喫茶ステラと死神の蝶と見える人 (もう何も辛くない)
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プロローグ





さて、ここまで私の作品を読んできた方々の中に今作の原作を知っている方はどれだけいるのだろうか…?


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いつも通りの朝。いつも通りの道。大学へ行く途中、俺はふと掛けていた眼鏡を外した。

 

 今日も今日とて、この目はよく()()()

 

 すれ違う通行人に話しかけながらついていく明らかにこの世にあらざる者。建物の傍で蹲っている肉が腐り落ちた、多分犬。

 

 そして、青い鱗粉を散らしながら飛ぶ()

 

 昔から変わらない、既に見飽きた光景に辟易しながら俺は眼鏡を戻す。レンズを通して視える景色の中に、先程まで見えていたこの世にあらざる存在は見えなくなっていた。

 

 俺がこうして普通に生きていられるのはこの眼鏡のお陰といっていい。もしこの眼鏡がなければ…、精神的に可笑しくなっていたかもしれない。いやマジで。本当にこれをくれたあの人には感謝しかない。

 名前も知らないけど。何なら、会ったの昔過ぎて顔も朧気だけど。覚えてるのは綺麗な女の人だった事くらいだけど。

 

「おーい、千尋ー」

 

 現在朝の8時45分。スマホの時計を眺め、このままのんびり歩いても講義に間に合いそうだと考えたその時、背後から俺、()()()を呼ぶ声がした。

 

「おっす」

 

「ん、おはよう」

 

 振り返る暇もなく、直後俺の隣に立つ男。そいつの顔を見上げながら、俺も挨拶を返す。

 

 草野昭久、それがこいつの名前だ。身長は俺よりも10センチ以上も高く、確か186センチだったはずだ。しかも顔もかなり男らしくイケメン、体つきもがっしりとしたナイスガイ。

 男の俺から見ても格好良いと思えてしまう程。勿論、アッーな意味ではないそんな趣味はない断じてない。

 

「なあ、千尋様?」

 

「…」

 

 隣で歩く昭久がふと表情を苦くしながら話し掛けてくる。それを見た俺は続く言葉を察し、こいつから視線を外して前を見た。

 

「千尋様、此方を見てくれませんでしょうか?」

 

「日本語がおかしい。小学校からやり直せ。課題は見せん」

 

「殺生な!頼む!昨日は彼女がなかなか寝かせてくれなかったせいで課題やる時間無かったんだよぉっ!」

 

「死ね」

 

 先程説明した通り、こいつはかなりイケメン。その上、短いながらもこれまでの会話でこいつのノリの良さは分かって頂けたと思う。しかもこれで他人を思いやれる優しさも持っている。

 天は人に二物を与えずとか言うが、二物どころじゃないくらいこいつに与えられている。そんなこいつがモテない筈もなく、俺がこいつと友達として付き合った二年の間で出来た彼女は知る限りで七人。

 

 頭おかしいんじゃねぇの。何でそんな取っ替え引っ替え出来んの?

 

「頼むよ!今日昼飯おごるからさぁ!」

 

「…夜も追加な」

 

「おっしゃ!サンキューな!」

 

 別に本気で意地が悪い事をしようとしていた訳ではないが、これで課題を写させるのは何度目か。それだけ頼まれたらうんざりもする、見せたくもなくなる。

 しかしこうして何かを報酬として貰い、課題を見せ続けている。まあさっきも言ったが、意地悪をするつもりはないからな。

 

 そうして歩いている間にキャンパスへと着く。目的の講堂に一番近い入り口から建物に入り、階段を上って三階へ。俺と昭久は講堂に着く。

 講堂の中に入り、空いている席に並んで座る。

 

「おい千尋、早く早く」

 

「…」

 

「千尋様、お早くお課題をお見せてください」

 

「お前マジで小学校で敬語学び直した方がいいぞ」

 

 溜め息を吐きながら鞄の中からクリアファイルを取り出し、更にその中からプリントを取り出し昭久に差し出す。

 

「どうもー」

 

 軽く例を言いながらプリントを受け取った昭久は、自身の鞄から取り出した同じプリントを、されど解答欄が空白のそれを机の上に置き、俺の解答を写し始めた。

 

「…?」

 

 昭久がペンを動かし始めて少ししてからだった。講堂に響いていた話し声が突然、少なくなったのは。

 何事かと辺りを見回すと、講堂にいる学生達が、特に男が同じ方を見ている。俺も、その方向に視線を向けると、そこには一組の男女が隣同士で座っていた。

 

「あれ、四季さんじゃん。隣に座ってる奴、誰だ?」

 

 俺と同じく周囲の異変に気付き、男達の視線を追っていた昭久が聞いてくる。

 

 四季ナツメ。この大学でこの名前を知らない男は殆ど居ないだろう。それ程までに、彼女の美貌は際立っている。だからこそ、そんな彼女の隣に座る謎の男が気になって仕方ないのだろう。

 

「千尋、知ってる?」

 

「知らん」

 

 俺達とは違う机ではあるが同じ列に座る二人から視線を外しながら、昭久の再びの問いかけを一蹴する。

 

「いや、マジで珍しいな…。四季さんが男と一緒に講義受けるなんて。…初めてじゃね?」

 

「おい、そろそろやめろよ。失礼だろ」

 

「っと…、そうだな。てか、俺は早く課題写さんと…」

 

 興味深げにまじまじと二人を眺める昭久に注意する。

 昭久は素直に俺の注意を受け入れ、課題に集中し直す。

 

 そんな中、俺は先程注意しておいてあれだが、横目で二人の様子を眺める。昭久ほどあからさまではないが、それでも盗み見るという表現が相応しい今の状況に少し心が痛む。

 

 しかし、罪悪感を押し殺して、俺は眼鏡を外して二人を眺めた。

 

「…やっぱ、気になるな」

 

「ん?何が?」

 

「いや。ちょっと、部屋の鍵掛け忘れたかもしれない」

 

「あー、それな。そんな筈なくても一度気になり出したら止まらないよな」

 

 課題を写す手は止めずに口を動かす昭久と雑談すること数分、講堂に担当の講師が入ってくる。それとほぼ同タイミングで課題を写し終えた昭久が俺にプリントを返してくる。

 

 やって来た講師がノートPCとプロジェクターを起動し、講義が始まる。俺はスクリーンと講師の話に集中した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「んーーーーっ、はぁーっ!終わった終わった!さ、飯行こうぜ」

 

「忘れてないよな。奢りだぞ」

 

「あぁ、覚えてるって!」

 

 午前の二コマが終わり、昼休みに入る。背凭れにのしかかりながら背中を伸ばす昭久に釘を刺す。

 今日の昼と夜の飯代は免除。これで浮いた食費は貯金するか、それとも欲しい漫画で使うか、なんて考えながら講義で使った資料を鞄にしまい、昭久と共に教室を出る。

 

「さてと、今日は何食うかなー」

 

「とりあえず、俺はパフェと紅茶は固定な」

 

「お前…、他人の金だと思って…。てか、マジで紅茶中毒だなお前。ここのは不味いんじゃないのか?」

 

「不味い。でも飲む」

 

 昭久が苦笑いしているのが見なくても分かる。仕方ないだろう。確かにお世辞にも学食で出している紅茶は美味しくないが、それでも自販機の紅茶よりはマシだ。

 本当なら美味しい紅茶を出す喫茶店でも行きたい所なのだが…、大学周辺に丁度良い店はない。

 

「──────」

 

 昭久と何を食べるか話しながら学食へ、その途中だった。視界の端、眼鏡のレンズの範囲から外れたそこに、青く煌めく何かを捉えたのは。

 

 咄嗟に立ち止まり、その方向に振り向く。そこにあるのは窓。窓の外に見えるのは中庭。青いそれは移動し、すぐに俺の立ち位置からは見えなくなってしまった。

 

「どうした?」

 

「…いや、野暮用思い出した。昼の奢りはなしでいい」

 

「は?マジで?いや、俺はぶっちゃけ良いけど」

 

「それじゃ」

 

「あ、おい!」

 

 背後から昭久が俺を呼び止める声がするが、無視して廊下を引き返す。

 一番近い出入り口から外へと出た俺はすぐに駆け出す。向かう先は勿論、中庭。

 

 急ぐ俺を時折すれ違う学生が何事かと視線を向けてくるが構わない。とにかく中庭へと急ぐ。

 

「はぁ…はぁ…」

 

 久しぶりの全力疾走に息を切らしながら、中庭へと着いた俺は眼鏡を外して周囲を見回す。

 

「いた」

 

 ポツリと呟く。視線の先には青い羽を煌めかせながら、ひらひらと飛ぶ蝶。俺はその蝶に歩み寄る。

 

「ほら、こっちにおいで」

 

 朝は人の往来だったのと、一講目が控えていたために出来なかったが、今は時間がある。周囲に人はいるが、俺みたいに一人で過ごしている者はおらず、俺の事など意識にない。

 

 俺は蝶を伴い、中庭のベンチに腰を掛ける。

 

「お前の居場所は、ここじゃないだろ?」

 

 努めて笑顔を浮かべながら、蝶に話し掛ける。蝶に向かって人差し指を向ければ、指の先に蝶が止まる。

 

「ここに居ちゃ、ダメなんだ」

 

 優しく語り掛ける。蝶が、俺を見上げている。

 

「お行き。きっと次は良い人生を過ごせるさ」

 

 蝶が止まった指を空に向ける。すると、蝶は指先から飛び立ち、青空へと向かっていく。

 飛び上がった蝶を、見えなくなるまで見送る。きっと、もうあの蝶は大丈夫だろう。輪廻転生なんて信じちゃいないが、あの魂が生まれ変われる事を願って、俺は少しの間目を瞑った。

 

「…さて、どうするか」

 

 外していた眼鏡を掛け直し、これからどうするかを考える。思ったよりも蝶が素直に飛び立ったため、時間がだいぶ余ってしまった。

 昭久にはもう奢りは良いと言ってしまった。今からでも取り消しは効くだろうか?

 

「あ、あの!」

 

 そんな風に考え込んでいると、背後から声がした。距離的に相当近い。…もしかして、俺を呼んでる?

 全く聞き覚えのない声に、そんな筈はないと思いながらも、もしそうだったらという思いが捨てきれずに振り返る。

 

 そこには一人の男が立っていた。身長は俺と同じくらいか、少し高いか?見開いた目は確かにこちらを捉えている。先程の声は、俺を呼んだ声で間違いないらしい。

 

「さ、さっきの!」

 

「…なに?」

 

 何やら焦っている様子。言っている事が要領を得ない。

 さっきの、とは、もしや蝶を送った事だろうか?いや、そんな筈はないだろう。何故なら、あの蝶は常人には見えやしない。

 

 それなら…、あぁ。確かに、蝶が見えないならさっきの俺の行動は奇妙に見えるかもしれない。傍に誰もいない一人の男がベンチに座り、何かを呟きながら天を指差す。

 

 …うっわ、はっず!?恥ずかしすぎる!?何その厨二的行動!くっさ!くっっっっっさ!え、なに?もしかして他の人にも見られてたの!?黒歴史確定じゃねぇか!

 

「蝶!」

 

「は?」

 

「蝶を…、送ってましたよね!?」

 

「…」

 

 思えば、これが運命の分かれ目だったのかもしれない。

 とにもかくにもこの瞬間、この男との出会いが、柳千尋という存在を大きく変える出来事の始まりという事を、今の俺は知る由もなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




しばらくこっち中心に活動します。


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第一話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 高嶺昂晴がその光景を見たのは、本当にただの偶然だった。午前の講義が終わり、友人の汐山宏人と学食に行く途中、中庭で飛び回る青い蝶を見つけた。

 宏人に断りを入れ、すぐさま外へ飛び出した昂晴は中庭へ向かう。

 

 そこで見た光景は、昂晴の想像とは掛け離れたものだった。

 

「あれ、は…」

 

 中庭に着いた昂晴はすぐに青い蝶を見つけた。しかし、そのすぐ傍らで思いも掛けないものを見る。

 

 男だ。それも、人差し指の先に蝶を止め、柔らかい微笑みを浮かべて何かを語り掛けている。

 

「まさか…」

 

 まさかも何もない。あの男は蝶が見えている。そして、蝶と話している。いや、蝶は言葉を発せないため、話しているという表現は間違いかもしれないが。

 

 しかし、あの男は一体何者だろうが。蝶は、普通の人間には見えないもの。それを目視でき、挙げ句戯れて──────

 

「──────」

 

 次の瞬間、昂晴は自身の考えが誤っていた事を悟る。

 男は蝶が止まった指先を持ち上げ、空へと向ける。直後、蝶が飛び立ち、空へと上っていったのだ。

 

 あの奇妙なケット・シーと死神の言葉を思い出す。あの蝶は現世に零れ落ちた人間の魂。つまり、今の現象は──────

 

「おくった、のか…?」

 

 人間の魂は神によって生まれ変わり、転生する。あの空に飛び上がった蝶は、あの男によって神の元に導かれたのだろうか。

 

「…」

 

 昂晴には詳しい事は分からない。それでも、あの男を店に連れていくべきだと直感した。ケット・シー、ミカドと死神、明月栞那の所へ。

 

「あ、あの!」

 

 気付けば昂晴はその男の背後に立ち、声を上げていた。ベンチに腰を下ろしていた男は少し間を空けてから昂晴を見上げる。

 

「さ、さっきの!」

 

「…なに?」

 

 いけない。男の表情が怪訝なものへと変わる。確かにいきなり話し掛けられ、それも要領の得ない言葉を掛けられれば自分でもこんな反応になる。

 

 しかし、それにしてと目付きが鋭い。やや吊り目の視線が更に警戒に染まればどうなるか、語るまでもない。糞雑魚メンタルの昂晴君は大ダメージを受けてしまう。

 

(そ、それでも、ここで引くわけには…!)

 

 自身を叱咤し、頭の中でぐるぐるとまとまってくれない台詞を絞り出す。

 

「蝶!」

 

「は?」

 

「蝶を…、送ってましたよね!?」

 

「…」

 

 警戒に染まった表情が、今度は驚愕に染まっていく。鋭く細められた目が見開き、男が抱く驚きの大きさを露にする。

 

 昂晴はやりきった。コミュ障丸出しの話し掛け方ではあったが、とにかく男に、昂晴と話をする気にはさせたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あ、ありのまま起こった事を話すぜ…。俺以外には見えていない蝶を見送っていたらその光景を他人に見られていた!何を言ってるのか分からねぇと思うが俺も何を言ってるのか分からねぇ…。黒歴史とか厨二病とかそんなチャチなもんじゃあ断じてねぇ。もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ…。

 

 なんてボケを内心でかましてはいるが、ぶっちゃけ動揺しまくってます。

 

 え、うそ、マジで?見えるの?あの蝶が?でもこいつ俺みたいに眼鏡掛けてないけど…、常時あの景色を見てるのか?メンタル強いなこいつ、あんなの見続けて平気とか。あ、もしかして眼鏡じゃなくコンタクト?きーにーなーるー!

 

 …ごほん。同類を見つけたかもしれない喜びでテンションがおかしくなってるな。一旦落ち着かねば。深呼吸…、よし。

 

「お前も、見えるの?」

 

「あ、あぁ…」

 

「蝶が?」

 

「うん」

 

「じゃあ、あいつも?」

 

「…うん?普通の学生だよな?」

 

「え?」

 

「え?」

 

「…見えないの?」

 

「?」

 

 話を聞く限りでは蝶は見えるらしい。しかし、おかしい。蝶は見える癖に、ついさっき俺達の前を横切っていたカップルの男の方にのしかかる人型の肉塊が見えない様子。

 

「じゃあ、あそこにいる髪の長い顔が焼き爛れた女は?」

 

「君には一体何が見えてるんだ!?」

 

 どうやら見えるのはあの蝶限定で、悪霊の類いは見えていないらしい。

 何だつまらん。折角同年代の同類に出会えたと思ったのに。

 

「あー、で、何だっけ?蝶?見えてるけど、何?」

 

「え、あ、いや、何って…」

 

「…」

 

「…」

 

 ホント、マジで要領得ない奴だな。これは、あれだな。コミュ障というやつだな。まあ俺もコミュニケーション得意ではないが。ここまで酷くはないぞ。その筈だ。

 

「話はそれで終わり?」

 

「あ、いや!終わりじゃない!あの…、今日の講義はいつ終わる?」

 

「…四講までだけど」

 

「それなら、講義が終わったら時間とれないかな?ちょっと、話したい事があるんだ」

 

 話が終わったと思ったら、更に話したい事があるとか言われた。正直、面倒臭い。面倒臭いのだが、一部とはいえ視界を共有できる人。

 

「…話す場所は?お前と一対一か?」

 

「っ!大学から少し歩いた所にある俺がバイトしてる店…ていうか、まだオープンしてないんだけど…。そこで俺と、あと三人」

 

 こいつ以外にもいんのかよ見える人。ていうか、もしかして俺以外にも結構いたりする?この眼鏡くれた人は俺みたいな奴はかなり珍しいみたいな言い方してたけど。案外そうでもない?

 

「それじゃあ、講義が終わったらC棟の出入り口で合流しよう」

 

「了解」

 

「…じゃあ、また」

 

「ん」

 

 軽く手を上げ合ってから、男が去っていく。

 

「…あ、名前聞いてない」

 

 男の姿が見えなくなってから思い出す。そういえば、男の名前を聞いてない。ついでに俺も自己紹介してない。更に言えばあの男の顔がすでに朧気になってしまった。

 

「…まあ、何とかなるだろ。えっと…、C棟の出入り口だったっけ?」

 

 確かそうだった筈、と頭に待ち合わせ場所を刻みながら立ち上がる。

 そろそろ昼食を注文しとかないと次の講義に間に合わない。いや、それとも適当にコンビニでパンでも買うか?いやしかし…。

 

 悩んだ結果、学食にて昭久と合流。昼食代をせびりラーメンを注文してさっさと昼食を済ませる。

 因みに、奢りなしの取り消しは夕飯の奢りなしを条件とした。どのみち今日は用事ができたから飯行けないし。

 

 そうして昼食を済ませた後は、言うまでもなく三講、四講と講義を連続で受ける。今日は一週間の中で一番ハードな一日で、一講から四講まで間なく講義を受け続けた。

 一、二年はとれるだけ単位をとるためにこの状態がほぼ毎日続いたが今は違う。卒業できるだけの単位の内ほとんどをとっているため、ぶっちゃけ必修科目以外は履修しなくてもいい。

 その必修科目が二講目から四講目まで続くのがこの曜日なのである。ちなみに一講目は間違えてとった。反省している。後悔もしている。

 

「千尋ー、用事って何なんだ?」

 

 四講目も終わり、本日の講義は終了。資料を鞄にしまい、昼休みに約束した待ち合わせ場所に行こうとしたところ、昭久に声をかけられた。

 

「ちょっと行くところが出来た」

 

「どこ?」

 

「俺もよく知らん」

 

「は?何だそりゃ」

 

 呆気にとられた表情になる昭久。しかし、本当によく知らないのだから仕方ない。

 

「そんじゃ」

 

「あぁ、また明日な」

 

 挨拶を交わしてから教室を出る。向かう先は待ち合わせ場所であるC棟。ここからは少し距離がある。

 今更だが、招く人を歩かせるってどうだろうか。いや、別に本気で気にしている訳ではないが。何なら、あいつの最後の講義がC棟で行われてるのかも知らないが。

 

 建物から出れば、外はすっかり夕焼け色に染まっていた。冬の兆しか、それなりに冷たい風が肌を撫でる。

 

 ポケットに両手を突っ込み歩き出す。すでに外はこれから帰る学生やサークルに向かう学生で賑わっていた。

 今日の四講は講師に熱が入ったせいで普通に時間過ぎてたからな。多分待たせている。

 

「あ、こっちだ!」

 

 小走りしてペースを速めてC棟の建物へ。やはりというべきか、その男はすでにそこで待っていた。

 

 だが──────

 

「…四季ナツメ?」

 

「?」

 

 男の他にもう一人立っていた。そう、俺が呟いた名前、四季ナツメだ。

 というか、何だろう。この組み合わせ、何故か見覚えがある気がしてならない。

 

「あ、思い出した。一講目に四季さんと二人で講義受けてた奴」

 

「ぐっ…」

 

 そうだ、ようやく思い出した。眼鏡を掛けていたから今まで思い出せなかった。そうだった。通りでこの組み合わせに見覚えがある訳だ

 

「君も、あの講義を受けてるの?」

 

「あぁ。あ…っと、今更だけど、いきなりフルネームで呼んだりして悪かった」

 

「ううん、別に気にしてないけど…。えっと…」

 

 俺が同じ講義を受けていた事に驚いたらしい。四季さんが目を丸くしながら問い掛けてくる。その問いに、さっきの失礼な態度を付け加えて答える。

 

「…?」

 

「名前、教えてくれないかな?」

 

「あー。柳千尋、よろしく」

 

「うん。私の事は知ってたみたいだけど、改めて。四季ナツメです。それと…」

 

「高嶺昂晴。ごめん、昼休みの内に自己紹介してなかった」

 

 三人で自己紹介し合ってから、誰からともなく歩き出す。といっても俺は目的の場所への道は知らないため、二人についていくしかないのだが。

 

「それで、えっと…」

 

 歩き出してから気まずい沈黙が流れる中、信号待ちをしている途中で切り出したのは四季さんだった。

 こちらを見て、何かに悩む素振りを見せてから、ゆっくりと口を開く。

 

「柳君は、蝶が見える…のよね?」

 

「うん。…ここにいる時点で察しはつくけど、四季さんも?」

 

「うん。私も、見える」

 

 世間は狭いものだ。もしかしたら自分以外いないのではとすら思っていた同類…ではなく、似た者がこんなに近く、それも二人もいるとは。いや、確か男…高嶺は自分以外に三人いると言っていた。つまり、その内の一人は四季さんとして、他に二人?

 

「それって、いつから?」

 

「んー…、さあ?物心ついた時には見えてた。てか、親が言うには赤ん坊の頃からよく何もない所に向かって手を伸ばしたりしてたらしいから、案外生まれた時から見えてたのかもな」

 

 赤ん坊の頃の記憶なんてないから言い切れないけど。

 四季さんの質問に答えると、質問をした四季さん自身と高嶺が目を見開いている。

 

「二人は違うのか?」

 

「私も高嶺君も、見え出したのは最近」

 

 やはり同類とはいえないらしい。高嶺に目を向けると、四季さんの言葉に同意するように頷く。

 

「そう、か」

 

「それと…、高嶺君から聞いたんだけど…」

 

「ん?」

 

「その…。幽霊が見えるって、本当?」

 

 どこか不安げに聞いてくる四季さん。高嶺も何だか表情が強張っている。

 

「見えるけど」

 

「…マジで?」

 

「大マジ」

 

 四季さんの表情が固まり、高嶺が呆然と聞き返してくる。どうあがこうと見えるものは見えるため、即座に頷いて返してやる。

 

「あぁ、二人はとり憑かれてたりしてないからあんし──────」

 

 朝に眼鏡を外して見た時はそういったものは見えなかったため、二人にそう言おうとしたのだが…。

 改めて確かめるべく、眼鏡を外して二人を見ると。

 

『ネェ…、キコエテル…?』

 

 憑いてました。高嶺の後ろに。それも昼休みの時に見た、あの髪の長い顔が焼き爛れた女が。

 

 あー、憑いてきちゃったのね。

 

 そっ、と眼鏡を戻し、視線を外す。

 

「え?え?何?何で俺の方を見て固まったの?」

 

「高嶺君…」

 

「四季さん、そんな哀れむ目で見ないでよ。助けてよ。ちょっ、え?マジで!?」

 

「あー、大丈夫だよ。まだ」

 

「まだ!?」

 

「ほっときゃ勝手に離れてくさ。多分」

 

「多分!?」

 

 そりゃ、見えはするが別に霊能力者という訳ではない。いや、バイトで手伝いはした事はあるが、一人で対処など出来やしない。

 

 でも多分という曖昧な表現はつくが、今の状態を見る限り放っておけば大丈夫な筈だ。これは俺の経験上の推測。根拠はないが、大体は当たる。大体は。

 

「あれだ。部屋に一人でいる時に鳴るラップ音とか自分以外の声に反応せず無視してれば大丈夫」

 

「聞かなきゃ気のせいで済ませられたのに!」

 

 余計な事を言っちゃったっぽい。顔を真っ青にする高嶺を見てちょっぴり同情。いや、俺のせいだけど。

 

 話の内容はあれだが、さっきまでの気まずい空気は払拭されていた。高嶺の犠牲は無駄ではなかったという事だ。いや、死んでないし死なないけど。多分。

 

「まあ、高嶺君の事は置いておいて…」

 

「置かないで!」

 

「あそこ」

 

 叫ぶ高嶺を無視して、四季さんが指を差す。その指の先には一軒の建物。表には【CAFFE STELLA】と書かれた看板が。

 

「喫茶店?」

 

「まだオープンしてないんだけどね…」

 

 どうやら案内されるのは喫茶店らしい。高嶺も言っていたが、確かにオープンしている様子はない。

 

 四季さんを先頭に扉を開き、店の中に招かれる。扉を潜り、店内に入ると──────

 

「待っていたぞ」

 

「?」

 

 渋いダンディの声がした。声がした方に視線を向けると、カウンターテーブルの上に乗った灰色の何か。

 

「…猫?」

 

 頭に王冠、背中に赤いマントを纏った二足で立つ猫がいらっしゃいました。



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第二話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ?????????

 

 分からない。さっぱり分からない。目の前の信じられない光景が。猫が二足で立っているのは良い。頭に王冠、背中にマントを着けているのもまだ良い。しかし、しかしだ。どうしても、看過できない事が一つだけある。

 

「どうした。我輩をじっと見て」

 

「…」

 

 喋ってる、よな?口の動きも明らかに言葉に合わせて動かされてた。それによく注視すれば体が呼吸に合わせて上下している。腹話術で使う人形というのはあり得ない。

 

 つまり──────

 

「喋ってる」

 

「む、当たり前だろう」

 

「猫が」

 

「うむ」

 

「喋ってる」

 

「だから、そうだと言っているだろう」

 

 この珍妙な猫が、本当に喋っているのだ。信じられない事に。

 

「…キェェェェェェアァァァァァァシャァベッタァァァァァァァ!!」

 

「喧しい!」

 

「…」

 

 叱られた。それも猫に。

 

「…いや待て待て待て。訳が分からん、猫が喋るって何だ。は?実は超凄いリアリティー満載の腹話術だったり?」

 

「いや、正真正銘、この猫が喋ってる」

 

「…」

 

 きっとこの時、俺はすがるような目をしていた事だろう。しかしすがった相手、高嶺はバッサリと俺を崖から突き落とした。

 

「はぁ…。貴様、常識では測れぬ世界を視認しながら、我輩が喋る事は受け入れられんのか」

 

「いや、それのこれとは話が別…?」

 

 待て、この猫は今、何と言った?

 

「何故我輩が知っている、と言いたげだな」

 

「…いや、少し考えれば分かる。高嶺があんたに報せたんだろう?」

 

「…その態度は気に入らんが、その通りだ。我輩と、そこにいる栞那に少しの間、貴様の時間を貰うぞ」

 

 喋る猫の衝撃が大きすぎて今まで気付かなかった。店内には高嶺、四季さん、喋る猫の他にもう一人、人がいた。

 

「明月栞那です。突然お呼び立てして、申し訳ありませんでした」

 

「あぁ、いえ。…柳千尋です」

 

 自己紹介をする女性、明月さんに自己紹介を返す。

 

「む、そういえば我輩の紹介をしていなかったな。ミカドだ。それと、我輩は由緒ある公爵家の当主だ。あまり無礼な態度をとるなよ」

 

「…公爵?猫が?」

 

 猫が喋ったりその猫が公爵と名乗ったり、本当に意味が分からん。

 

「ケット・シーって知ってる?」

 

「?アイルランドの伝説にある妖精」

 

「閣下はそれなの」

 

「…これが?」

 

「これが」

 

「貴様ら、それとかこれとか無礼が過ぎるぞ。というかこの台詞、デジャブが…」

 

 ケット・シーって。こいつが、ケット・シーって。

 

「それと、私は死神だったりするんです」

 

「…明月さんて重度の厨二病だったりする?」

 

「違います!」

 

 何か次々に休む間もなくカミングアウトされまくってる。ケット・シーに死神?いや、さっきミカドが言ったようにオカルト世界にどっぷり浸かってる俺が困惑するのは可笑しいかもしれないけど、それでも受け入れ難いものは受け入れ難いのだ。

 

「死神はまあ…。しかし、ケット・シー…、喋る猫ねぇ…」

 

「おい。我輩に言いたい事があるならハッキリ言って貰おうか」

 

「いや別に」

 

 言ったら面倒臭い事になるだろうし。ケット・シーってきっと何か不思議な力、魔法とか使えそうだし。気分を害して魔法ぶっ放されたら堪ったもんじゃない。

 俺は見えるだけで使えないのだ。

 

「それで?高嶺に話したい事があるって連れてこられたけど、何?まあ、大体予想はつくけど」

 

「そうですねぇ…。とりあえず、席に着きましょうか。あ、何かお飲み物を用意しますか?」

 

「…それなら、紅茶ある?」

 

「あぁ、それなら私が淹れるね」

 

 ここはオープン前とはいえ喫茶店。それならと、紅茶を頼んでみる。

 すると、動き出したのは質問した明月さんではなく四季さんだった。

 

「茶葉はどうする?」

 

「アールグレイ。それとミルクも欲しい」

 

 四季さんの問い掛けに迷わず即答する。四季さんは着ていた上着を脱いで近くの椅子の背凭れに掛け、カウンターの奥へと向かう。

 棚から茶葉が入ってると思われる瓶を手に取り作業を開始。

 

「…手慣れてるね」

 

「まあ、よく淹れてるし。それにこの店をオープンさせるために、練習もしてるから」

 

 四季さんの手元を眺めながら軽く会話。

 

「柳はよく紅茶を飲むのか?」

 

「日に七回…とまではいかないけど、朝昼晩、毎日三回は飲んでる」

 

「根っからの紅茶党ですね…」

 

「まあ、コーヒーもよく飲むから、本当の紅茶党からは裏切り者扱いされそうだけどな」

 

 軽く苦笑い。確かに紅茶は大好きだが、コーヒーも好きだ。両刀だと明月さんが言う根っからの紅茶党の人に知られればどうなるか、想像に難くない。

 

「やっぱり、自分で淹れてるのか?」

 

「外にいる時以外はな」

 

「ペットボトルの紅茶は飲まないんですか?」

 

「は?あんなもん飲むか」

 

「本気です…。声が本気です…」

 

 よくもまあ、あれを飲めるものだと思う。大体冷たい紅茶とか、その時点であり得ない、紅茶じゃない。あとずっと不思議に思ってるのだが、ロイヤルミルクティーって何だ。あれを見る度に好奇心と猜疑心が大激戦を起こして大変なんだが。

 

「お待たせしました。アールグレイです。皆の分も淹れたから、どうぞ」

 

 話している内に紅茶を淹れ終えた四季さんが丸盆にカップとソーサーを四つ載せて持ってくる。四人掛けの席に座った俺達の前にカップを置いていく。

 

「…なに?」

 

「いや、堂に入ってるなと思って。ウェイトレスっぽい」

 

「こっちの方も練習してるから。あと、ぽいじゃなくてそのつもりでいるんだけど」

 

 その美貌も相まって、四季さんの仕草につい見惚れてしまう。じっと見つめてしまったせいで気付かれてしまうも、何とか見惚れていた事だけは誤魔化す事に成功する。

 

「…」

 

 が、どうやら正面の明月さんだけは誤魔化せなかったようで。にまにまとしたやらしい笑みを浮かべてこちらを見ている。

 

「何か?」

 

「いえー?べっつにー?にひひ」

 

「…さすが死神。長生きしてるだけあって、観察眼に優れてますな」

 

「だ、誰がBBAですか!」

 

 いや、そこまで言ってないんだが。

 憤慨する明月さんをスルーし、ソーサーの上にあるミルクの蓋を開けて紅茶の中に投入。スプーンで軽く混ぜてから、カップとソーサーを持ち上げる。

 

 まずは香りの確認。柑橘系の心地よい香りが全身に行き渡る。

 ハッキリ言おう。この時点で学食で出されてる紅茶よりも美味だと確信した。結構良い茶葉を使っている。この茶葉を選んだのは四季さんなんだろうか?良い趣味をしている。

 

 そしていよいよ、今度は味だ。ソーサーからカップを離し、縁に優しく口を付け、カップを僅かに傾ける。

 

「…なに?」

 

 口に含んだ紅茶を味わってから喉に通し、一度カップをソーサーに載せてテーブルに戻す。

 直後、隣の高嶺、正面の明月さん、そしていつの間にか同じテーブルの席に座っていた四季さんに、ミカドまでもがこちらをじっ、と見つめている事に気が付いた。

 

「あ、いや…。何か、仕草が堂に入ってると思って…」

 

「何だそれ、さっきの仕返しか?」

 

「そ、そうじゃないけど…」

 

 さっきの態度を気にしたか、やや慌て気味に四季さんが答える。その答え方が先程のやり取りを思い出させ、つい笑みを溢してしまう。

 

「しかし、今の動作は四季ナツメの言う通り、中々堂に入ったものだったぞ」

 

「まあ、親の影響だな。俺が生まれる前はイギリスに住んでたらしい」

 

 というより、今もイギリスに住んでいる。何だったら、今はカフェを営んでたりする。本場の国でカフェを営むのが夢だったーとか言って、俺が大学入った途端これ幸いとイギリスに行ってしまった。

 あの常時新婚気分共が。

 

「それでその…、柳君。紅茶は…えっと…」

 

「…あぁ」

 

 何かを言い淀む四季さんから出た単語と、視線の先にあるカップを見て何を聞きたいか察する。

 

「美味しいよ。最近外で飲んだ中では一番」

 

「ほ、本当?」

 

「ただ、ちょっと抽出時間を短くした方が良い。苦味が出てる」

 

「…いつもと同じ時間の筈なんだけど」

 

 紅茶の感想を言った上で、自身が感じた改善点を四季さんに伝える。四季さんは不思議そうに呟いているが、別にこちらのアドバイスを疑っている様子はない。

 

「茶葉の種類が違えば、ベストな抽出時間も違う。四季さんは家でもこの茶葉を使ってるのか?」

 

「ううん。それはさすがに」

 

 だろうな。一人暮らしの大学生が毎日この茶葉で紅茶を飲んでたら破産する。

 

「ならいつもと同じ淹れ方じゃダメだ。茶葉によってベストな淹れ方は違うんだから」

 

「…すげぇ。専門家みたい」

 

「本場仕込みというやつでしょうか」

 

 こそこそと囁き合ってるそこのお二人さん。位置的に顔を近付けると思い切り俺と四季さんの間に割り込む形になるからバレバレだぞ。

 

「おほん」

 

 その時、ミカドが咳払いをする。その声を聞いて我に返り、思い出す。ここに何をしに来たのかを。

 

「そろそろいいか?」

 

「あぁ」

 

「それなら、まずは単刀直入に聞こう。…蝶を視認し、神の下に送る事が出来るというのは本当か?」

 

 空気が変わる。和やかだった空気が固く、緊張したものへ。

 さて、まずはミカドの問い掛けに答えなければ。蝶、というのはまずあの青い蝶、人間の魂に間違いはない。しかし、それを神の下に送る、とはどういう事だろうか。そんな事をした覚えはないのだが。

 

「蝶は見える。けど、神の下に送るって何だ?そんな事はしてないぞ」

 

 正直に返答する。それに対し、ミカドは表情を変えず淡々としていた。

 

「しかし、高嶺昂晴は貴様が蝶を天に送る場面を見たと言っている」

 

「…蝶を成仏させた所か?」

 

「成仏…、まあ、間違ってはいないが」

 

 何故か複雑そうな顔をしているミカド。何か変な事を口走ったか?

 

「とにかく、天に上った蝶の向かう先が神の所だ」

 

「…神って、いんの?」

 

「戯け。いらっしゃるに決まっているだろう。神の下に辿り着いた蝶は神によって次の人生に転生する」

 

「…輪廻転生って、あんの?」

 

「貴様…。その能力を持ってる癖に信仰心が無さすぎないか?」

 

 だって、実際に会った事ないし、経験した事ないし。そんな見た事のないものを信じろなんて言われましても。

 

「まあいい。とにかく重要なのは、貴様が蝶を見れ、そして送る事が出来る力を持っている事だ」

 

「何か問題が?」

 

「大有りだ。それ程の力、悪用されれば世界のバランスを大きく崩す事に繋がる。下手をすれば、神によって排斥されかねん」

 

「え、マジで?神ってそんな物騒なの?」

 

 神ってそんな世界に直接介入したりするものなの?

 

「因みに、そこの高嶺昂晴はとある理由で神に警戒されている。神による排斥候補筆頭だ」

 

「おー」

 

「やめて、そんな目で見ないで。排斥だよ?死ぬんだよ?そんな凄ぇじゃんって言いたげな目で見ないで」

 

「…それってさ、こいつの魂の光が弱くなった事と関係あんの?」

 

 ふと、会話の中で気になった事をミカドに問い掛ける。すると、ミカドと明月さんの目が大きく見開かれる。

 

「…柳千尋。貴様、人の魂が見えるのか…?」

 

「この眼鏡を外せばな。てか、眼鏡を外さないと蝶も見えない」

 

「眼鏡…。その眼鏡、見せて貰っても構わないか?」

 

「良いぞ。でも、レンズに触るなよ」

 

 ミカドが俺達のテーブルに乗り、こちらに歩み寄ってくる。俺の前に立ったミカドに眼鏡を手渡すと、ミカドは振り返り、正面の明月さんと一緒に眼鏡の観察を始める。

 

「…魔力が込められていますね」

 

「あぁ。柳千尋の目の力を抑えるための…、しかし、誰がこんなものを…」

 

 何やら話し合っている。もしかして、誰がこの眼鏡をくれたかとか言うべきなのだろうか?いやしかし、あの人の事は言わない約束だし…。

 

『ネェ、ワタシガミエテイナイノ?ホントウハミエテルンデショウ?』

 

 …実はあの眼鏡、視界だけじゃなく音も遮断してくれてたりしている。ていうか、高嶺にまだ付き纏ってたのね。

 

「…なに?」

 

「いや。…お前、大変だな」

 

「何が?」

 

 声を掛けると、当たり前だが高嶺は困惑。しかし、言わない方が本人のためだろう。

 そう、思っていたのだが。

 

「おい、柳千尋」

 

「ん?」

 

「貴様、高嶺昂晴に憑いている女は見えているか?」

 

「勿論。…あ」

 

 ミカドの問い掛けに即答した直後、自分が何を言ったのかを自覚する。当然、俺の声は()()()にも届いている訳で。

 

『…ミエテルノ?』

 

「…」

 

『ミエテルノ?ネェ、ミエテルッテイッタワヨネイマ。アナタ、アナタガ…』

 

 あー、やっちまった。どうしよう。何度も言うが、俺には見る能力はあっても対抗する能力はない。悪意のない霊や蝶ならば何とかしようがあるが、有無を言わさず他人を害する事しか能のないこの女みたいな悪霊は別。

 

『アナタガアアアアア、アアアアア、アアアアアアアアア!!!』

 

 マジでやばい。とり憑かれる。おわた。

 何も抵抗できずそのまま俺は、女の悪霊にとり憑かれていた。この場にいるのが、俺だけだったなら。

 

『ナ、ナニ?』

 

 戸惑う女の声。俺の目の前では何故かその場で動きを止めている女の姿。

 

「柳千尋。何故抵抗しようとせん」

 

「いや、そんな力ないし」

 

「…視る事しか出来ないということか。栞那」

 

「はい」

 

『ナ、ナn───』

 

 呆れたようにため息を吐くミカドが呼んだ直後、明月さんがいつの間にやら持っていた鎌を一閃。鎌に薙がれた悪霊は、次の瞬間にはその姿を消していた。

 

「…死神っぽい」

 

「ぽいじゃなく、死神ですよ?」

 

「それに、さっき女が動きを止めたのって…」

 

「我輩が簡易的だが結界を張った」

 

「…」

 

 あまりに突然の出来事で把握しきれていないが、どうやらこの二人に助けられたらしい。

 

「…ありがとう。二人とも」

 

「礼には及ばん。どの道、あの醜悪な霊は祓っていた」

 

「…え、なに?霊ってもしかして、柳が言ってた女の霊?」

 

「…本当にいたの?」

 

「貴様ら、信じてなかったのか」

 

 どうやら四季さんと高嶺には俺の話は信じて貰えていなかったらしい。いや、あんな荒唐無稽な話は信じる方が難しいかもしれないが。

 それにしても、悲しい。あれ、目から汗が。

 

「あ、あ、す、すまん!蝶の話は実際に目の当たりにしたからすぐに信じられたんだけど…」

 

「いきなり悪霊、とか言われてもね…」

 

「…」

 

 慌ててフォローする二人。ショックを受けている俺。

 いつの間にか、本題に入る際の緊張した空気は和らいでいた。

 

「柳千尋。眼鏡を返す」

 

 俺の精神状態なんて知ったことかと、空気を読まずミカドが俺に眼鏡を差し出す。

 突っ込む気力もなく、俺は素直に眼鏡を受け取り耳にかけ直す。

 

「それで、柳千尋。その眼鏡についてだが…」

 

「ある人から貰った。でも悪いな。その人については誰にも話さないと約束している」

 

「…どうしても、か?」

 

「あぁ。それに、もう十五年も前の事だ。顔も声も覚えてないよ」

 

 たとえ約束がなく、教えようと思ったとしても不可能だ。唯一覚えてるのは女の人だったという事だけ。それだけの情報で特定など出来る筈もない。

 

「悪いな」

 

「いや、謝る必要はない。どうやら、その約束がなくともろくな情報は手に入りそうになさそうだしな」

 

 喧しい。悪かったな、覚えてなくて。

 何かこいつ、こうして話してると人間とは別の存在なんだな、と実感させられる。空気の読めなさとか、言葉の容赦のなさとか。思い遣りが皆無。

 

「あの、閣下。そろそろ」

 

「…そうだな。柳千尋。これから話す事が、貴様をここに呼んだ真の理由だ」

 

「…俺の目の事じゃないのか?」

 

「それもある。が、貴様に一つ、頼みたい事がある」

 

 頼み事。猫が、俺に。何か不思議な感覚だ。

 そんな感覚の中、ミカドは続ける。

 

「柳千尋。この店で、我々と共に働いてくれないだろうか」




この小説での栞那の鎌は悪霊も払えます。そういう設定です。


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第三話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 店を出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。少し話すだけのつもりが、結構時間が経っていたらしい。今日の夕飯、どうしよう。

 

 あの後、ミカドと明月さんから詳しい事情を聞いた。四季さんの要望でこの店をオープンさせる手伝いをしている。四季さんの要望だけが理由ではなく、人が集まればその分蝶が集まりやすくなり、その対処がしやすくなる。つまり、死神の仕事がしやすくなる。

 俺に頼みたいのは、蝶の対処の手伝いをしてもらいたいとの事。勿論、お店の仕事を熟した上でだが。

 

 そして、お店をオープンさせるには、あの建物の大家さんを十月中に納得させなければならないという。

 何というか、かなり厳しい状態であると言わざるを得ないだろう。すでにその大家さんには何度もお店に足を運んでもらってるらしいが、許可を貰える気配すらないらしい。

 

「迷ってる?」

 

 思考が傍らから聞こえてきた涼やかな声によって途切れる。

 俺の隣で歩いているのは四季さんだ。家の方向が同じで、何というか流れでこうして一緒に帰っている。

 

「まあ、いきなり一緒に働いてくれなんて言われてもな。迷ってるって程じゃないけど、考えはする」

 

「…柳君が働いてくれたら、色々と使えそう」

 

「ちゃんと人扱いしてくれよ。いや、働くかどうかまだ決めてないけど」

 

 手を口許に当てて何か考え込む仕草をとる四季さん。その実態は、俺を扱き使う計画を立てているに違いない。勝手な俺の想像だが。

 

 しかし、喫茶店か。仕事としてはウェイターかキッチンスタッフのどちらか。まさか事務仕事はないだろう、多分。

 やるとしたら…、キッチンスタッフだろうか。いやでも、喫茶店ならまず間違いなくメニューにお菓子が並ぶに違いない。そして、俺はお菓子なんて作れない。というか─────

 

「四季さんってウェイトレスなんだよな?」

 

「え?うん、そうだけど?」

 

「明月さんがキッチンスタッフの予定」

 

「うん」

 

「明月さんって、お菓子作れるの?」

 

「…」

 

 あぁ、この沈黙こそ答えなんだろう。なるほど、お菓子を作れる人は一人もいない、と。高嶺は如何にも料理しない系男子っぽいし、ミカドは期待するだけ無駄だろう。

 

 本当に考えれば考えるほど課題が山積みだ。この状態で十月中に許可を貰うとか、相当難しいぞ。

 

「…まあ、そこは今の俺達にはどうしようも…いやどうにかしなきゃいけないんだけど、他の簡単に出来る事から考えよう」

 

「え?」

 

「あの店さ、多分だけど、内装全く弄ってないだろ」

 

 四季さんが目を丸くする。図星、か。

 

「やっぱり、分かっちゃうか…」

 

「…もしかして、他の誰かに指摘された?」

 

「うん。高嶺君のお父さん」

 

 四季さんの言い方が引っ掛かり、聞いてみると案の定他にも俺と同じ指摘をした人がいるらしい。しかし、その相手が高嶺の親父とは。高嶺の親父はそういったコンサルタントを仕事としているんだろうか?疑問符を浮かべたのは一瞬、すぐに四季さんが説明をしてくれた。

 

 高嶺の親父さんの本職は画家だという。海外を中心に、今は日本で仕事をしているとのこと。そして画家と同時に、色んな店のコンサルティングみたいな事をしているらしい。

 その経験を見込んで、一度あの店に足を運んで貰ったという。その時に、店の内装について指摘されたという。

 

「後はあれだな。メニューももっと増やさないとな。お菓子類は…ともかくとして、他の喫茶店らしい…んー…、パスタとか?そういうのを取り込んでもいいだろ。後、従業員も増やさないと…、あーあ、やる事たくさんだ」

 

 考えれば考えるほど浮き上がってくる課題。これもすでに高嶺の親父さんに指摘されてるかもしれないが。

 何度もいうが、本当に十月中に間に合うのだろうか?というか、まだ働くと決めてもいないのに、何で俺はこんなにあの店について考え込んでるんだ?

 

「…でも、まだオープンできるかも決まってないのに。メニューを増やすためには料理の練習しなくちゃいけない。そのための材料費の工面と、従業員だって、こんな先行き不透明な所に来てくれるか…」

 

「…」

 

 四季さんの表情は浮かない。

 

 さて、どうしたもんか。実のところ、あの店にて今の状況を聞いている内にふと湧いた疑問がある。あの時は他に高嶺達もいたために口を噤んだが、今この場で言っていいものか。

 

 今の四季さんの状態はかなり危うい。あの店について色々と悩みがあるだろうし、それに─────あの事だってある。

 もし疑問をぶつけるならば、俺は四季さんにとってかなり厳しい事を言う羽目になる。今の彼女に、そんな言葉をぶつけていいものか。

 

「…四季さん」

 

「ん、なに?」

 

「俺、今から滅茶苦茶厳しい事言う。こんな会ったばかりの奴が何言ってんだきっもとか思うかもしれないけど、聞いてくれるか」

 

「…えっと、それはあの店について?」

 

 戸惑う四季さんの問い掛けに俺は頷く。四季さんは少し考える素振りを見せてから、俺を見上げて頷いた。

 

「うん。言って」

 

 四季さんの許可は出た。それなら、言わせて貰おう。

 

 俺はその場で立ち止まる。つられて四季さんも立ち止まり、俺達は向かい合う。

 

「四季さんはさ、あの店を本気でオープンさせたいって思ってる?」

 

 四季さんの表情がぽかん、と呆気にとられたようなものになる。その表情はすぐに引き締まり、俺を真っ直ぐ見据えながら四季さんは口を開いた。

 

「勿論。どうしてそんな事を聞くの?」

 

「俺にはそういう風に見えなかったから」

 

 四季さんの問い掛けに率直に答える。

 

 そう、俺にはどうしても四季さんがあの店を本気でオープンさせようとしている様に見えなかった。

 暗い店内、暗い空気、少ないメニュー。話を聞く限り、ハッキリとした時期までは分からないが、少なくとも春頃にはこの店をオープンさせようという話は出ていたらしい。

 

「それが、何だよあの体たらく」

 

「…」

 

 恐らくだが、高嶺の親父さんも俺と同じものを感じたに違いない。きっと、その人はとても優しい人だったのだろう。だから、俺のように厳しく突きつける事はしなかった。

 

「メニューを増やすための材料費?オープンさせるために必要な費用だろ?そして、四季さん達だけじゃ…俺がそこに加わったとしても、オープンは相当厳しい。なら、もっと人の手を増やさなくちゃいけない」

 

「…」

 

「何で遠慮する?オープンできるかどうか分からないから?もしオープンできなかった場合、申し訳ないからか?」

 

 四季さんは答えない。沈黙を保ったまま、ついに俯いてしまう。

 

 あぁ、やばい。罪悪感がやばい。でも、これも四季さんのため…というか、あの店のためなんだよ。

 なんて弱気な台詞を吐く事は今更許されず、内心でひたすら謝り倒しながら表では厳しい台詞を続ける。

 

「オープンできなかったら、なんて考えてんじゃねぇよ。そんな事を考えてる暇あったら、まず努力しろよ。店のための最善を尽くせよ」

 

「…」

 

 今、四季さんは内心で何を思っているだろう。俺の言葉は届いてるだろうか。

 届いているなら…、俺の事をどう思おうが構わない。だから、罪悪感に蓋をする。

 

「店のための最善を尽くさない責任者の下で、俺は働きたくない」

 

「っ…」

 

「…それじゃ」

 

 動かない四季さんを置いて歩き出す。いや、こんな空気でまだ隣同士で歩き続けるとか無理でしょ。というか四季さんも俺なんかと歩きたくなんてないでしょ。俺なら嫌だね。俺みたいな奴と歩くとか。

 

 夜道を進み、交差点を曲がり、歩くこと五分。俺のアパートが見えてくる。エントランスのロックを開けて中に入り二階へ。階段を上りきった所の右側の扉の鍵穴に鍵を差し込む。

 

 挨拶はしない。いつもなら誰もいなくともただいまの一言は呟いていたのだが、今日はしない。何の変哲もない1Rの部屋に置かれたベッドに倒れ込む。

 

「…バカじゃねぇの」

 

 枕に顔を埋めながら呟く。そして──────

 

「バカじゃねぇの?バカじゃねぇの!?バカじゃねぇの!!?」

 

 罪悪感と恥ずかしさが一気に溢れ出た。

 

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいバカじゃねぇのバカじゃねぇのバカじゃねぇの」

 

 四季さんへの謝罪と自分への罵声がごちゃごちゃに混ざり、俺の台詞はかなりカオスな事になっていた。

 

「てか何だよ。『店のための最善を尽くさない責任者の下で、俺は働きたくない』って」

 

 それはつい先程、四季さんとの別れ際に吐いた台詞。

 

「別に俺、四季さんに一緒に働いてほしいなんて頼まれてないじゃん。あああああああああああ──────」

 

 自分自身に対する恥ずかしさと四季さんへの罪悪感が止まらない。いや、ホントもう少し言い方があっただろ。結局厳しい言い方になるのはやむを得なかったとはいえ…、ていうか、俺がでしゃばる必要自体あったのか?あ、ダメだこれ以上考えたら立ち直れなくなる。

 

「…四季さん、大丈夫だろうか」

 

 届いてほしい、と願ってはいる。ただ、必要以上に自分を追い込んではいないだろうか、と心配でもある。

 

「…やめやめ。会ったばかりの人にそこまで気遣う必要ないだろ」

 

 言ってから思い出す。会ったばかりの人にあんな台詞を吐いたのは誰なのかを。

 

「………」

 

 両手で顔を覆う。そして、ごろごろとベッドの上で左右に体を揺らす。

 

「ああああああああああぁぁぁぁぁ…ぁぁぁ…ぁぁ…ぁ…」

 

 息が続かず、声は次第に途切れていく。限界を迎え、息を大きく吸い込んだところで動きを止めた。

 

「…コンビニ行ってこよ」

 

 何かもう、何か作る気にはなれない。かといって外に出るのも億劫なのだが、どちらかといえばコンビニで何か買ってきた方がまだマシだ。気が向く。

 

 着たままだった上着を整え、鞄から財布をとってポケットに入れて再び外へと出た。

 

「はぁ…。明日、どうしよ」

 

 外の寒さを感じながら、先程の四季さんとの会話を思い出す。あ、まずい。また罪悪感が。そして明日が憂鬱すぎる。あの店に返事をしなきゃならないのに。

 

 てか、そうだよ。返事についても考えなきゃいけないじゃん。

 今、他に働いているバイトはない。だから、時間は普通にある。しかしあの四季さんとの会話を考えれば、まず間違いなく気まずくなる。その空気は高嶺達にも伝わるだろう。

 

「…断るべき、かな」

 

 やはり断るべきだろう。正直、惜しいが。カフェでバイトとか、普通に興味あったが。未練たらたらだが。

 

 でも、俺がいたら迷惑になる。オープンの邪魔になる。それなら、俺はいない方がいい。

 

「よし」

 

 明日、講義が終わったら断りの返事をしに行こう。折角誘ってくれたのに、申し訳ないと謝罪もしなければ。

 

 それで、もしあの店がオープンしたら、絶対に常連になろう。そう、心に誓った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

~Another view~

 

『店のための最善を尽くさない責任者の下で、俺は働きたくない』

 

 正直、柳君の言葉の一つ一つは、かなり胸に刺さった。だって、その通りだったから。

 私は今まで、何をしていたんだろう。柳君と高嶺君のお父さんに言われた事はみんな、簡単に出来た事なのに。それをしなかった…、いや、しようともしなかった私は、本気でお店をオープンさせたいと思っているのだろうか。

 

「…」

 

 目を瞑れば脳裏に浮かぶ、あの店で笑い合い、オープンした後の事を語り合った私と両親の姿。

 私のせいで夢を諦めてしまったお母さんとお父さん。その夢は二人だけじゃなく、私にとっても同じで。

 

「…うん。やっぱり、諦めたくない」

 

 柳君の言葉によって揺らぎかけた夢は、やっぱりどうしても手放せそうになかった。私はあの店を開きたい。あの店で、たくさんのお客さんの笑顔が見たい。

 そのために、私がしなくちゃいけない事。

 

「…そっ、か。私、全然ダメだったんだ」

 

 私の能力とか、そういう事じゃない。それ以前の問題だった。

 

 私は…、()()、あの店をオープンさせるという覚悟が、まるで足りていなかった。

 

「…伝えなきゃ」

 

 その事を教えてくれたあの人に、今の自分の気持ちを伝えなければ。今更遅いと笑われるかもしれない。それでも─────

 

「私に出来る事は、全部やる」

 

 その決意をさせてくれた柳君に、私はお礼を言いたいのだ。



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第四話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おーい、千尋ー」

 

「…」

 

 頭上から俺を呼ぶ声がする。が、無視。返事をする気力がない。俺は机に突っ伏したまま動かないでいた。

 

「千尋君ー?」

 

「…」

 

 大学の昼休み明けの三講目。講義が始まる十分前に大学にやって来た俺は今日の最初の講義であり、同時に最後の講義である外国語を受けるべくここにいる。

 いるのだが──────

 

「千尋ちゃーん?」

 

「ちゃん付けで呼ぶんじゃねぇ」

 

「うおっ、生きてた」

 

「そんで勝手に殺すんじゃねぇ」

 

 首だけ動かして、ずっと俺に呼び掛け続けていた相手、昭久を見上げる。

 

「どうしたよ。座るや否や、怠そうに突っ伏して。体調でも悪いのか?」

 

「いや…。体調は平気だ」

 

「なら何だよ」

 

「…」

 

 言えない、言える訳がない。あの大学のアイドル的存在、四季ナツメに昨日、暴言を吐きまくったなんて。

 

 そう。一日過ぎても未だ、俺の心の傷は癒えていなかった。

 いや、俺の傷なんてそう大したものでもないか。もしかしたら、四季さんの方がもっと心を痛めているかもしれない。いや、もしかしたらじゃなく──────

 

「お?」

 

 そこまで考えたその時、突如講堂内がざわつき始めた。それだけじゃなく、昭久もどこか…というより、出入り口の方を見て目を丸くしている。

 

「…っ」

 

 俺も昭久の視線を追って出入り口の方を見る。

 そこに立つ人物を目にして、俺は息を呑んだ。

 

「四季さんだ」

 

「あぁ、四季さんだ」

 

「この講義受けてなかったよな?」

 

「受けてないっていうか、学部違うから一緒には受けないだろ」

 

「なら、誰かに用とか?」

 

 周囲の話し声が耳に入ってくる。その中の台詞である通り、四季さんがいる学部はこの時間には外国語の講義はない。だから、四季さんがこの場にいる必要はまるでないのだが。

 

 ──────なら、誰かに用とか?

 

「…」

 

「…あ」

 

 もしや、とある可能性が過った瞬間、視線が合った。まずい、と視線を外すも時既に遅し。背後から足音が近付いてくる。

 その足音の主が誰なのか、言うまでもないだろう。

 

「あの、柳君」

 

「…」

 

 四季さんが俺の傍で立ち止まり、声を掛けてくる。やはり、ここに来た目的は俺にあるらしい。そしてその目的はまず間違いなく、昨日の会話に関係しているに違いない。

 

 というか、痛い。視線が痛い。反対側からの視線はともかく、明久の方からの視線も痛い。昭久シールドが役に立たないっていうか昭久からの視線も痛い。

 おい、お前は俺を守れよ。盾になれ。

 

 なんて心の声が昭久に届く筈もなく、昭久だけでなく講堂にいる学生達の視線を受けながら、四季さんが口を開いた。

 

「今日の講義は何講までなの?」

 

「これで終わりだけど」

 

 四季さんの表情が僅かに固くなる。これは緊張、或いは不安か、詳しい所までは知らないが、次に四季さんの口から出る言葉は、彼女にとって重要であろう事は予想がついた。

 

「…柳君に、話したい事があるの。講義が終わったら、お店に来てほしい」

 

 話したい事。もしや、告白!?なんていう期待は一切湧かない。

 俺なんかに告白する物好きなんてそういる訳ないし、大体四季さんの顔を見ればそんな浮わついた話ではないのは火を見るより明らかだ。

 

「分かった。…ただ、少し遅くなるかもしれないけど、許してくれ」

 

「…?何か、用事があるのなら明日でも…」

 

「そういう訳じゃないから安心していい。とにかく、俺の事は気にしないでいいから。店には必ず行くから」

 

「…それなら良かった。待ってるから」

 

 そう言って、四季さんは小さく手を上げる。俺も手を上げ返し、それを挨拶として四季さんは講堂から去っていった。

 四季さんの姿が見えなくなるまで見送ってから、俺は机に頬杖を突く。

 

 さて、と──────

 

「ちーひーろくーん?」

 

「…なーあーにー」

 

「お前、いつの間に四季さんと仲良くなってんだよ。隅に置けねぇなー、このー?」

 

「別に、そんなんじゃない。断じてない。だからお前ら前を向け。俺の方を向くな。話せる事は何にもない」

 

 この女に飢えた(一人を除いて)男共を撃退しなければなるまい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 講義が終わった瞬間、急いで資料を片付けて講堂を出た。昭久に止められる事なく脱出に成功、すぐにキャンパスを出てお店に向かう。

 

 …明日が怖いな。きっと問い詰められるんだろうな。別に疚しい事なんて何もないのにな。昭久はまあ、彼女いるし面白がられるだけで済むけど他の奴は…、本気の殺意向けられそう。嫌だなー…。

 

 そんな事を考えながら歩いている内に住宅街に入る。ここまで来れば店までもう少しだ。多分。その筈。

 一度しか来ていないため、道が合っているか今一自信がない。一応、周りの風景に見覚えがある気がしないでもないのだが。

 

「…あぁ、こっちだ」

 

 交差点を左に曲がる。この道を真っ直ぐ進んで左手の所に店があった。はず。

 そうして歩いていくと、それらしき建物が見えてきた。文字までは見えないが、看板がついているのは見える。恐らく間違いない。ちゃんと道を間違えずに来れたらしい。

 

 店の看板を見上げながら入り口の前に立つ。

 

『CAFE STELLA』

 

 この店名を考えたのは四季さんだろうか。それとも、以前にこの店を使っていた人が考えたのか。この店名を考えた人は、どんな思いを込めて名前をつけたのだろう。

 

「…まあ、俺には関係ないか」

 

 バイトの件は断ると決めたのだから。いや、この店がオープンした際には通い詰めると決意してはいるが。

 

 関係ない思考を止めて、扉の取っ手に手を掛ける。手を引けば、ガチャリと音を立てて扉が開く。

 

「…」

 

 そして、扉の奥の光景を見て、俺は呆気にとられた。

 

「あ…。早かったね。遅くなるかもって言ってたから、もう少し時間掛かるかと思ってた」

 

 扉が開く音に振り向いたメイド服姿の四季さんが、驚いたように目を丸くしてこちらを見ていた。

 

 メイド服姿の四季さんが、こちらを見ていた。

 

 メイド服姿の四季さんが、だ。

 

「…メイドだ」

 

「あー…。あんまりじろじろ見ないでほしいかな…。恥ずかしい…」

 

「…ごめんなさい」

 

 僅かに頬を染める四季さんにすぐに謝罪する。確かに目を奪われる姿ではあるが不躾に見すぎた。

 

 いや、しかし…。この姿は一体?

 

「…もしかして、制服?」

 

 俺の質問に四季さんが頷く。

 

 丈が長いメイド服に白いエプロン、頭にはカチューシャ。萌え萌えーなミニスカメイドではない。その清楚な印象は四季さんにマッチしていた。

 俺がメイド好きだったなら、今頃どうなっていた事か。吐血してたかもしれん。

 

「で…。何で制服?」

 

 そう。四季さんの格好の衝撃が強すぎたせいで思考がズレまくったが、問題はそこである。

 話があると俺を呼び出したのは良いが、何故に制服なのか。

 

「…その方が、私の覚悟が伝わると思ったから」

 

「─────」

 

 言葉が詰まる。

 何だ、つまりあれか。もしやこの女、昨日の言葉に触発されちゃったりしたのか。

 

「へぇ」

 

 あ、まずい。悪い癖が出てる。今絶対悪い笑みが出てる。でも、仕方ないじゃん。愉しいんだから。

 人が変わる所を目の当たりにするのは、何度経験しても慣れない。それが成長だったとしても、堕落だったとしても。

 

 さて、四季さんは何を聞かせてくれるだろう。見せてくれるだろう。成長か、それとも堕落か。

 

 …めっちゃ上から目線になってんじゃん。抑えろ俺。

 

「柳君に言われて、気付いたの。私は色んなものが足りてなかった。その中で一番足りてなかったのが、この店を経営していく覚悟なんだって」

 

 昨日の四季さんの様子を思い出す。この店の改善点を指摘しても自信なさげにして、本当にこの店を開こうと、良くしていこうという気があるのか分からないあの態度を。

 

「昨日、思った。私はこの店を開くべきじゃないのか。もしかして、大屋さんは柳君と同じ事を思って、今まで許可を出さなかったんじゃないのか」

 

 さて、その大屋さんがどういう真意を持って今まで開店の許可を出してこなかったかは知らない。案外、四季さんの出すドリンクや明月さんの料理が気に入らなかっただけかもしれない。

 ただ、ぶっちゃけ味なんて最低限で良いのだ。勿論拘るに越した事はない。だが、最重要という訳でもない。一番はこの場所で、客が落ち着いて、或いは楽しく過ごす事が出来るか。

 

 それを知っている人ならば、俺と同じ事を感じているかもしれない。意味のない仮定だが。

 

「…それでも、諦めたくない」

 

「…」

 

「私は、このお店を絶対にオープンさせる。それが私の夢だから」

 

「夢、ね…。可愛らしい表現をするじゃないか」

 

「…馬鹿にしてる?」

 

「逆。むしろ尊敬するよ。この年になって、夢を叶えようと本気で努力しようとする人間なんて、ほんの一握りだろ」

 

 これは心の底からの本心だ。二十歳を越えて成人した大人が夢を抱き、それを実現させようとするなんて、そんな事はそう出来る事じゃない。大多数がその夢を不可能と諦め、捨ててしまうだろう。

 かくいう俺も、その大多数側の人間だ。四季さんを馬鹿にする資格なんてない。

 

「…つまりあれか。四季さんの夢は、その服を着てウェイトレスをする事なのか」

 

「っ…!こ、これはっ」

 

 四季さんは言った。この店を開く事が夢なのだ、と。メイド服姿で。つまりそれは、そういう事なのだろう。

 四季さんの真っ赤な顔が、言葉なくとも物語っている。

 

「わ、笑わないで!」

 

「いや、馬鹿にしてる訳じゃ断じてない。ただ微笑ましいだけ」

 

「そっちも止めて!」

 

 四季さんに真っ赤な顔で睨まれる。

 何だろう、この感覚。俺ってノーマルの筈なんだけどな。

 

「ぐぬぬぬぬ…っ」

 

 唸る四季さん見てるとこう、くすぐったいというか…、もっと唸らせてやりたいと思ってしまう。

 まさか…、これが、恋…!?

 

 な訳ないか。馬鹿なこと考えるのは止めよう。今は真面目な話の途中だ。真面目な空気が消えたの完全に俺のせいだけど。

 

「えへん…。それで?俺にその話を聞かせる理由は?覚悟が決まったなら勝手にすれば良い。ていうか、時間ないんだし、俺と話してる暇はないだろ」

 

 無理矢理に話題を戻すと、四季さんも軽く咳払いをしてから気持ちを落ち着かせ、こちらを向いた。

 まだ僅かに頬に赤みが残ってるのが微笑ま…いけない、また悪い癖が。

 

「…まず、私の覚悟が足りない事を教えてくれた貴方にお礼が言いたかったの。…ありがとう」

 

 俺の内心には気付かず、四季さんは微笑みながら俺にお礼を言う。

 

「…え、え?どう…いたしまして?」

 

「…どうして驚いてるの」

 

「いや…。だって、なぁ…」

 

 まさか感謝されるとは微塵も思ってなかった。むしろ─────

 

「文句やら罵声やら浴びせられるとばかり…」

 

「私はそんな人間に思われてたんだ?ショックだなぁ~…」

 

「いや、会ったばかりの人にあんな事を言われて、それでお礼を言う四季さんがおかしい」

 

 人が好すぎる。何だこの人。いや、あの時言葉に込めた気持ちが届き、役に立った事は嬉しいが。

 

「むしろ俺、四季さんに謝ろうと思ってたし」

 

「どうして?」

 

「いやだから…、言いすぎたって思ったし」

 

「まあ確かに、言われてすぐはショックで動けなかったかな」

 

「ぐっ…」

 

 胸に言葉の矢がクリーンヒット。あぁ心が痛い。

 

 それを知ってか知らずか、四季さんは笑顔のまま続けた。

 

「でも、私の覚悟が固まったのは、柳君のおかげ。だから…、ありがとう」

 

「─────」

 

 それは、今まで見てきた笑顔の中で一番綺麗な笑顔だった。

 

 あぁ、今まで四季さんにまつわる噂は全部大袈裟だと聞き流していた。でも、この笑顔を見て思う。

 そりゃモテますわ。何度も告白されますわ。あの美貌で性格も良いとか、やっぱ神って不公平ですわ。特定の人に与えすぎですわ。

 

「それで…、柳君に頼みたい事があるんだけど…」

 

「は?…頼み事?」

 

「えっと、頼み事というか…。もう柳君に頼まれてる事を繰り返すというか…えっと…」

 

「?」

 

 急に四季さんの言葉が要領を得なくなった。当然、俺には四季さんが何を言いたいのかさっぱり分からない。

 四季さんが落ち着いて話してくれる事を待つしかない。

 

「すぅー、はぁー」

 

 四季さんが深呼吸する。そこまで言いづらい事なのか、はたまた大事な事なのか。

 俺の方にも四季さんの緊張が伝わり始めた時、四季さんが俺を見据えた。

 

「柳君。…このお店で、働いてくれませんか」

 

「…」

 

 そして四季さんは、昨日、ミカドが俺に言った台詞と同じ言葉を口にした。

 

「はい?」

 

「…」

 

「…」

 

「…な、何か言ってよ」

 

「いや…」

 

 お礼を言われた時もそうだが、何なんだこの人は。さっきから予想外の台詞ばかり言って。ていうか、昨日あんな事を言われた人に一緒に働いてなんて言うか?

 

「…もしかして、四季さんってマゾ?」

 

「…はぁ!?どうしてそうなるのよ!」

 

「だって、なぁ?昨日あれだけ言われたい放題された相手に一緒に働いてって頼むとか…、マゾとしか…」

 

「…」

 

「あ、目が怖い。分かった、四季さんはマゾじゃない。だからその目止めて」

 

 四季さんの瞳が殺意の波動に濁り始めた所を見て、俺はこの件について言及するのを止める。

 危なかった。もう少しで殺される所だった…。

 

「で、でも、何で俺?さっきも言ったけど、だいぶ酷い台詞を四季さんに浴びせたぞ?」

 

「それは私の覚悟が足りない事に気付かせようとしたからでしょ?」

 

「…」

 

 どうやら結果的に四季さんが気付いたという訳でなく、言葉の意図まで悟られていたらしい。

 何なんだこの人。人が好くて察しも良い。外見は言わずもがな。しつこいかもしれないが、神は本当に何て不公平なんだ。

 

「柳君には、これからも私に至らない所があったら、遠慮なく指摘してほしいの」

 

「…えむ」

 

「鈍器、持ってくる?」

 

「さーせん」

 

 鈍器を持ってこられる前に頭を下げる。四季さんはため息を吐いてこちらを見る。

 

「勿論、柳君が嫌なら無理強いはしない。そんな権利は、私にはないから」

 

「…いや、そこはしろよ」

 

「え?」

 

「そういうとこだぞ。勿論、面識ない人に同じ事をしろって言ってる訳じゃない。そんなのは人として問題だからな。でも、四季さんの目の前にいるのはそうじゃないだろ?」

 

「…」

 

 四季さんの目が見開かれる。驚愕に染まった表情はゆっくりと和らぎ、微笑みに変わっていく。

 

「…それなら、言い方を変える。柳君、このお店で働いてほしい。柳君が働くって言うまで引き下がらないから」

 

「…それは困った。仕方ないから、この店で働く事にするよ」

 

 四季さんの微笑みに、俺も笑い返す。

 

 こうして俺は、喫茶ステラで働く事となった。



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第五話





感想、くれてもええんやで?
あ、でも豆腐メンタルをずたずたに切り刻む言葉のナイフは遠慮したいです。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「話はまとまった様だな」

 

 四季さんの誘いを受け、少し間が空いてからだった。店内に俺と四季さん以外の、第三者の声が響き渡った。

 驚き振り向いて見れば、声がした方で立っていたのは二人の男女…と、一匹の猫。

 

「…盗み聞きは趣味が悪いと思うぞ、三人とも」

 

「いやぁ~。私は止めたんですよ?でも、高嶺さんがどうしても気になるって…」

 

「なっ…、覗いてみようって言ったのは明月さんじゃないか!」

 

「罪の擦り付け合いは止めろ。二人とも有罪だ」

 

「「そんな!?」」

 

 高嶺と明月さんの表情が絶望に染まる。

 残念、ここに神はいない。ここにいるのは俺だ。容赦はない。

 

「支持します」

 

「「四季(ナツメ)さんまで!」」

 

 そしてもう一人、容赦のない人物がいた。二人の口から出た、四季さんである。

 四季さんも俺と同じく盗み聞きの被害者だ。割に合う分だけ二人を嬲る権利はある筈だ。神も許してくれるだろう。

 

「おい。そろそろ馬鹿な事は止めて、真面目になれ」

 

「「大真面目ですが?」」

 

「…貴様ら、随分と仲良くなったな」

 

 ミカドが呆れたように俺達を見てくる。

 仲良くなったって、そんな自覚は全くない。まあ、さっきの会話を通して四季さんに対して遠慮はしなくなったかな。もしかしたら、四季さんも同じなんだろうか。実際のところは知らないが。

 

「おーっと?もしや、恋の予感ですかぁ?にひひ」

 

「「それはない」」

 

「…本当に息ぴったりですね」

 

 おーっと?明月さんまで呆れ始めたぞ?

 ていうか、さっきから随分声が揃うな。真似しないでくれないかな、四季さん。

 

「柳君、真似しないで」

 

「それはこっちの台詞だ」

 

 じと目を向けながら言ってくる四季さんに即答で言い返す。

 台詞だけ聞けば喧嘩腰に思えるが、実際のところ、その口調は完全な棒読み。ただの冗談の言い合いである。

 

「おい、いい加減にしろ。これから柳千尋との契約の話をせねばならんのだ」

 

「…契約」

 

 そうか、契約か。そうだな、ここで働くのなら最初に契約を済ませなければならないな。

 

 でも、まずいな…。

 

「すまん。印鑑持ってきてない」

 

「…は?」

 

「元々断るつもりだったから」

 

 当たり前だ。ここに来るまでは話を断るつもりでいたのだから。印鑑なんて持ってきている訳がない。

 

「…まあ、仕方あるまい。だが、必ず明日に持ってこい。いいな?」

 

「りょーかい」

 

 ミカド、再びの呆れ顔。しかし特に注意される事はなく、その代わりに明日必ず持ってくるよう命令される。

 その指示に素直に返事を返し、頭に印鑑の事を刻み込む。

 

「とにかく…、柳さんも一緒に働くんですよね?」

 

「うん。そうと決めたから」

 

「それでは…。これからよろしくお願いします、柳さん」

 

「よろしく、柳」

 

「…あぁ。これからよろしく。明月さん、高嶺」

 

 明月さんと高嶺が歓迎するように俺に笑みを向ける。俺も、笑みを浮かべて二人に言葉を返した。

 

「それでだな。早速だが、俺から店について話したい事がある」

 

「柳さん…?目が本気なんですけど…」

 

「四季さんから話は聞いてる。高嶺の親父さんが言ってたこの店に対する感想は、俺も同感だ。内装は殺風景で、接客…は、俺は受けてないから何とも言えないが」

 

「柳、落ち着け。落ち着け柳」

 

「俺は落ち着いてる。まあ、上から目線みたいで気に入らないかもしれないが、とりあえず最後まで言わせてくれ」

 

 明月さんと高嶺が戸惑っているが、一旦置いといて最後まで言いたい事を言わせてもらう。

 

「内装はまあ、いつにでも何とかできるから後回しにして…。俺はまず、従業員の数を何とかしなきゃいけないと思ってる」

 

「あぁ、それについては俺の方も考えてた」

 

 自身の考えを言い切ってからすぐ、高嶺が口を開いた。

 

「…高嶺くんも、人手が少ないって思う?」

 

「そりゃ、な。だから、店の外にバイト募集の壁紙を張ったらどうかな、と」

 

「ふむ…。数少ない知り合いに声掛けても全員に断られる可能性が大きいしな。その案、採用」

 

「有り難き幸せ」

 

「何なのそのノリ…」

 

 高嶺も同じ様に考えていたらしい。その上で俺よりも効率の良い考えを持ち出してくれた、これはありがたい。

 俺は知り合いに片っ端から声をかけていく、くらいしか考えてなかった。そうか、張り紙か…。

 

「それと、俺の幼馴染みが皆さえ良ければ働きたいって言ってる」

 

「高嶺君の幼馴染み?」

 

「…男?」

 

「女」

 

 何と、高嶺には女の幼馴染みがいるという。

 

「妄想の中の、とかじゃないだろうな」

 

「希はちゃんと存在する」

 

「…名前までつけてる」

 

「明日連れてくるから、覚えてろよ柳」

 

 高嶺に睨まれてしまった。怖い。

 

「それなら…、明日は高嶺君の幼馴染みさんとの面接で決まりね」

 

「あー…。自分で意気込んどいて何だけど、希に用事があったりして来れなくなったりしたらごめん」

 

「予防線張った?」

 

「柳ぃ!」

 

 高嶺が飛び掛かってきた。ヒラリとかわすと、高嶺は傍の椅子の足に自身の足を引っかけて転んでしまった。

 派手な音を鳴らしながら倒れる高嶺。…これ、からかい過ぎたか?

 

「正直、すまないと思ってる。やり過ぎた」

 

「いや…。分かってくれたならそれで良いよ…」

 

 高嶺に手を貸して起こしてから、高嶺がずらしてしまった椅子やテーブルの位置を元に戻す。

 ていうか高嶺も中々にお人好しだな。痛い思いしてる癖に、あっさりと俺を許してしまった。一発ぶっ叩かれるくらいは覚悟してたのだが。

 

「高嶺君、大丈夫?」

 

「あぁ…。派手に転んだけど、どこか痛めた訳じゃない」

 

「…本当に、すまなかったと思ってる」

 

「いや、もう気にしなくて良いから」

 

 四季さんに安否確認されている高嶺に再度謝罪する。高嶺はすぐに手を振りながら返事を返した。

 マジでお人好しだ、こいつ。尊敬できるレベルで。俺が高嶺の立場なら、相手に晩飯をたかってたところだ。

 

 お人好しの高嶺と四季さん、それに明月さんも雰囲気は二人と同じくお人好しに感じる。ミカドも何だかんだツンデレ気味に感じるし。

 そんな人の好い連中とこれから、この店で働く。勿論、オープンできたら、の話だが。

 

「楽しくなりそうだな」

 

「何か言った?柳君」

 

「いや、何にも」

 

 俺の呟きが耳に入った、しかし聞き取るまでは出来なかった四季さんの問い掛けを流して、俺は四季さん達四人に向き直った。

 

「さて。さっきは色々言ったが、まず諸君らに教えたい事がある」

 

「教えたい事…?」

 

「ていうか、諸君らって…」

 

「四季ナツメ、口調には突っ込まないでほしかった」

 

「フルネーム…」

 

 四季さんがこれ以上ないくらい呆れた顔になる。止めろ、うるさい、分かってる。似合ってない事くらい自分が一番知ってる。

 ちょっと調子に乗っちゃったんだよ、これくらい見逃してくれよ。

 

「それで、教えたい事とは何だ。その諸君らとやらには我輩も入っているのだろう?」

 

「勿論だミカド。今からお前らに…」

 

 俺は少し溜めてから、これから三人と一匹に教える事柄を言い放つ。

 

「紅茶の淹れ方を教えよう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 なお、紅茶の淹れ方教授の場面は割愛である。一々書いてたら文字数がヤバい事になるって誰かが言っていた。

 

 …待て。俺は誰に向かって言ってるんだ?てか、文字数って何?誰かって誰?俺は一体どうしたんだ?

 

「柳君。…柳君?」

 

「はっ」

 

 隣から聞こえてきた呼び掛けによって我に返る。

 いや、俺は今まで何を考えていた?何かとても大事な事を誰かに伝えようとしていたんだが…。頭の中が霧掛かったようで思い出せない。

 

「どうしたの?大丈夫?…もしかして、疲れた?」

 

「いや、そんな事はない。むしろ楽しかったし」

 

「…そうね。紅茶の淹れ方を教えてる時の柳君、とてもイキイキしてたし」

 

 四季さんが苦笑いを浮かべる。

 それを見て、ついさっきまでの場面を、紅茶の淹れ方を教えている最中の事を思い出せる。

 

「何か…すまんかった」

 

「ううん。実際、柳君の淹れる紅茶はとても美味しかったから。あの味を再現できる様になったら…、お客さんをたくさん喜ばせる事ができると思う」

 

 何だか今日は謝ってばかりだな。四季さんに謝って、高嶺に謝って、そしてまた四季さんに謝って。

 

 …紅茶仲間を増やせるチャンスだと思ったら、テンションが上がりすぎた。とはいえ、軍隊方式はさすがにやり過ぎた。四季さんだけでなく、高嶺や明月さん、ミカドにも申し訳ない。

 明日、店で謝ろう。

 

「…」

 

「…」

 

 会話が途切れ、沈黙が流れる。気まずい、とまではいかないが、少し居辛さが空気となって流れ始める。

 まずい。このままではコミュ障に思われてしまう。コミュニケーションが得意という訳ではないが、断じてコミュ障ではない所を見せなければ。俺の威厳のためにも。

 

「そういやさ、四季さんってどうしてあの店をオープンさせようって考えたんだ?」

 

「え?どうしたの、急に?」

 

「急にじゃないさ。最初に話を聞いてからずっと疑問に思ってた。だって、まだ学生の身で店の責任者になろうっていうんだから、相応の理由があるんだろ?」

 

「…」

 

 四季さんの口が閉じる。

 その反応を見て、俺は反省の念を覚える。この話題は失敗だったかもしれない。

 

「すまん。言いたくないなら答えなくていい」

 

「あ、ううん。そういう訳じゃないの。ただ、少し長くなるから…。それでも、聞きたい?」

 

 昨日、四季さんと別れた交差点はまだ先だ。それに、あの時は俺が立ち去った形になったため、実際にあそこで四季さんと帰路が分かれるのかも定かじゃない。

 

 それなら…、という言い訳を並べたのは良いが、実際はその話に興味があるだけだ。四季さんがあの店をオープンさせようと思ったその理由に、興味があるだけ。

 その欲望を隠すことなく、四季さんの問い掛けに頷いて答えた。

 

 四季さんはゆっくりと話し始める。

 まずは店をオープンさせると決める前、明月さんとミカドとの出会いの話。自分の魂が蝶となって零れ落ちそうになるのを防ぐために明月さんとミカドがやって来て、何か執着できるものを聞かれたという。

 その思いが、魂が蝶となるのを防ぐのだという。

 

 二人に問われ、考え、そして出てきたのがあの店の事だった。

 

「…あの店は、四季さんと何か関係があったのか?」

 

「うん。…以前にあの店を借りてたのは、私の両親なの」

 

「え?つまり、四季さんの両親があの店を経営してたのか?」

 

「…正確には、お店を開店しようとしてた」

 

「…」

 

 息を呑んだ。四季さんの言い方だと、それはつまり─────

 

「お店を開店させる直前に、私が入院しちゃってね。二人はお店の開店を諦めた」

 

 淡々と語る四季さん。外から見れば特に何も思ってないように見えるが、その内心はどうなっているのか。何を思い、何を考えているのか。

 

 そして、もう一つ気になる事が浮かぶ。四季さんには申し訳ないが、勿論全部四季さんの責任だという訳ではないが、四季さんの両親が開店を諦めた理由の一端は四季さんにある。

 その事で、四季さんは責められたりしたのだろうか。もし、そうなら─────

 

「安心して。その事で責められたりなんてしてないから」

 

「…バレた?」

 

「顔に出てた」

 

「鋭い観察眼ですな」

 

「柳君がわかりやすいだけじゃない?」

 

 澄ました顔で言う四季さんを見て、つい悔しさを覚える。

 別に勝ち負けを争っていた訳ではないのだが、四季さんに負けた気がしてならない。

 

「それで?つまり、四季さんは両親の意志を継いで、あの店をオープンさせようとしてる訳だ」

 

「…うん。そう」

 

「…四季さん、それは「そう、だった」え?」

 

「昨日までは、そうだった。でも、今は違う」

 

 俺の言葉を遮って、四季さんは前を見据えて続けた。

 

「今の私は、あの店をオープンさせたいって思ってる」

 

「…」

 

「お父さんとお母さんが楽しそうにカフェについて話してるのを聞いて…、あのお店は、私にとっても夢になったから」

 

 夢。そうだ、どうして忘れていたんだろう。四季さんが言ってたじゃないか。お店をオープンさせる事は、自分の夢なんだと。

 

「…両親のためにお店をオープンさせようとしてる、って考えたでしょ」

 

「…」

 

「図星だ」

 

 ちくしょう、また負けた。いや、勝ち負けとかないのだが。負けた気がして仕方ない。

 そんな風に笑うな。勝ち誇ったみたいに笑うな。くそう。

 

「だから、心配しないで。私がそうしたいから、そうするの」

 

「いや、心配とかしてないし」

 

「そう?なら、これから言う事は私の勝手な勘違いという事で」

 

「?」

 

 言ってる意味が分からない。首を傾げながら四季さんの方を見ると、四季さんが微笑みながらこちらを見上げていた。

 

「心配してくれてありがとう」

 

「─────いや、だから」

 

「はいはい。さっきも言ったけど、私の勝手な勘違いだから」

 

「…」

 

 この時が、俺にとっての四季ナツメという人物の印象が固まった瞬間だった。

 

 四季ナツメという女は、今まで出会った人の中でもとびっきり、いっちばん狡い女だ。



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第六話




やっと今まで出てきてないヒロインの一人を出せました
といっても、主人公とろくに会話してませんが(笑)
全員揃うまで後何話かかるのやら…(汗)


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「やーなーぎー?」

 

「ちーひーろー?」

 

「くーん」

 

「…ナズェミテルンディス?」

 

 今日の分の講義は二講目から。という事で、講義が始まる五分前に教室に着いた…のだが。

 俺を待っていたのは、血走った目をした友人達だった。

 

 あれ、俺、知らない間に何かやらかした?いや、そんな筈はない。少なくとも昨日までは普通だったから、やらかしたとすれば昨日。しかし昨日はこいつらとは殆ど話さなかった。やらかし様がないのだ。

 

 しかし血走った目は変わらない。断じて逃がすものかという決意が伝わってくる。

 いや、ホントに何でだ。

 

「千尋さー。昨日は結局、四季さんと何してたんだ?」

 

「…あ」

 

 この時叫ばなかった俺を誉めてやりたい。

 他の三人とは違って面白そうに笑いながら問い掛けてきた昭久。そしてその質問を聞き、思い出す。

 

 そういや俺、こいつらから逃げたんだった。四季さんとの話について追求されたくなくて。めんどくさくて。

 急がなければならなかったのはそうだが、一応四季さんには遅れるかもしれないと伝えていた。これは、昨日の内に話しておくべきだったかもしれない。

 

 今更になって、後悔の念が押し寄せた。

 

「さあ、話してもらおうか柳」

 

「昨日、四季さんとどこかで会ってたんだろ?その理由は?その時の会話の内容は?」

 

「…お前ら、落ち着け。別にお前らが勘繰ってるような感じじゃないから。ちょっと頼まれ事をされただけだ」

 

「頼まれ事をされるくらいに親しくなってるのか」

 

有罪(ギルティ)

 

「何でだよ」

 

 無情にも有罪判決を受けてしまう。別に男女の仲とかじゃないと説明したのに。というか、そこまでじゃない事くらいこいつらだって簡単に分かる筈なのに。

 

「いやいや、あの四季さんと普通に会話できてる時点でスゴい事だろ」

 

「…あー」

 

 戸惑う俺を見て苦笑いしながら昭久が言う。

 そう言われて俺も思い出す。そういえば四季さんって、孤高の撃墜王とか呼ばれてるんだっけ。そんな男を寄せ付けない様な人が突然男と会話し始めたらそりゃ…。

 

「いや、こうはならんだろ」

 

 危ない、流されかけた。いや、確かに驚かれるのは仕方ないと思うし、昨日何があったのか気になる気持ちも理解できなくもない。

 

「だからって、有罪判決は不当だ。控訴する」

 

「却下」

 

「ふざけんな」

 

 頑なに追求の手を止めようとしない三人。だが、本当に浮いた話なんてない。まあ、一緒の職場でバイトする事になったのは浮いた話、といえなくもないかもしれないが。

 それをこいつらに話す訳にはいかない。もし話せばきっと、その噂は大学中に広まり、四季さん目当てのバイト応募が殺到するだろう。そんな戦力になりそうにない人手はいらない。いない方がマシなまである。

 

 せめてオープンするまで、すぐに人手が欲しいという今の状況から脱するまでは、断じて四季さんと同じ職場で働いている現状を話してはいけない。

 

「悪いけど、本当に聞いて面白い話はない」

 

「まずさ、お前四季さんとどういう経緯で知り合ったんだよ」

 

「無視すんなや」

 

 俺の話をガン無視して質問してくる阿呆共。他人の話を聞きなさい。

 

「おーい、そのくらいにしとかないと教授来るぞー」

 

「おっと、もうそんな時間か…。おい柳、昼休みは学食で話の続きだからな」

 

「…いいけど、バイトあるから早めに抜けさせてもらうぞ」

 

「あ?柳、バイトやってたっけ?」

 

「あぁ。最近始めた。コンビニ」

 

「へぇ。どこ?帰りにちょっかいかけに行ってやるよ」

 

「悪いな。お前らが講義終わるのとほぼ同時にシフトが終わる」

 

「…くっそ。俺も一、二年の間に出来るだけ単位とっとくんだった」

 

「後悔先に立たずってやつだ」

 

 昭久達の言葉に嘘を交えて返事を返す。店は大学から近いし、オープンしたら噂になってすぐ嘘がバレるだろうが、今本当の事を話すよりはマシだ。

 

 そうして話しているとチャイムが鳴り、音と同時に担当講師が室内に入ってくる。室内の話し声が止み、講師が講義の準備を進める。

 その間に、俺は鞄の中から筆記用具と先週に出された課題のプリントを取り出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 今日の講義は二講目のみ。この後も残る昭久達を見ていると、本当に一、二年の内に単位とりまくっといて良かった。

 当時は先に帰っていく昭久達を恨めしく思ったが、今では残る昭久達を見て優越感を感じている。この気分を去年までの昭久達は感じていたのか。…ふふふ、いいものだ。

 

 ちょっぴりご機嫌になりながら店へと急ぐ。

 

「おはようございます」

 

 住宅街に建つ店の中に入る。その際に挨拶は忘れずに。

 挨拶は大事。しかも今日が俺の初出勤なのだ。あまり畏まらなくても良い程度には親しくなったつもりだが、そこら辺の公私はつけなければ。

 

「「…」」

 

 そう思っていたのだが。俺よりも先に来ていた…というより、その内の一人はこの店を間借りしているのだが、とにかく店内に既にいた二人、四季さんと明月さんは目を丸くして俺の方を見ていた。

 

「…あ、えっと。おはようございます?」

 

「お、おはようございます」

 

「…やり直していい?店に入るところから」

 

 おかしいな。どうして二人は苦笑いしてるんだろう。俺が畏まるのはそんなに可笑しかったのだろうか。

 

 千尋は 心にダメージを 受けた!

 

「ご、ごめんなさい。ただ、さっきの柳君が印象と掛け離れてて…」

 

 確かに昨日は大分はっちゃけてしまった自覚はあるが、そんなにか。

 四季さんの台詞に、明月さんがブンブンと頷いて全力で同意している。

 

 そこまでか。

 

「もういいよ。ちょっとショックだったけど」

 

「…ちくりと言葉で刺すのやめてほしいです」

 

 余り気にしすぎるのも小さく思われるので、スルーしてあげる事にする。とはいえ失礼な事を言われたのは事実。少しくらいの仕返しは許されるべきだろう。

 

「それで?高嶺はまだか?」

 

「高嶺君なら、言ってた通り幼馴染みの子を連れてくるって。授業が終わった後だから、まだ時間が掛かると思う」

 

「ふーん」

 

 高嶺の幼馴染みはJKか。好きな奴にはとことん刺さりそうな特性だな、幼馴染みJKとか。

 しかし、授業が終わってからとなると、四季さんの言う通りまだ大分時間がある。

 

「それなら、高嶺達が来るまでどうする?やるべき事は色々とあるけど」

 

 店の内装について、メニューの種類について、紅茶の淹れ方について。高嶺達が来る間に考えられる事はたくさんある。

 

「ていうか紅茶だ。紅茶を淹れる練習をしよう。目下最優先事項はそれだ」

 

「柳さん、目が欲望で血走ってます…」

 

「最優先事項って、柳君がしたいだけでしょ…。いや、確かに紅茶の事も練習しなきゃいけないけど」

 

 二人の言う事も一理ある。紅茶仲間が増えるのが嬉しくなるのは紅茶好きとして仕方のない事なのだ。

 

「そんな呆れた顔をしないでくれ」

 

 うん、仕方ない事なんだよ。だからさ二人とも、そんな冷めた目でこっちを見ないで。

 分かった。分かったから、もう言わないから。

 

「…はぁ。でも、ナツメさんの言う通り、紅茶を淹れる練習もしなくちゃいけないですよね」

 

「…いや、普通に二人が淹れる紅茶は美味いし。そんなしなくちゃいけない、て程じゃないだろ。昨日、練習を強制させた俺が言うのもあれだけど」

 

 本当に、昨日あんなに調子に乗りまくった俺が言うのはあれなんだけど。四季さん達が淹れる紅茶は本当に美味かった。相当に練習したのがあの味からは窺えた。

 

 だから、明月さんが言うような、練習をしなくてはいけないという程ではないと本気で思ってる。

 

「でも、柳君の味には敵わない」

 

「…」

 

「ほら、そこは否定できない」

 

 まあ、四季さんの言う通りでもある。自慢のようで嫌だが、俺が淹れた紅茶の方が正直美味い。だから昨日、あんなに練習させたのだ。

 大体、教える方がまずい紅茶を淹れるのは駄目だろう。

 

「だから、柳君」

 

「…分かったよ」

 

 根負けする結果となった。四季さんだけでなく、明月さんもその気でいるらしい。これで一対二、食い下がっても押し切られるだけだろう。

 まず第一、二人がその気なのなら俺にとっても好都合。紅茶の教授が、今の俺にとって最もしたい事なのだから。

 

 カウンターにて紅茶を淹れる過程を熟す二人の姿を見続ける。お湯を沸かす時間、カップとポットを温める時間、茶葉を蒸らす時間。目を光らせて二人の作業を見つめる。

 時折二人に改善点を指摘しながら、だが手出しはせず、二人の紅茶が出来上がるのを待つ。

 

「…美味しい、けど」

 

「やっぱり、柳さんの淹れた紅茶の方が美味しいです」

 

「年季が違うんだよ。そんな簡単に再現されて堪るか」

 

 不満そうな顔をしている二人だが、入った紅茶は昨日よりも断然美味かった。これならば、オープンする頃には紅茶の完成度は相当高くなるだろう。

 

 俺が淹れる紅茶には敵わないだろうが。そこは絶対に譲れない。すぐに追い付かれそうとか不安に感じてたりなんかしてないからな。

 

「…そろそろ来ても良い頃か」

 

 そうして何度か紅茶を淹れる練習をしている内に、高嶺が幼馴染みを連れて来ていてもいい時間になっていた。

 窓からは紅の陽射しが差し込み、もうすぐに外は暗くなり始めるだろう。

 

「そうですね。もう授業も終わっているでしょうし…」

 

 俺の後に明月さんが口を開いた時だった。入り口の扉が開き、来客を報せるベルの音が鳴り響く。

 

 高嶺達が来たか、と、俺は思っていた。四季さんと明月さんもそう考えていただろう。しかし、扉の所に立っていたのは予想とは違った人物であった。

 

「失礼しまーす…」

 

 遠慮がちに店内に入ってきたのは一人の少女。学生服を着ているため、恐らく高校生。

 もしや、この子が高嶺の幼馴染みか?一緒に来ると言ってた筈なのだが。

 

「えっと…。大変申し訳ありません。まだオープンしていないんですが…」

 

「あ、そのお客として来たんじゃなくて…。表の張り紙を見て、応募させてもらえたらと思って」

 

「…」

 

 表の張り紙を見て、という事は、高嶺の幼馴染みではないらしい。もし高嶺の幼馴染みであれば、バイト応募の経緯は高嶺から聞いた、と答えるはずだ。

 

「え、あれ?応募、してるんですよね…?」

 

「あ、ごめんなさい。昨日の今日で来るとは思ってなくて…」

 

 呆気にとられていた四季さんを見て、少女が不安そうに目尻を下げる。慌てて四季さんが取り繕う。

 

 正直、俺も驚いた。四季さんと同じで、昨日張ったばかりで、まさか今日来るとは思っていなかった。

 

「それじゃあ、えっと…。早速だけど、面接をしたいのだけど、大丈夫?」

 

「はいっ、大丈夫です」

 

 四季さんの問い掛けにニッコリと笑いながら答える少女。ふむ、笑顔は良しだな。自然に笑えているし、初めて会う四季さんとの会話の仕方を見る限り、接客も大丈夫そうだ。

 会ったばかりだし、断定は出来ないが。

 

「面接か…。さすがに一対三はないよな」

 

「そうね…。どうしようか」

 

「んー…。とりあえず、ナツメさんは確定として、私と柳さんのどちらかが入るか、それともナツメさん一人で担当するか…」

 

「その、こういうの初めてだから、どちらかには居て欲しいかな…」

 

「ふむ…。あ、そういやまだ俺、契約書にサインしてないんだった」

 

「あぁ、それなら私が残りますね。閣下は今裏にいらっしゃいますから、柳さんはそちらで契約の方を」

 

「了解。それじゃ、面接の方はよろしく」

 

 二人に向かって軽く手を上げてからその場を立ち去り、バックルームへと入る。そこには明月さんの言う通り、ミカドがいた。

 肉球で何か資料と思われる紙を器用に握り、そこに書かれた文字とにらめっこしていた。

 

「おーいミカド~。印鑑持ってきたぞ~」

 

「む、ようやく来たか。それでは、契約書を持ってくるから少し待て」

 

 どうやら俺を待っていたらしい。店に来ていた事は気付いていただろうから、ホールに呼びに来れば良かったのに。

 

 ミカドが何処かに立ち去ってから少しして、契約書やら何やらを持って戻ってくる。ミカドに説明を受けながら、最終的には契約書にサインと判を押して、晴れて俺は喫茶ステラの店員となったのだった。



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第七話





最近仕事場で誰もいない方から足音が聞こえる事があります。しかも私だけじゃなく他の同僚も聞いたと言っています。というか、今日同僚と一緒に足音を聞きました。
普通に怖いです。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ミカドから労働規約の説明を受けてから、シフトの相談、その後は契約書にサイン。

 契約は特に取り上げるものもなく、順調に終わった。

 

「これで、貴様はこの店と契約した。問題など起こすなよ」

 

「気を付けはする。…何か、フロアが騒がしいな」

 

 ミカドと軽口を叩き合っていると、フロアの方が騒がしくなっている事に気付いた。

 しかし何か揉め事が起きている感じではない。聞こえてくる声は柔らかく、楽しさに満ちている気がする。

 

 バックルームに来てからの時間を考えれば、恐らく面接は終わっている。ならこの話し声は、あの三人が打ち解けた結果という事か。

 

「フロアに戻って良いぞ」

 

「ミカドは?」

 

「我輩はまだやる事がある」

 

「なら、お言葉に甘えて」

 

 契約も終わり、もう今すぐにしなければならない事はない。それならここに居ても暇なだけだし、ミカドの言う通りフロアに戻らせてもらおう。

 

 バックルームから出ると、すぐにフロアにいた人達の視線がこちらに集まった。四季さんと明月さん、さっき面接に来た女の子にいつの間にやら来ていた高嶺ともう一人女の子。

 あの明るい髪色をした女の子が高嶺の幼馴染みなんだろうか。本当に実在していたとは。

 

「柳君。契約は終わったの?」

 

「ん。そっちは?面接は?」

 

「火打谷さん…、こっちの子の面接は終わった。これから墨染さんの面接を始めるところ」

 

「火打谷…、墨染…」

 

 そういえば、と思い出す。俺がフロアにいた時はまだ来ていなかった高嶺の幼馴染みはともかく、先にバイトの面接に来た女の子の方の名前も俺はまだ知らない。

 そしてまだ俺に自己紹介をしていなかった事を思い出した女の子二人が、俺の方に体を向けた。

 

「私、火打谷愛衣です。よろしくお願いします」

 

「墨染希です。よろしくお願いします」

 

「柳千尋だ。うん、よろしく」

 

 ペコリと頭を下げる二人に俺も自己紹介を返す。

 すると、頭を上げた二人がきょとんとこちらを見てきた。

 

「ちひろ、さん?」

 

「何だか可愛い名前ですね」

 

「…」

 

 ぴきっ、とこめかみの辺りが震えた。

 

「お、おい柳。どうした?」

 

「ん?何がだ、高嶺」

 

「いや、何がって…。お前、怒ってないか?」

 

「んー…」

 

 正直にいうと、千尋という名前にコンプレックスを持っている。親がこの名前に込めた願いについては素直に嬉しいと思っているのだが、さっきの様に可愛い名前やら女の子っぽいやらと言われると、どうも怒りが沸々と湧いてしまうのだ。

 

「えっと。墨染さん、火打谷さん」

 

「「ひゃ、ひゃいっ!」」

 

「次に同じ事を言ったら…、俺の男女平等パンチが火を吹くから、よろしく」

 

「「ご、ごめんなさいっ!」」

 

 ふむ。二人の態度を見れば、俺が本気で嫌がってる事を理解していると見える。もう、二度と俺の名前が可愛いなんて言わないだろう。

 

「因みに、他にもそういう風に言った方はいらっしゃったんですか?」

 

「居たけど?」

 

「…柳さんのパンチが火を吹いたんですか?」

 

「例外なくな」

 

 昔からの決まりでね。俺の名前を可愛いとか言った奴は殴り飛ばしている。(キリッ)

 

 まあ、さっきの墨染さんと火打谷さんの様に、俺が嫌がってる事を知らなかった場合は勿論見逃している。ただ、その場合でも言葉に悪意があった場合は、たとえ初めてであろうと殴り飛ばしてるが。

 

「で?また面接するんなら、俺はまたバックにいた方が良いか?」

 

「え?…うーん」

 

 火打谷さんの面接は終わったが、墨染さんの面接はまだだという。それならまた俺はバックに戻るべきだろうか、と気になり四季さんに聞いてみる。

 

 四季さんは少しの間考える素振りを見せてから、頭を振った。

 

「ううん。何か柳君を仲間外れにしてるみたいだし、今回は一緒に居て」

 

「別にそんなの気にしなくて良いんだけど。邪魔だったら言ってくれて良いぞ?」

 

「そんなんじゃないから」

 

 俺の問い掛けに今度は即答で否定する四季さん。

 まあ、それなら一緒に面接官をしようか。面接官ってどんな事すれば良いか詳しく知らないが。

 

 という事で、改まった形で面接が始まる。当事者である墨染さんや、面接官である俺に四季さん以外にも人がたくさん居るが。まあ、そんなに拘らなくて良いだろう。

 大体、もう墨染さんを採用するのは殆ど決まってる様なものだ。人格に相当な難ありならば話は別だが、短いながらも話をする限りそんな事はなさそうだ。

 

「初めまして、墨染希です!白瀧学園の二年生です。こういう接客サービスのアルバイトは初めてですが、一生懸命頑張ります!よろしくお願いします!」

 

「採用」

 

「是非我らが職場で頑張ってくれたまえ」

 

「早っ!?」

 

 面接を始めるにあたってまずは自己紹介からしてもらう。そしてその自己紹介を聞いた俺達面接官側は満場一致で採用を決めた。

 

「火打谷さんも同じ様な感じだったでしょ」

 

「あー…。まあ、即日即決でしたね…」

 

 まあ猫の手も借りたいこの状況で、二人のような人材が応募してくれば是非とも力が欲しい所だ。不採用にする理由がない。

 

 しかし、まあ採用は変わらないとしても聞くべき事はある。この店から家まで距離はどれ程なのか。部活等に入っているのか。仮に働くとして、週に何日シフトに入れるのか。今すぐ担当を決める訳ではないが、料理が出来るのかも確認しておかねば

 そういえば、その場に居なかったから俺には分からないが、火打谷さんとはその辺の事を話し合ったのだろうか?

 

「まあ採用は前提として」

 

「前提なんですか!?」

 

「墨染さん…、火打谷さんも。もう聞かれてたら悪いんだけど、シフトに入れる日数を教えてもらえるか?部活とか入ってたら、そっち優先にして大丈夫だから」

 

「えっと、私は特に部活はやってないです。ですから、テスト前以外ならいつでも大丈夫です」

 

「私も部活やってないので、希ちゃんと同じくいつでもオーケーです」

 

 そこら辺の話はまだ詰めてなかったらしい。墨染さんも火打谷さんも普通に俺の質問に答えてくれた。

 ここから先は事務的な質問を続けた。家はこの店からどれくらいの距離なのか、学校からの距離はどうなのか、料理は出来るのか等。

 

 店からの距離については両者問題なし。料理に関しては墨染さんが自信ありで、火打谷さんは自信なしだった。

 

「えっと…。やっぱり料理が出来た方が良いんですか…?」

 

「いや?そんな事はない。それに、仮に火打谷さんが料理に自信があったとしても、フロアスタッフを担当してもらいたかった」

 

 俺の質問に引っ掛かりを覚えたらしい火打谷さんが不安げに問い掛けてくるが、そんな事はない。今俺が言ったように、火打谷さんにはフロアスタッフを担当して欲しいと思っている。

 いやまあ、そこは四季さんが決める事なのだが。

 

「といっても、紅茶やコーヒーの淹れ方は覚えてもらう事になるけどね。…そういえば、二人は紅茶やコーヒーは飲む?」

 

 俺の言葉を聞いて安心している火打谷さんに四季さんが言う。

 四季さんの言う通り、紅茶やコーヒーを淹れるのはキッチンスタッフではなくフロアスタッフである。まあ、その作業に料理の得意不得意は殆ど関係ないが、だからといって油断は禁物である。

 

「紅茶は飲みますよ。御前の紅茶とかよく飲みます」

 

「─────」

 

「あ、私も御前の紅茶好きー。ロイヤルミルクティーとか良く飲むよー」

 

「──────────」

 

 御前の紅茶…だと…?ロイヤルミルクティー…だとぉ…?

 

「あー…えーっと…」

 

「あれ、御前の紅茶じゃ駄目でしたか?紅茶香神の方が良かったですか?」

 

「私、そっちも好きだよ?」

 

 …。

 

「柳。おい柳」

 

「何だ、高嶺」

 

「いや…、顔が怖いぞ?二人が怖がってるぞ?」

 

「…」

 

 高嶺の言う通り、墨染さんと火打谷さんが手を取り合って震えていた。

 何をそんなに怯えているのか。俺はこんなにも優しい微笑みを浮かべているというのに。

 

「柳さん、目が笑ってないです…」

 

「…」

 

 明月さんの指摘は完全スルーの方向で。それよりも、俺にはやらねばならない事がある。何としても、二人に教えてやらねばなるまい。

 

「ふふふ…、覚悟してもらおうか二人とも」

 

「な、何をする気ですか…!」

 

 縮こまる二人を見下ろしながら、俺は続ける。

 

「二人の体を…」

 

「わ、私達の体を…?」

 

「ペットボトルの紅茶を飲めない体にしてやる」

 

「「…はい?」」

 

 墨染さんと火打谷さんは、目を丸くして呆けた。

 

 

 

 

 

 

 

「ほぇ~…。おいしぃ~…」

 

「紅茶って…こんなに心安らぐものだったんですね…」

 

「当たり前だ。紅茶を飲む時はな、誰にも邪魔されず、自由で、救われてなきゃあダメなんだ。独りで、静かで、豊かで…」

 

 任務完了(ミッションコンプリート)。俺の紅茶を飲んだ墨染さんと火打谷さんは、余韻に浸ってテーブルに身を倒している。

 これで二人はペットボトルの紅茶なんて飲めなくなっただろう。仮に飲んでしまえばこの紅茶の味を思い出し、物足りなさを感じ、決して満たされる事はない。

 

 くくく…、これにて調教完了だ。

 

「顔がゲスい。柳君の顔がゲスい」

 

「すまんな高嶺。お前の幼馴染みは俺の虜だ」

 

「お前の淹れた紅茶に、な」

 

 そろそろ冗談はここら辺にしておこう。ペットボトルの紅茶云々は本気だが。

 しかし俺の勝手な拘りを無視したとしても、結局二人にはこれから淹れる紅茶の味を覚えてもらわなきゃならない。どちらにしても、紅茶を飲ませる必要はあったという事だ。

 

「でも、柳君の紅茶を飲んだら本当に市販の紅茶が物足りなく感じちゃうのよね」

 

「実は、俺もそうなんだ。今日さ、御前の紅茶を飲んだんだけど、こんなに美味しくなかったっけって思っちゃってさ」

 

「お二人もそうなんですか?私も同じなんです」

 

 ほぉ。気付かぬ間に俺は三人もの体を調教していたか…。

 やっぱりそろそろこのノリやめよう。何かきついし、高嶺に至ってはとにかく気持ち悪い。

 

 というか、死神も御前の紅茶飲むんですね。

 

「あ、そうだ昂晴君。ユニフォームの事を話さなくて良いの?」

 

「あぁ、そうだった」

 

「ユニフォームって…制服の事?」

 

 不意に、紅茶の余韻から覚めた墨染さんが身を起こして話し出す。

 それに続いて、高嶺が口を開いた。

 

「親父の知り合いにデザイナーをやってる人がいてな。その伝手で店のユニフォームのデザインを頼める事になった」

 

 何という僥倖。

 四季さんが着ていたメイド服も悪くはないが、やはりやや冷たい印象を与えかねないデザインではある。

 

 勿論四季さんの意思に委ねはするが、デザインの一新は俺は支持する。

 

「…」

 

 四季さんが黙り込む。頭の中で巡っているのは、間違いなくさっきの高嶺の話について。

 元のあの制服のままでいくのか、それとも新しいユニフォームに変えるのか。

 

「…うん。高嶺君、お願いできるかな」

 

「了解。親父にはそう伝えておくよ」

 

 四季さんが下した決断は、ユニフォームの変更だった。

 俺はそっと四季さんに歩み寄り、小声で話し掛ける。

 

「いいのか?」

 

「何が?」

 

「あの服に思い入れがあるんだろう?」

 

 四季さんが目を見開いてこちらを見上げる。

 そこまで驚く事はないだろう。

 

「あの話を聞いたら大体予想がつく。…あの制服で働く予定だったんだろ?」

 

「…うん」

 

 四季さんが俺の問い掛けに頷く。

 

 この店を以前に預かっていた四季さんの両親。制服は、四季さんが着ていたあの服でいく予定だったのだ。

 四季さんの本心は、あの制服を着て店をやっていきたかった筈だ。しかし、四季さんはユニフォームを変える選択をした。

 

「昨日言ったでしょ?覚悟したって」

 

「…」

 

「このお店にとっての最善を尽くす。柳君が言ったのよ?最善を尽くせない人の下で働きたくないって」

 

「やめて。恥ずかしい」

 

 四季さんが俺の黒歴史を掘り起こす。本当にやめて。あれは血迷っただけなんだ。思い出したくない過去なんだ。

 

「高嶺君、お願いね」

 

「うん。それじゃあ、早速なんだけど」

 

 四季さんにユニフォームに関しての件を任された高嶺は、早速と前置きしてから衝撃の一言を口にした。

 

「身長と体重、スリーサイズなんか、教えてくれない?」

 

「…は?」

 

 四季さんの声が、表情が、目が、氷点下に達した。

 

「なるほど…。確かに、希さんのサイズはなかなかお目にかかれません。同じ女である私でも気になります」

 

「ほぇ?」

 

「確かに希ちゃん、昔から成長が早かったけど…ちょっと見ない間に拍車がかかったよね」

 

「そ、そう…?いや、凝視されるとさすがに困るんだけど…」

 

「すげぇなお前。あの流れの中でセクハラぶっ込むとか。男として全く尊敬できねえわ」

 

「できないのかよ!」

 

 いや、セクハラする男なんて尊敬できる訳ないじゃん。

 

「高嶺さんって、思ってたより大胆な人だったんですね。にひひ」

 

「この店をオープンさせたくば、貴様らのスリーサイズを教えるのだー!的な脅しですか。鬼畜先輩だ」

 

「サイテー」

 

「おまわりさん、呼んどく?」

 

 女性組四人に容赦ない口撃を浴びる高嶺に全く同情できない。

 だってあの流れでセクハラとか、同じ男である俺でも引く。

 

「待って、勘違いしてる、ていうか希は分かって言ってるだろ。ユニフォームを作るための採寸をして欲しいだけだ」

 

「…あー」

 

 言われて気付く。そりゃそうだ。ユニフォームを作るのならそれを着る人の体のサイズは当然知っておかなければならない。なるほど、そのための採寸だったのか。

 

「高嶺はそんなセクハラしない人だって信じてたぞ」

 

「嘘つけ。本気で引いてる目をしてただろ」

 

「…言い訳染みてて胡散臭いとも思ってる」

 

「掌返しすらしてないのかよ!」

 

 しかし、採寸が必要なのは絶対である。

 

「それじゃあ善は急げ。ぱぱっと測っちゃいましょう!」

 

「このお店、メジャーとか置いてますか?」

 

「お店には置いてなかった気が…」

 

「メジャーならここにあるぞ」

 

「準備万端過ぎ。きもい」

 

 一悶着ありながらも採寸に必要な道具を一通り揃え、女性陣がバックルームへと移動する。当然、男性である俺と高嶺はその場に残り、そしてバックルームで作業していたミカドはフロアにて採寸が終わるのを待つ。

 

「そうだ、柳。話があるんだが」

 

「覗きなら一人で行ってこい」

 

「違う!この店のメニューの事だ」

 

 覗きの誘いではなかったらしい。それどころか真面目な話だった。

 

「というより、この話は柳が来る前から進んでた話なんだが…」

 

 高嶺の話は、この店の看板メニューをどうするかというものだった。その第一候補がパンケーキだという。

 

 うん、良いと思う。お菓子作りが出来る者がいない以上、本格的なスイーツを看板メニューには出来ない。

 かといってカフェの看板メニューがご飯ものというのも微妙だ。

 

 それならパンケーキというチョイスはかなり理に叶っている。反対する要素は一つもない。

 

「ちなみに、柳はパンケーキ作れるか?ていうか、料理はできるのか?」

 

「パンケーキは作った事ないが、料理は時間があれば夕飯作ったりしてる」

 

「…」

 

「何だ、その意外そうな顔は」

 

「いや、別に。…でも、パンケーキは作れないか」

 

 ただ作るだけなら俺だって出来るだろう。ただ、客に出せるクオリティーで作れるかと聞かれたら、答えは否だ。

 そして、それは高嶺にとっても同じらしい。

 

「パンケーキだけじゃない。デザートに関してもそうだが、やはり店を探しておくべきか?」

 

「ん?何だ。他の店から仕入れるのか?」

 

「いや…。それについては、ちょっと考えてる事がある。でも保証はないから、候補は探しておいてくれるか?」

 

「了解した」

 

 こうして聞いていると、まだまだ不安材料はたんまりだが、一歩ずつオープンに向けて進んでいると感じられる。

 

 期限は今月いっぱい。四季さんを本気にさせたのは俺だ。なら、全力でこの店のために力を尽くさなくては。

 密かにそんな決意を固めながら、高嶺、ミカドとの話に集中するのだった。



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第八話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「大量の蝶?」

 

 平日ながら、今日は講義を一コマも入れていなかったために完全休日、だったのだが。とはいえバイトはある。

 しかしまだオープンしていないため、正確なシフト時間は決まっておらず、いつ店に行こうか悩んでいた午後の事。高嶺から急いで店に来て欲しいというLIMEのメッセージが入り、慌てて準備して店に行った。

 

 すでに高嶺は店に来ていて、明月さん、ミカドと一緒に俺が来るのを待っていた。

 そして俺が来てすぐ話に入り、高嶺が口にしたのが、大量の蝶の事だった。

 

 昨日高嶺が言っていた、パンケーキやデザートについての当て。早速今日、その当てとなる人の弟と一緒に会いに行ったらしいのだが、その人の部屋で大量の蝶が飛び回っていたという。

 

 何でも職場で上司と反りが合わずに仕事を辞め、その後の再就職も上手くいかずにいるという。しかも、元の職場の上司が周囲の職場に圧力を掛けているという疑いがあるらしい。

 まあ、圧力云々に関しては証拠がないため何とも言えないが。

 

 そして今、その人は弟と一緒に実家に帰っているらしいのだが。

 

「英断だ。蝶が集まっている場所から離す事には意味がある」

 

「そうなのか?それなら良かった」

 

「とはいえ、一定の場所に留まり続ければ、再び蝶は集まるだろう」

 

 その人を実家に帰らせるのは良い選択だったらしい。とはいえ、まだまだ予断は許されない状況に変わりはないらしい。

 

「あれは俺と同じように、汐山さんも蝶を取り込んでいるのか?」

 

 この質問から続く話は、口を挟む事の出来ないものだった。

 

 まず、蝶が現れた事による周囲の人への影響について。

 これには二つあり、一つは人の魂に取り込まれ、肥大化する場合。そしてもう一つが、蝶の思念に魂が染められる場合。

 今回の汐山さんという人は後者の影響を受けているという。

 

 本来、蝶に人の魂を染める程の力などないのだが、何らかの理由で魂が弱ってしまった場合は別の話。その汐山さんという人は、仕事に関しての件で気落ちして、魂が弱ってしまったのだろう。

 最悪の場合、蝶の思念に引き摺られ、生きる事を諦めかねないという。

 

「…待て。大量の蝶が飛んでたって事は、その汐山って人ヤバイんじゃないか?相当影響受けてそうだけど」

 

「それって…っ」

 

「落ち着け。話を聞く限り、人の話に反応し、会話が成立していた。そうだな?」

 

「あ、あぁ…」

 

「それならまだ時間はある。全てを諦めてしまった者は、もはや何の反応も返す事はない」

 

 時間はある、か。高嶺はミカドの言葉に安堵しているようだが、ミカドは俺の台詞を否定しなかった。

 つまり、やはり蝶の影響は確実に、汐山さんの魂を蝕んでいるのだ。今、こうしている間にも。

 

「で、だ。この話の流れで聞くのもあれだけど、このまま聞いてるだけだといつ聞けるか分からんから聞かせてもらうぞ」

 

「む?何だ」

 

「俺が呼ばれた理由って、なに?」

 

 冷たいと思われるかもしれないが、全く面識のない人間のピンチに危機感を覚えるほど俺は優しくはない。結局は他人事だ。勿論、出来る事があるのならしてやりたいとは思うが…、どちらかといえば人助けは進んでやらない方である。

 

 だからこそ、俺にとって重要なのは、何故俺がこの話を聞かされているかだ。

 この場には蝶について知っている四季さんがいない。しかし、俺はいる。つまり、四季さんにはこの話をすぐには伝える必要はなく、逆に俺にはあるという事。

 

「貴様を呼ぶように高嶺昂晴に言ったのは、我輩だ」

 

「…へぇ。で、その理由は?」

 

 自ら俺を呼び出したのは自分だと名乗り出たミカドに問い掛ける。

 

「貴様には栞那と共に、蝶が集まっている場所に行ってもらう」

 

「…蝶の収集を手伝えと?前にも言ったが、俺は見えはするが他には何も出来ないぞ」

 

 明月さんが蝶の集まっている場所に出張る理由は言う迄もなく、蝶の収集だ。しかし、それに何故俺まで付き合う必要があるのか。

 出来るのは、明月さんにも見える蝶を眺める事だけだ。手伝うなんて出来やしない。それなのに、何故。

 

「あれから、貴様の目について調べた。だが、複数の候補にまで絞れたものの、断定までは出来なかった」

 

「で?」

 

「大量に蝶が集まっている場所に行けば、貴様の目について何か分かるかもしれん」

 

 俺の目が蝶や霊などの超常的な存在を捉える事は既に説明した。しかしそれだけのヒントでは俺の目がどういったものなのか分からず、結果ミカドと明月さんが調べてみるという結論に至ったのだが。

 結局、俺の目については分からず終いだったらしい。

 

 だが、ミカドの台詞は一体どういう事なのか。

 

「なに、どうもない。情けない話だが、貴様の目について、我々にはもう調べようがないのだ。だから、貴様にとって初めての、経験のない場所に行かせ、その目がどういう反応をするかを確かめる。手伝いなど期待していない。貴様が栞那についていくのは、その目について調べるためだ」

 

「要するに実験ってことか」

 

「気を悪くしたならば断っても構わない。選ぶのはお前だ」

 

「いや、むしろ逆だ。いいじゃん、面白いね。俺もこの目にはいい加減うんざりしてたんだ。正体が分かるかもしれないんだったら、喜んでついてくよ」

 

 何やら勘違いされているようだが、俺は気なんて悪くしていない。もしろさっき言った通り、この目の正体が分かるかもしれないのなら、或いはそれに繋がるヒントがあるのなら、俺は喜んで明月さんについていこう。

 

「本当に良いんですか?危ないかもしれませんよ?」

 

「危なくなったら助けてくれ。俺はか弱い乙男(おとめん)なんだ」

 

「…何ですか、それ」

 

 俺に真剣な眼差しをぶつけて問い掛けてくる明月さんに、少し茶目っ気を混ぜて答えを返す。

 その試みはどうやら成功だったようで、明月さんは小さく笑みを溢した。

 

「それでは閣下、高嶺さん。行ってきます」

 

「あぁ。大丈夫とは思うが、緊急になったらすぐに念話を寄越せ」

 

「はい」

 

 ミカドと明月さんが一言かけ合ってから、俺達は店を出ていく。

 

 汐山さんの部屋は高嶺が住んでいるアパートの一室らしいのだが、その高嶺が住んでいるアパートの場所を知らない。なので俺は明月さんの後をついていくしかない。

 

「そういえばさ、明月さん」

 

「はい?」

 

 歩いている途中、ふとある事に気付く。というか、本当に今更になって気付くのもどうかと思うが。

 

「部屋にどうやって入るんだ?死神パワーで何とかなるのか?」

 

「そんな力はありませんよ」

 

 そう。高嶺の住んでいるアパートに行くのは良いが、汐山さんの部屋にはどうやって入るのか。今、汐山さんは実家に帰っていて、間違いなく部屋は鍵が掛かっている。

 もしや死神パワーで解錠するのか、と思ったのだがどうやらそんなパワーはないらしい。

 

「ならどうすんの?」

 

「ふふ…。ピッキングは得意です」

 

「こそ泥かよ」

 

「失礼なっ」

 

 ピッキングて、いやピッキングて…。もう少しマシな入り方はないのか。こう、窓を派手に割って入り、何かしらの不思議パワーで窓を修復する、みたいな。

 死神ならそのくらいやってくれよ、お願いだよ。

 

「出来ないです」

 

「心を読まないでくれ」

 

 なお、現実は無情である。男であれば、子供の時に一度は憧れる魔法なんかは見られそうにないらしい。

 

 期待してたのになぁ…。何かこう、地味なやつでも見たかったのになぁ…。

 

 ガッカリする俺に気付いているのか否か、前を歩く明月さんの足は止まらない。

 時折人とすれ違い、何度か交差点を曲がり、そうして歩くこと十分程経っただろうか、比較的綺麗なアパートの前で明月さんは立ち止まった。

 

「高嶺さんから聞いた住所は、ここですね」

 

「ほう…。あいつ、結構良いとこ住んでんじゃん」

 

 外観の綺麗さから、築数年と見える。部屋の間取りは分からないが、エントランスはオートロック式で、防犯機能は大学生が住めるアパートとしてはしっかりしている。

 

─────……で、…が…………に…

 

「?」

 

 いつか高嶺の部屋に遊びに行こうなんて思いながらアパートを見上げていると、不意にノイズが混じったような声が聞こえてきた。

 

 いや、聞こえたという感覚とは少し違う気がする。何というべきか、耳に聞こえたというよりは、頭に直接響いてきたという方が感覚としては近いか。

 

「柳さん、どうかしましたか?」

 

 俺が戸惑っている間に明月さんは既にエントランスに入ろうとしていた。

 立ち止まったままの俺が気になったのか、振り返って問い掛けてくる。

 

「明月さん。さっき、何か言ったか?」

 

「さっき?いえ、特には?」

 

「…そう、か」

 

 さっきの声の主は明月さんではないらしい。いや、途切れ途切れに聞こえてきた声は男の声だったから、予想はしていたが。

 

 しかし、ならばあの声は誰のものだったのか。気のせい、とは思わない。辛うじてとはいえ、俺は確かに感じたのだ。

 

「それでは、早速」

 

「…」

 

 ふんす、と気合いの入った吐息を吐きながら明月さんはどこからともなく二本の工具を取り出し、鍵穴を弄り始める。

 俺は作業をする明月さんの姿が歩道側から見えなくなるよう位置を計算して立ち尽くす。

 たまに背後に人がいないかを確かめながら明月さんのピッキングが終わるのを待つ。

 

「…よし、開きました」

 

 その一言の後、手早く道具を片付けた明月さんが扉を開ける。明月さんと一緒に建物の中に入る。

 

 ─────も…と……てい……っ…

 

「…」

 

 直後、再び先程と同じ感覚。しかも、先程よりもはっきりと、そして違う声が聞こえてきた。

 それだけではない。明月さんについて階段を上っている今も、声は聞こえてくる。そして、その声は大きく、はっきりしていく。

 

「この部屋ですね」

 

「…」

 

 明月さんが立ち止まった扉の向こう側。そこが汐山さんの部屋。

 ここまで来れば、もう俺の頭に響くこの声の正体は容易に予想がつく。この扉の向こうにいる()()が、この声の主だ。

 

 明月さんのピッキングが再び始まる。今度は先程よりも鍵の開く音がした。

 

 建物に入る時と同じ様に、明月さんが扉を開け、続いて俺が部屋の中に入る。

 

 声が、さらにはっきり聞こえるようになった。

 

 玄関で靴を脱ぎ、奥の扉を開けて部屋の中へと入る。

 

「これは─────」

 

 部屋の光景を見た明月さんが言葉を失う。そこまで酷いのだろうか。眼鏡をかけたままの俺にはまだ何も見えない。

 

 声は未だ聞こえてくる。ノイズは混じりつつも、まだ言葉を聞き取れないものの、声に込められた無念、遺恨、悔恨、憎悪。それらは嫌でも伝わってくる。

 

 俺は眼鏡を外し、この声の主の姿を目に納めようとする。

 

 しかし、この時俺は失念していた。そして、後悔する。

 この眼鏡が遮断するのは俺の視界だけじゃない。

 

 ()()()()、遮断の対象だったという事を。

 

「っ─────」

 

 眼鏡を外した途端、体が重くなる。実際に何かがのし掛かったという訳ではない。これは飽くまで感覚的な問題だ。

 しかし。

 

 ─────死にたくなかった

 

 ─────もっと幸せになりたかった

 

 ─────どうして、私だけ

 

 ノイズが消え、言葉が俺の中に入ってくる。

 それだけじゃない。俺のではない誰かの感情が、気持ちが、胸の中に無理やり入り込もうとする。

 

 ─────どうして俺を置いていったんだ

 

 ─────どうして私を捨てたの

 

 ─────どうして僕を殺したの

 

 憎しみが、悔いが、怒りが、哀しみが、声と一緒に俺の中に入り込んでくる。

 

「っ…、あ…」

 

「柳さん?」

 

 気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。

 

 俺のものじゃない感情が溶け合い、ぐちゃぐちゃになる。その感覚は何とも形容し難い、気持ちの悪いものだった。

 

 ─────どうして

 

 ─────どうして

 

 ─────どうして

 

 どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして

 

「あ…ぐっ…うぇっ…」

 

 全身を包む気持ち悪さは吐き気となって、体の中から喉へ上がってくる。堪らず蹲り、せめて吐き出さないように力を込め、掌で口を押さえる。

 

「柳さん!?どうかしましたか、柳さん!」

 

 先程はきょとんとしていただけだった明月さんもここまで来れば異変に気付かざるを得ない。

 蹲った俺に寄り添うようにしゃがみ込み、俺に声を掛ける。が、俺にはその声に応える余裕はなかった。

 

 どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして

 

 呑み込まれないよう、必死に耐える。耐える内に、次第に感覚が薄れていくのが分かった。

 視界が揺らぎ、流れてくる声が途切れていき、そして思考が黒く塗り潰されていく。

 

「大丈夫ですか柳さん!しっかりしてください!っ、閣下、緊急事態です!すぐにこちらに来て………!」

 

 遂にはすぐ傍らにいる明月さんの声まで聞こえなくなる。

 

 あぁ、なるほど。これが、意識を失う感覚ってやつか。

 

 そんな風に他人事に今の感覚を考えた直後。

 俺の意識は闇の中へと沈んでいったのだった。




い、一体何が起きたというんだ…!?(棒)


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第九話





主人公の目についてほんんんんんんの少しだけ進展する回


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 分かる人には分かるだろうか。夢を見ている最中で、これは夢だと気付く感覚。

 俺はその感覚の中にいた。今、俺は夢を見ている。

 

『お母さん…、お父さん…』

 

 何故なら今、俺の目の前で見た事のない五才くらいの女の子が泣いているからだ。それに俺がいる場所も全く見覚えがない。

 恐らくこの子の家なのだろうが、俺の実家は二階建ての一軒家だった。今、両親はイギリスにいて、その家は土地と共に売ってしまったためだった、と過去形になってしまうが。

 今、俺がいる場所はどこかのアパート、或いはマンションの一室だと思われる。この部屋の形状、置かれている家具、窓から見える外の景色、いずれも全く覚えがない。

 

『お腹すいたな…』

 

 壁に背中をつけて座り込むこの子は、果たして何者か。

 そう考えた瞬間、何故だろう。ふと、この声に聞き覚えがある事に気付いた。

 

 いや、聞き覚えどころではない。俺はこの声を聞いている。この声が発した嘆きを、俺は知っている。

 

『お母さん、お父さん、どうして私を捨てたの?』

 

 脳裏に甦る子供の嘆き。そう、覚えている。あの時、明月さんと一緒に汐山さんの部屋に忍び込んだ時、頭の中に入り込んだ大量の嘆きの内の一つ。その声と同じだ。

 

 しかしここで疑問が生まれる。何故俺は会った事もない子供の、見た事のない記憶を見ているのか。

 

「…記憶?これが、記憶だってのか?」

 

 記憶、俺は今、そう思ったのか?何故?ただ、出鱈目な夢を見ている可能性だってあるのに。

 それなのに、何故俺は、この光景がこの子の()()()()()なのだと確信している?

 

『…誰か、いるの?』

 

 不意に、少女が俺を見上げた。痩せこけた頬、焦点の合わない目。何日も何も食べていないのだろう。このままではこの子は助からない。

 

『誰かいるなら、お願い…。お母さんとお父さんを、探して…』

 

 俺の姿は見えていない。当然だ。この子の記憶の中に、俺がいる筈がないのだから。

 それでも少女は助けを求める。俺がいる方に手を伸ばして。

 

『お母さんとお父さんを…、見つけて…。もしかしたら…どこかで…けが、してるかも…』

 

 自身ではなく、己を捨てた両親を助けて、と。捨てられたのだと気付かず、ひたすらに、己が愛する親を思って、助けを求める。

 

『わたしは…、さがしにいけないから…。だれかが…どあが…こわれ…ちゃったの…』

 

 その言葉を聞いて、扉の方へ振り向く。ハッキリとは見えないが、モザイクフィルム付きの窓の奥に何かが置かれているのが分かる。

 それがこの扉を開けないようにするバリケードなのだという事、そしてバリケードを置いたのが誰なのかを予想するのは簡単だった。

 

 しかしこの小さな女の子には分からない。ドアが開かないのは壊れてしまったからだと、その奥にあるバリケードに気付かない。

 

『だから…わたしの…かわ、りに…』

 

「…」

 

『おかあ、さんと…おとうさん、を…さが…し…』

 

 景色が揺れる。まるで、これでこの子の記憶は終わりだと告げるように。

 

 場面が転換する。

 

 次に視界に広がったのは薄暗い、これまたどこかのアパートの一室と思われる。そこで繰り広げられていたのは、常人には目を覆いたくなるような光景だった。

 

 一人の男性が床に倒れる女性に対して、何度も何度も足を振り下ろす。その先が顔面でないだけまだ救いがあるか、しかし男性の蹴りを背中に何度も受けている女性は言葉を発せず、抵抗も出来ず、咳き込むだけだった。

 

『ざけんなよ、ごらぁっ!たったこんだけしか稼いで来ねぇでよくもまあ帰ってこられたなぁ!?』

 

『ぐっ…、はっ…!ごぼっ!』

 

 男性は怒鳴りながら女性を踏みつけるのを止めない。時に踵を女性の背中に押し付け、そしてすぐに踵を掲げ、振り下ろす。

 

『ごめ、んなさ…い…』

 

『…謝るだけで許されるんならよぉ』

 

 涙を目に浮かべながら男性を見上げて謝罪する女性。

 その姿のどこが癇に障ったのか、俺にはさっぱり分からない。しかし何かが琴線に触れたらしい男の顔が更に歪み、やがてその足の向く先が背中ではなく、女性の顔へと移る。

 

「ばっ…!」

 

 バカが、と声を出しそうになった時にはすでに、その足は振り下ろされていた。振り下ろされた踵が女性の顔に当たり─────

 

『どうして、私ばかりがこんな目に』

 

 そんな声が聞こえてきたと同時に、再び視界が揺らぐ。

 

 以降は只の繰り返しだった。同じ光景を見ていた訳ではない。

 見知らぬ誰かの、苦々しい記憶を見せられ続けた。

 

 虐待、事故、殺人、自殺、病気。様々な人の死を見せられ続けた。

 目を背ける事は許されず、助けに行く事も許されず、そうしている内にある事に気付く。

 

 これは、死者の記憶ではなく、死んでいったこの人達を見てきた誰かの記憶なんじゃないか。

 

 毎回、俺は第三者として死の光景を見てきた。死者の記憶を見せられていたのなら、俺は死者の視点を見ていなければ辻褄が合わないんじゃないのか。

 

 なら、誰だ。こんなにも多くの死を見続け、しかも助けようともせず、ただ死を見るだけだった、そいつは一体何者だ。

 

 終わりはないとすら思えるほど長く、果てしない景色の連続も、終わりは訪れる。

 何人目か、途中から数えるのを止めてしまった。最後はあまりに呆気なく、女性が車に轢かれた光景。その光景が流れた直後、俺の頭の中に声が流れる。

 

 ─────やっと、ここまで来た

 

 瞬間、視界一杯に光が広がる。周囲の景色を光が塗り潰し、やがて何も見えなくなる。

 

 結局、この夢は何だったのか。先程聞こえてきた声は何だったのか。

 考える暇もなく、俺という存在は夢の中から消失した。

 

 

 

 

 

 

 

 

「っ!」

 

 目が覚めた、と自覚したのは、目を開いて十数秒経ってからだった。視界の中に見えるのは木製の天井。背中に感じる柔らかい感触から、ベッドに寝かされていると推測。

 

 その推測は当たっており、視線を横にずらすと自分の体の下に床が見えた。

 

 体は動く。しかし、今、俺がいる場所がどこなのか分からない。その状況が先程の夢と重なり、もしや未だ目は覚めていないのでは、という疑いが湧いてくる。

 

「体は、動くか」

 

 上半身を起こす。体に掛けられた布団がずり落ちる。

 この時点で、俺はこの景色は夢のものではないと確信する。何しろ、夢の中での俺は体を動かす事が出来ないでいたのだから。

 

 目が覚めたのだという実感を得た俺は右手を持ち上げ目の所まで持っていき、軽く擦ろうとしたところで手にこつりと固い感触が当たる。

 それが眼鏡だと気付いたのは直後。誰か…というより、明月さんだろう。眼鏡を掛けてくれたらしい。ここまで運んでくれたのも明月さんだろうか?男の体を運ぶのは女の身には厳しいものがあると思っていたが…、死神とはやはり、人の想像も及ばぬ贅力を持っていたりするのだろうか。

 

 布団から足を出し、ベッドから降りる。ベッドの下に置かれた靴を履いて、何となく周りの雰囲気から屋根裏部屋と思われる場所から出る。

 

 窓から見える外はすでに暗くなっており、俺がどれだけ眠っていたか窺い知れる。明日が休日で良かった。土日の間に、恐らく崩れるであろう生活リズムを整えなければ。

 かなり長い時間眠ってしまったのだ。多分、今日は夜そんなに眠れない。

 

 階段を降りて下の階に降りてみるも、やはり見覚えはない。しかし、どこからか話し声が聞こえてくる。それも、覚えのある声が。

 

 その声が聞こえてくる方へ足を向ける。

 廊下を進んでいくとステンレス製の扉があり、それを開けると、扉の向こうの部屋が視界に広がる。

 

「…ここ、店か?」

 

 その部屋は、喫茶ステラのバックルームだった。部屋の中央に四つのパイプ椅子と横長のテーブル。俺から見て左側にはロッカールームに繋がる扉。

 そして、正面の扉。フロアへと繋がる扉を開け、俺はフロアに入る。

 

「─────」

 

 話し声が止む。フロアにいたのは明月さん、ミカド、四季さんの三人。今まで何を話していたのか、それは分からないがフロアに入ってくる俺の姿を見た途端、三人はピタリと話を止め、同時に俺へ視線を向けてきた。

 

「…」

 

「…」

 

「…おはよう」

 

 呆然と俺を眺める三人は何も言わず、沈黙に耐えきれなかった俺は起床の挨拶を口にする。

 それが合図だったかの様に、直後座っていた明月さんが立ち上がった。

 

「柳さん!起きて大丈夫なんですか!?」

 

「え、あ、うん。ちょっと怠いけど、それくらい」

 

 余りの勢いに思わずどもってしまう。

 明月さんだけではない。何も言わないが、四季さんも心配げにこちらの顔色を窺っていた。

 

「柳千尋。体調は本当に大丈夫なんだな?」

 

「さっきも言ったけど、ちょっと怠いだけだ。普通に歩けるし、普通に喋れる」

 

「…それならば、もう安心だな。貴様が倒れたと聞いた時は肝を冷やしたぞ」

 

 ミカドが肝を冷やすとか、俺はどんだけ危ない状態だったんだ。

 そんな俺の気持ちを読み取ったか、ミカドが一度溜め息を吐いてから口を開いた。

 

「蝶の思念に飲まれかけていた。下手をすればそのまま魂が持っていかれるところだった」

 

「…蝶の思念、か」

 

 やはりあれは蝶の思念だったのだろうか。ミカドが言うのなら、とも思えるがやはり違和感は拭えない。

 

 何故なら俺は、あの記憶を体験したのではなく、見ていたのだ。もし本当に蝶の思念に飲まれそうになっていたのなら、俺はあの記憶を体験する側でなければ可笑しくはないだろうか?

 

「何か、引っ掛かる事でもあるの?」

 

「え?…何で?」

 

「そんな顔してるから」

 

 今度は四季さんが俺の表情を見て問い掛けてくる。

 何だ、この店は読心術を会得した人間が集まる魔境だとでもいうのか。普通に怖いんだが。

 

「何でもいい。言ってみろ」

 

「正直、今回の件は私達にとっても分からない事だらけなんです。先程の閣下の所見も少ない状況証拠に基づいた推測に過ぎません。当事者である柳さんの意見は、何よりのヒントになります」

 

「…もしかしたら完全な的外れかもしれないぞ?」

 

 四季さんに続いてミカドと明月さんにも後押しされ、俺は夢を見た事、その夢の内容、そして夢を見ている時に感じた違和感について語る。

 

 初めは真顔で聞いていた三人の表情が次第に、三様に変わっていく。

 四季さんは悲しげで泣きそうな表情に。明月さんもまた悲しげではあったが、その上でどこか割り切っている様な表情に。ミカドは目を見開き、驚きが顔に出始めていた。

 

「人の、死…」

 

「あぁ」

 

「見ている、だけだったの…?」

 

「体が動かせなかったからな。…それに、あれは夢だ」

 

 そう、あれは夢だ。例え体が動かせたとしても、俺の姿が死者の目に見えていたとしても、何も出来ない。何にもならない。

 

「…柳さん。本当に大丈夫ですか?」

 

「?体調ならさっきも言ったけど…」

 

「いえ、そうではなくて。柳さんは多くの人の死を見たんですよね?それも、蝶になって零れ落ちてしまう程の無念が籠った死を」

 

「っ…」

 

 四季さんがハッ、とこちらを見る。明月さんと四季さんの視線を受けながら、俺はゆっくりと正直な気持ちを語る。

 

「正直、堪えたよ。いや、すっげぇんだ。テレビのニュースとかでさ、事故で人が死んだとか、誰かが殺されたとかやってるけどさ。結局は俺にとっては他人事だった」

 

 だが、あの夢で見た記憶はそうでなかった。第三者でありながら、間近で、ほぼ当事者に近い距離で死を目の当たりにした。

 あれは夢だ、と割り切るには余りに近すぎた。今も、気を抜いてしまえば夢で見た光景が脳裏を過る。

 

 悲しい死が、怒りに満ちた死が、残虐な死が、空虚な死が。

 

「柳君…」

 

「柳さん…」

 

「…まあ、立ち直りは早い方だから気にすんな。明日には元通りにするさ」

 

 気遣う二人の視線。不躾に見続けられる事が嫌いな俺だが、その視線は不快ではなかった。

 本気でこの身を案じているのだと実感できるから。その気持ちはどこまでも真摯で、真っ直ぐなものだと分かったから。

 

 この時、俺には余裕がなかった。あの夢を見て目が覚めた直後で、そして四季さんと明月さんの心配する気持ちが素直に嬉しくて。

 俺は、ミカドの呟きを聞き逃していた。

 

「人の死を多く見てきた、当事者ではない第三者の視点…」

 

 呆然と視線をぶつけてくるミカドに、俺は気付かない。

 

「柳千尋…。その目は、まさか…、いや、そんな筈は…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あの後、結局俺の目の詳細はすぐには分からないという結論となり、その場は解散となった。

 あの店に間借りしている明月さんとミカドは勿論店に残り、俺と四季さんは店を出て今、帰路についている。

 当然と言ってはあれだが、並んでだ。家の方向は同じだし、一緒に帰っても空気が気まずくなる程に仲が険悪な訳でもない。こうなるのは極自然な流れといえよう。

 

 しかし、バイト先の美少女と一緒に帰るとか、一週間前の俺に言っても絶対に信じないだろうな。俺と一緒に帰る物好きとかいる訳ないだろう、とか言って。

 

「ねえ、柳君。本当に大丈夫?」

 

 すると、四季さんがこちらを見上げながら口を開く。振り向くと、その目は店にいた時と変わらず、心配げなままだった。

 

「何度も言うけど、本当に大丈夫だ。明日も普通に店に行くし、そろそろ安心しろよ」

 

「…うん、柳君がそう言うなら大丈夫なんだろうけど。あんな話を聞いたらね…」

 

 まあ、それもそうか、という気持ちにもなる。

 人の死を見た、なんて聞いたらその人の精神状態が気になるに決まっている。それも夢の中でとはいえ、比喩等ではなく本当に、それも大勢。

 それに俺が語ったものが全てではないという事を四季さんは察している。

 

 俺だって、もし俺と四季さんが逆の立場になったら、多分しつこいくらいに四季さんに聞いてただろうな。大丈夫かって。

 もう、他人事の一言で済ませられる域を越える仲になったのだから。

 

「─────」

 

 待て、俺は今、何て思った。四季さんを、他人ではないと思ったのか。今?俺が?高々会ってから一週間も経ってない奴を?

 

 つい、自分で自分に驚いてしまう。自分は、こんなにも簡単に他人に心を許す様な奴だったか、と。

 

「柳君?どうかした?」

 

「…いや、別に」

 

 こちらの様子を変と思ったか、四季さんがきょとんとこちらを見上げてくる。

 どうやら俺の内心には気付かれていないらしい。先程店で披露した読心術は発揮されなかった様だ。

 

「…ねぇ柳君、本当に大丈夫?」

 

 それは、先の台詞と全く同じものだった。

 一体四季さんは、何に対してこんなにも心配になっているのか。

 

 起きてすぐに感じていた怠さはもうとれた。別に顔色も悪くなっていない筈。それなのに、何故こうも四季さんは、どこに心配しているのか。

 

「四季さん。俺ってそんなに体調悪そうに見える?」

 

「…ううん。そうじゃない」

 

 もしや、俺がそう思っているだけで、四季さんからはそうは見えていないのかもしれない。そう思って聞いてみるが、四季さんは頭を振った。

 

「柳君、あの時言ったから」

 

「?何が?」

 

「…元通りになる、じゃなくて、『元通りにする』、て言ったから」

 

「─────」

 

 言葉に詰まる。そういえば、と思い出す。無意識に本音が漏れてしまったあの時を。

 

 そうか、何でそこまで頑ななのかと思っていたが、それに引っ掛かっていたのか。しかし、普通なら気付かないぞ、そんな小さな違和感。

 

「柳君。辛かったら、本当に無理しなくていいから。ちゃんと誰かに連絡してくれれば、明日のバイトを休んでいい」

 

 今、誰かが休む事がどういった状況を招くか。しかも俺は今、他人を教える立場にいる。それを分かった上で、四季さんは無理をするなと、休んでもいいと言い切る。

 

「…本当に大丈夫なんだが」

 

「柳君」

 

「うん、でも分かった。本当に辛かったら、休むよ」

 

「…」

 

 四季さんがじと目でこちらを覗く。思い切り疑われている。なお、その疑いは正しい。先程のは、この場をやり過ごすための適当な台詞に過ぎない。

 

「…私が無理そうだって思ったら、強制的に帰らせるから」

 

「へーい。店長命令には従いますよ」

 

「言っておくけど、本気だからね?」

 

「分かってる分かってる」

 

 四季さんが何度も念押しするのを聞き流す。その態度を見た四季さんがまた念押ししてくる。

 

 そんなやり取りをしながら歩く内に、帰路が分かれる交差点まで来てしまう。

 最後にもう一度、四季さんの念押しを聞いてから俺は彼女とは別の方向に足を向ける。

 

「…さっむ」

 

 まだ秋とはいえ、夜になればもうすぐ冬なのだと無理矢理実感させる冷たい風が吹く。

 

 その風に身を小さくさせながら、俺は自分の部屋へと足を急がせるのだった。



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第十話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 月曜日。それは休みが明けた次の日、一週間の仕事が始まる最初の、社会人にとっては絶望の日。

 そして社会人程ではなくとも、学生にとっても憂鬱で仕方のない曜日。一体どれ程の人が、月曜日なんてなくなってしまえと考えた事があるだろう。俺も例外ではなく、その一人である。

 しかもスケジュールの関係上、朝から講義があるため早く起きなければならない。必修単位であるため、外せなかった。

 

「ふぁ…」

 

 欠伸を漏らす。眠い。だが、それだけだ。体調は何ともない。というか、俺が倒れた日からはもう一週間経っているのだから当然といえば当然なのだが。

 四季さんの心配を他所に、俺の体調はもう次の日には回復していた。今でもあの光景を思い出すし、しばらく忘れる事なんて出来やしないだろうが、その度に気分が悪くなる、という事はなくなった。もう次の日にはバイトに行ったし。他の人達に滅茶苦茶心配されたが。まるで電車に乗った老人の如く、椅子に座らせられたが。

 

「柳」

 

 横断歩道で信号が切り替わるのを待っていると、背後から呼ばれる。振り返ると、そこに立っていたのは同じ職場の同僚。

 

「おはよう」

 

「高嶺か、おはよう。…職場以外で話すのは久し振りだな。初めて会った時以来じゃないか?」

 

「そうか?…そうだな、そういえば」

 

 高嶺と挨拶を交わし、軽く話をする。

 こうして登校中に会うのは初めてだ。学部が違うのだから、当然講義の時間もずれる。学部が違う者同士が、大学に行く時間が重なる方が珍しいのかもしれない。

 

「そうだ、柳。親父からあれが完成したって報告が来たぞ」

 

「あれ?あれ…」

 

「忘れるなよ…。いや、まあ俺達には直接関係ある訳じゃないけど…」

 

「待て、もう少し待て。思い出せそうなんだ。もうすぐそこまで来てるんだ」

 

 呆れて苦笑する高嶺の前で必死に思い出すべく記憶を呼び起こす。

 いや、本当に思い出せそうなんだ。出任せでさっきの台詞を言った訳じゃあない。もう少しで、本当にもう少しで思い出せそう…あっ。

 

「ユニフォームかっ」

 

「やっと思い出したか」

 

 そういえば高嶺が言っていた。親の伝手でオリジナルユニフォームのデザインを依頼した、と。そうか、ようやく完成したのか。

 

「で、そのユニフォームは?」

 

「今は俺の部屋にある。流石にあれ持って大学行く訳にもいかないから」

 

「それもそうだな…。でも、今日の内に四人に渡すんだろ?」

 

「あぁ。講義が終わったら一旦帰って、ユニフォーム持って店に行くつもりだ」

 

「そうか」

 

 俺の講義が終わるのは夕方前。高嶺の講義がいつ終わるのかは知らないが、もしかしたら店に行った時には新しいユニフォームを既にあの四人が試着している可能性があるという訳か。

 

 …俺とて男だ。あの容姿に優れた異性達がどの様な姿になるのか、楽しみという気持ちが全くないと言ったら嘘になってしまう。

 

「それと…、柳。一つ、柳に相談したい事があるんだが」

 

「あ?相談?俺に?」

 

 ポツリポツリ、と高嶺が話し始める。初めは普通にその内容に耳を傾けるだけだった。やがて高嶺の話の内容に驚きが隠せなくなり、そして今、俺は自分の口角が吊り上がっているのを自覚している。

 

「お前…。随分大胆な事を考えるじゃん」

 

「…どう思う。正直このままじゃ、店が上手くいくとは思えない」

 

「だから、その作戦であの人を引き込もうって魂胆か?…お前、その作戦が成功するって本気で思うか?」

 

「ぐっ…」

 

 高嶺の口から出てきたのはとんでもない話だった。余りに浅はかで、出鱈目で、それでいて面白い。

 

「や、やっぱり、今の話はn「良いじゃん。乗るぜ、それ」…は?」

 

 高嶺が勢いよくこちらに振り向く。目を丸くして、口をあんぐりと開け、信じられないといった面持ちで俺を見ている。

 

「え、いや。…良いのか?」

 

「あぁ。俺も、このままじゃ駄目だと思いつつ、どうしようか悩んでた所だ。その悩みを解決させられそうなんだ、乗らない手はない」

 

 高嶺の作戦とやらに、俺は手を貸す事にする。ただし─────

 

「でもな、それじゃあ足りない」

 

「は?」

 

「疲れきってる人間をその気にさせるなら、もっと煽ってやらなきゃな」

 

 後に、高嶺はこの時の俺の顔についてこう語った。

 

 どこから見ても一人の人間を立ち直らせようという思い遣りを持った人の顔には見えなかった。悪役にしか見えなかった、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 講義が終わればすぐに店へと向かう。これがほぼルーティンと化してきた。

 ほぼ毎日バイトに行く俺を見て、ブラック職場に捕まったのではないかと心配してくれる心優しき友人と別れ、店に行った俺は、四季さん達の練習に付き合いながら料理の練習。

 

 先週の間に俺と高嶺がキッチンスタッフを務める事になり、以降は毎日オムライス、カルボナーラを練習がてら食べ続けた。

 因みに、週に何度かは自分で料理を作っている経験値があるお陰か、ほぼ自炊していない高嶺よりも好評だった。

 今ではその高嶺も練習のお陰で腕がかなり上がっているが。

 

 客に出せるか、と問われれば俺のも含めて首を傾げてしまうのが現実だが。

 

 そうしてそれぞれやるべき事をしていると、大きめの紙袋を持った高嶺が店に来た。すぐにその紙袋に墨染さんが反応し、高嶺が中からユニフォームを一着取り出す。

 

「おぉ!昂晴先輩、それはもしや!」

 

「あぁ。完成したぞ…、この店のユニフォームがっ!」

 

「おぉ~!」

 

 高嶺が取り出した緑色のユニフォームを、火打谷さんが目を輝かせながら受け取る。

 

「かわいぃ~…。昂晴先輩、本当にこれを着て良いんですか!」

 

「むしろ着て貰わないと困る」

 

 高嶺が女性組達にそれぞれ一着ずつユニフォームを渡していく。ユニフォームを受け取った女性組はすぐにバックルームへと着替えに行く。

 

「しかし、大分攻めたデザインになったな」

 

「不満か?」

 

「いや。…ただ、四季さん辺りがかなり恥ずかしがりそうだと」

 

「あー…」

 

 火打谷さんが体の前でユニフォームを広げた時に、スカートがかなり短い事に気が付いたのだ。

 明月さん達もそれなりに恥ずかしがるかもしれないが、四季さんは自分は前の服が良いと言い出しかねない気がした。

 

 そして、高嶺も俺の意見を聞いて同じ様に思ったらしい。

 

「もし四季さんが抵抗したら、褒め倒すか」

 

「それ、逆効果だろ絶対」

 

 うん、俺もそう思う。でも、多分滅茶苦茶良い反応をすると思う。

 だからなー、実践してみたいなー、あー俺の悪い癖が…。抑えなければ…。

 

「…」

 

 高嶺がじと目でこちらを見ている。止めろ、男にそんな目で見られたら気分が下がる。萎える。いや、女相手だったら、という訳ではないが。男はもっと嫌だ。きもい」

 

「きもいとか言うな!」

 

「あ、声に出てた?」

 

 そうして話している内にそれ程の時間が経っていたらしい。ガチャリ、とバックルームに繋がる扉が開く音がした。

 

 そこから出てくるのは勿論、先程着替えに行った女性組。新しいユニフォームに身を包み、皆が戻ってきた。

 

「ちょっと派手というか…、普段使いするのは辛いけど…。お店のユニフォームだもんね!このくらい可愛い方が丁度良いんだよね?」

 

「う、うん…」

 

 改めて人が着ている所を見ると、やはり相当攻めたデザインをしているのが分かる。このユニフォームを作った人は、どういう考えでこれを作ったのか。かなり強いメンタルをしていなければ作れない気がするが、それともデザイナーにとってはこれくらい訳ないのだろうか。

 

「うー…。やっぱり、何か落ち着かないなー…」

 

「何か不満があるなら遠慮なく言ってほしい」

 

「い、いえ!不満なんて滅相もない!ただ…、可愛すぎて、私には不釣り合いな気が…」

 

 火打谷さんがネガティブな台詞を吐く。しかし、決してそんな事はない。火打谷さんが着た緑のユニフォームは彼女にマッチして、かなり似合っていると思う。

 

 と、俺が言うより先に墨染さんが口を開いた。

 

「そんなに不安になる必要ないよ。私が保証するからっ。むしろ、心配なのは私だよ…。採寸してから体重がちょっと…、ちょっとだけ変わっちゃって…」

 

 墨染さんが火打谷さんのユニフォーム姿を褒めた、かと思えば今度は墨染さんまでもが自虐を始める。

 

 やはり、このデザインは派手すぎたのではなかろうか。この二人がこれだけ恥ずかしがっているとなると─────

 

「…」

 

「っ─────」

 

 四季さんと目が合った。瞬間、四季さんの頬が真っ赤に染まり、短いスカートの裾を引っ張って足を隠そうとする。

 その仕草は男にとっては逆効果だぞ。良かったな、相手が俺で。もし見てたのが高嶺だったら今頃その綺麗な足をガン見されてたぞ。

 

 かくいう俺も足に視線が吸い込まれそうになっているのだが。滅茶苦茶必死になって視線を上へ上へ向けているのだが。

 

「こ…」

 

「こ?」

 

「こっち、見ないで…」

 

「─────」

 

 今、雷に撃たれました。屋内にいる筈なのに、雷に撃たれました。

 何、この可愛い生き物は。お持ち帰りされても知らんぞ。…いや、落ち着け。キャラが崩壊する。冷静になれ、冷静に。koolになるんだ。

 

「これ、短すぎない…?ガッツリ足が出ちゃってるんだけど…」

 

「いえ、むしろこれくらいで丁度良いんですよ。ナツメさんの足は綺麗ですし、バンバン出しちゃいましょう!」

 

「それはちょっと店の印象的に止めた方が良いのでは」

 

 恥ずかしがる四季さんを見て何故かテンションが上がった明月さんにストップを掛ける。すると、明月さんの視線がこちらを捉えた。

 

「えぇ~?本当に止めちゃって良いんですかぁ~?」

 

「…何が」

 

「柳さん、四季さんに釘付けになってたじゃないですか」

 

「─────」

 

「っ…」

 

 悪戯っぽい笑顔を浮かべてそんな事を言いやがった明月さんに言葉が詰まる。明月さんの隣にいる四季さんが驚きと共にこちらを見る。

 

 止めろ、こっちを見るな。どう反応すれば良いんだ。誰か、助けて…っ!

 

「明月さん、からかいの対象が欲しいんならあっちでエロい目をしてる高嶺の方が適任だぞ」

 

 その時、どういった経緯でそうなったのか、抱き締めあって百合百合している墨染さんと火打谷さんを眺める高嶺の姿を見つけた。

 この千載一遇のチャンスを逃す手はない。俺は迷う事なく高嶺を売った。このピンチから脱するためだ。許せ高嶺。

 

「売りましたね、高嶺さんを」

 

 なお、即効でバレた模様。

 

「まあ、柳さんはこのくらいにしておいてあげましょう。それよりも…、にひひ」

 

「…趣味悪ぃ~」

 

 今、どこからともなくブーメラン乙という声が聞こえてきた気がしたが気のせいにする。するったらする。

 

 しかし、明月さんの矛先を逸らしたのは良いが、実は危機的状況なのは変わってない。明月さんが残した爆弾は他の人の手に渡り、今も起爆の危機にある。

 

「…」

 

 顔が赤いままこちらを見ている四季さん。先程の明月さんの台詞のせいだ。釘付けになったのは事実だが…、本人にそれを言ってくれやがったせいで気まずくて仕方ない。

 

「…」

 

 なにも言わないまま、再び四季さんの姿を見る。

 赤いパステルカラーを基調とし、白いラインの入ったスカートが短めのワンピースに、腰にはフリルのついたエプロン。

 

 四季さんは普段、どちらかというと大人っぽい雰囲気を感じさせる私服を着ているが、こういった可愛いを全面に出したデザインの服もかなり似合う。

 こんなの、男なら釘付けにならない方がおかしい。同性愛を疑うレベルで。

 

「似合ってる」

 

「え?」

 

 四季さんの視線がこちらに向いたまま変わらない。このまま何も言わないというのもどうかと思ったため、正直な感想を伝えてみる。

 

 が、四季さんは呆気にとられたようにきょとんとする。

 …あれ、これもしかして、失敗した?

 

「…本当?」

 

「本当」

 

「…それなら、良かった」

 

 俺の心配はどうやら杞憂だったらしい。四季さんがホッとした笑みを浮かべながら胸を撫で下ろす。

 

「何。似合ってないって思ってたのか?」

 

「だって…。こんな可愛い服、初めて着たし…」

 

「さっきも言ったけど、似合ってる」

 

「そんな繰り返さなくていいからっ」

 

 再び似合ってると伝えると、四季さんの声のボリュームが上がった。その理由が怒りではなく羞恥からだというのは、四季さんの顔を見れば明らかだった。

 

 …まずい。うずっと来た。落ち着け、koolになれ。本気で心配してる人をからかうのは趣味が悪いという域も越える。

 耐えろ俺。俺は、やれば出来る子なのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

~Another View~

 

「「「「…」」」」

 

「…あの。あのお二人って、そういった関係なんですか?」

 

「いえ、そういう関係ではない筈です」

 

「なら、昔からの友達、とか?」

 

「いや、俺と一緒で柳と話したのは最近…二週間前の筈だ」

 

「…その二週間の間に何があったんです?」

 

「「分かりません」」

 

 二人が話している間にこの様な会話があった事なんて、知る由もなかった。



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第十一話






評価に色が付きました。ありがとうございます。
気が向いたら感想の方もお願いします。(乞食)


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 近くにあった椅子に靴を脱いで乗り、高嶺から風景画が入った額縁を受け取って壁に刺さった釘に引っ掛ける。

 角度を整えて椅子を降り、絵がちゃんと平行になっているかどうかを確かめ、うん、と頷く。

 

「大丈夫だな」

 

「はい、大丈夫ですね。…はぁぁ~、終わったぁ~」

 

 俺の呟きに火打谷さんが続き、直後気の抜けた声が彼女の口から漏れる。

 

「シーリングファンを持ち上げ続けるのはマジで疲れた」

 

「本当に、今日は疲れたねぇ~…」

 

「でも、随分雰囲気良くなったな」

 

 この会話を聞いて分かる人には分かるだろうか。ついさっきまで、俺達は店内の模様替えを行っていた。

 高嶺の親父さんが是非店で使ってほしいと譲ってくれた絵を飾り、テーブルの間に仕切りを設置し、天井にシーリングファンを取り付けた。

 昨日までの店内とはまるで違う印象を受ける。取り上げられる変化はシーリングファンの有無、絵の有無、テーブルの配置くらいの筈なのに、目に見えて明るく感じるのが不思議だ。

 いや、模様替えとはそういうものなのだが。

 

「あぁ。私にもハッキリと違いが感じられる」

 

 ミカドもまた、俺達と同じ印象を抱いていた。こういった感性は、俺達人間よりも鈍いミカドがこう言うのだ。この模様替えは大成功といって良いのではないだろうか。

 

「そろそろ、大家を呼んでみても良いのではないか?」

 

 そして、ミカドは四季さんにこう提案した。

 確かに店内の雰囲気はガラッと変わり、従業員を増やし、ユニフォームを一新した。何より、今と以前と、四季さんの覚悟は全く違う。

 

 今ならば、と思う気持ちは俺も同じだった。

 

「そうは言っても、まだ不安はあるんだけど…」

 

 しかし四季さんは踏ん切りが着かないらしい。まあ、期限である月末まであと少し。四季さんの言う通り、この店にはまだ不安要素はあるし、解決していない事もある。

 

 そうこうしている間に期限はあっという間に来るという気持ちはあるが、完璧を求める気持ちも分からないでもない。

 

「そういえば、パンケーキの件はどうなったの?」

 

「何か考えがあるって言ったまま、放置していませんか?」

 

 今、墨染さんが言った件もこの店の不安要素、解決していない事の一つ、というよりは大部分というべきか。

 墨染さんに続いて火打谷さんも高嶺の方を見て続ける。

 

「放置している訳じゃない。準備をしなきゃ駄目なんだ。…でも、そろそろ良いかもな」

 

「具体的にはどうするんですか?」

 

「この店に、呼びたい人がいるんだ。何をするかは…、当日まで秘密という事で」

 

 高嶺の言う通り、そろそろ呼んでも良いかもしれない。それに、あれからだいぶ間が空いてしまった。時間もそう残されていないだろう。

 明月さんになら、とも思うが、高嶺は念を押して全員に言わない事にした様だ。

 

 とにかく、模様替えは終わったがまだ時間は余っている。オープンに向けてそれぞれが出来る事をする時間となり、思う場所へと足を向ける。

 

「…母さんに聞いてみるか」

 

 一度店内を見回す。やはりかなり明るい印象になったのは間違いない。しかし、もしかしたらまだ改善点があるかもしれない。が、俺にはそれが分からない。

 

 もっと良くできる何かはあるのか、それともこれで十分なのか。手っ取り早くそれが聞ける人に聞く事にする。

 今頃向こうは早朝で、もしかしたら寝ているかもしれないが遠慮はしない。いつもは向こうがこっちの事情などお構いなしに帰国してくるのだから、こっちとて向こうの事情なんて構わず行動してやろう。

 

 スマホはロッカールームの鞄の中だ。俺はスマホを取りに行くべく、休憩室へ入る。

 

「…?」

 

 前に、足が止まる。何故か、扉が開いている。それだけではなく、そこから何かが聞こえた気がした。

 嫌なデジャブを感じつつ、耳を澄ましてみる。

 

「いらっしゃいませ」

 

 安堵した。人ならざる者の声ではない。間違いなく人間の声が耳朶を打った。

 

 接客の練習をしているのか。休憩室で。何故?それと扉を開けたままで。

 そっ、と中を覗いてみる。

 

 中では椅子に座り、テーブルに置いた鏡に写る自分と見つめ合いながら、何度もいらっしゃいませ、と口にする四季さんがいた。

 

「いらっしゃいませ。…いらっしゃいませ」

 

 いらっしゃいませを繰り返す四季さんだが、自分的に満足いく手応えは得られなかったらしい。表情を曇らせ、肩を落とす。

 

「駄目だ、上手く笑えてない…。何故か嘘臭く感じるのよね…」

 

「…」

 

 接客の練習、というよりは笑顔の練習をしているらしい。確かに、以前接客のシミュレーションとして四季さんの笑顔を見たが、まあ、あれだ。四季さんには悪いが酷かった。思いっきり笑顔が引きつってた。

 

 その時に比べればかなり進歩している気がするが。実際に目の当たりにした訳ではないため、断言は出来ないが。

 

「えっと…、広角が上がりやすい言葉…。ウィスキー」

 

「…」

 

「いらっしゃいませー」

 

「…」

 

 これ、見ちゃいけないものを見ている気がする。別にセクハラとかそういうのではないが、多分見られた本人は相当恥ずかしい。俺ならすぐに帰る。

 

「…写真送るのは後にしよう」

 

 という事で予定変更。四季さんが休憩室から出てくるまで料理の練習しよう。そうしよう。

 俺は踵を返してキッチンに向かおうとする。

 

 ギィィィ…

 

 その時、扉が鳴った。扉を閉めようとしたのだから、当然なのだが。

 勿論その音は四季さんの耳に届いており、視線がこちらに向く。

 

「あ」

 

「…なぁっ!?」

 

 まずい。視線が合った。俺は即座に扉を閉めて踵を返す。何も言わず、ただ急ぐ。恐ろしい事になる前に。

 

「待て」

 

 その、つもりだったのに。速い、速すぎる。休憩室の扉が開き、中から手が伸び、俺の肩を掴む。

 ギリギリと指が肩に食い込み、決して離すまいという意志が嫌という程に伝わってくる。

 

「いつから見ていた…?」

 

「…いらっしゃいませー。ウィスキー」

 

「っ~~~~!」

 

 言い逃れ、嘘は許さないと言葉に出さずとも伝わってきたため、正直に且つ簡潔に答える。見ていた、と。

 直後、声にならない叫びを上げる四季さん。その顔は羞恥で真っ赤になっている。

 

「それじゃあ、俺は料理の練習に行くから」

 

「待ちなさい。行くんなら記憶を置いてきなさい」

 

「んな無茶な」

 

 気持ちは分からないでもないが、無理なものは無理だ。

 

「無茶でも置いてって貰うわ。こっち来て」

 

「ちょっ、待って。本気?本気で俺の記憶を消すつもりか?今、刑事事件なんて起こせば何もかもパーだぞ?」

 

「バレなきゃ犯罪じゃないのよ」

 

「てか、痛い。肩痛い。とにかく離して。話し合おう。人間同士は話し合う事が出来る。きっと良い解決策が見つかる」

 

 どうしても肩を離してくれないのでとりあえず休憩室に入る。そこでようやく四季さんは肩から手を離してくれた。

 

「ぐむむむむむ…」

 

 そして、唸り声を上げながら俺を睨むのだった。

 

「そんなに見られたくなかったら、ちゃんと扉を閉めておくべきじゃないのかって正論は話がややこしくなりそうだから黙っておこう」

 

「言ってるわよ。…それより、扉が開いてたって本当?」

 

 四季さんの視線が僅かに柔らかくなり、俺の台詞について聞き返してきた。その問いかけに頷いて答えてから口を開ける。

 

「でも、覗いたのは謝る」

 

「…ううん。私が不用心なだけなんだし。はぁ~…」

 

 どうやら、記憶喪失の未来は免れたっぽい。その代わり、四季さんが自責の念で落ち込み出してしまった。

 

「それより、何でこんな所で練習してたんだ?他の人と一緒に練習すりゃ良いじゃん」

 

 四季さんの不用心が主な原因とはいえ、俺がじっくり覗いてしまったのも事実。四季さんだけが責任を感じるのは何か違う気がする。

 

 という事で、ちょっと無理矢理だが話題転換を試みる。急に全く違う話題には移れないので、先程までの話と関連する話になってしまうが。

 

「…最初は、火打谷さんに笑顔の作り方を教えて貰ってたんだけど、余りにも感覚的な説明で」

 

 四季さんが言う。火打谷さん曰く、

 

『まず、楽しい事を思い出します。次に、その時に沸き上がった気持ちを溜め込みます。気持ちを溜めて、溜めて、限界まで溜めて…。後は解放するだけ!』

 

 らしい。その直後、輝かんばかりの可愛らしい笑顔でいらっしゃいませ、と言ってのけたという。

 

 四季さんの言う通り、物凄く説明が感覚的だ。四季さんはどちらかといえば理論派だろうし、この説明じゃあさっぱりだろう。

 

「でも、楽しい事を思い出す、くらいは出来るんじゃないか?」

 

「…思い出そうとしたけど、思い出して笑顔になれそうな思い出がない」

 

「なるほど。…あれだ、あれ。俺もそうだから、安心しろ」

 

「安心できる要素がないんだけど…」

 

 さいですか。

 

 しかし、どうすれば良いのやら。俺的には練習中の笑顔は、十分明るくて接客に通用するものだと思うのだが。多分、そう伝えても四季さんは納得しないだろうし。

 

「んー…。過去が駄目なら未来…なんて、単純すぎるか」

 

「未来?」

 

「ん?んー、と…。たとえば、この店の未来を想像する、とか?」

 

「お店の、未来…」

 

 口から出てきた案は、正に絞り出したという表現がぴったりな、苦し紛れのものだった。

 だが、四季さんはその一言を反芻する。今、四季さんの頭の中では、四季さんが思う店の未来が広がっているのだろう。

 

「…ふふ」

 

 四季さんが、笑った。今まで見た事のない、優しげな笑顔で。

 

「良いじゃん」

 

「え?」

 

「今の笑顔」

 

 四季さんがきょとん、と目を丸くする。

 

「…本当?」

 

「嘘言ってどうすんだよ」

 

「そっか…。そっか」

 

 四季さんの呆けた表情がゆっくりと和らいでいく。

 

「ちなみにさ、良かったらなんだけど」

 

「ん?」

 

「どんな未来を想像した?」

 

 安堵の笑みを浮かべた四季さんにふと興味が沸き、聞いてみる。

 少しでも嫌がればすぐに引き下がるつもりでいた。しかし─────

 

「お店に来てくれた人達皆が、笑顔になるところ」

 

 四季さんは思いの外素直に即答した。

 その顔に浮かぶ柔らかい笑顔に、つい釣られてこちらの口許まで緩んでしまう。

 

「…実現できたらいいな」

 

「できたらいい、じゃなくて、するの。柳君にも手伝って貰うんだからね?」

 

「そうだった」

 

 つい他人事の様に言ってしまったが、俺もこの店の、喫茶ステラの店員である。ならば、四季さんが思い描く未来を実現できる様、協力する義務がある。

 

 いや、義務でなくとも協力したい。今の俺は、そう思う事が出来た。

 

「それじゃあ、俺はこれで」

 

「あ、うん。ごめんね、私の相談に乗って貰っちゃって」

 

「気にすんな。四季さんも練習頑張れよ」

 

 そう言い合ってから、俺は休憩室を出る。扉が閉まる音を背後に、キッチンへと向かう。

 

 それじゃあ、俺も俺の練習をするとしよう。

 四季さんが願う未来の実現のために。



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第十二話






かなり長くなりました。ここまで書いたの久しぶりでちょっと疲れた…。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 月末まで残り二週間を切った。オープンへの準備は着々と進み、もし今すぐに開店の許可を貰ったとしても、とまではいかないが、不安要素はもう後僅かとなった。

 

「今日の紅茶、どうでしょう…?」

 

「…」

 

 ユニフォーム姿の火打谷さんが、緊張した面持ちで紅茶を味わう俺を見つめる。

 口に含んだ紅茶を舌で撫で、じっくり味わってから喉へ通す。

 

「…うん。これなら良いだろう」

 

「本当ですか!?やったぁ~!」

 

 俺がそう言うと、火打谷さんが両手を上げて喜びを露にする。

 火打谷さんがここに勤めてからずっと、彼女は紅茶を淹れる練習を続けてきた。その度に俺や四季さん、高嶺に明月さん、墨染さんと火打谷さんが淹れた紅茶を飲んできた。

 

 先日、皆が火打谷さんの紅茶をおいしいと口にした。俺以外は。

 俺自身、厳しすぎるかとも思ったが、人によって淹れる紅茶の味が変わるというのは客にとって印象が悪い。勿論、全員が全く同じ味に淹れられる様になる、とまで求めるつもりはさらさらなかったが。

 

 それから火打谷さんは俺に紅茶を淹れ、何度も首を横に振られ、そして今日。ゴーサインが出せるまでになった。

 

「よかったね、愛衣ちゃん!」

 

「ありがとう、希ちゃん!ホント…、千尋先輩は紅茶に厳しすぎだよ…」

 

「何か言ったか?」

 

「いいいいえ!何も!」

 

 思いっきり聞こえていたが、からかう意味も込めて聞き返してやると、火打谷さんが面白いくらいに動揺する。

 更にん?ん?と追い打ちを掛けてやると火打谷さんが涙目でぷるぷると震え始める。

 

 ちょっとやり過ぎたか、と思う反面もう少し、もう少し、という悪戯心が暴れだす。

 

「柳君。やり過ぎ」

 

「…はい」

 

 直後、背後からぺしりと頭を叩かれる。それと同時に聞こえてきたのは四季さんの声。

 さすがに第三者から止められたらこれ以上は続けられない。

 

「火打谷さん、冗談だから。ごめん」

 

「い、いえ…。…あれ?結局これって、聞こえてたって事…?」

 

 火打谷さんの最後の呟きはスルーする。ここでまた突っ込んだら、多分火打谷さん泣く。

 

「それで、昂晴君。今日ってお客さんが来るんだよね」

 

「高嶺さんのお友達でしたよね?」

 

「友達とお姉さんな。知り合いだけど、ちゃんとしたお客さんだ。プレオープンというか…、実践練習として本番のつもりで接してほしい」

 

 火打谷さんとのやり取りは終わり、墨染さんが口を開く。

 墨染さんと明月さんの問い掛けに答えた高嶺の言う通り、今日は高嶺の友人とその姉がこの店に来る予定だ。

 

 そう。先日、俺が倒れた原因となった大量の蝶。その蝶を集めてしまった張本人、汐山さんとその弟である。

 

「それで、いつ頃来る予定なの?もしかして、いつ来るか分からない実践形式?」

 

「いや、そろそろ来る予定だけど…」

 

 今度は四季さんが高嶺に問いかける。時刻は昼過ぎ。そろそろ来ても良い頃だ。

 と、思ったその時だった。四季さんが何かに反応し、視線がゆっくりと何かを追いかけるように動く。

 

 その直後、ガチャリと扉が開く音と同時に、来店を知らせるベルの音が鳴り響いた。

 

「「「「いらっしゃいませ」」」」

 

 一斉に女性陣が振り向き、笑顔を浮かべて来店の挨拶を口にする。

 

 店に入ってきたのは一組の男女。その内の一人、男の方は笑顔を浮かべる女性陣を見ながらぽかん、と呆けていた。

 

「うーわぁ…。店員のレベル高ぇ…。え…、四季さんまでいるし!」

 

 女性陣を眺めていたかと思うと、四季さんを見て大声を上げた。

 

 随分騒がしい奴だな、という印象を受ける。大学で四季さんの噂を真に受けていたから、今の四季さんの姿を見て驚いているのだろう。

 

 そう、彼は俺と高嶺と同じ大学に通っている。もう分かっているだろうが、高嶺が店に呼んだ友人、汐山宏人である。

 そして、彼の隣に立つ女性が汐山涼音。彼の姉であり、今回汐山姉弟を店に呼んだ真の目的である。

 

「昂晴、お前隠してたな!前は紹介できる仲じゃないとか言ってたくせに!」

 

「私の名前を知ってるっていう事は…、同じ大学?」

 

「名前も覚えて貰ってない…。いや、そこまで親しくないし、喋った事も殆どないから当然だけどさ」

 

 自身の名前を知られていた事に驚く四季さん。だがすぐにその理由を推測し、状況を整理する。

 しかし、聞かなくても分かりそうなものだが。高嶺が気軽に店に呼べる友人なんて、同じ大学の人くらいだろう。

 いや、一人暮らしとは聞いているが、通ってた高校が近く、そうした友人も近くにいるのかもしれないが。

 

 因みに言うが、俺は大学繋がり以外の友人は近くにいない。他人の事を言えないと思われるかもしれないが、通ってた高校は今住んでる場所から遠く、進学を期に友人とは離れてしまったからだ。

 別に友達いない訳じゃないからな。多いとは口が裂けても言えないが。

 

「もしかして、同じ大学の人を呼ぶのは嫌だったか?」

 

「正直、嫌だけど…。この状況で我が儘は言えないでしょ。でも、余り周囲に言い触らしたりとか、冷やかしに来たりとかはしないでほしい」

 

「いや、そんなガキっぽい事しないって」

 

 四季さんの要望にたいしての即答の仕方を見るに、最低限の人となりはできているらしい。なんて考えてる俺は人様に誇れる人となりをしているのかと問われれば、否だが。

 

「お客様、お席はこちらになります」

 

 会話が一区切りつくと、明月さんが二人を席に案内する。そして二人につい先日作った仮のメニュー表を渡すのを見届けてから、俺と高嶺はキッチンへと移動する。

 

「さて、と。そんじゃま、作戦の第二段階を使わない事を祈りますか」

 

「ホントだよ…。あの作戦、完全に柳が悪役になるからな」

 

「んー…。俺としてはああいう悪役は一回演じてみたいって思ってるんだけどな」

 

「お前、さっき何て言ったか覚えてるか?もう一度反芻してみろ」

 

 作戦の第二段階を使わない事を祈りますか、と言いました。それは俺の本音だけど、それとは別の欲求もあるというだけの話だ。

 

 汐山さん、姉の方をこの店に招待できた所までは予定どおり。そして、ここからでは見えないし聞こえないが、高嶺が弟の方にパンケーキを注文する様に伝えている。

 

 問題はそこからだ。パンケーキを食べ、高嶺が説得をして、そこでその気になってくれればそれで良し。だがもし、その気になってくれなければ─────

 

「俺の出番だな」

 

「柳、顔。悪い顔になってる。普通に怖いって」

 

 少し時間が経ってから、明月さんがキッチンにやって来て、二人の注文内容を俺達に伝える。

 短く互いに、俺がオムライス、高嶺がカルボナーラを作ると確認し合ってから作業に移る。

 

 まず玉葱、ソーセージ、そして四季さんが嫌いなピーマンを微塵切りにする。

 ケチャップライスにピーマンを混ぜるというのは俺の案から取り入れられたのだが、他の四人からは賛同を得られた。しかし、四季さんは頑なに固辞し続けた。何故なら、苦いもの、つまりピーマンが嫌いだからだ。

 結局多数決でピーマンが採用されたのは良いものの、俺と高嶺のオムライスの練習の際、四季さんは一切味見してくれなかった。理由は、ピーマンが嫌いだから。

 

「おい」

 

「どうした四季さん。すぐにでも鈍器を持って俺を殴りたいと言わんばかりの顔をしてるぞ」

 

「随分な説明口調ね。…今、何か失礼な事を考えたでしょ」

 

「そんな、滅相もない」

 

 ふふふ。確かに四季さんの言う通り失礼な事を考えてはいたが、そんな証拠はどこにもない。四季さんの言葉はただの戯れ言。

 

 バレなきゃ犯罪じゃあないんですよ?

 

「…」

 

 だから、四季さん。そろそろその目を止めてくれませんかね?

 

「はぁ…。それより、本当に大丈夫?」

 

「何が?」

 

「分かってるくせに…。パンケーキの事」

 

 ようやく四季さんが睨むのを止める。すると今度は心配げな表情になり、俺にそう聞いてきた。

 

 汐山姉弟が頼んだのはオムライスとカルボナーラ。そして、デザートにパンケーキ。

 つまり、予定通りという事だ。それに、まだ話している所を見てはいないが、立ち姿やちょっとした仕草を見る限り、気は強そうだ。

 

(煽り甲斐がありそうだ)

 

「柳君、悪い顔になってる。ちょっと怖い」

 

「失礼な、怖いとは何だ。…とにかく、パンケーキの事なら任せろ。何とかする。高嶺が」

 

「俺!?いや、確かにそのつもりだけど、俺が駄目だったらお前の番だろ!」

 

「…?」

 

 四季さんが首を傾げている。何が何だか分からない、といった様子だ。

 しばらくそうして疑問符を浮かべていたが、やがて何か割り切った様な表情になる。

 

「とにかく、二人に任せて大丈夫なのね?」

 

「「おう。高嶺(柳)に任せればだいじ…おい」」

 

「…不安だ」

 

 四季さんのため息はやけに大きく響いた気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ほい、オムライス」

 

「カルボナーラも出来たから、持っていってくれ」

 

 ほぼ同時にオムライスとカルボナーラが完成し、偶然近くにいた墨染さんに完成した旨を伝える。そして二枚の皿を回収し、そのままフロアで待つ汐山姉弟の元へと向かった。

 

「さて、と。んじゃ、パンケーキを作りますか」

 

「そだな」

 

 オムライスとカルボナーラを作り一段落、とはいかない。ここからが本番、パンケーキ作りに取り掛かる。

 このパンケーキの出来で全てが決まる…訳ではないが、とにかく今出せる全力を以て材料と向かい合う。

 

「あの~…」

 

「ん?どうしたの、火打谷さん」

 

「お二人は、いつの間にパンケーキを作れる様になってたんですか?」

 

 その時、火打谷さんがひょっこりとキッチンに顔を出し、俺達に話し掛ける。高嶺が本題を促すと、火打谷さんはそう問い掛けた。

 

「作れるなら教えてくださいよ~。私も食べてみたいです~。ねぇ~、せんぱぁ~い」

 

「いや、作れないぞ?」

 

「…へ?」

 

「おい、柳…」

 

「あー、作れないはちょっと違うか。でも少なくとも、客に出せるクオリティーじゃない」

 

 火打谷さんの目が点になる。そりゃそうだ。作れない、クオリティーが低い、なんて平気で言いながら客に出すパンケーキを作っているのだから、そりゃあ困惑する。

 

「えっと、それは大丈夫なんですか?」

 

「大丈夫じゃない、問題だ」

 

「いやいやいや、本当に大問題じゃないですか!?」

 

「だから、これから大丈夫にする。予定」

 

「…良く分からないんですが?」

 

 首を傾げる火打谷さん。彼女には悪いがこれ以上言う訳にはいかない。火打谷さんは少々純粋が過ぎ、嘘が下手な節がある。

 今回の作戦について伝え、もしバレてしまったら全てがおじゃんだ。

 

「とにかく、何とかするんだよ。高嶺が」

 

「だから何で俺だけに被せるんだよ!」

 

 何やかんやありながら、パンケーキが完成する。丁度良く汐山姉弟の二人の食事が終わり、皿に載ったパンケーキが運ばれていく。

 

 ちょっと焦げ目がついた、膨らみも感じられないパンケーキが。

 

「…さて、どんな反応をするかな」

 

「さあ」

 

「正直嫌だけど、怒られるよな」

 

「むしろ、怒ってくれなきゃ困る。あのパンケーキに怒る気も起きないようならお手上げだ。…ミカドは、そこまでは進行してないだろうって言ってたけど」

 

 今頃フロアで俺達が作ったパンケーキを食べているであろう汐山さん(姉)の姿を思い浮かべる。

 

 さて、どう反応してくれるか。

 

「先輩、なんかお客様がお呼びなんですけど…」

 

 来た。高嶺と顔を見合わせる。実際に顔を見合わせなければ分からないが、とりあえず予定通り。

 

「高嶺」

 

「二人で行くぞ」

 

「あびゃー」

 

 怒られる役を高嶺に押し付けようとするも失敗。襟を掴まれ引っ張られるが、すぐに高嶺の手を離して自分で歩く。さすがにあんな体勢でフロアには出られない。

 

 そうしてフロアに出て、姉弟が座る席に歩み寄る。高嶺と並んで席の前に立つ。

 

「お待たせ致しました」

 

「君達がオムライスとカルボナーラを作って、パンケーキを焼いてくれたの?」

 

「はい」

 

 その女性と相対し、視線から伝わってくるのは怒り。間違いなく、あのパンケーキを食べた事が原因だ。

 どうやら、本当に俺達の心配は杞憂だったらしい。この人はまだ、立ち直れる。

 

「オムライスとカルボナーラ、まあ…美味しかったよ」

 

「ありがとうございます」

 

「でも、このパンケーキは何?このクオリティーは何なの?」

 

 視線を鋭く、俺達を睨む汐山さん。当たり前だが、本気で怒っていらっしゃる。そうさせたのは俺達だが、正直に言おう。

 

 普通に怖い。

 

「そんなにか?」

 

「火が強すぎる。焼きすぎてるから気泡がなくなって、ふっくらもしてない。…まともに練習してないでしょ。どうしてこれが最後なの?台無しだよ」

 

 その怒りは真っ直ぐに俺達に向けられる。睨む汐山さんの向こう側では、四季さん達が俺達を心配げに見つめている。

 

「でもそれって、姉貴から見ればそう思えるだけで、素人には分からないんじゃないか?」

 

「…ねぇ、キッチン貸して貰える?」

 

 汐山弟が怒りに満ちた汐山さんに口を挟む。

 さすが弟といったところか。今の汐山さんに口を挟めるなんて、少し尊敬する。

 

 汐山さんの要望は通り、キッチンへと入る。そして始まったのは、パンケーキ講座だった。

 

「火は強すぎても弱すぎてもダメ。後、気泡が空くのを待ちすぎたら、火が通り過ぎて生地も乾く。だから仕上がりも固くなるし、焦げたりして味も台無しになる」

 

 手元を観察する俺達に説明しながら作業を進める汐山さん。焼き上がったパンケーキは俺達のものとは比べ物にならない綺麗な焼き色で表面を染めていた。

 パンケーキは皿に盛り付けられ、そこにパフェ用のクリーム等を添える。

 

 出来上がったのは、まさに女の子受けしそうな見た目をした美味しそうなパンケーキ。これを見ると、いくら作戦のためとはいえ、流石に適当すぎたんじゃないかという反省の念が押し寄せてくる。

 

「ほれ。食べてみろ、無知なる弟と愚かなる二人よ」

 

 演技がかった台詞に従い、俺と高嶺、汐山弟はフォークを持ち、切り分けたパンケーキを一切れずつ口に入れる。

 

「…うま」

 

 自分が作ったパンケーキを食べた事がないため比べる事は出来ないが、それでもつい口から言葉が漏れてしまうくらいには旨かった。

 

 そして美味だと感じたのは二人も同じだったらしく、目を丸くしながらパンケーキを味わっている。

 

「確かに、違うもんだな。さっき食べたパンケーキは素人臭くて、こう…焦げの苦味があったって良く分かる」

 

 弟の感想を聞いた姉が、腕組みをしながらうんうんと頷いている。

 何とも態度が偉そうだ。いや、実際今この状況で誰が偉いのかと聞かれたらこの人だと即答できるのだが。

 

「あのー…、アタシも一口食べさせて貰って良いですか?」

 

「はいよ。俺は違いが分かっただけだ十分だし、甘いのあまり好きじゃないからな」

 

「やった!」

 

 ずっと、見ているだけだった火打谷さんが我慢の限界を迎えたらしい。ひょこっと顔を出し、パンケーキを見つめながら問い掛けると、汐山弟が容認する。

 

 火打谷さんだけじゃない。続いて墨染さん、明月さん、四季さんもパンケーキを味見したいと告げ、フォークを持ってくる。

 

「っ、すごいこれ、美味しいです!」

 

「ふわふわしてて美味しい~!」

 

「自分で焼くのとは違う…。丁寧に焼くだけで、こんなに違いが出るものなんだ…」

 

 べた褒めだ。いや、これだけ褒められて当然のクオリティーなのは間違いないが。

 

「早くお二人もこれくらい上手く作れるようになってください」

 

「はっはっは、無茶を仰る。そんな簡単な事じゃないんだぞ」

 

「でも、どうせお店で食べるなら、家のと違いが分かるぐらい美味しいのが食べたいです」

 

「…」

 

 遠慮なく要求してくる火打谷さんと話していると、視界の端で目を見開いている汐山さんの姿が見えた。

 汐山さんの方を見ると、彼女はゆっくりと口を開ける。

 

「もしかして、仕組んだ?」

 

「犯人はこいつです」

 

「おいっ!」

 

 バレた。誤魔化さず、生け贄を差し出す。生け贄が抵抗するが、無理やり彼女の前まで連行する。

 

「…君が?」

 

「いや、俺というか…。そんな大層な事じゃないです。正直、あれでも真面目に作ったんですよ。それであの出来だったんです」

 

「尚更悪い。まともな練習してないでしょ、君」

 

「あ、それはこいつのせいです。中途半端に上手くなったら引き込めなくなるって」

 

「おいっ、バカッ!」

 

「あ」

 

 汐山さんに追求されていた高嶺のバカが口を滑らせた。俺に生け贄にされ、反抗心が沸いてしまったか。それで口が滑りやすくなってしまったか。

 

「引き込む?」

 

「…」

 

「なるほど。そういう事か」

 

 汐山さんの声音が冷えていく。そして、俺達の肝も冷えていく。

 

 まずいまずいまずい。これはまずい。何て事をしてくれたんだ、馬鹿嶺昂晴。これで作戦失敗とかになったら、一生恨むからな。ていうか、知り合いの住職に呪って貰うからな。

 

「…安心して。怒ってないから」

 

「え?」

 

「いや、ここまで私に都合がいいというか、そういう流れになったら、普通に察しがつくでしょ」

 

 焦りのあまり見えていなかったが、汐山さんは笑っていた。笑っているといっても苦笑いだが。少なくとも、嵌められた事に怒っている様子はない。

 

 これは、安心して良さそうか。いや、油断はならない。気は緩めず、汐山さんの機微を見逃さないよう目を光らせる。

 

「でも、どうして私な訳?…パティシエ、或いは仕入れ先に困ってた矢先、たまたま職場をクビになった丁度良い人、だから?」

 

「…はい、そうです」

 

「お、おい柳」

 

 高嶺が後ろから咎めてくるが、構わない。この人に半端な嘘は通用しない。それなら、真っ直ぐ自分の本音を伝えるべきだろう。

 

「それじゃあ、良い仕入れ先を紹介するよ。それでどう?」

 

「はい。ありがとうございます。…って、貴女が来る前の俺なら言ってたでしょうね」

 

「は?」

 

「今の俺は、貴女が欲しい」

 

「っ!?」

 

 目の前の汐山さんだけではない。高嶺が、汐山弟が、パンケーキを食べていた四季さんが目を見開いて固まり、俺の方を見る。

 

「な、な、なななななにををををいいいいって!?」

 

「さっきのパンケーキ、本当に美味しかった。何なら、毎日食べても飽きなそうなくらいに」

 

「まままま毎日!!?」

 

「紅茶のお供に良さそうで」

 

「…」

 

 あれ、さっきまで顔を真っ赤にして満更でも無さそうだったのに、いきなり冷めた顔になったんだが。

 

 俺、何かやっちゃいました?

 

「それと、どうして私、と聞きましたよね。それは、この店に来てくれるお客さんを笑顔にしたいからです」

 

 視界の奥で、四季さんの表情が動いたのが見えた。

 

「俺だけじゃなく、皆同じ気持ちです。だから、食べた人を笑顔にさせるお菓子を作れる、汐山さんが欲しい」

 

 高嶺も、汐山弟も、四季さんも明月さんも墨染さんも火打谷さんも、皆笑っていた。これだけ人を笑顔にさせるお菓子を作れる人が、どれ程いるだろう。

 

「…とりあえず、あんたそのややこしい言い方は止めた方が良いよ」

 

「?」

 

 素直な気持ちを率直に伝えた気でいたのだが。何がややこしいのか。

 疑問符を浮かべていると、何故か汐山さんは疲れたように、本当に疲労困憊といった様子でため息を吐いた。

 

「…昂晴。あいつさ、結構馬鹿?」

 

「いや、そうじゃない。そうじゃない…って、思ってたんだけどな」

 

「そこの二人。後で覚えてろ」

 

 こそこそと囁き合っている二人を睨み付ける。勿論、会話の内容はしっかり耳に入っている。俺の地獄耳を嘗めるな。

 

「…君は、笑ってなかったみたいだけど?」

 

「すいません。笑いよりも驚きの方が勝ってしまって。この褒め方じゃ駄目ですか?」

 

「駄目ね。やっぱり、パティシエとしては笑顔の方が嬉しいものよ」

 

 なお、俺が例外だった事にはしっかり気付いていたらしい。いや、美味しくなかった訳じゃない。むしろ、さっきも言ったが毎日紅茶のお供に欲しいくらいあのパンケーキは美味かった。

 

 ただ、こういうシチュエーションでは、俺は笑顔よりも驚きの方が勝ってしまう。

 

「心は笑ってました、じゃ駄目ですか?」

 

「笑顔じゃなきゃ駄目」

 

「…」

 

「きもっ。あんた、笑顔下手すぎない?」

 

「泣くぞ」

 

 笑顔じゃなきゃ駄目っていうから笑ったのに。返ってきたのは辛辣なきもっ、という一言。

 傷付いた、あー傷付いた。柳千尋君の心は傷付いてしまいました。これはいけない。

 

「俺の心に対する傷害罪の刑としてこの店に勤めてください」

 

「誘い方が雑。あんた、モテないでしょ」

 

「殺人未遂に切り替わりますよ?」

 

「心弱すぎだし…」

 

 呆れを隠そうともせず大きく溜め息を吐く汐山さん。

 

「いいよ」

 

「…はい?」

 

「だから、良いって言ってるの。このお店に、勤めさせてください」

 

 数秒の空白。呆けた時間の後、やってくるのはキッチン中を包み込む喜び。

 

「本当ですか!?本当にここで働いてくれるんですか!?」

 

「お、おぉ?そ、そのつもりだけど…」

 

「やったぁー!!」

 

 最初に喜びを爆発させたのは火打谷さん。

 

「これからよろしくお願いします!」

 

 次に墨染さん。

 

「あの、ありがとうございます。これから、よろしくお願いします」

 

 四季さんが、

 

「とても心強いです。これからよろしくお願いします」

 

 明月さんが、喜びを素直に汐山さんにぶつけていく。

 

「ちょっと、大袈裟だって…。照れ臭いな、もう…」

 

「…こんな姉貴、初めて見た」

 

 あまりの持ち上げっぷりに恥ずかしそうにしつつ、満更でもなさそうな汐山さん。そしてそれを見て唖然とする汐山弟。

 

 普段の汐山さんは、一体どういう態度で弟に接していたのだろう。ここまで驚かれるって、尋常じゃない気がするが。

 

「柳」

 

「高嶺。…悪い。完全に独断専行に走った」

 

「いや。むしろ、それは俺のせいだろ。俺のせいで全部柳に任せる事になった」

 

 高嶺が俺に話し掛けてくる。それは、謝罪。高嶺が口を滑らせてしまったせいで、事前にたてていた作戦が全ておじゃんになった事。

 

 だが、それは許そう。何しろ、結果オーライ。考えていた中で、最高の結果が得られたのだから。

 

「そうだ。言っとくけど私、味に妥協はしないから。そのせいで、前の職場で上司と揉める程だし」

 

 すると、女性陣から解放された汐山さんが俺達に話し掛けてくる。挑発染みた笑みを浮かべて…、いや、これは完全に挑発だろう。

 俺達に聞いているのだ。自分についてこれるのか、と。

 

「望むところですよ」

 

「俺達に至らない所があったら、遠慮なく言ってください」

 

 キッチンスタッフとして、これから上司となる人に対して、挨拶をする。

 

「言い遅れました。柳千尋です。これからよろしくお願いします、汐山さん」

 

「高嶺昂晴です。これからよろしくお願いします」

 

「汐山涼音。あの馬鹿と区別つかなくなるから、名前で呼んで良いわ。あ、でもさんは付けろよ男共」

 

 汐山涼音。俺達の上司であり、喫茶ステラの専属パティシエとなる(予定)人。

 これで、この店が抱える不安点の殆どは解決できた。後は─────

 

 大屋さんの許可を貰えるかどうかだけだ。




涼音「ついてこれるか?」

千尋&昂晴「てめぇの方こそ、ついてきやがれぇぇぇえええええええ!!!」

流石に本文では書けなかったよ(笑)


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第十三話



お気に入りがいきなりたくさん増えました。ランキングを覗いたら、日間に載ってました。
ありがとうございます。これからもお付き合いの程、よろしくお願いします。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ベルの音を響かせる目覚まし時計を掌で叩く。音の停止ボタンが押されて音が止むと、のっそりと布団を持ち上げながら体を起こす。

 

 体が重い。こんなに早い時間に起きたのは久し振りだ。目覚まし時計を使うのだって、大学に入ってから使った記憶がない。いや、過去に思いを馳せている場合じゃない。とにかく起きなければ。

 

 しかし眠い。早起きは得意な方だと自負していたが、さすがに六時前の起床はきついか。顔を洗ってから、紅茶を淹れるべくお湯を沸かす。その合間の時間を使って食パンを二枚、トースターに入れる。

 皿と容器を用意し、冷蔵庫からスーパーで買った生野菜とドレッシング、バターを出す。

 

 紅茶をポットに淹れ終えてから、その間に焼き上がったパンを皿に、生野菜を容器に入れてテーブルに置く。最後にカップに紅茶を注ぎ、朝食の準備を完了。食事の挨拶を小さく口にしてから、急ぎ目でパンを口に込める。

 

 今日の出勤は七時前。涼音さんが来たという事で、メニューのバリエーションが広がり、その結果、メニューに数種類のケーキが加わった。

 しかし、ケーキを準備するには朝早くから出勤しなければならない。そして、涼音さん一人ではきつい。なので、俺と高嶺の、元からキッチンに入る予定だった俺達が涼音さんと一緒に出勤して準備を手伝う事となったのだ。

 

「それにしたって七時前とは…。パティシエって…作る側って大変だな…」

 

 まだオープンしていないのだから、正直今からこんなに早く出勤する必要はない。だが、涼音さんの「今の内に早起きに慣れとけ」という有り難くないお言葉によって、俺達の運命は決まってしまった。

 

「ご馳走さまでした」

 

 空になった皿、容器、カップを台所まで持っていき、すぐにスポンジと洗剤で洗う。洗い終わった食器を水切り籠に置き、休む暇もなく今度は身支度に移る。

 

 歯を磨き、寝癖を直し、着替えて一度鏡の前に立つ。不自然な所がない事を確かめてから、鍵と鞄を持って部屋を出た。

 

 

 

 

 

 

「という訳で、君達には色々と覚えて貰う必要があるのだが…」

 

「俺らでできますかね?」

 

「気の抜いた返事をするなぁっ!」

 

 て事で現在、早朝の店のキッチンにて、高嶺と共に涼音さんに怒鳴られているのだった。

 

「いいか。貴様らは人間ではない。蛆虫…いや、蛆虫以下だ!パティシエになるその日まで、地球上で最も劣った生き物だ!」

 

「何かパティシエになる事になってる」

 

「だまれぇっ!」

 

 というか何、このノリは。何故に海兵隊式?朝から元気が良いな、この人は。

 

「良いか、返事はイエスしか認めん。そして頭と語尾にサーを付けろ!」

 

「「サーイエッサー」」

 

「腹から声を出せぇっ!!」

 

「「サーイエッサー!!」」

 

 キッチンに響き渡る俺達の大声。

 いや、本当に何このノリ。マジで意味が分からん。もしかして、これから毎日このノリで仕事しなきゃならんの?

 もしそうなら、割と本気で辞職案件なのだが。

 

「うむ。素直なのは良い事だ。家に来て弟をファックしていいぞ」

 

「サー。言いたい事がありますサー」

 

「ん、何だね千尋」

 

「キモいです。トリプルアクセルしながら吐きそうですサー」

 

「吐いたら私が殺す。絶対に殺す」

 

「てかトリプルアクセルしながら吐くってどうなんの…?」

 

 高嶺は変なところに食いつくな。そんなに興味あるんなら自分でやってみろ。まあその前に俺と涼音さんが殴ってでも止めるだろうが。

 

「ではこれより訓練を始める!みっちり仕込んで、泣いたり笑ったりできなくしてやる!覚悟しなさい!」

 

「泣きたいです」

 

「笑いたいです」

 

「返事はイエスと言っただろう!!」

 

「「サーイエッサー!!」」

 

 そうして始まった訓練(笑)は、まず卵の泡立てから始まったのだが─────

 

「何だその泡立てはぁ!じじいのファックの方がまだ気合いが入ってるぞ!」

 

 いや、比較対象がおかしい。じじいのファックって。女性がそんな汚い言葉を吐くんじゃありません。

 

「「イエッサー」」

 

 なんて台詞を吐いたら色々とややこしくなるのが目に見えているので言葉には出さない。ただ涼音さんのノリに付き合い、素直に返事を返す。

 

「もっと力を入れろ!玉落としたか!」

 

「イエッサー!」

 

「え?お前玉落としたの?マジ?」

 

「そこにイエスって言った訳じゃない!」

 

「無駄口を叩くんじゃあない!」

 

 なんてやり取りもありながら、訓練は続く。

 今日だけではない。明日も、明後日も。訓練と平行して、涼音さん監修の新メニューも取り入れていき、最終的には涼音さんの加入前と比べて倍の種類となった。

 

 店内の雰囲気、制服、メニュー、そして必要なスタッフ。もう、少し前までの不安だらけの状態じゃない。いつにでもオープン出来る準備を整え、大屋が来る日を迎える。

 

 すでに店内にはスタッフ全員が集まっていた。フロア担当は制服に、キッチン担当は作業服に着替えて、大屋が来るのを待っていた。

 

「…」

 

「ナツメさん。そんな強張った顔をしていては駄目ですよ?ちゃんと笑顔で出迎えないと」

 

「…うん、分かってる。分かってるんだけど…」

 

 仕方ないといえばそうなのだが、四季さんはガチガチに緊張してしまっている。思い付く限りの出来る事をやり切った。それでも、これが本当のラストチャンスだという現実が四季さんの胸にのし掛かっているのだろう。

 

 明月さんが励ますが、まだ表情が固い。

 

「へーきです。たくさん練習してきたんですから。自信を持って、笑顔で頑張りましょう!」

 

「笑顔で…笑顔で…。はいよろこんでー!」

 

「ナツメさん、それは居酒屋のノリです」

 

 続いて火打谷さんに励まされるも効果は薄く、挙げ句に墨染さんにツッコまれる始末。

 本当に大丈夫だろうか。多少接客面で失敗しても、この店を開きたいという覚悟を見せられれば大丈夫とは思うが…。あまりやらかし過ぎるのは悪い印象を与えかねない。

 

「千尋先輩。私達では駄目です。なので、後はお任せします」

 

「…何故俺に押し付ける」

 

 どうしたもんかと考えていた矢先、すすす、と四季さんの傍から俺の所に寄ってきた火打谷さんがこそこそと話し掛けてくる。

 四季さんの励ましを俺に一任する腹積もりらしい。

 

 いや、何故だ。普通に同性の気の置けない同僚の方が良いに決まってるだろ。

 

「ナツメ先輩を本気にさせた千尋先輩が言った方が響くと思うんです」

 

「いや、あれは普通にただ言いたい事を言っただ…おいまて。何で知ってる」

 

 火打谷さんがきょとん、と首を傾げる。直後、俺は明月さんに視線を向ける。

 

 明月さんがぺろっ、と舌を出した。

 喋りやがったな、この女。

 

「明月さん」

 

「ま、待ってください。今は私の事よりもナツメさんです。さあ、柳さんの言葉でナツメさんを励ましてください」

 

「いや、その前に明月さんにお灸を据えたいんだ。今後のために」

 

「早くしないと大屋さんが来ちゃいます!あんな状態のナツメさんに接客させる訳にはいきませんから!」

 

 明月さん、矛先を逸らそうと超必死。しかし、一理ある。あの状態で接客をして、接客が駄目だから許可できないなんて言われたら、四季さんは二度と立ち直れなくなるだろう。

 責任を全部背負い込んで、きっと俺達に謝って、そして─────

 

「…」

 

 何か明月さんに乗せられたみたいで癪ではあるが、結局この二人が励ましても効果が薄かったのは事実。それなら、次は俺の番という事にしておこう。

 

 俺が駄目だったら、次は高嶺に行かせようと固く心に決めながら、四季さんに歩み寄る。

 

「今さらジタバタすんな」

 

「柳君…」

 

 それはとても不安そうに、声を掛けた俺を見上げてくる四季さん。

 

「やれる事は全部やっただろ。それとも、何か心残りでもあるのか?」

 

「…そうじゃない。やれる事は、全部やった」

 

「なら落ち着け。そんなんじゃ、今までやって来た事を発揮できずに終わるぞ」

 

「…うん。分かってる。分かってるけど…」

 

 気持ちは分かる。俺でも、もし駄目だったら、という気持ちが僅かながら過るのだ。

 俺達を巻き込み、準備を進めてきた四季さんはもっと、不安を抱えてるに違いない。

 

 これは、励ます方法を変えるべきか。

 

「まあ、あれだ。もし駄目だったら、皆で頼み込もう」

 

「…え?」

 

「それでも駄目なら土下座する。高嶺が」

 

「俺だけ!?」

 

「何だよ、女に土下座させる気か?」

 

「お前は男じゃないのかよ!」

 

 耳が良い奴め、まさか聞こえているとは。高嶺のツッコミを聞き流してから、再び四季さんと向かい合う。

 

「冗談は置いといてさ、許可が出ない筈ないだろ。自信を持て」

 

「…どうして、柳君はそんなに自信を持てるの?」

 

「ずっとこの店の準備を見てきた人が、四季さんの本気に気付かない筈がない」

 

 四季さんがこの店を開きたいと口にしてからずっと、変わらない現状を見続けてきた人が、今を見て四季さんの変化に気付かない筈がない。

 そして、その四季さんの思いはきっと届く。そう確信しているから、俺は自信が持てる。

 

 絶対に大丈夫だ、と。

 

 目を見開く四季さん。言い切った俺を見上げ、何か言おうとしたのか、口を開く。

 

 だが、その言葉は来客を告げるベルの音で遮られた。

 

 四季さんは扉の方を向き、開いた扉から姿を現した妙齢の女性に向けて笑顔を浮かべる。

 

「いらっしゃいませ」

 

 担当の四人だけじゃない。フロアでその人を待っていた俺達キッチンスタッフも含めて、挨拶をする。

 

「…」

 

 現れた女性、大屋さんは驚きに目を丸くしながらスタッフ全員を見回した後、変わった店内も見渡す。

 

「随分と、お店の雰囲気が変わったのね…」

 

 始めに口にしたのは、そんな言葉だった。決して悪印象を与えた訳ではない。驚きながらも、微かに口角が上がっているのが見てとれた。

 

「お待ちしてました」

 

「ナツメちゃんも、随分と変わったわね」

 

「あ、これは、その…」

 

 歩み寄って来た四季さんの服装を見て、微笑みながら言う大屋さん。そして大屋さんの視線を感じ、恥ずかしげに頬を染める四季さんの姿を見て、笑顔を深くした大屋さんが更に一言。

 

「似合ってるわよ。とても」

 

「…ありがとうございます」

 

 それは、きっとお店に関して言及した、初めての誉め言葉。四季さんの顔が柔らかくなる。

 その様子から、もう大丈夫だろうと確信する。

 

 そっと、足音を立てないように離れ、キッチンの方へ足を向ける。

 

「四季さん、大丈夫そうだな」

 

「あぁ。普段通りにやれば大丈夫なんだから、緊張する必要ない…てのは無理があったんだろうな」

 

 大屋さんを席に案内し、メニュー表を持ってきた火打谷さんと交代する四季さんを見る。

 俺達を集め、巻き込んだ張本人。責任感が強くて、一人で背負い込みがちな彼女には、きっと相当重くプレッシャーが掛かっていたに違いない。

 

「…」

 

「…何ですか?」

 

「ん?べっつにー?青春だなーって思って」

 

「は?何言ってるんです?」

 

 にまにまと厭らしい笑みを浮かべて俺を見ていた涼音さんに尋ねるも、適当に誤魔化されてしまう。

 問い詰めるも、大屋さんからの注文が来て有耶無耶にされてしまう。

 

 まあ、そう大した事ではないだろう。と、自分を納得させる。とにかく今は、もっと重要な事があるのだから。

 

 大屋さんの注文、チーズケーキとコーヒーは好評だった。特にチーズケーキを食べた時の笑顔は、その姿を見ていた涼音さんにとっても嬉しいものだったと思う。

 

 そうして大屋さんの前に並んだ皿とカップが空になり、店内に僅かな緊張が流れる。いよいよ、決着の時だ。

 

「…お店の模様替え。制服の一新。スタッフもたくさん増えて、今すぐにでもオープンさせられそうね」

 

「はい。そのつもりで、準備をしてきましたから」

 

 大屋さんの台詞は、間違いなく本心からだ。今のこのお店に対する印象は間違いなく良いもの。

 それなら後は、四季さん次第となる。

 

「ずっと、お父さんとお母さんの真似をする事だけを考えてきました。でも、それだけじゃ駄目なんだって教わったんです」

 

「…」

 

「お恥ずかしい事ですけど、最近までその事に気付く事が出来ませんでした。でも、ある人に言われたんです。『店のための最善を尽くさない責任者の下で、働きたくない』。そう言われて初めて、両親の真似をするだけじゃ駄目なんだって気付いたんです」

 

 高嶺と涼音さんの視線が突き刺さる。その台詞、お前のだろうと、声に出していないのに視線が語っている。

 やめて、恥ずかしい。四季さんもそんな話しないで。俺の黒歴史をそんな誇らしげに語らないで。

 

「どうすればお客さんに来て貰えるか。私一人じゃなく、皆と一緒に考えて、こういうお店にしました」

 

 四季さんの言葉を黙って聞いていた大屋さんは、穏やかな笑みを浮かべながら頷き、ゆっくりと口を開いた。

 

「ケーキは美味しい。コーヒーにも文句はない。それでも、お客さんが絶対に来るとは言えない。それが、水商売というものなのよ?」

 

「はい。でも…、それでも、私はこのお店を開きたいんだって、教えて貰いましたから」

 

 大屋さんの問い掛けに答える四季さん。その時一瞬、彼女と視線が合ったのは気のせいだろうか。

 

「仕入れの方はどうなってるの?一日の客数と、客単価の設定。売上目標は?」

 

「そっちも計算してます。何とか無理のない範囲に出来たと…思います」

 

「…」

 

 四季さんと言葉を交わし、大屋さんは目を閉じる。小さく息を吐くその姿は、まるで何かを諦めた様で、それでいてどこか嬉しそうでもあった。

 

「本当は、駄目って言うつもりだったのに…。ここでそんな事を言ったら、まるで意地悪をしてるみたいじゃない」

 

「っ、それじゃあっ」

 

「はい。このお店は、ナツメちゃんに任せます」

 

 四季さんの顔が、今まで見た事がない程に朗らかになる。まるで満開の花が咲いたような、そんな笑顔の四季さんが、勢いよく頭を下げた。

 

「ありがとうございますっ」

 

「もう…、ナツメちゃんに絆されちゃった」

 

 そう言いながら笑っていた大屋さんは、不意に表情を引き締めて真剣に、それでいて優しげな声音で四季さんに語り掛けた。

 

「良いお友達を持ったわね、ナツメちゃん。…でもね、その人だけじゃない。貴女のワガママを理解してくれる人は、一人だけじゃ駄目。このお店で働いてくれる皆にそれを伝えて、理解して貰わなくちゃ」

 

 言いながら、大屋さんがフロアにいるスタッフとキッチンの陰から覗いていた俺達の顔を見渡す。

 すると、引き締まった表情はたちまち柔らかくなり、笑顔になった。

 

「でも、心配はいらなそうね。本当に、良い人に恵まれたわね、ナツメちゃん」

 

「はいっ。本当に…、皆には、してもし切れないくらい、感謝しています」

 

 今度は四季さんが先程の大屋さんと同じく、俺達の顔を見渡す。

 その姿を微笑ましそうに見つめていた大屋さん、だったのだが、不意にその視線は俺へと移る。

 

「そこのお兄さん?ちょっとこっちに来てくれるかしら」

 

「…?」

 

「そう。貴方よ」

 

 お兄さん、とはつまり、俺か高嶺のどちらかだ。一応傍に高嶺も居たのだが、大屋さんは明らかに俺を見ていた。

 念のために確認を兼ねて指で俺を指すと、大屋さんが頷く。

 

 呼ばれたのは間違いなく俺だったらしい。

 何事かと戸惑いながら、大屋さんへと歩み寄る。

 

「あの…。俺に何か?」

 

「貴方でしょ」

 

「はい?」

 

「ナツメちゃんにこのお店を開く覚悟を固めさせたのは、貴方でしょ?」

 

「…」

 

 なん、だと…。

 と、実際に声には出さなかった俺を自分で誉めてやりたい。

 動揺を抑え込み、努めて平静を装い大屋さんと向かい合う。

 

「俺は何もしていませんよ」

 

「そうなの?」

 

「はい。だって、お店を開きたいって決めたのは、四季さん自身なんですから」

 

 俺がしたのは後押しくらいだ。…いや、あれは後押しなんて言葉じゃ収まらないな。もっとこう、崖から突き落とす、的な?

 実際、四季さんが諦めてしまった可能性もあった訳で。

 

「本当は、大学に専念しなさいって言うつもりだったのに。貴方のお陰で台無し」

 

「いや、ですから…」

 

「それに、私がお店に入る前、ナツメちゃんに何て言って励ましたの?貴方に何か言われた途端、落ち着いた顔になっちゃって」

 

「…」

 

「み、見てたんですか!?」

 

 四季さんと全く同じ台詞を内心で叫んでしまった。

 いや、見てたのかよ。この人、とても優しそうに見えて内心かなり腹黒いぞ。今も無言の俺と慌てる四季さんを見て面白そうに笑ってるし。

 

「でも、貴方のお陰でまたこのお店が開く所を見れる。しかも、今度は開く所じゃなく、先の未来も見られそう」

 

「大屋さん…」

 

「だから、ありがとう」

 

 先程まで笑っていた大屋さんは、今度は嬉しそうに微笑んでそう言った。

 

 そういえば、と思い出す。このお店は元々は大屋さんが夫と一緒に経営していた。しかし夫に先立たれ、それからは色んな人の手に渡ったと。

 そのいずれも経営は軌道に乗らず、そう時は経たず経営を諦め、店を手放す人が続出した。

 

 この人の本音は、見たかったのだ。自分と夫の店が、たとえ自分達以外の人のものだったとしても、当時と雰囲気がまるで変わっていたとしても、お客さんの笑顔で溢れている光景を。

 

「大丈夫です。四季さんが何とかします。四季さんに任せてください」

 

「ちょっと。貴方も従業員なんだけど?」

 

「キッチン担当として力は尽くさせて頂きます」

 

「…経営の方にも関わらせてあげましょうか?」

 

「丁重にお断りさせてもらいます」

 

「…ふふふ」

 

 俺と四季さんのやり取りを聞いていた大屋さんが笑みを溢す。

 やり取りを止めて視線を向けると、大屋さんは笑顔のまま言う。

 

「本当に、これからが楽しみだわ」

 

 大屋さんが問い掛け、四季さんが肯定した。

 このお店は、お店を開きたいというワガママは、四季さんだけのものじゃない。

 

 俺も、高嶺も、明月さんも、墨染さんも、火打谷さんも、涼音さんも、ミカドも。そしてもう一人、この大屋さんのものでもあるのだ。

 

 大屋さんの笑顔を見てそう実感しながら、四季さんと一緒に笑い合うのだった。



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第十四話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 大屋さんから開店の許可を貰った次の日もまた、俺は朝早い時間に目を覚まし…というよりかは、一睡もしていない。昨日から徹夜した状態で店へと出勤する。

 正直眠いが、そこはコーヒーのカフェインパワーと栄養ドリンクの力で乗り切る。

 毎日紅茶を飲む様になってから、初めて朝の紅茶を抜いた記念すべき日となった。

 

 ちなみに、今日の早朝出勤は訓練のためではない。オープンするにあたってその前に、涼音さんが提案したとある事の実行のためである。

 

 オープンできるようになった事はおめでたい事で、有難い事で。だがそこがゴールではない。オープンはスタートであり、本番はここからである。

 たくさんのお客さんに来て貰うにはどうすれば良いか。出来る事は、オープン前の今の段階でもある。

 

 店の前での張り紙、チラシ配り、ホームページ作成と、昨日の段階でSNSのアカウントを作成した。まだ最初の挨拶程度しか投稿していないが、今日から早速、涼音さんが作ったお菓子の写真だったりを投稿していく予定だ。

 

 そしてホームページの作成。これが、俺が昨日から徹夜した理由である。

 いやー、誰にでもあるよね。機械製作とかプログラミングに憧れて、つい本気で勉強しちゃう事。え?ない?俺だけ?

 

 …とにかく、ホームページを作成すべく作業に取り掛かったのは良い。しかし、リンクのレイアウトこそすぐに決まったものの、背景のデザインがいつまで経っても決められず、あれやこれやと試している内に朝になってしまった。

 特にホーム画面の背景はどうすべきか最後まで悩み、最終的には外から撮ったお店の画像を張るというベタな選択に朝まで掛かってしまった。

 

 いや、これが適当に俺個人のホームページを作るんだったならここまで時間は掛からなかったろうが、何なら一時間ちょっとで出来上がっていただろうが。

 これはそれとは全く違う。このホームページ如何によって店の成功、失敗を分ける可能性だってあるのだ。

 

 だからといって、あまりの時間の掛けっぷりに自分でも、ここまで優柔不断だったのかと驚いてしまったが。

 

 店への道中、ノートPCと一緒に鞄に入れていた五本の缶コーヒーの内の一本を取り出す。タブを開けて、一気に中身を呷る。

 

 まずいな。この調子でコーヒー飲み続けたら、相当トイレが近くなりそうだ。今日はチラシ配りのために外に出るのに、大丈夫だろうか。

 

 一抹の不安を抱えながらも店に到着。そしてスマホを取り出し、カメラモードにして様々な角度から構えてみる。

 そして、日の光が差し込み、お店が明るく見える丁度良い角度からシャッターをきる。出来上がった画像は無事にぶれる事なく、完璧に撮れた。

 

 後は、この画像データをPCに送って、ホームページの背景に設定すれば完成である。まあ、それも他の人達の評判次第だが。

 

「おう、おは…どうした。隈凄いぞ」

 

「徹夜は久し振りだからな」

 

 店に入ってすぐ、すでにフロアにいた高嶺がこちらを向いて挨拶を…しようとして、俺の顔を見て驚いたように目を丸くした。

 家を出る前に鏡を見たから当然知ってるが、目の周りの隈が凄い事になっている。時間が経てばマシになっていくだろうが、とりあえず今はその気配はないらしい。

 

「おっ。千尋も遅刻しないでき…ねぇ、あんた大丈夫?ちょっと休憩室で寝てきたら?」

 

 俺と高嶺の話し声が聞こえたか、キッチンから涼音さんが顔を出してこちらを見た。

 そして、高嶺と全く同じ反応をした。その上で俺の気遣いまで、さすがは大人。高嶺と違う。

 

「今、何か失礼な事考えたろ」

 

「いや全然。それと、大丈夫ですよ涼音さん。ただ、マドレーヌを作る前に少し時間が欲しいんですけど」

 

「ん?…少しなら良いけど、何?」

 

「店のホームページの件ですよ」

 

 俺の邪念を感じ取った高嶺はスルー。近くの席に腰を下ろし、テーブルの上にノートPCとケーブルを出す。

 PCを立ち上げてからケーブルを接続し、スマホと繋げる。先程撮った店の外観の画像データをパソコンに送った後、ソフトを起動して、作成途中のホームページのデータを表示する。

 

「「おおぉ~」」

 

 俺の両脇から画面を覗き込んでいた高嶺と涼音さんが同時に声を上げる。

 

「これ、店のホームページ?ふーん…、でも、背景真っ白だけど」

 

「そこをこれから埋めるんですよ」

 

 タッチパッドを操作して、カーソルを動かす。

 パソコンに保存された画像を呼び出し、その中から店の外観のデータを呼び出す。その画像を先程のページの背景に設定。後は、背景に張られた画像のサイズを直せば─────

 

「「おおおおおぉ~!」」

 

「こんな感じで、どう?後は、ここの並んでる文字をクリックすれば住所だったり…メニューだったり…。後は、ここのページにインストへのリンクを張った」

 

「すげぇ…。普通にすげぇ…」

 

「高嶺、語彙力どうした。…後は、メニューのページに張る商品の画像だな」

 

 ほぼ完成といっていい店のホームページだが、まだ足りない部分はある。さっき言ったメニューの画像。すでにメニューの一覧は作ってあるが、文字だけでは味気ない。そこに画像を張れば、ホームページを見に来た人達にそのメニューに対してのイメージもさせられる。

 

「これについて、二人の意見を聞きたいんだが」

 

「意見も何もない」

 

「うん。商品の画像を張ったら、完成で良いと思う」

 

「そうか」

 

 どうやら二人には好評らしい。とりあえず一安心。

 後は明月さんとミカドにも見て貰って、四季さん達が来たら皆にも見て貰って。

 それで好評だったら、このレイアウトでいく事にしよう。

 

 休憩室に移動し、二人には明月さん達を呼んで貰い、やって来た二人にはレイアウトを見て貰う。

 好評価を貰い、ミカドに四季さん達が来たら画面を見せるように言ってから、今度は作業服に着替えて高嶺と共に涼音さんのマドレーヌ作りを手伝う。

 

 このマドレーヌは外での宣伝に使うものだ。この店の味を、今の内から覚えて貰おうという算段だ。そして、その味に好感を持って貰えれば、お店にも来て貰えるという打算もあったり。

 

 そうしてマドレーヌを作っている間に四季さん達の話し声がフロアから聞こえてくる。少し後に、聞こえてきた歓声は、俺が作ったレイアウトへの好評によるものだと信じたい。

 

「うん、こんなものかな?」

 

 そして今、俺達の前には焼き上がった大量のマドレーヌが並んでいた。

 

「美味しそうですね」

 

「美味しそう、じゃなくて、美味しいの」

 

「おぉ…、凄い自信だ…」

 

「自信を持てない物をお客さんに出す訳にはいかんでしょうが」

 

 しかし、本当に良い焼き色をして、香りも堪らない。

 俺と高嶺は何も言わずに涼音さんを見る。その視線から俺達の思いを感じ取ったか、ため息を吐きながら口を開く。

 

「どうぞ。でも、一つだけね」

 

「「あざーっす!」」

 

「熱いから気をつけて」

 

 涼音さんから許可が出たという事で、マドレーヌに手を伸ばす。

 先に触れたのは高嶺だった。指でマドレーヌをつまむ。

 

「あっっっつ!あっあっちちち!」

 

 当然、焼きたてのマドレーヌが熱くないはずがない。高嶺は驚き大声を上げながら、あたふたとマドレーヌをお手玉のごとく掌に跳ねさせる。

 

「はっはっはっ、バカめ。涼音さんに言われたのに何やってんぁああっっっつ!?」

 

「バカはあんたもでしょうが…」

 

 なお、俺も高嶺と同類だった模様。掌でマドレーヌを何度も宙に浮かせ、ある程度熱さに慣れてきたら口の中に入れる。

 

「っふ、あっふ…、ん、うまい」

 

 外はカリッと、中はふんわり。バターの風味と程好い甘さが口の中に広がっていく。

 何の誤魔化しもない、素直な感想が口から出てくる。

 

「そう。でも、冷めてからだとまた結構違ってくるからね。粗熱がとれたら包装していくよ」

 

 涼音さんの言う通り、俺達が食べたのは焼きたてホヤホヤのマドレーヌ。宣伝にて、人の手に渡る頃にはこのマドレーヌは冷めている。

 焼きたてとそうでない時はまた、味が変わってくるのだろう。

 

 しかし、大丈夫だ、と思えるのは、俺が涼音さんの腕を信頼できているからか。

 

 何にしても、涼音さんの指示通り粗熱がとれるのを待つ。

 

 粗熱がとれてからは三人でマドレーヌを丁寧に包装し、準備完了。包装し終えたマドレーヌをプレートに載せて、フロアへと持っていく。

 

「あっ!マドレーヌが出来上がったんですね!」

 

 真っ先に反応したのは火打谷さん。テーブルに置かれた包装されたマドレーヌをキラキラした目で見つめる。

 

「…一つだけね」

 

「やった!」

 

「皆も、たくさん作ったから、一つだけなら味見して良いわよ」

 

 俺達の時と同じ様に、火打谷さんが何も言わずともその視線の意味を察して涼音さんが言う。

 火打谷さんは早速包装を開けてマドレーヌを口の中へと入れる。

 

 火打谷さんだけでなく、涼音さんに許可を貰った四季さん、明月さん、墨染さんも続いてマドレーヌを頬張る。

 何も言わないが、その表情を見れば感想は一目瞭然だ。何とも蕩けた顔をしていらっしゃる。

 

「それじゃあ、配りに行きますか」

 

 マドレーヌを飲み込んだ四季さんが言う。

 善は急げ。チラシとマドレーヌを持って、フロア担当の四人が出かけ─────

 

「え?その格好で行くんですか?」

 

 なかった。そこに火打谷さんが待ったをかける。

 

 格好、といっても四季さんは別におかしな格好をしている訳ではない。いつもの大人っぽい、本人に合った私服だ。

 

 しかし、だ。

 

「勿体なくありません?」

 

「そうですね。お店の宣伝をするなら、相応しい格好をしないと」

 

「…ねぇ、それって」

 

 

 

 

 

 

 

 

 四季さん達がフロアに戻ってくる。私服から着替えた、制服姿で。

 

「この格好で外に出ろと!?」

 

 着替えてから四季さんが叫ぶ。いや、着替えてから言っても遅いよ四季さん。何で着替えてしまったんだ。

 

「どの道、この服で接客する事になるんですから」

 

「…分かってる。分かってるけど…、やっぱりスカート短くない?」

 

 この店内で接客する事は割り切っていた四季さん。しかし、表に出るのはまた別の話らしい。

 外に行けば不特定多数の通行人に格好を見られる。この店で接客をする時以上の人数に、だ。

 

 だが、私服で宣伝するよりは分かりやすいし、何より効果があるだろう。麗しい女の子が可愛らしい格好をしてお店を宣伝。うん、少なくとも俺と高嶺が正装をして宣伝するよりは絶対に効果がある。

 

 何で比較対象としてそれが頭の中に浮かんだのかは分からないが。

 

「ヘーキですってば。むしろそうやって、モジモジしている方がエロさマシマシな気がします」

 

「そうですねぇ…。ほら、柳さんがナツメさんのエロさに目を奪われてますよ?」

 

「っ!」

 

「奪われてない。適当な事を言うな」

 

 やり取りを見守っていたら何故かこっちに飛び火した。

 明月さんと火打谷さんがニヤニヤした笑みで、四季さんが頬を染めつつ鋭い視線でこちらを見る。

 

「でも、この服装で宣伝した方が良いとは思いますよね?」

 

「…そりゃ、まあ」

 

「ほら。柳さんもこう言ってますよ?」

 

 何で俺が出汁に使われてるの。四季さんも俺が言ったからってその気になる訳じゃないだろうに。

 

「…別に、柳君が言ったから行く訳じゃないから。元々、恥ずかしいってだけで、我慢して行くつもりだったから」

 

「四季さん。それ、本心からだったとしてもツンデレにしか聞こえない」

 

 ほら、明月さん達がニマニマし出す。しかも墨染さんに、涼音さんまで加わった。高嶺は死ね」

 

「何で俺だけ!?」

 

「さあ、俺達もチラシを投函しに行きましょう涼音さん」

 

「無視しないで!」

 

 喚く高嶺を無視して、キッチンスタッフの役割である、近所の住居のポストへのチラシの投函をすべく立ち上がる。

 

「柳君はダメ」

 

 その、はずだった。

 立ち上がった俺に、四季さんがぴしゃりと命を下す。

 

「…はい?」

 

 ダメ、とは、外に出るのがダメという事か?皆は外に出て宣伝しに行くのに、俺だけ留守番しろと?

 

 何故?

 

「明月さんから聞いた。柳君、昨日から寝てないんでしょ?」

 

「…」

 

「だから、今日はもう帰って休んで。寝不足で体調を崩して長引いたりしたら、それこそこっちの迷惑なんだから」

 

「なーんて厳しい事言ってますけど、本当は柳さんの事が心配なんですよねー?」

 

「そ、そんな事…っ、ない訳じゃないけど…」

 

 どうやら、俺が作ったホームページのレイアウトを見せて貰った際に聞いたらしい。

 

「もう眠気はないんだが」

 

「ダメ。柳君、気付いてないの?顔色悪い事」

 

「─────」

 

 自覚は全くなかった。しかし四季さんから見たらかなり体調が悪そうに見えていた様だ。

 

「…」

 

 確かに、そう言われると体が重く感じる、様な気がする。というか、そう思ったら本当に怠くなってきた。

 情けない。高々一徹くらいでここまで疲労するなんて。少し、体力鍛えた方が良いかもしれない。

 

「そうだ。言い忘れてたけど、ホームページの件はあれでいく事にしたから。メニューの画像も、今日の内に出来るだけ撮って送っておくから、体調が戻ったら目を通しておいて」

 

「…もう俺が帰る事になってるし」

 

「上司命令に逆らう気?」

 

「…はぁ。分かったよ。じゃあ、お言葉に甘えて休ませて貰う」

 

 もう、何を言っても四季さんは譲らないだろう。それに、俺を心配して言ってくれているんだ。その厚意を有り難く受ける事にする。

 

「うん、それで良し。それじゃあ、私達は宣伝に行きましょうか」

 

「「「はーい!」」」

 

「昂晴。私達もチラシ持って行くわよ」

 

「はい」

 

 まるで全員が俺が休む事を承諾するのを待っていたかの様に、俺が四季さんの言葉に甘えた途端あっという間に店を出ていってしまった。

 

 すぐに静かになる店内。今、ミカドはここにはいない。フロアには俺一人。

 

「…そんじゃあ、帰るか」

 

 ここにいても仕方ない。ああまでされて、帰らないのも悪い。休憩室に入り、作業服から着替え、店に持ってきた荷物をまとめて俺も店を出る。

 

 行き先は皆と違い、自分の家だが。

 

「…眠い」

 

 体調がおかしくなっていた事を自覚してから、どうも眠くて仕方ない。缶コーヒーを飲もうかと思ったが、これから帰って寝るのにカフェインを摂るのは本末転倒だ。

 ここは家のベッドに辿り着くまで我慢する事にする。

 

「─────」

 

 そうして、歩いている時だった。

 ふと、視線を感じて立ち止まる。

 振り返って後方を確認してみても、誰もいない。

 

 気のせい、だろうか。俺は視線を前に戻して再び歩き出す。

 

 振り返ってから、視線の感じはなくなった。ほんの一瞬だったのだが、もしかしたら本当に気のせいだったのかもしれない。

 

 俺はそう結論付けて、家への道を歩き続ける。

 先程感じた視線を、疲労による勘違いだったと結論付けて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「─────見つけた」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




次回、やっと開店できそうです!


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第十五話





祝!開店!
なお、次回への繋ぎの話になってます。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 遂に、その日がやって来た

 

 もうこの一言で今日が何の日なのか分かって貰えるだろう。

 そう、喫茶ステラがオープンする日である。

 

 完成したホームページをネットに載せ、インストのアカウントにメニューの画像等を載せ、宣伝も聞く限りは好感触だったらしい。

 今日を迎えるまでの間に、宣伝で配ったマドレーヌが美味しかったというコメントを貰ったり、チラシを見て店の様子を確認しに来る人がちょくちょくいたりと、宣伝に出た彼らの感触は正しいものだと俺にも感じ取れた。

 

 それもこれも涼音さんのケーキと、そしてミカドのお陰だ。

 

 ここで何故ミカド、と思われるかもしれないが、実はインストにあげた画像は何も涼音さんが作ったケーキだけではないのだ。

 その画像の中に、灰色の毛並みの猫の画像が混じっている。

 

 そう、ミカドの写真だ。バズりやすい猫の画像を撮ろうという事になり、ミカドに頼んだのだ。

 初めは渋っていたのだが、明月さんが煽ってくれたお陰でミカドもノリノリになり、気が変わらない内に色んなポーズをとらせて写真を撮らせて貰った。

 

 いや、あれは面白かった。笑いを堪えるのに必死だった。あれだけ貴族の格が、威厳がと言ってたミカドが寝転んで腹を見せるポーズをとっていたのだから。

 そこに四季さんの「腹斜筋が威嚇してる」なんて誉め言葉を聞いたらもう、堪えられなくなってしまった。ミカドに聞こえていなかったのはかなり幸いだった。

 

「…」

 

 店内の時計を見上げる。開店まで、残り十分を切った。

 

 落ち着かなさそうにおろおろする四季さん。窓の外をこっそり覗く明月さん。落ち着いている様に見えて、実はこっそりこめかみに汗を流している高嶺。涼音さんとミカドはさすがというべきか、緊張を微塵も感じさせずに雑談している。

 

 そして俺は、まあ特に何もしておらず、ただ壁に寄り掛かるだけ。

 なんて気取った風を装っているが、緊張とは違うが、実は開店が楽しみだったりする。

 

 だって、こんな経験は初めてなのだから。一つの店の開店に手を貸し、そしてそのスタートを、そこからの成長をこれから見届けられるのだから。

 果たしてこの店はこれからどうなっていくのか。順調にお客の数を増やしていけるのか、それとも流行らず潰れていくのか。

 

 さあ、開店時間の十時まで三分を切った。

 

「それじゃあ、外の看板をオープンにしてきますね」

 

「あ、待って。私が行く。今日は、私がしたいから」

 

「…分かりました。お願いします」

 

 少し早いが、明月さんが外の看板を切り替えに行こうとする。

 だが、外に出ようとする明月さんを止めて、自分がと四季さんが名乗り出た。

 

 ずっと、この店をオープンさせるために試行錯誤を続けてきた。やはり、初日は四季さんが店を開くべきだろう。

 

 誰も異を唱える者はいない。四季さんが外に出て行く。

 

「さて…。どうなるかな?」

 

 先程、窓の外を見ていた明月さんの様子を見るに、行列なんかは出来ていないと思われる。まあ、平日のこんな時間に行列なんて出来る筈もないが。

 

「お客様、いらっしゃいました」

 

「「「いらっしゃいませ」」」

 

 一分も経たず店内に戻ってくる四季さん。彼女の後ろには、一人の男性が。

 笑顔で言う四季さんの台詞の直後、全員で挨拶を口にする。

 

「なるほど。随分と明るくなったな。店も、人も」

 

 男性は店内を見渡しながらそう呟くと、高嶺の方を見て笑顔を浮かべた。

 

「よう、来たぞ」

 

「いらっしゃいませ、こちらの席へどうぞ」

 

「あぁ」

 

 男性に対して、高嶺は口調こそ畏まってはいるものの、その態度からはどこか旧知の感じが漂っていた。

 男性の年齢は恐らく五十そこそこくらい。年の差からいって友人とは考えづらい。それなら親戚…、いや、親子か。

 

 四季さんが言っていた、この店にアドバイスをくれたという高嶺の親父さん。高嶺から今日にオープンすると聞き、様子を見にやって来たといったところか。

 

「よし、じゃあキッチンに戻ろうか」

 

 高嶺の親父さんが席についてメニュー表を眺めた所で、キッチンスタッフである俺達は仕事場へと戻る。

 

「あの人、昂晴の知り合い?」

 

 キッチンに戻った所で、涼音さんが高嶺に質問する。

 それは、高嶺の親父さんについて。どうやら涼音さんはあの人が誰なのか、分からなかったらしい。

 いや俺も確信こそ持ってるが、本当にあの人が高嶺の親父さんなのか確定はしてないのだが。

 

「親父ですよ」

 

 と、思っていたのだが。やはり俺の推測は正しかった。

 高嶺の一言に涼音さんがやや苦笑いを浮かべる。

 

「過保護?」

 

「そうじゃなくて、この店をオープンさせるのに世話になったから。どうなったのかを確認しに来たんですよ」

 

 そしてこの店に来た理由も大方予想通りらしい。

 しかし、だ。本当に理由はそれだけだろうか?本当に、この店がどうなったのかを確かめに来ただけなのだろうか。

 

「いやいや。親としてお前が心配だったんだろうよ」

 

「なっ…!」

 

 高嶺が目を剥く。信じられないと言わんばかりに、驚愕を露にする。

 

「店の様子が知りたいなら、お前から報告を聞けば済む話だ。なのに、直接来たって事は…つまり、そういう事だろ?」

 

「いやいや、親父なら直接店の様子を見たいって思う筈」

 

「ふーん?ま、俺は別にどっちでも良いけど」

 

 高嶺の頬が僅かに赤く染まっている。内心で羞恥、そして同時に嬉しいと感じているのだ。

 こうして親に心配される事は子供にとっては恥ずかしくもあり、同時に嬉しくもある。時に鬱陶しく感じる時もあるが、やはり最終的に胸に浮かぶのは親に対する感謝の念だ。

 

「ご注文入りました。半熟卵のオムライス、食後にチーズケーキをお願いします」

 

 俺と高嶺の会話が途切れた直後、明月さんがお客さんの、高嶺の親父さんの注文内容を俺達に伝える。

 

「オムライスは高嶺が作るとして…」

 

「勝手に決めるな」

 

「は?作らねぇの?」

 

「…作るけど」

 

 このツンデレめ。

 なんて口には出さない。高嶺が一人で作業している姿を涼音さんと並んでニマニマ眺める。

 

 いやー、微笑ましい。他人の親孝行を直接見るのって、こんなにも微笑ましいものだったんだな。

 時折作業の合間に高嶺が憎たらしげにこちらを見てくるが、知らん。お前が微笑ましいのが悪い。

 

 オムライスは完成し、明月さんの手からフロアへ、高嶺の親父さんの元へと運ばれた。運ばれてから十分程で今度は四季さんがキッチンに来て、食事が終わりそうだと報せを受けてチーズケーキの準備。

 チーズケーキは四季さんが出しに行き、次のお客が来るまで暇が空いた。

 

「…」

 

「「…」」

 

「……」

 

「「……」」

 

 おろおろ、おろおろ、うろうろ、うろうろ。

 高嶺がキッチン内を行ったり来たり。その表情はやや浮かない。何かが気になって仕方ないといった様子。

 

 その何かとは、言うまでもないだろう。

 

「ねぇ」

 

「はい?」

 

「気になるなら、フロアに行けば?」

 

「いや、そういう訳には…」

 

「同じ所を行ったり来たりされると鬱陶しいの」

 

 そんな高嶺に、涼音さんが苛立ち気味に声を掛ける。

 初めは微笑ましそうに見ていたのだが、ずっと続けば流石に我慢の限界が訪れる。

 

「お前って、実はファザコンか?」

 

「そんな訳ないだろ!」

 

 俺が提唱した、高嶺ファザコン説は本人に否定されてしまったが、しかしあの様子を見ると、な。

 隠れファザコンの気がある。

 

 高嶺が否定してから数秒程間が空いた後、フロアの方からありがとうございました、という声が聞こえてきた。

 どうやら、高嶺の親父さんはお帰りになったらしい。直後、明月さんが空になった皿を持ってキッチンに来た。

 

「お帰りになられましたよ」

 

 明月さんは高嶺を見ながら言う。高嶺は空になった皿を目にして、表情に僅かな緊張を奔らせながら口を開く。

 

「何か言ってた?」

 

「明るくて料理も美味しくて、いいお店だって言ってましたよ。ほら、オムライスもちゃんと平らげてくれました」

 

「…そうか」

 

 明月さんの返答を聞いて、高嶺の表情が嬉しそうに緩む。

 それを見てまた微笑ましく思う気持ちが蘇るが、残念ながら俺はここで時間切れだ。

 

「悪い。いい話のところ悪いけど、一旦上がらせて貰う」

 

 そろそろ出ないと講義の時間に間に合わない。高嶺と四季さんは今日の講義はないようだが、俺は別。

 

「あぁ、そうね。それじゃあ、とりあえずお疲れ様」

 

「講義が終わったら急いで来ますんで。…後、どうしても手が足りない時はメッセください。講義サボって来ます」

 

「そこまでしなくて良いって。それに、そんなに混む事はないだろうし」

 

 なーんて、涼音さんは言い切った。

 しかし、それはフラグである事を、この時の俺達は知らなかったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「どうしてこうなった」

 

 講義が終わり、スマホにメッセージも入っていなかったため、やはり混む事はなかったかとゆっくり店まで向かった俺。

 しかし、店の前まで来た時、俺は目の前の光景に圧倒されて立ち止まってしまった。

 

 行列。そう、行列である。店の前に、行列が出来ているのである。

 大事な事だから三回言った。

 

 この光景を見た瞬間、着替えるために休憩室に行こうとした直前に涼音さんが口にした台詞が脳裏を過る。

 

『そんなに混む事はないだろうし』

 

「フラグだったか…」

 

 見事なフラグ回収だ。って、そんな事考えてボーッとしている場合ではない。恐らくもう、授業を終えて墨染さんと火打谷さんも来ているだろう。

 俺も急がねば。

 

 裏口から店内に入り休憩室へ。手を洗ってから作業服に着替えてもう一度手を洗う。そしていざ、戦場(キッチン)へ。

 

「っ、涼音さん!柳が!」

 

「あー!やっと来たー!」

 

 俺が姿を現した途端、高嶺と涼音さんは希望を見つけたかの如く表情を輝かせる。

 たかが一人増えたくらいで大袈裟すぎる。今までどんだけ忙しかったんだ。

 

「すいません。どっかの誰かさんが混む事はないなんて言うからゆっくり来ちゃいました。しかし、見事なフラグ回収でしたね。外の行列スゴかったですよ」

 

「あー、やっぱりまだ来るかー…。くっそぉ、完全に読み違えた!」

 

「?何の話?」

 

「ケーキの数だよ。多分足りなくなるって話。それより、柳はカルボナーラを頼む!なる早で!」

 

「状況は飲み込めないが、とりあえずカルボナーラは了解」

 

 あの混み具合で、これ以上無駄話をしている余裕はない。高嶺から今やるべき仕事を聞き、すぐに取り掛かる。

 

 そうして、戦場(キッチン)に足を踏み入れ、俺もまた忙しさに奔走する事となる。

 ひっきりなしに入ってくる注文。一品完成させても息つく暇なく次の品へと移る。ひいひい言いながらも一心不乱に作業を続け、どれ程時間が経っただろう。

 

 気付いた時には、今来ている分の注文は全て捌き終わっていた。

 

「…おわ、った?」

 

「とりあえず…、お客さんは落ち着いたみたいね…」

 

 呆然と呟く高嶺と涼音さん。俺と違って朝からずっといるのだから、その疲労は途徹もないものだろう。何しろ、途中から来た、それも夕方前に来た俺でさえもそれなりに疲労を感じているのだから。

 

 そうして、閉店までお客のペースは落ち着いたまま、最終オーダーを終えて最後のお客が店を出る。

 

 

「「「ありがとうございました!」」」

 

 最後は全員で、来てくれたお客へ頭を下げて見送る。その後は食器の片付け、店内の掃除を済ませる。

 

 これにて、喫茶ステラの一日目は幕を閉じたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 という事で、一日目を終えて帰路につく。従業員の皆で少しの間店の前で話をしてから、それぞれの帰路についた。

 つまり、今の話で分かるとは思うが、俺は現在一人ではない。何というか、もう予定調和というか習慣というか、帰りに四季さんが隣にいるのがもう馴染んでしまった。

 

「はぁ~、疲れたぁ~…」

 

「お疲れ様。でも、良かったな。思った以上にお客さんに来て貰えて」

 

「…うん。それは本当に、嬉しかった。明日も、来てくれるかな…?」

 

「おっと?もう明日の心配か?欲張りになったもんだな」

 

「からかわないで」

 

 四季さんが此方をじと目で見上げてくる。その視線を受け流しながら、俺は歩きながら大きく背中を伸ばした。

 

「…コンビニで酒買ってくか」

 

「ん?」

 

「いや、何でもない」

 

 小さく呟いたつもりだったが、四季さんに聞こえてしまったらしい。その内容までは聞き取れなかった様だが。

 

 何か、今日は気分が良い。喫茶ステラの門出に立ち会い、目出度い気分になってしまったらしい。

 

 という事で、今日の酒はいつもより多めにしよう、そうしよう。今日みたいな目出度い日は一本なんて言わず、三本くらい飲んでしまえ。

 

「明日に残さないでよ?」

 

「聞こえてたんじゃねぇか」

 

 此方を見上げる四季さんが言う。聞き取れなかったと思っていたのに、しっかりとさっきの呟きを聞き取っていたらしい。

 それなら何故聞き返したし。一人でこっそり予定を立てているつもりになってた自分が恥ずかしい。

 

「柳君って、お酒強いの?」

 

 すると、四季さんがそんな事を聞いてきた。お酒繋がりで、不意に疑問が湧いてきたか。

 

「友人との飲み比べで負けた事はない。酒豪って程ではないと思う」

 

「ふーん。そうなんだ…」

 

 正直に答えると、会話が途切れる。沈黙が流れ、何ともいえない空気が流れる。

 他の話題に、と考えなくもないのだが、四季さんが何やら思案顔で何か考えている。考え事の邪魔をするのもあれなので、黙って四季さんの隣を歩く。

 

 ふと、住宅街の中の交差点で四季さんが立ち止まった。つられて俺も立ち止まる。

 四季さんは俺を見上げている。何だろうか。その目に僅かな緊張が籠っているのは、俺の気のせいだろうか。

 

「ねぇ、柳君」

 

「ん?」

 

 四季さんが口を開いたのは直後。

 

 そして、こんな事を口にしたのだった。

 

「今から、時間ある?」




ちなみに私はお酒弱いです。
ストロン○ゼロ一缶飲んだだけで顔真っ赤になります。


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第十六話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 熱くて重そうな、おしゃれな扉を四季さんが開けると、取り付けられたベルが鳴る。建物の中からは、「いらっしゃいませ」と、男性の穏やかな声が聞こえてきた。

 

 先程の四季さんの時間ある?という問い掛けに肯定すると、ここまで連れてこられた。駅を挟んでステラとは逆の方。四季さんに続いて建物の中に入る。

 

 そこは、バーだった。やや暗めの照明が店内を照らし、お洒落なジャズが控えめに流されている。

 他のお客は少なく、男女で来ているのは俺達だけだった。

 

 四季さんは迷わずカウンター席に腰を下ろし、俺もその隣の席に座る。バーテンダーが二人分の手拭きと共に、メニュー表を手渡してくれる。

 

 メニューに書かれた文字列を眺めるが、ハッキリ言おう。

 何のこっちゃさっぱり分からん。果物の名前だったり、有名な酒の名前が入ってたりしていたら何となく味の想像はつくが、そうじゃない方が圧倒的に多い。

 

「柳君、決まった?」

 

「いや…。んー」

 

 躊躇いなく店内に入っていった所から想像はついていたが、やはり四季さんはここに馴染みがあるらしい。メニュー表を受け取ってから一分と経たずに注文を決めてしまった様子。

 

 俺はこういった店は初めてだから、だからこそこういった店でしか飲めない酒を飲んでみたいのだが、如何せんどれが何なのか分からない。

 しかし何か注文しなければ。味が想像しやすく、かつ度数が少なそうなもの。明日も朝早いのだから、あまり強い酒は飲めない。

 

「…じゃあ、ウォッカコーラを」

 

「私はカシスオレンジで」

 

 畏まりました、とバーテンダーが注文を受けてから数分も経たず、二つの小さなグラスカップをカウンターに置く。

 

 それぞれ注文した酒を受け取り、カップを持ち上げる。

 

「それじゃ、乾杯しよっか」

 

 穏やかな笑みを浮かべて四季さんが言う。

 その姿を見て、我に返るというか何というか、どうしてこうなった、というべきか。

 

 今、大学で有名な四季ナツメと二人でバーにいるという現実が、軽く俺を混乱に陥れる。

 

「店のオープン祝いに、か?」

 

 その混乱を四季さんに悟られぬ様に装いながら、おどけた風に言葉を返す。

 

「それと、これから忙しくなるだろうし。働き詰めになるであろうブラックバイトの明るい未来に」

 

「明るくないぞ。真っ暗だぞ、真っ黒だぞ。そして責任者が言うと説得力ヤバイからマジで」

 

 にこやかに言ってのけやがった四季さんに、つい表情が引きつる。それを見た四季さんが面白そうに笑みを溢した。

 

「冗談。まあ、忙しくなりそうなのは本当だけど」

 

「…それは、順調なスタートがきれたって事だし、良いんじゃね」

 

 言い合いながら、グラスをぶつけ合う。

 

 カチン、と涼しげな音を鳴らし、同時にグラスに口をつける。

 俺は初めて飲むという事で慎重に一口、四季さんは一気に中身を飲み干した。

 

「おぉ、良い飲みっぷり。四季さんは酒に強いのか?」

 

「ううん、そんなに強くないと思う。これは度数弱いから」

 

 ふぅ、と息を吐く四季さん。何だろう、凄く絵になるというか、様になってるというか。

 

「バレンシアお願いします」

 

 四季さんはすぐに次のお酒を注文する。次もまたオレンジ系のカクテル。オレンジが好きなんだろうか。

 俺も、一気にとはいかずとも、ペースを早める。勝負、という訳でもないのだが、ゆっくり飲み過ぎて弱いと思われるのも癪というか、複雑だ。

 

 しかし四季さんは俺が一杯飲み干す間に、新たに注文したバレンシアも飲み干してしまった。

 

「ペース早くね。ホントに酒強くないのか?」

 

「ん?んー…、今日は柳君と同じで、飲みたい気分なの」

 

 やはりオープン初日が終わった事もあり、四季さんも浮かれてたりしているのだろうか。

 強くないという割にペースが早すぎるのはその為か。

 

「まあ、今日くらいはな」

 

「うん。今日くらいは」

 

「危なくなる前に止めに入るから」

 

「そこまで飲むつもりはないわよ」

 

 お互い新しい酒を注文し、もう一度グラスをぶつけて乾杯する。俺は二杯目、四季さんは三杯目。俺は今度は先程よりもややアルコールが強めの酒を、四季さんはさっきと同じく果物を使った甘いカクテルを。

 

 俺も飲むペースが早くなっていく。二杯目、三杯目と四季さんと会話しながら飲み続ける。しかし、それにしても四季さんの飲むペースが早い。甘い、度数が弱いカクテルとはいえ、心配に思えるくらいには早いペースで四季さんは飲んでいた。

 

 何度かもっとゆっくり飲んだ方がいいと忠告したのだが、やはり店をオープンできた事で上がったテンションは止められないらしい。

 ペースは変わらず、カクテルを飲み続ける。

 

 その結果、どうなるかは言うまでもないだろう。

 

「ねぇ、柳君…」

 

「なんだ」

 

「終電、なくなっちゃったね…?」

 

「俺も四季さんも、帰るのに電車は使わないだろ」

 

 頬を染める赤はどこか色っぽい。そしていつもの四季さんでは想像がつかない台詞を吐いている。

 

「四季さん」

 

「むー、なに?」

 

「酔ってるだろ」

 

 先程の台詞を適当に流された事にふて腐れているのか、僅かに唇を尖らせている。

 

 何か、酔った四季さんて可愛いな。いつもの四季さんからは考えられない。普段より幼く感じる。

 

「…柳君」

 

「ん?」

 

「今日は…、帰りたくないな…?」

 

「そうか。明月さんに連絡して店に泊めて貰える様頼めば良い」

 

「…」

 

 四季さんの目がじと目になる。きっと、つまんないとか考えてんだろ。俺の反応がつまんないとか思ってんだろ。

 知った事か。四季さんの思惑に乗ってなんかやらん。ふふふ、どっちの立場が上なのか、ここで思い知らせてやる。

 

「…っぷ」

 

「っ!?」

 

 ここまで、四季さんの言動や行動を適当に流してきた俺だったが、流石にこれには反応せざるを得なかった。

 四季さんが苦し気に両手で口を押さえる。僅かに背中を屈ませる。

 

 まずい。ペースが早いと思ってはいたが、もっと強く止めるべきだったか。しかし後悔は先に立たず。

 椅子から立ち上がり、四季さんの顔を覗き込みながら声をかける。

 

「四季さん、大丈夫か。ここじゃ駄目だ、トイレまで我慢して。一人で行けるか?」

 

「…ふふ、うっそー」

 

 メチャクチャ焦った。メチャクチャ心配した。その結果が、これだ。

 してやったりと笑顔を浮かべてこちらを見上げる四季さん。多分、この時の俺はかなり間抜けな顔をしていたと思う。

 

 思わぬ四季さんの反応に呆気にとられて数秒硬直した後、ため息を吐いてから席に戻る。席に戻ってからは何も言わず、残り少なくなったグラスの中身を一気に呷る。

 

「…怒った?」

 

「怒ってない」

 

「なら、どうしてこっち見ないの?」

 

「別に、他意はない。すいません、同じのもう一杯」

 

 本当に怒っている訳ではない。ただ、物の見事に引っ掛かった事が恥ずかしくて、顔を合わせられないだけだ。

 だがそんな事正直に言えず、ただそっぽを向いてバーテンダーから貰ったおかわりをちびちび飲むだけ。

 

「心配させてごめんね?でも、何でも見透かされて、面白くなかったんだもん…」

 

 だもんって。さっきからそうだが、本当にかなり四季さんのキャラが変わっている。

 

 いや、もしかしたらこれが素、なのか?表情豊かで、イタズラ好きで、すぐにふて腐れて。

 案外、こんな彼女の姿が四季ナツメの本当の姿なのかもしれない。

 

「本当に怒ってないから。謝らなくていいよ」

 

「…本当?」

 

「本当。それより、もうこれ以上飲まない方がいい。すいません、水ください」

 

 不安気に確認してくる四季さんに少し罪悪感を覚えながら、怒ってないと念を押す。

 その後、流石にこれ以上の飲酒は駄目だと四季さんにストップをかけながら、バーテンダーに水を持ってくるようお願いする。

 

「何よー。いらないわよ、水なんてー。柳君だってまだ飲んでるくせにー」

 

「俺もこれで最後にする。だからもう飲むな。明日に残っても知らんぞ」

 

「…」

 

 四季さんの言葉が詰まる。明日の事を考えられる理性は残っているらしい。やや悔しげにそっぽを向く四季さんに、バーテンダーから水が手渡される。

 

 少し荒々しく水を飲み干す四季さんを見ながら、俺もグラスの中身を減らす。

 

 俺が中身を飲み切ってから四季さんと一緒に席を立ち、会計を済ませて外に出た。

 

「はぁ~。風が気持ちい…」

 

 外に出ると、四季さんはため息混じりにそう口にする。

 冬間近でそれなりに寒いとはいえ、酒で火照った体にはこのくらいの風が丁度いい。風で涼みながら、四季さんが大きく伸びをする。

 

「送って行こうか?」

 

「ううん、大丈夫。一人で歩けるから」

 

「いや、そっちの方は心配してない。夜道を女一人で歩かせるのはどうなのかって思って」

 

 店を出る際の四季さんの足取りはハッキリしていた。だからこのまま一人でも帰れるのだろうが、今は時間も遅い。四季さんは一人じゃ夜道が怖い、なんてキャラではないだろうが、男として一人で帰すというのはどうも複雑だ。

 

「それに、殆ど家の方向同じだし」

 

「…親切装って女の部屋に上がり込んで何するつもりなんだか」

 

「その発想はなかった」

 

「おまわりさーん」

 

「その発想もなかった。てかやめろ」

 

 四季さんも本気ではなかったのだろう。いつもより大きめの声ではあったが、その表情は悪戯気に笑っていた。

 

 しかし近くにおまわりさんがいたら面倒臭い事になるためやや本気で止める。

 

「言い方を変えよう。送らせてくれ。四季さんを一人にした後に何かあったら、俺が困る」

 

「何で柳君が困るの?」

 

 仮に俺と四季さんが途中で別れた後、四季さんの身に何かあったとしよう。

 そしたら俺がどうなるか。そう、強烈な罪悪感に襲われる事になる。あの時強引にでも送って行ってたらこうはならなかったのではないか。四季さんがこうなったのは俺の責任ではないのか。

 という罪悪感に襲われる。

 

 この説明をそのまますると、四季さんは呆れた様にため息を吐いた。

 

「柳君って、そこまで他人に肩入れする人じゃないでしょ」

 

「あぁ。でも四季さんは別だ」

 

「─────え?」

 

 四季さんの言う通り、俺はそこまで他人に関心を持つタイプではない。たとえ知り合いだったとしても、名前を知ってる程度の相手なら正直、どうなろうとそこまで関心は持てない。

 

 だが、四季さんは別だ。

 

「同じ職場の仲間で、こうして飲みに行ける程度には親しい人に関心が持てない程、俺は人でなしじゃない」

 

「─────」

 

 何故だろう、四季さんの表情が冷めた気がする。俺は何か四季さんの機嫌を損ねる事を言ったのだろうか。

 

 …ダメだ、思い当たらない。

 

「…はぁ。呆れた」

 

「何故に」

 

「柳君、前に涼音さんも言ってたけど、そのややこしい言い方はやめた方がいいと思う。いつか刺されるから」

 

「何それ怖い」

 

 え、俺刺されるの?誰に?何を直せばその未来を避けられる?ややこしい言い方?俺は何かややこしい事を言ったのか?

 

「…分かったわよ。それじゃあ、お願いします」

 

「あ、あぁ…。送れるのはいいんだけど、さっきの刺される発言について聞きたい事が…」

 

「そんな事言ったっけ?忘れちゃったな~」

 

「絶対覚えてる。その言い方は絶対覚えてる。教えろ。俺は何で刺される。ややこしい言い方って何だ」

 

「あーあー、聞こえなーい」

 

 四季さんが俺の一歩先を、両手で耳を塞ぎながら歩く。

 俺の質問に答えない処か、俺の質問を聞くつもりすらない様子。

 

 待ってくれ、俺にとっては死活問題なんだ。今の四季さんはどことなく冗談みたいな態度で俺とやり取りしているが、さっきの刺される発言をした時は割と本気の顔をしていた。

 あんな顔をされると四季さんの冗談だと聞き流せなくなる。そういえば、涼音さんがそう言ってきた時も、あんな顔をしていたような…?

 

「待って。何か不安になってきた。頼む四季さん、教えてくれ。俺は一体何を直せばいいんだ」

 

「知ーらなーい」

 

 食い下がるも、四季さんは変わらず答える気がなさそう。だが何としても、俺の死の運命を回避すべく、四季さんには質問に答えて貰わねばなるまい。

 

 タイムリミットは四季さんの家に着くまで。それまでに何としても、この質問の答えを、聞き出さなくては─────!

 

 

 

 

 

 

 

 

 なお、できませんでした。最後は四季さんと手を振り合ってから別れました。その夜は、刺されるという言葉が気になって中々寝付けず、次の日は寝不足で迎える事となりましたとさ。

 

 めでたしめでたし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 めでたくねぇよ。



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第十七話






最近見える人要素うすくね?と読者が思い始める時期に爆弾を投下する屑の鑑


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 本日土曜日。天気は快晴、気温は上々。この時期としては温かく、過ごしやすい気候だ。空から降り注ぐ日の光は心地よく、確かな温もりを感じさせる。

 

 世間では多くの人達が休日であろう土曜日、そして明日の日曜日。しかし、サービス業を携わる者には関係ない。俺もその一人であり、朝早くからステラに向かっている途中である。

 

「ふぁ…」

 

 欠伸を漏らす。いつだったかの徹夜をした時よりは断然マシだが、眠気が中々消えてくれない。

 

 それもこれも、昨日四季さんが帰り際に刺されるとか言うからだ。ただの冗談だろうと忘れようとしても、その発言をした時の四季さんの表情が離れてくれず、結局寝付けたのは二時が過ぎた頃だったと思う。

 

 うん。店に着いたらもう一回顔を洗おう。タオルは貸してくれるだろうか。それかミカドに頼んでコーヒーを淹れて貰うか…いやでもあいつ、そういうとこ厳しいからな。普通に断られそうだ。

 

 なんて店に着いてからの事を考えながら歩いていると、交差点の石垣の影から歩行者が現れぶつかりそうになる。

 すぐにお互い立ち止まったお陰でぶつからずには済んだが、驚き目を丸くした歩行者と視線が交わる。

 

「っ─────」

 

「あ」

 

 つい声を漏らしてしまう。何故なら、目の前の歩行者が知り合いだったからだ。

 

「おはよう、四季さん」

 

「…」

 

 軽く手を上げながら歩行者、四季さんに挨拶をする。そして四季さんも俺に挨拶を…しない。何故か頬を染めて俺を見上げたまま硬直している。

 

「…四季さん?」

 

「っ!…ぐむむむむ」

 

 もう一度呼び掛けると、びくりと体を震わせた四季さんは、今度は俺を睨み始める。

 

 いや、何故だ。本当に睨まれる理由が分からない。昨日の刺される発言の時は心当たりが多すぎて理由が特定できなかったのだが、今回は本当に心当たりがない。

 

「何で睨む」

 

「…睨んでない」

 

「睨んでるじゃん。ぐむむとか言って睨んでるじゃん」

 

「…」

 

 四季さんは昨日と重なるどこか不貞腐れた表情を浮かべ、何も言わず歩き出した。それに続いて俺も四季さんの隣で歩く。

 

 何も聞くな、という事だろうか?いやしかし、四季さんの機嫌を損ねた理由が俺にあるのなら、この後のバイトもあるし、今の内に解決しておきたいのだが。

 

「…ごめん。柳君は何も悪い事してないから」

 

 表情に出ていたか、それともただの推測か、どちらにしても四季さんは俺が欲しかった言葉を口にした。

 しかし、何もしてないならしてないで、気にはなる。四季さんは何故、機嫌を悪く…いや、これは。

 

「…四季さんさ。もしかして、恥ずかしがってる?」

 

「っ─────」

 

 四季さんの足が止まり、表情が固まる。図星だ。

 

 なるほど、そういう事か。自分の中で納得がいく。確かに俺は何もしていない。しかし、俺に複雑な念は拭えない。そんな理由の心当たりは、一つだけだった。

 

 要するに、四季さんは酔った自分の姿を俺に見られたのが恥ずかしいのだ。なーるほど、それは女性としては恥ずかしいのかもしれない。

 

 何か言ってたもんな。『終電、なくなっちゃったね…?』とか、『今日は…、帰りたくないな…?』とか。

 酔ったテンションでなら容易く言える言葉も、寝て覚めて、我に返った状態だと死にたくなる程恥ずかしくなる。

 

 うん、分かるぞ。俺も同じ様な経験があるからな。まあ、あの時は恥ずかしいとはまた違った後悔の仕方だったが。

 

「ぐむむむむむむむむむむむ…!」

 

 過去最長のぐむむを戴きました。いや、気持ちは分かるけれども、そんなに俺を睨まれても困るんだが。

 そんな風に睨まれると─────からかってしまいたくなる。

 

「…『終電、なくなっちゃったね…?』」

 

「っ!」

 

「『今日は…、帰りたくないな…?』」

 

「っっっ!!!」

 

 頬が染まるとかそんなレベルじゃない。四季さんの顔が真っ赤になり、頬を膨らませてこちらを睨む。

 うん、いい反応だ。こういう反応は大好きだ。どれだけ趣味が悪いとか言われようとも、そこだけは変えられない。

 勿論、やり過ぎない様に注意はするが。特に四季さんは機嫌損ねると割と面倒そうだし。

 

 しかし、今の仕草は駄目だと思う。膨らんだ頬を握りたくなる。こう、口の中の空気を吐かせたくなる。勿論やらないが。

 相手が男だったら…あ、いや、男でもやらないわ。頬を膨らませる男とかきもいだけだわ。四季さんみたいな綺麗な人がやるからこそ可愛くて、そういう欲求に襲われるんだわ。

 

「忘れて!忘れなさい!今!すぐに!」

 

「むり」

 

「手伝ってあげようか…?」

 

「おーけー、分かった。すぐに忘れるのは無理だが、もうこの話題は出さない事を約束しよう」

 

 光を失った四季さんの瞳から本気度を察知し、かといって今すぐ忘れるのは無理があるため、取り敢えずの妥協点を四季さんに提示する。

 

 四季さんは納得しきれていない、という表情ではあったが、自身が無理を言っているとは承知していたのだろう。俺の提案に頷いて答えた。

 

「じゃあ、そろそろ行こう。遅刻したら涼音さんに怒られる」

 

 俺がそう言うと、四季さんはもう一度頷いて俺と一緒に歩き出す。そして俺は言ってる途中でふと、ある事に気が付いた。

 

「そういやさ、何でこんな朝早くから四季さんは店に行くんだ?」

 

 俺は当然キッチンスタッフとして、涼音さんの手伝いという理由がある。しかし四季さんは違う。フロア担当なのだから、こんなに朝早くに店に行く理由はない。

 

 質問に続いてそう言うと、四季さんは小さく苦笑いを浮かべた。

 

「うん…。でも、柳君達は朝早くからお店で働いて、明月さんもそれを手伝ったって言うし…」

 

「…つまり、責任者として心が痛む、と?」

 

「…まあ、そんなとこ」

 

 何というか、うん。本当に四季さんは責任感が強いというか、それが過ぎるというか。

 

「ほら。やっぱり呆れてる」

 

「は?」

 

 呆れた、と口しようとした瞬間、先回りするように四季さんが横目で俺を見ながら口を開いた。思わず呆けた声を漏らしてしまう。

 

「柳君なら呆れるだろうなって思ってた。でも…、やっぱり、柳君達が頑張ってる間、責任者の私が何もしないっていうのは落ち着かなくて」

 

 何というお人好しっぷり。だからこそ、会ってすぐの墨染さんや火打谷さんといった年下二人にあんなにも懐かれているんだろうが。

 

 俺は二人にそこまで懐かれていない。同性と異性の差はあるだろうが。それに、オープン前の紅茶教習の影響か、ふとした時に畏怖の念を抱かれる節がある。こう、鬼教官を見る目というか。

 そこまで厳しくしたつもりはないんだけどな。怒鳴ったりとかもしてないし。何故だろう?

 

「…まあ、別に無理していないんならいいんじゃね」

 

「本音は?」

 

「俺ならギリギリまで惰眠を貪るね。部下を働かせてこそ責任者」

 

 墨染さんと火打谷さんの事については一旦置いといて、今は四季さんの事である。

 とはいえさっき言った通り、無理のない範囲で働くのなら反対したり止めたりする理由はない。

 

 なお、本音としてはやっぱり呆れてる。責任者としての責務は果たしているのだから、好き好んでそれ以上の労働を、それも俺達に負い目を感じて進んでしに行くなんて、俺にはちょっと考えられない。

 

「…柳君みたいに割り切った性格が羨ましい」

 

「さっきも言ったけど、無理していないのならいいんだ。その範囲でなら、四季さんのそれは美徳だよ。俺の性格なんか羨んじゃいけない」

 

 危ない。四季さんが俺みたいになったらちょっと…どころじゃない。かなり嫌だ。まあ、そんな事は万に一つもないだろうが。

 

「…まあ、そういう事にしておいてあげる」

 

「ん。そういう事にしておいてくれ」

 

 微妙に納得しきれていない四季さんだが、俺としては本心で言ってるつもりだ。

 それが過ぎれば反吐が出るが、そうでないのなら美徳と思える。四季さんはまだ後者の方だ。責任感の強さを見る限り、前者に移る可能性もあるが、そこは俺達が見ておけば大丈夫だろう。

 

 そうして話しながら歩いている間に店の前へ着く。俺が一歩前に出て入り口を開け、四季さんに入るよう促してから、彼女が店内に入ってから俺も入って扉を閉める。

 

 さて、今日も今日とて仕事の始まり。しかも今日明日は休日で、昨日よりもお客が来る可能性もある。

 今の内に繁忙を覚悟しながら、四季さんより先に着替えさせて貰うのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 予想以上に来客が多く、忙しくなった土日を越えた月曜日。何故だろう、いつもなら憂鬱だった月曜日が、今は落ち着くというか、ホッとするというか。

 

 今日は流石に土日ほど混雑しないだろう。というか、する筈がない。してはならない。

 今日の分の講義が終わり、資料を片付ける。その様子を、隣に座っている昭久に眺められていた。

 

「お前、最近忙しそうだな」

 

「そうか?」

 

 資料を鞄にしまう俺の姿を見ながら、昭久が俺に声をかける。そんな昭久の方には振り返らないまま、簡潔に一言で返事を返す。

 

「あぁ。その癖何か楽しそうだぞ」

 

「─────そうか?」

 

 今度の台詞はつい驚いてしまう。確かに忙しくしているのは端から見ても分かるだろうが、その上楽しんでる風に見えるのか、今の俺は。

 

「そんなに今の職場はいい所なのか?」

 

「…まあ、普通に同僚はいい人ばかりだし、今のところは辞める気は全く起きないな」

 

「ほぉ~、そりゃ珍しい。一ヶ月が最高記録だったお前のものとは思えない台詞だな」

 

 そこまで意外に思えるのだろうか、今の俺は。

 しかし良く考えてみれば確かに昭久の言う通り、一定のバイトを一ヶ月以上続いた事がない俺としては考えられない台詞なのかもしれない。

 

「そういや、何回聞いてもお前、どこでバイトしてんのか答えてくれねぇよな。そろそろ教えてくれよ」

 

「…」

 

 次の昭久の台詞に黙り込んでしまう。

 そう、俺はまだ周囲の友人にどこの店でバイトしているのかを教えていない。だってこいつら、教えたら絶対に冷やかしに来るし。そういうの俺は嫌だし、何より責任者である四季さんだって嫌がるだろう。

 

 だが、四季さんや高嶺、墨染さんや火打谷さんは周囲の友人に店の事を話して然り気無く宣伝をしてもらっている。一方の俺は、そういった宣伝を頼んでいる相手は一人もいない。

 

 このまま俺だけ店の宣伝に何の力も貸さないというのはさすがにどうかと思っていたところだ。この際、丁度いいのかもしれない。

 

「喫茶ステラで調べてみろ」

 

「?おう。喫茶ステラ、と…。このホームページか?…うおっ、ここ、最近オープンした話題の喫茶店って夏希が言ってた所じゃん。え?まさかお前、ここでバイトしてんの?」

 

 店名を教え、スマホで調べるように言うと、昭久はすぐにスマホで検索し始める。

 恐らく検索ページに最初に出てきたリンクをタップし、店のホームページを見た昭久が驚きの声をあげた。どうやら店の事は知っていたらしい。

 

 ちなみに、夏希とは昭久の今の彼女の名前だ。きっと、今度のデートでここに行きたい、とか言われてるんだろう。爆発すればいい。

 

「マジかー。今度のデートでこの店に行こうって約束してたんだよなー。いやー、まさかお前がバイトしてる店がここだったとは」

 

 あぁ、言わなければよかった。言わなければ俺はキッチンスタッフなんだし、こいつが来た事を知らずに済んでいたろうに。

 多分、キッチンスタッフである俺を呼び出す事は出来ないにしろ、フロア担当の誰かに一言伝言を頼むくらいはできるだろう。そして俺はその伝言を頼まれた誰かから昭久が来た事を教えて貰い、そしてこいつが彼女と店に来た事を知るのだ。

 

 あぁ、死ねばいいのに。

 

「よっしゃ、今日は無理だけど今週中に行かせて貰うわ」

 

「来るなら一人で来い」

 

「はっはっは。夏希と一緒に行かせて貰うわ」

 

 ああああああああああああ死ねばいいのにいいいいいいいいいいいいいいいいい。

 

 その後はとっとと話を切り上げてキャンパスを出て店へと向かう。大学組での一番乗りは俺で、すぐにキッチンに入って仕事を開始。そう時間は経たずに高嶺もやって来て、恐らく四季さんもフロアで接客を始めているだろう。

 

 それなりに多く客は来ていたものの、当初の予想通り土日程には客は来ておらず、あの修羅場を経験した俺達にとってあの程度の数の注文を捌くのは容易かった。

 やがて外も暗くなって客も少なくなっていき、そしてラストオーダーの時間を迎え、最後の客が店を出ていった。

 

「ふぅ~、お疲れ様でした」

 

 扉が閉まってから、火打谷さんが一度大きく息を吐いてそう言った。

 

「今日はそこまでお客さんは来ませんでしたね。まあ、毎日あれだけ来たら大変ですけど…」

 

 次に口を開いたのは墨染さん。墨染さんも俺と同じ感想を抱いたらしい。とはいえ、平日の客数が減るのは当たり前の事だし、それに墨染さんの言う通り、毎日あれではさすがに大変だ。過労死出来る。

 

 そんな他愛ない話をしながら最後の仕事である店内の掃除をしていた時だった。

 キッチンスタッフである俺は当然、涼音さんと高嶺とキッチンの掃除。その最中の事。

 

 来店を報せる鈴の音がキッチンまで聞こえてきた。思わず、他の二人と顔を見合わせる。

 

「時間をまちがえたんですかね?」

 

「でしょうね。まあ、対応はあっちに任せて、私達は掃除を続けよっか」

 

 涼音さんがそう言い、止まっていた手を再び動かす。俺達も涼音さんに従って手を動かした、その直後。

 

「あのー、千尋先輩?」

 

 キッチンに顔を覗かせながら、火打谷さんが俺を呼んだ。

 

「先輩にお客さんです」

 

「客?…ここに?誰?」

 

「さあ…。でも、すっごく綺麗な人でしたよ?」

 

「こっちに来て異性の知り合いなんて、本当にこの店の従業員くらいなんだけど」

 

 後はまあ、昭久の歴代彼女達の名前だけは知っている。だが、顔は知らない。会った事もない。

 

 改めてこれまでの自身の交友関係の狭さについ笑いを吹き出しそうになりながら、涼音さんと高嶺に一言かけてからフロアへと出る。

 

 しかし、俺を呼ぶ女性とは一体誰なんだろうか。さっきも言ったが、大学に入ってから出来た女性の知り合いなんてこの店の従業員の五人だけだ。話すくらいなら、大学のグループ学習で一緒になった女性もいるにはいるが、名前も知らないし顔も覚えていない。そんな相手を知り合いとは呼ばないだろう。

 

「…」

 

 フロアに出て見えるのは、一人の背の高い女性の周りに集まる四季さん達の姿。

 その中で、何故かミカドだけがやけに焦っているというか、恐縮している様に見える。

 

 あの、我輩は貴族だやら公爵だやらもっと敬った態度をとれやら事情を知っている俺達には言い続けてきた、あのミカドが。

 

 何なんだ、あの人。

 

 ゆったりとしたベージュのパーカーと、黒のデニムというラフな格好をしたその女性は、俺の視線を感じ取ったのか否か、俺が声をかけるよりも先に振り返った。

 

 揺れる長い黒みがかった茶髪。スッとした鼻筋に薄い唇、目尻はつり上がり、見る人によっては威圧感を与えてしまうだろうが、何故だろう。俺はやけにこの女性に懐かしさを覚えていた。

 

 女性は俺と視線を合わせながら優しく微笑む。まるで、我が子の成長を喜ぶ母親のような、そんな表情で俺を見ている。

 何だ、この人は。初対面のはずなのに、そんな馴れ馴れしく笑ってきて─────

 

 瞬間、俺の脳裏に過ったのはまだ誰にも理解されず、見たくない世界を見続けてきた幼い頃の光景。

 一人、小さな丘となった芝生の上で座り、楽しそうに遊ぶ同年代の子供達を眺めていた時、その人は現れた。

 

 突然俺に話し掛けてきて、君は皆と遊ばないのかい、なんて聞いてきて。初めは鬱陶しいと感じていたのに、その人は。

 

『その目に見える景色を誰にも理解されず、孤独を感じているのか』

 

 何故か、俺の見えている景色について知っていて、挙げ句の果てに。

 

『実はね、私は偉い神様なんだ』

 

 なんて言い始めて。さすがに神なんて信じられなかったけど、でも初めて俺の見えている景色を共有できる人をみつけて、嬉しかった。

 短い時間だったけれど、話が出来て楽しかった。

 

 そして別れ際、()()()()をくれた。

 

 そうだ、どうして忘れていたんだろう。何故すぐに思い出せなかったんだろう。

 

「久し振りだね、千尋。随分大きくなった」

 

「…似非神様」

 

「似非じゃない」

 

 その人は、俺が初めてそう呼んだ時と同じツッコミをしながらも、変わらず微笑み続けていた。




はい、神様です
原作であまり詳細が明らかになっていない神様です
この神様については次回、色々説明される予定です

そう、次回は説明回です


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第十八話






本当は一話に纏めるつもりだったけど予想以上に長くなったので分けます


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「─────うん、いい紅茶を淹れるじゃないか」

 

「それはどうも」

 

 今、俺の目の前でカウンター席に座った女性、似非神様が俺の淹れた紅茶を飲んでいる。カップを持ち上げ一口、また一口と満足そうに紅茶を口に含める。

 

 現在、店の中には俺と似非神様の他に明月さんとミカド、そして四季さんと高嶺が残っている。

 四季さんは店の戸締まりを任されているため当然最後まで残らなければならない。明月さんとミカドはこの店の部屋を間借りしているから当然残る。高嶺は他の墨染さん達三人に先に着替えを譲り、今は休憩室で着替えをしているだろう。

 墨染さん達は似非神様の対応でまだ時間が掛かるだろうから、と理由をつけて先に帰している。

 

 つまり今、この店には色々と()()()()()()()()者しかいないという事だ。

 

「でも君の格好は明らかにフロア担当のものではないが…、もしや、プライベートでよく紅茶を淹れているのかな?」

 

「まあ、そんな感じです」

 

 本当にこの似非神様は紅茶が気に入ったらしい。さっきから頻りに紅茶を誉めてくる。きっと、ペットボトルの紅茶しか飲んだ事がないのだろう。また、ペットボトルの紅茶が飲めなくなる体を創ってしまった…。

 

「…来たね」

 

 そうして似非神様が紅茶を飲んでいる間に着替えを終えた高嶺がフロアに戻ってきた。

 似非神様は口につけたカップを傾け、中身を一気に飲み干してから空になったカップを置く。

 

「それじゃあ役者も揃った所で、まずは自己紹介から始めようか」

 

 似非神様は涼しげに笑いながら、掌を胸に当てる。

 

「人間界では朔夜と名乗っている。数多いる神々の一柱だ。よろしく」

 

「…ていう痛い人なんだ、二人とも」

 

「だから似非じゃないっ!」

 

 幼い頃から変わらず神と名乗る罰当たりかつその痛々しさに溜め息を吐きながら、代わりに俺が訂正してやる。

 四季さんと高嶺はやはり信じていない様子で、その顔には苦笑いを浮かべていた。

 

「信じてくれよ千尋ぉ…。似非じゃないんだよ、私は本当に神様なんだよぉ…。ほら、その眼鏡は役に立っただろう!?」

 

「─────」

 

 この人が本物の神様なんて信じちゃいない。しかし、眼鏡の事を言われると少し弱ってしまう。

 どういう仕組みかは知らないが、俺の目に映るこの世あらざる者の存在を遮断し、尚且つその者等の声すらも遮るこの眼鏡の力は本物だ。

 それを考えると、本当に神の力で俺を助けてくれたのかもしれない、と思ってしまう時もあった。

 

 しかし、だ。

 

「朔夜なんて名前の神は聞いた事がないです」

 

「それは人間界では神名を明かせないから…」

 

「ていう設定なんですよね?」

 

「うわああああああああああああああああ!!!」

 

 こんなのが神様なんて信じられない。初めて会った時もこんな感じだった。信じられるか?この人、当時五歳だった俺に泣かされてるんだぞ?今みたいな感じで。そんな人が神様なんて到底信じられん。

 

「待て、柳。お前の眼鏡は、その人がくれたものなのか?」

 

「そうだけど」

 

「なら、神っていうのも強ち出鱈目じゃないんじゃ…」

 

「これが?」

 

「これ!?今、私の事をこれ呼ばわりした!?」

 

「…」

 

 喚く神(笑)を見ながら高嶺が沈黙してしまう。ほら、やっぱり信じられない。

 

「でも、ミカドさんや明月さんみたいな、人間とは別の存在、とは考えられるんじゃない?」

 

「…あぁ。俺もその可能性は考えてた」

 

 何度も言うが、これが神とは考えられない。ミカドから聞いた神の話から伝わってくるイメージとかけ離れすぎている。

 

 しかし、四季さんが今言ったように、ミカドや明月さんみたいな人間とは違う存在である、とは考えられる。

 多分、あれだ。ハムスターの妖精とか、そんな感じだろう。

 

「舐めてる!この三人、私の事を舐め腐ってる!ミカド、君からも何か言ってやってくれ!」

 

 俺達の態度から完全に舐められている事を察した神(笑)が涙目でミカドに助けを求める。

 いや、遂に神が助けを求めちゃったよ。

 

 一方、神(笑)に助けを求められたミカドは一度大きく溜め息を吐くと─────思わぬ台詞を吐いた。

 

「そろそろ止めておけ。特に高嶺昂晴。今この場で排斥されても知らんぞ」

 

 俺達三人の表情は固まった。特に高嶺の顔は思い切り引きつっていた。

 

「いやいやミカド、私でも私情で一生命の排斥は出来ないさ」

 

「しかし、高嶺昂晴は別でしょう?」

 

「…彼の場合は許されるだろうけどね」

 

 高嶺の顔が青くなる。俺と四季さんも、こめかみの辺りから一筋の汗を流す程には焦っていた。

 

 …いや、本当に?マジで?Really?

 

「なーんでミカドの言葉は信じるのかなー?」

 

 日頃の、というか今までの行いのせいでは、とは言えなかった。さっきまでのノリで話す事はもう出来なかった。

 何故なら、ミカドは否定しなかった。それだけではない。ここまで一言も喋っていなかった明月さんは、神と名乗る女性に向けてずっと、両目を瞑って畏まった体勢をとっていた。

 

 まさか、彼女が現れてからずっと?ここまで口を開かなかったのはまさか─────神と死神とでは、神の前で口を開く事すら許されない程に、身分の差があるという事なのか。

 

「─────」

 

 言葉が出ない。背中に嫌な汗が流れる。心臓が今まで生きてきた中で一番早く、激しく鼓動を刻んでいる。

 それでも、俺はまだ良い方だ。高嶺なんか今ごろ、生きている心地すらしていないだろう。高嶺は今、神々にとって複雑な立ち位置にいる。そんな中での今回の言動。そして先程のミカドとの会話。

 

 多分今、高嶺は猛烈にこの場から逃げ出したい衝動に駆られているだろう。しかし、出来ない。その理由は、俺の勝手な予測だが、恐怖で足が竦んでしまっているから。

 

 何故だろう。ミカドと高嶺について会話をしてから、やけに目の前のこの人が大きく見える。体格の話ではない。存在感というべきか、威圧感というべきか。

 そう、言い表すならば、生き物としての格が違う、というべきか。

 

「大丈夫だよ。君達を、勿論高嶺君も、排斥なんてしないから。そんな事をするために来たんじゃないしね」

 

 目の前の神は恐怖に震える俺達に微笑みかける。どうやら、機嫌を損ねた訳ではなさそうだ。

 しかし、そう言われても胸の内に抱く畏怖は消えない。目の前にいる存在は、その気になればこの場で俺達を亡き者にできる。

 

「あー、本当に大丈夫だから。話ができないからそろそろ落ち着いてくれないかな?特に高嶺君は泣き止みなさい」

 

 微笑みが苦笑いに変わり、何とか俺達を落ち着かせようと言葉をかけてくる。

 ていうか、高嶺は泣いているのか。…当然かもしれない。本気で死んだと思ったのだろう。もうダメだと思ったのだろう。きっと、心の中で辞世の句とか詠んでたのだろう。

 

「…似非なんて呼んでしまい、申し訳ありませんでした」

 

「そんな畏まった態度はとってほしくないな。というか、畏まる千尋なんて違和感ありすぎて嫌なんだけど」

 

「…」

 

 少しカチン、と来た。人が謝ってるのに何だその言いぐさは。泣かすぞ。

 と、数分前までの何も知らない頃の態度が表に出そうになるのを抑える。

 

 いけない、もしかしたらまだ俺はこの人の事を舐めてるのかもしれない。この人は本当に神だ。ずっと偉そうだったミカドが敬い、そして条件付きらしいが生命の排斥なんてとんでも行為を許される程の力を持った神だ。

 

「…ミカドが余計な事を言うから皆怖がってるじゃないか」

 

「なっ!?吾輩の所為ではないでしょう!」

 

「ミカドが私を怒らせたら排斥されるとか言うからだろ!?責任とって三人を落ち着かせろ!」

 

「理不尽な…。だが、このままでは話が進まんか」

 

 神と向き合っていたミカドが俺達の方を向く。そして一度息を吐いてから口を開いた。

 

「三人とも、そんなに怖がるな。今までのやり取りで分かっただろう。この方は寛大だ」

 

「神々の中でも一番度量が広いと自負しているよ」

 

 ミカドに続いて胸を張りながら言う神。

 存在感溢れる胸部が揺れるが、普段ならともかく今はそれに視線を向ける余裕はない。

 

「「─────」」

 

 四季さんと目を見合わせる。続いて高嶺に視線を向けるが…、動いていない。俺と四季さんはミカドの言葉とこれまでの神の態度を思い返して、少し落ち着きを取り戻せたのだが。

 

「おい、高嶺昂晴。さっきも言ったが、この方は寛大なお方だ。だから今すぐ貴様を排斥したりはしない」

 

「…本当に?」

 

「あぁ、本当だ」

 

「がおー、くっちゃうぞー」

 

「ひぃぃぃいいいいいいいいい!!!」

 

「なっ、高嶺昂晴!落ち着け!」

 

「あ、ごめん。まさかそこまで過剰反応するとは…」

 

「「…」」

 

 確かにこの神の人となりは分かったし、そのお陰で落ち着きは取り戻せたのだが、その所為で本当にこの人は神なのだろうかという一抹の疑いが蘇るのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 結局高嶺を落ち着かせるのに時間を要し、話の本題に入る頃には十時を過ぎていた。

 あぁ、明日も朝早いのに。話の長さによっては寝ない方が楽かもしれない。

 

「さて、と。とりあえず私が神様だって事は分かって貰えたと思うけど、何か聞きたい事とかある?」

 

 テーブルに頬杖を突きながら、神、これからはそう呼んで貰って構わないと言われたから朔夜さんと呼ばせて貰う。朔夜さんが俺達に向かって問い掛けた。

 

 いきなり聞きたい事、と言われても、俺も四季さんもすぐに質問なんて思い浮かばない。

 しかし一人だけ、そう。高嶺だけは例外だった。

 

「…それじゃあ、俺からいいですか」

 

「ん、なに?」

 

 高嶺がおずおず、と手を上げる。朔夜さんが高嶺に視線を向けて先を促す。

 

「その…、今の俺の立場って、どうなってるんですか?さっき、貴方は排斥するつもりはないって言ってましたけど、それは…」

 

「それは今この場でって意味だね。今この瞬間も、君の審判は続いているよ」

 

 高嶺の表情に緊張が奔る。高嶺だけじゃない。俺も四季さんも、朔夜さんの言葉に緊張が隠せない。

 

 今、高嶺を見る朔夜さんの目は、一人の人間を見るものではなかった。高嶺を見極め、処遇をどうするか決めようとしている。もしかしたら、今この瞬間に、高嶺がどうなるか決まるのかも─────

 

「でもまあ、今の調子なら排斥なんて事にはならないんじゃないかな?先の事なんて、私にも分からないけど」

 

 という事はないらしい。少なくとも、近い内に高嶺の存在が消えている、なんて事は起こらなそうだ。

 

 だが、どうもおかしい。高嶺の排斥について、審判を任せられているのは話を聞く限り朔夜さんだ。他の神々との兼ね合いもあるのかもしれないが、それにしてもだ。何故朔夜さんは、こんなにも曖昧な言い方をするのだろう。

 

「うん、それじゃあ、四季君」

 

 その事について聞こうとした矢先、俺よりも先に四季さんが遠慮がちに手を挙げた。

 朔夜さんが四季さんに質問を促す。

 

「…貴女は、柳君にあの眼鏡を渡した。という事は、柳君の目について知っているのではないですか?」

 

「─────」

 

 四季さんが口にした問いは、俺についての事だった。

 見れば、高嶺も何やら真剣な顔つきで朔夜さんの方を見ている。

 

 まさかとは思うがこの二人、俺の目について気にかけていたのだろうか。だとしたら、もう何度目か分からないが、お人好しが過ぎる。俺の目が何であろうと、二人には何の関係もないというのに。

 だというのに、勝手なお節介をして。

 

 呆れる、と同時に、他人に思い遣られる事に小さな嬉しさを覚える。

 俺は、いつからこんなにチョロくなってしまったんだろう。

 

 一方、質問された朔夜さんは目を丸くして四季さんを見たまま固まっていた。

 

「あぁ、失礼。予想と全く違う質問だったから、驚いてしまったよ」

 

 数秒後、我に返ったと同時に朔夜さんは言う。

 

「本当にその質問でいいのかい?悪いが、あまり何個も質問を受けるつもりはない。君は他に、聞くべき事があるんじゃないのかい?」

 

 朔夜さんは真っ直ぐ四季さんを見据える。それはまるで、他の事を聞け、聞いてみろ、と挑発しているようだった。

 しかし、四季さんはその言葉に対し頭を振る。

 

「私の事は私が一番分かってますから」

 

「…なるほど」

 

 要領を得ない四季さんの返答に、朔夜さんはただ意味深に一言を返すだけ。

 

 少しの間流れる沈黙。朔夜さんは四季さんを見つめ、四季さんも朔夜さんを見返す。

 やがて、朔夜さんが口を開いた。

 

「うん、気に入った。君の心意気に免じてひとつ、君にアドバイスだ」

 

 そんな四季さんの何かに琴線が触れたのか、朔夜さんの心の内は分からないが、朔夜さんは四季さんの問い掛けとは関係ない言葉を口走る。

 

「君は勘違いしている」

 

「勘違い…?」

 

「あぁ。今の君は、何も諦める必要なんてない。そう、何もだ」

 

「それって、一体…」

 

「さぁ?そこから先は、君自身が気付かなければ意味がないよ」

 

 思わせ振りな事を言っておきながら、それ以上話すつもりはないらしい。

 朔夜さんの言葉について詳しく聞こうとする四季さんの質問を拒否し、朔夜さんは俺の方を見た。

 

「それで、四季君のもう一つの質問だね。実を言うと、私がここに来た理由もそこにあるんだ」

 

 四季さんが朔夜さんに投げ掛けた質問。それは。

 

「君の目についてだよ。千尋」

 

 朔夜さんが、本来人と交わる筈のない存在である神がここに来た理由。

 それが俺の目にあると、目の前の神はハッキリと言い切った。



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第十九話






前回の続きです


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 俺の目について。確かにそう言った。

 

 この世あらざる存在を捉える目。ずっと、恐らく生まれた時から、俺はこの目と付き合わざるを得なかった。この人がくれた眼鏡のお陰でマシにはなったものの、危険な目に何度もあった。以前の蝶絡みの事で気を失ったのもそうだ。この目がなければ俺は今頃、ごく普通の生活を送っていたのだろう。

 

 蝶の事なんか知らず、見たくもないものを見る事もなく、普通に。

 この喫茶店で働く皆とも、出会う事はないまま。

 

 思えばそうだ。この目がなければ、四季さんや高嶺達と出会う事はなかったのか。最初に高嶺と話したのだって、この目が蝶を捉えた事が切っ掛けだった訳だし。

 それを考えれば、嫌なものしか見せてくれなかったこの目は、ようやく俺が見たいと思える景色を映してくれる様になったのかもしれない。

 

「ちなみに千尋は、その目についてどれくらい知ってる?」

 

「どれくらいと聞かれても…」

 

 朔夜さんは不意にそんな事を聞いてきた。

 しかし、どれくらいと言われても、俺はこの目が映すものが何なのか、それくらいしか答えられない。

 

 たまに見る青い蝶に、明らかに生きた人間とはかけ離れた、どう見ても生者に害を及ぼすであろう悪霊。それらが見える、とだけ朔夜さんに対して答える。

 すると、朔夜さんは手を口許にあてて、考える素振りを見せながら何かを呟き始める。

 

「ふむ…。まだその段階か。なら、その眼鏡は一応の仕事を果たした訳か…。まあ、今回はそれが枷になってしまったんだが」

 

「?」

 

 俺の眼鏡がどうこう言っているが、言ってる意味はさっぱり分からない。当然だが、四季さんと高嶺も俺と同じく首を傾げて疑問符を浮かべている。

 

 ただ一人、いや一匹。例外はいるが。

 

「なるほど。柳千尋の眼鏡は、目の力を抑えるだけではなく、目の成長を阻害していたという訳ですか」

 

「まあ、あの時はさすがに千尋が幼すぎたからね。あのまま目の力が増していたら、千尋の精神が崩壊してただろうから」

 

 何か凄く物騒な事を言ってる。精神が崩壊って何?いや、確かに俺自身もこの眼鏡がなかったら精神が可笑しくなってたかもとは常々思ってたけれども。崩壊って何?

 

 それともう一つ。

 

「なぁ、ミカド」

 

「む、何だ」

 

「何かさっきの言い方だと、まるでお前は俺の目が何なのかを知ってるように聞こえるんだが。まだ調査の途中じゃなかったのか?」

 

「─────」

 

 ミカドの言葉に詰まる。少しの間そうして固まったまま、やがて体の力を抜くと、頷いて肯定した。

 

「その通りだ。吾輩は貴様の目について以前から分かっていた。…いや、推測ができていた、だな。確証がなかった故、貴様には伝えていなかったが。…それに」

 

「それに?」

 

「…至った推測があまりにも信じられないものだった」

 

 常に冷静でほぼ表情を変えないミカドが苦々しい表情となった。いや、それだけでじゃない。俺に向けられるミカドの視線は、どこか俺を気遣っているように思える。

 

 傍若無人で、店の仕事に関してならば俺だけじゃなく、他の従業員の事を気に掛ける事はあったものの、ミカドがこうして誰かを心配するところを俺は今、初めて見た。

 

 しかし、信じられない、か。俺の目とは一体何なのか。その答えが、ようやく明らかになるのか。

 

「本当は眼鏡の力で千尋の目の成長を抑えて、後はミカドに協力を仰いでゆっくりその目の使い方を教えていくつもりだったんだけど…。急に千尋の目の力が増大した」

 

 突如明かされる柳千尋育成計画。目の使い方って何。もしかして、もっと他に何か見えるようになるって事なのか?それに、目の力が強くなったって、そんな自覚は一切ないんだが。

 

「ん、ほら。千尋、そっちを見てごらん」

 

「?」

 

 すると、朔夜さんが店内の窓の方、正確には窓の外を指差す。俺はその指先が向けられた方へと視線を向け、そして目にする。

 青い鱗粉を散らしながら飛ぶ、蝶の姿を。

 

 俺は今、眼鏡を掛けているというのに。

 

「っ」

 

「うん、やっぱり見えているみたいだね」

 

 見えない筈だ。この眼鏡を掛けている間は、普通の人間には見えないものを視認できない筈だ。

 なのに今、俺は確かに蝶が見えている。

 

「そういう事だよ千尋。その眼鏡じゃ抑えきれないくらいに、君の目の力は強くなっている。最近、何か外部から刺激を受けたりしただろう」

 

「刺激…って、そんなの何も─────」

 

 心当たりは、あった。というより、たった今思い出した。

 あれを刺激といっていいのかは分からないが、最近にあった強烈な経験。

 

「蝶の記憶を、見ました。たくさんの、人の死を」

 

「なるほど。切っ掛けはそれか」

 

 納得したように頷く朔夜さん。俺の心当たりは、朔夜さんにとって辻褄が合うものだったらしい。

 

 蝶の記憶。人の死。

 以前、涼音さんの部屋で大量の蝶を見た時の事だ。俺のものではない感情と記憶が中に入り込んできて、耐えきれず気を失ってしまった。

 

 あれが今、俺の目の力が強くなっている原因らしい。

 俺にはそんな自覚はないのだが、この眼鏡を掛けているにも関わらず、蝶を視認できてしまったのが何よりの証拠。

 

 だが、分からないのは何故それで神である朔夜さんが出張ってきたのか。ミカド曰く、神という存在は直接人間の世界に介入する事はまずないという話だ。

 

 何となく予想できてしまう。俺の目の力が強くなる事が、俺の目が、神を動かしてしまう程に厄介なのだと。

 

「この際、ハッキリ言おうか。千尋のその目は、()()()()()と神々からは呼ばれていてね。長い歴史の中で、その目を持って生まれた人間の数は片手で足りる」

 

 あれだけ正体が分からず苦労させられてきた目について、あっさりと神の口から詳細が語られる。

 俺の今までの苦労はなんだったのだろうかという複雑な気持ちは抑えて、朔夜さんの説明に耳を傾ける。

 

「星の記憶を覗く瞳。その気になれば過去、現在、未来でさえも見通す事が出来る」

 

「未来?」

 

「あぁ、今の千尋には出来ないよ。まあ、私がサポートすれば不可能ではないけれど…、多分パンクする」

 

「パンク?」

 

「分かりやすく言えば、千尋の体が破裂する。パァンって」

 

「─────」

 

 思わず言葉を失う。未来を覗けるという甘美な言葉に興味が惹かれてしまうが、続く朔夜さんの台詞に血の気が引く。破裂って。パァンって。普通に怖い。体が破裂する所を想像してつい身震いしてしまう。

 

「待ってください。星の記憶…って、何ですか?それを覗くって、どういう事なんです?」

 

 そう朔夜さんに問い掛けたのは高嶺だった。甘美な単語に釣られてしまったちょろい俺とは違い、高嶺は朔夜さんの言葉について真剣に考えていたらしい。

 見れば、四季さんも高嶺と同じ表情をしている。どうやら、高嶺と同じ疑問を持っている様子。

 

 おかしいな、当事者である俺が一番真面目に聞いてないってヤバイな。これからはちょっと真面目に耳を傾ける事にする。普通に俺の体に関する事なんだし。下手したら体が破裂するくらいの危ない代物らしいし。

 

「んー、そうか。そこから説明しなきゃいけないか…。でも正直、千尋はともかくとして、君達に教える必要はこれっぽちもないんだが…」

 

 再び悩む素振りを見せる朔夜さん。しかしすぐに結論を出したらしく、小さく笑みを浮かべた。

 

「うん。教えてあげてもいいよ。千尋にも周りに事情を知っている人間がいた方が気が楽だろうし」

 

「…いいのですか?」

 

「いいよ。別に話を聞いたからってどうという事はない。仮にそれで何か企む様なら別の話にはなってくるけど。彼等はそういう人間なのかい?」

 

「いいえ。そうではないと、私が保証します」

 

 朔夜さんとミカドの会話。自身の問い掛けに対して即答したミカドを見て満足げに頷いた朔夜さんは口を開く。

 

「それじゃあ、まず話す前に…。君達は今私達が立っているこの星についてどれくらい知っている?」

 

「…はい?」

 

「星の名前は地球。太陽との奇跡的な距離のバランスと地球の周りを覆う層のお陰で成り立つ生命の楽園。我等が母なる星。そのくらいかな?」

 

 自分から聞いておいて勝手に俺達の答えを代弁した朔夜さんは、何も口に出さない俺達を見て一度頷いた。

 

「その母なる星はね、ずっと見続けているんだ。自分が生まれたその瞬間から、自分の中で何が起きてきたかを。自分の中での生命の誕生を。誕生した生命の営みを。全て、見て、記憶している」

 

 それは、あまりに突拍子がない話。今まで聞いた事がないのは勿論、考えようとすらしてこなかった話。

 

 だが、驚きは隠せない。なぜなら、それではまるで─────

 

「それじゃあまるで…、星に意思があるみたいじゃ…」

 

「その通りさ。この星に意思はある。第一、私がここに来れたのも、星の許可が降りたからだからね」

 

 四季さんの台詞をあっさりと補完する朔夜さん。

 この星に、地球に意思がある。そんな事、誰が想像していただろう。

 

「ちなみに高嶺君。君の排斥についての判断も、全ては星によるものだ」

 

「っ」

 

「私が君を監視し、君の変化を星に報告し、そして星が君の処遇をどうするのか決める。さっき、私情で君を排斥できないって言ったのは、そういう理由でだね。もし星の判断を待たずに君を排斥したりしたら、多分私が排斥される」

 

 けらけらと笑いながらそう言った朔夜さんは笑顔のまま、しかしその目で高嶺を見据えながら更に続けた。

 

「君が排斥候補となった理由は、星が一番嫌う類いの奇蹟を起こしてしまった事だ。世界を塗り替えるなんて、摂理に逆らう最も起こしてはいけない矛盾だからね」

 

「─────」

 

 高嶺の喉が震える。それと同時に、息を呑んだ音が聞こえてきた。その緊張はこちらにも伝わってくる。

 

 そんな緊張を吹き飛ばすように、朔夜さんは微笑んだ。

 

「でも大丈夫。今の調子で頑張っていれば、排斥候補から外されるさ」

 

 微笑んだ朔夜さんは席から立ち上がり、高嶺に歩み寄ってその肩をぽんぽんと叩きながらそう言った。

 

「もう一度奇蹟を起こしたりしたら、その限りではないけどね」

 

「は、はい」

 

 それはまるで脅しだった。折角高嶺の表情が少し和らいだと思ったのにまた引きつってしまった。

 というより、実はこの神楽しんでいるのではなかろうか。高嶺の表情の変化を見て楽しそうに笑っている。

 

 …あぁ、絶対に楽しんでる。高嶺を虐めて楽しんでやがるこの人でなし。いや、人間とは違う、それも明らかな上位の存在である神だからこそ、人でなしなのは当たり前なのかもしれないが。

 

「さて、と。星について簡単に説明してあげたけど、理解できたかい?」

 

「…何となく」

 

「それで充分だよ。とにかく、千尋の目は星が見てきた記憶を覗けるものなんだけど…」

 

 本当に何となくだが、この星に意思がある事は分かった。そして、星が生まれたその時から続く四十六億年という時の中、この星で起きた全ての出来事を見て、記憶してきた事。俺の目はその星の記憶を覗く力を持ったものなのだと。

 多分、まだまだ理解しきれていない事もあるのだろうが、これだけ理解できていれば充分だろう。次に続く朔夜さんの言葉に意識を向ける。

 

「まあ、ここまで聞いてたら分かると思うんだけど、千尋の目って大分規格外なものなんだよね。だから、その目を欲しがる輩も出てくる訳で─────」

 

 その後に続いた台詞は、俺にとって寝耳に水過ぎた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一先ず話が終わって解散となり、俺は月明かりと街灯に照らされた道を歩く。隣には言うまでもなく四季さん。

 しかし、店から出てからここまで、会話は一言もなかった。

 

 当然だ。突然現れた衝撃の人物、というより神物。その口から語られた内容も衝撃的だった。直接的には関係のない四季さんでも、あの話を受け止めきるには時間が必要だろう。

 

「そのお守り」

 

「ん?」

 

「本当に効果あるのかな」

 

「さあ?あって貰わなきゃ困るけど」

 

 四季さんが口にしたお守りとは、朔夜さんから貰った物である。

 あの後、朔夜さんはこう言った。

 

『星詠みの瞳を我が物にして、星の力を手に入れてやるーとかいう愚か者がね。千尋の存在に気付いて狙ってるんだよね』

 

 あははー、と気楽な笑みを携えながらそう言った。このお守りはそうした輩に俺が朔夜さんの庇護下にあると思い知らせると同時に、悪しき存在を遠ざける力を持っていると朔夜さんは語った。

 これからしばらくこのお守りを肌身離さず持ち歩く事、と言われて手渡されたお守りを四季さんと一緒に眺める。

 

「…普通のお守りだな」

 

「普通のお守りね」

 

「…何か不思議パワーが籠ってるようには見えないな」

 

「見えないわね」

 

 見た目は本当にごく普通のお守りである。中に何が入っているかは分からないが、紺色の袋には金色の刺繍で()()と書かれているが、如何せん文字が汚い。もしやこのお守り、朔夜さんの手作りではなかろうか。

 

 あの人、不器用そうだもんな。

 

「…」

 

 とりあえず、このお守りや朔夜さんの事は一旦置いておく。さっきから俺が気になっているのは、あの話を聞いてからずっと俺を心配げに見てくる四季さんの事だ。

 

「そんな目で見るなよ」

 

「…そんな目ってどんな目?」

 

「これから死にゆく人を見てるような目」

 

 四季さんの方に視線を向ければ、四季さんは気まずそうに視線を逸らす。そんな四季さんの様子に溜め息を吐いてから、俺は一つ、ある事を決心して口を開いた。

 

「四季さんは俺なんかより、自分の心配をした方がいい」

 

「─────」

 

 俺が言った直後、四季さんは立ち止まってしまう。俺も四季さんの一歩先で立ち止まり、振り返って目を見開いてこちらを見る四季さんと向き合う。

 

「それ…どういう意味?」

 

「聞く必要あるか?四季さんが一番分かってるだろ」

 

 信じられなそうに見開いた目がゆっくりと元に戻っていき、やがて四季さんは何かを諦めたように切なげな笑みを浮かべた。

 

「そっか。やっぱり、気付かれてたか」

 

「…ちなみに、聞いてもいいか。四季さんの魂が弱ってる理由」

 

 確信はなかったろうが、俺に自分の()()()()()()事に気が付かれていると、何となく察しがついていたらしい。今の態度を見れば分かる。

 

 俺がその事に気付いたのは、まだステラのオープンどころか、二人と知り合う前だ。

 俺と四季さんは学部は違うが、一コマだけ一緒の空間で受ける講義があった。その時、四季さんの魂を目にしたのは本当に偶然だった。目が痒くなったから眼鏡を外して手で擦っていた時。

 

 たまたま目にした、明らかに普通の人間と比べて小さな魂の光の持ち主が四季さんだった。

 それから何度か、四季さんが視界に入る度に眼鏡を外して四季さんの魂を見た。その光は少しずつ、弱くなっていた。

 

 何かあるのか、四季さんに話を聞くべきかとも考えた。しかし、その時は全く面識のない赤の他人。いきなりそんな風に声を掛けられても警戒されるだけだし、何よりそんなお節介をする程俺はお人好しではない。

 何で赤の他人を助けるために俺が悩まなければならない。そう考えていたのに。

 

 四季さんは突然俺の目の前に現れて、それだけなら放っておけたのに、一緒の職場で仕事して、こうして一緒に帰って、二人でバーに飲みに行ったりもして。

 

 そんな相手を見捨てられる程、俺は人でなしではない。

 

「…高嶺君が一度死んだ時ね。私も死んだの」

 

「…は?」

 

 四季さんが思ったよりも素直に話し出した事への驚き、そして全く予想の出来なかった答えの内容に対する驚きから漏れた声だった。

 

 四季さんは語る。自分は、一度死んだと。高嶺と同じ事故に巻き込まれ、死んだ。高嶺が起こした奇蹟のお陰で生き返ったはいいものの、一度死んだ時に魂の一部が蝶となって零れ落ちたのだと。

 

 それを聞いてなるほど、と得心がいく。四季さんの魂は弱っていたのではない。欠けて小さくなっていたのだ。だからこそ、他の人よりも魂の輝きが弱く見えた。

 

「だから、結構危ういんだって」

 

「…」

 

 危うい、とはつまり、いつ何が起きてもおかしくない、という事だろうか。

 目の前の普通に健康そうで、店では元気な姿を見せていた四季さんが、いつ死んでもおかしくない状態にいると。

 

「でもね。私、自分の人生に満足してるの」

 

「…なに?」

 

「小さい頃からの夢を叶えられた。お店がオープンできて、たくさんのお客さんの笑顔が見られて。それに、柳君達と過ごした時間は、とても楽しかった」

 

「─────」

 

「前に言ったでしょ?小さい頃は体が弱かったって。そのせいで私、仲が良い友達とかいなかったから。だから、皆と過ごした時間はとても幸せだった」

 

「…だから、満足だと?」

 

 そう語る四季さんの表情は、本当に満ち足りている()()()()()。俺の問い掛けにも、すぐに頷いて肯定した。

 

 四季さんは本気で思っているのだ。満足していると。もういつ死んでもいいと。本気で。

 

「─────はは」

 

「…柳君?」

 

 笑える。本当に笑えてくる。たまに、人はあらゆる感情の限界が訪れると笑うと聞くがどうやら本当らしい。

 心は怒りに満ちているというのに、顔の形は笑顔になる。その矛盾にすら面白味を感じながら、俺は笑みを収めないまま四季さんを見る。

 

「ふざけるなよ。たくさんの人を自分の夢のために巻き込んでおいて、勝手にリタイアする気か」

 

「…」

 

「高嶺も、明月さんも、ミカドも、墨染さんも、火打谷さんも、涼音さんも、俺もそうだ。四季さんの、店に来てくれたお客さんの笑顔が見たいっていう我が儘を叶えるために働いた。なのに、その我が儘を吐いた張本人がもう満足?ふざけるな、これからだろうが」

 

 四季さんは黙って俺の耳に傾ける。切なげな笑みは変わらぬまま。

 その態度が、更に俺の神経を逆撫でる。

 

「これから客の数も増えてくる。四季さんの見たがってる笑顔も増えてくる。四季さんが言った仲が良い友達との時間も、これからもっと増えていく」

 

 そう、これからだ。四季さんの夢がもっと華やいでいくのはこれからなのに。なのに、四季さんはもういいと、もう満足だと言う。

 何故だろう。その事実にどうしても腹が立って仕方ない。

 

「…考えは変わらないのか」

 

「…」

 

 四季さんが俯く。流れる沈黙。やがて、表情が見えない四季さんから聞こえてきたのは─────

 

「ごめんなさい」

 

 という、一言だった。

 

「…そうか」

 

 俺の中で、何かが切れた音がした。その音が何なのかは分からない。

 ただ、俺の心はもう何も感じていなかった。ただ無感情に、事実だけを受け入れる。

 

 四季さんにとって俺は、その程度の存在なんだと。これから先も、一緒に付き合っていきたいと思えるような存在ではなかったのだと。

 

「なら、いい」

 

「え─────」

 

「前に言ったよな。最善を尽くさない責任者の下で働きたくはないって。店の未来を見ようとしない責任者なんて御免だ」

 

「ま、待って…」

 

「悪いけど、俺は抜けさせて貰う」

 

 四季さんの震えた声を無視して、振り返って歩き出す。

 後ろから、四季さんの声は聞こえてこなかった。

 

 冷たい風が全身に吹き付ける。しかし、この寒さは気温だけが理由じゃない気がした。

 

 心は、完全に冷えきっていた。




千尋の目についての説明と思わせておいて、本題は後半という罠


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第二十話





どうも。主人公に何かしらの闇を付けないと作品が書けない系作者のもう何も辛くないです。
この度、作品のお気に入り数が500件を突破しました。ありがとうございます。
いや、正直この作品の原作は18禁ですし、失礼ですけどあまり伸びないだろうな。まあお陰で思う存分自由に書けそうだけど、とか思ってました。
いやいや、想像以上に伸びてる。いってお気に入り300くらいが限界でしょとか考えてた二週間前の自分を殴りたい。
ごめんなさいゆずソフト様。貴方の事を嘗めてました。自分の周りにゆずソフトの事知ってる人いないし、このサイトにもそんなにいないんだろうなとか考えてましたすんませんっした。

とにかく何が言いたいかというと、たくさんの方に読んで貰えて嬉しいという事です。お蔭で毎回話を投稿する前にびくびくしてるんですが、それも嬉しい悲鳴ということで(笑)

て事で、今回も前回に引き続き重い話です。ギャグ要素なしです。うちの千尋君がいじいじぐだぐだダメ男っぷりを発揮してますが、暖かい目で見守ってやってください。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 四季さんにバイトを辞めると宣言した翌日だが、俺は朝早くからステラに向かっていた。

 辞めるとは言ったが、すぐに職場に行かずにバックレるのはさすがに失礼が過ぎる。それに四季さん以外にはその事を伝えていないし、とりあえず朝にいるであろう涼音さんや高嶺、ミカドと明月さんにも今まで世話になったとお礼を言わなくてはならない。

 

 店の裏口から中に入り、バックルームで手を洗い、作業服に着替えてもう一度手を洗ってからキッチンに出る。

 

「おはよー」

 

「おはようございます」

 

 高嶺はまだ来ておらず、キッチンにいたのは涼音さん一人だった。涼音さんは高嶺と同じアパートに住んでいて、たまに一緒に職場に来てたりするのだが、今日はその限りではなかったらしい。

 

「…ねぇ、何かあった?」

 

「はい?」

 

 最初は普通に挨拶を交わしたのだが、何故か直後涼音さんの顔が怪訝なものに変わる。そして、俺にそう問い掛けてきた。

 

「別に何もない…事はないですけど、何故です?」

 

「いや。何となく怒ってるというか、いや、悲しんでるというか…?とにかく、いつもと様子が違う気がして」

 

 何もない、と答えようとしたが、何もなかった訳ではなく。そういった嘘は涼音さんに通用しない気がしたから、正直に答える事にする。

 勿論、詳細を語るつもりはないが。第一、人の魂が云々なんて語っても信じてくれる筈がない。

 

「そんな顔に出てますか?」

 

「んー…。いや、私もちょっと違和感を持っただけだし。多分千尋が何もないって答えてたら納得してたと思う」

 

 訂正。嘘を吐いても通用してたっぽい。それなら正直に言うんじゃなかった。いや、結局涼音さんにもバイトを辞める旨の話はしなきゃいけないんだし、この際今言ってしまおうか。

 

「涼音さん。驚かないで聞いてください」

 

「ん?なに?」

 

「本当に…。いや、本当に涼音さん達には申し訳ないと思ってます」

 

「うん」

 

 何か改めて言うとなると、滅茶苦茶心が痛むというか、言いづらい。もう決意は固いのに、何を言われても決意は変わりそうにないのに。

 それだけ、俺はこの職場が、職場にいる人達が気に入っていたのだろう。

 

 だからこそ、そんな人からの裏切りが許せなかった。

 

「バイトを辞めようと思ってます」

 

「ふーん─────は?」

 

 芸術的なまでの見事な二度見だった。こんな綺麗な二度見を見るのは初めてだった。

 目をまん丸くして、ポカンと口を開けて、涼音さんはわなわなと体を震わせた。

 

「はぁぁぁああああああああああ!!?は!?は!?何で!?」

 

「それはまあ、こっちの都合としか」

 

「あ、もしかして私に何か気に入らない所でもあった!?だったら言って!すぐに直すから!」

 

「そういう訳じゃないです。涼音さんに悪い所なんてありません」

 

「なら昂晴か!」

 

「高嶺も関係ありません。ていうか、自分以外で真っ先に疑われるのが高嶺なんですね」

 

 ちょっと高嶺が可哀想、という哀れみの感情はとりあえず今は捨てて、混乱する涼音さんを落ち着かせる。

 

 いや、ここまで取り乱すのか。たかだか一人バイトを辞める程度の事で。まあ確かにオープンして一月経たずに辞めるなんて、普通に驚くか。俺だって高嶺が辞めると言い出したら、ここまでではないにしろ多少驚くかもしれん。

 

「それじゃあ、どうして?」

 

「…」

 

「…分かった。聞かれたくないならもう聞かない。でも、決意は固いの?」

 

「…はい」

 

 俺の様子を見て理由を言いたくない事を察した涼音さんが問い掛ける。もう、辞める意思は変わらないのか、と。

 その問い掛けに頷いて答えると、涼音さんは少しの間俺の目を見つめてから、諦めたように苦笑いを浮かべて溜め息を吐いた。

 

「まあ、私には君の意思にどうこう言う権利はないしね。止めはしないよ。いや、本当は滅茶苦茶止めたいけど」

 

「すみません」

 

「でも、もし気が変わったらその時は歓迎するわ。だから、そうなっても遠慮なんかしないで戻ってきなさい」

 

「…ありがとうございます」

 

 多分、涼音さんは納得しきれていない。お店がこれからという時に突然辞めると言われ、挙げ句の果てにその理由は言いたくないときた。我ながら何と勝手な振る舞いと思う。

 それでも、涼音さんは止めようとはせず、それどころか出戻りを歓迎する気でさえいる。

 

 何度でも言おう。俺は本当に恵まれている。こんなにも恵まれていて良いのかと思える程に。

 

「それで?四季さんやミカドさんには話したの?」

 

「…四季さんには伝えてあります。ミカドには、今日のバイトが終わってから話すつもりです」

 

「あー、いいよ。今の内に言ってきな。早い内に話しておいた方が良いでしょ」

 

「…それなら、お言葉に甘えて」

 

 正直、バイトの事の他にもミカドには聞きたい事があった。涼音さんや()()()()()()()()()()()聞かれたくない類いの話だ。

 元々毎日俺も高嶺も朝早くから来てはいるが、俺としての朝の仕事の感想はどちらか一人いれば充分だという感じだった。涼音さんも、俺がいなくとも高嶺がいるなら大丈夫だと思っているのだろう。

 

 それならば、その言葉に甘えさせて貰う。俺は涼音さんに向かって一礼してからフロアに向かう。この時間のミカドは、フロアで明月さんと一緒に掃除をしている頃だ。仕事をしている所で悪いが、少し話をさせて貰おう。

 

「ミカド」

 

「む。柳千尋。キッチンの仕事はどうした」

 

「少しお前に…、それに、明月さんにも聞いて貰いたい話がある」

 

「私にもですか?」

 

 フロアに出てきた俺を見て目を丸くするミカドと明月さんに声を掛ける。二人はモップで床を拭く手を止める。

 

 俺は二人に、バイトを辞めようと思っている旨を伝える。すると二人は驚いたように目を見開き、特に明月さんは目に見えて慌て出す。

 

「バイトを辞めるって…本気なんですか…?」

 

「あぁ」

 

「…理由を聞かせて貰おうか」

 

「その話をする前に、俺から一つ聞かせてほしい。四季さんの魂についてだ」

 

 俺がバイトを辞めると話した時よりも大きく、二人は驚愕を露にした。しかしミカドはすぐに何かに納得したように冷静になり、目を瞑る。

 

「…気付いて当然か。貴様は、高嶺昂晴の魂の変化すら視認できていたのだから」

 

「その目で、ナツメさんの魂を見たんですね」

 

 俺がミカドに聞きたかったのは、四季さんの魂についてだ。昨日の話を聞いてから、何故かずっと引っ掛かって仕方がなかった。すでに諦めてしまってはどうしようもない。他人がどうこうできる問題ではないというのに。

 それでも俺は知りたかった。四季さんの魂について、もっと詳しく。

 

「場所を移そう。栞那は掃除を続けていろ」

 

「…はい」

 

 明月さんが気遣わしげな目で俺を見る。何をそこまで心配されているのかは知らないが、先に歩き始めたミカドに続く。

 キッチン横を通り抜け休憩室に、休憩室を挟んでフロアからは逆、店の裏口がある方から休憩室を出る。

 

「あ…」

 

「…」

 

 そこには丁度、出勤してきた四季さんが立っていた。四季さんは俺の顔を見た途端に表情を悲しげに歪めて目を逸らす。

 そんな四季さんに声を掛ける事なく横を素通りしていく。

 

「おい」

 

「ミカド、話をとっとと終わらせるぞ。さっき聞いた質問だけじゃなく、これからのシフトについても話したいんだ」

 

 ミカドの呼び止める声を無視して、振り返る事なく足を進める。誰にも聞かれず話が出来る丁度良い場所は、あの屋根裏部屋だろう。多分、ミカドもそこに行こうとしていた筈だ。

 道順を頭の中で思い出しながら歩き続ける。後ろから、ようやくミカドの足音が聞こえてくる。

 

 休憩室の扉が開く音は、聞こえてこなかった。

 

 

 

 

 

 

Another View

 

 もしかしたら、一日が過ぎたらあの話をする前の柳君に戻ってるかもしれない、なんて都合の良い事を考えていた。だって、あんな終わり方なんて嫌だったから。

 たとえ遠くない未来、別れる事になったとしても、せめて笑顔を見て別れたかった。それだけで良かったのに。それさえも望めなくなってしまった。

 

 私のせいで。

 

「─────」

 

 目から流れそうになる涙を堪える。私に泣く資格なんてない。私なんかより、柳君の方がショックだったに違いないから。

 先に裏切ったのは私なのだから。見限られて当然なのは私なのだから。

 

 だから、泣いちゃダメ。泣いちゃダメ。

 

「ないちゃ、だめ…っ」

 

 分かっているのに、脳裏に過る柳君との思い出がそうさせてくれない。

 

 情けない私を叱咤してくれた柳君。いつも隣で一緒に帰ってくれた柳君。私と一緒にお酒を飲みに行ってくれた柳君。お店で皆と一緒に笑っている柳君。私を元気付けようと笑ってくれる柳君。

 

 あぁ、私って、本当にバカだ。すぐ傍に居たのに。

 これから先の未来を一緒に見てくれる人は、すぐ傍に居たのに。その人を私は裏切ってしまった。

 

「ごめん、なさい…!」

 

 口から出てきた謝罪は、昨日の柳君に対しての謝罪とは全くの別物だった。

 

 昨日、柳君は厳しい言葉を言いながらも手を差し伸べてくれた。その手を振り払ったのも私だ。

 

 きっと、もう柳君は私に笑わない。二度と、私の隣にも居てくれない。

 

 零れる涙を抑えられないまま立ち尽くしていると、裏口の扉が開く音がする。

 

「う~、あったか…。外寒すぎだろ、冬か。…もうすぐ冬だけど、って、四季さん?何してるの、そんなところで」

 

 一人でボケて一人で突っ込むというかなり寒い一人漫才を呟きながら入ってきたのは高嶺君だ。

 高嶺君はすぐに休憩室の前に立ち尽くす私に気付いて歩み寄ってくる。そして、私の顔を見てぎょっとした。

 

「し、四季さん?ど、どうして泣いてるの…?え?何か俺、嫌な事した?泣かせる様な事した!?」

 

「…違う。私が泣いてるのは、私のせい。私の自業自得だから、気にしないで…」

 

「いや、気にしないでって言われても…。と、とりあえず待ってて。だれか!だれかー!!」

 

 高嶺君が大きな声で叫びながら休憩室へと飛び込んでいく。きっとあんな感じでキッチンに、フロアに入っていくんだろう。

 

 もうすぐ高嶺君が明月さんか涼音さんか、或いは二人とも連れて戻ってくる。それまでに、少しでも落ち着きを取り戻さなければ。

 私は目尻に溜まった涙を拭いて、顔を洗うべく休憩室の中へと入った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 屋根裏部屋へときた俺とミカド。俺は近くにあった椅子に腰を下ろし、ミカドは元の猫の姿に戻ってベッドの上に立って俺を見上げた。

 

「それで。四季ナツメの魂についてだったな」

 

「あぁ」

 

「…まず、貴様に見て貰いたいものがある」

 

 ミカドはそう言うとベッドから降りて、部屋の隅に置かれた小さな棚からランタンの様なものを取り、こちらに持ってくる。その中には、青く煌めく蝶が飛んでいた。しかし、その蝶の羽ばたきは今まで見てきた蝶と比べて弱々しく、今にも力尽きてしまいそうな印象を受ける。

 

「これは?」

 

「四季ナツメから零れた魂の一部だ」

 

 本来現世に零れた魂である蝶は神の下に送らなければならない。それはミカド自身が説明した事だ。しかしこの蝶はそれをせず、何故か保管されている。その理由は今、ミカドの口から話された通り。

 なるほど、まだ生きている人間の魂を神の下には送れない。

 

「それなら、その魂を四季さんに返せば問題は解決するんじゃないのか」

 

 だが、疑問は残る。四季さんから零れた魂の一部がそこにあるのなら、何故本人に返さないのか。魂が一つに戻れば問題は解決しそうなものだが。

 

 無論、俺も分かってはいる。ミカドがそうしないという事は、そう簡単な問題ではないんだろう。今すぐに魂を一つにしても、どうにもならない理由があるのだろう。

 

「貴様とて気付いているだろう。蝶の羽ばたきが弱いことに」

 

「…」

 

「この状態で魂を返しても逆効果だ。魂が更に弱くなるだけ。だから、吾輩は四季ナツメの魂に輝きが戻るのを待っていた。…これでも、以前よりマシになっていたんだぞ。羽ばたきすらしていなかったのだからな」

 

 四季さんの問題を根本から解決するには、四季さんの魂に光を戻さなければならない。分かりやすく言えば、この蝶の羽ばたきがもっと強くなった時こそ、四季さんに魂の一部を返すべきタイミングという事か。

 

「しかし、昨日の事だ。突然、蝶の羽ばたきが弱くなった。…昨日、四季ナツメが貴様と共に帰路に着いてからだ」

 

「…」

 

 ミカドの鋭い視線が俺を射抜く。俺はその視線から目を逸らす事なく、正面から受け止める。

 

「柳千尋。貴様、四季ナツメに何をした。触り程度は吾輩でも予想できる。恐らく、バイトを辞めると、昨日の段階から四季ナツメに話したな」

 

「さすが。よく分かったな」

 

「だがその理由は何だ。貴様はバイトを辞めたいと思う理由を四季ナツメに突き付けた。それが、四季ナツメにとって大きなショックを与えた」

 

「…」

 

「もう一度聞くぞ、柳千尋。貴様は四季ナツメに、何を言った」

 

 もう、こいつは探偵か何かにでもなれば良いと思う。鋭すぎる。いや、確かにバイト辞める云々については俺の話すタイミングと四季さんの魂が弱ったタイミングが合致した所から予測できなくはないが、そこから俺がバイトを辞める理由を話した事まで突き止めるとか。

 いや、それも予想できなくはない、のか?いやでも少なくとも俺には出来る気がしない。だってそこまで鋭くないし。

 

 …さて、もうミカドに誤魔化しは通用しないだろう。俺を見る鋭い目…いや、猫の目だから普通に可愛いわ。これがあの人間の姿だったらちょっと怖かっただろうけど。猫だからそこまで怖くないわ。

 とにかく、俺はミカドに昨日の帰路にてした四季さんとの会話について話す。話が続くごとにミカドの目は見開いていき、そして、俺は最後に四季さんを置いて家に帰ったところまで話し終えた時。

 

「バカな…。貴様、四季ナツメを見捨てる気か…?」

 

「見捨てる、とは心外だな。まあ、結果的にはそう見えなくもないか…。でも、それを望んだのは四季さんだ」

 

「ふざけるな!四季ナツメはそんな事など望んでいない!」

 

 つい驚いてしまう。ミカドが声を荒げる所など、初めて見たから。

 

「俺だって説得は試みた。でも、拒否したのは四季さんだ」

 

「説得だと?違う。貴様は感情のままに八つ当たりをしただけだ。貴様が怒る気持ちは分からないでもない。だが、あんなものは説得とは呼ばん」

 

「…」

 

 八つ当たりと言われ、何故か心が痛む。違う、という否定の言葉が出てこない。

 それは、頭の片隅でそうだと理解しているからなのか。

 

「貴様とて気付いている筈だ。四季ナツメは、貴様に心を許している事に」

 

「そんなの、この店にいる全員に対してもそうだろ」

 

「貴様に対しては特別だと言っているんだ」

 

 俺の返答に対して即座に封殺するように更に返事を返すミカド。

 

「貴様と四季ナツメの間に何があったのか吾輩は知らない。だがな、四季ナツメは貴様と出会ってから笑顔が増えた。生きる活力を取り戻し始めていた」

 

「…」

 

 ミカドの視線を受け止めていた目が下を向く。ミカドの姿は見えなくなる。それでも、ミカドの声は容赦なく俺に降り注いだ。

 

「だったら、俺はどうすればいい」

 

「なに?」

 

「俺に四季さんを救えっていうのか」

 

「…」

 

「そんな事、出来やしない。俺にそんな力なんてない」

 

「違う。貴様はいつも通り、四季ナツメの傍にいればそれで良かった。それで、四季ナツメの魂に力は戻っていた筈だった」

 

「間違っているぞミカド。とっくに全てを諦めてしまった人間を、それだけで救える筈がない」

 

 ミカドは俺に、四季さんを救えと言いたいらしい。それも、ただ四季さんの傍にいれば良かったなんて言い出す始末。

 

 違う。それは違う。そんな程度で救えるのなら苦労はない。

 四季さんと直接話したから分かる。

 

「諦めるっていうのは、もう四季さんの中で当たり前として定着しているんだ。…多分、それはお前の方が分かっている筈だぞミカド。俺よりも先に、そして俺よりも詳しく四季さんの過去を聞いているんだろう?」

 

「…」

 

 今度はミカドが黙り込む番だった。数秒待ち、ミカドが何も返す言葉を持たない事を確かめてから、俺は続ける。

 

「その人に染み付いた当たり前は抜けない。本人が心から変えようと思わない限り。だけど、四季さんはそれすら諦めている。諦める事が自分にとっての当たり前だから」

 

「…だが、貴様なら」

 

「俺ならそれを変えられると?前にも言った筈だ。俺は、()()()()()出来ない」

 

 ミカドは俺の何にそこまで期待しているのか知らないが、所詮俺は他人よりも見えるものが多いだけの人間だ。それも見えたからといって何かが出来る訳でもない。ただ、見えるだけ。それで終わり。

 

「俺には、何も出来ない。何も変えられない」

 

「…柳千尋。貴様は─────」

 

 いけない、少し喋りすぎたかもしれない。さすがに詳細を悟られはしないだろうが、俺の目について何かあったという所までは見抜かれたかもしれない。

 追求される前に退散する事にする。

 

「聞きたい事は聞いた。シフトについては、閉店してからまた来る」

 

「なっ、おい。今日のシフトは」

 

「休む」

 

 ミカドはそれ以上何も言ってこなかった。自分勝手とは分かっているが、あんな話をした後に仕事をする気分にはどうしてもなれない。勿論、気分でなくとも仕事はしなくてはならないのだが…。どのみち俺はこの店を去るんだ。いつまでも毎日毎日ここにはいられないし、今の内から俺の手がない状態に馴れる事も必要だろう。

 

 なんて、そんな事は言い訳なのは分かっている。分かっているが、どうしてもこの店にいたくなかった。この店にいたら、脳裏に今までの事が過って。まるで、自分が何もかも間違っているように思えてしまう。

 ここにいたらおかしくなりそうで、一秒でも早く離れてしまいたい。休憩室に入り、さっさと作業服から私服に着替えてしまう。

 

「─────」

 

 さっき俺が入ってきた方とは逆の扉。つまり、キッチンとフロアに繋がる扉から、話し声が聞こえてくる。声は込もって内容までは聞き取れないが、これは涼音さんの声だろうか。高嶺と何か話しているのだろう。

 昨日までは、その中に俺もいた。これからは少しずつその回数は減っていき、やがてそんな時間はなくなる。

 

 休憩室とキッチンを隔てる扉は、まるでこれからの俺と彼等の関係を暗示しているようだった。そして、これから実際にその通りになるのだろう。

 

 俺は視線を扉から切り、裏口の方の扉から休憩室を出るのだった。




間違ってんだよ、おまえだけって訳じゃなくて二人とも間違ってんだよって書きながら内心叫んでます
でもこういうすれ違い大好きです(ゲス笑)


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第二十一話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 単刀直入に言う。俺は今、ベッドの上で頭を抱えていた。絶賛超絶後悔真っ最中であった。

 

 やった。やってしまった。感情のままに当たり散らしてしまった。これじゃあミカドが言った八つ当たりそのものじゃないか。

 何だって俺はあんな事を言ったんだ。適当にミカドの台詞は聞き流していれば良かったものを、ムキになって言い返して、挙げ句の果てにくっさい台詞を吐いて。

 

 しかし何だろう、物凄くデジャブを感じる。前にも、しかもかなり最近にもこんな事があった様な─────

 

「─────あぁ、そうか」

 

 思い出した。まだステラがオープンする前。初めて四季さんと帰路を一緒にした時だ。

 あの時も俺は滅茶苦茶臭い台詞を吐いて、帰ってからこうやって恥ずかしさの余り悶えていた。

 

 あの時は、こんな未来が待っているなんて想像もつかなかった。あの時の俺はステラで働くつもりはさらさら無くて。だけど四季さんの誘いを受け入れてステラで働く様になって。ステラでの時間はとても忙しくて、それと同時に楽しくて、毎日が充実していた様に感じて。

 そして、俺は裏切られた。誰でもない、俺をステラに引き込んだ四季さん自身に。

 

「裏切られた、か」

 

 だが、ミカドと話してからどうももやもやしてならない。

 いや、ずっと無視していたけれど。ミカドと話す前から、昨日四季さんと話をしてからずっと、胸の内がスッキリしない。

 

 俺は俺の思う事を言った。そして、間違った事を言ったつもりはない。四季さんは今の状態を変えようとせず、運命を受け入れて、諦めて、俺達を裏切った。

 それでも、もう少し何か言い方があったかもしれない。他に選択肢があったかもしれない。そう思えてならないのだ。

 

 こんな事は初めてだ。俺は今まで、俺がとった選択に疑いを持った事はなかった。

 勿論、全て正しい選択をしてきたとは言わない。後になって自分が間違いだって気付いた事はあるし、それによって迷惑を掛けた人に謝り倒した事だってある。

 それでも、今みたいな心情になった事はなかった。

 

 ─────もし、四季さんがこのまま何も変わらなかったら、どうなるんだ?

 

 そこまで考えた時、ふとある疑問が頭の中に浮かんだ。そして、その疑問は一瞬で氷解する。

 何故ならその答えは、四季さん自身が言っていたのだから。危うい、と。もう、残された時間は少ないと。

 

 つまりそれは、四季さんが死ぬという事。

 

「っ─────」

 

 分かっていたつもりだ。その上で、俺は四季さんと決別したのだから。なのに、改めてその事実と向き合った瞬間、背筋が強烈な寒気に襲われる。

 

 死ぬ?四季さんが?もうすぐ?

 

 何を分かりきった事を。それを承知で俺は今の選択をとったのではないのか。

 

 それに、たとえ俺が選択を翻した所でどうなる。さっきミカドに言った通り、俺にはどうする事も出来ない。俺に四季さんは救えない。だから、今更掌を返した所でどうにもならない。

 

「…くそ」

 

 なのに、心のざわつきが収まらない。

 まさかとは思うが、俺は四季さんを助けたいのか?…いや、それは認めよう。四季さんがこれから先生きるために、俺に何か出来る事があるのなら、やってやろう。

 

 しかし、何もない。俺に出来る事はない。俺に人を救う力等ないと、とっくに知ってるじゃないか。

 

「…寝よう」

 

 今日が必修講義がない日で良かった。お蔭でサボる事が出来る。

 着替える気力もなく、服はそのまま、仰向けに俺は目を閉じた。何だかもう疲れた。何もしたくない。何も考えたくない。このまま、好きなだけ寝ていたい。

 

 目を閉じる前は眠気なんて全く感じていなかったのに、目を閉じた途端込み上げてきた眠気はあっという間に俺の意識を奪った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目の前に、穏やかに柔和な笑みを浮かべる老女の顔があった。俺は泣いている。老女は笑顔のまま俺の話に耳を傾けている。

 不思議な感覚だ。俺は間違いなくこの老女に何か話している筈なのに、何を言っているのか分からない。何も聞こえない。ただ、泣きながらもこの老女の笑顔に心が安らぐ。この感覚が、とても懐かしく思える。

 

『そうかい。それは可哀想だねぇ。千尋には本当に見えてるのにねぇ』

 

 一通り話し終えると、老女は俺の頭を撫でながら優しげに言う。

 あぁ、そうだ。この声、頭に乗せられた温かい手。忘れられる筈がない。

 

『そうだよバアちゃん。俺はホントに見たんだよ!でもあいつら、そんなのいないって、俺をバカにしたんだ!』

 

 その老女が俺の祖母だと、バアちゃんだと思い出した瞬間、それが切っ掛けだったかのように俺の声が聞こえ出した。

 そうだ。俺はこの目で普通の人には見えない存在が見えて、小さい頃はバカ正直に周囲の子供にその事を教えたりしていて。その度にバカにされ、そんなのいないと言われ、おかしい奴だと扱われるのが悔しくて、意地になっていた。

 

『でもね、千尋?千尋には見えていても、他の人にとってはそうじゃない。そして、見えないものを人というのは、どうしても信じられないんだよ』

 

『…でも、バアちゃんは信じてくれるじゃん』

 

『バアちゃんは、千尋が嘘を吐く様な子じゃないって知ってるからねぇ』

 

 そうだ。周囲の同年代の子供にバカにされる度に俺は応戦して、でも俺には誰も味方してくれなくて、結局数に負けて泣いて帰っていた。そうして泣いて帰る度にいつもバアちゃんに慰められて。

 別に両親もそういった奴らみたいに俺をバカにしていた訳じゃない。普通に優しく接してくれていたし、間違っても虐待みたいな扱いはされていなかった。ただ、この目の事だけは、バアちゃんみたいに信じてはくれなかったが。

 

 この世あらざるものが見える事を信じてくれたのはバアちゃんだけだった。そしてバアちゃんは、いつも俺にこう言っていた。

 

『千尋?千尋と同じ景色はバアちゃんには見えない。でもね、その目について一つだけ分かる事がある』

 

『その目は特別。何で千尋なのかは分からないけど、きっと千尋が選ばれた理由がある』

 

『その目を悪い事に使ってはいけないよ?バアちゃんは、その目を誰かを助けるために使ってほしい』

 

 バアちゃんの優しい声。そうだ。バアちゃんはいつも言っていた。俺の頭を撫でながら、願いを込めて、何度も俺にそう言っていた。

 

 でも─────

 

『アンタが、母さんを殺したのよ!!!』

 

 この目に人を救う力なんてないのだと、俺はもう知っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「─────」

 

 ふと、耳に何かの音を捉えて意識が覚醒する。それと同時に開いた瞼。そして、すぐ目の前にあった顔と視線が交わる。

 

「…」

 

「…」

 

「…うおっ!?」

 

 当たり前だが、俺はこの部屋に一人暮らししている。寝る前に帰ってきた時は部屋に一人だったし、誰かが部屋の合鍵を持っている訳でもない。

 両親ですら海外暮らしという事もあり、俺の部屋の鍵を持っていないのだ。恋人がいる訳でもなく、俺の部屋の鍵は俺しか持っていない。俺以外に、この部屋に入る手段を持った者はいない。

 扉の鍵をかけ忘れていた場合は例外ではあるが、残念な事に俺は帰ってきてすぐ後ろ手に鍵をかけた記憶がハッキリある。そのパターンはあり得ない。

 

 つまりだ。

 

「何でこの部屋にいるんですか、朔夜さん」

 

「ピッキングは得意だから」

 

 目の前にいる朔夜さんは俺の部屋に無断で侵入しているという事になる。

 というか、明月さんもそうだけど、ピッキングって人外界隈で流行ってるんだろうか。

 

「おはよう、千尋」

 

「おはようございます、不法侵入者様。警察に通報してもよろしいですか?」

 

「だめ」

 

 にこやかに、それでいて有無を言わせない迫力を纏った笑顔を向けられてこの話題についてこれ以上何も言えなくなってしまう。

 まあ通報に関してはただの冗談だったのだが、しかし何だって不法侵入してまで俺の部屋に入ってきてるんだろうかこの神は。

 

「だってピンポン押しても出なかったから。ミカドに聞いたらとっくに帰ってる筈だって言ってたし」

 

「だからって不法侵入しないでくださいよ。普通に肝冷やしましたよ」

 

 ていうかピンポンて、言い方可愛いなこの野郎。あと心を読まないで。

 

「…それで、俺に何か用ですか」

 

「そんな警戒しないでいい。…ていっても、難しいか」

 

「どうせ、ミカドから聞いたんでしょう」

 

 さっき、朔夜さんはミカドから俺が帰った話を聞いたと言っていた。それなら、俺が早引きした理由だってすでに知っている筈。

 この人からも説教されるのだろうか。正直それはご遠慮願いたい。多分、ミカドと話した時と同じ気持ちになるから。どうしても心が痛んで仕方なくなるだろうから。

 

「いや?私からその事に関して特に言う事はないよ?」

 

「はい?」

 

「んー…。まあ強いて言うなら、女の子を泣かすような子に育てた覚えはありません、くらい?」

 

「俺は貴女に育てられた覚えはないです。それに四季さんは泣いてないでしょう」

 

 しかし予想に反して朔夜さんはアッサリしていた。朔夜さんは昨日の四季さんとの会話から考えるに、四季さんの魂について色々と悟っていた筈だ。だから、ミカドと同じように四季さんを助けてあげようみたいな事を言ってくると思っていたのだが。

 

「確かに、涙を流してはいなかったね。でも、あの子の心は別さ」

 

「…」

 

 何も言い返せない。朔夜さんの言葉は、これ以上なくその通りだと思ってしまったから。ただ。

 

「言う事はなかったんじゃないんですか?」

 

「あはは。年長者としてのアドバイスくらいは許してほしいなー」

 

 さっき言う事はないと言った割には随分と話を引っ張ってくれる。その事に突っ込むが、余裕を持ってそのツッコミは流されてしまう。

 

 それと、年長者どころじゃない気がするんだが。

 

「ナツメ君は君が怒った理由に気付いてる。そして君も、今回の事について自分が全面的に正しいとは思ってない。それなら後は時間の問題だと私は考えてるよ」

 

「…」

 

「ただ、その時間は長くないって事だけは、肝に命じておく事だ」

 

「─────」

 

 アドバイスというより、まるで脅迫とすら思える程に、その言葉には迫力があった。

 そして朔夜さんが言う時間が何を意味するのかは、考える迄もなく察しがついた。

 

「俺には、何も出来ません」

 

「…まあ、君が後悔しない選択をする事だね」

 

 朔夜さんはその言葉を最後に、以降この話題について口にする事はなかった。

 一度ため息を吐いた後、直前までの張り詰めた空気を弛緩させる柔らかい笑顔を浮かべながら口を開いた。

 

「それより、こんな話をしに私はここに侵入したんじゃないんだよ」

 

「今、侵入って言いましたよね」

 

「これから君にはその目の使い方を覚えて貰う」

 

「侵入って言いましたよね。ねぇ」

 

「大丈夫。心配に思わないでいい。私が付きっきりでサポートするから、危険はない」

 

「無視すんな」

 

 いけない、つい敬語が抜けてしまった。一度気を落ち着ける。

 とりあえず俺のツッコミには全く触れる気がない事はよく分かったので、さっきから言っている目の使い方とやらについて聞く事にする。

 

「それで、目の使い方って?まさか、ジ○ンプ漫画よろしく修行でもするんですか?」

 

「いやいや、そんな熱血系の修行はしないさ。何なら普通にこの部屋で事足りるしね」

 

 どうやらどこかの秘境で瞑想したりとか滝に打たれたりとかそういう事ではないらしい。

 

「前にも言ったね。その目は星が見てきたもの、或いは見ているものを読み取る力があるって。その力を行使するには、まず星の意識と接続しなくてはならない。つまり、君に覚えて貰うのは、星の意識と接続するやり方だよ」

 

「星の意識…?接続…?」

 

 正直まだこの目の力についてすら曖昧だというのに、いきなり星の意識やら接続やらと言われても困る。

 しかしここで質問をしたら話が長くなるだろうし、それにさっき朔夜さんがサポートすると言っていたし、とにかくやってみれば感覚を掴めてくるだろう。

 

 今は黙って話の流れに身を任せる事にする。

 

「まあ小難しい話はやめて、一度実践してみようか」

 

 朔夜さんはそう言うと、掌を俺の頭に乗せる。

 

「目を閉じて、気を落ち着けて。今は頭に乗ってる掌に集中して」

 

 言う通りに目を閉じる。気を落ち着け、頭の上に感じる温もりに意識を集中する。

 

「ゆっくり息を吸って─────吐いて」

 

 これも言われた通りに実行する。すると、頭の上に乗った掌から感じる温もりが強くなっていく。

 強くなる、とはいっても熱いとは感じない。ただ、初めはそこにあるとだけしか感じなかった温もりが、次第に頭の上から顔に、首に、身体全体に染み渡っていく。

 

「─────」

 

 そうして目を閉じ続けてどれくらい時間が経っただろう。数分か、或いは数十分か。そんな時間の感覚すら薄れている中で、俺はふと視界に小さな光が見える事に気が付いた。

 そんな事はあり得ない。だが確かに、俺の視界にその光は存在している。見えている。

 

 俺は何かを考える前に、無意識にその光を手繰り寄せようとした。

 

「あ、やば」

 

 ふと、そんな声がすぐ傍らから聞こえてきた。

 その直後、何にも形容できない、今まで経験した事がない痛みが全身を襲う。何かにぶつかった衝撃とは違う、内側から何かが破裂したような、そんな感覚。

 

 この感覚は何なのか、恐らく分かるであろう朔夜さんに質問すべく口を開く─────事は出来ず、目を閉じたまま瞼を開く事も出来ず、俺の意識は急激に落ちていった。



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第二十二話





明らかに作品の雰囲気が原作と掛け離れてる気がしますが許してください何でもしますから


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それは朝と昼に続いて三度目の起床だった。目を覚ましたばかりではあるが、意識はハッキリしていて、気を失った時の事も覚えている。

 目を閉じているにも関わらず暗闇の中で小さな光が見えて、その光を手繰り寄せようとした途端、全身に痛みが奔って、あっという間に意識を失った。

 

 ついでに、意識を失う直前、強烈な痛みを感じる中で朔夜さんが『あ、やば』と言ったのも聞こえていた。体を起こし、どうやら寝ている俺の様子をずっと見ていたらしい、ベッドに体を凭れて座っていた朔夜さんを見る。

 

「おはよう」

 

「おはようございます。お蔭でよく眠れました」

 

「違うんだ。私にも想定外だったんだ」

 

 特に表情を変えているつもりはないのだが、朔夜さんはブンブンと頭を振る。そしてまるで言い訳をするかの如く必死に言い募る。

 

「まさか、星との意識の繋がりを拡げようとするとは思わなかったんだ。本当は星と意識が繋がっている感覚を覚えて貰うだけのつもりだったんだ。それを千尋が拡げるとは思わなかったんだ」

 

「言い訳は止めましょう。俺は覚えていますよ。朔夜さんが『危険はない』って言ったのを」

 

「違うんだ。違う、違うんだ。そんな目で私を見ないでくれ。私は悪くない」

 

「なら、俺が悪いと」

 

「…あああああああああああああ─────」

 

 両手で頭を抱えて踞る朔夜さんを無感情に眺める。まあ、このくらいの仕返しは許されるだろう。あの瞬間、マジで死ぬかと思った。身体が爆発四散する感覚とはあの事なのか、と突拍子もない事を考えてしまう程に衝撃的な感覚だったのだ。

 大体初めに危険はないと言ったのは朔夜さんなのだ。今回の件でどんな予想外の事が起きたのかは正直理解できていないが、結局は今回の被害者は俺である。朔夜さんの様子から見て彼女が加害者、とは言い切れないが、とりあえずこの程度の仕返しは許されて然るべきである。

 

「不幸な事故なんだ…。私は悪くねぇ…」

 

「はいはい。それで、結局何で俺は気絶したんです?」

 

「君が深く星の意識と繋がろうとしたからだよ」

 

 これ以上項垂れられても面倒臭いのでもう触れない事にする。なので話題を移す。

 俺の質問に朔夜さんは項垂れたまま、しかし即答する。

 

 待て、何だそれは。それではまるで、

 

「俺のせいみたいじゃないですか」

 

「実際君のせいなんだよ…。まあ、責めるつもりはないけど。何も知らないでの行為だったんだろうし」

 

 まさかの責任転嫁である。危険はない、なんて胸を張って言い切っておきながらいざトラブルが起きたら責任を俺に押し付ける。まさにゲスの極み。この人はもしかしたら人間の汚い部分を司る神だったりするのではなかろうか。

 

「君、何か失礼な事を考えてるんじゃなかろうね」

 

「いやこれっぽっちも」

 

 まずい、話が逸れる。じと目でこちらを見る朔夜さんにこれ以上口を開かせてはならない。

 ここで話が逸れては俺に責任が押し付けられる流れになってしまう。その前に話の流れを修正する。

 

「それで、俺が何をしたんです?特に自覚はないんですが」

 

「…君、星と意識が繋がった感覚を味わっただろう?」

 

「はい?いや、そんな感覚覚えて─────」

 

 そこまで言ってから思い出す。瞼を閉じているにも関わらず、暗闇の中で見えた小さな光の事を。

 

「覚えはあるみたいだね。そして、君はそれを詳しく知ろうとしただろう」

 

「─────」

 

 言われて、その光景が脳裏を過る。あぁ、確かに覚えている。暗闇の中で見た光を俺は手繰り寄せようとした。それが、俺が気絶した原因なのだろうか。

 

「星が持つ記憶の総量をそのまま読み取ろうとしたんだ。人間の脳が耐えきれる筈がない」

 

「…」

 

「本当にギリギリだったんだよ?私がすぐに君と星との繋がりを切断したから良かったものの、間に合わなかったら死んでたよ?」

 

 朔夜さんの言葉を聞いて少し考えてみる。この星が持つ、数十億年という途方もない量の記憶。

 うん、普通に無理じゃないか?まだまだ解明が進んでいない人間の脳とはいえ、流石にそんな量の記憶を注ぎ込まれたらパンクするんじゃないか?

 パンク…。え、マジで人間爆弾になる一歩手前だったのか俺?

 

「本当にありがとうございました」

 

「何か供物をくれてもいいんだよ?」

 

「俺が生きてきた中で一番の感謝を捧げます」

 

「せめて形のある物が良かったよ」

 

 それでいいんだ。文句を言いつつこれが欲しい、あれが欲しいとは言わない所から朔夜さんの人柄…いや、神柄が窺い知れる。本当にこの人、良い神だ。

 

「とにかく。予想外のアクシデントはあったけど、お蔭で予定以上に段階は進んだよ。君の目はもう、星の意識と接続した感覚を覚えた筈だ」

 

「そんな自覚は全くないですけどね」

 

「明日からは星から引き出す記憶量のコントロールを覚えて貰うから、よろしく」

 

「今日からじゃないんですか?」

 

「倒れて目を覚ましてすぐの人間に無茶をさせる程、私は鬼じゃないよ」

 

 微笑みながらそう言った朔夜さんは立ち上がると、そのまま部屋を出ようとする。

 俺は朔夜さんを見送ろうとベッドから降りようとして、そこで朔夜さんが振り返った。

 

「あぁ、見送りは良いよ。君はゆっくり休みなさい」

 

「…いや、貴女が部屋を出たら鍵を掛けなきゃいけないし」

 

「ふふ、安心すると良い」

 

 そう言って、上着のポケットから朔夜さんが出したものとは、金属の工具。

 それがどういった用途で使用されるものなのか、俺は一瞬で悟ってしまった。

 

「…誰かに見られないようにしてくださいよ」

 

「そこは大丈夫。周囲の人間の視界に姿が入らないよう、隠蔽魔法を使うから」

 

「…そんな便利な魔法があるんなら、ピッキングなんてしないでくださいよ」

 

「物体に直接干渉する魔法は面倒なんだよ」

 

 何かこの神と話していると魔法って実は不便なんじゃないかと思えてしまう。

 少なくとも、幼少期に抱いた魔法への憧れはこの瞬間、粉々に砕け散ったのは言うまでもない。

 

「あぁそうだ。言い忘れていたよ。ミカドからの伝言だ」

 

「はい?」

 

「しばらく()()を与えるから、頭を冷やせ、だってさ」

 

「…」

 

「確かに伝えたよ」

 

 最後にそう言い残し、朔夜さんは玄関で靴を履き、扉を開けて外へと出ていった。

 

 …休み、か。

 

「辞めるなってか」

 

 休んで、頭を冷やして、だからどうなるのだろう。結論はきっと変わらない。

 しかしまあ、満足いくまでミカドに付き合ってやろうじゃないか。ミカドが諦めるのが早いか、それとも俺の掌が先に返るのか。どうせ前者だろうが、大々的にこれから出勤せずそのまま辞められるのなら越した事はない。

 

 とにかく今は、目の前の事に集中するべきだろう。今回はどうしようもない事故だったが、あの調子だと本気で集中しなければ身に危険が振り掛かるのは間違いない。

 俺のこの目、確か星詠みの瞳といったか。…何か厨二病染みたネーミングで恥ずかしいが、この目の使い方を覚える事が今、俺がもっとも優先すべき事─────

 

「そういえば、何でこの目の使い方を覚えなきゃいけないんだ?それもこんな急に─────」

 

 そこまで考えた時、ふと引っ掛かる。流されるままに朔夜さんのサポートを受けながら目の使い方を学んではいるが、何でそんな事をしなければならないのか。

 何か朔夜さんはいずれはそうしなければいけない、みたいな言い方をしていたが、その理由は?予期せぬ出来事で俺の目の力が強くなり、その結果、今の眼鏡では力を抑えきれなくなった。だから、力の使い方を学ぶ。別に不自然な事は何もない。だがそれなら、朔夜さんがもっと力の強い眼鏡を作れば良い話ではないか。

 

「それが、出来ない?」

 

 もし今の質問をしてその結果、そう返答されれば俺にはもう何も言える言葉はない。ただ、何故だろう。それだけではない気がする。

 

 理由は分からない。ただこの時、何故か頭の中で蘇った言葉があった。

 

『千尋が選ばれた理由がある』

 

 もし、この言葉の通り、俺にこの力が宿った事に理由があるのだとしたら。

 それは一体、どんな理由なのだろう。

 

 

 

 

 

 なんて考え事をする暇もなく、時は過ぎていく。毎日大学が終わればすぐに家に帰り、必ずいつ入ってきたか定かではない朔夜さんが部屋で待ち構えており、すぐに特訓が始まる。

 別に運動をしている訳じゃない。運動どころか身動き一つしない、目を瞑って集中するだけ。

 

 そうして一週間が過ぎた頃には、初めはただ光しか見えなかったのが、次第にその光の中に景色を見るようになっていった。初めて見えた景色は、見覚えのない森。どこの国なのかも分からない、ただ見た事のない植物が生い茂った森の中。

 他にもまだ人間という生物が存在しない時代の景色や、とある謎に包まれた歴史上の人物についてなど、朔夜さんのサポートを受けながら見てきた。

 

 いやあ、まさかノッブがあんな事になっていたとは思わなかった…。

 

 そうやって特訓を続ける内に俺自身、この力の恐ろしさにようやく気付き出す。

 何と言えば良いのだろう。この目の力を使えば使う程、この目の使い方が分かっていくというか。

 朔夜さんに直接教わった訳ではない。それなのに、不思議と頭の中に入ってくる。この目で何が出来るのか。

 

「だいぶ感覚が掴めてきたようだね」

 

 朔夜さんがそう言ったのは、今日も大学の講義を終えて帰ってきた時だった。いつもの様に俺の部屋に侵入して待っていた朔夜さんは、不意にそう口にしてから続ける。

 

「それじゃあ、私のサポート無しで力を行使してみようか」

 

 遂にというべきか、この段階がやってきた。

 これまでずっと、俺は朔夜さんのサポートを受けながら特訓を続けてきた。いずれはそのサポートはなくなるだろう事はとっくに分かっていた事だ。

 しかし、改めてその段階に直面すると、どうしても落ち着かない。心臓の鼓動が強く、速くなり、指先が冷たくなっていく。

 

 脳裏に過るのは初めてこの目の力を使おうとして失敗した時の事。全身が破裂したかのような感覚に襲われ、気を失ったあの時だ。

 あの時は朔夜さんが早めの対処をしてくれたからこそ助かったが、その朔夜さんのサポートはない。俺がもしここで失敗すれば、待っているのは─────

 

「そう緊張しなくていい…というのは、無理な話か。身をもって体験してしまっているんだから」

 

 朔夜さんが柔らかく微笑むと、俺の頭に掌を乗せてゆっくりと動かす。

 

「でもね、大丈夫だ。君に自覚がなくとも、君の身体が、感覚が、その目が覚えている。だから、失敗したりしないよ」

 

 俺を安心させようと優しく声を掛け続ける朔夜さん。不思議とその声で落ち着きを取り戻せてしまうのは、俺がチョロいからだろうか。

 しかし、朔夜さんが大丈夫だと言うと、本当に大丈夫な気がしてしまう。普段は神とは思えない()()な感じなのに。

 

「千尋?」

 

「はい」

 

「今、何を考えたんだい?」

 

「そろそろ朔夜さんの言う通りにしようかと」

 

 我ながら学習能力のなさに笑える。毎回深く突っ込んでは来ないが、まず間違いなく俺が考えている事はこの神に筒抜けになっている。

 

「…はぁ。千尋、本当にここにいるのが私だって事に感謝した方がいい。普通なら、その不敬だけで殺されてもおかしくない」

 

 この台詞もこの一週間の間に何度聞いた事か。本当ならもっと敬うべきなんだろうが、この神に対しては畏敬の念よりも先に親しみを覚えてしまう。それはやはり、朔夜さんの性格のお蔭なのだろう。そして、そんな性格の神は朔夜さんの言い方からして相当少ないと思われる。

 実は俺はかなり運が良いのかもしれない。

 

「まあ、いいか。それより、早速君一人での星との接続を─────」

 

 ため息混じりに恐らく、俺に目の力の行使を促そうとしたのだろう。しかしその台詞は途中で途切れ、朔夜さんは勢い良く部屋の窓の方へと振り返った。

 

 部屋の窓から見える景色はいつもと変わらない。付近の住宅街が二階からほんの少し見渡せるだけ。

 しかし、朔夜さんが見ているのはそんな周囲の景色ではない気がした。鋭く、窓の外にいる()()()を見ている。

 

「このタイミングで、それも黒幕本人が登場か。千尋の目の力が高まるのを待っていたな?」

 

 変わらず視線を窓の外に向けながら、()()()に向かって、神の一柱が話し掛ける。

 

『アァ。貴様ノ言ウ通リダ。忌々シキ星ノ奴隷ヨ』

 

 返事はすぐに返ってきた。地の底から湧いてきたと錯覚させる程の低い声は、俺の全身を包み、身震いさせる。

 

「奴隷、ね。私がそうだとしたら、君もその一員だと思うが?」

 

『我ハ貴様等トハ違ウ。星ニ良イ様ニ使ワレル今ヲ良シトシテイナイ』

 

 朔夜さんの声は冷たく静かだった。冷たすぎて、静かすぎた。どこからか聞こえてくる声に淡々と返事を返している。

 すると、朔夜さんの視線が僅かに動く。窓の外からゆっくりと、視線の先は部屋の中へと。

 

『我ハ御免ダ。神ニ与エラレタ悠久ノ時ヲ、奴隷トシテ費ヤシ続ケル等』

 

 朔夜さんの視線の先に突然、一匹の黒い蝶が現れる。先程まで何もなかったその空間に突如、黒い蝶が湧いて出てきたのだ。

 ─────いや、一匹ではない。というより、一匹ではなくなった。その黒い蝶は次第にその数を増やしていく。

 最初にいた黒い蝶が新たな蝶を生んでいるのか、それとも分裂してその数を増やしているのか、定かではないが俺の視線の先で黒い蝶が急激に数を増やし、やがて二メートルを超える巨大な黒い塊となる。

 

「星に逆らうために星の力を求めるか。何とも皮肉だね」

 

『好キニ言ウガ良イ。貰イ受ケルゾ、星詠ミノ瞳ヲ』

 

 黒い塊が形作ったのは巨大な男。その容貌は巌のごとく、その身体から発せられる威圧感はとても同じ人間とは思えない。

 

 すぐに悟る。この男は人間ではない。しかし、明月さんと同じ死神ではなく、ミカドのような何か伝説上の生き物という枠にも当て嵌まらない。

 

 この男は朔夜さんと同じ、神の一柱だと。



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第二十三話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

~Another View~

 気付いた時、私の足はステラに向いていた。大学の講義が終わり、今日は定休日なのだから家に帰れば良いにも関わらず、無意識にステラへと歩いていた。

 

 店の前で立ち止まる。この時間帯、いつもならば昼食時というのもあって平日でもそれなりにお客さんの出入りは活発なのだが、今日は人気がまるでない。定休日なのだから当然なんだけど。

 

 どうして私はここに足を向けたのだろう。自分でも分からない。それでも、私の足は自然と店の中へと歩いていた。裏口から鍵を開けて中へ、そのまま休憩室の方へと行こうとして─────

 

「今日は定休日だぞ」

 

 低い男の声が足下の方から聞こえてきた。声が聞こえてきた方を見下ろすと、赤いマントを纏い、頭に王冠を被った灰色の毛並みをした猫、閣下が二本足で立って私を見上げていた。

 

「ナツメさん?」

 

 閣下だけじゃない。裏口の玄関前にある階段から降りてきた明月さんが顔を見せる。

 明月さんは私の顔を見て目を丸くすると、早足で階段を降りて私の方に歩み寄ってくる。

 

「どうかしたんですか?お店に何か用事でもありましたか?」

 

「ううん、そういう訳じゃないんだけど…。ただ、ちょっと寄りたくなっちゃって」

 

 私の前で立ち止まった明月さんが休みの日にも関わらず店に来た理由を聞いてくるが、私自身がどうしてここに来たのかよく分かっていないのだ。さっき言った通り、ただちょっと寄りたくなった、としか答えられなかった。

 

「ナツメさん…」

 

「…うん、ごめんね?今日はお休みなのに、変だね私」

 

 明月さんの目が気遣わしげに私の顔色を窺っている。明月さんに心配を掛けてしまった。精一杯の笑顔を浮かべて…浮かべたつもりで、だけど私の笑顔は明月さんの心配をもっと濃くしてしまったらしい。

 明月さんだけじゃない。閣下も目を細めて私を見上げている。

 

 そんなに今の私は心配になるくらいおかしいんだろうか。…おかしいんだろう。柳君がお店に来なくなってから過ぎた一週間、私は何度も皆に心配された。

 涼音さんにも、高嶺君にも。墨染さんや火打谷さんに、勿論明月さんにも。その度に大丈夫と答えて、そして必ず最後にはいつでも相談に乗ると言ってくれるのだ。

 

 深くは聞いてこない。私の様子がおかしく感じ始めた時と同じくして、柳君が来なくなって。特に涼音さんは私以外で最初にバイトを辞めたいと話した相手。私と柳くんの間に何かがあったと勘づかない筈がない。他の皆も、これだけ条件が揃えば涼音さんよりは遅くとも気付いている筈だ。

 それでも、私を気遣っているのか、深くは聞いてこなかった。

 

「ナツメさん。折角来たんです。お茶でも飲みながら、お話しませんか?」

 

 不意に、明月さんが私を誘う。

 

「ふむ。それでは、我輩が茶を淹れるとしよう。それとも、コーヒーの方がいいか?」

 

「閣下?ナツメさんはコーヒーが苦手なんですよ?」

 

「分かっている。冗談だ」

 

 明月さんだけでなく、閣下まで乗り気である。二人が、私に気を遣っている。

 でも、二人には悪いが今はそんな気分ではない。気を遣ってくれて本当に申し訳ないが、断らせて貰う。

 

「…うん。それじゃあ、お願いしようかな」

 

 その、つもりだったのに。断ろうとした直前、心の奥で、一人になりたくないという強い感情が奔った。その衝動に従って、私の口は私の意思とは関係なく、二人の言葉に甘える台詞を吐いてしまう。

 

 いけない。自分が思っていたよりも私の心は弱っているらしい。

 

 それでも、私の返事を聞いて笑顔を浮かべる二人を見ると、安心してしまう。まだここにいたいと思ってしまう。私って、こんなに寂しがりだったんだ。今この瞬間、初めて私は自分のそんな一面を知る。

 

 三人でフロアに行き、私と明月さんは二人がけの席に座り、閣下はカウンターで紅茶を淹れる。閣下が猫の姿でお茶を淹れてる所を初めて見たけど、肉球で本当に器用に物を掴んでいる。お店が営業している時、閣下が人間の姿で見えている時も、実際はこうやってお茶やコーヒーを淹れているんだろうか。

 

 ちょっとだけ、笑みが溢れてしまう。

 

「何がおかしい」

 

「え?」

 

「吾輩がこの姿で茶を淹れる所は、そんなにおかしいか」

 

「あ、えっと、あの…」

 

 いけない。笑った所を閣下に見られてしまった。閣下は細い目で私を軽く睨んでいる。

 責めるようなその視線に言葉を返せずにいると、すぐ傍から助け船が入る。

 

「仕方ありませんよ、閣下。猫がお茶を淹れてる所を見たら、誰でもそうなります。多分、柳さんが見たら大笑いしていますよ?閣下が愛くるしい故、仕方のない事なんです」

 

「…一度の無礼は許そう。次はないと思え」

 

 明月さんの誉め言葉に毒気を抜かれたのか、閣下は一度息を吐いてから矛を納めて作業に再び集中する。

 でも、普段は貴族の威厳が、なんて言ってる人に愛くるしいなんて言葉を使ったら逆効果な気がするけど…、もしかして閣下って、実はチョロかったりするんだろうか。

 ステラをオープンする直前、閣下を撮影した画像をインストにアップしようと決まった際、渋った閣下は明月さんに煽られてあっさり意見を翻して了承したし。

 

 でも次はないと言われちゃったし、以降は注意しよう。

 

「出来たぞ」

 

 閣下が紅茶が入ったカップ二つを両肉球に乗せて、カウンターからテーブルに、テーブルからまた別のテーブルに飛び移りながら私達がいる席まで来る。

 かなり激しい動きだったにも関わらず、閣下が持った二つのカップから紅茶が溢れた様子は見られなかった。一体どういう技術で以て今の動きを実現させたのだろう。

 

「…ふぅ」

 

 先程までの思考を一旦放棄して、閣下が目の前に置いたカップを持ち、縁に口付けて紅茶を一口。紅茶の風味を味わいながら喉に通し、一息吐く。

 

 …美味しい。そこは本心からそう思っている。それなのに─────

 

「物足りない、という顔だな」

 

「え?」

 

 物足りない、と思ってしまった瞬間、閣下に声を掛けられた。それも、私が丁度抱いた感想を言い当てられる形で。

 

「やはり、柳千尋が淹れる味には届かんか」

 

「閣下だけじゃなく、皆がそうなんですけどね」

 

 肉球を口許に当てながら言う閣下に、苦笑いしながら明月さんが続く。

 二人の言う通り、この店で働く誰もが、柳君に匹敵する紅茶を未だ淹れられない。

 

 オープン前から柳君に教わりながら何度も紅茶を淹れてきたが、どうしてもあの紅茶の味を再現できない。

 火打谷さんは何度トライしても柳君に追い付く事が出来ずいつも悔しがっていた。そんな火打谷さんを見ながら、柳君は『そう簡単に追い付けると思うなよ。年季が違う』なんて笑ってて─────

 

「ナツメさん」

 

「…明月さん」

 

 やっぱり、来なければ良かった。いつもは慌ただしく動き回っていたから大丈夫だったけれど、こうして落ち着いてフロアを見てしまうと、どうしても思い出してしまう。

 ここで起こった笑顔の数々を。そして、笑顔を浮かべる人達の中に必ずいた一人が、今はもういないのだという事を。

 

「ナツメさん。今、貴女は何を考えていますか?」

 

「え…?」

 

「まだ、いつ死んでも良いって。満足だって、思えてますか?」

 

「─────」

 

 言葉に詰まる。明月さんの問い掛けが心に染み渡る。

 

 一週間前。柳君と話した時の私なら、多分迷う事なく頷いていただろう。

 でも、今は違う。今のまま死にたくない。たとえ先が短い運命を変えられなくとも、このままじゃ死ねない。

 

 今の私は、そう思える様になっていた。

 

「…嫌だ」

 

 そんな言葉が、自然と口から溢れるようになっていた。

 

「まだ、生きたい。死にたくない」

 

 今の私には、そう思える事が出来た。

 

「…やれやれ。その言葉を聞くためにどれだけ苦労したか」

 

「しかも、その言葉を言わせたのが私達じゃないっていうのが何とも複雑ですね」

 

「全くだ」

 

「…えっと、ごめんなさい」

 

 明月さんと閣下が微笑む。口から出る言葉はちょっぴり皮肉が混じっているものの、その表情から心の底から安堵しているのが伝わってくる。

 

 初めて会ったその日から、二人はずっと私の傍で、私に気を遣い続けてくれた。

 

「そして、ありがとう。今まで私を見捨てないでいてくれて」

 

「…お礼を頂けるのは素直に嬉しいんですが」

 

「ナツメの心を変えた切っ掛けが、見捨てられた事を考えると、もっと複雑だな」

 

「本当にごめんなさい…」

 

 二人は色々と頑張ってくれたのに、その努力に応える事は出来なかった。今の私の気持ちの変化だって、もし柳君と仲違いをしなければどうなっていたか。

 

 …そう考えると、本当に皮肉な話に思える。頑なな私の傍に根気よくいてくれた二人ではなく、つい最近出会って、そして仲違いした柳君の方が切っ掛けになるなんて。

 

「まあでも、それも仕方ないです。我々では、愛の力には勝てる筈もありませんから」

 

「あ、愛の力って…そんなのじゃ…!」

 

「ふむ。確かに、その通りかもしれんな」

 

「閣下まで!」

 

 愛なんて、そんなのじゃない。私を責めてくる二人に言い返すが、特に明月さんがニヤニヤと笑いながら頬杖を突いてこちらの顔を覗き込んでくる。

 

「そんな事言って~。ナツメさんの顔、真っ赤になってますよ?」

 

「そんな風に言われたら誰でも恥ずかしくなる!」

 

「え~?そういう気持ちがあるから、恥ずかしくなるんじゃありません?」

 

「だから、そんなんじゃない…!」

 

 必死に否定するけど、その反面で私の心の中でどうしても解けない疑問が出来た。

 明月さんの言う通り、そういう気持ちがないのなら恥ずかしがる必要なんてない筈だ。むしろ本当にそういう気持ちがないのなら、からかわれた事に不快感を覚える筈だ。

 

 でも今、私は羞恥こそ抱いているものの、不快感は持っていない。それは、つまり…本当に、そういう事なのだろうか。

 

 私が…、柳君を…?

 

「っ!」

 

「─────」

 

 そこまで考えた時だった。弾かれるように、明月さんと閣下が同時に同じ方へと勢い良く振り向く。

 そのあまりの勢いに、私はついさっきまで感じていた羞恥と暖かさを忘れ、二人を見る。

 

「閣下…。これは…」

 

「あぁ…。栞那、吾輩が出る。ナツメを頼むぞ」

 

「…分かりました」

 

 突然空気に奔る緊張。閣下は固い表情のままテーブルを降り、四本足で床を駆ける。

 駆けていく閣下はまるで空気に溶けていく様に姿を消す。扉が開いた様子は見えないが、もしかして外に出ていったのだろうか。

 

 しかし、何故?先程の様子を見ると、私の知らない所で尋常じゃない何かがあったとしか思えない。

 明月さんと閣下を緊張させる程の何か。私では想像し得ない何か。

 

 さっきまでの柔和な空気は完全に霧散してしまった。

 

「大丈夫です」

 

「明月さん…」

 

「絶対に、皆帰ってきますから」

 

 この時、明月さんの台詞の違和感に私は気付かなかった。

 

 皆。明月さんは確かにそう言った。閣下ではなく、皆と。

 その意味を私が知るのは、今よりもう少し後になってからだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 神々の対峙。神話でしか語られない光景が今、この現代で、目の前にて繰り広げられている。

 凍り付いたかの如く冷たい空気が震える。気のせいだろうか、この場に響き渡る、何が罅割れていく様なこの音は。

 対峙する二柱は動かず、今はただ睨み合うのみ。しかし、すぐにでもこの場を飛び出し、互いを殺さんとする殺気が部屋を満たす。

 

「悪いけど、尻尾巻いて帰ってくれないかな。そんなにこの星のために働くのが嫌なら、どこかでひっそり隠居でもしてればいい。事実、そういう奴等もいるだろう?」

 

「何故私ガソンナ弱者ノ真似事ヲシナケレバナラナイ」

 

「相変わらずプライドは高いね、君。そんなんだから惚れた娘にフラれるんじゃないのかい?」

 

「…貴様ガソレヲ言ウカ」

 

 これまで朔夜さんの挑発染みた台詞に対して、ただ淡々と返事を返していた男神の様子が変わる。

 まるで、今朔夜さんが発した台詞が、この神にとって触れてはいけない何かだったかのよう…いや、事実地雷だったのだろう。そして、笑みを浮かべている朔夜さんはそれを分かって、わざと踏み抜いた。

 

「ハツヲ殺シタ貴様ガ、ソレヲ言ウカ!」

 

「おいおい、まるで私が殺したから添い遂げられなかったみたいな言い方だな。順序が逆だろう?私があの女を殺したのは、君がフラれてからだ」

 

「─────」

 

 男神の足下が弾ける。小さく何かが砕けた音がした直後、いや、ほぼ同時、男神は朔夜さんの目の前まで接近していた。巨大なその体躯のどこにそんな俊敏さがあるというのか。一瞬にして朔夜さんの眼前に迫ると、その拳を朔夜さん目掛けて振り下ろす。

 

「ナッ─────」

 

 男神が声を漏らしたのはその直後だった。男神の動きが止まる。

 それだけではない。男神が声を漏らす直前、男神の足下で、男神を囲む光が円柱形に伸びる。

 

「転移魔法…!」

 

「さすがにここでやり合う気はないよ。このアパートが…というより、ここら一帯が焦土になる」

 

「チィッ!」

 

 忌々しげに舌を打った直後、光と共に男神の姿が消える。

 

 本当に何が起こったのか受け止めきれない。分かるのは、あの男神が俺の目を狙っているという事。そしてもう一つ、これから朔夜さんはあの神との戦いに臨むという事。

 

「やれやれ。物体に直接干渉する魔法は面倒だってのに…」

 

 愚痴る様に言いながら、朔夜さんは男神が自身と対峙していた時に立っていた場所に足を向ける。

 そこには、男神が駆け出す際に付いた足形の傷。ただ走るだけで、木製の床にこんな風に傷がつく。その事実だけで、神という存在が如何に強大か、その一端を実感できるというもの。

 

 そして─────

 

「…よし、修復完了。それじゃあ、千尋はここで待ってるんだ。私が渡したお守りを離さず持っていなさい」

 

 明らかに業者に頼まなければならない傷をあっという間に直し、そして当たり前のようにあの男神との戦いに赴こうとするこの女もまた、あの男と同じ超常者なのだと改めて実感する。

 

「…大丈夫なんですか。あいつ、凄くヤバそうでしたけど」

 

「私の心配なんて、千年は早いよ」

 

 空気に呑まれ、今まで出せなかった声がようやく出せるようになる。それでもいつもと同じ声とはいかず、明らかに口から出てきた声は震えていた。

 そんな俺を嗤う事なく、朔夜さんはただ俺を安心させるように微笑み、そう言い残して溶けるように姿を消していった。

 

 朔夜さんがどこへ行ったかなんて考えるまでもない。俺一人が残った部屋は沈黙に包まれ、先程まで部屋を満たした緊張と殺気は最初からなかったかのように消えていた。

 まるで、さっきの出来事は夢とすら思える変わりよう。

 

 だが、俺はこのすぐ後、あの出来事は現実なのだと嫌でも実感させられる事になる。

 悪意の足音がすぐそこまで迫っている等、この時の俺は知る由もなかったのだ。




次回、原作では皆無といっていい戦闘回です。


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第二十四話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 神々の衝突は何の合図も予告もなく始まった。

 

 朔夜が降り立った場所は某森の中。人の手がほとんど入らず、自然のままに生い茂る植物の楽園。

 両足が地面に着いた感覚を味わったと同時、朔夜は体を捻ってその場から跳び退る。

 

 直後、炸裂音が鳴り響く。視線の先には、自身が先程まで立っていた地面に拳を突き立てる男神。

 

「不意打ちとは、風情がないね」

 

「不意打チデコノ地ニ飛バシタ貴様ガ言エタ事カ」

 

 交わす言葉はその一言のみ。男神は再び朔夜に迫る。

 

 朔夜は体を男神に向けながらバックステップ。男神との距離を測りながら自身の両手を合わせ、ゆっくりと離していく。

 両掌の間に現れたのは一本の刀。朔夜は刀の柄を掴み、鞘を投げ捨て刀身を男神に向ける。

 

 朔夜の刃と男神の拳がぶつかり合う。朔夜は刀の腹ではなく刃で拳を受けるが、男神の拳に傷が入った様子は見られない。どころか、男神の力に朔夜が押し込まれていく。

 

「このっ」

 

 朔夜は両手に力を込めながら左足で一歩前の地面を擦る。直後、左足で擦った箇所から光の柱が撃ち上がる。

 しかしその直前、突如その場から後退した男神に攻撃は命中せず、光の柱はすぐに消滅する。

 

「馬鹿力め…」

 

「貴様ガ軟弱スギルダケダ」

 

 力比べは分が悪すぎる。とはいえ、そんな事は初めから分かりきっていた事だ。何しろ目の前の男は鬼神と呼ばれる程の力の持ち主。正面からのぶつかり合いで朔夜が勝てる見込みはゼロに等しい。

 

 正面からのぶつかり合い、ならば。

 

「ム」

 

 朔夜を中心にして、風が巻き起こる。

 そう、正面からのぶつかり合いで勝てないのなら、正面からぶつかり合わなければ良い。わざわざ相手の有利な土俵に上がる必要等ないのだから。

 

 朔夜が得意とするは現代風に言えば魔法、昔風に言えば呪術。男神をここに転移させたのも、先程の光の柱もそれらの一種だ。そして、朔夜を中心に渦巻くこの風も。

 

「チィッ─────」

 

 朔夜が男神に向けて手を翳した瞬間、即座に男神が防御体制をとる。身を屈め、両腕を交差。

 朔夜の意に従い、男神に向かって放たれた風の刃はその身を僅かながら切り裂く。ほんの僅かではあるが、先程刃とぶつかったにも関わらず男神の拳が傷一つ着かなかった事を鑑みれば、その風がどれ程の威力を持っているか窺えるだろう。

 

 朔夜が腕を振るう。更なる風の追撃が男神を襲う。それに対し─────

 

「小賢シイッ!」

 

 男神がとった行動は、尚の攻勢だった。防御を捨て、風の刃に身を晒しながら男神は朔夜に向けて突進。

 

「っ─────」

 

 朔夜は小さく何かを呟いてから、右の掌を男神に向けて翳す。風は動かず、朔夜の周りを渦巻くのみ。

 傍目からは何か起きたようには見えない。しかし男神の目には見えていた。朔夜の眼前に薄く透明な壁が現れたのを。

 

 結界。神だけが使える魔法という訳ではない。それこそ、死神ですら使える初歩的な術。

 しかし、術に秀でた神が使う結界は、たとえ即席のものだとしても、強固な城壁にも匹敵する。

 

「ヌォォォォオオオオオオオオオオ!!!」

 

「!」

 

 その強固な結界を、男神の拳はまるで紙を貫くかの様にあっさりと破壊する。

 両者の耳を劈く破砕音。思わず顔をしかめたくなる強烈な音の中、朔夜は咄嗟に刀を自身と迫る拳の間に割り込ませる。

 

 不充分な体勢では僅かな拮抗すら許されず、拳によって朔夜の身が吹き飛ぶ。

 地面で何度もバウンドしながら転がり、木の幹に衝突したところでようやく止まる。

 

「ゴホッ!ゴホッ!っ─────」

 

 息をつく暇はない。咳き込みながらも朔夜は斜め前方目掛けて体を投げ出す。身を屈めて前転。

 背後から聞こえてくる木の破砕音。そんなものは気にも留めず、追撃を仕掛けてきた男神に風の刃をお見舞いする。

 

「シィッ」

 

 しかし放たれた風は、男神の息遣いと共に振るわれた拳によって払われる。

 

「っ!」

 

 それでもなお、朔夜は風の刃を撃ち続ける。その全てが男神に打ち払われながら、構わず朔夜は男神の周囲を走り回りながら風の刃を撃つ。

 

 男神が視線で駆け回る朔夜を追いかける。朔夜が放つ風の刃を両拳で払いながら、朔夜から視線を離さない。

 男神が足を踏み出したのは、朔夜が何度目かの風の刃を放とうと手を翳す直前だった。行動の起こりを全く見せぬまま動き出す男神に、朔夜は即座に反応する。

 

 左足を引いて半身に、そして右手に握る刀を男神が振り下ろす拳と合わせながら相手の力を受け流しつつ回避。そして、目の前にある男神の体に向けて己の左手を差し向ける。

 

「この距離ならば、少しは効くんじゃないかい?」

 

「ッ!?」

 

 男神の目が見開かれると同時、朔夜の左手から風の刃が放たれる。瞬間、舞い散る鮮血。男神は切られた箇所から血を撒き散らしながら朔夜から距離をとる。

 

 攻守が逆転する。先程の攻撃により男神は無闇に接近する事が出来なくなった。よって、朔夜は自由を取り戻す。

 再び男神に降り注ぐ風の刃。そして朔夜は男神の周囲を走り回り続ける。

 

「─────」

 

 絶え間なく口を動かしながら左手を振るい続ける。

 相変わらず遠距離からの攻撃は通用しないが、朔夜は男神に接近しようとする気配すら見せない。

 そしてそれは、男神の勘に触れ、警戒を抱かせる。

 

(何故、近付イテコナイ)

 

 相手は決して馬鹿ではない。この攻防をどれだけ続けても意味はないと分かっている筈だ。

 それでもなお、朔夜は風の刃を撃ち続ける。自身の周りを走り回りながら。

 

(私ノ、周リヲ─────ッ)

 

 直後、男神の全身に悪寒が奔る。何かを考える前に、足が朔夜とは反対の方向へと向いていた。

 

「気付かれたか─────」

 

 その時、朔夜の足は止まっていた。先程まで走り続けていたというのに。しかし今はもう、()()()()()()()

 

「だが、少し遅かったね」

 

 朔夜の左手が持ち上がる。

 その直後、男神の周囲、六つの地点から雷が迸る。雷はまるで示し合わせたかの様に中心へと─────男神の方へと吸い込まれていく。

 

「グッ…、ウォッ!」

 

 ずっと走り回っていたのはこの状況を作り出すため。絶え間なく詠唱を繰り返し、地面を駆ける足に魔力を込め、六つの基点を刻む。風の刃を連発し、男神をその場に釘付けにさせて中心から逃さないようにする。

 朔夜の行動は苦し紛れのものではなく、全てが計算されたものだった。

 

 雷から逃れようと体を翻そうとする男神。が、光速の魔の手からは如何に神といえど逃れられない。男神は六筋の雷に囚われる。

 

「グォォォォォオオオオオオオオオオ──────────!!!」

 

 空気を振るわす暴声。それは男神の口から初めて漏れた苦悶の声だった。

 

 その叫びを、朔夜は顔色一つ変えず受け止めていた。ゆっくりと男神に歩み寄り、そしてその傍で立ち止まると、左腕を持ち上げ、手を翳す。

 

「終わりだよ」

 

「ガッ…グッ…!」

 

 雷に身を打たれながらも男神の目に陰りは見えない。今にもその体を喰い千切ると言わんばかりの殺気に満ちた両目が朔夜を射抜く。

 

「…」

 

 それに対し、朔夜は一つ大きく息を吐いて─────

 

「ッガアアアアアアアアアアアアアアア!!?」

 

 風の刃を撃ち放った。至近距離から放たれた刃は男神の右肩を切り裂く。傷口から散った血の雫が朔夜の顔に付着する。

 

「痛いだろう。ただでさえ六つの雷に打たれてるんだ。これから君の体を少しずつ裂いていく。…さて、どれくらの痛みで君は諦めてくれるかな?」

 

「…」

 

 朔夜の問いかけに男神は何も答えない。

 直後、放たれる風。

 

「グアアアアアア!!!」

 

「無視しないでほしいなー」

 

 風の刃によって跳び散る鮮血。傷口からは雷が全身に染み渡る。

 それでもなお折れない精神力は感嘆に値する。あの激痛に耐えられる者は、神でさえそうはいないだろう。

 

「サスガ、トイウベキカ…」

 

「ん?」

 

「ヤハリ、正解ダッタヨウダ…。本当ハ、一人デ片付ケルツモリダッタンダガナ…」

 

「…」

 

 朔夜の表情が僅かに動く。

 

「仲間…或いは部下かな?協力者がいるって事か」

 

「…」

 

「それで?その協力者はどこかな?君が危機的状況にあるにも関わらず出てこない所を見ると…、もしかしたら、見捨てられたのかもしれないよ?」

 

 この時、朔夜は男神の台詞をブラフだと予想していた。どうにか自身を少しでも動揺させ、術の揺らぎを生み出させてその場から脱出する。思惑としてはそんなところか。

 だがこの状況でもなおその協力者とやらが姿を現さない、行動を起こさない以上、ブラフの可能性が高い。それにたとえ協力者がいたとしても、この状況ならばどうとでもなる。

 

 そう、朔夜は考えていた。

 

「…クク」

 

「何が可笑しいのかな?」

 

「可笑シイサ。貴様ガ、コウモ見事ニ勘違イシテクレテルンダカラナ…」

 

 この瞬間までは。

 この状況の中で笑みを見せる男神に朔夜は警戒レベルを一つ上げる。

 

 本当に協力者がいる事を視野に入れ、様々な可能性を思い浮かべる。遠距離からの狙撃、どこからか気配を隠して不意打ち、それか転移魔法による乱入か。

 

 だが、朔夜の思い浮かべた可能性は全てが的外れだった。

 

「何故、私ガ言ウ協力者ガ、コノ場ニイル前提ニナッテイル?」

 

「─────」

 

 血の気が引く。前提から全て間違えていた。この男は自分を殺して千尋の目を奪うために戦いを挑んできた訳ではなかった。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()戦いを挑んだのだ。

 

「ウォオオ─────」

 

「しまっ…!」

 

 動揺が生まれれば集中が乱れる。集中が乱れれば、術の威力は弱まる。男神が雄叫びと共に雷の拘束から抜け出す。

 自由となった巨体がゆっくりと朔夜に迫る。

 

「モウ少シ、私ト遊ンデイテモラウゾ」

 

 全身隈無く火傷の痕が刻まれ、それでもなお男神は朔夜に挑む。

 

 この決闘で、朔夜が負ける事はほぼない。時間は掛かるだろうが、男神を殺せると朔夜自身確信している。

 しかし、時間を掛けてはならない。朔夜が選べる選択肢は二つ。時間を掛けずに男神を殺すか、隙をついて千尋のもとに転移するか。

 前者はまず無理。後者も、転移魔法を行使するにはそれなりに詠唱に集中を割かねばならない。つまり、男神との戦闘を片手間で済ませなくてはならなくなる。ならば先程のように男神の動きを止めてから転移魔法を使えば良い─────と言うだけならば簡単だが、恐らく同じ手には掛かってくれない。それにあの状況だって実現させるまでそれなりの時間を要した。

 

(これは、駄目だね。私じゃあどうしようもない)

 

 朔夜は自身の敗北を認めた。この男神の思惑にまんまと嵌まり、敗北したと認めざるを得なかった。

 

(私が他力本願する羽目になるとはね。…頼んだよ、ミカド)

 

 だから、朔夜はこの場で願う事しか出来ない。今、千尋の傍に、或いは千尋のもとへ向かっているであろう誇り高き公爵に、全てを託すしかないのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 朔夜さんと奴がいなくなった部屋で、俺は何もせずただ呆然としていた。

 まるで悪夢、しかし何度も頬をつねる度に否応なしに先程の出来事は現実だと思い知らされる。

 

 以前から俺の目を狙ってる輩がいると朔夜さんから聞いてはいたが、まさかあんな、それも神の一柱だとはこれっぽっちも想像していなかった。というより、想像できる筈がなかった。

 大体少し前まではただちょっと他人が見えないものが見えるだけで、生活自体は何ら一般人と変わらない生活を送っていたというのに。それが、今ではどうだ。まるで現代ファンタジーの世界に入り込んでしまった気分だ。

 実は超高性能のVR機器でも使って遊んでるんじゃないかという現実逃避すら浮かんできてしまう。

 

 それ程に、先程の光景はあまりに現実離れしていた。突然現れた明らかに人間とはかけ離れた巨体の持ち主。その男を何らかの魔法でどこかに消し、その後一部壊れた床を元通りにした女もまたどこかへ消えた。こんなの、普通の一般人が見ても信じられないぞ。俺だって信じたくない。今まで生きてきた世界がこんな、裏では殺伐としていただなんて。俺達が知らないところで、こういった事が何度も起きてたりしていたんだろうか…?

 

「─────」

 

 そんな現実逃避をしている最中、第六感が働いたというべきか、自分の中で曖昧なのだが、突然何かの気配を感じる。

 あまりに唐突に勘に触れる気配に、勢いよく扉の方へと振り返る。

 

 俺が住んでいるアパートは部屋の入り口が建物の中にあり、耳を澄ませば他の住人が階段を上ってくる音が聞こえてきたりする。しかし、何かが近付いてきているのは確かなのに、足音は聞こえてこない。

 

 嫌な予感がして、眼鏡を外した。枷が外され、視界が解放される。

 

「っ─────」

 

 直後、俺は踵を返してベランダの方へと駆け出した。下の住人への思い遣りとか、そんな事に思考を割く余裕はない。窓を開けてベランダに出る。無造作に置かれたサンダルを履いてから、俺はベランダから身を乗り出す。

 両手で手すりを掴み、勢いをつけて下の階のベランダに飛び移る。下の階の住人は留守だったか否か、分からないが幸運にもカーテンが閉まっており、ベランダに侵入した俺の姿を見られる事はなかった。

 

 安堵は束の間、すぐにその場から地面へと飛び降りる。これまた幸い、周囲に人はおらず、明らかに怪しすぎる俺の行動を見られる事もなかった。

 

 いや、違う。人がいないどころか、人の気配すら感じない。人の話し声も、車の走行音も、何もかも。人が生活を営む音がまるで聞こえない。世界に俺一人、取り残されたかの様に。

 

「─────」

 

 上を見上げる。つい先程まで俺がいた、俺の部屋。勢いよく飛び出したベランダに、ナニかがいる。

 

 ゆらゆらと揺れる三本の尾。細長の顔面に、頭には二つの獣耳。

 狐、だろうか。体躯は男の平均身長くらいはあるだろうか。普通の狐とは掛け離れているそいつが、ベランダから俺を見下ろしていた。

 

 視線が絡み合い、にらみ合う。

 何者かは知らないが、俺に対しての敵意はハッキリと伝わってくる。それに、あの狐の周囲に集まる大量の()。果たしてこいつは神なのか、それともミカドの様な伝説上の生き物なのか。

 

「何をしている!」

 

「っ!」

 

 思考にのめり込んでいた意識が突然響いた声に引き戻される。直後、視界でぶれる獣の尾を見て、悪寒が奔る前に横に飛び込む。

 俺が先程まで立っていた場所に尾が突き刺さる。

 

 そこで獣の行動は終わらない。残った二本の尾が別々の方向から俺に迫る。未だ立ち上がれていない俺に容赦なく襲い掛かる二本の尾は、右肩に軽い感触が乗ったと同時、耳を劈く音が鳴り響くと共に俺の目の前で停止した。

 

「…ミカド?」

 

「やれやれ…、何とか間に合ったか」

 

 今も重みを感じさせる右肩に視線を向けると、俺にではなく前方、目の前で停止している二本の尾に目を向けるミカドの姿があった。

 ミカドと同じように目を前に向ける。そこには変わらず何かに阻まれているかの様に停止している二本の尾。

 そして、その手前に聳える薄い壁があった。色は言葉で形容しがたい、しかし確かにそこには俺を守る盾のように二本の尾を阻む何かがあった。

 

「逃げるぞ」

 

「は?」

 

「早くしろ!」

 

「っ…!」

 

 空気に緊張が奔る前に、ミカドに急かされるままに踵を返して走り出す。

 

 直後、何かが、獣が歩道に着地する軽い足音が耳孕を打つ。そして、俺達を追うべく走り出す獣の足音が迫り近付いてきた。

 

 短くも長い逃走は、こうして始まりを告げたのだった。



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第二十五話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 脇目も振らず、ただただ足を動かし前に走り続ける。人の気配は未だに感じない。そのせいか、背後から迫る足音が嫌にハッキリ聞こえてくる。

 足音が近付いてくる度、緊張が高まり、心臓の鼓動が加速する。

 

「走りながら聞け。状況を軽く説明してやる」

 

 息が切れる中、ミカドが背後に視線を向けたまま口を開く。その台詞と同時に、俺は交差点を左に曲がる。

 

「今、貴様を追いかけている輩は…まあ、大体想像がついているだろうが、貴様の目を狙う連中の一人だ。恐らく貴様も対面しただろう。あの鬼神の部下だ」

 

 返事は返さない。その余裕はない。代わりに、脳裏にあの巌のような男神の姿が蘇る。ならば、こうして俺を追いかけているのはそいつの指示か、或いは独断か。どちらにしても、目的は俺の目を奪い、あの男に献上する事なのだろう。

 

「それで、だな。かなり言いづらいのだが…」

 

 再び鳴り響く衝突音。直前に風切り音が聞こえたのを考えると、ミカドがあの狐の攻撃をまた防いでくれたのだろう。

 そんな中で、ミカドは言葉通り、本当に言いづらそうに今、一番聞きたくない言葉を口にした。

 

「この際単刀直入に言おう。吾輩では、あいつに勝てん」

 

「…は?」

 

 返事を返すなと言われたが、呆然と声が漏れた。思わず足が止まりそうになる直前で何とか我に返ってスピードを緩めず走り続ける。

 いや、しかし、こいつは一体何を言っているのだろうか。その台詞はしっかり聞き取れてはいるのだが、理解はしたくない。

 

「吾輩は戦闘が得意なタイプではないのだ。対して奴は戦闘を生業としている。そんな奴に吾輩が勝てるわけないだろう」

 

「ふざ、けんなっ!」

 

 開き直ったように言うミカドに悪態を吐きながら再度方向転換。住宅街の脇道に飛び込む。

 変わらず背後から聞こえてくる足音。時折鳴り響く衝突音。全力で走ってはいるが、いつまで保つか。足音も次第に近付いてきているし、捕まるのも時間の問題だ。

 

 だからこそ、頼みの綱は助けにきてくれたミカドだったというのに。

 

「とにかく走れ。朔夜様が来てくれるまで粘るしかあるまい」

 

 あっけらかんと言うミカドに再び口から悪態が出そうになるが、これ以上喋ると息がもたない。というより、もう何メートルの距離を全力疾走しただろう。ハッキリ言って、喉が痛い。体が重い。こんな感覚は初めてだ。全力で限界まで走り続けると、こんな感覚になるのか。

 

「ペースが落ちてるぞ!もう限界か!」

 

 うるさい。こちとら運動不足の一大学生だぞ。むしろここまで全力で走り続けられた事を誉めてほしいくらいだ。

 なんて口に出しては言えず、乱れまくった呼吸が言葉を阻害する。

 

 疲労が限界まで来ると、どうも思考が鈍ってくる。そんな状態になってくると、躊躇いというものも弱くなるのが必然。

 

 だから、だろうか。ふと、あいつとの距離がどうなったのだろうと気になった俺は、無意識に瞳を発動していた。

 朔夜さんとの特訓の中で感じた感覚を思い出しながら力を行使、星との接続。

 

 瞬間、視界がクリアになる。今、視界に入ってくる世界だけじゃない。自身の周囲を上空から見下ろしているかのような、そんな映像が頭の中に直接流れ込んでくる。

 

「これは…!」

 

 右肩から聞こえてくるミカドの戸惑いの声。その理由は、俺の目の力を感知してのものか。

 分からないが、俺自身に訪れた変化はもう一つあった。

 

「っ─────」

 

 踏み出す足に力が戻る。乱れた呼吸が整っていく。訳が分からぬまま、突如沸いてくる力に呼応するように、俺の走るペースが速まる。

 

「千尋!貴様、何をした!」

 

「知らん!ただ目の力を使っただけだ!」

 

 そう、俺はただ朔夜さんとの特訓を思い出しながら目の力を使っただけ。視界の範囲が広がるのは良い。しかし、この身体に沸いてくる力は何なのだ。ついさっきまで息も絶え絶えで、立ち止まりそうな程限界だった体は、目の力の行使と同時に力を取り戻した。

 

 しかし理由は何であれこの状態は好都合だ。体力が回復した上に、身体能力が向上したように思える。

 これならば─────

 

「ミカド、服にしがみついてろ!」

 

「っ─────」

 

 理由は分からない。ただ、出来ると直感が叫んでいた。

 

 両足に力を込めて踏ん張り急停止、即座に振り返って逆方向、つまり追ってくる獣に向かって駆け出す。

 

「!?」

 

 獣が驚き両目を見開いたのも束の間、三本の尾が伸びる。その様子は、俺の目にハッキリと見えていた。

 左脇、右脇、中央から俺の逃げ道を塞ぐように迫る尾に対して、目を逸らさず足を止めない。

 

(ここ─────!)

 

 尾が眼前まで迫った瞬間、走る勢いを利用して力一杯跳躍。

 普段ならば考えられない高さまで体が浮き、崩れそうになるバランスを必死に保ちながらコンクリートに突き刺さった尾の一本に着地。そして再び跳躍して今度は獣の背後に着地してからそのまま走り去る。

 

 我ながらよくこんな映画も真っ青なアクションが出来たものだ。本来ならば自身を吊るすワイヤーが必須な行為を、何の道具もなしに実現させた自分に驚きながらも元来た道を戻っていく。

 

「貴様!本当に人間か疑わしくなってきたぞ!吾輩のような存在が化けているのではあるまいな!?」

 

「俺は正真正銘人間だ!」

 

 ミカドの言う事は分からないでもないし、第一俺もミカドと同じ立場にいたなら俺みたいな奴は本当に人間なのかと疑わしく思うだろうが、しかし出来てしまったものは仕方ない。人間にもこんな事が出来た、それが現実である。

 

「…まさか貴様、星から力を引き出しているとでもいうのか?」

 

「は!?なに!」

 

「何でもない!それより、来るぞ!」

 

 前半、ミカドが何を言っているのか聞き取れなかったが、聞き返してからの返答はハッキリと聞こえた。

 走りながら視界を展開、後方を確認する。先程よりは離れているが、確かにこちらを追いかける獣の姿が見てとれた。

 

 それに、ただ走っているだけではない。走りながら開けている口の中に、何やらエネルギーのようなものが溜まっているように見えるのは気のせいだろうか。

 

「ミカド。あれは防げるか?」

 

「残念ながら、即興であれを防ぐ結界は張れん」

 

「あいつはあれを即興で作ってるのにか!?」

 

 使えない、と口に出さなかった自分を誉めてほしい。本当にこの目がなければ詰んでいた。いや、この目がなければまず狙われる事すらなかったのだが。

 

「くっ!」

 

 獣の口から吐き出される光の弾丸。それを展開した視界の中で察知し、横にステップして回避する。

 

「千尋!次が来る!吾輩が結界を完成させるまで、何としても避け続けろ!」

 

「こっ…の!」

 

 回避されてもなお、獣は弾丸を放ち続ける。二弾目、三弾目、次々に迫る弾丸を必死で避け続ける。

 足を止めれば即死、そんな状況を駆け抜けていく。

 

「まだか、ミカド!」

 

「急かすな!」

 

 ミカドは目を瞑り、両手を合わせて集中している。集中しているのは分かるのだが、状況が状況だけにどうしても急かしてしまう。

 もう少しの間は大丈夫だろう。だが、時間が長引けば長引くほど─────

 

「っ!」

 

 弾丸だけでなく、尾がいよいよ動き出す。つまりそれは、俺と奴との距離が尾の射程距離まで縮まったという事。

 当然だ。俺が弾丸を避けるために真っ直ぐ走れないでいる間、向こうは一直線にこちらに向かってきているのだから。

 

 そう、時間が長引けば長引くほど、俺と奴との距離は縮まり、やがてゼロになるだろう。それまでにミカドの結界が完成しなければ終わりだ。

 その上、今のミカドは結界を完成させるべく集中している。つまり、ミカドの手助けを当てにはできない。全て、自分で回避、或いは防御しなければならない。

 

 後方を確認する。距離は先程よりも更に縮まっている。それを目の当たりにした俺は、一つの決心をして走る速度を上げる。

 距離の確認、相手の攻撃の把握は広がった視界のみで行う。視線を前に向けたまま走る事に全力を注ぎつつ、背後の確認にも意識を割く。

 

 ひっきりなしに耳に届く風切り音。顔面すれすれを通りすぎていく尾と弾丸。

 

「!」

 

 通りすぎていった尾が、引き戻される事なく、鋭い先を俺に向けてUターンしてくる。背後からは残った二本の尾と吐き出される弾丸。

 姿勢を低く、前方に飛び込んで前から迫る尾を掻い潜る。地面で一回転、すぐに立ち上がって走り出す─────

 

「っ、がっ!」

 

 前に、体を翻す。しかし僅かに間に合わず、再び背後から迫った尾の一本が左腕をかする。

 かすっただけでも尾は腕の皮膚を剥がし、鮮血を飛ばす。

 

 勢いよく擦られた熱さと痛みを耐えながら、足を動かす。しかしその前に立ちはだかるのは、回り込んできた一体の獣。

 

「ようやく、追い詰めたぞ」

 

 眼前に立ちはだかった獣がゆっくりと口を開き、そして流暢に喋り出す。

 獣が喋った事に驚きはしない。現に、今俺の肩に乗っている猫だってぺらぺら喋っているのだから。それに、そんな事を考えている場合ではない。

 

 じり、じり、と後退りをする。それに合わせて獣もまた、一歩ずつ俺に歩み寄ってくる。

 

 隙を窺う。無闇に逆方向に逃げ出しても、この至近距離では避ける暇もなく串刺しにされるだけだ。

 

「安心しろ。我が主からは殺すなと命じられている。手足の一本か二本は貰うが、それだけだ。今はな」

 

 だからといって、この獣と対峙していても状況は変わらない。いよいよ俺ではどうしようもない状況まで追い込まれてしまった。

 

 ()()()()()()なら、ここまでだっただろう。

 

「よくやったぞ、千尋」

 

「…これは」

 

 耳元でミカドがそう口にした直後、先に変化に気付いたのは獣の方だった。獣は目を細めて俺を、いや、俺達の前の空間を見つめている。

 

 そして、俺も気付く。目の前の景色が、空間が、僅かに揺らいでいる。その揺らぎは半球型に、俺達を囲むように存在していた。

 

「─────」

 

 僅かなぶれと共に発せられる三度の風切り音。それとほぼ同時、金属音にも似た音が鳴り響いた。

 眼前では揺らぎに遮られてその場で停止する三本の尾。いや、停止というのは正しくはなかった。獣が尾に力を込めているのだろう。三本の尾は僅かに震えていた。

 

「無駄だ。貴様の尾も、魔弾も、この結界には通用しない。吾輩の魔力が続く限り、どんな干渉をも防ぎきる」

 

「…貴様の魔力が続く限り、か」

 

「そうだ。吾輩の魔力が続く限りだ。が、貴様には吾輩と消耗戦を繰り広げる余裕はなかろう?ここまで大規模な結界を展開しているのだ。今こうして喋っている間も魔力を削られている筈だ」

 

「─────」

 

 二人…いや、二体というべきだろうか。二体の会話に黙って耳を傾ける。

 ミカドの台詞から推測するに、周囲に俺達以外の生き物の気配が感じられないのは、どうやらこの獣の仕業らしい。

 しかし、俺とミカドを囲むだけの結界でも完成させるまでかなりの時間を要した。あれだけの広範囲を包む結界を完成させるのに、どれ程の時間を掛けたのか。その周到さに思わず感嘆してしまう。

 

「吾輩は一向に構わんぞ。貴様の魔力が尽きるまで、付き合ってやってもいい」

 

「…」

 

 ミカドの挑発に獣は答えない。獣は結界に突き立てていた尾を戻し、その顔面を俯かせる。

 黒い影に包まれ、その表情が見えない。だが、獣の体は小さく震えていた。それは目的を達せなかった事への悔恨か、それとも。

 

「…その結界。こちらからの干渉を全て防ぐ、かなり厄介な代物だ。…が、どうやらそちらからの干渉も無効化してしまうようだな」

 

「…」

 

 ミカドは答えない。元々ミカドに答えを期待してなかったのか、獣は顔を上げると今度は俺の方を見る。

 

 その顔は、厭らしく笑みを浮かべていた。

 

「柳千尋。私は貴様を見つけてから、ずっと貴様を監視していた。二十四時間、この結界の準備をしながら、ずっとだ。といっても、忌々しいあの女神が現れるまでだが」

 

「…お前。まさか、時々感じたあの視線」

 

「ほぉ。さすがは星詠みの瞳の宿主といったところか。私の気配を察していたか」

 

 以前、何度か俺に向けられる視線を感じた事があった。周囲には誰もいなかったし、獣の言う通り朔夜さんと再会してからは視線を感じなくなったため、気のせいだと思っていた。

 あの視線の主は、目の前のこいつだった。

 

「短い間ではあったが、貴様の事をある程度知る事が出来た。たとえば─────」

 

 獣はそこで言葉を切ると、唇の形を歪め、深く笑みを浮かべながら続けた。

 

「もし貴様に人質をとるとしたら、一番効果的なのは誰か、とか」

 

「!!!!?」

 

 俺はこの時、獣の台詞の続きを聞いている場合ではなかった。何故なら、展開したままにしていた視界に、その人を見たからだ。

 ()()()()を揺らし、ゆっくりと歩くその人を。

 

「─────」

 

 ()()()()()()()()()()足音で振り返る。

 

 誰もいなかった筈だ。展開していた視界にも、俺達以外の姿はなかった筈だ。それなのに突然、何の前触れもなく彼女は現れた。

 

「貴様…!()()()を招いたのか!この結界内に!」

 

 ミカドが狼狽を隠さないまま獣に向かって怒鳴る。

 一方の獣はまさに愉快と言わんばかりに豪快に笑う。俺とミカドの姿を見て、さぞ面白そうに。愉しそうに。

 

「さあどうする柳千尋!その安全な結界で、私の魔力が尽きるまで籠城するか!?」

 

 獣が選択を迫る。俺に。

 

「それも良いだろう!だが、その間に私はあの女を殺す!」

 

 自分の命か、それとも。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「柳君…?」

 

 四季ナツメの命を選ぶのか。



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第二十六話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

~Another View~

 閣下が突然何かに焦った様に姿を消してから、私は明月さんと一緒に閣下が淹れてくれた紅茶を飲んでから店を出た。

 何となく、閣下のせいとは言うつもりはないけど、お茶を飲みながらゆっくり過ごすという空気ではなくなってしまった。

 それに、明月さんと閣下が私の本音を、正直な気持ちを言い当ててくれたお陰で私もそれに気付く事が出来た。そのお陰か、今の私の胸の内はとてもスッキリしている。

 

 あの日からずっと、まるで重石が乗っていたように重かった胸が、今は軽い。まだ、今すぐには柳君と何を話せばいいか分からないけれど…、近い内に柳君ともう一度話そう。それで、今の私の気持ちを正直にぶつけよう。

 まだ生きたいって。皆と一緒に、これからの未来を見ていきたいって。だからまた、柳君にお店に戻ってきてほしいって。

 

「…」

 

 自分の中でこれからどうしていくかを決めながら、いつもの帰路を歩く。いつもと変わらない道、いつもと変わらない景色。それなのに、どうしてだろう。違和感が拭えない。

 

 人がいない。人の声が聞こえない。人の気配が感じられない。まるで、世界に一人、私だけが置いていかれたみたいに。

 

「なに、これ…?」

 

 訳が分からず、頭が混乱する。あまりに静かすぎる。まだ人が出歩かなくなる時間帯でもないのに…いや、それどころか学生や社会人が帰宅を始める時間帯と言っていいのに。

 あまりに閑散とした住宅街が、怖いとすら思えてしまう。

 

「っ」

 

 その時だった。この静かな世界に響き渡る金属音に似た音を聞いたのは。驚き勢いよく振り向き、音がした方を見る。

 奥に見える交差点を左に曲がった所。ここからでは家屋が邪魔して見えないが、恐らく音の発生源はそこ。

 

「─────」

 

 息を呑む。

 怖い。

 怖い、けど、勇気を振り絞って足を踏み出す。明らかに周囲の様子がおかしいこの状況を何とかする事が出来るかもしれない。

 奥の交差点を左に曲がり、前を向いて─────私は足を止めた。

 

 そこには確かに、さっきの音の原因と思われる何かがあった。でもその光景はとても現実離れしていて、一瞬思考が止まってしまう。

 だけどその思考は、次の瞬間響き渡る大声によって無理やり引き戻された。

 

「さあどうする柳千尋!その安全な結界で、私の魔力が尽きるまで籠城するか!?それも良いだろう!だが、その間に私はあの女を殺すぞ!」

 

 そこにいた人物…、いや、生き物というべきか。人間も確かに一人いたが、その他はどう見ても人間には見えなかった。

 一人の人間の肩に乗った見覚えのある猫。その奥に見える、人並みの大きさをした、三本の尻尾を生やした狐。

 そして、あと一人─────

 

「柳君…」

 

 目を見開いて、呆然と柳君が私の顔を見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 何が起こってるのか、すぐには飲み込めなかった。何故、どうして、という気持ちで一杯になった。

 何故ここに。どうしてこんな時に。

 

 だが、迷っている暇はない。今こうしている間にも、あいつは四季さんを殺せる。それだけは絶対にさせる訳にはいかない。

 

「ミカド。結界を解け」

 

「…いいのか」

 

「他に選択の余地なんてないだろ」

 

 俺に一言確認をとるミカドに即座に返答する。そう、選択の余地なんてない。四季さんを助けるために、この結界は邪魔にしかならない。それならば、結界を解くしかあるまい。

 

「…それが、貴様の答えか」

 

 ミカドが結界を解いたのを感じ取ったのだろう。笑みを浮かべたまま目の前の獣が口を開く。

 

「やはり、人間は愚かだな」

 

 獣の目は俺を蔑んでいた。まさに台詞通り、その目は愚か者と俺を見下ろしていた。

 ゆらり、と尾の一本が揺れる。

 

「女を見捨てていれば、助かったというのに!」

 

「っ─────」

 

 体を翻す。尾が体のすれすれを通りすぎていく。

 そんなものには目もくれず、踵を返して四季さんの方へと駆け出す。

 

「逃がすと思うか!」

 

 背後で残りの二本が俺に迫る。その瞬間、ミカドが動く。

 

「それを吾輩が許すと思うか?」

 

「…ケット・シーごときが!」

 

 忌々しげにミカドを睨む獣を置き去りに、未だその場で動けないでいる四季さんを横抱きに抱えて交差点を左に曲がる。

 

「え…え?え!?」

 

「文句なら後で聞く!ミカド!尻尾は任せる!」

 

「分かってると思うが、あの魔弾は防げんぞ!」

 

「それはこっちで避ける!」

 

 鬼ごっこの第二ラウンドが始まる。

 

 獣が吐き出す弾丸は無理だが、尾による攻撃ならばミカドの即興の結界で防げる。ミカドが防げない攻撃はこちらで把握し、避けるしかない。

 

「ちょっと、なに?何が起きてるの!?」

 

 腕の中で四季さんが戸惑いまくっている。当たり前だ。多分、この結界の中に訳も分からず迷い込んで、その上こんな妖怪大戦争みたいな場面に巻き込まれてしまったのだから。しかも異性にお姫様抱っこされるとか…そして相手が仲違い真っ只中の俺とか…。

 

 後で誠心誠意を持って謝り倒そう。

 

「っ!」

 

 獣の口内に光が見え、すぐに方向転換。直後、先程まで俺達がいた場所を光弾が通り過ぎていく。

 

 危ない。余所事を考えている場合ではない。ほんの少しの判断の遅れが命取り。今、俺は俺の命だけではない。四季さんの命も抱えているのだ。

 

 俺のせいで他人まで死なせてたまるものか。

 

「…おかしい」

 

 ミカドがポツリとそう呟いたのはその時だった。

 

「何がっ」

 

「そろそろ魔力が尽きても良い頃の筈なのだが」

 

 ミカドが怪訝な視線を送るのは、当然背後から俺達を追いかけ回す獣。獣は変わらず動きを止めず、尻尾と魔弾で俺達を攻め立てる。

 

「これだけの大規模な結界を維持しながら、あれだけ苛烈な攻撃をし続ければ、とっくに魔力が尽きている筈」

 

「…何か種があるって事か」

 

「恐らくな。可能性はいくつかあるが…、奴の魔力切れを期待するのは控えるべきかもしれん」

 

 この結界がどれだけの規模なのかを俺は把握できていないが、ミカドが言う事に嘘はないのだろう。この状況で嘘を言う筈もないだろうし。

 

 ならば、魔力切れを期待しない方が良いというのもそうすべきなのかもしれない。だが、そうなるとこれからとれる選択肢は一気に限られてくる。

 

「この結界からの脱出は」

 

「吾輩だけならともかく、貴様とナツメもとなると時間が必要だ。その間、吾輩は貴様の援護が出来なくなる」

 

「…朔夜さんが来るのを待つ」

 

「いつこちらに来れるようになるか分からんぞ。すぐ来るかもしれんし、下手をすれば明日になるまで来ないかもしれん」

 

「…」

 

 結界からの脱出は可能、しかし時間が掛かる。朔夜さんの増援は期待できない。

 

 だとすれば、もう、あれしかないのかもしれない。

 

「…ミカド」

 

「なんだ」

 

「さっき、俺が星の力を引き出しているって言ってたな」

 

「…聞こえていたのか」

 

 その台詞は、さっきミカドが呟いたもの。あの時は状況が状況だけに適当に聞き流してしまったが、その台詞は今を打破するヒントになるかもしれない。

 

「貴様…、まさか、戦うつもりか」

 

「え?」

 

 ミカドのその台詞に最初に反応したのは俺ではなく、四季さんだった。ただただ戸惑っていた四季さんの表情が呆気にとられたものへ変わり、俺を見上げる。

 

「無理か?」

 

「…いや、可能だ。星の力を引き出し、底上げされた身体能力でなら奴と張り合えるだろう。だが、分かっているのか?どれだけ能力があっても、貴様は普通の人間だ。…荒事と無縁の人間なんだ」

 

 ミカドが俺の目を見ながら言い放つ。遠回しに難しいと。その力あっても、お前では経験がまるで足りていないと。

 

「でも、それしかないだろ。全員で生きるためには」

 

「…」

 

 ミカドが何も言わないのは、図星故か。ミカドではあの獣は倒せない。四季さんを抱えた状態で、またミカドが結界を完成させるまで時間を稼ぐのも不可能。

 それならもう、まだ未知数な能力に賭けるより他にない。全員で生きて帰るために。

 

「ミカド、四季さんを頼む」

 

「…あぁ」

 

 脇道に飛び込み、足を止めて四季さんを降ろす。ミカドが俺の肩から四季さんの肩へと飛び移る。

 

「柳君…?」

 

 突然こんな状況に巻き込まれ、その上俺にお姫様抱っこをされるという混乱極まる状態で、四季さんは不安そうに俺を見上げる。

 

「なにを…」

 

「大丈夫。ここにいれば、ミカドが守ってくれる」

 

「え…」

 

 四季さんの肩に手を乗せて安心できるように声をかける。勿論、そんな程度の事で、本気で四季さんが安心できるなんて大それた事は考えてないけれど。

 それでも、少しでも四季さんが落ち着けられるように。

 

「待っ…!」

 

 四季さんが俺に向かって手を伸ばす。その前に四季さんの肩から手を離し、足早にその場から去る。

 

「待って!」

 

「…四季さん」

 

 一度、足を止めて振り返る。そこには、泣きそうな顔をした四季さんがいて。

 

「俺が命賭けて助けてやんだから。また、もう死んでも良いなんて言ったらぶん殴るからな」

 

「─────」

 

 四季さんが何かを言う前に引き返す。脇道の影から出て、大きな道路へ。そこには、俺が出てくるのを待ち構える獣が一体。

 こうして俺が一人で出てくるのを知っていたかのように。

 

「観念…した訳ではないようだな」

 

 正面から獣と睨み合う。鋭くつり上がった目が、見開かれた瞳孔が、俺の全身を捉える。

 並みの人間ならば失禁しそうな程に濃い殺気が注がれる。正直、怖い。それでも、後ろにいる彼女を思うと、不思議と足は逃げ出そうとしなかった。

 

 そんな俺の様子を見て、獣が臨戦態勢に入る。毛が逆立ち、ゆっくりと揺れる。口許が開き、鋭い牙が露になる。四本足の筋肉が膨れ上がる。いつでも俺に飛び掛かれるよう、獣の準備が整っていく。

 

「やはり人間は度し難い。三百年前もそうだった。…子を見捨てれば助かっていた命を。我が主の温情を無為にしたあの人間と、貴様が重なる」

 

 その瞳に宿るのは怒り。標的としてとはまた別に、一個体として俺を敵視している。

 

「お前の都合なんか知らない。三百年前に何があったのか、知ろうとも思わない。でも…、自分の命を賭けてでも助けたいっていう人の気持ちは、分かる」

 

「…下らん。自分の命以上に大切なものがあるとでも?」

 

「ない。でも、同じくらいに大切なものならある─────」

 

 言いながら、自分で発した言葉に驚く。俺は今、何と言った?自分の命と同じくらい大切なものがある、と言ったのか?

 

 あぁ…、そうか。そうだったのか。

 俺はこの時、どうして四季さんにあんなにも怒りを露にしてしまったのか、その理由をようやく悟った。

 

 俺はいつの間にか、四季さんをこんなにも大切に思うようになっていたらしい。だから、俺が大切に思うものを四季さん自身が平気で諦めようとしている事が許せなかったんだ。

 

 …そうやって改めて自覚すると、俺ってかなり面倒な奴だな。何だよそれ。本当に、俺ってバカだ。

 だって、それじゃあ俺も四季さんと同類って事になるじゃないか。四季さん自身が諦めているんだから、もうどうしようもないって。俺も、大切なものを諦めようとしていたんだから。

 

「何が可笑しい」

 

「?」

 

「度し難い…。誠に度し難い。この状況で、何故貴様は笑う?精神が壊れたか」

 

 笑う。俺は今、笑っているのか。

 だとしたら、その理由は明らかだ。自分の馬鹿さ加減が可笑しくて仕方ない。そして─────

 

「お前のお陰で自分の本音に気付けた、からだな」

 

「…?」

 

 獣の顔が訝しげに歪む。当たり前だ。こいつに俺が何を思っているかなんて分かる筈がない。故に、俺がどういう意図でその言葉を発したのかも悟れる筈がない。

 

「やっぱり、死ねないな」

 

 小さく、自分に言い聞かせるように呟く。

 死ねない。こんな所で死ねない。俺はこの後で、やりたい事がある。話したい事がある。だから、ここで死にたくない。

 

「命を取るつもりはないと言った筈だが」

 

「一緒だ。お前に捕まれば、きっともうここに戻ってこれなくなる。それは、俺にとって死ぬのと同じだ」

 

 こいつに捕まればもう、四季さんにも、ステラにいる皆とも会えなくなる。そんなのは、たとえ命が続いていたとしても、俺にとっては死んだのと同義だ。

 もっと皆と過ごしたい。話していたい。そのために、俺はまだ生きていたい。

 

 そして今、俺が強く生きたいと思う同じ気持ちを、四季さんも抱けるようにしたい。

 

『俺は、見る事しか出来ない』

 

 それは以前、ミカドに向かって言い放った言葉。以前までの俺は、そこで立ち止まっていた。そこから前に進む事を諦めていた。

 

 ふざけるな。他人には諦めるなと大それた事を言っておいて、自分が真っ先に諦めてんじゃねぇ。

 

『アンタが、母さんを殺したのよ!』

 

 知るか。俺は何も悪くない。

 今までずっと心を縛り付けてきた言葉を、今は簡単に振り払える。

 

 本当に下らない。あんな奴のあんな言葉のせいで、俺は四季さんを見殺しにしそうになったのか。…いや、それは俺が弱かったせいか。他人に責任を擦り付けられる立場じゃない。

 

 でも、まだ間に合う。まだ救える。

 

「お前を倒して、俺は生きる」

 

「…ほざくな、人間風情がっ!」

 

 俺が足を踏み出したのと、獣の尾がぶれたのはほぼ同時だった。

 三本の尾がそれぞれ別の方向から俺へ迫り来る。瞳に力を入れて、三本の尾の軌道を見る事に集中する。

 

 三本の尾は俺の方へと向かいながらも、決して全く同じ地点に向かっている訳ではなかった。俺が避けようとしても出来ないよう、計算された位置へ、そしてたとえ避けられたとしても、次の攻撃で仕留められるように。

 

「─────」

 

 それでも、それらは全て見えている。見えているのなら、対処のしようはある。数はたったの三本。それだけの数で、一個人の行方を全て遮る事など出来やしない。

 足を止めないまま体の角度を変え、尾を掻い潜っていく。丁度その時、獣がこちら目掛けて弾丸を吐き出そうとしていた。

 

 それも、()()()()()。弾丸が吐き出される前にその場で半身になりながら地面を蹴る。

 

「っ、馬鹿な─────!」

 

 獣が驚くのも無理はない。今の俺の身体能力が人外の域に至っている事を加味しても、必殺のタイミングでその一撃は放たれていた。それを何かしらの手段で防がれたのではなく、回避されたのだ。

 

 理由は二つ。奴が俺を侮っていた事と、星詠みの瞳について詳しく知られていなかった事。

 いや、後者に関しては俺が断定できる事ではない。ただ、俺が目の力をこの段階まで引き上げられている事実を知らなかった、というだけかもしれない。

 

 だがそんなのはどちらでもいい。重要なのは、この二つの理由がこれから、奴の敗因となる事だけ。

 

 ビジョンが星を通じて伝わってくる。背後から尾による追撃と、獣が次弾の準備を始める。

 俺はそれらは()()()()()()と断じ、足を前へ踏み出す。

 

「くっ!」

 

 獣が右前足を振りかぶる。人外の…いや、自然界に存在するどの生き物とも比べ物にならない膂力によって振り下ろされる爪は、容易に人間の体など八つ裂きにするだろう。

 危機感を感じたか、俺を生け捕りにするという目的はこの際捨ててしまったらしい。

 

 踏み出した左足先に力を込める。姿勢を低く、首を傾け、体を回転させる。俺の僅か頭上を、何本かの髪の毛を持っていきながら獣の爪が通り過ぎていく。

 

「っ…!まさか貴様、私の動きを…!?」

 

「もう遅いっ」

 

 振り抜かれた前足を引き戻すには時間が掛かる。この体勢から四肢の何れかを振るうのもまた同じ。

 先程のビジョン通り、背後から迫る尾は間に合わない。ここで初めて、正真正銘の自由を得る。

 

 拳を握り、右腕に力を込める。狙うは獣の顔面、左側頭部。そこ目掛けて、力一杯裏拳を打ち込んだ。

 

「ガッ─────」

 

 まるで角ばった硬い岩を殴ったかのような、そんな衝撃が拳に響く。それでも躊躇わず、今度は左の拳を握り、獣の鼻っ柱を狙ってストレート。

 

 パァン、と小気味良い音を鳴らしながらこれも命中。まだ終わらせない、先程獣を殴った衝撃が抜けない右手でこれまた獣の顔面を掴む。

 

「うぉぉぉぉおおおおおおおおおお!!!」

 

 思考も何もない。ただ我武者羅に、ダメージが大きそうな箇所を狙って攻めているだけだ。

 

 獣の顔面を掴んだ手に、腕に力を込めて獣の体を持ち上げる。掌から腕へ、腕から肩へ、肩から下半身へ。全身の力を伝達させ、俺が出せる全力を以て、眼下のコンクリートに獣の後頭部を叩き付けた。




一先ずこれにて戦闘描写はお開きです。
次回は今回の事件についての結び、の予定。


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第二十七話






まさかの一万字オーバー…。長くなりましたが、飽きずに最後まで読んでやってください。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はぁ…はぁ…」

 

 さっきまであれ程走っても少しも乱れる事がなかった呼吸が荒れる。それと共に軽かった体も突然重くなり、同時に頭が強く痛み出す。

 

「はぁ…はっ…っ」

 

 乱れた呼吸を整えようと努めていると、ふと頬に何かが伝う感触。指でその感触の元に触れて目の前に持っていくと、指の先には赤い液体。右目から血が流れていた。

 原因は何となく想像がつく。目の力を酷使しすぎたのだろう。勿論、これは勝手な俺の想像であり、他に正しい原因があるのかもしれないが。ただ、他に原因が思い当たるものがない。

 

「おわ…った…?」

 

 手の甲で血を拭い、眼下で倒れ伏す獣を見下ろす。獣を中心にアスファルトは蜘蛛の巣状に割れ、先程の叩き付けの威力が見てとれる。

 これだけの攻撃を受けたのだ。死にはしなくとも、気を失うくらいはして貰わないと割に合わない。

 

「柳君!」

 

 その時だった。背後から俺を呼ぶ、彼女の声がしたのは。

 

 振り返って背後を見る。ミカドを肩に乗せ、急いでこちらに駆け寄ってくる四季さん。

 

 視線が交わる。それが、合図だった。

 終わったのだと、逆立った気が緩んでいく。警戒心が解けていく。

 

 それは油断だ。まだ生きている敵に背中を向け、気を緩めるという戦いに於いて最もしてはならない行為を、この時俺は犯してしまった。

 

「馬鹿者!警戒を解くな!」

 

「っ─────」

 

 ミカドの怒鳴り声が響き渡ると同時に、至近距離から風切り音。その正体が何なのか、考える前に、即座に特定できた。

 

 集中を解き、星詠みの瞳がもたらす視界を閉じてしまったせいで察知できなかった。

 果たして、いつ意識を取り戻していたのか。はたまた、最初から意識を失ってなどいなかったのか。

 

 どちらにしろ、俺の命を奪う死神の鎌はすぐそこまで迫っていて─────

 

「柳さん!」

 

 次の瞬間、俺は死神の手によって命を救われていた。

 突如腕を引かれ、何の抵抗も出来ず胸に抱かれた俺は、そのまま何者かによって腕に抱えられたまま獣から遠ざけられる。

 

 犯人…というより恩人は、先程言った通り死神、明月さんだった。

 

「ちっ」

 

「柳さん、大丈夫ですか!?」

 

 俺を仕留めることが出来なかった悔恨故か、舌を打つ獣を見ようともせず、明月さんは俺の顔を覗き込みながら安否を確認する。

 

「あぁ…。ありがとう、明月さん。ホント、助かった」

 

 明月さんの腕から抜け出し、自分の足で立ち上がりながら返事を返す。

 

「柳君っ!明月さんっ!」

 

「千尋!栞那!」

 

 直後、こちらに向かって駆け寄ってきていた四季さんが傍まで来る。

 

「柳君…っ、血が…!」

 

「ん、あぁ…。これは、まあ、大丈夫だから」

 

「大丈夫って…!目から血が出てるのに、大丈夫な訳ないでしょう!?」

 

 まあ、普通に生活していて目から血が出る場面なんてなかなか出会さないだろうし、動揺するのも当然かもしれない。

 しかし一方、四季さんの肩に乗ったミカドは俺の顔を見ても冷静な様子で口を開く。

 

「目の力を酷使しすぎだ。しばらくはその瞳で何かを見るのを控える事だな」

 

 なんて、俺の状態を診察する始末。だが今の状況は心得ているようで、ミカドは四季さんの肩から地面へ降りると、そのまま俺達の前に出て、こちらを睨み付ける獣と向かい合った。

 

「ずいぶんと千尋に痛め付けられたな、狐。そのお陰で、結界も崩壊を始めたぞ」

 

「…っ」

 

 ミカドは小さな笑みを浮かべながら獣にそう言い放つ。ミカドに言われた獣は悔しげに小さく唇の端を歪める。

 だが、それだけだった。ミカドに何かを言い返す事はせず、ただ黙ってミカドの話を聞いていた。

 

「もう良いだろう。貴様の敗けだ。早々に我々の前から消えろ」

 

 ミカドがその言葉を口にしている最中だった。何か硝子が割れるような、そんな音が辺りに響き渡り始めたのは。その音を聴いて思い出すのは先程のミカドの言葉。結界の崩壊。

 その単語から考えるに、この音は崩壊していく結界が発しているのだろう。

 

「…我らは決して諦めんぞ」

 

「…」

 

「柳千尋。貴様の星詠みの瞳を、次は必ず奪う」

 

 言葉少なくそう宣言してから、獣は姿を消す。

 何処へ行ったのか、それは知らないが、恐らく撃退できたと考えて良いんだろう。

 

「…うむ。気配は消えた。とりあえず一安心、といったところか」

 

 ミカドが振り返り、俺達に笑みを向けながらそう言う。隣では明月さんが安堵の息を吐き、四季さんもまた安堵から笑みを溢している。

 

「皆さんがご無事で良かったです…。しかし、ナツメさんまでいらっしゃるなんて」

 

「そこだ、栞那。吾輩は貴様に店で待つよう言った筈だが?」

 

「だって、閣下の帰りが遅いんですもん。心配で来てしまいました」

 

「…まあ、結果的に助けられた訳だが」

 

 ミカドと明月さんが穏やかな声で言葉を交わす。その声に、もう緊張は含まれていない。

 

 ようやく、俺の胸に滲んでいた固さが解れていく。本当に終わったんだ。もう、あの獣はいない。力を抜いても、俺達を脅かす者は今はいない。

 

「柳君?」

 

「…ん?どうした?」

 

「顔色悪いけど…、大丈夫?」

 

 ミカドと明月さんの会話を眺めていると、傍らにいた四季さんがこちらの顔を覗き込みながら問い掛けてきた。

 

 大丈夫、と答えたいところだが、多分そう言うだけでは四季さんは納得しない。実際、先程の戦闘での疲れのせいか体がかなり重く、頭も鈍い痛みを発している。

 それらは大した事はないし、一人で歩けないという程でもないため、問題ないというのは本当なのだが、今の自分の状態を交えて答える事にしよう。

 

「大丈夫だ。ちょっと体の所々が痛いけど、歩けない程じゃないし、問題は─────」

 

 ない、と口にしようとした瞬間だった。ずきずきと俺を襲っていた頭痛が、何の前触れもなく激しくなったのは。

 

「柳君?」

 

 四季さんが俺を呼ぶ。その呼び掛けに応える事は出来なかった。激しくなった頭痛は、和らぐ気配を見せないまま続く。

 

「─────」

 

 言葉が出ない。声を発せない。体から力が抜けていく。やがて両足が体重を支えきれなくなり、がくりと折れる。

 

「ごほっ!ごぼっ…!」

 

「っ、柳君!?柳君!」

 

 やばい、と思った時には手遅れだった。喉を逆流してきた液体が、咳と共に外へと溢れ出る。咄嗟に掌で口許を押さえたが、その掌にべっとりと付いた赤を見て、血の気が引く。

 

「しっかりして、柳君!お願い!」

 

 体から更に力が抜けていく。視界がだんだんと暗くなっていく。

 何か、最近、こんな事ばっかりだな。なんて他人事のように思いながら、近付いてくる地面を眺める。

 

 やがて、顔面をコンクリートの固い感触が…とはならず、何故か俺の体は柔らかい感触に包まれた。間違いなく、コンクリートに倒れた訳ではない。

 

「や…ぎち…ろ!気をしっ………て!」

 

「…なぎ…ん!」

 

 誰かが叫んでいるのが聞こえる。その叫びも、途切れ途切れにしか聞こえない。

 

「お願い…。私、やっと変われたのに…。生きたいって、思えるようになったのに…」

 

 それなのに。その声は決して大きく叫んでいた訳じゃないのに。俺の耳にハッキリと届いた。

 

「そう思わせてくれた人が…、貴方が死んでどうするのよ…!」

 

 嗚咽混じりのその声は、薄れていく意識の中でもハッキリと届いた。

 

「死なないで、柳君…!」

 

 あぁ、そうか。

 

 四季さんはもう、変われていたのか。生きたいって思えるようになったのか。

 

 それなら、俺だって、ここで死ぬ訳には──────

 

 ────

 

 ───

 

 ──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、次に俺が目を覚ました時、俺は見覚えのある屋根裏部屋のベッドに寝かされていた。そう、あのステラの、明月さん達が間借りしている部屋である。

 どういう経緯でそうなったのかは知らないが、気絶した俺はまた明月さんのベッドを独占してしまったらしい。

 

「後で謝ろう…?」

 

 手を突き、体を起こしながらもう一方の手で後頭部を掻きながら、多分ほわほわと笑って許してくれる明月さんの顔を思い浮かべて、ちゃんと謝ろうと決めた時だった。

 視界の端で、艶やかな黒が過った。

 

「…は?」

 

 両腕を枕代わりにして眠る四季さんの姿があった。木製の床に座ったまま、ベッドに体を凭れて眠るという明らかに体に悪そうな体勢で眠る四季さんを見て、つい呆けた声を漏らしてしまう。

 

 何故にここに四季さんが?いや、ステラにいるのは別に何故も糞もないのだが、それにしてもこの部屋にいるのは何故?

 

 俺の頭が混乱に陥り始めた時、ガチャリと扉が開く音がする。傍らで眠る四季さんから視線を外し、音がした扉の方へと振り向く。

 開いた扉の向こうに見えたのは一人の人影と、その足下に立つ小さな影。逆光のせいで見えないその顔は、部屋の中に入ってきたと同時にハッキリ見えるようになった。

 

「明月さん。ミカドも」

 

「柳さん…。良かった、目を覚ましたんですね」

 

 体を起こした俺を見て、目を丸くした明月さんはすぐに微笑み、安堵のため息を漏らした。

 

「千尋。体に違和感はないか?」

 

「…いや、特には。そういや、頭痛もしなくなってる」

 

 次に口を開き、俺に問い掛けてきたのはミカド。ミカドの問い掛けを受け、両腕を回し、首を押さえながら左右に傾け、違和感がない事を確認すると同時に、気を失う前はあれだけ激しかった頭痛が収まっている事を自覚する。

 

「ふむ。どうやら朔夜様の言う通り、もう大丈夫の様だな」

 

「…あれからどうなったか、聞いても良いか?」

 

 俺の返答を聞いてから、ミカドもまた安堵したのか大きく溜め息を吐いた。

 そして俺が気絶してからの経緯を問い掛けると、ミカドはゆっくりと語り出した。

 

 あの時、俺はかなり危うい状態だったらしい。目の力によって星の力を引き出し、獣を撃退した。しかし、俺自身の身体は人間のものである。人間であるが故に、大きすぎる力は毒となり、身体を蝕む。

 その結果、俺の体はかなりのダメージを受けていたらしい。ミカドですら手の施しようがない程に。

 

 しかしそれなら何故生きているのか。それは、先程ミカドが名前を口にした、朔夜さんのお陰である。

 俺が気を失い倒れてすぐ、朔夜さんが戻ってきたそうだ。朔夜さんは一目で俺の状態を見抜き、正しい処置を施してくれた。そうして俺は今も、生を繋げる事が出来ている。

 

 つまりどういう事かというと、朔夜さんSUGEEEEEEEE!という事らしい。正直、毒とか人間には耐えられないとか、あまり理解できなかったけど、とにかく朔夜さんのお陰で助かったという事だけは理解できた。

 

「それで、これは何」

 

「何、とは?」

 

「いや。何で四季さんがここで寝てんの?」

 

 俺が倒れてからここに運ばれた経緯は分かった。だが分かったのはそこの経緯だけで、現時点までの経緯を聞いた訳ではない。

 まだ、何故四季さんがこの部屋にいるのか。この部屋で、こんな体勢で眠っているのかを聞いていない。

 

 その事について問い掛けると、明月さんとミカドは目を丸くし、顔を見合わせると、やがて小さく笑みを吹き出した。

 

「おい、何が可笑しい」

 

「貴様の鈍さに呆れているのだ」

 

「は?」

 

「分からないんですか?ナツメさん、ずっと柳さんの看病をしていたんですよ?」

 

 ミカドのあまりの口ぶりに文句を言おうとするが、明月さんの台詞に言葉が詰まってしまう。

 

「看病って…」

 

 明月さんから四季さんへ、四季さんから窓へ、視線を移す。窓の外は明るい。つまり、少なくとも一日は経っているという事だ。

 

「ちなみに、貴様が気絶したのは昨日だ。つまり、貴様は一日中眠り続け、その間ナツメは看病していたという事だ」

 

「…」

 

 とりあえず何日も眠りこけていた訳ではなかった様で安心した。いや、たとえ一日でもその間ずっと看病を続けていたという四季さんには申し訳なさと有り難さで一杯だが。

 

「私達が代わると言っても譲らなかったんですよ?愛されてますねぇ」

 

「いや、そんなんじゃないだろ。…そんなんじゃ」

 

 明月さんのからかいを聞き流してから、四季さんの寝顔を見る。

 安らかに、柔らかく寝息を立てている。

 

 こうしてまじまじと四季さんの顔を見るのは初めてだ。顔立ちが整っているのはもうとっくに知っていたが、改めて思い知る。四季ナツメという女の美貌を。

 

 艶やかに伸びる黒い髪に長い睫毛、しゅっと細い鼻と、桜色の唇は柔らかそうで。

 

「─────っ」

 

 いかん、俺は何をしているんだ。これではまるで変態ではないか。落ち着け、我を取り戻せ。確かに四季さんに見惚れるのは男としてごく自然な事かもしれないが、女の子の寝顔を見つめるなんて失礼にも程がある。

 

「ふ」

 

「ふふっ」

 

 そう思って視線を逸らしたのだが、遅かったらしい。男女の笑みを溢す声は、しっかりと俺の耳に届いていた。

 

「閣下?私達はお暇しましょうか」

 

「そうだな。我々はお邪魔になりそうだ」

 

「待って。一人に…じゃない。二人にしないで。せめて四季さんが起きるまでどっちかいて」

 

「「だが断る」」

 

「息ピッタリ」

 

 部屋を出ようとする二人に食い下がるもバッサリと切り捨てられる。明月さんがドアノブに手を掛け、そのまま扉を開ける。

 

「柳さん。…ナツメさんが起きたら、話を聞いてあげてくださいね?」

 

「?」

 

 そして部屋を出る直前、明月さんは最後に振り返ってそう言い残し、俺が聞き返す前に去っていった。

 四季さんの話、とは何だろうか。さっぱり分からないが、俺にも四季さんに話したい事がある。丁度良い。この際、とことん四季さんと話をさせて貰おう。

 

「…」

 

 明月さん達が出ていった扉から、もう一度四季さんの寝顔へと視線を向ける。変わらず寝息を立てている四季さんの顔を眺める。

 何だろう、物凄く心が安らぐ。女の子の寝顔って実はリラクゼーション効果でもあるのだろうか。マジで心が落ち着く。例えるなら、そう。猫の喉なりを聞いてる時の様な。

 

 …この例え方は微妙かもしれない。四季さんに失礼な気がする。

 

 しかし、いつまで俺はここにいればいいんだろう。このまま四季さんの寝顔を眺めているのも良いが、やっぱりそれは悪い気がする。それに、このベッドと布団は明月さんが使っているものだ。とりあえず一旦、布団からは出ておきたいのだが、身動きをとれば間違いなくベッドが揺れる。そうなれば、四季さんが目を覚ますかもしれない。

 

 何時から寝ているのかは知らないが、明月さんとミカドの言い方からして、夜通し看病してくれていたのは間違いないだろう。

 それを考えれば、やはりまだじっとしているのが良いだろうか。四季さんが自然と起きるまで、待つ事にしよう。

 

 そう決めたのは良いが、ただじっとしているのも暇である。しかし何かをしようにも四季さんを起こす訳にはいかないため無理。出来る事といえば、四季さんの寝顔を眺めるだけ。

 

(…気持ち良さそうに寝やがって)

 

 本当に気持ち良さそうに眠っている四季さんを見ていると、例の悪い癖が顔を覗かせる。何かこう、うずうずしだす。

 

 誰か、誰かペンを持ってないか。あぁいやダメだ。さすがに女の子の顔に落書きとか最低だ。…水性なら許してくれるかも─────いや、インクが落ちるか落ちないかの問題じゃないだろ。いやそこも大事なとこだけれども。

 

「…」

 

 しかし、しつこいようだが本当に気持ち良さそうに眠っている。どこか、いつもの起きている時の四季さんよりも幼く見える。時折むにゅむにゅと唇を動かす仕草が可愛らしい。

 あの大人な雰囲気の四季さんの、こんな無防備な面を見られるとは。

 

「─────」

 

 そんな四季さんの髪に手が伸びたのは無意識だった。いつもの四季さんと今の四季さんとのギャップやら、こんな風に疲れはてて眠ってしまうまで看病をしてくれた事への感謝やら、様々な感情がごちゃ混ぜになり、気付けば俺の手は四季さんの髪に触れていた。

 

「…ありがとう」

 

 我ながら気持ちの悪い事をしている自覚はある。ただ、どうにも抑えられなかった。

 四季さんの髪を撫でながら、口から出てきたのはお礼の言葉。

 

 俺を心配してくれてありがとう。眠かっただろうに、夜通しで看病を続けてくれてありがとう。

 四季さんへの感謝の気持ちを心の中で呟きながら、髪を撫でていた手を離そうとしたその時だった。

 

「ん…んん…」

 

「っ」

 

 四季さんが身動ぎし、俺は即座に手を引っ込める。そして同時に我に返る。キモい事をしていた自覚はあった筈なのだが、改めて考えるとただのセクハラである。

 いや、本当に何やってんだ俺。女の子の髪を、女の子が寝ている時に黙って触るとか。

 

 あっ、ダメだ。後になって俺がした事を整理して並べたらマジでダメージでかい。てか犯罪じゃね?俺捕まらね?

 

「…やなぎ、くん?」

 

「はい、柳君です」

 

 身動ぎしていた四季さんが頭を持ち上げ、薄く開いた目がこちらを向く。寝ぼけ眼で俺の顔を見た四季さんが、呆けた声で俺の名前を呼ぶ。

 視線が交わり数秒、次第に四季さんの目が開かれていき、やがて驚きの色をありありと瞳に浮かべていく。

 

「柳君!?」

 

「おう」

 

「大丈夫!?どこか痛いところとか…そう!目とか大丈夫!?」

 

「あー、うん。大丈夫だ。痛いところはないし、目だって痛くない」

 

 四季さんが体を乗り出して詰め寄ってくる。それに対して背中を反らしながら四季さんとの距離を保って、四季さんの質問に答える。

 

 四季さんは少しの間俺の目を見つめてから、力が抜けたように溜め息を吐く。

 

「よかった…」

 

 安堵の一言を漏らす四季さんに、俺は申し訳なさで一杯だった。つい先程まで四季さんの寝顔を眺め、あまつさえ髪に触るというセクハラを犯す始末。

 四季さんはこんなにも俺を心配してくれていたというのに、俺と来たら。

 

「…明月さんとミカドから聞いた。ずっと看病してくれてたんだってな」

 

「っ…。だって、それは…。柳君は私を守るためにそうなったんだし…。だから…」

 

「違う」

 

 浮かない表情となった四季さんに、俺はハッキリと告げる。

 

「四季さんの()()じゃない。俺が四季さんを見捨てないって決めて行動したんだ。こうなったのは俺の自業自得だよ」

 

「…でも、私があそこに迷い込まなければ、柳君が危ない目に遭う事はなかった」

 

「それこそ四季さんのせいじゃないだろ。あの狐野郎が全部悪い。四季さんは何も悪くない。ただの被害者だ」

 

「…」

 

 四季さんが浮かない表情のままこちらを向く。四季さんの目を真っ直ぐに見据えて、俺は続ける。

 

「謝罪なんて要らない。もっと違うものが欲しい」

 

「─────、……」

 

 四季さんは一瞬呆気にとられた表情になってから、すぐに微笑み、ゆっくりと口を開いた。

 

「助けてくれてありがとう、柳君」

 

「どういたしまして。俺も、看病してくれてありがとう」

 

 四季さんの口から出てきたのは、謝罪ではなくお礼。俺が欲しかったのも、謝罪ではなくお礼。

 二人で微笑み合い、お礼を言い合う。少しむず痒い空気の中で、それでも心はとても安らかに、かつ踊る。

 

 初めて知った。お礼を言われるのって、こんなにも嬉しく感じるものだったのか。

 

「…でもね、柳君」

 

「ん?…んん?」

 

 初めての感情に浸っていると、四季さんに呼ばれて振り向く。

 そして、四季さんの顔を見て俺の顔は引きつった。何故なら─────

 

「私ね、少し怒ってる」

 

「…」

 

 でしょうね。今の四季さん、笑ってるけど目が怖い。その瞳はギラギラと怒りに満ちていた。

 

「…えっと、それは、何故?」

 

 怒っているのは分かるのだが、理由に全く心当たりがない。訳でも、ない。というより心当たりしかないというのが少し悲しいところ。

 

 さあ、四季さんが怒っている理由は何でしょう。俺のバイト辞める宣言についてだろうか。それとも四季さんに好き放題言ってしまった事だろうか。

 どちらにしても覚悟は出来ている。さあ、どこからでも来い。

 

 四季さんの口が開かれる。直後に発せられるであろう台詞を、俺は待ち構える。

 

「死ぬんじゃないかって思った」

 

「…は?」

 

「柳君が死ぬんじゃないかって思った。心配した。置いていかれると思った」

 

「…?」

 

 四季さんの口から出てきた言葉は、俺の予想したどの言葉とも違っていた。

 つい、訳が分からず疑問符を浮かべてしまう。心配した、というのはまだ良い。しかし、置いていかれる、とは一体どういう意味か。

 

「君のお陰」

 

「え?」

 

 またも四季さんの口から出てくる意味が読み取れない言葉。さっきから、どうしたのだろう。聞き返すと、四季さんは泣きそうな目でこちらを睨んだ。

 

「君のお陰で、生きたいって思えるようになったのに。私にそう思わせてくれた君が死んじゃったらどうするの」

 

「─────」

 

 絶句、というべきか。またしても思わぬ言葉が四季さんの口から飛び出した。それも、俺が全く、これっぽっちも可能性として考えていなかった台詞を。

 というより、これから四季さんに言わせてやろうと目論んでいた台詞を。

 

「…なに?悪い?」

 

「いや、悪い訳ないだろ。むしろ逆」

 

 四季さんが僅かに頬を染めながら細い目で睨んでくる。明らかに照れ隠しでしかないその所作をツッコむ事も出来ず、ただただ唖然とする。

 

 生きたい。生きたいと言った。誰が?四季さんが。

 

「…どういう心境の変化だよ。何か切っ掛けでもあったのか?」

 

「切っ掛け…」

 

 戸惑いつつもそう問い掛けると、四季さんは少しの間、何か考え込むように俯いてから、やがて顔を上げて笑顔でこちらを見る。

 

「ううん。私は最初から持ってたのよ。生きたいって願いを。それにただ気付いていなかっただけ」

 

「…」

 

「でも、そうね。強いて言うなら、やっぱり柳君が強く言ってくれた事かな。お陰で泣いちゃったけど」

 

「大変申し訳ございませんでした」

 

 え、泣いたって。俺が言った言葉が四季さんを泣かせたって事?は?やばい、ちょっ、やばい。

 

 The 混乱の極み。勢い良く頭を下げながら思考を働かせる。これからどうやって四季さんに償っていくべきか。

 

「えっと…、謝る必要はないんだけど…」

 

「でも、泣かせたのは事実だろ。それなら男として謝らなくちゃならん。こんな事で償いになるか分からないけど、何かして欲しい事があるなら言ってくれ。出来る範囲でなら何でもやる」

 

 戸惑う四季さんを見据えて言い切る。

 正直、俺のおバカな頭では償いの方法なんて思い付けなかった。だから、四季さんに聞いてみる。

 切腹以外なら出来る限り応えたい。

 

「本当に?」

 

「ん?」

 

「本当にお願い、聞いてくれるの?」

 

「出来る範囲でなら」

 

 四季さんは俺の言葉を聞いて目を丸くして、逆に質問で返してきた。その問い掛けを頷いて肯定すると、四季さんは真剣な表情になり、こう口にした。

 

「それなら、柳君。このお店に戻ってきて欲しい」

 

「…」

 

 今度は俺が目を丸くする番だった。

 

『本気か?』

 

 と聞き返そうとして、止める。四季さんの目は本気だ。自分勝手な理由で店を抜けた俺を、本気で引き戻そうとしている。

 

「…皆、良い気しないんじゃないか?」

 

 今、俺の店での立場は休暇中という事になってはいるが、もう休み始めてから二週間以上になる。何か用事がある訳でもなく、体調が悪い訳でもなく、自分勝手な理由で休んだ俺を、皆は迎えてくれるだろうか。

 

「ううん、むしろ皆、柳君の…というより、私と柳君の事を心配してる」

 

「?何でそこで四季さんが出てくる?」

 

「…私と柳君の間に何かがあったって、感付かれちゃって」

 

「…」

 

 うん、聞かなかった事にしよう。俺は固くそう決めた。

 

「…ちなみに、俺と四季さんの会話は─────」

 

「そ、それは言ってない!というより、多分私に聞けなかったんだと思う。私、仕事中も切り替えられてなかったから…」

 

「本当に、誠に申し訳ありませんでした」

 

「あー、だから謝らなくて良いんだってば」

 

 再びの謝罪。四季さんがすぐに俺のフォローをする。あぁ、本当にあの時に戻りたい。それでやり直すか、或いはあの時の俺をぶん殴ってやりたい。

 

 もう完全なる黒歴史化である。マジで四季さんに関係する黒歴史多くない?

 

「とにかく、心配しなくても大丈夫。皆、柳君が戻ってくるのを待ってるから」

 

 四季さんは語気を強めて、かといって怒っている訳に非ず。俺にその言葉を届けてくれた。

 

 皆が待っている、と。

 

「…ホント、人が好すぎる。俺には眩しい」

 

 それでも、離れたいとは思わない。むしろ逆。あの場所に戻りたい。それが、偽らざる俺の本音。

 

「諦めるな」

 

「…うん、諦めるつもりはないよ」

 

 四季さんが微笑みながら言い、俺が同じ言葉を返す。それが、四季さんに対する答えだった。

 

「四季さん、長い間休んでゴメン」

 

「うん」

 

「明日から復帰する」

 

「…あの、私から言っておいてあれなんだけど、明日からって大丈夫?もう少し休んでからの方が良いんじゃない?」

 

「心配してくれるのは嬉しいけど、色々台無しだ」

 

 俺の体調面を気遣ってくれているのは分かるけれど、今の話の流れでその台詞は色々と台無しだ。完全に流れをぶった切られた。

 

「本当に大丈夫だって。まあでも、やっぱり体調悪いって感じたら連絡する」

 

「…分かった。それで納得する」

 

 どこか腑に落ちなさそうな顔で、俺の言葉に頷く四季さん。

 

 すると、四季さんがベッドに腰掛ける。そして俺の方を見ると、柔らかく微笑んで、こう口にした。

 

「ありがとう、柳君」

 

「…さっきも聞いたぞ」

 

「そっちのお礼じゃなくて」

 

 四季さんは俺の顔に手を伸ばした。殴られるとか、そんな筈はないのだがつい反射的に目を閉じてしまう。

 直後、まずは右の目蓋が何かに触られる。その何かとは考えるまでもない。四季さんの指だ。

 

 次に四季さんの指は俺の左の目蓋に触れてから離れていくのが分かった。

 おずおずと目蓋を開け、四季さんの顔を見る。

 

「四季さん…?」

 

「ありがとう。私を助けてくれて」

 

「だから、さっき聞いたって…」

 

「その目で私を見つけてくれて、ありがとう」

 

「─────」

 

 またもお礼を言われ、四季さんを止めようとする。もうお礼は受け取った。その筈だった。

 

 俺は、次の四季さんが言った言葉を聞いて、動きを止める。

 

「私に諦めるなって言ってくれて、ありがとう」

 

「私に生きたいって思わせてくれて、ありがとう」

 

「私と出会ってくれて、ありがとう」

 

 言葉が出ない。何か言葉を返さなくてはいけないのに、胸に渦巻く感情の奔流が邪魔をして声に出てくれない。

 

 俺は、救えたのだろうか。この、他人を救う力なんて無かった筈のこの目で。

 四季さんは、救われたのだろうか。この、何かを見る事しか出来ない筈のこの目に。

 

 俺の目は、誰かを救う力を持っていたのか。

 ずっと思い込んできた、俺の中の真実が、あっという間に崩れ去っていく。

 

 俺の目がおかしいと自覚してからずっと、何度この目をいらないと思っただろう。何度普通の目が欲しいと願った事だろう。

 何度、バアちゃんを救えなかったこの目を呪った事だろう。

 

 でも今、目の前に、この目に救われた人がいる。

 

「柳君」

 

「…しき、さん」

 

「これからも、よろしくね?」

 

 四季さんが笑いながら言う。それは、これから先の未来の話。以前までの四季さんが諦めていた筈の未来。

 

 しかし今、四季さんは未来を語る。そしてその未来の中に、俺はいる。その未来にいて欲しいと、手を差し伸べられる。

 

「…もう一度」

 

「え?」

 

「もう一度、満足なんて言ってみろ。引っ叩いてでも目を覚まさせてやる」

 

「…うん。もしそんな時が来たら、お願い」

 

 強い言い方になってしまったが、その言葉は差し伸べられた手をとる言葉。

 その事を悟った四季さんが笑い、俺もつられて笑みを溢す。

 

「…んじゃあ、ちょっと明月さん達に挨拶してくる。明日から復帰するって」

 

「え?…立てる?」

 

「そんな爺じゃねぇんだから。ほら」

 

 四季さんの心配を他所に、ベッドから降りた両足はしっかりと俺の体重を支える。その場で軽くジャンプしたり、腕を回したりと体の調子を確かめてから、足を部屋の扉の方に向ける。

 

 扉を開けて四季さんと一緒に部屋を出ると、俺より後に部屋を出た四季さんが俺の隣まで来た。

 一度四季さんを見下ろして、逆にこちらを見上げていた四季さんと目が合って。でも、言葉はなかった。互いに視線を外し、前を見てフロアへと向かう。

 

 今は皆仕事中のため、休憩室からではなく表の入り口から。今日は従業員ではなく、客として。

 

 裏口から外に出て、まだ人が並んでいない表へ。

 

「すぅ────はぁ────」

 

 気まずさはある。でも、またこの店に戻るには避けては通れない。大きく深呼吸をして覚悟を固めようとする。

 

「ほら、柳君」

 

「す…え、ちょっ、四季さんっ?」

 

 店に入りたがろうとしない心の一部を落ち着かせる前に、四季さんに手を掴まれる。

 そのまま四季さんに引かれ、店の前へ。俺の手を掴んだまま四季さんは扉を開ける。扉の奥からはいらっしゃいませ、という声と、四季さんを呼ぶ聞き馴染んだ高い声が。

 

 一度四季さんはそこで足を止め、振り返って俺に微笑みかける。それは俺を勇気づけるためか、或いは別の目的があったか。

 分からないが、何にしても俺はこの後、四季さんに手を引かれて店の中へと連れていかれたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




とりあえず、これにてこの作品における第一部が完という事で。


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第二十八話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 五時にセットしておいた目覚まし時計の音で目を覚まし、ベッドから降りる。顔を洗ってから簡単な朝食と紅茶を用意し、食べ終えてから食器を片付けて身支度を済ませる。

 鞄にノートPCと講義で使う資料を詰め、最後に鏡を見て寝癖が残ってたりしていないかの確認。問題ない事を確かめてから、俺は家を出た。

 

 ほとんど人がいない歩道を歩き、店へと向かう。こんな閑散とした景色を見ると、あの獣に襲われた場面がフラッシュバックするが、時折朝の散歩をする老夫婦やゴミを捨てに外に出て来る主婦の姿を見て、その度に安堵する。

 我ながら情けないが、あの出来事は軽いトラウマとして俺の胸に刻まれてしまったらしい。バイトに復帰して三日目、出勤も三度目なのだが、こうした人通りが少ない時間外は未だに慣れない。つい神経を尖らせてしまう。

 

 特に知り合いと会わないまま店の前に着く。もう、涼音さんと高嶺は来ているだろうか。明月さんとミカドはフロアの掃除を始めているだろうか。

 皆、俺の出戻りをあっさりと受け入れてくれた。というより、涼音さんなんかはキッチンスタッフが二人だと混雑時の対応がキツいからとっとと戻ってこいと言い出す始末。

 俺の懸念は何とも呆気なく霧散した。四季さんが言った通り、皆は俺が戻ってくる事を歓迎してくれた。

 

 ただ、それはそれで少し複雑で。勿論、嬉しくはあったのだが、それでも少し文句を言われた方が楽だったというのが本音だ。あんな風に歓迎されると、自分の汚さを突きつけられるというか、上手く言えないが、胸にくる。

 だから、皆へのこの恩は仕事を頑張る事でしか返せない。こんな風に自分に気合いを入れるのは何度目だろうか、裏口から建物に入り休憩室へ。そこで着替え、手を洗ってから厨房へ入る。

 

「おはようございます」

 

「ん。おはよう」

 

「おはよう、柳」

 

 すでに来ていた涼音さんと高嶺と挨拶を交わす。

 

「珍しいな。高嶺がもう来てるなんて」

 

「どういう意味だ」

 

「私よりも先に来てたのよね。私も驚いちゃった」

 

「涼音さんまで」

 

 大抵この三人の中で最後に来る高嶺なのだが、今日は珍しく一番最初に来ていたという。

 

 いや本当に珍しい。バイトを休み始める前から高嶺はほとんど一番最後に、それも一番最初には来た事がなかった。

 

「雪でも降るのかね」

 

「おたまじゃくしが降るかもしれませんよ」

 

「二人とも酷い」

 

 さて、雑談もそこそこに朝の仕込みを始める。涼音さんが定めた数のケーキを作っていく。といっても、俺も高嶺も材料を切ったり混ぜたりという簡単な作業しか未だに出来ないのだが。そんな簡単な作業でさえ、涼音さんに出来上がりの確認をとらなければならない。

 

 こうして改めてバイトを再開すると、料理とお菓子作りは全くの別物だと思い知る。アレンジを加える事で美味しさを増す事が出来る料理と、ほんの少しでも割合を間違えればバランスを崩し、美味しくなくなるお菓子。

 料理とお菓子作りは別だと両親からも聞いていたし、知っているつもりではいたが、お菓子作りに触れれば触れる程、その違いを思い知っていく。

 

「…うん、オッケー。じゃあ後は私がやるから、千尋はあっちの食器の片付けをお願い」

 

「はい」

 

 レシピ通りに作った生地が涼音さんのチェックを通り、次の指示が俺に渡る。その指示通り、洗い場に溜まった食器やらボールやらを洗い始める。

 キッチン内に無駄な会話はなく、水が流れる音とかちゃかちゃと器具や食器がぶつかる音しかしない。

 

 それぞれがそれぞれの作業に集中し、没頭する。そんな仕事をする側として理想的な空気の中、厨房で作業をする俺たち三人以外の声が聞こえてきた。

 

「柳君」

 

 その声は俺の名前を呼ぶ。俺だけじゃなく、涼音さんと高嶺も声がした方へと視線を向ける。

 

「四季さん」

 

 厨房を覗きながら俺を呼んだのは四季さんだった。四季さんは俺の方を見ながら続ける。

 

「そろそろ出ないと、一限に間に合わないわよ?」

 

「あ、もうそんな時間?」

 

 時計を見上げる。時刻は十時を回り、長い針はもうすぐ2を差そうとしていた。

 

「うわ、やっば」

 

「私は先に出てるから、柳君も急いで着替えた方がいいわよ」

 

「あぁ。涼音さん、途中で悪いんですけど…」

 

「分かってる。早く行きな」

 

 涼音さんの許可を貰ってから四季さんと一緒に休憩室へ。元々私服姿だった四季さんは先に外へと出て、俺は扉が閉まるのを確認してから作業服から私服に着替える。そしてロッカーから鞄を取り出してから休憩室を出て、裏口から外へと出る。

 

「─────」

 

 出ようと、した。扉を開けた体勢のまま、目の前に立っている人物を見て固まってしまった。

 

「どうしたの?」

 

「いや…。先に行ったと思ってたから」

 

 そこに立っていたのは先に大学へ行った筈の四季さんだった。固まった俺を目を丸くして見つめる四季さんは、俺の台詞に答える。

 

「わざわざ別々で行く程気まずい仲じゃないでしょ」

 

「…まあ、そうだけど」

 

 四季さんはあっさりした様子でそう答えた。いや確かにその通りなのかもしれないが、俺の感覚がおかしいだけなのだろうか?

 異性同士が一緒に大学に行くって、割と注目集めそうな気がするのだが。それとも四季さんはそういうのを気にしない方なのだろうか。

 

 …気にしないんだろうな。というより、気にしなくなったんだろうな。普段から注目されまくってるから。

 

 俺は四季さんとは違い、周囲の視線が気になる質ではあるが、ここで断って別々に行くというのもおかしい気がするし、素直に四季さんと大学に向かう事にする。

 

「そういえば、こうして四季さんと一緒に大学に行くのは初めてだな」

 

 歩きながらふと思う。大学から店に行く途中で一緒になった事はある。店から一緒に帰った事もある。ただ、店から大学に一緒に行った事は今までなかった。

 まあ学部は違うし、当然講義の時間も毎日同じ訳ではないため、別におかしくはないのだが。

 

「そうね。でもそれって、柳君がさっさと大学行っちゃうからじゃない?」

 

「はい?」

 

「柳君はいつも時間になったらすぐに大学に行っちゃうじゃない。今日は珍しく時間に気付かなかったみたいだけど」

 

「…」

 

 四季さんに言われて思い返せば、確かにその通りだった。そういえば俺、時間になったらすぐに着替えて一人で大学に行ってたわ。

 

「高嶺君とは一緒に大学に行ってるのにね」

 

「まあ、あいつとは時間になったら一緒に着替えるしな。一緒に行く流れになる」

 

 高嶺とは男同士だしな。まさか四季さんと一緒に休憩室に入る訳にはいかない。

 いや、でも四季さんは今日みたいに大学が朝からある日は制服ではなく私服で仕事をしているから、着替える必要はない。それなら別に問題はないのか?四季さんが外に出てから着替えれば別に疚しい事は何も起きない訳だし。

 

「…」

 

 歩みを進める毎に、恐らく目的地が一緒だと思われる若者の数が増えていく。そして若者の数が増えていく度に、こちらに向けられる視線が増えていく。

 

 隣を歩く四季さんを横目で見る。別段、気にしている様子は見られない。いつも通りに、普通の歩調で、普通の表情で歩いている。やっぱり、これだけ美人だと注目され慣れてるんだろうな。

 

「ん?どうしたの?」

 

 俺がじっと見ている事に気が付いた四季さんがこちらを見上げて聞いてくる。

 

「いや、美人だなって」

 

 その問い掛けに、俺は即座に答えた。特に何も考えもせず、さっきまで思っていた事の()()()口にしていた。

 

「…え」

 

「あ」

 

 しまった、と思っても遅い。四季さんの顔が戸惑いと羞恥の色に染まっていく。

 

「違う、まだ続きがある。四季さんほど美人だと、注目されるなんて日常茶飯事なんだろうなって思ったんだよ、うん」

 

「え?…あぁ、そういう事」

 

 慌てて台詞の続きを口にする俺から周りを見て、四季さんは俺が言った事の意味を察したらしい。

 僅かに顔に羞恥の色を残したまま溜め息を吐いて、口を開く。

 

「まあ、そうね。でも、知らない人達の視線を浴びるって、結構疲れるのよね…」

 

「そうなのか?慣れてるように見えたけど」

 

「周りを気にしても疲れるだけだから、気にしないようにしてるの。気にしなければ、注目浴びてるって気付かないしね」

 

「ふーん」

 

 美人も大変だ、と辟易した様子で語る四季さんを見て思う。というか、あれか。俺がこの話題を出さなければ、四季さんは向けられる視線に気付く事なく、普段通りでいられたという事か。俺のせいで、無駄に疲労してしまうという事か。

 

「何か、ごめん。言わなきゃ良かったな」

 

「うぅん。私の方こそ、ごめんね?私のせいで注目浴びて、柳君も疲れるでしょ?」

 

「…まあ、注目浴びるのは苦手だけど、四季さんのせいじゃないからな。謝らなくていい」

 

「…ありがと」

 

 信号が赤になり、並んで立ち止まる。一旦そこで会話が途切れると、背後で誰かが立ち止まる足音がした。

 すると、僅かに聴こえてくる話し声。

 

「なぁ。あれ、四季さんだよな?」

 

「あぁ。…男と一緒に歩いてるな」

 

「誰だ?」

 

「分からん」

 

 間違いなく四季さんの耳にも届いているだろう。しかし四季さんは反応しない。こういった自分に関する話が聴こえてくるのにも慣れているのだろうか。

 …本当に、美人が過ぎるのも大変なんだな。

 

 しかし、こんな風に自分と関わりのない人に名前を知られ、挙げ句友人と歩くだけでああやって変な注目を受け、怖くはないだろうか。俺だったら普通に怖くて外に出られなくなりそうだ。

 

 いや、それは流石に盛ったが。

 

「すげぇな、四季さんて」

 

「え?急になに?」

 

「いや、こっちの話」

 

 信号が青になる。可愛らしく首を傾げる四季さんを置いて歩き出すと、四季さんが慌てて俺の隣まで追い付いてくる。

 

「ねぇ、そんな風に言い淀まれると気になるんだけど?」

 

「ただ四季さんは凄いなって思っただけだって」

 

「…意味分からない」

 

「分からなくて良い」

 

 四季さんが拗ねた風にこちらを見上げる。その視線を意識的に無視して、前を見続ける。

 

「柳君」

 

「やだ」

 

「まだ何も言ってない」

 

「やだ」

 

「…そんなに私に言いづらい事を考えてたの?」

 

「四季さんに嫌な事を考えた訳じゃない。でも言わない」

 

 だって、言える筈がないじゃないか。

 四季さんに直接、それもまた、()()って大変なんだな、なんて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「何故教室に入って早々俺は連行されてるんだ?」

 

 横長の机の真ん中の席に座らされ、周りを囲む男共の中心にて、俺はごく自然に湧いた疑問を口にした。

 

 キャンパス内に着いてから、四季さんとは別れて別の棟に向かった俺は、一限目が行われる講堂に来た。

 そして、講堂に入った途端、即座に昭久含めた友人達に、加えて数度言葉を交わした程度の相手にまでも周りを囲まれ、あれよあれよという間に今、俺が座っている席にまで連行されてしまった。

 

 俺を囲む男共の殆どがギラギラと殺気立っており、昭久に関してはそれはそれは面白そうにニヤニヤしながら俺の姿を眺めていた。

 男達によって描かれた円形の外側からも、チラチラと視線が注がれる。いや待て。本当に何があった。心当たりがまるでない。いや、一つだけあるにはあるのだが、それが広まるにはあまりに時間が少なすぎる。だから、当然俺はそれ以外の心当たりを記憶の中から探るのだが。

 

「これを見ろ、柳」

 

 その一つだけ思い当たった心当たりが、見事に的中した。

 一人の男が俺に向けてきたスマホの画面に写っていたのは一枚の画像。一組の男女が並んでどこかの、というよりすぐそこの街を歩く後ろ姿だった。

 

「何で」

 

「ライムで出回ってるぞ」

 

「訴えたら勝てるんじゃね、これ。ちょっと四季さんに相談してくるわ」

 

「まてまてまてまてまてまて」

 

 流石に訴えられるのはまずいと思ったらしい。席を立ち上がった俺の肩を数人が掴み、慌てて席に押し戻す。

 

「盗撮だろ、これ」

 

「俺が撮った訳じゃねぇし」

 

「俺はお前に事の次第を聞いたら消そうと思ってたし」

 

「誰も友人が盗撮されてる事態を心配する優しさを持っていない現実が悲しいよ」

 

 そっぽを向く阿呆共。

 

「って、そうじゃねぇんだよ。何なんだよ、この画像は」

 

「…見ての通りだが」

 

「じゃあ、噂は本当なのか!?お前と四季さんが付き合ってるって!」

 

「はぁ?」

 

 思わず大きな声が漏れた。何だその噂は。というかさっき四季さんと歩いていたあの時間からよくもまあ、ここまでこんな下らない噂が出回ったものだ。怒りを通り越して、呆れをも通り越して感心するぞ。

 

「付き合ってない」

 

「それは本当か?」

 

「本当だ」

 

「思えばよ、前から怪しかったんだよ。ほら、あっただろ?四季さんがお前に話があるって呼びに来た事。あれは告白とかじゃないのか?」

 

「…あー、あったなそんな事」

 

 そういえば、四季さん達にバイトに誘われて断った翌日、四季さんがこいつらの前で俺に話をしに来た事があった。

 なるほど。ただの噂だと、出鱈目だと聞き流せなかったのはその件があったからか。結局あれから、四季さんと何を話したのかこいつらには伝えてなかったし。これは俺にも責任がある…か?いや、ないだろ。マジで盗撮犯許すまじ。

 

「俺と四季さんは同じ職場でバイトしてんだよ」

 

「…バイト?」

 

「お前らが言う呼び出しも、バイトについての話をしようって事だったんだ」

 

「…本当か?」

 

「今のお前らに嘘を吐く方が俺は怖いよ」

 

 男共の視線に晒される。あー嫌だ。気持ち悪い。

 そういえば、俺の方はこうやって尋問を受けてるけど、四季さんの方はどうなってるんだろうか。多分、だいぶ広い範囲であの画像が出回ってるだろうし、こんな風に質問責めにあってなきゃ良いけど。

 

「…そうか。バイト仲間か」

 

「でも、朝から一緒に大学行く程の仲なんだろ?」

 

「まあ二人で歩く事に抵抗はないな。でも、今日一緒に来たのだって、職場からだぞ?」

 

「は?そんな朝から働いてんの?」

 

「お前のバイト先ってコンビニだろ?二人揃って夜中にシフト入れてんのか?」

 

「…」

 

 あー、思い出した。前に四季さんに話があるって呼ばれた次の日に受けた尋問を誤魔化す際、適当にコンビニでバイトしてるって言ったんだった。

 

 これはもうどうしようもないな。素直に言うしかないだろ。

 

「すまん。コンビニでバイトしてるっての嘘」

 

「は?」

 

「本当はカフェでバイトしてる。朝から働いてんのは、仕込みの手伝い」

 

「はぁ?」

 

「カフェでバイト?お前が?」

 

 滅茶苦茶意外な目で見られる。俺がカフェで働くのはそこまで意外なんだろうか。

 …意外だろうな。俺もそう思う。

 

「てか、何でそんな嘘吐いたんだよ」

 

「だってお前ら、俺が働いてる店に冷やかしに来るだろ」

 

「…」

 

「ほら黙る。それが嫌だったんだよ。俺も、店主も。ていうか、さ」

 

 昭久の方を見る。

 

「昭久には言ったんだけど、聞いてなかったのか?」

 

「…草野?」

 

「いやぁ~。あまり周りに言い触らすのは千尋が嫌がりそうだったからさ」

 

「…まあ、あんま文句は言えねぇけどよ。事実、冷やかしに行くかってノリになってただろうし」

 

「納得してくれたようで何よりだ」

 

 隠し事はバレてしまったが、あまり騒ぎにはならないまま尋問をやり過ごせたという事でよしとしておこう。

 

「それで、何て店で働いてんだ?」

 

「やっぱ、女性客が多いのか?男同士で来る客っている?」

 

「…お前ら、冷やかしはやめろって言ったよな」

 

「いや、お前さっき朝は仕込みって言ってただろ?つまりお前、厨房で働いてるんだよな?」

 

「一友人として、お前が作る味に興味がある。てか食ってみたい。何かおすすめある?」

 

 尋問は終わったが、質問責めは終わらなかった。それから教授が来るまで俺はひたすら店の事で質問を受け続けた。

 やっぱり、こいつらに店の事を教えたのは早計だったかもしれない、と少し後悔した。









ふと気になったのでアンケート


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第二十九話






アンケートの回答、ありがとうございます。
私が寝る前は回答数が少ないながらいいえが多かったのですが、やっぱり圧倒的にはいが多かったですね。
でも未プレイの方も結構いました。他作品はプレイ済みの方も含めて、お勧めします。
喫茶ステラはいいぞ。

それと、既プレイの方は皆大好き、あの子の登場です。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「今思ったんだけどさ、お前週に何回シフト入ってんの?」

 

 今日の分の講義が終わり、資料を片付けて席を立とうとしたときだった。俺の前の席に座っていた友人が振り返ってそう聞いてきたのは。

 

「六」

 

「六!?」

 

 答えてやると、聞いてきた友人だけでなく、隣にいる昭久や他の友人達もまた、驚き目を見開いた。

 

「え…。じゃあ四季さんは?」

 

「六」

 

「超絶ブラック職場じゃねぇか!」

 

 もう一つの問い掛けにも答えてやると、思い切り突っ込まれた。いやまあ、週六勤務なんて普通やらんわな。しかも大学生がそれをこなすとか、俺がそんな奴がいるって知ったらバカにしてるわ。

 

「でも、俺が望んでやってる事だし」

 

「M!」

 

「ノーマルのつもりなんだが」

 

 マゾじゃない。断じてマゾじゃない。

 

「道理で最近ノリが悪いと思った。いや、前からノリ良くはなかったけど」

 

「あぁ。でも土日なんかは誘ったら基本OKだったもんな。今じゃ土日すら断られるし」

 

「…そこはスマンと思ってる」

 

 突然どうしたと思ったら、最近彼らからの遊びや飲み会の誘いを断り続けていた事を心配されていたらしい。先週なんかはバイトではなくまた別の理由だったが、そこはこいつらに話せる内容ではないため置いといて、ステラでバイトを始めてからこいつらと遊びに出たりとかしていなかった。

 店が定休日で休みでも、帰って惰眠を貪る生活をしてたし。そこを考えると、少し申し訳なさを覚える。

 

「本当に大丈夫か?何なら、俺達が店の責任者に文句言ってやろうか?」

 

「お前らの思い遣りに涙ちょちょ切れそうだけど、やめとけ。さっきも言ったけど、俺が望んでやってる事だから」

 

「…弱みでも握られてんの?」

 

「握られてない」

 

 多分、店の責任者が四季さんだって知ったらこいつら掌返すんだろうな。是非こいつを扱き使ってやってくださいとか言って。それに、何度も言うが今の生活は俺が望んでしている事で、心配される謂れはない。勿論、友人の心配が嬉しくない訳ではないが、無用だ。

 

「ふーん…。まあ、柳がそれで良いなら別に良いけどよ」

 

「気持ちだけ有り難く受け取っとく」

 

 鞄を持ち上げ、席を立つ。挨拶を交わしてから教室を出て廊下へ、階段を降りて建物から外へと出る。

 

「あ」

 

「あ?」

 

 建物を出ると、声が掛かる。いや、正確には俺に声が掛かったかはこの時、判断つかなかったのだが。視界の端で立っていた女の子がこちらを見て声をあげたから、思わず振り返る。

 

「…四季さん?」

 

 そこにいたのは四季さんだった。建物の入り口横で、誰かを待っていたかのように立っていた。

 いや、事実待っていたのかもしれない。確か今日は四季さんの講義もこの時間帯で終わりの筈だ。これから店へ向かうという事を考えれば、もしかしたら。

 

「待ってたのか?」

 

「え?あ、えっと…」

 

 単刀直入に聞いてみると、四季さんはあちこちと視線を彷徨わせてから、小さく頷いた。

 

「先に行ってて良かったのに」

 

「…柳君一人置いてくのもどうかと思ったのよ」

 

「学部別なんだし、気にしないぞ」

 

「私が気になっちゃったの」

 

 何か似たような会話を最近した気がする。正確には朝にした気がする。ちょっとしたデジャブ。

 

 四季さんが俺の隣まで来て、その流れで二人で歩き出す。

 何か、あれだな。また噂が加速する気がする。朝、四季さんと一緒に大学に来た男が四季さんと並んで帰っていたとかいうおまけ付きで。

 また盗撮されるんだろうか。というか、四季さんの方は大丈夫だっただろうか。

 

「あのさ。…聞かれた?」

 

「え?…あぁ」

 

 唐突な俺の問いに一瞬呆けた顔をした四季さんだったが、すぐに合点がいったらしい。小さく苦笑いを浮かべてから口を開く。

 

「もしかして、柳君も?」

 

「尋問された」

 

「何があったの…?」

 

「いやまあ、こっちは事情を説明したらすぐに納得してくれたんだけどさ。四季さんの方はどうだったんだ」

 

「私の方は…。ちょっとうざい陽キャ共がね…」

 

 そう言う四季さんの顔は苦笑いのまま、されどその表情から僅かな怒りが感じ取れた。

 多分、悪口とかは言われなかったんだろうが、しつこく付き纏われたりしたのかもしれない。

 

「ただの友達だって言ってるのに…。友達なら俺とも一緒に大学行こうよとか…。アンタは友達でもなんでもないっつーの…」

 

「四季さん、堕ちてる。暗黒面に堕ちてる」

 

 こんな風に怒りを露にする四季さんを初めて見た。表情に陰を落としながら愚痴る四季さんを軽く宥めてやる。

 相当なストレスを感じているようだ。俺の方は知り合いも少ないし、四季さんが言うような陽キャが話しかけてくるタイプでもないため、四季さんよりだいぶマシだったらしい。

 

「あんな冴えない奴とか、微妙な男とか、柳君の事まで好き放題言ってくるし」

 

「おーっと?俺の陰口まで聞かされてんの?」

 

「あんな奴より俺と一緒にいた方が~とか、天地が引っくり返ってもアンタと付き合うなんてあり得ない」

 

「俺と四季さんは別に付き合ってないけどな」

 

 何だろう、四季さん自身に言われた言葉よりも四季さんを通して俺に向けられた悪口を語る時の方が声に籠った怒りが強い気がする。

 

「…あのさ。朝から今までで俺と四季さんについての噂ってかなり広まってそうだよな」

 

「そうね」

 

「でさ、帰りもこうして一緒にいる訳だし、多分明日はもっと広まってると思うんだよ」

 

「…そうかもね」

 

 四季さんの顔がうんざりだと、声に出さずとも語っていた。

 

「だからさ、今はもう仕方ないとしても、少し距離置かね?」

 

「え?」

 

 俺がそう言うと、四季さんは驚いたように目を丸くして俺を見上げた。

 

「だってさ。多分明日、また四季さん絡まれるぞ?何度も何度も同じ質問受けて、聞きたくもない話聞かされて、相当ストレス溜まるぞ?」

 

「…」

 

「ほとぼり冷めるまで、人前で話したりとかしない方が良いんじゃね?」

 

 俺の方は良い。四季さんに絡んでくる陽キャは俺じゃなく昭久の方に話を聞こうとするだろうし、俺と親交がある友人には今日の話で納得してくれた。明日も、今の件については職場まで一緒に行っただけだろうと言わずとも思い至ってくれる筈だ。

 だが、四季さんの方はどうだろうか。物分かりが良い人達ばかりならば良いのだが、そうじゃない人だって当然いる。四季さんに絡んだ人達の中に、そういう、所謂阿呆はいないのだろうか。

 

 もしいたら、きっと明日も四季さんにしつこく絡む。そういった事を防ぐために、俺はこの提案をしてみた。

 

「…」

 

 四季さんは黙り込む。何かを考える素振りを見せて数秒、再びこちらを見上げて口を開いた。

 

「柳君はどうなの?私と一緒にいる事で、今日は質問責めになったんでしょう?これから変わらない距離感で付き合ったとして、もしかしたら柳君も絡まれるかもしれない。それは、嫌?」

 

 質問を質問で返された。ただ、この質問に対する返答が、四季さんが答えを出す後押しになるのなら、それも構わない。

 

「俺は別にどうでもいい。それに、俺に話を聞きに来る奴は四季さんより少ないだろうし」

 

「…どうでもいい?」

 

「どうでもいい」

 

「そう」

 

 俺の答えは四季さんにどう響いたのだろう。分からないが、四季さんはどこか吹っ切れたように見えた。

 

「私も同じよ」

 

 四季さんは俺の方を見上げ、微笑みながらそう言い切った。

 

「どうでもいいもの。周りが何を言おうが。周りを気にして、友達との時間が減る方がもっと嫌」

 

 俺の前に出て、足を振り上げて大袈裟に歩きながら四季さんが続ける。

 そして、四季さんは俺の前で立ち止まり、振り返ってから微笑んだまま言う。

 

「だから、柳君とは距離置かない。今のまま、付き合って貰うから」

 

「…四季さんが良いんなら」

 

 四季さんの笑顔はどこか幼く見えて、つい俺までつられて笑みが溢れてしまう。

 

 四季さんが嫌がると思って提案したのだが、そんな風に言われたら何も言えなくなる。

 

「─────?」

 

 しかし、何故だろう。普通に嬉しい筈なのに、感情の中で、何かが引っ掛かっている。正体は分からない。ただ、こう、喉に小骨が引っ掛かったような。

 

「ほら、どうしたの?早く行かないと」

 

「ん、あぁ」

 

 四季さんに促されて再び歩き出す。店の近くまで来ていたから、ここから数分と経たずに店まで着いた。

 表の入り口には行列が、という訳ではないが、丁度俺達が来た時、同年代と思われる女性グループが店の中へと入っていった。

 

 平日ながら、それなりにお客さんは入ってきてると思われる。

 

「ねぇ、柳君。あの子…」

 

「ん?」

 

 四季さんに肩を叩かれ振り向くと、四季さんは表の入り口ではなくそこから少しずれた所、店の窓から店内を覗き込む女の子を見ていた。四、五歳程だろうか?かなり幼く見えるが、周りに親と思わしき大人の姿は見えない。

 親が店で買い物をしているのを外で待っているのか、それとも一人で来ているのか。どちらにしても、放っておきづらい場面に出会した。

 

「…ねぇ」

 

「っ」

 

 俺が話しかけたら事案になったりしないか、通報されたりしないだろうか、と悩んでいる間に、四季さんが女の子に歩み寄って、女の子の隣で中腰になると、声をかけた。

 店内を見る事に集中していた女の子は四季さんの接近に気付いていなかったのか、声を掛けられると体をびくりと震わせて、驚いた様子を見せた。

 

「あぅ…」

 

「あぁ、ごめんね?ビックリさせちゃって。でも、お店の中をじっと見て、どうしたのかなって思って」

 

 四季さんは女の子に驚かせてしまった事を謝罪してから、何をしているのかを問い掛ける。

 女の子は四季さんの姿を、そして後ろに立っている俺を不安げに見上げ、何も言えないでいる。

 

 さて、俺はここで待つべきだろうか。それとも女の子に歩み寄るか、はたまた二人を置いて店の中に入るか。

 

 女の子に歩み寄るのは論外。もっと不安にさせるだろう。ここで待っているのも果たしてどうか。女の子は俺を警戒している様だし、それなら先に店の中に入るべきか。

 後で四季さんに文句を言われそうだが、女の子のためだ。甘んじて受け入れよう。

 

 という事で、俺は裏口の方へと足を向けて─────

 

「柳君?何してるの、こっちに来て」

 

「…」

 

 四季さんに呼ばれてしまった。裏口の方に向けた足を四季さん達の方へと戻し、何も言わずに二人に歩み寄る。

 俺が近付く程に、女の子が縮こまっていくのは気のせいだろうか。

 

 俺は子供に怖がられた事にちょっとした寂しさを覚えながら、女の子の前でしゃがみこんで声を掛ける。

 

「こんにちは」

 

「…こんにちは」

 

「ワイチュウ、食べる?」

 

「ママが知らない人にモノをもらっちゃだめっていってた」

 

「おーう、しっかりしてんなこいつ」

 

 鞄のポケットからおやつを取り出し、女の子に見せると、思いも寄らない返され方をした。

 この子もこの子の親もしっかりしてるな。お兄ちゃん、普通に安心したぞ。断られた身だけど。

 

「え…。それ、持ち歩いてるの?幼女に出会った時のために?…おまわりさーん」

 

「事案にすんな。今日たまたま持ってただけだ」

 

「おにいさん、誘拐犯?」

 

「違う」

 

 キョトンとした顔で聞いてくる女の子に即座に否定する。

 

「それで、どうしたんだい?一人みたいだけど、お母さんは?」

 

「ユイナはね、ひとりで来たの」

 

「一人で?」

 

 一人で来たと言った女の子に四季さんが聞き返した。

 それと、女の子の名前はユイナというらしい。字は分からないが。

 

「ユイナちゃんは、どうしてここに来たのかな?」

 

「あのね?ユイナはね?…おねえちゃん、どうしてユイナのお名前しってるの?」

 

「え?」

 

「おねえちゃんも誘拐犯なの?」

 

「ちょっ、ちがっ…!」

 

「いち、いち、ぜろっと…」

 

「柳君!スマホを出さないで!」

 

 ありがとう、ユイナちゃん。君のお陰で四季さんに仕返しが出来たよ。その報奨として、君のお願い事を一つ叶えてやろう。

 そんなちょっとした神様の気分で俺はユイナちゃんに声を掛ける。

 

「それで、どうしてここに一人で来たのかな?」

 

「そうだった!あのね?ユイナはね、パパのすきなケーキをさがしてるの」

 

「ケーキ?」

 

 まあ、この店に来る目的としては妥当な所だが。色々疑問はある。どうしてそのケーキをこの子一人で探しているのか。そして何より、探しているケーキとは何なのか。

 

「ユイナちゃん。そのケーキって、どんなのかな?」

 

「…ユイナのお名前」

 

「えっと、それはユイナちゃんが自分で言ったからなんだけど…」

 

「…?」

 

 四季さんが再び口を開く。ユイナちゃんが警戒心を露に、こちらの方に、四季さんから逃げるように寄ってくる。

 まあ、四季さんが言ったように、名前を知っているのはユイナちゃんの一人称が自分の名前だからなのだが。

 

 しかしそれを指摘されても、ユイナちゃんの歳では理解しきれなかったようで、首を傾げている。

 

「ユイナちゃん。俺とこの人はこのお店で働いてるんだ」

 

「!ほんとう!?」

 

「あぁ。だから、ユイナちゃんが欲しいケーキを探すのに協力できる。だから、そのケーキについて教えてくれないかな?」

 

「うん!」

 

「…私と柳君と、対応がまるで違う」

 

 この子、歳の割にしっかりしてるからな。四季さんは初動を間違えてしまった。いじけている所悪いけど、放っておかせてもらう。

 

「じゃあ、一回お店に入ろうか。ほら、四季さんも」

 

「ぐむむむむむ…!」

 

 話をするにしても、外では立ち話になるだろうし、一回店に入ってこの子を座らせる事にする。

 ユイナちゃんと悔しがる四季さんと一緒に、裏口からではなく表の入り口から店に入るのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




ナツメさん、幼女に嫌われるの巻


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第三十話





この作品の平均文字数からすれば少し短めです


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 扉を開けて女の子を先に店の中に入れ、その後に俺、四季さんの順に店に入る。扉が開いた事で鈴の音が鳴り、フロアにいる明月さん、墨染さん、火打谷さん、ミカドの四人がこちらに振り向く。

 

「いらっしゃいま…千尋先輩?ナツメ先輩も」

 

 一番近くにいた火打谷さんが俺達に気付く。表から入ってきた事を不思議に思ったのだろう、目を丸くしながら俺と四季さんの顔を見て、それから視線を下に、ユイナちゃんの事を見る。

 

「…か、か、かかかかかか」

 

「か?」

 

「隠し子だぁ!?」

 

 唇を震わせて何を言うかと思えば。火打谷さんが突然ヤバイ単語を口走り始めた。

 

「何故その結論に至った」

 

「だ、だってその子…」

 

「俺か四季さんの親戚の子とか、可能性は色々あるだろ」

 

「親戚なんですか?」

 

「違うけど」

 

「やっぱり隠し子!?」

 

 だからどうしてそんなぶっ飛んだ結論に至れるんだ。火打谷さんの思考がまるで分からない。

 実はこの子、ムッツリスケベなんだな。初めて会ってから約一ヶ月、火打谷さんの新たな一面を知った瞬間だった。

 

「か、隠し子なんて、そんな訳ないでしょう!?」

 

「じ、じゃあ…」

 

「外で店の中をずっと覗いてたから、気になって声を掛けたの」

 

「探してるケーキがあるらしくてな。外で話すのもあれだから、中に連れてきた」

 

 話を聞いた身として、放っておく訳にもいかなかったしな。こんな子供を一人にさせる訳にもいかないし。

 

「なんだ。二人の隠し子じゃないんですね」

 

「当たり前だ」

 

 火打谷さんが大きく息を吐き、心の底から安心した素振りを見せる。 

 待て、そこまで本気でこの子が俺と四季さんの隠し子だって思ってたのか。ちょっと火打谷さんの将来が心配になってくるぞ。

 

「それで、えっと…。お名前は何ていうのかな?」

 

「深山結菜です。四さいです」

 

「そっか。それで、ユイナちゃんはどんなケーキを探してるのかな?この中にあるかな?」

 

 火打谷さんがショーケースを指差しながらユイナちゃんに問い掛ける。

 ユイナちゃんはとてとてと足音を立てながらショーケースの前まで行き、真剣な顔で中のケースを見つめる。

 

 左端から右端へ、順番にショーケースの中のケーキを見ていくユイナちゃんの表情が次第に曇っていく。やがて、全てのケーキを見終えたユイナちゃんが振り返り、俺を見上げてから頭を振った。

 

「ない…」

 

「…そうか」

 

 ショーケースの中に並んでいるのはこの店で作っているケーキの全種類だ。勿論、この店で召し上がる客に出すケーキとはサイズは変わってくるが。

 この中にないのなら、自動的にユイナちゃんが求めるケーキはこの店では手に入らない事になるのだが。

 

「私、涼音さんを呼んでくる」

 

「頼む」

 

 さすがにここでユイナちゃんを突き放してしまうのは忍びない。心が痛む。

 とりあえず涼音さんを呼んで判断を仰ごうと思ったのだが、俺が行動に出る前に四季さんがキッチンの方へと足を向けた。

 

 ユイナちゃんがこの場を去っていく四季さんの背中を目で追うと、すぐに俺を見上げて口を開いた。

 

「誘拐犯のおねえちゃんはどこに行ったの?」

 

「このお店のシェフ…、ケーキを作ってる人を呼びに行ったんだ」

 

「…誘拐犯のおねえちゃん?」

 

 俺とユイナちゃんの会話を聞いて、火打谷さんが首を傾げる。

 

「それって、ナツメ先輩の事ですか?」

 

「なつめ…?」

 

「誘拐犯のおねえちゃんの事だよ」

 

「えっと…、何があったんですか…?」

 

 質問してきた火打谷さんに事の次第を説明してやる。すると、話が進む毎に火打谷さんの表情が膨らんでいく。どうやら必死に笑うのを堪えているらしい。

 

「ぷふ」

 

 訂正。堪えきれてなかった。火打谷さんは吹き出してからすぐに表情を引き締めるが、唇の端がひくついている。未だ、込み上げる笑いと戦っているようだ。

 

「お待たせ」

 

「四季さん」

 

「誘拐犯のおねえちゃん!」

 

「ぶふぉっ」

 

 四季さんが涼音さんと高峰も一緒に引き連れて戻ってきた。俺とユイナちゃんが戻ってきた四季さんを呼ぶと、火打谷さんが勢い良く吹き出した。ユイナちゃんの四季さんの呼び方が完全な止めになった。

 四季さんは火打谷さんを睨み、涼音さんと高峰はユイナちゃんの台詞に疑問符を浮かべている。

 

「えっとですね、実はさっき…」

 

「柳君?」

 

「…すいません。背後が怖いのでやっぱ止めときます」

 

「えぇ…」

 

「そこで止められると余計気になるんだけど…」

 

 火打谷さんの時と同じ様に、涼音さんと高峰にも事の次第を話そうとすると、背後から殺気が伝わってきた。殺気の主は言うまでもない。

 四季さんに釘を刺された俺はただ言葉をつぐむ事しか出来なかった。

 

「…まあ、いいや。それで?話って、この子の事?」

 

「そうです。この子があるケーキを探してるみたいなんですけど…」

 

「ふむ。そのケーキの事、お姉さんに教えてくれるかな?」

 

 涼音さんに問われたユイナちゃんがポツリポツリと語り始める。

 

 ふわふわしていて、白っぽくて、でもショートケーキよりは白くない。

 

「生クリームは使ってない、と…。フルーツは使ってた?」

 

「うぅん、つかってませんでした」

 

「形は?丸かった?四角かった?」

 

「まるかったです」

 

 涼音さんの質問に答えていくユイナちゃん。

 しかし、生クリームを使っていない白いケーキか。

 

「チーズケーキとかですかね?あぁ、でもそれならこの店にあるか…」

 

 高嶺がそう言うと、ユイナちゃんが高嶺の方に振り向き、笑顔を浮かべて口を開いた。

 

「ママが言ってた!チーズが入ってるって!」

 

「え?」

 

 チーズが入っているという事はチーズケーキなのだろうが、ユイナちゃんはショーウインドウの中を見ても反応しなかった。

 つまり、普通のチーズケーキとは違う特別な代物なんだろうが─────

 

「あ」

 

 その時、涼音さんが声をあげた。目を丸くして、何か思い付いた様子。

 涼音さんはスマホをとってくる、と言い残して急いでバックルームへ。戻ってきたのはすぐの事だった。スマホを操作しながらこちらに戻ってきた涼音さんは、ユイナちゃんの前で立ち止まると手に握ったスマホの画面を向けた。

 

「ユイナちゃんが欲しいケーキって、これの事かな?」

 

 スマホの画面は今俺が立ってる場所からはよく見えないが、恐らく何かしらのケーキが写っているのだろう。ユイナちゃんはその画面を見て、するとみるみる内に明るい笑顔を浮かべた。

 

「うん!これ!これがほしいです!」

 

 体を傾けて見る角度を変えて涼音さんのスマホを覗き込む。そこにはユイナちゃんが言った通り白くて丸い、でもショートケーキよりは白くないケーキが写っていた。

 これがユイナちゃんが欲しがっているケーキか。

 

「あ、これ知ってます。中のチーズが二層になってるんですよね」

 

「有名なのか?」

 

「甘党の間では結構有名ですよ?」

 

「へぇ」

 

 人気のあるケーキらしい。しかし、このケーキは確かにこの店には置いていない。

 その事をこれから、ユイナちゃんに教えなければならないのだが…、告げる前から心が痛んでしまう。多分、凄くガッカリするんだろうな。

 

「ごめんね?これ、このお店には置いてないの」

 

「え…」

 

 ユイナちゃんの表情が一気に曇る。さっきまでの輝かんばかりの笑顔は消え、悲しげに、その目が潤み始める。

 

「今日じゃないとダメかな?他の日なら用意できるかもしれないけど」

 

 この店には当然予約制は存在しているが、ユイナちゃんが欲しがっているケーキはこの店のメニューにはないものである。

 しかし涼音さんはユイナちゃんが欲しがっているケーキを用意する気でいるらしい。

 

「パパのたんじょうびにプレゼントしたいです!」

 

「その誕生日はいつなの?」

 

「次の月曜日です」

 

「ふむ…。時間的にはギリギリか」

 

 涼音さんはその気でいる。だが、まずそのケーキを涼音さんは作れるのだろうか。勿論その気でいる以上、算段は着いているのだろうが、メニューにないのだから少なくともこの店に来てから今まで、そのケーキを一度も作っていないのは言うまでもない。

 

「作れるんですか?」

 

「舐めるな小僧、作れるわ。…まあ、練習は必要だけど」

 

 この様子なら、来週までにユイナちゃんにケーキを用意できる自信はあるらしい。

 だがここで問題が出てくる。店のメニューにない物を果たしてお客さんに提供して良いのかだ。

 

「四季さん。どうする?」

 

「んー…。涼音さんがいたお店では、どうしてたんですか?」

 

「前日までの申し込みって条件付きで、予約は受け付けてた。クリスマスとかになると、もう少し早く締め切ってたけど」

 

 四季さんの問い掛けに答えてから、涼音さんがユイナちゃんの方へと向く。

 

「ユイナちゃん。ケーキは大きくなっても大丈夫かな?」

 

「はいっ。大きいケーキ、だいすきです!」

 

 話は纏まりつつある。しかし、その話は店の責任者の判断如何でいくらでも引っくり返る。

 つまり、全ては四季さんの判断に委ねられるという事になるのだが─────

 

「こんな小さい子がお父さんのために頑張ってるんだもの。力になってあげたい」

 

 その心配は杞憂に終わる。いや、そんな心配なんて微塵もしていなかったのだが。

 

 責任者の許可が出たという事で、火打谷さんがユイナちゃんに連絡先を聞く。ユイナちゃんから教えてもらった母親の携帯番号をメモし、まずはこちらから連絡。事情を説明し、とりあえずまずは話をするという事で店に来てもらう事となった。

 

 その間、ユイナちゃんはこの店で母親が来るのを待つ事になったのだが。

 

「おにいちゃん」

 

「ん?」

 

「おなかすいた」

 

 不意に服の袖をくいくい、と引かれて振り向くと、こちらを見上げたユイナちゃんがそう口にした。

 

「でもユイナちゃん。今、何か食べたら夜ご飯食べられなくなっちゃうぞ?」

 

「…うぅ」

 

 何か食べさせてあげたいのはやまやまだが、時間も時間。主婦の方々が夕飯の準備を始める時間帯なのもあって、この店のメニューを何か作ってユイナちゃんにあげる、という事はしづらい。

 

 しかし、本当にちょっとしたお菓子なら、今俺の手元にある。俺はそれを鞄の中から出し、しょんぼりするユイナちゃんに差し出す。

 

「ワイチュウ、食べる?」

 

「たべる!」

 

 さっきは警戒されて受け取ってもらえなかったワイチュウはすぐに俺の手からユイナちゃんの手へ渡り、ユイナちゃんは包装を開けるとそれはご満悦そうに中身を口に入れ咀嚼する。

 

「…ふーん?」

 

「…何か?」

 

 むぐむぐと口を動かすユイナちゃんを見ていると、涼音さんが何やら意味ありげな視線をこちらに向けている事に気付く。

 何故そんな目で見られるのか理由が分からないまま、涼音さんの方へ振り向いて問い掛ける。

 

「いやー?随分と懐かれてるなー、と思ってねぇ?」

 

「そりゃあ、誘拐犯のおねえちゃんよりは懐かれてますよ」

 

「柳君っ」

 

 誘拐犯のおねえちゃんに怒られてしまった。

 

「おにいちゃん、ごちそうさまでした」

 

「まだあるけど、食べる?」

 

「たべる!」

 

 ワイチュウの本体を見せてやると、ユイナちゃんは目を輝かせながら俺からワイチュウ受け取った。

 何か、あれだな。多分このやり取りを外でやっていたら、勘違いされて通報されてるんだろうな。幼女に餌付けしてるとしか思えないんだろうな、今のやり取りは。

 

「事案ですね」

 

「涼音さん」

 

「はいはーい。110番すりゃいいのね」

 

「貴様ら、覚えてろ」

 

 訂正。中でも通報されそうになりました。

 ユイナちゃんがワイチュウを食べながら不思議そうに首を傾げてこちらを見ている中、俺は四季さんの反撃を受け続けたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第三十一話






今回も短いです


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日、大学の講義はなく、朝からずっと店で働いていた。高嶺は俺と違って大学に行っており、今厨房には俺と涼音さんの二人だけ。

 更に涼音さんは先日、ユイナちゃんから注文を受けたケーキを作る練習に集中しているため、今はほぼ俺一人で客の注文を捌いている状態だった。

 

 勿論俺では対処できない注文が来た時や、俺一人では捌ききれない数の注文が来た時は涼音さんがヘルプしてくれるが、基本は予約のケーキのための練習に時間を費やしている。

 そうなれば自動的に俺の負担は増える。結果、俺は土日の混雑時並の労働量を強いられていた。

 

 文句は言えない。涼音さんはサボっている訳ではないからだ。むしろ、ユイナちゃんを連れてきたのは俺の方で、こうなったのは自業自得といえる。

 だから文句を言えないどころか言う気もない。ひたすらに厨房内を動き回り、注文を捌く機械となる。そこに意思はない、感情もない。そんなものは必要ない。俺は今、人間をやめるのだ。

 

「あの、涼音さん…。柳君の目から光が消えてるんですが…」

 

「あー、大丈夫。あれくらいならまだ症状は初期だから」

 

「あれで初期なんですか!?ていうかまだ中期と末期があるんですか!?」

 

「ア、シキサン。コレ、オムライスデキタカラモッテッテ」

 

「う、うん…」

 

 不意に視界に四季さんが映ったため、ちょうど完成したオムライスを四季さんに差し出す。四季さんはそのオムライスを受け取って、フロアへと戻っていったのだが、その際にやけに引きつった表情をしていたのは何故だろうか?

 

 …まさか、俺の仕事が遅いと感じているのではなかろうか。いつもなら涼音さんと一緒にやってるし、こうして一人で注文を捌くのは初めてだ。フロアスタッフ側から遅れを感じられてもおかしくはない。

 ダメだ、俺はまだまだ甘かった。もっとだ、もっと。今、考えているこの思考も全てカットしろ。これは全部不要なものだ。全ての思考を、意識を、注文を捌く両手両足に注ぎ込むのだ─────

 

「…あー、こんなに早く中期の症状が出てくるなんて思わなかった。こいつは有能なのか阿呆なのか…。どうしよ、作業スピードが上がってるのは間違いないからなぁ…。もう少し様子を見るべきか…」

 

 何か涼音さんが呟いている─────カット、いらない。もし必要な事だとしたら、もっとハッキリ俺に口を出している筈。独り言に意識を割いてる暇はない。

 

「─────」

 

 動きと思考が洗練され、最適化されていく感覚。俺は今、この瞬間のために産まれてきたのだとすら思わせられるような感覚の中で、俺はふとそれを見て手が止まった。

 

「あ、戻ってきた」

 

 我に返るというのはまさにこの事。失っていた意思と感情が戻っていく。俺自身には分からない事だが、この時の俺の目は徐々に光が戻っていったように見えたというのは後の涼音さんの話だった。

 

 話を戻すが、手を止めた俺はゆっくりと視線を左へと動かす。その視線の先にあるのは、青く光る鱗粉を落としながら羽ばたく蝶。

 本来、現世に存在する事が好ましくない蝶に救われたのは少し複雑だが、何にしても付近に気を落としてしまっている人がいるのは確実だ。

 

 とはいえ、フロアには蝶が見える四季さんに明月さん、ミカドだっている。俺がここからでしゃばらなくとも何とかしてくれるだろう。

 

「例のお客さん、今日も来ましたよ。ザッハトルテとグアテマラの注文です」

 

 明月さんがそう言いながら四季さんと一緒に厨房へ来たのはその時だった。

 

 例のお客さんというのは、俺が働いている時間帯には来た事がなかったのだが、ケーキを頼んだにも関わらず一口もそれを食べず帰ってしまう客がいると聞いていた。それが明月さんが言う例のお客さんの事なんだろう。

 

 一旦作業を中断、四人で厨房からフロアを覗き、丁度さっき来たと思われる、上着を脱いでいる途中のスーツ姿で眼鏡をかけた男性を眺める。

 

 しかし、何故だろうか。間違いなく初めて見る筈なのに、僅かな既視感を覚える。

 

「あの人がケーキを残すお客さんか…」

 

 四季さんが呟く。じっと男性客を見つめてから、ふと続けた。

 

「どこかで…見た事がある様な…」

 

 それは、俺が抱いた感想と同じ事だった。俺だけじゃなく他の二人の視線も四季さんに向けられ、その中で涼音さんが口を開いた。

 

「なに、知り合い?」

 

「いえ…。知り合いではないんですけど…、どこで会ったのかな…」

 

 既視感は間違いなくあるが、どこで会ったのかを思い出せない。そこも俺と一緒だった。

 

 俺は視線を四季さんから男性客の方へ向ける。さて、どこで会ったのだろうか。少なくとも最近ではない。ずっと前、それこそ子供の頃だったと思うのだが─────

 

「もしかして、柳さんもあのお客さんを見た事があるんですか?」

 

 過去に思考を埋めていると、不意に明月さんがそう問い掛けてきた。俺は思考を切って明月さんの方へ振り向き、その問い掛けに答える。

 

「多分…?」

 

「ハッキリしないわね」

 

「ホントに微かに、どっかで見た事がある気がする、くらいですから」

 

 それこそ、その気になれば気のせいとして片付けられる程に微かな違和感だ。というより、多分俺一人だったら普通にそうやって流してたと思う。

 俺がこうして思い出そうとしているのは、この店に関する事柄だというのと、もう一人既視感を覚えている人物がいるからだ。

 

「…やべっ、こんな事してる場合じゃねぇ。俺は戻ります」

 

「あ、ごめんなさい。忙しいのに邪魔しちゃって」

 

「いや、俺も気になってたから来た訳だし、謝る必要はない」

 

 明月さんと会話を交わしてから、すぐに厨房へと戻る。作業を再開し、再び厨房内を動き回る時間が戻ってくる。

 とはいえ、さっきまでよりも忙しさはなくなり、作業の中であの人はどうしただろう、という余所事を考えられる程度には余裕がある。

 

 そして、涼音さんがミカドを含めた全員を伴って戻ってきたのは、今手元にある注文分を全て捌き終わった時だった。

 

 聞こえてくる話を整理すると、ミカドが思い詰めている様子の男性客と話をしてその悩みについて少しだけ聞き出したという。

 

 その人は仕事で重大なミスを犯してしまったらしく、それを未だ吹っ切る事が出来ず、元々好きだった甘いものも食べられなくなってしまった、というのが、注文したケーキを食べずに帰ってしまう理由らしい。

 ミカド曰く、その人も食べようとは思っていて、残して帰る事も失礼だと感じてはいるらしい。だがそれ以上に、仕事にミスによって生じた心の傷が深いという事なのだろう。

 

「話から、失敗が許されない仕事をしている様だが…」

 

 失敗が許されない仕事なんてそこら中に溢れている。たとえばこのお店の仕事だって、失敗が許されない部類に入る。俺達キッチンスタッフは特に。

 

「あ、思い出した」

 

 その男性客について皆が考え込む中、声を上げたのは四季さんだ。視線が四季さんに注がれ、その中で四季さんは続ける。

 

「病院だ。駅向こうの美和総合病院であの人を見たんだ」

 

「…美和総合病院」

 

 この店の位置からは駅を挟んで向かい側にある大きな病院。そこが美和総合病院だ。そこに診察に行った事はないが、とある理由で建物自体には入った事がある。子供の時に。

 

 思い出した訳ではないが、予想は出来る。恐らく俺は、その病院に行った時に、あの人と会ったのだろう。どのタイミングで会ったのかは全く覚えていないが。

 

「ナツメさん、どこか悪いの?」

 

「いえ。昔の事ですから、今は大丈夫です」

 

 そして四季さんがあの人と会ったのは、これも予想だがまだ体が弱かった頃、入院したのがその美和総合病院だったのだろう。その時に会ったに違いない。

 

「柳さんも、その病院であのお客さんを見たんですか?」

 

 明月さんが俺の方に歩み寄ってきて聞いてくる。その質問に対して頷いてから口を開く。

 

「多分。正直、まだ思い出せてないけど」

 

「…柳さんも、その病院に入院した事があるんですか?」

 

「いや、俺じゃない。あの病院に入院してたのは俺の祖母だよ」

 

「おばあ様ですか?」

 

 そう。あそこの病院で診てもらっていたのは俺じゃない。俺のばあちゃんだ。俺がその病院に行ったのも、お見舞いのためだった。

 

「じゃあ、おばあ様のお見舞いの時にあのお客さんと?」

 

「と思われる」

 

「いや、思われるってあんた…」

 

「思い出せないんだから仕方ないじゃないですか」

 

 俺の曖昧な言い方に呆れる涼音さん。とはいえ、実際に俺が入院してた訳でもなし、思い出せないのも仕方がない。自分で言うのもあれだが。

 

「とにかく、あの人の悩みについて考えましょう」

 

「いや、考えようがないだろ。悩みについて詳細に語ってくれた訳じゃない。それに、これ以上踏み込むのも難しい」

 

 少し冷たい言い方だったかもしれないが、その悩みの詳細を知らない以上相談に乗る事はできない。第一、相談された訳でもない。それに、答えを期待して悩みを打ち明けた訳でもないだろう。

 直接その場面を見てはいないが、多分そうだろうと想像は出来る。

 

「…でも」

 

「別にあの人を見捨てろって言ってる訳じゃない。ただ、今の段階で急いだってどうしようもないって言いたいだけだ。またあの人は店に来るだろうし、少しずつ心を開いて貰えば良い」

 

 何度かこの店に来ている以上、あの人にとって行きつけ、或いは行きつけになりかけているのは分かる。きっと、近い内にまたこの店に来るだろう。コーヒーか紅茶を、ケーキと一緒に頼んで。

 

 以前の涼音さんの時の様に切羽詰まった状況ではない。それなら少しずつで、ゆっくりで良いだろう。まだ時間はある。

 

「それに、今は目下優先すべき事があるしな」

 

 急を要さないのなら、今は他に優先しなければならない事が俺達にはある。

 

 そう、小さなお客さんのお願いを、俺達は叶えなければならない。

 

「それは、主に頑張るのは柳君と涼音さんでしょう?」

 

「違うぞ。主に頑張るのは涼音さんだけだ」

 

「おーい。あんたが頑張ってくれないと私ゃ練習の時間がとれんのだが?」

 

 四季さんの問い掛けを涼音さんに指差しながら否定すると、指を差された涼音さんが苦笑いしながらツッコんでくる。

 

「だが、千尋の言う通りだ。まずは、あの子供から要望を受けたケーキについてだ」

 

「…そうね」

 

 ミカドが俺に加勢して言うと、ようやく四季さんが笑顔を浮かべて頷いた。

 繰り返すが、あの客を見捨てる訳ではない。勿論、予約の日までにまたあの客が来たら、その時はどうするべきか考えよう。ただ、もっとも優先すべき事は、ユイナちゃんのケーキだ。

 

「うし。それじゃ、私は練習を続けるから。もうすぐ昂晴が来るだろうし、あと少し一人で頑張れ」

 

「へい」

 

 この話はここでおしまい。四季さん達はフロアへ戻り、俺と涼音さんは厨房で変わらずそれぞれのやるべき事を熟す。

 

「柳さん、オムライスをお願いします」

 

「はいよ、オムライス了解」

 

 すぐに冷蔵庫から必要な食材と調味料を取り出し、棚に置かれたフライパンを取って油を敷く。

 フライパンが熱するまでの間に、卵の準備を始めるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第三十二話






主人公が隠し持った七つの能力のうち一つが解禁されます。
いや七つもないんですけど。
ていうか隠し持った力とかそんな大それたものじゃないんですけど。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今日の分の講義が終わり、まだ講義が残ってる昭久達と別れて一人家路につく。今日は店が定休日のためバイトは休み。帰ったら何をしようか考えながら歩いている内に、結局何をするか思い付かないまま部屋に着いてしまう。

 

 荷物を置き、仕方ないから今日出されたレポートを片付けてしまおうと考え、ノートPCの電源を点ける。画面を立ち上げ、マウスを動かしてカーソルをマイクロソフトの表示に合わせようとする。

 

「…あ?」

 

 カーソルが動かない。マウスをどれだけ動かしても反応しない。ここに来てまさかの電池切れ。めんどくさいと思いながらも、テレビ下の棚の中から電池を探す。

 

「…ねぇし」

 

 結果、単四電池を切らしている事が発覚。何という踏んだり蹴ったり。

 正直わざわざそのためだけに外に出たくなんてないし、大体レポートも来週の今日までだから急ぐ必要はない。

 

 それなら何か他の事をするか、と考えを再び巡らせようとした時、ふとある事を思い出す。俺は立ち上がって台所へ、そこで冷蔵庫を開けて中身を見る。

 

 冷蔵庫の中に食材は殆ど入っていなかった。調味料も一部少なくなっている。今日の夕飯は余っているカップ麺で済ませる事は出来るが、明日明後日の事を考えると心許ない。

 時間は空いているんだし、食材の買い足しと、ついでに電池も一緒に買ってこよう。

 

 いや、この際だ。その他にも色々と買いたいと思っていた物を買ってしまおう。先週に発売された気になっていた小説や、一巻から追いかけていた単行本。それらも今日に買ってこよう。

 

 となると、徒歩では少し荷物が多くなりそうだ。俺は壁際の箪笥の上から車のキーをとる。

 

 そう、実は私、柳千尋は普通自動車免許を取得しております。大学入る前から親父から運転免許は早い内にとっとけと言われ、その言葉通り一年の夏休みに合宿を利用して免許を取得してました。

 因みにペーパードライバーではないです。親父のお古の車を譲ってもらって、大分乗り回してます。

 

 最近はほぼ毎日バイトに行っていたのもあって全く乗れていなかったから、久し振りに運転したい気分になってきた。さっき脱いだばかりの上着を再び着て、財布と家の鍵も忘れず、ついでにPCの電源を落とすのも忘れず家を出る。

 アパートのすぐ脇にある駐車場、四台置けるスペースの中にある一台。キーのボタンを押して解錠し、扉を開けて運転席に腰を下ろす。

 

 真冬程ではないが車内は少し冷えていて、上着を着たままシートベルトを締める。キーを挿し込みエンジンを入れ、セレクトレバーをドライブへ。サイドブレーキを下ろしてから車をゆっくり発進させる。アパートの駐車場から車を出し、道路へと移ってから、車を加速させた。

 

 目的地は街中にある大きめのショッピング施設。あそこなら食品も電化製品も本もその施設内で全て買える。一応歩いて行ける距離ではあるが、さっきも言ったが荷物が多くなりそうなのと、しばらく運転していなかったためそういう気分になったのが理由になり、車を走らせた。

 

 目的地に着いたのは車に乗り込んでから約五分後、駐車スペースを探して車を停める。サイドブレーキを上げ、セレクトレバーをパーキングに戻してからエンジンを止めてキーを抜く。

 運転席から出て、忘れず車にロックをかけてから建物内へ。

 

 施設内は今日が平日にも関わらずそれなりに混んでいた。昼過ぎという時間帯のせいか、主婦と思われる女性の姿が多く見られる。俺のような学生と思われる男の姿は逆に殆ど見えない。

 

 まずは簡単に買い物を済ませられる本屋から。この施設内の本屋は確か三階だった。

 入り口からエスカレーターへ、その途中にあった施設内の案内板を見て本当に本屋が三階にある事を確かめてからエスカレーターに乗る。

 

 三階にて気になっていた小説と追い掛けていた漫画の最新刊を購入してからフロアを一個降りて次に家電製品売場で単四電池を買い、またフロアを一個降りて食品売場へ。ほぼ毎日使う卵と食パンはすぐに確保し、どれが安くなってるかを見ながら売場を回る。

 

「…おっも」

 

 結果、両手に大きな荷物を持つ羽目となった。今日ここに車で来たのはただの気分だったのだが、結果的に正解だった。いや、ここまで多めに買ったのは車で来た事を考慮した上でそうしたのだが。

 

 用事は済み、後は買えるだけ。両腕に掛かる荷物の重さに耐えながらゆっくり歩いて出口を目指す。

 

「あっ、おにいちゃん!」

 

 不意に聞き覚えのある声が聞こえてきたのはその時だった。足を止めて声が聞こえてきた方へと視線を向ける。

 そこにはベンチにて座る男女が四人。うち一人は年端もいかない幼い少女だ。そして、一人を除いて全員が見覚えのある人物でもあった。

 

 少女がベンチから降りてこちらに笑顔で駆け寄ってくる。

 

「こんにちは!」

 

「おう。こんにちは、ユイナちゃん」

 

 こちらを見上げて挨拶をしてくる少女、ユイナちゃんに挨拶を返す。

 ユイナちゃんと挨拶を交わしてから、ベンチに座っていた他の三人に近付いていく。

 

「で、二人はなに。デート?」

 

「あははー、面白い冗談ですね。ね、昂晴先輩?」

 

「え、あ、うん。確かにデートではないけど、そんなあっさり冗談として流されると何か傷付く」

 

 ベンチに並んで座ってこちらを見上げているのは、けらけらと笑っている火打谷さんと軽くしょんぼりしている高嶺の二人。

 火打谷さんの言う通り、本気でデートをしているとは思っていない。多分、二人もここに買い物に来て、偶然会ったのだろう。どういう経緯か知らないが、二人で話している内にユイナちゃんと再会した、といったところか。

 

 そして─────

 

「あのー…。もしかして、貴方もこの子が行ったカフェの…」

 

「はい。そこでバイトしています」

 

「その節はお世話になりました」

 

 ユイナちゃんと面影が重なる綺麗な女性、恐らくユイナちゃんのお母さんと思われる女性と挨拶を交わす。

 互いにお辞儀をし合ってから頭を上げると、下の方から服の袖をくいっと引っ張られる。

 

 視線を向けると、こちらに向かって包装された何かを見せながらニコニコ笑うユイナちゃん。

 

「みてみて!これ、パパのおたんじょうびプレゼント!」

 

「お~。これは何を買ったのかな?」

 

「ネクタイ!」

 

「そっか。パパ、喜んでくれると良いな」

 

「うんっ」

 

 今からもう、このプレゼントを渡すのが楽しみで仕方ないんだろう。ユイナちゃんの頭の中では、笑顔でプレゼントを受けとる父親の顔が浮かんでいるに違いない。

 

「…」

 

「?」

 

 すると、ユイナちゃんがキョロキョロと辺りを見回し出した。誰かを探しているんだろうか?不思議に思い、ユイナちゃんに問い掛けようとするが、それよりも先にユイナちゃんが口を開いた。

 

「ねぇおにいちゃん。誘拐犯のおねえちゃんはいないの?」

 

「ぶふぉっ」

 

 ユイナちゃんが俺を見上げてそう聞いてきた直後、吹き出したのは火打谷さん。事情を知らない高嶺とユイナちゃんのお母さんは不思議そうに首を傾げ、俺はつい苦笑いを浮かべる。

 

「あー…。誘拐犯のお姉ちゃんは今はいないんだ」

 

「そうなの?前は一緒にいたのに」

 

「いつも一緒にいる訳じゃないんだよ」

 

 初めて会った時が一緒だったから、俺と四季さんがセットの形で印象に残ってしまったらしい。そして四季さんへの呼び方が“誘拐犯のおねえちゃん”に固定されてしまったらしい。

 

「ユイナちゃん。誘拐犯のおねえちゃんは止めた方がいいんじゃないか?」

 

「?」

 

「あのお姉ちゃんはユイナちゃんを誘拐しなかったんだし、な?」

 

「でも、誘拐犯のおねえちゃんは誘拐犯のおねえちゃんだよ?」

 

 理屈が通じない。いや、このくらいの年の子はこんなもんなのかもしれないが。

 年の割にしっかりしているように見えて、年相応に抜けているところを見せるユイナちゃんについ苦笑い。

 

「ぷふっ…くっ…ふふふ…」

 

「火打谷さん。ねぇ火打谷さん、教えてくれ。何で四季さんは誘拐犯呼ばわりされてるんだ」

 

「い、いや、それはナツメ先輩が怒るので教えられません…。ぷふーっ」

 

 それにしても火打谷さんは笑いすぎである。これは四季さんへ報告案件ではなかろうか。ちょっと忘れないよう気を付けよう。

 火打谷さんよ、震えて眠れ。きっと明日、妖怪記憶置いてけが其方を襲うであろう。

 

「え、えっと…。話が逸れちゃいましたけど、ユイナちゃんのお父さんは何の仕事をしてるんですか?」

 

「逃げたな火打谷さん」

 

 それは高嶺の追求をかわすための口実か。尤もそれは高嶺に見抜かれているようだが。しかし火打谷さんの口振りからすると、俺が現れるまではその話をしていたらしい。

 火打谷さんがそう聞くと、ユイナちゃんが火打谷さんを見上げ、どこか誇らしげに胸を張りながら高らかに告げた。

 

「パパはね、お医者さんなの!」

 

「─────」

 

 ほんの僅かな引っ掛かり。しかしそれを切っ掛けに、俺はある人の顔を思い出した。

 思い出したといっても明確にその人の表情を記憶していた訳ではないが、メガネをかけたスーツ姿の男性客。甘いもの好きにも関わらず、それが口に入らないほどの悩みを抱えた医者の男性。

 

 一瞬まさか、といった考えに至るがすぐに否定する。そんな偶然がある筈がない。そこまで世間も狭くはあるまい。

 

「たくさんの患者さんをなおしてる、すごいお医者さんなんだよ!」

 

「そっかー。ユイナちゃんのパパはスゴいね」

 

 ユイナちゃんの父親自慢を笑顔で聞きながら、火打谷さんが相づちを打つ。

 

 すると、これまで自慢げに笑みを浮かべていたユイナちゃんの表情が曇ってしまう。そして、続くユイナちゃんの台詞に、俺は驚かされる事となる。

 

「でもね、さいきんパパの元気がないの…」

 

 医者である父親の元気がない。その台詞はまたしてもあの男性客と共通するものだった。

 いや、あの男性客が子持ちなのか、はたまた既婚者かどうかすら知らないが、少なくとも医者の男性が元気を失っているという点は共通している。

 

 そして、ユイナちゃんのお母さんが続けて口を開いた。

 

「最近、仕事でミスをしたみたいで…。好きだった甘いものも口を通らなくなる程で…」

 

 きっとそれは、お母さんにとっても深い悩みであるからだろう。返答を期待している訳ではない。しかし、ぽつりと口から溢れその台詞は、以前の男性客と同じく、ただ話を聞いてほしいだけのもの。

 

「仕事で、ミス─────」

 

 高嶺も思い至ったらしい。まあこれだけヒントが出たのだ、思い至っても不思議はない。

 

「あの、お父さんの写真ってありますか!?もしあれば、見せてほしいのですが!」

 

 高嶺がベンチから立ち上がりながら言う。突然大声を上げた高嶺に、そしてその言葉の内容に戸惑いながらも、ユイナちゃんのお母さんは、スマホに保存された画像を見せてくれた。俺と火打谷さんも高嶺と並んでその画像を見る。

 

「あっ、この人って…」

 

「やっぱり…」

 

 その画像は家族写真だった。真ん中にユイナちゃん、そしてユイナちゃんを挟む形でお父さんとお母さんが、今目の前にいる女性と、あの頼んだケーキを食べずに帰ってしまう男性客が映っていた。

 

「世間狭すぎだろ…」

 

 確かにこの偶然の一致に驚きはしたのだが、正直呆れに近い気持ちも大きかった。何しろ俺は、その可能性をそこまで世間は狭くない、と切り捨てたのだから。

 それがまさかこんな結果になるとは予想もしていなかった。世間は個人が思うよりも数倍狭いと考えて良いのかもしれない。

 

「あの…、主人とお知り合いですか?」

 

「もしかして、パパになおしてもらったの?」

 

 俺達が夫を、父を知っている様子を見て疑問に感じたのだろう、親子が俺達に問い掛けた。

 その問いに答えたのは、お父さんの写真を見せてほしいと頼んだ高嶺だった。

 

 最近よく来るお客さんがいると。そのお客さんは来る度に違う種類のケーキを頼むが、いつもそのケーキを食べずに帰ってしまうと。

 その話を聞くと、ユイナちゃんのお母さんは悲しげに表情を曇らせ、やがて俺達に向かって頭を下げた。

 

「そんな事が…。主人に代わって謝罪します。申し訳ありません」

 

「い、いえっ。その…、ユイナちゃんのお父さんが、何かとても悩まれている事はこちらも分かってますから」

 

 店の従業員は誰も不快に思っていないと伝える高嶺。まあ正確には約一名、自分の作ったケーキを食べて貰えず憤慨していた人がいたのだが、今は事情を理解しているので置いておく。

 

 しかし、まさか話がこうも繋がっていたとは。まずはユイナちゃんのケーキを考えようという話だったが、こうなるとまた話は変わってくる。何しろユイナちゃんのお父さんは、今は甘いものを食べられる状態ではないからだ。

 このまま俺達が、というより涼音さんがケーキを作り、二人がプレゼントをしても、食べて貰えない可能性だってある。そうなればきっと、この少女はとても悲しむだろう。

 

「─────」

 

 何とかしてあげたい、が、これは自嘲でも何でもなく、俺にはどうする事も出来ない。何しろこれは家族の問題だ。根本的にあの人の悩みを払拭できるのは、赤の他人の俺ではなく、家族であるユイナちゃんとそのお母さんだけだ。

 

 ただ、その人に対して何も出来なくとも、何かをしようとする人の協力ならば出来る。

 

「あの、すいません。ちょっと提案なんですけど─────」

 

「はい?」

 

 俺はユイナちゃんのお母さんの方を見て話し掛ける。そして、とある提案を持ち掛けるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

~おまけ~

 

「千尋先輩。荷物重そうですけど大丈夫ですか?手伝いましょうか?」

 

「いや、車で来てるから大丈夫」

 

「車!?え!?運転できるんですか!?」

 

「柳って免許持ってたのか?」

 

「一年の夏休みにな。親父に免許は早めにとっとけって言われて…」

 

「(きらきら)」

 

「…家まで乗るか?高嶺も良ければ送るぞ」

 

「良いんですか!?なら、お言葉に甘えて!」

 

「柳が良いなら、俺も乗せて貰うかな」

 

 そうして、俺は車で二人を家まで送ったのだった。

 ユイナちゃん達と別れてからの一幕である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第三十三話






基本原作の流れそのままですが、最後にフラグを建ててます


 週が明けて月曜日。前日に祝日と日曜日が重なったのもあって、今日は振り替え休日。俺達学生組が三日連続で全員集合である。

 

 今日はユイナちゃんに頼まれたケーキを受け取りに来る日だ。まあ、それは以前までの予定で、今は少し趣向を変えているのだが。

 

「今日ですよね。ユイナちゃんが来るのは」

 

「あぁ。そして、店を閉めてからはここで誕生日会を開くのだったな」

 

 明月さんとミカドが確認し合う。その台詞通り、これからユイナちゃんがこの店に来る。そして、店を閉めてから、ユイナちゃんのお父さんの誕生日会を開く予定である。

 

 まだ開店前だが、俺達はフロアでユイナちゃんが来るのを待っている。どうしてそうなったのか、理由は少し前。ショッピング施設でユイナちゃん達と偶然会った時に遡る。

 

『お父さんの誕生日ケーキ作りに、ユイナちゃんを参加させてみませんか?』

 

 そんな台詞が出たのは、このままでは不味いと直感したからだ。ユイナちゃんの頼み通りに涼音さんがケーキを作り、ユイナちゃん達がそれを受け取り持って帰り、そしてお父さんにケーキをプレゼントする。

 勿論、ユイナちゃんが用意したケーキを喜んで素直に食べてくれる事だって考えられる。ただ、あの人の悩みぶりから考えて、食べて貰えない可能性だって当然考えられる。

 

 だから、その提案をしてみた。自分のために娘がケーキ作りを手伝ったと聞けば、父親として間違いなく嬉しいに違いない。娘の手が加わったケーキを食べないという選択をとりづらくなるに違いない。

 そんなちょっと汚い打算込みの、善意とは言い難い理由から、俺はその提案を持ち掛けたのだ。

 

 結果、ユイナちゃんは喜んでやりたいと口にし、お母さんも了承してくれて今日に至る。

 

「ユイナちゃんは開店前には来るのよね?」

 

「はい。だからそろそろこ来る筈ですが─────」

 

 時計を見上げながら涼音さんの問い掛けに答える途中、開店前にも関わらず来客を知らせる鈴の音が鳴った。全員が音の鳴った方へ振り向く。

 

「おはようございます!」

 

 そこには元気よく挨拶をしながら店の中へ入ってくるユイナちゃんの姿があった。ユイナちゃんはぺこりとお辞儀してから、俺達が集まっている方へと駆け寄ってくる。

 

「今日は、よろしくおねがいします」

 

「こちらこそ、手伝いよろしくね」

 

 今度は涼音さんの方へお辞儀をする。涼音さんはユイナちゃんの挨拶に笑顔で返事を返し、そしてユイナちゃんを連れて早速厨房へと入っていった。

 

「さて…。これから涼音さんはケーキ作りに掛かりきりになるし、頑張るか」

 

「といっても一日中じゃないしな。それを考えれば、土日よりは楽かもしれん」

 

「あー、確かに…」

 

 これから涼音さんはユイナちゃんと一緒にケーキ作りに集中する。前日までと違い、その間は俺達の手伝いをする事も出来ないだろう。

 しかしさっき言った通り、閉店時間までケーキを作り続ける訳ではなく、多分昼までには作り終えるだろう。そうなれば、涼音さんはまたいつも通りに仕事が出来る。

 

 その事を考えると昨日までの、ケーキ作りの練習のためにほとんどの時間を費やしていた時の方がきついかもしれない。あの時はほぼ俺と高嶺の二人で仕事を熟していたようなものだったからな。

 それに休みの日とはいえ、混み始めるのは昼食時辺りだ。つまり、混み始める時には涼音さんの手が加わっている。あ、本当に楽そうだ。いや三人体制でも混雑時はかなり忙しいのだが。ほぼ二人体制で乗りきった昨日、一昨日を考えると楽そうだと思えてしまう。

 

 その予想通り、涼音さん達がケーキを作り終えるまで特に問題もなく、俺と高嶺の二人で…どころか、これならどちらか一人でも問題なかったのでは、とすら思えるほどにすんなりと涼音さんがいない時間を乗り切った。

 

 その後はユイナちゃんにオムライスをご馳走し、交代して休憩をとりながらユイナちゃんにはバックルームで待ってて貰い、やがて外が暗くなり始める。そして最後のお客さんを見送ってから店を閉め、その人が来るのを待つ。

 

「…急患とか入らなければ良いな」

 

「フラグを立てないでください…」

 

 予定ではそろそろ来ても良い頃なのだが、少し遅れている。ふともしや、と頭に浮かんだ考えを呟くと、その呟きを聞いていた明月さんに苦笑しながらツッコまれた。

 そんなつもりではなかったのだが、むしろ心の底からそうならないでほしいと思ったからこそ漏れた呟きだったのだが、確かにフラグになりかねない行動だった。反省。

 

 実際のところ、連れてくるのに手こずっているか、はたまた仕事が少し遅れてしまったかのどちらかだろう。俺の考え通り急患が入っていたならば、連絡が来ている筈だ。勿論、いつ患者が来るか分からない以上、これから来る可能性だって否めないが。

 それは言葉に出さずに心に留めておこう。本当にフラグになってしまう。いや、もう遅いかもしれないが。もし来れなくなったりしたらユイナちゃんに謝ろう。何で謝るのか分からず首を傾げられるだろうが。

 

 そうして待つこと数分、俺だけじゃなく他の人達も大丈夫かと心配の気持ちが湧き始めたその時、店の扉が開き、来店を知らせる鈴の音が鳴り響いた。この音は厨房にいるユイナちゃん達にも届いているだろう。

 

 入ってきたのは一組の男女。彼らが夫婦である事を俺達は知っている。

 女性の方が一歩前に出て、俺の方を見る。

 

「いらっしゃいませ」

 

「こんにちは。今日はここで待ち合わせの約束をしているのですが」

 

「はい。もう少々お待ちください」

 

 女性、ユイナちゃんのお母さんと言葉を交わしてから、恐らく二人が来た事はもう知っているだろうが念のために厨房へ向かう。

 

「あの、来ましたよ」

 

「うん、分かってる。はい、ユイナちゃん。転ばないように気を付けてね?」

 

「ありがとう、誘拐犯のおねえちゃん!」

 

 俺が厨房を覗いたのは、丁度ユイナちゃんがお父さんへ送るケーキを四季さんから受け取っていた時だった。

 ユイナちゃんは笑顔で四季さんを犯罪者呼ばわりしつつお礼を言い、ゆっくり気を付けて歩いて厨房を去っていく。

 

「…誘拐犯じゃない」

 

「諦めも肝心だぞ」

 

 きっと、四季さんの心からの訴えは届いていない。何故なら、フロアへと出ていったユイナちゃんは今、お父さんにバースデーソングを歌っているのだから。

 それに、四季さん=誘拐犯のおねえちゃん、と呼び方がユイナちゃんの中で固まってしまっている以上、今すぐ呼び方を直させるのは不可能だろう。少なくとも、本当の意味で誘拐犯とは何なのかを理解するまでは。恐らく、数年は掛かるに違いない。ユイナちゃんとの交流がどこまで続くかは分からないが、もし続いた場合はずっとその間、四季さんは誘拐犯呼ばわりをされ続ける事となる。

 

「御愁傷様」

 

「他人事だと思って…」

 

「事実他人事だしな」

 

 四季さんの視線には触れず、俺も厨房から出てフロアへ。そこで、後から続いて出てきた四季さんと皆と一緒に成り行きを見守る。

 

「パパ、おたんじょうびおめでとう!」

 

「ユイナ…?これは一体…」

 

 突然、ケーキを持った娘がバースデーソングを歌いながら出てきたこの状況を呑み込めず、お父さんは目を白黒させている。

 無理もない。何の事情も知らされず、ここへ連れてこられただろうから。

 

 しかしそんなお父さんの心情を知ってか知らずか、ユイナちゃんは輝くような笑顔を浮かべて続けた。

 

「これ、パパのだいすきなケーキ!ユイナもおてつだいしたの!すごいでしょ!」

 

「ユイナが…。このケーキを?」

 

 お父さんの目がユイナちゃんが握る皿の上に乗ったチーズケーキを見る。

 

「この子ったら、あなたのために色んなケーキ屋さんを探し回ったのよ。でも、見つける事が出来なくて。それを、このお店の方が特別に引き受けてくださったの」

 

「…そう、だったのか」

 

 少しずつ状況を理解し始めた様子。少なくとも、自身の誕生日を祝うために行われているという事だけは理解できただろう。

 

「パパ、さいきん元気がなかったから…。このケーキを食べて、元気をだして!」

 

「ユイナ…」

 

 娘を見つめる父親の目が僅かに潤む。口許が小さく緩む。ユイナちゃんが目の前に置いたケーキを見つめ、やがて皿の縁に載ったフォークを手に取り、ケーキに近付ける。

 

「─────」

 

 しかし、もう少しでフォークがケーキにつく、という所で手が止まった。その顔はまた、以前この店に来た時と同じ、思い詰めた表情を浮かべていた。

 

「パパ?」

 

「…ごめん。ごめんな、ユイナ…」

 

 悲観、悔恨、情けなさ。様々な感情が入り交じった表情で、父は娘に謝罪する。

 出来ない、と。心を込めて作ってくれたであろうこのケーキを、食べる事が出来ない、と。

 

「情けないパパで…、ごめんな、ユイナ…」

 

 辛うじて涙が流れるのだけは堪えているらしい。必死に笑顔を作ろうとしているその顔はぐちゃぐちゃになっている。

 

「パパ…」

 

「…」

 

 ユイナちゃんとお母さんが、つられて悲しい表情になる。先程まで希望に満ちた明るい雰囲気だった店内が打って変わって、暗い雰囲気になっていく。

 ダメなのか、と。ユイナちゃんの努力は、無駄になってしまうのか、と。

 

 ─────違う。こんな顔をさせるために、俺は今回の催しを提案した訳じゃない。こんな悲しい結末を産むために、ユイナちゃんはケーキを作った訳じゃない。

 

「─────」

 

 一つ小さく息を吐く。呼吸と共に決意を固め、俺は足を悲しい顔をする家族の方へと向け、踏み出そうとする。

 

「?」

 

 しかしそれは、手首が掴まれた感触に遮られた。後ろから伸びる腕。視線で追って背後に振り返ると、こちらを見つめる四季さんの姿があった。

 

「…」

 

 四季さんは何も言わない。動きもしない。ただ、真っ直ぐに俺の目を見つめ、何かを伝えようとしていた。

 

「…」

 

 踏み出そうとした足から力を抜く。前のめりになった体の位置を戻す。そんな俺の様子を見た四季さんは、俺の手首から手を離した。

 どうやら俺の行動は四季さんにとって正解だったらしい。これが本当に四季さんの伝えたかった事なのかは分からないが、()()()()()()()()()()()事にする。

 

「たべないの?もしかして病気?」

 

「そう、かもしれない…。折角作ってくれたのに、ごめんな」

 

「ううん、ケーキはまたつくればいいから。あとね、パパのことはユイナが治してあげるからね!」

 

 その台詞は、子供故に出てきたものなのかもしれない。しかしある意味、病気というのは的を射ていた。父は娘の言葉を否定せず、ただ自身の情けなさを謝り続ける。

 それに対してユイナちゃんは言った。このケーキを食べなくても構わないと。だが、父が掛かってしまった病気を治してみせる、と。

 

「ユイナはおいしゃさんになるの!だから、パパのことはユイナが治してあげる!」

 

「ユイナが…、医者に…?どうして?」

 

 小さな娘が口にした大きな目標を聞いたのは初めてだったのか。本来なら喜ばしい台詞だが、それよりも先に驚きが勝ってしまったらしい。

 呆然と聞き返す父に、娘が高らかに、自慢気に言う。

 

「ユイナはね、パパみたいなおいしゃさんになるの!みんなにありがとうって言われる、すごいおいしゃさんになるの!」

 

「ユイナ…」

 

「そうだ!プレゼントはまだあるの!」

 

 ユイナちゃんが上着のポケットから包装された何かを取り出す。それは、以前にショッピングモールで会った時に見せて貰ったもの。

 

「はい!」

 

「これは…、開けても良いかい?」

 

「うん!」

 

 包装紙を丁寧に、破かないように開けていく。やがて中身が見え、その中身を取り出す。

 

「ネクタイ…」

 

「これをつけて、これからもお仕事がんばってください!」

 

 娘からの笑顔と応援を受け取り、果たして父は何を思うのか。

 力を貰うのか、それとも小さな娘に気を遣わせてしまった事への後悔を浮かべるか。

 

「ありがとう…。本当にありがとう、ユイナ…。そうか、ユイナは医者になりたいのか」

 

「なるよ!」

 

「そうだな。…頑張らないとな。ユイナの目標になれる、立派な医者になれるよう、頑張らないと」

 

「パパはもうユイナの目標だよ!」

 

 その答えは前者だった。父は娘の笑顔から、前へと踏み出す力を貰った。

 これからも頑張れる、勇気を娘から受け取ったのだ。

 

「そうだ。ケーキを食べないとな」

 

「え…。病気はもういいの?」

 

「あぁ。ユイナのお陰で治った。ありがとう、ユイナ」

 

「うん!」

 

 フォークを握った手は、ケーキの方へと向かい、やがてフォークが柔らかなケーキに沈み込んでいく。

 ケーキを掬い、口へと運ぶその動作は、先程までの躊躇を全く感じさせない。

 

「…おいしい。とってもおいしいよ」

 

「ほんとう?」

 

「あぁ、本当さ。…ユイナはパティシエの才能もあるかもな」

 

「えー?でも、ユイナはおいしゃさんになりたいなぁ~」

 

「ははっ、そうかそうか」

 

 完全に娘の笑顔にデレデレ親バカの顔だった。フォークを握っていない左手でユイナちゃんの頭を撫でてから、自分の隣の席を引いて、ポンポンとそこを掌で叩く。

 

「ほら、ユイナも一緒に食べよう。…お母さんと一緒に、皆で食べよう」

 

「うん!ママ、ユイナたちもいっしょに食べよう!」

 

「えぇ…。そうね、食べましょう」

 

 娘と父とのやり取りに何を思っていたか、それはその目に浮かぶ涙が物語っている。

 きっと、家族を包んだこの悩みはとても大きかったのだろう。だからこそ、今がとても輝いて、眩しく見える。

 

 ケーキを家族で囲み、笑顔で父の誕生日を祝う家族の姿は、ただ見ているだけの俺達すらも笑顔にさせるほど、綺麗に見えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「みなさん、ありがとうございました!」

 

 誕生日パーティーはお開きとなり、俺達はユイナちゃん達を見送るために外に出ていた。

 両親がミカドと涼音さんの四人で大人の会話をする中、ユイナちゃんは少し離れた所で俺達学生組に向かってお辞儀をする。

 

「よかったね。パパが元気をだして」

 

「はい!」

 

 ユイナちゃんの前でしゃがみ、目線を合わせながらそう言ったのは火打谷さん。

 ユイナちゃんはそれはとても嬉しそうに笑いながら大きく頷く。

 

「おにいちゃんと誘拐犯のおねえちゃんのおかげです!」

 

「ん?」

 

「え?」

 

 すると、ユイナちゃんは俺と四季さんの方を向いてそんな事を口にした。どういう意味か理解しきれずつい疑問符を浮かべていると、ユイナちゃんは更に続けた。

 

「お店のまえにいたユイナをみつけてくれて、ありがとう!」

 

「「…」」

 

 何の意味もない。ただ、そんな純粋無垢な台詞に反応に困ってしまい、つい隣の四季さんの方を向いてしまった。

 そして、四季さんの方も俺と同じだったらしく、同じタイミングでこちらに向いた目と俺の目が合う。

 

「「─────」」

 

 微笑が零れた。俺達は火打谷さんと入れ替わる形でユイナちゃんの前でしゃがんで視線を合わせる。

 

「またな、ユイナちゃん。次に来た時は俺がオムライスを作ってやる」

 

「今日食べたオムライスと同じくらいおいしいから、期待していいからね?」

 

「はい!また来たときは、おにいちゃんのオムライスをたべます!」

 

 まずは四季さんが、そして次に俺が、交代でユイナちゃんの前で頭を撫でてから、折っていた両膝を伸ばして立ち上がる。

 

「ユイナー。帰るわよー」

 

「はーい」

 

 お母さんからユイナちゃんに声が掛かったのはその時だった。ユイナちゃんは返事をしながらお母さんとお父さんの方へと駆けていき、二人の間で立ち止まった。

 

「皆さん、本当にありがとうございました。また来ます。機会があれば、妻とユイナも連れて」

 

 そう言って、家族は俺達に背を向けて家へと帰っていく。三人は手を繋ぎ、時折、父と母が娘を持ち上げるという微笑ましい姿を見せながら。

 

 家族の姿が見えなくなってから、ミカドを先頭に皆が店の中へと戻っていく。俺と四季さんもそれに続いて店の中へと戻る─────前に、先に店に戻ろうとする四季さんに声を掛けた。

 

「なぁ。あの時、何で止めた?」

 

 要領を得ない聞き方だったかもしれないが、四季さんにはそれで分かったらしい。

 四季さんは振り返り、俺の目を見て、優しい声色でこう答えた。

 

「何となく、柳君ならこうしそうだなって思って」

 

「こうしそうって、何」

 

「自分から悪者になりに行きそうだなって。私の時もそうだったから」

 

「…」

 

 完全に見透かされていたらしい。まあ、四季さんに対しての言動を考えたら見透かされるのも無理はないが。

 

「ほら、私達も戻ろう?風邪ひいちゃう」

 

「…あぁ」

 

 十一月も下旬。夜になれば辺りは冬の寒さが顔を出し、今の俺と四季さんのような作業服姿やユニフォーム姿では寒すぎる。

 特に四季さんの格好は生足が出ているから俺以上に寒さを感じているだろう。

 

 四季さんが扉を開けて先に建物の中へ、そして扉を開けたまま俺の事を待っていてくれる。

 俺も、四季さんが開けたままにしてくれた扉から建物の中へと入り、皆の元へと戻るのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

~Another View~

 

 眠くなってしまった娘を背中に乗せて、父は家路を妻と共に歩く。

 

 今日は、父にとって人生で最良の日といって良かった。ずっと胸を蝕んでいた悩みを妻と娘が解消してくれ、心からこの女性と一緒になって良かったと。ユイナが産まれてくれて良かったと、そう思えた日だった。

 

「なぁ」

 

「ん?どうしたの?」

 

「…今まで苦労を掛けて、すまなかった。それと…、ありがとう」

 

「…どういたしまして」

 

 妻は微笑み、言葉少なく返事を返した。自分の気持ちは全て伝わったと、そう思いたい。

 

「…」

 

 そう、とても良い日だ。今日のお陰で、また自分は頑張れる。そう思う。

 

 しかし─────引っ掛かる事もあった。断じて自分の気を害したとか、そういう事ではない。

 ただ、あのお店にいた従業員の中で見覚えのある顔があったのだ。

 

 もう、十年くらいも前の事。まだ自分が医者になりたてだった頃。それこそ、妻とまだ結婚していなかった頃だ。

 それだけの時が経っても未だ色褪せない、苦い思い出がある。といっても、その思い出は自分が何か辛い目に遭ったという訳ではなく、自分は第三者の視点で見ていただけだったのだが。

 

『アンタが、母さんを殺したのよ!!!』

 

 涙を流しながら怒り心頭といった表情で、尻餅をついた少年を見下ろす女性。その少年の傍らには両親と思われる男女が寄り添い、怒る女性はその夫と思われる男性に押し止められていた。

 

 印象的だったのは、少年の目だった。叩かれて赤くした頬を押さえもせず、呆然と虚空を見つめる少年の目。子供がしてはいけない目をしていたその姿が、十年程経った今でも、忘れられない。

 

「あなた?どうしたの?」

 

「っ…いや、何でもない」

 

 ぼーっとしていた自分を心配そうに妻が見ていた。慌てて笑顔を浮かべて大丈夫な事を伝える。

 

 家族に隠し事をするようで少し嫌だが、他人のプライベートを、それ以前に本当にあの男性があの少年だったのかも分からないのに、話す訳にはいかない。

 

(確か…何といったかな)

 

 その少年の名前を思い出そうとする。あの時亡くなったのは少年の祖母で、いつも優しい笑顔を浮かべて、自分達医者や看護師達にも分け隔てなく接して。そして、当時入院していた子供達にとても人気だった。

 

(─────あぁ、そうだ)

 

 やがて、思い出す。フルネームまでは思い出せそうにないが、どうにか苗字は記憶に呼び起こす事が出来た。

 

(柳。確か、柳っていったな)

 

 今度お店に行った時、彼の名前を聞いてみよう。さすがにそんな偶然がある訳がないとは思うが…、念のために。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第三十四話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 十二月。いよいよ今年が残り一月となり、寒さが一層厳しくなる時期。空は晴れ渡り、暖かな日差しが降り注ぐが、それ以上に身を包むのは肌を刺すような寒気。

 まだ真冬程の寒さではないが、そろそろ冬物の衣服を用意しておかなければならないだろう。気付いた時には遅かった、では笑えない。

 

「どうしたの?」

 

「ん?いや、もう十二月だなと思って」

 

 朝、店の仕込みを途中まで手伝ってから、講義の時間が迫り途中で抜けさせて貰い大学へ向かっている。その隣には、俺と同じ時間から講義を受ける四季さんが歩いている。

 こうして店から一緒に大学に行くのは三度目だ。もうすっかり…とまではいかないが、周囲からの視線にも慣れてきて、あまり気にならなくなった。

 

 だからといって、視線の数が減ったり噂が途切れたりしている訳ではない。初めて四季さんと大学に行ったあの日から、昭久や友人達から誰々から四季さんに彼氏が出来たのか、やら、あの四季さんと一緒にいた男は誰だ、やら聞かれたという話はほぼ毎日聞いている。

 

 本当、どんだけ人気なんだ四季さん。四季さんは芸能人でも何でもない普通の女の子だぞ。まあ大学での四季さんしか見ていない人にとっては、他の人とは違う、特別な人に見えるのかもしれないが。現に俺も、実際に出会う前は“孤高の撃墜王四季ナツメ”として少し特別な目で見ていた。

 しかし今は違う。普段は大人っぽいくせに、ふとした時に子供っぽさを見せる、そんな四季ナツメを知っている。

 

「そうね。…十二月、か」

 

 四季さんは、俺が出した十二月という単語を反芻し、何か考え込む所作を見せる。

 

「どうした?」

 

「そろそろクリスマスだな、と思って」

 

「?」

 

 四季さんにどうしたのかと問い掛けると、そんな答えが返ってきた。確かに十二月の下旬にはクリスマスがあるが、それがどうかしたのだろうか。

 

「やっぱり、クリスマス向けの特別メニューとか出した方が良いのかな…」

 

「あー」

 

 続いて四季さんが口にした台詞に、あの考え込む所作に合点がいった。

 確かに甘いものを売りにしている喫茶店として、クリスマスに何も特別な事をしないというのはどうかとも思う。

 

「そこら辺どう考えてるか、涼音さんに聞いてみたらどうだ?」

 

「んー…。それは勿論そのつもりだけど…」

 

 どうもハッキリしないまま、四季さんは未だ何かを考え続けている。

 ここは邪魔しない方が良いかもしれない。次の四季さんの言葉を黙って待つ。

 

「…今日の昼休み、時間ある?」

 

「昼休み?別に予定はないけど」

 

 ずっと何かを考え込んでいた四季さんが、不意に何か決意をしたかのような引き締まった顔を向け、そんな事を聞いてきた。

 誰か友人と現時点で約束している訳もなく、講義関係で何かある訳でもなく、急遽予定が入らない限りは昼休みは空いている。

 

 何も予定はないと答えると、四季さんは引き締まった表情の中に僅かに緊張を奔らせて、どこか怖がるような様子を見せながら口を開いた。

 

「それなら…。昼休み、時間をくれない?クリスマスのメニューについて話したいんだけど…」

 

 見た目、平然としている風に思えるが、微妙にその声が震えていたように聞こえたのは気のせいだろうか。

 何にしても、四季さんの質問について一つ聞き返したい事があった。

 

「クリスマスの話って、今すぐ、涼音さん抜きでか」

 

 そう問い掛けると、四季さんは声には出さずに頷いた。

 涼音さん抜きとなると、話し合うにしてもその内容は限られてくる。少なくとも、詳細なメニューに関しては俺達だけで決める事は出来ない。そういったメニューは専門的な知識があるパティシエ、涼音さんを交えて話し合わなければいけない内容だ。

 そうなると話せるとしたら、クリスマスで行うキャンペーンをどういうものにするか、くらいか。既存のメニューを利用するか、それともクリスマス限定で新しいメニューを考案するのか。

 

 まあ昼休みの時間なんてたかが知れてるし、そのどちらかを決めるだけでも時間が足りないくらいかもしれない。

 

「場所は?食堂で話すのか?」

 

「え…う、うん。そのつもりだけど…いいの?」

 

「何も予定はないって言っただろ?断る理由がない」

 

 何で話し合いに誘った四季さんが、俺が了承した事に戸惑っているのか。よく分からないが、とりあえず四季さんに了承の返事はしたし、ポケットからスマホを手にとって電源を入れる。

 

「それじゃあ、高嶺の方は俺が呼んどくから」

 

「…へ?」

 

 ライムを起動しながらそう言うと、四季さんは目を丸くして呆けた声を漏らした。

 

「いや、へ、って。高嶺呼ばないつもりなのか?」

 

「あ、そ、そうじゃないっ。高嶺君も呼ぶつもりだったっ。うんっ」

 

「…?」

 

 何故焦る。四季さんの内心は分からないが、恐らくここで聞いても答えてくれないだろうし、その疑問を流す事にして高嶺のスマホにメッセージを送る。

 今日は高嶺の講義は二限目からなので、メッセージが既読になるのはまだ先だろうが、一限目が終わるまでには返信が来るだろう。その時を気長に待つ事にする。

 

「…なんで」

 

「ん、何か言った?」

 

「…うぅん。何でもない」

 

 メッセージを送信してスマホをポケットにしまうと、隣からぼそりと四季さんが何かを呟く声が聞こえた。

 すぐに問い掛けるが、四季さんは頭を振る。その顔はやや浮かない表情に見えたのだが、何故かその事について聞かない方が良い気がして、俺はそれ以降この話題について言及する事はしなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一限目と二限目の講義が終わり昼休みになると、俺は急いで鞄に資料をしまいながらスマホを見る。ライムを立ち上げ、高嶺との会話のページを開いて返信の内容を確認する。

 

「─────」

 

 そして返信の内容を見て、一瞬固まってしまった。

 何しろ画面には、高嶺の返信が、行けないという返事が書かれていたのだから。

 

 もしや他に用事でもあったのだろうか?いや、でもあの高嶺に昼休み中の用事なんてあるとは思えないのだが─────いや、これは流石に高嶺に失礼か。あいつにだって仲の良い友人はいるのだし、その人達と何か約束でもあるんだろう。

 

 しかしそうなると、俺と四季さんの二人で話す事になる。それが嫌な訳ではない…いや、それは嘘になるか。

 勿論、四季さんと話す事自体が嫌な訳ではないのだが、食堂で四季さんと二人で食事をとったりしたら、それはもう今まで以上に注目を集める事になるだろう。

 

「…」

 

 これは確認をとった方がいいかもしれない。高嶺には一言、了解と返信してから今度は四季さんとの会話のページを開く。そこで高嶺が来れない旨の説明と、それでも話し合いを決行するのかという質問を付けてメッセージを飛ばす。

 

「やーなぎー。何してんの?」

 

「あ」

 

 送信ボタンをタップする直前だった。一緒に講義を受けていた友人が背後から俺のスマホの画面を覗き込んだのは。

 当然、スマホの画面には俺と四季さんの会話画面が表示されている。すぐにスマホをスリープ状態にして画面を暗くしたが時既に遅し。振り返って友人の顔を見上げると、その顔にはありありと驚きの色が浮かんでおり、そして次第に俺を非難する怒りの感情が代わって浮かび出す。

 

「貴様。何をしていた」

 

「いや貴様って」

 

「答えろ。今、貴様は、何をしていた」

 

「なに、どうした?」

 

 友人の唯ならぬ様子に、昭久がこちらに振り向いて声を掛けてくる。

 だがその声に返事を返している場合じゃない。多分、先に質問に答えないとキレられる。いや、答えてもキレられるかもしれないけど。

 

「…ライムしてた」

 

「誰とだ?」

 

「…四季さんと」

 

「「「は?」」」

 

 昭久だけじゃなく、他の友人達も目を丸くして呆けた声を漏らした。

 

「柳よ。私はその内容を見てしまったぞ」

 

「なあ、さっきからその口調なに?」

 

「話を逸らすんじゃあない!」

 

「ごめんなさい」

 

 あれ、咄嗟に口から出てきたけど、俺謝る必要ある?これ。いやなくない?俺悪い事してなくない?

 

「おい、内容って何だよ。こいつ、四季さんとどんな話してたんだよ」

 

「約束だ」

 

「約束?」

 

「昼休みに四季さんと一緒に飯を食う約束だ」

 

「「「はぁ!?」」」

 

 いや待て。確かに近くはあるが、正しくはない。俺はすぐにその話を訂正するべく口を開く。

 

「待て、約束してた訳じゃない。ただ質問しただけだ。元々三人で食べるつもりだったのが、一人来れなくなって、だからどうする?って質問しただけだ」

 

「ほぉ。では、四季さんの返答を待とうじゃないか」

 

 ずいっ、と昭久達が顔を寄せてスマホの画面を覗き込もうとする。

 

「待て、寄るな。盗み見すんな。というか近い、キモい」

 

「顔を近付けて良いのは四季さんだけってかぁ!?」

 

「んな事言ってねぇだろ!」

 

 まずい。最初に俺が四季さんに送ったメッセージの内容を見た奴が錯乱している。何故そんなにと思わないでもないが、とにかく錯乱している。このままじゃ何をしでかすか分からない。

 友人を落ち着かせるべく、思考を最高速で回して何て言葉を掛けるべきか考慮しつつ口を開く。

 

「…」

 

 開いた直後、声を出す前にスマホのバイブが震えた。このタイミング、何故バイブが振動したかは考えるまでもない。

 俺は昭久達の視線を受けながら、ライムの画面を見る。

 

「─────」

 

「あ、逃げたぞ!」

 

「待て柳!くっそ、急げ!俺達も早く食堂に向かうぞ!」

 

 何かを言われる前に、取り押さえられる前に鞄を持って逃げ出した。背後から昭久達が騒ぐ声が聞こえてきたが、構う事なく講堂を出て食堂へ向かう。

 

 食堂前に来た時には、すでに多くの学生達が食券売場の前に並んでおり、それなりに待ち時間を要しそうだった。とはいえ、食堂内にはまだそこまで人はいないため、多分空いてる席を探すのに苦労はしないだろう。

 

「柳君、こっち」

 

 周囲を見回し、目的の人物を探すと俺を呼ぶ声が聞こえた。振り向いて見ると、こちらに歩み寄ってくる四季さんの姿があった。俺より先に来て待っていたらしい。歩いてくる四季さんの背後には木製のベンチが見えた。

 

「ごめん、遅くなった」

 

「うぅん、そんなに待ってないから大丈夫。…むしろ、私の方こそ少し遅くなって、柳君を待たせてるって思ってたし」

 

 どうやら四季さんも講義が終わってすぐにここに来た、という訳ではないらしい。教授の話が長引いたのか、それとも他の理由か。

 

 まさか俺と同じような理由で遅れた訳ではあるまい。四季さんが少し疲れた顔をしているのは気になるが。

 

「とにかく並ぼう。席がとれなくなる」

 

 とりあえず、四季さんを促して学生の列の最後尾に一緒に並ぶ。列は少しずつ前に進んでいき、俺達が食券を買えたのは三分ほど経ってから。そこからそれぞれ違う場所で頼んだメニューを受けとり、合流してから席に着いたのは更に五分後。

 何にしても、俺と四季さんは二人がけの席を確保する事に成功し、そこで向かい合って座った。

 

「さて…。それじゃあ、早速本題に入るとするか」

 

 このまま本来話す予定のクリスマスのメニューについてではなく、四季さんと雑談するというのも魅力的ではあるがそれでは本末転倒。何のために友人を振りきってここまで来たのか分からなくなってしまう。

 頷いた四季さんを見て、俺は続ける。

 

「じゃあまず、クリスマス限定で新しいメニューを作るのか、それとも既存のメニューでなにかキャンペーンをするのかだけど…」

 

「そこはもう決めてる。やっぱり、クリスマス限定メニューを作ろうって思ってる。…作るのは涼音さんだし、もしかしたら断られるかもしれないけど」

 

「いや、断られはしないだろ。というか、二択を出した俺が言うのもあれだけど、普通に新メニュー作るべきだって正直思ってたし」

 

 最初の議題はあっさりと決定した。喫茶ステラにて行うクリスマスキャンペーンは、クリスマス限定のメニューを出す方向で決まり。

 なら次は当然、どういったメニューを出すのかだが─────

 

「まあ、ケーキだよな」

 

「ケーキよね」

 

 時期はクリスマス。当然、メニューは何らかのケーキにするべきだ。というよりしなくてはならない。

 それじゃあ、何のケーキをメニューとして出すか。

 

「とりあえずさ、周りで同じ様な事をする店とメニューがかぶっちゃいけないと思って。もう情報が出てる店限定で調べてみた」

 

「え?」

 

 スマホを操作し、履歴からブラウザを読み出す。まずは以前まで涼音さんが働いていた店。そこもクリスマス限定で新メニューを出すらしく、そのメニューについて調べてみた。

 その店ではショートケーキをベースとしたメニューを出すようで、SNSを覗いたところかなり評判になっていた。

 

「あぁちなみに、話は少しずれるけどステラはクリスマスに何かやらないのかって声がぽつぽつあったぞ」

 

「え…」

 

 スマホの画面を見ていた四季さんが顔を上げ、またもや呆けた声を漏らす。

 

「柳君って、エゴサ出来る人なんだ…」

 

「普段はしないけどな。なんか、他の店の事調べてたらうちの店の事も気になっちゃって」

 

 講義の途中、教授の話を聞かずにエゴサしてたのは私です。好意的な声に心踊らせ、理不尽な低評価に腹を立てたりとメンタル揺らしまくってたのは私です。

 

「だから、クリスマス限定メニューを出すのは正解だと思う」

 

「…そっか」

 

 四季さんが柔らかい笑みをこぼす。こうする、とは決めていたもののどこか不安に感じていたらしい。

 でも、その不安は払拭されたようだ。その様子に俺も安心し、四季さんに見せていたスマホの画面の位置を戻して再び指を走らせる。

 

「それと、何駅か行った所の店だとこんな─────」

 

「あっれ、四季さんじゃーん」

 

 履歴から違う店のホームページを呼び出そうとしたその時、何とも軽々しい男の声が四季さんの名前を呼んだ。

 俺も四季さんも、同時に声が聞こえてきた方へと振り返る。

 

「なになに、何の話?俺も混ぜてよー」

 

 金に染めた髪をワックスで立たせ、更に両耳にはピアス。ぶっちゃけ頭の悪そうな、それこそ割と偏差値が高いこの大学に受かる学力があるとは到底思えない格好をした如何にもなチャラ男が、こっちに近付いてきていた。

 

「てゆっかさ、俺の誘いは断っといて他の男と一緒にご飯とか俺への当て付け?妬いちゃうなー」

 

「いや、そういう訳じゃないけど…」

 

 うっわ、四季さんの口許がひくついてる。あれ、内心結構イラついてるぞ。

 あんたに対して当て付けする程暇じゃないし親しくもないんだから早くあっち行け、とか思ってる顔だぞ。

 

 しかしチャラ男はそんな四季さんの心情に全く気付かず、ただ好き放題言いたい事を言いまくる。

 

「ほら、こんな冴えない男なんかと一緒にいないでさ、こっち来ようよ。四季さんの株が下がっちゃうよ?」

 

「…」

 

 その台詞は、横目で俺の方を見ながら言い放たれた。冴えない、なんて言ってくれるな。自覚してるわうっせえな。ブッ飛ばしちゃうぞ。

 

 初対面の癖に失礼な台詞を連発するチャラ男に苛立ちが募っていく。ていうか、マジ邪魔。話の邪魔。そういえばさっき俺の誘い、とか言ってたけど、もしかして四季さんこいつに絡まれてたりするのか?

 …うーわー、めんどくさそー。

 

 それより、助け船を出した方が良いだろうか。でもこういう奴っていきなりキレたりするんだよな。そうなると面倒くさい。店の事がある以上、暴力沙汰は起こしたくない。なるべく穏便に片付けたいのだが…。

 

「別に株が下がるとかどうでもいい。私はこの人と一緒にいたいからいるだけ」

 

「─────」

 

 俺がどうするべきか悩んでいると、四季さんはチャラ男の方を見ないままハッキリとそう告げた。

 言葉の矛先であるチャラ男だけじゃない。俺も驚き、目を見開いてしまう。

 

「…なに?もしかして、噂通りこいつと付き合ってたりする?」

 

「もしそうだとして、貴方に関係ある?」

 

 ずっと変わらなかったチャラ男の笑顔が僅かに歪む。それは、思いどおりにならないこの状況に対しての苛立ち。

 チャラ男は四季さんから今度は俺の方を見て、口を開いた。

 

「ねぇ、君。この人、俺に譲ってくんない?」

 

「─────」

 

 かと思えば、思いも寄らない台詞を吐いた。思わず俺が絶句する中、チャラ男は更に続ける。

 

「ほら、君と四季さんじゃ釣り合わないっていうか。君じゃあ手に負えないでしょ。安心して、代わりに君にピッタリの女の子を紹介するからさ」

 

「…」

 

 言葉が出ない。清々しいまでの屑っぷり。我ながら人の汚い部分は多く見てきたつもりだが、それでもここまでの奴は見た事がなかった。故に、返事を返せない。どう返事を返せばいいのか分からない。というより、言葉の意味を理解したくない。

 こんな気持ちは初めてだった。

 

「ねぇ、無視はやめてよ。傷つくなー」

 

「───あぁ、すいません」

 

 何も返事を返さない俺に苛立ちながら、再度声を掛けてくるチャラ男。さすがにスルーじゃ乗り切れない。かといって、こういう輩は理屈じゃあ引いてくれない。

 それじゃあどうするか。

 

「あの、日本語でお願いできますか?俺、見ての通り日本人で、外国語は英語以外聞き取れないんですよ」

 

「…は?」

 

 この際、好き放題言ってしまおう。散々言われたい放題されたんだから、このくらい良いだろ。

 

「えっと…、何言ってんの?」

 

「あ、日本語は出来るんですね。それなら、もう一度お願いします」

 

「─────」

 

 あぁ、キレたな。

 簡単に分かるくらい、チャラ男の表情は一変した。

 

「てめぇ、調子乗んなよ」

 

 こちらを見下ろし、その声には隠しきれない苛立ちが込められていた。いや、隠すつもりなんてないのだろう。

 完全に俺を舐め切った、こうして威圧すれば縮こまるだろうと高を括った態度。

 

 そんなチャラ男の態度に対して、俺はわざと大きなため息を吐いた。

 

「意味が分からないんですが。俺がいつ、調子に乗ったんです?というより、調子に乗ってるのは貴方の方でしょう?」

 

「…おい、マジでいい加減にしろよ」

 

「いい加減にすんのはてめぇだろ」

 

 チャラ男の目が丸くなる。突然態度を変え、鋭く睨む俺に戸惑っている様子。

 

「四季さんを譲る?四季さんは物じゃねぇんだよ。何だよ譲るって。王様気取りか?てめぇの方こそ調子に乗ってんじゃねぇ」

 

「…」

 

「でも一応、お前の頭脳レベルに合わせて質問に答えてやるよ。四季さんは譲らない。女の子の紹介もいらない。以上、分かったら帰れ」

 

「っ─────」

 

 チャラ男がこちらに詰め寄ってきた。完全に堪忍袋の緒が切れたらしい。いや、堪忍する立場なのは俺と四季さんの方だとは思うが。

 とにかく、こうなるともうチャラ男がとる行動なんて一つしかない。ほら、拳を握って引き溜めに構えてる。

 

「ちょっ…!」

 

 成り行きを見ていた四季さんが声を上げる。当然だ。何しろこのチャラ男、完全に俺を殴る気でいるのだから。

 

 それに対して俺も右手を持ち上げ、掌をチャラ男の方に向ける。これでチャラ男の拳が俺の掌に命中すれば、正当防衛の名聞を獲得できる。そうなれば、こっちのもの─────

 

「やめとけ、小泉」

 

 そう思っていたのだが、突然聞こえてきた第三者の声にチャラ男の動きが止まる。動きを止めたチャラ男が声が聞こえてきた方へと振り返る。俺もまた、チャラ男が視線を向けた先を見て、目を細めた。

 

「草野…」

 

「こんな公衆の面前で騒ぎ起こすんじゃねぇよ。おら、席戻れ」

 

「…ちっ」

 

 やり取りに割り込んできた第三者、昭久とチャラ男は知り合いらしい。昭久の言葉にチャラ男は不満げながらも従うらしく、拳を引いて俺達に背を向けた。

 

「命拾いしたな」

 

 そう言い残し、チャラ男は食堂を去っていった。あれ、あいつ飯食いに来たんじゃないの?ここにいるって事は、少なくとも食券は買ってる筈だけど…、いや、考えるのはやめよう。あいつに割く思考のリソースが勿体ない。

 

「…命拾いしたのはお前だっての。ったく、驚いたぞ千尋。お前を追って来てみれば、こんな騒ぎになってんだから」

 

「邪魔すんなよ昭久。折角のストレス解消の玩具が行っちゃっただろ」

 

「小泉は玩具かよっ」

 

 俺の返答に笑う昭久。お盆が揺れて味噌汁が溢れそうだけど大丈夫か?指摘するのは面倒だし、放っておくが。

 

「…えっと」

 

「あぁ、こいつ、俺の友達の草野」

 

「草野昭久です。こいつの友達やってます」

 

「はぁ…。あ、四季ナツメです」

 

 置いてきぼりになっていた四季さんに昭久を紹介する。そして昭久の挨拶に律儀に挨拶を返す四季さんに、昭久が微笑する。

 

「それで、柳君を追ってきたって?」

 

「あー…、それはー…」

 

 四季さんの切り返しに、昭久の笑顔が固まった。当たり前だ、言いづらいに決まってる。俺と四季さんとのライムのやり取りを見て気になって追ってきました、なんて。

 

「俺と四季さんのライムを見たんだよ」

 

「え?」

 

「ちょっ、おまっ!」

 

 だがそんな事は関係ない。俺は情けなく、躊躇いなく、四季さんに事実を告げる。昭久が慌てているが構わない。

 

「俺と四季さんを出歯亀するつもりだったんだよ」

 

「出歯亀っていうな!俺達は友人としてお前が心配でだな!」

 

「余計なお世話だ。あ、ついでに最初にライムを覗いたのはあそこでこっちを見てる茶髪でメガネの奴な」

 

「お前、もう少し友人に容赦を持った方が良いと思う!」

 

「俺、最近お前らに罪人扱いされた記憶があるんだけど」

 

「…俺は後ろから見てただけだし」

 

「知ってるか?いじめを止めない奴もいじめに加担してるんだと」

 

「くそっ、何も言い返せねぇっ」

 

「─────」

 

 あぁ、いけない。また四季さんを置いてきぼりにしてしまった。ていうか、あれだな。こいつも話の邪魔という点ではあのチャラ男と一緒だな。

 さすがにあのチャラ男への扱いと一緒にはしないが、昭久にもここからご退場願うとしよう。

 

「柳君って、友達と話す時はこんな感じなんだ」

 

「は?こんな感じって?」

 

 昭久を追い出そうとする前に、四季さんが口を開いた。その言葉の意味が理解しきれず、つい聞き返してしまう。

 

「なんというか、こう…。遠慮がない感じ?」

 

「四季さんに遠慮してるつもりはないけど?」

 

「え、お前四季さんに対してもこんな感じなの?」

 

「んな訳ないだろ」

 

 さすがに昭久に対しての態度をそのまま四季さんに向けるなんてしない。ていうか出来る筈がないだろ。大体、四季さんは昭久みたいにバカじゃないから、そんな態度をとる機会がない。

 

「何か、柳君の新しい一面が知れた気がする」

 

「…さいですか」

 

 何故か嬉しそうに言う四季さんに、俺は一言そう返す事しか出来なかった。

 

 そして、そんな俺をじっと見つめる昭久。

 

「…なんだよ」

 

「お前、マジで四季さんと付き合ってねぇの?」

 

「違うって」

 

「…ふーん、そっか」

 

「それより、四季さんとはバイトの事で話があんだよ。一緒に飯食ってんのもその話をするからなんだよ。だからあいつらん所にとっとと戻ってくれ」

 

「あー、そういうことか…。分かった、あいつらにも言っとくよ」

 

 事情を理解した昭久は素直に俺と四季さんから離れていく。そして離れたところからこちらの様子を見ていたあいつらの所へ戻り、少し話をしてから空いてる席を探し始めた。恐らく、俺がさっき言った事を説明したのだろう。

 

 これにてようやく一件落着。思わぬ展開があったが、ようやく落ち着いて話をしつつ飯を食える。

 

「それじゃあ、話の続き…は、やめるか。何か、そんな気分じゃない」

 

「そうね…。ごめんなさい、私のせいで」

 

「いや、四季さんのせいじゃないだろ。あのくそチャラ男が全部悪いんだから、四季さんが責任感じる必要ないって」

 

 浮かない顔をしてしまった四季さんにそう言葉を掛けるが、その表情は晴れないまま。

 こうなった四季さんは頑固である事を知っている。だが、それならそれでやりようはある。

 

「それなら…」

 

「あっ」

 

 四季さんの方にある皿から、トンカツ一切れをとって口の中に入れる。

 

「こえれ、ひゃらってこおれ(これで、チャラって事で)」

 

「…飲み込んでから話してよ、聞き取れないでしょ?」

 

 一連の流れを呆然と見ていた四季さんが、むぐむぐとトンカツを咀嚼する俺を見て笑みをこぼす。これで、責任感は晴れただろうか。四季さんの気持ちが分かる訳じゃないが、その笑顔は素直に気持ちから出ているものだと思いたい。

 

 重い空気は払拭され、バイトの話の続きは出来なかったが、普通に雑談しながら食事を進める。

 その時の俺は、周囲の視線なんて全く気にならない程に、四季さんとの話に没頭していたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

~Another View~

 

「バイトの話、だっけ?」

 

「千尋はそう言ってたぞ」

 

「…そんな風には見えねぇけど」

 

「こりゃ、また後で尋問だな」

 

「やめとけって。また千尋の機嫌損ねるぞ」

 

 顔を向き合わせ笑いながら食事を進める千尋とナツメを見てヒートアップする友人達を、昭久が宥める。

 だが、あまり効果は見られない。これはまた、尋問は避けられないらしい。

 

「てか、さっきの見たか?」

 

「あぁ、見た。あいつ、四季さんのトンカツ食いやがった」

 

「有罪だな」

 

「執行猶予なし。慈悲はない」

 

「てか、極刑で良いだろ」

 

「お前らの沸点低くね?」

 

 昭久のツッコミは届かない。友人達はただただ殺意を昂らせていく。

 ため息を吐きながらそんな友人達から今も食事を続けていく千尋とナツメの方へと視線を移す。

 

「…普通にお似合いに見えるけど」

 

 そして、微笑ましそうな笑みを浮かべながら、小さくそう呟いたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




ここまで長くなる予定はなかったのに
チャラ男、ユルスマジ…


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第三十五話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「んじゃ千尋、またな」

 

「あぁ。そんじゃ」

 

 大学からの帰路の途中、ここまでは一緒だった昭久と別れて住宅街を歩く。その道はステラへ行く道とは違い、家への最短ルート。

 今日は店は定休日で、当然バイトも休みだ。週に一度の休み、帰ってから何をして過ごそうか考えながら…なんて

事はなく、すでに帰ってからする事は決まっている。最近ハマっているFPSゲーム、EPEXが部屋で俺を待っている。

 

 いつもよりも速いペースで、というよりここまで来たらもう軽く走ってるのに等しい。

 昭久と別れてから数分程でアパートに到着、階段を駆け上がって二階の部屋の扉のカギを開けて部屋に入る。

 

 靴を脱いで部屋の中へ。鞄を置いて上着を脱いでハンガーに掛けてから手を洗い、それからテレビ横にあるPCを立ち上げる。光る画面が起動シークエンスを映す中、デスク前の椅子を引いて腰を下ろす。

 少し待ってから、画面に表れた空欄にパスワードを入力してログイン。すぐにホーム画面が映し出され、慣れた手付きでマウスを操作、EPEXを起動する。

 

「うし、今日は絶対にプラチナいくぞ」

 

 意気込みながらキャラを選択していざ、戦場へ身を投じた。

 

「あ、ちょっ、そこ突っ込むか!?何だこいつ煽り耐性なさすぎる!」

 

「いやいやいやエイム!エイムぶれぶれ!腕というより感度調整してるのかすら怪しい!」

 

「あああああああああああ陰から別パ来たぁ!?挟まれたやべぇちょちょちょちょ──────」

 

「ちょっ、何だこいつのエイム吸い込まれてる吸い込まれてるこんなんチートやチーターや!あ」

 

 なお、現実は非情である。プラチナどころか起動時点でのレートから数字が下がる始末。

 ボロボロの結果を表すリザルト画面を見もせずスキップして天井を仰ぐ。そこでようやく気付く。部屋が暗い。視線を移して窓の方を見ると、外はすっかり暗くなっていた。

 

「よっこらせ…」

 

 おっさん臭い掛け声を出しながら席を立ってベッドの方へ、布団に無造作に置かれた白いリモコンを上へ向けてボタンを押す。直後、部屋のLEDライトが点灯する。ずっと暗い中でいたせいか、いつもより明かりが眩しく感じる。

 電気を着けてからは部屋のカーテンを閉めて再びPCの前へ。

 

「…やめよ。今日はもうダメな気しかしない」

 

 再びマッチを始めようとカーソルを動かそうとして、やめる。何か今日は勝てる気がしない。こういう時って、本当に不思議と全く勝てない。ゲームをログアウトすると、ホーム画面に戻る。

 

 さて、ゲームを止めるのは良いがどうしよう。時間は夜飯を食べるのに丁度良い時間だ。かといって、今から準備するのは面倒だし、コンビニで何か買ってくるか、それとも近くのラーメン屋でも行ってくるか…。

 

「ん?」

 

 その時、スマホの着信音が鳴り響いた。光った画面に書かれた名前は高嶺のものだった。珍しい事もあるものだ。高嶺が俺に通話を掛けてくるとは。

 

「もしもし」

 

『もしもし、柳か?』

 

「現在この電話は電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため掛かりません」

 

『あれ…、電話通じない』

 

 不思議そうな高嶺の声が聞こえた直後、通話が切れた。ちょっとした悪戯のつもりが本気にされてしまった。ていうか、最初にもしもしって言ったの気付いてなかったのか?あいつ。

 

 と思っていたら、またすぐに通話が掛かってきた。相手は勿論高嶺だ。

 

「はい」

 

『うぉい!』

 

「俺は悪くねぇ。最初にもしもしって言ったのに本気にしたお前が悪い」

 

『悪戯仕掛けてきた奴が言う台詞か!』

 

 本気でキレてるという訳ではなさそうだが、結構大きな声でツッコミを入れられる。

 まあ、おふざけはここまでにして用件を聞く事にしよう。

 

「それで、どうした?」

 

『あ、あぁ。柳って今、暇か?』

 

 用件を聞いてみると、高嶺から返ってきたのは質問だった。質問に質問で返すのはどうかと思いつつ、ここで突っ込んでは時間が掛かり、通話料も勿体ないためスルーしておく。

 

「暇だけど」

 

『それなら、皆で焼き肉食いに行かないか?今、柳以外は集まってるんだけど』

 

「は?虐めか?仲間外れか?泣くぞ?」

 

『そうじゃなくて、偶然会っただけだって。それで、どうだ?』

 

 通話の向こう側で苦笑いしている高嶺の顔が思い浮かぶ。別に本気でハブりを心配していた訳ではないし、その話はここで終わらせる。

 そして、高嶺からの質問についてだが、用事もないし何なら外食を考えていたし、断る理由もない。

 

「行く。店どこ?」

 

『いや、それはこれから決める。今、駅前にいるからその周辺の店を探すつもりだ』

 

「それなら決まったら教えてくれ」

 

 高嶺の了解、という声がして、それじゃあと挨拶を交わしてから通話を切る。

 

 しかし駅前か。そうなると歩いて行くのは少し距離があるな。いや、歩いて行けない距離ではないのだが、夜の寒空の中でというのを考えると億劫だ。それに、俺が来るのを高嶺達に待たせる事になる。

 

「…車で行くか」

 

 ガソリン代が勿体なく感じるが、そんなに大した差にはならないし、躊躇わず車のキーをとる。服は大学に行った時の服装そのままで良いだろう。一々着替えるのも面倒だし。上着も帰ってきた時にハンガーに掛けた物を着て、財布と家の鍵を忘れず外に出る。

 

 車に乗り込み、エンジンを掛けて発進させる。高嶺から再び通話が掛かってきたのは、それから数分後の事、もうすぐ駅前に着く所まで来た時だった。

 カーナビを操作して通話を繋げ、高嶺から店の名前と場所を教えて貰う。信号待ちの時間を使ってカーナビに場所を登録、そこに案内してもらう。

 

 目的の店にはすぐに着いた。店の前には高嶺達が集まっており、俺が運転する車を高嶺と火打谷さんが指差している。多分、俺の車だって他の人に教えているんだろう。あの二人は一度俺の車に乗ってるし。

 駐車場の空きスペースにバックで車体をいれる。何か注目が集まって少し緊張するが、特にてこずる事なく駐車を終え、キーを抜いて車を降りる。

 

「おーい」

 

 車を降りた俺に向かって高嶺が手を振る。それに対して俺も軽く手を上げて返しながら高嶺達の元へ向かう。

 

「店の中で待ってて良かったのに」

 

「いや、俺達も今来た所だったんだよ」

 

「ふーん。それなら良いけど…明月さんは何で目を輝かせてんの?」

 

 高嶺達と合流したのは良いとして、さっきから明月さんがやけにキラキラした目で俺を見ている。

 

「柳さん、運転できたんですね!」

 

「え?あ、うん。できたんです」

 

「あの車はスバルのXVですね?柳さん、良い車持ってますね~。買ったんですか?」

 

「いや、親のお下がりだけど…。え、明月さん車詳しいの?」

 

「俺に聞かれても…」

 

 車体に書かれた車種名を遠目で読むのは難しいだろうし、つまり明月さんは車体を見ただけで車種を当てた事になる。いや、死神の視力ならば可能なのかもしれないが。

 

「まだお店のオープンの目処が立ってなくて暇な時、窓の外を通る車をずっと眺めてて。いつの間にか詳しくなってた」

 

「…車に詳しい死神」

 

 答えられない高嶺の代わりに四季さんが答えてくれる。しかし、車に詳しい死神か。…何か、俺の中に僅かに残った幼心が嫌だと言っている。それに反して、俺の脳裏である映像が浮かんでしまう。

 店の中で窓の外を眺めながら、道路を走る車の車種をのんびりと言い当てていく明月さんの姿が。

 

 ─────なんか、絵にはなるよな。窓際でのんびりしてる美少女。してる事はイメージ台無しだけど。

 

「ほら、いつまでも外にいないで中に入りましょう。寒い寒い」

 

 話し込む俺達に涼音さんが呼び掛ける。すでに涼音さんと墨染さん、火打谷さんは準備万端といった感じ店の前に待機している。俺達も話を止めて、店の中に入っていく涼音さん達に続く。

 

 俺が来るまでの間に席をとっていたらしく、高嶺が代表して名前を告げると、店員はすぐに個室の席に案内してくれた。

 

「ご注文が決まりましたら、このボタンを押してください」

 

 そう言って店員は二つのメニュー表を置いて去っていく。

 俺達は円形に伸びた席に腰を下ろし、着ていた上着を脱いでからメニュー表を見てどれを食べるか考える─────前に、まずはドリンクを決める。

 

「さってと…、やっぱり、まずは生かな?」

 

「お止めなさい」

 

「分かってます、冗談ですよ」

 

 メニュー表を真剣に見ていると思っていたら、火打谷さんがとんでもない事を言い出した。さすがに冗談だとは思うが、一大人として涼音さんがすぐさま一声。

 思った通り冗談だったらしく、すぐに火打谷さんは笑いながら意見を撤回する。

 

 そうしてドリンクはすぐに決まり、次に最初にどの肉を食べるかに話題が移る。

 

「それじゃ、カルビ!あとご飯も一緒に頼もっと!」

 

 火打谷さんはガッツリ食べるタイプらしい。そして、肉と白米を一緒に食べたいタイプでもあるらしい。

 

「カルビね…。あとは、タンとハラミと…」

 

 火打谷さんに続いて涼音さんも注文候補を挙げていく。いや、候補というよりはもう、それを注文する流れになるだろう。

 俺は何も言わず、黙って話に耳を傾ける。

 

「どうしたの?」

 

 すると、隣から高嶺の声が聞こえた。振り向くと、高嶺は俺の方ではなく逆、明月さんの方を見ていた。俺に言った訳ではなかったようだ。

 しかし、高嶺の視線の先にいる明月さんは、まだ肉が来ていないにも関わらず楽しそうに頬を綻ばせていた。高嶺が問い掛けたのは、その理由らしい。

 

「いえ…。こうして大勢で食事をするのは初めてなので」

 

 明月さんが高嶺の問い掛けに嬉しそうに答える。

 

 そういえば、俺達と出会う前の明月さんとミカドがどういう風に過ごしていたのか聞いた事がない。こうして特定の人間と親しくなった事はなかったのか。ただ淡々と、死神の役目を果たすだけの毎日だったのだろうか。

 

 それは、ここで考えても仕方のない事なのだが、こうして関わりを持った以上興味が湧かない訳ではない。ここで聞く、なんて事はしないが。

 

「栞那さんは何か食べたいものはないんですか?」

 

 すると、墨染さんが明月さんと自身の間にメニュー表を持ってきながらそう問い掛けた。

 明月さんは墨染さんが持つメニュー表をじっ、と見つめてから不意にとある場所を指差す。

 

「このいちぼ、っていうのは何ですか?」

 

「いちぼ?あー…、何だっけな。牛のお尻の方のお肉だった気がする」

 

「お尻のお肉はランプじゃありませんでした?」

 

「あれ、そうだっけ?じゃあいちぼってどこ?」

 

 明月さんはいちぼが気になっているらしい。また随分お高い肉に目を着けて。きょとんとしている明月さんが少し面白く見えてしまい、微笑をこぼしながら話し合う四季さんと涼音さんに補足する。

 

「ランプは腰から尻に掛けての肉で、いちぼはそのまま尻の肉ですよ」

 

 ランプの部位は知ってる人はそこそこいるらしいが、いちぼは高級なのもあってあまり知られていない。ランプ=尻の肉、と覚えている人は多いらしい。四季さんもその一人だったようだ。

 

 俺の説明を聞いて、他の皆がへぇ~、と声を漏らしながらこちらを見る。

 

「それで、いちぼ頼むの?高いけど」

 

「大丈夫でしょ。昂晴の奢りだし」

 

「え、そうなの?あざっす」

 

「待ってください柳さん。貴方だけは。貴方だけは勘弁してくれませんか」

 

「お、仲間外れか?泣くぞ?」

 

「ちくしょおおおおおおおおおおおおおお」

 

 割り勘かと思っていたが、高嶺の奢りとの事。それは嬉しい、夕食代が浮く。その好意に遠慮なく甘えさせてもらおう。高嶺が頭を抱えているが知らん。

 

 まあ、流石に奢られっぱなしは悪いので、機会があれば今度は俺が奢ってやるつもりでいる。いつになるかは知らないが。

 

 という事で、最初に頼むメニューは決まりボタンを押す。一番出口に近い俺が、やって来た店員にメニュー表を向けて、頼みたいメニューを指差しながら注文していく。

 注文を終えるとすぐにドリンクが、そしてそう時間が経たずに肉がテーブルに並んでいく。早速、油が敷かれた網の上に肉をのせていく。

 

「んー、おいしい~」

 

「本当、言ってみて良かった…」

 

 火打谷さんと四季さんがご満悦そうに肉を飲み込んでから言う。今回の焼肉パーティーを提案したのは四季さんらしい。

 なら、四季さんに感謝だな。俺も焼肉は久しぶりだし、早く食べたいものだ。

 

 しかしそう思う反面、焼き終わった肉は次々にとられていき、そして空いた所に肉を投入していく。

 あれ、今気付いたけど何で俺は肉を焼く係になってんだ?俺まだ一口も肉食べてないんだが。

 

「千尋さん。私が替わりますから、千尋さんはお肉を食べてください」

 

「良いのか?なら、お言葉に甘えて頼む」

 

「はいっ」

 

 トングを持ったまま未だ箸すら持てない俺に、墨染さんが救いの手を差し伸べてくれる。俺は墨染さんにトングを渡し、ようやく箸を持つ。

 

 最初に網からとったのはハラミ。タレをつけて、口へ運ぶ。

 うん、旨い。

 

「あー!私が大切に育てたいちぼがぁ!」

 

「あ、悪い」

 

 静かに肉を堪能する隣で、戦争が勃発していた。あるある。一枚の肉に感情移入して、その肉が目の前でかっ拐われてく事。その時の空しさは何とも形容しがたいものだ。

 

「昂晴君のばかぁ!」

 

「わ、悪かったって」

 

「はいはい、喧嘩しない」

 

 まるで兄妹喧嘩を止める母親のごとく。涼音さんが苦笑しながら二人を宥める。

 墨染さんも本気で怒っていた訳ではないようで、頬を膨らませながらも矛を納める。

 

 そんな騒ぎもありながらも肉を食べ進めると、いつしか網の上には肉ではなく付け合わせの野菜が占領し始めていた。

 野菜の時間に突入したらしい。とっととこいつらを片付けてまた肉の時間にしなければ。

 

「ほら四季さん、野菜も食いなよ」

 

「─────」

 

 トングは再び俺の手に。四季さんの皿にある野菜が少ない事を見逃さず、焼き上がったピーマンを四季さんの皿にのせてやる。

 

 すると、四季さんの表情がぴしり、と固まった。

 

「…どうした?」

 

 明らかに様子がおかしい。さっきまでご機嫌そうだったのに、完全に固まっている。

 まさか、野菜嫌い?いや、でも玉葱は普通に食べてたぞ。

 

 なら、考えられる可能性は一つ。

 

「四季さんって、ピーマン嫌いか」

 

「…」

 

 悔しそうに視線を投げ掛けてくる四季さん。その目は、言いたい事があるのなら言ってみろ、と語っているようだった。

 それなら、遠慮なく一言言わせてもらうとしようじゃないか。

 

「子供舌なんだな」

 

「っ~~~~~!」

 

 思えばコーヒーも砂糖を大量に入れなければ飲めていなかった。苦いものが苦手というより、単に子供の時から味覚が成長していないのだろう。

 そう言ってやると、四季さんは顔を真っ赤にして言葉にならない声を上げた。多分、ここにいるのが俺と四季さんだけだったら殴りかかってきていただろう。しかしここにいるのは俺と四季さんだけじゃない。

 

 勝った。

 いや、何に勝ったのか知らんけど。

 

「しょうがないから食べてやるよ。しょうがないててててて、足、足を蹴るなっ」

 

 テーブルの下で四季さんに足を蹴られる。痛い、やめて。俺は痛い事をされて喜ぶ趣味はないから普通にやめて。

 

「あーもう、二人も喧嘩しないっ」

 

 涼音さんに言われてようやく四季さんの足が止まる。四季さんは俺の足を蹴った事でスッキリしたのか、表情が戻っていた。機嫌を損ねたまま、という訳ではなさそうで、とりあえず安心。

 

「追加の注文するけど、何か食べたいのある人いるか?」

 

 四季さんの機嫌が直ったところで、追加の注文をするべくメニュー表を開く。

 

「明月さんは、今食べたので何か気に入ったのある?」

 

 俺が質問を投げ掛けた後、高嶺が明月さんにそう問い掛けた。明月さんは少し考える素振りを見せてから、口を開く。

 

「強いて言うなら、タンとハラミが好きでしたね」

 

「了解。なら、タンとハラミと…」

 

「あ、でも!食べきる自信が…」

 

「大丈夫よ。若い男の子が二人もいるんだから、いざという時は全部任せちゃえばいいの」

 

「は!?全部!?」

 

 明月さんの要望通りタンとハラミは確定として、それじゃあ後は…うし、決めた。

 

「タンとハラミとロースを二人前ずつ」

 

「ちょっ、おまっ」

 

 ボタンを押して、やって来た店員に注文する。高嶺が焦っているが構わない。注文を確認してから店員が去っていき、俺は食事を再開する。

 

「柳、流石に二人前ずつは…」

 

「は?もしかしてお前、限界?」

 

「…」

 

 限界ギリギリ、なのかまでは分からないが、割とそれに近いらしい。

 マジか、こいつって意外と少食なのか?そんな風に思っていると、俺以外の声が直後に響いた。

 

「高嶺君、食べてなくない?」

 

「食べてますが!?」

 

 からかい混じりの声の主は四季さんだった。悪戯な笑みを浮かべながら言う四季さんに鋭いツッコミをかます高嶺だが、効果は全くない。

 

「お待たせしましたー」

 

「え、はやっ!?」

 

 注文した三種の肉が二人前ずつもう届く。テーブルに並んだ肉の量に圧倒された様子の高嶺に、四季さんが更に追い討ちを掛けていく。

 

「高嶺君の、ちょっといいとこ見てみた~い」

 

「「「それお肉♪お肉♪お肉♪お肉♪お肉♪」」」

 

「何でそこで息ピッタリになるんだよ!てか、柳は何でそっち側!?」

 

「いや、面白そうだから」

 

「裏切り者!」

 

 四季さんの追い討ちに加勢する女性陣にそれとなく混じって、一緒に高嶺をからかう。裏切り者と貶されるが全く効かない。むしろ騒ぐ高嶺の姿が面白くて仕方ない。

 

 結局届いた肉は、まだ余裕があった女性陣の協力もありつつ、主に俺と高嶺が平らげた。しかし、どうもまだ物足りなく感じた俺は更にタンとロースのセットを注文。周囲の軽く引き気味の視線を受けながら全て平らげ、ようやく空腹が満たされた。

 その後はもう一度ドリンクを頼んで休憩しつつ、今日スマホを買ったという明月さんとID交換をしたり、店のメンバーでグループを作ったりと談笑してから店を出たのだった。

 

「─────」

 

 そして今、高嶺は声も出さないまま涙を流していた。空っぽになった財布を見下ろしながら。

 

「いやぁ~、ごちそうさん高嶺。うまかったぞ」

 

「…行かない。もうお前と焼肉は行かない。お前が奢らない限り絶対に行かない」

 

 流石に食い過ぎた。俺の腹の分量的にも、高嶺の所持金的にも。

 

 外に出れば冷たい風が吹き荒ぶ。軽く身を震わせながら足を駐車場に方に向けて、ふとある事を思い立った俺は高嶺達の方へ振り返った。

 

「四季さん、歩きか?」

 

「え?そうだけど」

 

「なら送るよ。皆も、全員は無理だけどあと三人は乗れるぞ」

 

 四季さんに声を掛けてから次に他の五人にも同じ様に声を掛ける。

 俺の車は五人乗りのため、全員は乗れないがまだ三人乗れる。

 

 俺としては、今日は二人で出掛けていたという高嶺と明月さんを二人で帰らせ、涼音さん達を乗せて送るつもりでいた。

 

「いやー。私は良いや」

 

「私も、愛衣ちゃんと一緒に帰るから大丈夫です」

 

 が、涼音さんと墨染さんに断られ、火打谷さんも墨染さんに同調してうんうんと頷いていた。

 それじゃあ、と今度は高嶺と明月さんの方に視線を向けたのだが、二人は無言で片手を上げ、頭を横に振った。

 

「…」

 

 全員に断られた。それはまあ別に良いのだが、何故だろう。皆、にやついている様に見えるのは気のせいだろうか。すっごく微笑ましそうに見られているのは気のせいだろうか。

 

「…まあいいや。じゃあ四季さん、行こう」

 

「え…。あ、うん…」

 

 戸惑った様子の四季さんがついてくる。車のキーを開けて運転席に乗り込むと、その後に四季さんが助手席に乗ってくる。あらかじめ店を出る前にエンジンを掛けておいたため、車内が冷えきっている、という事はなかった。

 シートベルトを締めて、車のエンジンを掛け直す。そして四季さんもシートベルトを締めている事を確認してから、セレクトレバーをドライブに、そしてサイドブレーキを下ろす。

 

「それじゃあ…行くぞ?」

 

「は、はい」

 

 何故か緊張してしまう。車に人を乗せて運転するのなんて初めてじゃないのに。何なら最近、高嶺と火打谷さんを乗せたばかりなのに。

 

 …いや、理由なら分かる。今、車の中で女の子と二人きりだからだ。今の俺にそんな思春期の精神が残っている事に驚きながらも、ハンドルを回し、ブレーキから足を離して車を発進させる。

 駐車場を出るまでは徐行。道路に出る直前で車を止め、こちらを見る皆と、四季さんと一緒に手を振り合ってから車を出す。

 

 徐々にスピードを上げて、制限ギリギリの速度で留める。時刻は夜の九時になろうとしていた。車通りが少なくなり、スムーズに道路を走る事が出来る。これなら数分で四季さんの家まで行けるだろう。

 

「柳君って…、免許持ってたんだね」

 

「ん?あぁ。親父から免許は早めにとっとけって言われ続けてな。一年の時に夏休み使ってとっといた」

 

 四季さんがおずおずといった様子で聞いてきた。普段と違ってその声は僅かに震えていた。もしかしたら、四季さんも緊張しているのだろうか。

 まあ、当然か。異性の運転する車に二人きりでいる。こんなシチュエーション、緊張しない人の方が少ないかもしれない。何しろ俺だって、車を発進させるまでは緊張したし。

 

 四季さんの質問にはつい最近同じ質問をされた時と同じ様に返答する。それに対し、四季さんはへぇ~、と声を漏らす。

 

 そして、会話が途切れる。

 

「…」

 

「…」

 

 いや、本当に待って。何を話せば良いんだ。いつも二人で大学行ってる時とか、こんな空気になった事ないぞ。その時との違いなんて車に乗ってるか否かだけなんだぞ。なのに何でこんなにも空気が違うんだ。

 

 ブレーキを踏んで徐々に速度を下げて車を止める。目の前を歩行者と、その向こうで車が横切っていく。

 

「…」

 

「…」

 

 未だ、会話はない。何か話そうと思うのだが、何を話せばいいのか分からない。話題が見つからない。さっきの焼肉について話せばいいのでは、と考えはするのだが、焼肉どうだった?という簡単な一言が喉から出てきてくれない。

 

 信号が青になり、車を発進させる。

 結局、そのまま四季さんが住んでいるアパートの前に着くまで会話は一つもなかった。

 

「送ってくれてありがとう」

 

「あぁ」

 

 アパートの前で車を止めて、四季さんがシートベルトを解く。そして扉を開けて車から出る。

 

 いや、マジで会話なかった。空気がもう最悪だった本当にどうしてこうなった。今までこんな事なかったのに。

 

 というか、四季さんに変に思われてたりしないだろうか。やけに口数少ないな、とか。何でこの人こんなに緊張してるの、とか。

 もし変に思われて距離をとられたり、なんて風になったが…うわ、やだ。考えたくない。普通に傷つく。待って、どうしよう。このまま四季さんを帰してはダメな気がする。いやだからってここで呼び止める方がもっと変に思われそうだ。

 

 待て待て待て待て、マジでどうしよう。

 

「柳君」

 

「…あ、なに?」

 

「また明日」

 

 悩んでいる内に車から降りた四季さんが、こちらを見て、手を振りながらそう言った。

 その笑顔と仕草はいつもと同じで、俺が混乱していたのがとてもバカらしく思える程で。

 

「…あぁ、また明日」

 

 俺も笑顔を浮かべてそう返す事が出来た。四季さんが扉を閉め、もう一度窓越しで手を振ってくる。俺ももう一度四季さんに手を振り返してから車を発進させる。

 

 一人になった車内。それがどうも寂しく感じられる。でも、明日になればまた会える。だって、四季さんが言ったのだから。また明日、と。

 

「~♪」

 

 無意識にお気に入りのフレーズを鼻で歌いながら、車を俺のアパートへと走らせていくのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

~Another View~

 

「…」

 

 交差点を曲がって、柳君の車が見えなくなる。それを見送ってから、私は必死に押し留めていた思考をこの場で爆発させた。

 

「だ、大丈夫、よね?変に思われてたりしてないよね?」

 

 柳君と二人で車に乗ってから、何故か緊張してしまい、口数が少なくなってしまった。いつもなら二人きりでも普通に会話できたのに、密室で二人きりだと意識してしまうとどうしてもダメだった。

 一度話し掛けてみたけど、会話は全く続かず。柳君は平然と、落ち着いた様子でいたのに、私だけ…。

 

「大丈夫、よね…?」

 

 胸を手で押さえながらもう一度自分に言い聞かせる。さっきも、柳君は普通に挨拶を返してくれたし、変に思われた風には見えなかった。だから大丈夫。…の筈。

 

「…帰ろう」

 

 とにかく、外は冷えるからまずは部屋に入ろう。何にしてもそれからだ。

 建物に入り、階段を上がって部屋の鍵を開けて扉を開ける。

 

 その後、柳君にどう思われたのだろうという疑問が何をしていてもついて回り、更に寝る時でさえもなかなか消えてくれず、次の朝を私は寝不足で迎える事になったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




焼肉…最近行ってないな…行きたいな…肉…


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第三十六話





大親友昭久君の株爆上がり回(予定)


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 皆で焼肉に行った日の次の朝。いつも通りの時間に起きて、いつも通りの時間に部屋を出て、いつも通りの時間に職場に着いて仕事をする。

 涼音さんと高嶺と挨拶を交わし、仕事中に厨房に顔を覗かせた明月さんとも挨拶を交わす。

 

 明月さんと顔を合わせた時に、ふとある事に気が付いて手が止まってしまったが、それに関してはしばらく様子見という方針をとることにする。

 

 そうして俺達は仕事を続けていたのだが──────

 

「…ナツメさん、来ないね」

 

 不意に涼音さんが口を開いてそう言った。俺と高嶺の手が止まり、涼音さんの方を見る。

 涼音さんは厨房の時計を見上げていた。俺も時計を見上げて時刻を確認する。確かに、いつもならばもうとっくに店に来ている時間だ。

 俺達が気付かない間にフロアにいる、というのは考えづらい。何故なら、四季さんは必ず店に来れば厨房の俺達に挨拶しに来るのだから。

 

「寝坊ですかね」

 

「いやー…。ナツメさんが寝坊なんてするかね?」

 

 寝坊、か。確かに涼音さんの言う通り、四季さんが寝坊というのはあまり想像がつかない。勿論、その通りという可能性もない訳ではないが。

 ただ寝坊ではないとすると、あるとしたら体調不良か、或いは道中での事故なんかもあり得る。

 

「─────」

 

 事故、と考えた瞬間に背筋を強い寒気が奔った。すぐにそんな事があってたまるかと内心で否定したが、四季さんが遅刻というのがあまりに珍しく、どうしても気になってしまう。

 

「っと…、噂をすれば、かな?」

 

 すると、休憩室の方から扉が勢いよく開閉される音が聞こえてきた。そして直後、バタバタと慌ただしい足音と共に、噂の人物、四季さんがやって来た。

 

「ご、ごめんなさいっ。遅れてしまいましたっ」

 

 急いで来たのだろう。息が荒く、頬も紅潮している。

 …そんな事考えちゃいけないのは分かっているが、頬が赤い四季さんが色っぽく感じてしまうのは男として普通の感性を持っているという事で許してほしい。

 

「珍しいね、遅刻なんて。寝坊?」

 

「…お恥ずかしながら」

 

「ありゃ、それはまた更に珍しい」

 

 遅刻の理由は準備にてこずったやら来る途中で何かあったやらではなく、一番可能性が低いと考えられていた寝坊だという。

 涼音さんが言った通り、本当に珍しい。いや四季さんとて人間で、何かミスをするのは当たり前なのだが、それにしたって珍しいと思ってしまう。それ程までに、これまで四季ナツメという人間を見てきて、そういったミスとは程遠い人物であるという印象を受けていたのだと今改めて悟る。

 

「なに、昨日は寝付けなかったの?」

 

「…はい」

 

「どうして?」

 

「…」

 

 寝坊したという人にそういった世間話を振るのは自然な流れだろう。寝付けなかったと答えた四季さんに理由を聞く涼音さん。

 すると、何故か四季さんは俺の方に視線を向けた。横目で、ちらりと、元々四季さんの方に向けた俺の視線と四季さんの視線が交わる。

 

「─────」

 

「…?」

 

 収まってきていた四季さんの頬の紅潮が再び復活する。俺の顔を見た直後にだ。

 

「…はーん?」

 

「…何ですか?」

 

「いーや、べっつにー?」

 

 四季さんの方を見ていた涼音さんが、ニヤニヤと笑いながら俺の方に視線を向けた。

 先程の四季さんの表情の変化といい今の涼音さんの笑い方といい、訳が分からない。

 

 とにかく、四季さんの寝坊の理由、或いはその一端が俺にあるというのは何となく察しがつくのだが、心当たりが全くない。

 

「えっと…。とりあえず、ごめん?」

 

「ど、どうして謝るの?」

 

「いやだって、俺が悪いっぽいし。正直何したのかさっぱり心当たりないけど」

 

「別に…。柳君は何も悪くない。私が勝手に考えすぎて眠れなかっただけだし…」

 

「…考えすぎてって、何を?」

 

「っ…!な、何でもないっ」

 

 怒られた。どうやらそこに関しては触れないでほしいらしい。理由は分からないが。

 しかし、考え事。一連の流れからして俺の事だろうか。いや、それは少し自意識過剰かもしれない。何にしても、寝付けなくなるくらい深く考えていたのならそれは悩みごとといって良いのではなかろうか。

 

「まあ、あれだ。何か悩みあるなら聞くからな」

 

「あ、ありがとう。…でも─────」

 

 四季さんに声を掛けると、お礼を言ってから何かを呟いた。俺の所まではその声は届かなかったのだが、涼音さんはその呟きを聞き取ったらしく、ニマァ、と笑みを深くする。

 

「そうねー。千尋には言いづらいわよねぇ。分かる分かる」

 

「涼音さんっ!」

 

「…」

 

 俺、本当に四季さんに何もしていないのだろうか。

 そう不安になる朝だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今日は四季さんとも高嶺とも大学の時間は重ならず一人での登校となった。いつもの道を歩き、キャンパスに着いて目的の教室へと足を急がせる。

 

「…」

 

 人が少ない教室で、人がいないスペースに腰を落ち着かせる。昭久達は俺が受けていない前の講義をまだ受けている途中だ。今、この教室にいる学生は俺と同じく、一、二年の間にとれるだけ単位をとっておいた学生達だ。何なら、もう卒業できる分だけの単位をとってしまった人もいるかもしれない。

 そんな数少ない模範的な学生の一人である俺は鞄の中からノートPCと次の講義で使う資料を机の上に出して、頬杖を突く。

 

 喋る相手はいない、やる事も特にない。そんな俺の頭の中に浮かんでくるのは朝の店での会話である。寝坊したという四季さんが慌てて来た時の事。四季さんが昨日の夜、なかなか寝付けなかったその理由。

 結局その理由を誰にも言わなかった四季さんだったが、涼音さんはその理由を悟っていた様に見えた。それに高嶺も何となく想像ついている風に見えたし。何も分からないでいたのは俺だけだった。

 

 あの場にいた中で俺だけ、というのがどうも引っ掛かってしまう。別に仲間外れにされたという訳でもないが、疎外感は拭えない。

 

 ─────俺、だよな。マジで何かしたっけか?

 

 視線を斜め下に、机の模様を眺めながら過去の行動を思い返す。だが、心当たりはこれっぽっちも浮かばない。

 強いていうなら、昨日の焼肉で四季さんのピーマン嫌いをからかったくらいだが、その程度で寝付けなくなる程思い悩む筈がない。

 

「…」

 

 八方塞がりである。本当に分からない。

 

 頬杖をやめ、ノートPCを開いて電源を入れる。PCを立ち上げてから検索画面を開き、“女友達 気まずい 理由が分からない”で検索する。いや別に気まずくはないのだが、他に表す言葉は見つからなかった。もう完全に苦し紛れである。しかし、まるで喉に魚の骨が引っ掛かったみたいな、とにかく解消しなくては仕方ないむず痒さが俺の手を動かしていた。

 

 画面をスクロールして良さげなページを探す。だが、見つからない。このパターンは特殊なのか、それとも検索ワードが悪かったのか、参考になりそうなページが見つからない。

 

「…何してんだ、俺」

 

 ふと手が止まり、我に返る。いや、本当に何してんだ俺。何だよ“女友達 気まずい 理由が分からない”って。なに検索掛けちゃってんだよ。思春期かよ。高校生かよ。

 

 検索ページを閉じて画面を戻し、PCを閉じる。そしてPCを脇にどけてから机に乗せた両腕を枕にして伏せる。

 

「…訳わかんねぇ」

 

 最近おかしい。今の事もそうだが、昨日の車での事もそうだ。別に会話が続かないくらい何だ。むしろ、運転に集中できて良い事じゃないか。会話が盛り上がって運転に集中しきれずに事故、となる方がよっぽど問題だ。それなのに何だって俺はあそこまで混乱した。

 繰り返すが、最近の俺はおかしい。自分でも分かる。四季さんの事になると異様に気になってしまう。朝の時だって、何だよ、『何か悩みあるなら聞くからな』って。いや、これは仕事の同僚として当然の台詞か?どうなんだ?

 

 あぁ、これだ。いつもの俺なら絶対に考えない、悩む必要がないと断じていただろう事が気にかかってしまう。たとえ思い浮かんだとしてもちらりと浮かぶだけで、即座に忘れる事が出来ない。四季さんに関する事だけだ。

 

「マジで意味分からん」

 

 そう呟いた瞬間だった。一限目の講義の終了時間になった事を報せるチャイムが鳴る。といっても、昭久達が受けている講義は毎回最後に小テストを受ける形式をとっており、出来た学生からどんどん教授の元に持っていき、満点をとればチャイムが鳴る前から講堂を出て良い事になっている。早い人はもう来る頃だ。

 

 そんな事を考えていると噂をすればというべきか、五人の学生の集団が教室の中に入ってくる。それを皮切りに、次々と一限目を受けていたと思われる学生達がやって来る。

 

「おっす、千尋」

 

 昭久達が傍の席に来たのは、教室の席が半分程まで埋まった時の事だった。四人掛の机の端の席に座る俺の隣に昭久が座り、その奥二つの席に友人二人が腰を下ろす。

 

「おう」

 

「それでさ、千尋。ちと頼みがあんだけど」

 

「…」

 

 もうこの切り出し方を俺は何度聞いただろう。何度次は自分で何とかしろと言っただろう。本題を言われずとも分かる。

 

 さて、いい加減痛い目を見てもらった方がこいつのためかもしれない。とはいえそうなったら後の対応がめんどくさいだろうしどうするか。

 

「─────」

 

 いつものように、飯を奢ってもらう事を条件に課題を見せるのがベターか、と考えた時だった。

 こいつは女の子との付き合いには手慣れている。ならば、俺の相談に乗ってくれるのではなかろうか。四季さんの悩みを当てるまでは出来ないだろうが、その切っ掛けをくれるかもしれない。

 

「おっ、今日はやけに素直に渡してくれ…」

 

 机の上に出していたファイルからプリントを取り出して昭久の方へ差し出す。昭久がプリントを受け取ろうと手を伸ばし、紙を掴む前に俺はプリントを昭久の手から離した。

 

「条件がある」

 

「おう、昼飯なら任せろ」

 

「いや、奢らなくて良い。他にお前に頼みたい事がある」

 

 昭久だけでなく、奥に座る友人二人までもが驚き目を丸くする。何だ、俺が頼み事をするのはそんなに驚く様な事か。珍しい事か。

 

「頼みたい事って?」

 

「お前に相談したい事がある」

 

 昭久達の目が更に大きく見開かれた。こいつら、少し失礼じゃないのか。俺が他人に相談事をするのはそんなに驚く事なのか。俺だって人間だぞ、誰かに何か頼んだり相談したくなる事くらいあるわ。

 

「それで、相談したい事って?」

 

「それについては昼休みに話す。…あ、二人は来ないでくれ」

 

「「何で!?」」

 

 気恥ずかしいから、とは言える筈もなく。騒ぐ二人を宥めるのに苦労したのは言うまでもなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして昼休み。食堂で俺はかき玉蕎麦を、昭久は味噌ラーメンを頼んで二人掛の席に向かい合って腰を下ろしていた。

 そこで俺は朝での事を、それが自分と四季さんの事であるという事は伏せて説明した。なお、多分それが俺の話だという事はバレている。『これは俺の友達の話なんだが』と前置きした直後に、『はいはいお前の話なのね』と返されたから、多分どう誤魔化そうと無駄なんだろう。

 とはいえ、俺の話だと自分から言うつもりは更々ない。昭久がお前の話かと聞いてきても肯定するつもりもない。

 

 それと、恐らく相手が四季さんだという事はバレていない。筈。多分、メイビー。さすがにそこまでこいつも察しは良くない筈。というかそこまで察したらエスパーを疑うレベル。

 

「つまり、その女友達が夜寝付けなかったのは自分のせいなんじゃないかとお前は考えている訳か」

 

「俺じゃなく友達だが、それ以外はその通りだ」

 

 麺を啜りながら俺の話を聞いていた昭久がその内容を簡単に纏める。俺はその言葉を一部を除いて肯定し、次の昭久の言葉を蕎麦を啜りながら待つ。

 

 昭久は啜った麺を咀嚼し、飲み込んでから口を開いた。

 

「そりゃあ、お前のせいだろ。何したんだよその女友達に」

 

「俺じゃ「前置きは良いからとっとと答えろ」…正直心当たりがない。だから困ってんだよ」

 

 昭久に言い負かされたのは久しぶり…というか初めてではなかろうか。昭久の言う通りに無駄な足掻きはやめて素直に今の心情を伝える。

 

 昭久は握っていた箸を置いて、テーブルに肘を突いてその手を口許に当てる。俺がやらかしそうな可能性でも頭の中で探っているのだろうか。そう思っていたのだが、それは勘違いだったと直後に知る。

 

「…お前さ、どうした?」

 

「は?」

 

「いやさ、いつものお前ならそんな事気にしないだろ。たとえ気にしたとしてもすぐに自分の中で何らかの決着着けてる」

 

「─────」

 

 それは俺の中でもう一つ浮かんでいた、四季さんに関してのものとはまた別の、自分に対する疑問だった。

 大学に入学してからもう二年、もうすぐ三年になる。こいつとはそれ以来の付き合いだ。俺がこいつの性格をよく知っているように、こいつも俺の性格をよく知っている。だからこそ見抜かれた、俺のもう一つの悩み。

 

「随分入れ込んでんじゃん、その女友達とやらに。会ってみたいねぇその子に。…いや、案外もう会った事あるか?」

 

「黙れ」

 

「へーい」

 

 違う、と答えない事がもう全てを物語っている。それはこいつにも伝わっているだろう。

 確かに、俺は四季さんにやけに入れ込んでいる。それを自覚している。だがその理由が分からない。俺はどうして、四季さんの事をこんなにも気にしているのだろう。

 

「てかお前さ、もうそれって─────」

 

「あ」

 

 昭久が何かを言おうとする。だがその前に、その言葉を遮るように、俺は思わず声を漏らした。昭久の向こう、食堂の入り口の方。食堂に入ってくる見知った顔と目が合ったからだ。

 

 見た事のない女の子達と一緒に食堂に入ってきたその人は俺と目が合うと立ち止まり、目を丸くする。

 

「?」

 

 様子がおかしい俺に気付いた昭久が俺が向けている視線を追って振り返る。そして、俺が見ている先の人物を見て、俺を見て、再び振り返ってその人を見る。

 

「っ」

 

 その人は友人に声をかけられ我に返ったのか、短く、何と言ったのか聞き取れなかったが返事を返してすぐに歩きだした。

 俺の横を通りすぎていく際、もう一度視線が交わった。

 

「…千尋、お前もしかして」

 

「…そうだよ。さっきの話は四季さんとの事だよ」

 

「…うわぁーお」

 

 目を丸くして驚きを露にする昭久。流石に俺が言う女友達が四季さんの事だとは思わなかったのだろうか。昭久は驚いたまま続ける。

 

「予想通りだったわ。俺の勘の良さに驚くわ」

 

「…」

 

 違ったらしい。こいつは自分で自分に驚いていただけだった。

 何か憎たらしいんだが。くたばれ。

 

「…それで?」

 

「ん?」

 

「さっき何か言いかけてただろ。何だよ」

 

「…あぁ」

 

 四季さんに気付く前にこいつは何かを言いかけていた。昭久は俺に何て言おうとしたのか、それを問いかける。

 

「…いや、やっぱいいわ」

 

「は?」

 

「ほら、あれだよあれ。自分で気付かなきゃ意味がないってやつ」

 

 昭久は急に掌を返してきた。多分、言いかけていたあの言葉は俺に対する昭久なりの返答だった筈だ。しかし、こいつはそれを言わないと言い出した。上から目線で自分で気付けと抜かしやがった。

 

「ふざけんな、言えよ。何のためにお前の課題見せてやったと思ってんだ」

 

「そりゃ、大親友の俺のためにだろ?」

 

「そうだよ、俺のためだよ。俺は俺の悩みを解決するためにお前に課題を見せてやったんだ。なのにお前が何も答えてくれなきゃその意味がなくなるだろうが」

 

「大親友の千尋君が俺の話を全く聞いてくれない件について」

 

 昭久が大袈裟に両手を広げながら頭を振る。そのまるで俺をバカにするような仕草に軽くカチンと、いやプチンと、いやブチッ、と来た俺は昭久に口撃を仕掛けるべく口を開こうとする。

 

「でもな千尋。何のために俺が何も答えないと思う?」

 

 しかし口を開く前に、先にそう口にしたのは昭久だった。

 その問いかけの意味が分からず俺は言葉に詰まる。何も答えを返す事が出来ないまま、すると昭久はそんな俺を見て微笑した。

 

「お前のためだよ。お前が抱いた気持ちに自力で気付けないでどうすんだよ」

 

「…」

 

「だから俺は何も言わない。何しろ大親友の初めての…っと危ね。何も言わないって言っときながら口滑らすとこだった」

 

 正直、昭久の気の変わり様はさっぱり分からない。ただ、道楽でそうしている訳ではない事だけは分かってしまう。

 だから俺は、昭久にこれ以上文句を言えなくなってしまうのだ。

 

「まあ、ほら。その蕎麦は奢ってやるからさ。それで許してくれよ」

 

「…いいよ。相談に乗ってくれたのは事実だからな」

 

 何も答えられない代わりに昼飯を奢ると提案する昭久に断りをいれる。確かに昭久は俺に何も答えてくれなかった。だが、相談に乗ってくれた事は事実なのだ。何も答えてくれなかったが。

 俺が課題を見せる代わりに提示した条件は俺の相談に乗ってくれる事。ならば、これ以上の報奨は望まない。

 

「まあでも、あれだ。お前が今抱いてる悩みを解決して、また別の悩みが出てきたら相談してこいよ。その時は、ちゃんとお前の相談に答えるからさ」

 

「…ま、機会があればな」

 

 この時の俺は、そんな機会はないだろうと思っていた。しかし、そう遠くない未来、また別の悩みを持って昭久に相談しに行く事になるなんて、この時の俺は当然知る由もなかったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第三十七話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ありがとうございましたー」

 

 最後のお客さんを全員で見送り、姿が見えなくなってからフロア内が緩んだ空気に包まれる。

 

「ふぃ~。お疲れ様です~」

 

 各々体を伸ばしたり、大きく息を吐いたりとリラックスした様子を見せる。まだ店内の掃除は残っているが、これ以上の来客はないのだから、気を引き締める必要もない。あまり緩めすぎるのもどうかとは思うが。

 フロア担当はフロアを、キッチン担当はキッチンを、いつものメンバー割り振りで掃除を始める。時折雑談なんかをしながら、掃除を進め、普段と特に変わらない時刻に掃除を終えれば先に俺と高嶺が着替えを済ませる。そして入れ替わりで休憩室に入る女性陣をフロアで待つ。

 

「…なぁ柳」

 

「ん?」

 

 高嶺が話しかけてきたのはそんな時だった。視線を高嶺に向けて、反応を返すと、高嶺は続けて口を開く。

 

「もうすぐクリスマスだな」

 

「もうすぐって程じゃないけど、まあそうだな」

 

 高嶺に言われてそういえば、と思い出す。あと二週間もすればクリスマスだ。この店のクリスマス限定メニューはどうするんだろう。

 涼音さんからは候補を考えて、絞る時は協力してと言われているのだが、果たしてどうなるか。メニューが決まれば当然ホームページの方を更新しなくちゃならないし、候補が決まれば迅速に決めなくてはならないのだが。

 

 というより、あと二週間しかないぞ。大丈夫なのか、これ。

 

「柳って、クリスマスに女の子と出掛ける、みたいな予定あるのか?」

 

「は?」

 

 クリスマスについて思考を回していた所、俺が考えていたクリスマスとはまた別の意味でクリスマスについて考えていたらしい高嶺にそう問われる。

 女の子と出掛けるって、どうしたいきなり。そんな予定はまるでないし、いきなりそんな事を聞いてきた高嶺の思考について心配になる。

 

「ないけど」

 

「え?」

 

「いや、何でそこで驚く。ある訳ないだろ。彼女とかいる訳じゃないし」

 

 普通に予定はない、と答えると高嶺が目を丸くし、驚いた様子でこちらに振り向いてきた。

 意味が分からない。こいつは俺に彼女がいるとでも思っていたのだろうか。あはは、年齢イコール彼女いない歴だぞ俺は。これまでの付き合いで想像つきそうなものだが。

 

「まあ彼女がいるとまでは思ってなかったけど…。え、クリスマスどこにも行かないのか?」

 

「家でゴロゴロする。強いていうなら予定はこれだな」

 

「…四季さんとどこかに行ったりしないのか?」

 

「…何でそこで四季さんが出てくる?」

 

 さっきからやけに食い下がってくるな。しかもクリスマスに四季さんと出掛けるとか、普通にあり得ないぞ。

 

 ─────まあ、四季さんから誘ってきたり、向こうが嫌でなければそういう風に過ごすのも良いかもしれない。

 

「─────」

 

「?どうした?」

 

「いや、何でもない」

 

 不意に湧いてきた思考を、勢いよく頭を振って振り払う。

 四季さんから誘ってくるとかあり得ないだろ。大体クリスマスなんて普通に仕事があるし。この店を任された者として四季さんが仕事を投げ出す筈がない。

 それに、たとえ四季さんにクリスマスを一緒に過ごしたいと思う男がいたとしても、それは俺じゃない。そんな筈がないじゃないか。

 

「…」

 

 何か、それはそれで腹立つが。いや、何で腹を立てる必要があるんだ。四季さんがどんな男と一緒にいようとそれは四季さんの自由で、俺には関係ない事じゃないか。

 …いや、その男が明らかにやべぇ奴だったら、それは友人としてそいつはやめとけと口は出させてもらうが。全く関係ない話でもないか、うん。

 

 それくらいなら友人として不自然じゃないよな?な?

 

「そうなのか。てっきり柳は四季さんとどっか行くのかと思ってた」

 

「あのさ、さっきも聞いたけど何でそう思うんだ。確かにただのバイトの同僚とはいえないくらいには親しいかもしれないけど、普通の友達の域は超えてないだろ」

 

「ふつ…う…?」

 

 おい、何故そこで首を傾げる。言いたい事があるならハッキリ言って貰おうか。普通の友達だろう、俺と四季さんは。

 

「大学によく二人で一緒に行ってバイト帰りは必ず二人で帰って四季さんを家まで送って二人でドライブした経験もあって大学でメチャクチャ噂になってる柳と四季さんが普通の友達…?」

 

「…」

 

 何も言えない。確かにそうやって俺と四季さんがしてきた事を並べられたら、異性の友人関係としてはかなり親しい分類に入ってるのかもしれないと思わされる。

 しかし、しかしだ。それでも俺と四季さんは普通の友達だし、クリスマスという特別な日に二人で遊びに行くような仲ではない。

 

「逆に高嶺はどうなんだよ」

 

「俺?」

 

「クリスマスに誘いたい相手はいないのか?ほら、明月さんとか。この前はデートしたんだろ?」

 

「で、デートって。スマホ買いに行っただけだぞ」

 

 散々俺に言いたい事を言ってくれたんだ。今度は俺のターンだ。こいつを弄り倒してやる。

 

「女の子と二人で買い物するのはデートだろ」

 

「…まあ、正直に言えば、明月さんと二人でクリスマス過ごせたら、と思わなくもない」

 

 おぉ。これはもしかすると、もしかするのか?まだ明確に恋、とはいえないが、高嶺自身は満更でもない様子。明月さんも高嶺には心を開いている様だし、これはこの職場でカップルが誕生するのも時間の問題かもしれない。

 

「…」

 

 しかし、だ。気掛かりな事が一つある。決して高嶺や明月さんに何か欠陥があったりとかそういう事ではない。

 ただ、職場のメンバーで焼肉に行った時くらいからだ。どうしても明月さんについて気になる事があった。

 それが、その時だけの一時的なものであれば良かったのだがそうではなく、その日から今日まで変わらないならばともかく、進行しているとなると見方を変えなければならない。

 

 明月さんの体に何かが起きている。だが、そうだとして気になるのは、明月さんの様子が普段とまるで変わらないどころか、以前よりも更に明るくなっている事だ。明月さん本人は気付いていないという可能性もあるが、明月さんは普通の人間ではなく死神である。気付かない筈がない、と思う。

 つまり、明月さんは今自身に起きている変化を受け入れているという事か。

 

「…話してみるか。そうしないと始まらない」

 

「話す?何を?」

 

「いや、こっちの話だ」

 

 自分に言い聞かせる。事態が事態で、尻込みしようとする後ろ向きな気持ちを振り払い、今日の内に明月さんと話す事を決める。

 高嶺が俺の呟きを耳にして聞き返してくるが、俺が何をしようとしているか、明月さんと何を話そうとしているのか、まだこいつに教える訳にはいかない。いずれ、何がどうなろうとも知る事にはなるだろうが、多分それを高嶺に教えるのは俺ではない。

 

 がちゃり、と扉が開く音がする。続いて聞こえてくるのは女の子達の話し声。着替えが終わり、フロアへと戻ってきた四季さん達の方を見て、俺は口を開く。

 

「明月さん」

 

「はい?」

 

 正確には、その中にいる明月さんを見てだ。声を掛けられた明月さんは目を丸くしてこちらを見る。

 

「少し話がある。ちょっと、ここに残ってくれないか?」

 

「…はい、いいですけど」

 

 俺の誘いを受ける明月さんの表情は、何かを諦めたような、そんな表情をしていた。

 

 一方、俺と明月さん以外の人達は戸惑いの表情を浮かべ、やり取りをする俺達を眺めている。

 

「え…柳、お前…え?」

 

 戸惑うどころか、高嶺はかなり狼狽していた。何かを言おうとしているんだろうが、今の自身の気持ちをどう言葉に表せば良いのか分からないといったところか。

 そして先ほどの話の流れから、俺が明月さんに話したい内容を()()()()()のは仕方のない事かもしれない。

 

「安心しろ高嶺。別にそういうんじゃないから」

 

「い、いや、安心って、別に俺は…」

 

「ただ、ちょっとあまり他の人に聞かれたくない話になるから、皆外に出てってくれないか」

 

「やっぱすっげぇ気になる!」

 

 一時は落ち着きを取り戻した高嶺だったが、次の俺の台詞に再び落ち着きを失ってしまった。

 しかし、俺は明月さんと二人で話がしたい。それに、明月さんだってこの話を誰かに聞かれたくはないだろう。

 

 いや違う。誰にも聞かせてはいけない。蝶関連の事情を知っている四季さんにも、高嶺にも、まだ。

 

「…分かった。でも、この後女子会する予定あるから、早めにお願いね」

 

「了解です」

 

 その話は着替えてる途中で出たものか、或いはそれ以前から予定を立てていたのか。ならば、なるべく早く話が済むよう心掛けるとしよう。そういった気持ちが伝わるよう、涼音さんをまっすぐ見て頷きながら返答する。

 

「それと、女子会にはナツメさんも参加するから。女子会終わったら連絡するから迎えに来なさいよ」

 

「りょうか…いや了解できないです意味が分からないです。何で俺が」

 

「なにアンタ、夜道を女の子一人に歩かせる気?」

 

「皆で一緒に帰ればいいでしょう」

 

 流れでもう一つの涼音さんの指示を了解しそうになるが寸でのところで耐える。いや本当に意味が分からない。何で俺が四季さんの迎えに行かねばならんのだ。

 

「いや、来なくて大丈夫だから。気にしないで」

 

「あ、うん」

 

「涼音さんも、悪ふざけはよしてください」

 

「はーい」

 

 すると、四季さんがため息を吐きながらそう声を掛けてきた。さっきのは冗談だったのだろうか?割とマジなトーンだった気がするのだが…。

 

 …一応、夜中に車を出すかもしれないと頭に入れておくべきなのかもしれない。多分大丈夫とは思うけれども。

 

 その後、四季さん達が先に店を出ていく。渋る高嶺は墨染さんが襟を掴んでそのまま引っ張っていった。その時、高嶺はだいぶ苦しそうな表情をしていたが、大丈夫だろうか。窒息なんてしてないだろうか。

 

「それで、話って何ですか?」

 

 俺達以外に誰もいなくなったフロアで、明月さんの声が響き渡る。聞こえてくるのは時を刻む時計の針の音だけ。目の前には首を傾げてこちらを見上げる少女。

 

「…前に焼肉行った時くらいからだ。俺が明月さんの変化に気付いたのは」

 

 単刀直入にではなく、当時の状況から語る。それは、もしかしたら真実を知るのが怖かったかもしれない。少しでも、残酷な現実を知る事を先延ばしにしようとしていたのかもしれない。

 

「最初は気のせいだって思おうとしてた。でも次の日、そのまた次の日、明月さんの変化は治らないどころか、酷くなっていった」

 

「…」

 

 明月さんは笑っていた。穏やかに微笑んでいた。その笑顔が、俺には見覚えがあった。

 自分はもうすぐ死ぬのだと、全てを諦めていた頃の四季さんの笑顔と、そっくりだったのだ。

 

「なぁ、明月さん。聞かせてくれ」

 

 明月さんは少しも視線を逸らさないまま、俺の顔を見つめている。

 

 俺は、怖い。気を抜いたらどこかに向いてしまいそうな視線を、やっぱり話はいいと言ってしまいそうな口を留めて、言葉を紡ぐ。

 

「どうして、明月さんの体が薄くなってるんだ」

 

「…」

 

「明月さんの魂は強く輝いてる。初めて会った時よりも強く。でも、魂の輝きが強くなっていく度に、明月さんの体が薄くなっていく」

 

 今、俺の目に明月さんはどう映っているのか。それはさっき言った通りだ。明月さんの体が薄く見える。目を凝らして見れば、体の向こうの景色が透けて見えてしまう程に。

 

「…もう、柳さんなら気付いているんじゃありませんか?その瞳で、何度も見てきてるんですから」

 

「─────」

 

 儚い笑顔を浮かべながら明月さんが言う。その笑顔を見て、言葉を聞いて、俺はずっと目を背けてきた事が現実なのだと、思い知る。

 

「…ずっと、思っていた。明月さんの魂とあの蝶の輝きは似てるって」

 

「…」

 

「でもそれはただの偶然だって思ってた。だって、明月さんはそこに存在しているし、第一最初に死神って名乗ったんだから。蝶とは別の存在なんだって思ってた」

 

「…」

 

「…死神に回収された蝶は、次に死神になるのか」

 

「全てがそうなる、という訳ではありません。そうならずに転生した例もあります。数は少ないですが」

 

 明月さんが俺の問いかけに答える。だが、俺の仮説を否定してはくれなかった。

 明月さんは儚い笑顔のまま続ける。

 

「蝶は零れてしまった魂の残滓。生きる執着を失った魂。…天に送られた蝶は、転生する前に、失われた執着を取り戻さなくてはならない。そのために、蝶は別の形で、とある役割を与えられて現世に降りるんです」

 

 説明されたのは死神について。それは、俺が感じていた明月さんの魂と蝶の輝きの類似を裏付けるものになってしまった。

 

「…その役割が、別の蝶の回収。死神」

 

「その通りです」

 

「…つまり、明月さんの肉体が薄れているのは、転生への準備が整いつつあるって事なのか?…生きる執着が戻ってきたって事なのか?」

 

 この話の流れで簡単に予想が出来る。現世に降りた蝶、死神が生への執着を取り戻したらどうなるのか。それが、今の明月さんの状態という事なのだろう。

 

「近い内に、私は神の下に送られます。生まれ変わるために」

 

「…何だよ、それ。そんなの…」

 

 本当は、こんなつもりではなかった。諦めた様に見えた明月さんを、どうにかして説得しようと思っていた。

 しかし、実際は違った。明月さんは何かを諦めたのではなかった。勿論、明月さんが神の元に送られれば、もう二度と再会は叶うまい。そういう意味では、明月さんは俺達と一緒の生活を諦めたという言い方はできるかもしれない。

 

 だが、それを咎める事など出来やしない。何故なら─────

 

「止められる訳、ないな。…だって、喜ばしい事、だもんな。正直複雑だけど」

 

 明月さんは、新しい人としての生を謳歌できるのだから。死神としてではなく、人として。それをどうして止められよう。

 友として、それを喜ぶのが正解ではないか。おめでとうと祝ってやるのが正解ではないか。

 

 それなのに、俺は喜ぶ事も祝ってやる事も出来なかった。

 

「あれれ、柳さん?もしかして…、私がいなくなるのが寂しいんですか?」

 

「当たり前だろ。寂しいに決まってる」

 

「─────」

 

 からかい混じりの明月さんの問いかけに即答する。すると、明月さんは目を丸くして言葉を失った。

 

「明月さんはもう、俺にとっては掛け替えのない人の一人なんだよ。それは皆にとっても同じだ。四季さんも、高嶺も、涼音さんも、墨染さんも、火打谷さんも」

 

「…」

 

「でも…まあ、うん。何とか気持ちに整理つけるさ。だから…その日が来たら教えてくれ。見送りくらいはしてやろうじゃないか」

 

「…そうですね。なら、その時は閣下と一緒によろしくお願いします」

 

 おめでとう、とはやっぱり言えなかった。そんな事を言える精神状態ではなかった。それに、あの明月さんの儚い笑顔を見て、おめでとうなんて言える筈がなかった。

 それでも、最後は友人として、少しは普段通りの感じを出してやり取りが出来たと思う。

 

「…時間掛かっちまったな。行こう。涼音さんに文句言われそうだ」

 

「ふふ、その時は私が擁護してあげます」

 

 話は終わりだ。知りたい事も全部聞けた。とても残酷で、寂しい現実を知る事になってしまったが、それでも俺は知って良かったと思う。

 このままだと、誰にも知られず明月さんが消える、なんて事もあり得たかもしれない。そんなのは余りに悲しすぎる。だが、それだけは防げる。誰にも知られず消えていく、それだけは。

 

 明月さんと一緒に寒い外に出る。予想通り、涼音さんが俺が姿を見せた途端遅い遅いと文句を垂れてきた。それを俺の前に立ちはだかるように立って宥める明月さんは普段と変わらない様子に見えた。

 

 俺は…どうだっただろう。正直、それからどうしたのか余り覚えていない。皆と別れて、一人で帰って、それから。

 気付いたら朝になっていて、俺の格好は大学とバイトに行った服装のままで。一睡もせず、夜の間ずっと、明月さんと死神についての事が頭の中をぐるぐる巡って。

 

 結局、俺はどうするべきなんだろう。俺がとった行動は正解なんだろうか。明月さんが生まれ変わるのを祝い、見送る。それは、間違っているんだろうか。

 

「…バイト、行かなくちゃ」

 

 そろそろ準備をしなくては、朝の仕込みの時間に間に合わない。重い体を起こして立ち上がる。

 あぁ、そういえば昨日は風呂も入っていない。まずはシャワーを浴びなくちゃダメだな。それに、シャワーを浴びたら少しはスッキリするかもしれない。

 脱衣所に行ってから着ていた服を脱ぎ、裸になってから風呂場に入る。

 

「…あっつ」

 

 この部屋に住み始めてもうすぐ三年になるというのに、シャワーのお湯が出始めは熱くなる事をすっかり忘れて。でもその場から避ける元気もなくて。

 

 力なく立ち尽くして、しばらくの間、シャワーを浴び続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




次回は今回の話との空気の違いが凄まじいですが、女子会のお話です。


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第三十八話






前回のあとがきで書いた通り、女子会のお話です


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

~Another View~

 

 事の始まりは、今日の仕事終わり。柳君達と入れ替わりで休憩室に入って、着替えている途中の事だった。ユニフォームを脱いで、ロッカーにしまっていた服を着ている時の事。

 

「ナツメさん、千尋と何かあった?」

 

 突然、涼音さんにそう聞かれた。思わず叫びそうになるのを何とか抑え、一度間を置いて落ち着きを取り戻してから、涼音さんの方を見る。

 

「別に何もありませんでしたけど…、どうしてそんな事を聞くんですか?」

 

 その返答は嘘ではないが、真実でもない。柳君との間に何も起きてないのは本当だ。ただ、何もない、というのは嘘になる。

 ただしそれは、私から柳君に対して一方的に気まずさを覚えていただけであって、柳君から私に対しては特に何も思っていない。繰り返しになるが、私からの一方的な感情だ。それも、今はもうその気まずさも消えている。

 今日一日、柳君の普段と変わらない様子を見て、私が昨日から抱いていた心配は杞憂だったと分かった以上、気まずさを覚える必要もない。

 

 でも、私自身少しあからさまに柳君を避けてしまった自覚はあったから、今日帰る時に謝ろうとは思っていたんだけれど。まさか涼音さんにも気付かれていたとは。

 …いや、今日の朝からその様子は見せていた。仕事中という事を考慮していただけで、仕事が終わったら聞こうと決めていたのかもしれない。

 

「…」

 

「…えっと」

 

 涼音さんは私の質問には答えないまま、じっと私の顔を見つめていた。

 ここで何か顔についてますか、と惚けた風に聞ければ良いのだが、私はそんな器用さを持ち合わせていない。だから、ただただ涼音さんの視線を黙って受け続ける事しか出来ない。

 

「…この際、根掘り葉掘り話を聞かせて貰うか」

 

「はい?」

 

 すると、涼音さんは私から視線を外し、考え込むように口許に手を当てながらそう呟いた。

 その呟きは私の耳にも届いており、直後猛烈に嫌な予感を感じたのは言うまでもない。

 

「よし皆。この後予定がある人とかいる?」

 

「へ?いえ、暇ですよ?」

 

「えーっと…、私も特にないですけど」

 

「私も暇です」

 

 涼音さんが明月さん達三人の方に視線を向けてそう問いかける。三人は火打谷さん、墨染さん、明月さんの順番で涼音さんの質問に答える。

 三人とも答えは、予定がないというもの。その返答を聞いた涼音さんは満足そうに笑みを浮かべながら一つ頷き、高らかに人差し指を掲げながら宣言する。

 

「じゃあこの後、私の部屋に集まって、女子会をしよう!」

 

「…あの、私の予定の有無は聞かないんですか?」

 

「ナツメさんは強制参加で」

 

「…」

 

 私に選択権はないらしい。出来る事なら逃げたかったのだけど、どうやら出来ないらしい。私に出来るのは、観念してその女子会に参加する、これのみ。

 

 その後、着替え終わった私達は休憩室を出て涼音さんの部屋へ─────行く前に、柳君が明月さんに話したい事があると言い、私達は二人を残して先に店を出た。

 高嶺君がそれはとても心配そうにあたふたしている姿は、申し訳ないけど少し面白くて。でも、何故か涼音さんがそんな高嶺君と一緒に私の事も微笑ましそうに見ていたのは理由が分からなくて。

 

 十五分程経ってからだろうか、柳君と明月さんが店から出てきて、私達は柳君と別れて歩き出す。これから私達が行くのは涼音さんの部屋で、高嶺君が住んでいる部屋は涼音さんと同じアパート。自動的に柳君を仲間外れにするような形になってしまったが、柳君はそれを気にする様子もなく帰っていった。

 というよりも、どこか心ここにあらずといった様子でどうも気になってしまう。二人が店から出てきた後、柳君にも明月さんにも、何を話していたのか聞いてみたのだけど、どちらにもはぐらかされてしまった。

 

 どこかスッキリしない気持ちを抱きながらも私達は高嶺くんと涼音さんが住んでいるアパートに着き、高嶺君は当然高嶺君の部屋に帰っていき、そして私達は涼音さんの部屋にお邪魔させて貰う。というより、お邪魔させられる。

 

「さ、入って入って」

 

 涼音さんに促され部屋の奥に入っていく。ワンルームの部屋は明るい色合いに彩られ、暖かな印象を受ける。

 

「そこの座布団使って良いから」

 

 そう言いながら、涼音さんは冷蔵庫を開けて中から一本の缶ビールを取り出す。流れるようなその動作から、毎日仕事から帰るとこうやってビールを飲んでいるんだろう。

 大きめの丸テーブルを囲むように、それぞれ座布団を敷いて腰を下ろした私達に混ざり、涼音さんも座布団に腰を下ろす。

 

「さて、と。まず、女子会の前に伝えないといけない事があるの」

 

 缶タブを開け、一口ビールを呷ってから涼音さんは私の方を見てそう言った。

 その後、涼音さんの口から語られたのはクリスマスに向けたメニューの話。涼音さんは、ブッシュ・ド・ノエルをクリスマスの限定メニューとして推したいと言う。

 

「ブッシュ・ド・ノエル…。良いじゃないですか、美味しそう…」

 

 涼音さんの台詞に最初に反応したのは火打谷さん。きっと、彼女の頭の中では涼音さんが作ったブッシュ・ド・ノエルが思い浮かんでいるのだろう。うっとりとして、今にも涎が口から垂れてきそうな──────

 

「おっと、涎が…」

 

「はい、ティッシュ」

 

 訂正。垂れてきそうではなく、垂れていた。涎がカーペットに落ちる前に気付いた火打谷さんが墨染さんからティッシュを受け取って口許を拭く。

 それを横目で一瞥してから、私は涼音さんの案について考える。

 

 ブッシュ・ド・ノエル、良いと思う。ブッシュ・ド・ノエルは直訳すると“クリスマスの薪”となり、クリスマスに馴染み深いケーキの一種。クリスマス限定メニューにピッタリのケーキといえるだろう。

 

「良いと思います。ただ、材料費の事や当日作る数の事は…」

 

「それについては明日もう一度話そう。明日、千尋にブッシュ・ド・ノエルの事をホームページに載せてもらって、後はインストにも投稿して、お客さんの反応も見たいし」

 

「そうですね…。なら、その事についてはまた明日」

 

 とりあえず、クリスマスについての話はこれにておしまい。私は一息吐いて、涼音さんの目を見て固まる。

 

「ふっふっふ…」

 

「…」

 

 まるで、本番はこれからだと言わんばかりに。涼音さんはニマニマと笑いながら私を見ていた。

 同時に思い出す。私は、私達は、ここに何をしに来たのかを。

 

「真面目な話はこれで終わりにして…猥談といきますか!」

 

「わ、猥談?」

 

「そ、猥談。…まあ、猥談っていう程でもないけど、色々と聞きたい事があるからねぇ」

 

 戸惑う墨染さんにそう答えながら、涼音さんが流し目で見てくる。面白そうに浮かぶ笑顔はそのままに、涼音さんは口を開く。

 

「着替えてる途中でも聞いたけど、ナツメさん。千尋と何かあったでしょ」

 

「…」

 

 やっぱり、と思うのは一瞬。次の瞬間、何故か涼音さん以外の三人が姿勢を正して一斉にこちらを向いた。

 

「えっと…。どうして皆、私の方を見るの…?」

 

「いやぁ~…。私としても、ナツメ先輩と千尋先輩の仲はちょっと気になってましたから…」

 

「毎日仕事が終わったら一緒に帰ってますし、昂晴君がよく大学にも一緒に行ってるって言ってたし…」

 

「私にとっても、前々から気になってた事ですから」

 

 私以外の四人によって包囲網が敷かれる。

 しかし、私と柳君の事はそんなに興味を惹かれる事なのだろうか。火打谷さんも墨染さんも、明月さんも皆興味深そうに私をじっと見ている。

 

「私としては、昨日の焼肉の帰り、千尋の車に乗ってた時に何かあったと見た」

 

「…」

 

 正解。いや、実際は何もなかったんだけども。私の内心を知ってか知らずか、返事を待たずに涼音さんは続ける。

 

「んー…。運転する千尋に見惚れて何も話出来なかったとか?なーんて」

 

「…」

 

「…え?マジ?」

 

「違います。見惚れてなんていません。…でも、何も話が出来なかったのは本当です」

 

 涼音さん自身は冗談のつもりで言ったのかもしれない。ただ、当たらずとも遠からずなその台詞に返事を返す事が出来ず、涼音さんの表情がまさかといったものになる。

 

 すぐに我に返って見惚れたという部分は訂正したが、話が出来なかったという部分は事実なので認めるしかなかった。

 

「話が出来ないって、どうしてです?いつもお二人で帰ってますよね?」

 

「そうなんだけど…。何となく話しづらかったというか…、柳君の運転の邪魔にならないかとか、色々と気になっちゃって…」

 

 誤魔化すように火打谷さんの質問に答えを返す。

 何となく話しづらかったのも、柳君の運転の邪魔にならないかなと思ったのも本当。

 でも、本当は。一番の理由は─────

 

「車という密室に男と二人…。ナツメさんはきっと初めての経験でしょうし、緊張するのも無理はありませんね」

 

「っ…、そ、そんなんじゃっ」

 

 ない、と言い切れなかった。だって、明月さんの言う通りだったから。

 

 いつも二人でいる時は外で、そんな意識なんてした事はなかったのに。車内にいると、どうしても二人きりだと意識してしまって、心臓がいつもよりも高鳴って、ドキドキして。

 

「…ナツメさん。ぶっちゃけて聞くけどさ?」

 

「…はい?」

 

 すると、涼音さんが改まって私の方を見て口を開く。さっきまでとは違い真っ直ぐ見てくる涼音さんの次の言葉を待つ。

 

「ナツメさんって、千尋の事好きなの?」

 

「…はい?」

 

 私の口から漏れたのはつい先程と同じ台詞。だけどさっきと違い、今の私は思考が完全に止まっていた。さっきの台詞は意識して涼音さんに聞き返したものだった。でも今のは無意識に口から漏れたもの。

 同じ音でも、意味合いはまるで違う。

 

「だってさ、二人ってもう何も知らない第三者から見たら普通に付き合ってる風にしか見えないでしょ?」

 

「そ、そんなこと…何で三人は頷くの…?」

 

「ていうか私も実は知らない間に二人は付き合ってるんじゃないかって疑う時あるし」

 

「付き合ってないです。あと、三人はどうして頷くの?」

 

 涼音さん…と、明月さん達もどうしてそんな疑いを持つのか分からないけど、私と柳君は付き合ってなんかいない。柳君には私なんかよりもっと良い人がいる。私なんかじゃ釣り合わない。

 

 ─────ちくりと胸の内側が小さく痛んだのは、気のせいだと思う事にする。

 

「まあ、二人が付き合ってない事は分かったけど…。どうなの?千尋の事、好きなの?」

 

 涼音さんとの距離が詰まった気がした。物理的に。明月さん達も微妙にこっちに近寄ってきている気がする。

 

 私が柳君を好き?そんな事はない。確かに柳君はいい人だし、人柄は好ましいと思う。少しぶっきらぼうな所もあるけど、変に器用で何を考えているか分からない人よりはずっと好感が持てる。

 …まあ、柳君もたまに何を考えているか分からない時はあるけど。でも大抵は顔に出る。それも本人にその自覚がないのが少し可愛かったりもして─────

 

 じゃない。そうじゃない。今は柳君の好感が持てる所を探す時間じゃない。

 

「好きじゃないです」

 

「じゃあ嫌い?」

 

「いや、そういう訳じゃ…。どうしてそんな極端な質問をするんですか」

 

 柳君の事は好きじゃない。だからといって嫌いな訳でもない。私は恋愛的な意味で柳君が好きじゃないというだけで、一人の人間として柳千尋という人間に好感を持っている。それだけだ。

 

 でも、皆はどうも納得がいかない様子。

 

「逆に聞くんですけど、どうして皆は私が柳君の事を好きだって思うの?」

 

 逆に私がそう聞き返すと、涼音さん達はキョトンとした顔で皆で顔を見合わせた後、順番に口を開いた。

 

「普通に見てたらそう見えるというか」

 

「千尋先輩と一緒にいる時のナツメ先輩の顔が、私達といる時と微妙に違うというか」

 

「同じ男性の高嶺さんと一緒にいる時と比べても全然違いますしね」

 

「ていうか、千尋と一緒にいる時は女の顔をしてる」

 

「…」

 

 皆に即答で、それぞれ似ているようで微妙に違う答えを返された。一人を除いて。

 

 涼音さん、女の顔って何ですか…?

 

「ふとした時に千尋の方を見てたり、千尋に話し掛けると少し嬉しそうにしたり、一緒にいるだけで何か安心してるような顔したり。つまり恋する乙女の顔」

 

「心を読まないでください。あと、そんな顔してないです」

 

「「「「え?」」」」

 

「…あの、どうしてそこで息ピッタリになるの」

 

 涼音さんだけでなく、皆一斉に驚いた表情になる。おまけに四人ほぼ同時に声まであげて。

 

「いやまあ、涼音さんが言う程大袈裟じゃないですけど…。でも、柳さんに対して一番心を許してるんだって思えるくらいには、乙女の顔をしてますよ?」

 

「…」

 

 呆れる私にそう言ったのは明月さん。明月さんの傍らでは、それぞれ違った表情を浮かべながら、うんうんと頷く墨染さんと火打谷さん。

 

 …自覚は全くないけど、本当にそんな顔を私はしていたんだろうか。だとしたら…、まずい。途徹もなく恥ずかしくなってきた。

 顔が熱い。顔が真っ赤になってるのが自分でも分かる。

 

「さっき、栞那さんと千尋が店に残って話をしてる時も、微妙に不機嫌そうだったしね~」

 

「え?そうなんですか?」

 

「はい。顔には出てなかったんですけど、ちょっとした受け答えとかで何となく察せました」

 

「それに、お店の窓をじっと見てたりもしてましたね~」

 

「…」

 

 もう何度目か分からないけど、当人を置いてけぼりにして話すのをやめてほしい。いや、この会話に私が混ざって何を言えばいいのかなんてさっぱり分からないけど。

 ていうか─────

 

「そんな事ないです。不機嫌になんてなってないです。二人が何を話していようと、私には関係ないんですから」

 

「…ふーん?じゃあ…」

 

 そう、私は不機嫌になんてなってない。柳君と明月さんが二人で何を話していようと、私には関係ない。

 

 それは半ば意地も同然で、同時に自分に言い聞かせるように強めの語気で口にした。同時に内心で同じ事を強く思う。私は不機嫌になってない、私には関係ない、と。

 

 だけど、そんな思いは涼音さんが続けた次の言葉によってあっさりと霧散してしまう。

 

「あの時、千尋が栞那さんに告白してたら?それも、ナツメさんには関係ない話?」

 

「え…」

 

 関係ない話だ。だって、私と柳君はさっきも皆に言った通り付き合ってる訳じゃない。私は柳君の事を男として好きな訳でもない。

 それなら、柳君が誰に告白しようと、私には関係ない話だ。柳君が誰と付き合おうと、私には関係ない話だ。

 

 それなのに─────どうして、私の胸はこんなにも痛むんだろう?

 

「…もう、分かったんじゃない?」

 

「…」

 

 涼音さんが私の顔を見て、からかい混じりの笑みから優しい微笑みへと表情を変える。

 

「嫌なんでしょう?胸が痛むんでしょう?…なら、とっとと認めちゃいなよ」

 

「認める…」

 

 さっきまであんなにも違うと言い張って熱くなっていた心が、すっかり冷えている。それは悪い意味ではなく、どこかスッキリとして、同時に心地好くて、これが私の本当の気持ちみたいで─────

 

 違う、みたいじゃない。これが、私の気持ちなんだ。

 

「私…」

 

 胸に手を当てて小さく呟く。

 

 そうか。私はいつの間にか、落ちていたんだ。気付かない間に、気付かない程自然に、あの人に。

 

「好きなんだ…」

 

 柳千尋という男の子に。私はどうしようもなく惹かれているのだと、この日、ようやく気付かされたのだ。

 

「─────さて、と。ナツメさんについてはこれでスッキリできたけど、結局栞那さんは千尋と何を話してたの?」

 

「それは…、すみません。秘密という事で許してくれませんか?あっ、勿論、男と女としての秘密という訳ではありませんよ?これは、私のワガママです」

 

「…よく分からないけど、さっき私が言った様な事じゃないのよね?」

 

「はいっ、勿論です。もし柳さんに好きな人がいるとしたら…それはきっと、私じゃありません」

 

「…」

 

 どうしてそこで私を見るの。

 面白がってる。この二人、絶対に面白がってる。

 

「明月さんはどうなの?」

 

「はい?私が、どうしたんですか?」

 

「最近、高嶺君と仲が良いじゃない。昨日は二人でデートしたんでしょう?私達との焼肉パーティーはついでだったみたいだし」

 

「で、デートじゃないですよ?それに焼肉もついでなんかじゃないですっ」

 

「あー、明月さんと昂晴の事も気になってたのよねー。希さん、そこら辺の事で何か聞いてたりしない?」

 

「いえ、申し訳ないですけど、そういう話は聞いてないです…。でも、栞那さんは昂晴君のストライクゾーンど真ん中なのは間違いありません」

 

「ほぉ…」

 

「えっと…どうして皆さん、私の方を見て居直すんですか…?ナツメさんまで…」

 

 ターゲットが私から明月さんに移った瞬間である。それも、この話は私の時みたいに半ば答えが出ている訳ではなく、話は長期戦になるのは必至。

 

「ほれほれ、洗いざらい吐いてもらおうじゃないの」

 

「いやああああああああああああああああああああ!!!」

 

 明月さんの悲鳴が響き渡る。

 

 ちなみにこのすぐ後、高嶺君から明月さんのスマホにこちらの様子を心配するメッセージが届いた事によって、明月さんへの問い詰めが更に激しくなった事はまた別の話だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第三十九話








 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 平日とは比べ物にならない程に混雑した土日を乗り越え、やって来た平日。まさか土日よりも月曜の方が朝起きて安心するようになるなんて、ステラでバイトを始めるまでは夢にも思わなかった。

 クリスマスに向けての限定メニューも決まり、土日の間に涼音さんが一度試作したブッシュ・ド・ノエルの画像をインストとホームページに載せて予約開始の報を発信。この二日の間に涼音さんと四季さん、ミカドの三人で材料費等を鑑みた話し合いの結果によって決められた予定数の内の半分以上の数がすでに予約で埋まっている。現在、作る数を増やすかどうか検討しているとの事。

 

 そんな忙しくもありながら、働く側として喜ぶべき事もあった土日は終わって月曜日。大学に行く前に店に寄り、仕込みの手伝いを熟す。

 

 熟していたのだが─────

 

「四季さん」

 

「っ…!」

 

「あ、ちょっ…」

 

 講義の時間が迫り、涼音さんと高嶺に一言掛けて厨房を出ようとしたその時、丁度俺と同じく講義の時間が迫ってフロアから抜けた四季さんと出会した。

 直後、四季さんは驚いたように目を見開き、そして走ってあっという間に休憩室へと入ってしまった。休憩室の中からは扉の開閉する音がこちらまで聞こえてくる。

 

 どうやら()()()らしい。

 

 四季さんがハッキリと俺を避け始めたのは土曜日からだ。その日、寝不足で軽くフラフラしながら店へと向かっていた時の事。道の交差点で四季さんと出会し、そして今みたいに四季さんは逃げてしまった。それから四季さんと話す機会は訪れず、仕事が終わってからも四季さんは用事があるからと走って帰ってしまった。

 

 次の日、俺は何か四季さんにやらかしてしまったかと思い、何とか話す時間を設けようと試みたが全てかわされ、仕事が終わってまたも四季さんは先に帰ってしまった。

 

 そして今日。いつもなら講義の開始が重なる日は一緒に大学に行っていたのだが、四季さんはそうしたくないようで。俺を置いてとっとと大学に行ってしまった。

 

「…まあ、これがある意味普通だしな」

 

 むしろ今までが可笑しかったまである。こんな言い方は少しあれだが、あの四季ナツメと一緒に登校、帰宅するなんて男として誉れ以外の何物でもない。勿論、俺はそんな他人行儀な事は本気で思っていないが、第三者からすればそう見えてしまうのは間違いない。

 

 大体、俺は何様のつもりなのか。すっかり今までの状況に慣れて、四季さんが自分の隣にいる事が当たり前のように考えて。

 俺はこれまでの四季さんの気まぐれに感謝しなくちゃいけない立場だというのに。

 

「…やべ、遅刻する」

 

 こんな所で考え込んでる暇はない。一応余裕をもって仕込みから上がらせて貰っているが、ゆっくりしている時間はない。

 すぐに休憩室に入って作業服を脱ぎ、上からコートを着て、荷物を持って店から出た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「で?あれから四季さんとはどうなったんだよ」

 

 一限、二限が終わって昼休み。今日は部活、サークルの話し合いがあるとかでいつも昼を一緒にしてる三人の内の二人がおらず、今は昭久と二人で昼食を摂っている。

 

 そんな時、何の前触れもなく昭久がそう聞いてきた。

 

「…いきなり何だよ」

 

「だってよ、気になるじゃんか。珍しく千尋が俺に相談してきたんだぞ?土日を通して何かあったんじゃねぇの?」

 

「…」

 

 物凄くワクワクしてるのが顔で分かる。こいつ、完全に面白がってやがる。

 

「何もねぇよ。っていうか、むしろ悪化した」

 

「…悪化?」

 

 四季さんとは未だに仲直りという言い方はおかしい気がするが、とにかく気まずさは解消できていない。それどころか、さっき言った通り悪化しているという現状だ。

 

「悪化って何だよ。喧嘩でもしたのか?」

 

「喧嘩ならまだいいよ。どっちかが謝ればそれで終わるんだから」

 

 そう、喧嘩ならばまだ、というよりそっちの方が楽とすら思える。だが、そうじゃない。俺は四季さんに何もしていない。四季さんも俺に何もしていない。喧嘩になんてなっていない。だからこそ、悩みはもっと深くなったといえる。

 

「何かあったのか?」

 

「…最近、四季さんに避けられてる」

 

 面白がっていた昭久が表情を引き締めて問い掛けてくる。どうやらただ事ではないと察してくれたらしい。いや、そこまで大袈裟なものではないのだが。

 

「避けられてるって…、なんで?」

 

「分からん。分からんから困ってる」

 

 昭久が理由を聞いてくるが、それが分かれば苦労しない。むしろそれを聞きたいのは俺の方だ。無論、昭久にその理由が分かるなんてこれっぽっちも思っちゃいないが、猫の手も借りたいというのは正にこの事。

 ほんの少しでも可能性があるのなら…、たとえ塵一欠片程度でも可能性があるのなら、その可能性にすがりたいとすら考えている。

 

「何か分かるか、昭久」

 

「いや、分かるかと言われても…。どういう経緯でそうなったんだよ」

 

「…分からん」

 

「はぁ?」

 

「金曜日は少し気まずいだけで喋れはしたんだ。でも土曜日からだな。明確に避けられ出したのは」

 

「…いきなりそうなったのか」

 

 昭久の問い掛けに頷いて答えてから、お椀を持ち上げて中の味噌汁を音を立てずに啜る。

 ちなみに、今日俺が昼食に選んだのは日替わり丼。今日の丼は鶏天丼だ。くっそどうでもいい話だが。

 

「心当たりは?」

 

「ない」

 

「本当か?細かい事でいい。四季さんと何か、いつもと違う事をしたりしなかったか?」

 

「いつもと違う事…」

 

 続けざまに昭久に質問される。最初の質問である心当たりについては全くないが、しかしその次の質問、いつもと違う事に関しては一つ、引っ掛かる事はあった。

 

「…いや、ないな」

 

「何かあるのか?」

 

「まあ、あるっちゃあるけど…。だから何だよって話になる」

 

「いいから言ってみろって」

 

 昭久に促される。まあ、折角真面目に相談に乗ってくれてるんだしな。それに、俺からは何とも思えなくとも昭久にとっては違うかもしれない。

 そう思い、口を開く。

 

「先週、木曜日だな。店の皆で焼肉行ったんだよ。その帰り、車で四季さんを送ってった」

 

「…ん?車で、ってなに、それは二人で帰ったって事か?」

 

「四季さん以外は断られたからな」

 

 いつもと違う事と聞かれると、思い付くのはこれしかない。四季さん達と焼肉に行ったその帰り、四季さんを車に乗せて帰った事。これくらいしか思い当たらない。

 

「お前…いつの間にそんなカッコいい事を…」

 

「お前は何を言ってるんだ」

 

「かぁぁあああああっ!いいなぁ免許持ってる奴はよぉ!?そんな男らしい事出来て!『助手席、君のために空けておいたよ』ってか?けっ!」

 

「んなくっせぇ台詞言ってねぇよ。つかお前は教習所通うのめんどくさいとか言って通ってないだけじゃねぇか」

 

 確かに四季さんを誘いはしたが、そんな聞くだけで鳥肌がたってくる台詞は口にしてない。その台詞を吐いてる自分の姿を想像するだけで気持ち悪い。言われる方も相当嫌がるのではなかろうか。

 

「で?思い当たるのはそれだけか」

 

「お前さ、テンションの差が激しすぎる。…まあ、いつもと違う事で思い当たるのはこれだけだ」

 

「…時期的にもそこで何かあったって考えるのが自然だわな。四季さんの態度が変わったのが金曜日からって話だし」

 

 そう、時期的には一致する。俺が何かしたのだとしたらまず間違いなくあの時なのだろうが、どれだけ記憶を呼び起こしても四季さんのあの態度に繋がる行動が分からない。

 大体、あの時は殆ど会話もなく、ただ運転しただけに等しかった。それで、どうしたら仲が拗れるのだろう。

 

「運転するお前の横顔に見惚れた、とか?」

 

「俺は真面目に話してるんだが?」

 

「すまん」

 

 ふざけた言葉を口にする昭久を軽く睨む。すぐに謝ってくる昭久だが、小さく浮かべる笑顔は変わっていない所を見るとあまり反省していない様子。

 まあこんな小さい事でとやかく言うつもりはないが。大体見惚れるとか、まるで四季さんが俺を好きみたいな事ある筈がないだろう。俺が四季さんに今まで何をしてきたか知っているのかこいつは。

 

 いやまあ、教えていないのだから知る筈がないのだが。散々冷たい言葉を浴びせられた男の事を好きになる筈がないだろう、常識的に考えて。

 

「あのさ、避けられてるってお前言うけどさ、どういう感じで避けられてんだよ」

 

「どういう感じ、とは?」

 

「避けられ方にも色々あるだろ。普通に相手が嫌いで避けてるのと、所謂好き避けは違うだろ?」

 

「…」

 

 昭久に言われて確かに、と思い直す。昭久が言う様な極端な避け方とは違うだろうが、どちらかといえばこっち、という判断材料にはなるかもしれない。

 俺はここ数日の四季さんの様子を思い返しながら口を開く。

 

「…まず、俺と会ったら驚いたみたいに目を丸くする」

 

「ほう」

 

「んで、視線を外す」

 

「…ふむ」

 

「で、逃げる」

 

「待て待て待て。話が飛んだ。視線を外して即逃げるのか?そこの間の行動は?」

 

「ない」

 

「えぇ…。何かないのか?逃げる直前に睨まれるとか、思い出せ」

 

「んな事言われてもな…」

 

 思い出せと言われても事実これが全てなのだから仕方ないだろう。

 とはいえ一応思い出そうと記憶を呼び起こす。

 一番呼び起こしやすい記憶は当然だが今日の記憶。朝、仕込みを時間まで手伝って厨房から出た時、丁度フロアから出てきた四季さんと顔を合わせた。

 

 確か、その時は─────

 

「…いや分からん。大体本当にすぐ逃げるんだから仕方ないだろう」

 

「…待て、逃げるって言ったな。避けられてるんじゃなく、逃げられてるのか?」

 

「あ?…あぁ、確かに避けられてるというより逃げられてるって言った方が合ってるかもしれん」

 

「…逃げられた時の四季さんの顔って見たか?」

 

「…いや。俺と顔合わせたらすぐ俯いて、そのまま逃げてく」

 

「…」

 

 昭久の顔が呆然としたものになる。何というか、お前正気か、みたいな感じの目で俺を見ている。

 

「おい、何だその目は。言いたい事があるならハッキリ言え」

 

「お前マジか。…いや、お前はこういった事に関しては小学生並だもんな、仕方ないよな」

 

「意味分からないけど、馬鹿にされてる事だけは分かるぞ」

 

「馬鹿にしてるからな」

 

「上等だ表出ろ」

 

 俺は激怒した。この似非イケメンを除かねばならぬと決意した。俺には四季さんの考えている事は分からない。俺はそういった男女の機微に疎い。けれども邪悪には敏感だ。こいつは俺を馬鹿にしている。修正してやらねばなるまい。

 

「落ち着け落ち着け。事実なんだから仕方ないだいっっってぇっ!!?」

 

「お前マジで殴る」

 

「蹴ってから言うなっていうかおかしくね!?」

 

 まあ、相手の脛を本気で蹴ってから殴る宣言する奴なんて少数派だろう。だが、そういう風に多数派少数派と区別するのは良くないと思う。皆違って皆良い、そうだろう?

 

「何も良くねぇ。少なくとも他人の足を蹴るのは良くねぇ」

 

「お前に常識を説かれるとはな。でも先に俺を馬鹿にしてきたのはお前だ」

 

「沸点低すぎだろ…。お前、そんなんだから四季さんに避けられてんじゃねぇの?」

 

「…四季さんは関係ないだろ」

 

「いや、あるね。俺に対する態度もお前の素の一つだ。四季さんと馴染んでる内にその一面が無意識に出てないと言えるか?」

 

「…」

 

 昭久に言われ、ハッとする。確かに、その通りかもしれない。昭久に対する態度程ではないと断言できるが、それでも昭久の問い掛けに俺は全くの否とは答えられない。

 

 …もしかしたら、四季さんに避けられてるのもこれが原因なのか?だとしたら、どうやって四季さんに謝るべきだろう。とりあえず頭を下げるのは確定として、あとは─────

 

「まあ、冗談なんだけど。今のは全部ウソ」

 

「てめぇマジでぶっ殺すぞ」

 

 昭久が腹を抱えて笑う。今までの台詞は全部口から出任せ、俺の反応を見て面白がっていやがった。

 前から薄々感じていたが、俺は友達の人選を間違えていたのかもしれない。いや、間違えた。絶対に間違えた。いい加減こいつと縁を切るべき時が来たのかもしれない。

 

「はぁ…はぁ…、あー笑った。でもさ、やっぱこれは俺の口からは言えねぇわ」

 

「…お前」

 

 一頻り笑い終えて、目に浮かんだ涙を拭ってから昭久が言う。

 その台詞を聞き、もしやと微笑を浮かべる昭久を見る。

 

「分かったのか?四季さんが俺を避ける理由」

 

「実際にその場面を見た訳じゃないから推測だけどな。でも、俺からは言えない」

 

「…また、俺が気付かなきゃ意味ないとか言い出すんじゃねぇだろうな」

 

 昭久の返答は、先週に相談に乗って貰おうとした時と同じものだった。あの時もこいつは自分からは言えないと答え、そしてその後に、俺自身が気付かなきゃいけないと言ってきた。

 

 まさか、また同じ事を言われるとは思わなかった。怒りを通り越して呆れが勝ってくる。

 しかし、昭久の次の言葉は俺が考えているものとは違っていた。

 

「いや、そうじゃない。…まあ、俺が言ったら意味がないというか、色々と台無しになるのはそうなんだけど」

 

「は?どういう意味だ」

 

 昭久は俺の問い掛けを否定した。その後に少し補足をされたが、どうやら前の相談の時とは根本的に違う事を言いたいらしい。

 俺は昭久の次の言葉を待つ。耳を傾ける俺に、昭久はこう言った。

 

「これは、四季さんから言わなきゃ駄目な事だ」

 

「…その心は?」

 

「だから、それを言ったら駄目なんだって。まあ?どうしても知りたいっていうお前の気持ちは分かるけど?」

 

「…」

 

 ニヤニヤしながら煽るように言葉を掛けてくる昭久。またこいつの脛を蹴ってやろうか。寸分違わず同じ所、左足の急所を。

 

「でも、四季さんもこのままで良いとは思ってないだろうさ」

 

「何でそんな事分かるんだよ」

 

「分かるから、としか言えないな。多分、今日辺り四季さんの方から話しかけてくるだろうから、待っててやれよ」

 

 それはまるで予言だった。いや、実際に予言なのだろう。こいつは本気でそう考えて俺にその台詞を言っている。

 

 根拠は分からない。多分、それを聞いてもこいつは答えてくれない。

 

「あ、一応忠告しとくけど、お前から無理矢理四季さんと話そうとしたりするなよ?絶対に逃げられるし、その分仲直りは遠くなると思え」

 

「…マジで何でそんな風に断言できるんだよ。まあ、とりあえず了解」

 

 どうせ俺ではどうするべきかなんて分からない。それなら、一応友人であるこいつのアドバイスを聞くべきなのだろう。それに、俺の知り合いの中で男女の機微についての知識量でこいつの右に出る奴はいない。

 

 なら、賭けてやろう。これでこいつの言う事が出鱈目だったら、今彼女がいる癖に昨日他の女の子とデートしてた事を広めるだけだ」

 

「おい馬鹿やめろ!てか、お前見てたのか!?いやそうじゃなくて、あれは違う!」

 

 あぁ、どうやら口に出てたらしい。どこから口に出ていたかは知らないが、こいつが必死な所を見ると、今彼女がいる~って辺りからだろうか。

 違うって、何が違うんだろうか。手を繋いだり腕を組んだりという明らかな行為はしていなかったが、普通に距離が近かったし、端から見れば完全な浮気だった。

 

「あの子に彼氏の誕生日プレゼントを選ぶ協力を頼まれたんだよ!だからお前が考えてるのとは違う!」

 

「あはははは、何だそれ、まるで物語みたいな展開だな。もしこれが物語だったら、お前とその人が二人で歩いてる所を彼女が目撃して修羅場直行だろうな」

 

「いやいやそんなベタベタな事ある訳が…。あれ、もしかして昨日の夜から連絡とれないのって…?」

 

 何やらあっちはあっちで雲行きが怪しくなってきている様だ。修羅場に巻き込まれるのは御免だ。良さげなアドバイスをくれて感謝はしているが、俺は力になれそうにない。そっちの事はそっちで何とかしてくれ。

 

 そして、こっちの事はこっちで何とかしよう。といっても、昭久のアドバイスを参考にするのなら、俺からは何もしないというのが唯一とれる行動なのだが。

 本当にこれで、四季さんとの関係性は元に戻るのだろうか。

 

「頼む…、頼むから返事をくれ…。マジで違うんだ…。だから…頼む…」

 

 スマホの画面を食い入るように見る昭久に一抹の不安を抱きながら、俺は鶏天丼を食べ進めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




昭久君の修羅場は書きません(断言)


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第四十話






原作以上に四季さんがポンコツになるお話。
というかポンコツ過ぎる気がする。もしかしたら消して書き直すかもしれない。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

~Another View~

 

「…はぁ~」

 

「四季さん、どうかした?今日は元気ないみたいだけど…」

 

「もしかして、体調悪い?」

 

 大学の食堂で昼食をとっている最中、私はとある人物の背中を見ながら溜め息を吐いてしまう。

 その様子を見た、席を一緒にする友人が心配げに声を掛けてくれる。

 

「うぅん、大丈夫。そういうのじゃないから、安心して」

 

 心配してくれる彼女達に、努めて笑顔を浮かべながら返事をする。

 

 上手く笑顔を浮かべられているかは分からないけど…。

 心の隅でそんな事を思いながら、さっきまで見ていた人の背中を、ここでご飯を食べている途中で見つけた人の背中をもう一度見る。

 

 その人は前に顔を合わせたその人の友人…草野君、だった筈。彼と二人でご飯を食べている。何やら話している様子だけど、一体何の話をしているんだろう。

 ここからではその人の顔は見えないけど、正面に座っている草野君の表情は真剣で、その人の話に耳を傾けているように思える。

 

「でも四季さん。さっきも言ったけど、朝から元気ないよ?」

 

「もしかして、何か悩んでる?」

 

「─────」

 

 私がその人の後ろ姿を見つめていると、そう声を掛けられる。

 そんなにも今の私は分かりやすいだろうか。…うぅん、分かりやすいんだろうな。自分でもそう思えてしまうほど、私が抱えている悩みは私にとって大きいものらしい。

 

「悩み…。もしかして、恋の悩みとか?」

 

「っ─────」

 

「いやぁ、それは流石に…え?」

 

「え…、マジ?」

 

 突拍子もなく図星を突かれて思わず息を飲んでしまう。そして、そんな私の仕草を見て固まる友人達。

 

「い、いや、ちがっ…」

 

 どうしてここでどもってしまうのか。普通に違うと言い切れていたら、まだ誤魔化しようがあったのに。

 これが止めとなり、確信を得たのか二人の顔が一気に朗らかになる。

 

「うそっ、四季さん、好きな人いるの!?」

 

「誰?どんな人?どこで会ったの!?」

 

「ち、ちょっと、声が大きい…!」

 

 私の声は届き、二人はハッと我に返って落ち着きを取り戻す。しかし一度上がったテンションを鎮めるまでには至らず、私の方に寄せられた二人の顔は笑ったままだった。

 

「で?で?どうなの?」

 

「…い、いる」

 

「「きゃあああああああああああ」」

 

 もうこれは逃げられない。観念して、短くそう答えると、二人の歓声があがる。

 

「だから、声が大きいっ」

 

「ごめんごめん。それで?どんな人なの?どこでその人と会ったの?」

 

「…その人は、私が働いてるお店でバイトしてて、会ったのはそこ。それで…どんな人と聞かれても…。少しぶっきらぼうで、不器用で…、でも、私達の事をよく見てて、困ってたらすぐ手を差し伸べてくれて…」

 

「「おぉ~…」」

 

 私はどうしてこんな辱しめを受けているんだろう。どうしてこんな事になってしまったんだろう。

 

 顔が熱い。というより全身が火照ってる。耳まで真っ赤になっているのが見えなくとも分かる。

 

「ベタ惚れじゃん」

 

「もしかして、これが初恋?」

 

「…」

 

「「おぉ~…」」

 

 初恋かという質問に何も言わず、ただ頷いて肯定すると再び小さな歓声があがる。

 あぁもうやめて…。帰りたい…誰か助けて…!

 

「…ねぇ、四季さんの好きな人ってもしかして、前から噂になってる」

 

「っ…」

 

「あっ、私、前にその人と四季さんが二人で歩いてる所見たよ。距離感近くて、付き合ってるって噂も信じちゃいそうだったけど…。四季さん?」

 

「…」

 

 更に何もヒントも与えていないのに相手まで当てられてしまう。あぁ、どうしてここで誤魔化せないんだろう。本当、最近の私は柳君の事になるとすぐに平静でいられなくなってしまう。

 

 二人は私の様子を見て察したのだろう。二人の目が見開いていく。

 

「え、え!?本当に!?」

 

「でも、噂は違うって言ってたよね?…もしかして、今は本当になってるとか?」

 

「今も付き合ってない…。それに、噂が流れた時点だと好きにもなってなかった。…と思う」

 

 正直自信はない。だって、私は自覚がないまま柳君の事を好きになっていたのだから。もしかしたら、噂が流れ始めたその時点から、私は柳君の事を好きになっていたのかもしれない。

 今その事について考えても、どうしようもない事だけど。

 

「…ねぇ、なんか」

 

「うん。四季さん、可愛い」

 

「…?」

 

 二人が顔を寄せて小声で何かを話している。食堂内の大勢の話し声に紛れて私には聞こえてこない。でも、私を見ながら話している所を見ると、話題は多分私について。

 それに、ここまでの話の流れから察するに、その話に関する事。

 

「…なに?」

 

「いや、別に」

 

「何でもないよー」

 

「…」

 

 にっこり笑いながら言う二人にスッキリしない私だけど、ここで深く掘り下げてもきっと、ダメージを受けるのは私だ。

 それならこのスッキリしない気持ちを抱き続ける事になろうとも、ここはスルーするべきかもしれない。

 

「それより、四季さんはこれからどうするの?告白はいつの予定?」

 

「こっ…!?」

 

 いきなりのどストレートな質問に言葉を失う。

 

 告白って…、告白ってっ。

 そんな事、出来る訳ない。大体、顔を合わせる事すら難しい現状で告白なんて…、やっぱり無理っ。

 

「で、できない」

 

「え、なんで?」

 

「だって…。顔を合わせるだけでも恥ずかしくて逃げちゃうのに…。告白なんて…っ」

 

「…四季さんって、意外と初心なんだね」

 

「うぅ…」

 

 私も最近の自分を見ていて驚いている。今まで、今の私と似たような事になっている人は見た事がある。それを見て、恋をするとこういう風になる人もいるんだなと思いつつ、私がこうなるとは微塵も考えなかった。

 まさか、私のキャラからは考えられないこんな事になるなんて…、全部柳君のせいだ…!

 

 

 

 

 

 

 

「っ!」

 

「ん?どうした?」

 

「いや…、何でもない。…?」

 

 

 

 

 

 

 

~Another View~

 

「でも、そっかぁ…。もしかし…なくても、最近恋心を自覚した感じだよね。じゃあ、まだ告白は難しいか」

 

「いやでも、もうすぐクリスマスだよ?これってチャンスじゃない?」

 

「確かに…。四季さんに誘われて断る男なんていないだろうし…。クリスマスにデートに誘って、そこで一気に押してけば」

 

「完璧」

 

「完璧じゃないっ」

 

 その作戦のどこが完璧なのか。まず私に誘われて断る男なんていない、の所がおかしい。そしてクリスマスにデートに誘う、この時点で私には難しい。大体、クリスマスはお店が忙しくなるだろうし、勝手な都合で抜けられない。

 最後に、一気に押してくって何。押すって、誰を。そんな積極的にいけるなら、私もこんなに悩んでない。

 

「まあ告白するかしないかは置いといて…、四季さんも、今のままで良いとは思ってないんでしょ?」

 

「…」

 

 その問い掛けに頷いて答える。

 

 今、柳君とほとんど喋れていない現状と、今の関係よりも一歩進んだ関係になりたいという二重の意味で、私はその問い掛けを肯定した。

 何も言わず頷いただけだから、そこまで相手に伝わったかは分からない。けれど、私の返答を受け取った二人は一度目を見合わせてから、私を見る。

 

「ならまずは、逃げない事から始めないとね。といっても、初恋だからな~…。気持ちは分からないでもない」

 

「でも、多分四季さんの好きな男の人も戸惑ってると思うから、恥ずかしくても我慢しないと」

 

 その言葉は尤もだ。柳君からすれば、突然、何の切っ掛けもなく私に逃げられているのだから、戸惑わない筈がない。

 

「その人からは話しかけてこないの?」

 

「…来る。でも…」

 

「あー…。四季さん、それはちょっと急がないとダメかも」

 

「え?」

 

「四季さんに嫌われてる、って思われるかもしれない」

 

 そう言われた瞬間ドキリとする。しかし考えてみれば当然だ。今まで普通に友人として付き合ってきた相手に突然避けられる。話し掛けようとしても逃げられる。

 私だって、誰かにそんな事をされたら、嫌われてるのだろうかと疑いを持つに決まってる。

 

「ちょっと時間を掛けて、と思ってたけどダメだね。勇気を出して、今日話しかけないと」

 

「話しかけるって言われても…、どうすれば…」

 

「今まで通りで良いんだよ。嫌われてる訳じゃないって分かって貰うだけでいいんだから」

 

 今まで通り。今まで、私は柳君とどういう風に話していたんだろう。仕事が終わって一緒に帰っている時、私は何を話していたっけ?お店から一緒に大学に行く途中、私は何を話していたっけ?

 

 …あれ、本当にどんな話をしていたんだろう。というより、今まで通りって何だっけ。…あれ?

 

「…四季さん、大丈夫?」

 

「…大丈夫じゃないかも」

 

 かも、じゃない。本当に大丈夫じゃない。どうすればいいのか全く分からない。私は今までどうやって柳君と話していたんだろう。

 出来る事なら、過去の私に教えてほしいくらいだ。

 

「でも、勇気を持つしかないよ」

 

「…勇気」

 

「恋をしてきた女の子達皆が通る道だよ!」

 

 勇気を持つしかない、か。実際その通りで、現状を変えるには、今の関係から一歩進むには私から行動を起こすしかない。

 なら彼女の言う通り、勇気を持つしかないのだ。

 

「…っ」

 

 決意を固める。そう、勇気を持つのだ。話し掛けるくらいで怖じ気づいてどうする。

 

 今もなお後ろを向こうとする心を叱咤して、私はその背中に目を向ける。

 直後、キョロキョロと周囲を見回す彼、柳君は食事を終えるその時まで私の存在に気付かなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛…、づがれだぁ…」

 

 オッサン臭い声を出しながら涼音さんが大きく全身を伸ばし、体をほぐす。今日の涼音さんはクリスマス限定でメニューとして出すブッシュ・ド・ノエルの練習をしながらも通常の勤務を熟すというハードスケジュールを強いられた。というのも、今日から墨染さんと火打谷さんが中間試験までバイトを休む事となった。

 一応店には来ているのだが、フロアには出ず、休憩室で四季さんに勉強を見て貰っていた。

 

 四季さんもずっと二人の勉強を見ていた訳ではないのだが、それでも一度にほぼ三人がフロアから抜けるとなるとかなりきついものがある。だから、高嶺には臨時でフロアに出て貰って、キッチン作業は俺と涼音さんの二人で熟す事となった。

 だが涼音さんにはクリスマスに向けての準備がある。かといって、そこに集中されると俺の手が回らなくなる。その結果、先程言ったハードスケジュールとなったのだ。

 

「オッサン臭いですよ涼音さん」

 

「うっさい、黙れ」

 

 涼音さんにオッサン臭いと言ったのは俺ではない。掃除の時間はキッチンにいた高嶺が涼音さんにデリカシー皆無の台詞を吐いた。

 涼音さんが力なく高嶺を睨む。流石に疲れきっている様だ。これから一週間、特に混雑する土日は大丈夫なんだろうか。…何か対策しなきゃいけないかもしれない。

 

「あー…、今日はビール二杯飲も…」

 

 涼音さんが小さく呟く。掃除は終わり、後は着替えて帰るだけだ。

 

 だけ、なのだが。

 

「…なぁ、柳。あれ、隠れてるつもりなのかな?」

 

「知らん」

 

 キッチンの入り口の影に隠れている…つもりらしい。時折顔を覗かせ、すぐに隠れる。しかし、微妙に隠しきれていない、黒く長い髪の先が覗く。

 

「ナツメさん?何してるの?」

 

「っ!?」

 

 どうするのが正解か悩んでいた俺と高嶺とは違い、たった今その人の存在に気付いた涼音さんが即座に声をかけた。

 奥からガタン、と物音が聞こえてくる。まさか、コケた?いや流石にそれはないか。

 

 ない、よな?

 

「…」

 

 物音がしてから少し経った後、モジモジしながら四季さんが姿を現す。

 厨房にいる誰を見てる訳でもなく、四季さんは視線を彷徨わせてから、やがて俺の方を見た。

 

「─────」

 

 久しぶりに四季さんから視線を向けてきた気がする。四季さんが避けるようになってからも、何度か顔を合わせ、目を合わせてきた。だがそれは全部俺からで、しかもすぐに四季さんから目を逸らされてきた。

 

 だから、こうして四季さんから俺の方を見たのは久しく感じる。

 

「…柳君は今日、用事とかある?」

 

「用事?…帰りにスーパー寄ろうと思ってる」

 

 四季さんが目を丸くする。え、俺が買い物するのって意外なの?それとも俺がスーパー行くのが意外なのか?何故に?

 

 

 

~Another View~

 

 ─────え、どうしよう。用事ないって答えた柳君に一緒に帰ろうって誘いを掛ける予定だったのに…。まさかの最初で躓くって。え、本当にどうしよう…!?…うぅん、待って。これはもしかしたらチャンスかもしれない。まずは、柳君に何の買い物をするか聞いて…。

 

 

 

 何だろう、四季さんが固まってしまった。本当にどうしたんだ。俺に何か言いたそうな感じだったけど…、え、これもしかして、俺間違えた?用事ないって答えるべきだったのか?いやでも、割と本気で買い物行かなきゃいけないし。買い物行くの忘れてて、今冷蔵庫の中空だし。

 一応カップ麺があるから買い物行かなくても今日の夜は何とかなる。でも明日の朝がどうにもならない。

 

 …仕事に行く途中でコンビニ寄って、サンドイッチでも買うか?

 

「スーパーで買うのって、夕飯の材料とか?」

 

「ん?まあ、それもある」

 

 考えていると、四季さんがそんな事を聞いてきた。四季さんの言った事は一部その通りだったから、頷いて肯定する。

 夕飯の材料なのはそうだが、それは今日ではなく明日だ。今から買い物に行って、それで夕飯を作る元気はない。今日の夕飯はカップ麺で決まりだ。

 

 俺が下らない事を考えている最中、四季さんは考え込む所作を見せる。…本当、さっきからどうしたのだろうか。

 

 今度はすぐに顔を上げる四季さん。そして、四季さんは俺を真っ直ぐに見て、口を開いた。

 

「それなら、一緒にご飯食べない?」

 

「一緒に?…いいけど、どこに食べに行く?」

 

「んー…。私の部屋か、柳君の部屋か…。そうだ、柳君って何か食べたいものとかある?」

 

「…は?」

 

「え?」

 

 今まで生きてきた中で一番間抜けな声が漏れたと思う。途徹もなく話が食い違ってる気がする。

 四季さんの部屋か俺の部屋かって、何の話だ。俺は今、どこにご飯を食べに行くか聞いたよな?なのに何でその答えが四季さんの部屋か俺の部屋かになるんだ?

 

 …分からない。全く分からないが、それでも一つだけハッキリしている事がある。

 それは先程漏れた声と同様、俺の顔もかなり間抜けな顔になっている、という事だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

~Another View~

 

「…は?」

 

「え?」

 

 柳君の目が丸くなる。いつもは引き締まっている唇があんぐりと丸く開く。

 

 どうして柳君がこんな顔になるのか分からなくて、私も柳君と同じ様に声を漏らした。だけど、すぐに暴走気味だった思考が冷静になり、我に返る。同時に、私は自分がとんでもない言葉を口にしたのを自覚する。

 

 柳君がスーパーに買い物に行くならそれはチャンスだと私は思った。私や柳君の部屋なら二人になれるし、ゆっくり話が出来る。そうすれば、もしかしたら距離を縮める事が出来るかもしれないし、何より最低でも私が柳君を嫌っている訳ではない証明にはなる。

 嫌いな人の部屋に行ったり、嫌いな人を部屋に招く筈がないと、柳君なら考えが至ると、そう思った。

 

 でも、冷静になった今の私なら、先程の発言のとんでもなさを理解できてしまう。そんな話の流れじゃないにも関わらず、突然異性が自分の家に来てご飯を作っていく。普通に考えてあり得ない。私が柳君の立場なら正直引く。たとえ、それがそれなりに仲の良い友人相手だったとしても。

 

「あっ、その…!今のはちがっ…」

 

「はいはーい、お邪魔虫は退散しまーす」

 

「まーす」

 

「す、涼音さんっ、高嶺君っ!」

 

 私の発言を聞いて、柳君と一緒に驚き固まっていた涼音さんと高嶺君が先に復活し、我先にと厨房を出ていってしまう。

 

 よって、この場に残されたのは私と柳君の二人だけになってしまった。まだフロアに明月さんと閣下がいるけど、さっき涼音さんと高嶺君は休憩室ではなくフロアの方に行っていた。多分今頃、厨房の方には行かないよう二人に忠告している。

 つまり、助けは期待できない。私の力だけでこの状況を何とかするしかないのだ。

 

「えっと、そのっ…、き、急に変な事言ってごめんなさいっ。忘れていいからっ」

 

 とにかくまずは謝る。そして忘れて貰う。さっきの台詞をなかった事にして貰う。出来るのはこれだけだった。

 だって、あまりにもおかしすぎる。柳君も、あんな事を口走った私を変に思っているに決まっている。

 

 そう、思っていたのに。

 

「え、やだ」

 

「へ?」

 

 またも間抜けな声が私の口から漏れる。無意識に俯いていた顔が上がり、柳君の顔が見えるようになる。

 柳君はじっと私の顔を見ていて、そしてゆっくりと口を開いた。

 

「普通に四季さんの手料理食べてみたいんだけど。今日はカップ麺で飯済ませる予定だったから、作ってくれるんなら有難い」

 

 柳君のその言葉は、私が全く想定していなかったものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




四季さんの手料理の話が…書きたかったんや…。
でも、流石にキャラ崩壊しすぎ、や、流れが強引すぎるという指摘がたくさん来たら話を書き直します。
なので、感想待ってます。出来るだけ優しい言い方でご指摘お願いします…m(_ _)m


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第四十一話







特に直すべきという指摘はなかったため、このまま物語を進行させます。
という事で続きをどうぞ。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 スーパーの中を女の子と二人で並んで歩く今の自分の姿を、どうしても客観視してしまう。

 端から見れば、完全に夕飯の買い物をしているカップルにしか見えないんだろうな。俺だって、第三者の立場だったら絶対にそう思う。いや、そうとしか見えないし。

 

 ただ、夕飯の買い物をしているまでは正しいが、カップルではない。普通の友達、どころかつい最近まで少し仲違いをしていた間柄だ。

 分からない。どうして四季さんは、いきなりこんな風に踏み込んできたのか。

 昼休みに昭久が言っていた事を思い出す。()()()()()()()()()()()()()()()、確かに昭久の言う通りになった。だが、流石にここまでは昭久も予想していなかったのではないだろうか。いや、絶対にしていない。

 

 四季さんが俺の事を嫌ったりしている訳ではないというのは理解できた。まさか嫌いな異性を食事に誘ったりはするまい。特に四季さんは、嫌いな相手には絶対に自分から関わろうとしないタイプだ。だから、そこまでは理解できたのだが─────

 

「…柳君は、何か食べたいものある?」

 

「食べたいもの、ね…」

 

 いやさっぱり分からない。マジでどうしてこうなった?何で四季さんが、今日俺が夜に食べたいものを聞いてるんだ?何で俺は四季さんと一緒にスーパーを歩いてるんだ?

 マジで意味が分からない。というより何で俺は四季さんの誘いを受け入れた?よく考えろ。料理を作り、食べるには必ずどちらかの部屋にお邪魔しなくてはならない。このどちらかの部屋、とは勿論俺の部屋と四季さんの部屋の事だ。

 何か互いに話したい事や相談事、そういった用事があるのならまだ分かる。そういう話があるのなら、外食に行くよりもどちらかの部屋にお邪魔する方が落ち着いて話せるだろう。

 

 だが今回は違う。俺と四季さんの間にそういった急ぎの用事はない。完全に、プライベートでこれから俺は四季さんを部屋に招くか、或いは四季さんの部屋にお邪魔する事になるのだ。

 

 男女の友情は成立しない。誰が言い出したか知らないが、俺はこの理論は違うと思っている。何故なら現に、今隣にいる女の子と友情が成立していると思っているからだ。

 友情が成立しているなら、二人で食事くらい普通?違う、ただ食事するだけならいい。どちらかの部屋で、異性の手料理を振る舞って貰う、これは完全に友達の域を越えているんじゃないか?友情以上の意味が出てくるんじゃないか?

手料理を振る舞って貰う、これは完全に友達の域を越えているんじゃないか?友情以上の意味が出てくるんじゃないか?

 

 俺は、それを分かっていながら四季さんの誘いを受け入れた。躊躇いを越える欲求に駆られて、四季さんの誘いを受け入れてしまった。

 四季さんの手料理を食べたいと思った。どうしてこんなにも強く思うのか分からないけど、四季さんの誘いが俺が考えているのとは違う意味を持つと分かった瞬間、俺の心は傾いてしまった。

 

「柳君?」

 

「あ、うん、食べたいものだよな。…まあ、やっぱ肉かな」

 

 四季さんの呼び掛けで我に返る。四季さんの質問を無視してのめり込んでいた思考を一旦放棄、まずは四季さんの質問に答える。

 

「肉か…。男の人が好きそうな肉料理で一番最初に浮かぶのは肉じゃがだけど、やっぱり好きなの?」

 

「あー、よく言うよなそれ。でも俺はそこまで好きじゃない。食べられない訳じゃないけど」

 

「そうなんだ…。なら…、ハンバーグとか、からあげとか?」

 

「いいね。両方好きだわ」

 

「…からあげはちょっとなぁ。なら、ハンバーグでいい?」

 

「異議なし」

 

 という事で今日の夕飯のメニューがハンバーグに決定し、四季さんがひき肉や玉葱などハンバーグの材料を籠に入れていく。その他にも元々俺が買うつもりだった食材と調味料も籠に入れていく。

 

 そうして一通り店内を回り、会計をするべくレジへ向かう。会計を済ませてから、レシートを見てハンバーグの食材の代金は自分で払うと言い出した四季さんと軽く揉めてしまったが、そこは何とかあれやこれやで納得させる。

 

 買ったものを二枚の袋に分けて入れ、それぞれ一つずつ袋を持ってスーパーを出る。

 

「俺の部屋でいいか?」

 

 外を歩き出す前にそう聞くと、四季さんが頷いた。四季さんの部屋でも構わないのだが、スーパーで買った荷物の事がある。車であれば四季さんの部屋にいる間、荷物を車の中に置いていく事も出来るが、荷物を持って四季さんの部屋まで行って、そして夕飯を食べ終えたらまた荷物を持って部屋に帰る。ハッキリ言って面倒臭すぎる。

 四季さんもそこについて気を使ってくれたのだろう。俺の問い掛けにすぐに答えてくれた。

 

 という事で、向かうは俺の部屋。歩き出した直後、ふと思い出す。

 …そういえば、俺は四季さんの部屋の前まで行った事があるけど、その逆はないな。

 四季さんを送るために、四季さんの部屋があるアパートの前には何度も行った。しかし、四季さんが俺が住んでるアパートの所まで来る機会は今まで一度もなかった。

 

 あぁ、そうか。四季さんが俺の部屋に来るのか。女の子が俺の部屋に、これから来るのか。

 何か、そう考えると少し緊張してくる。たかが異性が部屋に来るだけなのに、別に散らかる程の物が部屋にある訳でもないのに、ちゃんと片付けたか、掃除したのか、四季さんに見られてまずそうな物はなかったか、色々と心配になってくる。

 

「…お邪魔します」

 

 スーパーを出てから数分、明かりが灯った部屋の中に四季さんがいた。両手で買い物袋を持ったまま立ち止まり、部屋の中を見回している。

 

「まずハンバーグの材料以外で買ったものを片付けるから、その椅子に座って休んでていいぞ」

 

「あ、は、はい」

 

 四季さんから買い物袋を受け取り、二つの買い物袋を持って冷蔵庫の前へ。エリアを分けながら食材、調味料、飲み物と冷蔵庫の中に入れていく。冷蔵、冷凍しなければならない物を入れ終えたら、次にカップ麺などの常温で保管可能な物を棚に放り込んでいく。

 数分と経たず買ってきた物を片付けてから、俺と交代で四季さんが台所に立つ。

 

 四季さんが俺に場所を聞きながら調理器具を出していく。料理に使うであろう食材と調味料は予め俺が出しておいた。もしかしたら四季さんなりの調理があり、まだ他にも使うものがあるかもしれないが、必要なものはほぼ揃っているだろう。

 

「…?」

 

 四季さんが調理を始めた直後、気紛れに手に取ったスマホがチカチカと光っている事に気付いた。電源を入れると、案の定一つの着信と、通知欄にはライムのメッセージが来ている事が載っていた。

 着信もライムのメッセージも、どちらも昭久からのものだった。何事かとアプリを立ち上げ、ライムのメッセージを確認する。

 

「─────!!!!!?」

 

 画面を見て驚き、体が大きく震える。膝とテーブルの足が強くぶつかって音を立て、驚いた四季さんが振り返った。

 

「ど、どうしたの!?」

 

「い、いや、何でもない。驚かせてごめん、大丈夫だから」

 

 少しの間心配そうにこちらを見ていた四季さんだったが、それ以上何か言う事はなく、調理に再び集中した。

 四季さんの背中を見て、小さく息を吐いてからもう一度スマホの画面に目を向ける。

 

 昭久から送信されてきたのは一枚の画像だった。背景は見覚えのある建物、というよりはついさっき行ってきたスーパーだ。空は暗く、この画像が撮られた時間帯は夜だと予想できる。

 

 …いや、回りくどい言い方はやめよう。この画像は今日、それもついさっき撮られたものに違いない。何しろ、画像の真ん中には買い物袋を持って歩く俺と四季さんが映っているのだから。

 あいつ、あそこにいたのか。何で声を掛けなかったのか、なんて考えるまでもない。どうせ俺と四季さんが買い物してる所を面白がってこっそり眺めていたに違いない。

 

 何か一言文句をつけなければ気が済まない。そう思い、親指で画面をタップしようとして─────何を返せばいいのか分からなくなった。

 大体、何でこんなに焦る必要がある?四季さんと二人で買い物してたからって、昭久に何か関係あるか?いや、この事を他の奴らに知られたらかなり面倒だが。

 

 あぁ、考えたらむしろ焦るべきなのかもしれない。だがここで焦って昭久に口止め等を頼もうものなら、あいつはもっと面白がるに違いない。そこを考慮すると、やっぱり冷静になるのが一番なんだろうか。

 

「…」

 

 うん、めんどくさくなってきた。もう既読スルーでいいや。アプリを閉じ、スマホをスリープモードにしてテーブルに置く。

 

 さて、完全に手持ち無沙汰となってしまった。こういう暇な時は大抵ゲームか読書かしている俺だが、流石に四季さんに夕飯の準備をさせておきながら娯楽に興じられる神経は持ち合わせていない。

 特に急ぎの課題やレポートがある訳でもなく、本当にする事がない。強いていえば、手慣れた様子で包丁を扱う四季さんの後ろ姿を眺めるくらいだ。

 

「四季さんって、よく料理するのか?」

 

 一定のテンポで小気味良く流れる包丁とまな板がぶつかる音を聞きながら、四季さんに話し掛ける。

 調理中に話し掛けるのはどうなのかとも考えたが、以前の焼き肉の帰りの車中、あの時のような空気はもっと御免だ。俺は同じ失敗を繰り返さない男なのだ。

 

「毎日ではないけど、なるべく自分で作るようにしてる。でも、あまり期待しすぎないでね。本当に人並みにしか出来ないから」

 

 俺の心配は杞憂だったようで、すぐに返ってきた四季さんの声は気分を害した様子もなく、いつもの落ち着いた声だった。

 

 しかし、期待しすぎないでね、か。そう言われても、期待をしてしまうのが人の性。言葉には出さないが、正直結構期待してたりする。

 だって、女の子の手料理だぞ。しかも四季さんのだぞ。あまり恋愛事に深く興味がない俺でも、男として一定の期待はしてしまう。

 

 時折、四季さんの邪魔にならない程度に雑談をしながら時間が過ぎるのを待つ。肉が焼けるいい匂いに耐えられなくなりそうになりながら、遂に四季さんの料理が完成する。

 テーブルにはメインであるハンバーグと、キャベツの千切りとプチトマトのサラダにソースが入った小皿。ご飯は昨日炊いた残りを温めたものだが、その隣の味噌汁まで四季さんの手作りである。

 

「おぉ…、おぉ~…」

 

「な、なに?」

 

「いや、感動してる。家族以外で、俺のじゃない飯がテーブルに並ぶのは初めてだから」

 

「え?草野君と食べたりしないの?」

 

「あいつ連れてきたら散らかしそうだし。その他も同様」

 

 さっきも言ったが、実を言うとこの部屋で、両親以外で食卓を一緒にするのは今回が初めてだ。

 その理由もさっき言った通り、昭久や他の奴らをここに連れてきたら滅茶苦茶散らかしそうだし。というか、他の奴の部屋が被害に遭ってるのを何度か見た事あるし。あれを見てあいつらを部屋に連れてくる気なんて微塵も起きないね。

 

 四季さんが俺の正面の椅子に座る。料理が全て並び、美味しそうな匂いを醸しながら湯気を立てている。

 あ、ダメだ。もう無理だ。我慢できない。

 

「それじゃあ、いただきます」

 

 食事前の挨拶をしてから、四季さんの返事を待たずにまずソースが入った小皿に手を伸ばす。小皿の傍ら置かれたスプーンでソースを掬い、ハンバーグにかける。

 ソースを適量ハンバーグにかけてから、箸でハンバーグを一口サイズに割る。そして、一口サイズに割ったハンバーグを箸で掴んで口の中へ運ぶ。

 

「…」

 

 その様子をじっと四季さんが見ている事には気付いていた。だがその視線を気にする余裕も今の俺にはない。

 

「うまっ」

 

 ハンバーグを噛み締めた途端に口一杯に広がる肉汁。そして、絶対に市販のソースではない風味を出すソースもまた、ハンバーグの旨さを引き立てている。

 

「うめぇ、マジでうめぇ。人並みって、嘘吐くなよな」

 

「嘘を吐いたつもりはないけど…。でも、そっか。美味しいって思ってくれるのなら、良かった」

 

 四季さんが安堵からか微笑みを漏らす。なお、俺はそんな四季さんには目もくれず夢中で料理を味わう。

 ハンバーグは勿論、ワカメと豆腐を使った味噌汁も、特に味付けされていない市販のドレッシングの味しかしないサラダですらいつもより美味しく感じる。

 

 実はこの人、退学を賭けて料理の決闘が行われたりする学校に通ってたんじゃなかろうか」

 

「いや、そんな学校通ってないから。ていうかそんな学校存在しないから」

 

「あ、はい」

 

 まあ流石にそんな事はある筈もなく、声に出ていたらしく四季さんにツッコまれてしまった。

 

「でも本当にうまい。ハンバーグに使ってるソースも、四季さんが作ったんだよな?」

 

「うん。オリジナルって訳じゃないけど…、どう?」

 

「察して」

 

「…口に合ったならよかった」

 

 四季さんが苦笑いしているのは言うまでもないだろう。多分、というか絶対に呆れられてるだろうけど、仕方ない。四季さんの手料理が美味すぎるのが悪い。

 

 しかし、そんな至福の時間も終わりは訪れる。お椀も皿も全て空になり、完食してしまう。四季さんには言えないが、もう一つ多くハンバーグを作って貰えばよかったと思ったのは秘密だ。

 四季さんも俺より遅れて完食し、二人で食器を片付ける。料理は四季さんにやって貰ったんだし、洗い物は俺がやって四季さんには休んで貰うつもりだった。というより、四季さんがそうしたいなら帰って貰っても構わなかったのだが。

 

 俺は未だに夕飯を食べていたその席に座ったままだった。夕飯を食べていた時には正面にいた四季さんは、再び台所に立っている。

 聞こえてくるのは水音と食器がぶつかり合う音。そう、四季さんが洗い物までやってくれているのである。本当は洗い物は俺がやるつもりだったのに、四季さんが断固として譲ろうとしなかった。流石に全部四季さんに任せてしまうのは悪いと思い、俺も譲らなかったのだが…。四季さんは強引に台所に立って洗い物を始めてしまった。

 手伝おうかとも思ったのだが、二人で立つにはこの部屋の台所は狭すぎた。邪魔になると分かりきってる以上、俺はまた作業をする四季さんの背中を眺めるしか出来ずにいた。

 

「…」

 

 スポンジで食器を擦る四季さん。その両肩が揺れ、それと一緒に長く伸びる黒髪も小さく揺れている。

 四季さんは髪の手入れとかしているんだろうか。勿論、一人の女として最低限の手入れはしているんだろうが、それだけであんな綺麗で触り心地良さそうな髪になるんだろうか。四季さんはそこまで細かくそういった手入れとかはしなそうに思える。

 いや、これは四季さんへ失礼だろうか?でもな…、どうなんだろう。

 

 ─────俺は何を考えているんだろう。確かに四季さんの髪は綺麗だが、それを触り心地良さそうとか、普通に相手によってはセクハラと思われかねない思考だぞ。

 いやだがこの状況、そういった思考に陥っても仕方ないのではなかろうか。男の部屋に女がいる。勿論、四季さんは俺を信用しているからこそここにいるのだから、その信用を裏切る行為はしない。ただ…、考えるくらいは─────

 

 いやダメに決まってるだろう。バカか、何が考えるくらいは、だ。冷静になれ、クール、そうkoolに…いや違うcoolになるんだ。いつもの俺を取り戻せ。もっと別の事を考えろ。

 

「…」

 

 そういえば店を出る前から疑問だったけど、何故こんなに積極的というか大胆というか、そういう誘いをしてきたのだろう。何なら、昨日までの四季さんは俺と会話しようともせずに逃げていたというのに。

 それなのに今日になって、会話どころか一緒に食事、それだけではく俺の部屋にお邪魔してくる。この急展開は一体何なんだ。四季さんの中でどんな心境の変化があったというのか。

 

「四季さん。一つ聞いていいか?」

 

「ん?どうしたの?」

 

 返ってくる声は昨日までの態度をまるで感じさせない、以前までの四季さんの声だった。

 その声を聞き、もしかしたら聞かれたくないかもしれない、と心の隅で小さく抱いていた抵抗がなくなる。

 

「何でいきなり俺を食事に誘ったんだ?しかも手料理まで振る舞ってくれて」

 

「─────」

 

 四季さんの手の動きが止まった。先程まで聞こえてきた食器の音が消え、水が流れる音だけが部屋に響き渡る。

 

「昨日まではさ、四季さんは俺の事を避けてただろ?だからさ、正直今日いきなりあんな風に誘われて驚いた。あぁ、嫌だった訳じゃない。嫌だったら断ってるから、そこは勘違いしないでくれ」

 

 四季さんは何も言わない。こちらに背中を向けているから、どんな顔をしているかも分からない。だから、俺の言葉をちゃんと聞いているかも定かではない。流石にそこは大丈夫だと思うが─────

 

「…」

 

 四季さんの手が動く。しかしそれは洗い物を再開した訳ではない。流れる水で手を洗い、タオルで拭いてから蛇口を閉めて水を止める。

 そして、ゆっくりとこちらに振り向いた。

 

「…本当はね、ただ柳君と二人で話す時間が欲しかった。それだけだったの」

 

 四季さんはやがて、語り出す。視線は俺じゃない、どこかを向いていて。両足が僅かに震えていて。まるで、恐怖に怯えているようにすら思えるその弱々しい姿は、昨日までの四季さんと重なって見えた。

 今にも逃げ出していきそうな、そんな四季さんは唇を噛み締めて耐えているようだった。

 

 やはり俺は、何か四季さんにしてしまったのだろうかという不安が再燃する。そうでなければ、最近まで普通に接していた筈の相手がこんな風にはならない。

 

「柳君が悪い訳じゃないの。私が柳君を避けてしまったのは…、私自身のせいで、柳君は何も悪くない」

 

 まるでそんな俺の不安を悟ったかのように、四季さんは語気に力を込めてそう言った。

 そして、四季さんは顔をあげて、今度は俺の目を真っ直ぐ見て、ハッキリと告げた。

 

「だから…、今日、柳君を誘ったのは、私は柳君を嫌ってる訳じゃないって伝えたかったから」

 

 四季さんは俺を嫌っている訳じゃない。俺を避けていたのは、そういう理由からじゃない。

 それなら、何故俺を避けていたのかという疑問が再び湧いてくるが、正直今の俺にとって重要なのはそれじゃなかった。

 

「そう、か。嫌われてる訳じゃなかったのか」

 

「…ごめんなさい。柳君に変な勘違いをさせた」

 

「いや。それならよかった。安心した」

 

 重要なのは、四季さんが俺を嫌っていた訳ではなかったという事だ。俺を避けていた本当の理由なんてどうでもいい。

 

 本当に、マジで安心した。

 

「や、柳君?」

 

 安心した途端、力が抜けた。だらりと椅子の背凭れに寄りかかり、ぐだ~っと体を伸ばす。

 

「あ~、マジでよかった。四季さんに嫌われてたらどうしようって、ここ数日気が気じゃなかった…」

 

「っ…」

 

「俺が何かしたのかってずっと頭の中ぐるぐる巡って…。それについて四季さんに聞こうにも聞けなかったし…」

 

「ご、ごめんなさい…」

 

「マジで…安心した」

 

 本当に四季さんに嫌われていたら、店を辞める事も視野に入れていた。だって責任者に嫌われて、その店に居られる訳がない。かといって、俺もあの店で働くのは好きになっていたし、正直辞めたくなかった。

 それに、四季さんに嫌われていたらと考えるだけで、どうしようもなく不安になって仕方なかった。

 

 だから、そうではないと知って、物凄く安心して、力が抜けて、こうなるのも仕方ないだろう。

 

「もう避けたりすんなよ」

 

「…うん」

 

「せめて、理由くらい教えてくれよ。そしたら、それを直す努力するからさ」

 

「…」

 

「…四季さん?」

 

 急に四季さんが黙り込んでしまう。俯いてしまった表情は、前で垂れる前髪に隠れて見えない。

 だがすぐに俯いていた顔は上がり、俺の方を向いた。その表情は、まるで何かの意思を固めたようで。

 

「柳君。…私が、柳君を避けてたのは…、その理由はね?」

 

「うん」

 

「その…、それは…」

 

 四季さんの頬が次第に紅潮していき、目が潤んでいく。俺たちの間で流れる空気がどこか艶めいたものへと変わっていく。

 

 何だこれは。この空気はなんだ。四季さんのこの表情はなんだ。

 同じ屋根の下で男女二人きり。二人の男女が向き合い、片方はこの上なく緊張した様子で相手を見つめている。

 

 そういった事に全く詳しくない俺ですら分かる。この状況、まるで四季さんが俺に─────

 

「こ、今度!」

 

「─────は?」

 

「今度、教えるから!」

 

「…はぁ?」

 

 内心で満ちていた緊張が一瞬にして霧散する。代わりに湧いてくるのは、何とも形容し難い、気の抜けた感情。

 

「…今度っていつ「さあ、洗い物の続きしないと!」おい」

 

 四季さんが振り返って洗い物を再開してしまう。どうやら、もうこの話を続ける気はないらしい。

 

 おい、ふざけるな。とんでもない肩透かしを食らった気分だぞ。何だよ、言えよ続きを。俺を避けてた理由は何なんだよ。おい四季さん。

 

「…」

 

 なんて実際に言う度胸は俺にはなかった。内心では四季さんに悪態吐きまくってるが、実際のところは俺も四季さんに負けず劣らずのヘタレだったという事だ。

 

 俺も鈍くはない。四季さんが言おうとした事は、何となく察しがついている。そして、もしそうだったらいいと思っている俺は…、つまり、そういう事なのだろう。

 

「…はぁ」

 

 四季さんの後ろ姿を見ながら溜め息を吐く。今まで疑問だった、四季さんにだけに抱いていた特別な感情の正体がようやく掴めた。掴めたところで、どうしようもないのだが。

 ここからさっきの話を蒸し返す勇気はない。というか、自分から話を切り出せる気がしない。

 

 何しろ、こんな経験は初めてなのだ。昭久辺りに知られれば大笑いされるだろうが、俺にとってこれは初めての経験なのだ。

 

 ─────初恋が成人してからとか、相当異端な気がする。

 

 初恋の相手を眺めながら思う。

 俺には自分から告白する勇気はない。少なくとも、今回の件のほとぼりが俺の中で冷めるまでは、その勇気は持てないだろう。

 一方の四季さんから告白、というのもどうやら期待できそうにない。何しろ、あの決意に溢れた表情からのヘタレ発揮だ。多分、待っていても告白してくる事はないだろう。

 

 それならやはり、男として俺からするべきなのだろうか。いやしかし、まず俺の予想が完全な的外れだという可能性だってある。だとすると、俺が告白したその先には悲惨な未来が待っている。俺は号泣しながら店を辞める事となるだろう。

 もしそうなった場合、俺は立ち直れない自信がある。人生からリタイアする自信もある。

 

 ─────うん、もう少し様子を見よう。いつか丁度良い機会が来るさ。多分。

 

 俺がとった選択は先延ばしだった。いやマジで無理。ここで告白とか絶対無理。さっき四季さんがヘタレた直後ならともかく、完全にタイミングを逃してしまった。

 

 結局、その後は洗い物が終わった四季さんと少し話をしてから、帰る四季さんをアパートの前まで送っていった。数日前までは普通にしていた行為なのに、今日はいつもと違って少し緊張してしまった。

 平然を装って四季さんと歩きながら会話をして、多分俺の緊張は悟られなかったと思う。もし悟られてたら恥ずかしすぎる。恥ずか死する。

 

 特に何事もなく、四季さんをアパートに送り届けてから俺はUターンして家路につく。

 その直後、コートのポケットの中に入れていたスマホから通知音が鳴った。

 

「あ」

 

 そしてふと思い出す。そういえば、既読スルーしたままだった、と。スマホの電源を入れれば案の定、ライムに昭久からのメッセージが来ていた。

 既読スルーすんなという旨のメッセージだったが、それを俺はまたもや既読スルーするという選択をする。だって、こいつの相手をしたら今のこの安らぎが台無しになるに決まっているから。

 

「…さてと、今日は夜更かししないでさっさと寝るか」

 

 雲一つない夜空を見上げ、ポツリと呟く。

 いつもなら日付を跨ぐまでゲームをするところだが、今日はそんな気分じゃない。明日になればまた会える。そう思うと、明日が待ち遠しくて仕方ない。

 

 早く明日にするにはどうすればいいか。勿論、物理的に時間の経過を加速させるなんて不可能だが、早めに寝れば感覚的に早く明日を迎える事は出来る。

 

 歩くペースが早足になる。それをふと自覚して、これは重症だと自分で呆れながらもペースを変えず部屋へと急ぐのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




今回の話のある場面を執筆中、“は…?”をBGMで流してました。
どこの場面の事を言ってるかは、最後まで読んでいただいた読者様なら分かる筈(笑)


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第四十二話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 俺が四季さんへ抱いている気持ちを自覚した日から一週間が過ぎた。

 いつもと変わらない日々。朝早く店に行って仕事、その後大学に行って講義を受け、もう一度店に行って仕事。仕事が終われば帰って休む、その繰り返し。

 

 その間、特に何も起こらなかった。

 

 次の日こそ、気まずくぎくしゃくした部分はあったが、それもほんの少しの間。すぐにいつもの雰囲気を取り戻して、いつも通りの日常を過ごした。

 

 何度想いを告げようとしたか。あの日から毎日、特に四季さんと二人になった時は必ずと言っていい程、口から突いて出そうになった。

 だがその度に心にブレーキが掛かってしまい、言えずに終わってしまう。ヘタレだと自覚はしていたが、ここまで重症とは。

 今までそういった恋愛事の相談をされた事は、一対一ではないが、ある。誰々に告白したい、という相談も中にはあった。その時、俺は『勇気を出せ』やら、『言わなきゃ始まらない』やら、偉そうな事を口にしていたのを覚えている。

 

 その台詞が今、とんでもなく大きなブーメランとなって俺に突き刺さる。

 

 そう、勇気を出さなくちゃいけない。言わなきゃ何も始まらない。でも、どうしても尻込みしてしまう。

 なるほど、世の恋する男達はこんな恐怖に打ち勝って告白していたのか。…なんか畏敬の念が湧いてきたぞ。マジですごいな、世間の男達は。

 

 そして今、また一人、尊敬するべき男が増えようとしていた。

 

「明月さんをデートに誘いたいんだ」

 

 大学の食堂にて、俺の目の前でそう口にしたのは高嶺だ。四人がけの席で、俺と四季さんと汐山を前にしてそう言った。

 

 今の状況を説明するには、二時間ほど遡らなくてはならない。

 今日は四季さんと高嶺が朝からの講義で、俺は二限目からのスケジュール。四季さんと高嶺が大学に行ってからも仕込みを手伝い、やがて時間が来てから俺も今日は一人で大学に向かう。

 

 高嶺からメッセージが送られてきたのは道中歩いている時だった。信号待ちの時間を使ってメッセージを見てみる。その内容は、昼休みに時間をとれないかという高嶺からの質問だった。それから一言二言、言葉を交わしてから俺は昼食を一緒にする約束をして今に至る。

 汐山はともかく、四季さんも呼ばれていたのには驚いたが、何はともあれ四人がけの席で俺と四季さん、高嶺と汐山の組み合わせで隣に座り、高嶺の話を聞いていた。

 

「明月さんって…あの喫茶店で働いてる人だよな?確か…銀髪の人だっけ」

 

「そう、その人」

 

 お店の従業員の顔がうろ覚えの汐山が、高嶺に問い掛けて明月さんが誰なのかを確認する。

 殆ど…というより、以前に涼音さんを店に連れてきたあの日以来、店には来てないし一度も会っていないのではなかろうか。それなのによく覚えているもんだ。

 俺も汐山と顔を合わせるのは久し振りで、何なら顔を忘れて高嶺にその人は誰だ、と聞いてしまったというのに。ついでにいうと、汐山は俺の事も覚えていた。マジで記憶力いいなこいつ。

 

「クリスマスに誘うのか?」

 

「いや、流石に当日は店が忙しくなるだろうから。…明日、店も定休日だし」

 

「そりゃまた急な話だな」

 

 高嶺の言う通り、クリスマスイブも当日も相当忙しくなる事が予想される。特にクリスマス当日から大学が冬休みに入るというのもあって、かなり混雑するだろうというのが俺達の目算である。

 そんな中で休み、デートに行こうなんて誘いづらいのは当たり前かもしれない。しかし明日なら、店も休み、クリスマスシーズンで町の雰囲気もクリスマス一色。それにイブや当日ほど遊びに出る人は多くないだろうし、デートしやすい日かもしれない。

 

「で?どこ行くかとかは決めてるのか?」

 

「いや…、そこの所も相談したいと思ってて…。一応候補は決めてるんだ」

 

「ちなみに、その候補は?」

 

「…遊園地」

 

 汐山と四季さんに投げ掛けられた質問を順に答える高嶺。

 

「いんじゃね、遊園地。変にお洒落な所に行くよりは気楽に遊べそうだと思うけど」

 

 高嶺が口にした遊園地、全然いいと思う。クリスマスのデートだからと変に意識するよりそういった所で気軽に遊ぶ方が明月さんは喜びそうだ。

 

「あぁ。お前、その明月さんって人と付き合ってる訳じゃないんだろ?なら、柳の言う通り普通にそういう場所で遊ぶ方がいいと思う」

 

 汐山が俺の意見に賛同する。実際、高嶺と明月さんが恋人同士というのなら、遊園地に行くのはともかくとしてそこからのプランというのも考えなければいけないし、まず第一クリスマスイブイブにデートという日程から物申さなくてはならない。

 しかし、そうではない。高嶺と明月さんはまだ友達同士だ。それなら、気合いを入れすぎるのはむしろ逆効果となる危険性があるだろう。

 

「四季さんはどう思う?」

 

「私も二人の意見に賛成。でも、一つ高嶺君に聞きたい事があるんだけど…」

 

「なんだ?」

 

 汐山が四季さんに問い掛けると、四季さんも頷きながら俺達の意見に賛同してくれた。高嶺と明月さんのデートの行き先は遊園地で決まりそうだ。

 しかし直後、四季さんが何やら思案顔で高嶺を見る。そして、一度前置きをしてから高嶺にこう問い掛けた。

 

「高嶺君は、そのデートの中で、明月さんに告白するつもり?」

 

「ぶっ!ごほっ、ごほっ!」

 

 高嶺が勢いよく吹き出した。直後、噎せた高嶺が強く咳き込む。

 

「はぁ…はぁっ…。い、いきなり何を…」

 

「いきなりじゃない。クリスマス当日じゃないとはいえ、この時期にデートに誘う意味は、明月さんにだって伝わるんじゃない?」

 

「…」

 

 まあ、そりゃそうだ。流石にそこまで明月さんも鈍感ではないだろう。…ない、よな?

 

 高嶺の気持ちはきっと、デートに誘った時点で明月さんに伝わる。

 第三者である俺から見て、ハッキリ言って高嶺と明月さんは良い感じである。以前は二人で買い物に行ったり、最近はよく二人で話しているのを見かけたりもする。

 この場にいる俺や四季さんだけじゃない。涼音さんや墨染さんに火打谷さんもきっとそう思っている筈だ。

 

「…あぁ。伝えるつもりだ」

 

「…そう。私は勝算あるって思ってるから、頑張って」

 

「うん。ありがとう」

 

 四季さんのエールを受けた高嶺が、次に俺の方を見る。

 え、これ俺も何か言わなきゃいけないやつか?いきなりバトンを渡されても困るんだが…えっと…。

 

「…諦めんなよ」

 

「…えっと、それは、俺の告白が上手くいかなそうだと思ってるって事?」

 

「そうじゃない。…そうじゃないけど、あれだ。お前ヘタレだから、告白の直前に尻込みしそうだって思ったんだよ」

 

「うぉいっ」

 

 口から出てきたのは、そんな言葉だった。高嶺だけじゃなく、四季さんも汐山もどういう意味か分かりかねた表情をして。

 慌てて自分の事を棚に上げながら誤魔化した。俺は、一体何を言ってるんだか。

 

 ふと、その事を忘れる時がある。普段通りの明月さんの様子を見て、実はそんな事は起きないんじゃないかと思う時がある。だが、そんな願望にも似た思いとは裏腹に、明月さんの気配は薄れ続けていた。あの様子だと、もう時間は多く残っていない。

 

「…高嶺」

 

「ん?」

 

 高嶺が俺の方を振り向く。

 

 言うべきなんだろうか。俺から高嶺に、明月さんがもうすぐ旅立つという事を。

 さっきの諦めるなという言葉は、ある意味高嶺の言う通りだ。きっと、明月さんは高嶺の想いを拒むだろう。何故なら、明月さんはもうすぐ消えるから。もうすぐ消える自分と付き合っても、高嶺の心に傷を残すだけだと、明月さんはそう考えるだろうから。

 

 高嶺は意外と頑固な所がある。だから、明月さんへの気持ちはそう簡単に捨てない。遅かれ早かれ、高嶺は明月さんの真実を知る事になるだろう。

 それなら、今の内から知っておいた方が良いのではないか?そんな気持ちが突いて出た。

 

「…いや、やっぱ何でもない」

 

「え、そんな風に言われると気になるんだが」

 

「どんまい」

 

「お前やっぱ俺の告白失敗するって思ってるんだろそうなんだろ!?」

 

 でも、思い直した。俺から聞くよりも、明月さんから直接聞いた方がこいつのためになる。何故だか、そう思えたからだ。

 だから俺からはこいつに何も言わない。たとえ、明月さんから高嶺へその事が語られなかったとしても、断固として俺はこいつに何も言わない。そう決めた。

 

「しかし、昂晴がクリスマスにデートか。去年までは全く考えられなかったな」

 

「なに、こいつそんなに暗かったのか?」

 

「暗いというか…、何か余裕がない感じ?去年までは上限一杯まで講義入れてたからな、昂晴は」

 

「うるさい。それに、柳は俺と同じで去年までは取れるだけ単位は取ってただろ」

 

「え?そうなのか?」

 

「全部上限一杯って訳じゃないけど、まあ三年から必修だけでも必要単位取れる様にはしたな。それは四季さんもだろ?」

 

「四季さんも!?」

 

 俺の問い掛けに四季さんが頷いて答える。俺達は最初に苦労してでも最後に楽をしようとする側で、どうやら汐山は最初に楽をして最後に苦労をする側らしい。

 多分あれだろうな。長期休みに出される宿題を最終日に徹夜でするタイプだったんだろうな、汐山は。

 

「あぁ~…。俺も一、二年の内に単位とっとくべきだった…」

 

 後悔先に立たず。もう今さらどうしようもない。汐山がどれほど単位をとっているかは知らないが、この様子だとたまに聞く、最後の一年で大学に行くのは週に一回という夢の生活は送れなさそうだな。

 まあ、就活もあるから言う程夢の生活ではないんだろうが。

 

 そうこう話している内に俺達は昼食を食べ終えて、それぞれの食器を片付け食堂を出る。高嶺と汐山以外は次の講義の場所は別のため、食堂前で別れる事になる。最後に食堂まで少し話してから、それぞれ目的の場所へ行こうと足を向けた、その時だった。

 

「あ、いたいた。四季さん」

 

 軽く耳障りな男の声が四季さんの名前を呼んだ。足を止め、声がした方へ振り返る。直後、声の主であろう男と目が合った。

 その目が俺を見て、僅かに細まったのは気のせいではなさそうだ。

 

「いやぁ、探したよ」

 

 男は四季さんに歩み寄って、彼女の目の前で立ち止まった。やけに馴れ馴れしく話しかけているが、知り合いだろうか。

 というより、どうもどこかで会った事があるような─────

 

 ─────そうだ、思い出した。前に四季さんと二人で昼食を食べていた時に話し掛けてきた、あのチャラ男だ。確か、えっと…中泉だっけ?確かそんな名前だった気がする。

 

「ねぇねぇ、考えてくれた?クリスマスに一緒に遊びに行こうって話」

 

「…それは断った筈だけど?」

 

「え~?でもでも、その後、もう一度考え直すって話したじゃん」

 

「…」

 

 あのチャラ男、気付いてないんだろうか。四季さんの表情がとんでもなく嫌そうな顔になってる事に。

 …気付いてないんだろうな。ああいうタイプは自分に酔って、自分に誘われる相手は喜ぶに決まっているという根拠のない自信に満ち溢れているから。

 

 前にも言ったけど、マジで何様だあいつ。気持ち悪いを通り越して尊敬、それをまた通り越し一周してやっぱり気持ち悪い。

 

「…?」

 

 さて、どうしようか。前は昭久が来て追い払ってくれたけど、その昭久は今日は家の用事で大学を休んでいる。

 昭久に来て貰うのが一番手っ取り早いのだが、その手はとれない。俺が割って入るか、いやでも多分…いや絶対に話がもっとややこしくなるだろうし。

 

 どうするべきか、考えている最中で、俺と同じ様に四季さんの様子を見ていた高嶺と目が合った。俺と目が合った途端、何も言わず、されど懸命に顎を振る高嶺。

 そのジェスチャーの意味が、早く助けにいけという意味だとすぐに分かった。

 

 いや、お前もそこで見てるだけじゃなく助けにいけよ。協力しろよ、とは口に出しては言えず。

 内心で溜め息を吐いてから、四季さんに詰め寄るチャラ男を見る。

 

「ごめんなさい。やっぱり、その日は行けない。バイトあるし」

 

「バイトなんて休めばいいじゃん。何なら俺がバイト先の店長に頼んであげよっか。クリスマスに四季さんに休みをあげてほしいって」

 

 そのバイト先の店長というか、責任者が四季さんだという事も知らずチャラ男は引き下がらない。

 もう察しろよ。バイトがあるから行けないって言ってるけど、お前とは行きたくないんだよ。分かれよ。

 

「それとも、もしかしてもう先約がいたり?」

 

 チャラ男の口から出てきたのはその一言で、とある考えが頭の中に浮かぶ。

 荒事にせず、チャラ男を引き下がらせる方法。懸念はあるが、まあそこは四季さんにも協力して貰えば問題ないだろう。

 

 即座に考えをまとめて、俺はチャラ男の方へと足を踏み出した。

 

「ははっ、そんな訳ないk「その通りだよ」…あ?」

 

 会話の邪魔をされた苛立ちからか、チャラ男は四季さんに向けていたものとは全く別の、怒りに満ちた目を俺に向けてきた。

 

「…てめぇ、前の」

 

「四季さんにはもう先約がいるんだよ。だから諦めた方がいい」

 

「はぁ?」

 

 チャラ男が四季さんに話し掛けた直後、目が合った時から察しはついていたが、どうやら向こうも俺の事を覚えていたらしい。

 二度も四季さんとの会話を邪魔されたからか、その目に更なる怒りが籠る。それに構わず、俺は淡々と頭の中で決めていた台詞を口にする。

 

「ふざけんなよ。先約がいる?だったら連れてこいよ、その先約って奴を」

 

「もういる」

 

「…は?」

 

「だから、もういるって。ここに、お前の目の前に」

 

 チャラ男は一瞬、驚きに目を見開いたがすぐに視線を鋭くさせる。まるで見極めるような視線を俺に向けてくる。

 どうやら変な所で勘が働くらしい。俺の言葉が出任せだと疑いをかけている。

 

 俺が出来るのはここまでだ。後は、四季さんが俺の意図を悟ってくれているかどうかだが─────

 

「…四季さん、今の話は本当?」

 

「…えぇ、そう。もうこの人と約束してたの。だから、貴方とは行けない」

 

「なら、何でバイトあるって嘘をついた?」

 

「騒ぎにしたくなかったから。前も、この人と大学に行っただけで物凄い勢いで広まったし、クリスマスに遊びに行くって知られたら、あの時以上の騒ぎになると思ったの」

 

「…」

 

 辻褄はあっている。本当に四季さんが俺とクリスマスに二人で遊びに行くと約束していたとして、その事を学生の誰かに知られたら、それはもうあの時以上の勢いで話は広まり、あの時以上の騒ぎになるだろう。それが嫌だから理由を言わなかった、バイトがあるからと嘘をついたというのは何もおかしい所はない。

 

「…くそが」

 

 もっと食い下がってくると予想していたが、それに反してチャラ男は素直に引き下がった。小さく悪態をつき、すれ違い様に俺を睨んで、その場を去っていく。

 

 これは恐らく、俺の背後に昭久がいるというのが効いているのだろう。いや、実際に背後にいる訳ではないが。前にチャラ男が絡んできた時、俺にはキレ散らかしていたのが昭久が来た途端、大人しくなった。

 まあ昭久はこの大学の中でもトップカーストに君臨する超陽キャだからな。マジでこの世の中人脈って大事よ。

 

「で?」

 

「あ」

 

 昭久を友人とした先見の良さにホクホクしていた俺を、冷たい声が射抜く。

 

「私はいつ、柳君とクリスマスに遊びに行く約束してたんだっけ?」

 

「…」

 

 ニッコリと笑いながら、されど目は笑っておらず、四季ナツメ様はそう問い掛けた。

 

「いや…、うん。大変申し訳ございませんでした」

 

 とりあえず謝った。そうした方がいいと思った。しかし、四季さんは俺の謝罪に対して首を振って、口を開いた。

 

「謝る必要ない。むしろ、助かったのはこっち。ありがとう」

 

「…ん、ならよかった」

 

「でも、本当に焦った。いきなりあんな事を言われて、ギリギリだったんだからね?柳君の意図に気付いたの」

 

「それについては本当に申し訳ない。でも、打ち合わせなんて出来ないし、あのチャラ男を引き下がらせるにはこれしかないって思ったから…」

 

 四季さんが溜め息を吐く。ちょっぴり頬を膨らませる四季さんに、苦笑いが溢れる。

 

「それで?」

 

「は?」

 

 すると、四季さんが俺を見上げる。それで、と問い掛けられたのだが、どういう意味なのかさっぱり分からない。首を傾げて四季さんを見返す。

 

「クリスマス、どこに連れてってくれるの?」

 

「…は?」

 

 今度は分かりやすくなった質問に、それでも意味が分からず呆けた声が漏れた。

 

「えっと…、四季さん。それはあいつを追い返す方便であって、別に本気な訳じゃないんだが」

 

「でも万が一、嘘だってばれたら大変じゃない?」

 

「いや、それは…」

 

「ないって言える?」

 

「…」

 

 いやないだろ。内心ではそう思う。だが、そういう風に聞かれるともしかしたら、という気持ちも湧いてきて困る。

 しかし確かに絶対にばれないという保証はない。店には四季さんの知り合いの学生も何度か来ているし、もしその人達からクリスマスに四季さんが店にいた事が広まり、あのチャラ男に伝わったら。

 

「…クリスマスは忙しくなるだろうから、無理だろ」

 

「…そうね」

 

 だが、流石に無理だ。クリスマス当日は相当に混雑になると予想される。そんな中、店の責任者の四季さんをデートに連れていくとか、出来る筈がない。

 しかし─────

 

「だから、イブにしよう」

 

「え?」

 

「イブなら多分まだマジだろ。勿論、いつも以上に忙しくなるだろうけど、クリスマス当日程じゃない筈だ」

 

 クリスマスイブなら。勿論忙しくなるのは目に見えているが、それでもクリスマス当日程ではない筈。

 そう四季さんに言って、誘いを掛ける。

 

「…それなら、クリスマスイブに」

 

「あぁ」

 

 という事で、私、柳千尋はクリスマスイブに、四季ナツメさんと遊びに行く事になりました。

 

 …いや待って、本当にどうしよう。どこ行けばいいんだイブのデートとか。こんな事になるなんて全く考えてなかった。

 とりあえず…あれだ。高嶺辺りに相談だ。あぁ、昭久にもライムで聞いてみよう。それに女性側の意見も聞きたいから、仕事の合間に涼音さんにも聞いてみて─────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

~Another View~

 

「なぁ、昂晴…。あの二人って…」

 

「付き合ってはないぞ。…でも、まあ、お前も分かるだろ?」

 

「…ああああああああ!羨ましい!妬ましい!昂晴、お前俺に何か飲み物奢れ!」

 

「は!?何だよ急に!」

 

「相談に乗ってやった報酬を要求する!くそっ、俺もクリスマスデートしてぇよちくしょぉ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




チャラ男の名前誰も覚えていない説


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第四十三話





今回かなり短いです。
いや、文字数としては四千文字あるので丁度いいのか…?


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「という事で、二十四日は休みが欲しいんです」

 

 場所はステラの厨房、混雑する時間帯を過ぎ、来客が疎らになってきた頃、俺は涼音さんに話を切り出した。

 その話とは勿論、さっきも言った通りクリスマスイブに休みが欲しいという話だ。昼に起きた事についての話も添えて、涼音さんに休みが欲しいと頼み込む。

 

「…事情は分かった。いいよ、全然。何なら次の日も休んだって構わないけど?」

 

「いや、流石にそれは悪いでしょう。二十五日は普通に店に行きますよ」

 

「ふーん?…ま、その日は休んだり遅刻しても怒らないから安心して」

 

「…何か勘違いしてるみたいですけど、遊びに行くのはカモフラージュのためですから。別にそういう事をする予定はこれっぽっちもありませんから」

 

 涼音さんがニヤニヤと笑う。これはデートではない、と言い張るつもりはない。イブに男女二人で遊びに行く、こんなのデート以外の何物でもないだろう。だが、それ以上の行為をするつもりもない。だから涼音さんの言う通り、次の日の仕事に遅刻するなんてあり得ない。

 

 まあ、普通に寝過ごす可能性もなきにしもあらずなので、絶対ないとは言い切れないのだが。

 

「で?千尋君は女の子をどこに連れていくつもりなのかな?」

 

「その聞き方、厭らしく聞こえるので止めません?…いきなり決まった話なので、正直全く、候補すら思い付きません。考えてはいるんですけど」

 

 今の俺にとって、目下最大の問題はそこである。

 

 四季さんとどこに遊びに行くのか。

 先程言った通り、今のところ全く候補すら思い浮かんでいない。一瞬高嶺と同じ様に遊園地にしようかと考えたが、流石にないと切り捨てた。

 今日の相談に四季さんが来ておらず、且つ四季さんが高嶺と明月さんが遊園地に遊びに行くと知らずにいたならもう少しまともに考えていただろうが…、それでも多分、俺は遊園地に行くという選択はとらなかっただろう、こう、男のプライド的な理由で。

 

 しかし気楽に遊べそうな遊園地が選べないとなると割ときつかったりする。それに、ここから一番近い遊園地はクリスマスパレードが行われるため、デートする場所としてはかなり丁度いい施設なのだ。

 遊園地以外だと、ショッピングモールだろうか。あそこなら映画館などの娯楽施設もあるし、夜にはイルミネーションも行われる筈だ。だが、四季さんはよく買い物でそこに行っているし、何なら俺もよく利用している。

 デートをするにしては少し、何か物足りない気がしてならない。

 

「千尋は車運転できるんだし、近場に拘る必要はないんじゃない?」

 

「…確かに」

 

 そうか、徒歩圏内で考える必要はないのか。俺が免許持ってるって事をすっかり忘れていた。

 だが、それはつまりデートで使えそうなスポットについて調べる量も増大する事を意味する。イブは明後日だ。今日明日中に決められるだろうか。

 

「ちなみに、涼音さんはこの街周辺でやってるイベント知ってます?」

 

「車で二、三十分くらいかな?クリスマス限定のビアガーデンやってるよ」

 

「それアンタが行きたいだけだろ」

 

 涼音さんは頼れない。大体、そこに車で行くのだと分かって言っているんだろうかこの人は。

 やはり自分の力で何とかしなきゃダメなのだろうか。

 

「あと、ビアガーデンの場所とは逆だけど、同じくらい車を走らせた所で結構盛大にイルミネーションやってる所があるよ」

 

 そう思った矢先、涼音さんが別の案を提示してくれる。

 この人、最初からそっちを言ってくれたら素直に年上の大人として尊敬できたのに。ビアガーデンのせいで色々と台無しだよ。

 

 だがイルミネーションを見に行くのはクリスマスデートの王道だ。変に考えを拗らせるより断然いい案ではなかろうか。

 

「…その案貰いますね」

 

「あーい。頑張りな、青少年」

 

 涼音さんのエールを受けながら、イブの予定について整理する。その日は冬休み前の最後の大学の日で、俺の学科の講義は三限まである。講義が終わるまでどうするかは四季さんに任せよう。講義が終わるまで店で仕事をするか、それとも休んで部屋で待つか。

 どちらにしろ、講義が終わって部屋に戻り、荷物を置いたら車で四季さんを迎えに行く。そのまま真っ直ぐイルミネーションへ、というのは少しあっさりし過ぎな気がするから、映画でも見て時間を潰し、それからイルミネーションを見に行く事にしよう。

 

 イルミネーションを見てからはどこかで夕飯を食べて、後は四季さんを家に送って解散。うん、良いんじゃなかろうか。とりあえずこの案を四季さんに伝えて…、いや、こういうのは逆に伝えない方がいいんだろうか?

 

「…四季さんの反応を見て決めるか」

 

 デート計画を伝えるかどうかは四季さんの反応を見ながら決める事にする。どちらにしろ、四季さんにどこか行きたいと思う所があるのか聞くつもりだし、その流れで確かめるとしよう。

 

 後、残る問題は一つ。それについては明日、大学が終わってから一人でゆっくり考えるとする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お疲れさまでーす」

 

「うん、お疲れさま」

 

 仕事が終わって店の戸締まりをして、皆で挨拶を交わしてからそれぞれの帰路につく。自然な流れで俺と四季さんは並んで同じ歩道を歩く。

 

「今日は寒いね」

 

「今年一番の冷え込みだって言ってたな」

 

 街灯に照らされる道で、吐息が白く揺れて消えていく。まだ外に出て数分なのに、四季さんの頬が冷えて赤くなっている。

 

「でも、柳君は温かそうね」

 

「ぬくぬくだぞ」

 

「…ぐぬぬ」

 

 四季さんが恨めしげに見上げてくる。理由は間違いなく、俺の首に巻かれたマフラーだろう。ハッキリいって、かなり温かい。四季さんのコートは襟が立っていないタイプで、多分首もとから冷気が中に入り込んでいる。今日の冷え込みはきつい筈だ。

 

「…」

 

 少し考えてから、やっぱり止めようか、と思い止まり、しかしやっぱり放っておけず、俺はマフラーを首から外した。

 

「柳君?」

 

 突然マフラーを外した俺に戸惑う四季さんの首にマフラーを巻いてやる。といっても、軽く首に掛けた程度だが。流石にマフラーをちゃんと巻いてあげる度胸はない。

 

「─────」

 

「…嫌なら返せ」

 

 四季さんが目を丸くしてこちらを見上げる。我ながら臭い行動をしたのは自覚している。嫌でも恥ずかしさが胸の奥から湧いてきて、四季さんの顔を見られない。

 代わりに出てくるのは憎まれ口。

 

 四季さんがどんな顔をしているか分からない。気持ち悪く思われたりしてないだろうか。正直、繰り返しになるが我ながら臭い行動したのは自覚している。だが、四季さんが寒そうにしているのに、俺だけぬくぬく温かくしているのはどうしても我慢できなかった。

 

「うぅん、嫌じゃない。でも、いいの?」

 

「…部屋に着くまでなら」

 

「そっか。なら、お言葉に甘えて…」

 

 そんな俺の不安を他所に、四季さんが首に掛かった俺のマフラーを体の前で巻く。そして、四季さんは微笑みながら俺の顔を見上げて口を開いた。

 

「ありがと。凄くあったかい」

 

「…どう致しまして」

 

 マフラーを外してすぐだからか、俺の方は正直かなり寒く感じてるのだが、今の四季さんの笑顔だけで割に合っていると感じてしまう。こんな寒さを我慢するだけでこの笑顔が俺に向けられるのなら、いくらでも我慢してやろうと思えてしまう。

 どこまでも自分本意だった筈の俺がここまで変えられてしまうとは、相当の重症らしい。

 

「…そうだ。四季さんに聞きたい事があったんだ」

 

「ん?」

 

 胸の奥から涌き出てくる心地好い温もりに浸るのは僅か、我に返った俺は仕事中にて四季さんに聞こうと決めていた質問を思い出す。

 

「明後日の事だけどさ。四季さんはどこか行きたい所とかあるのか?」

 

 そう問い掛けると、四季さんは少しの間俺と目を合わせ、それから斜め上を見上げる。

 そうして、恐らく俺の質問について考えてから、もう一度俺の目と目を合わせて口を開いた。

 

「絶対ここに行きたい、っていう所はないかな…。柳君は?」

 

「俺の行きたい所…っていうか、一応、もう計画は立ててるんだけど…」

 

 四季さんの目が見開く。まあ、今日突然交わした約束だ。こんなにも早く計画が決まるなんて思ってなかったのだろう。

 俺も、下手をすれば当日に四季さんと相談しながら、というのも覚悟していた部分もある。だが、厨房の主、頼れる大人のお姉さんのお陰でその惨劇は免れた。

 

「そうなの?どこに行くつもり?」

 

「それなんだけど…。四季さんはさ、明後日の事について事前に知りたいか?それとも知らないでおいて、とっときたいか?」

 

「…」

 

 四季さんはキョトンとした表情のまま少し間を空けて、やがて口を開く。

 

「私、ドッキリとかあまり好きじゃないのよね」

 

「了解。じゃあ、明後日どうするかだけど─────」

 

 その一言でどうするべきかは悟った。俺は自分が立てた明後日のプランを説明する。

 何か四季さんからこうしたいという要望があればそれを取り入れるつもりだったが、四季さんは説明が終わるまで黙って俺の話に耳を傾けていた。

 といっても、一日中デートする訳でもなく、たった数時間程度のデートで出来る事なんて限られてくるから、そういう要望が出ないのは頷ける。

 

「イルミネーションって、隣街のよね?」

 

「あぁ」

 

 簡単に、一通り説明を終えると、四季さんがそう問い掛けてきた。その質問に頷いて答える。

 

「もしかして、イルミネーションは嫌か?」

 

「うぅん、そうじゃないの。ただ、友達がそこのイルミネーションが凄いって言ってたのを思い出したから。私も行ってみたいなって…、少し思ったし」

 

「…なら、決まりだな」

 

 四季さんから反対の意見は出なかった。という事で、明後日は俺が立てたプランでデートを実行する事となる。

 

 映画を見に行って、イルミネーションを見に行って、帰りに夕飯を食べる。どこも失敗する要素はない、強いていうなら見る映画のチョイスくらいだろうか?上映スケジュールによっては微妙なのを見る羽目になるかもしれないが、不安要素としてはそれだけだ。

 

 だが、俺にとってこれは人生で初めてのデートである。しかも、他の人の意見を取り入れたとはいえ、俺が立てた計画でデートを行うのだ。不安と緊張が胸に押し寄せる。

 

 しかし、それとはまた別に、楽しみでもある。好きな人と、それもクリスマスイブにデートできるのだから、当然といえば当然なのだが。

 

「…」

 

 横目で隣を歩く四季さんを見る。俺のマフラーを巻いた四季さんは、それから一言も寒いと発していない。どうやら、そのマフラーはしっかり役に立っているらしい。

 

 デートは二日後の明後日。不安と楽しみが入り混じった複雑な心境を抱えながら、視線を前へと戻す。

 四季さんはどうなんだろう。楽しみに思ってくれていたら、正直嬉しい。

 

 そんな事を考えながら、四季さんのアパートまでの道をゆっくりと、四季さんの歩調に合わせて歩くのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第四十四話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 12月23日、つまりクリスマスイブイブと呼ぶ人もいるその日の夜。今日は店が定休日でバイトは休み。その日、講義が終わってすぐにキャンパスを出た俺は辺りが真っ暗になった今までずっと外を歩き回っていた。

 目的は探し物、或いは買い物というべきか。どちらにしても、明日のために必要なものを探し回っていた。何を探し、買いに行っていたのかは、まあ明日が何の日かを考えればすぐに分かるだろう。

 

 そう、クリスマスイブ。そして四季さんと遊びに出る約束をした日。イブではあるのだが、やっぱり準備した方が良いと…というか、準備したいと思い、プレゼントを買いに行っていた。

 同年代の女の子にプレゼントなんて初めてだから何を買えばいいのかさっぱり分からず、まだ辺りが明るい時刻に講義が終わったにも関わらず帰りが大分遅くなってしまった。

 

 綺麗に包装された四季さんへのプレゼントをテーブルに置いて、着ていたコートを脱ごうとして、ふと目に入った時計を見て動きを止める。

 内心で自分に呆れてしまう。そりゃ疲れる筈だ。講義が終わってから今、八時までずっと歩き回っていたのだから。といっても、帰りに夕飯を食べてきたから、その影響も少なからずあるのだが。

 

「…」

 

 スマホをとって、電源を入れる。親指で画面をタップし、ブラウザを開いて明日の天気を調べる。

 明日の美和市周辺は一日中晴れの予報だった。降水確率0%、絶好のデート日和といえるだろう。

 

「デート、ね」

 

 つい口の端が笑みの形を描く。たった二ヶ月。そんな短い間で、随分と周りを取り巻く人間関係が変わったものだ。

 ほぼ毎日のようにバイトに行くようになり、親しい友人が増え、挙げ句愛しい人が出来た。

 

 最初に高嶺に出会ってからこうも変わっていくとは、以前の俺に話しても絶対に信じようとしないだろう。そんな筈ないだろう、と笑い飛ばすに違いない。未来の俺を見て、夢でも見たんだろ、と馬鹿にしながら言うに決まっている。

 

 しかし夢じゃない。これは全部現実だ。俺は今、本当に恋をしている。この恋を叶えたいと願っている。

 

「…そういや、あいつはどうなったんだろ」

 

 明日のデートに思いを馳せていると、ふと今日デートの予定だった筈の二人を思い出す。もう解散しているだろうか。いや、もし高嶺の告白が成功していたら、まだ二人で過ごしている可能性は大いにある。

 二人のデートがどうなったかは大いに気になる。気になるが、もしそうだった場合、連絡をすれば間違いなく邪魔になる。

 

 しかし気になる。近しい友人二人がデートをして、しかもその友人の一人が告白をすると宣言していて。そんな二人がどうなったのか気にならない筈がない。

 

「?」

 

 やっぱり高嶺にライムを入れて聞いてみよう、そう決意をした時だった。スマホから通知音が鳴る。すぐにライムを立ち上げて受信したメッセージを確認する。

 

「四季さん?」

 

 そのメッセージの送信者は四季さんだった。会話画面を開かなくとも全文が読める短いメッセージ。

 

 画面には、“高嶺君から聞いた?”と書かれていた。

 

 聞いた、とは一体何の事をいっているのか、大方の予想はついている。四季さんも俺と同じく、昨日高嶺から相談を受けた一人だ。恐らく、高嶺と明月さんのデートがどうなったのか、高嶺の告白は成功したのか、そもそも高嶺は告白できたのか。等の意味が込められていると思われる。

 

 “聞いてない”

 単純に一言で返信する。直後、流石に淡白すぎると思い、続けて“四季さんは?”ともう一言続けてメッセージを送信する。

 

 返信はすぐに来た。そのメッセージを見て、他人の事だというのに、俺自身もショックを受けたのをすぐに自覚した。

 

 “ダメだったって”

 四季さんからの返信はまたも短いメッセージで、そう送られてきた。

 何がダメだったかなんて、考えるまでもない。要するに高嶺はフラれたのだ。

 

 “明日、どうしようか”

 四季さんから続けてメッセージが送られてくる。このメッセージもまた主語がなく要領の得ないものだったが、当事者である俺には分かる。

 

「…マジでどうすんだ」

 

 明日、クリスマスイブ、つまり四季さんとのデートの日だ。正直な話、明日が待ち遠しいという気持ちに完全に水を刺された。

 こういう言い方をすると高嶺が悪いみたいな風に聞こえるかもしれないが、勿論そんな事は微塵も思っていない。

 

 ただ、親しい友人が失恋をした他所でデートをするというのはどうしても気が乗らない。

 きっと四季さんも同じ気持ちなんだと思う。いや、四季さんは俺と違って優しいから、俺以上に心を痛めているかもしれない。

 

 そんな気持ちでデートをして、果たして楽しめるのだろうか。

 

「…無理だろ」

 

 俺は多分、割り切れる。俺は俺、高嶺は高嶺と割り切れる。だが四季さんは多分無理だ。そんな風に割り切れない。

 四季さんは優しいから、割り切る事が出来ない。そんな状態でデートをしたって、楽しめない。

 

 それならば、今からでも中止にした方が良いのではなかろうか。

 

「─────」

 

 ライムの通知音が鳴る。四季さんからか、と思って画面を見るが、開いている四季さんの会話画面にメッセージは追加されていない。

 ならば誰がメッセージを送ってきたのか。一つ前のページ、ホーム画面に戻して誰からのメッセージかを確認する。

 

「…高嶺」

 

 一番上に名前があったのは高嶺だった。そこをタップして高嶺との会話画面を開く。

 

「バカだろ。他人の心配してる場合かお前は」

 

 画面を見て、つい笑みを溢す。そこには、高嶺からのメッセージが書かれていた。

 

 “俺を気にして明日のデートを中止にしたら許さないぞ”

 

 本当にバカかあいつは。ショックだろう?悲しいだろう?悔しいだろう?なのに、他人の心配なんてしてんじゃねぇ。

 高嶺のお人好しぶりに色んな感情を通り越して笑っていると、俺が返信を返す前にもう一通、高嶺からメッセージが届いた。

 

 “俺はまだ諦めるつもりはない”

 

 そのメッセージを見てつり上がった頬が戻る。

 それは、愚かな一人の男の無意味な決意。そして、その決意をさせたのは、きっと諦めるなと言葉を掛けてしまった俺なのだろう。

 

 “どれだけ短い時間だろうと、その時が来るまで明月さんと一番濃い関係でいたい”

 

 あぁ、何と愚かしい。残された時間は限りなく少ない、それを分かった上でとった高嶺の選択を、以前までの俺ならば笑い飛ばしていただろう。

 止めておけと、馬鹿らしいと。諦めずたとえ想いが遂げる事が出来たとしても、どのみち結末は変わらない。むしろ想いを遂げてしまった方が、その結末によって刻まれる傷は深くなる。

 

 “それでも俺は、明月さんと一緒にいたい”

 

 高嶺の決意は固かった。自身がどれだけ愚かか、それを自覚しながらも、今愛する女性に想いを届ける事を選んだ。

 

「…そうか」

 

 友人の大きな決意を目の当たりにして、まさか俺が尻込みする訳にはいかない。高嶺との会話画面を閉じて、再び四季さんとの会話画面を開く。そして一言、短いメッセージを入力して送信する。

 

 

 “いや、行こう”

 

 “俺は四季さんとデートしたい”

 

 何の誤魔化しもない俺の本心を載せて送信したメッセージにすぐ既読がつく。

 

 四季さんにも高嶺から、一部省いた箇所はあれど同じ内容のメッセージは届いていたと思われる。

 それでも─────

 

 “わかった”

 

 “私も柳君とデートしたい”

 

 四季さんから返ってきたメッセージは、俺の心を舞い上がらせるのに十分な威力を持っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 三限目の講義が終わる時間を知らせるチャイムが鳴り響く。その音を聴いた講師が話を止め、今日はここまでと口にして講義の終わりを告げた。

 

 直後、一斉に同じ室内にいる学生達がそれぞれ行動を始める。周りの友人と会話を始める者、机の上の資料を鞄に仕舞う者、主に分けるとすればこの二種類。俺は当然の如く後者だ。

 今日は12月24日、クリスマスイブ。今は店で仕事をしているか、或いはそろそろシフトを抜けて準備を始めているかしているだろう四季さんとの約束がある。

 

「おいおいどうした、いつにも増して急いで」

 

 明久から声が掛けられるが、すぐには返事を返せなかった。この後、四季さんとデートをするという事で頭が一杯で、明久からの言葉を理解するのが僅かに遅れてしまった。

 

「今日もバイトだろ?何か急ぎの仕事でもあんのか?」

 

「いや、今日は休み貰ってる」

 

「は?」

 

 鞄に資料を全部仕舞い終わってから、椅子の背もたれに掛けていたコートに腕を通す。

 

「休みって…、珍しいな。ワーカーホリック疑うほど働きまくってたのに」

 

 ワーカーホリックは言い過ぎだ、と口に出してツッコめないのが地味に痛いところだ。実際、バイトとはいえ週六出勤してる人がいれば俺だってワーカーホリックを疑う。そんでメンタルカウンセリングを勧める。

 

「約束がある」

 

「約束?」

 

「あぁ、それじゃ俺急ぐから」

 

「あ、おいっ」

 

 体の前のファスナーを閉め、鞄を持って友人達から離れる。背後から聞こえてくる声を無視して、講堂を急ぎ足で出た。

 

 

 

 

 

 

 

 

~Another View~

 

「何だよあいつ、あんな急いで」

 

「約束って、今日にか?」

 

 言ってから、男二人で顔を見合わせる。少しの間そうして視線を交わし続けてから、二人は同時に笑い出す。

 

「ははははははは、ないない!柳に限ってそれはない!」

 

「だよな!あんな女っ気の欠片もない奴がイブにデートとか─────」

 

「そうそう!イブにデートなんて─────」

 

 笑い合っていた二人が同時に言葉を止める。目を見開き、わなわなと唇を震わせ、もう一度二人で顔を見合わせる。

 

「女っ気の…欠片も…」

 

「…あ、ある。あるぞ、おい…」

 

 顔を真っ青にしてガタガタ震えながら、二人はゆっくりと同じ方向に視線を向ける。

 視線を向けた方にいるのは、二人よりも奴と親しく、奴の事情を深く知っているであろう、草野昭久だ。

 

「いや、悪いが俺も知らん」

 

「草野、嘘を吐けばたとえお前でも刺し違える覚悟はあるぞ」

 

「怖ぇよ、てか知らん。マジで知らん」

 

 昭久ならば知っているのでは、と期待するもその期待は外れる。昭久は本当に何も知らないらしい。

 

 だが昭久は今日の事について知らずとも、二人よりも更に深い事情を知っている事には間違いないのだ。

 

「でもあいつ、最近四季さんと更に親しくなってるっぽいぞ」

 

「…は?」

 

「だから、今日四季さんとデートしてても不思議じゃないと俺は思う」

 

「「─────」」

 

 昭久のその言葉に、二人はギギギ、と機械染みた動きで昭久から視線を外し、三度互いに顔を見合わせる。

 そして、同時に一度、頷き合った。

 

「ぎるてぃ」

 

「しけい」

 

「しっこうゆうよなし」

 

「じょうこくはききゃくします」

 

「…どうでもいいけど、俺も彼女と約束あるから先帰るわ」

 

「がああああああああああきさまあああああああああああ!!!」

 

「喧嘩してたんじゃなかったのか!?あぁ!?」

 

「んなのとっくに仲直りしたわ。て事で、んじゃ」

 

「ち…ち、ちくしょぉぉぉぉがぁぁぁぁああああああああああ!!!」

 

「おい、今日は飲むぞ!飲まなきゃやってらんねぇ!!!」

 

 人が少なくなってきた講堂内で、モテない男の悲しい雄叫びが響き渡る。

 

 そんな悲しい二人を背後に置き去りにして、昭久もまた足取り軽く講堂を出ていくのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…?」

 

 建物から出たところで何か聞こえた気がして足を止めて振り返る。視線を向けた先には特に何もなく、ただこちらを気にせず歩く学生の往来があるだけ。

 彼らの話し声が耳に入っただけだと結論付けて、視線を前に戻して足を動かし走り出す。

 

 アパートから大学へ行く際のルートを逆に辿り、最短時間でアパートに着く様に努める。駆ける足は止めず、信号待ちの時間を休憩代わりに、アパートへと急ぐ。

 この道をこんな風に走るのはいつ以来だろうか。大学に遅刻ギリギリに行くなんて記憶になく、もしかしたら以来どころか、ない可能性だってある。まあそんな事はどうでもいいのだが。

 

 バイトを始めてからほとんど見なくなった景色もアパートに近づく毎に馴染み深い景色に変わっていく。

 交通安全の旗が立てられた交差点を左に曲がってすぐの所にある建物の前で足を止め、扉を開けて中に入る。階段を駆け上がり、二階の扉の鍵を開けて部屋の中へ入る。

 

 靴を脱ぎ、玄関から俺の部屋に入って最初にしたのは車のエンジンを掛ける事だった。そのまま車の鍵をポケットに入れて、大学に持っていった鞄から財布とスマホを取り出す。そして忘れず、PCデスクの上に置いていた四季さんへのプレゼントを忘れず持ち、一度鏡で自分の姿を確認し、走って乱れた髪型を直してからすぐに部屋を出る。

 

 部屋の鍵も忘れず掛けて、階段を降りて外へ、駐車場に停めてある車の鍵を開ける。四季さんへのプレゼントをグローブボックスに入れて、運転席に腰を下ろす。

 車内はあらかじめエンジンを掛けておいたお陰か、僅かな時間だったとはいえ心なしか温かくなっている気がする。

 

 車のエンジンを掛けてセレクトレバーをドライブに、そしてサイドブレーキを下ろしてから車を発進させる。

 

 普段は歩道を歩き、ゆっくり流れる景色があっという間に流れていく。アパートから店まで十分ほど、車では五分と経たずに店へと着いてしまった。

 

 前方に小さく見えてくる白い建物。そして、その前に立つ誰か。

 その人が誰なのか、ハッキリと見えてくる前に分かってしまう。

 

 その人がこちらに目を向ける。それと同時にブレーキレバーに足を掛けて力をゆっくり込める。

 車は次第に減速していき、やがてこちらを見ていたその人の前で止まる。

 

 助手席の窓越しにその人と目が合う。その人は瞳に僅かに緊張を込めながら俺を見ていた。

 

 見つめ合った時間は数秒、すぐにガチャりと扉が開かれ、その人が車内に乗り込んでくる。

 

「お邪魔します」

 

「邪魔じゃないから」

 

 妙に畏まった挨拶と共に助手席に座ったその人、四季さんに苦笑いしながら、短く返事を返す。

 

 クリスマスイブの日。四季さんとのデートの始まりは、やや締まらなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




次回から本格的にデートの話に入っていきます


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第四十五話






二部構成の予定が三部構成になりそうなデート話、始まります。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 四季さんを乗せて車を走らせる。発進の直前、店の窓に見えた数人の人影は見なかった事にしておく。あれは気にしたら負けだ。自分にそう言い聞かせながら、アクセルを少しずつ踏み込んでいく。

 

「…」

 

 横目で助手席に座る四季さんを見る。大人っぽい服装をした四季さんは黙って前を見ている。その表情が緊張で固くなっているのはすぐに分かった。

 思えば以前、皆で行った焼き肉の帰りでもこんな顔をしていた気がする。だがあの時よりも今の四季さんの方が固くなっている気がする。

 

「何緊張してんだよ、四季さん」

 

 意識して明るく、からかっている風に聞こえるよう努めて四季さんに声を掛ける。

 すると四季さんは小さく体を震わせた後、僅かに赤く染まった顔を向けてこちらを見上げた。

 

「緊張なんてしてないっ」

 

「それにしては口数少ないじゃん」

 

「…」

 

 言い返す言葉が見つからなかったか、不貞腐れた風に四季さんがそっぽを向く。その姿を見て自然と笑みが溢れる。

 

 いつもはクールな四季さんだが、時おり見せる子供っぽさがとても微笑ましい。普段の大人っぽい姿とのギャップは、ステラで働いている四季さんと近しいメンバーでしか見れないものだ。

 そのギャップを今、俺は独占している。我ながら気持ち悪いと自覚しているから当然口に出すつもりはないが、正直可愛いすぎる。

 

 ─────本当に気持ち悪いな、俺。それに、四季さんの口数が少ないのはきっと、緊張しているからだけじゃない。

 

「高嶺の事を気にしてるんだろ」

 

「っ─────」

 

 小さく息を呑んだ声が聞こえた。そっぽを向いた四季さんが再びこちらを向く。

 

「正直さ、俺も昨日四季さんに今日どうするか聞かれた時、中止にすべきかって頭過った」

 

「…」

 

 四季さんは黙って俺を見上げたまま耳を傾けている。俺は赤になった信号機の前で車を止めてから続ける。

 

「でも、四季さんにも届いただろ?高嶺からのライム」

 

「…うん」

 

 少し間を置いてから、四季さんは俺の問い掛けに頷いた。その頷きを見て、更に続ける。

 

「高嶺はまだ諦めてない。なのにあいつに対して気を病むのはあいつに失礼だ。そう思わないか?」

 

「…」

 

 フラれたとはいえ、高嶺自身が諦めていないのならそこで終わりじゃない。まだ結末は決まっていない。

 だというのに、フラれた事にだけ目を向けて気に病むのは、高嶺に対する侮辱ではなかろうか。

 

「そう、かもね」

 

「だろ?だから今日は高嶺がフラれた事なんか忘れてパーっと楽しむべきだ」

 

「そこは柳君次第かな。あんまりつまらなかったら途中で帰るから」

 

「やめろやめろ、プレッシャーを掛けてくるな」

 

 いつもの調子を取り戻した四季さんにプレッシャーを掛けられ思わず苦笑する。

 

「大体俺次第って、今日何するかは四季さんも知ってるだろ」

 

「これから見に行く映画のチョイス、その後行くイルミネーションがどうなのか。それ以外にもふとした時の仕草とか、女の子は見るものよ?」

 

「終わりじゃん。自信失くした」

 

「諦めるなよ」

 

 軽いノリで話す四季さんに、もうさっきまでの暗い空気はなかった。これならもう大丈夫だろう。

 

 車通りの多い国道沿い、最初の目的地であるショッピングモールの駐車場に車を入れる。

 クリスマスイブという事でかなり混雑しており、俺達以外にも空きスペースを探して車を走らせる人達は多くいた。

 しかし幸運にも駐車場に入ってから数分と経たず、丁度通りかかった所で一台の車が発進してくれたお陰で、入れ替わりで車を駐車する事が出来た。

 

 エンジンを止めて車を出て、四季さんと並んで駐車場を歩き、建物の中へと入る。

 映画館がある五階にエスカレーターを使って上がり、店が立ち並ぶエリアとは雰囲気が違う場所へ足を踏み入れる。

 

「だいぶ混んでるわね」

 

「…事前に何見るか決めて予約すべきだったか」

 

 映画館には大勢の人達が集まっていた。家族で、或いはカップルで、はたまた友人同士で。とりあえず、一人で来ている人はいなかった事だけは言える。多分。

 これだけ人数がいると、二人分の席がとれるか不安になってくる。

 

「さて、と。じゃあ、何を見ようか─────」

 

 しかし今さら後悔したって遅い。幸いこの建物内には映画以外の娯楽もある。そっちも混んでいるだろうが…、とにかく席がとれなかったら、違う場所を覗きに行けば良い。まさか全部の施設が一杯で遊べない、なんて事はないだろう。多分。

 

 そう思い、本日上映される映画とそのスケジュールが載った掲示板に書かれたとある一点を目にして、動きを止めた。

 

 ─────リベンジャーズ…だと…?再上映してたのか!?知らなかった…!

 

 リベンジャーズとは、アメリカで連載されていた漫画を原作とした大人気ヒーロー映画である。現在まで三編上映されていて、掲示板にはその中の最初の話、第一部目のタイトルが書かれてあった。

 

 ハッキリ言おう。見たい、超見たい。一度映画で見た事はあるし、何なら部屋に現在まで上映された三部分のブルーレイディスクはある。

 だが、見たい。何故なら─────

 

 ─────でかいスクリーンと迫力満点の音響を味わいたい!

 

 からだ。家で見るのと映画館で、大きいスクリーンで見るのとはその後の余韻がまるで違う。だからこそ、この再上映は絶対に見逃したくない。だが─────

 

 

 ─────それは、今日じゃない方が良いんじゃないか。

 

 俺一人で来ていたなら迷わず選んでいたが、そうじゃない。今、俺の隣には好きな女の子がいる。

 

「四季さんは何が見たい?」

 

 だから、欲望に従って流されようとする心を律し、隣の四季さんに質問する。

 四季さんは一度俺の方を見てから掲示板へと目を向け、んー、と声を漏らしながら今日上映される映画達の一覧を見通す。

 

「…これかな?」

 

「っ─────」

 

 やがて、四季さんはあるタイトルを指差す。

 

 その映画のタイトルは、“リベンジャーズ”。

 どくん、と心が高鳴る。これで憂いなく見たい映画が見れる、と。そんな浅ましい欲が表に出そうになる。

 

「…四季さん」

 

「ん?」

 

「俺に気を遣ってるんなら、やめてくれ」

 

 だが、こちらをどこか微笑ましげというか、優しげに見る四季さんの顔を見て我に返る。

 どうやら俺の内心の気持ちは見抜かれていたらしい。何故分かったという疑問が湧くが、まあそこはいい。問題はこれから見る映画が、本当にそれで良いのか。四季さんは本気でこれを見たいのかだ。

 先程言った通り、俺に気を遣ってそう言っているのなら、それは無用な気遣いだ。四季さんの気持ちを無視してまで見たいなんて思っていない。

 

 そう考えてその台詞を口にしたが、四季さんは笑顔をそのままに口を開いた。

 

「柳君も私に気を遣ってくれたじゃない」

 

「は?…いつ?」

 

「車の中で。高嶺君の事を考えてた私に」

 

「─────」

 

 四季さんの返答は全くもって予想外のものだった。思わず言葉を失くし、しかしすぐに気を取り直して返事をするべく口を開く。

 

「あれは別に気を遣った訳じゃない」

 

「ふーん?じゃあ、私も柳君に気を遣った訳じゃないから」

 

「いや、じゃあって」

 

 返し方がおかしい。その返し方だと、本当に俺に気を遣ってるみたいじゃないか。

 いや、みたいじゃなくて事実気を遣ってたのか。それもそうか。デートで、それもクリスマスイブに派手なアクション映画見るとか、いるかもしれないが少数派だろう。

 

「でも、柳君はこれを見たいんでしょ?」

 

「…まあ、見たい」

 

「なら見よう?正直私も、恋愛ものよりもこういうものの方が好きだし」

 

 そう言って、四季さんは俺のコートの袖を掴み、券売機の方へ足を向ける。

 四季さんに引かれるまま、俺も券売機の方へと歩き出す。結局その後、俺と四季さんは二人で“リベンジャーズ”を見る事となった。

 

 最初、券と飲み物を買って席に座った時は、本当に申し訳なさで一杯だった。四季さんを楽しませたいと思っていたのに、どうしてこうなったのか。申し訳なさの後に、情けなさが湧いてきた。

 

 だがそれも、物語が始まり、進む毎に薄れていった。物語に、役者の演技に、ド派手なアクションに一気に引き込まれていく。

 

 ─────映画が終わったら四季さんにお礼言おう。

 

 物語はクライマックスシーン。遂に主人公とライバルの因縁のバトルが始まる直前、ジュースを飲もうと、手をカップの方へと伸ばした。

 直後、俺の手に当たる、温かくも柔らかな感触。

 

「っ─────」

 

 それが四季さんの手だと即座に分かった。驚きすぐに手を引き、画面に向けていた目を隣の四季さんの方へ向けた。

 

「…」

 

 結論から言うと、四季さんは俺の手が当たった事に全く気付いていなかった。スクリーンにとられた目は輝き、興奮しているのか僅かに頬が赤らんでいる。

 

 会場内で響き渡る金属音。スクリーンでは主人公とライバルが剣をぶつけ合い、戦いを繰り広げるシーンが映し出されていた。

 

 ─────なんだそりゃ。

 

 四季さんの横顔を見ながらつい笑みを噴き出す。映画を見る前は、俺に気を遣ったとか、恋愛映画よりは、とか言ってたくせに、メチャクチャ楽しんでるじゃねぇか。

 

 スクリーンにはこの物語の目玉である最後のバトルシーンが、俺も最初に見た時は目を奪われ他の何事も考える余地がなかった程の絵が映されている。

 しかし、今の俺にはそれよりも意識が奪われるものがあった。

 

「っ!」

 

「…」

 

 主人公が高所から落ちそうになったシーンで、四季さんの体がびくりと震える。その表情は緊張に満ちていて、これからどういう結末を迎えるのかという不安に濡れていた。

 

「ぁっ…!」

 

 隣にいた俺の耳には届いた、僅かに漏れた四季さんの声。今、何とか片手で繋ぎ止めていた主人公の体が空中に投げ出された。

 

「あぁっ…!」

 

 それだけじゃない。主人公は眼前のライバルを道連れにしようと腕を伸ばし、そのまま引きずり込む。そのまま二人はきりもみしながら落ちていき、そして─────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 映画が終わり、劇場を出る。その間、会話はなかった。しかしそれは気まずいとか空気が悪いとか、そういう理由からではない。

 

「四季さん」

 

「ん?」

 

「面白かった?」

 

「すっごく面白かった」

 

 興奮冷めやらぬといった様子で四季さんがこちらを見る。劇中の時から分かってはいたが、かなりお気に召したらしい。

 四季さんって、こういう映画好きだったのか。いやでも、見る前の様子からしてアクション映画は趣味じゃなさそうだったな。

 

 つまり“リベンジャーズ”が偉大だという事か。

 最後に思考停止すんなとかいう声が聞こえる気がするが、知らん。“リベンジャーズ”は神、以上。

 

「アクション映画ってあまり見た事なかったけど、これは凄く面白かった。シリーズ物って知ってるのに、最後主人公が死んじゃうんじゃないかってドキドキしたし」

 

 まあシリーズ物でも主人公が死んで、次回作で新しい主人公が出てくるっていう作品はあるから四季さんのそのドキドキは断じておかしいものではない。

 大体俺なんか何度も見てるのにラストシーンは普通に興奮するし。今日はちょっと違う事に気を取られてたけど。

 

「柳君も満足した?」

 

「え?」

 

 映画のラストシーン辺りの自分の行動を思い出し、内心苦笑いしていると、四季さんに声を掛けられる。

 全く違う事を考えていたせいでつい驚いてしまい、疑問系で聞き返してしまった。

 

「え、じゃなくて。これ、柳君が見たいって言ったから見たんだけど?」

 

「…俺は見たいなんて言ってないし」

 

「顔が言ってたの」

 

 どんな顔してたんだよその時の俺。多分、相当分かりやすい顔をしていたんだろうな。

 

「もしかしてつまらなかった?」

 

「そうじゃないさ。家で見るのとは全然迫力が違ったし、面白かった。ただ…」

 

「ただ?」

 

「…いや、何でもない。忘れてくれ」

 

 危ない。ついとんでもない事を口走る所だった。

 危うい所で言葉を呑み込み歩くペースを少し上げる。

 

「あ、ちょっと。ただ、何?」

 

 しかしすぐに四季さんが追い付いてきて、俺が言い掛けた事について食い下がってくる。

 

「忘れてくれ」

 

「あんな言い方されたら気になるでしょう」

 

「それでも忘れてくれ」

 

「柳君」

 

「なんだ」

 

「言って」

 

「やだ」

 

 どれだけ食い下がってきても言うつもりはない。言える筈がない。

 

 映画が面白かったのは本当だ。だけど最後の方、楽しそうにする四季さんばかり見ていて、クライマックスを見逃した。

 

 なんて、言える筈がないじゃないか。恥ずかしすぎる。

 

「柳君」

 

「言わないぞ」

 

「…」

 

「言わないぞ」

 

「…はぁ、分かったわよ」

 

 不満げにしながらも引き下がる四季さんに、内心で安堵の息を漏らす。

 確かに俺もあんな言い方をされれば気になっていただろうし、四季さんの気持ちも分かるのだが、それでも無理だ。四季さんにだけは絶対に言えない。

 

「すまん。何か奢るから許してくれ」

 

「…私、そんなチョロいつもりはないんだけど」

 

「ならいらないのか?」

 

「…四階にある喫茶店のパフェ。それで許してあげる」

 

「仰せのままに」

 

 チョロくないと言いながら、結局食べ物で許してくれる四季さんの優しさに感謝しながら、映画館を出た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第四十六話






三部で収まるか不安になってきたデート回の二話目です。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 四季さんの要望通り、施設内の喫茶店にてパフェを奢り、四季さんが完食した後すぐに店を出る。

 ちなみに当然だが、パフェはほとんど四季さんが食べた。半分ずつとか、俺もパフェを頼んだという事はしなかった。しかし、四季さんからパフェに乗せられたイチゴを一個だけ貰えた。普通に美味しかった。

 

 喫茶店からエスカレーターで一階へと降り、外に出て駐車場へ。

 まだ六時前だが、日が落ちる時間は随分と早くなってしまい、すっかり辺りは暗くなっていた。

 

 四季さんと車に乗り込み、エンジンを掛ける。シートベルトを締め、四季さんもシートベルトを締めた事を確認してから周囲に人がいない事を確かめ、車を発進させる。

 駐車場から施設の敷地から出て、国道を走る。平日とはいえクリスマスイブ、車通りは多く、思ったよりも車の流れが悪い。これは少し、予定よりも到着が遅れるかもしれない。

 とはいえイルミネーションが終了する時刻まではまだまだ余裕がある。ルートを変更したりと無理して急ぐ必要はない。どうせなら、このままのんびり流れのままこの時間を楽しむ事にしよう。

 

「柳君って、よく車は運転するの?」

 

 さて、どんな話題で話を切り出そうかと考え始めた時、四季さんが先に口を開いた。ハンドルを握りながら一瞬、横目で四季さんを見る。助手席に座る四季さんは運転する俺の顔を見上げていた。

 

「ステラでバイトする前は結構乗り回してたな。連休に一人で泊まり掛けで遠くまで行ってたりもした」

 

「泊まりで?柳君って結構アウトドア派なんだ」

 

 ステラでバイトをするまではかなり車に乗ってる時間は多かった。バイトを始めてからは一気にその時間は減ったが、それでもたまに、無性に遠くまでドライブしたくなる時がある。

 サービス業は普通に祝日も仕事だからな。定休日も平日で、大学がある。半日もない時間でなかなかドライブには踏み切れない。

 

「そういえば、年末年始ってどうするんだ?何日か店を閉じるとは聞いたけど」

 

 休みの日について考えていると、ふと思い出す。クリスマスが終わればすぐ年末だ。四季さんと直接話した訳ではないが、年末年始は数日店を閉じるという話は俺だけでなく皆が知っている。しかし、いつからいつまでという詳しい事まではまだ教えてもらっていない。

 

 その事が気になり、四季さんに問い掛ける。

 

「三十日から休みっていう話になってる。ただ、いつまで休みにするかまでは…」

 

「…一週間くらいか?」

 

「それくらいかなとは思ってるんだけど…。ただ、あんまり長く店を開けないと、お客さんが離れちゃいそうだし…」

 

 開いたばかりの店を預かる責任者として、その心配は自然なものといえよう。実際、年末年始の休みを経て客足が減ったという話は耳にした事がある。

 

「いや、その心配はいらないんじゃないか?」

 

「え?」

 

 しかし、ステラの客足はオープン当初から変わらないどころか、ここまで次第に増えている。早くも常連のお客もついているとも聞いている。俺は厨房にいるせいでフロアの様子は見れないため、話を聞くまで知らなかったが。

 

 ここまで好調なら、長くとりすぎるのはどうかとも思うが、一週間程度なら全然問題ない気もする。

 

「それに、あれだ。うちの親がやってる店は三週間休んでるし」

 

「さ、三週間!?」

 

 四季さんが驚くのも当然だ。イギリスで店を切り盛りしている両親は、毎年年末には日本に帰ってくるのだが、一週間は滞在する。両親が店をオープンしたその年に、一度店は大丈夫なのかと聞いた事がある。

 その時に返ってきた答えが、これだ。

 

『うちの店を好きになってくれた方は、それでも来るよ』

 

 何の疑いもなく、ハッキリとそう言い切っていた。

 まあステラと両親の店は立地の条件がまるで違う。ステラの周辺は多く人が住む土地だが、両親の店はそうじゃない。街と街を繋ぐ国道沿いにポツンと建っている、そんなお店だ。

 

 その事を四季さんに説明してから続ける。

 

「だから、親の方針を真似しろっていう訳じゃないんだが…」

 

「…うん、分かってる」

 

 四季さんに聞いてほしかったのは、俺の質問への両親からの返答。それはステラにもいえる事だ。

 喫茶ステラという店を好きになってくれたなら、また来てくれる。まあ、三週間休みはどうかと思うが。

 

「…そうね。うん。明日、閣下と相談して結論出す」

 

「結論出たら俺にも教えろよ。ホームページに年末年始についての報告あげるから」

 

 この話題について一段落つく頃には、ゆったりだった車の流れは変わり、普通に走れる程度にまでなっていた。

 

「話は変わるけど」

 

「ん?」

 

 スムーズに車を走らせていると、四季さんが再び話し掛けてくる。今度は四季さんの方は見ずに前を見たまま、短い返事を返して続きを促す。

 

「柳君のご両親って、今年も来るの?」

 

「…」

 

「え、何でそんな嫌そうな顔になるの?」

 

 さっき、毎年日本に来ると言ったからか、四季さんにそう問い掛けられ、俺は実感させられる。

 そうか。いつも通りなら、そろそろ来るのか、あの万年新婚気取りバカ夫婦が。

 

「もしかして、ご両親と仲悪い…?ご両親が外国にいるのも…」

 

「あぁいや、そうじゃない。別に親と仲悪い訳じゃないし、俺も親を嫌ってるとかじゃないんだ。ただ…」

 

 むしろ、四季さんが言っている事とは逆だ。俺は両親に感謝している。

 ()()()()()()()()産まれた俺を気味悪がらず育ててくれた。今も、俺の事を心配してたまに連絡をとってくる。そんな親を、嫌いになれる訳がない。

 

 ただ─────

 

「あの二人、何といえばいいのか…。仲が良すぎるというか、バカというか…」

 

「?仲が良いのは良いことじゃない?」

 

 要領を得ない、ハッキリと言葉にできない様子の俺を見て四季さんが首を傾げる。いやまあ言う通り、両親の仲が良いに越した事はないのだが、それが過ぎれば、それは良くない事を起こすのだ。

 

「四季さんには分からないよ。あの部屋で、俺がベッドで寝てるその傍でおっぱじめられそうになった俺の気持ちなんて」

 

「…は?お、おっぱじ…!?」

 

 あぁ、今思い出しても心が死にそうになる。事件はそう、俺が大学に進学してから最初の年末にて起きた。

 両親が俺の様子を見に俺の部屋に来て、一週間ほど滞在したあの時。事件が起きたのは、両親が来てから五日目だった。

 

『ちょっと、ちーちゃんが起きちゃう…』

 

『大丈夫さ。千尋は一度眠ったらそう簡単に起きないから』

 

『もう…。家に帰るまで我慢できないの?』

 

『出来ない』

 

『…バカ』

 

『バカはてめぇらだろ』

 

『『うわぁぁああああああああああああ!!!?』』

 

 あの時は両親への深い感謝の気持ちも忘れ、ひたすらに二人を罵倒した。バカという言葉を今まで生きてきた中で最も多く使った。そして、絶対にこのバカ夫婦の様にはならないと誓った瞬間だった。

 

「えっと…、それは、その…」

 

「その次の年来た時はさ、あれは何日目だったか…。今日はホテルに泊まるから、て連絡来たんだよ。ふざけんな、何で俺はこんな思いをしなきゃいけないんだ。あー今思い出しても鳥肌が─────」

 

 あの生々しさを思い出して寒気が止まらない。車内は暖房で温かいのに何でなんだろうな、ははは。

 

「ごめん。柳君、本当にごめん」

 

「あははは、仲悪いよりはマシだって割り切ってるから大丈夫さ。アハハハ」

 

「分かった。柳君が大変だった事はもう分かったから、戻ってきて…!」

 

 ─────ハッ。

 

 四季さんの必死な呼び掛けが届き我に返る。あれ、俺、何してたんだっけ。確か親の事について話してて、それから…、ソレカラ…。あ、信号が赤だ。

 

「年末といえば、四季さんはどうしてたんだ?実家に帰ったりしてたのか」

 

 車を止め、信号が青になるまで待っている間に今度は俺から四季さんに問い掛ける。

 さっきまでの話はもう続けてはいけない気がしたからここで終了にする。マジで思い出してはいけない気がする。

 

「顔を見せに帰るつもり。でも、そのまま過ごすかは考え中」

 

「四季さんの部屋からは近いんだったか」

 

「うん。だから、たまに私の部屋に来たりもするし」

 

 その距離感だと確かに、実家でそのまま過ごさないという選択肢もあるだろう。しかし、四季さんが悩んでいる理由は、それだけではない気がする。

 

「…あのさ、前々から気になってたんだけど、聞いていいか?」

 

「ん?改まってどうしたの?」

 

「四季さんの親を店に招待しないのか?」

 

 信号が青に変わり、車を発進させる。車を発進させる直前、眼を見開いた四季さんの顔が見えた。

 

「…まー、まだ始めて数ヵ月だし、機会があればその内ね」

 

「…そうか」

 

 理由としては何の変哲もない、特におかしくないものだった。

 しかし、返事をする四季さんの声音が僅かに暗くなったのは気のせいじゃない。

 

 あまり突っ込んじゃいけない話題かもしれない。だけど、放ってはおけない。好きな人が悩んでいるのなら、許される範囲で、少しでも手を差し伸べたいと思うのは、自然な事だろう。

 

「四季さん」

 

「なに?」

 

「余計なお世話かもしれないけど…。手を貸してほしい時は、遠慮なく言っていいからな」

 

 前を見ながら言ったから、四季さんの表情は見えない。数秒、車内に沈黙が流れた後、隣から僅かにシートと何かが擦れる音がした。

 

「余計なお世話じゃ、ない」

 

 直後、四季さんからそんな返事が返ってきた。そして─────

 

「ありがとう」

 

 あのお店にまつわる、四季さん達の話は聞いている。しかし、話を聞いただけでは理解しきれない程に、きっと四季さんの心情は複雑なのだと思う。

 そして、四季さんがそういった胸に抱く気持ちを自分からは語ろうとしない性格だというのは、ここまで付き合ってきて何となく解っている。

 

 だからこそ、素直に俺の言葉を受け入れてくれた事が嬉しくて仕方なかった。四季さんが少しでも、俺に心を開いてくれているのだと実感できて、嬉しかった。

 

「どういたしまして」

 

 だから、微妙に口許がにやけてしまうのは仕方ないんだ。これでも我慢はしている。だが、自分で自覚ができてしまう程に、口許のにやけは止められなかった。

 

 四季さんに気付かれてないといいんだけど。

 

「ちょっと、何を笑ってるの?」

 

 まあ気付かれない筈がなく、すぐに四季さんに口許のにやけを指摘される。

 

「いや、別に?」

 

「…怪しい」

 

「疚しい事なんて思ってないから。ただ─────四季さんが俺の言葉を素直に受け入れてくれた事が嬉しかっただけだ」

 

 何かこのままだと変な誤解をされそうだったため、誤魔化そうとせずに素直に気持ちを伝える事にする。

 恥ずかしいのは恥ずかしいのだが、嫌な誤解のされ方をするよりは万倍マシだと自身に言い聞かせる。

 

「…どうして?」

 

 少し間を空けてから、四季さんがそう聞き返してきた。それに対して、俺はすぐに口を開く。

 

「少し前の四季さんだったら、受け入れなかっただろうから。俺に迷惑を掛けられないとか、そんな風に言って」

 

「…」

 

 思い当たる節があったんだろう。四季さんは黙り込んでしまう。

 そんな四季さんの姿をちらりと横目で見遣る。僅かに唇を尖らせ、少々不満げな表情を浮かべる四季さんが幼く、可愛らしく思えた。

 

「…ぷっ」

 

「っ、ちょっと、今のはどうして笑ったのっ?」

 

「いや…、何でもない」

 

「絶対ウソ。言いなさい、理由を吐きなさいっ」

 

「あ、そんな事よりも四季さん。もうすぐ着くぞ」

 

「逃げるなっ!」

 

 四季さんが子供っぽく見えて微笑ましかったなんて正直に言えば不貞腐れること間違いなしなので、追求を辛うじてかわす。

 いや、かわし切れてない気もするが、強引に話を終わらせる。現に、イルミネーションが行われる市内には入り、あと数分という所まで来ているのだから、嘘は吐いていない。

 

 途中で一度交差点を右折して、そのまま真っ直ぐ車を走らせていると、奥の方から少しずつ、きらびやかな光の群体が見えてくる。

 そこはテーマパーク、レストラン、ホテルが一緒になった複合施設で、冬の間は大規模なイルミネーションが開催される。今回の目的はその冬限定のイルミネーションだ。

 

 施設の傍にある駐車場に車を入れる。涼音さんからここの話を聞いてから少し調べて覚悟はしていたが、かなり混んでいた。停める場所を探して駐車場内を回る、とまではいかないものの、イルミネーション目当てと思われるカップル、家族が多く見られた。

 

 空いてるスペースに車を停めて、エンジンを切ってから俺達も車から降りる。

 直後、冷たい風が吹き荒ぶ。言い忘れていたが、この施設は海沿いに建てられていて、水上のイルミネーションというのがこの時期の目玉になっている。

 とまあそんな説明は置いておいて、海沿いという事で寒い。かなり寒い。

 

「…柳君」

 

「ん?」

 

「このマフラーは何?」

 

 という事で、昨日と同じ様に四季さんの首にマフラーを掛ける。すると、四季さんがじと目で俺を見上げてきた。

 

「寒いだろ」

 

「…寒いけど」

 

「ならいいじゃん」

 

「良くない。柳君が寒いでしょ、それじゃあ」

 

「いいんだよ。こういう時は男に格好つけさせてあげた方がいいぞ」

 

「…それ言ったら全く格好つかないんだけど」

 

 四季さんが大きくため息を吐いた。何を言っても俺の意思は変わらないと悟ったか、或いは諦めたか。俺が掛けたマフラーを体の前で巻く。

 

「ありがとう。お礼にこれあげる」

 

 すると四季さんはコートのポケットの中から白い何かを取り出して、こちらに差し出してきた。

 

「カイロ?」

 

 それはまだ温かくなっていないカイロだった。イルミネーションの立地を考えて持ってきたのだろう。

 しかし─────

 

「いや、これじゃ四季さんの分がなくなるだろ」

 

「大丈夫。私の分も持ってきてるから」

 

「…お礼とは」

 

「そこは気にしないで」

 

 色々と突っ込み所はあるが、四季さんの言う通り気にしない方向でいく事にする。四季さんからの()()()、有り難く受け取っておく。

 

「それじゃ、行こうか」

 

「うん」

 

 四季さんが頷く所を見てから並んで歩き出す。

 足を向けた方、視線の先には、俺達を待っているかの様にイルミネーションの光がたくさん瞬いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第四十七話






デート回、三話目です


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うわぁ…」

 

 そこに足を踏み入れた直後、四季さんが感嘆の声を漏らす。俺も表に出す事はなかったが、内心では心を動かされていた。

 

 目の前に広がるのは光の芸術。足を踏み入れた者を歓迎するかのように瞬くイルミネーションは、視界に収まりきらない程に、どこまでも広がっているとすら思えてしまう。

 

「四季さん」

 

 俺も四季さんも目の前の光景に圧倒され、立ち止まってしまった。ここでこうして見続けるのもまた一興とは思うが、それでは流石に勿体ない。

 四季さんに呼び掛けて促し、ようやく道を歩き始める。

 

 道は基本一本道で、順路に従って歩いていく形式だ。途中で分かれ道もあったが、そこには必ず矢印が描かれた看板が置かれており、その指示に従って見物客は道を進む。

 

 人の流れはゆっくりで、どの人も絶えず辺りを見回す。俺も例に漏れず、周囲の景色を堪能しながらゆっくり歩く。

 涼音さんからは盛大にやってると聞いていたし、ここについて調べる際、ホームページに載っていた写真も見た。しかし実際に目にするのとはまるで受ける印象が違う。正直ここまでとは思わなかった。

 

 ここまで魅了されるとは、思っていなかった。

 

 四季さんもどうやら俺と同じ気持ちの様で、この景色に魅せられているらしい。入場してからここまで、会話が一つもない。それ程までに、ここのイルミネーションが綺麗だった。

 

「ねぇ柳君、あれ」

 

「ん?」

 

 いい加減何か喋らなければ、と思ったそのタイミングで、隣からくいくい、とコートの袖を掴まれ引っ張られる。掴まれた袖の方、つまり四季さんの方に振り向くと、四季さんは俺がいる方の向こう側を指差していた。釣られて俺もそっちの方に視線を向ける。

 

 そこにあったのは、たくさんのライトで形作られた猫だった。四本足で立っているその猫は、何故か頭の上にこれまたライトで形作られた王冠を乗せている。

 その光景に、どうも既視感を覚えてしまう。だって、あれは──────

 

「閣下にそっくりじゃない?」

 

 王冠を乗せた猫。そこから連想されるのは一人…というより一匹だけ。そう、ミカドだ。

 

「確かに似てるけど…、ミカドはもう少しポッチャリしてないか?」

 

「あー…」

 

 しかし、あの光の猫はスタイルが良すぎる。一方のミカドはもう少しポッチャリしているというか、何というか。

 

「足もあそこまで長くないし」

 

「…」

 

「胴体もあんなにスラッとしてないし」

 

「…」

 

 何故かは知らないが、俺が言葉を重ねる毎に四季さんの体が震え出す。

 

「あいつ、貴族の誇り~とかよく言ってるけど、胴体短い足短いって貴族の誇り全く感じない体型だよな」

 

「っ…ふふ、あはははははは!もうダメ!」

 

 そして、今の言葉が止めになったらしく、四季さんが大きく笑い出した。どうやらあの震えは笑うのを我慢していたものだったらしい。

 

「でも太ってる訳じゃないんだよな、筋肉あるし。…ゴリマッチョなだけで」

 

「閣下が…、ゴリマッチョ…、あはははは!」

 

 ツボにはまったらしく、四季さんは遂に立ち止まってその場でお腹を抱えて笑い出す。

 俺も四季さんから僅かに遅れて立ち止まり、四季さんの笑いが収まるのを待つ。

 

「はぁ…はぁ…」

 

 次第に笑いは収まってきたものの、笑いすぎたようで、四季さんの息が荒くなっている。笑いすぎた事で目が潤み、寒さと相まって頬も赤く染まっている。

 

 ─────エロい。

 

 四季さんには申し訳ないと思うのだが、息を整える四季さんの姿が色っぽい。時折俺達を追い越していくカップルの内の男が四季さんに目を向けて、彼女に肘打ちされる姿が見られた。

 多分、イルミネーションを回った後喧嘩になるんだろうな。修羅場る光景が簡単に思い浮かぶ。

 

「大丈夫か?」

 

「うん…。ふぅ~…、大丈夫」

 

 一頻り笑い終えた四季さんは呼吸を整え、落ち着いた事を確認してからどちらからともなく再び歩き始める。

 

 ライトに照らされた道を歩き、途中で光のトンネルを潜り、ライトの光で象られたクリスマスツリーを眺め。やがて、このイルミネーションの最後の目玉が姿を現す。

 

 先程もいったが、このテーマパークは海沿いにあり、今まで歩いてきた道程の中でも水路が何本かあった。

 その水路を流れる水の行き先。そこが、このイルミネーションの最後の目玉がある場所である。

 

 円形の広場、その中心に広がる巨大な池。そしてその水上に浮かぶのが光の宮殿。

 

「─────」

 

 言葉が出ない。その光景を言い表す言葉が見つからない。光の宮殿に、そして宮殿を形作る光にライトアップされる水面に、どうしようもなく魅せられる。

 

 四季さんも俺と同じ状態に陥っているらしい。光の宮殿の前で立ち止まってからずっと、何も喋らない。多分、俺と同じく目の前の光景に目を引かれているのだろう。

 

「っ」

 

 ふと、隣の四季さんの横顔を見る。そして、息を呑んだ。

 

 光の宮殿に魅せられる四季さんの横顔。映画に釘付けになっていた時とは違う表情を浮かべた四季さんの横顔。

 

 ─────綺麗だ。

 

 直感的にそう思った。映画を見ていた時は、コロコロと表情が変わる姿を面白がっていた節もあったのだが、今は違う。

 ただ、好きな人の横顔に見惚れた。

 

『君の方が綺麗だよ』

 

 ドラマなんかで、今みたいな状態の時に男側が言うくっさい台詞。まさかそれと同じ事を考えるなんて、思いも寄らなかった。

 

「…ん?どうかした?」

 

 流石に無遠慮に見すぎてしまったらしい。俺の視線に気付いた四季さんがこちらに振り向く。

 映画を見終わった後と状況は似ている。ただ、今は絶対に本当の事を言いたくない。あの時に言う四季さんの顔を見ていたという台詞と、今言う四季さんの横顔を見ていたという台詞が持つ意味はかなり違ってくる。

 

「いや、何でもない」

 

「そう?」

 

 映画館にいた時とは違い、四季さんはあっさり引き下がる。それを見て、内心で物凄くホッとした。

 それと同時に、もう一度横目で四季さんの横顔を見る。

 

 ─────あぁ、マジで好きだ。

 

 結果、自分の気持ちを再認識する。俺はこの女の子が好きだ。四季ナツメという女の子が好きだ。四季さんが好きだ。四季さんと手を繋ぎたいし、キスしたいし、その先だってしたい。

 自分で気持ち悪いと思う余裕もない程に、好きだという気持ちが溢れてくる。ダメだ、抑えろ、と叫ぶ理性を欲望が押し退ける。

 

 もう、いいだろう。充分我慢した。限界だ。

 俺は想いのままに、口を開こうとして─────

 

「ずっと君が好きでした!俺と付き合ってください!」

 

 突如聞こえてきた大声の告白に、四季さんと一緒に声がした方へ振り向いた。

 

 そこにいたのは二人の男女。光の宮殿をバックに告白する男と、告白された女の姿。

 男は腰を折ってお辞儀の体勢で、告白の相手に向かって手を伸ばしていた。一方の告白された相手は、両手で口許を押さえて頭を下げる男を見つめている。

 

「─────私も貴方が好きでした。よろしくお願いします」

 

 突然の公開告白に周囲が静まる中、聞こえてくる女性の声。そして女性は差し出された男の手をとった。

 

 直後、湧き上がる歓声。巻き起こる拍手。この場にいた見物客達が、たった今成立したカップルを祝福する。

 その中には当然、俺と四季さんもいた。歓声はあげなかったが、周囲の人と一緒に拍手を鳴らす。

 

「二人とも嬉しそう」

 

 拍手の音が疎らになった所で拍手を止め、不意に四季さんが言う。俺達の視線の先では、恥ずかしげに手を繋いで光の宮殿を見上げるカップルの姿。

 

「いいな…」

 

「…四季さんは公開告白とかされたいのか?」

 

「んー…。ロマンチックとは思う。でも…、うん。自分がされるのは恥ずかしいかな」

 

 俺の問い掛けに、四季さんはあのカップルを眺めながら答える。

 

 そんな四季さんの横顔を見つめながら、言葉を発する。

 

「じゃあ、なるべく周りの人に聞こえないよう小さな声で言う」

 

「…え?」

 

 数瞬の間を置いて、目を丸くした四季さんがこちらを向く。

 

 俺は体を向けて、四季さんの目を真っ直ぐに見る。

 心臓の鼓動が強く、速くなる。今まで生きてきた中で一番といっていい。俺は今、物凄く緊張している。寒い筈なのに手汗が滲む。逃げ出しそうになる足を必死にその場に留めて、一度大きく息を吐く。

 

「好きだ」

 

 たった一言。その一言を発した瞬間、堰が外れたかの如く、

 

「好きだ」

 

 俺の意思とは関係なく、勝手に想いが溢れていく。

 

「四季さんが好きだ」

 

 四季さんの頬が急に赤くなっていく。それが、寒さによるものではない事は考えるまでもなく分かる。

 

「今すぐに返事が欲しい訳じゃない」

 

 そう言うと、四季さんが小さく体を震わせた。その事に気付いてはいたが、まずは俺の告白を先に済ませる事を優先する。

 

「俺の気持ちを伝えたかった。これは俺の我が儘だ。でも…、いい返事が貰えれば嬉しい」

 

 最後の一言は卑怯だったかもしれない。だが、事実それが俺の本音だ。告白して返事を貰わずはい終わり、なんて納得できない。

 さっき言った通り、すぐにと強制するつもりはないが、時間が掛かってもいずれ、返事は貰いたい。その返事が、俺の気持ちを受け入れてくれるものだったなら、と願わずにはいられない。

 

「…」

 

 視線を横に向け、光の宮殿を見上げる。何度見ても圧倒される光景を目に焼き付けてから、それに背を向けた。

 

「そろそろ出るか。腹も減ってきたし」

 

 不意に、まだ夕食を食べていない事を思い出す。時刻はそろそろ八時になる頃だろうか。帰る途中でどこかに寄るか、それともこのまま帰るか。

 

「っ─────」

 

 そんな事を考えながら歩こうとしたその時、背中に何かがぶつかってきた。思いの外強い衝撃につんのめりそうになりながらも踏ん張って耐え、振り返ろうとする。が、コートを掴まれ振り返れず、顔だけを背後に向けた。

 

「四季さん?」

 

 視線を向けた先で四季さんが立っている。俺の背後で、コートを掴み、その表情は俯いているせいで窺えない。

 俺が呼び掛けると、四季さんは俯いたまま背中から離れる。それを見て俺は体を反転させて四季さんと向き直る。

 

「バカ」

 

 直後、何故か罵倒された。意味が分からず、理由を聞こうと口を開く。

 

「─────」

 

 その前に、唇を塞がれて口が開けなくなる。状況が読み取れず見開かれる目に映るのは、アップになった四季さんの顔。

 

 閉じられた瞼、長い睫毛、細い前髪。間近で感じる四季さんの息づかい。たった数秒の触れ合いが、とても長く感じられた。

 

「ぷはっ…。この期に及んでヘタるな」

 

「…」

 

 唇を離した四季さんが、顔を真っ赤にして俺を睨みながら言う。

 

 待って、俺今何をした?もしかしなくても…、四季さんとキスをしたのか?

 

「私も好き」

 

「っ」

 

「柳君が好き。これが、私の貴方への返事」

 

 四季さんから告げられる返事。それは、俺が願っていたものその物だった。

 

 胸の奥から湧いてくる衝動。だがそれを抑えて、俺は衝動に流されそうになる気持ちを引き締めて、四季さんの目を見つめる。

 

「…四季さん」

 

「うん」

 

「俺と付き合ってください」

 

「…うん。こちらこそ、よろしくお願いします」

 

 言い合う言葉は先程のカップルと同じもの。しかし彼らよりも静かに、密やかに、俺と四季さんの気持ちは通じ合い、一つになったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後、イルミネーション会場から出た俺達は、施設内にあるレストランで夕食を済ませて帰路についた。

 告白してすぐ後だったが特に気まずくなったり、恥ずかしくなるという事もなく、普段通りの雰囲気で食事をした。

 

 そして今、俺と四季さんを乗せた車は美和市に入り、もう少しで四季さんのアパート周辺という所まで来ている。

 行きの時と比べてすっかり車通りが少なくなった国道を気持ちよく走り抜けていく。

 

 車に乗ってからの会話は殆どない。食事の時とは違い、どこかぎこちない空気が流れている。

 夕食をとっている時にはなかった実感が、俺は四季さんの彼氏になったのだという実感が、今になってようやく湧いてきた。

 たったそれだけで、どうも一歩踏み出す事が出来なくなってしまった。

 

 恋人になったからといって、これから特別な事をしなくちゃいけないなんて事はない。四季さんもきっと、そんな事は望んでいない。

 頭では分かっているのに、どうしても恋人になる前の、友達としての下らないノリとは違う何かを求めてしまう。友達でいた時と何かを変えなくては、と思ってしまう。

 

 その結果、何も話題が見つからない今の状況を産み出してしまった。

 

 ─────やばい。このままじゃ四季さんのアパートに着く。

 

 もうすでにすっかり見慣れた景色が広がる場所まで来ている。あと数分も経たない内に四季さんのアパートに着いてしまう。

 それまで何も会話がなく沈黙、なんて嫌すぎる。どうにかしなければ。

 

 だがどうにかしなければと思う程、人は何も思い付かなくなってしまう生き物だ。その事を忘れ、俺は更に深く混乱に陥っていき─────

 

「ふふ…」

 

 隣から聞こえてきた小さな笑い声に、意識を引き上げられた。

 

「四季さん?」

 

 前に意識を向けつつ、横目で四季さんを見遣る。一瞬見えた四季さんの表情は笑顔を浮かべ、口許に掌を当てていた。

 

「ふふ…。ごめん、何か、前にこの車に乗った時の事を思い出しちゃって。その時も、今みたいに全然会話が出来なかったなって」

 

「前─────あぁ」

 

 四季さんに言われて思い出す。確かに、以前にも似た様な事があった。

 ミカドを除いた店で働く皆で焼き肉に行ったその帰り、四季さんを助手席に乗せて送っていった。その時も、今みたいにほとんど会話がなく、沈黙の中で四季さんのアパートまで行ったのを覚えている。

 

「女の子と二人で車に乗るの初めてだったからな。あの時は正直緊張した」

 

「私も同じ。男の子が運転する車に、それも二人きりになるなんて思わなかったから」

 

 ぎこちなかった空気が、会話が始まると同時に和らいでいく。それと同時に、いつもと違う何かを求めていた心が鎮まっていく。

 

 ─────そうだよな、これでいいんだよな。

 

 俺が笑う。四季さんが笑う。いつもと何も変わらない。何も特別な事はしていない。それでも、これでいいんだ。

 俺の傍で四季さんが笑う、それ以上に何を求める事がある。彼女を楽しませる、幸せにする、それが彼氏の役目だろう。

 

 勿論、恋人として特別な事を求められる時はいずれ来る。

 ただそれは、今じゃない。今はいつもの様に、いつもの雰囲気で話すだけで充分なんだ。それだけで、四季さんは笑ってくれるのだから。

 

 固い空気は消え去り、代わりに和やかな空気に包まれた車内にて、四季さんのアパートの前に着くまで会話が途切れる事はなかった。

 

 そんな時間も終わり、車を四季さんのアパートの前に止める。ここで、今日のデートは終わりを告げる。この幸せな時間は一旦の区切りを付ける。

 だが、これで終わりじゃない。今日のデートは終わるが、俺と四季さんの時間は明日からも続く。

 

 だから、俺は笑顔を浮かべて、自分の部屋に帰る四季さんを見送る。

 

「…四季さん?」

 

 そのつもりだった。

 

 助手席から動かない四季さんを呼ぶ。

 どうかしたのだろうか?四季さんは俯いて、時折こちらに視線を向けながら座ったままでいる。

 

「どうした?アパートに着いたぞ?」

 

 もう一度呼び掛けてから、ふと考える。

 もしかして、車に酔ったりしたか。いやでも、さっきまで普通に喋っていたし、気分を悪くした様子はなかった筈だ。

 

 それなら、何か他の理由が─────

 

「ねぇ」

 

 そこまで考えた時、四季さんが口を開く。

 

 四季さんは俺の方に手を伸ばし、その手でコートの袖を掴み、そして俺を見上げた。

 

「…もう少し、一緒にいたい」

 

「─────」

 

 僅かに頬を赤らめ、潤んだ両目で俺を見て、四季さんはそう言った。

 

 それは、これで終わりだと思い込んでいたデートの、延長の合図だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




はい、という事で三話で収まりませんでした。延長戦とか聞いてないぞ。おとなしく帰れよ馬鹿主人公!(自業自得)


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第四十八話





何度か心が折れかけましたが何とか書き上げました。
いや、本当に難産でした…。そして疲れた…!


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ど、どうぞ…」

 

「…お邪魔します」

 

 緊張気味に四季さんが扉を開けて俺を部屋の中に招く。一言挨拶を口にしてから四季さんが開けた扉を潜って俺は部屋の中に足を踏み入れた。

 

 四季さんが住んでいる部屋は俺と同じワンルーム。玄関から入ってすぐ隣に台所があり、その反対側に組立式のハンガーラックが置かれている。

 その奥にテレビ、そのまた奥にはベッドが置かれ、中央にある丸テーブルを挟んで反対側に小さなソファと木製の箪笥。

 

 女の子の部屋としては少し素っ気ないかもしれない。だがこれも四季さんらしいと思うのは、少々失礼だろうか。

 

「今、お茶淹れるから。そこのソファに座って待ってて」

 

「あ、あぁ…」

 

 四季さんが着ていたコートを脱ぎながら言い、僅かにどもりながら頷いて返事をする俺。

 四季さんはコートをハンガーに掛けてから台所へ。ティーポットを出して水を入れる。

 

 一方の俺、挙動不審。とりあえず、言われた通りにソファに座ったはいいものの、どうすればいいのか分からない。

 いや、ここで待ってればいいのだろうが、何もしないままで本当にいいのだろうか。手伝いとか…は、台所のスペースを考えると逆に邪魔になるだろうし。

 

 手持ち無沙汰な俺は、ただ四季さんの部屋を見回す事しか出来ないでいた。

 静かな部屋、聞こえてくる音は台所を歩く四季さんの足音と、お茶を淹れる作業をしている音だけ。

 その中で、改めて四季さんの部屋を眺める。

 

 本当に失礼かもしれないが、特に特徴のない普通の部屋だ。女の子らしい可愛いぬいぐるみとかクッションとか、そういうものはまるでない。

 強いて挙げるとすれば、ベッドの横にある小さな白い箪笥くらいだろうか。あれは男はあまり選ばない物だと思う。

 

「あまりじろじろ見ないで。恥ずかしいから…」

 

「あ…、悪い」

 

 特徴のない部屋だが、そんなのは関係なかった。ここが四季さんの部屋なんだと感動すら覚えていた。

 そんな中、お茶を淹れ終えた四季さんがティーカップ二つを持ってこちらに来る。

 

 四季さんはティーカップの一つを差し出し、俺が受け取ってから、俺の隣に腰を下ろした。

 

「コート脱がないの?もしかして、寒い?」

 

「は?…あぁ、いや、そうじゃない。忘れてた」

 

 四季さんに指摘されて気付く。今まで緊張のせいで完全に失念していた。

 着たままのコートを、()()()()()()()()注意しながら脱ぐ。

 

 すると、四季さんは持っていたティーカップをテーブルの上に置くと、俺の方に手を伸ばした。

 

「…?なに?」

 

「コート、掛けてあげる」

 

「あぁ…。ありがとう」

 

 お言葉に甘えて四季さんにコートを渡す。

 俺からコートを受け取った四季さんが立ち上がり、ハンガーラックの方へと歩いていき─────途中で立ち止まった。

 

「柳君。何か入ってるけど…」

 

「あ」

 

 四季さんが淹れてくれた紅茶を飲もうとした時、四季さんに言われて思い出す。

 というか、ついさっきそれに気付かれないよう注意してコートを脱いだのに、何故一瞬の間に忘れるのか。

 

 だが、いいタイミングかもしれない。ここまでずっと、どこで渡そうか悩んでいたが、意図せず四季さんの方から切り出してくれた。この流れに乗らない手はない。

 

「出していいよ。それ四季さんに渡すつもりだったし」

 

「私に?…」

 

 コートの内側にあるポケットの中から、四季さんが取り出したのは、紙で包装された何か。

 それは、昨日俺が今日のために買い、先程車から降りる際、グローブボックスからこっそりと持ち出した、四季さんへのプレゼント。

 

 四季さんは包装紙を丁寧に剥がして、露になった中の物を広げる。

 

「マフラー…」

 

 四季さんに渡すプレゼントは何にするか、まだ決め兼ねていた時に、ふと四季さんにマフラーを貸した事を思い出して、直感的にこれにした。

 これから冷え込む日が増えてくるだろう。ネックレス等の装飾品も頭に浮かびはしたが、これの方が気軽に渡せるし、四季さんも使う機会が多いんじゃないか。

 

 そう考えて、俺は今四季さんの手の中にあるマフラーを購入した。

 ちなみに値札は切ってもらった。四季さんはそういう所はあまり気にしなさそうだが、何となく見られたくなかった。

 

「ありがとう。明日から、早速使わせてもらうね」

 

「どういたしまして。そうしてくれると、買った方としても嬉しい」

 

 四季さんが笑顔を浮かべながらお礼を言ってくれる。どうやら、喜んでもらえた様だ。

 その様子を見て、とりあえず一安心。

 

「ちょっと待ってて。私も柳君に渡すものがあるから」

 

 その安心も束の間、四季さんはマフラーをテーブルに置いてから、今日のデートに持ってきていた鞄の中を探り出す。

 そして、その中から、俺が買ったものと比べて小さめの、青色の紙に包装された物を取り出した。

 

「はい」

 

 四季さんから差し出されたそれを受け取り、一度四季さんと顔を見合わせてから、丁寧に包装紙を剥がしていく。

 やがて見えてきたのは、革製の小さな何か。その何かはカバーかケースか、ファスナーが付いていて、開けて中を見てみる。

 

 中は当然空洞、しかし上部に小さな金属製のフックが数個取り付けられていた。

 

「これ…、キーケースか?」

 

「正解」

 

 初めはこれが何か分からず内心首を傾げたが、取り付けられた金属製のフックのお陰で何とか気付けた。

 それでも自信はなかったが。

 

「柳君、車の鍵も家の鍵も別々に持ってたじゃない?だから、一つにまとめられたら便利かなって」

 

 四季さんの言う通り、これは便利だ。これを使えば、たまに起こる、いつもの場所に家の鍵はあるのに車の鍵がない。或いはその逆、という現象がなくなる。

 四季さんからプレゼントをもらったというだけでも充分嬉しいのだが、今の自分にとって便利なものを四季さんが選んでくれたという事実がまたその嬉しさに拍車をかける。

 

「…ありがとう、四季さん。いや、マジで嬉しい」

 

 キーケースを眺めながら言う俺に、四季さんが笑い掛ける。

 そして四季さんは再び俺の隣に戻って腰を下ろすと、そのままこちらに寄り掛かってきた。

 

「─────」

 

「よかった。柳君が喜んでくれて…」

 

 四季さんの頭が、俺の左肩に乗る。左腕が温かく、柔らかい感触に包まれる。

 

「…四季さん」

 

「ん?」

 

「何で俺の腕を触るんだ?」

 

 柔らかい感触に包まれたのは短い間。四季さんは俺の肩から頭を離すと、俺の左腕を触り始めた。

 肩の辺りから二の腕、肘、そして手首。何かを確かめるように入念に、両手で俺の左腕を触る。

 

「えっと…。これが男の人の腕なんだなぁって思って」

 

「…?」

 

「男の人の腕って、結構固いんだなって」

 

「あー」

 

 男皆がそうだとは限らないが、俺の両腕は確かに柔らかいとは言えない。

 他にも俺の近くにいる人でいえば、高嶺も細身だから腕に肉はついてないだろうし、昭久なんかはたまにジムに行っているらしく、腕の筋肉は結構凄い。

 

 俺?俺の腕はどうなんだろ。無駄な肉はないと思う。ただ、特に筋トレをしている訳ではないから、高嶺と同じく細身なだけだと思う。

 

「おっ…と」

 

 そんな事を考えていると、四季さんが再び俺の肩に頭を乗せた。左腕に帰ってきた柔らかな温もりを気にしないよう努めながら、四季さんの方に視線を向ける。

 

「固いんじゃないのか?」

 

「固い。でも位置的に丁度いい」

 

「…そうか」

 

 どこか四季さんの声が蕩けているように聞こえる。俺の肩枕はそんなに心地いいものなのか。そんなに良いものではないと思うのだが。

 

「…」

 

 四季さんに向けていた視線を前へと戻す。その際、動いた頬に四季さんの髪が触れ、柑橘系の香りが鼻腔を擽った。

 その匂いは、この部屋に入った時から感じていた、恐らく─────

 

 思考をカットする。危うく変態に堕ちる所だった。いや、もう時既に遅いかもしれないが。

 

 沈黙が流れる。

 

 会話はない。ただ、帰りの車内にいた時のような、気まずい雰囲気はない。

 この沈黙が心地いい。喋らなくとも、気持ちは通っている。今は何となくそう思えるから。

 今、俺の傍らにいる愛しい人と通じ合っていると思えるから。

 

「─────」

 

 ふと、視線を四季さんの方へ向けた時、目が合う。四季さんもまた、同じタイミングで俺を見上げていた。

 

 視線が交わり、見つめ合う。

 もう一度キスがしたい。その瞬間、強くそう思った。

 

 動いたのは俺だけじゃなく、四季さんもだった。

 四季さんが俺の肩から頭を離し、そして俺も体を僅かに捻って四季さんと向き合う。

 

「ん─────」

 

 初めてキスをしたあの時にも思ったが、柔らかい。女の子の唇は皆そうなのか、それとも四季さんの唇が特別なのか。

 最初にした時と同じく、触れ合うだけのキス。数秒の触れ合いの後、一度唇を離してから、今度はさっきよりも強く唇を押し付け合う。

 

「んん…っ」

 

 唇を通して互いの温もりを確かめ合う。だが、物足りない。唇だけじゃ物足りない。

 

 両腕で四季さんの体を抱き寄せる。直後、驚いたのか、四季さんの体が一瞬震えたが、抵抗せず俺の腕の中に身を委ねてくれる。

 それだけじゃなく、四季さんもまた俺の背中に両腕を回して体を押し付けてくる。

 

 胸に密着する四季さんの体は柔らかくて、温かくて、気持ちよくて。

 その感触が、理性をガリガリと削っていく。

 

「四季さん─────」

 

「あっ…、んっ、ちゅっ…はげ…し…んんっ」

 

 閉じられた四季さんの唇を舌でこじ開ける。反射的に抵抗した四季さんだったが、それは一瞬。俺の要求に応え、小さく唇を開ける。

 

 四季さんの口内に侵入した俺の舌と四季さんの舌が絡み合う。

 それと同時に、互いの吐息の音しかしなかった部屋に、また別の音が響き始める。

 

「はぁ───くちゅ…ちゅっ…ぁ…」

 

 頭がボーッとしてくる。何も考えられなくなってくる。

 それ程に、四季さんとのキスは甘くて、気持ちがいい。

 

「─────」

 

 もっと、この人とくっついていたい。もっと四季さんを感じたい。

 四季さんと唾液を交換しながら、無意識に両腕に力がこもる。

 

「っ…、っ!」

 

 直後、四季さんに胸板を割と強めに叩かれる。

 その瞬間我に返り、四季さんの唇から顔を離して、両腕の力を緩める。

 

「ぷはっ」

 

 たらり、と俺と四季さんの唇の間でアーチが掛かる。

 その時間はほんの僅か、落ちていくアーチには目もくれず、顔を真っ赤にして睨む四季さんを見返す。

 

「痛い」

 

「ごめん」

 

 四季さんの抗議に対してすぐに謝罪する。

 

「でも、四季さんが可愛すぎるのも悪いと思う」

 

「っ…!ちょっ─────」

 

 ただ、あんな風にされたら男は暴走するものである。勿論、四季さんに痛い思いをさせた事は、これから誠意を持って償うつもりだが。

 

「んぁ…、くちゅ…」

 

 もう一度、深いキスを交わす。舌を絡ませ、白い歯をなぞる。

 互いに抱き合い、貪り合う様に激しくキスを繰り返す。

 

「んっ…んん…!ぷはぁっ」

 

 やがて息が続かなくなって唇を離す。

 大きく息を吸って空気を取り込み、乱れた呼吸を整える。

 

「はぁ…はぁ…」

 

「…四季さん」

 

 呼吸を整える間も、俺達は体を抱き合い、至近距離に顔がある位置にいた。

 つまり、すぐ近くに息を整える、顔を真っ赤にした四季さんがいるのだ。瞳を潤ませ、俺から目を離さず、じっと見つめてくる四季さんが。

 

「っ─────」

 

「は…、え…っ、きゃっ」

 

 キスを繰り返している間も削られ続けていた理性が、遂に限界を迎えてしまった。

 四季さんの方に体重を掛け、彼女の体を押し倒す。その際、忘れず四季さんの後頭部に掌を添えて、頭を打たないように気を付ける。

 

「や、柳君…」

 

「ごめん。ちょっと、もう限界」

 

「ま…んむっ」

 

 四季さんが何か言う前に唇を塞ぐ。

 数分か、或いは数十分か、時間の感覚が定かじゃない。四季さんの部屋に来てから何度も繰り返ししてきたキスの感覚は、何度味わっても飽きが来ない。

 それどころか、キスをする度に四季さんに対する気持ちが強くなっていく。もっと、という気持ちが溢れていく。

 

「んぅ…くちゅ…。はむ…」

 

 四季さんを押し倒した体勢のままキスを続ける。続けながら、後頭部に添えていた掌で四季さんの髪を撫でる。

 髪を撫でながら肩へ、二の腕へ、そして、彼女の胸の方へ手を伸ばして─────

 

「んっ、ま、待って!」

 

 四季さんの大声を聞いて、手の動きを止める。

 一旦四季さんから顔を離して口を開く。

 

「嫌だったか?」

 

「い、嫌じゃない。嫌じゃない…けど…」

 

「けど?」

 

 歯切れが悪い四季さんを急かしてしまう。しかし、四季さんには悪いが、正直色々と限界だ。

 下腹部ではまだか、まだかと俺を急かしまくる奴がいる。俺の方も、そう長いこと我慢はできそうにない。

 

「せめて、シャワーを浴びてから…」

 

「うん、無理。我慢できない」

 

「え?ち、ちょっと…!」

 

「ごめん。でも、四季さんが可愛すぎるのが悪い」

 

 言ってから、もう一度四季さんと口付けを交わす。先程までとは違い、軽く触れ合うだけ。

 

 キスをして、顔を離して四季さんの顔を見つめる。

 我慢の限界、とはいえ、四季さんがどうしてもと言うなら引き下がるつもりではいる。こういうのは無理強いしてはいけないと、俺だって分かっている。

 だから、四季さんからの返事を、ここで黙って待つ。

 

「…」

 

「…」

 

「…せめて、ベッドで」

 

 この台詞が止めとなり、本当の意味で理性の糸が切れた瞬間だった。何も言わずに四季さんの体を抱き上げて、ベッドまで連れていく。

 戸惑う四季さんをベッドに倒して、俺も一緒にベッドに乗る。

 

 そして先程と同じ体勢になり、顔を真っ赤にする四季さんと、もう何度目か分からないキスを交わすのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

~Another View~

 

「ん─────」

 

 その日の目覚めは、体に多少の気怠さを感じながらだった。

 体が重い、というより、腰の辺りが痛い。久々に感じる筋肉痛の感覚に少し懐かしさを覚えながら、隣で未だに寝息を立てている人に顔を向けた。

 

 仰向けになって気持ち良さそうに寝ている人。

 私とたくさん気持ちを通わせ合ったその人は、裸のまま私の部屋のベッドで眠っていた。

 

 …まあ、私も千尋と同じく、何も着ていないのだけれど。

 

 昨日は、その、…うん。たくさんした。最初は痛くて、千尋にも心配掛けて、色々と我慢させてしまったと思う。

 でも、時間が経つ毎に痛みが少しずつ引いていって、代わりに好きな人と繋がっている幸せがどんどん湧いてきて。気付いたら、私の方から二度目、三度目を求めてた。

 

「っ~~~~~~~!!!」

 

 昨日の私の恥ずかしい言動や行為を思い返して、悶絶する。

 あの時の私は正気じゃなかった。千尋と繋がった事が幸せすぎて、正気を失ってた。

 

 恥ずかしい。恥ずかしい、けれど、それ以上に幸せだ。

 好きな人と繋がるのって、こんなにも幸せに感じるものなんだと初めて知った。

 温かくて、気持ちよくて、幸せで、今でも千尋と繋がっていた時の感覚は思い出せる。

 

「…千尋」

 

 眠る彼に向かって名前を呼ぶ。

 昨日の行為を通して私は千尋を下の名前で呼ぶようになった。そして千尋も、私を下の名前で呼ぶようになった。

 

 初めてナツメ、と呼ばれた時はとても嬉しくて、幸せで、もっと千尋を感じたくなって。そして、何度も名前で呼び合った。

 

「…可愛い」

 

 腕を立てて体を起こし、千尋の寝顔を眺める。

 いつもは少し気だるそうでにしている千尋の顔が、今は少し幼く、可愛く見える。

 

 つい衝動にかられて、人差し指でつん、と千尋の頬をつつく。

 千尋からの反応はない。それを良いことに、私は何度も千尋の頬をつついた。

 

 癖になりそうな感触だ。千尋の体は男らしく固いのに、頬は柔らかい。

 そう考えると少し面白くて、ついつつくだけじゃなく、千尋の頬を摘まんでしまう。

 

「…何してんの」

 

 そうしてムニムニと千尋の頬を弄び始めて、少ししてからだった。

 千尋から声をかけられる。

 

「起きた?」

 

「起きたっていうか、起きてた。人の顔でなに遊んでるんだよ」

 

 千尋の頬から手を離すと、千尋は体を起こして大きくアクビをする。

 

「ごめん。何か、楽しくなっちゃって」

 

「何だよそれ」

 

 そう答える私を、千尋が微笑みながら見る。

 

 幸せだ。こうして話すだけで、笑い合うだけで、とても幸せに感じる。

 

「…」

 

 微笑む千尋と無言で見つめ合う。すると、千尋の顔がゆっくり近付いてきた。

 千尋の意図を察して、私は目を瞑って、唇に来る感触を待ち望む。

 

「…?」

 

 しかし、いつまで経ってもその感触は来なかった。

 不思議に思って目を開けて千尋を見上げる。

 

「千尋?」

 

 目を瞑る前よりも近くにまで来ていた千尋の目は、私ではないどこかに向いていた。

 そして、何故か千尋の顔色が青くなっていた。

 

 どうかしたのだろうか、と千尋に呼び掛ける。すると、千尋は視線の位置は変えないまま、ゆっくりと口を開いた。

 

「ナツメ。…ナツメの部屋の時計って、ずれてたりするか」

 

「え?そんな事はないけど…」

 

 千尋が聞いてきたのはあまりに突飛な事だった。

 どうして時計の事なんか、と思いながらも、私は振り返る。

 そういえば、千尋が見てる方に時計が掛けてあるな、なんて呑気な事を考えながら。

 

「─────」

 

 時計が示す時刻を見て、言葉を失った。そして、千尋と同じく血の気が引いた。

 

 ただいまの時刻、八時半を少し過ぎたくらい。さっき言った通り、この時計はずれていない。今日もお店はいつも通りの営業。つまり、完全なる遅刻である。

 

 逃れようのない現実に直面し、さっきまで心を満たしていた幸せはどこかへ吹き飛んでしまった。

 

「「あああああああああああああああああ!!!」」

 

 完全に同じタイミングであげた私達の大声が、部屋中に響き渡った。

 そして何も言わずに急いでベッドから降りて、千尋が床に脱ぎ散らかしていた服を着直して部屋を出た所を見送ってから、私も一度シャワーを浴びるべく、お風呂場へと急ぐのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




本番シーンはなしです。無理です、書けないです。
でもいいよね?普通にR-15指定入るくらいにはイチャイチャさせたから許してくれるよね?


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第四十九話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「「大変申し訳ありませんでした」」

 

 結局、当たり前というか当然の帰結というか、俺もナツメも揃って遅刻した。

 辛うじて開店時間までには間に合ったのだが、俺達が来た頃には仕込みも店内の掃除も済まされていた。

 

 今、俺とナツメはフロアにて全員の前で並んで公開謝罪を行っていた。俺達の前で立つ全員に対して頭を下げて、謝罪の言葉を口にする。

 

「「「「─────」」」」

 

 謝罪をした、のだが、どうも空気がおかしい。

 おかしいといっても、空気が悪いとかそういう訳ではない。俺とナツメが慌てて来た時も、特に皆怒ったり気を悪くしたりという様には見えなかった。

 

 それどころか、明月さんや涼音さんは揃って店に来た俺達を微笑ましそうに見ていた。

 そして、それも気にはなるのだが、墨染さんと火打谷さんはどうして緊張した面持ちでこちらを見ているのだろう。

 高嶺もどこか微妙な表情で俺達を見てるし、明らかに大遅刻した人を迎える空気じゃない。

 

「えっと…。皆、どうしたの…?」

 

 この空気に耐えられなくなったか、四季さんが口を開いた。

 気になって当然だ。四季さんが聞かなかったら俺が聞いていた。

 

 意味が分からない。今日はクリスマス当日。ブッシュ・ド・ノエルを予約したたくさんの人がケーキをとりに来る、混雑が予想される日だ。

 そんな日に遅刻した俺達を、普通は叱責しそうなものなのだが。

 

「いやー…。まさか昨日膨らませまくった想像通りになるなんて、本気で思ってなかったからさー…」

 

「想像?」

 

 どうしたのかと不思議に思っていると、涼音さんが苦笑いしながら言う。

 それに続いて、墨染さんと火打谷さんがうんうんと勢いよく頷く。

 

「想像って何ですか」

 

「おい、もうすぐ開店の時間だぞ。話は仕事が終わってからにしろ」

 

 更に深く聞こうとしたが、ミカドに止められる。

 言われて時計を見上げると、もう開店間近という所まで時間が迫っていた。

 

「そうね、話はお店を閉めた後で。…それと、私達からも色々と聞きたい事があるから」

 

「「…」」

 

 俺とナツメを見る涼音さんの目が光った気がした。何か企んでる様に見えた。

 というか涼音さんだけでなく、それぞれ浮かべる表情は違えど、明月さんに高嶺、墨染さんに火打谷さんも俺達に何か聞きたげな目をしていた。

 

「…ねぇ」

 

「…あぁ」

 

 ナツメが俺に目配せしてくる。ナツメが考えている事は俺にも分かる。というよりは、俺も同じ事を考えていた。

 

 これは、仕事が一段落した後、覚悟しておいた方が良いかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 開店の時間を迎え、常連のお客さんがまず入ってくる。持ち帰りではなく店内で過ごす客が大半の午前中が過ぎると、少しずつブッシュ・ド・ノエルを受け取りに来るお客さんが増えてきた。

 厨房側はいつも通りというか、特に仕事量は変わっていないがフロア側はどうなっているだろう。

 普段と変わらない数の注文を捌きながら、ブッシュ・ド・ノエルを受け取りに来たお客さんの対応も同時に熟さなければならないのだから、相当忙しくなっているだろうが。

 

「オーダー入ります。カルボナーラと、半熟卵のオムライスをお願いします」

 

「了解。それと、もうすぐ三番テーブルのオムライスが出来るから少し待っててくれ」

 

「分かった」

 

「「…」」

 

 お客さんからの注文を伝えに来たナツメにその場で待っててもらう。

 ケチャップライスをオムレツで包み、完成したオムライスを盛り付けた皿をナツメに差し出す。

 

「そっちはどうなってる?」

 

 差し出した皿を受け取ったナツメに聞いてみる。

 厨房からじゃフロアの様子は見れない。お客さんの声はここまで聞こえてくるから、ある程度想像は出来るのだが、それが正しいかどうかもこっちには分からない。

 

「順調。予約分もちゃんと引き取りに来てくれてるから」

 

「そうか。…悪い、時間とらせたな」

 

「うぅん、気にしないで」

 

 どうやらブッシュ・ド・ノエルは順調らしい。ナツメの声が聞こえたようで、涼音さんも作業をしながら安堵の表情を浮かべていた。

 

「あんなに美味しいんだから、そこまで心配しなくていいんじゃ?」

 

「たまにあるのよ。嫌がらせのつもりか知らないけど、大量の予約だけして逃げるっていうのが」

 

「えー…」

 

 高嶺が物凄く微妙な表情を浮かべる。

 

「SNSでたまに見かけるけど、そういうの本当にあるんですね」

 

「まあ、今回はそうじゃなさそうだから良かったよ」

 

 味に自信はあっただろう。食べてくれたお客さんを笑顔にする自信もあっただろう。

 しかし、そういう輩には味なんて関係ない。標的にされれば否応なしにその自信ごと打ち砕かれてしまう。

 

 それが怖かったのだろう、今の涼音さんは本当に心の底から安心している様に見えた。

 

「ほら、そんな事より、カルボナーラとオムライスを準備しなさい」

 

「「はい」」

 

 しかし、切り替えの早さは流石のもの。涼音さんの言う通りに調理を始める。

 俺はカルボナーラを、高嶺はオムライスを。

 

 特に失敗する事なく調理を進め、先にカルボナーラが完成してこれは墨染さんに運ばれ、遅れて完成したオムライスは火打谷さんが運んでいった。

 

「そろそろどっちか休憩とったら?」

 

 涼音さんがそう口にしたのは、次の作業に入ろうとした時だった。

 高嶺と一緒に手が止まり、二人で涼音さんの方へ視線を向ける。

 

「お昼時はもう過ぎたから。何なら、二人一緒に休憩入る?」

 

「いや、それは涼音さんが大変でしょう。柳、先に休憩入っていいぞ」

 

「いやいや、遅刻して朝の仕込みサボった俺が先に休憩に入る訳にはいかんだろ」

 

 ここで休憩の譲合いが始まる。高嶺は純粋な善意から、俺は朝遅刻してしまった後ろめたさから。

 多分、遅刻してなかったら素直に言葉に甘えて休憩に入っていただろう。しかし、ここで二人より先に休憩に入るのはどうなのか。

 痛む良心くらい俺だって持っている。

 

「でも、寝坊しちゃうくらい昨日は夜更かししたって事でしょう?」

 

「─────」

 

 高嶺と譲り合っていると、不意に涼音さんが口を開いた。

 その言葉の矛先は、台詞の内容を見れば分かるだろう、俺だ。

 

「…まあ、そうですね」

 

 内心の動揺を悟られない様に努める。ふざけんな、何を言い出すんだこの人は。

 朝の時も思ったが、まさかバレているのか。この人実は人間じゃなくて覚なんじゃないかとすら思えてくる。

 勘が神懸かりすぎてる。

 

「いや、状況証拠ありすぎだから。前日にイブデートして、翌日に遅刻とか、普通に考えて分かるから」

 

「俺何も言ってないんですけど。マジで涼音さん人の皮かぶった妖怪だろそうなんだろ」

 

 高嶺も頷いてんじゃねぇ。え、そんなに分かりやすいか?

 …いや、分かりやすいわ。もし高嶺が明月さんと同じ風になったら俺もそう思うわ。

 

「ほれ、どうせヤンチャしまくったんでしょ?早めに休んで、その後はバッチリ働いてもらうから」

 

「…あー、もういいです。じゃあ先に休憩入ります」

 

 諦めた。色々と反論するのを諦めた。

 実際、涼音さんの言う通り少し体重いし、気遣いを有り難く受け取っておく事にする。

 

 その気遣いが決して純粋なものでなくとも、有り難いと自分に言い聞かせて、厨房を出て休憩室へと入る。

 

「千尋?」

 

 休憩室に入るとすぐに声をかけられた。

 

 この店で働くメンバーの中で、俺を下の名前で呼ぶ人は限られている。

 一人は涼音さん。あの人は年上という事もあり、最初の段階から俺の事を気軽に名前で呼んでいた。

 もう一人はミカドだ。まあミカドの場合は下の名前というか、フルネームで呼ばれる方が多いのだが。

 

 そして残る一人は─────なんて順序立てて考えなくとも、声を聞いた瞬間から誰に呼ばれたかはもう分かっている。

 この声を聞き間違いようがないし。聞き間違えてはいけない。

 

「ナツメも休憩か?」

 

「うん。その…、皆に気を遣われて…」

 

「…」

 

 恥ずかしげに僅かに頬を染めながら言うナツメを見て、悟る。

 あぁ、ナツメも俺と同じような扱いを受けたんだな、と。

 

「その話は置いといて…、ミカドはどうした?」

 

 気恥ずかしさを抑え、さっきまでの話を忘れて違う事を質問する。

 

 この部屋に入ってきた時から気付いていたし、聞こえていた。ミカドが誰かと電話している。

 聞こえてくる言葉からして、恐らく電話の相手は仕事関係の人ではなさそうだ。

 

「お客さんが忘れ物をして、その確認の電話をしてもらってる。ほら、テーブルの上にある紙袋がそう」

 

 予想通り、なんて考えながら、耳にスマホのスピーカーを当てるミカドを眺める。

 

 今の俺には普通に人間がスピーカーを耳に当てて通話している様には見えているけれど、実際のところ、それはミカドの術でそう見えているだけだ。

 

 ─────待てよ?今なら、眼鏡を外せば見れるんじゃ?

 

「千尋?」

 

 不意に思い立ち、眼鏡を外してみる。

 突然眼鏡をとった俺を不思議に思ったナツメが俺を呼ぶ。が、ここは一旦スルーさせてもらって、少し集中しながらミカドの姿を見る。

 

「…ぷふっ」

 

 すぐに集中を解いて、眼鏡を着け直した。

 

「どうかしたの?」

 

「いや…、何でもない…」

 

 こちらを見上げて聞いてくるナツメに、笑いを堪えながら何とか返事を返す。

 

 本当は、言いたい。

 俺が目にしたミカドの姿を。猫が耳にスピーカーを当てながら電話しているという世にも可笑しな光景をナツメにも教えたい。

 だが、後で面倒な事になりそうなのでやめておく。何しろ、俺が瞳を通して術を破って自身の姿を見た事に、ミカドは気付いているだろうから。

 ここでナツメにそれを教えたら、普通にキレられそうだからやめておく。

 

 そして込み上げてくる笑いとの戦いに打ち勝った時、丁度ミカドが通話を終えた。

 

「取りにいらっしゃるの?」

 

「あぁ。ただし、仕事が忙しくいつになるかは分からないそうだが」

 

「じゃあ、冷蔵庫に入れとくか」

 

「いや、その必要はない。中身は子供へのプレゼントだそうだ」

 

 お客さんの忘れ物と聞いて、ここで買ったケーキだと連想していたがそれは違ったらしい。

 ミカドの制止を受け、厨房に向けた足を止める。

 

「でもそれだと、今日絶対に必要になるわよね。親としては気が気じゃないんじゃ…」

 

「ふむ。千尋、届けに行ってくれないか」

 

 ナツメの言う通り、子供へのプレゼントならば今日必ず必要になる。丁度手が空いている事だし、休憩がてら外に出るのも良いかもいれない。

 

「構わない。その人の仕事先と名前は?」

 

「場所は美和総合病院。このプレゼントを忘れていったのは、以前父親のケーキを頼みに来た、深山結菜という幼女の父親だ」

 

「あー、あの人か」

 

 作業服を脱ぎ、ロッカーにしまいながら思い出す。あの見覚えのあった眼鏡の人だ。その人の顔と一緒に、結菜ちゃんとお母さんの顔も思い出す。

 そうか、もうあれから一月経ったのか。あの子は元気にしてるだろうか。

 

「分かってると思うが…」

 

「あぁ。だから家の場所じゃなく仕事先を聞いただろ?」

 

「それならいい」

 

 ミカドが言いたい事は聞かなくても分かる。俺だってそこまでデリカシーがない訳じゃない。このプレゼントは父親が娘に直接渡すべきものだなんて、言われずとも分かっている。

 だからこそ、ミカドには深山家の場所ではなく、お父さんの仕事場を聞いたのだ。

 

「それじゃあ頼むぞ、千尋」

 

「お願いね?」

 

「あぁ。届けに行くって連絡と、涼音さんにこの事を伝えてくれ」

 

 ナツメとミカドに見送られながら、最後に俺の言葉にミカドが頷いたのを見てから、コートを着てから結菜ちゃんのプレゼントを持ち外に出た。

 

「美和総合病院、か」

 

 裏口から外に出て、歩きながらぽつりと呟く。

 

 美和総合病院。俺のバアちゃんが入院し、そして最期を迎えた場所。俺がこの瞳への失望を一時は決定付けた場所。

 行くのはバアちゃんが亡くなった日以来、十年ぶりだ。大学に進学し、この街に住むようになってから通院は勿論、建物の近くすら通った事もない。

 今でこそ吹っ切ったつもりだが、それまでは苦い思い出があった場所だ。何となく、そこに行くのを避けていたのかもしれない。

 

 そんな俺にとっての苦い場所は、殆ど変わらない外観でそこに建っていた。

 あれから十年、改装をした様子はない。内部の構造も恐らく変わっていないだろう。

 

 表の歩道から病院の敷地内へと足を踏み入れる。

 歩く俺の右側には、来客用の大きな駐車場がある。ふとそっちに視線を向けると、丁度一台の車から降りる家族がいた。

 

 運転席と助手席から降りてくる夫婦と、後部座席から降りてくる子供。

 

「─────」

 

 無意識に、その姿がかつての自分の姿と重なって見えた。

 立ち止まり、子供を真ん中にして建物へと歩いていく家族。

 

 そういえば、バアちゃんをお見舞いに来た時は俺もこんな感じだった。

 ああやって並んで歩いた記憶はないが、ほぼ毎週のようにこの病院にお見舞いに来た。

 たまに、母さんの妹の一家と一緒にお見舞いに来た事もあったか。その時は、面倒を見てやれと大人組から従弟を押し付けられていた。

 

「…っと、物思いに耽ってる場合じゃない」

 

 建物を見上げていた視線の位置を戻し、止めていた足を再び動かす。

 思い出巡りをしにここに来た訳じゃない。大体、そんな事をするつもりはないし、したくもない。

 俺はここに届け物をしに来たのだ。俺が…というより、このプレゼントが届けられるのを待っている人がいる。とっととその人にこいつを届けて店に帰ろう。

 

 胸の中のモヤモヤを、早く振り払いたい。

 

 建物正面の自動扉からロビーへと入る。

 平日ではあるが、風邪やインフルエンザ等が流行る時期だ。受付を待つ人達でそこそこ混んでいた。

 

 これはマスクを着けて来た方が良かったかもしれない、なんて心の中で呟きながら窓口へと向かう。

 

「すみません。この荷物を深山先生に届けに来たのですが」

 

 そう窓口に座る女の人に話し掛けると、すぐに対応してくれた。

 ミカドから連絡も入っていたようで、物の数分程で、受付前の椅子に座って待っていてください、と言われた。深山先生はすぐに来るという。

 

 その言葉に従って、後方に振り返り、空いてる椅子を探して視線を回す。

 

「…ん?」

 

 その途中、気になる物が目に入った。

 それは、俺がこの病院に通っていた時にはなかったもの。

 

「絵、か」

 

 恐らくこの病院に入院している、或いはしていた子供が描いたものだろう。壁にたくさんの絵が貼られていた。

 

 ある所には、ユニフォームを着て野球をしている男の子の絵が。

 ある所には、たくさんの花と人に囲まれている女の子の絵が。

 

 このたくさんの絵の題材は将来の夢、だろうか。この男の子はプロ野球選手で、この女の子は花屋さんか。

 

 いやだが、ケーキをたくさん食べている絵や山に登っている絵もある。

 将来の夢というよりは、退院したら何がしたいか、という方が正しいかもしれない。

 

「…そういえば」

 

 今の今までずっと忘れていた。そういえば、苦い記憶ばかりのこの病院だが、一つだけ心暖まる思い出があったのを思い出した。

 といっても本当にちょっとした、多分相手もすっかり忘れているだろう、その程度の思い出だが。

 

 俺が病院に通っていた頃、当時入院していた子供達が、子供用のレクリエーション部屋、というべきか。そこで絵を描いている所に遭遇した。

 殆どの子供達は思う様に絵を描いていたのだが、一人手を動かさず、真っ白な紙と向き合っている女の子がいた。

 

 何と言ったかは覚えていない。ただ、その子に何か話し掛けた事は覚えている。

 それから─────どうしたんだったか。確か、俺が何か言ってから、その子は絵を描き始めて、それから…、その絵はどんな絵だったか。

 確か、何かの店を営む所を描いていたような…?

 

 思い出そうとしても出来ない。いや、もしかしたらこの中にその絵が飾られているかもしれない。

 そう思い、ゆっくりと絵を見回していく。

 

「─────」

 

 正直、見つかる期待はしていなかった。だからこそ、その絵を見つけて心が跳ねたと同時に、驚きを隠せなかった。

 

「…そうだ、この絵だ。いや、でもこれ─────」

 

 呆然と呟く。その絵から目が離せない。

 その絵は間違いなく、かつて俺と関わった女の子が描いた絵だ。

 

 しかし、その紙に描かれた景色は─────

 

「あの、ステラの方ですか?」

 

 その絵を見つめていた時、傍から声を掛けられた。

 弾かれるように顔を動かし、視線をそちらに向ける。

 

 そこには白衣を纏い、眼鏡を掛けた男性が立っていた。

 

「はい。すみません、ボーッとしていて」

 

「─────」

 

「…あの?」

 

「あ、あぁっ、申し訳ない!こちらこそ、娘のプレゼントをわざわざ届けに来て頂いて…ありがとうございます」

 

 俺に話し掛けてきたのは言うまでもなく、深山先生だった。顔を会わせた直後、一月前に見た誕生日会の光景を思い出すと同時に、深山先生の顔も一緒に思い出す。

 

 しかし、どうしたのだろうか。俺と目を合わせた瞬間、驚いた様に見えた。

 俺の顔に何か付いていたか、または別の理由からか。

 

「これ、忘れ物です」

 

「本当に助かりました。ありがとうございます」

 

 とにかく、まずは忘れ物を深山先生に確かに渡す。結菜ちゃんへのプレゼントが入った袋を受け取ってから、深山先生はもう一度、今度は深く頭を下げながら俺にお礼を言った。

 

 ここまで深く頭を下げられる程の…事かもしれないが、この人にとっては。しかし、ここまでされるとどうも恐縮してしまう。

 すぐに深山先生に頭を上げるよう言おうとして─────

 

「センセー、何やってるの?」

 

 その前に、深山先生の背後から第三者の声がした。

 

 深山先生の背中からひょっこり現れたのは、俺と同年代くらいの女の子。病院着を着ている所を見ると、ここの患者だろうか。

 

「クリスマスプレゼントを置き忘れてしまってね。この人に届けてもらったんだよ」

 

「それはそれは…、お子さんに恨まれる所でしたね…」

 

 深山先生と気軽な様子で話す女の子。もしかして、入院期間が長いのだろうか?

 勿論、会ったばかりの相手にそんな事を聞くつもりはさらさらないが。

 

「先生はしっかりしてる様に見えてどこか抜けてるんですよねぇ。ちゃんとこの人にお礼を─────」

 

「…?」

 

 やれやれ、とでも言いたげな仕草を見せながら、女の子が俺の方を見る。

 そして俺と目が合うと、女の子は目を見開いて固まってしまった。

 

 …何なんだ、深山先生といい、この子といい。深山先生はまあ見覚えがあるし、もしかしたら同じ感覚を俺に覚えたのかもしれないけど、この子には全く既視感はない。会った事はない。

 

「やなぎくん…?」

 

「…何で俺の名前を」

 

 なのにその子は、初対面の筈の俺の名前を口にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




少年時代の千尋と話した女の子って誰なんだー!?


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第五十話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 俺の名前を呼んだ女の子と視線がぶつかる。女の子は俺の顔をじっと見つめたまま固まってしまった。

 

「…あの?」

 

「っ、ご、ごめんなさいっ。いきなり無遠慮に見つめて…」

 

 そのまま何も言わない女の子に声をかけると、ぴくりと体を震わせてから慌てて口を開き、謝罪する。

 まあそこは別に気にしてはいない。しかし、俺の名前を呼んだ事だけがどうしても気になる。

 

 俺はこの子を知らない。深山先生の顔を見た時に感じた、既視感も全く過らない。だが、この子は俺の名前を知っている。

 

「そこは気にしてません。でも今、俺の名前を呼びましたよね?」

 

「…やっぱり、柳君なんだ」

 

 確証があった訳ではなかったようだが、果たして俺とこの子の接点はいつ、どこで生まれたのか。

 それを聞くべく、口を開く。

 

「すいません。どこかでお会いしましたか?」

 

「…覚えてないか。まあ仕方ないよね、私は君とそんなに話さなかったし」

 

 問いかけると、その子は少し寂しげな表情を浮かべてから、すぐに今度は微笑んで俺の質問に答える。

 

「十年前、この病院で。といっても、さっき言った通り、仲良くなったって訳じゃないんだけど…。でも、久しぶりにその絵を見たら、思い出したんだ。君の事」

 

 そう言いながらその子が視線を向けたのは、先程俺が目を奪われたあの絵だった。

 題名もない、描いた子供の名前も載っていない絵。十年前に出会った女の子とのちょっとした思い出。

 しかし、たったそれだけでは収まらない光景が描かれた絵に、俺は再び目を向けた。

 

「柳…。そうか、やはり君が、あの時の…」

 

「?」

 

 茫然としたその声に振り返る。

 

「センセー?」

 

「いや…。僕も、君の事を覚えている一人でね。といっても、染井さんとはまた違う経緯なんだが…」

 

 深山先生はそこで一旦言葉を切ると、口を開閉させる。何か言いづらい事なのだろうか。

 その疑問は数秒後、深山先生の言葉で晴らされる。

 

「君の祖母が亡くなったあの場に…、僕は居合わせていてね」

 

「─────」

 

 その台詞に合点がいく。

 なるほど、あの場に第三者として居合わせたのなら、俺の顔を覚えていても不思議ではない。あんな光景、忘れる方が難しいだろう。

 しかし十年も前の事を、いくら俺の顔を見たからとはいえ思い出した事に驚きは隠せない。

 

「あの頃の僕は、まだ医者になりたてでね。あの時の光景は胸に突き刺さった」

 

「…」

 

 俺にとっての苦い思い出は、この人にとっても苦い思い出として心に残っていたらしい。

 あの時の俺は両親に庇われながら、ただただ俯いていただけだったから、周囲にいた人の顔なんて見てすらいなかった。

 

「ステラで誕生会を開いてもらったあの日、君の顔を見て、あの時の事を思い出した。あの時の君の顔を思い出した。…何様だと思われるかもしれないけど、あのお店で、笑顔でいた君を見て…僕はホッとしたんだ」

 

「…」

 

「…すまない。全く覚えのない人からこんな事を言われても困るだけだろう。忘れてくれ」

 

「いえ。…ありがとうございます」

 

 少し前の、まだ過去を吹っ切れていなかった時の俺だったらどう思っていただろう。この人の心配を煩わしいと、切り捨てていたかもしれない。

 戸惑いが全くないと言ったら嘘になる。ただそれ以上に、深山先生が抱いていた心配を、今の俺は素直に受け入れる事が出来た。

 

 深山先生にお礼を口にしてから、次に染井さんと呼ばれていた女の子の方へと向いた。

 

「この絵の事を聞きたい所だけど、あまりのんびりはしてられないんだ。だから…、近い内にお見舞いに行ってもいいか?」

 

「…うん、勿論」

 

 女の子が笑顔を浮かべて頷く。

 その後、俺はその子にお礼を言い、挨拶を交わしてから二人に背中を向けた。

 

 慌てる必要はない。時間はたっぷりある。

 だから、()()()()()()とそこにいるたくさんの人達が描かれた絵については、また次にここへ来た時にゆっくり聞かせてもらおう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 店に戻ってからは特に何事もなく、涼音さんが作った賄いを食べ、少し休んでから再び仕事へ。

 混雑のピークを過ぎてからも、普段の休日並みの忙しさに追われた。予約のケーキを取りに来たお客さんの相手もしているフロア担当の人達は俺達以上に慌ただしく動いていた。

 

 それでも夕方を過ぎるとお客さんの数も減っていき、次第に手を止める時間が増えていく。

 

 やがて閉店時間を迎え、最後のお客さんの帰りを全員で見送る。

 

 外の看板をclosedにして、お客さんが居なくなった店内の掃除も終えて、後は帰るだけ─────

 

「「「メリークリスマス」」」

 

 なのだが、そのまま帰りはせずに、何の問題もなくクリスマスを乗りきった事を祝し、ちょっとしたパーティーを開いた。

 

 それぞれの手元には紅茶、或いはコーヒー。テーブルの真ん中には、今日のキャンセル分で残ったブッシュ・ド・ノエル。

 全て店の物だが、今日くらいは良いだろうとミカドが目を瞑り、このパーティーの開催に至った。

 

「好評だったな。ケーキ」

 

 切り分けられたブッシュ・ド・ノエルを味わっていると、いつの間にか傍に来ていた高嶺から声を掛けられた。

 口の中の物を咀嚼し、飲み込んでから一度頷く。

 

「あぁ。…エゴサしてみるか?」

 

「えっ…」

 

 高嶺の表情が固まる。

 フロアにいたナツメ達は、ケーキを受けとるお客さんの顔を直接見ているが、厨房にいた俺達はそうじゃない。

 お客さんの顔を、声を、直接聞いていない。だから、ふと気になったのだ。お客さんの生の感想を知りたい、と。

 

「気にならないか?」

 

「いや、なるけど…。柳って、度胸あるよな…」

 

「そうか?…ちょっと待ってろ、スマホとってくる」

 

 高嶺に一言かけてから席を立ち、バックヤードへと向かう。そこで自分のロッカーを開け、コートのポケットの中からスマホを取り出す。

 

「…ん?」

 

 スマホを手にとってから気付く。

 青色のライトが点滅し、着信があった事を報せている。

 

 ロッカーの扉を閉め、フロアへと繋がる扉を開けながらスマホの電源を入れ、誰からの着信だったかを確認する。

 

「─────」

 

 そこに書かれた登録名を見て、俺は履歴画面を閉じた。

 まあ、あれだ。通話を返すのは部屋に帰ってからで良いだろう。そうしよう。

 一秒にも満たない思考の後、そう決めた俺はフロアの元の席へと戻り、SNSを開く。

 

 そこに載った声は好意的なものばかりだった。というより、それしかなかった。

 感想一つ一つを注視するのではなく、スクロールしながら流し見ていたから見逃したという可能性もなくはないが、それでも今回の試みが大成功だったと判断するには充分だ。

 

「何見てるんですか?」

 

「うおっ」

 

 高嶺とSNSのコメントを眺めていると、ぬっと視界の端から後頭部が現れる。

 薄紫の旋毛が突如目の前に現れ、小さく驚きの声が漏れた。

 

「あ、これもしかして…」

 

「うん。ステラで出したクリスマスケーキの感想だよ」

 

「おーっ!大好評ですね!」

 

 スマホの画面を覗き込む火打谷さんが歓声をあげ、その場から少し離れる。

 かと思えば、火打谷さんはその顔に僅かな緊張を浮かべながら俺の方を見た。

 

「どうした?」

 

 一言、火打谷さんに問いかける。

 火打谷さんは何やら口をモゴモゴさせている。何か言いたい事があるらしいが、それは言いづらい事でもあるらしい。

 

「そのー…。クリスマスケーキが好評なのは良かったんですけどー…」

 

「おう」

 

「それよりも…、千尋先輩とナツメ先輩に聞きたい事がありまして…」

 

 ───────────────

 

 火打谷さんがそう言った瞬間、空気が固まった。直後、俺とナツメ以外の皆の表情が変わる。

 高嶺と墨染さんは、火打谷さんと同じ様に少し緊張気味の表情に。明月さんと涼音さんは、やや悪戯気な笑みを浮かべた。

 

 …物凄く嫌な予感がする。それもこの予感にはどうも覚えがある。つい最近、何なら今日、似た感覚を覚えた気が─────

 

「いいですか?」

 

「えぇ、いいけど…。どうしたの?」

 

「─────」

 

 まずい。そう思った時には遅かった。止めに入る前に、ナツメが火打谷さんに続きを促してしまった。

 

 火打谷さんはもう口を開こうとしている。

 どうする、どうする、どうする。しかし、この思考時間もただのカウントダウンに成り果てる。

 

「お二人は昨日、大人の階段を登っちゃったんですか!?」

 

「「…」」

 

 二人して固まる。

 純粋に火打谷さんの疑問に答えようとしていたナツメは勿論、俺もそのド直球な質問に固まってしまった。

 

 もう少しこう、遠回しな聞き方はなかったのか。それだったら、言葉を濁しながら嘘を吐く事なくうやむやに出来たかもしれないのに。

 まさかこんな一気に逃げ道を塞いでくるとは思わなかった。

 

「…えっと、もう一度言ってくれる?」

 

「お二人は昨日、大人の階段をお登りになられたのでしょうか」

 

「おかしい。日本語がおかしいぞ火打谷さん」

 

 顔を真っ赤にしながらナツメの要求に応える火打谷さんだったが、冷静ではいられないらしい。

 まあこんなド直球な質問、羞恥を覚えて当然だとは思うが。

 

「…えっと」

 

 頬に羞恥の色が浮かんでいる所を見ると、質問の意味自体は理解しているようだ。しかし、この状況を呑み込めてはいないらしい。

 

 当然だ。仕事終わりのクリスマスパーティーの最中に、端的に言えばS○Xしたんですかと聞かれたのだから、混乱するのも無理はない。

 

「千尋くーん?どこに行こうとしてるのかなー?」

 

「…くっ」

 

 ここは戦略的撤退を、と試みたその時、背後から涼音さんに声をかけられる。

 どうやら読まれていたようだ。立ち上がろうとした足を戻して座り直す。

 

「ナツメ先輩!」

 

「ナツメさん!」

 

「え…、えぇっ!?」

 

 ナツメの方を見ると、火打谷さんだけでなく墨染さんにも詰め寄られていた。

 時折チラチラとこちらに視線を向けるナツメ。俺に助けを求めているようだが…、大変心苦しいが、この状況を打破する力は俺にはない。俺は無力だ。

 

 だが無力故に、一度標的にされればどうしようもなくなるのである。

 

「千尋先輩!」

 

「千尋さん!」

 

「待て、こっちに来るな」

 

 ナツメの視線の先に俺がいると気付いた二人が今度は俺に詰め寄ってくる。

 二人の背後ではナツメが困った顔でこちらを眺めている。

 

 ─────いや、待って。助けて、助けてくれナツメ。

 

 先程までの自分を棚上げして、視線でナツメに助けを求める。

 

「まあ、この反応が色々と物語ってる気はするけどねー」

 

「付き合い始めたその日にS○Xですか…。やりますね」

 

「んなっ…」

 

 この状況を楽しんでいる二人であり、もうとっくに俺とナツメの関係がどうなったのか、察しがついているであろう涼音さんと明月さんがニヤニヤしながら言う。

 

 その言葉に、ナツメが分かりやすく動揺してしまった。こうなればもう、誰から見ても明らかである。

 

「あわわわわわわわわわ…。シたんだ…。ナツメ先輩、シたんだ…。千尋先輩のけだもの!」

 

「…」

 

 何か反論したい所だが、反論できる要素が見つからない。ただおとなしくしている事しか出来ない。

 

「…っ」

 

 フロアが騒がしくなってきた、その時だった。テーブルの上に置きっぱなしになっていた俺のスマホから着信音が鳴り響く。

 

 静になった皆の視線が注がれる中、スマホを手にとって誰からの着信かを確認する。

 

「─────」

 

 画面に書かれた登録名を見て、動きを止める。それは、先程スマホを取りに行った際に見た、不在着信を入れてきた相手と同じ名前だ。

 

 一度周りを見回し、どうするか考える。

 この電話に出るか、それとも無視するのか。

 

「出ないのか?」

 

「いや、出る…あ」

 

 すると、俺の様子を不審に思った高嶺に声をかけられ、反射的に返事を返しながら通話を繋げてしまった。

 

 画面に映る通話中という文字。こうなっては仕方ない、と観念して、スピーカーを耳に当てる。

 

「もしも『メリイイイイイイイイイイイイイイイイイイィクリスm』…」

 

 通話を切った。

 通話を繋げた瞬間にスピーカーから聞こえてきた奇声に等しい大声に思わず耳を離し、電話の向こうの相手が歌い切るつもりだと察してから通話を切った。

 

 スマホをテーブルに置き、フォークで刺したブッシュ・ド・ノエルを口に入れる。

 

「…千尋?」

 

「…どうした、ナツメ?」

 

「さっきの電話…、大丈夫なの?」

 

「…電話なんてなかっt」

 

 電話なんてなかった、と言おうとしたのだが、言い切る前に再び着信音が鳴り出す。紅茶が入ったカップに伸びた手が止まる。

 

 一度目の着信から俺に集まったままの視線を受け続けながら、再びスマホをとる。

 

「もしもし」

 

『もぉ!どうして切っちゃうの?酷いよちーちゃん!』

 

「通話を繋げた途端奇声が響いてきたら誰だって切るだろ」

 

『奇声じゃないわよ!ちーちゃんのバカっ!』

 

 通話を繋げると先程と同じ奇声が─────という事はなかった。一応、電話を掛けてきた相手は先程と同じなのだが、いきなり奇声を上げる奇行には走らなかった。

 本人には奇行という自覚はないらしいが。

 

「で、何の用だよ。今ちょっと取り込み中なんだけど」

 

『別に用事はないけど。ただ、ちーちゃんの声が聞きたいなーって思って。クリスマスだし♪』

 

「用がないなら切るぞ。さっきも言ったけど、取り込み中だ。帰ったらまた電話かけ直す」

 

『あー、待って待って!一つ伝えたい事があるからストップ!』

 

 耳からスピーカーを離して電話を切ろうとすると、慌てた様子で相手が俺を止める。

 その声色から、伝えたい事があるのは本当の様だから仕方なくスピーカーをもう一度耳に当てる。

 

「なに?」

 

『クリスマスプレゼント。もうちーちゃんの家に来てるから、楽しみにしててね♪』

 

 後から考えれば、この台詞は妙だった。しかしその違和感を、今の俺は気付く事が出来なかった。

 とにかくこの電話を終わらせたかった。何だって恋人と友人達の前で()()と電話してなきゃならんのだ。

 

「あぁ分かった。分かったから、切るぞ」

 

『…ちーちゃん冷たい。反抗期が長すぎるぞちーちゃん!もっとお母さんに優しくしてくれてもい』

 

 切った。これくらい強引に切らないとずるずると長電話になってしまう。国際電話って結構電話料喰うんだぞ、分かってるのかあのバカ親は。

 

「…バカ母が失礼しました」

 

 完全にパーティーに水を差す形になった事に、母さんの代わりに謝罪する。

 この謝罪に最初に反応を返したのは火打谷さんだった。

 

「さっきの電話、お母さんだったんですね」

 

「はい、お母さんだったんです」

 

「何というか…、元気な方ですね…」

 

「…恥ずかしい。死にたい」

 

 二度目の着信からの会話は分からないが、少なくとも一度目の着信にて母さんが発した奇声は皆にも聞こえていた筈だ。

 だからこそ、火打谷さんの微妙な笑顔が心に刺さる。恥ずかしい。死にたい。まさにその言葉通りの感情を抱きながら、俺はテーブルに突っ伏した。

 

 その後は涼音さんが皆を包んだ微妙な空気をとある話題で払拭し、それによってある二人が犠牲になりながらパーティーは明るい空気を取り戻した。

 

 残ったブッシュ・ド・ノエルを食べきってからも、昨日の俺とナツメのデートについて色々とつつかれ、更に下の名前で呼びあっている事にも気付かれかなりからかわれた。

 俺が車で迎えに来てからどこへ行ったのか、何をしたのか、ナツメの部屋にお邪魔した所まで吐かされた。数の暴力には勝てないのだと思い知らされた。

 

 というか、何で女という生き物はああいった話題になるとテンションが振り切れるんだ。

 ナツメの部屋に泊まったって言った直後のあの金切り声はヤバかった。

 

「…疲れた」

 

「お疲れ。…いやホント、お疲れ」

 

 そして今、俺は夜道をナツメと並んで歩いている。パーティーも終わり、片付けと着替えも済ませて帰路についている途中だ。

 

 隣で疲れきっている様子のナツメを労う。

 主に女性組からの追求のターゲットになったのはナツメだ。俺の方にも時折追求の手は迫ったのだが、殆どの質問に答えていたのはナツメだった。

 

 何とか助け船を出したかったのだが…、情けない話だが、涼音さん達の勢いに圧倒されて口を挟めなかった。

 いやしかし、いつから好きだったんですか?とか、キスしたんですか?とか、キスはどんな味でしたか?とか、そんな事を聞かれまくってる所に乱入できるだろうか。いや、出来ない。

 

 まあただの言い訳にしかならないが。

 たまに助けを求めて俺に視線を向けてきたナツメに本当に申し訳なかった。マジで情けない彼氏でごめんなさい。

 

「でも…、私達だけじゃなくて良かった」

 

「…そうだな」

 

 そんな疲れきった中でも、ナツメは微笑んだ。

 良かった、と。

 

 それは、母さんからの電話のせいで微妙な空気になった時、それを払拭すべく涼音さんが切り出した話題の事だった。

 

「しかし、まさか店内で公開告白とはな。閉店してからとはいえ、よくもまあ…」

 

 昨日、つまりクリスマスイブ。俺とナツメが店を休んだ日、とある事件が起きた。

 それが先程俺が言った、公開告白である。

 

 誰が誰に告白したのかというと、勿論、高嶺が明月さんにだ。

 涼音さん曰く、バックヤードで、フロアにまで聞こえる大声で、情熱的に告白し合っていたらしい。

 そう、告白し合っていただ。高嶺だけでなく、明月さんもなのだ。

 

 あの二人は結ばれた。二人は付き合う事を選んだのだ。たとえどれだけ短い時間でも、想い合う事を選んだ。

 ならばそれを祝福しよう。いずれ来る終わりの時まで、二人を見守ろう。

 

「…ナツメ?」

 

 そうして歩く内に、俺のアパートとナツメのアパートへの道が分かれる交差点まで来た。

 いつもの様にナツメを部屋まで送るべく、ナツメのアパートの方へと歩くがその時、ナツメが立ち止まった。

 不思議に思い、振り返ってナツメを呼ぶ。

 

「…」

 

 立ち止まったナツメは俺を見上げていた。街灯に照らされて、ナツメの頬が赤く染まっているのが分かる。

 どうかしたのか、俺は体を反転させてナツメと向き合う。

 

「…今日は」

 

 ナツメがおずおずと口を開く。恥ずかしそうに視線を巡らせながら、ナツメは続ける。

 

「今日は…、クリスマス、じゃない…?」

 

「…そうだな」

 

 ナツメの言う通り、今日はクリスマスである。しかしだから何なのかさっぱり分からず、それにまだナツメは何か言いたげだったため、黙って続きを待つ。

 

「その…、昨日は、私の部屋で過ごした…から…」

 

「…」

 

「今日は、その…」

 

「…」

 

 今度は俺が赤くなる番だった。

 まだハッキリとそう告げた訳ではないが、ここまで来ればもう、ナツメが何を言いたいのか、俺に何を求めているのかは一目瞭然だ。

 

 しかし、それを言葉に出すのは流石に恥ずかしいのか、ナツメはもじもじしたまま何も言い出せずにいる。

 

「…来るか?俺の部屋」

 

「え─────」

 

「今日はクリスマスだし」

 

 それなら自分から誘うのが男というものだろう。

 俺も自分の部屋に誘うのは少し恥ずかしく、ナツメの顔を見れない。

 だが─────

 

「─────うん」

 

 返ってくるその声色で、今ナツメがどんな顔をしているかが浮かんでくる。

 ナツメは俺の隣まで駆け寄ると、何も言わずに俺の手を握る。

 

 俺もナツメの手を握り返して、しっかりと繋ぎ合ったままナツメのアパートではなく、俺のアパートの方へと歩き出した。

 

「マフラー、使ってくれたんだな」

 

 夜道を歩く途中、ナツメの首もとを見ながら言う。

 

 今日、店に行く途中でナツメと合流した時から気付いてはいたが、その時は急ぐのを優先して言わなかった。

 それに仕事中もそういう話をする訳にもいかないし、休憩も結局は俺が忘れ物を届けに行ったから時間がずれてしまった。

 

 ナツメの首に巻かれたマフラーは、俺が昨日ナツメにプレゼントしたものだ。昨日の今日で早速使ってくれている。

 

「うん、とても温かい。ありがとう」

 

「いや。こちらこそ、使ってくれてありがとう」

 

 互いにお礼を言い合い、微笑み合う。

 甘い雰囲気の中、街灯で照らされる歩道を歩き、やがて俺のアパートの前まで辿り着く。

 

 ここまで来ると、甘い雰囲気の中に緊張が混じり出す。

 今日はクリスマスで、恋人と俺の部屋で二人きり。

 こんなシチュエーションだと、男としてはどうしても期待してしまう。昨日から今日に掛けて体験した、あの二度目を。

 

 とはいえ強引にするつもりは更々ない。しかし、期待だけはどうも抑えられない。

 どうしたものかと、自身の性欲に呆れながらアパートを、二階にある自分の部屋のベランダを見上げて─────

 

「─────」

 

 そのあり得ない光景を前にして、俺は固まってしまった。

 

「千尋?」

 

 俺の様子がおかしい事に気が付いたナツメが俺を呼び掛ける。

 

「どうしたの?」

 

「…電気がついてる」

 

「え?」

 

 その問いかけに、簡潔に答える。

 ナツメもまた俺と同じ方を見上げ、そして目を見開いた。

 

 この位置からでは当然、部屋の中は見えない。ただ、部屋の電気が着いている事だけはハッキリと目視できた。

 

 俺以外の誰かが部屋の中にいる、或いはいた。空き巣か、それとも─────

 

 ここで俺の中で一つの可能性が過る。あれからもう一月以上が経ったのか。あの人智を越えた存在達との衝突。

 奴らは消滅した訳ではなく、あの時はただ撃退しただけだ。それならば、再び俺を襲撃しに来たっておかしくはない。

 

「ナツメはここにいろ。何もなかったらここに戻ってくる」

 

「な─────」

 

 ナツメの手を解き、そう言い残して俺はアパートに入ろうと足を踏み出す。

 

「待って!」

 

 だがそれは、ナツメが俺の手を掴んで来た事で止められた。

 

「私も行く」

 

「いや、それは駄目だ。ここで待ってろ」

 

「出来ない。ここで千尋を待ってるだけなんて」

 

 ナツメの視線に射抜かれる。

 もし俺がナツメの立場だったら同じ事をしただろう。しかしだ。

 

「危なすぎる」

 

「だから千尋を危ない所に一人行かせてここで待てって?出来る訳ないでしょ、そんな事」

 

 何もないかもしれない。ただ、間違いなく俺の部屋に誰かが侵入したのは間違いないのだ。そしてその侵入者は今も俺の部屋にいるかもしれない。

 そいつと鉢合わせして、荒事になる可能性だってある。俺はいい。最悪、目の力も駆使してそいつを押さえ込む。だが巻き込まれるナツメはどうだ。ただでさえ非力な女の子なのだ。どうなるか分かったものじゃない。

 

 それでも、それを分かった上でナツメは俺についてこようとしている。

 

「…分かったよ」

 

 こうなったナツメはもう譲らない。仕方なく、ナツメがついてくる事を了承する。

 

 ナツメと一緒に建物の中に入る。なるべく足音が立たないよう慎重に階段を登り、俺の部屋の扉の前まで行く。

 ポケットの中から昨日、ナツメから貰ったキーケースを取り出し、その中から家の鍵を取る。

 

「開けるぞ」

 

 そっと、すぐ傍らにいるナツメに言う。

 ナツメが無言で頷いたのを見てから、これもなるべく音が立たないよう慎重に鍵を差し込み、錠を開ける。

 

 そこからはあっという間だった。

 勢いよく扉を開けて、靴も脱がずに玄関から部屋の中へと飛び込む。

 

「あ、ちーちゃん。お帰りー」

 

「…」

 

 部屋の中にいたのは、二人の男女だった。その内の台所で立っていた茶髪の女性が部屋に入った俺を呑気に出迎えた。

 

「…おい千尋。お前、何で靴を履いたままなんだ」

 

 そして次に俺に声を掛けてきたのは黒髪の男性。椅子に座り、のんびりとティーカップを握って俺を呆れた目で見ている。

 

「…千尋」

 

 遅れて部屋に入ってきたナツメが俺に話しかける。

 この光景に、ナツメも戸惑っている様子。しかし、断言しよう。この場で戸惑っているのは俺である。

 

「ちょっとちーちゃん!その子誰!?なに女の子を部屋に連れ込んでるの!?」

 

「…」

 

「…もしかして、彼女!?アナタ、ちーちゃんに彼女が!」

 

「…マジで?」

 

 そして、部屋に入ってきたナツメを見て騒ぐ女性と信じられないと言わんばかりに目と口を大きく開けて唖然とする男性。

 

 もうここまで来れば分かるだろう。この二人は─────

 

「…何でここにいる。父さん、母さん」

 

 俺の両親である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




襲・来


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第五十一話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 12月25日クリスマス、彼女と一緒に俺の部屋に来た。

 普通、この字面を見て想像するのは恋人同士の甘い一時だろう。二人でくっついて、あんな事やこんな事や、なんて想像をするだろう。

 現に、ナツメと部屋に来るまで俺もそんな事を思い浮かべてたりしていた。

 

 が、現実は違う。

 今、隣り合う二つの椅子に座る俺とナツメの正面には、俺の両親が座っている。テーブルを挟んで向かい合っている。

 

「…で、何で二人はここにいるんだよ」

 

 本当にどうしてこうなった。というより何故二人は日本にいる。

 

「何でって、毎年年末には帰ってきてるだろ?」

 

 その問いかけに父さんが答える。

 うん、確かにそうだ。去年も一昨年も、年末にこっちに来て一緒に過ごしていた。

 だが違う、そうじゃない。俺が聞きたいのはそこじゃない。

 

「そうだろ、いつも帰ってくるのは年末だろ。今年は何でこんな早いんだよ。てか事前に連絡寄越せよ」

 

 そう、去年までは数日前にはこっちに来る旨の連絡をくれていた。なのに今年は連絡もなしに無断で来た。

 

「いつもならこっち来るって連絡あるのに今年はないから来ないと思ってた」

 

「あはは。玲子がな、今年は千尋を驚かせてやろうって言い出してな」

 

「止めろよ。俺そういうの嫌がるの知ってるだろ。止めてくれよ父さん」

 

 呑気に笑っている父さんはとんでもなく母さんに甘い。多分父さんは止めといた方がいいとは思った筈だ。しかし止めない、止められない。

 

 いや、もう来てしまった以上考えていても仕方ない。というより怒る気力もない。言っても無駄だと俺が生きてきた二十年間が告げる。

 

 それに、それ以上にどうにかしなきゃいけない事がある。

 

「それで、母さんはいつまでナツメを睨んでんだよ」

 

 四人で椅子に座った時からずっと何も言わずにナツメを見続けてる母さんだ。

 さっきはテンション上がって騒いでた癖に、というかいつも騒いでる癖に、今は静かなのが不気味だ。

 

「…不思議なのよ」

 

「何が」

 

 俺ではなくナツメを見続けながら、椅子に座ってから初めて母さんが喋る。

 俺が続きを促すと、母さんはなおもまじまじとナツメを見ながら口を開いた。

 

「こんなに綺麗な子がちーちゃんの彼女だなんて…、大丈夫?騙されてない?貢がされてない?」

 

「ぶっとばすぞ」

 

 あんまりな物言いについ物騒な台詞が飛び出てしまう。

 

「だって信じられないわよ!ちーちゃんよ?ちーちゃんに彼女よ?さっきは嬉しくなっちゃったけど、冷静になって考えたらやっぱりあり得ないわ!」

 

「あり得ないのはアンタの息子に対するその言動だよ」

 

「年始に三人でおみくじ引いたら、ちーちゃんの恋愛運散々だったじゃない。やっぱりおかしいわ!」

 

「…そうだったの?」

 

「…言われてみれば、そうだった気がしないでもない」

 

 よくもまあそんな昔の事を覚えているものだ。引いた本人である俺でさえよく覚えてないというのに。

 

 というか、マジで息子に対してその物言いはどうなんだ。彼女が出来た息子を真っ先に喜んだのは良いとして、その次にするのが騙されてないかの心配とか。

 

「確かにちーちゃんは可愛くて良い子よ?いつもはツンツンしてるのにふとした時に見せる優しさとか、もう可愛くて仕方ないわ」

 

「おい、人をツンデレみたいに言うのは止めて貰おうか」

 

「あー…」

 

「そこで納得するなナツメ。父さんも無言で頷くな」

 

 何だこれ。さっきまでは二対二の構図だったのに、いつの間に一対三になっている?

 

「でも、ちーちゃんの優しさって他人にあまり理解されない類いだと思うの。ちーちゃんの口調って結構厳しいから」

 

「…」

 

 もう呆れて物も言えない。何なんだこれは。ちょっと語彙力が死んでこれしか言えないんだが。

 

「それでも」

 

 母さんに上げられ、扱き下ろされ、翻弄される俺の隣でナツメが口を開く。

 俺と両親の視線が向けられる中、ナツメは笑顔で続けた。

 

「私はその不器用な優しさに救われました。そのお陰で今の私がいて…、この人を好きになりました。親として心配になるのは当然かもしれません。だから、私はお二人に分かって貰えるまで何度も言います。…私は、柳千尋くんの事を愛しています」

 

「─────」

 

 二人の前で、そう宣言するナツメ。隣にいる俺は嬉しいような、恥ずかしいような、そんな複雑な気持ちでいた。

 

 それと同時に、今すぐナツメを抱き締めたい衝動に駆られる。両親に向かってハッキリと俺が好きだと告げてくれたナツメが愛しくて堪らない。

 

「…そう」

 

 見開いていた目を細めて、母さんは柔らかく微笑んだ。

 まるで今の言葉が聞きたかったと言わんばかりに、安心したように。

 

 すると、母さんと父さんが目を見合わせて、一度頷いてから父さんが俺の方を向いた

 

「千尋、少し頼まれてくれないか」

 

「は?」

 

「出来るだけゆっくり、コンビニに行って四人分の酒を買ってきてほしい」

 

「いや、何言ってんの?急にどうした」

 

「あぁ、俺と玲子の分はビールで頼む。お前とナツメさんの分は…、お前の裁量で頼む」

 

「人の話を聞け」

 

 いきなり俺をパシらせようとする父さんへのツッコミが追い付かない。俺の話を聞いてくれない。

 大体どうして急に、というその疑問の前にだ。

 

「ナツメを残してけってか」

 

「…まあ、そういう事だ」

 

「ざけんな。この流れで置いてける訳ないだろ。何か話したい事があるなら俺も─────」

 

 父さん…いや、父さんだけでなく、二人の思惑は何となく予想がつく。ナツメと何か話があるのだろう。それも、俺に聞かれたくない話。

 うん、断固として却下だ。多分ろくな話じゃない。ナツメに何を言い出すか分からない。

 

 そう思って、俺は断ろうとした。

 

「千尋、大丈夫」

 

 しかし、服の袖を掴むナツメの手とナツメの声に、言葉を言い切る前に止められた。

 振り向いた俺の視線とナツメの視線が交わり、見つめ合う。

 

「…」

 

 口許は微笑みながら、力強い視線でナツメは俺を見ていた。

 

「…はぁ」

 

 溜め息を吐きながらナツメから視線を外す。そして立ち上がり、正面にいる両親を見下ろす。

 

「ナツメに変な事吹き込むなよ」

 

「あぁ。分かってるさ」

 

 二人にそう釘を刺してから、ハンガーに掛けていたコートを羽織り、デスクの上のキーケースをとる。

 

「三十分な」

 

「おう」

 

 玄関に入る直前、最後にナツメと視線を交わしてから扉を閉めて靴を履く。

 部屋を出て、鍵を閉め、アパートの階段を降りながら今頃両親と向かい合っているナツメの事を考える。

 

 …あぁ、やっぱり心配だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

~Another View~

 

 千尋が部屋を出て行って、私と千尋の両親が残される。

 隣の椅子にもう千尋はいない。さっきは大丈夫だって千尋に言ったけれど、正直少し緊張している。

 

 二人を疑っている訳じゃないけど、恋人の両親との初対面がこんな思いもよらない形になるとは。

 

「…それで、お話とは?」

 

 千尋が行ってから、何も話さない二人に私から切り出す。

 よく見れば、二人もどこか固い表情を浮かべていた。この人達も緊張しているんだと思うと、少し余裕が生まれる。

 

「…アナタ」

 

「え、俺?」

 

「お願い」

 

「…」

 

 千尋のお母さんがお父さんの脇を肘で軽く小突き、二人で小さな声でやり取りしてから、千尋のお父さんが大きく咳払いをした。

 

「…ナツメさん、といったね」

 

「はい。…あぁ、申し遅れました。千尋君とお付き合いさせて頂いてます、四季ナツメです。自己紹介が遅くなり、申し訳ありません」

 

「「…」」

 

 千尋のお父さんの曖昧な言い方を耳にして、まだ自己紹介をしていない事に気付きすぐに自分の名前を二人に告げる。

 すると二人はきょとんとした顔になり、互いに顔を見合わせた。

 

「おい玲子。この子凄くいい子だぞ」

 

「この子がいい子なのはさっきの千尋への告白で分かりきってるでしょう?それよりも、早く本題に入って」

 

「…」

 

 どうやら悪い第一印象を持たれた訳ではなさそうだが、さっきの事を持ち出されるのは少し恥ずかしい。

 二人に信じて貰うためとはいえ、かなりとんでもない事を言った自覚はある。

 

 勿論、その言葉に一切の嘘はないし、もう一度言ってほしいと二人に言われれば、躊躇いなくもう一度言える。

 しかしだからといって恥ずかしくない訳ではない。あんなストレートな告白、しかも告白する相手の両親の前でだなんて、羞恥を覚えない方がどうかしている。

 

「ナツメさん」

 

「は、はい」

 

 さっきの事で悶々としていると、千尋のお父さんに呼ばれる。

 すぐに返事を返して、彼の言葉の続きを待つ。

 

「…千尋と付き合い始めたのはいつからだい?」

 

「えっと…、昨日からです」

 

「「昨日!?」」

 

 彼の問い掛けに答えると、驚きを露にした二人が声を合わせた。

 

「つまり、まだ付き合い始めて間もない…という事か…」

 

 昨日からという返答は予想外だったのか、目を丸くしていた二人だったが、次第にその驚愕は収まっていき、やがてその目に真剣な光が浮かんでいた。

 

「ナツメさん。…君は、千尋から何か、不思議な話を聞いていないか?」

 

「不思議な話?」

 

 突然、そんな突拍子もない事を聞かれ、思わず聞き返してしまう。

 

「何というか、こう…。幽霊とか、オカルト染みた話というか…」

 

「─────」

 

 それに対しての返答を聞いて、この人が私に何を聞きたいのか分かってしまった。

 確かに()()は、親として聞いておきたい事なのかもしれない。

 

「千尋の目の事ですか」

 

「っ…!」

 

 千尋のお父さんだけじゃなく、お母さんも私を見て息を呑む。

 

 口の中に溜まった空気を飲み下してから、千尋のお父さんがゆっくりと口を開く。

 

「そう、か。千尋は君に話していたか」

 

「千尋が自分から話したという訳ではありませんが…、知っています」

 

 千尋のお父さんは一度大きく息を吐くと、何かを懐かしんでいる様な、それでいて何かを悔いている様な、どちらともとれる複雑な表情を浮かべながら語り出す。

 

「昔から…、今思えばあいつが産まれたその時から、あいつの目には、私達には共有できない景色が見えていたんだと思う」

 

 いつか、千尋が言っていた事を思い出す。

 物心ついた時にはもう、常人には見えない何かは見えていたし、もっと小さい時から何もない所を見つめたり、手を伸ばしたりしていたと。

 

「千尋はずっと私達に見えてると主張し続けていた。…でも、私も玲子も、その言葉を信じ切れずにいた」

 

 まるで懺悔のように、千尋のお父さんは言った。

 

 それは仕方のない事だとは思う。私だって、高嶺君の事故に巻き込まれず普通に過ごしていたとしたら、こんな話を信じるなんて出来なかった。

 見えないものを信じるなんて、人間にとってどれだけ無理な話か。

 

 しかし、二人にとって、千尋の言葉を信じられなかった事が大きな悔いとして残っているらしい。

 

「親族の殆どがあいつの言葉を信じなかったし、信じようともしなかった。子供の出鱈目だと聞き流していた」

 

「…殆ど、ですか?」

 

 ここで千尋のお父さんの言葉で一つ、引っ掛かる箇所が出てきた。

 そこを切り取って聞き返すと、彼は驚いたように目を丸くする。

 

「そうか…。千尋はその話はしていなかったか」

 

 そう呟くと、千尋のお父さんは口許に手を当てて考え込む所作を見せる。

 

 そうして数秒、或いは十数秒、短い時間ではあるがじっと何かを考え込んでから、不意に私の顔を見る。

 

「この話を私の口からしていいものか、正直悩ましい。…だが、千尋はこの話を君にしようとはしないだろう。あいつはこの話を君にする必要性はないと考えるだろうし、聞いて良い気持ちになる話でもないから」

 

「…」

 

「これは傲慢なのかもしれない。あいつのためにならないかもしれない。…だが、君がこれからも千尋と一緒にいたいと本気で思っているのなら、聞いてほしい」

 

「千尋の傷を。私達の罪を」

 

 千尋の傷と、二人の罪。一体何の事かは分からない。

 でも、この話を聞かなければいけない、と私の中の何かが叫んでいた。

 

 私はその言葉に対してただ黙って一度、頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




短いですが、一話に纏めると長くなりそうなのでここで話を切ります。


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第五十二話






遅くなってしまい申し訳ない。
出来に納得がいかず何度か書き直してました。
それでもあまり出来が良いとは言えない…。でも正直私の力量ではこれが限界でした。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 千尋が初めてハッキリと口にしたのは何時だっただろうか。元々、言葉を話せない赤ん坊の頃から不思議には思っていた。

 何もない所を見て突然笑い出したり、何もない所に手を伸ばしたり。

 ハイハイで移動できる様になってからは、今まで遊んでいたおもちゃを突如放り出したかと思えば、何かに誘われる様にどこかへ行ったり。

 

『おかあさん。あそこであたまいたいいたいしてるひといる』

 

 舌足らずな言葉遣いで千尋はそう言った。千尋が指差す方へ向いても、そこには誰もいない。何もない。

 頭を痛がっている人なんていない。

 

 千尋に何度もどこ?と聞く。千尋は指を差す方を変えないまま、次第に苛立ちを露にしながらも質問に何度も答える。

 

『おかあさん、みえないの?おめめわるいの?』

 

 違う。千尋の母が運転免許証を更新する際に行った視力検査での結果は、両目とも1.5。断じて視力が悪い訳ではない。

 ならば、何故千尋が言う人物が彼女には見えなかったのか。

 

 この時、千尋の母は我が子に恐怖を抱いた。

 この子には見えているのだ。自分には見えないナニかが。

 常人には見えないナニかが、千尋の目にはハッキリと映っているのだ。

 

 それからも、千尋は見えないナニかを見たと口にする事が何度もあった。

 その度に得体の知れないナニかに恐怖する日々が続く。

 

 千尋にそんなものを見るのは止めなさい、と注意した事もあった。しかし、後になって考えれば何とも理不尽な台詞だろう。

 千尋だって見たくて見ている訳ではない。ただ見えてしまっているだけなのに。千尋は何も悪くないのに。

 

 千尋が語る、得体の知れないナニか。母は、やがて恐怖のあまり、自分の子供をそのナニかと同一視する様になっていく。

 

 それでも時が過ぎれば千尋は成長していく。母が嫌がっている気持ちを察する事が出来る年齢まで至ると、千尋はその話を全くしなくなった。

 思えば、その話をしなくなったのは()()()()()()から貰ったという眼鏡を毎日掛けるようになってからだ。

 その話を聞かなくなれば、次第に恐怖も薄れていった。

 

 少年期の千尋は明るく活発で、お喋りが絶えない、そんな子供だった。

 学校でも人気者で、よく友達を連れて家に帰ってきていた。

 当時の担任の教師からもよく誉められて、一度千尋のお陰で苛めが止まったのだと電話で感謝された事もあった。

 

 そんな可愛くて仕方のない千尋が時折眼鏡を外し、何の色も浮かばない顔をしてどこかを見る姿が、かつての恐怖を思い出させる事もあった。

 

 そんなある日、学校から電話が掛かってきた。千尋が喧嘩をしたと、同級生を殴ったという話だった。

 慌てて学校に行き、話を聞くと、初めは些細な口論だったが激しさを増していき、先に千尋から手を出したという。

 

 どういう理由があれ、千尋が先に手を出したというのなら、千尋が謝らなければならない。

 すぐに千尋に謝る様に言うが、千尋は一向に口を開こうとしない。頑なにその場で動かず、正面で千尋と同じ様に母親と立つ相手の子供を睨み付けていた。

 

『俺は嘘つきじゃない』

 

 どうして謝らないのか、そう問い掛けて、千尋の口から出てきたのはそんな言葉だった。

 意味が分からず聞き返すと、千尋は更にこう続けたのだ。

 

『お前に女の子が憑いてる。早く何とかしないと、お前死ぬぞ』

 

 この後どうしたか、母は覚えていない。気付いたら千尋と一緒に帰路について、家に帰っていた。

 

 その後、千尋と喧嘩をした相手は交通事故に遭った。一命は取り留めたが、母と話を聞いていた父が衝撃を受けたのは至極当然の話だ。

 しかも、その相手が一命を取り留めたその裏で、千尋の話を聞いて不安に感じた両親が子供と一緒にお寺に行き、お払いを受け、魔除けのお守りを貰っていたというのだから更に大きな衝撃を受けた。

 

 相手の両親から、もし千尋の言葉を取り合わず放置していたらどうなっていたか、とお礼の電話を貰った時は、素直に喜ぶ事が出来なかった。

 

 明確に千尋に対しての戸惑いが、恐怖が決定付いた瞬間だった。

 それでも自分達の子供が可愛いと思う気持ち全てが失われた訳じゃない。

 精一杯千尋を愛そうと努力をしたつもりだった。

 

 その時点で、努力をしたという時点で、千尋との間に亀裂は刻まれたのかもしれない。

 千尋は幼いながら、両親が自身に抱く恐怖を察していた。明るく活発だった千尋は次第に大人しくなり、そして遂には自分から何かを話すという事すらしなくなっていった。

 

 学校で起きた事も話さない。千尋から話し掛けてきたと思えば、学校からの連絡事項という事務的な話。

 これではいけないと何度も考えた。千尋とまた、かつての様な関係に戻りたいと何度も願った。

 

 しかし、千尋と顔を合わせる度に過るのだ。この世界を彩る何物でもない、この世あらざる物を見つめる時の千尋の顔が。

 

 千尋との間に刻まれた亀裂が時間と共に大きく、取り返しのつかないものになっていく。

 そんな千尋に残された唯一心を開ける人物は、祖母だった。

 

 祖母は千尋の話を信じていた。信じた上で、千尋に対して何の恐怖も持たず、千尋を可愛がっていた。

 そんな祖母に千尋もよく懐いており、毎年夏休みと冬休みに祖母に会った時だけ、年相応の笑顔を見せていた。

 

 一度両親は祖母に聞いた事があった。何故千尋の話を信じられるのか。

 そして、千尋の事が怖くはないのか、と。

 

 問い掛けに笑いながら答えた祖母の顔を、二人は鮮明に覚えている。

 

『千尋に何が見えていようと、あの子は私の可愛い孫で、普通の子供よ』

 

 その通りだ。千尋は二人にとって愛すべき息子で、それは何があろうと変わらない。変わらないのに─────

 だがそう思おうとしても、脳裏を過る千尋のあの表情がそれを阻んでしまう。

 

 どうすれば良いのか分からないまま時は過ぎていき、千尋とのギクシャクが更に大きいものになっていく中、それは起きた。

 

 祖母が倒れ、病院に搬送されたと報せが来たのはとある平日の昼間だった。

 すぐに仕事に出ていた父と学校で授業中の千尋を家に呼び戻し、祖母が倒れた病院へと車を走らせた。

 

 その病院の医師の口から出たのは、原因が分からないという絶望的な話だった。

 とにかくこの病院の設備では精密に検査する事は難しいらしく、もっと大きな病院に入院させる事を薦められた。

 

 その薦められた病院が、美和総合病院である。すぐに二人は祖母と他の親族にも説明し、納得した上で祖母を美和総合病院に移し、そこで詳しい検査をして貰った。

 

 が、医師の口から出てきたのは前の病院で聞いた言葉と同じものだった。

 

 原因不明。未だ見つかる事の無かった病気の発見か。当時、病院内ではちょっとした騒ぎになったという。

 

 入院中の祖母の様子は普段と変わらない。倒れた時はどうなるかと思われたが、意識を取り戻すと、倒れる前の元気な祖母に戻っていた。

 千尋と一緒にお手玉をして呑気に遊んでいる姿を見て、胸に浮かぶのは安堵の気持ちとちょっとした呆れ。親族中が心配で一杯の中、当の本人は孫を可愛がっているのだ。元気なのは良いが、ほんの少し複雑でもある。

 

『どうしたの?』

 

 次の日が土曜日で仕事も学校も休みという事もあり、今日は近くのホテルをとって泊まろうという話になり、ナビの案内でホテルに向かっている途中だった。

 後部座席で座る千尋が二人にそう聞いてきたのは。

 

 両親の様子がおかしい事を察していたらしい。

 大丈夫、何でもない。そう誤魔化す事も出来たかもしれない。

 しかし、千尋の目を見ると、それは千尋に通じないと思えてならなかった。

 

『そっか』

 

 二人は千尋に説明した。祖母の病気が何なのか分からない。このままじゃ危ないという事を、千尋に話していた。

 

『もう一度検査すればいいんじゃない?』

 

 それは子供故の純粋さから出てきた言葉なのか。それとも─────

 

『頭とかさ。レントゲン?とかさ、撮れば分かるんじゃないの?』

 

 千尋が言うまでもなく、祖母の再検査はすぐに行われた。今度はもっと注意深く、同じ箇所でも様々な角度から。

 

 結果、祖母の()にて異常が見つかった。複雑に重なり合い、見えづらい箇所の管にて血栓が出来ていた。

 もう少し発見が遅くなっていたら、危うい所だったという。

 

 すぐに治療が行われ、事なきを得た祖母は一月で退院。

 祖母の家にて、都合で来られなかった者以外で退院祝いを行った。

 その中には、千尋達の姿もあった。

 

『そういえば─────』

 

 夜も更け、子供達どころか祖母も眠ってしまったその中で、ふと口を滑らせる。

 その話の内容は、千尋が祖母の再検査を薦めた事について。

 

 あれはただの偶然か、それとも必然か。しかし、千尋は超常的な何かが見えている事を知っている親族達は、もしやと考えた。

 千尋は祖母の病気について何か見えていたのではないか、と。だからこそ、祖母の病気があった箇所を当てられたのではないのか、と。

 

 この時、彼らの千尋に対する評価は変わった。

 気味の悪い不可思議な子供という評価から、自分達の大切な人を救った恩人という評価へと。

 

 祖母が助かったという安堵からの気の緩み、そしてその場のノリでの酔いもまた原因だったのだろう。

 

『あの子がいれば、病気で死ぬこたないな!』

 

 そう言ったのは誰だったか。言葉自体はただのノリだったかもしれない。

 しかし、それと一緒にもしかしたら、という思いも確かに存在した。

 

 それは千尋の両親も同じだった。現にあの子は祖母の病気の箇所を言い当てた。

 偶然かもしれないが、あの子は()()()()()()違う。()()なのだ。

 

 そう。この時、彼らは千尋を()()()()()と考えてしまった。

 

 だが、何事も起きる時は突然に、そして呆気ないものである。

 

 祖母はこの一年後に亡くなった。始まりは数週間前、あの時と同じ様に突然倒れ、病院に運ばれた。

 あの時と違うのは、その病院の検査にて、倒れた原因が判明した事だ。

 

 祖母を蝕んでいた病魔は癌。しかもすでに手遅れの状態での発見だった。

 それでも少しでも長く、という希望を持ち、あの時と同じ美和総合病院にベッドを移し、祖母の治療は行われた。

 

 しかしその治療の甲斐もなく、祖母は息を引きとった。

 

 その時、祖母の死に際に付き添ったのは六人。千尋達と、祖母のもう一人の娘、そしてその家族だ。

 母の妹、千尋から見て叔母、彼女は祖母の亡骸にすがって泣きじゃくっていた。その背中を、彼女の夫が優しく撫でる。

 

 母もまた、掛け替えのない大切な存在の死に涙を流していた。泣き叫ぶまではしなかったが、もしこの時、隣に千尋と夫がいなければ、妹と同じく泣きじゃくっていたかもしれない。

 

『ねぇねぇ』

 

 千尋の隣で立っていた、千尋よりも小さい男の子が千尋を見上げながら口を開いた。

 母の妹の子、つまり千尋の従弟である。幼稚園に通っている、元気な男の子だ。

 

『おばあちゃん、しんじゃったの?』

 

 悲しげに目を潤ませながら、そう聞く男の子に千尋が頷く。

 

 千尋は祖母の死に涙を見せず、話し掛けてくる従弟に笑顔を浮かべて気丈に振る舞っていた。

 本当は悲しいだろうに。泣きたいだろうに。しかし、千尋はそんな弱い姿を見せなかった。

 

『どうして?』

 

 それは、物を知らない純粋さ故の、残酷な言葉だった。

 

『おにいちゃん、どうしておばあちゃんをたすけてくれなかったの?』

 

 この瞬間、空気が凍ったのをよく覚えている。

 千尋の驚き、固まったその表情を、今でも鮮明に思い出せる。

 

『おとうさんがいってた。おにいちゃん、おばあちゃんのびょうきがみえるんだって。だからだいじょうぶだって』

 

 それは、一年前、祖母の退院祝いの席にて出てきた話だ。この時千尋はすでに眠っていたし、その話を二人は伝えていないため、千尋がそれを聞くのはこの時が初めてだ。

 

『…俺は』

 

 沈黙が流れる中、千尋は口を開く。

 

『俺が見れるのは─────』

 

 その時、千尋に向かって黒い影が素早く迫った。

 誰かが止める暇もなくその影の主は千尋の目の前に立つと、千尋の頬目掛けて掌を振り抜いた。

 

 病室に張り手の音が鳴り響く。この場にいる誰もが、目の前で起こっている事を呑み込む事が出来なかった。

 

 叩かれた頬を赤くした千尋が呆然と見上げる先には、先程まで泣き崩れていた叔母の姿。

 叔母は怒りに満ちた表情で千尋を見下ろし、ゆっくりと口を開いた。

 

『どうして─────お母さんを見殺しにしたのよ』

 

『見殺し…?』

 

『そうでしょう?アンタが病気の事を教えてたら、お母さんは助かった』

 

 千尋は叔母の台詞に対して一瞬口を開こうとして、しかしすぐに閉じ、俯く。

 

『この──────』

 

『っ、千尋!』

 

『おい、やめろ!』

 

 再び腕を振りかぶる叔母を見て、すぐに大人三人が動き出す。

 千尋の父は千尋と叔母の間に立ち塞がり、母は千尋の傍らでしゃがみ、千尋を抱き寄せる。

 叔父は千尋を更に叩こうとする叔母の腕を掴んで止めに入る。

 

『離してっ!こいつが…こいつがっ!』

 

『落ち着け!私達が勝手にそう思い込んでいただけだ!千尋君は何も悪くない!』

 

 ()()()()()()()()()()()()()()

 まさにその言葉通りだ。千尋を特別だと勝手に決めつけ、勝手に期待したのは自分達だ。

 この時、いつかの祖母の言葉を両親は思い出していた。

 

『千尋に何が見えていようと、あの子は私の可愛い孫で、普通の子供よ』

 

 そうだ。千尋に何が見えていようと、この子は普通の子供だ。

 嬉しければ笑うし、楽しければはしゃぐし、腹が立てば怒るし、悲しければ泣く。そんな普通の子供なのに。

 

『…ごめんね』

 

 未だ喚く叔母の声はもう、母には聞こえていなかった。腕の中で一筋の涙を流す千尋を強く抱き締めながら、ただ謝罪する。

 

『ごめんね。ごめんね、ごめんね…!』

 

 ずっと傷つけてきた。そして、その事にずっと気付きもしなかった。

 

 母親失格だ。千尋はきっと自分達を許しはしないだろう。

 それでも構わない。千尋が自分達を許さなくとも、それでも千尋のためになる事をし続けよう。それが、千尋への贖罪になると信じて。

 

 遅すぎる決意だと自覚はしている。だが、そう決めたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから八年。千尋が大学に進学するまで、二人は千尋の傍に居続けた。

 傍に居る事で千尋を傷つける、とは分かっていながら、それでもまだ子供の千尋を放り出して離れる事は出来なかった。

 千尋が大学に進学すると同時に海外へ移ったのは、これ以上千尋の傍につきっきりでいる必要はなくなったと考えたからだ。

 

 最初の一年は様子を見て、もし千尋が辛そうだったら日本に戻るつもりでもいた。しかし、最初の年末に千尋の様子を見に行って、その心配は杞憂だと確信した。

 千尋は一人でもしっかりやっていた。少ないながらも友人を持ち、部屋も綺麗にして、毎日カップ麺やコンビニ弁当という体の悪い食生活も送っておらず、大学の単位もバッチリとって、日々を過ごしていた。

 

 自分の手から子供が離れていく、なんて烏滸がましくて思えやしないが、ほんの少しの寂寥を覚えながら、もう大丈夫だと今は断言できる。

 

 何しろ今の千尋には、こんなにも可愛い恋人が居るのだから。

 

 だから、もう─────本当の意味で、千尋の傍に居続ける必要はなくなった。

 これ以上、千尋を縛り付けなくても良くなった。

 

 だから、これで─────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




千尋→子供の時から両親が自分を不気味がっている事に気付いている。今は、こんな自分をここまで育ててくれた事に感謝しているし、子供の時も両親を憎んでいた訳ではない。

両親→少年時代の千尋を怖がり、普通の子供として見れなかった。祖母が亡くなった際の出来事を切っ掛けに心を入れ替える。自分達が抱いていた恐怖を千尋に悟られている事に気付いていて、それが理由で千尋に恨まれていると勘違いしている。千尋に感謝されている事を知らない。

改めてまとめて見ると、とんでもないすれ違いしてんなこいつら。
てか恨まれてる(と勘違いしている)相手の傍でおっ始めるとかどういう神経してんだこいつら。


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第五十三話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アパートから徒歩で五分ほど行った所にある公園。そこのベンチに腰掛けながら、ボーッと星空を見上げる。

 

 父さんに部屋を追い出され、それからゆっくり歩いてコンビニへ。俺を含めた四人分のお酒を購入して帰路につくが、そのまま真っ直ぐ帰れば指定された三十分よりも早くなってしまう。

 という事で公園に寄り道したはいいものの、する事は持ってきたスマホをいじるか、こうして空を見上げるくらい。

 

「…そろそろいいか」

 

 しかしそれでも、三十分くらいなら案外時間は潰せるもので、気付けば丁度いい時間になっていた。

 腰を上げてアパートの方へと足を向け、再び帰路につく。

 

 時間も時間で、住宅街の歩道を歩く人は殆どいない。一応コンビニにはデート帰りに寄ったと思われるカップルが数組いたが、殆ど人が出歩かない時間だ。

 俺だって、父さんに頼まれなきゃ普通に部屋にいただろうし。

 

「…」

 

 公園を出てから五分、アパートの前まで辿り着く。俺の部屋の明かりは、まあ当然だが点いている。

 今頃、ナツメと父さん達は何を話しているんだろう。俺に聞かれたくないという話は終わっただろうか。というより、俺に聞かれたくない話って何なんだ。ろくな話じゃなさそうだが。

 

「ナツメに変な事を吹き込んでたら許さん」

 

 ポツリと呟いてから、アパートの中へと入る。階段を登り、二階にある俺の部屋の扉の前で鍵を取り出して錠を開ける。

 もう指定された時間は過ぎているし構わないだろう。話が途中だったとしても関係ない。指定した時間を守らないそっちが悪い。

 

 そう割り切りながら後ろ手に鍵を閉め、靴を脱いで玄関から部屋の中へと入る。

 

「ただい…ま?」

 

「おう。お帰り」

 

 部屋の中に入ると、まず最初に声を掛けてきたのは父さんだった。

 続いてナツメと母さんも俺にお帰り、と声を掛けてくる。まあ、それはいいのだ。そこは何も問題じゃない。

 

「…何してんの?」

 

「何って、見りゃ分かるだろ。荷物片付けてんだよ」

 

 問題は、父さんと母さんがスーツケースに荷物を片付けている事である。

 

 いや、何故?これから数日、或いは一週間以上泊まるのだから、そんな片付ける必要はない筈だが。

 

「帰るのか?」

 

「まさか。そんな今日明日でチケットはとれないよ」

 

 何か急ぎの用事が入り、急遽帰らないといけなくなった─────という訳ではないらしい。

 それなら何故、そんなに急にこの部屋を出ようとしているのか。

 

「私達はお邪魔でしょ?」

 

「は?」

 

 不意にそんな事を言い出す母さんに、思わず呆けた声が漏れる。

 その言葉の意味を理解できず、母さんを見ながら首を傾げてしまう。

 

「今日はクリスマスなんだし、ナツメさんとイチャイチャしたいでしょう?」

 

「…は?」

 

「というより、そのつもりだったんでしょ。部屋に連れ込んで、ちーちゃんは何するつもりだったのかなぁ~?」

 

「…別に」

 

「ん~?顔が赤いぞ~、ちーいちゃん?」

 

 俺の首に腕を回し、腕を回した方の手の人差し指でつんつんと頬を突いてくる母さん。

 

「やめろ」

 

「はははっ」

 

 息子をからかって何がそんなに楽しいのか。

 けらけら笑いながら母さんは俺から離れて、スーツケースを持ち上げると父さんの隣へと場所を移す。

 

「それじゃあ、俺達は行くからな」

 

 そう言うと、二人は俺に背を向け、玄関へと向かう。

 

 あぁ、本当に行くのか。何かのドッキリとかそんなんじゃなく。他人に遣う気を持ってるのか、この二人。

 

「いつまで日本にいるんだ?」

 

「ん?今のところは一週間は滞在するつもりだ」

 

「ふーん」

 

 滞在する期間はいつも通りらしい。

 じゃあその間にどっか食事でも奢ってやろうか。去年も一昨年も、日本に来た二人にご馳走されてばっかりだったし。

 

「それじゃあね、ちーちゃん」

 

「あぁ」

 

 靴を履き終えた二人がこちらを向く。母さんが微笑みながら俺に声を掛けて、そして今度はナツメの方へと向いた。

 

「ナツメさん」

 

「っ、はい」

 

「ちーちゃんの事、よろしくね?大変だと思うけど」

 

「…はい」

 

 何やら俺に対して物凄く失礼な事を言っている様な気がするが、気のせいだと考えておく。

 

 何故だか母さんの顔を見ていると、ここで突っ込んではいけない気がした。

 

「じゃあな、千尋」

 

「あぁ」

 

 最初に父さんが扉を開けて外へ出る。そして、次に父さんが開放した扉の前で、もう一度母さんがこちらを向いて。

 

「…バイバイ、ちーちゃん」

 

 母さんが手を振りながら言って、部屋を出ていった。

 

 閉まった扉の向こうから、二人が階段を降りていく足音が聞こえてくる。

 その音も次第に小さくなっていき、やがて聞こえなくなる。

 

 扉の鍵を閉めて、ナツメと部屋に戻ったのは二人の足音が聞こえなくなってから。先程までは騒がしかった部屋が、今はやけに静かで、どことなく虚ろに思える。

 

「…あ」

 

 ふと、テーブルの上に置かれたコンビニの袋が目に入る。そこに入っているのは四人分のお酒。結局、買ってこいと言った本人達はそれを飲まずに行ってしまった。

 

 小さく溜め息を吐きながら、父さんと母さんの分と考えて買ったビール二本を冷蔵庫にしまい、残りのチューハイ二本を持って、座布団に腰を下ろすナツメの傍まで歩み寄る。

 

「ナツメ、飲むか?」

 

 ナツメの方に二本のチューハイの内、アルコール分が低い方を差し出しながら問い掛ける。

 

「…」

 

 しかしナツメは反応を示さない。どこか浮かない表情をしながら俯いたまま。

 

「おい」

 

「っ、ひゃっ」

 

 今度は呼ぶだけじゃなく、ナツメの頬に缶を当てる。流石にこれには反応を示し、突然伝わってくる冷たい感触に驚いたナツメがようやくこちらを向く。

 

「飲むか?」

 

「…うん」

 

 もう一度問い掛けると、今度は頷くナツメ。俺が差し出した方の缶を受け取ったのを見てから、俺もナツメの隣に座布団を敷いてそこに腰を下ろす。

 

「なにボーッとしてたんだ?」

 

「…」

 

 受け取った缶を握ったまま、それを飲もうとしないナツメに話し掛ける。

 ナツメは先程と変わらない浮かない表情のままこちらを向いて、何か言おうと口を開く。

 

 しかし何か言葉は出ないまま、その口は閉じてしまった。

 

 ナツメと父さん達を置いて部屋を出る前はこんな様子じゃなかった。いつもの元気なナツメだった。ならば、ナツメがこうなった理由は火を見るより明らかだ。

 父さん達と話をした結果、こうなった。それに限る。

 

「二人から何を聞いた?」

 

「っ─────」

 

 ナツメがびくりと震える。どうやら図星らしい。

 しかしここまで塞ぎ込むとか、あの二人は一体ナツメに何を話したんだ。

 

「何を言われたか知らないけど、あんま気にすんなよ」

 

「…無理」

 

 プルタブを開けて中身を呷ろうとしたその時、ナツメから返ってきた返答を聞いて動きを止める。

 

「私、何も聞いてない」

 

 ナツメが俺を見上げる。その顔は、どこか怒っている様に見えた。

 だがナツメが何に怒っているのか俺には皆目見当がつかない。

 

「気にするな、なんて無理。あんな話を聞かされて…、好きな人の悲しい話を聞かされて、気にしないなんて出来る訳ない」

 

「…」

 

 悲しい話。そのフレーズを聞いた瞬間に引っ掛かりを覚え、直後にナツメが父さん達から聞いた話が何なのか、合点がいった。

 二人がどういうつもりでナツメに話したのかは知らないが、つまりは俺の過去について聞いたのだろう。まあ、この目の事で色々と言われたからな。

 

「…それこそ、ホントに気にしなくて良いんだけどな。割り切ってるし」

 

「割り切ってるって…」

 

「割り切れたんだよ。ナツメのお陰で」

 

 ナツメの顔から怒りが消え、目を丸くして呆けた表情へと変わる。

 

「少し前までずっと引っ掛かってた。あの人が言った通り、俺はばあちゃんを助けられなかったって。ばあちゃんとの約束を守れなかったって」

 

「…約束」

 

「昔な。この目の力を、人を救うために使いなさいって。それなのに、俺はばあちゃんを助けられなかった」

 

 所詮こんなものなんだと。こんな目を持っていたって、宝の持ち腐れだと。

 俺なんかじゃ、誰も救えないんだ。俺のせいでばあちゃんは死んだんだ。

 

 今考えれば、とんでもなくぶっ飛んだ考え方をしてたものだ。それくらい、あのおばさんの言葉が効いていたらしい。

 

 だが、もう俺は知っている。俺でも他人を、好きな人を助けられるのだと知っている。

 

「ナツメ。俺はお前を助けられたんだよな」

 

「…うん。私は千尋のお陰で救われた」

 

「だから、俺は過去を割り切れた。だからもういい。あんなものに縛られてた俺はもういない」

 

 俺自身何かをしたという自覚はないが結果、ナツメを死の運命から救い出せた。こんな俺でも人を救えるのだと知った。

 

 チューハイを少量口の中に含み、味わってから飲み下す。大きく息を吐いてから、ナツメの方を向いて口を開く。

 

「そんなのよりも大事な今がある。これから見ていきたい未来がある。戻れない過去に縛られるのは、もう終わりにした」

 

「…そっか」

 

 俺と目を見合わせてから数秒、視線を逸らしながらナツメは小さく溢した。

 

「千尋は、強いね」

 

「強くなんてないさ。俺一人で乗り越えたんじゃないし」

 

 そう、俺は強くなんてない。強かったら第一あんな過去に囚われたりしないだろう。

 ナツメがいて、皆がいて、だから乗り越えられた。

 

「だからナツメも大丈夫だ」

 

「…そう、かな」

 

「前までの俺と違って、手を借りたい放題出来る相手がいるだろ」

 

 不安がったままのナツメが俺を見上げる。見上げて、俺の顔を見て、ゆっくりと微笑む。

 

「そっか。今の私には、貴方がいるんだ」

 

 そう言ってから、ナツメは俺の腕に寄りかかってくる。

 

「好きなだけ寄りかかれる千尋がいるんだった」

 

「あぁ。好きなだけ寄りかかっていいぞ」

 

 ナツメに返事を返しながら、右手に持っていた缶を置いて、その腕でナツメを抱き締める。

 

 ナツメの温もりが身を包む。ナツメの香りが鼻腔を擽る。

 先程までの沈んだ空気はどこにもなかった。その代わりに部屋を包むのは、恋人同士の艷めいた空気。

 

「…千尋。こっち向いて」

 

 不意にナツメがそう言い出す。その言葉に従って、何も言わずにナツメの方を向く。

 

 直後、唇が柔らかく温かい何かに触れた。

 

「ん…」

 

 至近距離に、目を瞑ったナツメの顔がある。唇に触れているのが何なのか、もう俺には分かっていた。

 

「んむ…ぅ」

 

 ナツメの要求に応えて、唇を動かす。

 

「んちゅ…む……はぁ…ちゅる…んんっ…」

 

 初めはソフトな触れ合いが、次第に激しさを増していく。というか、ナツメから仕掛けてきたキスが、今では俺の方からもっと深いそれを要求する様になった。

 ナツメの要求に俺が応えるキスから、俺の要求にナツメが応えるキスへ。口の周りが汚れるのも気にせず、互いに貪り合う様にキスを繰り返す。

 

「はぁっ…、んっ…じゅる……ちゅぱ、んん…!」

 

 息が苦しくなれば唇を離して、そして息を吸い込んでからもう一度キスをする。

 キスを繰り返して、また息苦しくなってきたらまた唇を離して、呼吸をしてからまた唇を重ねる。

 

 キスをしながら、まだ冷静を保っている天使の俺が語り掛けてくる。もうそろそろ止めろと、ナツメも苦しいだろうから、と。

 しかしそれに対抗して悪魔の俺が語り掛けてくるのだ。いや、苦しくなったらナツメから合図があるだろう。それがないって事はもっとしたいって事で間違いない。

 

 あー、どうしよう。やっぱり天使の言う通り、一度キスを止めて呼吸を整えるべきか。一応息継ぎの時間を作ってるとはいえ限界はある。

 いやでも、ナツメも本当に苦しくなったら胸を叩くなりしてくるだろうし、ていうか気持ち良くて止めたくないし。

 

 てかそんな事よりもキスの気持ち良さとかナツメの温もりとか匂いとかで俺の理性が限界なんだが。

 

『『それならキスを止めていっちまえ!!!』』

 

 その瞬間、天使と悪魔が声を重ねて叫んだ。

 

 え、そうなるの?天使的にはナツメが息苦しくなければそれでいいんだ?悪魔的にはキスよりも更に深く繋がれるからそれでいいんだ?

 

 しかしまあ、天使と悪魔の意見が一致したという事で。

 唇を離し、ナツメから一度離れる。といっても、抱き締めたままだし、キスの最中に抱き締める腕が両腕になった事で最初よりも距離は縮まっているが。

 

「…ナツメ」

 

 荒くなった息を整えるナツメの赤くなった顔を覗き込みながら、小さく呼び掛ける。

 俯かせた視線を上げて、潤んだ目を俺に向けてくるナツメ。呼吸を繰り返す口を一度閉じてから、ナツメは小さく頷いた。

 

 それは了承のサイン。俺の要求を、ナツメが受け入れたという証。

 

 それを見て、今度は俺の方からナツメと唇を重ね合わせる。

 そのまま床に倒れ込んだ俺達は、更なる繋がりを求めたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…今度は寝坊しなかったか」

 

 朝、目が覚めた俺は緊張に駆られてすぐに時計を見上げた。時刻は五時を少し過ぎた所。充分朝の仕込みには間に合う時間である。

 

 布団を剥がして体を起こす。その際、まだ隣で寝ているナツメを起こさない様に努めて…いや、違う。起こさないとダメなんだ。心地よさそうに寝てる所心苦しいけど、起こさないとダメなんだった。

 

「ナツメ、起きろ。朝だぞ」

 

「…んん、朝…?」

 

 ナツメの肩に手を置いて、軽く揺すりながら呼び掛ける。

 反応は比較的すぐに返ってきた。目はまだ瞑ったままだが、眠そうな声で俺の台詞を繰り返す。

 

「あぁ、朝だ。早く起きないと遅刻するぞ」

 

「ちこく…、遅刻…っ!?」

 

 うっすら目を開けたナツメが、寝ぼけ眼のまま遅刻という単語を繰り返したかと思うと、突如勢い良く起き上がる。

 恐らく昨日の悲しい事故を思い出したのだろう。その気持ちはよく分かる。

 

 は?事故じゃない?あれは自業自得?

 ちょっと話が理解できないな俺日本語じゃないと分かんないなー。

 

「おはよう」

 

「千尋、遅刻って…」

 

「あー、まだ大丈夫だから。ほら、時間も余裕あるだろ」

 

「…はぁ~、よかった…」

 

 俺が指差す先にある時計を見て、ナツメが安堵のため息を漏らす。

 

 かと思うと、ふと今の自分の格好を見下ろしたナツメが恥ずかしげに頬を染めながらこちらを見る。

 

「…なに?」

 

「…別に」

 

 問い掛けにそう答えるナツメだが、つまり自分の今の格好が恥ずかしいのだ。

 何しろ今、下の方は布団で隠されて見えないが、ナツメは裸だ。

 

 昨日、あれからまあ、一度シてから、今度は場所をベッドに移して二回戦。前日に続いてで疲労があったからか、そこでナツメが眠ってしまった。

 俺もナツメと一緒の布団を被って寝て、そして今に至る。

 

「俺朝御飯作ってるから、ナツメはシャワー浴びてこいよ」

 

 言いながら布団から体を出してベッドから降りる。

 その際、ナツメが俺を見て更に顔を赤くしたが、見なかった事にする。

 ナツメの顔を見て我ながらとんでもない事したんじゃないかという気がしてくるが、気にしない事にする。

 

 ナツメがいる方には背を向けて、箪笥から着替えを探す。

 

「…ありがとう。それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらうから」

 

 背後から聞こえてくるナツメの声と足音。

 足音はそのまま風呂場の方へと離れていき、やがて風呂場の扉が閉まる音が聞こえてくる。

 

「…はぁ~」

 

 それと同時に、息を大きく吐き出す。

 何だろう、二度目だというのにどうも緊張してしまった。

 

 いや、一度目は色々とあれだったせいでこうやって余韻に浸る暇もなかったから仕方のない事かもしれない。

 

「…やばいなー」

 

 箪笥を漁る手を止めて、ポツリと呟く。

 

「マジでやばいな…。どんだけ好きになるんだろ、ナツメの事」

 

 脳裏に過るのは昨日のナツメの姿とつい先程の恥じらうナツメの顔。

 もうこれ以上ないという程に好きなつもりなのに、まだナツメが好きだという気持ちが募っていく。

 

 そんな自分に呆れはするが、決して嫌じゃない。むしろ幸せで堪らない。

 

「…って、ボーッとしてる場合じゃない」

 

 昨日のように急ぐ必要はないとはいえ、のんびりしている時間がある訳じゃない。

 早く朝食の準備をして、ナツメがシャワーから上がって来るまでに済ませてしまおう。

 

「…ナツメって、朝は何食ってんだろ。米派だったら…謝ろう」

 

 初めて迎える恋人同士の朝の一時に胸を踊らせながら、着替えを終わらせた俺は台所へと向かうのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




二日連続で何してんだこのバカップル


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第五十四話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

~Another View~

 風呂場から上がり、体を拭いて服を着て、髪を乾かしてから洗面所を出る。

 部屋に戻った瞬間、紅茶のいい香りに包まれる。テーブルの方を見ると、千尋が椅子に座って私を待っていた。

 

 テーブルの上には二人分の朝食と紅茶。トーストと目玉焼きにキャベツの千切りとミニトマトが入ったサラダ。私がシャワーを浴びている間に千尋は私の分も一緒にこれを準備していたらしい。

 

「私の分は良かったのに」

 

「着替えるために一回帰るんだろうけど、それから朝飯準備するって大変だろ」

 

 私の言葉に千尋が笑みを浮かべながらそう答え、そして更に続ける。

 

「それに、どうせなら一緒に食いたかったんだよ」

 

 目を伏せて少し恥ずかしげにそう言う千尋としては、多分そっちが本音だったんだと思う。

 

 勿論、嫌じゃない。千尋の気持ちは勿論、好きな人と一緒にいられる時間が増えるのも嬉しい。

 それに、好きな人と()()()を食べるなんて、ちょっと特別な感じがあって、その…良い。

 

「ありがとう」

 

 目を伏せた千尋に向けてそう言ってから、テーブルを挟んで千尋の正面の椅子を引いて腰を下ろす。

 

 顔を上げた千尋と目が合い、そして微笑み合う。

 ただ笑い合っているだけなのに、どうしようもなく幸福を感じてしまう。私は少し可笑しいかもしれない。ただでさえこれ以上ないくらい千尋が好きなのに、こうして一緒に過ごしているだけでもっと好きになってしまう。

 

「「いただきます」」

 

 二人で挨拶をしてから、食事を始める。

 

「…おいしい」

 

「それはどうも。つっても、ろくに調理したものないけどな」

 

「ううん、本当に美味しい。千尋と一緒だから、一人で食べる朝御飯よりずっと美味しい」

 

 千尋は目を丸くしてから、「俺も同じだ」と言って笑う。

 

 初めて恋人と過ごした朝の時間は、笑顔が絶えないまま過ぎていく。

 朝食を食べ終えてから、千尋と待ち合わせの約束をして一度私の部屋へ帰る。

 部屋に着いて、昨日から着ていた衣服から新しいのに着替え、千尋と約束した時刻まで時間を潰す。

 

 丁度良い時間になってから部屋を出て、早朝の、まだ人通りの少ない歩道を歩く。

 空は青く晴れ渡り、降り注ぐ日差しの暖かさと冬特有の刺すような冷気が身を包む。

 時折朝の散歩、或いはランニングをする周辺の住人とすれ違いながら歩くこと数分、千尋と待ち合わせの約束をした交差点が見えてくる。

 

 すでに千尋はそこに来ていて、私の姿を見つけるとこちらに手を振った。

 私も手を振り返しながら歩きから小走りに移して千尋の元へ急ぐ。

 

「ごめん、待った?」

 

「いや、さっき来たとこ」

 

 そんなベタベタな会話をしてから、どちらからともなく同じ方向へ歩き出す。

 その直前に、千尋から差し出された手をしっかりと握って。

 

 幸せだ。握り合った手を通して千尋の体温が伝わってくる。私と交わす千尋の目と声から気持ちが伝わってくる。

 千尋も、私と同じだったら良い。私と同じ気持ちを感じてくれていたら嬉しい。ううん、そうであると信じたい。

 

「今日はあまりお客さんは来ないだろうな。少なくとも昨日よりは確実に」

 

「そうね。クリスマスも終わったし、涼音さん年末に掛けてはお客さんが減るって言ってた」

 

 歩いている最中、千尋がふと口にする。千尋の言う通り今日はお客さんはそこまで来ないだろうし、涼音さんもクリスマスが終わってから年末に掛けてお客さんの数は減ると言っていた。

 それにもうすぐお店も年末年始のお休みに入る。以前までの私なら、お客さん達が戻ってきてくれるか心配になっていたと思うが、今は違う。

 勿論、絶対に大丈夫という自信がある訳じゃない。でも、たとえお客さんが減ってしまったとしても、頑張ってまた来て貰える様に努力をすればいいだけ。そう思える様になった。

 

 隣にいる千尋と、私を支えてくれる皆のお陰だ。

 

「…本当に変えられちゃったな、私」

 

「?何が?」

 

「んーん。何でもない」

 

 私の呟きを聞いていた千尋に聞き返されたのを、頭を振って返す。千尋は首を傾げるだけで特に追求はしてこなかった。

 

 二人で並んだまま歩いて十数分。お店に着いた私達は最初に私から休憩室で制服に着替えて、それから千尋が作業服へと着替える。

 

「おはよう。今日は遅刻しなかったか」

 

 千尋と一緒にまずは厨房へ。私は挨拶をするために入口付近で立ち止まり、千尋はそのまま厨房内へと入っていく。

 そんな私達の姿を見た涼音さんが話し掛けてくる。からかう様な、悪戯っ気を含んだ笑みを浮かべながら。

 

「おはようございます。…二日連続遅刻は笑えないでしょう」

 

「まあ、昨日と同じ理由でまた遅刻してたら千尋をぶん殴ってたかな?ナツメさんに無理させるんじゃねぇ、って」

 

「…」

 

「…何で黙る?ちょっと、もしかして─────」

 

「お、おはようございます。涼音さん」

 

 雲行きが怪しくなってきたから口を挟む。呆然と千尋を見ていた涼音さんがこちらを向く。

 

「高嶺君は…まだですか?」

 

「昂晴?そういや、今日は遅いわね。いつもならもう少し─────」

 

 涼音さんがそこまで言った時、私の背後から扉が開く音がした。振り返って見ると、噂の高嶺君が眠そうな顔をしながらこちらに向かってきていた。

 

「おはよう」

 

「あー、四季さん。おはよう…ふぁ…」

 

 私と挨拶を交わしながら、高嶺君は大きな欠伸をする。かなり眠そうだが、夜遅くまで何かしていたんだろうか?

 

「涼音さん、柳もおはようございます」

 

「おはようさん」

 

「おはよう。…眠そうだな。夜更かしでもしたか」

 

「あー…、うん。まあ、ちょっとな…」

 

 高嶺君を見てれば当たり前の様に分かるが、私と同じ疑問を抱いた千尋が高嶺君に問い掛けた。

 その問い掛けに対して、どうも高嶺君の歯切れが悪い。千尋から目を逸らし、首の辺りを掻きながらどこか虚空を見上げている。

 

「大丈夫?無理そうだったら、休憩室で仮眠とかとっていいから」

 

「四季さん…。俺を心配して─────」

 

「ううん、高嶺君がミスしたら迷惑被るの千尋と涼音さんだから」

 

「柳。お前の彼女が冷たくて俺泣きたい」

 

「明月さんに泣きついてこい」

 

 冗談交じりの会話の後、笑いが溢れる。

 いつも通りの日常。このお店で、皆と一緒に笑って働く。千尋と付き合う以前から続く、私にとっての大事な日常が、今はもっと輝いて見える。

 

「分かった。栞那に慰めて貰ってくる」

 

「おいこら待て。本当に行くな」

 

 踵を返してホールへ行こうとする高嶺君の襟を涼音さんがむんずと掴んで止める。

 ぐえっ、という苦しそうな高嶺君の声を聞いて、千尋と一緒にまた笑う。

 

 この和やかな空間にいつまでもいたい気持ちはあるが、そういう訳にもいかない。

 

「それじゃあ、私は行きますね」

 

「あぁ。また後で」

 

「うん」

 

 涼音さんから受けた雑な扱いについての言い争いをする二人を他所に、千尋と手を振り合ってから厨房を出てホールへ向かう。

 

 背後から千尋が二人を窘めようとする声が聞こえてくる。一度振り返って賑やかな厨房の方を見て、無意識に零れた笑顔を浮かべたまま私は明月さんと閣下が待つホールへと入るのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 朝の準備も終わり、開店の時間を向かえてから数時間。お昼時を迎えたお店はお客さんの話し声で賑わっていた。

 とはいえ流石に昨日程混雑はしておらず、それなりに余裕を持って仕事が出来ていた。

 

「ありがとうございました。またのご来店をお待ちしております」

 

 お会計を済ませた男女二人組のお客さんがお店を出ていく。

 昨日ならばこの後、店内で順番を待つ次のお客さんを空いた席に速やかに案内する所だけど、今日はそこまで混んでいない。

 

 予想はしていたが、本当にごっそりお客さんの数が減った。こうなるだろうと涼音さんも言ってたし、私も思っていたけれど、こうしてそれと直面してみると少し不安に感じてしまう。

 

「──────」

 

 違う、それは今考える事じゃない。お店に来てくれたお客さんを前にして考える事じゃない。

 意識を切り替えて、まずは今すべき事に集中する。とりあえず、さっきのお客さんが使っていたテーブルに置かれた空の食器の片付けを─────

 

 しようとした所で、お客さんの来店を報せるベルの音が鳴り響く。

 何かを考える前に、無意識に音が鳴った扉の方へ向きながら笑顔を浮かべる。

 

「いらっしゃいま─────」

 

 せ、と言い切る事が出来なかった。折角お店に来てくれたお客さんに失礼だとは思ったけど、それ処ではなかった。

 

「お、ナツメさん」

 

「来ちゃった♪」

 

 何しろそこには、私の恋人のご両親が笑顔を浮かべて立っていたのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 お昼時の一番混む時間帯とはいえ、流石に昨日一昨日ほどの人数は来ていないらしい。厨房の俺達はそれなりの余裕を保ちながらホールから伝えられる注文達を捌いていた。

 何ならクリスマス前の時よりもお客さんの数が少ない気がする。お陰で、今日に関しては厨房に三人というのは人数過多な気さえしてくる。

 

 一応混雑時の筈なんだが。昨日までの修羅場を経験してきたお陰なのか、何と言えば良いのだろう。物足りなさというか、何というか。…俺はMじゃなくノーマルの筈なんだが。

 

「墨染さん、四番テーブルのカルボナーラよろしく」

 

「希、同じく四番テーブルのオムライスも運んでくれ」

 

「はーい」

 

 丁度近くにいた墨染さんに、出来上がったカルボナーラを届けるよう頼む。

 ほぼ同じタイミングで高嶺が完成させたオムライスと一緒に、墨染さんが両手に二枚のお皿を載せてホールへと入っていく。

 

「んで、次の注文は…っと」

 

 手を休める暇はない。昨日程ではないとはいえ、混雑時。ノンビリ休んでいる暇はない。

 

 ホールから届いた注文用紙が纏められたボードに目を向けて、次に古い注文が何かを確かめる。

 

「七番テーブル、パンケーキ二つお願いします」

 

 直後、墨染さんと入れ替わる形で厨房に来た明月さんが新しく入った注文を俺達に伝える。

 その後、注文用紙をボードに貼り付け、そのままホールへと戻っていく。

 

 その筈だった。

 

「それと、柳さん」

 

「ん、どうした」

 

 明月さんはホールへ戻らずその場に留まって俺に話し掛けてきた。作業に集中しつつ、これから続くであろう明月さんの声に耳を傾ける。

 

「柳さんのご両親がいらっしゃってます。今ナツメさんが対応してますが、柳さんもこっちに来ますか?」

 

 作業に向けていた集中がぷっつりと途切れ、手が止まる。

 

「は?」

 

 口から漏れた呆けた声が、厨房の中でやけに響き渡った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第五十五話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『今日はお客さんも少ないし、お昼時だけど私と昂晴だけで大丈夫よ』

 

 涼音さんのこの一言で、俺はフロアへと誘われる事となった。

 作業服を脱ぎ、元々着ていた服装で店内のあるテーブルに俺と他二人で座っている。勿論、他二人というのは俺の両親である。

 

 どうして二人がここに、とは思わない。二人にはステラがオープンする前の段階で、この店について話していたのだから。

 店の場所については教えていなかったが、《美和市 喫茶ステラ》とでもスマホで検索すれば簡単に場所を特定できる。

 恐らく日本に来たらこの店に行くと前から決めていたのだろう。容易に想像がつく。

 

「ちーちゃん、このオムライス美味しいわよ!」

 

「そうか。作ったのは俺じゃないけどな」

 

「でもちーちゃんが作っても同じ味になるんでしょ?ならちーちゃんが作ったも同然じゃない」

 

「…」

 

 母さんの台詞にやや引きながら、母さんと同じくオムライスを食べる父さんの方を見る。

 苦笑いを浮かべているのは今の母さんの台詞に対して俺と同じ心情を抱いているからだろう。オムライスの味が気に入らないからではない筈。

 現に苦笑いしながらもスプーンを持つ手の動きは止まっていない。

 

「この紅茶は千尋が淹れるのと味が似てるな」

 

 一心不乱にオムライスを口に掻き込む母さんを他所に、父さんは落ち着いた様子で合間に紅茶を飲んでからそう口にする。

 

「まあ、皆に紅茶の淹れ方を教えたのは俺だからな」

 

「なるほど、道理で」

 

 そりゃ俺の淹れる紅茶の味と似て当然だ。俺の淹れ方を教えたんだから。

 

 そう返事を返すと、父さんは笑みを浮かべながら食事を再開する。

 一方の俺も涼音さんが作ってくれた賄いのカルボナーラを食べ進める。

 

「バイトはしっかりやってるのか?職場の人と仲良くやってるか?」

 

「別にサボったりとかしてないから。普通に皆優しいから誰かと気まずい、とかいう訳でもないし」

 

 食事をしながら時折父さんが話し掛けてくる。それに返事を返しながら手は止めない。

 涼音さんからはゆっくりしてきて良いよ、と言われたがそういう訳にもいかない。規定の休憩時間である一時間はここで過ごすつもりだが、それ以上は許されない。

 たとえ涼音さんと高嶺が許しても、俺自身そこまで図々しくなれないし、何より父さんも母さんも良しとしない筈だ。

 

「はぁ~…。美味しかった…」

 

 そうこうしている内に、俺も二人も昼飯を食べ終えて一息をつく。

 父さんと母さんは紅茶のおかわりを頼んで二杯目を、俺もナツメに頼んで淹れて貰ったアールグレイを飲む。

 

「良いお店じゃないちーちゃん。私達のお店には負けるけど」

 

「自慢乙」

 

 母さんの誉め言葉に混じった自慢を聞き流しながら紅茶に舌鼓を打つ。

 ナツメに紅茶の淹れ方を教え始めてから何度も飲んできたが、やはり美味しくなっている。そんな素振りは見た事はないが、一人で練習してたりするのだろうか。

 そうでなければ、この上達ぶりは考えられないが。

 

「まあうちの店とは雰囲気が違うから、比べても意味ない気がするけどな」

 

 俺と母さんの会話を聞いていた父さんが口を挟んでくる。

 父さんの言う通り、ステラと二人が経営する店の雰囲気はかなり違う。

 

 ステラはナツメ達接客担当の女の子達のユニフォーム姿とインテリアによって、店内は明るい雰囲気に包まれている。

 しかし二人の店はそれとは違い、店内は落ち着いた雰囲気となっている。決して暗い訳ではなく、来店したお客さんにリラックスして過ごして貰うための店を父さんと母さんは目指していた。

 

 ステラは近くに大学があり、周辺に若者が多く住んでいる事もあって落ち着いて過ごして貰うというよりは、楽しく過ごして貰うという所を目指してお店を作ってきた。

 だから、父さんの言う通りステラと二人の店を比べてもあまり意味はない。

 

 ─────そういえば、今まで忘れてたけど…。

 

 そこまで考え、ふと思い出す。

 ステラをオープンしてこれまで、たくさんのお客さんに恵まれてやって来た。先程の通り、来てくれたお客さんに笑顔になって貰えるお店を目指してきた。

 

 しかし、そのために俺達が選んだ方向性と、ナツメが理想とするステラの雰囲気とは食い違っていた。

 

 ナツメはそれでも良いと、たくさんのお客さんに来て貰えるならと、今のステラを作るための方向に踏み出してくれたが、実際のところ本人はどう思っているのだろう。

 

 まだステラがオープンする前の事。ここで改めてバイトに誘われた時に着ていたナツメの服装を思い出す。

 それは、かつてナツメの両親がこのお店で喫茶店をオープンさせようとして、そしてナツメと一緒に作り上げた制服。

 今のステラで採用されたユニフォームと違い、落ち着いた雰囲気のメイド服。

 

 そして、病院で見たあの絵。もしかしたらナツメは、今でも─────

 

「──ちゃん。ちーちゃん?」

 

「っ…、なに?」

 

「なにって、今の話聞いてた?」

 

 完全に思考に没頭していた。母さんが何かを話していたらしいが、全く聞こえていなかった。

 

「聞いてなかった」

 

 なので素直にハッキリとそう答える。それに対して母さんは不満げに頬を膨らませ、父さんは苦笑いを浮かべた。

 

「もうっ。お母さんの前で他の女の子の事を考えるんじゃありませんっ」

 

「今の台詞親バカ過ぎてちょっときもい。寒気した」

 

「きもいとか言うなぁっ」

 

 ていうか可愛い子ぶってるけど、まあ容姿だけ見たら似合ってるのかもしれないけど、年齢考えたらやっぱきもいんだよな。

 後、その仕草をしてるのが親だって考えると尚のこときもい。

 

「…てか、何で俺の考えてた事が女の子の事になってるんだよ」

 

「え?ナツメさんの事じゃないの?違った?」

 

「…合ってるけど」

 

 普段はアホっぽい母さんも、俺に関しての勘は鋭い。

 俺の返事を聞いた母さんが表情を変え、にまにまと笑みを浮かべながら頬杖を突いて俺の顔を覗き込んでくる。

 

「んー?ナツメさんの何を考えてたのかなー?」

 

「やめろ。聞かれてる」

 

 周りでは一人を除いて、仕事をしつつ時折ちらっとこっちの様子を見る皆がいる。

 ちなみにその一人とはミカドの事だ。我関せずと興味なさげにカウンターの方で黙々と仕事している。

 

「んー?聞かれちゃまずい事を考えてたの?」

 

「違う」

 

「なら教えてくれたって良いじゃーん」

 

 うりうりー、とテーブルの下で俺の足をつついてくる。

 やばい、面倒臭い。こういう時の母さんは割としつこい。

 

「人のプライベートを聞くのは趣味悪いぞ」

 

「ふーん?ちーちゃんとナツメさんのプライベートについて考えてたんだ」

 

「その言い方は卑しく聞こえるからやめろ」

 

 ほら見ろ、ナツメが顔を赤くしてこっち見てるじゃないか。別に何かやらしい事を考えてた訳じゃない。結構真面目な事を考えてたつもりだぞ。

 

「それより、話って何だよ」

 

「あー、話題逸らそうとしてるー」

 

 このままじゃまずいと、話題を逸らそうと試みる。なお、その試みは一瞬で見抜かれてしまったが。

 しかし、俺に答える気はない事を察してくれたからか、それ以上突っ込まれなかった。母さんは一度これ見よがしにため息を吐いてから口を開いた。

 

「私達、明日帰る事にしたから」

 

「─────」

 

 その思わぬ言葉に思わず目を丸くして驚いてしまう。

 数秒の空白の後、おずおずと口を開いて言葉を絞り出す。

 

「何か用事でも出来たのか?」

 

 いつもなら正月を日本で過ごしてから帰っていたのが、今年はすぐに帰るという。去年なんか面倒臭がる俺を強引に引っ張って、ここから車で二時間ほどの所にある温泉街まで連れてったのに。一昨年も寒いから外に出たくなかった俺をあっちこっちに無理矢理引っ張り出した癖に。

 今年は果たしてどこへ連れてかれるのかと飽々してた俺がバカみたいじゃないか。

 

「用事とかじゃないの。でも…」

 

 母さんが俺の問いかけに頭を振って答えてから、悪い笑みを浮かべる。

 それを見た瞬間、嫌な予感が奔る。この質問はするべきじゃなかったと、俺の勘が叫ぶ。

 

「私達、お邪魔でしょ?」

 

「あー、はいはい邪魔邪魔帰れ帰れ」

 

 そんな事だろうと思ったよ。変な気の使い方しやがって。そこまで気が回るんなら去年と一昨年も回してほしかったわ。

 まあ去年の温泉旅行は普通にリラックスできて良かったけど。

 

 しっしっ、と左手を払いながら右手でカップの取っ手を掴んで口元へ運ぶ。

 そんな俺の仕草を見て母さんが笑う。

 

「ていう事で、私達は帰るから。ちーちゃんはナツメさんと存分にイチャイチャしてください」

 

「何なら去年行った温泉にナツメさんと行ったらどうだ?」

 

 母さんと一緒になって父さんまで俺を口撃してくる。

 やめて、ここで父さんが母さんの味方になったら俺のストレスがマッハになって堪忍袋の緒が切れちゃう。お願い、キレないで俺。ここでキレたら、ナツメの大切なこのお店はどうなっちゃうの?

 

「ふぅー…」

 

「あ、耐えた。いつもならキレてるのに」

 

「─────」

 

 二人が確信犯でからかってた事に緒が切れかかるがここも耐える。ここが俺とは全く関係のない場所だったら分からなかったけど、そうじゃない。

 とにかく自分にキレちゃダメだキレちゃダメだと何度も言い聞かせて気を静める。

 

「とにかく、俺達は明日帰るよ。しっかりやれよ、千尋」

 

「帰れ帰れ。見送りも行かねぇ」

 

 頬杖を突いて返事をする俺の姿は、二人から見れば不貞腐れた子供に見えたのかもしれない。俺も、二人が笑ってるのを見てから自覚する。

 しかし、さっき笑われた時とは違って少し気恥ずかしさはあるが、嫌な気はしない。

 

 そんな自分の気持ちを感じながら、この両親の事をどうしても嫌いにはなれないのだと改めて思い知らされる。

 俺を腫れ物の様に扱っていたあの時から突如掌を返して優しくなり、そんな無責任な姿を見せられても俺はこの人達を憎めなかった。

 

 それはきっと、俺自身もまた、俺の事を二人と同じ様に思っていたから。そしてこんな俺を経緯はどうあれ、ここまで見捨てず育ててくれた事に感謝しているから。

 

「─────」

 

 だからこそ、俺は今、それを見逃さなかった事に感謝した。

 

 不意にレンズについたゴミが気になり、眼鏡を外して裸眼になった時だった。

 二人の周囲に吸い寄せられるように、一匹の蝶が寄ってきたのは。

 

 思考が止まる。動きが硬直する。何故、という疑問で頭が一杯になる。

 何故なら二人の周りを飛び回る蝶は、()()()()()()()から。その蝶に、二人が()()()()()()()()()()()から。

 それは人から零れ落ちた魂の断片。人間の負の感情に吸い寄せられる性質を持つ、二人にとって無縁の筈の代物だったから。

 

「千尋、どうした?」

 

「っ…、いや。何でもない」

 

 眼鏡を外したまま動かない俺を怪訝に思ったのだろう。父さんが俺にどうしたのか問いかけてくる。

 問いかけに対して何でもないと答えながら、隣の母さんの表情も一緒に目にする。母さんもまた、父さんと同じ様に首を傾げていた。

 

 しかし首を傾げたいのはこちらの方だ。二人が蝶に集られる理由がさっぱり分からない。

 いやまずその前に、蝶を引き寄せているのが本当に()()()()()も定かではないのだが。

 

 ─────どう見ても、()()()周りを飛んでるよな。

 

 蝶はどちらかの周りを飛んでいるのではなく、明らかに()()()周りを飛び回っている。信じたくはないが、蝶を引き寄せているのは父さんと母さんのどちらかではなく、両方。

 つまり、蝶を引き寄せる原因を二人で抱えているという事でもある。

 

 だがどうすればいい。とにかくこの蝶の対処はすぐに明月さんがしてくれるだろうが、それは根本的な解決にはならない。

 解決するためには、まずは蝶を引き寄せる元を知らなければならない。手っ取り早く聞くのが一番なのだろうが─────

 

『最近、悩みとかあるか?』

 

『え、ちーちゃんどうしたの?いきなり』

 

 単刀直入に聞いても戸惑われるに決まってる。かといって、時間を掛けて調べるという暇もない。何しろ二人は明日、帰ってしまうのだから。

 

 ─────とりあえず、ミカドに相談するしかないな。

 

 何にしても俺一人で考えてもどうせ何も浮かばない。だから、他者の手を借りる事にする。

 

 内心で溜め息を吐きながら、俺と同じく蝶の存在に気付いていたと思われる、じっと俺の方を見ていたミカドと視線を交わした。

 ミカドが一度頷くと、傍にいた火打谷さんに何か一言告げてバックルームの方へと歩いていく。

 

「そろそろ戻るわ」

 

 二人にそう言ってから俺も席から立ち上がる。

 立ち上がった俺を見上げながら、笑顔を浮かべた父さんと母さんが口を開く。

 

「そうか。それじゃあな、千尋」

 

「しっかりね」

 

 そう声を掛けてくる二人を見て頷いてから、二人に背を向けてバックルームへと急ぐ。

 

 何を抱えているのか、何に苦しんでいるのか。己の大切な産みの親達を救う方法を探すため、ミカドの下へと急いだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第五十六話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 仕事どころではなくなってしまった。バックルームへと入った俺は、先に来ていたミカドと目を合わせる。

 ミカドは何も言わないまま向こう側の扉、店とは逆、住居の方へ首を振って歩き出す。ついてこい、という事だろうか。

 

 確かにここで蝶関連の話をする訳にもいかないか。ここだといつ涼音さんに墨染さん、火打谷さんの蝶について知らない人達が入ってくるか分からない。最悪、話を聞かれてしまう恐れもある。

 

 ミカドについていって、辿り着いたのはすっかりお馴染みとなってしまった屋根裏部屋だ。部屋に入った直後、ミカドは人間の姿から本来のケット・シーとしての姿に戻り、振り返ってこちらを見る。

 

「聞く迄もないとは思うが…、貴様も見たな?」

 

 何を、と聞き返すまでもない。その質問が、父さんと母さんの周りを飛び回っていた蝶の事を言っているのだと理解しながら俺は頷いた。

 

「では単刀直入に聞くとしよう。あの二人が抱える悩み等に何か心当たりはあるか?」

 

「あったらこんな所に来てない。さっぱり分からない」

 

「…そうか」

 

 俺の返答を聞いたミカドが小さく溜め息を吐いた直後だった。背後の扉がゆっくりと開かれる。

 音に気付いて振り返ったその先には、体半分を覗かせて部屋の中を伺うナツメの姿があった。

 

「ナツメ」

 

「千尋…」

 

 気遣わしげに俺を見るナツメもまた、蝶を見たのだろう。

 ナツメはゆっくりと部屋の中に入ってくる。

 

「仕事は良いのか?」

 

「うん。最初に休憩欲しいってお願いした」

 

「…悪い」

 

「別に謝る事じゃないから」

 

 謝る俺にそう返しながら微笑むナツメの気遣いが嬉しいと同時に、ナツメに心配をかける自分自身に情けなさも感じてしまう。

 

 そんな俺の気持ちはバレバレだったらしく、ナツメに背中を力強く叩かれる。

 バシン、と音が鳴り響いてから、疑問符を浮かべる俺にナツメが口を開く。

 

「彼女が彼氏を支えるのは当然の役目でしょ?」

 

「…」

 

 ナツメの笑顔につられて俺の方もつい微笑みが漏れる。罪悪感で重くなった胸の内が、ナツメの笑顔で少し軽くなる。

 

「それにね。…私、千尋に隠してた事がある」

 

「え?」

 

 その直後にナツメの言葉につい驚きの声を漏らす。

 笑顔を浮かべていたナツメの表情が、今は申し訳なさそうな表情へと変わる。

 

 突然の変かに戸惑いながらもナツメに話の続きを促すと、ナツメは口を開いた。

 

「心当たりがあるの。…千尋の御両親が蝶に魅入られる理由に」

 

 今度は俺だけでなく、ミカドも驚きを露にした。

 

 続いてナツメから語られるのは昨日の話。バイトが終わってからの帰り。ナツメと一緒に俺の部屋に行って、その後の話だ。

 部屋には何故か父さんと母さんがいて、思わぬ形でナツメと俺の親が対面する事になった。そして俺は父さんに頼まれて、三人を置いてコンビニに行った。

 

 ナツメが語ったのは、その時に二人とした話の事。俺の過去について以外で二人がナツメに漏らした、俺が知らない二人の俺に対する想いだった。

 

「─────」

 

 ナツメとミカドの視線が、何も言わない俺に向けられる。

 ナツメの話を聞いてから、俺の中で言葉が全く浮かんでこない。

 

 つまり、二人が蝶に寄り付かれるのは、俺が原因なのか…?

 何も知らなかった。知ろうともしなかった。二人の笑顔を疑わず、ただ呑気な親だとしか思わなかった。

 

 だがその実態は、過去の出来事に囚われ気を病む、以前までの俺と全く同じだった。

 

「…下らねぇ」

 

 俺の反応を見守っていたナツメとミカドが目を丸くする。

 

 あぁ、本当に下らない。下らなすぎて、嫌悪すら湧いてくる。

 その感情の正体がただの同族嫌悪だと気付いているからこそ、なお忌々しい。

 

 ふざけるな。何が俺を傷つけただ、何が罪だ。俺はそんな風に思っていない。俺はあの二人に贖罪して欲しいなんて思った事はない。

 誰もそんな事を頼んだ覚えはない。むしろ、今まで俺に向けられてきたあの笑顔が、贖罪の気持ちから出たものだと考えると反吐が出る。しかし─────

 

 ─────二人をそんな風にさせたのは、俺だ。

 

 二人は何も悪くない。俺が嫌悪を抱く事は全て、元を辿れば原因は俺だという結論に至る。

 俺がこの目を持って産まれてしまったから、二人は傷つき、贖罪などという下らない気持ちを抱いて自身の子供と接しなければならなくなったのだ。

 

「千尋…」

 

 ナツメが遠慮気味に俺の名前を呼ぶ。

 俺の思考全てを分かっているとは思わないが、それでも今の俺がどういう気持ちでいるかは察したのだろう。

 ナツメだけでなく、ミカドもどことなく神妙な面持ちで俺を見ている。

 

 以前までの俺なら、どうしていただろう。バアちゃんを殺しただけに飽きたらず、父さんと母さんを傷つけたという怒りのままに、両目を抉りとろうとしたかもしれない。

 いや、割と冗談抜きで以前までの俺だったら今回の出来事が止めになってた可能性もある。両目を抉ろうとするのも結構当たってるかもしれない。

 

 だが今の俺は違う。この目で人を救える事を知っている。ならば、今度は─────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ミカドにバイトを早めに上がる許可を貰い、先に一人店を出たのが夕方の五時頃。その道中、家族のグループラインにメッセージを投下、今日は三人で夕飯を食べようと二人に送る。

 

 返信は一分も経たずに返ってきた。送ってきたのは母さんで、その内容は一言で言えば了承。

 吹き出しの中の文はもっと長ったらしく、顔文字や絵文字で満ちていたが面倒なので省略する。

 

 とにかく三人で夕飯を食べる事に決まり、その場所も以前ナツメ達と一緒に行った焼肉店に行く事にして、部屋に帰った俺は二人を迎えに行くべく車のキーと財布を持ってすぐに外へと出た。

 車に乗り込んでから二人にホテルの前で待っているようメッセージを送り、エンジンをかけて車を発進させる。

 

 父さんと母さんが泊まっているホテルは駅から程近く、歩いて五分という所にある。ここから駅まで車で五分ほどなので、ホテルまでも大体それくらいの時間で着くだろう。

 その予想通り五分程でホテルの前に車を止めると、建物の前で立っていた二人の男女が俺が乗る車の方を見てくる。

 

 その二人とは、言うまでもなく父さんと母さんだ。この車は父さんのお下がりなのだから、車種とナンバープレートを見れば俺が運転していると簡単に分かる。

 

 二人は何やらニコニコしながらこちらに近寄り、そして車に乗り込んできた。

 最初に母さんが乗ってきて、次に父さんが母さんの隣に座る。

 

「なに笑ってんだよ」

 

 特に何も言うことなく、普通に車を発進させようと思っていた。しかし、流石に未だににやつかれると気になって仕方がない。

 ルームミラーを通して後部座席の二人を睨みながら話し掛ける。

 

「いや…。千尋が運転する車に乗ってるって思うと、ちょっとな」

 

「…なんだよそれ」

 

 にやにや笑ったまま言う父さんに、俺は一言そう返す事しか出来なかった。何故なら、そんな二人の気持ちが俺にも分かる気がしたから。

 何しろ俺も、二人を後部座席に乗せて運転するというこの時間が何というか、くすぐったいというか、何ともいえない不思議な感覚に陥っているからだ。

 

「とにかく行くぞ。忘れ物とかしてないよな?」

 

 発進する直前に後方の二人にそう問い掛けて、問題がない事を確かめてからいよいよ車を動かす。

 いつもより慎重に、ちょっぴり胸に緊張を抱きながら車を加速させる。

 

 車内で会話はない。初めてナツメを助手席に乗せた時と状況は似ているが、その時の心境とは全く違う。

 さっき言った、両親を車の後部座席に乗せて運転するという今この時間に対して抱く不思議な感覚。父さんも母さんも、特に母さんは落ち着かない様子で外の景色と車内、そして運転する俺の後ろ姿をきょろきょろと見回していた。

 

 目的の店に着いたのはそれから数分後。運転する間会話がないまま店に着き、そのまま店内に入る。

 最初に目が合った店員に席に案内され、三人で腰を下ろす。

 

 案内された席は以前と同じ個室だが、その時と違って大人数用の部屋ではない。畳の上にテーブルと周りに四つの座布団が置かれた四人用の個室だった。

 

 着ていたコートを脱いで、早速メニュー表を開いてどの部位を頼むか考える。

 

「二人は何か食いたいのあるか?」

 

「いや。千尋が好きなの頼んで良いぞ」

 

「…あっそ」

 

 二人に問い掛けると、父さんが代表してそう返事を返してきた。母さんもそれに異存はないらしく何も言わない。

 そうか、それなら俺の好きなように注文させて貰おう。メニュー表を眺めながら俺の食べる肉を決め、テーブルの上に置かれたボタンを押して店員を呼び出す。

 

 時間を置かずにやって来た店員にハラミ、タンを二人前ずつとホルモンの一人前を頼んで一旦注文はここまでにする。

 

「千尋。お前、ホルモン嫌いじゃなかったか?」

 

 店員が部屋を出てから父さんが聞いてくる。母さんも驚いた様子で俺に目を向けていた。

 俺は子供の頃からホルモンが嫌いで、今もそうだと二人は思っていたらしい。いや、まるで今は違うみたいな言い方になってるが、今もホルモンは嫌いだ。

 

 それなら何故ホルモンを注文したか。そんなのは決まってる。

 

「父さんはホルモン好きだろ」

 

「─────」

 

 次は何を頼もうか、メニュー表を眺めながら父さんの質問に答える。

 

「…好きなのを頼めって言ったろ」

 

「俺の好きなように頼んだけど文句あんの」

 

「…ないよ」

 

 注文した肉が届けられ、早速焼いていく。俺がトングを持って、網の上に肉を置く、そうして焼き上がった肉を父さんと母さんが箸で取っていく。んで、俺の皿に肉を置いていく。

 

「おい。何で俺の皿に置く」

 

「え?ちーちゃんが焼いたお肉だから」

 

「…」

 

 まあ、親として子より先に食べ始めるのに少し抵抗があるのかもしれない。それならそれで、こっちもちょっとした強行策に出るとしよう。

 

 身を乗り出して、焼き上がった肉を二人の皿に置いていく。二人は一瞬固まり、それから俺を見る。

 

「良いから食え。そんなガキ扱いしなくて良いから」

 

 そんな二人を見返す事なく、俺は肉を焼く事に集中する。二人に意識を向けていたら最高の焼き加減を逃してしまう。

 網の上に目を光らせ、肉の焼き色のみに意識を集中させる。

 

 二人は何も言ってこなかったが、次に焼き上がった肉を二人の皿に載せる際、先程二人にあげた肉はなくなっていた。

 

「ねぇちーちゃん」

 

 母さんが口を開いたのは、俺もそろそろ肉を食べようとトングを一度空の皿に置いた時だった。

 焼き上がった肉を網から取りながら母さんの方を見る。

 

「ナツメさんと一緒にいなくて良かったの?」

 

「…」

 

 微笑みながらのその問い掛けは、いつもの俺ならばただのからかいだと判断していただろう。彼女出来立ての息子を弄りたいが故の質問、と考えていただろう。

 

 だが、ナツメから話を聞いた今の俺にはこう聞こえてしまう。

 

『私達なんかといるよりも、ナツメさんと一緒にいた方が良い』

 

 だから、俺はこう答えるのだ。

 

「二人は明日帰るんだろ。しばらく会えなくなるんだし、ナツメには悪いけど三人の時間が欲しかった」

 

「─────」

 

 母さんだけじゃなく、父さんも俺の台詞を聞いて目を瞠る。

 

「…何だよ」

 

「あ…えっと…」

 

 母さんと父さんを見遣る。明らかに動揺した二人を見ながら、二人からの返事を待たずに続ける。

 

「俺が三人でいたいって思うのがそんなに意外か?」

 

「っ…」

 

 母さんが息を呑む。驚きに染まっていた顔が、今はどこか苦し気に歪んでいる。

 

 うん、本当は食事が終わって帰り際に切り出そうと思ってたが良いタイミングかもしれない。ここで色々と吐き出してしまおう。

 

「父さんも母さんも、勘違いしてるよ」

 

「…勘違い?」

 

 恐る恐る、といった様子で父さんが聞き返してくる。それに対して一度頷いて返してから、俺は口を開く。

 

「何が俺を傷つけただよ。俺は二人に傷つけられた覚えはないし、贖罪なんて求めたつもりもないぞ」

 

 父さんの手の動きが止まる。母さんの体が大きく震える。

 二人が何かを言う前に、畳み掛けるように二人に言葉を投げ掛ける。

 

「ナツメから聞いたぞ。人の過去を何を勝手に、っていう文句は置いとくさ。それよりも気に入らない事があるから」

 

「ちーちゃん…」

 

「何度でも言うぞ。俺は二人に傷つけられてなんかない。二人からの贖罪なんていらない。…それでももし、二人の気が済まないなら」

 

 ナツメから話を聞いて、色々と考えた。蝶の事を何とかしなければ、二人の誤解を解かなければ、二人が帰る前に解決しなければ。

 ただ一つ、その過程でこれだけは二人に伝えないといけないと思った。

 

「死ぬまで俺の親でいてくれ」

 

 それは、普通の親子であれば極々当たり前の事で、しかし普通ではない俺にとっては大切な事だった。

 

 二人は俺のためだと俺から距離を置こうとしたらしいが、そんなものは俺のためでも何でもない。無論、心の底から俺から離れたいのであれば止めはしないが、もしそうでないのなら。

 

 俺はこの父と母と、親子の関係でいたいのだ。

 

「…」

 

 沈黙が流れる。部屋の中で響くのは真ん中の網の下の火の音だけ。

 

「?」

 

 その中で不意に母さんが立ち上がった。何事かと立ち上がった母さんを見上げると、母さんはゆっくりと俺の方へ歩み寄ってきた。

 

 え、マジで何事?黙ったままだと怖いんだが。

 

「おい、なにを─────」

 

 俺に歩み寄ってきた母さんが隣の座布団に腰を下ろした所で、何をしたいのか未だに分からず口を開こうとして─────俺は母さんに抱き締められた。

 

「ごめんなさい」

 

「…」

 

「ごめんなさい。ごめんなさい…っ」

 

 俺を抱き締めながら謝る母さんの姿は、まるであの時のままだった。あの病室で、今と同じように母さんに抱き締められたあの時と同じだった。

 母さんの両目から流れる涙が肩を濡らす。その上力一杯抱き締められてるせいで少し苦しいが…、今は好きなようにさせる。

 

「いいよ。許す」

 

「…本当?」

 

「ていうか、許すも何もないんだって。俺は二人を嫌ったり、恨んだりもしてないんだから」

 

 母さんの背中を優しく叩きながら、つい笑みが溢れる。

 

 何だこれ、まるで立場が入れ替わったみたいじゃないか。これじゃあ娘をあやす父親みたいだぞ、なんて心の中で思いながら母さんの抱擁を受け続ける。

 

「おい、そこで見てるだけのあんたもだぞ」

 

「うわ、矛先がこっちに来た」

 

「俺はな、二人に感謝こそすれど恨むなんて恩知らずな事思ってないからな。俺みたいな不気味で仕方ない餓鬼をここまで育ててくれたんだからっ!?」

 

 微笑ましそうに俺と母さんを眺めていた父さんにそう言うと、突然母さんが俺の両肩を掴んで体を離す。そして俺と顔を合わせて真っ直ぐ見据えてくる。

 涙で瞳を濡らし、顔をグシャグシャにしながら母さんは口を開く。

 

「そんな風に自分を卑下する事を言わないの!」

 

「お、おう?」

 

「ちーちゃんは普通の子なの!ちょっと他人とは違う事が出来ちゃうだけの普通の子なんだから!」

 

「おう、分かったから落ち着け母さん」

 

 あまりに突然すぎて驚いてしまったが、要するに俺が自分を不気味だと言った事が気に入らないらしい。

 いやしかし、いきなり自分には見えない髪の長い白いワンピースの女の子がいるなんて言い出す子供は普通に不気味ではなかろうか…?

 

「ちーちゃんは嬉しかったら笑って、悲しかったら泣いて、腹が立ったら怒る、普通の子なんだから…!」

 

 母さんが言いながら、また涙を流し始める。

 

「そんな…そんな事に長い間気付けなかったバカな親で…、本当にいいの…?」

 

 ぽろぽろと涙を溢しながら聞いてくる母さん。視線をずらせば、父さんもまた同じ風に思っているらしい。神妙な顔つきで俺の返事を待っているようだった。

 

「…同じ事を何回も言うのは嫌いだ」

 

「っ─────」

 

 またあの台詞を言うのは少し恥ずかしい。だから遠回しな言い方になってしまったが、俺の気持ちは届いたようだ。

 

 母さんの表情が笑顔に変わっていく。ていうか本当に酷いな。涙で顔グシャグシャだし、それでいて笑ってるからもう意味分からない顔になってるぞこの人。

 

「うわぁぁぁぁぁぁん!ちーちゃん、大好きぃぃぃぃぃぃぃ!!」

 

「もういい。もういいから離れろ」

 

「あはん、あはんあはん、あはんあはんあはんあはんあはん」

 

「すっげぇ泣き方」

 

 母さんが号泣する姿を見るのは初めてだが、こんな風に泣くんだなこの人。喉痛くなんないのかねこれ。

 なお一方の父さんは苦笑いしながら勝手に肉を焼いて勝手に食っていた。あぁ、父さんはこれ見るの初めてじゃないんだな。いや、母さんとは三十年以上の付き合いなのだから知ってるのは当たり前なんだろうが。

 

 だからって見てるだけなのはどうなんだろうか。ちょっと助けてくれないか。今こうしてる間も俺に頬ずりしようと力込めてきてるんだが。

 もう本当に良い。抱擁はお腹一杯だから、あっち行ってくれ。

 

「出されたものは食べなきゃでしょぉぉぉぉ…!」

 

「抱擁は食べ物じゃないんで。てかさ父さん、肉の独り占めをやめろ」

 

「ちーちゃんにお肉よりも優先度下げられたぁぁぁぁぁぁ!」

 

「だあああああああ!いい加減離れろおおおおおおお!!」

 

 俺と母さんの闘いはまだまだ続く。そんな中で、一人平和に焼肉を堪能する阿呆親父は一言呟いた。

 

「…俺達が気にしてた事がとんでもなく下らない事に思えてくるよ」

 

 何だかんだ、家族での焼肉は楽しかった。母さんとの乱闘以外は。また家族で焼肉をしたいと思った。また母さんと乱闘する羽目になるのなら御免だが。

 二人をホテルに送ってからの帰りの車内にて、無意識に鼻歌を口ずさむ自分に気付いてその事を自覚したのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

~Another View~

 

「あ─────」

 

 そろそろ寝ようと部屋の明かりを消して、ベッドに行こうとした時だった。

 体から小さな光が漏れた事に気付いたのは。

 

「─────」

 

 そう、か。分かってはいたけれど、やはりもう時間は残されていないらしい。

 皆と…、昂晴さんと一緒にいられる時間は、もう─────

 

『その日が来たら教えてくれ。見送りくらいはしてやろうじゃないか』

 

 その時ふと、掛けがえない友人の一人が言った言葉を思い出す。

 誰よりも先に自分の異変に気付き、その事を指摘し、そして最後は笑顔でそう言ってくれた友人を。

 

「…柳さん」

 

 でも…彼には悪いが、本当に申し訳ないが、今は彼よりも見送って欲しい人が、最期の時まで二人でいたい人がいる。

 だから、勝手な都合で申し訳ないのだが、その約束を破らせて貰う。きっと、彼は文句を言いつつもそれを笑って許してくれるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ステラの屋根裏部屋にて、明月栞那は夜空に浮かぶ月を見上げながら笑みを溢すのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




両親とのお話は一段落
なおシリアスは終わっていない模様


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第五十七話

今更ですがお気に入り1000件突破しました。ありがとうございます。
連載当初はここまで伸びるとは思っていませんでした。思ってた以上にたくさんの読者に恵まれて嬉しいです。
もう少し長くなりそうなこの作品ですが、完結まであとどれくらいかかるか分からないこの作品ですが、付き合っていただけると幸いです。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 閉店し、お客さんがいなくなった店内の掃除も終わり、従業員の全員がフロアに集まる。

 

「これで今年の作業も終わりだな」

 

 ミカドの言う通り、今日が今年最後のステラの営業となる。次の営業は一週間の正月休みを終えた一月三日。それまでは、この場にいる一部の人とは会う事はないかもしれない。

 

 …いや、もしかしたら。

 

「千尋、どうかしたの?」

 

 俺の様子に違和感を覚えたのか、いつの間にか傍らにいたナツメが声をかけてきた。

 少し驚きながらナツメの方を向いてから、もう一度視線を明月さんの方へ向ける。

 

「…明月さんがどうしたの?」

 

「…いや」

 

 首を傾げるナツメ。

 

 俺はどうするべきなんだろう。ナツメに言うべきなのか、それとも黙っておくべきなのか。今まではそうぺらぺら他人に言い触らすべきではないと考えていたのだが、明月さんから話を聞いた時点と今とでは、俺とナツメの関係性はまるで違う。

 とりあえず、こうして隠し事をしてる事に強い罪悪感を覚える程にはあの時よりもナツメとの関係は深まっている。まあ当たり前だが。

 

「…?」

 

 ナツメに何と返事を返すべきか、迷っているとふと、さっきまで何やら高嶺と話していた明月さんが俺達の方を向いて歩み寄ってきた。

 真っ直ぐこっちを見ているから、俺かナツメか、或いは両方に何か用事があるのだろうか。明月さんは俺達の前に立ち止まると、笑顔で口を開いた。

 

「柳さん、ナツメさん。この後、少し良いですか?」

 

 そして明月さんは、俺とナツメにそう言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 先に女性陣が休憩室で着替え、その後俺と高嶺が入れ替わりで休憩室に入って着替える。それから俺とナツメは明月さんの頼み通りに店に残り、他の高嶺達は先に帰っていく。

 そしてフロア内には俺とナツメ、明月さんの三人だけとなった。ミカドはいつの間にかフロアから姿を消していた。休憩室か屋根裏部屋にでもいるんだろう。

 

「それで、どうしたの?明月さん」

 

 この場に三人だけとなってから最初に口を開いたのはナツメだった。

 

 四人掛けのテーブルに俺とナツメが並んで座り、テーブルを挟んで明月さんと対面している。

 俺とナツメの視線を正面から受ける形となる明月さんは、微笑みを浮かべながらナツメの方を見て、ゆっくりと口を開いた。

 

「時間を取らせてしまってすみません。御二人はこの後、どちらかの部屋でイチャイチャするつもりだったのでしょう?」

 

「んなっ…」

 

「…」

 

 浮かべていた微笑みが悪戯っぽく歪む。僅かに開いた唇から白い歯が覗く。明月さんのからかいの言葉にナツメが頬を赤くして素直に反応してしまう。

 

 そんなナツメは可愛らしくて今すぐ抱き締めたいくらいに愛おしいのだが、からかうために俺達を呼び止めた訳でもあるまい。

 

 いや─────もう目を背けるのは止めよう。俺は、明月さんがわざわざ俺達を呼び止めた理由を分かっている。

 

「柳さんは…、もう、分かっていますよね?」

 

「…あぁ」

 

 そして、明月さんは俺が何故呼び止められたのか分かっている事を悟っていた。ただ一人、ナツメだけ首を傾げて何も分からないでいる。

 

「ごめんなさい、ナツメさん。何も知らない貴女にいきなりこんな事を言うのはどうかと思いますが…、結論だけ先に言ってしまいますね」

 

 さっきまでそれは楽しそうに悪戯気に浮かべていた明月さんの笑顔が突然寂しげに変わり、ナツメは少し戸惑っている。

 そんなナツメと目を合わせ、明月さんは言う。

 

「恐らく明日が、私が私として現世に留まっていられる最期の日になります」

 

「…え?」

 

 やはり、と思いつつも何も言わない。しかし、何も知らないナツメは違う。突然そんな事を言われて受け止められないのだろう。

 小さく声を漏らしながら、呆然と明月さんの顔を見つめていた。

 

「さいご…って、どういう…」

 

「言葉通りの意味です。死ぬ、とは少し違いますね。私は元々死んでいますし。…最初から説明しましょうか」

 

 そう言って、明月さんはナツメに話し始める。自身が何者なのか、死神とは何なのか。以前に俺が聞いた話のほぼそのままを、明月さんはナツメに聞かせる。

 

 そして、生きる執着を取り戻した自分は明日、神の下へと送られるだろうと。最後はナツメにだけでなく、俺の方にも視線を向けながら言った。

 

「…」

 

 話が終わるまでずっと、明月さんから視線を逸らさなかったナツメが俯く。

 明月さんは寂しげな笑顔を浮かべたままそんなナツメの次の言葉を待っていた。

 

 ナツメはしばらくの間、何も言わなかった。その間、俺も明月さんも黙ったままナツメを見守っていた。ナツメが次の言葉を発するまで沈黙が流れていく。

 

「…明月さんとは、もう会えないって事なの?」

 

 少しずつ自分の中で呑み込めてきたのか、それともまだ認められない気持ちがその質問を口にさせたのか。

 どちらにしても、もう明月栞那の末路は変えられない。明日、明月栞那という個人が消失し、全く違う人間として生まれ変わる。

 

「そうですね。…多分、難しいでしょうね」

 

 そうなれば当然、再会するなんて不可能に近いだろう。仮に奇跡が起こってそれが成ったとしても、俺達はその人間を明月栞那として認識できないだろうし、生まれ変わった明月さんも俺達の事が分からない。

 そんな哀しい再会をするくらいならば、いっそ再会しない方がと思えてしまうのは少し薄情だろうか。

 

「…いつか、明月さんや閣下と別れる時が来る。私はそう思ってた」

 

 それはナツメの独白。ナツメが明月さんとミカドの二人に出会い、親しくなっていく過程で感じていた予感。

 

「でもこんなに早く…、それもこんな形で別れる事になるなんて、思ってもみなかった…!」

 

 ナツメの声が震え出す。それと同時に、ナツメの瞳から溢れた涙が床へと落ちていくのが見えた。

 

 明月さんもミカドも、本来は深く俗世と関わってはいけない立場だ。死神とケット・シー。空想上の産物とされていた二つのあり得ざる存在が喫茶店で働くなんて、神から与えられた役目を遂行するためとはいえ、俺やナツメのように関わりを持った人以外にも知られる危険性がある。

 それがナツメと、高嶺と、俺と出会い、こんなにも長く、深く関わってこれまで過ごしてきた。俺もそうだがナツメも、勿論高嶺も、自分の日常の中に明月さんとミカドがいるのは当然の事だと受け入れている。

 

 そんな掛けがえのない一人の少女が明日、消える。

 

「ナツメ」

 

 ナツメと明月さんの話が終わるまで二人の間に割り込むつもりはなかったのだが、肩を震わせて嗚咽を漏らすナツメの姿にもう耐えられなかった。

 

 一歩ナツメの傍に寄り、華奢な肩に腕を回すと、ナツメはすぐに俺の肩に顔を埋めた。

 

 その体勢のままナツメの頭を撫でながら落ち着くのを待つ。少しの間嗚咽が止まらなかったナツメだが、やがて収まると俺の肩から離れて再び明月さんの方へと視線を向ける。

 

「高嶺君はもうこの事を知ってるの?」

 

「はい。昂晴さんはそれを承知の上で…、私が消えてからも笑って過ごすと約束してくれました」

 

 それは恐らく、明月さんと高嶺が恋人になる際に交わした約束。綺麗に聞こえながらも残酷な、高嶺にとって呪いにもなりかねない約束。

 

 明月さんも気掛かりだったのだろう。高嶺の事が好きだからこそ、長く一緒にいられない自分に囚われて欲しくない。だからこそ、呪いにも似た約束を高嶺と交わした。

 自分が消えてからも、それに哀しみ囚われる事なく、変わらず笑顔で過ごしてほしい、と。

 

 だがそれは無理な話だ。愛する人を喪って、哀しみを抱かない人なんている筈がない。たとえ愛する人との約束があったとしてもだ。

 俺だって、もしナツメを喪ったら─────考えるだけで恐ろしくて仕方ない。

 

 ─────あいつは今、こんな気持ちを抱えながら過ごしてるのか。

 

 高嶺は、俺の中で過った恐怖を抱えて日々を過ごしている。明月さんとの約束がある手前、考えないようにしながらも、愛する人を喪う恐怖から逃れられず。

 それでも高嶺は、明月さんといる時はいつも幸せそうで、きっとその時だけは恐怖を忘れていられるのだろう。

 

 だからこそ、気掛かりで仕方ない。明月さんが消えた後、高嶺がどうなるのか。塞ぎ込むだけならまだ良い。それだけならば、俺達があいつを支えてやれば何とかなるかもしれない。

 だがもし、あいつが明月さんとミカドに出会う切っ掛けとなった()()と同じ事をしてしまったら─────

 

「それなら、私から言う事はない」

 

 そこまで考えた時、ナツメが口を開いた。

 どれ程の時間、思考に没頭していたかは分からないが、会話の流れからして数秒といったところだろうか。

 

「一番明月さんと一緒にいたい筈の高嶺君がそんな約束してるんだから、私がぐちぐち言っちゃ駄目よね」

 

「ナツメさん…。ありがとうございます」

 

 ナツメ自身、納得しきれてない部分はある筈だ。それでも、自分の中でどうにか呑み込もうとしている。

 明月さんはその事を分かっているのだろう。お礼を言いながら頭を下げる明月さんを見ていると、そう思える。

 

「ううん、お礼を言いたいのはこっち。…明月さん、今まで本当にありがとう」

 

 ナツメと明月さんの出会いの詳細を俺は知らない。だが俺、ナツメ、高嶺の三人の中で一番明月さんと付き合いが長いのはナツメだ。

 一番関係が親密なのは高嶺だろうが、俺達が彼女と出会うまでの間にたくさんの思い出があるに違いない。明月さんに支えられてきたに違いない。

 

 明月さんと高嶺との間で繋がる愛情とはまた違う、二人の間で繋がる親愛は、俺以上に深い筈だ。

 

「…柳さん」

 

 明月さんが俺の方を向く。

 

 ナツメと違い、俺は以前からこうなる事を知っていた。それに、日に日に明月さんの肉体が薄れていく様を目の当たりにしながら過ごして今日。()()()()()()()()()()()()()()()所を見て半ば確信していた。

 

 今日明日辺りが限界なのだろう、と。

 

「私、柳さんに謝らなければいけない事があるんです」

 

 こちらを向いた明月さんが思いもよらない事を口にした。

 明月さんが俺に謝らないといけない事、と言われても全く心当たりがない。首を傾げる俺に明月さんが続けた。

 

「前に柳さんは私に言ってくれました。私が消える時が来たら見送ってやる…って」

 

「あぁ─────」

 

 そう言われて思い出す。確かに俺は明月さんにそう言った。明月さんが消える時が来たら、ミカドと一緒に見送りに行くと、そう約束した。

 しかしそれがどう謝罪に繋がるのかはさっぱり分からず、頭の中に浮かんだ疑問符は消えない。

 

 戸惑う俺を見ながら、明月さんは更に続ける。

 

「でも私─────柳さんとナツメさんと、閣下よりも…、私を見送って欲しい人が出来ちゃったんです」

 

「─────」

 

 言葉を呑む。真剣な様子でそう言った明月さんと視線を交わし続けて少しして、俺は耐えられなかった。

 

「─────ぷはっ」

 

「へ?」

 

 明月さんが目を丸くして呆けた声を漏らす。その様子がまた俺の琴線を刺激した。

 一度崩れた堰が崩壊の勢いを増していくかのように、込み上げる笑いが外へと流れ出た。

 

「ははっ、ははははっ!あはははははははははっ!」

 

「え…、え?どうして笑うんですか!?」

 

「いや、だって…、ぶふぉっ」

 

 先程の明月さんの真剣な表情と台詞を思い出す。

 

 何を言われるかと身構えていたら、俺にじゃなく好きな人に見送られたいと来た。

 何だそりゃ、まるで俺が明月さんにフラれたみたいじゃないか。そう考えるとただでさえそんな事で申し訳なさそうに体を縮こませる明月さんが面白いのに、我慢なんて出来る筈がない。

 

「そ、そりゃそうだよな…。俺やナツメなんかじゃなく、高嶺に見送られたいよな…。高嶺と…二人でいたいよな…ふはっ」

 

「柳さん?」

 

 おっと、流石に笑いすぎた。俺を呼ぶ明月さんの声に険が混じる。まあ明月さん自身は本気で申し訳なく思ってるのに、その対象に笑われたら戸惑うし怒るわ。

 

「いや…とりあえず、謝らなくて良いって。むしろ見送って欲しいとか言われたら逆に困るわ」

 

 俺だってそれなりに明月さんと親しくなったつもりだし、事情を知ってるミカドとナツメと一緒に明月さんを見送ったって自然だと思う。

 高嶺がいなければ─────だが。

 

「さっき高嶺と話してたのも明日デートに行く約束でもしてたんだろ?」

 

 本音を言えば、明月さんを見送りたかった。もう二度と会う事がなくなる友人を見送ってやりたかった。

 だが、俺に見送られる以上に望む事があるのなら話は別だ。

 

「さようなら、明月さん。今までありがとう。…楽しかったよ」

 

「─────」

 

 言いながら明月さんに手を差し出して掌を向ける。俺が差し出した手を目を丸くしながら少しの間見つめてから、明月さんはふっ、と微笑むと、俺の手を握り返して口を開く。

 

「私も柳さんと出会ってから楽しかったです。ナツメさんと幸せになってくださいね?もし泣かせたら…、許しませんから」

 

 明月さんと握手をしながら思い返す。明月さんと出会ってからこれまでの、彼女とのやり取りを。

 仕事で言葉を交わし、助け合った。時にからかわれ、反撃して、笑い合って、異性ながらここまで親しくなった友人はほぼいなかった。

 

 掛けがえない、と何の疑いもなく言い切れる友人とはこれでお別れ。寂しくない筈がない。それでも笑う。それが、彼女の望みだから。

 

 明月さんを見送る事は出来ないけれど、笑ってお別れをする事は出来る。だから、胸の中から湧き上がる寂寥感を我慢して笑う。

 

「さようなら」

 

 そう言って、俺達は明月さんと別れた。それから、俺もナツメも明月さんがどうなったのかを見ていない。

 

 ただ次の日の夜、高嶺からのメッセージで俺達は知る。

 

 明月さんは、幸せそうな笑顔を浮かべて消えていったという事を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第五十八話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…さっむ」

 

 朝、目が覚めてから布団を出る。天国のような温もりの外に出た途端、身を包んだのは容赦ない真冬の寒さ。

 昨日の天気予報では、今日は天気こそ良いものの気温は冷え込む真冬日との事。

 

 大晦日、今年最後の日。外出する人も多いだろうがこのクソ寒い中でご苦労な事だ。

 

「…」

 

 ベッドから両足を出して、その場に座る体勢になる。部屋中を見回してもいつもと何ら変わらない、()()()()()()()()俺の部屋があるだけだ。

 そう。今、この部屋には俺一人しかいない。ナツメは今頃、実家に帰る準備をしているんじゃなかろうか。

 

 あ、別にナツメと喧嘩した訳じゃない。実家に帰らせてもらいますとか言われた訳じゃない。ただ、大晦日くらいは実家に顔を見せに行きたいらしく、今日は実家で一泊してくると言っていた。

 俺もナツメの彼氏として挨拶に行くべきかとも思ったが、ナツメはまだ彼氏が出来た事を両親に言っていないらしい。

 今回の帰省でその事も話すつもりだとナツメは言っていたが、両親への挨拶はまたの機会という事で見送られた。

 

「…ふぅ~」

 

 モーニングティーを淹れてパジャマ姿のまま一息吐く。さて、今日一日はマジで何もする事がない訳だがどうしようか。

 さっきも言ったがナツメはいない。バイトも当然ない。今この場でパッと思い付く事といえば、ゲームをする事くらいだが─────

 

「最初に思い付くのがゲームって…」

 

 そこまで考えてから、我ながら寂しい男だと自虐の念が湧いてくる。大晦日のこの日に一人寂しくゲームって。いやまあ父さんも母さんも海外にいて、帰省が難しいのだから仕方ないのだが。

 それにしたって何かこう、ないものか。

 

「…外出するのもな」

 

 窓の外を眺めながら呟く。

 外は雲一つない快晴。しかしその綺麗な青空に騙される事なかれ、実態は今季一番の冷え込みとすら謳われる真冬日である。

 そんな中、特に宛もなく出歩く気になんてなれる筈もない。

 

「…よし」

 

 紅茶のカップを揺らし、動きに合わせて揺れる水面に視線を落としながら決意する。やっぱり、今の俺にはこれしか残されていないようだ。

 

 カップを持って立ち上がり、そのままPCデスクへと向かう。デスクにカップを置いてから椅子を引いて腰を下ろし、目の前のパソコンを立ち上げる。

 

 結局俺が選んだのは外出ではなく、部屋でゲームをする事だった。

 仕方ないだろ。外に出る用事もないし外は寒いから出る気になれないし、気軽に遊びに誘える奴らは皆帰省してるし─────

 

「…」

 

 ふと思い立ち、トップ画面が開いた直後に再び立ち上がり、ベッドの枕元に置かれたスマホを手に取る。

 スマホのスリープモードを解いて、ライムを起動して画面を開く。ホーム画面から友達一覧の画面へ移り、ディスプレイに指を走らせてある名前を探す。

 

 そして目当ての名前を見つけると、俺はその名前を親指でタップしようとして─────止める。

 

「…何て言えば良いんだよ」

 

 画面の中央に書かれた名前とその傍に映された画像。その画像には二人の男女が写っている。

 黒みがかった茶髪のごく平凡な見た目をした男と、長い銀髪を靡かせた美しい女性。二人は幸せそうな笑顔を浮かべてこの画像に写っていた。

 

 気軽に遊びに誘えて、俺と同じ様な理由で親元には帰らずこの街に残っている友人が一人、いる。

 そう、高嶺である。高嶺も父親が海外にいるため、年末年始は一人で過ごしている筈だ。昨日の事もあるし、励ます意味も兼ねて高嶺を部屋に呼ぼうと思い立ってスマホを手に取ったまでは良いが─────今の高嶺の気持ちを考えると、メッセージを打とうとする手の動きが勝手に止まった。

 

 高嶺に何と言葉を掛ければ良いのか分からない。愛する彼女を失い、塞ぎ込んでいるであろう高嶺に掛けるべき言葉が見つからない。

 いや、むしろ俺は高嶺に何もしない方が良い気すらしてくる。何故なら、高嶺とは違って俺にはまだ傍にナツメがいるから。ナツメを失ってはいないから。そんな俺が高嶺に何を言っても、アイツには嫌味にしか聞こえないんじゃないだろうか。

 

「…その方が良いかもな」

 

 このまま放っておく訳にもいかない。ただ、まだ一日しか経っていない。高嶺には一人で現実を受け止める時間が必要な筈だ。

 俺はスマホを持ったままPCデスクへと戻り、再び椅子に腰を下ろす。点いたままの画面を前に、マウスを動かしてカーソルを操る。起動するゲームはEPEX、聞き慣れたBGMと共にゲームが起動する。

 

「チーターと出会いませんように」

 

 叶うかどうか怪しい願いを呟きながら、画面に映し出される戦場に意識を集中させるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ─────あぁ、これは夢だ。

 

 目を開き、視界に広がる見覚えのない光景を前にして、すぐに悟った。

 見覚えのない、ゴミが散乱する汚い部屋の中で何故か俺は立っていた。床に踞る、女の子の前で。

 

 この感覚、この立ち位置、覚えがあった。以前、涼音さんの部屋に明月さんと侵入した時、気絶した俺は夢を見せられた。

 無差別に選ばれた、過去に起こった無数の死。今、俺が見ているこの死は、果たして以前に俺が見てきた死の一つなのか。それとも、俺が見た事のない別の死か。

 

 女の子は小さな子供という点を差し引いても、明らかに痩せ細っていた。

 

 痩せ細った女の子はか細い声で、この部屋にいない親を呼び続けている。

 

 見慣れた、とは言いたくない。しかし、無数の死を見せられた俺は他人の死を見慣れている、といって差し支えなかった。馴染みのある知り合いならばともかく、こんな見知らぬ、子供の死であっても俺の気持ちは揺らがない筈だった。

 

 ─────何で、助けたいと思う?

 

 今、俺はこの子を助けたいと感じていた。見知らぬ子供を、話した事もない筈の子供を、俺は助けたいと思っている。何故だろう。

 

 いや、待て。本当にそうか?本当に俺はこの子を知らないのか?

 

 そのほんの少しの疑いから、俺の中で確信に至る。俺はこの子に…正確には、この子の魂に見覚えがあった。最初にこの子を見た時に似ているな、とは思っていたが、この子が()()()だったためにその可能性を考えもしていなかった。

 

 似ているなんてレベルじゃない。この魂は、間違いなくあいつのものだ。容姿が違えど、性別が違えど、その魂だけは誤魔化しようがない。

 

 ─────高嶺、なのか…?

 

 呆然と呟く俺の前で、女の子がゆっくりと倒れていく。それを見て慌ててその子を支えようと駆け寄る。

 女の子が倒れる前に傍に辿り着き、両手を伸ばす。俺の両腕に、女の子の重みが乗っかる筈だった。女の子の体は俺の両腕をすり抜けて、床に倒れる。

 

 女の子の体が床に激突する音が嫌に響いて聞こえた。

 両腕を伸ばした体勢のまま、倒れた女の子を見下ろす。

 

 これは俺が見ている夢。この光景を記憶する星の視点から見ている俺の夢。俺には何も出来ない。過去に確定しているこの子の死を覆す事なんて出来やしない。

 

 女の子の体は動いていない。呼吸をする際の体の揺れもない。正真正銘、たった今この瞬間、この女の子は死んだのだ。

 高嶺と同じ魂を持った女の子が俺の目の前で、誰にも見送られる事なく、見捨てられたまま死んだのだ。

 

 ─────…蝶。

 

 倒れた女の子の体から、青い光が舞い始める。その正体は蝶。人の魂の残滓という話だが、この場においてはこの子の魂そのもので間違いないだろう。

 女の子の魂、つまり高嶺の魂が、まるでどこに行けば良いか分からない、迷子のように周囲を飛び回る。

 

『これが人の魂…ですか?』

 

 その時だった。背後から人の気配と共に、聞き覚えのある声がした。

 

『そうだ。案内するのが、我々の仕事だ』

 

 再び、先程の声とは違う男の声。しかしこの声もまた、俺には聞き覚えがあった。

 

 背後には一人の少女と、一匹の二足立ちをする猫がいた。

 この言い方でもう分かるだろう。そこにいたのは、明月さんとミカドだった。

 

『でも…、せめて、この子に親の声を聞かせてあげる事はできないんですか…?』

 

『我輩達には、どうしようもない』

 

 これはどういう事だ。どういう偶然だ。高嶺の魂を持った、恐らく高嶺の前世と思われる少女の魂を案内するために、明月さんとミカドが来たというのか。

 

『…戸惑う気持ちは分かる。だが、この魂が迷わぬよう導く事しか我々には出来ない』

 

 浮かない顔をする明月さんにミカドが声を掛ける。

 この感じから、この明月さんはまだ死神になって間もない頃といったところか。多分、これが初めての死神の仕事だったのではないだろうか。

 

 死神となって最初に出会った魂が高嶺のものだったとは、二人が出会ったのは運命なのではとすら思える程の偶然だ。

 この時はまだ、俺はそう思っていた。

 

『…次の人生では、あなたを愛してくれる人の下に─────幸せになれるように』

 

 明月さんのその言葉が区切りだった。場面が転換し、俺の視界に新たな場所が広がる。

 これもまた、以前に見た夢と同じだった。ある瞬間から突然視界が切り替わる。そして、また別の人物の死が始まるのだ。

 

 だが、俺の目に映ったのは思わぬものだった。

 

 ─────高嶺?

 

 先程とは別の人物ではある。性別も男の子だ。しかし、俺にはハッキリと先程の少女と同じ魂が見えていた。

 

 結論から先に言おう。明月さんの願いは叶わなかった。この男の子も…いや、この魂はまた、誰にも愛されずに死を迎えた。誰にも看取られる事なく、一人で。

 

 場面が切り替わり、またも俺は同じ魂を目にする。そして、孤独に死にゆく光景を見せられる。

 

 ─────魂が、強くなっていく…。

 

 夢を見続けている内に、その魂の輝きがどんどん強くなっている事に気付く。死を迎える度に、転生する度に、まるで次こそはと魂が意気込んでいるかの様に、輝きが、力が増している。

 

 ─────そうか。あいつの魂が奇蹟を起こす程に強いのは…。

 

 この繰り返しがあったから。誰にも愛されないまま迎える死を繰り返した。しかし、この魂は明月さんの言葉を信じていたのだ。

 ()()()()()()。その言葉を力に変えて、輝きを増していきながら転生を繰り返していった。

 

 そして─────

 

『まさか…。奇蹟を起こしてしまうようになるとはな』

 

 今度の景色は俺にも見覚えがあった。ステラのフロア内にて、ミカドと明月さんが何かを話し合っている。

 

 ミカドが口にした()()という単語から察するに、高嶺についての事だろうか。

 

『こうなっては仕方あるまい。時を戻す事の出来る人間など放置はできん。魂を刈るしかあるまい』

 

 そして、ミカドの口から出てきた台詞は信じられないものだった。

 魂を刈る、つまり今、ミカドは高嶺を殺すと口にしたのだ。

 

『待ってくださいっ。その場合…、あの子はどうなるんですか?』

 

『恐らくは、もう転生の機会は失われるだろう』

 

 明月さんの問い掛けに淡々と答えるミカド。この時のこいつは、本気で高嶺の魂を刈り取るつもりだったのだろう。

 世の理をねじ曲げる力を持った危険な魂を、高嶺を殺すと。ミカドとて思う所はあるのだろうが、それでも自身の役目を全うするべく私情を殺している。だがもう一人は、明月さんはそれを認められないでいる様だ。

 

『そんな…っ』

 

 ミカドの返答に対して目を見開いて拳を握る。

 

『幸せを望んでいるからこそ、こんなにも頑張っているのに…。私の言葉を信じて、ここまで頑張ってきたのかもしれないのに…。その結末がそれじゃあ…、寂しすぎますよ…』

 

『だが、奇蹟を起こせる魂を放置はできん。…たとえ我輩達が見逃したとしても、遅かれ早かれ他の誰かが処理するだろう』

 

 明月さんが俯き目を伏せる。僅かに震える彼女は何を思い、何を考えているのだろう。

 

『…私が、何とかします』

 

『なに?』

 

『高嶺さんを消さずに済むように、私が何とかします』

 

 顔を上げて明月さんが口にしたその言葉にミカドは僅かな間、驚いたように目を見開くがすぐに表情を戻す。

 そして、明月さんを真っ直ぐに見据えてミカドが口を開く。

 

『その具体案は』

 

『高嶺さんが奇蹟を起こせなくなる程度に、私が高嶺さんの力を削ぎます』

 

『無理だな。その力の範囲は決して小さくはない。魂が大きく損なえば、肉体にも影響が及ぶ。恐らく、体がもつまい』

 

『ですが、そのショックは一時的なものですよね?乗りきればまた安定する筈です』

 

 明月さんは固い決意を宿した瞳でミカドを見て、一拍空けてから告げた。

 

『ショックが収まるまで、魂が安定するまで、私が補います』

 

『なっ…!?』

 

 今度こそミカドの表情が崩れた。驚きに大きく目を見開き、信じられないと言わんばかりに体を震わせる。

 

『分かっているのか。死神は生物ではない。肉体という枠組みを持っていない。人を象った魂そのものだ。そんなお前が魂を分け与えれば─────』

 

『このまま見過ごしたら、私は報われないこの世界に絶望してしまいます。そうなったら、生まれ変わる事もできずに終わります。…それこそ、どの道ですよ』

 

『…』

 

 明月さんの決意を前にして何も言えなくなったミカドが黙り込む。そんなミカドに、明月さんは更に続けた。

 

『後は高嶺さんがやり直したいと思わなくなるくらい、幸せになれば問題はない筈です』

 

『…』

 

『ミカドさん、お願いします』

 

 目を瞑り、考え込むミカド。やがてゆっくりを目を開けたミカドは大きく息を吐きながら頭を振り、明月さんの方を見ないまま口を開いた。

 

『分かった』

 

『っ、ミカドさん!』

 

『勘違いするな。お前の気持ちは分かった、と言ったまでだ。お前の方針を採用した訳ではない。…我輩の一存で決められる範疇を越えているからな』

 

 ミカドはもう一度、今度は小さく息を吐いて、腹を括った様な真剣な表情を浮かべて再び口を開いた。

 

『この件について、朔夜様に掛け合ってみよう。それで駄目だった場合は…、諦めろ』

 

『…お願いします。このまま放ってはおけません。絶対に』

 

 明月さんのその言葉を最後に、突如周囲の音が聞こえなくなる。それと同時に視界が光に覆われ、何も見えなくなっていく。

 明月さんとミカドの姿が、ステラの店内が見えなくなっていく。そして─────

 

「─────」

 

 次に目に入った景色は、見慣れた自室だった。視界の端で何かが光っている。目線を動かして、それがPCの画面だと分かる。

 

 そこで思い出す。ゲームを始めてそのまま没頭してしまい、気付けば昼をすぎていた。かなりの時間熱中していたため、疲労を感じた俺はそのまま眠ってしまったのだろう。記憶は定かではないが。

 

 部屋の中は暗い。相当の時間熟睡してしまったらしい。いや、そんな事はどうでもいい。それよりも、今は。

 

「…明月さんが消えたのは、高嶺に魂を分けてたから、なのか?」

 

 眠っている間に見た夢の内容を思い出す。あれは、高嶺の魂が転生していく様を見てきた星の記憶。いや…、高嶺の魂の行く末を見守る明月さんを眺めてきた星の記憶、というべきか。少し分かりづらいが。

 

 その夢の中で、明月さんが口にした高嶺に魂を分け与えるという言葉。そして、死神は肉体という枠組みを持っていないというミカドの言葉。その他にも、明月さんとミカドの会話を考えれば、明月さんが以前に俺に説明した彼女が消える理由が違う、或いはそれだけではないと察する事が出来る。

 

 だが─────

 

「本当に、そうなのか…?」

 

 一縷の疑惑が過る。本当に、明月さんは高嶺に魂を分け与えたから消えたのか?

 だとすれば、明月さんが犠牲になるのを承知の上で、最終的に明月さんの方針を了承したという事になる。

 ミカドも、ミカドが掛け合ったという朔夜さんも、明月さんよりも高嶺を優先したという事になる。

 

 勿論、明月さんの熱意に負けた、というのも考えられるが…、駄目だ。どうも引っ掛かって仕方がない。この引っ掛かりの正体が何なのか、過去の記憶を呼び起こす。

 明月さんと出会ってから今まで、明月さんが消えるまでの記憶。高嶺に対してだけじゃない。他の、明月さんが魂を浪費せざるを得なくなる何か─────

 

「…あ」

 

 あった。明月さんが魂を浪費したかもしれないその瞬間を。確定ではない。何しろ俺は、その場面を()()()()()()()()のだから。

 だが、もしかしたら。もし、本当に俺の考え通りだったなら。

 

「っ─────」

 

 明月さんが消えてしまった理由は、俺なのかもしれない。

 

 そう考えが過った瞬間、俺は駆け出していた。なりふり構わず、今の格好のままアパートを飛び出したのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




ヒント
原作ではあるとある話がこの小説にはない事


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第五十九話






あのお方の久々の出番。
覚えてる人はいるのだろうか?


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

~Another View~

 今でも、心の中に大きな悲しみは残っている。それでも─────前を向こうという気持ちが今の俺の心の中に確かに存在していた。

 

 再び奇蹟を起こした事をミカドは俺を責めはしたが、その償いを手伝ってくれる事を誓ってくれた。

 ミカドだけじゃない。この店の仲間達がいれば、俺はまた前を向けるような気がする。栞那の後押しが、俺にまた歩き出す力をくれたのだ。

 

 そして俺はまた明日から、幸せを求めて生き続ける()()()()

 

「残念だ。本当に残念だよ、高嶺君」

 

 俺は、世界の理をねじ曲げ愛する人を求めたその代償を、見誤っていた。

 

「だけど、自業自得だね。君の愛する人の気持ちを無視してしまったその罪は─────」

 

 その人は─────神は。俺に審判を下すべく、この場にすでに参上していた。

 

「君が考えている程、軽くはないよ?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 真冬という季節を差し引いても、あまりに過ぎる寒さが辺りを包み込む。

 その寒さが、気温によるものではないと、昂晴は分かっていた。

 

 強大すぎる存在感を醸し出しながら目の前に立つ彼女の視線が、真っ直ぐに昂晴を射抜く。それに対して昂晴もまた、真っ直ぐ視線を返していた。

 いや、その言い方は正確ではない。昂晴はその場から動く事も、視線を彼女から逸らす事すらも許されていないのだ。

 本当ならば今すぐにでも目を背けたい。彼女に背中を向けて逃げ出したい。しかし、何か不思議な力に縛られたかの様に、昂晴の体は昂晴の意志に従わない。

 

「朔夜様…。それは一体、どういう事なのですか」

 

「彼は再び奇蹟を起こした。だから、その代償をここで支払ってもらう」

 

 彼女、朔夜は別に昂晴を縛りつけよう等とは思っていない。そんな必要はない。たとえここで昂晴が逃げ出したとしても、捕まえる事は彼女にとって容易い。

 ならば、何故昂晴は身動き一つとれないのか。

 

 生き物としての格が違う相手の存在感を前にして、ただ臆しているだけ。昂晴の体を縛っているのは、ただの恐怖。たったそれだけで、昂晴は言葉も発せず、視線すら動かせず、その場に立ち尽くすだけの状態になっているのだ。

 

「高嶺昂晴の魂を…刈るのですか」

 

「仕方ないだろう?大体、理を一度乱した時点で問答無用で刈らなければならなかった。それを君とあの死神に懇願されて、嫌がる星を何とか説き伏せて、この子の魂を生かしてあげたというのに」

 

 ミカドの方を向いていた朔夜の視線が再び昂晴を向く。先程よりも鋭さを以て、昂晴を突き刺す。

 

「彼女と約束したんじゃなかったのかな?彼女が消えても泣かないと。前を向いて歩くと」

 

「─────」

 

「早く気付くべきだったね。彼女が君に掛けた言葉は君への願いだったと同時に、忠告でもあったという事に」

 

 これは昂晴もミカドも、無論朔夜も知らない栞那の心の内。昂晴へ掛けた言葉は、栞那の心の底から出た本心だ。しかし、朔夜の言う忠告、とは少し違うのだが。

 心の片隅に、もし昂晴が自分の存在に囚われ、やり直しを求めてしまうのではという恐れもない訳ではなかった。

 

 

「残念だ。本当に残念だ。君には期待していたんだよ?奇蹟を渇望する人間は何人も見てきた。その度に、私達はその魂を排斥してきた。…だから、君が初めて、奇蹟を求めない人間になるのではないかと、期待していたんだよ」

 

 昂晴に対して、朔夜は態度と声色に失望を隠さず込めながら言う。

 

 そう、朔夜は昂晴に期待していたのだ。これまで見てきた人間とは違う結果が見られるのではないか、と。内心、昂晴の行く末を楽しみにしていたと言っても過言ではない。

 しかし、朔夜の期待は裏切られた。消えた栞那を求めて、昂晴は奇蹟を望んでしまった。

 

「でも…、一番残念がっているのはその娘だろうね」

 

「っ」

 

 その一言に昂晴が息を呑む。朔夜が向ける視線の先には昂晴──────いや、昂晴の周りを飛び回る一匹の蝶。

 

「本当に…本当に、君を愛し、心配していたんだろう。なのに、君はそれを裏切った」

 

「俺が…裏切った…」

 

「そう。君は奇蹟にすがる程に求めてやまない彼女を。明月栞那を裏切ったんだ」

 

 昂晴の体が震え出す。朔夜の存在感に圧倒され、身動きすらとれなかった体が、絶望に苛まれ震え出す。

 

「前を向く?幸せになる?」

 

 膝が崩れ、アスファルトの歩道に踞る。昂晴の目にはもう、何も映っていない。心の中に満たされた絶望が視界を覆い尽くす。

 

「そんな資格はもう、君にはない」

 

 朔夜が何かを言っているが、聞き取れない。いや、もうそんなのはどうでもいい。昂晴はもう、全ての気力を失っていた。

 

 先程まで、奇蹟によって再会した栞那の後押しで満ち溢れていた活力は、目の前の彼女に奪い尽くされた。

 

「明月栞那が自身の存在を懸けて生み出した最後のチャンスをふいにした罪─────その魂で贖え。高嶺昂晴」

 

 次の瞬間、全てが終わる。昂晴の、昂晴の魂の長い旅路。一人の少女の言葉を信じて、幸せを求めて回った長い旅路が、ここで終わろうとしていた。

 

 だが、これは当然の報いなのかもしれない。栞那を裏切ったその報いを受けるだけなのかもしれない。それならば─────仕方ないのだろうか。

 

「…どういうつもりだい?」

 

「?」

 

 振り下ろされる神の裁きを大人しく待っていた。しかし、いつまで経っても何も起こらない。自分は死なない。

 

 何故、と胸の中で過った直後、昂晴の視界に青い小さな光が舞った。

 

「っ…!」

 

 勢い良く顔を上げる。視線を上げた先には、昂晴の方を見ながら、それでいて昂晴を見ていない朔夜の顔。

 しかし、昂晴が目を奪われたのはそんな彼女の端正な顔ではなかった。

 

「かん、な…?」

 

 まるで、自分の前に立ちはだかっているかの様に。昂晴を朔夜から守っているかの様に、一匹の蝶がそこに飛んでいた。

 

「君を裏切った。君の願いを振り払った。そんな男を、君はまだ守るつもりだというのかい?」

 

 朔夜の言葉に返事を返す声はない。だが、変わらずそこに蝶は飛んでいる。昂晴の前で、朔夜と対峙している。

 

 それが、栞那の返答。

 

「…どいた方がいい。でないと、奇蹟に荷担する存在として排斥を命じられるかもしれない」

 

「なっ─────」

 

 朔夜の口から飛び出た言葉に昂晴が絶句する。

 

 何故そんな事になる。栞那は関係ない筈だ。むしろ栞那は、そうならない様に頑張ってきて、でもそれを自分が裏切った。彼女は関係ない。

 

「もういい。栞那、俺の事は放って行ってくれ。じゃないと、栞那が…」

 

 自身が口にしようとしたその台詞の恐ろしさに言い切る事が出来なかった。

 

 このままだと、自分と一緒に栞那も消される。生きる希望を失い死神になり、長い時を経てようやく新たな人生を歩む資格を得たばかりなのに。

 そんな事を許してはならない。罪を犯したのは自分一人で、裁きを受けるべきなのも自分一人なのだ。栞那は何も関係がない。

 

「どいてくれ、栞那!」

 

 しかし、栞那の欠片はそこから動かなかった。昂晴に何と言われようとも、朔夜の神気を向けられようとも、この場を譲らない。

 

「…美しいね。たかがほんの一欠片。明月栞那として生きてきた記憶も持っていない。だというのに、愛する人を守り通そうとする。愛の奇跡と呼ぶ他がない」

 

 その言葉は、栞那の行動を讃えている様にも聞こえるものだった。

 昂晴の前で飛ぶ蝶は、明月栞那の魂のほんの一部。この中に込められているのは明月栞那の少しの心残り程度。

 

 明月栞那の記憶を持たない。どうして自身がここにいるのかも分からない。自分が何者かも分からない。いや、思考能力を持っているかすら危うい、そんな矮小な存在。

 しかし、昂晴の事だけは覚えているかの様に、栞那の一部は昂晴を守ろうとする。愛する人を、自身の存在を賭けて守り通そうとする。

 

「理解できないな」

 

 朔夜は、神は、そんな人の美しさを理解し得ない。理解しようともしない。

 

「たかだか他人のために。今、私がその気になれば本当に君は転生の機会を失うよ?」

 

 蝶に…、いや、蝶を通して朔夜は呼び掛ける。

 

「なに。生まれ変わればまた高嶺昂晴程に愛し合える男が見つかるさ」

 

 栞那へと忠告を続ける。

 

「長い間この魂を見守ってきたんだ。愛着はあるだろうね。だがそろそろ君のためにも諦めるべきだ。この男の魂の末路はもう定まっている。君が何をしようと変わらない」

 

 何をしても徒労に終わる。どころか、何もしない方が身のためだ、と。

 

「…それは君も同じだよ?千尋」

 

「─────」

 

 その台詞に目を見開いたのは昂晴だけではなかった。黙って成り行きを見守るだけだったミカドもまた、昂晴と同じ様に驚きを露にした。

 

「話の流れについていけてないんですが、とりあえず一つだけ聞かせてください」

 

 その声は昂晴から見て正面側から聞こえてきた。姿は正面に立っている朔夜に隠れて見えない。

 しかし、聞き間違う筈がないその声は、先程朔夜が口にした名前を持つ青年の声だ。

 

「高嶺と明月さんに何をしようとしてるんですか?朔夜さん」

 

 そしてその声には、隠しきれない敵意が込められていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 家を急いで出た直後だった。どこからか鳴り響いた鼓動が全身を震わせたのは。

 思わず足を止め、呆然としたのは一瞬だけ。すぐに再び駆け出しながら今の鼓動は何だったのか考える。

 

 何かの音が聞こえてきた訳じゃない。言い表すなら、空気が震えたとでも言えばいいのだろうか。言葉にし難い、初めての感覚だった。

 その感覚について何も分からない。だが何故だか、ステラに急がなければならないという強い焦燥感に駆られた。

 

 メガネを外して瞳の力を解放しようかとも考えたが、まだ通りには少ないながらも人が出歩いている。だから星との接続はしないまま、人として与えられた脚力のみでステラへと急ぐしかなかった。

 

「─────」

 

 しかしそれも途中まで。ある瞬間を境に、メガネを投げ捨てて星との接続を試みる。

 

 直後、走るペースが急加速する。接続は成功し、身体能力が向上、その効能をとことん活用して全力でステラへと急ぐ。

 

 ─────やっぱり、これは。

 

 ステラへ急ぎながらも、周囲に気を配る。星と接続をする直前、背筋に奔った悪寒。そして、突如感じなくなった人の気配。

 これには覚えがある。以前、俺を襲ってきた奴が俺を追い詰めるために張った結界。あの時も今と同じ様に人の気配が全く感じず、この場にいる人間が俺だけなのではないかと錯覚した。

 

 だが、その時と今とでは明確に違うものがあった。

 俺以外の人の気配が感じられる。どころか、俺の瞳はハッキリと、俺以外の存在を捉えている。

 

 まるで処刑されるのを待つ罪人の様に踞るだけの高嶺と、高嶺に何かを言っている朔夜さん。そして、何故かその場から動かず黙ったままのミカド。

 

 ─────もしかしたら…。

 

 走りながら、先程の感覚を思い出す。突然響き渡った鼓動。ただの仮説だが、あの鼓動はもしかしたら─────。

 

 足を止める。正直、まだ何がどうしてこうなっているのかは掴みきれていない。

 

「…それは君も同じだよ?千尋」

 

 一応予測は立てているが、それで確定という訳ではない。俺にはまだ、殆ど何も分からない。

 

「話の流れについてけないんですが、とりあえず一つだけ聞かせてください」

 

 だが、その中で一つだけ分かる事がある。

 

「高嶺と明月さんに何をしようとしてるんですか?朔夜さん」

 

 こちらを向く彼女は、今の俺にとって対峙すべき敵なのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第六十話






少し残酷な描写があります。
気を付けてください。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 寒い。今にも体が震え出しそうな程に寒くて仕方がない。

 だというのに、それに矛盾して流れる汗が止まらない。

 

 額から流れ出る汗が頬を伝う。背中に滲む汗が着ている服を濡らす。

 拳を握り、全身に力を込めて体が震えるのを必死に堪えて虚勢を張る。

 

 今この場で、この女神をどうにか出来るのは俺しかいないのだから。

 

「君らしくないな千尋。彼の前に私がいる理由なんて、一つしかないだろう?」

 

「…高嶺の魂の排斥」

 

「星からの命令だからね。君だって邪魔をすればどうなるか分からないよ?」

 

 そう、彼女がここに、高嶺の前にいる理由は一つしか考えられない。そんな事、彼女の言う通り分かり切っている事だ。

 それでも、聞きたかった。聞くしかなかった。何か言葉を口に出していないと、俺の意志に反して両足が勝手に後ろを向いてしまいそうだったから。

 

 ─────比べ物にならない…!

 

 朔夜さんと向かい合いながら、前に獣と対峙した時と今を無意識に比べてしまう。

 目の前の神から伝わってくる存在感は、獣と対峙した時に感じたそれとはハッキリ言って比べ物にならない程に大きく、強く、おぞましさすら感じる程。

 

 本能が今すぐ逃げろと、彼女の邪魔をするなと叫ぶ。それでも、両足で踏ん張り、その場に居続ける。

 欠けがえのない()()の友を失わないためにも、目の前の怪物から目を背けない。

 

「…千尋。私もね、君にはそれなりに思い入れがある。出来れば君に手を出したくはないんだよ」

 

「っ─────」

 

「私に君を殺させないでくれ」

 

 願望とも脅しともとれる言葉を口にした朔夜さんが俺から視線を切り、高嶺と明月さんに向かい合う。

 

 ─────分かっている。俺が何をしても無駄に終わる可能性の方が高い事くらい。二人を見捨てて逃げた方が自分のためだという事くらい。

 

 それでも、と心が叫ぶ。逃げるな、と本能と正反対の言葉を自身に言い聞かせる。

 

「お─────」

 

 勇気と決意と共に震える足を一歩踏み出す。そこからは先程までの硬直は何だったのかと思える程に簡単に、流れるように次の一歩を踏み出せた。

 

「おおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」

 

 駆け出した足はもう止まらない。見た目は華奢なのに、外に溢れる存在感が途徹もなく大きく見せる背中に向かって疾駆する。

 

 拳を握って振りかぶる。こちらに向けられた後頭部に狙いを定める。

 その行動に思考は存在しない。ただがむしゃらに、彼女がしようとしているものを止めさせようと、それだけのために。

 

「っ…!」

 

 突き出した拳が柔らかくも冷たい、そんな感触に包まれる。

 俺の拳を包み込むのは掌。こちらを見ないまま朔夜さんが俺の拳を掴んだ掌だった。

 

 静寂の中、朔夜さんの溜め息を吐く声だけが辺りに響き渡る。そして、彼女はゆっくりと再び俺の方へと振り返った。

 

「君は、それで後悔しないんだね?」

 

 その一言は、俺への最後の通告。それに対して何も答えないまま、ただ拳に力を込めたまま向けられる瞳を見返す。

 

「…そうか」

 

 吐息混じりのその一言の直後、女神から発せられる圧が急激に増す。それと同時に掴まれた拳が引っ張られると、抵抗を許さぬまま俺の体が後方に投げ出される。

 

「─────がはっ!?」

 

 何が起きたか分からないまま、背中がコンクリートに叩きつけられた。その衝撃と痛みでようやく今、自分は投げ飛ばされたのだと自覚する。

 

 成人男性の体重を片手で、それも拳を掴んで持ち上げ投げ飛ばすという化け物染みた怪力を見せつけた女神は無言でこちらを睨んだまま、ゆっくりと歩み寄ってくる。

 

 いや、事実化け物なのだ。本来、俺達人間とは交わる事のない領域に居する神々の一柱。全ての生物の頂に立つ内の一人。こうして向かい合い、対峙するだけでも傲慢に当たる、強大な存在。

 

 それでも、と心に鞭を打ち、両足に力を込めて駆け出す。

 

「っ─────」

 

 俺と朔夜の間に開いた距離はおよそ十メートル程。その距離を一瞬にして詰める。

 人間離れした脚力は、星詠みの瞳によって接続した源から引き出した力によるもの。これもまた、化け物染みた力と言えるのだろう。

 

 しかし、ほんの僅かな慢心も、正確にこちらの動きを捉える女神の瞳が許さない。

 

「ぐっ!?」

 

 攻撃を仕掛ける前に、朔夜がこちらの顔面目掛けて拳を突き出してくる。

 すぐさま足を止めて両腕を顔面の前で交差して防御体勢をとる。と同時に、星詠みの瞳によって膨大に広がった視野が、拳を突きだしながら更なる動きを見せる朔夜の姿を捉えた。

 

 強烈な正拳の衝撃と痛みに顔を歪ませながら、右足を後ろに引いて半身になる。直後、先程まで立っていた場所を黒い影が疾った。

 

 それに視線を向ける事なくすぐに後方に跳んで朔夜から距離をとる。

 

「その瞳がある限り、死角からの攻撃でも不意を突く事は出来ない、か。…敵に回すと厄介な力だね」

 

 ()()()()()()()を戻しながら淡々と語る朔夜の表情に特に変化はない。きっと、心の内でも特に何も思う所はないのだろう。

 

 冗談も良いところだ。こちらはあのたった数秒の攻防で二度も死に瀕して肝を冷やしたというのに。

 

 一度目はこちらの顔面を狙った正拳。辛うじて防御が間に合ったから良かったものの、ほんの少し遅れが生じていたら鼻っ柱を打ち抜かれていた。

 二度目は正拳から間髪置かずに迫った蹴撃。こちらもあと少し反応が遅れていたら腹部に蹴りを受けていただろう。

 

 たった数秒だが、俺に勝ち目はないと思い知らせるには充分な時間だった。

 

「っ!」

 

 自分の心にそれでも、と言い聞かせるのは何度目だろうか。足を前に踏み出し、勝ち目のない戦いに身を投じる俺の姿はきっと、目の前の女神には愚者としか思われていないのだろう。

 

 それでも俺は、友達を見捨てたくない。たとえ俺以外の全員に貶されようとも、俺はこの選択を違えない。

 

 何故なら俺のこの瞳は、力は、誰かを救うために俺に備わったのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 千尋は一つ勘違いをしていた。それは、朔夜にあの攻防の中で何も思うモノはない、という所だ。

 

 ─────困ったな。加減しすぎたらこっちがやられるな、これは。

 

 逆だ。あの数秒の攻防で、朔夜は千尋の力に舌を巻いていた。

 無論、全力を出せば朔夜は千尋を何の苦労もなく殺す事が出来る。しかし、今の朔夜にはそれが出来ない事情があった。

 

 まずはここが人が密集している地帯だという事。結界で外界からの接触を防いではいるが、朔夜が全力を出せば結界を貫通し、外界にまで破壊の影響が及ぶだろう。

 それならば、ここじゃないどこか、人の足が及ばない場所に千尋を連れていけばいい。現に、朔夜には転移魔法という手段がある。以前に他の神の一柱と戦闘をした際にした様に、千尋に転移魔法を掛ければいい。

 

 だがそれも、今の朔夜には出来ない。

 

 ─────命令さえあれば、すぐにでも千尋を殺せるけど…っ。

 

 再び動き出した千尋を視線で追いながら、意識の片隅を千尋とは他の対象に集中する。

 

 その対象とは、朔夜に唯一絶対服従の命令を降せる存在。星そのものだ。

 そしてそれこそが、朔夜が全力を振るえない最大の理由でもある。

 

 他の生物とは一線を介する強大な力を持つ神々だが、本来はその全力を振るう事は許されていない。その力を振るう度に、多くの破壊と犠牲の爪痕を残す事になるからだ。

 そのために、彼らの産みの親であり逆らう事の出来ない上司ともいえる星は、彼らの全力を行使する行為を禁じた。

 

 とある例外を除いて。

 

 その例外の一つが、星からの認可を受ける事だ。例えば、()()()()使()()()()()()()()()()()()()()()()()()を受けた場合等。

 そういった例外が適応される場合は、神々は備わる全ての力を行使する事が出来るのだが─────

 

 ─────流石に決め兼ねてるか…!

 

 通常ならばすぐにでも命令が出されていた筈だ。邪魔をする輩を殺せという命令が。

 しかし今回、その邪魔をする輩というのが()()()だというのが星にとって問題であるのだろう。

 

 ここで柳千尋を殺してしまえば、()()()()()()宿()()()意味がなくなってしまう。

 

「随分一生懸命だね、千尋!そんなに高嶺昂晴が大事かい!?」

 

「何を分かりきった事を!」

 

 振るわれる拳を受け流しながら語りかけると、千尋からすぐさま返事が返ってくる。

 振り返って再び迫る千尋に対し、逆に朔夜から仕掛ける。

 

「っ!?」

 

「美しい友情だね!では、その友情のために君は愛情を切り捨てようというのかい!?」

 

 友のために勝ち目のない戦いに身を投じる。あぁ、物語の世界ならばなんと美しい友情としてどう描かれていた事だろう。読者を魅了するどんな表現が成される事だろう。

 

 だがこれは現実だ。勝ち目のない戦いの先に待つのはただの死であり、その死の先に待つのは千尋を愛する少女の孤独である。

 

「君が死ねばあの少女は絶望するだろう!生きる気力を失くし、再び魂が零れ落ちるかもしれないな!」

 

「─────」

 

 千尋の動きが一瞬緩んだ所に加減をしながら追撃を与える。

 

「彼を見捨てれば二人の命が助かる。君と、四季ナツメの二人の命だ」

 

 堪らず逃げるように後退した千尋を追う事はせずに、その場に居続けながら言葉を投げ掛ける。

 

「だが、このままだと君は君だけじゃなく、愛しい彼女も殺す事になるよ」

 

 千尋が朔夜に打ち勝つ事はあり得ない。それこそ、奇跡の確率で星が千尋に肩入れする事を選択しない限りは。

 だからこそ、朔夜は千尋に脅しを掛ける。今はまだ星からの命令がない故に、彼を殺さないよう加減をしているがもし、次の瞬間にでも殺せという命を受けたら。

 

 朔夜の言葉は現実となる。千尋の命は失われ、その事実を知った四季ナツメは絶望し、魂を溢す可能性だってある。

 

 千尋が高嶺昂晴を見捨てれば、二人は助かる。それがどれだけ千尋にとって辛い選択なのか、朔夜の想像を絶するものなのだろうと想像に察するが、どちらの選択をすべきかは分かりきっている筈だ。

 

「…」

 

「…本当に、たまに人間という存在が恐ろしく感じるよ」

 

 千尋にも分かっている筈なのだ。自分がどれだけ無駄な事をしているか。このまま突き進んだ先にどうなるか、その末路は分かっている筈だ。

 それなのに、千尋は未だに朔夜と対峙し続ける。

 

「分からないな。この男に命を懸ける理由がさっぱり分からない」

 

 先程、明月栞那の魂の残滓が高嶺昂晴を守ろうとした、それはまだ呑み込む事が出来た。

 あの蝶には思考がない。あるのは高嶺昂晴を愛していた、明月栞那の感情のみ。強い愛情に動かされ、愛する人を守ろうとしたのだと、朔夜にも理解できた。

 

 だが、千尋はどうだ。確かに高嶺昂晴に強い友情を覚えていたのかもしれない。しかし愛情ではない。千尋には高嶺昂晴よりも優先度が高い存在がいる筈なのだ。

 四季ナツメ。彼女を一人残していく恐れがあるというのに、それでもまだ立ちはだかろうとする。

 

「考え直せ、柳千尋。その男にそこまでの価値があるのか?四季ナツメと共に過ごす未来を捨てる程の価値があるのか?」

 

 ない。第三者でしかないが、朔夜にはどれだけ考えてもないという結論にしか至らなかった。大体、四季ナツメの事を考慮しなくても自分が死ぬかもしれないのに、ただの友達のために命を張るその意味すらも分かり兼ねる。

 

「高嶺を見捨てて、胸張ってナツメの隣にいれる訳がないだろ」

 

 そして、ようやく千尋が発したその返答の意味も、朔夜には理解し難いものだった。

 

「…結局は下らない意地じゃないか」

 

「何とでも言え。俺は絶対に高嶺を死なせない」

 

 冷めていく。実に下らない答えだった。

 確かに言う通り、友人を見捨ててのうのうと自分だけ愛する人と幸せに、なんて考えられないのかもしれない。

 

 だがそれは今だけだ。四季ナツメは千尋の行為を容認するだろうし、その罪悪感は時間が解決していくだろう。

 

 恐らく、千尋はそれが情けなくて嫌なのだろうが。曰く、男の意地という奴だ。

 

 下らない。本当に下らない。そんなモノのために命を捨てる、そんな男のために自分は奔走していたというのか。

 

「…」

 

 星からの命令は未だに伝わってこない。だがそれならそれで、最悪()()()()()()()()()()良い。

 

 四肢のどれかが欠けようが、それこそ生首一つになろうが生命を維持する事は出来るし、他の神々に協力を仰げば身体を再生させられる。

 

 本当はあまり傷をつけず意識を奪って何とかするつもりだったのだが─────そこまで自身が苦心する価値を朔夜は見失ってしまった。

 命を粗末にする人間のためにそこまで苦労する意味を朔夜は見出だせない。

 

 だからここからは千尋を傷つける事も厭わない。何故なら、どれだけ傷つけようとも、殺しさえしなければ良いのだから。

 

 もう朔夜に千尋に対して掛ける情はなかった。

 

「─────」

 

 風を切る音とほぼ同時に、肉感を伴った切断音が響き渡った。

 

 直後、辺りに赤い雫が飛び散った。そしてその数秒後、千尋の後方からべちゃりと液体の音に混じって何かが落下した音がする。

 

「─────は?」

 

 千尋の口から呆けた声が漏れる。千尋の両目が見開かれ、その目に映し出される光景を信じられないといった様子で見つめている。

 

 そんな彼の姿を、朔夜は無感動に眺めていた。これは千尋の自業自得だ。こうなる前に逃げてさえいれば、高嶺昂晴を見捨てていれば、五体満足で明日を過ごしていれたというのに。

 

 朔夜の視線の先、千尋の視線の先。そこにある筈の千尋の左肩から先は失われていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第六十一話





話の中で視点が動き回るので注意してください。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 顔のすぐ横、左側で通りすぎていった風に腕を引っ張られる。

 感覚として即座に理解できたのはそこまでだった。

 

 直後、左腕を今まで感じた事のない感覚が襲った。それが、腕が千切れた感覚だったのだと悟るのは後方から腕が落下した音が聞こえてから。

 

「─────がぁぁァあああアあああああああ!!!?」

 

 左腕から、というのは表現としては間違いだ。左腕は既にあるべき場所に存在していないのだから。

 ともかくこれまで生きてきた中で経験した事のない激痛に襲われる。右手で二の腕の一部を押さえながら、蹲りそうになる両足ですぐにその場から離れる。

 

 激痛で抑えきれない悲鳴を挙げながらも、瞳は無感情のまま止めを刺すべく再び腕を振るう朔夜の姿を捉えていた。

 

 先程まで自身がいた場所を再び通りすぎていく風が頬を撫でる。

 

「─────」

 

 

 朔夜がこちらに向かって駆け出す。先程までよりも速く、ここからは容赦しないと言わんばかりに容易くこちらの懐に潜り込んでくる。

 

「っ!」

 

「!?」

 

 避けられない。そう即座に直感した千尋は千切れた方の腕を朔夜に向かって振るった。

 当然、そこに腕は伸びていないため朔夜には当たらない。第一に届かない。しかし、そこから吹き出た鮮血が朔夜の視界を妨げる。

 

 目を見開いた朔夜の一瞬の硬直。そこを見逃さず千尋は右足を持ち上げ、朔夜の腹部に叩きつける。

 星との接続によって向上した身体能力が朔夜を押し戻す。

 

「はぁっ、はぁっ、はぁっ」

 

 朔夜に距離をとらせたのは良いが、状況は最悪だ。千尋は片腕を損失し、今にも倒れそうな程満身創痍。一方の朔夜はたった今、何とか一矢を報いたものの全く堪えた様子はない。

 初めて攻撃がもろに当たったのだから、少しは痛がる様子を見せて欲しかったのだが。どうやらそう上手く事は運ばないらしい。

 

 ─────本当に、どうする…?

 

 痛みと疲労で朦朧としていく意識の中で朔夜と睨み合う。

 先程と同じ手はもう二度と通用しない。考えれば考えるほど、自身の状況が手詰まりだという実感が増していくだけ。

 

 ─────今からでも降参してしまおうか。

 

 そんな考えが湧いてきてしまう程に千尋は追い詰められていた。

 死んでも高嶺を助けて見せる。当初抱いていた強い気持ちが薄れ、今では死にたくないという気持ちが逆に強くなってしまう。

 

 甘えていたのかもしれない。何だかんだ、朔夜ならば自分も高嶺も、結局は殺さずに済ませてくれるだろうと、心の片隅で思っていたのかもしれない。

 

 だが現実は違う。朔夜は本気で高嶺を殺すつもりで、そしてそれを邪魔しようとする自分を殺す覚悟でいる。

 

 ─────今更引き返せるか…!

 

 死にたくない。この衝動が未だ強いままなのは言うまでもない。しかし、ここまで追い詰められると不思議と、逆に腹を括る事が出来た。

 どうせもう逃がしてはくれない。生きるか死ぬか。それならば、指一本動かせなくなるまで足掻いてやるまで。

 

 逃げたいと思う弱い心を押し殺し、半身になって朔夜と向き合う。

 

「…っ!」

 

 目を見開いて右腕を振るう朔夜を見据える。

 肉眼では捉える事の出来ない風の刃が千尋を襲う。

 

 先程と同じ様に横へ跳んで回避。その際も朔夜の動きを逃さず目を凝らす。

 

 先とは違い朔夜は千尋を追う事なくその場に留まり、続けざまに両腕を振るって風を放ち続ける。

 その場から跳び、時には身を翻して放たれる刃を避け続ける。その度に、千切れた左腕の裂け目から飛び散った血がコンクリートの地面を濡らす。

 

 ─────もっとだっ。

 

 朔夜が放つ風の刃をかわしながら、千尋は意識を集中させる。

 深い水の中に潜るように、意識を沈ませ、確かに自分の中で感じるその繋がりを強くしていく。

 

「─────っ」

 

「!?」

 

 その時、千尋は自身の背後で僅かな空間の揺らぎを視た。

 その正体を悟る前に身を翻すと、一瞬前まで立っていた地面を背後から吹き荒れた風が大きく抉る。

 

「…ちぃっ!」

 

 今の攻撃を決め手にしようとしていたのか、回避された事への苛立ちか、初めてこの戦いの中で表情を歪ませた朔夜が大きく両手を広げる。

 

 直後、先程視た空間の揺らぎが大きく、自分の周りを囲むように展開される。

 

「やはり視えているのか!千尋っ!!」

 

 風が放たれる直前にその場から駆け出した千尋を睨みながら朔夜が吠える。

 

 鳴り響く炸裂音が背中を震わす。それに構わず千尋は朔夜へと疾走する。

 

「私の支援なしでそこまで深く接続するか!」

 

 千尋の拳と朔夜の掌がぶつかり、合わさる。互いに力を込める中で、朔夜のもう一方の腕がぶれる。

 それを視認したと同時に首を傾け、顔のすぐ横を通りすぎる朔夜の拳の風圧が髪を揺らす。

 

「うぉぉぉおおおおおおお!!」

 

「くっ!?」

 

 千尋は首を傾けた際の僅かな勢いをも利用し、体を捻る。そのまま左手で掴んだ朔夜の足を持ち上げ、コンクリートの地面に朔夜の背中を叩き付けた。

 

「が…っ!」

 

 反撃を受けた朔夜の狼狽はほんの一瞬。叩き付けられた体を力一杯捻って回転させて千尋の拘束から逃れると、そこで動きを止めずに両足で着地。低い体勢のまま千尋に足払いを掛ける。

 

 だがそれに対しても千尋の瞳は働いた。朔夜の僅かな動きからその後の反撃を予知し、最小限の動きでその場から離れて回避。

 

 ここまで来れば千尋も自覚を始める。

 今までで一番視える、と。前回の戦いよりも鮮明に、詳細に、この瞳は自分が視たい景色を映している、と。

 

「ぐっ…!?」

 

 だからこそ、なのだろうか。両目に奔る激痛は、身に余る力を求めたその代償。

 

 左腕を失い、いつ体力の限界を迎えてもおかしくない身体。

 それでもなお千尋は朔夜と向き合い、戦闘の意欲を落とさない。

 

 睨み合う両者が次に動き出したのは同時。直後、鈍い衝突音を響かせ二つの拳がぶつかり合うのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

~Another View~

 

 人を超えた─────いや、自身の枠すらをも超えた戦いを前にして、ミカドはただ息を呑んで見ている事しか出来ずにいた。

 

 時間が経つ毎に千尋の動きが速くなっていく。繰り出される拳の威力が重くなり、受ける朔夜の表情の動きがハッキリとしていく。

 

 少しずつ、千尋が枠から外れていく。

 

 それを目の当たりにしながら、ミカドはただその場で見守る事しか出来ない。

 

 ケット・シーは戦いを得意とはしない種族だが、それを考慮しなくとも、今の千尋を倒す事が出来る生き物がどれほどいるだろう。

 以前、千尋を襲ってきた妖狐でどうかといった所じゃないだろうか。少なくとも、ミカドは今の千尋を相手取る自信は持てない。

 

「なんだよ…、これ…」

 

 その時、傍らから呆然と呟かれる声がした。

 

 この場にいるのは四人。ミカドと今も交戦を続ける千尋と朔夜の二人。そして、当事者ではあるもののそれどころではなく、現時点で放置される形になっている高嶺昂晴。

 

「柳…。なんで…」

 

 その疑問は何に向けられたものか、昂晴の要領を得ない言い方では掴む事は出来なかった。

 しかし、昂晴は視線を千尋がいる方へと向けたまま続けた。

 

「腕が…なんで…。そこまでして…っ」

 

 昂晴自身、大きく混乱している筈だ。先日に最愛の人を失い、その痛みを乗り越えて前を向こうとした矢先にその機会を奪われそうになり、そして今。

 一人の友人が自身を守るために言葉通り、身を削っている。

 

「もし─────」

 

 昂晴の姿を見ている内に、ミカドは無意識に口を開いていた。そんな自身の行動に驚き言葉を詰まらせながら、ミカドは取り直して言葉を続ける。

 

「もし貴様が奴と同じ立場だったなら、どうしていた」

 

「え…?」

 

「千尋が誰かに命を狙われ、その光景を前にした時。貴様はどうする」

 

「そんなのっ…!」

 

 ミカドに問われ、昂晴は声を僅かに荒げながら答えを返す。

 

「助けるに決まってる!」

 

「…つまり、そういう事だろう」

 

 昂晴に向けていた視線を千尋と朔夜が交錯する方へと移しながら、ミカドは言う。

 

「千尋も貴様と同じなのだろう。()()()()()()()()()。きっと、それが答えだ」

 

「─────」

 

 これ以上、昂晴から続く声はなかった。

 

 ミカドは歯を食い縛りながら朔夜の魔法をかわしながら近づこうと走り続ける千尋を見つめる。

 

 本当ならば、朔夜に加勢するべきなのだろう。

 ミカドは神の僕。それならば、朔夜が千尋を殺そうというのならそれに協力すべきなのだろう。

 

 だが、ミカドはここから動く事が出来ない。たとえあの場に飛び込む事は出来なくとも、結界を使って朔夜を援護する等、出来る事はあるというのに。

 

 ─────我輩も、甘くなったものだ。

 

 昂晴の周りを飛び回る青い蝶に目を向ける。

 何人もの死神と行動を共にし、彼等が生きる執着を取り戻していく様を見続けてきた。しかし、あそこまで言う事を聞かない死神は初めてだった。

 

 何時からだっただろう。自身に物を申す彼女の姿に怒りを覚えなくなったのは。

 何時からだっただろう。多少時間をかけてでも、多少危険を犯してでも、多くの人が救われる方法を考えるようになったのは。

 

 何時からだっただろう。出来る事ならば、()()()()()()()()()()()()()と思うようになったのは。

 

 ─────千尋。

 

 してはならない。分かっているが、今のミカドは願わずにはいられなかった。

 

 ─────頼む。

 

 彼もまた、笑顔溢れるあの光景を好きになった一人なのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

~Another View~

 

 このままでは不味い。戦いながら、朔夜の思考の片隅でそんな思いが過った。

 

 この戦いに負けそうという訳ではない。そういう意味で不味いと思った訳ではない。このままでは全力を出さざるを得なくなる。そういう意味で不味いと思ったのだ。

 

 神の全力といってもその規模は幅広く、星そのものに影響を与える程の力を持った神もいれば、大して強い力の持たない神もいる。

 しかしその中で、朔夜はどちらかといえば前者の分類に入る。

 

 一度力を振るえば、瞬く間にこの街を滅ぼせる。朔夜はそれ程の力をその身に宿している。

 そんな朔夜が全力を出す事を考えてしまう程に、今の千尋は彼女にとって危険な存在になりつつあった。

 

 ─────千尋…、君はどこまで…っ!

 

 朔夜が切り離した千尋の左腕。その傷口から垂れる筈の血はすでに止まっている。

 千尋と星を繋いでいる経路(パス)を通して流れる星の生命力が、千尋の傷を塞いでいるのだ。

 今こうして戦っている間にも、千尋は星との繋がりを強くしている。恐らく、本人は無意識のままに。このままいけば、更に強く千尋に宿った星の生命力は失われた左腕を再生させるまでに至るだろう。

 

 そしてそうなれば、いよいよ朔夜も全力を以て臨まなければならなくなる。

 

 ─────その前にっ!

 

 その前にこの戦闘を終わらせなければ面倒な事になる。下手をすれば、自分以外の神々が出向かなくてはならない事態になる。

 そうなる前にと、朔夜は千尋の周囲、全方位に魔法を展開。一斉に千尋目掛けて風を放つ。

 

 だがそれをまるで予知していたかのように、千尋は朔夜が魔法を放つ直前にその場から離脱してしまう。先程からずっと、これの繰り返しだ。

 どれだけ死角から攻撃を放とうと、どれだけ回避不能のタイミングで攻撃を放とうと、その前に対応されてしまえばどうしようもない。

 

 千尋は今、星詠みの瞳の力を()()()()()()()()引き出せている。

 

 ─────こんな状況じゃなければ、喜ばしい事なのにな。

 

 瞳の力を引き出せている事、それ自体は朔夜にとっても喜ばしい事だ。その矛先が自分に向けられてさえいなければだが。

 

 何にしてもどうにかしないといけない。繰り返すが、死ななければ良い。生きてさえいれば、後々の事もどうにか出来る。

 このままだとそれさえも難しくなってしまいそうだが、その前に。

 

 先程よりも更に速く動き回る千尋を目で追いながら、朔夜は絶えず思考を回し続ける。

 

 ─────千尋を殺したくない。

 

 二人の交錯は更に苛烈に、加速していくのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ここ、は…?」

 

 闇の中で響く少女の声。

 

 ここは本来、何者の侵入も許されない領域。

 

 しかしここにたった一人の少女が()()()()()()

 

『●●●●。いや、今は明月栞那という名だったか』

 

「っ、誰ですか!?」

 

 何者の侵入も許されない領域。だがたった一つだけ、この場に居座る事を許された物がある。

 

「どこに…」

 

『君と少し話がしたい。我の質問に答えるだけで良い。そう時間はとらせない』

 

 どこを見ても、視界に広がるのは深い深い闇。その闇の中で、どこから聞こえてくるのか定まらない声が響き渡る。

 

 世界から切り離された闇の領域で、一人の少女もまた、運命に抗う戦いに身を投じようとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第六十二話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 理解が出来なかった。勝ち目のない戦いに挑むその意味が。結末は決まっている。その事を悟っていながら足掻き続けるその理由が。

 

 理解が出来なかった。いずれ別れると知っていながら、魂の欠片を残してしまう程まで他人を愛し、自らを厭わず相手を守ろうとするその感情が。

 

 いつもならばどうするか、迷わず即断していた。邪魔をする輩は即刻消し去り、目的を達成する。それで終わり。

 世界のバランスを崩しかねない奇跡の力を持つ者等、最初から消しておけば良かったのだ。珍しくそれに待ったをかけられ、つい物珍しさに釣られてその頼みを受け入れたのが間違いだった。

 

 一度見逃してやったそいつは再び奇跡を起こし、結果的には何事も書き換える事なく奇跡は終わりを告げたが、そこで我に返った。

 とっとと排斥すべきだ。手遅れになる前に。

 

 そう思い、すぐさま行動に移したのだが、もしかしたらすでに手遅れになっていたのかもしれない。

 

 それを邪魔しに来たのが、まさかの自身の一部を分け与えた人間だった。

 役目を終えて貰う前に死なせる訳にはいかない。だから、そこに関しては殺害命令を出さないでいた。

 

 しかしそれが更に不味い事態を引き起こす。強大な相手との戦いを通して、急激な勢いで瞳の力の使い方を吸収し、自分から力を引き出していく。

 

 今頃交戦しているであろう神が負ける事はまずない。だが、このままでは人間の肉体が膨大な力に耐えきれなくなる。そうなればどうなるか、言う迄もない。

 

 神朔夜も分かっている筈だ。だからこそ必死に、死なせない程度に痛め付けようと努めているが、いよいよ加減したままでは辛くなってきているらしい。徐々に身体に傷が刻まれる様が見えるようになってきた。

 この様子だと、そう遠くない内に神の一柱か星の瞳かどちらかを選択しなくてはいけなくなる。

 

 とるべき方針は定まっている。こうなっては致し方ない。だがその前に、どうしても話しておきたかった。

 

「誰…?そこにいるのは、誰なんですか?」

 

 自分の姿を捉えられず、キョロキョロと周囲を見回すこの少女。

 明月栞那と。

 

『君に質問する権利はない。ただ質問に答える。我が求めるのはそれだけだ』

 

 動揺した様子の少女に淡々と告げる。事実、ノンビリこの少女と談話していられる時間はない。刻一刻と手遅れになる瞬間は近付いている。

 

 それでもその前に、この少女に抱いた疑問を解消しておきたい。

 

『単刀直入に聞こう。何故君は、あそこまであの少年に固執する』

 

「…はい?」

 

 いけない。さすがに単刀直入が過ぎた。

 この少女には自覚がない。あれはこの少女の魂のほんの一欠片。高峰昂晴を心配した少女が無意識に零した魂の一部。

 

 そして少女本人はそんな事をした自覚も覚えもなく、いきなりこんな事を聞かれても訳が分からないだろう。

 

『気付いていないだろうが、君は消える瞬間、魂の一部を現世に零した。一人残された高峰昂晴が気にかかったのだろう』

 

「─────」

 

 引っ掛かった部分はあったらしい。表情が固まった少女は何も言わない。この沈黙は肯定と見なして良いだろう。

 

『だが、高嶺昂晴はそんな君との約束を破り、再び奇蹟を起こした』

 

「…」

 

 どうやらそこも覚えはあるらしい。高嶺昂晴が奇蹟を起こした際、確かにこの少女の魂は引っ張られていた。

 この少女の中に、あの奇蹟の中で高嶺昂晴と言葉を交わした記憶が残っている筈だ。

 

『今、我の命を受けた神の一柱が高嶺昂晴の排斥を実行している』

 

「っ…!」

 

 この言葉を聞いた少女の表情が悲痛に歪む。

 

 高峰昂晴は死ぬ訳ではない。死ぬとは少し違い、排斥されるのだ。

 生物は死ねば肉体を失い、魂だけの存在となり、やがて新たな何かとして生を宿す。

 しかし排斥されてしまえば魂までも失われ、二度と生を受ける事もない。ある意味これこそ、本当の死といえるだろう。

 

「高嶺さん…」

 

『心配か』

 

「そんなの…、当たり前じゃないですか…!」

 

『悲しいか』

 

「当たり前じゃないですか!」

 

 続けざまの質問に同じ答えを返す少女。そんな少女に気を遣う様子もなく、質問を投げ掛け続ける。

 

『君はこれから新たな人間として転生する。当然、高嶺昂晴との思い出は失われる。失われると分かっていて、なおあの男を愛し続けるか』

 

「…いえ」

 

 首を振った少女を見て少し驚く。当然、頷くものだろうと考えていたからだ。

 

 しかし少女は首を振った。否定したのだ。

 

 だが、少女が否定したものは、自分が考えていたものと違っていた。

 

「私はきっと忘れません。高嶺さんの顔を、声を忘れようとも。高嶺昂晴という人を愛した事だけは、絶対に」

 

『…それは今、君が君でいられるから言える事だ。実際に転生して生を受ければ間違いなく─────』

 

「あり得ません。私は…絶対に忘れません」

 

 最初はきっと、と曖昧に言った癖に意見を変えて絶対にと言い切り始めた。

 根拠のない自信ほど愚かなものはないのだが─────この少女に会いたいがために奇蹟を起こした高嶺昂晴と、魂の一部を切り落としてまで彼を気にかけた少女。

 そんな二人に興味を抱いてしまったからだろう。

 

『何故言い切れる』

 

 そんな疑問が漏れた。

 

 生前─────この少女に対してこの表現は正確ではないが、転生前の記憶を転生後へ継承する事は出来ない。というより、許していない。

 この少女が何と言おうと、どうしようと、高嶺昂晴だけでなく、死神として生きたかつての記憶は全て失われる。これは決定事項だ。決して覆し様のない現実だ。

 

 なのに少女、明月栞那は忘れない事を微塵も疑っていない。

 

「何者であろうと、この気持ちを消し去る事は出来ません」

 

 栞那は胸に手を当てながら、遠い何かを思い浮かべるように瞳を閉じて言葉を紡ぐ。

 

「高嶺さんとの思い出を消されようとも、高嶺さんが好きだという気持ちまでは消せません」

 

 こんなにも。人と人が心の底から愛し合うというのは、こんなにも幸せになれるものなのか。

 少女の幸せそうな顔を見て、返す言葉が見つからない。

 

「こんなにたくさんの好きだという気持ちが消えるなんて、考えられないから」

 

『─────』

 

 断言しよう。どれだけ大きな気持ちであろうと、消える。少女が転生すれば、ここで交わした会話も全て忘れ去る。

 

 何故、この少女にそう伝える事が出来ないのだろう。

 まさか、疑っているのか。もしかしたら、とでも思っているのか。

 

『それなら、試してみるとしよう』

 

「え?」

 

 ()()こうするつもりだった。といっても、当初と少し志向を変えはするが。

 もし少女が言った通りになったなら─────

 

『もし、君の中から高嶺昂晴を好きだという気持ちが消えていなければ、彼の排斥を取り止めよう』

 

「っ、本当ですか!?」

 

『約束…いや、契約だ。君の言った通りになれば、彼に手出ししない。無論、再び奇蹟を起こす様な事になれば話は別だが』

 

 仏の顔も三度までという言葉はいつから使われるようになったのか。二度あることは三度ある、という言葉もあった気がするが、とりあえず今それは忘れるとしよう。

 

「え、何が─────」

 

 突如少女の体が光り出す。自身の体の変化に戸惑う少女は直後、その場から消えていた。

 

『…さて、どうなるかな』

 

 少女の記憶には強力な()()を掛けた。その状態で高嶺昂晴と再会し、もし彼の事を思い出せたなら─────その時は、約束を守ろう。

 

 ()()()向けていた意識を()()固定する。

 映像として映し出されるのはつい先程までここにいた少女。生まれたままの姿で現世に放り出され、何が何だか分からないといった様子でキョロキョロしている。

 

 彼女が現れた事に彼等はもう気付いているだろう。()()には少女を送り出す際にこの方針について伝えてあるし、瞳の所持者とあのケット・シーも少女の気配に勘づいている筈だ。

 

 初めに動き出したのはケット・シー。続いて高嶺昂晴が後に続く光景を眺めながら、この後の展望を待つとしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 朔夜さんの動きが止まったのは余りに不意に、突然の事だった。

 

 冴え続ける意識の中、何度目か分からない交錯の後、すぐさま振り返って彼女の姿を目に捉えた、その時だった。

 動きを止め、目を見開いて何やら驚愕を顕にする朔夜さんの姿を見たのは。

 

「─────」

 

 そしてその直後、俺は信じられない光景を目にする事になる。

 

 意識が冴え渡るごとに広く、クリアになっていった視界の中に捉えた一人の人物。その姿に動揺が止まらない。何故、という疑問符が止まらない。

 同時に湧いてくるのは喜び。心中を満たす混乱を押しのいて、喜びが笑顔となって外に漏れる。

 

「馬鹿な…。この気配は…っ!」

 

 俺達から少し遅れてミカドも気付いた様だ。勢い良く建物の方へと振り向き、少しの間屋根裏部屋がある方を見上げてから、そちらに体を向ける。

 

「高嶺昂晴、ついてこい!」

 

「え?急になに…」

 

「いいからとっとと来いと言っているのだ!」

 

「いって!マジでなに!?ちょっ、蹴るな!蹴るなっ!」

 

 高嶺は彼女の出現に全く気付いていないらしく、ミカドの様子の豹変に戸惑いながらも店の中へと入っていった。

 

 静かになる俺の周り。この場に残されたのは俺と朔夜さんの二人だ。

 

「…それで、こういう結果になりましたがどうしますか」

 

「─────そうだね、とりあえず」

 

 硬直を続けていた朔夜さんは俺の声を聞いて我を取り戻し、ゆっくりと穏やかな笑顔を浮かべる。

 そして、ミカドと同じく建物の方へ向いていた視線を俺の方へと向け、こう続けた。

 

「君の腕を治すとしようか。話はそれからだ」

 

 そう言うと朔夜さんはこちらに歩み寄り、俺の左隣で立ち止まると、千切れた二の腕の傷口に向けて掌を翳す。

 朔夜さんが目を瞑り、何かを呟いた直後、翳した朔夜さんの掌から光が溢れだす。その光は傷口へと宿っていき、すると不意に痛みが和らぎ始めた。

 

 治癒の魔法だろうか。ファンタジーの世界にてよく見られる魔法だが、こうして現実で自分が受ける事になるとは─────いや、もう一度受けているんだっけか。その時の俺は意識を失っていたから覚えていないけれど。

 

「本当に無茶をする。死んでいたらどうする気だったんだい」

 

「本気で殺そうとした貴女が言いますか…?」

 

「?殺すつもりはなかったよ?両手両足切り落とす覚悟はあったけど」

 

「え」

 

「え?」

 

 え、なにそれ。もしかしてこの人、というか神、あれでまだ全力じゃなかったの?

 

 きょとんと首を傾げる、先程までの殺気に満ちた顔と打って変わって惚けた表情を浮かべる朔夜さんの底が全く見えない。

 この神と戦って、少しは追い詰めていると思っていたが、どうやらそうではなかったらしい。まあ、神が人間に追い詰められるなんてあり得ないものなのかもしれないが。

 

「…何が起きてるか、聞いても良いですか?」

 

 いや、そんな話は良い。今は他に大切な事が、聞きたい事がある。

 

 俺の聞きたい事を、朔夜さんは聞かずとも察した筈だ。傷の治癒を続けながら一度ため息を吐いてから、やがて口を開いた。

 

「正直、分からない。高嶺昂晴はもういい、って言われたと思ったらこうなっていた」

 

「高嶺はもういいって…、それはあいつは助かったって事ですか?」

 

「今の段階ではそう思って構わないだろうね。少なくとも、あの子がまた奇蹟を起こさない限りは。…けど」

 

 言いながら朔夜さんが建物を見上げる。それに釣られて、俺もそちらに意識を向ける。

 

 俺の瞳に映し出されたのは屋根裏部屋にて対面する二人の男女の姿。男の方は女の姿を大きく見開いた目で見つめ、女の方は初めこそ虚ろな瞳で男を眺めていたが、次第に瞳に色が宿り、そして涙が零れ出す。

 弾かれるように同時に動き出した二人は互いに駆け寄り、そして抱き締め合う。二人共にボロボロと涙を流し、互いの存在を確めるように。その両腕で力一杯抱き締め合って、そして─────

 

 そこで瞳を閉じる事にした。これ以上覗き見るのは野暮というものだろう。それくらいのデリカシーは俺だって持っている。

 

「この様子なら、そんな心配はないと思いたいね」

 

 そう台詞を溢す朔夜さんはすでに店の方は見ておらず、左腕の傷の方に再び意識を─────

 

「朔夜さん。俺の腕、伸びてる気がするんですが気のせいですかね?」

 

「気のせいじゃないよ?」

 

「…」

 

「大丈夫。ちゃんと再生するから」

 

「再生するの!?」

 

 片腕生活を覚悟していたのだが、そんな覚悟は不要だったらしい。

 ゆっくりと元の形を取り戻していく俺の左腕の様子にちょっぴり気持ち悪さを覚えながら、一段落がついたこの穏やかな余韻に身を任せるのだった。

 

「…荒れるだろうな、あいつ」

 

 そんな朔夜さんの呟きを聞き逃し、呑気にこれで終わったと、全て終わったんだと勘違いしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「高嶺昂晴…、明月栞那…!」

 

「ナゼ…、キサマラフタリダケ…!」

 

 怨嗟の声は小さく、誰の耳にも届かぬまま風の中に消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




不穏な終わり方ですがとりあえずこれで今回の事件は解決という事で。
次回からはまた日常回へ戻ります。


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第六十三話






|ω・)オソクナッテゴメンネ

|ω・)ノ≡話

|≡3


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それで?何か弁明はある?」

 

「いや、弁明って…。俺別に悪いことしてない…」

 

「は?」

 

「あ、すいません何でもないです」

 

 正座して縮こまる俺。俺の目の前には腕組みしながら俺を見下ろすナツメ。

 その目は冷え切っており、俺を蔑む気持ちを全く隠そうとしていない。

 

 そんな俺達二人を苦笑いしながら眺めているのは、木作りの椅子に並んで座る高嶺と明月さん。

 

 こんな事になった経緯を説明するには、時間を少し遡らないといけない─────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 年が明けた最初の日。昨日の疲れのせいか、その言葉の通り半日の間眠り続けた俺は、起きてすぐ身支度を済ませてからステラへと車で向かった。

 勿論、仕事のためではない。まだ年末年始の休業中の店に何故向かうのかというと、端的に言えば話をするためだ。

 

 そうしてステラに集まったのは俺と高嶺と明月さんとミカドの四人。

 このメンツを見れば分かるだろう。俺達が話そうとしている内容は昨日の事について。

 俺は俺が気になっている事を明月さんに聞くために。高嶺とミカドは何故明月さんが再び現世に戻ってこれたのかを聞くために。そして、明月さんは昨日の事の全容を聞くためにこの場に集まった。

 

 まず、話し始めたのはミカド。明月さんに昨日の事について簡潔かつ分かりやすく説明した。

 その途中、呆れたように高嶺を見たかと思えば、俺が朔夜さんに楯突いた話を聞くと打って変わって仰天。

 ころころと忙しなく表情を変えながらミカドの話に耳を傾けていた。

 

 明月さんが昨日起きていた事を理解してからがいよいよ本題の一つに話は入る。

 

「それでは、次に質問するのはこちらの番だ。単刀直入に栞那。何故お前はここにいる。それも死神の力を失くし、人間として戻ってこれたのだ」

 

 そう、俺達が驚かされたのは明月さんが現世に戻ってこれた事だけではなかった。ミカドは勿論、俺もこの瞳で確認した。

 今の明月さんは、死神の力を失くしている。彼女の魂は以前、一度消える前よりもハッキリと輝いている。

 その輝きは、俺達人間─────生を宿す者達と同じものだった。

 

「…すみません。それに関しては、私も正直、分からないんです」

 

 明月さんはそう前置きしてから、不思議な体験を語った。

 高嶺の前で消え、どれだけ時が経ったのか分からないまま、ふと意識が戻るとそこは何も見えない闇の中。

 そこで聞こえてきた誰かにされた質問。それに答えると、気付けば彼女はあの屋根裏部屋にいて、そして高嶺とミカドと再会したという。

 

 初め、二人の顔を見た時は二人が誰か分からなかったという。というより、現世に戻ってきた直後は高嶺とミカドは勿論、俺の事も、明月栞那として生きてきた記憶全てを失っていたと明月さんは言う。

 しかし、高嶺とミカド─────正確には高嶺と顔を会わせた途端、全てを思い出したという。

 

 そして記憶を取り戻すと同時に溢れる気持ちを抑えきれないまま、明月さんは生まれたままの姿で高嶺と熱い抱擁を─────

 

「実際その通りなんですが、改めて口に出して語るのはやめてください!恥ずかしいです!」

 

 怒られた。まあ、当然と言えば当然だが。

 

「…ミカド。栞那は大丈夫なんだよな?」

 

 明月さんの話を聞き終えてから、高嶺がそう切り出す。

 

 もう二度と会えないと思っていた愛する女性と、また巡り会えた奇蹟。だからこそ、高嶺は不安で仕方がないのだろう。

 今、目の前の彼女は本当にそこに存在しているのか。事実存在していたとして、その命は確かな生を紡いでいけるのか。

 

 自身が感じるこの喜びは、ぬか喜びに終わってしまうのではないか。

 

「栞那の魂は確かにそこに在る。死神としてではなく、人間として。お前と共に、同じ時間を歩めると私が保証する」

 

「…本当に?」

 

「本当だ」

 

 瞳を揺らしながら、高嶺がゆっくりと明月さんの方へ振り向く。そんな高嶺を、明月さんは微笑みながら真っ直ぐに見つめていた。

 

 あ、これあれだ。二人の世界に入り込んでるやつだ。俺も経験あるから分かる。

 俺も聞きたい事あるんだけどな。でも空気を読んでここは二人が満足するまで待ってやった方がいいんだろうか?

 

「おい、まだ話は終わってないぞ」

 

 なお、空気が読めない猫貴族が約一匹ここにいた。

 ミカドの一言で、見つめ合っていた二人はすぐさま我に返って頬を軽く染め照れながら俺の方へ向いた。

 

「ご、ごめん。柳も聞きたい事あったんだよな」

 

「それでは柳さん、質問をどうぞ」

 

「…」

 

 凄く微妙な空気の中でそんな風に改まられると物凄く切り出しづらい。別に俺が悪い訳じゃないのに謝罪が口から出そうになってしまう。

 いや、何で俺がこんな微妙な気持ちにならないといけないんだ。

 

「ごほん。…じゃあ、俺の聞きたい事だけど─────」

 

 とにかく、経緯はどうあれ俺が質問する番になったのだから口を開く。

 気持ちを切り替えて明月さんの方へ向き直り、俺の疑問をぶつける事にする。

 

「明月さんが消えた、その本当の理由を教えて欲しい」

 

 そう口にした直後、明月さんとミカドの表情が一瞬固まったのを見逃さなかった。

 

「本当の理由?」

 

 一方、高嶺は俺の問いかけの意味を分かりかね首を傾げている。

 高嶺は俺の方を向き、更に続けた。

 

「どういう事だよ、柳」

 

「…俺は、明月さんが消えた理由は、俺にあるんじゃないかと思ってる」

 

 俺の質問の意味を聞いてくる高嶺に、少し空白を空けてから答える。

 俺の中に確信はない。だからこそ明月さんに真実を聞きたいと思っている。

 

 頭の中で整理をしてから、俺がこの疑問を抱くに至った経緯を語る。

 

 昨日、夢を見た事。その夢に明月さんとミカド、そして高嶺の前世が出てきたこと。

 明月さんとミカドが高嶺の魂の輪廻を見守り続けた末に、今世にて高嶺が奇蹟を起こしてしまい、どうにか魂を刈らずに済む方法を探っていたこと。

 

「魂の力を削ぎ、それによって失われた生きる力を明月さんが自らの力を高嶺に注いで補う─────だよな」

 

「…」

 

 明月さんもミカドも何も言わない。目を見開き、驚きを露にしながら沈黙している。

 

「柳も…、見てたのか?」

 

「も、って…。もしかして、お前も?」

 

「あ、あぁ。俺は栞那の魂の一部が寄り添っていた影響で夢を見たんだろうってミカドは言ってたけど…」

 

 高嶺も俺と同じ夢を見ていたらしい。そしてその事をすでに明月さんとミカドには語っているようだ。

 不思議なその夢を見た理由も判明しているらしいが、俺まで同じ夢を見たのは一体何故なのだろう。

 

「…恐らくだが、高嶺昂晴が起こした奇蹟の影響だろう」

 

 そこでようやく、久しぶりにミカドが口を開いた。

 その声が俺の視線を引き寄せる。

 

「奇蹟を起こした際に溢れたエネルギーに柳千尋の瞳が反応した。そして、柳千尋もまた同じ夢を見た。…というのが、一番考えられる可能性だ」

 

 ミカドが提示した説も確証はなく、単なる予想に過ぎない。しかし、理に叶っている様に思えた。

 

 昨日、朔夜さんの治療が終わった後に少しミカド達と話す時間があったのだが、そこで俺は再び高嶺が奇蹟を起こした事について詳しく聞いた。

 明月さんとミカドを巻き込んで、共に過去へと遡ったという奇蹟。そこで高嶺は再会し、言葉を交わしてこの先を生きる決意と共に現在へと戻ってきた。

 

 近くにいた他人までをも巻き込む巨大な奇蹟の影響を瞳が感じ取ったという説は、決して矛盾している様には聞こえなかった。

 

「それで。その夢と貴様の疑問とどう繋がる」

 

「俺が引っ掛かったのは、明月さんが高嶺の欠けた魂を補うって言った所だ。…明月さん。君は、俺にも同じ事をしたんじゃないのか?」

 

「─────」

 

 ミカドの質問に答える形で投げ掛けた俺の問いかけに明月さんは答えない。

 

「俺が狐の化け物に襲われた時だ。あの時、俺は瞳の力を使ってあいつを撃退したけど…、その後に気を失った」

 

「…」

 

「その理由は─────俺の魂の力が弱くなったからなんじゃないか」

 

 黙り込んだまま明月さんも、ミカドも何も言わない。高嶺も固唾を飲んで二人を見つめている。

 

 沈黙が流れる中、最初にため息と共に口を開いたのはミカドだった。一度頭を振ってから俺を見上げる。

 

「お前の考え通りだ、柳千尋。栞那はお前を救うために限界以上にお前に力を分け与え、結果消滅が早まった」

 

「っ、ミカドさんっ!」

 

「もう隠しきれん。確証こそ持っていないが、こいつは確信している。それに、結論としてお前は消えずに済んだのだ。何を隠す必要がある」

 

「それは…そう、ですが…」

 

「…やっぱ、そうだったのか」

 

 ミカドが肯定し、それに対しての明月さんの反応。俺の考えは何一つ間違えてはいなかったらしい。

 やっぱり、明月さんが一度消えてしまったのは、俺のせいだったのだ。

 

「柳千尋。経緯はどうあれ栞那はこうしてここに生きている。お前が気に病む必要はどこにもない」

 

「…」

 

 ミカドはそう言ってくれるが、結果がどうなったとしても、俺が一度友人を殺したようなものなのは変わらない。

 ミカドの言う通り今そこに明月さんがいたとしても、それは何も変わらない。

 

「…柳さん」

 

 優しく明月さんに呼び掛けられ、気付けば俯いていた顔を上げる。

 声がする方に視線を向ければ、そこには俺に微笑みを向ける明月さんが。

 

「ありがとうございます」

 

「は?」

 

 かと思うと、いきなり頭を下げてお礼を言ってきたではないか。

 訳が分からず疑問符を浮かべる俺に、明月さんは続けた。

 

「貴方が私を消してくれたお陰で今、こうして私は昂晴さんと同じ時間を過ごせます」

 

「…」

 

 優しげな微笑みをそのままに、そう口にした明月さんに対して俺は─────

 

「…は?」

 

 更に戸惑いを強くした。

 

「何言ってんの…?いや、マジで何言ってんの…?」

 

 今、明月さんが言ったのは俺に殺してくれてありがとうと言っているようなものだ。

 どういう心積もりでお礼を言ってきたのか本当に訳が分からず混乱してしまう。

 

「だ、だってっ!もしあのまま私が消えずに死神として残っていたら、高嶺さんと同じ時間を共に出来なかったからっ!」

 

「─────」

 

 明月さんのその言葉で、ようやくさっきの訳が分からないお礼の意味が理解できた。

 

 あのまま消えないでいた場合、明月さんは死神として生き続ける事になっていた。だが、今の明月さんは人間である。高嶺と同じ人間なのだ。

 高嶺と一緒に歳をとっていく事が出来る。高嶺と一緒に老いていく事が出来る。死神のままだったなら、人間である高嶺に先立たれるのは確定事項だった。先立たれたままなおも生き続ける運命が定められていた。

 

 その運命は今、覆された。

 

「それは…結果論だろ」

 

「でも、結果良ければ全てよしと言いますよ?」

 

「それで片付けられる範疇を越えてるだろ」

 

「…柳さんは頑固ですね」

 

「明月さんがお人好しすぎるんだよ」

 

 ぷくっ、と頬を膨らませる明月さんと苦笑いを浮かべながら視線を交わす。

 

 困ったな、明月さんは俺の謝罪を受け取る気はないらしい。受け取りたくない程に怒っている訳ではなく、謝る必要がないと考えた上でのその結論。

 いやまあこうなるかもとは思っていたけど、せめて謝罪を受け取るくらいはしてほしかった。

 

「柳さんは何も悪くないです」

 

「…あぁもう、分かったよ。そういう事にする」

 

 もやもやと少しスッキリしない気分は残るが、気まずくなったり友人関係が破綻したりするよりは断然マシだと自身に言い聞かせる。

 

「はい。そういう事にしてください」

 

「…はぁ」

 

 にっこり笑いながらそう言う明月さんに遠慮なく溜め息を溢す。その際にふと視線の中に店の壁に掛けられた時計が入った。

 

「やべっ、そろそろ行かなきゃ」

 

「あぁ…、もうそんな時間か」

 

 立ち上がる俺から時計の方を見て、ミカドが言う。高嶺と明月さんも焦った様子の俺に初め不思議そうな顔をしていたが、ミカドと同じく時計を見て合点がいった表情になった。

 

「じゃあ、俺はナツメを迎えに行くから」

 

 今日、ナツメが実家からこっちに戻ってくる。昨日の段階で帰ってくる時間は聞いていたし、今日にはライムで予定の時刻通りに乗車したと連絡が来ていた。

 ステラに車で来たのはそれが理由で、そろそろ行かないとナツメが先に駅に着いてしまう。

 

 聞きたい話は全部聞けた。三人と挨拶を交わそうと、出口の方へ向けた体を振り返らせた時だった。

 

「柳さんっ、私もついていって良いですか?」

 

「…はい?」

 

 明月さんが椅子から立ち上がりながら俺にそう言ってきたのは。

 

「良いけど、何で?」

 

「にしし…。ナツメさんを驚かせようと思って」

 

「あー、そういう…」

 

 明月さんが戻ってきた事をまだナツメに報せていない。明月さん本人から報せる方が良いだろうと考えていたから。

 しかし、ナツメはそういうドッキリは好きじゃない方なんだが…いやでも、これくらいなら大丈夫か?発案したのは明月さんだし、最悪全部明月さんに擦り付ければ良いか。

 

「良いよ。でも急いでくれよ、ナツメが着いちまう」

 

「何か物凄く悪どい顔をしてた気がしますが…、ありがとうございます。それじゃあ、準備してきますね」

 

 そう言って明月さんはフロアを出て屋根裏部屋へと行き、それから数分と経たずに戻ってきた。

 そして俺と明月さん、その後に「俺も」と言ってきた高嶺と共に車に乗り込む。なお、ミカドは来なかった。何でもこの後、ご近所の野良猫達との約束があるという。

 何の約束かは知らないが…。

 

 車を走らせて駅へと向かう。明月さんを待った分少しギリギリだが、車通りは思っていたよりも少なくこれならナツメが着くまでに間に合いそうだ。

 その通りにナツメが乗る電車が駅に着く時刻の五分前に駅の駐車場に到着、エンジンを止めてから車を降りて駅の建物内へ。

 

 三人並んで改札前にて待つこと数分。次々出てくる人の集まりの中に、艶やかに流れる長い黒髪が見えた。

 彼女の前を歩く男の位置がずれ、ナツメの姿がようやく現れる。

 ナツメは切符を改札に通してこちら側に出てきた時、俺達の存在に気付く。最初は俺の顔を見て笑顔に、直後に隣に立っている二人の顔を見て目を丸くした。

 

「おかえり」

 

「ただいま…え、え?」

 

 驚き立ち止まってしまったナツメの所に歩み寄って声をかける。俺を見上げて返事を返したナツメはキョロキョロと俺と俺の背後に立つ二人─────というより明月さんを交互に見る。

 

 背後からくすくすと明月さんの笑う声が聞こえてきたかと思うと、すぐに明月さんが俺の隣に現れる。

 

「おかえりなさい、ナツメさん」

 

「あきづき、さん?」

 

「はい」

 

「…ほんもの?」

 

「勿論です。本物の明月栞那です」

 

 呆然とするナツメに明月さんは微笑みながら返す。

 

 目の前の光景が未だに信じられない様子のナツメは肩に掛けていたバッグを下ろすと、両手でペタペタと明月さんの両腕を触る。

 そこに明月さんがいると確かめた後、今度は自分の頬をつねる。結構力を入れてたのか、手が離れた箇所が赤くなっていた。

 

「…夢じゃない」

 

「はい」

 

「本当に、帰ってきたんだ…」

 

「はい。ただいまです、ナツメさん」

 

 ようやく明月さんがここに実在していると実感したらしい。呆然としていた表情がゆっくりと和らぎ、微笑みの形を描いていく。

 

「…おかえりなさい。明月さん」

 

 小さな雫を目の端に浮かべながらナツメがそう言うと、二人はどちらからともなく両手を広げて抱き締め合った。

 

 俺よりも先に出会い、俺よりも先に傍に寄り添っていた、ナツメにとっては親友ともいうべき存在。

 そんな彼女が帰ってきた事を喜ぶナツメを見ていると、釣られて俺まで笑顔になってしまう。

 

 なってしまうのだが、それはそれとしてここは駅の中である。ここにいるのは俺達だけではないのである。つまり、この二人の抱擁は不特定多数の人達に目撃されているのである。

 流石に止めねばと思い、ナツメの肩を叩いて我に返させる。

 

 すぐにここがどこなのかを思い出したナツメは明月さんから離れ、床に置いた鞄を持ち上げる。

 

 とりあえずまず、駅を出て車に戻る事にする。ナツメから荷物を預かって代わりに持って、建物から出て駐車場に停めていた車に乗り込む。

 高嶺と明月さんは後部座席に、ナツメは助手席に乗せて車を発進させる。

 

「ビックリした…。帰ってきたら、明月さんがいるんだもの…」

 

「私も今こうして生きてる事に驚いてますから。…これも、昂晴さんと柳さんのお陰です」

 

「─────何かあったの?」

 

 このナツメの質問が始まりだったのは言うまでもない。この質問に明月さんが答え、時折高嶺が補足をしながら昨日起きた事をナツメに説明する。

 

 明月さんとの再会を求めて再び高嶺が奇蹟を起こした事。そんな高嶺の魂を刈るために朔夜さんが現れた事。そして、朔夜さんを止めるために俺が戦った事。その末に、明月さんが帰ってきた事。

 

 この時、俺は運転に集中して前を向いていたから。高嶺と明月さんはどこか興奮気味に話をしていたから気付かなかった。

 

「何それ」

 

 ナツメの顔が少しずつ険しくなっていた。そして、その鋭い視線が俺の方に向いた時にはすでに遅かった。

 

「私、何も聞いてない」

 

 以降、話は冒頭へと繋がるのである─────。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第六十四話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 正座して対面する俺とナツメ。縮こまる俺と見下ろすナツメ。そんな俺達を眺める高嶺と明月さん。

 

 思えば初めてだな。こんな風に本気でナツメが怒っているのを見るのは。今まで俺がナツメに怒る事はあったけど、その逆はなかった。

 

 しかし、ここまで怒るとはおもわな…いや、怒るのも当然か。逆に俺がナツメの立場だったなら、きっと同じ様に怒っていた筈だ。

 自分が知らない所で、好きな人が命の危機に瀕していたのを報されないなんて。怒って当然だ。

 

 だがしかし、だがしかしだ。怒って当然とは思うが、俺にだって言い分はある。

 何しろ事が起こったのは昨日。まだ一日しか過ぎていないのだ。

 じゃあ昨日の内に報せろよと思われても仕方ないとは思うが、昨日は疲労困憊で帰ってすぐにベッドで死んだように眠るのは極々自然な流れ。

 

 そう、ナツメに連絡できなかったのは仕方なかったんだ!

 

「ふーん」

 

「…」

 

 なお、これらの話を聞いたナツメの反応がこれである。たった一言、ふーんである。

 冷たい表情と鋭い視線はそのまま変わらず、俺を見下ろし続ける。

 

 おかしいな、俺はナツメより背は高い筈なんだけどな。なのに何でナツメに見下ろされてるように思えてしまうんだろう。

 

 いやそんな事はどうでもいい。今はどうやってナツメの機嫌を直すか…いや、そうじゃない。ナツメの機嫌とか許して貰うとか、そういう事じゃない。

 重要なのは、ナツメの事がどうでもいいから連絡を後回しにした訳じゃないのを分かって貰う事。それを分かって貰った上で機嫌を直すか、俺を許すのか、決めるのはナツメ次第。

 

 とはいえさっきの説明で納得して貰えないとなるといよいよとれる手は泣き落としくらいになってしまうのだが。

 そんなんでナツメは揺らいでくれるだろうか─────

 

「…ごめん」

 

「へ?」

 

 ナツメが突然謝ってきたのは、いざ土下座を決行しようかと決心した直後だった。

 あまりに不意を突かれて呆けた声を漏らしてしまう。

 

「…急にどうした?」

 

 先程までの怒りの表情とは打って変わって、沈んだ表情を浮かべるナツメの姿に驚きよりも心配の念が強くなる。

 ナツメは俺から目を逸らし、俯きながら口を開いた。

 

「今私がしてるこれは、ただの八つ当たりだから」

 

「─────」

 

 ナツメの返答に言葉が詰まる。事実、仮に何も知らない第三者がこの事を知ればそんな感想を持たれてもおかしくはない。

 確かにナツメに連絡をするべきではあった。しかし、連絡を出来ない明確な、やむを得ない理由がある以上、ナツメが怒るのは筋違いではある。

 

 あるのだが、ここで俺はナツメに色々と言い返しても良い立場ではあるのだが、そんな気にはならなかった。

 だって、ナツメが本気で俺の事を好きでいてくれてるからこそ、俺を本気で心配して、怒ってくれてるのだから。

 

「連絡しなかったのは俺も悪かったしな。お互い様だろ」

 

「でも…。千尋は大怪我して、治して貰ったのは良いけど、昨日はきっと疲れてたんだろうし…。それなのに私は、感情のままに千尋に当たって…」

 

 ここでナツメにそんな事はないと言っても納得しない。それでナツメは誤魔化されない。

 だからナツメが言う事を肯定しつつ、俺にも否があると伝えたのだが、優しすぎるナツメは必要以上に責任を背負い込んでしまう。

 

 さてどうしよう。いや、どうしようも何も俺がとる行動は決まっているのだが。

 だが、どうしても今はその行動をとりづらい。何故ならば─────

 

「…」

 

「「…?」」

 

 今この場にいるのが俺達だけではないからである。

 ナツメが怒っている理由の一端だからとついてきてくれたは良いが、ここに来てまさかの、言い方は悪いが邪魔になるという。

 

 高嶺と明月さんの方へと目配せし、アイコンタクトを試みるも二人は首を傾げて伝わっていない様子。

 

「はぁ…」

 

 これは腹を括るしかない。溜め息と共に決意を固めてから、俺はナツメを見つめながら口を開く。

 

「ナツメ。こっちおいで」

 

「え?…なに?」

 

 軽く手で仕草をしながらナツメを呼ぶと、ナツメは四つん這いになってこっちに近づいてくる。

 近づいてくるナツメを見つめる。そして俺の両腕が届く所まで来た時、俺はナツメを抱き寄せた。

 

「っ─────!?」

 

 いきなりの抱擁に驚いたか、両腕の中でナツメの体が震えた。

 だが抵抗はしない。おとなしく腕の中に収まったまま大人しくなる。

 

「…ありがとう」

 

「え─────?」

 

 そんなナツメの耳元で小さくそう呟いた。

 視界の端で目を丸くしたナツメが俺の方を見たのが分かった。

 

「あそこまで怒ったのは、俺を心配したからだろ?だから、ありがとう」

 

「…」

 

 こっちを見たままナツメは何も言わない。この沈黙を肯定として受け取る。

 

「俺は別に気を悪くしたりしてない。むしろ、ナツメが俺の事を本気で思ってくれてるんだって実感できて嬉しいくらいだ」

 

「…当たり前じゃない。好きなんだから」

 

「うん。俺もナツメが好きだ」

 

 ナツメと視線が交わる。すぐそこにあるナツメの顔は笑っていた。

 笑ったナツメの声からは沈んだ様子は消え、俺の背に両腕が回される。

 

「千尋…」

 

 どのくらい抱き締め合っていただろうか。不意にナツメが両腕を回したまま体を離し、正面から俺を見つめてきた。

 

 僅かに赤らんだ頬、潤んだ両目。ナツメが俺に何を求めてるのか、すぐに分かった。

 

 どちらからともなく、顔を近づけ合う。目を閉じて、これから唇に伝わる柔らかい感触を心待ちにして─────

 

「うおっほんっ!」

 

 弾かれるようにナツメから顔を離した。俺だけでなくナツメもまた俺から離れ、すぐさま俺の腕から脱け出して距離をとった。

 

「仲直りしたのは良いけどさ…」

 

「私達の事を忘れないでくださいね?」

 

「「すみませんでした」」

 

 苦笑いを浮かべる高嶺とニコニコ満面の笑みを浮かべる明月さんに向かって俺とナツメで同時に頭を下げる。

 

 いや、本当にすっかり二人の存在を忘れていた。二人の前でナツメを抱き締めると決めてからそう時間は経ってないのに。

 それもこれもナツメが可愛すぎるからいけないな、うん。

 なんて心の中で言い訳をしながらもう一度ナツメの方を見る。

 

 顔を真っ赤にしながら恥ずかしがっているナツメ。うん、可愛い。

 じゃなくて─────

 

「ナツメ、どうする?今日はもう部屋に帰るか?」

 

「え?んー…」

 

 ナツメは実家から戻ってきたばかりで、何なら荷物を部屋に置いてすらいない状態である。

 距離はそこまで遠くないとはいえ、移動で疲れたというなら部屋に帰って休むべきだろう。

 

 そう思ってナツメに問いかけたのだが、返ってきた答えは思わぬものだった。

 

「…ねぇ、皆で初詣に行かない?」

 

「初詣?」

 

 思わずオウム返ししてしまう。それに気にした様子もなく、ナツメは笑って頷く。

 

「俺は別に構わないけど…、二人は?」

 

「俺も良いぞ」

 

「私も賛成です」

 

 俺にはナツメの提案を断る理由もないし、すぐに承諾する。

 その後高嶺達の方へ振り返り、二人にもどうなのか問いかけるとすぐに承諾の返事が返ってくる。

 

 という事で、今から墨染神社へと初詣に行く事に相成った。

 さっきも乗った俺の車に再び乗り込み、早速神社へと車を走らせたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 初詣へ行くために部屋を出た時と比べて辺りはすっかり夜の帳に包まれる時刻。高嶺と明月さんの二人を高嶺のアパート前で降ろした後、俺はナツメと一緒にナツメの部屋にいた。

 

 お参りを済ませた後、俺達は四人でおみくじを引いて今年の運勢を占った。

 ちなみにナツメと明月さんが大吉で高嶺が吉、俺は末吉だった。何か俺だけ物凄く微妙な運勢だったが、恋愛運だけは結構良い事が書かれていた。というより、四人とも恋愛運は良しと紙には書いてあった。

 ナツメと付き合ってから初めての年越しで、たとえおみくじでとはいえ今年の恋愛運は悪いとか書かれてなくて良かったと心底ホッとしたものだ。

 

 その後は巫女のバイト─────といっても給料は出ないが─────をしている墨染さんに挨拶をして、その最中に偶然にも同じタイミングで初詣にやって来た火打谷さんに涼音さんとも新年の挨拶を交わし、墨染さんのお父さんから軽いお叱りが入るまで話し込んでしまった。

 

 神社を出た後、そのまま帰るのは勿体ないという明月さんの提案によりステラへと戻り、俺が淹れた紅茶で一息吐きながら談笑した。

 気付けば窓の外は暗くなっており、ナツメと高嶺を連れて店を出ようとしたのだが─────その前に高嶺が明月さんを自分の部屋へと誘い、車に乗るメンバーがもう一人増えたのだった。

 

 今頃高嶺の部屋では─────いや、それを考えるのは無粋というものだ。まあ流石に帰ってきてすぐおっ始めるなんて事はないだろうが。きっと、俺が初めてナツメの部屋に来た時と同じ様に、互いにガチガチに緊張している事だろう。

 

「お待たせ。お皿運んでくれる?」

 

「あぁ、分かった」

 

 なお、こっちでは緊張なんて全く無縁の和やかな空気が流れている。台所では料理をするナツメが、俺は夕食が出来上がるのをナツメの後ろ姿を眺めながら待っていた。

 

 ナツメに言われ、完成した料理が盛り付けられた皿をテーブルへと運んでいく。

 今日ナツメが作った夕食のメインは豚のしょうが焼き。

 高嶺と明月さんを送ってから近くのスーパーの中を歩きながら二人で献立を考えた結果、豚のしょうが焼きに決まった。

 ナツメ曰くそこまで手間がかからないらしいし、俺も肉料理は好きだし、そこからの流れは早かった。

 

 買い物を終わらせてから、まだナツメの荷物が車にあったため行く先はナツメの部屋。夕食もナツメの部屋で一緒にする事になり今に至る。

 

「「いただきます」」

 

 湯気がたつ白米にお味噌汁、メインのしょうが焼きに添えられるのはキャベツの千切りとその上に載ったミニトマト。

 

「うん、美味い」

 

 早速メインへ手を伸ばす─────前に、軽く味噌汁を飲んでからしょうが焼きに箸を付ける。

 マナーとしては次にご飯を食べるべきなのだが、我慢できなかった。できる筈がなかった。だってめっちゃ美味そうだし。てか実際美味いし。

 

 俺の感想に笑顔になるナツメを視界に映しながら食事を進める。

 ご飯の炊き具合も味噌汁の味も、当然しょうが焼きだって完璧だ。

 いや、しょうが焼きが少し甘めだったのは最初気にはなったが、気に入らない訳じゃない。むしろこっちの方が好きなくらいだ。

 

 まあそれも、ナツメが作ったからなのかもしれないが。

 

「…そういや、いつもナツメに作って貰ってるな」

 

「え?どうしたの、急に」

 

 しょうが焼きと一緒にご飯も口に含めて味のコンビネーションを楽しんでいてふと、思う。

 

「いや、何となく思い出してさ。夕食はいつもナツメに作らせちゃってるなって」

 

「確かに私が作ってるけど…。朝御飯は千尋が作ってくれるじゃない」

 

「それも毎日そうじゃないしさ。ナツメにして貰ってばかりだなと」

 

 ナツメの料理は美味しいし何の不満はない。だからといって作って貰ってばかりというのは悪い気がする。

 

 そんな俺の心情を察してか、やや困ったように笑いながらナツメが口を開く。

 

「そんなの気にしなくていいのに」

 

「そう言ってもな…」

 

 ナツメがそう言うのは分かっていた。だからといって気にしないという方が無理だ。

 

「…それなら、千尋がシフト休みの日は千尋が当番の日っていうのはどう?」

 

 ナツメがそう口にしたのはどうするべきか頭を悩ませていた時だった。顔を上げて、笑顔のナツメと目を合わす。

 

「それだとナツメの負担の方が大きいだろ」

 

「負担だなんて思ってない。好きな人に自分の料理を振る舞って、美味しいって言って貰えて…幸せなくらい」

 

 それは、心の底からそう思っている様な、幸せな笑みを浮かべてナツメが言う。

 

「別に私は今まで通り毎日作っても良いけど?」

 

「おーけーわかった。俺がシフトない日は俺が作る。それで了解した」

 

「よろしい。あ、食器ちょうだい?洗ってくるから」

 

 いつの間にかナツメが毎日作るか俺が週に一回作るかの二択にされ、俺は後者をとらざるを得なかった。

 しかし、あんな顔をされちゃナツメの料理を食べる機会を減らしてくれ、なんて言えないじゃないか。

 

 内心溜め息を吐きながら、空の食器を重ねて台所へ運んでいくナツメの後ろ姿を追い掛けようとする。

 

「いや、食器洗いくらいはやらせてくれよ」

 

「千尋は昨日大変だったんでしょう?今日はゆっくりしてて」

 

「…」

 

 ナツメにそう返され、浮きかけた膝を戻して再び腰を下ろす。

 いや、もっと食い下がる事もできたが…、鼻歌なんて歌いながら食器洗いをするナツメの背中を見ていたらできなくなってしまった。

 何でそんなにご機嫌なんだか…。

 

 水が流れる音と食器がぶつかる音だけが響く。付き合い始めてから今まで、ほぼ毎日見てきた光景。

 そういえば、初めてナツメの手料理を食べたのは付き合う前だったか。あの時は初めて異性の部屋、それも独り暮らしの部屋に入ってかなり緊張していたものだ。

 それも、ナツメの料理を口にしたらどこかへ飛んでいってしまったが。

 

 ─────ハンバーグだったっけ、最初に食べたのは。

 

 もう一ヶ月近く前になるのか。初めてのナツメの手料理はハンバーグだった。

 初めてナツメへ恋心を抱いているのを自覚したのもその日だった。

 

 幸せだ。心の底からそう思う。

 思えば、この幸せを俺は手放しかけていたのか。昨日、もし俺が死んでいたら。朔夜さんにその気はなかったらしいが、何かが違っていたら、そうなっても可笑しくはなかった。

 

 そう考えるといきなり怖くなった。今更になって恐怖を感じた。

 昨日の選択を俺は後悔していない。間違っていたとも思っていない。でも…、そうか。危うく俺は、ナツメとお別れするところだったのか。

 

 死ぬのが怖い訳じゃない。ナツメと離れてたかもしれない事実が、どうしようもなく怖い。

 

「千尋?」

 

 呼ぶ声が近くから聞こえる。ふと振り向くと、すぐ隣に不思議そうな顔をするナツメがいた。

 いつの間にか食器を洗い終えて、俺の傍まで来ていた。

 

「どうしたの─────」

 

 ナツメを抱き締める。

 瞬間、体の正面から伝わってくる柔らかさと温かさ。温もりが全身へと伝わっていき、心に染み込んで恐怖を解していく。

 

「好きだ」

 

 もうナツメは俺の様子が可笑しい事に気付いている。でも、さっきまでの俺の気持ちを素直に伝えるのは少し情けない気がした。

 

 だからナツメに何か聞かれる前に、今の俺の心の中から溢れる感情を口にする。

 

「好きだ、ナツメ」

 

 もう一度。何度口に出したって足りない。分かっていても、口に出さないでいられない。

 

「うん。私も好き。大好き」

 

 ナツメが両腕を回して力を入れてくる。

 それは、俺がナツメに怒られた後と同じ体勢だった。

 

 しかし、あの時と違う事が一つある。あの時は俺とナツメ以外に高嶺と明月さんがいた。

 

「「─────」」

 

 あの時と同じ様にナツメが両腕を回したまま体を離す。

 赤らんだ頬、潤んだ両目、求めているものが何なのかなんて、考えるまでもなく分かった。

 

 邪魔する者はいない。

 

 あの時にはお預けを食らった口付けを、ようやくここで交わした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第六十五話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 肩に鞄を掛けて部屋を出る。しっかりと扉の鍵を閉めてから、先に部屋を出ていたナツメと並んでアパートの階段を降りる。

 

 二週間の冬休みが明け、今日から講義が再開される日になった。時刻は八時半、俺は二限からだがナツメが一限から講義があるという事で一緒の時間に部屋を出た。

 ナツメはゆっくりしてて良いよと言ってくれたが、まあ好きな人とは少しでも長く一緒にいたい訳で。それがたかだか一時間か二時間くらいだとしても。

 

 ちなみに今日はお店は休業日だ。更にいうと三日前には営業を再開している。

 一週間空いてからの営業だったが、休業前と変わらない…むしろ年末という事で客足が減っていた休業直前と比べると客数は増えていた。

 お店を休む際にナツメが気にしていたお客さんの足が遠退いてしまうのではないかという心配は杞憂に終わったという事になる。

 

 年始にナツメと喧嘩し、仲直りしてからも俺達は特に変わりなく過ごしていた。お店が休みの間は部屋でのんびり過ごしたり、ちょっと外に出て歩いてみたり。店の営業が再開してからはそれこそいつもの日常が戻ってきたと言わんばかりに働き、仕事が終われば二人で帰って一緒に過ごして、まあ、たまに、あれをしたりしなかったり─────待て、俺はさっきから誰に説明しているんだ。やめやめ、こんな事考えるんじゃない。

 最中のナツメの顔を思い出したらスイッチが入ってしまいそうだ。

 

 ナツメと他愛ない会話をしながら歩いている内に大学の前に。もっと一緒にいたい所だが、履修していない講義にまでついていく訳にもいかない。ここで一旦お別れだ。

 

「お昼は一緒に食べよう?講義が終わったら連絡するから」

 

「あぁ。待ってる」

 

 ナツメと微笑み合ってから、ほんの少し名残惜しさを覚えながらも部屋を出てからずっと繋いでいた手を離す。

 直後、温もりから放たれた手に容赦なく冬の冷え込みが突き刺さる。今日も冷え込んでるなと、ようやく思い知る。

 

 ナツメが手を振り、俺も手を振り返してナツメが建物の中に入って姿が見えなくなってから、ナツメとは違う方向へと歩き出す。

 俺が受ける講義は今ナツメが入っていった建物とは違う棟にある部屋で行われる。その棟の中にはちょっとした休憩スペースがあり、そこでは有線でネットが繋がるからそこで時間を潰す事にする。

 

 時折頭上の時計を見上げて時間を確認して、ナツメはどうしてるかな、なんて考えながら休憩スペースにてだらだら過ごす。

 どうしてるかなも何も、ナツメは今講義を受けてるに決まってるのに。末期な自分に内心苦笑いしながら、気付けば周囲を歩く学生の数が増えていた。

 

 ノートPCを鞄にしまい、次の講義が行われる講堂へ入る。鍵は開いていて、俺以外にも数人すでに講堂の椅子に座っていた。

 友人と固まって座る人、一人で座る人。まだ昭久達は来ていないし、俺は後者だ。教壇からだいぶ離れた椅子に腰を下ろして一息吐く。

 

 その直後だった。

 

「見つけたぞ!この裏切り者めがぁっ!」

 

 聞き覚えのある、それと同時に懐かしさを覚える喧しい声が響き渡ったのは。

 

 すでに講堂内に来ていた学生達が振り返る。俺も例に漏れず振り返る。

 そこに立っていたのは俺を睨む三人の学生…いや、一人は笑ってるな。めっちゃニヤニヤしてる。

 とにかく三人の学生が俺の方へと歩み寄ってきた。

 

「裏切り者って何だよ…」

 

「黙れ裏切り者。すでにネタは上がってるんだぞ」

 

 俺の隣の席に腰を下ろした眼鏡を掛けた生徒がスマホを操作してから画面を俺の方へ向けてくる。

 

 何だかこのノリにデジャブを感じながらも向けられた画面に写された一枚の画像を見る。

 そこに写っていたのは、手を繋いで歩く俺とナツメの姿だった。しかもこの大学に来る途中か、これ。

 

「…」

 

「あ、待って。そんな目で見ないで。この画像撮影したの俺じゃないから訴えないで」

 

 ただの盗撮だった。てかやっぱ前にもあったわこんな事。あの時も俺とナツメが一緒に登校してる所盗撮されたな。そんで今みたいに囲まれて尋問みたいな事されたわ。

 

「おい」

 

「っ、そうだった。おい柳、これはどういう事だ」

 

「…どういう事って何が」

 

「しらばっくれるなぁっ!」

 

 うわぁ、めんどくさぁ…。もう分かるよ、こいつが言おうとしてる事。でも…、そっか。そうだよなぁ…。こうなるよなぁ…。

 

「お前、やっぱ四季さんと付き合ってたんじゃねぇか!」

 

「俺達に嘘吐いてよぉ。俺達ゃショックだぞおい」

 

「別に嘘なんて吐いてねぇ」

 

「じゃあこれは何だこれは!思いっきり手ぇ繋いでんじゃねぇか!」

 

「てかうるさい、少し静かにしろ」

 

 しかしここまで騒ぐ事かね。たかだか一組カップル出来たくらいで。

 いや、とりあえず呆れる前に一つ誤解は解いとかないと。

 

「付き合ったのはイブからだからお前達に嘘吐いた訳じゃない」

 

 前にも何度かこいつらにナツメと付き合ってるのかと聞かれ、違うと答えた事があった。それは勿論嘘じゃない。何しろ質問されたのはナツメと付き合う前だったから。

 だがこいつらはその時からすでに俺がナツメと付き合っていたと勘違いしている。まずはそこを正さねば。

 

「…なるほど、イブからか。なら、お前が嘘を吐いた訳じゃないな」

 

「あぁ。俺は嘘なんて吐いてない」

 

「そうか。有罪」

 

 何故だ。

 

「ぐぁぁぁああああああああ!昭久に続いて柳まで!しかも相手は四季ナツメ!?」

 

「何をした。何やらかしたんだお前!脅迫は犯罪だぞ!」

 

「してねぇよ。普通に告白して受け入れて貰ったわ」

 

「「あああああああああああああああああああ!!!」」

 

 うるさい。うるさいけど、あれだな。こいつらの発狂具合を見てると何かこう…、面白いな。笑えてくる。

 

「へぇ~。千尋からコクったんだ。どんなシチュエーションで?」

 

「…それを話す筋合いはないぞ」

 

「お~い~おしえろよ~。千尋と恋ばなとかできると思わなかったからよ~」

 

 通路側に立つ昭久が俺の肩に腕を回して絡んでくる。

 ウザイ、が、発狂されるよりはマシか。かといって馴れ初めをこいつに喋る気はさらさらないが。

 

「彼女持ち共が…っ!」

 

「柳ぃ…、まだ審判は終わってないぞ…?」

 

 怨嗟の声が聞こえてくる。というか審判なんていつの間に始まってたんだ。

 

「何故だ…、何故柳なんだ…」

 

「お前らさっきから失礼だぞ。俺に」

 

「こんな血も涙もない冷酷男に…」

 

「お前らの態度が改まれば俺も態度を改めるぞ」

 

 ぐぎぎぎぎ、とどこから出してるのか分からない声を上げるアホ二人。そんな二人を眺めながら笑っている昭久。

 

 長期休み明け、こいつらと再会する度に感じる。何というか、戻ってきたという実感。何だかんだ俺自身、こいつらを友人だと本気で思っているらしい。

 今のこいつらはウザイけど。

 

「…もうこんな時間か。柳、昼休みに尋問を続けるからついてこい」

 

 話している内にもうすぐ講義が始まるという時間にまでなっていた。講堂の席はこの講義を受ける生徒で殆ど埋まり、周囲からは談笑の声が響き渡る。

 

「無理」

 

「…何だと?」

 

「昼はナツメと約束してる」

 

「何だとぅ!?」

 

 今の言い方ちょっと面白かった。何だとぅって。

 

「下の名前…、あの四季ナツメを名前呼び…」

 

「付き合ってんだから別に可笑しかないだろ」

 

「…死刑」

 

「首吊りか電気椅子か選ばせてやる」

 

「どっちもしない」

 

 講堂に教授が入ってくる。それを期に少し講堂が静かになり、こいつらも鞄からこの講義で使う教材を出して大人しくなる。

 始講のチャイムが鳴ったのはそのすぐ後。話し声は止み、講堂に響くのは教授が話す声だけとなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 特に何事もなく講義が終わってから、すぐにナツメと連絡を取ろうとする。

 が、すでにナツメからライムが入ってきており、先に食堂の前へ向かっているとの事。

 

 という事でぎゃんぎゃん騒ぐ友人達を置いて俺も荷物をまとめて食堂へ。メッセージ通り先に来ていたナツメが俺に気付いて手を振る。

 二人で券売機前の列に並んで食券を買い、注文した料理を受け取ってから二人用のテーブルを見つけてその椅子に腰掛ける。

 

「ふぅ…」

 

 腰を下ろし、鞄を足元に置いてから一つ息を吐く。

 何というか、疲れた。一時間半の講義を一つ受けただけなのだが…、講義の前と後の騒ぎ、そして昼休みが終わってから、今日の講義が終わってからの事を考えると精神的な疲労感に襲われる。

 まあ要するに、面倒臭い。さっきも同じ事を考えた気がするが、何で一組カップルが出来たくらいでここまで大騒ぎされなきゃならないのか。

 

「何か疲れてない?」

 

「ん?いや、そんな事は…ある、かも」

 

 先程の溜め息をしっかり見られていたらしい。ナツメにそう聞かれ、初めはそんな事はないと答えようとしたのだが、嘘をついてもバレそうな気がして、結局苦笑いしながら肯定した。

 

「ちょっと質問責めにあった」

 

「あー…。千尋もだったんだ…」

 

「もって…、ナツメもか」

 

「うん。色々聞かれたし、言われた」

 

 聞き返してから、ちょっと考えれば俺よりもナツメの方がしつこく質問されたに違いないと想像がついた。何しろ孤高の撃墜王なんて二つ名がつけられる程に有名人なのだから。

 

 しかし、その次の一言に少し引っ掛かりを覚えた。

 

「言われた?」

 

 聞かれたは分かるが、()()()()とはどういう事なのだろう。

 意味が分からずナツメに問いかけてみる。するとナツメは僅かに顔に怒りを表しながら口を開いた。

 

「うん。付き合ってるのか聞かれて、そうって答えたら『あんな冴えない奴と』とか、『何であんな奴と』とか」

 

「あー」

 

 ナツメが言われたという冴えない奴やあんな奴がどの奴を指しているのかは考えるまでもなく察せる。

 まあそういう感想を抱かれるのは仕方ないと受け入れている。端から見れば釣り合ってないと思われるだろう。大体俺だって今のこの状況をたまに信じられなくなるくらいなのだから。

 

 どうも、冴えない奴です。すいませんね、こんな奴がナツメの彼氏になっちゃって。

 

「…」

 

「…どうした」

 

 特に返す言葉もなく、少しご機嫌斜めの様子のナツメをどうやって宥めようかと考えていると、ナツメがじとーっとこちらを睨んでいるのが見えた。

 

「何でそんな納得した様子なの?」

 

 どうやら俺が何も言い返さないのが御不満らしい。

 しかし先程も言ったが、端から見れば不釣り合いに思える組み合わせなのは否めない。だからといってナツメを手離すつもりはないが、そう思われる事自体に俺は何とも思わない。

 

「そう思う奴がいても仕方ないだろ。何も知らない第三者からすれば人気者と日陰者が付き合ってる様に見えるんだろ」

 

「何それっ」

 

「待て待て待て、俺がそう思ってる訳じゃないから。ナツメを囲んだ陽キャ共はそう思ってるんだろうなって考えただけだから」

 

 ナツメの視線が鋭くなるのを見て慌てて弁明する。

 だが、ナツメの怒りは収まらない。

 

「釣り合ってるとか釣り合ってないとか関係ない!私は千尋が好きだから千尋と付き合ってるだけ!」

 

「おう、ありがとう。でもナツメ、もう少し声のボリュームをだな─────」

 

「本気で好きじゃない人と付き合う訳ないでしょ?それなのに『あいつで遊ぶんなら俺で遊びなよ』とか言ってくるバカもいるし…」

 

「バカだなそいつ、遊ばれるのが良いのかよ」

 

「そういう問題じゃない!」

 

「はい、すみません」

 

 叱られた。

 

「千尋も千尋よ。どうしてそんな平然としてるの?自分がバカにされてるのに」

 

「いや…、別にどうでもいいしそんな事。直接俺に言ってこない奴の事なんて」

 

 質問を投げ掛けられ、素直に本音でそう返すとずっと荒れていたナツメがピタリと静かになる。

 目を丸くして驚いた様子で俺を見ている。

 

「それに、多分逆だぞ」

 

「逆?」

 

「あぁ。俺は今、嬉しいと思ってる」

 

 怪訝な表情になるナツメ。

 そうなるのも仕方ない。今の俺のこの言い方だと、バカにされた事が嬉しいと言っているように聞こえるだろうから。

 

 勿論そうじゃない。俺が言いたいのは─────

 

「バカにされて何も感じない俺の代わりに、ナツメが怒ってくれてるから」

 

「─────」

 

 好きな人がバカにされて怒る、極々自然な事だ。だからこそ、ナツメが怒る程に想われているのだと実感が出来る。

 

 だから、嬉しいのだ。ナツメが俺と同じ気持ちなのだと感じられる。それが嬉しい。

 

「…ばーか」

 

 先程までとは違う柔らかな声。怒りに満ちていた表情も穏やかな微笑みに、俺が一番好きな表情へと変わる。

 途端、一瞬心臓が強く高鳴る。俺達を包む空気が僅かに艶色に染まる。

 

 何も言葉は口にしない。ただ見つめ合っているだけ。それだけで、今この世界には俺とナツメの二人だけと思えて─────

 

「いてっ!?」

 

 直後、頭部に強い衝撃。先程とはまた違う種類の心臓の高鳴り。驚きと共に振り返る。

 

「ここは食堂だぞ。何をしようとしてるのかな、お二人さんは」

 

「昭久…」

 

 お盆を片手で持ち、もう一方の手は指を揃えて開いている。さっきの衝撃はこいつのチョップによるものらしい。

 

 昭久は俺達を苦笑いしながら眺めてから、隣の四人用のテーブルにお盆を置いて席に腰を下ろす。

 

「おい、草野…。いいのかよ」

 

「は?何が」

 

 昭久は食堂に一人で来た訳じゃない。当然友人と一緒だ。そしてその友人が誰なのかは言うまでもない。

 朝にも見た二人の顔が、朝とは違う気まずげな表情を浮かべてこちらを見ていた。

 

「てかお前、あんなの見せられて良くここに座れんな…」

 

「いやだって他に席ないし」

 

 いつものこいつだったら俺達の邪魔をしないよう離れた席へ行くのだろうが、他の席は埋まってしまったらしい。

 ていうかあれか。さっきのは昭久だけじゃなくこの二人も見てたのか。…それなら気まずそうにしてる理由も分かる。

 

「千尋もいいだろ?」

 

「ダメだろ」

 

「聞く相手を間違えた。四季さん、ここに座って大丈夫だよね?」

 

「え?別にいいけど…」

 

「俺を無視すんな」

 

 さっきのを見られた羞恥がまだ抜けきっていないのか、僅かに頬が染まったままのナツメが昭久の問いかけに答えてしまう。

 俺の講義は全く受け取って貰えず、二人も四季さんがいいならと隣の席に着いてしまう。

 

「まあまあ、邪魔はしないからさ」

 

「そこに居るだけで気になって邪魔になるんだが」

 

「まあまあ、そこは気にしない方向で」

 

 微妙に話が噛み合わない、というより噛み合わせる気もないのだろう。

 昭久に対して大きな溜め息を吐く。そうして思わぬ乱入者と共に、今まで忘れかけていた昼食を摂り始めたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第六十六話






久しぶりにランキングに載ってました。
ありがとうございます。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 辺りはすっかり暗くなり、帰宅する学生や社会人が多く見られる時間帯。

 俺もまた、その一人として大通りを歩いていた。

 

 ただ、俺は一人じゃないし、第一にまだ帰ろうとしている訳ではないのだが。

 

「よっしゃぁ、今日は飲むぞごらぁっ!」

 

「柳の奢りだし遠慮しねぇぞおらぁっ!」

 

「いつ俺の奢りになったんだよ」

 

「「今!」」

 

 今俺の傍にいるのはナツメではなくいつもの友人達。元気に肩を組んで前を歩く二人に呆れてくる。

 もしかしてもう酔ってんのかこいつら。

 

「いいだろ、そんくらい。俺等に幸せのお裾分けしてくれたってよ」

 

「おい草野。それは彼女がいない寂しい俺達の台詞であって幸せ溢れる彼女持ちのお前の台詞では断じてない」

 

「そうだぞ草野。お裾分けを受けるべきなのはお前じゃない、俺達だ」

 

「「って、誰が寂しい男共だブッ殺すぞ!」」

 

「言ってない言ってない」

 

 いや酔ってる、こいつら酔ってる。じゃなきゃこんな下らんノリ突っ込みしな─────いや待て。するな、こいつらなら素面でも。あ、するわ。別に酔ってなんかないわ。

 でも素面でこれって、酔ったらどうなるんだ。あー、今から面倒臭くなってきた。帰っていいかな?…ダメだろうな。

 

「千尋、こりゃ覚悟した方がいいぞ」

 

「全部お前に押し付けて俺は帰る」

 

「逃がさんぞ。お前、俺に借りがあるの忘れてないだろうな」

 

「…」

 

 奢ってやるんだし二人の世話くらい押し付けたっていいだろう、そう思っていたのだが返しの昭久の一言に押し黙る。

 

 そう、俺はこいつに借りがある。ナツメとの関係についての悩み相談に乗ってもらった事がある。

 といっても、ろくな答えは返ってこなかったが。何か自分で考えろとか言われた気がするが。

 

 あれ?相談に乗ってもらったって何だ?俺は本当にこいつに相談に乗ってもらったのか?借りなんてないんじゃないのか?

 

「何してんだよ二人とも、早く行くぞ!」

 

 前を歩く二人が振り返り、その片方に呼ばれて思考が途切れる。

 

 まあいいか。結局、話を聞いてもらったのは確かだし、話を聞いてもらうだけでも割と楽になったし。

 そう無理矢理結論付けて、前の二人を追って俺達も昭久達が予約したという居酒屋へ足を急がせる。

 

 行き着いたお店はまあ別に気取った感じのない普通の居酒屋。以前ナツメと行ったバーとは真逆の賑やかな店内に足を踏み入れ、予約された個室の席に案内される。

 俺がハイボール、昭久はレモンサワー、残り二人はビール、後は焼き鳥やら芋餅やら食べ物を適当に頼んでとりあえず一度目の注文を終える。

 

「なあ柳。結局お前俺達についてきてるけどよ、良かったのか?」

 

「─────」

 

 すぐに俺達が頼んだ四本の飲み物が届き、乾杯をして一口目を口付けている時、ふとそう言われる。

 

「何だよ今更」

 

「いや、今になって気になってきた」

 

「変に気を使うのやめろ気持ち悪い」

 

 ちょっと寒気がしたのは言わない。

 俺の言い様に文句たらたらな友人に構わずジョッキを置いてから口を開く。

 

「ナツメも今日は友達と一緒に飲みに行ってるから、本当に気にしなくていいぞ」

 

「四季さんも?」

 

 そう、友達と飲みに行ってるのは俺だけじゃない。ナツメもまた、今日は友人に誘われて食事に行っている。

 多分、細かい違いはあれど俺と似た経緯と理由で。

 

「なら今日は好きに飲めるな!」

 

「明日も講義だぞ」

 

「そんなものは忘れました」

 

 あ、ハイライトが消えた。

 

「どうなっても知らんぞ」

 

「うるせー!今日はもうとことん飲むって決めてんだよ!あと色々と聞かせてもらうからな柳!」

 

「はいはい、答えられる範囲で答えてやるから」

 

 そんな釘を刺されなくとも根掘り葉掘り聞かれる覚悟はしている。根掘り葉掘り答えるつもりはないが。

 さっきも言ったが、答えられる範囲でしか答える気はないが。

 

「じゃあさ、早速聞いていいか?」

 

「…なんだよ」

 

 すると早速昭久が口を開いた。

 一抹の不安を感じながら聞き返すと、昭久は笑顔のままブッ込んできた。

 

「四季さんとヤった?」

 

「─────」

 

 絶句。

 

 まあ聞かれるとは思っていたさ。まず間違いなく聞かれるだろうなと予想していたさ。

 だからってこんないきなり、最初から聞かれるなんて思わないだろ普通。

 

「うぉい草野いきなりブッ込むなよ!」

 

「だが、気になる。おい柳、ヤったのか!?」

 

 答えられる範囲で、とは言った。俺的にはこの質問は答えられる範囲を越えている。しかしこの感じ、答えずに逃げられる気がしない。絶対に逃がしてくれない。俺が本当の事を言うまで食い下がってくる。

 

「…した」

 

「があああああああああああてめぇええええええええええええ!!!」

 

「あ、涙出てきそう」

 

「あっはっは」

 

 まあ言うしかないですよね。これあれだもん、RPGゲームでたまに出てくる二択が両方()()とかいう理不尽仕様状態だもん。

 

 ふざけんなよ。

 

「何回、何回だ!」

 

「お前らをそこまで駆り立てるのは何なんだ」

 

「うるせぇとっとと答えろ!」

 

「知るか、覚えてないわ」

 

「覚えられないくらいヤってんのか!?」

 

「違う、そうじゃない」

 

 面倒臭い、マジで面倒臭いぞこいつら。今からでも帰るべきなのか、まだ飲み始めてすぐ、素面の状態でこれだぞ。

 酔いが進んだらどうなるんだこれ。

 

「なーなー、千尋は四季さんといつから付き合い出したんだ?」

 

「話が急に変わったな」

 

「俺の予想ではイブなんだけど合ってる?ちなみに二人が初めてヤったのもその日の夜と予想してるんだけど合ってる?」

 

「…」

 

「その沈黙は肯定と受け取るぞ」

 

 ニヤリと昭久が笑う。残る二人の目がギラリと光る。

 

 あぁ、もう嫌だ。帰りたい、助けてナツメ。俺にこいつらの相手は荷が重かったんだ。いや、こいつらと友人付き合いを始めたのが間違いだったんだ。

 今から過去に戻って当時の俺に言ってやりたい。草野昭久という男と関わるのはやめておけと、後で後悔するぞと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 なお、今のナツメも千尋よりかなりマシとはいえ、似た状況であるのは言うまでもない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

~Another View~

 

 千尋が昭久達に厳しい追求をされるその一方で、ナツメの方は比較的平和な飲み会が催されていた。

 追求をされない訳ではないが、恥ずかしい質問を答えさせられたりもしたが、その代わりというのも変だが参考になるアドバイスも貰えた。

 

 そのアドバイスの詳細を聞かれるのはナツメ的に少し恥ずかしい部類にはなるが。

 

「四季さんは彼氏と何かプレイとかした?」

 

「ぶっ」

 

 危うく口の中の物を吹き出すところだった。

 突然…という訳ではないのだが、それでもこんなにいきなり質問の先が向くとは思わなかった。

 

 ちなみに今彼女達の間で話されている話題は言うまでもないだろう。先程のナツメへの質問が答である。

 

「し、してないっ」

 

「ふーん、そうなんだ」

 

 ナツメと同じ席に座っているのは三人。当然、三人とも女性である。

 その内のナツメへ質問をした一人が少々つまらなそうな表情をしながら相槌を打つ。

 

 初めは平和だった。彼氏とはいつ、どこで出会ったのかとか、どこを好きになったとか、どちらから告白をしたのかとか、キスはしたのかとか。

 キスはしたかという質問の次、ナツメは処女なのかという切り込みからちょっとおかしくなった。ナツメに集中していた質問は少なくなり、四人全体に話題が行き交い、一旦ナツメへの質問責めは途切れたと思われた。

 

 そう思われた直後の、先程の質問である。ナツメの動揺は致し方ないものがあるだろう。

 

「まあ付き合い初めてまだ一月も経ってないもんね。四季さんも彼氏にゾッコンみたいだし、マンネリするのはまだまだ先か」

 

「─────」

 

 いきなり何を、という動揺の中でナツメは続いた言葉の中で気になる単語を耳にした。

 

「…やっぱり、マンネリってするものなの?」

 

 カップルのマンネリ化。デート先や行動がワンパターンになり、互いに新鮮さを感じなくなってしまう事。

 ナツメと千尋はまだ付き合い出して間もない。気にする必要はないと分かってはいるのだが、それでもどうしても気になってしまった。

 

「まあ、するよね。私も前の彼氏とはマンネリ化したのが原因で別れちゃったし」

 

「…」

 

 マンネリ化は決して珍しいものじゃない。世の中のカップルの殆どは経験がある筈だ。

 それを解消して更に仲を深めるか、それとも解消できず別れてしまうか、どちらが多いかは現代の少子化を鑑みれば明らかだ。

 

 そして、それはナツメと千尋とて例外ではない。今でこそマンネリ化など考えられなくとも、一年後二年後、下手をすればもっと早くそれに襲われる事だってあり得るのだ。

 

「あー…、ごめんね四季さん。こんな話しちゃって」

 

「え?あっ、気にしないで。大丈夫だから」

 

 一抹の不安が広がっていく様が表情に出ていたらしい。マンネリ化の話題を出した一人が申し訳なさそうに謝罪をしてきた。

 すぐにナツメは頭を振りながら返事を返すが、その表情は晴れない。

 

「ねぇ、マンネリってどういう風になるものなの?」

 

 そこで口を開いたのはやや背が小さめの幼い外見をした一人だった。この四人の中で唯一の少女だというのはこの場にいるナツメ達だけの秘密である。

 彼氏もいた事がなく、マンネリ化について気になってしまったらしい。

 

「んー。マンネリ化する有名な三つの理由が確か…」

 

 その問いかけに、マンネリ化の話題を出した一人が視線を斜め上に向け、記憶を呼び起こしながら答えていく。

 

「一緒に過ごす時間が長すぎる事と」

 

「…」

 

 千尋と一緒に過ごす時間、考えてみれば長過ぎやしないだろうか。

 大学の学科が違うため講義の時間こそ別れて過ごしているが、それ以外の時間は一緒と言ってもいい。一緒の職場で働き、一緒に帰路を共にして、どちらかのアパートの部屋に泊まって一緒に朝を迎えて、そして一緒に大学に行く。

 

 一つ目の理由は完全に当てはまる。今は全く気にならないが、後々響いてくるかもしれない。

 

「短期間で一気に関係が進んじゃう事と」

 

「…」

 

 千尋との関係、そういえば短期間で一気に進んでいる。

 イブに告白をされて付き合い、その日の内に繋がって、それから半同棲─────いや、ほぼ同棲といっていい状態になっている。

 

 二つ目の理由も当てはまってしまった。ナツメの表情が分かりやすく気分と同じく暗く沈んでいく。

 

「ちょっ、ちょっとアンタ」

 

「後は会話が少ない…え、なに?」

 

「四季さんが…」

 

「ん?…あっ」

 

 ナツメの様子に他の三人が気付き、微妙な空気になる。

 ナツメと千尋の関係がマンネリ化する理由の殆どに当てはまっている事にも気付いたのだろう。

 特にマンネリ化の理由を語っていた一人の表情は引きつっていた。

 

「だ、大丈夫よ四季さん!四季さんはまだ付き合い初めて間もないんだし、今から対策しとけばマンネリ化なんてしないしない!」

 

「対策…?」

 

「そう、対策!」

 

 ナツメが食いついた事に勢い付いたか、更に勢い増して語り続ける。

 

「マンネリ化するのは互いが相手に新鮮さを感じなくなっちゃうから。つまり、常に相手に少しでも新鮮さを覚えさせればマンネリ化はしないのよ!」

 

「新鮮さ…」

 

 まさにその通りである。互いが新鮮さを覚えつつ付き合い続ければマンネリ化はしない。

 

 しかし、だ。

 

「でも、どうすれば…」

 

 そう、問題はそこである。どうやって相手に、ナツメにとっては千尋に新鮮さを覚えさせ続ければ良いのか。その方法が皆目見当つかない。

 

「ふっふっふ…。そこは私に任せなさい」

 

 だがそれはまだ恋愛経験の浅いナツメだからこその問題。恋愛経験が深い女性ともなれば─────

 

「今からカップルがマンネリ化しない方法を、この私がっ、伝授してあげるわ!」

 

 マンネリ化させない事など、容易いのである─────!

 

「アンタさっき前の彼氏とマンネリ化して別れたって言ってたじゃない…」

 

「黙りなさい」

 

 容易いと言ったら容易いのである。

 

「…どうしたらいいと思う?」

 

 先程のやり取りを聞いて不安は覚える。しかしこのまま一人で考えても埒が明かない。

 

 そう考えたナツメは少しの間の後、口を開いて問いかけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ここで聞いた方法をナツメが実行した結果、千尋が色々な意味で駄目になる事になるのだが、それはまだ誰も知る由もない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第六十七話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 穏やかで優しい空気が流れる静かな部屋の中、ナツメが食器を洗う音だけが響き渡る。

 ナツメとそれぞれ別の飲み会に行った次の日、俺達はいつも通り大学に行き、ステラで仕事をして、そして今日は俺の部屋で二人で過ごしていた。

 

 今日は、といったが昨日は飲み会の後に俺とナツメはそれぞれの部屋に帰って夜を過ごした。大晦日以来の一人で過ごした夜になった。

 ナツメの方の飲み会は何事もなく終わったらしいのだが、俺の方が大変だったのだ。

 飲み会が終わった時刻は日を跨ぎ、ベロンベロンに酔っ払った阿呆二人を俺と昭久でタクシーを使ってそれぞれの部屋まで運び、昭久と別れて部屋に帰って来た時には疲労困憊で風呂に入る気力すら湧かなかった程だ。

 ちなみにベロンベロンになった二人は今日、二日酔いで苦しんでいた。ついでに二人がダウンしなければ使う必要がなかったであろうタクシー代はしっかり徴収しておいた。そこまで面倒見る気はない。

 

 割と散々だった飲み会だが、それでも楽しくなかったと言ったら嘘になる。久しぶりに友人とバカ騒ぎが出来て、楽しかったというのは正直な気持ちだ。

 しかしそれよりも、やっぱり俺は今の時間の方が好きだとハッキリと言える。昨日、一人がほんの少し寂しかったのはナツメには秘密だ。

 

「…」

 

 食器洗いを続けるナツメの後ろ姿から視線を移し、部屋の中央、カーペットの上に何も置かれていない小さな空間を見つめる。

 

 今日、仕事終わりに高嶺から聞いたのだが、あいつの部屋にはこたつがあるらしい。電気代は少しかかってしまうが、それに見合う働きをしてくれていると高嶺は言っていた。

 特に俺の心を引いたのは、同じこたつに明月さんと一緒に入った事を話すあいつの幸せそうな顔だった。

 いや、別に高嶺の顔に心が引かれた訳じゃないが、しかし一緒にこたつに入って過ごす高嶺と明月さんを頭の中で自分とナツメに置き換えて妄想してしまった。

 

 こたつ、もう一月も中旬に差し掛かる。まだまだ寒い時期は続くが、二月に入れば少しずつ温かくなっていくだろう。

 高嶺の話を聞いて一瞬買おうかと考えが浮かんだが、今のこの部屋の状態だと買ったとしても置けない。

 厳密に言えば置けはするのだが、歩くスペースが一気に狭くなる。今俺が座っているこの椅子とテーブルを退ければ…、売るか?そんなにいい値段にはならなそうだが。

 

 いやいや、よく考えろ。第一、俺は来年で大学を卒業する。そうなればこの部屋に住んでいない可能性の方が高いのだ。

 こたつはいずれ来るであろう引っ越しを期に買えば良いのではなかろうか。そうすれば、この部屋を出る時の荷物が減る。いやだが…こたつでナツメと過ごす時間…むぅ…。

 

「─────」

 

 こたつの思考が途切れ、ふとつい先程考えていた事が脳裏を過る。

 そうか、もう来年には卒業なのか。大学では就活の話が本格的に始まっている。俺もいい加減、卒業後の未来について本気で考えなければならない。

 

 どこかの会社に就職して、この部屋を出て、勤務地によってはこの街を出ていく事にもなる。

 そうなれば、ナツメとも離ればなれになってしまう。ナツメはきっと、卒業後もステラを切り盛りしていくだろうから。

 

「…いや、待て」

 

 待て。何で俺はこの街を出ていく前提で考えた?どこかの会社に就職する前提で考えた?

 違うだろ。俺はナツメが好きだ。それならば、好きな相手のためにするべき事があるのではないだろうか?

 

「どうしたの?」

 

 思考にのめり込みかけたその時、隣の椅子が引かれる音がして我に返る。直後、椅子に腰を下ろしながらナツメが声を掛けてきた。

 

「いや、何でもない」

 

 一瞬の空白の後、俺は頭に浮かんだ考えを今は呑み込む事にした。

 正直、考えが頭に浮かんだは良いのだが、そのためにどう行動すべきなのか全く分かっていない。今までもボンヤリとだが、自分の進路というものは考えてきた。しかし、先程浮かんだものはその考えの中に一度も入った事がない、それこそ今までの俺にとっては興味すら湧かなかったものだ。

 

 とりあえず、近くにそれで生活している人生の先輩がいるからその人から色々話を聞いて、その上でどうするか考えて、本当に本気でそれを目指す覚悟が定まってからナツメに話す事に決めた。

 

「そう?」

 

 首を傾げて、きょとんと分からない表情を浮かべながら、ナツメは椅子を俺の方に寄せて近付き、頭を肩に乗せてきた。

 

「…なんか、昨日一日離れて過ごしただけなのに、一緒にいるのが久しぶりな気がする」

 

 我ながらそれはどうなんだと苦笑いしながらポツリと呟く。小さなボリュームだったが、すぐ傍らにいるナツメの耳にはしっかり届いていた。

 

「どれだけ私と一緒にいたがってるの」

 

「本当にな。自分でもちょっとどうかと思ってる」

 

「…でも、私も同じだったりして」

 

 ナツメの表情を見ずとも、その声から俺と同じく苦笑が溢れているのを察した。

 だがそれは俺の気持ちに対してではなく、俺と同じ気持ちを抱いている自分に対してのものだった。

 

「実家に帰った時もそうだったけど、寝てる時とか隣に千尋がいないのが、こう…。違和感があったというか、何というか…」

 

「寂しかった?」

 

「っ…、ぐむむむ…」

 

 素直にそう言うのは恥ずかしかったのだろう。俺が代弁してやると、ナツメはパッ、と俺の肩から離れると頬を羞恥に染めながら唸り声を上げて睨んできた。

 全くもって迫力を感じさせない、むしろ可愛いとすら思える、普段のナツメからは考えられない幼い仕草。

 俺以外誰も知らないナツメの無防備な一面を、独占している。

 

「きゃっ!ち、ちょっと…」

 

 堪らずナツメを両腕で引き寄せる。胸元で小さく抗議の声を上げるが、ナツメは抵抗しない。胸元でおとなしく、そしてゆっくりと俺の背中に両腕を回してきた。

 

 こうしてナツメを抱き締めるのは何度目だろう。柔らかくて、温かくて、強く引き寄せればナツメの胸の鼓動が感じられる。

 ナツメを抱き締める度に全身に伝わる幸福感。飽きる事なんてない、むしろナツメと過ごす時間が重なるごとに、ナツメという女の子を知っていくごとにその感覚は増していく。

 

「ナツメ」

 

「千尋…」

 

 蕩けた表情のナツメと顔を合わせる。高鳴る衝動を耐えながら、顔を寄せてナツメと唇を合わせる。

 

「はむ…ん…む…」

 

 時折顔を離し、少しの間見つめ合ってからまたキスを交わす。繰り返す度にキスの激しさが増して、部屋の中に水音が響くようになっていく。

 

「んっ…ちゅ…ぷはっ!」

 

 今日一番の長いキスを終えて、ナツメが真っ赤な顔で息を乱す。

 俺も少し苦しかった呼吸を整えながら、潤んだ瞳で見つめてくるナツメを見返す。

 

 あぁ、これは駄目なやつだ。昨日は一緒にいられなかったからか、我慢の限界がかなり早く訪れてしまった。

 そしてそれをナツメも察したのか、目を丸くして俺を見上げた。

 

「ち、ちょっと待って!今日は駄目!」

 

「…はい?」

 

 かと思えば、ナツメは突然そんな事を言い出した。思わぬ台詞に呆けた声を漏らして動きが固まる。

 

「というより、しばらくは駄目。我慢して、ハウス」

 

「俺は犬か」

 

 まさかの犬扱いに苦笑が漏れる。

 

「危ないところだった…」

 

「…嫌だったか?」

 

「そ、そうじゃないけど」

 

 嫌ではないとは言うが、乗り気ではなさそうだ。

 こっちとしては準備万端といった感じなのだが、だからといって最後までいかなくとも途中まで─────という中途半端な行為はむしろ逆効果で終わりそうに思われる。

 ここはこの生殺しのまま我慢するしかなさそうだ。

 

 したい、が、気が進まないナツメを無理やり、という形ではしたくない。そこは俺の中で絶対の決まりだ。

 

 とりあえず…、落ち着くように頑張るか。ちょっとおかしい頑張り方だが。

 

「本当に嫌な訳じゃないから」

 

 俺の内心を知ってか知らずか、ナツメが口を開く。

 真剣な顔つきで、真っ直ぐにこちらを見て、ふと表情を和らげてからナツメは続けた。

 

「もうすぐテストもあるし、少し控えようって思っただけ。それに─────」

 

「それに?」

 

「…ちょっと、急ぎすぎてる気がしたから」

 

「?」

 

 ナツメの言う通り、今月末から試験が始まる。正直な話、今までとは違って少し不安がある科目があったりもする。

 シフトを入れられるだけ入れて、そして今はナツメという恋人もいて、そういえばレポート課題以外で部屋で机と向き合う時間がない気がする。というか、ない。

 

 落としそうな単位がある以上、ナツメの控えようという提案はありがたく受け取る事にする。

 しかし、急ぎすぎてるとは一体どういう事なのか、意味が分からない。

 

「その…。私達、付き合い始めたその日に、その…したじゃない?」

 

「…あぁ、うん」

 

 俺の様子を察したナツメが何を言われる事もなく語り出す。

 その口から思っても見ない言葉が飛び出し呆気に取られながらも、その言葉は正しいと頷いて返す。

 

「それからも何回もしちゃったし…、こうしていつも一緒にいるし…」

 

「…」

 

「だから、その…」

 

 要領を得ない言い方をするナツメを急かしたりせず、黙ってナツメのペースで進む話に耳を傾ける。

 

「…一緒にいる時間が長すぎたり、急激に仲が深まったカップルはマンネリ化しやすいって」

 

「…はぁ?」

 

 しかし、ここで声が出ちゃったのはちょっと許してほしい。流石に予想外すぎた。

 

「マンネリ化って…え?いやでも…あー…」

 

 しかしよく考えてみたら、ナツメの言う通りかもしれない。

 俺とナツメが一日で一緒にいる時間は多分他のカップルと比べて長いだろうし、仲の深まり方も他のカップルと比べて急と言っていいだろう。

 

 なるほど、だから急ぎすぎてるか。

 

「要するに、お互いの時間を大切にした方がいいって事か?」

 

「そ、そうっ」

 

「ふーん…」

 

 どうしていきなりナツメの口からマンネリ化なんていう単語が出てきたのかは─────少し考えたら分かった。恐らく昨日の飲み会だ。

 その席で一緒にいた友達と何か話をしたのだろう。どんな話をしたのか少し気にはなるが、今の話の焦点はそこじゃない。

 

「…ナツメは、俺と一緒にいる時間を減らしたいって思ってるのか?」

 

「え?」

 

 俺の質問にナツメは呆気に取られた表情になった。

 その表情はみるみる焦りの表情に変わっていき、そして、ナツメは勢いよく頭を振る。

 

「違う!そんなんじゃない!そう思わせちゃったんなら…、ごめん」

 

「落ち着け。別に気を悪くしたりしてない。むしろナツメが俺と同じ気持ちみたいで安心した」

 

 俯いていたナツメの顔が上がり、きょとんとした顔で俺を見る。

 

「俺は出きる限りナツメと一緒にいたい。それに今だって、四六時中一緒にいる訳じゃないんだし気にしなくて良いんじゃないか?」

 

「…」

 

 学科が違うから大学では基本別行動。昨日は昼食を一緒に食べたが、今日はそれぞれ別れて友人と食べたし、決して互いの時間を蔑ろにしている訳ではないと思う。

 ナツメと一緒にいる時でも俺はやりたくなればゲームをするし、ナツメも読みたい本があればそっちに集中したりする。その中で、俺がやってるゲームに興味を持ってナツメが話し掛けてきたりとか、ナツメが読んでる本がどんなのか気になった俺が話し掛けたり。

 そういう時間が俺はとても好きだったりするのだ。

 

「そう、なのかな?」

 

「まあ、どうしても気になるなら互いに一人になる日を作るとか、そういうの考えるけど」

 

 ナツメが気にしてるのも分かるっちゃ分かる。

 さっきも言ったが、他のカップルと比べて二人で一緒にいる時間は長いし仲の深まり方も急だった。そしてそれは、マンネリ化の大きな原因でもある。

 だから、ナツメが不安に思うのも理解はできる。

 

 だからといって、今からそれを気にして色々と制限するのはどうなのだろう。

 いやでも一日くらいなら…、今のこのナツメと一緒にいられる幸福感を味わえるのなら、一日くらいは良いかもしれない。

 あれ、俺、言ってる事と考えてる事違くね?

 

「…うん、ごめん。私も、千尋と一緒にいたいから。さっきのは忘れて?」

 

「…いや、でもたまになら」

 

「おい」

 

 ナツメの声音が急変した。

 

「い、いや、だってさ。昨日一緒にいられなかったからなんだろうけど、今すっげぇ幸せだからさ。これを味わえるなら、たまには良いかなって…」

 

「…まあ、それは、私も分かるけど」

 

 どうやらこの幸福感を味わってるのは俺だけではなかったらしい。

 

「…ま、この話はまた後でいいか」

 

「うん」

 

 これから俺達の関係がどうなっていくのか、それは俺達にだって分からない。ただ、今は俺もナツメも、互いに一緒に過ごす時間が一番だと思っている。

 そんな時に、互いの時間を大切にするためにとか考えても結論は出ないだろう。だからこの話は後回しにする。

 

 今は、二人一緒のこの時間を大切にしたい。

 

「ストップ」

 

「…やっぱ駄目か」

 

「駄目」

 

 ナツメに顔を近付けようとした所で、むんずと掌で口許を押さえられ止められた。

 

「キスぐらい良いじゃん」

 

「キスで我慢できるならね」

 

「…」

 

「ほら、自信ないんじゃない」

 

 呆れ顔でそう言うと、ナツメは立ち上がってどこかへ歩き出す。

 その先にあるのは壁に取り付けられた給湯器。慣れた手付きで操作するナツメの後ろ姿を眺めていると、どこからかバイブ音が響いた。

 

 ナツメのスマホは基本マナーモードにはしていない。逆に俺のスマホは常にマナーモードにしている。切り替えるのは面倒臭いのだ。

 

 多分俺のだろうと考えながらスマホを手に取り、スリープモードを解くと、案の定俺のスマホにライムのメッセージが入っていた。

 通知からライムを起動し、受信したメッセージを確認する。

 

「─────」

 

 画面に書かれた送り主とメッセージの内容を見て、小さく笑う。

 

 年末年始に色々とあったせいで遅くなってしまったが、ようやく()()()()()

 

 俺はメッセージにシフトが休みの日と都合の良い時間を載せて、静かに返信ボタンをタップしたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第六十八話






今回から新編に入りますが、一つ悩んでいる事があります。

宏人どうしよ…。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 構内にチャイムが鳴り響き、講師が講義終了を告げて講堂を出ていく。

 本日俺にとっての最後の講義が終わり、荷物をまとめて席を立つ。

 そのまま帰ろうとする俺に昭久達がブーイングを浴びせてくるが無視。挨拶を交わしてからそのまま外に出て大通り。

 

 毎週この曜日はシフトがないためこの後の予定は空いている。いつもなら部屋に帰ってゲームをするなりレポートを済ませたりと一人の時間を過ごすのだが、今日はこの後ある人と会う約束をしている。

 今はその人と落ち合う店に向かっているのだ。

 

 ちなみに落ち合う店はステラではない。この事を俺はまだナツメには伝えていない。伝えるかどうかも決めていない。

 ナツメに隠し事はしたくない。しかし、今、俺がしようとしている事を伝えたとしてナツメがどんな反応をするのか…。怒りはしないだろうが、俺がしようとしている事を止めようとする姿は容易に想像できる。

 

「…まあ、結局話をしない事には何も始まらないんだけどな」

 

 何にしても、今から落ち合う人と話をする事が第一だ。それに俺の考えもその人に断られてしまえばどうにもならないものだし。

 

「いらっしゃいませー」

 

 国道沿いに位置する喫茶店。そこに入店すると、入口付近に立っていた女性の店員がお辞儀と共に落ち着いた声で挨拶をしてきた。

 

「お一人様ですか?」

 

「いえ、待ち合わせで─────」

 

 店員の問いかけに返答をし終わる前に、奥の席に座っていた少女がこちらに手を振っているのが見えた。

 店員もまた、俺の視線を追って同じものを見て察したらしい。その後は特に何も言われることなくこちらに手を振った少女と相席をする。

 

「悪い、待ったか?」

 

「ううん、そんなにだから気にしなくていいよー」

 

 少女の正面の椅子を引いて腰を下ろしながら問いかけると、少女は笑いながら答える。

 そんな他愛ない挨拶を交わしながら着ていたコートを脱いでいると、先程入口にいた店員とは違う女性の店員が注文をとりにきた。

 その人にアールグレイを頼んでから、正面の少女と改めて顔を合わせる。

 

「…とりあえず、久しぶり。染井さん」

 

「うん。本当に久しぶりだね、柳君?」

 

「…その節は本当にすみませんでした。色々とあったんです」

 

 ニヤリと笑いながら目を細めてこちらを見るこの人の名前は染井志津華さん。

 以前、クリスマスの日に店に置かれた忘れ物を届けに病院へ行った時に会った、あの人だ。

 

 本当はあの時、まだ入院中だった染井さんとまたお見舞いに行くと約束をしていたのだが─────まあ、色々あったせいで行けなかった。というか、約束を完全に忘れていた。

 約束を思い出した時には遅く、すでに染井さんは退院しており、病院へ行ったは良いものの会う事は出来なかった。

 しかし偶然、気を落としながら帰ろうとした時に、深山先生と会えたのだ。俺は深山先生に頼んで染井さんと連絡先を交換して、今日会う約束を取り付けるまでに至った。

 

「本当、いつになってもお見舞いに来ないんだもん」

 

「誠に申し訳ありませんでした」

 

 テーブルに両手をつけて頭を下げる。いや、これに関しては全面的に、完全に俺が悪い。

 色々会ったのは事実だが、結局怪我も次の日には治った訳だし、少なくとも冬休みの途中までは入院していたらしいし。

 約束を忘れてさえいなければ…、いやもう今更何を思おうと遅いのだが。

 

「…今日は奢りね?」

 

「仰せのままに」

 

 文句なんて言える筈もなく、染井さんの命令に従うしかなかった。

 

 顔を上げれば、染井さんはにっこり笑顔でこちらを見つめ続けていたらしい。その笑顔が怖いと思うのは俺の気が変になったからではないと思いたい。

 

 そうこうしている内に俺が注文したアールグレイが届き、そしてその際に染井さんが追加で注文したチーズケーキも少ししてから届いて、ようやく俺は本題を切り出すべく口を開いた。

 

「染井さん。そろそろ聞かせて欲しい」

 

 フォークを手に、チーズケーキの味を堪能する染井さんが目をぱちくりさせながらこちらを見る。

 

 あぁ、この様子から見るに、何で自分がここにいるのか忘れているなとそれとなく確信する。

 

「…そうだった。今日は君にその話をするために来たんだった」

 

 言ってから、染井さんはフォークを皿の上に置いて一つ息を吐く。

 そして、俺が来る前に頼んでいたと思われるコーヒーを一口飲んでから、染井さんはゆっくりと語り出した。

 

 その話は何て事はない、とある子供達の何気ない出来事の話。

 

 あの病院で行われたとある行事。入院していた子供達は、自分が退院してからしてみたい事というお題で絵を描いていた。

 その時に描かれた絵は一部だが俺も見た。サッカーをしている絵や山登りをしている絵、野球、ケーキ作り、様々な絵が飾られていた。

 

 そしてその中の一枚が、笑顔の人達が描かれたステラの店内。何故か既視感を覚えたその絵。

 

『かかないの?』

 

 声をかけてきたのは、当時の染井さんよりも年下の小さな男の子だったという。

 不思議そうに真っ白な画用紙を眺めながら、その男の子は絵を描いたその子に話し掛けた。

 

 直後、男の子の兄と思われる少年が慌てた様子で駆け込んできて、男の子の手を掴んで離れようとしたのだが、男の子は繰り返しどうして?と画用紙に何も描かれていない理由を尋ねていたという。

 

『…退院してやりたい事が分からない、から』

 

 困ったように苦笑いしながら、それでいて瞳に僅かな悲しい影を差しながら、その子はそう答えた。

 

『…何もないのか』

 

 男の子を連れて離れようとしていた少年が問い掛け、その子は頷いて肯定する。

 

『何か遊びたいとか、何も?』

 

『…』

 

『変な奴だな、お前』

 

 名前も知らない同年代の少年にいきなり変な奴、と言われ流石に腹が立ったのか、その時その子は少年を鋭く睨んだ。

 しかしそんな鋭い視線を物ともせず、少年はその子の隣に腰を下ろすと続けて口を開いた。

 

『どこかに行きたいとか、何でも良いだろ。退院したら富士山を見に行きたいー、とか』

 

『富士山…?』

 

『は?富士山知らねぇの?』

 

『いや、そうじゃなくて…』

 

 染井さんの耳にハッキリ届いた会話はそこまでだったという。ただ、ふと気付けばその子は絵を描き終えていて、そして少年はその子が描いた絵を満足そうに笑って眺めてから、男の子を連れて去っていった。

 

『●●●ちゃん、絵できた?』

 

 少年が去ってから、染井さんはその子に話し掛けた。その際に見た絵は、どう見ても完成されたように見えた。

 

『…ううん、もう少し』

 

 しかし、その子は染井さんの絵にそう答えてから、再びクレヨンを走らせ始めたという。

 

 そうして、出来上がった絵が─────

 

「私が覚えてるのはこれで全部だよ」

 

「…」

 

 染井さんが話し終え、一つ息を吐く。

 

 俺の少年時代のちょっとした話。染井さんから聞いたは良いが、正直な話思い出せない。

 だが、言われてみればあの絵に描かれたたくさんの人達の中に、俺に似ている眼鏡を掛けた男の子がいた。

 

 似ている、といっても様な気がする、と曖昧な表現がついてしまうが。

 

 もし染井さんの話に出てきた少年が俺なら…といっても、名前までしっかり覚えている。その少年はまず間違いなく俺なのだろうが。

 

「そうか。…俺はずっと前に、ナツメと会ってたのか」

 

「─────」

 

 あの絵を描いたその子、四季ナツメと昔に会った事があるのだ。

 

 運命なんて信じる質ではないが─────ちょっぴり信じてみたくなるじゃないか。こんな事をされてしまったら。

 

「…ねぇ、柳君ってさ。もしかして─────」

 

「ん?」

 

「ナツメちゃんと付き合ってる?」

 

 目を丸くした染井さんからそう聞かれる。

 俺がナツメを下の名前で呼んだのを聞いたからか、感付かれたらしい。

 

「まあ、そうだけど」

 

 別に隠すような事でもないし、普通に頷きながら肯定する。

 

「…ふーん?」

 

 初めは驚いたように目を見開いていた染井さんだったが、次第に意味ありげな笑みを浮かべ、これまた意味ありげな視線を寄せてくる。

 

「…なんだよ」

 

 思わず内心身構えながら問いかける。

 染井さんは意味ありげな笑みをそのままに、口を開いた。

 

「彼女に内緒で別の女と二人で密会しちゃうんだ。悪い男だなー」

 

「…」

 

 何か言い返そうとは考えた。言い返す言葉を思い浮かべようとした。

 だが、染井さんの言う通りすぎて何も思い浮かばなかった。

 

 だって、ナツメに内緒にしてるのは事実だし、染井さんと二人なのも事実だし、密会なんて言い方はしたくないけど事実だし。

 マジで何も否定できる要素がないからただ黙り込む事しか出来ない。

 

「でも…、そっか。ナツメちゃん、凄く綺麗になってるんだろうなぁ」

 

「世界で一番綺麗で可愛いぞ」

 

「うわっ、気持ち悪っ」

 

 気持ち悪いとはなんだ。俺は事実しか言っていないぞ。しかも本気で気持ち悪がってる顔してるし。

 

「…なんか、こんな話してたら皆と会いたくなってきた」

 

 染々と、染井さんがそんな事を口にした。

 皆、が誰なのか、想像するに難くはない。

 

「退院してから誰とも連絡取ったりしてないのか」

 

「誰ともって訳じゃないけど…、殆どの子達とはあれから話してないかな」

 

 少し寂しげな表情を浮かべながら俺の質問に答える染井さん。

 彼女の返答を聞きながら、俺の脳裏にはあの絵が浮かんでいた。

 

 子供の頃のナツメが描いた絵。ナツメとご両親と、染井さんと入院してた頃の友達と、俺。

 そんな素振りを見た事はない。しかし、ナツメも今の染井さんと同じ気持ちになる時があるのではないか。

 ステラに来て、笑顔になるお客さん達を見て、ふとその光景をあの絵と重ねる。

 

 ただの妄想だ。妄想だが、あり得ないと言い切る事も出来ない。

 

「…同窓会」

 

「え?」

 

「同窓会。すればいいんじゃないか?」

 

 きょとん、と目を丸くする染井さんと真っ直ぐ目を見合わせる。

 

 ふと頭の中に浮かんだ提案。実現するには相当難しいであろう同窓会。

 染井さんは当時入院していた子供達と殆ど連絡を取り合っていないという。しかし、連絡を取り合っている一部の人達から辿っていけば。

 

 希望が薄いのは承知している。しかし、試みる価値はあると思う。

 

「同窓会かぁ…。うん、いいかも」

 

 驚きから微笑みへと表情を変えた染井さんが一度頷きながら呟いた。

 

 かと思えば、不意にニヤリと悪戯気な笑顔を浮かべてこちらを見る。

 こうしてまともに話すのは今日が初めてだというのに、見慣れたとすら思えるその笑みに一抹の嫌な予感を覚える。

 

「勿論、柳君もメンバー集めを手伝ってくれるんだよね?」

 

「…」

 

「言い出しっぺだもんね?」

 

「…そこまでする筋合いは「ちょっとステラに行きたくなってきたなー。ステラに行って今日の事を口滑らせたくなってきたなー」喜んでお手伝いをさせて頂きます」

 

 内心歯軋りしながらも掌返しせざるを得なかった。

 

 いやだが、まあ─────

 

「まあどっち道、ナツメちゃんも誘うんだから今日の事は話す羽目になるんだけどね」

 

「…そっすね」

 

 どの道ナツメに今日の事を話すのは避けられないのである。

 ただ、俺から進んで話すのか、俺は内緒にしたまま染井さんからナツメへと話が伝わるのか、どちらがナツメにとって心証が良いかは明らかだが。

 

「という事で、お手伝いよろしくね?柳君?」

 

「…出来る範囲で尽力するよ、染井さん」

 

 染井さんはにこやかな笑みを向けてきたのに対し、俺はひきつった笑みを返しながら返答する。

 

 こうして、思わぬ形で俺とは殆ど関係のない同窓会の開催に向けて手伝いをする事となった。

 実のところ、同窓会とまではいかずとも、染井さんを通じて当時彼女と一緒に入院していた仲間達とナツメと、交流を繋げたいと考えてはいた。

 皆で、というのは難しくとも、少しでもあの絵の光景に近付けたい。当時のナツメが見たかった景色に近いものを見せてやりたい。そんな事を思ってはいた。

 

 しかし、俺の考えていた以上に事は大きく、ややこしくなってしまった。

 

 いや、本当にどうしてこうなった…?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第六十九話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 スポンジを片手に、洗剤を泡立てながら水に濡らした食器を丁寧に洗っていく。

 

 今日はシフトがなかった。だから、夕食は俺が作る事になった。というより、勝手に作ってナツメが来るのを待っていたという方が正しいか。

 染井さんとの話が終わってからすぐに帰った俺は、そのまま夕飯の準備を始めた。

 

 ナツメと付き合い始めてから明らかに物が増えた冷蔵庫の中を眺めながら、時間もたくさんあるし揚げ物にチャレンジしてみようと思い立ち、視界に入った鶏肉が晩御飯は唐揚げにするという結論に至らせた。

 

 スマホでクッ○パッドを見ながら唐揚げを完成させた頃には外はすっかり暗くなっていた。

 それでもナツメが帰ってくるだろう時間はまだ先だったが。

 

 唐揚げを皿に盛り付けてラップを掛けてテーブルの上に。料理に使った器具を洗い、片付けてから適当に時間を潰し、仕事が終わる時間を見計らってナツメを迎えに行った。

 

 迎えに来た俺を初めは驚いたように目を見開いたナツメだったが、すぐにその表情は嬉しそうに綻んで、一緒に俺の部屋へと帰る。

 

 部屋に帰ってから、すぐに夕食の準備にとりかかる。といっても、冷えた唐揚げとか味噌汁を温めたりするくらいなのだが。

 予め温めておいたご飯を茶碗に盛り、温めた唐揚げと味噌汁、それと手抜きのキャベツの千切りも添えて今日の夕食を頂く。

 

 これまた初め驚いた様子のナツメだったが、これまたすぐに嬉しそうに微笑んでくれた。

 唐揚げも美味しいと言って食べてくれたし、やっぱりナツメに任せきりじゃなく俺もたまには好きな人に料理を振る舞いたいと思わされた。

 

 時は戻り現在。夕食を食べ終えて食器洗いも終わり、手を洗いタオルで拭いてから、台所にいる俺の背中をずっと見つめていたナツメの隣に腰を下ろす。

 

「お疲れ様」

 

 椅子に座って一息吐く俺に、ナツメがそう声をかけてきた。

 

「いや…。これを毎日やってくれてるナツメに言われると少し困るぞ」

 

 今回は手間がかかる揚げ物を作ったからというのもあるが、まあ少し疲れたとは感じている。

 しかしこれをほぼ毎日、それも仕事が終わってからでも手料理を振る舞ってくれているナツメの前では口が裂けても疲れたなんて言えないだろう。

 

「いつもありがとう、ナツメ」

 

「ううん。私は楽しんでやってるから」

 

「それを言うなら俺もだよ。ナツメの事を考えながら料理をするのは楽しかったし、出来上がった料理を美味しいって言ってくれて嬉しかった」

 

 手間がかかる類いの料理をするのは初めてだったが─────楽しいと感じた部分もあった。

 勿論、初めての挑戦という事もあり、緊張もした。失敗してしまったら、とも考えてしまった。

 しかしそれ以上に、ナツメに美味しいと言って貰えたらと考えると、楽しく感じた。

 

「…本当に美味しかった」

 

「そうか。それは良かった」

 

 ナツメが頬を俺の肩に寄せながら呟く。

 

「千尋に美味しいって言って貰うのも嬉しいけど…、美味しいって言うのも悪くなかった」

 

「前も言った気がするけど、これからは毎週この日は俺が作るよ」

 

「…うん。お願いしていいかな?」

 

「お願いされなくても作るつもりだから安心しろ」

 

 ナツメの肩に腕を回して抱き寄せる。

 抱き寄せた腕に少し力を込めて、ナツメの体温を感じる。

 

 俺はこれからナツメに話さなくてはいけない事がある。その話に対してナツメがどんな反応をするのかは分からない。

 だが、話さなくてはならない。

 

 好きな人の温もりに少しの勇気を貰いながら、俺は口を開いた。

 

「…ナツメ。染井志津華さんって覚えてるか?」

 

「─────」

 

 その名前を耳にしたナツメは僅かに体を震わすと、見開いた目でこちらを見上げてきた。

 

「どうして…」

 

 信じられない、といった様子で震えた声を漏らすナツメ。

 

「クリスマスに忘れ物を届けに病院に行った事あっただろ。その時に会った。それでまあ…、話したい事があって今日会ってきた」

 

 多分それはないだろうとは思っていたが、染井さんの名前は忘れず覚えていた様子。まず第一段階はクリア。

 

「病院に飾ってあった絵の事を話してきた」

 

「っ…」

 

 息を呑むナツメに視線を向けながら続ける。

 

「驚いたよ。病院に行ったら見覚えのある光景が描かれた絵が飾られてるんだから」

 

 そう、最初はそれに驚いた。しかし─────

 

「でもさ、その絵に見覚えがあるって感じた自分にはもっと驚いた」

 

「え…?」

 

「ナツメの隣の眼鏡の奴。俺が帰る時にはいなかった筈だぞ」

 

 ぽかんと呆けた表情でこちらを覗くナツメ。その表情は次第に驚きを露にしていき、そして振り絞るように震える声を発した。

 

「やなぎ…くん…」

 

「あぁ」

 

「やなぎ…ちひろ…」

 

「あの時は下の名前まで名乗ってなかったんだっけか。覚えてないけど」

 

 ナツメ自身、昔に俺と会っていた事自体は覚えていても俺の顔なんてすっかり忘れていたのだろう。ナツメ自身がそうなのだから、染井さんが俺の事を覚えていたのはかなり驚くべき事なのだが、恐らく病院に飾られていたあの絵を見て思い出した、といった所だろうか。

 その辺に関しては本人しか知らない事なのだが。

 

「あの時の男の子…?」

 

「本当に今更だけど…、久し振りって言ったら良いのか?これ」

 

 ナツメに何と言葉を掛けたら良いのか分からない。

 こうなるのは分かってはいたが、この事をナツメにどうしても伝えたかった。自分達は高嶺を通して出会ったあの時が初対面ではないと。もっと昔に出会っていたのだと。

 

「…」

 

「…え、なに?」

 

 さて、伝えたかった事を伝えたのは良いのだが、何故かナツメはご機嫌斜めな様子。

 俺の肩から離れたかと思えば、軽く頬を膨らませながら上目遣いで睨んできた。

 

「また来るって言ったのに」

 

「はい?」

 

「またお見舞いに来るって約束したのに、来なかったっ」

 

「…」

 

 戸惑いながらどうしたのか問い掛けると、ナツメから返ってきたのは思わぬ答えだった。

 それは恐らくだが、ナツメと最初に出会ったその時に交わした約束。俺が破ってしまったナツメとの約束。

 

 ナツメが覚えているのだから、確かに俺はその約束を交わしたのだろう。

 しかし、だ。本当に、本当にナツメには申し訳ないのだが──────覚えていない。そんな約束したっけ…?

 

「…覚えてないって顔してる」

 

「え」

 

「まあ、十年も前の事だし仕方ないけど。…あの絵の事も、病院に行って目にするまで忘れてたみたいだし」

 

「大変申し訳ありませんでした」

 

 じと目になるナツメに頭を下げて謝罪する。

 なんか今日は俺、頭を下げてばかりだな。染井さんにも頭を下げさせられたし。

 

「…あのさ、ナツメ」

 

「ん、なに?」

 

 少しの間頭を下げたままその姿勢を保ってから、頭を上げてナツメの顔を見る。

 その表情を見て、ナツメに話し掛けた。

 

 ほんの少しの不機嫌さが混じったナツメの返答の後、俺は問い掛ける。

 

「俺はさ。あの時の事は全然覚えてなかったけど、染井さんに話を聞いて、ナツメと昔会ってたって知って、嬉しいって思った」

 

「…」

 

「なんというか…、運命っていうのかな。そういうのを感じた。だってそうだろ?今、こうして付き合ってる人と子供の頃会った事があるなんて。まるで物語みたいだって思った」

 

 ナツメは黙って俺の話に耳を傾けている。

 

「何を調子の良い事を、なんて思われるかもしれないけど。ナツメをもっと大切にしないとって、大切にしたいって思った」

 

「……」

 

「まあ、だから許してくれなんて言わない。ただ、染井さんから話を聞いて、ナツメの事がもっと好きになった。それを伝えたかった」

 

 我ながら単純すぎて呆れてしまうが、今の言葉に嘘も誤魔化しもない。俺の本心をそのまま語った。

 

 好きな女の子と初対面だと思っていた時よりも昔に会った事があり、しかもその時に微笑ましい約束を交わしていた。

 その約束を俺は忘れてしまっていたのだが─────しかし、たったそれだけの事が嬉しかった。

 好きな女の子との縁は、自分達が考えていたよりも昔から繋がっていたのだと思うとどうしようもなく嬉しくなってしまうのだ。

 

「…バーカ」

 

「いてっ…、ナツメ?」

 

 さて、これからどうやってナツメの機嫌を直そうかなんて考えていると、いきなりの罵倒と共にナツメの額が俺の腕に飛び込んできた。

 突然の頭突きに多少の痛みを覚えながら、どうしたのかとナツメに問い掛ける。

 

 ナツメは少しの間沈黙を保ってから、俺の方へ更に体重を掛けながら言う。

 

「許すも何も、別に怒ってない。当時は…確かに悲しかったし、ちょっとムカッとしたけど」

 

「…本当にごめん」

 

「だから謝る必要はないんだってば。まだ続きあるから、最後まで聞いて」

 

 当時のナツメの本音に堪らず謝罪の言葉を挟んでしまう。

 それに対してナツメはそう言うと、埋めていた俺の腕から顔を離して、真っ直ぐに視線を向けながら続けた。

 

「千尋は約束を忘れてた。でも、約束は守ってくれた。だからいいの」

 

「…すまん、言ってる意味が良く分からない」

 

 ナツメには悪いが、言葉の意味が良く分からなかった。

 

 俺はナツメとの約束を忘れていた。それなのに約束を守っていた。そんな事を言われても、理解しきれない。

 何しろ約束を忘れているのに約束を守るなんて出来る筈がないだろう。矛盾しているとしか思えない。

 

 しかし、続くナツメの言葉はストン、と俺の胸の中に落ちる。

 

「だって、千尋はまた会いに来てくれた。大遅刻だけど」

 

「─────」

 

 一瞬、何を言われたのか理解できなかった。しかし、すぐにナツメの言いたい事を悟る。

 

 確かに、()()()()()()()()()という約束自体は破っていないという事になるのか。

 ナツメの言う通り、相当な大遅刻─────

 

「…いや、遅刻なんてレベルじゃなくないか。大体()()()()()って約束したなら、それも守ったとは言えないんじゃ─────」

 

「細かい事はいいの。私が気にしてないって言ってるんだから。それとも、何か不満でも?」

 

「いえ、不満なんて滅相もない。ナツメがそう言うのなら、俺も気にしない事にする」

 

 少しスッキリしないが、ナツメが気にしないと言っているのだ。それならこれ以上俺が何か言う必要もないし、言うべきでもない。

 

 俺が気にしないと言った後、ナツメはふっと微笑むともう一度俺の肩に体を預けてきた。

 

 ナツメと二人でいる時は必ずなる体勢。時間に差はあれど、この後はいつも俺の我慢が利かなくなってナツメを抱き締めてしまう。

 正直、今もギリギリだ。ナツメを抱き締めたくて堪らない。しかし、まだダメだ。何故なら、俺にはナツメに話さなくちゃいけない事がもう一つあるのだから。

 

「ナツメ」

 

「ん?」

 

「もう一つ、ナツメに伝えなきゃいけない事があるんだ」

 

「…どうしたの?」

 

 ナツメの声がどこか抜けている気がする。ナツメから漂う空気が艷めいている気がする。何だろう、何か勘違いされている気がする。

 

 すまんナツメ、違うんだ。ナツメが何を考えているのかは分からないけど、多分ナツメが思っている事と俺が言おうとしている事は絶対違う。

 

「…これは俺じゃなくて、染井さんが言い出した事なんだけどさ」

 

「…うん?」

 

 致命的に何かが食い違っていると感じながらも、俺は伝えなくてはならない。

 勇気を振り絞って切り出すと、ナツメはこちらを見上げ、ぱちくりと目蓋を開閉させた。

 

 きょとんとした目を向けられながら、続けた。

 

「当時入院してた人達で集まって同窓会したいって。それの手伝いを…する事になった」

 

「─────」

 

 見ていられず、ナツメの視線から目を逸らしながら、俺はもう一つの伝えなくてはいけない事を口にした。

 

 気まずい。何が気まずいって、今俺が口にした言葉はまず間違いなくナツメが思っていた事─────というより、期待していた台詞と違っていただろうから。

 

「…どういう事?」

 

「いや、だから…。ナツメと染井さんと、それと一緒に入院してた人達で同窓会がしたいんだと。あぁ後、ナツメにも出席して貰いたいって言ってたぞ」

 

「…」

 

 目を丸くして呆けるナツメ。

 分かる、分かるぞその気持ち。何しろ─────

 

「…どうしてそんな事になってるの?」

 

「俺にも分からん」

 

 何故こんな事になっているのか、俺にだって分からないのだから。

 

 あぁホント、何でこんな事になったんだろう?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第七十話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 テーブルを挟んで対面に座る二人の顔には緊張の色が浮かんでいる。

 当然だ。かれこれ十年ぶりの再会なのだから。二人の緊張は傍にいる俺にまで伝わってくる。

 

 しかし、しかしだ。

 

「そろそろ喋れよ。挨拶くらいしろよ二人とも」

 

「「っ─────」」

 

 席に座って十分も黙っていられると流石に突っ込まざるを得なかった。

 いや、十分だぞ十分。しかも最初に顔を合わせた時も二人は俺を通して会話はしたものの、直接向かい合って会話はしていない。

 それを考慮すると十分以上二人の会話がない事になる。いや流石にないわ。

 

 俺のツッコミを受けて二人、ナツメと染井さんの体がびくりと震える。

 

 場所はステラのフロア、四人掛けの席を借りてナツメと染井さんと、染井さん発案の同窓会について話し合うつもりだった。

 昨日、驚きながらも本当に同窓会を開くのなら出席したいとナツメが口にして、それを染井さんに伝えた。

 染井さんからの返信はすぐに来た。明日にでもナツメと会って話がしたい。ついでに俺も加えて同窓会について話し合いたい、と。

 

 ついで扱いに引っ掛かりを覚えながらもナツメの了解を得てから染井さんに了承の返信を送り、そして今、バイトの昼休憩の時間を利用してこうして集まっているのだが─────。

 まあ、さっきの通りである。一時間の休憩の内、十分以上を潰してしまっている。

 

「な、ナツメちゃん。その…久しぶり」

 

「う、うん。久しぶり…」

 

「「…」」

 

 挨拶をしろと言われた通りに挨拶を交わした二人。なお、続く会話はない。

 空気がもうあれだ、お見合いをする二人が話題に困っている時のそれだ。そこに居座っている俺の身にもなれ。

 

「お、お洒落なお店だね。…」

 

「あ、ありがとう。…」

 

「「…」」

 

 だから何で黙り込むんだよ。もっと何かあるだろ。こう、退院してから今まで何をしてたのかとか。高校はどこ行ったとか、部活は何してたとか。

 それこそ、あの時絵に描いた事は実現できたのか、とか。

 

「おい、お見合いするなら俺は離れるぞ」

 

「あ、あはは…。ごめんなさい」

 

「だって…。何を話したら良いか分からないし…」

 

 ナツメはともかく、染井さんは所謂陽キャに近い方だと思っていたからここまで話が進まないのは予想外だった。

 繰り返しになるが、十年ぶりの再会で緊張する気持ちは分からなくもない。だが俺がこの場にいられる時間も限られている。

 二人には悪いが、本題に入らせてもらう。

 

「染井さん。すぐに連絡を取れたのは何人だ」

 

「え?えっと…。とりあえず今、私のスマホに登録してある三人皆に送って、一人から返事が来たよ。参加したいって」

 

「残りの二人はまだか」

 

「他の二人とは直接連絡先を交換したんじゃなく、返事が来た人から教えてもらったの。私がIDを一方的に知ってるだけで、もしかしたら私の事を覚えてないのかもしれない…」

 

 もう十年も前の事だ。記憶が曖昧になるのは仕方ないのかもしれない。

 しかし一日で一人か。これから残りのメンバーの連絡先を調べていく事を考えると、かなり手強そうだ。

 

「…誰かに手伝ってもらうか」

 

「うん。正直、私と柳君だけじゃ難しいよ」

 

 すぐに思い付いた打開案は他の誰かの手を借りる事。俺と染井さんだけでは少ししんどい。それなら、人手を増やせば良いという単純な思いつき。

 単純でありながら、これ以上なく最適な打開案だ。

 

「それなら私が…」

 

「いや、店の経営に同窓会の手伝いも両立はちょっと大変だろ。幹事は俺と染井さんに任せてくれ」

 

 話を聞いていたナツメが手を上げかけるが、それを止める。

 

 俺はただのバイトの身分だがナツメは違う。全て一人で背負っている訳ではないが、店長として、ミカドに支えられながらも店の経営に携わっている身だ。

 その上、最近は俺の身の回りの事まで一部やってもらっている。その上同窓会の手伝いまでやらせれば、ナツメの疲労が限界まで至るかもしれない。

 

 ナツメの彼氏として、それは看過できない。

 

「とりあえず一人候補はいる。顔が広いし、初対面の人とも普通に話せる好物件だ。多分、俺の頼みに応じてくれると思う」

 

 言いながらスマホを操作してメッセージアプリを起動、その手伝い候補である昭久にこの件についてメッセージを送信する。

 

 返事はすぐに返ってきた。昭久とのトーク欄を開いてメッセージを確認する。

 そこに書かれていたのは了承の内容。とりあえず一人は確保した事を染井さんに伝える。

 

「三人…。もう一人欲しいかな」

 

「四人なら二手に別れて調べられるからな」

 

「…やっぱり私が」

 

「「それはダメ」」

 

 再びナツメが手を上げかけ、今度は俺だけでなく染井さんも同時に止めに入る。

 

 贅沢を言えば四人が望ましい。しかし、昭久の手が加わればとりあえず二人よりは断然負担は減る。

 それならばいっそ、このまま三人で調査を始めてしまおうかという考えが出てくる。それに調査もそんな一日二日では終わらないだろうし、途中でもしかすれば人手を増やせる可能性だってある。

 

 そう考えて、俺が今の考えを染井さんに伝えようと口を開こうとした、その時だった。

 

「私も手伝いましょうか?」

 

 そんな声が頭上から降りてくる。

 俺達三人が同時に見上げたその先に、青いユニフォーム姿の明月さんが立っていた。

 

「明月さん?」

 

「ごめんなさい。立ち聞きするつもりはなかったのですが、話が耳に入ってしまって」

 

「いや、そんな気にしないでくれ。…いいのか?」

 

 申し訳なさそうにそう謝る明月さんをフォローしてから確認を取る。

 何の確認なのかは言うまでもない。先程の明月さんの手伝うという台詞についてだ。

 

「はい、勿論です。昂晴さんにも声を掛けておきますか?」

 

「…助かる。でも、何か用事があったりしたら迷わずそっちを優先してくれ。本当に、無理して手伝う必要はないから」

 

 思わぬ形で人手が増えた。それも恐らく二人も。

 

 俺と染井さんと昭久と、明月さんと高嶺の五人。これならば何とかなるかもしれない。

 正直、同窓会が開けるのは月単位で先になるだろうと思っていたのだが、今月中に開催に至れる可能性も出てきた。

 

「よし。それじゃあ、今日のところは同窓会についてはこれで良いか」

 

「うん。…本当にありがとう。柳君、明月さん」

 

「今さらお礼言われてもな…。手伝う事になった経緯を考えると微妙だ」

 

 染井さんのお礼にそう返事を返すとたはは、と苦笑いを浮かべる。

 その表情を見届けてから、俺は席を立った。

 

「千尋?」

 

 立ち上がった俺を不思議そうに見上げるナツメと染井さん。

 俺はテーブルから少し離れてから振り返り、二人に向かって口を開ける。

 

「俺はバックルームで休むよ。どうぞ二人は好きなだけ談笑しててくれ」

 

「「…」」

 

 俺の言葉を受けて、ナツメと染井さんがきょとんとした顔を見合わせる。

 そしてすぐに焦った表情を浮かべて俺の方へ視線を戻した。

 

「ちょ、ちょっと待って千尋。せめて、せめてここに居て」

 

「そ、そうだよ柳君。柳君からもナツメちゃんの話を聞きたいなぁ~」

 

「うるさい。いい加減気まずいお見合いの空気を脱しろ。明月さん、後で二人がどうだったか教えてくれ」

 

「了解です、任せてください」

 

 明月さんにそう言い残し、背中にナツメと染井さんの呼び止める声を受けながら俺は宣言通り二人をフロアに残してバックルームへと入る。

 途中、頼んでおいた賄いのオムライスを高嶺から受け取り、バックルームで食べながらスマホで昭久と連絡を取る。

 

 明日から早速調査を始める。といっても明日は日曜日、流石に休日で忙しくなる日に抜ける訳にはいかないので俺は殆ど協力できないが。

 だが同窓会が開催するまでの間、どこかの曜日に休みを入れるつもりだ。その日は大学が終わってからの時間を調査に費やす。

 

「さてと…。頑張りますか」

 

 色々な人を巻き込む事にはなったが、ナツメのためにも頑張らなくては。

 今のナツメにとってあの絵がどれだけ心を占めているのかは分からないが、ナツメは染井さんの名前を覚えていた。

 ナツメの中で少なくとも彼女は、大切な思い出として刻まれていた証拠だ。それならばきっと、他の子供達も─────

 

「それと…、もう一つの方も何とかしないとな」

 

 俺が今考えている事は、ナツメが嫌いだと明言した事そのままだ。

 だが、だからといって俺はこれを放置したままで良いとは思わない。しかしこれを伝えれば恐らく、ナツメは尻込みしてしまう。

 それならば伝えない。ナツメには悪いが、ドッキリという形を取らせてもらう。

 

「ホント…、頑張らないとな」

 

 明日から大変だ。しかし、憂鬱には感じない。愛する彼女のために働く事に憂鬱さなど感じる筈がない。

 

 俺が思う二つの目標が実現した時、ナツメがどんな顔になるのか。それを思い浮かべながら、俺は高嶺から受け取った賄いを食べる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そうしてあっという間に一週間が過ぎた。その間、特に何も起こらな─────い筈もなく、順調に同窓会に向けて準備は進められた。

 俺と昭久、高嶺と明月さん、そして染井さんは高嶺が声をかけて手伝いに来てくれた汐山と二人組に別れて調査を行った。

 

 当たり前だが、決して簡単ではなかった。殆どは美和市周辺に住んでいたが、長い時を経て遠くに引っ越した人もいた。

 そういった人達は今回は諦めて、まずは近くに住んでいる人に限定して声をかけて回った。

 

 俺と染井さんの二人だけだったらこんなにも早く終わる事はなかっただろう。昭久、高嶺に明月さん、汐山には本当に感謝している。というより、俺とこの四人は同窓会の幹事として招待されている。

 

 そう。今日、その同窓会は開かれる。染井さんの気紛れな一言から始まった一大イベント。本来、関わる義理がない人達も巻き込んで、彼らの努力のお陰でこんなにも早く、行われるのだ。

 

「本当にありがとな。四人とも」

 

 ステラのフロア。今日の同窓会のために定休日のお店を臨時で開けて、すでに俺達幹事組は集まっていた。

 

 俺は何の裏もない、素直に感謝の気持ちを伝えたつもりだった。

 

「…千尋がお礼とかキモいわ」

 

「…そうか。それなら昭久以外の三人とも、ありがとう。いつか俺の奢りで飯でも行こう」

 

「お~っとつれない事言うなよ千尋く~ん。ただの冗談じゃないか、俺も連れてってくれよ」

 

 だが昭久には少々受け入れ難かったようで、それなら他の三人に改めてお礼の気持ちを伝えた。

 なお、現金な馬鹿は焼き肉に釣られて簡単に掌返しを行った。やっぱこいつ屑だわ。

 

「それより、ナツメさん遅いですね。久しぶりで手間取っているんでしょうか?」

 

 俺と昭久のやり取りを他の人達が小さく笑いながら眺める中で、不意に明月さんが口を開いた。

 

 この場にいるのは幹事組。しかしこの店に集まっているのは幹事組の他にもう一人、ナツメがいた。

 今、ナツメはバックルームで着替えをしているのだが─────明月さんの言う通り遅い。いい加減出てきても良い筈だが。

 

「確かに四季さん遅いな。おい千尋、お前様子見に行ってこいよ」

 

「さらっと覗きを指示すんな」

 

 昭久の発言をさらりと流してからバックルームの方へと視線を向ける。

 ナツメはどうしたのだろう。そういえば、俺と染井さんでナツメに()()()に着替えるよう言った時かなり恥ずかしそうにしてたけど─────まさか逃げたんじゃないだろうな。

 

 いや、流石にそれはないだろう。確かにナツメはどちらかといえばさばさばとした性格だし、恥ずかしかったり嫌だと感じた事はハッキリと嫌だと避ける傾向にはあるが、今日は流石に─────

 

 そこまで考えた時だった。俺が視線を向けている方、つまりバックルームの方から扉が開く音がした。

 フロア内で響いていた会話の声がピタリと止む。直後、奥の方からナツメが姿を現した。

 

 恥ずかしそうに頬を染め、僅かに瞳に不安の色を覗かせた、メイド服姿のナツメが。

 

「うわぁ~!ナツメちゃん、すっごく似合ってるよその服!」

 

「そ、そう?でもやっぱり少し恥ずかしい…」

 

 ナツメの着替えとはそう、今ステラで使用されているユニフォームが採用される以前に使うつもりだったメイド服の事だ。

 ナツメは同窓会には普通に私服で参加するつもりだった様だが、それではあの絵の再現にならない。当時のナツメがやりたかった事を実現できない。

 

 そんな事は気にしなくて良いとナツメは口にしたが、どうせならとことんあの絵の状況に近づけようと俺と染井さんが強く押した結果、ナツメは着替える事を承諾した。

 

 そして今、ナツメは今では少し懐かしさを感じるあのメイド服姿になっている。

 

「おー…。あの可愛らしいユニフォーム姿も良いけど、この清楚な格好も似合うn「お前は見るな」うおっ!?」

 

 親指で顎を擦りながら吟味するようにまじまじとナツメを眺める昭久の頬を掌で押し退ける。

 本人にそんなつもりはないんだろうが、こいつがさっきみたいな事を言うと何というか、気持ち悪い。色んな意味が混じっている様に聞こえる。

 

 まあ流石にそんな変な意味を込めて言っているのではないだろうが。本気で想う彼女とまだ続いているみたいだし。

 

「お前…。結構独占欲強いのな」

 

「うるさい。俺がさっきのお前の台詞と同じ事を言いながらお前の彼女を眺めてるとこ想像してみろ」

 

「…殴りたくなるな」

 

「お前の方が独占欲強えじゃねぇか」

 

 軽い気持ちで返事をしたつもりだったのだが、昭久の地雷を危うく踏み抜く所だったらしい。

 こいつの彼女についての話題はあまり出さない方が良いかもな。そういえば前も昭久の女関係の話題を出して大変な事になったし。

 まああの時は今とは少し違う気もするが。大変な目に遭ったのも俺じゃなくこいつだけなのだが。

 

「そろそろ来るな」

 

 高嶺が時計を見上げながら言う。同じ様に俺も時計を見上げて時刻を確認する。

 いつの間にか集合時間まで残り十分となっていた。早い人はおかしくもない時間だ。

 

 染井さんの顔に小さな微笑みが、ナツメの表情に微かな緊張が奔る。

 対照的な二人の表情だが、心の奥ではきっと同じ気持ちを感じている筈だ。

 

 準備中の染井さんの様子から。部屋で一緒の時のふとした時のナツメの仕草、表情。

 それらが、二人が今日の同窓会をどれだけ楽しみにしているかを物語っていた。

 

 今もそうだ。浮かべている表情は違えど、口許に浮かぶ微笑みは同じ。それが、二人が同じ気持ちを抱いている何よりの証拠。

 

 ─────同窓会は開いて成功だったな。後は…。

 

 後は、俺独自で今日のために準備したナツメへのドッキリがどう響くか。

 

 今頃こちらへ向かうために準備をしているだろう()()()()の事に思考が向いたその直後、来客を知らせるベルが、扉が開く音がフロア内に響き渡った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




このペースなら八十話、九十話いかないくらいで終わるか…?
少なくとも百話まではいかずに終わると思います。


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第七十一話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 普段は穏やかな空気が流れる店内には絶えない笑い声が響き渡っていた。

 多くのお客さんで一杯になった時とは違う、際限なく広がっていく笑顔の輪。その輪の中にいない俺達でさえも釣られて笑顔になる、そんな光景がフロアの中央で広がっていた。

 

 一番に来た同窓会の参加者に続いて続々と参加者達はやって来た。そして今日ここに来る予定のメンバー全員が集まってすぐ、同窓会は始まった。

 初めはちょっとした世間話から、その後は退院してから今まで何をして来たか。その話の中には当然、皆で描いた絵の話もあった。

 あの絵に描いた夢、目標、やりたい事を実現できたのか。

 

 勿論全員が全員それを実現できた訳ではなかった。退院してからやりたかった事ではなく、将来の夢を描いた者は特に実現するのは難しかったのだろう。

 だが誰もが、自身の夢を実現させるためにしてきた努力を楽しそうに語っていた。そしてその話を聞く側もまた楽しそうに耳を傾けていた。

 

 因みに、今のナツメの格好についても突っ込まれていた。初めは何故メイド服?といった空気だったが、当時ナツメが描いた絵を思い出した一人の女の子がその事について話し、今のこの状況がかつてナツメが思い浮かべた夢そのものだという事に皆が気付いた。

 ナツメは少し恥ずかしそうにしていたが、自分が描いた絵を他の誰かが覚えていた事。そしてその絵の光景をようやく実現出来た事への祝福をどこか擽ったそうにしながらも喜んでいた。

 

「そういえばよ。あの絵の四季の隣にいた眼鏡の奴って誰なんだ?」

 

「─────」

 

 ふと耳に入ったその言葉に想わず固まってしまう。それと同時に、俺と同じく同窓会の成り行きを見守っていた他の幹事組から注がれる視線。

 特に昭久はそれはもう本当に楽しそうな笑顔を向けてきた。守りたくない、その笑顔。殴りたい、その笑顔。

 

「えっと、それは─────」

 

「あの時一緒に入院してた奴で眼鏡かけた男子っていなかったよな?だから当時からちょっと不思議に思ってたんだよな」

 

 言い淀むナツメに更なる追撃が加えられる。

 おい、いなかったのかよ眼鏡の男子。そこはいろよ。ふざけんな、使えねぇな全国の眼鏡男子。

 

「ふっふっふ…」

 

「…急にどうした染井」

 

 突然笑い始める染井さん。戸惑いながらどうしたと問い掛ける男。

 

 嫌な予感がする。今すぐここから避難しろと勘が叫ぶ。いやしかしナツメの様子を見ていたいし、ただの勘違いかもしれないし。

 そんな小さな迷いが生じた時にはもう遅かった。

 

「そこにいるよ」

 

「は?」

 

「だから、そこにいるの。今はナツメちゃんの彼氏だよ」

 

 一瞬凍り付いた空気、直後同窓会の参加者全員の視線が注がれる。

 

 いや待て、違う、あいや違わないけど違うんだ。いやだから違わないんだって。我ながら思考が意味分からん事になっている。

 だってこんな風に注目浴びるなんて初めてだし。嫌だこっち見ないで。

 

「四季、彼氏いたのか!?」

 

「いや、そりゃいるだろ。いない方が不思議なくらいだ」

 

 驚く者、予想していた者と反応はそれぞれだったが、とりあえず視線は俺の方へと向けられる。

 

 本当にやめて、注目しないで。

 

「あの人…。そっか、だからあんなに必死だったんだ」

 

「必死?」

 

「うん。もし入院してた時の事を少しでも懐かしく思うなら、同窓会に出席して欲しいって。ナツメちゃんも志津華ちゃんも待ってるからって。そう言われたから私は踏ん切りついた所あるし」

 

 目を見開いたナツメがこちらを見た。しかし視線を合わせる事が出来ず、ナツメから目を逸らしてしまう。

 

「俺も同じ事を言われたよ。そんで、他にも同じ様にあの時の事を懐かしく思ってる人がいるなら…って、同窓会に出る事にした」

 

「そっか~。あの人がナツメちゃんの彼氏か~。愛されてるじゃん」

 

「…」

 

 ナツメが返事をする声が聞こえない。恥ずかしさで返事が出来ないのだろう。

 こっちも同じだ。口止めなんてしていないのだからこうなっても仕方はないのだが、あまりそうやって詳しく言い触らさないで欲しかった。恥ずかしすぎる。

 

 あとニヤニヤしてる昭久を殴りたい。ボコボコにしたい。流石に暴力沙汰なんて起こしたら洒落にならないからぐっと我慢するが。

 

「で?何で染井は自慢気にしてんだよ」

 

「この中で一番最初にナツメちゃんの彼氏を見てるから!」

 

「んだよそれ…。染井はいないのか?彼氏」

 

 一通りナツメを弄った後、矛先は染井さんへと向く。

 思わぬ話題転換に染井さんは目を丸くしながら固まり、やがてけらけら笑いながら返事を返す。

 

「いないいない。まあ、ナツメちゃんみたく素敵な彼氏は欲しいけどね~」

 

「染井さんっ」

 

 訂正。まだナツメはターゲットにされていた。

 

「え?あの時の男の人、志津華ちゃんの彼氏だって思ってたんだけど」

 

「へ?」

 

「んだよ。染井も彼氏持ちかー?」

 

「ち、違う違う!いない、いないからっ!」

 

 あの時の男の人。同窓会のメンバーを集めている途中、恐らくあの女の人には直接会いに行ったのだろう。

 だとすればその男の人というのは汐山だろう。染井さんは汐山と二人組で準備を行っていたからまず間違いない。

 

「へー?」

 

「な、何だよ…。染井さんも言ってるけど、別にそういう関係じゃないからな」

 

「ふーん」

 

 高嶺が含みのある笑みを浮かべながら汐山を見る。高嶺だけじゃなく、俺達も。

 こいつらいつの間にそんな関係だと見られるくらいに親しくなったんだか。汐山は何となく、高嶺程じゃないが俺達側、つまり陰キャだと思っていたが案外そうじゃないのかもしれない。

 

「ひ、宏人君とは別に─────」

 

「名前呼び!?」

 

「おいおい、交際まで秒読みか」

 

「あ、ち、ちがっ…!宏人君にはお姉さんがいて、ややこしいから名前で呼ぶって事になって!」

 

「家族ぐるみ!?」

 

「四季と染井、どっちが結婚一番乗りになるんだろうな。式挙げるなら俺達も呼べよー」

 

「だから違うの!それに、ナツメちゃんは柳君…、彼氏の両親に挨拶済ませてるんだから!」

 

「ちょっ、染井さん!?」

 

「「「親公認!?」」」

 

 なんか話が混沌としてきてるな。

 あと、親公認ではない。俺の親は大歓迎といった様子だが、ナツメのご両親からはまだそういった許可は貰っていないからだ。

 勿論、いずれは正式に挨拶をして、許可を貰いに行くつもりではいる。

 

 少し先の話だろうが。

 

 俺が考え事をしている間も同窓会は続く。同窓会のために用意しておいた料理はあっという間になくなり、涼音さんに頼んで作ってもらったお菓子も気付けば完食されていた。

 一息吐きながら、昔話に花を咲かせる彼らの声に耳を傾ける。

 

 時折聞こえてくる過去のナツメの性格や行動の話にちょっと驚きながら、時間は過ぎていく。

 ナツメは笑っていた。心の底から笑顔を浮かべていた。そんな風に俺には見えた。

 

 ナツメだけではない。この同窓会に参加した人達皆、ナツメと同じ笑顔を浮かべていた。

 ナツメのためにと思って同窓会の準備を手伝ってきたが、彼らの笑顔を見ていると頑張った甲斐があると強く思う。

 

「…」

 

 ふと誰かが発した一言で笑いが巻き起こる。ナツメもまたその中に混じって笑っている。

 

 本当に、この同窓会を手伝って良かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんな夢のような時間も終わりは訪れる。日は落ちかけ、空が茜色に染まる頃に解散となった。

 だが店の外に出たのは良いが、やはり名残惜しいのだろうか。未だに同窓会に参加したメンバーは誰一人帰らず、店の前で話し続けていた。

 

 すでに昭久達は帰っている。というより、帰らせた。この後の事を考えると、正直な話そろそろ解散して欲しいのだが、彼らの様子を見ているとそんな本音は口に出せない。

 

 だが、先程と似たことを繰り返すが、何事にも終わりはやってくる。

 

「そんじゃ、俺は帰るわ」

 

 その一言で一瞬、沈黙が流れる。それはまるで、夢から覚めたかのような、そんな風に思える一瞬だった。

 

「そうだな。…俺もそろそろ帰らねぇと」

 

 口々に皆が言う。帰る、と。

 ナツメの表情が僅かに歪んだ。

 

 終わるのだ。ずっと楽しみにしていた同窓会が。彼らとの再会が、終わる。

 

 だが、違う。確かに同窓会は終わるが、これは始まりでもあるのだ。決してこれは別れじゃない。

 それを伝えようと、ナツメへと一歩踏み出そうとした直後、聞こえてきた言葉に俺は足を止めた。

 

「なに寂しそうな顔してんだよ四季。今生の別れじゃあるまいし」

 

 ナツメが言葉を発した男がいる方へと目を向ける。

 今俺がいる位置からではナツメの表情は見えない。

 

 ナツメの向こう側、先程口を開いた男は笑顔を浮かべながら続けた。

 

「また集まろうぜ。今度は今日来れなかった他の奴らも一緒に」

 

「その時はまたこのお店を借りて大丈夫?ナツメちゃん」

 

 男に続いてナツメの隣に立っていた女性も笑顔でナツメに声をかける。

 

 かけられた言葉を呑み込むのに少し時間が必要だったのだろう。数瞬の空白の後、ナツメは頷いた。

 

「うん。…またね、皆」

 

 またね、と皆と挨拶を交わした。

 きっと、輝くような笑顔を浮かべながら。

 

 挨拶を交わした皆が帰路につくのをナツメはじっと見つめていた。彼らの姿が見えなくなるまで、静かにその場に立ち、見つめ続けた。

 

「ナツメ」

 

 彼らの姿が見えなくなってから、ナツメを呼び掛ける。

 すぐにナツメはこちらに振り向いた。寂しさなんて微塵も感じさせない、穏やかな笑顔を浮かべて。

 

「ありがとう、千尋」

 

 そして、お礼を言った。それが何に対してなのかは考えるまでもない。

 今回の同窓会をナツメは喜んでくれた。それはこれ以上ない成果だ。

 

 しかし、しかしだ。ナツメは一つ思い違いをしている。

 同窓会は確かに終わった。だが、それと同時に俺の計画がスタートした事にナツメは気付いていない。

 

「お礼はまだ早いぞ」

 

「え?」

 

 目を見開いて驚くナツメ。

 そんなナツメに、後ろを見るよう促した。

 

 俺の仕草の意図を察してすぐに後ろを向くナツメ。

 その視線の方向にいたのは妙齢の二人の男女。特に女性の方はどことなくナツメの面影を感じさせる。

 

「お父さん…お母さん…?」

 

 ナツメが呆然と呟く。

 そう、まだ終わりじゃない。ナツメが描いた夢はまだ終わらせない。

 あの絵の光景そのままを実現させる事は出来なかったがせめて、この二人には今のナツメとステラを見て欲しかった。

 

「どうしてここに…?」

 

「彼に…いや。確かに彼が誘ってきたのは事実だけど、それだけじゃないな」

 

 すらりと長身の男性、ナツメの父が一瞬こちらに視線を向けてから向き直り、そして続ける。

 

「ここに来たかったから。ナツメと話がしたかったから」

 

「え…っと…」

 

 戸惑うナツメ。当たり前だ。もし俺が同じ立場だったら同じ様に戸惑っていたに違いない。

 そしてきっと俺はアポ無しで来るなと文句を言うのだろう。あの馬鹿両親に。

 

 まああの二人とナツメの両親は完全にキャラが違うし、もし俺の親があの人達だったらそんな事口が割けても言わないんだろうけど。

 

「本当はもっと早くお店に入ろうと思ったんだけどね」

 

「ナツメのあんな笑顔見るの久し振りだったから。邪魔するのは無粋だなと思ってな」

 

「っ、み、見てたの!?」

 

 おっと、これは俺も予想外だった。今日は同窓会があり、このくらいの時間に終わると思うのでその時に、と説明していた筈なのだが、我慢できず来てしまったらしい。

 ナツメも驚愕し、つい大声を上げてしまう。

 

「可愛い笑顔だったぞ?」

 

「えぇ。最近のナツメはいつも謝ってばかりだったから…、とても嬉しかったわ」

 

「う…」

 

 ご両親に言いたい事があったのだろう。しかし、どこか安堵が混じった二人の微笑みに何も言えなくなったナツメはたじろぎ、小さく呻くだけ。

 

「それに…。その格好もすっごく似合ってるわよ?私と比べたらちょっと劣るけど」

 

「そうだな。凄く綺麗だぞ、ナツメ。母さんには少し劣るけど」

 

「…はいはい」

 

 ナツメのご両親は俺の親とはキャラが違うと思っていたけれど、どうやらそうでもなかったらしい。

 このバカップル加減、俺の親と通ずる所がある。勿論、あそこまで酷くはないのだろうが。

 

 だが一つ、空気を読んで口には出さないが心の中ででも言わせてくれ。

 

 ナツメが一番綺麗です。貴女は二番目です。

 

「お話の途中すみません。立ち話も何ですし、中に入りませんか?」

 

 一言申し付けたい気持ちを抑えて三人に話しかける。

 

 話したい事はたくさんあるだろう。この寒い中で話すような事はない。

 温かい店内でゆっくりと、時間をかけて、ナツメの中で止まったままの時を動かして欲しい。

 

 俺だけではダメだから。俺だけじゃなく、この人達の力が必要だから。だから託すのだ。

 

「そうだな。中に入らせてもらうか」

 

「あっ。私、ナツメが淹れた紅茶が飲みたいな」

 

「…うん。すぐに準備するね」

 

 三人の先頭に立って、扉を開いて中に入るよう促す。俺が開けた扉から三人が話をしながら店内へと入り、それを見届けてから俺も店内へと入って扉を閉める。

 

 ベルの音が鳴り響く中、扉が閉まる音が鳴る。

 視線の先ではナツメが二人を席に案内し、紅茶を淹れるべくカウンターの奥へと足を向けていた。

 

 ナツメの顔に緊張はない。その実際、内心でどう思っているかは分からないが、大丈夫だと思う。

 ここから先、俺は不要だ。というより、居てはいけない。親子だけのやり取りに不純物を混ぜてはいけないのだ。

 

 そう、俺が父さんと母さんと腹を割って話をした時のように。あの時はナツメが俺の背中を押してくれた。

 

 だから今度は、俺がナツメの背中を押す番だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




基本原作と変わらない箇所は省略気味で進めていきます。


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第七十二話




ここ最近の投稿に比べてくっそ文字数多くなってしまった…。
まあ一万字は超えてないからいいですよね。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 誰も居ない静かなバックルームで、椅子に座って四季家の話が終わるのを待つ。

 この場を離れようとする俺に気にしないで良いと、君もここに居て良いとナツメのお父さんが言ってくれたが、三人で話をするべきだと気遣いを丁重にお断りして俺はここにいる。

 

 今、ナツメ達はどんな話をしているだろう。

 普段ならばフロアからお客さんの声や音がここまで僅かながら届くのだが、今はフロアには三人しか人はいない。

 話し声も音も、ここには届かない。

 

「…」

 

 扉に目を向ける。ただこのバックルームとフロアを隔てるだけの扉の筈なのに、この場にいる俺と向こう側にいるナツメを隔てている、そんな風に思える。

 ここにいるのは俺の提案で、自分から言い出したくせに何を考えているのやら。そんな事を思う自分に呆れてしまう。

 

 だが、もしかしたらナツメも似た気持ちでいたのかもしれない。

 俺が父さんと母さんと三人で話をしていた時、ナツメはお店で仕事の最中だった筈だ。

 自意識過剰なだけかもしれないが、ナツメも今の俺と似た気持ちを抱いていたのかもしれない。

 

 だからといって親子の会話に首を突っ込む訳にもいかないのだが。俺は空気を読める男なのだ。

 

 しかし心配な気持ちはある。

 ナツメは両親の気持ちを素直に受け止められているだろうか。ただ気を使っているだけだと曲解してはいないだろうか。

 それだけが心配だ。本当に、それだけが。

 

 そのお陰でフロアに三人を残してバックルームに入ってから約二十分くらいだろうか。モヤモヤしっぱなしだ。

 

「…帰るか?」

 

 よくよく考えれば、俺の時は家族で食事をした。ナツメ達はどうなんだ?折角両親が娘に会いに来て、ただ話だけして帰るのか?

 この後、家族で食事とか行きたいのではないか?だとすれば、俺は邪魔なのでは?

 

 そんな思考が頭の中をぐるぐると巡り始めた、その時だった。不意に扉が開かれる。

 

 俺は触っていない。勝手に開いた訳でもない。開いた扉の向こうからナツメが顔を覗かせていた。

 

「千尋」

 

 俺の名前を呼びながらナツメがちょいちょい、と手招きする。

 何だろうか。不思議に思いながら席から立ち上がり、ナツメが開けた扉からフロアへと戻る。

 

 フロアでは、ナツメのご両親がまるで俺を待っていたかのように席から立って、こちらを見ていた。

 

「千尋君、だったね」

 

 いや違う。ように、ではない。二人は俺が来るのを待っていたのだ。

 ナツメのお父さんが俺に真っ直ぐ目を向けて、俺の名前を呼んだ。

 

 直後、全身に緊張が奔る。好きな人の、恋人のお父さんに初めて名前を呼ばれた、ただそれだけなのに。どうしようもなく今、俺は緊張している。

 

 何を言われるのだろう。もしかしたら別れろとか言われるのではなかろうか。何だ、俺は何をした。この人の機嫌を損ねる事をしてしまったのか。

 

「ありがとう」

 

 ひたすら混乱する俺の前で、ナツメのお父さんがお礼を口にして頭を下げた。その隣ではナツメのお母さんも俺に向かって頭を下げている。

 

 それを見て、俺の脳内は更に激しく混乱する。

 

「い、いきなり何を…」

 

 辛うじて問い返す言葉を口にする事が出来た。

 いきなり二人に頭を下げられ、何が起きているのかさっぱり分からない。

 

 そんな中、二人は頭を上げて俺を見て、そしてナツメのお父さんが再び口を開いた。

 

「君のお陰で、久し振りにナツメと家族として話が出来た気がする」

 

「─────そんな事、ないです。俺が何もしなくても、きっと…」

 

「いや、君のお陰なんだよ。ナツメが臆病なのは知っているだろう?どうやら、私達によく似てしまったみたいだからね」

 

 その通り、普段のナツメは物怖じせずバシバシ言いたい事を口にするキッパリとした性格なのだが、重要なところで尻込みする臆病さも持っている。

 この人曰く、ナツメの臆病な部分はご両親に似てしまったらしい。

 

「それに、君にお礼を言いたい事はまだあるんだ」

 

 それでも、と言い募るよりも先に言葉が続けられる。

 

 百歩譲って今回の事でお礼を言われるのはまだ分かる。お礼を言われる程の事じゃないとは思うが、この場をセッティングしたのは一応俺だからだ。

 だが、まだ、とは一体何の事だろうか。本当にそんな大した事はしていない筈だ。…筈だ。

 

「実はね、私達はたまにこのお店の様子を見に来ていたんだ」

 

 早速ナツメのお父さんの口から出てくるカミングアウト。そうなのか、全く気が付かなかった。

 いやしかし、当然と言えば当然なのか。娘が管理しているお店、しかも一度自分達が開店するのを諦めたお店だ。気になるのも当然だろう。

 

「心配はないというのはすぐに分かった。ナツメを支えてくれるたくさんの人のお陰で、このお店に来て笑っているたくさんのお客さんを見て、私達の心配は杞憂だったとすぐに分かったんだ。でもね…。どんどんナツメの雰囲気が明るくなっていくんだ。お店の外からでも見ていて分かった。接客するナツメの笑顔が少しずつ変わっていく。ふとした時に従業員の方と言葉を交わす表情が変わっていたんだ」

 

 黙って話に耳を傾ける。

 ナツメのお父さんは笑顔を浮かべたまま続ける。

 

「特に、君といる時はね」

 

「…」

 

 あぁ、これはもうバレているんだろうな。

 この話の場をセッティングするために会いに行った時点でバレバレなんだろうが、もっと早い段階で俺とナツメの関係は知られていたらしい。

 

「ありがとう。君は、私達の恩人だ」

 

「…俺がしたのは二人の背中の後押しだけです。そんな恩人だなんて大層な─────」

 

「ナツメを救ってくれた。私達家族を救ってくれた」

 

「ナツメを支えたのは俺だけじゃないです。それに、貴方達の事もさっき言った通り、俺がしたのは…」

 

「…本当にナツメが言っていた通りだね。ここまで頑なとは」

 

「はい?」

 

 見れば、ナツメのお父さんは苦笑いを浮かべている。隣のお母さんも同じく。

 そして、やり取りを横から見ていたナツメは俺を呆れた目で見ていた。

 

「これは色々と苦労するぞ、ナツメ」

 

「もうとっくに覚悟してるから大丈夫」

 

 何となく失礼な扱いを受けている気がする。苦労って何だ。覚悟って何だ。

 たとえ恋人の親だとしても不当な扱いには抗議の声を上げられる男だぞ、俺は。

 

「ナツメ、何を言ったんだよ」

 

「別に?」

 

 ぷいっとそっぽを向くナツメ。ちょっと怒っている気がする。多分、このドッキリについて機嫌を損ねているのだろう。

 両親との話については別として、ドッキリを受けるのは本当に嫌がっていたから仕方ないのかもしれない。後で誠心誠意を持って謝罪をしよう。

 

「君が受け入れてくれないのなら、受け入れてくれるまで何度でも言おう」

 

「え?」

 

「「ありがとう」」

 

「え、え?ちょっ、なにを…」

 

 ただただ戸惑う事しか出来ない。

 目の前では再び俺に向かって頭を下げるナツメのご両親。しかも今度は頭を下げた体勢のまま留まっている。

 

 もしかしてこれは俺が二人の感謝の気持ちを受け入れるまでこのままでいようとしているのか?

 待ってくれ、別にお礼を言われる事自体は良いんだ。それに関しては何も抵抗はない。

 

 だが、この人達は俺のお陰だと言った。ナツメと和解出来た事は俺のお陰だと言った。

 それは違う。ナツメと話し、ナツメの心を解かしたのはこの人達なのだ。俺は何もしていない。

 

 ナツメの雰囲気が変わったのだって、決して俺だけの力じゃない。第一、初めにナツメを救おうとしたのは明月さんとミカドだし、彼らがナツメを見つけてくれなければ俺はナツメと出会えていたかも分からない。

 それなのに俺のお陰だと言われても、受け入れられる筈がないじゃないか。二人が口にしたどちらの事も、俺だけが頑張った訳じゃないし、俺が一番貢献した訳でもないのだから。

 

「あの、頭を上げてください。お願いします」

 

「君が私達の感謝を受け入れるまでこのままでいる」

 

「本当にやめて…」

 

 思わず本音が溢れてしまう。なお、俺の頼みは受け入れられず二人は頭を下げたまま。

 

 本当にどうしよう。いや、どうしようも何もないのだが。ただ俺が二人の感謝を受け入れれば良いだけなのだから。

 だが、それだけはどうしても出来ない。

 

「…ナツメと話をしたのはお二人であって、俺じゃありません。ナツメの心を解かしたのも俺ではなくお二人なんです。俺が出来たのはその切っ掛けを作った事だけ」

 

 二人の頭は未だに下がったまま。表情が見えないから、俺の話に耳を傾けてくれているかも分からない。

 それでも、ちゃんと聞いていてくれている事を信じて続ける。

 

「だから、俺のお陰だなんて言わないでください。自分の事を過小に思わないでください」

 

 ナツメが嫌に自分を優先しようとしないのも、もしかしたらこの二人に似たからなのかもしれない。

 そんな事を思いながら頭を下げたままの二人を見つめていると─────

 

「それ、千尋が言うと説得力ない」

 

 ナツメの容赦ない言葉の刃が心に突き立てられた。

 

「…あの、ナツメさん。ちょっと待っていただけると─────」

 

「自分を過小に思わないでって、それ私が千尋に言いたい台詞なんだけど」

 

「待って、本当に待って。ほら、ここでそんな事言うと色々と台無しだから。だから待っ─────」

 

「でも本当の事でしょ?」

 

「…」

 

 遂に返す言葉がなくなる。いやもう最初から言い返す言葉なんて無いようなものだったのだが。

 

「本当に頑なだね、君は。ここまでとは思わなかった」

 

 ナツメへ言い返す言葉を探している最中、ナツメのお父さんが苦笑を浮かべながら口を開いた。

 

「確かに君の言う事にも一理ある。だが、我々の気持ちも汲んでほしい。…ナツメが言っていたよ。君と出会えて良かったと。君のお陰で色々なものが明るく見えるようになったと」

 

「─────」

 

 思わずナツメの方へ視線を向ける。その前にナツメはそっぽを向いてしまっていた。

 しかし僅かに染まった頬までは隠せていなかった。

 

「勿論、君にだけじゃない。ナツメを支えてくれた人達全員に同じ事を思っている。…だけど、最初に君に言わせてくれ」

 

「「ありがとう」」

 

 声を合わせて再びお礼の言葉を向けられる。

 

 それに対して、何も言葉を返す事が出来ない。何とも形容し難い、くすぐったくて、恥ずかしくて、だけど嬉しくて。そんな気持ちで胸が一杯になる。

 

「これからもナツメを頼むよ。千尋君」

 

「…はい」

 

 肩に置かれた父親の手は優しく、暖かく、されど重かった。重く、大切なものを託された瞬間。そんな風に思えた。

 

 ナツメのお父さんは少しの間俺と視線を交わした後、手を離すと体を翻した。

 

「それじゃあ、私達は帰るよ」

 

「え?」

 

 そしてそう口にした。

 思わぬ言葉に思わず驚きの声が漏れる。

 

「帰るって…。もうですか?ナツメと食事にでも…」

 

「ナツメとはいつでも会える。もうお互い遠慮する必要はないんだから。…まあ、最初からそんな必要はなかったんだが」

 

 二人は今から帰るという。折角の機会なのだから、これからナツメと三人で食事にも行けば良いのにと思っていたのだが。

 彼は振り返ると、悪戯っぽい笑顔を浮かべながら俺を見た。

 

「ナツメに断られてしまってね。…今日一緒に過ごしたい人は他に居るみたいだよ」

 

「お父さん!」

 

 一瞬、何を言われたのか呑み込めなかった。そんな中で響き渡るナツメの怒声。

 それでようやく自覚する。ナツメのお父さんが言った言葉の意味を。何故ナツメがこんなにも怒っているのかを。

 

「まあ、年末帰ってきた時も寂しそうにスマホ眺めてたものねぇ~。片時も離れたくないのよ、きっと」

 

「お母さんっ!!」

 

 今度はさっきよりも大きく怒鳴るナツメ。

 

 というかそんなに寂しがってくれていたのか。実家に帰ったのだからゆっくりしたいだろうと、メッセージは日を跨いだ時の明けましておめでとうの挨拶だけにしたのだが。

 そんなに寂しかったのならナツメからメッセージをくれればいくらでも付き合ったのに。今更そんな事を考えてもどうにもならないが。

 

「それじゃあナツメ。体調には気を付けてな」

 

「…うん。お父さんも気を付けて」

 

 まず最初にナツメのお父さんがお店を出ていく。それに続いてナツメのお母さんが出ていく─────直前で立ち止まり、振り返ると先程ナツメのお父さんが浮かべていた笑顔と同種の笑顔を浮かべた。

 

「二人とも。若いから色々とやんちゃしたくなると思うけど、適度に我慢しなさい。学生の身で子育ては大変だろうから」

 

「そんな心配しなくて良いからっ!!!」

 

 今まで聞いた事がない程の声量のナツメの怒声を受け流し、笑顔のままナツメのお母さんもお店を出ていった。

 ベルの音と共に扉が閉まる。そして、俺とナツメの二人だけが残されたフロアの中に沈黙が流れた。

 

 ナツメはしばらくの間、二人が出ていった扉の方を見つめていた。その胸中はどんなものなのだろう。

 もしかしたら、やはりもっと二人と一緒にいたかったのかもしれない。まだ二人が出ていってそう時間は経っていない。今ならUターンして貰ってもそこまで迷惑にはならないんじゃないだろうか。

 

 そう思って、ナツメに声をかけようとした時だった。

 

「で?」

 

 低いナツメの声が響き渡った。

 直後、悟る。まずい、怒ってる、と。

 

「これは何?説明して」

 

 有無を言わさぬ口調、雰囲気。ナツメが振り返り、鋭い視線で睨まれる。

 

「私、ドッキリは嫌いだって言わなかったっけ?」

 

「…言ってた。覚えてる」

 

「ふーん。覚えてたのにこういう事しちゃうんだ。私との約束ってその程度だったんだ」

 

 まずいまずいまずいまずい。本気で…とまではいってない様に見えるが、返答次第では本気でキレられる。まさかこんな形で破局の危機が訪れるとは付き合い始めた当初の俺は思いもしなかっただろう。

 

 だが、こうなる事は覚悟していた。ナツメが怒るだろうと予想していた。それでも俺は、ナツメには報せない事を選択した。

 

「…ナツメと付き合い始めて、もうすぐ一ヶ月だな」

 

「…どうしたの、急に」

 

「付き合い出してからほぼずっと一緒にいたよな。それだけ居たら、ナツメの行動はある程度予想がつく。…この事を報せたらきっと、ナツメは断ろうとしてた」

 

「─────」

 

 鋭く細められたナツメの両目が見開かれ、息を呑む。

 ここですぐに言い返せないのは、俺の言葉に理を感じたという証拠。

 

「俺も直前まで悩んだよ。好きな人との約束だぞ。破りたい訳ないだろ。でも…ナツメが考えてた事とナツメのお父さんとお母さんが思ってた事の食い違いを知った時、俺は悪いと思ったけどナツメとの約束を破る事に決めた」

 

「…」

 

 まだナツメと付き合い始める前の事。一度だけ聞いた事があるこのお店と、ナツメ達家族の過去。ナツメはこう言った。自分のせいで両親はこのお店を、夢を諦めたのだと。

 だが実際は違った。あの二人はナツメのせいでこのお店を諦めたのではなかった。色々な不運が重なって、そして、自分達の覚悟が足りないと痛感させられて、そして開店する事を取り止めた。

 

 決してナツメのせいではない。それだけは違う、と二人に言われた時、俺はこの場をセッティングする事を決めた。

 

「ナツメ、どうだった?俺のドッキリにどう思ったかじゃなくて、両親と話が出来て、二人の本当の気持ちを聞いてどうだったのか聞かせてほしい」

 

「…安心した。嬉しかった。二人が私のせいじゃないって教えてくれて。…生まれてきてくれてありがとうって言ってくれて」

 

「…それなら良かった。反省する必要はあるけど、後悔する必要はなさそうだ」

 

 一泊置いてからのナツメの返答に胸を撫で下ろす。

 二人の様子から大丈夫だとは思っていたが、ナツメの反応を見て確信する。両親との話し合いは、俺の選択は正解だったのだと。

 これで、ナツメは大丈夫だ、と。

 

「でも、ドッキリについては別。それについては落とし前つけて貰うから」

 

「…許してくれたりは」

 

「ダメ」

 

 僅かな望みをもって聞いてみるもダメらしい。理由はどうあれ約束を破ったその罰は受ける事になりそうだ。

 

「それじゃあ、千尋は先に部屋に帰ってて。私はちょっと準備があるから」

 

「は?準備?」

 

 え、準備って何。俺への罰を執行するために準備がいるの?何それ普通に怖い。待って、もしかして俺が思ってる以上にナツメは怒ってるのか?

 

 そんな風に内心びくびくする俺を、ナツメは横目で見ながら続けた。

 

「楽しみにしてて」

 

 そう言ってバックルームへと入ったナツメを置いて、先に一人部屋に帰る。本当はナツメを家まで送りたかったが、あそこで言う通り行動しないと更に機嫌を損ねるかもしれないと思うと逆らう勇気は湧かなかった。

 

 明かりをつけて、静かな部屋の中でナツメが来るのを待つ。テレビをつける気分にはなれない。

 ナツメが言った落とし前というのが何なのかが気になり、緊張が奔る。

 もし別れろなんて言われたら、という不安が何度も胸を過る度に流石にそれは、と必死に胸の中で否定する。

 

「─────」

 

 部屋に帰ってきてからどれくらい時間が経っただろう。部屋のインターホンが鳴り、カメラには扉の前にいるナツメが映し出されている。

 すぐに玄関へと向かい、鍵を開けて扉を開いた。

 

 ナツメは少し大きめの鞄を持って、部屋の中へと入ってきた。靴を脱ぎ、玄関から部屋の奥へと入っていく。

 

「はぁ~、寒かった~」

 

 部屋に入ってきたナツメの声には怒りや苛立ちなどは感じられない。いつもの優しいナツメの声だ。

 

 その声を耳にして少し安堵しながらも、俺は今のナツメの格好から目が離せなかった。

 

 膝上までを囲う黒色のチェックのスカートと、膝下までを覆う黒のロングソックス。

 言い表せば別段何の違和感もないのだが、何故か今のナツメの格好からほんの少しの幼さを感じる。

 

「どうしたの?」

 

「…いや、何でもない」

 

 じっと見すぎたせいか、ナツメに気付かれた。

 ナツメの問いかけに何でもないと答えると、ナツメはさして興味はなかったのか、短くそう、とだけ返してから俺に真っ直ぐ視線を向けた。

 

「それじゃあ、落とし前をつけてもらいましょうか」

 

「…あの、その前に少し良いか?」

 

「なに?言っておくけど、千尋が何を言っても…」

 

「分かってる。落とし前は受ける。でもその前に一つだけ言わせてくれ」

 

 こちらに向き直るナツメと正面から向かい合い、そして俺は勢いよく頭を下げた。

 

「約束を破ってごめんなさい!なので別れるのだけは許してください!」

 

「─────」

 

 傍から見ればあれだ。彼女に捨てられそうになっているダメ男の図である。

 しかしそんなのは関係ない。ナツメが本気でそうしたいのならばもう止めるつもりはない。それでも、俺の本音は伝えておかなければ。

 

 もっとナツメと一緒にいたい。その気持ちだけはどうしても伝えたかった。

 

「えっと…、何を言ってるの?」

 

 さあ、ナツメの返答は如何に。そうやって内心緊張しっぱなしだった俺に呆けた声が降りかかった。

 

「別れるって…そんな事しないわよ」

 

「え」

 

 続けて隠そうともしない呆れた声が降りかかる。それに驚いて顔を上げると、まさに声が表す通りの顔をしたナツメがそこにはいた。

 

「…そんなに必死になるくらいなら、最初から約束を破らなければいいのに」

 

「いや、それは…」

 

「あー、大丈夫。分かってるから」

 

 俺と言葉を交わしながらナツメが近付いてくる。

 

 しかし、別れなくて済むなら俺にとっては最高なのだが、それならば落とし前とは一体何を要求されるのか。

 どうも、今のナツメの格好がヒントになっているように思えてならない。

 何故だか幼さを感じさせる今のナツメの格好。これがナツメが求める落とし前に関係しているように思える。

 

 いつもと違うナツメに俺は何を要求されるのだろう。

 

「んっ…」

 

 ぐるぐると疑問が脳内を巡る俺の視界一杯にナツメの顔が映る。直接触れる鼻先と、呼吸の音。唇に感じる温もり。

 

 真っ白になる思考。何も考えられないまま、しかし本能のままにナツメの要求に黙って応える。

 

「ぷはっ」

 

 少ししてからナツメが唇を離し、こちらを見上げる潤んだ目が合う。

 

「落とし前って…これの事か?」

 

「千尋はここで終わりでいいの?」

 

「…もっとこう、罰を受けるとばかり思ってた」

 

「落とし前をつけるとは言ったけど、罰なんて私は言ってない」

 

 再びナツメと唇を合わせる。もう、ナツメが部屋に来る前の緊張なんてどこかに吹き飛んでしまった。

 今、俺の心を満たすのは愛する人と深く繋がりたい欲求。もっと愛し合いたいという欲求だけ。

 

「はぁ…、んむ、ちゅ…」

 

 キスは激しさを増して、啄むようなキスから舌を絡めるものへと変わっていく。

 いつの間にかナツメの両腕は俺の首に絡まり、俺の両腕もナツメの腰を抱えていた。

 

 そうしてどれだけキスをしていただろう。不意にナツメが俺から顔を離し、身を捩って俺の腕から離れた。

 

「ナツメ?」

 

 俺から離れたナツメは着ていたコートに手を掛ける。だが、その体勢のまま何故か固まってしまった。理由が分からずナツメに呼び掛ける。

 

 するとナツメはこちらを一瞥してから大きく深呼吸をして、そして勢いよくコートを脱いだ。

 

「─────」

 

 コートの下のナツメの服装を目にして、今度は俺が固まる番だった。

 ナツメが振り返り、正面からその服装を目の当たりにする。

 それと同時に俺は感じていた違和感の正体を悟る。

 

 白い襟元と、水色の服の胸元にはリボン。そして、さっきも見た黒いチェックのスカートと黒のソックス。

 この服装を俺は見た事がある。ナツメが着ている所をではないが、何度か目にした事がある。

 

「それ、確か…。火打谷さんが通ってる高校の…」

 

「…そう。巻機の制服」

 

「…何で?」

 

 今のナツメが着ているのは、火打谷さんが通う巻機女学院の制服だった。そういえば、ナツメもそこの出身だと言ってたっけか。

 

 そうか、だからいつもの私服姿よりも幼いと感じたのか。

 いやだが、ナツメがこの制服を持っている理由は分かったが、着ている理由はさっぱり分からない。

 

 興奮と混乱が入り交じる内心を抑えながら、ナツメのその理由を問いかける。

 

「…落とし前をつけるため」

 

「は?」

 

 こうやって呆けた声を漏らすのも今日何度目か。ナツメは羞恥に顔を真っ赤にしながら続ける。

 

「今日のドッキリ…、悔しいけど嬉しかった。お父さんとお母さんの本心が知れて嬉しかった。そして何より…、千尋が私のために頑張ってくれたんだって思うと、本当に嬉しかった」

 

「…」

 

「だから…考えたの。どうしたら千尋が喜んでくれるのかって。それで…」

 

「それでコスプレか」

 

「ま、前に友達が言ってたからっ。コスプレが嫌いな男はいないって…。高嶺君もコスプレ好きみたいだし、千尋もそうなのかな…って…」

 

 いや、嫌いじゃないけど別に好きでもないというか…いや今すぐに好きになりそうなんだけど。というかナツメのせいで好きになっちゃったんだけど。

 

 どうしよう、彼女に開発されてしまった。

 

「…いやだった?」

 

「─────」

 

 だからさ、ずるいんだって。わざとやってるんじゃないだろうな。

 そんな筈ないと分かっていても、内心でそんな考えが浮かんでしまう。

 

 もう我慢できなかった。不安そうに見上げるナツメの腕を掴み、引き寄せて抱き締める。

 

「嫌な訳ないだろ。…可愛すぎる」

 

「っ…、そ、そういう事言わないで。恥ずかしいから…」

 

 ナツメが俺を見上げる。何を求めてるのか、直接聞かなくとも顔を見るだけで分かった。

 

「んっ…、ちゅ、る…。すき…だいすき…」

 

「俺も。…好きだ、ナツメ」

 

 キスをしながら溢れる気持ちを言葉にして交わす。

 

「せきにん、とって…。ここまで千尋をすきにさせた、落とし前つけて…んんっ」

 

 その台詞で、辛うじて繋がっていた理性の糸が完全に切れた。

 

 口から流れる涎に構わず、キスが更に激しくなる。

 ナツメは抵抗しない。まるでナツメもそれを望んでいたかの様に俺の要求に応えてくれる。

 

 留まる事を知らない幸せに満たされながら、ナツメの温もりを感じながら、頭の片隅で夜更かし決定という思考を他人事のように流して、ナツメとのキスに没頭した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




ナツメの巻機女学院の制服姿の画像ってないんですかね…。めっちゃ見たいんですけど…。


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第七十三話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「オーダー入ります。パンケーキ二つお願いしまーす」

 

「了解。千尋、頼める?」

 

「もうすぐオムライスが作り終わるので、終わったらすぐに取りかかります。火打谷さん、悪いけどもう少しだけ待っててくれ」

 

 フロアからオーダーを報せに来た火打谷さんから涼音さんへ、涼音さんから俺へと報告が渡る。

 手元に集中しながらも次に取り掛かるべき仕事を頭に入れて、半熟のオムレツをケチャップライスに載せる。

 最後にデミグラスソースをかけて少量のパセリをオムライスの横に盛り付けてから、火打谷さんに皿を渡す。

 

 オムライスが盛り付けられた皿を受け取った火打谷さんがフロアへと戻る所を一瞥してから次の仕事へ。

 オムライスを作るのに使った道具を流し場へと運び、高嶺に洗うのを任せてからパンケーキを作る準備を始める。

 

「オーダー入ります。カルボナーラ一つお願いします」

 

「了解、オーダー表そこに置いといて」

 

 火打谷さんが来てから数分も経たずに今度は明月さんが次のオーダーを持ってくる。

 今日は平日なのだが、いつもに比べて忙しい。休日と比べても正直遜色ないとすら感じる程に。

 

「だー!忙しいなぁもう!」

 

 涼音さんも同じ事を思っていたらしく、手を動かしながらもごちる口は止められなかった様だ。

 

「涼音さん、余裕そうですね。カルボナーラ今からいっちゃいます?」

 

「勘弁して!」

 

 しかしやけに今日は料理の注文が多い気がする。昼食の時間とは言えない時刻の筈なのだが。

 勿論、その人の都合で丁度よい時間に昼食が食べられずにこの時間までずれる、なんて事はあるのだろうがそれにしたって多すぎる。

 

 何か近くでイベントがある訳でもないし、ただの偶然なのだろうが。

 まあとにかく今はこの平日の修羅場を乗りきらなくては。簡単に作れるパンケーキとはいえ、少しの失敗も許されない。集中しなければ。

 

 確かに忙しい、とはいえステラでバイトを始めてもうすぐ三ヶ月になる。これくらいの忙しさも何度も経験してきた。

 平日なのに何故、という気持ちはあるが以前のクリスマスの時の忙しさに比べればマシどころか優しさすら感じられる。

 

 遅めの昼食ラッシュを越えれば後は楽なもの。基本的に注文は涼音さんに任せて、俺と高嶺は食器と用具を洗う。

 手が必要な時はどちらかが抜けてどちらかは残って洗い物を続ける。それの繰り返し。

 

 そうして今日の営業も何事もなく終わりを告げ、残る仕事は後片付けのみとなった。

 

「いやぁ~…。平日にしてはお客さん多かったねー。実は祭日だったりする?」

 

「しませんよ」

 

 涼音さんの力の抜けたボケを高嶺が一刀両断する。

 

「昂ぉ晴ぇ~。少しは構え、モテないぞ~」

 

「涼音さん、酔ってません?あと、モテなくていいです。もう栞那がいるんで」

 

「…千尋」

 

「ナツメがいるので。帰ったら弟にでも電話したらどうですか」

 

「このリア充どもめがっ!あいつもあいつでなんか良い感じの女の子がいるっぽいし、皆して私を置いてきやがる!」

 

 ダル絡みしてくる涼音さんを適当に流していたが、最後の台詞には俺も高嶺も驚かされた。

 

「あいつって…宏人ですか?」

 

「そうだよ。一昨日だったかな?おすすめのデートコースある?とか聞いてきて。んなもん自分で考えろ愚弟がって切ってやったわ」

 

 あっはっは、と豪快に笑う涼音さんはどこか自棄になっている様に見えた。

 

「…染井さんだな」

 

「あぁ。間違いないな」

 

 高嶺と顔を寄せ合い、頭の中に浮かんだ女の子を共有する。

 

 恐らく汐山と仲を深めている女の子というのは染井さんの事だろう。この前の同窓会の準備中、あの二人は一緒に行動していたし、何か意識し合う切っ掛けでもあったのだろう。

 そういえば染井さんは汐山との事でからかわれた時も否定こそしていたものの、どこか満更でもない様子に見えたし。

 あの時誰かが言っていた交際秒読みというのも強ち間違いではないかもしれない。いや、もしかしたら案外もう─────

 

「くそ、宏人のくせに生意気な…。はぁ~あ、私は帰ったら寂しく一人晩酌かぁ~」

 

「涼音さん、喋ってないで手を動かしてください」

 

「ちょっと、愚痴くらい許してよ」

 

「いや、これ以上この話題を続けると面倒そうなので」

 

 千尋の薄情者ぉー!と敗者の叫びをスルーして掃除を続ける。

 食器と器具を洗い終えて所定の場所に戻し、床の掃除も終えた。フロアの方もあと少しで終わるところまで来ており、先に掃除が終わった俺達も手伝う。

 

 フロア担当のナツメ達五人に俺達三人の手も加わって、フロアの掃除はあっという間に終わる。

 そしていつもの様に女性陣が先に、その後に俺と高嶺がバックルームで着替えを済ませてから、俺達が着替え終わるのを待ってくれていた女性陣と一緒に外に出る。

 

 外に出た途端に身を包む冷気。昼間は雲一つなく晴れ渡り、刺すような寒さの中でも日差しの温かさを感じる事が出来たが、太陽が沈んだ夜ではただ寒いだけ。

 心なしか吐く息の白さが昼間よりも濃くなっている気がする。

 

「うぅ、寒い…」

 

 身を縮ませながら呟いたのは墨染さん。その隣ではこくこくと墨染さんの呟きに頷いて同意する、同じく縮こまって寒さに震える火打谷さん。

 

「早く帰って温まろ…。それじゃあ皆さん、お疲れ様です。またあしt「ちょい待ち」へ?」

 

 俺達に挨拶をして帰ろうとする火打谷さんだったが、何故かそれを呼び止める涼音さん。

 火打谷さんだけでなく、俺達もどうしたのかと目を丸くする。

 

「どうしたんです?」

 

「どうしたって…。流石に女の子一人で帰らせる訳にはいかないでしょ?最近物騒なんだから」

 

「物騒…?」

 

 火打谷さんの問い掛けに対する返答を聞いて、涼音さんが何故火打谷さんを呼び止めたのかその理由を察したのは俺とナツメだけの様だった。

 俺は勿論、ナツメも合点がいった様な顔をしていた。一方の高嶺と墨染さんはきょとんとしながら首を傾げていた。

 

「ニュースくらいは見た方がいいよ?…最近、美和市周辺で行方不明者が続出してるんだって」

 

 そのニュースは俺も知っていた。といっても、知ったのは今日の朝なのだが。

 俺もあまりニュースとかは見ないのだが、今日の朝に偶然、テレビをつけた際に映ったニュースで美和市の事を言っていたからナツメと一緒に見たのだ。

 

「といっても、聞く限りは女も男も関係なくいなくなってるみたいだけどね。それでも、女の一人歩きは怖いでしょ」

 

 ニュースでは行方不明者の名前と性別も伝えられていた。どちらか一方の性別を狙っている訳ではないというのが一応の警察の見解らしい。

 

「という事で昂晴。二人を送っていくわよ」

 

「良いですけど…、涼音さんも来るんですか?思い切り遠回りになりますよ?」

 

「いやぁ~。あの二人についてくのは邪魔になるしねぇ~?」

 

 真面目な顔から一変、完全にこちらをロックオンした顔で俺とナツメに視線を向ける涼音さん。

 それはこの状況をこの上なく楽しんでいると言わんばかりの笑顔。殴りたい、その笑顔。

 

「はいはい、邪魔になるので高嶺と遠回りして帰ってください。ナツメ、行こう」

 

「え?…うん」

 

「二人ともー。明日も仕事なんだから、遅くまで運動会とかするんじゃないぞー」

 

「「しません!」」

 

 涼音さんの笑顔を受け流す事は出来たが、流石にその次のド直球の下ネタは聞き流す事は出来なかった。

 堪らずナツメと同時に振り返り、同時に怒鳴る。なお、怒鳴られた涼音さんは爆笑していた。

 

 ちくしょう、あの人いつか泣かす。

 

 そんな事を決意しながら、ナツメと並んで帰路につく。

 いつもと変わらない帰り道。それなのに、さっきの涼音さんが言っていた事が自分が思っているよりも胸に引っ掛かっているのか、口数がいつもより少なくなる。

 周囲の、たとえば電柱や交差点の影。そこに僅かな警戒が向く。

 

 は?そっち?そっちってどっちだよ。涼音さんが言ってたニュースの事に決まってるだろ。

 

 ついでに言うと、今俺とナツメは()()()()()は禁止にしている。もうすぐ試験があるし、心配はないと思うが万が一単位を落としたら洒落にならないため、そういう行為は控えるとナツメと決めた。

 

「─────」

 

 自分でも誰に向けたものか分からない説明を内心で終えた直後、不意にナツメの視線がずれる。まるで何かを目で追い掛けているかの様に。

 

「またか」

 

「…うん」

 

 眼鏡を外してナツメが視線を向けている方へと目を向ける。

 そこには一匹の青い蝶が羽ばたいていた。

 

「ちょっと待ってろ」

 

 ナツメに言い残してから、俺は羽ばたく蝶へと歩み寄る。

 蝶に向けて手を差し出すと、蝶は俺の手に止まる。

 

 手に止まった蝶を少しの間眺めてから、宙へと手を伸ばす。すると蝶は俺の手から飛び立ち、空高く舞い上がった。

 

「…最近多いな」

 

 還っていく蝶の姿が見えなくなってから呟く。

 ここ最近だ。蝶の姿をよく見るようになったのは。

 ナツメだけでなく高嶺とミカド、明月さんもよく飛び回る蝶を目撃している。俺は普段は眼鏡を掛けているから見えていない。今の様にナツメや他の二人か一匹の反応を見て、蝶がいるのだと察してから眼鏡を外して俺もそれを目撃する。

 

 いつもならミカドが蝶を捕まえて神の下へと送るのだが、ミカドが近くにいない時は俺がさっきの様に蝶を送っている。

 そしてさっき言った様に、ナツメ達が蝶を見かける回数がここ最近明らかに増えてきた。

 

「…さ、帰るか」

 

 偶然と思おうとすれば偶然と思える。現にミカドもそう言っていた。

 しかし何故だろう。どうしても引っ掛かる。何かを見落としている気がする。いや、俺は確かに()()を見ている筈なのだ。

 なのに、思い出せない。

 

 そんな要領を得ない感覚を今は忘れ、俺を待ってくれているナツメに声をかける。

 

「…」

 

「…どうした?」

 

 ナツメは沈んだ表情を浮かべて俺の声に答えなかった。

 何かに落ち込んでいる、という訳ではない。何かに強い不安を感じている、そんな表情に見える。

 

「偶然、なのかな…」

 

「…見かける蝶の数が増えるのは別に珍しい事じゃないって、ミカドも言ってただろ。あまり気にするなよ」

 

「うぅん、そうじゃなくて」

 

 ナツメも俺と同じものに引っ掛かりを覚えたのかと思った。

 見かける蝶の数が増える、俺達にとっては初めての経験だ。だからこそナツメは不安に感じている、そう思った。

 

 だがナツメは首を横に振る。

 

「最近蝶の数が増えてる事と、行方不明者が連続で出てる事。…それって偶然なのかな」

 

「─────」

 

 俺は今まで蝶関連の話と現実での出来事の話を完全に切り離して考えていた。

 だがそれはよく考えればおかしなものだ。蝶関連の出来事だって、実際に現実で起きているものなのだから。

 それならば、ナツメが言う通り蝶の数が増えている事と行方不明者が出ている事が繋がっていたって何らおかしな話ではない。

 

「…偶然だろ」

 

 内心で湧いた小さな戦慄を押し隠し、努めて笑顔を浮かべてナツメにそう答える。

 

「確かに蝶の数は増えてる。でも、蝶の数と行方不明になってる人の数は明らかに一致してない。ただの偶然、関係ないさ」

 

 今言った通り、見かける蝶の数と行方不明になっている人の数は一致していない。ナツメの言う通りこの二つに関連性があるのなら、蝶の数と行方不明中の人の数は一致する筈だ。

 しかしそうじゃない。数が似ているのならまだしも、蝶の数の方が明らかに多い。まず間違いなく、この二つに関連性はない。そうとしか思えない。

 

「…そう、よね。うん、ごめん。少しナーバスになってたかも」

 

「まあ色々あったしな。むしろそのくらいの方が丁度いいのかもな」

 

 ナツメの謝罪にちょっとした軽口を叩くと、ナツメが笑みを溢す。さっきまでの不安そうなナツメはもういない。

 

 ─────数が一致しないから関係ない、か。

 

 ナツメと笑い合いながら、思考の片隅で先程自分が口にした台詞を思い返す。

 蝶の数と行方不明者の数は一致していない。だからこの二つに関連性はない。

 この言葉に嘘はない。俺自身、本気でそう考えている。

 

 ─────本当に行方不明者の数が、()()()()()()()()()()()()()な…。

 

 この時…、いや、すでにこの以前から始まっていたのだろう。死ぬまで絶対に忘れる事はない事件。

 それに俺達が巻き込まれるのは、運命だったのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

~Another View~

 

「…いない。また逃げられたか」

 

 ペットボトル、空き缶、お菓子の袋、様々なゴミが散らかった人気のない路地裏。

 そんな場所には明らかに似つかわしくない一人の女性が、周囲を見回しながら呟く。

 

「また派手に散らかしてるな。明日の朝にでも見つかるぞ。隠す気はない…、いや。隠す必要はない、か」

 

 何にしても目的のものがいないのならもうここに用はない。

 女性は踵を返して元来た道を帰り始める。

 

「…()()も目を覚ましたまま眠りにつく様子はない」

 

 歩きながら女性はとある方向を見上げる。

 女性が見上げた先に見えるのは青い光の帯。

 光の帯はまるで空中に流れる川のごとく、ゆらゆらと揺れながらどこかへと流れていく。

 

 その光の帯を構成しているのは、大量の蝶。

 

「ミカドは何をしている…。俗世に染まって勘が鈍ったか、あいつ…」

 

 苛立たしげに、アスファルトを踏みしめる足に力がこもる。

 

「何にしても…」

 

 路地裏を抜けて大きな通りに出る。

 もうすぐ日を跨ごうかという時刻。しかし、未だ人の通りは多いまま。

 人々の雑踏に女性の姿は紛れ、やがて見えなくなっていく。

 

 ─────あまり時間は残されていない、か。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 次の日の朝、とあるものが発見されて警察に通報が渡る。

 

 それは夜、女性がいた路地裏。

 そこに飛び散っていたのは大量の、黒く変色した人間の血液だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




最終章の開始です


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第七十四話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

~Another View~

 

 その日、あの光景を見るまでいつもと変わらない朝だった。

 いつもと変わらずギリギリまで寝て、起きて、急いで身支度を済ませて朝食を済ます。そして学校へと向かう。

 

 家を出て住宅街を抜けてから、大通りに出る。そこまでは昨日までと変わらない、いつもの朝だった。

 

 ふと、視界の端を青い何かが横切った。

 別に何も珍しくはない、たまに見かける事がある、自分にしか見えない青い蝶。これが見えるのもまた、この少女にとってある意味日常であった。

 少女にとって何も気にする事はない、日常の一部。

 

 しかし何故だろう、今日の少女はやけにその蝶が気になった。

 蝶はゆらゆらと羽ばたきながら、路地裏へと姿を消す。

 後で思い返しても不思議で堪らない。どうして自分はこの時、あの蝶の後を追い掛けてしまったのだろう。

 

「─────」

 

 蝶を追い掛けた先で広がる光景に言葉を失う。

 路地裏の奥は行き止まりになっており、蝶の姿はどこにもない。

 その代わり、黒く乾ききった液体がアスファルトに広がる衝撃的な光景。

 

 この黒いものが何なのか、少女はすぐに悟る。

 込み上げる嘔吐感を我慢しながら震える手でスマホを取り出す。

 

 少女はかなり混乱していた。この状況、まずしなければならないのは警察への通報だ。少しでも少女に冷静さが残っていれば、そうしていただろう。

 だが少女の思考に通報という選択は浮かばなかった。それ程までに少女は混乱していたのだ。

 

 電話帳を開き、とある名前を見つける。

 少女には、もうその人に助けを求める事しか選択肢は浮かばなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ミカドから入った一本の連絡。すぐに俺は残りの講義を休む事にして大学を飛び出した。

 同じくミカドから連絡が来たと思われるナツメ、高嶺とも途中で合流。三人でステラへと急いで向かった。

 

 今日はお店の定休日ではない。いつもならお客さんが来始める頃だ。

 だが、お店の周りに人はいない。というより、ここまで来る途中で気付いたが、明らかに通りを歩く人の数が少ない。

 そして、お店の扉には休業と書かれた札が掛けられていた。

 

 裏口から入るべきなんだろうが、気持ちが逸っているせいか、周囲に人がいない事を確かめてから入り口の扉を開ける。

 三人で中に入ると、フロアではすでに俺達を待っていたのだろう。明月さんと猫の姿のミカドがこちらを見ていた。

 

「来たか」

 

 中に入ってきた俺達を見て、ミカドが口を開く。

 俺達はミカドが立っているテーブル、明月さんが腰掛けている四人がけの席の周りに集まる。

 

「明月さん…。火打谷さんは…」

 

「母親の方がいらっしゃったので、お任せして帰ってきました。今頃は警察の方に事情聴取を受けていると思います」

 

「…何があったの?」

 

 明月さんへのナツメの問い掛け。その中にあった火打谷さんの名前が、俺達がここに集められた理由でもある。

 だが俺達は火打谷さんが蝶を見た、という事しか聞いていない。だから、明月さんが口にした警察という単語に驚かされつつ、ナツメが続きを促す。

 

「…朝、愛衣さんからスマホに助けて、とメッセージが届いたんです」

 

「ただ事ではないと感じた我々は、愛衣がいる場所を確認してすぐに向かった」

 

 あぁ、そうだ。覚えている。

 その時、俺もナツメも高嶺も、お店にいたのだから。

 二人は少し火打谷さんに会ってくると言って急いだ様子でお店を出ていった。しかしなかなか帰ってこず、俺達が大学に行く時間になり、涼音さんが大丈夫だからと言ってくれた事もあって時間通りに店を出た。

 

 そして今、ミカドに呼ばれて俺達は予定よりも早く店に戻ってきた。しかも何故か、お店は臨時休業となっている。

 あの後一体、何があったのか。火打谷さんの身に何が起きたのか。

 

「まず最初に、愛衣さんが怪我をした、という事はありませんでした。そこは大丈夫です」

 

 笑顔と共に明月さんが俺達が一番に気にしていた不安点を解消してくれる。

 そうか、火打谷さんに怪我はないのか。とりあえずほっとする。

 

「だが…精神的にはどうだかな。それに、愛衣の目についても気になる」

 

「目?」

 

 ミカドの台詞の後半に真っ先に反応したのは俺だった。それは俺が、特別な瞳を持ってしまっているからかもしれない。

 ミカドは俺の方に視線を向けて、一度頷いた。

 

 まさか─────

 

「話を聞く限り、愛衣は蝶が見えている。そして恐らく、見えるだけでなく何か特別な力を持った目を持っている」

 

「─────」

 

「…この話は後にしよう。まず、愛衣が何を見たのか話さなくては」

 

 続いてミカドの口から語られたのは、朝に火打谷さんが何を見たのか。

 

 まず、火打谷さんはいつも通りの時間に家を出て学校へと向かっていたらしい。しかしその途中、一匹の蝶を見たという。

 ミカド曰く、火打谷さんはこれまでに何度かその蝶を目にした事があるという。なのでいつもならば気にせず無視して先を急ぐ所なのだが、どうしてかその時はその蝶がやけに気になった。

 火打谷さんは蝶を追い掛け路地裏へと入り、その奥で目にしたものが、警察沙汰にまで発展した要因。

 

 そこには黒く変色した、夥しい量の血の跡だったという。

 

「そんなものを見たのだ。混乱するのも無理はない。恐らく栞那に連絡が来たのは、電話帳にある名前の中で最初に目が入ったからだろう」

 

 そう、そんなものを目撃したならば最初にすべき事は警察への通報だ。しかし火打谷さんは真っ先に明月さんへと助けを求めたという。

 ミカドの言う通り、相当混乱したのだろう。誰か知り合いに、友人に助けを求めたかったのだろう。

 だから、五十音順で並んでいるであろう電話帳にある名前の羅列の中で、明月さんへと連絡が渡った。

 

「…火打谷さんに何があったのかは分かった。だが、何で俺達三人だけをここに呼んだ」

 

 俺は火打谷さんが目にした光景を直接見ていない。それでも話を聞くだけで、その光景がどれだけ衝撃的だったのか。火打谷さんがどれだけショックだったか、想像はつく。

 そして、その想像以上に火打谷さんの心に傷がついているのだろうとも思う。

 

 だが、何故その話を俺達三人が、それもわざわざ店に呼びつけてまでするのか。

 同じ職場で働く仲間だ。この話は全員に行き渡って然るべきである。

 それなのに何故、俺達()()()()がここに呼ばれているのだろう。

 

「涼音は勿論、希にもすでに話してある。お前達をここにわざわざ呼んだのは…、二人には聞かせられない話をするためだ」

 

「─────」

 

 誰かが小さく息を呑んだ音がした。

 店のフロア内で緊張が奔る。

 

 ミカドは俺達を一度見回してから、話の続きを口にする。

 

「まず…。これは飽くまで我輩の想像だが、愛衣が見た血の跡は恐らくこの街周辺で行方知れずになっている人間のものだ。そしてこちらは間違いなく事実。あの行方不明事件の黒幕は、こちら側の存在だ」

 

「なっ…」

 

「…根拠は」

 

 小さく驚きの声を漏らした高嶺を一瞥してから、ミカドに問いかける。

 

「栞那と愛衣の元へ行った時、澱んだ力の残滓を感知した。…あの狐だぞ、千尋」

 

「─────」

 

 ミカドはすぐに俺の問い掛けに答えた。そして今度は、俺が驚きで息を呑む番だった。

 

 狐。その単語で思い当たるのは一つしかない。

 

「あいつが…、あいつらが、失踪事件を起こしてるって事か」

 

「恐らく」

 

「何でだ。直接俺を狙うんじゃなく、何故他の…それも俺と関係ない人間を襲う?」

 

「…」

 

 あの三尾の怪物と、朔夜さんと対峙した男神。ミカドの言う通りならば、奴らがこの街一帯で起きている失踪事件の黒幕。

 しかし分からない。俺を狙う訳でもなく、俺と近しい人間を狙う訳でもない。行方不明になっている人達は皆、俺とは関わりのない人達だ。

 奴らの狙いは俺の瞳の筈だ。恐らくだが、失踪事件を起こしている理由は俺の瞳を奪う目的に関係がある。ならば、何故俺とは無関係の人間を襲う必要があるのか。

 

「…我輩が生まれるより以前、似たような事が起きたと聞いた」

 

「ミカド?」

 

「神は人を喰らい続けた。いや…正確には、人の魂を喰らい続けた」

 

「魂、を…?」

 

 ナツメの方を見て頷いてからミカドは続ける。

 

「喰らった魂を己の糧として、その神は自身の力を蓄え続けた。目的が何だったのかは知らんが、とにかくやがて、その神は他の神々にすら手がつけられない程にまでになった」

 

「…それで、どうなったんだ」

 

「詳しくは知らん。だが、とある一人の人間と一柱の神によって墜ちた神─────邪神は討たれた」

 

「人間と…神が?」

 

 驚き、目を見開く。

 さっきミカドはこう言った。その神は、他の神々でも手がつけられない程の力を得ていた、と。

 そんな神を人間が─────他の神と共にとはいえ、討伐したという。

 

「…話がずれたな。とにかく我輩が言いたいのは、今の話と今の状況が似ているという事だ」

 

「…あの神は、その話の神と同じ邪神になろうとしている?」

 

 話していて現実感というか、実感が湧いてこない。

 今まで散々現実と掛け離れた経験をしてきたが、それにしたって邪神になるとか言われても訳が分からないというのが正直な気持ちだ。

 

「随分懐かしい話をしているじゃないか」

 

 その時だった。フロアにいるのは俺達四人だけの筈。それなのに、俺達以外の声がしたのは。

 

 驚きと共に勢いよく、声がした方へと振り返る。

 そこに立っていたのは美しい女性。だが俺達は、特に高嶺と明月さんはその顔を見て緊張にぎしりと固まった。

 

「朔夜様…」

 

 ミカドが女性の名前を口にする。名前を呼ばれた女性、朔夜さんは小さく微笑んでから俺達の方へと歩み寄る。

 朔夜さんが近づいてくる毎に高嶺と明月さんが、特に高嶺は顔色が悪くなっていく。

 

「大丈夫だよ、高嶺昂晴。君に何かしたりはしない」

 

「…ほんとう、ですか」

 

「君はあれから特に何もしていないだろう?それとも、私が知らない心当たりでもあるのかな?」

 

 朔夜さんの問い掛けに高嶺は必死さすら感じる程にぶんぶん、と勢いよく頭を振る。

 

「という事だ。君に用が…ない訳ではないが、荒事を起こす気はない。むしろ、用事の一つは君達への忠告だ」

 

「忠告?」

 

「さっきミカドが話していただろう?邪神に成り下がろうとしている愚か者の事だよ」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()。朔夜さんは確かにそう言った。

 それではまるで、ミカドが立てた予測が正しいと言っている様ではないか。

 

 そんな馬鹿な、と吐き捨てたくなる気持ちを抑えて次の朔夜さんの言葉に耳を傾ける。

 

「本当に、運命なんてチープな言葉で片付けたくはないんだけどね。でも、人並外れた力を持った人間が一ヶ所にこれだけ集まるとは」

 

 演目染みた所作で頭を振ってから、朔夜さんはナツメから順番に高嶺、明月さんへと視線を回す。

 

「四季ナツメ。高嶺昂晴。明月栞那。それと、この場にはいないけど火打谷愛衣もそうだね。君達の魂はさっき言った愚か者に狙われている」

 

 流れる沈黙はここに来てから何度目かもう分からない、驚きから来るもの。

 

「…どういう事ですか」

 

「そのままの意味だよ。彼らの魂は狙われている」

 

 最初に立ち直った俺が朔夜さんに聞き返す。

 朔夜さんは俺に視線を向け、淡々と返事を返す。

 

「というより、君達は私に感謝した方がいい。あの畜生は何度か君達に襲い掛かろうとしていた。まあ、ナツメ君には千尋がほぼ四六時中傍にいたから手を出せなかったようだけど。二人は別。君らが無事なのは私が睨みを利かせていたからなんだからね?」

 

 突然聞かされる、知らぬ内の命の危機。そしてそれから守ってくれたらしいこの人。

 高嶺は複雑だろうな。以前に命を狙われた相手に今度は命を救われた。

 

 というかまず、この話を信じられているかも怪しい所だ。あまりに話が急すぎる。

 

 そしてあの畜生とは、あの狐の事だろうか。あいつ、俺が知らない内に好き放題やろうとしていたらしい。

 もし朔夜さんがいなければ今頃、高嶺も明月さんもここにいなかったのかもしれない。そう思うとゾッとする。

 

「ま、待ってください。我輩はそんな気配は─────」

 

「君は俗世に染まりすぎだ。随分と人の世界を楽しんでいるみたいじゃないか、ミカド。…インストを見たぞ。いつからお前はここの飼い猫になった?」

 

「か、飼い猫─────」

 

 そういえば最近は投稿していないが、開店してからも何度か猫の姿のミカドにポーズを取らせて写真を撮り、画像をインストにアップしている。

 朔夜さん、あれを見たのか。ていうかこの人、ネット使うんだ。神様なのに。

 

「飼い猫…、我輩は飼い猫…。貴族ではなく飼い猫…」

 

「まあ、自分の危機にすら感付かない阿呆は放っておいて」

 

「あ、あほう…」

 

「実感は湧かないだろうが、君達は狙われている。特に高嶺昂晴、君には私怨も加わって最優先殺害対象に認定されている」

 

「な、なんで!?」

 

 ショックを受けている貴族(笑)を無視して話を続ける朔夜さん。

 その話の中で唯一釘を刺される形になった高嶺が大声で聞き返す。

 

「その神って、前に柳を襲ったって奴なんですよね?俺がそいつに何かしたって事ですか?」

 

「いや、君は何もしていない。…あいつはね。君がここにいるだけで…、生きているだけで気に食わなくて仕方ないんだよ」

 

「…どうしてそこまで昂晴さんを」

 

「あぁ、因みにいうと栞那君。君も中々に嫌われているよ。彼程じゃないがね」

 

 目を見開く明月さん。頭を抱えながら、「俺達が何をしたってんだ…」と愚痴る高嶺。

 

 しかし、高嶺は随分と恨まれているな。生きているだけで気に食わないと来た。

 頭の中であの男神の姿を思い浮かべる。

 

 人間離れした巨体と巌の如き存在感。朔夜さんと違って、一目見ただけで人間とは違うと思い知らされたあの時。

 

「さっきも言ったけど、君は…君達は何もしていないよ。ただ、そうだね。強いて誰が悪いかと聞かれたら─────」

 

 右手を腰に当てて一呼吸置いてから、朔夜さんはそれは良い笑顔で言い放った。

 

「私かな?」

 

 ぴしり、と空気が凍った音が聞こえた気がした。高嶺と明月さんの方から。

 というより、俺の方も自分の時が止まった様な、そんな感覚を味わった。

 

「…明月さんと高嶺君が恨まれてる理由が朔夜さんって、どういう事なんですか?」

 

 ナツメの声で我に返る。いけない、思考停止を起こしていた。

 

 確かにナツメの言う通り、二人があの神に恨まれている理由が朔夜さんにある、というのは訳が分からない。

 

「んー…。うん、決めた」

 

 ナツメが朔夜さんに問い掛け、朔夜さんはその問い掛けにどう答えようかと思考する。

 そして何か決意をした、そんな表情を浮かべて一つ頷くと、俺達の方を見て口を開いた。

 

「皆。今日の夜中、私と散歩に出掛けよう」

 

 開いたその口から出てきた言葉はナツメの問い掛けに対する返答ではなく、そんな誘いの言葉だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




さ、朔夜さんがイッタイナニヲシタッテイウンダー


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第七十五話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜の十一時になろうかという頃、ナツメの部屋のチャイムが鳴る。

 普通こんな時間にチャイムを鳴らされても不気味がるか腹を立てるか、どちらにしてもほぼ間違いなく居留守を使うのだが、予めこの時刻に訪ねてくる人がいると知っていればまた話は別だ。

 

 すでに寒空の外に出る準備を済ませていた俺とナツメはインターホンで相手と話す事もなく、玄関で靴を履き、部屋の外へと出る。

 

「や」

 

 扉の前で立ち、俺達が出てくると微笑み軽く手を上げて挨拶をして来たのは朔夜さん。

 ステラで約束した通り、これから俺達はこの人と夜の散歩とやらに出掛ける。

 

 俺達も朔夜さんに挨拶を返してから、ナツメが戸締まりをしたのを見届けてからアパートを出る。

 アパートの外には朔夜さん以外の人達、俺とナツメ以外のあの時、朔夜さんと話した高嶺達がすでに待っていた。

 

「それじゃあ、行こうか」

 

 軽い調子で一言そう口にした朔夜さんが歩き出す。

 俺達もそれぞれ顔を見合わせてから、何も言わずに朔夜さんの後に続く。

 

 人通りの少ない住宅街の歩道を朔夜さんを先頭に高嶺と明月さん、俺とナツメが並んで列になって進む。

 ちなみにミカドは明月さんの肩に乗っている。自分で歩かないとか、良い御身分だ。

 

「…それで、朔夜様。我々は一体、どこに向かっているのですか」

 

 ナツメのアパートを出発してから数分程。ここまで誰も喋らずただ朔夜さんについていくだけだったのだが、遂にミカドが口を開く。

 そしてその台詞は恐らく、この場にいる誰もが抱いている疑問だ。

 

 この質問はステラで朔夜さんと散歩の約束を交わした時にもした。だがその時、朔夜さんはただ笑顔のままその疑問を聞き流してしまった。

 

 いい加減俺も知りたい。俺達は一体どこに行こうとしているのか。

 そして、突然散歩をしようなんて言い出した朔夜さんの目的を。

 

「…始まったか」

 

 ミカドが朔夜さんに問い掛けてから数秒程の間が空き、不意に朔夜さんが立ち止まる。

 釣られて立ち止まった俺達の耳に、小さな朔夜さんの呟きが入る。

 

「皆、空を見上げてごらん。千尋は眼鏡を外してね」

 

 そしてそんな事を言い出した。

 

 ミカドの質問の答えはどうした、なんて内心で呟きながらも俺は朔夜さんの言う通りに眼鏡を外し、夜空を見上げる。

 

「なっ…!?」

 

 今、声を挙げたのは高嶺だろうか。それともミカドか。どちらにしてもその声は驚愕に満ちていた。

 俺だって驚いたのは同じだ。驚愕に言葉を失った。何しろ見上げた先に広がる光景は、余りにも信じられないものだったから。

 

「蝶が…」

 

 蝶。そう、俺達が見たのは空を飛ぶ蝶。あの青い蝶だった。

 だが、それだけじゃない。

 

「これは…引き寄せられているのか…?だが、これ程大量の蝶が一体何に…」

 

 呆然としながら引き寄せられていると表現したミカド。俺もまさにそんな印象を覚えた。というより、誰だってそう思う。

 

 何しろ光の帯を形成する程の大量の蝶が、同じ方向へと飛んでいっているのだから。

 

「…この方向、もしかして」

 

「おぉ、気付いたかい高嶺君。流石、付き合いが長い幼馴染みといったところか」

 

「おさななじみ…?…っ!」

 

 最初にこの異常な現象に何らかの心当たりを抱いたのは高嶺だった。それを悟った朔夜さんが高嶺を褒め、その褒め方に俺が違和感を抱く。

 

 そして、気付く。朔夜さんが口にした幼馴染みという単語から、頭上の蝶達が向かう方向に何があるのかを思い出す。

 

「墨染神社…!」

 

「正解。この散歩の目的地は墨染神社。そして、お店での質問の答えもそこにある」

 

 高嶺だからこそ俺達よりも先に気付き、更に朔夜さんが口にした幼馴染みという単語。

 そこから導き出される答えは一つしかない。

 

 墨染神社。確かに蝶達が飛んでいく方向にはそれがある。

 だが一体何故。墨染神社で何が起きているのだろうか。そして、墨染神社には一体何があるのだろう。

 

 再び歩き出した朔夜さんに続く。

 墨染神社に近付くごとに空を飛ぶ蝶の数が多くなっていくが、それだけじゃない。空に伸びる、蝶が形成する光の帯が四方から墨染神社に向けて集まっている。

 そしてその中心、墨染神社は淡い青色の光に包まれていた。

 

「何だよ、これ…」

 

 鳥居の前で、神社の現状を目にした高嶺が呆然と呟く。

 その呟きの直後、何も言わないまま朔夜さんが鳥居を潜り境内へと足を踏み入れる。

 俺達も彼女について行き、境内へと踏み出す。

 

「─────」

 

 途端、空気が変わる。

 鳥居を潜る前は冬の刺すような寒さから、突然空気の冷たさが身体に纏わりつく様に感覚が変わる。

 

「っ…」

 

 視界の端で、俺の隣を歩くナツメが体を震わせたのが見えた。

 視線を向ければナツメの横顔が見える。ナツメの表情が青くなっていた。

 夜の外が寒いからこうなっているのではない、というのはすぐに分かる。ナツメも、そして他の皆もまた俺と同じ感覚を味わっているのだろう。

 

「…やぁ。久し振りだね」

 

 すると突然、朔夜さんが足を止めたかと思うと明後日の方へと視線を向けて、何かに対して挨拶をし始めた。

 

 朔夜さんの視線を追い掛けて、俺もそちらに目を向ける。だが、何もいない。

 正確には朔夜さんが見ている方でも大量の蝶が飛び回っているのだが、朔夜さんはそれを見ていない。

 

「私の顔なんて見たくもないだろうし声も聞きたくないだろうけど、姿を見せてもらえないかな」

 

 穏やかな声で見えない何かに語り掛ける朔夜さん。しかし、俺達が見ている先で景色の変化はない。

 

「…千尋。意識を集中させて見てごらん」

 

「え…。─────」

 

 こちらを見ないまま朔夜さんにそう言われ、とりあえずそれに従ってみる。

 意識を集中させ、自身の意識を接続。直後、瞳に映る世界が広がりを見せる。

 そして、広がった視界の中に見た事のない()()は映っていた。

 

「赤い、蝶…?」

 

「千尋…?」

 

 ()()は、他の蝶と比べて明らかに大きなサイズをしていた。だが何より目を引くのは、鮮やかな青い光を発する他の蝶とは違ってどこかおぞましさすら感じさせる赤い光を発していた事。

 その赤い蝶は未だにナツメ達には見えていないらしい。しかし確かにそいつは俺達の目の前にいた。

 

「朔夜さん、こいつは…」

 

『…私が見えている方がいらっしゃるのですね』

 

 こいつは一体何者なのか、そう朔夜さんに問い掛けようとした時、境内に女性の声が響き渡った。

 この神社に来た俺達の中の誰かじゃない。ナツメとも明月さんとも朔夜さんとも違う、別の誰かの声。

 

 どこか固く、緊張を感じさせる声が続く。

 

『それに…、私と似た方まで連れてきて…。今更私に何の用でしょう』

 

「聞くまでもなく君なら分かっているだろう?それよりも早く姿を見せてくれないか。見えている千尋はともかく、他の彼らが戸惑っている」

 

『…』

 

 少しの間声が聞こえなくなる。かと思うと、突然赤い蝶が光り始めた。周囲に赤い光が広がっていき、やがて収束していく。

 

「…え?」

 

 光が収まった時、何かが変わったかというとそうではなかった。赤い蝶がどこかに移動したとか、姿が変わったとかそんな事は全くない。

 ただそれは、俺が視界に赤い蝶を捉えられていたからこそそう感じるだけで、俺とは違って赤い蝶が見えなかったナツメ達には違った。

 

「本当に…赤い…」

 

 先程の光が収まって、ナツメ達にもあの赤い蝶を見られる様になったらしい。

 今まで朔夜さんが見ている方を見ながら微妙にそれぞれ違う所を見ていた視線が一ヶ所に、確かに赤い蝶に向けられている。

 

「…先程の声は、貴女のものか」

 

『はい』

 

「馬鹿な…。蝶が意思を持ち話せるなど聞いた事がない…」

 

 赤い蝶と言葉を交わすミカドの声が震えている。

 

 そう言われれば確かに、言葉を話す蝶には出会った事がない。

 蝶の記憶を覗き、蝶の声を聞いた事はあってもあれは言葉を交わしたとはいえない。

 ミカドの言うように意思を持ち、人と言葉を交わせる蝶はこの赤い蝶が初めてだ。

 

「彼女はね、高嶺君。君と同じなんだよ」

 

「同じ?」

 

「そう。君と同じく魂の強大な力を持ち、その力を以て奇蹟を起こして世界を変えた」

 

「な─────」

 

 驚きと共に皆が赤い蝶へと視線を向ける。

 そんな中、驚愕の言葉を口にした張本人である朔夜さんは言葉を続ける。

 

「ただ一つだけ、君とは違う点があってね。まあそれは今のこの状態を見れば分かると思うんだけど」

 

 朔夜さんが言う、高嶺と赤い蝶との違い。それが何なのか。

 先程と同じ様に、朔夜さんの台詞を思い返し、一部を読み取ってその違いが何なのかを導き出す。

 

「…まさか」

 

「千尋は分かったみたいだね。…そう。彼女はね、奇蹟を起こした報いとして殺されているんだよ。といっても─────」

 

 高嶺と同じく奇蹟を起こし得る力を持ちながら、高嶺とは違う境遇を持つ。何故か蝶と成り下がり、現世に留まり続けている。

 こうやって状況を整理すれば考えられるのは一つしかない。

 

 彼女は殺されたのだ。()()()()()()、奇蹟を起こした報いを受けたのだ。

 しかも、それだけではなく─────

 

「彼女を殺したのは私なんだけどね」

 

 彼女を殺した本人が、彼女の目の前にいる。

 なるほど、最初に聞こえてきた声に緊張を感じたのはそのせいか。

 

 自分を殺した張本人が目の前にいる。そんな状況に遭えば誰だって警戒する。

 何をしに来たのか。自分を消しに来たのか、と。

 

「殺した…って…」

 

「さっきも言ったけど、彼女は奇蹟を起こした。君が特別なだけだよ高嶺君。一度奇蹟を起こすだけでも殺す、或いは魂を刈る。奇蹟を起こすというのは本来、それ程の重罪なんだ」

 

 高嶺は奇蹟を起こしている。それも二度も。

 一度目は自分の死を改変し、二度目は過去へと渡って未来の記憶を一時的に植え付けた明月さんと再会した。

 

 本来ならば高嶺は殺され、魂ごと存在を刈り取られて転生の機会を失っていた。それでも今、生きていられるのは愛の奇蹟ともいえる出来事によるものというのが何とも皮肉な所だが。

 高嶺は奇蹟に殺されかけ、奇蹟によって生き延びている。

 

『世間話はもう良いでしょう。私に何の用なのか、本題に入ってください』

 

「いや。悪いがもう少しだけ付き合ってくれ。彼らに君と奴の話を聞かせる約束なんだ」

 

『何故、そんな話を─────』

 

「聞かなくとも分かるだろう?三百年現世に留まり続けた君なら、生前見えなかったものも見えている筈だ」

 

『…』

 

 赤い蝶がこちらを向く。

 彼女の、といえばいいのか。両目というのは俺の目にはよく見えない。だが、じっとこちらを見られている様な気がした。

 

「彼らはあいつに狙われている。本当に迷惑な話だよ。男女の壮大な修羅場に無関係な子供達が巻き込まれているんだから」

 

『…あの方が怒っているのは』

 

「私のせいだと?違う。あいつの忠告を無視して奇蹟を起こした。…愛する男を信じきれなかった君の自業自得だろう?」

 

『…』

 

 朔夜さんが言うあいつ、というのがあの男神の事なのは何となく分かる。

 だがそうだとしたらその後の台詞が気にかかる。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 何だそれは。それではまるで─────

 

「あいつは君に言っていたね。我慢しろと。出来なければ徒労に終わるどころか二人とも死ぬぞ、と。…それなのに君は」

 

『もういいでしょうっ』

 

 言葉を続けるごとに朔夜さんの表情が険しくなっていく。これは苛立ちだろうか。

 まだ朔夜さんと赤い蝶の間にかつて何があったのかは分からない。ただもうとっくに感じてはいたが、この二人の間柄は決して良好ではなさそうだ。

 

 そして朔夜さんの台詞に割り込む形で大声が上がる。

 響き渡る大声は、赤い蝶のもの。これまで固くなりつつも静かに朔夜さんと言葉を交わし続けていた彼女の突然の大声に、思わず目を見開く。

 

「…そうだね。話が脱線するところだった」

 

 朔夜さんは一度目を瞑り、先程までよりも落ち着いた声でそう言った後に俺達の方へ振り返る。

 

「ここまでの話で察しはついているだろう。彼女は昔、あいつと恋に落ちていた。まあ、結ばれたという訳ではなかったが」

 

 朔夜さんの口から語られたのは大方俺の想像通りのものだった。

 やはり彼女とあの神との間には只ならぬ縁があったらしい。しかし、結ばれていないというのはどういう事なのか。

 

「人間と神が恋に落ちる…。そんな事が…」

 

「珍しい事ではあるけどね。でも、前例がない訳じゃない。千年以上前にも同じ様な人間と神がいたらしいし」

 

「…?」

 

 信じられない様子で震えた声で呟く明月さんに、朔夜さんが淡々と言葉を返す。

 だが、気のせいだろうか。一瞬、朔夜さんの目に僅かな物悲しさを感じたのは。

 

「それでここからが本題。あいつが千尋の目を狙うのは、これが原因」

 

「…申し訳ありません、朔夜様。これが原因、とはどういう─────」

 

「だから、生き返らせようとしてるんだよ。こいつを」

 

「─────」

 

 そちらに目を向けないまま赤い蝶に親指を指して言う朔夜の台詞の意味が理解しきれず聞き返すミカドに、またもやばっさりと、簡潔に返答する朔夜。

 だが今度の回答は余りに単純明快な()()だった。

 

「死者蘇生…!?千尋の瞳は、それすらも可能にするのですか!?」

 

「さあ?分からない」

 

 動揺しながら更に聞き返すミカドに向けて困ったような笑みを浮かべながら首を傾げる朔夜さん。

 

「だけど、星詠みの瞳は星から力を引き出す事が出来る。もしかしたら、可能なのかもしれない」

 

「─────」

 

 ミカドだけでなくこの場にいる全員が絶句し、言葉を失う。

 だが誰が一番驚いているかと問われれば、間違いなく瞳の主である俺だ。

 

 今までもやばい目だと思ってはいたが、それでもまだ足りないらしい。

 死者蘇生?そんなもの、星が嫌う奇蹟そのものじゃないか。何故奇蹟を起こし得る力を俺が持ち、しかもそれを見逃し続けているのか。

 

「とにかく、今まではあいつがやかましくなりそうだから見逃してきたけど、そろそろ限界だ」

 

 朔夜さんの声色が変わる。先程よりも険しく、しかし苛立ちは感じさせない。

 それでも他者に有無を言わさない迫力と強制力を感じさせる。

 

「答えろ。お前の望みは何だ」

 

『…』

 

「何故現世に留まり続ける。何がお前を縛り付ける。私への恨みか?あいつへの慕情か?それとも─────」

 

 女神は赤い蝶へと振り返り、質問を投げ掛ける。すると不意に言葉を途切らせて少しの間沈黙し、赤い蝶をじっと見つめる。

 

「娘への未練か?」

 

『─────』

 

 赤い蝶は黙ったまま。しかし、小さく誰かが息を呑んだ音がした。

 それが赤い蝶のものだったのかは定かではないが、朔夜さんが大きく息を吐いた。

 

「…なるほど、全てか」

 

 そして朔夜さんの口から出てきた答えは俺達の想像を越えていた。

 朔夜さんが口にした三つの答え。その内の一つかと思いきや、まさかの三つ全て。しかも赤い蝶はその台詞に対して否定を返さない。図星、という事だろうか。

 

「娘に関しては努力をしよう。同じ魂を持った生き物がもしかしたらこの世界に生きているかもしれない。見つかる可能性は限りなく低いが。…だが、その他二つはどうにもならないな」

 

 無機質な、感情の籠っていない声で朔夜さんは言う。

 

「まず一つ目。私は君に悪い事をしたとは思っていない。君が私に恨みを抱くのは筋違いだとすら思っている。何故君の逆恨みに私が付き合わされなくてはならない?」

 

「朔夜さん、そんな言い方…」

 

「そして二つ目。これは論外だ。君とあいつを会わせる訳にはいかない。今まで私が君からあいつを遠ざけてきた努力を不意にするつもりか」

 

『っ…。やはり、あの方が私に会いに来ないのは貴女が…』

 

「あぁそうだ。あいつが君に出会えば何をするか分からない。色々と君があいつに見つからないよう細工をしたが…、君も厄介な真似をするものだ。大量の蝶を誘引しているのは、この場所をあいつに教えるためだな」

 

 これまた突然のカミングアウトである。

 神社に来る途中で見たあの蝶の群れ。あれはこの赤い蝶が原因、しかもちゃんとした目的があった上での意図的に引き起こした現象だった。

 

「しかし残念、その努力は無駄だ。あいつはまだここには来られない。そして、ここに来られる様になる頃には君はもうこの世から消えている」

 

 朔夜さんが一歩、赤い蝶へと足を踏み出した。そのままゆっくりと、赤い蝶へ歩み寄っていく。

 

「初めからこうしておけば良かったんだ」

 

 歩きながら、赤い蝶に向けて手を伸ばす。朔夜さんは俺達に何も言わない。だが、朔夜さんが何をしようとしているかは分かった。

 

『…』

 

 赤い蝶は何も言わない。その場から動こうとしない。逃げられないのか、それとも逃げようとしていないだけなのか。

 もしかしたら、とっくの昔に覚悟は出来ていたのかもしれない。こうなる覚悟は─────

 

「待って!」

 

 朔夜さんの手が赤い蝶に触れる、直前だった。突如響き渡った制止の声に時が止まる。

 

「…どうしたのかな、ナツメ君?」

 

 足を止めた朔夜さんが振り返り、ナツメの方に視線を向けて問い掛ける。

 そう、制止の声を挙げたのはナツメだった。

 

「っ…」

 

 朔夜さんの視線を向けられたナツメは体を震わせながら言葉を詰まらせる。

 当然の反応だ。実際に視線を向けられていない俺でも身震いしそうになる。

 それ程の迫力、威圧感。神朔夜の神威が、真っ直ぐにナツメに注がれているのだ。

 

「…そ」

 

「…」

 

「そ、その人を…消すんですか」

 

「間違えちゃダメだよナツメ君。こいつはもう、人じゃない」

 

 まるで小さい子供の間違えを優しく正す、そんな言い方だった。だが、その声に感情は籠っていなかった。

 

「そういう問題じゃ、ないんです」

 

「…」

 

「可哀想、だと思います。確かにこの人はいけない事をしたのかもしれない。殺されても仕方のない事をしたのかもしれない。それでも…このまま何の未練も晴らせずに消してしまうのは可哀想だと思います」

 

「優しいね、ナツメ君は。だが、こいつに同情する価値はない。奇蹟を起こすだけならまだ良かった。殺されて、そのまま輪廻の輪に還ればこんな事にはならなかった。…理に背き、現世に意地汚く留まり続ける。それはね、君の思う以上に罪深い事なんだよ」

 

 ナツメの言葉に耳を貸さない朔夜さん。もう彼女の中で赤い蝶を刈る事は決定事項となっている様だった。

 

「大体、まるでこいつの未練を晴らしてあげたいという口振りだったけれど、どうするつもりなのかな?さっきも言ったけど、こいつの未練全てを晴らすのは無理だ。唯一可能性があるとすれば娘の事だが…それも限りなく低い。第一、彼女の娘の魂がこの時代に転生しているかすらも分からない」

 

 そう、たとえ朔夜さんがナツメの思いを良しと感じたとしても、赤い蝶の未練を晴らすのはほぼ不可能だ。

 娘の事に関しても、朔夜さんが言う通りこの時代に転生しているかも分からない。たとえ転生していたとして、何に転生しているか分からない。どこの国にいるかも分からない。人に転生しているかも分からない。

 

 それにたとえ運良く人に転生していたとして、更に運良く日本にその人がいたとして、どうやって探す。

 仮にその人が見つかったとして、どうやってここまで連れてくる。第一その人はこの赤い蝶が自身の母親だと分かるのか?

 

 赤い蝶と娘の魂を巡り会わせたとしても、結局虚しい結果に終わるのではないだろうか。

 

「…朔夜さん」

 

「…千尋」

 

 だが、だから何だというのだろう。

 愛する人が勇気を振り絞り、足を踏み出して思いを吐き出した。

 それなのに、彼氏である俺はだんまりか。いや、そうじゃない。

 

「無駄に終わる可能性が高い事は分かっています。…でも、無駄に終わると決まった訳じゃない」

 

「…」

 

「お願いします」

 

 朔夜さんを真っ直ぐ見据え、視線が交わる。

 色のない朔夜さんの瞳から目を逸らさず見つめ続ける。

 

 限界まで空気が張り詰める。誰かが息を呑む音がする。そうしてどれほど時間が経っただろう。数秒か、数分か。

 やがて、朔夜さんが目を瞑って頭を振る。

 

「三日だ。三日経ってもこの蝶がここに居座っていたら、容赦はしない」

 

 そう言うと、朔夜さんは赤い蝶へと伸ばしていた手を下ろし、振り返って俺達の方へと歩き出す。

 そのまま朔夜さんは俺達を通りすぎ、鳥居の方へ。そして、鳥居を潜って境内の外へと抜けていった。

 

「…千尋」

 

「うん?」

 

 去っていく朔夜さんの背中が見えなくなるまで見送ってから、ふとナツメに声をかけられる。

 ナツメは隣から俺を見上げていた。

 

「ありがとう」

 

「…あぁ」

 

 お礼の言葉に短く返事を返す。

 

 ナツメの笑顔を見返しながら、脳裏に過るのは去り際の朔夜さんの表情だった。

 その顔は、あの時と同じ表情だった。今回の話の中で一瞬朔夜さんが浮かべた、物悲しげな表情。それと同じだった。

 

 基本、いつも飄々としているように見える朔夜さん。先程までのように本気で怒ったり、下らない事で号泣したり。

 ただ、あんな悲しげな表情を見るのは今日が初めてだった。こんな朔夜さんを語れる程、付き合いは深くないのだが。

 

『ナツメさん。千尋さん』

 

 朔夜さんが浮かべた表情に引き込まれていた思考が戻る。

 背後から声をかけられ、俺とナツメは同時に振り返る。

 

『…どうして』

 

 振り返った先にいるのは赤い蝶。表情はないが、その声から戸惑いの感情が聞いてとれる。

 

「ただの…自己満足です。私がそうしたいと思ったから、そうしたまでです」

 

「俺も同じです。ナツメがしたいと思った事を手伝いたい。そう思ったから、そうしただけです」

 

 問い掛け、もしかしたら赤い蝶にそんなつもりはなかったのかもしれないが、俺とナツメは自分の思いを正直に打ち明ける。

 ただそうしたかったからそうしただけだ、と。貴女のためではなく、自分に従っただけなのだと。

 

『…申し訳ありませんでした』

 

「…さっきも言いましたが、俺達は」

 

『いえ、その事ではなく…。私は、私の自分勝手な気持ちであなた方を危険に巻き込んでしまった。その事を謝りたいのです』

 

 それは朔夜さんも言っていた。あの男神はこの人を生き返らせようとしている、と。

 つまり、俺の目が、ナツメ達の魂が狙われている件に関して少なからずこの人も関わっているという事。

 

「あの…、教えて頂けませんか。貴女に生前、何が起こったのか。…朔夜さんとあの神と、何があったのか」

 

『…』

 

 結局、朔夜さんは詳しくは語らず去ってしまった。今この場で俺達を取り巻く事件の元凶について知っているのは、この人だけ。

 

 彼女はしばらくの間黙り込んだ。その心中で一体何を思っているのか。話すかどうかを迷っているのか、それとも自身の生前に思いを馳せているのか。

 

『…三百年前』

 

 その時、彼女は語り始める。

 

『夫を亡くした私は、娘と二人で暮らしていました』

 

 事の始まりを。

 

『裕福ではありませんでしたが…、幸せでした。娘と笑って暮らせる人生が、幸せだった…』

 

 三百年もの間、一人の人間と二柱の神を繋ぐ因縁の始まりを。

 

『ですがそんな時、あの方は私の前に現れた』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「悪いが、貴様を殺させてもらうぞ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第七十六話






赤い蝶の生前、三百年前の過去話です。
原作の設定からかなり改変しているのでご注意を。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…何故何も言わん」

 

 目の前に立つあの方としばらくの間視線を交わし続けてから、不意にあの方はそう口にしました。

 

「俺は貴様を殺しに来たんだぞ。何故何も言わん」

 

 言われてみれば確かに、とその時私はようやく我に返りました。

 一目見た時点でこの方は私達とは違う存在なのだと察する事は出来ていました。

 巌のような外見は勿論、発せられる雰囲気に神聖さが感じられ、人間とは違うと根拠もないままこの時の私は理解していました。

 

 しかし何故でしょう。急にそんな突拍子もない事を言われたからでしょうか。

 …いえ。この時から私はあの方の心根を何となくでも悟っていたからかもしれません。

 

 どうしてもあの方が私を殺そうとしているとは思えなかったのです。

 

「…人間とはこういうものなのか?いやだが、人間とは臆病な生き物だと奴は言ってたし─────」

 

 あの方は表情は動かさないまま、しかし僅かながら動揺した様子を見せながらぶつぶつと呟きます。

 そして一度言葉を切ると、再び私の方を見て口を開きました。

 

「分かったぞ。貴様、おかしな人間なのだな」

 

「失礼な」

 

 出会って数分と経たず、私はあの方におかしな人間認定を受けたのでした。

 

「失礼なお方。私をおかしな人間と評しておきながら自己紹介もしない失礼なお方。貴方は何者なのですか?」

 

「…なるほど。おかしいと同時に貴様は無礼だな」

 

「無礼なのはいきなり他人をおかしい認定する貴方の方かと」

 

「俺は神だぞ。何故人間に礼を尽くさねばならん」

 

「かみ…?」

 

 普通、出会ったばかりの人に自分は神だと言われれば何て思うかは言うまでもありません。この時のあの方の様にその人をおかしい人だと思うのでしょう。

 しかし私はその言葉がすっと胸の中に入り、容易く納得する事が出来ました。

 

 常人離れした外見、浮世離れした神聖な雰囲気。私が抱いていた神の姿の想像とはかけ離れた姿ではありましたが、確かにどう見ても人間とは思えない。神と言われても疑いは湧いてきませんでした。

 

「貴様はほんに失礼な奴だな。まあ恐ろしい見た目をしているとはよく他の神には言われるが…」

 

 なお、私の胸の内の失礼な考えはあの方に筒抜けでした。

 それと同時に、言葉に出していない胸の内を読まれた事であの方が人外の存在である事の確信が深まったのです。

 

「それで、その神様が何故私などを殺すというのです?」

 

 そして私は核心に迫ります。

 この方が神というのなら何故私の前に現れ、私を殺そうとするのか。それを問い掛けます。

 

「…そう命令されたからだ」

 

「命令?」

 

「そうだ。貴様が危険な魂を持っているから殺せ、と。そう命令された」

 

 返ってきた答えに驚愕を隠せませんでした。何しろ神の口から命令された、なんて言葉が出たのですから。

 それではまるで、神に命令が出来る上位の存在がいると言っているようなもの。それが私には信じられなかったのです。

 

「だが、俺には分からん。貴様のどこが危険なのか。こんな簡単に首をへし折れるひ弱な女のどこが危険なのだ」

 

「…」

 

「無礼だから殺せと言われた方がまだ理解できた」

 

 一言言ってやりたい気持ちを抑えて、私はあの方の言葉を聞きながらここに何をしに来たのかを思い出します。

 手には籠に入った野菜。そうだ、早く帰って昼食を準備しなければ。あの子がお腹を空かせて待っている。

 

 しかし─────

 

「あの…」

 

「む?」

 

「娘が帰りを待っているのです。話は家で…、昼食を食べた後でよろしいですか?」

 

「…」

 

 私を殺しに来たというこの方が素直に帰してくれるのか。もしかしたら駄目だとここで殺されて─────そうなれば、あの子は一人になってしまう。まだあの子は一人で生きていける程成長していない。

 一人になったあの子を待つのは─────考えるだけで恐ろしい。

 

「せめて…。せめてあの子とお話だけでも」

 

「…」

 

 死ぬのならせめて娘と話をしたかった。死ぬ前にあの子の顔を見たかった。

 あの子を置いていくかもしれない恐怖を抱いて、真っ直ぐにあの方の目を見据えて頼み込む。

 

「お願いします」

 

 地面に両膝、両手をつき額が地面に付くまで深々と頭を下げる。

 あの方が私を見下ろす視線を感じながら、その体勢のままじっとあの方の返事を待ちました。

 

「…好きにしろ」

 

「っ!」

 

 胸の奥から希望が湧いてきたかの如く、踊る心を抑えて見上げれば、あの方は私を見下ろしたまま動いていませんでした。

 視線が交わってもあの方は私を見下ろしたまま。

 

 両目から溢れ出そうになる涙を堪えながら、私はもう一度頭を下げる。

 

「ありがとう、ございます…っ」

 

 震える声でお礼を言ってから、立ち上がって駆け出す。

 すれ違い様にもう一度頭を下げ、あの子が待つ家へと急ぐ。

 だいぶ待たせてしまった。きっとお腹を空かせているだろう。そう思い、急ぐ。

 

 そんな私の背中をあの方は見つめていました。

 

「…この女のどこが危険なのだ。教えてくれ、星よ」

 

 その呟きは、家にいるあの子で頭が一杯の私の耳には届きませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私の帰りをあの子は笑顔で出迎えてくれました。遅くなってしまった事に一言も文句を口にせず、すぐにご飯の準備に取り掛かる私を笑顔で待っていました。

 

 …その笑顔を前にすると、先程の事を口に出来なくなってしまいました。

 この笑顔が曇ってしまうと思うと、これから自分がいなくなると言えなくなってしまいました。

 

 昼食を食べ終えて、外で駆けて遊ぶあの子を見守って、疲れて眠ってしまったあの子の隣で私もお昼寝をして。

 夕方頃に目が覚めて、今度は夕食の準備を始める。夕食の匂いで起きた娘と一緒に出来上がった夕食を食べて、二人で静かな時間を過ごして。

 

 その間、あの方は私の所には来ませんでした。

 夜の帳が深まり、暗闇に包まれた外を照らすのは淡い月の光だけ。

 

「─────」

 

 娘が眠ってすぐ、家のすぐ前で足音がしました。その足音の主が誰なのかは、すぐに分かりました。

 

「お入りください」

 

 外に届くよう大きく一声掛けると、少し間を置いてから家の中に一人の男性が頭を屈めて入ってきます。

 

「…お待ちしておりました」

 

 あの方は何も言わず、私を見下ろし続けます。

 

「…逃げなかったのか」

 

 何故この場所が分かったのか、という疑問は口には出さずに驚きと共に見開かれたあの方の目を見つめる。

 

「すでに問うたが…、何故そうやって受け入れられる。貴様は何も悪い事はしておらん。そこの娘と穏やかに過ごしていただけだ。…それなのに、まるでそれが悪いかの様に、罰を受ける様にこれから貴様は殺される」

 

「…」

 

「今一度聞こう。何故貴様は俺に殺される事を受け入れられる」

 

「受け入れてなど、いません」

 

 この時のあの方の言葉には一部誤解がありました。私は死を受け入れてなんていなかった。

 

「死ぬのは怖いです。この子を置いて死ぬのは…嫌です」

 

「では何故、貴様は未だにこんな所で呑気にしていられる」

 

「…何故、なのでしょう」

 

 本音を語れば、この時の私はどうして娘と一緒に逃げようとしなかったのか。逃げずにあの方に殺されるのを待つ様な真似をしたのか、分かりませんでした。

 

「…貴方は本当に私を殺すのでしょうか?」

 

「そうしろと命じられている」

 

「誰に」

 

「俺を生んだ、謂わば親に」

 

「だから貴方はここにいる」

 

「貴様を殺すためにな」

 

「…ですが、どうしても私はこれから貴方に殺されるとは思えないのです」

 

 何の根拠もない。なのに、自分は殺されない。死なない、なんて確信を持っていた。

 この時の私はどうしてもその理由が分からなかった。

 

 その理由が分かるのは、もう少し後の事。

 

「訳が分からん。本当に貴様はおかしな人間だ」

 

「…本当に貴方は失礼な神です」

 

「…おかしくて、無礼で。貴様と話していると、貴様のどこが危険なのか。本当に貴様を殺す必要があるのか分からなくなってくる」

 

 出会ってからずっと、無を描いていた表情が僅かに和らいだように見えました。

 

「故に、見極める事にする」

 

「見極める…?」

 

「そうだ。貴様が本当にこの世界に害を及ぼす存在なのか。貴様を殺さねばならない存在なのかを見極める」

 

 視線が絡まる。

 和らいだあの方の表情に視線が吸い寄せられ、離せなくなる。

 

「…あの」

 

「なんだ」

 

「何故、家の中に上がってくるのでしょう?」

 

 あの方の動きを目で追いながら問い掛ける。

 あの方は自然に、まるでこの家に住む家族の一員かの如く無遠慮に畳の上へと上がって腰を下ろします。

 

「何を惚けた事を言っている。先程言っただろう、貴様を見極めると」

 

「は…?」

 

「しばらくここに住まわせてもらうぞ。なに、苦労はかけん。俺は神だからな、食事なども必要としない」

 

「…は?」

 

 この方は何を言っているのだろう?

 この時の私の正直な気持ちはまさに一言一句違わずこの一文そのものでした。

 訳が分からず頭の中がぐるぐる混乱する。頭の中どころか実際に頭がくらくら、眩暈のような症状が出てくる。

 

 本当にこの方は何がしたいのだろう。いえ、私を見極めると言っていたのですからそうしたいのでしょうが。

 それが何故ここに住む事になるのかさっぱり分かりませんでした。

 

「無論、住居に居座る分の働きはさせてもらう。掃除洗濯、何でも言ってくれ」

 

「そ、そんなっ。神様にそんな事させられません…!」

 

 大声が出かかりますが、眠っている娘を思い出して何とか耐える。それでも動揺は表に出てしまい、声量は少し大きくなってしまい、娘は身じろぎしていましたが。

 

「な、何故ここに住むのです…?私を見極める事とどう繋がるのですか…?」

 

「戯け。貴様を見極めるには近くから貴様の事を見るのが一番だろう。だからこの家に住み、貴様の生活を観察する。どこにおかしい事がある」

 

「─────」

 

 おかしい事しかない、と突っ込まなかった当時の私を誉めてあげたいです。

 

 結局私は押し切られ、というより初めから拒否権などなく、あの方はこの家に住まう事となったのです。

 

「…おじちゃん、だれ?」

 

「俺は神だ」

 

「かみさま?おじちゃん、かみさまなの?」

 

「そうだ」

 

「…おかーさん!かみさまがいる!」

 

 明らかに小さい子供が直視するには酷な見た目をしているのに、娘は妙に懐いて─────

 

「おじちゃん!肩車して!」

 

「…娘。俺をおじちゃんと呼ぶのを止めろ」

 

「んー?おじちゃんはおじちゃんでしょ?あと、おじちゃんもわたしをむすめってよぶのやめて!わたしには●●っていうなまえがあるんだから!」

 

「…まずは貴様が俺をおじちゃんと呼ぶのを止める事だ。娘」

 

「むー!」

 

「それと、肩車とは何だ?」

 

 あの方もしつこく構われても嫌な顔一つせず娘の相手をしてくれて─────

 

「あはははは!たかいたかーい!」

 

「…こんなものが楽しいのか、娘」

 

「うん!たのしい!」

 

「…高いところが好きなのか」

 

「んー?うん!」

 

「…そうか」

 

 でも、娘を肩車したまま空を飛び始めた時は肝を冷やしました。

 娘に怪我はなく、危険な経験をしたにも関わらずとても楽しそうにしてたので安心はしましたが…。あの方が神という事も忘れて本気で怒りを覚えて説教をしてしまい、我に返って謝り倒したのは別のお話です。

 

 当初は殆ど面識のない方、しかも男の方と一つ屋根の下を共にしている緊張というものを抱いていましたが、あの方に懐く娘につられるように私も次第に三人での暮らしに馴染んでいって─────三人で過ごす事が当たり前に感じるようになっていました。

 

「おじちゃん。おじちゃんはどうしてごはんをたべないの?」

 

「俺は貴様ら人間と違って食事を必要としない」

 

「んー?でもおいしいよ?」

 

「そうか。おいしいか」

 

「…たべる?」

 

「いや。…自分で食え。大きくなれんぞ」

 

「っ!それはやだ!」

 

 この子が生まれてすぐに亡くなってしまった亭主。この子は父親の顔を知らない。父親というものを知らない。

 もしかしたら、あの方を父親の様に見ていたのかもしれません。

 

 そして私も、気付けばあの方を─────

 

「はつ」

 

 あの方との生活にもすっかり慣れてきたある日の夜でした。

 私はなかなか寝付けず外に出て夜風に当たっていました。そんな時、家の中からあの方が外に出てきて私の方に歩み寄ってきます。

 

 あの方は私を()()、と名前で呼ぶようになりました。娘の事も娘、ではなくこの頃には名前で呼んでいた筈です。

 もうあの子の名前を、今の私は思い出す事が出来ませんが。

 

「眠れないのか」

 

「…少し」

 

 一言、私にそう声を掛けてからあの方は何も言わずに私の隣に立ちました。

 近くに寄り添う訳でもなく、かといって離れている訳でもない。そんな微妙な距離感で、私とあの方は並んで星空を見上げていました。

 

 私達の間で沈黙が流れ、聞こえてくるのは風が流れる音とそれに混じる虫の鳴き声。この沈黙がどうも気恥ずかしく感じてしまい、何か話さなければと思うのですが言葉は出てこないまま。

 

「─────」

 

 ですが、ふと私の頭の中でとある疑問が浮かんできました。

 それを問い掛けるべく私はあの方を見上げて口を開きます。

 

「あの…、今不意に思い浮かんだのですが…」

 

「どうした」

 

「貴方のお名前は、何というのでしょう?」

 

 私の中に浮かんだ疑問、それはあの方の名前。

 あの方は自分は神だとだけ告げて、それ以外の事は何も言わなかった。自身の名前でさえも。

 

 私に問われたあの方は星空から視線を私へと移して、いつもの無表情で返事を返します。

 

「名前などない」

 

「…え?」

 

 あの方からの返答に思わず呆けた声が漏れてしまう。

 

「名前が…ない?」

 

「あぁ」

 

「それは─────」

 

 名前がない。それは、何なのだろう。可哀想?不便?頭の中に浮かんだ言葉はたくさんありました。

 しかし、あの方にとって自分に名前がないのはごく自然な事であって、何も特別な事ではない。あの方の顔を見ていると、本気でそう感じているのだと察する事が出来ました。

 

 むしろきっと、私達人間全員にそれぞれ名前がある事を不思議にすら思っていたのでしょう。

 そう考えると、それは、の後に続く言葉が口から出てこなくなってしまいました。

 

「俺のような星から生まれ落ちた神は名前を持たない。()()()()()()

 

「…名前が欲しい、とは思わないのですか?」

 

「思わん。そんなものがなくとも、貴様ら親子は俺を見てくれる」

 

 真っ直ぐに私を見ながら投げ掛けられたその言葉に、つい目を見開いてしまう。

 

「はつと呼べば。●●と呼べば。…たとえ呼ばなくとも、貴様らは俺を見て、俺を呼ぶ。名前などなくとも、貴様らは俺を認めてくれている」

 

「─────」

 

「それで充分だ」

 

 ほんの少しだけ、あの方の表情が和らぐ。初めて会ったあの日にも見たあの表情に目を奪われる。

 あの時と同じ様に、柔らかい視線が真っ直ぐ私に向けられる。

 

「…貴様はどうだ」

 

「え…?」

 

「俺は…この場所で貴様らとこうして過ごしていられる事に充足を感じている。だがそれは俺個人の感情だ」

 

「…」

 

「貴様はどうなのだ」

 

 この時、少し驚いたのを覚えています。

 出会い、私達と過ごすようになってから今まで、こんな風に他人の気持ちを気にした事なんて一度もなかったから。

 だから少し、私の気持ちを気にしてくれている事に少し、嬉しさを感じてしまう。

 

「私も…、貴方と同じ気持ちです」

 

「…そうか」

 

「●●もきっと、同じ気持ちです。貴方にすごく懐いていますから」

 

「…●●はお転婆がすぎる。あちこち走り回って、この前も俺がいなければ転んで怪我をする所だったぞ」

 

 娘と二人で暮らすようになってから、幸せでありながらどこか日々が目まぐるしく過ぎていく様に感じていました。

 こんな風に誰かと、落ち着いた時間をゆっくり過ごすのは本当に久し振りで─────幸せで。

 

 叶うならこのままずっと、こんな日々を過ごしていけたらと。胸の内でそんな願いを抱いて。

 

 しかし、頭の隅では分かっていたのです。この幸せな時間はずっとは続かないと。いつか必ず、この幸せは壊されてしまうのだと。

 

 そしてその瞬間は、私が思っていたよりも早かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




次回に続く


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第七十七話





今回で過去編が終わります。
少し…というよりだいぶ早足な気がしますが、過去編をだらだら長々書いてもだれるのでこれで投稿します。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「君は一体何をしているんだい?」

 

 あの方が私の前に現れ、私達親子と共に暮らすようになってから二ヶ月程経った頃でした。

 艶やかに流れる黒い髪を靡かせて、突然彼女が現れたのは。

 

「…朔夜」

 

「いつまで経っても命令を実行する気配がないからここまで足を運ぶ羽目になった。で?何をしているんだい?随分楽しそうじゃないか」

 

 彼女…朔夜様が現れたのは空が夕暮れに染まり始めた時間帯。そろそろ家に帰って御夕飯の準備をしなければと考えた時でした。

 

 あの方の目が警戒の色に染まったのが分かりました。そして、朔夜様から漂うあの方に似た雰囲気から、この人もまたあの方と同じ存在なのだとすぐに察しがつきました。

 

 朔夜様の口振りから、彼女が何のためにここへ現れたのかは明白でした。

 

「おじちゃん?」

 

「大丈夫だ。…はつと一緒に家に帰っていろ」

 

 娘を肩から下ろして、私のもとへ行くように促す。娘は両目に心配の色を浮かべてあの方を見ながら、私の所へ向かってきます。

 

「…」

 

「…大丈夫だ。先に帰っていろ。俺もすぐに帰る」

 

 私を真っ直ぐ見ながらあの方がそうハッキリと告げる。私に出来るのは、その言葉を信じる事だけでした。

 

「今日は…」

 

「なんだ」

 

「…今日は、ご飯を一緒にたべませんか?貴方様の分も作って、お待ちします」

 

「─────」

 

 僅かにあの方の目が見開かれたのが見えました。

 今まであの方は神には食事は必要ないと、必要ないものに私の手を煩わせる訳にはいかないと、ずっと食事をとろうとしてきませんでした。

 

「…あぁ。楽しみにしている」

 

「っ…、はい」

 

 だから、この時はこうして私の作るご飯を楽しみにしていると言ってくれて嬉しかった。

 突然他の神が現れた事への不安なんて、それだけで吹き飛んでしまう程に。

 

「行きましょう、●●」

 

「うん。おじちゃん、まってるね!」

 

 二人で手を振ると、あの方も手を振り返してくれました。

 その姿を見てから私達はあの方に背を向けて先に家路へと着きます。

 歩き始めてからすぐ、あの方と朔夜様が何かを話し始める声が聞こえてきました。ですが御二人が何を話しているか、その内容までは聞き取る事が出来ず─────それでもきっと、私の事を話しているのだろうという確信だけは抱いたまま。

 家へ着いた私は()()()()食事を用意するために準備を始めるのでした。

 

 あの方が帰ってきたのは外がすっかり夜の闇に染まってしまった頃。家の真ん中では三人分の食事が並んで、娘と二人であの方の帰りを待ち始めてから半刻程が過ぎた頃でした。

 

「すまない、遅くなった」

 

 もしかしたら彼女と何かしらで決別し、争いが起こっているのではないか。そんな不安が過った頃、あの方は何ともない顔で帰ってきたのです。

 

「おじちゃん!おかえり!」

 

「あぁ、今戻った。…俺の分か」

 

 娘と挨拶を交わしてからあの方は家の中へと足を踏み入れて、そして私の分でも娘の分でもない、もう一人の分の食事を見てから私の方に目を向けます。

 

「はい。貴方様の分です」

 

「…そうか」

 

 僅かにあの方の表情が和らぐ。

 こうやってあの方が表情を和らげる回数も、ここで暮らしてから時が経つ毎に増えてきました。それだけ私達に心を許してくれているのだと、そう思って良いのだろうか。

 

 そんな事を考える中で、あの方が自分の分の食事の前に腰を下ろします。それを見てすっかり待ちくたびれてしまった娘が早速、両手を合わせて何かを期待する目で私を見ます。

 

「おかあさん!」

 

「はいはい。…それでは」

 

 私も両手を合わせ、今度は二人であの方へ視線を向けます。

 あの方はきょとんとしながら私達を見返して、そして私達が何を求めているのか察したのか、一度小さく息を吐いてから私達と同じ様に両手を合わせます。

 

「「「いただきます」」」

 

 何かを食べる前に必ず行う儀式。私達の糧になって頂く食材達への感謝の言葉。

 それを神様と共に行っているという事にほんの少しの可笑しさを覚えながら、私は勢い良く口にご飯を入れていく娘とやや慎重に食べ進めていくあの方を見つめます。

 

 娘は相当お腹が空いていたのかあっという間に食べ終わり、あの方も味が気に入らなかった訳ではなかったようで、私が作ったものを完食してくれました。

 

 食事が終わった後は私とあの方で、娘が今日は何が楽しかった、実はこんな事があったという話しに耳を傾けて。

 そんな話をしている内にいつしか娘は頭を揺らして舟を漕ぎ始め、あの方が娘の体を横にさせ、私が横になった娘に布を掛けてやるとすぐに眠りについてしまいました。

 

 娘が眠ると、家の中には娘の寝息と囲炉裏で燃える火の音だけが響き渡ります。

 

 あの方は娘の寝顔を眺めたまま何も言いません。何も言おうとしません。

 

「…あの神様。朔夜様とはどんな話をされたのですか?」

 

 なので私は、自分から聞く事にしました。

 あの方は娘の寝顔から私の方へと視線を移します。

 

「…お前は気にしなくてもいい」

 

「そういう訳にもいきません。…私の事なのでしょう?」

 

 少しの間の後、あの方からの返答はきっと私に気を使ったものだった。

 でも、そんな筈はない。朔夜様は私とは一言も言葉を交わしませんでしたが、あの方と話をしながら時折私の方へ視線を向けていました。

 

 朔夜様が何らかの興味を私に持っていた証です。

 

「…お前を殺さないのか、と問われた」

 

 私と視線を交わし続けてやがて、観念したようにあの方は一言そう言いました。

 

「私の事は、他の神様にも知られているのですね」

 

「…」

 

「貴方様は言いました。私は危険な魂を持っている、と。…その意味を今、聞いてもよろしいですか」

 

 その言葉はあの方と出会ったその日に言われたもの。

 危険な魂、それを私が持っているから私を殺しに来たのだとあの方は言いました。

 

 あれからこの日まで、ふとした時に危険な魂とは何なのか、どういう意味なのかを考える時がありました。

 ですが、ただ危険な魂と言われても詳しい事までは考えが及びません。それに、この家での穏やかな日々の中で、危険な魂というのが何なのか分からなくても良いとすら最近では思う様になっていました。

 

 しかし、そういう訳にもいかなくなった。あの方は私を殺さず、そしてそれを察知した他の神がここへやって来てしまった。

 ハッキリとあの方は口にしませんでしたが、恐らく私を殺すよう促された筈です。それでも私を殺す素振りは見せず、今までの日々を続けようとしてくれる─────。

 

 何も知らないままでいるのはここまでだと。知れば、私を見逃してくれるあの方に何か報いる事が出来るのではないか、と。

 私はあの方に問い掛けました。

 

「…お前の魂は、奇蹟を起こし得る力を持っている」

 

「奇蹟…?」

 

「そうだ。奇蹟といっても様々だ。だが共通するのは─────奇蹟が起きれば世の理が捻じ曲がるという点だ。流れ続ける時を止めて遡る。過去にはそんな奇蹟を起こす者もいたらしい」

 

「時を…。そんな力が私に宿っていると?」

 

「だから私は貴様を殺せと命じられた。奇蹟を起こす前に─────理を汚される前に殺せと」

 

 奇蹟。

 私はそうとしか言い様のない光景を目にした事はあった。

 

 近くの家の子供を冒した、医者の方もどうしようもないと言われた病が治った事。あの時は村の皆で奇蹟だ、奇蹟だと騒いでいました。

 しかし、あの方が言う奇蹟とはそれとはまるで違う別物。人の手では決して実現させる事が出来ない、その筈の理外の領域。

 

 それを私は実現させられるという。

 

「…だが、そんな力を持っていたからどうだというのだ。それを使いさえしなければ何も問題はない筈だ」

 

 両手で拳を握りながら、あの方は力の籠った口調でそう言いました。

 

「お前がどんな危険な力を持とうとも、それを使わなければ良い。それだけなのに─────何故そこまで過敏になる必要がある」

 

 それは私への言葉でありながら、私ではない誰かに向けた言葉の様に聞こえました。

 

「…俺がどれだけお前は大丈夫だと説得を試みても、聞く耳を持ってくれなかった」

 

 あの方と朔夜様との会話。それが私についての事だとは分かっていたけれど、まさか私を救うために説得をしようとしてくれていたなんて思ってもいませんでした。

 驚き、目を見開いて険しい顔をするあの方を見つめます。

 

「恐らく、俺にはもうお前を殺す気はないと奴にバレている。…奴はお前を殺そうとするかもしれない」

 

 あの方は顔を上げ、真っ直ぐに私を見ました。

 いつもの何の感情も浮かばない無の表情ではなく、真剣に、それとどこか何かを怖がっているような。それでも必死に勇気を振り絞る、そんな人間味を感じさせる表情で。

 

「はつ。…ここから逃げないか」

 

「…え?」

 

「ここにいてはいつどこから命を狙われるか分からない。ここではないどこか遠くに行って…、誰にも見つからない場所で静かに暮らそう」

 

「─────」

 

 それはまるで、あの方からの結婚の申し込みの様で。心臓が高鳴り、頬に熱が集まっていく。

 今、私の顔は真っ赤になっていると容易に自覚できました。そんな私を、真剣な表情のままあの方は見つめます。

 

「…それは」

 

 それは、とても幸せなのだろう。誰にも見つからない場所であの方と娘と、この家で過ごした穏やかな日々を過ごす。

 三人だけの日々。想像するだけで胸が踊るようでした。

 

「それは…出来ません」

 

 ですが、それを選ぶ事は私には出来ませんでした。

 

「誰にも見つからない場所、というのは一体どこなのでしょう。…どこまで往けば辿り着けるのでしょう」

 

「…」

 

 踊るようだった心境が落ち着き、やがて涙が溢れそうになる程に胸が締め付けられる。

 

「本当にそんな場所はあるのでしょうか。たとえあっても…、私とこの子の足ではそんな所まで辿り着けません」

 

「そんなものっ、俺が…!」

 

「駄目です」

 

 ─────俺が何とかする。

 あの方が言おうとした言葉を遮って、私は涙を堪えながら必死に笑おうとして─────上手くいかずにぐちゃぐちゃな顔になりながら続けました。

 

「そんな事をすればきっと…貴方様も殺されます」

 

「っ…。俺はそれでもいい!ずっと一人で…この胸に何も浮かばない日々にまた戻るくらいなら、俺はお前と…!」

 

「私は、貴方様にこれからも生きて欲しいのです」

 

 あの方の口振りからどことなく、あの方と朔夜様の力関係は窺えました。仮にあの方と朔夜様が対峙した場合、あの方は朔夜様には敵わない。だから、私に逃げようと提案してきたのでしょう。

 そして、これ以上あの方が私に深入りをしてしまえば─────私の監視という建前を越えてしまえばきっと、あの方は殺される。

 

 それだけはどうしても耐え難いものでした。

 

「…俺に生きろというのか」

 

「はい」

 

「幸せを覚えてしまった俺はきっと、あの日々を絶望するだろう。絶望の中で生き続けろというのか」

 

「貴方様を絶望から救ってくださる方と必ず出会えます。それが何時になるかは分かりませんが…、貴方様の悠久の時の中でその方は、必ず現れるでしょう」

 

「…」

 

 今にも何かを叫びたい。そんな衝動を耐えている、そんな風に見えました。

 やがてあの方は私から視線を切って、口を開きました。

 

「…()()は本当に、無礼な奴だ。この俺に偉そうに命令する人間など、殺してやりたいくらいだ」

 

「貴方様に殺されるのなら、本望です」

 

「…そうだな。他の奴にお前を殺されるくらいなら、それも良いかもしれん」

 

 あの方はどこか吹っ切れたような、何かが抜け落ちたような。そんな顔で天井を見上げながら、力のない声で続けました。

 

「だが…。情けない事だが、どうも俺はまだ()()を殺したくないらしい」

 

 今日の私とあの方との会話はここで終わりました。この後は互いに何も話さず、やがて私は眠気に耐えられなくなり、次の朝を生きたまま迎えていました。

 

 次の日、あの方はいつもと変わらない様子で娘と戯れ、昨日と同じ様にご飯を食べて、寝床につく私と娘を見守っていました。

 

 ─────私を殺したくない。

 あの方がそう言ってから時は過ぎ、やがて辺りは凍てつく寒さに包まれる季節へと変わっていきます。

 

「ごほっ、ごほっ!」

 

 娘が病に罹ったのはそんな時でした。初めは時折咳き込んで、額に手を当ててみれば少し熱い程度でした。

 一日横になって養生すれば治るだろう。そう高を括ってしまったのが間違いだったのか、それともこの時すでにどうしようもない段階まで来てしまっていたのか。それは分かりません。

 

 娘の病状は日に日に悪化していき、医者の方の治療も空しく娘は床から動けなくなるまでになってしまいました。

 苦しそうに呼吸を荒げて、額から大量の汗をかき、そして激しく咳き込む。

 

「…おかあ、さん」

 

「●●…」

 

 娘はもう昨日から何も食べていません。食欲がないのか食べたくないと言い、それでも無理矢理食べさせ、そして吐いてしまう。

 何とか水だけは飲めるようで、私を呼ぶ声を合図に水を飲ませる。

 

「…つめたい」

 

「冬だから水も冷えているでしょう?気持ちいい?」

 

「うん…」

 

 小さく笑顔を浮かべながら頷いてくれる。

 すると、娘は私から視線を離して、私と同じ様に娘に寄り添うあの方を見上げました。

 

「おじちゃん…」

 

「どうした」

 

「かたぐるま…して」

 

「…病気が治ったらだ」

 

 肩車をしてほしい、遊んでほしい、という娘の願いに一瞬言葉に詰まりながらも、あの方は娘の髪を撫でながら優しくそう諭します。

 

「おびょうき…なるのかな…?」

 

「●●…」

 

「わたし…このまま…しんじゃうのかな…?」

 

「そんな事…あるはずないでしょう…!病気が治ったら、また三人でお外で遊びましょう?今は冬だから、雪遊びが出来ますよ」

 

「ゆき…。ゆきがっせん、したい…」

 

「…っ!」

 

 力のない声で、入り口がある方に視線を向けながらそう呟く娘。その姿を見て、あの方は悔しそうに歯を食い縛り拳を握る。

 

 神であるあの方でも、娘の病気はどうにも出来ませんでした。

 元々そういった治癒の力をあの方は持ち合わせておらず、唯一あの方が知る者達の中で治癒術に長けているのはあの朔夜様だといいます。

 

 ですが、朔夜様は間違いなく手を貸してはくれない。人間の問題は人間で、もしそれで解決が出来なければそれはそれで終わらせるべき、というのが朔夜様のお考えだという。

 例外として、神側の問題に人間を巻き込んでしまった場合はまた別だというのも朔夜様のお考えらしいのですが、娘の病気はそれには当てはまりません。

 

「した、かったな…っ、ごほっごほっ!」

 

「●●!」

 

 激しく咳き込んでしまう娘の手を握る。その手は暖かいを通り越して熱い。明らかに異常な体温をしていました。

 

「おかあさん…おじちゃん…いる…?」

 

「●●…?どうしたの?お母さんはここにいますよ?」

 

「いる…。そこに、いるの…?みえない…」

 

「っ…!」

 

 虚ろな瞳で虚空を見上げながら、繰り返し娘は私とあの方を呼んでいました。

 何度も、何度も、何度も。その度に私はここにいると、あの方もここにいると。娘の手を握りながら語りかけました。

 

 次第に娘が問い掛ける感覚が広がっていき、私の手を握り返す力も弱くなっていくのが分かりました。

 

「おかあさん…おじちゃん…」

 

 そして、娘は─────

 

「だい、すき─────」

 

 その言葉を最後に目を閉じて、もう二度と言葉を発する事も、目を開ける事もなくなりました。

 

「…●●?…●●、●●。●●!」

 

 ぐったりと力をなくして床に落ちる娘の腕。それが何を意味するのか受け入れられず、受け入れようとせず、私は娘の名前を呼びました。

 何度も、大きな声で。それでも目を開けない娘の姿に現実が押し寄せ、受け入れたくないと心が叫び、やがて耐えきれずぼろぼろと涙が溢れていきます。

 

「いや!いやぁ!どうして!?どうして…!?」

 

 娘の体に─────いえ、亡骸にすがり付いて泣きじゃくる事しか出来ませんでした。

 

 どうして…どうして娘がこんな目に遭ってしまうの。どうして私から娘を奪うの。どうして私より先に死んでしまったの。

 どうして、どうして、どうして、どうして、どうして。

 

「●●…、●●…」

 

「…はつ」

 

 あの方が私の名前を呼んだのは本当に久し振りでした。ですがその喜びに浸る事など出来る筈もありません。

 ただ、娘が死んだという現実を前に泣き崩れる事しか出来ない。

 

「…いや。()()()()()()()…」

 

「はつ?」

 

「違う…。()()()()()

 

「はつ…っ、お前っ」

 

 ぼろぼろになった心にほんの少し力が湧いてくる。

 

 そうだ、()()()()()()()

 嫌ならば、どうすればいい?

 

 そう、()()()()()()()()()()()

 

「はつ!それだけは駄目だ!そんな事をしても何も変わらない!いや、変わらないどころか─────」

 

「…返して」

 

「正気に戻れ、はつ!!!」

 

「●●を返して─────っ」

 

 湧き上がる衝動をそのまま解放する。いえ、解放したつもりでした。

 

 不意に風が吹いた音がした気がしました。それと同時に、お腹の辺りがとても熱くなって…視界に何か真っ赤なモノが広がって…真っ赤な何かの向こうで、あの方が私に手を伸ばしているのが見えました。

 

 それが私が生前に見た最期の光景。

 こうして呆気なく、私の生涯は幕を下ろしたのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




次回から舞台は現代に戻ります。
千尋君視点が帰ってきます(笑)


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第七十八話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「という事でミカド。どうしたらいいと思う」

 

「いきなり他力本願とは良い度胸だな貴様は」

 

 ステラのバックルームにて俺、ナツメ、ミカド、高嶺、明月さんが集まってテーブルを囲む。

 俺達が囲んだテーブルの上にちょこんと猫の姿で立つミカドに単刀直入に問い掛けると、じとめで睨まれながらきつい返答を受ける事になった。

 

「いや、マジでどうすりゃいいか分からないし。ここは他の人の意見を聞きながら考えようと」

 

「期間は三日だぞ。そんな暇はない。…といっても、だから何をしようという考えは我輩にも浮かばんのだが」

 

 結論として、ミカドもどうするべきか分かりかねている様子。

 

 昨日、俺達は赤い蝶、()()さんから生前の話を聞き、彼女とあの男神、そして朔夜さんの因縁を知った。

 

『私は朔夜様に殺され、絶望してしまったあの方は朔夜様に牙を剥きました』

 

 はつさんが命を散らした後、男神は朔夜さんに襲いかかったという。しかし結果は返り討ちに遭い、酷い傷を負って逃走するしかなかった。

 逃げた男神を朔夜さんは追わず、以降も特に干渉はしなかったという。その間に欠け替えのない存在を失くした男神は絶望と怒りを強くし、やがて邪に墜ちていった。

 

『私は…。朔夜様の言う通り、あの方と再び会いたい。朔夜様への仇を討ちたい。…ですがそれ以上に、娘の名を思い出したいのです』

 

 一通り神と人間、三つの存在の因縁を語り終えたはつさんは自身の願いを語った。

 娘の名前を思い出したい。

 

 彼女が過去を語る中で、確かに娘の名前を口にする事はなかった。

 

『蝶として現世にすがり付いた当初は朔夜様が憎かった。あの方とお会いしたくて仕方なかった。…今もそれは変わりませんがそれ以上に、三百年の間に憎しみと渇望に飲まれて失ってしまったあの子の名前を取り戻したい。それが、今の私の一番の願いです』

 

 そう言い残して、はつさんは姿を消した。

 娘の名前を思い出す。そんな願いを俺達に託して。

 

 そして託された願いを叶えるべく行動を開始、といきたい所なのだが、何をするべきか分からずこの場にて話し合いと相成った。

 本来営業日であるお店を臨時休業して、今回の件の解決を図っていた。

 しかし話し合いにすらならない。何しろ全員、どうすればはつさんの願いを叶えられるのか分からないのだから。

 

「…時間があれば神社で調べてみよう、って話になるんですけどね」

 

 はつさんがあの場所から動かないのはその場所に縁があるから。つまり、今神社がある周辺ではつさんは生きており、そして亡くなった。

 可能性は低いが、神同士による事件なのだから文献が残っているかもしれない。神社で手掛かりを探してみるのも一つの手だ。

 

 三日というタイムリミットがなければの話だが─────

 

「でも、こうしてただ話し合うだけって訳にもいかないし…。行ってみない?」

 

 ナツメが言う。

 

 確かに、時間が残されていない中で何も行動を起こさず、話し合うだけのこの時間が勿体ないというのは一理ある。

 それならば─────可能性は低くとも行動を起こすべきなのかもしれない。

 

「そうだな…。行ってみるか」

 

 まずは何かしら行動を起こす。以上で意見が合致して、この場での話し合いは終了する。

 俺、ナツメ、高嶺、明月さんの四人で店を出て墨染神社へと向かう。

 

 昨日、朔夜さんを先頭に歩いた道と同じ道。道中、時折ナツメ達が空を見上げる事があった。

 俺も眼鏡を外して晴れ渡った青空を見上げる。昨日の夜と違って、見上げた先に蝶の群れが見える事はなかった。

 

 違うのはそれだけではない。これは昨日と比べてではなく普段、いつもと比べてなのだが人通りが少ない。

 墨染神社は街の中心部に近い場所に位置しているため、道中はそれなりに多くの人が行き交っているのだが今日は違う。

 原因は一つ、容易に考えられる。男神によって引き起こされている行方不明事件だ。被害者が多くなり、住民の危機感が募っているのだろう。

 

 お店の臨時休業に踏み切れたのもその点が関わっている。恐らくお客さんの数は少なくなるだろうし、第一神に狙われているという人間が何人も集まる店なんて危険以外の何物でもない。

 

「あれ、昂晴君?」

 

 境内周辺、鳥居も見えて来た所。鳥居の前で巫女服を着た女性が掃き掃除をしていた。

 その人は歩く俺達を見て目を見開き驚きながら口を開いた。

 

「栞那さんにナツメさん、千尋さんも。どうしたんですか?こんな所で」

 

 高嶺と一緒にいる俺達にも気付き、更に驚いている様子の巫女服姿の女性。

 

「自分家で管理してる神社をこんな所とか言ってやるなよ、希…」

 

「あははー」

 

 巫女服姿の女性、墨染さんは高嶺のツッコミを笑いながら聞き流す。

 

「それで?さっきも聞いたけど、どうしたの?家に用事?」

 

「あ、あぁ…。ちょっと調べものをしたくて」

 

「調べもの?」

 

「希。ここの神社の過去というか…、神社が建てられる前とかそういう歴史の資料って置いてあったりするか?」

 

 首を傾げる墨染さんに高嶺が問い掛ける。

 墨染さんは目を丸くして、戸惑いが更に強くなった様だが小さく考える仕草を見せながら口を開く。

 

「倉庫にそういうのあるかな…。あったとしても、お父さんに入っていいか聞いてみないと」

 

「そうか。おじさんは今どこにいる?」

 

 当然といえば当然だが、たとえ神社の娘とはいえ無断で他人を内部に案内は出来ない。

 幸い、昔の文献等の資料があるかもしれないという場所に心当たりはある様で、そこに俺達を入れて良いのかを墨染さんのお父さんに確認をとりに行く。

 

「いいけど…。どうしたんだい?うちの歴史について調べたいだなんて」

 

 墨染さんは境内周辺の掃除をしていたが、墨染さんのお父さんは境内の掃除をしていた。

 掃除を続ける父に墨染さんが話しかけ、俺達を神社の内部に入れていいか確認をとる。

 

 結果、あっさりと許可を貰えたは良いが墨染さんのお父さんが理由を聞いてきた。

 そして、墨染さんもまたお父さんと一緒にこちらを向く。こちらを見る視線には俺達を窺う色が浮かんでいた。

 

 墨染さんがお父さんとの橋渡しをしてくれたが、彼女にもまだ俺達は事情を説明していない。

 しかし、正直に事情を説明する訳にもいかない。たとえ説明したとしても信じてくれる筈もない。

 そうなれば誤魔化すしかないのだが、その材料を俺は持ち合わせていない。高嶺と明月さんも同じらしく、二人は顔を見合わせて困った顔を浮かべていた。

 

「…いや、詮索はよそう。別に悪い事を企んでる訳ではないんだろう?」

 

「それは、はい。勿論です」

 

「ならいいさ。希、案内してあげなさい」

 

 墨染さんのお父さんは深く追求はしてこなかった。

 違和感はあっただろうに。疑念を抱いただろうに。それでも高嶺と俺達を信じてくれた。

 

「ありがとうございますっ」

 

 高嶺がお礼を言ってから頭を下げ、続いて俺達も同じ様に頭を下げる。

 墨染さんのお父さんは微笑みながら気にしなくていい、と手を振り、そのまま掃除の続きをしに行ってしまった。

 

 俺達も墨染さんの案内で過去の文献や資料が保管されているという倉庫に向かう。

 

「私ここに入るのは初めてなんだよね…。うぅ、埃っぽい…」

 

 案内されたのは本殿から少し離れた大きめの木造の納屋。南京錠を外して扉を開け、墨染さんを先頭に中へと入る。

 墨染さんの言う通り、中はかなり埃っぽかった。内心マスクが欲しいと思う程には。

 

「倉庫…という割には物が少ないですね」

 

「前まではここに置いていた道具があったんですけど、今は見ての通りです」

 

 墨染さんとそのお父さんはここを倉庫と呼んでいたが、明月さんの言う通り中には物は殆ど保管されていなかった。

 入口付近に三本の、もう長年使われていない様に見える竹箒が立て掛けられているだけ。後は中に入った俺達を囲む様に置かれた棚の中にある、大量の本や紙。

 

「随分たくさんあるわね…。これは一日で調べ切れないかも…」

 

「あぁ、別にこれ全部が資料って訳じゃなくて…確かここら辺が…」

 

 棚にびっしりと保管されている大量の本と紙。これら全てを調べるのは骨が折れそうだと思いきやそういう訳ではないらしく、墨染さんは右側の棚に手を伸ばし、一冊の本をとるとパラパラと頁を捲る。

 

「うん、これこれ。ここの棚にあるのが、皆さんのお目当ての過去の文献と資料です」

 

 手に取った本が自身の目的の物だと確認した墨染さんが振り返り、先程本を抜いた棚を手で示しながらそこに俺達の目当ての物があると説明してくれる。

 

 墨染さんは棚から抜いた本を高嶺に手渡して、それから口を開く。

 

「それじゃあ私は掃除に戻りますね。掃除が終わったらお手伝いしに来ますから」

 

「え、いや。別にいいよ」

 

「いーじゃん、手伝わせてよ。それとも私を仲間外れにする気?」

 

「そ、そうじゃないけど…」

 

 じと目で墨染さんに迫られる高嶺が困惑した顔で俺達の方を見る。

 ここで墨染さんを手伝わせれば俺達の事情に巻き込む事になる、と高嶺は考えているのだろう。

 事実その通りではあるのだが、手伝いくらいは別に良さそうなものだが。

 

「む…、決めた。速攻で掃除終わらせて手伝いに来るから」

 

「え。ちょっ、希。何でそんなムキになって─────」

 

「昂晴君、首を洗って待ってろよ」

 

 ハッキリしない高嶺の態度に痺れを切らした墨染さんは物騒な言葉を残して早足で倉庫を去っていく。

 その墨染さんの後ろ姿を呆然と眺める高嶺、と俺達。

 

「関わらせたくないのは分かるけど、もう少し断り方はあったんじゃねぇの」

 

「…反省してます」

 

 二人の気の置けない間柄と墨染さんの性格を考えればあんな風に頭ごなしに断ればムキになりそうだと予想できる。

 高嶺が墨染さんを心配する気持ちは分かるが、もう少し断り方を考えるべきだったのではないだろうか。

 

「でもまあ、別にこの手伝いくらいならいいんじゃねぇの」

 

「…そう思うか?」

 

「大体もう墨染さんは─────というよりこの神社は巻き込まれてる様なもんだろ」

 

 赤い蝶、はつさんが境内に居座り、朔夜さんははつさんと男神を再会させぬべく周囲に結界を張って、そんな状況にある以上墨染家はとっくに巻き込まれているに等しい。

 俺達が考えてる以上にずっと昔から、この神社はあの三人の因縁の中心になっているのだ。

 

「とにかく今は調査だ。少しでも目ぼしいものがあったらお互い報告し合おう」

 

 俺がナツメ達に目を配らせながらそう言うと、三人は俺を見ながら頷く。

 

 それから調査は始まった。それぞれ墨染さんが示した本棚から資料を取り、目を通していく。表紙に書かれた題目と中の内容をなるべく早く、且つ丁寧に目を通していく。

 

 倉庫内では誰も喋らず、紙を捲る音だけが不規則に響き渡る。

 目ぼしいものがあれば報告し合うと言ったはいいが調べ初めてから一時間くらい経っただろうか。もしかしたらもっと経っているかもしれないが、目ぼしいものは全く見つからない。

 

 神社が建てられる前の事が書かれた文献とまでは期待していなかったが、神社なのだからここに祀られている神様の事なんかが書かれた資料等ある筈だ。

 が、見つからない。

 

 詳しくは知らないが、少なくともこの神社は百年以上或いは二百年以上もの歴史がある。

 日本全国にある神社の歴史に比べれば浅いのだろうが、それでも人の記憶の風化が起こるには充分な時間だ。

 そうした時間の中で、元々はあった資料や文献を紛失するのは考えられる。

 

 まだ棚の半分も調べ終わっていないが、一時間も全く進展がないとこう思わされる。

 ()()()()()()、と。

 

「─────」

 

 そんな諦念が過った時だった。

 先程まで読んでいた資料を他の本と重ねて、次のに移ろうと棚に手を伸ばし、新しい本を取って目の前に持ってくる。

 

 やけに古く、汚れが目立つ本だった。その本を目にした途端、何故か胸が高鳴った。

 何の根拠もない。なのに、俺の中の何かがこれだと叫んだ気がした。

 

 頁を捲っていく。俺の勘は正しかった様で、俺が手に取った本に書かれていたのは神社が建てられる前のこの地域一帯の様子。

 ここらには住民数数十人程度の集落があったらしい。この文献によれば神社が建てられたのはその集落にてとある事件があり、その事件にて一人の人間が亡くなった。その人間を哀れに思ったある神がここに神社を建ててその人間の魂を神として祀り、奉れと命じた事がこの神社が建てられた切っ掛けだという。

 

 ─────これは…。

 

 一通り文献を読み通して、どう判断すれば良いのか分からなかった。

 まず、神社が建てられる前に起きた事件。その事件というのは、はつさんが朔夜さんに殺された件と見て間違いなさそうだ。

 しかしその後、殺された人間─────つまりはつさんを哀れに思った神がここに神社を建てろと言った。ここに出てきた神というのは一体誰の事なのか。

 

 自然に考えればあの男神だ。はつさんに並々ならぬ想いを抱いていたあの神が、死んだはつさんを想ってこの神社を建てさせた。何の違和感もない、自然な流れの話になる。

 

 だが、はつさんの話によるとあの男神は朔夜さんにやられて逃げてしまったという。その後にまたここに戻ってきたのか?

 はつさんの口振りから朔夜さんにやられた傷は相当深く、癒えるまでかなりの時間を要した様に思える。そんな中で再びこの場所に戻り、神社を建てさせた?

 それが正しいと聞けばそうなのだろうと思えるが、やや腑に落ちない。

 

 ならば─────誰が?

 朔夜さんか?はつさんを殺した本人がここに神社を建てろと命じたというのか?

 それとも、二人の神とは全く別の神が神社を建てさせたのか。

 

 …分からない。分からないが、とにかくヒントになりそうな文献を見つけたのは確かだ。

 

「なぁ、この資料なんだけど─────」

 

 俺は三人の方へと振り返ってこの資料の事を報せる。

 すぐにナツメに資料を手渡して、手渡された資料にナツメ達が目を通す。

 

 そんな三人を眺めながら、俺はふと先程とは別の事を考える。

 

 ─────そういえば、何ではつさんはこの神社に居座ってるんだ?

 

 ふと浮かんだ何気ない疑問。考えられる答えは一つ、はつさんがこの場所で殺されたから。

 だが本当にそれだけか?まず第一、本当に神社が建っているこの場所で殺されたのかも俺には分からない。

 

 それに引っ掛かる事はまだある。

 

『っ…。やはり、あの方が私に会いに来ないのは貴女が…』

 

 朔夜さんがはつさんを男神と会わせない様に細工をしたと言った、その返しにはつさんが口にした台詞である。

 一見、何もおかしくない、ただ朔夜さんに恨みをぶつけただけの様に思えるこの台詞。

 

 だがよくよく考えれば、この台詞には違和感がある。

 

 ─────何故、会いに行けないではなく会いに来ない、なのか。

 

 はつさんは強くあの男神との再会を願っていた。ならば、神社の境内で待つのではなく会いに行けば良いじゃないか。

 勿論、朔夜さんがそれすら出来ない様に細工を仕掛けている可能性だってある。ただあのはつさんの台詞は、まるで男神に()()()()()()()()()()()()()様に思えた。

 

 ならもし、俺のこの仮定が正しかったとしてその理由は何だ。会いたくて仕方のない()()()との再会ではなく、他に優先している事があるというのか。

 

 ─────いや、待て。

 

 そこまで考えて、俺は今ここに俺がいる理由を思い出す。

 俺が、俺達がここにいる理由。それははつさんの願いを叶えるため。

 ではその願いとは何なのか。はつさんの願いは、娘の名前を思い出す事だった。

 

 ─────まさか、()()なのか?

 

 はつさんは言った。あの方と再び会いたいし、朔夜さんは憎い。だがそれ以上に自分は娘の名前を思い出したいのだ、と。

 

 ─────()()()()()なのか?

 

 全てが繋がった様な気がした。

 堪らず立ち上がり、倉庫を出ようと踵を返す。

 

「千尋?」

 

 突然立ち上がった俺に驚いたのだろう。ナツメが俺を見上げながら呼び掛ける。

 ナツメだけでなく、勢いよく立ち上がった俺を驚いた様子で高嶺と明月さんもまた見上げている。

 

 しかし、ナツメ達の疑問に答えてあげられる余裕は今の俺にはなかった。

 今すぐに確かめなければ。俺の仮説が正しいのかどうか。もし正しいのであれば─────朔夜さんが提示した三日というタイムリミットをクリアできる可能性が一気に高くなる。

 

 俺は倉庫を出ようと足を踏み出した─────

 

「あっ、まだ居た」

 

 所で動きを止められる。

 俺の目の前には倉庫の中を覗き込む、巫女服から私服に着替えた墨染さんの姿があった。

 

「希。掃除は終わったのか?」

 

「うん。そっちはどう?何か見つかった?」

 

「まあ…、柳がぽいのを見つけた」

 

「─────」

 

 俺の横に立ってナツメ達が見ていた、先程俺が渡した文献を覗き込む墨染さん。

 

 そんな彼女を俺は()()()()()()見つめていた。

 彼女の身体ではない。彼女の中を、彼女の持つ魂を俺の瞳で見つめていた。

 

「柳さん?どうかしましたか?」

 

 呆然とする俺に最初に気付いた明月さんが声を掛けてくる。

 その呼び掛けに答える余裕も、今の俺にはなかった。

 

「…何で気が付かなかったんだ」

 

「え?」

 

「最初から居たんじゃないか。すぐそこに、すぐ前に、すぐ傍に。はは…、何で気付かなかったんだよ」

 

 我ながら間抜けだ。今までずっとすぐ傍に居たというのに。眼鏡を外して見る機会がなかったのだから仕方ないといえばそうなのだが、こんなにも近くに居たというのに全く気が付かなかった自分が間抜けに思えてしょうがない。

 

「千尋…?」

 

「…すまん。今から説明するよ」

 

 いきなり様子が変わった俺に戸惑いを隠せないナツメ達に─────特に墨染さんには悪い事をした。

 掃除が終わって手伝いに来てみたら、いきなり俺に見つめられてしかも訳の分からない事を口走られて。

 

 その理由を今からナツメ達に説明する。

 俺が至った結論と、その結論に至るまでの経緯。

 全ての答えは、俺達のすぐ傍に()()()()()()という事を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

~Another View~

 

「くそが、くそが、くそが、くそが、くそが、くそが、くそが、くそがくそがくそがくそがくそがくそがくそがくそがくそがくそがくそがくそがくそがくそがくそがくそがくそがくそがくそがくそがくそがくそがくそがくそがくそがくそがくそがくそがくそがくそがくそがくそが」

 

 何度も何度も何度も何度も何度も、包丁の切っ先を叩き付ける。

 一心不乱に、目を血走らせ、呪詛の言葉を吐きながら、その男はテーブルの上に置かれた一枚の写真を包丁で刺し続ける。

 

「俺が、俺が、俺が、先に、先に、先に、」

 

 写真を押さえる手に何度か刃がかすり、血が飛ぶ。それに構わず、というより気付いてすらいないのか。男はひたすらに包丁を振り下ろす。

 

「先に…愛していたのに…っ!」

 

 無機質に繰り返されていた声が荒げ、それに呼応するように振り下ろされる包丁の勢いが増す。

 

 ガツン、と包丁がテーブルに刺さる音が部屋に鳴り響く。ひたすらに包丁を振り下ろし続けた男はそこで動きを止め、乱れた呼吸を整える。

 

「はぁ、はぁ、はぁ…。なんで…なんでだ…」

 

 虚ろな瞳に映る、写真に写された二人の男女。幸せそうに微笑み合う二人の姿を見て、頬に皺を寄せて形相を乱した男は写真を掴んだ手を力一杯引く。

 

「何でなんだよォッッッッッッッッッ!」

 

 破れた写真には目もくれず、男はまるで操り手を失ったマリオネットの如くふらりと床に倒れる。

 再び瞳は虚ろに戻り、虚ろな瞳は暗闇で浮かぶ天井を見上げる。

 

「おれが…さきだったのに…」

 

 荒れた唇から溢れる虚ろな声。

 

 こんな男の姿を、闇の中から覗く者が居た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ─────良イ憎シミダ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




誰か分かるかな?覚えてる人は居るかな?(wktk)


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第七十九話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 静まり返る夜道。時折吹き荒ぶ風が体を震わす。

 周囲に人の気配はない。ここにいるのは俺達だけ。

 

 目の前にあるのは赤い鳥居。その奥に見えるのは墨染神社の本殿。俺達は何も言わないまま、境内の中へと足を踏み入れた。

 途端、空気が変わった様な気がした。真冬のそれも真夜中の冷たい寒気の中にどこか温もりがある。

 

 その温もりを感じさせるのが何なのか、俺達はもう知っている。きっと、もう俺達がここにやって来た事にその人も気付いている。

 

「はつさん」

 

 本殿の前で立ち止まり、一息置いてからその名前を呼ぶ。

 口から出した声が闇に溶けていく。余韻も何もなく、辺りに沈黙が流れる。

 

 その中で、俺達の前にどこからともなく一匹の蝶が現れた。

 赤い鱗粉を散らしながら羽をはばたかせて現れたその蝶は俺達の前ではばたきを止める。

 

『…よく気が付かれましたね』

 

 はばたきを止めても空中に留まり続ける蝶から聞こえる女性の声。

 はつさんが発した声には隠しきれない驚きが込められていた。

 

「貴女が何故あの神に自分から会いに行かずにこの神社に留まっているのか。その理由を考えるとこの結論に至りました」

 

『…そうですか』

 

 はつさんの言葉にそう返事を返すと、今度はどこか諦念が籠った声で短く一言を漏らした。

 

 先程のはつさんの台詞は自身が近くにいる事に気付いた事に対してではない。

 俺の後ろにいる彼女をここに連れてきた事へのものだ。

 

「…お母さん、と呼べば良いのかな」

 

『いいえ。…三百年前はそうだったというだけで、今の私は貴女の母ではありません。()さん』

 

 後方から聞こえてくる、地面を踏みしめる足音。その足音は俺のすぐ隣で止み、同時にその場所ではつさんに語り掛ける声がする。

 

 俺の隣に立つ少女、墨染さんにはつさんが返事を返す。かつて、自身の娘()()()存在と顔を会わせ言葉を交わす。

 今、彼女の心中はどうなっているのだろう。()、と墨染さんを呼んだその一言が物語っている気がする。

 

「三百年前に亡くなった貴女の娘の魂は転生を続けていた。そして巡りめぐって、この神社の娘として生まれ落ちた」

 

「貴女はずっと見守っていたのでしょう?希さんの…貴女の娘の魂の行く先を」

 

『…いいえ』

 

 ミカドと明月さんが発した言葉をはつさんが否定する。

 

 羽から舞う赤い鱗粉の量が増えた様に思えた。

 

『私が娘の事を思い出したのはここ最近─────。それまではあの方に会いたい気持ちと、朔夜様への恨みが私を突き動かし続けていました』

 

 はつさんから発せられる声がはっきりと木霊する。

 その声の中に小さいながらも確かな激情が込められているのが感じ取れた。

 

『世界中を飛び回りました。あの方を探して…、あの方にお会いしたくて…。けれど、あの方の存在を感じる事すら出来なかった。すぐに分かりました。朔夜様が私とあの方を会わせない様に仕組んでいるのだと』

 

 どこへ行っても会いたいと請い願う相手と邂逅できず、しかもそれが自身を殺した相手によって引き起こされている事だと悟ったはつさんの心境は想像するに容易い。

 

『絶望した私が辿り着いた場所が…この神社でした。特に意識をした訳ではありません。それなのに…、疲れきった私は無意識に、この場所に帰ってきたのです』

 

 はつさんが墨染さんを見た、様な気がする。

 

『その時初めて、怒りと妄執に囚われていた私は娘の事を思い出しました。あの子を産んだ時の事を…、あの子が嬉しそうに笑う顔を…、あの子が怒って泣いた顔を…。あの子との幸せな日々を思い出しました。ですが私は、あの子の名前だけ思い出す事が出来なかった』

 

 娘との日々を思い出しながら語っているのだろう。はつさんの声は先程とは打って変わって幸せに満ちていた。

 しかしそれも少しの間だけ。すぐに、はつさんの声は沈んでいく。

 

『…私は母親失格です。自分がつけた娘の名前を忘れたまま他の事に現を抜かしてしまう愚か者です。そんな私が貴女の名前を思い出そうとする事がどれだけ許されざる事かは分かっています』

 

「そんなことないっ…!」

 

 ひたすら続く痛々しい懺悔に耐えきれなくなった墨染さんが口を開く。

 

「忘れた事を思い出そうとして何が悪いの?失くした物を探して何が悪いの?貴女は…お母さんは何も悪くない!」

 

『…希さん』

 

「違うでしょ!?貴女にとっての…お母さんにとっての私は──────」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時は二日前に遡る。俺が墨染さんの魂を星詠みの瞳で覗き、全てを悟ってからの話だ。

 あの後俺達はすぐに散らかしてしまった資料を元の場所に片付け、墨染さんも連れてステラへと戻った。

 

「希が赤い蝶─────はつの娘だと?」

 

「間違いない。この瞳で確かに見た」

 

 俺が導き出した結論を耳にしたミカドが驚き目を剥く。

 

 ミカド以外の、ナツメ達にはステラに戻る道中で説明していたためこの場では驚いていないが、始めに話した時はミカドと全く同じ反応をしていた。

 

 そして当のはつさんの娘の魂を宿した墨染さんはというと─────何が何だか分からない様子。呆けた表情で何度も首を傾げ、疑問符を浮かべていた。

 

「赤い蝶?蝶の娘?つまり、私は芋虫だった?」

 

「違うぞ希。お前は人間だ」

 

 まあいきなりそんな話をされても混乱するだけだろう。墨染さんのフォローはとりあえず高嶺に任せておくとして、今はミカドを交えてこれからの方針について話し合う事にする。

 だがその前に、俺がこの結論に至るまでの経緯をミカドに伝える。

 

「…なるほど。あ奴は我輩達に願いを伝える以前から、娘の名前を思い出そうとしていたという事か」

 

「疑ってた訳じゃないけど、はつさんの一番の願いが娘の名前を思い出す事っていうのは確かだと思う」

 

「だろうな。請い慕う男との再会を差し置いて墨染神社に居座り、希を見ていたのだからな」

 

 はつさんが会いたいと願うあの方との再会は叶えてあげられない。だがもし、娘の名前を()()()()()()()()()()─────はつさんの現世への未練は消えるのではないだろうか。

 

「だがどうする。転生した娘の魂を見つけたのは良いが、三百年前の記憶を─────それも文献に残されていないものをどうやって辿る」

 

 そう、()()()()()ミカドが言う事が問題として立ちはだかっていただろう。

 はつさんの娘の名前なんて現代まで何らかの文献として残っている可能性は限りなく低い。

 

 だがすでにその問題を解決させる方法に見当はついている。というより、ミカドは墨染さんの魂を俺が覗いたというのをもう忘れているのだろうか?

 

「俺が覗くよ。今度は墨染さんの魂の深い所まで」

 

「…そういう事か」

 

 という事で、またまた俺の出番である。

 

 高嶺のお陰で少しは落ち着いたか、さっきよりも冷静でいる様に見える墨染さんに歩み寄る。

 

「あの…?」

 

「悪い、少しだけ我慢しててほしい」

 

 不意に近づいてきた俺に戸惑いの視線を向ける墨染さんの肩に手を乗せる。

 

 触れられた墨染さんが小さく震える、が、そこまでだった。俺の手を振り払いはせず、やや不安げに見上げてくるだけ。

 変な事はしないという信用は得られているようでこっちも安心する。だが、まあ墨染さんが思う変な事とは違うベクトルの変な事をこれからするのだが。

 

「俺が話してた事、よく分からなかっただろ」

 

「え?…はい」

 

 お店に戻ってきて、俺達が話していた事を全て墨染さんは聞いていた。

 自分の事を話している事だけは理解できただろうが、それ以外の事はきっとさっぱりだった筈だ。

 

「多分、墨染さんと俺はこれから同じ景色を見ると思う。それを見終えたらきっと、俺達が話してた事の全てが解る」

 

「…」

 

「…始めるぞ」

 

 そして今、俺が話している事も墨染さんには理解しがたい話だった筈。それでも、俺に身を委ねてくれる事に感謝しながら意識を集中させる。

 

 目を閉じれば先程まで広がっていた視界が閉じられ、暗闇が広がる。

 しかし意識を集中させる毎に闇に塞がれた筈の視界の奥に小さな光が浮かぶ。その光を手繰り寄せていく。

 

 光は広がり、広がった光の奥には見覚えのない景色。風に揺られる草原が、その草原に立つ一人の女性が。

 女性は微笑みながらこちらを見守り、風に撫でられる髪を押さえながらやがてこちらに歩み寄ってきた。

 

『待って、──』

 

 口を開いた女性が呼んだその名を、確かに俺と墨染さんは耳にしたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お母さんにとっての私は、()()でしょう!?」

 

『─────』

 

 はつさんが息を呑む。

 

 そう、俺と墨染さんが覗いた魂の記憶の中で確かに彼女は、()()と呼んだ。

 記憶を追体験する俺達の方を、つまりはつさんの娘の方を見て。()()と呼んだのだ。

 

『こと─────。こと…、こと。ことっ』

 

 はつさんは何度もその名前を反芻する。何度も何度も繰り返し、自身に再びその名前を刻み付ける。

 

『そう…そうです…!私の…娘の…、あの子の名前は…っ!』

 

 ふらり、とはつさんが墨染さんの方へと揺れ動く。

 だがはっ、とすぐに身を固まらせてその場で止まってしまう。

 

 そんなはつさんを、墨染さんは柔らかく微笑みながら見つめていた。

 

「お母さん」

 

『…違う、違います。貴女は…貴女は、ことじゃない』

 

「…今だけは、ことだよ」

 

『っ…!』

 

 その言葉で限界を迎えたらしい。再びはつさんは墨染さん─────ことへと近付いていく。

 そして、変わり果てた姿となった母は、赤い両羽を両腕の代わりにして娘を抱き締める。

 

 温もりの感じない抱擁。それでも、娘の顔は嬉しそうに綻んで、一滴の涙が目の端に浮かんでいた。

 本当の意味での三百年ぶりの親子の再会に、言葉はなかった。ただお互いに抱き締め合って、互いの存在を確かめ合う。

 

「…」

 

 そんな二人に俺は背を向けた。

 いつまでもここに、墨染さんの隣に立ったままでいられなかった。今この場に俺という存在はただの邪魔でしかないのだから。

 

 振り返った俺を迎えたのは、ずっと俺達のやり取りを見守っていたナツメ達。

 

「お疲れ様」

 

 一歩、俺の方に足を踏み出したナツメが微笑みと共に手を差し伸べてくる。

 

「…うん。ナツメも。皆も、お疲れ様」

 

 その手を掴み、ナツメの背後の皆にも声をかけてから俺はナツメと手を繋いだまま今も続く親子の抱擁に視線を向ける。

 

「─────」

 

 一瞬、目に映るべき景色と違うものを見た気がした。

 

 地面に膝をついて小さな子供を抱き締める母親と、すがるように母親の首に両腕を回して抱き着く女の子の姿。

 

「…」

 

 寄り添い合う少女と赤い蝶の姿に微笑みが溢れる。

 

 ようやく果たされた親子の再会。見ているだけのこちらですら込み上げてくる思いがある。

 実際に再会を果たした二人は俺達とは比べ物にならない喜びを噛み締めているのだろう。

 

 冷たく流れる筈の冬の風を感じない。今この時、この瞬間だけ、まるで二人を祝福するかの様に、今の時期ではあり得ない優しい温もりを感じさせる風が優しく撫でた。

 

「…誰かが来る」

 

 そんな幸せの一時に水を差す何者かの気配。俺がその気配を察知し、振り返るより先にミカドが口を開いた。

 

 俺だけでなくナツメ達が、抱き締め合っていた親子が反応し、ミカドが見つめる先へと振り返る。

 

「誰だ…?」

 

 俺達が振り返った先、鳥居を潜って境内へと入ってきたのは一人の男だった。

 ふらふらと覚束ない歩調でこちらに歩み寄ってくる男は、虚ろな瞳でありながらも真っ直ぐに、俺とナツメを睨み付けていた。

 

「人間…?馬鹿な。どうやってこの結界に侵入してきた」

 

 ミカドの戸惑いに満ちた声が響く。

 

 ミカドの言う通り、今この神社の周囲はミカドが張った結界に覆われている。目的は俺達以外の第三者に侵入されないためのもの。

 もしこの結界に侵入できるとすれば、俺とミカドの中で浮かぶ存在はたった()()だけだった。

 

 だからこそ、俺もミカドも侵入者の存在を察知した際はそいつが来たと頭に浮かんだ。

 

 実際は、俺とミカドが立てた予想とはまるで違う存在が俺達の前に現れた。

 

『…どうして』

 

「お母さん?」

 

 背後から聞こえてくる震えた声。直後、その声の主に問い掛ける墨染さんの声がした。

 

『どうして、貴方がここに…』

 

 俺達が振り返った先で、やや墨染さんから離れたはつさんが、境内に侵入してきた男を呆然と見つめている様に見えた。

 そしてその声を聞いた男がぴくりと反応し、そして俺とナツメを睨み付けていた視線をはつさんへと向ける。

 

「変ワリ果テタ姿ニナロウトモ、ヤハリ気付クモノダナ」

 

 その声はまるで古いスピーカーから発せられる音のように濁り、誰か二人の声が重なっているように響き渡った。

 

「ハツ…。迎エニ来タゾ」

 

『っ…』

 

 はつさんに向けられたその一言と、息を呑むはつさんの声で悟る。

 

 何故ここにいるのか、ここに入って来られたのかは分からない。

 しかしこいつは確かにここに存在している。今はそれだけでいい。それだけで、これからするべき事はハッキリするのだから。

 

「…久シブリダナ柳千尋。ソノ瞳、此度コソ貰イ受ケヨウ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第八十話






本当はもう少し書く予定だったけど間が空いたので投稿します。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 張り詰めた空気の中、背後にナツメ達を庇って前に出る。

 直後、肩に軽い衝撃。さっきまで明月さんの肩に乗っていたミカドが俺の肩へやって来ていた。

 

 はつさんへと向けられていた男の視線は今は俺に向けられている。憎しみと殺意が一身に注がれる。

 

「千尋」

 

「分かってる。でも…何でこいつがここに入ってこれる」

 

 もうこの男の正体は分かっている。一度対面した時と姿形は異なっているが先程のはつさんと俺への台詞から考えるに、まず間違いなくこいつはあの男神だ。

 

 しかし分からないのは何故こいつがこの神社に侵入できたかだ。

 一昨日に一度ここへ来た時に、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()と朔夜さんが言っていた。

 その細工というのがどういうものかは知らないが、少なくともそう簡単にここへ侵入される代物ではなさそうだが。

 

「ソレヲ貴様ラガ知ッテ何ニナル」

 

「っ…」

 

 再度響き渡る二重の声。

 その声を聞きながら、目の前の男を注視する。

 

 …最初にこの男の顔を見た時からどうしても気になっていた。どうも俺はあの顔に見覚えがある。

 それだけではない。俺の瞳には確かに、その男の胸部辺りに鈍く輝く二つの光が見えている。

 生きている者であれば誰にでも存在する光。本来ならば一つしか持ち得ない筈の魂の光だ。

 

 しかし目の前の男には二つの魂が存在している。

 

「…人間にとり憑いているのか」

 

 考え得る可能性はただ一つ。何らかの方法であの男にとり憑いているのだ。

 しかし分からないのは、神をその身に宿しながら身体が無事に居続けられている事。

 

 朔夜さんと星詠みの瞳について色々と話しているからこそ分かる。神と比べて人の身体は余りに脆い。

 それを思い知っているからこそ、神にとり憑かれながら無事でいられるその男がどうしても信じられない。

 

「神を宿しているだと…?馬鹿な、そんな事はあり得ん…」

 

 ミカドも俺と同じく人が脆い事を知っている。だからこそ、声を震わせながら驚愕しているのだ。

 そんな俺達を嘲るように奴が嗤う。

 

「我ノ全テヲコノ男ニ注イデイル訳デハナイ。訳デハナイガ…ソウダナ。コノ男ガ我ヲ宿シナガラ無事デイラレルノハ─────」

 

 男神の視線が始めに俺達の前に現れた時と同じ様に、俺とナツメに向けられる。

 

 そう、これも引っ掛かっていた。こいつの狙いは俺の瞳の筈。その理由であるはつさんに視線を向けたのは当然だろう。

 だがこいつは、俺とはつさんだけでなく()()()()()視線を注いでいた。

 

「柳千尋。四季ナツメ。貴様ラ二人ニ対シテノ憎シミガコノ男ノ肉体ト魂ノ存在ヲ保ッテイルカラダロウナ」

 

「─────」

 

「え…?」

 

 息を呑んだ俺の背後から小さくナツメの声がする。

 

「我ガコノ男ヲ見ツケタノハタダノ偶然ダッタガ…。驚イタゾ。アソコマデ深イ憎シミヲ感ジトッタノハ久シブリダッタカラナ」

 

 目の前に立っている見覚えがある男の姿と、奴が口にした俺とナツメに対して憎しみを抱いている人物。

 覚えが悪い俺にしては珍しく、この二つの要素から心当たりを導き出せた。

 

 といっても名前を覚えている訳ではない。確か昭久がそいつの苗字を呼んでいる所を一度聞いただけだったから、流石にそこまでは思い出せなかった。

 ただ、ナツメにその男が絡んでいた光景を俺は確かに思い出した。

 

 しかし俺に対して恨みを持つのは─────それでも逆恨みにも程があるとは思うのだが、それはまあ良いとしてもナツメに対して恨みを持つその理由が分からない。

 まさかとは思うが、冷たくあしらわれた事への苛立ちというやつなのか。それこそまさに逆恨みそのものだ。

 

 だが、本当にそれだけなのか。今こうして対峙しているだけでもあの男からの負の感情は伝わってくる。

 始めは男神からのものだとばかり思っていたのだが、恐らく俺に向けられているこの憎しみは奴だけではなく、あの男の中の感情も含まれているのだ。

 これ程に強く他人を憎む。その理由は本当に、ただの逆恨みなだけなのだろうか。

 

「サテ─────」

 

 深く沈み込んでいた思考が男神の声で引き上げられる。思考に集中しすぎていたせいで、男神の所作に注意を向けていなかった。

 我に返ったその時には、すでに男神は掌を宙に掲げて行動を起こそうとしていた。

 

 その直後、俺達の周囲で一斉に鳴り響くガラスが割れる様な破砕音。

 何が割れたのかは──────言うまでもないだろう。

 

「ミカド!ナツメ達を連れて逃げろ!」

 

 その嗤顔(えがお)は俺の言葉を嘲る様に。

 ニタリと嗤った男が俺に襲いかかってきた。

 

 意識を切り替え、頭の中でカチリと小さく音が鳴る。

 ()()()()()()()()()()合図と共に、全身が先程よりも圧倒的に軽くなる。

 それと同時に視界に映る全ての動きがスローになる。瞳に爛々と憎しみの闇を輝かせ、歯を剥き出しにしながら嗤う男は俺の喉に狙いを定め、獣の如く伸びた爪を突き立てる。

 

「っ─────!」

 

 即座に首を傾け避けようとするもかわしきれない。

 致命傷こそ避けられたものの、避け切れなかった代償は頬に切り傷として刻まれる。

 とはいえ死を避けられた事には間違いない。すぐさまその場から後方に飛び退いて相手との距離をとる。

 

 男はそんな俺を嗤顔のまま眺めているだけ。

 俺に視線を向けたまま、自身の爪の先に付着した皮膚と血を舌で舐めとる。

 

「…オ前ノ血ダ」

 

「…」

 

「モット…。モット、流セ」

 

 血を舐め恍惚とするその姿は最早人ではなく、憎しみに堕ちた怪物。

 ぞくりと奔る背筋の寒気を無視して、向かってくる怪物を迎え撃つ。

 

 この男の身体を動かしているのはあの男神の意思で間違いないだろう。先程から何やら発せられる声が二重になっている事は気になるが、身のこなしから察するにあのチャラ男がこれをしているとは思えない。

 だが、防御に差し出した腕から伝わってくる拳の衝撃は明らかに人間のそれを越えている。

 

 今、俺は星詠みの瞳の力で身体能力の底上げを行っている。以前、朔夜さんと戦った時と同じく、全力を注いでいる。

 だというのに、少しでも気を抜けば力負けしそうになる。伝わってくる衝撃に思わず顔をしかめてしまう。

 俺が言うのもあれなのだろうが、人間が出して良い贅力を完全に逸脱している。

 

「っ!」

 

 回し蹴りが左方からこめかみ目掛けて迫る。

 即座に左腕を割り込ませて防御の体勢をとるが、男の足は防御ごと俺の身体を吹き飛ばす。

 

 鈍い音と共に浮く両足。踏ん張る事が出来ないまま身体は後方へと傾き、背中から地面に倒れ込む。

 

「ごほっ、はっ…!」

 

 数メートル程吹き飛び、その勢いのまま叩き付けられた背中の痛み。肺にまで衝撃は伝わり思わず咳き込む。

 それでも目を閉じる事はなく、視線は男から逸らさない。

 

「千尋っ!」

 

「ナツメ、足を止めるな!」

 

 だからこそ、男の後方でナツメが足を止める所を。そしてナツメの声に反応し、男が振り返ってナツメへと視線を向けた所を見逃さずに済んだ。

 

「余所見を─────」

 

「ッ!」

 

「するなぁっ!」

 

 故に、奴が狙いをナツメに移す前に間に合わせる事が出来た。

 直前に視線がこちらを向いたのに構わず、奴の横顔に回し蹴りを喰らわせる。

 

 それは先程の再現の様に。俺がそうだった様に吹き飛び、転がっていく。

 それでも大してダメージはないのか、すぐさま体勢を整え両足を地面に着き、踏ん張って勢いを止める。

 

「何をしてる!早く逃げ─────」

 

 立ち止まったまま事を見守るナツメに向かって声を荒げる。

 だが言葉を言い切る前に、ナツメ達を狙う獣の姿を視界に捉えた。

 

 その獣は三本の尾を持つ狐の姿をした、以前に俺を襲ってきたあの狐で間違いなかった。

 ナツメは気付いていないが、ミカドは殺気を感じ取ったのか狐がいる方へと視線を向ける。

 しかし、遅い。ミカドの防御は間に合わない。俺もこの位置からではどうする事も出来ない。

 

 あの狐の視線、殺気の先から狙いはミカドらしいがナツメの肩に乗っている以上ナツメごと押し潰されるのは必定。

 俺はただその光景を見ている事しか出来ない。

 

「ナツメっ!」

 

 名前を呼ぶ。俺の声に反応してナツメの視線がこちらを向く。

 ナツメに向かって駆け出し、手を伸ばすが到底届く距離ではない。

 

 今の俺にはナツメを救う手立てはない。救う事は出来ない。

 ()()()

 

「…来タカ」

 

 小さく男の声が耳に届いたその直後だった。

 黒い影が猛スピードでナツメの眼前に割り込み、そして高い金属音が鳴り響く。

 

「─────」

 

 目の前に突如現れた存在を視認した瞬間、狐がその場から飛び退いて距離をとる。

 

 一方突然の乱入者は右手に握った刀を一度振るい、切っ先を狐に向けながら視線を背後、ナツメとミカドの方へ向けた。

 

「朔夜様…!」

 

「走るんだ。どこでもいい、とにかくここから離れて」

 

 突然現れ、ナツメを守った乱入者である朔夜さんは視線を背後に向けながらナツメとミカドに向けて告げる。

 

 一瞬、心配そうに揺れるナツメの視線と目が合う。

 今すぐにでも飛び込みたい。ナツメの瞳はそんな気持ちを雄弁に語っていた。

 

「逃げろ!早く!」

 

「─────っ」

 

 ナツメが俺を思ってくれる事は嬉しい。しかしそれを許す訳にはいかない。

 有無を言わさずナツメに逃げろと叫ぶと、悲しげに顔を歪ませてナツメが駆けていく。

 

()()()()…ッ」

 

 鳥居へ走る、見える背中が小さくなっていくナツメに男神が反応する。

 

 男神ではない声で、男神ではない誰かがナツメの名前を呼びながら立ち上がり、ナツメの背中を追い掛けようとする。

 

 男神が追跡の足を踏み出すよりも先に懐に飛び込む。

 数メートルの距離を一瞬にして詰め、がら空きの顎に向かって拳を振り上げる。

 

()()、オ前カッ!」

 

「くっ…!」

 

 俺の拳は狙い通りに命中する事はなく、直前に掌に掴まれ阻まれる。

 ならばと掴まれた拳を振り払ってその場から離れようとするが─────

 

 ─────振り払えないっ…!

 

 ガッチリ掴まれた拳は解放されず、拳を覆う男の五指が食い込む。

 強烈な痛みに顔をしかめながら、尚も拳を引き抜こうと試みるも男の手を振り払えない。

 

「何度モ何度モ、邪魔ヲッ!」

 

「このっ…!」

 

 振り払えないのなら、離させれば良い。

 空いている左手を握り、顔面目掛けて突き出す。

 

「─────」

 

 憎しみに満ちた男の目がギョロリ、と俺の左手の動きを追う。

 それと同時に右足を地面から離し、男の足を狙って払う。今、男の目は俺の左手に向けられている故に足の動きは見えていない。

 

「ッ!?」

 

 目論みは成功し、足払いを受けた男の体勢が傾く。先程と同じ様に拳の軌道上に掌を向けて防御をしようとしていた男が目を見開きながら視線を下に向ける。

 今頃気付いても遅い。体勢を崩した男に防御の術はない。俺の拳は狙い通りに男の左頬に命中し、男の身体は後方へと吹き飛ばされる。

 

 その際に一瞬意識が抜けたか、俺の右手を掴んでいた男の手から力が抜けて右手が解放される。

 

 拘束から解き放たれ、自由になった拳を握り吹き飛んでいく男に追撃をかける。

 男との距離を詰め、左掌と左足を前に、引き溜めにした右拳の狙いを定める。

 

 狙うは先程と同じ顔面。だが今度は頬ではなく正面、鼻っ柱を打ち抜く。そう心に定めながら溜めに溜めた力を解放して拳を突き出す。

 

「─────」

 

 直後、男の目がこちらを向く。浮いていた男の両足が地面に着き、踏ん張りを見せる。

 視界の端に男の右拳が握られているのが見えた。

 構わない。このまま拳を突き出せば相手に体勢を整える時間はない。体勢が不十分ならば力比べでも勝ち目はある。

 

 突き出した拳に奔る衝撃、それと共に拳に、腕に、全身にまで伝わってくる強烈にこちらを押し込もうと反発してくる力。

 確かに強烈だが─────いける。やはり相手の体勢が不安定なのが幸いしたか、このまま押し込める。

 確信を胸に、左足を踏み出して体勢を前に、右の拳に更なる力を込める。

 

 ─────なんで

 

 耳に聞こえたのとは違う感覚。声が聞こえたのではなく、声が響き渡ったといった方が感覚としては正しいか。

 

 ─────どうして

 

 再び響き渡る声。どこからその声が発せられているかは分からない。

 だがこの感覚には覚えがある。耳に届くのではなく、頭の中で声が響き渡る様なこの感覚。

 

 ─────俺の方が先だったのに

 

 そう、まだステラがオープンする前。墨染さんと火打谷さんがステラでバイトする事になってすぐの頃か。明月さんと一緒に涼音さんの部屋に侵入したのは。

 あの時俺は涼音さんの部屋で飛び回る大量の蝶の声を受け取った。大量の死者の無念の声を背負い、気を失った。

 

 ─────なんでお前なんだ

 

 今の感覚はまさにあの時と似ている。違うのはあの時のように聞き取れない程に無数の声を受け取っている訳じゃない事。

 

 ─────なんで俺じゃないんだ

 

 その声に聞き覚えがあり、その主が分かってしまう事。

 

「先ニ四季サンヲ好キニナッタノハ俺ナノニッ!!」

 

「っ!」

 

 吐き出された叫びと共に拳を通して伝わってくる力が大きくなる。

 こちらも姿勢を低くして体勢を固く整えながら、押し込まれないよう注意をしつつ力を込める。

 

 自由の筈の左手を使う気配は感じられない。それでも一応左手の動きにも注意を払って一歩、左足を前へと踏み出す。

 

「クッ─────!」

 

 男の口から苦悶の声が漏れる。

 それと同時に、拳を突き合わす男の右腕から突如血が噴き出した。

 

「!?」

 

 一ヶ所だけじゃない。先程血が噴き出た箇所から、男の拳から、手首から、肘から、二の腕から、肩から。

 まるで自身に備わった力に肉体が耐えきれていないかの様に。男の肉体が徐々に傷付いていく。

 

「なんで…そこまでっ」

 

 何故、そんなになってまで。いや、そうじゃない。俺が知りたいのは()()じゃない。

 

「なんで、そこまで好きなのに─────あんなっ…!」

 

 この拳を通して伝わってきた、星詠みの瞳で読み取ったこいつの想い。

 どうしてそこまで純粋に人を好きになって、それであんな風になってしまったのか。何を、どこから間違えてしまったのか。

 

 俺を憎んで、こんな風に堕ちてしまう程にナツメを好きだったこいつが、何故。

 

 知りたい、と思ってしまった。そんな俺の欲求を、瞳は読み取ってしまう。

 

「─────」

 

 故に、星詠みの瞳は働く。俺の欲望を叶えるべく、俺と同じ女の子に恋をした男の記憶を覗くのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第八十一話






こんな奴の話に一話使うなよと思われるかもしれません。
けどまあ、見てやってください。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 切っ掛けはほんの些細な事だった。落とし物を拾い届けて貰った、ただそれだけ。

 けれど、落とし物を手渡された時、正面から見たその人の姿に一目で惹かれてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 小泉雅紀は今でこそ典型的な陽キャ、チャラ男として定着しているが大学に入ってすぐは今とは真反対の性格だった。

 無造作に伸びた髪は整えないままボサボサで、身につける衣服も基本はゆったりとした動きやすさを重視したもの。

 黒縁の眼鏡を掛け、まあ今風に表すとしたら陰キャというのに相応しい風貌。

 

 とはいえ決して孤独という訳ではなく、友人は少ないながらちゃんと作り、休み時間に講堂の中心で男女のグループで騒ぐ人達を眩しく思いながらも今の自分に不満は全く覚えず日々を過ごしていた。

 あの日、あの人と出会うまでは。

 

『ねぇ。これ、落とし物』

 

 そう声を掛けられたのは教室を移動中、友人と談笑しながら歩いている時だった。

 振り返るとそこに立っていたのは自身を見上げながら何かを差し出す女の子。

 

『え?…あっ』

 

 一瞬、女の子の美貌に目を奪われそうになるが小さな掌に乗った鍵を見て我に返る。

 咄嗟にズボンのポケットに両手を突っ込み、中に何もないと確認してからもう一度女の子の掌の上の鍵を見る。

 

 それは大学に通う時に使う自転車の鍵だった。いつもズボンのポケットに入れて歩いているのだが、気付かない内に落としてしまったのをこの子が拾ってくれたのだとすぐに悟る。

 

『あ、ありがとう…』

 

『どういたしまして。次からは気を付けて』

 

 特にその子は笑顔を浮かべた訳でもない。その声が柔らかかった訳でもない。むしろ決して突き放している様ではなかったが、愛想があった訳ではなかった。

 それでも、その言葉には不器用な優しさが込められている様に感じたのだ。

 

『─────』

 

 声に魅せられてしまえばその子の所作全てに目を奪われてしまうのは自然な流れ。

 こちらのお礼に返事を返してから、横目で見流しながら振り返る姿。その際に長い黒髪が揺れる様。前方で立ち止まっていた恐らくその子の友人であろう二人に小走りで駆け寄っていく背中。

 

 その全てに視線が釘付けとなる。そして、直後に悟るのだ。

 今、自分はあの女の子に一目惚れをしたのだと。

 

 しかし一目惚れをしたのはいいものの、今女の子が走っていった方向と自分がこれから向かう教室の方向は逆だ。つまり、少なくとも自分とあの女の子は同じ学部学科ではない。

 それに学年も分からない。もしかしたら先輩の可能性だってある。というより、その可能性の方が高い。

 

 もしそうだとすれば、さっきのであの子との関わりは最後になるかもしれない。そうなる前に少しでもあの子との関わりを繋げたい。

 そうは思うものの、話しかける勇気は出ない。そうこう迷っている内に、あの子の背中は遠く離れてしまった。

 

 結局その女の子との関わりは持てず、それでも関わりを持ったところでと諦めもすぐについた。

 それなのに、ふとした時に目に焼きついたあの子の顔が脳裏を過る。

 

『四季、ナツメ─────』

 

 あの子の名前を知ったのはそれから半年ほど経った後だった。

 クリスマスが近くなり、陽の男共がこぞって彼女をデートに誘い、その全てが断られた事が知れ渡る。

 誰が言ったか、()()()()()()なんて二つ名と一緒に四季ナツメの名前と美貌は学内中に広まった。

 

『…そうか。彼氏はいないんだ』

 

 異性の誘いは全て断った四季ナツメは、クリスマスは同性の友人達と過ごしたという話を聞いた雅紀は内心安堵する。

 そしてそれと同時に、彼女の隣に立ちたいという欲望が湧いて出た。

 

 彼女と会ってから、心を惹かれてから半年。彼女を思わない日はなかった。彼女の事を考えずに過ぎた日なんて一日もなかった。こんなにも誰かを好きになる事なんてなかった。

 こんな自分じゃ彼女と釣り合う筈がない。だけど─────いつか四季ナツメの隣に現れるだろう、彼女と心を通わせる男は自分でありたいと思ってしまった。

 

 初めてファッション雑誌を買った。それに習って、初めて自分で服を買いに行った。

 初めて美容院に行った。ただ邪魔にならないよう短くするだけだった髪型を初めて整えてもらった。

 

 そうやって見た目を明るくしていくと、何故か心もまた明るくなった気がした。自分に対して全く抱く事が出来なかった自信が少しずつ持てるようになった。

 そうして変わっていく雅紀の外見と態度は周りにも伝わり、雅紀の交友関係は次第に広がっていく。そして進級する頃には、以前までは講堂の端でただ眺める事しか出来なかった陽キャグループに混じって話す事が出来るようになっていた。

 

『─────』

 

 二年に進級すれば当然、履修する科目も変わる。様々な科目の中には、他の学科の学生達と合同で講義を受けるものもある。

 

 雅紀は二年前期のとある講義にて、四季ナツメと約一年ぶりの再会を果たす。

 去年までの彼ならば講堂の端でただ眺めるだけだっただろうが─────今の彼は違う。四季ナツメに話しかける人達に混ざり、一緒に話す事が出来る。

 

 彼女が話す姿を、彼女が笑う姿を近くで見る事が出来るのだ。

 

『好きです!付き合ってください!』

 

 人生で初めて告白を受けたのは、二年に進級してすぐの事だった。

 相手は同じ学科の女の子で、雅紀がイメチェンをしてからよく話すようになった相手。

 

 告白は断った。自分には好きな人がいるから、と。相手は一筋の涙を流しながら、それでも笑ってこれからも友達でいてください、と言ってくれた。

 それからもその子とは僅かな気まずさはありながらも友人関係を続けた。自分に好きな人がいるという事を他人に言わなかったのは物凄くありがたかった。

 

 それから数ヶ月経った、夏休み中の日の事。二十歳を迎えた雅紀は数人の男女グループで飲み会に参加し、そして参加者の一人の女性とシた。初体験、つまり童貞を捨てた。

 別にその人が好きだった訳ではない。雅紀の好きな相手は一年前からずっと変わっていない。ただ、二人で酔っぱらい、終電も逃して帰れず近くのホテルで部屋をとり、その流れでヤる事になった。

 それからもその人との曖昧な関係は続いた。明確に恋人関係にある訳ではないが、週に何回かは二人で会ってどちらかの部屋、或いはホテルに行って─────そんな関係。

 

 ふと思う。もしかしたら、今の自分ならばいけるのではないかと。

 ずっと考えていた。あの子と釣り合う男になるためにどうすればいいのか。

 今なら、今の自分なら、四季ナツメと釣り合うのではないか。

 

『ごめんなさい』

 

 流石に告白するのは無謀だと分かっていた。だから、今度どこかに遊びにいかないかと誘ってみた。

 その結果、本当にあっさりと断られてしまった。断ったけど実は、なんてそんな希望も感じさせない一刀両断だった。

 本人にそんなつもりはなかったのかもしれないけれど、雅紀にはそう感じられた。

 

 何がダメなのだろう。どれだけ考えても雅紀には分からなかった。

 一度断られたからといってすぐに引いてしまうのがダメなのだと、雅紀には分からなかった。

 真剣に、何度も、本気で自分の好意をぶつけ続ければ良かったのだ。

 

 しかしその勇気を持てなかった。そこまで図々しくなれなかった。本気で好きだからこそ、しつこく言い寄る事が出来なかった。

 

『ねぇ、私たち付き合わない?』

 

 傷心中の雅紀にそう告白したのは、曖昧な関係を続けていた女性だった。そして、雅紀もその告白を受け入れる。

 正直まだ、心の中には四季ナツメが居続けていた。あんなにあっさりフラれたというのに、もしかして自分はマゾなのではと苦笑しながらも、雅紀は彼女を好きでい続けていた。

 

 付き合い始めたのは良いものの、別に互いに好き合っている訳ではなかった。だから、その実態は自分が思う恋人関係とは違っていた。

 というより、付き合う前と殆ど変わらなかった。変わった事といえば、たまにデートをしに行く様になったくらい。

 

 そんな付き合い方なのだから、雅紀の気持ちは動かない。その女性ともっと恋人らしい事をしていれば雅紀の気持ちがその女性に傾く事もあったのだろうが、他の女性と付き合いながらも雅紀の心は四季ナツメに向けられたままだった。

 

 当然、付き合いは長く続かない。相手の女性も本気で雅紀の事が好きな訳ではないため、いつしか他に想いを寄せる男が現れる。そうなれば当然、雅紀は女性に別れを告げられる。

 雅紀の初めての交際は何の味気もなく終わりを告げたのだった。

 

 以降、雅紀は特定の相手と恋人関係になる事はなかった。いつかの様に流れで誰かと関係を持つ事はあっても、それ以降の関係には至らない。

 そんな生活を続けていく内に、雅紀はふと気付く。四季ナツメにはフラれたが、自分はモテる方なのだと。

 

 だから自信を持って良いのだ。自分はもう以前までの自分とは違う。講堂の端で誰かを眺めるだけだった自分とは違う。

 また断られるかもしれない。でも少なくとも、今の自分には四季ナツメを誘う権利はある筈だ。

 

 そんな権利など、どこにもないというのに。そうやって相手を特別に見上げてしまう事こそ、四季ナツメに一番してはいけない事なのだと気付かないまま。

 

 そうして大学生にて二度目の進級。前期は何も変わらずあっという間に過ぎていき、後期に入る。

 雅紀の想いは未だに四季ナツメに向けられ続けていた。時折講義で一緒になる度に()()()()()()話し掛け、()()()()()遊びに誘う。

 

 怖かったのだ。()()()()()()行かないと、()()()()()誘わないと、断られるのは分かってる感を出さなければ誘えなかった。真剣に誘ってまた断られてしまったら、と考えると怖くて仕方がなかった。

 

『四季ナツメに彼氏が出来た』

 

 そんな噂が流れてきたのは夏の残暑も感じられなくなった秋口の事だった。

 友人に知らない男と四季ナツメが並んで歩いている画像を見せられながらそんな話をされ、本気で驚いた。

 

『彼氏じゃない。普通の男友達だから』

 

 そうしてあっさりと噂は当の本人に否定されたが、今度は別の驚きが広がる。

 ()()()、と四季ナツメは言った。あの学内の高嶺の花が、孤高の撃墜王があの誰とも知れない男を()()()と言ったのだ。

 

 思えばあの画像に写し出された彼女の表情は楽しげだった。あんな綺麗な彼女の笑顔を雅紀は見た事がなかった。

 その笑顔を向けられているのは自分ではなく、画像に写っていた冴えない男だという現実に、小さな怒りが湧いた。

 

 以降、四季ナツメが学内で知らない男と一緒にいるのを見たという話をちょくちょく耳に挟む様になった。

 その知らない男というのが誰なのかは想像するに難くはなかった。

 

 もう怖いなんて言っていられない。雅紀は学食でその男と二人きりで昼食を摂っていた四季ナツメの姿を目にして、限界を迎えた。

 

『あっれ、四季さんじゃーん』

 

 いつもの軽い調子で彼女に話し掛ける。その瞬間、雅紀が現れる直前までは真剣でありながらどこか楽しそうだった四季ナツメの表情が固まる。

 

『なになに、何の話?俺も混ぜてよー』

 

 気付かないふりをして軽い調子で話し続ける。

 

 違う、そうじゃない。

 

 分かっている。こんな感じで話し掛けるのは間違っているのは分かっている。

 恐怖を振り切って話し掛ける事は出来た。それなのに─────

 

『…なに?もしかして、噂通りこいつと付き合ってたりする?』

 

『もしそうだとして、貴方と関係ある?』

 

 どうしてこうなってしまうのだろう。雅紀は自身の失敗を内心で嘆く。だがそれだけではない。

 雅紀はあの噂が流れたその日、聞いたのだ。四季ナツメ本人にあの噂は本当なのか、と。そして噂は違うという答えも聞いた。

 

 その事を、四季ナツメは覚えていないらしい。四季ナツメにとって、自分は覚えるに値しない男らしい。

 

 自分は一体、何をやっているのだろう。

 

『ねぇ君。この人、俺に譲ってくんない?』

 

 違う。

 

『ほら、君と四季さんじゃ釣り合わないというか。君じゃあ手に負えないでしょ』

 

 違う!

 

『安心して、代わりに君ピッタリの女の子を紹介するからさ』

 

 そんな事を言いたいんじゃない!

 

『四季さんを譲る?四季さんは物じゃねぇんだよ。何だよ譲るって。王様気取りか?てめぇの方こそ調子に乗ってんじゃねぇ』

 

 本当にその通りだ。自分がどれだけ愚かか、雅紀には分かっていた。言われずとも、分かっていた。

 

 それをこの男にだけは言われたくなかった。他の誰に言われようとも、この男にだけは。

 

『四季ナツメに彼氏が出来た』

 

 またそんな話が浮上したのは二週間の年末休みが明けた初日だった。誰もがまたか、と思った事だろう。

 しかし、ある一枚の画像を目にして誰もが驚く事になる。

 

 何故ならその画像に写されているのは、以前の噂でも挙げられていたあの男と腕を組み身を寄せる四季ナツメだったのだから。

 

 自分ではない男の傍らで微笑んで、身を寄せて、幸せそうに頬を和らげるその人の姿はどうしようもなく雅紀の胸を痛ませた。

 

『付き合い始めたのはイブの日らしい』

 

 そんな声が聞こえて、雅紀はすぐに心当たりを浮かべた。

 雅紀はイブの直前、勇気を出して四季ナツメをデートに誘った。結果は失敗。雅紀はまたもや言いたい事を口には出せず、更にあの男の割り込みで食い下がる事も出来なかった。

 

 男はその時、クリスマスに彼女は自分と出掛けるのだと言っていた。その言葉に四季さんも同意していたため引き下がったが、実際は自分を引き下がらせるための方便だと考えていた。

 しかしそれは方便ではなく、二人は本当にデートをして、そしてそのデートで想いを通わせた。いや、もしかしたら前から通い合っていた想いを確かめ合ったのか。

 どちらにしても、もう希望はなくなった。それだけは確かだ。四季ナツメは自分ではない誰かのものになった。

 

『…なんで』

 

 全てが終わった。

 

『…なんで』

 

 口から漏れる疑問とは裏腹に、雅紀には分かっていた。自分は間違えたのだと。

 

『俺が先だったのに』

 

 間違えたから、好きな人と心を通わす事は出来なかったのだと。

 

 分かっていたのに、溢れる負の感情は止められないまま─────

 

『良イ憎シミダ』

 

 雅紀は邪心の声に耳を傾けてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「バカだろ、お前」

 

 全てを見終えた俺は、どことも知れぬ場所に立っていた。周囲に何がある訳でもない、どこまでも続く闇の中で()()()()()()向かい合って立っていた。

 

「…やっぱ、そうだよな」

 

「ナツメはな、最近のお前みたいなウェイ系は苦手なんだ。外見にあまりに無頓着だったり話するのにどもりまくるとか、そういうのは別として─────大体ナツメはどっちかっていうと陰キャ寄りだからな」

 

「…そうなのか?」

 

「陽キャのノリがうざいって何度も聞かされてる」

 

「…そっか」

 

 どこか憑き物がとれた、そんな穏やかな表情を浮かべてそいつは小さく笑う。

 

「やっぱ、間違えてたんだな」

 

「陽キャと陰キャとどっちがモテるかって言ったらまあ陽キャなんだろうけど…、ナツメにとっては違うって事だな」

 

「いや、俺の場合は陽キャとか陰キャとかそういう問題じゃないだろ。改めて思い返したら屑過ぎる」

 

「…まあ、そうともいう」

 

「フォローなしかよ」

 

 いやだって、実際こいつの言動屑だったし。超屑だったし。フォローのしようがないというか、仕方ないだろ。

 

「…でもさ、怖かったんだよ。ああやって軽い調子で、冗談を装ってないと。本気で向き合って、それでまた断られたらって思うと…、怖かった」

 

「…」

 

「…それが間違いだったんだよな。怖くても踏み出すべきだった。それでもフラれてたかもしれないけど…、こんな風にはならなかったんだろうな」

 

「…後悔、してるか」

 

 笑いながら、だけど震えるその声が語っていた。

 

「してるに決まってんだろ。出来る事ならあの高嶺って奴に頼んで世界を巻き戻してほしいわ。そんでやり直す。やり直して今度こそ四季さんを彼女にする」

 

「やめてくれ」

 

 なんか声のトーンがマジで洒落にならない気がした。本気でやめてほしい。今のこいつが本当に戻れたらマジで四季さんを落としかねない気がするから。

 

「…でも多分、戻ってもダメなんだろうな」

 

「は?なんで?」

 

 本気でそう思ったから、次のこいつの台詞に思わずそう聞き返してしまった。

 

「だって自信ねぇもん。俺が戻って、本気で四季さんと向き合って、それで付き合えたとして─────あんな幸せそうな顔させる自信がねぇ」

 

 俺に問い掛けに笑って、そう答えた。

 

「悔しいけど、本当に悔しいけど。心に満ちる憎しみの中でほんの少しだけ思ったんだ。きっと二人は運命の二人なんだろうなって」

 

「…小泉」

 

「柳。俺はお前を見てるからな。もしお前が四季さんを泣かしたら─────奇蹟を起こしてやる」

 

「やめろ。洒落にならんから。お前消されちゃうから」

 

 洒落にならない脅しに即座にそう返すと、小泉は冗談だよと笑い飛ばす。

 そうして一頻り笑った後、小泉は一つ大きく息を吐いてから俺の方へ視線を向けた。

 

「…今まで、そして今回の事も。悪かった。直接謝れないから…四季さんにも伝えてくれ」

 

「…あぁ」

 

 星詠みの瞳で小泉の魂を覗いた俺はとっくに気付いていたが、小泉自身も気付いていたらしい。

 それも当然か。()()()()()()()()は、自分自身が一番分かる筈だ。

 

 神という強大な存在を宿し続けた小泉の肉体は限界を迎えている。たとえ今すぐに男神が小泉の肉体から離れたとしても、もう死から免れる事はないだろう。

 

「じゃあな。…ありがとう」

 

「─────」

 

 一人の女を愛し、愛するが故に狂ってしまった一人の男の人生の終わりを見届ける。

 同じ女を好きになった男として、好きになった女と心を通じた男として、小泉雅紀の最期を見届ける。

 

 小泉雅紀は笑っていた。きっと、この笑顔が彼の本来の、心の底からの笑顔だったのだろう。

 ナツメが好きそうな、穏やかな笑顔だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




皆大好きBSSです。
え、好きじゃない?


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第八十二話






年内には完結させるぞぉぉぉおおおおおおおおおお


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 強制的に意識が引き上げられる。急速に湧き上がったその感覚に驚きながら我に返り、同時に今まで見てきたモノを思い出す。

 

 目の前には拳を合わせたまま動かない小泉の肉体。記憶を覗く直前までは感じられた拳を押し返す強烈な力はもうない。

 

 ふらり、と目の前の肉体が揺れる。力を失くした体は前方へ、俺の足下へと横たわる。

 もう起き上がる事はない、死を迎えた肉体はいつの間にかまるで老人の様に痩せ細っていた。

 

 人智を越えた力を宿した代償。その代償を受けた肉体が腐り落ちていく。

 肉体は腐って肉の残骸へ、そしてまるで焼け落ちた後の灰となって重なっていく。

 

「っ!」

 

 直後、灰が積み重なったその場所から突如黒い煙が巻き上がる。

 すぐにその場から飛び退いて様子を伺う。

 

 巻き上がる黒い煙はその量をどんどん増していき、次第に人形を型どっていく。やがて人形をとった煙の塊は色づき質量を感じさせていく。

 そうしてその場に現れたのは、以前に合い見えた時よりも禍々しさを醸す男神。

 

「…拍子抜ケダ。モウ少シ楽シメルト思ッタノダガ」

 

 つまらなそうにそう言う男神は、足下の灰に向けて指を向ける。かと思うとその指を何気なく振るう。

 それと同時に強い風が吹き荒れ、風によって男神の足下に重なった灰が飛び散っていく。

 

「中々ノ憎シミダッタガ、所詮ハ人間カ」

 

 それは自身が見出だした憎しみが容易く浄化された事に対してか、それとも自身の力に耐えきれず肉体を崩壊させた不甲斐なさに対してか。

 どちらにしても、関わり方はどうあれ同じ人を好きになった男を馬鹿にされるのは気分が良くない。

 

「千尋!」

 

 苛立ちが男神に向ける視線に籠った直後、背後から俺を呼ぶ声がすると同時に駆け寄ってくる足音。

 その足音の主、朔夜さんは俺の隣で立ち止まり、男神に視線を向けながら口を開いた。

 

「…怪我はないみたいだね」

 

「まあ、そうですね。…少し疲れましたけど」

 

 朔夜さんの言う通り怪我がある訳ではない。どこかを痛めた訳でもない。

 ただ、僅かな疲労感が倦怠を誘う。一人の記憶を覗き見たからだろうか、それ以前の戦闘も含めての疲労に襲われている。

 

「我が主神」

 

 しかしだからといって泣き言も言っていられない。一つ小さな区切りがついたとはいえ、問題はこれからである。

 

「…ヨク朔夜ヲ相手ニ堪エ忍ンダ」

 

「勿体なきお言葉にございます」

 

 朔夜さんの攻撃を受け続けたのだろう、男神の隣に降り立った狐の胴体には所々生々しい傷跡が刻まれていた。

 狐の足下には刻まれた傷口から溢れる血が溜まっている。だが、そんな状態でありながらも狐は表情を無にしたまま苦痛を感じさせない。

 

「主神よ。もう戯れはここまでにした方がよろしいかと」

 

「分カッテイル」

 

 狐が俺達を見据えて姿勢を低くする。

 

「っ─────」

 

 今にもこちらに飛び出してきそうな、そんな体勢を見せられこちらも身構える。

 

 空気が凍りついたかの様に冷たくなる。今まで全く気にならなかった空気の冷たさがやけに身に沁みる。

 寒い。だというのに、背筋にはじんわりと汗が滲む。緊張に満ち、今にも爆発しそうな空気の中で嫌な沈黙が続く。

 

 そんな沈黙は、肉を突き破る音によって破られた。

 

 吹き上がる血流、周囲に舞い散る血飛沫。

 その光景を目の前に、()()()()()()は思わず固まり、思考が停止した。

 

「は─────?」

 

 狐は、嗤っていた。その身を貫かれたまま嗤っていた。

 同士の筈の狐を貫いた男神もまた、嗤っていた。

 

「あぁ…わが…しゅしん、よ…。わたしを…あなたのさい、ごの…かて、に…」

 

「…アァ、感謝シヨウ。我ガ唯一ノ眷属ニシテ、我ヲ満タス最後ノ()ヨ」

 

 狐の胴体から男神の腕が引き抜かれる。

 腕を濡らす血が赤くテラテラと光る。

 

「あれは…?」

 

 音を立てながら狐の体が地面に落ちる。だが俺達の視線はその光景にではなく血に濡れた男神の手に握られた白く輝く球体に向けられていた。

 

「─────」

 

 男神は徐に大きく口を開けると、輝きを放ち続ける球体を口の中に入れ、喉を鳴らして飲み込む。

 

 何をしているのかさっぱり分からない。男神は狐を唯一の眷属と言い表し、狐は男神を我が主神と崇めていた。男神は狐を信頼し、狐は男神を信奉していたのは明らかだ。

 

 それなのに何故。

 狐は殺されたにも関わらず笑っていたのか。崇め奉る主神に餌と表され、笑っていられたのか。

 

 それに先程男神が飲み込んだものは何だ。白く輝くあの球体は狐の胴体を貫いた男神の手に握られていた。まず間違いなく狐の体内に存在していたものの筈だ。

 しかしあんな綺麗な球の形をした臓器なんてあるのか。いや、形の問題ではない。自ら発光する臓器なんてある筈がない。

 なら一体、あれは何だったのだ。

 

「…永カッタ。朔夜、貴様ニハツヲ殺サレテカラ三百年。我ハ人間ノ魂ヲ喰ライ続ケテキタ」

 

 不意に始まる男神の独白。

 

「ドレホドノ時間ヲ掛ケレバ─────ドレホドノ魂ヲ喰ラエバ貴様ヲ凌駕出来ルノカ。…貴様ト直接相対シタアノ時ニハッキリシテカラヒタスラニ力ヲ蓄エタ」

 

 以前に男神達が俺を襲った理由。俺の目を狙っていたとばかり思っていたが、そうじゃなかった。

 勿論、目を奪えるのならそれがベストだったのだろうが、もう一つ目的があったのだ。

 

 星詠みの瞳を奪うのに最大の障害となる、神朔夜と男神との力の差。それを確かめるための襲撃。

 眷属に俺を襲わせたのも、あの大がかりな結界も実際はブラフ。本当の目的は他にあったのだ。

 

 そして男神は計画通りに朔夜さんとの力の差を悟り、その差を埋めるべく人間の魂を集めて今。

 最後の糧をその身に宿し、俺達と相対する。

 

「…随分と嬉しそうだね」

 

 傍らに立つ朔夜さんは、今の状況に立って何を思うのか。

 その口から発せられた声からは読み取る事が出来ない。

 

「確かに今の君の力は私に宿る力を凌駕している。でも─────そのために君が三百年間してきた事を彼女はどう思うかな?」

 

 機嫌良く浮かんでいた男神の笑顔が朔夜さんの問いかけの直後、固まる。

 

「君は彼女を生き返らせると言った。だが、彼女は娘との再会を果たした今もうこの現世に未練はない。君の行動は誰のためでもない、ただの自己満足に成り果てた」

 

「…」

 

 男神は笑みを収め、真っ直ぐ朔夜さんと睨み合う。

 すると不意に朔夜さんが上空に視線を向けると、再び対峙する男神に視線を戻し、先程彼女が見上げた先を見るように首を振って促した。

 

 男神だけでなく俺も空を見上げる。そこにいたのは、一匹の赤い蝶。

 そこに浮いたまま、俺達を見下ろす赤い蝶だった。

 

「…ハツ」

 

 男神がこれまでのやり取りを見つめ続けていたはつさんを見上げ、小さく彼女の名前を呟いた。

 彼女を見上げる瞳に確かな愛おしさが奔ったのは一瞬、すぐに憎悪に染まった瞳が俺達に向けられる。

 

「自己満足デ構ワナイ。()()ノタメニハツヲ生キ返ラセタイ。貴様ニ奪ワレタ彼女トノ日々ヲ、()()取リ戻シタイ」

 

「…」

 

 男神の決意の台詞を聞き、朔夜さんは何も返さない。上空にいるはつさんも黙ったまま。

 

「ハツノタメニデハナイ。ハツヲ生キ返ラセル事モ、貴様ヘノ復讐モ、全テハ俺ノ憎シミ!欲望ニヨルモノダ!」

 

「開き直ったか…。聞いての通りだ、千尋。もうこいつはどうしようもない。高嶺昂晴や彼女の様に情けは掛けられない」

 

 朔夜さんが俺に言葉を掛けながら臨戦態勢に入る。

 

 ()()()()()()()()()。朔夜さんはそう言った。

 確かに殺さなくて済むのならその方が良いというのは確かな俺の本音だ。けれど─────分かる。もう、こいつが駄目だという事が。憎しみに染まりきったこいつに残された()()が、一つだけなのだと理解できてしまう。

 

 だから、俺の力がどこまで役に立つか分からないけれど、朔夜さんに協力をする。

 こいつを野放しにすればナツメ達を追っていくだろう。

 

「お前の好きにはさせない」

 

 一度途切れた集中を繋ぎ直す。

 自分の中で二つの意識が混ざり合い、接続したのが感じ取れる。

 

 広がる視野、鋭敏になる感覚。瞳に映るのは、光の差さない黒い憎しみの塊。憎しみの塊となってしまったモノ。

 

「─────」

 

 合図も音もなく、始まりは一瞬にして目の前に現れた男神によって告げられた。

 至近距離で交わる視線。真っ直ぐに俺の両目─────瞳に向けられる視線。

 突き出されるのは二本の指。俺の両目を抉り取ろうと、人差し指と中指が向かってくる。

 

 それを首を傾ける事で避ける。そして左手で男神の手を払い除けてから、男神の腹部を蹴りその勢いで後退して距離を取る。

 

 後退する俺を男神の視線が追う、かと思えば不意に視線が横にずれる。

 何かを察した男神は突如その場から跳ぶ。直後、先程まで男神が立っていた地面が爆発した。

 

 舞い散る泥を突っ切って、刀を握った朔夜さんが男神に向かって疾駆する。

 

 直後、朔夜さんが握る刀の刃と男神の右腕が衝突した。そう、衝突したのだ。

 鳴り響く音はこの場で鳴るべき肉を切り裂く音ではなく、硬い何かがぶつかり合った音。言い表すのなら金属音に近い音だった。

 

 そこから始まるのは舞踏にも似た二人の連続の交錯。金属音に似た音を何度も鳴り響かせながら、刃と拳をぶつけ合う。

 とはいえ攻勢に出ているのは男神の方だ。朔夜さんは基本回避に徹しながら攻撃の隙を伺い、時折刀を振るって男神の勢いに水を差す。

 

 男神の拳を振るう音が、それによって起こる風圧が少し離れた所にいる俺にまで届く。それだけで男神の拳の威力がどれ程のものか、俺は勿論、朔夜さんでも喰らえば一溜まりもない事が伝わる。

 

「…」

 

 入り込む隙がない。この場から動けない。今あの領域に飛び込んでも邪魔にしかならないから。

 

 刃と拳が、不意に肉眼では不可視の風の刃が入り交じる様になったあの二人の領域に不用意に入り込めば何も分からないまま死ぬだけだ。

 とはいえこのまま何もしない訳にもいかない。何故なら─────

 

「くっ…!」

 

 激しい交錯の中、朔夜さんの左肩の服が裂けその中に一筋の傷痕が微量の鮮血と共に走る。

 

 先程の男神の言葉。朔夜さんとの力の差を確かめ、力を蓄えたと言った。

 ならば今、こうして戦いを仕掛けているという事は自分の力は朔夜さんの力を越えたという確信があるのだろう。

 そしてその通り次第に、徐々にではあるが朔夜さんが攻勢に仕掛ける回数が減っている。先程のように小さくはあるが傷を負う回数が増えてきた。

 

「っ─────」

 

 焦るな、落ち着け。自分が出来る事を見極めろ。ここで飛び込んだって意味はない。だが、俺がここにいる意味はある筈だ。

 俺がただ足手まといになるだけならば、朔夜さんが俺をここに残しておく意味はない。ナツメ達と一緒に逃がしている筈なのだ。

 考えろ、見ろ、そして読み取れ。朔夜さんは俺に、何を求めている?

 

「─────あれは」

 

 朔夜さんが大きく男神から距離をとり、地面に着地した、その直後だった。

 開けた視界、起動を続ける瞳に確かに映った光の軌跡。それは均等に、何らずれる事なく正六角形を描いていた。そしてその六つの角の内の一つが今、朔夜さんが立っている場所。

 

「っ!」

 

 同時に悟る。朔夜さんが俺をここに残したその理由、俺が出来る事。

 まだ()()()の、()()()()()()()()その図形の中心、何もないその空間にどうにかして男神を誘導する。

 

 どういうものか詳しく分からないが、恐らくあの図形は朔夜さんが発動しようとしている魔法の陣。

 問題はどうやってあの陣の中に男神を誘い込むかだが─────いや、誘い込むも何もない。要はあの陣の中に男神を入れれば良いのだ。どんな手を使ってでも、どれだけ無理矢理に、強引にでも。

 

 朔夜さんが巧みに足を、腕を動かしながら魔法を駆使して男神の猛攻を捌く。朔夜さんの魔法は男神も喰らいたくはないらしく、使われると必ず攻撃行動を中止して回避に徹する。

 つまり、突くとすれば()()なのだ。朔夜さんの魔法を回避するべく攻撃行動を中止する瞬間。俺が割り込める唯一の隙はそこだ。

 

 常人では捉える事すら出来ない速度で展開される戦闘。だが、それでも俺ならば目で捉える事は出来る。

 そして星との接続によって強化されている今の身体能力なら─────

 

「なに─────」

 

 男神が目を見張るのが見えた。

 

 朔夜さんと魔法を放つ直前に一瞬のアイコンタクト。朔夜さんが魔法を放つのと同じタイミングに男神の死角から飛び出していく。

 男神が朔夜さんの魔法を回避しようと攻撃行動を中止する。そしてそれは、俺が男神のすぐ背後、手の届く範囲にまで届いた瞬間でもあった。

 

 俺の接近に気付き、横目で俺を見遣るが遅い。俺に気付いた際の一瞬の硬直、それがすでに命取り。

 拳を握り、無防備になった顎目掛けて振り上げる。咄嗟に防御の体勢をとろうとする男神だが間に合わない。

 振り上げた右の拳が男神の顔面を跳ね上げ、続け様にフック気味に振り抜かれた左拳が男神の右頬を捉える。

 

 攻撃が当たった余韻に浸る暇はない。即座にその場から後退して離れた、その直後。先程放った朔夜さんの魔法、風の刃が男神に命中する。

 俺の拳には踏ん張ってその場で耐えた男神だったが、朔夜さんの魔法の威力には耐えられる足を浮かせて吹っ飛ばされてしまう。

 

「…すげぇな、この人」

 

 いや、人ではないのだが。朔夜さんの魔法で吹き飛ばされる男神、その方向に何があるのかを察した俺は驚きのあまりついそう呟いてしまった。

 

 あのアイコンタクトの瞬間から計算されていたのか、それともその前からか。男神が吹き飛ばされるその先は、俺が男神を誘導しようとしていた目的の場所。星詠みの瞳が捉えた魔法陣の中心だ。

 

 朔夜さんが動く。勿論、男神が吹き飛んでいく方ではない。足りない残り一本の線を刻みに。六角形を描くために筆を着けた最初の点へ。

 

「これで─────」

 

 立ち止まり、吹き飛ぶ勢いを止めた男神の方へと向いた朔夜さんが両手をパンッと合わせる。

 直後、男神を囲む地面に刻まれた正六角形が光と共に浮かび出す。

 

「朔夜ッ、貴様─────」

 

 ここでようやく自身が嵌められていた事に気が付いた男神が忌々しげに表情を歪める。

 歪めながらその場から離れようと駆け出す─────

 

「ッ!?」

 

 事は出来なかった。地面に吸い付かれた様に男神の両足が動かない。いや、脚部自体は動いているのだが、足の裏を浮かす事が出来ないと言った方がより正確か。

 とにかく、男神はまたもや咄嗟の硬直を余儀なくされる。

 

「逃がさないよ」

 

「チッ」

 

 自身に向けられる掌を睨み付ける男神は憎らしげに舌を打つがそれ以上の抵抗はしなかった。

 

 その直後、俺の背後から強烈な風が吹く。思わず男神がいる方へ吸い寄せられそうになるのを何とか両足を踏ん張って耐える事に成功する。

 

「これは…!」

 

 いきなり吹き荒れた風を不思議に思いながらふと気付く。

 背後から吹き寄せる風が止まない。それどころか、その勢いを増していく。

 それに、この風はただ吹いているのではない。風が()()()()()()()。その中心が男神がいる場所だと悟るまでにそう時間は掛からなかった。

 

 耳朶を打つ風の音がどんどん大きさを増していく。風の勢いは止まる事なく強くなっていく。地面から巻き上げられる土埃が六角形の中心にいる男神の姿を覆い隠していく。

 これが朔夜さんの魔法、全力なのだろうか。改めて、以前に俺と戦った時は手加減していたのだと思い知らされる。

 

 やがて男神は風が巻き上げる土埃でその姿を肉眼で捉えられなくなる。

 そして朔夜さんが起こす風は更に勢いを増しながら、次第に収縮していく。

 それはまるで天高く聳える風の塔。この現象を人は竜巻と呼ぶが、風が渦巻く範囲が限りなく狭い。

 人一人をやっと覆えるだけの範囲。ただ男神を傷つけるためだけの、殺すためだけの神によって産み出された竜巻が猛威を振るう。

 

 周囲には何の被害もない。建物は勿論、境内に植えられた木等にも傷はついていない。ただ一人、男神だけがこの竜巻によって傷つけられていく。

 

「…」

 

 傷つけられていくのだと、思っていた。

 

「千尋っ!」

 

「え?」

 

 雲を突き抜ける程に高く渦巻く竜巻を見上げていた俺に緊張に満ちた声が投げ掛けられる。

 何事かと声がした方を振り向いて─────その途中でとある光景を捉えた。

 

 あり得ない、そう思う暇もなく、竜巻を抜け出した男神が俺の眼前に迫っていた。

 振りかぶられた拳には得たいの知れない黒いオーラを纏い、真っ直ぐに俺を見下ろすその視線は殺意に満ちて、その殺意に射抜かれた俺はその場から動く事が出来ない。

 

「─────」

 

 男神が拳を振り下ろす直前、俺と男神の間に一人の影が割り込んでくる。

 

「さく─────」

 

 両手を広げ、男神の前に立ちはだかるその姿が見えたのは一瞬。

 次の瞬間、強烈な衝撃に襲われて吹き飛ばされる。

 

 視界がぐるぐる回る。身体中にひたすら連続で硬い何かがぶつかる。頭が、顔が、腕が、腹が、腰が、両足が、衝撃に痛みを上げる。

 吹き飛ばされた勢いのまま地面をバウンドしていたのだと気付いたのは、木の幹に背中を打ち付けようやく止まった時だった。

 

「ゴフッ、ゴホッ」

 

 思わず咳き込む。視界がチカチカする。全身が痛い。動けない。動きたくない。

 

「…驚イタナ。貴様ガ人間ヲ身ヲ挺シテ守ルトハ」

 

 どこからか声がする。分からない。誰の声なのか、誰の事を言っているのか。

 

「マアイイ。ヨウヤク─────ヨウヤク、手ニ入ル」

 

 この声を聞いていると、心臓がやけに早く鼓動する。何故か知らないが、早くこの場から逃げ出さなければ、そんな気持ちに駆られる。

 

 だが、両足力が入らない。動けない、立ち上がれない。

 

「星詠ミノ瞳ガ!ハツヲ生キ返ラセル力ガ!ヤットッッ!!」

 

 俺はどうなる。死ぬのだろうか。

 

「…モノノツイデダ。貴様モ柳千尋ト共ニ()()()()()()()。貴様ガコノ男ニ執着スル理由ハ知ランガ…喜ベ。最期ノ一瞬マデ共ニ居サセテヤル」

 

「─────ぁ」

 

 ようやくハッキリし出した視界にぼんやりと映ったのは、眼前から俺を見下ろす男神。

 そしてその頭上に浮かぶ漆黒の空間。

 

 考えるよりも先に分かった。もう駄目なのだと。ここで終わりだ、と。

 

「なつめ─────」

 

 死ぬのだと分かった瞬間、脳裏に浮かんだのは愛する人の笑顔だった。

 

「にげろ─────」

 

 自分が死ぬ事よりも、ナツメの事が気掛かりだった。きっとこいつはこの後ナツメ達を追う筈だ。追い付かれれば間違いなくナツメ達の命は─────

 俺が死ぬよりも、そっちの方が怖かった。だが俺には何も出来ない。何も出来ないまま、こいつのされるがままになる。

 

 体が浮遊する感覚が全身を包んだ直後、どこかへと吸い寄せられる。

 ぼんやりとしたままの視界が暗闇に包まれた直後、ぷつりと俺の意識は途切れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第八十三話






このペースで投稿できれば年内に完結できる!

はず!


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

~Another View~

 

 墨染神社に背を向けて、千尋に背を向けて逃げ出してからどれくらい時間が経っただろう。

 ただただ走り続け、境内を出てすぐには聞こえていた戦いの音はすっかり耳に届かなくなって、今は私達の走る音と荒い息遣いの声だけ。

 

 今すぐにでも引き返したい。引き返して、千尋の顔を見たい。

 千尋はどうなったの?走り続ける間、その思いだけがずっと私の胸の中でぐるぐると回る。

 だけどそれは出来ない。千尋に逃げろと言われたから。私があそこに戻ったとしても、何も出来ずに千尋の迷惑にしかならないって分かっているから。

 

 頭では理解できても納得してはくれない心に何度もそう言い聞かせながら走り続ける。

 神社の境内を抜けて足を止める事なく走り続けて、私の体力もいよいと限界が近づくどころかそれを越えようとした時だった。

 

「っ─────」

 

 境内を抜けてから私の肩を降りて先頭を走っていた閣下がふと足を止める。そして、勢いよく私達の方へと振り返って、私達の誰でもないどこかへと視線を向ける。

 

「…ミカド?」

 

 息を切らしながら高嶺君が突然足を止めた閣下に声を掛ける。だけど、閣下はその声に反応しない。目を見開いてどこかに視線を向けたまま、その表情はどこか信じられないという逃避に満ちているように見えて。

 

「…閣下」

 

 そして、分かった。分かってしまった。今、閣下がどこを見ているのか。

 

「…ナツメ」

 

「千尋に…何かあったんですか」

 

 私の呼び掛けには反応して、私を見上げる閣下に問い掛ける。

 閣下は少しの間口を開かないまま、不意に気まずそうに私から視線を逸らすとようやくその重い口を開いた。

 

「…何があったのか、詳しい事までは分からん。だが─────」

 

 閣下はそこで一拍置いてから、私が一番聞きたくなかった言葉を口にした。

 

「千尋と朔夜様の力の波動が感じ取れなくなった」

 

 誰かが息を呑む音が聞こえた。それは誰のものなのかは分からない。もしかしたら、私のかもしれない。

 それは定かじゃないけれど…、今重要なのはそこじゃない。

 

「閣下、それはつまり─────」

 

「分からない。さっきも言ったが、詳しい事までは分からない。…だが」

 

 閣下は悲痛な表情を変えない。それだけで、もう分かってしまった。

 

「二人の力は感じ取れなくなったが─────あの邪神の力は未だにはっきりと感じられる」

 

 千尋と朔夜さんは、負けてしまったのだと。

 

「─────」

 

 言葉がでない。声がでない。胸の中がぐるぐると回って感情がハッキリしない。

 

 負けた。それはつまり、死んだ?千尋が?死んだの?

 

「そんな…」

 

「…っ!」

 

 墨染さんのか細い声と、高嶺君の言葉にならない吐き捨てた怒りの声が耳に入る。

 

 私は─────何も出来なかった。嘘だと否定する事も、信じられないと吐き捨てる事も、悲しみの涙を流す事も、何も。

 胸にポッカリと穴が空いたような、そんな空虚な気持ちのまま呆然と立ち尽くしたまま。

 

「ナツメさん…」

 

「…悪いが、ここで止まってもいられない。千尋と朔夜様を退けたのなら、次の狙いは恐らく我々だ。早くここから離れよう」

 

 明月さんの声と閣下の声が耳に入ってくる。

 

 そうだ。あの神は確かに、明月さんと高嶺君を狙っている様な事を言っていた。

 それなら今すぐここから逃げなくちゃいけない。ここにいては追い付かれて皆殺されてしまう。

 

 そう分かっているのに─────。

 

 千尋にも逃げろって言われたのに─────。

 

 千尋を置いて逃げようってどうしても思えない─────!

 

「ナツメッ!」

 

 切羽詰まった閣下の声がする。だけど私の心は動かない。

 虚ろのまま、足を動かせないまま、この場に立ち尽くしたまま─────

 

「モウ少シ遠クマデ逃ゲテイルト思ッテイタンダガナ」

 

 愛する人の所に行けるのを、私は心のどこかで待っているのかもしれない。

 

「ドウヤラ観念シタト見エル」

 

「くっ」

 

 閣下が足下を駆け、私達の前に立つ。

 そんな閣下を、私達の目の前に現れた男神はただ無感動に見下ろす。

 

「…何ノツモリダ?」

 

「─────」

 

 ケット・シーを含めた幻想と謳われる生き物達は神に仕える存在。つまり、閣下にとって神は圧倒的に格が上の存在。こうして不躾に見上げる事すら本来許されない。

 

 男神に見下ろされた閣下は一瞬体を震わせ、その場で固まってしまう。

 

「ヤメテオケ、何ヲシテモ無駄ダ。オトナシクシテイレバ貴様ニハ何モシナイデオイテヤル」

 

 男神は閣下に下ろしていた視線を私達へ─────正確には高嶺君と明月さん、墨染さんに向けた。

 

「…見苦シイ嫉妬ダト分カッテハイルンダガナ。ヤハリドウモ貴様ラ二人ハ許セナイラシイ」

 

 男神はそう言いながら、こちらに歩み寄ってくる。

 

「何故ダ。何故貴様ラハ許サレタ。何故貴様ラハ許サレテ、ハツハ許サレナカッタ?」

 

 高嶺君と赤い蝶─────はつさんには奇蹟を起こす強い魂を持っているという共通点がある。

 そしてもう一つ、これは共通点とはいかなくとも類似点として、高嶺君は奇蹟を起こし、はつさんは奇蹟を起こそうとしたという所が似ている。

 

「何故貴様ラハ生キテイル…。何故ハツハ死ナナケレバナラナカッタ!?」

 

 今の男神の姿は邪神としての禍々しさを感じさせながら、それよりもどこか哀れに見えた。

 愛する人を奪われた、なのに同じ境遇の筈の別の人間は生きている。その理不尽に嘆き哀しむ一人の人間の様に思えた。

 

「ハツハ貴様ト同ジダッタ!愛スル人ヲ…子ヲ!コト、オ前ト再ビ会イタカッタ!ダガ…貴様ハ生キテ、ハツハ死ンダ…」

 

 肩を震わせ、歯を食い縛り、何かに耐えながら拳を握り締める男神。

 

 少しの間、そうして立ち尽くしていた男神は不意に拳を解いて、気付けば体の震えも収まって力を抜いていた。

 

「許セ。俺ハ貴様ラ二人ヲ自己満足ノタメニ殺ス」

 

「「っ─────!」」

 

 高嶺君と明月さんが、すぐ傍らにいる墨染さんが息を呑む。

 直後、高嶺君が明月さんを庇って前に出る。

 

「抵抗ハ無駄ダ。貴様ラヲ助ケニ来ル者モイナイ」

 

「っ…」

 

 今度は私が息を呑む番だった。

 今のこの言葉、つまり、やっぱり千尋はもう─────

 

「安心シロ。貴様ラ二人一緒ニ殺シテヤル。オ望ミナラバ、ソコノ女モ一緒ニ殺シテヤロウカ?」

 

 男神の視線が私に向けられる。そこの女というのは私の事らしい。

 

「なっ…、ナツメさんは関係ない筈です!」

 

「…ソウカ。ダガ、コイツハ柳千尋ト心ヲ通ワセテイタノダロウ?ナラバ、イッソノコト殺シテヤッタ方ガコノ女ノタメダト思ウガ」

 

 明月さんの台詞に返事を返す男神の言葉を聞いてふと思う。

 

 あぁ、そうか。死ねば千尋と同じ所に行けるんだ、と。

 死んで魂となって、それから転生して。その後に千尋と再会出来るかなんて分からないけど…、今この世界で生き続けても千尋と会える事はどうしても出来ない。

 

 それなら、いっそ─────

 

「少シ待ッテ貰ウ事ニナルガナ。柳千尋ニハマダ役目ガアル」

 

 死んでも良いのかもしれない。そう思った所で男神の言葉に違和感を覚え、顔を上げた。

 

「役目…?」

 

「アァ。星詠ミノ瞳ヲ貰イ受ケルマデ死ンデ貰ッテハ困ルカラナ」

 

「死んで貰っては困る…って、それって…」

 

 生きている。死なれて困るという事は、まだ千尋は生きている。

 千尋がどんな状態かは分からない。もしかしたらどこか怪我をしているかもしれない。

 けれど少なくとも、千尋は生きている!

 

 そう考えるだけで、空虚だった胸の中がほんの少し喜びに浸された。

 我ながら単純とは思うが、千尋が生きているだけで気力が湧いてきた。

 

「…千尋が生きてるなら」

 

「?」

 

「まだ諦めちゃ、駄目だよね」

 

 湧いた気力が決意を漲らせる。

 漲った決意が希望の言葉を口にさせる。

 

 私の声を聞いた男神は僅かに目を見開いて私を見る。

 

「…愚カナ」

 

 すぐにその目は無機質なものに戻り、呆れたように男神は頭を振る。

 

「貴様ゴトキニ何ガ出来ル。死ニタクナイノナラオトナシクシテイロ。ソウスレバ手ハ出サン」

 

「でも千尋は死ぬ。だったら私は抵抗する。貴方にとっては取るに足らないものだとしても─────全力で」

 

「─────」

 

 頭を振った後興味を失い私から外された視線が再びこちらに向けられる。

 

 視線が交わり、神の眼力が真っ直ぐ突きつけられる。それを、それ以上の決意を持って迎え撃つ。

 絶対に引かない。引いてたまるか。諦めないって決めたんだ。最後まで抵抗するって決めたんだから。

 

「…良カロウ」

 

「っ、やめて!」

 

「オトナシクシテイロ、コト。散々忠告ハシテヤッタ。ソレヲ無為ニシタノハコイツダ」

 

 墨染さんが叫ぶ。その叫びは男神の耳には届いたが、心には届かない。

 

 高嶺君と明月さんは動かない。いや、動けないんだ。今にも私に向かって飛び出そうとする両足は、神の神気によって動かない。

 

「貴様。名ハ」

 

「…貴方に覚えて貰いたい名前なんて持ち合わせてない」

 

「─────ククッ」

 

 有無を言わさない迫力と共に突きつけられた問い掛けに精一杯の強がりを込めて返すと、男神は一瞬呆気に取られた表情を浮かべてから愉快そうに笑みを溢した。

 

「女。貴様ノ顔ハ覚エタゾ。トイッテモ、貴様ハ不愉快極マリナイノダロウガ」

 

「…本当にそうね。今すぐ忘れてほしいくらい」

 

「ハハハッ!ソレハ無理ナ相談ダ!貴様ノ様ナ()()()()()()()()()()()ダカラナ!」

 

 さっきまでとは打って変わって、本当に楽しそうに笑う男神はこれから私達を殺そうとしているとは思えなかった。

 しかし、その表情に笑みを浮かべながらも次に私達を射抜いた彼の視線は殺意に満ちていた。

 

「モシ俺ガハツニ出会ッテイナケレバ─────貴様ガ柳千尋ニ出会ッテイナケレバ、ドウナッテイタノダロウナ」

 

 男神が私の方に歩み寄りながらそんな事を口にする。

 

 そんな仮定の話なんてどうでもいいけど─────どうでもいい筈なんだけど、死ぬ直前だからだろうか。その仮定についてふと考えを馳せた。

 もし千尋に出会わず、この男神もこんな風に邪神にならないまま私と出会っていたら。さっきみたいに私と話してこの男は笑ったのだろうか。はつさんの様にこの神に興味を持たれていたのだろうか。

 

 ─────ううん、多分それはないかな。

 

 そこまで考えて、私はその可能性を否定した。

 だって、私が千尋と出会う事がない未来。それはつまり、千尋に救われる事なく私は過去に囚われたままだという事なのだから。

 そんな私にこの男神は興味を持たないだろう。死を受け入れて、何もかもを諦めていた私になんて間違いなく興味を持たないだろう。

 

「…三人とも、逃げて」

 

「ナツメさん…!」

 

「閣下も、早く三人を連れて逃げて。私は…ここで」

 

「駄目です!ナツメさんも一緒に…!」

 

 勢いよく頭を振る明月さんも、高嶺君も墨染さんも閣下も、最後まで私を見捨てようとしない。

 

「最後まで諦めないって言ったじゃないですか!それなのに、どうして…!」

 

「…千尋なら、こうするだろうから」

 

 明月さんにどうして、と問われてすぐ、私は答える。

 千尋なら、もし千尋が今の私の立場にいたなら、同じ事をするだろうから。

 現に墨染神社で、千尋は自分を残して逃げろと私に言った。

 

 だから、私は─────

 

「─────ナニ?」

 

 千尋の恋人として、最期まで誰かを守る姿勢を貫きたい。そう口にしようとした時だった。

 不意に男神が足を止め、何かに驚いたように目を見開くと、戸惑った様子を見せながら右手で胸を押さえる。

 

「バカナ…!何ガ起キテ─────ゴフッ!?」

 

 かと思うと突如苦しみだし、体を前傾に折り曲げて咳き込んで口の中から赤い液体を吐き出す。

 それが血だと分かったのは、吐き出されたそれがコンクリートの歩道に落ちてからだった。

 

「朔夜ガ…イヤ、奴ハアノ空間ヲ破ル程ノ力ハ持ッテイナイ筈…!ナラバ一体─────」

 

 苦しみ出した男神を目の当たりにして困惑する私達だが、それ以上に困惑しているのは当の本人である男神だろう。

 その男神は必死に状況を整理しようとする中、不意に何かに気付いた様に私達の方に視線を向けると大きく目を見開いた。

 

「…?」

 

 いや、男神が見ているのは私達じゃない。私達の誰でもない、視線は確かに私達の背後に向けられている。

 それに最も早く気付いた私が男神が視線を向けている背後へと振り返る。

 

「あ─────」

 

 そして、私もまた男神と同じ様に驚きに目を見開いた。そして、背後にいた()()視線が交わったと同時に堪えきれない微笑みが溢れる。

 

「何故ココニイル…、ドウヤッテアソコカラ抜ケ出シタ…?イヤ、ソンナ事ハドウデモイイ!何故ダ!何故─────」

 

 私だけじゃない。閣下達もたった今この場にやって来たもう一人の存在に気付き、そして安堵の笑みを溢す。

 

 一方の男神は─────彼に向けて強烈な憎悪を向けながら叫んだ。

 

「何故、残リ数分ヲジットシテイラレナカッタ!」

 

「…ふっ」

 

 邪神の憎悪を一心に受けている筈の彼は、まるで平気そうにただ一笑に付す。

 

 それだけじゃない。今の彼が見ているのは自身に憎悪を向けている男神ではない別の誰か。

 

「待ったか、ナツメ」

 

「…大遅刻。落とし前はつけて貰うからね」

 

「そうか。…それは大変そうだ」

 

 彼は私の台詞に観念する様に小さく頭を振ってから、笑みを浮かべたまま歩き出す。

 

「少し待っててくれ。ミカド、ナツメ達を頼む」

 

「…貴様に聞きたい事が山程ある。だが…、聞くのは全て終わってからにしてやろう」

 

「助かる。正直、あまり時間がないんだ」

 

 閣下と言葉を交わしてから高嶺君から順番に明月さん、墨染さんと視線を交わして、私とすれ違う。

 

「じゃあ、ちょっと行ってくる」

 

「…うん。行ってらっしゃい、千尋」

 

 彼─────千尋は()()()()をその手に、私達の前へと出て男神と対峙した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第八十四話






前回の前書きでこのペースで投稿すれば年内に終わるとかほざいてましたが終わりそうにないのでペース上げます。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 温かい。全身が心地好い温かさに包まれ、力が少しずつ抜けていく。

 何と形容すれば良いのだろう。頭まで布団にくるまっている感覚といえば良いのか、母に抱かれている感覚といえば良いのか、正直分からない。

 

 ただ、このままずっとこの感覚に包まれているのも悪くない。そう思えてしまう程には今、全身を包むこの感覚は心地好かった。

 

 ゆっくりと目を開けてみる。開けた筈だった。

 開けた視界には何も見えない。どこまでも広がる漆黒の暗闇。

 

 この景色には覚えがあった。小泉という男の記憶を覗いた後、小泉の精神の中で彼と対面した時。

 あの時も周りにはこんな風に暗闇が広がっていた。だがあの時と違うのは、今ここには俺一人しかいない。

 

 ─────そうだ、思い出した。あの男神に俺も朔夜さんもやられて、それから何かに引き寄せられて。その先が今この、俺がいる空間なのだろうか。

 

 朔夜さんはどうなった。男神はどうなった。ナツメは、高嶺達は?

 

 ─────眠い。

 

 ここに来る前の事を思い出す毎に焦燥感が増していく。しかしそれに反して、何故だろう。目蓋が重い。

 心地好いこの感覚に身体がつられてしまっているのだろうか。どうも眠くて仕方がない。

 

 駄目だ。そう自身に言い聞かせて目蓋を必死に上げる。思考を働かせ、ここから出る方法を考えようとする。

 

 そんな俺の試みも空しく、眠気はどんどん強くなり、やがて意識までもが朦朧としてくる。

 

「─────」

 

 そんな時だった。微かに誰かの声がした。

 その事に気付きながら俺の中で声がした方を見ようという、声の主を確かめようという気力が湧いてこない。

 

「─────」

 

「─────」

 

 再び、今度は先程よりも声が近くなった気がする。それだけではなく、さっきした声とは違う声も一緒に聞こえてきた。

 俺だけじゃない。俺以外にも二人、この空間に誰かがいるのだろうか。

 

「──ろ」

 

 繰り返し聞こえてくる声。どうやら誰かを呼んでいるらしい。

 

「─き───さい」

 

「ち─ろ」

 

 これは─────

 

「目を覚まして」

 

「千尋」

 

 呼び掛けられてるのは、俺?

 

「っ!」

 

 誰かに肩を触られた感触がして、瞬間的に意識が呼び戻される。

 襲われていた眠気も同時に引いてすぐさま目蓋を上げる。

 

「おはよう、千尋」

 

「朔夜さん…?」

 

 目を覚ました俺の目の前にいたのは、俺に笑いかける朔夜さんだった。

 

 俺を覗き込んでいた朔夜さんが少し離れてから体を起こそうとする。

 

「っ───おもっ…」

 

 結果だけ言えば何とか体を起こす事は出来た。

 だが、体が思うように動かない。まるで全身に重りが乗せられているような、全身に強い重力が掛けられているような、そんな感覚が全身を重く感じさせる。

 

「…どうやら、あまり時間は残されていない様だね」

 

 俺の様子を見た朔夜さんが一瞬で笑顔を収めてしまう。

 その姿が、今この状況がどれだけ深刻なのかを物語っていた。

 

「千尋。今、私達は奴の体内にいるに等しい。この空間はね、私と千尋の力を吸収するために奴が生み出した空間。例えるなら─────奴の胃の中だ」

 

 この空間には何もない。ただ暗闇が広がるだけで、本当の人間の胃のように消化液も何もない。

 ただ、俺と朔夜さんの力を栄養と例えたならば確かに、その栄養を吸収するために生み出したというこの空間は胃の中といえるだろう。

 

「ここに留まり続ければ私も君も力を吸われ続けて─────その先は言わなくとも分かるだろう?」

 

「…」

 

 朔夜さんの問い掛けに頷いて答える。

 

 なるほど、この全身の重さに納得する。

 全身が重く感じるのは、どうも力が入らないこの感覚は、この空間に、あの男神に力を吸収されているからか。

 

 色々と聞きたい事はある。この空間をどうやって生み出したのか、朔夜さんがどうしてここにいるのか。

 そして、あの声。片方は朔夜さんだったとして、もう一方の声は誰のものだったのか。

 しかし朔夜さん曰く時間はない。そして体の倦怠感の事を考えればそれは事実なのだろう。ここは朔夜さんの話を遮らずに黙って耳を傾ける。

 

「すぐにここから抜け出さなきゃならない。だけど、君は勿論、私一人の力ではこの空間は破れない」

 

「…それなら、一体どうやって」

 

「決まっている。君一人でも私一人でも不可能。…それなら、二人でやるんだ」

 

「…?」

 

 朔夜さんの言っている意味がまるで分からない訳ではないのだが、言葉が端的過ぎて上手く読み取り切れない。

 確かに一人で駄目ならば二人で、という流れになるのは分かるのだが──────

 

「具体的にはどうやって?」

 

 そう、二人でやると言っても具体的に何をどうすればいいのか。そこを教えてくれなければどうする事も出来ない。

 

「私が君に神力を流し込む」

 

 俺がそう聞いてくるのを分かっていたかのように、朔夜さんは即座にそう答えた。

 

「神力って…?」

 

「書いて字の通り、神の力だよ。─────この方法はあまり使いたくなかったんだけどね」

 

「?」

 

 つい()()()()を神力と勝手に頭の中で変換していたのだがその文字で当たっていたらしい。

 神の力、正に神力の名の通り単純なネーミングだ。

 

 その神力を俺に流し込むというのはどういう事なのか。恐らく朔夜さんの力を俺に流し込むのだろうが、一体どうやって?

 それに、あまり使いたくないというのはどういう意味なのか。

 

「その顔、もう忘れたのかい?神力を纏った人間の末路は、ついさっき見たばかりだろう?」

 

「あ─────」

 

「まあ、あれは神力を流し込まれたんじゃなく神そのものを宿したから、あそこまでにはならないけど」

 

 朔夜さんが口にした、()()()()()()()()()()()。それが何を言い表しているのか、ようやく思い当たる。

 邪神を宿し、その末に肉体が溶け落ち灰になってしまった男の姿をようやく思い出す。

 

 朔夜さんはあそこまでにはならないとは言ったが、その言い方から何らかの副作用は避けられない様子。

 いや、小泉のように()()()()()()()()─────という意味かもしれない。

 

 どちらにしても神の、朔夜さんの力を俺に宿さなければこの空間を抜け出す事は出来ない。それはもう変えようのない事実らしい。

 

「…実際に、俺は何をすれば良いんですか?」

 

 それなら、選ぶべきは決まっている。どれだけ危険かなんて知った事ではない。

 何もしないまま、諦めてここで死を待つよりずっとマシだ。少しでも可能性があるのなら、その方法にすがる。

 不安はある。だが、俺の心の中に迷いはなかった。

 

「何をすれば、か。簡潔に言えばそうだね…、()()使()()。ただそれだけだよ」

 

「は?」

 

 俺の問い掛けに対する朔夜さんの返答はあまりに要領を得ないもので、つい呆けた声を漏らしてしまう。

 

「それはどういうい意─────」

 

 それはどういう意味ですか、と聞き返そうとしたその時。

 朔夜さんが小さく微笑みを見せたと思うと、同時に朔夜さんの全身から穏やかな光が漏れだす。

 

「…千尋。私は君に一つだけ嘘をついていた。私はね、確かに星から神の力を与えられたけど─────厳密には()()()()()()()。星に産み出された神は必ず一つ、司るモノを与えられる。でも私は司るモノを与えられなかった」

 

 突然のカミングアウトに驚き、思考が止まりそうになる頭で必死に朔夜さんの言葉を理解しようとする。

 

「ただ、代わりに私にも与えられたものが()()ある。一つはとある役割。使命、といったほうが正しいかな。それでもう一つが─────今、私を象っているこの姿さ」

 

「さくや、さん…?」

 

「私を象っているこの人の姿はね、()()()()()()()私に星が付け足してくれたものなんだ。()()()姿()のままだと色々不便だろうって」

 

 光が強くなり、次第に眩しさを覚えるまでになる。腕で視界に映る朔夜さんを覆って覗き込む形でなければ、朔夜さんがいる方へと視線を向ける事すら出来なくなってきた。

 

「さっき、私は君に言ったね。()()使()()、と。それはその言葉通りの意味さ」

 

「っ─────」

 

 朔夜さんから発せられる光は更に強さを増し、このままこの暗闇の空間全てを照らしてしまうのではないかとすら思える程になる。

 もうこれ以上目を開けたままではいられず、遂に腕で両目を覆い、目を瞑る。

 

 目蓋を閉じても感じられる光の強さはやがて、少しずつだが収まり始める。

 それを感じてから恐る恐る目を開け、そして先程まであれだけ強かった光が完全に収まったのを見てから両目を覆っていた腕をどかす。

 

「─────」

 

 さっきまで目の前にいた筈の朔夜さんがどこかに消えていた。

 

 いや、違う。確かに先程までの朔夜さんの姿はどこにも見えない。だが、朔夜さんは変わらず()()()()()()()()()()

 

「刀…?」

 

 さっきまで朔夜さんがいた場所に、一本の刀が浮いていた。

 

 暗闇の中でも銀色に輝く刃は傷一つなく、赤く刺繍された柄は俺が手に取りやすい位置に。

 まるで、自分を使えとでも言っているかのように。

 

「…何が起きてるんだ」

 

 俺がすべき事は分かっている。この刀を手に取ること、それが今俺がすべき事なのだろう。

 だが、結局俺は今の出来事が、朔夜さんの言葉の殆どが理解できなかった。そんな俺が、この刀を─────()()()()()手に取って良いのだろうか。

 

『大丈夫。私を掴んだその時、君が知りたい事をその瞳が見せてくれるよ』

 

「─────」

 

 不意に、頭の中に声が響いた。自分のものではない、誰かの声。

 俺以外に人の姿は見えない。声の主と思える人物は誰もいない。

 

 だが、その声の主が誰なのか─────いや、何なのかは何故かハッキリと分かった。

 

「…信じますよ、朔夜さん」

 

 俺を後押しした彼女を信じ、一歩、刀がある方へと足を踏み出す。

 それだけで十分だった。後は手を伸ばせば刀まで届く。

 

 ゆっくりと手を伸ばし、残り数センチの所まで来て、俺は一つ大きく深呼吸を吐いた。

 迷いはない。不安も今の深呼吸で全て吐き出した。躊躇うな、信じろ。

 

 朔夜さんが一体何者であっても、俺にとって彼女は恩人だ。彼女のお陰で、俺は今この瞬間まで生きてこられたのだ。

 そんな彼女を、信じられない筈がない。

 

 柄をその手に掴む。

 思っていたよりも重量を感じるそれは、妙に手に馴染んで、何故だか掌に伝わるその感覚を懐かしく感じた。

 

「っ!」

 

 その直後だった。

 俺の意思と関係なく突然意識が切り替わる。

 それは、星詠みの瞳が発動し、星と意識が接続された合図。

 

 突然起動した瞳に驚きながらも、朔夜さんが先程言っていた事を思い出して落ち着きを取り戻す。

 

 ─────君が知りたい事をその瞳が見せてくれるよ

 

 つまり、これからこの瞳が見せてくれるのは─────

 

 そこまで考えた瞬間、景色が切り替わる。

 

『お前は何も司らなくて良い。ただ一つだけ、お前に役目を与える』

 

 俺の視界に広がるのは暗闇。先程までと同じ、どこまでも広がる闇。周りの景色だけ見れば先程と何も変わらない、全く同一の景色といっても良いくらいだ。

 

 それなら何故、景色が切り替わったと分かったのか。

 それは俺の目の前にいる女性がその理由だ。

 

 女性はその表情に何の感情も浮かべないまま、こちらに視線を向けている。

 

『私の力の一部をとある魂に刻んだ。その魂を持つ人間と共に─────』

 

 何者かが無表情のまま立ち尽くす女性に何かを言いかけた時だった。再び景色が切り替わる。

 

『貴方は何者ですか』

 

 今度は先程までとは違い、色づいた景色が周りに広がっていた。

 

 周囲に広がる草原、その真ん中に立つ二人の男女。一人は式服を身に着けた高貴な身分を持っていると思われる男。

 もう一人は景色が切り替わる前に見たあの女性。

 

 男はその目に僅かな警戒を宿らせながら眼前に立つ女性に向けて問い掛ける。

 

『…私は─────』

 

 女性が男の問い掛けに答えようとした所でまたもや景色が切り替わる。さっきから重要な所が抜け落ちている気がしてならない。

 

 しかし、何故だろう。この女性は─────まあ顔を見ればどこの誰かはすぐに分かった。

 今の彼女と比べて表情に乏しいから本当にそうなのか、ほんの少しだけ疑わしいが。

 

 だけど、どうして。

 

『さて…、これで貴女の役目は一先ず終わった訳ですが。これからどうするつもりです?』

 

 これは俺ではない、あの人の記憶の筈だ。俺には何の身に覚えのない、他者の記憶。

 

 その筈なのに、どうしてこんなにも胸が締め付けられるのだろう。

 

『もし次の●●が出現するまで待つだけなら─────私と一緒に来てください』

 

 どうしてこんなにも、懐かしい気持ちになるのだろう。

 

 景色は次々と切り替わる。

 そのどれもに、俺はどことなく覚えがあった。

 

 ()()()が目にした事がない筈の数々の景色が、俺に呼び掛けてくる。

 思い出せ、と。これは全て、お前の記憶だと。今、お前が思い出すべきものなのだと。

 

 明らかにこの時代にそぐわない光景の数々。それらが、あの人が生きてきた時代の長さを物語っていた。

 ()()と別れを繰り返し、その人は自身が愛した男とは別人だと理解しながらも、その魂を受け継ぐ人間達を愛し続けた。

 

 愛した人の魂を受け継いだ者達を守り、時には共に戦い、そうして彼女は世界を守り続けていたのだ。

 それが彼女が星から与えられた役目、使命。そしてやがて千年という時を経て、彼女は─────

 

『実はね、私は偉い神様なんだ』

 

 俺と何度目かの再会を果たした。

 

 目の前で朔夜さんが俺に眼鏡を手渡した所で景色が変わる。

 過去から現在まで、時の流れに沿って切り替わってきた景色は何故か、再び過去に戻っていた。

 

『名前がない?』

 

 場所は先程も見た草原で、その男は目を丸くして呆然としてから何か考え込む素振りを見せ、やがて微笑み口を開いた。

 

『それなら私が貴女に名前を付けてあげましょう』

 

『…いらない。別にそんなの無くても私は困らない』

 

『いえ、貴女が困らなくとも私が困るのです。これから私は貴女を何と呼べば良いのですか』

 

『…神様?』

 

『貴女、自分で神様ではないとおっしゃってましたよね?』

 

 ─────あぁ、そうだ。そうだった。どうして忘れていたのだろう。

 

『ふむ、そうですね…。うん、それでは─────』

 

 ─────あの名前は。彼女が俺に名乗った、その名前は。

 

()()、というのはどうでしょう?』

 

 ─────()が彼女につけたものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…」

 

 全てを見終え、戻ってきた俺はその手に握られた刀を見つめる。

 

 そうだ。()はこの刀で、あの人と共にこうして()()()戦い続けた。

 あいつの様な邪神が生まれたのは何も今回が初めてじゃない。過去にも何度か憎しみや欲望に駆られた邪神は生まれ、その度に()は彼女に導かれ、共に戦った。

 

 ()が転生する度に記憶は消される。しかし彼女との記憶はこの星に記録されている。

 例え魂から記憶が奪われても、星の記録を覗く事が出来るこの瞳が()を呼び覚まし続けてくれた。

 

「行こう」

 

 全てを思い出した俺は刀を握る手に力を込める。

 使い方は覚えている。この刀を持っているだけで、朔夜さんの力は俺の中に流し込まれ、その力をこの刀に触れている限り俺の意のままに操れる。

 

 瞳はすでに起動している。刀からと同時に星からも瞳を通じて神力を引き出す。引き出した神力を刃に纏わせ、一文字に振るう。

 

 虚空を横切った刃から纏わせた神力が斬撃となって放たれる。

 放たれた斬撃はどこまでも続く闇を切り裂き、やがて空間の境界をも切り裂いて現実への道を繋げる。

 

 穴を穿たれた空間は音を立てて崩壊していく。遠くの方から始まった崩壊はすぐに俺の周囲にまで至り、どこまでも続くとすら思わされた暗闇はあっという間に晴れ、気付けば元の場所、墨染神社の境内に立っていた。

 

「…そうか。貴女だったんですね」

 

 あの空間から抜け出し、周囲を見渡す。

 邪神の姿はない。恐らくナツメ達を追ったのだろう。

 

 だが一人、境内に残っていた者がいた。

 赤く輝くその姿を見て、あの空間で眠る俺を呼び掛けていたもう一人の人物が誰なのかをようやく理解した。

 

「ありがとうございます。…後は俺に任せてください」

 

 俺の頭上を飛ぶ赤い蝶、はつさんに向かってお礼を言う。

 あの時、はつさんは朔夜さんと一緒に俺を呼び掛けてくれた。二人の声が完全に眠りに着こうとする俺の意識を留まらせてくれた。

 

『…今の貴方に何と言葉をかければ良いか、正直分かりません。ですが…、あの方とあの子に伝言をお願いしたいのです』

 

 強い魂を持ち、三百年間現世に留まり続けたはつさんには俺の中で起きた変化を感じ取ったらしい。

 その変化に驚き戸惑いながらも、はつさんは俺に言った。

 

『あの方には、先にあの世で待っていますと。あの子には─────幸せに生きて、と』

 

「…必ず伝えます」

 

 はつさんのその言葉に、これから彼女が何をしようとしているかを悟る。

 出来れば見送りしたい所なのだが、生憎ゆっくりいていられる時間はない。こうしている間にも強すぎる神力は毒となって俺を蝕んでいる。

 肉体が限界を迎える前にあの邪神を斬らなければ────はつさんの元へ送らなければならない。

 

 はつさんに向かって一礼してから、踵を返して鳥居の方へと駆け出す。

 すでに瞳でナツメ達の場所も、邪神の場所も掴んでいる。

 

 ナツメ達は邪神に追いつかれていた。急がなければ誰かが殺される。

 最短距離を行けない地上の道路から、住宅の屋根へと飛び移る。これならナツメ達の所へ真っすぐに迎えるし、今の身体能力ならば屋根から屋根へ飛び移る事も容易い。

 

「ナツメ…!」

 

 墨染神社を出て数分も経たず、その姿が肉眼で見えてきた。

 すぐに足に力を込めて跳躍、苦しんでいる邪神に戸惑う彼女達の背後に静かに着地した。

 

「あ─────」

 

 その直後、ナツメが振り返って俺を見た。瞬間、ナツメの顔から堪えきれない微笑みが溢れ出た。

 

 間に合った。その事に安堵しながら俺も、愛する人に微笑みを返す。

 

「何故ココニイル…。ドウヤッテアソコカラ抜ケ出シタ…?イヤ、ソンナ事ハドウデモイイ!何故ダ!何故─────!何故、残リ数分ヲジットシテイラレナカッタ!」

 

 邪神が憎悪に震えながら叫ぶ中、ナツメに続いて高嶺達も俺に気付いて振り返る。

 ナツメもそうだが、高嶺達もどうやら怪我はなさそうだ。邪神から何かしら、呪いの類を受けた様子もない。

 

 これなら、存分に邪神を殺す事に集中して大丈夫だろう。

 

「待ったか、ナツメ」

 

「…大遅刻。落とし前はつけて貰うからね」

 

「そうか。…それは大変そうだ」

 

 落とし前か。…落とし前といったら、前にナツメにドッキリを仕掛けた後の事を思い出すんだが。

 いや待て、落ち着け。今はそれを考えている場合じゃない。確かにナツメが言った落とし前であの時の記憶が過るのは仕方のない事だが、それを楽しみにするのは全部終わってからでも遅くない。

 

 よし、気合入った。すぐに終わらせる。

 

「少し待っててくれ。ミカド、ナツメ達を頼む」

 

「…貴様に聞きたい事が山ほどある。だが…、聞くのは全て終わってからにしてやろう」

 

「助かる。正直、あまり時間がないんだ」

 

 質問コーナーはナツメに落とし前をつけ終わってからで良い?

 なんてこの空気内で言える筈もなく。高嶺から順番に明月さん、墨染さんと順番に視線を交わしながら邪神の方へと歩み寄り、そしてナツメとすれ違う。

 

「じゃあ、ちょっと行ってくる」

 

「…うん。行ってらっしゃい、千尋」

 

 すれ違いざま、ナツメと一言交わしてから彼女の前へと出て、憎々しげにこちらを睨む邪神と向かい合う。

 今すぐにでもこちらに飛び出してきそうな、そんな形相だ。

 

 しかし、恐怖はない。()()()()()()()()()()()()()()()だからというのもあるのだろうが─────()が愛した人と()が愛した人がすぐ傍らにいるからだろうか。

 恐怖がないどころか、安心すら浮かんでくる。

 

「柳、千尋ォ…!」

 

「…待ってろ。すぐにはつさんと同じ所に送ってやるから」

 

 憎悪の声を漏らす邪神へと宣言しながら、銀色に輝く刃の切っ先を上げ、邪神に向けたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第八十五話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 邪神が自身に向けられる刃の切っ先を見つめ、不意に大きく息を吐く。

 

 始まりは冷たい風が俺と奴の間を通り抜けていった直後、甲高い金属音と共に告げられた。

 

 ぶつかり合うは星によって生み出された神剣と邪神の腕。振り下ろされた刃と振り上げられた腕は交わり、両者の力は拮抗する。

 

「ッ─────」

 

 拮抗したが、先にこの拮抗から逃げ出したのは邪神の方だった。

 無理やり自身の腕に圧し掛かる刃を振り払い、俺から距離を取る。

 

 そんな奴を俺は追う事はせず、一振り刀で空を切ってから再びその切っ先を邪神に向ける。

 

「…ソノ刀ハ何ダ」

 

 邪神はその腕に付けられた()()を数秒見つめてから俺を睨みつけながら問い掛けてくる。

 その返答として俺が選んだ行動は無言の疾走。地面を踏み出し、今の状態から受けられる神力の恩恵を存分に使ったフルスピードで邪神の懐へと潜り込む。

 

「チィッ!」

 

 今度は振り上げる刃に神力を込める。これにより刃の威力、切れ味は急激に増して邪神の腕を斬り落とす事が出来る、筈だった。

 

 奴もこの刀の正体こそ掴めずにいるもののその危険性は察していたらしく、防御のために差し出された腕に神力を纏わせる。

 それによって強度が増した邪神の腕は傷一つつく事無く、真っ向から刃を受け止める。

 

 劈く金属音が鳴り止む前に連撃を仕掛ける。上下から、左右から、邪神の肩を、足を、時に急所を狙って振り上げ、振り下ろし、突き出す。

 俺の攻撃を邪神は両手に神力を纏わせ全て捌きながら時折俺へ反撃をしてくる。

 

 邪神からの反撃はその全てが刃での防御が間に合わないタイミングで繰り出された。

 だが刀以外で防御手段がない訳じゃない。俺も邪神と同じく、刀を握っていないもう一方の腕に神力を纏わせ邪神の拳を受け止める。

 

「何故ダ…、何故ッ!コレ程ノ力ヲ一体ドウヤッテ!」

 

「もうお前には分かってるんじゃないのか?その手でこの刀に何度も触れてるんだ、気付かない筈がないだろ!?」

 

「ッ─────!」

 

 掌で受け止めた邪神の拳をしっかり掴み、邪神の首元目掛けて刃を袈裟気味に振り下ろす。

 

 邪神が拳を引き抜こうとしたのは一瞬、抜けずに表情を歪ませたその直後、邪神は思い切り俺に掴まれたままの拳を振り上げた。

 

「なっ!?」

 

 両足が地面から離れ、体が持ち上がる。

 

「ヌゥンッ!」

 

 驚くのも束の間、邪神は持ち上がった俺の体を地面に叩きつけようと拳を振り下ろす。

 その前に邪神の拳から手を離し、何とかその場から逃れる。

 

 結果的に邪神に体を投げられた形になり、後方へと吹き飛ばされる。

 両足と片手を地面に着き、踏ん張って投げられた勢いを収めてから前を向く。

 

「─────」

 

 その時にはすでに、邪神は俺との距離を詰めて拳を腰溜めに構えていた。

 即座に体を翻し、その直後、先程まで俺の心臓が位置していた場所を邪神の拳が通り過ぎていく。

 

『埒が明かないね』

 

 再び刀と邪神の拳を交わらせた直後、頭の中で声が響く。

 

 この声に邪神が反応する様子は見られない。当然だ。この声は今、俺にしか聞こえていない。

 この瞬間、彼女と一つになっている俺にしか。

 

『このままじゃ君の限界が先に訪れてしまう。その前に奴を消す』

 

 邪神と連続して交錯しながら、隙を見つけてその場から後退して距離を取る。

 

『やり方は覚えているね?私達の全力を刃に乗せる』

 

 右手で掴んでいた束にもう一つ、左手も重ねる。

 

 朔夜さんの言う通り、覚えている。()ではなく、()が。

 この魂が、邪神の滅ぼし方を知っている。

 

「ッ!?」

 

 星詠みの力を通して得た神力と、朔夜さんから送り込まれた神力。そのありったけを両手を通じて刃に流し込む。

 

 流し込まれた神力によって、刃が輝き出す。

 やっている事自体はあの空間を切り裂いた時と同じ。

 だが、あの時よりもさらに強く、多くの神力を刃に流し込み続ける。

 

「クッ!」

 

 その光景を前に足を止めていた邪神が動き出す。

 神力のチャージを阻害する事を選択した邪神は、瞬きするよりも速く俺の目の前に辿り着き、その手を伸ばす。

 

 ただただ愚直な、分かりやすい正面からの攻撃─────という訳でもない。

 今、この刃に溜め込まれている神力は膨大なもの。通常、それ程の神力を溜め込みながら自由に動き回る事は不可能といっていい。

 それを分かった上での最短、最速の攻撃を邪神は仕掛けてきている。

 

 確かに邪神がとった選択は最善のものだった。普通ならば。

 

 ()()()()()()()()()

 

「─────何故、動ケル」

 

 突き出された邪神の拳を、右足を引いて半身になって躱す。

 

 自身の拳が空を切ったその事実を信じられず、呆然と見開いた邪神の瞳が俺を映す。

 

 俺が一人だったなら、神力を留めるための集中をほんの少しでも阻害されれば溜め込まれた神力は霧散していただろう。

 だが、俺は一人じゃない。操縦権は俺にあるため神力の使用、移行こそ出来ないが、俺が刃に溜めた神力を留める事ならば朔夜さんにも可能だった。

 

「ぁぁぁぁあああああああああああああ─────!!!」

 

 限界まで溜めた神力を二人で留めながら、邪神を見据えて刃を振るう。

 

「俺ハ─────マダッ」

 

 邪神が逃げ出そうと、この場から離れようとするが間に合わない。間に合わせない、逃がしてたまるか。

 

「消ぃえぇろぉぉぉぉおおおおおおおおおお!!!」

 

「オノレ─────」

 

 左足を踏み出して、後方へ逃げようとする邪神との距離を詰める。

 

 内心、逃げられない事を察しているのだろう。呪い殺すと言わんばかりの視線を向けられる。

 

 構うものか。始まりは純粋な恋心だったのかもしれない。だが、もうそれで片付けられない域にまでこいつは足を踏み入れてしまった。

 

 ()が再度この世に生れ落ちる状況にまでこいつは陥らせてしまった。

 そうなった以上、邪神に成り下がったこいつの末路は決まっている。

 

「柳、千尋ッ─────」

 

 刃が邪神の胴体を切り裂く直前、怨嗟の声が俺の名を奏でた。

 だがその声が、俺の名が辺りに響き渡る事はなく─────

 

 邪神の半身は高らかに宙へと飛び上がり、鮮血を散らしながらコンクリートの上へと落ちるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

~Another View~

 

 視界が宙へと浮き、ぐるぐると回る。

 そんなあり得てはいけない状況の中で、何故か俺の思考は冷静だった。

 

 頭の中で直前に起きた事を整理して、何故こんな事になっているのかを理解する。

 

 要するに、俺は負けたのだ。柳千尋に斬られ、奴と朔夜に敗れたのだ。

 

 三百年間、この時のためだけに生きてきたのに。力を蓄え続け、ようやくはつを生き返らせる事が出来ると思ったのに。

 三百年間夢見続けた生活を、やっと実現させられると思ったのに。

 

 こんなにもあっさりと、俺の夢は破れてしまった。一人の人間と、一人の神擬き如きに。

 

『私はこんな事を望んではいませんでした』

 

 不意に聞こえてくるその声は、三百年間愛し続けた人間の声だった。

 

 落下していく視界の動きがスローモーションになる。遅延していく世界の中で、愛しい声は更に聞こえてくる。

 

『貴方様がこんな姿になる事を、望んではいませんでした』

 

 聞き通りが良い涼しい声はどこか悲しげに俺に語り掛けてくる。

 その声を耳だけではなく全身に染み渡らせながら、俺はかつてのはつとの会話を思い出していた。

 

『…お前は言ったな。いつか俺を絶望から救ってくれる人間が現れると』

 

『…はい』

 

『お前の言う通り、待つべきだったのかもしれん。だが…、俺にはお前以外に考えられなかった。俺を救ってくれる人間はお前だけだと、そう信じていた』

 

 信じていた存在を奪われたからこそ、湧き上がる憎悪が止められなかった。憎悪に身を任せるしかなかった。

 そうしなければ俺自身が壊れそうだったから。憎悪と悲しみに耐えられなかったから、邪神に身を堕としてしまった。

 

『俺は、お前を愛する資格などなかったのかもな。お前の言葉を忘れ、怒りを当たり散らし、人間を殺し回った』

 

『…』

 

『…こんな俺がこうしてお前と話せる事すら奇蹟と思える。生まれて始めてこの星に感謝出来た気がするよ』

 

 柳千尋に斬られる前は─────はつと再び言葉を交わすまでは、あんなにも心を怒りと憎しみが満ちていたというのに。

 今では胸の中で渦巻いていた負の感情の一切が消えて、こんなにも穏やかな気持ちでいられる。

 

 斬られたというのに。志半ばで敗れてしまったというのに。このままはつに見守られながらなら、地獄に落ちても良いとすら思える。

 それ程までに、俺の中で渦巻いていたいた憎しみは失われていた。はつと再び言葉を交わした、たったそれだけの事で。

 

『行きましょう』

 

『…いいのか?ことと話をしなくても』

 

『彼女はもう、私の娘ではありませんから。…またお母さんと呼んでくれた、それだけでもう充分です』

 

 妥協でも諦めでもなく、はつは心の底から充分だと言った。もう何も未練はないと、現世に留まる必要はないと。

 

 俺に、共に行こうと手を差し伸べた。

 

『そうだな、行こう。─────だが』

 

 差し伸べられたはつの手を取る前に、奴の背中を見る。

 俺を斬った、忌々しい男の背中を。全て終わったと()()()をして、駆け寄ってくる恋人、友人達に微笑みを向けている。

 

『その前に一つだけ、やり残した事を片付けてくる』

 

 そんな奴の背中に向けて愉悦の視線を向けながら、最期の力を振り絞った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「千尋っ!」

 

 分かたれ横たわる奴の半身を眺めていると、背後から俺を呼ぶ声がした。

 それと同時に、複数の気配が近づいてくる事に気が付いた。

 

 その気配の正体に、彼女達が近づいてくる足音についつい表情を和らげながら振り返る。

 

 振り返った先には俺が思っていた通り、ナツメ達がこちらに駆け寄ってきていた。

 俺の無事な姿を見て笑顔を浮かべて、全てが終わったのだと安堵しながら、()()()()()()()()()()()()()()()こちらに近づいてきていた。

 

『まだだっ、千尋っ!』

 

 緊迫した朔夜さんの声を感じた時には遅かった。

 死んだと思っていた奴の顔は()()()()向いて、同時に震えながらも上げられた右腕も同じ方へと向けられていた。

 

 この時点で俺はとある二択を迫られていた。どちらを救い、どちらを諦めるのかを。

 いや─────確かに選べる選択肢は二つだったのだが、二択ではなかった。

 

 何故なら、二択を迫られた瞬間に俺はどちらを選ぶのか即決していたのだから。

 

「ナツメ─────!」

 

 すぐに体を奴が持ち上げた腕とナツメが立っている場所を繋ぐ直線上に割り込ませる。

 

 その直後だった。腹部に熱い感覚が奔ったと同時、視界が真っ赤に染まったのは。

 

「─────」

 

 奴は俺を見ながら笑っていた。

 それは無邪気な、ざまあみろとでも言いたげな顔で、倒れゆく俺の姿を眺めたまま消えていった。

 満足そうに、心残りはないと言わんばかりのスッキリとした顔で。

 

 最後の最後で油断した。お陰で見事に一杯食わされた。

 

 それでも。

 

「ちひ…ろ…?」

 

 残された力で振り返って、背後のナツメを見る。

 両足でしっかりと立って、傷一つついた様子のないナツメの姿を見て、安堵する。

 この身は邪神の最期の悪足掻きを後ろに通す事なく受けきったのだと。

 

 最期まで愛する人を守りきれたのだと。

 

「ナツメ」

 

 言いたい事はたくさんある。その中で、愛する人に送る最期の言葉として俺は選んだ。

 

「生きろ」

 

 これからも生きてほしい、と。

 生きている姿を見させてほしい、と願いを込めて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

~Another View~

 

 倒れ横たわった体が、溢れ出る血に沈んでいく。

 私を愛おしく見つめていたその瞳にはもう光は差さず、景色を映す事もない。

 

「うそ、だろ…?」

 

 さっきまででは考えられない程に静まり返る中で、呆然と高嶺くんが呟きを漏らす。

 

 終わったと思っていた。全部が丸く収まって、また明日から愛する人との日常が続くのだと思っていた。

 

 それは勘違いだと私に突き付けた元凶はもういない。影も形もなく、最期はあの憎しみに満ちた顔が嘘のように満ち足りた表情で消えていった。

 

 私達全員が目の前の現実に呆然とする中、明月さんの肩に乗っていた閣下が地面に降りて、千尋の体に歩み寄る。

 血溜まりで足が濡れる事も厭わず千尋の顔の近くで足を止めた閣下は、そっと千尋の頬に手で触れて、少ししてから手を離す。

 

 そして、私を見上げて首を横に振った。

 

「柳さん…」

 

「そんな…!」

 

 その無言の行動が何を意味するかはこの場にいる全員、私も例外ではなく理解した。

 

 正真正銘、私の恋人は死んだのだ。目の前にあるのは死体。

 もう二度と私を抱く事も、触れる事も、呼ぶ事も、動く事さえしない生を失った死体なのだ。

 

「─────」

 

 全身から力が抜けて、膝から崩れ落ちる。

 

「千尋」

 

 手を伸ばす。が、ここから伸ばしても到底千尋まで届かない。千尋に触れるにはもっと近付かなければならない。

 

 千尋に近付かなければならないのだ。

 

「千尋」

 

 力なく手を伸ばしたままもう一度千尋の名前を呼ぶ。当然、返ってくる返事はない。

 

「千尋」

 

 でも私には何度も名前を呼ぶ事しか出来なかった。

 

 知りたくなかったから。

 

 千尋に近付けば、千尋に触れれば、否応なしに千尋が死んだと思い知らされるだろうから。

 

「ナツメさん…」

 

「お願い」

 

 動く事も出来ず、ただ私は声を上げる。

 

「私を呼んで」

 

「私に触れて」

 

「私を抱いて」

 

「千尋」

 

 何を言っても千尋の体は動かない。返ってくる返事もない。

 

 当然だ。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「やれやれ、見ていられないね」

 

 必死に遠ざけようとしていた現実がついに私にも突き付けられようとしたその時、この場にいる誰のものでもない声が響き渡った。

 

 一瞬、思考が停止し呆けた直後、千尋が握っていた刀が輝きだした。

 その輝きは強くなっていき、やがて目を開けていられなくなる程までになり─────今度は次第に輝きが弱くなっていくのを感じ、堪らず閉じていた目蓋を開けた。

 

「朔夜様…?」

 

 さっきまでいなかった筈のその人の姿を見て最初に反応したのは閣下だった。

 

 刀が発した輝きが消えると、さっきまで刀を握っていた千尋の右手付近にその人は、朔夜さんは立っていた。

 

「四季ナツメ。こうしてただ見ているだけでも君が絶望しているのがよく分かる。三百年前の彼を思い出させる程にね」

 

 それは朔夜さんの皮肉なのだろう。彼女の口から発せられる声には棘があるように思えた。

 

 けれど、私の心には届かない。何も響かない。苛立ちも、悲しみも、私の心からは何も湧いてこない。

 

「…重症だね、これは。この様じゃ私は心配になってしまうよ」

 

 朔夜さんが言う言葉が入ってくる耳から反対の耳へと抜けていく。

 頭の中に内容が全く入ってこない。

 

「これから君に千尋を任せようと思っていたのに」

 

「─────」

 

 そんなポンコツの状態の私でもその名前を聞き流す事だけは無意識の内にでもしなかった。

 

 千尋の名前を認識して、今朔夜さんが口にした台詞を反芻して、頭が混乱したまま顔を上げて朔夜さんを見上げる。

 

「それって、どういう…」

 

「…」

 

 朔夜さんは何も返事をしなかった。

 ただ微笑み、少しの間私を見つめてから視線を切ると、腰を下ろして両膝を地面につく。

 

 血の色に朔夜さんが履いているデニムが濡れても彼女は構う様子もなく、そっと両手を千尋の腹部の傷口に当てた。

 

「私が生き続けた目的を君に託すよ、四季ナツメ」

 

 朔夜さんが私に向けてそう告げた直後、彼女の両手が淡く光り出す。

 

 いや、それだけじゃない。彼女の両手を包む光は傷口を通して少しずつ千尋に注がれている。

 

「朔夜様、何をっ!」

 

 私達には朔夜さんが千尋に何をしているのか分からず、ただ見ているだけしか出来ない。

 

 ただ一人、私達の誰よりも長く生き、物事を知っている閣下だけはその光景を見て驚愕し、朔夜さんに喰い掛かった。

 

「何だいミカド。見ての通り今私は忙しいんだ。後にしてくれないか」

 

「バカなっ!貴女が今仕出かしている()()は、()()()()()()()()()()()!」

 

 千尋に何かをしようとしている張本人である朔夜さんは勿論、朔夜さんがしようとしている事を察している閣下との間でならば通じる言葉も、未だ何も呑み込めていない私達には二人の会話の意味がさっぱり分からない。

 

「閣下。朔夜様は何を…」

 

「…」

 

 明月さんが険しい表情を浮かべている閣下に問い掛ける。

 閣下は千尋と向かい続ける朔夜さんを睨んだまま、やがて一つ大きく息を吐いてから口を開いた。

 

「あのお方は─────千尋を生き返らせようとしている」

 

「え…?」

 

 そして、閣下が発した返答はあまりに衝撃的で、同時に絶望に沈んでいた私の心に僅かな光を与えた。

 

 けれど、驚くべきなのは今じゃなく、これからだったのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「自身の全てを犠牲にしてな」

 

 険しい表情を浮かべたまま、閣下は重々しい口調でそう続けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




残り二話+あとがき
の予定


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第八十六話






うおおおおおおおおおおおおまほよ映画化きちゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
マイ天使とシャバ僧に声がつくとかマジっすか?いや嬉しすぎてやばい

ただ一つだけ引っ掛かる事が
年越しスペシャルの発表、なに?これ以上の爆弾ってなんなのよ

あ、いきなり作品に関係ない事ぶっ込んですいません
最終話前最後のお話です、どうぞ


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「全てを犠牲にって…どういう…」

 

 墨染さんが閣下がさっき口にした言葉を反芻する。

 

 閣下は千尋に何かを注ぎ続ける朔夜さんを見つめながら答えた。

 

「一度死んだ生命を蘇らせる。それは理に反した禁忌であり、星と神々が最も忌み嫌うものだ」

 

 閣下はふと空を見上げ、更に続ける。

 

「人に限らず全ての生命、魂は肉体に死が訪れた時、天へと昇って転生を司る神の元へと送られる。そして魂はまた別の存在、肉体に宿って新たな生を迎える。それがこの星が定めた理だ」

 

 それは私が閣下と明月さんに出会った時に聞いた話と全く同じもの。

 

 閣下が語った星が定めた理というのを高嶺君が歪めてしまい、その影響は私にも及んで、だからこそ今ここに私はこうして生きている。

 けれどその代償は、高嶺君を排斥候補、要監視対象として星が定めた事によって支払われる事になる。

 

 後になって、再び高嶺君が奇蹟を起こした年末の事件の後に閣下から聞いた。

 本来なら一度目の奇蹟を起こした時点で高嶺君は排斥されていたって。それを覆せたのは、閣下と明月さんが朔夜さんに必死に懇願して、その願いを受けた朔夜さんが星を説得したからだって。

 

 たった一度の過ちをも許さない。或いは過ちを起こす前に対処する事も過去に例があったと閣下は言っていた。

 それ程までに星は、矛盾を嫌っているのだと、閣下は語った。

 

 だからこそ閣下は信じられないのだ。

 星が、星から生まれ落ちた神々が忌む矛盾を朔夜さんが起こそうとしている事が。

 

 そして、星が定めた理に反すればどうなるか。それはすでに、私達全員が知っている。

 

「あぁ、ミカド。君の言う通り、星と神々は矛盾を嫌う。私も星から生まれ落ちた存在として、矛盾を許してはいけない立場にある」

 

 朔夜さんはそう言ってから、けれど、と続けた。

 

「私は神ではないからね。あいつら程理に外れたものにアレルギー反応は起こさないよ」

 

「─────は?」

 

 閣下が間抜けな表情を浮かべながら呆けた声を漏らす。

 

 閣下だけじゃない。閣下のように声こそ漏らさないものの、私達全員が閣下と似た表情になっている。

 

「朔夜様…。貴女は今、何を…?」

 

「だから、私は神々みたく理に外れたものに対してアレルギー反応は─────」

 

「そうではなくて!神ではないとは…、どういう意味ですか!?」

 

 そう。今、この人は、私達に神と名乗り、そしてそれを信じてきたこの人は自分が神ではないと口にした。

 

 その衝撃は私達に、特に閣下には私達とは比べ物にならないくらいに大きい筈。

 閣下と出会ってから今まで、見た事がない程に今の閣下は狼狽していた。

 

 そんな閣下を一瞬、目を丸くしながら一瞥してから朔夜さんは─────

 

「そっか。君達にはそこから話さなくてはならないのか」

 

 なんて呑気に一言口にしてから─────

 

「面倒臭いな」

 

 なんて宣ってくれやがりました。

 

 この人、前々から思っていたけれど、素直に言葉を出しすぎる。だからこそ、普通の人とは違う存在なのだとそういう所から感じられたのだけれど。

 

 でも、神ではないのならこの人は一体…。

 

「そうだな…。それなら、まだ少し時間に猶予もあるし、昔話でもしようか」

 

 そう小さく呟く朔夜さんの表情は遠い過去に思いを馳せる、人が郷愁の念に駆られた時に浮かべるそれと似た顔をして、ゆっくりと語り出した。

 

「さっきも言った通り、私は神じゃない。ただ、星からある使命を賜ってこの世に生まれ落とされた。その使命とは─────ある人間の魂を守る事。それが私に神と同じ力と悠久の命を与えられた理由」

 

 朔夜さんが言うある人間とは誰の事なのか。それが分からない程鈍い人はここにはいなかった。

 今、朔夜さんが行っている行為がその疑問の答えを物語っている。

 

 朔夜さんは小さく微笑みながら明月さんの方を見てから続けた。

 

「死神…じゃ、ないのか、もう。明月栞那。君と私は少し似ていてね。君がずっと高嶺昂晴の魂を見守り続けた様に、私も()()()()魂を見守ってきた」

 

 朔夜さんの視線を向けられ、そう言葉をかけられた明月さんの目が僅かに見開く。

 

「だからね。君の願いを踏み躙った高嶺昂晴にはどうしても怒りが止まらなくてね。すまない、あれには少し私の八つ当たりが混じってたりするんだ」

 

 あれ、とは年末に起きたあの事件の事だろう。その事件について、そこに居合わせていなかった私は勿論、墨染さんも今回の件に関わるに当たって千尋達から説明を受けている。

 

 高嶺君が明月さんとの再会を求めて再び奇蹟を起こし、そして契約を破った報いとして高嶺君を排斥するべく朔夜さんが送り込まれた。

 

 千尋も高嶺君も同じ事を言っていた。あの時の朔夜さんはこれ以上なく怒っていたと。

 それは神として、矛盾を引き起こす行為に対して怒りを覚えていたのだと誰もが考えていた。

 

 だけど、それは違った。いや、朔夜さんも星から生まれた一つの存在としてそれに対しての怒りは少なくともあったとは思う。

 でも実際の大きな理由は─────

 

「君と交わした約束を高嶺昂晴が破った。その事が許せなかった」

 

 そんなあまりにも人間臭いものだった。

 

「私が同じ立場だったら。もしこの子が同じ事をして死ぬ羽目になんてなったら─────とても悲しいだろうから」

 

 その言葉は明月さんではなく、目を閉じたままの千尋の顔を見ながら発せられた。

 

 慈しみ、愛しそうに、僅かに目を潤ませる彼女の姿は、千尋を愛する今の私と重なって見えた。

 

「朔夜さん。貴女は…」

 

「…あぁ。私はこの子を愛している。正確にはこの子達を─────って言うべきかな。最初に私が見つけた子から、千年をかけてこの子の魂は受け継がれて、今は柳千尋として生きている」

 

 千年。そのたった一言、口に出せば一秒と経たず言い切れるその一言に込められた朔夜さんの想いは、きっと私達人間には計り知れないものだ。

 何しろ私達人間はどれだけ長く生きられようとも精々百年が寿命の限界だ。その人間の寿命の限界の、十倍という長い時をこの女性は、同じ人を愛し続けてきたのだ。

 

 どうしても比べてしまう。私はたかだか、もうすぐ千尋と付き合い始めて一月になろうかという所。千尋への気持ちを自覚してからだと一月を過ぎたという所だろうか。

 

 その程度の私が、この人から愛する人を託されようとしている。

 

 私よりもずっと、私の知らない千尋を知っているこの人が、私に千尋を託そうとしている。

 

「四季ナツメ。こっちにおいで」

 

「え…?」

 

 不意に朔夜さんに呼ばれる。いつの間にか俯いていた顔を上げて朔夜さんの方を見ると、朔夜さんは先程まで千尋に向けていた微笑みと同じ表情を私にも向けていた。

 

 私は朔夜さんと千尋の元へ歩み寄り、そして千尋の体と挟んで朔夜さんの前に両膝をつく。

 

「君は、千尋が好きかい?」

 

 朔夜さんは微笑みをそのままに私の顔を真っ直ぐ見つめながらそう聞いてきた。

 

 あまりに突然に、思いも寄らない事を聞かれて思わず一瞬固まってしまった。

 でもすぐにその問い掛けに頷いて答える。

 

 答えてから、私は口を開けた。

 

「貴女も…」

 

「ん?」

 

「貴女も千尋が好きなんですよね?」

 

「…そうだね。でも、この子に対する好きは君が千尋に向ける好きとは少し違うかな」

 

 朔夜さんはさっきも千尋を愛していると言った。だけど、私は彼女にどうしても聞きたかった。

 千尋が好きなのか、と。私と同じ気持ちなのか、と。

 

 しかし返ってきた言葉は私が思っていたのとは違うものだった。

 

「私は千尋を、千尋達を愛している。でもね?本当に恋した相手は…もういない」

 

「朔夜さん…?」

 

「私に愛をくれた。私に感情をくれた。私に名前をくれた。私が好きだった人は、もういない」

 

 慈しみと愛しさに満ちていた朔夜さんの表情にほんの一瞬だけ、哀しみが過った気がした。

 それは本当に一瞬で、次の瞬間にはまた朔夜さんの微笑みは戻っていて、気のせいだったのではないかと思えてしまう。

 

「だから、君が私に心を痛める必要はない」

 

「…でも、朔夜さんは、これで─────」

 

 消えてしまう、と言葉が続こうとして、ふと思う。

 

 閣下はこう言った。一度死んだ生命を蘇らせる事は理に反した禁忌であり、星と神々が忌み嫌うものだって。

 そして朔夜さんはこう言った。自分は神ではなく、千尋を守る役目を持って産まれたと。

 

 星は千尋を守るように朔夜さんに課したのなら、どうして朔夜さんは消えなくてはならないのだろう、と。

 朔夜さんは今、自身に課せられた使命を全うしようとしている。それがたとえ星が意味嫌うものだとしても、その行為は星が朔夜さんに課したもの。

 

「さっき、閣下は朔夜さんが自分を犠牲にして千尋を助けようとしてるって言いました」

 

「そうだね。ミカドの言う通りだ」

 

「でも貴女は自分の使命を全うしてるだけなのに。どうして…」

 

「─────あぁ、君はどうやら勘違いをしているらしい」

 

 私の言っている言葉の意味を分かりかねてきょとんとしていた朔夜さんはすぐに取り直し、笑みを浮かべながら続けた。

 

「星が矛盾を犯した私を排斥するんじゃない。ただ、私が自滅をするだけさ」

 

「それは、どういう意味なんですか…?」

 

「理をねじ曲げるには、膨大な力を要する。さっきの戦いで消耗した私では、千尋の魂を呼び戻す所でギリギリ、といったところかな?」

 

 違う。何も難しく考える必要なんてなかったんだ。

 

「私に宿った神力が底をつけば、私という存在は崩壊する」

 

 ただ奇蹟を起こすというその代償はあまりに大きかっただけ。

 奇蹟を起こすには、朔夜さんの全てを賭けなければならなかった。

 

 ただ、それだけだった。

 

「…そんな、そんなの」

 

 そんなの、悲しすぎる。

 朔夜さんの長い旅路の終わりが、そんな終わり方で良いのだろうか。

 

「ナツメ」

 

「っ…」

 

 そんな今の私の気持ちを悟ったかのように、朔夜さんが私に話しかける。

 

「私はこの終わり方に納得している。今まで散々色んなものを殺し続けてきた私が、最期は愛する人のために死ねるんだ」

 

 悟ったような、じゃない。この人は私の気持ちを読み取って、私に優しい言葉を掛けてくれている。

 

「それにね、千尋が初めてなんだよ。この子が初めて、私以外の女に愛を覚えたんだ」

 

「え…?」

 

 不意に、朔夜さんの話す声のトーンが上がる。そして言葉の内容に戸惑い、小さく声が漏れた。

 

「今までの子達は皆、私に恋心を抱いて告白してきた。でも─────私が恋を出来たのはあの子だけだった」

 

「…素敵な人だったんですね。その人は」

 

 心からそう思う。

 朔夜さんにとって、その人は本当に掛け替えのない人だったのだ。

 

 同じ魂が受け継がれていても、朔夜さんが千尋を男として愛せなかった様に。

 どうしてもその人達を別人として捉えてしまう程、朔夜さんにとってのその人は唯一一人の女として愛する事が出来た男の人だったのだ。

 

「うん。産まれたばかりの私に色んな事を教えてくれた。私に朔夜という名前と…、今までを生きた意味を与えてくれた」

 

 朔夜さんは夜空を見上げる。

 その顔に浮かぶ表情は、さっきも見た郷愁の念に近い、昔を懐かしんでいる。そんな顔に見えた。

 

「あいつも─────あの邪神も、ある意味私と同じなんだ。輪廻の環から外れた存在でありながら、人間に恋をした。ただ、私は恋をした男との約束を守って生き続け、あいつは恋をした女がいない世界に絶望して邪に堕ちた。もし何かが掛け違っていたら…、私もあいつと同じ様になっていたかもしれない」

 

 言われてみれば確かにその通りだ。

 朔夜さんとあの男神は同じ様に人間の異性に惹かれて恋をして、仲を深めていった。

 

 ただ、朔夜さんは愛する人を亡くした後も前を向いて、あの男神はそれが出来なかった。

 

 確かに、()()()()とは思う。でも─────

 

「同じじゃありませんよ」

 

「…そうかな?」

 

「そうです」

 

 そうだ。だってこの人は絶望に囚われはしなかった。

 悠久の時を生きられるこの人にとって、愛する人がいない未来がどれだけ重かったか、私には想像を絶する。

 

 それでもこの人は前を向いた。憎しみに堕ちる事なく、未来を歩く事を選んだ。

 

 そんな彼女が、あの男神と一緒な筈がない。

 

「…約束」

 

「ん?」

 

「朔夜さんは約束をしたと言ってましたよね。それは、どんな約束だったんですか?」

 

 朔夜さんが絶望に堕ちる事なく生き続けられたその訳に、さっき彼女が口にした約束が大きく関わっている。

 そう思って、朔夜さんに問い掛けてみる。

 

 もし答えづらければ質問をすぐに引っ込めるつもりだったけど、朔夜さんは思いの外すぐに、あっさりと口を開いた。

 

「『()()()()()()()()()()。』そう言われたんだ」

 

「…」

 

「この言葉のお陰で私は絶望しないで済んだ。彼との約束を違える訳にはいかないと、何度も絶望に堕ちそうになる私を救ってくれた」

 

 そう語る彼女は誇らしげに、されどどこか悲しげに。二つの矛盾した気持ちを表情に浮かべて語り続けた。

 

「─────っ」

 

「っ、千尋!?」

 

 その時、ぴくりと千尋の目蓋が震えた。

 動く筈のない千尋が僅かにだが動いたのだ。

 

 すぐに千尋の顔を覗き込む。

 未だに両目は閉じたまま。だけど、青白かった千尋の顔に微かに色が戻ったように見える。

 

「朔夜さん、千尋が─────」

 

 千尋の顔に生気が戻った事に喜びを覚え、私は忘れていた。

 顔を上げて朔夜さんを見上げた時にすぐ、私はそれを思い出す事になるのだけれど。

 

「うん。もう少しだから、待っていて」

 

「さくや、さん…」

 

 朔夜さんの全身が透けていた。

 その本来あり得てはいけない光景に目を見開く。

 

 初めから分かっていた事だった。閣下も、朔夜さん自身もそう言っていた。

 千尋を生き返らせれば朔夜さんは消える。それは変えようのない現実。

 

 二者択一。千尋か、朔夜さんか。

 

 そして、その二択を私は心の中ですぐに千尋だと選んでしまう。犠牲になるのが朔夜さんが望ましいと思ってしまう自分が醜くて仕方ない。

 

「ナツメ」

 

 また。また、朔夜さんは私の心情を悟って優しく声をかけてくる。

 

「人間の命は短い。でもね、たかが百年でも何が起こるか分からない。それが人生というものだ。…きっと、今日みたいに選択を迫られる時もいずれ来るだろう」

 

「…」

 

「その時、君は迷わず千尋を選べるかい?」

 

 朔夜さんが言うその場面がどんなものになるか、今は分からない。

 けれどもし、千尋か他の何か、どちらかしか選べない状況に出会したとして、私はどういう選択をとるのだろう。

 

「…その時になってみないと分からないです。私がどういう選択をするのか─────でも、一つだけ自信を持って言える事があります」

 

「…それは?」

 

「その時の私はきっと、千尋と一緒に悩んでいると思います。千尋と一緒に…、答を出そうともがいていると思います」

 

 私の返答を聞いた朔夜さんは少しの間、驚いたように目を丸くしてからすぐに小さく笑みを浮かべた。

 

「そこは素直にはい、と答えてくれた方が私としては安心できたんだけどね」

 

「…すみません」

 

「いや。私が欲しかった答えではないけれど─────君達のこれからをもっと見守ってみたくなる答えだったよ」

 

 朔夜さんがそう言った瞬間、朔夜さんの両手を包む光が収まっていく。

 

 それは、終わりの合図。

 朔夜さんの役目が今ここで、終わりを迎えた事の知らせ。

 

 朔夜さんの体はさっきよりも更に薄く、見えづらくなっている。朔夜という存在が薄く、消えかかっている。

 私でも分かる。もう彼女に残された時間は僅かなのだと。

 

「朔夜様」

 

 背後から閣下が朔夜さんを呼ぶ声がした。

 

 ふと振り返ると、少し離れた所に立っていた閣下達も今は私と朔夜さんの傍にいて、さっきまでの私達のやり取りを聞いていたらしい。

 

「ミカド。今まで嘘を吐いてきてすまなかったね」

 

「いえ…、そんな事…」

 

「ここまで千尋を守ってくれた事に感謝している。…これからも頼めるかな」

 

「…我輩はそのつもりでいます」

 

 閣下の返答を聞き、嬉しそうに微笑んだ朔夜さんは次に墨染さんの方を向いた。

 

「…君の前世の母を殺したのは私だ」

 

「…はい」

 

「だが、私はそれを君に謝罪するつもりはない。あれは罪を犯し、罪を犯した者には罰を与えなければならない」

 

「…」

 

「幸か不幸か、君の傍にはまた彼女のような人間がいる。…今度は失わないよう、注意する事だね」

 

「─────」

 

 朔夜さんの言い方には明らかに皮肉が混じっていたけれど、それは確かに墨染さんへの忠告だった。

 今の墨染さんの心中はとても複雑だろうけど、頷いた彼女の顔は決意に満ちていた。

 

「でもきっと、私の出番はないと思います」

 

「…そうかもね」

 

 と思っていると、墨染さんの決意に満ちた表情がへにゃりと和らぐ。

 そして、墨染さんがそう言うと朔夜さんも笑みを浮かべて墨染さんの言葉に同意した。

 

「…高嶺昂晴」

 

「は、はいっ」

 

 次に視線を向けられた高嶺君がぴしりと姿勢を正す。

 僅かに体が震えているのは間違いなく、恐怖からだろう。何を言われるか、されるか分からず震える高嶺君に、朔夜さんは続けた。

 

「もう、次はないよ?」

 

「…はい。もう栞那を裏切る事はしません」

 

「…」

 

 朔夜さんに問われ、力強く答える高嶺君を少しの間見つめてから、朔夜さんの視線は明月さんに移る。

 

「何かもう、信用できないんだよね。本当にこんな男で良いのかい?」

 

「え、ちょっと…」

 

「本当です。二度ある事は三度あると言うので、本当に心配です」

 

「酷くない!?」

 

「でも…私はこの人と一緒に生きていきたいから。死ぬまで…死んでからもこの人を見張るつもりです」

 

「…高嶺昂晴。栞那に捨てられない事を願っているよ」

 

「捨てられてもしがみついてくっついていくので大丈夫です」

 

「それは大丈夫とは言わない。気持ち悪い」

 

 最後にそう高嶺君に吐き捨ててから、朔夜さんはゆっくり私の方を見る。

 

「…頼むよ」

 

「…はい」

 

 私との会話は、たった一言で終わった。

 

 さっきも同じ事を言われて、その時には答えられなかった問い掛け。

 今度は決意を持って答える事が出来た。その事に安心したのか、朔夜さんが大きく息を吐きながら微笑む。

 

 朔夜さんは微笑みを浮かべたまま夜空を見上げる。そうしている間にも、朔夜さんの体は光の粒子となって、足元から消え始めていた。

 そんな状態でも、朔夜さんは満足そうな笑みをやめない。

 

「何勝手に消えようとしてんですか」

 

 その時だった。

 私達のすぐ傍らで、今まで朔夜さんと言葉を交わした誰でもない声が彼女を呼び止める。

 

「…目を覚ますまでまだ掛かると思っていたんだけどね」

 

「叩き起こされたんですよ、()()に。どうしてもお礼を言いたいって。伝えたい事があるって」

 

 ()()がゆっくりと体を起こす。

 しかし、目を覚ましたばかりだからだろうか、言葉は流暢に話していても体の動きはぎこちなく、頼りない。

 

 私は体を起こそうとする千尋の背中に手を添えて支える。

 千尋は首を回して私の方へ振り返って、小さく笑顔を浮かべる。

 その笑顔に私も笑顔で頷いて返すと、千尋は再び朔夜さんの方を向いて彼女と向き合った。

 

「…『ありがとう』。『()はずっと、お前を愛している』」

 

「─────」

 

「朔夜さん。…貴女に出会えて本当に良かった。貴女がいたから俺は生きてこられた。貴女のお陰で俺は明日からもナツメと一緒にいられる。…()()はこれから先、何年後であろうと貴女の事を忘れません」

 

 見開いたまま固まる朔夜さんの目尻から、一筋の雫が零れる。白い頬を伝って、地面へと落ちる涙。

 

「…本当に、そう思うかい?」

 

「はい」

 

「私は今まで何度も()()を戦いに巻き込んできた。それでも─────」

 

「それでも()()は、傍らに居たのが貴女で良かったと思っています」

 

「っ…」

 

 彼女の目から流れる涙が一滴、また一滴と増えていく。

 そして朔夜さんは涙を流しながら笑い、千尋の背に両手を回して抱き締めた。

 

「ありがとう。…千尋。これからも君の事は見ているからね」

 

「はい」

 

「ナツメを泣かせたら化けて出るからね」

 

「はい」

 

「…大好きだよ。もし最初に出会っていたのが君だったら、恋に落ちてたかもしれない」

 

「それは勘弁してください。()()ナツメ一筋なんで」

 

「あはは!酷いなぁ」

 

 足元から始まった崩壊は、今ではもう朔夜さんの上半身にまで至っている。

 腰からお腹へ、やがて千尋を抱き締めていた両腕も光となって消えていく。

 

「…さよなら、皆。ありがとう」

 

 それが彼女の最期の言葉だった。最期まで笑顔のまま、朔夜さんは消えていった。

 

 一つの魂を見守り、時に共に戦い、守り続けた一人の女性はこうして消えていった。

 

 光の粒子となった朔夜さんは夜空へと上っていき、やがて見えなくなる。

 見えなくなってからも私達は、しばらくの間朔夜さんが消えていった夜空を見上げたまま動かなかった。

 

「…帰るか」

 

 ずっと黙ったままだった私達の中で、最初に口を開いたのは千尋だった。

 

「もういいの?」

 

「いい。別れは済ませた。だから、前を向く」

 

 千尋にとって、朔夜さんがどれだけ大きい存在だったか。

 そんな彼女を失っても、千尋は前を向こうとしていた。

 

 なら私がするのは、そんな千尋の手助けをする事。千尋の傍に居続ける事。

 それが私が選んだ事で、やりたい事なのだから。

 

「立てる?」

 

「…うん、もう大丈夫だ」

 

 千尋は私の手を借りず、ゆっくりとだけど立ち上がった。

 それを見届けてから私も立ち上がって、千尋の隣に立つ。

 

「それではな。千尋、ナツメ。我輩らは希を送ってから帰る。貴様らは先に帰って、特に千尋はしっかり休め」

 

「ナツメさん、柳さん。また明日」

 

 閣下が、明月さんが、高嶺君と墨染さんも私達に手を振って私達とは別の方向へと歩き出す。

 私達も皆に少しの間手を振り返してから、皆とは逆の方向へと歩き出す。

 

 どちらからともなく手を繋いで、触れ合う手の温もりを確かめながら、私達が帰る場所へと歩く。

 

「あぁ、そうだ。ナツメ」

 

「ん?どうしたの?」

 

 すると、不意に千尋がこっちを向いて話し掛けてきた。

 私も千尋の方を向いてどうしたのか問い掛けると、千尋は笑顔を浮かべてこう続けた。

 

「ただいま」

 

「…うん。お帰り」

 

 星空の下を歩く。彼女が昇っていった空の下を。

 今、彼女はそんな私達の姿を見てくれているのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これにて、長い夜のお話はおしまい。

 また明日から、私達の新しい日常は始まるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




次回最終回


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最終話






ここまでこの作品にお付き合い頂いた方達に感謝を。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あの夜、()()にとって掛け替えのない恩人であり、ある男にとっては恋人でもあり、ずっとこの魂を見守り続けてくれた人を見送ったあの日から、またいつもと変わらない日常は始まった。

 

 朝早く起きてお店に行き、仕込みの手伝いをして講義の時間によっては途中で抜けて大学へ。

 大学で講義を受けて、昼休みはナツメと一緒に過ごし、午後の講義が終わればまたお店へ戻って仕事。

 夜は俺かナツメの部屋で二人でゆっくり過ごし、そして次の朝を迎える。

 

 そんな何事もない、同じ事の繰り返しの日々。少し前の俺は、退屈だと感じていたそんな日々を今の俺はこれ以上なく幸せに感じている。

 俺は今の日常が好きだ。ナツメがいて、ステラの仲間がいて、大学の友達がいる。

 その日々の幸せを噛み締めながら今の俺は生きている。

 

 とはいえ、このまま今の幸せの上に胡座をかいたままではいられない。

 

 もうすぐ三年時での最後の試験が始まるし、春休暇が終われば大学最後の一年が始まる。

 そろそろ自分の進路というものを固めていかなければならない。

 

「パティシエになりたい?」

 

 という事で、ナツメと付き合い初めてから自分の頭の中にあった選択肢について俺は涼音さんに相談する事にした。

 

 俺はこれから先、ナツメの隣で生きていきたい。そう思った時、ナツメは大学を卒業してからどうするんだろうと考えた。

 

 その答えはすぐに出た。きっとナツメはお店を続けていく。自分の夢の続きを、自分の力で切り開いていく。

 

 そして、俺はそんなナツメの手助けをしたい。惰性でそう思ったのではなく、心の底からそうしたいと思えた。

 

「専門学校とか行くべきなのかと思ってたんですけど、調べてみたらそうじゃない人も結構いるみたいで。そこら辺涼音さんに相談したいなと」

 

「学校ねー。私は行かなかったよ」

 

 まずパティシエになりたいと思ってすぐ、やはり専門学校に行った方が良いのだろうかという考えが浮かんだ。

 だがすぐにふと思う。そういえば、涼音さんは学校に行ってなかったなと。

 

 なのでネットで検索してみれば、案外有名店のパティシエでも学校に通っていなかった人も多くいて。

 それならば、学校に通う利点というのはどこにあるんだろう。逆に学校に通う事で生じるデメリットは?

 当然そこも調べては見たが、折角身近に現職の人がいるのだから直接話を聞いてみようと思い立ち、今に至っている。

 

「やっぱり、学校に通えば幅広い知識が得られるよね。あと、資格を取るには便利だと思う」

 

「ふむ」

 

「ただ、実践的な知識や技術は結局現場で磨かれるものだから。私はそう思って、現場に飛び込んだからね」

 

「なるほど」

 

 学校に通うメリット、直接現場に入るメリット、その両方を聞いて改めて考える。

 俺はどちらを選択した方が良いのだろう。

 

 なんとなく学校に通った方が良い気がしている。何しろ俺がパティシエという進路を頭に入れ始めたのは最近。

 涼音さんと志の年期があまりに違いすぎる。そんな俺がいきなり現場に飛び込んだとして、何が出来るのか。

 

 涼音さんの仕事を手伝ったりはしているが、実際に現場に入るのとはまず間違いなく訳が違うんだろうし。

 やはり、学校に通うのが俺にとってはベターなのかな?

 

「…本気で言ってるんだ」

 

「え?あぁ、そりゃ勿論。冗談で言う筈ないでしょう、現職の人にパティシエになりたいだなんて」

 

 モップで厨房の床を拭きつつ考え込む俺を眺めていたらしい涼音さんがふと呟く。

 

「いや、冗談で言ってるなんて思ってないけど…ごめん。これから就活が面倒で、バイトでちょっと齧ってるお菓子作りの仕事を選べば楽なんじゃないか~とか、そういう風に思われてるのかって考えちゃった」

 

「涼音さんの仕事を手伝ってるからこそ、そんな事思えませんって」

 

 朝は五時起き、開店数時間前から仕込みを始めて、帰るまでそこから半日以上お店で働き続ける。

 正直、バイトの身でもきついと感じる時があるのだから、涼音さんにかかる負担は相当なものだろう。

 

 そんな人の仕事振りを毎日のように見ているからこそ楽そうだなんて思った事はないし、思えない。

 

「…よし。あんた、明日の講義が終わったら家来なさい」

 

「え?」

 

「明日、ゆっくりあんたの話を聞いてやるって言ってんの」

 

 不意に涼音さんが何やら考え込む仕草を見せてから、思いも寄らない台詞を口にした。

 いきなりの誘いに驚き、固まる俺に涼音さんが更に続ける。そこでようやく、俺は涼音さんの本心を理解する。

 

「…はい。ありがとうございます」

 

 改めて思う。本当に俺は恵まれている。

 

 こうやって俺の悩みを親身に聞いてくれる人がいて、一緒に笑い合える人がいて、隣に居てくれる人がいる。

 

 そんな人達に出会わせてくれた場所を、やっぱり俺は守りたい。

 

「千尋。そっちの掃除は終わった?」

 

 胸に抱く決意が更に固く刻まれた直後、厨房の入り口からひょっこりとナツメが顔を覗かせた。

 

「いや、もう少し」

 

「そう。あのね、閣下が掃除が終わったら話があるから私と一緒にお店に残って欲しいって」

 

「話?…分かった」

 

 ナツメとの短い会話から数分後、厨房の掃除も終わって俺とナツメ以外の人達は着替えて帰路につく。

 

 お店を出ていく皆と挨拶を交わし、手を振り合ってその背中を見送り、やがて賑やかだったお店の中は静まり返る。

 

「それで、話って何だよミカド」

 

 そして、ミカドの言いつけ通りお店に残った俺とナツメはちょこんとテーブルの上に立つ猫の姿のミカドに視線を向ける。

 

 俺に問い掛けられたミカドは俺達を見上げ、見回してから口を開いた。

 

「少し待っていろ。見せたいものがある」

 

「?」

 

 ミカドはそう言うと、テーブルから降りてどこかへと歩き出す。

 その先には厨房、バックルームへと繋がる廊下があり、ミカドの姿が消えてから扉が開閉される音がした事からミカドが向かったのはバックルームだと思われる。

 

「見せたいものって…何だろう」

 

「さあ。すぐに戻ってくるだろうし、大人しく待とうか」

 

 ミカドが口にした見せたいもの。それに引っ掛かりを覚えながら、新たな言いつけ通りにミカドが戻ってくるのを待つ。

 

 俺の予想通り、ミカドはすぐに戻ってきた。

 先程ここにいた時には持っていなかった、謎のランタンを持って。

 

「─────」

 

「ナツメ?」

 

 何故ランタンを、それも灯りも点さず何をと不思議がる俺の横では、ナツメが目を見開いてミカドが持ってきたランタンを見つめていた。

 まるでそのランタンの中に何かがあるかの様に。その何かに驚いているかの様に。

 

「千尋。メガネを外して見てみろ」

 

「…」

 

 ミカドの言う通りにメガネを外す。今度は裸眼でミカドのランタンを目にする。

 

「っ…、それは」

 

 レンズを通してでは見えなかったそれが、ランタンの中で飛び回っていた。

 青い光を撒きながら、羽を羽ばたかせ飛び回るそれは、青い蝶。

 

「お前なら一目見ただけで分かるだろう。…これは、ナツメから零れ落ちた魂の一部だ」

 

「ナツメの…」

 

 正直、ここ最近に色々ありすぎて、それにナツメも出会った当初から比べてかなり明るくなっていたし、お陰ですっかり忘れてしまっていた。恐らくナツメの反応を見る限り、本人もまた忘れていたのだろう。

 

 ナツメがステラを開店させるに至る最初の切っ掛け。ミカドと明月さんに出会う事になった要因。

 それはナツメの魂の一部が零れ、危うい状態に陥ってしまったからだ。

 

「…閣下」

 

「あぁ、分かっている」

 

 ランタンの蓋が開けられ、すぐに蝶が外へと飛び出す。

 そのまま周囲を飛び回ると、何かに気付いたように一瞬ぴたりと動きを止めてから、再び動き出す。

 

 それはまるで、子供が親を見つけた時のような。そんな風に見える動きで、蝶はナツメの元へ。

 

 ナツメが両手で器を作ると、蝶はその中に止まり、パタパタと羽を動かす。

 何かを待っているかの様に、何かを急かす様に、ナツメに向かって何かを求めるかの様に。

 

「─────」

 

 ナツメが両手を持ち上げ、自身の胸に優しく当てる。

 

 ナツメの手に止まっていた蝶は光となって溶け、ナツメの中へと消えていった。

 

「…千尋」

 

「うん」

 

 ふと気付けば、ミカドの姿はなかった。その事に感謝しながら、目を潤ませながら微笑むナツメと顔を見合わせる。

 

「今ね、私すごく幸せ。千尋に出会う前の私にこの事を言っても、きっと信じて貰えない。…ううん、今でも少しだけ不安になる。これは、夢じゃないよね?明日になったら、千尋がいなくなってたりしないよね?」

 

「ないよ。夢じゃない。いなくならない。俺はずっと、ナツメの傍にいる」

 

 何を言うかと思えば、なんて笑い飛ばす事はしない。むしろ、ナツメの気持ちはほんの少しだが分かる。

 俺だって、今がとても幸せで、たまにふと思う。この幸せが幻ではないように、夢じゃありませんように、と願う時がある。

 

 それ程までに幸せで、その幸せが時に恐ろしくなってしまう。

 

 だからもう二度と、そんな恐怖を俺もナツメも感じなくなる様に、俺は今ここでナツメに宣言する事にした。

 

「…ナツメ。俺さ、パティシエになろうと思ってる」

 

「え…?」

 

 微笑んでいたナツメが固まり、目を丸くする。

 

「…それは、私のため?」

 

「それが全くないって言ったら嘘になる。でも、俺が本気でなりたいって思ってるのも本当だ」

 

 本当は自分のため、と言いきれたら良かったのだけれど。好きな人のために頑張りたい、という気持ちだってあるのだからそこは誤魔化さず素直に伝える。

 たださっきも言った通り、パティシエになるというのは飽くまで俺自身の決意。俺がなりたいから、目指すのだ。

 

「ナツメが好きな場所を守りたい。俺が好きな場所を守りたい。そのために俺は何が出来るのか、何をしたらナツメの力になれるのか考えて、俺はパティシエになりたいって思った」

 

「…」

 

「ナツメ。俺はずっと、お前と一緒にいたい」

 

「っ…!」

 

 俺が一緒にいたい、と言った直後、ナツメが飛び付いてくる。

 

「…なんか、今の千尋の台詞、プロポーズみたい」

 

「あー…、確かに」

 

 飛び付いてきたナツメを受け止め、抱き締め合う。

 すると、耳元でナツメがそんな事を呟いた。

 

 確かにさっきの台詞はプロポーズ染みている。というか、完全にプロポーズじゃないか?

 そういうつもりじゃなかったんだけどな。いや将来的にそうなりたいとは思ってるけど、さっきの台詞はそういうつもりじゃないってだけで。

 

「よし、ナツメ。結婚しよう。指輪も何もないけど、婚姻届貰って出してこよう」

 

「ムードもへったくれもない。やり直し」

 

「厳しい」

 

 初めてのプロポーズは是非もなく断られてしまった。まあこのプロポーズで受け入れられてもちょっと困るけど。

 

「だから、次はちゃんとプロポーズして?」

 

「…任せろ」

 

 危ない、何だ今のは。可愛すぎるだろ。俺の彼女が可愛すぎる。今すぐプロポーズしたい。婚姻届書いて出しに行きたい。

 

 さっきの二の舞になりそうな寸でのところで衝動を抑える。

 

「千尋」

 

「ん?」

 

「大好き」

 

「俺も大好きだ」

 

 首もとに埋めていた顔を離したナツメと至近距離で向き合う。そして、どちらからともなく顔を近付ける。

 

 好きだ。大好きだ。愛してる。

 そんな一言では表し切れない、溢れ出る想いを触れ合う唇で確かめる。何度も、何度も、何度確かめ合っても足りない。

 

「好き」

 

「うん」

 

「大好き」

 

「俺も」

 

 時折離れる唇から告白が溢れる度に俺も想いを返す。

 

 繰り返されるキスが止まる気配はなく、ここがお店だという事も忘れて、俺達は何度も想いを確かめ合った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ナツメと出会う前は、俺がこんな風になるなんて思いもしなかった。

 素敵な仲間に囲まれて、俺をずっと見守ってくれていた恩人と再会して、心の底から愛せる女の子と出会えて。

 ナツメと同じだ。当時の俺に今の俺を教えてもきっと信じて貰えない。

 

 それでもこれは夢じゃないし、この幸せはこれから先も続く。いや、続かせてみせる。

 ナツメと一緒なら、何だって出来る気がするから。

 

 この気持ちを大切に、死ぬまで愛する人と共に居続けよう。

 それが俺の一番の願い事だから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 キスに夢中の二人は気付かない。

 

 二人の頭上を、一匹の蝶が飛び回る。

 

 蝶の羽から舞い落ちる光の鱗粉は幻想的に二人を彩る。

 

 傍から見れば、まるで蝶が二人を祝福しているかの様。

 

 やがて蝶は二人の頭上を飛び回るのを止め、少し離れた所で二人の様子を眺めてから再び動き出す。

 

 お店の窓をすり抜けて外に出ると、もう一匹の蝶がお店から出てきた蝶の傍へとやって来る。

 

 二匹の蝶はまるで戯れるように一緒に飛び回り、そして二匹一緒に星空へと昇っていく。

 

 最後にちらりと、お店の中の二人を見遣ってから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『これからも君の事は見ているからね』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




切っ掛けはYouTubeのおすすめ動画の一覧に出てきた一つのサムネだった…。
黒髪ロングの可愛い女の子で、めちゃくちゃドストライクで何か考える前に動画をクリックしてしまい、そして出会ってしまった…。
我に返ったその時、私はゆずソフトのHPでゲームの買い方を調べていました。

という事で、喫茶ステラと死神の蝶と見える人完結です。
何とか年内に終わらせられてホッとしています。
途中何度かモチベーションが切れそうになりましたが、ナツメさんの声を聞いてモチベーションを上げてました。
「ぐむむむむ…」
とか、
「おまわりさーん」
とか、
「我慢しないとパパになっちゃうわよ」
とか、僕の力になりました。

え?最後の台詞だけ何か違う?
僕の性癖にぶっ刺さった台詞です。最初聞いた時マジで悶えました。

いやもうマジでナツメさんが可愛くて、今まで出会ってきた女の子キャラクターの中で一番ど嵌まりしてしまい、原作をプレイし終えてからすぐこのキャラを書きたい!と思ってこの作品が出来ました。
ただ欲望の赴くままナツメさんを書いて、そこに関しては満足しているのですが他のヒロインをもう少し掘り下げたかったなとちょっぴり反省しています。
自分の中でナツメさんが一番なのはもう絶対に動かないのですが、栞那、希、愛衣、涼音さん達を、特に愛衣と涼音さんは最後の方出番が少なくなってしまい、もう少し何とか出来なかったのかと反省しています。自分の力不足です。

ただ、安心してください。ゆずソフトにて喫茶ステラと死神の蝶は絶賛発売中です。(唐突な宣伝)
先程上げたヒロイン四人のルートは勿論、ナツメルートにもこの作品の都合上泣く泣くカットした場面というのは存在します。
なので是非、この話を読んで原作をプレイしたいと感じた方。今すぐソフトを起動しましょう、今は年末年始でお休みの筈です、徹夜しましょう。
そしてソフトを持っていない、原作を知らずにこの作品を読んでいる方。

ゆずソフトにて喫茶ステラと死神の蝶は絶賛発売中です。(二度目)
買うのだ。そしてゆずソフトを履修するのだ。我々は歓迎する。

それでは唐突な宣伝も終わった所でここらであとがきを締めくくらせて頂きます。
ただその前に最後の一つだけ。

次回作もゆずソフトです。私のゆずソフトブームは終わらない。

それではまたいずれ。多分、年明けすぐくらいにまた会う事になるでしょう。

それまで皆さん、おたっしゃでーノシ


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