JK妻(シーズン1) (山田甲八)
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一 押しかけ女房事件

For me at the time of “The boyfriend of celery”

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場所、施設名等の固有名詞はたとえ実在のものがあるとしてもすべて架空のものとして描かれている。



 東京の南西部の目黒区に碑文谷という界隈がある。西側を環状七号線が通ってはいるものの、公園あり、学校あり、大使館あり、神社ありの閑静な住宅街だ。大学四年生だった僕が下宿を引き払いこの街に越してきてからもう二年がたつ。

 僕はこの街で、幼なじみで婚約者でもあった裕ちゃんと一年くらい一緒に暮らした。「婚約者であった」と過去形で表現したが、婚約は解消されていないのでまだ婚約していると言われればそうともいえる。裕ちゃんは僕と婚約したまま重い病気にかかってしまいちょうど一年前に二十五歳の若さで逝ってしまった。裕ちゃんは歌姫とまで言われた国民的歌手で多くの人がその早世を惜しんだ。僕は今でも裕ちゃんの永遠の婚約者だ。

裕ちゃんが逝ってしまってから、僕は裕ちゃんの父親で大物政治家でもある白石権蔵参議院議員の希望もあり、ここ碑文谷の裕ちゃんの自宅兼スタジオに一人留まって、裕ちゃんが残してきたものを整理する毎日を送っている。それは静かで退屈で、でも僕なりに幸せな毎日だった。

 長い冬もようやく終わり、春本番を迎えようとしている三月二十日の午後、その少女は突然、僕の家にやってきた。大きなスーツケースを持ち、黄色のツーピースを着ていた。まるで海外旅行に行くか、そうでなければ家出をしてきたような姿だった。事実それは家出だったのだ。僕はちょうど庭の草花に水をやっているところだった。春の花が咲き始めていた。女の子はまるで春を運んできたような天真爛漫そのままの少女だった。事実春を運んできたのだった。

「ごめんください。白石裕子さんのお宅はこちらでよろしいでしょうか?」

 少女は満面の笑みで僕に声をかけた。

「はい。そうですが。」

 そう言っても裕ちゃんはもういないのだ。ファンの人かな?と思った。一周忌だし、お線香でも上げに来たのかと思ったのだ。

「失礼ですが、石水啓一さんですか?」

「はい。」

 ファンの人ではないようだ。一ファンなら余程オタッキーなファンでも婚約者である僕の存在など知らないはずだ。裕ちゃんは謎の歌姫と言われたほど私生活は謎につつまれていてまだ生きているという都市伝説もあるくらいなのだ。

「あのう、あたし、朝子です。白石裕子の姪の白石朝子です。はじめまして。」

「あっ、姪御さんでしたか。こんにちは。はじめまして。石水です。」

 裕ちゃんに歳のそう離れていない姪、正確には幸子さんという七歳年上の姉の娘がいることは知っていた。しかしこんなに大きくなっていることは知らなかった。もちろん初対面だ。

「あのう……お邪魔してもよろしいでしょうか?」

 少女は遠慮がちに言った。

「どうぞどうぞ。あがってください。」

 そう言って僕は朝子を家の中に案内し、リビングのソファに座らせた。少女は興味深そうに部屋の周りを観察していた。僕はコーヒーを入れた。

「改めましてはじめまして。話は聞いていると思いますが。僕が裕ちゃんの婚約者だった石水です。姪御さんがいるという話は聞いていましたがこんなに大きくなっているとはびっくりしました。今日はお線香でも上げに来てくれたんですか?」

 僕はコーヒーをテーブルに置きながら改めてあいさつした。やや間があって

「啓一さん。裕ちゃん……裕子叔母さんから何か聞いてませんか?あたしのこと。」

「いや、別に聞いてないけど。」

 そう僕は答えたがそう聞かれてまるで心当たりがないわけではなかった。裕ちゃんには亡くなる直前に、「私の最後の最後の、本当に最後の我がままだと思って聞いて欲しい」と言われていることがあるのだ。それは忘れるはずもないのだが、その約束と目の前の少女はとうてい結びつかず、その瞬間は何も思い出せないでいた。

「変だなあ。まあいいや。じゃああたしが説明します。あたしここの家の人間になりに来たんです。今日からお世話になりますのでよろしくお願いします。」

「はあ?」

 僕はあまりにも唐突な展開についていけない。

「中学を卒業したらすぐにここの家に来るように裕ちゃんに言われてるんです。昨日が中学の卒業式で無事卒業できたんで今日、こうしてやってきたんです。あたしはてっきり裕ちゃんが全部話してくれていて啓一さんがあたしのことを待っていてくれてるんだと思ってました。」

「ここの家の人間になるって、ここに居候するっていうの?」

 この家は裕ちゃんから受け継いだものだから裕ちゃんの希望であれば下宿人の一人や二人の受け入れは我慢しなければならない。

「やだなあ、そんなことまであたしに言わせるんですかあ?居候じゃないですよ。あたしは啓一さんのお嫁さんになりにきたんですよ。」

 思考回路がショートした。確かにこれまでも白石父子、白石権蔵参議院議員と裕ちゃんのコンビには翻弄させられてきた。しかし中学を卒業したばかりの少女が嫁に来るとはありえない話だ。もっともあの父子ならやりかねない話ではあるが。

「裕ちゃんは啓一さんのお嫁さんのことは何も言ってなかったんですか?自分の後継者というか、自分がいなくなったら啓一さんにはどうして欲しいかとか。」

「それは言っていたけど。」

「なんて?」

「お父さん、つまり君のおじいさんである白石権蔵先生の薦める女性と結婚して欲しいってさんざん言われたよ。全財産を譲るからこれだけは聞いて欲しいって。」

 事実、裕ちゃんが逝ってしまってから二か月後に裕ちゃんの全財産を僕に相続させる遺言を執行すると言って弁護士がやってきた。

「ああ、じゃあそれあたしです。おじいちゃんも啓一さんとあたしが結婚するのノリノリですから。」

 この少女の言っていることと僕の記憶が合致する部分は確かにあった。裕ちゃんは亡くなる寸前に、自分の遺言だと言い「どうか父の薦める相手と結婚して」と言い残して死んでいった。その父の薦める相手が誰になるのか僕には予想がつかなくはなかった。裕ちゃんの七歳年上の姉が高校生のときに地元でも有名な悪ガキと駆け落ちし、双子の女の子を産み、ここ碑文谷からそう遠くないところでラーメン屋さんをやっていることは聞いていた。すなわち、裕ちゃんには僕と十歳ほど齢の離れた姪がいて、裕ちゃん亡き今、権蔵議員がいずれその姪との結婚を薦めてくるであろうことは予想できなくはなかったのだ。ただ早く見積もっても十年後くらいの話と考えていたのだ。中学卒業してすぐ結婚なんていくらなんでも早すぎる。これは何かの間違いだろう。とにかく本人に直接確認してみなければと思った。

「分かった。君の言う通りかもしれない。でも僕にはあまりに急な話でちょっと信じられないから君のおじいさんに確認してもいいかな?」

「それは構わないですけど。」

「ゴメン。ちょっとおじいさんに電話するね。」

「は~い。おじいちゃんもきっと喜ぶと思いま~す。」

 この子は本当に天真爛漫そのものだ。ここに来られたのがそんなにうれしいのだろうか。ずっとニコニコしている。僕はリビングの脇にある電話の受話器をとり、ボタンを押した。

「はいっ、白石権蔵の事務所です。」

 電話は白石議員の事務所につながりワンコールで権蔵議員の秘書の山崎氏が出た。声で分かった。

「あっ山崎さん。石水です。いつもお世話になります。」

「ああ、石水さん。先日は一周忌お疲れさまでした。」

「ねえ山崎さん。先生と連絡とれますかね?大至急お話がしたいんですが。」

 参議院のドンといわれるこの大物政治家はしょっちゅうあちこちを飛び回っていた。

「石水さんもご承知と思いますが、今は年度末でバタバタしています。でも今日は一日、国会にいますから連絡はとれると思いますよ。」

「至急、お会いしたいんですが。プライベートなことなんですがとても大事なことです。緊急です。大至急です。」

「分かりました。確認して後でご連絡差し上げます。ご自宅ですね?」

「そうです。よろしくお願いします。お忙しいところすみません。失礼します。」

 電話は切れ、僕は再び少女と向き合った。

「ねえ、朝子さん。」

「『チャコ』でいいですよ。みんなそう呼ぶの。最初はあたしが自分の名前の朝子をどうしても言えなくて『アチャコ』になって、そのうちアが取れて『チャコ』なったの。校長先生もそう呼ぶんですよ。」

「朝子さん。」

「『チャコ』でいいです。」

「君には申し訳ないが、君の言うことはとても信じられないよ。だって中学を卒業したばかりなんでしょ。もちろん裕ちゃんや君のおじいさんが君と僕を結婚させようとするのは理解できない話じゃない。特に権蔵先生はね。でもいくらなんでもまだ早すぎるんじゃないかなあ?君のおじいさんがこんなに早い結婚を望むとは思えないんだけど。」

「ただ家出してきただけって思ってるんですか?あたしはちゃんと裕ちゃんと約束したんです。啓一さんのお嫁さんになるって。」

「でも僕は裕ちゃんからそんなこと聞いてない。」

「それは啓一さんがびっくりしちゃうと思ったからじゃないですか。あたしまだ中学生だったし。……どうすればあたしの言っていること信じてもらえますか?」

「まあ、何か証拠でもあれば。」

「証拠……。じゃあ……」

 少女はハンドバックの中をがさごそ探し出した。そしてキーホルダーのようなものを取り出した。事実それはキーホルダーだった。

「例えば、これなんかどうです。」

 そう言って少女は僕に二つ鍵のついたキーホルダーを差し出した。

「これは……どうしたの、これ?」

 僕はびっくりした。裕ちゃんのキーホルダーだ。一本はこの家の鍵であり、もう一本はクルマの鍵だった。探していたやつだった。こんなところにあったとは、裕ちゃんの遺品からどうしても出てこないはずだ。

「裕ちゃんにもらったんです。『これあげるから。預けるんじゃなくてあげるから。あなたが使う鍵だから』って。」

 僕は少女を見た。少女は相変わらずニコニコしている。

「だから本当なんです。すぐにあたしを啓一さんのお嫁さんにしてもらわないと困るんです。裕ちゃんとの約束を守れないんです。」

 なるほど、この少女の言っていることは案外本当かもしれないと思ったそのとき、家の電話の着信音が鳴った。

「この曲?」

 少女が問いかけたが僕はそれを無視した。

「ゴメン、ちょっと待ってて。」

 僕はリビングの脇にある電話に出た。

「はい。」

「もしもし。白石権蔵の秘書の山崎です。」

「ああ、山崎さん。さっきはどうも。で、先生の予定はどうです?」

「はい、なにせ年度末ですからね。でも今日の午後五時頃ですが、一瞬なら議員会館のこの部屋に戻ってきます。」

 僕は時計を見た。三時半頃だ。時間がない。

「ありがとうございます。すぐに行きます。では後ほど。」

 そう言って僕は受話器を置いた。電話で済む話ではない。時間がない。僕はすぐに永田町に向かうことにした。

「ゴメンね。ちょっと用があって、……君のおじいさんに会ってくる。ここで待っててもらってもいいかな?」

「もちろんです。あたしはずっとここにいるつもりなんですから。」

 少女は相変わらずニコニコしている。この家の鍵は持っているわけだし、その鍵は裕ちゃんから渡された鍵である以上、少なくともこの子にはここで留守番する権利はあると思った。

「じゃあお留守番よろしくね。」

 そう言って僕は急いで着替え、外に出た。

 

 僕は学芸大学の駅から東急と地下鉄を飛ばした。

色々な思いが頭の中を駆け巡る。そもそも裕ちゃんと僕はただの幼なじみに過ぎなかった。新潟県南西部の日本海に面した街、柏崎に生まれて、同じピアノ教室に通い、同じ学校に通い、僕が学校でおしっこをもらしたときにはパンツも貸してくれた、ただそれだけのことだ。それなのに裕ちゃんには婚約者に仕立て上げられ、父親の権蔵議員には政治家としての後継者にまで祭り上げられてしまっている。僕は自分の運命を自分でコントロールできない歯がゆさを感じた。

そもそも裕ちゃんと僕の婚約は後継者探しに躍起になっていた父親を欺くためのお芝居に過ぎなかったのだ。それなのにこの大物政治家は二人が期待したレベルをはるかに超えて誤解し、裕ちゃんと僕を熱心に結婚させようとした。そんなにも裕ちゃんと僕を結婚させたがっていた権蔵議員のことだから、裕ちゃん亡き今、裕ちゃんの代わりに自分と血のつながった孫を僕と結婚させたいという気持ちは僕も理解できる。そしていずれ行われる衆議院議員選挙に僕を孫娘の婿として出馬させようとしているのだ。しかし、いくらなんでも中学を出たばかりの少女が相手では早すぎるだろう。青少年保護育成条例違反、あるいは児童買春防止法違反とは言わないが、文部科学大臣を務めたこともあるこの政治家は決してこんな押しかけ女房には賛成しないだろう。それが常識というものだし、それくらいの良識は持っているだろう。僕はそれに期待した。

四十分くらいで議員会館に着いた。そこから堅牢なセキュリティーを突破するのにさらに時間がかかり、ようやく目指す参議院議員の部屋に入ることができた。部屋には裕ちゃんの父であり、朝子の祖父である白石権蔵参議院議員と秘書の山崎氏がいた。

「おう啓一君。危なかったぞ。もう出るところだった。どうした?まあ、座りなさい。」

 そう言って、この恰幅のいい参議院の大物は僕にソファを薦めた。疲れていた僕はへたれこむようにそこに座った。

「お忙しいところすみません。大事なお話があったものですから。実は今日、お孫さんの朝子さんが大きなスーツケースを持って家に来ました。僕の家の人間になりにきたと言ってます。」

 僕は息も絶え絶えに言った。

「おおそうか。朝子の方からもう君の家に行ったのか。それで君と一緒になるって言ってるんだな?」

「はい。そうなんです。」

 僕は困った表情を見せた。

「そうか、それは良かった、良かった。」

「えっ、良かった?」

 僕は小声で聞き返した。というより僕が少しくらい大きな声を出してもこの巨漢の十分の一くらいの音量にしかならない。

「いやー、実は心配してたんだよ。なんと言っても朝子はまだ中学を出たばかりだからな。どのタイミングで君のところに行けと言ったらいいのか迷っていたんだ。いずれは君と一緒になるように言わなければいけないと思ってはいたが、また幸子のようになると大変だからな。でももう、君と一緒になることを決めてくれたとは私はうれしいぞ。裕子に言われていたんだな。」

(「はあ?」)と僕は思ったが、巨漢は構わずしゃべり続けた。

「で、来月にはもう入籍するのかな?私はねえ、政治家としては成功したけれども後継者にまったく恵まれず、それが不満で、不安だった。幸子には逃げられ、裕子には先立たれてしまった。しかし、君のような有能な後継者を得られたことはどんなに感謝しても感謝しきれるものではない。」

 そこまで言うと巨漢は山崎秘書に何か合図をした。

「いや、しかし先生、朝子さんは中学を出たばかりですよ。これから高校に通うのでしょうし、いくらなんでも早すぎるのではないですか?」

「それは心配ない。朝子は保守的な伝統のある私立の女子高に進学するんだ。高校に通いながら主婦業も両立できるし、君の選挙の手伝いもできるだろう。」

「僕の選挙ですか?」

 僕はさらに(「はあ?」)という気持ちになった。僕は選挙に出るなどと言ったことは一度もない。僕の知らないところで因果関係がどんどん進行しているのだ。まあ今に始まったことではないが。

「君と朝子が一緒になればこれで選挙も勝利間違いなしだ。そもそも君と裕子の婚約が発表されてから地元の士気は高くなるばっかりでな。白石の娘婿なら絶対に勝てるとみんなもう勝ったつもりでいるよ。相手陣営も白石の娘婿には勝てないとさっさと引退を表明してしまったしな。まあ娘婿が孫娘の婿に変わってしまったわけだが、結果に変わりはない。逆に陣営を引き締めないといかんな。選挙は自信を失うことよりも油断することの方が怖いからな。」

 そこまでいうと山崎秘書が封筒を持ってきて、巨漢に渡した。巨漢はその封筒を僕に渡した。

「なんですか?これは?」

「まあ中を見てみたまえ。」

 中をチラッと見て僕は驚いた。慶応義塾の創設者、福沢諭吉先生のブロマイドがびっしり詰まっているのだ。百枚、いや二百枚はあるだろうか。

「これは?」

「私から二人へのお祝いだ。まあ、君は裕子の版権を管理しているわけだからそれなりの収入はあるだろうが、結婚生活が始まると何かと物入りだろう。使ってくれ。では私は次の予定があるのでこれで。何か用があればいつでも山崎に言ってくれ。どんな協力でも惜しむつもりはない。それから朝子のこともあるからなかなか地元には帰れないだろうが、朝子の夏休みには必ず柏崎に帰ってくれよ。みんな君のことを待ってるんだからな。」

 そう一方的に言うと、僕の言葉には一切耳を貸さず、部屋を出て行こうとした。僕はもう声をかけることができなかった。部屋を出る寸前に巨漢は思い出したように振り向き「月並みだが朝子を幸せにしてやってくれよ。バカな親の元に生まれたかわいそうな娘だ。しかしあの子にはなんの罪もない。子は親を選べないからな。啓一君、私は期待しているぞ。なんと言っても史上最年少の代議士が誕生するんだ。将来の総理大臣候補だ。ハハハハ」と高笑いを残し、消えていった。僕は力なく、部屋を後にした。朝子は校長先生ですら自分のことを「チャコ」と呼ぶと言っていた。少なくともあの巨漢の祖父が朝子にとって校長よりも縁の遠い存在であることは分かった。

 

 僕は碑文谷の街を一人でトボトボと歩いた。外堀がすべて固められてしまったような気がしていた。もう僕が自分の意思で行動できる余地はないのかもしれない。僕は今日、突然家に現れた女性と結婚して、次回の衆議院議員選挙に出馬する、そういう運命に逆らえないのだろう。

彼岸も近付き、日が長くなってきていた。午後六時を過ぎても辺りは明るかった。引越しシーズンなのだろう、家の近くには引越し屋さんのトラックが止まっていた。

「ただいま~。」

 僕は普段口にすることない言葉で鍵のかかっていない玄関を開けた。

「お帰りなさ~い。」

 ダイニングの方から明るい声がすると、朝子がエプロンをつけたまま僕を出迎えた。スウェットに着替えていてもう新妻気分でいるようだ。

「どうもお疲れさまでした。ご飯できてるからどうぞ。」

 そう言って朝子は僕をダイニングにエスコートした。ダイニングに入った僕はテーブルの上を見てびっくりした。とても二人分の夕食とは思えない品数の料理がテーブルに所狭しと並べられていたのである。

「これ、みんな君が作ったの?」

 僕がダイニングチェアに腰掛けると朝子も向かいに座り、二人は向き合った。

「そうです。全部、中華になっちゃったけど。あたしはこれでも中華料理屋の娘なんで中華であればなんでも作れるんですよ。本当はラーメンとか餃子の方が得意なんだけど、スープとってる時間はないし、餃子はにおいが気になるといけないから今日は定食系になっちゃいました。」

 そういえばお腹が空いていることを思い出した。この子と結婚したら毎日こんなものが食べられるのかなとふと思った。

「ご飯にしませんか?」

「そうだね。お腹は空いているんだ。これ食べてもいいのかな?」

「もちろんですよ。啓一さんのために作ったんですから。あっ、もちろんあたしも食べますけど。」

「ちょっと多すぎない?」

「大丈夫ですよ。ぴったり二人前です。」

 そう言って朝子はお茶碗によそったご飯を僕の目の前に置いた。

「じゃあ、いただきます。」

「あたしもいただきまーす。」

 久し振りの二人での食事だった。裕ちゃんがいなくなってから食事はいつも一人だったのだ。料理はどれも本当に美味しかった。プロ級というかまさにプロそのものなのだろう。

「おじいちゃんどうでした?」

 朝子はいたずらっぽい笑顔で聞いた。

「うん、朝子を幸せにしてやってくれって言ってたよ。」

 僕は力なく答えた。

「で、啓一さんはどうなんですか?」

 声のトーンがやや落ちた。

「僕よりも君はどうなんだ?君個人は自由なはずだ。君のおじいさんや裕ちゃんが君になんて言ったかは知らないけど、君は君が生きたいように生きるべきなんじゃないかな?」

「あたしは自分の生きたいように生きてます。だから今日、ここに来たんです。啓一さん、何か誤解してませんか?」

「自分の意思だなんて信じられないよ。君のお母さん、幸子さんとお父さんの遼太郎さんが高校生のとき駆け落ちしたことは知ってるよね?」

「ええ、父が札付きの不良だったことやおじいちゃんがとても怒ってることも知ってます。」

「駆け落ちして東京に出て来たはいいけど、若い二人が苦労しないで暮らしていけるほど東京の生活は甘くない。結局、君のお母さんはおじいさんに泣きついて助けてもらったんじゃないか?その助ける条件として君がおじいさんに差し出されたんじゃないのかな?そんなんだったらあまりにも君の人生が可哀想過ぎる。」

 実際に権蔵議員ならそのくらいのことは眉一つ動かさずにやってのけるだろう。

「おじいちゃんが啓一さんとあたしを結婚させたがっていることは認めます。裕ちゃんがそれ以上にそれを望んでいることも。でもあたしはそれ以上に啓一さんのお嫁さんになりたいんです。」

「なぜ、そんなことが言えるんだ?今日初めて会ったのに。」

「だって、裕ちゃんがそう言ってたから。啓一さんと結婚したら絶対に幸せになれるって言ったから。」

「えっ?」

「あたし、裕ちゃんにあこがれてたんです。っていうか、ほとんどの女性は裕ちゃんに憧れると思います。政治家の娘に生まれて、お嬢様学校を出て、東大を出て、女子アナになって、それから歌手になって、ヒット曲を飛ばして、最後は歌姫とまで呼ばれるようになった。やりたいことはみんな好きなようにやってきた。でもそんな裕ちゃんが『本当に自分が幸せだったのは啓一さんと一緒に過ごした最後の一年だった』って言ってたんです。だから、あたしはそんな裕ちゃんの言葉が信じられるんです。」

(「そんなことを言ってたのか。」)僕の胸に何か熱いものが込み上げてきた。目頭が熱くなる。

「もし、幸せになれなかったらどうするの?」

「きっと幸せになれますよ。だって裕ちゃん啓一さんのこと『見てくれは今一だけど裏表のない、本当に優しい素敵な人』だって絶賛してたんですもん。絶対にお薦めだって。」

 「見てくれは今一つ」は余計だが随分素直な子だ。

「でもそれは裕ちゃんであって君が幸せになれる保証はない。」

「ああ、そのときはそのときですよ。まだ若いし、やり直しきくじゃないですか。十六で結婚して、十年生活して駄目だったとしてもまだ二十六でしょ?まだまだ女性の平均初婚年齢より若いし、人生やり直せるかなあって思って。あたしって何事にも前向きなんです。」

 前向きであることはここに来たときから分かっている。僕はどちらかというと後ろ向きかせいぜい現状維持派だ。だからこういう恐ろしく前向きの子は苦手だ。

 僕は悩んだ表情を見せた。朝子はお茶碗と箸を置き改まった。

「啓一さん、贅沢は言いません。すぐに結婚していただけなくてもいいです。でもここに置いてもらえないでしょうか?従業員でも、お手伝いさんということでもなんでもいいです。もう家には帰れないんです。」

「家には帰れない?」

「はい。あたし、家出してきたようなもんなんです。おじいちゃんはものすごく乗り気だけど、お父さんとお母さんは快く良く思っていないんです。元々、おじいちゃんとお母さんは仲が悪いんです。」

 それはそうだろう。あの親子は家出して勘当した間柄なのだ。

「だからあたしもう帰るところがないんです。今日、ここで断られたら野宿なんです。」

 裕ちゃんにもこういう無理な要求を何度もされたことがある。優しい僕はそれをすべて受け入れてきた。自慢ではないが、裕ちゃんの我がままで僕が拒否したことは一つもないのだ。これが彼女の最後の我がままだというのであればそれは受け止めなければならないのかなと思った。

「分かったよ。しばらく居ていいよ。」

「しばらくって、ずっとじゃ駄目なんですか?」

「うーん、あまりにも急すぎるからなあ。僕も心の準備が必要だよ。君だっていきなりこの人と結婚しなさいって言われても戸惑うだろう?」

「分かりました。じゃあとりあえず一か月置いてください。一か月後にまた判断してくださいね。来月末があたしの誕生日なんです。」

「君の誕生日?」

「十六歳になれば結婚できるでしょ?誕生日には入籍したいと思って。」

 それも急な話だ。巨漢の参議院議員も確かそんなことを言っていた。でも一か月あれば状況も落ち着いてきて、僕も何が重要で何が重要でないか判断できるようになっているかもしれない。この少女も落ち着きを取り戻し、やっぱり帰ると言い出すかもしれない。

「分かった。とりあげず一か月ね。一か月後にまた考えよう。」

「じゃあ、居ていいんですね。わーい!試験に合格したんだ!」

 目の前の少女は万歳してよろこんだ。本当に屈託がない。そのとき「ピンポーン!」と玄関のチャイムがなった。インターホンに出ると、モニターにはキャップをかぶった引越し業者のような人が映っていた。

「はい?」

「すみません、作業終わりました。」

「はあ?作業?」と僕が言い終わらないうちに朝子が割り込んできて「はーい。今、行きまーす」と叫び、外に出て行った。僕は後を追いかけた。

 業者のお兄さんは朝子と合流し、裏のガレージの方に向かった。僕は二人の後を追い、ガレージに着くと僕は驚くべきものを目の当たりにした。ガレージに僕のクルマはなく、代わりにおびただしい数のダンボールが積み上げられていた。

「これでいいですね?」

「はい、どうもありがとうございました。お疲れさまでした。」

 二人のそんな会話が聞こえた後、業者のお兄さんはトラックに乗り込み、夜の街に消えていった。朝子と僕が取り残された。

「これなんだ?」

「あたしの荷物です。女の子一人の引越しでもこれくらいは出るんですよ。午前中はずっとこの梱包やってたの。一番安いプランしか頼めなかったので荷物運ぶことしかできませんでした。あしたから整理手伝ってもらえます?」

「スーツケース一個で来たんじゃなかったのか。」

「あれは調理道具とかすぐに使うものですよ。」

「僕のクルマは?」

「ごめんなさい。荷物置くところがなかったので駅前の駐車場に移動させてもらいました。さっきのお兄さんに運転してもらったんですよ。あっ、お兄さんにそのお礼言うの忘れちゃった。」

 確かにこの少女はクルマの鍵も持っていた。僕の頭は混乱した。ここまできて今更同居を取り消したらさらに混乱するだろう。とにかく、一か月は我慢しよう。一か月の間に整理されるはずだ。そう思った。

「早くご飯食べちゃいましょう。そして今日は早めに寝ましょうね。あしたは妹も手伝いに来ますから、啓一さんもよろしくお願いしますね。」

 恐ろしくマイペースな女の子だ。

「ねえ、チャコちゃん。」

「あっチャコって呼んでくれた。うれし~。でも『ちゃん』はいらないですからね。」

 チャコは屈託のない笑顔で言った。そしてこの不思議な少女との奇妙な共同生活が始まった。

 



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二 入籍事件

 最近、非婚化とか晩婚化とか言われてきて日本人はかつて熱心にそうしたほどには結婚しなくなってきた。日本人はなぜ結婚しなくなったのだろう。僕は結婚が面倒くさいからだと思っている。結婚は面倒くさい。結婚に限らず受験勉強でも会社の立ち上げでもなんでもそうだが、何か新しい生活を目指そうとするとこれまで必要のなかったエネルギーが必要になる。

 僕の場合もまさにそれで、チャコが最初平和な僕の生活に押しかけてきたとき、僕はまだ中学を出たばかりの少女をめとることの倫理性よりもこの静かでそれなりに幸せな生活がかき乱されることを恐れたのだ。しかし、共同生活が始まって何日かすると、情が移るというのかそんな気持ちも段々と希薄になっていった。気持ちが整理されてきたのは僕の方だった。

 チャコが押しかけてきて最初の一週間はチャコが持ってきた膨大な引越し荷物の整理に追われた。結局僕はチャコのために一部屋をあてがってやり、マコちゃんというチャコと瓜二つの双子の妹が一週間、毎日通ってきてチャコの荷物整理を手伝った。この二人はまだ僕がチャコとマコちゃんの見分けがつかないことをいいことにさんざん僕をからかった。

 それから四月に入るとチャコが親にあいさつして欲しいと言うので実家の中華料理屋さんに行った。親御さんにあいさつすること自体に抵抗はなかった。まだ結婚するかただの下宿人で終わるか分からないが身を預かる以上、知らないよりは知っている間柄になっているべきだと思ったのだ。それに僕は裕ちゃんとは婚約していたものの、父親から勘当されているこの姉夫婦とは十七年前柏崎で目撃したのを最後に会っていないのだ。

 実家の中華料理屋さんに行き、チャコは婚約者として僕を両親に紹介した。僕は(「おい」)と思ったがチャコのペースに押し切られた。父親である遼太郎氏は僕の姿を見るなり、さっさとどこかへ行ってしまった。母親の幸子さんは、「本当は自分が父の後を継がなければならなかったのに我がままを言ったばかりに二人に迷惑をかけて申し訳ない」というようなことを言って何度も頭を下げていた。妹のマコちゃんは終始ニコニコしていて極めて事務的に実家あいさつは終了した。家に帰ってから気付いたのだが、その日は四月一日だったのだ。つまり僕を含め登場人物の誰もがどこまでが本当でどこからがジョークか分からない状況で実家あいさつは終了してしまったのだ。

 四月五日にはチャコが通うことになるお嬢様学校、自由が丘女子高等学校の入学式があった。自分の最後の晴れ姿を両親に見せてやりたいということで入学式には遼太郎氏と幸子さんが参加し、僕は行かなかった。チャコの高校生活も始まった。入試の際、入学後すぐに結婚することは話してあるそうで、結婚は学園側も了解済みとのことだった。

 結局、因果関係がどんどん進行してしまい、僕にとっては結婚をしないことの方がはるかにエネルギーを必要とされる状況になってしまったのだ。もっとも、押しかけ女房それ自体は「鶴女房」や「雪女」でも語られているし、それほど珍しいエピソードでもないだろう。

 とういうことで最終的に僕はチャコの差し出す権蔵先生の顧問弁護士が作成したという婚姻届にサインをした。思えば裕ちゃんに言われるがまま裕ちゃんの彼氏となったのも、裕ちゃんと婚約したのも同じような状況だったのだ。

 

 そして約束されていた四月三十日、チャコの記念すべき十六歳の誕生日を迎えた。チャコはここに来てからいつも早起きで、この日も僕が起きたときにはもう朝ごはんを作っている最中だった。

「おはよう。今日も早いね。誕生日おめでとう。十六歳だね。」

「おはようございま~す。いえ~い。今日から人妻だあ!」

 チャコはいつもこんな感じだ。底抜けに明るい。

 今日は普通の日なのでチャコは普通に学校に行く。そして帰ってきてから二人で区役所に婚姻届を出しに行き、写真館で記念写真をとって、それからちょっと贅沢なディナーを食べる予定なのだ。二人だけの結婚式だ。

「なあチャコ。今日の予定って結局チャコ任せになっちゃったけど、二人だけの結婚式でいいのかなあ?」

 婚約者と初対面から四十日後の結婚なのだから仕方のない部分もある。

「二人だけの結婚式の方がいいんだよ。自分達のペースでできるし。あっ自分達ってかあたしのペースか。啓一さんごめんねえ。」

「まあ自分の思い通りに行かないのはもう慣れてるよ。結婚なんてまだ半信半疑だけど、せっかくだから思い出に残るようなことはしようね。」

「うん!今日は学校だけど、帰ってきたら区役所行って婚姻届出して、写真を撮って、それから美味しいもの食べて帰ろうね。」

 それで朝ごはんを食べて、チャコは弁当を持って学校に行った。

 

 午後三時頃、チャコはこれを持って電車に乗ったのだろうかと思うほど大きな花束を持って帰ってきた。

「どうしたのその花?」

 僕はびっくりして「おかえり」のあいさつの代わりに言った。

「うん、ほんとにびっくりしちゃったんだけど、クラスでサプライズパーティーやってくれたんだ。お花ももらっちゃった。」

「サプライズパーティーって結婚の?」

「うん、今日入籍することは自己紹介のときに言ってたからね。みんな祝福してくれたよ。感激しちゃった。ここまでされたからにはもう後には引けないよね。啓一さん絶対に逃げないでね。」

「分かってるよ。ともかく入籍はするよ。」

 そう言って、チャコは大きな花瓶を持ってきてその花束をいけ、二人の人生を方向付ける重要な紙を取り出して僕の署名押印があることをもう一度確認してから二人は四月最後の街に出かけた。

 

 区役所までは東急で一駅くらいあるのでクルマで行った方がいいのだが、気持ちのいい天気だったし、チャコも二人で歩きたいというので歩いて行った。途中、チャコが手をつなごうとしたり、腕を組もうとしたりしてきたが僕はやんわりと断った。チャコの通っている自由が丘女子高等学校は保守系の伝統校でこのような「政略結婚」にも理解があるのだが、校則が厳しいのが難で、外出するときはプライベートでも制服を着なければならないという決まりがあるのだ。だからチャコはセーラー服を着ている。それにそもそもチャコは決して大人っぽくもない。そんな少女と僕のようないい大人が腕を組んだりしていたら警察官の職務質問は必至だろう。そんな僕をもうすぐ配偶者となるこの少女はからかった。

 区役所には四十分くらいで到着した。夕方の閑散とした時間帯だ。この建物に来るのは裕ちゃんの死亡届を出したとき以来だ。セーラー服の少女と僕の提出する婚姻届に区役所の女性職員はなんの疑問も感じることなく、淡々と事務的にその職務をこなした。あっぱれだった。どの世界であれプロというものはこうでなくてはいけないと思った。ということで大した感動もなく極めて事務的に一組の夫婦が誕生した。

 それから祐天寺駅の方に少し移動し、予約している写真館に入った。チャコは入館手続きを済ませると「ちょっと待っててね」と言って、少しイライラするくらい長い時間僕を待たせた。「お待たせ~」と言って現れたチャコを見て僕はびっくりした。チャコは純白のウェディングドレスを着ていたのである。

「どっ、どうしたのそのドレス?」

「じゃじゃん。どお。似合ってる?」

 「似合ってるか?」と言われればまるで似合わないという答えになる。チャコは決して大人っぽい顔立ちではないし、ウェディングドレスを着るにはまだ早すぎるのだ。だから僕はそれには答えず

「レンタル?」

「う~ん、実は裕ちゃんのウェディングドレスなんだ。」

 裕ちゃんがウェディングドレスを準備していたなんて僕は聞いていない。

「それも裕ちゃんからもらったの?」

「ううん、これはおじいちゃんに借りたの。」

「権蔵先生。」

「うん。なんでも裕ちゃんが最後の最後でやっぱり花嫁衣裳着たいって言うかもしれないからそのときのために準備してたんだって。病院のベッドじゃさすがに文金高島田は無理だからウェディングドレスをね。」

「そんなことがあったのか。それは知らなかった。」

 僕は親の愛情に少しジンときた。

「うん。裕ちゃんにも知らせてなかったと思う。それでこれがあるからって貸してくれたの。裕ちゃんサイズだからピッタリじゃないんだけど、まあちょうどいいのかなって。」

「そっか。お古のウェディングドレスでチャコはいいの?」

「しょうがないよ。なんてったって旦那さんがお古なんだもん。」

 僕は返す言葉がなかった。僕は話題を変えた。

「チャコはウェディングドレスでいいけど僕がこの格好じゃアンバランスじゃない?」

 僕はネクタイすらしていない。チャコがセーラー服だったから軽く考えていたのだ。こういうところのセンスは僕にはまるでない。

「ああ、それなら啓一さんの式服は借りてるから着替えてきてくださいな。」

 チャコは僕を驚かせようと思って服を手配していたのだ。僕はチャコが借りてくれた貸衣装を着て、二人で何ポーズか撮った。一応、チャコには「きれいだよ」と言っておいた。

 

 写真屋さんを出るともう日は暮れようとしていた。東横線で代官山に移動した。チャコが「気になるフレンチレストランがある」というのでそこで記念の食事をすることにしていたのだ。駅から少し離れた、静かな、感じのいいお店だった。

 お店に入ると窓際の予約席に案内された。セーラー服の少女とカジュアルないい年の青年、周囲からはどのように見えるのだろう。今、区役所に婚姻届を出してきたカップルとは到底見えないだろう。あるいは援助交際と思われるかもしれない。

 ギャルソンがメニューを持ってやってきた。

「いらっしゃいませ。お飲み物は何になさいますか?」

「じゃあシャンパン。」

 チャコがおどける。

「おい、チャコは未成年だからもちろんソフトドリンクだろ。」

「ああ、そうだった。じゃあ、あたしはジンジャーエールね。一番シャンパンに似てるから。」

「じゃあ僕もジンジャーエールにしよう。」

「啓一さんはお酒飲みなよ。ってかあたしの前では全然お酒飲まないよね。お酒嫌いなの?」

「う~ん、どうだろう。最近、飲んでないからなあ。でも今日はチャコと一緒がいいや。じゃあジンジャーエールを二つ」

「スミマセン。シャンパングラスに入れてもらえます?」

 チャコがリクエストした。

「かしこまりました。」

 ギャルソンは丁寧に下がった。

「あ~あ、やっと入籍できた。」

 チャコは本当にうれしそうだった。

「ねえチャコ、悦に入っているところ申し訳ないんだけど、……実はチャコは入籍してないんだよ。」

 僕がポツリとそう言うと、チャコの表情は一瞬、かたくなった。

「ねえ、なんでそんなこと言うの?さっき一緒に婚姻届出してきたでしょ?あれは嘘だったって言うの?信じられない。」

 本気で怒っている。それがまたかわいくもあるのだが。

「いや、結婚しなかったって言ってるんじゃないよ。チャコが僕の籍に入ったんじゃないって言ってるんだ。僕がチャコの籍に入ったんだから入籍したのはチャコじゃなくて僕だよ。」

「言ってることがよく分からない。」

「つまりだな、チャコは結婚しても引き続き白石朝子であるわけだ。」

「そんなの当たり前じゃない。あたしはあたしよ。」

「でも僕は今日から白石を名乗ることになる。」

「ええっ!」

 チャコは僕がびっくりするくらいの大きな声を出して驚いた。本当に僕が今日からチャコの苗字を名乗ることを知らなかったようだ。しばらく「えーえー」言っていた。

「知らなかったの?」

「うん、名前のことなんて考えてもなかったよ。」

「だってチャコが僕にサインさせた婚姻届の『夫婦が称する氏』は妻のところにしっかりチェックされてたよ。」

「そうなの?そんなところ見てなかった。啓一さんのハンコもらうことしか考えてなかったから。……だからか。先生が婚姻届のコピーくれって言うから渡したんだけど、『朝子さんは結婚しても白石朝子さんなのね』って言われたの。あたしはそんなの決まってるでしょ、結婚しようが離婚しようがあたしはあたしよ!何変なこと言ってるのこのおばさんって思ってたんだけどそういうことだったのね。今分かった。でもそれって名前だけの問題でしょ?あたしは啓一さんと結婚できればなんでもいいや。……でも柏崎のお義母さんはいいのかな?啓一さん一人っ子でしょ?」

「それは裕ちゃんのときに権蔵先生が直接おふくろを説得して解決済みだよ。僕の家は大した家じゃないし、権蔵先生は地元じゃ殿様みたいなものだからおふくろにとってもいい話だったんじゃないかな。……名前って言えばチャコのお父さんも白石を名乗ってるよね?」

「それは理由があるの。お母さん、あたしとマコちゃんを産んでしばらくシングルマザーだったの。お父さんとお母さん、同棲はしてたけど籍は入れてなかったのね。だからあたしは生まれてからずっと白石なの。で、籍入れたのはあたしが小学校に入学するときで今更、親と子の名前が違うのも面倒だろうっていうのでお父さんが白石になったの。お父さんも昔は悪いことばっかりしてたから名前を変えて心機一転、やりなおしたいっていう気持ちがあったんじゃないかなあ。」

 そこでシャンパングラスにそそがれたジンジャーエールがきて乾杯になった。

「二人の未来にかんぱ~い!」

「乾杯!」

 チャコと僕は静かに乾杯した。

「おいしい!やっぱりうれしいや。」

「なあチャコ、本当にこんなのでよかったのかな?」

「なに今さら言ってるの?もう夫婦だよ。」

「うん、でもチャコ本当にうれしいのかなって。普通ありえないから。」

「ありえないからうれしいんじゃない。なんか武士とか貴族みたい。それとかヨーロッパの小公女みたいな。あたしただのラーメン屋の娘なんだよ。それがなんかお姫様みたい。」

「僕にとっては少し重いかな。これで正式に白石家の跡取りになったからね。」

「跡取りって言ったってうちはただのラーメン屋だよ。それに啓一さんラーメン作れないでしょ?」

 この子は肝心なことが何も分かっていないようだ。

「白石権蔵大先生の跡取りだよ。白石家の今の当主は権蔵先生。その後を幸子さんの代をすっ飛ばしていきなり僕が当主になるんだ。まあ、権蔵先生はまだ元気だし、実際に後を継ぐのはしばらく先になるだろうけどね。」

「へー、だんだん理解できてきた。じゃああたしは当主の奥さんになるの?それってかっこよくない?」

「まあ身分社会じゃないからなあ。選挙に当選できればいいけど、できなければ僕はただの人間だ。まともな職についてるわけじゃないし、チャコに迷惑かけるかもしれないよ。」

「それならいいよ。貧乏慣れてるしあたしもパートで働くから。」

 やはりこの子はよく分かっていないようだ。

 それからおいしい料理がどんどん運ばれてきて二人だけの披露宴になった。

 

 食事が終わって最後に僕はジャケットのポケットから小さな箱を取り出した。

「はい、誕生日というか結婚のプレゼントだよ。」

 チャコはすぐにそれが何か分かったようだ。

「あっ指輪だ。ありがとう。ねえ開けてもいい?」

「もちろんだよ。」

 チャコはふたを開けて中を見た。ダイヤモンドの指輪が入っているのだが思ったよりも喜ばない。

「ねえはめてみて。」

「はい。」

 僕はチャコが差し出した左手の薬指に指輪をはめた。

「よく指のサイズ分かったね。」

「マコちゃんに聞いたんだ。チャコには絶対に内緒にしてねって言って。……ねえ、指輪はあんまり好きじゃなかった?」

 いつも感情丸出しのチャコがとても冷静なのが意外だった。

「実はね今日、啓一さんがダイヤモンドの指輪くれるの知ってたんだ。マコちゃんに聞いたの。」

「マコちゃん……。絶対に内緒だって言ってたのに。」

「ハハハ、マコちゃんに内緒は無理だよ。すごいおしゃべりだもん。」

「ねえマコちゃんって外見はもちろんチャコにそっくりだけど中身は違うよね?」

「全然違うよ。第一、マコちゃんは面食いだし。」

「それって褒め言葉になってないんですけど。」

「ああそうか。難しいな。まあそう気にしないで。この結婚も『人の決めた結婚をそのまま受け入れるなんて信じられない、あたしだったらできない』って言われてる。」

「マコちゃんロマンチストなんだ。」

「あたしの方がロマンチストだよ。お姫様になりたいと思って本当になったんだもん。」

「お姫様って言ったって僕の家にはメイドも執事もいないぞ。」

「そっか~。でもいいの。すごく幸せだから。指輪は啓一さんに預かってもらってていいかな?あたしこういうの管理するの苦手なんだ。すぐになくしちゃうの。それに校則で指輪は禁止されてるから。」

「そうだね。じゃあ指輪は貸金庫にでも入れとくよ。」

「その方が安全だね。高校卒業したらまたはめてね。」

「はい。」

「……じゃあ、そろそろ行きましょうか?」

 チャコに促されて僕は席を立った。そして僕は勘定を済ませ、二人は外に出た。気持ちのいい夜の空気だ。

「ごめんね。二人だけの結婚式になっちゃって。チャコはもっと盛大にやりたかったんじゃないかな。」

「そんなことないよ。二人だけの結婚式も結構、楽しかったよ。それに結婚式なんて別に今じゃなくてもいつでもできるしね。さあ、あしたも学校だからもう帰ろう。」

 そういうとチャコは僕の元に寄ってきて腕をつかみ、僕の耳もとに口を寄せて「フフフフフ、初夜だね」と不気味なヒソヒソ声で言った。僕はドキッとしたが少し冷静になった。何か忘れていることを思い出したのだ。

「なあチャコ。これから君の実家に行ってもいいかな?」

「あたしの実家?」

「うん、やはりご両親にはちゃんとあいさつしないといけないと思うんだ。マコちゃんにもね。」

「う~ん、お父さんお母さんこの結婚には反対というか、いい顔してないからなあ。別にあたしや啓一さんが嫌いっていうんじゃなくておじいちゃんが仕組んだことと思ってるから。特にお母さんは啓一さんに会わせる顔がないと思ってるんじゃないかな。この前もそうだったけど、自分が果たすべきおじいちゃんの跡継ぎとしての役割を裕ちゃんに押し付け、娘夫婦に押し付けちゃったと思ってるからね。」

「でもやっぱりあいさつに行かないのは非常識だと思う。ちょっとだけでもいいから顔を出そうよ。それに今日はマコちゃんの誕生日だろ?ケーキか何か持って行った方がいいんじゃないかな?」

「そうだ!今日、マコちゃんの誕生日だ。啓一さん良く知ってるね。」

「てか双子の君の誕生日が今日なんだろうが。」

「ああそうか。そうだね。じゃあケーキ買って行こうか。」

 チャコも気になっていたのだろう。躊躇はしていたが最後は笑顔で同意してくれた。

 

 そして近所のケーキ屋さんでデコレーションケーキをワンホール買って、ケーキにはバースデープレートもつけてそこからタクシーでチャコの実家の中華料理屋さんに行った。お店はちょうど閉まるときで、マコちゃんがのれんをお店の中に入れようとしているところだった。

「マコちゃん!」

 チャコがマコちゃんに軽く手を振った。マコちゃんはチャコと本当に瓜二つでチャコと結婚したばかりの僕には到底二人の見分けがつかない。

「チャコちゃん!どうしたの?もう出戻り?」

 マコちゃんがいたずらっぽく笑う。

「なに言ってるの。ちゃんと旦那さんもいるでしょ。今日入籍してきたの。今日から本当の夫婦だよ。」

「そっか~。おめでとう。」

「こんばんは、マコちゃん。こないだはチャコの引越し手伝ってくれてありがとう。」

「こんばんは。今日から本当にお兄ちゃんですね。ふつつかな妹ですけどよろしくお願いします。」

 そういってマコちゃんは丁寧にお辞儀をした。「本当にふつつかだ」とチャコから野次が飛んだ。

「マコちゃん誕生日おめでとう。プレゼントのケーキだよ。」

 僕はそう言ってマコちゃんにバースデーケーキを渡した。

「ええ、私に?こんなに大きいの。うれしい~!」

 マコちゃんもチャコ同様屈託のない少女だ。

「お父さんとお母さんに結婚のあいさつに来たんだけど。」

「は~い。中にいますよ。お母さ~ん。チャコちゃんが来たよ。」

 そう言いながらマコちゃんはお店の中に入り、チャコが入り、続いて僕が入った。厨房の中に父親の遼太郎氏がいて、チャコを見て一瞬ニコッとしたが、僕に気付くとさっとどこかへ行ってしまった。母親の幸子さんはテーブルを拭いているところだった。

「こんばんは、お母さん。今日、婚姻届出してきました。今まで育ててくれてありがとうございました。」

 チャコが幸子さんに深々と頭を下げた。幸子さんは手を止めてチャコの前でかしこまった。が何も言わない。

「今日から正式に夫婦になりました。長い付き合いになると思います。朝子さんのことを幸せにしてあげられるかどうか分かりませんが、頑張ります。どうぞよろしくお願いします。」

 そういって僕も幸子さんに深々と頭を下げた。すると幸子さんは僕に頭を下げて

「啓一さん、本当に申し訳ありません。本当は私が父の言うことを聞かなければならなかったんですが。私が我がままだったばかりにあなたやチャコにこんな思いをさせて……。」

 幸子さんは泣きそうになった。

「やだなあ。お母さん何言ってるの。あたしは啓一さんと結婚できてとっても幸せなんだよ。これから二人の楽しい生活が始まるんだからもっと祝福してよ。で、お父さんは?」

「どっか行っちゃったみたい。」

 マコちゃんが答えた。

「そう、じゃあお父さんにもよろしくね。チャコはとっても幸せになりましたとね。じゃあマコちゃん、お母さんをよろしくね。」

 そう言うとチャコはさっさとお店を出てしまった。僕はお義母さんとマコちゃんにお辞儀をしてチャコを追いかけた。チャコは少し足早にお店から離れていき、僕は五十メートルくらいのところでチャコに追いついた。

「ごめんねえ。変な親で。啓一さんに嫌な思いさせちゃったね。もっと祝福してくれればいいのに。」

 いつもニコニコのチャコが少し悲しそうに言った。

「そんなことないよ。あいさつできて良かったよ。今日じゃなきゃ意味ないもんね。」

「ありがとう。……やっぱり啓一さん優しいや。……あたしね、いつかはお母さんとおじいちゃん仲直りさせたいと思ってるんだあ。だから啓一さんも協力してね。」

「うん。チャコだったら二人を仲直りさせられるんじゃないかな?」

「そう思う?」

「うん。チャコはいつも前向きだから。」

 僕がそう言うとチャコはいつものチャコに戻ってニコニコしながら僕の元によってきて腕をつかみ、僕の耳もとに口を寄せて「フフフフフ、初夜だね」と不気味なヒソヒソ声で言った。

「おい、それさっきもやったぞ。」

「そうだっけ。だって楽しみなんだもん。どうなっちゃうのかなあって。」

 この少女はいつだってどんなときだって底抜けに明るい。

 チャコの実家から碑文谷の僕の家まではなんとか歩いて移動できる距離だ。あんまり気持ちのいい夜だったので二人で歩いた。

 帰宅して着替えるとあんなに初夜を楽しみにしていたはずのチャコは疲れたのだろう、制服のままベッドに横になり既にスヤスヤと眠ってしまっていた。制服ではかわいそうなのでパジャマに着替えさせたがそれでも起きないので余程疲れているのだろうと思い、そのまま寝かせておいた。こうしてあれだけチャコが楽しみにしていた初夜は延期され、僕も別のベッドで眠りについた。二人の長い一日だった。

 

 次の日、僕はいつも通り早起きをして新聞を読み始めたがいつもは起きてきて朝ごはんを作るはずのチャコがいつまでたっても起きてこない。昨日は長かったし、疲れているのだろうとしばらく寝かせておいたがあまりにも遅いのでいい加減に起こしに行った。

「チャコ、いつまで寝てるんだよ。もう七時になるよ。学校遅刻しちゃうよ。」

 僕はチャコを揺さぶるが反応は鈍い。

「だめ起きられない。燃え尽き症候群。」

「はあ?」

「啓一さんごめんなさい。あたし一つだけ黙ってたことがあるの。」

「何?」

「あたし朝が全然駄目なの。起きられないの。それでもお嫁さんにしてもらえないと困ると思って今まで頑張って起きて、朝ごはん作ってたんだけど婚姻届出したら安心しちゃった。お願いもう少し寝かせて。」

「だって学校遅刻しちゃうぞ。」

「それは分かるんだけどなあ。でももう少し寝かせて。」

「じゃあ七時半までね。それ過ぎたら本当に遅刻しちゃうからね。」

「うん、やっぱり裕ちゃんの言ったとおりだ。」

「裕ちゃん?」

「うん。啓一さん朝強いからいいよって。ギリギリまで寝かせてくれるし、起こして欲しい時間に確実に起こしてくれるって。」

「だから僕と結婚したのか?」

「もちろんそれだけじゃないよ。それも一つの理由っていうだけ。朝の弱い人だったら絶対に無理だな~って思ってたの。じゃあお休みない。」

 決して目を開けることなくそこまで言うとチャコはまた眠りについた。

 



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三 着物事件

 ゴールデンゴールデンウィークが終わるとチャコの通う高校では個人面談が始まった。入籍してからは一応、僕がチャコの保護者となってしまったのでチャコの個人面談も僕が対応することになる。もちろん僕にとって初めての経験だし、妻の高校の個人面談に夫が出て行かなければならないというのも通常はないだろう。チャコは僕が初めて学校に来るというので朝からはしゃいでいた。

「今日、個人面談よろしくね~。楽しみだなあ。」

 朝食のトーストをほおばりながらチャコはうれしそうだった。

「チャコが楽しみなのか?」

「うん。だって啓一さんあたしの学校に来てくれるんでしょ?それだけでもうれしいや。それに今までは個人面談ってお母さんが行ってたでしょ。帰ってきたら絶対に怒られたし。啓一さんなら何があっても優しく受け止めてくれそうだし。」

「もう何かしでかしてるのか?」

「さあね。それはお楽しみに。お楽しみと言えば担任の高倉先生、すごい美人だからお楽しみにね。あ~嫉妬しちゃうな。先生と密室で二人きりになっちゃうなんて。」

「そういう問題じゃないだろう?」

「じゃあ、面談の報告、楽しみにしてま~す。」

 チャコは明るくそう言うと僕の作った「愛夫弁当」を鞄に入れて「行ってきま~す」と出かけていった。

 

 個人面談は午後二時からだったのでチャコの帰りを待たずに僕は出かけた。そして初めて保守系のお嬢様学校、自由が丘女子高等学校の門をくぐった。伝統のある学校のようでキャンパスの中は尊厳な雰囲気に包まれていた。緑の多いそのキャンパスは新緑の季節を迎え、気持ちのいい空気が流れていた。僕は一年の中の一番いいタイミングでこのキャンパスを訪問したようだった。

 校舎も立派だった。中に入ると正面で創立者の銅像が出迎えてくれた。僕は創立者に一礼するとチャコの教室に向かった。教室の中では前の順番の人が面談を受けていた。僕はしばらく教室の外で待ち、時間が来て僕と代わった。僕はドアをノックして教室の中に入り、勧められるままに着席した。

 僕は入学式にも保護者会にも出ていなかったので担任の先生に会うのは初めてだった。担任は高倉という女の先生で年齢は三十二、三くらい、指輪はしていなかったので恐らく独身だろう。というより誰が見ても独身ですというくらい全身から独身オーラが出ていた。めがねをかけていて完全貞操といった感じだ。美人か?と言われれば美人の世間相場はこんなものなのかもしれない。ただ僕の趣味ではないというだけのことだ。

「はじめまして。担任の高倉です。どうぞよろしくお願いします。」

「朝子の夫です。いつもお世話になっています。よろしくお願い致します。」

 僕達は座ったまま初対面のあいさつをした。

「さて、朝子さんが我が校で異色の存在であることはご理解いただいていますね。あの若さでもう結婚されているのですから。」

「まあそれはそうでしょう。色々とご迷惑をおかけしてると思います。」

 チャコは入試のときに既に入学後すぐに結婚することを表明していて、チャコの結婚は学園の了解事項だった。

「まあ学業と主婦業は別物ですからね。学園としてはなるべく特別扱いはしないように、ほかの子と同じように対応させていただきます。その点はご承知おきください。」

「はい。よろしくお願い致します。」

「ご主人さんは、お仕事は何をされているのですか?」

「まあ会社役員です。会社役員というのも大げさですが小さい会社をやっています。自営といった方がふさわしいかもしれません。」

 僕は裕ちゃんの版権を管理する会社の役員をしている。本社は色々なしがらみから柏崎にあり、代表者は白石権蔵参議院議員ということになっているが僕も役員だし、事実上僕が一人でやっているので嘘はついていない。

「みなさん、小さい会社とおっしゃるんですけど結構大きい会社だったりするんですよね。まあプライベートなことはあまりお聞きしないようにしましょう。さて、朝子さんいかがですか?」

「はあ、まじめにちゃんとやっていると思いますが。朝苦手なのがタマに傷です。」

 そもそも僕はチャコの学園生活をよく知らない。チャコもあまり話したがらない。

「そうですか。学校のことはあまりお話にならないのですね?」

「はい。まあ僕の前ではあくまでも妻ですから子供のような役割は押さえているのかもしれません。」

「ところで我が校の校則が厳しいのはご存知ですね?」

 随分唐突に話題が変わった。

「はあ、保守的な伝統のある名門校ですから。だから妻のような生徒も受け入れてくださっているのでしょう。」

「ええ、当校は良妻賢母を育てることを教育目標にしていますからね。校則は厳しいです。そして校則を破った場合にどのようなルールが適用されるかはご存知ですね?入学式にお配りしたプリントにも記載されていたのですが。」

記載されているのかもしれないが僕は入学式に出ていないので読んでいない。

「いや、申し訳ありません。承知しておりません。入学式には僕ではなく朝子の両親が出席したものですから。」

「それではご説明しましょう。当校では伝統的に校則に違反した生徒は即、処分という方針で自宅謹慎や停学、ひどいときには退学にしていたんですが、いきなり処分というのも厳しいのではないかという声が大きくなりまして、当校もやはり教育機関ですから教育的温情を与えようとイエローカード、レッドカードというサッカーのようなルールを採用したんです。」

「はあ。」

「すなわち、初めて校則を破った場合には一枚目のイエローカードを渡して注意するにとどめる。もう一度校則を破った場合には二枚目のイエローカードを渡して警告する。そしてさらに校則を破った場合にはレッドカードを渡して処分の対象にするというルールになったんです。」

 僕は嫌な予感がした。

「まさか朝子はもうそのイエローカードを一枚いただいているというのではないでしょうね?」

「二枚ですよ二枚。朝子さんはまだゴールデンウィークがあけたばかりだというのに二枚もイエローカードを手にしてしまったんです。学園のレコードをかなり大幅に更新してしまいました。もう永久に破られることはないでしょう。」

 ようやく唐突な話題転換の文脈がつながった。僕はひどく落胆した。

「一体、何をやったんですか?」

「朝子さんから何も聞いてないのですね?まあ何をしたかはご本人から直接聞いてください。そして厳格にご指導願います。後は特に学園生活で問題はありません。何事も積極的にこなす子ですから。」

「はあ。」

 僕がひどく落胆しているのを見てさすがにまずいと思ったのか、高倉女史は付け加えた。

「白石さん、私は別に朝子さんが悪い生徒だとは思っていません。明るいし、頭もいいし、クラスのみんなの人気者です。あんなに積極的な子は見たことがありません。ただ、我が校の校風には合わないということです。」

 それは僕にも異論はない。この学校が一番受け入れたくないタイプの女の子だろう。

「とにかくご主人さんの方も注意しておいてください。私は親と違って夫というのは甘くなってしまうのではないかと懸念しています。優しくするのは結構ですが、結局、本人のためになりませんからね。特に注意していただきたいのはイソウです。」

「はあ、イソウですか?」

「異なる衣装の装で異装です。我が校の校則にはプライベートでも休日でも外出するときには必ず制服を着用しなければならないという決まりがあります。二十四時間、本校の生徒であることを意識して欲しいからです。それこそ近所にはがきを一枚出しに行くにも制服を着て行っていただきます。この決まりが守れない子が多いので気をつけてください。」

 それなら僕も知っている。だからチャコはどこに出かけるにも必ず制服を着ていくのだ。

「とにかく今度、校則に違反したらレッドカード、悪ければ退学になります。ご注意ください。」

「でもお言葉を返すようですが違う服装をしたくらいで退学というのも厳しすぎるんじゃないですか?」

「朝子さんはもうイエローカードが二枚出ているんですよ。まだ一年生の一学期のしかも中間テストの前だというのに。」

 僕は返す言葉を見つけられなかった。

「分かりました。気を付けます。……他には何かありますでしょうか?」

「では二点ほど。一つ目は水泳です。」

「水泳?」

「はい。当校には生徒皆泳という伝統があって、全員、一年生の夏までに二十五メートル以上泳げるようにならないといけないんです。朝子さん、個人記録カードの苦手項目に水泳と書いてあったのでそれを心配しています。」

「泳げないとどうなるんですか?」

「大丈夫ですよ。みっちり補講しますから。全員、泳げるようになって卒業していきます。」

「はあ。」

「もう一つはこれは申し上げにくいんですけど、赤ちゃんです。」

「赤ちゃん?」

 そんなことは考えたこともなかった。

「はい。妊娠だけは考えて欲しいんです。もちろんとてもプライベートなことですから学校の方で強制する問題ではありません。ただ学業に大きく影響しますので注意していただきたいんです。できれば卒業まで待っていただけるといいのですが。クラスのみんなと一緒に卒業させてやりたいですから。」

「はい。」

「でももちろんいざそうなったときには学校としては全面的にバックアップしますわ。なんと言っても当校の建学の精神は良妻賢母の養成ですから。」

「分かりました。」

「以上ですが何か他にございますか?」

「いいえ特にありません。いつもご迷惑をおかけします。朝子のことよろしくお願いします。失礼します。」

「今日はお時間をいただきありがとうございました。」

 そういうと高倉女史は席を立ち、深々と頭を下げた。その立ち居振る舞いはさすがお嬢様学校である。僕はイエローカードのことではずかしかったのでできるだけ早くその場を離れた。確かにチャコが僕の家に来てからとてもあわただしかったので学校のことはあまり見てやれていなかった。少し反省した。

 

 僕が家に帰ると、チャコはもう帰っていて、僕の帰宅時間を大体予想していたのか、お茶の用意をして待っていた。個人面談のことはチャコも大きな関心事だったようで、僕達はダイニングでコーヒーを挟んで向き合った。

「お疲れさまでした。どうだった?」

「色々言われたよ。」

 チャコがとてもニコニコしているのでイエローカードのことは切り出しにくい。

「ねえ、高倉先生どうだった?」

「どうって?」

「美人でしょ?」

「そうかな。そうでもなかったよ。」

「めがね外すと美人だよ。啓一さんのタイプでしょ。」

 いきなり変なことを言い出すので僕はドキッとした。

「そんなことないよ。」

「そうかなあ。啓一さん年上の人が好きだから。」

 それで僕はハッと思った。

「裕ちゃんのこと?」

「ねえ、高倉先生って髪型とかメイクとか服装とか、絶対、裕ちゃん意識してるよね。似てると思わない?」

 裕ちゃんは歌姫と言われた国民的歌手だったから裕ちゃんの影響を受けた女性が一人や二人いてもおかしくはない。十万人いてもおかしくないだろう。

「ねえ、チャコって結構嫉妬深い方?」

「どうだろう?でも女って多かれ少なかれ嫉妬深いと思うよ。」

「それはそうと僕が今日、先生から何を言われたか分かるね?」

「うん、イエローカードのことでしょ?」

 チャコはケロッとしている。怒る気力も出ない。

「何やったの?先生は本人に直接聞けって言ってた。」

「お弁当の時間でもないのに休み時間に焼きそばパン食べた。」

 チャコは本当に屈託がない。

「どうして?」

「だってチャコちゃんお腹空いちゃったんだもん。そしたら鞄の中に焼きそばパンが入ってたの。あたし奇跡ってあるんだなあって思っちゃった。」

「もう一枚は?」

「それはね、たまたまあたしの鞄の中に芸能雑誌が入ってるのが見つかっちゃったんだなあ。」

「なんで雑誌なんて持ってたの?校則に違反するのは分かってたんだろ?」

「う~ん、それも偶然なんだな。朝、通学途中でたまたまマコちゃんに会っちゃって、あたしが貸してた雑誌を今返すって言うからそのまま鞄に。」

 校則が厳しすぎるだけでチャコには悪意はないようではあった。こんな厳しい高校に通わなければならないチャコに少し同情した。マコちゃんのように都立に通っていればもっとノビノビと個性が発揮できたことだろう。

「まあ、厳しいことを言うつもりはないけど、今度、校則に違反したらレッドカード、下手すると退学だって脅されたよ。気をつけてね。」

「はいは~い。」

 あまり反省の色はない。とそのとき電話の着信音が鳴った。僕の家の電話の着信音は裕ちゃんと僕が作った曲「卒業」だ。

「あっ、電話だ電話だ。電話は三コール以内に取らないとね。」

 そう言ってチャコは命拾いしたかのようにダイニングから出て行った。そして電話を受け答えしたタイミングがあって、ダイニングのドアから顔だけを覗かせた。

「啓一さん、おじいちゃんの秘書の山崎さん。」

「ああ山崎さんか。」

 山崎秘書は嫌いではないのだがこの人からの電話というとろくな用件はない。大抵、権蔵議員の野暮用を押し付けられるのだ。僕は電話のあるリビングに行き、受話器を握った。

「もしもし。」

「ああ、若先生、お忙しいところ恐れ入ります。実はお願いがありまして。」

 チャコと僕が結婚してからというものの、権蔵議員の秘書の皆さんは僕のことを「若先生」と呼ぶ。僕はやめてくれというのだが聞いてもらえない。

「なんでしょう?」

「今度の日曜日はあいてますか?」

「明後日ですね。大丈夫だと思いますが。」

「若奥様もあいてますでしょうか?」

「本人に聞いてみないと分かりませんが、多分、大丈夫でしょう。特に何も聞いてませんから。」

「良かった。実は今度の日曜日に駐日大使館の新任メンバーを集めて東京バスツアーが企画されていましてね。」

 そこまで言われて自分の予想がほぼ的中していることを確信した。この有能な秘書は権蔵議員の野暮用を僕に押し付けるのだ。

「大先生もホストの一人なんですが、別件が入ってしまってどうしても行かれなくなってしまったんです。それで若先生に代わりに行ってもらえないかと。」

 別件といってもどうせバスツアーより楽しいゴルフかなんかだろう。

「いいですけど、妻同伴なんですか?」

「ええ、大使館の方も奥様を連れてお見えになります。」

「分かりました。引き受けましょう。」

「ありがとうございます。それで一つリクエストがあるのですが。」

「なんでしょう?」

「若奥様には和装でお越しいただきたいのです。例年そうなのですが、大使館の人たちはご婦人の着物姿を大変楽しみにしておられますので。」

 僕はギクッとした。もろに校則違反ではないか。

「山崎さん、リクエストは理解できるのですが実は妻の通っている高校には学校外でも常に制服を着用しなければならないという厳格な校則がありましてね。休みの日でも外に出るときは制服を着用しなければならないんです。だから着物を着てツアーに参加するのは無理ですよ。なんとかなりませんか?」

「それなら若先生、心配はいりません。積極的に校則を破るのもどうかと思われるかもしれませんが、自由が丘女子高校の校則なら私も少し知ってましてね。なんでもあそこはイエローカードとかレッドカードとかサッカーのようなルールを使っていて、校則を一度破ればイエローカード一枚、イエローカード三枚でレッドカードになってようやく処分の対象になるそうなんです。」

 そんなことは僕だって知っている。というよりさっきさんざん聞かされたばかりだ。

「だから今回は着物を着て行っていただいて、学校にばれてしまったら残念ながらイエローカードを一枚いただくということで無理をお願いできないでしょうか?イエローカードを一枚もらうといってもそんなに心配することではありません。あの高校の卒業生でイエローカードゼロで卒業する子はそんなにいないんですよ。少なくとも一枚もらう子がほとんどで、二枚もらって卒業する子も稀ではないんですって。」

 その二枚をまだ一年生一学期のしかも中間テスト前だというのにチャコはもうもらっているのだ。僕にはもうこの物知りで有能な秘書と話を続ける元気はなかった。

「分かりました。妻にも相談してまた後で連絡しますね。場所や時間はそのときに。お電話ありがとうございました。失礼します。」

「こちらこそお忙しいところ恐れ入ります。失礼します。」

 そう言って電話は切れた。

(「やれやれ、どうしよう。」)と思って振り返るとそこにチャコが立っていてドキッとした。電話の内容を立ち聞きされたようだ。

「どうしたの?」

「うーん、今度の日曜日に新任の駐日大使館員の皆さんとのバスツアーがあるそうなんだけど権蔵先生の代わりに僕たちに出てくれって。」

「え~っ、じゃああたしたち一緒にお出かけできるの?ひゃっほ~!夫婦の初仕事だあ!」

 チャコは女の子丸出しではしゃいだ。

「ところがそんなにいい話でもないんだな。チャコには着物を着て来いって言うんだ。」

「着る着る着る着る!着物でも水着でもランジェリーでもなんでも着ちゃう~。」

 この少女は本当に分かりやすい。

「そういうわけにはいかないだろ?そんなことしたら今度はレッドカードだ。下手すると退学だぞ。さっき言われたばっかりじゃないか。」

「うーん。なんとかなるよ。大体、東京は広いんだしさ。日曜日にあたしがたまたま自由が丘女子の先生に見つかるって確率、とっても低いと思うの。」

「そう言われればそうだ。」

「それに着物着たくらいで退学なんてやりすぎだよ。」

 チャコのパワーに押されたのか、チャコの言うことがもっともらしく思えてきた。

「うーん、それもそうだなあ。でもチャコが着物着て参加するとして着物の手配とかできるか?日曜日は明後日だぞ。」

「それは心配ご無用。裕ちゃんが自筆のマニュアルを作ってくれているの。そのマニュアルに着物の手配とか書いてあるよ。あたしに任せて。」

 結局、チャコに押されたのと山崎秘書に言い訳する理由が見つからなかったためチャコの言うとおりにすることになった。

 

 日曜日は本当にいい天気のバスツアー日和となった。着付けのあるチャコは現地集合ということになり、僕は先に集合場所の二重橋前でチャコを待った。登場したチャコはさすがに振袖ではなかったが本当にかわいらしく、駐日大使館員の皆さんの喝采を浴び、何度も記念写真に応じていた。バスは東京の名所を回り、僕は接待が忙しく、チャコと会話を交わすことはほとんどできなかった。僕も頑張ったがそれ以上にチャコはものすごい社交力を発揮していた。大使館員の皆さんが大満足するうちにバスツアーは終了し、楽しい日曜日は終わった。僕も大満足だった。

 

 次の日の月曜日、僕はいつものように早起きし、コーヒーをすすりながら新聞を読んでいた。新聞は五紙を読んでいる。自分の意思とはほとんど関係無しに次回の衆議院議員選挙への出馬を余儀なくされている僕は世の中の情勢に詳しくなっていなければならない。新聞は社説まで読まなければならない運命にあるのだ。そして新聞記者に何か質問された場合にはその記者の腕章にちらっと目をやり「そういえばお宅の社説にはこう書いてあったが」と枕詞をつけなければならないのだ。政治家というのはそういうものだ。新聞を読むことは一番基本的な仕事なのだ。

 そう思いながら重要と思われる部分にラインマーカーを引きつつ新聞を読む僕の目がある全国紙の社会面で止まった。なんと、昨日のバスツアーの記事が載っているのだ。しかもご丁寧にカラー写真もついていてその写真にはチャコと僕の姿も写っていた。知っている人が見ればそれと分かるサイズだ。僕は頭を抱えた。(「ああ!ろくな事件のない世の中なのにどうして昨日に限って平和なのだ!」)僕は心の中でなげいた。世の中はこういうものだ。そして事件事故が絶対に起きて欲しくないときに限って海底火山が爆発したりするのだ。

 僕は新聞を持って二階の寝室に駆け上がり、まだ眠っているチャコを起こした。

「チャコ!大変だ!昨日のことが新聞に出てる。しかも写真つきだぞ!」

「うーん。」

 チャコはまだまだ眠そうだった。仕方ないのでチャコを抱きかかえ、無理やりベッドに座らせて新聞を見せた。

「ほら。」

「もう、強引なんだから。」

 チャコは普段はニコニコしていてとてもかわいいのだが、朝起こすときだけはとてつもなく不機嫌になる。

「ほら、これだよ。この新聞のこの写真。チャコと僕が写ってるだろ?」

「まあ素敵。啓一さんここの部分、絶対に切り取ってとっといてね。マコちゃんにも教えてあげなくちゃ。」

「そういう問題じゃないだろ。先生にばれたらどうするんだ。レッドカードだぞ。」

「ああそうか。まあなんとかなるよ。」

「どうするんだよ。」

「啓一さんは心配しすぎなんだよ。大丈夫だよ。あたしに任せて。それよりまだ早いんでしょ。もう少し寝かせてよ。昨日の今日でまだ眠いんだから。」

 あくびをするとそのままチャコは布団にもぐりこんでしまった。

それからチャコはいつも通りに起きて、いつも通りに朝食をかきこみ、いつも通りに「愛夫弁当」を持って出かけていった。新聞のことはまったく気にしていないようだった。

 

 その日の午後、僕の家の電話の着信音、裕ちゃんの大ヒット曲「卒業」が鳴った。

「もしもし、白石さんのお宅ですか?」

「はい。」

「朝子さんの担任の高倉です。先日はご来校いただきありがとうございました。」

 言葉は丁寧だが電話の向こうから不機嫌さが伝わってくる。

「明日、学校においでいただきたいのですがよろしいでしょうか?お渡ししたいものがありますので。」

(「レッドカードだ!」)と僕は思った。

「はい。」

「何をお渡ししたいかはお分かりいただけますよね。」

「はい。」

「では明日午後四時、三階の応接室においでください。朝子さんにも同席をお願いします。」

「はい。」

「では失礼します。」

 そう言って僕が「はい」しか言うことのできなかった電話は切れた。状況は最悪の展開を見せているのである。

 チャコはいつもよりも少し遅れて帰ってきた。僕は元気なくチャコを出迎えた。

「おかえり、今日は少し遅かったね。」

「ゴメン。ちょっと実家に寄ってたの。」

「さっき高倉先生から電話があった。」

「うん。」

「で、明日、四時に学校に来いって。」

「四時ね。ほいほ~い。じゃああたしは学校で啓一さんが来るの待ってるね。一緒に帰ろうね。」

 僕はチャコの明るさにあきれた。

「なあ、チャコ。状況は分かってるんだろうな?今朝の新聞のこと。高倉先生にばれたんだぞ。」

「うん、それは知ってる。あたしも先生に言われたから。」

「で?」

「『明日、ご主人さんを呼んでお話をしますからあなたも明日は放課後残るように』って言われた。」

 僕はため息をついた。

「ごめんなさい。あたしふざけてるつもりはないの。啓一さんがあたしのこと心配してくれてるのはものすごく分かるんだなあ。でもきっと大丈夫だから、このことはあたしに任せて、啓一さんは、あしたは美人の先生の顔をまた拝めるんだと思って、ルンルン気分で学校に来てね。」

 チャコにそこまで自信満々に言われるとこれ以上、何も言えない。

 結局、僕は不安なまま一夜を過ごした。

 

 次の日の午後まで、僕は学校からの連絡を待った。昨夜、チャコがあまりにも自信満々だったので僕が学校に行かなくても済むようになるのではないかと思ったのだ。しかし、連絡はなく僕はチャコの通う自由が丘女子高等学校に出かけていった。学校に着くと校舎三階の応接室に案内された。チャコは既に応接室で僕のことを待っていた。先生はまだいなかった。

「結局、レッドカードの交付になったじゃないか。これからどうするつもりなんだ?」

 僕はチャコをなじった。

「まだレッドカードもらったわけじゃないでしょ?大丈夫あたしがなんとかするから啓一さんは普通にしてて。」

 とそのとき、ドアがノックされ高倉女史が入ってきた。

「どうもお騒がせして申し訳ありません。朝子の夫です。」

 僕は高倉女史にあいさつした。

「既に新聞はご覧になってますね。」

 高倉女史はあいさつもせずにそう言うと問題の写真の部分を広げ、新聞をテーブルにピシャっと叩きつけた。不機嫌さが伝わってくる。

「どういうことなんですか?白石さん?私が個人面談で注意したのはつい先日ですよ。なんでこんなことになるんですか?」

「はあ。」

 それ以上、言葉が続かない。

「先生?よく分からないんですけど何か問題なんですか?」

 僕がしどろもどろになっていると横にいたチャコがケロッと尋ねた。

「何が問題ってこの写真見れば分かるでしょ?あなたは日曜日に着物を着て外出したんでしょ?それは校則違反でしょ?もう既にイエローカード二枚もらってるあなたはこれで校則違反は三回目、あなたの処分を検討しなくちゃいけないでしょ?」

 高倉女史は怒った口調で言った。とても怖かった。

「あたしは校則違反なんてしてませんけど。」

 チャコがあまりにも自信を持って言うので僕はびっくりした。高倉女史のイライラが伝わってくる。

「この期に及んで何言ってるの?この新聞のこの写真を見なさいよ。こんなにはっきりした証拠があるのよ。」

「確かにその写真の子はあたしに似てるけど、本当にあたしかどうか分からないじゃないですか。今は合成とかも簡単にできるし。」

 僕はチャコがむちゃくちゃなことを言ってると思った。チャコはなんとかすると言っていたが、それってただの屁理屈だったのか。チャコを信じた自分が馬鹿だったと後悔した。

「新聞にも載っているのにそんなこというの?それってただの屁理屈だと思うけど。では朝子さん、この写真の子が朝子さんでないことを朝子さんは証明できるかしら?」

「何か証拠を持ってくればいいですか?」

「証拠があるの?では是非拝見させていただきたいわ。」

 高倉女史は自信満々である。それはそうだろう。僕はとっくの昔に戦意を喪失しているのだ。この勝負、絶対に勝ち目はない。

「では証拠を持ってきますので、ちょっと待っててくださいね。」

 そう言うとチャコは部屋から出て行った。高倉女史と僕だけが残された。

「先生、朝子はどうなるんでしょうか?」

「ご主人さんはお認めになるんですね?」

「ええ、それは弁解のしようがありませんし、嘘もつきたくありません。一昨日、着物を着てツアーに参加したのは確かに妻でしたから。その写真の通りです。そんな明確な証拠を突きつけられたら言い訳なんてできませんよ。」

「そうですか、朝子さんにも困ったものですね。これから職員会議で処分を検討して、最終的には理事会の承認を受けなければなりませんが最低でも停学、最悪の場合は退学となるでしょうね。」

「退学!」

 少しめまいがした。以前、義理の祖父となった白石権蔵参議院議員が「朝子を幸せにしてやってくれよ」と言っていたのを思い出した。

「校則を破った側の僕が言うのもおこがましいですが、それはちょっと厳しすぎるんじゃないですか?」

「確かに厳しいかもしれません。これが初回だったらイエローカード一枚で済んだ話です。でももう三枚目、しかもまだ一学期の中間テストの前ですからね。厳しい処分も止むを得ないと思います。個人面談のとき、私、注意しましたよね。注意というよりも警告です。どうして止めていただけなかったんですか。ご主人さんならなんとかできたでしょう。」

「はい、私もうかつでした。『なんとかするから』という妻の言葉を信じてしまいました。」

「白石さん、私は朝子さんが駄目な生徒だとは思っていません。素敵な女の子だと思っていますよ。明るくて、明晰で、他の生徒にも人気がありますし、先生方の評判もいいんですよ。ただ、当校の校風には合わないというだけのことです。この際、転校されることをお勧めしますけど。」

「はあ。」

 僕にはもうため息しか出なかった。転校させられるなら僕だってそれを望みたい。しかしチャコを受け入れてくれる高校はここしかないのだ。僕は頭を抱えた。

 そのとき、ドアがノックされ、ドアが開いて和装の女性が入ってきた。高倉女史と僕は目を見張った。チャコだった、が何かおかしい。あんな短時間で着付けられるわけがない。

「まあ、朝子さん、やっぱりあなたは。」

 応接室に新聞の写真と同じ少女が入ってきた。着物の少女は黙っている。

「朝子さん。何やってるの。これが証拠なの?自分が着物を着たことを自分で証明しようとしてるの?ねえ、なんか言ったらどうなの?」

 高倉女史が段々ヒステリックになっていく、と思ったら「ばあ!」と本物のチャコが後ろから現れた。高倉女史はびっくりして目をおっぴらき口を半開きにしている。

「先生!この女の子とその写真の女の子、似てると思いません?」

「……」

 高倉女史は絶句している。

「似てると思いませんか?」

 チャコは少し強い口調で答えを求めた。

「はい、似てます。」

 高倉女史は固まったまま口だけを動かした。

「似てるなんてもんじゃないですよね。どう見ても同一人物ですよね。どうですか?」

「だって、今、ご主人さんがこの写真の女性は確かに朝子さんだと……」

 高倉女史がそう言うと、チャコは僕の方を振り向いた。

「啓一さん。ごめんなさい。あたし悪い妻です。あたしあなたに嘘をついてました。日曜日、バスツアーに参加したのはあたしじゃなく、マコちゃんだったんです。本当はあたしが行かなきゃいけなかったんですけど、校則を破るわけにもいかないし。だからマコちゃんに行ってもらったんです。私は嘘つき女です。本当にごめんなさい。」

 着物の女の子はマコちゃんだった。チャコは深々と頭を下げた。

「……」

 僕も絶句した。もう一度、チャコは高倉女史の方を向き直った。

「先生、改めて紹介します。こちら、あたしの双子の妹の真子です。」

「朝子の妹の真子と申します。いつも姉がお世話になっています。」

 着物を着ているせいか、天真爛漫なマコちゃんがいつになくおとなしい。

「先生、これがあたしが校則を破らなかった証拠なんですけど、まだ足りないですか?あたしは夫に嘘をついてまで校則を守ったんですよ。」

「白石さん、どうなんですか?」

 高倉女史は僕の方を向いた。

「確かにそう言われれば、バスツアーで僕は妻とほとんど会話をしてません。だからあれが絶対に妻だったかと言われると自信はないし……。マコちゃんだったのかなあ……。絶対にチャコだと思ったけど。」

 僕は独り言のように呟いた。

「分かりました。朝子さんの言うとおりでしょう。瓜二つの妹さんがいるなんて知らなかったものだから……今回は私の早とちりでした。」

 そう言うと高倉女史は僕の方を向き「白石さん。私が悪かったようです。申し訳ありません」と頭を下げた。

「いえいえ、僕もまったく気が付かなかったものですから。どうもお騒がせしました。」

「それにしても旦那さんに嘘をついてまで校則を守ろうとするなんて、朝子さん偉いわあ。白石さん、あまり朝子さんのこと叱らないでやってくださいね。」

 高倉女史は一言添えた。

 

 マコちゃんの登場で僕達は開放されたが、帰り道ではなお、僕の頭の中は混乱していた。バスツアーのときの着物の少女は本当にチャコではなく、マコちゃんだったのだろうか。夫であるはずの僕は妻を見分けることもできないくらい愚かな男なのだろうか。僕は自問した。

「どうしたの?」

 僕が黙って歩いているとチャコが心配そうに尋ねた。

「うーん、どうも腑に落ちないというか、情けないというか、チャコに申し訳なくて。だって、僕はチャコとマコちゃんの区別がつかなかったんだぞ。チャコはそんな僕を怒らないのか?」

「なーんだ、そのことか。」

 チャコはくすっと笑って言った。

「それなら大丈夫。啓一さんはあたしとマコちゃんの区別ちゃんとついてますよ。だってあの日、着物着てたのはあたしだもん。」

 僕は固まった。

「だってさっき、先生に。」

「マコちゃんが着物を着たのは今日が初めて。昨日、高倉先生に日曜日のことを言われて、写真も見せられて、明日、ご主人さんを呼んでレッドーカードを渡すって言うから昨日、マコちゃんに頼んで着物着て、学校の前の喫茶店で待っててもらうことにしたの。それでバスツアーに参加したのがマコちゃんだったことにすれば高倉先生もそれ以上、突っ込めないと思ったの。ごめんなさい。啓一さんには本当のこと言っても良かったんだけど、そうすると啓一さんも嘘に加担することになっちゃうでしょ。啓一さんは何も知らなかったってことにした方がいいと思ったの。だから啓一さんには黙ってたの。」

「あたしも着物が着られるっていうんで引き受けちゃった。ねえ、似合ってるでしょ?」

 マコちゃんは屈託がない。

「マコちゃんは全然似合ってないよ。だって、マコちゃんは独身だもん。マコちゃんは振袖を着なきゃ。」

「ああ、そうか。でもせっかく着たんだから写真撮りたいなあ。ねえ、チャコちゃん、写真館行こうよ。」

「駄目駄目。着物のレンタルとか着付け代とかでお金使っちゃったんだから。そんな贅沢はできないよ。」

「じゃあ、せめてお母さんに見せるくらいはいいでしょ?」

「余計駄目よ。そんなことしたら全部ばれちゃうじゃない。」

「それじゃあ、……」

 二人の少女の明るい会話がいつまでも街に響いていた。

 



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四 追試事件

 一週間のうちで一番好きな時間はいつですか?と聞かれたら僕は迷わず「土曜日の朝」と答えるだろう。土曜の朝は雨だろうが晴れだろうが静かな自分だけの時間だ。コーヒーでも飲みながら本を読んだり、雑誌に目を通したり、原稿を書いたり、誰にも何にも邪魔されず、自分のペースでなんでもできる。

 平日はこうは行かない。眠い中、朝ごはんを作り、妻のチャコを起こし、チャコに身支度をさせ、学校に送り出さなければならない。とりわけチャコを起こすのは一仕事で莫大なエネルギーが求められた。

 そんなことを考えていた五月の最後の土曜日の朝、いつもは起こされないといつまでも眠っているはずのチャコが珍しく自分から起きてきた。まだ八時前だ。休日では起こしても絶対に起きない時間帯だ。僕はダイニングでコーヒーを飲みながら本を読んでいた。

「おはよーございまーす。」

 まだ眠そうに一言、僕にそういうとチャコはダイニングテーブルの僕の前に座り、僕の飲みかけのコーヒーを一すすりした。まだパジャマのままだ。

「おはよう。今日は早いね。まだ寝てていいのに。」

 僕は優しく声をかけた。眠そうなチャコを見ると誰だって優しくなってしまうだろう。

「出かけるの。」

「そんなこと聞いてないぞ。」

「言ってないよ。昨日、啓一さんが寝てから電話があって、今日、急に出かけることになったの。」

「どこに?」

 そう言った瞬間に「ピンポーン!」と玄関チャイムが鳴った。チャコは僕の質問には答えず、インターフォンで来客を確認することもなく、まっすぐ玄関に出て行った。三十秒くらい間があって、チャコとチャコとまったく同じ顔の少女がダイニングに入ってきた。もう一人の少女は都立高校のブレザーの制服を着ている。

「ああ、マコちゃんか。おはよう。早いね。」

「おはようございます。朝早くからお邪魔しま~す。」

「コーヒーでも飲む?」

「はい、いただきます。」

 僕はコーヒーを入れるために席を立った。

「制服着てるけど、今日学校なの?」

「そう、学校なの。本当にやになっちゃう。」

 不満そうにマコちゃんが答えた。

「何かあったの?」

「中間テストで赤点取っちゃったの。数学よ数学。ああ、なんでこの世に数学なんてあるのかなあ。数学があるのはいいけど高校生に勉強させるなんて間違ってるよね。日本の政治はどうなっちゃってるのかなあ。まあ、あたしも政治家の血が混じってるからそんなに文句言えないけどね。それで今日、追試があるの。」

「それは災難だね。でチャコと一緒に勉強するってわけか?」

「ううん、そんなんじゃないの。あたしの代わりにチャコちゃんに受けに行ってもらうの。」

 僕は固まった。聞き違えたのかと思った。

「えっ?今なんて?」

「だから、あたしがマコちゃんの代わりにマコちゃんの追試を受けに行くんだって。数学ならあたしの方がマコちゃんより得意だし、都立の中間テストなんてちょろいもんよ。」

 チャコは当たり前のように説明した。

(「ありえない。」)僕は心の中でつぶやいた。

「だって、そんなことしたらばればれだろ?」

「大丈夫よ。マコちゃんの高校にはミホっていうあたしの親友がいて、今、ちょうどマコちゃんの隣の席なんだって。追試はミホも受けるっていうから色々アドバイスしてくれると思う。啓一さんはびっくりかもしれないけど、まあここはあたし達に任せてよ。」

 確かに前回の「着物事件」をこの二人は見事なコンビネーションで解決して見せたのだ。

「じゃあ、あたし着替えてくるから、啓一さん、ゴメン、朝ごはんお願いしていい?今日はトーストとコーヒーがいいなあ。」

 そういうと姉妹は二階に消えていった。

 数分後、僕がテーブルに食器を並べていると二人が戻ってきた。チャコはマコちゃんのブレザーの制服を着て、マコちゃんはスウェットを着ている。二人が入れ替わった。

「ねえ、どこから見てもマコちゃんでしょ?」

 その通りだ。それで前回の「着物事件」では僕も騙されたのだ。

「マコちゃんは自由の身だから、マコちゃんは啓一さんとお出かけしてもいいからね。でも出かけるときは必ずあたしの制服着てってね。出しとくから。」

「はいは~い。」

 マコちゃんは軽く返事をした。チャコの通っている自由が丘女子高等学校は俗に言うお嬢様学校であるが、外出するときはプライベートでも休日でも常に制服を着用しなければならないという信じられない校則があるのだ。近所に葉書一枚出すに行くにも制服を着て行かなければならない。だからチャコは同じ制服を何着も持っていた。

 チャコは僕が用意した朝食をかきこむとまるで自分の学校に登校するように、自然に出かけていった。マコちゃんと僕が家に残された。

 

 マコちゃんはしばらく雑誌や本をペラペラとめくっていたが、それも飽きたのか、一時間もしないうちに僕のところに寄ってきた。

「ねえお兄ちゃん。どっかお出かけしようよ?」

「うん。」

「チャコちゃんも二人でお出かけしていいって言ってたじゃない。」

 今日は特に急ぎの用というのはなく、外は爽やかな天気のようだったからこのできの悪い妹と一緒に外出するのにやぶさかではない。

「じゃあ出かけようか。どっか行きたいところある?」

「マコちゃん観たい映画があるんだけど。」

 この少女は屈託がない。まあチャコの同類、というより同じ遺伝子を持つ生物なのだから当たり前と言われればその通りだ。

「ああ、映画か。いいね。何が見たいの?」

「『遠山の金さん』。今、ロードショーやってるんだ。」

 僕はずっこけそうになった。ずっこけそうになったのがマコちゃんにも分かったようだ。

「そういう趣味なんだ。」

「うん。マコちゃん時代劇が好きなんだなあ。お兄ちゃんは嫌かな?」

「いいよ。じゃあ渋谷に出ようか。」

「わーい!じゃあ着替えてくるね。」

 そう言うとマコちゃんはリビングにかけてあるチャコのセーラー服をつかみ、二階に消えて行き、数分後また現れた。

「じゃじゃん!どう?似合ってる?」

 マコちゃんは明るくポーズをきめた。

「ああ、似合ってるよ。」

 っていうか僕はこれと同じものを毎日見ているのだ。制服だけでなく顔も姿かたちもまったく同じものを。

「この制服、あこがれだったんだな~。」

 マコちゃんがポツリと言った。

「あこがれってチャコにあこがれてたの?」

「違う違う。裕子叔母さんよ。高校のときこの制服着てたの。かわいかったなあ。」

 僕は少しびっくりした。

「ねえ、マコちゃん?裕ちゃん自由が丘女子に通ってたの?」

「知らなかったの?この制服着てよくうちのお店にも来てたよ。」

 裕ちゃんと僕は幼なじみだが、高校時代の裕ちゃんを僕は何も知らない。

「ねえマコちゃん?高校時代の裕ちゃんってどんなだったの?聞いてもいい?」

「いいけどそれより早く出かけようよ。映画始まっちゃうよ。」

 

 ということで僕はマコちゃんにせかされ外に出た。すがすがしい初夏の陽気だった。街の景色も植物も一番美しい頃だ。僕達は東急を飛ばして渋谷に出た。

 電車から降りると携帯のバイブレーションが震えた。発信先は「公衆電話」と表示されていたが、チャコからの電話であることはすぐに分かった。

「もしもし。」

「あっ、啓一さん?あたし、チャコです。無事終わったよ。ばれなかったよ。」

「はいはい。お疲れさまでした。」

「ねえ、これからミホとちょっとおしゃべりしてから帰ってもいい?」

「いいよ。こんな機会はそんなにないだろうから、っていうかあったら困るんだけど。まあせっかくだからのんびりしてきなよ。」

「ありがとう。そうします。そっちはどんな感じ?」

「マコちゃんと今、渋谷。映画観たいんだって。」

「時代劇でしょう?」

「そう。『遠山の金さん』。」

「せいぜい妹孝行してくださいね。マコちゃんには色々と世話になってるから。いい思いさせてあげてね。ではごゆっくりね。」

「はーい。じゃあね。」

 替え玉作戦は成功したようだ。

「無事終わったって。ばれなかったって。」

 マコちゃんに報告した。

「さすがはチャコちゃん。」

「で、せいぜい妹孝行しろだって。」

「ひゃっほー。じゃあ今日はお兄ちゃんに色々おねだりしちゃおうかなあ。」

 妹はいたずらっぽく笑った。映画館はすぐに見つかった。次の回までは三十分くらいあったので少しぶらぶらし、ポップコーンと飲み物を買って上映開始時間の十分前には席に着いた。マコちゃんが「後ろの方がいいと」言うので一番後ろの列の通路側に座った。僕自身、映画館で映画を観るのは本当に久し振りだった。しかも女の子と二人で観るなんて、チャコや裕ちゃんとですら実現していなかった。『遠山の金さん』が始まった。

 

 『遠山の金さん』は素晴らしい映画なのだろう。役者さんは一生懸命演技しているし、演出も照明も音楽も素晴らしかった。ストーリー展開だって一品だ。きっとこの作品は「なんとか映画祭」で最優秀賞でも獲得するのだろう。それでも眠くなってしまうのはひとえにこの映画が僕の趣味には合わないというだけのことだ。暗くて冷房もちょうど良くて僕は何度かウトウトした。途中、マコちゃんに目をやってみたが、マコちゃんはとてもおもしろそうに、熱心に見ていた。そうこうするうちに桜吹雪が登場し、映画は無事ハッピーエンドで終了した。僕は伸びをした。

「ふう……、マコちゃん、おもしろかった?」

「おもしろかった。もう一度観てみたいくらい。」

 やはり僕はこの子とは趣味が合いそうにない。

「それはそうと、お兄ちゃん寝てたでしょう?」

 マコちゃんは僕を軽くなじった。

「いや、別に寝てないよ。まあちょっとはウトウトしたかもしれないけど。」

「あたしだからいいけど、チャコちゃんと一緒のときはどんなにつまらない映画でも絶対に寝ちゃ駄目だからね。女の子ってそういう小さなことで傷つくんだから。」

「はいはい分かりました。で、これからどうする?ランチタイム過ぎちゃったけど、お腹空いてるよね?」

「もうペコペコ。何か美味しいものが食べたいなあ。」

「渋谷界隈は良く知ってる?」

「うーん、できればスガモに行きたいなあ。」

「スガモ?スガモってあの、おばあちゃんの原宿の巣鴨?」

「うん。美味しいうなぎやさんがあるんだって。」

 やはり僕はこの子の趣味にはついていけない。

「まあいいよ、マコちゃんが望むなら。チャコにもマコちゃんにいい思いさせてねって言われてるし。では巣鴨に移動しましょう。」

 

 ということでマコちゃんと僕は山手線を外回りに三分の一ほど移動して巣鴨に到着した。噂のうなぎやさんはお昼時が過ぎていたためかそれほど混んではいなかった。

「時間ずれてラッキーだったね。お昼時なら並ばなきゃいけないところだった。」

 マコちゃんは屈託がない。

「こんなお店どうやって探すの?」

「まあ。おばさんが読むような雑誌だね。」

 どこまでもおばさん趣味だ。二人は入口付近の四人席に向かい合って座ることができた。僕はうな重「特上」を頼もうとしたがマコちゃんはさすがに遠慮した。結局、ワンランク下の「上」二人前ということになった。その辺は小市民だ。

「ねえ、マコちゃん、さっきの話なんだけど。」

「ん?」

 注文が終わると僕は今日の本題を切り出した。

「裕ちゃんの話。」

「はて、裕ちゃんの話なんてしたっけ?」

「出かける前にしてたじゃない。その制服、あこがれだったって。裕ちゃんが昔、その制服着てマコちゃんの家に来てたって。」

「ああ、そうだったそうだった。」

「裕ちゃん、本当に自由が丘女子に通ってたの?」

「ねえ、お兄ちゃん知らないの?婚約してたんでしょ?」

「うん。でも裕ちゃんの高校、大学の七年間はまったく知らないんだ。音信不通だったからね。裕ちゃんの高校時代ってどうだったの?」

「その前にあたしの方が先に聞いてもいい?お兄ちゃんと裕ちゃんのこと。」

「裕ちゃんと僕のこと?」

「うん。あたし良く知らないのよね。あたしは二十年くらい二人はお互いに一途で、いざ結婚という段階になって裕ちゃんが病気になっちゃって、先立ってしまったってことくらいしか聞いてないの。チャコちゃんならもっと良く知ってるんだろうけど、チャコちゃんもあまり話したがらないから……。秘密があるみたいで。」

「チャコにも話してはいないなあ。」

「どうして?」

「だって前の婚約者の話だよ。」

「あたしだったら絶対に聞いてみたいけどなあ。」

「それはマコちゃんが妻ではないからだよ。」

「ねえ、実際のところどうだったの?」

「うん、まず二十年間相思相愛ということはなかったなあ。愛し合ったのは最後の一年くらいかな。それも本当に愛し合っていたかどうか自分でも分からない。」

「それってどういうこと?」

「僕もよく分からないんだよ。まあ、せっかくだから話そうか?」

「うん。ぜひ聞きたい。」

「裕ちゃんと僕が出会ったのはもう二十年以上前だね。もちろん柏崎で、僕が三歳、裕ちゃんが五歳。裕ちゃんの通っているピアノ教室に僕も通うようになったのがきっかけだった。それからは家が近いこともあって二人は純粋に幼なじみになった。一緒にピアノ教室に通い、お手てつないで学校に行き、僕が学校でおしっこもらしたときはパンツも貸してくれた。」

「うん。」

「僕が小学校二、三年くらいまでそんな感じだったかな。それで僕が小学校の二年か三年だったとき、マコちゃん知ってると思うんだけど、裕ちゃんのお姉さん、つまりマコちゃんのお母さんで僕の義理のお母さんでもある幸子さんが家出したんだよね。」

「うん。それは聞いてる。」

「家出というか、もっと正確には駆け落ちだった。それで東京に出てきて次の年に君とチャコが生まれた。」

「うん。」

「幸子さんはお父さんの権蔵さん、つまり君のおじいちゃんで僕の義理のおじいさんにあたる人だけど、幸子さんは権蔵さんからとても期待されていた。」

「どうして?」

「権蔵さんは、今は参議院議員で、参議院のドンとも言われている大物政治家だけど、最初は衆議院議員だった。でも一度、落選しちゃったんだよね。で、そのまま衆議院でリベンジを果たせば展開は違ったのかもしれなかったけど、政治的な野心が強すぎて次の参議院議員選挙に出馬してしまうんだよ。それで運命っていうのは不思議なもので、そのときはほかに適当な候補者がいなかったとか追い風が吹いたとか、色々な幸運が重なって、新人の権蔵候補は当選してしまうわけだ。」

「良かったじゃない。」

「でも、そうすると今度は衆議院の自分の選挙区に立てる候補者がいなくなってしまったんだね。自分の秘書とか、県会議員とか新人を立てるのだけどどうしても対立候補に勝てない。それでこれは白石の血がないから後援会が一つにまとまらないのが原因だと思うようになるわけだ。白石の血ということで自分の娘である幸子さんか、あるいは幸子さんの将来のお婿さんに期待するようになって、幸子さんをスパルタ教育するようになったんだね。」

「へー。」

「幸子さんは、最初は頑張ってたんだけど、さすがに耐えられなくなって家出してしまう。権蔵さんは怒って幸子さんを勘当する。そして幸子さんに抱いていた期待を七歳年下の妹の裕ちゃんに向けるようになったんだよ。スパルタ教育が再開されたんだ。」

「ふん。」

「で、裕ちゃんと僕の間には少し距離ができたんだけど、それでも柏崎にいる間は僕とよく遊んでくれた。でもそれはあくまでも幼なじみであって、恋人とはどんなに拡大解釈しても言えなかったなあ。裕ちゃんとのそんな生活も彼女が東京の高校に行くのと同時に終わった。中学を卒業して上京する新幹線を僕は長岡で見送った。それが最後だった。それから裕ちゃんは何度か帰省することもあったみたいだったけど柏崎で会うことはなかったし、電話もしなかった。手紙もなかった。高校卒業して東大に入ったこととか、医者と付き合ってるとか、噂は耳にはしたけど本人とは音信不通だった。」

「裕ちゃん、お医者さんの彼氏がいたんだ。それは初耳。」

「で、僕の方は高校を卒業して、一年浪人して、東京の大学に通うことになって上京した。裕ちゃんのいる東京に出て行ったわけだけど、東京でも裕ちゃんと会うことはなく、一年が過ぎた。裕ちゃんはもう僕の中では小さいときの思い出になっていた。別に初恋の人というわけでもなく、あこがれていたわけでもなく、恋人ではあるはずもなく、ただの幼なじみという意味でね。」

「へえー、あたしの理解していたのと全然違う。」

「そう?で、僕が大学二年生のときだよ。突然、裕ちゃんから電話が来たんだ。僕が東京に出ていること知らないで、柏崎の僕の実家に電話番号聞いて電話したんだって。それで『お願いしたいことがあるから会って』って言われて二人は七年ぶりに再会した。お互いに大人になっててびっくりしたなあ。」

「綺麗になってた?」

「うん。それは認めよう。それで『お願いってなあに?』と聞くと『父に会って』ということだった。それも彼氏としてね。」

「付き合ってもいないのに?」

「そう。そのとき裕ちゃんはテレビ局にアナウンサーとして入社したばかりの社会人一年生だった。アナウンサーとして全国に顔を売って、それで選挙に出るというのが白石親子の作戦だったんだな。でも、ちょうどそのとき、長年やってきた裕ちゃんの音楽の才能が開花してしまうんだね。ポップスコンクールで優勝してしまうんだ。」

「それはあたしも知ってる。ちょうど中学に入った頃だ。」

「そうだね。で、自分が選挙に出るのは止めると言い出したんだ。音楽を続けたいと。幸子さんのことで懲りてる権蔵さんは強いことが言えない。それなら自分が決めた男と結婚しろと言うのだが裕ちゃんはこれも拒否した。そして裕ちゃんは逆に今付き合っている彼氏がいるから、将来、結婚するつもりだし彼氏を選挙に出したらどうか?と権蔵さんに持ちかけたんだ。彼氏をでっち上げたのさ。それでそのでっち上げの彼氏に僕が選ばれたって訳だ。」

「おじいちゃんに会ったの?」

「もちろん最初はためらったよ。嘘つくのは嫌だし、何より『権蔵さんが僕のこと気に入らなかったらどうするんだ?』って言ったんだ。でも裕ちゃんは『父は啓ちゃん』、僕のことね、『啓ちゃんのことを絶対に気に入るから大丈夫』だって言うんだよな。で、結局、裕ちゃんに押されて僕は権蔵さんに会いに行った。裕ちゃんの言うとおり、権蔵さんは僕のことをとても気に入ったよ。」

「じゃあ、そのときお兄ちゃんは選挙に出ることを決心したのね?」

「いやあ、そうでもないんだな。僕は本当にただのダミーだった。ダミーになるために僕が選ばれたんだよ。衆議院議員の被選挙権は二十五歳以上なんだよね。つまり二十五歳以上でないと選挙には出られない。僕は当時、二十一歳の大学二年生。選挙に出るのは最短でも四年後になる。裕ちゃんとしてはなんとか時間稼ぎしたかったんだよね。でもその四年がたたないうちに裕ちゃんは逝ってしまったけどね。」

 そこまで話すとちょうど、「上」二人前が来た。

「じゃあ、冷めないうちにいただきますか?」

「おいしそーう。では遠慮なく、いっただっきまーす。」

 マコちゃんは本当にうれしそうにうな重上を箸でつついた。

 

 上が黒で下が白の物体を箸でつつきながら僕は続けた。

「僕が権蔵さんと会ってからまた半年くらい裕ちゃんとは音信不通になった。」

「彼氏だっていうのに?」

「そう彼氏だっていうのに。だからそれはまったく形だけのものだった。僕は裕ちゃんに利用されていただけだった。それで半年くらいたってまた裕ちゃんが突然やって来て、今度は結納するから柏崎に来てくれっていうことになった。」

「まだ学生なのに?」

「そう学生なのに。しかもダミーの彼氏なのに。なんでも次の選挙には白石の娘婿を立てるということを早めに公表しなければならない。そのためには結婚はともかく、婚約は早くして欲しいということだった。」

「でそのお願いも引き受けたんだ。」

「引き受けた。お人よしと思われるかもしれないけど、裕ちゃんの願いはなぜか引き受けちゃうんだ。この人のために何かしてあげなきゃって思っちゃうんだよね。そういう不思議な力が裕ちゃんにはあった。で、柏崎に行って、僕のおふくろも立ち会って、結納をした。不思議な気持ちだった。裕ちゃんと僕は恋人でもなんでもなかったんだけど、とにかく二人は正式に婚約したんだ。」

「すごい話になってきたね。」

「それからしばらくして権蔵さんの秘書の人から連絡があって、裕ちゃんのことで病院に呼ばれているんだけど、権蔵さんは忙しいので代わりに婚約者である僕に聞いてきて欲しいと頼まれた。家族でないと駄目だけど婚約者だったらお医者さんも話してくれるということでね。権蔵さんが勘当中の幸子さんに頼むわけもなく、僕が指名された。大学三年生のときだね。で、病院に出かけていって、お医者さんから裕ちゃんの命が残り少ないことを聞かされた。」

「うん。」

「僕は途方にくれたよ。権蔵さんは多忙を理由に僕と会ってくれない。仕方ないので僕は長い手紙を書いた。裕ちゃんの病気のこと、婚約は破棄すること、そして白石の人とはもうお目にかかりたくないことを書いた。本当はすべてが嘘だったことも打ち明けなければならなかったのかもしれなかったけど、僕にはそれはできなかった。親子関係をめちゃめちゃにしてしまうかもしれなかったし、そうなったら病気中の裕ちゃんには耐えられないと思ったんだ。そうしたら娘の病院に行くこともできないくらい忙しいはずの権蔵さんはすぐに僕に会いに来た。僕は権蔵さんに怒られると思ったけど、権蔵さんは僕に会うなり、靴を脱ぎ、上着を脱いで僕の前で土下座したんだ。『どうか娘が生きている間は婚約者であってくれ』って、『娘を見捨てないでくれ』って、あの参議院のドンと言われた人が一学生に過ぎない僕の前で土下座したんだ。僕はそのとき親の子どもに対する愛情ってすごいなあと思った。愛する子どものためなら親ってこんなことまでできるんだって思ったよ。」

「なんかジーンとくるね。」

「そこからだよ、裕ちゃんと僕が始まったのは。僕は思い直して、下宿を引き払い、碑文谷の裕ちゃんの自宅兼スタジオ、今、チャコと僕が住んでるところだよね、そこに引っ越した。そして病気のことも正確に裕ちゃんに伝えた。それは音楽家として裕ちゃんが残したいと思うものがあると思ったから。裕ちゃんも僕の気持ちを理解してくれた。それから僕は裕ちゃんの真のパートナーとして大学にはあまり行かず、裕ちゃんの看病をし、身の回りの世話をし、音楽も一緒にやった。今まで裕ちゃんのことは受身だったけど、初めて僕の方から裕ちゃんに積極的に関わった。そんな僕を裕ちゃんも受け止めてくれた。今度は本当の婚約者としてね。そういう生活の中で僕が作詞して裕ちゃんが作曲した『卒業』が生まれて大ヒットした。」

「結婚はしなかったの?」

「僕は裕ちゃんと結婚してもいいと思ったけど、裕ちゃんはそれを望まなかった。死んでいく人間よりもこれから生きていく人間を大切にして欲しいというのが裕ちゃんの気持ちだった。僕は裕ちゃんの気持ちを尊重した。裕ちゃんとは一年くらい一緒に暮らした。そして裕ちゃんは逝ってしまった。僕の大学の卒業式のちょうど、一週間前だった。大学はなんとか卒業できたけど卒業式には出られなかったなあ。まあ出るつもりもなかったけどね。就職活動をまるでしていなかった僕は就職できるわけもなく、裕ちゃんの自宅兼スタジオにそのまま留まることになった。その後は権蔵先生の助けもあって裕ちゃんの版権を管理する会社を作って、裕ちゃんが残してきたものをずっと整理してるってわけだ。そうして一年くらいして、チャコがふらりとやってきた。」

「そうだったんだ。あたしの考えていたのと全然違った。でも頭の中は整理されたよ。」

 マコちゃんは納得した様子だった。

「で、マコちゃんの方はどういうお話なの?」

「うん、チャコちゃんとあたしがうまれてしばらくしてからお父さんとお母さんは今のところでお店を始めたの。お父さんもお母さんも一生懸命働く人で、そんなに贅沢はできなかったけどそれは幸せな時間だった。でも一度だけ、あたし達が小学校に入る前くらいかな、お父さんがある人の保証人になって、その人が行方不明になってとても大変だったことがあったの。あの時は毎日、借金取りがお店に来て、何かを壊していった。あたしとチャコちゃんはまだ小さかったけどとっても怖かった。お父さんとお母さんが大変な思いをしているのが子ども心に分かったけど何もしてあげられなかった。もうおしまいかなとも思った。でもある日、突然、この制服を着た女の人がお店にやってきたの。お母さんの妹ということであたしは初対面だった。それが裕ちゃんね。裕ちゃんはその日、お母さんと一時間くらい話をして帰っていったけど、それ以来、すべてのことが元に戻ったの。借金取りも来なくなった。今、思うときっとお母さんが裕ちゃんに相談して、裕ちゃんを間に挟んでおじいちゃんにお金を工面してもらったんだと思う。」

「そんなことがあったんだ。お父さんお母さん苦労したんだね。」

「うん。でもそれ以来は順風満帆。それから裕ちゃんが月に何度か来るようになって、あたしとチャコちゃんは年に一回か二回、おじいちゃんにも会うようになった。裕ちゃんが二人をおじいちゃんのところに連れて行ってくれたの。会うたびにおじいちゃんはおこずかいをたくさんくれた。今でも会うとくれるんだけどね。そして『二人のお婿さんはおじいちゃんが見つけてやるからな』っていうことを会うたびに言われた。あたしは『けっ』ていう感じだったんだけどチャコちゃんはおじいちゃんに合わせてた。だからおじいちゃんはチャコちゃんに期待したんじゃないかな。あたしはお母さんが実の親であるおじいちゃんに会わないのが不思議でしょうがなかった。で、裕ちゃんに聞いてみたんだけど、裕ちゃんは『今二人は喧嘩してるから会わないけど、いずれ仲直りするから、チャコもマコも心配しなくていいんだよ』って言ってた。」

「へー、そんなことがあったんだ。」

「裕ちゃんがポップスコンクールで優勝して、デビューするとさすがにお店には来なくなった。あたしはお仕事が忙しくなったんだろうと思ってたけど、病気だったんだね。今聞いたお兄ちゃんとの同棲が始まった頃はもうぜんぜん会わなくなっちゃったね。」

「じゃあ裕ちゃんに最後に会ったのは裕ちゃんが社会人一年生の頃?」

「うん。でもチャコちゃんは亡くなる直前におじいちゃんの秘書の人が呼びに来て裕ちゃんと会ったはず。そう言ってた。『何話したの?』ってチャコちゃんに聞いてもチャコちゃんは教えてくれなかった。マコちゃんおしゃべりだからって。しつこく聞くと『本当はマコちゃんに一番聞いてもらいたい。でも今は話せないの。だから分かって!』って真剣に言うもんだからあたしも本当に聞いちゃいけないのかなあと思ってそれ以上は聞けなかった。今思うとお兄ちゃんのことだったんだね、きっと。石水啓一さんという人と結婚しなさいって言われていたんだと思う。」

「そうかもね。」

「あたしはねえ、裕ちゃんが望んだことって実は親孝行だったんじゃないかなって思ってるの。お兄ちゃんとチャコちゃんを結婚させることがね。それも選挙とは関係なくね。」

「選挙とは関係なく?」

「うん。選挙なんて裕ちゃんにはどうでもいいことだったと思うの。でも裕ちゃんはお母さんとおじいちゃんの橋渡し役だったわけでしょ?自分がいなくなっちゃったら誰も二人をくっつけられなくなる。だからその自分の糊のような役割をお兄ちゃんとチャコちゃんを結婚させることで引き継ごうとしたんじゃないかな。それはチャコちゃんも分かっていて、だからチャコちゃんはこの若さで押しかけ女房したんだと思うの。チャコちゃんにとっても親孝行になるから。」

「チャコにとっても親孝行?」

「うん、つまりチャコちゃんも、あたしもそうなんだけどお母さんにはおじいちゃんと仲直りして欲しいの。でも裕ちゃんがいなくなっちゃうと糊がなくなっちゃうわけでしょ?お兄ちゃんは、結婚はもっと先でもいいと思ったかもしれないけど、例えば十年先延ばしにするとその間、お母さんとおじいちゃんをつなぐものがなくなっちゃうの。せっかく裕ちゃんが頑張って二人をつなげようとしたのに。」

(「なるほどそういうこともあるのか。」)と僕は感心した。

「ねえ、お兄ちゃん、もう一つ聞いてもいい?」

 マコちゃんは姿勢を前かがみにして改まった。

「何?」

「お兄ちゃんはチャコちゃんのことどう思ってるの?」

「どう思ってるって?」

「チャコちゃんのこと好き?好きだから結婚したの?それとも裕ちゃんやおじいちゃんに言われたから仕方なく結婚したの?それとも……」

「好きだよ。」

 僕はマコちゃんをさえぎってきっぱりと言った。

「好きでない人と結婚するなんて相手にも失礼だよ。僕はそこまで傲慢じゃない。」

「チャコちゃんのことはどう思ってるの?」

「少し変わったところもあるけどいい子だと思うよ。ねえマコちゃん、結婚って色々なタイプがあると思うんだよね。ラブラブ同士の二人が結婚するっていうのがほとんどかもしれないけど、それほど好きでもない同士が一緒になって、どんどんどんどん好きになっていくっていうのもありだと思う。裕ちゃんと僕がそうだったようにね。」

「うん。」

「チャコとは話が急すぎて僕も戸惑ってるところがあるけど、でも今はまだ始まったばかりだし、段々好きになっていって、素晴らしい夫婦になれると思ってるよ。ワインと同じで時間がたてばたつほど味が出てくるとね。だからマコちゃんも心配しないでいいよ。」

「そう。ねえ、今のこと、チャコちゃんにはちゃんと伝えてるの?」

「今のことって?」

「チャコちゃんのことが大好きだってことだよ。」

「面と向かっては言ってないなあ。」

「どうして?」

「どうしてって、そりゃあ、恥ずかしいからだよ。」

「そんなんじゃ駄目だよ。ちゃんと面と向かって伝えなきゃ。」

「男は女と違って照れ屋さんなんだよ。ねえ、マコちゃん。今の話、チャコには内緒にしといてよ。照れ臭いから。」

「あ~あ。分かりましたよ。美味しいうなぎご馳走になったし、口止め料ということで。じゃあそろそろ行こうか。チャコちゃんももう帰ってる頃だよね。」

 うな重を片付けたマコちゃんがそう言うと二人は席を立ち、僕は勘定を済ませた。

 

 帰りは巣鴨から直通の地下鉄に乗った。電車はガラガラで二人はすぐに座ることができた。裕ちゃんと僕とのことはこれまで誰にも話してはこなかった。でも本当は誰かに聞いてもらいたいというのが僕の正直な気持ちだったのだろう。僕は心のつっかえがなんだかとれたようですがすがしい気分だった。マコちゃんは疲れたのか二言三言しゃべっていたが、すぐに口を半開きにして寝てしまった。この辺りは本当にチャコそっくりだ。今日はチャコが朝、出かけて行くところを見ているし、途中で携帯に電話ももらっているから目の前で寝ているのがマコちゃんでチャコではないことは明らかだったが、そういう事実がなければ夫の僕でさえ迷うくらいだ。乗り換えの田園調布の駅で僕に起こされるまでマコちゃんはぐっすりと眠っていた。

 電車を降りると二人で駅から歩いて家路についた。チャコはまだ帰ってきていなかった。僕は鍵を開けて家の中に入った。

「チャコ、まだ帰ってきてないね。」

 一日外に出ていて疲れていた僕は、とりあえずダイニングの椅子に腰掛け伸びをした。

「きっとミホと話し込んでるんだよ。二人は親友だし、久しぶりだし。あーあ、のど渇いちゃった。ジュースでも飲もう。」

 そう言うとマコちゃんは食器棚からグラスを持ってきて、冷蔵庫をあけ、ジュースを取り出し、グラスに注ぐと僕に背を向けたままで一気に飲み干した。そしてグラスをカウンターの上に置いた。僕は可笑しかった。双子の妹とはいえ、人様の家の冷蔵庫を勝手に開け、勝手にジュースをグラスに注いで一気飲みする一挙手一投足がまるでチャコのように見えた。それだけこの家はくつろげるってことなのかなと感心した次の瞬間、目の前の少女は僕に背を向けたまま「ねえ、まだ気がつかないのかなあ?実はね」と言ったかと思うと、両手を腰にあてたまま軽くジャンプし、左に百八十度回転して僕の方を向き

「あたしがチャコちゃんでした~。」

「……。」

 僕は絶句した。確かに言われてみれば目の前の少女はチャコだ。姿かたちはもちろん、しぐさもしゃべり方もすべてがチャコだった。今までずっとチャコだったのだ。しかし、いつ、どのタイミングでマコちゃんはチャコに変身したのだ。僕は朝からマコちゃんとずっと一緒だったはずだ。僕は化け物でも見るような目でチャコを見た。チャコはニタニタ笑いながら僕の方を見ている。怖かった。鳥肌が立った。僕は座ったまま右手で自分のおでこを抑えた。

「ありえない。」

 僕はつぶやいた。

「君は今朝、マコちゃんの制服を着てマコちゃんの学校に追試を受けに行ったんだよね。」

「その通り!」

 すべてを知っているチャコの表情は天真爛漫そのものだ。

「それでマコちゃんと僕がこの家に残った。」

「それもあってる。」

「で、その後、マコちゃんは君の制服を着て僕と一緒に外に出た。」

「たぶんそうだと思うよ。」

「それで、渋谷に出て、映画を見て、巣鴨でうなぎを食べて、それから地下鉄でここまで帰ってきたんだ。」

「それも当たってる。」

「いつ入れ替わったんだ?ていうか、二人が入れ替わるなんて不可能だ。今日、僕はずっとマコちゃんの傍にいたんだ。トイレには二回くらい行ったけど、そのときだって僕は入口でマコちゃんが出てくるのを待ってた。あの時、君がトイレの中にひそんでいてその時入れ替わったっていうなら不可能ではないかもしれないけど、二人とも携帯はおろか時計だって持ってないはずだ。二人が連絡とれるわけもないし。不可能だ。……これはオカルトだ。超常現象だ!」

 心臓がバクバクした。チャコは相変わらずニヤニヤしている。

「『遠山の金さん』よ。」

 少し間を置いてチャコは子どもをなだめるような優しい口調で言った。

「えっ?」

「『遠山の金さん』よって言ったの。あたしが啓一さんの携帯に電話したとき、啓一さん、渋谷で『遠山の金さん』観るって言ってたでしょ。で、あたし、合流できるかなって思って、一度帰って、自分の制服に着替えて、マコちゃんの制服は紙袋に入れて、渋谷に行ったの。渋谷で『遠山の金さん』やってる映画館は一つしかなかったから二人がいるところはすぐに分かった。それで映画館に入ってみたら、啓一さん気持ちよさそうにスヤスヤと眠ってるじゃない。で、ちょっとからかってやろうと思って、マコちゃんと入れ替わったの。映画が終わったら妹が妻に変ってたとしたらびっくりでしょ。でも、啓一さん全然びっくりしなかった。同じ制服着てたし、隣にいるのがマコちゃんと思い込んでたから仕方なかったのかもしれないけど、それであたし逆にピンときたの。これ、ひょっとしたら啓一さんの本当の気持ちを聞きだすチャンスかもしれないってね。それで引き続きマコちゃんを演じてみせたの。」

「そうだったのか……。じゃあマコちゃんは映画の途中で帰ったんだ。」

「いや、マコちゃんは席を移っただけで最後まで観てたと思うよ。」

 疲れがどっと出た。眠りにつきたいと思った。チャコは相変わらずニヤニヤしている。

「でもね、あたしはうれしかったよ。啓一さんあたしのこと『好きだ』って言ってくれた。『変わったところもあるけどいい子だ』って、『今はまだ始まったばかりだけど段々好きになっていって、素晴らしい夫婦になると思う』って言ってくれた。裕ちゃんのこともあたしの誤解してる部分が結構あるのが分かった。いい一日でしたよ。啓一さんは疲れちゃったかな?」

 とにかく恥ずかしかった。顔がゆで蛸のようになっているのが自分でも分かる。

「うん、疲れた。」

「もう寝てもいいよ。あたしの大事な旦那様。」

 僕は椅子を立ち、隣のリビングのソファにへたりこんだ。そしてテレビのリモコンを手繰り寄せ、テレビのスイッチを入れた。画面ではニュースを写していて「新型インフルエンザ流行の兆し」というようなことを言っていたが頭には入らなかった。チャコに自分の気持ちをさらけ出してしまったことが恥ずかしかった。

 しかし、面と向かっては言えないようなことも言えたわけで、これから長く続くであろう夫婦生活を考えると、これはこれで良かったのかもしれないとも思った。

「どうぞ。」

 チャコが寄ってきて氷のたくさん入ったジュース入りのグラスを僕の前に置いた。ストローが刺さっている。見上げるとチャコは満面の笑みだった。そしていたずらっぽく口をつぼめ、キスの口真似をした。僕はそんなチャコの笑顔に苦笑いで応えた。いつだってこの子にはかなわないと思った。

 



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五 インフルエンザ事件

 チャコと僕が一緒に暮らし始めたのは、すなわち同棲を開始したのはチャコが中学校を卒業した次の日、三月二十日からだ。入籍したのはチャコの十六歳の誕生日である四月三十日で同棲開始から三か月、入籍から二か月が経過しようとしていた。最初は僕も随分戸惑っていたが、三か月も一緒にいるとお互いのペースもつかめてくる。

 僕達の夫婦生活で一番重要なことはとにかく、朝起きること、もっと正確に言うと朝、チャコを起こすことだった。チャコは朝が弱かった。八時前には家を出ないと遅刻してしまうので逆算して七時半頃には起きてもらわないといけない。

 僕の家の普段の朝の風景は次のようだ。早起きの僕は七時半までに朝食の準備をして、七時半になると二階の寝室で寝ているチャコの元に行く。チャコを一度揺り動かし「もう七時半だよ」と声をかけるが起きるはずはない。それから「はい、お口開けて」とチャコの口を開かせ、婦人体温計を口の中に突っ込む。そのまま約三十秒待ち、体温計に表示された体温を枕もとのノートに書き込む。そして「もう七時半だからね」ともう一度声をかけてダイニングに戻る。十分くらい待つと眠気まなこではあるが制服に着替えたチャコが降りてくる。そして朝食をかきこんで、僕が作った「愛夫弁当」を鞄に入れ、出かけていくのだ。もし七時四十分までに制服に着替えて降りてこない場合にはもう一度寝室に行き、チャコの口の中に今度は砂糖でコーティングされたチューイングキャンディーを放り込み「はい噛んで~」と言う。チャコが一噛みするとあら不思議、チャコは見る見るうちに目覚めるのだ。これは何かの本で読んだテクニックだ。

 入籍前は、チャコが早起きして一生懸命朝ごはんを作っていたが、入籍してからというもの燃え尽きたのか今日までチャコが僕より先に起きたことはない。特に月曜日は一日が始まらないのではないかと思うくらい寝起きが悪く、僕をハラハラさせる。

 しかし今日は月曜日だというのに、六時半頃、自らの意思で起きてきて僕をびっくりさせた。雨でも降るのではと思ったが、東京地方は既に梅雨に入っていて、今日も天気は良くはない。

「おはよう。今日は早いね。」

「おはよう。実は今朝、お客さんが来るのよ。」

 チャコは半分あくびをしながら答えた。それにしてはまだパジャマのままだ。いつもは制服に着替えて降りてくるのに。

「お客さんって誰?」

 僕が尋ねた瞬間に「ピンポーン!」とチャイムがなり、チャコは僕の質問に答えないまま出て行った。それで僕には来訪者の見当がついた。数秒後、チャコと同じ遺伝子をもつ生物が僕の前に現れた。

「おはようございま~す。朝早くからお邪魔しま~す。」

「おはよう。マコちゃん。早いねえ。また追試かな?」

 僕はマコちゃんをからかった。ちょうど一か月前、この生物は自分の追試を同じ遺伝子をもつ別の生物に替え玉受験させた。それが遠因となって僕は自分の本当の気持ちをチャコにすべて知られてしまうという不運に見舞われたのだ。

「ううん、あのときはお兄ちゃんにも迷惑をかけちゃったみたいだからそういうことにはもうならないようにします。」

 天真爛漫なマコちゃんが殊勝に言うのがアンバランスで少し可笑しかった。追試に懲りてちゃんと勉強するようになったのだろう。チャコにもそう言われたのかもしれない。

「そうそう、あの日は啓一さん疲れさせちゃったもんね~。あたしは楽しかったけど。」

 チャコがマコちゃんの言葉を引き継いだ。

「だからもう、あんなことはしたくないんで、今日からマコちゃん期末試験なんだけど、今回は追試を待たずに最初からあたしが行くの。」

 チャコの言葉に僕は固まった。

「はあ?」

「今日は数学と英語だっていうから両方ともあたしの得意科目なんで、あたしが代わりに受けてくるね。明日と明後日はちゃんと本物が受けるから。」

 この姉妹の展開はいつだってありえない。

「受けてくるって、チャコも学校あるんだろう?」

「あたしは風邪で休むことにする。だから今日はマコちゃん、パジャマ着てここで寝ててもらうことにするね。お出かけしなければ啓一さんも安心でしょ?」

(「そういう問題じゃないんだがなあ。」)と思ったが、僕が意見する余地はなさそうだった。

「じゃあ、あたし着替えてくるね。」

 そう言うと二人は二階に消えていった。数分後、ダイニングに現れると、チャコはマコちゃんの制服を着て、マコちゃんは新品のパジャマを着ていた。一か月ほど前に僕はこれと同じような光景を見ている。

「マコちゃんは今日、本当に家で寝てるの?」

「うん、あんまり体調良くないし、寝不足かなあ。それにあした以降の勉強もしなければいけないしね。寝室でゴロゴロしてます。」

「お昼ご飯はあたしが帰ってきてからやりますからね。それからあたしの学校への連絡もあたしがしておきます。だから啓一さんはマコちゃんのことは気にしないで普段どおりに動いてもらっていいですからね。」

 朝ごはんに手をつけながらチャコが付け加えた。マコちゃんは朝ごはんを済ませてきたようだ。そして朝ごはんをかきこむと、「じゃあ頑張ってね」とマコちゃんに見送られ、チャコは出かけていった。こういうことには段々慣れてきたが、この二人はこういう芸当があまりにも自然にできるのだ。それはもう芸術の域に達していると言ってもいい。

 

 チャコが出かけてからマコちゃんは二階の寝室にこもり、僕は一階のスタジオ兼書斎で裕ちゃんの残していったものの整理をした。裕ちゃんは二十五年間の短い生涯の中で膨大な詞や楽譜を残していった。それらがまだ未整理なのだ。裕ちゃんは死の直前、これらの膨大な楽譜たちを僕に託していた。僕は世に出したいと思っているのだがまだそこまで行きついてはいない。理由は適当な歌い手が見つからないからだ。歌姫と呼ばれた国民的歌手白石裕子、彼女に匹敵する人材はそう簡単には現れないだろう。

 十時頃になり、僕は二階のマコちゃんがあまりにも静かなので少し心配になってきた。明日以降の試験の勉強をしているのだろうと思ったのだが、三時間以上も勉強に集中できるタイプとは思われない。一時間もしないうちに降りてきておやつだのジュースなど要求するタイプなのだ。

 勉強に集中しているなら差し入れでもしてやろうと思い、僕はジュースとお菓子をお盆に載せて二階の寝室に行ってみた。寝室のドアは半分開いていたが「入るよ」と言ってノックして中を見ると、マコちゃんはベッドで寝ていた。

(「なんだ寝てたのか。どおりで三時間も静かでいられるはずだ。」)と思って、下に下りようとすると。

「お兄ちゃん。」

 マコちゃんの弱々しい声が聞こえた。振り向くと寝ているはずのマコちゃんは片方の腕を布団から出して鉛筆のような何か細長いものを差し出している。ベッドに近付いてよく見ると、それは僕が毎朝、チャコの口の中に突っ込んでいる婦人体温計だった。

「うん。」

 僕はそう言って、体温計を受け取り、表示された数字を見て驚いた。体温計にはアラビア数字で四〇.〇と表示されていたのだ。

「マコちゃん。」

 僕はお盆を置いて、枕元に駆け寄った。

「お兄ちゃん、ゴメン。すごい熱がある。節々も痛いし、きっとインフルエンザだ。どうしよう?」

「インフルエンザ?随分、季節はずれだね。」

「ううん。今、新型が流行ってるの。うちのクラスでももう二人出てるんだよ。」

 そう言えば最近、そんなニュースがマスコミをにぎわせていることを思い出した。

「まいったなあ。とにかくお医者に行こう。チャコの制服に着替えて!僕はクルマの準備してくるから。」

「立てないかも。」

「立てないならクルマまで僕が抱っこして連れて行くよ」

 そう言って僕はクローゼットからチャコの制服を出した。制服は黒のセーラー服から白の夏服に変わっている。チャコの通う自由が丘女子高等学校は外出するときはプライベートであっても必ず制服を着用しなければならないという信じられない校則があるのだ。今日のマコちゃんはチャコ役なので医者に行くにも制服に着替えてもらわなければならない。僕は一度寝室を出て一階に行き、クルマを玄関前に回し、保険証の準備をして再び寝室に戻ってきた。

「入るよ!」

 再びノックして寝室に入ると、マコちゃんはかろうじて夏服に着替え、ベッドに横たわっていた。

「ゴメン、やっぱり起き上がれない。」

「分かった。いいよ、僕が連れて行くから。」

 そう言って僕はマコちゃんをお姫様抱っこし、階段を下りて、玄関を通過し、門の前に止めたクルマの後ろの席に乗せた。マコちゃんは後部座席で横になった。本当につらそうだ。

 僕のかかりつけの内科に連れて行った。風邪のシーズンではないので比較的すいていた。

 インフルエンザの症状が出ているというと医師はすぐに検査をしてくれた。結果は陽性で今流行の新型にかかっている可能性が強いということだった。

「タミフルを出しておきますのですぐに飲んでください。まあ、発熱して数時間しかたっていないようなのでタミフルを飲みさえすればそれほど悪化することはないでしょう。でも数日は安静が必要です。」

 医師の診断はもっともだった。僕は薬を受け取り、帰宅すると再びマコちゃんをお姫様抱っこし、二階の寝室まで運んだ。僕はまだ若いから良かったが、あと十年歳をとっていたら必ずや腰を痛めたことだろうと思った。マコちゃんは薬を飲み、パジャマに着替えると死んだように眠りこんだ。やはり病気は安静が一番。このまま寝かせておくことにした。

 

 しばらくすると電話が鳴った。僕の家の電話の着信音は裕ちゃんの大ヒット曲「卒業」だ。だから僕は電話が鳴るたびに裕ちゃんのことを思い出す。裕ちゃんが逝ってしまったとき、いつまでも裕ちゃんのことを忘れずにいようとこの曲を着信音にしたのだ。チャコが来たとき、さすがに変えようかと思ったが、チャコが嫌がらなかったので結局そのままにしてある。

「はい、白石です。」

「こんにちは。朝子さんの担任の高倉です。先日はどうも失礼しました。」

 高倉女史だった。先日とは「着物事件」のことを言っているのだろう。

「朝子さん、その後、いかがですか?熱があるんですか?」

「それが大変なんです。熱が四〇度あり、今、医者に行ってきたんですが、インフルエンザと診断されました。タミフル飲んで今は寝てます。」

 そこまで言って僕は(「しまった!」)と思った。インフルエンザにかかっているのはマコちゃんでチャコは元気にマコちゃんの学校に行ったではないか。しかし後の祭りだった。

「それは大変。学園第一号だわ。流行っているという話は聞いていましたけど。来週から期末テストだというのにどうしましょう。とにかく、白石さん、ご存知だと思いますが、インフルエンザとなると出席停止です。たとえ熱が下がってもお医者さんから治癒証明をもらうまではぜったいに登校させないでくださいね。」

「はあ。」

 僕は力なく同意した。

「まあ、そんなに心配することはありませんよ。すぐにタミフル飲んだみたいだから早めに回復して木曜日くらいには出てこられるんじゃないかしら。ではお大事に。また何かありましたら電話します。失礼します。」

「はい、お電話ありがとうございます。失礼します。」

 そう言って電話は切れた。失敗したと思った。これではチャコが明日から学校に行かれないではないか。インフルエンザにかかった少女が次の日、ピンピンで登校したらいくらなんでも不自然だ。

「ピンポーン!」

僕が悩んでいると玄関のチャイムがなったので僕は急いでインターホンの受話器を取った。

「はい~。」

 モニターにはチャコが写っていた。

「ただいま~。ごめんなさい。今日、マコちゃんの鞄で行ったもんだから鍵がないの。開けてもらえる?」

「それが大変なことになったんだ。マコちゃんがインフルエンザにかかってすごい熱が出てるんだ。」

「あらら~。」

「もう医者には連れて行って、薬も飲ませて今は寝てるんだけど、さらに悪いことにさっき高倉先生から電話があったんだよね。」

「ああ、高倉先生、心配してた?」

「うん、それで僕はうっかりチャコがインフルエンザにかかったって言っちゃったんだ。」

「へーっ、じゃああたししばらく学校に行けないんだ。まあいいよ。それならあたしこれからこのまま実家に帰ってマコちゃんをやるね。」

「えっ?」

「だってマコちゃんに会ってインフルエンザうつされたら余計大変でしょ。それにマコちゃん期末試験受けられないとかわいそうだし。あたしがあしたも明後日もマコちゃんの学校に行って試験受けてくるよ。木曜日からは試験休みになるし、その頃にはマコちゃんも回復してるでしょ?」

 チャコがインフルエンザにかかっていると言ってしまった以上、チャコとマコちゃんの交代続行は止むを得ないのだろう。

「分かった、そうしてくれ。」

「マコちゃんのことよろしくね。それと二日間の軍資金くださらない?」

「おう。」

 僕は玄関まで行き、ドアを少し開けてチャコに福沢諭吉先生のブロマイドを一枚差し出した。チャコはニコッと笑ってそれを受け取ると、無言で出て行った。チャコは不思議な少女だ。こんなとてつもなく悲惨な状況の中でも底抜けに明るい。

 寝室に戻るとマコちゃんはぐっすり眠っていた。僕は枕元でしばらくマコちゃんを見守った。そう言えばほんの少し前までこれと同じようなことを裕ちゃんと僕はやっていたのだ。

 

 何時間かが経過し、マコちゃんの目が覚めた。熱は下がっていないようだ。トロンとしている。

「マコちゃん、どう?」

 僕は優しく声をかけた。

「ここ……チャコちゃんのおうち?」

 マコちゃんは弱々しい。本当につらそうだ。

「そうだよ。」

「じゃあ夢じゃなかったんだ。あたしインフルエンザね?」

「そう。しばらくこの家で静養することになったよ。」

「期末試験どうしよう。」

「それなら心配しなくていいよ。チャコが全部代わりに受けるって言ってるから。」

「どうしよう。優等生になっちゃう。チャコちゃん手加減してくれるといいんだけどなあ。」

「そういう問題か?」

「お兄ちゃん、ゴメンね。」

「いいんだよ。」

「おしっこしたい。」

「そっちか?じゃあ、下に行こう。一人で行かれるかな?」

「無理みたい。ここでする。」

「そっちの方が無理だよ」

「洗面器か何か持ってきて。」

「そんなの駄目だよ。」

「じゃあボウルでもいいよ。」

「余計駄目だ。」

「じゃあ中華鍋でもいいや。チャコちゃん嫁入り道具で持ってきてるでしょう?」

「駄目駄目。僕が連れて行くよ。」

「お兄ちゃん。」

「何?」

「いっそ殺して。」

「何バカなこと言ってるんだ。ほら行くよ。」

 そう言って僕はマコちゃんを無理やりお姫様抱っこし、下に連れて行った。マコちゃんがトイレに行っている間、僕は物置から折りたたみ式のベッドを引っ張り出し、トイレの傍に置き、マコちゃんにはそこに寝てもらうことにした。もう寒くはないので廊下で寝ても大丈夫だ。僕はリビングやダイニングからマコちゃんを看病することにした。裕ちゃんと過ごした最後の日々が思い出された。

 もう夕方で、さすがにマコちゃんもお腹が空いていると思った。マコちゃんは朝ごはんを食べたきりなのだ。

「マコちゃん、お腹空かない?」

「どうだろう、よく分からない。」

「栄養はつけないといけないから何か食べられそうなものを探してくるよ。」

 そう言って、キッチンを探すと賞味期限切れ寸前のレトルトのおかゆがあった。ちょうどいいと思い、電子レンジで暖めてお茶碗に入れ、マコちゃんのところに持っていった。

「マコちゃん、おかゆができたんだけど食べられるかな?」

「このおかゆお兄ちゃんが作ったの。」

「う~ん、実はレトルトなんだ。」

 僕は正直に答えた。

「ごめん、じゃああたし食べられない。レトルトのお米ってどうしても食べられないの。せっかく作ってもらったのにお兄ちゃん、ごめんね。」

 僕は全身から力が抜けていくのが分かった。

「じゃあ何か食べたいもの、食べられそうなものあるかな?」

「子牛のヒレステーキ。」

「そんなの身体が受け付けないだろう?」

「そうだよねえ。……じゃあねえ、雑炊。」

「雑炊?」

「うん。マコちゃんのうち、時々寄せ鍋やるんだけど、お鍋が終わった後でお肉とか野菜とかたくさん煮込んだおつゆが残るでしょ。それにご飯入れて卵でとじるの。これが美味しいんだなあ。」

「分かった。でお鍋には何入れるの?」

「なんでもいいんだけど豚ばら肉と白菜、えのき、ねぎは必須かな。」

「分かった。やってみる。待っててね。」

 そう言って枕元を離れようとすると「お兄ちゃん」と妹がまた呼び止めた。

「はい?」

「おもちも入れてね。」

「はい。」

 そう答えると僕は再びキッチンに向かった。

 幸い、食材はすべて揃っていた。僕は土鍋を引っ張り出し、だしをとり、醤油とみりんと砂糖で味付けしてから材料をざくざくと切り、鍋の中にどんどん入れた。僕は男性としては、料理はうまい方だと思う。東京に出てきてから一人で自炊していたし、裕ちゃんと二人で過ごした最後の一年は僕が賄いをしていた。それ以前に、僕の柏崎の実家はちょっとした小料理屋で僕が大学二年生のときに帰天した僕の父に色々と教えてもらったこともあるのだ。だから料理は全然苦にならないし、今でもチャコのお弁当は僕が作っているくらいだ。寄せ鍋が完成し、今度は中身を出してつゆにご飯と細かく切った餅を入れ、しばらく煮て煮立ったところで卵でとじた。

 少し蒸らしてお茶碗によそい、冷まして枕元に持っていった。マコちゃんはまだつらそうだったが、ようやく上半身を起こすことはできるようになった。少しは食欲がわいてきたようだ。でもまだ一人で食べるのはつらいようで僕がスプーンですくって口元まで運んであげた。

「おいし~。これなら食べられる。お腹空いてたんだあ。」

 久し振りにマコちゃんの笑顔が見られて僕はとてもうれしかった。今まで頑張ってきたのはこの笑顔を見るためだったのではないかと思ったくらいだ。結局、マコちゃんはお茶碗一杯の雑炊を平らげた。

「お代わりする?」

「今はいいや。ありがとう。随分、落ち着いた。」

「そうか。それは良かった。頑張ったかいがあったよ。」

「ねえ、お兄ちゃん、裕子叔母さんと一緒に暮らしてたときもこんな感じだったの?」

「う~ん、ここまではひどくはなかったなあ。」

「ごめんねえ。」

「まあいいよ。マコちゃんも好きでなったわけじゃないんだろうし。それに僕も少し楽しいよ。裕ちゃんとの頃思い出したりして。」

「チャコちゃんが聞いたら嫉妬しちゃうね。」

「そうかもね。」

「ねえ、チャコちゃんって嫉妬深い方?」

「さあ。ただチャコは女の人はみんな嫉妬深いって言ってたよ。」

「そっか~。じゃあチャコちゃんにあることないこと吹き込んで嫉妬させちゃおうかなあ。お姫様抱っこいっぱいしてもらったとか。」

「おいおい、恩を仇で返すなよ。」

 やはりこの生物はチャコと同じ遺伝子を持っている。

「ねえ、お兄ちゃん。今、急に思い出したんだけど。」

「何?」

「食べたいもの。さっき聞いてくれたでしょ?」

「うん。」

「アイスが食べたいなあ。」

「分かった。アイスはさすがに在庫がないからコンビニかどっかで買ってくるね。少しはこの家に一人で居てもらってもいいかな?電話とかはもちろん出なくていいから。」

「うん。大丈夫だと思う。でも早く帰ってきてね。」

「うん。」

 そう言って出て行こうとすると「お兄ちゃん」とマコちゃんがまた呼び止めた。

「何?」

 いい加減にイライラしてくるのが自分でも分かるのだが必死に押さえた。

「できればアイス、美味しいのがいいなあ。スーパープレミアムアイスお願いね。」

 僕はいささか疲れてきたが乗りかかった船、というより乗ってしまった船、どこまでもこの我がまま娘には付き合わねばと諦めた。チャコとの生活もこんな感じと言えなくはない。

「はい。何味がいいの?」

「ストロベリーがいいなあ。なければバニラ。バニラは絶対にあるよね。」

「はい。じゃあちょっとだけお留守番よろしくね。」

 僕は近所のコンビニに自転車で出かけた。

 

 コンビニでアイスなどを物色していると携帯のバイブレーションが震えた。ディスプレイをみると「白石幸子遼太郎」と表示されている。マコちゃんをやってるチャコからだ。

「はい。」

「ああ、啓一さん。あたし。チャコです。ねえ、今どこにいるの?家にかけても誰も出ないんでびっくりしちゃった。」

「コンビニでお買い物。妹さんのリクエストでね。アイス食べたいんだって。」

「そっか。安いのでいいよ。」

「そうもいかないんだな。ご本人さんはスーパープレミアムアイスを要求してるよ。」

「あいつめここぞとばかりに贅沢する気だな。啓一さん、そんなに一生懸命看病しなくてもいいよ。テキトーでいいからね。インフルエンザくらいで死にはしないよ。」

「それはそうだけど一応マコちゃんは僕の大切な妹だからなあ。」

「啓一さん優しいなあ。あ~あ、あたしも啓一さんに看病されたい。インフルエンザにかかっちゃおうかな。」

「そういう問題じゃないだろ。」

「でもこのままあたしとマコちゃんが元に戻れなかったらどうするんだろう?啓一さんをマコちゃんに取られちゃうのかな?」

「それはマコちゃんも望まないよ。大体、マコちゃんがチャコになったら自由が丘女子に通わなきゃならないんだろ?マコちゃんなら三日でレッドカードもらって退学だよ。」

「そっか。」

「そっちはどうなの?うまくいってる?」

「うん。お父さんもお母さんも気付いてない。あたしがマコちゃんだと思い込んでるからね。人間なんてちょろいもんだね。じゃああたしあしたのテストの勉強しないといけないからまた。大変だと思うけど頑張ってね。」

「はい。チャコもテスト頑張ってね。何かマコちゃんに伝えることあるかな?」

「うん。テストはなんとかするから気にしないでゆっくり休んでって言っといて。」

「了解。」

「それと、お兄ちゃんにあまり甘えるなって言っといてね。啓一さんの正妻はあくまでもあたしなんだからって。」

「そんなこと言えるか。」

「じゃあね。啓一さん元気そうなんで少し安心した。」

「じゃあまた。」

 電話は切れた。チャコはいつだって前向きで元気で明るい。そしていつも僕に力をくれる。不思議な女の子だ。

 

 僕は色々な種類のアイスを十個買い、飲み物とか雑誌とかも買って帰宅した。マコちゃんは起きていた。でも相変わらずつらそうだった。

「ただいま。色々買ってきたよ。」

 そう言って僕はベッドの上に十種類のスーパープレミアムアイスクリームを並べた。

「えっ、こんなにたくさん?」

「うん、好きなの選んでいいよ。」

「全部食べていいの?」

「バカ、そんなことしたら今度はお腹壊すだろう。」

「ねえ何個まで食べていい?」

「何個でもいいよ。」

「じゃあ全部。」

「だからそうするとお腹壊すだろうって。」

「駄目、自分じゃ決められない。お兄ちゃん何個まで食べていいか決めて。」

「う~ん。じゃあ二個まで。」

「けち!」

「マコちゃんが僕が決めろって言ったんだろ?」

「ああそうか。じゃあ二個ね。じゃあねストロベリーははずせないから、ストロベリーとキャラメルね。ねえお兄ちゃんも食べるでしょ?」

「そうだな僕もいただこうかな。」

「一緒に食べようよ。」

「うん、じゃあ僕はラムレーズン。」

「じゃあいただきま~す。」

 僕達は一緒にカップのふたを開け、スプーンでつついた。マコちゃんはアイスなら自分でスプーンで食べられるようだ。現金な奴だ。

「美味し~い。熱があるからなんかす~っとする感じ。」

「それからこんなの買ってきたんだけど見る?」

 そう言って僕はさっきコンビニで買った雑誌を差し出した。

「うれしい~。これ読みたかったんだ。ありがとう。」

 うれしそうなマコちゃんの顔を見て僕もうれしくなった。

「ねえお兄ちゃん、なんでそんなにやさしくしてくれるの?あたしさっきからすごく我がままなんだけど。」

「なんでって、それは僕の大切な妹だからさ。」

「そう。きっとチャコちゃんにはもっと優しくするんだね?」

「さあどうかなあ。結構手を抜いてるかも。」

「あたしのお父さんはお母さんにこんなにやさしくできないよ。」

「そう。」

「うん。お父さん、昔、暴走族とかやってたでしょ。だからかっこいいはかっこいいんだけどこういうことはできないと思うなあ。だからチャコちゃんお兄ちゃんのことを選んだんだね。父親にないところを求めたというか。」

「でもお父さんは娘思いのいいお父さんでしょ?」

「どうだか。いっつも怒ってばっかし。もちろんやさしいところもあるんだけどね。……ねえ、雑誌見てもいい?」

「いいけど大丈夫?」

「うん。これ読みたいやつだったんでこの表紙見たらかなり元気が出た。」

「そうか。良かった。僕はアイスを冷蔵庫入れてくるね。また食べたくなったらいつでも言ってね。」

「じゃあ抹茶キープね。」

 どこまでも我がままな子だ。

 僕は冷蔵庫に行き入れるべきものを入れ、それから物置に行って電気スタンドと延長コードを引っ張り出してきた。廊下は暗いので少し明かりが欲しいのだ。そしてスタンドをマコちゃんの枕元に設置し、薬を飲ませ、インフルエンザ第一目の夜は更けて行った。僕はリビングのソファで眠った。

 

 次の日になるとマコちゃんの熱は三十八度台にまで下がり、マコちゃんも自分で立てるようにはなった。僕はベッドをリビングのテレビが見える位置にまで移動させテレビやDVDが自由に見られるようにした。ご飯は前日の雑炊とアイスだけしか食べられなかったけどそれで十分満足のようだった。

 お昼過ぎにチャコが差し入れのケーキを持ってやってきた。「うつるといけないから」と家の中には入らず、玄関で情報を交換し、マコちゃんが持ってきていた期末テスト三日目の勉強道具を持って帰っていった。

 

 三日目になるとマコちゃんは熱も下がり、家の中を自由に動き回れるようになった。裕ちゃんと僕のスタジオ兼書斎にもやってきた。マコちゃんにはチャコの引越し作業をさんざん手伝ってもらったのでこの家のことは結構知っている。大きなグランドピアノが真ん中に置かれているこの部屋はそのときから気になっていたようだ。

「これ裕子叔母さんのピアノなんでしょ?」

「うん。随分年代もので柏崎のときから使ってたやつだ。裕ちゃんは小さいときからピアノやってたからね。マコちゃんのお母さん、幸子さんもピアノやってたはずだけどもう弾かないのかな?」

「今でも弾けるのかなあ?でも弾けるとしても弾かないんじゃないかな。それっておじいちゃんに無理矢理やらされていたことだと思うし、あたしやチャコちゃんにはやらせなかったから。」

「ピアノ弾いてみる?」

「ううん。お兄ちゃん何か弾いてみてよ。」

「うん。でも僕もそんなに弾ける曲はないんだ。ピアノは中学の三年生のときかな、受験勉強が始まると止めちゃったから。それから裕ちゃんとのここでの生活が始まるまでピアノには触ってなかったから弾けなくなっちゃった。」

 そう言って僕はピアノの前に座り、ピアノのふたを開け鍵盤を優しく叩いてみた。

「こんなのどう?」

「この曲、『卒業』でしょ?ここのおうちの電話の音もこれだよね。でも不思議だなあ。これって作曲は裕子叔母さんだけど作詞はお兄ちゃんでしょ。作詞も絶対裕子叔母さんだと思うんだけどなあ。だって女の子の感情を歌った歌でしょ。」

「そうなんだけど作詞したのは本当に僕だよ。裕ちゃんが中学を卒業して柏崎を離れるとき僕は裕ちゃんを長岡の新幹線ホームで見送ったんだけど、そのとき裕ちゃんは見送る僕を見ながらこんなことを思ったんじゃないかなって勝手に想像した詞なんだ。」

「で、実際そうだったの?」

「さあね。裕ちゃんは何も言わずに曲を付けてくれたよ。でも実際はこうは思わなかったんじゃないかな。そのとき裕ちゃんと僕はまだただの幼なじみで婚約するなんて思ってもみなかったからね。」

「ねえ歌ってみて。」

「駄目だよ。僕は音痴だから。」

「じゃああたし歌ってもいい。これでもあたしアイドルデビューできるかな?とか最近考えてるんだ。マコちゃんこれでも学校じゃあ男子に結構人気あるんだよ。」

「マコちゃんでも駄目だなあ。これは二人の大切な思い出だからそうそう簡単には他の人に歌わせられないの。」

「チャコちゃんでも。」

「そうだなあ。チャコでも。」

 そう言いながらも僕はいつかチャコがこの歌を裕ちゃんと僕のために歌ってくれるときがくるのではないかと少し空想した。

 

 その日の午後、チャコは実家から中華弁当三人前を持って帰ってきた。ご両親には「試験が終わったからチャコちゃんちに遊びに行く」と言ってきたそうだ。これでマコちゃんが無事帰宅すればすべて元に戻る。ダイニングでお弁当を広げ三人で食べた。久しぶりに美味しいものにありついた気分だ。それにしてもこの三日間、ご両親は二人の入れ違いに気がつかなかったわけでそれもすごいなと思った。

「お兄ちゃんには本当によく看病してもらいました。感謝してもしきれない。」

 マコちゃんは殊勝に言ったが、その後「あたしねえ、チャコちゃんに謝らないといけないことがあるの」と言い出したので僕はギクッとした。この妹はあることないことしゃべり始めるのだ。緊張した。

「謝らなきゃいけないことって、まさかマコちゃん、あたしの大切な旦那様にちょっかい出したとかじゃないでしょうね?」

 僕はさらにギクッとした。

「そう、お兄ちゃんたら熱で動けないあたしのことを……。そうじゃなくて、実はね、あたし、二人の結婚を快く思ってなかったの。」

「うん。」

「チャコちゃんまだ十六歳だし、今が一番楽しい時期でしょ。それなのに政略結婚だなんてあたしだったらぜったい嫌だなあって思ってたの。」

「そう。」

「でも違った。あたしが間違ってた。……チャコちゃん、本当に優しくて素敵な旦那さんだね。チャコちゃんのことがうらやましく思えちゃった。今なら心から言える。チャコちゃん、結婚おめでとう。幸せになってね。うん。幸せになれるよ。だって、今、とっても幸せでしょ?」

「うん、ありがとう、マコちゃん。」

「お兄ちゃんのこと大切にしなさいよ。こんなにいい人チャコちゃんにはもったいないくらいだよ。もし、大事にしないんだったら、あたしがもらっちゃうからね。」

「ハハハ、マコちゃんには無理だよ。マコちゃん我がままだもん。」

「そうでもないよ。だってあたしはいつだってチャコちゃんと入れ替われるんだから。」

 そこまで言うとマコちゃんは僕の方に身体を向けた。

「お兄ちゃん、本当に色々ありがとう。これに懲りてこれからは自分でちゃんと勉強するね。こんなふつつかな妹ですけどこれからもよろしくね。」

「ああ、僕の方こそよろしくね。」

「本当にふつつかだ」とチャコから野次が飛んだ。これが二度目だ。でも今度はその意味が理解できた。

「じゃあ、あたし帰るね。」

「クルマで送るよ」

 マコちゃんはチャコも一緒に僕がクルマで送っていった。マコちゃんに認められたのがうれしかったのか帰りのクルマの中でもチャコはずっと上機嫌だった。夫婦の階段はこうやって二人で一歩一歩上がっていくのだろう。

 それからチャコと僕は医者に行きインフルエンザの治癒証明書をもらった。医者は「治りがいい」と喜んでいた。「別人のようだ」とも言っていた。事実、別人だったのだ。

 

 次の朝、僕は本当に久しぶりに寝覚めの悪い朝を迎えた。頭がガンガンするのである。嫌な予感がした。絶対に熱があると思った。体温計を身体に挟んでみたら四十度を超えていた。理由は明らかだった。僕はチャコの枕元に行った。

「チャコ?」

「なあに~」

 チャコはまだ熟睡モードだった。

「ごめん、マコちゃんのインフルエンザがうつったみたいだ。すごい熱がある。」

 僕が死にそうな顔で言うとチャコはがばっと飛び起きた。ものすごい瞬発力だ。

「近寄らないで。あたしにうつったら大変!」

「看病してくれないのか?昨日、マコちゃんは旦那さんを大事にしろって言ってたぞ。」

「だって来週はあたしが期末試験だよ。看病はしたいし、一緒にいてあげたいけど、今は無理。ごめんねえ。あたし、実家に疎開するね。」

 そういうとチャコはスーツケースを取り出し、洋服やら勉強道具やらをつめこみはじめ、さっさと出て行ってしまった。ものすごいスピードだった。マッハ三は出ていたと思う。

 ということで一人取り残された僕は久しぶりの一人暮らしに戻った。四十度の高熱で一人ぼっちではさすがに寂しいがチャコとしては期末試験に失敗する方がかえって僕に迷惑をかけると判断したのだろう。たまには里帰りもいいのかなとタミフルを飲みながら僕は思うのだった。

 



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六 水泳事件

 僕は基本的に早寝早起きだ。今は宮仕えでも学生でもないし、毎日が日曜日のような生活なのでかえって日々の生活が規則正しい。夜は遅くとも十一時頃には寝てしまうし、朝は日曜日でも四時か五時頃には目が覚める。毎日が同じパターンなので身体も楽だ。

 その点、平日は学校に通わなければならない妻のチャコは平日の反動で休みの日はいつまでも眠っている。休みの前の日はここぞとばかりに夜更かしもしているようだ。僕も学生時代はそんな感じだったからうるさいことも言えない。

 マコちゃんの「インフルエンザ事件」があった後、僕もインフルエンザにかかってしまい、それがチャコの期末テストともぶつかって我が家は少しあわただしかった。僕のインフルエンザも収束し、落ち着きを取り戻した海の日の朝、僕はチャコを何時間でも好きなだけ寝かせてあげたかった。明日は高校も終業式だ。長かった一学期も終わり、夏休みがやってくる。夏休みになればようやく柏崎に里帰りということになる。柏崎では母親にあの天真爛漫な嫁を会わせなければならず、それはそれで一仕事であるが、楽しみでもあった。

 そんなことを考えながら僕は簡単なおやつとコーヒーをいただきながら朝刊を読んでいた。一応、政治家を志していることになっているので新聞を読むのは仕事のうちだ。我が家では五紙を購読している。チャコには古新聞の整理が大変だと文句を言われるがこれは仕事なのだ。インフルエンザは相変わらず静かに流行しているようだ。

 時計は六時半を指していた。すると「ピンポーン!」と玄関チャイムが鳴った。僕は嫌な予感がした。朝の六時半に玄関チャイムを鳴らす人間にまともな人間はいない。きっと悪魔だろう。もっと正確に言うと天使の顔をした悪魔だ。インターホンの受話器を取るとモニターにはチャコと同じ天使の顔をしたポニーテールの悪魔が写っていた。ポニーテールは夏の季語だ。

「おはよーございまーす。マコで~す。」

「おはよー。随分早いね。玄関あいてるからどーぞ。」

 僕はやや面倒くさそうにいった。おおよそ三週間前、この悪魔は同じくらいの時間に同じように玄関チャイムを鳴らし、そしてインフルエンザウィルスを我が家に持ち込んだのだ。十五秒くらいのタイミングがあってリビングに悪魔が侵入してきた。

「おはようございます。朝早くからお騒がせします。こないだは本当にありがとうございました。お蔭様ですっかりお元気になりましたよ。ほらこんなにピンピン!」

 そう言うとマコちゃんは僕の目の前で少し踊って見せた。

「今日は変な病原菌持ってきてないよね?」

「持ってきてるかもしれないけど、大丈夫。今日は空気感染しないタイプのものだと思うから。お兄ちゃんがチャコちゃんを裏切らない限り感染はないと思うよ。」

 わけの分からないことをいう奴だ。

「チャコちゃんまだ寝てるよね?」

 マコちゃんは都立高校の夏服を着ていた。

「今日は休みだよね?なんで制服着てるの?また何かたくらんでる?」

「ホホホ。お兄ちゃん随分、勘が良くなってきたね。まあそれは後でのお楽しみ。チャコちゃん起こしてくるね。」

「たまの休みなんだから寝かせておけばいいじゃない。」

「うーん、今日はチャコちゃん学校に行かないといけない日なんだなあ。だから寝かせておくわけにはいかないの。ちょっと待っててね。」

 そう言うと悪魔はダイニングから出て行った。

(「学校に行くなんて聞いてないぞ。でもなんでマコちゃんが絡むんだ?」)

僕は頭の中が混乱してきた。しばらくすると二人が二階の寝室から降りてきた。ダイニングに登場した二人を見て僕はぞっとした。マコちゃんがチャコの白のセーラー服を着て、チャコがマコちゃんのブラウスを着ていたのだ。

「何やってるんだ?着せ替え人形ごっこか?」

「良く見破ったね。普通、分からないよ。」

 チャコが答えた。確かに制服が入れ替わっているとチャコの制服を着ているマコちゃんはチャコにしか見えないし、マコちゃんの制服を着ているチャコはマコちゃんにしか見えない。でも既に二度、二人の入れ替わりを見てきている僕は一発で見破ることができた。

「で、今日は何があるの?」

 僕はマコちゃん役のチャコに聞いた。

「今日はあたしの学校で水泳の補講があるの。この前の個人面談のときでも言われたと思うけど、うちの学校、生徒皆泳っていう迷惑な伝統があって、一年生の一学期までに二十五メートル以上泳げるようにならないと駄目なの。卒業させてもらえないの。でもあたし泳げないから今日はマコちゃんに行って泳いできてもらうの。」

「チャコ、泳げないのか?」

「うん、って言うか、水が駄目なの。プールが怖いの。五歳のときにプールでおぼれたことがあって、それがトラウマになってるの。でも高校はあそこしかないし、まあマコちゃんもいるからなんとかなるかなって。」

「あたしは小学校一年生のときからスイミングスクールに通っているからイルカのようにスイスイ泳げるの。区民大会で優勝したこともあるのよ。それでこれまでもこうやってチャコちゃんを助けてきたってわけ。」

 チャコ役のマコちゃんがマコちゃん役のチャコの言葉をつないだ。ありえない話だが今さら僕も驚かない。

「啓一さんはトラウマなんてないだろうからあたしの気持ち分からないよね?」

「トラウマなら僕にだってあるさ。」

「あっそうなの?それは初耳。啓一さんって何が苦手なの?」

「僕はね、犬が駄目なんだ。僕もチャコと同じように五歳の頃、犬に手を噛まれたことがあってね。それ以来、いまだに犬は駄目だね。」

「へーっ、知らなかった。犬って、マルチーズみたいな小型犬でも駄目なの?」

「うん、小型犬なんて大したことないって頭の中では思うんだけど、身体が拒否するんだよね。ああこれがトラウマなのかなって犬に会うたびに思うよ。だからチャコの気持ちはよく分かる。でも二十五メートル泳げないとどうなるの?」

「夏休み中、泳げるまで補講になります。だから今日、泳げないと、あたしは柏崎には行かれません。」

 マコちゃん役のチャコはきっぱりと言った。夏休みにはどうしてもチャコには柏崎に行ってもらわないと困る。そこは見透かされているようだ。ここは見逃すしかないと思った。

「分かった。でもなんでチャコがマコちゃんの制服を着てるんだい?今日は日曜日だろ?マコちゃんがチャコの制服を着てればそれでいいんじゃないかな?」

「それは念には念をということよ。」

「念には念?」

「つまりね、あたしがあたしの制服を着ていてマコちゃんがマコちゃんの制服を着ているとするでしょ。そうすると誰もあたしとマコちゃんを見間違わないわよね。」

「うん、そうだろう。」

「でもあたしがマコちゃんの制服を着ていて、マコちゃんがあたしの制服を着ていると絶対に見間違うと思うの。人間の心理なんてそんなものよ。先入観が働くからね。今日は二人、別行動だからその方がいいと思ったの。」

「危ない橋を渡ってるっていう意識はあるんだ。で、今日はどういう設定なの?」

「おお、啓一さん進化したね。啓一さんからそんなことを言ってくるなんて。……今日はね、あたしを演じるマコちゃんは水泳の補講のためにあたしの学校に行きます。それでマコちゃんを演じるあたしは優しいお兄ちゃんとお買い物にでも出かけま~す。」

 マコちゃんの制服を着たマコちゃん役のチャコが元気に言った。

「マコちゃん、大丈夫かなあ。ばれないかなあ。」

「今日は高倉先生も休みだし、体育の先生は脂ぎった中年の男の先生だからあたしとマコちゃんの見分けはつかないと思うよ。それに補講は全校入り乱れてのものだからごちゃごちゃしてるし。とにかくマコちゃんにはさっさと泳いで、さっさと帰ってきてもらえばいい。」

「じゃあ、チャコちゃん、あたしそろそろ行くね。」

 チャコの制服を着たチャコ役のマコちゃんが言った。

「一緒に出ようよ。啓一さんも大丈夫でしょ?」

「うん」

 ということで、三人で朝の空気を浴びることになった。駅の途中の二十四時間営業のファミレスでモーニングを食して、チャコ役のマコちゃんを駅まで送っていった。

 

 もう梅雨は明けていて夏本番となっていた。マコちゃん役のチャコと僕は久しぶりに二人きりで碑文谷公園を散歩した。とにかく暑かった。でも若い二人はそれでもそれなりに楽しかった。チャコが水が駄目なのでボートには乗れなかったが、一緒にアイスクリームを食べたり、夏休み前の休日を楽しんだ。

 ベンチに腰掛けると僕はふと裕ちゃんのことを思った。裕ちゃんと一緒に暮らした最後の一年、僕は裕ちゃんを車椅子に乗せてよくこの公園に来た。ときにはキーボードを持って、このベンチに座わり曲を作ったりもしたのだ。もう遠い思い出だ。

「ねえ、何考えてるの?」

 僕が黙っていたのでマコちゃん役のチャコが聞いてきた。僕はドキッとした。

「なんでもないよ。」

「あててみようか?裕ちゃんのことでしょ?」

 僕はさらにドキッとした。顔にでも書いてあったのだろうか。

「そうだよ。よく分かったね。かなりびっくり。」

 僕は素直に認めた。

「分かるんだなあ、それが。啓一さんは、っていうか男の人は鈍感だから分からないかもしれないけど、女ってとっても敏感な生き物なの。だから分かるんだ。この人、今別の人のこと考えてるなあって。」

 そのとき携帯電話のバイブレーションが震えた。ディスプレイを見るとなんと「自由が丘女子」と表示されていた。僕は緊張した。マコちゃんに何かあったのだ。

「学校からだ。」

 僕はマコちゃん役のチャコにそう言うと電話に出た。

「はい。」

「もしもし、白石さんの携帯はそちらでよろしいでしょうか?」

「はい。」

 高倉女史の声だ。緊張は更に高まった。

「お忙しいところすみません。朝子さんの担任の高倉です。朝子さんのことでお話ししたいことがあるのですぐに学校に来ていただきたいのですがよろしいでしょうか?」

「何かあったんですか?」

「大したことではないんですが、確認させていただきたいことがあるものですから。どのくらいで来られますでしょうか?」

「はい、十分か十五分くらいで行かれると思いますが。」

「ではお待ちしています。失礼します。」

 そう言って電話は一方的に切れた。

「どうしたの?」

 マコちゃん役のチャコが不安そうに聞いてきた。

「高倉先生からだ。すぐに来いって。」

「ちー、今日、休みじゃなかったんだ。何かあったの?」

「分からない。」

「ばれちゃったのかなあ?」

「とにかく行ってくる。」

「あたしも行く!」

「おう。タクシーで行こう。」

 

 幸い、タクシーはすぐにつかまり、僕たちは十分くらいで自由が丘女子高等学校正門前に到着した。タクシーを降りると僕はマコちゃん役のチャコに導かれて校舎に入った。

「マコちゃんどこにいるのかな?」

「たぶん三階の応接室だよ。この前の着物のときもそうだったでしょ。説教されるのはいつもそこだから。先回りしよう。」

 マコちゃん役のチャコは三階の階段を登ったところまで僕を誘導し、廊下をのぞき見た。

「この先に応接室があるんだけど、ちょっと携帯貸して。」

「はい。」

 僕が携帯電話を渡すとマコちゃん役のチャコはどこかに電話をかけた。

「もしもし、お忙しいところスミマセン。私、ヤマザキと申します。いつもお世話になっております。高倉先生いらっしゃいますか?」

 学校にかけたようで電話の先ではお待ちくださいと言われているようだった。

「ヤマザキって誰?」

「今、とっさに思いついた名前。おじいちゃんの秘書でそんな人がいたじゃない。」

 そう言うと次の瞬間、「高倉先生!高倉先生!至急、職員室においでください」と校内放送が流れた。マコちゃん役のチャコと僕が階段のところから応接室の方をのぞき見ると一番奥の部屋のドアが開き、高倉女史が背中を向け、急いで階段を駆け下りて行くのが見えた。

「よし、行こう!」

 高倉女史の姿が消えるのを確認すると、マコちゃん役のチャコは携帯を折りたたんで僕に返し、僕達は応接室に向かった。応接室に入るとチャコ役のマコちゃんが不安そうに長いソファの右端に座っていた。

「どうしたの?何かあったの?」

 マコちゃん役のチャコがチャコ役のマコちゃんに聞いた。

「チャコちゃん!来てくれたんだ。それが分からないの。補講が終わったら高倉先生にここに来るように言われて。そしたら、今、ご主人さんを呼んでいるので、確認したいことがあるから少し待つようにって言われたの。それだけ。あたしはまだ何も話してない。チャコちゃん来てくれて良かった。少し安心した。」

「じゃあまだばれてはいないわけね?」

 マコちゃん役のチャコが小声で確認した。

「うん。」

 すると次の瞬間、ドアがノックされて高倉女史が入ってきた。僕は慌てて「あっ、こんにちは」とあいさつし、チャコ役のマコちゃんの左隣に座った。マコちゃん役のチャコは僕のさらに隣に座った。僕は姉妹に挟まれるような格好になり、正面の椅子に高倉女史が座った。

「すみません、急にお呼びだてしてしまって。あら、あなたもいらしたの?」

 高倉女史はマコちゃんの制服を着たチャコに気付くとマコちゃん役のチャコに向かってそう言った。

「はい。兄から連絡を受けて、姉がおぼれてしまったのかと心配になったものですから。」

 なかなかの名演技だ。

「何かあったんですか?本人は無事のようですが。」

 僕は怪訝そうに高倉女史に聞いた。

「ええ、別に事故があったわけではありませんし、検定にも合格しました。今日、ご主人さんにお越しいただいたのは確認したいことがあったからです。」

 僕はぎくっとした。

「プールが始まってから、朝子さん、元気がないようでしてね。グラウンドではあんなに元気なのに……白石さんもご存知だと思いますが、我が校では生徒皆泳という目標があって、生徒はみんな一年生の夏までには二十五メートル泳げるようにならなければならないんです。でも朝子さんには全然その気がなくて、水の中に入るのも嫌なようで、それで今日の補講になったんですけど、ふたを開けてみたらスイスイと泳げるじゃないですか。」

「良かったじゃないですか。」

「ええ。結果としては良かったんですけど、どうも腑に落ちないというか、不思議な気持ちがしたんです。朝子さんが朝子さんでないような、別人のような気がして、そうしたら、妹の真子さんは泳ぎがとってもお上手で区民大会で優勝したこともあるそうじゃありませんか。」

 僕の背中から汗が噴出した。顔が蒼白になっていくのが自分でも分かる。

「それで、こんなことはないと思うんですけど、朝子さんと真子さんが実は入れ替わっているんじゃないかということを心配しましてね。」

「そんなことありえませんよ。」

 僕は否定したが少し自信なさ気だ。

「もちろんありえない話ですけど。万が一ということもありますから、そこにいるお嬢さんが本当に朝子さんかどうか、ご主人様に確認していただければと思いましてお呼びしたんです。」

「ばっかばかしい。チャコちゃんに決まってるじゃないの。妹のあたしが保証するわ。」

 マコちゃん役のチャコが思わず声を出した。高倉女史は冷静だった。

「あら、私にはあなたの方が朝子さんのように思えてよ。毎日顔を合わせているんですから。」

「この子が妻の朝子であることは夫である僕も保証しますよ。」

 僕はそう言ってチャコ役のマコちゃんに右手の人差し指をやり、「こっちが妻の朝子で」そしてマコちゃん役のチャコに左手の人差し指をやり、「こっちが妹のマコちゃんです」と言った。でもやはり声は緊張していたのだろう。高倉女史は納得しない表情だった。

「そうですか。分かりました。こちらがどうしても奥様の朝子さんだとおっしゃるのなら、それなら二人が夫婦であることを示すような、何か証のようなものを見せていただけないでしょうか。そうしたら私も納得しましょう。」

「証って一体なんです?」

「簡単なことですよ。例えばキスするとか。」

「えーっ、そんなこと人前でできるわけないじゃない!」

 マコちゃん役のチャコが叫んだ。チャコ役のマコちゃんは黙っている。

「あらそうかしら。外国じゃ結構普通にやると思うけど。日本でも新婚ほやほやの若い夫婦ならできるんじゃないかしら?それとも何かできない特別な理由でもあるのかしら?妻の前で別の女性とキスすることはためらわれるとか?」

 僕は頭の中が真っ白になった。高倉女史はすべてお見通しなのだ。もう終わりだと思った。これ以上、ごまかせない。僕は次の言葉を必死になって考えた。

「高倉先生、実は……」

「しちゃえばいいじゃん!」

 僕が口ごもっているとマコちゃん役のチャコがピシャっと叫んだ。

「ねえ、チャコちゃん?こんなこと言われて平気なの?あたしだんだん腹が立ってきちゃった。この高なんとかっていう人、本当にチャコちゃんの担任の先生なの?こんなこと言われてくやしくないの?」

 そこまで一気に言うと、マコちゃん役のチャコは一呼吸おいて高倉女史に身体を向けた。そしてにらみつけた。

「ねえ、先生?あなた本当に教育者なの?よくそんなひどいこと言えるね。あなたは何も知らないようだから教えてあげるけど、チャコちゃん本当は泳げないの。プールが嫌いなの、って言うか、水が怖いの。五歳の時にプールでおぼれたことがあって、それ以来、トラウマになってるの。だから二十五メートル泳ぐどころか水に入るのも嫌なの。身体が拒否するの。それでもなんとか二十五メートル泳がないといけないと思ってとっても努力したの。なんでだか分かる?」

 高倉女史はマコちゃん役のチャコに圧倒されてしまったようだ。目をおっぴろげて口も開いて黙ってしまっている。予想外の展開にびっくりしてしまったのだろう。マコちゃん役のチャコは構わず続けた。

「それはね、結婚生活と高校生活を両立させたかったからなの。結婚生活と高校生活の両立を積極的に認めてくれるのは東京ではここの高校しかない。でもここの高校では二十五メートル泳げないと卒業させてもらえない。お兄ちゃんのお嫁さんではあり続けたい。でも高校中退、下手すると中卒で終わっちゃうと将来、お兄ちゃんに迷惑をかけちゃうかもしれない。だから、チャコちゃんはとっても、とっても頑張ったの。それが分からないでそんなこと言うなんて教師として最低よ。ねえ、お兄ちゃん、チャコちゃん、キスしちゃいなよ。二人が恥ずかしいっていうならあたしは目をつぶってる。窓の外を見ててもいい。あたしは見てなくていいから、とにかく二人がとっても、とっても、とっても、とっても愛し合ってるってことをこの行かず後家に見せてやりなよ!」

 マコちゃん役のチャコはそこまで言うと席を立ち、窓際に行った。高倉女史は相変わらず目をおっぴろげ、口は開いたまま引きつっている。チャコ役のマコちゃんに目を向けると、うつむいたまま口を右手で押さえ、何かをこらえていた。端から見れば、あるいは高倉女史から見ればそんなチャコ役のマコちゃんの姿は悲しみを必死にこらえているように見えたことだろう。しかし、僕にはチャコ役のマコちゃんが笑いを必死にこらえているのが分かった。僕は何か言おうと思ったが、何か言うとチャコ役のマコちゃんが大爆笑してしまいそうだったのでとにかくチャコ役のマコちゃんの静かな笑いが納まるのを待った。

 十五秒くらいが経過し、チャコ役のマコちゃんもようやく落ち着きを取り戻し、顔を上げた。目は半開きであった。それが悲しそうな表情にも、笑いをこらえている表情にも見えた。事実は後者だったのだろう。

「啓一さん?あたしはいいよ。」

 チャコ役のマコちゃんがポツリと言った。それを聞いて僕は窓際に立っているマコちゃん役のチャコを見た。チャコはあごをかすかにしゃくって瞳で「行け!」と合図した。僕も意を決した。

「分かりました、先生。ご指示通りにしましょう。」

 そう言うと僕はソファから立ち上がり、右手でチャコ役のマコちゃんの左腕を掴んで、引っ張り上げた。そして高倉女史とマコちゃん役のチャコを交互に見ながらチャコ役のマコちゃんを抱き寄せ、その顔を僕の右肩に押し付け、抱擁した。確かにマコちゃんだった。チャコとは感触が明らかに違う。「インフルエンザ事件」のときにお姫様抱っこしたあの感触だ。十秒くらいそのままでいて、抱擁を解いた。そして(「ああ、こうして僕はチャコを裏切り、この悪魔に未知の病原菌を植えつけられるのだ」)と思った次の瞬間「たあっ、ストップ、ストップ、ストップ!」と高倉女史の叫び声が聞こえた。右手をパーの状態で広げ、こちらに向けている。

「分かった、分かりましたからもういいです。」

 高倉女史はそう言って、右手を戻し、二人を見上げた。そして頭を下げた。

「朝子さん、ごめんなさい。私、教師として間違ったことをしてしまいました。もっとあなたを信じるべきでした。あなたは間違いなく、白石朝子さんです。こんなことをしてごめんなさい。私はまだ教師として発展途上なんです。今日のことは笑って許してください。」

 高倉女史はいささか早口にそう言うと今度は僕の方に向き直った。

「白石さん、前回に続き、今回も不愉快な思いをさせてしまいました。申し訳ありません。お詫びのしようもありません。」

 そこまでいうと立ち上がり、もう一度深々と頭を下げた。

「本当に申し訳ありません。もう一度勉強しなおします。」

「いや、別に僕は怒っていません。分かってくださればそれで結構です。これからも朝子のことよろしくお願いします。」

 そう言って僕は窓際に立っているマコちゃん役のチャコの方をチラッと見た。マコちゃん役のチャコは勝利の笑顔で右手の親指を突き出し、僕の方に向けた。僕は苦笑いした。

「今日は本当に申し訳ありませんでした。もうお帰りいただいて結構です。失礼します。」

 余程、バツが悪かったのだろう。そこまで言うと高倉女史はさっさと応接室から出て行ってしまった。チャコ役のマコちゃんと僕はそのまま元のソファーにへたれこんだ。

 

 それから三人は校舎の外に出て、僕達は晴れて自由の身となった。

「はあ~、やっぱりシャバの空気はおいしいねえ。」

 チャコ役のマコちゃんが深呼吸した。

「今回はさすがにスリルあったね。」

 マコちゃん役のチャコも安心したようだ。

「スリルなんてもんじゃないよ。あたしは冷や冷やどきっチョだったんだから。大体、あのままだったらあたしはお兄ちゃんに大切なファーストキスを奪われてたんだからね。」

「とか言ってて、マコちゃん必死に笑いこらえてたよ。」

「あれは、だってチャコちゃんが他人事のように自己弁護するのがおかしかったんだもん。笑いこらえるの大変だった。死ぬかと思ったよ。」

「ねえ、啓一さんはどう思ったの?」

 マコちゃん役のチャコが聞いてきた。

「どうって何が?」

「マコちゃんとキスしてもいいと思った?」

「って言うか、チャコはどうだったんだよ。あのままマコちゃんと僕がキスしても良かったのか?」

「うーん、良くはなかったけど、ストップがかかる自信はあった。あの寂しい独身の先生が若い二人の濃厚なラブシーンに耐えられるわけないって思ったの。実際、そうなったでしょ。」

 なるほど、計算づくだったってわけか。

「でももうこういうスリルはおしまいにしよう。チャコも怖いとかトラウマとか言ってないで、苦手なものも克服しなきゃ駄目だよ。まだ若いんだから。」

「ハーイ。」

 マコちゃん役のチャコは明るく元気に返事をしたが、あまり分かっていないようだった。とそのとき、二匹の小型犬を散歩させている中年女性が向こうからやってきた。

「まあ、かわいい!」

 二人の制服のポニーテールは駆け出して行った。そして中年女性と一言二言、言葉を交わすと小型犬を各々抱き上げた。僕にとっては恐ろしい光景だった。

「ねえ、啓一さんもこっちに来て抱っこしなよ。」

 マコちゃん役のチャコが叫んだ。

「いや、僕はいいよ。」

「怖いとかトラウマとか言ってないで、苦手なものも克服しなきゃ駄目だよ。まだ若いんだから。」

「はいはい。そうですね。じゃあ僕は先に帰ってるから。」

 そう言って僕は犬になるべく近づかないように現場を通過し、戦線離脱した。

「ああん、待ってよ。せっかくだから何か美味しいものでも食べて帰ろうよ。」

 背中で無邪気な少女の声がした。

 

 翌日、何事もなかったかのように終業式が行われ、一学期は無事終了した。チャコはバツが悪そうに舌を出しながら通知表を見せてくれた。妻の通知表を見るというのも妙な気分だった。成績はまあまあだった。高倉女史のコメントには「期末テスト直前にインフルエンザにかかってしまい」というくだりがあり、僕も苦笑いした。それはともかく、「立派に学業と主婦業を両立し」という言葉があったのには感心した。高倉女史、なんだかんだいっていい奴じゃんかとか思ってしまった。

 おまけとしてはマコちゃんが学年一番の成績を取ってしまうということがあった。中間テストの赤点を期末テストで全部ひっくり返したわけで、モンブランを四つ持ってお礼に来た。ご両親からおこずかいをたんまりもらったと言っていた。もっともそのモンブランは二つずつ姉妹の胃袋に納まってしまい、僕の口には二口しか入らなかった。

 

 夏休み初日は久しぶりにチャコと二人で家中を大掃除した。夏休み中は柏崎に滞在するので東京のこの家はしばらく空けることになる。時々は戻ることもあるかもしれないがきれいにしておく必要があった。

 チャコは柏崎に行くことがよほどうれしいようだった。そういえば今回の柏崎行きが事実上の新婚旅行になる。籍は入れたものの学業優先のため新婚旅行は後回しになっていた。今は選挙の準備で忙しいけれど、いずれは海外にも行かれるようになるのだろう。

 夕方には二人でチャコの実家にあいさつに行った。お父さんは相変わらず目をあわせてはくれず、お母さんは「どうもご迷惑をおかけします」と頭を下げるだけだった。この両親と心を通わせられる日もきっとくるだろう。チャコが少しお店を手伝っていきたいというのでチャコを残して僕は一人で先に帰宅した。チャコも実家のことが気がかりなのだろう。

 

 夏休み二日目、チャコと僕は早朝に家を出て東京駅から新潟行きの新幹線に乗り込んだ。朝早いこともあってチャコは眠そうだった。グリーン車をとってやったら「グリーン車乗るの初めて!」とはしゃいでいた。こういうところは本当に少女だ。あのしたたかさがどこから生まれてくるのか不思議だ。

「やれやれ、ここまでくれば安心だ。」

 グリーンの窓際の座席にもたれかかると思わず声が出た。窓際は本来、女の子に譲るべきだが、チャコは「紫外線はいや!」と通路側の席に座った。

 この四ヶ月間、本当に色々なことがあった。振り回された毎日だった。思えば四ヶ月といわず、裕ちゃんとのことがあってからずっと振り回され続けているのかもしれない。疲れもするが、今の生活が不幸かと聞かれればそんなこともないのだろう。本当の幸せというのは案外こういうものなのかもしれない。

「色々なことがあって、冷や冷やもさせられたけど、結果オーライだったね。まあチャコも慣れない生活で大変だったろうから向こうでは少しのんびりするといいよ。どうもお疲れさまでした。」

 僕はチャコをねぎらう気持ちで言った。

「ううん。あたしは楽しかった。啓一さんの方こそあたしやマコちゃんに振り回されて大変だったんじゃないかな。」

 (「その通り!」)と言ってやりたい気もしたが、その言葉は飲み込んだ。発車のベルが鳴り、新幹線はホームを滑り出した。

「まあね。でもマコちゃんともしばらくお別れだね。君たちも少し寂しいかな?」

「別に寂しいってことはないけどね~。」

 チャコはそう言って横目で僕を見た。何かをたくらんでいるときの目だ。僕はどっきとした。

「ねえ、何か爆弾しかけてきた?」

 僕は遠慮がちにきいた。チャコはくすっと笑った。

「別に爆弾ってほどじゃないけど、家の鍵は一本、マコちゃんに預けてきた。あたしの制服がどこにあるかはマコちゃん知ってるはずだし、柏崎にいる間、ドッペルゲンガーとして活躍するかもね。」

「そうか。」

 やっぱりこの姉妹には太刀打ちできない。

「それと、夏休み中に柏崎にも行きたいって言ってたからマコちゃん来るんじゃないかな。宿題を優しいお兄ちゃんに手伝ってもらいたいんだって。手伝ってもらいたいって言うけどきっと丸投げだよね。ああ、あたしも手伝ってもらいますのでよろしくね。」

 こういうときだけ甘ったれた声だ。僕の弱点をついてくる。僕はそれには答えず黙って車景を見た。これで良かったのかな、良かったんだろうなあと自分に言い聞かせた。

「ねえ、啓一さん?」

「うん?」

 僕は視線をチャコに戻した。

「あたしと結婚したこと後悔してる?」

 ニコニコしているので「イエス」とは言えない。

「さあどうかなあ。」

 僕がそう言うとチャコは自分の左手で僕の右手をしっかりと握り締めた。

「あたしはねえ、啓一さんと結婚できて本当に良かったと思ってる。だって楽なんだもん。啓一さん優しいし、結婚してようやく自由を手にしたって感じ。とっても幸せです。結婚してくれてありがとう。これからもずっと一緒にいてね。」

「はいはい。」

 そう軽く答えるとまた車景を見た。チャコは不思議な少女だ。柏崎に着いたらこの不思議な少女には「嫁」をやってもらわないといけない。後援会まわりにも付き合ってもらうことになる。まあ常識に囚われることの決してないこの少女は自分のペースに僕を巻き込んで柏崎でのスケジュールをすべて当たり前のようにこなしてしまうのだろう。そういう意味では僕の妻として裕ちゃんよりもふさわしかったかもしれない。僕はしばらくそんなことを考えた。

「なあチャコ。」

 僕は車景を見たまま「柏崎ではよろしくね」と言おうとした。しかし反応がない。

「チャコ?」

 握った手の先を見るとチャコは既に口を開けて気持ちよさそうに眠っていた。安心したのだろう。そんなチャコを僕はとても愛おしく思った。新幹線が秋葉原からトンネルに潜り込んだ。

 



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七 お弁当事件

 八月のお盆も過ぎたある日のお昼前、僕は僕の後援会長が経営する会社の応接室で後援会長と明日の打ち合わせをしていた。明日は夏休みの僕の最大のイベントである「政治セミナー」が開催されることになっている。このセミナーは選挙区の有力者百人を集め、僕が開く講演会だ。もっとも講演会は名目で皆さんのお目当てはセミナーの後に開催される昼食会だという話も聞いている。「貴翠館」という柏崎では有名な中華料理屋さんのお弁当を食べながら親交を深めるのだ。これが権蔵先生の前の前の代から恒例行事となっていて皆さんとても楽しみしているという。

 後援会長は女性ながら柏崎の地元法人会会長を務める人で、内装工事や不動産賃貸など手広く商売をしている。一目で「この人はやり手だなあ」と思わせる人でスーパーオバタリアンといった感じの人だ。僕はなぜかこの人にとても気に入られていた。

 打ち合わせとは名ばかりで実際は後援会長の説教を聞くという色合いの濃い時間だった。僕は後援会長の説教を一時間くらい聞いていたが後援会長が時計を気にし始めたので少しホッとした。説教タイムがようやく終わるのだ。

「ごめんなさい。私ばかり一方的にしゃべってしまって。若先生。明日はどうぞよろしくお願いしますね。」

 後援会長が成功した企業経営者の笑顔で言った。否応なしにプレッシャーを感じさせられる。

「はい。僕は何分初めてなもので面白い話ができるかどうか不安ですがとにかく頑張ります。」

「講演はほどほどでいいですから第二部の方をよろしくお願いしますね。」

 後援会長はあからさまにそう言った。

「第二部と言いますと大昼食会ですか?」

「ええ。みなさんお弁当をとても楽しみにしていますから。」

「はあ。」

「柏崎には色々な団体がありますけど、団体の幹部が一同に会するのは若先生の後援会くらいのものですからね。」

 後援会長は強く念を押した。僕の講演会というのは本当に名ばかりで本当は地元のいい大人たちが昼間から美味しいものを食べてドンちゃん騒ぎをしたいだけなのかもしれない。僕はそう感じた。

 

 それから僕は後援会長の会社を出て、徒歩で白石本宅に帰った。柏崎での滞在先は白石本宅、つまりチャコの祖父にあたる今の白石家の当主、白石権蔵大先生のご実家が与えられていた。白石本宅は使用人部屋もある大邸宅だ。そもそも白石家は柏崎の名家であり、権蔵先生も僕の婚約者だった裕ちゃんも、チャコのお母さんの幸子さんもこの家の生まれだ。ただ参議院の大物になってしまった権蔵先生は東京での生活がとても忙しくなってしまい、住民票は柏崎にあるものの生活の本拠は東京に移ってしまっている。お国入りはめったにしない。それで現在この家は権蔵先生の地元秘書の皆さんによって管理されている。

 秘書の間の競争は厳しい。そもそも二世でもない限り、政治家になる道は厳しい。封建時代は過去のものでも政治はまだまだ世襲の世界なのだ。東京と柏崎に分かれている秘書の皆さんはおのおのが権蔵先生のおめがねにかなうよう頑張っている。おめがねにかなえば市議会議員とか県議会議員とか政治家への道が開けてくる。しかしおめがねにかなわなければ、気性の荒い権蔵先生のことだから即、クビということも決して珍しい話ではない。僕を権蔵先生の名代と勘違いしている秘書の皆さんはチャコと僕を一生懸命もてなしてくれた。それは気の利いたホテルのサービスをはるかに上回るものであり、チャコと僕は上げ膳据え膳の夏休みを楽しんだ。チャコには昔の幸子さんの部屋があてがわれ、僕には昔の裕ちゃんの部屋があてがわれた。もっともチャコはほとんど僕にあてがわれた部屋に入り浸り、なんだかんだ我がままを言っては僕をわずらわせた。

 一日の予定は僕の意思とは関係なしに決められていて秘書の言うとおりに支援者を回り、気の利いた話をし、ご飯を食べれば良かった。人気アイドルのようだった。ただスケジュールはそれほどタイトではなかった。

 僕のおふくろとチャコを会わせるという僕にとってのビックイベントもお茶漬けさらさらで終わった。白石本宅と目と鼻の先にある僕の実家は柏崎の比較的中心街でちょっとした小料理屋をやっていた。僕が大学二年生のときにおやじが天に召されてしまってからは小料理屋はやめてしまったがお店はそのままの形で残っている。現在、一人で暮らしているおふくろは清掃会社に勤めていて柏崎市内のあちこちに派遣されては街をきれいにしているそうである。僕はおふくろに仕送りをしてやりたいと思っているのだが受け取ってはもらえていない。足腰立つ間は自分の生活は自分で面倒を見たいというのがおふくろのポリシーであり、僕もその気持ちは尊重している。もっとも一人息子を奪い取った権蔵先生が色々と面倒を見ているようで、一人暮らしでも決して寂しい思いはしていないようである。

 チャコを僕の実家に初めて連れて行ったとき、チャコはお店の粋な外観を気に入ったようだった。しかし、お店の中はほこりだらけだった。お店を閉めてから何年もたつし、清掃会社の従業員であるおふくろは自分の家の掃除までとても手が回らないのであろう。おふくろはチャコのことを「かわいいお嫁さん」と言いチャコはおふくろのことを「優しそうなお義母さん」と言った。二人とも外ヅラだけはとてつもなくいいので僕として楽ではある。

 そんな夢のような生活も一週間もすると飽きてくる。東京が恋しくなるのだがポニーテールの少女は飽きもせずすべての日程に自由が丘女子高等学校の夏服を着て付き合ってくれた。権蔵先生の孫ということでどこに行っても人気者だった。白石の血の濃さというものを感じた。

 

 白石本宅に戻る頃には安心したのか、お腹がとにかく空いていた。僕はチャコが餃子でも作って僕の帰りを待っていてくれるだろうと思っていた。普段、昼食は外食か秘書の皆さんが準備してくれる。しかし今日は秘書の皆さんは明日の準備のため出払ってしまっているのだ。

「ただいま~!」

 僕がそう言って玄関を開けると室内着姿のチャコが「おかえりなさ~い」と元気に現れた。

「お腹ペコペコなんだけど何かある?」

 そう僕が言うとチャコが「それより秘書の伊藤さんがいらっしゃってるよ。リビングにいる」と言ったので僕は急いでリビングに行った。リビングでは伊藤秘書がソファに腰掛け、神妙な面持ちで僕の帰りを待っていた。伊藤秘書は白石権蔵参議院議員の地元の秘書連中を総括するベテランだ。

「ああ、伊藤さん。お待たせしました。」

 僕が声をかけると伊藤秘書は立ち上がり「若先生、大変なことになりました」と言った。いつも冷静な伊藤秘書がとても重苦しい雰囲気なのでかなり重大な問題が発生していることを僕は感じた。

「どうしました。何かあったんですか?」

「実は明日のセミナーのお弁当を発注していた貴翠館で食中毒が発生しまして営業停止になってしまいました。明日のお弁当の受注は先方からキャンセルされてしまいました。どうしましょう?」

 「どうしましょう?」と言われても僕はセミナー自体が初めての体験なので何もアドバイスできない。

「スミマセン。伊藤さん。僕は今回が初めてなので状況がよく分かりません。僕はどうしたらいいのでしょうか?」

「大先生の夏のセミナーでは毎年、貴翠館さんにお弁当を頼んでいます。毎年、好評でお弁当を楽しみに来る人も少なくありません。いや、皆さんお弁当を楽しみに来ると言ってもいいくらいなのです。他のお店に発注するとしても開催は明日です。用意するお弁当は百人前。とても間に合いません。」

「そうですか。……例えばお弁当なしというわけにはいかないんでしょうか?あくまでも僕の講演がメインなんですから。後は解散していただいて三々五々皆さんでご飯を食べてもらうとか?」

「それは不可能です。お弁当のないセミナーなど考えられません。はっきり申し上げまして若先生の講演を聴いている人はほとんどいません。九十分の講演で半分以上の人は寝ています。目を開けている人もほとんどの人は他のことを考えていると言っていいでしょう。そういうものなのです。そして昼食会に皆さん全精力をつぎ込むのです。お盆も過ぎて街はお祭り気分です。そこに柏崎の有力者が結集するのです。皆さんそれが楽しみなのです。」

 分かりやすい説明だ。講演の準備を一生懸命してきたのがバカらしくなった。落語でも覚えれば良かった。確かさっき後援会長にも同じようなことを言われていた。

「もしお弁当がなかったらどうなるのでしょうか?」

「一揆が起きるかもしれません。後援会長は引責辞任でしょう。それでなくても去年は裕子お嬢様の喪中で中止されていて皆さんの欲求不満がたまっているのですから。」

 後援会長の顔が脳裏に浮かんだ。あの会長を怒らせたらとてもただではすまないだろう。

「権蔵先生に相談してみたらどうでしょう?」

「もう連絡しました。お前がなんとかしろと言われました。失敗したらお前はクビだと。」

 僕はこのベテラン秘書に心から同情した。このベテラン秘書は次の県議会議員選挙の新人候補になる資格を持っている。その資格を得るために何十年もあの権蔵議員の下で泥水をすすってきたのだ。

「なんでこんなことになっちゃったんでしょう?」

 僕はポツリと言った。

「恐らく相手陣営のわなだと思います。」

「ええっ?」

「相手陣営は明日セミナーが開催されること、そしてそのセミナーの重要性をよく知っているわけですから。ここを叩いておけば白石陣営に大打撃を加えることができると読んだんでしょう。」

「それって、ひどい話じゃないですか。断固、抗議すべきです。」

「しかし証拠がありません。それにうちの陣営ももっとひどいことやってますからあまり文句を言える立場にはないんです。」

 僕は言葉を失った。もっともな話だ。確かに血も涙もない権蔵氏なら目的を果たすためには手段を選ばないだろう。それこそ暗殺だってやりかねない。僕は頭を抱えた。だが頭を抱えたところで問題が解決するわけではない。

「ねえ今の話なんだけど。」

 僕はびっくりした。チャコの声がした。僕のすぐ後ろにチャコがいた。さっきからずっとそこにいたのだ。

「さっき伊藤さんにそのお話聞いたんだけどそのお弁当ってあたしが作ってもいいかな?」

 伊藤秘書と僕は顔を見合わせた。

「若奥さん。それはいくらなんでも無理ですよ。お弁当は百人前ですよ。子どもの遠足の弁当を作るのとはわけが違いますよ。」

 伊藤秘書の言うことはもっともだ。

「ねえ伊藤さん、権蔵の長女の幸子が東京で何をやっているかご存知ですよね?」

「はい。確か中華料理屋さんをやっていらっしゃると聞いておりますが。」

「そう。あたしはその幸子の娘だから中華弁当だったら百人前くらい結構普通に作れるんだあ。」

(「そうか!」)と僕は思った、がセミナーは明日だ。

「チャコ、でもあしただぞ。ここは東京じゃないし、いくらなんでも今日の明日じゃチャコでも無理じゃないのか?」

「う~ん、食材は貴翠館さんから流してもらえばいいでしょ?厨房はお義母さんのところを使わせてもらえばいいし。後は人手だけどそれもマコちゃんが来ればなんとかなると思う。」

「マコちゃん呼ぶの?」

「もう呼んだ。あたしの調理道具セット持ってもうこっちに向かってると思う。鍵預けてて正解だったね。今夜中にはこっちに着くと思うよ。」

「そうか。ありがとう。でも、おふくろのところの厨房は最近使ってないからガスとか電気とか使えないと思うけどどうしよう?この前も見たと思うけど、ほこりだらけだよ。」

「それなら心配ありません。」

 伊藤秘書が間に入った。

「若先生の後援会の会員さんに電気屋さんもガス屋さんも水道屋さんも何人もいらっしゃいますからあたってみます。お母様のところですね?すぐに手配します。今夜中にはなんとかなると思います。」

 さすがはベテラン秘書だ。ベテラン秘書はもうこの作戦にすがるしかないと思っている。伊藤秘書の顔色がよみがえった。

「ねえ、啓一さん。あたしは貴翠館さんみたいに美味しいのは作れないかもしれないけどないよりはましだと思うの。お弁当の件はあたしに任せてもらえないかな?」

 僕は伊藤秘書を見た。伊藤秘書は強くうなずいた。

「よし。お弁当の件はチャコに任せよう。ありがとう。たとえうまく行かなかったとしても感謝するよ。」

「うまく行くよ。こういうことはまず信じることが大事だよ。じゃああたしは伊藤さんとお義母さんのところで準備に入るから啓一さんは啓一さんであしたの準備に専念してね。」

「ありがとう。よろしくお願いします。」

 そう言って僕は二人に頭を下げ、二人は白石本宅から出て行った。

 

 僕はしばらく白石本宅で資料の整理などをし、明日の会場の下見もして、夜の八時頃、僕の実家に顔を出した。もう使われていないお店の方の電気がついていた。引き戸を開けるとチャコと伊藤秘書と僕のおふくろもいて、カウンターに座ってお茶をすすっていた。一段落ついたようだ。ほこりだらけだったはずの店内がきれいに片付いている。今からでも営業再開できそうだ。

「こんばんは。うまくいってるみたいだね?」

「はい。若奥さんが色々と仕切ってくださいまして、今のところすべてうまく行ってます。冷蔵庫は近所の飲食店のものを何件かお借りしています。」

 伊藤秘書も落ち着きを取り戻している。チャコに任せても大丈夫だともうこのベテランは感じているのだろう。

「どう、このお店よみがえったでしょ。こういうところでお店開くのもいいなあ。」

 チャコがそういうのを聞いてチャコとおふくろと僕と三人で、ここで静かにお店をするのもいいかなあと僕も思った。

 外でクルマの止まる音がした。それから人の声と車のドアの閉まる音、クルマが発車する音がしてから引き戸がガラガラと開く音がしてチャコと同じ顔のポニーテールが大きなスーツケースを引きながら入ってきた。

「こんばんは~。お久しぶりで~す。」

「あっマコちゃん。早かったね。ありがとね。来てくれて。」

 久しぶりに会えてチャコもうれしそうだ。

「マコちゃん紹介します。僕のおふくろと柏崎の総括秘書の伊藤さん。」

 僕は二人をマコちゃんに紹介した。

「はじめまして。朝子の双子の妹の真子です。いつも姉がお世話になってます。」

 マコちゃんはしおらしくお辞儀をした。マコちゃんはTシャツに短パンで夏の少女といった雰囲気だ。

「マコちゃん急に来てくれてありがとう。大変だったでしょ?」

 僕はマコちゃんをねぎらった。

「ううん。暇だったし。それにお兄ちゃんがピンチだって聞いたんで。インフルエンザのときには随分お世話になっちゃったからご恩返しさせていただきます。」

「よし、これで準備OK!あしたは早くから仕込むからもう寝るね。啓一さんあしたのお弁当楽しみにしててね。」

 チャコはそう言うと右手の親指を突き出して見せ、僕にウインクした。明日が早いというのでチャコとマコちゃんはおふくろのところに泊まることにし、僕は伊藤秘書と白石本宅に戻った。

 

 次の日、僕は朝早くから実家に行った。僕がお店の引き戸をガラガラと開けたときには既に仕込みが始まっていて、チャコとマコちゃんと僕のおふくろも同じ割烹着を着てあわただしく動き回っていた。みんな生き生きとしていた。

「あっ、啓一さんおはよう。お義母さんも手伝ってくれてるの。うまくいってるよ。なんだかすごく楽しいよ。」

 チャコがにっこり笑ってそう言ってくれた。本当に楽しそうだったので僕もうれしくなった。チャコは「何か食べていく?」と言ってくれたが邪魔になると悪いので早々に引き上げた。僕は早めに海岸沿いにある会場に入り、秘書の皆さんと最後の打ち合わせをして会場の設営にとりかかった。

 九時半に開場し、僕の講演は十時から。僕の講演を楽しみにしている人はいなかったのだろうが出席予定の人は一人の例外もなく皆さん出席だった。それだけ皆さんこの日を楽しみにしていたのだろう。皆さん食中毒のことはご存知で一様に「大丈夫ですか?」と聞いていたが、伊藤秘書があまりにも自信たっぷりに「すぐに別のところに手配したので大丈夫です」と答えていたので僕の方がかえって不安になった。後援会長はあまり問題にしていないようだった。

 十時きっかりに僕の講演が始まった。伊藤秘書の言うとおり、僕の講演を聴いている人は少ないようだった。少なくない人が眠っていた。退屈なうちに九十分が過ぎた。

 講演が終わると参加者と僕は近くの宴会場に移動した。僕は祈るような気持ちで控え室に待機した。秘書が会場の準備ができたことを告げに来て、その秘書にエスコートされて僕は宴会場に入場した。出席者の皆さんが拍手で僕を迎えてくれた。宴会場に入り僕は席に並べられているお弁当を見て安堵した。本当に美味しそうだった。まるでプロに頼んだようだった。僕は奥の上座に着座し、司会進行役の後援会長がマイクを握った。

「皆さん長らくお待たせしました。それでは夏の政治セミナー第二部、大昼食会を始めさせていただきます。司会進行は会長の私が務めさせていただきます。ではまず若先生からごあいさつをいただきます。」

 僕が冒頭あいさつに指名され僕は立ってワイヤレスマイクを握った。

 僕は可もなく不可もないあいさつを始めた。そもそも僕は元来、人前で話すのは得意ではない。おもしろい話もできない。さっきの講演も練りに練った割にはどっと沸くような話はできなかった。出席者の皆さんから「早く乾杯しろ」モードが伝わってくる。すると後援会長が「お話中ちょっとすみません」と言って僕の発言を止めた。

「お話中すみません。今、若先生の奥様、権蔵大先生のお孫さんでいらっしゃる朝子さんが到着しました。ごあいさついただきましょう。こちらへどうぞ。」

 チャコが到着したのだ。自由が丘女子高等学校の夏服を着たポニーテールは入口から上座まで、出席者全員に見えるように笑顔を振りまきながら真ん中を通って堂々と入場した。割れんばかりの拍手と歓声が起こった。そして上座に着くと僕からマイクを奪い取った。

「皆さんこんにちは~。遅くなってすみません。裏方をやっていましたもので到着が遅れてしまいました。皆さんには既にごあいさつさせていただいていると思いますが、あたしがあの鬼の権蔵の魔の手によって政略結婚させられました権蔵の孫の朝子で~す。」

 強烈なブラックユーモアだがチャコが満面の笑みなので嫌味には聞こえない。気の利いたエスプリに聞こえる。会場の拍手歓声は一段と強くなった。

「今日はこんな格好ですみません。あたしの通ってる高校は政略結婚も認めるお嬢様学校なんで外に出るときは必ず制服を着ていなきゃいけないんです。もっとおしゃれして皆さんの前に出たかったんですけど許してくださいね。」

 そこでまた歓声が起こり、「かわいいぞ~」と野次が飛んだ。

「ありがとうございます。でも、これでもあたしにはあのごっつい権蔵の血が混じってるんですよ。」

 そこでまた会場が沸き、特に後援会長が笑いのつぼを突かれたのだろう、大爆笑した。僕には何がおもしろいのかよく分からなかったが、後援会の皆さんの笑いのつぼは押さえたようだ。それまで静かだった会場が一気に明るくなった。マイクが後援会長に戻った。

「では若奥様も見えたのでもう乾杯にしましょう。では乾杯の音頭は」、そこで「若奥さ~ん!」という声が飛び「では若奥様お願いします」となった。まだ僕のあいさつの途中だったが一気に盛り上がったので展開としてはこれで正しい。チャコと僕のところにコップが運ばれてきた。チャコの持っているグラスはさすがにジュースのようだ。

「いや、こんなの初めてなんでなんて言ったらいいのか分かりませんが、とにかく主人のことよろしくお願いします。では皆様の幸せな未来をお祈りしてカンパ~イ!」

 全員が「乾杯!」を唱和し、拍手が起こって大宴会が始まった。

 それからチャコはものすごい社交力を発揮した。後援者の周りを駆け巡り、ビールを注ぎ、冗談を言って笑わせた。僕はチャコの後をついていくようなかっこうになった。

 支持者の皆さんは若い二人に温かい言葉を投げかけてくれた。事実上、これが二人の結婚披露宴だった。大昼食会はチャコの登場で大盛り上がりに盛り上がった。そして商工会議所会頭の音頭で締めが行われ、大宴会はお開きになった。後援会長とチャコと僕は三人並んで出口で出席者を一人ひとり見送った。後ろに秘書連中を従えている。出席者の皆さんは一人ひとり後援会長とチャコと僕と握手した。みんな満足そうだった。

 

「若先生。」

 最後の出席者を見送ると後援会長が僕に話しかけた。

「私、実は貴翠館さんで食中毒が出たって聞いて今年のセミナーはもうおしまいかなって思ってたんですよ。」

「はあ。」

「よくお弁当手配できましたね。私にだけタネ明かししていただいてもいいかしら。」

「それはですね……」

「それはですね会長さん、どうしたと思います?」

 チャコが横から会話に割り込んできた。

「啓一さん、皆さんがこの日のお弁当をとっても楽しみにしているのを良く知っていて、なんとしてでもお弁当を調達するって言って、すぐに東京に連絡を取って東京から腕利きのシェフにこっそり来てもらったんですよ。」

「まあそうだったの。」

 僕はびっくりしてチャコを見た。チャコはなおも話し続ける。

「まあこっそりなんでシェフの名前は秘密なんですけどね。手際の良さにあたしもびっくりしました。惚れ直しちゃいました。」

「まあこれはごちそうさま。大先生のお耳にも入れておかないといけませんわね。若先生とっても立派に問題を解決なさいましたって。」

「いいえ、私はなんにも。……それより伊藤さんがこの問題を解決したことにしておいてくれませんか?」

 せっかく僕を立ててくれたチャコには申し訳ないと思ったが僕はきっぱりと言った。

「総括秘書の伊藤さん?」

「ええ。伊藤さん権蔵先生に随分と叱責されたようなんです。このままだと次回の県議会議員選挙の候補として推薦してもらえないんじゃないかと思いまして。」

「まあ、若先生ご立派だわ。自分の手柄を譲るなんて。今までこんな人いたかしら。」

「伊藤さんは本当に良くやってくれました。それなのに正当に評価されないのは可哀想ですから。」

「分かりました。大先生にはそう伝えておきます。……若先生。朝子さんの学校もあるでしょうからもう地元にはそうそう帰ってきていただかなくてもいいですよ。」

「はあ?」

「私、あなたのことがとても気に入りました。地元のことは私達に任せてください。私、次の選挙ではあなたのこと絶対に当選させてみせますわ。」

 そう言うと後援会長は僕に握手を求めてきて僕は握手した。チャコが「主人のことどうぞよろしくお願いします」と言い、僕も「よろしくお願いします」と頭を下げた。後援会長はチャコとも握手をした。そして三人で握手をして写真を撮った。後援会報に載せるそうだ。出口付近ではまだ多くの人が名残惜しそうに、にこやかに談笑していた。「政治セミナー」は大成功で終わった。すべてチャコのお陰だった。僕はうれしくて涙が出そうになった。

 

 後援会長とも別れ、チャコと僕は会場から白石本宅まで歩いて帰った。夏の日差しが強く、しかし気持ちがいい午後だ。

「啓一さんさすがだね。」

「ん?」

「伊藤さんのこと後援会長さんにしっかりフォローしてたよね。」

「ああ。ごめんね。せっかくチャコが僕のことフォローしてくれたのに。」

「とんでもないよ。立派だったよ。あたしこの人で良かった、間違ってなかったって思っちゃった。」

「僕の方こそ……チャコにはなんとお礼を言ったらいいのか…すべてチャコのお陰だよ。」

「お礼なんていいよ。あたし一人の力じゃないよ。食材はあったし、お義母さんは厨房貸してくれたし、マコちゃんはすぐに来てくれたし、色々な幸運が重なった結果だよ。……それにあたしもうれしいんだあ。いっつも啓一さんには甘えてばっかりでしょ。やっと啓一さんのために何かできたんじゃないかなあって思ってるの。少しは役に立てたよね?」

「役に立ったなんてもんじゃないよ。そんなんじゃ僕の気がすまない。僕にできることがあればなんでも言ってほしい。」

「それじゃあねえ……」

 そう言うとポニーテールは大股で三歩前に飛び跳ね、クルリと僕の方を向いた。僕は立ち止まった。

「あたしをファーストレディーにして。」

「ファーストレディーに?」

「うん。政府専用機って乗ってみたいんだあ。それで啓一さんと色んな国に行って色んな人に会うの。楽しいだろうなあ。」

 チャコは満面の笑みだ。僕もうれしくなる。

「分かった。約束するよ。何年先になるか分からないけどね。」

「うん。何年でも待ってるね。」

 そう言うとチャコはまたクルリと身体を回転させ、スキップしていった。

 僕は選挙なんてまるで他人事のように考えていたけれど、このときだけはこの子のために選挙に出てみるのも悪くはないのかなとちょっぴり思った。

 



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八 オーディション事件

 僕の柏崎での滞在は予定より少し長引いた。途中から来たマコちゃんはそのまま柏崎にしばらく滞在し、海で泳ぎまくった。そして夏休みの終わる五日前、チャコと一緒に北陸を回って東京に帰ると言って二人で旅立っていった。

 僕はというと二人が柏崎に残していった置き土産、夏休みの宿題を二人分仕上げ、書留の速達で東京に送ってから一週間くらい残務整理をして、改めて有力者にあいさつをしてから帰京した。

 僕は九月初めのある平日の午後、碑文谷の自宅に帰ってきた。チャコは学校に行っている時間帯で留守だった。荷物の整理とかをしばらくしているとチャコが帰ってきた。

「お帰りなさい。帰ってたんだ。長期出張お疲れさまでした。柏崎楽しかったね。」

 ニコニコのチャコは制服のままダイニングチェアに腰掛け僕と十二日ぶりに向き合った。少し日焼けした感じがした。

「お帰り。久しぶりだね。元気そうでなによりです。柏崎では色々ありがとう。本当にチャコには助けられたね。」

「大したことしてないよ。でも今までの夏休みでは一番楽しかったかな。マコちゃんもよろこんでた。宿題のこともね。あの後、うまくいった?」

「お蔭様ですべてうまくいったよ。チャコの方はその後どうだった?二学期始まったけど何か変わったことはなかった?」

「あったよ。」

 チャコはいつもの笑顔で答えた。僕はチャコのその返事を聞いて少し安心した。大体チャコと僕が別々に暮らすのはインフルエンザ事件以来であり、それも約二週間に及ぶ長期間の別居は始めてである。その間、決しておとなしくないチャコの周辺に何もない方が異常なのだ。

「何?」

「何があったと思う?」

「また学校で何かやった?」

「ううん、原宿でスカウトされたの。」

「野球じゃないよね?」

「うん。芸能プロダクション。チャコちゃんかわいいからまいっちゃうよね。名刺渡されて、興味あったらここに電話してくださいって。」

「で、どうしたの。」

「その後ね、これは最初からその予定だったんだけど実家に行ったの。その後、どうなったかは分かるよね?」

「うん。君はその話をマコちゃんにしたんだ。」

「そう。」

「で、マコちゃんが君からその名刺を奪った。何時頃だったの?」

「う~ん、夕方の四時か五時頃かな。」

「じゃあマコちゃんはすぐにその名刺の電話番号に電話したんだね。『さっき原宿でスカウトされたものですけど』とか言って。それから一番いい服着てすっ飛んでったんじゃないかな。」

「最後はブブーだね。着の身着のままですっ飛んで行ったよ。」

 なるほどマコちゃんらしい。

「で、とりあえずガーネットっていう音楽事務所、まあ芸能プロダクションだね、そこに所属することになったんだけど、それだけじゃただ在籍してるだけだからオーディション受けることになったんだって。」

「オーディションってドラマかなんかの?」

「う~ん、なんていうのか、今はやりの、今はやりというか二十年くらい前からはやりのアイドルチームだよ。女の子何人かでグループ作るの。色々できてるでしょ?」

「ああ、なんとかクラブとか、なんとかチームとかそういうのね。」

「そう。それで再来週の日曜かな、公開オーディションがあるからあたし達にも見に来てほしいんだって。」

「見るだけ?またどっかで入れ替わるんじゃないの?」

「う~ん、今回は筆記試験ないからなあ。入れ替わるとしたら歌のところだけだね。」

「やっぱり入れ替わるんだ。」

「うん。マコちゃんとあたしって外見は同じだけど得意分野が違うのよ。芸術系だとマコちゃん音痴だけど歌はあたしの方がうまいの。踊りもかな。その代わり絵を描くのはマコちゃんの方が断然うまい。だから夏休みの宿題なんていつもマコちゃんに丸投げだったもん。書道もマコちゃんだね。すごい達筆。書初めも丸投げだったなあ。で、一曲振り付けしながら歌うのがあるそうでそこのところだけは入れ替わろうかなと思ってる。できるかどうか分からないけどね。まあマコちゃんは歌手になるよりも時代劇とかに出るのが夢見たいだからそれでいいのかなって思ってる。」

「親御さんは反対してないの?」

「あたしの結婚のときもそうだったけど、お父さんもお母さんも反対も賛成もしてないよ。ただいい顔しないだけ。まあ、自分達も親の言うこと聞いてこなかったわけだから子どもが何しても文句言えないということかな。ということでもう時間あまりないけど少し練習したいんでスタジオ使ってもいいかな?」

「ああいいよ。」

 裕ちゃんが使っていたスタジオは今では僕の書斎も兼ねているが防音工事が施されており、マイクも使えるし、録音もできるのだ。

「で、マコちゃんって事務所の人に裕ちゃんのこと言ったのかな?『白石裕子の姪です』とか。」

「さあどうだろう。まああの目的を達成するためには手段を選ばないマコちゃんが言わないはずはないけどね。」

(「それはお前だろう!」)と言いたかったがその言葉は飲み込んだ。柏崎では世話になっているのだ。命の恩人なのだ。

「本人には聞いてないのね。」

「うん。でも言ったところで事務所の人に信じてもらえるかどうか。裕ちゃんは謎の歌姫だったからね。裕ちゃんのプライベートって全然出てこなかったから。死んだことも謎に包まれててまだ生きてるっていう都市伝説もあるくらいだからね。」

「ああ、その都市伝説なら僕も聞いたことがある。だからファンクラブもまだ解散してないんだ。」

「ねえ、なんで裕ちゃんってあんなに謎めいたシンガーになっちゃったの?マスコミの露出少ないし、普通ないよね。」

「僕もよくは分からないんだけどたぶん権蔵先生の圧力だったんだと思う。」

「おじいちゃんの?」

「うん。権蔵先生は裕ちゃんが歌手になるの大反対だったからね。それで事務所に圧力をかけたんだよ。それこそ本当の政治的圧力をね。そしたら事務所の方でもプライベートが隠された謎めいた歌手ってことで売り出すのも面白いってことになって、そうやって売り出したら本当に当たっちゃってそのまま後に引けなくなったってわけだ。」

「ふうん。そうだったんだ。」

「あくまでもこれは僕の推測だけどね。でも当たらずしも遠からじだと思う。お陰で僕もマスコミに追い掛け回されずに済んだんでよかったけどね。特に最後の一年は裕ちゃんをそっとしておくことができた。」

「ねえ、裕ちゃんてホントに死んじゃったんだよね?」

「うん。それは間違いないよ。裕ちゃんが息を引き取るとき僕は裕ちゃんの手をずっと握ってたんだから。」

 裕ちゃんは僕の手を握りながら、静かに安らかに、眠るように息を引き取った。でも僕はもうその光景を思い出すことができないし、思い出すこともないだろう。もう遠い記憶だ。

「そう、……ごめんなさい。……変なこと思い出させちゃったね。別になんでもないの。もちろん裕ちゃんが生きていてくれればあたしはうれしいんだけど、ただ、……啓一さんのことやっぱり返してって言われたらどうしようかなって思っちゃったの。……ごめんねえ、変なこと言って。久しぶりに啓一さんにあえてうれしいんだよ。……だから。……ああ、そうだあたし宿題やらなきゃ。宿題、宿題……」

 そう言うとチャコはダイニングから出て行った。変なことを言う奴だ。

 

 それからマコちゃんはたびたび碑文谷の僕の家にやってきてチャコと二人で歌の練習をしていた。僕はというと臨時国会が始まってしまい政治家見習いとしての仕事が忙しくなり、二人の練習にはなかなか付き合ってあげられなかった。たまに早く帰ると、まだマコちゃんがいて、チャコと二人でくつろいだりしていた。

「マコちゃんどう?うまくいってる?」

 僕はチャコとお茶を楽しんでいるマコちゃんに話しかけてみた。

「うん。ようやく運がつかめたって感じ。これでスーパーアイドルになっちゃったらどうしよう。」

「随分、自信あるんだね。」

「自信って程じゃないけど、これでも学校じゃ結構人気あるからね。」

「マコちゃんは天狗になってるだけだよ。」

 チャコが横槍を入れた。

「まあ、チャコちゃんには感謝するよ。チャコちゃんが原宿でスカウトされなかったらこんなチャンスまわってこなかったんだから。」

「で、オーディションって何やるの?」

 僕はマコちゃんに聞いた。

「三つのステージがあるんだあ。第一ステージでは自己紹介と水着審査、第二ステージでは振り付けしながらの歌一曲、第三ステージではお得意パフォーマンス。これはなんでもいいの。オーディションは一応、公募ってことになってるけどそれは表向きで、ほとんどの候補者が書類選考で落とされてるの。で、あたしみたいに既に事務所に所属してて、事務所から強い推薦を受けてる二十人が最終選考に臨めるってわけ。合格者は三人だから結構狭い門だね。」

「狭い門の割には自信あるの?」

「自信てほどじゃないけど失敗してもいいかなと。初めてだし、社長からも度胸試しって言われてる。やっぱり苦手は歌かな。」

マコちゃんとチャコの間では歌のところはチャコと入れ替わる作戦のようだ。しかし、二人にとってはじめての経験であり、作戦は失敗するかもしれないので念のためマコちゃんも同じ曲の練習をしているようだった。マコちゃんは歌は苦手のようだ。その代わり時代劇ネタをやるという第三ステージは結構、自信を持っているようだった。

「ところでマコちゃん。裕ちゃんのことは事務所に話してるの?」

 僕はかねてからの疑問を聞いてみた。

「話してないよ。」

「話してないの?マコちゃんらしくないなあ。」

 チャコもびっくりだ。

「うん。なんとなく言いそびれたというか、そんなこと忘れてたというか、裕子叔母さんがあまりにも雲の上の人だから。言っても信じてもらえないだろうし。信じてもらえたとしても今度は裕子叔母さんと比較されたらとても比べ物にならないかなあとか思って。」

「そう。まあそれはむしろ良かったかもしれないね。マコちゃんはマコちゃんの個性で勝負すべきだよ。」

 僕が言うとマコちゃんは笑顔で応えた。余程自信があるようだ。

 

 そして彼岸が過ぎた日曜日の午後、オーディションが開催された。場所は渋谷の少し大きめのホールで、ファンクラブの会員が抽選で招待されているほか家族や芸能関係者で会場はにぎわっていた。チャコと僕は「関係者以外立ち入り禁止」の立て札の前でマコちゃんとバイバイし、客席に並んで座った。

 ブザーが鳴って第一ステージが始まった。軽快なミュージックがスタートし、司会者がエントリー番号一番から一人ずつ女の子を紹介する。紹介された女の子はステージに現れ、ステージの回りを少し歩いて中央に置かれたマイクの前で自己紹介をする。そして後ろに下がり横一列に整列するのだ。

 ステージに現れた少女はほとんどがすらっとしたモデル体型で足取りも軽やかだった。歩き方のレッスンも受けているのだろう。ただマイクに向かうと少しぎこちない。天は二物を与えないのだ。

 少女達の紹介は進み、マコちゃんが十二番目に登場した。マコちゃんのプロポーションは決して悪くはない。恐らく通学する都立高校ではトップレベルに入ることだろう。しかし、ここでは後ろから数えた方が早そうだ。それは仕方がない。レベルが高すぎるのだ。ステージをふらふら歩きマイクに向かった。

「エントリーナンバー十二番白石真子で~す。モットーは天真爛漫で~す。将来の夢は時代劇に出ることで~す。お姫様から忍者までなんでもやってみたいで~す。よろしくお願いしま~す。」

 語りはなめらかだ。この十二人の中では最高点がついたことだろう。やはり天は二物を与えないのだ。そして後ろに下がり横一列に並んだのだがマコちゃんだけが極端に背が低く見える。それはそれでかわいく見えるし、僕は好きだが審査委員に好印象を与えられるかどうかはまた別問題だろう。

そして二十人目が登場し、横並びに揃ったところで前進し、ミュージックが止まって全員で各別のポーズを決めた。他の十九人はお色気ポーズだったがマコちゃんだけはなぜかガッツポーズだった。僕にはかわいく見えた。ステージの女の子はいったんステージの袖から下がった。

続いて第二ステージが始まった。今度は後ろのエントリーナンバー二十番から振り付きで一曲歌うのだ。やはり選ばれただけのことはあり、歌もそれなりにうまい。僕はステージに夢中になっていたが途中でふとチャコがいなくなっていることに気がついた。忍者のようだった。まあ僕に気付かれるようでは審査委員にも気付かれてしまうだろうが。

そして九番目にマコちゃんならぬチャコが登場した。今までは色々と騙されてきたがさすがに、今ステージに立っているのがチャコであることは分かるようになった。曲は裕ちゃんのコンクール優勝曲にしてデビュー曲の『グッバイサマーデー』だった。行く夏を惜しむ内容だが明るいアップテンポの軽快な曲だ。素人でも歌いやすい曲で裕ちゃんの中では僕が一番好きな楽曲の一つだ。アップテンポだが振り付けがそんなにないことも選曲理由の一つだったのだろう。季節感も考慮したのかもしれない。歌唱力はまあまあだった。素人のど自慢大会では鐘三つかもしれないがこのレベルの高いオーディションでは中の下といったところだろう。まあマコちゃんではお話にならなかったということだ。次のエントリーナンバー十一番が歌ってから少しインターミッションがあり、最後のエントリーナンバー一番が歌い終わるまで第二ステージは一時間くらいかかった。小休止に入り、気がつくとチャコが隣にいた。僕は特にそのことには触れなかった。

 そして十分くらいの小休止が終了し、第三ステージが始まった。今度はまた一番からスタートだ。パフォーマンスは各人様々、バイオリンを弾く者、一発芸をする者、時間も十秒から三分くらいまでと幅があった。審査委員にアピールできればなんでもいいようだった。十二番目に登場したマコちゃんは時代劇ネタを二分くらいやった。「近松門左衛門やりま~す」とか到底元ネタが分からないようなものもやったのだがそれはそれでおもしろく、会場は笑いに包まれた。エントリーした二十人の中では一番笑いが取れていたのではないだろうか。むしろお笑い芸人の方が合っているのではないかと思ったくらいだ。最後の二十番目のパフォーマンスのオカリナ演奏が終わって第三ステージは終了した。第三ステージはマコちゃんも自信があっただけに互角に渡り合えたと思う。

 

 第三ステージが終了し、審査のため約三十分間の長時間の休憩に入った。チャコと僕は会場内の喫茶室で一服した。

「ねえ、マコちゃんどう思う?」

 僕はチャコに聞いた。

「うん、厳しいかなあ。」

「悪くはないけど、ライバルが強すぎるよね。」

「すごいのが二人いるね。あの二人は合格かな。後一人に入るのも厳しいだろうなあ。でもマコちゃんにとってはどっちでもいいんじゃないかな。」

「どっちでも?」

「うん。合格できればいいに決まってるけど、合格できなくても経験にはなるでしょ?今、マコちゃん結構天狗になってるから少し冷静になるのもいいと思うの。まあ、マコちゃんなら一度蹴っ飛ばされたくらいじゃあきらめないだろうしね。」

「でも、マコちゃん落ち込んじゃうんじゃないかなあ。自信あるみたいだったし。」

 僕はそれを心配していた。自信があっただけに落ち込みも激しいだろう。

「まあ大丈夫だよ。マコちゃん回復早いから。美味しいものでも食べに行けばすぐに元気になると思うよ。ということで今日は啓一さん、お財布の方、よろしくね。」

そう言ってチャコはにっこり笑った。チャコはどんなときも前向きだ。お陰で僕は下手に落ち込まずに済んでいるのだろう。そのうちマコちゃんもやってきたがいつもの元気がない。「はあ」と席に着くなりマコちゃんは大きなため息をついた。

「どうしたの元気ないよ。」

 チャコも心配そうだ。

「チャコちゃん、せっかく出てもらったのに申し訳ないけどあたしは無理だ。こんなオーディション通るわけないよ。」

「そうかな?マコちゃんいい線行ってると思うけど。」

 マコちゃんを元気づけようと僕はそう言ったけど僕もマコちゃんには少し厳しいかなとは感じていた。

「駄目駄目。他の子たち小学校入る前から事務所に入ってレッスン受けたりしてるんだよ。あたしがかなう相手じゃない。それにあたしはコネとかもないし。やっぱり芸能界なんて夢のまた夢だったんだね。なんか情けなくて涙が出ちゃう。」

 天真爛漫なマコちゃんが本当に泣きそうだった。

「そうかなあ。」

「そうだよ。裕子叔母さんの才能を少しでも分けてもらえれば良かったんだけどお母さんが幸子じゃねえ。」

 マコちゃんがまた大きくため息をついた。

「ねえマコちゃん。裕ちゃんのこと引き合いに出すなら、裕ちゃんよりマコちゃんの方がずっと恵まれてると思うよ。」

「どうして?さっき見てたでしょ?あたしなんかズタボロだよ。」

「僕は高校時代の裕ちゃんは知らないけど、十六歳の頃の裕ちゃんはもっとひどかったと思うよ。オーディションとかコンクールとかは百回くらい落ち続けたって言ってたから。」

「……」

「でも裕ちゃんは諦めなかった。というより本当に歌が好きだったんだね。歌に対する情熱がすごかったから最後は人を感動させることができたんだと思う。マコちゃんなんて始まったばっかりじゃない。しかも十六でスカウトされて事務所に入れて、一応、芸能人を名乗れるんでしょ?裕ちゃんにしてみれば恵まれてるよ。スタート早いし。それに夢も大きいんでしょ。裕ちゃんに負けないくらい。」

「うん、歌は下手かもしれないけどドラマとかやってみたいなあ。」

「じゃあ、頑張ってよ。僕も活躍するマコちゃん見たいから。」

「は~い。そうだね。まだ始まったばっかりだよね。ごめんね弱音吐いちゃって。お兄ちゃんありがとね。」

 マコちゃんは少し元気を取り戻したようだった。そのとき「啓ちゃん!」と近くで僕の昔の呼び名を呼ぶ声がした。声の方に目をやると懐かしい顔があった。裕ちゃんと一緒に仕事をしていた音楽プロデューサーの野島慎一氏だった。

「やっぱり啓ちゃんだ。懐かしい!どうしたのこんなところで。ナンパでもしてんの?」

 昔からこんな感じだ。

「ああ、野島さん。すごいお久しぶりです。お元気でしたか?なんか前より若返ったんじゃないですか?」

「そうかな。最近は若い子ばっかり相手にしてるからね。またこの世界に戻ったの?」

「またって元々僕はこの世界の住人じゃないですよ。」

「作詞大賞受賞者がよく言うよ。じゃあやっぱりナンパ?」

「いいえ、今日は妹の付き添いですよ。このオーディション受けてるんです。野島さんはお仕事ですか?」

「そう。審査委員やらされてるの。一番前に座ってるよ。そっか啓ちゃん一人っ子だと思ってたけどこんなにかわいい双子の妹がいたんだ。」

 妹はそのうち一人だけなのだが、話がややこしくなるので黙っていた。

「で、こっちの制服着てない方が今日のオーディション受けてるんです。」

「なんだ。せっかくだからツインズユニットで売り出せばいいのに。こんなにかわいいんだから。」

「そうもいかないんですよ。こっちの制服の方は芸能界に興味なし。で、オーディション受ける方は芸能界に興味ありすぎ。双子ってそういうものみたいですよ。」

「そう。たしかマコちゃんだったよね?」

 マコちゃんに聞いた。

「はい。エントリーナンバー十二番の白石真子です。ガーネットに所属してます。よろしくお願いします。」

 マコちゃんは起立して野島氏に深々と頭を下げた。とても緊張した面持ちだ。

「こちらこそよろしくお願いします。……お兄さんにはとてもお世話になったんだ。そしてできればこれからもお世話になりたい。……啓ちゃんこれからもよろしくね。僕はてっきり啓ちゃんは柏崎に帰っちゃったと思ってたんだ。今日はつまらないオーディションで退屈してたけど最後にいいことがあった。もう天才裕ちゃんとのつながりは完全に絶たれてしまったと思ってたけど運命の糸ってあるんだね。ガーネットは知らない事務所じゃないし、妹さんのことは少し使わせてもらうかもしれないよ。いや、きっと使わせてもらうよ。また啓ちゃんにも会いたいしね。じゃあ僕はこれから発……。」

 そこで野島氏は絶句した。十秒間くらい固まっていた。何か重要なことに気付いたようだった。

「今なんて言った?」

 少し怖い口調でマコちゃんに言った。マコちゃんも驚いている。

「よろしくお願いしますって言いました。」

 マコちゃんは起立したままだ。とても緊張している。

「その前だ。」

「ガーネットに所属してます。」

 マコちゃんはびくびくしながら答える。

「いや、その前。」

「エントリーナンバー十二番の白石真子です。」

 「……シライシ……」そうつぶやき野島氏は僕達が座っていた喫茶コーナーのテーブルに左手をつき、おでこに右手をあててしばらく考えるしぐさを見せた。僕は既に野島氏がある重要な誤解をしたことに気付いていた。でもその誤解を解かない方がマコちゃんのためになると思った。但し、嘘だけはつかないようにしようと思った。

「啓ちゃん。」

 野島氏は僕の方に顔を向けた。

「君、結婚したね?」

「ええ、しました。」

 確かに僕は結婚した。嘘はついていない。

「さっき、君はマコちゃんを妹だと紹介したけど実の妹さんではないね?義理の妹さんだね?」

「ええ、義理の妹です。もっと正確に言うと妻の妹です。」

 これもその通りだ。嘘はついていない。

「裕ちゃんのことはガーネットには言ってないんだね?」

「ええそのはずです。そうだよね、マコちゃん?」

 僕はマコちゃんに念を押した。マコちゃんはうなづいた。

「えらい。」

 野島氏は小さくつぶやいた。

「それはえらいよ。自分の足で立とうとするなんて。えらい。」

 野島氏はマコちゃんの方を向いた。

「マコちゃん。」

「はい。」

「今日のオーディションはどうなるか分からないけど、もし君がこの世界で活躍したいと本当に思っているのならいつかは活躍できると思うよ。それは僕が保証しよう。さっきのパフォーマンスは素晴らしかった。僕もゲラゲラ笑っちゃったよ。今日はいい話を聞かせてもらいました。そうか、だから『グッバイサマーデー』だったんだね。久しぶりにいい歌を聞かせてもらったよ。では僕は発表があるので。啓ちゃん、今度は立ち話じゃなくてもっとゆっくり話をしようね。」

 そう言って野島氏は会場へと姿を消した。マコちゃんがその後姿を目で追った。

「ねえ、お兄ちゃんなんであの人知ってるの?」

マコちゃんはとても興奮していた。

「まあ、裕ちゃんのつてだよ。僕は裕ちゃんのことはプライベートな面しかほとんど知らないんだけど芸能関係者も少しは知ってるんだ。」

「ねえ、あの人審査委員長だよ。……真ん中座ってる。」

「ああ、そうなんだ。良かったねマコちゃん。コネがあって。」

「良かったなんてもんじゃないよ。もしこれで合格できたらあたし……あたしお兄ちゃんにあたしのすべてをささげてもいい。」

 マコちゃんは涙を流さんばかりに感激している。

「マコちゃん!」

 そこはさすがにチャコが制したがマコちゃんは興奮冷めやらぬ様子だった。

 

 それからマコちゃんは楽屋に戻り、チャコと僕も会場に戻って着席した。会場のベルが鳴って審査発表が始まった。司会者が「これから合格者を発表します」といい、最初の一人を発表し、審査委員長の野島氏がコメントし、次の一人を発表し、さらに審査委員長がコメントした。最初の二人は予想通り、ずば抜けた二人だった。モデル体型で歌も踊りも演技も完璧だった。僕が審査委員でもこの二人は合格させただろう。そして最後の一人の発表になった。

「では最後の一人を発表します。最後の一人は、……エントリーナンバー十二番、白石真子さんです。おめでとうございます。さあ前の方にどうぞ。」

 マコちゃんはびっくりし、そして泣き出した。マイクを向けられ、口は一生懸命「ありがとうございました」と動いているが声にならない。マイクが音をひろえない。マコちゃんは何度もお辞儀をした。

「では審査委員長の野島先生、コメントをお願いします。」

 司会者が野島氏にふった。

「まあほとんど私の一存で最後の一人は決めさせてもらいました。マコちゃん。今はまだ歌も踊りも上手ではないかもしれないけどこれから伸びる潜在力を評価しました。僕が昔一緒に仕事をしていたある天才的な歌手にとても似てると思ったんです。彼女が誰かは秘密ですが、これから磨けば彼女をしのぐ売れっ子になると思います。これからレッスンとか大変だと思いますが頑張ってください。」

 審査委員長がそういうと会場は大きな拍手に包まれた。マコちゃんは泣きながらもう一度深々とお辞儀をした。とてもかわいかった。

「何はともあれよかったね。チャコも頑張ったかいがあったね。」

 僕は隣のチャコにポツリと言った。

「どうだろう。あたしはなんにもできなかったんじゃないかな。今日、マコちゃんが合格できたのは裕ちゃんのお陰だよ。それと啓一さんのね。さっきの先生、絶対に誤解してたよね。裕ちゃんと啓一さんが結婚したと思ってるよね。啓一さんもそれに気付いてたでしょ?」

「うん。マコちゃんが裕ちゃんの実の妹と勘違いしてたね。でもいいや。マコちゃんとってもうれしそうだし。僕もうれしいよ。」

「あたしもうれしいや。結局、あたしが評価されたってことだもんね。それに審査委員長の先生、あたしが天才的な歌手にとても似てるって言ってた。それって裕ちゃんだよね。あたしが裕ちゃんに似てるってことだもんね。」

 チャコは満足そうな笑みを見せた。こうしてアイドルの卵が一人誕生した。

 



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九 文化祭事件

 朝、キッチンで朝ごはんの片づけをしていると制服に着替えたチャコが大きなスーツケースを持ってダイニングに現れた。旅行にでも行くようなかっこうだ。

「どうしたの?旅行に行くなんて聞いてないけど。」

「啓一さん。あたしこの家を出て行きます。今までお世話になりました。実家に帰ります。」

 僕は言葉を失った。

「ええっ!実家に帰る?一体何があったっていうの?」

「それはご自分の胸にお聞きになったらいかがですか?」

 そう言うとチャコはプイッとダイニングから出て行こうとする。怒っている。僕にはまったく心当たりがない。

「ちょっと待てよ!」

 僕は後を追いかけた。

「心当たりがないから聞いてるんだよ!一体どうしたっていうんだ?君が出て行かなきゃいけないようなことを僕がしたっていうのか?」

 そう言ってチャコの腕をつかむとチャコは振り向き途端に笑顔になった。

「よかったあ。引き止めてくれた。あたし実は『出て行く』って言って、『はいどうぞ』って言われたらどうしようかなって思ってたところだったの。」

 全身の力が抜けた。

「何やってるの?」

「う~ん。特に意味はないの。ただ今日はスーツケース持って学校に行くからなんかいつもと同じじゃつまらないなあと思って、それで実家に帰るって言ったら啓一さんどういう反応するかなとか思って実行してみただけ。ごめんねえ。びっくりしたでしょ。でも引き止めてくれて良かった。あたし必要とされてるんだ。」

「もし、『はいどうぞ』って言ったらどうするつもりだったの?」

「そしたら、学校から普通に帰ってきて、『やっぱりあたしが間違ってました。あたしはあなたなしでは生きていかれません』って頭下げるかなあ。そうすれば啓一さん許してくれるでしょ?」

 この子は七対三の割合で行き当たりばったりだ。

「なんでスーツケースなんて持って行くの?」

「ああ、調理道具だよ。今日、学校で餃子作るんだ。」

「家庭科の実習?」

「いや、文化祭のデモンストレーション。文化祭にお店を出すことになったんだけど、なんのお店にするかってことで、あたしは餃子にしようって言ったのね。そしたら餃子なんて女子高で売れるわけないって猛反対をくらったの。で反対するならあたしの作った餃子食べてからにしろってことになって、今日、学校で作ることになったの。」

「そう。まあなんでもいいけど頑張ってね。」

「ほいほ~い。じゃあ行ってきま~す。」

 そう言うと、僕の作った「愛夫弁当」を持ってチャコは元気に登校していった。

 

 相変わらず臨時国会は開催されていて僕は政治の世界にクビを突っ込んでいる。一学期は国会開会中でもそう頻繁には永田町に通ってはいなかったが、選挙が近づくのをハナで感じるのか、周囲のプレッシャーが強くなり、このところ毎日、否応なしに僕は永田町に通うような生活をしている。でもまだ僕の中では他人事の領域を出ておらず、どうも真剣になれない。言われたことをやっているだけだ。

 ということで最近は帰りも遅い。チャコの相手をあまりしてやれないので申し訳なく思っている。これで本当に議員バッチをつけるようになったらどうなるのか心配になる。この日も家についたのは夜の八時頃だった。

 ダイニングに入るとチャコはキッチンにいた。晩ご飯の準備はできているようでダイニングテーブルには餃子がぎっしりと並べられていた。焼けたものもナマのものもある。

「おかえりなさい。お仕事お疲れさまでした。ご飯これからでしょ?」

「うん。お腹ペコペコなんだ。もう食べていい?」

「どうぞどうぞ。じゃんじゃん食べてね。足りないならまだまだ焼きまっせ!」

 それで僕は今朝の餃子のことを思い出した。

「で、今日はどうだったの?」

「大成功よ。みんな納得してお店は餃子に決まったわ。」

「これは今日の残りってわけ?」

「違う違う。チャコちゃんの餃子が売れ残るわけないでしょ。帰ってきてから焼いたの。まだ焼いてもいいよ。で、今日からしばらくおかずは餃子一色になるので覚悟しておいてくださいね。」

「えっ、あ~そうなの。」

「だって結婚前と違って毎日作ってるわけじゃないからね。腕が鈍らないように練習しないと。お付き合いお願いね。」

「まあいいよ。チャコの作る餃子は僕も大好きだから。」

「良かった。やっぱり啓一さん優しいね。」

「随分気合入ってるね。」

「うん、実はねバトルがあるの。」

「バトル?」

「そう、なんでも昔からの伝統で模擬店同士が売上を競うんだって。」

「何か賞品でも出るの?」

「ううん。そういうのはないの。だから純粋にクラスの名誉のため。」

「その割にはチャコ気合入ってるね。」

「うん。賞品とかはないんだけど、実はトトカルチョがあるの。」

「トトカルチョって賭け事ってこと?」

「まあ競馬みたいなものよ。お嬢様って破目外すと怖いね。」

「……」

 僕は絶句した。

「優勝候補は喫茶店をやる三年D組。ここは白鳥明日香っていうパリ帰りの帰国子女がいるの。パティシエって言われているくらいでお菓子作りの腕はすごいみたい。去年も一昨年も優勝候補だったんだけど、三年生に優勝を阻まれてて、今年は満を持して優勝を狙いにくるみたい。」

「そんな強敵がいて、チャコも優勝を目指すの?しかも餃子で?」

「そう。だから外で実演販売やるんだ。啓一さん、あたしが餃子一個包むのにどれくらい時間かかるか分かるでしょ?」

「う~ん、一秒を切るくらいかな。」

「そこまで速くはできないけど、最速で二分で百個ってとこかな。それをお客さんの前でやるの。そうするとお客さんは集ってくるでしょ。そこで焼き立てを提供するの。これは売れるわよ。」

「で、チャコは自分のクラスに賭けるわけか。」

「そう。しこたまね。」

「しこたまって五桁くらい?」

「あまいなあ。六桁よ。今までおじいちゃんとかにもらったお小遣いをつぎ込むの。優勝候補は圧倒的に白鳥お嬢様。一年生のチャコちゃんはノーマークのダークホース。ぼろ儲けの方程式ってわけ。」

 破目を外すとお嬢様も怖いがチャコはもっと怖いと思った。

「バトルっていうからにはルールはあるの?」

「そんなに細かいのはないんじゃないかなあ。物品販売系は麻薬とかアウトローなものはもちろん駄目だけど基本的になんでもOKかな。食べ物系は火を通せばなんでもいいみたい。食中毒が怖いからね。オー一五七とか。」

「餃子で大丈夫なの?女子高でしょ?」

「ニンニクは使わないし、肉の臭みをとる魔法もかけるから大丈夫。まあ詳細は企業秘密ですけどね。」

 そう言ってチャコは自信満々の笑顔を見せた。

 それから三週間、我が家は朝昼晩、そしておやつも餃子だった。まあ僕が餃子好きだったから良かったが。

 

 自由が丘女子高等学校の文化祭は十一月初めの金土日で開催された。僕は国会の対応があり、金土は見に行かれず、最終日の日曜の午後にようやく見に行くことができた。

 マコちゃんが一緒に行きたいというので自由が丘の駅前で待ち合わせた。マコちゃんは一ヶ月ほど前にメンバーになったアイドルチームのユニホームを着て待っていた。胸に初心者マークが付いている。

「お待たせ。ねえ、マコちゃんそんな格好で出歩いていいの?」

「いいのいいの。まだあたしの顔なんて雑誌にも載ってないくらいだから顔を売らないと駄目なの。こんな格好の女の子と一緒に歩くのは照れくさいかな?なんなら他人の振りしててもいいよ。」

「まあ、今日は文化祭だからいいけどね。」

 そう言って学校に着いて僕は驚いた。誰一人として自由が丘女子高等学校の校則で決められた制服を着ている生徒はいない。普通の服を着ている女の子もいるがそういう子はマコちゃんと同じように他の学校の生徒だろう。明らかに自由が丘女子の生徒と思われる女の子は思い思いのコスチュームを着ていた。秋葉原のような世界だった。アイドルチームのユニホーム姿のマコちゃんが軽く見える。

 マコちゃんと僕はチャコの出店を探した。昇降口の脇に一際、人だかりのできている一角があり、近づいて見てみるとチャコの出店だった。中華飯店の割烹着を着たチャコは餃子を包むパフォーマンスの真っ最中で、真剣なまなざしで、ものすごいスピードで餃子を成形していた。とても女子高生の技とは思えない。お客さんは静まり返って見ている。

「あの~失礼します。」

 黙ってチャコのパフォーマンスを見ているとチャコと同じ割烹着を着た女生徒が声をかけてきた。

「失礼ですがチャコちゃんのご主人さんと妹さんですか?」

「はいそうですけど。」

「はじめまして。私、同じクラスの中本恵子と申します。いつもチャコちゃんにはお世話になっています。」

 クラスメートだった。品行方正なお嬢さんといった感じだ。

「こちらの方こそお世話になってます。」

「お噂はよく聞いています。」

「どうせろくな話じゃないんでしょ?」

「そんなことないですよ。とっても優しい旦那さんだと聞いてます。チャコちゃんのことがうらやましくて私も早く結婚しようかなとか思っているんですよ。」

「そうですか。ありがとうございます。で、バトルの方はどうなんです?」

「いい勝負してますよ。うちと三年D組の一騎打ちになってます。私は一年なんで過去のことは良く知らないんですけど先生の話では近年にない名勝負だそうです。」

「今日はみんな制服着なくていいの?」

「はい。今日はお祭りなんで制服着用は免除されているんです。だからここぞとばかりにみんな思い思いの格好をするんですよ。私はチャコちゃんと同じ割烹着にしたけど、うちのクラスのほかの子の多くはスリットのついたチャイナドレスです。」

 なるほど日本にはハレの文化とケの文化というのがある。普段の日はケの日で酒も飲めないが、お祭りなどのハレの日は傍若無人の振る舞いが許されるというのだ。だから普段押さえつけられているこの高校の女生徒はここぞとばかりに破目を外すのだろう。

 そうこうするうちに出店の前の人だかりから拍手が沸き起こった。チャコのパフォーマンスがいったん終了したのだ。チャコはマコちゃんと僕に気付くと三角巾を取ってこっちに来た。

「来てくれてんだ。ありがとう。」

「いや、僕の方こそ遅くなってゴメンね。もっと早く来たかったんだけど。」

「ううん。ちょうどバテてきたところだったから良かった。二人の顔見たら元気が出たよ。」

「いい勝負してるみたいだね。」

「相手は手ごわいけどね。まあ二人から力もらったんでもう一頑張りするよ。」

「チャコちゃん!大変!」

 談笑しているとさっきの恵子ちゃんがあわてて来た。

「どうしたの恵子ちゃん。あっ、こっちが旦那でこっちが妹のマコちゃんね。」

「もう紹介済み。それより三年D組が伝説のイチゴショート出したって。」

「そうきたか。」

 チャコは冷静に言った。

「伝説のイチゴショートって何?」

 僕はどちらともなく聞いた。

「こないだ話した白鳥先輩、うちのパティシエの十八番。食べた人がこの世のものとは思えないと絶賛するほどの美味しさなんだって。ここでは出さないって話だったんだけどね。勝負かけてきたんだね。」

「そんなに美味しいのならあたしも食べてみたいなあ。」

 マコちゃんがサラリと言った。

「じゃあ啓一さんとマコちゃんで三年D組に行ってくれば。あたしも行きたいけどここはずせないから。食べたらどんなだったか教えてね。」

「いいのかい?」

「もちろんよ。ここにずっといてもつまらないでしょ?啓一さんもまだ若いんだから女子高の空気を満喫してよ。」

「うん。」

「じゃあお兄ちゃん行こうよ。」

 僕はもう少しチャコの傍にいてやりたかったがマコちゃんに促されて喫茶室のある三年D組の教室に向かった。

 

 マコちゃんと廊下を歩いているとマコちゃんが突然「こんにちは、マコで~す」と軽くあいさつしたのでハッと相手を見ると高倉女史だった。高倉女史はさすがにコスチュームではなかったがいつもより派手な格好をしている。

「あらいらしてくださったの?」

「ええ。こんなときでもないとお嬢様学校ってのぞけないんで。先生、この前はタンカ切っちゃってごめんなさい。チャコちゃんがバカにされてると思ってついカーッとなっちゃって。先生に随分ひどいこと言ったけど本心じゃないんで気にしないでくださいね。」

「いいえ、この前はあたしの方が悪かったんだから。……今日は楽しんでいってね。」

 高倉女史とマコちゃんの間でそんなあいさつが交わされた。僕はピンとくるのに少し時間がかかった。「水泳事件」のときの話だったのだ。あのときタンカを切ったのはマコちゃん役を演じていたチャコだった。高倉女史に「行かず後家」とまで言ったのだ。それなのにマコちゃんはあたかも本当に自分がタンカを切ったかのように、あまりにも自然にプールで二十五メートル泳いだのがチャコだったことを裏書きしてみせたのだ。マコちゃんの瞬発力に僕はぞくっとした。

「白石さん。」

 高倉女史が僕の方を向いた。

「はい。」

「朝子さん素晴らしいわ。はっきり言ってうちのクラスあまりまとまっていなかったんです。それは担任の私の力不足もあるんですが、二学期になって、文化祭の準備をすることになって朝子さんがものすごいリーダーシップを発揮してクラスをまとめてくれたんです。毎年ああいう子が一人は現れて生徒会長になっていくんですけど、一年生では朝子さんが当たりかなって思ってます。まあ主婦業と生徒会長の両立は厳しいかもしれませんけどね。それとびっくりしたのは餃子作りの手際のよさ。さすがは主婦だと感心しました。餃子作りの腕はプロ級ですね。」

 並みの主婦ではチャコの足元にも及ばないだろう。チャコの腕はプロ級ではない。プロなのだ。物心つく前からひき肉をこねていたキャリア十年のチャコは餃子だけで十分食べていけるだけの実力があるのだ。

「なんかバトルがあるみたいですね。」

「ええ、本校の伝統行事ですから。子ども達は頑張ってますけど、優勝はやはり三年生でしょう。でもここまで頑張ったんですから負けても満足なんじゃないかしら。」

 高倉女史はトトカルチョのことは知らないようだ。

「では楽しんでいってくださいね。」

 そう言って一礼すると高倉女史は消えていった。

 それからマコちゃんと階段を上り、廊下を少し行くと三年D組の教室の前に着いた。既に教室一つ分くらいの長さの列ができていた。ここの喫茶のスタッフは黒のメイド服で統一しているようだ。ここも秋葉原が引っ越してきたような雰囲気だった。

「すごい人気だね。これじゃ食べはぐっちゃうかも。」

 マコちゃんが心配そうに言った。しばらく待っていると、メイド服を着たお嬢様が話しかけてきた。

「こんにちは。あなたが白石朝子さんね。そしてこちらが噂のご主人様かしら?」

「失礼ですがあなたは?」

 マコちゃんがポワ~ンとしているので僕がメイド服姿のお嬢様に尋ねた。

「申し遅れました。白鳥明日香と申します。ここの喫茶のリーダーをやってます。」

 これが噂のパティシエかと思った。お嬢様にしては品がよくなさそうだ。

「ねえ朝子さん。あなたとっても頑張ってるみたいね。でも申し訳ないけど今年の優勝は私がいただきますね。私、あなたの気持ちよく分かるの。去年も一昨年も私、一生懸命頑張ったんだけど結局、優勝は三年生に持っていかれちゃった。三年生は色々な手を使うからね。だから今年こそは絶対に優勝したいの。」

「別にあたしは優勝なんて狙ってませんけど。クラスのみんなと楽しくやれればいいかなと。」

 いつの間にかマコちゃんはチャコを演じている。

「そう?トトカルチョにつぎ込んでるって噂だけど。」

「トトカルチョってなんですか?」

 トトカルチョのことをマコちゃんは本当に知らない。しかしこの先輩のお嬢様はマコちゃんの発言を「旦那の前ではトトカルチョの話はするな」の文脈でとらえたようだ。一瞬間があった。

「ごめんなさい。あなたはそんなことする人じゃないよね。……とにかくどんな手を使ってでも優勝はうちのクラスがもらいますから悪く思わないでね。あなたには来年も再来年もあるんだから。」

「はいは~い。ねえ先輩、ところでお願いがあるんですけど。」

「何?」

「すごい行列なんですけど、並んでるのも大変なんで裏でこっそり噂のケーキ食べさせてもらえません?」

 この少女は遠慮という言葉を知らない。まあそれがこの少女の魅力でもあるのだが。

「……いいわ。あなたにもあたしの実力を知っておいてもらいたいし。……あなたの作った餃子は本当に美味しかったわ。餃子なんて下々の食べるものだと思ってたけど。まあお互いにエールの交換ということね。本当はイチゴショートを出すつもりはなかったの。イチゴショートはクラスの打ち上げのために準備しておいたものだったんだけどこのままだと負けそうなんで出したの。あなた本当に大したもんね。私にここまでさせるんだから。じゃあこっちに来て。」

 お嬢様はそう言うとマコちゃんと僕を教室の裏に案内してくれた。裏にはにわか厨房の他に帳簿をつけるようなところがあって、机一個と椅子一個が置いてあった。

「椅子一個しかないけどいいよね?」

 お嬢様がそう言うと「ええ。あたしは旦那の膝の上にでも座りますから」とマコちゃんは答えた。お嬢様は「けっ!」という表情だった。

「飲み物は何にする?」

「じゃあホットコーヒーを二つお願いします。」

 マコちゃんは僕の分まで頼んでくれた。お嬢様は無言で下がった。結局、マコちゃんは僕の膝の上には座らず、一つの椅子をお尻半分ずつ分け合った。

「お嬢様っていっても大したことないね。都立とあまり変わらない柄の悪さだね。」

 マコちゃんが小声でポツリと言った。

「まあ、お嬢様も色々いるからね。それに今日は年に一度のお祭りでお嬢様たちは舞い上がってるからね。」

 そう言っているうちにさっきとは別のメイド服姿のお嬢様がケーキとコーヒーを運んできた。

「ケーキセット二つお待たせしました。」

 そう言ってお嬢様はケーキ二つとコーヒー、ミルク、砂糖、マドラーそしてかわいい手作りのチケットをマコちゃんと僕の前に置いた。コーヒーは紙コップに入っているのだが図柄がとてもかわいらしい。この辺はなかなかいいセンスだ。さすがは女子高だ。

「ケーキセット二つで千円になります。」

 高校の文化祭にしてはいい値段だ。僕は日本が誇る細菌学者、野口英世先生のブロマイドを一枚渡した。

「おいしそう。いただきま~す。」

 マコちゃんはそう言うといきなり自分の目の前ではなく、僕の目の前にあるケーキをつついた。まあマコちゃんはこういう奴だ。

「これは美味しい。これは本物だ。お兄ちゃんも食べなよ。」

「ねえ、マコちゃん。まず自分の目の前に置かれたものを普通は食べるんじゃないかなあ。」

「普通はね。でもこれはチャコちゃんに持っていってあげるんだあ。チャコちゃんも食べたがってたからね。このケーキ本当に美味しいね。パティシエの名に恥じないね。」

 僕も食べてみたが本当に美味しかった。スポンジと生クリームとイチゴだけの単純な作りなのだがスポンジと生クリームの相性が絶妙でこれは本物だと思った。

「この味ならこの行列の意味も分かるなあ。可哀想だけどチャコちゃん勝利は厳しいかもね。」

「そうかもね。」

 チャコは本当に頑張っていたが、勝負という面では厳しいかなという気はしていた。さっきのお嬢様もどんなことをしても勝ちにいくということを言っていたのだ。

「ねえ、お兄ちゃん。チャコちゃんてさ、いつもニコニコしてるけど、感情の起伏が激しいから落ち込むときは本当に落ち込むんだよね。今日、もし勝てなかったら頑張ってきた分落ち込んじゃうんじゃないかと思うの。お兄ちゃんしか支えてあげられる人いないと思うからチャコちゃんのことよろしくね。」

「うん。」

 僕はなんとなくうなづいたがチャコのことは心配だった。マコちゃんはトトカルチョのことは知らない。これにトトカルチョの敗戦が付け加えられるのだからチャコの打撃は相当なものだろう。僕に支えきれるだろうか。

 食べ終わるとマコちゃんは自分の目の前にあったケーキを紙皿ごと持って二人は三年D組を後にした。チャコの出店に戻るとマコちゃんはお嬢様のケーキをチャコに渡した。

「はい、伝説のケーキだよ。」

「ありがとう、マコちゃん。ごめん、今はさすがに食べられないから冷蔵庫入れといて。後で頂くから。」

「ほいほ~い。」

 マコちゃんはそういうと出店の裏に設置されている大型冷蔵庫にケーキをしまいに行った。

「どうだった?ケーキ美味しかった。」

「うん美味しかったよ。それは認めざるを得ない。」

 僕はチャコに気を使おうとしたが言葉が思い浮かばなかった。

「あんまりいい顔してないね。あっちは大盛況だったかな?うちの勝利は厳しいかな?」

「そうかもね……。」

 僕は力なく言った。

「まあ負けたら負けたでしょうがないよ。それより勝負はまだ分からないんだからとにかく最後まで頑張るよ。」

 チャコは明るくそう言って休めていた手を再開させた。チャコはいつでもどんなときでも本当に前向きで明るい。高倉女史がチャコを評価するのも分かる気がした。チャコも他のクラスメートも最後まで頑張った。そして午後三時三十分、バトルの終了を告げる鐘が鳴り響いた。あちこちの出店から歓声が起こった。チャコの出店もクラスメート達が握手したり抱き合ったりしていた。中にはもう涙ぐんでいる子もいた。それだけ青春を燃焼させたのだろう。マコちゃんと僕はチャコの元に駆け寄った。

「お疲れ様。よく頑張ったね。とりあえず終わったね。」

「うん。こんなに熱くなったの何年ぶりだろう。啓一さん色々ありがとうね。マコちゃんも。あたしさすがに疲れたんで教室でちょっと一休みしてくるね。」

「どうしよう。先に帰ってようか?後片付けとかあるんでしょ?」

「うん。でも待っててもらっていいかな?今日は一緒に帰ってほしいから。」

 一人ではとても帰れないということなのだろう。僕は即座に理解した。

「分かった。じゃあマコちゃんとブラブラしてるね。」

「バトルの結果発表は四時から昇降口前だから先に行って場所とっとくといいよ。じゃあまた。」

 そう言うとチャコは出店の裏の大型冷蔵庫からさっきマコちゃんが持ってきたお嬢様のケーキを取り出し、校舎の中に消えていった。疲れたからか敗北を予想してか、後姿にいつもの元気はなかった。

 

 それからマコちゃんと僕は昇降口の前に設けられた臨時ステージの右袖で結果発表を待った。生徒達がぞくぞくと集ってくる。マコちゃんは時代劇のうんちくを一生懸命僕に話していたが僕は上の空で聞いていた。チャコはいつの間にか教室から戻ってきてステージの正面にクラスメートと陣取っていた。ステージの反対側の袖には白鳥お嬢様の姿も見える。チャコを頂点に白鳥お嬢様と僕とで二等辺三角形ができた。

 やがて予定より十分ほど遅れて臨時のステージに女性教頭が姿を現した。周りを取り巻く女子高生達が盛んに声援を送りはやし立てる。

「みなさん、大変お待たせしました。実行委員会からみなさんお待ちかね、本年度のバトルの結果報告を致します。」

 歓声が一段と大きくなる。

「本年度は歴史に残るような名勝負、みなさん本当によく頑張ってくれました。きっとクラスの結束も固くなったことでしょう。この経験をぜひ、明日以降の学校生活に活かしてください。では発表します。本年度の売上高ナンバーワンは三年D組。三年D組はこれまでの記録を大幅に更新しました。」

 大歓声が巻き起こった。白鳥明日香は満面の笑みでクラスメートと抱き合っていた。チャコの方に目をやるとチャコは冷静に受け止めていた。周りのクラスメートはとても残念そうな表情だ。大歓声がしばらく続いた。

「みなさん!」

 大歓声が落ち着くのに十五秒くらい待って女性教頭がスピーチを続けた。

「ここで大変残念なことを申し上げなければなりません。このバトルではみなさんご承知のとおり、食中毒防止のため食べ物には必ず火を通さなければならないことになっています。しかし残念ながら三年D組で生クリーム及び生イチゴが使用されたことが発覚してしまいました。本年度は本当にみなさん頑張っていたのでこんなことを言うのは心苦しいのですが一部の生徒からクレームがあり、ルール違反があった以上、実行委員会としては見逃すことができません。大変残念ですが大記録を打ち立てた三年D組は失格とさせていただきます。頑張った三年D組のみなさん、本当にごめんなさい。そういう事情で二位の一年B組、これも素晴らしい記録を打ち立ててくれましたが、一年B組を本年度の勝者と決定いたします。では代表の白石朝子さん、前に出てきてください。」

 



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十 不倫事件

 もうクリスマスが近づいてきて街にジングルベルや第九が流れるようになったある平日の午後、僕は学芸大学駅前の喫茶店で一人の女性を待っていた。チャコと結婚してから妻以外の女性と昼下がりに二人きりで会うのは初めてなのではないだろうか。チャコには今日、僕がここである女性と会うことは話していない。それは「どうか奥さんには内緒に」と相手の女性に懇願されたからだ。つまりこれは密会なのだ。

 窓際の席で注文したオレンジジュースを前にしばらく待っていると僕の耳元に誰かが「ふっ」と息を吹きかけた。身震いした。

「わっ、びっくりした。」

 僕は思わず声を出した。

「お待たせ!ごめんなさい、急にこんなところに呼び出して。チャコちゃんには気付かれてないよね?」

 そう言って都立高校のブレザーの制服を着たチャコと同じ顔の少女は僕の前の席に座った。マコちゃんだ。

「さあね、僕は黙っているけど、マコちゃんおしゃべりだから自分の気付かないうちにマコちゃんが自分からチャコにしゃべってるかもしれないよ。そもそもマコちゃんとチャコは一心同体だろ?お互いに秘密なんて持っていいの?」

 僕がそう言ううちにマコちゃんは僕の飲みかけのオレンジジュースに手を伸ばしたかと思うとストローで一すすりし、「いらっしゃいませ」とメニューを持ってきたウェイトレスにそのグラスをかざし、にっこり笑って「これと同じもの」と注文した。マコちゃんはいつもこんな感じだ。

「実はねえ、チャコちゃんもあたしに隠し事してたことあるんだあ。お兄ちゃんのこと。本当にギリギリまであたしにもお母さんにもお父さんにも結婚すること隠してたんだよ。中三の秋になって急に私立に行くって言い出して、そんなお金あるわけないじゃないって思ってたら、今度は結婚するって言い出して本当にびっくりしちゃった。まあチャコちゃんが私立に行ってくれたお陰であたしは都立の普通科に入れたんだけどね。」

 まあそういうことなのだろう。中学校時代、学業成績で学年最下位を記録したこともあるこの少女が都立高校の普通科に入れたのはチャコが高校受験を私立自由が丘女子高等学校一本に絞っていて都立高校を受験しなかったことが最大の理由なのだろう。そして受験当日、マコちゃん一人が都立高校の受験に行き、チャコは家か図書館辺りでゴロゴロしていたのだろう。もしチャコも都立高校を受験していたらマコちゃんには厳しい結果になったはずだ。そういうことだ。しかし確かに勉強はできないかもしれないけれどそれはマコちゃんの魅力を少しも減退させるものではない。マコちゃんは明るくて、思いやりがあって、楽しい女の子だ。ただ学習が苦手だというだけのことだ。この世界にマコちゃんが嫌いだという人は一人もいないだろう。

「だからそのときの貸しがあるから少しくらい秘密を持ってもいいの。」

「で話ってなんなの?まあ大方予想はつくけどね。」

「分かる?」

「うん。チャコをわざわざはずすっていうことは裕ちゃんの歌を歌わせろとかそういうことなんでしょ?」

「ピンポーン。よく分かったね。さすがはお兄ちゃん。じゃあいいのかな?」

「そうは言ってないよ。この前も言ったと思うけど、裕ちゃんの歌は裕ちゃんと僕の大切な思い出なんだ。だから軽く『はいどうぞ』とは言えないんだよ。」

「ケチ!」

「それにまだ未整理だというのも事実なんだ。それにそもそもマコちゃんの希望はアイドルとして成功することであって特別裕ちゃんの歌が歌いたいわけではないよね?」

「まあ、裕子叔母さんには悪いけどそういうことかな。あたしが売れるために使わせてもらえればと。」

「じゃあ別に歌でなくてもいいじゃない。むしろマコちゃんは時代劇に出たいとかでしょ?」

「な~んだ。お兄ちゃんあたしよりあたしのこと把握してるね。あたしのマネージャーになる?」

 僕自身、秘書を何人もかかえている身なのだがこの少女にとって僕の身の上話などどうでもいいことなのだろう。

「とにかくマコちゃんは僕の大切な妹だからマコちゃんの願いはかなえさせてあげたいとは思ってる。だからちょっと考えさせてよ。」

「了解しました!」

 そう言ってマコちゃんは僕に敬礼した。そこにウェイトレスが「お待たせしました」と言ってオレンジジュースを持ってきた。マコちゃんはストローの封筒の片方を破り、封筒がついたままストローを「ふっ」と一吹きした。ストローの封筒が宙をまった。そしてストローをグラスの中にいれ、オレンジジュースを一気飲みした。マコちゃんは「ふう」と大きく深呼吸した。

「お兄ちゃんいつもごめんね。我がままばかり言って。まあかわいい妹を持ってしまった運命には逆らえないと思ってね。じゃああたしこれからレッスンがあるからまたね。今日のことはチャコちゃんには内緒にしてね。」

「マコちゃん忙しそうだけどお店の方は大丈夫なのかな?」

「う~ん、それも気になってはいるんだ。チャコちゃんが手伝いに来てくれると助かるんだけどなあ。でもあたしからは言えないし。じゃああたし急ぐから。ごちそうさま。」

 そう言ってマコちゃんは疾風のごとく店を出て行った。風速四十メートルくらいはあっただろうか。

 

 家に帰るとチャコはもう学校から帰っていてリビングのソファに座って僕のことを待っていた。

「ただいま。」

「啓一さん。そこに座って。」

 チャコは「おかえりなさい」も言わず静かに言った。僕はチャコに言われるままチャコの前に座った。

「どこに行ってたの?」

 夫の不倫をなじる妻の目だ。

「どこって、駅前の喫茶店だけど。」

「誰かと会ってたの?」

「うん。」

「あたしに内緒で?」

「うん。チャコには内緒にしてって言われたもんだから。」

「女の人でしょ?」

「そうだよ。てかそこまで知ってんだから僕が誰と会ってなんの話してきたのかは分かってるんでしょ?」

「うん、分かってる。」

「じゃあなんでそんなにネチネチ聞くの?」

「だってつまんないんだもん。啓一さん正直すぎて。」

 おどけた表情になった。今までのは演技だったのだ。

「『ちょっとね』とか言ってはぐらかしてくれればもっと盛り上がるんだけどなあ。これじゃあ昼ドラのヒロインになれないよ。」

「なりたいの?」

「別に昼ドラのヒロインでなくてもいいけどちょっとスリルは欲しいかな。ゾクゾクってするようなね。夫は不倫してるんじゃないかって疑うようなあの興奮。でも啓一さんまじめだからなあ。」

「じゃあ例えば僕がスーパーモデルみたいな人と不倫したらチャコはゾクってするの」

「それはそれで嫌だなあ。まあ啓一さんの不倫相手になるとしたらマコちゃんかせいぜい高倉先生くらいのもんかな。いずれにしろあたしにとっては安全パイだ。」

「もう一人忘れてますよ。」

「えっ、誰だろう?……あっ、柏崎の後援会長さん?」

「違うよ。そこまではいかない。それは僕の許容範囲をはるかに超えてる。」

「じゃああたしの知らない人?」

「とてもよく知っている人。」

「裕ちゃんじゃないよね?」

「うん。」

「誰?」

「幸子さん。」

「ああ、そうか。あたしと啓一さんは九歳も離れてるけど、お母さんと啓一さんは九歳しか離れてないんだ。不思議だね。同じ九歳なのに。」

「で、僕が幸子さんと不倫関係になったらチャコはどうするの?」

「う~ん、複雑だなあ。お母さんと啓一さんが仲好しになるのはうれしいんだけどね。でもお母さん、あたしより裕ちゃんに血が近いからやはり強力なライバルか。でも啓一さんとお母さんの間に子どもが生まれて、あたしとの間にも子どもが生まれた場合、二人の子どもの関係はどうなるんだろう?」

「おいおいそこまでいくのかよ。」

「だってお母さんまだ三十四だよ。初婚だっておかしくない年齢だよ。」

「まあそうだけど、なんでこんな話になったんだろう。」

「そうだね。でマコちゃんどうだった?」

「マコちゃんに会ったのは知ってるのね。」

「うん。お兄ちゃんに直接相談するって言ってたから。」

「チャコちゃんには内緒にしてって言われたよ。」

「で、啓一さんはどうなの?裕ちゃんの歌を歌わせてあげるの?」

「今のマコちゃんには無理だよ。ピアノを長年やってた裕ちゃんですらデビューしたのは二十三のときだよ。まだ十六歳で歌といえばカラオケくらいしかやったことのないマコちゃんには歌いこなせないよ。もちろん白石裕子の姪ということを出せばマスコミには乗るかもしれないけど実力が伴わなければファンは最後までついてこない。結局、マコちゃんが傷つくだけさ。」

「そっか、啓一さんそこまでマコちゃんのこと考えてるんだ。やっぱり優しいなあ。」

「マコちゃんとしては有名になれればいいのだからせめてアイドルチームのフロントで歌えるようになればまあ満足してもらえるのかなあと今は考えてる。その辺が落としどころかな。マコちゃんの希望と実力のね。」

「なるほどね。」

「あるいは実力のある歌手を連れてきてユニットにするという手もあるけどね。マコちゃんのいるチームにそういう人がいればいいけど。……それと、マコちゃんお店のこと心配してたよ。最近、レッスンとかで忙しいんだって。チャコちゃんが手伝いに来てくれるといいんだけどって言ってた。」

「そうか。あたしも気にはなってるんだ。」

「マコちゃん、自分からは言えないって言ってたから時間があるときに、今日でもいいんだけど、お店のぞいてきてあげたら。」

「ほいほ~い。そうします。ところで不倫といえば、あたしも話すことがあるんだあ。」

「チャコも不倫してるの?」

「『も』ってことはないでしょ?啓一さんのは不倫ごっこですらないんだから。あたしは不倫ごっこのレベルには達するかな。デートに誘われてんの。」

「ほう。女子高なのにいい話だね。」

「やかないの?」

「うん、やかないの。」

「自信あるんだね。」

「そうだね。チャコが僕の方、向いているのは分かるから。デート行くならどうぞっていう感じかな。どういうきっかけなの?」

「きっかけはマコちゃんかなあ。マコちゃんのファンの人みたい。自由が丘の駅で『白石真子さんですか』って声かけられて、『似てるんですけど違います』って言って、その場は終わったんだけどしばらくして恵子ちゃん、文化祭で会ったと思うんだけど、その恵子ちゃん経由でつたないラブレターが来たの。ああ、青春だって思っちゃった。」

「うれしかった?」

「うん、もう人妻だし、ラブレターなんて縁がないと思ってたから。」

「なんで恵子ちゃん経由なの?」

「なんでもその彼氏、恵子ちゃんの塾だか中学だかのお友達のお友達なんだって。で、自由が丘女子の制服着てるってことで恵子ちゃんがキューピットに指名されたってわけ。」

「で、デートに応じて純情な少年の心をもて遊ぶ人妻を演じるわけだ。」

「あたしはそこまでひどくないよ。まあそれもないとは言わないけど、これは人助けだよ。」

「人助け?」

「うん。実は恵子ちゃん、その彼氏の仲介役になったお友達のこと好きなんだって。で、こんなチャンスは二度とないってことになって、説得されて、今度の土曜日にダブルデートすることになったってわけ。それであたしとしてはキューピット役の二人に逆キューピットを仕掛けてやろうかなってたくらんでるの。だから人助けなの。」

「恵子ちゃんはチャコのことなんて説明してるの?」

「彼氏はいないって言ってるんだって。まあ、嘘はついてないよね。彼氏のいない寂しい女なんだから。だから今度の土曜日少しお出かけしてきますけどいいかな?」

「まあいいですよ。チャコには悪意はないようだし。でも純情な少年の心をひどく傷つけないでね。」

「ああ、それは分かってる。最後にはタネ明かしするつもりだから。だから啓一さんも今度の土曜日はお母さんとデートでもしてくれば。お母さんもたまには若い男と遊びたいでしょうし。実はね、学校で友達から第九のチケットもらったの。行けなくなっちゃったからご夫婦でどうぞって。今度の土曜日で場所は渋谷かな?あたしはそういうことで予定が入っちゃったから啓一さんとお母さんで行ってきなよ。お母さんにはあたしから話しとくから。」

「確かに幸子さんとゆっくりお話したくはあるんだよね。柏崎のこととか権蔵先生のこととか、もちろんチャコのことも。」

「それと裕ちゃんのこともでしょ?」

「うん。」

「じゃあ決まりだね。これから実家に行ってお母さんに話してくるね。それからちょっとお店も手伝ってくる。いいでしょ?」

「うん。いいけどお母さん出かけるとしてお父さん一人でお店大丈夫かなあ?」

「いいよ。いっつもお母さんに甘えてばっかりなんだから。若い男と不倫されても文句は言えないよ。あーあ、啓一さんの爪のあかを煎じてお父さんに飲ませてやりたい。」

「不倫じゃないんだけどなあ。で、チャコ達はどこに行くの?今度の土曜日。」

「う~ん、よく聞いてなかったけど何かのコンサートって言ってた。恵子ちゃんの趣味だからロックかなんかかな。そこに行って、音楽聴いて、何か美味しいものでも食べてツーショットになるんじゃないかな。どうしよう。それからホテルにでも誘われたら。」

「まあなんでもいいけど厳しい自由が丘女子高等学校の校則に違反するようなことはやめてね。」

「その点は大丈夫。恵子ちゃんもちゃんと制服着てきますからね。」

 チャコの通う高校の校則には学校外でも常に制服を着用しなければならないということが決められていて休みの日のデートでももちろん制服を着て行かなければならない。

 

 ということで次の土曜日の午後、チャコと僕は一緒に家を出て、学芸大学の駅の改札で僕はチャコを見送った。そして僕はこの前マコちゃんと密会した喫茶店の同じ席で幸子さんが来るのを待った。

 幸子さんとは結婚後もまともに会話をしていない。話したいことはいっぱいあるのだ。特に裕ちゃんの最期、裕ちゃんは僕の手をずっと握っていた。そういう話を実の姉である幸子さんには聞いてもらいたかった。

 しばらく待っていると僕の耳元に誰かが「ふっ」と息を吹きかけた。身震いした。振り返るとさらに僕はびっくりした。サングラスとマスクをつけた顔がそこにあったのだ。

「ごめんなさい。またびっくりさせちゃった?」

 そう言うと顔の主は僕の前に座りサングラスとマスクを取った。またマコちゃんだ。

「なんでサングラスなんてしてんの?」

「芸能人はプライバシーの保護が大変なのよ。あれっ?お兄ちゃん一人?チャコちゃんは?」

「チャコは別件があって出かけたよ。」

「ねえ、お兄ちゃん、まさかお母さんと二人で会うつもりだったの?信じられない。妻の母親に手を出すなんて。まあお母さんはまだ若いし、年の割には綺麗かもしれないけど。」

「まあそう言うなよ。これはチャコが仕組んだことなんだから。」

「チャコちゃんが自ら不倫をお勧めしたって言うの?」

「だから別に不倫じゃないんだよ。チャコが第九演奏会のチケットを持ってて僕と一緒に行くつもりだったんだけど、チャコの方に別件が入っちゃったんだよ。で、自分の代わりに誰か適当な人ということで幸子さんを指名したんだ。」

「チャコちゃんが?」

「うん。幸子さんと僕ってあまりお話したことないじゃない。だからそういう機会を作ろうとしたんだよ。」

「なーんだ。チャコちゃんが絡んでるのか。あたし、この二人何やってるんだろうってびっくりしちゃった。でもお父さんには内緒なんでしょ?」

「さあ、僕はそこまでは知らない。で、なんでマコちゃんが来たの?」

「お母さんに『チャコに言われてるけどあなた行ってきて』って言われたの。あたしてっきりチャコちゃんもいるんだと思ってた。」

「今日はレッスンないの?」

「予定はあったんだけど先生の都合で急に中止になっちゃったの。だからちょうど暇だったんであたし的には良かったよ。」

「そう。僕と二人になっちゃったけどクラッシックのコンサートなんて行く?」

「う~ん、まあいいよ。あたしクラッシックはそんなに好きじゃないけど第九は好きだから。それにお兄ちゃんとデートなんて久しぶりだし、これも何かの縁でしょ。今日はチャコちゃん現れないみたいだからお兄ちゃんも安心でしょ。この前は美味しいうなぎ食べはぐっちゃったし。」

(「結局、金づるか」)と思ったが抵抗しても仕方ないのでこのできの悪い妹に付き合うことにした。東急で渋谷に移動した。

 

 渋谷駅から会場までは徒歩十分くらいで渋谷の坂道をマコちゃんと僕は登っていった。いつもはセーラー服を着ているはずの傍らにいる女の子が今日は私服なので妙な気分だった。前回、渋谷に二人で来たときは、マコちゃんはチャコ役だった。今日はマコちゃんその人だ。

 会場に着くと後ろの方の席に並んで座った。席は指定席だった。僕は今度こそは眠らないように心に誓った。今日はさすがにチャコは出てこないだろうと思っていたそのとき「ねえ、お兄ちゃんあそこ見てよ」とマコちゃんが前の方を指さしたので見てみるとそこにはセーラー服姿のチャコと恵子ちゃん、そして高校生風の男子二人が並んで座っていた。僕はあまりの偶然にびっくりしたが考えてみればそれほどびっくりすることではなかったのかもしれない。要はチャコの通っている高校の中でこの演奏会のチケットがぐるぐると回っていたのだろう。

「へえ、こんな偶然あるんだ。お兄ちゃん知ってた?」

「ううん。僕もびっくりしているところ。」

「チャコちゃん今日は健全なグループ交際だったんだね。」

「いや、健全なグループ交際じゃなくてダブルデートなんだって。」

「えっ!お兄ちゃんそれを認めたの?本当にこの夫婦はわかんないなあ。」

「なんでもデートに誘われたのはチャコの方だそうなんだけど、チャコとしてはキューピット役の男女二人をくっつけたいんだって。それでまあいいかなと。チャコも最後はタネ明かしするって言ってたし。」

「そう。まあいいや。ごめん。ちょっとあたしトイレに行ってくるね。」

 そう言うとマコちゃんはサングラスをかけ、マスクをして席を外した。

 

 しばらくするとマコちゃんが戻ってきた、と思ったら戻ってきたのはマコちゃんではなかった。マコちゃんと姿かたちはそっくりの別の生命体だった。マスクとサングラスはそのままだ。

「いや~啓一さん奇遇だね。こんなところで会うなんて。しかもお母さんと一緒じゃないなんて二度びっくりだわ。」

 サングラスとマスクをはずしながらその生命体が声を出す。

「こっちの方こそびっくりだよ。デートはいいのかよ。どうなってるんだ?」

「いやあ、あたしにはあの少年は無理だわ。とてつもなくオタッキーだった。マコちゃんのファンってあんな子しかいないのかなあ。さっきからアニメとか特撮とかそんな話ばっかり。恵子ちゃんともう一人のイケメン君は二人の世界に入っちゃうし、啓一さん助けに来てくれないかなあと思ったらホントに助けに来てくれたんで三度びっくりだわ。ねえ啓一さん。あたしが間違ってました。他の男にうつつをぬかすもんじゃありませんでした。あたしにはやっぱりあなたしかいないということがよく分かりました。こんな愚かな女をどうか許してください。」

 チャコはおどけた口調で言った。

「で、マコちゃんは?」

「服を交換して今、チャコちゃんをやってるよ。『啓一さんに裕ちゃんの歌を歌えるようあたしからも言っとくから』って言ったら二つ返事でOKした。まあマコちゃんなら時代劇ネタであの少年と渡り合えると思ったしね。でもどうしてお母さんじゃなかったの?」

「さあ?幸子さんギリギリのところで遠慮したんじゃないかな?マコちゃんも今日たまたまオフだったみたいだし。僕も待ち合わせに来たのがマコちゃんだったんでびっくりしたところだった。」

「そうか。お母さんと啓一さんをデートさせられなかったのは残念だったけどとにかくあたしは助かった。ああ、あたしは今、マコちゃんだ。ねえお兄ちゃん。コンサート終わったらホテル行って不倫ごっこでもしない?たまにはマコちゃんの方が萌えるでしょ?」

 チャコがそう言ううちにブザーが鳴り、場内が暗くなり、ソリストが入場し、指揮者が入場して演奏会は始まった。演奏会が始まると途端にマコちゃん役のチャコは眠りにつき、演奏会が終わるまで目が覚めることはなかった。「チャコちゃんと一緒のときはどんなにつまらない映画でも絶対に寝ちゃ駄目だからね」とこの少女が言っていたのを思い出した。

 

 七十三分くらいが経過し、演奏会は無事終了した。マコちゃん役のチャコと僕はそれから渋谷駅までブラブラと引き返し、駅前でとんこつラーメンを食べて替え玉もして学芸大学の駅前まで戻ってきた。マコちゃんとはさっき僕が待ち合わせをした喫茶店で待ち合わせをしているという。それで自由が丘女子高等学校の制服を着たチャコ役のマコちゃんが現れてチャコとマコちゃんが元に戻れば土曜日は平和なうちに終了する……はずであった。

 チャコと僕は先に喫茶店に入り、ケーキセットをつつきながらマコちゃんの到着を待った。しばらくするとチャコ役のマコちゃんが現れた。

「お待たせ~。一応、今はあたしがチャコちゃんだからこっちに座るね。」

 そう言って制服を着たマコちゃんは僕の隣に座り、僕の目の前に置いてある食べかけのケーキののった皿を左手で引き寄せ、右手でフォークをつかむといきなりパクついた。つまりそのマコちゃんはそういう奴だ。

「マコちゃんありがとう~。で、うまく行った?」

「まあね。第九が終わってすぐに恵子ちゃんたちとはバイバイしてツーショットになったの。それであたしとアキバ少年は代々木公園の方向に少し歩いてすぐに告白タイム。実は人妻ですって言ったよ。」

「びっくりしてたでしょ。あたしも見てみたかったな。」

「『冗談でしょ?』っていうからチャコちゃんから預かった健康保険証を見せたの。保険証の続柄と生年月日を見てアキバ少年はまたびっくり。それでデートに応じたのは恵子ちゃんとイケメン君をくっつけたかったからだって言って、お付き合いはできないけど告白してくれたのはうれしかったって言って、あたしの代わりにあたしに似たアイドルがいるからその子を一生懸命応援してねって言ってすべて終了した。」

 最後にちゃっかり自分の宣伝までするとはさすがはマコちゃんだ。マコちゃんはからになったお皿をテーブルに置き、今度はチャコの目の前にある食べかけのケーキののった皿を手に取り、ケーキにパクついた。マコちゃんはそういう奴だ。

「あ~良かった。やっぱりマコちゃんにまかせて正解だった。やれやれだ。」

 チャコがホッとした。

「ちっとも良くないよ。」

 マコちゃんの声のトーンが変わった。

「ねえ、チャコちゃん。あたし今、すんごく怒ってるんだけどなんでだか分かるよね?」

 口調は優しいが怒りが伝わってくる。

「はい。なんとなく分かります。」

 マコちゃんに丁寧語を使うチャコを見るのは初めてだ。

「ねえ、お兄ちゃん聞いてよ。チャコちゃんひどいんだよ。あのイケメンの方が彼氏だよって言ったんだよ。で、あたしホイホイ引き受けたらイケメン君は恵子ちゃんと既にラブラブじゃない。であたしはアキバ系を押し付けられたの。信じらんない。」

「いやいや、あたしはあのアキバ系の方がイケメンと思ったんだよ。まあこれは見解の相違というか趣味の違いかな?」

 チャコが言い訳する。

「言い訳なんて聞きたくないよ。チャコちゃんがあたしの男子の好み知らないわけないでしょ?それであたしはまんまとチャコちゃんに騙されたってわけ。チャコちゃんどうしてくれるの?落とし前はつけてもらうからね。」

 マコちゃんは本当に怖い。僕の方もビビッてきた。

「だからマコちゃんが裕ちゃんの歌を歌えるように啓一さんを説得するって。」

「そんな空手形には引っかかりませんよ~。あたし本当に怒ってるんだから。」

「ねえ、どうすれば許してくれる?」

「う~ん、…もうしばらくあたしがチャコちゃんをやるね。いいでしょあしたは日曜日だし。」

「えっ?」

「で、チャコちゃんはマコちゃんとしておうちに帰ってお店を手伝ってね。あたしはこれからお兄ちゃんと美味しいものでも食べに行くから。うなぎでも食べに行こうかなあ。」

 それはそれで僕にとっては驚愕の展開だ。この天使の顔をした悪魔と僕は二晩を共にしたことがあるがそのときこの悪魔はインフルエンザで動けなかった。でも今はお元気そのものなのだ。

「ねえ、マコちゃん啓一さんを連れてっちゃうの?」

「あたしは今、チャコちゃんなんだからもれなくお兄ちゃんがついてくるのは当たり前でしょ。いいでしょ。そもそもはチャコちゃんが不倫ごっこなんかするのがいけないんだから。自業自得だね。」

「マコちゃん、啓一さんを連れて行くことだけは勘弁してください。あたし、もうこの人なしでは生きてはいかれない女になってしまったんです。」

 まるで昼ドラのヒロインみたいだ。これってチャコのやりたかったことじゃなかったのか?

「うん、まあいいよ。どうせあしたは朝からレッスンだしあしたの朝までには元に戻ってあげる。でもそれまでは実家に帰って反省してなさい。さあ、もう行っていいよ。後はあたしとお兄ちゃんで楽しくやるから。」

「はーい。」

 チャコは力なく言うと席を立ったので僕もびっくりした。

「ねえ、チャコ。本当に行っちゃうの?」

「しょうがないよ。不倫ごっこなんてしたあたしが馬鹿だったんだから。啓一さん、お願いだから一線だけは越えないでね。じゃあね。」

 そう言うとチャコはジングルベルの鳴り響く師走の雑踏の中に消えていった。

 



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十一 テレビ出演事件(前編)

 慌しくも楽しい年末年始が終わった一月下旬の午後七時頃、僕は碑文谷の街で家路を急いでいた。辺りは暗い。通常国会がスタートしたばかりで僕はとても忙しくなっていた。それでも今日はチャコに「早く帰ってきて」と言われていたのだ。なぜかは教えてくれなかったが何かたくらんでいるのだろう。チャコやチャコと同じ天使の顔をした悪魔に振り回される生活にも随分慣れてしまった。

 家に到着し玄関を開けると僕の予感がほぼ的中していることを感じた。玄関には見慣れない靴がきれいに並べられていたのである。男性用の靴もあるし、女性用の靴もあった。

「ただいま~。」

 僕が玄関を開けると大きな声で「お帰りなさ~い!」とチャコがすっ飛んできた。よそ行きのいい外ヅラだったのでお客さんが来ていることはすぐに分かった。これからしばらくこの少女は貞淑な妻を演じるのだ。僕にとっては好都合だか少し肩が凝る。

「お客さん?」

「そう。啓一さんには黙ってて申し訳なかったんだけど会って欲しい人がいるの。リビングにいらっしゃるのでどうぞ。」

 チャコがいつになく低姿勢だ。僕に気を使っているのが分かる。きっと僕の会いたくない人物なのだ。誰だろうとリビングに入ると

「やあ啓ちゃん。お久しぶり。オーディションのとき以来だね。」

 そこには音楽プロデューサーの野島氏の姿があった。見慣れないアイドルと思われる女の子が二人、マコちゃんと一緒に座っていた。テーブルの上にはチャコが腕をふるったのだろう、餃子やチャーハン、焼きそばなどがところ狭しと並べられていた。美味しい中華料理を囲みながら歓談していたようだ。

「まあ人様の家で僕が言うのもおこがましいけど座ってよ。座って話をしようよ。」

 野島氏にそう言われ僕はなぜか長いソファの真ん中を勧められた。外套と上着を脱いで僕が着座すると僕の知らない二人の女の子が僕の両隣に移動し、僕を挟む格好になった。僕の前の椅子に野島氏とマコちゃんが並んで座り、チャコはダイニングチェアを持ってきて端っこに座っていた。

 なるほど僕の会いたくない相手だ。マコちゃんのオーディション以来、野島氏からは二十回くらい面会を求められているが僕はすべて断ってきた。本当に忙しかったし、会うと面倒なことになると思ったからだ。だからしびれを切らした野島氏は実力行使に出たのだろう。

「いきなり土足で踏み込むようなことをしてごめんね。でもこうでもしないと僕に会ってくれないと思ったから。マコちゃん経由でチャコちゃんに無理をお願いしたよ。」

 野島氏はすまなさそうに言った。もうチャコが僕の妻であることは理解しているようだ。

「お兄ちゃん、忙しいところごめんね。野島先生がどうしてもお兄ちゃんと話がしたいって言うんでチャコちゃんに無理をお願いしたの。」

 マコちゃんもすまなさそうに言った。

「これってチャコが仕組んだのか?」

「うん、啓一さんには悪いと思ったんだけど、今、あたしマコちゃんに逆らえないの。だからこういうことをやらせていただきました。ホントごめんねえ。」

 マコちゃんに逆らえないというのは「不倫事件」のときに自分の危機を脱するためマコちゃんをペテンにかけたことを言っているのだろう。

「まあ、ここまでセットされたらしょうがないから話は聞くけど……」

「啓ちゃん、ありがとう。恩にきるよ。」

 野島氏が右手の手刀を垂直に自分の鼻につけ、スマナイのポーズをしながら言った。

「でもこの二人の女性は?」

 僕は両端に座った二人の女の子の方が気になっていた。初対面のはずだが何か見覚えがある気もする。二人ともモデル体型だ。絶世の美女といってもあながち的外れではないだろう。

「啓一さん知ってるでしょ?鈴木春菜ちゃんと越後屋友美ちゃん。マコちゃんの同期生だよ。」

 チャコが僕の右側、左側の順で紹介した。二人は無言で会釈した。なるほどそう言われれば見覚えはある。マコちゃんのオーディションのときにぶっちぎりで合格した二人だ。

「ああ、思い出した。はじめまして。でもなんで僕の隣に座るの?」

「それはまあ、お色気作戦よ。野島さんに啓一さんをどうしても説得したいって言われて、啓一さんの好きなこと何かなあと思ってとりあえずやってみました。」

 自分の夫に他の女性のお色気作戦を仕掛ける妻も珍しいし、それを当事者の前でばらす妻はもっと珍しいだろう。僕は二人の女の子を交互に見た。二人とも髪は長く、茶髪と言うより金色に近い。右側の女の子はサラサラのストレートで左側はふわっとしたウェーブがかかっていた。メイクもバッチリだ。いつもチャコやマコちゃんを見慣れているせいか、二人がとても大人っぽく見えた。

「まあ状況は理解しました。で、野島さんのお話はなんですか?」

 野島氏は姿勢を正した。高飛車な野島氏にしては珍しく低姿勢だ。みんな僕に気を使っていた。こういう状況は不慣れだ。

「僕が『スタジオL』っていう音楽情報番組をやってるのは知ってるよね?」

「ええ。裕ちゃんの頃からですからね。そういえばマコちゃんのいるチームって『スタジオL』から出て来たチームだから、だからオーディションのとき野島さんが審査委員長だったんですね。今つながりましたよ。」

「それでだ、そろそろ裕ちゃんの命日なんで今年こそ追悼企画をやりたいんだ。」

「追悼企画?」

「うん。本当は去年やりたかったんだけど啓ちゃんが行方不明だったんでできなかった。今年は神のご加護がありマコちゃんのつてで啓ちゃんと再会できた。だから今年はぜひやらせてもらいたいんだ。啓ちゃんには分かってもらえると思うけど今でも裕ちゃんのリクエストがごっそり届くんだ。」

「どういう内容になるんです?」

「まずチームが歌うんだけどそれはマコちゃんをフロントに出す。最新アルバムの七番目の曲でマコちゃんをフロントに起用してある。それはこのときのために準備したんだ。啓ちゃんを説得する材料にするためにね。この番組のこの企画のためだ。その後に『卒業』を歌ってもらう。」

「マコちゃんにですか?それは無理でしょう。」

 マコちゃんの歌唱力には限界がある。はっきり言って音痴なのだ。

「そう。マコちゃんには無理だ。オーディションのときはもっとうまかったはずだったんだけどな。だから『卒業』は今、啓ちゃんの右隣に座ってる鈴木春菜に歌ってもらおうと思ってる。」

 僕は右隣のサラサラストレートを見た。サラサラストレートは無言で会釈した。

「なぜ彼女なんです?」

 僕は春菜ちゃんの方をチラッと見て言った。

「実はねえ、春菜ちゃん柏崎の出身なの。」

 マコちゃんが解説してくれた。

「ああ、そうなんだ。どこの中学?」

「一中です。」

 サラサラストレートは優しい笑顔で答えた。

「で、柏崎小学校ってわけか。」

「はい。」

 なるほど、正真正銘、裕ちゃんと僕の後輩だ。

「どうだろう。春菜の歌唱力は君もオーディションのときに見て知ってるだろう。問題ない、というよりはっきり言って裕ちゃんより上だ。それで裕ちゃんの小学校、中学校の後輩が歌いますと言えば番組としては成立するってわけだ。後は啓ちゃんがこの企画をのんでくれるかどうかなんだけど。」

 僕は少し考えた。みんなが僕に注目した。

「お断りします。」

 僕はきっぱりと言った。

「どうして~?いい話じゃない。野島さんの企画に乗ってあげてよ。あたしも『卒業』聴きたいんだから」

 意外にもチャコが真っ先に異議を申し立てた。

「僕だって聴きたいよ。でも駄目だ。僕のイメージに合わない。『卒業』は裕ちゃんと僕の大切な思い出なんだ。ただ後輩だというだけでは歌わせることはできない。」

「なんとか考えてもらえないだろうか。僕も『卒業』をやりたいんだ。」

 野島氏が懇願する。僕は少し考えた。そして「もし『卒業』を歌うなら……チャコが歌えばいい。」

そう言って僕はチャコを見た。

「ええ、あたし?あたしは無理よ。」

「いや、歌うならチャコしかない。チャコこそ裕ちゃんの正統な後継者で『卒業』の作詞者である僕の妻だ。チャコが一番ふさわしいよ。そうだ、チャコで行こう。それなら僕のイメージにピッタリだ。現役の歌手でなくても白石裕子の姪が歌いますということにすれば番組としても問題ないはずだ。」

「まあ僕としては『卒業』が出せればいいけど……」

「ねえ、あたし今すごいこと思いついちゃった。」

 野島氏の話の骨を折ってマコちゃんが割り込んできた。

「チャコちゃんが『白石真子です』って言って歌えばいいんじゃないのかな?」

 マコちゃんらしい発想だ。でも僕は一蹴した。

「駄目だ。そんな替え玉は永遠には続けられない。チャコにはチャコとして歌ってもらいたい。野島さん、どうでしょう?」

 僕が企画を持ちかける立場になった。

「チャコちゃんは裕ちゃんの姪だし、テレビに出すことは問題ないと思う。でもチャコちゃん人前で歌うの大丈夫かな?マコちゃんがマコちゃんだから心配なんだけど。」

 野島氏の心配はもっともだ。

「例えばですよ、例えばオーディションのときに歌っていたのが実はマコちゃんじゃなくてチャコだったとしたらどう思いますか?」

 十秒くらい間があった。

「そういうことか?」

 野島氏はニヤリと言った。

「例えばの話です。」

「それなら問題ないよ。めちゃめちゃうまいというわけではなかったが僕はマコちゃんに合格点をつけてるからね。そうか。それはいい話だ。自分の代わりに双子の姉を替え玉に使うなんてマコちゃんらしいエピソードだ。こういうの好きだなあ。」

「例えばの話ですからね。」

「いいよ。早速、匿名でチームの掲示板にアップしよう。白石真子替え玉疑惑。どれくらい食いつきがあるか楽しみだ。じゃあ決まりだね。企画は変更だ。チームの方は原案通り。その後でチャコちゃんが出てきて一人で『卒業』を歌う。これでいいね。」

「はい。」

 僕はしっかりと答えた。

「啓ちゃんありがとう。もうこんな企画はできないと思ってたからうれしいよ。お礼と言ってはなんだけど僕にできることがあるならなんでもするよ。」

「じゃあ遠慮なく言いますよ。」

 僕は強気に言った。

「どうぞ。」

「マコちゃんのシングルをお願いします。」

 マコちゃんがハッとしたのが分かった。

「マコちゃん一人で?それはいくらなんでも……」

「分かってます、だから」

 そう言って僕は右手の手のひらで隣の少女を示し、「こちらの女性、鈴木春菜さんとユニットで出してもらいたいんです。」

 一瞬間があった。

「……いいだろう。……ってかそれなかなかいいね。春菜は歌も踊りも抜群でプロポーションもばっちりなんだけどおとなしすぎるんだよね。マコちゃんと組めばお互いのいいところが出せるね。さすがはヒットメーカーだ。」

「スミマセン。」

 マコちゃんが口を出した。

「分かったようで分かんないんですけど、それってどういうことです?あたしと春菜ちゃんが一緒に歌うってことですか?」

「そうだよ。二人でね。ユニットの名前を考えないといけないな。さすがは君のお兄さん冴えてるね。」

「でもそんなんじゃあたしが春菜ちゃんの足引っ張っちゃって迷惑でしょ?」

 マコちゃんは信じられないといった感じだ。

「そんなことないよ。チームじゃマコちゃんにいっつも助けられてるし、マコちゃんと一緒なら私もうれしいな。」

 右隣のサラサラストレートが言った。

「そうだ。いきなり春菜がソロでやるよりずっといい。で、啓ちゃん。曲は出してくれるんだろうね。裕ちゃんの作ったやつを。」

 野島氏が念を押した。

「もちろんです。アップテンポの飛び切りのやつを準備しますよ。」

「アップテンポじゃ夏の曲だね?」

「そうですね。」

「じゃあ五月下旬にリリースしよう。」

「楽譜持ってきますね。」

 そう言って僕は席を立ち、スタジオ兼書斎に向かった。チャコが追いかけてきてスタジオ兼書斎に入るとドアを閉めた。

「ねえ、啓一さんどういうことなの?何考えてるの?」

「何って今言ったとおりだよ。チャコは『スタジオL』で『卒業』を歌うんだ。同じ番組でマコちゃんはフロントで歌って五月にはユニットでデビューするってわけだ。やっとマコちゃんに渡した手形を落とせるよ。」

「そんなの無理だよ。」

「だってチャコが『あたしも聴きたい』って言ったんだろ?だったらチャコが歌ってよ。」

「あたしはいいけど学校が無理だよ。」

「でも許可を得ればいい話でしょ?学校が反対するなら僕が直接説得する。」

「ねえいつもと立場逆じゃない?あたしが啓一さんを抑えようとしてるよね?」

「そうだね。役割が違うから少し勝手も違うかな?あしたか明後日、できればあした、学校に行って高倉先生を説得するからアポイントとっといてね。」

「絶対に無理だって。」

「駄目ならそれでいいよ。卒業まで待つだけの話だ。その方がチャコの卒業と重なってかえって良かったりして。」

「そんなことしたらマコちゃんのデビューも延びちゃうんじゃない?」

「それは大丈夫。僕は門外不出の裕ちゃんの歌を出すことを約束したんだ。野島さんにとっては予想をはるかに上回る収穫だと思うよ。マコちゃんのデビューは必ず実現する。予定通りにね。」

「なんかいつもの啓一さんじゃない。あたしの好きな啓一さんはそんなに前向きじゃない。」

「前向きな僕は嫌いかな?」

「そうじゃない。そうじゃないけど、いつもとペースが違うんでびっくりしてるの。……啓一さんごめんね。あたし気が付かなかったけどいっつもあたしやマコちゃんのペースだったよね?いっつもいっつもあたしやマコちゃんが我がまま言ってるのに啓一さんはいつだってやさしく受け止めてくれるんだよね?」

「そうかなあ?」

「そうだよ。だから……いいよ。啓一さんのやりたいようにやってね。あたしは付いていくから。マコちゃんが我がまま言うようならあたしがガツンと言うから。」

 チャコがそんなことを言っていたが僕は聞き流して探していた楽譜をつかむとチャコを残したままリビングに戻った。そしてさっき座っていた席に戻り、一呼吸おいて静かに野島氏に楽譜を手渡した。

 音楽プロデューサーの野島氏は当然のことながら初見ができる。楽譜をしばらく眺め、曲の感触を確かめていた。

「なんならピアノお貸ししましょうか?」

 僕は自信に満ちた声で言った。

「いや、これで十分だ。素晴らしい。本物だ。本当に裕ちゃんだ。楽譜まで持って帰れるなんて夢みたいだ。涙が出るくらいうれしいよ。ありがとう。……ねえ、啓ちゃん。ついでに春菜のことを全部お願いできるとありがたいんだけどな。どうだろう?」

 僕は右側のサラサラストレートにチラッと目をやった。サラサラストレートは無言のまま会釈した。

「それはマコちゃんとの結果次第ですね。僕がなぜ今まで裕ちゃんの曲を出してこなかったか分かりますか?」

「整理中だからって聞いてるよ。」

「それは建前です。本当は裕ちゃんに匹敵する適当な歌い手が見つからないからです。マコちゃんとの結果を見てこの子、春菜ちゃんで行けると思ったらそのとき考えましょう。」

「きっと啓ちゃんの期待には応えられると思うよ。」

「それなら僕にも好都合です。僕も裕ちゃんの歌を歌えるシンガーを探していたんですから。もっともここ一年は二人の少女に翻弄されてそれどころじゃなかったですけど。」

 そう言って僕はマコちゃんをチラッと見た。マコちゃんは意味がよく理解できていないようでキョトンとしていた。

「ありがとう。じゃあ僕は啓ちゃんの気が変わらないうちに失礼するよ。君たちはゆっくりして啓ちゃんにたっぷりサービスしてあげてね。じゃあ。」

 野島氏は連れてきた二人のアイドルの卵にそう言うと裕ちゃんの楽譜を大事そうに抱え、席を立った。するとキッチンにいたチャコがマッハの速度で登場しお土産の餃子を野島氏に渡した。この辺はさすがに政治家の妻だ。

 野島氏が帰った後、ゲストの二人と双子の姉妹は僕のことを一生懸命もてなそうとしてくれたが僕は国会の仕事があると言ってやんわりことわりスタジオ兼書斎にこもり、久しぶりに裕ちゃんの残してきたものと向き合った。あの鈴木春菜という名のアイドルの卵の実力はまだよく分からないけれど、柏崎出身ということで何か運命的なものは感じた。彼女は少なくとも強運は持っているのだろう。裕ちゃんの残してきたものを整理できるかもしれない。僕は微かに道が開けたような気がしていた。リビングの方では楽しそうな女の子達の笑い声が夜遅くまで続いていた。

 

 次の日のお昼頃、永田町にいる僕の携帯のバイブレーションが震えた。ディスプレイには「公衆電話」と表示されている。

「もしもし。」

「あっ、啓一さん?チャコです。高倉先生に話したよ。」

「テレビに出たいって?」

「まだそこまで言ってない。夫婦で相談したいことがあるんで時間とってくださいって。で、今日の三時半にいつもの応接室ってことになった。ということで今日の三時半に学校に来てね。」

「分かった。」

「あたしは無理な方に賭けるけどな。」

「僕も無理な方に賭けるよ。結果はどうでもいいよ。とにかく僕の気持ちを伝えたい。」

「うん。じゃあまたね。」

 そう言って電話は切れた。

 

 僕は急用ができたと秘書に言い、地下鉄と東急で自由が丘女子高等学校に向かった。そして時間を調整して三時半きっかりに応接室に入った。高倉女史とチャコは既に僕のことを待っていた。

「こんにちは。今日はお忙しいところお時間を取ってくださいましてありがとうございました。」

 僕はそう言って高倉女史に最敬礼した。高倉女史も立ち上がり「いつもお世話になります」というようなことを言ってお辞儀をした。そして席を勧められ、着席した。高倉女史と夫婦が向き合った。

「今日はどういうお話なんでしょう?」

 いつもはもっと高飛車なはずの高倉女史の腰が今日はとても低い。

「実は朝子をテレビに出演させたいと思いまして。学校のご理解を頂きたいと思いましてまいりました。」

「テレビに?それは教育番組か何かですか?」

 すでにノーを前提にした質問だ。

「いいえ。……先生。『スタジオL』という音楽情報番組はご存知ですか?」

「先生は歌番組なんて見ないかもしれないけど。」

 チャコが僕の後に続いて言った。

「いいえ。先生も歌番組くらい見ることもありますよ。『スタジオL』は知ってます。妹さんが活躍されてる番組ですよね。なんとなくおっしゃりたいことは分かりました。妹さんと一緒に番組に出演したいということですね?」

「はい。」

「それは難しいですね。」

「そうですか。」

 僕はがっかりした表情を見せた。チャコの言うとおりしょせんは無理な話だったのかもしれないが面と向かって言われるとやはりつらい。

「白石さん、悪く思わないでください。実は昨日、朝子さんに『相談したいことがある』と言われて、私にできることであれば多少校則に違反するようなことでも特別に目をつぶってもいいかなと思っていたんです。」

「はあ?」

「朝子さん本当に素晴らしいんです。入学した頃はいきなりイエローカードが二枚出てびっくりしましたけど、それ以降は素晴らしいリーダーシップを発揮してクラスをまとめてくれて、今では一年B組の副担任とまで言われているんです。どうしてもうちの学校はおとなしい子が多いので朝子さんの存在は助かってます。だから例えばこの前みたいに着物を着て外出したいとか、そういうことならほかの先生を説得して特例を認めてもいいかなと思っていたんです。着物を着るくらいでしたら決して当校の校風と相容れないものではありませんから。」

「はい。」

「でもテレビ出演、それも芸能番組となるとやはり私の力では無理です。お役に立てず申し訳ありません。」

 高倉女史は深々と頭を下げた。いつも強気な高倉女史の腰が低い。僕はなんと言われても押しまくろうと思っていたが逆に強気に出られなくなってしまった。

「いいえ、僕の方こそ無理を承知で押しかけたんですから。お時間をとらせて申し訳ありませんでした。」

 僕は静かに言った。テレビ出演が認められなかったことよりも強気に出られない自分にむしろ落胆した。

 それから少し沈黙があって、「ねえ先生、先生の髪型っていつもおんなじですけど誰かモデルになってる人とかいるんですか?」とチャコが唐突に聞いた。

「どうしたのよ急に。なんでそんなこと聞くの?」

「それとメイクや服装も。前から気になってたんですよ。誰かの真似してるのかなって。」

「たとえそうでもあなたには関係ないでしょ。これは先生のプライベートなことなんだから。」

 高倉女史はやんわりとかわした。少し間があって、「先生、白石裕子って歌手知ってます?」

 チャコが聞いた。また少し間があった。

「そう。……分かってしまったんだったら隠してもしょうがないわね。そうよ。白石裕子を意識してます。白石裕子はね、先生の少し遅い青春。今から四年くらい前かな。私、とてもつらいことがあったの。そんなときに彼女がデビューして彼女と出会って、色々と慰められたし、力づけられたの。CDは全部買ったし、夏休みには彼女の追っかけもした。東京、名古屋、大阪、福岡とコンサートツアーをまわったの。二年前に彼女が死んでしまったと聞いて、私は信じられなくて……」

 そこまで話すと高倉女史は固まった。口を開き、目をおっぴらげているいつものびっくりのポーズだ。何か重要なことに気付いたのだ。

「白石さん。」

 高倉女史は僕に声をかけた。

「はい?」

「下の名前、確か啓一さんでしたよね?」

「はい。」

「結婚されてから白石さんになったんですよね?」

「はい。」

「結婚する前の苗字はなんとおっしゃったんですか?」

「石水です。」

 と、次の瞬間、女教師の絶叫が全校中に響き渡った。

 高倉女史はしばらく狼狽していた。驚愕という言葉もおそらくこういう状況を表現するためにあるのだろう。「うそ……、信じられない……、どうして?……こんなことってあるの?……」そんな状態が三分くらい続いた。

「恥ずかしい姿をお見せして申し訳ありません。人生の中で一番びっくりしたものですから。石水啓一さんってあの『卒業』を作詞した石水啓一さんなんですね?」

「はい。」

 僕は静かに答えた。高倉女史はようやく会話ができる程度に落ち着きを取り戻した。

「説明していただけませんか?お二人は白石裕子とどういう関係なんですか?ご親戚なんですか?」

「白石権蔵をご存知ですか?参議院議員の。」

 僕が説明した。

「ええ。文部科学大臣もやりましたからね。」

「白石裕子は白石権蔵の娘なんです。」

「そうだったんですか?知らなかった。」

「そして朝子は権蔵の孫……」

「ええっ!じゃあ朝子さんは白石裕子の子どもなんですか?」

 高倉女史はもう一度びっくりした。

「ほら、啓一さんが変なこと言うから先生混乱しちゃったじゃないの。あたしが説明するよ。」

 チャコが僕を引き継いだ。

「啓一さんは祖父の権蔵のお気に入りだったんです。祖父はなんとか啓一さんを跡継ぎにしようと思って娘の裕子と結婚させようとしたんです。でも裕子は重い病気にかかって死んでしまった。それで今度は裕子の姉の娘であるあたしと結婚させたんです。だからあたしと白石裕子は叔母と姪の関係。啓一さんは白石裕子の婚約者。結婚はできなかったけど婚約は解消されていないので今でも婚約者。啓一さんは白石裕子の永遠の婚約者なんです。」

「そうでしたか。」

 高倉女史は静かにそう言うとしばらく窓の外に目をやりもの思いにふけった。

「こんな近くにいたなんて。……白石裕子のことはもう忘れようとしていたところでした。私のつらい思い出と一緒に。……もっとはやく気付けば良かった。ヒントはいっぱいあったのに。」

 高倉女史は目をウルウルさせながら言った。

「『スタジオL』は毎週見ていました。白石裕子が出ていた頃は。ビデオだって全部残ってます。……それで、朝子さんは『スタジオL』で何をやるんですか?」

 今度は僕が説明する番だ。

「朝子には『卒業』を歌ってもらう予定です。」

「『卒業』を?」

「白石裕子の追悼企画をするそうなんです。それで誰に『卒業』を歌ってもらうのがふさわしかということをプロデューサーに聞かれまして僕が朝子を指名したんです。白石裕子の姪であり『卒業』の作詞者である僕の妻である朝子しかいないと。」

「そうですか。……白石さん、一つだけ教えていただいてよろしいでしょうか?」

 しばらく間をおいて高倉女史が僕に聞いた。

「なんでしょう?」

「白石裕子は本当に死んだんですか?」

「本当に死にました。」

「間違いありませんか?」

「間違いありません。彼女の心臓が停止するそのとき、僕は彼女の手を握っていたんですから。」

 少し間があった。

「それはとても残念です。まだどこかで生きていると思っていましたから。でもすっきりしました。……テレビ出演のことは分かりました。明日、緊急の職員会議を招集してほかの先生を説得してみます。」

「先生、あまり無理しなくていいですよ。」

 チャコが申し訳なさそうに言った。

「ううん。無理させて。私、教師生命をかけてもチャコちゃんをテレビに出演させてみせます。だって、私、チャコちゃんの歌う『卒業』聴いてみたいんですもの。」

 いつの間にか「チャコちゃん」になっている。高倉女史は別の人になってしまったようだった。

 

 十数分後、チャコと僕は自由が丘の街を駅まで歩いていた。

「またチャコに助けられたな。」

 僕はポツリと言った。

「そうかなあ。あたしは結構自分のためにやった気がするけど。」

「先生びっくりしてたね。チャコは知ってたんでしょ?高倉先生が裕ちゃんのファンだってこと。」

「うん。そんなこと一言も言ってなかったけど人間て不思議だよね。自分の知らないうちに自分のことをほかの人に教えてたりするよね。あたしは裕ちゃんのことが大好きだからすぐに分かったよ。だからあたしが裕ちゃんの姪だってことは結構切り札だったんだ。」

「その切り札を僕は使わせちゃったってわけか。」

「一番いいタイミングで使えたよ。もうそんなに日はないしね。四月になれば担任は交代だし。それに高倉先生、あたしのこと『チャコちゃん』って呼んでくれたし。」

「ありがとうチャコ。」

 そう言って僕は自分の右手を背中に回して僕の左側を歩いているチャコの右手を握った。

「あら珍しい。啓一さんから手をつないでくるなんて。しかも学校関係者がたくさんいる自由が丘でまだ昼間なのに。そんなことしたら児童買春防止法違反で捕まっちゃうよ。」

 そう言う割にはうれしそうだ。

「なんかそんな気分なんだよ。」

 僕はにっこり笑ってそう言った。

 

 



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十二 テレビ出演事件(後編)

 高倉女史への説得は成功したがまだ学校の許可が得られたわけではない。でも僕はもう十分満足だった。堅物としか言いようのない高倉女史が教師生命をかけてでもチャコをテレビ出演させると言ったのだ。裕ちゃんの実力を改めて感じた。

 次の日の朝、チャコは珍しく自分から起きてきた。

「おはよう。今日は早いね。」

 僕はまだ朝ごはんの支度をしているところだった。

「うん。今日、職員会議開くって言ってたでしょ?なんか興奮しちゃって早く目が覚めちゃった。二度寝しようと思ったんだけどそれもできなくて。」

「まあ昨日高倉先生があれだけ言ってくれたんで僕はもう満足かな。」

「そうだね。高倉先生に対しては切り札があったけど職員会議の突破はいくらなんでも無理だよね。今日はあたしも呼ばれているけどまあ高倉先生のお手並みを見物してくるよ。」

 そう言ってチャコと僕は一緒に朝ごはんを作った。朝ごはんを一緒に作るのは結婚してから結構初めてかもしれない。チャコは自分のお弁当を作り、僕のお弁当も作ってくれた。結婚して初めての「愛妻弁当」だ。

 

 それから和風の朝ごはんを一緒に食べて一緒に出かけた。学芸大学の駅でお互いに反対方向への電車を見送り、チャコは学校へ、僕は永田町へと向かった。永田町での時間は相変わらずあわただしかったがチャコのことが気になっていたので明日にできることは明日に回し、夜の七時頃に帰宅した。チャコはもう帰宅していて晩ごはんを作って僕の帰りを待っていた。「ただいま」、「おかえり」と言い合った瞬間、何かとてもいいニュースが聞けるような気がした。チャコはとてもニコニコしていた。二人はダイニングで向き合った。

「今日はお疲れ様。職員会議どうだった?」

 僕はチャコをねぎらった。

「すごかったよ~。啓一さんにも見せてあげたかったな。ビデオに撮っとけば良かったよ。」

「で、結論はどうなったの。」

「それがね、OKが出たの。びっくりしちゃった。」

 僕もびっくりした。絶対に超えられないハードルだったはずだ。

「何があったの?ほかの先生は反対しなかったの?」

「もちろんみんな反対したよ。まず校長先生が『そんな破廉恥な番組に出るなんて教育上好ましくない』というようなことを言ったの。そしたら高倉先生『この前、校長先生は給湯室で私のお尻を触りましたけどあれは破廉恥行為じゃないんですか?』ってやったの。教頭先生、女のね、教頭先生が校長先生を弁護すると今度は『そう言えばこの前、校長先生と教頭先生がホテルで食事をしているの見たけど、それって不倫じゃないんですか?なんなら教育委員会の先生に話してもいいんですけど』って言ってこれで校長先生と教頭先生は撃沈。それから三人の先生が次々と反対意見を述べたけどことごとく高倉先生のパワーにつぶされて最後は満場一致でOKになったよ。」

「高倉先生、人間が変わっちゃったみたいだね。本当に教師生命を賭けたんだ。」

「うん。人間てあんなに変われるものなんだろうか。あたしもびっくり。ただね、一つ条件があって、絶対に制服を着ること。これはしつこく念を押されたよ。」

「ああそうか。そういう問題があったんだ。」

「それはまずかったかな?」

「いや、制服は着るのが当然と思ってた。だからチャコを指名したようなもんだもん。制服を着てはいけないことが条件だったらどうしようかと今思ったところだ。制服を着たチャコが『卒業』を歌う、これが僕のイメージだったから。」

「そっか。じゃあ万事うまくいったってことだね。良かった。」

 チャコと僕は本当に喜んでジュースでささやかに祝杯をあげた。奇跡が起きたのだ。

 それから収録までの約一ヶ月間、チャコは自宅のスタジオで何度も練習した。時々マコちゃんが来た。マコちゃんは五月からユニットを組む鈴木春菜を連れてくることもあった。マコちゃんと春菜ちゃんは僕がそれと分かるくらい僕に一生懸命ゴマをすった。

 

 収録は三月に入って最初の日曜日に行われた。番組自体は台本があって、台本の順番で進行していくのだが、何分生放送ではなく収録番組なので収録は出演者の都合に合わせて別々に行われていた。最後に編集で合体させて一つの番組として完成させるのだ。

 この日のこの時間はチャコの歌う場面だけの収録が予定されていた。チャコはマコちゃんと僕を伴ってテレビ局に入った。テレビ局では春菜ちゃんが待っていた。春菜ちゃんは何かと理由をつけては僕に近づこうとしているようだった。野島氏にそうするよう言われているのだろう。野島氏には「春菜のこと全部お願いできるとありがたい」と言われているのだ。

 僕とマコちゃん春菜ちゃんのユニットは楽屋でチャコのメーキャップを見ていた。

「ねえお兄ちゃん。お願いがあるんだけど。」

 マコちゃんが僕に話しかけた。

「何?」

「この前、野島先生が言ってたけど、春菜ちゃんのことお兄ちゃんにお願いできないかなあ?」

「マコちゃんも野島さんに頼まれてるの?」

「ううん。別に頼まれてるわけじゃないけど、……裕子叔母さんの残した歌ってたくさんあるんでしょ?」

「うん、それは莫大にあるよ。ついでに言うとまだ世に出ていない裕ちゃんと僕の合作もあるんだ。」

「そう。それを聴いてみたいなあと思って。それも春菜ちゃんのボーカルでね。」

 僕は春菜ちゃんを見た。春菜ちゃんは僕と視線を合わせてニッコリ微笑んだ。

「う~ん、チャコにも聞いてみないとな。」

「チャコちゃんに?」

「うん。春菜ちゃんの面倒をみるって言ったら嫉妬するかもしれないでしょ。チャコって結構嫉妬深いから。」

「あたしならいいよ。あたしもマコちゃんの意見に賛成だな。」

 遠くからメークをしているはずのチャコの声がした。鏡の中のチャコと目が合った。

「あたし啓一さんのことが大好きだから嫉妬はいずれにしろするんだよ。相手が政治だろうと病気だろうと音楽だろうと裕ちゃんだろうと。もちろん春菜ちゃんでも。春菜ちゃんでも春菜ちゃんでなくても、あたし以外に興味が向くとあたしは絶対に嫉妬するの。だから気にしないで。あたしも裕ちゃんの残した歌を聴いてみたいし、ボーカルが春菜ちゃんなら最高だと思う。」

 チャコはさらりと言った。

「それにあたし春菜ちゃんのこと大好きだし。全部お願いされるってことはお弟子さんにするってことでしょ?春菜ちゃんがお弟子さん第一号ならとっても素敵だと思う。」

「分かった。じゃあ考えてみるよ。裕ちゃんとも相談してね。」

 そう言うとユニットの二人は息を合わせて立ち上がり声をそろえて「よろしくお願いします」と深々と僕に頭を下げた。

 

 しばらくしてチャコの準備が完了し、スタジオ入りした。ADさんと何か打ち合わせをしてスタンバイが完了したようだ。僕は十メートルくらい離れたところでチャコを見守った。すぐ近くにマコちゃんと春菜ちゃんのユニットもいる。そしてディレクターの「はい、スタートしまーす」の声で前奏が始まった。チャコが歌い始める。

 

 西日が傾く駅のホーム

 少し長くなった夕暮れ

 列車を待つ二人の影

 今、あなたは何を思うのだろう

 

 二人で過ごしたこの街での日々

 思い出を胸に私は旅に出る

 今日、私はこの街から卒業する

 

 不思議な気持ちがした。チャコは僕と碑文谷の自宅のスタジオで何度もこの曲を練習した。でも何かが違う。とってもとっても懐かしい気持ちが僕を襲ってきたのだ。

(「制服だ!」)

 制服を着て「卒業」を歌うチャコを見るのは初めてだった。僕はすべてを思い出した。

 中学一年が終わった春休み。僕は長岡駅の新幹線ホームで裕ちゃんを見送った。新幹線の中で僕に見送られる裕ちゃんは今テレビカメラの前で「卒業」を歌っている少女と同じ制服を着ていたのだ。忘れていたはずの記憶が蘇る。そのときの光景が目に浮かぶ。僕は裕ちゃんが離れていってしまうのが悲しくて悲しくて、ホームの上で男泣きに泣いたんだ。

 

 ホームに入る長い列車

 スーツケースを手にする私

 シートに座り窓の外を見ると

 唇を動かすあなたが見えた

 

 列車はホームを離れていった

 あなたは闇に消えていった

 今日、私はあなたから卒業する

 

 時間が巻き戻る。ピアノ教室でピアノを連弾する裕ちゃんと僕。お手てつないで学校に通う裕ちゃんと僕。そして僕が教室でおしっこをもらしたとき、僕をからかう悪友たちを裕ちゃんは一喝し、自分のはいているパンツをその場で脱いで僕に貸してくれたんだ。僕は体操着に着替え、裕ちゃんは僕の手を引いて家まで送ってくれた。裕ちゃんはめそめそしている僕のために歌を歌ってくれた。そのときから裕ちゃんは歌が大好きだった。駄目だ。涙がじゃんじゃんあふれてくる。涙腺が壊れてしまったようだ。

 

 トンネルに入る車両の窓に

 写る自分が涙で曇る

 ホームの上のあなたもきっと

 涙を流しているのでしょう

 

 時間がまた進行する。碑文谷で裕ちゃんと一緒に暮らした日々。裕ちゃんを乗せた車椅子を押す僕。碑文谷での一年、僕はいつだって裕ちゃんの傍にいた。裕ちゃんは重い病気にかかっていたけど僕の前ではいつも笑顔だった。そして病院のベッドの上。裕ちゃんは静かに安らかに、眠るように僕の手を握ったまま天国への階段を昇っていった。チャコと裕ちゃんが重なり合う。僕は最後まで流れる涙をどうしても止めることができなかった。

 

 二人で過ごしたこの街での日々

 思い出を胸に私は旅に出る

 今日、私はこの街から卒業する

 

 歌が終わった。

「ハイ、オッケーです!」

 ディレクターの声が聞けて僕はホッとした。こんな歌を何度も聴かされたら涙がいくらあっても足りない。チャコはADさんと二言三言話していたが、泣いている僕に気付くとすぐに僕のところに駆け寄ってきた。

「ねえ、どうしたの?」

 そう言うチャコを僕は抱きしめた。力いっぱい。

「ねえ、啓一さん、……どうしたの?……恥ずかしいよ。」

「ごめん、チャコの歌があまりにも素晴らしかったからさ。」

 僕は言い訳にならない言い訳をした。傍でマコちゃんと春菜ちゃんが見ている。

「そっか。懐かしかったんだね。色々思い出したんだね。いいよ。いっぱい泣きな。」

 僕に抱きしめられたままチャコは優しくそう言った。

 

 それからまたしばらく日が過ぎ、裕ちゃんの二度目の命日も過ぎた最初の日曜日、僕はチャコを連れて柏崎を日帰りした。白石家の菩提寺にお墓参りに行くためだ。菩提寺は彼岸を迎え多くの人でにぎわっていた。チャコと僕は静かにお墓参りをすませ、後援会の幹部とお昼ごはんを食べてからおふくろのところにも少し顔を出した。柏崎入りは夏休み以来だった。街には僕と白石権蔵参議院議員の写真が並んでいるポスターがあちこちに貼られていて選挙が近付いていることを感じさせた。

 碑文谷に帰ってきたのは夜になった。夕食は外で済ませ、帰宅すると風呂にも入らずにベッドに入った。オンエアは明日だ。妙に気持ちが高ぶる。ベッドに入ったのだが寝付かれない。気にかかることが一つあるのだ。

「ねえ、寝られないの?」

 隣のベッドで寝ているはずのチャコが聞いてきたので僕はびっくりした。

「よく分かったね。寝たふりしてるのに。チャコって超能力者?」

 僕は寝返りをして布団の中からチャコの方を見た。チャコと目が合った。

「そう。啓一さんのことはなんでも分かるんだあ。大好きだから。……嘘。いつも聞こえてくるはずのいびきが聞こえてこないからだよ。」

「そうか。僕はいつもいびきかいて寝てるんだ。それって迷惑だよね。」

「どうだろう。最近はいびきが聞こえてこないとあたしも寝られなくなっちゃった……どうしたの?いつも寝つきがいいのに。」

「うん。気になることがあるんだ。権蔵先生のこと。」

「おじいちゃんのこと?」

「うん。チャコがテレビに出るの、権蔵先生はどう思うかなって思って。裕ちゃんのときも反対してたから。」

 今回のことを権蔵議員には話していない。裕ちゃんのときのように政治的圧力をかけられると嫌だからだ。絶対に超えられないと思った学校というハードルさえ二人で乗り越えたのだ。邪魔はされたくないと思っていた。秘書達にもかん口令をしいていた。

「怒るかもしれない?」

「うん。そうなったらチャコと僕も幸子さんと同じようになるかもしれない。」

「いいじゃない。それならそれで。」

「そうしたらもうここにはいられないかもしれないよ。」

「そしたら柏崎のお義母さんのところで餃子屋さんでもやろうよ。その方が結構楽しいかもしれないよ。あたしは啓一さんと一緒ならなんでもいいや。」

「ありがとう。チャコがそう言ってくれると安心する。」

「それに勘当ばっかりしてたら跡継ぎがいなくなっちゃうよ。おじいちゃんにも少し我慢してもらわないと。」

「まあ跡継ぎは後一人いるけどね。」

「誰?」

「後一人いるでしょ?」

「誰だろう?……ああ、マコちゃんか。」

「そうマコちゃん。」

「マコちゃんが政治家になったら楽しいだろうなあ。」

「そうだね。」

「ねえ、啓一さん、一つだけ約束して。」

 そう言ってチャコはベッドから上半身を起こした。

「何があっても絶対に一緒にいてね。ずっとだよ。」

「……うん。分かった。約束するよ。」

 僕は本当にそう思った。チャコは裕ちゃんが僕のためにこの世に残してくれた本当の宝物だ。

 

 次の日の夜八時からチャコの出演する「スタジオL」のオンエアは始まった。この日の「スタジオL」がどういう番組になっているのか細かいところを僕は知らされていなかった。収録の日、涙が止まらなくなった僕はチャコを残して一人でさっさと帰ってきてしまったのだ。新聞には「今解き明かされる白石真子替え玉疑惑/復活白石裕子」と記載されていた。

 チャコと僕は最初から見た。歳のそこそこいった男性お笑いタレントと局女子アナの司会進行で番組は進んだが中々チャコは出てこない。おそらく最後なのだろう。

 何組かの歌手が登場し、コマーシャルも進んだ後、男性司会者の「本日はここで『チーム』の皆さんに出てきてもらいます」という一声でマコちゃんの所属するアイドルグループのメンバーがぞろぞろと出て来た。このチームは番組から自然発生的に生じたグループで「なんとかクラブ」とか「なんとか組」とか「なんとか娘」といったような正式な名前がない。強いてあげれば「チームスタジオL」だがあまりにもそのまんまなので正式名称で呼ぶ人はいない。単に「チーム」といえばこのグループであることがそれと分かるのだ。

 いつもなら後ろの方でうろちょろしているマコちゃんが今日はフロントにいる。

「番組の予告でもありましたが今日は『白石真子替え玉疑惑』の徹底検証ということでマコちゃんには前に出てきてもらいました。こんばんは~。」

 男性司会者に声をかけられるとマコちゃんは「こんばんは~。マコで~す」と明るくあいさつした。」

「マコちゃんは去年の十月からメンバーに加わったばかりなのにもうフロントですね?」

 今度は女性局アナが尋ねる。

「はい。そんなに実力はないんですけどコネでここまできました。」

 さすがはマコちゃん。出演者がどっと沸いた。

「今日はこの後、この番組でもご活躍いただいた歌姫白石裕子さんの追悼企画を予定しているんですけど、実はマコちゃんは白石裕子さんの姪御さんにあたるそうですね?」

 女性司会者がマコちゃんに聞いた。

「はい。裕子叔母さんの姉の娘です。でも残念ながら血は引き継いでないんですよ。もう少し顔の造作が悪ければ歌もうまかったのかもしれないですけどね。」

「天は二物を与えないということですか?」

 男性司会者が突っ込んだ。

「さあ、マコちゃん難しい言葉知らないから。」

 マコちゃんが軽くかわして女性司会者が「マコちゃんにはまた後ほど出ていただきます。それでは歌っていただきましょう。準備よろしくお願い致します」と言い、曲を紹介してチームの歌が始まった。

 マコちゃんはフロント四人の右から二番目、センターレフトの位置でマイクを握り、踊って歌った。やはりうまくはなく、一糸乱れぬマスゲームのはずがマコちゃんの部分だけ微妙にずれていた。それはそれでかわいかった。野島氏が家に来たときに僕の隣に座っていた二人の美少女ははるか後方に位置していてマコちゃんがいかに大抜擢だったかを物語っていた。歌が終わると画面の隅に番組のクレジットが出てコマーシャルに入った。

「『替え玉疑惑徹底検証』とか言って何もやらなかったね。」

 僕がそう言うと、「これからよ。あたしが登場してから」とチャコが答えた。

 コマーシャルが終了し、「では本日の特別企画に行きたいと思います」と男性司会者が言うと「歌姫と言われた白石裕子さんがお亡くなりになってからもう早いもので二年が経ちます。番組には今なお白石裕子さんの歌を聞きたいというリクエストが多く寄せられてます」と女性司会者が言い、「その多くのリクエストにお応えして本日は特別ゲストをお招きしました。それではど~ぞ~」と男性司会者が言ってセーラー服のチャコがスタジオに登場した。

「こんばんは~」とチャコは明るく登場したが、「あれ、マコちゃんじゃないですか?」と男性司会者は軽くチャコに振った。番組の演出だ。

「いいえ。マコちゃんの双子の姉の方の白石朝子と言います。はじめまして。」

 チャコがそう言うと画面の下に「白石朝子」とテロップが出た。

「本当にマコちゃんじゃないんですか?」

 男性司会者がわざとらしく聞く。

「マコちゃんはあそこにいますよ。」

 チャコがそう言いながらマコちゃんの方を指さし、カメラがターンしてマコちゃんを写した。マコちゃんは引き続きチームのユニフォームを着ていた。

「じゃあマコちゃんこっちに来て並んでみて。」

 男性司会者がそう言ってマコちゃんを呼び、マコちゃんがチャコの横に並んだ。

「本当にそっくりですね。さて、今チームの掲示板では『白石真子替え玉疑惑』というのが話題になっていますがご存知ですか?」

 男性司会者との掛け合いが始まった。

「はい、聞いてます。マコちゃんが音痴なんでオーディションのときにあたしと入れ替わってたんじゃないかってことですよね。」

 チャコが答えた。

「はい、今日はその当事者双方が来ています。ではここで問題の映像を見て見ましょう。」

 女性司会者がそういうと映像が切り替わりオーディションの場面が流れた。第二ステージの場面でチャコが登場し「グッバイサマーデー」を歌っている。

「これがマコちゃんではなくお姉さんの朝子さんだったという疑惑がファンの間でささやかれているのですが真相はどうなんですか?」

「はい。ではお答えしますね。その映像の子は確かにマコちゃんです。あたしの通っている高校はいつでもどこでも休みの日でも外出するときは必ず制服を着ていないといけないという厳格な校則があるんです。」

「それはまた厳しいですね。」

「はい。だから今日もこうやって制服を着ているんです。まあ曲のイメージもあるんですけどね。だから制服を着ていない子はこの顔でもあたしじゃなくて絶対にマコちゃんなんです。」

「そんな厳格な校則のある高校があるんですね。」

 録画映像が終わり、カメラがチャコに戻った。

「そうなんです。だから街でこの顔を見かけたときはこの制服を着ているかどうかで判断してくださいね。でもさっきの映像、声の方は案外あたしかもしれません。その辺の判断はファンの皆さんにお任せします。」

「なるほど口パクだったと。ではマコちゃんにも聞いてみましょう。どうだったんですか?」

「ハハハ。皆さんのご想像にお任せします。まあ謎が一つくらいあってもいいでしょ?」

 マコちゃんが答えた。

「今日は何をしに来てくれたんですか?」

 男性司会者が今度はチャコに尋ねる。

「はい。今日は裕子叔母さんの追悼企画ということで大ヒットした『卒業』を歌いに来ました。」

「そうですね。『卒業』を歌ってくださるんですよね。とっても楽しみです。でもどうしてマコちゃんじゃなく朝子さんが歌うんですか?」

「それはマコちゃん歌があまり上手じゃないからですよ。」

 チャコが答えるとマコちゃんが横から「それだけじゃないんですよ。実はチャコちゃんは今日歌う『卒業』の作詞者とただならぬ関係なんですよ」といたずらっぽく突っ込んだ。

「チャコちゃんって呼ばれてるんですね?」

「はい。先生にもそう呼ばれてます。」

「ただならぬ関係っていうのが気になるんですけど。恋人だとか?」

「それはまた今度お話しましょう。」

「また遊びに来ていただけるんですね?」

「はい機会があればぜひ。」

 チャコはニッコリ答えた。一番重要な個人情報は出さずじまいだった。

「朝子さんは今日、誰かのためにこの歌を歌うそうですね?」

 今度は女性司会者が尋ねた。

「はい。」

「ではカメラに向かって言っていただきましょう」と男性司会者が言うとチャコの顔がアップになり、チャコはカメラ目線となった。

「白石裕子を愛した人、白石裕子が愛した人のために歌います。『卒業』。聴いてください。」

「ではお願いします。」

男性司会者が言い、チャコは別のスタジオへ向かった。

 画面が切り替わり、僕も立ち会ったチャコの歌が始まった。途端に横からバスタオルが飛んできて僕の顔に命中した。振り向くとチャコが笑っている。大泣きするならどうぞといった表情だ。チャコと僕は画面に集中した。やはり涙は出た。素晴らしい歌声だった。第三コーラスに入ったところで画面の下にクレジットが流れてきて番組の終了をそれとなく伝えた。チャコが歌い終わったところで製作著作者であるテレビ局と広告代理店の名前が出てきて番組は完全に終了した。コマーシャルに入っても僕はしばらく画面を見つめていた。

「どうだった?」

 チャコが聞いてきた。

「素晴らしかった。やっぱりチャコで正解だったよ。チャコにしかできなかったな。ありがとう。」

 そう言うと部屋の中でもう一つの「卒業」が鳴り響いた。絶妙のタイミングで電話の着信音が鳴ったのだ。

「あっ、電話だ。きっとマコちゃんだ。」

 チャコはソファをほふく前進して電話機まで行き、受話器を取った。

「もしもし。……あっおじいちゃん。こんばんは……」

 チャコのトーンが下がる。僕は緊張した。

「はい。ちょっと待ってね。啓一さん。……おじいちゃん。」

 電話は白石権蔵参議院議員からだった。僕は緊張したまま受話器を握った。

「もしもし。」

「ああ、啓一君か。私だ。今、テレビを見たよ。びっくりした。」

「スミマセン。連絡もしませんで。」

 僕は怒られることを覚悟した。

「いやいいんだ。啓一君。君にはいつも感心させられているが君は本当に大した奴だなあ。」

「はあ?」

「歌っている朝子が裕子に見えたよ。涙が出た。君には心からお礼を言うよ。」

「お礼なんてとんでもありません。勝手なことをしまして。」

「それと、君と裕子に謝らなきゃいけないと思ってな。」

「謝る?先生がですか?」

「もっと裕子の好きなようにさせてやれば良かった。君もつらかったんじゃないかな。私は世間では偉そうなことばかり言っているが自分の体裁ばかり考えている駄目な親だった。」

「いやそんなことはありません。」

「いや、そうだよ。今は年度末でバタバタしているから無理だが、少し落ち着いたら私は自分が裕子の父親だったことを名乗り出ようと思っている。何を今さらと思われるかもしれないが少しでも罪滅ぼしにでもなればとね。裕子は私の誇るべき娘だったよ。」

 僕も涙があふれてきた。ここにも白石裕子を愛し、白石裕子が愛した人がいると思った。

「とにかく啓一君。君は大した奴だ。もう二度と会えないと思っていた裕子に会わせてくれたんだからな。お礼の言葉もない。私にできることならなんでもするよ。なんでも言ってくれ。」

「いいえお礼なんて私は……」

 そう言うと隣で会話を聞いていたチャコが人差し指で自分の鼻をさし、代われと合図した。

「スミマセン、チャコが話があるようですので代わります。」

 チャコに代わった。

「チャコで~す。……うん……うん……、そう…良かった。……チャコももう十七歳になるよ。……結婚一周年にもなるしね。……あたし旅行がしたいなあ。もちろん啓一さんと一緒ね。……パリがいいなあ。うん、じゃあ楽しみにしてます。……はい、お仕事頑張ってね。おやすみなさい。」

 そう言ってチャコは受話器を置いた。

「おじいちゃん泣いてたね。誰かさんと一緒だね。」

「うん。色々思い出したんだね。」

「実はね、あたしがおじいちゃんに教えたの。今日、テレビで裕ちゃんの追悼企画があるから絶対に見てねって。おじいちゃん、きっと悪くは言わないと思ったの。」

「そうだったのか……。ありがとう。やっぱりチャコはすごいね。……ところでパリとか言ってたけど何?」

「うん、もうすぐ誕生日だし、結婚記念日でもあるからプレゼントは何がいいかって言うんで啓一さんとパリに行きたいって言ったの。ゴールデンウィークには行けるかなあ。学校があるから夏休みまで無理かな?」

 チャコのうれしそうな姿を見て僕もうれしくなった。

「なあチャコ。僕も君には何かプレゼントさせてもらいたいな。何か欲しいものある?もちろん僕がプレゼントできるものでだけど。」

「それがあるの。それも啓一さんじゃないとプレゼントできないもの。」

「何?」

「聞きたい?」

「うん。」

「赤ちゃん。」

「……」

「もういいでしょ?一年たつんだし。……あたし啓一さんのことが大好きだから啓一さんのコピーをいっぱいいっぱい作りたいんだあ。十七で産み始めて四十五まで産み続けるとしたら何人産めるんだろう?……二十八人?……どーする?二十八人の父親って。」

「それですめばいいけどね。」

「何それ。外にも作るっていうの?信じられない。」

 チャコがプリッとする。

「違うよ。チャコとマコちゃんのようなケースもあるだろうって。」

「そっか。あたし双子を産む遺伝子を持ってるんだ。じゃあ子どもの数は……五十六人?野球チームいくつできるんだろう。」

 チャコはとっても幸せそうだ。

 チャコが碑文谷に来て一年がたつ。そしてまた新しい季節がやってくる。

 

                              (シーズン2へ続く)

 



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