたくわえたお爺さんは座席にどっぷりと座って降りる気配がなく、結局その車両でこの駅で降りたのは八幡だけだった。

 駅のホームに降りると、他の車両から降りてきた人がちらほらいるが、皆揃いに揃ってスポーツウェアなのが、妙なところである。かくいう八幡も胸元にスポーツメーカーのロゴが刻まれている半袖の黒のスポーツウェアを着ているのではあるが。

 そして、まもなく、八幡を運んでいた青と黄色のストライプをベルトのように車体に巻き付けている電車は、重い腰をあげ、ゆっくりと前へと動き始める。

 

 ただいま、八幡がいるのは房総半島の東側を大きく回る外房線にある八積駅。県民でも滅多に訪れることがなさそうな駅ではあるが、電車が過ぎ去ったあとに残されたホームの風景は、コンクリートジャングルと形容される千葉市、もっと言えば京葉線周辺では考えられない長閑(のどか)さがあり、足元の手入れがあまりされてなさそうな黒ずんだ灰色の土瀝青(アスファルト)と、かえって活き活きとした木々の緑と、空の澄み切った青さが絶妙なコントラストを生み出していて、とても目の保養になる。

 

 ──そうだ、写真を撮ろうと、腰ポケットに手を突っ込み、電車に乗ったときに合わせて切っていた黒色のガラケーの電源ボタンを長く押した。

 今思えば迂闊だったのかもしれない。

 携帯が一度ブルルと震え、電源がオンになった瞬間。目が覚めた携帯が何かに怯えるようにさらにブルルと震え出したのだ。それも何度も何度も。

 

 ──いや、まだ集合時間じゃねぇよな……

 

 そう思いながらも、恐る恐る二つ折りの携帯をパカッと開いて見ると、

 

『You got a ma You got a ma You got a ma You got a ma You got a mai You got a mail!!』

 

 八幡は思わずガラケーを投げ出しそうになってしまう。二回目の体験だが、やはり怖いものは怖い。しかも今回に限っては、今日の朝、互いに起きれたかどうかの確認をメールでしているので、メールする要件などないと八幡は思っていたが、それは考えが甘かったことは、肝心のメールを見てひどく思い知らされた。

 

『私は今、着きました。ですが、まだ集合時刻の15分前なので、ぜんぜん急ぐ必要は無いです。私は駅前で待っています。見ていたら返事をください』

『集合時刻10分前になりました。まだ、急ぐ必要はありませんが、見ていたら返事をください。お願いします』

『集合時刻5分前になりました。今どこにいますか? 教えてください。返事をください』

『集合時刻3分前です。本当にこれていますか? 不安です。見ていたら返事をください』

『集合時刻2分前です。大丈夫ですか? それとも、まさか、来ないんですか?』

『集合時刻1分30秒前です。本当に、来ないんですか……?』

 

 ぞっと肝が冷え、初夏はとっくに過ぎたというのに(かじか)んだように指先が震える。

 そしてたった今来た『You got a mail!!』。そこには──

 

『集合時刻1分前です。そういう事ですね。分かりました。

 ↳

 ↳

 ↳

 ↳

 ↳

 ↳

 ↳

 ↳

 ↳後で覚えておけ』

 

 顔面蒼白。腕に巻いたスポーツウォッチを見ると、確かに長針は残り一分ももうないことを伝えている。

 おそらく次のメールが来たらこの携帯を揺らしたらチェックメイト。

 運の悪いことに、このホームから改札を出るには、連絡通路を渡らなければならない。

 それ即ち、走る──。まさか、スポーツウェアであることがここで功を奏すとは八幡も思わなかった。連絡通路にたどり着き、昇り階段をタタターンと飛龍のごとく駆け上がり、下り階段をストトーンと地龍のごとく駆け下りる。そして、駅員に切符を渡して、急いで改札を通り抜け、そのまま駅舎の外に跳び出る。

 確かに、緑色の箱文字でJRとでかく書かれた壁の前に、黒を基調にし白のストライプが入ったスポーツウェアを身にまとい、青色のガラケーの画面を浮かない顔でじっと睨みつける平塚が佇んでいた。

 走ったせいか、全身は異常な熱を帯びていて、今にも汗が吹きでてきそうだった。であるのに、ただただ背筋だけはキーンと寒くなる。

 

「……平塚、悪い待たせたな」

 

 肺は焼けそうになるが息を切らしているのをできる限り誤魔化し、八幡が顔色を伺っておそるおそる話しかけると、平塚は携帯を閉じて、そっとポケットにしまう。

 八幡は少し腹筋に力を入れた。

 そして、たった今、携帯に見せていた顔とは全く別の──満面の笑み。

 

「大丈夫だ! 私は今来たところだからな!」

「………………は?」

 

 平塚は明らかにおかしい常套句を言ってのけた。

 殴られるものだと思っていた八幡は当惑していると、「一度は言ってみたかったんだ、このセリフ!」と嬉しそうに話し、上機嫌のまま「よし、向かうぞ!」と号令をかけた。

 そして、ショルダーバックから地図を取り出した平塚は「こっちだな!」と指を指し、前に進み始める。普段は腰上に下がってる髪の毛が一本に束ねられたポニーテールは、ぴょんぴょこ楽しそうに跳ねる。

 殴られなかった安堵感よりも、八幡はむしろ余計に恐怖を感じることになったのは想像にかたくない。

 ここで得た教訓は一つ。『平塚と集まる時は、彼女より早く集まるべし』ということだ。

 

 

 

 ──日は真昼だから高い位置にあり、暑い日差しが直に降り注がれる中、ギリギリ郊外の町でよく見るような宅地と田畑が交互に訪れる少し大きな道路を三○分ほど歩くと、池のようなものが並走するようになって、それを挟んですぐ隣に目的地の公園があった。この池は湿地だった時の名残だと、平塚は鼻高々に語った。

 入口に辿り着くにはもうしばらく歩いた。その池の向こう側からはドンドンドンと太鼓の音が聞こえてくる。

 

 そして、やけに広々としたエントランスにたどり着くと、ズラっと奥の方まで出店が並んでいるのが見える。かなりの人数がそこにはいるが、その中には先程駅で見かけたようなスポーツウェアを着た人々が(まば)らにいた。

 そして、入口の脇にある大きな立て看板には、長生(ちょうせい)村七夕祭りのポスターが貼られており、その隅には『七夕大決戦~彦星と織姫は誰だ?! 最強カップルコンテスト~ 開催』とデカデカとしたフォントで載っていた。

 

 このコンテストは、最強カップルコンテスト。

 実はこの最強とは、()()()な意味で最強ということである。

 カップルで用意された競技に挑戦して、最強を決める。

 (ちまた)でよく見るようなラブラブ度やイケイケ度で優勝を決めるような甘々の甘ったれたものは通用しないのだ。そのためスポーツウェアの着用が主催者側から推奨されていて、駅のホームで見かけた人たちも、きっと参加者達であった。

 だが、だからといってそんなストイックなものではないようだ。所詮カップル競技の大会なのだから、当然といえば当然ではある。あくまで『思い出作り』なのだ。

 

 それ故にこの大会に目をつけたのが平塚であった。

 高校生というフレッシュで基礎体力があり、比較的運動能力の衰えが少ない彼らにとっては有利であることに加え、決して『()()』ではない、あくまで『()()()()()』の雰囲気。この二つの条件から、狙いの二位を獲得しやすいとふんで八幡を誘ったのだった。

 これには八幡も素直に平塚の目敏さに感心してしまう。

 

 そして当然のことではあるが、平塚からはこの大会までの間に自主的に体を動かすことを勧められ、一週間前からは朝かなりの早起きをして毎日一、二キロ走るなどそこそこの努力していた。

 

 一度、たまたま朝早く目が覚めた小町に部屋を出ていくところをみつかり、不審の目を向けられたこともあった──。

 

 

 ▼△▼△▼△▼△

 

 

「え、お兄ちゃん、こんな朝早くにその格好って、どっか行くの……」

「いや、ちょっと運動しとこっかなぁ、と思ってな。だから最近は近所をランニングしてるんだ」

 

 どれがあのアホ毛か分からないほど髪をボサボサにして、寝ぼけ眼の目を擦りながら「ふーん」と小町は相槌を打つ。

 

「ま、どうせお兄ちゃんのことだから、急に小説家になるって言い始めて、三日で書くのやめた時みたいに、すぐ止めちゃうでしょ」

「くっ……」

 

 理由を根掘り葉掘り聞かされると面倒くさいことではあったが、さらっと昔の恥ずかしい歴史を掘り返された挙句、そのお陰で別の意味での信頼を得てしまっているのは兄として非常に情けないところがあった。だが、何はともあれ怪我の功名。

 

「……まぁ、せいぜい頑張ってね〜。小町また寝るから〜」

 

 そのまま、「ふぁ〜」と、とびきり大きな欠伸をしたあとドアをバタンと閉めて、小町は部屋の中へ消えた。

 

 

 ▼△▼△▼△▼△

 

 

 ──と、こんなことがありながらも、なんだかんだで一週間は休むことなく走り続けた。家族公認の三日坊主男八幡にしては大進歩である。

 

「まもなく、受付を開始しま〜す。コンテストに参加を希望するカップルの方々は、こちらにおいて受付を行ってくださーい」

 

 その声が受付の方からかけられると、人混みの中から一斉に人々、もといカップルたちは受付の方へと流れていった。カップルの群れに入っていくというのは、少し気が重くはなるが、ここまで来たからには背に腹はかえられない。

「そろそろ行くか」と平塚に声をかけ、その方を向くと、

 

「く"、ぐや"じぃ"、りあじゅうばぐばづじろ"」

 

 と見たことないほどに顔を崩しながら、見たことの無いほどの涙をボロボロと流し、聞いたことの無い呪詛の言葉を吐いていた。

「りあじゅう」とはよく分からないが、いくらなんでも「爆発しろ」とは、おっかないことを言うなと八幡ですらも思った。この間のキャンプファイヤーの件からも察するに、やはり平塚の中には得体の知れないおぞましいものが、決して覗き込んではいけない深い深い井戸の奥底で(うごめ)き、巣食っているのだろう。

 とはいっても、受付の時間も限りがある。八幡は平塚をなんとか(なだ)めるように問いかけた。

 

「平塚、行けるか?」

「う"ん"、う"ん"」

 

 周りからの目線が集まっているのは気にしなくても分かる。傍から見れば八幡が平塚を泣かせているようにみえてしまった。仕方なく平塚が泣き止むまで待ち、そこから受付へと向かった。

 

「こんにちはぁ。わぁ、とっても若々しいカップルさんですね!」

 

 話しかけてきた受付嬢は綺麗な笑顔を見せる。

「学生さんですか?」と彼女に尋ねられると、打って変わって平塚は本当に生き生きした様子で眉をぴくぴくと動かし、「はい、高校生です!」と即答した。

 一方、単純にカップルと言われたことが照れくさい八幡は、頬を人差し指で二、三度掻いていた。

 受付嬢はその対照的な二人の様子に目を細めながら、慣れた様子で手続きを始めた。最初にこのコンテストの参加費である二千円、つまり一人千円をそれぞれ手渡す。

 

「はい、確かに頂きました。では、まずここにお名前と生年月日と住所、あるのであれば電話番号を書いてください。彼女さんは左側、彼氏さんは右側でお願いします。では彼女さんの方から」

 

 手渡された平塚は、ノートのコピーにあったように、エントリーシートに麗筆(れいひつ)をふるった。続いて八幡も妙な対抗心のせいか気持ち丁寧に書いて、受付のお姉さんへと渡した。

 

「はい、ありがとうございます! ではお二人は、13番ゼッケンです! 本日の競技の際はこちらを着用していてください!」

 

 二人は受付のお姉さんに前後に黒色で『13』と書かれた黄色のゼッケンを手渡され、その場で着た。

 

「わぁ、お似合いですね! では、最強カップル目指して、頑張ってください! いってらっしゃい!」

 

 相変わらずの崩れない笑顔で手を振る受付のお姉さんに軽く会釈し、二人はコンテストの舞台となる陸上競技場に入る。

 

 

 ──受付を抜けるとカップル地獄であった。

 

 

 右を向いても、左を向いても、前を向いてもカップル、後ろを向いても新しいカップルが入ってくる。芝生のグラウンド一面に、(つがい)のゼッケンを着たカップルたちが各々愛の巣を作ってキャッキャウフフと戯れていた。

 なるほど、どうやら上を向いて歩くしかないようだ、と八幡は歯を食いしばって涙が溢れないように上を向く。

 

 一方この状況で、反応を起こさないはずのない隣の平塚は、その光景を見るや否や「なぁ、比企谷」と思いのほか冷静に八幡に語りかける。

 

「ん、なんだ。どうにかして爆発させろって?」

 

 平塚は「いや違う」と首を横に振る。

 

「……私達も今は()()()()なんだよな」

 

 思いがけない平塚の言葉に、八幡の心がざわめく。

 

「あ、あぁ……。周りからは間違いなくそう見られてるだろうな」

 

 今の二人は誰が見ようとカップルなのだ。このゼッケン番号が同じ番号であることが何よりの証拠である。

 

「じゃあ」

 

 突然、平塚は八幡の方へと左手を差し出した。

 

「──手を繋ぐぞ」

「え?」

「手・を・つ・な・ぐ・ぞ!」

「いや、聞こえてない訳じゃなくて。その……、平塚は大丈夫なのか?」

「何がだ。まさか比企谷菌とかの話か……? 私はそんなことは一切気にしないと以前言っただろ」

「いや、そういう心配してるんじゃない。その恥ずかしくないのかな、と思ってだな」

 

 手を繋ぐなど、妹の小町とすらも小っ恥ずかしくてもう随分していない事だった。ましてや、友人とはいえども、一度握手したことがあるといえども、異性の平塚と手を繋ぐことにはさすがに八幡は抵抗を感じた。

 だが、そんな躊躇(ためら)っている八幡に対し、「恥ずかしいわけない!」と、平塚は力強く否定する。

 

「そもそもカップルコンテストに来ているぐらいなのだから、手を繋ぐぐらい当たり前じゃないか。そうしなければ、怪しまれるだろ! ほら、比企谷早く!」

「分かったから、繋ぐから」

 

 やけに圧をかけてくる平塚に根負けして、差し出されている平塚の左手に、八幡はそっと右手を合わせる。

 そして、申し訳程度に手に力を入れた。

 それでもやはり、ほんの少しふわっと反発してくる肌。

 あの時と一緒で、平塚の手は柔らかくて、ほんのりとした全身までも包んでくれるような温もりがあった。

 状況が状況であるとはいえ、こうして手を握り、平塚の肌の感触を直に味わうことは、やはり穴蔵にこもりたくなるほど恥ずかしいものだった。

 急に高まった顔の熱は、照りつける夏の日差しのせいじゃないことは八幡も重々わかっている。もう横の平塚に顔向けすることはできそうになかった。

 

「こっ、これでいいか?」

 

 思わず声が裏返ってしまう。

 

「あぁ、大丈夫だ。全く問題ないぞ」

 

 非常に落ち着いた声音だった。

 八幡はその瞬間(さと)された。平塚はなぜかカップルに強い怨念を抱いているが、明らかにあちら側の世界の人間で、きっとこういうことには慣れっこなはずであるとは理解にたやすいことだ。ボディータッチも男女問わずにしているのを目にしたこともある。

 

 ──いくら何でもテンパリすぎか。

 

 少し(ほとぼり)も冷めて、ちらっと、横を見る。

 八幡が思い描いていた『余裕綽々(しゃくしゃく)で、こちらの爆笑必至の情けない顔を見て、頬を大きくふくらませて笑いを堪えている平塚』──はそこにはいなかった。

 

 俯いていた。目元は濡れ羽色の横髪に隠れて見えないが、ちらりと覗く頬はおそらく八幡以上に赤く、露わになっている耳は、耳(たぶ)から耳先の方まで真っ赤っかに染まり切っている。

 その有り様を見て、顔が尋常ではないほど勢いよく燃え上がるのを感じて、すぐに首を捩って、顔を背けた。

 

 

 ──澄み切った青空の下、手を繋いでいるだけで上のお天道様よりも朱に染まり、動くことなく立ち尽くしている初々しい二人を見て、「あらあら」「若いっていいな」と周囲のカップルが暖かな目を向けている。

 そんな思わずお天道様も(ほころ)んでしまいそうな微笑ましい雰囲気が会場に漂い始めた頃。

 バンッ、という耳を(つんざ)くような爆発音とともに、コンテスト会場中央に設置された立派なステージのスピーカーから、大音量のBGMが会場全体に響き渡る。

 ステージに会場の視線が集まると、今度は舞台から白煙が吹き上がり、それが晴れる頃には、やけに奇抜な格好をした男の人影が浮かび上がってきた。

 英国紳士が好みそうな黒色のシルクハットに、その側面には独楽(こま)みたいな紋様をしたでっかい巻貝がくっっている。デニム生地のオーバーオールの肩紐には無数のトマトらしき赤色のストラップが着いていて、その下のシャツからは大きい『長』の文字が浮かぶ。そして、極めつけは、羽織っているマントが明らかに漁業で見るような網なのだ。

 そして、その男は、握りしめたマイクを口元にちかづけ、「レディィィース、エエエエェンド、ジェントルメェェェェンッ!!!」と声高らかに叫んだ。

 

「これより、長生村主催、『七夕大決戦~彦星と織姫は誰だ?! 最強カップルコンテスト』を開催いたします!!! 司会は私、長生き×九十九里の申し子! ミスターナインティナイン!! よろしくぅ、お願いします!!」

 

 ミスターナインティナインの挨拶が始まって、彼が深くお辞儀すると、大きな拍手が沸き起こった。

 爆発音でハッと目が醒めた八幡は、気恥しさからかかえって周りよりも手を強く叩いていた。

 

「本日の参加してくれたカップルは、なぁんと、九十九組?! ほんとですか……? あっ、ほんと! なんと、九十九組、参加いただいているぞぉ!! これは何たるミラクルだァァ!! ミスターナインティナイン感無量ですゥ!!」

 

 涙を拭う素振りを見せるミスターナインティナインに対して、「良かったなぁ!」とどこかのカップルの彼氏が野次を飛ばすと大きな笑い声がどっと生まれ、そこから囃し立てる指笛がピューピューとあちこちから飛び交い始めた。

 

「ありがとう!! ありがとう!! さぁ、ますます盛り上がってきたァ!! では、早速だァが、今回の大会のルール説明だァ!!」

 

 今回の大会では、二人一組の競技が三種目行われる。そしてそれらは全て時間を計る競技だ。そのかかった時間の合計が少なければ少ないほど、順位が高くなる。

 第一種目は、『障害物を乗り越えて巡り会え!! 天の川障害物競走』。普通の障害物競走と違うのは、トラック上のコースに男女別の二つのスタートが設置され、彼氏は右回り、彼女は左回りで、いつかは二人が必ずコース上で巡り会うことになる。その巡り会うまでの時間がスコアとなる。

 第二種目は、『息をピッタリ合わせろ!! 二人三脚一○○メートル走』。これは二人三脚そのままであり、いかに早くゴールできるかが勝負となる。

 第三種目は、『協力してお買い物を持ち運べ!! お買い物競走!!』だ。これは、一○キログラムの重りの入ったバッグを一○個、計一○○キログラムを二人で協力して一○○メートル運べというものである。これもいかに早くゴールできるかが勝負となる。

 

「そして、この、三種目の合計タイムが少ないカップル上位五組が決勝戦に進出することができるぅ!!! 参加賞は当然あるが、決勝戦に残ったら、確定でこちらの豪華商品を獲得することができるんだァ!!」

 

 ミスターナインティナインがパチンと指を鳴らすモーションをすると、舞台袖から白い布が敷かれた長机が運びこまれた。そしてその上には、賞品がズラっと並べられている。

 まず端の方に、ちょこんと置かれているのは参加賞で、二千円分の今回の七夕祭りで使用できる券。これで、参加費分の元は取れるということだ。

 そして、決勝進出者にはこの参加賞プラスに、第四、五位のカップルには、商品券五千円と海の幸セット。

 第三位のカップルには商品券一万円と山幸海幸セット

 

「そして、第二位のカップルには、商品券三万円分と山幸海幸セットに加え、子供受け間違いなし! こちらの超人気フィギュアたちをプレゼントだァ!!」

 

 確かに第二位の賞品のところには、フィギュアの箱が積み上がっていた。更によく見ると、スクライドやプリキュアだけじゃない。特捜戦隊デカレンジャーのフィギュアもあったのだ。

 

「なぁ、比企谷!! あれだぞ、あれ!! デカレンジャーもあるぞ! すごいすごいっ!!」

 

 平塚はまるで子供みたいにはしゃいで興奮気味に指を指す。明らかに周りからは浮いていたのだが、そんな平塚を(たしな)める人はこの場にはいなかった。

 

「あぁ、分かってる。絶対手に入れるぞ」

 

 普段は感情の起伏が激しくない八幡ですらも、実物を見せられられると、自然と気持ちが昂ってしまっていた。

 

「そして、最後、見事最強カップルに輝いたカップルには、なんとォ!! 商品券五万円分と、海幸山幸セット。そして、カップルには持ってこいの東京ディスティニーランドワンデイパスペアチケットとオーシャンスパ九十九里への一泊二日のペア宿泊チケットをお送りするぜェ!!!」

 

 第一位に贈呈されると賞品が披露されると、会場がドッと沸いた。周りのカップルは「絶対にあれがいい」と口をそろえる。確かにこれはとびきり豪華ではある。だが、あくまでこの二人が狙うのは二等なのだ。

 

「では、早速第一ラウンドを開始だァ!!! 十一レースに分けて、行われるから、番号を呼ばれたカップルはスタート地点に移動してくれよなァ!! 最初の組は五分後に開始するからな!! それでは発表するぞォ!! 最初は9、18───」

 

 こうして幕開けた最強カップルコンテスト。

 八幡たちの番号はなかなか呼ばれず、近くの芝生の上で入念なストレッチをしながらレースを観ていた。観客席には少しではあるが祭りの客も見に来ていて、中々の賑わいっぷりだ。

 第一種目のコースの外観としては、まずハードルが五○メートルほどあって、設置された麻袋に両足を入れて二○メートルほど飛んでいる。その後は、緑色の網の下を這いずってくぐりぬけ、とびきり小さい三輪車に乗ってハードル走より少し短い距離を漕ぐ。そして、最後の直線で五○メートルほど走ると、異性の方のコースのゴールと合流する。

 ただ、そこで再会できない場合は、異性のコースを逆走し、迎えに行くというなかなか奇想天外なルールではある。

 ルールの特性上、彼氏側の方がゴールに早く着くことが多く、あるカップルは三輪車にのって再会、さらには網の下で這いずくばった状態で再会するなど、様々な彦星と織姫の再会の形が見られて面白いものだった。

 

「ところで、私達が二位になるためには、大前提として決勝戦に残らなければならないな」

「あぁ、だからこの三種目は全力でってことか」

「そういうことになるな!」

 

『とにかく全力で』。このシンプルな言葉が、二人の中に共有された。

 

「次のレースが始まります! 番号を及び致しますので該当する人はスタート地点に集合してください。では参ります! 4、13、22──」

 

 ついに、二人の番号である13が呼ばれた。八幡の拳にも自然とグッと力がこもる。

 

「よし、頑張るぞ、比企谷!」

「うっしゃ」

 

 それぞれのスタートの方へと駆けていった。

 

 八幡がスタートラインに立つと、左どなりのレーンは恰幅(かっぷく)の良い中年男性。「とおちゃーん、おかあちゃーん、がんばれよぉおお!!」と甲高く可愛らしい声で(はた)から叫ばれて、彼はその声のする方へ手を振り、「二等目指してとおちゃん頑張るぞー!」と笑顔で返していた。つまりは、数少ないライバルというわけだ。

 右隣は隆々とした筋肉が溢れんばかりに実っていて、やけに黒光りしているガタイのいい男だった。身長も八幡より定規一本分ぐらい高いほどだ。いかにも足が速そうである。

 だが、誰が速そうだとかは今日の種目では何も関係がないのだ。結局は自分自身の勝負で、いかに一秒でも早く平塚と合流できるかが鍵である。

 それにもし、平塚が先にコースを走り終わり、八幡のコースに入って合流しようものなら、僅かながらの男としての矜恃(きょうじ)が廃ってしまう。

 

 ──()()()()()()()

 

 それはあのリレーの時のように、平塚に背中を押され、周りの景色の色が混ざって、同じ色に染まった時のように、だ。

 

「そろそろレースを開始しま〜す!」

 

 吸う時には腹を膨らませて、吐く時にはへこませて、研ぎ澄ますように整える。

『ハードルは飛ぶのではなく、跳び越える。そして歩幅を一定に』。体育の授業の受け売りだが、今はこれを頭の中で何度も何度も反芻させる。口も自然と、その文字列をなぞるように動いていた。

 

「では、位置についてぇ──」

 

 耳あてをつけたスタッフは、右手を大きく伸ばし、銃口を空に向けた。

 

「よぉい──」

 

 パァンと号砲が鳴る。

 その瞬間、八幡は思いっきり地を踏み込んで走り出した。左隣の中年男性は、すぐに視界から消えたが、気に留めている余裕はない。

 最初のハードルを、跳び越える。そして、一歩、二歩、三歩目で再びハードルを飛び越える。

 後はただひたすら繰り返し。ガタンとハードルが倒れた音が耳に入ってくるが、ただ前だけを見る。

 無我夢中になって走り抜ければあっという間に、ハードル走は終わっていた。

 

 かなり上々な結果ではあるが、八幡は気は(ゆる)めなかった。

 行き着いた先に用意されているこげ茶色の麻袋に両足を突っ込んで、ただひたすら前へ前へと跳ねる。

 一度、重心が前に傾き、転びそうになるが、なんとか堪えて、兎のようにぴょんぴょこと跳ねる。

 気付けば右隣にいた黒光りの筋肉質の男はもう麻袋を脱いでいた。

 だが、追いつく必要はない。ただ、自分のできる限りのことをすればいい、と八幡は心の中で一度だけ言い聞かせ、あとは無心でぴょんぴょこと飛び跳ねた。

 そして、麻袋のコーナーが終わると、緑の網の中へと潜っていく。

 這いつくばって進むのは、かなり体力がいる。しかも、コースはクレイではなく砂であるから、前進する度にやけに土埃が顔にかかり、呼吸をするにもそれらがどっと口の中へと押し寄せてきて、普段なら不快感を催すはずだろう。だが、その感情に支配されることなく、淡々と前に進めるほどに、八幡は集中していた。

 そして、息があがりながらも、途中で止まることなくゴールにたどり着く。最後には、すこぶる小さい三輪車が待ち受けている。

 人によっては最もキツイかもしれない。だが、これは八幡の得意分野だ。

 普段、通学に用いている筋肉をフル活用し、ペダリング──回転の意識を全神経に注ぎ込む。いつかの時の読み物から得た母指球(ぼしきゅう)の話をひたすら通学中に実践していたおかげで、それが非常に役に立った。

 親指の付け根あたりで踏み込み、小さな円をひたすら描き続ける。

 とは言っても、ハンドルのグリップに膝小僧が擦れて、少し痛くもなるが、それで今の八幡は止まらない。

 

 そして、なんとかたどり着き、残り五○メートル。既に疲労は蓄積しているが、ここで遅れをとる訳には行かない。

 三輪車を乗り捨てた勢いで、全力で走る。

 周りの景色が見えなくなるくらい、全力で。

 

 境界が曖昧になり、全ての色が同化した。

 

 すると、同化した色の中に前から、迫ってくる違う色の何かが見えてきた。

 そこに意識を向けると、その色は黄色で、ゼッケンには、13番。あれは、平塚だ──。

 

 気付いた次の瞬間、手を挙げて、パチンと相手の手を叩く。中々のいい音が鳴った。

 そして、そのまますぐさま邪魔にならぬようコース外にはけるが、八幡の足がまるで別の生物であるかのようにいうことを聞かず、自然の緑の絨毯(じゅうたん)に誘い込まれるように芝生の上に寝転がってしまった。どうやら平塚も同じようで、気付けば八幡の隣で仰向けに横たわっていた。

 まもなく、ストップウォッチを片手にした、計測係らしきスタッフが寝転んでいる二人の元に駆け寄ってきた。

 

「13番のカップルさん、お疲れ様です! とっても早かったですね! 記録は──」

 

 彼女はストップウォッチを見て、一度「おっ!」と驚きの声を上げる。

 

「二分二九秒ですっ! とっても早いですね! 多分今回のベストタイムだと思いますよ!」

 

 少し早口で捲し立てて興奮気味に伝えると、彼女は「ゆっくり休んでいてくださいね!」と一言告げ、おそらくだが記録を報告するためにその場を去ってしまった。

 その人が去った後も、暫くは起き上がることも、話すこともできず、ただ二人のハァハァと荒れた呼吸音が聞こえるだけだった。

 燦燦(さんさん)と降り注ぐ日差しのせいで、目を開くことはできないが、ただ心地がよかった。

 

 しばらくして息が整ってきたあたりで、八幡が「めっちゃ疲れた」とボソッと独り言ちる。すると即座に、「あぁ、私もだ」と平塚も返した。

 

「この調子だと、運動会の時みたいにぶっ倒れてしまうかもな」

「それは勘弁だな。また、俺が面倒を見る羽目になる」

「なんだ、その言い方は。でも、実を言うと、今回は比企谷の方が体力的には不味いんじゃないか?」

「確かにそうだわ。もし、そうなった時は──」

「断る!」

「ひどくないっ?!」

「当然の報いだ!」

 

「ぷっ!」「ははっ!」と二人は思わず吹き出してしまう。少し息が切れて乾いた笑いにはなるが、それもまた余計に面白かった。

 そして、八幡が横を向くと、平塚もこちらの方を向いていた。

 

「とりあえず、ナイスファイトだ、比企谷!」

 

 平塚は白い歯を見せ、ニカッと笑う。前髪が乱れて、少し汗ばんだ額が印象的に映った。

 八幡もそれに応えるように口元を少し緩ませた。

 

「そちらこそ、ナイスファイト、平塚」

 

 ふと意識を向けると、背中に芝生の柔らかく、でもどこかくすぐったい感触を感じられた。

 こうして寝転んだのは、いつが最後だっただろうかと、思い返してそうとしても、もう遠く色褪せたセピア色の記憶で八幡には思い出せなかった。

 ただ、心地よいものだと、身体には刻み込まれていた。

 そして、きっと、いつかまたこうして青空のもとで寝転んだ時には、今日この日を思い出すのだろうと、いつになるかは分からないが、それだけは確信できていた。

 

 

 ──もうまもなくして、第一種目のレースが全て終わった。大声を出して、せっせと動くスタッフとは対照的に、周りのカップル達は会場の脇にある天然の日傘の下にこぞって集まり、仲睦まじく談笑している様子が見られた。八幡たちもそれにならって、日陰にうつる。

 そして、一○分ほどの休憩を挟んだあと、アナウンスが入る。

 

「大変長らくお待たせしたァ! 続いては第二種目、シンプルだけど、だからこそ奥が深い! 息をピッタリ合わせろ!! 一○○メートル二人三脚ゥ!!」

 

 こうして始まった第二種目の二人三脚はさきほどとは逆順で、つまり、八幡達は比較的早く、レースが始まることとなった。

 

 一種目の時と同じく意気揚々と挑んだ彼らだったが、結果的には失敗してしまった。

 

 ただ一度転んでしまったのだ。

 決して、密着するせいで、八幡の鼻の下が伸びて、気が逸れてしまったからという訳ではない。根本的に息が合わなかったからという訳でもない。

 良いタイムを取らなければならないという焦りが、僅かなタイミングのズレを引き起こし、転倒してしまったのだ。『全力』という言葉が裏目に出てしまっていた。

 その後何とか建て直し、おそらく上位四分の一ぐらいのタイムに持ち堪えていた。一度転んだ割には、良いタイムなのかもしれないが、上位五位に入ることができなければ全ての努力は水の泡。

 ここで大きく上位勢と引き離されるのは彼らにとっては相当な痛手であることは間違いなかった。

 

「平塚、これ」

 

 二人三脚を終えた八幡は、会場の外で買ってきた自販機で買ってきたスポーツドリンクを、日陰になっている芝生の上で涼んでいる平塚に一本投げ渡す。

 祭り気分で出店で買うものかもしれないが、最近財布の中身がひもじくなってしまったせいで、一銭一厘でも切り詰めたい男には、自販機で済ますことが無難だった。

 

「ありがとう、比企谷」

「おう」

 

 八幡は平塚の横の日陰に座ると、白のキャップを回して空け、かぶりつく勢いでそれをぐいぐいと飲み始めた。カラカラに乾いた喉を流れ落ちていくその潤いは、染み入るような筆舌に尽くし難い美味しさがある。

 

 一口飲み、小さく息を漏らす八幡とは対照的に平塚は「ぷわぁっはぁ!!」と隠すつもりもなく豪快に吐き出した。

 

「やっぱり、汗流したあとのスポーツドリンクは最高だな!」

「確かに、なんでこんなに殺人的に美味いんだろうな。アウトドア派の人間の言ってることがほぼ全て空言にしか聞こえない俺でも、これだけは認めざるを得ないな」

 

 そう言って、もう一回かぶりつく。

 二度目も殺人的に美味しく、一度目と負けない勢いでごくごくと飲んでしまった。ボトルを見ると、もう目分量で半分はなくなってしまっている。

 

「その通りだ。後は、やっぱり、ストレスが溜まった時の酒! あれは格別に美味かった!」

「え、お酒飲んでるの? そういや、サイゼリヤの時も……」

「あぁ、いや。これは親の真似事でな。未成年の私が知るはずなかろう」

「まぁ、そうだよな。風紀を質す側の生徒会様がお酒飲んでたら、お終いだ」

 

 平塚の親が、リアリストというよりもただ子供に大人の実情を隠さない人達だということは知っていたうえに、それ以上に彼女がそのような人間ではないと信じていた八幡は特に疑うことも無く納得する。

 

 次第に身体も水分を欲することがなくなって、キャップを閉め、大分軽くなったペットボトルを芝生に転がすと、木漏れ日にあてられて透明なそれは光っている。

 だが現状は幸先が良いとは言えず、お先真っ暗とはいかないまでも、いささか不透明なままだ。

 

「ちょっと、まずいかもな。思いっきり、ミスっちまった」

 

 左手を見れば、転んだ際に擦りむいた傷跡が、親指の付け根あたりに少し痛々しく残っていた。少し力を入れるとじわっと血が滲む。

 

「まぁ、確かに、そうだな。でも今更後悔したところで、後の祭りだ。転んで大きな怪我がなかったことだけでも幸いだ。今は、次の種目の作戦を考えようじゃないか」

 

 八幡も「あぁ、その通りだな」と応えて頷く。

 

「次の種目は、確か、一○○キログラム買い物競走か。しかも一○○メートル。これ字面以上にキツいんじゃねぇか?」

「まぁ、ルール的には五○キロまず運んで、スタートに戻ってきて、もう五○キロ運ぶのもありってことだが、それだとだいぶ時間をロスしてしまうな……」

「まぁ、つまり良いタイムを取るには、なるべく最初の一○○メートルで全部持っていきたいってことか」

「そうなってしまうな。だがそうとなると……」

 

 平塚は真剣な様子で、少し手を顎に添えて考える。

 八幡としても、ここで『俺が八個ぐらい持つわ』ととびっきりキザな事を言えたらいいのだが、結局、足を引っ張り、余計に遅れることになるのは火を見るより明らかだった。八幡にはせいぜい六、七個が限界だろう。

 

 そして、平塚は「比企谷と私で半々というのはどうだ?」と提案した。

 

「いや待て、平塚、お前五○キロ持てんのか? だいぶ重いと思うぞ」

「大丈夫だ。君は私の事をか弱い女の子かと思ってるかもしれないが、私はそんなやわじゃないぞ」

「いやそんな事は一ミリも思ってないが──」

 

「あ?」と平塚は目じりを吊り上げて、八幡を睨みつける。

 

「ま、まぁ、とは言っても、さすがにキツいものはキツイだろ。いくらお前の運動神経が高くても、重さはカバーしきれないんじゃねぇか。絶対的な筋肉量がちげぇし」

「大丈夫だ、任せておけ! 逆に君に手を貸してやる!」

「うわぁ、そうなったらマジで恥ずかしいな……。とりあえず分かった。じゃあ半々だな」

 

 平塚から溢れ出る自信と、八幡の中の彼女に対する信頼もあって、その案が承諾された。

 

 そうして、第三種目が始まった。

 どうやら、今回は総合タイムが遅い順から呼ばれているようだ。

 八幡の左どなりにいて、印象に残っていた子連れの恰幅の良い夫と、その妻の中年カップルは、第二種目でも八幡達のだいぶ後にゴールしていた。

 最初のグループに呼ばれているのは、そういうことだと後から気付いた。

 子供と思われる齢五、六歳ぐらいの男の子がとびきり大声で「とおちゃん、かあちゃん、ぜったい最下位にはなるなよおおお!」となかなかパンチの効いた純粋無垢な(げき)を飛ばし、会場でどっと笑いが起きた。スタート地点で恥ずかしそうにあたふたとする夫婦の姿は、とても微笑ましいものだった。

 何だかんだその夫婦は結局最下位であったものの、順当に往復してゴールした。その他のグループも同様に往復でゴールしているのがほとんどであり、一回で全てを持っていこうとするカップルは皆無だった。

 

 そして、二人の番号である13番は最後まで呼ばれなかった。

 

「つまり、この様子を見ていると、私たちにも可能性は十二分にあるということだな!」

「そうみたいだな」

 

 しかし、それで安堵してはならないというのは八幡も重々承知だ。このグループの中で一秒でも、いや、もっと早くゴールしなければ目当ての決勝戦に進出することは叶わないだろう。

 

「いよいよ、この競技も最終組だァ! 番号は7、13、22、46──」

 

「よし頑張るぞ、比企谷」「おう」と呼びかけあって、再びスタート地点へと向かう。二人は一○個のエコバッグがひとまとまりとなって置かれているブルーシートの、左から二番目に、誘導された。

 

「お待たせしたなァ、では最後のレースの始まりだァ!! スターターの方よろしくゥ!!」

「では、始めます!! よーい──」

 

 パァンと銃声が会場を駆ける。八幡はスタート地点にあるエコバッグをまずできるだけ両肩にかけ、最後の一つは左右の掌の上で抱えるようにして持ち上げた。平塚も同じようにして、五○キログラムを持ち上げた。

 

「大丈夫か、比企谷!」

「あぁ、大丈夫だ」

 

 隣のレーンは、22番。第一種目、第二種目とも隣に居たあの黒光りで筋肉質の男がいるカップルだ。第一種目でも、その実力はまざまざと感じられた。

 このカップルの彼女の方は彼とは対照的に見るからにひ弱そうであった。一方で存命の人に美人薄命と称するのは些か無礼だが、それほどの淑やかさと麗しさが細身の彼女にはあった。そんな彼女はエコバッグを何とか一つ持っている様子で、一方黒光りの筋肉質の彼氏が、エコバッグ四つを両肩にかけ、一○○メートルの直線を疾風迅雷の勢いで駆け抜けて言った。その肩甲骨周りの筋肉が盛り上がった背姿は、紛うことなき化け物であった。

 あの人類最強の範馬家の一族と言っても、信じてしまいそうなほどの化け物っぷりだった。どうやら、この調子で往復して、もう五つを持っていくという作戦らしい。

 周りのカップルを見るとやはりほとんどがそうだった。一度は往復して運び切ろうとしている。

 

 つまり、勝機はあった。

 

 二人はそれぞれ五個のエコバッグを抱えて走り出した。

 勿論、22番の彼氏のように本気で走ることなど到底不可能で、小走り程度の速さだ。だが、このペースで走りきれば、かなり差をつけることはできそうだった。

 

 予想はしていたことだが、これがかなり重い。まだ若干の余裕はあるものの気を抜いたら肩から崩れ落ちてしまいそうな恐怖感もあった。

 そして、異変が起きたのは五○メートル、半分を少し超えた頃だった。

 明らかに平塚の進みが遅くなり、八幡が後ろを振り向くと、見るからに辛そうな顔を浮かべ始めていたのだ。

 

「おい、平塚。大丈夫か」

「あぁ、大丈夫だ……。気にするな。それよりも早く行かなければだな……」

 

 ただそう答える平塚の身体は、足元から手の先まで今にも崩れ落ちてしまいそうな程に震えていた。

 八幡は一度、両肩のエコバッグをレーン上に置き、平塚の元に駆け寄った。

 

「ひっ、比企谷っ、急に何?! 別に私は……」

「……バカ、見たらわかる。この期に及んで強がんなくていい。少し寄越せ」

「でも、ホントにっ……。あっ……」

 

 八幡は平塚を一度座らせて、肩にかかったエコバッグ二つを腕から引き抜いた。そして、それを今度は彼の両肩にかける。

 

「これでも、俺、男の子なんだよ。この前格好つけようとして、失敗したの結構恥ずかしいんだ。だから、ここで挽回させてくれ。お前の前でカッコつけさせてくれよ、な?」

「──っ、うっ、うん……、分かった。でも、もし辛くなったら……」

「そりゃ当然、そん時はすぐ平塚にお返しするわ。流石にそこまでカッコつけ通すのは俺には本当に荷が重いわ」

 

 それを聞いた平塚の申し訳なさそうな顔は解け、そしてぷっと吹き出して、微笑を浮かべた。

 

「あぁ、分かった。()()()()()頼んだぞ、比企谷っ!」

「よしっ、行くか」

 

 八幡は、二つのエコバックを両肩に提げて、レーン上に置いてきた場所に急いで戻った。

 それぞれの肩に三つ目のエコバッグをかけ、一つは抱える。

 そして立ち上がった瞬間、今までとは比べ物にならないほど地面に押し付ける感覚が、一気に八幡に襲いかかった。思わず顔も頬からぐにゃりと歪み、奥歯をぐっと食いしばる。

 エコバッグ五つの時とは違い一切余裕はなかった。というよりも、許容範囲を超えているのは八幡自身すぐに分かった。

 やはり七○キログラムは半端ではない重さだった。八幡の体重よりも重いのだから当然ではあるのだが。

 ただ、平塚に見栄を張った手前、情けない姿は見せられなかった。

 八幡は前までは、大の精神論反対論者だったが、ここ最近は頼っている節がある。そして、今回もそれに頼らざるを得ない。

 

 ──()()()()だ。

 

 そして、一歩。ズシンと全身の骨や五臓六腑に響くようなとても重い一歩を踏み出したのだ。

 

 

 

 

 結局、二着でゴールした。

 一着は隣の怪物くんを率いたカップルだったが、それを考慮しなければ、素晴らしい結果だと言えよう。

 ただ、八幡は見栄を張りきれなかった。

 エコバッグが三つになった平塚は水を得た魚の如きの快走を見せたのだ。一方八幡も善戦はしたものの、やはり七○キロの重さには善戦するのが精一杯で、残り十五メートル付近で、先に運びきって戻ってきた平塚に三つほど持ってもらって、フィニッシュした。

 ただ、見栄は張りきれなかったものの、二着で他の上位勢のカップルと大分タイム的に差をつけている事には間違いなかった。

 

「最後、申し訳ねぇ。あんだけ大見得切ったのに、結局お前のこと頼っちまった」

「いや、いいんだ。気にするな。というか、私の方こそごめんなさいとありがとうだ。あのままだったら、多分肩が壊れてた」

 

「それに」と平塚は一呼吸置く。

 

「あの時の比企谷はすごく格好良かったぞ!!」

「や、やめてくれ……。慰めだとしても、ガチで照れるから」

 

 相変わらずの裏表なく屈託もない笑顔で褒められて、素直に受け取ることが出来ず八幡はむず痒そうに目を逸らして、二、三度頬を人差し指で掻いた。

 

「本当に格好良かったんだから仕方ないじゃないか!」

 

 ──なんで、この娘はこんな恥ずかしいことを、堂々と言えちゃうの。

 

 と、八幡は困りながらも、「あぁ、そうか。そう言って貰えて光栄だ」と今はその褒め言葉を渋々ながらも有難く受け取ることにした。

 

 

 

 ──総合の順位が発表される時間が差し迫っていた。あれだけ元気にしていた日も西の空へと落ちていて、空の色も鮮やかな橙色へと染まる中、先程見られた日陰も消えていて、カップルたちは自然と会場全体にバラけていき、それが影絵のように目に映った。

 それぞれがそれぞれの時間を過ごしていると、突如開会のときのような大音量のBGMが一面へと響き渡り、昼時の開会式にはなかった眩いスポットライトが一斉に点灯し、ステージ上に集められる。

 そして、その光の照らす中にはミスターナインティナインがマイクを口元に構えて立っていた。

 

「大変長らくお待たせ致しましたァ!! まず、最初にお疲れ様でしたァ!! さいっこうに熱い競技を見れて、ミスターナインティナインさいっこうに幸せだったぜェ!!」

 

「ありがとうございます!!」と深々とミスターナインティナインがお辞儀をする。それに拍手が送られ、参加者側のカップル側からは、主催者側に対する労いの言葉が会場全体からステージに向けて飛ばされた。

 

「暖かいメッセージありがとう!! 今年も開催して良かったぜェ!! よし、では早速だが、決勝進出カップルの発表だァ!! スタッフゥゥカモォォン!!」

 

 その大きな呼び声とともに、ミスターナインティナインが中央から()けると、舞台袖からは、プラカードのようなものを持った五人のスタッフが、ステージの真ん中に横一列に並んだ。それぞれのプラカードに決勝進出者の番号が書いてあるということだろう。

 結果を踏まえると十分決勝に行ける可能性があると分かってはいたものの、八幡の手はじんわりと汗で濡れていた。

 隣の平塚も両手を胸の前でギュッと握って祈るようにじっとステージの方を見ている。

 ただ番号を見るだけでこのような感情にされるのは、受験の時以来だ。その時以上に緊張している心地さえしている。

 

「よしっ、では、発表するぞォォ!!!」

 

 ごくりと息を飲んだ。

 

「栄えある決勝進出カップルは、こちらのカップルだァ!!」

 

 それと同時に、五人のスタッフが一斉にプラカードを上げた。

 五つの番号が八幡の目に飛び込む。

 そこには、『13』という数字が──

 

「あ……、あった、あったぞ!! 比企谷あったぞ!! やった、やったぁ……!!」

 

 下手側、つまり左から数えて一番目のプラカードに確かに『13』と記されていた。

 

「おぉ、ホントだ、あるな!」

 

 平塚は強めに八幡の肩を叩きながら、嬉しさを抑えきれずにぴょんぴょんと飛び跳ねている。八幡も彼女ほど表には出さないものの、ホッとしたのと同時に、異様なまでの高揚感と達成感に包まれていて、グッとガッツポーズが出ていた。

 

「やったぞ私たち!! 決勝戦に行けたぞ!!」

「あぁ、まさか、ホントに残れるなんてな。こんなに嬉しいとは思わなかった」

「なぁ、比企谷!」

 

 平塚はそう言って、両腕を肩幅ほど広げた。八幡はそれを見て、少し面倒くさそうにしながらも、嫌がらずに両腕を肩幅ほど広げた。

 

「イェ────イ!!!」

 

 叩きあっても、平塚の手は少し湿っていて、以前のようにパンといった乾いた音は鳴らなかった。彼女もそれ相応に緊張していたようだったことが分かる。

 ただ、平塚は変わらず八幡に向けて、あけすけもなく本当に嬉しそうににっこり笑っていた。

 男は得てしてそういう顔に弱いもので、つられて八幡も思わず顔が綻んでしまっていた。

 

 そんな二人の嬉嬉とした様子を見ていた近くの女の人が「おめでとう」と讃えてくれた。

 そして、それは偶然にもあの中年夫婦の奥さんだった。

 

「最初の種目と二番目の種目の時、私たちの隣にいたわよね?」

 

 平塚と八幡は揃ってこくんと頷く。すると、奥さんはふふっと優しく笑った。

 

「なんかの縁だから、私たちの分まで頑張ってね」

「はいっ、頑張ります!」

 

 平塚は元気に応えた。その時、旦那さんと一緒に五、六歳くらいの短パン半袖の兄がこちらに向かって歩いてきた。あの子は毎レースで熱い檄を飛ばしていた子だ。

 そしておそらく幼稚園にも上がっていないような妹もよちよちと歩いて、父と兄の後ろを一生懸命ついてきている。

 兄は二人の顔を見るなり、目の前にいるというのに大きな声で檄を飛ばした。

 

「カッコ好いおにぃちゃんとおねぇちゃん、頑張れ!! カッコ悪いドベのとおちゃんとかあちゃんの分まで!! 応援してるからね!!」

 

 そして、その兄の様子を真似て「わたちも、にいちゃとねえちゃ、応援ちてる!」と舌っ足らずな妹も二人に声をかけてくれたのだ。

 

 純粋な子供の応援に、思わず愛らしさが芽生えて、元来人見知りで他人の子供は好かない八幡ですらも頬がだらぁんととろけていく。だから平塚の方はもう可愛いことこの上ないというような感じで、子供の身長ぐらいの高さまでしゃがむと「むふふぅ〜、ありがとな〜、お姉ちゃんとお兄ちゃん頑張るからな〜」と二人の綺麗な黒の髪の毛をわしゃわしゃと撫でていた。

 一方、引き合いに出されてばつが悪いお父さんは、子供二人に向かって、「余計なこと言うんじゃないよぉ……」と面目なさげに投げかけたが、威厳はなく平塚に頭を撫でられて心地よさそうにしている兄妹にはその言葉は届かなかった。

 

 まもなく「ステージ前に集合してください」というアナウンスが入り、名残惜しくも中年夫婦とその兄妹に別れを告げ、ステージの前に集まった。

 

 ステージ前に集まった人の中には、勿論、あのゼッケン番号22番のカップルもいた。他のカップルも、ここまで来たからには、という面持ちで、先程までとは打って変わってピリリとした雰囲気があった。

 

「というわけで決勝進出おめでとうございます! 決勝戦は女子の個人種目と、男子の個人種目に分けられます。詳細は決勝戦開始前にて説明しますので、まずは着替えてもらいます!」

 

 八幡は首をきょとんと傾げた。スタッフの言う()()()の意味が分からなかったのだ。

 そしてまもなく、男と女に分かれ、スタッフに導かれるがままにしばらく歩くと、最初は、運動場に併設されたシャワールームに連れてかれていた。

 そこで一通り汗を流した後、再び別の場所へと連れていかれた。

 そして、先程の()()()がどういう意味かは、次にスタッフに連れられた場所の光景を見て、すぐ気付いた。

 

「……なるほど、そういうことか」

 

 シャワー上がりの八幡が連れられた待合室のような部屋には、フィッティングルームのようなカーテンで仕切られた小部屋が五つ用意されており、そしてその部屋の中心には眩いばかりの白銀のタキシードのジャケットとパンツが計一○着ほど、ハンガーラックに掛けられていた。そして、周りにはネクタイのハンガーラック、ベストのハンガーラック、そしてシューズボックスもある。

 

 タキシードの尺などが分かるはずもない八幡は、取り敢えずピタリと合うサイズのものを選んで一通り着替えた。

 スタッフの「お似合いですね!」という分かりやすいお世辞とともに、次はメイク室のような所へ連れていかれ、鏡台の前に座らされると、スタッフによってアホ毛混じりの癖の強い黒髪は、前髪がぐるりとかきあげられ、髪はワックスで固められ、みるみると見たことの無い髪型へとセッティングされた。

 鏡写しの八幡の姿はもはや別人ではあるが、相変わらずの目つきの悪さが哀しくも彼であることを証明している。

 そして、そんなことをしている間に時間はとっくに日没を回っていたようで、外に出て、ステージ脇の白テントの仮設の控え室まで連れていかれた頃には、会場周りの大きな電灯は光を放ち、会場を照らしていた。

 控え室では、決勝戦のオープニングに関する指示をスタッフから受けた。その指示は呑み込むことができたが、いかんせん慣れないタキシードで、未だに非常に心が落ち着かなかった。(しわ)の一本もつけてはいけない気がして、自然と座り方もいつもの猫背から、真っ直ぐな背筋になっていた。

 ただ、心が落ち着かないのは、それだけのせいではない。八幡が白のタキシードということは、つまりだ。

 まもなくして、舞台の方から、再び大音量のBGMが流れ始めた。

 

「レディィィィィィース、エエェェェエンド、ジェントルメェェェエン!! いよいよお待ちかねェ!! 七夕最強カップルコンテストの決勝戦の始まりだァ!!!!! 私は、予選においても司会を担当させていただいた、長生きと九十九里の申し子ミスターナインティナインだぁ!! よろしくゥ!!!」

 

 ミスターナインティナインの挨拶だけが聞こえるが、その後に、予選の時とは明らかに違う量の拍手と声援が聞こえてきた。きっと、祭りの観客も(こぞ)って決勝戦を見に来ているということだろう。

 八幡は明らかに瞬きの回数が増えていた。周りのタキシード姿の男たちも、その歓声が聞こえると明らかに動揺していた。ただ、22番だけは顔色一つ変えずに、泰然自若(たいぜんじじゃく)としていた。

 

「ありがとうございまァす!! それでは、早速、最強に相応しい決勝進出カップル五組を紹介していくぜェ!! まずは一組目だァ!! カモオオォン!!!」

 

 スタッフが「足柄(あしがら)さん」と呼ぶと、件の22番の黒光りのがたいのいい超人男──足柄は、(まさかり)担いだ金太郎でさえも腰を抜かしてしまいそうな貫禄そのままにゆっくりと椅子から立ち上がった。まじまじと改めて見ると、身長が一八五センチは軽く超えてそうなほどかなり高く、目尻につれて釣り上がるその細長く鋭い切れ目は、見下ろされるだけで腰が抜けてしまいそうなほどの威圧感があった。

 そして、彼が控え室を出ると、「圧倒的強さで、ぶっちぎりトップで予選通過した大本命、足柄・松田(まつだ)カップルだァ!!」というミスターナインティナインの紹介とともに、会場は再び歓声に包まれていた。

 その後も次々と呼ばれ、いよいよ最後となった。そして、八幡は一人控え室に残っていた。

 

「そして、最後はァ!! おっ、今回のコンテスト最年少カップルが、決勝に駒を進めたァ!! では五組目、カモオオォン!!」

 

 八幡がスタッフに「比企谷さん」と呼ばれる。

 いよいよ出番が来た。椅子から立ち上がる。

 控え室から出て、舞台袖から舞台へと続く階段に臨む。そして階段を一段ずつ上がると、ステージには、先に呼ばれた四組のカップルが並んでいるのが見えた。

 そして、反対の舞台袖から上がってくる人影を見て、思わず息を飲んだ。

 

「若さは、最強にふさわしい特権だァ!! 青春の嵐を巻き起こせェェ!! 比企谷・平塚カップルだァァァァ!!!」

 

 その人影が(あらわ)になるにつれて、鼓動が早くなる。

 ぼやけた黒い影は、やがて透き通るほどの白へと変わる。

 八幡がステージ上に完全に立った頃にははっきり見えていた。

 

 あまりの美しさに見とれてしまっていた。

 あまりの可憐さにそれは絵画であるように見えた。

 あまりの麗しさに本物の一国の姫君であるように思えた。

 

 純白のウェディングドレスを(まと)った平塚静──がそこにいたのだ。

 

 八幡はスタッフの指示通り、一歩ずつセンターステージに歩み寄る。それは当然平塚もそうで、一歩ずつ近づく度に、八幡の心臓の鼓動が早く、強くなっていった。

 たとえ、面前に下ろされたきめ細かい白のヴェール越しからだとしても、普段ですら油断すれば不意に見とれてしまう端麗な顔立ちが、いわゆるブライダルメイクによって盈盈(えいえい)としてより一層際立っていて、瞬きするのも惜しくなるほど目を奪われてしまう。

 そして、ふくよかな胸元が露になっていて、(あで)やかでありつつも、肩や腰回りは華奢なその身体は、見事にウエディングドレスに調和して、引き立てられている。

 まさしく、羞花閉月(しゅうかへいげつ)の美人とはこのことであった。

 

 そして、数歩歩いて、目の前に、立った。

 指示通り、二人は腕と腕を絡める。手を握る時とは違う感触が八幡に伝わる。スタッフの指示が無かったら、とんでもないことになっていたかもしれない。それほど美しかった。

 そして、スポットライトがあてられているステージの前方へと、揃えて足を踏み出した。

 

 そして五組がセンターステージに揃った。

 

「では、この五組で決勝を行うぜェ!! 気になる最初の種目は、五人のシンデレラ達による、『ガラスの靴を蹴っ飛ばせ!! シンデレラ靴飛ばし!』だァ!!」

 

 ルールは非常にシンプルだった。

 ガラスの靴に見立てたプラスチック製の靴を思いっきり遠くに飛ばすだけ。

 

 まもなく、それは始まった。

 ハンマー投げや、やり投げで使うような簡素なサークルの中に、ウエディングドレスの衣装は、異様でしかなかった。ただ、そのサークルにスポットライトは照らされ、周りには老若男女の観客に囲まれ、今そこは舞踏会のステージよりも華々しい場所なのである。

 

 

 

 

 ──そして、平塚はぶっちぎりの一位で帰ってきたのだ。

 

「……やっぱ、すげぇわ平塚」

「だろぉ! もっと褒めてくれてもいいんだぞ!!」

 

 ふふんと鼻にかける平塚は、結局プラスチックの靴を二○メートルも飛ばしたのだった。観客も花嫁姿の人が見せることはないであろう豪快なキックモーションに、言葉を失い、天高く放物線を描く靴は、一瞬夜の空に溶け込んで見失ってしまうほどだった。

 勿論八幡にとってはありがたいことこの上なかった。今回は、この靴飛ばしの結果によって、男子個人戦に影響があるとの事だったのだ。つまり、ここで一位を取ることは、他と比べてだいぶアドバンテージを稼げたことになる。

 

「あぁ、お陰で、何とかいけそうだ」

「私の頑張りの分まで頼んだぞ、比企谷っ!」

「うわっ、凄いプレッシャー……」

「二位だからな、絶対に二位だからな!」

「うげぇ……」

 

 胃がきりりと軋む音がして、八幡は苦い顔になる。

 すると、突然平塚はしげしげと八幡のタキシードを見つめ始めた。

 

「……なっ、なんだ、やっぱ似合ってないか?」

「いやぁ、そういう訳じゃなくてだな。こんな早く比企谷のタキシード姿を見ることになるとは思ってなくてなぁ」

「こんな早く? 俺は、一生着ることはないと思ってたが……」

 

 お返しにじろじろと見てやろうと一瞬八幡は考えたが、そのウェディングドレスを一度見れば、理性が蒸発してしまいそうな気がしてやめた。

 ふと耳元を見てみると、ある事に気がついた。

 

「というか、今更だが平塚はアクセサリーとか付けないのな、イアリングとか。見た感じ他のカップルの人はみんな付けてるっぽいが」

 

 他のカップルの彼女達は、それぞれ予選の時には身につけていなかったイアリングや、ティアラ、胸元にはペンダントを附けていた。ただ、平塚はそういう類のものは一切つけていなかった。それに、今日だけではなく、平塚と話すようになってから今までの間も彼女がアクセサリーをつけたことは無かったと記憶していたのだ。

 ただ、何気なく放ったその一言で、平塚の表情は明らかに曇った。

 

「…………いいんだ、私にそんな大層なものは。そういうのは彼女たちみたいな女の子らしい人の方が似合う。私みたいなのに女物は似合わないんだよ。正直、このウェディングドレスだって、私には全く似合ってないしな……」

 

 いつもは大層な自信家の平塚らしからぬ言葉は酷く自虐的に聞こえた。

 そして、彼女はどこか遠くを見ていた。

 何かを捉えているわけではなく、ただ遠くの暗闇を見ていた。その瞳は、吸い込まれてしまいそうな儚さだけでなく、(きら)びやかな月光を映さず、どんよりと(よど)んでいるようにも見られた。

 八幡も流石に平塚の変わり様に気付き、咄嗟に「いや、そんなことは……」と言葉を繕おうとしたが、平塚は「別に無理に気を使ってくれなくていい」とすげなく返された。

 

「私は可愛くなりたいとは思ってる訳ではないし、こっちの方が性に合ってるしな。……私は生まれつきお姫様にはなれないんだ」

 

 目を閉じて諦めたように言う平塚の言葉は、どこか嘆きにも憂いにも聞こえた。その言葉は一朝一夕のものではなかった。重たく固く、そして、深く深く根が張っている言葉だった。

 八幡は頭を回して何かを伝えようと、平塚が彼にいつも与えてくれているように何かを伝えようとしたが、下手な慰めでは意味が無いどころか却ってその綺麗な薄墨(うすずみ)色の瞳を余計に澱ませるような気がした。八幡は無力さと歯がゆさを感じ、唇を少し強く噛む。

 

「おまたせしましたァ!! ではァ!! まもなく、最強カップルが決まる最終競技を開催するゥゥ!! カップルといえば当然あれだァ! そう、『お姫様抱っこ』対決だァァァ!!!」

 

 そのアナウンスが流れると、それに呼び戻されたかのように平塚の面持ちは元に戻った。

 

「ごめん比企谷、こんなタイミングで、なんか変なことを言ってしまったな」

 

「君にだから言ってしまうのかもな」と平塚は笑う。まるで今のは内に秘めた醜い花だと自ら蔑むように。その笑顔はひどく不自然で、下手だった。

 

「……まぁ、忘れてくれ! よしっ、比企谷、最終決戦、頼んだぞ!」

 

 八幡はこくりと頷くことしかできなかった。

 

 

 

 

 ──まもなく五組のカップルがステージに出揃った。さんざめくスポットライトは全て彼らに向かって浴びせられている。

 カップルの前には、おもりが続々と運ばれてくる。

 ただ、八幡達の前には置かれなかった。

 

「先程の靴飛ばしの結果が反映されるぜェ!! 一メートルにつき二キロのおもりを背負ってもらうゥ!!」

 

 他のカップルの彼氏は、それぞれ腰や肩におもりを巻き付けた。背番号22──足柄に関しては、おそらく四○キロほどのおもりを付けている。

 そしてしゃがみこみウェディングドレス姿の彼女の腰と背中に腕を回す。

 八幡も、平塚に腕を回した。平塚の身体は想像したよりも遥かに華奢で、異性なのだと改めて認識させられる。平塚も、その細く(しな)やか腕を八幡の首周りに回した。

 そして、いよいよ始まる。

 

「ではァ! 最終決戦!! お姫様抱っこ対決開始だァ!! 泣いても笑ってもこれが最後ォ!! 会場の皆さん、カウントダウンをご唱和してくれェ! まずは三からだァ! 行くぞォ!! せぇの──!!」

 

「「三──っ!!」」

 

 

「「二──っ!!」」

 

 

「「一──っ!!」」

 

 

「すたぁぁとぉぉおおお!!!!!」

 

 五組が一斉に立ち上がる。

 大きな声援がそれぞれのカップルに向けられる。

 

 ──一分、二分と、時間が経っていく。

 すると、次第に脱落者が現れた。

 ドタンという音が鳴り、その振動は足元に僅かながらも伝わってきた。

 

「おおっと、ここで、寒川(さむかわ)ペアは脱落だァ!!!!」

 

 

 

 ──そして、気付くと残り三組になっていた。

 

 八幡もかなり満身創痍であった。だが、目標の二位になるまでは、絶対にこの腕を解くわけにはいかなかった。

 また一分と時が経つが、その時横にいるカップルが力尽きたように崩れ落ちた。

 

「くぅぅぅゥ!! ここで、大磯(おおいそ)二宮(にのみや)ペアの脱落だァァァ!! だが、三位!! 是非惜しみない拍手を!!」

 

 会場からは溢れんばかりの拍手と労いの言葉がかけられる。

 いよいよ残り二組。

 

「ねぇ、比企谷、もう」

 

 首に回されている平塚の腕が少し緩んだ。下ろせの合図だ。ここで、下ろせばあれほどまで望んでいた二等が確定なのだ。

 

 だが、下ろさなかった。

 なぜか今、ここで八幡は平塚を抱く腕を解き、下ろそうという気にはなれなかった。

 そして、その理由にはすぐ気がついた。

 

『このウェディングドレスだって、私には似合ってないしな……』

『……私は生まれつきお姫様にはなれないんだ』

 

 八幡は平塚に認めさせたかったのだ、気づいて欲しかったのだ。そして、観客に見せつけたかったのだ。平塚のウェディングドレスが最高に似合っていることを、女の子らしい可憐なこの姿が最高に似合っていることを。

 

 正直、どうして平塚がそう思うに至ったか八幡には全くわからなかった。それはきっと八幡が彼女と関わる前に深く深く根を張ったものだ。

 だから、八幡が全て解決しようなど、烏滸(おこ)がましいことこの上ないのかもしれない。でも見てしまったからには、知ってしまったからには八幡は、彼女が醜いと思っているその花は、醜くないと伝えたかった。そして、笑顔でそれを受け入れたかった。

 それは、まさに平塚が裏表のない笑顔で友達であることを教えてくれたように。

 

 口では照れくさくて素直に言えなくても、言葉では思いが上手く伝わらなくて曲解されるようなことがあっても、今の八幡には、たとえ一夜限りだとしても平塚を()()()にしてあげることができた。

 

 ──絶対に勝つ……

 

 そう固く心に決めて八幡はグイッとテグスに上から引っ張りあげられたように平塚をさらに持ち上げた。

 当然平塚は突飛な行動に困り顔になって、彼の純白のタキシードの襟元を何度か引っ張った。

 だが、八幡は頑なに下ろそうとはしなかった。その時は未だかつてないほど意固地だった。

 平塚もとうとう襟元を引っ張るのをやめ、腕をギュッと回し、より八幡の方へと身体を預けていた。

 

 足柄と八幡の一騎打ちになった。最強カップル誕生を目前に会場のボルテージはマックスになり、二人に向けての声援が送られた。

 平塚の身体を少しでも下げたら、そのままずるずると下ろしてしまいそうだから、グイグイと上へ上へと意識を向ける。

 

 だが、それから三○秒たってもまだ終わりのゴングは鳴らなかった。八幡もそろそろ腕が悲鳴をあげていて、足が膝の方からがくがくと震え始めていた。だが、今、直に感じている平塚のまろやかな体温が、まるで痛みを中和するかのように彼を奮い立たせていたのだった。

 

 さらに三○秒たった。しかし、まだ鳴らない。あまりのしぶとさに八幡は思わず相手の方を少し横目で見やると、全身おもりで巻かれているにも関わらず足柄は依然として悠然としていて余裕の表情であった。その上、足柄は抱えている松田と何か会話しているようにも見えた。

 その姿を見せつけられて、少しも動揺がないというのは八幡には無理だった。途端にぷつりと支えていたテグスが切れたように腕が下りてしまい、土台となっている大腿筋と支えている二の腕の筋肉が張り裂けそうな感覚に襲われた。

 

 ──俺にはそんなこと、さすがに無理か……

 

 そう諦めた、次の瞬間だった。

 足柄は突然腰を下ろして、松田を抱えている腕を解いたのだった。

 会場の人々はその意外な結末に、目を見張った。

 

「──お……、これはっ……!! 足柄・松田ペア、リタイア……。『七夕大決戦~彦星と織姫は誰だ?! 最強カップルコンテスト』優勝はァ……、最年少カップル比企谷・平塚ペアだァァァァア!!!」

 

 ミスターナインティナインが背中を大きく反らし、高らかに叫ぶと、ステージの下の装置から大量の銀テープが月が照らす暗夜に向けて発射された。

 そして、空中をうねるように舞い始めた勝利の狼煙(のろし)ともとれるテープをその目に捉えた八幡はできる限りに丁寧に最後の力を振り絞って、平塚を下ろした。

 祭りの客で埋め尽くされた観客席からは、甲高い指笛が鳴る。そして今まで一番の拍手が二人に向けて送られていた。

 

 

 ──見事、優勝してしまったのだった。

 

 

 その後すぐに表彰式があった。

 村内会報に掲載する記事のためのインタビューがあり、ステージの上での記念撮影もあった。

 それらが一通り終わると、もうだいぶ夜も更けはじめていて、明日学校もあり、電車の時間もある二人は、祭りの出店を回ることはできず、そのまま帰らなければならなかった。

 八幡の行動は突飛なもので、二等を何よりも望んでいた平塚から糾弾されるのも至極当然なことではあった。

 だが彼女はそのようなことをしなかった。

 むしろ彼女は優勝したことを素直に喜んでくれているようにすら見えた。帰り道では大会の総括や賞品の使い道を二人で話し合ったりしただけで、結局八幡の真意を探られるようなことはなく、そのまま最寄り駅で別れることになった。

 

 

 ▼△▼△▼△▼△▼△

 

 

 家に帰って、階段を一段飛ばして駆け上がり、部屋に戻ると、何よりもまず先に、記念品として手渡された紙袋の中から衣装に似たレース柄の白いリボンで丁寧に梱包された純白の包みを取り出して、机の上に置き、はやる気持ちを抑えて、慎重に開封していく。

 そして、純白の包み紙の中に入っていた純白の箱を、なるべく傷つけないように、そっと開けた。そこには裏っ返しの木製の写真立てが収められている。石橋を叩いて渡るようにそれを取り出し、脚の部分を広げて、机の上に立てかけた。

 そして、それを裏返す、つまり、写真が入っている方をこちらに向けた。

 

 そこには、ステージを背にタキシード姿の八幡と、純白のドレスに身を包んだ花嫁姿の平塚が写っていた。

 

 これは優勝した後に撮ってもらった二人の写真だ。

 ポラロイドカメラだから、すぐに現像して貰えたのである。また後日、フィルムで現像したものを郵送して貰えるという話だった。

 

 だが、にわか作りのポラロイドの写真だけでも、思わず頬がだらしなく緩む。緊張しすぎて表情筋がカチコチに固まっている八幡に関してはもはや滑稽であるが、隣にいる平塚がみせているとびきりの笑顔が、心をじんわりと暖かくさせた。

 やはり、平塚のウェディングドレスは最高に似合っていることがこの写真の中に確かに証明されている。それが嬉しくてたまらなかった。

 

 そして改めて実感する。本当に友達になることが出来たのだ、と。この写真は二人の確かな繋がりを示し、それが元来心配性の八幡には何より嬉しいものだったのだ。

 こんなに良い友達を持てるなぞ、高校二年に上がりたての一人ぼっちの自分に教えてもこれっぽっちも信じていないだろうと八幡は思わず笑ってしまう。

 

 

 ──だが、ふと、本当にふと考えてしまった。

 もし写真の中のこのタキシード姿の八幡が、見ず知らずの男にそっくりそのまま変わっていたら。そして同じように、平塚がこんな笑顔をしていたら───。

 

 その瞬間、どっと黒いものが濁流になって押し寄せた。

 

 黒いものは、積み上げられ心いっぱいに満たしていた多幸感をいとも容易く飲み込み、ただただ真っ黒に染め上げた。

 

 氷の厚い壁が溶けてしまったからこそ、入ってきた異物。

 咄嗟に八幡は、その写真立ての足を畳み、梱包されていた箱に強く()じ込む。そして、それを机の引き出しの中に仕舞うと、自分の身を布団に投げ、足と手をだらんと流して白い壁紙の天井を見つめた。しかし、その天井が真ん中からだんだん黒ずんでいくように見えた。

 

 そして、その天井の黒ずみから、ぬるると、人影が現れる。それは、背格好は八幡と似ていて、さらにタキシード姿であるのに顔は真っ黒に塗りつぶされていた。

 ただ、その人影が不敵な笑みを浮かべたのはなぜかわかった。そして八幡に向けて問いかけてきた。

 

「今が不満なのか?」

 

 

 ──不満はない。

 

 

「十分幸せじゃないか」

 

 

 ──確かにそうだ。

 

 

「なら別に()でもいいじゃないか」

 

 

 ──────────…………いやだ。

 

 

「……ふっ、お前は呆れるほど欲張りで、どうしようもなく醜いな」

 

 そう吐き捨てた人影は、天井の黒ずみに吸い込まれていく。

 気付けば、元の白い壁紙の天井に戻っていた。

 

 ──八幡はまだ自分を知らなかった。

 このようなひどく醜く傲慢な欲望が自分の中にあるなど思いもしなかった。

 まだこの欲望に、名前を付けられなかった。

 

 

 

 

 そして、酷く、自分自身が、嫌になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 









拙文を読んでいただきありがとうございます。
そして更新が一週間遅れたことお詫び申し上げます。

今回の舞台の長生村の七夕祭りに関しては完全にフィクションですが、長生村はとても素晴らしい場所なので、ぜひ訪れて頂ければ幸いです。

前回に引き続きですが、たくさんのお気に入り登録とご感想ありがとうございます。作者の励みになりますので、叱咤激励の感想を是非一文したためていただけたらと思います。今後ともよろしくお願い致します。



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六束: This is Teeny Counter Punch!!






 

 

 

「ふぁあ……」

 

 改札に切符を放り込めばすぐに緑色のゲートが開く。そうして出てきた八幡はよろつきながらも、何とか近くの案内看板に寄りかかって、口をとびきり大きく開けて欠伸(あくび)をする。

 ただでさえ寝惚(ねぼ)け眼気味の目が、本当に寝惚けているので、もはや寝ている時の眼になっている今日この頃。

 時刻は午前八時三○分を回ろうとしている。

 

 向日葵(ひまわり)燦々(さんさん)と咲き乱れ、蝉がこれみよがしに騒がしくなった八月の初旬。

 暦の上ではちょうどこの日に秋が立ったようだが、テレビメディアの中ではただ今は夏真っ盛り。全国の強烈な暑さを毎日のように喧伝(けんでん)している。しかし、実際はその通りで、まだ朝方だというのに、随分と蒸し暑かった。予報ではこのまま暑さは増し、酷暑となるらしい。

 この(したた)る汗はいくら拭っても、また汗が染み出てくる。

 湿った潮風に交えた塩っけは、泣きっ面に蜂だ。

 

 そう、今は夏なのである。つまり高校生にしてみたら夏休み真っ只中なのだ。夏休み中の八幡が高校に足を向けるはずもなく、これは私用なのだった。

 そして今、八幡は人を待っている。

 集合の三○分前、世間一般からすると早すぎるのだろうが、教訓は教訓だ。

 

 待っている間にも、続々と改札から人の大群が雪崩(なだれ)てくる。案内板の前に立っていると、冷ややかな目を向けられたものだから、八幡はいそいそと近くの手すりに腰をかけた。

 その手すりの形は、いつもとは違った。キャラクターの形を(かたど)ってあるのだ。

 こんなところまで凝っている。サラリーマンの汗が染み込んだ現実味のあるの駅前との何の変哲もない手すりを見れば、世界が違うことが分かる。

 

 あの改札は、まるで夢のような運命の国への最初のゲート。

 現実の世界からの客はみな、案内板に描かれた竹を(くわ)えた愛らしいパンダが指し示す方向へ吸い込まれるように進んでいく。

 

 元来リアリスティックでペシミスティックだと自負している比企谷八幡という男は、めったに寄り付こうとしない場所でもあった。単純に性に合わなかったのである。

 決して、エンターテインメントが嫌いという訳でもなく、お一人様大歓迎の映画やゲームセンターには足繁く通っている。毎年恒例のアニメ映画シリーズは毎回欠かさず見に行っている程だ。

 

 だが、そんな八幡も運命の国へと招待される運びになった。それは見事あの大会に優勝してしまったからだ。

 今までの八幡であれば丁重に断っていただろうが、入園料がタダであるならば、乗り気ではないにしても、断ることもなかった。

 ただそれ以上に八幡の中に芽生えた()()()()()()が突き動かしたというのは、彼自身も十分自覚していることだった。

 

 そこから十五分経ち、さらに客足が増える中、改札の向こう側にこちらに向かって手を振る人が一人居た。

 

「比企谷ーっ!!」

 

 八幡が手を振り返すと、その声の主──平塚静は小走りで近づいくる。彼女の私服は、あのスポーツウェアを除けば、初めて見たことになるが、少しダボッとした丸ネックのベージュ色の半袖に、少しダメージの入ったジーンズは、ボーイッシュに感じられた。

 

「おはよう、平塚」

「あぁ、おはよう。早いな比企谷、待たせてしまったか?」

「──そうだな、めっちゃ待ったわ」

「もう、そこは今来たところだろう? ……まぁ、君らしいといえば君らしいか。とにかく、予定より早く集合できたのだから、急いで並びにいくぞっ!」

「えっ、あ、あぁ」

 

 平塚に急かされて予定より早く開園前のエントランス前広場に辿り着くと、思わぬ眼前の光景に八幡は愕然とした。こんな時候だというのに、広場の地面が見えなくなるほど人がみっちりびっちりと芋を洗ったように(ひし)めきあっている。

 

「うげっ……、帰りたい……」

 

 思わず本音を漏らしてしまった八幡を平塚は「バカタレ」と言って軽く頭をはたいた。

 

「まったく今からだと言うのに。そんなことを言ったら士気が下がってしまうではないか」

「でも、こんなクソ暑い中で、こんなクソ混んでるとこ見せられたら、そう思うのもしょうがねぇだろ。逆に平塚は思わねぇのか。しかもお前の嫌いなカップル様がうじゃうじゃといるぞ」

「くっ、ぬぅ……。確かにそうだが、それでも私は思わないな。そんなことよりも私はやっとこうしてこの場に来れたんだ……。あの時の雪辱を……」

 

 平塚はやわっこそうな唇を血が滲んできそうなほど強く噛んで、チケットに大きな折れ目がつくほど手に力を入れていた。

 突然地雷を踏んでしまいそうになったのである。これまた触らぬ神に祟りなしということで、八幡は何もその事には触れなかった。

 

 もう暫くして開園時刻になり、ディスティニーランドの園門が開かれた。続々と人が園内へと流れ込んでいく。

 その門の先には大きな円形の花壇があり、それを取り囲むように様々なキャラクターがお出迎えしている。

 そして、その奥には、西洋風の建物がどっしりと構えていた。久方ぶりのその光景に、八幡も思わず目を奪われていた。

 平塚も同じようで、「久しぶりだなぁ……」と心に染み入っているようであった。

 しかし、それは僅かばかりの間だけであり、すぐに平塚は目の色を変えていた。

 

「よしっ、比企谷。早速だがファストパスのために走るぞっ!」

 

 ファストパスというのは、持っていれば長蛇の列を大幅にショートカットして人気アトラクションに早く乗ることができる券のことであるが、当然枚数制限があり早い者勝ちであり、その券のために走るということは良くある事であった。しかし、八幡は乗り気にはなれない。

 

「え、でも、こんなクソ暑い日に……」

「うだうだ言うな。何時間も暑い中で待ちぼうけ食らうよりはよっぽどマシじゃないかっ!」

「まぁ、確かにそうかもしれないが、って、おい、待てっ……!」

 

 結局八幡は平塚の後を追いかけるように園内を疾走することになった。

 そして、無事一番人気アトラクションのファストパスを手に入れたのだった。

 しかし、無事ではないのは我が身である。八幡は膝に手をつき、息を荒くしていた。

 

「ぜぇぜぇ、よし、これで、大丈夫だよな……」

「何を言ってるんだ。次は別のアトラクション乗るために普通に列に並ぶぞ。まだこの時間帯なら空いてるはずだから」

「嘘でしょ……」

「比企谷っ、走るぞっ、ほら早くっ!」

 

 そして、またも全力疾走した。

 息も上がって乾き始め、汗も滝のようにダラダラと流れる。とりあえず多めに持ってきたハンディータオルが早速役に立った。

 八幡は額や首筋をそれで拭きながら、呼吸を整える。

 一方、澄ました顔をしている平塚の無尽蔵っぷりに驚かされるものだった。七夕の時は体力はそこまで変わらないと思っていたが、どうしていまこのような差が生まれているのか八幡には分からなかった。

 ディスティニーランドにまで来てここまで疲れる必要はないじゃないかと四の五の言ってやろうと八幡は思ったが、「なぁ、比企谷、楽しみだな!」と、そう飛び抜けて嬉しそうな顔で言われては、「あぁ」と相槌を返すだけで文句もすっこんでしまった。

 

 

 ──一つ目のアトラクション、目玉の一つである山岳地帯を駆け巡るジェットコースターを乗り終えた後、階段で下へと降りる途中にある店で立ち止まった。そこには遊園地でよく見られるような、ジェットコースターの途中に撮られた写真がずらりと並んでいるコーナーがあった。

 

「ほら、さっきの写真だ! 私たちは……」

「あれだな」

 

 八幡は右から二番目の写真を指さす。

 

「お、あれか。どれどれ……、ぷふっ。私たち中々の写りっぷりだな」

「あぁ、平塚にいたっては髪が前にかかって貞子にしか見えねぇぞ。つーか何でそんなことになるんだよ」

「それを言うなら比企谷だって、目が死んでしまっているじゃないか」

「それは元々だ」

 

 どちらからともなく堪えきれずに笑い声が漏れる。最近このようないじり合いも増えていた。だが、もちろん悪い気は一切しなかった。むしろ打ち解けられた証であるような気がして、心地よかった。

 ただ写真に関しては、さすがに写りが悪すぎるので、購入しなかったのである。

 

 ──どうやら平塚は事前にある程度の計画を立てていたようで、その後も決まった時刻のファストパスを取るために、何度か全力で走った。他の客の視線などお構い無しで、とにかく走った。そして、コースの最後の最後で滝から落ちていくアトラクションなどの人気アトラクションを乗り倒した。ファストパスなしでは繁忙(はんぼう)期ということもあって、炎天下の中一時間以上待たされたが、アニメの話題のおかげでその時間も特に苦に思うこともなくあっという間に過ぎていった。

 

「今回は走らなくていいのか」

「あぁ、休憩だな。私もさすがに疲れた」

 

 最近できた話題のアトラクションを乗り終えた後、その近くの通りの一角にあったちょうど日陰にもなっている木製のベンチに腰を下ろした。

 平塚の手には途中のお店で買ったチュロスと、肩にはドリンクホルダーを掛けられていた。八幡の片手にもチュロスはあるが、ドリンクホルダーは高かったので買い渋った。

 二人の座るベンチの前を横切る客の顔を見ると、皆幸せそうな顔をしている。これは凄いことだと八幡は感心していた。これが千葉の街中で見られるとは到底思えない。

 ただ他の客から見れば、八幡達も幸せそうな顔をしている客の一人なのであろう。

 

「どうだ、比企谷は楽しいか?」

「うぅん、どうだろうな。まぁ、楽しいんじゃねぇの」

「なんだその言い方は、まったく。私じゃなかったら怒ってるぞ」

「そもそも俺みたいなやつと一緒に来ようとする物好きなんて平塚ぐらいしかいないからな。お前が怒らないなら別にそれでもいいわ」

 

 平塚は「ふふっ、確かにそうかもな、私だけかもな!」とやけに機嫌よく返してきた。

 

 ここでしばらく休憩していると、平塚の目線が隣の売店に注がれていることに気付いた。そこには様々なキャラクターのカチューシャや被り物が売られていて、たくさんの人が立ち止まってそこで被せ合いっこをしている。

 

「なんだ、平塚、あれに興味あんのか?」

 

 八幡がそう尋ねると、虚をつかれたようで、平塚は身体を仰け反って分かりやすく慌てた。

 

「えっ、い、いや、ただ目に入っただけだ! そもそも私にああいうのは……」

 

 歯切れの悪い尻切れ蜻蛉(とんぼ)の言葉は、平塚にしては珍しい。ただ八幡は、彼女がそのように渋る理由は分かっていた。

 

「ま、別に買ってもいいんじゃねぇの。いいじゃねぇか、今日一日ぐらいなら浮かれても。折角来たんだし」

「そうだよな。……うん、そうする!」

 

 吹っ切れた平塚を見て、八幡がここで待ってるからと言おうとした矢先、彼女は「じゃあ、比企谷も買おう!」と提案してきた。

 八幡は狛犬の阿吽(あうん)の阿の如く口をぽかんと開けた。

 

「は……? 何でそうなる」

「それは、だって、私だけつけてたら、一人だけ浮かれてるみたいじゃないか……」

「えぇ、別にいいだろ。そんなの誰も気にしないって」

「やだぁ、絶対にそう見られる!」

「いや、そんなの気にしねぇって、俺らも別にそんな人いても気づかなかっただろ」

「……お願い、一緒に買って?」

 

 普段は切れ長で二重瞼の頼もしささえ感じる双眸(そうぼう)をうるうると潤ませての可愛らしい猫撫で声は何よりもあざとらしくて、凶悪だった。今まで拳で(わか)らされてきていたのに、男の弱点が分かっているとしか思えない行動は、ある意味で拳よりも破壊力が高く、八幡もあえなく屈した。

 

「……分かった分かった。俺も買うから」

「本当か?! やった!」

 

 そんな訳で駄々を()ねた平塚にあっさりと流されるがまま、二人して店の前に立った。所狭しとと並べられていて、思いのほかたくさんの種類のカチューシャがあった。

 平塚は取っかえ引っ変えに八幡の頭に商品を付けていって品評会を始めていた。

 

「これなんか、どうだ。ぷふっ、あははっ……! これは一番傑作だ!」

「……お前、笑っちゃってんじゃん。何それ、そんな似合ってないの」

「今写真撮るから見てみろ! ……あははっ!」

 

 平塚は携帯画面を覗き込むと、より一層大きな笑い声を上げた。確かに写真には、お世辞にも似合ってるとはいえない、というより最早噴飯物(ふんぱんもの)である猫耳の女物のカチューシャを付けて不自然なにやけ面の男が写っていた──。

 

 

「次はどうしようかなぁ〜♪ んふふ〜♪」

 

 上機嫌に鼻歌を歌いながら、平塚はベンチに座ってマップを見ている。

 その頭には黒い丸耳にリボンがついた愛らしいパンさんのカチューシャがあった。

 平塚は、何もついてないパンさんカチューシャとリボンつきのパンさんカチューシャで悩んでいたが、八幡がリボン付きの方が似合っていると言ったら、それからとびきり上機嫌になって、買った後もずっとこんな様子なのだ。

 そして、八幡は、さんざん(もてあそ)ばれた挙句、結局は王道で無難なパンさんの被り物になった。ドリンクホルダーを諦めた男には当然この出費は非常に重いのだが、単純なもので平塚に一番似合っていると言われて、躊躇(ためら)いもせず購入してしまったのだ。

 

「なぁ、平塚、次どこにするんだ?」

「私はパンさんのバンブーファイトに行きたいんだけど、比企谷はどう?」

「よし、そうするか。俺も気になってたし」

「やった! じゃあ、そうと決まれば!」

 

 マップを畳んで平塚は立ち上がる。合わせて八幡も立ち上がった──。

 

 

 △▼△▼△▼△▼

 

 

「バンブーファイト楽しかったなぁ、次は……。って、もうこんな時間か」

 

 時刻は六時をとうに過ぎていた。いくら日が長いと言っても、そろそろ日没の時がさし迫っていて、黄昏(たそがれ)の空には赤みがかった入道雲が悠々と浮かんでいる。

 

「確か夜のパレードは、十九時半からだから、次のアトラクション乗ったら見れなくなっちまうな」

「うむむ、これはしょうがないな。断腸の思いで、今は諦めるしかない……」

「じゃあ中途半端に時間も空いてるし、お土産買いに行けばいいんじゃね?」

「おぉ、それは名案だ!」

 

 それからエントランスゲートの近くの売店が集まったエリアに行って、お土産物を選んでいた。

 八幡に至っては、お土産を買う相手など小町ぐらいしかいなかった。一方平塚はお土産を贈る相手が、一人、二人ではないようで、棚と随分とにらめっこして決めていた。

 

「すまん、時間かけてしまったな。じゃあ、パレードに行くかっ!」

「ちょっとその前に、トイレ行っていいか?」

「あぁ、もちろん。私はここで待ってるからな」

 

 少し離れた公衆便所へ向かった。そして用を足して、手を洗う。洗面台の鏡を見ると、写真で撮った猫のキャラクターのカチューシャ程ではないにしろ、お世辞にも似合ってるとは言えない被り物を付けた男がそこにはいた。

 小町に見られたら最後、彼女の冷笑を買う光景がありありと目に浮かぶ。ただこれも今日一日限りだと言い聞かせて、鏡から目を離した。

 

 公衆便所から出て、小走りで平塚のところへと戻る。

 だが様子がおかしかった。平塚は確かにいたのだが、見ず知らずの男三人と話していた。

 そして、そこで何が行われているか八幡に分からない訳では無かった。その男たちの顔ははっきりとは見えないが、下衆(げす)笑いを浮かべているということは、遠目からでも分かった。それは良く噂に聞くものであり、八幡も嫌いな類の薄汚れた笑いであった。

 

 昔の八幡だったら、ここで萎縮して夏の虫でも怖がって火からは飛んで逃げていったかもしれない。

 だが、今は違った。

 八幡は迷うことなく駆け寄る。

 

「あの、やめてもらって──」

 

 喉元に刃が突き付けられたように言葉が詰まった。

 その男達の顔をはっきりと見ると、急に言葉が浮かばなくなったのだ。

 代わりに、夏のせいではない冷や汗が額をつたあと流れ始めた。

 

「あ? ……って、あぁれ、比企谷じゃぁん?!」

 

 一番身長の高い男はそう言って、八幡の顔を舌なめずりしながら(にら)みつけている。

 茶髪へと髪色は変わっているが、頬骨が少し浮いているその特徴的な顔を八幡は忘れていなかった。名前を伊勢原(いせはら)達也(たつや)といった。

 

「マジ、ヒキタニくんじゃん! ウケるわ〜!! しかも、何そのパンさんの帽子!!」

 

 細く鋭い目を開き珍しいものを見るように薄茶色に汚れた歯を見せて笑うのは金髪の男で、ゆこ綾瀬(あやせ)(りょう)といった。

 

「それ似合ってないですから!! 残念っ!!」

「やめたれって〜、事実言っちゃうと、ヒキタニくん可哀想じゃん〜」

 

 そして、手前にいる男はパーマがかった前髪をかきあげて鼻を興味もなさげに鳴らす。八幡に差し向ける目は酷く冷たかった。

 その腫れぼったいほど厚い二重瞼で西洋人のように彫りが深く鼻筋が通った男が厚木(あつぎ)篤人(あつと)だというのも忘れられるはずが八幡にはなかった。

 

「……まさかとは思うけど、君が言ってた連れって?」

 

 平塚は厚木の問いに、「あぁ、そうだが」と間髪入れずに返す。すると、後ろの二人は腹を抑えて、ゲラゲラと(あざけ)るように大声で笑い始めた。

 

「おいおいマジかよ!! はっはっはっ!! ヒキタニくんとっ?! ムリムリムリムリ、腹痛てぇっしょ〜」

「比企谷お前、金でも払ってんのか?!」

「いやいや、タッつん馬鹿なの〜?! 金払っても、ヒキタニくんなんかとは絶対無理だって〜」

「それな! 確かに無理だわっ!」

 

 酷く馬鹿にされているのは阿呆でも分かる。

 だが、八幡は何も言い返せなかった。今でも耳に──鼓膜にこべりついてるその声は、呼吸を不規則に早くし、身体を小刻みに(ふる)えさせた。

 

「……君たちは比企谷のことを知っているようだが、一体どんな繋がりなんだ」

 

 平塚が至極落ち着いた声で問いかけると、伊勢原は相変らずの癖の唾を含んで口を二度鳴らすことをしてから答えた。

 

「あぁ、盛り上がっちゃってごめん。俺らさ比企谷と同じ中学なんだよねぇ。なぁー、比企谷ー?」

 

 八幡は頷くことすらできなかった。

 逃げ出したいと思った。だができなかった。それほど八幡の足までも立つことがやっとのほど震えていたのだ。

 

「……比企谷と何があった?」

「やめてぇ、そんな怖い顔しないでー。折角の美人が台無しだよー」

「俺たち友達いないヒキタニくんと仲良くしてあげてたぐらいだし〜。ねぇ、アッちゃん?」

 

 厚木は仏頂面のまま、「あぁ」と頷く。

 

「そうそう比企谷さぁ、高校では上手くやってんのかもしれないけど、中学の時色々凄かったからさぁー!!」

 

 伊勢原が唾を含ませ、にちょにちょと音を立てながら楽しそうに言うと、綾瀬が思い出したように吹き出して続ける。

 たった今、()()()()が黒表紙の本の(ページ)を火種にしてつけられると、瞬く間に留まっている夏の虫を火炙りにした。

 

「そうそう〜! まずは、初日になりふり構わず喋りかけてさ。大して喋れもしないのに場を回そうとして、みんなから嫌われてたよねぇ〜! だから、俺らがヒキタニくんと仲良くしてあげたって訳」

 

 ──やめてくれ

 

 声は出なかった。その間にも愉快そうに、そして悪戯(いたずら)に、頁は(めく)られ、燃やされていく。

 

「学級委員とかも立候補しちゃったり〜」

「メールとかもやばかったよなぁー!」

 

 ──やめてくれ

 

「あと、最っ高にヤバかったのは!」

「あの()()()のやつだな!」

 

 ──もう、やめてくれ……

 

「あの雨の日さ、『相合傘行けるんじゃね?』っていうアッちゃんが考えた冗談、真に受けてさぁ〜!」

「『傘持ってるので、一緒に帰りませんか?!』って、昇降口の前で。ぷはっ、今思い出しても傑作だったよなぁ!」

「『比企谷くん、メアド交換しただけじゃん。友達でもないのに』的なこと言われてたよな〜、ヒキタニくんまじ可哀想だったわ〜」

 

 それを聞いて、「なるほど、そういうことだったのか。よく分かった」と平塚は何かを察した様子で言う。

 

「……まぁ、というわけだ。君が知らないだけで、比企谷はこういうやつなんだよ」

 

 厚木は口角を少しだけ上げて笑った。これは、八幡を(おとし)めた時と、全く同じ顔だった。今はまるで獲物を仕留めたような、そんな風に見えた。

 厚木は一歩平塚へと近づき、手を差し伸ばす。

 

「だからさ、そんなやつより、君みたいな良い子は俺らと──」

 

 言い切る前に、厚木は言葉にならない声を漏らして、鼻孔(びこう)を真ん丸に開き、福笑いのようになってその二枚目の顔を不細工に歪めながら後ずさってその勢いでしりもちをついた。

 

 平塚が、鳩尾(みぞおち)に向けて鋭い拳を放っていたのだ。その一瞬見えた彼女の横顔は(しゃちほこ)ばっていて、八幡が一度も見たことのない、年不相応の(いかめ)しささえ感じさせるものだった。

 

 座り込むこともままならず、地べたに転がって苦しそうに唸っている厚木は当然この世界の中ではひどく異質なもので、周り客からの注目を一斉に浴びた。そんなみっともない厚木の姿を見せられた綾瀬と伊勢原は狼狽(うろた)えて目を泳がせる。

 

「きっ、君、何やってんの、正気っ……?」

 

 綾瀬が声を上ずらせながら平塚に問いかける。

 

「腹が立ったから殴っただけだ。なんだ、女に拳を振るわれるのは初めてか?」

「は、は──?」

 

 気が動転して、二人は口元がまごついて、何も話せない様子だった。

 

「君たちは知らないだろうが、私は()()()じゃなくてこういう人間なんだよ。私が言うのもなんだが、君たちの器量ではおそらく私を扱いきれないぞ?」

 

 綾瀬と伊勢原は何も返してこなかった。

 

「それと、ちゃんと比企谷に謝ってくれ」

「はっ、訳わかんねぇし、なんで俺らが──」

「──あやまれっ…………!!」

 

 周りの野次馬も腰を抜かしてしまうほどの、腹の奥底から出たような威厳に満ちたけたたましい声。八幡も初めて聞いた声だった。そして、力が(こも)っているのか小刻みに震えている握りこぶしを見せてしまっては、既に腰を抜かせたボンクラの白旗を引き出すことは難しくなかったようだ。

 

「ひぃっ……、比企谷、俺らが悪かった。俺らが悪かったから、すまねぇ、許してくれ……」

「……では、もう特に話すことも無いな」

 

「あと、最後に」と平塚は付け足す。

 

「君たちよりも、ずっと比企谷の方がカッコイイし魅力的だ。じゃあ、さようなら」

 

 平塚は、まだ震えている八幡の手を力強く、優しく包み込むように掴んだ。そして、野次馬に取り囲まれたこの場から引き剥がすように、八幡の手を引く。

 

「ほらっ、早く行くぞっ、比企谷っ。早くしないとパレードの良い席埋まっちゃうからな!」

「あ、あぁ……」

 

 しばらく平塚に手を引かれていた。八幡はただそれに身を委ねるだけだった。

 彼女は二○○メーターほど走ったところで歩調を変えた。そして、唐突に平塚は笑いだした。

 

「あはははっ! さっきの顔見たか、傑作だったな! 軽く殴ったぐらいであそこまでになるとは、比企谷はもっと凄いもの喰らっているというのに!」

「……」

「まぁ、中々の賭けでもあったな。もしやり返してきたら、さすがに無理だったろうし、私も気が大きくなったものだ……。きっと恨みも買われてるだろうから、もし次あいつらに出会ってしまった時は、今度は君が助けてくれよな!」

 

 おそらく平塚は冗談を言っている。ただ、八幡は何も言えず、全く笑うことはできなかった。

 そして一言、周りの喧騒(けんそう)にかき消されそうなほどの小さな声で謝るだけだった。

 

「……比企谷、気にしなくていいから、全然気にしなくていいからな。それに別に私はあんなことを聞いて君のことを嫌いになったりなんかしない。絶対にならないから」

「あぁ……」

 

 八幡の不安を見透かしたように平塚は子供をあやすような優しい口調で(なだ)めてくる。

 知られたくないないところを知られるのは、たとえ平塚といえども辛いものがあった。古疵(ふるきず)をほじくり返されるのは、単純に恐かったのだ。

 しかし、八幡の醜いところを見ても、おそらく平塚ならば受け入れてくれるかもしれないと彼は期待していた。そして実際、今、受け入れると平塚は言ってくれているのだ。ただ、それでもなお八幡は辛く感じてしまうのだった。

 今は知られたくないことを知られたことも勿論だが、ただそれ以上に、いつも平塚に手を引かれ、背姿を追うだけの自分自身が、惨めで情けなかったのだ。こんな分際で隣にいて欲しいなどと欲に(まみ)れていることが醜くて仕方なかったのだ。

 

「ほら、もう少しでパレードも始まる。あっ、あそこらへんがいいんじゃないか?」

「あ、あぁ…………」

「じゃあ、行くぞ!!」

 

 また平塚に強く手を引かれる。まるでこのままだと中に閉じ篭って、自責の念に駆られるだろう八幡を引きずり出すように。

 園内の少し大きな通りの歩道で人混みを掻き分けて、そのうち見つけた少し空いたちょうど二人分の隙間。そこに身を寄せるようにして、二人は座った。

 まもなく、アナウンスがかかり、エレクトロニカルな耳障りのいいメロディーが園内全体に流れ始めた。

 観客も今か今かと待ちわびている頃、道の先の死角からのそっと舳先(へさき)がその姿を覗かせた。

 やがて、それは大きな帆を掲げて光り輝く巨船となった。甲板(かんぱん)では船頭達が楽しそうに沿道へ向けて手を振っている。それを皮切りに、次から次へと、様々な乗り物が、ディスティニーのキャラクターを乗せて、やって来た。

 それはまさしく非日常。夢の世界とも思わせるような美しく幻想的な光景だった。

 

「うわぁ……、綺麗だなぁ……」

 

 平塚は、うっとりとした様子で、それに魅入っている。

 たしかに綺麗だった。

 ただ八幡には、そんな絢爛(けんらん)豪華なパレードよりも、その(きら)びやかな灯りに輪郭を照らし出された平塚の横顔のほうがよほど綺麗に見えた。

 

 だが、綺麗すぎるが故に、隣に座っている八幡は自身の醜さがさらに炙り出されていくように感じた。

 だから、パレードも、平塚の横顔も見ずに下を向いていた。

 あの男達が言ったように、平塚にはもっと相応(ふさわ)しい人がいるはずなのだ、と八幡も納得してしまっていた。だが、それでは嫌だと我儘(わがまま)で傲慢な欲望が胸を苦しいほど締付ける。

 だから、そんな痛みから解き放たれたい八幡の弱さが、彼の口を動かしていた。

 

「何で俺なんかと──」

 

 少し顔を上げて放った小さな声は、すぐお祭り騒ぎのパレードだったら掻き消されていたはずだった。

 しかし、偶然今は波が過ぎ、ちょうどさかりの谷間であり、平塚の耳元に微かに届いたようだった。

 

「ん、今なんて……?」

「何で俺なんかと友達でいられるんだ……?」

「……だーかーら、さっきのことは気にしなくてもいいんだぞ。むしろ君の弱点も知れてよかったなぁ。今度からからかいがいがある! 君があの時私に傘を渡してくれたのもそういう事だったのか、ふふっ」

「俺はっ──!」

 

 顔を振り上げ、似つかわしくない張り上げ声を出す八幡の様子に、平塚も目を丸めていた。

 

「……俺は、平塚と違って、根暗で、空気読めなくて、欲にまみれてて、情けなくて、気持ち悪くて、そして平塚に迷惑かけてばっかで……、なんでそんな俺と……」

 

 また下を向いた八幡は、張り詰めたような震えたような声で絞り出した。それに平塚は呆れたようにため息をつく。

 

「はぁ、全く君は。さっきも言ったが、私は良い人ではないんだ。苦手な人と一緒に二人っきりで過ごせなんて、まっぴらごめんだ。それに、私たち友達だろ? まさか、私がボランティアで友達してると思ってるのか、君は」

「でも、それぐらい俺は……。よく考えてみりゃ友達になる理由もねぇし……」

「──理由ならある!」

 

 強く芯のある声で言い切った平塚はまた八幡に笑いかける。その声は、強く強く八幡の中で響いた。

 

「君と一緒にいると本当に楽しい、君と一緒にいたいって私が心の底から思うからなんだよ、比企谷」

 

 何度も見た裏表のない、何の汚れもない、何よりも一等輝いている綺麗な笑顔で。

 

「ふふっ。そんな簡単な理由では、ダメか?」

 

 その瞬間、胸の中に、強い風が吹いた。そしてそれが黒い(もや)(すす)を一切合切いとも簡単に吹き飛ばしていく。

 

 

 ──こんな風は、桜の花がはらはらと舞っている春の日にも吹いていた。

 

 それは、高校二年生の春学期が始まってすぐのことだった。

 いつも通り八幡は昼休みにベストプレイスで誰にも邪魔されずのんびりしていた。

 目の前の路地に薄べったく拡がり、淡いピンク色へと染めている花弁(はなびら)が、強い春の風に煽られて、まさしく花嵐となって宙を舞っている。

 その光景をただ何も言わずに眺めているだけだ。校舎の隙間を吹き抜けていく風の音とが揺らされた木々の音が生みだす和音はどこか趣があった。

 八幡にとって、自然物を見るのはとても好ましいことだった。それ以上に人が(たか)っているのを見るのが嫌だったのだ。

 八幡にとって、周りの物が偶然奏でる音を聞いていることがとても心地よいことだった。それ以上に、人の声を聞くことが嫌だったのだ。

 だから、この場所を棲家(すみか)として選んだのだった。

 そんな安寧(あんねい)を壊す侵略者がその日、八幡の目の前に現れたのだった。真っ直ぐ芯があって張りのある声は、悪目立ちしていて心地よい和音をぐちゃぐちゃに掻き乱す。

 

「なんで話しかけてくるんだよ?」

 

 頬に力がこもる。普段から疎まれる目もより一層の剣幕があった。これは侵略者への威嚇みたいなものと相違なかった。

 

「社会のはぐれ者への同情か? 出席番号で前後になったからって、情けをかけようとしてんのか? やめてくれ、俺は別に一人でも大丈夫な人間なんだ。逆に困るんだ。お前みたいなやつに近付かれると──」

 

 次の瞬間、八幡は衝撃とともに腹が(えぐ)られるような感覚に襲われ、漫画やアニメでしか聞いた事のないような声を漏らしていた。

 その侵略者からみぞおち辺りに向かって、拳を放たれていたのだ。

 段から転げ落ちて、(うずくま)る。横隔膜が潰された感じがして上手く呼吸もできなかった。

 しばらくしてなんとか息を整えると、当然突然拳を振るってきた相手へと睨みつけた。

 

「い、いてぇじゃねぇか……。何すんだよ」

「──だって、話を聞いてくれそうにないから、()()()()()()()()()()()()を見舞ってやっただけだ!」

 

 なぜか侵略者は得意気に、そして制服からも分かるほどの目立つ胸を大きく前に張っていた。

 

「ス、スクライド……」

「やっぱり、君は知ってるのか、スクライドを!」

「知ってるからなんなんだ」

「私の見込みが当たったということだ! やっぱり好きなんだな、スクライド。私も好きなんだ!」

「だから何なんだよ。話しかけてくる意味が分からん。あれか、新手の詐欺か。共通の話題で仲良くなってうっかり惚れさせた後に金を(むし)り取ろうてしてるのか?」

 

「そんな訳ないだろう」と平塚はきっぱり言う。

 

「じゃあなんで──」

「君と趣味が合いそうだし、話してて楽しそう。つまり私が君と一緒にいると楽しそうだと思ったからだ! 」

 

 思わず八幡が見とれてしまうほどの笑顔を侵略者──平塚静は見せつけた。

 直ぐにいつもの癖でそれに隠された裏の顔を暴こうとしたが、その時は全く見つかりそうにはなかった。

 

「それでは、ダメか?」

「……俺の都合はどうなるんだよ」

「君の都合なんぞ知るわけなかろう! 私が君と話したいから、君と話す。ただそれだけだ」

 

 そんな有無を言わさぬ暴君まがいの態度に、思わず八幡も苦笑にも似た笑みを(こぼ)してしまった。

 

「もちろん君がどうしても、死ぬほど嫌だと言うなら、遠慮はするがな」

「まぁ、今のところ殴ってきたインパクトが強すぎて、印象最悪だけどな」

「はっ?! あわわわ、すまん、許してくれ。この通りだ」

「まぁ、いいわ。一応聞いておくが、死ぬほど嫌だから話しかけてくんなって言ったらどうすんだよ」

「その時は、殴る……?」

「ははっ、もう逃げられねぇじゃねぇか」

 

 本当に無茶苦茶な話である。だが、妙に心地よかった。決して八幡がマゾヒストだからという訳ではない。ただ、八幡が最も嫌う彼に向けてと見せかけての我が身のための嘘が彼女からは一切見られなかったからかもしれない。

 その時八幡の頬を叩いた風を──小さな小さな風穴を開けたあの強い風を未だに忘れてはいなかった。

 

 

 ──そう、平塚は出会った最初から言葉にしてくれていたのだった。

 八幡のそばにいる理由を、その彼が知る限り最も澄んでいて、一等輝いている笑顔とともに。

 そして、平塚のその言葉は嘘偽りない言葉だということを呆れるほど疑り深く、うざったくなるほど怖がりの八幡に対して、見限りもせず行動でいつも示していた。

 

「それにあいつらの知らない良いところを私はたくさん知ってる。自信を持ちたまえ。君は私から見たらとっても素敵な人だぞっ!」

「……ありがとう、平塚」

 

 普段だったら顔から火が吹きでるほど照れくさく、お世辞だと切り捨てるかもしれない平塚の褒め言葉も、今はただただ身に沁みるほど嬉しかった。

 どれだけこの一人の女の子に救われているのだろうと、男としての情けなさに八幡は笑ってしまう。

 

「……すまん、急に変なこと言い出しちまって。めんどくさいし、困るよな、こういうこと」

「いいんだいいんだ。それに、私、君の面倒くさいところも結構()()だからな」

 

 八幡はぎょろっと目を見張った。

 平塚にとっておそらく何気ない些細な一言は、彼には非常に大きく、簡単に心を揺さぶる。

 当の平塚は、もうパレードの虜になっていて、今か今かと次の波を待っていた。そして、一際大きな車体が宴の曲の盛り上がりと共に、その姿をゆっくりと現していく。

 とうとうパレードの山場が訪れようとしているのだ。

 

「比企谷っ、ほら、あそこっ!! パンさんが来たぞ、パンさんが!!」

「……本当だ、パンさんがいるな」

 

 空言だった。八幡はパンさんを見ていなかった。

 パンさんに釘付けになっている平塚の横顔を再び見ていたのだ。

 興奮のせいか少し赤らんでいるようにも見えるその顔は、やはり絢爛豪華なパレードよりも輝いているように八幡の目には映った。今この場所にある何より、今まで見た中で一番美しいもののように見えた。

 

 ただ、だからと言って自分自身に対する醜さは湧き出てこなかった。平塚はこんな自分といることが楽しいと、一緒にいたいと言ってくれるのだから。

 

 その代わりに、拍動が少し早くなるのを感じた。

 

 そして、一つ、また欲がふつふつと湧き出てきた。

 

 ──こうして()()()()()()()、と。

 

 

 顔を上げて、パレードを見る。

 目の前には、一際大きく、そして輝く乗り物に乗った竹を口に銜えたパンさんがいて、丸っこい肉球をこちらに向けて手を振っている。そして、微笑みかけてくれているような気がしたのだ。

 それは、まるで、世界中でたった一人しかいないであろう人物と、出鱈目(でたらめ)でもなく誇張でもなく、そして紛れもなく運命的な出会いを果たすことができた八幡を祝福してくれているようであったのだ──。

 

 

 

 ──眠りに落ちゆくように異世界の灯りは消えてゆく。

 あれだけ賑わっていたのはまるで夢であったかのように、どこからか郭公(かっこう)の鳴き声が聞こえそうなほどの静けさを漂わせていた。

 役目を終えたエントランスゲートは客人を見送ると、段々と閉じてゆき、錠をかけてゆく。そんな哀愁がある門を背にして二人は駅の方へと向かって歩いていた。

 結局、閉園時間の二十二時になるまで、アトラクションを貪り尽くすほど楽しんでいたことになる。

 閉園時間までいても普通に帰れるという千葉市民である事の利点を余すことなく享受した。

 

「楽しかったなぁー。比企谷はどうだ?」

 

 頭からはすっかりカチューシャが取れた平塚は腰を前に曲げて、下から八幡の顔を覗き込むような格好で尋ねてくる。

 

「楽しかったな」

「おぉ、珍しく素直じゃないか」

 

 八幡の口元は少し(ほころ)んだ。

 そして、たった今浮かんできた言葉も、今日以前の八幡であれば常駐していた喉元の番人が胃袋の方へとすげなく突き返して、溶かしてしまって無かったことにしていただろうが、その番人とやらも八幡の中からお役目を終えて、姿を消した。

 だから、その言葉が、八幡の口から紡がれた。

 

「──あぁ、平塚と二人で来れて良かったわ。本当に良かった」

「ふぅん。そうか、って──」

 

 一瞬驚きで目をかっと開いて八幡の方を見た平塚は、目が合うとすぐに八幡にも分かるほどぼっと顔を赤く染めた。そして、顔を隠すように手をあたふたさせる。

 

「なっ、なっ、なっ、何を言うんだ君はっ?!」

「いつものお返しだ。言うなれば、ちょっとした()()()()()()()()、ってところなのか」

 

 八幡のかましたカウンターパンチはささやかながらも平塚に効果覿面(てきめん)だったようで、その言葉が耳に届いてる様子もなく、手櫛(てぐし)で上から下へと解くように横髪を(いじ)りながら、何か小言をボソボソと呟いていた。

 その様子を見て、可愛らしさとおかしさが同時に込み上げてくる。

 

「ははっ、平塚は人にはそういうこと言えるくせに、言われるのには慣れてねぇのか」

「う、うるさいっ! ばかっ、なぐるぞっ!」

「流石に、勘弁だ……」

 

 そこからは照れているのかはたまた機嫌を損ねたのか、顔を逸らした平塚はうんともすんとも言わなくなった。

 やっと口を開いたのは駅のホームで帰りの列車を待っていた時で、平塚は突然何かを思い出したようで「あっ、そうだった」と声を上げる。

 

「比企谷、手を開いてくれ」

「あ、あぁ、分かった」

 

 不思議に思いながらも八幡が言わたれた通りに、手を開くと、平塚はたくさんのお土産の入った袋を漁り始め、何かを手に取ると、その手に取ったものを八幡の開いた手の上に置いた。

 そこには、お土産屋さんに並んでいたパンさんのストラップがちょこんとあった。パンさんが腕に抱えている宝石の型をした添え物がきらりと輝いている。

 

「これ、パンさんのストラップ……。なんで俺に?」

「せっかく今日来たんだ、記念にな。それと一、二時間程早いが、誕生日プレゼントも兼ねてだ」

「ま、まじで……?」

 

 八幡は目を白黒させながら、その愛らしいストラップをまじまじと見る。

 今日の日付けは立秋の八月七日。明日の八月八日は、確かに八幡の誕生日であるのだ。

 

「あぁ、大マジだ! 正直、コンテストで貰った商品券も親に渡してしまったし、最近財布の中身がひもじいから、このぐらいの物しか買えなかったが、その、どうだろうか……?」

 

 少し不安げに八幡の様子を(うかが)っている平塚だったが、彼からすれば言わずもがなのことであった。

 

「──嬉しい。すげぇ、嬉しい」

「そ、そうか! なら、良かった……。君が喜んでくれればそれが一番だからな」

 

 すると、平塚は再びお土産の入ったビニール袋を漁り出して、彩色だけが微妙に違うストラップを取り出したのだ。

 

「そして、これは私の分」

「え、ペアってこと?」

「べっ、別にいいじゃないか。これが二人でディスティニーで行った思い出の証に、な……?」

「あ、あぁ、お前がいいなら、別に何も問題はねぇわ」

 

 改めて八幡は手にしたパンさんのストラップを見た。

 これは正真正銘、平塚が八幡のために、八幡の誕生日を祝って買ってくれたものだった。その嘘偽りない事実にまた彼の胸が熱くなる。

 

「……本当にありがとな、平塚。でも俺の誕生日をどこで……」

「あぁ、それはな、秘密の集まりがあってだな。生徒会っていうんだが」

「……なるほど、ただの職権乱用じゃねーか」

「まぁ、そういうことだ。でも、ちっちゃいことは気にするな、ってやつだ」

 

 ワカチコワカチコという変てこな言葉を急に口にした平塚に八幡は困惑して、眉根に寄せた。しらけた空気を察したのか一度咳払いをした後、「これも言わなければ」と続けて話した。

 

「お返しとかいいからな、別に。私の誕生日なんて気にするんじゃないぞ」

「なんでだよ」

「誕生日は年が増えるだけだ、これっぽっちもめでたくない。むしろ来ないで欲しい。減っていくのなら喜べるんだがな……」

 

 その憂いはやけに感情のこもっているものに聞こえた。

 

「それ、もう二回りぐらい上の人の発言じゃねーの」

「そんなこと言ってたら、絶対いつか後悔するぞ」

「そういうもんなのか?」

「あぁ、そういうものだ!」

「……そうなのか」

 

 八幡が、勢いに負かされて口を閉じる。

 そして、おかしくて二人して笑った。周りにいくらか人がいることも忘れて、かなり大きな声で笑っていた。

 そんな二人の横に、重く鈍い警笛を鳴らして、二本の赤いストライプが入った長い電車が入線してきた。

 

 時間ももう夜が更け始めている。通勤客のラッシュもとうに過ぎていて、車内は疎らに席が空いているほどだった。

 二人はパレードの時よりかはいくらか楽に、空いてる座席を見つけ、そこに座った。

 

 肩が触れそうなほど近い距離。

 ちらりと横目で見れば、長い睫毛(まつげ)が見事な上向きの曲線を描いているのも分かった。

 ほんの少し前であったら、『パーソナルスペース』だとかいう流行りの言葉を使って、八幡は逃げるように離れていた。

 ただ、今はそんな事は微塵も思わなかった。むしろ、もっと近づいて欲しいとまでさえ思ってしまっている。さすがに身体をくっつけるほど身を寄せることは勇気もないし、気恥しさが勝ってできないのであったが。

 

 そんな八幡が故に、らしくない、本当にらしくない考えが頭を過ぎる。ただ、それをバグとして免疫が(あや)めてしまうことがなかったことも余計らしくなかった。

 でも悪い気はさらさら無かった。それは変革を恐れ動くことを止めた(さなぎ)が、蝶と成って風光明媚(ふうこうめいび)(はね)を拡げて威風堂々と自由自在に空を羽ばたくように、八幡は一人の女の子との関わりを通して、変わって成長できたことの証左(しょうさ)でもあった。

 この考えは賭けみたいなものであった。だが、だからこそ八幡はなけなしの勇気を振り絞ってそれをその女の子ににぶつけてみるのだ。

 

「なぁ、平塚、急な話なんだが」

「ん、どうした……?」

 

 鼓動は早くなる。なるたけ落ち着かせるように、一息整える。

 

「──九月に一緒に映画見に行かないか? 特撮の映画見に行こうかなと思ってて」

「あぁ、そういうことか。……って、えっ?!」

 

 その誘いに、声をひっくり返して、平塚は八幡の顔を凝視する。車内でそんな声を出したものだから、少ない乗客の注目がこちらに集まり、平塚は慌てて口を両手で塞いだ。

 (はた)からみなくてもデートに誘っているようなものである。それは八幡自身も重々承知していた。だがその想像以上の平塚の反応に、八幡もさすがに度が過ぎたことを言ったかもしれないと、少し息の詰まる思いを覚えた。

 

「い、いや、無理そうなら全然断ってくれても良いんだが……」

「うぅん、行く。私も一緒に見に行きたいっ!」

「ホ、ホントか……?」

「うんっ!」

 

 八幡の目に映る平塚の顔は口角を上げた嬉しそうな顔だった。もうその顔の裏に隠された真実を探そうなどという野暮で穿(うが)った考えは毛頭なかった。

 ただこの目に映されたその顔が、胸を熱くさせ、気を抜けば顔が不細工に緩んでしまいそうなほど八幡にとってこの上なく嬉しいものであったのだ。そしてあわよくば、彼と一緒に行くことがその顔を見せるほんの一因でもあったのならば、と願うばかりであった。

 

 しかし突然「あっ、でも……」と、平塚は打って変わって声をすぼめた。

 

「私、これから文化祭準備もあるし、生徒会でイベントを開催するからとても忙しいんだ……」

「じゃあ、俺が合わせりゃいいだけだろ。スケジュール的なの決まったら暇な日教えてくれ、俺はおそらく、いや絶対、いや一二○パーセント合わせられるから」

「うん、そうだな、ありがとう。でも、中々暇な時間は作れないと思うんだ……」

「そうか……」

「まぁ、早く切り詰めたら余裕はできるかもしれないんだが、どうしても人手がな……」

 

 そんな時、八幡の中に一つの案が浮かんだ。

 これもまた、今までの彼なら絶対に浮かばなかった一つの案が。

 

「──じゃあ、俺が手伝えばいいんじゃねぇの。自分で言うのもなんだが結構デキる方だとは思うぞ」

 

 その提案に、また平塚は瞠目(どうもく)するが、すぐ遠慮気味に首を振った。

 

「いや、別に君に催促したい訳じゃないんだ。これは私の仕事だし、そもそも君のポリシーは面倒なことはしない主義だろ?」

「まぁ、確かにそうなんだけど、今は俺が手伝いたいんだよ。……なんでだろうな。自分でも良く分からん。まぁ、早く行くのに越したことはないっていうのもあるんだろうけど、でも、多分一番の理由は()()()()()()()()()()()()なんだろうな」

 

 予想外の追撃に平塚は、また顔を赤く染めた。

 

「────っ……! なっ、なんなんだ、今日の君は、本当に。そんなこと言って私をからかってるのか?!」

「本当のことだから仕方ねぇだろ。っていうか、これまたお前がよくっつーか、今日も言ってくれてた事じゃねぇか」

「そ、そうだけど、言うのと言われるのは違うというか……」

「俺の気持ち分かったか? お前はいっつも俺の事こういう気持ちにさせてんだよ」

「……う、うん。分かった」

 

 平塚は顔を染めたままこくりと頷く。その後は、一日中遊び倒した疲れのせいか、それとも二人に押し寄せた羞恥心の波のせいか特に二人は会話せず、ただ揺られるがままに、時折肩に触れながらも、夢から持ち込んだ甘い残り香を味わっていた。

 

 夜もすがら明るい市街地の狭間を駆け抜ける赤ベルトの電車は、ガタンゴトンと小気味よい音を奏でながら、まもなく八幡の住む町の最寄り駅へと近づいていた。

 平塚はちょうど一つ先の駅であるため、ここで別れることになる。

 そして、ゆっくりと減速するとともに、八幡にとっては見慣れた相対式のホームが彼らを出迎える。

 

「というわけだ平塚、仕事必要ならいつでも呼んでくれ」

「本当にいつでも頼るから覚悟しておくんだぞ、比企谷っ!」

「ははっ、まぁ、程々にな」

 

 八幡は苦笑いでそう言い残すと、一歩、ホームへと踏み出した。

 後ろを振り返ると、平塚は扉の前で立って見送ってくれていた。

 

「またな、比企谷」

「あぁ、じゃあな、平塚」

 

 八幡が言い終えた丁度その時、赤いランプが点滅する。それとともに二人の目の前に本日の話を締め(くく)るように灰色と赤色ストライプ模様の扉が閉まった。

 電車はまたゆっくりとその丸い足を回し始める。

 閉まった扉の向こうから手を振る平塚に向かって、二、三回ほど左右に振り返す。そしてすぐに電車はまるで平塚を連れ去るようにあっという間にホームを去っていった。

 それが遠く遠く点になって消えゆくまで見送った。同時に電車の後を追う強い風が、運命の国から八幡を引きづり戻すように吹き付け、夢の残り香を吹き飛ばす。

 確かにもう夢想からは完全に醒めた。

 しかし心の中には暖かな余韻がまだ残っていた。

 

 その余韻をホームの黄色い点字ブロックの手前で長らく味わっていた。

 その時ズボン越しに感じるバイブレーション。そしてもはや聞き慣れた『you got a mail!!』の音。

 ゆっくり二つ折りの携帯を開いてみると、一通の写メールが届いていた。

 それは、閉館間際にパンさんと一緒に撮ってもらった二人の写真だった。平塚の笑顔は相変わらずとびきり眩しかったが、八幡も緊張で凝り固まった七夕祭りの時とは違って及第点の表情を見せられているように感じた。

 そして、『今日はとても楽しかったです』と短いながらも全てが詰まっている一文が添えられていた。

 保存のボタンをクリックし、同じく一文短いメールを返信した後、携帯を閉じる。

 やっとホームから立ち去ると、既に誰もいない駅の階段を一段ずつ、物思いに(ふけ)りながらゆっくりと下りていく。

 

 

 七夕の夜に写真を見てから湧き出た欲望。いやそれは姿を現さないだけで元からあったのかもしれない。

 とかく八幡はその欲望に名前をつけることが出来ず、醜いものだと決めつけ苦心した。

 しかし、思い返してみれば、その欲望の名前は今までの読み物の中や映像媒体の作品の中にも必ずと言っていいほど表現されていた。

 ただ、その欲望を今まで感じたことがなかったから本当の意味が分からなかっただけだった。

 中学の時分(じぶん)の八幡は、様々な作品や色めき立つ身の周りの人達の行動を見て、焦燥(しょうそう)感からか真似事のようなことをしてみせたが、ただ傷を負うだけで、耳にする甘酸っぱく楽しく幸せなものには到底思えなかった。

 そして、次第に一縷(いちる)の希望さえも覗かせないように氷の厚い壁に閉じ篭って、そんな眩しい世界を諦めていった。

 

 ただ結局は、()()()()()()()()()、だったのである。

 

 今日、その醜い欲望は、平塚の隣にいるだけで満たされた。ただ、隣にいるだけでひたすら嬉しくて楽しくて幸せだった。

 そして同時に、この先もずっと隣にいて欲しいとさらに願った。もっとその綺麗な笑顔を見せて欲しいと思った。

 欲望はより大きく膨れ上がったのだ。きっと平塚といる限り、この欲望は際限なく膨張していくのだろう。

 そして今日、この欲望と感情こそが、ありとあらゆる世の人々が吹聴(ふいちょう)していたそれそのものだった、と八幡は気付いた。

 

 

 どうやら、この欲望の名前は──、

 

 

「……俺、平塚のことが好きなんだな」

 

 

 (こい)というらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ▼△▼△▼△

 

 

 

「ふわぁ……」

 

 眠気の欠伸(あくび)が襲う。一日中歩き、そして走り回ったことの当然の副作用だった。

 街灯が照らす街並みには見慣れた看板、見慣れた表札、見慣れた全てのものがぼやけた瞳に映る。これらは閉じこもっていた八幡の全てであり、箱庭の中で暮らしていたようなものだった。しかし、今はこれが世界のほんの一部でしか無いことに気づき始めている。

 そして、この見慣れた白色の外壁も、この見慣れた玄関も。

 鍵穴に差し込んで、扉を開ける。

 

「ただいま」

 

 反響もしないような小さな声で言った。すると、廊下の奥の部屋──リビングの扉が勢いよく開いたかと思えば、そこから飛び出すように妹の小町が出てきて、大層な悪人面を隠しきれないまま駆け寄ってきた。

 

「おかえりっ! 今日は楽しかった?!」

「あぁ、まぁな」

 

 小町は今日平塚と二人でディスティニーランドに行ったことを知っていたのである。この腹立たしいニヤケ顔もそのせいであった。

 七夕の時は気付かれなかったが、今回はこの娘の目を欺くことはできなかったのだ。普段は夏休みで絶賛引きこもり御礼室内冷房の生活をしている男が、急に朝早く、そして彼の中ではまともな格好をして出かける瞬間を見たらば、小町が違和感を感じないはずがなかったのである。

 そして八幡としてもいち早く出たかったものだから、だる絡みをされる前に直ぐに事情を伝えたわけである。

 

「それと、ほらこれ土産だ」

「わぁ〜、ありがと〜♪ って、うげっ……」

 

 小町に渡したのは、ディスティニーのキャラクター柄のシャープペンシルセットだった。しかし、小町は露骨に苦虫を噛み潰したような顔を見せる。

 

「あれ、嬉しくないのか?」

「いや、嬉しいけどさ。小町受験生なんだぁって、現実に引き戻されちゃった」

「そのためのお土産だからな。勉強しろっていう、兄からの金言だ」

「言われなくても、するもん! ふんっ! お兄ちゃんなんか嫌いっ!」

「冗談だ、小町。まぁ、あとこれもあるから」

 

 (へそ)を曲げてしまった小町に今度は可愛らしいパンさんがあしらわれているコスメポーチを渡した。すると今度は、ぱあっと満開の桜のような笑顔を見せた。

 

「わぁ〜、ありがとっ! 小町嬉しいっ! 大切に使うねっ! お兄ちゃん、大好きっ!」

「ははっ、相変わらず現金なやつだな、小町は。じゃあ、もう疲れたし俺部屋に行くから」

 

 (わた)(ぜに)奉行(ぶぎょう)に払ったかの如く八幡は玄関の上がり(かまち)を上がって階段に向かおうとすると、奉行は行かせまいと、小さい身体の両腕をめいいっぱい拡げて、通せんぼをしたのだ。

 

「今日は寝かせないよ〜、静さんとのディスティニーデートの中身たっぷり聞かせてもらうんだから!」

「……はぁ、めんどくせぇ、それにデートじゃねぇって。平塚がたまたま当たったペアカップルチケットで誘う奴いなかったから、俺に来ただけで」

 

 さすがにカップルコンテスト云々の話を切り出すと面倒になるのは分かっていたので、この部分は口からのでまかせを伝えていた。

 

「だとしても、そもそもお兄ちゃんに白羽の矢が立つこと自体が凄いんだよ! 日本ドラフト会議でこれっぽっちも注目されなかった選手が、メジャーリーグの超有名チームにスカウトされる的な!」

「俺に対する評価低くない? と、突っ込みたいところだが、確かにその通りだな。平塚超人気者だし」

 

 妙に納得して、感心してしまった。それほど普通に考えれば交わることはないような二人なのである。改めて同じ学校で、同じクラスになって、出席番号が前後になって、そして同じ趣味があった偶然に感謝してもしきれない。そんな奇跡を噛み締めて、訪れた感傷に浸りかけている八幡のことなど知ったこっちゃない小町は待ちきれない様子で急かしてきた。

 八幡は一旦荷物を自室に置いて、リビングに戻ると、椅子に座った小町が机を叩いて、ここに座れとジェスチャーしてきた。そして小町に尋問されるような形で今日起こったことを話した。同じ中学の(やから)に絡まれてしまったことや被り物を買ったことは話さなかったが。

 

「──まぁ、こんな所だな」

「いいなぁ、すっごい満喫してるじゃん!」

「あぁ、楽しかったな。久しぶりだったが、こんなに楽しいもんだとは思わなかったな」

「小町も終わったら絶対に行こっ! あっ、そうだ。お兄ちゃんさ、貰ったの?」

「何を?」

「何って、誕生日プレゼントに決まってるじゃん! まぁ、さすがに、いくら静さんでもそれはないか。お兄ちゃんの誕生日なんて覚えてるの小町ぐらいだしっ! 可哀想だから、私が静さんの分まで精一杯祝ってあげる! あっ、今の小町的にっ──」

「いや、一応貰ったぞ。これ」

 

 小町の憎たらしい決め台詞(ぜりふ)(さえぎ)るように、八幡は携帯電話を取り出して、そのストラップホルダーに吊るされたプレゼントを小町に見せつけた。

 小町は吊るされてゆらゆら揺れているパンさんのストラップを呆気に取られた様子で見ている。

 

「……え、本当に貰ったの?」

「わざわざそんな寂しい嘘つくわけないだろ。本当に平塚から貰ったんだ」

「そうなんだ。へぇ……、ぐすっ……、よ"かったね"ぇ、おに"い"ち"ゃん……」

「……泣き真似すんな。でもまぁ、嬉しいわな。家族以外からまともに祝ってもらうなんて初めてだし」

 

 改めてそのパンさんのストラップを見つめて、小町の前で顔がだらしなく緩んでしまいそうになると、小町が聞き取れないほどの小声でぽしょりと何か呟いた。

 

「……ん? どうした小町」

「ううん、何でもない。その誕生日プレゼント大切にしなきゃダメだよ? 落としたりしたら最悪だからね」

「言われなくても分かってる。それと、小町、ちょっと相談事があるんだが」

 

「しょうがないなぁ」と呆れるように言いつつも、小町はどこか嬉しそうに唇の端を吊り上げて、可愛らしい八重歯を覗かせていた。

 

「で、相談って、どんなこと?」

「えっとな──」

 

 こうして比企谷兄妹の団欒(だんらん)はまだ続く。これから世界が無際限に広がろうとも、きっとこれはいつまでも特別であり続けると、八幡は小町の微笑んだ顔を見て感じていた。

 

 

 

 

 

 

 








拙文を読んでいただきありがとうございます。
お楽しみに待っていただいている中、何週間も遅れてしまい申し訳ありません。次回はなるべく早く投稿します。

暖かい感想、沢山のお気に入り登録、高評価ありがとうございます。これからも応援のほどよろしくお願いいたします。


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七束: for This Day








 

 

 

 公園に敷き詰められるように植えられた柑子(こうじ)色の花を何輪も咲かせている金木犀(きんもくせい)の香りが(ほの)かに漂い、沿道に凛と健気(けなげ)に咲く秋桜(コスモス)が、近々訪れる夜長を伝えている。あれだけ青々と茂っていた緑は、まだ(まだら)模様ではあるが、赤い襦袢(じゅばん)に袖を通し始めていて、しんしんと冷える夜を迎える様相であった。

 そんな草花には朝露が付いて、まだ浅い陽の光に照らされて、その露が宝石のように白く輝き、やがて葉の先から、(なみだ)を流すように落ちていって、斑な薄赤の葉を(かす)かに揺らす。

 そんな季節の移ろいを当たり前の暮らしの中で密かに告げる景色が、自転車を()ぐ彼の横目には映っていた。

 

 

 

 ──駅前のロータリーに隣接している広場の中央には、ぽつんと大きい野球のボールと木製バッドのオブジェがあって、その脇には千葉ロッテマリナーズのマスコットキャラクターが建てられている。この周辺には千葉ロッテマリーンズの本拠地の千葉マリンスタジアムがあって、ここは俗に幕張新都心とも呼ばれる海浜幕張駅の目の前の広場であった。新都心というだけあって、周りは見るからにまだ月日が浅い建物が林立していて、通りには無駄なものがなく理路整然としている。

 

 休日ということもあって興業が盛んなこの街は若者中心に、大勢の人が行き交っている。

 そしてこのオブジェの前にもまだ来ぬ人を待ってるいるであろう人々が、手持ち無沙汰な様子で携帯電話を(いじ)り倒しているのが見受けられた。

 

 その中に、着慣れない七分袖の鼠色を基調としたカーディガンを羽織って、特に顔を強ばらせて、どこか落ち着きの無い様子でやけに開かれてくすんだ瞳孔(どうこう)を右往左往させる一人の男が立っていた。それもそのはずで、本日は初めてこの男──比企谷八幡が、想い人──平塚静を誘ってのお出かけであったのだ。

 平塚と運命の国──ディスティニーランドに行った帰り道に今日この日の約束を取り決めてから、おおよそ一ヶ月と少しが経っていた。その間も八幡は、夏休み中は平塚の文化祭準備の手伝いを積極的に行い、二学期が始まってからは、昼休みや放課後問わずに、暇さえあれば手を貸していた。そんな積み重ねが実って、丸一日の休暇となった本日に映画を見ることが決まったのだった。

 平塚とは常々会っていたし、良く会話をしていたものの、いざ今日という日を迎えると、この緊張感たるや計り知れないものであった。この緊張は前日からのもので、身分は高校生だと言うのに、まるで遠足前の小学生のように夜も寝付けずじまいで、目立たないにしても少しの(くま)が目の下に浮かんでいた。

 例に漏れず八幡も待っている間は手持ち無沙汰であったから高校の入学祝いで貰ったが滅多に付けないが、今日この日に限って付けてきたメタルバンドのアナログの腕時計を先程から、携帯に代わって何度も繰り返し見ていた。短針の動きがあまりに(のろ)まで焦れったいと感じるほど、それを見ていた。

 今見ると、その時刻が指すのは、およそ集合時刻五分前であった。

 いつもなら必ず十五分前には来て、確認の連絡まで寄越すはずの平塚が、遅れていることには一抹の不安が頭を過る。ただその不安も杞憂(きゆう)だったようだ。

 

 布越しに感じる振動。急いでポケットから取り出して、二つ折りのそれを開く。穏やかな浜風に揺られてからりころりと手の甲に点を打つように撫でる一本の竹を(くわ)えたパンさんのキーホルダー、そしてその紐が伸びた先の携帯電話の画面には、『少し遅れます。ごめんなさい』という文字列が並んでいた。

 

 そこから五分ほど、ちょうど集合時刻になって、駅の方から小走りでこちらに向かってくる。

 その姿は、一ヶ月程前にも見たような光景と似ていてオーバーラップしていた。しかし、違和感があるように見えるのは、ディスティニーの時と較べて、どこかぎこちなくてたどたどしいせいであった。近づくにつれてコツコツという地面を叩くような音が目立って聞こえてくるのも余計にたどたどしさを引き立たせていた。

 

「ごめん、比企谷、遅れてしまった、……って、うわぁっ!」

「ちょっ、あぶなっ……!」

 

 平塚は平坦なタイルで(つまず)くと、空足(からあし)を踏んでそのまま前へと八幡の体の方に倒れ込んでしまった。

 八幡は咄嗟(とっさ)に平塚の両肩を手で抑え、彼女も彼の胸板に寄りかかる形になった。華奢(きゃしゃ)ゆえに細く感じる骨と、柔らかくて生温(なまぬる)い肌の織り交ざった感触が八幡の手に直に伝わった。そして、その瞬間、ラベンダーの芳香に近しい甘く、心地よい匂いが鼻腔(びくう)(くすぐ)り、身体の内へと指の先まで染み込んでいく気がした。

 ただ、理性が、平塚の心配へと(かじ)を切った。

 

「お、おい、大丈夫か……。足とか挫いてねぇか?」

「うっ、うん、大丈夫だ……」

 

 平塚が顔を上げた。小刻みな吐息が八幡の鼻先に感じられる程、平塚の顔は近かった。透き通るほどの肌理(きめ)細かい血色の良い肌に、その魅力を引き立てる眉毛は、まさしく美しさの象徴だった。端から綺麗に揃えられた長く細い睫毛(まつげ)に、薄化粧があしらわれているのだろうか、その普段よりも際立つ陰翳(いんえい)はものの見事であり、ほんのりと色付く(つや)のある魅惑的な切れ長の目元に掴んで離さないように見つめられては、目を離すことができなかった。まさしく八幡は見蕩(みと)れてしまっていた。

 

「──あっ、ごっ、ごめんっ」

 

 状況に気付いた平塚が手を離して、一歩分後退(あとずさ)りする。そしてあっという間に彼女の首筋まで紅く染まるのを見て、鏡写しのように八幡も顔が尋常ではなく熱くなるのを感じた。

 

「いっ、いや、大丈夫だ。ヒール履いてきてんだろ? それだったらしょうがねぇって」

「う、うん……」

 

 少しの静寂(しじま)が訪れた。それでは良くないと、頭を巡らして、何とか八幡は話題を探した。そうして見つけた一つを、彼は切り出した。

 

「……その、なんだ。平塚、何かいつもと雰囲気が違うな」

 

 その理由は火を見るより明らかで、平塚の服装にあった。研磨された大理石に見られるような滑らかな乳白色に近い肌が肩から鎖骨にかけて透けるようになっている純白の花柄レースのシースルーブラウスに、白玉のドット柄の紺色のロングスカートを合わせたコンビニの雑誌コーナーのファッション誌の表紙で見かけるような、いかにも女の子らしい服装であったのだ。そして、滝のように流し落とされ、新調したばかりの黒鍵のような色をした髪も、ふわりと波打っていて、毛先にいくにしたがってくるりと巻かれていた。

 

「……じ、自分でもこういうの似合わないことは分かってるんだ! 今日はたまたまこういう服しか無かったから、しょうがなくてだな。それと髪は……」

 

 八幡に指摘された平塚は、そう自らを卑下して、両腕でその白のブラウスを自信なさげに隠すようにした。しかし、八幡は平塚の服装を見て、彼女が思っているようなことは一切感じなかった。むしろ、その真逆であった。

 

「──いや、似合ってると思う。服装も髪型もすごく似合ってると思う」

「え……?」

「似合いすぎててこっちが困るっていうか、めちゃくちゃ、その、えっと、可愛いっていうか、だから……、えぇと……」

 

 本当に似合っていたのだ。八幡も驚くほどに似合っていたのだ。そして、驚く程に可愛らしかったのだ。しかし、普段褒め慣れていないのが(たた)って、どうにも上手く形容できず、思うように口が回らなくなり、自分が何を言ってるかわからなくなっていった。次第に照れくさくなってしまって口を閉じて、結局誤魔化すように癖の頬を人差し指で二、三度掻くことをしてしまった。

 しかし、平塚は泡を食ったような顔でこちらを見つめている。

 

「ひっ、ひきがやっ……?!」

「え……、どうした……?」

「か、可愛いって……、今……」

 

 俯いた平塚の裏声まじりの小さな声を聞いて、八幡は思いついた単語をそのまま口に出してしまっていたことに気が付いた。火を噴くほど恥ずかしいうえに、そう言う文言に抵抗のある平塚にそのようなことを口走ってしまったのは迂闊(うかつ)であることこの上ない。綸言(りんげん)汗の如しである。

 

「いやっ、今のは違うんだ! ……いやいや実際似合ってるし可愛いのも嘘じゃねぇんだが。ん……? 待て待て待て、だからとにかく……」

 

 必死に辯解(べんかい)しようとする度に自供していく容疑者の如く八幡はどんどんと墓穴を掘っていく。

 しかし、(かえ)ってそれが信頼に足りえたようだった。八幡が一人喜劇をしている途中で、聞いたこともない鈴を転がすような声で、「えへへ……、そうか、そうか、良かった……」と呟いた。

 

「……比企谷も、その服似合ってるな」

 

 続けざまにちょこんとだけ顔を上げて、すっかり上気した頬を覗かせての上目遣いのその言葉。

 そんな一言に、八幡はたまらなくなって胸をざわつかせてしまう。

 

「……ま、まぁ、小町に身嗜(みだしな)みは最低限気をつけろって言われてな。色々アドバイスしてもらったっつーか」

「だから似合ってるんだな。その、凄くかっこいいと思う、ぞ……」

「ありがとう、嬉しいわ……」

 

 まだ集合して間もないというのに、心臓の鼓動が愛らしさで加速していった。つい先日恋心に気づいた男にとっては、この一幕は恋情が込み上げて(こぼ)れてしまいそうで耐え難いものだった。

 

 何とかその熱情を()き止めて「……よ、よし、じゃあ行くか」と、ぎこちなく切り出すと、平塚もまた「……うん」とぎこちなく相槌を打ち、こうしてぎこちない二人の出歩き、世間一般的に言うのであれば、()()()が幕を開けたのであった。

 

 

 

 ▼△▼△▼△

 

 

 

「しゃあっ! 私の勝ちだぁ!!」

 

 いじらしく女々しかった麗女(れいじょ)は何処へやら。平塚は躊躇(ためら)うことなく拳を高く突き上げる。そして先程の様子からは到底想像できないような猛々(たけだけ)しい雄叫びは、大音量の様々なゲームサウンドが往く道を妨げるようにあちらこちらを飛び交うような中でも、それを真っ直ぐ突き抜けていくような響きがあった。

 

「……何でそんなに上手いんだよ」

「まぁ、これが私の実力だ。踏んできた場数が違う。君には負けるつもりはないからな!」

 

 平塚は横に座って項垂(うなだ)れている八幡に向けて、ふふんと鼻にかけた態度を見せて、その豊かな胸元を前に張って見せた。薄手の服のせいで余計に目立っている。

 ただそれで八幡は鼻の下をのばすようなことはなく、それ以上に目の前の画面に映る『You Lose!!』という橙色のフォントに鼻を折られたような気分になって、ひたすら歯軋(はぎし)りしているのだった。

 場数といっても、ベストプレイス、サイゼリヤ、ネットカフェと同じほど入り浸り、孤独を(かて)として、鍛錬(たんれん)研鑽(けんさん)を積んできたこの対人格闘ゲーム──ストリートファイターでの場数が劣るとは到底思えず、それゆえそんな生活を送ったはずがなかろう平塚に負けるのは、さすがに自己評価の低い八幡といっても、矜恃(きょうじ)がそれを許さなかった。どうしても、この胡座(あぐら)をかいている平塚の鼻を明かしてやりたいのであった。

 

「も、もう一回だ……」

「私は何回でも受けて立つぞ、いくらでもかかってきたまえ!」

 

 

 ──八幡は肩をがくりと落として、大きな溜め息をついていた。結局、数戦して、平塚に一度も勝てなかったのである。それが運が悪かったと言い訳できるならまだしも、横綱相撲を取られたように完膚なきまでに叩きのめされたのだから矜恃とやらはズタボロであった。

 そんな八幡とは対照的に、連戦連勝で(えつ)に入った平塚は上機嫌に鼻歌を歌っていた。

 

「なぁ、比企谷っ! あれをやろうじゃないか!」

 

 平塚が目をつけたのは太鼓が二張並んだ筐体(きょうたい)だった。

 八幡の意気消沈としてより淀んでいた目は息を吹き返したようにぎろりと光る。なぜならゲームセンターを訪れる時、必ずと言っていい程この太鼓のゲームは叩いていたからだ。彼が叩けば、一人、二人は通りすがりの人が立ち止まり、見物していった。それは滅多にない承認欲求を満たす機会でもあったのであった。つまり、アーケードゲームの中では最たる自信がこのゲームにはあったのだった。

 

「あぁ、太鼓の達人か。うし、さすがに今度は勝つぞ」

 

 (ばち)を持って、二人は並ぶ。折角だからと、特捜戦隊デカレンジャーのオープニングテーマを選択し、八幡は難易度選択画面で隠し要素の最高難易度『ドンだフル!』を選択しようとしたのだった。ただ、一方の平塚も踏みとどまる様子はなく『ドンだフル!』を選ぼうとしていた。

 

「平塚もドンダフルやるのか。自分で選んどいてなんだが結構難しいぞ」

「大丈夫だっ! 私は一人の時に死ぬほどやっていたからな、昔取った杵柄(きねづか)ってやつだ」

「何が一人だ。本物の一人の強さ、見せてやるよ──」

 

 啖呵(たんか)をきった八幡は、撥を振り上げて、太鼓の面をどんと勢いよく、威勢よく叩く。ドンちゃんの掛け声で撥をいつものポジションに構える。そして、あのエレキギターが抜群に利いた爽快な前奏が流れ始めた。

 そして、ドンとカッが右端から流れてくるのであった。

 

 ──数分後。

 

「よしっ、全曲フルコンボだっ!」

「……」

 

 もはや八幡は言葉を失っていた。平塚は、デカレンジャーの曲はおろか、より難しい他の曲も難なくフルコンボし、周りには片手では足りないほどの観客も集まっていてたのだった。そして彼らはみな華麗なる女太鼓奏者の圧巻のパフォーマンスに、目を奪われていたのだった。

 

「……お前、すげぇよ」

「だから言っただろう。私は一人で遊び(ふけ)って、取った杵柄があると」

「それにしても最高級品の杵柄すぎるだろ。俺だって結構やってきたつもりだったんだがな……」

「ふふっ、まぁ、きっと君の想像以上している以上に私は一人でやってるからな!」

 

「でも」と言って、平塚は八幡の目を見て、ほほ笑みかける。それは何の嫌味も感じさせなかった。

 

「やっぱり思ったことは、一人じゃなくて、二人、それも君と二人で一緒にやるとすっごい楽しいってことだっ! ありがとなっ、比企谷っ!」

 

 胸をすくようないつもの調子のその一言と、胸を高鳴らせるようなその笑顔さえあれば、些末なプライドは関係ないように感じた。それに、今までは一人で寂しく、暇な時間を潰すためだけに、通っていたあの淡白でうら(さび)しいゲームセンターが、たった一人隣にいるだけで、こんなにも彩り鮮やかになるものだった。

 

「──あぁ、そうだな。すげぇ楽しいわ」

 

 八幡も思わず笑みをこぼして、そう返した。

 

 ──そこからは、シューティングゲームや、クレーンゲームを周った。ワンコインと言えどもお金は湯水のように溶けていった。だが、それ以上の対価──()()()()()()()()()()()()()を買っているのだとしたら、逆に安すぎるようにすら八幡には感じられた。ただただ幸せだったのだ。

 

 そして骨の髄まで遊び倒していると、まもなく正午を過ぎて三○分を回る頃になっていた。メインディッシュである映画の開演時刻は二時頃であるので余裕はまだあるのだが、昼食を取るにはちょうど良い頃合だった。

 

「じゃあ、そろそろ昼飯食いに行くか。まぁ、いく場所は……」

「ラーメン!」

「だよな。そうなると思って前もって調べてきたんだ。評判いいとこあるんだが、そこ行くか」

「おぉ、準備がいいな。そうしよう!」

「じゃあ行くか」

 

 平塚の賛同も得て、八幡が意気揚々とゲームセンターを後にしようとした時、七分袖のカーディガンの袖口を彼女にちょこっと摘まれ、軽く後ろへと引っ張られた。

 

「ん、どうした平塚?」

「……あの、その比企谷」

「なんだ、何かやり残したことでもあるのか?」

「うん、その、あの、あれ……」

 

 また急にしおらしくなった平塚が指を差した先には、八幡がゲームセンターに来る度にいつも目の(かたき)にしていたあの箱型の機械があった。無駄にでかいと思えるその図体がどっしりと存在感を放ってそこにいくつかあって、その周りではおそらく高校生であろう女子達が輪を作って、楽しそうに話している。

 

「えっ、プリクラ……?」

「……うん」

「撮りたいってこと、か……?」

 

 平塚は黙ってこくりと頷いた。

 

「俺と……?」

 

 また、黙ってこくりと頷く。

 

「……ま、まぁ減るもんでもねぇし、いいんじゃねぇの」

「……ほんとかっ?」

「あぁ、本当だ」

 

 平塚は愁眉(しゅうび)を開いたような顔になって、今度は八幡の袖を前に引っ張って、プリクラ機の方へと向かった。

 そして、八幡はおずおずと幕に仕切られた狭い個室の中へ入っていった。彼には、作法とやらも何一つ分からないので、平塚に任せるしか無かった。続けて平塚も入ってくると、さすがに個室ということもあって、この世界に二人だけしかいないように錯覚させられる感じがして、ひたすら照れくさかった。

 

「……これって、ポーズとかも機械の指示に従えばいいんだよな?」

「あぁ、そうだ」

 

 平塚はアナウンスに従って、目の前の台にある画面を黙々と押している。八幡に何をしているのかがさっぱり分からないが、すぐに設定は終わったようだった。

 

「よし、じゃあ、始めるぞ」

 

『二人の思い出作っちゃいましょー! では、まず早速ピースから!』

 

 そして、五秒前からカウントダウンが始まる。隣の平塚は、指示されたようにレンズに向かって(にわか)造りの笑顔でピースサインをしている。八幡も平塚に合わせて、そこに向かってピースをする。

 

『はいっ、チーズっ!』

 

 すると、フラッシュが()かれて、間もなくして目の前の画面には今撮った写真が映った。相変わらず平塚は撮りなれているのか、それとも単に明眸皓歯(めいぼうこうし)の美形だからなのかは分からないが、大変写りが良かった。一方で八幡も、その隈がめっきり消えるほど加工がかって、もはや自分ではない男が写っているような気さえもした。

 

「うぉ……、こんな感じなのか」

「うん。よく撮れてるじゃないか!」

 

 平塚は画面を二、三度押す。

 そこから、次々と『あさっての方向に向かって!』『変顔!』など、お題が提示された。多かれ少なかれ恥ずかしさはあるものの無理難題を要求されることはなく、八幡も人生初のプリクラもそこそこにこなす事が出来ていた。次第に凝り固まったものが(ほぐ)れてきて、平塚との会話が弾むなど、存外に楽しいものだったのだ。

 

 そして今度は『お気に入りのポーズ!』のお題が出された。

 これには、八幡は仮面ライダー(ブレイド)の変身ポーズで、平塚は特捜戦隊デカレンジャーの変身ポーズで、写真を撮った。画面に映った写真の(まと)まりの悪さに、二人は可笑(おか)しくて声を出して笑っていた。

 

 しかし、最後の最後で、その難題にぶつかってしまったのだ。

 

『じゃあ、最後に──二人で抱き合って!』

 

「こっ、これはさすがに……」

 

 八幡の顔は引き()って、片方の唇の端を釣り上げて、苦笑していた。

 

『5! 4!』

 

 八幡は何もポーズを取れずにいたが、そんなこと知る由もない機械の無情なカウントダウンが始まった時だった。

 何も言わぬまま平塚は急に、八幡の脇腹と腕の間からその華奢な腕を後ろから差し込んだのだった。

 そして、彼のなだらかな肩にしなだれて、もう一方の腕も前からも差し込んで、抱きつくような形で、腕を組んだのだった。

 羽毛布団に包まれたようなあまりにも柔らかい感触の急な来訪は、八幡の身体中に(とどろ)くほどの擦半鐘(すりばんじょう)を胸が打つには余りに事足りすぎていた。

 

『3!』

 

「ひっ、平塚さんっ……?!」

 

 八幡は目を白黒させて、声を裏返させながら呼びかけても、平塚は無言のまま頑固一徹として組んだ腕を離す様子はなかった。それどころかよりぎゅっと強く抱きしめてきたのだったから、八幡の腕の感覚神経は麻痺し始めていた。

 そして、その意固地な様子は、まるで七夕の時の意趣(いしゅ)返しのようにも感じられた。

 

『2! 1! はいっ、チーズっ! お疲れ様でしたっ!』

 

 平塚は、すぐにするりと八幡の脇から腕を引き抜く。ただ、二人の間に会話なぞ生まれず、顔も見合せることなどなく、沈黙の高気圧がこの狭い部屋に降ってきていたのだ。

 しかし、目の前の画面には、今撮った写真が躊躇うことなく写し出される。その写真には、人様には見せられないような表情を浮かべた二人の男女が写っていた。

 そして、落書きスペースに移った時には、最後に撮った写真は画面に映し出されていなかった。

 

 

 ──二人は随分と、満足した様子で(ちまた)で有名なラーメン店を後にしていた。

 プリクラを終えた直後はいたたまれなさがあり、完成された写真をまともに見ることはなくそのまま鞄にしまいこんで、ラーメン店に向かった。

 そのような雰囲気をそのまま引き()って、店に入ったものだから、あまり口を交わさず、まるで別々の客のように黙々と食べ始めたが、あまりの美味さに頬が(とろ)け落ちると、その気まずさは次第に霧へと消えたようで、「美味しい」とひっきりなしにその美味さを礼賛(らいさん)していたのだった。

 

 そしてそこから二人は歩いて、少し離れた目的の映画館に向かっている。食後の運動にも程よい距離であった。

 

「映画、楽しみだなっ、比企谷っ!」

「あぁ、もう身震いが止まらねぇわ」

 

 興奮を抑えるのが精一杯な八幡は、体の震えが止まらなかった。一年に一度の楽しみが、もう目の前に迫ってきているのだった。さらに隣には、平塚もいる。今までで一番楽しみであることは、間違いなかった──。

 

「えっと、ここの道を真っ直ぐ行くんだよな……」

 

 途中に海浜幕張地区の案内板があり、念の為に映画館の位置を確認するために、一度立ち止まった。そして八幡は携帯を取り出して映画館の住所を調べようとすると、平塚は驚いた様子で声を上げた。

 

「あっ! 比企谷、それ……」

 

 平塚が指したのは、潮風にあたって振り子のように揺れているパンさんのキーホルダーであった。これは紛うことなくディスティニーで彼女に誕生日プレゼントとして貰った物であった。

 

「まぁ、学校じゃ何言われるか分かんねぇから流石に付けられねぇけど、今日は折角だし付けてみようかなって……」

「実はぁ……、じゃじゃーん!」

 

 平塚は肩にかけた薄桃色のショルダーバッグから、青色の携帯を取り出して、八幡の目の前にそれを突き出した。そして、そこには八幡と同じように、ストラップホルダーから一本の紐が伸びていたのだ。

 

「平塚も付けてたのか」

「私も今日付けてみようかなって思ったんだ」

「偶然だな」

「あぁ、偶然だなっ!」

 

 八幡は単純ながら胸が熱くなるほど嬉しくなった。偶然の産物と分かっていても、考えていることが同じというだけでも、飛び跳ねるほど嬉しいものであった。彼女との心の繋がりが感じられて、安心できるのであった。

 そして目的の映画館に辿り着くと、既に二人が見る回の特撮映画の案内が始まっており、急いでポップコーンとドリンクをカウンターで注文すると、そのままスクリーンの中へと入っていった。

 

 

 ──スクリーンから出ると、平塚はそれは興奮気味で、今にも語り出したいという風に見えた。当然それは八幡も同じであり、この内に(たぎ)る熱を一刻も早く共有したかったのだ。

 

「やはりすごい面白かったな!」

「あぁ、特に──」

 

 その時、後ろの方からどこかで聞いた覚えのある元気溌剌(はつらつ)な幼い少年の声が聞こえてきた。

 

「あっ! あの時のにいちゃんとねぇちゃんだぁっ……!」

 

 後ろを振り返ると、飛びかかるような勢いで小学生低学年ぐらいの背丈の少年が八幡の膝元に腕を回して抱きついてきた。

 

「おおっ……」

 

 彼は加減を知らないタックルに思わずよろけるが、弥次郎兵衛(やじろべえ)のような平衡感覚を発揮して、何とか倒れずに(こら)えた。何の悪気も無い故に悪びれる様子もない少年は、膝に(うず)めた顔をこちらに向けた。

 

「にひひっ! にいちゃん、ねぇちゃん、久しぶりだなっ!」

 

 それはカップルコンテストで会場を和ませる(げき)を飛ばし、決勝前にはこの二人のことを応援してると言ってくれたあの夫妻の長男坊だったのだ。相変わらずの短パン半袖姿で、前と少し違うのは生え変わりのためか所々歯抜けであるところだが、恥ずかしがる様子もなくにっこりと白い歯を見せている。思わず八幡もそれに釣られて口元が(ほが)らかにゆがんだ。

 

「あぁ、久しぶりだな」

「おお、元気にしてたか、少年っ!」

 

「うんっ! 元気にしてたぞっ!」と答えた長男坊に平塚は随分首ったけなようで、しゃがみこんであの日の時のようにスポーツ刈りの黒髪ををわしゃわしゃと猫可愛がりするように撫で始めた。彼も抵抗することなく、気持ちよさそうに目を細めて、それを受け入れていた。

 長男坊の話を聞くと、どうやら彼も同じ映画を見ていたようで、二人ではなく、長男坊を含めた三人で映画に関する立ち話が始まった。

 

「バンがすっげぇかっこよかった!」

「うんうん、君はよく分かってるじゃないか!」

「あぁ、この映画のおかげで伴番(バンバン)のこともっと好きになったな」

「俺、将来バンみたいになりたいんだ!」

「あぁ、なれるさ。ねぇちゃん達がいつかピンチになった時も助けるんだぞ!」

「うん、絶対助ける!」

 

 そんな画面の向こうのヒーローに憧れる長男坊との立ち話は留まることを知らず、他人の目も忘れて話(ほう)けていたところであった。「あっ、いたっ……!」とやけに安堵の混じった女の人の声が聞こえ、その声の主は、まだ小さい女の子を腕に抱えてこちらに向かってくる。その顔は、かなり眉間に(しわ)がよっていて、今にもその安堵が別のものに変わるようであった。

 

「もうカイトったらっ……! トイレの前で待っててって言ったでしょ!」

「でも……、七夕の時のにいちゃんとねぇちゃんが居たから」

「また、そんなこと言って、って、え……? あらっ!」

 

 長男坊──カイトの母は、八幡と平塚の存在に気付くとだいぶ驚いた顔で、挨拶してきた。二人も合わせて挨拶を返す。

 

「ごめんなさいね、うちの子が迷惑かけて」

「いえいえ、そんなことないです。なっ、比企谷?」

「はい、息子さんとお話できて、すっごい楽しかったです」

「それならいいんだけど。でも奇遇ねぇ〜。まさか、こんな所で会うなんて。お二人は映画見終わったところ?」

「はい、実は私たちもちょうど特撮の映画見てて」

 

 カイトの母は予想外であったようで、「えっ、そうなのっ?!」と大きな声をあげていた。

 

「じゃあ一緒に見てたのね! でも、こういう言い方はあれだけど、かなり珍しいわよねぇ」

「確かにそうですよね。私も()以外見たことないです。でも、お陰様で共通の趣味ができたというか」

 

 平塚に彼と言われて、おもむろに(まばた)きが増えた。確かに今は、()()を演じる必要があるので、当然の言葉遣いではあるが、今となっては偽りだとしても恋人だと見られているだけで、(すこぶ)る嬉しくなるのが恋する男の純朴な性分(しょうぶん)なのであった。

 

「へぇ、そうなんだ、良いわねぇ……。あっ……! じゃあ、大会の時も、実は二位のフィギュア狙いだったりとか?」

「まぁ、そうでしたね。彼が頑張りすぎちゃって優勝しちゃいましたけど」

「そうだったんだぁ。まぁ、でも彼氏さんすっごいかっこよかったわ!」

 

 急に褒められたものだから、八幡は謙遜で、手を横に振る。

 

「いっ、いやいや、そんな事ないですよ。俺、すっごい必死でしたし」

「必死になってくれるのが何より嬉しいの! すぐ諦めてた情けないうちの主人と比べたら雲泥(うんでい)の差よっ! ねっ、シーちゃん、お兄ちゃんかっこよかったよねー」

 

 カイトの母が腕に抱えられたままの娘──シーちゃんにそう語りかけると、まだ舌足らずながらも、「うんっ、にーちゃ、とってぇも、かっこよかった!」と、(いとけな)い微笑みを浮かべて八幡に言った。

 

「シーちゃん、ありがとなぁ」

 

 八幡もとても綺麗なものに心を(すす)がれた気分になって、平塚のようにまだ小さく、(てのひら)に収まってしまいそうな頭を毛並みに沿うようにして撫でた。シーちゃんはきゃっきゃと嬉しそうに笑ってくれている。なんだかそれは、小さい頃や、つい最近のとある雨の日の時の感触に凄い似ていて、ひたすらに懐かしさと愛おしさが八幡の中を駆け巡っていた。

 

「にぃちゃんとってもタコみたいに顔真っ赤っかだったけど、俺もすっげぇかっこよかったと思ったぁ! ねぇちゃんも抱っこされてる時、最後の方は()()()()()()()()()()()()()()でめっちゃ頑張ってたしなっ!」

「そうだそうだ。って、かっ、カイトっ……?!」

 

 カイトの爆弾とも言える発言が突如襲いかかり、平塚は鳩が豆鉄砲を喰らったように慌てふためいたが、彼女は急に開き直って、

 

「……そ、そりゃ、あんなことされたら、誰だって照れるに決まってるじゃないか!」

 

 照れ隠しかぷいと顔を背けた平塚を見て、あの時の咄嗟の行動がこの期に及んで、その恥ずかしさが蒸し返してきて、八幡は音を立てるように後ろ髪を掻いていた。

 カイトの母は、そんな二人の様子を見てぷふっと吹き出していた。

 

「本当、お似合いのお二人ね。羨ましいわぁ」

 

 カイトの母はそう呟くと、頬に手を置いて、何か自分の身の上を(うれ)いているのか、大きなため息をついていた。

 ちょうどその時、彼女の携帯が鳴ったようで、それを取り出して、電話に出る。何度か「あー、はいはい」と素っ気なく繰り返すと、電話を切った。

 

「主人が待ってるみたいだからそろそろお別れね。二人の時間を邪魔しちゃってごめんなさいねぇ」

「いえ、全然邪魔なんてことはないです! また会って話すことができて良かったです!」

「うふふ、ありがとねぇ。私達もまたお話出来て嬉しかったわ」

 

 そうだ、とカイトの母は何かを思いついた様子で、手元の携帯電話を弄り始めた。

 

「お節介かもしれないけど、二回も巡り合うなんて、何かの縁だから、連絡先交換しない?」

「はいっ、是非っ! じゃあ、私とでいいですか?」

「うんっ、いいわよ。女の子同士、秘密のやり取りしちゃいましょうねぇ」

 

 カイトが「かぁちゃんはもう女の子じゃねぇだろ」とつっこむと、綺麗な瓦割りがカイトの脳天に繰り出されていて、それはだいぶ痛かったようで、しゃがみこんで頭を抱えながら唸っていた。

 

「よし、これで完了っと、ありがとねっ! あっ、そうだ。最後に名前名乗っとかなきゃね。私は二宮(にのみや)基子(もとこ)。そして……、シーちゃん、お名前言うのできる?」

 

 基子に求められて、シーちゃんは、うんとまだ小さく細い首を縦に振って、「わたちのなまえは、にのみやしおりでしゅ。三歳でしゅ」と上手に自己紹介をして、最後にぺこりとお辞儀までして見せた。

 

(しおり)、か。いい名前だ。それときちんと自己紹介できてえらいぞぉ」

「あぁ、本当だ! 大会の時の比企谷とは大違いだっ!」

「よ、余計なこと言うな、平塚」

「だって、あの時の比企谷は、ぷふっ……」

 

 平塚は(こら)えきれず吹き出してしまった。八幡が優勝者インタビューで、観客の面前というあまりにも非日常的で慣れないシチュエーションに立たされて、緊張のあまり壇上で噛み倒した事を引き合いに出されると、さすがに八幡も弱ってしまった。

 カイトの母もその時の様子を覚えていたようで、平塚と同じように思い出してくすくすと笑っていた。

 

「ふふっ、じゃあ、次、カイトも」

「うん、わかってるって! 俺の名前は、二宮海斗(かいと)! 今、小学校二年生で七歳!」

「そうか、海斗は小学生か! もう立派なお兄ちゃんじゃないか!」

「まあな! そして、ねぇちゃんとにぃちゃんの名前は確か……。えぇと……」

 

 決勝に残っていたから何回か苗字は実況されていたものの、一ヶ月以上も前となると、海斗も流石に朧気(おぼろげ)なようで、二人は順に名前を名乗った。

 

「私の名前は平塚静で──」

「俺の名前は比企谷八幡だ」

「じゃあ、しずねぇとはーにぃか、よろしくなっ!」

「しずねぇ、はーにぃ! よろちく!」

「あぁ、よろしくなっ!」

 

 一通り自己紹介を終えたところで、基子が「じゃあ、もう行くわよ」と海斗に声をかけるが、彼は少し浮かない顔を見せた。

 

「どうしたの、海斗?」

「かぁちゃん、またはーにぃとしずねぇに会えるのか?」

「大丈夫、会えるから。アドレスも交換したし」

「はーにぃも、しずねぇもまた会うって約束してくれる?」

「あぁ、当然だっ!」

 

 八幡も平塚に合わせて、頷いた。

 

「でも、やっぱり心配だから、これするぞっ!」

 

 カイトは右手の小指だけを上向きに立てて、二人の前に腕を伸ばした。

 これは幼い頃に良くしたあの(ちぎ)りの構えであった。

 しかし、二人でやるからには一人余る。八幡と平塚は顔を見合わせて困っていると、海斗が鶴の一声を発した。

 

「はーにぃとしずねぇ、どっちも一緒にやるんだ!」

 

 子供の奇想天外な発想力には、八幡も恐れ入った次第であった。八幡も、平塚も右手の小指を上向きに立てると、三人であの形に結ぶ。とびきり小さい海斗の小指を、二人で包み込むように。そして、海斗が「せーの」と声を掛けて、

 

「「「指切りげんまん嘘ついたら、針千本のーます、指切った!」」」

 

 約束の呪文を揃って、声高らかに言い切って、三人は小指を離した。海斗は大層満足した様子で、また、歯抜けの白い歯をにいっと見せた。そして、基子に連れられて、栞と海斗は映画館を去っていった。

 

「しーちゃんと海斗。嵐のよう二人だったな、比企谷」

「あぁ、でも可愛いもんだな」

「その通りだ。とっても可愛かったなぁ……」

 

 平塚はしみじみと言った。八幡と違って人付き合いが良好に見える平塚だが、特に子供に関しては、格別に好きだと言うのは、今までの態度からもだいぶ(うかが)い知れた。

 

「子供かぁ、いいなぁ。私もいつか子供を連れて一緒に特撮の映画見に行けたらなぁ……」

 

 平塚はそう何気なくボヤくが、二人きりでなおかつ異性の八幡からしたら反応しづらいことこの上なく、「そっ、それは良さそうだな」と(ども)ったように答えてしまった。

 

「……いっ、いや、比企谷っ、これには別に深い意味はないからな、ナイナイアリエナイザーだからなっ!」

「あっ、あぁ、大丈夫だ。さすがに分かってる」

 

 そんな時、偶然にも、二人の目の前を親子連れが通って行った。父と母の間に、小さな子供がそれぞれの片手を繋いで、仲睦(なかむつ)まじそうに歩いている。街中にいればよく見かける光景だが、それが八幡には途方もなく羨ましくなってしまう。

 そして、深い意味が無いことは分かっているとは言いつつも、その背姿を羨望(せんぼう)の眼差しを見送って、ただ胸の内にある理想像をその光景に重ね合わせていた。

 

 

 

 ──映画も見終わった事で、本日の主な予定は終わったことになるが、丁度二人揃って見ておきたいものがあるということで、つい二、三年ほど前に開いたばかりの、アウトレットモールに足を運んでいた。

 

 夏休みの中頃から、小町は料理、特に弁当を作ることが受験の合間の息抜きのようなものになっていた。

 それは講習会で昼食を自弁(じべん)する必要があったことが切っ掛けであり、そこからはどうやら(はま)っていったようで腕に(より)をかけて弁当を作るようになっていった。それゆえ、夏休み中は八幡が文化祭準備の手伝いのために午前中から出かける時は、朝早く起きて小町が昼食用の弁当を(こしら)えてくれていた。

 しかし、二学期からは学校が始まり、料理と勉学の二足の草鞋(わらじ)はさすがに厳しかったようで、弁当は作ることは無くなったが代わりにたまに手軽なお菓子を作って、振舞ってくれたりしていたのだ。

 八幡は、受験の合間の息抜きとは言っても朝早く起きて、時間を削ってまで弁当を作ってくれた小町にお礼として、加えて相談に乗ってくれたお礼として、何かお菓子を作るために必要な調理器具を買ってあげたかったのだった。

 そして、平塚も丁度調理器具を見たかったようなので、まず調理器具が取り揃えられた店へと向かった。

 

 八幡はそこで値札を見るが、小物でも想像していた以上に値が張るものが多く、最近出費が(かさ)んでいて、節制をモットーにしている男子高校生の財布に払える余裕は無かった。しかし、八幡には使うタイミングが無く、財布の札入れでひっそりと息を潜めているもの──七夕祭りの優勝賞品として贈呈された商品券二五〇〇〇円があった。どうやら使い時らしい。

 一方、平塚も真剣な様子で、並べられている調理器具を手に取っては、フライパンの表面を少し撫でていたり、底が浅い所謂浅型の土鍋と、底が深い所謂深型の土鍋を手に取って見比べてたりしていて、じっくりと品定めをしているように素人目からも見えた。

 

「平塚も、やっぱ料理とかするのか?」

「まぁ、たまにだがするかな」

「ふーん、そうか。まぁ、お前のことだからきっと料理上手いんだろうな」

「いや、そんなことは無い。小町ちゃんの方が全然上手だし。夏休みの時に君が持ってきていた弁当を見ていたら私にも分かるよ」

 

 八幡はふっと、鼻で笑った。

 

「なぁに言ってんだ。もとより小町より上手いってなんて思ってねぇって。小町は()()()であり、()()()であり、()()()であり、()()()()()()でもあるんだ。まぁ、今は勉学に(はげ)むってことで、料理の仕事は休職中なのが残念だが」

「……全く、相変わらず君は小町ちゃんのことになると、本当に兄馬鹿になるのだな」

「兄馬鹿じゃねぇ、事実だ」

「そういうのを兄馬鹿というんだ、バカタレ。まぁ、そこまで仲がいいのも羨ましい限りだ。一人っ子の私としては本当に羨ましい」

「まぁな、小町は最高の妹だ」

 

 八幡のおさまらない兄馬鹿っぷりに平塚は呆れるように笑うと、手に取ったステンレスのお玉を元々吊るされていたフックに掛け戻した。

 結局、八幡は、オーブンでお菓子を焼いた後、プレートを取り出す時に、小町が少し熱がっていたのを思い出して、厚手の可愛らしさに意匠(いしょう)を凝らしたミトンを一(そう)、持ち腐れていた商品券を用いて購入することにした。

 

 その後は色々な商品を見て回った。

 八幡には敷居が高いアパレルショップに行くと、平塚によるささやかなファッションショーが行われた。彼女はボーイッシュなものからガーリッシュなものまで毛色の違うものを淡々と着こなして、八幡に披露していた。しかし、ファッションに関して門外漢である彼には詳しいことはどうしても分からず、やはり率直な感想しか述べられなかった。

 しかし平塚にとってはそれが良かったようで、特に八幡が良いと反応したものを一着購入していた。

 

 そして次に向かったのはこれまた八幡には敷居が高いアクセサリーショップで、そこでは千紫万紅(せんしばんこう)の宝石がショーケースの中に陳列しており、立てられた値札の中には八幡が思わず息を呑むほどの桁数の品物があった。

 そのような見るからに場違いの若齢(じゃくれい)の二人の懐事情を考慮したであろう店員に勧められたものは、この店の中では最も安い部類に入るものだが、最低限五桁は必要であった。当然購入は不可能であった。

 しかし、試着は可能であり、是非どうぞということで、平塚が勧められたアクセサリーを試着していた。

 

「どうだろうか。私に似合ってるだろうか……?」

 

 少し眉を曇らせている平塚の首元には、ハート型の輪の中に一輪の花があしらわれた可愛らしいネックレスが、目立ちすぎずも可憐さを引き立てるように淡く輝いていた。

 それを見て八幡は思わず顔を綻ばせて、ぱっと思い浮かんだ感想をそのまま告げる。

 

「あぁ、よく似合ってんじゃねぇか。いちゃもんつけられるなら色々言ってやりたいところだが、残念ながらいちゃもんはつけれそうにねぇな」

「ふふっ、ありがとっ……!」

 

 平塚は可愛らしくはにかんで、それを丁重に外すと、店員に愛想良くお礼を告げていた。

 八幡はその様子を見て、無性に嬉しくなっていた。

 それは、あの七夕の夜に見た平塚の顔を未だにはっきりと覚えていたからだった。あの重たく固く根が深く張った、底冷えした自虐は耳に残っていた。

 あの顔をした理由は未だに分からない。ただ、あの顔をした平塚が、可愛らしく、そして似合わないと彼女が諦めていた装いを、こうして自信を持って、褒め言葉を素直に受け止めて、宝石のように玲瓏(れいろう)とした双眸(そうぼう)を輝かせて、一等輝いている笑顔を浮かべている。そして、その克服の一翼を八幡が少なからずも担うことができたのではないかと僭越(せんえつ)ながらも確かに感じるから、喜ばしくなるのであった。

 

 

 ──相も変わらず盛況を呈するモール内を、二人が談笑しながら並んで歩いている時であった。目と鼻の先に、彼らの身長ぐらいの大きさの看板が出てきて、それが何か認識すると、二人とも興奮した様子で擦り寄っていった。

 

「比企谷っ、剣とデカレッドだっ!」

「おぉ、本当に何でまたこんなとこにあるんだろうな」

 

 そこには仮面ライダー剣と特捜戦隊デカレンジャーデカレッドの等身大パネルであったのだった。どうやら近くが子供の天国こと玩具(がんぐ)コーナーであるから置いてあるようなのであった。二人して携帯を構えてそのパネルの写真を撮り、折角ということで平塚の携帯で通りがかった人に頼んで二人が写った写真を撮ってもらった。こうして思い出の(ページ)は確かに、一頁ずつ刻まれていくのであった。

 

 その場を離れたあと、休憩スペースのようなところで、先程の写真をメールで送るという話になって、二人が携帯を取り出して操作していた時。

 少し遠くの店が並んだ通りのから「あれっ、静じゃん!」と通りの良い女の声が聞こえてきた。今日はどうやら知り合いに良く会う日らしいのだ。

 八幡がその声のほうのする方へ顔を向けると、おそらく同世代の女子二人がこちらの方を見ていた。

 その二人はそろそろとこちらに近づいてきていた。だんだんと容貌がはっきりしてくるが、どうにも学校内で見た覚えはなかった。

 

「え、しかも男の子と一緒にいない?!」

「うっそ〜、そんなこと〜。……ってほんとだぁ〜!」

 

 その二人の言い(ぐさ)からすると平塚の知り合いらしいが、当の平塚は二人の存在に気付いた時、歓迎している様子はなく、むしろ露骨に眉の形をぐにゃりと歪めていた。

 

「げっ、桜とツル……」

 

 平塚が呟くその名前は、八幡は今までで一度も聞いたことがなかった。

 

「はろー、静っ! 何してるのさ、しかも男の子と二人で。 ……っていうか、君っ、あの棒倒しくんじゃない?!」

「あっ、本当だ〜! すっごい面白かったよ〜、あれ」

「えっ、あぁ、そりゃどうもです……」

 

 どうやら二人は八幡のことは体育祭の時から知っているようであった。確かに平塚は中学の同級生と一緒に見ていたとは言っていたが、彼女達の事だったようだ。

 今までの人生において、知っているけど知られていないことはあったが、知らないけど知られていることはなかった八幡にとっては何とも不思議な感覚であって、反応に困ってしまった。

 

「なるほどなぁ、体育祭の時、静がたいそう気に入ってるなと思ったがそういう事かー」

「ちょっ、桜っ!」

「ね〜」

「あははっ! それでさぁ、ツルがさっきね──」

 

 その様子から見て、この三人が仲がいいというのは八幡にも分かり、だからそのやり取りに入るのは億劫(おっくう)に感じられた。

 すると、ただ(かたわ)らでじっとしている八幡の様子を見かねた一人が、話しかけてきた。

 

「あっ、ごめんごめん、棒倒しくんは私たちのこと分からないよね。どうも、私、静の中学の頃の同級生、大磯(おおいそ)(さくら)! よろしくっ!」

 

 活気横溢(かっきおういつ)として気さくな笑顔で八幡に名乗る大磯は、平塚のように人当たりの良いのであろうことが伝わってきた。そして、黒と茶色の間の色合いで染められたさっぱりしたミディアムカットで、ほんのりと日に焼けた感じであり、すらっとした体格は、その内面と見事に一致しているようにも思えた。

 

「は〜い、どうも〜。同じく、(しず)ちゃんの同級生の〜、秦野(はだの)鶴子(つるこ)で〜す」

 

 すごくおっとりとして余裕があるそのしゃべり方は、大磯とは対照的であり、どこか箱入り娘のような気品すらも感じた。そして、その肌は本当に箱の中に閉じ(こも)って暮らしていたのかと思うほど透き通るほど白くて、ベージュ色の髪も相俟(あいま)って、日本人らしくない西欧風なようであった。ただ身長は飛び抜けて低く、その丸っぽい顔もあってか、小町と同じほどの年齢かと錯覚するほど、幼く見えた。

 

「平塚の高校の同級生の比企谷八幡……、です」

「おぉ〜、比企谷八幡くん。珍しい名前だね〜、よろしくね〜」

「よろしくねっ!」

「……よろしくお願いします」

「比企谷くん、全然タメ口でいいよ!」

「あっ、あぁ、わかった」

 

 それで良しと大磯はにこやかに八幡に微笑みかけると「よしっ、では早速」とこの場の指揮を()り始めた。

 

「静の雰囲気がいつもと違う件について」

「静ちゃんの髪の毛、そんなくるくるだったっけ〜」

「いやっ、これはだな……」

 

 取り(つくろ)おうとする平塚を横目に、大磯は何かに気づいた様子で口を開いた。

 

「──っていうか、良く見たらその服、最近、静が珍しく私達を呼びつけて選んで欲しいっていったやつじゃん!!」

「あっ、ほんとだ〜。私、そういうのに疎いからって〜」

「え、マジで……?」

 

 八幡も思わず声が漏れてしまった。するとその反応を面白がって、大磯が乗っかるように「比企谷くんマジだよ! マジ!」と言った。

 

「ち、違うんだ、これは、そっ、その…………」

「静ちゃん、理由すっごい誤魔化してたけど〜、こういう事だったのか〜」

「あわわわわわわ……」

 

 平塚は金魚を模したように口を開けたり閉めたりしていた。見るからに動揺しているのだった。

 

「じゃあ、次に、一気に切り込んじゃうけど、二人はどんな関係なの?」

「ま、まぁ、仲のいい友達だ。なっ、比企谷?!」

 

 平塚が、『余計なことを言うんじゃないぞ』と目伝いで訴えてくるのであった。ただ、友達であることは嘘でもなんでもなく事実であるのだから、八幡も「そうだな」と普通の調子で答えた。

 

 それを聞いて「ふーん」と大磯は至極つまらなそうな顔をしていたが、秦野は二人が写真を交換するために握っていた携帯の方をまじまじと見始めて、にやりとしてひと言。

 

「じゃあ〜、質問だけどそのお二人の携帯にぶら下がってる、その見るからにおソロのパンさんストラップは何かな〜? 普通の友達が、見せつけるように()()()()()()()()()なんて付けるのかな〜」

「おっ、さすがツル探偵、目の付け所が鋭い!」

「えっへん〜、どんなもんですか〜」

「い、いやツルと桜。これは、比企谷とディスティニー行った時にだな。……って、ハッ?!」

 

 平塚は慌てて両手で口を塞いだ。しかし、これこそ綸言汗の如し。大磯と秦野は平塚のあまりの間抜けなとんまに、探偵ごっこの手応えがないのかもはや呆れたような顔になっていた。

 

「うわぁ〜……、お手本通りの墓穴〜」

「というか、二人でデステニーまで行ったのか……。あのお土産もそういうことか……。くっ、幸せ者め……」

「いや、説明したら色々ややこしくなるから。とにかくそういうのではなくてだな……」

 

 平塚が言い訳探しに口元をまごつかせていると、まるで住宅街の正午の貴婦人たちの井戸端会議のようなノリでひそひそ話を始める。

 

「──これじゃあ、邪魔しちゃいけないですね〜、桜さん〜」

「えぇ、そうね。これは邪魔しちゃいけないやつですよ。ツルさん」

 

 二人は、示し合わせたようにほくそ笑んだ。

 

「というわけで、じゃあね〜、静ちゃん楽しんで〜。文化祭の時また会いに行くからね〜」

「ていうわけで、ひきが……、えーと、言いやすく。そうだ、ヒッキー君!」

「ヒッキーって、それ女性歌手か引きこもりじゃなぁい〜?」

「いいのいいのっ! じゃあヒッキー君、静のこと頼んだよ!」

「あ、あぁ、分かった」

 

「お二人共、お幸せに!」と去り際に揶揄(からか)い言葉を置き土産にして、大磯と秦野はその場から逃げ去るように、まさしく嵐のように消えていった。嵐の後の静けさというのだろうか、二人はしばらくの間、貝のようになって、その場に立ち尽くしていた。

 

「……平塚、また嵐が来たな」

「う、うん。そうだな、とんでもない嵐だったな。……ちなみにだが、比企谷。あの二人が言ってたことだがな……」

「まぁ、違うよな。さすがに分かってるわ」

「……あ、あぁ、そうだ。たまたま秋服を切らしてて、買っただけなんだ」

「なるほどな」

 

 八幡はほっと胸を撫で下ろしていた。もし、先の大磯と秦野の言っていることが本当だとしたら、思い違いも甚だしい有り得ぬ希望があると思い込んでしまうかもしれなかったからだ。

 

 それからは、ウィンドウショッピングを続け、一通りモール内を回ったところで、夜までには帰るという話であったので、このタイミングで帰ることに決めた。

 海浜幕張駅へと向かう。街ゆく人達も、多くは駅の方へと向かっている。途中で八幡が停めていた自転車を拾い、それを手で押しながら自転車を挟んで二人並んで歩いていた。

 駅前広場の前のタイルは街灯と建物からの白っぽい人工的な灯りで照らされている。そして、広場の野球の像の色が、周りを覆い始めた薄々とした黒と混じって、ぼんやりと浮かび上がるのを見ると、この一日があっという間に終わってしまったことを実感できた。

 

「今日も楽しかったなっ!」

「あぁ、すげぇ楽しかったわ。ありがとな。じゃ、俺帰るわ。またな、平塚」

 

 自転車を押してそのまま帰路に着こうとした時だった。「ひっ、比企谷っ……!」と平塚に呼び止められて、八幡は動きを止める。

 

「ちょっと、待って……」

「ん、どうした。また何かやり残したことでもあるのか?」

 

 平塚は首を横に振って、小さく口を開く。

 

「……ごめん、今日一個だけ、君に嘘をついたんだ。さっきの秋服を切らしてたっていうのは嘘……」

「え……?」

「本当は、ツルと桜が言ってたように()()()()()()()()に、二人に頼んで服を選んでもらったんだ……」

 

 平塚は、顔を下に向けた。

 

「私、今日、比企谷と出かけるの凄い楽しみだったから……。ちょっと頑張って、その、お洒落(しゃれ)してみようかなって……」

「───っ!!」

「こんなの……、引くよな…………?」

 

 頬を赤らめ、目をうるませた平塚は上目遣いで、遠くで鳴く蟋蟀(こおろぎ)のようなか細い声で、八幡に尋ねてきた。

 

「いやいや、引かない引かない。俺だってめっちゃ楽しみだったから。誘った側だし。この服もこの日のために新調したやつだし。むしろ楽しみにしすぎてて引かれないか心配だったわ」

「ふふっ、そっか、比企谷もなんだ……、すごく……、すごく嬉しいな……」

 

 言葉通り、そしてそれゆえ形容しがたいほどの本当にとびきり嬉しそうな顔を平塚は見せていた。

 この時、八幡の何かが、完全に崩れ落ちる音がした。

 

「その、また、二人でこうやって出かけてくれるか……?」

「……あぁ、そうだな。また二人でどっか行くか」

「あと、それと、その、文化祭も二人で回ってくれるか……?」

「……分かった、二人で回るか」

「じゃあ、私たち二人だけの──、な……?」

 

 平塚は、もう既に大事な約束がある右手とは逆の左手の小指を立てて、ゆっくりと左腕を伸ばして、それを八幡の胸の前に差し出す。

 八幡もそれに応えるように、左手の小指を立てて、平塚の指とぎゅっと絡めた。その指は外にいるせいか先程よりも少し寒く感じた、ただ八幡のよりも随分と小さくて弾力のあるもので、絡めている内ににじわりと温かみが伝わってくる。

 

「「指切りげんまん、嘘ついたら、針千本のーます。指切った」」

 

 絡めた指をどちらからともなく離すと、平塚は熱を含んでいそうな目を潤ませて、優しく微笑んで、顔を八幡の耳元に近づける。彼女の甘美な匂いがまた擽るように、入り込んできた。

 そして、普通なら周りの足音や、自動ドアの音、微かな(わだち)を残していく車の音に呑まれそうなほどの(かす)れた声で、

 

「──約束だぞ」

 

 そう耳元で囁くと、そのまま駅の構内へと入っていった。八幡は呆然と立ち尽くし、その姿を自然と目で追っていた。

 階段を登る手前。

 平塚は立ち尽くしていた八幡の方へと振り返り、口を縦に、そして口を横にと動かした。何かを伝えようとしているのだろうが、読唇(どくしん)術など持ち合わせない八幡には、人混みが時折遮る中ではさっぱり伝わらなかった。そして、何かを言い終えた彼女は手を小さく振ると直後、階段の向こうへと妖精のようにひらりと姿を消してしまった。

 

 ──平塚の姿が見えなくなった瞬間、八幡は自転車を走って押して、近くの車道に飛び出る手前で勢いよくサドルに跨り、そこからは人目を(はばか)らず全速力で漕ぎ出した。

 

 ──可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い可愛い

 

 息が荒くなる。ペダルを全速力で漕いでいるからだ。

 鼓動が荒くなる。それは、全て平塚のせいだった──

 

 ──可愛いんだよ。可愛いすぎるんだよ。そんな顔、そんな仕草見せられたら、どうにかなっちまうだろっ……

 

 叫ぶことができたなら叫んでいただろう。サンドバックでもあったのなら思いっきり殴っていただろう。だが、そんなことは今はできないのであった。だから、その手に余るほどの激情の行先は、自然と全て二本の健脚(けんきゃく)の方へと向かって、よりペダルを回す速度はただひたすらに速く、速くなっていった。

 八幡にとっての、一番の嵐は、一挙一動で八幡を惑わせ、こんな狂おしいほどの激情をもたらす()()()なのだ。

 

 

 ──大通りと交わる交差点で信号待ちをしていた。数多の車が行き交う中、しばらく全速力で漕ぎ続けた八幡はガス欠のように荒い呼吸をしたままだった。しかし、やけに長い赤信号のおかげで、だんだんと息も落ち着いてきていた。

 

 恋心に気付いてしまったが故に、今日の平塚は八幡にとっては辛抱ならないものだった。

 待ち合わせの時と言い、プリクラで写真を撮った時と言い、いつもとは明らかに違い女々しくも愛らしい姿を見せていた上に、まさか今日この日のために、平塚が着飾ってくれるなど思いもしなかった。

 そして、だからこそ一つ、ある希望が、八幡がとびきり望んでいたが(なか)ば諦めていた希望が、今こうして芽を吹いて姿を見せたのだ。

 それは、()()()()()()()()()()()()()()()()()という希望である。

 

 そして、そういえばこんな話があったことを、八幡は不意に思い出していた。

 

 総武高校のいわゆる学校の七不思議の一つ。

 

『キャンプファイヤーを共に踊った男女は結ばれる』

 

 八幡だけでなく、平塚すらも馬鹿馬鹿しいと毛嫌いしていたあの噂話。

 まさか間違ってもそれに(あやか)ろうとすることなど絶対にないと、過去の八幡は考えていたはずだ。いや、当たり前すぎて考えることすらしなかったであろう。

 

 現在の八幡は今ここで心に決めたのだった。

 文化祭は二人で回ることを約束した。そして、そのまま文化祭が終わった直後のキャンプファイヤーの時、平塚静を誘うことを。この誘いが受け入れられれば、実質その希望は現実のものとして花開くのである。

 そしてもし共に踊ることができた(あかつき)には、平塚静にこの想いを伝えようと──。

 

 しかし、その希望はただの八幡の思い込みにすぎないかもしれないということが分からないほど、恋に盲目(もうもく)にはなってはいなかった。さすがに経験がないから、どうしても分からないものは分からないのである。

 だから、当然、全て八幡の思い込みで、失敗するリスクも考慮できたのだ。むしろ、失敗と、その失敗による二次災害だけは、過去のトラウマが否が応でも八幡に教えてくれるのだった。

 高校に入ってからは失敗を極端に恐れて、傷つくことから逃げ続けてきて、孤独で生きることを孤高だと自己満足してきた男が、ここまでリスキーなことを選択するということを、もしそれこそ孤高狷介(ここうけんかい)を至高だと盲信する過去(むかし)の八幡が聞いたならば、一言目で思いつく限りの侮蔑で馬鹿にして、見下したような、そして全てを諦めたような腐り眼で、()め付けてくるだろう。

 

 しかし、それはもう過去(むかし)の八幡なのである──。

 

 たった一人の少女と出会ったことで、何もかも情けないほど変えられたのだ。そして、この無謀にも見える勇気も、彼女がいたからこそ得られたものの最たるものであった。

 

 そして、この決意が熟したのは、ただ純粋に、一秒でも早く、一瞬でも長く、平塚静の隣にいることを八幡が心の底から願っているからこそもあったのだ。

 だから酷く怖がりの八幡からすれば、こうして肖ること自体が、この恐怖と心の底からの願望のまさしく折衷(せっちゅう)案であったのだ。

 

 

 随分と長かった赤信号もついに青へと変わる。

 

 

 使い込んで色が落ち始めた灰色のラバーのハンドルを力を込めて、握る。靴底についた土で所々焦げ茶に汚れたペダルに左足を乗せる。

 

 

 ──青になった。

 

 

 いち早く歩き出した横断歩道を渡る人を、すぐに抜き去る。

 

 

 あとはもう、()()はない。

 

 街灯が照らす数秒後先の未来へと。

 

 前輪のライトが照らす目の前の未来へと。

 

 そして、()()()が続くはるか先の未来へと。

 

 ただ前へ、前へと。

 

 

 

 

 (おの)が決めた道を、彼はただ前へ、前へと突き進むだけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 











拙文を読んでいただきありがとうございます。
今回のお話ですが、めっちゃお洒落した平塚先生はそりゃ可愛いでしょ的な感じで執筆しました。
皆様のご感想、お気に入り登録、高評価大変励みになっております。ありがとうございます。
これからも、是非応援のほどよろしくお願い致します。



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八束: Just Friends




二人で過ごした特別な休日。
あの日から二週間経ち、いよいよ一大行事が目前に迫ってきている──。





 

 

 

 校舎の内と外を隔てるスチール扉の目の前、八幡はそこにある三段程度しかない混凝土(コンクリート)の階段の中段に、右側を一人分開けて座り込んでいた。テニスコートからはラケットの快音が届けられ、通路脇の雑草は、この時間になると足繁く通ってくる海風に身を任せて、ゆらゆらと揺れている。そのような穏やかな風も、足音を忍ばせて近づいていくる季節のためか、手の甲にあたると少しだけ肌寒く感じた。

 

 ここのところは、この昼休みの刻限は文化祭準備にあたっていたが、今日は珍しく休暇であった。

 だから八幡は久しぶりにこの場所にいた。

 彼は別段何もしていなかった。いつもならば、片手にパンやらを持って頬張っているのに、今日の彼の両手はすっからかんであった。

 それは、決して断食をしているからという訳ではない。また手持ち銭が底を尽きたからという訳でもなかった。

 

 間もなくして、後ろのスチール扉の戸が、開けられる。そちらに誘われるかのように風が八幡の顔に吹き付けて、つられるように後ろを振り返った。

 そこにいるのは、平塚静だった。一顧傾城(けいせい)の美女とはまさにこの事であり、その(たお)やかであって、凛とした(たたず)まいが(あまね)く人々を魅了することであるのは想像に難くない。何を隠そう八幡もその一人であった。

 黒色のブレザーは、衣替えの時期をいよいよ実感させる。それによって、その透き通るほど美しい素肌は隠されていて、名残惜しさに駆られつつも、隔絶することによる秘匿性がより美しいものであることに拍車を掛けているように思われた。

 一方で、平塚のスカート丈は夏服であった一学期に増して短くなっているように八幡に思えた。そのため、僅かに海風に(なび)いただけでもうっすら見えてしまうようになった影を落とした肌色は凄まじく煽情(せんじょう)的であり、背徳感からすぐに前を向いた。

 そして、いつもの場所──八幡と同じ段の右隣に平塚は腰を下ろした。

 横を向くと両手とも空手(からて)の八幡とは対照的に、平塚の掌の上に緑色のバンダナと桃色のバンダナで包まれた何かが乗せられているのが見えた。

 

「え、何それ。てっきり、パンかと思ったんだが」

 

 今日、平塚に、とっておきのものを持ってくるから購買でパンは買わなくていい、と言われていたのだ。

 しかし、いかにも人の手に作られたようなその包みの風体を見て、八幡はいくら平塚の持ってきたものと言えども勘繰らざるを得なかった。

 

「いや、その、今日はちょっと、君に食べて欲しいものがあってだな……」

「えっ、何を?」

「とりあえず、これを開けてみてくれっ……!」

 

 平塚は二つのうちの一つ──緑色のバンダナの方を、声を上擦らせながら八幡に手渡した。

 受け取ったそれは見た目よりも少し重く、その布越しにプラスチック特有の抵抗もなくするりと滑る感じがした。だが、パックなどと違って、固いのだ。そして、想像したよりも(かさ)があるのであった。

 その手触りから正体を推察していると、平塚が急かしてくるので、丁寧に結ばれた結び目を解くいた。すると花開くように布が四方八方にほろりとはだけて、そこにあったのは──。

 

「え、何これ。弁当ってこと……?」

 

 それは、二段弁当だったのである。手作り料理を作る時に用いるごく一般的な弁当箱の見た目そのままである。

 そして八幡の問いかけに対して、平塚は慌て気味に何度か頷く。

 

「そっ、その……、お弁当作ってみたんだ……」

「……何で、急に」

「いいじゃないか。練習だ、練習!」

「練習……? ますます訳が分からくなってきたが」

「練習っていうのは、えっと……」

 

 平塚は目を散らつかせた後、短くなったせいか捲れたことでちらりと露見している程よく引き締まった(もも)の付け根あたりに視線を落とし始めて、季節外れの蚊の鳴くような声で、

 

「……文化祭で君と二人で回る時、折角だからお弁当作ってこようと思っていてな」

 

 言い終えると周りの木々の葉のように、絹糸(けんし)じみた肌理(きめ)細やかな頬がだんだんと染まっていく一部始終を見て、八幡はまた鏡面に写った自分自身を見ているような気になった。

 

「──っ、なっ、なるほどな。そうなら、前もってそう言ってくれればいいんだが」

「だって、それは……、恥ずかしいじゃないか……」

 

 平塚はその頬に浮かんだ含羞(がんしゅう)の色を隠すようにぷいと顔を逸らしたものの、結局、首の細い筋にまで、その色が浮かんでいたのだから、徒労であったと言えた。

 更に、今、恥ずかしいことになっているのではは元も子もないような気はしたのであるが、当然八幡にとって悪い気分など殊更なかった。

 むしろ、平塚が手作りの弁当を作ってくれたうえに、二人で回ると約束した文化祭に向けて準備してくれていることに、避けようのない面映(おもは)ゆさを感じる一方、男心が揺さぶられないはずがなかった。

 

 八幡は、より一層丁寧に、壊れ物を扱うように、その弁当箱の蓋を開けてみる。まず一段目には日の丸の位置に梅干しが置かれたつややかに光る白飯があった。そして、それを横に置いて、もうひとつの方のゴムのような弾力のある白い蓋も開けてみると、主菜、副菜が彩り鮮やかに並べられていた。

 見栄えに関しては、贔屓(ひいき)目抜きにして完成度が高いものであったが、もう一つ、八幡にとって驚きがあった。

 

「おぉ、俺の好物ばっかだ……」

「そうか、それなら良かった。……じゃあ、早速食べてみてくれないか」

「あぁ、じゃあいただきます」

 

 まずは一口サイズのハンバーグを、一緒にあった割り箸でつまんで、口に入れる。

 そして、咀嚼(そしゃく)する。

 

「ど、どうだろうか……?」

 

 まさしく平塚は固唾を飲んでいる様相で、頬張る八幡の顔色をじぃっと(うかが)っていた。

 

「うん、めちゃくちゃ美味しい」

 

 普通に美味しかった。

 美食家などではないから、塩っけが濃いだとか、風味がどうとかの意見具申はできないし、そもそも彼らがふんぞり返って高慢ちきにご高説賜る一糸(いっし)一毫(いちごう)の差分など舌が適度に肥えただけの八幡には分からなかった。

 彼にとっては、ただ純粋に好みに合っていて、非常に美味いと感じたこの料理は、非の打ち所がない完璧な料理なのであった。彼の中の三ツ星だと礼賛(らいさん)する小町の料理ともどちらが優れていると尋ねられても、甲乙つけがたいほどの完成度であった。

 

 そのような八幡の反応を見た平塚は強ばらせていた頬をぱあっと弛緩(しかん)させると、腕の前で小さくガッツポーズをしていた。

 

「ほんとかっ……?!」

「あぁ、このハンバーグめちゃくちゃ美味しいわ。俺が好きな味だ。まぁ、でも、そんな驚くことでもねぇだろ。平塚そもそも料理上手いんだろ?」

「いや、でも……、比企谷に美味しいって言ってもらうのは凄く嬉しくて……」

 

 そう言って、肩の力が抜けたように微笑まれてしまっては、倍美味しく、そして倍愛おしく感じてしまうのが男の(さが)であった。こうも容易く胃袋まで掴まれてしまっては、いよいよ完全に身体の芯から先々まで平塚の(とりこ)になってしまうことは明らかであった。

 

「よしっ、じゃあ、私もっ!」

 

 平塚は、満足した様子で、もう一つのピンクのバンダナの包みを開いた。それは八幡に渡したものと中身は同じである弁当であり、「頂きますっ!」と元気よく言って、食べ始めた。良く言うように同じ釜の飯を食えば、自然と話は盛り上がるものであった。

 

「──そういや最近、気が緩んじまってるのか分かんねぇけど、よく消しゴム無くすんだよなぁ。ノートとかも授業中見当たんねぇなあと思ったら放課後すぐに見つかったり。歳のせいでもあんのかな」

 

 動かしていた箸先を一旦止めて八幡が自分自身の健忘(けんぼう)っぷりを何気なく呟く。きっと、これは気が浮かれているせいだと、自覚はしていたのではあるが。

 すると、やけに年に関する話題は手厳しい態度を取りがちな平塚が、案の定噛み付いてきたのであった。

 

「何が、高校生風情で歳だと言ってるんだ。歳をとるともっと大変なんだぞ。腰とか目とか肩とか、ほんと辛いんだ」

「おいおい、やけに詳しいじゃねぇか」

「あぁ、これは親からの──」

「──受け売りか?」

 

 八幡は、したり顔で、平塚に言って見せた。

 平塚は一瞬戸惑っていたが、すぐに目を細める。

 

「──ふふっ、あぁ、大正解だっ!」

 

 その後も、二人でこのおかずが美味しいとか、平塚がこれは苦労したんだとか、色々言い合ったりして、笑って、(くつろ)げる。そんな何気ないささやかな幸せが、何の変哲もないこの場所で、青々とどこまでも澄んだ秋の晴れの日の午後に、確かにあったのであった。

 今ここに断言しよう。この場所は、文字通り最高の場所(ベスト・プレイス)であったのだった。

 

 ──その日の放課後だった。生徒会へと続く廊下の途中で、平塚が一人で居るのが見えた。どうやら携帯電話に夢中になっているようで、少し猫背になってかぶりつくように画面を見ていた。

 少し驚かせてやろうと柄にもなく思って、横に並んだ。だが、平塚はあまりにも夢中で気づく様子もなく、その横顔はやけに喜色に(まみ)れているように見えた。

 

「何してんだ? そんなまじまじと携帯見つめて」

「ひっ、ひっ、比企谷っ……?!」

 

 腰を抜かしたように教室の外壁に手をついて、大きな声で驚いた平塚は胸元に携帯電話の画面を押し付けて、八幡から隠すようにした。

 

「いやっ、これは、見ないでくれっ……!」

「あっ、いや、すまん。別に全然見てねぇから」

「なら、いいんだ。じゃあ、また後でっ……!」

 

 平塚は、風紀を守るべき生徒会役員とは思えない速さで廊下を駆けていく。不思議には思いつつも、八幡は追いかけることは無かった。

 駆け抜けた平塚を追う風で(なび)いた掲示板に貼られたポスターが目に入る。そこには総武高校文化祭の日付と、スローガンがでかでかと誇張気味に書いてあった。文化祭の開催日は二週間後の日曜日である。

 

「……今日の帰り、買いに行くか」

 

 そう独り()ちて、八幡は仕事場へと向かった。今日の放課後の仕事は、本日届けられたキャンプファイヤー用の物品を校庭の脇にある倉庫にしまうことであった。そこまで手間と時間はかからないらしいということだけは平塚から事前に聞いていた。

 八幡は窓の隙間から流れ込む秋風に乗せるように自然と鼻歌を歌って、廊下を歩いていた。

 

 

 ──それから週を(また)いで、ある日の放課後であった。

 その日は、先日の秋晴れがまるで虚構であったと思わせるほどの秋雨ということだった。校舎の中にいても、その雨音は鮮明に聞こえてくる。ふと廊下から窓の外を眺めると、息苦しくなるほど厚い雲の黒い天井から雨が白いカーテンのようになって、同じ色の屋根が瓦のように敷き詰めて並んだ住宅街に降り注いでいたのだった。

 

 自転車通学一本の八幡も今日は詮方(せんかた)なく、バスを足替わりにして登校した。雨中のバスは、あの雨の日の特有の匂いと、バスの匂い──悪く言えばエアーコンディショナーを久しぶりに稼働させた時に感じるような(かび)の臭いが調合されて、見事に彼が好まない臭いに満ちていた。そのうえ、肩が濡れたクタクタのスーツ姿の社会人が、顔に疲労困憊(こんぱい)の四文字を見事に表現して、吊革に掴まっているのであった。しかも一人ではなく、数人も、(すし)詰め状態で。そんな場所に居合わせたら、ただでさえ雨の日で鬱蒼(うっそう)としているのに、感化されてより気分が落ちて、滅入ってしまう。

 だから、八幡は基本多少の雨であれば、雨合羽を羽織って自転車で行くことに(こだわ)っていたが、本日の雨はそんな彼をも諦めさせるような、目の前の視界を覆うような大雨であった。

 ただ過去と決定的に違うのは、この雨の中でも学校に向かおうとする気概が八幡に確かにあったことであった。その訳は、言うまでもなく平塚がいるからであった。

 バスに揺られながら、全身を赤く染めていた大通りの脇で連なった街路樹の公孫樹(イチョウ)がこの大雨を受けるのを見て頭を(よぎ)ったのは、この打ち付けるような大雨は、あのベストプレイスに根を下ろしている生命にとって恵みとなるのか、それとも災いとなるのかということだった。それは想像し難く、はてさて過ぎてみなければ分からないものであった。

 

 今日も今日とて昼と放課後の時間は、文化祭の手伝いであった。

 八幡は濃紺の愛用するスクールバッグを肩に()げて、いつも通り平塚の手伝いをするために放課後に生徒会室に向かっている途中である。

 生徒会室のすぐ手前の階段を上っている時、一つ上の階の踊り場から、何やら物物しい声が聞こえてきたのだった。

 初めその声を聞いては分からなかったが、八幡がその様子をちらりと階下から覗いて見えたのは、すらりと伸びた腕足で八頭身は軽くあり、俳優のように小顔で高い鼻梁(びりょう)が際立つ二枚目の()()()()こと清川(きよかわ)(たくみ)の物乞い顔であった。

 今年の体育祭の全員リレーの際の黄色い声援からも分かるように、いわゆるクラスの人気者であり、普段は冷静沈着な振る舞いをしていて、文武に秀でた眉目秀麗(びもくしゅうれい)さ、更に英国紳士のような気品と、性格から女子から好かれていることも多かった。

 そのような男が、このような我を失ったような声を出し、普段は引き締まり、清廉さを漂わせる顔を今のように崩すとは思えず、一度は耳を疑い、目を擦った。

 しかし、論より証拠。その姿はやはりクラスで何度も見たのだから、見間違うはずはなかった。

 

 八幡が生徒会室に最短距離で行くためには、この階段を上らなければならないのである。しかし、友情関係の軋轢(あつれき)が生じたのか、はたまた痴話(ちわ)喧嘩なのか何かは分からぬが、取り敢えず目睫(もくしょう)の間の面倒事に巻き込まれないためには急がば回れ。

 我関せずと見て見ぬふりをして迂回しようとした時であった。

 

「だから、平塚っ……!」

 

 ぴたりと歩みが止まる。

 清川が呼んでいたのは確かに、平塚の名前であった。

 それはまるで爆撃機に襲われたかのような衝撃で、最近は鳴りを潜めていた欲望から生まれた()()()()()がとどろに鳴り響く警報とともに急に膨れ上がってきていた。そして、八幡は咄嗟(とっさ)に階下の影になる(てすり)の壁に(かが)んで身を(ひそ)めながらそば耳を立てていた。

 

 

「俺と、付き合おうよ……。この通りだからさ」

 

 

 

 息が詰まった。瞬きが止んだ。心臓が止まった。

 これは、まさしく今そこにいるであろう平塚に対する告白だったのだ。

 それに、間違いなく二人はお似合いと世間で評されるものであった──。

 

「ごめん、清川。何度も何度も申し訳ないが、私は君と付き合うことはできないんだ」

 

 その瞬間──聞き慣れた心地よい声が聞こえた瞬間、八幡は全てを吐き出すように深い深いため息をついた。

 

「何でかな。そんな俺じゃだめかな? いつも仲良く話してくれてるじゃん」

 

 (すが)り付くように聞こえる声は、普段からは考えられないほど弱々しくて情けなかった。清川のことが好きな女子が見れば、卒倒してしまいそうなほどに。

 

「いやっ……だから、君とは……」

「別に好きな人とかもいないんでしょ? だったらお試しでもいいから付き合ってよ」

 

 その時だった。

 

「私には、他に好きな人がいるんだっ──!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「えっ……本当に……?」

「あっ、あぁ……」

 

 八幡の心臓の鼓動は、鞭打たれたように早くなって、今にもはち切れそうなほどに脈拍が大きくなった。

 

「それって、もしかして……、()()()ってこと?」

 

 更に予想だにしなかった清川の一言。

 八幡の鼓動は過去に類を見ないほど最高潮に達している。体温が著しく上がり、血は特急列車の如く全身を駆け巡る。

 

 ──今思えばここで引き返せばよかったのかもしれなかった。しかし、八幡の中にあったやけに確信めいてしまった希望、そして自信の存在が、彼をその場に留まらせてしまったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「──違う。比企谷はただの友だちだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 頭蓋の先から足の爪先まですべての身体の力がすとんと抜け落ちるような感覚があった。

 

 そのあまりの呆気なさに、最初は何が起きたのか分からなかった。

 

 心臓は不気味なほどに早いままでも、(ほとばし)るほどの熱は、高鳴りはすっかり消え去っていた。

 

「じゃあ、私は仕事があるから──」

 

 階段を上がっていく足音が聞こえる。酷く落ち着いた足取りであった。

 八幡はまるで抜け殻のようになっていた。全身に力が入らない。しかし、一刻も早くこの場から離れなければいけない気がした。そうでなければ、比企谷八幡という男が決定的に壊れてしまうと本能的に分かったからだった。

 だが階段の(てすり)を掴もうとする手は突然小刻みに震えはじめ、立ち上がろうにも足も(もつ)れて上手く動かない。

 そして真っ暗になるのではなくて、急にじんわりと、目の前の世界がじんわりと(にじ)み始め、すべてのものが、無際限に裾野(すその)を広げていくと思われた世界が、瞬く間に白くなって、無に帰っていくようだった。

 無に帰るということは、すべてが消えて終わるということであった。

 やがて頬を伝うように何かが一筋垂れたのを皮切りに、とめどなく溢れ始めた。

 

 その時、ようやく気が付いた。

 この一世一代の恋は実らないことに。

 

 ──八幡は走って、階段を駆け下りた。何段も飛ばして、とにかく、走った。動かなかった手も足も勝手に動いた。

 下駄箱に向かって、上履きは脱がず、土足を手に持って、嘲笑うような非情な大雨の中、傘もささずに、早くこの学校の中から逃げ出すように、走って。

 通行人からは白い目で見られていたのだろうが、必死で走って。走って。走って──。

 

 赤信号が男の滑稽(こっけい)な姿を見て嘲笑う。

 しかし、彼にはもうそれすら見えなかった。

 男を怒鳴りつけるような大きなクラクションが鳴った。

 しかし、彼にはもうそれすら届かなかった。

 

 雨の陰鬱な匂いに(ほの)かな金木犀(きんもくせい)の香りは掻き消されて、柑子(こうじ)色の花弁(はなびら)の行方は(よう)として知れない。

 雨に打たれた沿道の秋桜(コスモス)は、力なくかぶりを垂れている。その生命の象徴であり、輝く月にも見えた中央の山吹(やまぶき)色はその花弁に覆われて、姿をすっかり隠していた。

 

 だがこの男は、それにすらも目をくれず、ただひたすらに、走って、走って、どこまでも、走って。

 早く、この世界から、逃げた──。

 

 

 ──家に着いた。全身はずっしりと重くなっている。八幡の足元には、尋常ではない量の雫が、ズボンの裾から(したた)り落ちていて、三和土(たたき)には水たまりを作っていた。髪はあの癖毛がぺたりとくっついて無くなるほど、濡れていた。

 三和土には一つも靴がなかった。幸い小町は、まだ帰っていなかったようだった。今日は塾があり、夜遅くまで帰ってこないのである。

 そして今、小町の存在が不意に浮かび上がった時であった。八幡の中には、すっぽり抜けた穴から噴き出てくるように小町を心配させてはいけないという至上命題が生まれ、それが思考の中核に据えられ、てきぱきと証拠を消すように動き始めた。

 それは別の何かを考えていないと、動いていないと、酷く無情で残酷な現実に(むしば)まれ、壊れてしまいそうだからでもあった。

 八幡はまず、急いで着替えた。雨粒が染み込んだ白い襟シャツは洗濯カゴに入れた。色が変わっているように見えるブレザーは必死にドライヤーを使って乾かして、自室の部屋の窓に吊るして干した。

 知らぬ間に泥濘(ぬかるみ)に足を踏み入れたことで、土がこべりついた上履きは、汚れを(こす)り落とすためのブラシを使って、一心不乱に、まるで靴磨きが生業(なりわい)であるかのように、何度も何度も磨いた。最早、もとの白色に戻った後も、磨き続けていた。

 風呂場には入った。ただ、シャワーを長らく浴びたが、風呂は沸かさずにシャワーだけで上がった。フローリングの床は狭い溝に垂れ落ちた雫が入り込んでいて、それを雑巾で執拗に拭いたりしていた。

 しかし、それも当然程なくして終わった。

 何もすることが無くなった八幡は、逃げるように自室のドアを開き、誘われるように布団へと潜った。

 

 ──潜って、その柔らかさに触れた瞬間。どこからともなくどっと涙が溢れた。

 有り得ないほど溢れ出てきた。

 最初は嗚咽(おえつ)だった。噛み殺そうとしても、漏れ出てきた。門番はもう、いなくなっていたのだった。

 だから次第に、声を引くようになって、しまいにはしゃくり上げるように泣いた。

 過剰な程に優しい羽毛ぶとんの温もりが、途中から余計辛くなって、剥いで床へと投げ捨てた。

 

 一頻(ひとしき)り泣いた。いくら泣いても、胸のつかえはとれず、むしろ時間が経つ度に締め付けられた。枕元の白いカバーを見ると、ぐっちょりと濡れていた。

 鼻を(すす)りながら目尻を赤くして、睨みつけるように天井を見上げた。するとこんな天気であるから、もう夜かと思わせるほどいつもの白天井は、黒で濁っていた。

 そして、ずずっと、一人の影が(うごめ)く。

 影はやがて見覚えのある純白のタキシード姿になった。その顔も同じく乱雑に墨で塗られたようで、見えなかった。

 

 ただそれが、極めて()()()()()()()()()を浮かべているのだけは分かった。

 

「残念だったなぁ……!!」

 

「期待した結果がこれだ……!!」

 

「欲張りなお前が悪いんだよ……!!」

 

「全部、全部お前が悪いんだよぉ……!!」

 

「じゃあ、平塚は俺が───────」

 

 おもむろに枕を掴んで、目先の天井に向かって、思い切り投げつけた。

 ぶつかって、大きな音を鳴らして、枕は落ちてくる。

 八幡の顔を目掛けて落ちてくる。

 だが避けるつもりなど毛頭なかった。

 白いカバーは、だんだん目の前に近づいてきて、大きくなって、やがて黒になって、そして、すべてが消えた。

 

 

 

 

 

 ──八幡は翌日、普通に学校に登校していた。まるで、何事も無かったのかのように。

 しかし露骨に平塚を避けるようになっていた。

 休み時間と昼休みは誰よりも早く教室を出た。ずっとイヤフォンを付け続けた。

 ベストプレイスには出向かずトイレに(こも)った。そして、文化祭の準備を手伝うことは一切無かった。

 携帯電話もマナーモードに設定し、メールは一切を無視した。

 

 

 その二日後の放課後、八幡がいそいそと帰る支度をし、教室を出て、下駄箱に向かっていた時、最近の八幡の様子を(いぶか)しんだのか、先回りして通り道を塞ぐように平塚が声をかけてきたのだった。イヤフォンを耳に付けていたとて、無視できる状況ではない。

 八幡はイヤフォンを耳から外したものの、すぐさま目を遠く、窓の外の方へと逸らした。八幡の胸には釘を打ち込まれたようなずきりとした鋭い痛みがあった。

 目下(もっか)の空は不気味なほど青かったが、そのすぐ奥──東京湾が臨む方角には時化(しけ)を想起させるような暗澹(あんたん)とした雲翳(うんえい)が峰をなしていて、秋の空の表裏を見事に体現していた。(すこぶ)る心地よい秋晴れも陰鬱とした秋雨も、紛うことなき現実なのであった。

 

「……な、なぁ、比企谷。その……」

「すまん、今日も無理だ」

「え、まだ何も……」

「じゃあ、俺帰るから」

 

 八幡は不自然なほど極めて落ち着いた様子で、平塚に背を向けて、離れるように足早に、歩き出した。

 

「ま、待ってくれ……」

 

 その言葉が耳に入っても、足は止まらなかった。それどころか歩調は早まるばかりであった。

 

「ねぇ、比企谷、私のことを見てく──」

 

 肩を平塚に掴まれる。彼女の温もりが確かに伝わってきた。だからであった。掴まれたすぐ後、八幡は(わずら)わしいものを払い除けるようにその腕を振り払ってしまったのだった。

 

「ひき、が、や……?」

「……わりぃ、最近体調悪くてな。だから、もう当分手伝えそうにねぇわ。じゃあな」

「あっ……、ひき、が……」

 

 その言葉を最後に、もう平塚は八幡の後を追いかけてこなかった。

 遠ざかる身体的な距離が、直接心の距離に繋がっている。そして、遠回りの階段を下りて昇降口に着く。不意に後ろを振り返るが、当然、平塚の姿などあるはずがなかった。

 

 ただ、胸の刺痛(しつう)もすっかり消えていた。

 こうして、また、一つ、自分を嫌いになった。

 

 昇降口を出ると、湾上に(わだかま)っていたはずの黒雲がやれ(たの)しそうに、そして(さげす)むように、地上の八幡を真上から見下ろしていた。だから、彼は背筋を弧を描くように曲げて、いつもと変わらぬ地面にへとその腐りきった眼を向けて、歩き始めた。

 

 ──その日から平塚が八幡に話しかけてくることは無くなった。携帯電話に連絡を寄越すことも無くなった。こうして、また、高校二年生に進級する前の、()()()()()()()()()()が八幡の元に戻ってきた。

 

 休み時間はイヤフォンを付けて眠ったふりをして過ごした。

 音量は以前よりだいぶ上げていた。

 それだけではなく、イヤフォンをより耳の深く差し込むようになった。内耳(ないじ)の敏感なところに触れて軽く痛みが出るほど深く差し込むようになった。

 

 昼になれば足早に教室から出て、ベストプレイスに繰り出す。そこで当たり前だった位置──その混凝土の階段の中段の真ん中にどっぷりと腰を下ろした。

 そこで、独り黙々と購買で買った惣菜パンを口に摘んでいた。味は極めて普通であった。

 あれだけ嗜好(しこう)したMAXコーヒーも飲まなくなっていた。あの甘さが、今の彼には受け入れられなかったのだった。代わりに、慣れないブラックコーヒーを購入し、飲み終わったあとには、長編のピカレスク小説を持ち込み、その世界に逃げ込んで、次第にのめり込むようになった。

 

 風が強い──木枯らしが吹き荒れる日のことだった。本の(ページ)が意志を持って反抗してくるものだから、仕様がなく読むことは諦めて、短冊を模した単色の栞を本ののどに隙間なく収まるように挟んだ。

 その本を八幡の体が丁度風()けになるように置いて、ふと、周りを見る。あのひねもす続いた冷たい雨は、生命の終わりを告げる非情の雨だったようだ。

 今、追い討ちのように吹き(すさ)ぶ木枯らしの音が乾いて鳴る。その余りにも残酷で、平等な風が木々を撫でている。撫でると言っても柔らかく一入(ひとしお)の優しさがあるものではなく、鉄(やすり)で木皮を削っていくようであった。

 それを必死に受け止める身寄りのない残された葉が鳴らす音があり、その二つの音による和音がここにはあった。

 もちろん、その和音に生や希望はなく、ただ寂しく逃れようのない死の音であった。だが、その方がやけに近しい存在の気がして、憐憫(れんびん)と親近感が湧いた。傷を舐めあえる気がしたのだ。

 

 そして、放課後は道草食わず真っ直ぐに家に帰った。

 家に帰ると、何をするでもなく、部屋にこもった。食事はしっかりと摂った。勉強はいつもよりした。

 家では常に普通を装っていた。

 そしてまた、学校に行き、同じことを繰り返した。

 

 

 単調な生活の繰り返し。

 同じことを繰り返すだけ。その様子は、まるで、人間型の()()()()であった。

 ただ、皮肉なことに、お陰で悩みの種であった健忘はめっきり消えていた。

 

 

 代わり映えのないモノクロームの日常。

 

 

 もう彼に()は、戻ってこなかった。

 

 

 

 

 ──一週間程経ち昼食を独りで食べていた時、後ろのスチール扉が突然開いた。

 顔を鷲掴みにするような冷たい風が吹き付け、八幡は反射的に振り返る。

 しかし、そこには、見ず知らずの、おそらく校章から見るに、一年生の男子生徒が一本の棒のように突っ立っていた。彼は、後ろに振り返った八幡と目を合わせると身体を()()らせた。そして、何も言わず、不躾(ぶしつけ)を詫びるように一礼だけすると、そそくさと走り去っていった。

 傍から見れば些事(さじ)ではあるが、彼には大事であった。

 彩り鮮やかな想い出の残滓(ざんし)と似通った光景によって、走馬灯のように蘇ってくるようであった。しかし、必死に思い出すまいと首を振った。

 更に、同時に胸に刺されたような痛みがあった。

 その駆け足で離れていく後ろ姿が妙に目に焼き付き、次第にかけがえのないものを手放したような気になって、ひどく(さいな)まれた。

 しかし、後悔は先に立たずであるとは、この世の(ことわり)であるのだ──。

 

 

 

 ──次の日の放課後、依然として帰宅してからは自室の厚い羽毛布団の中で、八幡は無聊(ぶりょう)をかこっているだけだった。

 この頃、この時間は何も考えないようにすることを、一途に考えていた。そうすれば、時間が早く経って、体感的に早く眠りにつけられるように感じていたからだった。

 その時、一階の小町から呼び声がした。

 

 いつも通り、呼ばれて直ぐに下に行くと、あの日買って渡したミトンを付けたままの小町からプレートほどの大きさがある茶封筒に包まれた郵便物を受け取った。

 どうやら宛先が八幡らしく、それを受け取って、差出人を見れば、何が入っているのかはすぐに要領を得た。

 

「お兄ちゃん、何なのさ、それ。確か、長生(ちょうせい)村って、九十九里の方にある村だよね」

「秘密だ」

「ゔぇー、ケチー」

「お兄ちゃんにも秘密はあるんだ、堪忍しろ」

「まさか、()()()()ですかぁ……?!」

「……ちげぇよ。とにかく秘密だ」

「むぅ、教えてくれたっていいじゃん、お兄ちゃんのケチんぼっ……!」

 

 ぶうたれる小町を横目(よこめ)に、八幡は急いで階段を上った。そして、その郵便物は、日常生活において絶対に視界に入り込まないような場所にしまいこんだ。

 これは他でもない()()のためであった。

 

 しばらくして、また徒然(つれづれ)としてベッドの上でぬぼっと手足を伸ばしてだらけていると、小町がどうやら何度も呼びつけていたようで、催促するように部屋の扉を叩く音が室内に響いた。

 

「ねぇねぇ、お兄ちゃん聞いてる?」

「あぁ、わりいわりい。もう一度頼む」

「もう……。お菓子できたから、下に来てー」

「分かった。今行く」

 

 部屋の扉を開けると目の前には、小町が立っていて、彼女は八幡の顔を見上げて、目を見るのではなく、何かを探っているのか、顔の隅々を隈無く見ていた。

 

「ん、どうした小町、お兄ちゃんの顔に何かついてるか?」

「いや、別にそうじゃないけど……」

「なんだ、じゃあ、小町のお菓子頂くとするか。今日も楽しみだわ」

「ね、お兄ちゃん」

「今度はなんだ、小町?」

「何かあった?」

 

 今度は真っ直ぐ、腐り眼の瞳の奥の方まで見つめていた。それはまるで、そこに埋めた秘密を掘り起こしているようであった。しかし、今、自らの顔がとくに強ばっていたり、眉間(みけん)に皺を寄せるような力を入れていなかった。自然体を装っているはずなのであった。

 

 小町に、心配を負わせている。

 唯一の至上命題ですら遂行できないのか、とそんな自蔑(じべつ)の念が生まれながらも、しらを切って、お(とぼ)け顔を演じて見せた。

 

「ははっ、そう見えるか……? 別になんもねぇけど。それにそもそも何かあったら、真っ先に小町に報告してるわ」

「そっか……、まぁ、何でもいいから相談してね」

「あぁ、分かった」

 

 お菓子冷めちゃうから早く来て、と小町が先に階段を降りていった。八幡はそこで、頬を少し骨身に響く強さで平手で二回叩き、悩み事などない能天気を取り繕うために、飛び跳ねるような軽快な足音と、高らかな唄声までを口ずさんで階段を降りていった。

 

 

 ──文化祭の前日になった。あの日から彼此(かれこれ)二週間ほどが経過したが、(つい)ぞ、八幡の生活は変わることはなかった。

 ()()()()()起きて、()()()()()過ごして、()()()()()帰ってきて、()()()()()飯を食って、()()()()()寝床につくだけだった。

 

 延々と続くモノトーンの単調な生活。

 もう、あのような夢物語の中の彩色に近しい目映(まばゆ)い色は二度と戻ってこず、あの日々も遠い日の幻想へとなりゆくことをいよいよ確信していた。

 そして彼はまたあの誰も寄せ付けぬ厚い氷の壁の中に独り閉じ篭もり、今度は一生開くことはなくなるのであろう。

 ふと左手の小指を見る。この指には二人で出かけた日に交わした大切な約束があるはずだった。しかし、まもなくこれも反故になる。全てが終わる。

 そんな未来への諦観を頭の中で巡らせて、一人枕元に伏していた。

 

 こんこんと誰かが部屋の閉じかけた扉を叩く──。

 

 まもなくして扉を開けたのは小町だった。

 (いた)く真剣な面持ちで、八幡の部屋に入ってきたのだった。

 八幡は慌てて、うつ伏せから座る形に直って、いつものように(にわか)造りの()()()()()をして見せた。

 

「どうした、小町。こんな夜遅くに」

「聞きたいことがあって」

「おうなんだ、なんでも聞いてくれ。あっ、明日の文化祭のことか?」

 

 小町は首を横に振って、八幡が座っている横に腰を下ろす。そして、八幡の方を向いて、こう尋ねる。

 

「お兄ちゃん、何かあった?」

「いや、別になんもねぇよ。何かあったらまず小町に──」

 

 ()()()()()()に普通を装うとした時であった。

 

「嘘だぁ、小町には分かるよー。だって今、明らかに目が死んでるもん。腐ったなんかじゃなくて、死んでる」

「うっせぇ、周期でこういう時が来るの。死目(しめ)期なの」

 

 動揺せずに落ち着いて軽口を返したが、小町は笑う様子はなかった。

 

「誤魔化せてるつもりかもしれないけど、全然できてないよ。最近のお兄ちゃん、すごい不自然だし」

「……いや。そんなことは」

 

 口を真一文字に結んでいて、凛とした真剣な眼差しで、八幡の目を貫いていた。

 そして、小町は、核心に触れるようにその口を開けた。

 

「静さんのことでしょ」

「お前、適当なこと──」

「適当じゃないよ」

 

 きっぱりと小町は断言する。その(おごそ)かな強さに八幡は何も言い返せなかった。

 

「分かるよ、お兄ちゃん。小町、お兄ちゃんのことずーっと見てきたけど、そんな顔初めて見たもん。それに、色々無理してる。無理してるのを隠そうとして、無理してるように見えたよ。しかもここ一週間ぐらいは日増しに酷くなってる」

 

 どうやら最初からは鍍金(メッキ)は剥がれ落ちていたようである。小町の勘が鋭い以前の話であったようだ。十八番(おはこ)であるはずの三味線を弾くために並べる御託すらも今の八幡には思い浮かばなかった。

 

「……」

「最近のお兄ちゃん、おかしかったんだよね」

 

「あっ、もちろんいい意味でね!」と小町は少し茶化して言った。そして、小町は八幡の最近の様子を一つ一つなぞるようにつらつらと話し始めた。

 

「……あんだけ捻くれてたのに、かなり素直になったし、学校行くのも楽しそうだったし、今まで見た中で一番活き活きしてた。これっぽっちも関心がなかった身(だしな)みも気にし始めてたし、この前の相談事だってあるし、それにディスティニーにも映画にも二人で行ってるじゃん。それに、ドケチのお兄ちゃんが小町にミトンまで買ってくれたし」

 

 そして、小町は、こう結論づけた。

 

「それもこれも全部、静さんのおかげでしょ?」

 

 ──まさしくその通りであった。

 

「……だから、すごく辛いんだよね?」

 

 ──まさしくその通りであった。

 妹に物の見事に見透かされているさまに思わず自嘲気味た薄ら笑いが零れる。

 これはもう馬脚(ばきゃく)(あら)わにせざるを得ないようであった。

 

「ははっ、小町には完全にお見通しってわけか」

「お兄ちゃんの事だったら、静さんにはまだ負けてないからね! 生まれてからずっと隣にいて、お兄ちゃんのことずっと見てきたんだから!」

 

 えっへんと、小町は小ぶりな胸を手で二、三度軽く叩いて、鼻高々などやり顔を見せつけた。

 八幡にとっては、普段であれば少し苛立ちそうな小町のその態度も、意外なことに今は安堵でしか無かった。

 彼は独りではないのだ。何ものにも変え難い、絶対の繋がりを持った小町がいる。小町であれば初めから、心配するだけでなく、真摯に相談に応じてくれていたはずだ。そんなことを彼は失念していたのであった。

 小町を心配させまいと無理に動かしていた非常用電源をそっと切る。

 

「小町、聞いてくれるか……」

「うん、いいよ」

 

 八幡は一度目を閉じて、一息、吸った。

 

「──平塚のことは好きだ。多分……、いや本当にどうしようもねぇくらい好きだ」

「……うん、知ってる。それで何があったのさ」

「……最近平塚に好きな人がいるって聞いちまってな」

「静さんに……?」

 

 深深と頷くと、八幡は滔々(とうとう)と語り始めた。

 

「あぁ、平塚の口からしっかり聞いたんだ。誰のことかも分からねぇし、俺が平塚から直接聞いた訳じゃねぇが、あいつが他の同級生と会話してる時、聞き耳立ててたら聞こえちまったんだ」

「でも、それって冗談抜きでお兄ちゃんの事じゃ……」

「俺じゃないっていうのもはっきり聞いた。比企谷はただの友達だとさ。流石に比企谷を聞き間違えはしないわ、ははっ。盗み聞きした天罰かなこりゃ……」

「そんな……」

「そっからもう話せてねぇんだ。もう、怖くて仕方なくて……」

 

 八幡は、言葉に詰まりかけても、横にいる小町がしっかりと見つめてくれているのを感じて、滔々と話を続けた。

 

「──正直、自惚(うぬぼ)れてた。平塚と一緒にいる時間も増えて、あいつと喋る時間も増えて、色んな顔を見せてくれて。誕生日プレゼントだって買ってくれて……」

 

 (かんぬき)で閉じ込めていた平塚との思い出を一度引き摺り出すと、続けざまにずるずるとかけがえのない彼女との想い出が溢れ出てきた。

 そのどれもが光輝燦然(こうきさんぜん)としていて、今の彼には明るすぎたのであった。

 胸が締め付けられて、今にも愍然(びんぜん)な弱音を吐きそうであった。だが、何とか歯を食いしばって、一言、もう一言紡いでいく。

 

「……映画一緒に見に行った時は、また二人で出かけようって言ってくれたし、見たことないようなとびきり可愛い服を着てくれたりもしたんだ。しかもその日のためにわざわざ新調してくれたって。そしてこの間は弁当も作ったくれた」

「え、お弁当?」

「……あぁ、だから、恥ずかしい話だが、あいつも俺の事好きでいてくれてるんじゃねぇか、って思ってた」

「……うん」

「……でも、よく考えりゃ、それは勝手な俺の思い込みだ。こんなこと今まで無かったから、勝手に勘違いしてたが、()()なら有り得るものなんだろうな、きっと。だから、友達で満足できない欲深くて傲慢(ごうまん)な俺が悪いんだ。俺が……」

「お兄ちゃん……」

「俺はずっと平塚が隣にいて欲しいって思っちまった。でも、平塚は別にそんなこと思ってないんだって……」

 

 その歴然たる事実を改めて痛感して、余計に胸が苦しくなった。やはり釘を金槌で打ち込まれたような痛みがあり、思わず胸を手で抑えた。

 

「だからって、自分が苦しいからって、現実を思い知らされるのが怖いからって、俺は、平塚を遠ざけて、邪険な態度とって……。でも……本当はっ、俺はっ……」

「お兄ちゃん……」

 

 小町のその声は、包み込むような優しい声だった。

 

「……ごめんな、小町。こんな情けない姿見せて。自分のことで精一杯なはずなのにこんな余計な心配かけさせちまって」

「ううん、そんな事ない。そんな事ないよ」

「……俺、お、れ……………………」

 

 とうとう言葉が出なくなった。妹の前だと言うのに、心の奥底から今にも、溢れ出てしまいそうになっていた。

 

「お兄ちゃん頑張ったね。すっごい辛かったでしょ」

「お、れ、本当に……………………」

「うん、本当に頑張ったね」

 

 小町に、優しく頭を撫でられる。その小さくも、優しく慈愛に満ちた手で、ただ、優しく、そっと。

「頑張ったね」と母性を感じるような優しい声で何度も口ずさんで。

 

 八幡は、(たま)らずはらりはらりと涙を流した。

 

 

 

 ──(しばら)くして、八幡が落ち着いたあと「私が思ったこと、正直に言うね」と小町はまた真剣な様子で切り出した。

 

「これはさすがに、静さんが酷いと思う。勿論お兄ちゃんも大概だけど、それはいくら何でも思わせぶりすぎるもん。静さんから話を聞いてないから、決めつけることはできないけど、好きでもない男の子にそんな思わせぶりなことは普通絶対にしない。そんなことしたら最低だし、いくら静さんでも私は軽蔑する」

 

「──でも」と一息置いて、小町は続けた。

 

「でもね、お兄ちゃん。私、静さんがそんな事する人だとは思えないんだ。正直、静さんとほとんど会ったことはないけど、それでもそう思えたんだ、小町は。静さんが看病しに来た時あったでしょ? そもそも看病に来ること自体もそうだし、あの時、お兄ちゃんのことすごくすごく心配してたんだよ。それに、静さん、実は料理すごい下手だったの、お兄ちゃん知ってた?」

 

 小町の言葉に八幡は瞠目(どうもく)する。そのような心当たりはなく、むしろ贔屓目抜きにしても、確かに美味しかったあのお弁当が記憶にあったのだった。

 

「いや、全然。むしろ上手いんじゃねぇのか。実際貰った弁当はめちゃくちゃ美味かったし……」

「お兄ちゃんさ、静さんがお見舞いに来た後のリンゴの中に皮付きのやつあったの覚えてる?」

 

 八幡はよく覚えていた。あの雨の日、平塚が帰った直後に一番に手に取った一切れの林檎が、それだったからである。

 

「あぁ、覚えてるけど……。え、あれは小町が……」

「うぅん、違う違う。絶対私あんなことしないもん。静さんに()いてもらったほうがお兄ちゃん嬉しいかなって思って、それで、包丁渡したら、危なっかしいし表面に皮だらけになっちゃって。それで聞いたら、中学の家庭科で黒焦げの料理作っちゃったぐらい料理下手なんだって言ってた。その後私がほとんどやったけど、一個ぐらいは静さんが剥いた皮付きのやつ残してあげてもいいかなって」

「……そうだったのか」

「そんな静さんが、料理作ってくれるなんて、お兄ちゃんのために見えないところで相当努力したんだと思う。しかもお兄ちゃんに悟られないぐらい、ちゃんと美味しい料理を作って。だから一日とかじゃなくて、あの日から相当努力してたんだと思う。それに、多分なんだけど、やけにお兄ちゃんの好きなおかず入ってたと思うし味付けもお兄ちゃん好みだったでしょ?」

「確かに入ってた……」

「やっぱり。実はそれ小町が教えたの。この前たまたまスーパーで会ってさ。その時、お兄ちゃんの好きな料理とか味付けのこと伝えてたから。後、静さんからお兄ちゃんの話色々聞いたよ。その時の静さんの顔見てたんだ。本当に楽しそうな顔してたんだよ。小町もびっくりしちゃうぐらい。そんな人が、お兄ちゃんを(もてあそ)ぶようなことしないと思うんだ」

 

「だから、小町から提案があるの」と言う。

 

「お兄ちゃん、もう一回だけ静さんと、今度は面と向かって話してみようよ。私が明日文化祭に行って聞くこともできるけど、今回は絶対にお兄ちゃんから聞いた方がいいと思うんだ」

「でも……」

「怖いのは分かる。女の私でもお兄ちゃんの気持ち痛いほど分かる。でもこのままだったら、絶対にお兄ちゃん一生傷を残したまま、引き()っちゃうと思う。ここ最近のお兄ちゃんの様子を見てたら尚更」

 

 小町は、怖気付く八幡を励ますように彼の肩を二、三回叩いた。

 

「ちゃんと話そう。そして、ちゃんと納得するまで話し合おうよ。思い違いだったらラッキーじゃん! まぁ、もし、残念なことに静さんに他に好きな人がいるってなっちゃったら、文句沢山言っちゃっていいよ。お兄ちゃんがスッキリするまで死ぬほど文句言っていいよ。文句言うのは一級品でしょ? 今回は小町が特別に認めるからっ! まぁ、でも、静さんに他に好きな人がいるって多分諦められないでしょ。別にいいじゃん、好きになることに罪はないんだから」

 

「それにっ……!」と、今日一番の声を上げた。

 

「私は、私だけは絶対にお兄ちゃんの味方で、ぜーったいにそばに居てあげるから。お兄ちゃんがさっきみたいに泣いて帰ってきたら、小町の抱擁力で癒してあげるからさ! あっ、今の小町的にポイント超たっ───!!」

 

 小町の決め台詞(ぜりふ)を遮るように、八幡は小町のその一回りも二回りも小さく細い身体を抱き締めていた。

 恥ずかしさ以上に、その八幡を慈しんでくれる絶対的な温もりが愛おしくて、有難くて、大切なものに、感じられた。

 

「なっ、なに、急にっ、お兄ちゃん!? ま、ま、ま、ま、まさか、本命は私っ──!?」

「──小町本当に、本当にありがとう、勇気貰えた。俺、ダメな兄ちゃんだけど、精一杯頑張るからさ。応援しててくれ」

 

 すると、小町もすっと全てを受け入れるように、八幡の背中にその細くしなやかな腕を回した。

 

「……うん、頑張ってきてね。小町は、いつでもいつまでもずっとずうっとお兄ちゃんの妹だから」

 

 

 勉強机の上に置かれたアナログ時計も、机の抽斗(ひきだし)にしまっている滅多に付けない(くだん)の入学祝いのメタルバンドの腕時計も、たった今、人知れず長針は〇を、短針も〇を指していた。

 

 ──本日は文化祭当日午前〇時である。

 

 こうして小町に背中を何度も張り手されたからには、()()()()も、そして()()()()も腹を決めるしかないのであった。

 平塚と話し合って、どのように転んだとしても鮮やかに後腐れもない結末を迎えていこう、と八幡はそう誓った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 









拙文を読んでいただきありがとうございます。
そして毎度素晴らしい感想と、沢山のお気に入り登録、高評価ありがとうございます。お気に入り登録に至っては2000を超えました。もう、言葉にならないぐらい嬉しいです。

長らくお待たせしてしまい申し訳ありません。
その上今回の話は、辛いものがあるかもしれません。ですがこの先も読んでいただけたら幸いですね。

次回は文化祭編です。
なるべく早く投稿いたしますので、今後とも応援のほどよろしくお願いいたします。




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九束: Has Completely Melted








 

 

 

 ──背筋をやや曲げて、目を伏せて、廊下を()()で歩く。

 廊下をすれ違う人々は、総武高校の生徒だけではない。ヨチヨチと懸命に一歩ずつ歩く子供から、杖をついてのっそりと確かめるように一歩ずつ歩く老人までいて、かたや見慣れない制服に袖を通している中学生や、白髪(しらが)混じりの中年といったように老若男女が入り乱れていた。

 そう本日は、総武高校文化祭開催日である。

 

「真ん中ぶち抜いてチョー気持ちいいっ……! ストラックアウトどうですかぁ〜」

「気合いだッ……! 気合いだッ……! 気合いだ──ッ……!! 気合いのこもった総武焼きそばァ〜!!」

「舞台の中心で、愛を叫ぶっ! どうか、体育館に見に来てねぇ〜」

 

 それぞれの出し物に沿った衣装に身を包んだ総武高校の生徒たちは、お手製のプラカードを持って、その異邦(いほう)の客を引きつけるために流行(はや)りの言葉を使って、大きな声を出している。

 教室の前の廊下の壁には目を引くような装飾が施され、扉の前に座る受付は(せわ)しなくやってくる客に対して、嫌な顔一つせず、(かえ)って大層充実した様子で応対していた。

 

 ただ、八幡はその様子には目もくれず()()で歩いていた。

 

 

 ──人混みに当てられて参ってしまった彼は、教室がなく人気(ひとけ)のない部活棟の廊下の壁に寄りかかって静静(しずしず)(たたず)んでいた。

 もう(うま)(こく)も終わりに近づいている。

 窓の外を見ると、憎いほどの快晴であった。

 

 思い立ったように八幡は制服のポケットから携帯電話を取り出し、二つ折りのそれを開くと、メールを打ち込む画面であった。

 宛先のメールアドレスの欄には、平塚静のそれが打ち込まれている。

 しかし、本文は一切の空白であった。

 

 ──結局、八幡はまだ平塚と会って、話す事ができていない。小町に激励(げきれい)されたが、やはり負け戦に足を踏み入れるほど勇猛果敢で無鉄砲な性分(しょうぶん)ではなかった。傷を負う(きざ)しが僅かでもあれば石橋の束柱(つかはしら)の一本一本までも何遍(なんべん)も何遍も叩いて渡るような男が、大きな切傷が残ることが目に見えている状況に(おび)えないはずがなかったのであった。

 

 この変え難く、歳を重ねるごとにアイデンティティの核となっていった性分については、生まれてきてからずっと連れ添ってきた自分自身が一番良く()っている。

 だから、逃げ場を無くすために決意の証として、勉強机の抽斗(ひきだし)の奥底にしまった平塚からの贈り物のストラップ──笹を(くわ)えたパンさんのストラップと()()()()()に購入していた赤いリボンで口を結ばれた花柄の入った小さな紙袋を引っ張ってきた。

 しかし取り出したまではいいものの、それを見てしまった時にまた釘を打たれたように胸が鋭く痛むのが怖くなって、直視することは叶わなかった。

 ストラップは手で掴んだまま、制服のポケットの中に押し込むようにして、その紙袋は愛用する紺色のスクールバッグの内ポケットに突っ込んでしまった。

 そして八幡は今日の朝から何度も携帯電話を開いて、平塚宛に電子メールを送ることも試みた。しかし、打ち込もうとすると指が震えて、次第に洋灰(ようかい)で固められたように微動だにしなくなって、結局できずじまいなのであった。

 

 ──決意といっても中途半端であり、覚悟を決めることはできなかった。

 いつまで経っても腑抜(ふぬ)けた臆病者であるのだ。

 

 

 人がいない廊下は思っていたよりもだだっ広く、まるで伽藍堂(がらんどう)のようであった。どこまでも延びていくような壁に寄りかかって、しばらく八幡は空白の画面で独り寂しく点滅するカーソルを見つめて、固まっていた。

 別に恋文など書く必要は無い。奇を(てら)うことも書く必要は無い。『会って話がしたい』という文言さえ(つづ)ればいいのである。

 しかし、それすらも八幡にはできなかった。

 

 そのような中、ひっそり(かん)としていた廊下の端の方からの足音が聞こえきて、八幡はその方へと目を配った。

 そこには、文化祭の案内図を広げて、仲(むつ)まじく八幡の方に向かって歩いている男女の姿があった。

 特にその女子の方は八幡もよく知っていた。何かと平塚と引き合いに出され、可憐で、(いとけな)さすら感じる童顔の美少女であり、学園内屈指の人気者である山王(さんのう)弘子(ひろこ)であった。

 その横の男の方は名前は知らないが、野球部由来と思われる坊主頭すらも瑕疵(かし)にさせないくりっとした目が特徴的である中性的な顔立ちだけは見覚えがあった。

 

「ねぇ、劇が終わったらさ、ハニートースト食べよっ!」

「おう、ヒロがそうしたいなら、そうすっか」

「うんっ……! じゃあ、早く行こっ。劇始まっちゃう!」

 

 そのような()(きた)りな会話を交わしながら、その二人は八幡の目の前を通り過ぎる。

 その時二人は八幡の方を見向きもしなかった。だが、それは意図的に無視したのではないだろう。

 きっと二人だけしかいない世界に入り込んでいるから八幡の姿なぞそもそも視界に入っていないのだ。

 二匹の雌雄(しゆう)鴛鴦(おしどり)が目の前を通り過ぎた後、その背中を自然と追ってしまった。

 付かず離れずの距離感でありながら、心は絶対的に近くにある。そのようなことが赤の他人の八幡にすらも分かるから、余計(たち)が悪く、恨めしいほど羨ましかったのであった。

 窓の外は相変わらず嫌味たらしいほど輝く太陽であった。()が為に差し向けられた光なのかは、考えるまでもなかった。

 その時、(はか)らずもぐるると胃袋が鳴った。

 

「何か、食うか……」

 

 八幡は結局、何も打ち込まず、その携帯電話を閉じて、ポケットにしまいこんで、二匹の鴛鴦から目を(そむ)けるように歩き始めた。

 そして、歩いていると次第に(やまびこ)のように反響して聞こえてくる人々の声。喜楽しかない(かたよ)った音色にイヤフォンでも差し込んで耳を塞ぎたくなるが、彼はそれを了簡(りょうけん)してやり過ごした。

 これも彼の中途半端なりの決意のうちの一つなのであった。

 

 

 ──相変わらず人気の無いベストプレイスで独りで購買で買った弁当を食べていた。脇にはブラックコーヒーの缶を置いている。

 丁度その時間に小町から連絡があり、文化祭には行かないということであった。結びの言葉には、このような(てい)たらくを決め込んでいる八幡の様子を見越したのか、背中を押すような激励の言葉が長々と(つづ)られていた。

 しかし、それを見てもやはり指は動かなかった──。

 

 ベストプレイスを()った後も八幡は根無し草の如くゆくあてもなく彷徨(さまよ)うように廊下を歩いていた。

 次第に焦燥(しょうそう)感に駆られて、立ち止まる回数が増えた。しかし、携帯電話を開いたはいいものの、結局道端の地蔵菩薩(ぼさつ)のように固まって、閉じての繰り返しであった。

 そうこうしている間に文化祭も、刻々と終わりに近づき、昼間の盛況はすっかり消え、まるで門前(もんぜん)雀羅(じゃくら)を張ったようであった。あれだけ飛び交っていた音も隠れん坊で遊んでいるかのように息を潜めている。

 窓の外にいた燦燦(さんさん)とした天道(てんとう)様は、富士の山が奥に(そび)える穏やかな海原(うなばら)へとゆっくりと腰を下ろし始めて、空がそれを迎えるために燈籠(とうろう)を飛ばしたように赤橙(せきとう)色に染まっていく。

 しかしそのような光景を目に()めることもなく、ひたすら背を弓なりに曲げたまま、目を伏せて歩き続けていた。

 

 

 ──突然、「あっ!」という大きな声が目の前でして、すこし顔を上げた。そこには一ヶ月ほど前に幕張で偶然会った平塚の同級生である二人の女子──大磯(おおいそ)(さくら)秦野(はだの)鶴子(つるこ)の姿があった。

 

「ヒッキーくんじゃん、久しぶりーっ!」

「あ〜、ほんとだ〜。久し振り〜」

「どうも」

 

 挨拶を交した後、大磯は手を額に添えて右に左にきょろきょろと見回す。

 

「あれ、静とは一緒にいないの?」

「いや、いないな」

「そっかぁ……。私たち用事あって今来たばっかだから、まだ会えてないんだよねー。なら折角だし……」

 

 大磯は八幡へとぐいっと顔を近づけた。その瞳には興味の二文字がありありと描写されている。

 

「ヒッキー君、最近どうなのっ……?!」

「確かに私も気になる〜」

 

 秦野も乗っかっり、二人の女子にぐいと身体を寄せられ、(いと)わしく思って八幡は露骨に眉を(くも)らせた。しかし、遠慮の二文字はどうやら彼女達の辞書には記載されていないようでお構い無しであった。

 

「どうって」

「もちろん静とのことに決まってんじゃん!」

「それは……、えぇと……、その……」

 

 奥歯に物が挟まったような八幡の口振りに、即座に女の勘が働いたようで、大磯はその理由(わけ)を推察していた。

 

「……ねぇ、静と何かあった? まさか喧嘩とか」

「まぁ、喧嘩っていう訳では無いんだが、ちょっと話しづらくてな……」

「ふぅーん、なるほどね」

「で、その状況っていつぐらいからなの〜?」

「……かれこれ二週間は話してねぇな」

「「二週間……!?」」

 

 想像以上に長かったのだろうか、二人は口を揃えて驚嘆の声を上げた。

 

「それは結構長いね〜……」

「まぁ、そうだろうな」

 

 すると、大磯は「突然だけどさ」と声を上げた。

 

「ヒッキー君は、静のことどう思ってるの?」

「平塚のこと……」

「私としては静って、人当たりも良くて、自信にも満ち溢れてて、皆を引っ張るリーダー的存在で、おまけにえらい美人で、本当に何でもできる完璧超人だと思ってるんだ。ヒッキー君もそう思うでしょ?」

 

 大磯に同意を求められたが、八幡は顎を引くことができなかった。

 確かに高校一年生の時の彼であればパブロフの犬のように頷いていたであろう。平塚静を初めて見た時は、関わることの無い、彼とは一から十まで何もかも違う完璧な人間だと八幡は感じ、勝手に敵意を覚え、敬遠していた。

 だが、高校二年生に上がって、平塚と関わるようになった彼は、その彼が彼女に対して(いだ)いていた固定観念を改めざるを得なくなっていた。

 平塚静は、断じて完璧などでは無かった。

 人並みに悩む少女であった。

 自信が無い少女でもあった。

 守りたくなるような弱さもある少女であった。

 

 だから八幡は、(くび)を横へと振った。

 

「平塚は完璧な超人ではない、と思う」

「さすがヒッキー君だ。やっぱり君はそう答えるんだね」

 

 その答えを聞いて大磯は大層満足した様子ではにかんだ。しかし、一瞬、それは作り笑いのようにも見えた。

 

「静は、完璧じゃない。そんな当たり前のことに、私、中学の時に気づけなかったんだ」

「私もそうだな〜」

「今思えば、あの子一人で抱え込むような子だった。何でもできちゃうから基本は困らないんだけど、一回だけ、中学で生徒会長やってた時、一人で何でも(こな)してたんだけど、倒れちゃった時があったんだ。でも静はそれを乗り越えて、結局最後までやり遂げたから、私たちは勝手にあの時は静の体調が悪かったんだねで納得しちゃって、完璧な静っていう理想像を押し付けたままにしちゃったんだ。でもあれは、間違いなくオーバーワークが原因だったんだと思う」

「それに(しず)ちゃんは〜、他人の背中を押したり、手を引っ張っていったりするのは得意だけど〜、自分のことを変えようっていうのあんまり無かったよね〜。今思えば〜」

 

 大磯は深く頷いた。

 

「多分、私が想像する以上に静ってずっと不器用だし臆病だったんだなって今になって思う。でも、そんな静が急に変わろうとし始めたの。

 私は興味無いからいいの一点張りだったお洒落(しゃれ)とかもするようになったし。服を選ぶ時には、あの一人で何でもしようとする静が私たちに手伝って欲しいとも言った。服を買いに行った時に、絶望的に下手っぴで唯一の弱点だと思ってた料理も、一生懸命頑張り始めたっていうのも静から聞いてたし。それに何より、あの()()かな」

「そうだね〜、体育祭の時と言い、幕張の時と言いあんなキラッキラな顔見せられたらね〜」

「あんな、本当に心の底から楽しそうに笑ってる静見たこと無かったからさ。幕張の時ちょっかいかけたのは半分それのせい」

 

 一瞬、大磯が切なさが詰まった白粉(おしろい)(まぶ)したような顔で窓に顔を向けていた。それは(つぶら)な瞳を細めて、橙色の光を射影機代わりにして、まるで遠き日のフィルムの中の一コマ一コマを窓というスクリーンに映して眺め、感傷に浸っているようであった。

 

「──でもあの時、静に踏み込んで変えられるのは君しかいないんだろうなぁ、って思い知らされちゃったからなぁ」

 

「──だから、ヒッキー君」と大磯は、八幡の方へと見つめ直していた。出逢い頭で見せたものは違う新面目(しんめんぼく)(てい)して、証明写真のようにその表情で固めていた。

 

「静が悩んで、抱え込んでるのに気付いたら、ヒッキー君が手を差し伸べて、そして引っ張ってあげて欲しい」

「俺が手を差し伸べて、引っ張る……」

「うん、ヒッキー君にして欲しいんだ。何で急にこんな話したのかって言うと、私は静が今凄い一人で悩んでると思うからなんだ」

「私もそう思うな〜。二週間も、ってことはね〜。だから比企谷君がずるずるって静ちゃんのこと引っ張ってあげてね」

「あははっ、何かそれじゃ逆に足引っ張てるみたいじゃん! まぁ、とにかく何で話さなくなっちゃったとかは私たちが深く首突っ込む所じゃないと思うから、早く静と会って話して、仲直りするんだよっ!」

 

 大磯は秦野のボケに軽くツッコミを入れた後、そのように言って励ますように笑って八幡の肩を軽く叩く。

 しかし、「あぁ、分かった」という簡単な言葉がまるで彼の口からは出てこなかった。寧ろ胸が()くどころか、余計に泥炭(でいたん)が溜まっていって(よど)んでいくような感覚があった。

 

「それって、俺じゃなくてもいいんじゃないか──」

「え?」

「手を差し伸べて、引っ張るのは俺じゃなくてもいいんじゃないか。別にあいつにとって俺は、友達の一人に過ぎないんだし……」

「いやいや、比企谷君は間違いなく静ちゃんにとって()()だと思うよ〜」

 

 秦野のその何気のない言葉に、(たく)まずして眉間の皺が少し深くなった。

 

「でも、俺が特別だっていう証拠がないだろ……」

「証拠ならあるじゃん、例えば──」

 

 二人から列挙されたのは、先も述べたようなファッションや、料理や、そして笑顔のことであった。

 しかし、ファッションや料理、そしてあの笑顔ですら、八幡もこの二人も知らぬ親しい他人に見せている可能性があるのだ。

 極めて我侭(わがまま)で厚かましいということは重々承知しているが、(なぐさ)めでも(あわ)れみでもなく()()であるというのであれば、八幡が静にとって特別であるという確固たる物質的な、()()()()の証拠を、彼は欲していた。

 しかし、そのような証拠は無いと、とっくに諦めていた。

 

 だが、その時、その(しこり)となった諦念を潰してしまうような八幡が忘れ去っていた証拠が秦野の一言によって再び思い起こされるのであった。

 

「──パンさんのストラップ」

「あぁ、確かに。あのパンさんのストラップは静からの誕生日プレゼントなんだってね。静に問い詰めてゲロった時はビックリしちゃった。ヒッキー君は当然知らないだろうけど、静って、人の誕生日にプレゼント渡したことないんだよ。ヒッキー君に渡したのが、初めての他人への誕生日プレゼントだって、本人からも聞いたし」

「静ちゃんに中学の時なんで渡さないの〜、って聞いたら、『他人のためにあれこれ考えるのは面倒くさいだろう! だから渡さない!』って堂々と言ってたもんね〜」

「つまり、裏を返せばあのストラップは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()買ったストラップなんだよ。まぁ、それでおソロってだいぶ攻めてると思うけどねー」

「私は〜、特別でもない人に贈らないと思うけどな〜。おソロなら尚更〜」

「そうだったのか……」

 

 八幡は彼女達の話を聞くや否や、そのストラップをすぐに確かめたくなり、ズボンのポケットに手を入れて、それを探った。しかし手にはポケットの内側特有の布の滑らかな感触があるだけで、凸凹(おうとつ)のあるものは見つからなかった。他のポケットにも手を突っ込み、(まさぐ)ったものの、空っぽであった。

 

「──あれ、ストラップがない……」

 

 ポケットに入れていたはずの笹を銜えたパンさんのストラップは消えていたのであった──。

 

 ▼△▼△▼△▼△

 

 

 八幡は、今日一日辿(たど)った足取りをなぞるように、血眼(ちまなこ)になって校舎内を探し回っていた。その唯一無二の繋がりを一刻でも早く感じたかったのだ。

 

『私たちも探すの手伝うよ〜。大切なものだもんね〜。ね〜サクちゃん』

『うん、当然でしょ!』

 

 大磯と秦野は、そう言って嫌な顔一つせず手伝ってくれた。彼女達には文化祭の実行委員に直接落し物が無いかを尋ねに行ってもらっていた。

 連絡を取るために、大磯とメールアドレスを交換したが、まだあちらからはメールは届いていないということは、見つかってないということだった。

 

 ──校内を一通り探したが、パンさんのストラップは見つかることは無かった。大磯からの連絡もまだない。

 八幡は外へと繋がるスチール扉の前に立っていた。この場所が最後であった。

 

 目の前のドアノブに手を掛け、半回転分ほど(ひね)って、扉を開ける。開けると風が音を引き連れて、道を塞ぐように八幡に襲いかかった。

 しかし、それは(びょう)たる猫騙しに過ぎなかった。とは言っても、昨日の八幡であればこのような虚仮(こけ)(おど)しの風に足元を(すく)われて、すぐに(きびす)を返していたかもしれないが。

 

 扉の向こうの三段程度しかない混凝土(コンクリート)の階段を見る。そして、昼食をとるために座ったその中段に目を凝らす。

 そこにはパンさんが(かか)えている蒼玉(あおだま)を模したような蒼色の添え物と斜陽の相反的な紅色が折り重なるように()()ざって、彼に居場所を示すように光っていた。

 

「あった……」

 

 安堵(あんど)のため息を吐いて、八幡はそこに落ちていたストラップを拾った。

 そして意を決して、その手元のパンさんのストラップを久方ぶりにまじまじと見た。

 このストラップ自体は、何の変哲もないよく見かけるようなパンさんのストラップである。

 しかし撫でるように触れていると、この無機質の中に、確かな(ぬく)もりがそれにはあった。全てが無に消えたと早とちりしていたが、消えている訳では無かった。彼がその温もりを感じない様に閉ざしていただけであったのだ。

 そこに、彼が酷く(おそ)れていたような胸を穿(つらぬ)く鋭い痛みもなかった。

 

「まずは……」

 

 八幡はこのストラップを共に探してくれている人達に連絡をしなければならない。

 携帯電話を取り出してメール画面を開く前に、まずは携帯のストラップホルダーに、そのストラップの紐をきつくきつく結んだ。

 

『見つかった。探してくれて、ありがとう』

 

 この簡素で当たり(さわ)りない文面で大磯へと送信した。

 ちょうど同じ時に、学校全体から田舎風情(ふぜい)を思い起こさせるような情緒(じょうちょ)溢れるメロディーが流れ始め、十数秒後にアナウンスが流れた。

 それは、文化祭の一般公開の終わりを告げるものであった──。

 

 

 八幡はそのスチール扉を開いて校舎の中に戻ることはなく、一度この混凝土の階段の中段にどっぷりと腰を下ろす。

 そして、携帯電話からぶら下がり、ゆらゆらと揺れるストラップを眺めた。

 

 他人の誕生日にプレゼントを一度も買わなかった平塚が八幡のために買ってくれた人生で初めての誕生日プレゼント──そのような枕詞(まくらことば)がつくだけで、彼にはこのストラップはどんな高価な宝玉や金塊よりも価値があったのだ。

 

 そうして、八幡は久しぶりに(おの)ずから思い返していた。

 

 全てはこの場所から始まった。

 本当に何も無い世界であった。

 決して暗闇で、閉じ込められているという訳では無い。

 しかし、どこまでも果てしなく延びていくような青空の下、季節の移ろいという上辺を()ぎ取れば、本質的には何も変わらない光景を永遠に眺めるだけであった。

 そんな世界をいとも容易(たやす)く、一発の拳で粉々に壊されたのだ。新たな世界を見せつけて、怖気(おじけ)()く手を引いて導いてくれた、たった一人の少女によって。

 

 そこからは、驚天(きょうてん)動地(どうち)の日々であった。何もかもが初めての経験であった。

 こんなに世界が色鮮やかであるとは思わなかった。

 幻想のようにも思えた。しかし、あれは幻想ではなく(まご)うことなき現実だったのだ。

 

 確かに(はた)から見れば、その全ての色は真っ当な人間生活を送っていれば通過儀礼のように経験する当たり前のことなのかもしれなかった。だから第三者は平塚の行動を経験の少ない男を騙す手練(てれん)手管(てくだ)看做(みな)すかもしれない。

 ただ、(たと)えそうであったとしても彼にとっては()()で千金万金では計れないかけがえのないものであった。

 

「ははっ、やっぱり、小町の言う通りだな」

 

 そうぼやいて、一人分空くように左側へとずれる。右を向けば、いつか見た燦然(さんぜん)と輝き、目が(くら)むほどの平塚の笑顔がそこにはあった気がした。

 その瞬間に胸の澱みを一切合切吹き飛ばす、何時かの時にも感じた強い強い風が吹き抜ける。

 

 ──やはり、比企谷八幡という男は、もうどうしようもないほど平塚静に心酔(しんすい)しているのであった。

 改めてこのベストプレイスを左顧(さこ)右眄(うべん)して見渡してみると、通路脇の葉を持たない(いたわ)しい木々たちでさえ、夕焼け空を背にして枝の先々から真っ赤な花を()ゆるようであった。校舎のペンキがところどころ剥げているはずの白壁は、圧倒的な赤に染められて、塗りたて(さなが)らの様相であった。

 

 今、八幡は覚悟を決めた。

 平塚と今日会って話す。そして一通り事情を説明した後、この想いを伝えるという覚悟を。

 盗み聞きをしなければ、今日八幡が伝えていたであろうことである。

 これが彼なりのけじめであった。

 

「──うし。腹(くく)るか」

 

 そう顔を上げて呟いた時、手元の携帯電話が震動した。八幡がそれを開くと『you got a mail!!』とものの一度だけ流れるのであった。

 受信したメールを開くと、差出人は当然ではあるが大磯からで先程彼が送ったメールへの返信であった。

 

『見つかってよかった! 今度は失くさないように大切にするんだよ笑。あと、静にもさっき会ったんだけど、キャンプファイヤーやるのに必要な倉庫の鍵無くしちゃったみたいだから探してあげてねー。そしたら静と仲直り出来るきっかけになると思うからさ笑。 静のことよろしく頼んだよ! 最後に、さっき確認し忘れちゃったから、多分ヒッキー君は分かってるとは思うけど一応ね。今日は折角の──』

 

 メールの内容を確認し、大磯のアドバイスを重々承知して、携帯を閉じる。

 だが、どうしても看過(かんか)できない問題もあった。

 一般公開の文化祭はもう閉幕した。タイムテーブルを粗方(あらかた)把握していた八幡は、キャンプファイヤーの準備は閉幕後すぐに行われることは知っていた。

 だからそのキャンプファイヤーに用いる丸太から備品までが一緒くたに置かれた倉庫の鍵を紛失をすることは一大事であり、それを発見することが、火急(かきゅう)の事態であることは認識できた。

 何より引き受けた当初は不倶(ふぐ)戴天(たいてん)の敵とでも言わんばかりの(うら)み節を述べ、愚痴を(こぼ)しながらも、平塚がこの文化祭のために、そして他人が喜んで欲しいという大それた素晴らしい望みのために、貴重な休みを返上して積み重ねてきたものが、この数十分で水の泡となるのは、その姿を隣で見ていた八幡には到底耐え難かった。

 キャンプファイヤーの物品を搬入する時に倉庫の鍵を用いたから、形はよく覚えていた。だいぶ年季が入っており木目がはっきりとしている大きな木製の札が草臥(くたび)れている細い白の組紐で括り付けられており、常に自転車操業の公立高校らしい(さび)かけの鍵であった。

 

「探すか……」

 

 腰を上げると、すぐに左手にある駐輪場の奥の茂みの方へと向かう三人の女生徒の姿が見えた。今日は文化祭であるから自転車による登校が禁じられていて、(さえぎ)る自転車が一台もないから駐輪場の奥までが目に入ったのである。

 普通であれば出し物の片付けをしている(はず)であるから、不審に思って少し近づいてみると、その内の一人の手には、大きな木の札が紐で結び付けられている鍵があった。

 それはまさしく、今、平塚が捜している倉庫の鍵であった。

 八幡は、迷う寸暇(すんか)を惜しんで、鍵を取り返すために動き始めた。

 

 

 ──八幡は三人の近くへと向かった。そして起伏のないのっぺりとした声で、三人に話しかける。その三人はマトリョーシカのように綺麗に背丈が大中小に分かれていた。

 

「なぁ、お前ら、なにやってんの」

「……いやっ、これはっ……」

 

 分かりやすく肩を(すく)ませ、その三人の女生徒は、八幡の方へと振り返る。

 その表情には、「別にそういうつもりでは」と揃いも揃って可哀想な私を演出していたが、その中で、手に倉庫の鍵を握っている一番長身で細身のボブカットの女──大野(おおの)京子(きょうこ)は、八幡と目が合うと百面相の如くすぐに別の仮面を取り出して、すげ替えた。それは、顎を上げて、見下したような仮面であった。

 

「なぁんだ、比企谷じゃん」

「言わないでおいてやるから、鍵を返せ」

「嫌だ。なんでお前に指図されなきゃいけないの?」

 

 大野は木で鼻をくくったような態度で、すげなく言葉を返す。しかし、八幡も下手に出て、へこへこと食い下がることはしなかった。

 

「お前ら自分が何やってるのか分かってるのか。別に誰にも言うつもりねぇから早く返せ」

「阿呆だなぁ。一人で来ずに先生でも連れてくればよかったのに。今ならあんたのこと犯人にできるよー。こっちは証人三人もいるんだし、ねぇー」

「うん、阿呆だねっ!」

「まぁ、所詮比企谷だからねー」

 

 そう言って、三人は(かえ)って暇潰しの玩具(がんぐ)を見つけたように、いじっては笑いものにし始めた。

 ところが彼女達に間抜けな失策を(ろう)された八幡は、苦虫を噛み潰したよう顔をするかと思えば、そぐわない不敵な笑みを浮かべていた。

 

「──そういや、今日の夕焼けは見事だよなぁ」

「は、急に何言ってんの? まさか、現実逃避ってやつ? あははっ、笑え──」

 

 大野は口を開けたまま、止まっていた。そして、三人揃って血の気が一気に引いていくのが彼にも分かった。

 その理由はどこかの御殿様の紋所(もんどころ)のように見せびらかされた八幡の携帯電話の画面に映った一枚の写真にあった。

 

「珍しく駐輪場もすっからかんだし、折角だから記念にパシャリと撮ってみたら、なんとまぁ、ビックリ。片手には、行方が分からなくて捜索願の出てる鍵をしっかりと握りしめている者を含めた女子生徒三人衆がいるではないか。こりゃあ摩訶(まか)不思議だ。何でこんなとこに探してる鍵があるんですかね」

「盗撮しないでよ……、消してよ……」

「盗撮じゃなくて、俺はあくまでこの綺麗な景色を撮っただけだ。だってそもそも、片付けをしてる()()()()に、生徒が来るはずもない()()()()()に人がいるなんて思うか。俺はそうは思わねぇけど。まぁ、一応、証拠としてここに時刻も載ってるからな」

 

 八幡は画面の右上の方を指差して、(わざ)とらしく指を(つつ)くように動かして、三人に示した。

 

「……という訳だ。鍵を返してくれ。返してくれたら、目の前でこの画像は消してやるから」

(おど)しかよ……」

「まぁ、目には目を歯には歯を、悪行には悪行で対抗するのがベターだからな」

 

 鷹揚(ようよう)自若(じじゃく)に八幡が言葉を返すと、大野は琺瑯(ほうろう)質が悲鳴を上げているかと錯覚するほど鈍く痛々しい音を鳴らして歯(ぎし)りしていた。

 一方周りの二人は写真を見せつけられてから、最早屠所(としょ)(ひつじ)のようであり、おそらく実行犯と思われる大野が白旗を()げることを待つように、彼女に目線を送っていた。

 しかし、中々大野は鍵を返そうとしなかった。

 

「ほら、時間がねぇから、早く返せ」

「……あいつが悪いんだよ」

「あいつ……?」

「静が悪いんだよ……! あいつ、私が好きだって知ってた人の事(たぶら)かして、傷付けやがった!」

 

 大野は唾を飛ばす勢いで、語気を荒げる。大野の言う平塚が誑かした相手は、清川(きよかわ)(たくみ)のことであろうことは彼に対する平素の大野の態度から見ても容易に推測することが出来た。

 

「前々から気に入らなかった、あぁいうの! なに、なんでも出来るからって、スーパースター気取りのつもり?! ね、二人もそう思うでしょっ……?!」

 

 急に同意を求められて、横の二人は狼狽(うろた)えたようで、必要以上に縦に首を振っていた。まるでロックシンガーに指示されて、一心不乱に行うヘッドバンキングじみたその同調圧力は、もはや滑稽(こっけい)の域である。

 しかし、その積もり積もった恨みつらみが形を変えた修羅を模した形相は笑い話で済まされるものではなさそうであった。

 

「別に平塚は誑かしたつもりはねぇだろ。ただ断っただけじゃねぇか。お前のは、世間一般的に八つ当たりって言うんじゃないんですかね」

「は、はぁ?! なんでお前があいつの肩を持つの、お前だってこっち側だろ! ……って、比企谷が知ってるわけないか。じゃあ、教えてあげるよ! お前は、あいつに(もてあそ)ばれてたの!」

「……」

 

 ──弄ばれていた。

 いくら特別な関係だと納得させて、覚悟を決めても、他人にそのように評されると、多少なりとも響くものであった。

 急に押し黙った様子の八幡を見た大野は、薄気味悪く、口角を少しあげる。

 

「そういや、結構昼休みとか一緒にいたもんね〜。ディスティニーとか幕張にも二人で行ったんでしょ」

「なんで、そのこと……」

「風の噂で聞こえてきちゃったんだよねぇ〜。ま、それでもね、あいつはお前のこと好きじゃないんだって……! あはははっ……! ほんと可哀想! ぷふっ……!」

 

 寝耳に水とでもいうような八幡の面構えを指を差して、吹き出して(あざけ)始めた。

 

「それにお前、この学校の色んな人からも嫌われてたんだよ? あたし聞いちゃったし。例えば、お前の消しゴム消えたり、ノートが授業前に限って失くなったりとかしてたでしょ!」 

「何でそれを知ってる……?」

「噂で流れてきたって言ってんじゃん。それで、実はあれはお前のことが嫌いになった奴がしたらしいよ!」

「どういう事だ……?」

「受け入れられないのかなぁ、ほんと可哀想。ま、静がお前のこと好きじゃないって分かったから止めたっぽいらしいじゃん。つまり、全部あいつのせいなんだよ、気づいた?! 私は優しいから教えあげちゃったぁ」

 

 八幡は混乱して、口をあんぐりとさせて、言葉が出てこなかった。なぜ大野がそのことを知っているかだけではなく、あの気の緩みによる健忘(けんぼう)の現れだと思っていたここ最近の()くし癖は、実は八幡のことを嫌っているという目に見えない人の仕業(しわざ)であることに魂飛(こんひ)魄散(はくさん)としていたのであった。

 

「第一根暗で誰も近づかないようなお前に、なんであいつが近づいたか分かる……? それはね、あいつにとって都合が良かっただけ、ただ、それだけじゃん! ()()って言葉ほんっとこういう男を誑かすのに便利だよねぇ。ほんと、同情しちゃうなぁ。あいつには勘違いさせられて、ほかの男子共には勘違いされて、ほんっとに泣いてあげたくなるくらいに可哀想だよねっ、ははっ……!」

 

 (あお)りに煽る大野はここで妙案(みょうあん)を思いついたようで、「あっ、そうだ!」と声を上げて、片手に握った倉庫の鍵を八幡に見せつけて、ほくそ笑んだ。

 

「だからさ、ここはいっその事私たちと手を組んで、お前も、一緒にこれを隠そうよ」

「そんな事絶対に出来るわけないだろ。とにかく鍵を返せ」

「この()に及んでなに善人面してるの。お前も被害者なんだよ?」

 

 そして、大野は一度舌先で唇を湿らせて、言った。

 

「──だから、私たちと同じような気持ちを味あわせてやろうよ! あの、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()にさっ……!」

 

 その言葉が耳に入った瞬間であった。

 今まで何があっても決して切れることがなかった頑丈な有刺鉄線がぶつりと切れる音がした。

 そして、その内側から今まで日の目を浴びることのなかった黒褐色の泥泥とした岩漿(がんしょう)が、どっと噴いて出て八幡を瞬く間に覆って()き尽くした。

 

「………………取り消せよ」

 

 酷く底冷えした声が八幡の口から発された。

 

「……は?」

「今の言葉、取り消せつってんだよっ……!!」

「「……ひぃっ!」」

「いくら俺のことは悪く言うのは構わないが、平塚を侮辱(ぶじょく)するのだけは絶対に許さねぇ……!」

 

 大野は、気圧(けお)されて先程までの女豹(めひょう)の如き威勢は(つゆ)と消えて、総毛立たせて縮こまった子猫のように一歩、後退りした。残りの二人は大野を置き去りにして、(しり)()をかけたように一目散に逃げていった。

 しかし、未だかつてない憤然(ふんぜん)に満ちている八幡は、容赦(ようしゃ)なくその猫を追い込むように一歩、また一歩詰めていく。

 

「…………ちょ、ちょっと」

「平塚はそんなやつじゃねぇんだよ……!」

 

 他の誰かに見られているなど思考の(ほか)で、八幡は煮え(たぎ)る腹の奥底から怒号を飛ばしている。

 大野は八幡の言葉を失っていたようだが、意地が勝ったのか突飛に臀をまくって声を荒らげた。

 

「……い、いや、あいつはそういうやつでしょ! 優等生気取って、何食わぬ顔で男を誑かすクズじゃん!」

「お前が平塚の何を知ってるんだ……! 何にも知らねぇくせに平塚を(けな)すんじゃねぇ……!」

 

 八幡の怒声は、ますます凄みと重みを増していく。

 しかし、徳俵(とくだわら)に足がかかっている大野も後には引けまいと、(ひる)まずに言葉を返してきた。

 

「は、はぁ……?! お前だって、なんも知らないでしょ! アイツにちょっと優しくされただけで(ほだ)された根暗童貞野郎がしゃしゃんじゃねぇよ!」

「お前よりは、知ってんだよ……!」

 

 喉の内側が擦り切れそうで、今にも喀血(かっけつ)する気配すらそこにはあった。それほどの音圧と音量で、怒髪天(どはつてん)()いたような声を張り上げていた。

 

「あいつが強がりなところも、寂しがり屋なところも、人並みに悩みを抱えてることも、楽しい時に本当に楽しそうな顔で笑うこともお前よりは知ってんだよっ……! 俺以上になんも知らねぇお前が、偉そうに平塚の事貶すんじゃねぇ……!」

 

 慣れない怒髪天の如き胴間(どうま)声で言い切ると、息遣いを荒らげながら、また一歩近づいた。

 大野は、とうとう完全に萎縮(いしゅく)してしまったようで、目にはいっぱいの涙を含んで、その細長い身体全体を震慄(しんりつ)させていた。

 

「な、何なんだよ、お前……。こっち近づいて来んなよぉ……」

「とにかくもうやめろ、鍵を返してくれ。これ以上、平塚のこと侮辱されたら──」

 

 八幡は、その後の言葉を口にしなかった。

 しかし、感情の発露を鍔際(つばぎわ)(こら)えていて、その代わりに大きく震えている彼の拳が、暗にその後に続く言葉を示していた。

 

「早くしろ……」

「ひぃっ……」

 

 左手の握り拳を(ほど)いて、拡げ、大野の目の前に差し出す。

 

「わ、分かったから。ほ、ほら……これでいいんでしょ」

 

 大野は声を震わせながら、八幡の手の上に倉庫の鍵を置いた。彼女の頬には、血涙(けつるい)のようにも見える紅染めされた滴が流れていた。

「あぁ」と八幡が相槌(あいづち)を返すと、大野は直ぐに背を向けて駆け出した。だがスチール扉を開けた直後一度立ち止まり、八幡に憎悪に染まった鋭い一瞥(いちべつ)を送り付けて、校舎の中へと姿を(くら)ました。

 

 手元を見れば、大野から取り返した少し錆び付いた鍵が、夕陽を浴びて赤銅(しゃくどう)色の光沢を覗かせていている。

 ふと校舎の窓を見ると、そこにはただでさえ鋭利(えいり)な目を吊り上げて、眉間(みけん)には(しわ)が寄って凄みがかり、その額にはくっきりと青筋を立てていて、鬼気(きき)森然(しんぜん)とした面持ちの男が映っていた。この顔と対峙(たいじ)した大野には一種の殺気も宿っているように見えたかもしれない。

 思わず八幡はそこから目を背け、自らの顔を撫で回す。

 再びその窓を見ると、いつもの顔に戻っていた。

 そして、大きなため息をついた。

 

「はぁ……、何やってんだ俺……」

 

 あの窓に現れた我を忘れたような顔は、()()()()()による産物ではなかった。

 もちろん、平塚に対する侮辱は、断固として許容できるものではない。

 しかし、窓に映っていた顔は、この二週間程の個人的な鬱憤が含まれた()()()()()であった。

 これを女子に向かって、ただ内にある私的な感情までもぶつけてしまったのだ。結果的には威嚇(いかく)になったとは言え、女子相手に拳も震わせてしまった。

 

 しかし、自責の念を(つの)らせるのは、今八幡がすべきことではなかった。まずすべきことは、この手にある鍵を、一刻も早く平塚の元へと返すことであった。

 

 

 

 ──校舎の内と外を(へだ)てるスチール扉の目の前、八幡はそこにある三段程度しかないコンクリートの階段の中段に座り込んでいた。

 テニスコートは寝静まっていて、風は向きを変えて、元にいた場所へ送り返すように陸風が東京湾の方角へと吹き抜けていく。その風が、昼時であれば舗装された駐輪場から校舎に続く目の前の小路(こみち)(あや)なす薄茶色の斑点(はんてん)に見えるが、すっかり宵闇(よいやみ)の中へと飲み込まれてモノトーンの黒へと同化してしまった落ち葉をふわりと巻き上げる。

 だが、その黒い落ち葉のいくつかが八幡の真上に舞い上がった時、三等星の如く(かそけ)く光った。生命(いのち)としての最期の輝きかのように映ったが、それは違ったのであった。

 

 眼前にある校庭の中央へと目を向ける。そこにある篝火(かがりび)は龍のようにその図体を仰々(ぎょうぎょう)しく(うず)巻くようにくねらせて上へと、遥か高い空の先まで昇っていくのであった。

 それが、星のない首都近郊の空へ一面の(あか)りを届けていた。死んだ落ち葉を照らしていたのはまさしくその(ともしび)であった。

 その周りを囲んで、総武高校の生徒達は群れを()している。

 その中でとりわけ生徒が固まっているところでは、たった今どよめきが起きた。

 目を()らすとそこには、学園内の美少女と持て(はや)される山王弘子と、昼間に横に並んで廊下を歩いていた坊主頭の男が抱き合っているのが見えた。

 こちらまで届いてくる指笛が、その驚きを伝え、誰かが「最強カップルの誕生だァ!!」と(うそぶ)いている。

 

 まだ(うたげ)は始まってもないのに、誰もが興奮に包まれ、頭は()だって、狂乱する。

 

 その狂乱へと連れ去る光彩(こうさい)陸離(りくり)の輝きは、去年の彼にはただ(いたずら)に目を焼き焦がすものにしか見えなかった。だから、その姿を須臾(しゅゆ)も見ることはなく、逃げるように去っていったのだった。

 しかし、その輝きは全ての人を等しく照らし貫く輝きであった。たとえそれが死を迎えた、最も(あわ)れむべきものだとしても。

 

 今、八幡の胸元のブレザーは、その光を受けて、(あわ)く、揺らめきにのって切り絵のように陰翳(いんえい)を変えていく。

 ただ、狂乱へと(いざな)うほどの熱は与えてくれていなかった。八幡が冷静に俯瞰(ふかん)して見られるのは、この場所から遠巻きに、独りで見ているからに違いなかった。

 そして、その鮮やかな光と(おびただ)しい熱を受ける向こう側との依怙贔屓(えこひいき)にも似た絶対的なコントラストが(むな)しさと、(こと)に自己憐憫(れんびん)を彼に(もたら)した。

 

 それゆえ皮肉なことに八幡が(まも)ったあの燈は、昨年以上に心を(えぐ)るものになっていた。

 しかし、あの火の光をこのようにして浴びることは自身に課せられた使命である気がして、逃げることなく留まっていたのであった。

 

 ──八幡は、もう動かなければならなかった。

 

 まだ平塚には会っていなかった。大磯が提案したように、校庭の脇にある倉庫の鍵を用いて口実を作れば、平塚と話す機会を設けることができただろう。

 ただ、これを理由に渡すのは恩着せがましい上に、姑息(こそく)だと感じた。だから渡すでもなく、いずれ目が届くであろう場所に、その鍵を置いて去ったのであった。

 

 二つ折りの携帯を開く。そして、メニューボタンからメール機能を起こす。

 下書きに文字列を入力する。この場所(ベストプレイス)に来て欲しいと。

 覚悟を決めても、やはり今までにないほど指は震えた。何度も打ち間違えをしては打ち直す。

 このメールを書いた先の未来は、八幡にとっては辛いものである可能性が高い。

 しかし、書かなければモノクロームの無味乾燥な未来が待っていることは間違いなかった。

 

 逡巡(しゅんじゅん)していては始まらない。

 

 大磯、秦野に、小町に背中を押された。

 先程パンさんのストラップを見た時、少なからず特別な関係であることを信じることができた。

 そして、あの轟々(ごうごう)と燃え盛るあの焚き火より強く耀(かがや)く一等星の如き笑顔が再び(よみがえ)って目に映った時、改めて八幡は自覚したのであった。

 やはり、平塚のことがこの上なく好きであるということを。

 小町は認めてくれると言ったものの、別段平塚に言う文句など一つも浮かばない。

 

 ──潔く告げて、潔く玉砕(ぎょくさい)する、のだと。

 

 震える指で、何とかボタンを押して、一文字ずつ文字を打ち込んでいく。

 そして、時間をかけて完成した平塚宛てへの一通のメール。

 十字ボタンの真ん中の丸い送信ボタンを、一呼吸置いた後に、押した丁度その時であった。

 何の前触れも無く、背にあるスチール扉の戸が、開けられたのであった。向こう側の熱気を多分に含んで薄まった(ぬく)んだ風が吹き付けてきて、八幡の前髪を()き上げるように揺らした。

 だが、八幡は振り返らなかった。

 そこに彼女はいるはずなどないと思ったからである。

 

「比企谷……」

 

 しかし、後ろから八幡を呼ぶ声が聞こえたのだった。

 都合のいい幻聴(げんちょう)でも聞いているのかと思った。

 だが、それにしては声が生々しかった。

 あの、芯があって、耳触りが良くて、優しさがあって、愛おしくて、忘却できるはずなどなくて、だから耳を塞いで、思い出すのを長らく(こば)んで、そして今一番聞きたい声であった。

 少ししてから手元の携帯を閉じて、八幡は振り返らずに、「どうしてここに居るんだ」とその幻聴に尋ねた。

 すると、程なくして答えが返ってきたのだ。

 

「君のことを捜していたからな……。多分ここにいると思って……」

()()()()()()()()()

「……その、倉庫の鍵のことの礼をしようと思ったんだ。君が大野から取り返すところ見てたから」

「……そうか、見てたのか。あれはその、気にすんな。大野は嫉妬でおかしくなっただけだ」

 

 そう口にして、自らの言葉にどこか引っ掛かりを覚えた。

 嫉妬──どこかで、恋(がたき)になりつつある友人に嫉妬する男の話を読んだ。その男は、嫉妬の矛先を当然その友人に向けていた。つまり、嫉妬を他人に当て付けることで、痛みを発散させ、自我を保っていたと、彼は解釈した。

 八幡も同じであったのだ。

 しかし、八幡の対象は見えない誰か──純白のタキシード姿を着た黒塗りの顔の男であったのだ。

 だから、嫉妬の熱的な感情が外的世界へと発散されることなく、行き場を無くして彼の中で空転し、その炎が彼自身を焦がし尽くした。

 それをどうにか味わわないために、拒絶という形をとって関わることをやめたのであった。

 

 このことに今、気付かされた。

 

 あの小説を読んだ時、何も知らなかった八幡は、なんと(おろ)かな男だろうと理解できずに苦笑したが、今、その嫉妬に狂った男──先生に「君も同じですよ」と後ろ指差されているようであった。

 酷く愚かであった。しかし、覆水(ふくすい)盆に返らずという。

 そして今、愚かしい自分を棚に上げていることに嫌気が差す。だが、この性分はもう仕様がなかった。

 まず、すべきことが彼にはあるのだ。

 

「うん、大丈夫だ。もう気にしていない。だから、その……、ありがとう、比企谷……」

「別に礼をされるようなことはしてねぇよ」

 

 平塚は聞きたいことがあると、続けざまに口を開いた。

 

「なんだ?」

「……私のこと」

 

 やけに長い間が置かれる。

 

「私のこと、嫌いに……、なったのか──?」

 

 絞りでたようなその声は、今までにないほど震えていた。ただ、八幡もそれに共鳴したように聳動(しょうどう)が止まらなかった。

 

「それは……」

「私が何か、君に酷いことをしたのなら教えて欲しい。ちゃんと謝るから……」

「…………………………」

 

 すぐには言葉にはできなかった。

 口を開こうにも言葉は出ない。

 脳天に浮かんでは、(あぶく)のように一瞬で破裂して、波紋(はもん)だけ残して消える。

 

 ──やはり怖かった。

 

 彼は(しばら)く押し黙っていた。

 

 ふと手元の携帯電話が目につく。

 相変わらず()()は落ち葉を巻き上げた風に(なび)いて、健気(けなげ)に揺れていた

 

 もう進むしかないのだ。

 恐らく八幡にとっては辛い時間がやってくる。

 だが、潔く告げて、潔く散ることを覚悟した。

 だから、そのためにまず彼は事の顛末(てんまつ)を伝える。

 

 

「──別に嫌いになったわけじゃない」

「じゃあ、なんで……」

「お前が清川に告白されてるところに居合わせたんだ。そして聞き耳立ててたら、お前に好きな人がいるってことを聞いちまった。それからはお前に顔を合わせられなくなった」

「そうだったのか……」

 

 自身の嘆かわしい行動を改めて(うれ)い、思わず鼻で笑う。

 

「ははっ、ちゃんちゃらおかしいよな。別にただの友達なはずなんだけどな──」

 

 続けて非礼を()びて、想いを伝えようと段取りを決めた時、平塚が割り込むように口を挟んだ。

 

「──比企谷、単刀直入に言うと、あれは()なんだ……」

「………………え──」

 

『嘘』

 突如放たれたこの一単語に思考回路は混迷を極め、続けるはずだった言葉が宙に舞った。

 だが背を向けている八幡の内情を知る由もない平塚は話を続けた。

 

「実は清川に告白されるのが数回目でな、何回もしつこく迫られたから、つい口を(すべ)らせてしまったんだ。自分でも咄嗟(とっさ)のことでどうしようもなくなって、あの場を取り(つくろ)うのと……」

 

 躊躇(ためら)うように、言葉に詰まらせた。

 

「……そ、その、言い訳がましい上に、何を言っているんだと思われるかもしれないが、君が傷ついて欲しくなかったからあのように言ったんだ」

「え、ちょっと、待って。じゃあ、他に好きな人がいるって言うのは……?」

「嘘なんだ」

「は、ははっ、はははっ……」

「そのだから、比企谷、私っ……」

「────はぁ、良かったぁ………………」

 

 ここ最近ずっと蟠踞(ばんきょ)していた力みが物の見事に灰燼(かいじん)と帰して、全身を空っぽにする程、深い安堵のため息を吐いていた。思わず漏れ出た言葉は、心の底からの言葉であった。

 

「……つまり、比企谷は()いていたということか」

「……あぁ、その通りだ。何も言い返せないな。本当に情けない」

「そうか、君が私のことで妬いてくれてたのか……」

 

 安堵の波に飲まれ愁眉(しゅうび)を開いた八幡であったが、(たちま)ちその波が引くと、そこにあったのは目の前の平塚に対する慙悔(ざんかい)の念であった。あの邪険(じゃけん)な態度が、いかに平塚を傷つけたのかは今の彼には想像に容易い。

 八幡は勢いよく腰を上げて、振り向いて、深く頭を下げて謝ろうとした。しかし、それは叶わなかった。

 知らぬ間に真後ろにいた平塚は、(あたか)も八幡に見せまいと突如顔を(うつむ)かせて、彼の胸にしなだれるように身体を預けてきたからだ。

 その懐かしく懐炉(カイロ)のように身体に染み入る温もりは、言葉にせずとも全てを(ゆる)してくれそうであった。

 しかし、言葉にしなければならないのは彼の責務であったのだ。

 

「その、平塚。俺、お前のことすごく傷つけたと思う。本当に申し訳ない」

 

 平塚は何も言わなかった。ただシャツ越しに彼女の吐息が感じられるだけであった。

 しかし、程なくして彼女は力ない拳で、八幡の胸板を叩いた。そして、更に押し付けるように胸元に顔を擦り寄せる。その為、額の熱さと、鼻先の冷たさまでもが伝ってくるのであった。

 

「平塚……」

「……殴る。……もう一発殴る。……いやもう一発殴る──」

 

 声を(すぼ)めながら、何度も何度も力ない拳で叩いた。

 しかし、その拳は確かに(あばら)から全身の骨の(ずい)にまで響き渡り、今まで平塚から受けた拳の中で、もっとも()()ものだった。

 

「私っ、すっごい心配だったんだからな……」

「本当に申し訳ない」

「君に……、避けられるようになってから、全然楽しくなかった。辛かった。本当に、本当に、辛かった……」

「本当に申し訳ない。俺が悪い」

 

 平塚の声は次第にぶつ切りになり、その華奢(きゃしゃ)な身体も小刻みに震えていた。

 ただ八幡にできることは、誠意を持って謝ることだけであった。

 

「ほんと、に。ほんとにぃ…………」

「到底許してもらえるとは思ってない。だから、何回も謝らせて欲しい。無視したり、腕を振り払ったり、最低な態度をとって、最低なことをして、本当に申し訳なかった」

「ほんどにっ……ぐすっ、すっごく、すっごく……、わだしぃっ……」

 

 次第に平塚は言葉を出すことも(まま)ならなくなっていった。何かを堪えるかのように、八幡の胸倉を皺になりそうな程強く掴んでいた。

 しかし、段々と八幡のシャツがじわりと濡れていく感触があって、声をしゃくり上げだしたので、平塚が泣いているのが分かった。

 

 彼女の慟哭(どうこく)を見るのは当然初めてであった。

 その後も平塚は泣き続けた。

 赤子のように大きな声を上げて、泣き続けた。

 

 八幡は平塚を泣かせてしまったのだ。

 実はもっと彼女を泣かせていたに違いなかった。

 力が抜け落ちた彼の腕は、彼女を抱き締めることも、そして、彼女の頭に添えることも無かった。

 気障(きざ)な男であればやってのけたであろうが、彼には無理であった。

 それは性格が異なるだけではない。そのようなことをする資格が今の彼には無いように感じたからだ。

 彼はただ黙って、平塚が(さら)け出している彼女が味わった哀しみに身を()まされているだけであった。

 

「──あはは、泣かないつもりだったんだがな」

 

 数分経って、八幡から身体を離した平塚は鼻を(すす)り上げて、何度も目尻を(こす)っている。その跡は蚯蚓(みみず)()れのように赤くなっているのが、暗がりの中でも分かった。

 久しぶりに見た平塚の顔は、やはり娟麗(けんれい)としていた美しかった。しかし、その顔に(なみだ)の跡は似合っていなかった。それは、他の誰でもなく八幡が付けてしまったものであった。

 

「本当に申し訳ない。平塚」

 

 もう一度謝った。今度は深く、深く頭を下げる。

 

「もう大丈夫だから、顔を上げてくれ。そもそも私が許すも何も、君が謝ることなんてない」

「いや、俺が」

「──ううん、私が悪いんだ」

 

 そう言って、あの嘘に至るまでの経緯(いきさつ)を話し始めた。

 平塚の話は(はな)から信じられない話であった。

 それは、総武高校裏サイトと呼ばれる、匿名(とくめい)掲示板がインターネット上にあって、そこにあるスレッドの一つに八幡に対する悪口が書かれており、それから嫌がらせの話が持ち上がっていた、という話であった。

 (さかのぼ)ると、もう五月、つまり体育祭より前から、そのような悪口は始まっていたそうなのだ。

 平塚の話通りに、携帯を開いて、検索をかけると、そこには確かに裏サイトと呼ばれる掲示板があって、悪意には慣れていた八幡が言葉を失うほどの、罵詈(ばり)雑言(ぞうごん)──つまり、一人の人間に向けられた不特定の人々による可視化された敵意と悪意があった。

 理由は至極単純で、()えない根暗男である癖に、高嶺の花である平塚と仲良さげに(そば)にいるからムカつくというよくある(たぐ)いのものであった。

 その中には、ディスティニーや幕張に行ったこともそこには記されていた。

 そして、可視化した悪意が八幡に嫌がらせとなって実体化したのは、九月の下旬以降であり、それは丁度消しゴムが紛失するようになり、ノートが授業前に消え始めた時期と重なる。しかし、それらはまだいい方で、実行はされていないが身の毛もよだつような嫌がらせ──もはや(いじ)めを提案しているような書き込みもあった。

 

 つまり消しゴムを紛失したり、ノートが授業前に限って行方知らずになっていたのは決して浮かれ気分であるという訳ではなかった。全部八幡からは見えない悪意によるものだったというのだ。

 

「……まじか、消しゴムとかノートが消えてたのはそういうことだったのか」

 

 流石(さすが)(おぞ)ましく鳥肌が止まらなかった。 しかし、それで清川が八幡の名前を即座に挙げたことや、大野が(つまび)らかな情報を知っていたことにも合点(がてん)がいく。

 

「私がその事を知ったのは、クラスの女子が影でその話をしているのを偶然耳にした時だった。まさかと思って検索して覗いて見たら、もう書き込みが凄いことになっていたんだ。そして、色々一人で考え込んでしまった。

 もし私が声を上げたり、学校に報告したら、君が余計嫌がらせの対象になるかもしれない。もし私が君にその事を相談してもそうだ。

 どちらにせよ、きっと君は優しいから、私が迷惑(こうむ)らないようにと、自分を傷つけて解決してしまう。それか私から離れていってしまうんじゃないかって……。

 考えすぎだって分かってはいたんだ。でも、数パーセントでも、そういう可能性があると思うと、言えなかった。君に傷ついて欲しくなかった。君と一緒に居られなくなるなんて絶対に嫌だった……」

 

 平塚はわなわなと震えて、それを必死で抑えるように普段は瑞瑞(みずみず)しい桃色の唇が赤く(にじ)むほど強く噛んでいるのが、不意に(あか)りが口元を照らしたとき気付いた。

 

「だからあの時、清川に他に好きな人がいるって思わず言ってしまった時に、咄嗟に比企谷はただの友達に過ぎないんだって一言言ってしまえば、君への嫌がらせは終わるかもしれないと考えてしまったんだ」

 

 確かに平塚の考えは、見事に功を奏していたのであった。あの忘れもしない雨降りの日の夜を境に、平塚は八幡ではない他の人の事が好きという話がその掲示板へ流れ込むと、途端に見えない悪意は八幡への興味関心をなくし、ぱたりとその手の書き込みは消えて、別の話題へと移っていたのであった。だから、当然その日を境に、八幡が消しゴムを紛失することはめっきり無くなったのである。

 

「──でもそれは酷く短絡(たんらく)的だった。君の耳にもし入ってしまったら、など至極簡単なことを想像することが出来なかった」

 

 濡れ()色の後ろ髪が前方へと垂れ下がるような勢いで、平塚は頭を深く深く下げた。

 

「ごめんなさい比企谷、私が悪いんだ。私が……」

「顔を上げてくれ、悪いのは俺だ。俺が()ねずに聞けばよかっただけの話だ。平塚は俺を守るために嘘ついてくれたんだろ。だから平塚が謝る必要は何も無い」

「うぅん、だとしても私が悪いんだ。私がもし、君と同じ立場だったらすごい不愉快、いや、そんな言葉じゃ言い表せないほど嫌な気持ちになると思う」

 

 顔を上げて「それに」と平塚は、付け足す。

 

「私から事情を説明すれば解決できたことなんだ。でも、怖かったんだ……。

 もし、ただの私の思い違いで、もっと別のことで傷つけていたとしたら、君は私に失望するのではないかとすごい不安になったんだ。

 たとえ、思い違いでなくても、もしかしたら、こんな嘘をついたことを知ったら、君は私のことを嫌いになるかもしれないって、君のこと傷つけたらもう私のこと見向きもしてくれなくなるだろうって、本当にすごい怖くなった」

 

 少し背筋は曲がり、肩は震えている。

 

「──また君に、あのように手を振り払われたら、もう私の心は粉々になってしまいそうな気がしたんだ。だから私はできなかった。

 私が言っていたことは綺麗事だったのだな……。本当に大切だと、傷つけてしまうのは、こんなにも、こんなにも、恐ろしくて怖いものなんだな……」

 

 滔々(とうとう)とまるで自白でもするかのように語った平塚は、「でも」と続けた。

 

「今日会った桜とツルに背中を押されて、そして君が鍵を取り返してくれた時、私のことあんなに知ってくれてる、思ってくれてるって知って、ようやく君に話しかける勇気を持てたんだ。本当に私は臆病者で、すごい(ずる)い女だ…………」

 

 平塚は暗い顔を(おもて)に残したまま、目線を落として、そう自らを(いや)しんだ。

 ここまで平塚の謝る理由を口を挟まずに聞いていた八幡は、彼女の様子を見て、あろう事か一つ同意の相槌を打った。

 

「──確かにすごい狡いな」

「だ、だよな……、こんな私」

 

 八幡の言葉を聞いて、より一層声を(しぼ)ませる。腰周りのスカートの布地を強く握っていて、自らを責めるような大きな黒い徒波(あだなみ)が裾に向かって放射状に刻まれていた。

 

「だって、そんな臆病で狡いところですら阿呆(あほ)みたいに可愛いと思えるんだからな。本当に巫山戯(ふざけ)てる。マジで不条理だ」

「え……?」

 

 平塚は八幡の言葉に青天の霹靂(へきれき)とでもいった表情を見せる。しかし、男心というものを考えれば当然の話であった。

 

 ──だって、そんなに俺の事を考えてくれてるなんて知ったら、飛び跳ねるほど嬉しいに決まってるじゃないか。

 

「平塚は狡いんだよ、本当に。一人の根暗で冴えない男の純情散々掻き乱しやがって。人生一八○度変わったぞ。相当高値がつくからな、これ」

「そう言われても、困る……」

「まぁ、取り敢えず、当然だが俺は平塚のことを許す。それで、これ以上はいくら言ってもキリがねぇから、今回はお互いのせい、お互い反省ってことでいいよな。これでおあいこだ」

「うん、うん……、うん…………。よかった、本当によかった」

 

 平塚は胸に手をあてて、撫で下ろす。そして、ようやくどっと大きく色々なものが詰め込まれたたような息を吐いていた。

 

「こんな事もう無いようにしなきゃいけねぇな」

「うん、私もそう思う」

「じゃあ、()()()()()()を徹底しよう。ほうれんそうっつーのは、何かあったらすぐ報告する。連絡する。相談するっていう」

「それって……」

「あぁ、俺の()()()()()()()()だ」

 

 とっておきの平塚の台詞(セリフ)を八幡が堂々と盗んでの所得顔(ところえがお)を見せつけると、平塚の顔が(ほが)らかに崩れた。

 

「ぷふっ……、あははっ!」

 

 笑っている。平塚が笑っている

 また屈託(くったく)なく笑ってくれている。

 昨日まで金輪際見ることができないと思っていた眩しい笑顔が確かにあった。

 その顔を見て胸が(まき)()べられた(かまど)のように奥底からじんと熱くなり、自然と八幡も頬を緩ませて、笑っていた。

 

 二人して二週間分の笑みを取り戻すかのように笑っていると、唐突に校庭の方から、マイクを通した声が響いてきた。

 

『名残惜しいですが、キャンプファイヤー残り五分です!! じゃんじゃん楽しみましょう!』

 

 すっかり失念していたが、今はキャンプファイヤーの時間であった。宴はいつの間にか始まって、向こう側にいる生徒は、激しく燃え盛るようでありながら、哀愁(あいしゅう)を漂わせる名の知らぬ円舞曲(ワルツ)に合わせて踊り狂っていた。更に残り時間も五分と僅かであるという。

 もちろん八幡に踊る相手がいるとするなら、目の前の平塚だ。

 だが、考えてみると、あの発言が嘘だからと言って、八幡の恋路(こいじ)成就(じょうじゅ)する訳ではない。むしろ、言い(ぐさ)()れば彼女に好きな人はいないということになる。

 キャンプファイヤーの学校の伝説は当然平塚も知るところであるから、ここで誘えば言外に好意を伝えることになるのだ。

 

「そっ、そういや平塚は踊る相手はいる、……のか?」

「いる」

 

 その探り探りの問い掛けに対する即答に思わず八幡は戸惑い顔を浮かべ、咄嗟に勘繰りを働かせた。

 すると平塚は竹篦(しっぺい)返しとでも言わんばかりに悪戯(いたずら)っぽく笑って、

 

「──目の前に、な……」

 

 と囁いて、八幡を見つめる。

 心臓がその瞳に操られたように高鳴る。

 彼は今にも欣喜(きんき)雀躍(じゃくやく)として一人でに踊り出してしまいそうな我が身を必死に抑えた。

 

「……ははっ、してやられたな、こりゃ。……よしっ」

 

 一、二歩後退(ずさ)って、階段を下りる。

 膝をつかずとも生まれた高低差は、まるで御伽(おとぎ)(ばなし)でよく見るあの光景であった。

 すぐそこにいるのは八幡にとってまさしく世界でたった一人の()()だった。

 彼は、その姫君に向かって、手を差し伸ばす。

 

「──平塚静さん、俺と一緒に踊ってくれませんか?」

「…………はいっ、よろこんでっ!」

 

 八幡が差し出した手に、細く小さな手が乗せられた。

 その女性らしさを感じるしなやなか指の間に節くれだった指を差し込んで、ぎゅっと結んで、固く繋いだ。

 不思議と、顔から火が出るほどの恥ずかしさは無かった。

 

 平塚もその混凝土の階段を降りて、校庭の方へと、少しでも灯りがある方へと二人並んで、固く手を結んで、歩いていく。

 誰もいない、誰も見ていない(にび)色の混凝土で舗装された(こみち)──ここが今、魔法にかけられたように舞踏会の舞台(ステージ)へと変貌する。

 

 

 二人はぎこちないステップを踏み始める。

 作法などは分からなかった。

 しかし、気の向くまま、その円舞曲(ワルツ)に合わせて、踊った。

 

 

 ──踊った。

 

 

 今、狂乱に誘い、没入感を味合わせるほどの(ほとばし)る熱を確かに感じた。それは、あの篝火(かがりび)の熱もそうであったが、それより遥かに彼女の熱が伝ってきたからであった。その熱は全身に染み渡るように伝って、心地良さで溢れる。

 やがて、さらに奥の、奥の方へと染み渡っていく──。

 

 それは、彼の内にあった氷をいとも容易く溶かしていった。

 奥底にあった──決して解けることのなかった残り雪も、とうとうその熱に当てられて、じわりと溶けだした。

 そして、その下に隠れていた新芽が顔を出している。

 

 今、その新芽──夢の芽は、消えたと思われていた()()という名の肥料が()かれたことで、瞬く間に育ち、夢の(つぼみ)と成って、活き活きとしていた。

 それはまもなく清らかに澄んでいて風光(ふうこう)明媚(めいび)な花を咲かせようとしているのであった。

 まさしく、()()()であった。

 

 

 ──二人は踊り飽かす。

 

 

 不意に平塚の顔が、燈に照らされて闇夜に明るく浮かんだ時であった。

 もう何度目か分からない。だが、やはり何時とも変わらない。

 (まなじり)の方に向かって(なだ)らかな丘陵(きゅうりょう)を描き、細く整えられた眉毛と、鼻梁(びりょう)高く、切れ長な双眸(そうぼう)は中性的な魅力を漂わせる。一方、はっきりとした二重(まぶた)の真下で、遠くの(とも)し火が揺れる瞳はどこまでも澄み切っていて、朗らかに形を変える瑞瑞しい桃色の唇は、(あまね)く人々を魅了するような可憐さを(かも)し出していた。そして、それらが同居して生ずる沈魚(ちんぎょ)落雁(らくがん)の美しさに八幡は見惚(みと)れてしまったのであった。

 

「うおっ──?!」

 

 余りにも美しすぎる平塚に目を奪われた八幡がステップを踏み外し、足を(から)ませてよろけてしまったがために、平塚も釣られる形でバランスを崩して、両者とも舞台上で倒れてしまった。

 八幡は後ろから倒れて、固い混凝土に背中を打ち付けたものだから、それ相応の痛みがあったはずだった。

 しかし、その痛覚は鈍って表に出なかった。八幡は別のことに気を取られていたのだ。

 

 八幡の目と鼻の先には平塚の顔があった。瞳は潤み、頬はあの篝火よりも明るく上気していて、婀娜(あだ)っぽかった。そして彼女の濡れ羽色の長く(つや)やかな髪が、八幡の頬を(かす)めるように流し落ちている。その少し荒い吐息は、ただならぬ熱を含んでいた。

 混凝土を背にして仰向けの八幡に対し、それに覆い被さるように、平塚が四つん()いになっていたのだ。

 

「す、すまねぇ。怪我ないか?」

 

 平塚は何も言わず、首を横に小さく振る。

 

「それは良かった。平塚、今、起きるから」

 

 しかし、平塚は一向に起き上がろうとはしなかった。

 それどころか、八幡の顔に、ゆっくりと近寄ってくるのであった。

 

「──ひきがやぁ……」

 

 そう嬌声(きょうせい)に近しい鼻にかかった声で八幡を呼びかけると、その流し落とされた黒髪を、耳裏へとかきあげた。

 彼女の潤んだ瞳がそっと閉じられ、(あや)しげに光る桃色の唇が、八幡の口許(くちもと)へと迫ってきていた。

 その姿があまりにも可愛くて、(なま)めかしくて、愛おしくて、そんな彼女から(たん)を発した情は奔流(ほんりゅう)となって彼をも()み込んだ。

 

 そして、八幡も目を閉じた時であった。

 

『終了でぇ──────す!!』

 

 

 司会の快活な終了のアナウンスが、この舞台の二人の元にも届いた。

 二人は揃って、足元から鳥が飛び立ったように飛び起きて、互いに目を()らす。

 

「────」

 

 甘美な雰囲気が一変して、気恥しさが、二重にも三重にもなって二人の身にのしかかって、箝口(かんこう)令が()かれたかのような静寂が訪れていた。

 暫くして、八幡が(ようや)くその重たい口を開く。

 

「な、なぁ、平塚」

「……なっ、なんだ。比企谷……?」

「その、えぇと……」

 

 いつものように襟足(えりあし)を二、三度掻いた後、口を開く。

 

「平塚、今日駅まで一緒に帰らねぇか。せっかく歩きだし」

「……うんっ、分かった! あっ、……でも、私、キャンプファイヤーの後片付けが……」

「それは、俺も手伝うからさ」

 

 平塚はその言葉を聞いて、くすりと微笑んだ。

 

「そうだな。ここ最近君は連絡も寄越さずにサボっていたのだから、その分ここで取り返してもらなければならないな」

「あぁ、だいぶ負債(ふさい)溜まってるから、なるべく早く返済するわ」

「となると、明後日の片付けもびしばし働いてもらうからな!」

「あぁ、覚悟しておく」

 

 アナウンスが入る。今度は先程の祭りの時とは違って、一本調子な業務連絡が入った。

 

『キャンプファイヤー担当の生徒は至急集まってください──』

 

「よしっ、いこうか、比企谷っ!」

「おう。行くか、平塚」

 

 互いに顔を見合わせる。そして、示し合わせたように二人は並んで歩き出した。

 

 

 

 雪解けとは無縁の、緑が抜け()ちて土に(かえ)る哀しい肌寒い季節かもしれない。

 しかし、どんなに暑い季節を経てきても解けなかった()は今日この日をもって完全に解けて消えた。

 

 

 

 後は、この夢の蕾が花開くのを、今暫し待つだけだ──。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 











拙文を読んで頂きありがとうございます。
素晴らしい感想、沢山のお気に入り登録、そして高評価、本当にありがとうございます。
非常に長かったと思いますが、これにて文化祭編終了です。この話が目標点であったので、よくここまで来たなという感慨に耽っております。改めてここまで付き合ってくださった読者の皆様、本当にありがとうございます。

補足になりますが、裏サイトを使うのはわりととんでも展開だったかもしれませんが、二〇〇四年に時代設定したのは、ここに持っていくためだったので、最初からこうする予定だったとこの場で言い訳させて頂きます汗

引き続き感想をお待ちしております。どのようなものでも良いので叱咤激励の感想を一文認めて頂けたらと思います。今後とも応援のほどよろしくお願いいたします。



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十束: the Blooming of the Dreams






 

 

 

 校舎の(あか)りは完全に落とされていて、遠くから眺めれば総武高校はまるで神隠しにあったように夜の(とばり)の中へと姿を消してしまっているであろう。

 あれほど轟轟(ごうごう)と燃え盛っていたキャンプファイヤーの(ともしび)()えて、(のこ)された黒く焦げた丸太の積み木からは名残の灰の芥子(けし)(つぶ)が穏やかな夜風にその身を(ゆだ)ねている。遥か彼方にいる弓張(ゆみはり)月の月影(げつえい)がその灰の一粒一粒を射抜いて、細雪(ささめゆき)のように舞っているのは、誠に壮観(そうかん)であった。後片付けをする中で八幡が見たその光景が、今年の総武高校の文化祭が終わったことを如実(にょじつ)に物語っていた。

 

 ──月の光と、等間隔に置かれた街灯、そして土瀝青(アスファルト)の上に縹渺(ひょうびょう)たる黒の(わだち)を残して通り過ぎていく車のヘッドライトが照らす東京湾沿いの片道三車線の大通りの脇の歩道を、付かず離れずの距離感で、どちらが先導するわけでもなく、八幡と平塚は二人並んで歩いていた。

 物を少々運ぶだけの文化祭当日中に行う簡単な後片付けを終えて、二人は帰路についていたのだ。

 

 東京方面へと進んでいるため左手には、この目からは茫洋(ぼうよう)に見える東京湾の海が広がっていて、耳を()ませば直ぐ隣の海辺にあるテトラポットに打ち寄せているであろう潮騒(しおさい)(かす)かに聞こえてきた。

 目的地の駅までの道は宅地を抜けて海岸から離れていくので、海沿いの道を通ることはない。つまり、二人は最早遠回りどころか、目的地から遠くに離れているのであった。しかし、二人はこの道を自然と選んでいたのだ。

 

 

 ──(しばら)く歩くと、花見(はなみ)川の河口に架かる立派な橋梁(きょうりょう)──美浜(みはま)大橋に差し掛かっていた。

 二人は眺望(ちょうぼう)を楽しむ為に少し柵が彎曲(わんきょく)して突き出している場所で立ち止まる。河口に向かった(さざなみ)は、川の流れに押し返されて、(はかな)い音を立てて消えていく。潮の(にお)いが満ちる世界の中で、海岸線に沿うように電飾(でんしょく)が、ずっと奥まで弧を描いて繋がっているのは、人工物であるというのに(こと)に幻想的であった。

 

「ほれよ」

「おっ、ありがとう、比企谷」

 

 比企谷は途中の自動販売機で買ったマックスコーヒー二本の内一本を平塚に手渡して、手元のもう一本のプルタブに指をかける。

 開けた缶を左右に揺らして香りを立てると、匂いだけで毒されそうな甘さが伝わってくる。

 そして、久しぶりのそれを(すす)ると、──やはり物凄く甘かった。

 

「久しぶりに飲んだが、殺人的に甘い……。でもすごく美味しいな、比企谷」

「あぁ、そうだな」

 

 マックスコーヒーの甘味を存分に(たしな)み、あっとういう間に中身を一滴残らず空にした頃。所々()げ落ちて(さび)を感じる鉄の欄干(らんかん)の真下に置いてあるスクールバッグの横にその空き缶を置いて、房総(ぼうそう)半島の方へと向かう(あか)りもない遥か遠い水平線の先を眺めるように八幡は腕を置いて寄りかかった。間もなく飲み終えた平塚も(なら)うようにして、空き缶を下に置いて八幡の隣に寄りかかっていた。

 

「──文化祭も終わっちまったな」

「あぁ、そうだな。約束をすっかりすっぽかしてくれた誰かさんのせいで、今年は全く楽しめなかったがな。一緒に見たかった劇とかあったのになぁ……」

 

 顔を横に向け、じとっと不満が(あら)わになっている目で(にら)みつける平塚に、八幡は肩を(すぼ)めた。

 

「うっ……」

「必死に練習してきたお弁当も食べる人がいないから、結局作れなかったしなぁ……」

「ゆ、許してくれ……」

「とっくに許してはいるさ。でも、約束は約束だ。しょうがない。だから、後でしっかりと()()()飲んでもらうしかない」

「やっべぇ……、俺死んじゃうじゃん……」

 

 魂が抜けていったように声が(しぼ)んでいく八幡を見て、平塚は声を上げて笑っていた。

 

「あははっ、冗談だ。こうなってしまったのはお互いのせいなのだからな。君も針千本飲むなら私も飲むしか道がなくなってしまう!」

「……いや、でもこのまま許されることになっちまうのは、冗談抜きで俺自身が納得できないな。やっぱり約束を破った大きな原因は二週間お前と目すらも合わせないようにしてた俺にある。何かしらの罰は受けるべきだと思う。……でも針千本飲むようなことはできねぇから、できればもう一度チャンスが欲しい。つまるところ、代わりに別の約束をして欲しいんだ。今度は絶対に守る。破ったらそれ相応の罰を受けるつもりだ」

 

 八幡の角張って語る様子を見て、平塚も(たが)を閉めたようにその声音を低くして、芯が通ったものへと変えた。

 

「そうか、君がそう言うのなら分かった。で、その代わりの約束は何だ?」

 

 その約束の内容は、二人で舞台(ステージ)の上で踊ったあの瞬間に、八幡は熱に(ほだ)されながらも決めていたのだった。

 それを、今、伝える。

 

「──来年の文化祭は二人で楽しもう」

「あぁ、そうだな。来年こそは二人でだな。約束だぞ。今、言質(げんち)取ったからな」

 

 前科一犯の男のことを信用ならないのか、平塚は僅かばかり表情を崩して、「絶対だぞ」と八幡の肩を人差し指で執拗(しつよう)に小突く。

 ──だが、彼がここに結ぼうとしている約束は、それだけでは到底足りなかった。

 

「いや、来年の文化祭だけじゃない。いつもの昼休みも、来年の体育祭も、受験勉強も、映画も。そして、高校卒業した後も二人で色んなところ行きたいし、できる限り一緒にいたいと俺は思ってる。カップルコンテストなんかもどうだ。来年からはディフェンディングチャンピオンじゃねぇか」

 

 八幡は話している途中からさすがに照れくさそうに頬を二、三度掻きながらも、約束という(てい)をとった青写真を描くと、平塚はその切れ長で魅惑的な双眸(そうぼう)を丸めながら彼の顔を見つめて、固まっていた。

 

「……まぁ、とにかく、今日の分をちゃんと埋め合わせるために、これから一年、いや何十年ずっとかけての約束だ。……何十年はさすがに重すぎると思うかもしれねぇが、でも、俺はそうしたい」

「──待って待って。ねぇ、比企谷、それって……」

「正直、キャンプファイヤーの時もう伝えてしまったようなもんなんだが……」

 

 鼓動が五月蝿(うるさ)い。喉から漏れ出てしまっているのではないかと思うほど、和太鼓を打った時のような一打一打に重たく染み入る響きと音がその鼓動にはあった。

 こんな鼓動を人生で味わうことはないと思っていた。

 しかし、今確かにこの胸で鳴っている──。

 

 ──失敗する可能性がある。分岐点が無数に設置されてはいるが引き返しのつかない人生という道において、(かつ)ての彼では、ただその一点で絶対に避けていた諸刃(もろは)の剣と言える道であった。更に、狷介(けんかい)孤高(ここう)を気取っていた彼は、この道を選ぶことは尚更無かったはずである。

 だがある日を境に(つの)りに募って、今では一言や二言では語り尽くせないほどにまでなった彼女への膨れ上がった想いが、為人(ひととなり)や理性を超えて雪解け水と混ざって今にも外へと(あふ)れようとしている。

 更に、この胸にある確かな希望が、この目に映った光彩(こうさい)陸離(りくり)の彼女の笑顔が彼の背中を一押しした。

 生来の性分という赤信号が(とも)っていたとしても、八幡はその道を進むのだ。その上、たとえトラウマという暴風雨が吹き荒れていようとも、悪意という炎が身を焦がしに来ることがあろうとも、もう止まることはしない。

 

 ──覚悟は決まった。ただ一秒でも早く、長く平塚の隣に居るために。

 

 

 八幡は深く深く息を吸った。

 

 

 そして、目を(つむ)ることなく、真っ直ぐ彼女を見て、告げる。

 

 

 

「──平塚静さん、好きです。俺と付き合ってください」

 

 

 

 心臓が()()れになりそうなほど叫んでいる。言い切った後に、目を閉じてしまいそうになるが、固い覚悟で不安や惑いを振り切って、ただ愛しいその人を見つめていた。少しでも多くこの想いが伝わるように。

 しかし、目を(そむ)けたのは平塚の方だった。

 

「──いいのか……?」

「へっ……?」

 

 その予想外の挙措(きょそ)と返答に八幡は、()頓狂(とんきょう)な声を漏らしたが、平塚はいたって真剣で、そしてどこか思い詰めた様子でいた。

 

「…………私なんかでいいのか?」

 

 平塚は、まるで黒々とした影の中へと逃げ込むように足元を見下ろして、自分自身で否定するように大きく頭を横に揺さぶる。

 だが、八幡は止まらない。

 

「……あぁ、平塚がいい。平塚じゃなきゃいやだ──」

「……でも、私が臆病すぎるせいで今日まで君を傷つけてしまった。それだけではない。これからも関われば関わるほど、きっと君に私の(みにく)いところを見せてしまう」

「臆病で傷つけたところは俺も一緒だ。ていうか、俺なんて小町にも、大磯にも秦野にも背中押されたのに、結局話しかけられなかったんだぞ。それに俺だってこれからも平塚に醜いところ、情けないところ、見せることになると思う。だから、どんな平塚が醜いと思うところでも俺は笑って受け入れたいし、平塚には俺の醜いところを笑って受け入れて欲しい」

「でも、実際、今まで私の中身を見た人は、遅かれ早かれ皆、私のこと……。だから君も、君ですらもいずれはっ──!」

 

 声を荒らげて、頭を振り上げた平塚の瞳の中に宿(やど)っているのは、不安、不信、諦念(ていねん)であり、きっと彼女が何時(いつ)かの雨降りの日に言った深く深く心の底へと根の張った醜いと自蔑(じべつ)する花々の姿なのであった。

 だが平塚は全く完璧などではないのは、八幡はとうに知っている。人並に悩む癖に一人で抱えてこんでしまう不器用さがあって、他人を簡単に動かす癖に自分を変えられない内弁慶(うちべんけい)で、きっと八幡と同じぐらいの小心者であることを彼は知っている。他にも醜いと彼女が(いや)しむ花を咲かせているのかもしれない。

 でも、だからこそ、平塚が()()()()──。

 

 

 そして、八幡は力強く断言する。

 

 

 

「──それは、他の奴らに見る目がないだけだ」

 

 

 

 ──今こそ、八幡が男らしく、()()()()()()()()に一歩踏み込んで、そこで花々に囲まれて(うずくま)って(おび)えている平塚に手を差し伸べて、外へと引っ張り出す時だ。

 

 そう八幡が断言した時、平塚は一瞬はっとした顔をすると、すぐにその内側に差し伸べられた手を意固地(いこじ)になって払い()けるように(うつむ)いた。しかし、八幡は怯える少女に手を差し伸ばしたまま、一瀉(いっしゃ)千里(せんり)に語り始めた。

 

「平塚は、なにか成し遂げるために超努力するし、でも逆に一人で抱え込みすぎて、ぶっ倒れちまう不器用なところもある」

 

 ──それだけではない。

 

「男気あって格好良いところがあると思えば、ときおり凄く女々しくなるところもあるし」

 

 ──それだけではない。

 

「頼り甲斐があって打たれ強いのかと思えば、守りたくなるような弱いところもあるし」

 

 ──それだけではない。

 

「自分の好きなことをあんな楽しそうに語るし、俺の話を楽しそうに聞いてくれる」

 

 ──それだけではない

 

「面倒見がいいと思えば意外と抜けてるところだったり」

 

 ──それだけではない

 

「背中押して人を変えることができるくせに、すごい自信がなくて臆病な可愛いところだったりもある」

 

 ──それだけではない……

 

「……(きり)がないな。確かに平塚の中にはまだ俺に見せてないことがたくさんあるかもしれない。さすがに平塚のこと全部知ってるなんてこれっぽっちも思ってない。

 でも、今日まで俺は平塚のことを知れば知るほど、好きになっていってるんだ。平塚は醜いと思ってるかもしれないところも俺にとっては所謂(いわゆる)痘痕(あばた)(えくぼ)ってやつで、かけがえのない魅力なんだ。きっと、これからもお前のことを知る度にもっと、もっと好きになると思う。だから他の奴らの見る目が微塵(みじん)もないだけだ。まぁ、俺からしたら逆にありがてぇかもな」

 

 八幡のらしくない気障(きざ)な言葉に(たま)らなくなったのか、顔を()ね上げた平塚の頬は、今日見たあの富士の山の(たもと)へと沈んでいった(あかね)色の夕陽とは比にならないほどの真紅(しんく)に染っている。

 

「わ、分かったから、それ以上はやめてくれっ! 揶揄(からか)うつもりなら、なっ、殴るぞ!」

「そういう案外照れ屋さんなところも追加だな。流石に殴るのだけはだいぶマイナスだが……。それに俺は平塚を揶揄うつもりなんて毛頭ない。本気で俺が思ってる事だ」

「うぅ……」

 

 そうしてぬばたまのように鮮やかな黒をした(つや)やかな横髪で顔を隠して()じらう姿も、途方もなく可愛く思えてしまうのは、八幡が罹患(りかん)してしまった恋の病故だろうか。

 その暖かな感情に浸りながら、また八幡は口を開いた。

 

「──平塚、俺はずっと間違えてた。友達も作れなかった。それで馬鹿にされた。他人(ひと)を好きになれなかった。それなのに無理やり他人を好きになろうとして、余計、周りから馬鹿にされて勝手にトラウマ作って、他人が怖くなって、(ふさ)ぎ込んで。

 多分平塚に出会えてなかったら一生このままだったと思う。でも平塚と会ってから変われたんだ。

 俺と友達だって言ってくれて、本当に嬉しかった。

 俺といることが楽しいって言ってくれた時、ずっと胸の中にあった黒い(もや)みたいなもんが消えた。

 俺の醜いところを見ても笑って受け入れてくれた時、本当に救われた。

 他人と喋るのがこんな楽しいとは思わなかった。他人とこんなに一緒にいたいと思えるようにならなかった。この人の為に色んなことをしてあげたいと思えるようにはならなかった。他人のこともっと知りたいと思えるようにはならなかった。

 ……だからその分、平塚が隣からいなくなるって思った時は、すごく辛かった。生きてきた中で一番辛かった。胸が延々と締め付けられて、痛くて、だからロボットみたいに何も考えようとしなくて、何も感じようとしなくて、生きた心地がしなかったんだ。

 俺の人生で多分こんなに隣にいて欲しい、離れないで欲しいと思う人はもう絶対に現れないから──」

 

 想いを()(たけ)言葉で(つむ)いで、ぶつけて、また彼女の双眸を見つめた。

 八幡を見つめ返す淡墨(うすずみ)色の虹彩(こうさい)にはもう花々の姿は無く、どこまでも透き通るように光っていた。()がれた紅玉(べにだま)のように深々たる紅に上気したままの頬は、殊更(ことさら)可愛らしさを胸いっぱいに()たした。

 

 そして、八幡は改めて実感した。

 

 

 

 ──やっぱり、俺はこの人のことが…………

 

 

 

 

 また、もう一度深く深く息を吸った。渺渺(びょうびょう)たるこの想いが全てその短い言葉に乗って、彼女に届くように。

 

 

 

 

「──平塚静さん、好きです。俺と付き合ってください」

 

 

 

 

 鼓動は大波打って、今にも堤防を壊していくように高鳴った。でも目は一瞬たりとも離さなかった。少しでも多くこの想いが伝わるように。

 

 先程とは違い、平塚も八幡の眼を見つめていた。

 だが、待てども返事は返ってこなかった。口を開く様子もない。

 それどころか、八幡が見つめる平塚のその瞳には、確かに彼の姿が映っていたが、それが次第にぼやけていって見えなくなってしまった。

 やがて、平塚は鼻を少し(すす)り出したかと思えば、ほろりとほろりと金剛(こんごう)石の輝きを()びた大粒の涙を落とし始めていた。その二度目の思わぬ反応に、最初は慣れない気障な振る舞いをして最大限格好つけることができた八幡も、いよいよ混乱して瞳孔(どうこう)を右往左往と動かす。

 

「……え、これ、ダメってこと? 泣かせるほど嫌だったのか。うわっ、最悪だ。しにた──」

 

 その瞬間だった。

 

 八幡の肩には、彼女の手が置かれ、目の前には長い睫毛(まつげ)があって、頬には秋宵(しゅうしょう)の寒さで冷えた鼻先が当てられていた。目前の閉ざされた瞳の(まなじり)には金剛石の如く光っているものが見えた。

 そして、彼の唇には、今まで感じたことのない、余りにも柔らかく、()だるほど生温かく、(とろ)けるように甘いものが優しく触れていた。

 

 ──突然、平塚との距離が〇になったのだ。

 

 それはほんの一瞬のことであった。

 すぐに平塚はさっと後退(ずさ)る。

 八幡は目を白黒させて、慌てて口元を手で抑えた。

 

「平塚、今の……」

「なんで、こんな時だけ君は鈍感なんだ。これは嬉し涙というやつに決まってるじゃないか……」

 

「もうっ、馬鹿っ……」と漣と共に消えてしまいそうなしおらしい声で呟いた。

 そして平塚は潤んだ目を細めて、八幡だけに向けて、柔和(にゅうわ)に微笑む。

 

 

 

「私も、比企谷八幡くんが好きです。私でよければ付き合ってください──」

 

 

 

 ──(からだ)が震える。

 ──心が震える。

 ──命が震える。

 

 声にもならない叫び声が全身に(とどろ)いた。熱で沸点(ふってん)を越えた血潮が全身を光の速さで(ほとばし)った。

 

 ──刹那(せつな)、本能に突き動かされたように八幡は勢いよく平塚の(からだ)をきつく強く抱きしめていた。彼女の躰はとても柔らかくて暖かくて、でも華奢(きゃしゃ)で、そして少し(ふる)えていた。彼女の(かんば)しい香りが、鼻腔(びくう)(くすぐ)り、より理性を蒸発させていく。

 程なくして平塚もそれに応えるように、八幡の背中にきつく腕を回した。胸元に感じる二つの生命(いのち)の鼓動は、どちらも早鐘(はやがね)を打つように速く、その一拍一拍が幸福感を全身に運んでいた。

 八幡は愛しいこの人をもう二度と、絶対に離さないように、更にきつく抱きしめると、平塚も同じ様にきつく抱き締めてくる。

 

「比企谷、好きっ……。比企谷、好きぃ……。好きぃ……」

 

 確かめるように、届けるように、吐息を多分に含ませた(ねこ)()で声で何度も何度も、平塚は八幡の耳元で愛を(ささや)く。今まで()き止めていた想いを、一気に放流しているようにも聞こえた。

 愛しい人に、このようにされては、当然八幡も(あふ)れる激情を抑えることはできなかった。

 

 

「俺も好きだっ……、平塚っ……!」

 

 きつく回した腕を解いて、平塚の肩を掴んで、少し引き離す。

 二人は幾許(いくばく)か見つめ合った。恍惚(こうこつ)としながら、熱を含んだ目は、月光と街灯の灯りを映して燃えたように(なま)めかしく光る。

 

 言葉もなく、合図もなく、ゆっくりと揃って目を閉じ、顔を寄せた。

 

 そして、二人はまた口付けあった。

 温もりを求め合うように、愛を確かめ合うように、永く永く口付けあった──。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ▼△▼△▼△

 

 

「……夢みたいだ」

「あぁ、俺もだ」

 

 晴れて恋人になった二人は、この橋の下にある検見川(けみがわ)浜の手前にある緑道へと下りていた。そこにあった背(もた)れのある木製のベンチに腰を下ろして、肩を寄せあっている。平塚はしなだれるように八幡の肩に頭を乗せていた。しなやかな女の指と節くれだった男の指を絡めるように固く結んで、二人はひたすら甘い雰囲気に陶然(とうぜん)と酔い()れていた。

 

「あっ、そうだ。ちょっとすまん、平塚」

「えっ……?」

 

 何かを思い出した八幡は突如、固く結ばれた手を(ほど)いてスクールバックの中を漁っていた。そして取り出したのは、今朝パンさんのストラップと共に抽斗(ひきだし)から持ってきた、赤リボンで口を結ばれた花柄の入った小さな紙袋であった。

 突然手が解かれ、良い雰囲気に(おの)ずから水を差してきたことに納得がいかないのか、平塚は可愛らしく頬を(ふく)らませて、むすっとした顔で八幡に(たず)ねた。

 

「むぅ〜、何だそれは?」

 

 八幡は、その紙袋を平塚の目の前に差し出した。

 そして微笑を(たた)えて告げる。

 

「──平塚、()()()()()()()()。受け取ってくれ」

「え……」

 

 突然の祝福に一驚(いっきょう)(きっ)している様子の平塚は、八幡から差し出されたそれをおずおずと受け取って、その紙袋を目を丸めながら眺めていた。

 

「うそ、ありがとう……。でも、なんで私の誕生日……。あっ、ツルと桜か……。いや、でも、ツルと桜に教えられたとしても、今日中に買うのは無理なはず……」

「七夕のカップルコンテストの受付する時、エントリーシートに生年月日書いただろ。あの時見てたから、買ってみたんだ。サプライズにしたくて、ずっと言ってなかった」

「そういう事なのか……。きちんと君は私の誕生日、覚えていてくれたんだな」

「そりゃあ、他の誰でもない平塚の誕生日だし。……その、あんま嬉しくねぇかな。正直迷ったんだ。平塚、誕生日祝われたくないって言ってたから」

 

 平塚は首をとりわけ大きく横に振り、口角を大きくあげた。

 

「ううん、嬉しいっ……! おかしくなっちゃいそうな程凄く嬉しいっ……! 私、こんなの初めてだから知らなかったんだ。好きな人に祝ってもらえるのは、こんなに嬉しいのだなっ……!」

 

 八幡は首をとりわけ大きく縦に振り、口元を(ほが)らかに歪ませる。

 

「その通りだ。好きな人に誕生日を祝ってもらえるのは嬉しいんだ。ようやく平塚も気付いたか」

「うんっ! ……ね、比企谷、早速開けてもいいか?」

「あぁ、勿論だ」

 

 平塚はその口に結ばれた赤リボンを解いて、小さな紙袋から中身を取り出す。

 それは、灰色のケースで、彼女はその蓋をゆっくりと開けて、また目を見張っていた。

 

「え……、これ、ネックレスじゃないか。しかも、これ、()()()のフラワーブーケの……」

 

 八幡は照れくさそうに、襟足(えりあし)の辺りを乱暴に掻いた。フラワーブーケネックレス──これは、二人で幕張へと映画を見に行った時に、アクセサリーショップで平塚が試着したものであった。

 

「……やっぱ、こういうのは少し重かったか。でも、あの時の平塚、すっげぇ綺麗で可愛かったから、また見てぇなって」

 

 また平塚は首を振る。

 

「ううん、すっごく嬉しい! でも、これ高かっただろう。こんな高いもの……。ストラップと比べたら……」

「まぁ、二万ぐらいしたけど、ちょうど二万円分商品券あったし、何より俺が付けて欲しいと思ったから、当然の出費だ。だから別に値段とか気にしてくれなくていい。それに平塚から貰ったパンさんのストラップは、俺にとってはそこら辺の高価な宝石なんかよりもよっぽど価値があるから、これじゃ足りねぇぐらいだ」

「ふふっ、ありがとう。ねぇ、比企谷これ、もうつけてもいい?」

「もちろん、いいぞ」

 

 しかし、平塚はそのネックレスを持ったまま微動だにしなかった。その様子を(いぶか)しんで八幡は声をかける。

 

「ん、どうした?」

「そっ、その、せっかくだから君に付けてもらいたいんだ……」

 

 上目遣いで、そう含羞(がんしゅう)を頬に添えて問掛けるその姿に、思わず八幡は息を()んだ。やがて面映(おもは)ゆさと愛しさが込み上げてくる。

 

「あ、あぁ、分かった。じゃあ灯りのある方へ行くか」

 

 二人は緑道沿いにある丁度並木と背丈が同じぐらいの街灯の下へと移った。八幡はそのネックレスを受け取って平塚の後ろに回る。彼女の(つや)やかで街灯にも()えて紫光りした黒髪を丁重に()き上げて、その細い首に腕を回して、丁度(うなじ)あたりのところでネックレスの留め金具を留める。

 

「よしっ、できた」

「どうだ、似合うだろうか?」

 

 八幡が少し後ろに引いて、彼の方に振り返った平塚を見ると、思わず口元が(ほころ)んでしまった。

 灯りが無ければ闇夜(あんや)に溶け込んでしまいそうな黒色のブレザーが身体を包む中、ハート型の輪の中に一輪の薄桃(うすもも)色の花が(あしら)われた可愛らしいネックレスが、目立ちすぎずも平塚の可憐(かれん)さを十二分に引き立てて、うっすらと覗かせる白皙(はくせき)の首元で淡く輝いていた。

 そして何より、今、平塚が見せている一笑(いっしょう)千金(せんきん)の笑顔に、とても良く似合っていた。

 

「あぁ、やっぱりすっげぇ似合うわ。残念ながら文句なしだ。褒め言葉しか浮かばねぇよ」

「ふふっ、ありがとう。本当に嬉しい。一生大切にする、絶対にする。どんな時も絶対に肌身離さないから」

 

 そのネックレスを(てのひら)にちょこんと乗せて、(いつく)しむような柔らかな眼をそれに向けて、平塚は言った。

 

「え、学校でも付けるの恥ずかしくない? それに色々、探られるの面倒でしょ。あとなるべく風呂場とかでも外してね、それ白金(プラチナ)とかじゃないから、駄目になっちゃうらしいし」

「う、うん……。急にそんな現実的なこと言わなくてもいいじゃないか……」

 

 二人で顔を見合わせる。

 そして、どちらからともなく吹き出した。

 

「ぷふっ……」

「ぷっ、あははっ……!」

 

 暫く笑って、平塚は目じりの涙を(ぬぐ)っていた。

 

「はぁー、笑った笑った。あっ、そうだ、比企谷」

「ん、どうした、平塚?」

「面倒くさいだろうが、私と付き合う上での五箇条いいだろうか?」

「何じゃ、その五箇条の御誓文的な。まぁ別にいいけど。どんと来い」

 

 八幡は平塚の全てを受け止める覚悟ができている。

 平塚は、まず一つと、意気揚々と八幡に見せつけるように左手の人差し指だけを立てる。

 

「私、多分すっごい我侭(わがまま)だぞ。君が想像しているよりもずっとな」

「あぁ、大丈夫だ。お前の我侭片っ端から付き合っていくわ」

 

 即答する八幡を見て、立て続けに中指を上げてピースサインを作って、二つと声高に言う。

 

「記念日とか沢山作るし、一緒に祝ってくれなきゃすぐ()ねるからな」

「そりゃあ、大変かもな。とりあえず今日は平塚の誕生日兼交際初日で一年で一番の記念日決定だな。忘れた日にはとんでもない折檻(せっかん)だな、こりゃ」

 

「あぁ、その通りだ」と言って、即座に薬指をあげる。

 

「三つ! 他の女の子と仲良くしてたら()くからな」

 

「おぉ、束縛……」と八幡は思わず声を漏らした。

 

「とは言っても、俺だってお前が他の男子と仲良くしてたら妬く。っていうか、俺の方が恥ずかしいぐらい今日まで嫉妬しまくってたわけだしな。だから、むしろ心配なのは俺の方だ。正直言えば、あんまり他の男と二人きりとかで喋って欲しくないし、体育祭の時みたいにツーショット写真を撮っても欲しくないし、ボディータッチとかもできればして欲しくない。でも、平塚の都合もあるのは知ってるし、きっとこんな束縛されたら嫌な気持ちになるだろうから、強制はしたいとかは全然思ってないんだが……」

「──いやっ、もうしないっ!」

 

 平塚は(あたか)宣誓(せんせい)するかのように、断言する。

 

「事務連絡とかでどうしてもせざるを得ない事はあるかもしれないが、それ以外はしないっ!」

「……そうきっぱり言ってくれるのはすげぇ嬉しいんだけど、さすがに付き合いとかもあるんだから厳しいだろ。別に無理してほしい訳じゃないし、足枷(あしかせ)にもなりたい訳じゃないんだ」

「いいんだ、私は比企谷さえ傍にいてくれればいいから。もう恋人の君が少しでも嫌がることはしたくない。たとえ他の人達に嫌われたとしても、そっちの方が断然私にとっては嫌だから」

「そうか……。うわぁ、めっちゃ照れくせぇな……」

 

 慣れ親しんだ歯に(きぬ)着せぬ物言いで恥ずかしげもなく平塚に言われ、機嫌斜めならずであるのと同時に顔が勢いよく火照(ほて)ってゆくのを感じて、八幡は思わず空を見上げた。

 

「……ま、まぁ、だから、これは必然的に異性の知り合いが多い平塚を縛る俺のための決まりみたいになっちまうよな」

「ううん、そんな事ない。そ、その私だって、今日、桜が比企谷のメアド持ってただけで、すごい怖い顔になってしまっていたから……。私だってこれからはできればそういうことして欲しくないと思ってる……」

「ははっ、俺ら似たもん同士みたいだな」

「……うんっ、どうやらそうみたいだなっ!」

 

 次に小指もあげて、四つ。

 

「二人で色んな所に行って、思い出いっぱい作ろうな!」

「当然だ。色んな所行って、楽しい思い出沢山作るぞ」

 

 そして、最後に親指を立てて五つ。

 

「この先、ずっーと私の隣にいるんだぞ……」

「あぁ、勿論だ。他の奴らに(ねた)まれようとも(そね)まれようとも、極論平塚に嫌だって言われても我が物顔で居座ってやる」

 

 八幡の答えに平塚は満足した様子で相好(そうごう)を崩すと、今度は小指だけを立てて、彼の前に差し出した。これが何を意味するかは言葉にせずとも彼にはすぐ分かった。

 

「さっきしてなかったからな」

「そういやそうだった。完全にこのこと頭から飛んでたわ」

 

 八幡はそれに応えるように、小指を立てて、差し出された平塚の小指と絡ませて、ぎゅっと結んだ。八幡のよりも随分と小さくて弾力のあるもので、絡めている内ににじわりと温かみが伝わってくる。

 

「「指切りげんまん嘘ついたら、針千本のーますっ!」」

「ゆび…………、ってあれ……?」

 

 最後の掛け声の前で平塚は口を(つぐ)んでいた。

 

「どうした、平塚?」

「最後の確認だ。これは一生物の約束だからな。ぜーったいに破るんじゃないぞ? 破ったら、今回は千本増量で二千本だからな」

 

 平塚は悪戯っぽく笑う。

 それに八幡は深く頷く。その腐り眼に覚悟を据えて。

 反故(ほご)にしてしまった約束を結んだ左手の小指。

 ──この指に今、新しく果てのない海誓(かいせん)山盟(さんめい)の約束をここで結ぶ。

 

 

「あぁ、今回は絶対に破らない。一生かけて守り通すわ──」

「よしっ……! じゃあ、行くかっ! せーのっ!」

 

 二人で声を揃えて、

 

「「指切りげんまん嘘ついたら、()()()()飲ーますっ! 指切った……!」」

 

 そして、二人は絡めた指を離した──。

 

 

 

 ──指切りを交わした後、二人は目と鼻の先の砂浜──検見川浜へ足を運んでいた。見渡す限り二人だけしかいない砂浜は、まるでこの世界にこの二人だけしかいないと錯覚させた。

 浜辺に寄せては消える白波。絶えることなくやって来てはまた消えていく。しかし、波打ち際に消えていった波の跡が確かに残っていた。後ろを振り返れば、二人の足跡が克明(こくめい)に砂浜に刻まれている。

 そして、打ち寄せる波が靴に被らない砂の色の境目に二人横に並んで立っていた。

 

「綺麗な場所だよな」

「あぁ、俺もそう思う」

「……ねぇ、比企谷、早速、最初の我侭言っていいだろうか──?」

「何なりと。ま、俺ができる限りのことだけだけどな」

 

 勿体(もったい)ぶるように少し間を置いて、平塚はその我侭を口にした。

 

「名前で呼んで…………」

「え、そんなんでいいのか」

「そんなので良い。いや、そんなのが良い。……というか、これから先ずーっと、ず────っと我侭言い放題なんだろ?」

「ははっ、そうだな。今度からずっと(しずか)の我侭聞いていかなきゃいけないな」

「そうだそうだっ! これから、──って、今、静って」

「そりゃ、名前で呼べ、って言うから」

「むぅ、私はもっとロマンチックにだなぁ」

「ははっ、さすがに俺には難しかったな。じゃあやり直すわ」

 

 八幡は、こほんと咳払いをして、口元を(ほころ)ばせる。

 

 そして、とびきりの想いと愛を言霊(ことだま)に込めて──。

 

 

 

「──静、大好きだ」

「うんっ、私も八幡が大好きっ……!」

 

 

 

 両手を(ひろ)げて抱きついてくる()を、八幡は包み込むように抱き()めて、かけがえのない温もりを確かめ合って、また耳元で何度も何度も愛を口吟(くちずさ)み合う。

 

 間違いなく今、二人の夢の(はな)(きら)びやかに咲き誇っていた。彩り鮮やかな千紫(せんし)万紅(ばんこう)花弁(はなびら)が二人を祝福して、それを支える立派で屈強な金剛(こんごう)不壊(ふえ)の茎根が二人を(たた)えるようにあった。

 そして、永遠(とわ)に枯れることのない、悠久の幸せを約した夢の華は、二人の中に更に深く深く根を下ろしていくのであった──。

 

 

 

「ね、八幡っ……!」

「どした、静?」

「生きてきた中で、今が一番、──幸せだっ……!」

 

 

 

 純白で覆われた稜線(りょうせん)のように白波が何処までも連なる茫洋とした海と、(かそけ)く照らす下弦の弓張月。弓なりを描く湾岸の電飾が果てなく延びる幻想的な光景を背にして、咲き誇った静の笑顔は、裏表もなくて、何の(けが)れも汚れなくて、何よりも輝いていて、何よりも澄んでいて、何よりも可愛らしくて、何よりも美しくて、何よりも愛しくて、そして、何よりも()()()()()()()()()()()()であった。

 

 

 

 ──たった今、八幡は()()()()を見つけた。

 

 

 

 この世界で一番愛しい人を、今以上に幸せにするという終わりなき夢を──。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──Continue to the Epilogue……

 

 

 

 

 

 

 

 














拙文を読んで頂きありがとうございます。
毎度の事ながらも素晴らしい感想と、沢山のお気に入り登録、そして高評価、ありがとうございます。本当に励みになっております。

今回は文化祭は終わっても、二人の後夜祭はまだ終わってないぜ!!ということでこのお話をお届けしました。
そして、無事二人は幸せを掴むことが出来ました!本当に良かったです!笑
この話に辿り着くために今まで試行錯誤して執筆してきたので、本当に感慨深いです……。前回も似たようなこと言ってましたが、前の話とこの話は元々同じ話にする予定だったので、ということです汗
なので、とても名残惜しいのですがこの話が事実上の最終回になります。
改めてここまで付き合ってくださった読者の皆様、本当に本当にありがとうございます。

そして、色々考えましたが、当初の予定通り次回のエピローグを以てこの物語の幕は閉じさせて頂きます。
何か思うことがあれば是非気軽に感想をいただければと思います。
長々と後書きを書かせて頂きましたが、最後に、読者の皆様、最後まで応援のほどよろしくお願いいたします!




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Epilogue: Toss a Bouquet






 

 

 

 ──壁面が白を基調としているその室内は、窓から差し込む陽の光によって、より一層、白の純度を増していた。

 部屋の中には、絹の手織りだという精緻(せいち)な文様が(あしら)われた格調高いペルシャ絨毯(じゅうたん)が敷かれ、陽光が文様の一つ一つを彫り上げ、その華やかさを際立たせていた。化粧台には、日常生活では滅多にお目にかかることのない奢侈(しゃし)な化粧品が並べられていて、繊細で(ほの)かな香りを漂わせていた。

 その部屋の隅にあり、見るからに値が張りそうな革製の背(もた)れが(ボタン)留めされた白銀のソファに腰を下ろしている純白の衣装を(まと)っている男女は、何やら楽しげに談笑している。日脚(ひあし)は二人の左手の薬指にまで伸びて、その指に()められた銀色の指輪を煌煌(こうこう)と光らせていた。

 

 耳を傾けると、どうやら二人は思い出話に花を咲かせていたようであった──。

 

「……確か、そんな感じだったな、あの時は」

「このフラワーブーケももう一〇年か……」

 

 静は首元のネックレスを(てのひら)の上にのせて、愛おしい目でそれを見ている。その淡く光る花には所々細かな傷みが入ってしまっているが、(かえ)ってその傷の一つ一つが、二人で積み重ねてきた思い出の一(ページ)なのであり、このネックレスは思い出の結晶なのであった。彼女はそこに刻まれた年月に思いを()せているようでもあった。

 

「やはり、文化祭の日のことは昨日のように思い出すな」

「静、それは言い過ぎだ。この一〇年もっと色々あっただろ」

「ふふっ、そうだな。楽しい時も喧嘩した時も、辛い時もたっくさんあったな」

「でも、確かにあの時ほど、辛くなったのは今のところねぇな」

 

 釘で打たれたような鋭く激しい胸の痛みを、八幡は未だに鮮明に覚えていた。生きた心地のしない──死んだような生活を送っていた二週間程の日々のこともだ。

 

「私もだ。もっと素直に言えれば、すぐに解決したんだけどな」

「まぁ、まさか俺が静と仲良くしてたことで嫉妬を買って虐められかけてたとは思わなかったからなぁ。裏サイトに載ってたとか、やっぱ今考えてもゾッとするわ」

「でも、それも交際し始めてから、綺麗さっぱりなくなってめでたしめでたしだったな!」

「それは次の登校日に静が堂々とクラスの中で交際宣言してくれちゃったからだろ。くっそ恥ずかしかったぞ、あれ」

 

 八幡は、若かりし日の一幕を思い出して苦笑する。

 静は文化祭の次の登校日、普通であれば(おくび)にも出さないところを、もはや見せびらかすように一日中八幡の傍にべったりくっ付いて過ごしていたのだ。そして当然、静の変わり様にクラスメイトが気付かぬはずもなく、憶測が飛び交い始めた。その上、折もあろうに二人が優勝した七夕祭りで行われた長生(ちょうせい)村のカップルコンテストについて記された会報が偶然発掘されたようで、より騒ぎに拍車をかけていた。

 ある程度その噂話が人の耳朶(じだ)に触れた後の昼休み。ベストプレイスに向かうために八幡に声をかけて教室を出ようとした静に、同じクラスの女子がまさか付き合っているのかと尋ねてきた時、「あぁ、私は八幡と付き合ってるぞ!」と静は何の躊躇(ちゅうちょ)もなく即答して見せたのだった。

 静がそう言い放った後の教室の中の異様などよめきは、八幡の耳に今でもこべりついている。

 しかし、静が大っぴらに言ってのけた事で、()()()()()に校内の評判が傾くと思いきやそうでもなかった。八幡に対する静の好意が完璧に露顕(ろけん)してしまったので、諦めざるを得なくなったということに加え、高嶺(たかね)の花を手繰り寄せた地底人とでも言うべき八幡に良い意味で興味を持つ人が増えたことで、八幡が覚悟していた()()()()()の風潮はすっかり薄れていったのだった。

 

「あれは若気の至りってやつだ! しょうがないじゃないか。駄目って分かってても、抑えられないぐらい君と付き合うことが出来たのが嬉しかったんだ」

「まぁ、当然悪い気はしなかったし、結果的にはあれで良い方向に進んだからな。でも、あの時は常に背後を警戒してたからなぁ。数名の男子生徒からの()てつく波動を常に感じてたし、気抜いたら思わぬところからぐさりと刺されるんじゃねぇかって」

「あははっ、確かに修学旅行が終わるまでは良く後ろを見ていたなっ!」

「いや、まじで笑い事じゃねぇから……。でも今となっては良い思い出っちゃ、思い出かもな。まぁ、それはそれとして修学旅行でさ──」

 

 八幡は、丁度静が今言った恋人として迎えた京都の修学旅行の話を切り出した。そして二人は、また、思い出のアルバムを(めく)って、二人の歩んだ足跡を辿(たど)って、長らく追憶を(たの)しんでいた──。

 

 

 ──一〇年分にも及ぶ分厚い頁の束を()じて、二人の思い出話が幕を閉じた。壁にかけられた(おもむき)のある木製の鳩時計が指し示していた時刻からすると、(おおよ)そ五分後に次のプログラムが始まる予定であった。

 

「八幡、次は何話そうか」

「ま、話さなくてもいいんじゃねぇの。もうすぐお呼びもかかるだろ。後はのんびり過ごさねぇか」

「嫌だ、八幡。何か話題出して」

「えぇ……」

 

 気怠(けだる)げな八幡の反応に、静は空木(うつぎ)に咲く()の花のような白さを持った玉の肌をむくりと膨らまして、八幡を睥睨(へいげい)していた。

 

「むぅ、仕事のせいで君と話す時間なかなか作れないことが多いから、沢山喋っておきたいのに……」

 

 確かに静の言うように、付き合い出してから二人は造次(ぞうじ)顚沛(てんぱい)にも離れることはなかったが、第一志望が異なり別々の大学に進学してからはそういう訳にもいかなくなったのである。

 

 ──そのため八幡は相当の努力をしたのだ。(ひとえ)に努力といっても千差万別であるが、彼が特に注力したのは就職活動である。

 高校二年の(うら)らかな春の(ころ)おい。八幡は起伏もなく単調に過ぎ去る日々と、過去の経験と現状に起因する底知れぬ厭世(えんせい)観を抱いていたことから、働くことに意義をつゆも見い出せず、将来志望する職業は専業主夫と(うそぶ)いていた。

 しかし、その桜の花弁(はなびら)吹雪(ふぶ)く春に、一人の少女と出会ってから、八幡の考えが根元から変わった。それ故、働く事の意義──平塚静というこの世で最も愛しい女性を幸せにすること──を彼は明確に見つけ出したのであった。

 静とは別の大学に進学した後、キャンパスライフに(うつつ)を抜かして遊び(ほう)けている同級生を横目に、就職活動をする上で有利に働く資格試験の勉強を行ったり、資格に関するサークルにも出向き、そこで同様の志を持つ友人を作ることが出来た。三年時には粗方(あらかた)志望する企業を絞り、インターンシップにも積極的に参加した。

 結果的にそれらの努力が実って、八幡は高校生の自分には夢にも思わなかった誰もが知る名の通った大企業の内定を獲得する事ができたのであった。

 だが、就職してから静と同棲(どうせい)を始めたものの、短期間ながらも地方への出張なども多くなってしまったのであった。その上、静は国語の教師の道を進んだため、二人の時間が大学生時代以上に見つけられない事が多く、時に擦れ違うことも(まま)あったのだ──。

 

「まぁ、確かにそうだけどさ。取り立てて話すこともねぇし、俺は今、この雰囲気を粛々(しゅくしゅく)と味わってたい気分なんだけどなぁ……」

 

 渋り続ける八幡に対して、むくれ続ける静だったが、はっと何かを思い出した様子で口を開いた。

 

「そうだった、そうだった。これは私の我侭(わがまま)だ。君が必ず叶えてくれるという私の我侭だ」

「静の我侭をなんでも聞くって約束したけど、こうもお安く使われるとなぁ……。まぁ、それこそアニメと仕事の話ぐらいしかねぇけどなぁ。アニメの話は長くなるから時間足りねぇし、それに仕事の話つっても、俺は相変わらず(つよし)さんに世話になって、びしばし(しご)かれているだけだしなぁ」

「あっ、そう言えば、挙式に剛さん来てくれていたな! 一〇年前からまさかここまで繋がるとはな」

「言われてみれば、確かに改めて考えるまでもなくすげぇことだよなぁ、この縁って」

 

 ──二人が語る()()()という人物に八幡が会ったのは、内定が決まり、入社前に所属先の部署へ挨拶をしに行った時であった。

 ずらりと並んだデスクを順々に回って挨拶している最中、遠くのデスクの方へと目を向けると、奇妙な既視感を覚えたのだ。目を凝らして見ると、見覚えのある鋭い目を携えた強面(こわもて)の顔に、椅子が(きし)んで悲鳴をあげてしまうほど常人離れしている体格、そして春先であるにも関わらず日焼けしたような肌黒である男が座っていたのだ。

 いよいよ八幡はその男に挨拶をするために彼のデスクに近付いた。その二の腕や胸の辺りが張っていて、盛り上がったスーツ姿はお世辞にも似合っているとは言えないだろうが、来た者の背筋を真っ直ぐに伸ばさせるような(おごそ)かな雰囲気は確かにあった。

 

「初めまして、四月から入社して、こちらの部署で働かせていただくことが決まった比企谷八幡と申します。 一日でも早く戦力となれるよう頑張りますので、御指導、御鞭撻(べんたつ)の程よろしくお願いいたします」

「こりゃ入社前なのに態々(わざわざ)どうも。俺の名前は足柄(あしがら)(つよし)だ。これから、よろしく……って、ん……?」

 

 定型の挨拶をした八幡と目が合うと、剛は顔を近づけて眼光(がんこう)人を射るような目付きのまましげしげと八幡の顔を見詰めて、小首を(かし)げた。そして、ややあって剛は八幡に(たず)ねてきた。

 

「……君って、もしかして、千葉県の長生村の七夕祭りのカップルコンテストに出た経験はあるか?」

「はい、実は何度か出させてもらっていて、六年前は、多分足柄さんと一緒に出場していたと思います」

 

 その返答を受けて、剛は「やっぱりそうか! あの時の君か!」と機嫌よく声を上げて、八幡の肩をやや痛みを伴うほど強く叩いたのだった。

 剛──足柄剛は、その年の六年前、八幡達が初めて出場した長生村の七夕祭りのカップルコンテストで、競技中に常に八幡の横にいたあの黒光りの筋骨(きんこつ)隆々(りゅうりゅう)としていた巨漢であった。その身体能力は参加者の中でも比倫(ひりん)を絶していて、圧倒的な強さで他の追随(ついずい)を許さずに決勝戦まで駒を進め、その決勝戦では大きなハンディキャップを負いながらも最後の最後まで八幡と(しのぎ)を削ったことも到底忘れ得ぬことであった。

 確かに彼の事は良く記憶に残っていたが、八幡達が複数回カップルコンテストに出場した中で彼が参加したのはその一度きりであり、偶然一度同じ祭りに参加して、対決したという袖が触れ合った程度の多少の縁だと思っていた。しかし、実際はその縁は遥かに強固なものであって、まさか同じ会社で、更に直属の上司になろうとは思いもしなかったことであった。

 その後、顔見知りということで、八幡の教育係を剛が担当することとなり、次第に私的な交流も深まっていき、今では結婚式に招待するまでに至っている──。

 

 二人してその一〇年来の不思議な縁故を()()みと感じていると、静は突然気を落として「……本当は陽菜(ひな)さんにも来て欲しかったのだがな」とぼやいた。

 

 陽菜さん──足柄(あしがら)陽菜(ひな)はカップルコンテストで旧姓の松田(まつだ)陽菜として出場していた剛のパートナーであり、大柄で黒光りした筋肉隆々の巨漢の剛とは対照的な羽二重(はぶたえ)肌の痩身(そうしん)麗人(れいじん)であり、美人(びじん)薄命(はくめい)を体現したような(はかな)さと神秘を(まと)った佳人(かじん)であった。

 存命の人に美人薄命と評するのは無礼極まりない話ではあるのだが、後々、彼女は当時重篤(じゅうとく)な病気を抱えていたことが剛から話を聞いて分かった。──先天性の心臓病である。重度な運動は禁じられていたため、二人で負担を分担でき、適度に体を動かすことができるカップルコンテストに参加していたということなのであった。

 そして剛曰く、二人が次の年からカップルコンテストに参加しなくなったのは、陽菜の心臓病に関する手術が本格的に始まったからだそうであった。

 そのような彼女は本日の二人の華燭(かしょく)(てん)には訳あって参加することは叶わなかったのであった──。

 

 ただ静の顔はすぐ(もや)が吹き飛ばされたかのように晴れやかになった。

 

「──だが、めでたい事だからな!」

「あぁ、とてもめでたい。それに、まさか俺らの結婚した日と被ることになるとは思いもよらなかったな」

 

 八幡も、ここまで来ると運命めいたものを足柄夫妻に感じざるを得なかったのであった。

 

 ──それは一昨日(おととい)の金曜日のことであった。この日は、八幡と静にとって一年の中で最も大切な日であった。()()()()()()()()()()()()()()である。

 加えて今年は、交際を始め、そしてあの一生物の約束を交わしてから、丁度一〇年という節目の年であったのだ。

 そして、二人は一〇年目にして、ようやく籍を入れる運びになった。

 長針と短針が揃って真上を向いた午前〇時の市役所に、共に婚姻届を提出した。

 

 二人が晴れて(れき)とした夫婦となった金曜日の午後。普段の日と変わらず出勤し、会社の休憩室でマックスコーヒーをお供に静お手製の弁当を八幡は頬張っていた。静は母校である総武高校で教師として働いているが、有難いことに毎朝早起きをして八幡のために弁当を作ってくれているのである。中身は八幡の好物で固められていて、別に用意されたタッパーの中には可愛らしいうさぎりんごも隅でこちらを見るように置かれていた。

 やはり、今日も今日とて格別に上手い弁当であった。

 頬張る八幡の隣には、コンビニ弁当を食べている上司の剛が居て歓談していた。

 

「そう言えば比企谷もようやく結婚か。おめでとう」

「ありがとうございます。まぁ、今更感もあるかもしれませんが」

「いやいや、めでたい事じゃねぇか!」

「もちろん結婚できて嬉しいです。それに婚姻届出しに行った時は、静は泣き出すほど喜んでくれてました。けど、やっぱ一〇年も一緒だと結婚したからって昨日と今日で特別何か変わったような気はしないですし……。早く結婚すれば、もっと静を喜ばせてあげるようなことできたんじゃないかって」

「まぁ、往々にしてそういうものだろ。俺のところだって長く付き合ってから結婚したし、別に結婚したからって何か大きく変わった訳じゃねぇよ。むしろ大きく変わる方が変だろ。二人で長い時間かけて積み上げてきたものが結婚したってだけで何もかも変わってたまるもんか。……でも、確実に何かは変わってるんだよな。例えば──」

 

 そう言って剛は、机の上に置かれている静お手製の弁当を指差した。

 

「とうとうその弁当も、今日から正真正銘の()()()()になったじゃねぇか」

「……確かに言われてみればそうですね。そっか、これが、俺の初めての愛妻弁当……」

 

 八幡は、思わず口元を(ほころ)ばせた。

 確かに小さいことが変わっているのだ。

「……いいなぁ、俺も早く食いてぇなぁ、陽菜の弁当」と嘆きながら、剛は割り箸で弁当の最後に残った梅干しを摘み上げて、口に運んでいた。

 

「酸っぱ……。あぁ、後、他にもあるぞ。例えば陽菜が電話に出て名前を名乗った時とかな」

「確かに結婚したから、苗字一緒になったんですよね。まだ全然実感無いですね」

「そうか、比企谷はまだか。あの時はすげぇぞ。あぁ、俺らは夫婦になったんだなぁ、ってひしひし感じるんだ。それですっげぇ幸福感に包まれるんだよなぁ」

 

 思い起こして少し口角を上げる剛であったが、その時突然彼の胸ポケットから着信音が鳴り響いた。

 

「おぉ、なんて言うタイミングの電話だ。もしかしたら噂した陽菜からかもな。じゃあ、悪い、比企谷、少し席を外すな」

「分かりました」

 

 剛はポケットからそれを取りだして、休憩室の外に出た。八幡は、とびきりお気に入りの一口サイズのハンバーグを箸で(つま)み上げて、口の中に放り込もうとした時であった。

 

「本当ですかっ……!?」

 

 室内にいても五月蝿(うるさ)いほどの大音声(おんじょう)が扉越しから響き渡っていた。八幡は、一度摘んだハンバーグを弁当の中に戻し、一旦部屋の外へと出た。

 

「はいっ……、はいっ……」

 

 部屋を出たすぐそこに剛は居たが、やけに神妙な面持ちで、スマートフォンを握る熊手(くまで)のようにごつごつとして太い手は似つかわしくないほど震えていた。

 

「はい、分かりました。妻の事をよろしくお願いします」

 

 剛のその様子は携帯を切った後も変わらなかった。

 八幡も話は剛から聞いていたため、何が起きたのか容易に察しはついたのであった。

 

「陽菜さん、いよいよですか……?」

「あぁ……、陣痛(じんつう)が始まったらしい。早ければ今日中の出産だそうだ」

「じゃあ、剛さん、急いで陽菜さんの元に行ってあげてください。部長には俺が連絡しておきます」

 

 だが、剛は顔の面に神妙さを引き()ったまま、まるで独活(うど)の大木にでもなったかのようにでかい図体(ずうたい)を固めて動こうとしなかった。

 

「どうしたんですか、早く行かないと」

「……やっぱり、いざこの時が来ると結構不安でな。しかも予定日より結構早いんだ。陽菜は確かに心臓の移植手術には成功して、医師にも出産は全く問題ないと言われたけどな……」

「──なら、尚更じゃないですか。陽菜さんが一生懸命痛みに闘ってる時に、剛さんまでそんな顔してどうするんですか。陽菜さんが少しでも安心できるように、明るい顔で声枯れるまで励ましてあげるのが夫の務めなんじゃないんですか」

「……あぁ、そうだな。ありがとう、比企谷。じゃあ、行ってくるわ。色々とよろしくな」

「はい、行ってらっしゃい。良い報告待ってます」

 

 八幡は、会社の廊下を駆けていく間もなく父親になるであろうその人一倍大きい背中を見送った。

 その日の、午後二十一時。陽菜が元気な男の子を無事出産した、という連絡が剛から届いた。また健康状態も母子ともに極めて良好だったようであった──。

 

 ──このような訳で、陽菜はまだ産まれたての赤子と一緒に産婦人科に入院している為、出席できないのである。

 

「近々結婚の報告も兼ねて会いに行こうな。それに陽菜さんには返さなければならない恩があるからな」

「陽菜さんがカップルコンテストの時、剛さんを(さと)してくれなきゃ、あのディスティニー行けなかったわけだし、あの世界一大切なパンさんのストラップも静から貰えなかったわけだからな……。うしっ、今度、赤ん坊に必要な育児品とかを持ってくか」

「そうだな。可愛い赤ちゃんに会うのが楽しみだ」

「あぁ、写真で送られてきた赤ん坊、本当に可愛かったからなぁ……」

 

 八幡が昨日送られたまだ目を開けていない産まれたての赤ん坊の写真を思い出して優しそうに呟くと、静はタキシードの袖口を摘んで、物言いたげに軽く引っ張る。

 

「ね、八幡……」

「ん、どうした、静?」

「私達もいつか、な……?」

 

 上目遣いで頬を少し赤く染めて恥じらいを帯びて問い掛ける男心を分かっているとしか思えないいじらしい仕草に、用意できる返答は一択しかない。

 

「──あぁ、もちろんだ」

 

 八幡の迷いのない答えを聞いて、静は破顔して、ぱあっと明るくなる。

 

「できれば、俺は女の子がいいなぁ。静の遺伝子入ってたら絶対可愛いし」

「もうっ、八幡ってば……。でも、私は男の子がいいなぁ」

「それはどうして」

「女の子だと君が溺愛(できあい)してしまいそうだからな……。そしたら私の事よりも子供のこと優先してしまいそうで……」

「ぷふっ、はははっ……!」

 

 意想外の可愛らしい静の理由に、八幡は思わず吹き出して腹を抱えて笑い出す。

 

「なっ、笑うことはないじゃないか……」

「いやいや悪い悪い、子供にまで嫉妬する静が可愛すぎてな。いや、でも、待てよ……、確かに男の子だったら……。──やっぱ、静を取られるの無理だわ。絶対女の子が良い」

「なんだ、結局、君も私と一緒じゃないか」

「あぁ、俺ら似たもの同士みたいだな」

 

 八幡のその言葉を聞くと、静も吹き出して、(おとがい)を解いて、目尻に浮かんだ涙を(ぬぐ)っていた。

 

「そんなゲラゲラ笑うことでもないだろ」

「いやぁ、何か随分前にも似たような会話があったような気がしてなぁ」

「あぁ、言われてみれば、確かに俺もそんな気がしてきたわ」

「ぷふっ、あははっ!」

「くっ、あははっ!」

 

 そして、二人して笑っていた。

 静の言う通りであった。こうして二人で話して、笑い合っている方が幸せであるのだ──。

 

「──まだ時間あるな。そういや、そっちの仕事の方はどうだ。海斗(かいと)の事はまぁ、いいとして、あのなんだっけ、(ゆき)(はま)だっけ……?」

「いや、雪ノ下(ゆきのした)由比ヶ浜(ゆいがはま)だ」

「そうだそうだ。で、その子達とはどうなんだ。静が贔屓(ひいき)にしてるんだろ?」

「あぁ、相変わらずとってもいい子たちだよ。君にも会わせてやりたいぐらいだ。うん、本当にとても……」

 

 静は急に(ろう)が溶けてまもなく消え入ってしまう燐光(りんこう)のように暗く震えた声になって、その美しい瞳がどこでもない虚空(こくう)を捉えているように見えた。静のそのような姿は久しく見ておらず、八幡も異変を直ぐに嗅ぎ取る。

 

「……だから、だからもし一○年前に彼女たちがいたら、私は君に選ばれなかったのかもしれないな」

 

 その静の言葉には最近芽を出していなかった不安の種子が()わっていた。

 

「……静、ちょっとこっちに身体寄せてくれるか」

「え、うっ、うん……」

 

 八幡はしなだれるように身を寄せてきた静の頭を覆う純白のヴェールを少し退()かして、頭を優しく撫で始めた。髪型が崩れないように細心の注意を払いながら、軽く手櫛(てぐし)を入れてやったりもした。静は抵抗することなく、途中から猫のように目を細めて、それを心地よさそうに受け入れていた。

 そして、(しばら)くして、その手を止めて、静の見掛け以上に華奢(きゃしゃ)な身体を一度抱き締めた。そして不安を撫で下ろすように背中を(さす)ってから、静の肩をやや強く掴んで、彼女の顔を見た。

 透き通るような血色の良い雪の(はだえ)に、なだらかな丘陵(きゅうりょう)を描く整えられた蛾眉(がび)は殊に彼女の眉目(みめ)麗しい様相を表象していた。端から切り揃えられた長く反り返った睫毛(まつげ)に、ブライダルメイクを(めか)して際立った陰翳(いんえい)はいみじくも(ゆう)なるものであった。

 このように世界中の誰よりも美しいと思える静の容貌(ようぼう)の中でも、とりわけ魅惑的な薄墨(うすずみ)色の虹彩(こうさい)が不安で揺らめく瞳を捉えて、告げる。

 

「──静が急になんの心配してるか分からねぇけど、これだけは断言できる。他の(ひと)を選ぶなんて絶対にない。俺は絶対にお前のことを選んでる。他の誰でもなく静しか俺には考えられねぇんだ」

 

 (いた)く真剣な眼差しを向けて八幡が言うと、静は植わっていた不安の種が取れたように愁眉(しゅうび)を開いて柔らかく笑った。

 

「……ごめん、八幡。君の気持ちを試すようなことをしてしまった。でも、彼女達を見るとどうしても不安になっしまってな……。だから、君がそう言ってくれるのを求めてしまった。やはり私はいつまで経っても(ずる)くて怖がりで、臆病だな」

「全然いい。やっぱそういう狡くて怖がりで臆病っていう静の可愛いところが俺は大好きだからさ」

「私もそういう優しい八幡が大好きだ」

 

 少し目を()らして、八幡は頬を二、三度人差し指で()いていた。

 

「やっぱ、こういう気障(きざ)台詞(セリフ)は性に合わねぇな。照れくせぇ……」

「ふふっ、ねぇ、八幡っ!」

「ん、どうした?」

「私の()()()()()()()()、言ってもいいだろうか?」

「このタイミングでか……? まぁ、別にいいけど。知っときてぇし」

 

 静は深く息を吸って、そして口を開いた。

 

「──私、君に出会う前、長い夢を見てたんだ」

「ん……? それが、どうした」

「その夢は、良い夢だったんだけど、どこか辛くて満たされなかった。だがな、君に会ったことでその夢から()めたんだ。そこからはいつも幸せで、常に満たされてて、私にとって最高の世界だったんだ。まるで()()にかけられたみたいにな」

「……それが、秘密?」

 

 拍子抜けした八幡が怪訝(けげん)そうに問い掛けると、静は急に顔を朗らかに崩して、高らかに言う。

 

「あぁ、これが私の()()()()()()()()だ!」

「全く、この()に及んで言うから、もっととんでもないことだと思ったわ」

「……とんでもないって、例えばどんなことだ?」

「例えば、『私、実は男の()でしたっ!』とか」

「ばっ、馬鹿者っ……。私が男の娘じゃないっていうのは、そ、そ、その、とっくに分かってるでしょ……」

 

 静の頬はみるみるうちに紅潮し、それは耳の先から、首筋までを朱色に染め上げていった。その様子を見て、思わず不敵な笑みが八幡から(こぼ)れ出た。

 

「……ふっ、結婚式のウェディングドレス姿っていう、今日限りの恥じらい顔、まじ最高だわ。よし、ちゃんと焼き付けてるよな俺の目。今のは間違いなく永久保存版だ」

「──っ……! もうっ、八幡の馬鹿っ……!」

 

 刹那、五臓六腑が壊れるような衝撃と共に胴体の内側へと何かが()り込む鈍い音がすると、人から出るはずのない渇いた奇声が、八幡の口から漏れ出た。

 直後に八幡は白銀のソファから崩れ落ち、鳩尾(みぞおち)あたりを抑えて、呼吸も(ろく)にできず、ペルシャ絨毯の上で寝転がって(うな)り声を上げ始めたのであった。

 

 丁度その時、二人がいる控え室の扉を叩く音があって、部屋の中に結婚式場のスタッフが入室してきた。

 

「少々遅れてしまい申し訳ありません、新郎新婦様。まもなく披露宴前の──、……って、新郎様、大丈夫ですかっ……!?」

 

 当然火を見るより明らかな尋常ではない八幡の様子を見て、矢も盾もたまらず駆け寄ってきたスタッフに対して、「あ、あはは……、大丈夫です……」と路肩に転がる今にも死に絶えそうな蝉のような(かす)れ声で言葉を返した。

 

「でっ、ですが、明らかにお腹を手で抑えられていますけど……」

「いえ、全然大丈夫です。私の旦那、しょっちゅう腹痛に襲われるので」

「で、では急いで御手洗の方に──」

「大丈夫です♪ ねっ、八幡?」

 

 八幡は(うずくま)りながらも、小さく頷いていた。

 

「そ、そうですか。ですが、もし新郎様の体調が優れないようでしたら、近くのスタッフに直ぐご連絡下さい」

「分かりました♪」

「でっ、では、まもなくお時間ですので、ご準備の方を……」

「はいっ!」

「は、い……」

 

 スタッフは加えて、披露宴の前に時間を取って、()()()()()()()()()()()をするということと、体調が優れなかったら連絡して欲しいということを再三伝えて、部屋から出ていった──。

 

 

 

 △▼△▼△▼

 

 

「──新郎新婦様、此方(こちら)に。まもなく扉が開きます。開いたらカーペットの上をお進み下さい」

「分かりました」

 

 その指示の元、八幡と静は、二回り以上彼らよりも大きく、均整(きんせい)のとれた鉄の装飾が施された木製のアーチ型の扉の前に立った。

 

「では、開きますっ!」

 

 その掛け声と共に大きな扉が軋むような音を立てて内側に開かれる。その瞬間、流れ込むように入ってきた秋の日の目映(まばゆ)い光が、目眩(めくらま)しをするかの如く全面に燦然(さんぜん)と輝いて、二人を包んだ。

 やがて、その輝きが淡く薄くなると、二人の目に浮かび上がるのは、往く道を示す深紅のカーペットであった。

 そして、その道に沿って、奥までずらりと列席者が並んでいた。

 八幡はその光景を見て、一入(ひとしお)の感慨に()けった。あの時、道を進む決意をしたからこそ、このように道が続いているのだ。割れんばかりに鳴り響く祝福の拍手が、正しい道を選んだ自分のことを褒め称えているようにも感じた。

 ちらりと隣の静を見ると、今の陽射(ひざ)しにでもやられたのだろうか、その(めじり)には光る水粒(みつぼ)があった。八幡は、そんな静に腕を差し出す。

 

「静、行くぞ」

「……うん」

 

 二人は腕を固く組んで、光が照らす深紅のカーペットが敷かれた階段を下りていった。すると、一斉に鮮やかな花弁が宙を舞い始め、百花(ひゃっか)繚乱(りょうらん)と咲き乱れているようであった。これは元々の予定には入ってなかった列席者からのサプライズのフラワーシャワーであった。

 その光景は、幻想的で、心揺さぶり、筆舌(ひつぜつ)に尽くし難い美しいものであった。

 胸に込上げるものを抑えながら、階段を下りると、まず迎えたのは親族である二人の両親であった。簡単に挨拶を終えた後、続くのは妹の小町であった。

 

「結婚おめでとっ、お兄ちゃん、静さんっ!」

 

 そう祝福の言葉を溌剌(はつらつ)と言って、小町は(かご)の中の花弁を二人の頭上へと放った。

 

「ありがとな、小町。今日は受付までやってくれて」

「本当に小町ちゃん、ありがとう」

「いいんです、いいんです。私がお二人に一番近しいんですから、私がするのは当然です。二人のことはいつまでも面倒見てあげますからっ……! あっ、今の小町的にチョーポイント高いっ……!」

 

 決め台詞を言い放った小町は誇らしげに胸を張って、ふふんと鼻を得意げに鳴らした。直ぐに小町は、八幡の方を指差して、

 

「絶対お兄ちゃんは静さんを幸せにすることっ! 分かった!?」

「あぁ、勿論だ」

 

 その即答に納得したように何度か頷くと、今度は静の方を向いて、

 

「静さんは、お兄ちゃんのことで困ったら私に相談してくださいね。私も、静さんと負けないぐらいお兄ちゃんのこと知ってますから!」

「ふふっ、分かった。小町ちゃんにいつでも相談させてもらうからな」

「よしっ、おっけーでーすっ! じゃあ早く行った行ったー! 皆さん待ってるから!」

 

 二人は小町に()かされ、一、二歩前に進んだ。だが八幡には今日、小町に言わなければならない言葉があるのだった。だから、一度立ち止まって、小町の方に振り返ってその言葉を伝える。

 

「──小町、今日は本当にありがとうな。ずっとだめだめなお兄ちゃんだったと思うけど、お前が居てくれたおかげでこんなお兄ちゃんもここまで来れた。小町が俺の妹でいてくれて本当に良かった。本当に今までありがとう。そして、これからもよろしくな、小町」

「──っ……!」

 

 八幡の言葉を聞いて、(うつむ)いた小町は何かを呟いているようであったが、彼の耳には届かなかった。そして暫くして、小町が顔を振り上げて、

 

「……うんっ、私も、お兄ちゃんの妹で良かった! これからもよろしくねっ、お兄ちゃんっ!」

 

 一瞬覗かせた小町の瞳は潤んでいるように見えたが、直ぐにくしゃりと(まなじり)(しわ)を寄せて笑うものだから、はっきりとは分からなかった。

 こうして、かけがえのない血の繋がりを持った妹に祝福された後も、この道は続いていく──。

 

 

 ──次に二人を迎えたのは、静が最も懇意(こんい)にしている友人達であり、何かと八幡とも接点が多い、静の中学生時代の同級生二人組、大磯(おおいそ)(さくら)秦野(はだの)鶴子(つるこ)であった。

 

「結婚おめでとう〜、二人とも」

「結婚おめでとっ! 静とヒッキー……じゃもうダメなのか。じゃあ、ハッチーでいいかっ!」

「おぉ、ここに来て新しい渾名(あだな)がついた。まぁ、二人とも今日はありがとな」

「ツルと桜、今日は来てくれてありがとう。二人には凄い助けられたし、これからも頼ることもあるだろうけど、よろしく頼んだぞ」

「は〜い、私たちに〜任せなさ〜い〜」

「……何か頼りねぇな」

 

 秦野のおっとりした口調で間延びしてしまった宣言に対して思わず漏れ出た八幡の言葉に、四人は揃って笑った。

 

「まぁ、二人に向けて言うべきことっていうのは色々あるんだろうけど、この(よわい)にして独身の上、結婚の目処(めど)がまるで立たない私たちが言うべきことは──」

 

 大磯と秦野は示し合わせたように頷くと、息を合わせて、

 

「「リア充爆発しろーっ!」」

「ツルと桜の馬鹿者っ……! この場でそういうことを言うんじゃないっ!」

 

 静のツッコミに満足したのか、二人は顔を見合わせて悪戯(いたずら)っぽく笑った。

 

「あははっ! とにかく二人とも本当にお似合いだから、末永くお幸せにねっ! 私たちからは以上っ──!」

「末永くお幸せに〜」

 

 その言葉と同時に、締め(くく)るように花の雨が散らされた。

 こうして、静の同級生二人組に祝福されたもとい(いじ)られた後も、この道は続いていく──。

 

 

「おっ、やっと来た! しずねぇ、はーにぃ! 結婚おめでとうっ……!」

 

 無邪気で底抜けに明るいのは昔と変わらないが、声音は低く(たくま)しくなって、背丈も八幡と並ぶほどに随分と大きくなった男子が恥ずかしげもなく白い歯を見せて、二人を祝福する。その男子の格好は、八幡が(かつ)て着ていた総武高校の制服姿であった。

 そして、その隣には、初めて会った時はあれだけ小さく、まだ口も上手く回せていなかったはずであるのに、いつの間にか大きくなって、近い将来とびきりの別嬪(べっぴん)さんになるだろう可愛らしい顔貌(がんぼう)愛嬌(あいきょう)を振り撒いている女子が、その男子に続いて、

 

「しずねぇ、はーにぃ! 結婚おめでとう!」

 

 と、籠の中の花弁をめいいっぱい高く高く撒いて、祝福の言葉を口にした。二宮(にのみや)海斗(かいと)と二宮(しおり)の兄妹の祝福を受けて、二人は以前と変わらず頬を緩ませた。そして随分久しぶりではあるが、自然と静は海斗の頭を、八幡は栞の頭に手を添えて、猫可愛がりするようにわしゃわしゃと撫で始めた。二人は最初は驚きながらも、途中から懐かしいその感触を堪能(たんのう)しているように、目を細めるのであった。

 

「海斗、しーちゃん、ありがとうっ!」

「ありがとな、二人とも」

 

 その様子を微笑ましそうな目で見つめていたのは、二人の母親の二宮基子(もとこ)であった。

 

「結婚おめでとう。静ちゃんと八幡くん」

「基子さん、ありがとうございます」

「ありがとうございます。私、基子さんに凄いお世話になったので、今日来て頂けて本当に嬉しいです」

「静ちゃんは私のもう一人の娘みたいなものだもの。当然参加させてもらわよ。招待されなくても無理やり参加するつもりだったし。そうだ、時に静ちゃん、もし弁当の事以外にも夫婦生活で困ったことあったらなんでも聞いていいからね。まぁ、私のどうしようもない夫と違って、八幡くんだからそんな事ほとんどないと思うけど」

 

 八幡は、謙遜気味に首を横に振った。

 

「いや、買い被りすぎですよ。俺だって静に迷惑かけてばっかりですから」

「そんなことないわよ。だって、八幡くん、まず煙草(たばこ)とか吸わないでしょ」

「煙草は吸わないですね。まぁでも、昔から格好良いなとは思ってて、憧れが無い訳ではないんですよ。けど、やっぱ小っ恥ずかしいですけど、俺は静と過ごせる時間を一秒でも長く延ばしたいので、どうしても敬遠しちゃって」

「はっ、八幡……」

 

 恥ずかしがって(うつむ)く静の様子を見て、殊更恥ずかしくなって、少し伏し目になって八幡は襟足(えりあし)を掻いていた。

 どうやらその言葉は、基子への受けが抜群に良かったようで、興奮気味に「素晴らしい、八幡くん、本当に素晴らしいっ!」と八幡を褒め(そや)し始めたのだ。

 

「──あぁ、もう八幡くん、凄いわっ、本当に。あぁ、もうどうして家の夫はあんななのかしら。静ちゃんが羨ましくて仕方ないわ。そもそもこんな大事な日に出張入れてくるのも意味分からないしっ……!」

「母ちゃん、やめろよ。二人の前でさ」

「本当にみっともないよ……」

「だって、あの人。結婚記念日も忘れてるのよ?! 普通に飲んで、ベロベロに酔って帰ってきて、何なのっ?!」

「母ちゃんさぁ、今結婚式なんだから、もう少し場を(わきま)えろよ……」

 

 夫の(つとむ)への愚痴が止まらなくなった基子を子供たちが必死に(たしな)めている。それを見て、八幡と静は微苦笑を浮かべた。しかし、これがこの一家の日常茶飯事であるし、二人が二宮家を尋ねた時も、努の前で普通に言っていたことであって、夫婦仲が特別冷えている訳でもない。それどころか、努が(まれ)に魅せる漢気に基子は滅法弱く、だらしないほど頬を緩める姿を知っているから、微笑(ほほえ)ましさの方が勝るのだ。このような夫婦が偕老(かいろう)同穴(どうけつ)の夫婦なのだと八幡は常々感じていた。

 

「二人とも、いつでもいいから、昔みたいに家に遊びに来いよっ!」

「私たちいつでも大歓迎だからっ!」

「あぁ、分かった。暇な時出来たら行くから。あ、それと、次行く時は、もう一人客が増えてるかもしれないから、ちゃんと用意しておいてくれよ。な、静……?」

 

 静の方を向くと、彼女は微笑を(たた)えて大きく頷いた。

 

「──あぁ、八幡の言う通りだっ!」

「おうよっ、一人増えようが二人増えようが、どうってことないぜ、しずねぇ、はーにぃっ!」

 

 心強い言葉を返した海斗は「だから!」と言って右手の小指を立てて、腕を二人の前に差し出した。それに倣って、栞も右手の小指を差し出す。

 

「絶対にまた遊びに来いよっ、約束だっ!」

「うし、じゃあ静も」

「勿論だ!」

 

 一旦組んだ腕を(ほど)いて、二人も右手の小指を立てて、海斗と栞の小指と固く結ぶ。そして、「せーのっ!」と海斗が声がけをして、

 

「「「「指切りげんまん嘘ついたら針千本のーますっ、指切った──!」」」」

 

 こうして、一〇年来の交流が続く親しい二宮一家と再び約束を交わした後も、この道は続いてく──。

 

 

 ──次に迎えたのは、黒のジャケットが案の定はち切れそうになってしまっている八幡の上司──足柄剛であった。

 

「あっ、剛さん。来てくれてありがとうございます。そして、ご出産──」

「比企谷、その言葉は今言わなくていい」

「え……?」

「勿論ありがたいんだが、今日一日は比企谷と静ちゃんは祝う側じゃなくて、祝われる側だろ? それを言うなら、また後日にして欲しい。とにかく、今日はここにいる人達の祝福をめいいっぱい受けるんだ」

 

 そして、剛は、その口元を朗らかに歪めて二人に向けて一言。

 

「結婚おめでとう。比企谷に静ちゃん。末永く幸せにな」

「はいっ、ありがとうございますっ──!」

 

 ──その後も深紅の道は続いた。

 高校時代に静と良く引き合いに出されていた山王(さんのう)弘子(ひろこ)を初めとした総武高校の同級生。二人のそれぞれの大学生時代の友人。八幡の会社の同僚。静の学校の同僚。──関わった全ての人々によって、道は作られていく。そして絶え間なく舞い続ける花弁と、贈られる祝福の声。

 天涯(てんがい)孤独の道を歩んでいたら、このような人々の温かさと幸せに(あふ)れた道を歩くはずもなかった。

 やはり、全て、腕を組んで八幡の隣で並んで歩いている静のおかげなのであった──。

 

 

 

 △▼△▼△▼△▼

 

 

 

 ──この道の終着点は、中央に噴水があり、周りが建物に囲まれたパティオと呼ばれる様式の薄緑の芝生が生い茂る中庭であった。そこの一角にあるこじんまりとした乳白色の大理石の舞台(ステージ)の上に、二人は導かれたのだ。

 

「私、重くない──?」

 

 静は周りに聞かれないような小さな声で(ささや)く。八幡の首周りには静のしなやかな腕が回されていて、彼は彼女の背中と足に腕を回して抱き上げていた。それはまさしくお姫様抱っこというものであった。

 たった今、写真撮影ということで、このポーズを取っているのだった。

 

「あぁ、めっちゃ重いわ」

「はぁっ……?! デリカシーがないっ! もう一度殴るっ……!」

「最初から一択じゃねぇか。さすがにギャラリーの前ではシャレにならねぇから勘弁してくれ。って言うか今も現在進行形で撮られてるんだし」

()()()()()だ」

「愛ってつければ、なんでもオーケーにはならないからね……?!」

 

 写真で撮られていることを忘れて、静は柳眉(りゅうび)を逆立てて、八幡を()め付けている。しかし、八幡は気にもせず飄々(ひょうひょう)とした様子で口を開いた。

 

「──はっ、そりゃ重いに決まってるだろ。だって、静の愛も将来も人生も全部背負ってるからな。これは()()()()()()だ」

 

 八幡による思いもよらぬ美言(びげん)に大層感心したように頷くと、静は少し微笑んで、今度は濡れ石のように(つや)やかで柔らかな眼差しを向けた。

 

「──ふふっ、あぁ、そうだな。私の全部八幡に預けたからな!」

 

 静は、より身体を預けるように、その回す腕の力を強めて、顔を寄せて、八幡の頬に優しく暖かな口付けをした。

 彼の身には、頬の一点から、そして、柔らかく華奢な身体全身から感じる温もりが滞ることなく伝わっている。そして、それが彼に途轍もない幸福を与え続けるのだ。この幸福の伸び代は広大(こうだい)無辺(むへん)としていて、まるで終わりが見えない。

 だから八幡は、静が絶えず与えてくれるその気持ちのお返しとして、途切れることなく、日に日に強く大きくなってい彼女に対する確かな想いを、この一言に込めて、伝えるのであった。

 

「──静、愛してる。これから先、絶対に幸せにするから、末永くよろしく頼む」

「──うんっ! 私も八幡のこと、愛してるっ! ずっと、ずっとよろしく頼んだぞっ……!」

 

 静は一呼吸置いて、八幡に向かって、告げる。

 

「──ねっ、八幡!」

「なんだ、静?」

「生きてきた中で、今が一番、──幸せだっ……!」

 

 満開に咲き誇った静の笑顔は、裏表もなくて、何の(けが)れも汚れなくて、何よりも輝いていて、何よりも澄んでいて、何よりも可愛らしくて、何よりも美しくて、何よりも愛しくて、そして、何よりも()()()()()()()()()()()()であった。

 

 だが、まだこれが終わりではない。これから先も、世界で一番愛しいこの人を幸せにし、一番の笑顔を隣で見続けることこそが、八幡の生きる意味なのだから──。

 

 

 ──程なくして抱えていた静を丁寧に下ろした時であった。

 

「さぁすがだぁ最強カップルゥゥ! お姫様抱っこも、最高だったぜッ──! では早速……、レデイィースエェンドジェェントルメェェン──! お待ちたせしたッッッ──! 私の名前は、長生きと九十九里の申し子っ、ミスターナインティナインだッ──!」

 

 舞台の脇から何の前触れも無く登場して高らかに叫び出したので、二人揃って腰を抜かすほど喫驚(びっくり)仰天(ぎょうてん)したが、見覚えのある奇抜な格好を一目見て、聞き覚えのある声を耳にすると、すぐに(うたぐ)るように互いの顔を見合った。

 

「え、何だこれは……。八幡が呼んだのか……?」

「いや、俺も知らん。静が呼んだんじゃねぇのか、どういうことだ」

「二人とも驚いてくれているなッッッ──!! これはッ、何度もカップルコンテストで優勝し、更にカップルコンテストでプロポーズして、永遠の愛を誓った正真正銘の最強カップルへの長生村からの(ささ)やかなサプライズだッ──!!」

 

 サプライズゲストの登場に今日一番の盛り上がりを見せる会場。どうやら列席者はこの事を事前に知っていたらしいのだ。ところが二人は本当に突然のことであったので、ミスターナインティナインに説明を受けても言葉を失ったままであった。

 そこから幾許(いくばく)もなく、呆然としている二人の元にスタッフが静に忍び足で近寄って、ある物を手渡した。

 

 静はそれを受け取ると、途端、実に感慨深そうに目を細めた。

 

 

 それは、真紅と深青の薔薇の花束──()()()であったのだ──。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ▼△▼△▼△▼△

 

 

 

 

 

 

 

 

 清々しいほど晴れ渡り雲ひとつ無い快晴の昼下がり、二人の女子高校生たちは、黒のブレザーとスカートの制服姿で、歩道を慣れない革靴で走っていた。周りは田圃(たんぼ)と宅地が交互に訪れるような場所で、人も車の通りも少なく、いかにも郊外と田舎の狭間(はざま)の町であった。

 途中交差点に差し掛かり、数少ない赤信号に(さまた)げられ、致し方なく止まっている。

 一人の少女は、今この場所がどこかであるか、そして、目的地にはどのように行けば着くかということを、スマートフォンのマップアプリを開いて、その玲瓏(れいろう)とした双眸で睨みを利かせて確認していた。

 もう一人の少女もスマートフォンを見ていたが、彼女は画面を見つめながら「うわぁ、最悪だぁ」と分かりやすく落ち込んだ様子で嘆いていた。

 

「ねぇ、ゆきのん、もう先生の挙式終わっちゃったって。先に行ってるニノっちがメールで教えてくれた……」

 

 眉をしゅんと下げ、その大きく(つぶ)らな瞳を落胆の色に染めた少女──由比ヶ浜(ゆいがはま)結衣(ゆい)は、スマートフォンの画面を、もう一人の麗しき少女──雪ノ下(ゆきのした)雪乃(ゆきの)に見せつけていた。

 

「まぁ、講習があったのだし、先生にも招待する代わりに、必ず講習の方を優先して欲しいと頼まれたのだから仕方ないわ。それに披露宴に出席すれば、先生の晴れ姿を見ることはできるのだから」

 

 雪乃は冷静沈着に結衣を諭すように告げる。

 二人は総武高校の生徒であり、静が顧問をする部活──奉仕部の部員であり、今日挙行されている静の結婚式に招待されていた。

 

「そうだけどさぁー、式見てみたかったなぁー。それに誓いのキ、キキキスとかも! きゃあ〜っ! 想像するだけで熱出てきそうっ!」

「……出席しなくて正解だったわね。あなたが出席したら一生に一度の神聖な式が一週間に一度のコンパニオン程度の安っぽい式になってしまっていたわ……」

「うんうん、だよねっ! ……って、何、ゆきのん、今バカにしてなかった?!」

「あら、逆にしてない訳ないじゃない」

 

 雪乃に鼻であしらわれた結衣は、その柔らかそうな餅肌の頬を破裂しそうなほどぱんぱんに膨らませる。

 

「も〜! ゆきのんのすけこましぃ!」

「はぁ、完全に間違っている気がするのだけれど。今は訂正する時間が惜しいわ。とりあえず早く行きましょう、会場はもうそう遠くはないわ」

「あぁ、待ってよ! ゆきの〜ん!」

 

 二人は青信号になった横断歩道を走って渡る。

 その後、結衣は小走りをしながらも、いつも通り犬が飼い主に甘えるような調子で雪乃に喋りかけていた。

 

「ねぇねぇ〜、ゆきのーん」

「……どうしたの?」

「ニノっち以外にも総武高の生徒いるかなー?」

「他の生徒は居ないはずよ。生徒を呼ぶのは公私混同だと(おっしゃっ)っていたもの。とりわけ交流の深い二宮くんと部活動で深く関わってきた私たちが特例なのよ」

「あ、そうだったっけ! そっか、私たち特別なんだっ! ……でも、皆来たかっただろうなぁ。先生って、面白いし、カッコイイし可愛いし、オシャレだし。まさしく憧れの大人って感じで、そんな先生の結婚式、皆も見たいよね」

「えぇ、そうね。(した)われている先生だものね」

 

 結衣は「いいなぁ」「私もあぁなりたいなぁ」とぶつぶつ独り言を呟いていた。そして暫くすると、また何か話題が浮かび上がってきたようで、突拍子もなく雪乃に話しかけ始めた。

 

「そうだ、ゆきのん。クラス違うしニノっちのことよく知らないでしょ? せっかく今日会うんだから、どんな人か教えてあげるよ!」

 

 そう言って、結衣は海斗に関することを機嫌よく話し始めた。

 

「──学校でもよく先生のことしずねぇって言ってゲンコツくらってたり、先生と彼氏さんのラブラブっぷりを皆に披露してゲンコツくらってたりしたんだぁ。平塚先生のガラケーのバッテリーの蓋の裏に、初々しいプリクラが貼ってあったとか暴露してたなー!」

「へぇ……」

 

 さらに、数分間喋り続けた後、ようやく紹介が終わった。

 

「──こんな人なんだー、ニノっちって」

「……ふーん」

 

 先程から感情が爪の(あか)ほども籠ってない雪乃の冷めた反応に、結衣も目を見開いて、「ゆきのん、反応薄すぎっ!」と(なじ)った。

 

「二宮くんとは別のクラスなのだし、別に仲良くもないし、特別、興味があるわけでもないのだから、いくら詳しく教えられてもこのような反応に落ち着くのは当然でしょ?」 

「それ、酷くないっ?! ニノっち可哀想……」

「そうかしら、由比ヶ浜さんだって私の貴重な時間を()いて勉強を教えてる時、いくら丁寧に説明しても、反応が大層薄いのと同じよ。貴方にとっての勉強が、私にとっては仲良くない同級生なだけだわ」

「う"っ……、それは……」

 

 物の見事に急所を突かれた結衣は、そこからは電源が切られた人形のように黙りこくってしまい、ただ目的地へと向かって両脚を必死に動かしていた。

 

 ──雪乃と結衣は、豪勢な門が構える結婚式場に辿り着いた。その奥にはまるで雪で(よそお)ったかのような真っ白な建造物も見えた。そこから、二人は近くにいた式場のスタッフに話しかけて、事情を説明し、招待状を見せると、式場の中へと案内された。

 

「どうぞ、こちらです」

「ありがとうございますっ……!」

「ありがとうございます」

 

 案内されたのは、中央に噴水があり、芝生や背丈の低い木が生い茂る広々とした中庭であった。そこには既に参列者による人(だか)りができていて、やはり婚礼(こんれい)用の正装を着ている参列者の中で、彼女達の制服姿は中々に浮いていた。

 二人の目の前の人集りは、やけに若い女性が多いように見えた。辺りを見回すと、年配の女性や男性は脇の方に()けているのが分かった。

 

「今から何始めるんだろう。大丈夫かなぁ、披露宴に間に合ったのかなぁ……」

「これは恐らく……」

 

 雪乃が大方の検討をつけて、気遣わしそうにしている結衣に伝えようとした。しかし何かに気が付いた結衣は「あっ!」と大きな声を出して、その人集りの向こう側を興奮気味に指差し、すっかり気遣わしさは彼女の顔から消散していた。

 

「ゆきのん見てっ! 先生だ!! しかも喋ってるよ! 新郎さんも隣にいるっ! 後っ……、何あれ……」

 

 その指の先には、純白のウェディングドレス姿の静がいたのだ。隣に並んでいるのは、タキシード姿の新郎であろう。そして静にマイクを向けるのは、英国紳士がいかにも好みそうな黒のシルクハットを被って、その側面には巻貝らしきものが両側面に付けられていて、マントではなく地引(じび)き網を体に羽織っている──明らかに場違いな奇天烈(きてれつ)な格好をしている男であった。

 信じ難いが、どうやら得体の知れないあの男が司会者であるらしかった。

 

『確かこれは、新婦が熱望したんだよなァ?!』

『はい、そうなんです』

 

「おぉ、先生が喋ってる! ゆきのん、やっぱすっごい綺麗だよ、先生! ウェディングドレスめっちゃ似合ってるし!」

「えぇ、そうね、たしかに綺麗だわ。それと、やはりこれから、ブーケトスが始まるのね」

「あぁ、あの掴んだら幸せになれるってやつ? あっ、ホントだ、先生ブーケ持ってる! しかもちょっと青いの混ざってるじゃん。なんか珍しそうっ!」

青い(ブルー)薔薇(ローズ)、確か、花言葉は……」

 

 青い薔薇──ブルーローズは昔、自然界には存在しなかった。だから、青い薔薇は()()()()()()()の象徴とされていたが、一〇年程前、人々の努力によって人工的に生み出され、この世に生命の根を下ろすことになったのだ。──という話を雪乃は聞いたことがあった。

 そして、その時新しく付けられた花言葉があるのは覚えていたが、()び起してみるも肝心(かなめ)のその言葉がどうにも朧気(おぼろげ)になって、思い出せなかった。

 

『──私と同じような幸せを掴んでいただけたらと』

『素晴らしいっ、アメイジングッッッ!!』

 

 雪乃が思い出そうと躍起(やっき)になっている内に、新郎新婦と司会者のやり取りは(つつが)()く進んでいたようで、まもなくブーケトスが行われるようであった。

 

「由比ヶ浜さん、近寄ってみる?」

「ふぅ〜ん……」

 

 雪乃がそう提案すると、結衣は腹立たしいにやけ面になって、雪乃の顔をじぃっと見つめ始めた。

 

「な、何かしら……」

「ゆきのん、そういうの興味無いと思ってたけど、ちゃんとあるんだ〜、と思って!」

「ちっ、違うわ。先生の姿をもう少し近くで見たいだけよ。別に私は、そんな迷信、信じていないし、第一まだ年齢的にも──」

 

 雪乃が御託(ごたく)を並べ切る前に聞く耳を持とうとしない結衣は、彼女の手を強引に握ってしまった。

 

「うんうん、分かった分かった! 早く行こっ! 始まっちゃうよ!」

「本当に分かってるのかしら……」

 

 雪乃は結衣にぐいぐいと手を引かれて、若い女の人達が集まっている輪の中に入っていった。

 

『──まぁ、俺はやめたほうがいいって言ったんですけどね。だって、完全に煽りじゃないですか、これ』

『オーマイガッッッ! 何て事を言うんだい、新郎ッ!』

『こら、八幡っ! 余計なこと言うんじゃない!』

 

 十中八九相応(ふさわ)しくない言葉を発した新郎に静は眉を(しか)めて御冠(おかんむり)を曲げていた。当然、会場全体から総好かんを食らい、結衣もぐにゃりと眉を曲げて難色を示していた。

 

「うげっ……、なんか旦那さん(ひね)くれてない……?」

「確かに場にそぐわないとんでもない失言ね。でも──」

 

 雪乃は(こら)えきれずに失笑してしまった。

 

「ふふっ、少し面白いわ」

「えぇ、そうかなぁ……」

 

『冗談だ。冗談。ごめん静、愛してるぞー』

『かっ、軽々しく……。もうっ、八幡の馬鹿っ、私も愛してるっ!』

 

 静はその手に持った深紅の薔薇と同じように(すこぶ)る頬を赤らめて、ぷいと顔を背ける。微笑ましい二人の姿に会場からは大きな笑い声が生まれ、茶化すような野次が飛びかっていた。

 

「うっわ、すっごい惚気(のろけ)。あんな顔するんだね、先生って」

「えぇ、普段の姿からは想像できないわね、本当に」

「でもやっぱ、間近で見るとほんとに先生綺麗! いいなぁ! いいなぁ……! 旦那さんもちゃんとしてるとかっこいいし〜。いかにもラブラブな夫婦って感じ! 憧れるー!」

「由比ヶ浜さん興奮しすぎよ」

 

 雪乃はそう結衣を(いさ)めるが、思っていることは結衣と同じであった。彼女の目に映る二人の姿は、正しく比翼(ひよく)連理(れんり)(たた)えられる夫婦そのものであった。

 

「──えぇ、でも、そうね、とても綺麗だわ」

 

 近付いて改めて見ると、ウェディングドレスは、どこまでも透き通るほど真っ白であった。そして、そのドレスに身を包む静は、盈盈(えいえい)としていて、憧憬(しょうけい)に値するほど綺麗であった。その姿は(さなが)御伽(おとぎ)(ばなし)の中の姫君のようで、そこから飛び出してきたような非現実さすらさえもあった。明眸(めいぼう)皓歯(こうし)羞月(しゅうげつ)閉花(へいか)の美人とは、誠にこの事を言うのだろう、と雪乃はつくづく思った。

 

『では、新郎新婦の微笑ましいやり取りも見れたところで、お待ちかねッッ──! ブーケトスを行うぞォォ!』

 

 そのように司会者が宣言した瞬間、歓声が響き、指笛が鳴り、拍手が沸き起こる。

 

『三から始めるから、皆も合わせてくれッ! では、カウントダウンッ! せーのッ──!』

 

「「「三っ……!」」」

 

 会場の全員が一斉に、声高に数字を叫ぶ。

 隣の結衣も微笑みを浮かべて、腹の底からのめいいっぱいの声で叫んでいた。

 しかし、雪乃は声高に叫ぶことなく、ただ静の方を見ていた。そして、容易く掻き消されてしまう(かす)かな声で独り()ちる。

 

「それに」

 

 ──私も……

 

 

 

「「「二っ……!」」」

 

 

 

「とても」

 

 ──私も、いつか……

 

 

 

「「「一っ……!」」」

 

 

 

「とても、幸せそうね……」

 

 ──あんな風に笑える日が来るのかしら……

 

 

 

「「「〇っ…………!」」」

 

 

 世界中の誰から見ても分かるほど、眩しく幸せに満ち満ちた笑みを咲かせている静は、くるりと背中を向けて、その綺麗な薔薇のブーケを青々と、どこまでも澄み渡った空に向けて、放った──。

 

 

 

 

 

 

花束が宙を舞う。

 

 

 

 

 

 高く高くあがったそれを、周りの人はみな見ている。

 

 

 

 

 

 透き通るほどの淡い青色を背にした、赤はやけに映えている。そして、その中でより濃い青色は消えゆくことなく鮮明にその姿を映し出していた。

 

 

 

 

 

 そして、その綺麗な放物線は、今確かに誰かの元へと迫ってきている。

 

 

 

 

 

 さて、誰の元に届いて、幸せをもたらすのでしょうか────。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──Fin──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 















拙文を読んで頂きありがとうございます。
静のブーケトスの話を以て拙作『ブーケトスの魔法』は完結致しました。
ここまで来れたのは、読者の皆様がいたからこそです。
暖かい感想、沢山のお気に入り登録、身に余る程の高評価。本当に、本当にありがとうございました。

伝えたいことや裏話は沢山あるのですが、長くなってしまうのでそれはぼちぼちと活動報告にて記していきたいと思います。興味があれば是非覗いてやってください。

最後になりましたが、約半年間、本当にありがとうございました。今後ともこの作品のことを忘れずに頂けたら幸いです。




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