Fate/Starry Night (九阿散歌碓)
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プロローグ

 日も暮れてしばらく。月さえなき夜更け。

 七月も末に近く。ともなれば、この時間でさえ、風はじっとりと生暖かい。

 

 新月ゆえ空からの光は乏しく、街明かりが強く輝いて見える。

 

 人の文明は、プロメテウスに与えられたその時からはるか遠く。かつてはちっぽけな火種で夜の闇を凌いだ未熟さえ忘れるほどに至り、この星に、絢爛と煌く夜をもたらした。

 

 だからこそ。

 色濃く、はっきりと。それに照らし出された影もまた、際立つものだ。

 

 たとえば、ここにも。照らし出された男が一人。

 

 アスファルトを鳴らす内羽根のストレートチップ。ストライプのスリーピーススーツを着こなす様は紳士的に思えるが、首から上を見ればその評価も反転する。

 

 厳しい顔つきに、鋭すぎる眼光。オールバックに撫で付けられた白髪まじりの髪が威厳を増させる。

 極め付けは右目のやや下から下顎まで走る大きな傷痕で、もともとの恐ろしげな人相と噛み合い、どう見てもカタギの人間には見えなかった。

 

 紳士的に見えたスーツ姿も、一転して暴力の匂いが漂う威圧的なものに見えてくる。

 何もせずとも通行人は男に道を譲り、彼もそれを当然とばかりに悠々と歩みを進める。

 

 人々が自然と目をそらすその男は、少しして、思い立ったように華美な表通りから外れた。ふらりと入り込んだのは、人気のない怪しげな通りだ。

 大通りから少し外れただけだというのに、そこは奇妙に古臭く、怪しげな建物ばかりがあった。

 

 大通りを歩く人の声はぱったりと止み、不気味な静寂と湿った空気だけが薄暗い路地に満ちていた。

 それはまるで、世界が変わってしまったかのごとく。

 喧騒は静寂に、群衆は無人に、快活は怪奇に、正常は異常に——反転する。

 

 ここは、真っ当ではない。そしてそんな場所に自分から入り込むような男もまた、当然。

 

 真っ当では、ない。

 

 男は、ヤクザモノと考えてさえおかしなほど、その空間に馴染んでいた。上等なスーツ姿では、古臭く怪しげな通りではかえって浮きそうなものだが、しかし景色の一環としてぴったり合う。そここそが男のいるべき場所だと示すように。

 

 男は路地を迷いなく突き進んで、やがて立ち止まるのは、奇天烈極まる()()のビルだった。

 

 なんらかの法則に従って、非ユークリッド幾何学的な歪んだ構造で組まれた木材には、びっしりと細かな梵字のようなものが刻まれている。しかし、そこに神聖さは感じられない。どちらかと言えば——()()()()()()()とでも言うべきな、奇妙な忌避感が浮かぶ。

 

 全体を見れば、あるいは螺旋状にねじれた五重塔にも見えるその建物に、男は勝手知ったるとばかりに入り込む。

 

 これまた妙ちきりんな、背の低い真四角の引き戸から入った彼は、土間から暗い廊下に向けて声を上げた。

 

「おい、生臭坊主。おるんだろう」

 

 見た目に合った、太い声だった。

 しかし声は廊下の向こうに吸われ、反響さえしない。すぐさま、しんとした静寂が降りる。

 それでも男は、ただじっと待った。

 

「—–おやおや、三島の旦那じゃないですか。お久しぶりですねぇ。何しにいらっしゃったんです。地上げですか?」

 

 ぱっ、と。暗かった廊下に明かりがつくと同時に、いつのまにか。

 まるで初めからそこにいたように、自然に。

 黒一色の法衣に身を包んだ優男が、廊下に立っていた。

 

「誰がこんな土地を欲しがるかよ、亡阿(ないあ)

 

 男——三島と呼ばれた男は、法衣を着けた男を「亡阿」と呼んだ。

 

 人名なのか、それとも。あだ名、符丁、あるいは蔑称であろうか。少なくとも三島の声には、隠しきれない蔑みが含まれていた。

 

 対して、亡阿と呼ばれた男といえば、ただニコニコと笑うだけで、気にした様子もない。

 

 亡阿は、背の高い男だった。三島も百九十センチを越す長身であるが、亡阿はそんな三島と同じ、あるいはやや超えるほどだ。

 形だけは法衣らしい服を着ているが、剃髪はしておらず、長く伸ばした髪が法衣の上を滝のように這っている。

 高い背と、品のある貴公子然とした顔と合わせ、どこか浮世離れした印象があった。

 

「そりゃあ都心部からは外れますがね、ここも住めば都ですのに。距離で言えば駅からも近いんですよ?」

「お前が住んだ後の土地に住みたがる者なんぞおらんという話だ」

「いやだ、いやだ。あたしゃ嫌われ者ですか」

 

 などと、軽い冗談のように流した亡阿は、「どうぞお上がりください」と三島を招いた。

 

 靴を脱いで廊下に上がり、亡阿の後を追う。眼前の背中はまるで隙だらけで、ふっと気を抜いてしまいそうになる。

 けれど三島は、それが命取りであると知っていた。

 

 先ほどのように、俗っぽくニコニコと笑えば、好青年らしくも見える。けれどそれは、単なる擬態でしかない。

 三島の嗅覚は、その黒い法衣から滲む、隠しきれない血の匂いを捉えていた。

 

「それで、地上げでないのでしたら、今日は何故ここへ?」

「わかって聞いてるだろう」

「オクスリの訪問販売ですか?」

「俺をなんだと思ってるんだ。ヤクザじゃないんだぞ」

「わかってますよう、極道さんでしょう」

「呼び名の問題じゃあないんだよ。——俺は魔術師だ」

 

 魔術師。それは神秘の探究者。

 

 この星のテクスチャがヒトの物になって以降、神秘の霧は祓われる一方だ。

 けれども痩せ細ってなお、人の生み出した光では照らせぬものがあり、そこに住みつく一つが魔術師だった。

 

 人ならざる ()()()()()

 

 魔術なる常道から外れた術を磨き、いずれ「根源」に至ることを目指すもの。

 

 根源。それはこの世の始まりにして終わり。

 全にして一、一にして全。

 世界の外側にある神の座。

 アカシックレコード。「 」。(くう)。無数の名で呼ばれる全能の渦。

 

 そこに至り、それに溶けることを目指す求道者どもをこそ、魔術師と呼び指すのだ。

 

 もっとも——

 

「魔術師もヤクザも変わりゃしませんよ」

 

 原義的に言えば、の話であるが。

 

「人殺すのにオハジキ使わず。人騙すのに言葉使わず。人誑かすのに麻薬使わず。めんどくさがり手間を厭って()()()()()()()で済ますかどうか。それだけの差じゃありませんか」

 

 根源を目指し、ひたすらに探究を——そのような「純粋」な魔術師は、今や少ない。

 

 魔術の「力」にのみ溺れ、探究を怠り現世利益のみを追及する者の方が、多数派になりつつある。

 

「その上、お前からすりゃあ等しく餌だものな。区別なんざつけようがなかろうよ」

「失礼な、あたしゃ人なんか食べませんよ」

()()()()にはするだろう」

「それなら旦那も一緒じゃないですか」

「ちげぇねぇ」

 

 乾いた笑い。

 じゃれあい。長い廊下の、暇つぶし。

 意味のない会話だが、だからこそ、する価値がある。

 

「——それで、何故ここへ?」

 

 客間へと通され、向かい合って座る。

 出された湯飲みに口をつけることなく、三島は本題を切り出した。

 

「始まるからだ」

「始まるとは?」

「俺が知らんと思ったか。始まるんだろう——聖杯戦争が」

 

 へぇ、と。

 亡阿の口から、冷たい声が溢れた。

 

「ははあ、もうそんな頃ですか。あたしゃてっきりもっと先だと思ってましたが」

 

 ——「聖杯戦争」。

 

 それは()()()()()()()()()()だなんて、おとぎ話にでも出てきそうな杯を求め、魔術師たちが行う大儀式にして大戦争。

 

 その闘争は、密やかなれど世界を揺るがす奇跡前夜の恐怖劇。

 奇跡の証明、前貸しでございとばかりに、人類史に刻まれた英雄偉人、名君暴君、名将知将、奇人変人悪鬼羅刹魑魅魍魎——

 すなわち「英霊」を「サーヴァント」として呼び出し、それらを使役し争い合い、奇跡を手にする一人を選び出す、規格外の蠱毒。

 

 正式にはわずか七人、それらが一人ずつサーヴァントを呼び七足す七の十四人。たったそれだけで行われながら、戦争と呼び習わされる極大の魔術儀式だ。

 

 かつて冬木と呼ばれる地で行われ、結果として街一つが滅んだ忌むべき闘争。

 それが今、この京都で行われようとしている。

 

「白々しいな、おい。小聖杯の移送も済んでるんだろう」

「あらら。あの(シト)、もうそこまでやってたんですか」

「どうせお前も一枚噛んでるクセに」

「とんでもない。あたしゃ末端も末端ですよぅ。あの(シト)が何してるかなんて教えてもらえもしないんですから。か弱い下っ端をいじめないでくださいな」

「はっ、ここら一体荒らし回った男がよく言うよ」

「荒らし回った、だなんて。人聞きの悪い。ご近所トラブルだって起こしてないんですよ」

「ご近所が消えたからだろう」

「いらっしゃいますよ。今もまだ、()()()に」

「ああ、土のすぐ下だ」

「ええ、契約通り、旦那のおかげでご近所さんが増えまして。感謝しておりますとも」

 

 亡阿は慇懃に笑う。

 

「……たしかに俺は、お前と手を組んだよ」

 

 三島の声が、すっと冷える。

 いけないな、と三島の理性的な部分が警告を発していた。

 けれどももとより、三島は理性的な男ではない。

 感情で生きる、粗暴極まる男だからこそ。

 こうして容易く、恐怖(本能)を忘れる。

 

「だがね、己の故郷に厄災を持ち込まれてまで、黙っちゃいられねぇよ」

 

 亡阿の目が、警告するように細められた。

 けれど、三島は止まらない。

 

「俺に、感謝してる、っつうなら——此度の聖杯戦争は、やめにしちゃくれないか」

 

 その言葉を聞いて。

 

「ははあ」

 

 ことさらに。

 からりと乾いた声が響く。

 

「旦那、まさかとは思いますが——()()()()をされるおつもりで?」

「お前との契約は守るさ。だが、この聖杯戦争は許容できん」

 

 なあ、亡阿。

 低く、押しつぶすように、三島は言った。

 

()()()()()()()()()()、一体何をしようってんだ?」

 

 かつて街一つが消えた聖杯戦争。たった一つの聖杯でさえそれだと言うのに——三つ。

 この街に、聖杯が持ち込まれた。

 

「あんたにゃたしかに借りがある。だが——土地の貸し出し、仏さんの提供、()()()()の隠蔽……そうやってきっちり返してきたはずだ。それ以上をって言うなら、こっちにも考えがある」

 

 三島は亡阿を睨みつけた。けれど三島の威圧もどこ吹く風で、亡阿は微笑を崩さない。

 

「いやいや、まだまだ返して貰わねばならないものがありそうですよ」

 

 人好きのする、悍ましく軽やかな声で、亡阿は告げる。

 

「人を呪わば穴二つ。旦那、あんたは一抜けたをするには、いささかあたしを使いすぎてらっしゃる」

「……そう言う契約だっただろう」

「ええ、ええ。そうですとも。旦那がご指名くださって、あたしがお命頂戴する。()()()()()は有意義に使わしていただきましたとも。ですから、あたしは何も求めはしません。けれど、『ご近所さん』はそうもいかないようでね」

 

 ヒヤリ、と。背筋に凍てつく怖気が走った。

 その瞬間、ふっと部屋の明かりが消える。

 真っ暗闇が訪れた。

 

「おい、お前、何をする気だ」

 

 語気が強まる。けれども凄んで見せたところで、一寸先は闇。相手の顔さえ見えはしない。

 

「そんなに大声出さなくたって、あたしゃ何もしやしませんよ」

 

 ケラケラと、笑う声だけが聞こえた。

 

「ええ、ええ。誰が何をしようと、なぁんにも、ね」

 

 ——ひたり、ひたり。

 

 三島の耳が、小さな音を捉える。

 何かが這うような、水気のある音。

 

「人の恨みってのは恐ろしいもんで。自分を地獄に落とした原因がいるってんなら、墓の中からだって仕返ししてやりたくなるようだ」

 

 くわばら、くわばら。

 

 嘲るような声。気配はなく、代わりに、音が。

 

 ひたり、ひたり。

 

 一つではない、複数。それは少しづつ、三島に近づいているように思えた。

 

「くそっ!」

 

 三島は即座に魔術で身を守ろうとした。

 しかし、如何なることか。

 

「使えない……?」

 

 魔術を行使しようとしても、できない。まるで空間そのものが三島の魔術を嘲笑うように、魔術が形を持つ前に掻き消える。

 

「おい、亡阿、笑えない冗談だぞ、これは」

 

 声の先にあるのは、闇一色。もはや返事はなく、不気味な沈黙だけがあった。

 

 ひたり、ひたり。

 

 ひたり、ひたり。

 

 音が、近づく。

 

「亡阿!」

 

 声は闇に溶け消える。

 いつのまにか、体は金縛りにあったように動かない。目は光を捕らえず。あるのは湿った音と、生臭い腐臭。

 

 くすくすと、けらけらと。どこからか、この世のものではない、笑い声の輪唱。

 

 ひたり、ひたり。

 

 音が近づく。

 

 ひたり、ひたり。

 

 音が近づく。

 

 ひたり、ひたり——ひたり。

 

 音が、止む。

 

 生臭い吐息が、もうすぐそばにあった。

 

「クソッタレ」

 

 三島は、人生最後の悪態を付いた。

 

「踏み倒しをするのは、お前の方じゃあないか」

 

 

 

「——ええ、ええ。終わりましたよ」

 

 闇の中、亡阿は誰ぞに語りかける。

 

「これも一つの施餓鬼会でしょうかねぇ。皆さん随分お腹を空かせてらしたもんで。骨も残らず、でした」

 

 ふふふ、と口を裂いて笑う様は、醜悪に極まる。

 

「それにしても、ああ——いよいよ、始まりますねぇ」

 

 喜悦に満ちた声が告げる。待ちきれないとばかりに、楽しげに。

 

 

「——歪み狂った、三つ巴の聖杯戦争が」

 

 

 暗がりに、三つの瞳が輝いた。

 

 

 ——日本有数の巨大都市、京都。

 

 古き良き、というイメージが先行しやすく、事実そういった売り出しをしているこの街だが、意外にも、京都は目新しい変化が好きな都市である。

 

 古くは行政の中心であり、国の象徴とも言える土地だった京都は、それゆえに多くの人が集まり、文化の中心でもあった。

 

 人と共に様々な文化が訪れ、流行は目まぐるしく変わる。そしてそれが再び流れ出ることで国全体が変わる。

 

 京都は、流行を生み出す源流の土地だったのだ。

 

 観光都市としての売り出しや、国の中心の移動により、今では変わらないことを求められているが、本質的に、この土地は新しいものが好きなのである。

 

 たとえば明治時代、日本初の電車営業が開始されたのは何を隠そうこの京都であるし、日本で初めて映画が上映されたのもこの京都だ。

 

 観光客にとっては観光気分を壊しにかかってくる邪魔者である、立ち並ぶビル群やモダン建築たちも、住んでいる住人にとっては違和感でもなんでもない。

 

 京都とは、古き良き伝統を守りつつも、常に新たな変化を取り入れ続ける、()()()()()なのである。

 

 そんな、内と外、過去と未来、停滞と変化が複雑に絡み合う混沌の坩堝であるこの街に、密かに忍び寄る危機がある。

 

 もっとも、それが。

 

「この街の危機」程度で済むものなのかは、甚だ疑問ではあるが——

 

「——ヒャァ! ヒィイ! ハーッハッハァーー!!」

 

 夜。

 星空を挑発するように、人工の明かりが煌めくビル群。

 その隙間に、甲高い笑い声かこだまする。

 最新の防音設備は、それをビルの内側に伝えず。しかし聡い者は、妙な気配を感じただろう。

 

 強風というわけでもないのに、ドン! と独りでに揺れる窓。見ればわずかに、楕円形の汚れが付いていることに気づく。それはまるで、「足跡」のような——

 

「待て! 奇妙奇天烈な「鬼」め!」

 

 観光都市の宿命か、高度制限により天を衝くとまではいえないまでも、しかし空を狭めるように建つビル群をかき分けて、何かが「飛ぶ」。

 

 びょう、と風を裂く音を立てて、時にビルの壁を削り、室外機を引っ掛け破壊するそれは、目を疑うことに「矢」であった。

 

「——鬼? 誰が? まさかこの私が!?」

 

 声が轟く。それは悪霊の叫びか、はたまた狂人の幻聴か?

 

 否、否、否。

 

 諸人が被せる現実のヴェール。その一枚向こう側。秘匿の目隠しを外せば、確かに。

 そこに、「彼」はいた。

 

「冗談はよせよ、ミスターサムライ!? 私のどこが鬼だって? 君の目には頭の上のシルクハットが角に見えるかね!?」

 

 イブニングコートのスーツに磨かれた革靴とシルクハット。

 まるで時代錯誤な紳士姿で夜空を飛び跳ねる、何もかもがミスマッチなその男こそ、窓に刻まれた足跡の真犯人。

 

 彼は黒革の靴でビルの側面を踏みしめ、もはや物理法則など知らぬとばかりに空を跳んでいる。

 ビルの隙間を曲芸のように跳び回りながらも、大仰な身振り手振りを交えて演劇のごとく叫ぶ。

 

「私は鬼ではなく紳士! 英国紳士(Gentleman)! そして(and)怪人(Freaks)! ロンドンに名高き、世界一有名なジャック!」

 

 彼は自らを狙う矢をすり抜けるような不可解な動作で避けると、振り返ってニヤリと笑った。

 

そう(Yes)! 我が名は(My name is)……バネ足(Jack the)ジャャァァァァァァーーッック(SpringHeeeeeeeeeeld)!!」

 

 スラックスの膝から下が、爆発するように破裂した。

 

 内側から現れたのは、肥大した異形のバネ足。

 ネコ科の猛獣か、あるいは飛蝗のそれに似た超常の金属構造。

 歯車の関節と真鍮の骨。弧を描く板バネと、何よりも目立つ、巨大なコイルバネ(スプリング)

 

 彼こそはジャック——怪人、バネ足ジャック(ジャック・ザ・スプリングヒールド)

 

 けたたましい笑い声を響かせ、ジャックはビルの壁面に張り付いて勢いそのままに膝を曲げる。きりきりと機械仕掛けが駆動し、飛蝗のように長い足がググッと折り畳まれる。

 

 刹那の停止は、けれど追跡者にとっては永遠の停滞に等しく。瞬きの間にビョウと風の渦巻く音が七度響くと、芸術的とさえ言える曲線を描いて、七本の矢が取り囲むようにジャックへと突き進む。

 

 そして次の瞬間。

 

「ヒャァッハハハーーーーッッ!!」

 

 爆発音。

 

 機械の足がそのバネ仕掛けを炸裂させ、黒衣の怪人が夜空を飛んだ。

 

 ビルの側面に、小規模な爆発でも起きたかのように極小のクレーターが残り、その直後に七本の矢が突き立った。

 

 砕けた壁面をたやすく突き破った矢が、ビルの内部に侵入する。パソコンが置かれたオフィスデスク、書類の入ったスチールラック、来週の予定が書き込まれたホワイトボードなどへと七本の矢が次々と突き立ち、哀れなスクラップがいくつも形成された。幸いなのは、業務終了後ゆえに貫かれた人間は一人もいなかったことだろう。明朝出勤した社員は驚愕に目を見開くことだろうが。

 

 空いた穴からは気圧の差で紙や布などの軽いものが勢いよく吹き飛んでいった。バサバサと音を立てて吹き散る紙吹雪。それを追うように、破壊されたビルの壁面から、壁材の破片がバラバラと剥離する。ひしゃげて歪んだ鉄骨が剥き出しになり、痛々しい傷跡が露わになった。

 

 それを尻目に飛び去った怪人は、満月を背負い狂ったように喜悦を叫ぶ。

 かつてイギリスに現れ、人々にあらん限りの驚愕を与えた紳士的怪物。その異形のバネ足によって生み出されたエネルギーは物理法則をはるかに超越し、彼を音速の三倍を超えた速度で夜空へと導いた。

 

 飛んだ先のビルに着地し、それを足場に地面へ跳躍。

 ドン! と衝撃。タクシーの運転手が目を剥いた。ボンネットの上にほんのひととき舞い降りた怪人が、異形の足跡を残していったのだ。

 

 眼下の道路に走る車をロイター板がわりに足蹴にし、跳ね上がってはまたビルへ。混乱する人々の姿を喜びながら、遊ぶように不規則に、怪人は縦横無尽に跳び回り、その度に加速する。衝撃波で、後を追うようにビルの窓ガラスが割れていく。

 

 跳ね回るスーパーボールのごとき乱反射を繰り返す怪人は、ゲタゲタと笑い転げながら、遊ぶように追跡者の周りをかすめてゆく。

 追跡者はあえて足で追うことをやめて、ビルの上に立ち止まった。

 

「面妖な西洋飛蝗め! その足もいで毛虫に変えてくれるわ!」

 

 追われるものが怪人ならば、追うものもまた怪物じみた男だった。

 

 身の丈七尺(二メートル)を超える規格外の長身は、鍛え上げられ精力迸る強壮のそれであり、左の腕が長く伸びた歪なシルエットさえも、まるで兵器のごとき無骨な恐ろしさを示す。

 

 直垂を片肌脱ぎにして、虚空から浮き出るように取り出されるのは、尋常ならざる大弓。

 人が使うとは到底思えぬそれに、長槍と見紛う凶悪な矢をつがえた彼は、まるで重みなど感じぬとばかりにいともたやすくその弓を引いて見せた。

 

 恐るべき剛力によって引かれ、大きくしなる大弓。まるで三日月のような弧を描くそれ。

 力を蓄えるそれはギリギリと軋みを上げ、それが限界に達した時、男の瞳が道路を走る車のルーフに着地する怪人の姿を捉えた。

 

 ふわりと、指が開かれる。

 

 瞬間、解放される怒涛のエネルギー。螺旋を描く矢が空気の壁を引き裂いて轟音を響かせ——

 

 一拍。後、雷鳴のごとき炸裂音。

 

 見れば、なんたることか。

 つい一瞬の前まで道路を走っていた自動車が、木っ端微塵に吹き飛んでいた。

 

 走行する車を見事射抜いた一本の矢は、その有り余るエネルギーによってただ貫くだけにとどまらず、まるでミサイルが着弾したかのような爆発を起こし、車体を跡形もなく消しとばして見せたのだ。

 

「オォゥッ! なんてことだ! 私のハットが!」

 

 街頭の上に飛び移り、ほとんど鍔だけになった帽子に嘆くバネ足ジャック。

 大男が放った矢はバネ足ジャックの首を狙った。

 けれど彼はそれが自らの首に突き立つ直前、逃避の跳躍を成してみせた。それはほとんど偶然に近しい直感の産物だったが、結果として最良の判断であった。

 

 もしもジャックが逃げ去るのがほんの少し遅ければ、吹っ飛んでいたのはシルクハットではなく彼の首だっただろう。あるいは彼が足場としていた車と同じく、全身丸ごと吹き飛んでいたか。

 

 恐ろしい想像に、身震いするジャック。その隙を突くように、再びの風切り音。足元を狙っての狙撃。ジャックは慌てて飛びすさり、獲物を逃した矢は口惜しげに街灯の首を刎ね飛ばした。

 ガシャンと音を立てて、切り飛ばされた照明部分が地に落ちる。

 

「避けたか。大人しく死んでおれば良いものを」

 

 残心。矢を放った姿勢のまま、吐き捨てるように言う大男。

 対するジャックは再び車の上に着地し、ビルの上の大男を見上げる。

 

「冗談きついぜ、ミスターサムライ。私が死んだら何万人のファンが悲しむと思ってるんだ」

 

 煽る言葉。それに反応して、狙う大男の弓持つ手に力が入る。

 

「戯言しか吐き出せぬ口を矢で塞いでやるわ。……セイッ! ヤァッ!」

 

 二度、三度。繰り返して矢をつがえては、射る。美しく、流れるような所作で矢が放たれるたびに、一つ、また一つと道路を走る自動車が木っ端微塵に粉砕される。舞い散る爆炎を背にし、八艘飛び伝説よろしく次々と車に飛び移り、ジャックは間一髪で矢を避けていく。

 

「オオゥッ! アァオッ! ヒュゥッ! 掠めるばかりで当たってないぜ、ミスターサムライ!」

 

 コミカルな掛け声とともに、煽るような動作で矢を避けてゆくジャック。

 車をいくつも飛び越え、跳ねた先はビルの壁。

 

「自慢の大弓は飾りかい? 当てて見せろよ。ほら、私はここにいるぞ?」

 

 周囲のビル群の中でも頭ひとつ抜けて背の高いそれの壁面に、ヤモリのように張り付いて、振り返っては挑発するように指を動かす。

 

「死ね!」

 

 冗談まじりの軽口に青筋を立てた大男は、五月雨のごとくに矢を放つ。

 

 降り注ぐ矢の数々が窓ガラスを突き破り、ビルの内部に深刻な破壊をもたらした。

 床や柱が抉り取られ、美しく聳えていた建築は、一秒ごとに見るも無惨な廃墟へと変わっていく。

 

 そんなビルの壁面を駆け回りながら、バネ足ジャックは矢を避ける。業を煮やした大男は同時に三つの矢をつがえ、三度連続で弓を射た。

 

 バネ足ジャックは顔を青くして、ビルの壁面を駆け上がりながら矢を避ける。

 

 三かける三、都合九本の矢は見事な軌道でジャックに迫る。逃げ去る先を予測するように、取り囲む檻のごとく九本の矢がジャックを追い詰めた。

 

 けれど。

 人ならざる怪人を、檻に捉えることなど出来はしない。

 

 バネ足ジャックが足に力を込める。機械仕掛けの足が有機的に脈動し、刹那の内に多大なるエネルギーを集約する。歯車が回り、シリンダーが大きく縮み、バネが畳まれた。蓄積された力は爆発の時を急き立て、そして——

 

 ——轟音。突き立つは九つの滅壊。

 

 ビルを射抜いた九本の矢。

 それらは莫大な破壊のエネルギーによってビルを滑らかに削り取り、九つの大穴を開けてみせた。

 

 冗談のような光景。

 堅牢なる鉄筋コンクリートのビルディングが、まるで砂糖菓子のごとくに貫かれ、その土手っ腹に風穴を開けられている。ビル風が開いた穴を通り過ぎ、瞬間的な突風が吹いた。

 尋常ならざる大破壊。

 けれどそのどれもが、バネ足ジャックを捉えてはいなかった。

 

「ハハハハハハハァーーーーッ!!!!」

 

 バネ足ジャックは穴だらけになったビルの壁面を駆け降りた。いかなる技によってあの飽和攻撃から逃れてみせたのか? 取り囲む九つの矢から逃れる術などなかったろうに、どんな不可思議を用いたのか、この男は生きていた。

 

 口を裂いて狂笑し、死から逃れたことを祝うジャック。

 だが、彼が逃れた九つの矢は、彼自身を射抜かずとも、その仕事は果たしてみせた。

 

 ビシリ、とジャックが踏んだ壁面に亀裂が入った。嫌な予感がして、くるりと後ろを振り返れば、聳え立つビルに開いた大穴から、もうもうと黒煙が燻っていた。

 貫かれた矢がガス管を射抜いたか。引火によりビルは節々で爆発を起こし、唸りを上げて崩れ始める。

 

「オー、マイ、ゴッド」

 

 ビルの壁面に立つバネ足ジャックは、己を押し潰すように崩れ行くビルを見上げて、思わず眼前で十字を切った。

 

 

 ざあざあと流れる人の群れ。夜も更けり、けれども喧騒絶えぬ街。

 

 無数の人影が行き交う、絢爛煌めく繁華街。

 それに囲われた心臓部。古い都の面影を色濃く残す、京町屋が立ち並ぶ風雅な景観。

 さらにその奥を掻き分ければ、闇に秘された先にある、猥雑なる気配が犇く仄暗き世界。

 

 三重に分たれた混沌の街。伝統の表面と、俗心の裏面が入り混じった、表裏混在なる快楽の都。

 

 ——祇園。

 

 それは宵を過ぎ、深く色づく夜にこそ、一層強く活気立つ花の街並み。人の世に咲く艶の花。泡沫の夜、わずかのひととき浮かぶ夢。

 

 京都五花街の一つにして、国内外に知れ渡る観光地であるそこに、今宵、明かりが灯っていた。

 

 京都有数の歓楽街だ。日が暮れようとも明かりが絶えぬは常のことであるが、今日灯るそれは趣が違う。

 

 パチパチと、弾けるような音色が響く。見れば、空の雲が地上を映し、紅に染まっていた。

 

 立ち登るは——炎。

 

 焼き尽くすように、燃やし尽くすように、ごうごうと燃え盛る朱色の炎が、夜闇の空を舐め回し、絢爛の街を襲っていた。

 

 常日頃であれば、人々の笑い合う賑やかな喧騒で満ちるその場所は、今や悲鳴のみが轟く惨憺たる災害現場となっている。

 痛みを訴える声が、助けを求める叫びが、悲惨を嘆く泣き声が、燃え猛る火の唸り声に混ざりながら、もうもうと立ち登る煙の中に響き渡っていた。

 

 それを、ねじ伏せるように。

 

「——魔女、魔女、魔女!!」

 

 下衆、下劣、下品。

 遍く品性を捨て去ったかのような、下卑た笑い声が轟く。

 

「ギャヒヒヒヒ! 貞節の欠片も知らず、愚かしくも穢れた銭に目を眩ませては股を開き、男を誑かす邪悪極まる魔女の群れ! それを知りてなお歪んだ笑みを浮かべ、卑劣な欲望を満たさんと明かりに惹かれる羽虫のごとく街を行く男ども! おお、なんと堕落した光景か! これこそはまさに、ソドムとゴモラの再来である! 主よ、その炎を以ってこの悪しき都を清め給え! エイメン(Amen)!」

 

 かくも悪様に、見当違いの罵詈雑言を喚き散らかす大男。

 

 贅を尽くした下品な法衣で醜悪に肥え太った体を覆い、手にはビカビカと浅ましい光を放つ宝石で装飾された十字の杖を持つ。頭にはその蒙昧を示すかのごとくに瞳までをも覆う、宝石煌びやかなりし黄金の冠を被った立ち姿。

 

 聖なるを示す装いでありながら、清貧からははるか遠く、貪るがごとき出で立ちは、その堕落の証明か。

 

 ゲラゲラと笑い声を響かせながら、のたうつ炎を供として、逃げ去る民衆を追い立てるように街を行く堕落の聖職者。

 

 けれどその前に、立ち塞がる影があった。

 

「好き勝手やってくれてるじゃねぇかよ、豚野郎」

 

 立ち塞がるは鉄の偉丈夫。筋骨隆々。はちきれんばかりに鍛え上げられた肉体。身の丈は二メートル半ばに迫り、雄大なる背中は海のごとし。

 

 紅の髪を風に燻らせ、怒りに顔を歪める神秘の益荒男は、眼前の敵を指さした。

 

「テメェのせいでなぁ——俺が飲んでた店が燃えちまったんだよ」

 

 地獄の底から沸き立つような、重低の怒声。

 炎にも勝り、赫赫と吹き上がる灼熱の怒気。

 その覇気は、まごうことなき古の勇士のそれである。

 

「ユミコちゃんが泣いちまったじゃねぇか、ええ?」

 

 ——古来より。戦士たるものは、三つのものを守るために全力を尽くし、その死さえ厭わず戦うものである。

 

 その三つとは——名誉。誓い。そして、女。

 

 勇士は命を惜しまず、名こそを惜しむ。己が名誉のため、先祖の名誉のため、同胞の名誉のために、勇士は遍く戦場にて誇り高きを示し、死力を尽くして戦うものだ。

 

 勇士は死を厭わず、誓い果たせぬ不義をこそ厭う。神に、主君に、友に、己自身に誓ったそれを果たすがために、勇士は遍く試練を耐え忍び、乗り越えるものだ。

 

 そして勇士は——守るべき女のため、無敵の英雄となる。古く、良き勇士は女らを愛し、女らに愛された。なれば勇士は女らを守るためにその勇壮なるを、その強壮なるを、その狂躁なるを示し、遍く敵を、遍く理不尽を、遍く障害を打ち砕いたのだ。

 

 しからば。その守るべきものを——守るべき女どもを傷つけたものに対し、勇士がいかなる赫怒を抱くかなど、知れたことであろう。

 

 今、ここに。

 堕落した聖職者は、勇士の逆鱗に触れたのだ。

 

「ギャヒ、ギャヒ、ギャヒ……」

 

 それを理解した上で、聖職者はよだれを垂らし、いやらしい笑みを浮かべる。

 

「魔女に入れ込む哀れな異教徒! 己が罪さえ知れずに悪しき過ちを重ねる蒙昧の極み! 主よ、この愚かな罪人に死の裁きを与え給え! エイメン(Amen)!」

 

 聖職者が十字の杖を掲げれば、狂い猛る炎がまるで生きているかのようにその身をうねらせる。

 

 吹き上がる火の粉。朱に輝く炎が、轟音と共に()()()()()()

 

 見よ、その醜悪なる形相を。

 形作られるは焔の巨人。上半身のみの、膨れ上がった異形の巨躯。悪魔のごとき、下劣畜生の憤怒の相。手に持つ炎の鎚ばかりが、見せびらかすかのようにいやらしく聖なる輝きを示している。

 

「叩き潰せ! これは主の怒りである!」

 

 ギャヒギャヒと、ひたすらに卑俗な笑い声を上げ、聖職者は杖を振るう。それに呼応するのは主の怒りではなく、粗暴野卑なる炎の巨人。彼はその身の丈に応じた重鈍さで、厳しく威張り散らすように炎の鎚を振り上げた。

 

 火の粉が舞い落ち、炎のかけらが()()と弾ける。

 その光景を、鋼の勇士はただ見つめる。

 

「はっ、見た目ばかりご立派なことで」

 

 迎撃の構えも、防御の構えも取りはしない。()()()()()()()。ただひたすらの自然体。気の抜けた、とさえ言える様相で、鋼の勇士は巨人の攻撃を待った。

 

「その傲慢、万死に値する! 地獄にて悔い改めるべし! エイメェェェン(Amen)!!」

 

 唸りを上げて振り下ろされる聖なる火の鎚。さながら隕石の落下にさえ似る、赤熱した大質量の一撃。決して止めること叶わぬ大いなる破壊の力が、ただ一人の勇士へ向けて炸裂する。

 

 衝突——響き渡る極大の破砕音。

 

 見れば、叩き潰す勢いのまま激突したのか、大地には巨大な亀裂が走り、石畳の表面が熱によって炙られ、赤く燻りさえしていた。

 

 もはや誰もが、その鎚の下にあるのは焼けた死体ばかりだろうと信じるしかない。

 触れるもの全てを沸騰させながら振り下ろされたそれに叩き潰されれば、いかなる英雄であろうとひとたまりもなく死に果てるが定めであろう。

 

 けれども。

 

「おーおー、気色の悪いもんぶつけてくれやがって」

 

 振り下ろされた鎚の下から、声が響いた。

 

「生温い、狡っからい炎だぜ。そんなもんじゃ、鋼を溶かすにゃ役者不足もいいところさ」

 

 見れば。亀裂が走る源泉は、踏みしめられた靴の底からであった。

 

 炎の鎚は地面にまで激突などしてはいない。赤熱する大地の上にしかと立った鋼の勇士に、ものの見事に()()()()()()()()()

 

 激突の瞬間、その雄々しき手のひらが、焼け焦げた巨大な炎の鎚を、軽々と受け止めて見せたのである。

 

 途方もない怪力。尋常ならざる頑健。

 

 まるで熱さなぞ感じぬとばかりに——いや。真実、かけらの痛痒も感じていないのだろう。その手のひらは、焼けるどころか赤みが差すことさえ無い。

 

 涼しい顔で巨人の一撃を受け止めた勇士は、反撃とばかりに足に力を込める。

 

「よぉい……しょ! っとぉ!」

 

 力の反転。炎の鎚が、今度は逆向きに宙を舞う。

 勇士はのしかかる炎の鎚を、ただひたすらの力任せに押し返し、挙げ句の果てに弾き飛ばしてみせたのだ。

 

「馬鹿な!」

 

 聖職者はよだれを撒き散らして驚く。己が信仰の顕現たる巨人が、薄汚い異教徒一人に押し返されるなど、あり得ていいはずがない。

 

「軽い軽い。まるで重さがたりやしねぇ」

 

 驚愕する聖職者を煽るように言って、勇士は右手を広げた。

 

「今度はこっちの番だぜ。——本物の炎ってやつを見せてやる」

 

 轟、と火の粉が沸き立つ。それは巨人の発するものではない。

 

 見れば、鮮やかなりし真紅の火の粉が、男の右手から吹き上がっている。

 それは火の巨人などとは次元の違う、絶対的な焦熱の兆し。何者も耐えることなど出来はしない、滅びの炎のその先触れ。

 

「——来い、■■■■■」

 

 呼び声に答えるように、真紅の爆炎が天を焼いた。

 

 

 夜の闇に、子供の声がこだまする。パタパタと小さな足音が駆け回り、それについて回るように鈴の声が騒ぎ立てる。

 

「ねぇねぇ、知ってる? あの噂。巷を賑わすあの噂」

「あの噂って、どの噂? それだけ聞かれて問われても、私は知らない分からない」

 

「知ってるくせして意地悪しちゃダメ。噂と言ったらあの噂。夜道を駆け行く獣の話」

「獣? それってどの獣? ふさふさ毛だらけあの獣? 犬とか猫とかあの獣?」

 

「獣は獣。こわーい獣。ふさふさ毛だらけ犬とか猫とか。どれにも似てないあの獣。家畜を貪るあの獣。人間貪る大きな獣。みんながひそひそ噂の噂」

「それってそれってもしかして、噂に噂なあの噂? 誰もが知らないはずなのに、誰もが知ってるあの噂? 誰もが知ってるはずなのに、誰もが知らないあの噂?」

 

「そうそうそれそれその通り。誰もが知ってるあの噂。私も知ってるあの噂。君も知ってるあの噂」

「誰もが知らないあの噂。私も知らないあの噂。君も知らないあの噂」

 

「子供が噂のうた歌う。大人が噂に耳塞ぐ。知らぬ存ぜぬ有りはせぬ。けれども子供は消えていく」

「ならば喰われるその前に、このうた誰かに伝えましょ。あなたが喰われるその前に、このうた歌って伝えましょ」

 

「夜半出かけることなかれ。闇夜に紛れてやつが来る。人の子攫いにやつが来る。遠吠え聴いたら耳塞げ。腐臭嗅いだら鼻塞げ。恐ろし獣が出てくるぞ。お前を攫いに出てくるぞ」

「部屋の隅から煙立ち、窓の角から匂い立ち、噂の獣がやってくる。悪さに罰を与えましょ。嘘吐き狡っこ喰われるぞ。反則嫌いのあの犬くるぞ。嫉妬に塗れた猟犬くるぞ」

 

「獣が来るぞ、獣が来るぞ、よだれを垂らして獣が来るぞ。恐ろし喧し唸りを上げて。怖ろし悍まし匂いを撒いて。獣が来るぞ、獣が来るぞ。————ジェヴォーダンの獣が来るぞ」

 

 きゃはは。きゃはは。

 

 はしゃぐ声が通り過ぎれば、そこには。

 子供の姿なぞ、影も形もありはせず。

 

 嘲るような、かん高い鈴の笑い声だけが、残響のように耳に残った。

 

 

 

 鉛の雲が空を覆う。月も雲に阻まれて、真実夜の帳が下りた。

 キラキラと光る街も遠く。車行き交う大通りにも背を向けて。

 宵の路地。薄暗がりのその向こう。じっとりと湿る闇の奥。誰もが目を背けるその場所に、一人の男が立っている。

 

「——ハァ……匂う、匂うなぁ……」

 

 耐え難い、悪臭が満ちていた。

 

 それは病んだ血の底に溜まる澱ような、腐り果てた膿の匂いだ。

 

 京の路地裏。明かりもないその場所に、佇む男のその異様。

 滴るように、暗褐色がまだらに染める皮のロングコート。地を叩くブーツは足音を消す狩人のそれ。時代遅れも甚だしい、骨董品のごときフリントロック式のマスケット銃を手に持ったその男は、錆色のトリコーンを深く被り、爛々と輝く目元を隠しながらも、何かを探すように血眼になって辺りを見回している。

 

「匂う、匂う……この匂いは——獣の匂いだ」

 

 ぐりぐりと動き回る瞳が影の中を走り回る。正気を失った血走りの瞳は左右別々に動き回り、何かを探し求めていた。

 

 首元から下げられた、簡素な十字架が揺れる。

 ひたひたと足音を殺して歩き回りながら、男は捜索を続け——不意の物音。

 

 路地裏の遠く先。影の中の影。暗がりの中の暗がり。ガタン、と。プラスチックのゴミ箱が倒れる。

 取れた円盤の蓋がころころと転がり、くわんくわんと音を立て、回転しながら地に伏せた。

 

 ぎょろりと、膿んだ瞳が闇の果てを見据えた。

 

「ハァァァ……いるじゃあないか……」

 

 喜悦を声に乗せ、男は銃を構えた。火薬と弾丸は、すでに込められている。いつだって、狩人というものは準備を怠らないものだ。

 

 ——ずにゅり、ずにゅり。湿った音が響く。

 

 それはゴミ箱の影、深く闇が覆い尽くす深淵の入り口から。

 そこを覗き込んでしまえば、あるのは諸人踏み込むべからざる、歪み狂った奈落の世界。常道を踏み外しに外し尽くして、転がり落ちたる地獄の奥底。

 それは唾棄すべき悪夢と根源的な狂気のみが占める、異質にして異常にして異様なる異界。

 

 仄暗い夜のヴェールは神の慈悲。知る者に曰く、無知とは人間に与えられた最後にして最大の慈悲である。知らぬものよ、その幸福を噛み締めよ。ここは正気と狂気の境界線。暗き闇夜のその暗き。聳え立つ無知の衝立は、楽園を守る最後の城壁。

 

 けれども、ああ。

 もとより、この場に正気などあるものか。

 

 慈悲などいらぬとばかりに、濁る瞳が闇を見据える。いかなる術理か、一切の光届くことなき冥々たる深海にも似たこの闇を、けれども眼球によらぬ瞳を通じ、男は見通してみせた。

 

「宵の狩りだ。たまらぬ血の香を嗅がせておくれ」

 

 男が言えば、まるで返事をするかのように、青白い膿が滴る。それは原形質に似た、悪臭を放つ病んだ脳漿。

 

 ねばつく、生暖かいそれがししどに溢れるたびに、現実が音を立てて発狂する。

 生臭い、吐き気を催す耐え難い臭気が沸き立つ。膿に濡れたコンクリートは妖しい輝きを放ち、反応によって名状し難い変質を引き起こす。

 広がる侵蝕がもろき現実を食んでは消化し、この暗き路地の果てに脳髄を犯す超次元的な冒涜が広がる。

 

 その中心に鎮座する「それ」は、襲いかかるでも威嚇するでもなく、ただじっと男を見つめていた。その大きな体はたえず脈動し、歪に隆起しているにもかかわらず、「それ」は訝しむように男のことを観察するばかりだった。

 それは高い知性と余裕の現れか。自らの肉体の堅牢なるを、未知を未知のまま置く恐ろしきを、獣は知っていると言うことだろう。

 

 男は頬を裂いて笑った。

 狩りの獲物は、大きければ大きいほど、強かなれば強かなるほど良いものだ。肥え太り、育ち切った害獣を狩るは、狩人の誉れである。

 

 男は引き金に手をかけた。

 何事かに気づいたか、わずかに犬のような唸り声を上げたそれに、銃口が向く。

 ガチリと撃鉄が起こされた。古き様式美のマスケットだ。弾込めは一発。けれど十分。狩りとは、すなわちどちらが先に当てるかに過ぎぬ。一発を外したならば、それでお終い。それだけの話。

 

エイメン(Amen)

 

 小さく祈りの言葉を吐き出し、引き金を引く。

 

 ターン、と音が響いて、それっきりだった。

 

 

 明けぬ夜。月下に踊る英雄勇者。煌びやかなりしその影に、蠢き出す闇の住人たち。

 

 にわかに沸き立つ混沌の宴。匂い立つ戦と血、希望と陰謀の香り。誰も彼もが予感する。止めどない運命の濁流と、抗えぬ滅びを。

 

 諸人よ、心せよ。今まさに、始まるのだ。

 

 ——聖杯戦争。かつて一つの都市を滅ぼし尽くした、極大の決戦が。

 

 集うは英雄。願うは希望。訪れる結末は幸福か、破滅か。

 

 千二百年の時を超え、長くこの国にあり続けた都市、京都。

 今、まさに。この街に、その長き歴史の中で、最大にして最悪の危機が訪れていた。

 



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空戸覚伽 001

 

「——やめろーーーーッ!」

 

 その時喉奥から飛び出た悲鳴は、ぼく——空戸(うつろど)覚伽(さまとぎ)という男が生きてきた十四年の中で、間違いなく最も魂のこもった叫びだったと断言できるだろう。

 

 星降る夜。暗い路地裏の奥深く。薔薇の花弁が舞い散り、蜜の香が満ちるその場所で、男であるぼくが性的な意味で襲われるという埒外の危機。

 

 しかも相手が初対面の()()であるとくれば、もはや同じ経験をした人間など、この地球上に存在しないのではないかとさえ思える異常事態だ。

 

 力による抵抗も言葉による説得も全くの無意味に終わり、訳も分からないままズボンを下ろされパンツのゴムに手をかけられた今、もはや最悪の結末は避けられぬものに思えた。

 

 だが、しかし。

 

 断末魔の悲鳴よろしく大声をあげ、ぎゅっと目を閉じたぼくは、ふと気づく。

 もはや完膚なきまでに、チェスや将棋で言う「詰み(チェック・メイト)」にはまったのは明らかだというのにもかかわらず、いつまで経っても敗北の瞬間が来ないことに。

 

 恐る恐る見れば、ぼくを押し倒した()()()()()()()()の、パンツを掴んだ手がピタリと止まっていた。

 

「——お前、なんてことを……!」

 

 驚愕に満ちたソプラノボイスが響く。

 

 ぼくに跨がり、ぼくを見下ろす少年は、みずみずしい唇を震わせて、長い睫毛に彩られた赤い瞳でぼくを睨みつける。

 

 先ほどまでの獣欲に満ちた興奮が冷め切った少年を、展開についていけぬままぼんやりと見つめる。

 

 腰まで届くほどの黒い髪。

 どこからどう見ても美少女としか形容できない面立ち。

 すらりとした艶かしい肢体を彩る、薔薇の装飾の黒いドレス。

 その隙間から惜しげもなく白い肌を晒す「彼」は、一見して「彼女」にしか見えない。

 けれど、押し付けられる股間の膨らみが、紛れもなく彼が「彼」であることを示していた。

 

 何が起きたかは分からないが、その感触を直接肌身に味わうことは避けられたようだ。

 危機が去ったと認識した瞬間、緊張の糸が途切れて巨大なため息が漏れた。

 

 抵抗のため少年の腕を掴んでいた手を離し、だらりと力を抜いて地面に全身をあずける。

 じっとりと汗に濡れる額を手の甲で拭い、ふと見やれば、そこに浮かんでいた、複雑な紋様の刺青のような痣が、一部消えていた。

 

「何をしたかわかってるのか⁉︎」

 

 衣服を剥ぎ取ろうとする手は止めたものの、未だぼくの上に馬乗りになっている少年は、一件落着とばかりに力を抜いたぼくの首根っこを掴んで、がくがくと揺すった。少年の顔が、視界の中でぐわんぐわんとブレる。

 

 当のぼくは、もうすっかり熱が冷めて落ち着いていた。揺らされながら、西洋系の顔立ちなのに随分日本語が上手いなあ、なんて考える余裕さえあった。

 

「何をしたって、強姦被害を防いだ?」

「気持ち良くしてやるんだから和姦だよ! ……じゃなくて! お前、令呪を使ったな!?」

 

 倫理的、人道的に最低極まるピンク色の暴論に反論したいところではあるけれど、注目すべきはそこではなかった。

 

「令呪?」

「その手の痣だ! ()()()()()()()()()()()()()()()! それをよりにもよってこんな召喚直後に使うなんて!」

 

 少年は半ば涙目になって声を荒げるものの、ぼくはといえば理解できない単語だらけでちんぷんかんぷんだ。

 

「よくわからないけれど、この令呪とやらの力で君を止めた……ってこと?」

「そうだよ! お前が、よりにもよって俺様の寵愛に対して「やめろ」なんてふざけた令呪を使うから!」

 

 黒いレースを重ねた、エロティックな半透明のスカートの裾を掴んで、少年は叫ぶ。

 引っ張られたスカートが張り詰めるものだから、少年の股間で高らかに主張するそれが浮き上がってしまう。

 けれどそれに注目するまもなく、バン! と顔の両横に手が叩きつけられ、否が応にも向かい合うように少年に見下ろされる形になった。

 

 少年の真っ赤な顔が視界に広がる。屈辱だと全力で主張する、悔しげな表情。少し、そそるものがある。……もし彼が彼女だったなら、あるいは世の全ての男が羨むような絶景だ。

 

 なんて。

 

「そのせいで——」

 

 そんなことを考えられる余裕は、すぐに吹き飛ぶことになるのだけれど。

 

「——お前とセックスできなくなっただろうがーーっ!!」

 

 夜の闇に響き渡る、最低最悪の叫び声。

 

 混乱の極地。わからないことだらけのこの状況で、ただ一つだけたしかに理解できることは、どうやらぼくは、とんでもない変態に目をつけられてしまったらしいということだ。

 

 ぼくはただただ引き攣った笑みを浮かべるしかなかった。

 暗い路地裏の夜の底。桃色に汚れた理不尽に晒されているぼくを嘲笑うように、降り頻る星々ばかりが美しく輝いている。

 

 ああ、なぜこんなことになってしまったのだろう。

 思えばそのきっかけは、わずか数時間前に訪れていた。

 

 

 七月も末日。

 中学校も夏休みに入り、自由を謳歌する季節。

 

 そんな日の午後。日々人類を蒸し焼きにすべく精力的に活動する太陽が西へ傾く頃、ぼくはとある喫茶店にいた。

 

 二人がけのテーブル席に、一人。とある人との待ち合わせなのだが、少し早く着いたらしい。

 先に頼んだアイスコーヒーを飲みながら、しばらく。

 時計を見れば、待ち合わせまであと一分。

 彼女の性格からしてそろそろか——と、思っていると。

 

「——やあ、サマトギくん」

 

 なんて、声をかけられる。

 

 サマトギ——空戸(うつろど)覚伽(さまとぎ)。ぼくの名前だ。

 それを呼んだのは、女性にしては低音な、落ち着いたハスキーボイス。聞き覚えのある、慣れ親しんだ声。

 

「一ヶ月ぶりだね。少し、待たせてしまったかな?」

 

 言いながら、声の主が席に着いた。

 

「いえ、時間ぴったりです。こんにちは——弐新(にあらた)さん」

 

 ポニーテールに銀縁眼鏡。切れ長の目と常に浮かぶ余裕のある微笑。女性らしい起伏に富んだ体を、男性向けのものを無理やり女性用に改造したようなスーツで覆う彼女の名は、弐新(にあらた)火照(ほてり)

 綺麗や美人と表すより、あえて格好いいと表現したくなる、そんな女性だ。

 

 見た目通りバリバリのキャリアウーマンで、超大手IT企業の出世街道まっしぐら、だそう。

 

「すまないね。平日になってしまって。学校は大丈夫だったかい?」

「いえ、もう夏休みですから」

 

 席に着く弐新さん。やってきたウェイターにコーヒーを注文しながらも、会話が進む。

 

「ああ、そうか。もう七月末だものな。学生は休みか。……夏休み中は、遠出をしたりするのかな?」

「学生の身ですし、特には。自堕落に過ごす予定です」

「それも学生の特権だな。社会人としては、少し羨ましくなるよ。……自堕落にというが、部活なんかはないのかい?」

「天文部なんで、練習とかはないですよ。せいぜいが八月半ばに天体観測ツアーがあるくらいで、それが唯一の予定ですね」

「天体観測か、いいな。ロマンがある。そういえば知ってるかい? 今日は、オリオン座から流星群が降るらしい」

「ああ、ニュースでやってましたね」

 

 本来は十月にあるはずのオリオン座流星群が、こんな時期に観測できると話題になっていた。

 

 学術的には結構な異常現象らしいが、友人に誘われて天文部に参加している程度のミーハーなぼくにとって「物珍しいイベント」以上の感想は出てこなかった。

 

「しかし、天体観測が唯一の予定か。君も年頃だろう。彼女を誘ったりはしないのかね?」

「いませんよ、そんなの」

「君はモテそうなものだがな。……実は彼女ではなくて彼氏がいたり?」

「しません」

 

 ぼくは異性愛者である。「可愛らしい見た目だからもしやと思ったが」なんて失礼なことを言われるが、断じて、ぼくはノーマルだ。

 

「学業はどうだい?」

「まあ、それなりに」

「夏休みってことは、期末テストも終わっただろう。学年何位だった?」

「今時はもう順位を張り出されたりはしないですよ」

「何、そうなのか」

 

 私の時は友達と競ったものだったが……。

 なんて、ジェネレーションギャップに打ちひしがれる弐新さん。

 

「まあでも、少なくとも、補修が必要になるような点数は取ってないですよ」

 

 百点満点とはいかないが、少なくとも悪くはない。日頃からテスト対策に時間を割くような勤勉さを持ち合わせていないぼくにしては、よくやった方だろう。

 

「なるほど、なるほど。頑張ってるじゃないか。さすがだね」

 

 満足げにうなずく弐新さん。運ばれてきたアイスコーヒーをストローで啜って、苦かったのかミルクを足した。

 

「友達とはどうだい? うまくいってる?」

 

 ストローでコーヒーをかき混ぜながら問う。カラカラと氷の音がした。

 

「それも、それなりに。そんなにいるわけでもないですけどね」

「いや、友達というのはそれでいいんだよ。数を誇るものじゃあない。死ぬときまでに、一人でも真の友を得たと思えればそれでいいのさ」

 

 そんな台詞を、心の底から信じて言えるからこそ、この人は格好いいんだろうな、なんて思う。

 

「その調子で青春したまえ若人。次あたりは、何人の女子に股を開かせたも聞かせて欲しいところだ」

「ゲホッ、ゲホッ」

 

 むせた。

 なんてことを言い出すんだこの人は。

 

「最低ですよ弐新さん」

 

 いたいけな中学生を煽らないでくれ。セクハラもいいところだぞ。

 格好いい、という評価が一瞬で転落する。ぼくの中の弐新さん株は大暴落だ。投資家が何人か首を括るレベルである。

 ぼくが非難を込めた目で見ると、彼女は肩を竦める。

 

「はぁ、もう……。そういう弐新さんはどうです? お変わりありませんか?」

「おや私の性事情に興味があるのかい? もう、サマトギくんのえっち!」

 

 エッチはお前だ。

 いくら健全な男子中学生といえど、知り合いの性事情を聞きたがるほど飢えてはいない。

 

「でも一回くらい私を想像して致したことあるんじゃないかい?」

 

 ねぇよ。

 

「逆に聞きますけど、もし仮にぼくがありますって言ったらどうするつもりなんですか」

「そうなったら、しょうがないにゃあ……いいよ」

「何も良かねぇんですよ弐新さん。なんでシャツのボタンに手をかけてるんですか?」

「おや、頑張る少年におかずを一品サービスしてあげようと思ったのだが」

「いらんわ!」

 

 頭がおかしいのかこの女。公共の場で何をおっぱじめるつもりだ。

 ここはストリップ劇場じゃないんだぞ。

 

「ふむ、やっぱり上より下の方が良かったかい?」

「お願いですから少しは恥じらいを持ってください」

「ふっ、私の体に恥じらうべき部分なんて一つもない。あるのは恥部(ちぶ)じゃなくて乳房(ちぶさ)だけだ」

「むしろ全身が恥部ですよ。地上波だったら全身モザイクです」

「どこに出しても恥ずかしくない立派な体だぞ?」

「恥ずかしいのは頭だよ」

 

 恥を知れ、二十八歳。

 

「実年齢を出されると流石に来るものがあるね」

「自分の半分しか生きてない子供にセクハラするのは気持ちいですか?」

「あえて言おう。大変気持ちいい!」

「言い残すことはそれだけですか」

「おっとそれはマジでやばいぞ」

 

 おもむろに携帯端末を取り出したぼくを、弐新さんは慌てて止めた。

 

「うっかりおまわりさんなんて呼んでみろ。私はおさわりまん扱いで豚箱行きだ。サマトギくんだって私と会えなくなるのはいやだろう?」

「大丈夫ですよ。ちゃんと面会には行ってあげますから」

「差し入れはサマトギくんのパンツがいいな」

「もしもし警察ですか?」

「待ってくれ! 今のは内なる欲望がうっかり漏れてしまっただけなんだ!」

 

 弐新さんは青ざめた顔でぼくの肩を揺すった。

 

「やめて欲しければ猫のポーズで「許してにゃん♡」と言え」

 

 ぼくが意地悪く言ってみると、弐新さんは指を前にした握り拳を二つ、顔の前で構える。

 

「許してにゃん♡」

「許した」

 

 全ての罪を帳消しにしてあまりある光景だった。

 成人女性のにゃんにゃんポーズ。見る者の脳髄に大量のβエンドルフィンを分泌させるそれに対して、気がつけばぼくは合掌していた。

 

 それが何を意味しているかを知らずとも、たたずむ仏像に思わず手を合わせてしまうのと同じように、ありがたい光景への反射としてぼくは無意識のうちに感謝と祈りを捧げていたのだ。

 

「えぇ……艶姿よりこっちが好みなのか」

 

 何故だか逆に引かれてしまった。

 

 しかしながら言い訳させてもらうと、年上の女性のぶりっ子な猫なで声が素晴らしいものであるというのは、多くの人間にとって共通認識であると思うのだけれど、どうだろうか。

 

「その歳でその趣味はだいぶ性癖を拗らせているんじゃないかい? 君まだ中学生だろうに」

 

 君くらいの年齢なら、同級生の汗ばんだうなじにドキッとしてるくらいが正常だよ。

 なんて言って弐新さんはコーヒーを一口。

 それもまた王道とは言い難いというか、むしろ邪道寄りなんじゃないかと思うけれど。

 

「ま、私の方は変わりなしだ。相変わらずお仕事三昧で出会いもなければ夏休みもない。慰めてくれていいんだよ?」

「よしよし」

「にゃぁぁああん♡ 中学生のよしよしが五臓六腑に染み渡るにゃぁ〜♡」

「多分ですけど、ぼくの性癖が狂った原因はあなたですよ」

 

 ごろにゃんごろにゃんと喉を鳴らす弐新さんの頭を撫でくりまわすうちに、胸の奥に形容し難い、仄暗い快感が湧いてくる。

 間違いなく、感じてはいけないタイプの快楽だった。

 闇落ち間近である。

 

「にゃぁぁぁ……ん?」

 

 ぼくに撫でられて人類としてのプライドを失っていた弐新さんが、急に正気を取り戻した。

 

「サマトギくん、どうしたんだい、その手」

 

 弐新さんを撫でていた手と逆の手を、弐新さんが指す。

 その手の甲には、奇妙な形の痣があった。

 

「ああ、これですか」

 

 あえて言うならば鍵に似たような、赤い紋様。それはいつの間にか、ぼくの手に浮かんでいたものだ。

 

「ぼくにも覚えがなくて。どこかにぶつけたのかもしれません」

「タトゥーのごまかしにしてはかなり下手くそだぞ。怒らないから正直に言いなさい」

「いやたしかにそれっぽいですけど違うんですよ弐新さん」

「わかってるわかってる。誰しも一度は憧れるよな、そう言うの。大丈夫大丈夫、かっこいいよ」

「生暖かい目をやめてください。そう言う思春期特有のやつじゃないですから」

 

 ぷらぷらと腕を振る。たしかに、痣にしては随分克明ではある。だがタトゥーではない。入れた覚えもないし入れようとも思わない。ぼくはお年頃であるが、その手の病には罹患していないつもりだ。

 

「ふぅむ……本当に痣なんだったらちょっと心配だが」

「まあ、痛みとかは無いんで、そのうち消えると思います」

 

 ぼくはそう言って、痣を何気なく撫でた。弐新さんは物欲しそうにそれを見つめる。……まだ撫でて欲しいのだろうか?

 

「撫でて欲しいね!」

「地の文に答えないでください」

 

 ぼくは再び弐新さんの頭に手を伸ばす。撫でれば撫でるほど人の形を失っていく弐新さんを見て、この人はもうダメだろうなと諦観を覚えた。

 

「ああ堪能した……そうだ、私の方には変わりないけれど」

 

 しばらくしてようやっと満足した彼女は、思い出したように手を叩いてぼくを見る。

 

「慧路さんのことで——いや、君のお父さんのことで、少し話があるんだが」

 

 躊躇いがちに切り出された話は、半ば予想がついていた。

 彼女と初めて出会ったのは一年前。父の葬式会場で、だ。

 

 弐新火照。死んだ父の——元愛人。

 

 いや、愛人、という言い方は失礼だ。

 母の死後の話だから、歳の差はあっても不倫なんかではなかったわけだから。

 

 けれど父が死ぬまで、ぼくは彼女のことを知らなかったし、当の彼女も、父に子供がいることは知らなかった。

 ファーストコンタクトは当然、お互い混乱のし通しだった。

 

「……父の話、ですか」

 

 父の死を看取ったのは弐新さんだ。

 

 母の死後、父はどこぞへと消え、ぼくは親戚の家に預けられた。中学に上がってからは便宜上の保護者である親戚の支援を受けつつ、一人暮らしだ。

 

 父のことは、住所さえ知らなかった。

 

 父の死後に、弐新さんは初めてぼくのことを知り、そして、「一緒に暮らさないか」と誘ってくれた。

 それが打算から来るものじゃないことは、何度も話すうちにわかったけれど、それでも。

 ぼくは断って、代わりに一月に一度くらい、誘われて食事を共にするような関係性だ。

 

「ああ、重要な話では全然なくてね。ただ、昨日こんなものが届いたのさ——」

 

 そう言って、テーブルの上に小包が置かれる。

 父と弐新さんが住んでいた住所に届いていた荷物のようだが、差出人は世良榎古書堂となっている。世良榎をなんと読むのだろうか? いや、そこは重要ではない。問題は宛先で、そこには「空戸慧路」——父の名が刻まれていた。

 

「君のお父さん宛の荷物だよ。どうも、生前注文していたものが今更届いたようなんだ。勝手に開けるわけにもいかないし、中身は確認してないんだけど……」

「開けてもいいと思いますけど……というより、わざわざぼくに渡してもらわなくてもよかったんじゃ? 弐新さんのところに届いたんですし」

「いや……慧路さんのものは、君に渡しておきたかったんだ」

 

 君としては複雑な思いがあるだろうがね。

 弐新さんはそう言って、寂しげに微笑んだ。

 

「まあ、そういうわけだ。一応受け取っておくれよ」

 

 パチリ、と、ウィンク。それが様になるのだから、美人は得だ。

 

「それじゃあ、ぼくが開けてみてもいいですか?」

 

 ふと、言葉が口を突いて出た。

 中身が気にならないわけじゃない。

 けれどそれ以上に、なんとなく。今を逃せば、きっと中身を確かめようとは思わなくなると、そんな予感がした。

 適当に押し入れに突っ込んで、それっきり。封ずるように、戸を開けさえしなくなるだろう。

 

 父が手に取るはずだったものをぼくが受け継ぐなんて、どうにも、しっくりこない。

 本来、父のものを何か一つでも受け取るような立場にないはずなのだ、ぼくは。

 

 あの人が最期にそばに置いたのは弐新さんで。

 あの人が最期までそばに置かなかったのがぼくなのだから。

 

 だというのに、あの人のものをぼくが受け取ると言うならば。

 せめて、弐新さんの前で。

 

「……うん、そうだね。是非、開けてくれ」

 

 それをどう解釈したのか、弐新さんは懐かしむように微笑んで言った。

 それがなにを思い出してのことなのか。ぼくは、知らない。

 

「……開けますね」

 

 過剰なほど厳重に梱包された小包を開けると、中身はやはりと言うか差出人に相応しく、一冊の本であった。

 

「これは——」

 

 どうも、奇妙な本だった。

 百科事典のように分厚く、巨大な本だ。真っ黒な革の表紙は、古びているのに妙にみずみずしい。一体何の革なのだろうか。

 

 そして表紙に刻まれているのはタイトルの一文と、山羊の頭を象ったような奇妙な徴。

 

 なんの顔料なのか、鈍色で刻まれたタイトルはギリシャ文字のような親しみのない文字で書かれていて、ぼくには読めなかった。

 ただ、その文の造形は文字自体が奇妙にねじくれているようで、見ているだけで不安になってくるようだ。

 

「なんなんでしょう、この本?」

「ふーむ、少し貸してくれるかい?」

 

 ぼくは本を弐新さんに差し出した。

 弐新さんはパラパラとページをめくっていくが、すぐに閉じた。

 

「ダメだな、中身も読めない」

 

 どうやら弐新さんにも読めない言語で書かれているようだった。

 

「君のお父さんは考古学というか民俗学というか、その手の話に詳しかったからね、何かの貴重な資料かもしれない」

「……なおさら、ぼくが持っていたらダメなのでは?」

「何、そうかどうかはこの場にいる人間にはわからんのだ。記念に持っていればいいさ。価値がわかる人間が現れたら、譲ってしまってもいいんだからな」

 

 なにせ、本来の持ち主はもういない。弐新さんは少し笑って、目を伏せた。

 ぼくは、何も言わなかった。

 

「さて、渡すものも渡したし、いい時間だ。少し歩きながら店を移そうか。今日は鮎の美味い店を予約してある」

 

 弐新さんは立ち上がって、店の出口へと向かう。ぼくも本を鞄にしまい、それを追った。

 熱気と蝉の音。遠くで、風鈴の音が鳴った。

 

 

 夕闇を過ぎ、夜の帳が降りてしばらく。

 ぼくは夜道を歩いていた。

 

 夕食後、家まで送ると言う弐新さんの申し出を丁重に断って、ぼくは一人で帰路についた。あの人に送ってもらうと、なし崩しに家に上がり込まれてしまう。それ自体は別段、構わないといえば構わないのだけれど、そうするとあの世話好きの隣人に、余計な勘繰りを入れられてしまうのだ。

 

 中学生を襲う色情魔として叩き出される弐新さんを見るのは、もう勘弁願いたい。なまじ、間違いとも言い切れないのが悲しいところだ。

 

 ともかく、ぼくは一人で帰路についていた。ぼくも、もう中学生だ。深夜ならともかく、九時を過ぎようかという程度ならば、わざわざ送ってもらわなくとも問題はない。日本国の治安の良さに感謝だ。

 

 最寄りのバス停から、夜の街へと帰路を行く。

 日も暮れてしばらく経つとはいえ、京都の夏だ。風はなく、昼間を名残惜しむように冷め切らぬ熱が満ちていた。

 

 じっとりと、背筋に汗が滲む。

 見上げる空は朧。青鈍の雲の隙間から、月灯りが絹糸のように垂れ落ちている。

 どうにも、厭な夜だった。

 

 人肌のようにぬるりと湿る空気にまとわりつかれながらも、ぼくは車通りの多い表通りから、薄暗く年季の入った細い道へと入る。

 立ち並ぶ建物群——古い町屋やレトロモダンな近代建築の、その隙間を縫うような、狭い路地の阿弥陀籤。曲がり道を一つ間違えてしまえばまるで見当違いの場所へと辿り着く、迷路のような街並みの、奥の奥へと。

 

 ぼくの住むアパートは、単純な距離で言えばバス停から徒歩五分といったところにあるのだが、道が複雑なせいで見た目以上にたどり着くのが難しい。道が細いから車でなんてまず間違いなく入り込めないし、徒歩であっても慣れてなければ地図片手でも迷ってしまうだろう。

 

 けれどその場所に住むぼくにとっては勝手知ったるなんとやら。日が暮れようともスムーズに——とは、いかなかった。

 

 帰路の途中。慣れ親しんだ帰り道の半ばほどで——不意に、影が差す。

 訪れる暗闇。見れば雲が月を覆い、俄に夜が闇に閉じた。

 

「——すいませぇん」

 

 折に、響く声。

 

 暗闇より響いたそれに、思わず目を向ける。

 別れ道の先。細い路地の、数少ない街頭の下。古びて明滅を繰り返すそれに照らされ、不規則に浮き上がる人影。

 

 背ばかりが高く、ひょろりと痩せたシルエット。骨張った四肢は蜘蛛のように細長い。肩口を超えて伸びた髪だけが、女性であるとわかる要因だった。

 

「すイませぇん」

 

 良く見れば、足元に何かが転がっている。大きなそれは、水気を含んでテラテラと輝いている。街灯が瞬くたびに、白とピンクの異様なコントラストが見え隠れしていた。

 

()()()()()()

 

 間延びして繰り返される呼びかけ。けれど、それに応える余裕などない。

 

 ——匂いが、満ちていた。

 

 思わず後退りたくなるほど濃密なそれ。鼻を押さえたくなるような、むせかえる鉄錆の香り。

 

「ちょっトぉ、お尋ネしたいんですケどぉ」

 

 虫の羽音のように不快なノイズに合わせて、バチバチと灯りが弾ける。

 入り乱れる光と闇。正気と狂気の境界線。

 暗い闇の向こう側。明滅する光の内側に、見てはならぬの禁がある。

 

()()

 

 背筋がぞっと泡立つ。背骨の芯の熱が抜け落ち、怖気からガチガチと歯が鳴った。

 胃の底が浮き上がるように脈動し、喉奥に焼けるような吐き気が込み上げる。

 不規則な明滅。チカチカと繰り返される点滅の最中、爛々と輝く、赤の色。

 口元から、エプロンのように広がるそれは——

 

「あなタのこトぉ——食べテもいイですカぁ?」

 

 ——鮮血。

 

 

 

「————〜〜〜〜ッ!!!!!」

 

 ぼくは逃げ出した。声にならぬ声を叫びながら、脱兎のごとく、一目散に。

 

 ()()()()()()()

 

 ぼくは見た。彼女あの足元に転がっていた残骸を。

 無惨にも食い荒らされ、ボロ雑巾のように転がされたそれを。

 

 それは、人の死体だった。

 

 不揃いな歯形に食い荒らされ、黄色い脂肪とピンク色の肉が剥き出しになり、至る所から血に塗れた骨が飛び出たそれは、もはやその残骸としか言えずとも、たしかに人のそれだった。

 

 だって、目が。

 

 半ばかじり取られ、脳漿を滴らせる頭蓋に残る、真っ黒な瞳が。

 

 ぼくを、見つめていたのだ。

 

「————ッ!!」

 

 思わず叫び出したくなるのを堪える。

 自分の居場所を教えるわけにはいかない。

 

 チラリと後ろを振り返れば怪物の影はまだ見えないが、足音は迫っていた。

 息を殺して、それから離れるように移動する。

 

()()()()()()……」

 

 口の中で、言い聞かせるように呟く。これが現実だなんて、信じたくない。

 

 つい先ほど日本国の治安の良さに感謝を捧げたばかりだと言うのに、なんの冗談だ、これは?

 帰宅途中に惨殺死体とその作り手に遭遇するなんて、タチの悪いスプラッタコメディだ。

 けれど、ぼくがいくら嘆こうとも、現実は冗談じゃ済ませてくれない。

 

「あハっ、ミぃっけ」

 

 突如、響く声。見れば、食人鬼が民家と民家の隙間から、こちらを覗き込んでいた。

 

 心臓が止まりそうになるものの、冷静に。

 建物のと建物の間には、隔たりとなる背の高い塀が向かい合うように立っており、その隙間はわずかだ。視線は通れても、猫の一匹も通れないだろう。

 冷静にこの場を離れれば、まだ猶予は——

 

 なんて、考える僕を嘲笑うように。奴はひょろ長い体をひらりと舞い上がらせ、()()()()()()()

 

 わずかばかりの上面に足を乗せ、平均台を行くように、ずかずかとこちらへやってくる。

 ああクソッタレ、僕は何を馬鹿正直に考えていたんだ。道がないから大丈夫、なんて、迂闊にも程がある。

 ぼくは慌てて駆け出した。

 

「——待っテぇ、待ッてくダさいよぅ、ホんの少シ、齧らセてくれルだけでいイんでスよぅ」

 

 背後から掛かるふざけた声。思わず口をついて出そうになる悪態を噛み殺しながら、走る。走らなければ、ぼくもあの死体の仲間入りだ。

 恐怖と焦りのあまり足がもつれ、よろけてこけそうになりながらも、なんとかがむしゃらに足を動かす。

 

 出鱈目に曲がり角を曲がる。とにかくこちらを見失わせたい。月明かりは消えているのだから、それは有利に働くはずだ。

 入り組んだ路地は現地住民以外を惑わす迷宮である。明かりがない夜ならば、さらに。であれば、奴がぼくを見失うのはすぐのことだ。

 すぐのことの、はずだ。

 そのはず、なのに。

 

()()! ()()()!」

 

 声が聞こえる。啜り泣くような、耳障りなそれが響くのは、すぐ後ろからだ。

 暗い夜道は、けれど逃走の助けにはならず。食人鬼はぼくの背に張り付くように追い縋る。

 引き離せないままに、体力くらべじみた鬼ごっこが始まっていた。

 

 心臓は早鐘を打ち、肺は食らいつくように酸素を求めている。

 膝はガクガクと笑い、けれどそれでも走ることだけはやめられない。

 

 なぜだ? なぜ、奴はこうも正確にぼくを追い続けているのだ。縦横無尽に交差し、人を惑わすこの路地で、一部の隙さえ晒さずぼくを追える?

 

 思いながらも答えは出ず。

 迫る死に追い立てられ、狂いそうな恐怖の中、必死に走り、走り続けて——そして、その答えがやって来た。

 

「——あ」

 

 ()()()()()()

 

 三方を住宅の背が囲む、断崖の袋小路。

 半ば正気を失いながら走ったぼくは、知らず知らずのうちに行き止まりに追い込まれていたことに気づかなかった。

 

「ああ、そうか……」

 

 気づいてみれば、当たり前のことだ。

 彼女の異様な容姿に気圧されて、それを()()だと判断してしまったぼくだけれど、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 どこかから入り込んだ、外部からの来訪者ではなく。

 ぼくと同じようにこの街に住み、ぼくと同じようにこの街に慣れ親しんで、ぼくと同じようにこの街を知り尽くした誰かが、今この時豹変したと言うだけの、それだけの話。

 

 あるいはぼくよりも長くこの街に住み着いていたのなら、ぼくの逃走経路を先読みするどころか、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 体から力が抜ける。絶望のあまり崩れ落ちそうになるのを、必死に押し止めなければならなかった。

 

「——誰か! いませんか!」

 

 一縷の望みをかけて叫んでも、返事はない。

 まるで世界が断絶したかのように、静寂だけがあった。ぼくの声は虚しく夜に溶け消える。

 

「ヒひ……はハハ……」

 

 ()()

 

 掠れた笑い声を響かせながら、現れるそれ。

 見れば、その顔はひび割れ、内側から狗にも似た長い鼻面の異形の貌が覗いていた。

 もはや人の姿でさえない、怪物の容貌。

 

 これが現実の光景だなんて信じたくない。

 けれど、握り込んだ手のひらに爪が突き立つ痛みが、ばくばくと鼓動を繰り返す心の臓の感触が、すぐそこに迫る食人鬼の笑い声が、それを許さない。

 

 つんと鼻をつく、生臭い死臭。やつの口元から滴る、血混じりの涎。今からぼくも、あそこへ消えるのか。

 ああ、嫌だ。

 こんな場所で、何もわからないまま、化け物に食われて理不尽に死ぬなんて。

 

 死にたくない。

 ぼくの胸中に浮かんだのはそれだった。

 ()()()()()()

 己の命が潰えることが、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、たまらなく恐ろしかった。

 

「ひヒ、はハ、ハハははハは——」

 

 輪唱のように響く食人鬼の笑い声。

 喜悦に満ちて口元を歪ませ、堪能するように一歩一歩と迫る。

 後ずさる先もなく、ぼくはただ迫り来る死を見つめることしかできなかった。

 

 ああ、嫌だ。

 

 嫌だ。嫌だ。嫌だ。

 

 死にたくない。

 

 死にたくない。死にたくない。死にたくない。

 

 

 

 たった独りで、死にたくない。

 

 

 

 ——瞬間。

 ふ、と。雲が晴れる。

 

 藍紫の暗い空。そこに走る、幾千幾万の星の雫。

 輝く星が、五月雨のごとくに降り注いでいた。光の糸のように、燃え尽きる星々の最後の輝きが夜に浮かぶ。流星群だ。

 

 美しい——なんて、今まさに死にかけているというのに、思わずその光景に目を奪われた。

『今日は、オリオン座から流星群が降るらしい』

 そういえば、そんな話を聞いたっけ。

 

 ふと見れば、肩から下げた鞄が輝いている。中に入っているのは、せいぜいがあの本くらいのものなのに——

 

 ばちりと音がして、鞄が弾け飛ぶ。内側から、玉虫色の輝きを放つ漆黒の本が浮き上がった。

 

 常軌を逸した光景。けれど、それは紛れもない現実だ。

 ここは正気と狂気の境界線——その、一歩向こう側。常道ならぬ魔道の世界の、その入り口。

 

 ページがバラバラと一人でにめくれ、激しく光がスパークする。

 ほとばしる稲妻と熱のない光の本流、吹き荒ぶ異界の嵐。

 眩むような輝きに、食人鬼は耐え難いとばかりに手で顔を覆い、二歩三歩と後ずさった。

 

 弾ける閃光と渦巻く暴風。強まり続けるそれは竜巻のごとくに猛り、ぼくは立っていることさえもできず無様に尻餅をついた。

 なにが起こっているかなんてまるで分からない。全てが狂い切った夜に、けれどそれでも、ぼくは祈った。

 無様に、みっともなく、ただひたすらに希《こいねが》う。

 

()()()()()()()()()()」と——

 

 やがて光は臨界に達し、目に焼き付くほどの極光が満ちる。叩きつけるような風に煽られ、ばたばたと服がはためいた。この世ならざる稲妻が幾重にも迸り、そして——

 

 ——舞い散る、薔薇の花弁。

 

 どん、と強烈な衝突音がした。

 思わず視線を向ける。見れば、食人鬼がその身を吹き飛ばされ、民家の塀に思い切り叩きつけられていた。

 

 遅れて、どこからともなく「めぇ」と山羊の声が響く。

 とたん、食人鬼は咳き込むように血飛沫を吐き出した。どす黒い血反吐。鉄錆の匂いは——けれど瞬く間に蜜の香へ。

 

 それはいかなる奇跡であるか。

 

 滴り落ちるはずの膿んだ血は、けれど地に吸われるよりも先に、その姿を鮮やかに夜を飾る薔薇の花弁へと変じていた。

 ひらひらと宙空を舞う薔薇。病んだ血の赤ではない、鮮烈なる華の赤。

 

 気がつけば。

 いつの間にか、眩い閃光も、荒ぶ旋風も遠く消えさり。

 代わりのように。一人の少女が、月に照らされ佇んでいた。

 

 真っ直ぐに伸び切っていた蹴り足を、見せつけるようにたたむ。ミニ丈の、半透明なチュールレースを重ねたスカートが、水のようにふわりと揺れた。

 少女はカツンと踵を鳴らす。

 腰まで届く射干玉の黒髪が、星の光を受けて滑らかに輝いている。

 

「ハッ、結構な出迎えじゃねぇか」

 

 絶佳のソプラノ。凛と鳴る鈴の音のごとき声が、陰鬱な夜を笑い飛ばした。

 相対する食人鬼は威嚇するように醜く声をあげ、のたりと起き上がる。

 

「呼ばれてみればモルディギアンの落とし子が出迎えとは、クク、随分悪趣味な歓待だことで」

 

 少女は嘲るように言って、食人鬼へと手招きを一つ。若い、あるいは幼いとさえ言える矮躯でありながら、堂に入った動き。余裕と気品に満ちた、上位者の所作。

 

「——どうした? 来いよ、遊んでやる」

 

 挑発。誘う指先の先にまで満ちる、蠱惑の嘲り。月さえ見惚れる、惑わしの色。

 身を彩る漆黒のドレスが、風に揺れた。

 レースを多用した、薔薇装飾のそれが彩るのは、穢したくなるほどの白い肌。

 

 食人鬼は僅かのひとときためらって、けれども泣くような声で叫びを上げ襲いかかった。

 牙を剥き出しにして、飛びかかる異形。

 

「あ、危な——」

 

 思わず口をついた間抜けな警告の声が届くよりも先に——再びの衝突音。

 

 ぼくは見た。

 飛びかかる食人鬼を、少女が()()()()()()瞬間を。

 

 巻き上げられたスカート。内より覗くレースのショーツ。残像を描く紅のグラディエーター・サンダル。風を切り裂いて放たれた、痛烈なハイキック。全ては瞬きの内のことだった。

 

 食人鬼はかろうじて腕で体を庇ったものの、衝撃を殺すことはできず大きく吹き飛び地に転がる。

 

 ぼくよりも低い背の少女が、成人体躯の怪物を吹き飛ばした事実に驚くよりも早く。

 ふわりと舞い上がったスカートを片手で直しながら、少女は真っ直ぐに腕を伸ばした。ぴんと伸びた指先が、地に伏せる食人鬼を指し示す。

 

 すると——

 

()()

 

 虚空より、山羊の鳴き声が短く響く。

 次の瞬間——舞い散る、薔薇の花弁。

 

 目を見張る。視線の先。少女の蹴りを受け止めた食人鬼の腕が、無惨にもばらりと解けていた。

 

 ひょろ長い腕の()()()()真っ赤な薔薇が咲き乱れ、腕をめちゃくちゃに引き裂いている。

 痛々しい傷跡からこぼれ落ちた血肉が次々と薔薇の花弁に変じて、風に乗って宙を舞う。

 

 人智を超えた超常の現象。されどそれを為した少女は当然とばかりに「ふん」と鼻を鳴らす。

 

「なり損ないの三下が。この俺様に触れようなんて一億光年早いんだよ」

 

 光年は距離だ。なんて、ベタベタな突っ込みさえも、今は置こう。

 

 少女はステップを踏むようにカツカツと踵を鳴らして食人鬼へと近づいていく。

 歩く様さえ、芸術のように。

 

 そしてついに、少女は対比としてさえ哀れなほど醜い怪物の前へと立つ。

 食人鬼は怯えるように腕を庇いながら身を縮こまらせた。

 少女はその姿をつまらなさそうに見つめて、足を振り上げた。

 

「せめて、美しく散ることを許す」

 

 ガツン、と。少女の踵が食人鬼を踏みつける。ピンヒールの先が、赤く染まった胸板に突き刺さり、そして。

 

 ()()()

 

 ぱあん、と風船が弾けるような音がして、食人鬼の体が破裂する。

 肉体が弾け飛び、そして散りゆく血肉が次々と薔薇の花弁に姿を変える。

 

 グロテスクな、凄惨の開花。

 咲き乱れる死の薔薇。言祝ぐように華やかな赤が、風に煽られ淡く踊る。

 降り注ぐ、真紅の花吹雪。アスファルトの上に落ちては、鮮やかな赤と蜜の香を敷く。

 

 それは現世を染め上げる、幻想の花の開花だった。

 異形の血肉を吸い上げて咲いた、残酷にも美しい、幽玄の景色。

 

 その中心に残るのはただ一人。ひらりひらりと舞い落ちる赤の花弁を喝采のごとくに浴びながら、壇上のプリマのように佇む少女。

 こちらに背を向けていたそれが、ふと。思い出したように、ぼくの方へと振り向いた。

 

 ——美しい。

 

 思わず見惚れる、凄絶の美。

 黒髪が映える、白磁のように白い肌。わずかに朱を灯すやわらかな頬。すらりと通る鼻筋に、うっすらと紅が塗られた魅惑の唇。

 顔立ちは幼く、されど成熟した色香を匂わせる。子供から大人へと至る過渡期。花開く寸前の蕾のような、絶世の美貌。

 閉じられていた瞼が開けば、長い睫毛に彩られた切長の目の内側に浮かぶ、血のように赤い紅玉の瞳。

 

 深く沈み込むようなそれが、じっとぼくを見つめた。

 交差する視線は僅かのひととき。それで十分とばかりに彼女は笑って、口を開いた。

 

「——お前が、俺様のマスターか?」

 

 暗い路地裏の奥底。薔薇の花弁が舞い散り、蜜の香が咲き乱れるその場所で。降り注ぐ星を背に、少女は言った。

 

 ぞっとするほどに美しい、一枚の絵画のような光景。

 ぼくは返す言葉さえも忘れて、彼女に見惚れた。

 

「んん? どうした? 俺様に魅了されたか?」

 

 ま、それならそれで好都合だがな——

 言いながら、少女はぼくの方へと近づいてくる。

 低い背ながら長い足が、カツリカツリと地面を叩いた。

 

 眼前に立った少女はぼくの顔を物珍しそうに覗き込んだ。

 す、と。伸ばされる手。立ち上がることもできず、呆気に取られて見上げるぼくの頬に、彼女の手が触れた。顔が近づき、頬が熱くなるのを感じる。

 けれど、いつまでも呆けているわけにはいかない。ぼくはまず、彼女に命を助けられた礼を言わなければならない。

 

「その……助けてくれてありが——」

 

 ——ちゅっ。

 遮るように、水音が響く。唇に、湿り気のある柔らかな感触。

 一瞬、何が起こったか分からなくて——そして理解した瞬間、頭が真っ白になる。

 

「な、な、な、何を——」

「キスのひとつで狼狽えるなよ。生娘か?」

 

 突然唇を奪われて狼狽えるなという方が無理がある。

 

「ククッ。なんだ、随分うぶだな。いいぜ、嫌いじゃない。むしろ初モノを染め上げるのは好きだ」

 

 少女はショート寸前のぼくをよそに一方的に捲し立てた。

 

「それじゃあ今から——」

 

 そっとぼくの耳元に唇を近づけて、囁く。

 

「——お前を犯すぞ?」

 

 え——? なんて、間の抜けた声を漏らすぼくをよそに、少女はぼくにしなだれかかった。抵抗を思い浮かぶよりも先に、彼女はぼくを押し倒す。

 

 やわらかな感触。女性らしい起伏にこそ富まないものの、艶かしく華奢な、思春期特有の肉体。白雪の無垢から(あで)の翼で羽ばたかんとする極上の肢体が、ぼくに触れる。

 

 訳もわからないままに、するりと腕が首に回され、唇に吐息がかかり、次の瞬間、二度目のキス。

 だが、今度は唇が触れ合うままに終わらなかった。

 唇を割って、少女の濡れた舌が侵入する。口腔内が蹂躙された。己の舌に少女の長い舌が絡みつく。ねっとりと、犯し抜くようなディープキス。

 

 思わず、己の深部に熱が集まるのを感じた。

 羞恥に顔を赤らめる。真っ赤な顔が、少女の瞳に映っていた。少女は挑発的な笑みを浮かべ、ぼくの頬を撫でる。そして——

 

 太ももに当たる、棒状の硬い感触。

 

 ん? と首を傾げる。

 そんな位置に、硬いものが当たるだろうか。

 確かめるように手を伸ばし、触れてみると——

 

「あんっ♡」

 

 少女が喘ぐ。可愛らしい、今この時に響くのでなければ最高の嬌声。

 

「おいおい、いきなりなんて大胆だな……」

 

 少女はうっとりとつぶやく。

 ぼくの手は、少女の股間に触れていた。

 チュールレースのミニスカート。それを内側から押し上げる、熱くて硬い、棒状の感触。

 これは、一体——?

 

「——そんなに気になるのか? これが」

 

 起き上がる少女。ぼくの体を跨ぐように膝立ちになり、スカートの裾を、白魚のような指でつまむ。

 あ、と思う間も無く、あまりにも自然にスカートがたくし上げられた。

 開演の幕を上げるかのごとく、堂々と。風の悪戯なんかとは訳が違う、背徳的な暴露。

 ゆっくりと、見せつけるように内布を晒すフリル。月明かりに照らされ、眩く輝く白い太もも。そして————()()()()()()()()()()()

 

「え——?」

 

 理解が追いつかない。これはどういうことだ?

 スカートの内側。晒された少女のパンツは、棒状の硬いものに押し上げられて、()()()()張り詰めていた。

 

 まるで、そう。ぼくとてよく慣れ親しんだ、男であるならば誰もが持つそれが、内側に存在しているかのように。

 

 でも、それはありえない。だって目の前にいるのはどう見たって女の子だ。体型も面立ちも美少女としか形容できなくて——けれどそのスカートの内側には、熱り立つパンツ。

 

 それが証明する事実といえば、一つしかない。

 だとするのなら、まさか。

 全くもって、信じられないことだけれど。

 目の前の彼女は、彼女ではなく————

 

「見ろよ。お前のせいだぜ? こんなになっちまったのは。だけど、これの出番はまだ先だ。まずは前戯から、な?」

 

 最悪の未来を暗示する言葉をかけられ、顔が青ざめるのを感じる。今まさに、ぼくは散らされようとしているのではないか? 何を、とは言わない。言いたくもない。

 

 すっと、細い手がぼくのズボンに手をかける。ベルトの金具がかちゃりと外された。

 

「まて、まてまてまて待ってくれ」

「ククッ、いいね、その表情も悪くない。そそるぜ」

 

 手を止める気配もなく、少女は——否、()()は、ぼくのズボンを脱がしにかかる。

 

 彼女はぼくの両足を封じるように馬乗りになった。ジタジタと足を動かしてもびくともしない。それどころか振動が刺激として伝わってしまったようで、少年のスカートの正面がさらに大きな山を作っていく。彼が彼女ではなく「彼」であることを証明する部位が、着々と準備を整えていた。

 

 まずい。どう考えてもまずい。

 

 ベルトが抜き去られ、ズボンのホックに指がかかる。

 慌てて腕を掴んで止めようとしても、まるで意味をなさずに振り払われた。こんなにも華奢な腕の、どこにそれほどの力を秘めていたのか。どんなに力を込めても全く歯が立たず、粛々とズボンが脱がされて行く。ホックが外され、ウェストがズリズリと引き下げられてしまう。

 

「な、なあ、ちょっと落ち着こうじゃないか。一旦冷静になろう。ぼくたちは初対面だぜ? こう言うことをするにはまだ早いって言うかさ……」

 

 言葉による説得を試みる。彼に日本語が通じてよかった。人間、言葉さえ通じるならば分かり合える。古くはエジプトのラムセス二世がヒッタイトと平和条約を結んで以来、人間は言葉によって争いを解決する術を手に入れたのだ。

 

 どんな時だって人は平和的にわかりあうことができる。多分。きっと。メイビー。

 

「たしかに俺様は初対面だが、俺様はお前にしっかり欲情してるぜ? モノが勃ったなら、あとはやるだけ。常識だろう」

 

 ダメみたいだった。

 どこの世界の常識だそれは。ぼくが知らない内に人類はそこまで倫理を捨て去ってしまったのか? 野生動物の交尾だってもう少し情緒があるぞ。

 

「いやいやそれは性急にすぎるってもんじゃないか? じっくり考えてからでも遅くはないだろう? 慎重になりすぎるってことはないはずだ。体は大切にしたほうがいい。いっときの感情に流されてそういう行為に臨むのはよくないぜ。終わってから後悔するかもしれない」

「大丈夫だ。セックスで後悔したことは一度としてない」

 

 なにも大丈夫ではなかった。

 というか、ぼくがせっかく頑張って濁していたというのになんで直接言ってしまうんだよ。

 この小説に年齢制限がついたらどうしてくれる。

 

「……ほら、ぼくってばそういう経験もないわけだし」

「安心しろ。初体験だろうと気持ちよくしてやるよ」

 

 一世一代の秘密の開示を含めた言葉による説得は華麗に無視され、全く安心できない文言を頂戴した。

 冗談じゃない。気持ちよくなんかされてたまるか。前より先に後ろの初体験を済ませるなんて死んでもごめんだ。

 

 嘘だろう。こんなことがあっていいのか?

 命の危機が過ぎ去ったかと思えば尊厳の危機の到来だ。一難去ってまた一難なんてレベルじゃない。デッドオアデッド。肉体の死か、尊厳の死か。最低最悪の二択問題だ。

 

 話は終わりとばかりにズボンが引き剥がされ、いよいよパンツへと手が伸ばされた。

 白魚のような指がウェストのゴムを掴む。お腹に指の感触が触れていた。

 これが引き下げられてしまえば、ぼくを守る鎧はもはやない。本当の意味で丸裸だ。

 そうなればもう止まらない。ぼくのハジメテは、今ここで散らされてしまう。

 

 ゴムを掴む指に力が入った。

 彼の手を包むようにつかんで必死に押し留めようとするが、ジリジリと力負けしていく。

 パンツが下がる。こんな場所で晒してはいけない場所が、あと少しで外気に触れてしまう。

 

 ぼくはぎゅっと目を瞑る。もはや終焉はすぐそこだった。ぼくの最も秘するべき部分に、指先の感触が触れる。

 避けられぬ結末に、けれどそれでも最後の抵抗をするために、ぼくは大きく息を吸った。

 

 

 

「——やめろーーーーッ!」

 

 

 

 かくして。

 時は冒頭に巻き戻る。

 

 思えばこの叫びこそが、全ての始まりだったのだろう。

 蜜の香満ちる、暗い路地裏の奥深く。星降る夜に、ぼくは彼と出逢ったのだ。

 

 それは劇的というよりも衝撃的。あるいは衝突的とさえ言える、唐突な運命の交差。

 それこそがぼくを一夏の密やかなる大事件へと誘い、それはやがて、ぼくという存在そのものの根幹さえも変えてしまうほどの、大いなる転機となる。

 

 ブラジルの蝶の羽ばたきが、テキサスの竜巻を呼び起こすとして。

 けれど蝶が羽ばたく時、それを自覚することなどあり得はしない。

 

 それと同じように、ぼく——空戸覚伽も、この下世話極まる最低の出会いが、けれど全てを変える第一歩であるなんて、この時はまだ、想像さえもしていなかったのである。



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四条烏丸の決闘


今回、独自設定独自解釈のオンパレードです。



 四条烏丸。京都を代表するビジネス街と名高いそこ。夜も深く、人通りはない。いや、それは夜だからだけが理由だろうか?

 

 歩道にはただの一人の通行人もおらず、立ち並ぶ店にも一切の人気はない。

 昼間は忙しなく駆け回る車の姿もまた皆無。不気味なほどの静寂だけがあった。

 

 そんな、夜に閉じた交差点。大通りが重なる中心に、一人の男が立っていた。

 

 瑞々しく、長い髪が風にたなびく。

 宝石の糸で彩られたそれは、深い青。後頭部でまとめられては尾のように伸び、挑発的に誘う。

 

 異様な男であった。

 

 (かんばせ)は美男子。されど肉体は鍛え上げられ、一切の無駄を削ぎ落とした猛獣の如き躰。

 それを覆うのは、時代錯誤な薄絹の戦衣装。

 胸には輝く金のブローチ。肩には毛皮のマントを巻き付け、戦衣装の要所要所を金属の鎧で飾る。

 まるで古の絵画から抜け出したかのような、幻想の戦士の出で立ちだった。

 

「——いい夜だ」

 

 呟く声は深く、流麗。静寂の中によく響いた。

 

「心の臓がひりつくほどの、いい夜だ」

 

 雲の切れ目に、月が差した。白い光が、乙女の如くにしなだれかかる。

 眩むような色気。切長の目に座す瞳が、宝石に似て七色に輝いた。

 

「お前さんも、そう思うだろう?」

 

 水を向けた先。そこにもまた、一人の男がいた。

 交差点の北。往来のど真ん中に憚ることなく佇むその男も、また異様。

 

 どこまでも冷たい、無骨な鉄面皮。気品ある面差しは、けれど纏う覇気によって威圧的に見える。

 

 氷の男だ。

 

 黒い眼鏡は叡智の結晶。翠玉の瞳が、透鏡(レンズ)に覆われてなお鋭い眼光を放つ。

 肉体は鋼。実直に練り上げられた、人たるの極点。

 

 それを彩るのは黒の鎧。現代的なボディアーマーにも通ずる、機能的なそれ。華やかさなどまるでない、無骨にして愚直な鎧。けれど氷の男が纏うには、それでこそふさわしいだろうと感じさせる。

 棘輪の肩当てで止められ、風に翻る藤色のマントだけが、その血の貴さを物語っていた。

 

「——ああ、いい夜だとも」

 

 問いかけに応じる。

 答える声もまた無骨。低く、重く、響き渡るそれはまさしく戦士の王たる者の声。

 

「——雄叫び、流血、死と栄誉。鉄の刃に火花が散り咲く、大いなる戦の始まりにふさわしい、いい夜だ」

 

 その答えに、猛獣の戦士は破顔した。美男子の顔が大きく歪む。

 威嚇する獣のように、口を裂いて笑う凶相は、待ち望んだ以上の答えに対する歓喜の現れだった。

 

「ああともさ。月も高く、この場にいるのは二人の戦士。血潮は熱く迸り、研がれた牙が戦の気配に火を灯す」

「なればここに至て道は一つ。斯様な益荒男と(まみ)えたのなら、必然魂を削り合い、打ち倒すのが礼儀というもの」

 

 打てば響く。吟じるが如き、確かめ合うような言葉の応酬。

 それは古の様式美。戦士たちが紡ぐ戦場の詩。

 

「——ああ、これだ。これだから、たまらねえぜ。予想以上に最高の答えじゃねえか。一眼見た時、直感したよ。俺が戦うべき、真実の戦士が現れたぞ、と。それは正解だった。この上なくな」

 

 その言葉に、氷の戦士もまた微かに笑った。

 

「それはこちらも同じだ。偉大な戦士よ。一眼見ただけでわかる。貴殿こそ、この戦争における最大最強の敵。当方が越えるべき真なる英傑である、と」

「両思いとは、光栄だね」

 

 笑い、そしてどちらともなく、互いに右手を広げる。

 

「もはや言葉は不要だろう」

「ああ、交えるものは一つのみだ」

 

 空から滲み出すように、二振りの得物が現れた。

 

「名を名乗れぬ無礼を許せ、ランサー」

 

 瞳と同じ、翠玉の刃。濃密な神秘を纏う幻想の大剣。緑色の燐光を放つそれを構えた氷の戦士が言う。

 

「なんの、この戦いにおいては些事だろうさ、セイバー。密かに秘された一夜の逢瀬だ。されど我らの戦いは、神々さえも讃えるものとなるだろう」

 

 対するは、棘の紅槍を構える猛獣の戦士——ランサー。

 舞うように手がくるりくるりと回り、合わせて槍が夜を裂く。

 演舞の如きルーティンを終え、パシリと槍を掴めば、身を低く。

 隠し立てもせぬ、貫きの構え。

 

「さあ行くぜ、セイバー」

 

 セイバー——そう呼ばれた氷の戦士は、応じるように足を踏み込み、拳を構えた。

 叡智の結晶、その黒い骨格(フレーム)がバシャリと音を立てて展開し、フルフェイスの兜となる。

 励起した魔力は稲妻の如く迸り、腰に下げた短剣が眼前へと浮き上がった。

 

「こちらの戦闘態勢は完全である——来い!」

 

 一瞬の静寂。

 転じ、次の瞬間。

 

「おおおおおおっ!!」

「はあああああっ!!」

 

 激突。

 追い縋るように、響き渡る衝撃音。

 

 挨拶がわりに交えられた剣と槍の一合。

 たった一合のその衝突で、赫と翠の魔力が可視化されるほどに迸り、衝撃波が撒き散らされた。

 店に降りたシャッターが軋みを上げ、街灯が耐えきれず次々と音を立てて割れる。

 

 吹き散るガラス片が地面に落ちるよりも先に、二人の戦士——ランサーとセイバーが動いた。

 

 滑るように地を這う槍の穂先が、アスファルトを布のように引き裂きながら迫る。

 対するセイバーは、大剣を低く構え迎え撃つ。槍は向かって左から迫る。合わせるように剣を左寄りに傾けた。

 

 槍を振り抜く——という瞬間、槍の穂先が跳ね上がる。それはあたかも、高々と刃が掲げられる断頭台のように。

 アスファルトの破片を巻き上げながら大きく軌道を変えて大上段へ。獲物を狙うカワセミのような振り下ろしで頭を狙う。

 

 けれどそれを待っていたかのように、セイバーは膝を折り、体をガクリと下げた。チリ、と、鬣のように逆立つ黒白の毛先を僅かに掠めて刃が通り過ぎた。槍を振り抜き、ガラ空きの胴が眼前に差し出される。

 

 好機。過たず差し込まれる剣——が届くよりも先に、ランサーは跳び立っていた。

 

 目を見開くセイバー。

 からぶる大剣を嘲笑うように、鮮やかに中空へと身を踊らせる幻想の戦士。振り下ろした槍を軸として、棒高跳びの要領で跳んだのだ。

 

 天へと逃れたランサーを追い切ること叶わず、大剣は空を切った。

 悠々と見下ろすランサーは、ポールダンスのように槍を持った手で体を支え、宙に止まったまま自由な足で蹴りを繰り出す。

 

 曲芸の体捌き。類稀なる脚力が生み出す強烈な蹴りがセイバーを背後から襲う。すんでのところで反転し片腕で庇うが、衝撃までもは殺しきれず大きく後ずさった。

 

「……へぇ、やるじゃねぇか」

 

 しかし、蹴り飛ばされる寸前、僅かな隙を突いて反転する勢いのまま投げられた短剣が、ランサーの腿を浅く裂いていた。

 

 感心と——疑問。

 傷は皮一枚を切る程度。されどそれ自体に意味がある。

 

 ()()()()()()()()()()()()()。それは本来、()()()()()()()なのだ。

 

 矢避けの加護——そう呼ばれる、飛び道具に対する守護。広域を消し飛ばすような範囲攻撃を除き、遠距離からの攻撃を全て逸らしてしまう、反則じみた絶対防護。

 ランサーが生来持つそれが、いかなる術によるものか、いとも容易く貫かれた。

 

 それは眼前の敵がランサーの命に届く刃を持つという証明であり、だからこそ——

 

「——面白い」

 

 ランサーは昂ぶる。首元に刃を当てられて、その上で笑うのが戦士というもの。

 眼前の敵が自らの命に届く刃を持つというのは、吉報以外の何物でもなかった。

 

「俺は飛び道具の類にはめっぽう強いはずだったんだがな。一体どんなカラクリだ?」

 

 口を滑らせる、などとは思わない。けれども気になるというものだ。ランサーは問い、しかして当然、セイバーは煙に巻く。

 

「さて、な。当方は蹴りに対するささやかな返礼をしたまでのこと。それ以上のことはない」

 

 持ち主の元へと独りでに帰還する短剣を掴み取りながら、薄く笑ってみせるセイバー。それは挑発の笑み。知りたければ暴いて見せろと、言外に語る。

 

 双方浅いダメージを負い、けれど決定打には程遠く、互いに健在。それでも僅かな攻防が、相手を好敵手であると認めさせた。

 

 どちらともなく踏み込み、戦いは激しさを増してゆく。

 流れるような極限の槍捌き。変幻自在のそれは時に狼の牙のように突き立ち、時に蛇の尾のようにからみつく。

 対する剣筋もまた神域の技量。槍と剣。間合いの不利をものともせずに、獅子の如き王者の剣を叩きつける。

 

 瞬きの間に、百を超える打ち合い。槍が突けば剣がそれを捌き、剣が薙げば槍が跳ね上がって弾く。

 技量は拮抗し、千日手の様相を示し出した。

 

「こう言う趣向はどうだ、セイバー!」

 

 先に動いたのはランサー。直球勝負は互角。ならば、変化球はどうか?

 足首を狙う鋭い薙ぎを繰り出しながらも、左手を槍から離し、素早く指を動かす。

 

「ニワトコ、トネリコ、ナナカマド。燃え立つ火は蛇。絡む軛の縄。地を這う赤、血を伝う傷、名残惜しくも牙を突き立て!」

 

 吟じられる詠唱。それは遥か古の戦士の呪い。神代の文字を繋げ、一つの魔術、一つの呪詛、一つの誓約(ゲッシュ)として組み立てる言霊。

 

 言葉を紡ぎ終えれば、現象が応じる。

 薙ぎ払う槍をわずかに跳ねて鮮やかにかわして見せ、かえす刀で剣を振おうとしていたセイバーの眼前に、紅蓮の炎が吹き上がった。

 

「むぅっ!」

 

 セイバーは剣を振り切る手を止め、それを咄嗟に盾の軌道に変え、火を打ち払った。

 しかし——

 

「追い縋るか!」

 

 身を蛇の如く変えた火が剣に絡み、そのまま剣士の肉体を蝕もうと首を伸ばす。

 

「しぃっ!」

 

 だがそれを許すセイバーではない。

 燃え盛る火をそのままに全身を躍動させ、一回転するように剣を振るう。槍を構えて突撃の姿勢に入っていたランサーへと向けて、炎ごと剣を叩きつけた。

 

 ガイィイン、と耳障りな金属音。ランサーは剣を槍の手元で受けた。

 莫大な運動エネルギーが衝突し、拮抗——するかと思いきや、それはセイバーの剣へと伝う。

 

 それは決して力負けしてのことではない。

 あえて隙を作り、伝わった衝撃は魔力を伴い、火をも震わす。

 巨大な魔力の氾濫に耐えきれず、魔術の火は身を引き裂かれ、散り散りに消えた。

 

「今のはルーン……否、ケルトのオガムか。それも最源流たる大樹のそれ」

 

 間合いを計りながら、セイバーが呟く。その言葉には固い確信があった。

 

「雄弁の神オグマが生み出した神秘の文字。近縁となる文字を基盤とする魔術に比べ、文字単独では効果を発揮せず、一文を刻み誓約(ゲッシュ)となすことで初めて効果を発揮する。代わりに出力は高く、儀式向けの魔術基盤——それをこうも巧みに戦闘に用いるとはな」

 

 詳らかに語られる魔術の特性。初見のはずのそれに対する確かな知識に、ランサーは目を細めた。

 

「へぇ、一度見ただけでそれか。よくわかるもんだな?」

「叡智の結晶は伊達ではない、ということだ」

「なるほどね……なんであれ、知ってるなら話は早ぇ。こいつぁちょいとばかり気難しいが、パワーはとびきりだぜ!」

 

 言葉を終え、飛び込む槍使い。

 絶えず続く攻防に、閃光や炎熱が混じり始めた。

 雷鳴よりも早く振われる剣と槍。差し込まれる魔術の煌めき。一合ごとに衝撃が迸り、熱と光が撒き散らされる。

 

「はあっ!」

 

 一歩深く、セイバーが踏み込む。

 状況は手数で勝るランサーに傾いていた。

 乾坤一擲。深く踏み込み間合いの不利を潰す。オガムにより咲き乱れる光の茨が身を裂くが、必要経費だ。

 

「そう簡単にやらせるかっての!」

 

 しかしそうやすやすと逆転の目を与えるわけもない。

 ランサーは槍を短く握り、剣の間合いでの戦闘に備える。

 しかしセイバーの攻撃は、ランサーの予想を上回るものだった。

 

「喰らうがいい!」

 

 剣よりもさらに深く踏み込み、長物が完全に枷となる距離へ。

 アスファルトを踏み砕く、右足の踏み込み。前に深く体重がかかる。地面をすり潰しながら踵を軸に左足を開く。その力で骨盤を回し、上半身の捻り。

 音速を超えた拳が衝撃波を鳴らし、砲弾と見紛うボディーブローがランサーの鳩尾に深々と炸裂した。

 

「カッ——ハッ……!」

 

 強壮なる肉体も急所への一撃には耐えきれず、わずかのひととき呼吸が止まった。

 その隙を、過たずセイバーは撃ち抜く。

 

「おおおっ!!」

 

 左、右、左、右。見事なコンビネーションの連打。肝臓、膵臓、鎖骨、心臓。螺旋を描く神速の拳の連撃が、的確に急所を撃ち抜いてゆく。

 皮が裂け、肉が潰され、骨が割れる。瞬きの間に、ランサーは百を超える拳を受けた。

 

「せぇい!!」

 

 もう一度、深い踏み込み。身を深く、地を這うに等しい構え。拳を受けて浮き上がったランサーの体の下へと潜り込むような体制。

 

 一瞬の静止。後、爆発。

 

 割り砕かれたアスファルトの破片が宙空を舞う。

 見れば、踏み込んだ足にかかるエネルギーで、四条烏丸の交差点に小さなクレーターが生まれていた。

 

 しかしそれほどの大破壊もまた、単なる余波でしかない。

 足の下から伝わるエネルギーの反作用を膝に受け、超人的なバネがセイバーの身を跳ね上げる。

 空へと打ち上がる戦士の肉体。離陸に伴う爆発的なエネルギーは腿を伝い、上半身へと届く。丹田にて螺旋を描き練り上げられたそれは脈動する筋肉に乗って腕へ、拳へと突き進む。

 

 突き上げられた拳。天を裂くような、渾身のアッパーカット。

 全身を使って放たれたそれはもはや対空ミサイルの域。

 頭上にあるランサーの顎へと吸い込まれるように着弾した拳が、ランサーを吹き飛ばした。

 

「まだまだぁっ!!」

 

 烏丸通りを西へと吹き飛ぶランサー。

 それを追うように、四本の短剣が突き進む。

 拳を撃鉄とし、柄を殴って発射された短剣が、吹き飛ぶランサーを切り刻もうと迫る。

 

「沈め」

 

 飛翔する短剣をさらに追って、セイバーが飛来した。

 弾丸より急いて進む短剣よりもなお早く迫ったセイバーが、大上段に剣を構えて振り下ろす。合わせて飛来した四本の短剣と共に、瞬間的な飽和攻撃。

 絶体絶命の窮地に、けれどランサーは——

 

「やられっぱなしじゃぁ……」

 

 ——笑った。

 

「いられねぇよなぁ!!」

 

 空中。踏ん張りの効かないそこで、けれども強引に姿勢を整える。飛来した短剣の一本をあえて足に受け、その衝撃を軸に体制を転換。

 槍をぐるりと大きく回し、大上段からの振り下ろしを防ぐ。

 

「樫の檻よ、阻み、重なり、日の香を食んでは生い茂れ!」

 

 瞬間的に紡がれる大樹のオガム。

 アスファルトを引き裂いて樫の木が現れる。瞬く間に育ち巨木となった樫の枝に着地し、しなるそれを銃身として自らを弾丸に構える。

 

「お返しだぜ!」

 

 血塗れのまま、この上ない笑みを浮かべる。

 発射。そうとしか形容できない、愚直な突貫。けれどもそれで十分だった。

 雷の速度で突き進むランサー。手に持つ槍を突き出し、セイバーの心臓を狙い——

 

「こう言う趣向はどうだ、ランサー?」

 

 ビシリ、と。

 縫いとめられたように、宙に止まる。

 ランサーの左足。その足首に、氷の鎖が結びついていた。

 

 見れば、ランサーが飛ぶその下の地面。

 黒いアスファルトに、何事かの文字が刻まれている。

 氷の鎖はそこから伸び上がり、ランサーを拘束していた。

 

(イサ)(ハガラズ)(ナウシズ)

 

 それは神代の文字。北欧の大神が見出した神秘の極点。

 

「——原初のルーン。フィンブルヴェトルの氷の戒めだ。外から溶けることは決してない」

 

 ギャリギャリと音を立てて鎖が引かれ、ランサーが地に落ちる。

 原初のルーン。北欧に伝わる最強の魔術による氷の戒めが、ランサーの左足を氷に封じ、地面に縫いつけた。

 

「チッ、やってくれるぜ」

 

 忌々しげに、舌打ちをひとつ。

 

「戦士でありながら魔術に長けるのは、何も貴殿だけではないと言うことだ」

「はっ、意趣返しか——」

 

 ランサーが左足を動かそうとし——

 

甘ぇんだよ(大樹のオガム)

 

 氷が、音を立てて溶け落ちた。

 

「馬鹿な!」

 

 信じられぬ光景。外部からでは決して溶けえぬ、ラグナロクの予兆たる冬の氷が、いとも容易く溶け落ちる。

 

「惚けてる暇はねぇぜ!」

 

 飛び込むランサーが蹴りを繰り出す。長い足が繰り出すハイキックを、畳んだ腕で受け止める。

 

「——なるほど」

 

 チラリと見えた足の先。

 氷が絡み付いていたその足首には、ぐるりと一周するようにオガムの呪文が刻まれていた。

 

「対策済みだった、か」

 

 外部からの解除は不可能な氷の戒めも、あらかじめ置かれていた解呪には無意味だった。それは焼けた鉄に雪を被せるような物だ。

 

「なんとなく感づいてはいたのさ、テメェも()()()()ってことにな」

 

 槍を構えながらの種明かし。

 

「純粋な戦士にしちゃあ、魔術に対する理解も対処も妙に熟れてやがる。だからいざと言うときに備えて、体自体にオガムを刻んでおいたのさ」

「なるほど。仕込みを見逃した当方の落ち度か」

 

 諦観の声。それは二重の意味を持っていた。

 

 先のハイキック。刻まれたオガムの呪文は二つ。かかる災難を払う浄めの術式と、触れたものを蝕む病魔の呪詛。

 

 肺を蝕む水腫。血中を駆け巡る腐敗。心の臓を凍らす寒気と停滞。全身にのしかかる死病の重みに、セイバーは足を止めざるを得なかった。

 

「——その心臓、貰い受ける」

 

 その一瞬の淀みは、生死を分かつ境界線。

 

「〈刺し穿つ死棘の槍(ゲイ・ボルク)〉——!」

 

 ——真名解放。それは今や失われ、されど人々の祈りの中に息づく貴い幻想(ノーブル・ファンタズム)の真相。

 

 赤き稲妻が走る。それは敵対者の心臓を尽く穿つ因果逆転の一撃。

 先に心臓を貫くと言う結果をもたらし、後から槍を放つと言う原因を作る、権能一歩手前の運命そのものに対する攻撃。

 

 回避不可、絶死の一撃。

 迸る赤き閃光は、過たずセイバーの心臓を穿った。

 

 静寂が降りる。

 紅の槍に縫いとめられたセイバーは微動だにしない。

 瞬間の決着に、ランサーは息を吐く。

 

「……仕留める時は一撃で、さね」

 

 名残惜しくも目を伏せる。強敵との戦い。心躍る闘争の果て。あっけないほどに唐突な結末。

 甘美なる戦いの終わりを噛み締め、ランサーは静かに死体へ背を向け——

 

()()()()()()()()()

 

 ——聞こえるはずのない声が響く。

 

「なにっ——ガッ!」

 

 翠玉の大剣が、空気の壁を引き裂いてランサーへと投擲された。

 完全なる不意打ちに、然しものランサーも全く対応できず、その身に剣が突き立った。振り向きざまを射止めるように腹から背へと刃が抜け、耐えきれず膝をつく。

 

 そうされてなお、ランサーは目の前の光景が信じられなかった。

 己が宝具。一刺一殺の対人絶技。かつて己が友と己が子を貫いたそれを真正面から受けてなお、生きている存在がいるなどと。

 

「——不思議か? ランサー」

 

 胸から深紅の槍を生やして、けれどもなお壮健なるを示し、仁王立ちするセイバー。

 

「——否、アイルランドの光の御子、クー・フーリンよ」

 

 彼はランサーの真の名を見抜いた。切り札を見せ、なおも仕留めきれなかった。ならば、その名の秘匿を暴かれるは当然だった。

 

「……ああとも、不思議だぜセイバー。我が槍は確かに貴様の心臓を貫いたはずだが?」

 

 脂汗を額に浮かせながら、ランサーが問う。

 躱すでなく、防ぐでなく、己が槍を真正面から心の臓に受けたというのに、当たり前のように生き残るとは、いかなる了見だ、と。

 

「左様。貴殿の槍はたしかに当方の心臓を貫いたとも」

 

 しかし——

 ずるり、と、槍が引き抜かれる。血に濡れて艶かしく輝くそれ。

 見つめる叡智の結晶が、ぎらりと光を反射した。

 

「我らは仮にも英霊である。その生にて偉業をなし、その功績を持って英雄として世界に召し上げられた者」

 

 それが。

 

たかだか心の臓を貫かれた程度で(竜種改造: E X)何故死ぬ道理があるだろうか(原初のルーン)?」

 

 猛き竜の心臓に空いた穴が、煙を上げて塞がっていく。

 竜の生命力と治癒のルーンが、瞬く間に致命傷を癒やし、病魔のオガムさえついでとばかりに退けた。

 

「ハ、ハ、ハハハハハ!」

 

 その答えに、ランサーは笑う。

 

ああとも(戦闘続行:A)違いねぇ(大樹のオガム)

 

 一息に剣を引き抜いたランサーが立ち上がる。傷口に光るオガムの呪文が、すぐさま傷を塞いだ。

 

「さあ、続きと行こうや‼︎」

 

 どちらともなく、お互いの獲物を勢いよく投げ返し、駆け出す。

 夜は深く、明けは遠く。

 戦いはまだ、始まったばかりだ。

 

 

 コンビニエンスストア。

 烏丸通りに面したそこは、昼間こそ多くの人が入れ替わり立ち替わり訪れど、夜も深くとなれば、来客は数少ない。

 

 BGMとして放送される流行りのポップミュージックばかりが、気怠げな店内に音を立てる。

 やる気なくレジに突っ立つ店員を他所目に、窓際に並べられた雑誌を立ち読みする客。腐り果てるほどに日常的な風景。けれどそれが、薄氷の上に成り立つ稀有なる平穏であったなどと、気付くのはいつだって後からだ。

 

 ——ガシャァァアアン!!

 

 唐突な、けたたましい破砕音。

 誰もが理解せぬうちに、その大惨事は巻き起こった。

 

 店の入り口に面した窓。それを豪快に吹き飛ばしながら、凄まじい勢いで何者かが入店した。立ち読み客のすぐ横をすれ違うように吹っ飛んで、店内の棚を二つ三つと薙ぎ倒し、冷蔵コーナーへと突っ込むそれ。砲弾のような速度でやってきた何者かは、冷気を逃さぬように閉じられたガラス戸に凄まじい勢いで叩きつけられる。一度目が鳴り止まぬ内に、二度目の破砕音。当たり前のようにガラス戸を突き破ったそれは。並べられた酒缶酒瓶をクッションとして、ようやく停止する。

 

 一瞬の静寂。時が止まったように、店内がしんと静まる。

 あまりの出来事に身を竦ませることさえもできず、ただただ呆然と立ち尽くしていた客と店員が、錆び付いたブリキ人形のような速度で事故現場へと目線を向けた。

 

 がらんがらんと音を立て、名残りのように壊れた棚から酒瓶が落ち、止まる。

 瞬く間に引き起こされた惨劇により、店内はめちゃくちゃだ。

 

 跡形もなく吹き飛び、内向きに破片を撒き散らした窓ガラス。ひしゃげて倒れた商品棚。床に散乱する無数の商品。砕けたガラス戸と、床に落ちて割れた酒瓶。匂い立つアルコール。軽快なBGMだけが、我関せずと鳴り続けていた。

 

 車でも突っ込んできたのかと思わせる破壊痕。けれど店内の人間が見つめる先に、そのようなものは存在しない。

 突っ込んできたのは車でもバイクでも、ましてや自転車でもなく。

 ただ一人の——人間だった。

 

 全身に深々と刻まれた傷からぼたぼたと血を垂らし、青染の戦衣装を赤く濡らす男が、冷蔵棚に刻まれたクレーターのようなへこみの中心に、ぐったりと手足を投げ出して座していた。

 

 仰向けに突っ伏すその人物は、ピクリとも動かない。あるいは、もはや命なき骸のように。

 事件か、事故か。何事にしろ、人死である。

 立ち読み客だった男はそう信じて己の携帯端末を取り出す。——しかし。

 

 ()()()、と。

 

 なんでもないように、男が起き上がる。上半身をゆっくりと起こしたその男は、血まみれの手で落ちた酒瓶の一つを拾った。かろうじて無事であったそれを握ると、無造作にべきりと捻りあげる。

 

 見れば。

 それは瓶の封を解いたのではない。

 瓶の首。ガラスでできたそれをいとも容易くねじ切って、無理矢理にこじ開けたのだ。

 

 流れ出す眩むような酒気。蒸留酒だ。芳しく香るそれを、男は浴びるように一息で煽った。

 気付け代わりの一杯。一瓶を流し込むように飲み干した男は、大きくため息をつく。

 

 今にも死に絶えそうな見た目であるというのに、生気に満ちた所作。己が死ぬなどとはかけらたりとも思ってはいない、死の淵にあってなお溢れ出る自信。

 

 垂れ落ちた青の髪を血混じりに掻き上げて、男は頬を裂いて笑う。

 

「野郎、やぁってくれるじゃねぇか」

 

 跳ねるように起き上がり、その勢いのまま駆け出す男——ランサー。

 偉大なりしアイルランドの光の御子。クランの猛犬(クー・フーリン)の名を背負いし大英雄は、かつてない闘争に、たまらぬ歓喜の叫声を上げた。

 

 一筋の青き旋風となりて、クー・フーリンは飛び出した。音速を超えるスプリント。たまらぬ衝撃波に野次馬の如く見物していた客が顔を覆う。次の瞬間には、クー・フーリンは店外を駆けていた。その背に携帯端末のカメラがフラッシュを焚くが、もはやその光さえも届くことはなかった。

 

 鋼のブーツに包まれた足が大地を叩くたびに、アスファルトに足型の凹みが刻まれていく。割り砕かれたアスファルトの破片が砂塵の如くに舞い上がり、克明に刻まれた足跡は怪物のそれのよう。

 

 おお、偉大なりしアルスターの勇者。強壮なりし、凶相なりし、狂躁なりしクー・フーリン。戦場の支配者。精霊を恐れさす者。瞳に七つの宝石を抱き、神の熱をその血に宿す光の戦士。

 

 古の時代。若きクー・フーリンはただ心に灯した怒りに任せるだけで、戦士の中の戦士のみが知る鮭跳びの秘奥を己が足に宿した。

 ならばその足は神話の足である。ただの踏み込みがアスファルトを深々と貫き、割り砕いては足跡を刻むのはあまりに当然のことであった。

 

「ハハハハハハハ!!!!!」

 

 絶叫の如くに笑う。クー・フーリンはたまらなく気分が良かった。かつてない強敵。あるいは彼の兄弟弟子、フェルディアにさえも匹敵する真実の戦士との戦いだ。

 不撓不屈、不死身の英雄。ああとも、それでこそこのクー・フーリンの相手に相応しい。

 

 道路の遠く先。視線の果てには、先程己を吹っ飛ばしてくれた下手人の姿が。

 迎撃するように待ち構える、氷の益荒男だ。

 

「叩き込む!」

 

 振りかぶられる拳。それが振われるたびに、青緑の燐光を瞬かせながら短剣が射出される。

 臓腑を貫かんと猛るそれを前に、クー・フーリンは吠えた。

 

「カァアッッッ!!!!!」

 

 見よ。

 一喝。ただの一喝が、音速を超えて飛来する短剣を吹き散らした。

 

 クー・フーリンは笑った。こんなもので、こんな挨拶がわりの一撃で、傷を負っている場合ではない。そら、こんなにも上等な獲物なのだ。そのとっておきで俺を貫いて見せろ。

 

「お返しだ——そぉらっ!」

 

 轟、と音を立てて巨大な物体が宙を舞う。時速にして五百キロメートルを超える速度で風を切り裂いて飛来するそれは、空を飛ぶことなどあり得るはずもない、重量一トンを優に越す鉄の塊——自動車であった。

 

「もう一丁!」

 

 クー・フーリンは路肩に止められていた自動車を無造作に掴む。クー・フーリンはこの車という乗り物が嫌いではなかった。真新しく、洗練され、それでいて男臭くて、こうして掴めば球にもなる。まことよくできた乗り物であった。

 

 五指が触れれば、鋼鉄のはずのボディがぐしゃりとひしゃげ、指先が深々と食い込んだ。そのまま力を込めれば、車体がぐわんと宙に浮く。軽々と掴み上げたそれを、クー・フーリンは思い切り振りかぶった。

 

「オラァッ!」

 

 腕が振り抜かれる。唸りを上げて吹っ飛んでゆく車を見送ることもせずに、クー・フーリンは次の車を掴み上げた。投球練習でもするかのように、次々と車を投げ飛ばしてゆく。

 

「——せい! ——やっ! ——よいしょっと!」

 

 三度の遠投。先の二度と合わせ、都合五つの乗用車がセイバーを襲う。

 

 現代技術の粋を集めた頑丈極まる鋼鉄の騎馬。高張力鋼板のボディに、合金の塊である心臓部たる内燃機関。さまざまな事故を想定され、強固な耐久性を持たされたそれであるが、古の英雄たちからすれば、触れれば砕ける氷細工と変わりない。

 

「ぜぇえい!」

 

 一閃。

 巨大な鉄の塊も、翡翠の大剣が振われれば、熱したナイフでバターを切るかのようになんの抵抗もなく両断された。

 

 切り裂かれた車の残骸がセイバーの背後に転がって行き、遅れて爆発する。

 二度三度と剣を振るい、その度に新たな廃車が形成され——五度目。

 

 剣を振りかぶり構えるセイバーの意表をつくように、先手を切って飛来する車が爆発した。

 赫赫たる爆炎の内より飛び出るのは、青藍鮮やかなりし幻想の戦士。飛来する車の影に隠れて、クー・フーリンは迫っていた。

 

 構えた槍を一直線に振るい、セイバーの首を狙うが——浅はかなり、クー・フーリン。

 

(パース)(エイワズ)(マンナズ)

 

 セイバーの首に槍が突き立ち——幻影が砕け散る。秘密、保護、人間を意味する三種のルーンによって構成されたそれは、クー・フーリンの目をしてなお触れる瞬間まで実像と見まごうた見事な幻術だった。

 

 クー・フーリンは欺かれた怒りとともに、その業の見事さに敬意を覚えていた。

 逃げの虚偽であれば耐え難い屈辱を感じただろう。けれどもそれが必勝を期した仕込みであると理解したからこそ敬意を抱き——だからこそ、クー・フーリンは気づくことができた。

 

「喰らえ!」

 

 その幻影の半歩後ろで待ち構えていた、セイバーの一撃を。

 

「やるじゃねぇか!」

 

 紙一重の気付き。ほんの一瞬——いやさ、百億分の一秒さえも遅れていたのならば、クー・フーリンの上半身は哀れ下半身と泣き別れになっていただろう。

 

 破片となってなお神秘の霞となりて現実を秘匿する幻影の、その隙間に見える逆袈裟の切り上げ。迫る翡翠の大剣を、槍の上を滑らせるようにしていなす。

 

 刹那の攻防。

 滝の如くに火花が散り落ちる。

 

 それが地につくよりも先に、クー・フーリンは身を屈めた。流れ落ちる火花の、光の乱反射に身を隠すように。

 火花の滝を裂いて、蹴り脚が突き出される。地べたに手をつき、這うような姿勢から、顎へと駆け上がるハイキック。

 

 わずかに背を反らせ、顎を掠めるように蹴りを避けたセイバーは、腰から抜き放った短剣を三本投擲した。

 牽制の一撃。そんなものはどうとでも対処できる。だからこそクー・フーリンはそれを無視して槍を突き出し——それこそが狙いだったと気付かされる。

 

Th(スリサズ)

 

 スパーク。

 短剣の腹に小さく刻まれた、雷のルーンが弾けた。ほとばしる電流がクー・フーリンの体をわずかのひととき痺れさせる。

 

 そこに差し込まれる絶死の一撃。首を落とす横凪の一刀。回避も防御も不能である。死せよ英雄、落日の時だ——

 

「——とは、いかねぇさ!」

 

 クー・フーリンの腹部。刻まれていた大樹のオガムが輝く。それは奇しくもクー・フーリンを痺れさせたのと同じ雷の呪文。

 ただし意味するのは雷鳴ではなく——

 

「反転起動」

 

 ——磁力。

 

「があっ!?」

 

 剣を振りかぶるセイバーの背に、鉄の塊が激突した。それは先程セイバー自身の手によって両断された自動車だった。

 

 ——鋼避けの加護。クー・フーリンの腹に刻まれていたのはそれである。

 磁力によって斥力を生じさせ、武器を弾く魔術。それを反転させ、引力によって鉄塊たる自動車の残骸を引き寄せたのだ。

 セイバーの刃が鋼ではなく、結晶のそれであったからこそできた芸当である。

 

 単純な質量の暴力に襲われたセイバーは耐えられず吹き飛ばされ、正面にいたクー・フーリンと揉み合うように地に転がった。

 備えていたクー・フーリンはそのまま寝技に持ち込み、腕の関節を極めようとする。

 

 槍を投げ捨て、もつれあいながらも剣を持つ右手にかぶりつくように組みついて見せた。腕を捻り上げ剣を手放させると、そのまま裏十字固めへ。

 腕を起点に相手をうつ伏せに引き倒し、肩を跨ぐようにしてのしかかった。

 

「ぶっ壊してやらぁ!」

 

 腕を抱え、勢いよく体を後ろに反らす。肘関節を破壊し、そのまま右腕を引きちぎるほどの力で。

 けれども、相手は不死の怪物である。人を壊す程度の技が、通用などするはずもない。

 

「おおっ!!」

 

 雄叫び——そして、剛力爆発。

 完全に極まった裏十字を、けれどもただ剛腕ゆえに破壊する。

 

 腕にクー・フーリンがしがみつくままに、それを振り回すようにして姿勢を反転。勢いのままにクー・フーリンの背をアスファルトに叩きつけた。

 

 カハッ、と嫌な音を立てて空気が吐き出された。肺が強引に押し潰されたのだ。

 思わず緩んだ拘束。それを見過ごすはずもなく、するりと腕が引き抜かれる。

 こうなれば、隙を晒したのはクー・フーリン。いち早く体制を立て直し、飛びかかるセイバー。

 

 胸に向かって振り下ろされた短剣を、クー・フーリンは掌を盾にして受け止めた。肉を裂く刃の感触。貫かれ、裂けた皮膚から、ししどに血潮が滴り落ちる。

 盾とした手は徐々に押し込まれていく。刃が、クー・フーリンの胸に迫った。

 

「追い詰めたぞ」

「それはこっちのセリフさ」

 

 それが単なるブラフではないと気づいたセイバーは、遮二無二転がるようにクー・フーリンの上から飛び退いた。

 瞬間、セイバーが元いた位置を貫くように、紅の槍が飛んでくる。

 

「おかえり、相棒」

 

 クー・フーリンは槍を掴み取る。ゲイ・ボルク。紅の魔槍はクー・フーリンを真なる主と認めている。たとえ地球の裏側にあろうとも、彼に呼ばれれば飛んでその手に収まるだろう。

 

 跳ねるように立ち上がったクー・フーリンがセイバーへと突貫する。刺突、殴打、薙ぎ払い。流れるような槍の蓮撃。しかしその一つとしてセイバーの体には届かない。

 二本、三歩。下りながらの回避。鋭く穿つ突きを胸鎧に滑らし——反転。なめらかな踏み込み。

 

 けれどもその手にあるのはせいぜい短剣。間合いが足りぬぞ。どうするつもりだ?

 その問いの答えは、すでに手中に握られている。

 空手の振り抜き。けれどその手のひらの内側には、輝くルーン。

 

(ライゾ)

 

 刻まれたるは車輪のルーン。旅、移動を意味するそれが齎す効果は一つ。

 

 すなわち——空間転移。

 

 一秒の隔たりすらもない、文字通りの瞬間移動。

 時空を歪ませ、その手の内に必要なものが運ばれる。

 無手だったはずの手のひらに握られたのは——燐光迸る翠玉の大刃。

 間合いの不足は瞬く間に埋まり、防ぐ槍を弾き飛ばしながら、緑光振り撒く結晶の大剣が振り抜かれた。

 

 が。

 

 切り裂かれたるは、精巧なる木偶人形。

 なるほど——とセイバーはひとりごちる。

 意趣返し、か。

 なれば次に差し迫るのは——

 

「ご名答だ!」

 

 身代わりの人形を砕きながら、紅の槍が飛び込んできた。

 けれどもそれは単なる猿真似。それで獲れるほど、この首安くはなかろうぞ。

 

「そんなことは百も承知さ」

 

 槍を弾き、そして気づく。飛んできたのは槍だけであった。柄に刻まれた自律起動のオガム。その持ち主はどこにいる。思わず後ろを振り向き、けれどそこに姿はなく。ならば右、左、あるいは上か——

 

「残念、どれもハズレだ——!」

 

 ビシリと大地がひび割れる。次の瞬間、地面が爆発した。捲れ上がるアスファルト。煙立つ砂塵の中から、痛烈なアッパーカットが炸裂した。

 

 ゲイ・ボルグが帰還した時、掴み取ったのは人形である。本体は避けるために意識を逸らしたセイバーの隙をついて、大樹のオガムにより地中に潜航していたのだ。

 

 一撃を入れながら地上に躍り出たクー・フーリンは、槍を掴み取り、そのまま攻めに出る。

 丹田へ向けた抉るような突き。それはぞぶりと肉をかき分け、臓腑を貪り——背骨で止まる。

 

「捉えたぞ」

 

 恐るべきことに、セイバーは気合によって背骨に固く力を込め、槍を受け止めて見せたのだ。

 ゾクリと肌が泡立ち、咄嗟に槍を引こうとするが、抜けない。肉と臓腑が強固に絞められ、食い込んだ槍の穂先は囚われた。

 

 そして、大上段より剣の落雷が降り落ちる。

 

 クー・フーリンは槍を手放した。脳によらぬ、直感の判断。けれどもそれは何よりも正しい決断だった。

 

 叡智の結晶がギラリと輝く。隆起する筋肉は山の如く。伸長する靭帯はワイヤーロープよりも強い。灼熱の血潮が全身を駆け巡り、心の臓から生み出された爆発的なエネルギーが集約する。降り落ちる瀑布よりも圧倒的な、力の濁流。堰き止められていたそれが、今この時解放された。

 

 剣閃——厳かなる一撃。

 

 ——例えるなら、それは隕石の落下に似ていた。

 おお、その一撃こそは、彼が剣の英霊(セイバー)たる証明に他ならぬ。まさしく神話に刻まれるが如き、規格外の大斬撃。

 

 重く、どこまでも力強い一刀。英雄譚に相応しい超級の大断絶は、避けたクー・フーリンの背——聳え立つ五階建てのビルを、いとも容易く両断して見せた。

 

 すでに明かりはなく、ただ静かに佇んでいたそれが、轟音を立てて崩落する。低く、重く、腹の底に轟くような、破滅的な音色だ。粉塵が撒き散らされ、割れたガラスの破片と、崩れたコンクリートの塊が降り注ぐ。

 まるで発破解体のような埒外の大破壊が、京都の夜に深々と刻まれた。

 

 宝具ならぬ、ただの一刀がこれか。

 はは——思わずクー・フーリンの口から笑いが漏れた。どこまで俺を喜ばせてくれれば気が済むのかね——相手が強ければ強いほど、相手が理不尽であれば理不尽であるほど、その戦いは極上の法悦であり、その勝利は至上の名誉となるのだ。

 

「今度はこっちの番だぜ」

 

 クー・フーリンは無理矢理に槍を引き抜き、大きく飛び退る。穂先に血の滴るそれが、妖しく光を反射していた。

 

 セイバーは治癒のルーンによってすぐさま傷を癒した。反則じみた耐久力だ。さてはて、どこまですれば殺せるのか。心臓を貫いてさえ殺せぬのだ。頭を砕くか、首を刎ねるか、寸分も残さず切り刻むか、あるいはその全てか。

 

 瓦礫が降り注ぐ中、微動だにせずクー・フーリンは構える。一拍の間。次の瞬間——セイバーの眼前に、槍の穂先があった。

 

 縮地と見紛う無音無拍子無刻の踏み込み。首を捻り、かろうじて躱したセイバーの腹に、痛烈な蹴りが突き刺さる。

 

 腹部が爆発したかと錯覚するような痛烈な蹴り。

 吹き飛ばされたセイバーは水切りのように道路を跳ね転がり、突き刺さるように壁を砕いて建物に叩き込まれた。

 

 五条烏丸の交差点。二十四時間営業のファーストフード店だ。

 壁を突き破ったことで衝撃を減衰し、空中で体を捻ってカウンターテーブルの上に降り立つセイバー。突然の大事故に騒ぎ出すまばらな客ら。気遣う余裕などありもしない。セイバーはただ一言「逃げろ」とだけ告げて、迎撃の構えをとる。

 

 次の瞬間、セイバーを追い縋って飛来する蒼き猛獣。頭蓋を破壊せんと狙う先制の槍を辛うじて弾けば、クー・フーリンもまたカウンターテーブルに降り立ち、見合う姿勢へ移行した。

 

 一瞬の停滞。狭々しいテーブルの上を舞台に、ジリジリと間合いを図り合う。

 何が何やらわからぬままにも、この憩いの場が戦場へ変わってしまったことを理解した店内の人々が、慌てて頭を低く伏せた瞬間。

 

「——シィッ!!」

 

 鋭い吐息。込められる力。クー・フーリンの全身が爆発にも似て躍動する。

 

 尋常ならざる暴威を撒き散らす、紅の槍。

 それは極小なる深紅の台風だった。

 竜巻を模すように、円を描き振り回される槍。わずか数秒のうちに、幾千の斬撃が繰り出された。

 

 紛れもない死の暴風。

 巻き込まれた人間にとってなによりも幸運だったのは、彼らが立っていた場所が背の高いカウンターの上だったことだろう。

 身を低くした彼らの頭上を舐めるように過ぎ去った死の暴風は、店の半ばより上を完全に消しとばした。

 

 切り裂かれ、粉微塵となった瓦礫を吹き飛ばしながら、二つの影が再び道路に躍り出る。

 竜巻の如き刃の奔流さえも、セイバーを殺すには至らなかった。

 

 まばらに通る車を飛び石のように足場にしながら、幾度も宙を舞いつつ争い合う二人。

 中空で身を捩り、痛烈な斬撃を叩き込むセイバー。防御してなお弾き飛ばされたランサーは並木をへし折りながら衝撃を殺し、再び道路に降り立った。

 

 追うようにしてセイバーもまた降り立つ。

 その姿は血に塗れ、全身に無数の切り傷を負っていた。肌が剥がれ、肉が削がれ、骨の白さえ見えている。痛々しい体。けれども、致命傷は未だ一つとしてない。ルーンが瞬けば、速やかに全ての傷が消え去った。

 

「仕切り直しだな」

 

 クー・フーリンは言って、槍を手放した。紅のそれが光の粒子となって掻き消える。

 

「剣比べと行こうや、伊達男」

 

 掲げられた手に、光が満ちる。

 

「来い、クルージーン」

 

 

「『——イエス、マイマスター』」

 

 

 クー・フーリンの呼びかけに、彼方より凛と響く貴女の声が返る。

 

 瞬間——雷鳴、轟く。

 刹那の閃光。掲げられた手の内に、銀色の雷が降り注いだ。

 

 その内から現れたるは、一振りの剣。

 柄頭に宝石が埋め込まれた、見事な装飾の銀の柄。美しい彫金の十字の鍔。その先より伸びる、光り輝く耿々の刃。それは鋼の煌めきではない。

 それは刀身自体が光そのもので構成された、神秘の剣。

 それは握る戦士の名誉に相応しき、神話の名剣。名を——

 

「クルージーン・カサド・ヒャン……」

 

 硬き頭の鋼、または硬き頭のその硬きを示す名。類稀なるしなやかさと、比類なき切れ味を持つ光の剣。クー・フーリンが持つ無数の武具の中でも、特に名高きそれである。

 

「知っていたか、我が剣の名を」

「知るともさ、アイルランド最大の英雄。貴殿がその剣で何を切り裂いたかも」

 

 かつて。

 クー・フーリンは耐え難き怒りを以ってその剣を振るい、三つの丘を切り裂いた逸話を持つ。

 ならばそれは、正真正銘の貴い幻想に他ならぬ。

 

「『勤勉ですね、オーディンの子。そう、私こそクルージーン・カサド・ヒャン。硬き頭のその硬きを示す幻想の剣。戦士の中の戦士、英雄の中の英雄たるクー・フーリンに振われ、三つの丘を切り裂いた刃』」

 

 再び。

 麗しき、貴女の声が響く。それは驚くべきことに、クー・フーリンの手元——光り輝く剣自身から響いていた。

 

「……ほう、神秘の剣とは聞き及んでいたが、よもや知恵ある武具(インテリジェンス・ウェポン)であるとは」

 

 それは神秘の中の神秘。生きた幻想の中でも特級の特級。真なる竜種に匹敵。あるいは凌駕する究極の幻想種の一つ。

 擬似人格を転写された魔術礼装などとは訳が違う。古の妖精、あるいは名を失い零落した神霊がその姿を鋼に変えた、生ける武具だ。

 

 伝承に曰く。クー・フーリンは、世にも珍しき言葉を話す剣を持つという。クルージーン・カサド・ヒャンは、まさしくそれであった。

 

「『イエス。まさしく私は妖精の剣(インテリジェンス・ウェポン)。あなたが私を見る目には敬意が宿っている。それは正しいと私は告げましょう。あなたも我が主に及ばぬまでも良い戦士だ。良い戦士は良い武器を持ち、また良い武器を見抜き、良い武器を敬うものだ』」

「お褒めに預かり恐悦至極とでもいうべきか?」

「真面目に取り合うなよ、セイバー。こいつは際限なく調子に乗るんだ。いつまでもしゃべらせていては興が削がれる」

「『何を言うのですか、クー・フーリン。私と言う至上の武器を知りて敬う良き戦士ですよ。あなたも私の素晴らしさを伝えるべき場面ではありませんか?』」

「黙れよクルージーン。ペラペラと喋り、戦に水を刺すのが名剣の仕事か?」

 

 クー・フーリンの声が冷える。細められた目。凍える視線がクルージーンを射抜いた。

 剣如きが戦の邪魔立てをしようなどと頭が高いにもほどがある。苛立つ声で問えば、クルージーンは慌てて弁明した。

 

「『ノー。剣の仕事はその敵の血で身を染めること。クー・フーリン、失礼を。興奮してしまったようです。けれどどうか許して欲しい。あなたがこの身を握ることを、私は常に望んでいた。だと言うのにもかかわらず、華やかなりし戦の気配に、あなたの手には槍ばかり。よもや私を価値なき剣と断じたかと恐れていたのです』」

「はっ、嫉妬する剣とは傲慢なことで。心配はいらん。お前の出番が来たぞ。そら、お望みの戦だ。相手は極上の英雄。殺しても死なぬ不死の偉丈夫。類稀なる好敵手だ。くれぐれも、本気を出せよクルージーン。今宵、新たな神話が築かれる」

「『イエス、クー・フーリン。言われるまでもなく。私はこの上なく昂っています。戦いに次ぐ戦いを。ああとも、古き幻想すぎ去し当代にて、されどこれほどまでの戦に恵まれる。ああ、クー・フーリン。あなたは運命に愛されている』」

「違いねぇ。……そら、開戦だ!」

 

 差し迫る翠玉の大剣。袈裟斬りに振り下ろされるそれを光の剣が見事に受け流す。

 舞い散る燐光。光の火花。

 鮮やかに、舞うが如く。クー・フーリンは剣を振る。

 

「シィッ!」

 

 炯然、迸る光の刀身。

 あまりにも鋭い太刀筋。瞬く間に三度閃光が煌めいた。

 キンと高い音がして、二つの刃が防がれる。けれども一筋が紙一重で守りを抜いて、セイバーの右頬を浅く裂いた。

 だらりと垂れる血。次いで、右方の街路樹が崩れ落ちた。

 

 ゆっくりと、見せつけるように。斜めに走る、まるでもともとその形であったかのように滑らかな切り口に合わせて、ずるりと滑り落ちてゆく木の残骸。

 三つの丘を切り裂いたクルージーン。なるほど、その切れ味は本物だ。

 

「早さ比べか、悪くない」

 

 言って、セイバーは半身になり、顔の横に刃を構える。先端を正面に向けたそれは、雄牛の構え、あるいは霞の構えに似た、上段の構え。

 対するクー・フーリンは剣を片手で持った。横腹に刃をつけるような、変則の脇構え。片手を遊ばせるのはオガムを警戒させるためか。

 

 一瞬の硬直。後、煌めくは幾千の剣閃。

 瞬きの間すらもなく、英雄共の剣が交差する。

 震えるほどの剣気。魂さえも打ち砕くほどに猛り狂うそれ。

 

 光の刃が夜を切り裂く。闇を照らす幻想の極光。振り撒かれる光の乱反射は死と同義。剣閃。残光。砕ける光の破片すらも刃である。触れれば骨まで絶たれるそれをけれども完璧に捌き切ってみせるセイバー。

 

 ひゅう、と口笛が漏れた。たまらないな。クー・フーリンは思う。

 己の全力の攻勢を、こうも容易くいなしてみせるか。

 

 避け、躱し、撃ち合い、いなし、一筋の傷さえ負わずに防ぎ切った。瞠目に値する技量だ。こと剣に限れば、己が養父たるフェルグスさえをも超えるだろう。

 ——いや。あれが使うのはもはや剣ではないが。

 などと、懐かしい記憶を思う。

 刹那の攻防の内には、得てして思考は冴え渡る。激闘であればあるほどに、澄み渡る思考は一秒を切り刻み、時にこうして、感傷を思うことさえ許してくれる。

 

 だが。

 

「——おおっ!!」

 

 今はそれさえも余分の澱み。望む強敵との大いなる戦いだ。今この時だけを全身全霊で味わいたい。

 クー・フーリンは雄叫びをあげ、さらに剣を振るう速度を増す。

 

 ——全霊の一刀。

 血中に宿る神性が励起する。刹那の膨張。英雄の光がごく僅かに、けれども確かに額からほとばしり、宝玉の瞳が太陽の輝きを宿す。

 爆発する筋肉。しなやかにして強靭なる腱が引き絞られ、全身に充つるエネルギーが集約された。

 

 一瞬の静。後、赫灼の動。

 

 無限に切り刻まれた刹那の中を、それでもなお目にも止まらぬ速度で裂いてゆく光の奔流。

 ——見よ、その絶技。千京分の一秒の誤差さえもなく、ほとんど同時に放たれた八つの斬撃は、まるで花開く花弁のように。

 この上なく美しく、そして恐ろしい神域の技。

 全方位より迫る刃は一つ一つが幾千億の死を宿す。

 

 逃れえぬ飽和攻撃。

 けれどそれでも足りぬのだろう? クー・フーリンは思う。この程度で死ぬ男ならば、とっくの昔に殺しているとも。ならば、どう切り抜ける。さあ、見せてみろ——!

 

「我が剣——砕くこと能わず」

 

 啖呵を切って、セイバーが気炎を上げる。

 英雄よ、お前の見立ては正しいとも。だが足りぬ。それでもまだ足りぬのだ。

 この程度で殺し得ぬ。ああとも当然。しかしならばなぜ、切り抜けてみせろなどと大言壮語が吐けたものか。

 

 切り抜けねばならぬのはお前だろうよ、クー・フーリン。

 

「おおおおおおお!!!!」

 

 雄叫び。そして、迎撃の一刀。

 かくも精密に、一切の逃げ場なく展開された神域の八つ光。精細、流麗、巧緻の極み。なんとも見事な技だろうさ。だが、それはあまりに靭さがたらぬ。

 

 咆哮する竜の心臓。吐き出される息吹は竜の炎。溶け落ちる鉄よりもなお熱く迸る肉体が、限界を超えた大力を生み出す。巌の骨さえ軋み上がる筋肉の躍動。高らかと振り上げられた翠玉の大剣が、雪崩の如くに振り下ろされる。

 

 刮目せよ、アイルランドの光の御子。アルスターの勇者。英雄が焦がれし英雄よ。真の剣とはこういうものだ——!

 

 一刀、全断。

 

 迫り来る光の開花を、けれども繊細に過ぎると嗤い、一刀に斬り伏せる。剛剣の極地。王者を超えた覇者の一撃。

 

 砕け散る光の破片を吹き飛ばしながら、迫り来る、剣の王。

 

「受けて見せろ!」

 

 光さえ穿つ、貫きの剣。ビルさえ砕いた破滅の一撃。

 真正面から、心臓へと向かう翠玉の刃。

 攻め手が受け手へ。瞬く間の転換。

 

 全霊を尽くした一撃を、予想を超えて真正面から打ち破られたクー・フーリンには、防御の術などありはしない。

 ——そう、クー・フーリンには。

 

「『——カシ、サンザシ、イチイの木。茨の鎧。死の内の生。朽ち果てる枝のその芽吹き。白き女神よ、その手の内より逃げ去ることを赦し給え』」

 

 紡がれる、聖なる守護の詩。

 クー・フーリンに出来ずとも、その右手には絶世の名剣。ただ切るのみの鈍とは訳が違う。

 物言う口はなんのためか。古くは畏くも神の座にありし妖精の剣なれば、戦においては神聖なりし詩を吟じ、担い手の死地を切り開く。

 

 紡がれる麗しの声。光の刀身に大樹のオガムの祝詞が浮かんだ。神秘の言霊が響き渡れば、現象が呼応する。

 差し込まれるは枝の守護。

 心の臓を貫かんと迫る大剣の鋒を包むように、虚空よりイチイの枝が生い茂る。

 母のように強く、女神の如く嫋やかに咲いたそれは、刃を嗜めるように絡めとり、死に至る一撃を紙一重で止めて見せた。

 

「『戯れが過ぎます、クー・フーリン』」

「そう言うなよクルージーン。死の淵を踊る瞬間こそ戦士の誉れだ」

 

 クー・フーリンは楽しげに言って、クルージーンを構え直す。

 

「頼りにしてるぜ相棒。この死線を乗り越えるにはお前が必要だ」

「『口説き文句がお上手だ。仕方ありませんね、クー・フーリン。ああとも、あなたはそういう英雄(ひと)だ。血と屍が横たわる戦女神の褥にて、死と殺戮とさえ閨を共にしてみせる。その睦言を、誰よりも近くで聞かせてもらいましょう』」

 

 言葉を交わし終え、再び死地へと駆け込むクー・フーリン。戦いはどこまでも苛烈に、加速度的に激しさを増してゆく。

 聖杯戦争。その幕開けを告げる戦いは、未だ、終わることなく。

 賛歌のごとくに、月へと捧げられていた。



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