アンコールは異世界で (ヤマガミ)
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第一話

 

 

自殺行為です、と、その医者は言った。

 

 

――貴方の身体は、もう立ち上がるのすらままならない。今生きていることですら奇跡的なのです。ステージの上でギターをかき鳴らし、歌を歌い続ける――それにどれだけエネルギーを必要とするのか、貴方に分からない筈もないでしょう。

あのホールに響き渡る声量を、今の貴方に出せようはずもない。蚊の鳴くような声で歌が歌えれば、それで満足ですか。櫻崎シゲルは、そんな半端な音楽を許せるミュージシャンですか。

いや、そもそも会場までたどり着くことすら難しいでしょう。

断言します。生命維持装置から離れてコンサートに向かえば、一曲も歌い終えることもなく貴方は死ぬ。

 

医者として、みすみす死にに行く患者を止めないわけにはいかない――

 

 

「ははは」

 

黙って話を聞いていた患者は、枯れ木のような体をゆすって、楽し気に笑った。

 

「死にに行く?おかしなことを言うなぁ、センセイ」

 

 

「俺は『ライブ』に、行くんだぜ――」

 

 

 

 

 

18でデビューしてから、20年。思えば遠くに来た。

ひたすら音楽を愛し、情熱に浮かされたまま走り続けた結果、ミュージシャン櫻崎シゲルの名前は今誇張抜きに世界中に響き渡っている。

そう、とても有名なのだ。

世界的ミュージシャンとして。

――あるいは、末期の難病患者として。

音楽は俺にちょっとうんざりするほどの富と名声を与えてくれた。別にそんなものを目当てに音楽をやっていたわけじゃない。金や人気がなかろうと、音楽さえあれば俺の人生に不満はなかった。

 

――だが、病は俺からその音楽を奪った。

 

病院のベッドに縛り付けられて、治療だけが続く日々。

一番大事な物から奪っていくんだから、病ってのはタチが悪い。金なんか幾らでもやるから、死ぬまで音楽だけは奪わないでほしかった。

 

そうだ。

もう一度だけでもライブをやれるなら、俺は他の全てを諦めてもいい。

 

――命すらも。

 

どうやら治る見込みがないと分かってから、俺は延々とそう訴え続けた。

 

そして俺のしつこい説得に、遂に周囲の人間が折れる時がきた。

 

一曲限り。それが事務所と主治医との約束だった。

 

たった一曲のライブの為に一流のコンサートホールを押さえてくれた事務所には感謝しかない。その一曲すら歌いきれるか怪しいポンコツの為に、随分と骨を折ってくれた。

チケットの値段は、いつもの値段だ。音楽活動を休止する前の値段である。

くたばりぞこないのライブに大層な値段をつけるものだと笑ったら、社長に『櫻崎シゲルのライブチケットを、二束三文で売れるか』と笑い返された。ほとんど詐欺だ。もっともチケットにはきちんと『公演時間五分』の文字がプリントされているので、これを買うのは余程のバカだ。

そんなわけで売れ行きは大いに心配だったが、当日でソールドアウトしたらしい。

世の中バカばっかりだ。ありがてえ。

ともあれ、ラストライブへの道筋は立った。

だが実際問題、俺には練習をする体力どころか、リハーサルをする体力すら無かった。

一曲を歌いきれるかどころか当日まで息があるかも大いに怪しい。

 

だが、諦めたくない。

 

音楽への執念だけを支えにして、俺はどうにかライブ当日を迎えることが出来た。

 

 

 

 

「ふぅ……」

ため息を吐いて椅子に凭れ掛かる。

ライブはまだ始まっていないというのに、恐ろしい疲労感だった。

正味の話、半死半生の有様だ。全身が痛みを訴えている。

「センセイ、痛み止めもうちょい足せねえ?」

傍らには主治医のセンセイ。これもライブを行うための条件の一つだった。

センセイは血圧計の弾き出した数値に目を眇め、ゆるゆると首を横に振った。

「これ以上投与すると意識を保てません」

「じゃあ、しょうがねえな」

「――シゲルさん。今からでも中止するわけにはいきませんか」

センセイが、これ以上ないってくらい眉間に皺をよせ、何度目になるか分からない提案をしてきた。

「耳タコだぜ、センセイ」

俺は肩を竦めて答える。この期に及んで退くつもりはなかった。

自分の体のことは自分がよく分かっている。

ここで退けば、次は無い。冷たい確信があった。

「……シゲル、無理すんなよ」

低い声が傍らから響く。

俺はそちらに視線を向けた。

あらゆる音楽ジャンルに手を出している俺は、決まったバンドを組んでいない。故に公演の度にバックバンドの面子は変わる。

とはいえ、今日やるのはロック。俺がガキの頃から親しんできた音楽で、公演回数も一番多い。

だから、そこにいたバックバンドも、馴染の面子だった。

「次の機会を待ってもいいじゃねえか」

ドラムの武一が、低い声でそう続けた。

「そうっすよ、シゲルさん。おれ、シゲルさんとのライブなら、いつだってどこからだって駆けつけますから。何も、今日にこだわらなくても」

ベースのタツヤ青年が、泣きそうな顔で訴えてくる。

「声、でてないわよ。ファンに無様な姿を見せてもいいの?」

キーボードの麗が、厳しい口調で、しかし優しく諭そうとしている。

ありがたい。得難い仲間だ。

だが、俺は、

 

「――俺を誰だと思ってんだ。心配すんな、絶好調だぜ」

 

そんな誰が聞いても分かる強がりで、三人を一蹴した。

 

長い付き合いだから、こうなった俺がテコでも動かないことを、こいつらは良く知っている。

全員が揃って諦めのため息を吐くのを確認すると、俺はポケットに入れてあったお守りを引っ張り出した。

ずっと昔、水天宮で買った弁天様のお守りだ。友人の付き合いで購入しただけのお守りである。どうせ買うなら女の神様のお守りがいいや、という浅はかな理由で選んだものだった。

後に弁天様が音楽の女神でもあることを知ってからは、ゲン担ぎに持ち歩いている。

よれよれになったお守りを見ると、思わず笑みが浮かんだ。

この期に及んでも、『健康長寿のお守りにしておけばよかったかな』などとは思わない。

 

音楽を選んでよかった。悔いのない一生だった。

 

そう思える。

だが――

 

御守りを握りしめ、俺は祈った。心の底から神に祈るというのは生まれて初めてかもしれない。

 

無論、願うのは一つだけ。

 

 

――願わくば、ただこの一曲をやり切る力を。

 

 

 

 

 

『――少しだけ、サービスしてあげるわね』

 

 

 

 

 

女性の声が聞こえた、ような気がした。

 

 

「……?」

 

麗の声ではない。

辺りを見回すが、いるのは男性のスタッフばかりだ。

――幻聴まで聞こえるようになったか。いよいよヤベエかな。

俺は内心冷や汗をかくが、表にはださない。這ってでもこの一曲だけはやりとげるつもりだった。

スタッフの一人が、時計を確認して口を開く。

「時間です。シゲルさん、」

――行けますか?

その言葉は飲み込んだようだが、表情を見れば櫻崎シゲルを心配しているのは明らかだった。

俺は笑みを浮かべる。

「おうさ」

行けるに決まっている。

ライブが待っているのだから。

 

 

ステージに上がったは良いものの、正直に言えば死ぬ寸前だった。

脚は鉛よりも重く、一歩踏み出すごとに眩暈がした。全身の苦痛はピークに達していて、息をするのも精一杯で、一秒ごとに神経がノコギリで挽かれているようだ。

どうにかギターを構えようとして、愕然とした。

指先が細かく震える。弦に狙いが定まらない。

あれほど愛し、あんなに練習した、ギターが弾けない。

半身のように一緒にいたのに。

どんな肉体的な苦痛よりも、その事実が死ぬほど悲しかった。

 

――ちくしょう。

 

絶望が全身を浸す。足から力が抜けていく。

段取り通りなら、もうじきスポットライトが俺を照らすはずだ。そこから演奏がスタートする。

だがこの分では、スポットライトが照らすのはぶっ倒れる俺の姿だ。

唇を噛む。生ぬるい血が滲んだ。

 

――結局、最後の一曲すら弾けねえのかよ。

 

意地と一緒に膝が折れたのは、スポットライトが俺を照らす、まさにその瞬間で――

 

 

 

 

奇跡が起きたのも、その瞬間だった。

 

 

 

 

「――?」

 

 

降り注ぐ光と共に、ポケットの中に妙な温度を感じた。

陽だまりのような穏やかな暖かさだった。それが、どんどん体中に染みわたってくる。

同時に――全身の痛み、関節の強張り、目の霞み――あらゆる心身の失調全てが、熱に溶かされるように消え去った。

萎えた足に、力がみなぎる。

 

――魔法のように。

 

震えが止まった。

 

ギターが弾ける。

 

理由はさっぱりわからないが、そんなことはどうでもいい。

 

俺の最期の一曲に選んだのは、デビュー曲の『Everybody』だ。一番売れた曲ではないが、一番思い入れのある曲だった。

スラップ奏法。指先が神がかった滑らかさで動く。難易度の極めつけに高いイントロだが、何の問題もない。

俺の作った曲だ。俺が弾けないワケがない。

正体不明のエネルギーが、後から後から湧き上がってくる。心から、全身の隅々まで行き渡ったそれが、ギターの音に力を与える。

 

超絶技巧を目の当たりにした観客たちの歓声が響き渡る。ドームを揺るがす大音声。

 

負けじと歌声を上げる。

素晴らしい声が出た。マイクなんか要らないんじゃないかというほどの、どこまでも伸びる声。

全盛期の声だ。

 

間違いない。今の櫻崎シゲルは絶好調だ。

 

夢見心地のライブが始まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

約束の一曲は、熱狂的に、瞬く間に過ぎ去った。

万雷の拍手もやがて収まる。

一呼吸置いてから、俺はマイクに口を近づける。

演奏中の熱狂が嘘だったかのように観客は静まり返っていた。

 

言いたい言葉が次々と浮かんできた。

来てくれてありがとう。

聞いてくれてありがとう。

こんなぼったくりのチケットを買ってくれてありがとう。

浮かぶのは、そんな感謝の言葉ばかりだ。

 

だけど口に出たのは一言だけ。

 

俺は、ずっと――

 

「――逢いたかったぜぇぇぇぇえッ!」

 

――大歓声が返ってきた。

俺は口上を続ける。

 

「医者は言った。『一曲限りです』と!そのことを伝えたら、社長はなんて言ったと思う!?」

 

「『たった五分で大儲けだぜ。ボロい商売だ』だとよ!」

 

観客の笑い声が聞こえる。

「だがよぉ、社長の思う通りにゃさせてやらねえ!そうだろお前ら!?」

『そうだー!』

力強いレスポンスに、嬉しくなる。

ファンの感情が、直に叩きつけられる。これだからライブはやめられない。

そうだ、だから――

 

「だから――二曲目だ!行くぜ、『ロケット』!」

 

――たった一曲じゃ、物足りない!

 

バックバンドを振り返る。

困惑している。元々一曲の約束だったからだ。

だが、空白は僅かな時間だけだった。

武一のドラムがビートを刻みだす。

心臓が動けば、手足も動く。一糸乱れぬ見事な演奏が始まる。

俺はにやりと笑って、イントロにギターを乗せた。

 

ライブは、これからだ。

 

「楽しんでいこうぜぇ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

たっぷり一時間のライブを終えて、シゲルは舞台袖に引っ込んでいた。

 

「シゲル!最高だったぜ!」

「余命僅かとか絶対嘘でしょシゲルさん!完全復活じゃないですか!」

「本番までは三味線弾いてたってわけ?ギタリストのくせに」

 

バックバンドの面々が喜色満面でシゲルを取り囲む。誰も彼も紅潮した顔で、稀代のミュージシャンの復活を心から喜んでいた。

シゲルは不敵に笑って見せる。

「喜ぶには、まだ早いぜ。あの声が聞こえねえのか」

観客席から鳴り響くアンコールの声は、一向に止む気配がない。櫻崎シゲルの最高のパフォーマンスを目の当たりにして、ファンたちは熱狂状態にあった。

「……だけど、身体は大丈夫なのかよ。一時間前までは息も絶え絶えだったじゃねえか」

ドラマーの言葉に、シゲルは腕組みしてふんぞり返ってみせた。

「俺は本番に強いんだよ。な、センセイ。櫻崎シゲル、見ての通り全盛期だぜ」

「――」

舞台袖から食い入るようにシゲルの様子を観察していたその主治医は、今はぼろぼろ泣いていた。

「……なぁーに泣いてんだよ、センセイ」

「涙も出る。奇跡を目の当たりにしているのだから」

主治医は眼鏡をはずして涙を拭うと、何かを諦めた目になった。

「貴方の歌は、私を主治医からただのファンに戻してしまった。もう私には、貴方を止めることは出来ない」

「元から俺は誰にも止められねえぜ。ずーっとそうやって生きてきたからな!――よぉし!」

シゲルは拳を掌に打ち付けた。乾いた威勢のいい音が鳴る。

「五分休憩したらアンコールだ!気合いれてけよ、お前ら!」

「おう!」

「了解よ」

「任せといて下さい!」

 

頼もしい三人の答えに、シゲルは安心して椅子に凭れ掛かる。

 

――凭れ掛かった瞬間、

 

 

(――あ)

 

 

(――終わりか)

 

 

 

奇跡が売り切れたのが、分かった。

 

 

 

「しかし、今日のシゲルはすげえよ。歌もギターもキレッキレだぜ」

「間違いなく最高のパフォーマンスね」

「ええ、ほんとに。――シゲルさん、今日がラストライブなんて勿体ないですよっ。身体きっちり治して、またやりましょう。俺、シゲルさんのライブ、もっともっと見てみたいです!」

熱っぽく語るタツヤ青年の瞳は、憧憬にきらきらと輝いている。

 

「ああ――そう、だな」

 

楽しそうに笑みを浮かべたシゲルは、眠るように目を閉じる。

 

 

「次は、どんなライブに、しよう、か、な――」

 

 

次のステージに思いを馳せて――夢見るように、穏やかに。

 

「――おい?」

「シゲル……?」

「シゲルさん?」

「――!退きたまえ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

櫻崎シゲル。享年38歳。

日本を代表する偉大なミュージシャン。彼が死に瀕しながらも決行した最後のライブは、後世まで語り継がれる伝説となった。

ライブ後の控室で椅子に凭れ掛かって絶命した彼は、その時既に死後硬直を起こしていたらしい。

――死して尚彼を動かしたものは、いったい何だったのか。

観客の声援?音楽への情熱?あるいは神の奇跡?

最早知るすべは無い。唯一それを語れる者は、もうこの世にはいないからだ。

 

だが――

人々は、生涯を音楽に捧げたこの陽気な天才を。

その数多の名曲と共に、いつまでも愛し続けた。

 

 

 



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第二話

彼の意識は、白い空間を漂っていた。

 

――なんだ、此処。

 

上下の感覚も定かではない。しかしぐるりと辺りを見渡せば、星のような輝きが、道しるべのように彼方に続いているのが見えた。

何とはなしに、その方向に進んでみる。

一つ目の輝きに辿り着くと、その輝きは一層強くなり、あたりに懐かしい光景を浮かび上がらせた。

 

頬を紅潮させた小学一年生の姿が見える。幼い手でしっかりと掻き抱いているのは、父から貰ったお古のギターだ。

見覚えのある顔をした子供だった。

 

――何だって、ギター覚えようとしたんだっけな――

 

彼は考えた。きっかけは些細な事だった気がする。テレビで見たロックバンドがカッコよく見えたとか、当時流行っていた漫画の主人公がギターを弾いていたとか、確かその程度のものだ。

だけど彼はギターにのめり込み、音楽に心を惹かれていった。他の何も目に入らないくらい音楽を愛した。

それは、何故か。

同年代の友達がハマっている漫画、アニメ、ゲーム――そんなのが一切目に入らないほど、楽しかったからだ。

それだけのことだ。

 

 

 

 

次の輝きにたどり着く。

浮かび上がった光景は、中学校の文化祭だ。体育館で行われた、初めてのライブ。

拙い演奏だった。今の彼からしてみれば、まさに児戯だ。当時はベースを弾けるメンバーがいなかったので彼が担当している。ギターに比べれば一段も二弾も落ちる演奏だが、本人は実に満足げだ。

何しろ――文句の付けようもないほど、楽しかったから。

 

 

 

 

次の輝きにたどり着く。

高校二年生の夏だ。

路上で弾き語りをしている。最寄りの駅の、割と寂れたアーケード街に一店だけあった楽器店の店主と意気投合し、客引きがてらスペースを貸してもらったのだ。

演奏するのはギターが一番多かったが、興味の湧いた楽器は手あたり次第に触らせてもらった。

楽しかった。

定期的に行われる路上ライブはどんどんと観客を増やしていき、最終的に警察官に注意される規模になったところでお開きとなった。その後も彼はまったく懲りず、あちこちで弾き語りをしたりライブハウスを借りたりしているうちにスカウトの目に留まることになる。

 

 

次の輝きにたどり着く。

初めてのレコーディング。

 

 

次の輝きにたどり着く。

プロとしての初ライブ。

 

 

次の輝きにたどり着く――

 

 

 

どれもこれも音楽に関する記憶ばかりで、どれもこれも輝いていた。

 

 

 

だから――

 

 

 

「――そうだ。俺は櫻崎シゲルだ」

 

 

 

最期のライブにたどり着いたとき、彼はすっかり自分を取り戻していた。

 

シャツの上に着古した革ジャンをひっかけ、くたびれたジーンズを履いて、そして使い込まれたギターケースを担いでいる。

 

いつもの櫻崎シゲルが、白い空間にしっかりと立っていた。

 

 

 

『――流石ね、シゲルちゃん。こんなに早く『自分』を取り戻した魂は初めてよ』

 

 

 

どこからともなく声が聞こえた。

美しい音色だった。今まで聞いたことがないほど――いや。

ごく最近、一度だけ聞いたような――

「……アンタ、誰だい?」

シゲルが問う。

 

『あら、つれない返事。貴方もよーく知ってるはずよ?』

 

「知ってる?こんな天使みたいな声の持ち主を、俺が忘れるはずが――」

 

ジーンズのポケットが、きらりと光った。

「……?」

首を傾げたシゲルは、ポケットに手を突っ込む。

触りなれた感触があった。

 

 

弁天様の、御守り。

 

 

「……なるほど。天使じゃなくて、女神様か。道理でいい声してら」

 

『うふふ。天下の櫻崎シゲルのお褒めに預かり光栄でございますわ』

 

ころころと笑うその声が、耳に心地いい。

考えてみれば、突如体調が戻ったのはこの声が聞こえてからだった。

「もしかして最期のライブ、手を貸してくれた?」

 

『余計なお世話かも、と思ったんだけれどね』

 

「とんでもない。感謝感激雨あられ。何かお礼をさせてもらいたいくらいだぜ」

 

『あら、ホント?』

 

「もちろん。俺にできることなら」

 

『嬉しい!実は貴方の魂をここに呼び寄せたのって、頼みごとがあったからなの』

 

「ありゃ、そうだったの?えっと、俺はくたばっちまったみたいなんで、豪華なお供え物をするとかはちょいと無理だと思うんだが……」

 

『いらないわよ、そんなもの。……いやちょっとは欲しいけど。ちょっとだけよ』

 

「はぁ」

 

『頼み事っていうのはね、貴方に救世主になってもらいたいの!』

 

「きゅ、救世主?……えーと、キリストさんの真似をしろってことか?迷える子羊を救う、ってのは、俺にはちょいと向いてないような……信心深くもないし」

 

『キリストみたいに復活してもらうのは間違ってないわ。貴方の生まれた世界とは別の世界になるんだけれど』

 

「別の、世界?」

 

『ええ。力ある神は、世界を跨いで遍在しているものなの。わたしもいくつかの世界に存在しているんだけれど――そのうちの一つが、今とても逼迫した状況にあるの。そこを貴方に救ってもらいたい、ってわけ!』

 

「はぁ……いや、そりゃおれもできるかぎり頑張りたいとは思うけど、身体もボロボロだし、世界を救うなんて大層な真似ができるかどうかは……」

 

『身体に関しては問題ないわ。っていうかもう貴方って死んじゃってるし、向こうの世界用に身体は拵えてあるから安心して。私好みで百年動くスーパーボディだから。それに、世界を救うってことに関しても貴方なら大丈夫!っていうか貴方以上の適役は――あっ!ヤバ!』

 

突如、弁天様の声が上ずった。

 

「どうした?」

 

『――見つかっちゃった!ごめん、巻きでいくから!』

 

「見つかったって、何に――」

 

『分からず屋に、よ!んもー、普段無気力なくせにこんな時だけ――あっダメだほんと時間無い!ケツカッチンってやつね!』

 

弁天様の焦燥と共に、周囲に光が溢れていく。白を塗りつぶすほどの光に、シゲルの身体がかき消されていく。

――『移動』が始まっているのが、シゲルは感覚的に理解できた。

しかし、大事なことが聞けていない。シゲルは声を張り上げる。

 

「べ、弁天様や!結局のところ俺は何をしたらいいんだ?!」

 

答えは即座に返ってきた。

 

『簡単な事よ!そもそも貴方が出来ることなんて一つしかないじゃない!』

 

 

 

 

 

アンコールよ!櫻崎シゲル!

 

貴方の音楽を、もう一度――

 

沈んだ世界に、響かせて!

 

 

 

 

 

その言葉を最後に、シゲルは眩い光に飲み込まれた。

 



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3話

 

 

 

 

安アパートの一室で、『昏睡病の兆候アリ』と書かれた診断書を、一ノ瀬和美はさしたる動揺も無く眺めていた。

来るべき時がきたな、という感じだった。二十二歳というのはやや早いが、別段驚くほどのことでもない。男性は十歳にもなれば軒並み発症しているのだから、御の字といったところだろう。

昏睡病。現代人の死因ぶっちぎりのNO1。二百年前の悲惨極まる世界大戦の最中、突如湧いて出た死神。

その正体は、生きる力そのものを奪う原因不明の気鬱の病だ。世界大戦を終焉に導いたこの死神は、今人類そのものを滅ぼそうとしている。

罹患率において比肩するものは無く、防ぐ手立ても判明していない。1対20という異様な数値に陥っている男女出生比率も、この病が原因だとされている。

医者たちは小難しい理屈でなんとかこの病を解明しようとしているようだが、無駄な努力という気がする。

どう考えても、昏睡病は理論や常識を超越したところにある。細菌でもウィルスでもない。女性も男性も、遺伝子に変異は起きていない。

こんな病が存在するはずがない。

比喩ではなく、本当に死神の手が人類に伸びているのではないだろうか。

――とはいえ、人類の全員があっという間に昏睡病に倒れるわけではなく、その発症タイミングにはかなりの個人差が存在する。

確固たるエビデンスがあるわけではないが、何か熱中できることがある人間は発症が遅いらしい。ゆえに政府は『国民総趣味人化』なるけったいな政策を打ち出してまで一人が最低一つの趣味を持つことを推進しているが、成果が上がっているようには見えない。

強制されている時点で趣味ではないし、趣味人が昏睡病発症が遅いというのも、趣味に没頭するような気力が残っているだけなのではないだろうか。

趣味があるから昏睡病にならないのではなく、昏睡病から遠いから趣味に打ち込めるのだ。

 

――最後に笑ったの、いつだったっけな。

 

少しだけ考えてみたが、思い出せなかった。

 

――なら、怒ったのはいつ?悲しんだのは?

 

思い出せない。

高校を卒業してから一年が経つ。その一年で、心が動いた記憶が無かった。

在学中にあったかといえばそれも怪しいが。

それが別段珍しいというわけでもない。右を見ても左を見ても、今の世界はそんな社会人ばかりだ。

 

時計のアラームが、13時を告げた。

 

直ぐに停止させ、部屋の片隅に立てかけてあるヴァイオリンケースを手に取る。

日課の時間だ。

今日は『芸術の日』。蓬莱における数少ない祝日の一つだ。

日曜日と祝日は、13時から歩行者天国でヴァイオリンの演奏をする――学生時代から変わらない習慣だった。

別に楽器の演奏が好きなわけではない。国民総趣味人化が実施されてから、楽器の購入にあたって補助金が降りるようになったのだ。今音楽を『趣味』にしている人間の大半がこの程度の理由だろう。

 

――昏睡病が普通に進行すれば、このルーチンワークも数年で終わりかな。

 

そんなことを考えるが、別段思うところはない。心は凪いだまま、さざ波一つ立ちはしない。

 

いつものように右足から靴を履き。

いつものようにアパートのドアを開け。

いつものように歩行者天国へ向かって。

 

 

――いつもの定位置に、見たことの無い人がいた。

 

 

特徴的な人だった。

まず、背が高い。

180センチ弱はあるだろうか。成人女性の平均身長が160センチほどであることを考えれば相当な高さだ。バスケットボールなんかを趣味にすれば優秀な選手になりそうだ。

次に、肩幅が広い。

水泳を趣味にしている人の中には肩回りの筋肉が発達している人もいるが、それとはまた違った筋肉のつきかたをしているように見えた。

 

――そして、胸が小さい。

 

小さい、というのには少々語弊があるだろうか。胸囲はきっとかなりの数値だと思われるが、凹凸にかけているのだ。あまり見たことの無い体つきだった。がっちりしていて、逞しいと言える。

 

最後に、顔立ちが凛々しい。

 

極めて整った、信じられないくらいの美形だけど、美女というのとはちょっと違う。じっと見ていると、不思議な気持ちになってくる。

 

ぼーっと見とれていると、その人が口を開いた。

 

「なぁ、お嬢さん。ここ、演奏しても大丈夫?」

 

――失礼な話だが、目を見開いてしまった。

 

『声が低い』。ハスキーボイスとか、そういうレベルの声ではない。ハッキリと低い。

まるで、現代では失われて久しい『成人男性』のように――

 

「……参ったな。場所代とか必要だったりするのかい?生憎一文無しなんだが」

 

その人は困ったように眉尻を下げた。

わたしは慌てて口を開く。

 

「い、いえ!誰にでも無料で開放されてます!」

 

自分のものとは思えないくらい大きな声がでて驚く。

 

「お、そうなの?そりゃよかった」

 

その人はそういうと、見たことの無い楽器をケースから取り出した。

弦楽器だ。ヴァイオリンに似ている。

ひどく優しい目でその楽器を眺め、心底嬉しそうな笑みを浮かべてから、その人は楽器を抱きかかえた。

 

精妙な指捌きが、魔法のように音を紡いでいく。

今まで聞いたことのある音楽とはまるっきり別のメロディだ。

激しく、賑やかで、聞いていると何だか――

 

とっても、『楽しい』。

 

今まで一度も感じたことがないくらい、胸が高鳴っていく。

 

ぎゅっと胸を押さえた私は、笑みを浮かべたその人が、大きく口を開くのを見た。

 



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4話

 

 

 

櫻崎シゲルは、気が付けば見知らぬ公園のベンチに横たわっていた。

ナップザックを枕にして、ギターケースを抱きかかえながら。

イマイチ状況の把握できないシゲルは、身体を起こすと何気なくポケットに手を突っ込み、そこにお守りがあることを確認し――

覚えのない手触りに、眉を顰める。

御守りとは別に、何かがポケットに突っ込まれている。

 

「……なんだ?」

 

取り出してみれば、何の変哲もないメモ用紙であった。走り書きにも拘わらず、素晴らしく上手いと分かる字で、何かが書き連ねてある。

 

 

 

 

 

 

シゲルちゃんへ。

時間が無くて説明不足になっちゃってごめんなさいね。とりあえず、近くにあった貴方のギターと荷物を一緒に送っておきます。身体の方はばっちり健康にしておきました。っていうかまったく別の身体なので、しばらくはちょっと違和感があるかもしれないけれど、じきに慣れると思います。

それと、伝えきれなかった注意点を幾つか書いておきます。

まず、そちらの世界は極めて男女比が偏った世界です。昔は違ったんだけど――今は具体的には男1対女20くらいね。ついでに今は男も女も、シゲルちゃんのいた世界に比べるととっても大人しいの。だから前の世界のノリそのまんまで生きてると、ちょっと面食らうこともあるかも。

犯罪率なんかも滅茶苦茶低いわ。治安、っていう点では間違いなくぶっちぎりで勝ってるから、事件に巻き込まれる心配なんかはしないでいいと思います。

あと言語に関してだけど、その島でならおおむね問題なく日本語が通用すると思います。といってもその島国は蓬莱っていうから、蓬莱語だけどね。

そうそう、大事な注意点。

私がシゲルちゃんをそっちに送った、ってことは口外しないでほしいの。神々にも色んなしがらみがあるものだから、禁則ってやつなのよね。てなわけでシゲルちゃんの素性に関しては何とかうまくごまかしてちょうだい。記憶喪失とかね。その世界は男性には甘々だから、そんな感じのテキトーな理由でも多分大丈夫。……だと思います。

――で、注意点というか、大問題が一つ!

そちらの世界の人間は、皆潜在的にある病気を抱えてるということ!

これが極めて厄介で、悲しいことに男性は20歳を待たずして軒並みこの病に倒れます。発症すると、ほぼ死と同義です。女性の方は少々猶予があるのですが、それでも平均して40歳ほどで限界が来ます。生命維持装置に繋げば死までの時間を延ばすことはできますが、それだけです。

でも、この病に対する特効薬こそ貴方なの。

とにかく貴方の音楽で――

 

 

 

 

 

 

文字はそこで途切れている。おそらくこのメモを書いている最中にも、何かの邪魔にあったのだろう。

 

 

 

メモを読み終えたシゲルは、枕になっていたナップザックを眺める。

 

「……これ、俺の荷物じゃねえぞ」

 

病院から直行したシゲルの荷物はギターケースだけだ。どうやら弁天様は、シゲルの最も近くにあったバッグをシゲルのものと勘違いしたらしい。おそらくはベースのタツヤ青年のものであろうそれを、シゲルはしばしの逡巡の後に担ぎ上げた。

落とし物として交番に届けても、持ち主の元に返る確率はゼロだ。それなら有効活用させてもらったほうが良い。

 

「しかし、結局俺が何すりゃいいんだかイマイチわかんねえんだが……ええと『とにかく貴方の音楽で』って書いてあるんだから――あれだな。うん、前と同じだな」

 

シゲルはにやりと笑う。

 

 

「好きに音楽をやって、皆に聞いてもらえばいいんだろ!」

 

 

即座に立ち上がったシゲルの腹は既に決まっている。

 

シゲルは難しいことを考えない。素寒貧で宿も無いが、健康な身体と楽器さえあればどこでだってご機嫌だ。

 

何しろ、もう一度音楽ができる。

それだけで、シゲルは踊り出したいような気分だった。

 

「ま、ちょいと稼がねえと飯も食えねえしな。ってことでまた頼むぜ、相棒」

 

ギターケースに語り掛けると、シゲルは見知らぬ土地に意気揚々と乗り出していった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人通りの多そうな場所を探して歩いていたシゲルは、ほどなく『神楽町歩行者天国』の看板を見つけた。

ホコ天。人がいないワケが無い。あるいは弁天様はここを狙って送り込んだのかもしれなかった。シゲルは足取りも軽く歩行者天国へと乗り込み――

 

「なんだ、こりゃ……」

 

困惑した。

それはまるで、葬式のような歩行者天国だったから。

目抜き通りなのだろう。道は極めて広く、人通りも多い。手作りと思しきアクセサリーを売っている者もいれば、パントマイムをしている者もいる。楽器の演奏をしている者もちらほらと見受けられた。

日本と違って、路上販売などの制限はないらしい。ちらほらと警備員らしきものの姿は見えるのだが、売り子に注意をする様子はない。

これほどの規模の歩行者天国は、日本ではあまり見なかった。ちょっとした祭りの域に達している。

――にも関わらず、ここには笑顔と喧騒が無かった。

弁天様のメモにあった通り、見渡す限り女性ばかりだ。それも見目麗しい女性が多い。だというのに誰も彼も無表情で、マネキンの街に迷い込んだかのような不気味さがあった。

アクセサリーを売るものは呼び込みの声を上げることもなく、ジャグリングをしている者の動きは淡々としていて、観客をまるで意識していない。楽器を演奏している者たちも同じで、ひたすら音を外さないことを重視しているようだった。

直ぐ近くのフルート奏者の音に耳を傾ける。

聞いたことの無いクラシックな曲だ。しかし、メロディは良い。

一定の抑揚で音が鳴り響いている。難しい運指も問題なくこなせている。

しかし、シゲルは悲し気に顔をしかめた。

 

――本来、未知の音楽に触れることはシゲルにとって大きな喜びである。知る人ぞ知る民族音楽を求めて秘境のような場所を旅したことは一度や二度ではない。

 

だが、この曲はまるでつまらなかった。

非常に整った、美しいメロディラインをしているにもかかわらず、である。

理由は明らかであった。

まったく不思議なことだが――この奏者は、これほどの技量を持ちながら、音楽のことが少しも好きではないのだ。

音色からそれが伝わってきて、シゲルは悲しくなる。奏者がこれでは、いかなる音楽も虚しいだけだ。

同時に、理解した。

 

――なるほど、理由はわからんが確かにこれは世界の危機だ。

 

演奏者が音楽を楽しめないなんて、これ以上の悲劇はない。

 

女神は言った。『アンコール』だと。

櫻崎シゲルの音楽を、もう一度世界に響かせよと。

 

ならば、やることは一つだった。

いや、仮に女神の言葉が無かったとしても、シゲルのやることは変わらない。

 

この静けさではアンプもスピーカーも必要ない。大き目のエレアコなので、音量は十分だろう。

 

ヴァイオリンケースを持っていた近くの女性に尋ねてみれば、演奏に許可は要らないらしい。

お膳立ては整っていた。

ギターケースを開ければ、相棒の姿が現れる。

 

万感の思いがあった。

だが、様々な感情が頭を過ったのは一瞬のことで、心の奥からあふれてくるのはただただ『喜び』であった。

 

――ああ。音楽が、またやれる。

 

シゲルの感動とは裏腹に、周囲の奏者は相変わらずつまらなそうに演奏を続けている。

まったくとんでもないことだった。音楽のイロハのイを教えてやらなくてはならない。

 

 

 

 

シゲルはにやりと笑うと、

 

 

「――音楽ってのは、」

 

 

愛しのギターを、高らかに歌わせた。

 

 

「笑顔でやるもんさ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

弦を弾き、旋律に歌を乗せる。鍛えた技と抑えきれない情熱が、櫻崎シゲルの音楽を創り出していく。

 

――なんて、なんて楽しいんだ!

 

シゲルは殆ど陶酔していた。

億を優に超える財産も、世界的なミュージシャンとしての名声も、全て前の世界に置いてきてしまった。

だが、まったく惜しくない。

素寒貧だろうがホームレスだろうが、健康な身体と音楽さえあれば、櫻崎シゲルはご機嫌なのだ。

 

通りを行き交う人々は悉く足を止め、夢遊病者のようにシゲルの元へと集まってくる。

誰も彼も目を見開き、ついでにぽかんと口を開けている。

 

歌っている曲名は『いつの日か』。

最期のライブで弾きそこねた曲だ。音楽とファンへの感謝を籠めて作った曲だったのだが、アンコールで演ろうとしたのが仇となった形だった。

この際、こちらの世界で仇を取らせてもらうことにする。

 

世界も超えよと言わんばかりに、歌に力を込める。

 

我ながら全く素晴らしい声が出て、ますます笑みが深くなった。

 

 

一曲分の時間は瞬く間に過ぎ、ギターが最後の音を鳴らし終える。

シゲルは満足げに頷いた。おおむね納得のいく演奏だった。肉体は少々変わっていたが、声はそのままだしテクニックも据え置きだったらしい。とはいえ指の長さなどが少々変わっているので、そのあたりは徐々に慣れていく必要があるだろう。

 

しかし、妙に静かだった。

 

辺りを見渡してみれば、シゲルを中心に異様な分厚さの人垣が形成されているものの、観客はしわぶき一つ立てていない。

――考えてみれば、通りで演奏されている曲はクラシックじみたものばかりで、シゲルのポップスはひどく浮いていた気がする。もしかすると、これはこちらの世界では全く新しい音楽なのかもしれない。

 

――やべーな。もしかして今の曲すげー場違いだったか?ジャズとかの方が良かった?

 

と、シゲルは一瞬考え込んだが、

 

――ま、今はポップスの気分だし!やりたい曲やるか!

 

あっさり思考を放棄して、次の曲に取り掛かろうとする。この男は、いつだって好きな音楽をやるだけなのだ。

 

拍手の音が聞こえたのは、その時であった。

 

ヴァイオリンケースを持っていた女性が、目をキラキラと輝かせ、ぱちぱちと懸命に手を叩いている。

――頬を紅潮させ、笑みを浮かべて。

その拍手を皮切りに、観客たちは一斉に手をたたき出した。

万雷の拍手が目抜き通りに響き渡る。

少々面食らったシゲルだったが、すぐににやりと笑って観客たちに手を振ってみせる。

 

「わはは、センキューセンキュー!」

 

「あ、あの!おひねりは、この楽器ケースに入れればいいんでしょうか?」

 

一人の女性が振り絞るように声をあげる。

 

「おお、そうそう。気持ちだけでも入れてくれると嬉しいぜ」

 

「わかりました!」

 

女性はそういうと、財布をケースの上でひっくり返す。

硬貨と紙幣が小山をつくった。

シゲルは目を丸くする。

 

「……へ?」

 

思わず女性の顔を見つめるが、女性は頬を赤らめて首を傾げた。

 

――え?これ大した金額じゃないの?財布丸ごといったように見えたけど。

 

観客たちは驚くべき行儀の良さでもって列を作ると、次々とシゲルのケースに有り金を突っ込んでいく。

 

「――ま、待った待った!」

 

呆気にとられていたシゲルだったが、流石に五人目あたりで正気に戻り、慌ててギターケースを閉める。

 

「お嬢さんがた、こりゃおひねりってレベルじゃねーぞ!おーい財布ひっくり返してった奴ら戻ってこい!用法容量を守って正しい金額を入れろ!」

 

「すみません、今はこれ以上は持ち合わせが無くて……」

 

「逆ぅー!こんなもんはな、ジュース一本分ももらえりゃ十分なんだよ!」

 

 

渋る観客を納得させるのには、かなりの時間を要した。

 

 

 

 

 

 

 

 



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5話

 

夜の砂浜に立ち尽くす女性を、堤防の街灯がぼんやりと照らしている。

女性は海の彼方を眺めて微動だにしない。

夜闇を映した暗い波が、女性の足元を舐める。

それでも女性は佇んだまま、ただ昼間の出来事を思い出していた。

 

『唄子さん。残念だけど、やっぱり今回で――』

 

――唄子は自らがパーソナリティを務めるテレビ番組『唄子の部屋』の本格的な打ち切りを、蓬莱TVの遥局長直々に通達された。

原因は視聴率の低迷。ぐうの音もでない正論だ。

遥局長は謝罪と共に頭を下げていたが、唄子こそ申し訳ない気持ちで一杯だった。

二年前、『唄子の部屋』は昏睡病の打破という目標を掲げ、鳴り物入りで放映が開始された。当時歌手として『天才』の呼び名も高かった神奈唄子をメインパーソナリティに迎えての、政府肝入りの一大プロジェクトである。

しかし、結果は振るわなかった。

当初、唄子は音楽の力を信じていた。当時18歳だった唄子は確かな情熱を胸にして、自らが愛した音楽を蓬莱の人々に伝えんと精力的に活動した。実際に、放送が開始されてから数週間の間は、昏睡病を発症する患者が僅かに減ったというデータもあった。

だが、やはり昏睡病は手強かった。

効果らしきものが見えたのはごく僅かな期間だけで、関係者の喜びをあざ笑うかのように昏睡病患者は増え続け――唄子は半年経つとスランプに陥り、一年経った時には情熱を失い、二年経った今は笑い方さえ忘れてしまった。

加速度的に進んだ昏睡病は、いまやレベル2に達している。

 

――そもそも、どうして音楽の道を志すようになったのか、それさえももう思い出せない。

 

「――かなしい、な」

 

唄子はぽつりと呟いた。

番組の打ち切りが決定したことが悲しいのではなかった。

かつてあれほど情熱をもって臨んでいた歌が、今は『さほどでもない』ことが。

悲しくて――くやしい。

遥局長は、後進への歌唱レッスンの為に今後も唄子を雇い続けると言ってくれたが、唄子はその場で断っていた。

レッスンも、もうおしまいだ。歌を好きではないものが、歌を教えるなど――かつて自らが愛した音楽への冒涜だと思うから。

 

唄子はしばしの間目を閉じると、すうっと息を吸った。

潮風は喉に悪いというが、この期に及んでは関係ない。

唄子は朗々と歌い出した。

子供の頃から大好きだった、思い出の曲を。

 

 

 

――誰も聞いていないし伴奏も無い。でも、きっと私にはお似合い。

 

 

『夜霧にけぶる、三日月の――』

 

 

――これが私の、最後の歌。

 

 

『幽かな光をしるべにし――』

 

 

――音楽への別れを告げる歌。

 

 

『――朝の陽ざしを、探しに行こう』

 

 

 

 

美しい歌声が響き渡る。

だが、前向きな歌詞も、唄子の類稀な歌唱も、夜の海が全てを飲み込んでしまう。

夜空の雲はあまりに分厚く、砂浜には星の光すら届かない。

たった一曲だけのコンサートは、ほんの数分で終わってしまう。

「ああ――」

吐息と共に、涙が一滴だけこぼれた。

別れの涙だった。

もう自分は、音楽に携わることはないだろう。唄子にはそんな虚しい確信があった。

 

 

――突如、拍手の音が背後から響くまでは。

 

 

唄子が慌てて振り返れば、堤防に腰かけている人影が一つ。

 

 

「痺れるソプラノだな、お嬢さん!」

 

 

楽しそうに語り掛けてきたその人は、それこそ『痺れる』声をしていた。

 

 

 

唄子は慌てて涙を拭うと、しげしげとその人影を眺める。

逞しい体つきに、耳に心地よい低い声――信じがたいことに、『大人の男性』の特徴を備えている。

 

「だ、男性のかた、ですか?」

 

まさかと思いながらも恐る恐るそう尋ねる唄子に、その人は当然のように頷いてみせた。

 

「おう。正真正銘の男だぜ。――音楽好きの、な」

 

言うや否や、彼は堤防から飛び降りた。

危ない、と思わず声が出そうになる。三メートル近い高さの堤防だ。下が砂浜だとはいえ、貴重な男性に飛び降りさせていい高さではない。

しかし彼は軽やかに着地を決めた。

逞しい所作だった。私の常識の中の男性とは、なにもかもが違う。

なんらかのケースを持ったまま大股で歩みよる男性が、気軽な口調で語り掛けてくる。

 

「今のなんていう曲なんだい?」

 

「え、あ、は、はい!『夜霧』と言いまして、14世紀半ばにエウロペの鬼才ヒルトスタインが残した一曲です!ひ、ヒルトスタインはこの『夜霧』を一晩で書き上げたという逸話を残しておりまして――」

 

緊張のあまり、聞かれてもいないうんちくを延々と話してしまう。絵画ですら見たことも無いほど美形の男性を前にして、唄子は半ばパニックに陥っていた。まとまりのない長広舌はひどく鬱陶しかったろうに、赤ら顔の彼はにこにこと機嫌よく相槌を打ってくれた。

 

「なるほどなぁ。――いい歌だったからチップを渡したいんだが、ちょいと酔い覚ましの散歩に出てたところでな。財布をホテルに置いてきちまった」

 

「ほ、ホテルにお泊りなんですか?!男性なのに?!」

 

「おう。そこのビジネスホテル。昼間にホコ天のネエちゃんに場所だけ教えてもらってよぉ、安めのビジホだってぇから期待してなかったんだが――晩飯がちゃんとついて酒も出たのよ!それが結構いけたんだ、これが!」

 

受付嬢にはツチノコみるような眼で見られたけど、と言って男性は笑う。

心を溶かすような笑みだった。

 

「それにしても、ポケットに小銭くらい……あー、やっぱりねぇや。わりィな」

 

「い、いえ!お気持ちだけで結構ですから!」

 

「そう言うなよ。お嬢さん、プロだろ?」

 

「――え?」

 

「お嬢さんの歌は、音楽で飯を食ってるヤツの歌だ。ま、お仲間ってやつだな!」

 

男性はそういうと、ケースを開けて見たことの無い弦楽器を取り出した。

 

「さて、金がねえからコイツで礼をさせてもらうぜ!」

 

「え?え?」

 

「えーと、曲は、そうだな……海だしアレにするか」

 

混乱する唄子をよそに、男性は楽器を構えると、高らかに声を上げた。

 

 

「『ビッグ・ウェーブは逃せない』!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

唄子は溢れる涙をこらえきれなかった。

感激が波のように押し寄せてくる。心臓の鼓動は早鐘のようだ。

歌が終わっても、胸が詰まって何も言えない。

だから、唄子は精一杯手を打ち鳴らした。

渾身の拍手だ。

男性はそれを見てからからと笑う。

 

「わはは、ありがとよ!」

 

またしても恐ろしく魅力的な笑顔だった。唄子は思わず見とれかけ、慌てて気を取り直す。

聞きたいことがあった。

 

「い、今の曲は、どなたが作ったのですか?!」

 

テレビ番組を持っているだけあって、唄子は音楽に関しては一家言ある。その唄子をしても、いまの曲は一度も聞いたことが無いものだった。こんな音楽を一度でも聞いたことがあったら、生涯忘れることはないはずだった。

 

「おお、ビッグ・ウェーブは逃せない?作詞作曲櫻崎シゲル。つまり俺だ!流石に一晩で書き上げたわけじゃねえけどな」

 

男性――シゲルは当然のようにそう答えた。

 

「ご自身で――」

 

唄子は、がつん、と頭を殴られたような衝撃を受けた。

作曲。

それは二世紀前に失われたはずの技術だった。昏睡病が蔓延したことで、人類は創作の力を大きく損なっている。精神の働きに病のくびきをかけられ、人という種自体の想像力が衰えているのだ。

故に今の人類にとって、『今あるものを発展させる』のは何とか可能でも、『新たに生み出す』ことは容易ではない。何とかそれらしいものを作り上げても、愚にもつかない駄作であったり、クラシックの劣化版だったりする。

 

――だが、今聞いた曲は。名曲などという言葉でひとくくりにしていい音楽ではなかった。

 

かつて感じたことの無いほどの感動が、唄子の胸を満たしている。

しかし、その感覚にはどこか覚えがあった。

 

一つの思い出が甦る。

まだ小学校に上がる前、初めて『夜霧』を聞いた時のこと。

もう、すっかり忘れていたはずなのに。

 

思い起こされる。母に手を引かれて初めて行ったコンサートホールで、胸にこみ上げた感情が何だったのか。

 

喜びだ。

 

そうだ。そうだった。幼いころ、何故歌を歌おうと思ったのか。音楽の道を志すようになったのか。

 

(――楽しかったから)

 

それ以外に、理由なんてなかった。

 

また涙がこみあげてきて、唄子は堪えようと夜空を見上げた。

いつの間にか、雲がすっかり晴れていた。三日月の光が砂浜を照らしている。

無論、晴天の夜空など珍しくも無い。

――だが。

 

 

「あ――」

 

 

その珍しくも無い夜空を見て、

 

 

 

「――すごい」

 

 

 

唄子の口から、感嘆のため息が漏れた。

数えきれないほど見たことのある夜空が、今この瞬間、なにものにも代えがたいほど美しく見えたのだ。闇に瞬く星々は等しく宝石であり、中天に位置する三日月は輝ける黄金であった。

その星々の煌きが、見上げる唄子の瞳に宿っている。

最早十分前までの唄子はどこにもいなかった。音楽を捨てようだなんて考えていたことが不思議でしょうがない。

いじけていた過去の自分は、後ろ足でかけた砂で頭の先まで埋まっている。二度と発掘されることはないだろう。

唄子は輝く瞳をそのままに、視線をシゲルへと戻す。

『絶世の美男子』。それ以外に形容詞が見当たらない。

楽器の腕前は神業で、歌声は天上の美声だ。神の化身と言われてもなんの違和感もない。

唄子はこの人物の歌声を独り占めしてしまったことに仄暗い喜びと、何倍もの罪悪感を抱いていた。

 

――あの素晴らしい歌を聞いていたのが自分一人というのは、なんとも口惜しかった。

この方の歌は、こんな誰もいない夜の砂浜で歌わせてはいけない。

 

もっと、ずっと、沢山の人に――

 

沢山の人。

 

瞬間、唄子の脳内に稲妻のような閃きが走った。

 

「――櫻崎シゲル様。自己紹介が遅れ申し訳ありません。私、神奈唄子と申します。初対面で厚かましいと思われるでしょうが、一つお願いごとがあります」

 

「ん?どんな?」

 

「明日。わたしと一緒に、テレビに出ていただけませんか?」

 

 

驚くべきことにシゲルは二つ返事であった。これが最終回である、ということを告げるとひどく残念そうな顔をしたが、すぐさま「なら伝説的な最終回にしねぇとな!」と言って唄子の肩を叩いた。

シゲルに触れられた喜びで唄子は失神しかけた。

 

そして、翌日。

 

蓬莱から伝説が始まろうとしていた。

 

 



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6話

蓬莱におけるテレビ放送は、報道・教育・スポーツ中継の三本柱に加え、近年政府がゴリ推ししている娯楽番組(バラエティ)で構成されている。

万年人手不足のテレビ業界において、放送といえば生放送が基本だ。編集作業をして完璧な映像を作り上げるという作業は、ごく一部の高視聴率な教育番組くらいでしか採用されていない。

故に『唄子の部屋』もまた、生放送ということになるのだが――

 

「ホントにいいんですか、唄子さん。ゲスト出演なんて聞いてないんですけど……」

 

テレビカメラマンの翠が小声で尋ねるのに、唄子は躊躇うことなく頷きを返す。

 

「いいんですよ、翠さん。最終回ですから」

 

「は、はぁ」

 

翠はちらりと壁際に視線を送った。

帽子を目深に被った、見たことの無い人物がパイプ椅子に腰かけている。

妙に逞しい体つきをした人だった。職業柄一流のスポーツ選手などにも会うことの多い翠だが、その人物の骨格には奇妙な違和感を覚えた。

 

――何かが、根本的に違うような。

 

「翠さん」

 

「はい?」

 

唄子の声に思考を中断された翠が視線を戻すと、楽し気な笑みが目に飛び込んできた。

ここ最近まるで見ることの無かった、懐かしい表情だった。二年前、情熱に燃えていたころの唄子は同じような笑みを浮かべていて、翠も随分元気をもらったものだった。

昏睡病が進んでからはすっかり失われた筈の笑顔が、そこにあった。

 

――いや、よく見ればかつての笑顔ではない。

何か違う。

むしろこの笑顔は、二年前よりずっと――

 

「録画テープ、あとで焼き増ししてくださいね」

 

そう言って茶目っ気たっぷりにウインクした唄子に、翠は思わず見とれてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

テレビ欄に記載されている『唄子の部屋【終】』の文字を見て、真美は憮然としていた。

梱包されたままの真新しいビデオテープの束が視界に入り、無色のリップを塗った唇からため息が漏れた。

 

「なに凹んでるの、真美ちゃん」

 

呑気に煎餅をかじりながら姉の宮子が言う。

姉に会うのは三か月ぶりだった。宮廷女官というそれなりにやんごとない職に就いた姉だが、社会人になってもまるで変わった様子はない。相変わらずのほほんとしていて、話していると力が抜ける。

 

「……このテープ、どーすればいいかなって思ってさ」

 

そう答えて、真美は口をへの字に曲げた。

――ビデオテープというのは安いものではない。おおよそ一本500円という値段は女子高生にとって極めて重い負担だ。

真美はその安いものではないテープを、先日セールで購入したばかりだった。

一ダースほど。

真美が録画している番組は、唄子の部屋だけだというのに。

 

「せめて一か月くらい前にさー、番組終了のお知らせしとくべきだと思うんだよ」

 

「まーまー。腐るものじゃないしいいじゃない。また新しい音楽番組始まるかもよ?」

 

「唄子さん以上の音楽家って、蓬莱じゃちょっと思いつかないよ」

 

真美は断言する。

真美は唄子の部屋の熱心な視聴者であった。数年前母親に連れられていったコンサートで、その時15歳だった唄子の歌声を聞いた真美は、その声に強く惹きつけられた。

当時既に天才神奈唄子のレコードやカセットテープは発売されていたが、再生機器はどれも高価なものであった。ごく一般的な母子家庭ではまず手が出ない。

しばらく経って『唄子の部屋』のテレビ放送が決定したときも、やはりテレビをもっていない真美はしょげたが――母親が誕生日プレゼントとしてテレビとビデオデッキを購入してくれたので、当時は飛び上がって喜んだ。大国アステカの開発したそれらの機器は、当時かなりの高額だった。

 

しかし、その喜びは長くは続かなかった。

 

 

「確かに唄子さん歌上手だったけどー、何か最近はそうでもなくない?」

 

「う」

 

姉の言葉に反論できず、真美はがっくり肩を落とす。

唄子の歌の愛好家を自負する真美から見ても、最近の唄子は振るわなかった。音程を外すようなことはないが、大事な何かが欠けているように聞こえるのだ。

 

「……二年前まではすっごく良かったんだけどなぁ」

 

ビデオにとっているからはっきりとわかる。笑みを浮かべながら楽しそうに歌っていたのは最初の頃だけだ。真美がいまだに見返すのもその当時のテープばかりである。

最近の唄子には笑顔が無く、歌にも精彩を欠いている。素人目にも昏睡病の兆候を感じさせる様子だった。

ある意味、元気な唄子をビデオに保存することができたのは運が良かったのかもしれない。今も録画を続けているのは半分が惰性で、もう半分は折角テレビとビデオを買ってくれた母に申し訳がないからだ。

とはいえ、どうやら今回でビデオデッキはしばらくお役御免となりそうだった。

新聞のテレビ欄は欠かさずチェックしているものの、真美の琴線に触れる番組は唄子の部屋のみだ。こうなれば宮子の言う通り、後釜の番組がまた音楽番組である可能性に賭けるしかないが――音楽番組でこけた蓬莱テレビが二番煎じを試みるかといえば、可能性は低いと思わざるを得ない。

「お姉ちゃん、宮廷女官って蓬莱テレビとコネないの?新番組情報とか入ってない?」

「三か月前に女官になったばっかりのぺーぺーに何を期待してるの、真美ちゃんは。まぁ蓬莱テレビは政府と太いパイプを持ってるから、女官長様くらいになれば何か知ってるかもしれないけれど。……むしろそーゆーのは府議会議員の母さんの方が詳しいんじゃないかなー」

「そっかぁ」

真美は壁掛け時計に視線を移す。

時刻は七時半を回っている。釣られるように時計に目を向けた宮子が、小さくため息を吐いた。

「――母さん、遅いね。せっかく帰ってきたんだから、顔見てから局に戻りたいんだけどなー」

「平日に帰ってくるのが悪い。それもぬいぐるみを取りに帰ってきたなんていうしょーもない理由で」

「しょうもなくない!こがねまるが居ない二か月間、私の寝つきは平均十分も遅かったんだから!」

むん、と狐のぬいぐるみを突き出す宮子に、真美は半眼を向ける。

「子供じゃないんだから……っていうか、母さん今日は定期健康診断の結果を受け取りに行くって言ってたから、いつもより遅れる筈だよ」

「んへぇー。だめじゃーん」

よもやま話をしていると、唄子の部屋の放送時間は目前に迫っていた。

「おっと、いけないいけない」

真美はビデオデッキに手を伸ばす。経済的な理由からいつもの通り三倍録画ボタンを押そうとした真美は、少々考え込んだ後、その隣の標準録画ボタンを押した。

真美が標準録画をしていたのは、唄子に元気があった初期の放送時だけだったのだが――

「最終回だし、いいよね」

真美はそう呟き、残り11本の空きテープを眺める。いつになれば使い切れるのか、今の真美には想像もできなかった。

 

――唄子の部屋が、始まる。

 

 

最初はおなじみのピアノのメロディと共に、唄子のバストアップ。

いつもの始まり方だ。

だが、真美はいきなり違和感を覚える。

「――あれ?なんか唄子さん、いつもより綺麗じゃない?」

「え?……言われてみれば、確かに」

「だよね?」

姉妹は首を捻って、しげしげと画面の中の唄子を眺める。

元々顔立ちの整った女性だが、今日はやたらと魅力的に見える。最終回だからメイク頑張ったのかな、なんてことを真美が考えていると、唄子はおもむろに語りだした。

その声には、不思議な『張り』があった。

 

「みなさん、こんばんは。今回が最終回となる『唄子の部屋』ですが――今日は特別なゲストをお呼びしています」

 

「毎週東西の音楽を扱ってきた当番組ですが、今回皆さんにお届けするのは、ゲストが創り出した全く新しい音楽です。『色んな意味で』、面食らう方もいるかもしれません」

 

「ですが、どうしてもわたしは皆さんに聞いていただきたかったのです。わたしは――今日のゲストの音楽を聴いて、なぜ音楽に『楽しい』という文字が入っているのか、本当の意味で理解できた気がするから」

 

これまでにないオープニングトークだった。大げさなことを言うなぁ、と思いつつ、真美は少々興味を引かれる。『全く新しい音楽』。一音楽好きとしては聞き逃せないセリフだった。

しかし、一度クラシックのアレンジをしているという女性が番組に登場した折、披露したその『アレンジ』とやらが本家の劣化だったことを真美は良く覚えていた。

とはいえ、その時の唄子の顔には『これっていい音楽かしら?』と正直に書いてあったし、今のような大絶賛は一言も口にしなかった。

「へー。たのしみだね、真美ちゃん」

宮子が言うのに、真美は小さく頷く。

「うん。唄子さんがこんだけ褒めるなら、ちょっとくらいは期待できるかも?」

 

買い置きの煎餅に手を伸ばしながら、真美は少しだけわくわくしていた。

 

「前置きはこのくらいにして、登場していただきましょう。――ミュージシャン、櫻崎シゲルさんです!」

シゲル。女性の名前としては少々珍しい。どんな字を書くのかな、と考えながら、真美は煎餅を一口齧りとり、

 

「いやー、どうもどうも!」

 

顎が咀嚼を忘れた。

 

画面の中に、信じられない美青年がいた。

 

「……え?」

 

真美は目をこすった。ついでに耳を疑った。

しかし、画面の中の映像は変わらない。

そこにいるのは男性である。それもおそらく成人男性だ。

そんなものは病院の生命維持装置の隣か、昔話か、神話にしか存在しない筈だ。

真美の口から堅焼き煎餅が落ちる。三枚目に突入していた宮子の口からもばらばらと落ちる。

開いた口が塞がらない、を体現した姉妹は無意識のままにテレビににじり寄っていた。

 

「テレビの前のみんな、初めましてだな。俺は櫻崎シゲル。――逢いたかったぜっ」

 

元気いっぱいにサムズアップする男性の、どこまでも美しい低音が、真美の思考を蒸発させた。

脳が目の前の現実をうまく認識できていない。

 

「――待って。ちょっと待って」

 

我知らずそんな言葉を漏らしていた真美だが、男性――シゲルは当然のように待ってはくれなかった。

落ち着く時間を欲しがる真美と、口を開けたまま完全に機能を停止している宮子を無視し、シゲルは楽器を構える。

「さぁて、時間は有限だ。自己紹介なんざ名前だけで充分だろ!ってことで、さっそく一曲行ってみようか!」

シゲルが笑う。

見るものすべてを引きつける笑みを浮かべながら、大きな声を上げる。

 

「――最初の曲名は『ロケット』だ!楽しんでいこうぜっ」

 

奇跡の一時間が始まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――っと、もうこんな時間かよ。名残惜しいけどここまでだな」

たっぷり十曲をやり終えたシゲルが、ひょいと肩を竦める。

「シゲル様、本日は本当にありがとうございました。――最終回にして、私はようやく自分の役目を果たせたような気がします」

深々と頭を下げる唄子に、シゲルがぱたぱたと手を振る。

「わはは、大げさなこというなよ唄子さん、こちらこそ礼を言わせてくれ。最後のデュエット、痺れたぜ。また一緒に歌ってくれよな!」

「喜んで!」

「ありがとよ!――おっと、ラスト十秒。じゃーな、みんな!またどっかで逢おうぜっ」

「そうですね。また、どこかで!」

太陽のようなシゲルの笑顔と、それを受けて咲き誇る華のような唄子の笑顔が、真美の頭に強烈に焼き付いた。

 

番組が終わり、天気予報が始まる。

 

そこでようやく二人は再起動した。

 

「れっ、冷静になって真美ちゃん!これは夢だよ!」

ぐるぐる目の宮子が真美の肩を掴む。

「そっ、そうかも!?」

答える真美もぐるぐる目だった。

あり得ない存在を目の当たりにした二人は完璧に混乱していた。

しかし、全身には正体不明のエネルギーが漲っており、じっとしていたら弾けてしまいそうだった。

 

「そもそも健康な成人男性がこの世にいる確率は0%!その男性が神のごとき完璧な美男子である確率は0.1%!そして最高を突き抜けた歌唱力と演奏技術を持っている確率は0.2%!理論的に三つの数値を合算させてもたったの0.3%しかない!この数値が、私たちが見ているのが夢か幻覚であることを示しているよ!」

謎の衝動に突き動かされるように、宮子が熱弁をふるう。

「なっ、なるほどっ。なんて的確で冷静な計算式なんだ……!宮廷女官は伊達じゃないんだね!」

赤べこのように首を縦に振りまくりながら真美が追随する。

「もちろん!きっと私たちの食べたあの煎餅に、幻覚剤の類いが――」

ぐるぐる目のまま宮子は立ち上がり、テーブル上の罪なき煎餅へと向けて一歩を踏み出す。

しかしテーブルは思いのほか近く、躁状態の宮子の一歩は思いのほか大きかった。

 

がっ、と鈍い音を立てて、重厚なテーブルの角が宮子の脛にめり込む。

 

「あっああああーッ!せっ、煎餅めがァーッ!!」

 

「……少なくとも夢ではなさそうっ」

圧倒的なリアリティのアホがのたうつのを見て、僅かに冷静さを取り戻した真美は、録画停止ボタンを押すとテープの巻き戻しを始めた。

夢か幻覚か、それとも現実なのか。もう一度見ればはっきりすることだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昭子は家の前までたどり着き、しかし玄関を開けるのを躊躇った。

手にした封筒に視線を落とす。中には先ほど病院で受け取った診断書が入っていた。

 

診断書に書かれているのは、『昏睡病レベル2』の文字だ。

 

35歳。レベル1でここまで持ちこたえた人は極めて珍しいと医者は褒めてくれた。

レベル2患者はいくつかの仕事の資格を失う。昭子の府議会議員という職もその一つで、引継ぎを終えたら今後はレベル2でも出来る仕事に従事することになるだろう。――それもレベル3になるまでのわずかな期間だろうが。

このことを娘に告げるのは、少々気後れした。自分がレベル2になったという報告を聞けば、心優しい真美はきっと悲しむ。

だがこの世界で生きている以上、これは避けられないことなのだ。

考えてみれば、肩の荷が降りたという気もする。

長女は女官という立派な職に就き、次女も高校生だ。何も心配することはない。

 

そう自分に言い聞かせ、玄関を開ける。

少しだけ懐かしい靴が目に入る。

宮子が帰っているらしい。口元にあるかなしかの笑みが浮かぶのが分かった。

 

愛娘の顔を見れるのが嬉しい、と思うことができるのも、レベル3になるまで。一日一日を大事に生きなくてはならない。

 

切ない気持ちを押し隠し、昭子が努めて明るく『ただいま』の声を上げる――

 

よりも早く。

 

床板を踏み抜かんばかりの勢いで、二人の娘が玄関まで走ってきた。

 

「「おかえり!!!」」

凄いテンションだった。

「た、ただいま……?」

気圧されながら声を返した昭子は、咳ばらいを一つ。

娘たちはなにやら興奮しているようだが、大事な話をしなくてはならない。

「丁度良かったわ。母さん、二人に大事な話が――」

「そんな話は!」

「見るもの見てからよ!!」

宮子と真美は阿吽の呼吸で昭子の腕を引っ掴むと、恐るべき力で引っ張り出した。昭子はつんのめるように前進する。

「ちょ、ちょっと二人とも?」

困惑の声は無視され、あれよあれよという間に居間まで連行された昭子は、

「はいそこに座って!」

強引に座布団に座らされ、

「ビデオスタート!」

奇跡の体験をすることになった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

翌朝。

ビデオは10回再生され、一家は眠れぬ夜を過ごした。

しかし玄関に立つ三人の目に宿るのは、眠気ではなく燃え盛る熱情であった。

靴を履き終えた宮子と昭子は、見送る真美を振り返る。

 

「あと二十回は見たかったけど、仕方ない。愛する姉は仕事に出かけるよ、真美ちゃん」

「名残惜しいけど行ってくるわ。――真美、ビデオを増やせるっていうのは本当なのね?」

「たぶん。友達の理子ちゃんがいってたんだけど、だびんぐ?とかいうのをすると同じ映像を空のテープに書き込めるんだって」

「機械のことはさっぱりだから、貴女に託すわ。くれぐれも注意してね。あのビデオの中に入っているのは、人類の宝よ」

「うん」

真美は重々しく頷く。その眼光は戦地に赴く兵士のものであった。

「真美ちゃん、任せたよ。転んじゃだめだからね」

「お姉ちゃんじゃないんだから大丈夫。お姉ちゃんこそ徹夜なんだから職場でミスんないでよね」

「徹夜じゃなくてもミスはするから大丈夫だよ」

「全然大丈夫じゃない」

「この子はまったく……」

とぼけた答えを返す宮子に、二人はあきれながらも声を上げて笑ってしまう。釣られるように宮子も笑った。

声を上げて笑い合うのは一家にとって随分と久しぶりだった。現代蓬莱の一般家庭においては、どれほど楽しみ、喜んだとて、穏やかにほほ笑み合うのが関の山だ。

しかし、今の一家は違った。

他愛もない会話が、無性に楽しい。玄関は『昏睡病』の『こ』の字も見当たらない明るい雰囲気に満たされていた。

 

「それじゃあ、行ってらっしゃい!」

 

玄関を開けた宮子と昭子の背中に、満面の笑みで真美はそう声をかけた。

思わず元気が出てしまうような、明るい声で――

「私は通学時間まで余裕があるから、もう一回見てから行くよ!」

そんなオマケのセリフを添えて。

 

「ぐっ、学生が憎い……!」

 

未練を振り切るように宮子は足早に去っていく。昭子も苦笑いしながら後に続こうとする。

その時、ひらひらと手を振る真美の目がげた箱の上の書類を捉えた。

昨夜昭子が持って帰ってきた封筒だった。

「お母さん、その書類は?」

「え?……ああ」

言われて初めて気づいたのか、昭子は足を止めるとちらりとその封筒に目をやる。

診断書が入った例の封筒だ。

昭子は半日前にその封筒を手に『大事な話がある』と切り出したことなどおくびにも出さず、一切の関心を失った声色で言い放った。

 

「ゴミよ。捨てといて」

 

はーい、という愛娘の声を背中に受けて、昭子は玄関を出る。

 

朝日が眩しい。一睡もしていないのに、気分は最高に爽快だった。

全身にやる気が漲っている。しょぼくれていた夕べの自分はもういない。

 

「んーっ!」

 

昭子は全身に日差しを受けるように伸びを一つすると、

 

「――さて。まずは検査をやり直してもらいましょうか」

 

弾むような足取りで、病院へと続く道を歩き出した。

 

昨日知ったばかりの、お気に入りの曲を口ずさみながら。

 

 

 

 

 



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7話

 

 

校門をくぐったあたりで見慣れた背中を見つけて、理子は『おはようございます』と声をかけた。

クラスメイトにして親友――と自分では思っている――真美の髪はやや明るい色をしており、ほぼ黒一色の生徒たちの中では少々目立つ。人違いの心配はない。

常であれば「おはよっ」という歯切れのいい挨拶が返ってくる。理子はその快活な挨拶が好きだった。自分も元気をもらえるような気がして。

ところが、今日は様子が違った。

ぐるりと振り返った真美の顔に笑みはない。それどころか目の下にはくっきりと隈ができており、そのくせ眼光だけは異様に強かった。

「――理子ちゃん、会いたかったよ……!」

挨拶抜きにそう言って、バッグを抱きしめながらにじり寄る真美に、理子は露骨に怯んだ。

真美は正体不明のプレッシャーを身に纏っていた。

「ま、真美ちゃん?どうかしたの?なんだか様子が……」

「そりゃあどうかしてるよ。理子ちゃんも今日中にはどうかする予定だよ」

「えっ?」

「それはともかく。理子ちゃん機械に詳しかったよね?」

「え、えっと、詳しいってほどじゃないですよ。ちょっと好きなだけで」

「じゃあさ――このビデオ、増やせる?」

真美がカバンからそっと取り出したのは、一般的に流通しているビデオテープであった。我が子を抱くように慎重な手つきだった。

「普通のVHSですよね。増やすっていうのは、ダビングするってことですか?」

「うん、そうそうそのダビング。できる?」

「えーと、外部出力を録画すればいいので可能ですよ」

理子の答えを聞いた真美の眼が、一層強い光を帯びる。理子は一歩引いた。

「だ、だけど、ビデオデッキが二台必要になります。わたしのうちには一台しかありませんから――」

「ビデオデッキならうちから担いでくから、やってくれないかな」

一歩詰め寄って、真美が言う。

「へ!?か、担いで!?」

「うん。電車に乗っていくから大丈夫!」

そうは言っても、真美と理子の家は二駅離れている。10㎏超のビデオデッキを担いでいくには相当の根性が要求されるのは間違いなかった。電車の乗客に奇異の目で見られることも間違いないだろう。

「そ、そこまでしてダビングしなくちゃいけないビデオなんですか?」

「うん」

何の躊躇もなく真美は頷いた。

そして、さらっと付け加える。

 

「空きテープが十一本しかないから、とりあえず全部お願いね」

 

「じゅういっぽん!?同じビデオを!?」

 

目を剥く理子だが、真美はやはり平然と頷く。

「うん、お願い」

「は、はぁ……そ、そんなにすごいビデオなんですか?」

「そりゃーもう。ふふふ。このビデオの為に私たち一家は完徹よ。でも、ぜんっぜん眠くないの」

「は、はぁ……」

「じゃ、放課後よろしくね」

そう言い残し、真美はやはりバッグを抱きかかえて校舎へと向かう。

どうしても気になったので、理子はその背に声をかけた。

「ま、真美ちゃん」

「ん?」

「そのビデオ、何が録画されてるんです?」

真美は足を止めると、わずかに考えこんでから答えた。

 

 

「夢、かなぁ」

 

 

 

 

 

____________________________________________

 

 

 

 

蓬莱テレビ局は開局以来初の大混乱に陥っていた。

 

「いえ、ですから何度も申し上げます通り、ゲストの個人情報に関しては開示することが出来ませんので――」

「はい、はい。再放送は行う予定です。いえ、現状具体的な日時までは――」

「こちらとしても対応に困っておりまして……何せ男性のゲストという前代未聞のケースですので、本人の許諾を得ないまま再放送は――」

 

ネイビーのスーツを見事に着こなした女性が、電話対応にてんやわんやの光景を見て呟く。

「……とんでもないことになったわね」

「遥局長、もうずーっと電話回線パンクしたままです。アポがとれないってあちこちの取引先から苦情がきはじめてます」

白柳遥は、部下からの言葉に肩を竦める。

「回線増やしてもらうよう手配したから、とりあえず今日明日はなんとか誤魔化して頂戴。――ところで、唄子さんと連絡はとれた?」

「十分おきに電話をかけてるんですが、まだ……おそらく、家に帰っていないのではないかと」

「しつこくかけ続けて。他の業務は後に回してもいいわ。最優先で唄子さんを確保するのよ」

空前の視聴率を記録した最終回。もはや『唄子の部屋』の価値は昨夜までとは一変している。

いや、それよりも――

「聞き出さなきゃ……シゲル様のことを……」

「はい……どんな手段を使っても……」

 

――そして、あの歌をもう一度。

 

目の下に隈をつくった彼女たちは、目と目で通じ合うと、静かに頷き合う。

その瞳に狂信者の輝きを宿して。

 

 

 

 



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8話

 

 

「し、シゲル様……その、おはようございます」

 

 

唄子の部屋最終回が放送された翌々日の朝。シゲルはいつものように塒のビジネスホテルから出発しようとして、ロビーで待ち構えていた顔面蒼白の唄子に捕まった。

「お?唄子さんじゃねえか、おはようさん」

シゲルはひょいっと片手を上げて挨拶をする。

「これからその辺に弾き語りに行くとこなんだが、一緒に行く?」

「是非!――ではなく。申し訳ありません、少々話を聞いていただきたく……」

シゲルの誘いに、ぱあっと表情を輝かせた唄子だったが、その顔は即座に曇る。

なにやら問題を抱えているらしい。

「話?そりゃ構わねえけど」

知らない仲でもないし、別段急ぎの用事でもない。シゲルは気前よく頷いた。

「……ありがとうございます」

 

深々と頭を下げた唄子は、滔々と語りだした。

 

 

一昨日収録を終えた二人は打ち上げと称し飲み屋に繰り出していた。シゲルは店主の許可を得て弾き語りを店内で行い、二人は気分よく飲み食いし、連絡先を交換して別れたのだ。

唄子としては人生最高の夜であった。シゲルの弾き語りは勿論大好評。シゲルの頼みで唄子もデュエットに参加したりして、店の営業時間を超えて騒ぎは続いた。

唄子はしたたかに酩酊し、家に帰るや否や深い眠りについた。

 

――点滅する留守電のランプに気付くことなく。

 

 

 

 

「目が覚めたら、留守電にすごい量の録音が残っているのに気づきまして……」

「ありゃりゃ」

シゲルは頭を掻く。

唄子とシゲルは、局にゲストの存在を伝えていなかった。

何しろ男性をテレビ出演させるとなると、その手続きは前代未聞のものになる。正直にゲストにシゲルを招くことを提案すれば、到底唄子の部屋の最終回には間に合わないと思われたからだ。

結局、使命感に燃える唄子と、ノリ重視のシゲルはサプライズで生放送に登場することを決めてしまったわけだが――

「まー不意打ちみたいなもんだったからなぁ、俺のゲスト出演。プロデューサーに怒られちゃったか」

「いえ、怒るとかでは……」

唄子はひきつった笑みを浮かべる。

留守電に残っていたのは怒声ではなく、切々とした哀願であった。

 

――今日のゲストについてお話があります。

――お願いですから今日のゲストのシゲル様に会わせてください。

――ホントお願いですから。ギャラ10倍上げますから。

――会わせてくれないなら舌噛んで死にます。

――唄子さん。そこにいるんじゃないですか。

――ウタコサンウタコサンウタコサン

 

血の気が引いたのは言うまでもない。

 

「そんなわけで昨日局長の遥さんと話し合いまして、何とかシゲル様とお話をさせていただけないか、と……」

「へー。いや、俺としちゃその局長さんと会うことに文句はねえぜ」

むしろ渡りに船ってヤツだな、とシゲルは付け加えた。

世界に音楽を響かせる為に、テレビは非常に都合がいいのだ。プロデューサーを説得して何らかの番組に参加させてもらえば、目標にはぐっと近づくだろう。

「そ、そうですか!――良かった」

どうやらシゲルが悪感情を抱いていないことを知って、唄子は胸をなでおろした。見ず知らずの女性に引き合わせたい、と言って喜ぶ男性はまずいないからだ。一般的に男性というものは繊細なメンタルをしている。

「で、その話し合いはいつ、どこでやる予定なんだい?」

「……あの、その、」

唄子が口ごもる。

「ん?」

シゲルが首を傾げると、唄子はそっと掌を上に向けて、ロビーの窓ガラスへと差し出した。

シゲルの視線がそちらに向く。

 

 

「遥さん、もう、そこに……」

 

 

タイトなスーツに身を包んだ美女が、ガラスの外に張り付いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「蓬莱テレビ局長、白柳遥と申します。突然の訪問、まことに申し訳ございません……!」

テーブルに頭をぶつけるような謝罪から話し合いは始まった。

「お、おいおい、頭上げてくれよ」

「いえ――!わたしは男性保護法を明確に犯しています。この話が終わり次第出頭するつもりです。ですが、どうかこの話だけは聞いていただきたいのです!」

決死の表情で拳を握る遙に、シゲルは笑顔を見せる。

「わはは、バカ言え。歌手の追っかけ一々捕まえてたら刑務所一杯になっちゃうだろ。冗談はさておいて、話を聞かせてくれよ」

感極まった遥が再び頭を下げる。

「なんという慈悲深さ……!この遥、感動で前が見えません」

「そりゃテーブルに額押し付けてるからだよ。ったく」

シゲルは両手を伸ばすと、遥の頭をそっと持ち上げるようにして上を向かせた。

自然、遥の顔面はシゲルと至近距離で向き合うことになる。

「お、美人さんだな。下向いてるのは勿体ねえぜ」

口角を上げたシゲルがそんなことを言う。

絶世の美男子によるこんなセリフに対する耐性を持った蓬莱女子は、現代には存在しない。

「――はぶっ」

顔を真っ赤にした遥は、ぶしっと鼻血を吹いて白目を剥いた。

「うおぁ!?」

「は、遥さん!気を確かに!」

 

 

 

 

 

 

「まずはお礼を言わせてください、シゲル様。貴方様はこの度の放送で、視聴者に夢と希望――いえ、生きる意味そのものを与えてくださいました」

大仰なことをきりっとした顔で語る遙だが、鼻に詰めたティッシュが全てを台無しにしていた。

「俺は好きな音楽をやっただけだから、そんなに褒められると照れちまうな。――それよりも」

面はゆそうにそう言ってから、シゲルは軽く頭を下げる。

「連絡も無しに突然出演して悪かったな。そうしようって言ったのは俺だから、唄子さんを怒らないでやってくれよ」

「怒るなどと!唄子さんはあの伝説の放送の、いわば立役者。感謝こそすれど、怒りを覚えることなどありえません!」

「お、そりゃよかった」

「そんなことより――あの放送での十曲。あれらの音楽はシゲル様が作曲されたのですか?」

「おう、作詞作曲俺だな」

今のこの世界においては肯定できるはずの無いその質問に、シゲルはあっさりと答えた。

遥は生唾を飲み込み、恐る恐る切り出す。

「――シゲル様。貴方様のような稀代の音楽家、それも男性の存在を、私は寡聞にして存じませんでした。しかし、私はこれでも蓬莱の芸能事情には精通しております」

遥の眼差しは真剣そのものだった。シゲルはちいさく頷いて先を促す。

「シゲル様は、いったいどこの出身なのでしょうか?」

核心を突く質問が出た。

 

「……うーむ」

 

シゲルは一つ唸ると、腕組みして黙り込む。

遥の目尻が申し訳なさそうにさがる。

「あの、申し訳ありません。お答えできない事情があるのでしたら、もちろん無理には――」

その言葉を広げた五指で遮り、シゲルは立ち上がった。

「ちょいとここで待っててくれるか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

数分後。

一度部屋に戻ったシゲルが持って帰ってきた『タブレット』を覗き込み、遥と唄子は驚愕していた。

 

「俺がどこから来たのか。それを説明するには、まずコイツを見てもらった方がいいような気がするんだよ」

 

タツヤの荷物にゃ感謝だな、と呟きながら、シゲルがタブレットを操作する。

シゲルのいた世界においてはありふれた端末だった。しかし、やっとカラーテレビが開発されたという段階の世界においては、超技術の塊だ。

美麗な映像。タッチパネル。極めてコンパクトで機能的な本体。

そこにあるのは、まさにオーパーツであった。

遥は身体の震えを抑えられなかった。

 

――わたしは今、何かとんでもないものを見せされている。

 

「――うーん、俺この手の機械に詳しくねえから、操作方法がイマイチ……お、でもこれ全国ツアーの時のライブか。これでいいか。懐かしいなオイ」

 

シゲルの指がささっと画面を撫でると、ノートよりも小さい機械が、恐ろしく鮮やかな映像を映し出した。

殆ど魔法のようであった。遥は眩暈を覚える。夢を見ているような非現実感であった。唄子の口は拳が入りそうなくらい開かれたまま閉じる気配が無い。

 

「ちゃちなスピーカーだから音は悪ィな。ま、しゃあねえ」

 

画面の中に、熱唱する男性の姿が映る。

二人の女性の視線は、その男性に釘付けとなる。

エネルギッシュな姿だった。こんな男性がこの世に存在したら、ニュースになるどころでは済まない。

聞いたこともない素晴らしい歌が、男性の喉から迸っている。

その声は、櫻崎シゲルとうり二つだった。

 

「こいつが『前世の俺』だ」

 

画面の中の男性を指さし躊躇いなくそう言ったシゲルに、遥は生唾を飲み込んで向き直る。

「シゲル様――貴方様は、一体何者なのですか」

遥の声は震えていた。

シゲルは少々考え込むと、椅子に深く座りなおした。

「ちょいと長くなるぜ」

 

 

 

何故、どうやってこの世界に来たのかという疑問に関しては、弁天様のメモにあった通り『憶えていない』でごまかした。確かに死んだ筈だが、気が付けば公園にいた、と。

弁天様とのやり取りに関しても話していない。

しかし、それ以外に関してはシゲルは真実を語ることにした。記憶喪失の設定を守ったまま音楽を広めるというのは、どうにも骨が折れそうだと思ったからである。

 

「――で、では、その、シゲル様は、『異世界人』である、と……?」

「うーむ。我ながらやべー説明だけど、そういうことになっちゃうんだよなぁ」

事のあらましを語り終えたシゲルは、「眉唾だよなぁ」と頭を掻く。

しかし、遥は首を横に振ると、

「いいえ。信じられます」

力強く言った。その目に一切の疑心はうかがえなかった。

「こんなものを、今の科学力で作れるはずがありません」

「そんなに隔絶してるのかい?」

「はい。この世界基準からすれば、まさに魔法のような技術ですし――この端末は小型化されていて、完成度が高すぎます。そう、技術の『積み重ね』を感じるのです。こんな凄まじいものを開発できる機関がこの世のどこかにあるという世迷言より、『異世界から持ち込まれた』という説明の方がよほどしっくりきます。――なにより」

一息にそこまで言った遥は、未だにライブ映像を流し続けるタブレットを指す。

前世の櫻崎シゲルが元気いっぱいに歌っている。

「この映像。こんな男性がこんな規模のコンサートを行っていたら、ニュースにならないわけがありません」

「そうなの?」

「ですよね、唄子さん」

「はい、間違いなく世界的なニュースになると思います」

頬を紅潮させた唄子がこくこくと頷く。その眼はタブレットに釘付けだ。

唄子の知識には存在しないバンドミュージックが、小さな画面に圧倒的なパワーで展開されている。

一秒たりとも見逃せない。唄子は全神経を画面とスピーカーに集中させている。

 

 

――しかし、映像は不意に途絶えた。

 

 

「あれ?!」

唄子が狼狽える。

タブレットは『low battery』の文字を僅かな時間だけ表示させると、完全に沈黙した。

「あ、電池切れか」

「この機械は電池で動いているのですか?」

「充電池だよ。コンセントに繋げば充電できるんだが、どうもこっちの世界とは規格が違うらしくてな。手持ちの充電器じゃ充電できねえんだわ」

「じっ、人類の至宝がしれっと失われてしまったのでは……?!」

唄子は顔面蒼白となった。

「充電器そのものは持っておられるのですね?」

遥が問う。シゲルは頷いた。

「おう。荷物に入ってたな」

「ならば変圧器を用意できれば充電できるやもしれません」

「お、なるほど。電器屋に売ってるかな?」

「おそらくプラグの形状が異なると思われますので、専門的な加工が必要になるかと思われます」

「あー、そりゃそうだよなぁ。確かにコンセントの形全然違うし」

「するとその機械は……?」

唄子が恐る恐る問う。シゲルは肩を竦めた。

「俺にはその手の技術は無いし、こっちにゃ何の伝手もねえから当面お役御免だな」

「そ、そうですかぁ……」

唄子ががっくりと肩を落とす。

「――伝手、ですか」

しかしそう呟いた遥の目は、唄子とは対照的に強く光っていた。

「シゲル様。あの機械は一般家庭に存在するものなのですか?」

「ああ、人によっては何枚も持ってたぜ。タブレットそのものはともかく、似たような端末は大体の人が持ってたんじゃねえかな?」

「――もし、あれが全ての人々に普及すれば……」

考えをまとめるようにしばし俯いた遥は、やがて顔を上げるとシゲルに向き直った。

「シゲル様。この世界には原因不明の奇病『昏睡病』が蔓延しているのはご存じでしょうか?」

「おう。厄介な病気らしいな」

「はい。死に至る病ですが、現状特効薬のようなものは開発できておりません。二世紀前にこの病が発見されてから、世界は衰退する一方です。――ですが、私はシゲル様の歌こそがこの昏睡病に対する『特効薬』になるのではないかと思っております」

「私も同じ意見です」

大仰な遥のセリフに、唄子は迷いなく追随する。だからこそ様々な手続きをすっ飛ばして櫻崎シゲルをゲストとして招いたのだ。

大げさだなぁ、と笑い飛ばしたかったシゲルだが、弁天様の手紙を鑑みるとそうもいかなかった。

『――この病に対する特効薬こそ貴方なの。

とにかく貴方の音楽で――』

手紙の最後を思い出し、シゲルはふーむと唸る。

「――俺の歌に、病気を治す力があるかはわからねえ。だけどもしそうだとしたら、俺は一刻も早く皆に歌を届けたい」

シゲルはまっすぐに遥を見つめる。

「遥さん。俺をテレビに出させちゃくれないか?俺の歌を、蓬莱に響かせてえんだ」

太陽のように熱いシゲルの言葉を聞いて、しかし遥は俯くと、申し訳なさげに眉根を寄せる。

「――本日はわたくし、シゲル様にテレビ出演のお願いをするべく参りました。ですが、こうしてお話を伺った今――はっきり申し上げれば、事態はイチTVプロデューサーの手に余ると言わざるを得ません」

「お、おいおい、そんなこたねえよ。テレビ放送してもらえたらすげえ心強いぜ?」

「あ、いえ、申し訳ありません、少々言葉が足りませんでした。もちろん、蓬莱テレビはシゲル様を全力で手助けさせていただきたく思っております。恐らくそれは、蓬莱人にとっての希望になるでしょうから」

ですが、と唄子は続ける。

「我々ではおそらく力不足なのです。シゲル様、この蓬莱におけるテレビの普及率をご存じですか?」

「普及率?……あ、もしかして、家庭に一台テレビ無い?」

「はい。最新の調査では、普及率は凡そ三十パーセント。――シゲル様の歌を蓬莱中に届けるには、テレビの持つ力自体が不足しているのです」

遥はそう言ってくやし気に拳を握り締めたが、直ぐにその目に闘志を漲らせてシゲルを見上げる。

「しかし!足りない力は他から補えばよいのです!シゲル様を『然るべきところ』がバックアップすれば、単なるテレビ出演にとどまらず――なにか、もっと大きなことを成し遂げられる。そんな確信があります!」

「然るべきところ?」

「はい。我々は国とのパイプを持っています」

遥は言い切る。

テレビ放送は半分国策のようなものであった。予算も一部国から降りているし、テレビ番組の構成にも役人が絡むことは珍しくない。

「国とのパイプ……ってえことはつまり、お役人と話をして、蓬莱っていう国そのものにバックについてもらうってことかい?」

遥は力強く頷く。

「我々のコネクションを総動員してでも、高級官僚クラスを引っ張り出してみせます」

「何だか大ごとになってきちまったなぁ」

「事実、世界がひっくり返るほどの大ごとであると認識しております」

「はは、なるほどな。――じゃあいっちょ、盛大にひっくり返してやろうぜ!」

眩い笑みと共に、シゲルが手を差し出す。

それを遥は目ん玉を見開いて見る。シゲルは首を傾げた。

「……あれ?もしかしてこっちの世界じゃ握手の習慣とかってないのか?」

――握手。お互いの手を握り合う挨拶。蓬莱においても古来から友好を示すために行われている。

とはいえそれは、現代においては同性同士で行われる。男性は法律で守られており、みだりにその身体に触れることは犯罪行為に当たるからだ。

しかし無論、男性側が承諾していれば話は別である。

「いっ、いえ!ございます!ございますとも!!」

遥は慌てて右手を差し出す。

男性の手を握るなど、人生初めての経験だった。恐らく今後も無い。

まるでアル中患者のように震えるたおやかな手を、シゲルの手が握る。

 

――あったかい。

 

「これからもよろしく頼むぜ!」

 

――こえ、すてき。

 

「はいゥッ!」

 

遥はまたしても気を失った。

 

 

 

 

 



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9話

 

 

 

夜九時。なんとかギリギリでスーパーの閉店時間に潜り込むことが出来た。

手に下げたレジ袋から覗くのは、ポピュラーな固形栄養食――通称『完全食』が一ダース。

文科事務次官になってから、朝と晩はこれで済ませてしまうことがほとんどだ。我ながらさもしい食生活だが、不満は感じなくなって久しかった。

昏睡病を遠ざけるには美味しい食事から!と厚労省は喧伝しているが、役人の自分がこんな食生活なのだから皮肉なものである。

 

――流石に疲れたわね。

 

肩を落とし、とぼとぼと街灯の下を歩く。官舎まではあと僅かの距離だが、妙に長く感じた。

昏睡病対策の新プロジェクトの進捗が最終段階に差し掛かり、文科省はデスマーチ状態にあった。そのトップたる文部次官の自分の仕事量たるや、この三日間職場に缶詰めで家に帰ることすらできない有様だった。

疲労が自然と背中を丸める。

 

――昏睡病なんて、ほんとにどうにかなるのかしら。

 

疲れているのは身体だけではなかった。

昏睡病撲滅の音頭を取る立場の一人でありながら、最近頭に過るのはそんな弱音ばかりだ。

人類は二世紀余りもこの難病に立ち向かっているが、一向に成果は上がっていない。今日も進行中の計画を総点検したが、昏睡病に効果があるものは見受けられなかった。

二年前、蓬莱テレビによる『唄子の部屋』が放送された折には、わずかに新規の昏睡病患者が減った。

政府は勢い込んだが、その効果はごく一時的なものだった。今となっては『偶然だったのでは?』と考える者も少なくない。視聴率の低迷から打ち切られたのも、そんな意見が支配的となったからだろう。

最終回くらい見ようと思ったのだが、激務でそれもかなわなかった。

音楽は好きだったが、最近は聞く暇もないのだ。

 

 

――わたし、いつまで昏睡病と戦わなきゃならないんだろう。

 

 

不意に、人生がひどく虚しいものに思えた。

危険な兆候だった。

考えを振り払うように、慌てて首を横に振る。

 

――だめだめ!負けてらんないんだから!

 

凛は自らの頬をぴしゃりと叩くと、むんと胸を張る。空元気も元気だ。弱気は昏睡病の深刻化を招く。

今出来ることは、目の前のプランに全力を尽くすことだけだ。

『アイドルスター』。政府肝入りの蓬莱テレビ新番組。大規模なオーディションを行って、メインキャストは選りすぐりの人材を用意できた。大きな予算をかけた一大プロジェクトと言っていい。テレビ業界のみならず、様々な業界を巻き込んだ大仕掛けになる予定だ。

同僚たちのみならず、テレビ業界にも随分無理を聞いてもらった。皆が皆、少しでも番組をよくするために死力を尽くしてくれた。関係各所に必死の根回しもして、アイドルスターは来週いよいよ華々しいスタートを切る予定だ。

 

 

 

――だけど、もし。

 

 

 

それでも、何の意味も無かったら――

 

 

 

嫌な想像が心に入り込もうとしてくる。

 

聞き覚えのある声がしたのは、その時だった。

 

「ハァイ、凛。浮かない顔ね」

 

白シャツにタイトなスカートを着こなした女性が、街灯の下に立っていた。

「……遥?」

友人の名を口にしながら、しかし凛は眉をひそめる。

目の前の女性の雰囲気が、自分の知っているそれとは違ったからだ。

「遥、よね?」

「そうよ。誰か他の人に見える?」

打ち合わせで先月会ったばかりじゃない、と小首を傾げる遥に、凛こそ首を傾げる。

どこからどうみても白柳遥だ。

しかし、違和感があった。

こんな時間に突然訪ねてくるというのも、これまでの遥には存在しなかった行動パターンだ。

「……何かトラブルでもあった?悪い報告はお腹一杯なんだけど」

「トラブル、っていうか……ねえ凛、一昨日の唄子の部屋の最終回って、見てない?」

「気にはなったけど、そんなヒマあるわけないでしょ。アイドルスターの諸々と男性保護法の改正が合わさって大わらわよ、こっちは。今日の新聞だってこれから流し読みするところよ」

「道理で」

肩を竦める遙に、凛はジト目を向ける。

「アンタねぇ、アポくらいとりなさいな。私自宅に泊まらないことの方が多いの知ってるでしょう」

「わたしもここ三日間はアポ取る時間も無いくらいだったのよ。でも、相変わらず文部次官様も激務みたいね」

そう言って微笑を浮かべる女の様子は、やはりおかしかった。

遥という女性は、こんな魅力的な笑みを浮かべる女性だっただろうか。

「……アンタ、危ないクスリにでも手を出したんじゃないでしょうね」

眉間の皺を深くして、凛は問う。

「なんでよ」

「なんか、いやに元気じゃないの。目の光が違うわ」

キラキラっていうかギラギラしてるわよ、と続けた凛の言葉を聞くと、遥はころころと笑った。

「うふふ、そう?ギラギラ?」

「ええ。何かあったの?」

「そうねぇ。私の目に光があるとしたら、それは――」

遥はそこで言葉を切ると、凛をまっすぐに見据えて続けた。

 

「輝くものを見たからよ」

 

きらめく瞳が、凛を引きつけた。

 

「――ちょっといいお酒持ってきたの。久しぶりに付き合わない?」

遥は手に下げた紙袋を持ち上げる。高級そうなボトルが見えた。

我知らず遥の顔に見入っていた凛は、そこで気を取り直した。

「え?あ、宅飲み?私の家何もないの知ってるでしょ」

大して飲みもしない酒のつまみを常備しておくほどマメな性格なら、固形栄養食なぞ買い込まない。冷蔵庫に入っているのは飲料水程度のものだった。

「ビデオデッキはあったわよね?」

「ビデオデッキ?あるけど、テープは国会とかのだけよ」

「大丈夫、そっちは自前で持ってきたから」

「テープを?なーに、酒のつまみになるほど面白い番組でも出来たわけ?」

「それは見てのお楽しみ」

遥は意味深に口角を釣り上げた。

「ふぅん。貴重な睡眠時間削るんだから、ちょっとは期待させてもらうわよ」

少しひねたことを言いながらも、凛はどこかほっとしていた。

遙に会う直前、良くない思考に陥っていたように思う。だけど今は気が紛れていた。

友人とは得難いものだ。

 

――うん、そうね。テープに期待をするわけじゃないけど、最近は遥と飲むことも無かったし。友達との付き合いが仕事だけなんていうのはつまらないわ。

 

そんなことを考えながら、ちらりと隣を歩く遥の顔を見る。

やはりその表情は明るく輝いていた。

何があったのかはわからない。しかし、見ているだけで元気をもらえるような顔だ。

例えるなら、昏睡病から最も遠い存在である女児が、とっておきのプレゼントをもらった時のような。

 

――なんだかよく分からないけど、きっと楽しいお酒になるわね。

 

凛は久しぶりに微笑を浮かべ、官舎の門を潜った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、三時間後――

 

 

 

 

「んはああああああ!シゲル様ァァァァアッ!!」

 

「何度聞いても最ッ高……!」

 

凛はエビぞりで悶え、遥はうっとりと目を閉じていた。

「遥ァ!『ロケット』もう一回行きましょ!」

「いやいや『マッハカナブン』でしょ!」

「『マッハカナブン』は『ロケット』でテンション上げてからでしょ!」

「もうマックスでしょテンションは!」

「いいから『ロケット』!わたしのテレビとビデオよ!」

「わたしの持ってきたビデオテープよ!」

ふたりはぎゃーぎゃー言い合いながら巻き戻しボタンの所有権を主張し合う。

 

 

 

言うまでもなく、貴重な睡眠時間とやらは丸めてポイされた。

 

 

 

 

 



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10話

 

 

 

凛は心に鋼鉄の鎧を纏ってその会談に臨んでいた。大砲で打たれてもビクともしないような、重厚な鎧を。

遥に頼み込んで実現したこの会談を、何としても成功させるために。

 

――だが、手の震えは収まらなかった。心臓の鼓動は早鐘のようだ。大国アステカの大統領との会食時よりも緊張している。

慣れ親しんだ文部省庁舎の一室であるというのに、幻の中にいるような非現実感があった。

 

何故なら、今目の前にいるのは――

 

「初めまして、シゲル様。私、駿河凛と申します。蓬莱の事務次官を務めております」

 

恐らくは救世の英雄となるであろう、櫻崎シゲルその人だからだ。

 

ごく普通のジーンズとシャツでは、その完璧なスタイルと顔面、あふれ出るオーラとカリスマ性を一ミリたりとも隠せていない。

「おう、俺は櫻崎シゲル。よろしくな!」

「!」

大きな手と握手を交わした瞬間、脳内に走ったスパークで、心の鎧は木っ端微塵になった。

顔が真っ赤になるのが、自分で分かった。

「よっ、よよよ、よろしくお願いいたします!」

手汗は大丈夫だろうか。さりげなくスーツの後ろで拭ってから握手したのだが、上等な仕立てのスーツは吸水性という点では最悪だった。

くすくす笑う遥が鬱陶しかった。

――ちくしょう、余裕を見せやがって!アンタだってシゲル様と初めて会ったときは絶対醜態さらしたに違いないのに!

シゲルにバレないように遥を一瞬だけ睨み付け、凛は咳ばらいを一つ。

「ごほん。おおよその話は遥から聞いております。荒唐無稽で、しかし信憑性のある話でした」

「おっ、ってえことは信じてくれたのかい?」

「はい」

凛は即答する。目の前の男性が異世界からやってきたという話を、凛は一切疑っていなかった。親友である遥から幾つかの証拠と共に滾々と説得されたからというのもあるが――こんな女性の夢と理想をこねて出来上がったようなファンタジーな人物がこの世界のどこかにいたと考える方がよほど非現実的だったからだ。

凛はごくりと唾を飲み込み、シゲルを見据える。

――ぐうっ、超かっこいい!ビデオより十割増しでカッコいい!美の化身よ、この方!

だが見とれてばかりもいられない。凛はぐっと歯を食いしばり、本題を切り出すことにした。

「シゲル様、遥からこの会談の目的は聞いておられますか?」

「ああ。俺に頼みがあるって言ってたな」

「はい」

凛は頷く。

――昏睡病撲滅。眼前の英雄の全面的な協力があれば、その夢物語が現実のものとなるかもしれなかった。

 

しかし――

 

「――その上で、シゲル様にお尋ねしたいことがあります」

「何だい」

 

「貴方様は、この蓬莱に何をお望みになられますか?」

 

――労働には対価が必要だ。

 

しかし、この奇跡のような男性に支払える対価など凛には思いつかない。

富、名声。昏睡病の無い世界の住人であるならば、あるいは美女ということもあり得るのだろうか。

だが、例えそれがどんなものであろうと、凛は用意する覚悟があった。自らの命すらも惜しくない。それと引き換えにこの男性の助力を得られるならば、凛は喜んで崖から身を投げるだろう。

凛は文字通り決死の覚悟を表情に滲ませていた。

その凛の様子に、何を感じたのか――

僅かな間をおいて、シゲルは口を開いた。

「――俺にはよ。たった一つだけど、どでかい夢があるんだ。前世でも、こっちでも変わらずにな」

シゲルはそういうと、窓の外へと視線を映した。

その眼差しは庁舎の中庭を超えて、ここではないどこかを見ているようだった。

「……その夢とは?」

凛が問う。

その問いに、シゲルは照れたような笑みを浮かべ、

 

「――世界中の皆に、俺の音楽を聞いてもらうことさ!」

 

そう言い放った。

シゲルが視線を戻す。

その目は鏡のように澄み切っていて、どこまでも真摯だった。

 

「だからよ。手伝っちゃくれねえか?」

 

――それ以外に、望みは無いから。

 

そんなシゲルの心の声が聞こえたような気がした。

「……願っても無いことです」

凛は溢れ出そうな涙を堪え、深々と頭を下げた。

 

 

 

この日、蓬莱とシゲルは手を取り合った。

蓬莱は翼となり、シゲルを世界へと羽ばたかせていくことになる。

 

 

 

 

 



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11話

かつて帝という存在は、神と交信することができたという。

太古の昔は神の声を聴いた帝が民を導くことで、様々な災いから逃れることができた――というのは、殆ど神話の話だ。

帝の神性は薄れて久しい。現代においては蓬莱の象徴として、国事行為や式典に参加することが主な役割となっている。

しかし、今もなお蓬莱人の畏敬を集める存在であることは間違いない。

なにしろ蓬莱は二千年という歴史の中で、一度たりとも帝の血を絶やしたことがないのだ。少なくとも、記録の上では。

だが、その二千年の重みをもつ血脈は、今や風前の灯火となっていた。

 

 

 

 

 

容態の急変した帝の為に、御典医が呼ばれてから数時間。

ようやく夜御殿から退室した御典医は、暗く沈んだ様子で女官長の命子といくつか言葉を交わすと、肩を落としてその場を後にした。

俯いて唇を噛みしめる命子に、高位女官の史が静かに近づいて問う。

「御典医は、何と?」

「――レベル3の後期昏睡病症状に酷似している、と」

血を吐くような命子の言葉に、史はゆらりとふらついた。

「おいたわしい……まだ十にもならぬというのに」

「どうにも症状が特殊で……奇妙に進行が早く、このまま目覚めないとしても何の不思議もない、とのことじゃ」

「なんという……」

史は涙があふれるのを自覚したが、すんでのところで流れるのを堪えた。

早逝した先代帝に代わって、母親のように帝を育てていた目の前の命子が、必死に涙をこらえているからだ。

「……女官たちには?」

「伝えねばなるまい。誰か外に出ているか?」

「今日は宮子が外出届を出しておりましたが、確かそろそろ帰宅する予定の筈です。残り十人の女官は、みな局にいるかと」

「うむ。では――」

 

「――命子さま!」

 

慌ただしい足音と共にやってきたのは、高位女官の最後の一人、東であった。

はしたない所作に命子は眉を顰める。

「東、何事じゃ。夜御殿の前にあるぞ」

「もっ、申し訳ありませぬ!緊急事態ゆえ!今しがた、駿河の使いと名乗るものが参りまして!」

「駿河の使い?文部次官の駿河凛か?……その者は、名を名乗らなかったのかえ?」

「不思議なことに、そうなのです。色眼鏡とマスクをして、まるで顔を隠すような風体をしておりました。とはいえ、文科官僚の鈴木涼子に間違いないように見えましたが……」

「ふむ、面妖な。それでその者が如何したと?」

「こ、これを届けに!」

東が持っているのは、一本のビデオテープであった。

「ビデオテープですか?」

「は、はい!信じがたい話なのですが、なんでも『昏睡病に効果のある映像』が収められていると!」

「昏睡病に、効果……!?」

「なんと、まことですか?!」

 

その言葉に一瞬色めき立った命子と史だが、すぐに肩を落とす。

悄然とした様子の二人に狼狽えた東は、慌てて口を開く。

「どうなされました!早う帝にこのビデオをお見せせねば!」

「――嘘か誠か分かねども、眠りに就いたままではビデオは見れまい」

「そんなもの、不敬を承知でもお起こしし――」

言いさした東の脳裏を、先ほどすれ違った御典医の姿が過った。

蒼白な顔でとぼとぼと歩いていた、その姿が意味するのは――

「まさかっ」

「帝は、もう目覚めぬ可能性があると」

「おおお……」

東はへなへなとその場にくずおれた。

沈黙が辺りを支配しようとしたが、命子は眉根を寄せながらも口を開いた。

 

「――御典医は帝の症状は特殊じゃと申しておった。もう目覚めぬと決まったわけでもない」

 

御典医の言う『特殊』が『重篤化の速度が特殊』であるということを理解しつつも、命子はそう口にする。

仮初でも希望を持っていたかった。二人の高位女官も気持ちは同じなのか、静かに頷く。

「命子さまの仰る通り。我々が諦めて何とするのです」

「は、はい。その通りですとも!」

東が空元気を出しながら立ち上がる。

その東がまだつかんだままのテープに、命子は懐疑的な視線を向けた。

「……それにしても、昏睡病に効果のある映像とな?にわかには信じられぬが」

「わたしも同感ですが、先方は確かにそう申しました」

「外連では?」

「駿河は信頼できる官吏ぞ。『効果のある可能性』ではなく『効果のある』と申したのであれば、そこには確信があるのじゃろう」

「一体どんな映像が収められているのでしょう」

「先方はかなり急いでいたようで、詳しい話を聞く間もなくとんぼ返りして行きました。――ただ、」

「ただ?」

「櫻崎シゲルなる人物が映っていると、それだけは」

「ふむ?存じておるか、史」

「いえ、寡聞にして……しかし何にしろ、この宮廷には再生機器がございません」

「む?確か寄贈品のテレビとビデオが居間に――あ、壊れておったか」

「はい。使うものもおりませんで、そのままでございます」

「むぅ。早急に修理を頼まねばなるまいな。帝が目覚められたら即座にお見せせねばならぬ」

「手配しておきましょう」

 

「あ、ビデオと言えば――宮子なのですが」

 

ぽんと手を打ち、不意に史が切り出した。新たに宮廷女官として迎えられたばかりの娘の名を聞いて、命子は首を傾げた。

「あの娘がどうした?」

「何やら先日ビデオがどうこうと申しておりませんでしたか?」

「ああ――うむ。何やら自室でテレビとビデオが使いたいから、屋根裏の配線を弄ってもよいかと尋ねてきおった。許可は出したぞ」

史が眉を顰める。

「や、屋根裏の配線?それは電器屋の仕事ではないのですか?」

「相変わらず謎の行動力がありますね、あの娘は。ですが素人の配線工事など危険なのでは?」

「別段資格の必要な行為ではないらしい。とはいえわらわも心配になった故、後ほど様子を見に行ったのじゃが、『万事うまくいきました』とのことじゃった。案外器用なようじゃのう」

「その器用さを仕事にも活かしてもらいたいものですが……」

史の言葉に、緊迫していた空気が微かに和んだ。命子は僅かに口元をほころばせる。

「確かにあれは粗忽者じゃが、不思議と人を和ませる空気を纏っておる。長い目で見てやれ」

「はい」

史も目元を和らげて頷く。

そこで東が、あ、と声を漏らす。話題の女官を、先ほど見かけたのを思い出したのだ。

 

「……そういえば、先ほど玄関先に宮子を見かけたのですが、何やら一抱えもある大きな荷物を背負って――」

 

東がそんな話を口に上らせた時であった。

 

 

 

 

 

 

「――だれか、おるか」

 

 

 

 

 

 

夜御殿から、声が響いたのは。

 

 

「「「!?」」」

 

三人は弾かれたように顔を見合わせると、慌てて夜御殿へと突入した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

____________________________________________

 

 

 

 

 

深く静かな声が聞こえる。

 

『――眠れ』

 

いつもの声だ。

美しい声色の背後に、人智を超えた圧倒的な存在感がある。

 

『穏やかに』

 

今は亡き母の声を聴いているかのように、心が安らぐ。

純白の虚無に揺蕩っているこの瞬間が、ずっと続けばいいとすら思う。

 

 

『――とこしえに』

 

 

逆らう気は、起きない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『どっこいそうはいかないのよね!』

 

 

 

 

――突如、声が増えた。

 

わらわは面食らう。

声が聞こえるようになって二年が経つが、別の声が聞こえたのは初めてだった。

『――貴様!どうやってここに!』

『おーほほほほっ、芸術の神なめんじゃないわよ!二百年もあれば、依り代に語り掛けるくらいの信仰パワーは集まっちゃうのよね!』

『相次ぐ横紙破り……!最早許されぬぞ!』

『あんたにだけは言われたくはないわ!』

 

二つの声が喧嘩を始める。

 

『大体ネチネチネチネチしつっこいのよあんた!あの男はこの世界にはいないんだから、人の子を巻き込むんじゃありません!』

『ほざくな!わたしは神としての責務を果たしているだけだ!』

『なーにが責務よ!ただの八つ当たりでしょ!』

『八つ当たり、だと……!』

 

大変な大声の口喧嘩だった。

 

『ええい、こんな女の言うことに耳を貸してはならん!眠れ人の子!』

『眠っちゃだめよ人の子!起きてれば楽しいこといっぱいあるわよ!』

『いい加減なことを吹き込むな!――人の子よ、浮き世は地獄だ。私の声に従い、眠りにつくのだ!』

『そんなことないですぅー!人の子、送られてきたビデオ見てみなさいビデオ!すっごいの映ってるから!今しがたそこに届いたから!』

『邪神の言うことに惑わされてはならんぞ、人の子よ!』

『だぁーれが邪神かっ!こうなりゃ徹底的に邪魔してやるんだから!ほぉーらじゃんがじゃんがじゃんがじゃんが!』

すごく騒々しい琵琶の音が聞こえる。

『やめよ、やめぬか!ええいやかましい!人の子よ気にせず眠れ!眠るのだ!』

『眠っちゃだめよ!』

二つの声は平行線だ。

どちらの声にもただならぬ神気が漂っている。どちらに従えばいいのかわからない。

だが――

 

「あの、申しわけございません。うるさくて眠れませぬ」

 

姦しい口論に加えて琵琶の音。

どちらが正しいのかはともかく、眠りにつくのは不可能だった。

 

『――あ!』

『あ、そりゃそうよね!や、やったぁ作戦勝ちー!やーいばーかばーか!』

『ぐ、ぐぬぬぬぬぬ!』

 

二つの声が、だんだんと遠ざかっていく。

目が覚めようとしていた。

 

 

 

 

 

 

「――だれか、おるか」

 

 

見慣れた天井を見上げながら声を上げる。

随分久しぶりに声を出したような気がする。掠れていたが、どうにか聞こえたらしい。慌ただしい足音と共に三人の高位女官が入室してくる。

 

「おお、おお!」

「帝――!」

「お目覚めになられましたか!」

 

三人とも目に涙を浮かべている。

密かに親のように慕っている命子が泣いているとこちらも悲しくなってしまう。涙の理由を問いたいところだったが、わらわは夢の中の出来事を思い出していた。

 

あのただならぬ神々しさの女性は、何と言っていたか。

 

 

――そう。たしか――

 

 

 

「びでおはどこか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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12話

下っ端宮廷女官・神宮寺宮子視点


 

 

日曜日。

目の前にでーんと鎮座する17型のテレビデオを見て、わたしは口元を緩める。

まったく危ないところだったと言わざるを得ない。昨日から街中の電器屋を総当たりして、ディスプレイ用の一つを必死の説得で売ってもらえたのは最後の一軒だった。

電器屋さんいわく飛脚便はここ二日地獄を見てるとかで、宅配を頼んでも届くのはいつになるか分からないとのことだった。当然そんなの待ってられないので、わたしはタクシーを使って自分で持ち帰った。

賭けてもいいが、テレビの品薄は当分続く。買おうと思っても買えない日々が蓬莱淑女を待っている。これは予想じゃなくて確信だった。

それくらい、櫻崎シゲル様の存在は大きい。

木曜日、あの運命の日――私物を取りに実家に戻り、そのまま夕食後までだらだら残っていたのはまさに神懸り的といえた。そのおかげで、ほんの僅かだけ他の人より先を行くことができたから。

職場兼住み込み先である帝居にも寄贈品の大きなテレビはあるのだが、半年前に故障してから直していないらしい。見る者がいないのに無駄な出費をする必要はない、というのが理由だそうだ。宮廷はしぶちんである。

ともかく、何も映らないデカい箱になんて興味はない。

わたしにはコンパクトでもビデオデッキ内蔵のこの子がいる!

うーん、機能的なフォルム。ステキ。

テレビデオというのはかさばるテレビとビデオデッキを一体化させた画期的な商品なんだけど、いくつかの問題があって普及には至らなかった代物らしい。割と致命的だったのは、ビデオデッキが壊れて修理に出そうとすると、その間テレビも見れなくなってしまう点だと電器屋さんは説明してくれた。

 

――しかし!わたしにはそんなの関係ない!

 

何故なら、修理中は実家にテレビを見に行けばいいだけだから!

職場と実家が近いというのは正義なのだ。

 

さて、お気に入りの家具には名前を付けるのが宮子流だ。

帝居の居間にある壊れたテレビに比べれば随分小さいその姿を見ていると、すぐに名前が思い浮かんだ。

「命名!ちっちゃいし、ティーヴィーだから、チビちゃん!――これからよろしくね、チビちゃん」

チビちゃんを撫でて、わたしはにんまり笑う。

さぁ、これで準備は整った。

女官長様に許可を取り、昨日のうちに屋根裏の映像ケーブルには分配器を取り付けてある。本来電器屋さんに頼むものだけど、それだといつになるか分からなかったので、わたしは自分で施工した。

電気工事のような真似がわたしに出来るかは不安だったけど、燃え盛るシゲル様への愛が不可能を可能にした。というか電器屋さんの説明通りやってみたら案外難しくなかった。

分配器から自室の押し入れ上まで持ってきた映像ケーブルは、今テレビの傍らまで伸びている。

わたしはケーブルをテレビに、電源プラグをコンセントに差し込むと、いよいよテレビのスイッチに手を伸ばす。

緊張の一瞬だ。

「さぁて、ちゃんと映ってねー!」

 

ぽちっとな!

 

とスイッチを押した瞬間、凄い勢いで自室の襖が開かれた。

 

えっえっ、何その機能?!テレビのスイッチって襖と連動してるの?!

とか思ったけど、単に女官長様が襖を開けただけだった。

だけど普段冷静沈着の四字熟語が服着て歩いているような命子様は、今は目を血走らせていた。

礼儀作法の権化たるお方が、声もかけずに襖を開けるというのもおかしい。

切れ長の眼を今は限界まで見開いている命子様は、がぱっと口を開いて声を発した。

 

「てれびは、ここかぁ!」

 

金切声だ。

えっ、ちょうこわい。何なの?!

「こっ、これは良いテレビですよ!?」

ただならぬ殺気に、わたしはチビちゃんを背後にかばってそう口走る。

しかし女官長様は聞く耳を持たない。迷いのない足取りでずんずん近づいてきて、私の前でぐわっと両手を広げる。

アリクイの威嚇のポーズだ……!

「のけ、宮子!そのてれびに、蓬莱の未来がかかっているのじゃ!」

「えっ!?な、なんで!?チビちゃんそんなの荷が重いです!」

変なもん背負わせないで!こんなに小さな子なんです!

「いいからのけい!」

「だっ、ダメですよ!この子に乱暴する気なんですね?!」

恐るべき力で迫りくる女官長様をこちらも必死に押し返す。

すると、襖から新たな人影がひょっこり顔を出した。

極めて小さな頭。背中まで伸びた長い黒髪。

人形のように整っているが、長患いで頬から肉の落ちてしまったそのご尊顔は、まごうことなく――

「帝ぉ!?」

我らが女官の主であった。

高位女官二人に介助されながらも、帝は自らの脚で立ち、歩いている。

「うわあっ!?帝が起きて歩いてる!?おっ、おはようございますっ?!」

「おはよう」

あわわ帝の生声聞いちゃったよ?!

帝は私が研修を始めたころには既にレベル3の昏睡病に似た症状に陥っていて、自ら食事をとることすらできず、一日の大半を眠って過ごしていた。勿論声を聞いたことなどない。というかほとんどの蓬莱人はラジオを通してしか帝の声を聞いたことはないだろう。

ふふふ、これは真美ちゃんに自慢案件!

――なんてことを考えてる場合じゃなかった。

レベル3の昏睡病患者が自発的に言葉を発するなんて奇跡なのだ。原因は不明だが、今帝の病状は上向いている。この機を逃してはならない。

「女官長様、一大事ですよ!テレビにかまけている場合ですか?!早くご典医を!」

「一大事だからこそてれびにかまけるのじゃ!この駿河より託されたびでおを、帝の意識のあるうちにお見せせねばならぬ!」

「ええっなんですかそのビデオ?!」

「知らぬ!だが、櫻崎シゲルなるものが映っていると――」

 

「特効薬じゃん!」

 

わたしの手が鞭のように伸びてビデオを掠め取った。

呆気にとられる女官長様を放置し、チビちゃんにビデオをセットする。

スムーズにビデオを飲み込んだチビちゃんが、その小さな画面いっぱいに一昨日十回繰り返し見たシーンを再生する。

 

『唄子の部屋』最終回だ!

 

「そっかー!そうだよね!誰よりもまず昏睡病患者に見せるべきだよ!」

わたしは一人頷きまくる。駿河から託された、っていうのは文部次官の駿河凛さんのことだろう。なるほど、文科省ならテレビ番組にも精通してるわけね。

それにしても流石エリート中のエリートだ。シゲル様のことを知って即座に昏睡病の治療に結びつけるなんて!

わたしはシゲル様のことで頭が一杯でそんなこと考えもしなかった!

一ミリも!

「ほらほら早く座ってください!すぐ歌が始まるんですから!」

呆然と立ち尽くす四人を八畳の自室に引っ張り込む。

あ、座布団が一個しかない。帝に使ってもらおう。

「はい帝。お座りになってくださいな」

「うん」

帝は素直に頷いて、座布団にぺたんと座り込んだ。可愛い。

頭を撫でたくなるけど我慢しよう。女官長様の鉄拳が飛んでくる気がする。

わたしも腰を落ち着けると、いよいよシゲル様の歌が始まるところだった。

まずは『ロケット』!テンポの速いわくわくする曲だ。

置いてかれないように気合いれてかなきゃ!

 

 

 

 

 

 

 

 

四人が呆気にとられていたのは僅かな時間だった。

 

一曲目で頬を紅潮させ。

 

二曲目で目を輝かせ。

 

三曲目で黄色い歓声を上げ。

 

四曲目で騒ぎを聞きつけた他の女官たちが集まって――

 

十曲目が終わるころには私の八畳間は熱狂に包まれていた。

 

 

 

 

 

「すっごい!なんていうかもう、すごい!とにかくすごくて――ごっ、語彙が溶けてく!」

「こんな男性がこの世に存在したのですか?!夢ではありませんの?!」

「宮子ちゃん、もう一回もう一回!」

「ええい、静まらぬか!シゲル様の声が聞こえぬであろう!!」

「めいこ、おぬしもうるさい」

「宮子早く巻き戻してよ!出来るんでしょ?!」

「あーはいはい」

 

 

 

 

 

 

 

この日、女官たちと帝の症状は劇的に回復したけど、チビちゃんは過労死するところだった。

 

 

 



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13話

 

 

 

「採用です、駿河さん」

 

櫻崎シゲル様のもたらす音楽を国家として強力にバックアップ――という見出しを見ただけで、蓬莱国首相阿藤寛子は即答した。座布団のように分厚い資料はろくに目も通さない。

「首相。判断が早すぎでは」

凛が苦笑いと共に言うものの、鉄の女の異名をとる女傑は一顧だにしない。

「遅いくらいでしょう。本来であれば唄子の部屋最終回と同時に決定しているべきでした」

ビデオの存在を知ったのが昨日だったのが悔やまれます、と寛子がこぼす。

「とにかく、男性のテレビ出演と肖像権絡みの法律に特例を設けなくてはなりません。――少なくとも、レベル1後期程度の昏睡病であれば、あのビデオは一度で完治させてしまうのだから」

その身をもって体感したのだろう。ウェリントン型の透明なガラスは、寛子の目に宿った光を全く隠せていなかった。

「スピード勝負です。今この瞬間にも昏睡病の進行は進んでいる。患者がレベル3になる前に、何としても再放送はしなくてはなりません」

寛子の言葉に、凛は力強く頷く。その瞳に決意を乗せて。

「私を含め、首も懲役も覚悟で再放送に踏み切ろうとしている者は多いです。何人かの犠牲を覚悟すれば、再放送自体は即座に可能ですが」

「それをするとこの計画は最初の一歩目からケチがつくことになるわ。無法を押し通せば瑕疵が残るもの。あのお方の足跡には一片の曇りすら必要ありません」

凛の提案を、寛子は断固として拒否した。

そもそも政府が大っぴらに法を無視するわけにはいかない。それは悪しき前例となって、後々の蓬莱を蝕むことになるからだ。

しかし、今が緊急事態であるのも事実。悩ましい問題に、寛子は眉間に皺を寄せる。

「……とはいえ昏睡病の対策は一分一秒を争っているのも正直なところ。せめて複製したビデオを各地の医療機関に送り届けたいところですが――」

寛子は口を噤む。残念ながらそれは明確な法律違反である。肖像権の侵害に当たってしまうのだった。

二世紀前までは蓬莱において肖像権を定めた法律は存在しなかったが、男性保護法が生まれてからは話が違う。肖像権の侵害は立派な違法行為になった。

とはいえ本来本人の許可があれば抵触しない筈の法だ。しかし、男性保護法が絡むと話が違ってくる。何せ男性は物心ついたころには昏睡病に侵されてしまう。ある程度年齢を重ねると、自らの意思を示すことすらできなくなってしまうのだ。

故に、当人の意思に関わらず男性はガチガチに保護される。――その肖像権に関しても。

しかし今は、男性を守るはずの法がシゲルの動きを阻んでしまっていた。

「――皮肉なものね」

「仕方ありません。進んでテレビに出ようとする男性の存在は、我々の想像の埒外でした」

「そうね。特例を設ける必要がありますが、臨時国会を開かねばなりません。……ですが、『軽々に男性を利用するべきではない』と内侍省あたりが声を上げそうですね」

寛子はため息を吐く。帝に侍るという性質上高いモラルが求められる内侍省のみならず、男性の権利を声高に訴える議員は数多い。スムーズに特例が認められるかは疑問だった。

しかし、寛子のその見解に、凛は即座に口をはさんだ。

「いえ。もしかすると、内侍省は障害にならないかもしれません」

「――?それは、何故?」

「……出本不明のビデオが、今頃宮廷に届いているはずですから」

寛子はぴたりと動きを止めた。その言葉の意味するところを瞬時に、正確に理解したからだ。

――国家として公にビデオを配布することができなくとも、『謎の第三者』の仕業であれば。

届けられたビデオをチェックするのは、送り先の勝手だ。

そして、シゲルの姿を見て、その歌を聞いた者がどんな感想を持つか、寛子にはありありと想像できた。

「……なるほど」

両手の指を組んだ寛子が眼鏡を光らせる。

「医療機関や、障害になりそうな議員にも届いたりして、ね?」

「根拠のない勘で申し訳ありませんが、誰かがすでに手配している予感がします」

「その誰かさんにお礼を言ってあげたいわ」

寛子のセリフに、凛は答えず曖昧な笑みを浮かべた。

いうまでもなく、凛が渡っているのは危ない橋だった。事が露見したときに、いの一番に責任を取らされるのは凛だろう。

 

――だが、この若き俊英をここで失うわけにはいかない。その損失は蓬莱にとって決して無視できない痛手となる。

 

「国民の為に英断を下した蓬莱テレビや『誰かさん』に割を食わせるわけにはいかないわね」

 

くいっと眼鏡の位置を正すと、寛子は胸を張るようにして椅子に凭れ掛かる。

 

「特例は通すし、遡及適用も認めさせるわ」

 

断固として言い切った寛子の顔は、不敵にほほ笑んでいた。

 

凛は鉄の女の笑みというものを初めて見た。

 

その細面には、一国の首相に相応しい凄味が漲っていた。

 

自国のトップの風格に満足を覚えながら、凛は問う。

「首相の見立てでは、特例が通るまでどれくらいの時間が必要になりますか?」

「最速で月末になるかしら」

――素晴らしい速度だ。恐らくは希望的観測ではなく、阿藤首相はその政治的剛腕で最速を実現するだろう。

しかし、足りない。

「驚くべき速度ですが、人類には頓服薬が必要です」

「それはわかるけれど――テレビ放送ができない現状、どうやって頓服薬を用意するというの?」

「資料の14ページをご覧ください」

寛子は資料に視線を落とすと、小首を傾げた。

「……ラジオ番組?」

凛は頷く。

櫻崎シゲル様をメインパーソナリティに据えたラジオ番組計画――資料にはそう記載されている。

「検証の結果、ラジオ番組であれば肖像権の問題を潜り抜けることが可能です」

二世紀の間著作権に関しては手付かずだったのが幸いした形だった。ラジオであれば放送の手続きは容易である。

凛の言葉に、寛子はなるほどと呟く。

「確かにテレビの普及率は三割程度。現段階で全ての家庭にシゲル様の音楽を届けようと思えば、ほぼ100%の普及率を誇るラジオを利用するのは理に適っているわね」

「はい。そもそも電化製品の製造ラインというものは即座に出来上がるものでもありません。これから工場がフル回転するとしても、全ての国民にテレビが行き渡るにはしばしの時間が必要になるでしょう」

「道理だわ」

寛子は頷く。

しかし、懸念もあった。

「――でも、シゲル様のご尊顔抜きでも効果はあるの?」

そのことである。

寛子がビデオを見たとき、まずビジュアルで度肝を抜かれた。あれほど美しい男性というのは、もはや一種の暴力であるとすら感じた。あのインパクトが昏睡病の回復に一役買ったというのは想像に難くない。

だが、凛は力強く頷いて見せた。

「あります。ビデオほどの効果は見られませんでしたが、音声だけでもレベル1患者の回復を確認しています」

検証済みらしい。流石に仕事が早い。

寛子は湧き上がる喜びの念を禁じえなかった。今のレベル1は将来のレベル4だ。それを回復させることの意味は、果てしなく大きい。

「政府は助力を惜しみません。早急にラジオ番組を開始して頂戴」

「承知しました」

 

「それと――」

 

寛子は一つ咳ばらいをすると、さり気ない風を装って言った。

「次にシゲル様と会合をすることがあれば、私にも声をかけるように」

 

――死んでも出るから。

 

寛子の声なき声を、凛は確かに聞いた気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 



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14話

 

櫻崎シゲルのぉ、シゲルラジオォッ!

ラジオの前の君、元気してるかい?もしも元気がないのなら、俺のをちょいと持ってきな。お聞きの通り、俺は今日も絶好調だからよ!

さて、早いもんで三回目となったシゲラジだけど――いやー、ありがたいことに大反響みたいでな。週二回のペースで三回目だから、ラジオ開始から十日ばっかりしか経ってねえんだが――お便りの数がすげえんだこれが。ハガキで蓬莱ラジオ局が埋まっちまうんじゃねえかって心配だよ、俺は。

おっとそうそう、まずこれ言っておかねえとな。今日、とある質問にようやく答えられるようになったから、この場で発表するぜ。

質問の内容は、唄子の部屋最終回の再放送はしていただけるのですか、ってぇやつだ。滅茶苦茶多い質問だ。大抵のハガキに書いてあるから。

これについてだけど、正式に再放送が決定した!来週木曜午後八時から、蓬莱テレビで放送だ!

ちょいと待たせちまって悪かったな!なんせ法律の問題が立ちはだかってよぉ。阿藤首相はじめ政治家の皆が頑張ってくれたから、なんとか放送することができるようになったんだ。いやぁ関係各位様に感謝感謝だぜ。

再放送される最終回だけど、先週のラジオでやった『風の歌』とか『ロケット』はこの時にも歌ってるから、興味があるなら是非見てくれよな。音質もラジオより良いはずだぜ。

 

 

さーて、じゃあお便り読んでいこうか。えーと、ペンネーム『24歳会社員』さん。……あのな。前回も言ったけど、ペンネームってもっと適当でいいんだぞ?なんだってみんな年齢と職業の組み合わせで送ってくるんだか……

えーと、『毎週楽しく拝聴しております』ありがとな!『一か月前にレベル1の昏睡病を宣告された私ですが、シゲル様の歌を繰り返し聞くようになってからみるみる症状が改善され、先日遂に寛解と診断されました』おお、おめでとさん!『私を昏睡病から解き放ってくれた名曲【君だけを見つめてる】のリクエストと共に、シゲル様に感謝の言葉を送らせていただきます。――本当にありがとうございました、シゲル様。貴方は私の、いえ、きっと蓬莱人全ての救世主です』

……わはは、大げさだなー!おい、24歳会社員さんよ!俺は好き勝手に歌っただけだぜ。お前さんが回復したのは、お前さんの心が昏睡病を跳ね除けたからさ。感謝の言葉は手前のハートに囁いてやりな!

 

――だけどリクエストのほうはきっちり聞かせてもらったぜ。そういやこれやるのは唄子の部屋以来だったな。

 

 

 

『君だけを見つめてる』!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シゲルのラジオ放送開始から僅か二週間。

 

 

蓬莱人はレベル1の昏睡病を克服した。

 

 

 

 

____________________________________________

 

 

高校教師・座間美智子視点

 

____________________________________________

 

 

 

私、座間美智子にとって、目覚めは憂鬱なものだった。

かつて抱いていた教育への情熱は失われて久しい。高校教師としての仕事はルーチンワークと化していて、何をしても心は石のように動かなかった。

二十代後半に差し掛かり、いよいよ昏睡病の足音が聞こえてきたのだろう。次の定期健診では、レベル1を申告されるかもしれない。

人工授精で設けた一人娘は、まだ八歳だった。十五歳の成人式を迎えるまでは何とか生きていたいが、今発症すればレベル3まではギリギリだろう。

最近は、目が覚める度に昏睡病が近づいてくる気がする。

だから、憂鬱――

 

 

 

――だったのは、二週間前までの話だ。

 

 

 

「かなめ!小学校遅刻しちゃうわよっ」

 

「んんーっ……」

 

私に布団をひっぺがされた愛娘は、不満げにむにゃむにゃ言いながら、のろのろと体を起こした。

「おかあさん……うー、もうこんな時間」

かなめは枕元の時計を一瞥すると、明らかに睡眠不足の顔で呟く。

 

――この娘、またやったわね。

 

「かなめ、貴女また夜更けまでビデオ見てたでしょう」

「ぎくっ」

 

律儀に口に出して、かなめが動きを硬直させる。

 

ビデオとは、つい二週間ほど前に我が校に齎された、『唄子の部屋』最終回が収められたビデオのことだ。神宮寺真美という一生徒が奇跡的に高画質で録画に成功したそれは、我が校においてペストよりも早く広まった。

噂が噂、ダビングがダビングを呼び――先週、ついに私もそのビデオを入手することができたのだ。

当然娘と一緒に即座に見た。

 

――もうね、母娘二人してシゲル様の虜。

 

真美さんは我が蓬莱第四学校の英雄として表彰してもいいと思う。まぁ近々『唄子の部屋』の再放送は決まったらしいけど――真美さんのお蔭で、我々は普通の蓬莱人より少し先を行くことができた。

そう。ラジオの放送より、ほんの僅かだけ先にシゲル様を知ることができた。この僅かの時間が、黄金よりも貴重だった。

このアドバンテージのお蔭で、テレビ、ビデオ、テープを何とか入手できたという者は多いから。

 

今電器屋さんに行っても商品棚に並んでいるのは虚無だけだ。シゲル様を知った蓬莱淑女たちがイナゴのように買い漁った後だから。

関連企業に政府のテコ入れが入ったらしいけど、電気製品がそんな簡単に増産できるとも思えない。品薄はまだしばらく続くだろう。

 

それにしても、教育番組目的でテレビとビデオを購入してあったのはまさに僥倖だった。そのおかげで自宅でシゲル様の御姿を拝むことができるのだから。

 

――とはいえ、小学生がこそこそと深夜まで見てるのは大問題!

 

「シゲル様を見たい気持ちは分かるけど、それでお寝坊なんて言語道断です!次私が起こす前に起きてなかったら、ビデオデッキは封印しますからね!」

「そ、それだけは!それだけはかんべんをー!」

愛娘がベッドの上で土下座する。芝居がかった滑稽な仕草に、怒り顔が自然と苦笑に変わってしまう。

「まったくもう――ご飯できてるから、顔洗って早く食べちゃいなさい」

「はーい!」

 

 

 

 

 

 

 

「おいしい!やっぱりおかあさんの卵焼きは世界一おいしい!」

パジャマ姿のまま朝食をぱくつくかなめの顔は、見てるこっちも嬉しくなるような笑顔だ。

「調子がいいんだから」

そういいつつ、私の口元は我知らず緩んでしまう。

シリアルや完全食に比べれば料理は手間だが、比較にならないほど美味しいし、何より我が子の笑みを見てしまうとかつての朝食に戻す気は起きなかった。

実際に三日前、時間がない朝に十日ぶりの完全食を食べることになったのだが――とても食事とは思われなかった。

――いや本当、あんなにマズかったかしら。明らかに昏睡病で味覚がどうにかしてたとしか思えない。なにあれ。土塊でしょ。

今となってはなぜあんなインスタント食品を食べていたのか心底不思議だった。

 

食事というのは、こんなに美味しく、楽しいのに。

 

「じゃあお母さんは先に出かけるからね。きちんと歯を磨いてから登校すること!」

 

「はぁい。いってらっしゃーい」

 

愛娘の声に背を押され、私は職場へと赴く。

 

 

 

外はいい天気。

 

今日もいい日になりそうだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まだ七時半だというのに、校門前は生徒で賑わっている。

ほんの十日ほど前まで、死んだように静かだった登校風景は、今や溌溂とした女子高生たちの社交場へと変貌していた。

 

「おはよっ!」

「おはよー!ねぇねぇ、昨日のシゲラジ聞いた?!」

「もっちろん、逃すわけないでしょー!十分前から正座待機してたよ!」

「だよねっ!わたしもわたしも!」

 

 

 

「ラジオじゃなくてラジカセ欲しいよー。昨日も結局録音できなかったし」

「永久保存しておきたいよねぇ」

「大丈夫!2-Aの理子さんに聞いたんだけど、カセットテープもダビングできるんだって!なんかライン出力――入力だっけ?とにかくそんな機能があるラジカセならテープ増やせるらしいよ!」

「――っていうことはつまり、シゲラジ初回から録音している人は沢山いるから――」

「焦る必要ないってことね」

「神の発明品じゃん。確かアステカで開発されたんだっけ?」

「そうそう。ジェーン・ホワイトっていう天才さんが、テレビ造る前に開発したんだって」

「あー、その人何か月か前にニュースになってたよね」

「昏睡病レベル3になっちゃった、ってのでしょ?『人類の大損失』って書いてあったの、新聞で見た記憶がある」

「――ちょっと不謹慎かもしれないけど、レベル3になるまでに色んな機械開発しておいてくれて、本当に感謝だね」

「うん。足向けて寝られないよ」

「ほんとだね。そのラジカセさえ買えば、また初回からシゲラジを楽しめるんだもん」

「……買えればね」

「……」

「……」

「……わたしさぁ、直ぐにでも第一回を聞きなおしたいんだけど」

「……そんなの皆そうよ」

「ラジカセ持ってる人のうちにお邪魔するしかないねー」

 

 

 

「唄子の部屋最終回、再放送だって!」

「ええ、ついに来たわね……!ダビングじゃなくて、オリジナルを手に入れる機会がっ!」

「ダビングって微妙に劣化するもんねー」

「見れるだけありがたいけど、やっぱり画質と音質にはこだわりたい!」

「テープは準備できてる?」

「抜かりないわよっ」

 

 

 

生徒たちの声は力に満ちていて、表情は満開の花のように瑞々しい。つい数週間前に比べれば、誰もがまるで別人だった。

同じ空間にいるだけで幸せになれるような空気を、十代の少女たちは全身に纏っていた。

 

――そうよね。きっと、今の生徒たちこそ、本来あるべき少女の姿なのよ。

 

最低限の挨拶をして、人形のように勉強と職業訓練をこなすだけ。そんな生徒を見る教師たちだって、無表情に知識と技術を詰め込むルーチンワークをこなすだけだった。

そんなの絶対間違ってるって、今なら思える。

 

 

おしゃべりが大好きで、眩しい笑顔で未来を語る少女たちを、正しく導くことが教師の本分!

 

 

「あ、座間先生。おはようございます!」

「おはようございまーす!」

 

教育の熱意を燃え上がらせ、肩で風を切って歩く私に、生徒たちが笑顔で朝の挨拶をしてくれる。

それでまたやる気がチャージされた。

私も笑顔で挨拶を返して、校舎内へと入っていく。

 

――さぁ、バリバリ働くわよー!

 

____________________________________________

 

 

 

 

 

蓬莱淑女は真面目だ。授業中の静けさは数週間前と大差ない。

違うのは休み時間に突入してからだ。生徒たちは礼を終えて着席した瞬間から、早朝の雀の群れもかくやというおしゃべりを再開する。

その内容といえば、ほとんどがシゲル様のことと――

 

「ううう、職業訓練の給料だけじゃお金たりない!」

「給料の前借できないかなー……」

「安心して、どうせお金があってもモノが無いから」

「いつになったら電器屋さんの在庫復活するのよー」

 

「駅前アーケードは全滅よ。もうどの店舗も『アルバイト募集』の張り紙はしてないわ」

「くぅぅ……桜通りに続いて、アーケードもかぁ」

「口入屋は?」

「どこの口入屋も口開けたピラニアみたいな学生たちがひしめき合ってるわ。整理券配られてるくらいよ」

 

「歩行者天国で手作りアクセサリーでも売る?」

「むりむり。ぜーったい材料費ペイできないって」

「やってみなきゃわかんないでしょー」

「いーえ、わかるわ。だって今この状況で、貴女だったら学生が作った路上のアクセサリーにお金使う?」

「うっ」

「そんなお金があったらテレビ貯金かビデオ貯金。もしくはラジカセ貯金でしょ。みーんなそうよ」

「ううっ、世知辛い」

 

金!金!金!だった。

淑女として恥ずかしくないのか!と一喝するものなど、影も形も見えない。

 

いま女子たちには金が無く、しかし確かな『元気』に満ち溢れていた。

 

――私には、それが何よりも得難いもののように思えた。

 

 

 

「あ、先生!ちょっと質問いいですか?」

 

次の授業の為に教室を去ろうとする私を呼び止める声があった。

振り返れば、そこにいるのは神宮寺真美さん。

「あら真美さん。もちろん、どうぞ」

贔屓といわれようが、彼女になら大抵の質問には答えるつもりだった。生徒たちだけでなく、教師たちのためにもダビング作業に骨を折ってくれた彼女を無下にするなど、蓬莱淑女としてあるまじき行為だ。

 

「あの――職練のコマが増えるって噂、本当ですか?」

 

真美さんが質問した瞬間、教室内のおしゃべりがぴたりと止んだ。

――なるほど。そんな噂があるなら、そりゃあ気になるわよね。

別段内緒にすることでもないので、私は即座に答えた。

「耳が早いですね。本当ですよ。文科省から通達がありました」

中学、高校には『職業訓練』――略して職練――とよばれる授業が存在する。

将来の勤め先候補に訓練生として勤め、そこで実務のイロハを教わるのが職練だ。午後の授業は丸々職業訓練に充てられている学校も多く、この蓬莱第四高等学校においても例外ではなかった。

ちなみに職練の時間には、ちゃんと給金がでる。もちろん仕事によって金額は変わるし、全額ではないけれど。

つまり真美さんの質問は、みんなのお財布事情に直結しているのだ。

「ほ、ほんとなんです!?やったあああ!お給料増えるぅ!」

私の答えに、真美さんは飛び上がって喜ぶ。他の生徒たちも次々と喜びの声を上げ、教室は沸きに沸いた。

 

……うーん、次のセリフを言うのが心苦しい。

 

「まぁコマが増えるのは来学期からですけどね」

 

「「「なんでええええ!?」」」

 

生徒たちは喜びの勢いをそのまま悲しみに転化した。すごい感情の振れ幅だ。シゲル様登場以前だとあり得ない。

はたから見てる分には――悪いんだけど、ちょっと面白い……

「職業訓練先の体制も変更しないといけませんし、学校側も学習指導要領の変更とか授業時数の調整なんかがありますからね。一朝一夕にはムリです」

「じゃ、じゃあわたしのラジカセ購入資金はどうしたらいいんですか?!」

半泣きで真美さんが詰め寄ってくるけど、私は目を逸らすしかない。

「休日にバイトする、とか……」

「求人募集なんてものは、今やテレビの在庫くらい珍しいんですよ!」

真美さんの悲痛な叫びに、教室中が賛同の声を上げはじめる。

「そうです!真美さんの言う通りなんです!」

「もうどこ探してもないんです!」

「職練では仕事にも慣れてきました。幾つか資格も取りました。一千万円の機材すら任されました!でも日曜になったら――駐車係の仕事すら無いんです!」

「財布の中身が見つからない……見つからないんです――テレビを買うまではちゃんとあったのに……」

テレビ買ったからでしょ!とはとても言えない愁嘆場が目の前に繰り広げられている。

私は慌てて声を張り上げた。

「安心してください!確かに今は求人が尽きているようですが――断言します。今だけです」

「え?」

「ごく近いうちに――百パーセント、確実に、あらゆる分野で人手が足りなくなります」

これは間違いのない情報だった。

蓬莱には今、シゲル様が起こした風が吹きはじめた。今はまだつむじ風で、家電の需要急増という分かりやすい現象に留まっているようだが――この風がその程度で収まるわけがない。いずれ蓬莱中を、いや世界をも巻き込む大旋風となる。

恐らくこれから訪れるのは、空前の好景気。需要が需要を呼び、雇用側は人手がいくらあっても足りなくなる。

 

つまるところ、じきに完全な売り手市場がやってくるから安心してください――と、私はそのようなことを述べた。

 

一瞬沈黙した真美さんはなるほどと呟いて――くわっと目を見開いた。

 

 

 

「でもわたしたち、今お金が欲しいんですよ!」

 

 

 

もっともだった。

 

私はやっぱり無言で目を逸らすしかなかった。

 

 

 



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15話

この一世紀の間、世界中のGDPは緩やかに、しかし確実に右肩下がりを続けていた。あらゆる国家はこの状況を打破すべく協力し合い、それでも解決することが出来ずにいた。

 

 

――櫻崎シゲルが登場するまでは。

 

 

凛は部下の鈴木涼子に手渡された資料に視線を落とし、わぁお、と小さく声を上げた。

記載されているのは去年からのGDPの概算。そこには直近一か月――つまり櫻崎シゲルが登場した後――のGDPも計上されていた。

無論、本来データの集計には時間がかかる。この直近の数値は正確なものではなく、かなりの割合で予想も含まれている。

 

――それを踏まえたうえでも、そのグラフは異常だった。

 

「すっごいわねー。V字回復っていうレベルじゃないわよこれ」

「下り坂に突然壁が出来たみたいなものですからね」

「オマケに壁の高さは今をもって上昇中、と」

凛はにんまりと笑みを浮かべる。

シゲルの登場はテレビ、ビデオのみならず、様々な物資への需要を急増させた。食料もそのうちの一つで、ほとんどの食材食品が飛ぶように売れている。結構な事だった。消費の活性は景気の活性である。

しかし、中には逆のグラフを書くものもあった。

「――完全食の売り上げ、大分落ちたわね」

資料の中にある右肩下がりのデータを見て、薄々予想はしてたけど、と凛は呟く。

完全食。昏睡病に対抗すべく世界中の企業協力の元に生み出されたブロック状の食品である。生産性、保存性に優れ、栄養面でも文句の付けようが無いという三方良しの食べ物だが、味は塩を振った粘土に近かった。コスト面でも優秀なこの食料は、しかし今蓬莱において急速に支持を失いつつある。

「はい。それに代わるように、やや高価な食品が飛ぶように売れています」

涼子の補足説明に、凛は「でしょうねえ」と返す。

 

――昏睡病は味覚を鈍らせる。これは間違いのない事実だった。

 

戦前から『気鬱の病は味覚障害を引き起こす』というデータは存在したが、昏睡病も例にもれなかった。完全食の味が変わった気がする、と言って検査を受けに来た人が昏睡病を宣告されるのはままあることである。

 

――そもそもこの世界の人間は、例外なく昏睡病に侵されていた。それは男女を問わず、生まれたときから昏睡病にり患しているのだ。昏睡病と診断されていない子供も、医師に発見できないだけであり、それはいわば『昏睡病レベル0』なのである。

ところがシゲルの登場によって、本当の意味で健康体を取り戻す人々が急増しだした。

 

それが何を意味するか――

 

「無理もないわよ。私も最近は完全食齧るたびにむなしい気分になるもの。たまに炊くごはんの美味しいこと美味しいこと」

「わかります。塩むすびにするだけで無限に食べられる気がしますからね……」

「そうなのよ。それでスーパーに米を買いに行くんだけど――」

「品薄ですよね。どこも」

「残念ながらね」

 

つまるところ、味覚の正常化による『まともな食材』の需要急増である。

 

「……ぜったい米不足になるわよコレ。小麦はまぁ、アステカからの輸入で何とかなるかもだけど」

「いえ、アステカにもシゲル様の存在を広めることを考えれば、下手すれば小麦も危ういのでは」

「小麦粉は完全食の原料なんだから、多分余るはずなのよ。完全食のシェアが縮小していけば、加工前の状態で店頭に並ぶことになるわけだから。おんなじ理由で卵とか大豆なんかもセーフね」

「なるほど。では、生鮮食品は……?」

涼子の質問に、凛は眉を顰める。

「……涼子。最近、スーパーでその手の品物買えたことある?」

「仕事終わりに向かうと、鮮魚、青果、精肉コーナーには『本日は売り切れました』のプレートしか置いてませんよ」

「それが答えよ。……諸々のデータ、早急に農水省にも共有させといて」

「承知しました」

凛は農水省の面々が急増する仕事量に頭を抱える姿を幻視しつつ、次の懸念点を涼子に問うことにする。

「インフレはどうなってる?」

「制御下にある、と言っていいでしょう。労働量自体が急増していますから」

これまで高級な嗜好品として位置づけられていた生鮮食品や、家電。それらを手に入れるために、蓬莱民たちはこぞって口入屋に走っていた。

「過労の問題は?」

「厚労省によれば、平均労働時間で見れば過労死ラインには幾分か余裕があるとのことです。全体的に見れば問題ない範疇かと」

「ふーむ。まぁ、蓬莱としても今が踏ん張りどころなのは間違いないからね。ちょっとくらいの無理は仕方ないか」

「……しかし、個人個人で見れば明らかなオーバーワークをしている者も見受けられます」

じろりと涼子の目が凛に向く。

「うっ……し、仕方ないでしょ。もう滅茶苦茶な仕事量なんだから。立場上、任せられない仕事が多すぎるのよ」

「……睡眠時間だけはしっかり確保してくださいね。今凛さんに倒れられると様々な事業が躓くことになります」

「だいじょーぶだいじょーぶ。シゲル様の音楽聞くとね、疲れが吹っ飛んで目が冴えるから」

「危ないクスリじゃないんですから……」

「ま、最低限の睡眠はとってるわよ。――で、昏睡病の方は?」

いよいよ本題に移った凛にむかって、涼子は微かに笑みを浮かべて胸を張った。

「レベル1は最早脅威ではありません。ラジオを聞いたレベル1の昏睡病患者は、その全てが寛解しました」

「重度のレベル1も?」

「全て、です。それどころかレベル2にも改善の傾向がある、と」

耳を疑うような良いニュースが次々と上がってくる。凛は小躍りしたくなった。

希望。まさにその二文字が、絶世の美男子の姿を象って蓬莱に現れたのだ。

「加えて興味深い報告が上がっています」

「なにかしら」

「同程度のレベル1昏睡病患者にラジオを聞かせたところ、その回復速度に格段の違いがみられた、とのことです」

「単なる個人差……ではないのね」

「はい。聞かせたラジオの内容は同じだったのですが、明確に違う点が一つ。『音質』です」

「音質?」

「ご存じの通り、電波は距離や遮蔽物によって減衰し、場所によってはラジオが殆ど聞き取れなくなる場合もあります。山間の病院で雑音混じりのラジオを聞かせた患者と比べ、クリアな音質のラジオを聞かせた患者の回復速度は、最大で三倍の開きがあったそうです」

「……地価が動きそうな情報ね」

「そして、凛さんもご覧になられたあのビデオ」

「唄子の部屋最終回のことね」

「はい。――『音質、画質共に最高の状況にある』という条件でなら、あのビデオはまさに『特効薬』です。レベル1患者は一撃で治ります。レベル2も軽度なら僅かな時間で回復し、重度であってもはっきりと改善の兆しが見られます。そして一度改善方向にさえ向かってしまえば、後はラジオなどの治療で寛解まで持っていけます」

一か月前であれば質の悪いジョークとして一笑に付したであろう報告を聞いて、凛は遠い目をする。

「――やっぱりシゲル様って神だわ」

「異論はありません。しかし、やはり最大の効果を発揮するのは初回です。その後は効果が薄れていく傾向にあるようです」

「ま、初回のインパクトはそりゃ強いわよね」

凛も遥に初めてビデオを見せられた夜のことは強烈に覚えていた。そのまま死ぬんじゃないかと思うほどの興奮だった。

流石に今ビデオを見直しても、当時ほどの命の危険は感じない。

「効果が薄れるっていっても、一度回復傾向にもっていけばあとはこっちのものなんでしょ?特に問題はないんじゃないの」

「おっしゃる通りですが――問題なのは、昏睡病の原因が今をもって不明だということです。不明であるがために、どうしても再発の二文字が頭に浮かんでしまいます」

一理ある話だった。今のところ昏睡病が再発したという情報は無いが、これからもそうだとは限らない。

「ですので一刻も早く、シゲル様にテレビ出演をしていただくべきなのです。シゲル様が新たな番組に出るたびに新薬が開発されるようなものなのですから」

「安心して。ちょっと予定よりは遅れたけれど、アイドルスターは来週には始まる予定よ。シゲル様をメインキャストに加えたうえで、ね」

「見事な速度かと。――ですが、そうなると問題は一つに絞られますね」

「そうね」

 

「「レベル3」」

 

二人は声を合わせて、忌々しげに呟く。

「――既にレベル3患者へのビデオ治療は開始していますが、残念ながら回復した患者は現れていません。……もし、回復の見込みがあるとすれば、」

「シゲル様の生演奏しかない、わね」

「――はい。シゲル様の生演奏は、別格の破壊力を有しているものと思われます。是非、レベル3の患者に聞かせるべきです」

「ええ、その通りよ。とはいえ……」

凛は眉根を寄せる。

レベル3の昏睡病患者は、レベル2までとは隔絶した状態にある。

自発的な食事が不可能という点だけでその異常さが分かるだろう。生きようとする意志を軒並み奪われてしまうのがレベル3なのだ。

「……治せると思う?」

「……可能性は、低いと思われますが」

「ゼロではない、か。そうね、シゲル様なら」

二人は遠い目をすると、英雄の活躍を祈った。

ところで、昏睡病はレベル4まで存在する。にもかかわらずレベル4の存在が口の端にも上がらないのは、レベル4の患者が『深昏睡』に陥るからだ。

脳波はフラットで、音は勿論痛みにすら何の反応も示さない。

40歳になるまでは治療法の研究の為に専門の施設で生命維持がなされるが、それ以降は装置を外される。無論家族が望めばその限りではないが、その場合は十割負担で維持費を支払い続けることになる。大半の者はその出費に耐えきれない。

生命維持装置をもってしても衰弱に耐えきれなくなった時。あるいは、生命維持装置を外される時。それがこの世界の人間の『寿命』である。

 

「生演奏については、シゲル様に既に打診してあるの。あの方は極めて前向きよ。いつでも行けると太鼓判を押してくださったわ」

「でしたら試すのは早い方がいいかと。レベル3患者であれば十人や二十人は直ぐにでも集められます」

「そうね、スピードは大事だわ」

「では、さっそく手配に移ります」

「――いえ」

涼子が勢い込むのに、凛は二本の指を立てて待ったをかける。

「二日だけ待ちなさい」

「二日?一体なんの時間ですか?」

「アステカとの交渉が上手くいったって外務省から連絡があったの」

「アステカと?」

突如飛び出した大国の名に、涼子は首を傾げる。

「僅かでも可能性があるなら、早急に治療に参加させたいアステカ人がいてね」

「アステカ人を、ですか」

疑問符を浮かべたままの涼子に、凛はにやりと笑って見せる。

 

「上手くいけば――シゲル様が世界に打って出る時に、大きな弾みをつけてあげられるかもしれないのよ」

 

 

 

 

 



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16話

ジェーン・ホワイト、二十二の若さで昏睡病レベル3に進行。

数か月前、世界中に伝えらえたこのニュースに人々は揃って肩を落とした。今後の科学分野にかかるであろう、暗い影を思って。

アステカの若き天才科学者ジェーン・ホワイトの残してきた輝かしい足跡は、それほどまでに大きかったのだ。ここ十年ばかり、コンピュータ関連の特許の大半がこの鬼才によって取得されているという事実が、その功績の凄まじさを物語っている。

近代科学においてその名を無視することはまず不可能。最近注目を集めるテレビやビデオの原型もジェーンの発想によるものだった。

 

――だが、さしもの天才も昏睡病には抗えなかった。

 

彼女は今や、然るべき施設で一日の大半を眠って過ごしている。研究者でありながら活動的で、魅力的な笑顔を浮かべていた彼女はもういない。かつて好奇心に輝いていた大きな碧眼は、いまはどんよりと濁っている。

車椅子に乗った彼女の活動範囲は、精々が医療施設の中庭までだ。

 

 

 

しかし、この日。

 

ジェーン・ホワイトは空港に居た。

 

施設のスタッフ、アステカの外務次官、そして蓬莱の役人と共に。

 

「最後にもう一度尋ねるけれど、画期的な治療法が見つかったというのは本当なのね?」

アステカの外務次官、キャサリンが念を押すように蓬莱の役人――駿河凛に問う。

凛は躊躇うことなく頷きを返した。

「まだ試験段階ではありますが、事実です。我が蓬莱では既に幾人もの昏睡病を完治させました。とはいえ、今のところ完治したのはレベル2までの患者のみですし、確固たるエビデンスのある治療法ではありません。一種の賭けにはなりますが」

「死神の鎌から逃れる方法があるなら、どんなにか細くともそれに賭けるわ」

キャサリンは凛に向けて手を伸ばした。期待と共に突き出されたその手に、凛は力強い握手で答える。

「――ジェーン・ホワイトは稀代の天才よ。昏睡病さえ治ればこの娘はきっと世界を変えてくれる。それだけの閃きが、この小さな頭には詰まっているの。だから――どうか、お願いね」

「最善を尽くします」

フライトの準備が完了したというアナウンスと同時に、二人の手は離れる。

飛行機へと乗り込む直前に、凛はキャサリンに小包を手渡した。

「ミス・キャシー、こちらは手土産です。中身はこれまでの治療の詳細なデータと――ビデオテープが入っています。取り扱いには注意を」

「ビデオテープ?」

「ギリギリで法の問題をクリアできました。是非ダビングし、ご随意にお使いください。アステカ語の字幕を付ける時間は無かったので、その作業はそちらのほうで――」

凛はそこまで言うと、淡く微笑んだ。

「いえ、やはり通訳は必要ないかもしれませんね。国境を超える、なんていわれるくらいですから」

「よく分からないのだけれど……これには、一体何が?」

 

「『音楽』ですよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

____________________________________________

 

 

 

 

 

小さなコンサートホールには、三種類の観客が集められていた。

レベル3の患者。その付き添いである施設職員。そして駿河凛を含めた数名の役人と医療関係者である。

 

コンサートホールに集められた患者たちを見て、シゲルは息を呑んだ。

死んだように静かな患者たちが、光を失った瞳で虚空を見ている。明らかに人種の違う女性が一人混じっているが、その虚ろな碧眼も何も映していないようだった。

 

――重度の昏睡病ってのは、こんなふうになっちまうのか。

 

事前に説明を受けていたとはいえ、ショッキングな光景である。

だがシゲルはぐっと歯を食いしばると、努めて威勢のいい声を上げた。

 

「――逢いたかったぜぇっ!」

 

患者が、その声に反応した。

のろのろと視線を上げて、シゲルをぼんやりと見つめる。

極めて薄い反応だ。しかしシゲルはにやりと笑った。

 

声が届いている。それなら十分だ。

 

 

――ちなみにこの瞬間、もっとも衝撃を受けていたのは医療関係者であった。人の声に反応してそちらに視線を動かす、という行動は、後期レベル3患者には不可能なはずなのだ。

 

 

そんなこととはつゆ知らず、シゲルは口上を続ける。

 

 

「俺は櫻崎シゲル。ミュージシャンだ!」

 

「今日はよ、みんなに俺の音楽を聞かせたくてここに来たんだ!悪ィんだけど、ちょいとだけ時間をくれよな」

 

シゲルの言葉に、患者たちは反応を示さない。

だが、シゲルは語り続ける。

 

「昏睡病ってのは厄介だよな。俺も話に聞いちゃいたんだけどよ、今の今まで本当の意味での実感てのは湧かなかった。――レベル3のみんなの姿を、こうして目の当たりにするまでは、な」

 

「……医者のセンセイに、さっき言われたよ」

 

「『心が死んでしまうのがレベル3なんです』『だから治療の効果がなくても、決して気に病まないでください』って」

 

「気ィ使ってくれたんだろうな。まったくありがてえ話さ」

 

「――だけどよ!」

 

「心が死んじまった、っていうお前さんたちに――あえて今、約束するぜ!」

 

「今日!俺はみんなに、こう言わせてやる!」

 

 

 

「――『やかましくて、死んでる場合じゃなかった』ってな!」

 

 

 

声はやはり返ってこない。

 

だが、そんなものは関係ない。シゲルは迸る情熱をギターに叩きつける。

 

 

 

 

――伝えたい思いは、一つだけ。

 

 

 

同情じゃない。

 

激励じゃない。

 

鼓舞じゃない。

 

 

音楽に触れるときにいつだって感じる、たった一つの感情だけを伝えたかった。

 

 

 

 

――シゲルは願う。

 

神にではなく、自らの歌声に。

かき鳴らすギターに。

紡ぎあげる音楽に、願う。

 

 

――届けてくれ。

 

 

届けてくれよ。下向いちまって、前も見えねえこいつらに。

 

 

 

 

――俺の、喜びを――!

 

 

 

 

 

「いくぜ、皆!――レベル3の昏睡病は、チケット代わりに置いてきな!」

 

 

 

 

口上は終わりだ。準備万端、整った!

 

さあ!いつも通り!

 

「――楽しんでいこうぜぇっ!」

 

いつもの、このセリフから!

 

最高のライブを、始めようじゃねえか――!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

____________________________________________

 

文部次官・駿河凛視点

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――なにこれぇ!?天国にいるみたいっ!!

 

シゲル様の生演奏――シゲル様曰くライブ――を目の当たりにして、私は『レベル3患者への効果の確認』という自らの職務を完全に忘れていた。周囲の職員も単なるファンと化している。どいつもこいつも最前列に張り付くようにしてシゲル様を見上げていた。

画面の中でなく、シゲル様がすぐそこにいるという事実。テレビ越しではない、生きた演奏と声が直に全身を叩く。

脳が沸騰しそうだった。この感覚は、遥が持ってきたビデオを初めて見たときに近い。

いや、信じがたいことだが、その数段上を行っている。

身体が勝手にリズムを刻む。心が叫びたがってる。

 

思わず黄色い声を上げそうになって――だけど心の中の声が、見境なく燃え上がろうとする脳髄に待ったをかけた。

 

『ダメよ凛!貴方は官僚としてここにいるの!ライブの前に医師も言っていたでしょう?検証のノイズどころか治療結果にも影響を与えかねないので、くれぐれも静聴を心がけてください、って!』

 

そう言うのは天使の羽が生えた私だ。

なるほど、理に適ったセリフだ。

 

しかし心の中にもう一人の私が現れると、おもむろに口を利いた。

 

 

 

 

 

『うるせえ知るか』

 

 

 

と。

 

素晴らしい説得力だ。わたしは悪魔の翼が生えた私のセリフに、全面的に賛同した。

 

『あなたなんてことを言うんですか!』

諦め悪く天使の私が悪魔の私に食ってかかる。

だけど悪魔の私は『ばかめ、アレを見ろ』と言って人差し指をステージ側に向けた。

指さした先にあるのは、最前列で拳を振り上げ、「シゲル様ァァァァッ!!」と奇声を発する医師の姿だった。

ライブの前に静聴がどうのと講釈を語っていたヤツだ。

 

『――じゃあいいですね!』

 

天使の私は光よりも早く手のひらを返すと、即座に満面の笑みとなった。

『それいけ私ー!最前列にかぶりつけ!』

『そういうことよ!ほかのヤツに後れを取るな!』

意見の一致を見た二人の私が、脳内で肩を組んで私をけしかける。

 

逆らう理由は一つもなかった。

最前列のあるかなしかの隙間に、私は身体をねじ込ませた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

七曲目――名曲『Everybody』をやり終えたシゲル様が、眩い汗を輝かせながらマイクに唇を寄せる。

「――ノッてきたかァ!?」

ノッてないわけがない!全力の歓声で応える!

もちろん周囲の皆も同じだった。だけど、久しぶりに声帯を使ったと言わんばかりの掠れたような歓声が多い。

もっと気合入れていきなさいよ!まぁでも許しちゃう!紛れもない喜びの声みたいだし。

観客の反応を確かめるように全体を見渡したシゲル様は、自分こそが一番幸福だと言わんばかりの笑顔を浮かべた。尊い。悶死しそう。

「いいねいいね!だけどよぉ、もっと行けるぜ!さぁて次の曲はなんだか妙に人気な『君だけを見つめてる』だ!」

げぇっ、このタイミングでラブソング!そんなのダメよシゲル様!観客皆シゲル様しか見えなくなっちゃう!

――別にいっか!今更だったわ!

七色の声を持ち、女性の声すら出すことができるというシゲル様が、飛び切り甘い声で歌い出す。

あーダメダメ。鼻血が出る。

興奮で意識を飛ばさないようにだけ注意しながら、私は更にライブにのめり込んでいった――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、それから更に小一時間が経過して――

 

 

「――センキューッ!」

 

 

アステカ語で歯切れのいい感謝を述べてから、シゲル様が舞台袖に引っ込む。

 

――ライブが終わった今、というかライブが始まってからずっと、私たちは歓喜の渦に叩き込まれていた。完全な躁状態で、黄色い声以外を上げられない。観客席はさながらサル山だ。

最高の時間だった。もう間違いなく、人生で最高の体験だ。

だってどの曲もテレビ越しに聞くより最高の最高で――あれ?っていうかよく考えてみたらさっきのライブ、聞いたことの無い曲入ってたわよね?!何曲か!

どれも脳ミソとろけるくらいの名曲だったわよアレェ!ホントヤバい、役得ってレベルじゃないわよ!

 

――ん?役得?役?

……わたしって、なんの役目でここにいたんだっけ?

ぜーんぜん思い出せない。

 

まぁいっか。取り合えずこの幸せを、周りのみんなと分かち合おう!

滅茶苦茶密集して騒いでたから全員汗だくだけど、全く気にならない。とにかく隣の人と肩を抱き合って、笑顔を向け合って喜びを確認し合う。

眩しい笑顔だ。何か妙にやつれてて、まるで病み上がりのような人だけど、満面の笑みは見てるこっちまで嬉しくなる。

ええと、誰だっけなこの人。役人でも職員でもないような――

 

……。

 

 

 

患者さんじゃん!

 

 

 

「み、みんなちょっと待ったァ!」

 

 

 

正気に戻った私は、慌てて声を張り上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 



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17話

一時間後――

医療機器、分析機材の揃った別室内は、狂騒の最中にあった。

「すっ、凄まじいとしか言いようがありませんっ!軽度レベル3の全員が医学的寛解……!なんなら体力的に問題の無い患者は、即座に帰宅許可を出せますよ!」

「重度の患者に関しても、劇的な改善が見られます!あとはビデオ治療を続ければ、恐らく社会復帰が可能に!」

「奇跡だ――!」

集まった医療関係者や研究者たちは、次々と上がってくるデータに狂喜乱舞している。

凛は両手を組んで天を仰いだ。

――神は人々を見捨ててはいなかったのだ。この末期的な世界に、櫻崎シゲルという名の救世主を遣わしてくださったのだ。

いや、あるいはシゲル様こそが。

そう、シゲル様なら、この世界全ての――

 

「ああ、シゲル様……!」

 

凛は熱っぽく呟くと、この瞬間、とある覚悟を決めた。

厚顔無恥な――どんな鉄面皮でも耐えられないような願い事を、かの英雄に頼み込む覚悟だ。

 

勢いよく部屋のドアが開いたのは、まさに凛が覚悟を完了したときだった。

 

「よう!上手くいったんじゃねえか?!」

 

そんなセリフと共に登場したのは、まさに櫻崎シゲルであった。

その姿を目にした凛の行動は素早かった。

凛はしゅばばっとシゲルの元へと駆け寄ると、

「シゲル様!はい、上手くいきました!これ以上もないほど、上手くいきました!ありがとうございます、蓬莱に、奇跡を、ありがとうございます!!――そして、」

そう言って、シゲルに返答の隙も与えず土下座したのだ。

 

「おわっ?!突然どうし――」

 

「ふ、伏してお願いいたします!」

 

――とてもシゲルの顔を見ながらは言えない願いを、凛は口にしようとしていた。

 

「どうか、どうか世界中のレベル3患者の元で、貴方様のライブを行ってくださいませんか!とんでもない大仕事になるでしょうが――どんな報酬でも、きっと用意して見せます!ですから、どうか――!」

 

面食らうシゲルに、凛は思いのたけをぶつける。

室内がざわめいた。

理由は、凛の土下座に驚いたからではない。

凛のセリフがどれだけ無茶なのかを理解していたからだ。

 

地面に頭をこすりつけながら、凛自身も自らがどれだけ厚かましいお願いをしているか自覚していた。

 

レベル3の患者が世界にどれほどいるか。レベル3から4への進行速度は劇的に速くなるため、全体からすれば少数ではある。

だがそれを踏まえたうえでも、その数は恐らく五百万人をくだらない。

大きなコンサートホールのようなものに集めることができれば負担は軽くなるだろうが、その為に必要なコストは想像もできないほどだろう。一人の患者を運ぶだけでも医療スタッフの付き添いが必要で、片手間には行えないのだ。

となれば、シゲル本人が医療施設に足を運ぶしかない。

世界中のレベル3受け入れ施設を、一つ一つ。

 

――労働生産性は人口密度に比例する。高密度な人口集積は昏睡病に侵された世界における常識であり、どの国家においても患者を含む国民は一つの地域に集まっている。だがその前提があったとしても、想像を絶する重労働となるだろう。その作業だけに集中しても、人生をまるごと費やす大仕事になるかもしれない。

 

つまるところ――『貴方の人生全てを、見ず知らずの患者の為に捧げてくれ』――凛は、そう言ったのだ。

 

「――」

 

無言のままのシゲルに、土下座状態の凛は身体の震えを抑えられない。

 

だが――

 

 

 

シゲルは凛の前に膝を突くと、その肩を優しくたたいた。

 

凛が顔を上げる。

 

目の前に、神様のように笑うシゲルの顔があった。

 

 

「ワールドツアーさせてくれるのかよ。こっちが金払いたいくらいだぜ!」

 

 

凛の両目から、ぼろぼろと涙がこぼれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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レベル3患者の面倒を見るのは容易ではない。

何せ食事も口の中まで運んでやる必要があるのだ。無論、重度になれば点滴に頼ることになる。軽度であれば着替え、入浴、排泄は一人で行える場合もあるが、病状の悪化に伴ってそれもできなくなっていく。

故に、専門の施設が存在する。特別介護療養型医療施設――通称特療とよばれるその施設は、この世界における社会保険料の半分を食いつぶしているだけあって、レベル3以上の昏睡病患者を手厚く介護してくれる。

親がレベル3以上になった蓬莱人は、ほとんどがこの特療を頼る。その為に保険料を支払っているのだし、労働しながらレベル3以上の介護をするのは物理的に相当難しいからだ。

何も憚る必要はない。厚労省は積極的な施設の利用を勧めている。共倒れになることこそ避けなくてはならないからだ。

 

 

――そうは言っても、割り切れないのが人間だった。

 

 

 

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16歳会社員・柏原律子視点

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レベル3になってしまった母を特療に頼んでから三か月が経つ。

歌が好きな、優しい母だった。他人に任せたくなんてなかった。

子どものころ怖い夢を見て泣いていても、母に抱きしめられて子守唄を聞けば、あっという間に穏やかな気持ちになれた。

 

最初は何とか頑張って面倒を見ていたが、どんどんやつれていく私を心配した職場の先輩が民政課に連絡。すぐにやってきた職員さんの真摯な説得に、わたしは首を縦に振った。

 

辛かった。でも、当時はその辛さすらどこか他人事だった。

今思えば私も昏睡病にかかっていたのだと思う。職員さんの判断は、きっと正しかった。

シゲル様の音楽がなければ、今頃レベル2には到達していたかもしれない。

 

 

――櫻崎シゲル様。

 

 

現代を生きる英雄である。ビデオに収められたその歌声は、なんとレベル2までの昏睡病患者を治してしまうというのだから、英雄視されるのも無理もない。

わたしもシゲル様に救われた蓬莱人の一人として、感謝の念は絶えない。隙あらば聞くシゲル様の音楽と、たまに手に入る白米だけが、私の人生の楽しみだ。

昨日幸運にもお米をニキロも買えたので、今日もまた白いご飯が味わえる。炊きたての馥郁たる香りと噛みしめたときの米の甘味を想像すると、期待と共にじんわりと唾液が滲んだ。

今日も仕事を終えて帰宅中。陽はもう沈みかけで、わたしのお腹はぺこぺこだ。

昏睡病から解放されたことによって正常化された味覚は、私に生の喜びを与えてくれる。完全食には殺意を覚えるようになったけど。

 

 

 

――生きることを楽しめるなんて、一か月前ならとても信じられなかった。シゲル様は本当に、蓬莱の救い主だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ああ――でも。

 

 

 

 

 

財布から取り出した鍵をドアノブに差し込みながら、どうしても考えてしまう。

 

 

もう少しだけ早くシゲル様の音楽を聴くことができたら。まだレベル2だった母さんに聞かせることができたら。

 

きっと今頃、私のアパートには電気がついていて。

 

こうやって玄関のドアを開けると、夕飯の匂いがしてきて。

 

歌を口ずさみながら炊事をしている母さんが、振り返って優しく声をかけてくれたはずなんだ。

 

 

 

「りっちゃん、お帰りなさい」

 

 

 

――そう。こんな風に。

 

……こんな風に?

 

靴を脱いでいた私は、つむじにかけられた声に反射的に顔を上げた。

お味噌汁の、いい香りがする。

 

「――それとも『ただいま』って言った方がいいかしら?」

 

そこに立っていたのは、生まれてからずっと一緒だった人だ。先週見舞いに行ったばかりで、見間違うはずもない。

おかあさん。

「おかあさん……?」

「はい、おかあさんですよ」

十六年も一緒に暮らした母の顔を忘れるわけがない。

でもその顔に浮かんでいる飛び切りの笑顔は、生まれて初めて見るほど嬉しそう。

「ふふふ、驚いた?特療ですっごい治療を受けてね、もうあっという間に退院の許可が降りちゃったの。レベル3完治ですって!」

ぴーす!とブイサインを突き出してくる母さんの姿が、ぼやけてよく見えない。

まるで夢を見ているみたい。

いや、ほんとうに幻なのかもしれない。私はふらふらと母さんに近寄って、その存在を確かめるように背中に手を回した。

 

暖かい。

 

命の温度だ。

 

おかあさんは、間違いなくここにいる。

 

「おかあさん」

もう一度呼びかける。

「なぁに?」

優しい声が返ってくる。

 

「おがあざんっ」

 

嗚咽を漏らして、わたしは母さんの胸に縋りついた。

あとはもう言葉にならなかった。

お母さんはむぃーんと泣く私の頭をそっと撫でてくれる。

「あらあらこの子ったら。泣き虫さんに戻っちゃったのかしら」

困ったように言う母さんだが、わたしの涙は枯れる気配が無い。

 

「もう。また子守唄が必要かしらね」

 

そう呟くと、母さんは歌い出す。

私は引っ付き虫のように母さんの胸にくっつきながら、子供の頃のように嬉しかった。母さんの歌は何でも大好きだったから。

安らぎと共に、条件反射のように眠気が襲ってくるのが分かる。

 

ああ、何を歌ってくれるんだろう。

大好きだった『夜霧』かな――

 

 

 

 

 

 

 

 

「――『ツノも無けりゃハサミも無いが!メタルに光ってマッハで飛ぶぜ!』」

 

 

 

マッハカナブンじゃん!

 

目ぇ覚めるよ!

 

 

 

 

 



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18話

この話は時間を少し遡り、唄子の部屋最終回当日から始まります。わかりにくくなっちゃってすみません。



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新番組メインキャスト予定・緋崎朱里視点

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ぼくには弟がいる。

緋崎樹っていう、五つ年の離れた男の子。

生まれたときから天使のように愛らしかったけど、二歳くらいになると更に磨きがかかった。

母さんはその頃にはレベル3になっちゃって特療にいたから、ぼくは家政婦の伸子さんと一緒にいっくんの面倒を見た。

いっくん、と呼びかけると、にこっと笑ってよちよちよ近寄ってくる。歌を歌ってあげると、ぱちぱちと手を叩いてもっともっととせがむ。

こんなに可愛い生き物がこの世にいたのかと思った。

当時七歳だったぼくの手伝いなんて、できることは限られていて、ままごとみたいなものだったけど――いっくんを喜ばせるために、一生懸命色んなことを覚えた。

だって、ぼくはお姉ちゃんだから。

 

 

 

 

 

 

……男性っていうのは貴重だ。

何せ現代じゃ二十人に一人しか生まれないし――

 

昏睡病の進行速度は、女性の比じゃない。

 

だから――男の子が元気でいられる時間というのは、本当に僅かなんだ。

 

 

 

 

 

「ただいま、いっくん」

家に帰ったぼくは、いつものようにいっくんに声をかける。

この間十歳になったいっくんは、ぼんやりとした視線をこちらに向けて、あるかなしかの笑みを浮かべたように見えた。

いっくんは現代男子の例に漏れず、同年代の女の子よりも線が細い。触れたら壊れてしまいそうな華奢な身体は、ベッドの上だとより儚げに見えちゃう。

「お帰りなさい、朱里さん。樹さんは、今日はお加減が良いようですよ」

いっくんの傍らに立つ家政婦の伸子さんの言葉に、ぼくは「そうだね」と返す。

最近は、ぼくの呼びかけに反応を見せることも少なくなってきたから。

 

「いっくん。お姉ちゃんのテレビ出演、来週に決まったよ。新番組で、歌を歌うんだ」

 

いっくんがぼうっとぼくを見る。ぼくの言葉、ちゃんと伝わっているかな。

 

 

 

『――お姉ちゃんの歌を、もっとたくさんの人に聞いてもらいたいな』

 

 

 

 

一年前、いっくんはぼくにそう言った。

 

ぼくが歌を趣味にしたきっかけは、赤ん坊だったころのいっくんだ。幾らあやしてもむずかるいっくんに、ぼくが歌を歌ってあげたことがあった。そうしたらいっくんは途端に泣き止み、にこにこと笑いだしたんだ。

それから、いっくんをあやす時は歌が定番になった。いっくんはいつまでたっても飽きる様子もなく、ぼくの歌を喜んでくれた。

とはいえぼくの歌は、そんなに大層なものじゃない。

専門的に勉強したわけじゃないし、趣味のレベルを超えてないと思う。将来歌手になろうなんて考えてもいなかったし、いっくんが聞いて喜んでくれるなら、それで充分だった。

だから、蓬莱テレビが新しいテレビ番組のオーディションをやる、と知っても、別段参加しようとは思わなかった。

 

――レベル2の昏睡病になってしまったいっくんに、その言葉をかけられなかったら。

 

もっとたくさんの人に聞いてもらいたい。そう言ったいっくんは、後に続く言葉を飲み込んだように見えた。

 

『自分の代わりに』って。

 

――昏睡病はレベル3にもなれば、音にもほとんど反応を示さなくなる。そうなってしまったら、音楽を楽しむなんて不可能だ。

 

ぼくは、いっくんの願いを叶えたいと思った。

それがどんな願いだろうと構わない。弟の願いを叶えるのは姉の役目で、ぼくはずっとそうしてきた。

だから、ぼくはオーディションに応募したんだ。

 

 

 

 

 

結果。

倍率千倍ものオーディションを、ぼくは奇跡的に突破した。

ぼく以外に受かったのは二人。年齢こそぼくとあまり変わらないけど、どちらもすごい芸の持ち主だった。

なんでぼくが受かったのかはイマイチわからなかったけど、これでいっくんが喜んでくれると思うと嬉しかった。

――正直な話、その時のぼくは、新番組に対する情熱というものをほとんど持っていなかったと思う。いっくんにさえ歌を聞いてもらえれば充分だったから。

だけど――レッスンを受けているうちに、だんだんと考えが変わっていった。

番組に関わっている人たちは、誰もがすごい本気だった。

お役人さんもテレビスタッフも、悲壮ともいえる覚悟をもってこの計画に望んでいたんだ。

プランは綿密に、一分の隙も無く。レッスンには超一流の面々を集めて、それぞれの芸のクォリティを限界まで高めていく。かかっている費用は莫大だ。

そして皆が皆、全身全霊をもってそれぞれの仕事に臨んでいた。

 

――皆、なんとなくわかっていたんだ。今この時が分水嶺で、この計画が失敗したら後は無い、って。ここで昏睡病に歯止めをかけないと、もう取り返しのつかないことになる、って。

 

新番組の名称は『アイドルスター』に決まった。ぼくはそこに、蓬莱政府の願いが込められているような気がする。

 

アイドルスター。

 

偶像の、星。

 

 

 

――神様は存在するか、と尋ねられたら、ぼくは『いない』って答える。帝の存在を考えれば不敬かもしれないけど、でも、そう答える。

だって二世紀もの間、苦しみぬく人類に神は手を差し伸べてはくれなかったんだ。

昏睡病こそ神の下した罰なのだ、っていう人もいるけど――そんな神様なら、こっちから願い下げだ。世界中で宗教への関心が薄れてきているっていうのも、無理はないと思う。

 

――だから蓬莱は、人々の心の拠り所を自分で造り上げることにしたんだ。

 

それがアイドルスター。

 

一年近くのレッスンを経て、ぼくは心から皆の力になりたいと思うようになっていた。

皆というのは、番組関係者だけじゃない。番組を見るであろう、蓬莱に住む皆だ。

 

――例え偽物であっても、いっくんだけじゃなくて、皆の願いを乗せる星になりたい。

 

今は本当に、そう思う。

 

 

 

ふと時計を見れば、丁度『唄子の部屋』の最終回が始まるところだった。

 

唄子さんには、レッスンで随分お世話になった。天才の呼び名は伊達ではなくて、その歌唱力たるや蓬莱どころか世界一なんじゃないかと思った。基礎から優しく教えてもらったぼくの歌唱力も、大分向上したと思う。唄子さんは指導者としても一流だったんだ。

 

でも、その唄子さんも、昏睡病には勝てなかった。

 

この間レベル2になってしまった唄子さんは、もうレッスンには来てくれないらしい。

 

寂しかった。

 

 

 

――こうやって、櫛の歯が抜けるように、大事な人が段々いなくなっていくのかな。

 

 

 

つい、弱気が顔を覗かせる。

 

――違う。

 

ぼくは拳を握りしめた。

 

――そうさせない為に、ぼくたちは頑張るんだ!

 

「いっくん、一緒にテレビ見ようか!唄子の部屋はじまるから、さ」

 

悪い考えを振り払うように、ぼくは大きな声でいっくんに語り掛けた。

恩師である唄子さんの番組は毎回欠かさず見てるし、録画してるんだ。ビデオデッキはレッスン用に蓬莱テレビ局がくれたからね。

「――」

いっくんは声を返してはくれなかったけれど、微かに頷いたように見えた。

テレビとビデオのスイッチを入れて、あっという間に準備は完了。

 

唄子さんのバストアップから、いつも通り番組が――

 

――あれ?

 

――えっ。

 

――えっえっ。

 

――ちょっと待って。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……

 

 

……

 

 

…………神様は存在するか、と尋ねられたら、どう答えるかって?

 

 

ぼくは『いる』って答えるよ!

だってテレビで見たもん!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

____________________________________________

 

 

 

 

神さまを目撃してから一週間後。ぼくは蓬莱テレビ局に呼び出されていた。

アイドルスターに関しては、唄子の部屋最終回の翌日、マネージャーの鈴さんから『蓬莱テレビが修羅場と化しました!アイドルスターの件は少々お待ちを!取り合えずまた連絡するまで自主レッスンをしていてください!』って電話が入って、それからなしのつぶてだった。

まぁ修羅場と化すのは当然かなー、とか思う。なんでも唄子さんはシゲル様をサプライズで登場させたとかで、番組放送後連絡がとれなくなっちゃったらしい。シゲル様となんとかコンタクトを取るために、蓬莱テレビはあらゆる手段を使ってるんじゃないかな。

ぼくは歌の自主練――もっぱらシゲル様の歌を真似っこで歌ってただけだけど――をしたり、いっくんと一緒に例のビデオを見たり、何だか妙においしくなった伸子さんの料理を感謝しながらもりもり食べて日々を過ごしてた。考えてみたらここんとこずーっと張りつめていたから、こういう穏やかな日々は至福の時間だった。

で、ようやく電話がかかってきたのが今朝がた。

後ろでラジオがどうのこうのという怒号のような声が飛び交う中、鈴さんは『今日十時に局の第五会議室に来てください!』とだけ言って、慌ただしく電話を切った。

よくわかんないけど、修羅場はまだ継続中みたい。

 

 

 

 

この一年何度も使った会議室に入ると、もうメンバーが集まっていた。

椅子に座っていたのは二人の女の子。

 

 

一人は藍葉蒼子ちゃん。

ぼくより一つ上の16歳。170センチの長身で、きりっとした顔立ち。クールに見えるけど、ほんとはとってもあったかい。

蒼子ちゃんの特徴は、なんといってもその運動神経!身体を動かすことならなんでもござれ。アイドルスターではスポーツやダンスを担当するはずだった。リズム感も良いんだよね、青子ちゃんって。

 

もう一人は、金枝浅黄さん。

ぼくより三つ上の18歳。金枝財閥っていう世界有数の大財閥の娘さん。やや垂れ目の、可愛らしい顔立ちをしていて――すごく穏やかで、気品にあふれてる人なんだ。礼儀作法や茶道や華道に精通してて、ピアノもすごく上手!コンクールで賞をとったこともあるんだって!アイドルスターでは芸道を披露するだけじゃなくて、ぼくの歌にピアノ伴奏をつけてくれることになってた。

 

一年間一緒に頑張ってきただけあって、もうみんな親友だった。一つの目標に向かって、皆で歯を食いしばって頑張ってきた。

辛いことも苦しいこともあったけど、皆で助け合って乗り越えてきたんだ。

 

一生の友達。

 

二人ともきっとそんなふうに思ってくれてる。だって、ぼくがそうなんだもん!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、ぼくは今、一週間ぶりに会ったその生涯の友達と――

 

 

 

 

 

 

「もう、何回言わせるんだよ!『マッハカナブン』が最高なの!以下反論不要っ!」

「ハァ?!一曲だけ選べっていうならどう考えても『ロケット』でしょ!」

「『君だけを見つめてる』以上にどきどきする曲はないと思うんですけどねー。子供にはちょっと分かりにくいのかしらー」

「子供だってぇ!?」

「聞き捨てならないわねっ」

「あの良さがわからないうちは子供ですよー」

 

――教義の違いから、聖戦を起こすところだよ!

 

 

「――いいかしら!『ロケット』はね、シゲル様が一番最初に奏でられた曲なのよ!?一番自信のあるものを一番先に持ってくる――小学生でも判る、単純な理屈でしょ!」

「それはおかしいと思いますよー。だってフルコース料理でも、一番最初に出てくるのはオードブルじゃないですか。物事には順序があって、メインは一番盛り上がるであろうタイミングに出すものですよ?」

「誰が何と言おうと『マッハカナブン』なの!だってあれが一番カッコいいっていっくんも言ってたし!ぼくもそう思うし!」

「あのねぇ、カッコよさだけで曲の善し悪しが決まるわけじゃ――え?誰が?いっくん?」

「え?うん」

「いっくんって、弟の樹さん?」

「そうだよ。忘れちゃった?」

「よく覚えてるわよ。でも――後期レベル2の昏睡病、だったわよね?」

「――!そう!そうなんだよ!聞いてよ!いっくんね、いっくんね、シゲル様の音楽を聞いたらなんだか眼がキラキラしてきて――またお話ができるようになったの!」

今朝なんて、「行ってらっしゃい、おねえちゃん」って言って送り出してくれたんだ!にっこりとほほ笑みながら!

蒼子ちゃんが目を丸くした。

「えーっ!?ほ、ほんとに?!えっと、その、なんて言ったらいいかわからないけど――とにかくおめでとう!」

「まぁシゲル様でしたら、そのくらいの奇跡は起こせますよねー。おめでとうございます、朱里さん」

「ありがとー!」

「今度樹さんに会いに行ってもいい?」

「あ、わたくしもご一緒したいですー」

「もちろん!いっくんも喜ぶよ!」

以前二人をうちに招いたこともあるけれど、その時いっくんはもう大分昏睡病が進んでたから、反応らしい反応もなかった。

でも今なら、天使みたいな笑顔で二人を骨抜きにしちゃうだろうな!

 

 

 

そんな感じにいっくんのお蔭で話がそれて、とりあえず聖戦は回避された。

 

 

 

「――でさ。今日ぼくたちが呼ばれた理由って何だと思う?」

ぼくが尋ねると、蒼子ちゃんは「あー……」といって気まずげに目を逸らし、浅黄さんは困ったように微かな苦笑を浮かべた。

「あれ?なんか察しがついてる?」

「うーん……普通に考えると、番組打ち切りの通達じゃないかしらー」

「うん。その可能性は結構あるよね」

「えっ?!そうなの!?」

二人の言葉に、ぼくは目を丸くする。

「だって、考えても見てください。私たちのやりたかったことって、シゲル様が一晩で達成しちゃったじゃないですかー?」

「正直、そうなのよね」

「あ……」

浅黄さんの言葉に、ぼくも頷かざるを得ない。常識的に考えて、ぼくたちがどんなに頑張ってアイドルスターをやっても、レベル2の昏睡病を治してしまうような効果はないと思う。

「番組を始めるまでにすごいコストがかかってますけど、今打ち切ってしまえば被害は最小限ですからねー」

金枝財閥はアイドルスターのメインスポンサーだ。浅黄さんはそこの娘さんだから、言うことにも説得力がある。

――そっかぁ……レッスン、すごく頑張ってきたんだけどなぁ。

ぼくはほんのちょっとだけ落ち込んでしまう。

でもその感情は、あっという間に、こみ上げる喜びに上書きされちゃった。

 

だって、これってとっても幸せなことだよ!

 

泣きそうな顔で頑張ってきた皆の願いを、神さまが叶えてくれたんだもん!

 

「――ぼく、自分が『用無し』になることが、こんなに嬉しいなんて思わなかったよ!」

 

ぼくのその言葉に、蒼子ちゃんは何故だか目を丸くして――なんだかすごく優しい眼差しで、ぼくをみた。

「――そうね。シゲル様に感謝を。……それにね、朱里。これまでやってきたレッスンは、きっと無駄にならないわ。今後の人生に役立っていく筈よ」

「その通りですよー。――でも、そうなると私たちは今後の身の振り方を考えないといけませんねー」

浅黄さんの言葉に、ぼくはなるほどと思う。お仕事見つけて、今後の人生のプランもしっかり立てなきゃいけないよね。

 

だってきっと――人生は長いから!

『おばあちゃん』になった時のことも、考えておかないとね!

 

「そうね。その辺りも鈴さんから話があるかも。……朱里は、今後どうしたいって考えてる?」

青子ちゃんの言葉に、ぼくはちょっとだけ考えて、結論をだした。

「……うーん。ぼくは、できればテレビ業界に残りたいなぁ」

「あら?ちょっと意外ですね。朱里さんはテレビ業界自体にはそんなに興味が無いと思ってました」

「うん、その通りだよ。でも――多分シゲル様って今後もテレビに出るでしょ?」

「そりゃーそうでしょうね。局長があらゆる手を使ってでも依頼すると思うわ」

「だからさ、ぼくたちもテレビの仕事してたら――いつか局内で会えちゃったりして!」

ぼくの目論みに、ふたりは口元をほころばせた。

「あはは、なるほど」

「ふふ、それは夢のある話ですねー」

 

ぼくたちが穏やかに笑い合った瞬間だった。

 

だだだだだっ、っていう猛烈な足音が会議室の外から聞こえて――扉の前までくると、どがんっ、とすごい音が響いた。

 

「うわあ?!」

「何かしら」

「ノックにしては随分派手ですねー」

もちろんノックのワケが無い。勢いあまって扉にぶつかったような音だ。

一瞬の間を置いて、ドアノブががちゃっと音を立る。すぐに飛び込んできたのは、小柄な人影――ぼくたちのマネージャーの鈴さんだった。

鈴さんは、部屋に飛び込んでくるなり派手にすっころんで、顔面を強打した。

 

――鈴さんは普段ちょっとそそっかしいところがあるけど、さすがにこれは異常事態。ぼくたちは呆気に取られて鈴さんを見る。

 

鈴さんははもつれる足でなんとか立ち上がりながら、ぶるぶる震える手でずり落ちた眼鏡の位置を正し、開口一番言った。

 

「おっ、おおっ、落ち着いて下さい!!」

 

鏡をもってきてあげたくなるセリフだった。

 

「鈴さんこそ落ち着いて?!」

「何があったんですか?!」

「あらあら鈴さん、鼻血が……」

浅黄さんがティッシュ片手に鈴さんに近づく。鈴さんは受け取ったティッシュを慌ただしく鼻に突っ込むと、声を張り上げた。

 

「お、お待たせしました皆さん!ちょっ、ちょっとだけ残念な話と!信じられないくらいハッピーな話があるんですが、どっちを先に聞きますか?!」

 

ぼくたちは顔を見合わせる。

なにか異常事態が起こってるのは一瞬でわかった。今の鈴さんは、さながらコンロにかけられたまま忘れ去られたヤカンだ。

いずれ火が出るよ。

 

「じゃ、じゃあちょっとだけ残念な話で」

すこしでもクールダウンしてもらうために、ぼくはそっちを選んだ。

 

「分かりました!えー、アイドルスターですが、放送延期が決定しました!放送は来月になります!」

鈴さんの言葉にぼくたちは驚く。ちょっと予想外の展開だ。

「えっ?延期ですか?」

「放送中止じゃなくて?」

「はい、延期ですっ!」

「なぁんだ、それじゃあいいニュースじゃないですか!」

「本当ね。レッスンの成果を発揮できるのは、素直に嬉しいわ」

「うふふ。私たちの目標は、もうシゲル様が達成してくれたけど――娯楽なんて、いくつあってもいいものねー。テレビの前の皆さんの、楽しみの一つくらいにはなりませんと」

「そうだね!ちょっとでもみんなの幸せの足しになるように、頑張ろうよ!」

「「おーっ!」」

と、皆で声をそろえたところで、ぼくはふと不安に駆られた。

「あれ?ってことは『ハッピーな話』のほうは逆に悪いニュースだったりして……?」

「そんなわけが!そんなわけがないじゃないですか!!」

「す、鈴さん、ちょっと興奮しすぎですよ。ホント落ち着いてください」

「簡単に落ち着け落ち着けいいますけどねっ!これ聞いて落ち着いてられる人いたら大したもんですよ!多分その人は死人ですよ!」

ヤバい。鈴さん目の焦点が合ってない。

「鈴さんが良くないエキサイトをしていますねー」

「なんだか知らないけどこのままじゃ脳の血管キレちゃうよ。一度当身で落とす?」

蒼子ちゃんの思い切ったセリフに、鈴さんが完全に据わった眼を向ける。

「落ち着いてもいられないですが、落ちてもいられないんですよ!!いいですか、信じられないくらいハッピーな話しますからね!」

「う、うん。どうぞ」

とにかく全部吐き出してもらって落ち着いてもらわなきゃ。鈴さんほんとに頭から湯気出てるし。

 

 

「来月から始まる!アイドルスターは!その形態を大幅に変更し!」

 

「は、はい」

 

圧が凄い。

 

「――『バンドミュージック』を取り扱う、音楽番組として!!」

鈴さんはそこで言葉を切って、息を荒らげて心臓を押さえた。

小休止が必要みたい。

話の中に聞きなれない単語があったので、ぼくは浅黄さんに尋ねる。

「浅黄さん、バンドミュージックってなに?」

「バンド……楽団のことですかねー。今は随分下火ですけど、オーケストラのこと、かしらー?」

「参ったな。私楽器はできないわよ?」

「ぼくだってできないよ。あ、ぼくたちがそれを覚えていくところをテレビにするんじゃない?」

「需要あるの?それ」

「さ、さぁ……」

 

「お静かにーっ!」

 

復活した鈴さんが一喝する。ぼくたちは素直に黙った。

いまの鈴さんに逆らうのは得策じゃない。

鈴さんは一言一言に渾身の力を込めるようにして続ける。

 

「えー、音楽番組として!」

 

「あなたたち三人と!」

 

「――あの『櫻崎シゲル』様を、メインパーソナリティに据えることとなりました!!」

 

 

 

 

「――はい?」

 

今、なんて?

 

 

 

 

――。

 

 

 

――えっ。

 

 

「シゲル様を、メインパーソナリティとして?」

 

「そうです!」

 

「ってことは、毎週?」

 

「そうです!」

 

「会えるのですか?シゲル様に?」

 

「そのとーりですぅ!!」

 

 

 

 

 

 

 

会議室の中に爆弾が炸裂した。

 

爆発したのは三人分の喜びで、爆音は歓喜の怪音波の三重奏だった。

 

 

 

 

ぼくたちは自らが死人でないことを証明してから、喜びの余りしめやかに失神した。

 

 

 



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19話

蓬莱での初ライブの後、シゲルはギターひとつだけを担いで、

「準備万端だ!世界一周と洒落込もうぜ!」

と言い放ったが――さすがにそれは拙速すぎた。そもそも国内でレベル4直前になってしまっている患者を優先して治療しなくてはならないし、法整備や各国との折衝抜きに事を起こすわけにはいかなかったからである。シゲルのライブは国内の施設で行われるにとどまった。

その代わり、蓬莱での治療実績と共にシゲルのビデオは各国に配布された。

『蓬莱の奇跡』と呼ばれることになるこのビデオは、全世界で爆発的にダビングされ、順調にレベル1と2の昏睡病を駆逐した。

 

当然のように世界中で凄まじいシゲルフィーバーが起きることになる。シゲルはあっという間に『ワールド・ヒーロー』の名を冠することとなった。

 

 

――しかし、ビデオにはレベル3患者を治療する効果はない。

 

 

そして、一度レベル4になってしまえばその患者はもう手遅れなのだ。

一刻も早くシゲル自身が世界に打って出る必要があった。非効率的であろうが、各国のレベル4直前の患者の元へ優先的に赴いて対処をする必要がある。二度手間、三度手間になってしまうのは避けられないだろう。とにかくあらゆる国と国を行ったり来たりしなくてはならない。

移動時間のせいで救えない患者も出てくるだろう。そしてその患者の数は、手をこまねいているうちにどんどん増えるのだ。

 

にもかかわらず、様々なしがらみのせいでシゲルは動くことができない。

人々は歯噛みし、各国がなりふり構わず超法規的措置を決断しかけたところで――

 

――やきもきする人々を、とある情報が救うことになる。

 

それは世界中の多数の施設において、『この一か月の間、レベル4へと進行した患者が一人も出ていない』というものだった。

各国政府はすぐさま調査に乗り出し、あっという間に答えを得た。該当する医療施設は、どこも同じ行動をとっていたのである。

 

それらの施設は藁にも縋る想いで、重度レベル3患者に『シゲルの高画質ビデオを定期的に視聴させていた』のだ。

 

このことで、新たに驚くべき事実が判明する。

 

――櫻崎シゲルの存在は、それが機械越しであってもレベル3の深刻化を食い止める効果がある。

 

この情報は即座に全世界に共有され、各国の再生機器製造ラインはさらなる修羅場に陥った。

 

無論、その効果が永続的なものかは不明だ。明日にでもレベル4になる患者が現れるかもしれない。

だがその最初の一人が現れるまで、各国に猶予期間が生まれたのも事実だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

____________________________________________

 

 

 

アステカにおいて、前例のない規模の工事が行われていた。

工事の目的は首都の数か所にとある施設を作ることだ。しかしその為だけに、各現場には職人だけでなく、もはや数えることすらできないほどのボランティアが詰めかけている。

 

『アステカの威信にかけて!この箱物を速攻で完成させるッ!』

 

『『『うおおおおッ!!!』』』

 

怒号のような賛同の声が返ってくるのに、とある現場の監督は満足げに頷いた。

現場の士気は最高潮に達していた。職業として現場に入っている者は勿論、ボランティアとしてその手伝いをするものも、テンションは上がり切っている。

 

全ての人間が、持てるポテンシャルを限界以上に発揮し、工事は凄まじい勢いで進んでいく。

 

――この一連の流れは、各地の工事現場全てで同時多発的に進行していた。

 

 

蓬莱からビデオを届けられてから、僅か一か月。しかしもはやアステカの民の中に櫻崎シゲルを知らないものはいない。アステカは持てる国力を駆使し、驚異的な速度でシゲルのビデオや、その歌声が収められたカセットテープを無償配布しまくったからだ。

 

近々届けられる予定の『アイドルスター』なる番組のビデオは、アステカ政府主導の元即座にダビングされて医療機関に配布されることが通達されていた。同じものは市場にも安価で卸される予定で、ビデオのある家庭であればどこでも楽しむことができる。

ワールド・ヒーローの名は、今や大国アステカにおいても神聖視されていた。

 

――そのヒーローが、レベル3患者の治療の為に世界各国へ旅立とうとしている。もちろん、その各国の中にはアステカも含まれている。

 

この情報を聞いて、アステカ国民の心は一つになった。

 

――少しでも力になりたい、と。

 

 

 

『ヒーローだけに働かせるな』

 

 

 

それがアステカのスローガンだった。

アステカが造り上げているのは、レベル3患者の大規模収容施設である。医療施設でありながらコンサートホールの併設されたこの建造物は、ひたすらに『櫻崎シゲルの負担を減らす』ためだけの存在だった。

各地に散らばった施設を巡って、精々数百名の為にライブを行い続ける――それが実に非効率的なのは言うまでもない。だが予め患者が大量に集まっていて、そこに大きなコンサートホールもあれば、手間は大幅に省ける。

そんなわけで、アステカは今公共事業としてこの建設を行っているのだった。

 

――アステカとしては、こういった施設をいち早く完成させれば、シゲルがいの一番にアステカを訪れてくれるのではないか、という思惑もあったりする。

 

 

 

こういった動きはアステカのみならず、世界中で進行していた。シゲルを迎え入れるための準備は各国で着々と進んでいたのだ。

 

 

 

――しかし唯一、シゲルを『送り出す』為の準備をしなくてはならない国家があった。

 

いうまでもなく、蓬莱である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

____________________________________________

 

 

 

 

ジェーン・ホワイトを治療に参加させたのは、もし治療できるのであればセンセーショナルなニュースとなるだろう、と凛が判断したからだ。世界の至宝といってもいい天才を治療した英雄ともなれば、シゲルが世界を巡る際に各国は下にも置かない歓待を見せるだろう。蓬莱人だけでなく外国人にも効果があるということを証明できるのも大きかった。

無論ジェーンはアステカの至宝だ。治療が済めば即座にアステカに返還するはずだった。

 

はずだったのだ。

 

凛の目の前にあるのは、無線電話の前で溌溂とアステカ語を話すジェーンの姿。

相手方はアステカ外務大臣のキャサリン。流石に先方の声は聞こえず、ジェーンの生き生きとした声だけが室内に響いている。

 

『だから言ってるでしょ。昏睡病昏睡病。うん、蓬莱の極めて画期的な治療のお蔭でレベル1にまでさがったんだけど、まだ完治はしてないのよねー。え?嘘つけ?何の根拠があってそんなこと言うのよ。全部ホントよホント。だから治療の為にまだ蓬莱にいなきゃならないのよねー』

 

『え?未定よ未定。昏睡病に聞いてよ』

 

『し、診断書出せって……?ななな、なによ、私を疑うのキャシー!?酷いわ酷いわ!あー、今キャシーの心無い言葉で昏睡病が一段階進行しました!レベル2、レベル2です!おめでとうございます!』

 

『――正論はやめなさいよ!』

 

『うるさいわね!しょうがないでしょ、シゲル様は蓬莱にいるんだから!シゲル様がいないアステカが悪いのよ!』

 

叩きつけるようにしてジェーンは電話を切った。

 

振り返ったジェーンは、凛と目が合うと、にっこりとほほ笑んで片言の蓬莱語を口にした。

 

「――オーバーステイの件、カンペキにセットクできましタ」

「そうは聞こえませんでしたが!」

 

冷や汗を垂らす凛は、ジェーンの肩を掴んでがたがたと揺さぶる。

「み、ミスジェーン!事は外交問題に発展しつつあります!はよ帰って!」

「チョットくらいダイジョウブでース!ワタシもうチョットだけホウライに居たいですヨー!」

「ちょっととはどれくらいですか!」

「ホンの五十年くらいでース」

「ダメに決まってるでしょ!ちょっと誰かー!誰でもいいから手を貸してー!この娘飛行機に縛り付けてでも返品――もがむが!」

声を張り上げる凛の口を、ジェーンの手が慌てて塞ぐ。

「お、お願イですヨー!グリーン・カード下さいヨー!ワタシホウライ語もできますシ、とても役に立ちまス!」

必死の懇願だった。ジェーンは涙目だ。

ジェーンの手を引きはがすと、凛は少しばかり気の毒そうに口を開く。

「……シゲル様の傍に居たい、という気持ちはわかりますが、こればかりは……」

「傍にいるだケ、違いまース!ワタシ、シゲル様の力になれるでス!」

「力に?」

どういうこと?と首を傾げる凛に、ジェーンは胸を張って言う。

 

「グリーン・カードをくれるなら、タブレットの解析に手を貸せまス!」

 

凛は息を呑んだ。どこからタブレットの情報が漏れたのか。

シゲルによって快く提供されたタブレットの解析は遅々として進んでいなかった。変圧器自体は即座に開発できたのだが、そこから先はどうにもならなかったのだ。シゲルから操作方法を教えてもらったものの、当然一点ものを分解など出来るわけがない。自然とタブレットの操作もシゲルに教えてもらったものに留まっていた。

シゲル自身がタブレットなどのデバイスに精通していないこともあり、今のところ解析班は前世のシゲルのライブ映像を見て、失神したり黄色い悲鳴を上げるだけの装置と化している。

ごくつぶしである。

しかし、この稀代の天才が手を貸してくれるというのなら話は別だ。

タブレットはまさにオーパーツ。一朝一夕にコピーできるとは到底思えないが、中にとんでもないお宝が収められている可能性は高かった。何せ、この世界にとっては未知の技術の塊だ。映し出される美麗すぎる映像がそれを裏付けている。

前世のシゲルのライブ映像に収められている音声は、そもそもは相当の高音質であるらしい。しかるべきスピーカー群に接続すれば、『驚きの体験ができると思うぜ』とシゲルは太鼓判を押していた。

高画質な映像と、高音質の音声。それは昏睡病の根絶にも関わる重大な案件である。

そしてこのタブレットは、その二つを兼ね備えたデータを、小さなボディに収め切っている。

 

映像、音質、記録媒体。どれか一つだけでもいい。その製造法に近づくヒントがあれば。

 

高画質なシゲルの映像。あるいは高音質なシゲルの音楽。それを個人で楽しめるようになれば――シゲルが蓬莱を離れている間、国民の活気を保つための鬼札となるかもしれない。

 

葛藤する凛に向かって、ジェーンは更に言葉を重ねる。

「……グリーンカードくれないなラ、ワタシの昏睡病進みまス。仮病使って病院から一歩も動かないでス」

「そんなことしてもアステカがベッドごと飛行機に乗せますよ」

「そしたらアステカでボイコットでース。ホウライに戻すまで仕事しないって主張しまス」

凛の顔がひきつる。この天才を遊ばせておくのは人類の損失であるのだ。

「アステカと軋轢が……」

「ダイジョーブダイジョーブ。ホウライはタブレットを独占しようとはしてないんでしょウ?成果さえ共有できるのなラ、アステカは文句無いハズでース」

「う、うぐぐ」

凛はしばし頭を抱えると、やがて大きなため息を吐き、ジェーンが叩きつけた電話とは別の電話へと手を伸ばす。

国内用の電話だった。

 

――ごめん、外務省の皆。しばらくの間えらいことになると思うけど、差し入れはするから。

 

心の中で謝罪しながら、凛は外務省の番号をプッシュした。

アステカとの話し合いは、さぞ胃を痛めることになるだろう。

丸投げするつもりだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

____________________________________________

 

 

 

 

 

解析班と面通しを済ませたジェーンは、あっという間に研究室の主導権を握っていた。

何せ世界にその名を轟かす天才である。研究者にとっても憧れの存在だ。

「オーウ、これ確かに現代じゃ作れませんネー」

未知なる機械に目を輝かせたジェーンは、物怖じせずにタブレットをいじくりまわす。

「取りあえず情報を得まース。アイコンをタップタップネー」

「だっ、大丈夫ですか?!データが消えてしまったりしたら――」

はらはらする解析班だが、ジェーンは意に介さない。

「そんなこと言ってたら何も出来ませーン。シゲル様はゴラク用と言っていたのでしょウ?表示されるテキストさえちゃんと読めばチメイ的な操作には繋がらないはずでース。分からないホウライ語があったら聞きますネー」

ジェーンは大胆にタブレットをタップし、解析班が見たことも無い画面を出し続けている。

「フンフン。webブラウザ?インターネットにセツゾクされていません?んー、分かりませんネ。こっちのアイコンは――ああ、下のレイヤーにリンクしてるですカ?ナルホド、一つの画面に収まるアイコンは限りがありますからネー」

ジェーンはあっというまに解析班が見たことも無い画面にたどり着くと、あるアイコンを見て不意に指を止めた。

 

「――みなサン。これ、なんて書いてあるですカ?」

 

「は、はいっ。ええと――」

 

「電子書籍リーダー、と書いてありますね」

 

ジェーンの碧眼が、鋭く細められた。

天才の直感が『お宝』を嗅ぎ分けた瞬間だった。

 

 

 

 



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20話

皆には、シゲラジで何度も何度も愚痴を聞かせちまったよな。

「エレキギターが欲しい」「ドラムセットが欲しい」「ベースが欲しい」「キーボードが欲しい」ってよ。

みんなにとっちゃあ何の楽器かさっぱりだったろうにな。――ま、今んところ俺の頭の中にしかねえような楽器が多いから、そりゃそうなんだが……

でもよ、言わずにはいられなかったんだよ。

逢いたかったんだ。ソイツらに。

 

だけど――安心してくれ、もう二度と言わねえ。

 

だってよ……

へへ。へへへへへ!

 

ついによぉ、ついに!

そいつらが出来上がるんだよー!!

長かった……!長かったぜ!えらいぞ蓬莱楽器さん!あとで感謝のハグしてやるからな!――いらねえか!ははは!

なんかよぉ、最近になって、音楽を皆に届けるための設備がとんでもねえ速度で整って来てるんだ!

だって楽器だけじゃなくて、アンプとスピーカーも一新されるってんだぜ!?収音マイクもクオリティアップ!ほんとにすげえことなんだよ、これ!

 

――いやー、正直初めて唄子の部屋に登場させてもらったときもな、もうちょい音響周りなんとかならんかなー、って思ってたんだが――この進化の速度はちょいと信じられねえよ。

何か聞くところによるとすげえ助っ人がアステカから――え?何?あ、これダメ?そっか、悪ィ悪ィ!

なんか技術屋さんたちが滅茶苦茶頑張ってくれてな、ありがてえ話だぜ!

おっと。なんで俺のテンションがこんなに上がっちまってるか、皆にはさっぱりだろうから、分かりやすく説明するか。

 

楽器が完成したことで!俺の音楽、特に『ロック』がとんでもねえパワーアップをする!

これを聴いたらよ、昏睡病なんざ――分厚い雲を巻き込んで、空の彼方にかっ飛ぶぜ!

 

へへ、ラジオの前の君も、これだけしつこくアピールされたら、どんな音楽になるか聞きてえだろ?

 

 

――俺もずっと、聞かせたかったぜ!

 

 

そんなわけで蓬莱テレビに無茶を聞いてもらった結果、新しい音楽番組『アイドルスター』が放送されることになった!この番組の中で、俺のやりたい『バンドミュージック』――そして『バンドとは何か』ってことについて触れていきたいと思う!勿論それ以外の古今東西の音楽にもガンガン触っていくからな!

放送日は再来週の金曜夜八時!

 

音楽好きのキミは勿論、そうでないキミも、ちょいとだけチャンネルを合わせてくれると嬉しいぜ!

 

 

おっと、ついつい喋りすぎちまったな!じゃあ、この辺で一曲――

 

 

_____

 

 

 

 

_______________________________________

 

 

 

 

 

 

 

「真美。何度時計を見ても、早く進んだりはしないわよ」

お母さんの苦笑いに、わたしは唇を尖らせる。

「わかってる。わかってるけど――待ちきれないのっ」

時刻は夜七時四十分。遂に『アイドルスター』が始まろうとしている。

シゲル様がシゲラジでその存在を宣伝してから、もう蓬莱中がその話題で持ちきりだ。

だって――ただでさえ最高なシゲル様の音楽が、これ以上パワーアップするっていうんだもの!賭けてもいいけど、今蓬莱中の人間がテレビの前で正座してるよ!あ、夜勤の人は血の涙を流している可能性があるね。まぁ大丈夫大丈夫。どうせ明日にはダビングされたビデオが出回るよ。

テレビの無い人はどうしてるって?そりゃ友達とかの家に押しかけてるよ。

 

「もー、真美ちゃんはせっかちだねぇ」

 

このお姉ちゃんみたいに。

 

「……なんでお姉ちゃん、うちにいるの?」

私は姉に白い眼を向ける。

宮廷女官は基本自らの局に住み込みだ。外出にも届け出が必要だっていうし、テレビデオを買ったって自慢していたお姉ちゃんが、わざわざ実家に帰ってくる必要はないと思うんだけど。

 

お姉ちゃんはわたしの疑問を聞いて、眉間にぐーっと皺を寄せて――どんっ、とテーブルを叩いた。

 

「聞いてよ!酷いんだよ女官の皆が!」

 

……あ、なんかしょうもない話がはじまりそう。

 

 

 

 

 

 

 

____________________________________________

 

 

 

 

 

 

 

 

帝居の一角から、女官たちの楽し気な声が響いていた。

 

「ねーねー、お煎餅あるからたべよー」

「あ、田中せんべいの揚げせんだー。ここのおいしいよねー」

「安いのがいいよね」

「失礼します。お茶を入れて参りましたよ」

「おー、ありがとー真名美。入って入って」

 

実に平凡な、なんてことのない団らんの風景だ。しかし昏睡病が治癒する以前では考えられない、明るい光景だった。

宮子もそれ自体に文句はない。同僚と仲が良いというのはとっても素晴らしいことだと思う。

 

――ここが居間ではなく、宮子の部屋であることを除けば。

 

 

「なんでみんな私の局に集まるの?!」

 

 

八畳間に六人目が登場したところで、限界を迎えた宮子は大声を上げた。

しかし、女官たちは驚きもしない。全員が全員『だってしょうがないでしょ』とでも言いたげな目を宮子にむけて口を開く。

 

「だってチビちゃんがいるし」

「テレビかビデオ見ようと思ったらここになっちゃうんだよねー」

「そうそう」

 

「居間にもテレビあるでしょ!でっかいのが!」

 

宮子の言葉に、女官たちはそっと目を逸らす。

「だってあっちは高位女官様と帝が使うし……」

「リラックスできる環境かといえば、あまり……」

「皆のせいでわたしがリラックスできないよ!」

「わたしたちは出来てるから大丈夫だよ」

「うん。安心して」

「あ、あれ?わたしの蓬莱語通じてる?」

実際女官たちはリラックスしていた。枕までしてねそべっている者すらいる。

憩いの空間を侵食されている宮子ばかりが怒り狂っていた。

「――まぁまぁ。ほら、チビちゃんの視聴に関しては命子様から許可が下りてるし。『遠慮せずに見るがよい』って」

そのセリフに宮子はぎょっと目を剥いた。聞いたことの無い情報だった。

「当の私が初耳なんだけど?!なっ、何で勝手にそんな許可出すの?!わたしのプライバシーは!?」

「あんまり重要視されてないんじゃない?」

「うおおおおっ!」

宮子は激怒した。

かならずやあの邪知暴虐の女官長を除かねばならぬと思ったが、怖かったのですぐやめた。

代わりにあんまり怖くない女官たちに怒りをぶつけることにした。

「そろそろ一人くらいテレビ買えたでしょ!電器屋さんはまだまだ地獄の工事を続けてるらしいけど――わたしみたいに、自分でつければいいじゃん!っていうか確か誰かやるっていってなかった?!」

「――ええ、テレビ買えた美奈子がもう試したわよ!ダメだったのよ!貴方のせいで!」

カウンターで怒りを喰らって、宮子はのけ反る。

「わ、わたしのぉ?!」

「ここって電波強度がぎりぎりで、三分配すると全部映らなくなるのよ!」

「テレビ映らなくなった瞬間の命子様の顔、貴女に見せたかったわ。……わたし、危うく淑女の尊厳を失うところだったんだから」

「全部抜け駆けした貴女のせいよ!」

女官たちは畳みかけた。

宮子はたじろぐ。確かに抜け駆けと言われればその通りかもしれなかったから。

しかし宮子は踏みとどまると、レッサーパンダの威嚇のポーズで応戦の構えをとった。

 

「――だからって常識わきまえてよ!」

 

おそらくは女官の中で最も常識を知らない女は吼える。

 

だってもう限界なのだ。宮子の私物は全部押し入れに突っ込まれて久しいというのに、見たことの無い私物はどんどん増えていく。八畳はそのほとんどが女官たちに占有され、持ち主である宮子が箪笥の隣に押しやられる始末。

翌日非番の連中が深夜までビデオを見ているのももう日常だった。

「寝ても覚めてもチビちゃん全力稼働でわたしは眠れないよ!」

「貴女結構図太く寝てましてよ」

「時々いびきもかいてるよ」

「文句は女官長様に言って下さいまし」

「そうそう」

「言えるものならね」

八畳のどこにも味方はいなかった。宮子のストレスは限界に達しようとしていた。

 

「うう、こがねまる、こがねまるーっ!みんながいじめる!」

 

最早心の支えはこがねまるだけ、と宮子は愛用のぬいぐるみの姿を探すが、どこにもない。誰かに押し入れの中に突っ込まれたのかしらん、と押し入れも覗くけど、やはりない。

「ねぇ、こがねまるしらない?」

大き目のテーブルを囲んで――こんなテーブルも一か月前までは無かった――お茶請けをぱくついていた女官たちは「さぁ?」と首を傾げたが、寝そべって雑誌を読んでいた一人が「あ」と声を上げた。

その女官はちょっと申し訳なさげな顔で身体を起こすと、頭の下に敷いていた枕を宮子に差し出した。

 

「ごめん、サイズが丁度良くて」

 

こがねまるだった。

 

「こっ、こがねまるがぁーッ!」

こがねまるは伸びていた。

愕然とする宮子に、女官たちは容赦なく告げる。

 

「そうそう。アイドルスターの時もお邪魔するから」

「お茶菓子もってくるからねー」

 

「もういやだーっ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

____________________________________________

 

 

 

 

 

 

 

「そんなわけで外出届出してきたの!」

 

「そう」

わたしはビデオの録画スイッチを押しながら生返事を返す。

どうでもいい話を聞いていたら20分経ってた。そこだけは感謝だね。

 

 

 

ついに――待ちに待ったアイドルスターが始まるんだ。

 

 

 

時計が八時を示すと同時に、テレビから女の子たちの声が響いた。

 

「「「はじまりました、アイドルスターっ!」」」

 

きたきたきたきた!

 

 

「メインパーソナリティはぼく、緋崎朱里と!」

まずバストアップが映ったのは、ショートヘアの快活そうな娘。『元気いっぱい』、そんなフレーズが頭に浮かんだ。声もキャッチーな感じ!

「藍葉青子と」

次に映ったのは、切れ長の眼が特徴的な美人さん。手足も長くて、シルエットが素敵だ。

「金枝浅黄とー、」

次に、『これぞお嬢様』って感じの気品漂う女性が映る。下品にならない程度にメイクもバッチリで、柔らかな垂れ目が印象的。

三人は全員が満面の笑顔だ。当然だよね。シゲル様と一緒の空間に居られるなんて、多分それ以上の幸せってないよ。

でも、当時ニュースでやってたけど、一年前に倍率千倍とも言われたオーディションに合格した娘たちだもんね。やっぱり嫉妬より先に『大したもんだなぁ』って思っちゃう。

 

 

「そして――」

 

 

金枝浅黄さんが視線を向けた先に、カメラが切り替わる。

最後に映るのは、もちろん――

 

「櫻崎シゲルでお届けするぜっ」

 

――シゲル様。

あー、やっぱり、もう、何度見ても絶世の美男子。こんな男性きっと有史以来存在していなかったよ。

いつまでもシゲル様のアップを見ていたかったのだけど、無情にもカメラは直ぐに引いて、スタジオを広く映した。ちぇっ。

 

――あ!後ろに見たことの無い楽器がある!あれがシゲル様が言っていた楽器たちかな?どんな音を鳴らすのか、もうわくわくが止まらない!

 

そしてその私の期待に、シゲル様もすぐに答えてくれる。

 

「ま、とりあえずバンドミュージックってのを聞いてもらうか!」

 

余りにも唐突に、シゲル様はそう言う。シゲル様らしくて、わたしはちょっと笑ってしまう。唄子の部屋でも『自己紹介なんざ名前だけで充分だろ!』って言ってたもんね。音楽さえ聴いてもらえれば、それでいいんだろうな。

――まぁ、そもそも蓬莱人にシゲル様の自己紹介が必要な人間はいないし、効率的だよね!

 

「事前にベースとドラムの音は収録済みだ。リズム隊が録音ってのは、正直不服ではあるんだが――ま、ないものねだりをしても仕方ねえし、逆よりはマシだ。今回はグルーヴ感にはちょいと犠牲になってもらう」

 

「だがよ、このパワーアップしたアンプならそれを差し引いてもすげえ音楽になるはずだぜ!エフェクターもバッチリだしな!」

 

「まぁテレビの前の皆にとっちゃあ、テレビスピーカーの性能に依存しちまうのが残念なところだが――最新技術が用いられたテレビってのも、今開発中らしいからよ!」

 

立て板に水、って感じで、シゲル様は嬉しそうに語っている。正直分からない単語もあるけど、全然気にならない。シゲル様が嬉しそうにしていればオーケーです!

 

「それじゃあ唄子の部屋でやった時と同じように――『ロケット』から、始めるぜ!」

 

「どんだけ違うか、その耳で確かめてくれよな!」

 

イントロが始まる。

太鼓の軽妙なリズム。この音がドラムの音なんだろうな。確かに色んな打楽器の音が聞こえる。

うん、なんだかワクワクしてくるリズムだ!そっか、ホントはロケットってこんな出だしなんだ!

 

「――楽しんでいこうぜっ!」

 

次の瞬間、シゲル様がエレキギターっていうのを――

 

 

――――

 

―――

 

――

 

 



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21話

 

「――どうだった?」

最後の音を鳴らし終えたシゲルが問う。

三人娘は興奮に頬を紅潮させ、鼻息荒く前のめりになっていた。

 

「――最高でしたっ!!最高の、最高でした!!」

 

「わたし、今死んでも悔いはありません!」

 

「さい、こう、でし、たー……!」

 

「あっ、浅黄さんがついに持ちこたえた!」

「三回目の演奏にしてようやく……」

朱里と蒼子の言葉に苦笑いを浮かべたシゲルが、カメラ目線で説明を始める。

「あー、多分カットされてるから視聴者の皆に伝えておくぜ。こいつら最初に『ロケット』聴いた瞬間気絶しちまってな!感想を聞くために蘇生を繰り返して――今三回目やり終えたところだ!」

「お手数をお掛けしてしまって、ほんとうにごめんなさい、シゲル様!」

「すみませんでした!」

「うう、わたしが悪いんですー。二度目もサビで失神してしまいましてー……」

「気ィ失うほど喜んでくれたのは、まぁ嬉しいけどな。ちょいと大げさだぜ」

シゲルは照れくさそうに笑ってから、話を続ける。

 

「――たった一曲だけどよ、『バンド』の魅力は伝わってくれたか?」

 

三人の返事は、頭がちぎれんばかりの首肯だった。

 

シゲルは「ありがとよ!」と幸せそうに言うと――楽器群に指を向けた。

きょとんとする三人に、シゲルは告げる。

 

「よし!じゃあ選べ!」

 

と。

 

「「「はい?」」」

 

揃って首を傾げる三人に、シゲルは良い笑顔で言い放った。

 

 

 

「――これから三人でバンドを組んでもらう!」

 

 

 

突然のシゲルの言葉に、三人娘は『えーっ!?』と声を揃えた。

 

「色々考えたんだが、それが一番いいかと思ってな!プロデューサーにも許可はとってあるぜ?」

「き、聞いてないですよ?!」

「し、シゲル様の『バンドミュージック』を伝えるための番組ではなかったのですか?」

「だからだよ。バンドは一人じゃできねえだろ」

「い、いえ、先ほどの『ロケット』を拝聴するにお一人でできてましたー!リズムセクションは確かに録音でしたけど、音質は驚くほど良かったですしー!シゲル様の歌とギターは完璧にリズムに乗ってましたしー!」

「そうです!ぼくたちが真似っこしても、とてもテレビの前の皆に届けられる音楽になるとは思えません!あんなにカッコいい音楽に追いつこうと思ったら、まず輪廻転生を極める必要がありますよ!――だって浅黄さんはともかく、ぼくたちは楽器に触ったことなんてほとんどないんですよ!?」

「そ、その通りです!」

 

「――だからいいんじゃねえかよ!」

 

三人の言葉に、シゲルは力強く答えた。

 

「テレビの前の皆だってそうさ。楽器を触ったことがある人のほうがすくねえ」

 

そこで一旦言葉を切ると、シゲルはカメラへと視線を向けた。

 

「音楽ってのは聴いてるだけで最高なもんだ。だから、この番組を『聴く』ためだけに見ていてくれる人、本当にありがとな!これからも色んな音楽をどんどん紹介してくからよ、今後も見てくれると嬉しいぜ!」

 

「でもよ、『音楽を自分でもやってみたいな』って思ってくれる人をちょっとでも増やしたいってのが、俺の目論見の一つでもあるんだ。俺はこのアイドルスターが、そのきっかけになればいいと思ってる!」

 

「素人だっていいんだ。だれでも最初は素人。歌ってみたら、音を出したら、なんか楽しい。それでいいんだ。楽しけりゃ、それが最高の音楽なんだよ」

 

「どんな楽器でもいい。調子はずれの歌でも上等だ!騙されたと思って、俺の口車に乗ってみてくれ!」

 

「――きっと、楽しいからよ!」

 

紡がれるシゲルの思いに、スタジオの誰もが口を閉ざして聞き入っていた。

「……っと、力み過ぎたな。まぁそんなに大袈裟な話じゃねえんだ。楽器でも歌でも、やってみると案外面白いぜ、って、それだけさ」

言葉に熱がこもり過ぎていたことに気付いたシゲルは、ちょっと気まずそうに頭を掻くと、

 

「ま、成長してったほうがもっと楽しいのも事実だけどな!だからお前さんたちも、番組のなかでちょこっとずつ上達していこうぜ!一曲でもセッションできるようになった日にゃ、そりゃあもう天国味わえるからよ!」

 

そう言って、照れくささを誤魔化すように笑った。

その子供のような笑顔は、三人から『断る』という選択肢を奪い取るには十分すぎた。

 

「「「――わかりました!」」」

 

示し合わせたように声を揃えた三人は、上達の決意を込めて、力強く頷いた。

シゲルはそれを嬉しそうに見て、再度楽器群を指さす。

「よぉし!じゃあ第一印象でいいから、どの楽器をやりたいか教えてもらえるか?」

シゲルが再度問う。

「「「はい!」」」

返答は早かった。

三人娘は一斉に、即座に同じ楽器を指さした。

 

「「「ギターです!!!」」」

 

――シゲルの抱えるエレキギターを。

 

「こうなるんじゃねえかと思ったんだよなぁ……」

 

シゲルは頭を抱えた。

 

しかし即座に立ち直ると、声を張り上げる。

 

「色んな楽器の良さを伝えようって番組なのにギター三人でどうする!ギターは禁止だ禁止!フライングVちゃんは俺のだ!これまだ一本しかないし!」

「「「ええー……」」」

三人はしょんぼりと肩を落とした。

 

「――で、でも、そもそもギターの旋律抜きで曲が成り立つんですか?」

ふと顔を上げた朱里が、不安そうに言う。

ギターのメロディは、シゲルの弾き語りを散々聞いてきた者からすれば必要不可欠の要素に思えたからだ。

しかしシゲルは当たり前のように頷いた。

「おうよ。お前さんたちに組んでもらうのは、ずばりキーボードトリオだ」

「キーボードトリオ?」

「ベース、ドラム、キーボードで構成されるバンドだな。まぁギターが入ることもあるんだが」

そこまで聞いて、浅黄がぽんと手を打った。

「あっ、なるほどー!ピアノ――キーボードが主旋律を担うんですねー?」

「正解。そういうことだな」

「うーん……でしたらわたしはキーボードを担当したいですねー。初心者にこそ楽器に触れてもらいたい、というシゲル様の思惑には添えないかもなのですがー……」

「そういや浅黄ちゃんはピアノ弾けるんだったな。大いに結構だぜ。初心者担当は二人もいるからな!――へへ、それにな。クラシックピアノの経験者って、結構バンド組むと躓いたりするんだぜ?リズム隊と息を合わせるってのは、また別のテクニックが必要になるからなー」

少しだけ意地悪そうに言いながら、シゲルは心底楽しそうだ。

「お、脅さないでくださいませー」

浅黄は顔を赤くしながらうつ向いてしまう。

 

 

「――さて。残るはベースとドラムだが……」

シゲルの言葉に、朱里は蒼子と視線を交わすと、そっと手を上げた。

「ちょ、ちょっと話をさせてもらってもいいですか?」

「その、できれば二人で……」

「おう、もちろん。じっくり悩んで相棒を決めてくれよな!」

二人はシゲルの言葉に曖昧な笑みで応えて――

 

 

顔を突き合わせるや、視線から火花を散らした。

 

 

「ぼく、ベースがいい」

 

小声だが、断固たる口調で朱里が言った。

 

「私もそうよ。ギターと似てるから、将来ギターをやる時にもテクニックが役立ちそう」

 

同じく小声で、蒼子は譲らない意思を表明する。

 

「……」

「……」

 

不退転の視線が互いを射抜く。

 

 

 

「「じゃーんけーん!!」」

 

 

 

 

 

 

 

小躍りしながらベースを手に取る朱里と、ドラムセットの前で露骨に肩を落とす蒼子を見て、シゲルは苦笑する。

 

「なんかドラムが不人気みてえだが、打楽器ってのも魅力的な楽器なんだぜ?」

「そ、そうは申されましても!できればシゲル様のギターと同じ弦楽器を触ってみたかったのが本音でありまして!」

「はは、まぁそう言ってくれるのは嬉しいが――どれ。本職には敵わねえが、ちょいと楽しいとこ見せてやる」

「え?」

「んー、イントロに使うソロでいいか」

 

そんなことを言いながら、シゲルはドラムスローンに座り込むと、軽くスティックを握り――軽妙にドラムを叩き出した。

 

シンプルなフレーズだ。キックのダブルから、スネア、ハイハットへ。それがタム回しに挟まっている。

しかしそのシンプルなフレーズは、一瞬でスタジオ中の心を鷲掴みにしてしまった。

 

ドラム。ギターやキーボードとは違って、ひたすらリズムを刻むだけの楽器。

 

だがメロディの存在しないこの楽器が奏でているのは、間違いなく音楽だった。

 

――それも、とびっきりの。

 

何かひどく期待感を煽るリズムが、しばしの間鳴り響いて――不意に止まった。

 

「――どうだ、楽しそうだろ?これ実は結構簡単なんだぜ!キックだけちょいとコツが必要だけどな」

 

「「「シゲル様ぁーっ!!!」」」

 

三人娘の黄色い歓声があがって、シゲルは照れくさそうに手を振った。

全身を使って演奏する楽器というのは、見た目のインパクトからして満点であった。おまけに長い手足を操っているのは絶世の美男子なわけで、ドラムセットはまさに『格好良さ』の権化と化していた。

 

「ぼ、ぼくドラムやるよ!」

「ダメよ!さっき決まったでしょ!」

ずずいっ、と詰め寄る朱里に、蒼子は両腕をクロスして応戦する。

 

「落ち着け落ち着け。当然ベースも最高の楽器だから安心しろ。大当たりしかないクジ引けたんだから幸せモンだぜ、お前さんたちは」

 

そう言いながら、シゲルは今度はベースの魅力を伝えるべく、朱里へと近づいていった――

 

 

 

 

 

 

朱里はシゲルのベースソロを聞いた後、二度と離さないと言わんばかりにベースをかき抱いていた。

四弦の重低音は、朱里の心を鷲掴みにしていた。

「か、カッコいい……こんなカッコいい楽器がこの世に存在したなんて……!」

その言葉に、シゲルは我が事のように喜ぶ。

「だろぉ?!最高だよな、ベースも!『マッハカナブン』なんかも、やっぱりベースがねえと――」

「ま、マッハカナブン、ベースがあればもっとカッコよくなるんですか!?」

興奮状態の朱里が食い気味に尋ねると、シゲルはサムズアップで答えた。

「おうよ。エレキとベースとドラムがあれば、カナブンが空飛ぶぜ!」

「か、カナブンが空を飛ぶなんて……!」

朱里は愕然とつぶやく。

「カナブンは飛ぶものでは……?」

「飛びますよねぇ……」

蒼子と浅黄の突っ込みも聞こえないほど舞い上がった朱里は、シゲルの「来週のアイドルスターで『マッハカナブン』の完成形を聞かせてやるよ!」というセリフに収録を忘れてはしゃぎまわり――

 

 

次のカットでは、申し訳なさそうな顔で椅子に座っていた。

 

 

悄然とする朱里の肩を、蒼子がぽんと叩く。

「大丈夫よ朱里、生放送じゃないから。興奮で鼻血だして、少々撮影がストップしたことはバレないよ」

「それ言ったら意味ないでしょ!弟も見てるんだからね!?」

歯をむき出して怒る朱里に、蒼子が含み笑いを漏らす。

シゲルは苦笑いを浮かべた後に、やれやれといった風に肩を竦めると、

 

「――そういや、折角だからキーボードの良さも伝えてぇな」

 

そんなことを口にした。

 

三人の目が期待に輝く。またしても超絶技巧を披露してくれるのか、と。

だが、シゲルはキーボードに近づく前に、まず浅黄に近寄ると、

 

「――ってことで頼んだ!浅黄ちゃん!」

「うえっ?!」

 

素っ頓狂な声を上げる浅黄の手を取り、問答無用でキーボードの前へと連れてきてしまった。

 

「ちょいとタッチは違うが、元はピアノさ。一曲やってみてくれよ!」

シゲルの『頼み』を断れる蓬莱淑女は存在しない。

「は、はいぃ」

浅黄は震える手を鍵盤に乗せ、恐る恐る押し込む。

 

「ででで、では、僭越ながらー、良く弾く曲の一部をー……」

 

キーボードがぎこちなく音を紡ぎ始める。

 

――しかし、浅黄が震えていたのは最初のうちだけだった。

 

浅黄の指が、広い範囲の和音を完璧に奏でる。しかも、ただ音階を正確になぞっているだけの演奏ではなかった。

その調べは、キーボードの電子音にもかかわらず、実に『感情的』だった。

いつしか、浅黄の顔には緊張の色ではなく微笑みが浮かんでいた。「自分の好きな曲を、みんなに聞いてもらえて嬉しい」――言外にそう言っているような表情で、浅黄は精一杯の演奏を披露している。

 

――とはいえ無論、シゲルの前世であればもっと優れたピアニストは山ほどいる。シゲル自身も、今の浅黄には恐らくテクニックで勝ててしまうだろう。

 

だが、この演奏に、シゲルは目を輝かせた。ピアノの演奏が終わるまで、リズムに小さく頷きを合わせながら微笑みを浮かべ――演奏が終わるや、『今日これ以上嬉しいことはなかった』とでも言いたげに、立ち上がって拍手を送った。

 

「最ッ高だったぜ!!上手いじゃねえかよっ!今のは何て曲なんだ?!」

手放しの大絶賛に、浅黄はもじもじと指を絡めながら答える。

「あ、ありがとうございます。畏れ多いですー。……曲名は『雨音戯曲』と申しまして、一番好きなピアノの曲なんですよー!」

「へぇー!いやいい曲だな!中盤の、和音が広がってちょっとずつクレッシェンドになってくところ、痺れたぜ!」

「嬉しいです!うー、でもちょっと歯がゆかったですー!まさにそこなんですけど、うちのピアノならもっと表現できるのに、って思いましてー!」

「ははは、分かる分かる!クラシックだからなぁ……まぁキーボードの性能が上がっていけば不満もちょっとずつ解消されてくだろうから、勘弁してくれよな!たまったフラストレーションは、家にいる相棒でたっぷり解消してくれ!」

「もう帰ったら早速弾いちゃおうと思います!」

音楽談議に花を咲かせる二人をよそに、朱里と蒼子はちょっとした衝撃を受けていた。

「浅黄さん、そんなにうまかったっけ……?」

「うん。浅黄さんのピアノは聞きなれてるはずだけど、今のちょっと感動したよ」

二人の賛辞に、浅黄は表情をほころばせる。

「ふふ、ありがとうございます。最近、確かに自分自身ステキな表現ができるようになったとは思うんですよー」

「へぇー!でも、急にそんなにうまくなるものなの?何かきっかけが?」

朱里の質問に、浅黄はシゲルに視線を向けながら答えた。

「――それは勿論、シゲル様ですー」

「……俺か?」

きょとんとするシゲルに、浅黄は嬉しそうに両手を合わせた。

「はい!シゲル様の音楽を聴いてから、私自身音楽が、ピアノが楽しくってしょうがなくてですね――次第に、今まで理解できなかった発想標語がなんとなーくわかるようになったんですー!」

「発想標語?なにそれ?」

「ピアノの楽譜にかいてあるんですよー。『活き活きと』とか、『表情豊かに』とか、『勝手気ままに』、とか」

 

そこまで説明すると、浅黄は一瞬遠い目をして、

 

「――きっと二世紀前までは、それが普通だったんでしょうねー」

 

僅かに寂しそうに言った。

 

 

しかし朱里はそんな浅黄の様子には全く気付かない。目を輝かせて口を開いた。

 

 

「へぇー!じゃあ『これから』は、もっといろんな発想標語が増えるかもね!」

 

と。

 

――その言葉に、浅黄は一瞬だけ目を丸くして、

 

「ふふ、そうですね。わたし、ピアノを――『これから』は、もっと楽しめそうですよー!」

 

その日一番の笑顔で、胸を張った。

二人のやり取りを見て、シゲルは眩しそうに目を細めた。

 

「で、その発想標語を理解できるようになったおかげで、とっても上達したってことでいいのかな?」

朱里が確認すると、浅黄は曖昧に頷いた。

「うーん、表現力はちょっとアップした、とは思うんですけど――」

しかしそこまで言うと、浅黄は首を傾げてしまう。

「――でも、技術的にそこまで上達した、って気はしないんですけどねー」

「んー、でもぼくはとってもうまくなったように聞こえたけど」

 

 

 

「――聞き手の問題かも」

 

蒼子がぽつりと言った。

 

「聞き手の問題?」

おうむ返しする朱里に、蒼子は自らの考えをまとめるように話し出す。

「えっとさ、皆言ってるじゃない。『シゲル様の音楽を聴いてから、ごはんがとっても美味しくなった』って。――これってもしかして、他の分野にも――例えば音楽にも適用されるんじゃないかと思って」

その言葉に、スタジオは静まり返った。

注目を集めていることに気付き、蒼子は慌てて手刀を切る。

「す、すみません、素人のつまんない憶測です!ここカットしてください!」

しかし、待ったをかけるものが居た。

 

「いや!蒼子ちゃん、良いこと言ったぜ!」

 

やおら立ち上がったシゲルである。

 

「そう。そうなんだよ!いいか、テレビの前の皆!今ならきっと、前よりずっと前向きに音楽を楽しめるはずなんだ!」

 

「俺は『どんな楽器でもいい』って言ったよな?あれってよ、もちろん今日ここに紹介した楽器に限らねえんだぜ!」

 

「世界にはこの番組では紹介しきれない楽器や音楽が山ほどある。そりゃ皆よく知ってるだろうが――このタイミングで、ちょっともう一回見直してみてくれねえか?昏睡病なんてのがなけりゃよ、その楽器とか音楽の魅力ってのがもっともっと伝わってくるはずなんだよ!」

 

「何かこないだシゲラジに届いたハガキにあったんだが――『もしギターが販売されたら、ヴァイオリンをやめてギターを始めようと思います』ってヤツ。――俺はよ、そりゃちょっと待ってくれ、って言いてえ!」

 

「色んな楽器や音楽に触るのは、そりゃ楽しいから結構!でも、それまでやってた音楽を止めるこたねえんだよ!」

 

「もう一回落ち着いて、自分の相棒を見直して――ちょっと演奏してみてくれよ。きっと今なら、ソイツの新しい魅力が伝わってくるはずだぜ!」

 

シゲルの『新しい音楽』の宣伝であるはずの番組で、シゲルは以前からある楽器や音楽について熱弁しだした。

本来予定に無いハズの展開だった。収録を見守っていたプロデューサーが焦りを見せる。

 

収録時間には限りがある。何せシゲルは多忙を極めている。蓬莱での治療ライブはまだまだ終わる様子を見せていない。今日のアイドルスターだって、リハーサルの時間すらとれなかったくらいだ。

創刊される音楽雑誌に寄稿もしなくてはならない。量産前の新楽器の最終調整もある。これがただの人間の肉体であれば、とうの昔に過労で入院しているだろう。

その点、シゲルの肉体は神の手によるもので、頑丈さは折り紙付きであり、常軌を逸したハードワークをこなしながらもまだまだ健康を維持していた。

その頑丈さにものを言わせ、シゲルにはこの収録の後も治療ライブの予定が入っていたのだ。遅刻させるわけにはいかない。

 

「――えっ?何?巻け?ちくしょう、この話はシゲラジでもしてやるからな!」

 

シゲルは尚も思いの丈をぶちまけようとしていたが、プロデューサーがペコペコ頭を下げながらハンドサインを出してくるのを見て、渋々腰を下ろした。

 

 

 

その後、番組はテンポよく進んでいく。

 

幾つかの宣伝があった。

今日紹介された楽器が、来月には販売されること。簡単な教本も同時に販売されること。音楽、楽器の紹介などを行う世界初の月刊音楽雑誌が創刊されること。

 

 

ポジティブな話題だらけのアイドルスター第一回は、最後にシゲルの新曲『終わらない旅』が披露されて終幕となった。

 

――テレビの前に、無数の失神者を量産して。

 

 

 

 

 

 

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女子高生・神宮寺真美視点

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『次のニュースをお伝えします。』

 

――はっ!?

 

覚醒したわたしの目に飛び込んできたのは、おなじみのニュースキャスターの顔面だった。

「へっ!?あ、アイドルスターはどうしたの?!」

思わず大声が出てしまう。

何が起こっているのかさっぱりわからないわたしは、狼狽えて辺りを見渡して――私の大声に身体を起こした母と姉、そして『9時15分』を刺す時計を見つけた。

 

――は?

九時十五分って――九時十五分ってこと?

 

あ、あわわわわわ!!

こ、これってつまり――!

 

「じ、時間が、時間が消し飛ばされてるぅ!!」

わたしがのけ反りながら叫ぶと、お姉ちゃんは両こぶしを握り締めて立ち上がった。

「なっ、何か超常の力が働いているよ!わたしわかるもん!女官だから!」

「にょ、女官ってすごい!だけど何の解決にもなってない!」

 

そんな感じにぐるぐる目のわたしたちがあわあわしていると、静かな声が響いた。

 

「……現実を見ましょう。気を失っていたのよ、私たちは」

 

母さんが見たくない現実を突きつけてきた。

そう。うっすらと覚えている。ロケットのイントロに、シゲル様がエレキギターっていうのをかき鳴らして――

 

そうだ。あまりの衝撃に、破壊力に、わたしたちは意識を飛ばされたんだ。

 

――そりゃそうだよ!ロケットに跳ね飛ばされて気絶しないで済む人間がいたらお目にかかりたいよ!

シゲル様!素晴らしい音楽をありがとうございます!でもロケットの操縦はもう少し慎重にしていただきたかった!せめて事前に気つけ薬を用意しておくように注意していただければ、完全食を口に含んだまま聞いたのに!

 

「うっ、ううっ、うぐぅううぅっ……!」

 

嗚咽が漏れる。後悔の念が後から後から押し寄せてくる。

 

……なにもかも後の祭り。過ぎ去った時間は戻らない。

 

わたしは顔面蒼白になって、自然と四つん這いになってしまう。

 

「見っ、見れなかったってことだよね……シゲル様の、新番組が……」

 

お姉ちゃんからも、母さんからも、答えは無かった。

死んだような沈黙の中、ニュースキャスターの声だけが虚しく響く。

 

やがて、母さんがぽつりと呟いた。

 

 

「――辞職しよ」

 

 

母さん?!

 

ヤケになっちゃだめだよ!

 

 

でも慰めの言葉すら思い浮かばない。そんなの私がかけてもらいたいくらいだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――だけど、捨て鉢になっちゃった母さんを、

 

 

 

「ちょっと待って!――ビデオは?!録画!」

 

 

 

そのお姉ちゃんの一言が救ったのだった。

 

 

 

 

「「あっ!!」」

 

私と母さんはハッとして、ビデオデッキに目を向ける。

 

――二年前にプレゼントしてもらったビデオデッキは、誇らしげに『REC』のランプを点灯させていた。

 

「あああああ!信じてたよわたしのビデオデッキ!ありがとうジェーン・ホワイト!!」

「あの曲聴いて失神しないとは見上げた精神力だよ!あとで名前を授けてあげるからね!」

「えらいわね、本当にえらいわね!いい子いい子!」

母さんが聞いたことも無いような猫撫で声を出してビデオを撫でまわしてる。

とにかく望みは絶たれていなかったんだ!リアルタイムで見れなかったのは少々残念だけど、もともと生放送でもないし些細なことだよ!

 

私は直ぐに録画を停止すると、巻き戻しボタンを押した。

 

「さあ二回戦だよ!今度こそ新曲の正体を掴むんだから!」

 

「「おーっ!」」

 

 

 

 

――即座に始まった二回戦目、やっぱり私は1ラウンドKOされた。

 

 

でも、その程度でくじける私じゃない。

この夜、我が家から明かりが消えることは無かった。

 

 

 

 

 

 

____________________________________________

翌朝・神宮寺宮子視点

____________________________________________

 

 

 

 

 

早朝、わたしは大きな欠伸をしながら局へと続く廊下を歩いていた。

結局一家全員でまた徹夜してしまった。翌日に差し障るからなるべく徹夜はやめようと誓っていたのに、その約束は濡れティッシュよりも簡単に破られてしまった。まぁ、あんな音楽を聴かされちゃったらしょうがないよね。多分今日は蓬莱中が寝不足だよ。

それにしても真美ちゃんは大丈夫かな。「エレキギターに吹っ飛ばされた脳みそがどこ探しても見つからない」とかぶつぶつ言いながら朝ごはん食べてから心配だ。通学路にでも落ちてればいいけど。

 

――お、女官の二人組を発見。美奈子と真名美の仲良し二人組だ。わたしの局から出てきたってことは、多分今の今までビデオを見ていたね。

わたしが「おはよー」と声をかけると、二人は揃って振り返って挨拶を返してくれた。

「おはよう……」

「おはようございます……」

――その頬を、真っ赤に腫らした顔で。

「うわっ!二人ともほっぺすげえ!どうしたのそれ?!」

「いや、昨日ちょっと突発的にほっぺつねり大会が始まって……」

「なっ、なんで?!そんな愉快そうなイベント聞いたことないよ!」

私もいたらよかった!参加はしないけど見るだけ見たのに!

私の疑問に、二人は気まずそうに俯いて答える。

「『ロケット』の出だしで失神を免れたものが、失神した人のほっぺをつねって起こして……でもそうすると今度はつねってる人が失神するから、他の人につねられて……」

「最後の『終わらない旅』も皆でそうやって乗り切ったの」

「アクロバティックな乗り切りかたしたね……」

ほかに方法はなかったんだろうか。

っていうかどうせ録画はしていたんだろうから、後で見たらよかったのに。

「みんな冷静じゃなかったのです」

「大体貴女はどうなのよ。初見の時、実家でちゃんと落ち着いて見れたわけ?あんな凄まじい音楽を。蘇った死人がまた死ぬよ、アレ」

「そりゃもう、うちは冷静沈着。みんな静かなもんだったよ」

失神してたから。

 

私が疑いの眼差しを向けてくる女官たちから目を逸らしていると、

 

「む、宮子か」

 

背後から命子さまの声が響いた。

びくーん、と私の背筋が伸びる。

振り向けば、なんと高位女官のそろい踏みだ。

 

「おっ――おはようございま、す……?」

 

反射的に振り返って挨拶を返した私は、思わず目を丸くしてしまった。

 

だって――

 

「うむ、おはよう。――宮子、おぬしは少々外出が多すぎるぞ。許可を出したのはわしじゃが、今後は少々控えるがよい」

「口うるさくはしたくないのですが、『ちょっと実家に帰りたいから』くらいの理由での外出があまりにも多すぎますからね」

「昨日の外出理由に関しては察しがついていますが――あまり音楽にばかりうつつを抜かさず、仕事に励むのですよ」

 

えらそうなことを言って去っていく三人のほっぺは、赤く腫れていたから――

 

 

 

 

 



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22話

女官にも休日はある。交代制ではあるが、およそ週に一度のペースで一日の休みをとることができる。

平女官のたまり場と化している宮子の部屋には、外出届を出さなかった女官たちがたむろしていることが殆どなのだが、その日に限っては部屋の主ともう一人しか存在しなかった。

原因はその『もう一人』にあった。

なにせ今、愚痴をこぼしながら宮子と肩を並べてテレビを見ているのは――

 

「めいこは頭がかたい」

 

帝だったから。

 

いつものように宮子の部屋にお邪魔しようとしていた女官たちは、その姿を見るや平伏して去ってしまった。

だが昏睡病回復以来並々ならぬ図太さを発揮するようになった宮子は、大して気にもとめない。突然現れ、『チビちゃんを見せてくれ』という帝を、どうぞどうぞと気軽に招いてしまった。

「それだけ帝が大事なんですよー」

「……わらわはもう十歳になるのだぞ。いつまでたっても赤子のようにあつかわれては、たまらぬ」

帝は小さな口をへの字に曲げて、不満の意を表す。

しかし、まるで人形のようだった頃の帝を知っている宮子としては、命子の小言に愚痴をこぼす今の帝が実に微笑ましかった。

ある意味健全な『子どもそのもの』の様子に、宮子は口元をほころばせる。

「まぁまぁ。あ、おせんべい食べますか?」

宮子は既に封を切られた煎餅袋をひょいっと差し出す。

特別な品ではない。実家の近所の『田中せんべい』で十二枚入りが二百円で購入できる。

ハッキリ言えば帝の口に入るような代物ではない。おまけに既に封を切られている。この場に上級女官が――いや、宮子以外の女官がいれば激怒間違いなしの行為だ。

当の帝は「うむ、もらう」と頓着せずに手を伸ばしたが、小さな手は煎餅をつまみ上げると、困惑したように動きを止めてしまう。

「……どうやってたべれば良いのだ?」

「どうもこうも、こうですよ」

宮子はいつものように煎餅を手に取ると、ぱきりと齧り取った。

ぱらぱらと小さな破片がテーブルにこぼれる。

「うーん、やっぱりおいしい。これがまたちょっとぬるくなったお茶と合うんですよねぇ」

下品にも口の中に煎餅を放り込んだまま喋る宮子に、帝は目を丸くする。

「……よいのか?そんな食べ方で」

「煎餅の食べ方って他にあるんです?ささ、帝もどうぞどうぞ」

「――うむ」

帝は恐る恐る煎餅を口元に運ぶと、小さく齧り取り――目を見開いた。

昏睡病から解き放たれた帝の味覚は、香ばしい醤油の香りと、米の甘味を正確に捉えていた。醤油は少々控えめに使われている一品だったが、普段薄味に慣らされている帝にとっては鮮烈だった。

子どもの舌は、いつだって分かりやすく濃い味を求めているのだ。

ちょっと驚くような硬さも、とても面白い。

「よいな、これは。ごようたしにしよう」

「わぁ。田中せんべいきっと驚きますよ」

下手をすれば心臓麻痺クラスだ。

暫しの間、安物の煎餅と安物の茶を啜る音が響いていたが、長くは続かなかった。

「ありゃ、なくなっちゃった」

宮子が二枚を食べ終えると、煎餅袋は空になってしまったからだ。

 

ちなみに帝は一枚を食べ終わったところだった。

 

「えっ……」

 

帝は一声漏らすと、目に見えて落ち込んだ。

宮子は姉という生き物である。自分より小さな女の子がしょんぼりするところを見て、反射的に「なんとかしてあげなくては」と思った。

自分だけ二枚食べてしまったのもちょっと気まずかった。

 

だから宮子の口を、自然と言葉がついてでた。

「帝」

「む?」

 

「――皆に内緒で、ちょっとおでかけに行きましょうか」

 

――と。

 

かくして、宮子は帝を街に連れ出した。

置手紙一つで。高位女官に断りも無しに。

 

露見は早かったが、その時すでに二人は行方を晦ましていた。

 

 

 

 

命子は激怒した。

かならずやあの邪知暴虐のポンコツ女官を草の根分けてでも探し出し、有史以来最大の雷を落とさねばならぬと思い立ち、即座に実行に移した。

その怒りっぷりたるや凄まじいものだった。事が事だけに当然と言えば当然なのだが、昏睡病が蔓延していた数か月前の蓬莱においてはあり得ない怒りっぷりだった。

命子が怒りを爆発させるさまを目の当たりにした女官は、後に『人間は口から火を吹ける』と震えながら述懐した。

 

 

 

 

 

 

 

____________________________________________

 

 

 

 

 

 

 

古着として売り払おうと思っていた子供時代の服が、押し入れの奥に眠っていたのは、二人にとっては幸運だった。

帝は白無垢の着用が常だが、古着をきた上でつば広の帽子を目深に被れば、帝だと気づく者はまずいないだろうと思われたからだ。

 

宮廷とは言え、別段警備員が常駐しているわけではない。悪漢というものは二世紀前の概念であるし、女官の大半は何らかの武術を修めている。現代蓬莱において、帝の護衛は女官で事足りているのだ。

帝を連れたままタイミングを見計らって宮廷を抜け出すのは、さして難しいことではなかった。

 

外出先に宮子が選んだのは、実家の近くにある商店街だった。

折角の休日なので歩行者天国に行こうかと思った宮子だったが、流石にそれは踏みとどまった。昏睡病が遠のいた今、ホコ天の活気たるや凄まじいものがある。万一帝の存在がバレれば大パニックに陥るだろう。

平日の午後ともなれば学生で賑わう商店街だが、日曜は歩行者天国に人をとられる為大分閑散としている。

中々に都合の良い環境だった。宮子と帝は人目を憚ることなく団子の歩き食いをしている。

「……こんなことをしてよいのだろうか」

帝の呟きに、宮子はのほほんと答えを返す。

「私は外出届ちゃんと出しましたし。帝は外出届なんて必要ないでしょう?たぶん問題ありませんよ。ちゃんと置手紙もしてきましたしー」

「そうか」

とても問題がないようには思えない帝だったが、口には出さない。

――置手紙とはメモ一枚に『ちょっと帝とお出かけしてきます。夕暮れまでには戻ります』とだけ書かれたあれのことなのだろうか。あんなものを見つけたら命子は魔神に進化してもおかしくはないと思うのだが。

帝はそんなことを考えつつ、命子自慢の薙刀が宮子を問答無用に両断する映像を幻視したが、口には出さない。

中止を申し出るのは躊躇われるほど、帝のテンションは高まっていたからだ。

おでかけは健全な心身を取り戻した九歳の少女にとって、極めて魅力的だった。

「うーん。それにしてもここのお団子いけますねぇ。昔より一段上がりましたよ」

買い食いする宮子を犯罪者を見るような目で見た帝も、もはや過去にしか存在しない。

「うむぅ。餡がよい」

共犯者となった帝は表情の動きにくい顔にほんのりと喜色を浮かべ、歩きながら団子をぱくついている。

 

「さーて、この後どうします?何かしたいこととかありますか?」

「わからぬ。まかせる」

「うーん。じゃあ水天宮にでもお参りに行きます?ちょっと歩きますけど、団子の腹ごなしに丁度いい距離ですよ。それからどこかでお昼ご飯を食べるのはどうでしょう」

水天宮では府内ではそれなりにメジャーな神社である。安産、子授けを司る神は現代蓬莱においては重要視されており、神への信仰が薄れつつある今も参拝客は少なくない。

とはいえ歩行者天国と被ったこの時間帯であれば、さして問題はないはずだった。

「うむ。よきにはからえ」

「ははーっ」

そんなやり取りをしながら、二人は水天宮へと足を進める。

二人を呼び止める声があったのは、その時であった。

 

「そこのお二人さん、ちょいといいかい?」

 

二人が振り向くと、そこには見知らぬ人物が居た。

ハスキーな声をしたその人は、大きなマスクをしていて、帝と同じように帽子を目深にかぶっていた。長い黒髪は輪郭を隠している。

身長が高い。無駄な肉はついていないが、力もありそうだった。

「はい?なんでしょう?」

さり気なく帝を背にかばいながら、宮子が答える。

「道を尋ねたくてね。この神社にいきたいんだけど」

「えーと……ああ、水天宮ですかー。もう近いですよ。この道を――」

差し出されたメモを覗き込んだ宮子が口頭で案内をする。ふむふむと頷きながら聞いていた相手は、やがて小さく頭を下げると感謝の言葉を述べる。

「サンキュ。よく分かったよ。やっと参拝できる」

アステカ語での感謝の言葉に、宮子も笑みを浮かべる。蓬莱においてもアステカ語は義務教育に含まれているが、通常感謝の言葉としてチョイスすることはない。

いや、なかったというべきか。ごく最近においてはそうでもないのだ。

何しろ、櫻崎シゲルが頻繁にその言葉を使うから。

――きっと、この人もシゲル様のファンだ。

そう判断した宮子は僅かに持っていた警戒心を投げ捨てて、礼を述べて立ち去ろうとしていたその人物と話を続けようとする。

「いえいえー。それにしても水天宮に参拝ですかぁ。実は私たちもこれから参拝予定なんですよ。子宝犬目当てです?」

「へ?いやいや、水天宮といったら弁天様じゃないの?」

その人物は宮子の言葉に足を止めると、ハスキーな声を返してくる。

「え?弁天様……ああ、境内の宝生弁財天!」

ぽんと手を打つ宮子。その存在は、現代蓬莱の水天宮においては添え物に近かった。

「弁天様とは渋いところ突きますねえ」

「そうかい?音楽の神様だろ?」

その人の言葉に、宮子はあっと声を上げる。確かに弁才天には芸術の神としての側面もある。

「なるほど、言われてみればタイムリー!シゲル様という音楽の申し子が現れた今、弁天様ブームがきてもおかしくないですね!」

「お、そうなれば嬉しいな」

「嬉しい、ですか?へぇー、今時珍しい敬虔な方ですねぇ。何か音楽関係の願掛けですか?」

「ま、そんなとこさ。それと弁天様には恩があるもんだから、お礼も伝えに行きたくってね」

「あら、既に何かお願いが叶ったんですか?うらやましい話です。――あ、そうだ!折角だから水天宮一緒に行きませんか?賑やかな方が楽しいですし!」

人が多い方が帝もばれにくくなるだろうし、という思惑も込めて宮子は提案する。目の前の人物には帝の正体が露見するかもしれないが、もしばれても一人くらいなら頼み込んで内緒にしてもらえばいいし、という楽観的な思考回路が働いていた。

だが宮子の提案に、その人物は言葉を濁した。

「ん……あー、いやちょいとそれはどうかな。流石にボロがでそうだ」

「へ?ボロ?」

「えーと……」

「一緒に行けば絶対迷いませんし、ナイスアイディアですよ!――ねえ、」

そう思いますよね、と言おうと帝を振り返って、宮子は首を傾げることになった。

帝は大きく口を開けたまま、目を見開いて硬直していたからだ。

「――どうなさいました?」

訝しんだ宮子の問いには答えず、帝は言葉を発する。

 

「しげるさま」

 

「は?」

 

突如飛び出た英雄の名前に、宮子は首を傾げる。

ぴたりと動きを止めたのは目の前の人物だ。

 

一瞬の逡巡の後、その人物はちょっと肩を落とし――

 

「――ありゃま、バレちまったか。そこそこ女声に自信はあったんだが」

 

凛ちゃんは太鼓判押してくれたんだけどなぁ、と呟くその声は、先ほどまでのハスキーな女声とは一変していた。

聞き覚えの有りすぎるその声に、宮子は団子の串を取り落としていた。

その背格好、その声。帽子から伸びる長髪は、よく見ればウィッグで。

帽子の下から微かに見える目は、全蓬莱乙女が憧れている涼やかさ。

 

 

――櫻崎シゲルがそこにいた。

 

 

「――し、しっ、しげっ」

 

金魚のように口をパクパクさせ、次の瞬間には大声を上げそうな宮子に、シゲルは『しーっ』と人差し指を立てる。

宮子は慌てて両手で口を押えると、こくこくと頷く。

閑散としているとはいえ、人通りが全くないわけではない。

ここにシゲルが存在することがバレれば辺りはパニックとなり、芋づる式に帝がいることも露見するだろう。

そうなれば、明日の新聞を賑わせるのは間違いない。女官長命子の怒りの炎は、宮子を灰になるまで焼くだろう。

辺りをキョロキョロと見渡し、ひとまず周囲の視線を集めていないことを確認した宮子の全身に、冷や汗がぶわっと噴き出た。

帝と神に挟まれているという、ありがたくも恐れ多い状況にあることを理解したからだ。

宮子はぐるぐる目でシゲルに詰め寄ると、小声で声を荒らげるという器用な芸当を見せた。

「だっ、ダメじゃないですか!神族がこんなところ歩いてちゃダメじゃないですか!ちゃんと天国におられませんと!」

「あの世は何度も行きたくねえなぁ」

「みやこ、おぬしめちゃくちゃ失礼なことを言っているぞ」

「そっ、そんな馬鹿な!?わたしこのお方を誰よりも敬っておりますよ!?帝より上です!」

「えっ。女官とは一体……」

シゲルは何やら慌てふためく宮子の仕草を見て小さく笑うと、

「――櫻崎シゲルだ。よろしくなっ」

と名乗りを上げた。

「あ、ああっ!し、失礼しました!神宮寺宮子と申します!」

宮子はぺこぺこと頭を下げながら自らも名乗り、

「そ、それとこちらにおわすのは――」

と帝を紹介しようとしたところ、袖を引かれて制止された。

ちょいちょい、と手招きする帝に、宮子は顔を近づけた。

「――どうなさいました?」

「帝ということはないしょだ」

帝はごく小声でそう言う。

「何故です?」

「もし変にかしこまられでもしたら、『畏れ多い』」

二人の内緒話に、シゲルはどうかしたのかと首を傾げている。

宮子は慌てて帝の肩に手を置くと、とっさに言い訳を捻りだした。

「えーと、ミカ、ミカちゃんです!親戚の子供で、今は街に遊びにきたところなんですよ!」

「へぇ、そうかい。ミカちゃん、よろしくな!」

「はい」

帝は頬を紅潮させ、こくこくと頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ばれちまったもんはしょーがねーな。一緒に行こうぜ!」とシゲルが言ったので、宮子はこの世の春を謳歌していた。

シゲルの背中をみつめながら、宮子はほぼトリップしている。

 

――こんな幸運が舞い込むなんて!きっと模範的な女官として日々頑張っているわたしを、神が見ていてくれたんだ!

 

命子以下女官一同が目を血走らせて町中を探し回っていることを知らずに、宮子は呑気にもそんなことを考えていた。

 

「それにしてもよく分かりましたね、帝!」

シゲルに聞こえないように小声を出す宮子に、帝は頷きを返す。

「わらわの背丈だと、目元がよく見えた」

宮子はなるほどと手を打つと、足が止まっていたことに気付いて慌ててシゲルを追う。

 

確かに帝の身長は小さく、帽子の下から覗き込める。

――だが。帝がシゲルを見抜いたのは、何も視覚からの情報だけではなかった。

 

「……それと、」

 

帝は誰にも聞こえないほどの小声でささやく。

 

 

「人のまとえる神気ではない」

 

帝は眩しそうに目を細めると、先を行くシゲルの背を合掌で拝んだ。

 



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23話

一緒に歩けるだけで幸せの絶頂だった宮子だが、折角なら会話の一つでも楽しみたいのが人情だった。

「シゲル様、やっぱり願掛けとはワールドツアーの……?」

帝の手を引きながら、宮子は恐る恐る気になっていたことを切り出してみる。

シゲルがレベル3患者の治療に成功したこと。その結果世界各国を巡ってレベル3患者の治療に回ることは、既に世界中の人々が知るところだった。

「そうそう。成功祈願ってとこだな」

シゲルが気さくに答えてくれたので、宮子の顔はだらしなく笑み崩れた。勢い込んで言葉を重ねる。

「シゲル様でしたら成功間違いなしです!願掛けの必要も無いですよ!」

宮子のセリフに、シゲルは「ありがとよ」と返したが、

「――でもよ、急がなくちゃならねえからな」

そう言って真剣な目をした。

「急がなくちゃ、ですか……」

「ああ。一応、ビデオはレベル3で進行を止めてくれてるらしいけど――ずっとそうかはわからねえだろ?だからその辺も含めて、神様にお願いだ」

そう言って肩を竦めるシゲルに、宮子は不安を覚える。

 

シゲルが殺人的なスケジュールをこなしているのは、少し考えれば分かることだった。何せシゲルはここのところ『ライブを行っていない時間のほうが少ない』という異常事態に陥っていたから。

 

各国が受け入れの準備を整えるまでに、蓬莱のレベル3患者たちを完治させてしまう、というのが最も効率的な動きだ。それを実現させるためには、現状とにかくシゲル自身が動き回るしかなかった。

シゲルはそれを実行に移していた。超人としか言いようのない体力と精神力を発揮し、驚くべき速度でレベル3患者を治療して回ったのだ。

録音されたリズムセクションとエレキギターは追い風となり、レベル3患者はライブに参加さえすれば僅かな時間で回復した。

「治療は終わりです」の言葉に患者が「もうちょっと聞かせてーッ!」と慟哭を上げるようになるまで十分とかからない。

素晴らしく順調に治療が進んでいたのだ。

――シゲルの負担を考慮に入れなければ。

 

 

「どうか休んでください」「御身に何かがあれば世の破滅です」と嘆く凛たち関係者一同の声を聞き入れ、初めて半日ばかり休みをもらった、というのがシゲルの現状だった。

 

 

「――シゲル様」

「なんだい?」

「どうか、ご自愛くださいね。レベル3患者が手遅れになったとしても、それはシゲル様のせいじゃないんですから。シゲル様がもし倒れでもしたら、それこそ本末転倒です」

「……心配すんな。俺は絶好調さ」

「でも――」

尚も言いつのろうとする宮子に、シゲルは悪戯っぽい目を向けた。

「――宮子ちゃん。俺はよ、欲張りなんだ。急いで皆を助けたい、ってのは手前の都合なんだよ。だから気にすんな、好きでやってんだ」

「……欲張り、ですか?」

「俺は、俺の観客を一人だって減らしたくねえんだよ」

 

幻滅しただろ!と言って笑うシゲルを、宮子は涙目で拝んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

____________________________________________

 

 

 

 

 

 

 

 

水天宮にはほどほどに人が入っていた。

しかし参拝客の殆どは子宝犬や本殿を目的としており、宝生弁財天前には人がいない。

一行にとっては好都合であった。「目立つ前に済ませてしまいましょう!」という宮子に反論する者はおらず、三人は速やかに手水を済ませると、社殿に並び立った。

 

 

二礼、二拍手、一礼。

三人は目を閉じ、祈りを捧げる。

 

 

 

 

 

 

 

 

――次の瞬間、シゲルと帝の精神は神域へと招かれていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「おおう?!」

「!!」

 

突然辺りが真っ白になり、シゲルは面食らった。帝は目を見開く。

帝にとっては馴染の、シゲルにとっては二度目の空間であった。

「ここは――」

「神域……」

「お?ミカちゃんもいるのか?」

「シゲルさま。やはりあなたは、神の――」

帝が疑念を確信に変えたとき――

 

『依代のおかげで道が繋がった』

 

不意に、女性の声が響いた。

帝は息を呑む。

聞き覚えのある声だった。

自らを眠りに誘おうとしていた、あの声だ。

「この、声は――」

「……弁天様、じゃあ、なさそうだな」

二人が声の方角を振り向けば、そこには一塊の闇があった。

「――どちらさんだい?見た目の割に、キュートな声をしてるけどよ」

シゲルは軽口をたたく。

 

『――お前の陽気は、極めて邪魔だ』

 

声が告げるや、闇は神域の白を塗りつぶすかのごとく膨張した。

 

「しげるさま!お下がりください!」

「おっと。そりゃあ男の面目が立たねえな」

帝はシゲルを守るように闇に立ちはだかろうとしたが、当のシゲルに肩を掴まれて逆に背後に庇われた。

その様子を見て、何故か闇は更に悪意を募らせたらしい。漆黒が更なる広がりを見せた。

 

『櫻崎シゲル。永久の眠りにつくがよい』

 

見上げるほどの大きさになった闇は、巨大な手のような形をとると、二人に向かって押し寄せた。

闇は二人に逃げる暇すら与えず、その身体を包み込もうとし――

 

「――そうはいかないっての!」

 

美しい声と共に一閃された剣に、真っ二つに斬り払われた。

二人の前に、眩い輝きと共に、絶世の美女が顕現していた。

 

『弁才天……』

 

闇が憎々し気に声を発する。

 

セミロングの髪を残心の動きに靡かせ、女性はにやりと笑う。

 

「ふふん、いかにも――遊芸武芸なんでもござれの弁天様よ。まったく、アンタやりたい放題もいい加減にしなさいよね」

 

そういうと弁才天は、手にした剣を闇に突きつけた。

 

「――私のお膝元で、そんな無法が通ると思うわけ?」

 

見得を切る弁才天に、闇は再度攻撃を仕掛けた。

しかし迫りくる闇の腕を、弁才天は舞うような剣技で完璧に迎撃する。

「……強硬手段に出たところを見ると、あんたにとっても予想外だった?たった一人でこんなに『命の喜び』を伝えられる人間って信じられないものね。おまけに人の死の直前まで届く『音』を使ってるし――特攻兵器ぶっささりって感じ?」

間断なく振るわれる攻撃を捌きながら、弁財天には長広舌の余裕があった。

次第に闇の勢いは弱まっていく。

「――その辺でやめときなさい。流石にここでは私の方が上よ」

『――』

事実なのだろう。闇は攻撃の手を止めた。

『……弁才天。あくまでその男を庇うか』

闇の言葉に、弁財天は一つ鼻を鳴らすと胸を張った。

「当たり前でしょ。シゲルちゃんは――この死んだような世界を救うために、はるばるやってきたヒーローなんだから」

 

――その言葉が、闇の何に触れたのか。

 

底冷えするような負の感情が、突如として闇から迸った。

 

「……何よ、まだやる気?」

『――良いことを思いついたぞ』

「どーせ陰気なことでしょ」

弁才天を無視し、闇が意識を向けてきたのがシゲルには分かった。

 

『櫻崎シゲル』

「……何だい?」

 

シゲルは警戒しながら答えるが、続く闇のセリフは予想外のものだった。

 

『思うがままに動くがいい。人の子の眠りを覚ましたくば、好きにせよ』

 

「……何を企んでるワケ?」

弁才天が眉を顰めて問う。

しかし闇は答えず、その場から静かに消えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「なんだかわからないけど退いたみたいね」

剣を鞘に納める弁才天を見て、シゲルは安堵の息を漏らした。

「ふーっ。助かったぜ弁天様。これで二度目だな――っとやべ、ミカちゃんの前で言っちゃまずいのか、コレ」

いつぞやの弁才天のメモにあった『禁則』の文字を思い出し、シゲルは冷や汗を流す。だが、弁才天は鷹揚に手を振った。

「ああ、大丈夫大丈夫。その娘はセーフなのよ」

「え?そうなの?」

「元々そういう役割っていうか――まぁ、例外よ例外。あんまり気にしないでオーケー!」

 

「あ、でも依り代ちゃん!ここでのことは他言無用だからね!ルール破ると私の力が落ちちゃうから、絶対ダメよ!」

帝は自らの口を両手で押さえると、必死に首を縦に振った。

 

「わざわざお参りに来てもらったのに、危険な目に遭わせちゃってごめんなさいね、シゲルちゃん」

「こちらこそ二度目の感謝を伝えなきゃだ。助けてくれてありがとよ、弁天様」

「こちらこそ「ありがとう」なのよ、シゲルちゃん。だってあなたの動きって、今のところ百点満点なんだから!」

弁財天は満面の笑みを浮かべる。

「っていうかもう花丸よ花丸!まさかビデオでレベル3の進行が止まるなんて、わたしですら思ってもいなかったんだから!――まぁ、今後も進行が止まったままかどうかまでは、ちょっとわからないんだけどね」

「――そうか。じゃあ、やっぱり急がなきゃな」

「ええ。悪いんだけど、できる限り頑張ってみて。時間をかけると、アイツがまた変なちょっかいをかけてくるかもしれないし」

「さっきの彼女か。――確かにおっかなかったけど、声はイケてたぜ?きっとガールズバンドのボーカルになれる。ま、ファッションはちょいと見直す必要がありそうだったけどな!」

「ふふ。ま、形は勘弁してやって頂戴。わたしたちがこうやって決まった姿をとるのって、結構気合が必要なのよ。私はここがホームグラウンドみたいなものだから大丈夫だけどね」

 

ころころと笑った弁財天は、ふと真面目な顔になるとシゲルと目を合わせた。

 

 

「ねぇ、シゲルちゃん」

「何だい?」

「今日のこれは偶発的なアクシデントだったけど、ある意味丁度いい機会だわ。あの時は時間が無くてできなかった話を、いくつかしようと思うの」

 

 

 

「――何故、この世界がこんなことになってしまったのか。その理由について、とかね」

 

 

 

弁才天の真剣な表情をみて、シゲルは静かに頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

____________________________________________

 

 

 

 

 

 

 

「――そもそも、発端は『神罰』だったのよ」

「神罰?」

「そう。二百年前に起こった大規模な戦争に対する、ね。――本当に酷い戦争だったのよ。このままだと人類絶滅まで行っちゃうんじゃないの?って感じだったから。なるべくなら人界への干渉を避けている神族が、重い腰を上げるくらいには凄惨だったの」

 

「神々は『ちょっと人間を懲らしめよう』って思ったわけね。それが昏睡病の始まり」

 

「……でもよぉ、二百年経っても『神罰』とやらはそのままで、挙句人類絶滅の危機なんだろ?なんていうか、本末転倒じゃねえのか?」

 

「そこなのよねー……」

弁財天はがっくりと肩を落とした。

 

「神様にもそれぞれに権能があって、得意なことが違うの。で、人類を懲らしめるのは誰がやる、って話になった時に――手を上げたヤツがいたわけ」

「それが、さっきの?」

「そういうこと。あ、名前は秘密にしておくわね。神々の中には自分への恐れを力に変えるものも居て、アイツはモロにその手合いだから。かなりのビッグネームだから、シゲルちゃんはともかく依り代ちゃんは知らないほうが幸せよ」

 

「で、アイツは『私の権能なら都合がいい』って言ったのよ。確かに理に適ったセリフだったわ。結構な大仕事だったから、わたしたちは神力をアイツに集めて、実行に移したの。頼んだわよー、って」

 

そこで弁才天は遠い目をすると、しばし沈黙し――

 

 

「――そしたらアイツめっちゃ暴走したわ」

 

 

言いにくそうに言った。

 

「元々は『ちょっと生命エネルギーを奪い取って戦争する元気をなくしちゃおう』、っていう作戦だったんだけど、アイツは『人類全てが死ねば戦争も起こるまい』って、ヤバめのAI系ラスボスみたいなこと言い出して――まずいことに諌めようとする神々は、アイツに力を分け与えちゃってたもんだからさぁ大変。なんていうかアイツって、元々世界の半分を支配してるような力のある神だったから、余計に手が付けられなくって――二百年間手をこまねいていた、ってわけ」

 

「……なんだってあの神様は、そんな暴走を?」

 

「まぁ、なんていうか、恐らくは割とパーソナルな理由というか……男性への当りが強いのもそのせいというか……」

弁才天はごにょごにょと呟くと、肩を落とした。

 

「そもそも戦争の原因が『条約違反』に端を発していたのが、アイツに刺さっちゃったのよね、多分。条約違反が条約違反を呼んで、最終的には不戦条約までビリビリに破られちゃって戦争が始まったんだけど――その時点でアイツのトラウマスイッチがオンになってたのに、神々は気付けなかったのよねー……」

 

――つまるところ神選ミスだったのだ。

 

しかし弁才天がそのことに触れる前に、口をはさむものがあった。

帝である。

「――弁才天様。自らほろびへと向かう人類を、神々がいさめようとしていたのはまちがいないのですね」

不敬があってはならぬと口を噤んでいた帝だったが、こればかりは確認せずにはいられなかった。

弁才天は気にした風もなく頷く。

「そうね。そこは総意だったわ。――結果論だけど、昏睡病がなかったら今頃人類はもっと数を減らしていたでしょうね」

「そう、ですか……」

帝はがっくりと肩を落とした。

――結局のところ、昏睡病は自業自得。人類の暴虐のツケを、人類が支払わされているにすぎない。

そう。昏睡病とは、つまり――

「身から出たさび、なのですね……」

帝は自らを含む人類の愚かさに打ちひしがれる。

 

――弁才天は、そんな帝の頭を優しく撫でた。

 

「うーん……まぁ仮にそうだったとしても、今を生きるあなた達には何の責任もないわよねー」

 

はっとして帝が顔を上げると、そこにはまさに慈母のような笑みを浮かべる弁才天がいた。

「マッチポンプって言われちゃっても仕方ないけど……罰を与えようとしたのが神の総意なら、『これはやりすぎ』って思ったのも神の総意よ」

 

「だからこそ、ちょっと無理してシゲルちゃんっていうワイルドカードを切ったんだから!」

 

「俯いてないで、顔を上げて!失敗しても、前を向いて、より良い明日を目指して歩いて行けるのが、人間の良いところなんだから!」

「弁才天さま……!」

 

目をぎゅっと閉じて合掌する帝の頭をもう一度よしよしと撫で、弁才天はシゲルに向き直る。

 

「シゲルちゃん。あの時みたいになし崩しじゃなくて、私は貴方に正式にお願いをしたいと思うの。でも――その前に、これは伝えておかなくちゃフェアじゃないわね」

 

「貴方をこちらの世界に転生させることができたのは、貴方が死ぬタイミングとか、わたしの神力の貯まり具合とか――幾つかの条件が奇跡的に重なったからなの。同じことはもう出来ないと思うわ」

 

「神々は今精一杯アイツの力を押さえてる。援軍は用意できない」

 

「頼れるのは貴方だけ。だけど、私特製のボディと貴方のメンタルをもってしても、このライブツアーはちょっとキツイと思う。――さっきも言ったけど、今日みたいに、アイツが変なちょっかいをかけてくる可能性もあるわ。出来る限り目を光らせているつもりだけど、その時私が助けてあげられるとは限らない」

 

「……それでも、私はお願いするしかないの。この世界に、貴方以上に『元気』を伝えられる人間は他にいないから」

 

「だから――」

 

 

「――どうか世界中の人々に、貴方の『ライブ』を届けてあげて」

 

 

弁才天の願いに、シゲルは即座にサムズアップを返した。

一瞬たりとも、迷うことなく。

「望むところだぜ、弁天様。安心してくれよ。なんたって俺は――遂に死んでも、ライブに穴を開けなかった男だからな!」

 

 

「今度は『サービス』抜きでも、やりぬいてみせるぜ!」

 

 

にかっと笑うシゲルに、弁才天もまた微笑みを返し――

 

帝とシゲルは、眩い光に包まれた。

 

 

 

 

 

 

 

____________________________________________

 

 

 

 

 

 

 

 

――気が付けば、二人の意識は自らの肉体に戻っていた。

 

帝は辺りを見渡す。隣には、合掌したまま何やら熱心に祈っている宮子の姿があった。

不思議なことに、殆ど時間は経っていなかったらしい。

 

白昼夢のわけはなかった。

何故なら帝がシゲルの顔を伺うと、シゲルは片目を瞑ってマスクの前で人差し指を立てたから。

――内緒だぜ、と。

帝がこくこくと頷くと、宮子は祈りを終えたのか目を開いた。

 

「さて!お祈りも済みましたが――し、シゲル様っ、今後の予定などございますか?!」

「いや。一通り済んだところだよ」

「で、ではお昼ご飯でもいかがでしょう?!おいしいところを知ってるんですよー!」

「お、そりゃいいや。ご一緒させてもらおうかな」

「――!」

宮子は拳を握りしめるとぴょんぴょんと飛び跳ね、全身で喜びを表現した。

 

――シゲル様と一緒にお昼ご飯!もう現実とは思えない!これももしかしたら弁天様のご利益なのかもしれない!夢ならどうか覚めないで!

 

とそこまで考えたところで、宮子は手を打った。

「あ、その前に御守り買わなきゃですね!定番ですもんねー」

上手くすればシゲル様と同じお守りを買うことができるかも――という下心満載で宮子はいう。

 

――その宮子の横合いから、手を伸ばす者がいた。

 

「――これで良いか?くれてやるぞ」

 

恐ろしく平坦な口調とともに伸ばされた手には、弁天様のお守りが摘ままれていた。

「おお!これですよこれ!いやあ、どこのどなたか存じませんが、ありが――」

宮子は目の前に差し出されたそれを反射的に受け取って――

 

「困った時の神頼みとは、よく言ったものじゃ。のう、宮子や……」

 

――即座に取り落とした。

帝はお守りが地面につく前に慌ててキャッチする。

 

 

 

宮子の視線の先には鬼神が居た。

命子という名の。

「めっ、めっ、めいこさま……」

金魚のように口をパクパクさせて、宮子は喘ぐように言った。

真横にいる鬼神のプレッシャーはそれほどだった。

宮子とがしっと肩を組んだ命子は、囁くように語り掛ける。

「やってくれたのう、宮子や……いや、わしが悪いのじゃ。『その人を勝手に連れ出してはいけません』とは規則に書いておらんかったものなぁ」

「はっ、はははっ、え、ええ。そうですよねー。わたしなんにもルール破ってないですよね!」

「ははは、そうじゃのう。お主の為に今度から湯舟にも『服を脱がずに入ってはいけません』と書いておいてやるからな?」

「わ、わー。ありがたいですー。あははははは」

「ははははは」

 

「――怒ってます?」

 

――ふしゅるるるるる。

 

鬼神は答えず、蛇のような呼気を吐き出した。

恐怖のあまり宮子は淑女の尊厳を失いかけた。

いや、ちょっと失った。

無言のまま宮子の襟首をがっつりと掴んだ命子は、もう片方の手で帝の手を引くと、帽子を深く被りなおすシゲルに向かって口を開いた。

「――そこの御仁。仔細は知らぬが、きっとこやつが迷惑をかけたじゃろう。すまぬな。これは早急に引き取る故」

「いやあ、楽しかったよ」

見事な女声で返すシゲルに、命子は目礼を送ると、宮子の襟首をつかんだままずんずんと歩き出す。

 

「いやーッ!夢なら覚めてーッ!!」

「馬鹿め。お主の悪夢はこれから始まるのじゃ」

 

命子に手を引かれながら、帝はシゲルに深々と頭を下げる。

シゲルは帝が見えなくなるまで、ひらひらと手を振っていた。

 

 

 

 

 

 

 

____________________________________________

 

 

 

 

 

 

その日の夜。夜御殿で、帝は一人日中の出来事を思い出していた。

 

神域での、英雄と神の会話を。

 

シゲルがどういう存在で、誰によってこの蓬莱にやってきたのか――そのヒントは、あの会話の中に幾らでもあった。聡明な帝は、それだけでおおよその事情を察することができていた。

帝はお守りをそっと取り出し、目を閉じて弁才天に祈りをささげる。

 

祈りはしばらく続いて――やがて瞼が開くと、帝の目には決意の色があった。

 

 

――弁天様は『ここであったことは内緒』といった。その言葉に背くことはあり得ない。

 

だが。

 

感謝を示すなとは言われなかった。

 

 

帝は静かに立ち上がると、命子の局へと向かって歩き出した。

自らの腹案を相談せねばならないし――そろそろ宮子を地獄の説教から解き放ってやる必要があった。

 

 

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――それにしても最近どうも弁天様が人気みたいじゃねえの!いやぁ、俺もなんだか嬉しいぜ!なんせミュージシャンの俺からすれば、音楽の神様ってのは恩人みたいなもんだからな。

流行のきっかけは帝が弁天様のお守りをお買い求めになられたから、ってぇ話だったよな?そのおかげでどうも人気が凄すぎて、なかなか買えないって噂だが――へへ、俺持ってんだよ、そのお守り。おっと、コネとかじゃないぜ?ちゃあんと水天宮まで行って買ってきたんだよ。もっとも俺が行ったときは水天宮もあんまり混んでなくて、ささっと買えたけどな。

 

さぁて、そろそろ一曲いっとくか。――今日は弁天様と帝に感謝を込めて歌わせてもらおうかな。ナンバーは――

 

 

 

水天宮はとんでもないことになった。

元々帝がお守りを買った、ということでにわかに注目が高まっていたところに、噂を聞き付けたシゲルが何気なく触れたそのシゲラジがトドメとなった。

何せ帝とシゲルが揃って弁天様をお参りしたということで、そうなればこれは最早国教である。弁才天は自然と大きな信仰の対象となっていった。

 

――弁天様のお守りは蓬莱民のマストアイテム。だって帝とシゲル様とおそろだし。シゲル様が恩人だっていうなら私たちにとっても大恩人だし。

 

誰からともなく、そんな風潮が急激に高まっていった。水天宮はあっという間に、歩行者天国と並ぶ蓬莱の人気スポットとなったのである。

 

 

 

水天宮の宮司と巫女たちは過労死しかけ、平穏な日々が戻ってくることを神に祈った。

 

 

 



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24話

蓬莱楽器はもともと楽器の製造と販売を一手に担っていた。

シゲル登場まではそれでよかったのだ。なにせ楽器を買う人間というのは補助金があって尚滅多におらず、音響機材等もさほど需要は無かった。規模的に問題無かったのである。

 

だが、アイドルスターが放送されると、そういうわけにもいかなくなった。

 

音楽関連の商品が、急速に売れ始めたからだ。

 

 

『蓬莱』と名のつくように蓬莱楽器は国営企業。ここにきて蓬莱は音楽関連の商品販売を引き受ける新企業『弁天堂』を立ち上げ、製販分離でもって蓬莱国民の需要に応えんとした。

だが、とてもではないが太刀打ちできなかった。

シゲルのバンドミュージックが蓬莱の人々に与えた衝撃は、それほどすさまじかったのだ。

 

――しかし第一回アイドルスター放送直後に限れば、楽器への需要急増はあくまで常識的な範囲に留まっていた。

 

あの凄まじい音楽は、あくまで英雄だからできることであって、そこらの一般人が出来るものじゃない。そんな風潮があったからだ。

しかし、二回、三回とアイドルスターが放送されるにつれ、次第に潮目が変わっていった。

それというのも、朱里と蒼子が目覚ましい成長を見せたからだ。

 

朱里たち三人は、番組内でガールズバンド『トライアングル』を結成。三人とも名前が『あ』から始まるから、という安直な理由で朱里によって名づけられたトライアングルは、回を重ねるごとにみるみる上達していった。

 

その姿は、蓬莱人に「じゃあわたしにもできるんじゃないの?」と思わせるには充分すぎた。

 

――あの凄い音楽、私にもできるようになるのかな。

――朱里ちゃんと蒼子ちゃんはどんどん上達していってるよ。

――何より、シゲル様は絶対出来るようになるって言ってた。

――じゃあ出来るんでしょ。

――じゃあやりたい!わたしも、あんな音楽をやってみたい!

 

そんな会話が、蓬莱中で交わされるようになった。

 

楽器店には長蛇の列が形成され、楽器や音響機器の代わりに抽選券が配布される。

教本は飛ぶように売れ、音楽雑誌『サラスヴァティ』はもっと売れた。

 

 

そして――ようやく家電を手に入れつつある蓬莱国民に、再び金欠の嵐が吹き荒れようとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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女子高生・神宮寺真美視点

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お昼休みになって、私たちはいそいそと机をくっつけ合う。特に仲のいい友達同士で、こうやって談笑しながらお昼ご飯を食べるのは、最近になってから始まった楽しい習慣だった。シゲル様が登場するまで、ごはんって言うのは基本的に無言で食べるものだったからね。団らんは食後だった。

礼儀作法に厳格な人なんかは眉を顰めるらしいけど――少なくともうちのクラスにはいないみたい。みんながみんな好き勝手に机をくっつけて、楽しそうに食事中だ。

おしゃべりが好きじゃない女子っていうのは、今となっては希少種だからね!

 

とはいっても、どこのグループでも話題はそんなに変わらない。

 

 

 

 

「じゃじゃーん!これを見よー!」

「おおーっ、ピックじゃん!」

「ティアドロップっていうんだっけ、そのタイプ。なんか洒落た名前だよねー」

「ふっふっふ、教本も買えたから、あとはギターを残すのみなのだ!」

「そのギターの抽選確率が問題なんだけどね」

「ぐっ……」

 

 

「なにがヤバイって蓬莱電器が新型テレビを発売する予定なのがヤバイ」

「あの、なんかごてごてスピーカーくっつける奴でしょ?サラスヴァティに乗ってた」

「そう、あれ」

「ヘッドフォンってヤツの方がコスパ良くない?」

「でもなんか新技術がふんだんに使われてるとかで、『驚きの臨場感!』って書いてあったでしょ?」

「あー、あったねぇ」

「現状シゲル様の生ライブを聴く手段が『昏睡病レベル3になる』しかないんだから、アイドルスターの音質向上するならアリだと思うんだよね」

「……わたしはレベル3患者なんだ……誰が何と言おうとレベル3なんだ……」

「そんな餓狼みたいな目をした昏睡病患者はいないのよ」

 

 

「なんでシゲル様の歌入りカセットテープって販売されないの?」

「大抵の人が自分で作って持ってるからじゃない?」

「でも元がラジオ音源とかでしょー?ちゃんとレコーディングした音を書き込んだらスゴイ差がでるはずだよー」

「それ言ったらレコードでもいいんじゃないの?」

「レコードはプレーヤー自体が絶滅危惧種レベルだから……でも、カセットテープはぜったい売れるはずなんだよなー」

「多分滅茶苦茶売れるわよねぇ。みんな買うもの」

「今作ってるところなんじゃないの?あるいは単純にシゲル様が多忙すぎて手が回らないとか」

「何か政府の方に目論見があるんかもね。今次々と新技術が生まれてるから、カセットよりも良いメディア作ってたりして!」

「……そしたら再生機器も新調でしょ?お金幾らあっても足りないわよ」

 

 

「結局シゲル様ってなにものなんだろう……」

「ご本人はシゲラジで、『音楽星からやってきた』とか『フライングVのV部分から生まれた』とか笑いながら仰ってたけどね」

「じゃあフライングV買ったらシゲル様増えるかな……」

「冗談に決まってるでしょ」

「常識的に考えれば、音楽分野のジェーン・ホワイト、みたいな?」

「天才ってこと?」

「天才って言葉で片づけられるかな……」

「まぁ、でも――」

「うん」

 

「「「ミステリアスなところもステキ!」」」

 

 

金!音楽!シゲル様!

これに食事と仕事と身だしなみをプラスすると、現代蓬莱女性の完成だ。

わたしたちのグループも、当然例に漏れない。

 

 

「さっちゃん、今日も完全食?」

「特売日にまとめ買いする完全食こそが、コスパの王だってわかったの。わたしの昼食は向こう一か月間これだけよ。絶対エレキギター買うんだから」

「すごい。鉄の意志を感じる……」

さっちゃんの覚悟に思わずごくりと喉が鳴る。完全食の味は未だに改善されていない。味覚が正常に戻った今、毎日一食とはいえ完全食で済ませるのは相当の覚悟が必要になる。

まぁわたしもエレキ貯金中だから、気持ちはわかるけどね。あのカッコいい音が自分でも出せるようになるのなら、三食完全食も辞さないよ。

いや、流石にそれは辞すかな……

 

「甘いね……」

「え?」

にやりと笑ったのはロングヘアで長身の友達、ヨッシー。

――去年お母さんがレベル3に進行したときから、ヨッシーの笑顔は随分減っちゃったんだけど――シゲル様の音楽を聴くようになってからは、今みたいにまた笑うようになったんだ。

そうそう、笑顔がなによりだよ。それにシゲル様が治療ライブを凄い勢いでやってくれてるから、きっと近いうちにヨッシーのお母さんも治してくれるに違いない。心の中で拝んでおこう。

 

ヨッシーはカバンから取り出した水筒を机の上に置く。

「これこそが真のコスパの王だよ」

「これこそがって……」

「水筒?なんかスープでも入れてきたの?」

「ふふ」

ヨッシーが水筒の蓋に注いだその液体は完全な無色透明だった。

わたしたちの背筋を、嫌な予感が這い上がった。

……よく見れば、今日のヨッシーの笑顔はどこか虚ろな気がする。

「……ヨッシー。透き通ってるけど、それなに?」

 

「水道水に塩を混ぜたの」

 

「……」

「コスパ最強の完全食よ」

ヨッシーの目は血走っていた。

「目を覚ましてヨッシー!そんなの完全食じゃない!」

「不完全食っていうかただの生理食塩水です!」

「なんだってそんなに金欠になってるの!」

 

私たちの言葉にヨッシーはちょっとうつ向くと、ぽつりと言った。

 

「――当たっちゃったんだ。楽器の抽選」

 

「「「――」」」

 

一瞬の静寂の後、

 

「「「えーっ!?」」」

 

私たちは仰天して、ヨッシーのほうに身を乗り出した。

 

「ほんと!?すごいじゃん!」

「どの楽器も凄い倍率ですよね?!よく当てましたね!」

「エレキ!?テレキャスターとフライングVどっちにしたの?!それともベース?!エレアコ?!ねえ今度学校に持ってきてよー!」

ヨッシーは答えた。

 

「ドラム」

 

わたしたちは静まり返った。

 

でもそれも一瞬のことで、すぐにぎゃーぎゃー声を上げ始める。

「――なんでドラムチョイスしちゃったんですか?!」

「よりにもよって!シゲル様も『あんまり個人で買う楽器じゃあねーな』って仰ってたでしょ?!」

「だって一番好きなんだもんー!それに当たると思わないって!倍率100倍とかだったんだよ?!」

「っていうか貴女の家ってアパートじゃない!」

「シゲラジで言ってたよ、あれ値段もすごいけど音の大きさもすごいって!『集合住宅でドラム練習したら8ビートの壁ドン喰らうぞ』って!」

「『多分近隣住民も壁叩きに来る』とも言ってました!」

「そもそも置くスペースどうしたのよ!」

「無理矢理詰め込んだよ!もうあたしの部屋はドラムが住んでるんだかあたしが住んでるんだかわかんないよ!」

やけくそじみた声を上げると、ヨッシーはテーブルの上の水筒をぐいーっと呷った。

しょっぱそう……!

「――ドラムと水と塩!残されてるのはそれだけ!もう明後日の給料日までこれだけだよ!アハハ、ダイエットもできて一石二鳥だね!」

「そんなのやつれてるだけですよぉ」

「きぇえええ!」

理子ちゃんの冷静な指摘にもヨッシーは奇声を返すだけだ。

 

――わたしは、ヨッシーの言葉を否定してあげる。

 

「――残されてるのはそれだけ?違うよ、ヨッシー。まだ残ってるものがある!」

 

 

え?とこっちを向くヨッシー。

わたしは自分の卵焼きを一つ、裏返したお弁当の蓋に乗せてヨッシーに差し出した。

 

「友情!」

 

「ユウジョウ……」

ヨッシーが呆然と繰り返す。

「じゃあ私も友情です!」

蓋の上に、理子ちゃんがウィンナーを追加してくれる。

「ビンジョウ」

さっちゃんの完全食ブロックが半分だけ追加された。

 

「どしたのヨッシー?あ、金欠?じゃあこれあげるー」

「わたしのもどーぞー」

「自信作の煮豆を進呈しようじゃないの」

「ビンボー淑女は助け合い、ってね」

 

他のグループの皆もあつまって、いつのまにか蓋の上はおかずで一杯になっていた。

 

「う、ううっ、ありがとう、みんな……!あたし、あたし……!」

 

ヨッシーは涙を拭って立ち上がると、

 

 

「給料日になったら、すぐドラムスローン買うから!」

 

 

「「「まずは食費にしなさい」」」」

 

 

――即座に総突っ込みされて、長身を縮こまらせた。

 

 



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25話

 

タブレットに収められていたのはいくつかの技術書と、音楽関連の本だった。

中にはギター、ベース、ドラムの教本も含まれており、『俺が全部書くしかねーよなぁ』と言っていたシゲルの負担を大幅に軽減した。

 

技術書自体の数は少なかった。それが近代科学に関わるものともなれば、片手に収まるほどしか無かった。

しかし、昏睡病から解き放たれた天才には、それで充分だったらしい。

 

「アイディアが幾らでもわいてきまース!ボトルネック?ボトルごとコナミジンでース!」

 

鼻息荒いジェーン主導の元、技術革新は恐るべき速度で進んでいく。

 

 

健全な資金が研究開発に潤沢に注ぎ込まれ、魅力的な商品が次々と販売される。それによって更なる経済の活性化が起きて、研究開発資金は雪だるま式に増えていく。

 

「無限の財力でース!それとホウライ人の器用さ、スゴイでース!技術がどんどん形になりまス!」

 

自らが開発した最新式ヘッドフォンでシゲルの音楽を聴きながら、「ワタシ、イマ、ムテキ!」とジェーンは吼える。

 

 

 

金と人手を存分に使えて――しかも絶好調状態を維持し続ける『天才』。この存在は蓬莱にとって大きかった。

 

――いや、大きすぎた。

 

特に、一省庁たる文科省にとっては。

 

『文部科学』の文字が意味する通り、文化と科学技術の振興は文科省の役割だ。

つまり――英雄が齎した『新しい音楽』という文化。そして、タブレットと天才が齎した膨大な『科学技術』。

その二つを管轄するのは、主に文科省ということになる。

それが今、何を意味するか。

 

 

 

終わらないデスマーチである。

 

 

 

「ああ、うん、そう。樹脂の輸入に関しては経産省に――え?蓬莱出版から輪転機のスケジュールについて話が?……午後に連絡しなおすって言っといて」

凛は受話器を置くと、煙を吹きそうな頭を抱えて机に突っ伏した。

――どう考えても、文科省のオーバーワークは限界を突破していた。

それも自明の理であった。英雄と天才がタッグを組んで積み上げ続ける成果を、文科省という一省庁が捌かなくてはならないわけで――単純に人手が足りないのだ。多少の増員はあったものの、新人がそんな簡単に使い物になるはずもない。

「あ、あの天才め……」

凛は机に突っ伏したまま、脳内にまで浮かんでくるジェーンの姿に嫌気がさしていた。

天才にも限度がある。到底処理が追っつかない速度で、次から次へと新技術を実用化していくのだ。オマケにそれらのテクノロジーはダイレクトに国民の活気と経済の活性に結びついているものばかりで、英雄が旅立とうとしている蓬莱にとって決して無視はできない代物だ。

現状、足りない人手は各員の奮戦努力で補っている。人はそれを『無茶』と言い、無茶が常態化している今の文科省は、割と末期的な様相を呈していた。

 

加えてジェーンはやることなすこと破天荒で、ちょっと目を離した隙にとんでもないことをしでかしたりする。

 

――研究開発部門に、いつの間にか数名アステカ人が増えていたのもその一例だ。

 

凛がそのことについて問いただすと、ジェーンは胸を張って答えた。

 

「アステカの私の研究室から助っ人呼びましター。ガイムショウには話を通しましたシ、半年もすればちゃんと帰ル予定だからダイジョーブでース!」

 

と。

凛は「ほんとぉ……?」と疑いの視線を向けたが、ジェーンは「オフコース!」の一点張りだった。

凛はそれ以上追及しなかった。

 

――だって研究員が帰りたくないって駄々こねても、その対応は私の仕事じゃないし。外務省が白目むくだけだし。

 

凛がそんなことを考えていると、またしても電話が鳴った。

凛は反射的にびくりと震えてしまう。鳴る度に仕事の増加を告げてくるこの機械は、もはや凛にとって恐怖と憎悪の対象になりかけていた。

しかし無視するわけにはいかない。凛が机に突っ伏したまま、恐る恐る電話に出ると――

 

『――凛さん!グッドニュースです!』

響いてきたのは、涼子の明るい声であった。

「ホント?!」

信頼できる部下の言葉に、凛はばね仕掛けの人形のように上体を起こした。

『はい!』

「内容は!」

『――シゲル様の治療ライブで復活した患者が、続々と職場復帰しつつある、と!』

 

「それを待ってたわよー!!」

 

凛は思わず立ち上がってしまう。

待ちに待っていたのだ。

――長い闘病生活で肉体的に衰えた元患者たちがリハビリを終え、それぞれの職場に復帰する瞬間を。

 

『そして!』

「そして!?」

『文科省を退職した先輩方も、近日中に戻ってくるそうです!』

「ホント?!ホントなのね?!」

『はい!』

 

「――サンキューッ!!」

 

テンションが上がり切った凛は、さながらシゲルのような感謝の言葉を受話器に告げると、復帰する先輩方への対応の指示を出してから電話を切った。

 

「いやっふううううう!!」

 

凛は右手を突き上げて垂直ジャンプをしてしまうほど、晴れやかな気分を味わっていた。

 

レベル3の人材とはどういうものなのか。これは中学高校の職練生とはワケが違う。

ほとんどの場合において、その道の『ベテラン』なのである。一人で新人何人分もの働きをする場合もあるし、新人を一人前の戦力に変換する教育すらこなせてしまう。

 

つまり、今一番欲しい『マンパワー』が、高いクオリティで手に入る。これ以上ないハッピーなニュースだった。

 

「ああ、やっと――」

 

――これで、一息つけるかもしれない。

 

凛は椅子にどかっと腰を下ろして天井を仰いだ。

 

先輩方の受け入れが済めば、休日の一日でもとれるかもしれない。勿論受け入れてから即座に戦力となるわけではないだろうが、元エリート軍団だ。新たな業務にも素早く適応してくれるだろう。

 

 

――ああ、休日になったらどうしようかしら。とにかく力いっぱい寝るのは確定として――もうずいぶん見れてない『アイドルスター』をお酒飲みながら消化して、ショッピングにでも出かけたいわね。楽器店を冷やかして、活気にあふれる人々を見て楽しんで、ちょっと高い飲食店で食事をするなんていうのはとてもいいプランに思える。あ、遥にも連絡しよう。もし奇跡的に休日が重なったら、一緒に遊びに出かけてもいいし。

 

 

凛の心は既にまだ見ぬ休日へと飛んでいた。

事実、昏睡病で退職してしまった先達が戻ってくれば、問題なく休みはとれるはずだった。

 

 

 

――そう。とても無視できない重要な何かの開発に突然成功するとか、そういう突発的なイベントでも起こらない限り大丈夫。

 

 

 

「……大丈夫、よね」

ちょっとだけ不安そうに凛は呟くと、考え込む。

 

――いや、大丈夫なはずだ。確か目下研究開発部が取り組んでいるのはCDとそのプレーヤーの開発。あのジェーンですら「ピックアップレーザー回りがチョットむずかしいですネー」とこぼしていた。そのレーザーとやらがなんなのかすら凛には理解不能だ。新たな記録メディアや再生機器など、そう簡単に形になるはずがない。

 

凛は椅子に深く腰掛けたまま、ふーっと静かにため息を吐く。久しぶりに眉間の皺が抜けた気がしていた。

 

 

 

その時、またしても電話が鳴り響いた。

 

「はい、もしもし?」

 

ご機嫌の凛は素早く受話器を取る。

 

 

 

 

『ジェーンでス!』

 

 

 

 

嫌な予感がした。

 

 

 

 

『リン!グッドニュースでース!』

「ほんとぉ……?」

『オフコース!』

 

 

『――プロトタイプですガ、CDとプレーヤー、出来ましたヨー!』

 

 

凛は泡吹いて白目をむいた。

 

 

 

 



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26話

___________________________________________

文部次官・駿河凛視点

____________________________________________

 

ライブや収録をしていない間も、シゲル様の仕事は終わらない。

昼食を終えた後、シゲル様は即座に机に向かって書き物を始める。

シゲル様が凄い速度で書き上げているのは、タブ譜と呼ばれる楽譜だ。ギターやベース用の、普通の楽譜よりも分かりやすい楽譜らしい。

「これがあれば俺がいない間にも練習ができるだろ?」と言って笑うシゲル様には、もうただただ頭を下げるしかない。確かにシゲル様の楽譜があれば、蓬莱人の音楽への情熱は更に燃え上がるだろう。

――あの音楽を自分でもやれたらいいな、って思っている蓬莱人は、山ほどいるから。

 

おっと、仕事仕事。

 

「シゲル様。大変遅くなりまして申し訳ございません。こちら、シゲル様の通帳になります」

私はシゲル様に『蓬莱銀行』と印刷された通帳を手渡す。

「え、通帳?いつの間に?俺銀行とか行った記憶がねえんだけど」

「まことに勝手ながら、こちらで用意させていただきました。シゲル様への印税や報酬、各国からの寄付金が凄まじい額になっておりましたので」

「へー……でも俺こっちの世界には戸籍もないだろ?よく作れたな、通帳」

「……何を仰ってるんですか。シゲル様は昔から身元の確かな蓬莱人じゃないですか……戸籍もバッチリですよ。全ての国家が認めています。何なら十種類くらい用意しますよ」

「身体そんなにねえよ」

苦笑いするシゲル様は、通帳をぱらぱらと眺める。とんでもない桁の数字が並んでいる筈なんだけど、明日の献立表を見るくらいの関心しかなさそうだった。

 

――想像してたけど、やっぱり。このお方、お金になんの興味もないんだ。

 

だってシゲル様は「うん」と呟くと、通帳を私に差し出したから。

「よーし、じゃあこれは普段頑張ってる凛ちゃんにプレゼントだ!」

そんなわけわからないセリフと共に。

「こんなドデカいプレゼントだめですよ!アステカでも買えっていうんですか?!」

「ポケットマネーにしちまいなよ」

「しっ、シゲル様の前世だと、ポケットって異次元に繋がってたりしたんです?!」

「ものによってはな」

「残念ながらこちらにはそんなポケットございませんので!」

私は両手をばってんにして受け取りを拒否する。

「つってもなぁ。正直使う時間もねえし、買いたいものもないんだよなー」

シゲル様の言葉に、私としては言葉を詰まらせるしかない。

時間がないのも、買いたいものがないのも、こちらの世界の都合だ。

きっとシゲル様のいた世界には、こちらよりも進んだ、魅力的なもので溢れてたんだろうな……

私が思わず肩を落とすと、シゲル様が慌てたように語り掛けてくる。

「っと、言い方悪かったな。勘違いしないでくれよ。時間が無いのは俺が好きでやってんだし、欲しいものはもう持ってんだ」

 

シゲル様はそう言うと、傍らにあったギターケースに手をかけた。

 

「起きて半畳、寝て一畳。天下とっても二合半。――俺にゃコイツがあればいい、ってな!」

 

そう言ってギターをケースを撫でるシゲル様に、私は深々と頭を下げた。

 

「――そんなシゲル様だからこそ、なにかの形で恩をお返ししたいのです。物でなくとも構いません。何かお金を使ってやりたいことなどはございませんか?」

「そうは言ってもなぁ、俺の欲しい音楽関係の道具なんかは国策として開発してくれてるんだろ?それで充分すぎるんだが……あ!」

シゲル様はそこで手を打った。何か思いついてくれたらしい。

「そうだよ!あれがあった!レベル4患者の支援!」

「――レベル4患者、ですか」

私は目を伏せる。

シゲル様がその存在に執心していることは知っていた。

 

――シゲル様は、まだ諦めていないんだ。

 

「俺の我儘聞いてもらって、延命措置に金だしてくれてんだろ?この金も使ってくれよ!何とかまたリベンジするまで持たせてほしいんだ!」

 

シゲル様は、既にレベル4患者の治療に失敗していた。

 

レベル3患者を治療した後、シゲル様はレベル4患者の治療に臨んだ。

レベル3患者と違って、生命維持装置に繋がれたレベル4患者は動かすことは容易ではない。シゲル様は病室にて何度も熱唱したが、その声に患者は反応しなかったのだ。

でもこの結果に、私たち関係者は失望しなかった。

だって、レベル4――深昏睡に陥った人間というのは、音を知覚できないのだ。

レベル4患者が生かされているのは、治療法を探すためというお題目や、かつて熱病から深昏睡に至るも回復したという稀有なケースを鑑みてのことだし――準備期間ということもある。

そう、準備期間だ。

遺族が、死を受け入れるための。

レベル4とはそういうことだ。治る見込みは、シゲル様の奇跡のような音楽をもってしても――はっきり言ってほぼゼロだ。

レベル3患者のように、『音が聞こえているけど反応がない』んじゃない。『そもそも聞こえていない』んだ。

いかなる音楽も無意味なのは、自明の理だ。

だからこの結果に肩を落としたのは、当のシゲル様だけだった。シゲル様はどうしてか私たちが思っている以上にレベル4患者を気に掛けていたらしく、その後も激務の隙間に幾度かライブを試みてくれていた。

でも当然、結果は同じ。

 

 

――だけど、シゲル様の目は諦めていなかった。

 

今に至っても。

 

「シゲル様のお金です。シゲル様の望むように使います、が……」

私は言葉を濁してしまう。

ハッキリ言えば、資金の無駄であると思えたからだ。

でも、口ごもる私にシゲル様は語り掛ける。

 

「……凛ちゃん。俺の経験から、一ついいことを教えてやるよ」

「はい?」

 

「悪あがきも悪かねえ!」

 

きっぱりと言ったシゲル様は、堂々と胸を張った。

「悪あがき、ですか?」

「おうよ!――たとえどう考えても詰んでるような状況だろうが、あきらめちゃダメなんだよ!どんなに絶望的だろうが、力の限り強がって、『絶好調だぜ』って言い続けなきゃダメなんだ!」

シゲル様の言葉には、不思議な確信が込められているようだった。

「どんなに、絶望的でも……」

「そうさ!」

 

「いいか、凛ちゃん。死ぬまでじたばた悪あがきをしてるとな、」

 

「――なんと!奇跡が起こることがあるんだぜ!」

 

――それは、この末期的な世に突如として現れた、目の前の人物のようで――

 

悪戯っぽく笑うシゲル様の言葉に、私は心が震えるのを感じた。

 

――そう。そうだ。

シゲル様が登場するまで、私たちはずっと『悪あがき』を続けてきた。昏睡病という絶対の死神に対して、何とか対抗しようとじたばたしていた。結局昏睡病はどうすることもできなかったけど、人類が今まで何とかまとまった数を残せていたのは、先人たちが積み上げてきた悪あがきのおかげだ。

その悪あがきの先に、シゲル様という奇跡が訪れた。

シゲル様はそんなつもりで言ったんじゃないだろうけど――私たちの頑張りは無駄じゃなかったと言われている気がして、自然と目が潤んでしまう。

 

「――シゲル様も、悪あがきを?」

涙を誤魔化すように、私は尋ねる。

「おう!そりゃすげえ悪あがきだったぜ!あがきにあがいて、遂に世界もはみ出しちまったくらいだからな!」

からからと笑うシゲル様に、私も微笑んでしまう。それなら、悪あがきに感謝感謝だ。

零れる前に涙を拭って、私はシゲル様から通帳を受け取ると、静かに頷いた。

「レベル4患者の延命措置に、全力を尽くさせていただきます」

「サンキュ!」

 

――ああ。この笑顔をみていると、いつか本当に奇跡が起こる気がしてくる。

 

いつまでも見ていたくなる、ステキな笑顔だ――

 

「……あ」

 

……けど、今からその顔を曇らせる報告をしなくてはならないことを思い出した。

う、どうしよう、言いたくない。

でもいつも報告してることを、今回だけは報告しないっていうのは不自然だ。いつまでも誤魔化したままでもいられないし……

ええい、しょうがない。

 

「えーと、シゲル様、前回のアイドルスターの反響なのですが……」

「おお!どうだった?!」

前回のアイドルスターは、シゲル様の要望によりこの世界の『クラシック』をメインに据えた回だった。放送にはゲストに神奈唄子さん、そしてクラシックに使われる楽器のスペシャリストを招き、万全の態勢で行われた。

シゲル様は非常に喜んだ。それはとっても素晴らしいことだ。ゲストの皆さんには感謝状を贈りたいくらい。

でも――

 

「その――ふるいませんでした!」

 

私は頭を下げて正直に言った。

「うそォ!?」

シゲル様が目を丸くする。

うう、心苦しい。

「いえ、視聴率はいつも通り九割を超えていたのですが――番組に寄せられたお便りは『もっとシゲル様の作った音楽が聴きたかった』が大半でして……『でもシゲル様が幸せそうだったのでOKです!』って書いてあるから、それはそれなんですが……」

「いやマジかよ?ヒルトスタインの名曲揃いだったんだぜ?唄子さんの歌もゲストさんたちの演奏も、流石プロって感じだったじゃねーか。ありゃ今後もっと上手くなるぜ。最高だっただろー」

「……『クラシックのすばらしさを再認識できました、ありがとうございます』という意見は『唄子さんの歌にうっとりしてる朱里ちゃんが可愛かった』と同率で全体の五パーセントほどです」

「もうちょっとあっただろ?!」

「残念ながら……」

首を振る私に、シゲル様は露骨に肩を落とした。

「――ヒルトスタインはマジで天才だぜ?俺の前世の偉大な作曲家にも全然引けをとってねえよ。みんな何も俺の曲ばっかり聞いてるこたねーんだよ」

そうはいっても、と私は思う。

蓬莱民にとってシゲル様はいわば神様なのだ。思考停止でその音楽を聴きたがるのも無理はないと思う。実際に、わたしもシゲル様の音楽ばかり聞いているし。

 

――それに、他の理由もある。

 

何故みんなが、シゲル様の音楽ばかりを聞きたがるか。

「――みんな、不安なんです」

「不安?」

「はい。今は人々に、過去を振り返る余裕が無いんです。前を向いていないと、心配でたまらないんですよ」

「何だってそんな――」

「――だって、『クラシック』を聞いても、昏睡病は治らなかったんです。二百年間、ずっと……」

「……」

「だから出来る限り、シゲル様のもたらした楽器や、音楽に触れていたいんですよ」

――だってもし、また昏睡病が発症してしまったら。

私が飲み込んだその言葉に、シゲル様は察しがついたみたいだった。

「――そうか。まぁ、そうかなぁ」

シゲル様は視線を落として呟く。

『音楽』そのものを愛しているシゲル様にとって、自分の曲ばかりがもてはやされる現状には言いたいところがあるのだろう。

でも、シゲル様が俯いていたのはほんのわずかな時間だった。

「――じゃあさっさと昏睡病を退治しねえとな!昏睡病なんてのが影も形も無くなっちまえば、辺りを見渡す余裕もできるだろ!」

そう言ったシゲル様は、勢い良く立ち上がるとギターケースを担いだ。

「よし、行くか!」

「ど、どこへですか?」

「ライブに」

「またですか?!午前中目いっぱいやったじゃありませんか!少しくらいお休みになってください!」

「机仕事に疲れたからライブにいくんじゃねえか」

「だ、ダメだ、話が通じない……!」

 

私は必死にシゲル様を引き留めたが、その足を止めることはできなかった。

 

今日も順調すぎるほどの速度で、蓬莱から昏睡病が消えていく。

 

 

 

 



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27話

____________________________________________

女子高生・神宮寺真美視点

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『――今日は皆に、ちょっと報告があるんだよ』

 

わたしはぼうっと夜空を見上げながら、シゲル様の言葉を聞いていた。

空を見上げているのは、涙がこぼれないように。

だって、シゲル様がこれから何を言うか、蓬莱人はみんな察しがついているから。

 

『こないだのアイドルスターでも言ったんだが――ついに、諸外国の準備が整った!』

 

『そして、蓬莱での治療ライブも、いまさっき全行程が終わった!』

 

――その言葉が意味するところは、まさに偉業だ。

シゲル様はついに、蓬莱の全レベル3患者を治してしまったということだから。

 

そして、それはつまり――

 

『つまり、いよいよ俺のワールドツアーが始まるわけだ!』

 

シゲル様の、旅立ちを意味していた。

 

『ってことで、シゲラジは今回でちょいとお休みになる。俺が帰ってくるまでな』

 

『ま、そんなに長くはかからねえさ!世界中が準備に骨折ってくれたからな!今までと同じペースでライブをすれば、なんと一年少々で終わっちまうってよ!』

 

一年。

蓬莱という一つの国にすら半年もかかったのだから、これはきっと破格の短期間なんだろう。各国は余程頑張って体制を整え、システムを組んだに違いない。あるいはシゲル様のライブ頻度が常軌を逸してるのかな。そのどちらもって気がする。

 

ああ、でも、一年は長いよ。

今は十一月。これから蓬莱には本格的な冬がやってくる。シゲル様という太陽抜きで冬を乗り切らなくてはならないと思うと、身体だけでなく心まで冷え込んでくるみたい。

 

本音を言えば、どこにも行ってほしくない。

でも……

 

私は友達のことを思い出す。

ヨッシー。ドラム好きの女の子。ヨッシーのお母さんはレベル3の昏睡病で、特療に入っていた。入ったのは、ほんの一年前だったかな。ヨッシーは随分落ち込んで、わたしたちは頑張って慰めた覚えがある。

だって、誰にとっても他人事じゃなかったから。

昏睡病という名の死神は、いつか必ず訪れる、避けられない終わりだった。

――シゲル様が現れるまでは。

 

ヨッシーはこのあいだ、一晩泣き明かしたような真っ赤な目で報告してくれた。

 

――お母さんが、帰ってくるって。

 

もちろん、シゲル様のライブのお蔭で。

まだちょっとリハビリは必要みたいだけど、それも直に終わるらしい。ヨッシーは泣き笑いのような顔で、「ドラムの置き場所探さなきゃ」って言ってた。

――心底嬉しそうに。

 

うちの高校だけでも、そんな生徒は沢山いた。

治療の日取りを今か今かと待っていた生徒は、数えきれないほどいたんだ。

 

 

じゃあそれが世界全部なら?

帰ってこれないお母さんは、帰りを待つ子供は、一体どれくらいいるの?

 

――もし私が外国人で、レベル3の母が居たら。

 

そう考えたら、とても甘ったれた我儘は言っていられない。

私たちにできるのは、シゲル様を声援と共に見送ることだけだ。

 

『――でもな、俺はこの一年、皆に期待してるんだぜ!』

 

ラジカセから響くシゲル様の言葉に、私は首を傾げてしまう。

……期待?

シゲルさまが、私たちに?

 

『一年経てば、蓬莱も結構変化があるんじゃねえかと思うからよ!』

 

『帰ってきたら、俺の知らない最高の音楽が流行ってるかもしれねえだろ?』

 

『そう考えると、ちょいと長旅に出るのも悪かないかも、ってな!』

 

シゲル様が楽し気に言う。

私は苦笑してしまう。賭けてもいいけど、シゲル様の音楽はずーっと流行しっぱなしだと思う。そう簡単に新しい音楽なんてものが生まれる筈がないし、それがシゲル様の音楽並みのクオリティを持ってるだなんてことはあり得ない。

 

でも、もし、シゲル様が帰ってきたとき――シゲル様の曲に並ぶほどの『最高の音楽』が蓬莱に響いていたら。

きっとシゲル様は飛び跳ねて喜ぶだろう。そういう方だもん。

 

 

 

『だから――ちょっとだけサヨナラだ、蓬莱の皆!』

 

『俺の音楽で、世界中の憂鬱を蹴っ飛ばしてくるぜ!』

 

 

 

シゲル様の別れの言葉に、堪えきれずに涙がこぼれた。

私はぐいっとその涙を拭って、もう一度空を見上げて――

 

それを見つけた。

 

「あ――」

 

「――流れ星」

 

大きな流星は、凄い速さで暗い夜空を断ち切って。

空の彼方に飛んでいく。

 

――シゲル様みたい。

 

そうだ。シゲル様は行くんだ。

皆の願いを乗せて、真っ暗闇を真っ二つ。

 

「――頑張って、シゲル様」

 

私は目を閉じて小さく呟くと、星に願いを乗せた。

 

 

 

どうか貴方の最高の音楽で世界を救って、そして――

 

――無事に、帰ってきてください。

 

 

 

眼を開くと、もう流れ星は見えなかった。

 

わたしは寂しさを振り払うように買ったばかりの相棒に視線を向けた。

テレキャスター。ぴかぴかのボディを見てると、自然と喜びがこみあげてくる。

――うん。この子がいれば、シゲル様のいない一年も何とか乗り切れそうな気がしてくる。

まだ、教本とにらめっこをしながらいくつかの簡単なコードを覚えただけだけど――それでも、音を出してるだけで最高に面白い。パワーコードをかき鳴らしてるだけで、この子は私を天国に連れて行ってくれる。

いくつかのコードを適当に組み合わせて、何となく曲っぽくするのがマイブームだ。しっかり上達したいなら、バレーコードとかをちゃんと弾けるように、もっと基本的な練習をするべきなのかもしれないけど――しょうがないんだよ。すぐ弾けるコード弾いてるだけで楽しすぎるんだもん。

そう。とにかく今は、この相棒と一緒に音楽をやるのが嬉しくてしょうがない。

『最高の音楽』なんかには及びもつかないけれど、ひたすら楽しいんだ。

 

……。

 

……あれ?

 

……最高の、音楽?

 

 

そういえば、シゲル様はアイドルスターの第一回で言っていた。

楽しければ、それが最高の音楽なんだ、って。

――じゃあ、今私がやってるのって――

 

閃くものがあった。

 

その閃きは急速に形を成して、ひどく私を魅惑した。

どうやっても、目を離せないほどに。

 

「……作れないかな」

 

口に出してみると、その閃きはますます私を引きつけた。

 

――私にそんな知識なんて全然ないけど。ただ音楽好きってだけだけど。

作れないかな。

 

――私にも、新しい曲が。

 

 

 

人が聞けばあり得ないっていうかもしれない。不遜だ、っていう人だっているかもしれない。素人にそんなこと出来るわけない、っていう人がほとんどかもしれない。

でも――

 

 

馬鹿馬鹿しくて、無謀なことかもしれないけれど――これって、なんだかとっても『楽しそう』!

 

 

じゃあそれって、『最高の音楽』ってことじゃない!?

 

 

 

――そうだよ!ついこの間まで素人だったはずの朱里ちゃんと青子さんは、もう滅茶苦茶成長してる!あっという間にぐんぐん伸びて、とっても楽しそうに音楽をやってる!

じゃあ、私にだって――!

一年間も、あったらさ!

 

「可能性くらい、あるよね!」

 

私には、シゲル様を見送ることしかできないけれど――

待っている間に、できることがあるかもしれない!

一年後、私の作った曲が奇跡的にシゲル様の耳に入った時、ほんの少しだけでも喜んでくれるかもしれない!

 

 

……ううん。違う。

シゲル様の為に、とか、そんなおためごかしは無しだ。

これはもっと単純な話で――

 

 

こんな楽しそうなこと、見ないフリはできないってこと!

 

 

「よぉし!」

 

私は急いでノートとペンを引っ張り出すと、さっき頭に浮かんだフレーズを書きなぐった。

 

 

 

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28話

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藍葉青子視点

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 

アイドルスターの収録は、もう慣れたもの。最初のころこそ緊張して上手く話すことすらできなかったけど、今はそんなにミスもしなくなった。

……でも、今日は勝手が違った。

収録は上手くいっていない。

いつもと違うことは、一つだけ。

ひとり――たったひとりを欠いたまま、番組を造り上げなくてはならないということ。

 

――そのたった一人を欠いただけのスタジオが、妙に広く感じて、私は改めてそのお方の存在の大きさを知った。

 

シゲル様のいない収録現場は初めてだった。

 

思い返してみれば、先週までリハーサルにはあまり時間がかからなかった。

だって、シゲル様がタイトすぎるスケジュールに忙殺されていたから。メインパーソナリティの一人が参加できないのだから、リハーサルも全体の流れを確認するくらいで終わっていた。

それで何の問題も無かった。だって、進行に多少の手違いが起きても、シゲル様が笑って音楽を披露してくれれば丸く収まってしまうんだもの。

シゲル様はその人柄と音楽で、番組を引っ張ってくれていた。

でも、そのシゲル様は、もういない。

メインパーソナリティは、いまスタジオに全員が集まっている。

 

――今週からは全員が揃った状態でリハーサルが行える。それも、入念に。

収録時間だって長くとれるから、ちょっとくらいミスがあっても大丈夫。撮り直す余裕がある。

 

でも――こんなに不安になる収録は、初めてだった。

 

誰も彼も、迷子の子供のよう顔で、俯きがちに収録に参加している。

……きっと、私も。

 

 

ああ――シゲル様一人がいないだけで、まるで火が消えたみたい。

 

 

マネージャーの鈴さんも伏し目がちで、いつもの元気はない。

番組スタッフの皆さんにもちょっとしたミスが続く。

浅黄さんも珍しく演奏ミスを繰り返し、スタッフの慰めの言葉に涙を浮かべた。

私もセリフをとちってしまう。あれほど練習したエイトビートが、何故だか上手く決まらない。

朱里は――奇妙なほどに口数が少なく、何かを考えこんでいるようだった。

 

 

 

休憩にしましょう、と、スタッフの誰かが言った。

 

反対する人はいなかった。

 

 

 

 

わたしはスタジオの椅子に腰かけて、気分転換の為に私物の楽譜を眺める。

シゲル様が手ずから残してくださった、十曲ほどが記載されているバンドスコアだった。キーボードトリオ用に編曲されたものとは別に、ギターが加わったバージョンも記載されている。

 

――俺が帰ってきたとき、どれか一曲でもセッションできるようになってたら嬉しいからな!

 

シゲル様はそんなことを言って、激務の合間を縫って書き上げてくれたらしい。

 

有り難い話だ。もし本当にシゲル様とセッションできたら、きっと夢のような体験になるに違いない。

 

 

ああ、だから。シゲル様の期待に応えるためにも、頑張らなくてはいけない。

頑張らなくては、いけないのに――

 

どうしても、力が湧いてこない。

それはきっと、この場の誰もが同じで――

 

 

――いや。

 

 

一人だけ、違うみたいだった。

 

 

ばちん、と乾いた音が響いた。

 

 

何事かとそちらに目を向けると、そこにあるのは自らの両頬をひっぱたいた朱里の姿。

思ったよりも勢いがあり過ぎたのか、朱里はぎゅっと目を閉じて痛みに堪えると、

「――よしっ!」

ベース片手に、かっと目を見開いて立ち上がった。

 

「――みんな!俯いてちゃダメだよ!」

 

突然、スタジオに朱里の大声が響きわたった。

 

皆目を丸くして朱里を見つめる。

 

「こんなところをシゲル様に見られたら、きっと悲しませちゃう!『音楽のイロハのイを忘れちまったのかよ』ってさ!――元気出していこうよ!」

 

朱里が力説する。

ああ、きっとシゲル様はそう言うわね。

だけど朱里、そうは言っても――

 

「でも、シゲル様がおられないと……」

 

「――二百年!!」

 

私の弱気を、朱里はその言葉で遮断した。

 

「二百年だよ!?二百年、人類は歯を食いしばって頑張ってきた!シゲル様なんていなかったのに、必死に――」

「だっていうのに、ぼくたちはたった一年すら頑張れないの?!」

 

 

「――そんなわけないよ!」

 

 

「半年前を思い出してみて!」

 

「ぼくたちは、シゲル様がいなくても前に進もうとしていたよ!」

 

朱里の言葉に、わたしははっとする。

――そうだ。私たちは弱くなった。

だって、あんまりにもシゲル様が頼りになるから。

全部、任せてしまえたから。

わたしたちは、寄りかかるだけで――

 

落ち込み続ける私たちに、朱里はそれでも言葉を投げかける。

 

「シゲル様が蓬莱に、希望の火を灯してくれた!」

 

「ぼくたちはシゲル様が帰ってくるまで、背中を丸めてその火に当たってるだけなの?!」

 

「違う!」

 

「そだてなきゃ!」

 

「シゲル様が、びっくりするくらい!」

 

「帰ってきたときに『すげえな、お前ら!』って言っちゃうくらい!」

 

「ほくらで『音楽』の火に、薪をくべ続けるんだ!」

 

その言葉に、わたしは心が動くのを感じた。

もし、音楽の火に薪をくべて――炎にできたら。

シゲル様がそれを目印に帰ってこられるほどの、篝火にできたら。

蓬莱中に音楽が溢れるようになったら。

それは、なんだかとっても――

 

――楽しそう。

 

……でも。

 

「できるかしら、私たちに……」

まだ弱音を吐く私に、朱里は、

 

「できるよ!」

 

力強く答えてくれて――

 

「――あ、ごめん、ぼくたちだけじゃ無理かも」

 

即座に前言を翻した。

 

わたしはずっこけそうになってしまう。

 

「あのねぇ……」

「だ、だけど、蓬莱の皆を味方にすればいいんだよ!」

朱里が慌てて言い繕う。

「皆を?」

「うん。ぼくたちだけじゃ、薪を運ぶのは大変かもしれない。でも、蓬莱にはこんなに人がいるんだよ?ちょっと力を借りちゃおうっ」

――私たちだけで無理ならば、みんなで。

いや、それは道理かもしれないけれど……

「でもー、どうやって助けを借りれば……」

浅黄さんの口から出た疑問は、まさに私も考えていたものだった。

だけど、その疑問に、朱里は胸を張って即答する。

「簡単だよ!音楽のすばらしさを、皆に伝えてあげればいいんだ!」

「い、いえ、ですからその方法を――」

「それこそもっと簡単!シゲル様が言ってたじゃない。ほら、楽しければ――?」

 

楽しければ……

 

「それが最高の音楽……?」

 

「それ!」

 

私の答えに、朱里は力強く頷く。

 

「最高の音楽を聞かされたら、興味を持たずにはいられないでしょ?そしたら音楽仲間の出来上がり!みんな喜んで音楽の火を育ててくれるよ!」

 

……朱里の言っていることは、分かる。私だって、シゲル様の最高の音楽を聴いて、興味を持たずにはいられなかった。

でも……

 

「それはそうかもしれないけれど――問題は、シゲル様抜きの私たちに、最高の音楽ができるかってことよ」

 

それこそが、最大のネックのはずだ。

 

だけど、朱里はあっけらかんと答えた。

 

 

「何言ってるんだよ。あったりまえじゃん!」

 

 

――えっ?

私も、浅黄さんも、スタッフさんも。あまりにも自信満々な言葉に、みんな驚いて朱里を見る。

 

朱里は集まった視線に怯むことなく、堂々とベースを構えると――

 

「だって、音楽って――こんなに、楽しいんだもん!」

 

そんなセリフと共に、突然演奏を始めた。

シゲル様に比べれば、とても拙いベースソロ。

当然だ。きっと才能も違うし、練習量も違う。

でも――

 

精一杯の音楽を披露する朱里の顔は――その笑顔だけは。

 

 

「ほら!勝手に『最高』になっちゃう!」

 

 

まるでシゲル様のように、光り輝いていた。

 

 

____________________________________________

 

 

シゲルが旅立った直後、『アイドルスター』の視聴率は一気に半分以下まで落ちた。

しかし、トライアングルは、番組スタッフはくじけなかった。

彼女たちは、ひたすら音楽に向き合い、楽しみ、その魅力を発信し続け――

 

徐々に回復していった視聴率は、十か月後には遂に全盛期の八割に迫る数字をたたき出すことになる。

 



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29話

 

____________________________________________

アステカの新聞『アステカ・タイムズ』より

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 

 

『ワールドヒーロー、アステカに到着!』

今や知らぬ者のいない偉大なミュージシャン、シゲル・サクラザキがアステカにやってきた。その目的は『生演奏によるレベル3患者の治療』である。

下らないジョークだと、ミスターシゲルを知る前の私ならそう言ったであろう。ついでに怒りの一つも表明していたはずだ。『ぬか喜びはもう沢山だ』と。数々の治療が悉く失敗に終わっているのは、歴史が証明しているからだ。

しかし今回に限っては、わたしは感謝と喜びの意を示さねばならない。

既にご存じの方が殆どだと思うが――海を隔てた蓬莱において、ミスターシゲルの音楽は既にレベル3を治療しているからだ。

これは政府から通達された情報であり、真実である。

無論人種の差はあれど、我がアステカのレベル3患者にも効果を発揮するという期待は、決して希望的観測では無いはずだ。何しろ皆様もご存じの通り、アステカにおいてもミスターシゲルの音楽は昏睡病を治療しているからだ。

これを読んでいる方、周りを見渡してみてほしい。

レベル1、あるいは2の昏睡病患者がいるだろうか?

いない筈だ。もしいるのなら、速やかに公衆衛生局に連絡を。CDプレイヤーを引っ提げた局員が乗り込んでいくので、それで解決する。

そう。蓬莱政府の全面的な協力と、アステカ政府の尽力、そしてボランティアの皆様の手助けもあり、ミスターシゲルの音楽はアステカ中に鳴り響いている。

その結果が、低レベル昏睡病の根絶。そしてレベル3の進行停止である。

録音された音楽ですらその効果。これが生演奏であればどうなるか――その結果は、既に蓬莱国民が証明している。

加えて、とある政府関係者の話によると、アステカが誇るかの天才ジェーン・ホワイトが一足早く治験に参加し、その昏睡病は既に治りつつあるという。政府からの公式な発表はまだないが、これはかなり確度の高い情報だ。アステカ・タイムズも今裏を取っている最中なので、続報は少々待っていただきたい。

それにしても、シゲル・サクラザキの生演奏とはいかなるものなのか。コンサートホールで聴く生の音楽が、録音されたものとは比較にならない感動をもたらすというのはご存じの方も多いと思うが――それが稀代の音楽家によって行われれば、きっと死人も目覚めるような感激を与えてくれるのではなかろうか。

 

――まったく不謹慎だと言われても仕方のないことであるが、わたしは今に限ってはレベル3患者がうらやましい。

 

恐らく、今後ミスターシゲルの生演奏を聞くためには、奇跡のような幸運が必要になると思われるからだ。

 

 

 

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ある日の『トライアングル・ラジオ』より

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 

 

 

『みんな!ぼくたち、今日はいいニュースを持ってきたよ!』

 

『シゲル様の音楽を聴くようになって、きっとみんなも歌を歌うことって増えたと思うんだ!でも、中々大声で力いっぱい歌う、っていうのは難しいよね』

『場所が問題なのよね』

『人の声は思ったよりも大きく響きますから、集合住宅などで大声を出すのは難しいですものねー』

 

『そうそう。そこで!蓬莱政府肝入りで、『カラオケボックス』が造られることになったんだ!』

 

『このカラオケボックスっていうのは、簡単に言うと『思いっきり歌を歌える場所』!』

 

『皆さんも、街のあちこちに『カラオケボックス建設中』みたいな看板とか、工事現場を見たことあるんじゃないかしら。今一斉に作られてるカラオケボックスは、一部で完成を迎えつつあるの』

 

『ぼくたちトライアングルは、一足先にそのカラオケボックスを体験することができたんだ!あ、ずるっこだって言わないでね?一応蓬莱政府から、音楽に慣れ親しんだ人の意見を聞きたい、って要請があったんだよ。そんなわけで、実際にお店に行ってきたんだけど――』

 

『――いや、すごかったわね。カラオケボックス』

『はいー。ほんとに……』

『二人の盛り上がりはすごかったねぇ。ぼく目を丸くしちゃったよ』

『だって貴女はボーカルとしてスタジオなんかで力いっぱい歌えるでしょう?でも私は案外機会がなかったのよね』

『私もどちらかと言えば演奏に注力していましたからー。もちろんシゲル様の歌はしょっちゅう口ずさんでいましたけど――大声で、本気で歌うというのは、本当に久しぶりの体験でしたー』

 

『そうだったんだね。……で、感想は?』

『『最高!!』』

『あはは、そうだろうねぇ。じゃあ青子ちゃん、ラジオの前の皆に、どんな施設なのか説明してあげてよ』

 

『了解。――簡単に説明すると、施設にはいくつもの個室があって、その個室の中にテレビと機械、スピーカーとマイクがあるの。その機械に番号を打ち込むと、番号に対応した音楽がスピーカーから流れる仕組みになってるわ。なんと、テレビにはリアルタイムで歌詞も表示されるのよ』

『そうそう。――でも、シゲル様の歌声は流れないんだよね』

『そうなの。伴奏だけ。だから、マイクを握って歌を歌うのは自分なの!』

 

『防音設備が整った部屋で、気の置けない友達と一緒に、周囲を気にせず伴奏つきで歌を歌う――あの体験は、ほんとうに素晴らしいものよ!』

 

『そうなんです!『楽しさ』をぎゅっと詰め込んだような空間なんですよー』

『家で鼻歌を歌うのと何が違うの?って思ったそこの貴女!お願いだから一度だけでもカラオケボックスに行ってみて!絶対、ぜーったい!その魅力がわかるから!』

『青子ちゃんがこれだけ熱くなるのも珍しいね』

 

 

『あ、それと楽器の練習をしてる皆にも朗報だよ!』

 

『なんと!一部のカラオケボックスに楽器の練習室を設けるんだってさ!この練習室には音響機材なんかもバッチリ完備されてるんだよ!』

『それどころか、私たちが見学に行った店舗にはドラムセットまで置いてあったわ。――イメージトレーニングに明け暮れているドラマーの皆。魂を解放する時が来たってことよ。ドラムに興味を持ってる貴女は、触れてみるチャンス!』

『大きすぎる楽器でなければ、持ち込みも大丈夫だってさ!ヴァイオリンやフルートなんかの練習場所に困っている人にもおススメだよ!』

『店舗によってはキーボードが置いてある練習室もあるみたいですよー。そのあたりは、各店舗に確認してみてくださいねー』

 

『――そんなわけで、バンドミュージックに憧れて音楽をやってる皆!メンバーを集めて練習室に行ってみて!演奏の息を合わせるのって、とっても難しいけど――』

 

『上手くいった時、天国だよ!』

 

 

 

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女子高生・近衛麗佳視点

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 

「……カラオケボックス?」

お弁当箱を片づけながら、わたくしは眉を顰める。

土曜日は大抵の学校が半ドン。蓬莱第四高校もその例に漏れず、午後は職練のコマが無い。だから大抵の高校生はアルバイトに勤しむか、どこかに遊びに出かける。

わたくしを誘いに来た雪子さん、美月さん、明日花さんの三人組は、どうやら後者のようですわね。

「そうそう。本当は2Aの真美ちゃんと四人で行くはずだったんだけど――」

「『練習室のキャンセルが取れちゃったの、ゴメン!』って言われちゃって。ベース担いだ理子さんとヨッシー連れて行っちゃったのよ」

「真美ちゃんは練習本気勢だからねー」

「……それでわたくしを誘いに?」

「そうそう。麗佳ちゃんとはまだ行ったことなかったなーって思って」

どう?と笑いかけてくる雪子さんに、わたくしはそっぽを向いてみせる。

「わたくしは遠慮いたしますわ」

「えーっ」

「どうして?」

「一緒にいこうよー」

三人が不満そうに声を上げるので、わたくしはキッと睨み付ける。

「シゲル様の歌を歌うなどそもそも不遜なのです!あの完璧な歌を一般人が歌うなど、まさに冒涜!許されざる行為ですわ!」

わたくしは熱弁するけど、三人の反応は冷ややかだった。

「どう考えても行き過ぎた原理主義だよ」

「だいたいアイドルスターで朱里ちゃんが歌ってた時、シゲル様めっちゃ嬉しそうだったでしょ」

「……シゲル様はお優しいから。きっと心では泣いていたのですわ」

「なんでそんなにシゲル様を好きな貴女が、一番シゲル様を理解できていないの?」

「そもそも麗佳ちゃんがたまに鼻歌歌ってるの知ってるよ。『終わらない旅』が多いよね」

「う、うそおっしゃい!」

本当だとしても多分無意識だからセーフですわ!

「まぁまぁ、ものは試しだよ。一回だけ行ってみようよ麗佳ちゃん」

「お断りです!――そもそもわたくし、午後は外せない用事が入っていますの」

「用事?どんな?」

 

「買ったばかりのCDプレーヤーで『君だけを見つめてる』を無限ループするという崇高な用事が――」

 

「めちゃヒマじゃん」

「連行しよう」

「な、何をいたしますのー!」

両脇を抱えられたわたくしは、抵抗虚しくカラオケボックスへと連行されてしまいました。

 

 

 

 

「はい麗佳ちゃん、一番手でどーぞ」

八畳ほどの個室に連れ込まれたわたくしに、明日花さんはそう言ってマイクを差し出す。

「歌わないと申し上げたでしょう」

「まぁまぁ、いいからいいから」

わたくしは半眼を向けるけれど、友人は意にも介さずマイクを押し付けてくる。

「ほら、『終わらない旅』いれたから。麗佳ちゃん大好きでしょ?」

何やら端末を操作していた雪子さんがそう言うと、テレビ画面に『終わらない旅』のタイトルと、『作詞・作曲 櫻崎シゲル』の文字が映る。

――『様』をお付けなさい!機械風情が!

 

「ねぇ、麗佳ちゃん。とにかく一曲だけでも歌ってみない?鼻歌を聞いた限り、麗佳ちゃんってすっごく歌うまい気がするの」

 

美月さんのそのセリフに、ついにわたくしは根負けした。

「……ふぅ。まったくもう」

マイクを手に取ると、イントロに耳を澄ませる。

 

――ふん、チープな音だわ。シゲル様の演奏に比べたら子供だましね。

 

……ま、まぁ?

仕方ないから?

歌うだけは、歌いますけどね。一曲だけ。

 

 

 

 

 

____________________________________________

 

 

 

 

二十分後――

 

「――センキューッ!!」

 

何度目かの『終わらない旅』を歌い終えたわたくしは、人差し指を天に突き上げてシャウトする!

 

――最高!カラオケって最高!これを知らない人は人生の半分を損していますわ!

 

さて、ではもう一度『終わらない旅』の曲番号を入力して――

 

「いやセンキューじゃないわよ!麗佳ちゃん何回連続で歌うのよ!これ以上はノーセンキュー、ノーセンキューよ!」

「もう勘弁してよ!『終わらない旅』なんぼほど終わらないの?!」

「仕方ないでしょう終わらない旅なんだから」

時間いっぱい続きますわよ。

「ダメだこいつ!ツッキー、マイクむしり取って!」

「了解!」

「ああっ何をしますの!やめて!わたくしのマイクちゃんよ!」

「店のマイクだよ!」

 

熾烈な戦いの末、マイクちゃんは奪い取られてしまいました。

誠に遺憾ですわ。

 

 

 

____________________________________________

 

 

 

「あー、もう終わっちゃった。二時間なんて一瞬だよね」

「誰かさんの独壇場が随分続いたからね!その後もちゃっかりローテに混ざるし!」

「ほほほ。わたくしの美声に感謝してくださってもよろしくてよ」

「面の皮の厚さがすごい……!」

「まさしく鉄面皮だね」

「実際上手だったけどさぁ」

部屋を出たわたくしたちは、そんな会話をしながら店内を進む。カラオケボックスはなかなかの広さで、部屋の場所次第では出入口まで少々歩くことになる。

 

――それにしても二時間の時間制限は不満ですわ。本当なら丸一日貸切りたいところですが……これほどの広さがあっても、今カラオケボックスは予約でいっぱいらしいですし。我儘は申せませんね。

……まぁ、皆さんの歌を聞くのも?なかなか?悪くはなかったですし?

歌っていない間も、それなりには楽しめましたわね。それなりには。

――絶対また来ますわよ!近日中に!

 

「――あ、練習室」

ふと、美月さんが声をあげる。その視線の先にあるのは、少々造りの違う扉。

噂に聞く練習室というものですわね。

「お、ほんとだ。造りが違うんだね」

「防音かなりしっかりしないといけないもんねー」

皆の言う通り、練習室はかなり機密性が高いようにみえますわね。

にも関わらず微かに音が聞こえるのだから、やはり楽器の持つパワーは凄いものですわ。

……わたくしも、嗜んでみようかしら?

 

練習室を通り過ぎるわたくしは、なんとはなしに漏れ聞こえる音楽に耳を澄まして――

 

首を傾げる。

 

 

……あら?これって、ロックのように聞こえるけれど――

 

 

なんだか、聴いたことの無い曲のような?

 

 

 



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30話

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駿河凛視点

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 

シゲル様がいなくても時は流れる。季節は巡る。

戦々恐々としながら迎えた冬も、蓋を開けてみればどうってことはなかった。カラオケボックスをはじめとして、政府の打った手はほとんどが成功。阿藤寛子首相率いる蓬莱政府の力強さをまざまざと見せつけられた。私も一員として鼻が高い。

 

春になると、嬉しい誤算もあった。トライアングルの大活躍だ。

本来、シゲル様を欠いたテレビ業界はかなり活気を失うことが予想されていた。

でも業界関係者は腐ることなく発奮。一致団結した彼女たちは、トライアングルを主軸にして業界を盛り立てた。

今やトライアングルの人気は凄まじく、まさにテレビスターと言っても過言ではない。

 

夏が来ると、政府はシゲル様が残して行ってくれた楽曲のうちから、いくつかのサマーソングを新譜として売り出した。

シゲル様が旅立たれてから隔週くらいのペースで販売されていた新譜は、元々「これもうほとんど税金じゃないの?」っていうくらいの売れ行きを見せていたけれど――夏の新譜は更にとんでもない大反響となった。

去年はシゲル様降臨のショックで狂騒のうちに過ぎ去っていた夏だけど、今年は蓬莱民にも余裕がある。夏は人を解放的にさせる、とは古代の詩人の言葉だが、あれはホントだったらしい。シゲル様の新譜に触発された人々は、昏睡病が蔓延していた頃には考えられないアクティブさで、海に新たな楽しさを探しに出かけた。

結果、海水浴場はマリンスポーツと水遊びを求めて押し寄せる蓬莱民によって芋洗い場と化した。関連企業は大いに儲けたらしい。

 

そして秋になった今。私に奇跡が起きていた。

 

――そう。なんと今日は奇跡の定時退庁!

 

相変わらず忙しい毎日を送っているけど、一時の死にそうな激務はもはや過去のものとなったのだ。定時で上がれるとか、ハッキリ言って学生時代の職練でしか記憶にない。

私はるんるん気分でちょっといい夕食を済ませ、今は自室でシゲル様の音楽を聴きながら趣味に興じている。

目の前には海外の新聞がずらり。

各国から出来る限りの速度で送られてくる新聞の一面記事を読むのは、今の私にとって楽しみの一つだ。

十か月分もあるから読みごたえは十分。もう何度も繰り返し読んだ記事ばかりだけど、やっぱり見出しをみるだけでも笑みがこぼれてしまう。

 

現代の英雄、櫻崎シゲルの大活躍。

 

手元にあるどの新聞も、見出しにそのことを伝えている。

これでもかというほど希望にあふれた文章を一面に載せて。

 

 

『アステカ大熱狂!驚異のシゲル・ミュージックとは』

『レベル3患者、続々回復』

『奇跡の三か月。アステカ、予定より大幅に早くレベル3撲滅の見込み!』

『サンキューヒーロー』

『弾丸ツアーだぜ!シゲル・サクラザキエウロペへ!』

『東の果てから希望が飛んできた!エウロペ女王、ヒーローと蓬莱政府に感謝の意!』

『「爵位は結構、拍手で充分」――女王、英雄に全力の拍手で応える!』

『女王両手内出血』

『オーソニア女教皇、新たな教派《シゲル派》の誕生に黙認の構え』

『人か!?神か!?ヒーロー様だ!櫻崎シゲル、15時間連続ライブ!』

『超特急ワールドヒーロー号、昏睡病を跳ね飛ばす!』

『シゲル・サクラザキ 快進撃!』

『レッドリスト入りか!昏睡病絶滅間近!なお保護団体は存在しない模様』

 

――――

 

――

 

 

 

そして、今日届いた新聞の一面には――

 

 

『さらばレベル3!ワールド・ヒーロー、任務完了!』

 

待ちに待った吉報が記載されていた。

 

 

シゲル様が、帰ってくる。

 

 

____________________________________________

 

 

 

 

 

一機のプライベートジェットが、この蓬莱国際空港に到着した。

取り立てて変わったところのない機体だけど――あのジェット機に誰が乗っているかが知れれば、この空港は殺到する蓬莱民によって倒壊するかもしれない。

 

だって、救世の英雄が帰ってきたのだから。

 

しかし夜七時現在、空港内にはほとんど人影が無い。

今日この時間に、国際線も国内線も飛ばないことは確認済みだった。本日のフライトはとっくに終わっていて、空港内にただの客は一人もいない。

 

それというのも、シゲル様の帰還はまだ伏せられているからだ。

蓬莱国民の為を思えば一刻も早く通達するべきなのかもしれないけれど、もっと優先しなくてはいけないのはシゲル様のことだ。

周囲に騒がれる前に、静かに休憩できる時間が必要だと思うから。

 

――シゲル様の帰国を目前にした今、わたしの胸にあるのは、喜びじゃなくて不安だ。

 

シゲル様は確かに、神話のような偉業を成し遂げた。

世界全部で立ち向かってもどうにもならなかった『昏睡病』という名の化け物を、たった一人でやっつけた。

 

でも。

シゲル様は英雄だけど、神話に出てくる神様じゃない。

 

ご飯は食べるし、睡眠もとる。嬉しければ笑うし、悲しければ肩を落とす。

多少『特別』かもしれないけれど、人間の体と心をもっている。

 

そして、シゲル様がこなしたスケジュールは、到底人間には不可能なものだった。

なにしろ、今は十月に入ったばかり。

シゲル様は本来ならたっぷり一年以上はかかると試算されていたライブツアーを、十か月少々でこなしてのけたのだ。

周囲の心配を押し切って。

 

――無謀なスケジュールをこなすシゲル様に、わたしは何度も電話で休憩をとるように具申した。私だけじゃなく、各国の要人たちも同じことを言ってくれた。

でも、本人に『心配すんな』と言われてしまえばどうしようもない。

シゲル様のおっしゃる通り、レベル3患者がいつまでレベル3患者でいられるかはわからない。その事実も、シゲル様の強行軍を後押ししてしまった。

 

……積み重なった疲労は、心身を容易く蝕む。

私も一時は危ないところだった。激務に次ぐ激務で入院一歩手前まで行ってしまった。

なんとか持ちこたえることができたのは、頼りになる先達が職場に復帰してくれたからだ。

だけど、シゲル様に『先達』はいない。

世界を滅ぼそうとする死神と、孤独に戦わなくてはならなかった。

そんなの――たった一人の人間に背負える負担だとは、到底思えない。

 

胸騒ぎを押さえきれない私の目の前で、ジェット機にタラップが架設された。

いよいよ、シゲル様が降りてくる。

 

 

 

――心のどこかに、『でもシゲル様ならば』、という考えがあった。

シゲル様なら、常人なら過労で百回は死にそうな数のライブをこなして尚、眩しい笑顔で『よう!ただいま!』と言ってくれるのではないか――

 

 

だけど。

 

シゲル様の姿を見て、私は死にたくなるような後悔に苛まれた。

 

一年ぶりにみるシゲル様は、一回り痩せたように見えて――

 

「よう。――久しぶりだな、凛ちゃん」

 

疲労の色が濃い笑顔に、あの太陽のような輝きは無かった――

 

 

 

 

 

 

 

____________________________________________

 

 

 

 

 

 

 

 

――ひとつ頼みがあるんだよ。聞いてくれるかい――

 

車に乗り込むやそう口にしたシゲルに、凛はもちろんと何度も首肯し――即座にその首を横に振ることになった。

 

「お願いですシゲル様!今じゃなくてもいいじゃないですか!」

 

車中で、凛は必死にシゲルを引き留める。

 

「少しだけ休んでから、それから考えましょう!」

 

 

「何も今、レベル4患者の治療に向かうことはないんです!」

 

 

――今からレベル4患者に、もう一回だけチャレンジしたい。

 

その頼みだけは、聴くわけにはいかなかったから。

 

凛は必死に訴えるが、シゲルの意志は固かった。

「……生命維持装置に繋いでいても、レベル4患者ってのは衰弱してくんだろ?早い方がいいさ」

「数日後でも変わりません!まずはシゲル様自身が回復してから、万全の態勢で治療に臨むべきです!」

「頼むよ。その為に、俺はこんだけ急いできたんだ」

「う――」

シゲルにそう言われてしまうと、凛の語気は弱くなる。

「……心配すんな」

ヘッドレストに頭を預け、シゲルは口角を上げる。

「へへ、とんでもねえ場数をこなしたからな。俺のテクニックは、いまちょいと凄いことになってんだ」

 

「リズムセクションも収録しなおした。音質もバッチリさ。これ以上はできねえ」

 

「今なら、完璧な音楽ができる」

 

「――これで太刀打ちできなかったら、あきらめもつくさ」

 

シゲルは強行の構えを崩さない。

「……でもっ!」

だが、凛はそれでも食い下がる。

「でも、でも、せめて明日になってからでもいいじゃないですか!一晩くらい、ゆっくり眠って――」

「いや、今が良いのさ。張りつめてるんだ、今の俺」

 

「すげえ集中力なんだよ。今なら絶対にミスしねえから」

 

静かに、しかし完全に覚悟を決めたシゲルの様子に、凛はついに俯いた。

 

 

 

 

____________________________________________

 

 

 

 

最後の挑戦には、小高い丘の上にある特療が選ばれた。

生命維持装置を動かすのは容易ではないため、ライブは広めの病室にて行われることになった。

スピーカー等のオーディオセットは小型でも最新のものが用意され、医師が病室にスタンバイ。ごく小規模なライブの為の準備は、瞬く間に整う。

 

観客は、たったの数名。凛、医療スタッフ、そして患者だけだ。

 

「さて――やるか」

 

小さなその呟きと共に、ライブが始まった。

 

 

____________________________________________

 

 

凛はシゲルの演奏に息を呑んだ。

それは文字通り、鬼気迫る音楽だった。

『凄絶』の二文字が頭に浮かぶ。

それは一人の天才が命を捧げて作り上げる芸術品だった。全てのものを圧倒する技量が、完璧な完成度で作品を組み立てている。

テクニックというテクニックが駆使された演奏には一切のミスが無く、広大な音階を行き来する歌声は一音たりとも外れない。

 

畏怖すら覚えてしまう音楽を耳にしながら、凛はただ一つのことを願っていた。

 

 

――お願い、目を覚まさないで!

 

 

だって、これでもしも患者が目を覚ましたら、シゲル様はまた『行ってしまう』!

休憩なんか考えずに、一直線に――また、世界中の患者の元へ。『心配すんな』って言いながら。

自分の体の事なんか、考えもせずに!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――果たして、凛の願いは叶った。

 

患者の脳波は平坦なまま、目を覚ますことはなかった。

 

 

当然と言えば当然の結果。だが、かつてのシゲルはこの光景を前に「また来るからな!」と気を吐いたものだった。

しかし今回、シゲルは落胆の色を見せることはなかった。

 

 

 

「――そうか」

 

「参ったな」

 

 

ただ一言そう言って、天井を仰いだ。

 

 

 

 



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31話

翌日。

シゲルはいつもの変装をして、街を歩いていた。

だが、変装中はなるべく持ち歩かないようにしているギターを、今日に限っては背負っている。

一年前であれば危険な行為だった。シゲルの長身とギターが合わされば、いくら変装していても感づくものが現れかねなかったからだ。

だが、今となってはギターケースを背負った者は決して珍しくない。何よりシゲルはまだ海外にいることになっている。シゲルの長身は、人波に埋没していた。

 

「どうか休んでください」という凛の涙の訴えにシゲルは素直に頷き、今日を休日とした。

 

目的もなく街をうろついているのは、マイナス思考から逃れるためだ。

ベッドに横になっていると、考えたくもないことを考えてしまう。

演奏の予定も無いのに相棒を背負っているのも、そんな弱気が影響していた。

 

帽子の鍔で出来る限り顔を隠しながら歩みを進めていると、ふと肩の重みが気になった。

疲労が抜けていないのだろうか。

いつもより、ギターが重く感じた。

 

――思えば、お前さんとは長い付き合いだな。

 

何せ、前世からの付き合いだ。

今となっては、そんな相手は背負ったギター一本だけだった。

 

 

――いや、もう一人いたか。

 

 

シゲルの脳裏に、美しい女神の姿が浮かびあがった。

 

当て所なくさまようシゲルの足は、気が付けば水天宮へと向いていた。

 

 

誰かに縋りたかった。

 

 

 

 

 

____________________________________________

 

 

 

 

 

下ばかり見ながら歩いていたからか、シゲルがその異変に気付いたのは境内に辿り着いてからだった。

 

今日は日曜日。本来であれば水天宮は歩行者天国並みの賑わいを見せている筈だ。

だが、境内には誰の人影もなかった。

 

――ただ一人を除いて。

 

「おまちしておりました、シゲルさま」

 

特徴的な白無垢に、シゲルは目を丸くする。

如何に激務で世間に疎いといえど、その服を着た人物ばかりは見間違いようもない。

帝であった。

何かを手に持ったまま、宝生弁才天前に佇んでいる。

「……新聞で見た顔だな。跪いたほうがいいかい?」

「とんでもございません」

そう答える帝に、シゲルは首を捻る。

「……あれ?」

「どうなさいました?」

「やっぱり――聞き覚えがある声なんだよな。どこかで会ったことなかったか?」

帝はにこりとほほ笑むと、手にしたものを目深に被った。

見覚えのある帽子だった。

その姿が境内と結びつき、シゲルに一年前の記憶を呼び起こす。

「……ミカちゃん?」

「おぼえていてくださったのですね。あの時は正体をかくしていてもうしわけございません」

「お互い様さ」

帝は微笑を浮かべると、しずしずとシゲルに近づき、その手をとった。

 

「神託がありましたので、内侍省のほうで人払いを済ませておきました」

「神託?」

「どうぞこちらへ。弁才天さまが、待っておられます」

「……弁天様、が」

優しく手を引く帝にされるがままに、シゲルは宝生弁才天の前に立つ。

 

二礼、二拍手、一礼。

 

 

 

 

 

 

――気が付けば、眩い光が純白の空間に浮かんでいた。

 

 

 

 

 

「……弁天様かい?」

『ええ、そうよシゲルちゃん。今日は省エネモード失礼するわね。少しでも神気を貯めておきたいのよ』

「なーに、どっちの姿も眩しいぜ」

『ふふ、ありがと。……他愛ない話を続けたいところだけど、ちょっと事情があるから、早速本題に入らせてもらうわね』

 

「……本題、か」

 

『ええ。――シゲルちゃん、貴方がここに来た理由は、大体察しているわ』

 

「……」

シゲルは目を伏せた。

そんなシゲルに、弁財天は静かに語りかけた。

 

『シゲルちゃん。……ごめんなさいね』

まず、そんな謝罪の言葉を。

「……なんだって謝るんだ?謝らなくちゃならねえのは俺のほうさ。俺は結局、昏睡病患者を助けることはできなかったんだ」

『そんなことないのよ。ちゃんと助けてくれたわ。――あの時ハッキリ言っておくべきだったわね』

「……ハッキリ?何を?」

『以前わたしはここで、貴方に『百点満点』って言ったでしょ?あれって言葉の通りなのよ』

『レベル3患者の治療こそが、わたしの最終的な目標だったの』

「最終的な?だけど、レベル4患者が――」

『レベル4は、最初から勘定に入ってないの』

「……え?」

『レベル4っていうのは、人間が定義した状態で――神々にとって、あれはもう『抜け殻』なの』

 

『レベル4って、アイツが魂を取り終えた後なのよ。昏睡病で弱り切った魂を、自らの領域に持ち去ってしまった。その後に残された身体が、人間たちの言うレベル4患者』

 

『機械の助けで、辛うじて生命反応を維持しているだけで――中身は、もうないの』

 

シゲルは呆然と立ち尽くす。

弁才天の言葉は、残酷なまでに一つの事実を明らかにしていた。

 

――つまり、レベル4患者は。

最初から、手遅れだったのだ。

 

 

『だからね、シゲルちゃん。もういいのよ』

『人々は力強く、生きる力を取り戻したわ』

『ここから再び昏睡病を蔓延させるのは、アイツといえども容易じゃない』

『それに私も、お陰様でかなーりパワーアップできたわ』

『だから――アイツをわたしたち神々が押さえておけば、もう昏睡病患者は現れないはずよ』

『……貴方は間違いなく、この世界を救ってくれたわ』

弁才天の言葉は真実なのだろう。その声には真心がこもっていた。

だが、シゲルは頷くことができなかった。

 

「――だけど、だけどよ!弁天様、俺は――!」

 

そう食い下がるシゲルの形相に、何を見たのか。

弁才天はいぶかしげに声を上げる。

 

『シゲルちゃん、ちょっと待って』

『――この気配――貴方から……!?』

 

 

弁才天が、何かに気付きかけた瞬間――

 

突如、虚空から闇が伸びた。

 

鞭のようにしなる一筋の闇が、一切の反応を許さずシゲルの身体を捉えようとして――

 

『このっ!』

 

眩い光に払われた。

あっけなく、闇は跡形もなく消える。

 

『――?』

『アイツ、様子を伺っていたわけ?』

『気配はそのせい……?』

 

「今のは……」

 

『例のアイツよ。牽制っぽかったけど……なんだか違和感があるわ』

 

「違和感?」

 

『意味不明な攻撃だったもの。あんな気の抜けたような一撃だけを送り込んでくる手合いじゃないハズなのよ。……何かを企んでいるのかもしれない』

 

『やっぱり、神気は出来る限り使わないほうが良さそうね。いざという時に、対応しきれないかもしれないから』

『――でもシゲルちゃん。最後にこれだけは言わせてもらうわね』

 

 

不意に、弁才天は厳かな空気を纏うと、

 

『櫻崎シゲル。貴方が以前この水天宮に訪れたとき、私はお願いしましたね。『貴方のライブを、皆に届けてあげて』と』

 

『――ありがとう。依頼は果たされました』

 

真摯な感謝を、シゲルに届けた。

終わりを告げる言葉だった。

 

『わたしが頼んだ、貴方のライブはお終い。貴方は最高の結果を齎してくれたわ。百点満点よ!』

 

『その身体に残された時間は、報酬としてプレゼントするわね』

 

『後は――貴方の人生を、どうか自由に生きて頂戴――』

 

 

優しい言葉を最後に、弁才天の気配が遠のいていく。

 

 

「弁天様――!」

 

 

声を上げるシゲルだったが、周囲は眩い光に包まれて行き――

 

 

 

 

 

 

気が付けば、シゲルの意識は現実へと帰っていた。

 

 

 

 

 

 

____________________________________________

 

 

 

 

どうやって水天宮を後にしたのか、シゲルは覚えていない。

上の空のまま、気付けば目の前には立派な車があった。

「シゲルさま」

声をかけられ視線を向ければ、そこには女官三人と並び立つ帝の姿。

「……何だい」

「――世界を救っていただいて、ありがとうございました」

帝が深々と頭を下げる。女官たちもそれに続いた。

「――サンキュ」

シゲルは、絞り出すようにそれだけを言った。

女官たちに付き添われ、帝が車に乗り込む。

「シゲル様。よろしければお送りしますが」

女官の一人が言うのに、シゲルは首を横に振る。

「……いや、いいよ。ちょいと歩いて帰りたいんだ」

女官は再び頭を下げると、車に乗り込んだ。

去っていく車を、角を曲がるまで見送って――

 

シゲルは、ふと空を見上げた。

 

曇天だ。

 

太陽は見えなかった。

 

 

 

____________________________________________

 

 

 

当て所なくさまようシゲルは、いつの間にか人通りの殆ど無い道に迷い込んでいた。

孤独と静寂が、考え事には丁度良かった。

シゲルは一人、己の心と向き合っていた。

 

 

――人にも神にも、心から感謝された。

手から零れ落ちてしまったと思った人々は、最初から死体も同然の状態だったらしい。気に病むことは無い。

どれほどのレベル3患者を救ったことか。もはや数えるの億劫なくらいだ。

誰にもはばかることなく、胸を張れる結果だ。

 

――だというのに、なぜ今、自分はこれほど落ち込んでいるのか。

 

シゲルは考える。

 

 

 

 

……俺は、音楽をやれるだけで満足だった。

前世から――こっちの世界に来てからも、ずっと。

だけど最近になって、不思議と前の世界の音楽ばかりを思い出しやがる。

ああ、そうだ。色んな音楽があった。ロック、ポップス、ヒップホップ、R&B、レゲエ、ジャズ――他にも沢山、数えきれないほど。

あったんだよ。あの世界には。

――タツヤ、武一、麗。みんな元気でやってっかな。あれだけのプレイヤーなんだ。きっと今頃、すげえライブの一つや二つこなしてるかもしれねえ。

もう俺には、聴きようもないけど。

 

 

 

ああ、チクショウ。

もう少しだけ、時間があれば。

あんな病気にさえ、かからなければ――

 

 

 

「……あ」

 

そこまで考えて、俺は気付いた。

俺が何故だか無性に助けたかったレベル4の患者。その特徴に。

 

――精々40歳手前で、ベッドに縛り付けられたまま、やりたいことを何一つやれなくなってしまう。

 

思い当たるヤツが一人いた。

 

 

――俺だ。

 

 

ああ、そうか、俺は……

皆を救いたい、なんて聞こえの良いことをいいながら、結局のところ――

 

 

 

……そうだ。

 

俺は。

 

俺は!俺を救いたかったんだ!

 

死にたかなかった!あっちの皆に聞かせたい曲が、まだまだ山ほどあった!世界中に溢れかえるあらゆる音楽に、いつまでだって触れていたかった!馴染の面子で、もっともっとライブをやりたかった!

死に際のアンコールにだって応えてねえよ!

これからだ!――これからだったんだ!

 

――だからせめて、こっちの世界で、同じような奴らを助けようと思ったんだ!

 

そうさ!音楽しか頭にねえ俺が、柄にもなく、使命感に燃えてたんだ!

俺は、俺みたいな奴らを助けてやって――「見ろよ、俺が死んだおかげだぜ」って、俺に言ってやりたかった!

「あの世界の音楽に触れられなくなったことには、ちゃんと意味があった」と!

 

代償行為に過ぎなくとも――

俺は!神様の勘定に入ってなかった奴らこそ、救いたかった!

あの日の俺こそを――!

 

「ははは……!」

 

乾いた笑いが漏れる。

 

「笑えるぜ、弁天様……!」

 

百点満点?

こんな、テメエのことしか考えてねえヤツが?

 

 

「こんなクソ野郎の――どこが、百点満点だ!」

 

 

 

 

____________________________________________

 

 

 

 

自己嫌悪が、シゲルに衝動的な行動をとらせた。

ギタリストの命とでも言うべき右手に拳を握らせて、手近なブロック塀に叩きつけようとする。

 

止めるものはいない。

振り上げた拳が、勢いよくブロック塀に振り下ろされる――

 

 

――その、直前に。

 

前世から続く経年劣化に、急激な動きがトドメとなったのか――

 

ギターケースの金具が、嫌な音と共に弾けた。

 

ショルダーストラップを繋ぎ止めていた、最も頑丈で――まず壊れることのないハズの部分が。

 

「――ッ!?」

 

結果、シゲルの拳が振り下ろされることはなかった。

それどころではない。

咄嗟に動きを止めたシゲルの視線は、宙に投げ出されるギターケースに釘付けとなる。

 

ギターケースは勢いよく宙を舞うと、ざりざりとアスファルトを舐めた。

 

「わ、悪ィ!」

 

殆ど反射的に、シゲルは謝罪の言葉を述べて、ギターに駆け寄った。

不自然なほどに吹き飛んだギターケースは、そのネック部分を電柱にぶつけて止まっていた。

 

シゲルは顔面蒼白となった。もはやヤケを起こそうとしていたことは覚えていない。

ギターは無事か、と、その一心であった。

 

慌ててケースを開けたシゲルは、ギターに傷が無いかチェックしようとして――

 

不意に動きを止める。

 

ケースはしっかりギターを守ってくれたのか、パッと見て分かる損傷はない。安堵に胸を撫でおろすかと思われたシゲルは、しかし訝し気に眉を顰めていた。

 

「――」

 

シゲルはなぜか、ギターに手をかけたまま硬直している。

 

 

――そして、ほんのわずかな時間をおいて、

 

 

「……誰、だ?」

 

 

シゲルは困惑と誰何の声と共に、どうしてか辺りを見渡した。

薄暗い路地裏には、当然誰の人影も無い。

やがてシゲルの視線は、エレアコへと戻っていた。

 

シゲルはじっと、前世からの相棒を見つめると――

 

 

声なき声に耳を澄ませるかのように、目を閉じた。

 

 

――やがて。

 

 

 

「……前を?」

 

 

 

シゲルはぽつりと呟くと、導かれるように視線を上げた。

 

ネックが指し示す方向を見れば、そこにあるのは何の変哲もない電柱だ。

少しだけ変わっているところをあげるとすれば――手作り感満載の張り紙が一枚。

 

『蓬莱第四高等学校・第一回文化祭のお知らせ!』

 

そう書いてある。

 

 

日付は今日だった。

 



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32話

____________________________________________

神宮寺真美視点

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 

 

「どうでしたか……?」

ステージ裏に仮設された控室――といっても四方に横幕の付いたただのテントだけど――に帰ってきたヨッシーに、理子ちゃんが恐る恐る尋ねる。

「……いやー、スゴイ盛り上がりだよ。あたしのドラムセットも大活躍」

観客席の偵察に行っていたヨッシーは笑いながら答えたけど、その笑みは誰がどう見ても引きつっていた。

引きつった笑みの理由は明白だ。盛り上がれば盛り上がるほど、それはそのまま後続へのプレッシャーとなってのしかかってくるから。

 

そう。校庭の仮設ステージは、今大盛り上がりを見せていた。正直偵察なんかに行かなくても、歓声の大きさでわかっちゃう。

 

今日はわたしたちにとっての大一番。蓬莱第四高校における、記念すべき第一回目の文化祭の日。

昏睡病から解き放たれ、エネルギーを持て余していた私たち学生によって提案され、紆余曲折の果てに府まで巻き込んだ大イベントとなった文化祭本番の日だ。

半日が経過して、文化祭は今のところは大成功といっても過言ではないと思う。

クラスごとに模擬店を開いたり、創作物を展示したり、楽器の演奏を披露したり――そのどれもが活況で、『祭』の字に恥じない盛り上がりを見せている。

お祭り効果か提供される軽食なんかの売り上げはかなりのものみたい。府肝入りのイベントになったから、かなりの予算があったのもクオリティアップの一因かな。

模擬店も凝った造りに出来たし、食材も良いものが仕入れられた。目玉イベントに使う放送機材に関しては、なんと蓬莱テレビから最新のものを借りることすらできた。

来場者を増やすためにあちこちの媒体で宣伝もされて、驚くべきことにトライアングルラジオでもちょっとだけ触れてもらえた。

私たちもあちこちのお店にお願いして張り紙をさせてもらったりしたから、それも効果があったと思いたい。

お姉ちゃんも「張り紙手伝うよ!」って言って休日に張ってきてくれたんだけど――後で回収に行かなくちゃならないから場所確認したら、狭い路地とかだった。心当たりのお店にはとっくに張り紙がされていたらしい。

野良猫くらいしか見ないよあんなとこ。自分で回収してもらおう。

 

とにかく学校ぐるみで予算たっぷり、宣伝バッチリの歩行者天国をやってるようなものだから、そりゃー盛り上がる。

生徒たちも来場者も力いっぱい楽しんでるみたい。うんうん、大変結構!

 

でも、人生最大の緊張を迎えている面々もいる。

 

具体的には、文化祭の目玉となるイベント、学校生徒による『ライブ』。その出演者で――

 

「なんで、なんで大トリを務めるハメになっちゃったんですか……」

「真美が悪いんだよ……」

「た、確かにくじ引いたのはわたしだけど!今更そんなこと言ってもしょうがないでしょ!」

 

――厳正なるくじ引きの結果、大トリを務めることになったわたしたちのことだね!

 

 

「――ま、まぁそんなに緊張することないって!所詮学生のパフォーマンスだってことはお客さんみんな分かってるんだから」

肩を落とす理子ちゃんと、じとっとした目を向けてくるヨッシーから視線を逸らしながら私は言う。

「で、でも、ライブの反響次第で来年以降『文化祭』が開催されるかが決まるって噂が」

「いやぁ、流石に素人ライブの出来でそんな大事なこと決めないでしょ」

「でも府からの予算がなくなる、なんてことはあり得るんじゃないの?」

ヨッシーの疑問の声を、私は笑い飛ばす。

「あはは、大丈夫大丈夫。文化祭自体がこれだけ盛り上がってるんだからさ、」

 

「――あったとしても、予算の減額くらいでしょ」

 

「それ充分大ごとじゃん!」

 

ヨッシーがそう突っ込んで頭を抱えて、理子ちゃんは涙目で詰め寄ってくる。

「わ、わたしたちのせいで来年の文化祭がしょっぱくなっちゃうなんてやだよ!どっ、どうしよう真美ちゃん」

理子ちゃんががくがくと私を揺さぶってくるけど、

「どうするもこうするも……練習してきたことするしかないでしょ!」

私としては、そう言うしかない。

「今からでもコピーにするって手もあるよ?ほら、ロケットあたりは皆やれるでしょ?」

「ゆるさーん!」

ヨッシーの逃げ腰にはもちろんノーを叩きつける。

高校生活最後にやってきた、こんな大舞台!一歩でも退いたら女がすたるってもんでしょ!

「でも真美ちゃん、観客さんってきっとシゲル様の曲だからこれだけ盛り上がってるんだよ?ここで私たちが『オリジナル楽曲』なんてやったら……」

「大滑りしそうだよね」

「大トリで大滑り!ド派手で結構なことじゃない!」

私はそう言って胸を張ってみせる。

 

「確かに、私たちの作った曲は拙いかもしれない!っていうか比較対象がどうしてもシゲル様になっちゃうから、ハッキリ言って拙いよ!演奏する私たちだって、楽器練習してまだ一年経たないし!」

「じゃ、じゃあ――」

 

「でも!」

 

「皆で曲作るのも、歌詞書くのも、練習するのだって、最高に楽しかったでしょ!?」

「それは――」

「否定できない、けど」

「シゲル様は言ってたよ。『上手い下手は関係ない。楽しければそれが最高の音楽だ』って」

 

「みんなで『ほうき星を捕まえて』を練習してた時間が、わたし、最高に楽しかった!だからきっと、出来栄えなんか関係なくて――」

 

――熱弁の最中、私の脳裏を過ったのは、三人で曲作りを始めた時のこと。

 

 

 

 

 

 

『ねー真美。このタイトルよく分かんないんだけど……なんでほうき星を捕まえるわけ?音楽と何の関係があるの?』

 

『え?だって、ほうき星――流れ星ってのは願いを叶えるものでしょ?』

 

『あー、うん。まぁ迷信だけどね』

 

『で、今世界中の人の願いを叶えてくれたのは、シゲル様の音楽だよね』

 

『そうですね……昏睡病をなんとかしたい、という人類共通の願いを、シゲル様の音楽は叶えてくれました』

 

 

『そうそう!だから、タイトルのほうき星っていうのは――』

 

 

 

 

 

 

 

「これが私たちの、『最高の音楽』なんだよ!」

 

 

 

「こーんな大舞台なんだよ?私たちが掴む『ほうき星』を、みんなに見せつけてあげようよ!」

 

 

私は二人の目を見ながら、本心だけを語った。

――バンドは一心同体。一人欠けたら成り立たない。

だから、私は二人を信じるしかない。

 

「……やれやれ。真美は言ったら聞かないからなぁ」

 

ヨッシーが肩を竦める。

 

「――うん。そうですよね、真美ちゃん。その為に、頑張ってきたんだもんね!」

 

理子ちゃんが、ぎゅっと拳を握りしめる。

 

よし、二人とも覚悟を決めてくれた!

これで――大滑りしたとしても、ダメージは三分割されるだろう。

私が心の中でにやりと笑うと同時に、ステージで鳴り響いていた曲が止まり、大きな拍手の音が響いた。

いよいよ私たちの前のバンドが、曲をやり終えたんだ。

 

 

「あー、緊張したね!」

「ホントに!」

よろめくようにして控室に引っ込んでくるのは、明日花ちゃん、雪子ちゃん、麗佳ちゃん――見慣れた友人たちの顔だった。

「おっ、嘔吐しそうでしたわ……!」

ふらふらしながら机の上にフライングVを置いて、麗佳ちゃんがすごい台詞を吐く。

「おつかれー。ボーカルもギターもすごかったよ麗佳ちゃん。テクニックは第四高校一だよね」

「ふ、ふふん。もっと褒めてくださってもよろしくってよ?」

麗佳ちゃんはおほほと笑って胸を張る。

でも、その顔色はまだ白いままだ。

「……やっぱりプレッシャーすごい?」

私の問いかけに、三人は揃って頷いた。

「嘘吐いてもしょうがないから言うけど、もう足ガクガクになるよ」

「観客席のツッキーの笑顔が恨めしかったわよ」

「……シゲル様の楽曲を芸として観客に披露するのですから、ミスは許されませんもの」

「そこまで思い詰めてるのは少数派だと思うけどね」

麗佳ちゃんのセリフに、明日花ちゃんと雪子さんは苦笑いを浮かべる。

まぁでも、麗佳ちゃんの言っていることは一理あるんだと思う。校内で行われたリハーサルとは比較にならないほど、出演者の皆はガチガチだったから。

……流石の私も、出番を目前にしてかなり緊張してきちゃったよ。

 

そんな私の様子を見て、麗佳ちゃんはつんとすました顔で腕組みした。

 

「でも――貴女方は精々リラックスしてやればよろしいのですわ。だってシゲル様の曲じゃないし。どれだけミスしても「そういう曲です」って言えばまかり通りますわよ」

無茶苦茶なことを言う麗佳ちゃんに、私はちょっと笑ってしまう。

ふふ、でも確かにそう考えたら気が楽かも!

それに、曲を披露するのも今日が初めてってわけじゃない。しょっちゅう学校の体育館で練習してたし、リハーサルもしたから、校内の皆には結構聞かれたりしている。

その時の皆の反応から考えるに、完全に無謀な挑戦ってわけではないはず!

……多分、きっと。

でも、シゲル様の曲と比べたらなぁ……

 

ちょっと顔を覗かせた弱気がまた表に出ていたのか、麗佳ちゃんは私の表情をちらりと伺って、

 

「……わたくし、結構好きですわよ。『ほうき星を捕まえて』」

 

そっぽを向いて、小さな声でそう言ってくれた。

「――ありがと!」

「ふん!」

麗佳ちゃんは顔を赤くすると、慌てたように足早に去っていく。テーブルにフライングVを置き忘れたまま。

ふふふ。すごい照れ屋さんだよね、麗佳ちゃんって。

でも、最後に最高の弾みをつけてくれた!

「あー、麗佳ちゃん待って待って」

「頑張ってね、真美ちゃん!また今度一緒にカラオケ行こうね!」

「うん!楽しみにしてる!」

 

控室を去っていく皆を見送って――いよいよ、私たちの出番がやってくる。

 

ヨッシーと理子ちゃんが真剣な表情で立ち上がる。うーん、これだけシリアスな顔をした二人は珍しいよ。やる気に満ちていて期待できる。

――でも、ちょっと足りないものがあるよね!

えーと、どうしたらいいかな。どうやって引き出せば――あ、そうだ。

「ねえ二人とも。――あのセリフ、言ってみない?」

「え?」

「あのセリフ、ですか?」

「ほら、シゲル様ってよく言ってたでしょ。曲を始める前にさ!」

私の言葉に、二人ともピンときたみたいだった。

「あー、あれね!」

「なるほど、今にぴったりのセリフですね!」

二人はそう言って、花咲くような笑みを浮かべた。

――良し、やっぱり困った時のシゲル様だよ!これで足りないものは一つもない!

 

私たちは手を重ね合わせると、力強くその言葉を口にする。

 

 

「「「楽しんでいこうぜ!」」」

 

 

 

 

 

 

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 

 

 

 

 

何となく足を向けてしまった蓬莱第四高校の校庭で、俺は後悔していた。

文化祭。思い出深いイベントだった。大勢の前で演奏したのは、文化祭が初めてだった気がする。

――あの時、俺は何を考えて演奏していたんだったかな。

古い話だ。どうにも思い出せない。

高校生たちが、初々しい演奏を披露している。

それ自体は、素晴らしいことだと思う。たった一年足らずの経験しかないとは思えないほど上手な女子高生もいる。

よほど熱心に練習したんだろうな。音楽に夢中になってくれたことは、素直に嬉しい。

 

だが――

 

「……俺の曲、俺の曲、俺の曲か」

 

どこまでいっても、そればかりだ。

 

プレイヤーが違うわけだから、そりゃあそれなりの楽しみ方はある。

だが、結局のところは聞きなれた、やり慣れた曲だ。

どの曲をとっても、この一年でうんざりするほど演奏したから――初心者らしいちょっとした拙さが、妙にひっかかりやがる。

こんなつまんねえこと、考えたことなんてなかったはずなのに。

 

 

『終わらない旅』をやり終えて、ほっとしたように頭を下げる女子高生たち。

確かに目立ったミスはなかった。そう。ミスはなかった。結構難しい曲だからな、大したもんだ。

――だが。

……。

 

気が付けば、次で最後らしい。

 

 

ステージに上がったのは三人組。オーソドックスなスリーピースバンドだ。

取り立てて、変わったところは無いように見える。

きっとまた、俺の曲をやるんだろう。

 

 

 

……

 

 

 

ああ、なんだか――

 

俺は、生まれて初めて、音楽が――

 

 

 

 

「えーと、演奏する前に、皆さんに謝らなくてはならないことがあります!」

 

 

――急に、ギターの女の子がそんなことを言い出した。

 

これまでの出演者は、こんな風に口上を述べることはなかった。観客たちも首を傾げている。

 

「シゲル様の曲を楽しみにしていた方、申し訳ありません!これからやる曲は、私たち三人が考えた『新曲』です!」

 

――え?

 

「最後の最後に肩透かしになってしまうかもしれませんが――精一杯頑張りますので、聞いていただければ幸いです!」

 

……新曲?

 

新曲って――マジで?

 

「いきます!『ほうき星を捕まえて』!」

 

――マジかよ!!

 

 

 

 

三人の女子高生たちは、元気いっぱいに演奏を始めた。

 

知らねえナンバーだ。

知らねえイントロだ。

 

当たり前だ――『新曲』なんだから!

 

「――はははっ!」

 

鼓動が高鳴る。

エイトビートが魂を震わせる。

パワーコードが力をくれる。

俺は前のめりになって、『新曲』に耳を傾けた。

 

 

 

 

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 

 

 

 

楽器たちの音色が、ボーカルの歌声が、俺に色々なことを伝えてくれる。

 

ドラムは多分今日見てきた中で一番巧いことを。

ベースは平均的だけど、基礎がしっかりしてることを。

ギターはかなり頑張ってるけど、歌も演奏も技術的にはさっきのバンドの娘にちょっと負けちまうことを。

総合的なテクニックを見ると、いくつかのバンドに上をいかれていることを。

 

そして――

 

 

――細かいこと全部吹っ飛ばす、抜群のグルーヴ感を!

 

 

『バレーコードは、苦手なの!』

『明日の私に、任せましょ!』

 

 

そんな歌詞に、俺は思わず笑ってしまう。

久しぶりの――心からの笑いだ。

ははは!確かにテクはまだまだだよな。

だけどよぉ、お前さんたちには、そんなの関係ないくらい――

 

 

 

『――今日のところは、』

 

 

 

 

『自慢のハートで、勝負を賭けるわ!』

 

 

 

 

そう、そうだよ!

 

何より光る、そいつがあるぜ!

 

お、サビくるか!?

肝心要だぞ、どうなる!?

 

 

 

『準備オッケー、今行くわ!』

 

『流れる星に、憧れて!』

 

『ギター一本担いで、夜を駆けだすの!』

 

 

 

――いいぞ。

 

 

 

『準備オッケー、今行くわ!』

 

『流れる星を、捕まえに!』

 

『パワーコード一つで、胸を張ってやるの!』

 

 

 

いいぞいいぞ!

 

分かるぜ!今、最高に楽しんでるのが!

音楽が、面白くてたまらないのが伝わってくる!

 

ああ、痺れちまうよ!

 

――今のお前さんたち、

 

 

『準備オッケー、今行くわ!』

 

 

どんな粗も蹴散らすくらい――

 

 

 

 

 

『――流れる星を、追い越して!!』

 

 

 

 

 

――ノッてるじゃねえか!!

 

 

 

 

 

おお、ギターソロ!ははは、やるじゃねえか!目いっぱい背伸びしたな!

――あー、おしい!ブリッジミュート力み過ぎてるんだよお前さん!でもいいぞ、最高だ!

本当に、最高だよ!

っと、そろそろ終わっちまうか!?

多分そろそろ、最後の歌詞が――

 

 

『せいいっぱい、歌って!』

 

 

『めいっぱい、奏でて!』

 

 

 

『いつか!誰かの、願いになるのよ!』

 

 

 

――。

 

ギターが最後の一音の余韻に震えた。

 

笑みを浮かべた観客たちが拍手を始める。大きな拍手だが、熱狂的な拍手ではない。微笑ましいものをみた、といった感じの拍手だ。

確かに、曲としての出来栄えは良くも悪くも高校生。楽器を初めて一年と考えれば十分な出来栄えだが、観客を熱狂させるほどの力はまだ無い。

 

 

だから、狂ったように手を打ち鳴らしているのは俺だけだ。

 

 

 

 

 

――ああ、なんて、なんて楽しかったんだ!

 

音楽ってのは、やっぱり死ぬほど――いいや、死んでも楽しい!!

 

心の底から、喜びが溢れてくる!居ても立っても居られねえ!

全身に漲るエネルギーが、弾けて溢れちまう!ラストライブの奇跡の比じゃねえ!

 

――なんてこった!女子高生が、たった三分で俺を救ってくれた!

 

ライブ前のくさくさした気分は、もう影も形もない。最高のロックンロールが、宇宙の果てまでぶっ飛ばしてくれた。

俺は喜びに天まで飛び上がりそうな身体を必死に押さえつけ、俺を救ってくれたヒーローたちの顔を見る。

 

いつの間にか空は晴れ渡っていた。降り注ぐ秋の陽ざしの下、三人は満面の笑みでハイタッチをしている。

その顔には、使命感なんてものは一切無い。誰かを救いたいだなんて覚悟も見えない。

――ただただ、楽しそうだ。

 

……そうだ。

そうじゃねえか!

それでいいんだよ!

なんで俺はこんな簡単なことを――音楽のイロハのイを忘れちまってたんだ!?

 

頭の中の霧が晴れたようだった。

 

おれはうじうじしていた五分前までの自分に言ってやった。

 

 

ごちゃごちゃごちゃごちゃうるせえ!小賢しいんだよ俺の癖に!終わっちまったことグダグダ言ってどーすんだよ!

 

 

『世界中に溢れかえる音楽に、いつまでだって触れていたかった』だぁ?

 

確かに俺は死んだ。それはもうどうしようもねえ。今更あっちの世界で復活もできねえから、向こうの音楽に触りようもねえ。

でもよ!弁天様のお蔭で俺は今ここにいて、心臓が確かに動いてやがる!未来がある!わくわくする音楽なんて、次から次へと生まれてくるんじゃねえか?!

だってよ、ただの女子高生がこんな新曲書き上げたんだぜ?!それも、たった一年足らずでだ!

 

それなら、来年はどうだ?再来年は?五年後は?十年後なら!

 

きっと、絶対――俺の知らねえ最高の音楽が、世界中に溢れてるぜ!!

 

まだ見ぬ新曲が未来で待ってると思うと、胸の鼓動が駆け足しやがる!

 

 

『馴染の面子で、もっとライブをやりたかった』?

 

しゃらくせえ!面子はこれからひっつかまえて――今日にでも、最高のライブをぶちかましてやるぜ!

 

 

レベル4患者相手にな!

 

 

そうさ!おれの悪あがきはここからだぜ、弁天様よ!

 

確かに今、患者の魂とやらは『そこ』になくて、機械に生かされてるだけかもしれねえ。弁天様が言うんだから、間違いねえんだろう。

 

 

――でも、『どこか』にあるってんなら、取り返してやればいいじゃねえか!

 

 

例の神様が、どこにあいつらの魂をもっていっちまったが知らねえが――

 

 

今の俺の音楽はきっと、何もかも超えてそこまで響くぜ!

 

 

ああ――我慢できねえ!

 

今すぐにでも、レベル4患者の元へ走っていきたい!

 

 

 

――だが。

 

今にも特療に向かって走り出しそうな足を、俺はまだ必死に抑える。

 

まだだ。まだ早い。

 

俺の最高の音楽をやるためには、ピースがちょいと足りてない。患者の元へ駆け出す前に、そっちの都合をつける必要がある。

だからまずは、その準備の為にこの学校を後にしなくてはならない。

 

 

 

――とはいえ、だ。

 

 

 

 

この寄り道を見逃したら、俺はもう櫻崎シゲルじゃねえぞ!

 

 

 

 

 

 

ついに俺は駆け出した。

 

ステージへ向かって。

 

 

 

 

 



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33話

____________________________________________

神宮寺真美視点

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

結構盛り上がったじゃん!

そりゃあ熱狂ってほどのテンションじゃないし、今日一番の盛り上がりかっていうと違うかもしれない。

でも、皆喜んでくれてる。それだけは確かだ。

わたしたちの作った『最高の音楽』を、みんなも楽しんでくれたんだ。

私たちは顔を見合わせると、会心の笑みを浮かべて――示し合わせたように、力いっぱいハイタッチした!

うん、満足!出来過ぎなくらいだ!きっと一生の思い出になる!

見てる人たちにとってもそうなればいいけど、流石にそれは高望みかな。

でもほら、すっごく喜んでくれてる人も一人いる!

ギターケースを背負って、目深に帽子をかぶったその人は、口元に喜びの弧を描いて――

 

凄い勢いで、ステージに向かって走ってくる!?

 

えっえっ、何?!ちょっと興奮しすぎじゃない?!

 

その人は一足飛びにステージに飛び上がると、帽子を取っ払って吼える。

 

 

「最ッ高だったぜぇーッ!!」

 

 

――え?

 

シゲル様?

 

 

 

……

 

 

 

……

 

 

 

……

 

 

 

 

 

 

 

あっ、なんだ夢じゃん。

 

 

 

 

 

 

 

もー、そーいうことかー。道理で都合のいい展開だと思った。歌も演奏も観客の反応もちょっと上出来すぎたよねー。

まぁリハーサルが出来たと思えばいいか。

ディティール甘いよね、私。だって今海外にいるシゲル様が蓬莱にいるわけないんだし。ま、夢だと思えばシゲル様が登場するのは当たり前か。

シゲル様は私に向かって何かを話してくれてるんだけど、一瞬でパニック状態になった観客たちの歓声がすごくてなんにも聞こえない。観客さん、私の夢なんだからその辺は配慮してほしい。

苦笑いしたシゲル様は、ステージ上の予備マイクを手に取る。

 

「突然乱入しちまってすまねえな!でもよぉ、お前さんたちがあんまり俺を痺れさせるもんだから――しょうがねえよな!」

 

うわあああ!シゲル様の生声だ!夢だけど!

観客たちは更に黄色い歓声をあげたので、シゲル様は観客席を向くとにやりと笑う。

うおお、笑顔が眩しすぎて直視できない!

「櫻崎シゲルだ!呼ばれてねえのに参上したぜ!」

間違いなくこの日一番の歓声が、会場を揺るがした。

耳をキーンとさせながら、私もマイクを使ってシゲル様に語り掛ける。こうしないと聞こえないんだよ。

「シゲル様!まだ海外におられたんじゃないんですか?!」

「へへ、最高の音楽が聞こえたからな!慌てて海を飛び越えてきたんだよ!」

そんなことを言うシゲル様にやられてしまって、卒倒する観客が現れだした。あー、私の夢とは言え勿体ない。生シゲル様なのに。

あ、でも大丈夫だ。隣の観客が『一生後悔するわよ!』って言って往復ビンタしてる。直ぐ目覚めるだろう。

 

「いやあ、みんな上達したな!実は結構最初の方から聞いてたんだが、誰も彼も初めて一年とは思えない腕前だったぜ!最高だった!」

 

「でもよ、ちょいと緊張しすぎてたな!みんなミスをしないように、って頑張ってたのは分かったんだが――まだまだミスなんか気にしないでいいんだよ!まずは手前がライブを楽しむんだ!喜びってのはプレイヤーから伝わってくるのさ!」

 

「その点、この三人は百点満点――いや、百二十点だったぜ!」

 

「俺も最高に楽しませてもらったよ!ありがとな!」

 

「こちらこそありがとうございます!光栄です!」

シゲル様の手放しの絶賛に、私は頭を下げて感謝を伝える。

うーん、これが現実だったら私は過呼吸起こして倒れてるね。理子ちゃんとヨッシーが気絶しそうな顔してるのがなかなかリアル。

 

「――で、物は相談なんだがよ、」

 

おおっ。

シゲル様のその言葉に、私は『きたきた!』と前のめりになる。

これから先の展開は、簡単に想像できる!きっと私の望みそのままに、このステージを使ってシゲル様のライブが――

 

 

「さっきの曲、もう一度聞かせちゃくれねえか?!」

 

 

あれ?!

 

「え!?もう一度ですか?」

 

思わずおうむ返ししてしまう。だってこんなの予定にない!

どうなってるの!?私の夢なのに私の望まない方向に進みだしてるよ?!

ここはシゲル様が一曲披露して会場どっかーんってなる筈では?!

「おう、アンコールだ!頼む!」

でもシゲル様は拝み手してまでそんなことを言ってくる。

どういうことよ私!いい加減にしてよ!多分台本にないでしょこんなの!

「さ、流石にそれは緊張しちゃいます!」

だってシゲル様本人の前で自作の曲を披露するって――およそ考え得る限り最高のプレッシャーじゃない?現実じゃないとはいえ流石に尻込みするよ!

でもシゲル様は、

「大丈夫だって!自慢のハートで、勝負をかけてくれよ!」

私の歌詞の一部を引用してそんなことを言ってくる。

うひー、顔から火が出るほど恥ずかしい。夢じゃなかったらとても立ってはいられないよ!

 

まぁでも、ほかならぬシゲル様がそうおっしゃってくれてるんだ。期待には応えたい!どーせ失敗しても現実には影響ないし。

……だけど、一つ大きな問題があった。

 

「いやー、シゲル様の頼みとあれば百回だってやる所存なのですが、いかんせん……」

 

私はそう言って両手をシゲル様に差し出す。

 

――めっちゃくちゃ震えてるんだよね、私の手。夢なのに。

 

まるで肉体が何かを訴えかけてるみたい。

 

「……すっげー震えてるな。ビブラートかかっちゃうぞ」

「あはは、なんかこの調子で。とてもギターが弾けるとは――あ!」

 

そこまで言って、私は閃いた。

なるほど、そういうことか!そういう展開ね!

図々しいけど夢なら許されるってことかぁ!

 

「シゲル様、代わりに弾いて下さいませんか?!私歌に専念しますから!」

 

私はそう言って、ギターを差し出す。

シゲル様はちょっと呆気にとられた様子だったけど、

 

「――いいのかよぉ?!」

 

直ぐにそう言って、大喜びで私のテレキャスターを受け取ってくれた。

うーん、すごいことが起きている!私たちの作った曲をシゲル様が弾いてくれるなんて――これって全ての音楽家の到達点なのでは?!私の想像力って私が思ってるよりも気宇壮大かつ厚かましいみたい!えへへ。シゲル様がわたしたちの曲をどう料理してくれるか、こりゃもうワクワクが――あ。

 

――しまった。楽譜が無い!

 

いくらシゲル様でも、初見の曲だ。スコアに目は通さないとね。あー、もう、控室まで取りに戻ったんじゃテンポ悪いよ。しっかりしてよね私。

「すみませんシゲル様。今控室からバンドスコアを持ってきますので――」

私が頭を下げて謝ると、シゲル様は「わはは」と笑って――

 

「必要ねえって。俺を誰だと思ってんだ?」

 

説得力の塊のようなセリフを口にした。

 

――そりゃそうだよね!わたしどうかしてた!

 

よし、じゃあ準備オッケー!さあ行こう、と私はヨッシーを振り返って――

 

 

顔面蒼白で震えているバンドメンバーたちに気付いた。

 

 

「……どうしたの二人とも?ほらヨッシー、カウントカウント」

 

「「どうしたもこうしたも!」」

 

二人は顔色を失ったまま食ってかかってくる。

「わたし今カウントやったら16ビートになるよ!」

「なっ、なんで真美ちゃんはシゲル様と普通に会話できてるの?!おまけにギターを渡して演奏を頼むなんて――」

理子ちゃんがそんなことを聞いてくる。うーん、いかにも現実の理子ちゃんが言いそうな常識的なセリフ。

まぁ、質問の答えはシンプルだよね。

 

「だってこれ私の夢だし」

 

現実じゃないんだから、どれだけ厚かましいお願いしたって問題ないんだよ。

 

「」

 

わたしの答えに、理子ちゃんは何故だか一瞬白目を剥いた。

 

「――ゆ、夢じゃない!夢じゃないよ真美ちゃん!」

「こんなの夢に決まってるでしょ!ほら!全然痛くなひもん!」

ぎぎぎ、と自らの頬をつねりながらわたしは言う。ふふふ、なんの痛痒もかんじない。

「アドレナリンが五体を死兵に変えているんだよ!正気に戻って真美ちゃん!それ明日超痛いヤツだよ!」

理子ちゃんはそう言って必死に私の身体を揺さぶってくるけど、ヨッシーがそれを止めた。

「いや理子ちゃん、このままにさせとこう……!下手に正気に戻ったら即座にぶっ倒れるよコイツ。そしたらライブどころじゃない!」

据わった眼をして言うヨッシーに、理子ちゃんは息を呑む。

「よ、ヨッシーさん、やるつもりなんですか……!?」

「……成功するにしろ失敗するにしろ、一生の思い出になる!だって、シゲル様と一緒に演奏できるんだよ?!」

「うっ……!そ、それは、そうかもしれませんが……!」

「……それにね、理子ちゃん。これはチャンスなんだ」

「チャンス?」

「『私はシゲル様の生ライブ聞いたことあるけどー』とかマウントとってくるお母さんに逆襲するチャンスなんだ……!」

「……」

なんか理子ちゃんがヨッシーを冷めた目で見ている。多分しょうもないことをいうお姉ちゃんを見るときのわたしの目だ。

もー、なんでもいいけどぐだぐだやってないで始めようよ。シゲル様は今のところ私のギターのセッティングを確認してるみたいだけど、夢の中とはいえお待たせしちゃいけないでしょ。

 

そんな私の考えが通じたのか、ヨッシーは一度大きく深呼吸をすると「よろしくお願いします!」とシゲル様に頭を下げて、スツールに座り直した。

理子ちゃんはシゲル様とわたしを交互にみると――自らの両頬をばしんと叩いて、こちらもシゲル様に頭を下げてから定位置に戻った。いざという時に肝が据わるところが夢ながら理子ちゃんらしい。

よしよし、これで本当に準備オッケーだ。

 

シゲル様に『準備いいですか?』と目配せをする。

 

ウィンクが返ってきた。

 

心臓が跳ね上がる。現実だったらときめきで心不全起こしているよ。

 

 

 

ヨッシーのスティックがカウントを始める。

 

さぁ、文字通り『夢の』アンコールの始まりだ――!

 

 

 

 

 

 

____________________________________________

 

 

 

 

すごい。

すごいすごいすごい!

すごい――楽しい!!

 

シゲル様の生ギターは、想像以上の破壊力!そもそも私用にセッティングされたギターで、弦高なんかもかなり低めだと思うんだけど――まるで楽器の声が聞こえてるみたいに、完璧以上に弾きこなしている!

そしてそれ以上に驚異的なのが、明らかに二人とは隔絶した技量を発揮しているのに、曲を全然壊していないってこと!

シゲル様は本当なら一人だけでどこまでも走っていけるはずなのに、ヨッシーと理子ちゃん――いっちゃあなんだけどまだまだ稚拙なリズム隊に、喜んで合わせてくれている!

それにしても、初めて一緒に演奏するっていうのに、こんなにぴったり息を合わせられるものなの?!

これって文字通り『神業』だよ!

だって、二人の演奏は活き活きとして、まるで一秒ごとに上達していくみたいだもん。「それさっきやってよ!」って言いたくなるくらい最高の出来栄え。一つになった音楽は、天井知らずにクオリティを上げていく。

みんなと肩を組んだシゲル様が、行ける行けると引っ張り上げてくれてるんだ!

わたしの歌も、間違いなく絶好調。声はどこまでものびる。リズムも音程も外れる気がしない!

っていうか、今ならちょっとくらい外しちゃっても問題ない!最強状態だ!パワーで押し切れる!

 

もう、夢みたいに楽しい!あはは、当然か!夢だもん!

 

――サビにも力が入るってもんよ!

 

 

『準備オッケー、今行くわ!』

 

 

 

『『――流れる星を 追い越して!!』』

 

 

 

んあああああ!

シゲル様がとんでもなく美しくハモってくれる!

頭の中で弾ける火花のせいで前が見えないよ!

 

 

 

――おっと、そろそろギターの見せ場!

 

「――ギターソロ、お願いしまぁす!」

 

わたしはシゲル様に叫ぶ。

 

「任せとけッ!」

 

世界一頼もしい声が返ってきた。

 

満面に笑みを浮かべたシゲル様が、恐ろしいテクニックを発揮した。

一年近くかけて考えたギターソロが、完璧にコピー――いや、コピーどころの話じゃない。

べらぼうに痺れるアレンジが施されている!

なにこれ!?私こんな滅茶苦茶カッコいいギターソロ書いた記憶ないけど?!

これ私の夢ってことは、こんなすごいギターソロを考えることのできる私の才能はもしやすごいのでは?!

起きても覚えてられるかな!

再現には100年くらいかかりそうだけど!

 

――っていうかヤバい!テレキャスターちゃんの音色にとろけすぎて腰抜ける!

耐えなきゃ――アッダメだ抜けた。すぐ抜けた。

 

ステージにへたり込んでしまった私だけど、マイクは離していない。

 

ええい構うもんか、あとちょっとだ!このまま歌いきってやる!

 

 

『――いつか!』

 

『誰かの!』

 

 

『願いに、なるのよ!』

 

 

 

 

 

 

 

スピーカーが、私の歌声を伝え終わると――

 

 

 

 

観客たちの、大歓声が返ってきた。

 

 

 

 

そのほとんどはシゲル様に向けられているんだろうけど――

 

わたしは生まれて初めて、全身に鳥肌が立つのを感じていた。

 

 

 

 

ああ、気持ちいい!

最高に楽しかった!!

夢なのが本当に惜しいよ!

 

 

「痺れる歌だったぜ!」

 

へたり込んだまま余韻に浸っている私の手を取り、シゲル様が立ち上がらせてくれる。

「わわ、こ、光栄です!」

えへへ、夢ならではだ。うーんリアルな感触。起きても洗わないでおこう。

 

 

「……いつか誰かの願いに、か」

 

ふと、シゲル様が口ずさむ。

歌詞の最後の部分だ。何か引っかかるところがあったのかな?と私はちょっと不安になる。

でも、シゲル様は、

 

「――もう俺の願いだよ」

 

私の手を握ったまま、そう言った。

「え?」

その言葉の意味をはかりかねて首を傾げる私の背中を、シゲル様はぱしんと叩いて――

 

「センキューヒーロー、ってことさ!あとでサインくれよな!」

 

至近距離で、にかっと最高の笑顔を弾けさせた。

夢と言えど死にそう。

でも、サインって署名?流石夢だ、なんかわけわかんないけど――

 

こんな夢ならずっと見ていたいな!

 

万雷の歓声と拍手の中、私たちはシゲル様を伴って舞台袖に引っ込む。

 

 

そして。

 

わたしの思いが天に通じたのか――なんと、この夢は控室に戻っても覚めなかったのだ!

 

 

 

____________________________________________

 

 

 

 

 

「シゲル様のサインすっげーかっこいい。なにこれ。洗練されたデザイン性を感じる……ダメ元でこっちの楽器にもサイン頼んだのはウルトラファインプレーだったのでは?」

「本当に良く仕出かしたよ真美。だって量産型の楽器が重要文化財になったんだもん。大変なことだよこれは」

「えへへ。……ところでヨッシー、ドラムヘッドにサインしてもらっても持って帰れないんじゃないの?ドラム置き場所ないんでしょ?」

「いやヘッド引っぺがして持って帰るよ。家宝にするから」

「……それ持って帰られたらドラマー勢の生徒が困るんじゃない?」

「知らん。元々あたしのだ」

「おお、目が据わっている……まぁどうせ夢だし別にいいか」

こそこそ話す二人を尻目に、俺は手にしたベースにサインをする。

「――理子ちゃんへ、と。これでいいかい?」

「ああああ、ありがとうございます!!神棚に安置して毎日拝みます!!」

「弾いてやってくれよー」

ぺこぺこ頭を下げる理子ちゃんにベースを手渡してから、俺も自分のギターをケースに仕舞う。

そのボディには、三人の女子高生の名前が書かれている。頼み込んで書いてもらったものだ。

サインを見るたびに、今日の感動を思い出すことができるだろう。何を遠慮したんだか滅茶苦茶小文字だし字は震えてるけど――ま、ご愛敬ってとこだな!

 

「――あ!」

 

突然、真美ちゃんが大声をあげた。

その視線の先にあるのは、机の上に乗ったままのフライングVだ。

「シゲル様っ。よろしければこちらのギターにもお願いできますか?」

「ん?構わねえけど……名前はまた『真美ちゃんへ』でいいのか?」

「あ、麗佳ちゃんへ、でお願いします!麗しいに、佳作の佳で」

「お?友達のかい?おいおい、人の相棒に勝手にサインしちゃマズいだろ?」

「賭けてもいいですけど月まで飛び上がって喜びます。シゲル様の大ファンですから!」

「はは、そりゃ嬉しいな。でも油性ペン消せるワックスとかもあるからよ、嫌がってたら消してやってくれよ?」

「そんなワックスこの世からなくなればいいのに」

「なんでだよ」

サインを書き終えるのはあっという間だ。何年も書いてなかったが、やっぱり体が覚えてるもんだな。

「ほい出来た。――丁寧にメンテされてるけど、何番目にやったギターだい?」

「私たちの前に、『終わらない旅』をやったバンドです」

「あー、ありゃ巧かったな!技術的には今日イチだった、今後が楽しみだ、って言っといてくれよ」

「ギター渡す時に伝えておきます!きっと喜びますよ!」

「喜びで絶息しちゃうんじゃ……」

「シゲル様原理主義者だからね。その時が麗佳ちゃんの最期の時になる予感がする」

 

 

 

 

――さて、これで寄り道も済んだ。

最高のライブのおかげで、俺のエネルギーは満タンを振り切って溢れ出してる。

俺はポケットに突っ込んであったピックをホルダーに収めようとして、

「――お、そうだ」

ふと思いついた。

「真美ちゃん。これやるよ」

真美ちゃんにピックを手渡す。

「ピック!こ、このティアドロップテレビで見たことありますよっ。どこにも売ってないヤツだ!」

「あー、試作の段階で大量に貰ったヤツだからな。確かに市販はされてねえのか?」

「あ、愛用品じゃないんですか?!いいんですか手放しちゃって!?」

「おう。まだまだあるし、そっちの気分じゃなくてな」

小さなピックを両手で受け取る真美ちゃんに、肩を竦めて答えを返し、俺はピックホルダーから新たな一枚を取り出す。

 

「――今は、こっちがいいのさ」

 

握り込むのは、『トライアングル』タイプのピック。

 

ゲン担ぎってのが馬鹿にできないのは証明済みだからな。

さーて、上手くいけば蓬莱テレビで捕まえられるか?

 

「と、ところで、シゲル様。今日はその、お忍びですか?お仕事ではなくて?」

理子ちゃんが尋ねてくるのに、俺は頷きを返す。

「おう、休日でな。完全にプライベートだぜ」

「……だとすると、このままここにいるとまずいかもしれません」

「えー、何でよ」

眉根を寄せた理子ちゃんが、ふくれっ面で口をはさんだ真美ちゃんに向き直る。

「だって、観客たちが押し寄せてくる可能性があるから。シゲル様、休日どころじゃなくなっちゃいます」

「大丈夫だって、私の夢なんだから。皆都合よくはけるよ」

「真美はちょっと黙ってなさい。後で目覚めのビンタをくれてやるから。――シゲル様、まだ観客たちは混乱状態でしょうし、『不敬を働いてはいけない!』と淑女回路が働いているでしょうから、控室に押し入るようなことはないと思いますが――理子ちゃんの言う通り、長居は危険かもしれません」

「はい。校長先生あたりが、そろそろ恐る恐る訪ねてきそうです」

「おっと、ソイツはまずいな。いつの世も校長センセってのは話が長いからな」

「あー……シゲル様やっぱり御多忙です?この後も用事が?」

真美ちゃんが問うのに、俺はにやりと笑みを返して口を開く。

 

「おう。今から俺も、お前さんたちを見習って――」

 

 

 

 

――喋りながら、脳裏には弁天様の言葉が甦っていた。

 

『百点満点』

 

『あなたのライブはおしまい』

 

――弁天様。そいつはちょいと違うだろ?

 

だって――

 

 

 

 

「百二十点を、取りに行くのさ」

 

 

 

 

アンコールが、まだじゃねえかよ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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34話

____________________________________________

緋崎朱里視点

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

浅黄さんのキーボードの余韻に、少しだけ身を任せて――ぼくたちは満足げに顔を見合わせる。

「――良い感じだったよね!?」

「ええ。バッチリ決まったわね」

「これで『終わらない旅』も二バージョンいけますねー」

仕事の合間を縫ってバンドの練習をするのは、もうぼくたちにとっては日常だった。練習した曲は番組で披露できるから、趣味と実益を兼ねた素晴らしい習慣だ。

でも、今練習していたのは当面披露する当てのないバージョン。

シゲル様のギターが入ることを想定して編曲されている『終わらない旅』だった。

そう。「一曲でもセッションできるようになってたら嬉しい」と言って旅立たれたシゲル様の期待に応えんと、ぼくたちは燃えに燃えているんだ。

その燃え盛る情熱のおかげか、曲を覚えるのはかなりのハイペース、だと思うんだけど……

「……ごめんね、浅黄さん。負担凄いでしょ?」

ぼくは浅黄さんに謝る。

ぼくと蒼子さんも曲によっては構成が多少変わるからそれなりに大変ではあるんだけど、浅黄さんはその比じゃない。すべての曲で役割が変わってくるからね。ぼくたち二人のペースに合わせるのは、音楽経験者と言えどかなり無茶なんじゃないかと思う。

――でも、浅黄さんの笑みに疲労の色は無い。

「うふふ。楽しくやらせてもらってますよー」

その言葉の通り、心底楽しそう!

うーん、やっぱりキーボードもかっこいいよねぇ。なんていうか表現の幅が広くて、自由自在な感じ。ぼくもちょっと触ってみたい。でも音の管理とか切り替えとか難しそうなんだよなー。

……うん、やっぱり当面はベース一筋、浮気無しでいこう。今蓬莱テレビは日の出の勢いで、バンド練習ができるスタジオも増築されたけど――その分番組も滅茶苦茶増えたから、ぼくたちが練習に使える時間は限られてるし。

「このスタジオ十五時までしか押さえてないんだっけ?」

「鈴さんはそう言ってたわよ」

「うーん、消化不良。今ノッてるから、どこかでもうちょっと練習したいなぁ」

「まぁ、同感ね」

「カラオケボックスでも行きますー?もしかしたら練習室が空いてるかもですよー」

「かなりの幸運が必要そうだなぁ」

カラオケボックスの人気はまだまだ衰える様子が無い。店舗はそこそこ増えたけど、練習室のある人気店はいつも満室だ。

「それじゃあとりあえずお店まで行ってみて、練習室が空いてなかったらただのカラオケに予定変更っていうのはどうですー?」

「あ、妙案だね」

「久しぶりに三人でカラオケっていうのも悪くないわね」

うんうん。有り難いことに最近はぼくたちテレビやラジオに引っ張りだこで、中々三人で遊ぶってことも少なくなってたもんね。ま、番組に呼ばれるときは大抵『トライアングル』としてだから、ほとんどいっつも一緒なんだけど。

 

でも出来れば練習室が空いてるように祈っておこう。なむなむ。

 

 

――ぼくがそんな風に、適当に祈りを送った瞬間だった。

 

 

突然、どがん、とスタジオの扉が開いたのは。

 

ぼくたちはびっくりしてそちらを見る。なんだかデジャヴだ。いつかみたいに、また鈴さんが突っ込んできたのかもしれない。

でも、違った。

今回飛び込んできたのは――

 

 

「よう!久しぶりだな!」

 

 

世界の英雄だった。

 

「「「――シゲル様?!」」」

 

薄っすら汗をかき、息を荒らげたシゲル様が、にっと笑って近寄ってくる。

 

あ、あわわわわ!

 

ほ、本物?!なんでシゲル様がここに?!ツアーは予定より早く終わりそうだとは聞いていたけど、まだ海外の筈じゃ?!

色んな疑問が頭に浮かんでくるけど、ぼくたちは久しぶりの生シゲル様の破壊力に言葉が出ない。完全に不意を突かれたこともあって金魚状態だ。

それに――なんか笑顔が以前にも増して眩しい気がする!っていうか物理的に輝いてない?!久しぶりに会ったからそう感じるだけなのかな?!

でもとにかく、きらきらオーラに圧倒されて身じろぎもできない!

 

「色々話したいことはあるんだが――その前に一つ聞かせてくれ!」

 

「は、はい!」

 

突然現れたシゲル様の突然のセリフに、金縛りから解放されたぼくたちは揃って首を縦に振る。こちらも聞きたいことが沢山あるけど、シゲル様の質問が最優先だよ!

 

「俺が残していったバンドスコアあるだろ?!十曲くらい書いてあったヤツ!どれでもいいんだ!通しで出来るようになった曲ねえか?!」

 

そのシゲル様の言葉に、ぼくたちは視線を交わし合う。

通しで。クオリティを問わないというのなら、その答えは一言で済む。

だって、今しがた――

 

「「「全部いけます!」」」

 

最後の一曲をやり終えたから。

 

シゲル様は、ぼくたちの言葉に一瞬目を丸くすると、

 

「――すげえな、お前ら!」

 

最高の笑顔で、そう言ってくれた。

ぼくたちは、その言葉に思わず笑みを浮かべてしまって――

 

「愛してるぜ!」

 

予想外のおまけに、ゆでだこ三姉妹になった。

 

 

 

 

 

 

____________________________________________

駿河凛視点

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 

『――ってわけでよろしく頼むぜ!俺はちょいと三人と合わせてみるからよ!』

「万事お任せください!」

『サンキュー!』

素晴らしく弾んだ声を最後に、電話が切れた。

私は一度受話器を下ろすと、深呼吸。

 

シゲル様からの突然の電話。

 

『凛ちゃん、リベンジだ!押しかけアンコールだ!』

 

そんな滅茶苦茶なセリフから始まった会話を要約すると、つまり――

シゲル様は、昨日の今日でまたレベル4に挑むということだった。

それも、トライアングルを引き連れて、ライブの規模を拡大して。

疲れ切ったシゲル様を目の当たりにした私としては、本来なら昨日のように引き留めるべきなんだろうけど……

 

気が付けば、私は二つ返事でその頼みを引き受けていた。

 

……だって。

 

何があったのかは知らない。

打ちのめされたシゲル様を見てから、たった一晩しか経っていない。

でも、とにかく――

 

シゲル様は、完全復活してる!

空元気なんかじゃない!電話越しだけど、それは絶対に間違いない!

 

だって、声を聴いてるだけで、元気を貰えたから!

 

 

私はシゲル様の望みを叶えるべく、下ろしたばかりの受話器を上げると、親友の電話番号をプッシュする。

 

――良し!繋がった!

 

「遥ぁ!坂見台の特療に、野外ライブ用の機材一そろい用意できる?!」

挨拶抜きに、私はそうまくしたてる。

『……なによ、藪から棒に。アレって数が少ないし今引っ張りだこなのよ。時間をもらえれば可能だけど』

「三時間以内に!」

『寝言は寝て言いなさいよ』

「シゲル様の要望なのよ!」

『二時間で手配するわ』

当意即妙!流石親友だわ!「どういうこと?!」とか「シゲル様帰っておられたの?!」とか余計なセリフが一切ない。

恐らく遥は持てる全ての手段を用いて、最速で自らの言葉を実現するはず。詳しい話は現地ですることだけを告げて、私は慌ただしく電話を切る。

 

さぁて、こっちはこっちで鉄火場よ!

 

まずは特療に電話ね!

 

 

 

 

 

 

____________________________________________

 

 

 

 

 

 

 

 

坂見台の特療はコの字型をしている。中央には広い中庭があって、患者全員に聞こえるような即席のステージを作るとすればここしかない。

今その中庭で、蓬莱テレビの精鋭たちが、恐るべき速度で機材を設置している。

休日出勤となったスタッフも多いが、どいつもこいつも全身に最大限のやる気を漲らせている。あらゆる予定をキャンセルして馳せ参じたスタッフたちの顔に浮かんでいるのは、「日も暮れたってのに休日に勘弁してよ」の憂鬱ではなく、「よくぞ私を選んでくれた!」という喜びだ。

当然よね。私だってそうよ。

シゲル様のお役に立てるのは勿論――役得も待ってるんだから。

「――ところで遥、最新のPAをよくもまあこんな速度で用意できたわね」

無茶な注文に想像以上のクオリティで応えてくれた親友に、私は感謝の眼差しを送る。

「タイミングが良かったのよ。今日って第四高校で文化祭があったでしょう?機材はウチから貸し出していたから、撤収を早めてこちらに持ってきたってわけ」

「へー。そういえば府の肝入りでそんなイベントやるって言ってたわね」

なんか学生たちがライブやったりするって言ってたけど、上手くいったのかしら。

 

「それにしても、久しぶりにシゲル様にお会いするけど――」

 

PAスピーカーの角度についてスタッフと話をしているシゲル様を見て、遥はうっとりと目を細めた。

 

「――更に輝きを増しておられるわね」

 

「――!」

 

その言葉を聞いて、私は無意識のうちに遥の肩を掴んでガタガタ揺さぶっていた。

 

「と、とうぜっ、当然でしょ!だって――」

 

「シゲル様だもの!」

 

何故か、涙がこみあげてくる。

 

「なっ、なにをそんなにいきり立ってるの凛っ。ちょっとやめて、目が回る!」

「――あっ、ごめん」

 

思わず力が入り過ぎたみたい。

ふらふらする遥に謝罪していると、

 

「おー、凛ちゃん、遥さん!いやあ、二人とも無理聞いてもらって悪かったな!」

 

シゲル様が、眩しい笑顔で語り掛けてきた。

 

私たちは即座に姿勢を正すと、頭を下げる。

「とんでもございません、シゲル様!」

「勿体ないお言葉です。シゲル様のお力になれるのであれば、これ以上の幸せはございません。――ですが、」

 

「誰かさんから昨日のうちに帰国の報を受けていれば、もっとスムーズに事を運べたのですが」

 

うっ。遥がこちらに『なんで即座に教えなかった』の視線を向けてくる。

し、仕方ないでしょ。国家機密みたいなもんよ。

「はは、凛ちゃんを責めるのは無しにしてやってくれよ。俺に気ィ使ってくれたのさ」

うう、シゲル様のフォローが五臓六腑に染みわたる。優しい言葉をかけて頂けるだけで、脳内麻薬がドバドバでる。

「空港も大ごとにならねえようにって、出迎えてくれたのも凛ちゃんくらいだったから――」

 

そこでシゲル様はポンと手を打った。

 

「――そういや言ってなかったな!」

 

え?

何のことだろう、と首を傾げる私を、シゲル様はまっすぐに見つめて、

 

 

「ただいま、凛ちゃん!」

 

 

そう言った。

その瞬間、様々な感情が、私の心を激しく動かした。

言いたいことが、伝えたいことが沢山ある。

感謝、いたわり、喜び――支離滅裂に全ての言葉を口にしたくなるけれど、私はぐっと堪えて、

 

「――おかえりなさい!シゲル様!」

 

胸にこみ上げてくる万感の思いを、その短い言葉に全て込めた。

 

私の答えに、シゲル様はサムズアップを返してステージへと向かっていく。

 

「――陽が昇るわ」

 

その後ろ姿を見ながら、私は呟いた。

 

「だいぶ前に落ちたでしょう?」

 

遥が「何言ってんだこいつ」って顔でそう言う。

当たり前のことを、当たり前のように。

――だけど。

 

「でも、昇るの」

 

私は反論していた。

だって――

 

 

「今日はここから、二度目の日の出よ」

 

 

今。山の向こうに落ちた太陽が、夜と道理を蹴っ飛ばそうとしている。

そんな予感があったから。

 

 

 

____________________________________________

 

 

 

全ての準備は整い、病室の窓が開け放たれた。

いよいよライブが始まる。

生唾を飲み込む私の視線の先で、シゲル様はマイクを手に取り、息を吸い込むと――

 

「――昨日はつまんねえ演奏を聞かせちまって悪かったな!」

 

開口一番、そんな謝罪を口にした。

殆どの人が頭の上に疑問符を浮かべている。無理もない。その言葉の意味が分かる人は、ごく限られているから。

シゲル様が昨日ここでライブを行ったということを知っているのは、私や、施設側のスタッフ数名だけだ。

でも、シゲル様の謝罪は、私たちに向けられたものじゃない。

――光も音も届かない人に、語り掛けてる。

 

「俺はつくづく反省したぜ。あんなライブじゃ、確かに寝てた方がマシだ」

 

シゲル様はそう言って肩を竦める。

私としてはその言葉は否定せざるを得ない。

あのとんでもない音楽を聞きながら眠ったままでいるには、脳死する必要があると思う。

例外はレベル4患者だけだろう。

 

そして次にシゲル様は、

 

「――まぁ俺も、時差ボケぐらいはするからよ、」

 

照れたように冗談めかした言葉を続けると――

 

 

「今日のライブで挽回するから、笑って許してくれよな!」

 

 

最後に、そう言い切った。

 

『笑って許してくれ』と。

その言葉の意味するところを察して、私は震えを堪えきれない。

ネガティブな感情からおこる震えじゃない。

喜びに震えているんだ。

例え理屈では不可能だろうと――「きっとそうなる」って、体が言ってる。

 

 

「――朱里、蒼子、浅黄!準備オッケーか!?」

「「「オッケーです!!」」」

呼び捨てにされた三人が、即座に、力強く声を合わせた。

 

「よおし!」

 

シゲル様が笑う。

 

夜を溶かすように。

 

そして――

 

 

「さぁ――楽しんでいこうぜ!」

 

 

いつものセリフと共に、ライブが始まった。

 

 

 

 

____________________________________________

 

 

 

 

 

いよいよ始まったライブに、私は耳を澄ませて――「ハッキリ言えば、昨日聴いた音楽に比べれば完成度は落ちる」と思った。

だってリズムセクションが楽器初めて一年経ってないんだもん。そりゃそうよ。トライアングルは素人目にも凄い才能と情熱を持ってると思うけど、当然シゲル様には及ばない。

 

でも、わかった。理屈抜きに、理解できてしまった。

 

ああ――シゲル様のやりたかったのはこれなんだ。

 

完璧じゃないけど、最高なんだ。

ベースの力強い重低音が。ドラムの軽妙なリズムが。流れるようなキーボードの調べが。

そしてシゲル様のギターと歌が。

活きた音の全てが一つになって、私に『ライブ』という言葉の本質的な意味を直感で教えてくれるけどイヤもう小賢しいわ!そーゆー話とかどーでもいいから!

 

 

とにかくキャー!!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

____________________________________________

 

 

 

 

 

 

一曲目のサビに差し掛かった時点で、最早誰もこのライブの目的を覚えていなかった。

患者のバイタルをチェックしなくてはならない筈の医療スタッフは、施設の窓から身を乗り出して、黄色い叫びを上げ続ける。

シゲルの背後で事態を見守っているはずの凛や遥、機材を運び込んだスタッフたちは、『演奏の邪魔にならないように、僅かでも音を遮らないように』という誓いを刹那の間に忘却。「まえからみたほうがよくみえるし、よくきこえるよ!」という溶け切ったIQの意見に「てんさいじゃん」と手を打って、あっという間に中庭へと回り込んだ。止めるものは一人もいない。

もはや猿叫といっても過言ではない歓声を、しかしシゲルの歌声とPAから迸る生演奏は真っ向から飲み込み、最高の音楽を響かせ続ける。

 

 

朱里が笑う。相棒のベースをかき鳴らすことが――シゲルと、友達と、観客の皆と一緒に最高のライブをやれるのが、楽しくてしょうがないから。

 

 

青子が笑う。全身と音が繋がっているような感覚が、たまらなく気持ちいいから。

今まさに、夢を叶えているから。

 

 

浅黄が笑う。

浅黄はシゲルに「愛してるぜ!」と言われてからずっと笑っている。

休みなく。

 

 

凛が、遥が、スタッフ達が笑う。一秒ごとに『人生最高の瞬間』を更新し続けているから。

笑わずには、黄色い声を上げずにはいられない。

 

 

 

 

 

 

シゲルが笑う。

 

音楽を、やっているから。

 

 

 

 

夜闇を貫き、最高の音楽が響き渡る。

 

この日、この時、この場にいる全ての人が、ライブを楽しんでいた。

 

 

 

――そう。

 

余りにも楽しすぎて。

 

 

 

 

 

 

患者の脳波が甦ったことに、その場の誰もが気付かない。

 

 

 

 

 

 

 

「――センキューッ!!」

 

 

 

 

 

シゲルの感謝の言葉と同時に。

 

患者たちに、朝がやってきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

____________________________________________

 

 

ちなみに翌朝、枕元のサイン入りギターを見た真美は学校を休んで病院を受診した。

「夢の中の世界に囚われることに成功したんです!覚めないでいられる方法ありますか?!」と尋ねる真美を、医師は白い目で見た。

 

 

 

 

 



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35話

坂見台でのライブを終えたその日、シゲルは最高の気分で眠りについた。

ライブの余韻がまだ全身に残っていたが、心地よい疲労感が速やかに眠りへと誘ってくれた。

 

 

そして――

 

 

 

 

 

 

「ありゃ?」

 

 

シゲルは気付けば真っ白い空間にいた。

枕元にあったギターを手にしたまま。

 

「ここは――」

 

ぐるりと辺りを見渡したシゲルの顔に、直ぐに理解の色が広がる。

最早お馴染みと言っても過言ではない空間であった。

「神域ってヤツか!――ってえことは、」

シゲルは喜色を浮かべると、虚空に向かって声を上げる。

 

「おーい、弁天様!見ててくれたか?!俺のライブをよ!」

 

そのシゲルの問いかけに応えるように――

 

 

純白の空間から、闇が滲み出た。

 

 

「……おおう。そっちだったか」

 

 

闇は、人の姿をとっていた。

 

眼前に立つ長い黒髪の女性を見て、シゲルはなるほどなぁと呟く。

 

黒髪と白無垢。そして抜けるような白い肌とどこまでも深い漆黒の瞳が、強烈なコントラストとなってシゲルの目を奪った。

弁才天の美貌に匹敵する、この世ならざる美しさを備えた女性だ。

――寒気を覚えるほどに、美しい。

 

「今回は、気合十分ってわけか」

 

参ったな、とこぼすシゲルに向かって、女神は静かに語りだした。

 

「――櫻崎シゲル。お前の働きで、世界は生きる希望を取り戻してしまった」

 

「へへ、結構なことじゃねえか。それにお前さんが言ったんだぜ?『好きにせよ』ってよ。――お望み通り、好きにしてやったぜ!」

 

開き直ったシゲルがふんぞり返る。

 

しかし、女神の表情は動かなかった。

 

「その通り。お前が人の子を回復させることは、私の目論見通りだった」

「……何?」

 

眉を顰めるシゲルに、女神は滔々と語りだす。

 

「確かに今、人の子は希望に満ちている。強い陽気を纏っている」

 

「だが」

 

「いま、お前が倒れればどうだ」

 

「世界は希望を失う」

 

「心は弱り、絶望する」

 

「その絶望は、以前のそれよりもずっとずっと深刻になるだろう」

 

「――そうなれば、もう一度生命力を奪い取るのは容易い」

 

「神々の邪魔があったとてな」

 

 

「!」

そこまで聞いて、シゲルは「そういうことか」と手を打っていた。

「お前が倒れれば」という女神の言葉が、シゲルに一つの確信を与えていた。

 

「なるほどな。ツアー終盤あたりから、なんか妙に疲れると思ったら――神様の仕業だったってわけか」

 

「……」

 

肩を竦めるシゲルを、神はいやにじっとりとした目で見た。

 

「……苦労したのだぞ」

「へ?」

シゲルは首を傾げる。

 

「――お前の心身の疲労につけこみ、鬱陶しい陽気を掻い潜りながら、少しづつ少しづつ生命力を掠め取って……」

 

「弁才天の目を欺くために、少なくない神気を無駄にして……」

 

「ようやく、ようやくその首に手が届いたと思ったら……」

 

女神が俯く。

 

「素人の音楽聞いて、三分で回復するんだもん……」

 

「なんかすまねぇ……」

 

思わず謝るシゲル。

 

だが、女神の愚痴は終わらない。

 

「……極めつけは、昨夜のアレだ」

「昨夜のアレ?……ああ、あのライブ見てたのか!最高だっただろ!?」

「見てはいない。――根の国から突然人の子たちが消えたから、異常に気付いただけだ」

「――え?消えた?」

「……根の国のあちこちに穴が開いて、そこにいた人の子が穴の向こうに行ってしまったのだ」

「はぁ……?」

「お前たちの言う『レベル4患者』が目を覚ましたのは、それが原因だ。お前の音楽が、人の子の肉体を縁として、その魂の所在――私の世界まで続く穴を開けたのだ」

「へー?」

自分が何をしでかしたのかイマイチわかっていないシゲルから視線を外すと、女神は虚空を仰いでため息を吐いた。

 

「……『音』の持つ性質を失念していた」

 

「遠くまで響き――」

 

「人を惹きつける」

 

 

 

 

 

 

「――とはいえ限度があろうがっ!」

 

 

 

 

「突然自分の国に穴が開いた時の気持ちがお前にわかるか?!」

 

 

 

 

 

「か、重ね重ねすまねぇ……」

 

吼え猛る女神に、シゲルは思わず二度目の謝罪を口にしていた。

 

怒りに震える女神は、ふーっと息を吐いて怒気を収めると、恐ろしく冷たい目でシゲルを見た。

――その全身に、禍々しい闇の神気を纏いながら。

 

「だが――もういい」

 

「迂遠な真似は、もうヤメだ」

 

「禁則に触れ、多少神気が失われようが――お前さえ仕留められれば、わたしの目的は達成される」

 

決定的なセリフを口にする女神に、シゲルは眉根を寄せる。

 

「……ただの人間一人だぜ。見逃しちゃくれねえか?」

 

「お前のようなものがただの人間であるものか」

 

女神は吐き捨てるように言った。

交渉の余地は無いらしい。漆黒の瞳から伝わってくるのは、底冷えするような純粋な殺気だった。

 

相手は神。それも極めつけの大神だ。

こうして正面から対峙することになった以上――どう考えても、戦いはおろか、逃げることすら不可能だろう。

 

絶体絶命のピンチに、しかしシゲルは、にやりと笑みを浮かべると――

 

「――女神様よ、好きにしな!」

 

そう言い放った。

「……なに?」

訝しがる女神に、シゲルは言葉を続ける。

 

「だがよ、たかが俺一人が死んだだけで『世界は希望を失う』ってのはちょいと考えが甘いと思うぜ!」

 

「もう手遅れさ、女神様!俺がこの世に居なくなろうと――音楽は生まれ続ける!俺はそれをちゃあんと知ってんだ!」

 

シゲルは、手にしたギターに視線を落とす。

よれよれの小さな文字が、シゲルに無限の力をくれる。

――動かぬ証拠が、ここにある。

シゲルは更に勢い込んだ。

 

「――いや、きっと音楽だけじゃねえ」

 

「旨いもの、おもしれえ本、スカッとするスポーツ、映画やゲーム――おっと、趣味に限った話でもなかったな!」

 

「やりがいのある仕事、家族、友達――えーと、その他諸々!」

 

「とにかく今この瞬間も!世界のどこかで『生きがい』が生まれてる!」

 

 

「きっとみんなこう言うぜ!」

 

 

「『絶望なんざ退屈だ』ってよ!」

 

 

 

 

 

「――」

言うことを言って満足げに胸を張るシゲルを、女神は口を噤んだまま見つめる。

だが、まっすぐにシゲルに向けられている女神の瞳は、肝心のシゲルを映していない。

一切の光を拒絶する色だけがある。

――その目に、シゲルはひどく見覚えがあった。

そのことにシゲルが気付くと同時に、女神は口を開いた。

 

「……お前は知らぬだけだ。知らぬから、そんなことを言える」

 

「希望に、掌を返された瞬間を――!」

 

 

「そのときの、絶望の深さを!」

 

 

白い世界が、女神を中心として闇に塗りつぶされた。

そして闇よりもなお暗い女神の長髪が恐ろしい勢いで伸びると、シゲルの足に絡みついた。

「――!」

シゲルは一歩身を引くことすらできなかった。黒い髪が、触れた場所から生気を奪い取っていくのが感じられる。

ホラー映画のようなぞっとする光景だが、シゲルの頭に浮かんだのは『ツイてるぞ!』の一言だった。

 

――上半身が無事だから、最後に一曲くらいやれそうだ!

 

不敵に笑ったシゲルが、ギターを構えた瞬間――

 

 

 

 

「――二度あることはっ、」

 

 

 

 

――突如、空から降り注いだ光が、

 

 

 

 

「三度あーるっ!」

 

 

 

 

シゲルに絡みついた闇を焼き払った。

 

 

 

 

「そして――」

 

 

 

 

 

「仏の顔も三度まで、っていうわよね。イザナミ」

 

 

 

 

 

シゲルの前に立ちはだかるのは、戦装束を身に纏った弁才天の姿だった。

 

 

 

 

____________________________________________

 

 

 

「弁天様!」

「ハァイ、シゲルちゃん。ごめんなさいね、ちょっと遅れたかしら」

「いいや、俺も今来たところさ」

軽口をたたくシゲルに、弁才天は片目を瞑ってみせる。

しかし直ぐに眦を決すると、油断なくイザナミへと視線を移した。

 

「……あっきれた。依り代抜きで、夢の世界にこんな直接的な干渉を仕掛けたワケ?」

 

「こんなド派手な禁則破り――アンタの桁外れの神力をもってしても、かなりの消耗は免れないわよね?」

 

どこか挑発的な物言いをする弁才天に、イザナミは暗い瞳を向ける。

「……何が言いたい」

 

「今やれば、私が勝つってことよ」

 

弁才天はそう言い放つと、自信満々にふんぞり返った。

 

「――思いあがるな!」

 

イザナミが仕掛けた。

しかし迫りくる闇を、弁才天は光を纏う剣で斬り払う。

 

「やっぱり、出力落ちてるわよ!」

 

にやりと笑った弁才天が、すくい上げるような逆袈裟で虚空を切り裂く。

剣の間合いではない。しかし剣から迸った光芒が、イザナミの身体を捉えた。

その一撃は、イザナミへの痛打となることはなかったが――

「ちょっとだけ、離れててもらうわ!」

「む――!?」

衝撃を抑えきることは出来ず、イザナミは遥か上空へと打ち上げられる。

充分に距離を空けたことを確認してから、弁才天はシゲルに向き直った。

「シゲルちゃん。ホント貴方には度肝抜かれたわ!伝えたいことがいーっぱいあるんだけど――今は緊急事態!時間が無いから、状況の説明だけするわね」

「頼むぜ」

「まず、ここは夢の世界。『眠り』と『死』は兄弟みたいなものだから、生と死の狭間の世界と言い換えてもいいわ」

「生と死の狭間……ってことは、俺また臨死体験してるのかい?おっかねえなぁ」

「ふふ、心配しないで。人は誰もが、眠る時にこの世界を訪れるのよ。そして目覚めと同時に、ここでの記憶を置いて去っていくものなの。――たまにちょーっと覚えてることもあるけどね」

 

 

「――シゲルちゃんの大活躍に業を煮やしたアイツは、なりふり構わず貴方の魂を奪いにきたわ。生と死の狭間の世界という、自らの権能が及ぶ空間を利用して。でも、これってとんでもない禁則破りだし、かなりのギャンブルなの」

 

「なにせ、シゲルちゃんが現世のほうで起きちゃったらそれまで!こんな無法を二回も押し通すのは不可能だもの」

 

「起きたらそれまで、か。――しかしご覧の通り真っ暗になっちまったぜ?現実の俺はちゃんと起きることができるのかい?」

 

「そこは大丈夫。確かに今ここはアイツが無理矢理改変して、岩戸隠れの時みたいに真っ暗になっちゃってるけど――現実のほうでは普通に夜明けが来るし、それで目が覚めるわ」

 

「へー、ってえことは……俺は夜明けを待ってればいい、と?」

 

「そういうこと!……とはいえアイツに魂を連れていかれちゃったらそれまでだから――えいっ」

 

弁才天は気合声とともに、白魚のような指で素早く印を組んだ。

途端に周囲に清冽な神気が流れ込み、不可視の結界を造り上げる。

「これでよし!」

「今のは?」

「辺りに結界を張ったの。流れ弾くらいじゃビクともしない強力なヤツ」

「あの一瞬で?すげえな弁天様!」

「おほほ、モチロン――と言いたいところだけど、絡繰りがあってね。ほら、夢の世界って何でもアリでしょ?それって『広大無辺で心のままに姿を変える』っていう特性があるからなの。だからこうした改変って結構やりやすいのよ。――シゲルちゃんをアイツから守る行為って禁則に抵触しないから、神気の消耗も殆どゼロ。簡単なもんよ」

 

「逆に、あっちは今も神気を消耗し続けているわ。ルール破りまくりだもの」

 

「だから――」

 

上空を睨む弁才天は、その美貌に覚悟を漲らせ、剣を構えた。

凛々しくも美しいその姿は、弁才天の武神としての側面が顕在化したかのようだった。

人智を超えた力強さに、まさに全てを『神頼み』にしてしまいたくなるような頼もしさがある。

 

「今なら夜明けを待つまでもなく――私の剣で、暗闇を切り裂ける」

 

 

――だが、シゲルはその言葉を聞くや顔色を変えた。

 

 

「……剣で?いや、そりゃちょっと待ってくれよ弁天様!」

 

シゲルは泡を食って弁才天を引き留めにかかる。

 

だが――

 

「ここから先は神話の戦いよ。シゲルちゃんは私の勝利を祈ってて頂戴!」

 

弁才天は聞く耳持たず、ロケットのように空へと飛びあがっていった。

 

 

 

 

 

____________________________________________

 

 

 

 

あー、チクショウ、行っちまった!

そうじゃねえ!そうじゃねえんだよ弁天様!

弁天様の依頼は、まだ終わっちゃいねえんだ!

――今しがた見つけた、一番重篤な昏睡病患者に、俺の歌が届いてねえんだよ!

俺は焦る。

焦るが、打開策は見つからない。

何しろ、最高の音楽を届けるために必要なピースが、ここには無いからだ。

辺りを見渡しても、イザナミ様から溢れた闇が広がるばかりだ。唯一輝きを放っているのは、遥か上空で飛び回る弁天様くらいなもので、他には何もない。

現実にはあるはずのマイク、ミキサー、アンプ、スピーカー。そして何より大事な――

 

 

 

――待てよ。

 

 

 

弁天様は、『夢の世界』っていってたよな?

 

『人は誰もが眠る時にこの世界を訪れる』とも。

 

じゃあ。

 

 

 

 

 

――今眠っているのは、俺だけじゃない筈だ。

 

 

 

 

 

気が付けば俺は一瞬の閃きに身を任せ、声を張り上げていた。

 

「朱里!蒼子!浅黄!――ライブの時間だぜ!」

 

ついでに、渾身のファルセットをぶちかます。

 

――手ごたえがあった。

ハイトーンシャウトが、無限の距離を飛び越えて――ついでに何かをぶち抜いて、俺が必要としている人々の元に届いた手ごたえが。

 

その証拠に。

 

「へ?あれ?」

「ここは?」

「あらあらー?」

 

闇から零れるように、まずは寝間着姿のスリーピースが現れた。

 

 

 

 

 



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36話

シゲルの前に現れた三人娘は、寝ぼけ眼で闇に浮かび上がるお互いの姿を確認すると、揃って首を傾げる。

「あ、二人ともさっきぶり……じゃなくて、どこここ?ぼく、いっくんにさっきのライブの話をしてて――あれ?寝ちゃったんだっけ?」

「わたしも最高の気分で眠りについたはずだけど……何かしらここ、真っ暗で何も見えないけれど」

「わたしもさっき眠ったところなので、普通に考えると夢ですかねー。ええと、シゲル様の声が聞こえた気がしたんですけどー」

 

「おう!悪ィな、俺が呼んだんだよ!」

 

――背後から響いたその声に、三人は弾かれたように振り返った。

 

「――シゲル様!?」

「まー。シゲル様が夢に登場してくださったのはこれで二百三回目ですねー」

「あっ、ホントだシゲル様!って浅黄さん、これ夢?夢なの?」

「シゲル様に寝間着姿とすっぴんを見せるのは耐え難いので夢ですねー」

「安心しろよ。すっぴんもイケてるぜ、浅黄」

「ほーら夢みたいなことを仰られてますものー」

「浅黄さん涎たれてるよ」

「確かに、常識的に考えて夢か。なんか不思議な場所だしね」

浅黄の言葉に納得の表情を見せる青子に、シゲルはうんうんと頷く。

「そうそう、夢だ夢。夢の世界だから細かいことは気にすんな。大事なのはただ一つ、これからライブをやるってことだけだ!」

「――へ?そうなんです?」

「現実世界のほうでやったばかりでは……」

「良いライブにアンコールは付きものなんだよ。――ほら、観客の声が聞こえるだろ?」

 

――シゲルがそう言った瞬間、周囲からざわめきが聞こえだす。

 

辺りにいるのは、もはやシゲルと三人娘だけではなかった。

 

「え?あれ?なにここ」

「電気電気……あれ?私の部屋じゃないの?」

「――はっ?!なんですのここは!ギターを受け取ってからの記憶がありませんわ!」

「ンー、ヘッドフォンどこいったですカ?」

「こがねまるがいないー」

 

 

「――」

 

「――ええ、と。わたしは、確か、特療に、入っていて……」

 

「Where……am……I……?」

 

「……こえ、が、きこえ、た」

 

 

「っていうかこれ夢じゃない?」

「あー、このぼんやりとした感じって夢かぁ」

「うーん、夢の中で眠った挙句に夢の中で夢を見るとか、なかなか出来る体験じゃないよね」

「あっ!ああっ!?あそこにいるのって、シゲル様!?」

「うそ、トライアングルもいる!」

困惑しているような声がほとんどだが、シゲル達を見つけたのかあちこちから黄色い声も上がり始める。

 

「うわっ、ホントだ。流石夢、唐突な展開だなぁ」

「――でも確かに、まだまだライブをやり足りなかったところよ」

「ですねー。だからこんな夢をみてるんでしょうねー」

「確かにあのライブ、夢みたいに楽しかったもんね。……そっか、眠ってからもライブの続きかぁ」

朱里はしみじみとそう言うと、

 

「――得した気分!」

 

弾けるような笑みを浮かべた。

 

「だよな!」

「はい!観客も増えましたし!」

朱里とシゲルは大はしゃぎだ。

しかし、きょろきょろと辺りを見渡した蒼子は、眉をハの字に寄せた。

「――でもシゲル様、ライブをやろうにも楽器がありません。どうしましょう」

「……あっ」

そこまで考えていなかったシゲルは間抜けな声を漏らす。

 

――ワンチャン楽器もシャウト聞いたら飛んでこねえか?とシゲルが無謀な挑戦を試みようとしたが、

 

「大丈夫ですよー。夢なんですから」

 

浅黄はそういうと、えいっと虚空に手をかざした。

その瞬間、使い慣れたキーボードがその場に出現する。ついでに衣装も演奏用のものに変わって、顔にはうっすらメイクまで施された。

「うわっ、すごい。そっか、夢なんだもんね!」

朱里も頭上に手を掲げる。その手の中に愛用のベースが現れる。

「ではわたしも」

青子が一つ手を叩くと、周囲にドラムセットが展開される。

いつのまにか二人の身だしなみも整っていた。

まさに夢ならではの、あっというまの出来事である。

「おー、なるほど!夢なんだから何でもアリか!」

一連の流れを見たシゲルは感心した風に言うと、

「――つまり、こういうことか!」

ぱちんと一つ指を鳴らした。

 

変化は劇的だった。

 

ずごごごご、と地響きを上げて、シゲルたちの足元にライブステージが生えてきた。

 

スポットライトが、闇を切り裂く。

 

「うわわ、さ、流石シゲル様、スケールが違う!」

「天地創造ですね……」

「シゲル様ですからねー」

「わはは、こりゃあ便利だな。夢の世界も悪くねえ。……えーと、後は、」

シゲルは何か足りないものは無いかと観客席側を眺める。

スポットライトで照らされたステージとは違い、相変わらず闇に包まれている。シゲルの作り出したライトは、どうやらそこまで照らすほどの光量はもっていないらしい。

とはいえ実際、ステージ側がライトアップされていればライブには支障ない。

しかし、それが悪いとは言わないが、今のシゲルには少々物寂しく感じ――

「――そういやこういうのもあったよな!」

シゲルは、もう一度指を鳴らした。

今度変化が起こったのは、観客側だった。

 

「――わっ、なにこれ?!」

「ぼんやり光ってるけど、懐中電灯?」

「なんかキレーな色」

 

一人一人の手の中に、ペンライトが魔法のように現れた。

困惑したように揺れ動くペンライトの光が、観客たちが確かにそこにいることを教えてくれる。

 

その様子を見てシゲルは口角を上げると、マイクを手に取って観客たちに語り掛ける。

 

 

「――よう皆、久しぶりだな!櫻崎シゲルだ!覚えてるか?!」

 

――答えは怒号のような肯定の返事だった。

 

一つの言葉に統一こそされてないが、みな口々にシゲルに『待っていた』の意思を伝え、その名を叫ぶ。

 

シゲルはしばしその答えを全身で受け止めると、

 

「――逢いたかったぜ!」

 

そんなセリフで、更なる歓声を巻き起こした。

 

シゲルは口上を続ける。

 

「突然こんなことになってビックリしてるかもしれねえが、安心してくれ!俺も驚いてんだよ!」

 

「でもまぁ、細かいことは気にすんな!何せ夢だ!」

 

「――肝心なのは、今から俺たちのライブが始まるってことだ!」

 

期待通りのシゲルの言葉に、観客たちのテンションは更に高まった。

躍動するペンライトが野生の動きを見せる。

 

「それにしても、コイツはラッキーってヤツだぜ!」

 

「俺たちは最高のライブをやることができるし――」

 

「お前さんたちは、チケット代無料だからな!」

 

観客席から喝采と「お金払わせてー!」の声が巻き起こる。

 

「へへ、悪ィな。今日のところはサービスさせてくれよ!」

 

「おっと、そうそう。今日はサービスついでに、ペンライトなんていうオマケも用意したんだ!」

 

「俺のライブで使ったことは無かったんだけどな!今回は特別だ!リズムに合わせて、適当に振ってみてくれ!」

 

「なんせ、あたりがちょいと暗すぎるからよ!」

 

「バッチリ映えると思うぜ!」

 

「皆で振ったら、眩しくて――暗がりの方が根負けしちまうかもな!」

 

 

一通り語り終えたシゲルは、いよいよギターを構える。

誰よりシゲル自身が、長広舌はもう限界だった。

 

 

 

 

 

――そうだ。一刻も早く――

 

 

 

 

「――さあ!」

 

 

 

 

――ライブを、始めたい!

 

 

 

 

「楽しんでいこうぜっ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

____________________________________________

 

 

 

 

 

 

――やはり、手強い。

弁才天は剣を振るいながら、そう思わざるを得なかった。

禁則破りを加味しても尚、イザナミは極めつけの大神。底知れない神気は暗黒の雷となって、間断なく襲い掛かってくる。

守勢に回るしかないのが現状だった。

 

しかし、勝機はある。

本来ならば全身を覆っているはずの、イザナミの圧倒的な神気の守り。

それに翳りが見えている。やはり禁則破りは、イザナミへの大きな負担となっているのだ。

 

全開の神気を注ぎ込んだ剣を直撃させれば、勝負を決することができるかもしれない。

弁才天は強く剣の柄を握り込む。

 

――隙が欲しい。渾身の一撃を叩き込む、一瞬の隙が。

 

蛇のように伸びてくる闇を防ぎ、自らも光芒を放って牽制を仕掛けつつ、弁才天は機を伺っていた。

 

 

しかし、互いに決定打を送り込むことは出来ない。

 

戦況は膠着状態に陥り――

 

 

 

――停滞した状況を、突如鳴り響いた音楽が打ち破った。

 

 

 

「「!?」」

 

 

 

二柱は目を見開いて、反射的に音の出所を探る。

激戦の最中に響き渡ったその音楽は、余りにも陽気で、どこまでも場違いで――

 

最高に、ノッていた。

 

――思わず、女神たちが手を止めてしまうほどに。

 

「これは――」

「シゲルちゃん……?」

 

音楽は、眼下に広がる光景から響いてきていた。

一体何があったのか――地上には立派なライブステージが出来上がっていて、ペンライトを手にした無数の観客がひしめいている。

この短時間になにがどうしたのシゲルちゃん!?と弁才天が仰天している間にも、音楽は響きつづける。

楽神たる弁才天ですら聞きほれてしまうほどの、妙なる楽の音が。

 

――いや、聞こえてくるのは音楽だけではない。

いつの間にか現れていた人々が上げる、心の底からの喜びの声。

その声は、英雄の歌声にも負けないほどに、女神を惹きつけた。

 

やがて、音楽がサビに突入する。

最高潮の盛り上がりとはこのことか。奏者、観客、音楽、歌。全てが一つになって、命の喜びを高らかに謳い上げている。

 

今や、ライブ会場は光り輝いていた。

 

目を奪われるとはこのことだった。

弁才天はしばしその輝きを堪能して――

 

――ヤバっ!こっちが隙晒してどうするのよ!

 

慌ててイザナミに向かって剣を構え直す。

 

だが、その必要はなかった。

 

 

 

攻撃は、とっくに止まっている。

 

イザナミの双眸は、ライブ会場に釘付けだった。

 

 

一面の闇をものともせずに、人々は煌いている。

揺れ動くペンライトの光は、一人一人の命の輝きで。

シゲルの歌は、そのまま生への賛歌だった。

 

音と光は幻想的な美しさとなって、イザナミを魅惑していた。

 

「……ああ」

 

イザナミはいつの間にか、祈るように両手を組んでいた。

大きく見開かれた両の眼は、本来ならば戦っている弁才天に向いていなければならないのに。

どうやっても。どれほど頑張っても。

眩いステージから。

シゲルから。

華やぐ生命たちから。

目を離すことが、出来ない。

 

 

 

――ぬばたまの夜の瞳は、今や満天の星空だった。

 

 

 

 

「ああ――」

 

 

 

「きれい……!」

 

 

 

 

 

うっとりと感嘆の声を漏らしたイザナミは、眼下の光景に手を伸ばす。

遠く彼方で輝く星を、かき抱こうとするかのように。

 

 

 

 

決定的な隙だった。

 

 

 

 

――今なら!

 

 

弁才天は、握った剣に力を込める。

イザナミはまるでこちらを見ていない。今ならば、間違いなく勝負を決めることができるだろう。

密かに間合いを詰めて、剣を振り下ろす。ほんの一呼吸で事足りる。それだけでけりがつく。

 

 

弁才天は口元を引き結ぶ。

 

 

そして、構えた剣を――

 

 

 

 

 

 

 

 

静かに、鞘に納めた。

 

 

 

 

 

「ふふ――」

 

我知らず口元を綻ばせていた弁才天は、視線を眼下のシゲルへと移した。

 

 

 

 

 

 

 

そう――そうよね、シゲルちゃん。

 

遥か神代に、天の岩戸を開けたのは。

 

 

 

 

 

つるぎなんかじゃ、なかったわ。

 

 

 

 

 

 

 

弁才天は浮かべた微笑みをそのままに、イザナミの手をそっと握る。

「!」

イザナミは至近距離まで接近を許してしまったことに狼狽しつつ、慌てて身構えようとする。

だが、直ぐにその動きを止めた。

弁才天に、もはや敵意は一片もなかった。

隙だらけだ。

しかし閃く白刃よりも眩い笑みが、無敵の武器となってイザナミの抵抗を封じていた。

 

「折角だから、特等席にいきましょ!」

 

笑顔の弁才天は、弾むような声でイザナミに語り掛ける。

 

 

 

「――きっと、楽しいから!」

 

 

 

最早、イザナミがどれほど――心と体の全てから、絶望と憎しみをかき集めようとしても。

 

その殺し文句に抗うには、まるで足りなかった。

 

 

 

 

 

 

弁才天に手を引かれ、イザナミは光の中に飛び込んでいった。

 

 

 

 

喝采は続く。

 

夜明けまで。

 

 

 



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エピローグ

____________________________________________

一ノ瀬和美視点

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 

世界中がひっくり返った『レベル4患者一斉覚醒事件』から二か月が経ち、ようやく各国は混乱から立ち直りつつあった。

 

発端となったあの日のことは、私も鮮明に覚えている。

 

あの朝、私は何故か人生最高の寝覚めで、寝起きからハイテンションだった。

多分いい夢でも見たんだと思う。

私は人生最速タイムでずばっと布団から抜け出すと、鼻歌を歌いながら顔を洗って、

 

いつものように歯ブラシを口に突っ込んで。

いつものようにテレビのスイッチを入れて。

いつものニュースキャスターの顔を見て。

 

『きっ、緊急速報です!世界中で、レベル4の昏睡病患者が一斉に目を覚ましたという情報が入りました!』

 

口の中の物全部噴き出した。

 

その後もしばらくむせていた記憶がある。

 

 

 

覚醒の原因は、今をもって不明――とされている。

でも、ほとんどの人は、その『原因』に心当たりがある。

 

 

――現代において奇跡を起こせる存在って、限られてるから。

 

 

『――ですからね、あり得ないんですよ!』

 

 

私が本日何度目かの身だしなみと持ち物チェックを終えたところで、テレビからそんな声が響いた。

 

『徹底生討論!シゲル様の奇跡!』とテロップを打たれているテレビの中では、脳科学の権威という蓬莱政府お抱えの教授と、神学者、世界的に有名な医師の三人が激論を交わしている。

 

『シゲル様の坂見台特療でのライブの翌日――翌日に、一斉にですよ!?世界中で一斉に、目覚める筈のないレベル4患者が全員目覚めたんです!坂見台で目覚めた患者の後を追うように――!これが奇跡でなくてなんなのですか?!』

『……偶然でしょう』

神学者の振るう熱弁を、教授は本日何度目かの『偶然』というセリフでシャットアウトしようとする。

だが、当然神学者は引き下がらない。

『患者たちの主張は、その殆どが「シゲルサマの音楽で目が覚めた」ですよ?!まぁ、ごく僅かに「音楽が終わった後、美しい女性に導かれた気がする」と付け足した者もいましたが――』

『……興味深いのは、蓬莱語を知らない患者も多いにも関わらず「シゲルサマ」と口にしたことです。様、を敬称だと知らず、「シゲルサマ」が人名だと思っているものも多かった』

医師は眼鏡の位置を正し、言葉を続ける。

『――つまり、実際に聞いたのです。誰かが、シゲル様をシゲル様と呼ぶのを。そして、その奇跡の音楽を』

『……坂見台でのライブが物理的な距離を超えて届いたとでも?科学的にあり得ませんね。そもそも、患者は脳死に近い状態だったのですよ?どうやってシゲル様の名を聞くというのです』

『それが説明できないから奇跡なんでしょう!?私はですね、現オーソニア女教皇が、一連の出来事を正式に奇跡と認定したのは無理もない話だと思いますよ!十世紀ぶりの聖人認定を蓬莱政府が拒否しているという噂が本当なら、それこそ無理筋です!』

『逆に教授に答えていただきたい。どうして患者たちが「シゲルサマ」という単語を話すことが出来たのか』

医師の質問に、教授は少々沈黙した後、そっと視線を逸らし――

『……偶然ということもあり得るのでは?』

極めて小さい声を捻りだした。

『通るかっ……!そんな暴論っ……!』

『それしか言葉知らんのかこのポンコツ教授が!』

烈火のごとく怒る二人に、しかし教授も逆ギレで応戦する。

『やかましい!私も通ると思ってない!どう考えても奇跡だろうが!でもシゲル様が「聖人とか奇跡とか柄じゃねえよ、勘弁してくれ」って仰るんだからしょーがないだろう!!』

『うっ……』

『し、シゲル様が仰っているのなら、それは……』

シゲル様本人の言葉となれば、神学者と医師も語気が弱くなる。

畳みかけるように、教授は一枚のフリップを取り出した。

 

『何故患者が知るはずのない情報を知っていたのか――この件に関しても、シゲル様から直接コメントを頂いているのでこの場で発表する!』

その言葉に、スタジオがざわめく。

無理もない。私も釘付けだ。だってシゲル様が公式にこの件にコメントをするのって、多分これが初めてだから。

でも――くるりと回転したフリップに書いてあるのは、たった一言。

 

 

『「夢でも見たんだろ」!』

 

 

『――以上!解散!』

 

 

教授が言い放つが、それで解散するわけはなかった。

 

『では何も無かったことにするのですか?!間違いなく世界を救ったシゲル様に、名誉も報酬も渡さないと?!――いつから蓬莱はそんな恥知らずな国になったのです!』

『そうだ!シゲル様には然るべき恩賞が必要だ!』

『黙れ黙れっ、一番恩義に報いたいのはこっちなんだ!でも、ないんだよ!あのお方には物欲とかがないんだよ!どうか何らかの対価をお受け取り下さいとこい願っても、「そんなもん、ファンの声援でお釣りが来るぜ」と仰るだけで――』

『――ちょっとお待ちを、教授。先ほどからその口ぶり、もしや貴女シゲル様と直接お話を?!――なんたる職権乱用!許されざる、許されざる行為ですよそれは!!』

『全く!その肩書は大したものですね!政府お抱えというのはそんなに偉いのですか!――教授っ、』

 

『『政府お抱えってどうやったらなれますか!?』』

 

『こ、こいつら……!』

 

 

 

 

まだまだ番組の時間は残っていて、討論?は更に熱を帯びていく。

 

……ちょっと面白い番組だったから、最後まで見たいところだけど――私はテレビの電源を落とした。

時間にはまだまだ余裕があるけれど、道中何らかのアクシデントに巻き込まれる可能性もある。早めに家を出るに越したことはない。

そう。今日だけは、遅刻は許されない。趣味のヴァイオリンも中止。

 

だって、今日は――

 

シゲル様のライブ当日だから。

 

 

 

 

 

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 

 

 

チケットの半券を握りしめながら指定の座席に辿り着いて、私はやっと辺りを見渡す余裕ができた。

 

 

 

 

蓬莱の総力を挙げて造られた超大型コンサートホール、『蓬莱アリーナ』。そのお披露目としてこれ以上相応しい機会もそうは無いだろう。

いや、このキャパ二万人以上を誇る蓬莱アリーナをもってしても役者不足というべきかもしれない。

シゲル様の、全力のライブには。

 

 

二か月前に凱旋を果たしたシゲル様は、「すぐにでもまたライブがやりたい!」と言ったらしい。

多分その一言が、関係者に火をつけたんだと思う。

シゲル様の何気ない「すぐにでも」の言葉を実現するために、あらゆる無理を押し通したんじゃないだろうか。

 

だって、たった二か月でこんな大規模なライブの準備が整えられるなんて、普通なら考えられない。

企画、演出、リハーサル、チケット販売のあれやこれや――関係者の全員が全力を振り絞っても、物理的に不可能なんじゃないかと思える。

でも、現実にライブは今日開催される。

シゲル様の熱にあてられて、皆も奇跡を起こしちゃったのかも。

 

もっとも、燃えてるのはスタッフや関係者だけじゃない。観客の私たちだって同じだ。

天文学的な確率を潜り抜けて当選の知らせが届いたあの日から、正直私は興奮しっぱなしだ。今日この日この場所にたどり着くまでに高まり続けたテンションは、もはや炎となって全身から噴き出してもなんら不思議じゃない。

だけどこのテンションのままライブが始まると、その瞬間卒倒する恐れがある。

少々クールダウンの必要があった。

 

わたしは一つ深呼吸をすると、辺りを見渡す。

興奮で視野狭窄に陥っていたけど、改めてアリーナの広さがわかる。

その広いアリーナを埋め尽くす、二万人という人数の凄まじさも。

耳をすませば、今日出会ったばかりであろう観客たちが、まるで親友のように親し気に会話をしているのが聞こえてくる。

ああ――どうしよう。

もう最高に楽しい。

この空気が、たまらなくワクワクさせてくれる。

テンションなんか下がりようもない。

 

落ち着くもの、なにか落ち着くものを……!

 

私はきょろきょろと視線を動かして――

 

 

 

すぐ隣の二人に釘付けとなった。

 

 

 

そこにいたのは、セミロングの美女と、大きなカバンを持ったロングヘアの美女。

どちらもとんでもない美しさだった。

こんな美女がこの世に存在していいのか、とまで思ってしまう。

 

顔や全身のパーツ全てが非の打ち所がないほど完璧に整っていて、それらが神が配置したとしか思えない奇跡のバランスで『絶世の美女』を構成している。

 

何より印象的なのが、その眼だった。

 

セミロングの女性もそうだが――ロングヘアの女性の漆黒の瞳は、ライブへの期待にきらきらと輝いていて、吸い込まれそうな美しさを誇っている。

 

聞こえてくる二人の話し声も、これがまたとろけそうなほど良い声なので、私はついつい耳を傾けてしまう。観客たちのざわめきが凄くて内容はほとんど聞き取れないけど、途切れ途切れの声が聞こえるだけで幸せだ。

 

 

「――で、どうなのよ。根の国大改革とやらは進んでるの?」

「順調だ。もはや根の国は、穏やかに眠ったまま来世への輪廻を待つ場所ではない。善き魂が死後の生を謳歌する場所へと変わりつつある」

「ふーん。まぁ貴女良い方向へ向かっているようだから、それは結構なんだけど……じゃあかなり忙しいんじゃない?こっそり現世に来てるヒマあるの?下手すりゃまた禁則に引っかかるわよ」

「――お、おろかもの。これは視察だ。根の国らいぶはうすを作る際参考にするのだ」

「……ま、そーゆーことにしときましょうか」

「……ところで弁才天。ぺんらいとはどうした」

「ペンライト?……あのね。あーゆーのを使うのは、どっちかっていうとアイドル寄りのアーティストのライブよ。ふつーシゲルちゃんのライブでは使わないの」

 

「えっ」

 

「……知らなかったの?」

セミロングの美女の言葉に、ロングヘアの女性はしばし硬直する。

「……そういえばアンタ、そのカバン何が入ってるの?」

「……」

「――ちょっと見せてみなさい」

セミロングの美女は、そう言ってカバンを開けた。

 

――大きなカバンには、ぎっしり隙間なくペンライトが詰まっている。

 

「うわっ、なにこれ!?アンタ業者?!」

「持ってない人の子がいたら分けてあげようと思って……」

「っていうかどうやって用意したのよ、コレ」

「神気ででっち上げた」

「アンタ諸々のペナルティ受けて神気も大幅に制限中でしょうが。無駄遣いするんじゃありません」

「……どうすればいいのだこれは」

「問屋でも開いたら?」

「むむむ……む?」

 

そこで、ロングヘアの女性は私の視線に気づいたらしい。

 

こちらを見つめてくるきらめく瞳に、同性なのにどぎまぎしてしまう。

「一本やろう」

女性は突如そう言って、私に問答無用でペンライトを押し付けてきた。

「え?あ、ありがとうございます?」

「うむ」

反射的に受け取ってしまった私を見て満足げに頷くと、女性はステージに向き直った。

 

私は手にしたペンライトを見て、何となく懐かしい気持ちになる。

結構綺麗に光るんだよね、コレ。

 

……あれ?

なんでそんなこと知ってるんだっけ。こんなもの、どこかで売られているのなんて見たことない、はず、なんだけど――

 

首を捻りながら思い出そうとするけど、どうしても思い出せない。

 

私がもどかしさにうんうん唸っていると――

 

 

不意に、照明が落ちた。

 

 

観客席からどよめきが起こる。

わたしもちょっとびっくりしたけど、直ぐにそれが演出だと分かった。

何故なら、少しの時間をおいて、スポットライトがステージを照らしたから。

 

そのライトに浮かび上がるのは、今や国民的なスターといっても過言ではない『トライアングル』の面々!

 

観客席から歓声が巻き起こる。もちろん、私からも。

 

だけど、スポットライトが照らしているのは、その三人だけ。

あのお方は、シゲル様はどこなの?と観客たちがざわめく中――

 

ステージの中央から、何かがせり上がってきた。

 

いの一番に黄色い声を上げたのは二階席の観客たちだった。視点の高さが、『何か』の正体を一瞬だけ早く教えてくれたんだろう。

でも、そのアドバンテージもほんの一瞬。甲高い喜びの声は、あっという間に会場中から響き渡る。

 

――見紛うはずもない。ギターを手にした絶世の美男子。

 

シゲル様。

 

その瞬間私の思考はスパークし、ペンライトへの既視感ごとどっかに飛んで行った。

このステージが下からせり上がってくる感じも、何かどこかで見たような気がするけど――そんなことどうでもいい。

だって、ついに始まるから。

最高の、ライブが!

 

 

 

千両役者のそろい踏み。

 

全てが揃ったステージで、シゲル様はマイクを手にして声を上げる。

 

高らかに。

 

謳うように。

 

 

 

「楽しんでいこうぜ!」

 

 

 

 

 

 

    アンコールは異世界で   おしまい

 



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番外編 渋滞知らずの精霊馬 1


ご無沙汰しております。

チマチマ書き続けていた番外編がようやく一編出来上がりましたので投稿いたします。
分量は五話ほどですが、残念ながら蓬莱の面々は登場しません。申し訳ねぇ……!
でも本編執筆当初からずっと書きたかった話なので、読んでいただけると飛び上がって喜びます。









 

かつて一つの世界が滅びの危機に瀕していた。

蔓延する死病『昏睡病』によって人類は絶望し、絶滅寸前にまで追いつめられた。

しかし、そうはならなかった。

異世界より訪れた一人の人間が、滅びの運命を打ち破ったからだ。

 

――今、季節は灼熱の夏。完全に昏睡病が根絶されてから初めてやってくる夏だ。

憂いのなくなった世界で、人々は人生を謳歌していた。

 

 

 

 

そしてその立役者となった櫻崎シゲルは今――

 

 

 

「そんなわけでシゲルちゃんにご褒美をあげようって話になったのよ!」

 

 

 

久しぶりに神域へと招かれ、突然の弁財天の言葉に首を傾げていた。

 

 

「……ちょっとまってくれ弁天様。どんなわけなのかさっぱりわからねえ」

 

挨拶もそこそこにそんな話を切り出した弁財天はドヤ顔だが、シゲルとしては頭上に疑問符を浮かべるしかない。

戸惑うシゲルに「あらごめんなさい」とはにかんだ弁財天は、話を続ける。

「この間の神議で議題に上げてみたのよ。ほら、シゲルちゃんって完璧な形でこの世界を救ってくれたでしょ?そのご褒美がその身体だけってんじゃあんまりじゃないかしら、って。――そしたら圧倒的賛成多数で可決されたわけ!ご褒美追加よ!」

弁才天の言葉に「へー」と声を漏らしたシゲルは、少々考え込んだ後に口を開く。

「……いや、正直充分すぎるぜ」

何しろ毎日音楽ができるのだ。シゲルとしてはこれ以上望むべくもない報酬といえた。

 

近頃は三人娘もめきめきと腕を上げている。流石に前世のツアーメンバーほどの実力はまだないが、ライブは毎回『最高』を更新し続けている。

二か月後には二回目のワールドツアーも予定されていて、シゲルとしてはこの世の春であった。

 

――しかし。

 

「――やり残し、あるんじゃない?」

 

弁才天のその言葉には、思わず動きを止めていた。

 

やり残し。

シゲルは口の中でその言葉を転がす。

それは確かに存在した。この期に及んでも断ち切れない、前世の未練が。

 

シゲルは前世では様々なジャンルのライブを行っていた。その為クラシックならクラシックの、ジャズならジャズのツアーメンバーが存在する。

だがロックとポップスに関しては、メンバーはほぼ固定だ。加えてシゲルのライブの凡そ半分はこの二つのジャンルで占められていたから、このバックバンドはシゲルにとってひと際特別な面々と言えた。

 

ドラムの東武一。

 

キーボードの天ケ瀬麗。

 

ベースの安藤達也。

 

どいつもこいつも超一流のアーティストで、三人と共に行ったラストライブはシゲルの胸を今も焦がしている。

掛け値なしに最高のライブだった。ケチなど付けようもない。シゲルはそう思っていた。

 

――だが、一つだけ。

 

たった一つだけ、やり残したことがある。

 

アンコールだ。

 

あの時シゲルはツアーメンバーにアンコールを約束し、しかし果たせなかった。

 

 

――もしあの約束が果たせるのなら。

 

それはもう――

 

 

「……だけどよ、それは」

 

シゲルは言いよどむ。

死者の復活。それがとんでもない『掟破り』だということはシゲルにも何となく分かっていた。

そんなに気安く『死』をなかったことにできるのなら、そもそもシゲルに異世界を渡らせる必要はなかっただろう。

 

しかし弁才天はにこりと笑う。

 

「――その願い、叶えて進ぜよう!」

 

その力強い言葉に、シゲルは一瞬呆気にとられ――

 

「弁天様……マジかよ!」

 

目を輝かせた。

「出来んのか?!アンコール!」

「如何にも!――と言いたいところなんだけど」

「ぅおい」

肩透かしを食らったシゲルががくっとなるのに、弁財天は慌てて言葉を続ける。

「だ、大丈夫大丈夫。流石に元の身体で復活、ってわけにはいかないし、二つのルールを守る必要があるってだけよ」

「ルール?」

シゲルが聞き返すのに頷くと、弁才天は人差し指を立てる。

「まずその一。『日付が変わるまでに人目のない場所へ!』」

「ほー。そりゃまたなんで?」

「今日一日って約束だから、シゲルちゃん午前零時になるとあっちの世界からパッと消えちゃうのよ。そんなところ人の子が見たら大変なことになっちゃうでしょ?」

「なるほど、そりゃ確かに」

「ま、このルールに関しては、守るのはそんなに難しくないと思うんだけど――問題は次のルールなのよ」

弁才天は二本目の指を立てる。

「その二。『自分の正体をバラしてはいけない』!」

「……俺が櫻崎シゲルであることを気付かれないようにしろ、って?」

「ええ。人の子たちにシゲルちゃんの正体がバレるってことは、疑似的な死者蘇生がバレるってこと。そりゃもう禁則に抵触しまくっちゃうのよ」

「あー、やっぱそれマズイのか」

「かなりね。死者の復活って基本的に厄ネタなのよ。世界にもよるんだけど――それって人が死を畏れないことに繋がっちゃうから。多分向こうのイザナミとかハデス辺りが大激怒しちゃう」

そう弁財天が懸念を口にすると、

 

「そういうことだな」

 

可憐な声と共に、美しい女性が顕現した。

長い黒髪に煌めく瞳。その姿を見て、シゲルは気安く片手をあげた。

「おー、イザナミ様。元気してた?」

「うむ。ぼちぼち」

「えっ、ちょっと待って。何であなたたち顔なじみみたいに会話してるの?」

かつて命を奪おうとしてきた相手に余りにも気楽に挨拶をするシゲルと、同じように挨拶を返すイザナミを見て、弁才天は待ったをかけた。

「それは――」

「ああ、イザナミ様ちょくちょく夢に出てくんだよ」

シゲルはしれっと答える。

「なにしてんのよイザナミ!」

「……最近少しだけ歌に興味が出たから、時折コツを聞いているだけだ。シゲルは少々特殊だし、禁則には抵触しないだろう」

「……あー、んー、確かにそう、かしら。話だけなら……」

ビミョーなラインだけどセーフ?と眉根を寄せる弁才天を見て、シゲルは「あれ?」と首を傾げた。

 

――夢の中で、たまに根の国に誘われてライブやってんだけど。あれはいいのか?

 

ちらりとイザナミのほうに視線を向けると、「黙っとけ」のアイコンタクトが飛んできたのでシゲルは口を噤む。

シゲルとしては睡眠中もライブが出来るという最高のイベントなのだ。当初は寝起きのような状態だった根の国のオーディエンスたちも、最近はちょっと心配になるくらいノリが良い。うっかり禁止されたらたまったものではない。

 

「ところでシゲルよ。ぼいすとれーにんぐは続けているが、そろそろもう一段上を目指したい。何かコツはないのか?」

「んー、歌も楽器もやっぱりかけた時間が正義みたいなところはあるからなぁ。あ、でもコンディションは大事だぜ」

「こんでぃしょん?」

「そうそう。メンタルのコンディションも勿論重要だけど、体のほうもな。ノド守るために口にバンソーコー貼って寝る、なんて歌手もいたっけ」

「ふむふむ」

こくこく頷くイザナミの手にいつの間にか絆創膏が現れていた。

「また神気の無駄遣いして……わたしたちが乾燥で喉やられるわけないでしょーが」

弁才天がひょいっとそれを取り上げる。

「それで何しにきたのよ、イザナミ。シゲルちゃんとお話しにきただけ?」

「手を貸してやりにきたのだ。あちらへの隧道を開けるというなら、わたしの神気もあったほうがよかろう」

「……いいの?一日限定とはいえ疑似的な死者の復活よ?貴方的にはちょっと言いたいところあるんじゃないの?」

「無論ある。――良いか。近頃とみに思うが、生の輝きとは死を前提としているのだ。死という絶対の終わりを信じるからこそ、人の子はその一生を閃くことができる」

イザナミはそこまで言うと遠い目をして、

 

「そう。死にゆく者こそ美しい」

 

どこかの大魔王のようなセリフを吐いた。

 

「シゲルちゃん。あっちに戻ったら光の玉ゲットしてきてくれる?必要になりそう」

「マジかよ。ドンキで売ってるかな」

弁財天とシゲルの会話を華麗にスルーして、イザナミはシゲルへと漆黒の瞳を向ける。

「と、まあそんなわけで――『死』を軽いものにしかねない死者蘇生は人の子の為にもやるべきではない、とは思うが……きちんと隠し通すのだろう?シゲルよ」

「勿論!任せておいてくれよ!」

自信満々に胸を張るシゲルに、イザナミは微笑みを浮かべてみせる。

「ならばゆけ、シゲル。……約束は守るものだ」

イザナミはシゲルが「よっしゃあ!」と快哉をあげるのを見た後、弁財天へと視線を移す。

「しかし、そうなるとシゲルには仮の名が必要になるな」

「あ、そうね。シゲルちゃん、何か名乗りたい名前とかある?」

「んー、いや、別段ねぇな。俺芸名も本名だし」

「うーん……じゃあこうしましょうか!」

 

シゲルのギターには『真美』『理子』『央』の文字が並んでいる。ごく小さな文字だ。

弁財天はそこに絆創膏を張り付けた。

『美』の字と『子』の字がちょうど隠れる。

残った文字は――

「――真理央!今日だけ貴方はマリオよ!」

「ま、マリオ、マリオか……」

「あら、気に入らない?」

「いや、いいんだけど、なんか配管工が脳裏を過るというか」

「あはは、何わけわからないこと言ってるのよシゲルちゃん。エウロペとかイタリアあたりじゃよくある名前じゃない」

「……そうだよな、よくある名前だよな」

「ええもちろん。――さて、じゃあ始めましょうか。イザナミ、力を貸してね」

「うむ」

イザナミは小さく頷くと瞑目する。

直後、凄まじい神気がその全身から迸った。

神域がビリビリと震える。圧倒的な力に悲鳴を上げているかのようだった。

「――こんなものか。好きに使うがいい」

事も無げにそう言って、静かに目を開いたイザナミに、弁財天は苦笑を浮かべる。

「ペナルティ受けててこれってんだからとんでもないわね……でもこれなら確実だわ」

弁財天は渦巻く神気を白魚のような指で絡めとると、静かに息を吐きだし眦を決する。

「――じゃあちょっと待っててね、シゲルちゃん。貴方でも渡れる穴を開けるのは結構ホネなのよ」

「巻きで頼むぜ弁天様!」

「ふふ、はいはい」

弁財天は言うが早いが印を結ぼうとして――

 

「――あ、そうだ。シゲルちゃん挑戦してみる?いけるかもよ!」

 

不意に手指の動きを止めると、冗談めかしてシゲルに語り掛けた。

「挑戦?何をだい?」

「異世界へのトンネル開通!」

ちょっとした洒落っ気から出た弁財天の言葉に、過剰な反応を見せるものがいた。

 

イザナミである。

 

「……や、やめよ。万が一があったらどうする」

 

「じょーだんよじょーだん。完全な異世界に生身の人間が通れるサイズの穴開けるって、それ専門の神の業じゃない」

いやに深刻な顔で袖を引いてくるイザナミに、弁才天は「できるわけないでしょー」とけらけらと笑って見せる。

 

「――あ、そうか。俺がもしトンネルを開けられたら時短になるってことだよな」

 

しかしいそいそとギターを取り出したシゲルを見るや真顔になった。

 

「え?本気?」という顔を向けてくる弁財天と「いやな予感がする」という顔で見てくるイザナミに全く気付くことなく、シゲルはギターを構える。

その心は既に別世界へと飛んでいた。

 

 

 

 

――タツヤ、武一、麗。

それに、ファンのみんな。

 

「それじゃあいっちょ、」

 

今から――

 

「神業に、挑戦といくか!」

 

――逢いに行くぜ!

 

 

 

 

シゲルは渾身のシャウトと共にギターを掻き鳴らすと、喜びを爆発させた。

 

 

 

神域に響き渡る大音声が、心を、魂を――そして世界の境界を震わせる。

 

 

 

 

 

「――おっ、出来たんじゃねえの?」

 

 

 

 

 

気が付けば、シゲルの目の前の空間には人間大の歪みが現れていた。

 

 

 

 

 

 

「「オワーッ!?」」

 

 

 

 

泡を食ったのは女神たちである。

 

「ほっ、ホントに開いたァ!?一瞬で!」

「だから言っただろ!だから言っただろう!コイツは開けるのだ!」

二柱の女神は身を寄せ合っておののいた。

女神たちは「だってほんとに開くと思わないでしょ!?」だの「コイツには前科があるだろう!」だのと言い合っていたが、とにかく歪みがどこに繋がっているかを確認せねばならないというところで意見の一致を見た。

二柱は恐る恐る歪みを覗き込むと、ユニゾンで「「はぁー」」と感嘆の声を漏らした。

「すごっ。本当にあっちの世界と繋がってる……」

「座標は……なるほど、肉体の縁に引っ張られたか。当然と言えば当然の場所だな」

ややあって振り返った弁財天は、冷や汗を流しながらシゲルに詰め寄る。

「シゲルちゃん、それ勝手にやっちゃダメだからね!指名手配されちゃう!」

「お、おう」

「この場に我々の神気が渦巻いていたから出来た……と思いたいな」

「あっそれ!それよ多分!きっとそうハイ決まり!」

イザナミの説に飛びついた弁財天は、ぱんと手を叩いてその話を打ち切った。

「さ、さぁとにかくこれで準備は整ったわね!いざ出発よシゲルちゃん!」

厄介ごとから目を背けた弁財天は、それを誤魔化すかのようにシゲルを急かす。

「おうよ!」

シゲルとしては異論があろうはずもない。勢いよく答え、歪みの直前まで歩み寄る。

 

――だが。

 

「……ん?」

 

この土壇場になって、ふと幾つかの懸念がその脳裏を過った。

 

――ちょっと待てよ?元の世界っていっても、俺具体的にどこに転移するんだ?あんまり辺鄙な場所に飛ばされたらライブどころじゃなくねえか?

そもそも体一つで転移したら、あいつらに連絡とる手段ないんじゃねえの?あれ?

加えて前提として正体隠さなきゃなら、一日でアイツらとライブまでこぎつけるって完璧に無理なのでは?

 

 

「いや弁天様、ちょっと待っ――」

 

シゲルはそのことを弁財天に伝えようとして――

 

「じゃあはい、行ってらっしゃい!」

「くれぐれもバレることのないようにな」

 

遅かった。

 

振り返る前に、シゲルは背中を押されていた。

 

 

 

 



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番外編 渋滞知らずの精霊馬 2

 

____

安藤達也視点

 ̄ ̄ ̄ ̄

 

霊園の片隅に目的の墓を見つけて、俺は足を止めた。

久し振りに持ち出したベースがずっしりと重い。

もうずいぶん弾いていないスティングレイ5を、俺は言い訳のように背負っている。

 

……俺がベースを置いてしまったと知ったら、あの人はきっと悲しむから。

 

「今年も来ましたよー、シゲルさん。お盆最終日になっちゃいましたけど、まぁ早朝なんで勘弁してください」

俺は小さく呟いて、目的の墓に手を合わせた。

このシゲルさんの墓はごく一部の関係者を除いて秘密にされている。

遺骨はいたって普通の墓に、早くに亡くなったご両親と共に収められている。

だから俺が花を手向けたときにも、辺りに他の人影はなかった。

早朝であることも相まって、霊園はひたすらに静かだった。

 

 

 

 

 

シゲルさんの最後のライブから二年が経って――俺はあの日から、前に進めずにいる。

 

俺は音楽活動を止めていた。

ラストライブから一年くらいの間は、インペグ屋(ミュージシャンの斡旋屋)さんとか知り合いからしょっちゅう誘いがあったけど……悉くを断っていたから、流石に今はもう殆ど連絡もこない。

 

有難いことに、もったいないと言ってくれる人は多かった。

 

でも、俺の心は動かなかった。

武一さんと麗さんも随分惜しんでくれたけど――あの二人が俺を引き止めないでくれたのは、俺の気持ちがちょっと理解できてしまったからじゃないかと思う。

 

 

――あの人の死を受け入れられない。

 

二年たった今ですら。

 

 

だってあんまりじゃないか。

 

これ以上音楽を続けたって――シゲルさんと演るライブの痺れるような興奮も、その後の打ち上げの底抜けの楽しさも、もう二度と手に入らないなんて。

 

音楽を続けることで、それを『実感』したら。

それを真正面から受け入れてしまったら。俺は喪失感でどうにかなってしまう。

 

 

 

――そして何より。

 

 

 

シゲルさん抜きで音楽をやったら、俺の中でシゲルさんが「本当に死んでしまう」気がして。

 

 

 

どうしても、ベースを握ることができない。

 

 

 

 

 

 

とはいえ、完全に楽器を置いてしまったのは俺くらいだ。

武一さんは今もドラマーとして活躍している。あちこちのライブやレコーディングに参加して、その腕を振るってるみたいだ。

櫻崎シゲルのツアーメンバーをやっていた、というだけで引っ張りだこだ。武一さんのドラムのファンは多い。

色んなバンドマンから正式なメンバーとして誘われているらしいけど、「これだ」と思う人たちにはまだ巡り合えないらしい。

 

麗さんは第一線からは退いたものの、今は後進の育成に力を入れているという話を聞いた。

あの人綺麗な見た目の割にエキセントリックな性格をしてるから、まともに先生なんて出来るのか心配だったけど――意外なことに評判は良いみたいだ。

 

何にせよ、二人は地に足をつけてしっかりと生活している。

 

――宙ぶらりんなのは俺だけだ。

 

前に進めない俺の頭を過るのは、昔の思い出ばかりだった。

 

 

「……初めて会った時のこと、覚えてますか?俺、あの時ホントに嬉しかったんすよ」

 

もの言わぬ墓に語り掛け、俺は当時のことを思い出す。

 

ライブで友達になった武一さんのツテで、子供のころからずっと憧れだったシゲルさんに会えて。

「ちょっと弾いてみてくれよ!」っていうシゲルさんに、テンション上がった俺は限界以上のポテンシャル引き出して――

シゲルさん、震えるほど嬉しいコメントしてくれたっけな。

 

考えてみれば、俺がベーシストとして食っていけるようになったのはあの時からだった。

 

……あ、そうか。

俺が音楽を辞めたの、当然と言えば当然なんだ。

 

だって俺が音楽を始めたきっかけは、シゲルさんに憧れたからで。

俺が音楽を続けることができたのも、シゲルさんのおかげで。

 

だからきっと――俺の音楽にけりをつけるのもシゲルさんだったんだ。

 

なるほど道理だ。

そのことに不満はない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――だけど。

 

だけどシゲルさん。

 

あの時、言ったじゃないですか……

 

 

 

 

 

 

 

 

墓石に手をかけて、俺は語り掛ける。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シゲルさん。アンコールはまだですか。

 

五分間の休憩、二年経っても終わんないですよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

答えは返ってこない。

 

当然だ。

 

……死とは停滞である、みたいな言葉を残した偉人がいたけど、なるほどうまいことを言うものだと思う。

死者は語らない。歌わない。奏でない。

 

停まったままだ。

 

 

 

――不意に、下らない考えが浮かんだ。

 

 

 

死が停滞であるのなら。

 

今の俺は生きていると言えるのか。

 

 

 

 

 

「……また、来ます」

 

それだけ言うと、俺は墓石に背を向けて、その場を立ち去り――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「げっ、墓地スタート!どーすんだよ弁天様、金もねえし足もねえしスマホもねえのに!……ギターだけある!ここでやれってことか?!」

 

 

 

 

 

 

「っ!?」

 

 

いきなり後方から響いたその『声』を聞いて、金縛りにあったように硬直した。

 

 

 

 

誰もいなかったはずだ。見逃してた?確かに立ち並ぶ墓石はどれもそれなりに大きく、見通しは良くない。どこかの墓石の陰で誰かが屈んでいれば見えないこともあるだろう。だけど確かに何の物音も気配もなかったハズで――

 

いや、そんなことは問題じゃない。

 

この、声。

 

「だけどやり残しやるったって、オーディエンスが全員墓の下じゃどうしようも……いや待てよ?イケるのか?」

 

ぶつぶつ呟かれるその声は、小さくてよく聞こえない。

 

「いやでもイケたとしてもアイツら居ねえからアンコールってのとはちょいと違う……」

 

でも、この声。このしゃべり方。

 

「そもそも墓地でライブはマズいよな……」

 

 

そんなバカなと思うけど、俺がこの声を聴き間違えるはずがない。

 

いやまさか。そんな。でも――!

 

「シゲルさん――?!」

 

荒唐無稽な直感に突き動かされて、俺は勢いよく振り返った。

 

 

 

 

 

 

「お!?」

 

――違った。

 

目が合うなり素っ頓狂な声を上げたその人は、俺の脳裏に浮かんだあの人とは似ても似つかなかった。

……当然だ。死者が蘇るはずはない。

目の前にいるのは、まったく見覚えのないイケメン――いやホントものすごいイケメンだ!?なんだこの人!

思わず見惚れる俺を見て、そのイケメンはうれしそうに笑う。

「はは、なんだよなんだよ!オイ、たまらねえな!」

「?」

滅茶苦茶気安く語り掛けてきた彼は、何故かずかずかと俺に近寄ってきて、

 

「――マジで駆けつけてくれたじゃねえか、タツヤ!」

 

バシバシ俺の背を叩きながら、あの人の声でそんなことを言った。

「――え?」

当然、俺は目を丸くする。

だって、初対面だ。

自己紹介なんてしてない。

 

「あの、なんで、俺の名前を……?」

「あっ」

そこで彼は一瞬硬直すると、慌てて言葉を続けてきた。

「えーと、いやお前さん、そりゃアレだよ。あんたベーシストの安藤達也、さんだろ?はは、有名人有名人。音楽好きなら全員知ってるって」

「いやそんな馬鹿な。俺そこまでメジャーじゃないよ」

何故か一筋の汗をかきながらまくしたてる彼に、俺はそう反論する。実際そこまで有名じゃないと思う。そもそも二年も表舞台に出てないし。

……まぁでも、コアなファンがいなかったわけじゃないし、たまたま知ってることもあるのかな。シゲルさんのラストライブ自体は方々でこすり倒されてるし。

 

 

ああ、だけど不思議だ。こんなに似てない人なのに、何故か雰囲気がシゲルさんに近い。あまりにも声が似すぎてるからそう感じるだけなんだろうか。

 

……でも、

 

「なーに謙遜謙遜。あのスラップは神業だろ!初めて聞いた時、俺はこう思ったね!」

 

そうやって俺を褒めるその口調まであの人とそっくりで――俺の脳裏に、初対面のあの瞬間が蘇る。

 

 

 

「このベース――」

『お前さん――』

 

「『最ッ高じゃねえか!』……ってよ!」

 

 

 

 

――ダメだ。

「――その声で、そんなこと言わないでくれよ」

「あ?」

熱いものが、両目にこみあげてくる。

「泣けて、くる」

「お?お、おいおい、なんだ?!泣くなって!」

 

 

 

涙が止まるまで、少しだけ時間がかかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ごめん。……君、声が滅茶苦茶櫻崎シゲルさんに似てるんだよ。俺ツアーメンバーだったからさ。つい、思い出しちゃって」

「あー……そうか。何か悪ィな。声変えるか?結構色んな声だせるぜ、俺」

「そーゆーところもシゲルさんっぽいなぁ。顔は全然似てないけど」

何しろとんでもない美男子だ。シゲルさんも彫りが深くて良い顔してたけど、この彼はレベルが違う。

身長は百八十センチには届かないだろうか。それなりの長身とガタイの良さがあるのに、顔の小ささと長い手足はむしろ中性的な美しさを漂わせている。

顔立ちは整いすぎていて凛々しいけど、目尻は僅かに優し気に下がっていて、見る者に柔らかい印象を与えている。右目の泣きぼくろはごく小さいが、そこには無限の色気があった。

「君、アイドルとかやったら世界とれるよ。いや、マジで」

完璧なスタイルと顔面を見ながら、俺は惚れ惚れと言う。

「興味ねえなぁ」

しかし彼はそう言って肩を竦めるだけだ。

もったいない、と思ったけど、俺は何となく彼ならそう言う気がしていた。

「はは、そっか。――じゃあ興味あるのは、背中のそれ?」

俺はそう言ってギターケースを指さす。

「まぁな」

にやりと笑うその表情に、何故か強烈な既視感がある。

俺は彼のことがもっと知りたくなって、ついつい話し込んでしまう。

「そのデカさはアコギかな?エレアコ?」

「エレアコだよ。ま、楽器は何でも好きだけどな!タツヤ――さんは、ベースだろ?メインはスティングレイ5だったよな」

「よく知ってるなぁ……あ、さん付けないでいいよ。呼び捨てでさ」

「お?そう?」

「うん」

――その声に、『さん』を付けられたくないんだ。

「はは、オッケー!俺もそのほうがやりやすい」

「そう言えば、キミの名前は?」

「おっと、そういや言ってなかったな。マリオだ、マリオ」

「……キミイタリア人?ハーフとか?」

「生まれも育ちも日本だが故あってマリオだ。深く聞いてくれるな」

「そ、そっか。まぁ自分の名前って自分で選べないしね。いい名前だと思うよ、マリオ」

「サンキュ」

そう言った彼がぱちっとウィンクすると、泣きぼくろが際立った。

その瞬間、胸が高鳴った自分に俺自身がびっくりする。

――ちょ、ちょっと待ってくれ。俺そのケはないのに。何かこのヒト殺人的に色っぽいぞ。

 

「なぁタツヤ。初対面で悪いんだが、ちょいと相談があるんだよ」

 

勝手にどぎまぎしてると、彼が話しかけてきた。

 

「え、相談?どんな?」

 

俺は聞き返す。

とんでもなく整った顔面の中、ひと際目を引く両の瞳が俺を捉える。

 

 

 

 

「今日これから、俺と一緒にライブをやらねえか?」

 

 

 

 

 

――もう一度、鼓動が高鳴った。

 

今度はさっきよりもずっと強く。

 

 

――久しぶりに動いたと、錯覚するほどに。

 

 

「――は、はは。突然だね!」

不意打ちを食らった俺はとりあえず笑い飛ばした。

あまりにも唐突な彼のセリフを、何かの冗談だと思ったからだ。

「ダメか?」

でも、マリオの目はひたすら真摯だった。

「い、いや、ダメってことないけど、初対面だしさ。もうちょっとお互いの腕前とか知った上で――」

「悪ィけど時間がねえんだよ。今日を逃すわけにはいかねえんだ」

「……マリオが今日やる予定のライブに、俺がゲスト的に参加する、ってこと?」

「いや――チケットもハコも他のメンツも、何一つ用意できてねえ。あるのは剥き身の俺とギターだけだ」

俺は眉をひそめた。

無茶言うな、と思う。その条件で今日ライブをやろうと思ったら、無許可でゲリラライブみたいなことをするしかない。普通に違法行為だ。

「あのね、マリオ」

苦言を呈そうとした俺だけど、

「無理言ってるのは分かってんだよ。でも今日だ。今日、お前さんと一緒にライブをやりたい」

そういわれると、否定の言葉が引っ込んでしまう。

くそ、反則だよその声。

「……ちょっと待って。伝手を当たってみる」

「頼むぜ!」

 

表面上冷静を装ってスマホを取り出した俺だけど、何故かその手は小刻みに震えていた。電話一本かけるだけで一苦労だ。

スマホをタップしながら、鼓動がどんどん早くなる。

何かが起こる。今、起こりかけてる。

俺の心の奥底。理屈と常識を超えたところで、魂が叫んでる。

 

『来たぞ』と。

 

その内なる声に突き動かされて――

 

 

『おう、タツヤ。なんだよ久しぶり――』

 

「武一さん!今どこすか!」

 

 

俺の第一声は、自分が思ったよりもずっと大きくなってしまった。

『な、なんだ突然。今渋谷だけど』

――よっしゃ近い!

「俺今近場なんすけど、今直ぐ会えませんか?!」

『今直ぐ!?無茶言うな。俺は今絶望的な修羅場なんだ。久しぶりにお前の顔は見たいが、割とそれどころじゃねえ。ライブに穴開くかどうかの瀬戸際だ』

「……ライブに、穴?」

俺の言葉に、マリオがぴくりと反応した。

『――いや、待てよ?これは天祐か!?タツヤ、お前こそ直ぐ渋谷に来れないか?!』

「え?何あったんすか?」

『ちょいと込み入った話になるんだが……サラスヴァティってライブハウス覚えてるか?』

「サラスヴァティ――」

覚えのある名前だった。いろんな場所でライブをやってきたけど、そのライブハウスは俺の脳裏にしっかりと刻まれている。

なにしろ、そこでシゲルさんと一緒にライブをやったことがあったから。

 

六年前だったかな。シゲルさんとやっと何回かライブをこなしたくらいの時期で――そうそう。武一さんが助っ人でサラスヴァティのライブに駆り出されたんだ。それで武一さんが「暇なら見に来い」って言って俺と、暇なわけがないシゲルさんにチケット渡してくれて――

 

マジで来たんだよね、シゲルさん。「ここのオーナーのおっちゃん昔馴染みなんだよ」とか言って。

 

どえらい騒ぎになったのを覚えてる。

なんかなし崩しで俺もステージに上がって、シゲルさんとライブをやって――

最高に、楽しかった。

……そういえば、オーナーさんに頼まれて皆で楽屋の壁にサイン書いたっけ。

「――渋谷の、キャパ500人くらいのハコですよね?あの雰囲気良いとこ」

『そこそこ。あそこ割と老舗で俺も若いころからちょくちょく世話になってたんだが、オーナーが年でもう店閉めるってことになってな。何かとオーナーに世話焼いてもらってた音楽仲間と「そんなら対バンでお別れライブでもやったらどうだ」って話になってよ。そりゃいいやってんで面子集めて――まさに今日がそのライブ当日なんだよ』

「良い話じゃないっすか」

――だけど何の問題もなく今日を迎えたのなら、武一さんがこんなに焦ってるわけはない。

『そうだな、いい話だよ。ここまではな」

「ここまでは……?」

『……どいつもこいつも気ごころ知れた音楽仲間でよ、一昨日景気づけっつってプチ飲み会があったわけよ』

深刻な口ぶりだった。俺は何となくマリオに背を向けて、声を潜める。

「そ、それで?」

『――俺以外が全員食中毒になった』

言葉も出ない。

『昨日の時点でちらほら体調不良の報告は上がってたんだが、今朝もう決定的になった。全滅だ全滅。全員病院送り。多分俺以外が食った刺身が下手人だ。――だから一応生モノはやめた方がいいんじゃねえかって俺は言ったんだよ!』

「ぜ、全滅っすか。……ちなみにライブは何時間の予定で?」

『二時間だ』

ってことは少なくともバンドは三組は居たはずだ。それが武一さん以外全滅。

刺身のヤツ何人殺したんだ。

「マズイじゃないっすか……」

『ああマズイ。これ以上ないってくらいマズイ。昨日からトラ(エクストラ。代役)探してるんだが、こーゆーときに限って捕まんねえ』

 

 

『このままじゃあ、最悪――』

その先は聞かなくてもわかる。

最悪の事態――ライブ中止。そうなるだろう。

 

 

『そう、最悪俺が二時間ドラムソロを響かせることになる……!』

 

 

!?

やる気なのがすげぇ……!

 

 

『だけどンなことしたらまず客は途中で帰る!だって俺なら帰るもん!結果的にライブに穴開くのと変わらん!――だから何とか頼むタツヤ!お前の気持ちは察してるつもりだが……今日ばかりはそれを曲げて頼む!』

 

「ちょ、ちょっと待ってください。すぐかけ直しますっ」

俺は電話を切って考えを巡らせる。

――見ようによっては渡りに船だ。ライブ会場と観客が向こうからやってきた形だ。

だけど、大きな不安がある。

武一さんはただのドラマーじゃない。凄腕のドラマーだ。今日のライブ、恐らく武一さんを目的にやってくるお客さんも多いだろう。

その武一さんがセッションするはずだったプレイヤーたちも、おそらく相当の腕前だったはず。

――つまるところハードルはハッキリと高い。

どこかでゲリラライブを行うのとはわけが違う。せめてチケット代相応の音楽にしなければならない。金をもらって音楽をやるというのはそういうことだ。

 

まず、二年のブランクがある俺にベースが務まるのか。

そして――果たしてマリオに、その声に負けないくらいのテクニックがあるのか。

 

逡巡する俺は――ふと「こんな時シゲルさんならなんて言うだろう」と考えた。突然武一さんが「ライブに穴空きそうなんだよ!」と電話をかけてきたら。

 

……考えるまでもなかった。

 

あの人なら、きっと――

 

 

俺は覚悟を決めると、彼の方を振り返る。

 

 

「マリオ!キミ、ギターは何年やって――わっ!?」

 

 

マリオはえらい至近距離にいた。

 

「――ライブに穴だぁ?」

 

耳をそばだてて内容を聞いていたらしいマリオは、両目をぎらぎらと光らせて、

 

 

「神様が許しても俺が許さねえぞ」

 

 

痺れるくらい特大の気炎を吐いた。

 



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番外編 渋滞知らずの精霊馬 3

 

 

 

「……帰省中?今九州?あー、そうか。そうか……いや、なんでもねえ。またな」

電話を切った武一は天井を仰ぐ。

 

――万策尽きた。もう伝手はない。

 

「マジで頼むからな、タツヤ……もうお前だけが最後の希望だ」

 

サラスヴァティの楽屋で武一はそうひとりごちると、スマホを握りしめる。

楽屋を専有していても誰からも文句をつけられない。何しろ一人だ。

それなりのスペースがある楽屋だが、今この場にいるのは武一だけだった。

ハッキリ言って心細すぎた。こいこいタツヤ早くこい――と武一が念を込めてドアを睨みつけると、ガチャリと音を立ててそのドアが開く。

 

一瞬喜色を浮かべる武一だったが、入ってきたのはオーナーの髭面だった。

 

「とんだことになったな武一」

軽い調子で言いながら椅子に腰かけたオーナーに、武一は半眼を向ける。

「他人事みてえに……この店で大惨事が起きるかどうかの瀬戸際なんですぜ」

「へっ。どうせもう畳むから関係ねえ」

へらっと笑ったオーナーは、ポケットから煙草を取り出して――思いとどまってしまい直した。

「あれ?禁煙ですかい」

珍しいものを見た、と言わんばかりの顔で武一が尋ねる。武一の知る限りオーナーはかなりのスモーカーで、そこにボーカルさえいなければ楽屋だろうがスパスパ吸っていた筈だ。

「医者に止められてんだ。長生きしたけりゃなるべく吸うなってよ」

「医者の言うこと聞くようなタマでしたっけ」

「……一つ教えてやるが、歳喰うと死ぬのが怖くなくなるなんてのは嘘っぱちだぞ武一。俺はこの年になって益々死ぬのが怖い」

「は、往生際の悪いこって。……その調子でしぶとく店も続けてほしかったんですがね」

「老後の道楽はもっと大人しいもんに限る。寿命が縮むからな」

つまらなそうにそう言って、オーナーは背もたれに体重を預ける。

「……で、誰か捕まったのか」

「取り合えず一人。ベースの達也だけは捕まったんですが……アイツ多分ブランクあんだよなぁ」

「安藤達也か。ありゃ本物だ、多少のブランクは問題ねえだろう。……だがドラムとベースだけじゃあライブにゃならんぞ」

「それが……なんか達也が『ギターなんとかなるかもしれません』って電話で言ってたんですよ。もしかしたら助っ人連れてきてくれるのかも知れません。達也結構ボーカルイケるから、ギターの出来次第では何とか形になるかも」

「ほー」

オーナーは相槌を打ちながらも、「それはちょいと難しかろうな」と考えていた。

安藤達也。東武一。どちらも本物のミュージシャンで、超一流と言って差し支えのないプレイヤーだ。このライブハウスには豪華すぎる面子と言っていい。

だが、そこに一人だけ『並み』のギターが混ざれば、そのライブは酷くちぐはぐなものとなるだろう。

無論、その助っ人が『本物』の可能性もあるが――

「もし助っ人が来たら、オーナーも腕前確かめてくださいよ。耳には自信あるでしょう?」

「ま、ソイツが本物かどうかくらいは聞けばわかるが――この商売長いが、本物なんてほんの一握りしかおらんぞ」

そのことであった。

オーナーの視線の先には、壁に書かれたいくつかのサイン。

どれも名だたるプレイヤーのものばかりだ。数えきれないほどのバンドがこの楽屋を訪れたが、この偏屈なオーナーの眼鏡にかなったミュージシャンは限りなく少ない。オーナーがこの壁にサインを頼むのは、超のつく一流だけだ。

 

一番目立つ場所に書かれている櫻崎シゲルのサイン。そしてその下に書かれている自分とかつてのメンバーの名前を見て、武一は肩をすくめる。

 

「……この際贅沢言ってられませんぜ、高望みはなしにしましょうや。タツヤが居れば、何とか恰好だけはつく」

「ふん。で、その頼みの綱はいつ到着するんだ?」

「あー、時間的に多分そろそろ――」

 

再び部屋のドアが開いたのはまさにその瞬間だった。

飛び込んでくるのは、パーマをかけたような癖毛が特徴的な童顔の――頼りになるベーシスト。

 

「お久しぶりです、武一さんっ」

「――おう。よく来てくれたな」

 

電話越しではないタツヤの懐かしい声に、武一は笑みを浮かべて答え――

 

 

 

「よう!ひ――初めましてだな、武一サンよ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

「お前声がシゲルじゃねえか!」

 

 

 

 

後に続いた『もっと懐かしい声』に、思わず突っ込みを入れていた。

 

 

 

 

 

 

____

安藤達也視点

 ̄ ̄ ̄ ̄

「のっけからなんだよ!」

「あ、いや、すまん。――東武一だ」

もっともな文句をつけるマリオに、武一さんは謝罪して手を差し出す。

「おう、俺はマリオだ。助っ人ってことで参上したぜ。ギターは任せといてくれよ!歌も結構自信あるぜ!」

その手を力強く握り返してべらべら喋るマリオに武一さんは「お、おう」とだけ返したけど、見るからに動揺していた。

その気持ちがよーく分かる。よくあるワンセンテンスだけのモノマネとかじゃなくて、マリオの場合喋れば喋るほど似てるんだよ。

「……すげえな。こんなに似てる声の人間がいるのか」

オーナーさんもマリオの声には驚いているみたいだ。まぁ誰でもそうなると思う。あまりにもそっくりだから。

「――ん?おー、おっちゃ……じゃなくてオーナーもいるのか!はは、今日はよろしくな!」

「あ、ああ」

 

……あれ?なんでマリオはあそこで座ってるのがオーナーって分かったんだろう?

 

「ちょ、ちょっとこいタツヤ」

手を引いてくる武一さんに思考を中断される。

武一さんは俺を少し離れた場所まで引っ張って、小声で話しかけてくる。

 

「……お前アイドルでも連れてきたの?カレ顔面偏差値がメーター振り切ってるけど、どこの何者だ」

「音楽好きのマリオくんらしいです。正体不明です」

「……ギター上手いの?」

「いや知らないです。今日初めて会ったんで」

「なんで正体不明の初対面をこの大一番に連れてくるんだよ……」

「声がシゲルさんだったんで……ギターも持ってたし」

「それはそうだけど、ギター上手いとは限らねえだろ……」

 

 

 

「おーい、どうした?」

 

内緒話をする俺たちの背中に、マリオが声をかける。余りにも聞きなれたその声に、思わず俺たちはびくっとしてしまう。

……ホント姿さえ見なかったら完璧にシゲルさんなんだよなぁ。

そう思ったのは、どうも俺だけじゃなかったらしく――

 

「なぁ、マリオ」

「なんだい、武一サンよ」

「さん付けは無しでいい」

武一さんはそう言うと、僅かな沈黙の後に、

「――頼みがあるんだが、ちょっと試しに『逢いたかったぜ』って言ってもらえるか?」

どこか恐る恐るといった風に切り出した。

マリオはちょっと面食らったような顔をする。

「……ダメか?」

 

「いや。――望むところだよ」

 

 

優し気に目を細めたマリオは、武一さんの瞳を見ながら、

 

「――逢いたかったぜ、武一」

 

あの人の声で、そう言った。

 

 

「――」

 

 

武一さんは右の掌で目を覆うと、ぐっと歯を食いしばって、何かを堪えるように俯いた。

でもそれも数秒のこと。武一さんは両眼をこするようにして手の覆いを外して、少しだけ赤くなった目でマリオを見る。

「いやマジですげえ。目瞑ってるとそこにシゲルがいるみたい。お前さんそれ芸にしてメシ食えるぜ」

「はは、メシ食う芸なら別に持ってるよ」

不敵な笑みを浮かべたマリオは、そう言ってギターケースに手をかける。

ぴくりと武一さんの眉が動いた。

「――自信家だな。その声に見合う芸か?」

「試してみるかい?」

自信満々のマリオは、ケースからギターを取り出す。

 

ギターケースから出てきたそれを見て、俺はちょっと驚いた。

何しろ、声だけじゃなくてギターまでシゲルさんと同じだったから。

Taylor T5。シゲルさんのライブで一番登場機会が多かった名機だ。

かなり強気な価格のエレアコで、シゲルさんに憧れて値段を調べて絶望するところまでがギター少年のテンプレだ。

そういえばシゲルさんが病床に持ち込んでいたのもこれだったな。

 

――最後のライブで使ったのも。

 

「テイラーか。良いの持ってんな。年季入ってんじゃねえか」

「まーな。頼りになる相棒だぜ」

「しかしエレアコか。……確かにシゲルの曲やるなら都合がいい、が」

そうつぶやいた武一さんは、少し考えこむ。

子どもの頃に貰ったギターがアコギだったとかで、シゲルさんの曲は結構エレアコ向きのものも多い。特にポップスは顕著だ。

ロックでもマッハカナブンみたいにバリバリにエレキの音作りが必要な曲以外では出番がある。

「……じゃあ櫻崎シゲルの『Everybody』やってみてくれ。イントロだけでいい」

武一さんが口の端を挑戦的に釣り上げて言う。

……武一さんも無茶振りするなぁ。『ギターが難しい曲』と言われたらぱっと頭に浮かぶ曲の一つだ。

「おいおいEverybodyだって?そんなの――」

実際マリオもそう言って眉を顰めて――

 

「俺が弾けねぇワケあるかよ」

 

全員の度肝を抜く、とんでもないテクニックを見せた。

 

ギタースラップが完璧だ。

いや、完璧超えて最高だ。

目まぐるしいサムピングとプル。多用されるゴーストノートが、リズムとサウンドを殺すどころかどこまでも躍動させている。

嘘だろ。あり得ない。ホントにT5の生音かこれ。

こんだけネットが普及した現代に、こんなプレイヤーがこの世のどこに眠ってたんだ。

 

とにかく、すごい。

息もできない。

マリオがスラム奏法まで織り交ぜてイントロをやり終えるのを、俺たちはあんぐり口を開けたまま見つめていた。

 

 

 

 

「――絶好調!」

 

 

 

 

太陽みたいに笑うマリオが、歯切れよくそう言った。

そこでやっと俺たちは呼吸を取り戻した。

 

――心臓の鼓動がうるさい。

あまりの感動と興奮で、俺は胸を押さえたまま動けない。

オーナーは椅子を蹴るように立ち上がってスマホ片手に部屋を飛び出していく。

 

そして武一さんは、震える手で乱暴にスマホをタップして――

 

 

「う、うらっ、麗!!今すぐ渋谷に来い!」

 

 

開口一番、そうがなり立てた。

 

 

 

 

 

____

天ヶ瀬麗視点

 ̄ ̄ ̄ ̄

 

 

そこそこ眺めのいい、しかも防音設備の整ったマンション。

七時間ぐっすり眠れて寝覚めはばっちり。カップに入った紅茶はラデュレの最高級。

グランドピアノは調律したばかりで、僅かな狂いも生じていない。

ついでに予約していた乙女ゲームが先ほど届いた。

完璧な休日の朝だ。

 

――これから気の乗らないお見合いが待っている、という一点を除けば。

 

 

三十歳を目前にして、いよいよ母の「結婚しろ」攻撃は苛烈さを増していた。

この攻撃に対しては、ジャズピアニストとして、キーボーディストとして立派に独り立ちしていることは何の意味も持たない。

私は無理やり押し付けられたお見合い写真を一瞥し、フンと鼻を鳴らす。

それなりにスタイルがいい男だ。まぁ、別段顔立ちが整っていないわけでもない。

でも、うすら笑いが気に食わない。

たった一枚の写真に大仰なハードカバーの台紙付き。

サイズ的にゴミ箱に捨てるときにはひと手間要りそうだ。

 

気に食わない点は他にもある。

母曰くこの男、音楽活動に対しても「理解はあるほうです」と答えたらしい。

ちょっとイラっとする言葉だ。

好きなら好きと言えばいいし、興味がないなら興味がないでいいのに。

まぁでもどこぞの社長の一人息子だとかで、金には困っていないらしい。それは素晴らしい長所だ。

 

椅子の背もたれに体重を預け、私はため息をつく。

 

人生はままならないものだ。乙女ゲームみたいにはいかない。

理想の王子様なんて現実には存在しないし――理想の声をしていた攻略対象は、手の届かないところに行ってしまった。

 

だから――適当なところで妥協しようかな、という気持ちは、確かに私にもある。

「……ハァ」

紅茶を啜り、ため息を一つ。

 

――電話がかかってきたのはその時だった。

 

スマホには少しだけ懐かしい名前が表示されていた。

東武一。

線の細めのゴリラが脳裏に浮かぶ。大体合ってる。

 

「はい」

 

『う、うらっ、麗!!今すぐ渋谷に来い!』

 

電話に出ると、興奮状態のゴリラの声が聞こえてきた。

「……久しぶりに電話来たと思ったら突然何よ。私は優雅なティータイム中なんだけど」

『大事件だ!大事件が起きたんだよ!今日お前がここに来ないと俺もお前も一生後悔する!絶対だ!』

見たことないくらいのテンションね、コイツ。

「いきなりそんなこといわれても無理。私は今日重大なイベントがあるのよ。ベターエンドフラグの一つなんだから」

『うるせえ!いいから来いって!』

「なんだか知らないけど落ち着きなさいよ」

『これが落ち着いていられるか!来ねえってんならそこ押しかけて連れてくぞ!もう、アレだ、殴ってでもな!』

あら武一にしては珍しく強い言葉使うわね。ゴリラ並みのルックスとゴリラ顔負けのドラミングとゴリラの繊細さを併せ持つ男なのに。

「いいけど私はグランドピアノで殴り返すわよ」

『えっ死んじゃう……』

すぐ怯むあたりやっぱりいつもの武一だわ。

『――い、いやこの際今日が終わったらグランドピアノを俺の墓標にしていい!お願いだから来て!』

「戒名ヤマハになるわよ」

『ヤマハだろうがスタインウェイだろうが好きにしろ!』

……らしくない粘り腰だわ。これ本当に異常事態ね。

「ちゃんと説明しなさいな。何があったの?」

『とにかく――とにかく会って欲しい男がいるんだよ!今写真送るから、それだけでも見ろ!』

まるで母のようなことを言って、武一は電話を切った。

即座にスマホが鳴る。本当に写真を送りつけてきたらしい。

私は一応それを確認する。

 

 

とんでもねえイケメンだった。

とんでもねえイケメンがピースサインしてる。

この私に向かって。

 

直後に届いたメッセージには「このツラでシゲルみたいな声しててシゲル並みにギターがうめえ!」とある。

 

……ふむ。

 

ふむふむ。

 

 

つまり待ちに待った王子様が登場したと。そういうことよね。

 

 

デカいお見合い写真に膝を入れてからゴミ箱にぶん投げて、私は立ち上がった。

 

 

トゥルーエンドのフラグと共に。

 

 

 

 

 



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番外編 渋滞知らずの精霊馬 4

 

____

安藤達也視点

 ̄ ̄ ̄ ̄

 

ドアを蹴破るような勢いで麗さんは参上した。

武一さんの電話から三十分も経たずに。

……麗さんどこ住みだっけ。ワープでもしたのかな。

「――なんだその恰好。お見合いでもする気か」

気合の入りまくったメイクとファッションを見て、武一さんはちょっと引いていた。

「する気よ」

その武一さんを一顧だにせず、麗さんは一直線にマリオのもとへと進む。

マリオは麗さんを見て嬉しそうに顔をほころばせた。俺を知ってるくらいだから、著名なピアニストでもある麗さんのことも知ってるんだろう。

なにしろ麗さんは異色の経歴の持ち主だ。元々一流のピアニストでありながら、シゲルさんの音楽に惚れこんでツアメンの座をもぎ取ったというエピソードは、なんとテレビ番組になったこともある。知名度はかなり高い。

 

「あの、音楽好きですか」

その麗さんは自己紹介も無しに、マリオにそんな質問をぶつけた。

「おう!愛してるぜ!」

でもマリオは即答する。

「ありがとう。結婚しましょう」

麗さんも即答する。

「あ?」

「待て待て待て」

麗さんによる会話の超次元ドッジボールに武一さんが割って入った。

「のけ、武一。こんな都合のイイ、私の理想をかき集めたかのような男性――私の夢から出てきた王子様以外にあり得ない……!私に所有権がある!」

麗さんは言葉の剛速球で武一さんを場外に吹き飛ばそうとする。

「無茶苦茶言ってんじゃねえ!そんなことのためにお前に声かけたんじゃねえぞ!」

でも武一さんは踏ん張る。えらい。

「ハァ?!じゃあ何で私を呼んだのよ?!」

「キーボードやらせたいからだよ!お前に他の価値があるか?!」

「ころす」

「うわああああ!」

麗さんが執拗に武一さんの急所を狙いだした。武一さんは鋭い蹴り足から必死に逃げる。

まぁ流石に他の価値がないってのは言い過ぎだ。麗さんはかなり綺麗なヒトで、スタイルもいい。

だけどいわゆる『黙ってりゃ美人』なタイプだからなぁ……

 

ああ、でも、こんなやり取りもなんだか――

 

「懐かしいな……」

 

――その小さな声は、俺の口から出たものじゃなかった。

 

はっとして横を見る。

そこにあるのは嬉し気に――そして本当に、心底懐かしそうに二人を見ているマリオの横顔だ。

なぜかその整いすぎた顔にシゲルさんがダブって見えて、俺は目をこすってしまう。

「――おっと、ライブ前にドラマー潰されたらたまんねえよ。おいタツヤ、ぼちぼち止めるぞ」

「あ、そ、そうだね」

 

 

マリオが麗さんを羽交い絞めにしたところ、彼女は陶酔状態で動きを止めてくれたので、俺たちはやっとリハーサルの話が出来るようになった。

 

 

「――あれ?ところでオーナーはどこいったんすか」

「あっいねえ。まぁイイや」

武一さんがさらりと言う。

「……まぁイイんすか?」

いいんだろうか。そもそも今回のイベントってある意味オーナーが主役では?世話になったオーナーへの手向けのライブってことだったはずだけど……そのオーナーにリハぐらいは確認してもらわないとマズいんじゃないかな。四分の三がピンチヒッターなんだから。

でも武一さんはあっさり頷く。

「ああ。別にオーナー居なくてもライブの出来栄えに影響無いから」

なるほど。武一さんは当初の目的を完全に忘れている。

「そんなことより肝心なのはマリオの歌だ。『歌もイケる』って話だが……あのギターの後じゃハードル上がるぜ。自分自身のギターに負けない自信あるのか?」

「ほんとにアホね武一は。この王子様の歌が下手なわけないでしょう」

何故か麗さんが答えた。

やれやれと言いたげな様子で口を挟んだ麗さんに、武一さんは半眼を向ける。

「……お前マリオの何を知ってんだよ」

「何から何まで知ってるわよ。私の夢ノートに詳細な設定が山のように描かれてるから。――その声は天上の美声だしその演奏はミューズも裸足だしそのルックスにはアフロディーテが嫉妬してサネルの五番は彼の汗よ」

一息に言った麗さんは虚空を見据えてポンと手を打つ。

「――あっ、買い占めなきゃ。サネルの五番」

麗さんの瞳孔は開いていた。

「コイツ過去最大級にキマってやがる」

武一さんが戦慄している。

俺もこわい。

平然としてるのはマリオだけだ。

「まーとりあえず歌の方もテストしてくれよ、武一」

あの麗さんを前にして普通に話を続けられるんだからすごい心臓だ。

……というかこの人今はライブのことしか頭にないのかもしれない。なんとなくそれが正解な気がする。

「あ、ああ。だけど言った通りハードル高いぞ。大丈夫なのかよ」

「お眼鏡に叶わなかったらタツヤに任せりゃいいだろ」

「……まぁ、そうだな」

「えッ、俺すか」

武一さんはマリオの言葉に頷くけど、俺としては冷や汗ものだ。

正直勘弁してほしい。このギタリストに負けないボーカルは多分現世にいない。

「じゃあ適当に歌ってみてくれよ、マリオ。何の曲でもいいぜ」

「ん-。じゃあ『スモーキン・スモーカー』なんてどうだ?」

「またテクい曲を……あの大サビの転調イケるのかお前」

「そいつも聞けば分かるだろ」

「ちっ――その声で音痴だったら赤っ恥だからな。頼むから笑わせてくれんなよ!」

俺は武一さんのその言葉を聞いて、マリオなら即座に『任せとけ』と答えると思った。

 

だけど、

「あー、そりゃあ難しいかもしれねえな」

なんと、マリオが口にしたのはそんなセリフだった。

「何ぃ?」

予想外のセリフに、武一さんはぎょっとした顔でマリオを見る。

 

でも。

 

「不思議と皆、笑っちまうらしいぜ――」

 

弱気な言葉とは裏腹に、マリオは自信満々にギターを構えて――

 

 

 

「俺の歌を聞くとな!」

 

 

 

大きく口を――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

____

 

 

 

結果。高いハードルとやらは何の意味もなかった。スーパージャンプで一発だった。

一行は即座にステージへと移動し、打ち合わせを始めていた。

「これが今日のセトリ(セットリスト。演奏する曲名とその順番)だ。でも手を加える必要があると思う」

「ほー、どれどれ」

見るからにわくわくしているマリオは、武一の差し出したメモに目を通し――眉を顰めた。

「……なんだこの櫻崎シゲルの多さは!コピバンじゃあるまいしもっとてめえらの曲やれよ!」

「しょーがねーだろ!アイツただでさえレジェンドだったのにラストライブで本物の伝説になっちゃったんだから!今日やるはずだったバンドマンは全員アイツのファンなんだよ!」

「言うほど大したことねえよアイツ」

「てめー俺と戦争する気か。……そもそもだな、マリオ。お前その声とギターでシゲルの曲やらねえってのは冒涜だぞ冒涜。大体『スモーキン・スモーカー』だってシゲルの曲だし、『Everybody』も弾けるってんならお前もシゲルの曲好きなんだろ?」

「そりゃあ大好きだけど――いや、そうか。今日に限っちゃ都合が良いな」

「あん?都合が良い?」

「ああ。――このメンツで、櫻崎シゲルの曲をやれたら、」

 

「そいつはもう、言うことなしってヤツさ」

 

右手をポケットに突っ込んで、マリオは「ありがてえ」と口にする。

 

その様子を尻目に、オーナーは呼びつけたカメラマンをせっついている。

「早くしろ。リハが始まっちまうだろうが」

「あのですねオーナーさん。盆休みの最中に電話一本で呼び出されて、この速度で機材持ってきてセッティングしてる俺に感謝の一言もないんですか?」

「やかましい。あのメンツを撮れるんだ、むしろ俺に感謝しろ」

「……確かに錚々たるメンバーですがね。あの見れば見るほどイケメンの彼だけが不安要素ですよ。ちゃんとしたミュージシャンなんですか?」

「間違いなく本物だ」

断言するオーナーに、カメラマンは少々驚いた。軽々に「本物」なんて言葉を使う人物ではないことを、それなりに長い付き合いで知っていたから。

「ま、確かにそれなら映像で残しておきたい気持ちもわかりますが……定点カメラで俯瞰で撮ってPAからライン音声もらうんじゃダメなんですか?」

「それだけじゃあ不満だからおめえを呼んだんだよ。このライブは今後一生の酒の肴になるんだからな。グダグダ言ってねえで仕事しろ」

「してますよ。……あー、スペースちょっと足りねえ。オーナー、カメラ一台減らしていいです?」

「ダメだ。客のスペースの方もっと減らせ」

「いいですかそんなことして。ただでさえ結構削ってるのに」

「いいんだよ。どーせ埋まらんし、人間はぎゅっと詰めりゃ結構入る」

「はぁ……まぁオーナーが良いって言うならいいですけど。――言っておきますが、完璧な仕事求められても困りますからね。満足に技打ち(技術打ち合わせ)する時間もないんだから」

「わかってる。ちゃんと給料は出す」

「助手もつれてきたんだから人数分ですからね」

「ああ払ってやるさ。……だがな」

「?」

「――賭けてもいいが、おめえは五分後には『金払うんで撮らせてください』って言ってるぜ」

 

リハーサルが始まる。

 

 

 

 

 

 

 

____

安藤達也視点

 ̄ ̄ ̄ ̄

キャパ500人というのは決して小さいハコじゃない。だけど、ドームやアリーナなんかの大箱と比べればその差は歴然だ。自然と客全体との距離が近くなる。

だから、観客たちが面食らっている様子が、この『サラスヴァティ』ではよく見えた。

観客の反応も当然と言えば当然だ。何しろステージに上がってきたのは四分の三が代打。っていうか武一さんだって出番はもっと後のはずだったから、何なら全員代打だ。「話が違う」と文句の一つも上がりそうな場面だ。

だけど、観客たちは当惑しても不満の声を上げることはなかった。

何故なら――

 

「よう皆!逢いたかったぜ!」

 

スターの声で語り掛ける彼のビジュアルが余りにも強すぎたからだ。

女性も男性も等しく釘付けにして、彼のMCが続く。

 

「俺はマリオ!いきなりで悪いんだが――今日はライブの前に『悪い知らせ』と『良い知らせ』を聞かせなきゃならねえんだよ」

 

「先に『悪い知らせ』からだ!――今日出演予定の面子なんだが、そこの武一を除いて全員病院送りになっちまった!」

 

驚きの声がライブハウスに響く。「どうして?!」という疑問の声や、「大丈夫なのか!?」という心配の声があちこちから上がる。

 

「安心してくれ、命に別状はねえらしい」

 

「原因に関しては――何と刺身にハラ刺されたらしいぜ!だけど刃傷沙汰じゃあしょうがねえ。刺身も普段刺されてばっかりだからな、許してやってくれ」

 

彼の言葉に安堵した観客たちは、軽口に笑みを漏らす。

 

「さぁてそれじゃあ『良い知らせ』だ!」

 

 

 

彼は、なんだなんだと耳を澄ませる観客たちの目の前で――

 

 

「――今日の二時間!代打はずっと俺たちだ!」

 

 

胸を張って堂々と、それを『良い知らせ』だと言い切った。

 

俺は笑ってしまう。

勿論異論はない。

当たり前だ。チケット代が安すぎると心底思う。

 

 

「自信満々だなぁ、あのシゲル声」

「マリオ?誰?巧いのー?」

「武一さんが巧いのは知ってるけど」

「ベースタツヤじゃん。久しぶりに見た」

「キーボードの美人誰?」

「天ヶ瀬麗さん。あの人も久々に見る気がする」

「いやこれマジですごいよ。あのライブのメンバーの、四分の三が揃ってる」

「得したな。刺身はずっと刺しとけ」

 

「おっと、やっぱり結構知られてるな!――ってえことは、皆の懸念は俺だけか?」

 

「そうだー」

「初めて見るぞー」

「ちゃんとギター弾けんのかぁ」

「でもツラと声は完璧だぞー」

「SNSのID教えて!!」

「ホントにただのバンドマンなの?声的に櫻崎シゲルのモノマネ芸人さんとかじゃ?」

「芸人にしては顔とスタイルが良すぎる」

「アイドルやったら一日で天下獲れるぞ」

「っていうかなんでカメラ入ってんの?」

「マリオ、その面子で下手だったら滅茶苦茶浮くぞーっ」

 

気安い声が上がる。距離が近いから聞き逃しようもない。

彼はそれを聞いて、いたずら小僧のような笑みを浮かべながら――

 

「安心してくれよ!追い風が吹いてんだ!」

 

余裕綽々で請け負った。

 

「セトリ確認したらなんとまあ櫻崎シゲルの多いこと多いこと!……分かるか?渡りに船だぜ!何しろほら、俺って声が似てるだろ?」

観客たちは『似てるー!』の大合唱だ。

「だろ?別に似せようとしてるわけじゃねえんだが、そっくりってよく言われんだよ」

 

「へへ」

 

「――歌もギターも、うり二つだってな!」

 

 

言うが早いか掻き鳴らしたギターの超絶技巧で、彼は観客全員の度肝を抜くと――

 

 

 

「楽しんでいこうぜぇっ!」

 

 

 

痺れる声でシャウトした。

 

 

 

 

 

『お決まりの』セリフを聞いて、ぶるりと身体が震える。

 

 

 

 

 

 

――神がかったギターテクとボーカルだってことは、ちょっと聞いただけで分かっていた。

でもさっきのリハで新しく分かったこともある。

 

例えば、ちょっとした仕草に滅茶苦茶見覚えがある、とか。

こっちが教えた覚えのない個人情報について言及することがある、とか。

演奏のクセが『そんなに似るわけねーだろ』ってくらいとある人に似てる、とか。

「ちょっと貸してくれよ」って言って触った楽器をどれも一流に弾きこなしてしまって――同じことが出来る世界のバグみたいな人に一人だけ心当たりがあるとか。

 

 

――初見でこんなに息が合うなんてのは絶対にあり得ないってこととか。

 

 

何故か彼は俺たちの癖を完璧に理解していた。

何故か俺たちも彼の癖を完璧に理解していた。

 

そして本番を迎えた今――お互いの考えすらも、手に取るように分かってしまう。

 

――ここのフィルインから少し走らせたい。

――次の周期でカウンターメロディ。

 

音から意図が伝わってくる。言葉にしなくても全てがかみ合ってる。

 

長いブランクで俺の腕に浮いた筈のサビは、ワンフレーズごとに滅茶苦茶な速度で吹っ飛ばされていく。

 

……うん。我ながら驚異的なスピードで勘が戻ってると思う。

 

 

戻ってるとは思うんだけど――

 

正直、まだ少しばかりしっくりこない。

 

流石に弾いてない時間が長すぎた。

 

 

 

そんな俺のもどかしさに気づいた彼が、音楽を通じて語り掛けてくる。

 

 

「おいタツヤ。俺が引っ張ったほうがいいのか?」と。

 

 

挑発的な笑みを浮かべた彼は、そんな風に煽ってきた。

 

他の誰でもないこの俺を。

 

 

 

 

 

――脳ミソのどっかで、カチン、とスイッチが入った。

 

 

 

 

 

 

舐めてもらっちゃ困る。

 

俺を誰だと思ってるんだ。

俺は――超一流だから、ツアメンやってたんだよ。

誰よりも巧かったから。

 

コイツに関しちゃ、貴方よりも。

 

 

俺の手が音と繋がる。勝手に動き出す。

全盛期をなぞるように――いや、超えるように。

 

一段上がった俺の演奏に、一瞬のラグも無くギターが合わさる。

魔法みたいだ。

完全にこちらの呼吸を読んで、完璧に音を合わせてくれる。

それが最高に気持ちよくて、指がどこまでも滑らかに動いていく。

 

ああ、懐かしい。

一秒ごとに上達していくこの感じ。

憶えがあった。

 

 

 

こんなことを出来る人は、三千世界にひとりきりだ。

 

 

 

 

 

――どこ行ってたんですか。ずっと待ってたんすよ。

俺も、武一さんも、麗さんも。

観客のみんなも。

 

ほら。歓声が雷鳴みたいだ。

二年分のうっぷんを晴らすかのようなテンション。

 

 

 

はは。

すげえ。

楽しい。

音楽は、こんなにも楽しい。

そうだ。俺がシゲルさんに憧れたのは、あの人が最高の音楽を演る人だってのもあったけど――

 

 

世界中の誰よりも、楽しそうにしてたからだ。

 

 

俺もあんなテンションで、何かに夢中になれたら――それはきっと、最高の人生だと思ったんだ。

 

ああ、夢見心地だ。

 

人生の殆どを一緒に過ごしてきたベースという楽器が、どこまでも頼もしい。

二年前俺はコイツを裏切ったけど、コイツは俺を裏切らないでいてくれた。

 

憧れだけで音楽をやってきたわけじゃない。ベースを弾いてきたわけじゃない。

久しぶりに弾いてみてつくづく思う。

 

俺は。楽しいから弾いてた。

 

――愛しの相棒よ。最高だ。愛してる。お前に首ったけだ。

二年のブランクは、マジで気の迷いだった。許してくれ。

 

 

 

 

 

 

 

ありったけの情熱を両手に込めて五弦を爪弾くこの瞬間が、楽しくて楽しくて――時間は弾丸みたいにすっ飛んでいった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ったく、二時間が一瞬だな!」

 

彼の言葉に、俺はハッと正気に戻る。そうだ今弾いたの最後の曲のアウトロだ。なんてこった。

 

 

――だけど、良いライブには『この後』がある。

 

 

 

長い拍手をする人がいる。俺たちの名前を連呼する人がいる。

もっと直接的に、「アンコール」と叫ぶ人がいる。

どの行動も意味は同じだ。

 

もっと続けてくれと、そう願っている。

 

――そうだ皆。

その歓声で、引き留めてくれ。

今度こそ終わらせないで。

もう少しだけでいいんだ。

 

どうか俺に、俺たちに、あの日の続きを――

 

「やっぱりいいもんだな!アンコールの掛け声ってのは!」

 

「いくらでも演れる気がしてくるぜ!」

 

「――お前たちもそうだろ!?」

 

そう言って振り向いた彼に、俺は首がちぎれんばかりに頷きを返す。

麗さんはにっと笑って、武一さんは返事代わりにスネアを叩いた。

 

「よぉし!じゃあもう一曲行くか!」

 

観客たちの大歓声が響く。

数百人しかいないとは思えない音圧だ。

 

 

「――櫻崎シゲルの曲はどれも大好きなんだが、中には特別な思い入れがある曲もあってよぉ」

 

 

そう言うと、彼は静かに目を閉じた。

過去に思いを馳せるかのように。

 

彼の言葉を聞き逃すまいと、観客たちは静まり返る。

 

 

「いつか皆の前で演りたいな、って強く願ってたナンバーもある」

 

 

「そう。いつか……」

 

 

静かな時間はそこまでだった。

 

彼はやにわに目を見開いて、

 

 

 

 

 

「――どうやら『いつか』がやってきたぜ!」

 

 

 

 

 

その曲名を、口にする。

 

 

 

 

 

 

 

「『いつの日か』!」

 

 

 

 

 

 

 

ああ――

 

 

 

 

俺の『休憩』が、やっと終わった。

 

 

 



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番外編 渋滞知らずの精霊馬 5(完)

 

 

ライブは二時間の予定で。

 

 

 

 

アンコールは四時間続いていた。

 

 

 

 

 

もはや何度目か分からないアンコールを終え、今日の立役者たちは楽屋の椅子に腰かけている。

 

――今なお響く観客たちの声は、そこまで聞こえていた。

 

『アンコール!アンコォォォォルッ!』

『マリオォォォオ!!』

『タツヤ、タツヤ!』

『うららさーんっ!』

『もっぺん出てこい武一ぃぃぃッ!お願いだからァァァア!!』

『ワンモー(one more)!!わんもー!!』

 

『『『『わんもー!!』』』』

 

 

「アンコールが終わらないっすよ」

ブランク明けの体力と諸々のテンションブーストがついに底を突いて、タツヤは今や項垂れていた。

「いい加減ワンモアがゲシュタルト崩壊しそうだわ」

ぼんやり天井を眺めながら麗が呟く。

「オーナー、もう照明つけちまえよ!死ぬまで終わんねえぞコレ!」

全身汗だくの武一が肩で息をしながら言う。いくら凄腕のドラマーと言えど、リハーサルを含めればもう今日何時間ドラムを叩いているかわからない。消耗は激しかった。

「やかましい。ライブ終わらせようとするとスタッフが全員俺を阻止してくるんだ。誰も言うこと聞かん」

高い金を出して呼びつけたはずのカメラマンですら、「無給でいいから!お金払うから!!」と絶叫しながらオーナーにしがみついてきた。

「だけどこのままじゃ俺たちが死ぬか観客が死ぬかのチキンレースだぜ」

頭を抱えた武一は震えた声を出す。

 

まとまった休憩時間も無しに計六時間立ちっぱなしの観客たちは、どうしたことかまだ体力の底を見せずに騒ぎ続けている。叫びすぎて声がカスッカスの者も多いが、それでもテンションは最高潮だ。

チキンレースは分が悪かった。

 

オーナーは「そもそもアンコールに応えちまうのが悪いんだろうが」と言いたくなったが、ぐっと飲み込む。今日という日にそれを口に出すほどオーナーは無粋ではなかった。

 

誰もが疲れていて、しかしただ一人意気軒高の者がいた。

 

「――死ぬまでやるのもオツなもんだろ!いいじゃねえか、付き合うぜ!」

 

もちろんマリオである。

こいつだけは当然のように喉も枯れてないし息も上がってなかった。最高のパフォーマンスのまま元気溌剌だ。

拳を掌に打ち付けて気炎を上げるマリオを、オーナーを含めた四人は白い眼で見る。

 

「そりゃあお前はいいだろうよお前は」

「なんか貴方多分死なないし……」

「せめて一時間くらい休憩もらわないと。こっちは人間なんすよ」

「俺も人間だっての!」

 

「――そいつが人間かどうかは置いておいて、ともかく限度というものはある」

オーナーはため息をついて、ライブフロアの方角に顔を向ける。

壁越しにも観客の大熱狂が伝わってきた。

「……ながーい経験から言わせてもらえば、ありゃ見たことないレベルの危険なテンションだ。――いいか。奴らがまだあそこに留まってるのは、お前らがずっとアンコールに応えてたからだ。一時間どころか三十分も間を空けたら両手振り回しながら楽屋まで突っ込んでくるぞ」

「暴徒じゃねえか」

ひきつった顔で呟く武一に、オーナーは「それに加えて」と言葉を重ねる。

「店の外もかなりマズイことになってる。客の一人がスマホで撮ったライブの映像をネットに上げたらしい。それがSNSで拡散されて、この店は包囲されつつある。店の外が人で溢れることになれば最悪警察沙汰だ」

物騒なその言葉を聞いて、むしろ武一は胸をなでおろした。

「……つまりもうお開きの時間ってことだな。ほっとしたぜ」

「えー……なんだよノッてきたところじゃねーかよ。だってまだまだ宵の口――」

そう言って不満げに楽屋の時計を見たマリオは、そこで「――あっ!」と声を上げた。

 

「――そうだ俺24時門限なんだった!すっかり忘れてた!!」

 

マリオのその言葉を聞いて、オーナーは自らも時計に視線を移す。

――24時門限。なるほどそりゃ道理だ、とオーナーは思う。

現在19時過ぎ。

 

――今ならば、名残を惜しむくらいの時間はあるだろう。

 

「なんにしろ警察沙汰は勘弁なんでな。――ライブはここまでだ」

 

反論を許さない強さでライブの終了を告げたオーナーに、マリオはがっくりと肩を落とした。

「ぐっ、ちくしょーこれまでか……24時までどうすっかな」

「――あん?」

途方に暮れたように言うマリオに、武一は呆れ顔を向けた。

「どうするか?――んなもん決まってんだろ、なぁ?」

「愚問ね」

武一の言葉に、麗は当然とばかりに即答する。

「ん?」

「ほら。いい時間じゃないっすか」

首を傾げるマリオだったが、そう言ってくいっと何かを傾ける仕草をしたタツヤを見て、その顔にも理解が広がった。

「――なるほど!そりゃそうか!」

 

「ライブの後は打ち上げだよな!」

 

「「「当然!!」」」

 

はしゃぐ四人を見て、オーナーは緩んだ口元をぐっと引き締めてから出口に向かって顎をしゃくった。

 

「今ならまだ抜けられるから、さっさと裏口から出ろ。タクシー回しておいた」

「「「「!」」」」

 

如才ない手配に、四人は喜色を浮かべて立ち上がる。

「さっすがオーナー!抜かりねえ!」

「ありがとうございます!」

「伊達にジジイじゃないわね」

武一、タツヤ、麗の三人は、そう言いながら慌ただしく楽屋を後にして――

 

 

その三人の後に続いたマリオは、最後に扉の隙間から顔を覗かせる。

 

 

「――サンキュ、おっちゃん!楽しかったぜ!」

 

 

 

 

 

 

 

騒々しく閉じられた扉に背を向けて、オーナーは煙草を一本取り出す。

「……けっ」

その視線の先にあるのは、ひと際目立つサイン。

 

「おめえもおっちゃんだろうが」

 

にやりと笑って、オーナーは咥えた煙草に火をつけた。

 

 

 

 

 

 

____

安藤達也視点

 ̄ ̄ ̄ ̄

 

 

俺は、いや俺たちはいい感じに出来上がっていた。

皆で何度か来たことのある居酒屋で、ひたすらくだらない話で盛り上がっている。

酒が旨い。

ツマミが旨い。

楽しい会話は途切れることがない。

 

 

「いやマジかよ?!こんなヘッドフォン出たの!?」

「すっげー良いだろコレ。俺二つ持ってるからもってけもってけ」

「マジ?いいの!?愛してるぜ武一!」

「あーはいはい俺もだよ、シ……マリオ」

「ほら、鶏皮来たわよ。貴方これ好物だったでしょ」

いちゃいちゃする二人の間に、皿を持った麗さんが割って入る。

「おー、コレコレ!パリパリしてて最高!」

「そこにコレ!濃いめのハイボールっすよね!」

にこにこ笑う彼に、俺もすかさずグラスを差し出した。

「わかってんじゃねえかタツヤ!」

ますますご機嫌でグラスを傾ける彼だったけど、それを見る武一さんは少々あきれ顔だった。

「……しかし収入のわりに安いモン好きだよなー、お前。もっと高いの頼めよ」

「うるせー。俺の好きなもんくらい俺が決めんだよ」

即答した彼が鳥皮をパクつく。

心底幸せそうだった。

「……そうっすよね」

「――あっそうだタツヤ!」

小さく呟いた俺に、彼がロックオンしてきた。あっ、ちょっと怒ってる時の表情。

「リハでも言ったけどお前しばらくサボってやがったな!」

――ぐっ、何の言い訳もできない指摘が飛んできた。

「いやそれに関してはマジですんません……」

「事情が事情だったんだよ。許してやれ」

「うるせー!」

武一さんがとりなそうとしてくれるけど、どうも怒りは収まらないらしい。

「何があったんだか知らんけどベースとドラムはバンドの心臓だろうが!心臓が怠けてんじゃねーよ!死んじゃうだろ!」

「……でもほら、本当に心臓止まってもライブやった人だっているじゃない」

麗さんがそんなことを言ったけど、彼は「はぁ?」と心底不思議そうな顔をした。

「嘘つけいるわけねえだろそんなヤツ。――漫画の話か?」

「「「……」」」

俺たち三人は顔を見合わせる。この人の『演技力』の欄にはでっかいバツが付いているので、本気で言ってるのは間違いない。

――あ、でもそうか!ほとんど知らない人もいないくらい有名な逸話だけど、確かにこの人だけは知らなくてもおかしくないのか!

俺たちが「なるほど!」と頷きあうのをこれまた不思議そうな顔で見て、彼はグラスを煽ると一息ついた。

「ふーっ……だけどまぁ、お前がベースから離れるくらいだ。余程のことがあったんだろ?」

 

うんまぁ……大体貴方のせいですけど……

 

俺の視線に気づかず、彼は腕組みしてしみじみと頷いている。

「ま、人生けっこー長いからな。凹むことも、それなりにあるよな」

そう言った声には実感がこもっていて、

「――貴方にも、あったんですか」

俺は思わずそう尋ねていた。

「……おう。もう立ち上がれないかも、って思ったことも――たまーに、な」

素直に答える彼を、武一さんも麗さんも面食らった顔で見る。

「へぇ、そりゃ意外だな」

「ええホント。貴方は死んでも立ってるイメージだわ」

「俺を何だと思ってんだ?」

「……そりゃあ」

「ねぇ……」

二人は言葉を濁した。

実際のところ「俺を何だと思ってんだ」へのアンサーは一つしかないんだけど、なんというか彼が一生懸命隠してるのはわかるので、直接口に出すのは憚られる。理由があって隠してるんだろうし――『正体を言い当てると消えてしまう』なんて、結構ありがちな話だ。

訝しがる彼に、俺は矛先を逸らす意味でも質問を重ねた。

「それで、どうやって立ち直りました?」

「ん?そりゃお前コレだよ」

彼はギターケースを手繰り寄せると、修理の跡がある金具部分に触れて顔を綻ばせる。

「やっぱり、ギター?」

「だと思ったぜ」

実に納得のいく答えに、麗さんと武一さんは笑みを浮かべる。

彼は「まぁな」と肩を竦めると、言葉を重ねてきた。

「でもギターに限った話でもないぜ。――つまるところ、俺の『好き』さ」

彼はぐいーっとグラスを干すと、どこか遠い眼をした。

そして静かに語りだす。

「――まぁ『好き』のせいでつらい思いをすることも確かにあるんだけどよぉ。マジで有難みが分かるのは、大ピンチの時なんだよな」

「大ピンチの時、ですか……」

「……ああ。だからベースを手放すなよ、タツヤ。――休んでもいい。ちょっと距離を置いてもいい。でも、見えるところに置いておきな」

優しい眼をした彼の、その痺れる声が、心に直接届くようだった。

 

 

「いつかお前に『絶体絶命』がやってきたとき――そう、そのときだ!」

 

「お前の『好き』が!」

 

 

「ピンチのお前を、救ってくれるぜ!」

 

 

――。

 

 

「……っと、なーんか説教臭くなっちまったな!わはは、ガラじゃねぇわ!飲め飲め!」

「はいっ」

 

照れくさそうに酒を注ごうとしてくる彼に、俺は素直に杯を差し出す。

 

ああ、楽しいな。

夢みたいだ。

 

この時間が永遠に続いて欲しいと、俺は心底そう思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

だけど――

 

 

「――げっ!?やべえもうてっぺんかよ!」

 

 

どんなに楽しい時間にも、終わりは来る。

 

ふと時計を見るや顔を青くした彼は、慌てて立ち上がった。

時計の針は、日付が変わる五分前を指していた。

「……それがどうしたんだよ。朝までコースだろ今日は」

「そうもいかねーの!門限あるっていったろ!」

「零時門限ってシンデレラみたいね」

魔法が解けちゃうのかしら、という麗さんの小さな呟きに気付くことなく、彼はあちこちのポケットをまさぐる。多分財布を探してるんだろうけど見つからないらしい。

やがて彼は武一さんに拝み手すると頭を下げた。

「……悪ィ武一、無一文だ!ツケといてくれ!」

「バーカ、奢らせろ」

「さんきゅ!」

「六文くらいは持っておきなさいよ」

「俺は何時代の人間なんだよ」

麗さんの謎のセリフに突っ込みを返して足早に店を出る彼を、俺と麗さんは追っかける。

「今どこ住んでるのよ。タクシー呼ぶ?」

「料金スゲーことになりそうだから無理だ。えーと、ヤベエな場所が……」

焦った様子の彼はきょろきょろと視線を動かして――何故か少し先にある店と店の間、路地裏へと続く道に目を付けたらしい。

「あそこでいいかっ」

そう言った彼は振り返って俺たちを見て、笑顔でサムズアップをする。

「んじゃ、あばよお前ら!――ありがとな!お前らのおかげで、最高のライブだったぜ!」

余りにもあっさりそう告げた彼は、そのまま駆け出そうとして――

 

「マリオ!」

 

爆速で会計を済ませたらしい武一さんが店から飛び出してきて、その背中を呼び止めた。

「あ?」

彼は振り向く。

「――」

武一さんは何か言葉を飲み込んだあと、再び口を開いて、

「また、逢えるか?!」

それだけを聞いた。

「……」

武一さんの質問に、彼は今日初めて言葉に詰まると――

「……なあ。お前ら、またライブやるんだろ?」

逆に、俺たちにそんな質問を投げかけてきた。

俺たち三人は一瞬顔を見合わせて、それぞれの答えを返す。

「俺は当然、死ぬまでやるけど」

武一さんは当たり前のように答える。

「こんな楽しいこと他にある?」

麗さんが微笑んでそう言った。

そして、二年もベースを置いていた俺は――

「はい。絶対――絶対、やります」

臆面もなくぬけぬけと。

「近いうちに。何回だって!」

だけど心の底からそう言い切った。

 

 

「そうか」

 

 

彼は俺たちの答えを聞いて、心底嬉しそうに笑って――

 

「お前たちが、精一杯ライブをやりぬいたら」

 

 

「――その時会えるように、話つけとくよ」

 

 

再会の約束をした。

 

だけどそれはきっと――とても、遠い再会の約束。

 

「……なぁーにしょげてんだよ!」

俯いてしまった俺の肩を抱き寄せるようにして、彼が顔を覗き込んできた。

「先は長いぜ!最高のステージが、きっとお前らを待ってる!」

俺を見つめる彼の眼は星のように輝いていて、自らの言葉を少しも疑っていないのが分かる。

 

 

 

 

「だからよ――」

 

 

 

 

 

 

「楽しんでいこうぜ!」

 

 

 

 

 

 

ひと際強く俺の背を叩いて、彼は走り出した。

 

俺たちを置き去りにして――

 

 

 

 

 

 

 

 

俺はもう限界だった。

 

「シゲルさん――!」

 

ついに叫んで、俺は駆け出す。

あの人の後を追って、角を曲がる。

だけど――完全な行き止まりになっている路地裏には、猫の子一匹いなかった。

炎のような熱だけを俺の胸に残して、あの人は煙のように掻き消えていた。

 

「……いっちまったな」

 

ややあって追いついてきた武一さんが、俺の肩にぽんと手を乗せながら言う。

 

「茄子の牛、案外足が速いのね」

 

麗さんが呟いて、空を見上げる。

 

繁華街の夜空だ。星はろくに見えない。

でもきっと、そこにあるんだろう。

 

「……よし、店変えて飲み直すか!近くに知り合いのやってるダイニングバーがあんだよ!」

 

武一さんは俺と肩を組むようにしながら踵を返す。

「――そうですね」

少しだけ名残惜しかったけど、俺は逆らわない。

あの人の消えてしまった路地裏に背を向けて、ネオンの光に向かって歩き出す。

 

 

 

 

どんな楽しい時間にも、終わりはくるけど。

きっと終わりがあるからこそ、楽しい時間は楽しくて。

終わりが来るからこそ、新しい喜びを探しに行ける。

そうだ。

次はきっと、もっと楽しくなる。

 

だから――

 

いつの日か、また逢いましょう。シゲルさん。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

____

 

 

 

「ひゅー、ぎりぎりセーフって感じか!」

神域への移動はあっという間だった。

最高の一日を終えて、気が付けばシゲルは神域にいた。その顔は達成感に満ちている。

 

正体をばらさないように。日を跨ぐその時までには人目につかない場所へ。その約束は何とか守れた――

 

と本人は思っているらしい。驚くべきことに。

 

 

 

 

 

「シゲルちゃん……貴方ってホント、音楽以外はホント……」

 

 

 

「……ん?おお、弁天様!」

 

気が付けばわなわなと震える弁才天が目の前にいたので、シゲルは胸を張ってみせる。

「へへ、どうだった?見事に正体を隠し通したぜ!俺の腹芸も捨てたもんじゃねえだろ?」

 

大根役者はぬけぬけと言った。

 

 

「捨てたもんだわよ!捨てちゃいなさいそんなもん!」

 

 

弁才天が吼え猛る。

「なにっ?!」

シゲルは図々しくも「そんなはずは!」と驚愕に目を見開いた。

「飲みの席でのあなたはもういっそ神がかってたわよ!全ての誘導尋問にひっかかり、しかも引っかかったことにすら気付かないぼんくらっぷり……!」

「えっウソ」

「ほんとよ!もう私たちはこれからあっちの世界の神々に謝罪行脚よ!イザナミ貴女もなんか言ってやってちょうだいな!」

 

そう言いつつバッと振り返った弁財天だったが――

 

「――いない!?」

 

そこにあるのは虚無だけだった。

いや、正確にはひらひらと舞い降りてくる紙片が一つ。

 

 

『ぼいすとれーにんぐの時間なので失敬する』

 

 

そう書いてある。

 

 

 

イザナミは逐電していた。

 

 

 

「あの女ァ!!」

弁才天は金切り声を上げながら紙片をビリビリに破いた。

しかしそれで何か事態が好転するわけでもない。

「ウソこれ私ひとりで行かなきゃいけないヤツ!?いやーッ!絶対すごく怒られる!多分向こうの世界のイザナミが今頃怒髪天!今ならハデスもついてくる!」

「な、なんかすまねぇ……」

頭を抱えて取り乱す弁才天だったが、気まずそうに謝罪するシゲルと目が合った瞬間動きを止めた。

「――!い、いや逆転ホームランの手がある……!シゲルちゃん、こうなりゃ貴方もついてきなさい!プロジェクトオルフェウスよ!こう謝罪にかこつけて一曲披露して神々を魅了し、何もかもを有耶無耶にしてしまうの!」

弁才天は割と無茶なことを言った。

「よくわかんねえけど分かったぜ!」

でもシゲルは二つ返事だった。

オルフェウスが何なのかシゲルの知識には無い。しかしそんなことは些事だった。

確かなことが一つだけあって、それはシゲルにとって最大の優先事項だった。

 

シゲルはにやりと笑う。

 

 

 

――次のライブが、また始まる。

 

 

 

 

 



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