勝てなきゃ走る意味が無いと、俺はハルウララに言った (加賀崎 美咲)
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トレーナーの独白

 ウマ娘が嫌いだ。

 

 レースが嫌いだ。

 

 ダービーが嫌いだ。

 

 でも不幸なことに、俺の人生はそれ無しには成り立たなかった。

 

 メジロ家という家がある。

 

 歴々の強者、頂点を戴くウマ娘を何人も輩出する名家というべき一族。

 

 良家の中の良家。そんな仰々しいクソッタレどもが俺の世界の中心だった。

 

 ウマ娘がダービーを勝ち上がるには必要なものがいくつかある。

 

 磨き上げられた肉体、血を吐くような勝負経験、天から授けられた勝負運。

 

 けれど自力ではどうしようもないものが一つだけある。

 

 それは素質あるウマ娘を最高の状態に仕上げる調教師。トレーナーの存在。

 

 本番のレースでは影も形もない日陰者。

 

 実際にレースを走り、勝利を勝ち取るのはウマ娘だ。

 

 けれど優秀なトレーナーなくして一着、勝利は無い。

 

 勝利を争うウマ娘同士は当然、血筋から厳選された素質を持ち、走る生き物として完成されている。

 

 勝負を決めるのは、最後の小さな誤差。

 

 その誤差を引き寄せるのがトレーナーの手腕にかかっている。

 

 だから当然、ウマ娘は優れたトレーナーを求め、それはメジロ家も同じだった。

 

 けれどそこにはどうしようもない運が介在する。

 

 優れたトレーナーに出会えるかどうか。ウマ娘とトレーナーとの相性がかみ合うか。

 

 コンビを組み結果を見るまで、それは博打に近い。

 

 賽を投げ、偶数か奇数が出るか分からない。当たりか外れか。投げなければ分からない。

 

 そして良家は博打を振らなかった。

 

 単純な話だ。自身から輩出する素質あるウマ娘に見合ったトレーナーを探すのではなく、ウマ娘に見合う素質を持ったトレーナーを用意するのだ。

 

 方法? そんなもの、名家の得意分野だ。

 

 意図的な交配と幼少期からの教育。ウマ娘に行う技法とノウハウをそのまま流用すれば良いだけの話だ。

 

 家の中で将来の覇者を育てる傍らで、それに付き従う従者を飼育する。

 

 そんな大外れクジを代々引き続けているのが我が家で。今代の貧乏クジの担当が俺だった。

 

 ここまで口汚く話していたが、別にメジロ家に恨みはない。

 

 それこそ、メジロ家のトレーナーは当家のウマ娘を支える存在。生まれたときから手厚く、それこそウマ娘と同じように大事に養育された。

 

 金と愛情でどうにか出来る範囲において何もかもに恵まれ、不自由など別世界の言葉だった。

 

 その分結果は求められたし、将来の青写真は決められていたけれど、不満はなく。トレーナーとなるべく医学、スポーツ科学といった分野の博士号や免許を片っ端から修めていくだけの頭脳と才能が俺にはあった。

 

 そして大学院を首席で卒業した翌年、ついに俺の人生の本番がやって来た。

 

 その年、メジロで今代のウマ娘がダービーに出走出来る年齢、つまりはトレセン学園に入学する年齢に達した。

 

 その名前はメジロマックイーン。

 

 つややかな長い葦毛をなびかせ、風を切る走りは本物で、入学前ながら既に頭角を示す彼女が、俺が付き従う主だ。

 

 互いに幼少期から面識があり、彼女の病弱さを大事に見て少し遅れたデビューでこそあったものの、本家からゴーサインが出たのなら不安はなかった。

 

 生真面目で、家の厳格な規律を理解し、勝つべく努力を重ねる彼女は正しく未来の覇者であった。

 

 そして初めてのデビュー戦は当然のように一着。一バ身以上の差をつけた華々しい勝利だった。

 

 初めての勝利を二人で分かち合い、喜んだ。

 

 同時に安心もした。彼女を勝たせることが存在理由だったから。それまであった重圧と責任が誇りに変わった。

 

 

 

 そして後は地獄だった。

 

 勝てない。

 

 それだけだ。二着、三着、二着。彼女のゼッケン番号はいつも掲示板にのる。けれど一番になれない。その前に誰かが走っている。

 

 あれほど才覚に恵まれているのに。努力を惜しまないのに。なのに彼女が一番じゃない。

 

 誰が悪いのかは明白だった。俺だ。メジロマックイーンという天賦の才能を、俺はただいたずらに浪費していた。

 

 俺自身がそれをよく分かっていた。歓声がため息に、期待が失望に変わる頃、そこにあったのは焦燥と不安だけだった。

 

 マックイーンを勝たせなければならない。なのに一番にならせてあげられない。そのために俺は生きているのに、結果が残せない。

 

 その後のレースではなんとか一着をつかみ取れた。しかし落としてはいけなかった嵐山ステークスで同じメジロ家の同門に敗れ二着、菊花賞に出場するための賞金額が不足する事態に陥った。

 

 その頃で覚えているのは歪む視界と崩れそうな足下、そして鉄くさい吐血ばかり。

 

 便所で血を吐きながら震えながら思考する。

 

 マックイーンには才能がある。足は良く伸びるし、負け続けたとしても腐らず努力を惜しまない。

 

 悪いのは俺だ。マックイーンが勝てないのは全部俺の責任だ。

 

 どれ程優れた学業を修めても肝心のトレーナーの才能が無いことに、この頃から薄々と気がつき始めていた。

 

 俺が彼女のトレーナーでさえなければ、きっと彼女はもっと勝利を重ね、栄光の中にいたはずで。

 

 もう、どこかへ消えたかった。

 

 トレーナーを辞職したい。そうマックイーンやメジロ家に伝えようとした矢先、一報が届いた。

 

 ウマ娘の辞退により、繰り上がりでマックイーンが菊花賞に出場することが決まった。ただの幸運だとしても、目標としていた菊花賞の出場にマックイーンは珍しく昔のように感情を表にして喜んでいた。

 

 笑みを溢れさせて頑張ろう、勝とうと言う彼女を見る俺の中にあったのは絶望だった。

 

 どれだけ手を尽くしても届かなかった出場に、ただの偶然が届いてしまった。俺の尽力よりも、ただの幸運がマックイーンの役に立っていた。

 

 その事実が感情をかき乱していく。

 

 出場決定から時間も無く、ほとんどマックイーンの自己判断に任せたレース。菊花賞は気持ち良いくらいの圧勝だった。

 

 薄々気がついていたことは揺るぎようのない事実だった。

 

 俺にはトレーナーの才能がない。

 

 言葉にすれば簡単なことで、しかしその事実に愕然とした。

 

 そこから俺の仕事は変わった。

 

 マックイーンには日々のメンテナンスだけを医者の立場から見て、レースに関しては何も口出しせず、マックイーンに任せる。

 

 面白いほど勝てた。それまでの不調が嘘のように彼女は勝利を重ねていく。

 

 違う。俺の存在こそが不調そのものであり。彼女は最初から勝てるウマ娘だったんだ。

 

 マックイーンが勝利を増やすたびに俺は喜び、そして血を吐いた。

 

 吐き気だとか、指先の震えだとか、細かな体調不良のために病院通いが週一になった頃、そんな異常に気がつかれた。

 

 頭が良く回らず、処方された錠剤を流し込んでいるところをマックイーンに見つかった。

 

 彼女は優しいから、忙しさで食事が疎かだから栄養剤で補っていると告げると、彼女は容易く信じた。疑っている様子は欠片もなく、彼女を騙してしまったことに胸が苦しい。

 

 彼女の信頼に仇なすような真似をする自分が許せなかった。

 

 裏切りへの贖罪をしたい。

 

 自分が信頼されていると感じたからだろうか。それともマックイーンが勝利を重ねていたからか。自分の功績でもないのに、虚飾のようなトレーナーとしての自信を取り戻して、いや違う、ただの自惚れに溺れていた。

 

 欲をかいて、しなくてもいい出しゃばりをしてしまった。

 

 メジロ家悲願である、迫る秋の天皇賞で。

 

 俺はまるでトレーナーのように、マックイーンに指示をした。

 

 前を走ろうとするウマ娘を離すな、内角を攻めて隊列を引っ張っていこう。

 

 今思えばなんて愚かな指示かと、自分をなじらずにいられない。

 

 けれどマックイーンは俺なんかの指示を大真面目に受け取り、花のような笑みで俺に勝利を送ると宣言した。

 

 そしてマックイーンは、勝利して見せた。五バ身以上の差をつけた圧勝を見事成し遂げた。

 

 はずだった。

 

 本当にくだらない。前例の無いことだった。

 

 出走直後の混戦する状況において、マックイーンが他を妨害する位置を走ったと判断された。

 

 順位は降格となり、一着から、最下位の十八着へ。

 

 掲示板から彼女の名が消え、自分が何をやらかしたのかに気がついた時、俺は気がつけば病床に寝かされていた。

 

 倒れたときの状況を説明する担当医の声を余所に、俺に聞こえていたのは俺自身を責め立てる声だった。

 

 ──あの時、お前が余計なことを言わなければマックイーンが斜行することはなかった。

 

 ──メジロ家のウマ娘に最下位などという大恥をかかせて、どうやって責任を取る? 

 

 ──お前さえ何もしなければ、何の問題も無くマックイーンが一着だったんだ。

 

 喉を液体が逆流する感覚と腐ったような臭い、息が乱れ上手く呼吸が出来ない。

 

 すぐさま医師や看護師に取り押さえられ、検査のために拘束された。

 

 何時間もかかる検査や、よく分からない質問に答える日々が数日経って、薄暗い部屋で対面する担当医は気の毒そうな顔で淡々と告げる。

 

 ──パニック障害や逆流性食道炎、胃潰瘍などを併発していますね。ストレスによるものだと考えられます。危険な状態ですから、しばらくの間病院で入院をしていただきます。

 

 のしかかる重圧に身体が敗北した。言葉にすればそういうことだった。

 

 恥ずかしながら、症状と入院を伝えられたとき、肩の荷が下りたような安心感、ホッとした。

 

 少しの間だけでもウマ娘やレース、メジロ家と離れられる。情けないことに、少しの間だけでも逃げられると思った。

 

 けれどそんな都合の良いことが続くはずも無い。

 

 ──あなたには休暇を出します。ゆっくりと療養なさい。その間、マックイーンのトレーナーに関してはこちらで対処しますから、あなたは気にしなくとも問題ありません。

 

 電話越しに、メジロ家総帥からそう伝えられた。要するにクビというわけだ。

 

 ウマ娘を勝たせられないトレーナーは要らないと、それだけの話。

 

 心の中にあったものがまるっきりなくなり、ぽっかりと空いた心持ちで過ごす入院生活に時間は流れていなかった。

 

 病状もそれほど改善せず、対処薬を処方され、蹴り出されるように退院した。

 

 メジロ家のトレーナーでは無い俺に価値などないから相応の扱いというわけだ。

 

 退院までの間は面会謝絶となっていたから、マックイーンと会ったのは実に一月も後のことだった。

 

 花のこぼれるような笑みで、彼女はいつも通りだった。俺がこれほど憔悴しているというのに。

 

 ──またあなたと走る時を待っていますから、身体をお大事に。

 

 彼女は優しいから、俺にきついことを言わない。もうトレーナーに復帰するはずなど無いと分かっているだろうに。

 

 その方が彼女のためだというのに。

 

 彼女の優しさを、俺なんかのために無駄遣いさせてしまっていることが何よりも心苦しい。

 

 このまま消えてなくなりたい。君の栄光に泥を塗りたくない。

 

 そう思いながらも、必死に表情だけは取り繕い。

 

 社交辞令のような色の良い返事を返し、彼女と別れた。

 

 放逐という名の自由を手に入れて、俺は何もしなかった。

 

 何をして良いのか分からない。ただぼんやりとテレビ越しにマックイーンやその他のウマ娘のレースを眺め、勝利を記念するライブを見ても何も心が動かない。

 

 むしろトレーナーの頃の光景がフラッシュバックして、次の瞬間には嘔吐する。

 

 そんなになるならウマ娘から、レースから離れれば良いのに、悲しいことに俺はそれ以外の生き方を知らなかった。

 

 優しいトレーナー仲間の言葉もあまり覚えておらず、季節が経過した。

 

 気がつけば次代の新人たちがやってくる頃、トレセン学園から通知がやってくる。

 

 俺は今、誰の指導にもついていない。今季はどうするかという催促状だった。

 

 もう誰の指導も出来る気がしなかった。

 

 誰かを勝たせてあげられる未来が思い浮かばない。

 

 錠剤一つ無ければ日常生活もまともに送られない無能のお荷物に指導を誰が受けたいというのだ。

 

 誰かに迷惑をかけるならいっそのこと。そうやってロープに手を伸ばしかけて、つかみ取る勇気も無く。

 

 もう俺には勝利どころか、敗北すら掴むことも出来そうに無かった。

 

 だから震える手を押さえながら、必死の思いで筆を執り、なんとか虚弱な意志を文字に変える。

 

 そうしてできた辞表を握りしめ、数カ月ぶりにトレセン学園の敷地に足を運ぶ。

 

 遠くからはトレーニングに励むウマ娘たちの声が聞こえた。

 

 今更何の未練があるというのか。

 

 それなのにまるで火に寄っていく害虫のように、気がつけば観客席にへたり込み、そんな彼女たちの様子を眺めていた。

 

 明日の勝利を信じてウマ娘たちが地を駆ける。それを支えるトレーナーたちも同じように真剣で、今という時間を懸命に生きていた。

 

 彼らが輝いて見えた。

 

 死んだように生きる俺とは全然違う。

 

 そう思うと涙が流れる。

 

 ──俺も、ああなりたかった。

 

 ──どうしてああなれなかったんだろう。

 

 マックイーンを勝たせてやりたかった。彼女に勝利をもたらしたかった。

 

 自分がそこにいる意味が欲しかった。

 

 それなのに今はレースを見ることですら辛い。胸が苦しくなる。

 

 嫉妬と羨望と後悔ばかり。

 

 能無しな自分が嫌いだ。

 

 手に持った辞表が小さく潰れて音を立てる。

 

 これを提出すればすべてが終わる。

 

 トレーナーという肩書きを失って、俺に何が残るというのか。

 

 もう、分からないけれど。

 

 もういいや。

 

 考えることすら億劫になっていた。

 

 観客席から立ち、辞表を出そう。

 

 歩き出して、物陰から小さな声が聞こえた。

 

「うえーん、どうしよう! トレーナーが見つかんないよー」

 

 困っているくせに、元気いっぱいで、のんきな声が、隅っこで体育座りで笑っていた。



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ハルウララの回顧

 わたしとトレーナーが出会ったのは、4月も終わりかける頃の夕暮れだった。わたしはとっても困っていた。

 

 トレセン学園に入学したウマ娘はレースに出るために日本中からやってくる。そしてレースに出場するのにはトレーナーさんとコンビを組んでいなきゃいけない。

 

 わたしはよく分かっていなかったから、同じように入学したばかりでいろんな募集に応募する子たちについて行って、選考に参加してみたりした。

 

 選考はそれぞれ10人くらいから、多くて5人くらいが選ばれる。トレーナーさんにだって面倒を見られる限界があるからだ。だから何回か選考を受けたら大概はどのトレーナーかがウマ娘を見てくれる。

 

 けどわたしは上手くいかなかった。ちょっと走ってみると大体わたしはドベッケツで、選んでもらえなかった。トレーナーさんはきっといい人が見つかるよって、背中を押してくれて、他のトレーナーを紹介してもらえたりして、わたしは何人ものトレーナーに走りを見てもらった。

 

 けれど、なかなかわたしの面倒を見ることに名乗りを上げてくれるトレーナーさんは現れなかった。

 

 そんなこんなを繰り返して、もう1カ月。周りの子はトレーナーなんかとっくに決まっていて、早い子は目標のレース目指してトレーニングを頑張っていた。

 

 さすがのわたしも、これが良くない状況だということは察していた。でもトレーナーさんのほとんどは、もう担当の子が決まっていて、これ以上面倒を見るのは難しいと言われた。

 

 いっぱい考えてみたけど、良い考えは浮かばなくて。とりあえず何もしないよりずっと良いと思って、いっぱい走ることにした。

 

 走るのはすっごく楽しい。歩くのとは違って、風を切って目に映る景色が流れていくと、気持ちが高揚する。ずっと走っていたい。走るのが楽しい。そう思ったから、わたしはトレセン学園に来たんだ。

 

 走っていると、どこかのトレーナーに教えられながら走る子たちの集団に会った。みんなトレーナーさんに走り方を見てもらって、ああしたら良い、こうしたら早くなるとか教わって、わたしよりもずっと速く走って、わたしを追い抜いていった。

 

 少し走って、疲れたからコースを外れて隅っこに背中を預けて、体育座りに座り込む。

 

 遠くではみんな走っている。気持ちよさそうに風を切って走る様はとってもカッコイイ。

 

 わたしもあんな風に走ってみたい。けどそれにはきっとトレーナーさんが必要なんだと、なんとなく分かった。

 

 でも困った。もうトレーナーさんはいないかもしれない。

 

「うえーん、どうしよう! トレーナーが見つかんないよー」

 

 伸びをして、そんなことを言ってみる。

 

 言っても解決しないことはわたしが一番よく分かっている。でも、きっと、頑張って探したら、わたしを見てくれるトレーナーさんに会えるよね? 

 

 そんな悠長なことを考えていたら、いつの間にか誰かが立っていた。

 

 よれよれの黒いスーツを着て、元気がなさそうなその人は、座り込んだわたしを見ていた。

 

「……まだトレーナーが見つかっていないのか?」

 

 少し間があってその人はわたしに質問した。聞いて良いのか悩むような様子だった。

 

「そうなの! いっぱい探してみたけど、まだ見つかってないんだーっ!」

 

 気にかけてもらえたことが嬉しくて、わたしは元気いっぱいに答えた。でもその人は更に困った様子で言葉を続ける。

 

「……春期の申し込みの期限は今日までのはずだ。今日を過ぎると、次の申し込みは夏を過ぎるぞ」

 

「どういうこと?」

 

「今日申し込まないと半年はレースに出られない」

 

「ええーっ!? そんなの困るよー!」

 

 なんてことだ。そんなしくみだということを、わたしは分かっていなかった。後からトレーナーに、もらったプリントは音読して読むようにこっぴどく言われるけど、このときのわたしはとっても迂闊なウマ娘だった。

 

 そんなことより、わたしはレースに出られないと言う言葉に大慌てだった。

 

「ど、どうしよう! このままだとわたしレースに出られないの?」

 

「そういうことになる」

 

「でも、どうしたらいいかなー」

 

「どこからかトレーナーを探して、面倒を見てもらうしか無い。学園への通知はメモ用紙でも良いから、とにかく誰でもいいからトレーナーを探すことだ」

 

「でも、トレーナーさんもういないかも……」

 

「どういうことだ?」

 

 その人は不思議そうに眉をひそめた。

 

「いろんなトレーナーさんに見てもらったけど、みんな他のトレーナーさんに見てもらいなさいって……。わたし足が遅いからなかなかトレーナーさんが見つからないの」

 

「……そうか」

 

 その人は悲しそうな顔をして何も言わなくなった。どうやったらトレーナーさんが見つかるのか一緒に考えてくれているのかも。

 

 そう考えたら、なんとかなるような気がしてきた。頑張れそうな気がする。そう思って見上げると、その人のスーツの襟に見覚えのあるバッジがつけられていることに気がつく。

 

 それはトレセン学園のトレーナーさんたちがつけているトレーナーのバッジだった。

 

「お兄さんトレーナーだったの!?」

 

 思っても見なかった発見に声が弾む。

 

「え……? ……ああ、まだそうらしい」

 

 襟元のバッジを見て、どこか歯切れの悪い口調でその人は答えた。

 

 これだ! きっとこれだと思った。

 

「お兄さんもトレーナーさんなんだよね!? だったらわたしのトレーナーになって!」

 

「は? いや、待て。俺はもう……」

 

「トレーナーさんなんだよね!? ねー、ねー。おねがいだよー。わたしのトレーナーになってよー!」

 

 身じろぎして後ろへ逃げようとするその人に抱きつき、駄々っ子のようになって懇願する。これを逃したらきっとダメな気がして、わたしは必死だった。

 

 そのまま事務室までその人を引っ張ったり、引っ張られたりして、二人そろって息も絶え絶えだった。

 

 わたしたちが来たことで仕事をしていた用務員さんはびっくりして、その人の顔を見て、用務員さんは更にびっくりしていた。

 

「あなたは……!」

 

「その、騒がしくして申し訳ないすぐに退散します」

 

「トレーナーさんとウマ娘の申し込み、お願いしまーす!」

 

 わたしはその人の声を遮るように大きな声を出した。用務員さんは驚いたけど、分かったと名前を何かに書いて渡してと言った。

 

 その人は手に何か紙を持っていて、それを用務員さんに渡そうとしていた。それを使ってということかな? 

 

 その人が持っていた紙をとってみると難しい漢字が書いてあった。読めなかったからわたしの名前を上から書き加えた。

 

 用務員さんにそのまま渡すと、返されてトレーナーの名前も書いてと言われた。

 

 なのでその人に振り返ってわたしの名前の書いた紙とペンを差し出した。

 

 その人は唖然とした顔で少しの間動かなかった。そしてわたしとわたしの名前の書かれた紙を何度も見て、何が起きているのかよく分からない顔で自分の名前を書いて、おずおずとわたしに手渡した。

 

 それが、あの人がわたしのトレーナーになった日だった。

 

 

 

 ●

 

 

 

 次の日からわたしとトレーナーの特訓の日々が始まったよ! 

 

 わたしの走りが見たいからって、試しに短いターフを走って見せた。

 

 走り終わるとトレーナーは不思議そうな顔をして、全力で走って見せろと言った。

 

 わたしが全力だと答えると、トレーナーは信じられないものを見る顔をして、手に持っていたペットボトルを落とした。

 

 そのあと何回か走って見せて、フォームの話になった。

 

 わたしの走るフォームはトレーナーに言わせればへっぽこなんだって。

 

 わたしが何でトレセン学園に入学できたんだろうって、トレーナーは頭を抱えてブンブンと振って、楽しそうにしてたよ。

 

 面接で元気よく挨拶して話したら合格だったよって伝えたら、トレーナーは顔を赤くして、その後に青くした。

 

 あっ。すっごーい。噴水みたいに口から血がどばーって。トレーナーは手品も出来るんだ! 

 

 手慣れた様子でトレーナーが血を拭うと、息を整えたトレーナーが、走り方の見本を見せてくれることになった。

 

 走るトレーナーって初めて見た。フォームを見せるためだから、動きを区切ってトレーナーがターフを走る。

 

 腕の振りや、足の前進。力いっぱいに頑張るわたしと違って、トレーナーのそれは角度やタイミング、伸びがみんなかみ合っていて、走ったら速いんだってわたしにも分かるほどだった。トレーナーはウマ娘よりもよっぽどウマ娘らしいと思った。

 

 見るのに夢中になっていたわたしは、走り終わったトレーナーにすごいすごいと興奮して駆け寄った。

 

 どうしたらそんな風に走れるようになるって聞くと、トレーナーはどこか遠くを見て言う。

 

「よく観察するんだ。ずっと見続けていると、気がつけば心の中に、くっきりと焼き付いて離れなくなる」

 

 トレーナーはそれを真似してわたしに見せてるだけなんだって。

 

 真似してみせられるくらい大好きなウマ娘がトレーナーにはいるんだね。

 

 いっぱい、頑張って走ったら、わたしもそんなすごいウマ娘になれるかな? 

 

 その日はずっと走る練習をした。

 

 走ったり、レースの勉強をすること2週間。わたしのデビューレースの日程が決まった。

 

 短距離でカーブの少ないコースが良さそうだから、高知県のレース場を選んだってトレーナーが言っていた。

 

 初めてのレースが決まり、ついに走れるんだって思ったら練習に気合いが入る。目指せ、一等しょー! 

 

 初めてのレース。ドキドキする気持ちを抑え、わたしは力いっぱい走った。

 

 結果は5着! 5人中の5着だったけど、レースを走れて、とっても楽しかった! 

 

 それを伝えるとトレーナーは困った顔になっちゃった。

 

 でも次の日には新しいトレーニングメニューを出してくれたり、わたしはもっともっとレースの経験をして感覚を磨かなきゃいけないって、レースにもいっぱい出させてくれた。

 

 気がつくとわたしは毎週どこかのレースを走っていた。お土産を渡しつつ、楽しかったことをクラスメイトに伝えると、週1ペースの出場はとってもすごいことらしく、珍しく褒められた。

 

 なかなか勝てなくて、どうやったら勝てるかなーって考えてたときに、褒められたからすっごく嬉しかった。

 

 そんなことがあったとトレーナーに伝えると、トレーナーは笑って、次は頑張って勝とうなって言ってくれた。

 

 トレーナーはいつも笑うとき、しぼんじゃった風船みたいに笑う。多分笑っていると思うけど、いつも元気がない。クラスメイトのみんなはわたしが走ると笑顔になるから、いつかトレーナーも笑って欲しいな。

 

 5着だったり、最下位だったり。なかなか勝てないけど、レースを走るのは楽しい! 

 

 

 

 ●

 

 

 

 そういえばトレーナーはいっつもご飯をたくさん食べない。ちょっとだけパサパサしたクッキーみたいなやつとお薬をいっぱい食べてる。

 

 初めて見たときはびっくりして身体が悪いのかと思ったけど、お薬は全部栄養剤だから大丈夫なんだって。トレーナーがそう言うならきっとそうなんだね。

 

 でもお薬は美味しくないよ。ごはんは美味しい方が嬉しいもん。

 

 だから今日はトレーニングをお休みして、トレーナーに美味しいものを食べてもらおうと商店街に、お買い物に来たんだ。もちろんトレーナーには内緒。

 

 お野菜を買っている途中で、八百屋さんのおっちゃんが困ってたからお手伝いを始めた。

 

 気がついたらもう夕方になって日が暮れ始めている。野菜の売れ残りもなくなって、おっちゃんは今日のお礼だと言って、袋に入った野菜をいっぱいくれた。これでトレーナーに美味しいものをつくってあげるんだ。

 

 両手いっぱいの野菜を抱えて寮に帰ろうとしたところで、道の真ん中に立ったトレーナーがわたしを見ていた。

 

 夕陽に照らされるトレーナーは表情の抜け落ちた怖い顔だった。

 

「……ウララ、こんなところで何をしている」

 

「トレーナー! 今日ねっ! 商店街のお手伝いをしてたんだよ! これから……」

 

「それはお前のするべきことなのか?」

 

 トレーナーは野菜の入った袋とわたしの靴を見る。靴は泥汚れ一つないぴかぴかだった。

 

「トレーニングを休んで八百屋の手伝い? お前は一体何だウララ」

 

「まあまあ、兄ちゃん堪忍したってくれ。ウララちゃんはよかれと思って……」

 

「あんたには聞いてない! 俺はウララと話しているんだ」

 

 トレーナーが怒鳴った。怒っていると思った。でも違う。トレーナーは泣いていた。膝から崩れ落ちて、血が出ちゃうくらい強く握った手は震えている。

 

「俺が勝たせてやれないからか? 俺が嫌になったのなら、そう言ってくれ! 俺が嫌なら、俺より良いトレーナーを探す手伝いだってするから……」

 

「そんなことないよっ! トレーナーはいっつもわたしの練習メニューを考えてくれるし、いっぱいレースにも出させてくれてるよ? 一番になれなくたって、すっごく楽し──」

 

「そんなはずないだろっ!」

 

 一番じゃなくてもいい。そう言おうとしたわたしの言葉をトレーナーは遮った。トレーナーは頭を振る。

 

「負けても良い? 勝てなくたって、楽しかったら、みんなが喜んでくれたら、それでもう十分? そんなわけないだろ……。勝てなきゃ意味がない。だって、だって。お前はウマ娘なんだぞ! 遊びで走ってるんじゃない! 一生懸命走って、それでも負けても良いなんて、そんなのは優しさなんかじゃない。馬鹿にされてるだけだ」

 

 トレーナーは顔を伏せて、静かに泣いていた。

 

 わたしは最初、トレーナーが何を言っているか分からなかった。

 

 レースは楽しい。だって走るのは楽しいから。いつか一番になりたい。そう思いながらずっと走ってきた。

 

 でも、トレーナーはそれをダメだと言う。勝てなきゃ意味がないって言う。

 

 そしてわたしは泣いてしまった。

 

 わんわんと泣いた。ぼろぼろと涙を流し、いつかそうしたように、トレーナーにしがみついて、みっともなく大きな声で泣き出した。

 

「うええーんっ! ごめんね。ごめんねトレーナー! 勝てなくて、ごめんね」

 

 わたしが泣いているのは、トレーナーに酷いことを言われたからじゃない。

 

 勝てなきゃ意味がない。その言葉の重さ。トレーナーの想いに気がついちゃったから。

 

 トレーナーは勝てなきゃ意味がないと思っている。ウマ娘は走るために生まれてきて、勝つために走るんだ。

 

 だから、トレーナーはへっぽこウマ娘のわたしがいつか勝てるように精一杯出来ることをしてくれた。

 

 だからわたしは泣き出してしまう。

 

 だって。

 

 だって。

 

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 例え、どれだけへっぽこで、どれだけ勝てなくたって、負けてもヘラヘラ笑っても、それでもずっと信じてるんだ。

 

 ──わたしがいつか 『勝つって』

 

 なのにわたしはただ走れたら嬉しいと思ってた。

 

 トレーナーの真剣な想いを、知らず知らずのうちに裏切っていた。

 

 それがただ悔しい。

 

『いつか』一番になるんじゃダメなんだ。

 

『一番になるんだ』

 

 トレーナーは本気だ。

 

 だからわたしも応えるんだ。

 

 ハルウララは負けてもいいウマ娘なんかじゃないんだって。

 

 レースは楽しいんだってトレーナーに教えてあげるんだ! 

 

 

 

 有マ記念編に続く

 

 




次回は作者都合で1週間後くらいを予定しています。
どうぞよしなに


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ハルウララの有マ記念

 走るだけでもレースは楽しいと思っていた。レースに出られるだけで私の世界はしあわせでいっぱいだった。

 

 でも今はすこし違う。

 

 トレーナーは私が一番になれると信じてくれる。一回だって一着になれなかった私を信じてくれた。

 

 だから私はもっと速く走りたい。なったことのない一着になりたい。

 

 トレーナーが私に見せたい景色を見たいから。

 

 だからわたしがんばる! 

 

 そんな風に意気込んで走り始めたけど、結果はままならない。

 

 レースは最下位から、ドベから5番目くらいを右往左往する。

 

 あたりまえだ。一番になりたい気持ちだけで勝てるなら、みんな一番になっている。

 

 みんな一番になりたいんだ。

 

 だから私はただスタートラインに立っただけ。

 

 これから競走して、誰よりも速くなって、やっと一番になれるんだ。

 

 そんな当たり前のことが分かって、レースは楽しいだけじゃなくなった。

 

 負けたら悔しくて、次こそはもっと速くなりたい。レースが楽しいと思うのと同じくらい、勝ちたい気持ちは増していく。

 

 トレーナーに教えてもらった走り方をいくつものレースで実践しているうちに、年間最多レース出場賞っていう、賞状をもらって褒められた。

 

 そしたらトレーナーに褒められた。すごく嬉しくて、いっぱい喜んでたら、ご褒美にキャンプに行くことになった。

 

 遊びとトレーニングを兼ねてゆっくり休憩して、また次のレースに備えるんだって。わたしは久しぶりにレースから離れた。

 

 トレーナーの車に乗ってやって来たキャンプ場は山に近くて、山道の長いランニングコースがあった。

 

 わたしがコースを走ってフォームを確かめている間に、トレーナーがカレーを作って待っていた。

 

 辺りはすっかり暗くなっていて、キャンプファイアに照らされながらホクホクのカレーを食べる。

 

 トレーナーの作ったカレーはびっくりするくらい美味しくて、わたしの大好きなニンジンがごろごろいっぱい入っていた。

 

 知ってたんだって聞くと、トレーナーはお鍋の中をかき混ぜながら、

 

「すまない、正直に言うと知らなかった。それが好きな奴がいて、いつも通りに作っていた。甘すぎるか?」

 

 そう話すトレーナーは少し寂しそうにしていた。

 

 わたしが美味しいよって伝えるとトレーナーは、なら良かったって言った。

 

 食べていたカレーをながめてみる。すごく美味しいカレーだ。わたしが今まで食べたカレーできっと一番美味しい。

 

 一番美味しい。今となってはなんて重い言葉だろう。

 

 ここまで美味しくなるのに、どれくらいトレーナーは頑張ったんだろう? 

 

 どんな理由があれば、それだけ頑張れるんだろう。きっとそれはトレーナーにとって大切なことなんだったと思う。

 

 良く考えると、わたしはトレーナーのことをあまり知らない。どんなことが好きで、どんなことをしてきたのか。

 

 そんなささいなことも知らない。

 

 今分かるのは、このカレーの味だけだ。

 

 わたしの知らない誰かのために美味しくなったカレー。

 

「どうしてトレーナーは一番になりたいの?」

 

 なんだか、とても聞いてはいけないことを聞いてしまった気がした。

 

 でも聞かなきゃいけない気がする。そんな予感があった。

 

 トレーナーは困った顔をして、長く、とっても長く、胸の中にある重たいものを吐き出すように息を吐いて、空を見上げた。

 

 つられて空を見ると、キラキラとしたお星様が空をいっぱいにしていた。

 

「俺は彼女を勝たせなきゃいけなかった」

 

 これはただの独り言だって、ゆっくりとトレーナーは話しだす。

 

「でも、俺には俺が思っていたような才能がなくて、彼女を勝たせてやれなかった。

 

 その子には才能があったんだ。誰よりも速くターフを駆け抜ける才能があって、当然のように努力して、勝負に手を抜くこともなかった。

 

 なのに俺は何もしてやれなかった。それどころか、一番大切なレースで俺はとんでないことをしでかして、逃げたんだ」

 

 トレーナーは辛いことを思い出して小さくなる。

 

 俺は大したことのない奴なんだ。トレーナーは自分に酷いことを言う。

 

「俺はあいつに悲しい思いをさせてしまった」

 

 トレーナーはその子のことをそんな風に話した。でもそうなのかな? トレーナーは自分が悪いって言うけど。わたしはそれがなんだか嫌だった。

 

「その子はどう思ってたのかな? わたしはトレーナーと一緒にどうやったら勝てるかを考えるの、楽しいよ? 

 

 レースはまだ勝てないけど、でも楽しい。その子は違ったのかな? わたしならトレーナーと走りたいって思うよ」

 

 トレーナーは目を見開いて固まった。そんなことを考えたこともなかったんだって。

 

「レースが楽しいなんて考えはきっと、俺たちの間にはなかった。あるのはメジロ家の悲願を叶える、その道筋だけを考えてきた。

 

 俺はそのためだけに生かされて、ずっと必死だった」

 

 でも、とトレーナーは言う。

 

「なのに俺は逃げ出したんだ。もう元通りには戻れない。償いたくても、俺にはそんな勇気すらないんだ」

 

「軽蔑しただろ?」

 

 トレーナーの言うことは時々難しくてわたしには良く分からない。ただトレーナーの気持ちはもっと単純なんだと思う。

 

「トレーナーはその子に謝りたいの?」

 

 トレーナーはキョトンとした顔を作って考え込みながら鍋をかき回す。

 

「そうなのかも、……しれないな。でもそんな日はきっとこない。来たとしても、俺はまた逃げ出す。自分を信じられないんだ」

 

 おかわりをくれるトレーナーにわたしは何も言えなかった。

 

 

 

 ●

 

 

 

 キャンプから帰ってしばらくすると、年間ウマ娘の表彰があったよ。

 

 レースが速かったり、人気があるウマ娘に賞状が送られるイベント。

 

 そんなイベントにわたしとトレーナーも呼ばれたんだ。

 

 わたしは年間最多出場っていう賞で、トレーナーは優秀トレーナー賞っていうのをもらったよ。

 

 ウマ娘とトレーナーは控え室が別だから、呼ばれるまでトレーナーにもらったニンジン飴を食べてたら、知らないウマ娘に話しかけられた。

 

「あら、ニンジン飴いいですわね」

 

「ひとつ食べる? 美味しいよ?」

 

「よろしくて? ならおひとつ」

 

 わたしの横に座って飴を受け取ると、その子は嬉しそうに口の中で飴を転がす。

 

 美味しいよねって言うとその子は頷いた。

 

「ええ、これ好きですのよ? 子供の頃から事あるごとにくださる方がいましたの」

 

「へー、そうなんだ。優しい人だね」

 

「はい、本当に。本当に優しい人でした。繊細すぎるくらいには」

 

 その子はとっても柔らかく笑う。似てないけどトレーナーに良く似てる気がした。

 

「わたくし、メジロマックイーンといいます。あなたは?」

 

「わたし? ハルウララだよ! よろしくね、マックイーンちゃん」

 

 自己紹介をするとマックイーンちゃんは少し目を細めて。

 

「あら、あなたがハルウララさんでしたのね。前々からお会いしたいと思ってましたのよ」

 

「そうなの?」

 

「ええ、デビューしたばかりの新人でありながら、すでに年間最多出場をやってみせたタフな新星。噂になっていてよ?」

 

「へー、そうなんだ。わたしはトレーナーに言われるまま頑張ったからよく分かんないや」

 

「そう、あなたのトレーナーの指示でしたの。どんな方ですの?」

 

 ふふっ、って上品にマックイーンちゃんが笑う。

 

「トレーナー? 今日来てるよ?」

 

「いえいえ、そうではなくて。あなたから見たその方の人物像を聞きたいのです」

 

「うーん? そうだなー。いつも一生懸命で、わたしが一着になれるように色んなことを考えてくれる人だよ」

 

「立派な方のようですね。自分のウマ娘を捨てて、どこかへ行った人とは思えませんね」

 

「え?」

 

 わたしは言葉の意味がよく分からなくて聞き返していた。マックイーンちゃんは何かを見定めるように、わたしの顔を見つめる。

 

「有名な話ですわ。パートナーだったウマ娘を捨てて、どこかへ行ってしまった。あの方、そのことをどう思っているのでしょうね」

 

 昔を懐かしむようなマックイーンちゃんの表情に、わたしは少しムッとする。

 

「トレーナーは逃げないよ」

 

「へ?」

 

「トレーナーは自分のウマ娘を見捨てたりなんかしない。だってトレーナーは悪いことをしたって思ってて、それを謝りたいって言ってたもん。絶対に戻ってくるよ」

 

「……そう。そうですの。失礼しました。部外者が出すぎたマネを。すいません。このような面白くもない話をして。有記念でお待ちしてます。是非いいレースをしましょう?」

 

 聞いたことのないレースに、わたしは聞き返した。

 

「ありまきねん?」

 

「有名なレースですわ。この表彰式に呼ばれたのなら、出場なさるのでしょう?」

 

「そうなのかも。トレーナーに聞いてみるよ! よろしくねマックイーンちゃん」

 

「ええ、本当に。走れる時を楽しみにしています」

 

 マックイーンちゃんはお花が咲くような笑みでそう言った。

 

 表彰式の帰り道。トレセン学園の寮に帰るため、わたしはトレーナーに送られていた。

 

 マックイーンちゃんが言っていたありまきねんに、わたしはわくわくしていた。

 

「トレーナー! わたし、ありまきねんに出られるの?」

 

「有記念に? 出られないこともないが、出たいのか?」

 

 トレーナーはわたしの口から具体的なレースの名前が出たことに少し驚いていた。

 

「うん! 今日ね、マックイーンちゃんに会って、ありまきねんで一緒に走ろうねって誘われたんだ!」

 

「マックイーンにあったのか⁉︎」

 

 トレーナーの顔がひきつった。

 

「うん。もしかしてトレーナーも知ってた?」

 

「あ、ああ……。昔からの知り合いだ。それにしても有記念か。お前の得意種目とはかなり違う、芝の長距離のレースだが大丈夫か?」

 

「今度こそ一着になってみせるよー」

 

「分かった。申請しておくからお前はレースでどうやって走るか考えておくんだ。いいな?」

 

「うん! 一緒に頑張ろうね、トレーナー!」

 

 

 

 ●

 

 

 

 有マ記念の当日はあっさりとやってきた。

 

 わたしはもう出走のパドックに入り、レースが始まる瞬間を待っていた。

 

『始まります、本年度の有記念! 今年はどのウマ娘が勝利の栄光に輝くのか!』

 

 アナウンスの人が楽しそうに実況を始める。 

 

『本命はなんと言っても、世代最強と名高い名門メジロ家のステイヤー、メジロマックイーン!』

 

 今回、一番速いって思われているのはマックイーンちゃんらしい。隣のゲートにいる彼女は紹介されて小さく一礼する。

 

 ぼんやり観客席のほうを見るとトレーナーがいた。トレーナーは静かにわたしを見て、レースが始まるのを待っている。

 

 わたしが手を振ると苦笑して、レースに集中しろと合図した。

 

 はーい、と独り言を呟きながら前に向き直るとマックイーンちゃんがこっちを見ていた。

 

 マックイーンちゃんはわたしには何も言わず、観客席に向けてお姫様みたいにスカートを持ち上げて一礼をして、前を向いた。

 

 どうしたんだろと考えていると、わたしの番のアナウンスがやってきた。

 

『最後は期待の新星! デビューから最多出場を決めた豪脚の持ち主、ハルウララだ! なかなか一着になれないハルウララ。今日こそは一勝なるか!』

 

 こんな風に言われると少し恥ずかしいね。でも、今日こそは一着になりたいのは本当だ。

 

 トレーナーの期待や信頼に応えるんだ! 

 

 息を飲んで、静かにレースが始まるその時を待つ。

 

 わずかな静寂。

 

 そして、ゲートが開いた。

 

 一斉にウマ娘たちが駆け出す。

 

 先頭はマックイーンちゃんの独走。その後ろをダマになった一団が追う。

 

 わたしはそのさらに後ろ、最後尾を走る。

 

 これはトレーナーと考えた作戦だ。

 

 ダート、荒れた道が得意なわたしは、他のウマ娘が走りたがらない、みんなが走った後の荒れたターフを使うことにした。

 

 無理に競争に参加せず、足を残して最後のコーナーに全力をかける。

 

 たくさんのレースを走った経験が、そんな型破りな走りを可能にしてくれていた。全部トレーナーが立ててくれた作戦通り。あとはわたしの頑張り次第だね。

 

 第一、第二、第三のコーナーを抜けて、もうすぐ第四コーナー。前を走る子たちは少しバテ始めてきて、コーナーを曲がるのに大きく膨らんでいく。

 

 今だ! 

 

 膨らんでいく集団の内側に潜り込んで、溜め込んだ足を一気に使う時、ここで仕掛ける! 

 

『おおっと! これを誰が予想したか! ダート専門のハルウララ、有の長距離で先頭に転がり出た! マックイーンと並走する! 先着争いはこの二人だー!』 

 

 自分でも信じられないくらいに足が回転する。

 

 もう足元くらいしか見えない。実況だけがなんとかわたしに状況を教えてくれる。

 

 直線はもうあとわずか。隣を走っているのはきっとマックイーンちゃんだ。

 

 得意じゃない芝に足を取られる。かろうじて先行していたことで疲労しているマックイーンちゃんに追随出来ている。

 

 こんなに速く走れたのは初めてだ。

 

 後ろの一団はとっくに後ろ、あとはわたしとマックイーンちゃんの一騎討ち。

 

 300メートル。

 

 少しわたしが遅れ始める。

 

 200メートル。

 

 1バ身の差ができちゃった。もう追い越すのは難しいかなー。

 

 100メートル。

 

 差は縮まらない。二人の間にある芝が遠すぎる。

 

 あーあ。また負けちゃうのかな。

 

 今回は勝ちたかっ——

 

 ——負けるなっ! 行けぇー! ウララー! 

 

 諦めそうになった心に声が聞こえた。

 

 俯いた顔を上げると、観客席から身を乗り出してトレーナーが必死に応援しながら、わたしを見ている。

 

 らしくもないトレーナーの様子に、レース中だと言うのにわたしは笑っていた。

 

 そんなに必死にされちゃったら、もう諦められないよ。

 

 下を向くのはやめよう。出せる全てを尽くそう。

 

 顔を上げて、わたしはターフを駆け上がる。

 

 崩れかけていたフォームが直っていく。

 

 目の前を走るマックイーンちゃんがいるからだ。マックイーンちゃんが正しいフォームを教えてくれる。

 

 あぁ、そうなんだ。

 

 気がついちゃった。

 

 マックイーンちゃんがトレーナーの『あの子』なんだ。

 

 トレーナーがずっと見ていた子がマックイーンちゃんだった。

 

 マックイーンちゃんは今何を思って走っているのだろう。

 

 何もわからない。

 

 ただ一つ分かることは、マックイーンちゃんは良いレースを走ろうって言ってくれた。

 

 だから全力で応えるんだ。

 

 トレーナーは逃げてなんかない。

 

 トレーナーが教えてくれたことを、マックイーンちゃんに見せてあげるんだ。

 

 トレーナーの声がわたしの背中を押して、わたしは前へ、前へ走っていく。

 

 そして、わたしはマックイーンちゃんを抜いた。

 

 わたしが一番前にいる。

 

 前には誰もいない。ただ芝のターフが前へ広がっている。初めて見た、一着だけが見られる光景。

 

 それにわたしは目を見開いた。

 

 たった数秒わたしが先を走って、レースが終わった。

 

『ゴール! なんということだ! 世代最強のマックイーンが一着を譲ったぁ! 

 

 勝ったのはハルウララ! 春一番が有の空を駆け抜けたぁ!』

 

 乱れた息を整えながら、聞こえてくる実況が、わたしが勝ったことを教えてくれる。

 

 観客席のみんながわたしの名前を呼んでいる。

 

 わたしが一着だった。

 

 勝ったんだ。

 

 生まれて初めて、わたしは一着になれたんだ。

 

 嬉しすぎて、どうしていいか分からない。嬉しすぎて涙が自然と溢れていく。

 

 そんな顔を見られたくなくて、大きく一礼すると観客席が湧き上がり、わたしの有記念は終わった。

 

 

 

 ●

 

 

 

 レースも終わったあと。

 

 みんな、わたしが勝ったことを、わたし以上に喜んでくれて、たくさん褒められた。

 

 その中にはマックイーンちゃんもいた。

 

「おめでとうございますハルウララさん。とても良いレースでした」

 

 負けても、マックイーンちゃんは朗らかに笑ってわたしの健闘をたたえてくれる。

 

 強い人の余裕って感じだ。次は負けないとも言われた。

 

 去り際、マックイーンちゃんは離れたところにいたトレーナーに近づいて、話しかけていた。

 

 それははっきりと聞こえた。

 

「マックイーン、俺は……」

 

「お元気そうで良かった。良いウマ娘に巡り会いましたわね。二人でお元気で。……では、さようなら」

 

 マックイーンちゃんがトレーナーから離れていく。

 

 トレーナーからは見えないように、顔を伏せながらマックイーンちゃんが走り去っていく。

 

 見えてしまった。

 

 小さく溢れていく雫。

 

 わたしが流したのとは違う。悲しいから流れる涙。

 

 違うよマックイーンちゃん。トレーナーは君のことを見捨てたりしない。

 

 ただ向き合って話し合えば分かり合えるはずなのに、二人の距離が離れていく。

 

 トレーナーは手を宙に伸ばしたまま、動けずにいる。

 

 だめだよ! 

 

 気がつけばわたしはトレーナーに駆け寄っていた。

 

「トレーナー! マックイーンちゃんを追いかけて!」

 

「ウララ⁉︎ でも俺にはもうあいつに顔を合わせる資格がなくて……」

 

「そんな資格なくたって、マックイーンちゃんはずっと待ってるよ!」

 

「ダメなんだ。ダメなんだよ。またあいつを負けさせるんじゃないかと思うと、俺は……。俺はダメなやつだ。あいつを前にして、また逃げようとしてるんだ」

 

「トレーナーはダメなんかじゃない!」

 

 わたしは叫んだ。トレーナーのそういう、自分を悪く言う口が嫌いだった。

 

 だってトレーナーはダメダメだったわたしを、一着にしてくれたのに。ダメなはずないよ。

 

「トレーナーはすごいよ。毎晩遅くまでトレーニングメニューを考えてくれたことも、わたしが経験を積めるレースを探してくれたことも。トレーナーがいつも辛いのを我慢してずっと頑張ってたことも、わたし全部知ってるよ」

 

「でもそんなの当たり前のことで……」

 

「わたしのトレーナーはトレーナーだけなんだよ! 世界一のトレーナーなんだよ!」

 

 トレーナーにだって否定させない。わたしのトレーナーは世界一なんだ。

 

「わたしはトレーナーを信じてるよ。トレーナーが自分を信じられなくても、わたしが信じてるトレーナーを信じて」

 

 トレーナーも勝ってほしい。

 

 きっとトレーナーはまだレースの途中なんだから。

 

「だから行って!」

 

 わたしはトレーナーの背中を叩いて、前へ押し出す。

 

 よろけながら、それでも立ち止まっていたトレーナーは前に歩き出した。

 

「——っ! 待っていてくれウララ。必ず戻る! 」

 

 そこにはもうしぼんだ風船みたいな笑顔のトレーナーはいなかった。

 

 がんばれ、がんばれトレーナー! 

 

 遠くなっていくトレーナーにわたしはエールを送った。

 

 

 

 ●

 

 

 

 走る。走る。

 

 息も絶え絶えになって、俺はただ彼女を探していた。

 

 自分には才能がないって気がついた時にトレーナーを辞めようと思った。

 

 彼女を勝たせられない自分に価値はないと、そう考えていた。

 

 そうやって何もかもに嫌気がさして、勝負から逃げ出した。

 

 勝手に失望されたと一人で思い込んで。それすら言い訳にして。

 

 なんて傲慢だ。

 

 なのに意地汚く、諦めきれず、俺は勝負の世界に戻ってきた。

 

 ウララが俺を変えてくれた。

 

 もうかっこ悪いところは見せられない。見せたくない。

 

 俺を世界一のトレーナーだと信じてくれるウララを裏切れない。

 

 そうだよな。負けたってまた走れるんだ。

 

 諦めて、走ることを辞めちまったら、勝てなくなっちまう。

 

 あぁ、そうか。マックイーン。お前もこんな気持ちだったんだな。

 

 ごめんな。また辛い思いをさせてしまって。

 

 でも、俺はもう逃げないから。血を吐いたって、頭が変になったって、もうお前から逃げない。

 

 マックイーンは簡単に見つかった。

 

 もう長い付き合いなんだ。

 

 こういう時、お前がどこにいるかくらい、すぐに分かる。

 

 人混みから離れた静かな一角に座り込んで顔を隠す奴がいた。

 

 ゆっくりと歩み寄っていくと、気配に気がつき顔を上げ、涙を見せないように拭い、赤く腫れた目で俺を見つけると、彼女はひどく驚いた顔をした。

 

「あら、どうされました? これからハルウララさんと祝賀会でもなさるんでしょう? それとも敗者をなじりにきたのですか?」

 

 澄ました顔で彼女は強がる。けれど赤くなった目は隠せていない。

 

 彼女にそんな顔をさせたのは俺だ。だからその責任はとる。

 

「俺にそんな資格がないことは分かっている。今更どんな面を下げていいかも分からない」

 

「何を今さら。私たちは終わったのですから——」

 

「それでも! 俺はまた、お前と走りたい」

 

 嘘偽りない俺の気持ち。

 

 マックイーンは目を見開く。

 

 俺はずっと逃げていた。なのに今さら、都合が良いことなんて百も承知だ。

 

 けれどこれだけは言わせてくれ、それでも俺は諦められないんだ。

 

 家柄とか責任とか、そんなことはもう、どうでもいい。

 

 これは俺とお前のレースだ。

 

 俺たちが目指した場所へ、お前を連れて行く。

 

「お前に天皇賞を制覇させる」

 

 俺たちの最初の約束を今度こそ、果たすんだ。




とても好評でしたのであと一話、マックイーン視点を書いて今度こそ終わりにします。
次回『インタビュー・ウィズ・マックイーン』
マックイーン目線で物語の裏側を書いて、三人の物語は終わります。


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インタビュー・ウィズ・メジロマックイーン

 (わたくし)にとって、走ることと勝つことは義務でした。

 

 祖母と母が成し遂げた歴史ある天皇賞の制覇。

 

 孫である私にも同じように天皇賞を制し、親子三代で天皇賞を連覇することがメジロ家の悲願。

 

 私はそのような宿命のもとに生まれました。

 

 確かな重圧こそあるものの、私にとってそれは苦痛の類ではありませんでした。

 

 なぜなら私は一人ではなく、運命を共に背負ってくれる伴侶がいました。

 

 それが私のトレーナー。そう、彼です。

 

 メジロ家の関係者の家に生まれ、代々メジロ家のウマ娘に仕えてきた家系の彼。

 

 私には彼がずっと側にいたのです。

 

 彼がどのような人かと問われると、言葉にするのは非常に難しい。

 

 兄のようであり、父のようであり、友人のようで、家族のようで、教師のようで、医師のようで、その、恋人のような人で。私の世界の半分は彼で構成されておりました。

 

 運命共同体という言葉ですら表し尽くせない、そんな深い絆が私たちの間にはありました。

 

 雷の激しい夜には不安な私の手を繋いでくれた。

 

 砂浜に驚いて泣く私を肩車してくれた。

 

 縁日の日には一緒に花火を見た。

 

 冬のある日にはカマクラを作って二人の秘密基地を作ってくれた。

 

 生まれた日からずっと、彼は私の側にいてくれた。

 

 ワガママな私に嫌な顔をせず、いつも私の好きなニンジン飴をくれた。辛いのが苦手な私に甘口のカレーを作ってくれた。

 

 いつも私の望むがままを叶えてくれた。

 

 彼は私のために生まれたのだ。傲慢ではなく、確かにそうだった。

 

 そして私たちはそれを良しとした。

 

 たとえ、定められた運命なのだとしても、私は喜んでメジロ家、そして彼のために走りたいと思った。

 

 彼が大学へ進学するために、しばらく家を出る日がやってきた。

 

 みっともなく私は彼を引き留めようと駄々をこねてしまった。

 

 し、仕方がないでしょう? その時私はまだ幼くてよくわかっていなかったのです。

 

 永遠の別れと勘違いしていたのです。

 

 ——行かないで、離れては嫌! 

 

 私がそう言うと彼は微笑み目線を私に合わせて。

 

 —お前のトレーナーになれるように勉強してくる。だから良い子にして、待っていてくれ。帰ってきたら一緒に天皇賞を目指そう。約束だ。

 

 それでもぐずりながら、私は彼を見送った。

 

 そこからの年月はとても長いものでした。まるで明けない夜のような、寂しい無明の日々。

 

 私はただ再会を信じて自分のできること、勉学やトレーニングに、寂しさを忘れようとするように打ち込みました。

 

 六年の歳月が経ち、彼が帰ってくるのと同時期、私のウマ娘としてのデビューが決まりました。

 

 帰還した彼とともに、お婆さまとお母さまの悲願である天皇賞を目指す。

 

 そのことに私は不安と喜びの両方で胸をいっぱいにしていました。

 

 

 

 ●

 

 

 

 デビューレースの日程が定まり、彼の指導による私のトレーニングが始まりました。

 

 とても素晴らしい人。彼の教えを私はそう評します。

 

 トレーニングから食事、健康管理の全てが事細かく調整され、彼はその全てを管理していました。

 

 私はただ全力で目の前のターフを走り抜くだけ。それだけに集中すれば良い。

 

 これ以上のトレーナーがいるだろうか。

 

 私のためのトレーナー。決して安易ではないはずの責務を、彼は完璧に全うしてくれていた。

 

 あとは私が勝利さえすれば何も問題ない。

 

 来たるデビューレース。

 

 私は二着と一バ身以上の差をつけたままターフを走りきった。

 

 これ以上ないほどの結果に私は歓喜した。

 

 私たちの栄光と覇道が始まる。

 

 私はトレーナーと勝利を分かち合い、喜んだ。

 

 何の賞もない小さなレースだとしても、私が彼とともに成し遂げた初めての勝利なのだ。

 

 それはどんなものにも代え難い、貴い勝利だった。

 

 けれど素晴らしい時間は、長くは続かなかった。

 

 初めは次のレースだった。

 

 二着でのゴール。

 

 相手もまた、素晴らしいウマ娘で、誰が勝っても不思議ではないレースでした。

 

 全力で競走して、私は一歩届かなかった。誰が悪いとか、そういう話ではない。

 

 みな、全力で駆けて、手など抜いていない。誰が勝つかなんて、走るまで分からない。

 

 勝負に絶対などあるはずもなく、小さな偶然が重なって結果が出るだけなのです。

 

 そんなことは当たり前のことで、私は次のレースこそ勝つのだとまた決意を改めて、また全身全霊で挑む。

 

 けれど、彼はそれを良しとは出来なかった。

 

 私が勝てないのは、私のせいなのではなく、自分の指導が不甲斐ないからだと、あの人は自分を責め立て始めてしまった。

 

 昔から彼には自罰的なところがあったのです。

 

 そして私は気がついてしまった。

 

 私が負ける度、あの人の価値が下がってしまう。

 

 少なくとも彼はそう考えていた。

 

 あの人は私を勝たせるために生まれ、今日までそのために人生を費やしてきた。

 

 私の為に生きてきた。だから彼の価値は私を勝たせることにある。

 

 負けが重なる度、両肩に暗く重たいものが積もっていく。

 

 勝たなければならないと思いながら、しかし結果がついてこない。そんな悪循環に陥っていた。

 

 なまじ彼の指導に指摘すべき点がないせいで、私が頑張るしかない。

 

 私が勝てばそれで解決する問題なのだ。私はそう自分に言い聞かせた。

 

 思えば、私はこの時に彼に素直に相談すれば良かったのだ。

 

 そうすれば、あんなことにはならなかった。

 

 私の負けが重なる頃、彼の顔色が優れないことが気になった。

 

 確認すると食事をほとんど取っていなかった。

 

 固形の栄養剤や錠剤で必要な栄養を取るだけの作業。

 

 私の食事が栄養バランスや味を追求した完璧なものだったから、余計に酷く痛々しかった。

 

 ある日から、彼から血の匂いがした。使用人に確認してもらうと彼は吐血をして、それを隠していた。

 

 使用人はすぐに彼を医者に見せるべきだと申してきたが、私にはトレーナーの意思を無視してまで医者に連れていくことが出来なかった。使用人に口止めをして様子を見ることにした。

 

 極めつけは、彼の食事に見慣れない錠剤が混じり始めた頃だ。

 

 初めはただの錠剤だと思っていた。

 

 しかし嫌な予感がして、一つ黙って拝借した。

 

 調べてみるとそれは精神安定剤だった。

 

 市販薬ではなく、医師の診察がなければ処方されないような劇薬の類であった。

 

 足元が崩れるような感覚だった。

 

 私が負け続けているせいで、彼を苦しめてしまっている。

 

 嫌だ。そんなのはダメだ。

 

 私は勝たねばならなくなった。負けてもいい、次がある。そんな考えは捨てざるを得なかった。

 

 私のトレーナーを守る為に、私は一つのレースも落とすわけにはいかなくなった。

 

 私は必死でターフを走った。

 

 歯をくいしばり、重責に押しつぶされそうになりながら、必死に走り続けた。

 

 私は彼の人生を背負って走っていた。

 

 重すぎる重責に苦しみ、涙を流すことも堪え、私は彼のために走った。

 

 勝利を重ね、世間からの評価が高まっていく。

 

 もう私にはそんなこと、どうでも良かった。

 

 私のレースは全てあの人のためにあるのだから。

 

 彼は回復こそしなかったものの、悪化もしていない様子だった。

 

 だからこのまま勝ち続ければ、いつかは万事上手くいく。そう安易に考えてしまった。

 

 私が彼を守る。私だけが彼を守れる。

 

 私は調子に乗っていたのだ。

 

 そして悪夢となった秋の天皇賞がやってきた。

 

 そのレースは私たちの悲願。負けられない戦いでした。

 

 メジロ家のためにも、私自身のためにも、そしてトレーナーのためにも私は勝たなければならなかった。

 

 珍しく彼からレースの指示があった。内角を走り、一団を牽引していけ。

 

 トレーナーからの明確な指示に喜んだ私は、愚直なまでに指示に従った。彼が私の背中を押してくれる。それだけで誰にも遅れをとる気がしなかった。

 

 お退きなさい。私の前に立つな。

 

 そんな傲慢さで私はレースを走り、五バ身以上の差をつけて勝利した。

 

 明確な勝利。成し遂げたのだ。私とあの人でメジロ家の悲願を。

 

 けれど驕りには相応わしい罰が下った。

 

 他のウマ娘の走りを妨害したとして、私は一着から最下位へ転落した。

 

 判定がなされたとき、頭の中が真っ白になった。何が起きたのか理解するのに時間があった。

 

 そしてすぐにトレーナーの顔を思い出した。

 

 私は必死に彼の元に駆けた。レース中より余程早い速度で駆け抜けて、私が見たのは血を吐いて倒れ伏す彼の姿だった。

 

 動揺して混乱する中、私は彼に駆け寄って必死に呼びかけた。

 

 ——嫌! いやぁ! あなた! 

 

 取り乱す私は取り押さえられて、彼は救急車で運ばれていく。

 

 医師の診断は精神への負担によるいくつもの合併症。

 

 私が思っていたよりもずっと彼は重症だったのです。

 

 もっと早くに私が気がついていれば、あの時無理にでも病院に行かせていれば、もっと深刻に捉えていればこんなことにはならなかった。

 

 私の傲慢さが彼を殺しかけたのだ。

 

 面会謝絶の中。私は無断で彼の病室を訪れた。

 

 消毒の香りが漂う病室の中で彼は寝かされていた。

 

 彼は気絶して目覚めないというのに、ずっとうなされている。

 

 うわごとのように同じことを呟いていた。

 

 ——すまないマックイーン。俺のせいでお前を……

 

 こんな時ですら、私のことばかり。

 

 震える彼の手を取る。

 

 ——あなたのマックイーンはここにいます。ここにいますから。

 

 けれど彼の震えは止まってはくれない。

 

 もう逃げ出したかった。

 

 ウマ娘であることも、メジロ家の重責も、何もかもを捨ててしまいたかった。

 

 彼と二人ならもうそれで良かった。

 

 彼は有能な方ですから、きっとトレーナーでなくとも生活は出来るのでしょう。

 

 私は走ること以外にとり立てて特技などありませんから、奥様として家の留守を守ろう。パートというものをしてみて、家計を助けるのも良いかもしれません。

 

 仕事から帰ってきた彼を出迎えて、手料理などを振る舞ってその日のことを報告し合うのだ。

 

 休日には彼に習った甘い菓子を作って食べ、夜は肩を寄せ合いながら小さなテレビで映画を観るのだ。

 

 もしかしたら家族が増えるかもしれない。子育てなど経験はないが、私と彼の子。きっと愛おしくてたまらないのだろう。

 

 ささやかでも、ありふれていても、それでも普通の幸福が、きっとそこにはある。

 

 女を武器にすれば、優しい彼はきっと断らない。

 

 私が望めば地獄の中だと分かっていてもきっと私に寄り添ってくれる。

 

 でもダメなのです。

 

 そんな幸せは許されない。

 

 他でもない私と彼がそれを認められない。

 

 私はウマ娘で、彼はトレーナー。

 

 その生き方以外、認められない。

 

 そうでなければ、自分自身を否定してしまう。彼の今までの全てを否定してしまう。

 

 あなたの指導も、身を犠牲にした奉仕も、その全てが無駄になってしまう。

 

 私ではダメなのだ。彼と一緒にいたい。

 

 けれど私では彼を苦しめてしまう。

 

 愛しています。愛しています。愛しています。

 

 家族として。

 

 メジロ家のウマ娘として。

 

 何よりも、ただのマックイーンとして。

 

 あなたを愛しています。

 

 あなたを愛しているから、私はあなたを手放します。

 

 それは半身を割かれるのも同じ。私は私の命と魂の半分を引き裂くことにした。

 

 もう触れることのない温もりを確かめる。

 

 ——あなた。必ず私が守りますから。どうか健やかに。

 

 溢れ出る涙は堪えきれず、後ろ髪を引かれる思いを振り切って、私は病室を後にした。

 

 私はお婆さま、メジロ家総帥の元を訪れた。

 

 ——お願いですお婆さま。あの人を私から解放してください。もうあの人が苦しむことに耐えられないのです。

 

 昔の泣き虫なマックイーンに戻ってしまった私は恥も外聞もなくお婆さまの書斎で泣き崩れた。

 

 巌のようなお婆さまも動転してただ私を慰める。

 

 よく話し合って、彼には休暇を出すことにした。

 

 あの人が自分の意思で戻ってくることに一縷の望みを残して。

 

 そして彼は帰って来なかった。

 

 彼の退院の日。少しだけ会えた。

 

 ——またあなたと走る時を待っていますから、身体をお大事に。

 

 そんな日はこない。私があなたを手放したのですから。泣くことに耐え、精一杯の笑みであなたを見送る。

 

 部屋で一人、私は嗚咽を漏らした。

 

 身を裂かれるような痛み。

 

 あの人を失った苦しみ。

 

 それでも、彼が苦しみから解き放たれるのなら、私はそれで良かった。

 

 良かったのだと自分に言い聞かせ、また泣いた。

 

 

 

 ●

 

 

 

 しばらくの時間が経ち、新学期となった。

 

 私はメジロ家が代理で用意したトレーナーの方の指導を受けていた。

 

 彼の残した資料を守り、その通りに走った。

 

 隣にはおらずとも、彼がそばにいるような気がした。

 

 そしてある時、見てしまった。

 

 彼の姿を見た。

 

 快調というわけではないが、顔色はだいぶ良くなっていた。

 

 しかしそれよりも私が目を奪われたのは、彼が私の知らないウマ娘を指導していた。

 

 頭に血が上った。殺してやろうかとすら考えた。

 

 私がどんな思いで彼を手放したのか教えて差し上げましょうか? 

 

 お前はその人が誰かを指導する意味、その重さを知っているのか。地面に叩きつけて、そう問い詰めてしまおうかとさえ思った。

 

 嫉妬で気が狂いそうになっていた。

 

 怒りを抑え、その泥棒猫について徹底的に調べ上げた。

 

 ハルウララさんというらしい。

 

 全くの無名の新人。

 

 成績は全く振るわず、着順は最下位の常連。なんであの人が熱心に指導しているのか分からなかった。

 

 時間がある時に、二人の様子を遠くから眺めた。

 

 そして分かってしまった。

 

 ああ、この子は本当にいい子なのだ。

 

 勝てなくても不貞腐れない。レースを走ることが楽しい。

 

 私と彼にはそんなものはなかった。

 

 勝利への重圧のない、ただ勝ちを目指したレースを重ねる。

 

 悔しかった。

 

 ただのウマ娘とトレーナー。

 

 それだけの関係でいられたのならなんと幸福なのだろうか。

 

 私が欲して、手放して、諦めてしまった光景がそこにはあった。

 

 彼を連れ戻したい。でも私と一緒になれば、また彼を苦しめてしまう。

 

 もう詰みだった。

 

 いつからかハルウララさんの走りが変わった。レースは楽しい。でも勝ちたい。走りからそんな思いが伝わってくる。

 

 もう嫉妬はなかった。二人に頑張ってほしい。

 

 あの人がトレーナーを辞めず、勝負の世界に戻ってきてくれたことが嬉しい。

 

 私の隣でなくても、あなたが幸福を掴めているのなら、もう私はそれで満足だ

 

 ——嫌! 戻ってきて! 私にはあなたが必要なの! 

 

 漏れそうになる本音を飲み込み。私はあなたの幸福を願う。

 

 

 

 ●

 

 

 

 ハルウララさんと会話を交わす機会に恵まれた。

 

 その年の各分野で優れた成績を残したウマ娘を表彰する会合で私とあの人、そしてハルウララさんが呼ばれていた。

 

 私は世代最強のステイヤーと称されていた。

 

 あの人が残してくれた資料が私を今も支え続けてくれて、この高みまで連れてきてくれた。

 

 ハルウララさんは年間最多出場。あの人の指導こそあるものの、その健脚は本物だ。

 

 呑気にニンジン飴を口の中で転がす彼女に遭遇した。

 

「あら、ニンジン飴いいですわね」

 

 あの人が去ってからしばらく食べていなかったからポロッと言葉がこぼれた。

 

 彼女は私に気がつくと、快く一つくださった。

 

 口の中に広がる甘い味。懐かしいあの人の味だった。

 

 話してみれば、やはりハルウララさんは本当に良い子で、私はケチをつけられなかった。

 

 それが悔しくて、少し意地の悪い言い回しをしてしまった。

 

 自分のウマ娘を捨てて、違うウマ娘を指導しているあの人をどう思うか? 

 

 少し困らせてやろうと言ったのに、ハルウララさんに毅然と返答された。

 

 ——トレーナーは逃げないよ。トレーナーは自分のウマ娘を見捨てたりなんかしない。絶対戻ってくるもん

 

 あぁ、本当に良い子ですわ。

 

 完敗だ。この子とトレーナーの間にある信頼は本物だ。

 

 私とのそれに優劣はない。

 

 彼女ならば、あの人を任せられる。

 

 私はあの人になくても良い。

 

 そう受け入れられたら、肩の荷が軽くなった。

 

 こんな朗らかな気持ちはいつ以来だろう。

 

 ——有マ記念でお待ちしてます。是非いいレースにしましょう? 

 

 そして、私とあの人の関係に終止符を打とう。

 

 本当に、本当に、楽しみだ。

 

 

 

 ●

 

 

 

 有記念の当日はとても心地の良い快晴。

 

 レース開始を待つ合間。観客席の中にいるあなたを見つけた。

 

 深く一礼する。それは別離のレースなのだから。見ていてくださいまし。あなたのマックイーンの最後のレースを。

 

 レースが始まった。私の作戦はあの慙愧の天皇賞の時と同じ、集団を率いて先頭を走り、最速でゴールを目指す。

 

 あの人の最後の指示通り。

 

 これは私とあなたの最後のレースなのだ。私とあなたとで走る最後のレース。勝ってみせます。

 

 第一、第二、第三のコーナーを走り抜く。

 

 後ろには誰もいない。

 

 歓声が響く。

 

 ご覧なさい。もっと良くご覧なさい。これがあの人が鍛え上げた世代最強のステイヤー、メジロマックイーンの走りを。

 

 その時だった。歓声の質が変わった。どよめきが混ざる。

 

 後ろから近づく気配。

 

 間違えはしない。

 

 ハルウララさんですわ。

 

 あのダマとなった一団をかわし、私に肉薄しようとしている。

 

 流石はあの人のウマ娘、やはりあなたがくるのですね。

 

 待っていました。初めから、あなたしか私は目に入れていなかった。

 

 私に勝って、あの人を守れると証明なさい。

 

 永遠と思えるような100メートル。

 

 ——負けるなっ! 行けぇー! ウララー! 

 

 あの人の応援が聞こえた。

 

 私ではなく、ハルウララさんを応援している。

 

 よかった。本当に帰ってきたのですね。

 

 横にいるハルウララさんの気配が爆発した。

 

 私を追い抜いて、ハルウララが駆け抜けていく。

 

 私も手を抜かない。けれど生まれてしまった差は埋まらず、そのまま決着がついた。

 

 おめでとうございますハルウララさん。初勝利ですわね。

 

 きっとあなたは、これからいくつもの勝利をあの人と重ねていくのでしょうね。

 

 本当に良かった。私の出番はここまでですわ。

 

 本当におめでとう。

 

 ありがとう、ハルウララさん。

 

 

 

 ●

 

 

 

 レースが終わり、関係者もまばらに帰り始める頃。

 

 あの人を見つけた。初勝利を祝われるハルウララさんを遠目に眺めていた。

 

 私に気がつくとあなたは動揺していた。

 

 私がいなくてももう大丈夫なくせに、何を恐れることがありますか。

 

 本当に繊細な方なのですから。

 

 ——お元気そうで良かった。良いウマ娘に巡り合いましたわね。二人でお元気で。……では、さようなら

 

 もう会うことはないでしょう。

 

 それでもあなたが幸福なら、それは私の幸福なのです。

 

 ——そんなわけない。私のそばにいて。私を離さないで。私を見て。

 

 本音を飲み込もうとしても、それでも涙は止められなかった。

 

 いけない。あの人にこんな弱い姿を見せられない。

 

 私は走り去った。

 

 

 

 ●

 

 

 

 人混みから離れ、私は一人で泣いていた。

 

 これで良かった。

 

 彼は幸せで。なら私も幸せだ。

 

 そう自分に言い聞かせる。

 

 なのに涙は止まらない。

 

 ああ、悔しい。

 

 卑しくも私はまだあの人への未練を断ち切れずにいる。

 

 今からでもあの人の元へ行って自分の元に連れ戻したい。

 

 でもダメだ。あの人を不幸にしてしまう。

 

 それだけはダメだ。

 

 ごめんなさい。

 

 弱いマックイーンでごめんなさい。

 

 私はまた一人で泣いていた。

 

 誰かが人混みから離れこちらへ歩み寄ってくる。

 

 ああ、そんなはずない。

 

 私の願望が作った幻だ。そんな都合の良い話、あるはずないですもの。

 

 あの人の気配を間違えるはずが無いのに、私はまだ意地になって認められずにいた。

 

 ——何を今さら。私たちは終わったのですから

 

 私がどれだけの思いでそう決めたのか。あなただって察しているでしょうに。

 

 ——それでも! 俺はまた、お前と走りたい

 

 ああ、止めてくださいまし。

 

 そんな言葉を言わないで。

 

 私の決意を揺らがせないで。

 

 私を喜ばせないで。

 

 もう、私は耐えられない。

 

 ——お前に天皇賞を制覇させる

 

 もうダメだ。

 

 彼に抱きつき、その体温を確かめる。

 

 夢でも幻でもなく、現実だ。

 

 ずっと欲しかった言葉を私は噛み締めていた。

 

 ——約束を違えることを許しませんから。

 

 もう離しません。

 

 絶対にもう、離しませんから。

 

 

 

 ●

 

 

 

 え? その後ですか? 

 

 別にとり立てて話すようなことなど、無いと思いますが。

 

 そうですわね。

 

 当然、天皇賞は春と秋、その両方を制覇させていただきました。

 

 ウララさんは翌年、手当たり次第に重賞をかっさらっていき、レース界を騒がせていましたわ。

 

 またそんなところで私の、いえ、私たち三人のお話はお終い。

 

 今は懐かしく語れますが、思えば割と波瀾万丈ですわね。

 

 それもこれもハルウララさんのおかげだと、今でも感謝しきれませんわ。

 

 えっ? これ本にしますの? 出版社には話をつけてる? プライバシーは守る? 

 

 ちょっとお待ちなさい! 

 

 待てと言っているでしょう! ゴールドシップ ! 




先に一言。
ゴールドシップをオチに使った私の未熟さをお許しください。
これ以外思いつかなかったのです。
そんなこんなで、三人の物語はこれにて終幕。お楽しみいただけたのなら幸いです。
書いてない裏設定など多数ありますが、これ以上は無粋と考えた次第です。
もしまた会うことがありましたら、よしなに

追伸:本作のテーマ曲はBUMP OF CHICKENさんの『アカシア』をイメージして書きました。よければそちらもセットで聞いていただけるとより三人の心情が伝わるような気がします。 
それではありがとうございました

加賀崎美咲


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IFルート もう走らなくて良いと、俺はトウカイテイオーに言った

感想欄にあったコメントから思いついた蛇足回です。
もしよければ、もう少しだけお付き合いください。


「ねえ、キミ。ボクのトレーナーになってよ」

 

 命を捨てようとして、それすらも出来なかった次の日、俺は退職願を持ってトレセン学園を訪れていた。

 

 何もかもを諦め、トレーナーであることさえも投げ出そうとしている俺の前に彼女は現れた。

 

 初め、彼女が何を言っているのか分からず呆然とする俺を小馬鹿にしたように笑う。

 

「キミがメジロ家のトレーナーなんでしょ? ボク、カイチョーみたいな無敗の三冠ウマ娘になりたいんだ。

 だからボクのトレーナーになってよ」

 

 まるで欲しいおもちゃをねだる子供のような仕草で、彼女は俺にトレーナーになれと頼み込む。

 

 そこにあったのは誰かに頼られる全能感ではなく、膿んだ傷跡を撫でられる不快感。

 

 彼女が誰なのかを知らない。

 

 関係ない。相手が誰であろうと、俺が言うことは決まっている。

 

 もう諦めた俺にはそれしか答えられない。

 

「俺はトレーナーを辞めたんだ。もう、誰のトレーニングも見ることはできない」

 

「ええー! 困るよー! ボク三冠ウマ娘になるんだ!」

 

「トレセン学園には優秀なトレーナーがごまんといる。俺なんかよりよっぽど優秀なのがな。宛がないなら、紹介くらいはしよう」

 

 やんわりと、俺に関わるなと距離を置こうとして、彼女は否と言う。

 

「だめだめだめ! ルドルフカイチョーに教えてもらったんだ。三冠ウマ娘になりたいんだったら、キミにトレーナーをしてもらえって」

 

 ルドルフという名に少し面食らう。このトレセン学園で知らぬものなどいない。学園最強と名高いウマ娘。

 

 そのシンボリルドルフに評価されていたことが意外だった。

 

 けれどそれは見当違いだ。それも全部マックイーンの功績で、俺はただおこぼれにあずかったに過ぎない。

 

 結局、俺は何も褒められることをしなかったんだ。

 

「……トレーナーなら、他を当たってくれ。俺はもう、誰の指導もしないんだ」

 

「——えっ、ちょっと。まってよ!」

 

 引き留めようとする彼女から踵を返し、俺はトレセン学園を後にする。

 

 この日、俺はトレーナーを退職した。

 

 本当の意味で俺は何もかもを失った。

 

 終わったんだ。

 

 これが、俺がトウカイテイオーと出会った日。

 

 俺がトレーナーを辞めた日だった。

 

 

 

 ●

 

 

 

 ただの休日。

 

 俺はアパートに程近い公園のベンチに座っていた。

 

 定職につかず、何もしない。

 

 朝起きて、薬を飲んで、寝て、夜中に悪夢で目を覚まして。

 

 漫然と時間が過ぎてゆく毎日。

 

 俺はただ腐っている。

 

 ゆっくりと埃が積もるように、終わっていく。

 

 これが良くないことは、自分でも分かっている。

 

 けれど何もしたくない。何をしたらいいか分からない。

 

 こうやって公園に来るのも、せめて吸う空気くらいは、あの澱んだ部屋じゃない方がいいと、せめてもの生きる努力だった。

 

 公園には子供達の声が響いている。

 

 幼いウマ娘を囲って、彼女の走りをみんなで眺めたりして遊んでいる。

 

 既視感。

 

 そうだ。マックイーンが幼かった頃、トレーニングも何も関係なく、ああして遊んだ。

 

 マックイーン。元気にしているだろうか。俺がいなくとも、彼女なら大丈夫だろう。

 

 俺がいない方が彼女のためだと分かっていても、彼女のことを考えてしまうと胸が痛む。

 

 ああ、ダメだ。俺は彼女の隣にいることを投げ捨てたんだ。

 

 それなのに未練がましい。

 

 いつまで俺は過去を引きずり続ける。

 

 彼女のトレーナーをすることが俺の生まれた意味なのに、それを捨てたのだから。

 

 俺には他に何もなかったんだ。

 

 後悔し続ける日々。

 

 俺はいつも一人でいた。

 

 そのはずだった。

 

「あっ、いたいた! ねぇねぇ、これ見てよ!」

 

 耳障りな声がする。トウカイテイオーだ。

 

 彼女は走り寄ってくると行儀悪くベンチに飛び乗り、俺の隣を陣取る。

 

 いつからかここに俺がいることを知った彼女は、レースを走る度にこの公園に足を運んでいた。

 

「ねぇ、見てよ昨日のレース。ボク早いでしょー?」

 

 お気に入りのおもちゃを見せつけるように、手に持ったスマホをこちらによこした。

 

 画面にはレースの様子が映されている。何人か見知ったウマ娘に混ざり、その先頭をトウカイテイオーが走っている。

 

 そのまま画面の中の彼女は一着でゴール。一バ身以上も差の開いた圧勝。

 

「えへへ、すごいでしょ。この調子なら皐月賞も一着だね」

 

 自慢げにはにかむトウカイテイオー。

 

 俺は何も言わない。むしろ困惑する。

 

 なぜ彼女がわざわざこんな、トレセン学園の近くでもない公園に来て、俺に自分の試合を見せるのか。

 

 理由がわからず、レースにも関わりたくないから、俺は彼女を無視する。

 

「皐月賞に勝ちたいなら早めにレース運びに入った方が良い。坂の前に直線があるせいで、思うよりも展開が早い」

 

 バカか俺は。何をトレーナーの真似事をして話しているんだ。無視すると決めただろ。

 

「えー、そうなの?」

 

「別に参考にする必要もない。走るのはお前だ。自分の役に立つと思ったことだけを取り込んでいけば良い」

 

 ふーん、とトウカイテイオーは少し感心したように俺を見ていた。

 

 

 

 ●

 

 

 

 一ヶ月後。

 

 また公園にトウカイテイオーがやってきた。俺はあいも変わらず、何をするわけでもなくベンチに腰をかけている。

 

 また彼女はスマホで試合の様子を見せてくる。

 

 皐月賞のようだった。

 

 俺の言った戯言を気にしたのか、第三コーナーから勝負をしかけ、難なく一着を勝ち取っていた。

 

 トウカイテイオーは興奮を抑えきれないようにはしゃいでいた。

 

「すごいよ! キミの言う通りだった! 坂の前から加速したら、みんなついてこれなかったよ!」

 

 聞いてもいないのにトウカイテイオーは試合の時のことを話す。

 

 やれ、大外だったから集団を回避しただの、先行して良かっただの、どうでも良いことを話していた。

 

 一通り話して、俺が興味がないことに気がついて、彼女は不満げな様子でこちらを見ていた。

 

「ボクが話してるのに上の空なんて酷いんだー。パパとママに人の話はちゃんと聞きなさいって言われなかったの?」

 

「興味がないからな。嫌なら友達にでも話せば良い」

 

「分かってないなー。ボクはキミとお話がしたいのさ」

 

 フフン、とトウカイテイオーは楽しげに鼻を鳴らす。

 

 本当に訳がわからない。彼女の意図が理解できない。

 

「だってキミ、興味がないって言いながら、ボクがレースのことを聞いたら答えてくれるじゃん」

 

「大したことは言ってない。トレーナーなら誰でも分かる、そんな当たり前のことばかりだ」

 

「それで良いよ。ボクのトレーナーとか、ボクを勝たせなきゃって意気込んで、ちょっと慎重になっちゃって。遠慮ないキミの方が気楽でいいや」

 

「そうか」

 

 ウマ娘を勝たせなければ。そう考える余り、上手くウマ娘と接せられなくなる経験は痛いほど分かってしまう。

 

 トウカイテイオーはもっと気楽でいたいと言う。マックイーンも同じ気持ちだったのだろうか。

 

「俺も、もっと彼女と話していれば、あんなことにはならなかったのか?」

 

 ふと、そんな独り言を漏らした。

 

「キミのウマ娘の話?」

 

「忘れてくれ。もう終わった話だ」

 

 情けない。いつまで俺は過去に縋りつくつもりなんだ。

 

 俺はもうマックイーンとは何の関係もない他人なんだ。

 

 逃げてしまった日から、俺にその資格はない。

 

「ねえ、やっぱり、もし良かったらボクのトレーナーやらない?」

 

 いつかと同じように彼女は俺にそう言った。

 

 俺にそんな資格はない。

 

 そう断ろうとして言葉を遮られる。

 

「どんなことがあったのかボクは知らないけどさ、やっぱりキミ、諦めたくないんじゃない?」

 

 諦めたくない? 俺が? 

 

 そんなはずはない。諦めたくなかったのなら、俺は恥を晒しても彼女の側を離さなかった。

 

 なのに俺は逃げ出した。俺の気持ちはそんな軽かったのか? 

 

 仕方がなかったんだ。

 

 そう自分に言い聞かせられなければ、ちっぽけな自尊心がもたなかった。

 

「いや、俺は諦めたんだ。俺はお前のトレーナーはやれない」

 

 勝つお前たちは俺には眩しすぎる。

 

「勝て、トウカイテイオー」

 

 勝てなきゃ意味がない。勝つお前は前へ進め。お前もマックイーンも、俺なんていらない。

 

「日本ダービーと菊花賞。お前のレースはもうすぐだ」

 

 もう次なんか無い俺と、お前は違うんだ。

 

 夢を叶えてくれ。

 

 逃げてしまった俺とは違うと、負けてしまったらそこに意味はないと証明してくれ。

 

 俺の身勝手な願望を押し付けてすまない。

 

「そっか……。うん、分かったよ。でも、楽しみにしていて。日本ダービーが終わったら、また見せにくるから。絶対だよ?」

 

 トウカイテイオーは少し寂しそうに笑って去っていく。

 

 遠くなっていく彼女の背中を、俺は見送っていった。

 

 そうだ。それでいい。止まってしまった俺とは違う。

 

 お前は前に進み続けるんだ。

 

 けれどトウカイテイオーが公園に来ることはなかった。

 

 

 

 ●

 

 

 

 二ヶ月が経った。

 

 俺は変わらず立ち止まったまま。

 

 またぼんやりと昼下がりの光景を瞳に映してた。

 

 変わったことと言えば、しばらくトウカイテイオーの顔を見ていないことだ。

 

 あの鬱陶しい子供っぽさも、しばらく見ていないと妙な静けさがあった。

 

 知らず知らずのうちに、彼女と話すことがある種の楽しみになっていたのかもしれない。

 

 日本ダービーからはしばらく経っている。

 

 どうしたのだろうと思いもしたが、積極的に動く理由も、気持ちもなかった。

 

 気配。 

 

 ゆっくりと、こちらに誰かがやってくる。 

 

 ここにくる奴なんてトウカイテイオーくらいだ。

 

 また気まぐれだろうか? でも良い。あのこうるさい声でも、誰かの声が聞きたかった。

 

 どうやって声をかけようと顔を上げて、絶句した。

 

 トウカイテイオーは力無く笑う。いつもの子供っぽさはなく。

 

「あはは……、見てよこれ。笑っちゃうでしょ?」

 

 彼女は座っていた。

 

 ギプスに包まれ、動かない足を車椅子に預けて。

 

「全治半年だって」

 

 菊花賞はもうすぐだというのに。

 

「前みたいに走るのは無理だって」

 

 あんなに頑張っていたのに。

 

「カイチョーみたいな三冠ウマ娘になりたかったのに。叶わなかったよ」

 

 どうしてお前まで俺みたいになっちまうんだ。




今回は前座になります。
全三話予定となります。


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轍の中で咲く花

 9月も終わる頃だというのに、公園にはセミの鳴き声が響いていた。

 

 虫だって懸命に命を全うしているというのに、俺は変わらず死んでいないだけだ。

 

 変わったことといえば、そうやって腐っていくのが俺一人でなくなったこと。

 

 カラカラと、車椅子が小さく軋みながらやってくる。

 

 トウカイテイオーだ。

 

 平日の真昼間だというのに、制服を着たまま彼女はこの公園で何をするわけでもなく、ぼんやりと座っていた。

 

「えへへ。学校、サボっちゃった」

 

 困ったなー。ボク、フリョーだよ、とトウカイテイオーは力無くはにかむ。

 

 トレセン学園は全寮制を採用している。本来授業をサボることは難しいはず。それなのにトウカイテイオーがこうしてお目溢しを受けているのは、それだけ周囲が彼女の扱いを決めあぐねているからだ。

 

 本当ならもう走れないかもしれない彼女は厳しい学園の基準で言えば除籍処分になる。けれど、そうならないのは彼女が成し遂げた功績を鑑みているからだろう。

 

 トウカイテイオーは帰ってくるのかもしれない。そう淡く期待されて、彼女は放置という名の療養を受けていた。

 

 けれど当の本人にはもう、そんな気概があるようには見えなかった。

 

 自身のトレーナーには迷惑をかけたくないと、契約を解除してしまったと言う。

 

「あっ、見てよヒバリだ。南に飛んでいく……。そっか、もう夏も終わりなんだね」

 

 飛び去っていく雲雀を羨ましそうに眺めながら、トウカイテイオーは手を伸ばそうとして、諦めて下ろしてしまった。

 

 春を告げる雲雀がいなくなり、代わりに湿った秋風が公園を通り抜けて、彼女の髪を揺らす。

 

 その痛々しい姿にかける言葉を俺は持っていなかった。

 

 一緒にいるというのに、俺たちの間に言葉はなかった。よく考えればそれも当然だ。

 

 俺たちの間には何の関係性もない。トレーナーでもなければウマ娘でもない。

 

 ただの俺とトウカイテイオー。

 

 負け犬二人。

 

 仲良く時間を人気のない公園で浪費しているだけだ。

 

 俺たちはどこにも向いていない。

 

 時間ばかりが経っていく。

 

 

 

 ●

 

 

 

 10月となった。

 

 俺とトウカイテイオーはあいも変わらず、公園でただぼんやりと座っている。

 

 公園は少し騒々しい。

 

 もうすぐ学校で運動会があるらしい。小学生たちが楽しそうにかけっこや騎馬戦の練習に励んでいた。

 

 その様子をトウカイテイオーはぼんやりとした表情で眺めていた。

 

「ボクね、トレセン学園に来る前の学校で一番だったんだよ」

 

 それがかけっこの話だということはすぐに分かった。

 

 ここにいる間、彼女はよく自分の話をする。俺は黙って聞き流すばかりだ。

 

 それなのに彼女は言葉を続ける。

 

「ある日パパに連れられて、カイチョーのレースを見に行ったんだ。カッコよかったなー。今もカイチョーはカッコいいけど」

 

 それはトウカイテイオーの原点。夢の出発点だった。

 

「あの時のカイチョーは本当にカッコよくて、ボクもあんな風になりたいって……。それからだよ、無敗の三冠ウマ娘になろうって考えるようになったのは」

 

 でも、それはもう叶うことのない夢だ。

 

 足に巻かれたギプスは重く、彼女の足を車椅子に縛りつける。

 

 虚しくも、ただの怪我一つで、トウカイテイオーは幼い頃に抱いた夢を叶える機会を永遠に失った。

 

「いっぱいトレーニングとか頑張ったんだけどなー……」

 

 走る理由を失った。

 

 無敗の三冠ウマ娘という、憧れを目指した。それがトウカイテイオーの原点だった。

 

 だがそれはもう叶わない。

 

 ならば、今更何のために走れというのか。

 

 周囲が何か言うことでもない。

 

 他でもないトウカイテイオー自身が、求めていないのに。

 

 夢破れた敗者は静かに朽ちていく。

 

 あれほど騒がしかった公園も静かになった。

 

 お昼となって子供たちは一旦帰ったのだ。

 

 けれどすっかり遊びに夢中になっていたらしく、公園の端には誰のか分からなくなったボールやバトミントンが転がっていた。

 

 その中に小さな物でゴムボールがあった。

 

 一つ取り上げて、手の中で転がしてみる。

 

 気まぐれに壁に投げてみる。軽い音を立ててボールは弾んで返ってくる。

 

 少しだけ腰を上げ、トウカイテイオーの前に立って。

 

 別に誰かに頼まれたからじゃない。

 

「トウカイテイオー、キャッチボールをしないか?」

 

 彼女に同情したからじゃない。

 

 子供たちが忘れていったおもちゃを少し借りるだけだ。

 

「……え?」

 

 ここで俺から彼女に話しかけたのはこれが初めてだった。

 

 そうだ。お礼だ。

 

 一人でこんな場所に飽きもせずに、俺に話しかけてくれたことへの礼。

 

 そういうことにしてくれ。

 

「キャッチボールだ。知らないか?」

 

「そりゃあ、キャッチボールくらい知ってるさ」

 

「ダメか?」

 

「……いいよ。別に、何でもいいよ」

 

 車椅子の車輪にストッパーをかけゴムボールを投げ合う。

 

 パツンパツンと小気味良いゴムの弾む音。

 

 これが何になるのか知らない。

 

 けれど時間は無限にあるんだ。ならどうやって潰したっていいじゃないか。

 

「昔、あるバカなトレーナーがいたんだ」

 

 ボールを投げるとともに言葉を乗せる。俺の言葉を。

 

「キミのこと?」

 

 返ってくるボール。

 

 これは名もなきトレーナーの話だ。

 

「そのバカはある娘のために生まれてきた。そいつには生まれた時から叶えなきゃいけない目標にしたがって、バカは無力なのにそれを叶える手伝いをしなきゃいけなかった」

 

「そう……」

 

「でも、バカは無能だったから、一番大事なところでやらかして、何もかもを捨てて逃げ出しちまった」

 

「サイテーだ」

 

「ああ、最低だ」

 

 ボールを返す。

 

 今度はトウカイテイオーが投げる。

 

「そのおバカさんはどうしてるの?」

 

 ボールが返ってくる。

 

 どうしているんだろうな。

 

「何も。ただ死んでいないだけで、生きてもいない」

 

「あはは、ならボクと一緒だ」

 

 彼女の言葉が飛んでくる。

 

「無敗の三冠ウマ娘になりたかったおバカな子がいたんだ」

 

「なりたかったってことは、叶わなかったのか?」

 

 大きく深呼吸。

 

「うん。夢を叶えることはなかった。届きかけて、あと少しってところで、もう叶わないことになったんだ」

 

「そうか。それは、……大変だな」

 

 トウカイテイオーの声に嗚咽が混ざっていく。

 

「うん。その目標のために今まで頑張ってきたのに、もう無理なんだ。酷い話だよね」

 

 投げたボールは弱々しい放物線を為して、届かない。

 

「負けるどころか、勝負の場にすら立たせてもらえなかったんだもん」

 

 ボールは二人の間を転がって止まった。

 

 もうボールは投げられそうになかった。

 

「おかしいよね。こんなのってないよ」

 

 キャッチボールをやめて、俺はまたベンチに座り込む。

 

 トウカイテイオーはまだ泣いている。

 

 けれど俺がかけられる言葉はない。

 

 敗北はそいつだけのものなんだ。

 

 

 

 ●

 

 

 

「ボクの話を聞いてくれてありがとう」

 

 一通り泣き腫らして、落ち着いたトウカイテイオーはそう言った。

 

「お前が話したのは、俺の知らないウマ娘の話だろ? なら、お礼を言われる心当たりはない」

 

 そう言うとトウカイテイオーはキョトンとした顔を作り、すぐに微笑んだ。

 

「そっか、……そうだよね。ごめん、今のは忘れて」

 

 沈黙。

 

 けれどそこにあったのは、今までの虚しい時の流れじゃなくて、もっと心地の良い静けさだった。

 

「そうだ、どこかに遊びに行こうよ。ずっと公園にいて、なんか、つまんなくなっちゃった」

 

 申し出された提案を断る理由もなく。

 

 車椅子を押して、俺たちは公園を出ることにした。

 

 季節はすっかり冬を迎えようとしている。

 

 木々から葉は落ち、街は彩りを淡く変えていた。

 

 ゲームセンターに行ってみた。

 

 プリクラというらしい。写真を一緒に撮った。

 

 ハチミツドリンクの屋台があった。

 

 トウカイテイオーは美味しそうに飲んでいた。

 

 俺には甘すぎて、水で割ったら信じられないという顔をされた。

 

 トウカイテイオーは遊びをよく知っていた。

 

 この街は俺の知らない場所ばかりだった。

 

 ゆっくりと車椅子を押して進み、そこにそれがあることを思い出した。

 

 俺は苦い顔をしているに違いない。

 

 この街で俺がよく知っている場所。

 

 レース場だ。

 

 まだレースをしているらしい、まだまばらに観客が入っていくのが見えた。

 

「入ってみる?」

 

 他に行くところも思いつかないし。そうつけ足して問われた。

 

 もう二度と足を運ぶことはないと思っていた。

 

 もう俺とは関係のない場所のはずだ。

 

 だというのに、俺はトウカイテイオーを押しながら足を進めていた。

 

 最終レース、終盤。

 

 実況のアナウンスがけたたましく場内に響く。

 

『圧倒! 圧倒的! もう誰も追いつけない! 「最強」メジロマックイーン! 二着と16バ身以上の差をつけて走り抜けていく!』

 

 見間違えるはずもない。あの走りを忘れるはずがない。

 

 最後の時よりも圧倒的に洗練された走りは、彼女が健在だということを示していた。

 

 そしてそのままゴール。

 

 勝負にすらならない。圧倒的な走りだった。

 

 真新しい喪服のような黒い勝負服を着た彼女は、観客席に一礼すると去っていく。

 

「あれがメジロマックイーン……」

 

 唯一無二の走りにトウカイテイオーも言葉を失って、観客席は沸いていた。

 

 圧倒的な勝者に。

 

 その輪の中に俺たちはいない。

 

 敗者にはその光景はあまりにも眩しかった。

 

 目を焼かれ、傷ついてしまうほどで。

 

 俺たちは逃げるようにレース場から去った。

 

 

 

 ●

 

 

 

 12月。

 

 それなりに時間が経つが、俺たちはやはり公園にいた。

 

 あれからまた、俺たちは公園から出られなくなってしまった。

 

 最近はぼんやりと座っていることは少なく、何かしらの遊びをすることが多い。

 

 色々やった。将棋、ゲーム機、トランプ。

 

 やらないのは公園から出ること、それと走ること。

 

 歩けないトウカイテイオーのために座ってできる遊びばかりだ。

 

 彼女の足からはギプスがなくなっていた。骨はくっついたらしい。

 

 それでも彼女は車椅子から降りなかった。

 

 歩けはするのかもしれない。

 

 けれど、自分の足で立って、それで、どこへ行けというのか。

 

 トウカイテイオーの走る理由は失われたまま。

 

 見た目ばかりが治っただけで、何も変わりやしない。

 

 彼女はまだ車椅子の上にいた。

 

 風が吹いた。

 

 ベンチの上に置かれたトランプが数枚吹き上げられ、近くに散らばる。

 

 トウカイテイオーは何の気無しに車椅子から立ち上がって、トランプを持ち上げる。

 

 そして自分の足で立っていることに気がついて、崩れるようにその場にへたり込んでしまった。

 

 両足は小さく震えて自分では動けそうにない。

 

 どうしよう、と困った顔をこちらに見せる。

 

 仕方がないと彼女を抱え、車椅子の上に戻してやる。

 

 顔を赤くして恥ずかしそうに俯いたトウカイテイオーはつぶやく。

 

「足……、治ったのにね。あはは、困っちゃうなー」

 

 ペチペチと自分の足を叩いて笑う。

 

 その姿があまりにも痛々しくて、見ていることすら苦しくて。

 

「もう良いんじゃないか?」

 

 おい、やめろ。何をいうつもりだ。

 

「ウマ娘でも、レース以外の生き方だってある」

 

 そんな生き方を、こいつは望んでないだろ。

 

「もう走らなくたっていい、お前は頑張ったんだ。二冠だって、なかなかやれないことだ」

 

 でもこいつが望んだのはその先。

 

「もう、走ることをやめたって良いんじゃないか?」

 

 トウカイテイオーは目を見開いた。

 

 自分の足を見て、俺を見て、また自分の足を見て。

 

 そして小さく笑った。

 

 諦めを受け入れた空元気からくる虚しい笑い。

 

「そう……、なのかもね。もう走れない、それどころか自分の足で立てもしない。それならもうやめちゃっても、仕方ないのかもね」

 

「みんなが夢を叶えられるわけじゃない。妥協したって、誰もお前を責めない」

 

 強いやつ、勝てるやつはどこまでも進んでいく。マックイーンみたいに。

 

 なら弱いやつは途中で立ち止まるしかないじゃないか。

 

 俺たちみたいのは、どこかで夢を諦めて、それなりに前向きに生きていけば良いじゃないか。

 

 誰がそれを責められるっていうんだ。

 

 トウカイテイオー。お前は悪くない。

 

 お前が夢を叶えられなかったのも、俺があいつから逃げ出したのも、誰も悪くないんだ。

 

 それで良いじゃないか。

 

「これからも一緒に遊ぼう。なに、きっと楽しいさ」

 

 負け犬同士、上手くやっていこう。

 

 夢が叶わなくたって、それなりに楽しいことだってあるはずだ。

 

 だから言ってくれ。もう諦めると、そうしたら俺も地獄まで付き合うから。

 

「そうだね……。うん、そうだ。ボク頑張ったんだよ。だから、もうボク、ボクレースを走るのを——」

 

 諦めるよ。

 

 その言葉を言ってくれ。

 

 もうお前は走らなくたって良いんだ。

 

「あきら、あきらめ……」

 

 言葉は詰まる。

 

 言葉にならない音と息遣いばかりが漏れ出て、やっぱりトウカイテイオーは言わなかった。

 

 たった一言。

 

 それだけで楽になれるのに、彼女は言わない。

 

 言葉に詰まり、言葉にならなかった息遣いに嗚咽が交ざって。

 

「やっぱり嫌だ!」

 

 降り積もっていた何かが崩れていく。

 

「ボクは無敗の三冠ウマ娘になりたい!」

 

 彼女の原点。始まりの想い。

 

 輝いていたそれは、もう汚れてしまった。

 

「無理だ。お前はもう、菊花賞には出られない。お前の夢は叶わないんだ。お前はシンボリルドルフにはなれない」

 

 それがトウカイテイオーの現実だ。もう時間は戻らない。

 

 辛くとも受け入れるしかない。

 

 それでも、彼女は叫ぶ。

 

「そんなことはわかってる。けど、それでハイそうですかって、簡単に捨てられるなら、初めから夢に見ないんだよ!」

 

 それを抱いた憧れは、想いは今も胸の中にある。消えやしない。

 

「ボクは立ち止まりたくない」

 

「一人で歩けもしない、そんな足で? それでどうやって戦うっていうんだ」

 

 トウカイテイオーは悔しそうに歯噛みする。

 

 自分の足を見て。手を強く握り込んで。

 

 そして意を決し、座っていた車椅子を後ろへ投げ飛ばした。金属の歪んで潰れる音。

 

 もう使い物にならないだろう。

 

 車椅子から投げ出された彼女は、泥だらけになって地に這いつくばる。

 

 地面を掴んで、止まって見えるほどの鈍さで進む。顔だけは上を見て、俺を睨んでいる。

 

 ゆっくり、ゆっくりと進んで、俺の足元に彼女はいた。

 

 俺の足を掴み、俺を支えにして彼女は立ち上がった。

 

「ああ、そうさ。そうだよ。ボクは一人で立ち上がることさえ出来ない臆病者だ。夢も目標も無くした、負け犬だ」

 

 俺たちは失ったんだ。もう望んでいたものは手に入らない。

 

「けどまだ走れなくなったわけじゃない。まだ終わってない! ボクは負けの、その先に行く」

 

 トウカイテイオーのレースはまだ終わっていないと、彼女は咆える。

 

「だから手伝え! 負けたら終わりなんて言わせない! トウカイテイオーは終わってないって教えてやる!」

 

 腐っていただけの亡骸に火が入った。

 

 諦めかけていた現実にその足で立ち向かう。

 

 失意の中で潰えたトウカイテイオーの伝説。

 

 その第二幕が上がろうとしていた。




今日はトウカイテイオーの誕生日だそうです。
だから何というわけでもありませんが。


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炎、もう一度輝けよ

 金継ぎという技術がある。

 

 割れてしまった陶器を漆や金粉を使って繋ぎ合わせて器として蘇らせる技術だ。

 

 バラバラに砕けた器でも器として元に戻る。

 

 けれど割れてしまった事実は変わらない。

 

 綺麗なように見えても、根底に歪さは残ったまま。

 

 なんの話かと言われたら、トウカイテイオーのことだ。

 

 骨折によって、以前のような軽快な走りは出来ない。

 

 だからだろうか、骨折からの回復、走りのフォームの変え方についてよく彼女から聞かれる。

 

 俺は彼女のトレーナーではないから、いつものように公園に来た彼女から話を聞いて、適当なアドバイスをするだけだ。

 

 その関係性は変わらない。

 

 俺はまだ、トレーナーという肩書きを取り戻すことに躊躇っていた。

 

 それに対して、トウカイテイオーのリハビリは順調らしい。厳しい部分こそあれ、モチベーションの高さが回復を早めているとか。

 

 金継ぎの器が美しいように、トウカイテイオーもまた、怪我を糧に力強い走りをみせている。

 

 先日は大阪杯に出場し優勝。無敗記録を伸ばし続けていた。

 

 宣言の通り、三冠は逃せども違う形で、憧れたシンボリルドルフを追いかけて、彼女はまたレースを走り出した。

 

「それでさ、次は春の天皇賞に出るつもりなんだ」

 

「天皇賞か……」

 

 天皇賞。その言葉は俺にとって無視できないものだ。当然、今年は彼女も出場するだろう。

 

 あのレースはメジロ家の悲願なのだ。回避するはずがない。

 

「マックイーンが気になる?」

 

 顔に出ていたらしい。少し心配した声色で話すトウカイテイオー。

 

「……ああ。あいつも必ず出てくるんだろうな。勝てると思うか?」

 

「勝てるか、じゃないよ。勝つよ。もう望んだ夢は叶わなくても、立ち止まらない。前に進むって決めたんだ」

 

「そうか……」

 

 ならば俺は何も言わない。トウカイテイオーが決めたことを覆す必要なんてないのだから。

 

「あ、話は変わるんだけどさ」

 

 そういえば忘れていたと彼女は手を叩いて。

 

「ボクのトレーナーになってくれない?」

 

「その話は前にも断っただろ。レースに出るために名前は貸すが、俺はもうレースには関わらない。でも、お前に聞かれたなら応える。そう決めたんだ」

 

「そうだよね。ゴメン、変なこと聞いちゃった」

 

 でも、とトウカイテイオーは断る。

 

「多分、今のままだとボクはマックイーンには勝てない。そんな気がするんだ」

 

「悪いが同感だ。今のマックイーンは俺が知っていた頃よりも明らかに上だ。何があいつをあそこまで高めているのか分からないが、あそこまでの執念、易々と降ろせるものじゃない」

 

「だからこそ、キミの力を借りたいんだ」

 

 その目は本気だった。9月に見た、あの無敵のマックイーンに勝つと彼女は言う。

 

 そのために俺の力が必要だと言ってくれる。

 

 俺なんかの指導、なくたっていいだろうに。

 

 一度夢破れても、それでもと立ち上がるトウカイテイオーが俺には眩し過ぎた。

 

「すまない。やはり俺はもうトレーナーにはなれない。本当にすまない」

 

「うん、ボクも無理を言っちゃってゴメン。……そうだ! 天皇賞は来週だから見に来てよ。ボクがマックイーンに勝つところ、見せてあげるから」

 

 ピースサインをしてみせ、自信を見せつけられる。

 

 あれだけの実力を見せつけられながら、それでも彼女は逃げることをせず、立ち向かうという。

 

 羨ましい。

 

 そう思った。

 

「ああ、頑張ってくれテイオー。応援している」

 

 努めて他人事のように俺は言った。

 

 応援をしていれば、自分も何かをしたような気がしたから。

 

 

 

 ●

 

 

 

 天皇賞の当日は清々しいほどの快晴だ。

 

 テイオーも、他のウマ娘たちもすでにゲートに入り、出走を待っていた。

 

 白を基調としたテイオーの勝負服は遠目からも分かりやすい。観客席にいる俺に気が付き、軽く手を振る。

 

 しかし俺は彼女に手をふり返す余裕がなかった。

 

 鋭い眼光に縛られて、俺は身動きひとつ取れやしない。

 

 マックイーンだ。黒いレースの編まれた喪服を象った勝負服に袖を通した彼女が俺を睨みつけている。

 

 ——何故、ここにいますの。おかしくなくて? 

 

 帽子から伸びる黒のヴェール越しに見えるすみれ色の瞳はそう告げていた。

 

 怒りなのか、それとも違う感情なのか、俺には計りかねる。けれどその表情が、俺がここにいることを歓迎していないことは明らかだった。

 

 しばらくの間、静かな時間が過ぎ。

 

 そしてレース開始間もなくとなって、彼女はやっとターフに目線を移した。

 

 レースが始まった。

 

 走り出すウマ娘の集団。

 

 飛び出したのはマックイーンとトウカイテイオーだった。

 

 先行するトウカイテイオーに張り付くように走るマックイーン。

 

 それは明らかな挑発だった。ピッタリとしたマーク。

 

 いつでもお前を追い越せるという意思表示を行動で示していた。

 

 トウカイテイオーはおそらく、真後ろで聞こえるマックイーンの激しく重い足音に追い立てられ焦らされているのだろう。

 

 いくら置き去りにしようとも、マックイーンは少しも距離を開かせず、大して苦にした様子もない。

 

 明らかな実力の差があった。

 

 それでもトウカイテイオーは勝とうと走る。もっと早く走る。

 

 直感する。あれはマズイ。

 

 明らかな無理のあるペースと走法。完全に骨折が治りきっていないのに、あれほどの無理をすればどうなるかなんて明らかだ。

 

 そんなことはトウカイテイオーが一番分かっているはずなのに、

 

 彼女はペースを落とさない。

 

 いや違う、落とせなくなっていた。

 

 後ろを走るマックイーンのプレッシャーが彼女から冷静さや判断力を奪っているんだ。

 

 まるで狩りのそれを思わせる、悪辣とさえ言わしめるマックイーンの走り。

 

 競争をし、そして勝つ。その一点を極めてしまった走りだった。

 

 マックイーンは強い。

 

 この世代で。いや、誰もが知るどのウマ娘よりも彼女は強くなってしまった。 

 

 俺の胸の中は寂寥ばかりだ。

 

 俺が彼女をあの高みへ導きたかった。

 

 俺が彼女を勝たせるトレーナーとなりたかった。

 

 だが現実はどうだ。

 

 俺の手を離れたマックイーンは無敗だったトウカイテイオーに6バ身の差をつけ、圧勝をしてみせているじゃないか。

 

 これが現実だ。

 

 メジロマックイーンに、俺は必要なかった。

 

 それだけのことだ。とても分かりやすいじゃないか。

 

 あいつにとって、俺は初めからいらない存在だったんだ。

 

 むしろ俺はただあいつの足枷となって、邪魔をしていただけなんだ。

 

 いつか出した結論は正しかった。

 

 トウカイテイオー。やっぱりそうなんだ。

 

 負け犬はどこまで行っても負け犬なんだ。

 

 どれだけ抗っても、もがいても、頑張っても。

 

 そこにあるのは厳しい現実だけだ。

 

 あれだけ前を向いていたお前も、今はどうだ。  

 

 マックイーンにペースを崩され、折れかけていた足を動かす痛みに表情を崩して、後方列まで置いて行かれているじゃないか。

 

 必死に前に追いつこうと足をばたつかせ、やはり届かず。トウカイテイオーの無敗伝説は幕を閉じた。

 

 

 

 ●

 

 

 

 レースは終わってみれば、マックイーンの圧勝で幕を閉じた。

 

 無敗伝説のトウカイテイオーを下し、メジロ家の悲願を達成したマックイーン。

 

 おめでとう。

 

 それ以外に言葉はなかった。

 

 敗残兵は去るのみ。

 

 足に不調をきたしているであろう、同じ負け犬のトウカイテイオーを迎えに観客席を離れる。

 

 予想通り、歩くのも辛そうにしたトウカイテイオーは壁に寄り掛かっていた。

 

 ——トウカイテイオー、もういいんだ。走らなくたって。もう、帰ろう。

 

 そうやって声をかけようとして、言葉は形にならなかった。

 

 足が歩みを止める。その姿に俺は立ち止まらざるを得なかった。

 

「無様ですわね。無敵の帝王が聞いて呆れる。この程度なのですの?」

 

 凍りついたような伽藍堂の声色。良く知っているはずなのにその声は別人のようだった。

 

 マックイーンがトウカイテイオーを見下ろすように立っていた。

 

 対峙するトウカイテイオーは空元気にも、足が折れかけて辛いだろうに笑ってみせる。

 

「エヘヘっ、キミ強いね。思っていたよりもずっと、ずっと強かった。でも今度は負けないよ。最後に勝つのはボクだ」

 

「そうやってまた、意地汚くもがいてあの人を巻き込み、レースの舞台に引きずり出すのですか?」

 

 凍えたような声色に、微かな怒りの色が混ざった。寒さに肌が張り付くような冷たさ。

 

 これがマックイーンなのか? 

 

 良く知っているはずなのに、別人のような彼女の様子に困惑した。

 

「あの人をもう、レースに関わらせないで。あの人は誰かを勝たせられるトレーナーではないのです」

 

 そうだよな。マックイーン。お前もそう思うよな。俺はダメなトレーナー、いやトレーナー未満の、ただの邪魔者——

 

「……それはキミが決めることじゃないよ」

 

「いいえ、私が決めることです。あの人は私のもの……、では、もう、ないのですね。いえ、どちらにしても、あの人は——」

 

「キミが決めることじゃないよ」

 

 マックイーンの言葉をトウカイテイオーは遮る。

 

 マックイーンは目を細め、トウカイテイオーを見下す。何を馬鹿なことを、と。

 

「ボクは諦めないよ。諦めかけていたボクに、諦めてもいい、仕方がないことだって、逃げ道を示してくれた。

 

 でも、それでも前を向いていたいボクを、レースに関わるのも嫌だろうに、手を差し伸べてくれた」

 

 違うんだトウカイテイオー。俺はきっと何もしないことへの言い訳に、お前を使ったんだ。そんな大層なことじゃない。

 

「だからボクは彼に、諦めなければ、まだ勝負は終わってないって、証明するんだ」

 

「あの人はそんなこと、望んでいません」

 

「望んでるさ。そうじゃなきゃ、初めからボクの相手なんかしてない。なんだかんだボクを助けてくれたのは、彼だって諦めたくないからだ」

 

 諦めたくないと思っている? 俺が? 

 

 そんなはずはない。俺は逃げたんだ。

 

「それは……、あなたがあの人を無理矢理連れ出したから……」

 

 トウカイテイオーがいなければ、俺はあのまま腐っていくはずだった。それで良いんだって納得した。

 

 そうなんだと、自分にそう言い聞かせる。

 

 そうでなければ、何かが変わってしまいそうで怖かった。

 

 俺は俺自身を信じられない。

 

「ボクは信じてるよ。彼はきっとまたトレーナーになる。信じてるんだ。キミは違うの?」

 

「——っ! 私があの人を信じていないはずが——」

 

「なら見てろ! ボクが彼をお前の前に連れてきてやる。諦めてなんかいないって証明するよ」

 

「——勝手になさい。どうせ、あの人は帰ってはこないのですから。頑張るだけ無駄。敗れた者に次などない、あの人と私はそう思い知らされたのです」

 

 マックイーンは踵をかえして去りゆく。

 

 トウカイテイオーにあれだけ言われて、それでも、俺は前へと進む方法を見失っていた。

 

 

 

 ●

 

 

 

 俺はまだあの公園にいる。

 

「やっぱり、ここにいたんだ」

 

 ベンチに座る俺にトウカイテイオーが話しかける。

 

 もう車椅子には座っていない。松葉杖をついて、それでも自分の足で立っていた。

 

 俺はまだ座ったままだった。

 

 トウカイテイオーをずっと見ていたのに、なにも変わっていない

 

 そんな自分が恥ずかしい。

 

 けれどここから逃げる勇気もなければ、行動する力もない。

 

「ボクの足、あと一か月もすれば完全にくっ付くってさ」

 

 こともなさげに、諦めていないと彼女は言う。

 

「……それを俺に言ってどうする」

 

「マックイーンはまた、来年の天皇賞に出るよ」

 

 再戦。まだ終わっていないと彼女は言う。

 

「だから、そんなことを俺に言ってどうするんだって——」

 

 トウカイテイオーの言葉の真意が理解できずイラつき怒鳴ろうとして、彼女の目が合った。

 

 まだお前は立ち上がらないのか? 

 

 瞳はそう告げていた。

 

「ボクは諦めなかったよ? キミは?」

 

 そんなこと言われたって、俺に何が出来る。

 

「マックイーンには勝てっこない。今更俺が何かしたって、上手くいくはずがない。そんなことはお前だって分かって——」

 

「ボクが聞きたいのはそんなことじゃない!」

 

 俺の腐ったような弱音をトウカイテイオーが遮る。

 

 握った拳を俺の胸に押し立てた。その手にあったのはいつか彼女と投げ合ったゴムボール。

 

 トウカイテイオーは優しく微笑む。答えは分かっている。そんな笑顔で。

 

「キミはどうしたい?」

 

 ゴムボールを手に渡され、眺めた。

 

 雨にさらされ、踏まれて、どれだけ汚れても。ボールは形を歪めて、それでもまだ終わっていなかった。

 

 これはキャッチボールだ。

 

 トウカイテイオーは俺に言葉を投げた。

 

 だから俺は投げ返さなきゃいけない。

 

 けれどなんて返せばいいか分からない。

 

 何が正しいか。どうやって選べば。

 

 俺は何がしたかったんだ? 

 

「——トレーナーになりたい」

 

 ポツリと言葉が漏れた。

 

 無意識の中から出た、自分で言ったことすら気づくのに少し間があった。

 

 俺はトレーナーに戻りたいのか? 

 

 今更? 逃げたのに? 

 

 そんな資格あるのか? 

 

「どうしてキミはトレーナーになりたいの? メジロ家のため?」

 

「違う」

 

 育ててもらった恩はある。けど理由はもっと単純だ。

 

「トレーナーになるために今まで頑張ってきたから」

 

「違う」

 

 トレーナーになるためだ、なんて自分を鼓舞したことなんてない。

 

「お金とか名声のため?」

 

「違う」

 

 それならもっと違う方法だってあったはずだ。それでも俺はトレーナーになりたかった。

 

「なら、どうしてキミはトレーナーになりたかったの?」

 

 それはとても簡単な理由。

 

 あまりにも単純で、いつの間にか忘れていた。

 

 余計なことばかりで頭がいっぱいになっていたから、気がつけば見失ってしまった。

 

 一番最初に、トレーナーになろうと動き出した、夢見た動機。

 

 それは——

 

「俺が()()()()()()()()()()()()()()()だからだ!」

 

 手にしたボールをトウカイテイオーに突き出した。それが俺の答えだ。

 

 言葉にすればあまりに単純で、でも俺にとっては人生の全てを集約する言葉。

 

 ずっと彼女を勝たせたくて俺はトレーナーになりたかった。

 

 あいつの為に俺は走り出した。

 

 それなのに俺はあいつから逃げ出した。

 

 恥ずかしかった。あいつの為に何もしてやれない自分を恥じた。

 

 だから腐りもする。

 

 彼女から逃げて、走る動機を失った。前へ進む理由はそれ一つなのに。

 

「俺はトレーナーになりたかったんじゃない。マックイーンのトレーナーになりたいんだ!」

 

 言葉にして、胸の内につっかえていたものが崩れていく。

 

 自分の気持ちなのに、何一つ分かっていなかった。

 

「でも、マックイーンはキミを必要としてないかもよ?」

 

 いつかの問答の再現。立場は逆になった。

 

 彼女は俺なしでも勝つ。それは見せつけられた。

 

 でも違う。それは俺たちが望んだのはそんな勝ち方じゃない。

 

「俺たちが望んだのは二人で勝つこと。片割れだけで勝ったんじゃ、意味がないんだ」

 

「ならどうする? マックイーンはキミは帰ってこないって言うよ?」

 

「分からせてやる。俺はまたお前と走りたいと、俺の気持ちをあいつに見せて、——マックイーンを取り戻す」

 

 それが俺のやりたいことだった。

 

「そっか!」

 

 突き出したボールを受け取り、面白いおもちゃを見つけたような表情でトウカイテイオー、いや、テイオーが笑う。

 

「マックイーンを倒すんだね。なら、一緒に戦う誰かが必要?」

 

「ああ。こんな女々しい男の、ばかな意地の張り合いに付き合ってくれる、とびっきりのバカが一人必要だ」

 

「なら丁度いいね。ここに一人、マックイーンにボコボコにされて、お礼参りに行きたいヤツが一人いるよ?」

 

「なら助けてくれ。マックイーンを倒すのにお前が必要だ」

 

「いいよ。ボクもマックイーンを倒すのに一番良いトレーナーが欲しかったんだ」

 

 一人で俺たちはマックイーンには敵わないのかもしれない。

 

 けれど二人なら。諦めないバカ二人なら、届くのかもしれない。

 

 届かせてみせる。

 

 目指した場所を真っ直ぐに見つめて、俺たちは走り出した。

 

「よろしくね、()()()()()!」

 

「ああ、任せろ。()()()()!」

 

 俺たちは足を折った負け犬だ。

 

 それでも諦めなければ、誰かを支えにして、また前に歩き出せる。

 

 待っていろ、マックイーン。

 

 お前のいるところに、俺とテイオーで、今から追いついてみせる。

 

 そしてまた俺と、同じ景色を見て、どこまでも走ってくれ。

 

 それがきっと俺たちの走る理由なんだから。

 

 




次回、最終回となります。

追伸:いつも感想・評価等、ありがとうございます。
多忙な身ゆえなかなか返事をかけませんが、いつも読んでいます。書き物の励みになっております。


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一人じゃないから

 毎夜、眠る時に思っていたことがある。

 

 それは、単なる後悔。

 

 あの時、俺はどうするべきだったのだろう。

 

 そう自問する。

 

 もし、だったら、なら良かった。今となってはどうとだって言える。

 

 けど、俺は逃げてしまったんだ。

 

 どんな言い訳を述べようと、現実に残る結果は、変わりやしない。

 

 後悔している。

 

 俺はマックイーンから逃げるべきじゃなかった。

 

 後悔している。

 

 俺はあの時、あいつよりも我が身を大切にした。

 

 後悔している。

 

 あいつを悲しませた。

 

 自分が間違っていたことに今更気がついた。

 

 あの黒い喪服のような勝負服の意味を、俺は理解している。

 

 俺はずっとあいつに負担を強いていた。

 

 あいつを勝たせなければ、俺に意味がないと。舞台装置を気取っていた癖に、成果を残したいとわがままを抱いた俺を、あいつは背負ってくれていた。

 

 それなのに俺は自分に酔って、悲劇の主人公ぶって、自分が被害者だとでも言わんばかりに、振る舞っていた。

 

 お粗末な話だ。

 

 結局のところ。俺は自分のことしか見えていなかった。

 

 相手を信じている気になって、自分のちっぽけな誇りや、過分な自尊心をあいつに背負わせていた。

 

 勝てないのは俺のせい。なんて、傲慢な考えだ。

 

 俺はずっとバカにしていたんだ。

 

 マックイーンの努力を。たくさんのウマ娘の走りを。トレーナーたちの頑張りを。

 

 悪いのは俺だ。

 

 もっとマックイーンと話すべきだった。

 

 あいつの気持ちから目を離して、自分のことだけを見たことは俺の瑕疵だ。

 

 もっと周囲を広く見るべきだった。

 

 自分たちの努力が報われるはずのもの、なんて傲慢な考えは俺の驕りだ。

 

 なによりも、マックイーンの手を離してはいけなかった。

 

 俺が俺である理由を、気づかないうちに、俺は自分で捨ててしまっていたんだ。

 

 反省している。

 

 俺が間違っていた。

 

 そんな簡単なことに、気付くまでにずいぶんと長い時間がかかってしまった。

 

 だから、俺はもう間違えない。

 

 間違えたくない。

 

 傷ついても、苦しくても、逃げ出したくなっても。それでも、もう後悔だけはしたくない。

 

 だから俺はもう一度立ち上がることにした。

 

 みっともなくて、情けなくて、得るものがないかもしれない。

 

 それでも俺はまた歩き出したい。

 

 結局は俺のわがままだ。

 

 でも、それが俺なんだ。 

 

 俺が俺でいられる理由。

 

 それを取り戻したい。

 

 終わりだなんて言いたくない。

 

 誰にも言わせない。

 

 負けても終わりじゃない。

 

 テイオーが示してくれた道は、俺の中で輝くものに変わった。 

 

 最初に抱いた、あの熱を思い出させてくれた。

 

 だから、はじめの一歩は彼女とともに歩く。

 

 立ち上がらせてくれた礼に。そしてまだ終わっていないと証明するために。

 

 俺たちは世界と、マックイーンに証明しなくちゃいけない。

 

 まだ俺たちは諦めちゃいないと示す。

 

 さあ、行こうテイオー。

 

 俺たちがたどり着きたい場所、その第一歩を。

 

 折れた足で進んだ。

 

 

 

 ●

 

 

 

 テイオーのリハビリとトレーニングは並行して行っていた。

 

 二度の骨折を経て、テイオーの足は想像以上に脆くなっていた。だからいかに負荷をかけず、それでいてマックイーンに勝てる走りを完成させるか、それが焦点となった。

 

 完治と骨折手前を何度も往復する激痛の反復。それが俺たちが選んだ走り方だった。

 

 レースフォームの矯正と走力の強化を骨の折れるギリギリまで行い、限界点に到達したら休養を差す。

 

 一歩違えば二度と走れなくなる、そんな危うい綱渡り。当然、テイオーが感じる痛みは想像を絶する。

 

 骨を折る為に走るようなものだ。その激痛は一度の骨折を延々と繰り返すのと何も変わらない。

 

 それでもテイオーはやめるとは言わなかった。

 

 こんなイカれているとしか言えない方針を、それでもなお、彼女は笑って言った。

 

「骨折する痛みを我慢し続けるだけで良いんでしょ? 任せてよ。こっちは2回もやらかした骨折のプロだよ? あと何回味わったって、ボクが心折れるワケないだろ?」

 

 全てはマックイーンに勝つ為。

 

 自分は何一つ終わっていないと証明する為、彼女は痛みを背負いながら走った。

 

 俺に出来ることは彼女の足が折れるギリギリを見極めて、ゴーサインとストップを指示することだけ。

 

 一度でもヘマすれば、その時点で俺たちの再起は頓挫する。

 

 それでもテイオーはやってのけた。

 

 骨折手前になること十数回。

 

 約半年の期間を経て、無敗の伝説トウカイテイオーは、不屈のトウカイテイオーへとその力強さを変えていく。

 

 一度壊れてしまった器を繋ぎ合わせ、不恰好さと力強さを磨いて。

 

 予定通り、テイオーは完成しつつあった。

 

 彼女は約束を果たした。

 

 だからあとは俺がやるべきことを為す。

 

 その番が回ってきた。

 

 ここからは俺の戦いだ。

 

 

 

 ●

 

 

 

 一年振りにやってきたメジロ家本邸は変わりないようだった。

 

 門を叩いて入り、敷地内を進んでいく。

 

 一年も過ぎて中庭の様相も随分と様変わりして、自分がずいぶんと長い時間を離れていたことに、今更ながら実感する。

 

 見事な造園を通り過ぎ、やっと目的地にたどり着く。

 

 メジロ家本邸。俺が幼少期を過ごし、そして今日まで離れていた、俺が帰るべき場所。

 

 館の前に来て、執事が俺を待ち構えていた。

 

「お引き取り下さい。今一度面会の手続きを。お嬢様は貴方とお会いしないと——」

 

「家族に会うのに、断りが必要なのか?」

 

「——っ!」

 

 執事はずっとお世話になった人だ。こんな傍若な物言いをすることに抵抗はある。

 

 けれど、それでも俺は今日、あいつに会わなければいけなかった。

 

 執事はそれ以上何も言わず、道を開けてくれる。

 

 深く一礼して、押し通る。

 

 すれ違いざま、彼から一言だけ乞われた。

 

「お嬢様をよろしくお願いします」

 

「——俺の責務を全うします」

 

 俺に言えることはそれだけだった。

 

 出来ると保証できない。

 

 俺は、俺が為すべきことをするだけだ。

 

 上手くいくかは俺次第。

 

 本邸に乗り込み、廊下と階段を迷うことなく進む。

 

 目的地はハッキリしているんだ。間違えるはずがない。

 

 2階の奥の角の部屋。

 

 あいつの部屋は変わっていない。

 

 ドアの前に立ち、一度深呼吸する。

 

 これからやることを再確認して、意を決して扉を叩く。

 

「入るぞ」

 

 返事は無い。

 

 それでも前へ進む。

 

 扉を開けて部屋に入る。

 

 灯をつけず、カーテンも閉め切った部屋。

 

 その奥で彼女は椅子に腰掛けていた。

 

 待ち構えたように俺に正対して、足の上に手を重ねて。

 

 彼女は俺に気がついている。

 

 何も言わない。

 

 俺に言うことなど無いのだろう

 

 だから俺は言う。

 

 もう一度、走り始める為に。

 

「秋の京都大賞典。それに俺とテイオーは出る。そこで俺を見極めてくれ」

 

 秋に行われる京都大賞典。秋の天皇賞をはじめとする、重賞の試運転と云われるレース。

 

 そこが俺とテイオーが選んだ決戦の時だった。

 

 秋の天皇賞にも、マックイーンは出場するのだろう。ならば京都大賞典にも彼女は出る。

 

 だから俺たちはそのレースを選んだ。

 

 しかしマックイーンは何も言わない。

 

 黒いヴェールに隠された顔から、表情は読み取れない。

 

 かろうじて見える唇は真一文字に結ばれ言葉を発さない。

 

 しばらくの沈黙があった。

 

 そしてマックイーンはゆっくりと口を開く。

 

「なぜ、なぜなのですか? あなた? あなたはレースから、私から逃げたのでしょう? なら、それでいいではないですか」

 

 分からない、理解できないとマックイーンは言う。

 

「あなたは頑張りました。私のために人生を費やして、何も得るものがなかった。私たちでは勝てなかった。それだけではないですか」

 

 諭すような優しい口調。悲しいけれどそれが現実と、彼女は語っていた。

 

「あなたには、あなたの人生がある。今からでも別の道を選び、違う形でも、人生の幸いを探せる。他の生き方なんていくらでもある。それなのに、なぜ、そうなさってくれないのですか?」

 

「俺の幸せはお前と走ること。ただそれ一つだ」

 

 ハッキリと言葉にする。

 

 面食らったようにマックイーンの言葉が止まる。

 

「逃げたことを謝りたい。またお前と走りたい。それが自分勝手なことは充分承知している」

 

 いまさらそんな資格が俺に無いことは分かっている。分かっているけれど、それではい、そうですかと受け入れられるほど、俺はまっすぐでいられない。

 

 諦められない。諦められるものなら、初めから夢に見やしない。

 

 いつかテイオーが言った言葉は俺の中で息づいていた。

 

「だから、お前に許してもらえるように、俺が諦めてなんかいないと示すために、俺はもう一度戦うことにした」

 

 メジロマックイーンのトレーナーは俺だ。誰にも、否とは言わせない。

 

「お前のいるところ、お前が見ている景色に、すぐ追いつく。俺はまたお前と肩を並べて歩く。だから少しだけ待っていてくれ」

 

 マックイーンは何も言わない。

 

 静かにヴェール越しに俺を見ている。

 

 不快に思っただろうか。

 

 今更遅いと怒っただろうか。

 

 諦めが悪いと失笑しただろうか。

 

 沈黙して、マックイーンが出したのは疑問だった。

 

「なぜ、あの時私を捨てたのですか?」

 

「あの時、俺は自分のことしか見えていなかった。俺の身勝手でお前に迷惑をかけた」

 

「私では、あなたが立ち上がるのに力不足、私ではダメだったのですか?」

 

「違う。けどテイオーに、諦めていいはずがないと教わった。お前のために、俺は今ここにいる」

 

 離れたことも、こうして戻ってきたのもまた、俺の身勝手だ。

 

 俺はまた身勝手さをマックイーンに押し付けていた。

 

 それでも俺にはマックイーンが必要だ。

 

 俺たちは命と魂を分け合った運命共同体。

 

 俺たちは互い無しには飛べない比翼の鳥。

 

「だから見ていてくれマックイーン。俺を。お前の俺を」

 

「——」

 

 マックイーンは小さく息を呑む。

 

 そして顔を伏せ、ポツリと声を小さくつぶやく。

 

「京都大賞典。当然、私も出場します。けれどトウカイテイオーが勝つことはありません。あなたの最高のウマ娘は私。それが揺らぐことはありません」

 

 テイオーが勝つ。そう前提して話を進めていたことにマックイーンの負けず嫌いが引っかかったようだ。

 

 挑発するようなマックイーンの物言いに、俺は内心浮き足立っていた。

 

 自信満々で、誇り高く、自分を信じている。いつものマックイーンが少しだけ顔を出している。

 

 それがたまらなく嬉しくて、俺は笑っていた。

 

「それはどうだろうな。テイオーは完成したと言えるくらいに仕上がっている。油断していると、案外あっさりとお前に勝つんじゃないか?」

 

 挑発するような物言い。

 

 マックイーンは軽く口調を荒立てる。

 

「あんな横からひょっこり出てきただけのちびっ子に私が遅れを取ると? 私の何を見てらして?」

 

「昔から乗せられやすいのがお前の欠点だからな。割と正当な評価だと思うぞ?」

 

「言いましたわね。ええ、良いでしょう。私に勝てたらトレーナーに復帰でも、なんでも好きになさって。でも、負けたらどうなさるおつもりで? まさか負けて、はいさようなら。なんて言わないのでしょう?」

 

「お前の好きにしてくれ。煮るなり焼くなり、俺はお前の自由だ」

 

「それは、それは。とても良いことを聞きました。今からあなたに何をさせようか考えるのが楽しみで仕方がないですわ」

 

「言ってろ。勝つのは俺たちだ」

 

「いいえ、勝つのは私たち」

 

 言い合い。くだらないやりとり。

 

 でも、それを俺たちは求めていた。

 

 途切れていた繋がりがまた結び直されていくような感覚。

 

 壊れていたものが、また形を変えながら、少しずつ新しい形を成していく。

 

 底にある繋がりは断ち切られてはいなかった。

 

 それだけ確認できたならもう、十分だった。

 

 マックイーンから踵を返して、宣戦布告する。俺たちの結節。また歩き始めるための日。

 

「京都大賞典でまた会おう」

 

「ええ、楽しみにしていますわ」

 

 それ以上、言葉は不要だった。

 

 あとはレースで、証明するだけだ。

 

 

 

 ●

 

 

 

 京都大賞典は小さくないどよめきと賑わいを見せている。

 

 最強と名高いメジロマックイーン。そして怪我から復帰した元無敗、不屈の心で蘇ったトウカイテイオー。二人の二度目の対決に。

 

 レースの始まる前、待機する俺たちの下にマックイーンがやって来た。

 

 彼女が纏うのは変わらず、黒い喪服のような勝負服。貴婦人のそれらしい黒は、王子然とした基調の白いテイオーとは対象的で、二人は相対する。

 

「約束通り、潰しに参りました。復活も、奇跡もない。諦めてもらいます。あなたも、あなたのトレーナーにも」

 

「奇跡を見せて、キミのトレーナーをキミのもとに送り届けにきたよ。今から嬉し泣きする準備は良い?」

 

 互いに挑発。けれどそこに悪感情は無く、ただ勝利を乞い願い、そして勝つという想いがあった。

 

 ゲートに向かう直前、テイオーは俺に振り向いた。

 

 そこにあるのは満面の笑み、そして自信満々ないつもの瞳。

 

 今更俺たちに多くの言葉は不要だ。

 

 何も成せなかった苦しみも、逃げてしまった後悔も、諦めの喪失も、俺たちは味わった。

 

 だからあとは勝つだけだ。

 

 絶対は俺たちだ。

 

 負けを知る者、そしてそこから立ち上がった者にしか見えないものが俺たちには見えていた。

 

「勝ってくる」

 

「勝ってこい」

 

 言葉は同時だった。

 

 俺たちはゲートに入る。

 

 そしてレースが始まった。

 

 一斉にゲートが開かれ、レースが始まる。

 

 先頭集団が駆け抜けて、わざとマックイーンは先行を許す。

 

 考えていることは分かる。

 

 春の天皇賞。俺たちの挫折を、あの指示を彼女は再現していた。

 

 彼女はその上で勝って見せるつもりなのだろう。もはや俺は不要だと示すために。

 

 なら俺は証明しなければならない。

 

 俺は、過去の俺を超えたと。

 

『連なった集団を、誰かが追い抜いた! あ、あれはトウカイテイオーだ! 二度の骨折を乗り越え、ターフに舞い戻ったトウカイテイオーがその走りを見せる! その走りは不死鳥の如く!」

 

 得意の大外からの突破。通常選ばないような早期の段階でテイオーは勝負を仕掛けていた。

 

 序盤ですでに後方をぶっちぎる勢いでテイオーは駆け抜けていく。

 

 これはマックイーンへの挑発だ。過去の作戦では、今の走り方ではもう追いつくことはできないぞと、勝負に誘っていた。

 

 そしてマックイーンは駆け出した。過去のではない、今のマックイーンの走り方で、彼女も集団を置き去りにして、そしてテイオーに食らいつく。

 

 一対一。白と黒とがターフを駆け抜けていく。隣を走る相手に負けるものかと、さらに速度を上げていく。

 

 レコードなどとっくに超えている。記録だとかそんなのは関係ない。

 

 今隣にいる相手には絶対に負けられない。二人にはお互いしか見えていなかった。

 

 あっという間に最後のコーナー。それでもなお二人の速度は増していく。

 

 鼻先での優越を交互に繰り返し、どちらが先に到着したのか分からないほどに接戦を繰り広げながら、ゴールなんてとっくに過ぎて二人は観客席の前を通り過ぎて行った。

 

 会場にどよめきが溢れる。

 

 誰にもどちらが早かったかなんて分からなかった。

 

 長い沈黙が続き、そして電光掲示板に名が連なっていく。

 

 結果が示されて、会場は歓喜と歓声に包まれた。

 

 勝ったのは——。

 

 

 

 ●

 

 

 

 秋と冬が通り過ぎた。

 

 季節はあっという間に春、もうすぐ新学期。

 

 袖を通した新しいスーツはまだ少し硬く、自分もまた新入生になった気分だった。

 

 トレセン学園の校舎裏にあるターフ。吹き抜ける風は爽やかで、麗かな陽光は俺を優しく照らしていた。

 

「あっ、いたいた! もう! 集合時間には早すぎるんじゃない?」

 

 授業が終わって着替えてきたらしいテイオーはからからと笑いながらやってきた。

 

「待ち合わせをしているのに遅れるわけにもいかないさ」

 

「そういうところは、よく似てるんだね。まったく、似た者同士だよ君たちは。本当に」

 

 揶揄うような物言い。テイオーらしい物言いにすっかり慣れた自分。そういえば今日で俺たちが出会ってから一年になる。

 

 俺たちが出会って再出発して。

 

 そして今日もまた、違う再出発の日だった。

 

「あら、それは私について言っているのでしょうか?」

 

 軽い調子でその声は言った。

 

 二人で振り返るとそこにはマックイーンがいた。

 

 新調した白い勝負服はよく映えて、彼女によく似合っていた。

 

 以前の喪服のような勝負服とは対照的に、白い勝負服はレースやリボンがあしらわれ、どこか花嫁衣装を連想させた。

 

 本当に、マックイーンに良く似合っていた。

 

 そのまま前に出ると、俺の腕をとって、定位置だと言わんばかりに、寄り添われる。

 

 揶揄うような、花の咲く笑みでマックイーンは言う。

 

「当然でしょう? なぜなら、私たちは運命共同体。似ているのは当たり前です」

 

「お、おい、マックイーン……」

 

 最近、こうしたやりとりが、マックイーンと増えた。気恥ずかしさこそあれ、引け目があって俺はやめてと言い難かった。

 

 何もいえず、されるがままの俺を半目でテイオーは見て鼻で笑う。

 

「イチャつくなら他所でやってよねー。ボクこれから春のレースに向けて仕上げなきゃだから」

 

「あら、そんなこと言って。また天皇賞でどちらが上か分からせて差し上げますわ」

 

「言うねー。ボクに負け越してるくせに。まあ、いっか。じゃあトレーナー! 今日も元気に張り切って行こうか!」

 

「ああ、今日から新入生が入ってくる。俺たちのチームの新メンバーになるかもしれない子たちだ」

 

 挫折して、へこたれて、それでも俺は立ち上がってここに戻ってきた。

 

 これからまた挫折することも、力及ばず悔しいこともあるだろう。

 

 けど、それで俺が、俺たちが諦めることは絶対にない。

 

 テイオーが、マックイーンが、俺がいる。俺たちにはお互いがいる。

 

 ならそれ以上に何が必要だって言うんだ。

 

 三人でなら俺たちはどこまでも走り続けられる。

 

 それぞれの目標を掲げ、俺たちは走り出した。

 

 そしてまた新しい日々が始まる。

 

 




これにてトウカイテイオーIFルート完結となります。
長いお付き合いありがとうございました。
たくさんの感想・評価、とても励みになり、楽しい気持ちで書くことができたことが私にとっての幸いでした。
もしまた別の作品で会うことがあれば、またよろしくお願いします。

追伸:私の中の恒例、今作のテーマ曲です。
テイオールートはいくつかありますが、代表して二曲、
米津玄師さんの『ピースサイン』
BLUE ENCOUNTさんの『BAD PARADOX』
を挙げさせていただきます。
どちらも素敵な曲ですので宜しかったら拝聴ください。 


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